独立行政法人日本ウマ娘トレーニングセンター学園 (<regulus>)
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序章
嚆矢ッ!いざトレセン学園へ


 Eclipse first, the rest nowhere(唯一抜きん出て並ぶものなし)

 18世紀後半、圧倒的な強さを誇ったウマ娘エクリプスのオーナーの「エクリプスが一着だ、二着はいない」という発言が由来とされている。当時のレースでは一着から特定の距離離れていると、入着が認められないという物だったという。オーナーの予言通り、エクリプスは一着になり、二着はいなかった。

 過去の英雄的なウマ娘の逸話をスクールモットーにしているこの学園は、まさにそれを体現しているといえる。充実したハイクラスな設備、一流のスタッフ、トレーナー、ウマ娘。国の支援金が主たる資金源な学校法人の地方センターと比べ、自由な資金運用、運営決定権。独自色の強い運営がここ”中央”では可能なのである。自らの夢を叶えるため日本全国からウマ娘が集まり鎬を削る。

 そして唯一無二の学園を中心としウマ娘の栄える都市として再開発が進む学園周辺はさながら学園都市の形相を呈し、一大経済圏を築いている。“唯一抜きん出た”ウマ娘養成学校と付帯都市。まさに府中市はウマ娘の聖地と言えるだろう。

 

 

 

 以上がこれから私が向かう職場、そして生活の場となる施設についての説明になる。

 さて、これを聞いた人間はこう思うだろう「いい職場じゃないか」と。私も日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称トレセン学園についてさほど知らなかった時はホワイトで、やりがいのある良い職場、そう思っていた。一般で知りうる情報もこれぐらいだろう。が、しかしだ、少し聞いてほしい。私は文科省にいた頃ウマ娘学園の情報総括部にいたわけだが、ちょっと表に出せないような話がちょくちょく上がってくる。

 

 一般にウマ娘たちはメンタリティは人間とほぼ同一といって良いが、本能とでも呼ぶべきか、ウマ娘たちには人間には無い走ることへの渇望と勝利に対する熱烈な思いを持っている。もはや執念とでもいうべき感情。個人差はあれど、ウマ娘たちの無意識領域には常に『走る』という概念が存在し、ゴールを求める。

 目標に向かって邁進する活力の源はこの精神にある。レースのような勝負場に長いこと身を置けばさらにこの傾向が強まる。ゴール、目標、終着点。それを求めるハングリー精神がちょっと暴走して、ちょっと取り返しのつかない事態が起こることがある。

 

 曰く、歩道の追いかけっこでちょっと本気を出して、とか

 曰く、トレーナーとの(ゴール)の邪魔をする他のウマ娘との命がけの喧嘩、とか

 曰く、方針に納得がいかず、門前払いにカッとなって、など

 

 乗用車並みの速度を出すことが可能な彼女たちの強靭な肉体から生み出されるパワーは、軽くホモサピエンス種を凌駕する。彼女たちにとっての「手加減したつもり」は筋肉モリモリのマッチョマンのパワーとそう変わらない。軍人と赤ん坊レベルのパワーバランスの違い。不幸にもいざこざに巻き込まれた人間は無事では済まない。丸腰の人間ではどうやってもゴリラには勝てないのだ。

 

 その不幸が起こってしまった故に私はトレセン学園に向かっている。この学園の事務員として出向していた我が部署の同僚は、ウマ娘同士の喧嘩を制止しようとしてズタボロの雑巾のようになって帰ってきた。全身を強く打った(・・・・・・・・)らしい。「ガ、ガイアッ!」案件である。実際に再会したのは集中治療室だったのでもちろん比喩だが。人間というものは意外と生命力が強いらしく、さらに現代医学はあの状態からでも治療が可能らしい。私は彼がゾンビになって蘇っても驚かないぞ。トレセン学園から定期的に送られてきた彼の報告書は平和そのものであったのでつい安心していた。一般にウマ娘は力が強い、その程度の知識は当たり前に持っていたが、それが人間に対して行使された結末をこの目で見たのは初めてだ。まさか突然こんなことになるとは……連絡係が消えてしまったのだから後任が選ばれるのは自然の摂理。

 選ばれたのは私だった。報告書の担当だったのと、お上の事情が絡んで白羽の矢は私に立った。

 まあ、なんとなくそんな気はしていた。同僚と上司が心配そうな目で見送りをしてくれたのを覚えている。

 

 

 愚痴ぐらい漏らしてもいいだろう、かなり急な出向命令だ。内示と指令が同時に届いてどうするのか。とはいえいきなりICUにブチ込まれた同僚に比べれば遥かにマシだろうが。

 現在はいささか、いやかなり重い足取りでトレセン学園へと向かっている道中である。頭が痛くなってきた。旅客機が頭上を通り過ぎてゆく。耳に響く甲高い音は果たしてエンジンの音か、耳鳴りか。

 わかっていたことではあるが、市販の頭痛薬など気休めにもならない。業務の引き継ぎと準備で最近まともに休めていなかった。

 気を紛らわすために頭を数回振ってあたりを見渡す。大通りの桜並木が蕾を膨らませ、春の訪れを感じさせる。日差しは暖かくなったが、風は冷たく、厚手のコートがなければ肌寒い。薄手の手袋の上からでも針のように刺してくる風に思わず手をポケットに突っ込む。手袋を重ねてくればよかった。

 首を縮めて風の中を歩いていると、ふと雰囲気の良さそうな小さな喫茶店が目に止まった。腕時計に目をやると、約束の時間まで余裕がまだあることを教えてくれる。

 しばし葛藤。

 

「ホットコーヒーでもいただこうか」

 

 そう呟いて、『OPEN』の札がかかった真鍮の握りに手をかけた。

 

 

 

 呼び鈴を鳴らしながら潜ったドアの先は木目調の家具で統一された一体感のある美しい内装で、今どき珍しい非LEDの裸電球の光を受けてキラキラ輝く硝子細工がまるで外の通りとは別の世界を演出している。春前の外は植物も動物も皆静かで灰色に見え、どこか寂しかった。対照的に店内の温かみと現実味の重さを持った内装は落ち着きをもたらしてくれる。まだ早い朝方だからか見たところ自分以外に客はいないようだった。入って正面にあるカウンターに向かい、ハイスツールを引いて座る。バックバーには高そうな洋酒が所狭しと並べられている。夜はバーをやっているのだろうか。これはいい店を見つけたかもしれないな。とりとめのない思考を転がしていると、店主と思わしき大柄な男が店の奥から歩いてきて、レザーのメニュー表を差し出してきた。反射的に受け取ったが完全に無言である。口数が少ないタイプなんだろうか。

 あまりに自然であった故か、不快には感じない。メニューを広げて少しの間考え。無難にアメリカンと苺のタルトを注文することに決めた。

 

「アメリカンコーヒーと……この苺のタルトをお願いします」

 

 マスター(仮)が頷き、豆を選んで挽き始める。やはり無言である。

 IHヒーターにケトルを置いて湯を沸かし始めた。ゴリゴリという音を聞きながらぼんやりと作業を眺めていると、店の奥の方のテレビが目に入った。音がわずかに聞こえてくる。朝新聞やネットニュースを確認するのを忘れていたことに気づき、意識の対象をテレビへ移す。

 

『次のニュースです。株式会社東京エネルギーは、大井核融合発電所の最終調整が終了し、運転を開始したことを公表しました。送電は明日5日から開始される予定であるとのことです────』

『────株式会社中京通信は第七世代移動通信システム「7G」の公開テストを東京都府中市全域で行うことを発表しました。成層圏プラットフォームの使用を明言しており────』

 壮年のアナウンサーが滑舌良く流れるようにニュースを読み上げる。

 

「どうぞ」

 

 声のした方を見るとマスター(仮)がカウンターにタルトとコーヒーを置いてくれていた。会釈をしてマグカップを持ち上げ口をつける。果実のような香り。口当たりは滑らかでフレッシュな余韻。

 うまい。思わずため息が出た。黒々とした水面に映った顔が揺らぐ。

 

「美味しいですね」

 

 マスター(仮)は後ろを向いて作業していたので顔色は伺えなかったが、満更でもなさそうな雰囲気が伝わってきた。これはタルトにも期待せざるを得ない。三角形のカットタルト。タルト生地の上にのった大きな苺とクリーム。これは……ジャムだろうか。

 フォークを入れるとサクッと小気味のいい音とともにクッキー生地が砕ける。口に入れてみると、程よい酸味と甘み。苺の果肉が練り込まれたクリームとバターの効いたクッキー生地の絶妙なハーモニー。控えめに言って最高だ。自然と笑顔になってしまう。しばらく、私が立てる食器の音と壁掛けの時計の針、大通りを走る車の音が響いていた。

 タルトを食べ終わり、天気予報に内容の変わったテレビを眺めながらゆっくりとコーヒーを楽しんでいると、からんという音とともに店のドアが開いた。横目を使って様子を見る。

 

 我々人間種にはない耳と尾がある。ホモ・エクウス──ウマ娘だ。漆黒の髪と尾、アンバーの瞳。どちらもどこか不思議で神秘的な雰囲気を感じさせる。トレセン学園に在籍する生徒は2000を超える。記憶力はある方だと自負しているが、流石にこの短時間で全員の名前と顔を合致させることは不可能。しかしながら私は彼女を知っている。

 ある人物との関係が深いウマ娘だ。

 

「マスター、ブレンドとクッキーをお願いします」

 

 風で乱れた髪を整えつつ、彼女はカウンターに着き注文を行った。マスター(仮)はマスターだったようだ。マスターは相変わらず無言であるが、対応に慣れを感じる。彼女は常連なのだろう。

 

「あの……」

 

 控えめながら『何か用か』と言外に問われ、初めて自分が彼女に意識をずっと向けていたことに気づいた。

 

「あっ、これは失礼しました。ウマ娘の方を直接見るのがかなり久しぶりでして……。不躾でした。すみません。ところで……『マンハッタンカフェ』さんですよね?」

 

「そうですが……ああ、なるほど」

 

 カフェで偶然会った人間が自身の名を知っているというのは不審がるのに十分な理由だったと思うが、ジャケットのフラワーホールにトレセン学園バッチがあるのに気づいてくれたようだ。彼女の纏う雰囲気が若干和らぐ。

 

「春から学園の職員になります。───よければ学園について話を伺えませんかね? 新しい職場がどのようなものか生徒の方の目線からも聞いてみたいのです」

 

「いいですけど……。あまり参考にならないかもしれませんよ? ある変人(マッドサイエンティスト)の話ぐらいしか……」

 

 マッドサイエンティスト、その言葉に思わず笑みを浮かべる。

 

「面白そうな話ですね。是非聞かせてください」

 

 マンハッタンカフェは変人、迷惑という割には楽しそうな顔でその友人のことを色々と話してくれた。先ほどまであまり表情筋を動かしていなかった彼女がよく表情を変化させて語っている。少し愚痴が多いような気がしなくもないが、仲が良いのだろう。

 コーヒーに薬を混ぜられたことがあります、信じられませんよ──そう話した時の憤懣はかなり本気度が高かった。コーヒーへのただならぬ愛を感じる。

 話が一段落したところでちょうど壁掛け時計が控えめな音で鐘を鳴らす。もう出立しなければならないだろう。

 

「すみません。そろそろ学園に向かう時間のようです」

 

 彼女も時計を見てわずかに驚きを浮かべる。いつの間にかだいぶ時間が流れていた。

 

「───そうですか、参考になるような話でしたか?」

 

「それはもう。時間をとらせてすみませんね。いろいろ聞けてよかった。お代は私が払います」

 

「……ありがとうございます」

 

 遠慮しようとした彼女だったが、私の念に負けてくれた。

 聞けた話のほとんどはびっくり箱のような人(マンハッタンカフェ談)についてであったが、学園の生徒から直に話を聞けたのは思ってもない収穫だった。

 

 ”彼女”はやっぱり変わっていないな。愉快な人だ。

 

 

 突然思い起こしたが新しい職場に行くのに手土産の一つも持ってきてないな……

 

「マスター、会計をお願いします。彼女の分も一緒に。あと、苺のタルトをホールでひとつ買えませんか?」

 

 そう頼むと、マスターは少々お待ちを、と言って店の奥から保冷バックに入れてタルトを持ってきてくれた。

 支払いを済ませ、店主とマンハッタンカフェに会釈をして外に出る。相変わらず悪態をつきたくなるような寒さだが、足取りは幾許か軽く、トレセン学園へと向かった。

 

 ─────────────────────────

 

 

 喫茶を出て、そう時間をかけることもなくトレセン学園の正門前に到着。

 ここから先が学園である。門を隔てて空気の違いを感じ、身震いする。怯えか武者震いなのかは自分でもわからない。新天地に行くときは大体そんなものだろう。柱を見れば重厚な文字で『日本ウマ娘トレーニングセンター学園』という文字が彫ってある。旧軍の施設を学校にそのまま転用してこの学園は建てられた。外壁は補修はされても作り替えられてはいないようで、レンガから長い歴史を感じる。

 あまり長く校門前で立ち止まって不審者に見間違われても困るので門に向かって踏み出す。正門の大ゲートは休日故に閉まっているようなので、横の小扉を開けて中に入り、奥に伸びる石畳の上を歩く。正門を抜けてすぐ道の左右に周囲の景観から若干浮いた白い円筒が現れる。

 中身は事前に知っている。知能警備ロボット。上部の方に目をやれば隙間からレンズがこちらを睨めている。首相官邸をはじめとして霞ヶ関ではもはや当たり前の存在である。宗教団体を中心とした反ウマ娘的活動が世界的に活発になっていた時代、学園へのテロ行為が危惧されたため対テロウマ娘保護特別措置法に基づき設置された。現在は公安警察の活躍によって下火になったが脅威は未だ消えず、特に撤去する理由もない故、ここにある。正門の遠隔スキャナーで学園証や学園職員バッチ、入園許可証が認識されず、不審、危険とロボットが判断した場合、ゴム弾による鎮圧を行う。かなり物騒な代物に聞こえるが、実際二件ほどの事件を未然に防止した優れものである。

 これまでの全てが妄想でない限り私は不審者ではないはずなので間を普通に通り抜ける。道の両脇に植わっているのは桜のようだ。喫茶のあった通りと同じくまだ蕾の段階、土色の木に淡い桃色が混ざって見える。鳥の声が聞こえた。鷹だろうか。

 正門を抜けてからずっと見えていた三女神像が大きくなってきた。

 三女神──太古の昔よりその存在が信じられているウマ娘たちの精神的な柱。信仰の対象と言ってもいい。

 ウマ娘たちの始祖である、というのが言い伝えられている。実在の存在である可能性が高いというのがウマ娘遺伝子学の最近の見解らしい。

 

『三女神はウマ娘を導く』

 

 像の前で儀式なども学生の間で行われていると聞く。

 オカルト、そう思うだろうか。

 しかし、生物学者ですらウマ娘が『何』であるかを考えるのをやめてしまってから既にかなりの時が経っている。いつ、どこで、どのようにしてウマ娘が生まれたのか、そもそもなぜ自身の名前を認識しながら生まれてくるのか、全ては謎に包まれたままだ。別宇宙だとか、異世界だとかそんな話すらある。

 幾多のブレイクスルーを迎え、シンギュラリティを克己した人類でもウマ娘の謎のヴェールを剥がすことはできなかった。

 ウマ娘そのものがオカルトに片足を突っ込んだ存在である以上、ある種の儀式に否定も肯定もできはしないのだ。

 まさにここから先は例の財団の仕事となるわけだ。知らない方がいいこともある。くわばらくわばら

 

 さて、迎えは三女神像で待っていると聞いていたが……

 手首に視線を向けて、まだ20分も時間が空いていることに気づいた。緊張のせいかいつもより早足だったのかもしれない。

 

「流石にまだきていないか……」

 

 近場のベンチに座り込み空を見上げる。遠くの空に緩く旋回する飛行機。キラキラと輝く翼に日の丸が見えた。おそらく国防海軍の無人哨戒機だろう。最近は落ち着いてきたが、太平洋の海賊が活発に活動していたときは常に哨戒機が何機も空にいたものだ。今でも海運に護衛は必須。場合によっては空輸ですら護衛機が必要だ。ここでの仕事が始まったら、留学生の対応で政府と学園の橋渡しをしなければならないかもしれない。文科省の時に噂で耳にしたアイルランドの高貴なお方がトレセンへの留学を検討しているとかいう噂、可能なら根も葉もあって欲しくない。

 こめかみに鈍い痛みを覚え、嘆息する。『ため息を吐くと幸せが逃げる』なんて舐めたことを吹聴している人間がいたが、幸せではないからため息を吐いているのではないのか。

 

 

 

 

「あの……大丈夫ですか?」

 

 声をかけられ目を開ける。しまった、まさか寝てしまうとは……! 慌てて時計を確認すると、約束の時間の5分前。よかった……。いやよくない、多分この人が案内の人だろう。とりあえず謝らねば。

 

「失礼しました……文科省から参りました桐島と申します」

 

「存じ上げております。理事長室に案内いたします。申し遅れました、私はトレセン学園理事長秘書の駿川たづなと申します。今日からよろしくお願いしますね」

 

「こちらこそよろしくお願いします。いきなり見苦しいところをお見せしてしまって、すみません」

 

「いえ、文科省から来ていた前任のお方の件は本当に突然でしたから。お疲れですよね……」

 

「恥ずかしながら……」

 

 当たり障りがなく、とても話しやすい人で安心した。丁寧な物腰でキビキビとしている。さすが理事長秘書。だがお互い大変ですね、とはどういう意味なのか。

 ん……? もしかして理事長? 快活な方だとは聞いているが……

 

 

 

 

 訂正、快活どころじゃない。

 

「歓迎ッッ!! ようこそ、我がトレセン学園へ!!」

 

『歓迎!』と豪快な文字が躍る扇子を開きながら、独特かつ豪快な挨拶が飛んできた。迫力というか圧力を感じる。

 

「期待ッ! 文科省からは非常に優秀な人材であると聞いている!!」

 

 ここにきてさらに重圧が増える。目元が痙攣しているのがわかる。顔が引き攣ってないといいが。

 

「精一杯やらせていただきます。よろしくお願いします」

 

 さっきから理事長の頭の上の猫が睨めつけるように見てくる。猫……なんで猫? 

 

「うむッ! よろしく頼むぞ!!」「にゃー」

 

 理事長が駿川さんに目配せをすると、彼女が業務書類と正式なトレセン学園関係者を表す身分証を持ってきた。身分証には『日本ウマ娘トレーニングセンター学園 理事』と書いてある。理事長の代理は彼女自身の考えでベテランのトレーナーが担うことになっているので理事会には副理事が存在しない。しかしながら実質的な権限を持つ人間は必要になるわけで、それが今回、私である。元々いた理事は地方トレセンの理事長になるなどしてほとんど空席状態。理事会業務どころか学校運営に問題が出始めていたところで元々人材を探していたようだ。当初私の席に座る予定だった人間は今ICUのベッドにいる。なんてことだ、つい先月まで文科省の一職員だった男が今日から日本を代表するウマ娘学園の理事だよ。

 事務員程度で連絡員は務まるはずだが、こんな高級な立ち位置になったのはまた政界の狸達が関わっている。利権にさとい方々だ、できることなら巻き込まないでほしいのだが……既にチェス盤に駒として乗せられてしまっている可能性の方が高いだろう。ポーンとして使われないことを願う。せめてビショップぐらいで……

 

「たづな、学園の案内を頼む!」

 

「はい。では参りましょうか!」

 

「あっ! ちょっと待ってください。これを……」

 

 勢いに押されすぎて忘れるところだった。喫茶で購入した物を渡さなければ。ずっしりと密度を感じる小さめの保冷バックを差し出す。喫茶店で買ったものだ。

 

「なんと! これは……!」

 

 どうやら理事長の好物だそうで、最近忙しくて店に行けていなかったと大変喜んでくれた。このタルト、あの無口マスターの手作りだそう……人は見かけによらないとはこのことか……

 

 満面の笑みの理事長に礼をして理事長室を後にし、駿川さんに学園を案内してもらう。学園の構造は一通り確認はしたが、やはりしっかりと説明してもらうことに越したことはない。この学園は広すぎる。しっかり理解をしていると辛うじて言えるのは事務棟と教室棟などの中央の建設物ぐらいだ。まずはトレセン学園のグラウンドを案内してくれることになった。

 

「ここがトレセン学園のグランドになります。芝、ダート、ウッドチップ等の各種コースをメインに様々なトレーニングに対応できるよう整備されています」

 

「これは……広いですね……。写真で何度か見ましたが実際に目にするとすごいものですね」

 

 巨大なコースが階段を下った先にある。上から見下ろしているので遠くの方まで見える。一般に今日は春休みのはずだが多くのウマ娘がトレーニングに励んでいるほか、何人かのトレーナーの姿も見える。資料で既に確認した人も何人かいるな。トレセン学園正式のジャージ姿のウマ娘が多数。そして色とりどりの服を着たトレーナーたち。ん……? 服かと思ったら腹筋だ、あのサングラスの人は誰なんだろうか。とてもトレーナー業の人間には見えないのだが。

 あれは……沖野トレーナーか。何やらチームのウマ娘のトモを触って蹴り飛ばされている。キャーとかいう悲鳴が聞こえた。すごい飛距離だ……。あんなもの私が食らったらバラバラになってしまいそうだ。一流トレーナーには耐久力も必要というネットジョークにはある程度事実も含まれているのではないか? 

 

「すごいですね……」

 

「あはは……」

 

 駿川さんもちょうど一連の流れを見ていたようで苦笑いしている。学校説明開始数分で闇が見えるのだが、どうすればいいのだろう。

 グランドは人の出入りが意外と激しく、前後ろをよくウマ娘たちが通り過ぎる。コンクリートの階段から響く金属質な擦過音、蹄鉄の音か。

 

「たづなさんだ。スーツの人は誰だろうか」

 

「新しいトレーナーやないか?」

 

 ジャージ姿の芦毛のウマ娘が今も二人通り過ぎて行った。

 残念ながら私はトレーナーではない、この職業はよほどの熱意がある人か真性のMじゃないととても続かないと思う。内情を知っている人間には人権と引き換えにに給料が多いなんて言われるぐらいだからな。

 中央のトレーナーたちはそんな人間達のさらに上澄み、本当に人間なのか疑問に思うことすらある。失礼だとは思うが、やはりその認識を既に補強せざるを得ない現象が目の前で起きた。最近会えていないが、学園との交渉役で交友のあった樫本さんもこういう人種なのだろうか……

 畏怖を覚える、敬意は忘れないけれども。

 

「ではそろそろ、次はジムに行きましょう」

 

「ええ、お願いしま──

 

 駿川さんの方へ振り返ろうとした刹那。

 背後からの突然の閃光、足の下を通り抜ける揺れの後、轟音が襲ってきた。周囲から悲鳴が上がる。

 突然のフラッシュに視力を一時的に失う。耳鳴りが響く耳を押さえながら振り返れば、ぼんやりと教室等の方から虹色に輝く煙が濛々と上がっているのが見えた。

 爆発事故、そうとしか形容できない。化学工場でもない学校でこんなことが可能なのはこのモンスター校といえどただ一人。

 

「アグネスタキオン……」

 

 既に駿川さんはいなかった、恐ろしく早い行動。いつの間にか消えていた。おそらくエピセンターに向かったのだろう。

 周囲は騒然としており、トレーナーたちは一旦トレーニングを中断したようだ。不安がざわめきとなって当たりに満ちる。

 この状況で自分一人で学園を見て回るわけにもいかない。まさかの初日の事件に先の不安を感じつつも、私も煙の発生源へ向かうことにした。

 



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混沌ッ!トレセン学園の問題児

 喧騒に包まれた学園の中を煙を目指して歩くこと数分。立ち昇る煙、その源を視認する。煙の発生源はやはりというべきか第二教室棟旧理科準備室、アグネスタキオンの実験室だ。煙が虹色に輝いているのは確認できていたが、まさか校舎の壁まで虹色に光っているとは。あまりにも非現実的な光景のせいで、神秘的な雰囲気すら感じてしまう。よく言われるネットスラング的に言うならば、さながら『ゲーミング校舎』状態である。目が痛い。

 内側からの爆圧でとび散ったらしき窓ガラスが外に飛び散っている。飛散防止フィルムごと砕けて粉々になったキラキラと光るそれらを避けて歩く。今更な話だが、この爆発で彼女は無事なんだろうか。この学園の警備体制を知らねば爆弾テロを真っ先に疑いそうなものだ。

 

 校舎の中は誰もいないようで静かだった。私の靴音以外に聞こえるのは校舎の外から聞こえる遠くの喧騒だけだ。おそらく中にいた人は避難した後だろう。普通巻き込まれたくないものだろうから、当然と言える。床、壁、天井全てが微妙に発光している。目がどうにかなりそうだ。ここは本当に現実の世界かと疑いたくなるような光景。

 階段を何度か折り返して登った先、最上段に差し掛かった頃、爆心地前の廊下で駿川さんとおそらく犯人であろうウマ娘の声が聞こえる。

 

「──爆発物はやめてくださいって前にも言ったじゃないですか!」

 

「いや、これは私にとっても想定外でねぇ。まさかこんなに急激な反応を起こすなんて思わなかったんだ。しかし、興味深い。この反応を応用する新たな実験を……」

 

 煤けた面を上にして無惨にも廊下に倒れているドアを跨いで中に入る。なかなか悲惨な状況だ。黒焦げなのに虹色に光っている。内側の色が正常な金庫のように分厚いロッカーが壁際にある。当事者はおそらくあの中に避難して難を逃れたのだろう。自前で耐爆室を用意しているとは恐れ入った。そもそも爆発物を学校で軽々しく扱うべきではないという問題があるが。

 

「駿川さん」

 

「あっ、先程はすみません!何も言わずに飛び出してしまって……」

 

「いえ。設備課には連絡しておきました」

 

 申し訳なさそうに何度も腰を折る駿川さんに気にしていないことを伝え、彼女を挟んでの向こう側にいるウマ娘に目線を移す。こちらを見つめる輝きの鈍い瞳、その視線は私を分析しているかのように遠慮がない。

 アグネスタキオン。特殊相対性理論の虚数解から導き出される、光速を超える素粒子「タキオン」を名に持つウマ娘。年少の頃から科学、特に化学に対して才覚を発揮し、一般で言う幼稚園生以前に大学化学を完全に理解するなどまさに天才。その足にも類稀なる才を見出され、家族と本人の意向でこの学園に推薦入学した。しかしながらその自由奔放な性格からかレースへの出走を研究を理由にしてふいにするなど問題行動も見られ、学園では皆が知る問題児である、というのが前任者のレポートから読み取れる内容。

 ふむ、なるほどこれは問題児だ。そうとしか言えない。

 

「君、新人トレーナーかい?見ない顔だね」

 

 ずい、と顔を近づけて誰何する彼女に駿川さんが私を紹介してくれる。

 

「ふぅン。ところで君、私の実験を受けてみる気はないかい?いい試薬があるんだ」

 

 さも興味なさげな返事が返ってきたと思ったら、実験のお誘いが来た。薬の実験体を常探しているというのは本当だったのか……それにしても相変わらず物怖じしないな、理事という説明を聞いていなかったわけではあるまい。

 タキオン君の今の実験のテーマは知らないし、今の失敗例を見ても碌なことになりそうもない。

 

「遠慮しておきます。」

 

 しかし、研究に対する貪欲さと好奇心に満ち満ちた瞳、全く変わっていない。本当に、何も。懐かしい。懐古の念に駆られ、笑みが漏れる。しかし、私は彼女に……

 意味深な笑顔を浮かべる私をタキオンは不思議そうに見ている。

 

「それは残念だ。発光する色をさらに増やす画期的な新薬だというのに…人体発光というテーマは実に面白いのだがねえ」

 

 一世一代のチャンスを逃したとでも言わんばかりの大袈裟な失望を見せた後、彼女は薬の効能を生き生きと語り始める。この振り回される感覚、久しいな。

 金属音を耳が捉えた方向に首を回せば、青色の作業服を着た学園職員が工具箱を持って廊下の角から現れた。連絡してから到着まで随分と早い。設備課の人間の顔から察するに、随分と頻繁にこういうことは起きるらしい。

 

「駿川さん、設備課の方が来てくれたようです。ここはお任せして学園案内の続きをお願いできますか?」

 

 携帯電話で話していた彼女はこっちに目線をやって頷き、一言二言話した後に切った。相手は理事長だろう。タキオンに向き直ると眉を吊り上げ、人差し指を立てると、ステレオタイプの教師のように下手人(タキオン)を叱り出した。

 

「怪我人が出なかったからいいものの……絶対に!次は!無いようにしてくださいね!反省文は後で書いてもらいます!」

 

「え───!?」

 

 これだけのことをやらかして反省文とはなかなか可愛らしい。随分と学園理事会と教職は優しいな。こんな寛大な処置、しかしそれを本気で嫌がるタキオンを見て思わず声を出して笑ってしまった。

 

────────────────────────────

 

「ふぅン……彼を私はどこかで……」

 

 遠ざかっていく二人の背中を眺めながらアグネスタキオンは独言る。

 優しげで、どこか寂しさを含んだ、あの笑顔をどこかで見た気がする。

 

「すみません。部屋のものを一旦外に出すので…」

 

「ん?ああ、すまない。あ、奇跡的に無事だったカフェのスペースには手をつけないでおくれよ。何が起きるかわからないからね。」

 

 まずは片付けか。なぁに、反省文なんて定型文を寄せ集めればいいさ。

 

────────────────────────────

 

 学園内の案内の最終目的地に到着する頃には既に夕暮れとなっていた。都心のハイパービルが橙色に染まって朧げに見える。キラキラと夕日を受けて輝くガラスはトパーズのように美しい。

 広大な土地に多くの施設、個性的なウマ娘の活動を今日は見ることができた。野外ステージでオペラ(?)をやっているウマ娘、練習スタジオでアイドル活動の練習をしているウマ娘、「レッツマッスル!」という掛け声と共に信じられない大きさのバーベルを持ち上げるウマ娘。それらはこの学園で営まれる多くの者の生活の一部に過ぎないだろうが、この学園がどういう場所かを理解するには十分であったと思う。理事長の掲げる『自由な校風』それをよく感じることができた。たまに自由すぎるものがいたが、それはご愛嬌というやつだろう。

 また、昼はカフェテリアで頂いたが、ウマ娘の食事量には驚かされる。やはりあのレベルの運動量にはそれ相応のエネルギーが必要ということか。「パクパクですわ!」という大声も聞こえてきたし、たくさん食べねばならぬということだろう。

 本当はトレーナー一同への挨拶もしておきたかったのだが、それはまた今度ということらしい。

 

 校舎の窓からの景色を眺めつつ今日を振り返り、改めて新しい仕事が始まるということを実感する。何度も経験していることだが、やはり慣れないな。

 

「お待たせしました。準備できたようです」

 

「はい。では、お願いします」

 

 上質なカーペットの敷かれた校舎の最上階の廊下を進み、現れたのはいかにもと言った風格の厳粛な雰囲気を醸し出す扉。壁のプレートには「生徒会室」の文字。そう、最終目的地はここ。生徒会──自分が学生だったときは社会ヒエラルキーの練習場とでも言えばいいのか、仮初の権力を持たされた所詮おままごとでしかない政治組織であったと記憶しているのだが、このトレセン学園はそれとは異なる。ここの生徒会は教職員と同じかそれ以上の権限を掌握し、非常に“力”が強い。理事としてここで働く自分にとっては重要な相手。学園の運営決定の場で理事長や教職と同じ位の席に座る立場の存在。学校のイベントや運営方針について直接議論することができる立場にあるのだ。

 今日は副会長の二人は不在ということで、現会長『シンボリルドルフ』に挨拶に来た。七冠という偉業を達成した生ける伝説でありながら、持ち前のカリスマを生かした生徒会長としての政治手腕も一流。荘厳華麗。まさに文武両道の体現者。今は一線を退き自身の目標である『全てのウマ娘の幸福追求』という大義のためのその心血を注いでいる。URAの職員が度々話題に上げるウマ娘だ。

 

ドアをノックする。

 

「どうぞ」

 

「失礼します」

 

 軽く押せばドアがゆっくりと開く。夕日の逆光で影になって顔色がよく見えないが、部屋の中心に立っているのがシンボリルドルフだろう。

 ただ立っているだけだが、存在感というものがとても大きい。理事長のものとはまた違う、圧力。ああ、これが“皇帝”か。

 

「ようこそ生徒会へ。初めまして、トレセン学園生徒会会長 シンボリルドルフです」



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荘重ッ!トレセン学園生徒会長

 私がドアの敷居を越えるのを見届けて、駿川さんは扉の前で一礼して去っていった。重い扉がスプリングの力を受けて音もなく閉まる。部屋の中には私と、目の前の一人のウマ娘だけだ。部屋は夕日の光を受けてわずかに薄暗く、少しの息苦しさを感じる。

 

「こちらこそ初めまして、文科省より参りました桐島亨といいます──」

 

 これまでしてきたように一通りの挨拶を行い、薄い生地の手袋を外して少し踏み出して握手をする。彼女の行動は一挙一動、重く、油断がないように感じられた。笑みを作って数回結んだ手を揺らす。その瞬間、威圧感ともいうべき皇帝の神威が霧散した。握り込まれた手からも力が抜け、若干前のめりになりそうになって踏みとどまる。

 

「まぁ初めまして、とはいうけれど。君とはメールで語らっている仲だしね。和衷共済、気楽に行こうじゃないか」

 

 先ほどまでの重圧は何処へやら、随分と砕けた口調を使いながら、旧知の仲であるとでも言わんばかりに親しげな会話を放ってきた。あまりに突然のことだったので、思わず呼吸と一緒になって疑問符がこぼれる。

 シンボリルドルフとの文通などした覚えがないのだが……どういうことだ? 

 

「どういうことでしょうか……?」

 

「おや、レース関係や学園イベントの催しの日程の調整でいつも連絡しているじゃないか。文科省の担当は君だろう?」

 

「ええ、確かに学園の調整担当の方と連絡は取っていましたが……」

 

 確かに私は学園と行政の調整ポストに座っていたが、目の前の行ける伝説と直接関わりを持った記憶は持っていない。学園関係者と連絡をしていたからといって、シンボリルドルフとどう関係するのだろうか。

 ん? 待てよ…? 確か担当者の名前は……

 

「新堀……? ……シンボリ……」

 

 頭に電流が走った。まさに驚愕の極み。担当者が人間だと信じて疑わず、そのつもりでずっとやってきた。まさかこんなことが、ウマ娘の社会進出については随分と寛容になっていると聞いていたけれども。

 突然挙動不審になる私を現生徒会長が愉快そうに眺めている。ああ、私は莫迦か……そのままじゃないか……

 

「……しかし、一度もそのようなことをそちらからは……」

 

 シンボリルドルフはカラカラと笑いながら、色眼鏡で見て欲しくなかった、と理由を説明した。二代前の会長の時の担当者がウマ娘差別主義者だったらしく、ことあるごとに調整に摩擦が発生したとかで……それについては大いに納得できる。

 しかし、そんな態度をしたこともないし、私自身はウマ娘の地位向上に賛成派であることはすぐにわかるはず。私は信用されていなかったのだろうか。なぜ、教えてくれなかったのかと聞くと、隠していた方が意見をストレートに聞き出せそうな気がしてとのことだ。試すようなことをして申し訳ないと、シンボリルドルフが真摯に頭を下げる。でも、本心はよく理解できた、と。

 かなり親しげな文体でのやり取りだったのでメディアで露出しているシンボリルドルフのイメージと重ならなかったが、今目の前でいたずらっ子のような笑みを見せているシンボリルドルフとは自然と重なる。とんでもないギャップだ……フランクな人だなあとは思っていたがまさかまさかのである。人は見かけにはよらない、1日に2度目だ。

 

「ドッキリ大成功とでも言えばいいのかな? 会長は快調! ははっ」

 

 絶好調の会長を前に私はただただ脱力した。

 

 

 

 本来の目的に舵を切り直し、シンボリルドルフと対話をする。彼女は自分の目的のためにとことん私を利用するつもりのようだ。面と向かって政治的に利用すると本人に話をするのは流石の胆力というほかない。幸い現政権はシンボリルドルフが宣伝にも協力した親ウマ娘政権。政府への要請も通りやすいだろう。まあ、私の力量によるところもあるが、彼女と政府の窓役としてならそこまで心配することでもない。

 数少ない実効的な国際法規たるロンドンバ権保護条約によってウマ娘の権利に対する国際的な見方は大きく変わったが、それでもまだ全てのウマ娘が幸せを享受できているかと聞かれれば、YESとは到底言い難い。ウマ娘と人間、常に立場で摩擦が発生しては問題が積み重なってきた。解決への光明は見えない。この国はウマ娘権利先進国などと呼ばれてはいるが、まだまだ目を背けたくなるような実情が地方などに残るのが現実である。

 特に国体の維持すらままならない中東の紛争地帯などでは権利意識の薄さは留まることを知らない。フィジカルで人間と大きく差のあるウマ娘は強制徴兵が当たり前だろう。どの国も見て見ぬふりをしている。誰だってあのような惨状、見たくもない。

 蓋をしてしまえばそこにないものだとでもいうかのように徹底的に権利問題に触れない国際社会とは違い、この目の前にいるシンボリルドルフというウマ娘はそういった境地に置かれているものたちを直視し、それらを含めて『全てのウマ娘の幸せ』を叶えようとしているのだ。正気の沙汰ではない、そう思うだろう。

 だが彼女は本気なのだ。自らの信条に自分を捧げ殉死する覚悟がある。誰もが躊躇う道を、傷つこうとも進み続ける覚悟が。

 まさか相手が彼女だとは思ってもみなかったが、今思えば彼女の文にはそういった覚悟がにじんでいたように思う。時間にすれば、あまりに短い会話だったかもしれないが、それでも、まさに“濃い”彼女の意志を感じ取ることができた。

 この不安定な国際情勢の中どこまでできるかは全くわからないが、彼女が諦めるか、私の限界が来るまで、彼女には協力をしようと思う。随分と高く買われているようだ、うまく働ければ良いのだがな。元々省庁のウマ娘担当部署の人間なんて一部の例外を除いて基本親ウマ娘派だ、私でなくても皆協力するだろう。

 

「協力してくれるか?」

 

 と皇帝の神威を纏わせながら聞いてきた時は、苦笑いしながら肯定した。心臓に悪いからそんなに出したりしまったりしないでくれ……

 彼女は諦めないだろうな。このカリスマに魅せられて志を継ぐものも現れるだろうことは想像に難くない。全くとんでもない仕事が増えてしまったな。政治的な話はあまりいい思い出がない。

 

 

 一連の話が終わるとまたフランクな空気に戻り、インスタントのコーヒーを飲みながら談笑した。朝の喫茶店に比べれば味は劣るが、そこそこいいものだろう。それこそ生徒会室は備品に気を遣っているらしい。

 やはり一番の話題は今日の理科準備室爆散事件か。あれだけの規模の事故で怪我人0というのは奇跡というべきだろう。タキオンの実験には皆慣れているらしいがあんなに大きな爆発を伴う失敗はかなり久しぶりとのこと。慣れているとか久しぶりだとか、度重なる問題が日常化してしまっているのにわずかな頭痛を覚える。

 

「前回の大きな失敗の時は爆発の範囲自体は狭かったんだが、ガスが凄くてね。同じ校舎にいた生徒ほぼ全員が黄緑色に発光してしまって、あれは大変だったな」

 

「なかなか無茶をしますね……光り輝くのは当たり前なんですか……」

 

「それでタキオン君の排斥運動が起きかけてね、最終的にタキオン君が被害者の望むものを作るということで落ち着いたのだが、その後何人かのトレーナーがトレセン学園から消えてしまった。あれは痛ましい事件だったな……」

 

「ハハ……」

 

 私は止めたのだけれどね、そう遠くを見る目をしながらシンボリルドルフは言う。闇が見えた。願わくば巻き込まれませんように。

 

 

 

 斜陽が地平線に姿を消し、夜の帷が降りてからしばらく経った。天井のスピーカーから控えめなチャイムがなり、壁のモニターの表示が切り替わる。

 

「む、もう門限の時刻か」

 

 窓を見やれば、反射で映った私とシンボリルドルフの向こうに明かりを灯して煌々と輝く学生寮が見えた。就寝準備時間が始まる。モニターに表示されているのは警備システムの状態表示のようだ。表示された地図の上でおそらく学生証であろう位置表示が動いている。

 

「今日はありがとう。これから私は見回りに行ってくるよ」

 

「こちらこそ。また明日からよろしくお願いします」

 

 立ち上がって差し出された手を握り返し、もう一度握手をする。今度は緊張感なく。

 ラップトップの電源を落とし、机の上に広がった資料をまとめ直して退室する準備をしていると、シンボリルドルフがコートを着ながら声を飛ばしてきた。

 

「ああ、そうだった。私のことはルドルフと呼んでくれて構わない。そっちの方がいいだろう? シンボリ家の人間は他にもいるからね。では、お先に失礼するよ」

 

 距離が近い。メディアで見る彼女の成分が見えないぞ。

 ドアが閉じる前にもう一度顔だけヒョイっと出てきて、扉はオートロックだから、とだけいって手をひらひらと振りながら去ってしまった。

 まあ、皇帝の新たな側面が見えすぎた気がするが、全く有意義な会談だった。

 

 

 

 

 

 私のもう一つの目的については話すことができなかったが。



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INTERLUDE :IN THE DARK

 倉庫街、街灯もなく仄暗い月明かりだけが降り注ぐ。青白い光には照らしきれない闇がそこらじゅうに横たわっていた。人気の全くない路地、ありふれた闇の一角に黒いセダンが止まっている。

 人目を憚るように、光を避けるように、静かな足音を響かせて近づく人影が一人。希薄な存在感も相まって夜に溶け出すよう。

 男がセダンの横にたどり着き、周囲を幾度か確認した後ガラスを叩く。数瞬後、助手席のドアが音もなくひとりでに開いた。助手席に男が乗り込み扉を閉めると、セダンのガラスが黒く曇り、内側の様子は全く見えなくなった。静かに、暗がりに溶け込む。

 

「──やあ、トレセン副理事長。就任おめでとう」

 

「やめてくれ。副理事長ではなく理事だし、就任式でやっと正式に就任だ。引き継ぎのための仮役職みたいなものなんだから」

 

「実質権限はその通りだろう?」

 

「……ハァ……疲れた……やはり学園は広い。それに加えてまさか初日からタキオンが事件を起こすとは思わなかった……」

 

「ふふ、聞いているよ。学園上空に虹色の雲が現れたと衛星情報センターの連中が騒いでいたね。どうだい、研究所の頃と変わりは?」

 

「研究熱心なところはそのまま変わらず、しかし、あの頃より楽しそうに見えた。友人もそこそこいるようだ」

 

「へぇ……ほとんど研究にしか興味がなかった彼女が」

 

「人もウマ娘も変わる。彼女も例外ではなかったということだろう」

 

 随分親しげな声のトーン。車の防音機能について相当に自信があるのであろう、二人に外を気にする様子はない。

 しばしの無言。助手席の男が遠くの街灯を眺める。チカチカと点滅する古い蛍光灯。闇が消えては、現れる。

 咳払いと共に会話が再開される。

 

「それで?久しぶりに同僚と話せるというのが嬉しいのは否定しないが、それが目的というわけではないだろう?」

 

 厄介ごとに違いない、そう言いたげに問う声に対しての最初のレスポンスは大きなため息であった。

 

「そうだったら僕も楽なんだけどね……本題だけど、データサーバーから機密情報が漏れた可能性がある。いや、ほぼ確実だね。どこに漏れたかはいまいちわからないけど、第三世代量子暗号システムを突破できる技術力をもった人員がいる国なんて限られる。一昨日からCIAとNSCの動きが活発になった。さらにクソなことにMI6の動きもきな臭い。アメリカかイギリス、もしくは両国」

 

「何が漏れた」

 

「超長躯多層同心円状CNTがどこで開発されたか、だね」

 

 深いため息と共に助手席の男が天を仰ぐ。瞳を閉じて静かに事態を飲み込もうとしているように見える男、しかし眉間には深い皺が刻まれている。抑えきれない感情が、同僚と二人きりという環境ゆえか溢れ出した。

 幾度か逡巡を見せ、拳をインテリアパネルに叩きつけて声を荒げる。

 

「最悪だな……遅かれ早かれ気づかれることになる……防諜のための派遣のはずが、こうなってしまってはここが最前線になったも同然だ……」

 

「……一応公用車なんだけど……残念だけどその通りだ。そこで、君には特殊警棒が既に支給されているはずだけど、暴徒だけならいざ知らず、政府機関の人間が来ないとも限らない。上の指示で追加で武器を支給することになった。今この状況で人員を動かすのはまずいからね。ある程度落ち着いたら、警備員とでも理由を作って人員を追加する。それまで頼むよ」

 

 そう言うと運転席の男は後部座席から二つのブラックマットのアタッシュケースを取り出し、もう一人に顎で開けてみるよう促した。

 助手席の男は胡乱げな表情を浮かべつつボタンに触れ、まず小さい方のケースを開ける。蓋がスプリングで持ち上がり、中身が車のランプに照らされる。現れたのはGlock17M、法執行機関向け自動拳銃。ポリマーフレームが鈍く光る。予備マガジンが数本。男は特に動揺することもなく拳銃を取り出し、スライドを少し動かして、グリップの握りを確かめ元に戻す。

 続いて大きなケースの方も開ける。現れたものに助席の男が目を見開く。少しの硬直の後、中身の事情について問うた。

 

「これは……」

 

「ああ、もしかしたら特殊部隊クラスが来るかもしれないからね。来たら……まあ……助からないと思うけど、ないよりマシだと思うよ」

 

 冗談めかして胸の前で十字を切る男。ジョークを投げられた男は笑えないとばかりに苦笑を漏らした。掛け合いをしている最中でも、男の手は銃器の確認に動いている。

 

「だとしてもHK433か…よく手に入ったな。ヨーロッパはゴタゴタで銃器関係が厳しいはずだろうに」

 

「SBUの余り物だよ。89式は古すぎるし、20式には余裕がない。それらの銃が使われてもすべて”なかったこと”として処理されるけど、変なことに使わないでくれよ」

 

「変なことって何だよ…もしかして私信用されてない…?」

 

「冗談さ」

 

 冗談きついぞ、とぼやきつつ肩をすくめながら男はケースを閉じ直し、入念にロックを確認して頷くと、口を開く。

 

「漏洩の原因は」

 

「システム担当の人的ミスと攻撃が運悪く重なったらしい」

 

「対策は?」

 

「それはもちろん、あと担当者は謹慎処分になった」

 

 助手席の男が肩からわずかに力を抜く。再びため息。今度は二人同時。

 

「今日一日対応だったんだろう。疲れているな」

 

「それはお互い様。とにかく彼女の護衛は頼むよ。いざという時は南坂君を頼るといい。彼は公安の人間だからね」

 

「ああ、どうりで。身のこなしに何か雰囲気があると思った。彼はこちらを把握しているのか?」

 

「そうだね。こと技術防衛に関しては公安との連携が大事だからね。そのうち彼からの接触もあるかもしれない」

 

「了解。ああ、そういえば私の前任者の経過は」

 

「彼なら意識を取り戻したよ。しばらく入院する必要があるけど、奇跡的に後遺症もなく社会復帰ができそうだ。でも、ウマ娘にはもう関わりたくないと言っていた。今後はウマ娘障害補償機構のお世話かな。まあ、あれだけのことが起きれば仕方ない。今後は君一人に権限を集中することになる」

 

「関わりたくない、か…だよなぁ…いろいろと面倒なことになってしまったなぁ。シンボリルドルフ氏の目標のためにできる限り協力すると約束したが、想定より私が限界を迎えるのが早いかもしれないな」

 

「一体どんな約束をしたんだ……?本業はこっちだ、無理はするなよ?」

 

 

 

 

 

「確かに受け取った。限界はあると思うが、この国のためにお互いやれることをやろう」

 

「はは。じゃ、落ち着いたらまた飲みにでも行こう。行きたいところがあってね、友人が店を開いたんだ」

 

 窓越しにお互い手をあげて笑顔を見せ、それぞれ反対方向へと分かれる。

 月光が翳る。再び雲から月が顔を出した時、そこに彼らの姿はなかった。



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期待ッ!トレセン学園就任式《前編ッ!》

 爆音で目が覚める。地面が揺れているかのような錯覚すら起こす重低音の響き。非常に不快な目覚まし時計だ。

 頭をもたげて周りを見渡し、自分が職員寮の自室で机に突っ伏して寝ていたことを理解する。そうだ、昨日深夜まで運営資料の確認を……どうやらそのまま寝てしまったらしいな。忙しいったらありゃしない。

 大きなあくびをしながら窓に寄り、カーテンを開ける。今日は快晴。トレセン敷地内から桜の綺麗な桃色が目に飛び込んでくる。春、今年度の始まり。この学園に来てから1ヶ月弱。就任式前ながら学園運営に直接関わり、すでに生徒会の面々をはじめとして一部の生徒には顔を知られている。皆順応が早い。

 窓を開けると春の香りを纏った柔らかい風が私の顔を撫でる。眠たげな甘さを含んだ春の朝。優しい朝日が心地よい。体内時計の補正がはじまったのを感じる。脳が眠ることを諦め、次第に思考が鮮明になる。

 ああ、そういえば今日は就任式だった。日はまだ低いので時間はありそうだが、早めに準備をしておこう。

 外の景色をぼうっと眺めていると、私を眠りから覚ました轟音が再び降ってくる。窓から身を乗り出して高空を見上げれば、グレー塗装の大型機の編隊が西に向かって飛翔していくのが見えた。まだ朝だというのに随分とやかましい。

 特徴的なフォルム。軍事に疎くても写真は見たことがあるだろう。

 B-52──2度の大戦で使われてなお、近代化改修を繰り返し、一世紀前から空を飛ぶ怪鳥。赴く先は中東紛争地帯。彼の国はいまだに自分が世界秩序の守護者であると信じて疑っていないようだ。

 国際軌道エレベーターの建設によって都市のエネルギー問題を早急に解決したアメリカは確かに迅速なエネルギー復興を行ったが、同時に地域格差など多く問題を抱えることになった。国内の不安から目をそらさせるために海外への軍事力投射を行っているというのが世界の見方。『強いアメリカをもう一度』なんて言っているがやっていることは某北の国と同じだ。まあ、彼の国はもう地図に存在しないが。

 ナショナリズムでドーピングしている国家の先は暗い。歴史が教えてくれたことだ。

 ヴァチカン休戦条約などもはや形骸化して久しい。己の国を守るために信じられるのは己だけだ。

 せっかくいい景色でいい気分のところに水を刺された。景色は名残惜しいが、この爆音をダイレクトで聞くのはどうにも気分が悪くなりそうだ。窓を閉じてのびをする。何かが折れるようなエグい音がした。少し焦るが、どうやら無事のようだ。

 

「ヴッ…あ゛───」

 

 オヤジ臭さ全開である。

 人生の半分以上をデスクワークにささげているために、椅子での姿勢には気を使わないと腰が曲がる。老後の腰事情には不安しかない。この学園で働いている以上老後の存在そのものすら不安ではある、というのは考えないことにした。平和な人生とは既に無縁である。

 ネクタイを緩めて外し、ハンガーラックに雑に引っ掛ける。ベルトも同じく。シャツとスラックス、下着は雑に丸めて洗濯機に放り込む。スイッチを押せば蓋が降りて計量が始まり、洗剤が投入されて洗濯が始まった。軽快なメロディーと共にドラムが回転し始めた。

 規則正しい機械音を聞きながら裸で着替えを集め脱衣所の棚に置く。裸で歩き回っている絵面はかなり不味いな……さながら不審者だ。

 シャワールームのクリアガラスの扉を開ける。なかの空気はひんやりとしていて寒い。センサに触れるとガラスが白く不透明になり照明が灯る。鏡に映る顔はだいぶひどい。しっかりとベットで寝ないとな。

 壁のスイッチを押せばすぐに熱い湯が出てきた。ゆっくりと体についた汚れと疲れを流す。まだ眠気のあった目が完全に覚醒した。一通り体を洗い終え、水分を拭き取りながら脱衣所へ。大理石のタイルが冷たくて気持ち良い。しまった、タオルも一緒に洗えばよかった。少し後悔。

 

「エリア、就任式まであとどれくらいだい」

 

『おはようございます。予定、就任式は9時20分からの予定であと3時間40分後です。10分前にアラームを設定することができます。実行しますか?』

 

「いや、大丈夫だ」

 

『わかりました。良い1日を』

 

 部屋に備え付けのスマートスピーカーで予定を確認する。長風呂になってしまったが、まだ時間はある。ゆっくり行動しても大丈夫そうだ。

 それにしても……部屋を見回して幾度目ともしれない同じことを考える。広い。一人で住むには過剰なほど部屋がある。それに高級タワマンの一室かと見紛うほど綺麗な内装にインテリア。これが職員寮なんてやはり信じがたいものがある。

 人権と引き換えの待遇。この業種特有のブラックジョークかと思っていたが、なかなかどうして素晴らしい待遇じゃないか。悪魔の契約だったりして、果たして私の人権は残っているだろうか……

 

 

 日課のニュースのチェック。デジタル新聞を電子ペーパーで眺める。

 

『アメリカ紛争介入』『ロシア兵器産業拡大』『中国政治不和、軍部勢力拡大』

 

 でかでかとした字で暗い話題が連なっている最初の数ページを流し見で飛ばす。同じような話ばかりで詳しく読まなくてもなんとなくわかる。明るい話題と暗い話題が五分五分、いつだって大体こうだ。おや、少し明るい話題か。

 

『KIYOMIZU建設 洋上植物工場始動』

 

 最近盛んな洋上開発で、野菜工場が稼働し始めたらしい。最近食堂の方でにんじんが足りないとかいう話を聞いたな。今度連絡してみよう。宣伝効果を含めて交渉すればうまくいくかもしれない。

 

 壁掛けの時計に目をやる。ほとんど時間は経っていない。時事ニュースでも読んで時間を潰そうと思ったが、やめた。そんな長い時間暗いニュースばかり読んでいたらメンタルがやられそうだ。一応国際情勢は頭に入っているし。緊急のようなら上から連絡が入る。

 見回りでもしよう。朝に強いウマ娘はトレーニングをもう始めている時刻だ、練習風景を見て回るのは嫌いじゃない。

 

 

 部屋を出てドアにロックがかかったのを確認し、厚手の絨毯の敷かれた廊下を音を出さないように歩く。完全暖房の効いた寮内は廊下も暖かい。ベストとジャケットを両方着ていると少し暑いぐらいだが、まだ外は肌寒いので外出する分にはこれがちょうどいいはずだ。

 朝方でまだ寝ている人間も多いのだろう。廊下はとても静かだった。小鳥の囀りが防音ガラスを通して微かに聞こえる。あの爆音で目覚めないというのはなかなか肝が据わっているというのか、それともこの学園ゆえに皆鈍感になっているのか。

 階段を降りエントランスに入ると、ちょうど一階の部屋から東条トレーナーが現れた。

 トレセン学園最強と名高いチーム『リギル』を率いる敏腕トレーナー。チームメンバーには冷徹とすら思えるほどの態度でトレーニングを指導することがあるが、それはひとえに教え子に勝利を掴んでほしいという一心からくるもの。指導の正確さ、視野の広さ、熱意どれをとっても一流。まさにトレーナーとしての理想像とも言える。───と、前任のレポートから認識している。

 かのシンボリルドルフもリギル出身だ。

 

「おはようございます」

 

「あら、おはようございます」

 

「お早いですね。トレーニングですか」

 

「ええ。あの子たちの目標レースももう近いので。調整もしっかりしていかなくてはいけません」

 

 春休みの期間ですらほとんど指導へと充てていたにもかかわらず、全く疲れの色も見せない。全く驚異的なスタミナというほかない。

 一体どこで休んでいるのか、そう心配したくなるほどこの学園のベテラントレーナーたちは勤勉だ。新人のトレーナーなどは気を張りすぎて体調をくずすなどしょっちゅうあると聞くのに。

 その中でも沖野トレーナーは例外だ。ウマ娘に蹴られて鼻血程度で済むなんてとても人間だとは思えない。彼はきっとサイボーグか何かなんだ。

 いくつかトレーニングについての彼女の理念を聞き、その後幾許の会話の後、職員寮前で解散。トレーニングを見ていかないか、とお誘いを受けたが辞退させてもらった。何せまだ正式に就任しているわけでもないから知名度が低い。よくわからない男が近くでトレーニングを見ていたらウマ娘たちも緊張してしまうだろう。

 東条トレーナーを迎えにきていたウマ娘と目があった時睨まれてしまった。取って食おうというわけでもあるまいに。前任者コースは御免だ。距離感というのは難しいな。

 

 予定通りグラウンドでも見に行こうかと思って教室等の横を通り過ぎようとした時、教室棟の窓の一つが虹色に光っているのを見て急遽行き先を変更。急足で階段を登る。廊下を駆け足で走り抜け、目的地のドアを勢いよく開ける。そこの部屋の主は私の登場に少し驚いたが、すぐに余裕の表情を取り戻した。

 

「アグネスタキオンさん」

 

「やあ。どうしたんだいそんなに慌てて」

 

「どうしたじゃありませんよ。旧理科準備室は今使用禁止令が出ているはずですよ」

 

「私の研究のためにはこの部屋が必要なのでねぇ。邪魔をしようとするので、彼女には眠ってもらった」

 

 彼女が視線を送る先を見やれば、部屋の隅にマンハッタンカフェが眠らされている。あどけない寝顔を見るに本当にただ眠らされただけのようだ。彼女が危害を加えたことはないらしいが、どうやっても実験に巻き込まれる彼女には同情の念を送らざるを得ない。

 

「あのですね…あなたは私がこの学園に来てから今日までの1ヶ月弱で3回も爆発事故を起こしているんですよ! 1回目は被害者はいませんでしたが、2回目は私が吹き飛ばされたドアと一緒に廊下の窓から落ちましたし、3回目は駿川さんを虹色に光らせて怒らせました…! 理事長に罰として旧理科実験室の使用禁止を言い渡されて、それも明後日までじゃないですかッ!」

 

「ああ、わかっているとも。だが思い起こしたアイディアはその場で形にしたくてね。安心したまえ、流石に失敗が多すぎるのは私も理解している。このテーマで実験するのはこれが最後だろう。」

 

 何を安心しろというのか……そう胡乱な目線を送ると大仰な仕草と共にこのテーマ、そう言って妖しげな光を湛えるビーカーを掲げた。意図的に目を逸らしてきた虹色に光り輝くそれ。彼女が揺らし、波が立つたびに有機的に色を変える。

 

「塗料型の液晶というのを思いつきで始めてみたわけだが、これがなかなか難しくてね。」

 

 虹色に光る壁がフラッシュバックする。3度の爆発で3度とも壁やら床やら全てが光っていた。そこのビーカーのように。私には未来予知能力などないのだが、不思議なことに結末が見えてきた。若干の諦観と共に彼女の期待通りの質問を投げかける。

 

「それで、最終研究は成功したんですか…?」

 

「端的に言えば…」

 

 

 

 大きな間が空き、タキオンがフッと脱力したように笑う。その笑みは随分と満足げで、達成感に満ちていた。

 

 

「失敗だね」

 

 

 ビーカー内の液体が突如泡立ち、霧状になって猛烈な勢いで広がる。またかよ!!!という心の叫びと共に、虹色の濁流を浴びた。

 就任式朝、トレセン学園は今日も平和です。



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期待ッ!トレセン学園就任式《後編ッ!》

 全くもって酷い目にあった。

 新しいシャツに袖を通しながら鏡の中でゲンナリした顔をしている自分をみて盛大にため息を吐く。最近ため息を吐きすぎて風船よろしく萎んでしまわないか本気で心配している。今日から正しく私の新職場での生活が始まるというのに、あの素晴らしい発想力を持った優秀な研究者に玉虫見たく虹色に光らされてしまった。幸先が悪いかどうかはわからないが、少なくとも良くはないと思う。

 あのあと、私と同じく被害者である眠ったままのマンハッタンカフェを保健室まで運び、保険医に後を頼んで寮まで戻ってきた。部屋の真ん中で笑いながら、いやあ失敗失敗!なんて放言しながら笑っていたウマ娘のことは、まあ、もういいだろう。実験の後処理には慣れているはずだ。

 就任式は全生徒出席だから彼女もなんとかするはずだ。なんとかならなかったら、教官か駿川さんあたりが担ぎ上げてでも連れてくるハズ。最低限学校行事には出席しているようだったから、まあよっぽどの事がない限り大丈夫だろう。

 私と同じく被害を受け、ドロドロの粘液だらけになりながら虹色に発光するマンハッタンカフェを運んでいる最中に鉢合わせてしまったサクラバクシンオーには怖い思いをさせてしまった。トレーニング中であろうか、満遍の笑みでトレセン内の林道を走ってきて私たちを見た時

 

「バクシン!バクシン!バッ……!ヒッ……!」

 

 いつもの笑顔と元気の良いバクシンコールはどこかへ、冥界を覗き込んだかのように表情を恐怖に歪め、声を震わせながら足をもつらせて尻餅をついた。おどろおどろしい色に昏く発光しながらドロドロとした液体を纏った得体の知れないものが正面にいきなり現れたのだから無理もない。驚かせてしまったと謝ったら声にならない叫びをあげて来た道を猛スピードで駆け戻っていった。さすがスプリンター。一瞬で見えなくなったよ。測らずとも不幸のお裾分けになってしまった。トラウマになっていたりしないか本気で心配である。

 いやあ全く愉快な学園だ!これからが楽しみですね!やけくそ気味に気持ちを入れ替えようと鏡に向かって笑う。なんだよそのクソみてえな面は。ああ、元々だった。疲れたような老けた顔してる場合じゃないだろうに。

 朝一番の行動と同じことをもう一通りこなして部屋を退出。腕時計を見てみればもう少し時間はありそうだが、就任式前の打ち合わせが一応ある。もう余裕はあるまい。虹色の足跡は仕方がないにしても、なるべく学園内を汚さないように歩いていたら予想外に時間がかかってしまった。生粋のトラブルメーカーだな、彼女は。清掃員の方には今度謝っておかねば。

 

 朝と同じように階段を下り、エントランスへ。一度目とは違って少しだけ高くなった太陽が窓から顔を覗かせている。

 玄関前のホールは職員たちで賑わっていた。就任式は警備員などの例外を除いてほぼ全員参加、トレーナーや教官もいつもの学園ジャージや色とりどりの私物ジャージではなく皆スーツを着ている。なかなかスーツ姿が新鮮な人間もいるな。

 ちょうどトレーニングで使った用具などを戻しに来たのであろう東条トレーナーと鉢合わせた。朝からトレーニングに顔を出して指導をしていたというのに全く疲れの色もない。

 朝そのまま参加する旨を伝えていたので、階段からまた現れた私を見て不思議がられたが、起こったことを説明するまでもなくタキオンの名前を出すだけで納得された。私も大概トラブル体質である。しかしその同情の目はやめていただきたい。

 

 学園施設の一角、大ホール。記者会見等の対外的な行事から生徒会選挙の演説など、大きめの催しでいつも使われる部屋。そこに次々と生徒が吸い込まれていく。就任式が行われるのはここ、そして私がいるのは横の控え室。舞台袖に繋がっているので、ざわざわと生徒の雑踏から生まれる音が聞こえてくる。皆新環境に興奮しているのだろう。笑い声、話し声、悲鳴に近い叫びがたまに聞こえる。……最後のは大丈夫か?

 打ち合わせは事前に通達されていたことの確認だけであったのでそんなに時間は取らなかった。そこまで広くない控室に学校教職に関わる面々がひしめいている。いつものこととばかりにニコニコしているベテランと、各部署の長。それとは対照的に壁際の椅子には緊張した面持ちの新人トレーナーと新人教官。トレーナーと教官、そのほか私のような重要役職は他の職員と違って壇上で新任発表がある。生徒に深く関わることだから、とかなんとか。経理とかは書面で発表になる。ある程度のスピーチをしなければならないとかで、新人の一部などはメモなどを見ている。

 

───あ、私もスピーチあるんだった。

 忙しくて何も考えてなかった……一部、いや大部分、いやもう全部タキオン君のせいだと思う。最近ずっと仕事とトラブルのスパイラルだった。いつの間にかタキオン事案スクランブル要員扱いされている。まあ、間違ってはないんだが……。少しでも緩衝材になろうとしてくれるマンハッタンカフェには今度いい豆でも贈ろう。

 

「緊張してるか」

 

 そうこう考えているとサングラスを掛け、ハット帽を被ったいかにもと言った風格の人が話しかけてきた。黒沼トレーナー。もう慣れたが、こう、なんというか、迫力がある方だ。いつもはもっと尖った格好をしているのでスーツ姿に新鮮味がある。

『精神は肉体を超えられる』を信条にスパルタトレーニングを行う熱血派トレーナー。

 常に厳しく教え子にあたり、容赦のないトレーニングをも行う。随分と厳しいらしく、ターフでくたくたになっている生徒を幾度か見たことがある。彼のチームに所属するミホノブルボンには「マスター」と呼ばれている。詳細は不明だが、彼女なりの信頼関係の表し方だろう。

 そんな彼はスピーチのことを忘れて肩を落としていた私を心配してくれたらしい。見た目はアレだが、気を回すのが上手なとてもいい人だ。

 

「いえ、前の職場に比べれば。相手は生徒ですし。政界の重鎮相手にプレゼンや発表なんてよくありましたからね」

 

 例えば、総理とか。文科省の話ではなくなるけど。少し意識が別の方向に逸れたのを頭を数回振って戻す。

 単純に人に気遣われると嬉しいタチなので口角が上がる、それに応えるように彼もニッと口角を上げてくる。わざとらしいような動作だが、この人だととても様になって見える。初対面の時は近寄り難いタイプかと思っていたが、ことあるごとに助けになってくれた。

 最初は敬語だったが、今では生徒や同期と接するのと同じように話しかけてくれる。この人の方が年上だし、そもそもこの学園方針的に強い上下関係は必要ないらしいからな。そちらの方が働く身としてはありがたい。気を使う事項が多すぎてただでさえ気疲れしやすいんだ。

 

「また巻き込まれたそうだな。まあ、あんた以外に進んで関わりにいく人間なんていないからな」

 

「───仕事ですからね……トレセン学園に在籍する以上、彼女には生徒の枠の中にいてもらわないと困ります」

 

「アイツの問題児っぷりは今に始まったことじゃない、あの生徒会長の言うことすら聞かなかったことがあるぐらいだからな。皆話しかけても拒絶か、被験者のお誘い。今、あんたの言うことを少しでも聞いているのが奇跡みたいなもんだ」

 

「言うことを聞いていると言うよりただ面白がられているだけな気がしますが……」

 

「今アイツの矢先に立てるのはあんただけだ」

 

 急に毅然とした顔になって頭痛の種が増えそうなことをさらっと言われる。嗚呼、頭痛が。彼女のため(・・・・・)にも矢先に立たざるを得ないのは事実なのだけれど。

 「だが」肩をすくめて黒沼トレーナーは続ける。

 

「アイツが部屋にこもっているのは最初からじゃない。入学当初は楽しそうに走ってたさ。何か理由があるんだろう。責めるだけじゃなく、力になってやってくれ。俺たちもできる限り協力する」

 

 俺たちという言葉に顔を上げると、こちらを見ていた沖野トレーナーと目が合う。サムズアップ、白い歯が光る。どうやら話を聞かれていたようだ。

 

「だからそんな顔するな。年寄りみたいだぞ」

 

 ここにくるとき「やばい職場だ」なんて思っていたが、存外いい職場かもしれないぞ、ここは。

 

 

 

 最後の新人トレーナーのスピーチが終わり拍手が起こる。2000人近い拍手はホールを揺るがすようだ。音というより揺れ、人数の他にもウマ娘の腕力も関係しているのだろうか。

 緊張で顔が紅潮したまま、ややぎこちない調子で壇上から彼が降りる。職員席に彼が崩れるように座り込むと理事長が『新任』と書かれた扇子を再び広げる。私の番のようだ。脈絡のない思考を切り上げて職員席から立ち上がり、舞台へ向かう。拍手を終えた会場は静かで、私のパイプ椅子があげた軋みが響く。

「教職以外で全体発表ってなんだっけ?」「あの人見たことある〜。プールにいた〜」「え?覗き?」

 なんてことだ、就任前から風評被害が発生している。真面目な顔を作っていたはずがもう維持できている気がしない。問題……問題は増やさないでくれ……。

 壇上を見ればシンボリルドルフが笑みを向けてくる。他にわからない程度の微笑で返す、すると彼女の笑みが苦笑に変わった。

 なぜだ。そんなに酷い顔だったのか……何度か瞬きをして元に戻そうと奮闘する。しかし顔芸をしている間に階段を登りきり壇上へと上がってしまう。もう諦めて顔を作れていることにする。

 歴史を感じる重厚なデスクの向こう側に秋川理事長がいる。小さい。頭いくつか下から見上げられる格好。しかしその瞳からは強い意志が感じ取れる。このトレセン学園という巨大な組織のリーダー。その重圧を背負ってきた確かなる実力。この時勢、他に類を見ない実力者だ。

 

「期待ッ!貴下を日本ウマ娘トレーニングセンター学園理事に任命するッ!」

 

 長々とした儀礼文句の後、威勢の良い声で私への辞令が交付された。

 ざわめき。一部「理事ってなに?」なんて声が聞こえる。リジチョーという役職は無いんだ生徒諸君。

 それは運営基盤への介入が可能な役職。学園方針にすら手を加えられる職に新参が任命される、不安に思うのは当然だろう。私だってこんな職業初めてな訳で。なんなら私も不安だ。ウマ娘市場に手を出したい官房長官の思惑とかそういうのは知らない。断じて。

 

「拝命します」

 

 理事長が笑顔を浮かべて一歩下がる。

 

「では新理事、スピーチをお願いします」

 

 駿川さんのアナウンス。ぶっつけ本番になってしまうが、しょうがないのだから仕方ない。

 デスクを回り込み、生徒たちと向き合う。大型照明の光とは別に私を照らす舞台照明の光が眩しい。デスク上のマイクの電源を確認。そして深呼吸。生徒たちの目線が集中する。それに視線を返すように生徒たちを見回せば後ろの方にマンハッタンカフェとタキオン。

 ちゃんと参加できたようだ。目があったマンハッタンカフェが目礼をしてくる。笑みで返す。

 

「おはようございます。ただいま理事を拝命いたしました、桐島 亨と申します。文科省の学園管轄部から出向して参りました」

 

 まずは自己紹介。文科省と聞いた時点で警戒が若干緩む。現政権の特別学園法改正をはじめとする親ウマ娘政策を一番表立って行っているのは私の前職場だったし、今もそうだ。こうやってそれが形となって現れるのを見ると、自身のしていた仕事に誇りを持てるというもの。

 

「私はこの学園の方針に対し異を唱えるつもりはありません。ここへ私がきた目的は、あなたたちウマ娘への支援、協力のためです。二十一世紀にもなってなお、あなたたちへの差別、偏見は無くなったとは言えない」

 

 生徒たちの中数人が顔を曇らせる。

 そう、シンボリルドルフをはじめとしたスターウマ娘の活躍、政府とURA主導のメディア戦略等によって近年ウマ娘たちの社会的地位は大幅に上昇し、レースなどはもはやサッカーや野球などの他スポーツを圧倒する勢いで人気が急上昇しているが、まだその容姿や身体能力の差異を主とした差別論は各地に根強く残り、ウマ娘たちの社会進出に影を落としているのだ。私もそれを幾度かこの目で見てきた。

 

「政府は現状を重く見ています。この国の歴史でのウマ娘の方々の貢献を無視するような排斥運動などは到底看過できません。あなたたちの地位向上のために、できることはなんでもやらせていただきます。ウマ娘と人間が共生する府中のスタンダードを日本のスタンダードにできるよう力添えをさせてください」

 

 急拵えのスピーチになってしまったが、概ね表向き(・・・)の理由は説明できた。

 私個人としても嘘はない。ウマ娘が嫌いでこんな仕事がやっていられるか。第一嘘なぞついてしまったら聡いウマ娘たちには嗅ぎ取られてしまうだろう。経験則(・・・)で理解している。

 政府の方の本音は知らないが、少なくとも総理個人で言ったらその気だろう。あの方の家系にはウマ娘もトレーナーも多い。

 

 拍手を身に受けつつ壇上から降り、職員席にもどる。肩に力が入っていたことに気づき、力を抜く。自分にもこういうことで緊張する心が残っていたらしい。黒沼トレーナーがうんうんと頷いている。スピーチは無難な出来だったようだ。しかし、今日からこの人たちが直接でないにしても部下になるわけだけれど、いやぁキツいな。

 年上かほぼ同い年……理事の仕事以外では対等に接してくれた方が心臓に良さそうだ。できれば黒沼さんみたいに。

 

 

 

 地上を照らすことに疲れた太陽がオレンジ色の大きな火の玉となって西の空で仕事の終わりを待っている。お天道様はもう定時のようだが、私にそのようなものは存在しない。正式に始まった業務でまたとんでもない量の仕事が舞い込み、それの処理でてんてこまいの真っ最中である。しかし、今は事務仕事を一旦おいてやるべきことがある。

 書類の仕分けに一区切りついたところで身だしなみをチェックして執務室を離れる。今朝2度目の外出と同じルートを辿りまた大ホールへ。談笑の声が聞こえてくるが、今度は生徒の姿はない。出入りしているのは大人ばかりで、話し声も朝と違って男女半々で聞こえてくる。

 就任式の時はずらりと並んでいたパイプ椅子が一つ残らず片付けられ、代わりに白いテーブルクロスをかけた円卓と色とりどりの料理。和洋食に菓子に、シャンパンをはじめとした酒。

 そう、立食パーティである。

 ここトレセン学園では就任式の日、恒例で懇親会が開かれるらしい。生徒たちには早めの門限が言い渡され、職員一同学園で羽目を外せる数少ない機会である。

 既に多くの職員が談笑に興じているようだ。さすがに一度も顔を出さずに済ませるのはまずいと考えて、書類仕事を切り上げてきたわけだが……まあ、ぼちぼち挨拶したら戻るかな。

 

「おっ、桐島さん!」

 

 ゆくりなく飛んできた呼びかけに振り返れば、沖野トレーナー初めベテラン組と新人トレーナー数名がこちらを見ていた。新人たちはベテランたちに若干萎縮してしまっているみたいだ。足やら指やらどこかが所在なさげに動いている。

 

「どうも、私が参加しても大丈夫ですか?」

 

「大丈夫ですよ、なっ」

 

「はっはい…」

 

 いきなりの振りにワタワタしながら答えたのは、新人の女性トレーナー。確か桐生院 葵さんだったかな。代々優秀なトレーナーを輩出している名家の一人娘だそう。この若さで某大学試験より難しいと言われる中央トレーナーライセンス試験に一発合格。ベテランの方々の期待は大きいだろう。生徒の前では堂々としているように見えたが、今は縮こまってしまっている。

 

「そんなに緊張することはない」

 

 私に見せた頼れるアニキ然とした表情が出てこない黒沼トレーナー。強面のままそんなこと言ったら逆に緊張しちゃうと思います。スーツ姿プラスサングラスプラスハット帽で威圧感がすごい。

 

「ハハ……それじゃあ逆効果ですよ。そうですね……伝聞になりますが桐生院家の先代の話なんてどうです?私たちの一世代上の先輩方はよく話をしていましてね。あなたも気になるでしょう。あなたの先代はそれはそれは凄い方でしたけれども、それとはちょっと趣の違うエピソードをたくさん聴いています」

 

 南坂さんがうまく話題を変えたようだ。緊張でのぼせていた桐生院さんも家でみる先代の姿と話の先代が違いすぎて百面相をしている。なかなか愉快な話だ。鬼才としか言いようのない逸話しか聞いたことがなかったので本当に人か疑っていたのだが、やはり人間なんだな。酒には気をつけるべきだという教訓も得られるいい話だ。

 トレーナーを引退した理由が教え子に捕まったためというのは笑えないが。愛憎の話はまっぴらだ。

 話のきっかけをつかんだトレーナー御一行は話の種には困らないようで、笑いが絶えない。私はそれを側から聞いて楽しむ。妹がウマ娘で、近所のウマ娘に憧れて、家柄で、トレーナーを志した理由も千差万別。新環境に目を輝かせる新人たちをニコニコしながら見ていると

 

「桐島さんはなぜウマ娘に関わろうと?」

 

 突如話の矛先が私に向いた。虚を突かれて少し言い淀む。

 

「や、そうですね……昔ある小さなウマ娘としばらく接していましてね。体は強くてもメンタリティは人間と変わらない、今思えば当たり前ですけど、そのことに衝撃を受けまして。そこから、あの、テロとか排斥運動とか見ているうちに彼女たちの生きやすい世界を作れないか、なんて思いましてね」

 

 しばしの沈黙。私の話の内容は良くなかっただろうか。

 

「いや、大それたことを。お恥ずかしい。忘れてください」

 

「いえ、とても良い志だと思います」

 

 沈黙に居た堪れず謝ってしまった私に桐生院トレーナーからの肯定の言葉。随分と真面目な表情をして何か敬意とも取れるような強い眼差しを向けてきた。何か、私の心の底まで見通されているような気がしてどきりとする。いやいや、しかし出会って1日も経っていないのだ。気恥ずかしさを感じつつもありがとうございます、と返す。しばしの間生暖かい目線に晒されたが、また談笑へと戻った。ある小さなウマ娘……ねえ……懐かしいな。

 みなグラスを傾けながらパーティを楽しんでいる。沖野トレーナーは相当にペースが速いが大丈夫だろうか。東条トレーナーもだいぶ強いと見た。沖野トレーナーほどではないが早めのペースなのに顔色があまり変わっていない。他はどうか、と辺りに視野を広げれば、南坂トレーナーもグラスを傾けている。しかし酒ではないな。透明な液体、炭酸水か。

 

「アルコールは苦手ですか」

 

「いえ、ワインは大好きなんですけど……」

 

 私の質問に彼は意味深長な表情を浮かべて僅かに口角を上げ、グラスを少し上げてみせる。

 

「酔ってしまうと仕事(・・)に響きますからね。ところで桐島さんのはワインですか?」

 

 同じような質問が返ってきた。さながら仕返しといったところだろうか。私だってアルコールは嫌いじゃないんだ。飲めるなら飲みたいさ。きっと私はさっきの彼と同じような表情をしていることだろう。

 

「いえ、葡萄ジュースです。理由は同じく」

 

 しばらく暗黒微笑を向けあい、ほとんど同時に噴き出して呵呵と笑う。全く二人とも仕事に囚われてばかりだ。

 突如として謎の笑いをあげる私たちをトレーナーたち一行は不思議そうに見ていた。変な人だと思われていなければいいなあ。

 

 

 

 結局離脱するタイミングを失い、立食パーティの終了時刻までそこに止まっていた。随分と遅い時間になってしまったが、楽しかったのでまあいいだろう。途中から教官グループも話の輪に合流して大人数となり騒ぐ躍る歌う組み合うのカオスになった。私は一歩引いて見ていたが、一発芸をやれと捕まえられてしまって、随分とやっていなかったトランプマジックをやらされたりして大変だった。しかし心の底から笑ったのは久しぶりだ。

 皆職員寮へふらつきながら戻っていった。生徒にはこんな姿見せられないな。皆酔っても学生の愚痴なんぞほとんど口にしないものだから、やはり教育者として素晴らしい人格者なのだろう。ぜひ、今日はゆっくり休んで明日から生徒たちにその愛情をぶつけてほしい。

 かくいう私は執務室にいる。社畜万歳。仕事万歳。昔から悪い癖だと思っているが、もう自分の生活ルーティーンに自身の無理が組み込まれてしまっている以上無理を通すしかない。今日中に仕事の仕分けだけはやっておきたい、優先順位をはっきりさせないと作業が停滞する。

 ペーパーレス化されていない紙束は明日の自分に任せる。さすがに物理媒体のものに手を出すほど精神に余裕がない。デュアルモニタに表示された大量の資料ファイルを相手にドックファイトだ。エンゲージ。マウスに手を置く。

 

 甲高い電子音。卓上の内線電話ではない、音源は胸の携帯。私に直接、しかも内線でなく外部とは珍しい。訝しみつつ名前を見ればちょうど1ヶ月ほど前に会った人間だった。

 

「もしもし、どうした」

 

『夜遅くにすまない、今しか時間がなくてね。一応確認をしようと思って電話をかけさせてもらったよ』

 

「確認……?」

 

『おいおい、まさか忘れてるんじゃあないだろうね。あの官房長官サマ直々のお願い(・・・)を』

 

 パーティの雰囲気に酔って揮発していた意識が、一気に凝集する。冷静になった頭によって掘り返された重要な予定が私の胸に不快な冷感を発生させた。焦りと安心感のないまぜになったため息が漏れる。

 

『マジで忘れてたのか……大丈夫かい?』

 

「───いや、本当にありがとう。忘れてたよ。明後日は学園でお出迎えだな……くそ、文科省の職と情報官の職に加えて財界の重鎮へのサービスとは……私は一体何をしているんだ……」

 

『まあ、仕方ないよ。官房長官サマにはどのみち逆らえないしねえ。とにかく彼女達二人をくれぐれも頼むよ』

 

「……了解……」

 

 後味の悪い余韻を残してビジートーンが耳朶に残る。木製の天板の上に携帯電話を置いた音が嫌に響いた。椅子に強くもたれかかって天を仰ぐ。無理は良くないな……重篤なミスを犯しかねない。よし、寮に帰ろう。目を瞑って帰ってから寝るまでの予定を立てる。シャワー浴びて、予定確認して、ニュース確認して……

 いやしかし、明日はまた早い。もう何かしているような余裕はないな……。出迎えのために早めに起きなければならない。

 これから先の予定を汲み上げていた頭に、突如鈍い痛みと強い眠気が襲ってきた。積もった仕事の疲れだろうことはわかる、パーティも立ちっぱなしだったし。もはや歩いて寮まで帰る気力が湧かない。なんとかアラームを携帯電話にセットし、そのまま意識を手放した。



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INTERLUDE:MIDNIGHT

 昼の喧騒を忘れた廊下を一人歩く。新入生で賑わっていた校舎前の広場は熱気を失って静かな空気を佇ませ、ただ静かに月明かりに照らされていた。偃月の輝きは陽光の暖かさには遠く及ばないが、夜の闇に輝く星々への配慮には満ちている。

 非常口表示の緑色の光と青白い月光のみに照らされた回廊はいつも通っている道だというのに非日常を感じさせる。小さな頃はこういった闇と非日常は恐怖の対象だったはずだが、いつの日か自分の心がそれらに波を起こすことは無くなっていた。

 

 生徒会の書類の受け渡しの約束をしていたけれど、随分と遅くなってしまった。私の予定の中ではそこの窓の向こうに夕陽が見えていたはずなのだが、今見えるのは星空と遠くの街明かりだ。なんとか誤魔化して帰らせたが、エアグルーヴに遅くなってしまったことがバレたらまた小言を言われてしまうな。

 仕方なかった、と自分を納得させつつ今抱えている書類束に視線を落とした。新年度はこういった書類仕事が無限とも思えるような量で現れる。大体のものが生徒が記入し我々生徒会と学園理事会がダブルチェックを通すだけというものだが、こういうことこそペーパーレス化して欲しいものだ。紙ならこうやって運ぶのも一苦労だというのに、データにすれば何万枚だって手提げバックの中のタブレットに入るしどこにでも一瞬で送れるんだが。

 しかしお役所はやはり動きが遅い。これから先の労力を気にするぐらいなら現状維持のほうが楽というのはわからなくもないんだけれどもね。

 そういえば彼もそんなことをメールで嘆いていたな。

 

 手に持った紙束を脇に挟みこみ、手を開けて理事執務室のインターホンを押す。響くドアベル。廊下側の音と、耳が拾うかすかな室内の音が重なって聞こえる。少しの間軽やかな鈴音が再生され、余韻を残して消えていく。確かに呼び鈴は部屋の住人を呼び出したが、ドアの向こう側に動く気配はしない。

 少し躊躇って、もう一度押す。しかし静寂が返ってくるばかりである。窓が風で軋む音が遠くで聞こえた。

 

「ふむ……」

 

 彼ならこの時間でもいつも起きているからいるものだとばかりに考えていたが、もう寮に戻ってしまったのだろうか。だとしたら申し訳ないな、約束を違えたのは私の方だ。今更ながら身勝手な考えだ、妙に彼には甘えてしまっていけない。

 ……よし。部屋に勝手に入るのはあまり誉められたものではないが、仕方ない。明日の午前は予定が入ってしまっている。午後に渡すのはまずいだろうから、部屋に置かせてもらおう。

 

 懐から取り出した生徒会の印入りの学生証をドア横のパネルに近づければ、軽快な電子音とともにガチャリと重めの解錠音が響く。見た目より頑丈な扉がモーターの助けを借りてゆっくりと開く。

 

「失礼するよ」

 

 部屋の主はおそらくいないだろうが、礼儀は必要だ。何も言わずに勝手に入るのは後ろめたさがある。不在時だからこそ妙に罪悪感がある。

 やはりというべきか、アンティーク調の執務机にいつもの人影はない。部屋の電気は点灯していたが、解錠と同時に点灯する仕組みなので彼がいることの証明にはならない。もう少し早く終わらすことができればと、ある種落胆のため息を吐く。いやいや、こういうのはよくないな。

 手に取り直した書類に目を落とし、何枚かめくってみて渡すべきものであることを再確認。クリップで挟み直して入り口近くにある談話用のデスクに置く。

 何も言わずにただ置いていくのもよろしくない。メッセージアプリで一言送ればいいのだろうが、少し捻りたくなった。そうだ、置き手紙を書いておくのはどうだろう。悪くないアイディアだろうと思い立ってバックを開いたが、紙はある。ペンがない。

 焦っているときにはミスが重なるもので、生徒会室に筆箱を置いてきてしまったらしい。雪上加霜、全く今日の私は自分ながら私らしくないな。生徒会室に戻ろうかとも考えたが、そういえばここは執務室だ。彼には悪いが、机にボールペンの一本や二本はあるだろう。少し拝借させていただこう。

 卓上のペン立てにハイブランドと思しき黒い万年筆といくつかのボールペンを見つけ、手に取ろうとしてあることに気づく。二つあるモニターの電源がついている。ログイン画面のパス入力フォームの状態。見てはいけないようなものはなさそうだが、そもそも彼が電源を切り忘れるなんてらしくない。

 何か違和感を感じる。部屋にモニター以外に相違点があるような。少しの警戒とともに部屋を見回すと、壁際のソファーに違和感の正体があった。なんと人が倒れているではないか。脱力した腕が床に触れている。

 突然のことに仰天して喉元まで登ってきた悲鳴を押し殺し、ソファーに駆け寄る。一体どうして彼が倒れてしまっているのか。胸に満ちる冷感。焦りで早る気持ちを抑え、努めて冷静を保つ。手首に指を添わせた。脈は……ある。聞き耳を立てれば聞こえる呼吸音と、規則正しく上下する胸を見るに息吹も正常だ。

 どうやらソファーで寝ているだけのようだった。安堵のため息。緊張で息を止めてしまっていたことに遅ればせながら自覚し、大きく深呼吸する。じわりと滲んだ冷や汗をハンカチで拭った。やっと落ち着いてきた心拍、胸に手を当ててため息をついた。

 

 私が一人で焦って取り乱していても、彼は起きることはなかった。生徒に向ける優しげな表情と少し疲れた表情しか学園ではなかなか見ることができなかったが、そのどれとも違う安らかな表情をして静かな寝息を立てている。どうやら夢を見ているようで、時折何かをうわ言のように呟いている。

 どんな夢を見ているんだろうか。誰かに話しかけていたり、ただ独り言のようなことを呟いたりしている。しばらくして夢がクライマックスにでも入ったのか、顔色がコロコロと変わり始める。まるで百面相だ。

 

「君……その書類を下げなさい……私に……抵抗の意思はない……ぐあ……」

 

 一体どんな夢なんだろう……夢の中でも仕事をしているのだろうか、最近は行事も忙しくて休んでいるところを見たことがない。眠っている時ぐらいは休んで欲しいものだね。

 ソファーの隅に端正に畳んであったブランケットを広げて彼に被せる。少し顔色を変化させたが、寝言が途切れて静かになった。気にいってもらえたらしい。

 相変わらず外は静かで、冷たい色の星々が瞬く。少しだけ角度を変えた月だけが黙して時間の経過を表していた。動的な物の少ない無機的な外景は私の心に凪をもたらしてくれる。

 ぼうっと何を考えるでもなく窓に意識を向けていると再び肌寒さを感じた。夜の寒さが噛み付く二の腕をさする。空調機を見上げれば、それが仕事を放棄していることに気づいた。ブランケット程度では風邪をひいてしまうかもしれない。暖房で付け直さないと。操作パネルはどこだったか。

 

「君は……私が守る……」

 

 ハッとして振り返る。

 彼は目を瞑っていて、目を覚ました様子はない。変わらず寝たまま。思わず向けた耳でも拾えるのは彼の寝息だけ。

 

───君は、私が守ります───

 

 過去。不可逆の時間の流れの中、私の後ろに連なるもの。その一節を思い出す。深い眠りに入ったらしい彼の穏やかな顔を見て、笑みが漏れた。

 

「ふふ、君は…覚えているのかな」

 

 取り出した学生証ホルダの内側にある蹄鉄を模した紋様の刻まれた御守。鉄製のそれには穴が開いている。部屋の照明と月明かりを受けて輝くそれを見つめる。

 

「君が救ってくれたウマ娘は幸せに生きているよ」



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厳重ッ!トレセン学園地下

 暖かい。

 心地の良いまどろみの中、ふと感じた温度。途端、現の世界へと急激に意識が浮上する。薄光がまぶた越しに私の網膜を刺激した。ゆっくりと目を開ける。まだ現を認識できない瞳に変わって聴覚が意識に囁く。自分が立てる衣擦れの音と空調の機械音、温風に揺れるカーテンが窓に擦れる僅かな音。窓越しにくぐもって聞こえる朝を知らせる小鳥の囀り。

 やっと夢に諦めのついた目が光を写す。カーテン越しに輝く朝日が見遣った窓から容赦なく目を灼いた。残像の残る目で薄暗い部屋を見回し、今自分がいる場所を理解した。目の奥に鈍痛を覚え、顔を手で押さえる。

 どうやら寮で仕事中に寝落ちするどころか執務室で寝てしまったらしい。ソファが高級品でなかったら今頃腰を痛めてしまっていたことだろう。自己管理ができないにも程がある。社会人としてどうなんだ。全く、最近は生活のリズムが崩れてしまっていけないな。

 被っていた薄めのブランケットをどかして起き上がり、天井に向かって腕を伸ばして大きく背を伸ばした。小気味のいい音が背後から響く。大きなあくびを一つ、何回か瞬きをしてまだ瞼を下ろそうとする睡魔の残滓を散らす。とりあえず仕事の進捗と、新しい仕事を確認しようと執務机に歩み出したところで目の端に談話用のデスクに昨日の夜には無かったものを捉える。

 大きめのクリップで留められた書類の束。はて、知らない書類だ。寝ぼけながら作業でもしたのだろうか、だとするとミスが心配だな。少し休憩しようとソファに横になってからの記憶がない。

 端正に整えてクリップで束ねられた書類の一番上に折り畳まれたルーズリーフが挟まっていた。生協ショップの文字が端にある、学園推奨のものだ。ということは生徒のものか。書類がバラバラにならないよう注意を払いながらそれを抜き取る。

 律儀に角を合わせて綺麗に折り畳まれていたものを開くと中に文章が綴られている。短い文だったが、それを読んだ瞬間全てを理解した。

 

 なんてことだ……あろうことか、私は彼女との約束をすっぽかしてはるばる夢の世界へと旅立っていたというわけだ。自分で掛けた覚えのないブランケットもシンボリルドルフが掛けてくれたということか……気を使わせてしまったようだ。気配り上手な彼女らしいといえばそうなのだが、申し訳なさが込み上げてくる。

 喉の奥がむずむずする。何もいえない。なんとも気恥ずかしい。

 とりあえず、謝罪と礼をしなければなるまい。落ち着かぬ気持ちのまま急いでスマートフォンのメッセージアプリを立ち上げて少し悩みつつ文を組み立てる。

 

『書類確認しました。昨日はすみません。約束のことをすっかり忘れて寝入ってしまっていました』

 

 緑色の吹き出しが卒業証書入れの蓋を勢いよく開けた時のような音と共にトークルームに現れる。疲れの滲むため息を一つ、アプリをタスクキルしようとして吹き出しの送信時刻の上に小さな文字が現れた。『既読』窓から見える朝日で既に明らかであるのだが、思わず時計を確認する。針の示す時刻は午前5時。やはり早朝も早朝である。思わず変な声が出た。今日は休日で休校とはいえ相当に早い時刻。弊学の生徒会長サマは一体ご就寝なされているんだ……?お身体を大事になさってください……

 

『私も謝らなければいけない。約束の時間を大幅にずれてしまったからね。大同小異、お互い様ということにしてくれないかな。しかし、君は夢の中でも仕事をしていたのかい?なかなか愉快な寝言だったよ』

 

 ヒュ、という風切り音の発生源は私の喉か。

 ソファーで爆睡するという醜態を晒しておきながら寝言まで聞かれているとは……まずいな……変なこと言ってないだろうな……。運動等で起こるものとは明らかに違う心拍上昇。背中に嫌な汗が流れるのを感じる。約束を反故にするだけでもアレなのに……もう恥、とにかく恥でしかない。

 

『すみません。埋め合わせになんでもするので忘れてください』

 

 ポップした緑色の吹き出し。既読は送った瞬間からついていたが、今回は返信がなかなかこない。この会話の流れで何か失敗したか……?

 

『ほう、なんでも。昨日の記憶は無かったことにしよう。内容にについてはまた』

 

 しばらく時が空いて白色の吹き出しが現れ、間髪入れずに「布団が吹っ飛んだ!!」と妙に躍動感のある迫真の文字と布団が乱舞するスタンプが送られてきて会話がひと段落し、時間も時間であるのでそこで問答が終わった。先ほどのものとは比べ物にならないほど巨大な空気の塊を吐き出す。ため息をつく対象については色々あるが、この場合彼女に対してではない。自分に対してだ。

 こうやってやりとりするたびに思うのだが、シンボリルドルフとの会話はこう、年上と話しているような感覚になる。文科省時代の打ち合わせメールはさらに大人びていた。私が彼女とのやりとりを学園職員と連絡していると全く疑いも持てずにやりとりしていたのを誰も責められまい。大人と言っても随分と年齢が上の方だと思っていたぐらいなのだから。しかしあの妙に老成した物腰はどう身に付けたのだろうか……

 午前5時半に近い時刻を示すデジタル表示を確認して携帯をスリープにし、全くいつも通りに内ポケットにしまおうと腕を運んで指を離した。ポケットに収まるはずの薄い電子端末は私の胸を滑り、柔らかいカーペットの上で鈍い音と共に跳ね、執務机のほうに滑っていった。

 何が起きたのか訳がわからずしばらく呆然としていたが、冷静になって自分の体を見下ろしてみればジャケットを着ていなかったことに気づいた。

 自分ではわからないものだが、どうやらかなり気が動転しているらしい。

 拾い上げた携帯の埃を払って落とし、電源を入れてみてモニターが割れてないことを確認する。とりあえず一安心だ。

 

「春の大きな行事がやっと終わったというのに…」

 

 思わず、といった独り言。桜も緑の色が強まり、春の陽気は次第に強まる。桜と朗らかな陽気を楽しむ時間は仕事によって塗りつぶされてしまっていたが、就任式から始まり、入学式、始業式と春の巨大行事はすでに終わった。当たり前ながら行事が終われば新しい行事に向けての準備が始まる。しかしまだ余裕はある、そう考えていた。

 が、待っていたのは全生徒の情報照合と新人トレーナーと新人教官の配属決定。タキオンの実験失敗を潜り抜け、例の令嬢二人組の保護者からかけられる強大な圧に耐えている矢先である。度重なる理不尽をメンタルパワーで凌いでいる矢先にこれである。なんで私が?と考えてしまったことを許してほしい。特に生徒関係。それ理事の仕事なんですね、という意外性しかない。

 それとなく総務の人間に聞いてみれば、覇気のない顔で目だけ煌々と輝かせながら「春は地獄です」というなんとも簡素な返答。なるほど、地獄をお前も背負えということだな。言いたいことがないわけでもないが、情報システム部の人間が廊下に倒れているのを見た上で断ることなどできはしなかった。命を削ってという言葉がそのままの意味で使われているすごい職場だ。

 システムエラーで学務情報システムがダウンした時の阿鼻叫喚の地獄絵図は忘れられない。人間は疲れの限界を突破すると笑いが止まらなくなるらしい。アレ(・・)と比べれば書類と事務に埋もれていた方がマシというものだ。せめてもの弔いとして一段落したら差し入れを持って行こう。

 上に人員派遣の交渉もしてみるべきだろうな。流石に仕事量と人がこなせる量の乖離が激しい。理事長もこれには随分と悩んでいるはずだが、ここで働けるような超一級の人間なんてそういまい。理想が高すぎる、というのは思わなくもないがそれがこの学園を成り立たせているのだから難しいところだ。文科省職員を少し引っ張れれば、少しは変わるだろうか。優秀なやつを何人か知っているのだが、引き抜いたらその部署に恨まれるな……

 それはそれとして、私は職員名簿も生徒名簿と同じように覚えなければならない。そしてそしてここに新入生の登場だ。まったく……骨の折れる話だ。やっと生徒の名前をなんとか言えるようになってきたというのに。そんな私とは違ってこの学園の職員の皆さんは当たり前のように全員の顔と名前がわかるらしい。一事務員からスペックが高すぎる。

 今更だが、休校日であろうが忙しい時期に休みなどない。それがここでの法。

 先が思いやられるが、ここはあるウマ娘が教えてくれた魔法の言葉でやる気を出すとしよう。

 

「えい、えい、むん……! だったか?恥ずかしいな、これ」

 

 私にはまだ早いようだ。まあ、頑張ろう。

 

 

 

 キラキラとした眼差しの顔写真がプリントされた新入生の学生証に理事承認の割印を押していく。レーザーの刻印音と少しの焦げる匂い。しばらく同じ作業を続けているというのに、未だ減っているように見えない段ボールに入った大量の学生証。代わりに私の精神がすり減っていく。

 駿川さんがいるとはいえ、トレセン学園理事長とURA理事を兼任して、これまで全ての業務を回し続けていた秋川さんには驚きと称賛しかない。公には知られていないあの人がウマ娘であり地力が違うという前提を差し置いても全く驚くべきことだ。とても生物的な限界の範疇に収まっているとは思えない。並の熱意ではここまで無茶な運営はできないだろう。学園代表として、校訓を背負うものとして、やはり覚悟も熱意もこの学園で頂点の人間であることは疑う余地もない。

 私が大部分の業務引き継ぎを行って数日後、やはり限界だったようで体調を崩されて今は休んでいる。執務室に倒れていたらしく、ストレッチャーで運ばれている場面ですれ違った。幸い大事にはならなかったが、限界の線で綱渡りをするような執務はこれから控えて欲しいものだ。してストレッチャーの上からおそらく私に向けられたサムズアップに応えねばな。

 

 壁際に設置した私物の大型スピーカーから流れるピアノクラシックの調べで精神を回復しつつ作業を続ける。当たり前であるが学生証の顔写真、名前は見ず知らずの新入生。モニタと見比べながら確認しつつの作業なので大変時間がかかる。学籍番号、顔写真、バーコード照合、ICチップ確認、ただでさえ作業が多いのだ。マルチチェックにしてもハードウェアの面は何も私がやる必要はないだろうに。いや、他の人間に余裕がないんだった。

 2枚重ねて学生証を新しく取り、デュアルモニタのそれぞれの表示を次の生徒へ。IDと名前、戸籍などの個人情報が学務サーバーを参照して表示される。現れた名前と顔写真に見覚えがあった。

 

 エンタメ業界のドンの娘キタサンブラックと日本を代表するグループ企業社長の令嬢サトノダイヤモンド。中央トレセン学園生徒にはどこそこの令嬢だとか、何々家の長女だとか、そういった後ろに分厚いウマ娘が多い傾向があるのだが、それにしても肩書きが成層圏を超えて宇宙までトんでいる二人。幼馴染で親交が深いらしく、トレセン学園に入学したことをオーバーリアクションと感じるくらい喜び合っていた。システムの処理順でつけられるランダムな学籍番号でも隣同士とは、仲がいいというか運命的な何かを感じさせる。

 先日の入学式は諸々終わった後に憧れの誰それに会わせて欲しいとせがまれて大変だった。ぶかぶかの制服に着ると言うより着られ、大きなブートニアを揺らしながら駄々をこねるように要求を通そうとする姿は、大人びて見えても年相応であった。

 その時寮に連絡を通してみたのだがなんと双方不在。当日は在校生は休日、おそらくチームメンバーと遊びに行ってでもいたのだろう。次の日には始業式があるから会えると説明したのだが、落ち込み方は相当なもので宥めるのに本当に苦労した。彼女らに非は全く、毛ほども、微塵もないのだが、少しこの苦労を共有したくなったりする。

 始業式後に“憧れの誰それ”の本人たち、メジロマックイーンとトウカイテイオーになんとか頼み込んで二人に会ってもらった。

 それはもう、これから学生生活が始まるというのに今が人生の絶頂かとでもいうかのようなすごい喜び方で、一度始まったトークは終わりを知らずに膨れ上がり続けた。そのままお茶会がどうこうという話になったことまではわかるのだが、とんでもない量の茶菓子と何やらすごい大きさのティーセットをどこからともなく現れた黒服が持ってきた時は怒涛の展開に理解が追いつかず困惑した。始業式終わりで賑わうカフェテリアでは厳しいだろうし、来賓用の応接室を生徒に使わせるわけにもいかない。仕方なく私の執務室を使っても構わないと伝えたら理事執務室がお嬢様達の茶会会場と化し、そのまま夜が更けても彼女達は執務室で話し続けていた。自分の部屋だというのにこんなにキラキラされては眩しすぎて落ち着かない。私がいても邪魔だろうと部屋を明け渡そうとしたら、ご一緒にどうぞ、と。女子生徒4人の和気藹々とした空気に私が加わることができるはずもなく、黒服さんと彼女らに淹れてもらった紅茶を飲んでいた。スーツを完璧に着こなし、パリッとした身だしなみとは対照的に疲れた瞳を浮かべる神谷と名乗る男にシンパシーを感じざるを得なかった。男二人がニヒルな笑みを浮かべながらティーカップを手に握手をする姿はさぞ不気味に見えただろう。

 なんとか仕事を盾に回避しようとしたが結局話の輪に無理やり引き込まれたのは言うまでもない。トウカイテイオーとキタサンブラックの押しの強さには恐れ入った。無駄に洗練された駄々っ子ムーヴに負けてしまった。私は甘すぎるのだろうか。

 

 その後も度々人数を増減させつつ友人と共に彼女二人はこの部屋に来ていた。トウカイテイオーとメジロマックイーンは準レギュラー枠らしい。ここは理事執務室であって応接室でも娯楽室でもないのだが……彼女らが楽しそうならもういいか。友人枠で沖野トレーナーが連れて来られた時は流石に驚いたが。あ、どうも、じゃあないんですよ沖野さん。

 そういえばチームスピカへの加入を彼女たち二人とも希望しているんだったな……見学と体験トレーニング期間を経てになるだろうが、随分と行動が早い。

 最近は仕事が忙しいのでしばらくは無理との旨を伝えてある故来ないが、残念そうな顔をされるぐらいには信頼されていると考えていいのだろうか。お嬢様の思考回路というものはわからない。まだ子供だし、深く考えずとも単純に使える部屋がないことを残念がっているのかもしれない。

 

 二人の学生証に割印を刻印して、ホルダに丁寧に差し込んでから角を合わせて段ボールにしまいなおす。クラス番号が印刷された段ボールはこのままクラスに運ばれてそれぞれ中身が配られ、そこで既に配られていた仮学生証と交換になる。

 さてさて、締切までにそこまで時間はない。続けていかなければと次の学生証に手を伸ばす。

 

Prrrrrrrrrrrrrrr

 卓上の内線電話が鳴った。学生証の入った段ボールに手を伸ばして前傾姿勢になった耳元で突然鳴り出すものだからびっくりして椅子ごと後ろにひっくり返りそうになった。脈が早まる。まったく、心臓に悪い……

 私に内線をかけてくるなら総務か教務か。一体どうしたことだろう、特に連絡を受けるような事柄は記憶にないのだが。若干訝しみながら受話器をとる。

 

「もしもし、第一理事執務室、桐島ですが。どうされましたか」

 

『──やあ。アグネスタキオンだ』

 

 予想の外、全く予想外の相手だった。もう悪い予感がする。いや、しかし彼女が直接電話か。受話器を置きたくなる衝動に耐え、続きを待つ。

 

『頼みたいことがあってね』

 

 やはりまともな内容ではなさそうだ。

 

「モルモットになるという依頼は受けませんし、被験者集めもしませんよ」

 

『随分じゃないか……傷つくなあ』

 

 わざとらしくよよよ、なんて聞こえてきた。全くこの娘は本当に……

 

「はあ……要件はなんですか。一応執務中なのですが」

 

『なんだいなんだい、ただの冗談じゃないか。まあいい、地下の試料庫に行きたくてね。前の担当者は怪我で退職してしまったから、君に頼めば良いと聞いていたのだが……』

 

「ああ、試料庫ですね。私が引き継ぎ担当で合っていますよ。いつ行きましょうか。物を取りに行くだけなら私一人で行きましょうか? 地下はあまり良い場所とは言えませんので」

 

『いや、私も行く。自分の目で見るのがいいんだ。小さなことから新しい発想が得られるかもしれない。いつか、についてはできるなら今行きたい』

 

「わかりました。……え?今ですか?」

 

『思いつきは早めに形にしておきたいのだよ。じゃあ、玄関ホールで待っているよ』

 

 ブツッと大きな音がして電話が切れた。こちらの都合の話を差し込む隙を与えぬスピード。さすがウマ娘、巷の言い方をするならばさすウマといったところか。多分関係ないだろうが。現実逃避をしている場合ではない。この学園に来てから何回目ともしれぬ大きなため息をついて大変に重い腰を持ち上げる。連日の書類仕事でうまく動かない腕をなんとか動かしてラックからジャケットを下ろした。

 さて、彼女が待っているのは玄関ホールだったかな。

 

 

 

 

 

「おや、やっと来たかい。もっと早くしたまえ。待ちくたびれてしまったよ。女性を待たせるのは良くないなあ」

 

 玄関ホールで顔を合わせた彼女は私を見るなり不満というものを全身で体現しつつ、随分と大きい白衣の余った袖をくるくると回した。

 

「早いですね…だいぶ急足できたのですが。もしかして図書室の内線を使いましたか」

 

「その通り。名推理だよ、探偵にでもなれるんじゃないかい?」

 

 いつもの調子で中身のあまりない言葉の応酬に頭を痛める。面白がられているというかなんというか。世間一般の人間にこの人物の話の流れに追随するというのはかなり無理筋な話にすら思える。

 

「まあ、うん。とりあえずエレベーターに向かいましょう」

 

「ククッ、やはり君と話していると愉快でいい」

 

 白衣の袖を回す速度をさらに速めつつ悪趣味な笑みを浮かべるアグネスタキオンを尻目にエレベーターに向かう。このノリに付き合い続けていると話が進まなくなってしまう。余裕があれば付き合うのもやぶさかではないが、流石に今は忙しさが極まっている。

 乗り込んだ籠の中で階数表示がされているタッチパネルに職員証を近づければ、小さな電子音とともにB1の表示が現れる。私が伸ばした手が押すより早く後ろに回り込んだアグネスタキオンが押した。彼女がニンマリと笑みを浮かべる。一体何が面白いんだか。

 ゆっくりと扉が閉まり、緩やかな加速度を感じつつ地下へ。ほんの少しの時間の後エレベーターチャイムと共に扉が開いた。

 真っ暗な廊下。暗闇に一歩踏み出すと人感センサーによってLED電灯が灯る。手前から廊下の奥の方に向かって光が闇を削っていく。リノリウムの床に光が乱反射して眩しい。光度は明らかに十分であるが、地下特有の重い空気が仄暗いような錯覚を引き起こす。湿気も溜まっていてるのか空気に粘度を感じる。どうにも気持ちが悪いので空調システムのスイッチを入れた。強制換気ファンが唸りをあげ、澱んだ空気を押し流し始める。

 

「久しぶりだねえ。3ヶ月ぶりかな」

 

 タキオンの声が廊下に繰り返し反響する。重い空気と閉鎖的な環境も相待ってホラー映画にでも出てきそうな雰囲気だ。照明がチカチカと点滅する。

 ほとんど人が立ち入らず空気の巡回も手動というまさに開かずの間と言える地下空間であるが、意外なことに床に埃の類は見られない。清掃ロボットが定期巡回していると聞いている。地下設備の保守に人間の手は関わる必要がないようになっているらしい。

 リノリウムの床に靴底が滑る音を聞きながら廊下を歩く。私より軽い音が少し後ろに続いている。電算室と銘打たれたいくつかの機密扉の前を通り過ぎ、さらに奥へ。

 

「ああ、そうだ。今度実験のシュミレーションに演算機を使いたい。電算室をどれか押さえることは可能かい?」

 

「ん、電算室ですか。そうですね……しばらくは新人研修が主になるので、トレーナーたちも使うことは少ないでしょう。使用したい日時の予定を教えてくれれば部屋までパスを繋いでおきます」

 

「そうか! うんうん、これで研究がスムーズに行える。感謝するよ」

 

 数回言葉を交わしつつ先に進むこと数十歩、使用頻度の低い物品用の収められた倉庫や閉架書庫を通り過ぎた先にさらに扉が現れる。これまでとは明らかに雰囲気の違う扉。鈍い輝きを放つ見るからに重い金属の扉から巨大なシャフトが壁に何本か突き刺さっている。まるで巨大な金庫のようだ。

 職員証を壁のパネルにかざし、今日発行された8桁のパスワードを入力する。パス照合の通信が幾度か行われ、重厚な鍵の音と共にゆっくりと扉が自動で開いてゆく。

 開ききった扉の枠を超え、廊下の続きに踏み込んで最初に感じたのは違和感だった。

 何かがおかしい。漠然とした不安。視野を広げてぼんやりと廊下を見た時、違和感の正体を天井に発見した。樹脂格子の奥でファンが動いている。明らかに動力を受けて継続的な回転をしている。

 空調システムが既についている。これまでの通路と電気系統が分離しているはず(・・・・・・・・)の、だ。これは絶対的におかしい。

 

「アグネスタキオンさん、ここへきてこの扉を通ったのは前任の人と来た3ヶ月前が最後なんですよね」

 

「ん? そうだが……それがどうかしたのかい?」

 

「彼は空調を切っていましたか」

 

「ふぅム……常にタブレットを眺めながら指差し確認してるような人間だったから、消し忘れはないと思うけどね」

 

 ならば、おかしい。そう、おかしいのだ。全てが手続き通り、マニュアル通りに動いているのなら起こり得ないことだ。

 この扉の先は危険薬品や劇薬、学園にとって重要な機密書類等の保管場所、一部の上位権限者しか入室不可能な場所。

 

───というのが建前。

 

 その実は、アグネスタキオンという神童の実験及び研究による産物の一時保管そして保護をするための場所。わざわざ学校地下施設を拡張工事してまで建設された特別区画だ。学園理事すら入れないし、そもそもなんのための場所かすら開示されていない。

 アグネスタキオン、学園では奇人・変人で通っているが、この国にとって数少ない重要な人物の一人。現行科学の数十年先を行く天才的頭脳を持つ彼女の生み出すものは、ほとんどが我が国の国家機密として指定される。まさに生ける国益。

 彼女のひらめきから生み出されるものはどの国も喉から手が出るほど欲しいものばかりだ。

 それ単体で核兵器に対する抑止力となりうるほどに。

 

 例えばカーボンナノチューブの画期的な合成法。

 例えば革新的な量子コンピューター用アルゴリズム。

 例えば汎用的な燃料生成バクテリアの開発。

 

 それらを秘匿し、管理、応用して外交カードとすることで、この不安定な国際情勢の中でも日本という小さな島国は確固たる立場を確保していた。

 

 

 この扉を開けるには特定の職員証、パスワードに加え、壁に隠されたカメラによる顔認証が必要。それ以前に学園側のセキュリティもある。

 そう、この学園内にこの扉を開けられる人間は一人しか存在しない、それが私だ。だが、私のつけた覚えのない空調が今、作動している。認めたくないし、全くもってあってはならないことなのだが……それの意味するところは一つ、外部の何者かが侵入したことに他ならない。

 どうやってか、その方法を今問題にしている場合ではない。

 まずい、不味すぎる……早急に対応しなければ。

 1ヶ月前の情報漏洩疑惑からまったくもってなんの音沙汰もなく拍子抜けしていたが、まさかこんなことが起こってしまうとは。油断していたわけではないが私の落ち度だろう。

 腰の特殊警棒を触って確かめるが、もし中にまだ侵入者がいるとして、それと戦うならあまりにも賭けだろう。相手が丸腰でここに侵入してきていると考えるのはあまりにも甘い考えと言わざるを得ないだろう。

 こんなことならあいつにもらった拳銃を持ってくるんだった。考えすぎだとかもう考えていられない、やはり警戒しておくべきだったんだ。

 

 くそ、こういう時こそ冷静にならなければ……

 今中に突入するのはあまりにリスキー、ともなればやるべきことは決まっている。即座に照明と空調を消し、ドアの閉鎖ボタンを押し込む。内側から開けられないようにロックモードを変更。ギアとホイールの駆動音が響き、巨大なドアが再び通路を分断した。

 

「タキオンさん。すみません、急用ができました。上に戻りましょう」

 

「あ、ああ。わかったが……一体どうしたというんだ、後で説明してくれるかい……?」

 

「可能ならそうします」

 

───────────────────────────────────

 

 曇天覆う暗い深夜、月光すら届かない闇の広がる学園。

 昼間の住民たちが寝静まった後でSAT(警察特殊急襲部隊)が地下通路の捜索を行ったが、空調を作動させたはずの人間は見つからなかった。空調以外の痕跡は一切なかったそうだ。

 空調を消し忘れるとは間抜けとしか言いようがないが、防衛線をいつの間にか越えられていた我々はそれを超える間抜けだ。大失態としか言いようがない。

 

 

 首相官邸の一室。明かりのついていない部屋の長机に一人の人影が腰掛けている。そこへ一人新しく男がが入ってきた。

 

「やあ、待たせたね」

 

「状況は」

 

 若干の焦りを感じさせる声で短く説明を求める。それにもう一人は少し驚いたように肩を揺らした後、質問を投げてきた男の肩を数回叩いてあえてゆっくりと口を動かす。

 

「試料室に保管されてた実験データにはさしたるものはなかったはずだよ。まあタキオンの名が知れた可能性は排除できないけどね。ログについてだけど、監視カメラ系は全部ダメだった。データが残ってない。でも空調の稼働ログはあった。3ヶ月前に稼働して止まってる。残念だけどつきっぱなしの線は消えたわけだね」

 

「侵入は確実か……」

 

 焦りの感情が少しだけ薄れた代わりに、後悔と悲壮が色濃く滲んだ声を漏らす。

 

「そうだね。誰の職員証が使われたのか、その時のパスワードはなんだったのか、そういった情報が何もないんだ。綺麗にね(・・・・)。大事なデータをそう易々と外部から消せるほどうちのセキュリティは柔じゃないはずなんだけどね」

 

「……まさか」

 

 含みのある物言いに何かを感じ取ったらしい。

 

「ああ、その線の可能性もある。これは上にはまだ話していない」

 

「斉藤。君は信頼してもいいよな」

 

「おいおい。桐島。長年の付き合いじゃないか」

 

 二人は口角をあげ、肩を叩き合う。一人は任せておけとばかりに明るく、もう一人はすまないとでも言いたげに眉を下げて。

 

「学園の方は頼む、彼女に降りかかる火の粉は君が払うんだ」

 

「……ああ、わかっている」



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安穏ッ!曇天なれど視界良し

悩んだんですが、大幅に内容を変更することにしました。



 地下施設で起こったかの事件から、しばしの時が流れた。窓の外に見える日の光は暖かで、春と冬の境から冬の色がだんだんと薄れてゆくのを感じることができる。行き交う人の流れはいつもと変わらず、にこやかに談笑する生徒たちに翳りを見出すことはできない。全く平常通り、日の常が流れていく。

 かくいう私は日常のラインを逸脱した人間であるので、不穏を直視せねばならない。この件、核心に迫るような情報や重篤な研究成果の漏洩はなかったとはいえ、ここトレセン学園地下の学園関係者すら知らない秘密を知られ、またそれによってアグネスタキオンが危険に晒される可能性がある以上気が気ではなかったのだが、全球衛星通信監視システム(日本版エシュロン)に今のところそれらしい情報はキャッチされていない。つまりは世界的に電波通信でアグネスタキオンについてを含め地下にあった重要物についての情報がやりとりされている様子がない。

 あまり気分のいいものではないがますます同僚(斉藤)の考えに現実味が出てきた。1ヶ月前の情報漏洩事件などまだ気がかりな事案はある、しかしまずは最悪の事態は避けられたと思いたい。

 

 斉藤が助言でもしたのだろう、トレセン学園には近辺での不審者情報を名目として警察官が常駐することとなった。学園の警備課と協力して学園内の警戒にあたる。不審者情報を名目に、とはいうがその不審者は実在しない。完全にこちらの都合だが、一応架空のスケープゴートを用意した。

 多少どころかかなり強引になってしまったが仕方ないだろう。情報は集まりつつあるが未だ確定情報たるものは存在していない故、先手を打って防備を固めていくことは少なくとも悪いことではないはずだと思いたい。

 もっと短絡的にタキオンを政府施設に保護しよう、という話もあったがこの学園に居たいという彼女の意思のことも考えなければならないし、何より今の移動は逆に危険だろう。木を隠すなら森の中、ともいう。わざわざ動かして不自然にするより学園の防備を固める方が良いという判断だ。

 

 派遣された警官たちはトレセン学園という特殊な環境も考慮してほとんどがウマ娘の方々だ。私がそう交渉した。上司の協力もあってスムーズに行えたのは非常に良かった。役所は政治家以外への配慮となると途端判断が遅くなっていけない。

 日常に入り込む非日常。しかも警官ともなれば生徒たちにとって圧力となることは避けられず、学校生活に大きく影響が出ることを学園理事として心配していたが、警官たちは生徒たちとの良好な関係を築いてくれているようで安心した。外を歩いていれば警官を交えて生徒や教師などが時折ベンチや外廊下だとかで談笑しているのを見かける。そこまでしっかりと調査を行ったわけでもないのだが、これならば生徒たちに安心感を与え、良好な学園運営に寄与してくれることだろう。

 どれだけの間続くかは分からないが、ひとまずの平和を確保できたのではないだろうか。

 

 平和。

 

 平和なのはいいのだが……。

 

 

「ねえ、マックイーン……わかんないよぉ……」

 

「ふぅ……もう、またですの?少しは自分で調べてくださいまし!」

 

「うぅ……だってさぁ、ほらぁ! ここ、教科書の端に書いてあることまで問題になってるんだよお。こんなイジワルなの覚えてられないよお!」

 

「あなたが学期始めの確認テストの勉強を一緒にしようというから、わざわざ書店で問題集まで一緒に購入しましたのに……もう少ししっかりしてくださらないと困りますわ……」

 

「もうヤダー!」

 

 勉強をしている様子を眺めていたが、果実ジュース飲んだり、問題集を開いたり閉じたりとトウカイテイオーの集中がだんだんとすり減っていく様子が手に取るようにわかっていた。ついに限界が来たようだ。彼女は活発な娘なので、やはり椅子に座ってじっと勉強するのが性に合わないのだろう。もう限界、勉強なんてしたくないとブツブツ呟きながらタブレットを投げ出して机に突っ伏してしまった。横にいるメジロマックイーンが大きなため息を吐いて頭を振った。

 メジロとシンボリ、直系と傍系の違いはあれど、どちらも名家の血筋であるのに面白いぐらい性格に差異がある。ステレオタイプが最適解なんてことは微塵も思っていないが、それにしてもトウカイテイオーは家の重さに対して自由な子だ。

 ぐずるトウカイテイオーと呆れながら再開を諭すメジロマックイーンから一旦視線を部屋の反対側に動かせば、キタサンブラックとサトノダイヤモンドが黙々と勉学に励む姿が。時折どちらかが片方に話しかけてはなにか解決したのか頷いて机のノートに戻る。

 勉学に勤しむ学生たちを見て自然と表情が笑みの形になる。思い返せば私にもこんな時期があったなあ。戻りたいとは思わないが、懐かしい。

 

 ところでなぜ私が、学生が勉強している部屋で仕事を行っているのか。私が自習室で理事執務を行っている、という気狂奇行を行っているわけでは断じてない。彼女らが私の部屋で勉強会を行なっているのだ。しっかりそのために用意された空き教室を使った自習用の部屋ではなく、私の部屋をセレクトしたらしい。お茶会の延長線上での勉強会ということだろう。意気揚々と始めたはいいが、トウカイテイオーなんて開始30分も立たずに先輩の仮面が剥がれている。確かに「わかんない」なんて他の生徒が静かに机に向かう自習室で叫ぶのは難しいだろうな。

 それにしても、森閑としていたはずの理事執務室がこうも賑やかになるなんて想像もしていなかった。ここに居て普段聞こえるのはせいぜい私の立てるキーボードのタイプ音と書類を捲る音ぐらいだったものだ。それが今や生徒四人から始まったコミュニティの集会所と化している。まあ、警戒されて敬遠されるよりこちらの方が親しみを持ってくれて良い状況なのは間違いない。

 この四人のおかげで、ある程度の生徒は私と親しく接してくれるようになった。ある程度気さくに接してくれる子たちが生徒会の面々つながりと加えてかなりの人数になってきた。このことについてはとにかく感謝している。摩擦があって人間関係にいいことなんて存在しないのが世の常だ。

 今度何か返礼を考えておこう。

 ふと思い出したが、返礼と言えば、シンボリルドルフに約束を忘れた謝罪として話した『なんでも』についての話がまだない。そんなに真剣に考えるほどのものだろうか……私は随分と軽い気持ちでなんでもという言葉を使ったのだが、もしかするととんでもないことを言われてしまったりするのだろうか。流石に学園をやめろとかそういったことは聞けない。いや、そんなことを彼女が言うわけもないか。

 

 彼女らから離れた部屋の片隅で、サトノ家執事の神谷さんが椅子に落ち着いてなにやら手記を読んでいる。ペラペラと捲る紙は少し黄ばんでいて、製本されてからの年月の隔たりを感じる。

 ああ、そういえば少し前に夜遅くカフェテリアが閉まっていた時に偶然校門で会って一緒に食事に行った時に教えてくれたな。サトノ家執事心得だったか。確か500巻を超えるらしい。若い頃から読んでいると話していた。おそらく何度も読み直しているのだろう。理想の執事へとなるために。まさに果てしないとしか形容できない。遠い道のりの途中、目の下の隈が彼の苦労を物語っている。そういった努力が伝わったのかサトノダイヤモンドには父親のように慕われている。わがままには毎度大変そうにしているけれども。

 こうやってここにきているのも実は彼女のお願いだったりする。お茶会セットだとか、そういったものを運ぶのにいちいち許可をとっているのが大変そうだったので私の権限で許可証と非常勤アドバイザの役職を取り付けた。ウマ娘お嬢様の担当なだけあって中央トレーナーに引けを取らないほどトレーニングに詳しい。最近は普通に運動場で相談に乗ったりしているのを見る。形だけの職のつもりだったのに本当に真面目な人だ。普通に給与をつけることになった。家に怒られるのではと聞いたのだが、許可が出たらしい。家からの信頼も厚いようだ。

 

 静かに読書に耽る年上の新しい友人に幸あらんことを願い、私は自身の仕事に戻る。淹れてから随分と時間が経ってしまってだいぶ冷えたコーヒーを啜って散った集中力を練り直そうとしたが、いや、しかし安物のインスタントはお世辞にもあまりおいしいと言えないな。マンハッタンカフェにおすすめされたコーヒーメーカーを検討するのも手か。少し値が張るが、金を使う場所が今のところないしな。

 目下処理中の仕事は経理部提出の会計案の確認と新人トレーナー・教官の研修振り分けに関する資料作成である。量と人数は学生証に比べるまでも無いが、内容が濃いために終わる気配がない。

 新人新人と学園職員新人の私がいうのもどこか奇怪ではあるが、執り行っている理事職務は文科省での書類仕事をはじめとした諸業務に似ているところが多く、正直新しさを環境以外に感じない。そもそもすぐに使えない全くの素人人材を理事職にいきなり置くことを良しとする秋川理事長ではあるまい。私を抜きにして既に上と色々話していたのだろう。似ていると言うだけでどれも初めてなのだ。急ぎではあったとはいえ、せめて説明はするべきではなかろうか。

 愚痴もそこそこにして、義務を果たさねばならない。会計案の確認。もう始める前からわかっていたことなのだが、何一つ問題点は見つからない。トレセン学園経理部はこの学園のモットーを体現するかのようにエリートのひしめき合う魔境みたいなところなのだ。数字の魔人たちが作った資料に瑕疵など見つかるはずもなく確認終了。問題はこれからの新人たちの研修振り分け用の資料制作だ。これこそ教務課とか色々あるだろうと思ったのだが、あれだ、いつものだ。仕事の腕はどこでも足りてない。トレーナー業務が実質私の直轄とはいえ、まさか新人教育者たちの割り振りまで私の仕事とはな。

 時間を見つけるのが大変なぐらい多忙な時期はなんとか抜けたので、少しずつ空いている時間を使って面談を設置し、本人たちの意向を確認した。そこで得られた個人の希望と、あと各種適正・精神志向テストの結果を参照しつつ私の個人的な意見、裁量を織り交ぜて、できる限りわかりやすくベテラン教職員たちへ向けた資料を作成せねばならない。そしてこれが完成したとて、教官・トレーナー合同会議をはじめ様々な面談のセッティングなどやることは腐るほどある。これほどまでに密度の高い仕事は初めてだ。

 はるか先まで舗装された労働(・・)ロード(・・・)を幻視する。はは、なんてことだ。最高のギャグじゃないか。

 

……ルドルフ女史にだいぶ毒されているのかも知れない……

 

 

 

 成績優秀、精神志向に問題なし。されど家の名から必要以上にプレッシャーを感じている様子。現場のフォローが望ましい───カタカタとキーボードのタイピング音が続き、一際大きい音がしてそれが止まる。クラウド保存のマークがポップして、完了の文字が表示された。

 桐生院さんのレポートを書き終え、新人トレーナーたちの資料作成もようやく半分か、というところで一度作業を切る。ずっと同じような姿勢でモニターを眺めながら作業をしていたせいで目と肩が疲れた。

 久しぶりに取り出していた作業用の眼鏡を外し、少し汚れてしまっているレンズを眼鏡拭きで磨く。カーペットが敷いてある上に、彼女たちの出入りもあるので埃が舞いやすい。空気清浄機は常につけているが、それでも埃を全て除去するのは無理なようで薄く汚れがついてしまう。しかし眼鏡拭きがあまり良い品ではなかったのがいけない。拭いても拭いても新しく糸屑がついてくる、もはや前より汚くなってしまった。切りがつかない、面倒臭くなってウェットティッシュで拭いた。雑に水分を拭き取ってケースにしまい、引き出しから別の眼鏡を取り出して掛ける。黒いレンズの眼鏡。ティアドロップ。

 今日は快晴。春中程だというのに日差しが強い。生まれつき目が弱いので小さな頃からコンタクトをしているが、最近目の疲れがなかなか取れずコンタクトの違和感がかなり辛いので色付き眼鏡を購入した。銀縁のシャープなデザイン。そこまで考えずに購入したが、今では普通に気に入っている。

 

 部屋の隅を見やれば、神谷さんが首を折って静かな吐息を漏らしている。30分ほど前から動きがなくなっていたので察してはいたが、手記を読む姿勢のまま寝てしまっていた。疲れているのは知っているので、そっとしておくことにする。読書用に点けてそのままのLEDスタンドの電源を落とし、開きっぱなしの手記をスピンをページに挟んで机に片付けておく。暖房は入っているが、冷えるといけないのでブランケットをかけておく。とりあえずこれで良し。いい夢を。

 私は私で気分転換のためにに外出の準備を始める。学園理事は重役ゆえに色々と自由なのだ。散歩がてら設備課から連絡のあったプールのボイラーの調子でも確認しに行こう。確かポンプが壊れてしまったとかだったかな。

 

「もお! わけわかんないよー! 現代史って専門用語ばっかじゃん!」

 

「叫ばないでくださいまし……気持ちはわかりますけれど……」

 

「こんなカタカナと漢字ばっかりのみんなわかんないよー!」

 

「テイオーさん、その気持ちわかります……! 私もなかなか覚えられません!」

 

「キタちゃん……」

 

 突如悲痛な叫びを上げるトウカイテイオー

 横ばいからの叫びに驚きつつ宥めるメジロマックイーン

 わかりません!と笑顔でトウカイテイオーに同意するキタサンブラック

 それら全員を見て特にキタサンブラックに苦笑するサトノダイヤモンド

 

 さっきまでちゃんと学生らしく静かに勉強会を遂行していたというのに、蜂の巣をついたように騒がしくなった。トウカイテイオーがぼやきつつも勉強に戻ってから数時間経っている。やはり集中力の限界か。コップに浮かんでいた氷もすっかり溶けてしまっている。

 でも随分と頑張ったのではないだろうか。途中からジュースのことも忘れて集中できていたようだし。勉強だけが学生の全てじゃない。まあ……テスト前ぐらいは勉強優先の方がいいと思うけれども。

 

「トレー……桐島さんは歴史とか授業の内容覚えてる?」

 

「私?」

 

 微笑を浮かべつつ遠巻きに眺めていると、いきなり会話の矛先を向けられた。まさか飛んでくるとは思わず少し驚く。

 

「歴史、歴史ですか……うーん、あまり自信はないですが、現代史なら仕事柄多少は、まあ……」

 

「じゃあさ、じゃあさあ……ここ教えて欲しいな!」

 

 ニコニコと屈託のない笑みを浮かべながら、先ほどまで彼女が使っていた問題集を広げて見せてくる。開かれたページには『現代史(1)人間の生活と科学技術』という大きな文字。現代史、しかも技術系。

 しかし……空欄と赤文字だらけだ。叫ぶだけあって相当難儀していることが窺える。かなり苦しい笑いを浮かべざるを得ない。ハイレベル問題集と右上に小さく書いてある。少しレベルを下げてもいいのではないだろうか。

 

「ちょっとテイオー、仕事の邪魔はしないって約束でしょう」

 

「ぴえ、だってさあ……」

 

「はは、いいんですよ。ちょうど一段落しましたので、外を回ろうと思っていました」

 

 かなり勢いよく詰めてきたトウカイテイオーの首根っこを掴んで引き寄せ、申し訳なさそうにメジロマックイーンが謝ってくる。所作の一つ一つに品の良さがあって、育ちの良さがどこからでも感じ取れる。どこそこの令嬢、令息とそういった人間を見たことは多々あるが、彼女のそれはさらに完成されているように思える。だからこうやって見るたびに感心させられる。彼女には姉妹が多くいると聞くし、姉として背中を見せる必要もあったのだろう。私には想像もできないような苦労の上に今の彼女が存在しているはずだ。まあ、トウカイテイオーといるときはなかなか普段見ることのできない一面を見ることができるのだが、それもご愛嬌というやつだろう。完璧な人間などどこにも存在しないのだから。心を許せる人間がいるというのはいいことだ。私にとっての斉藤のように。

 

「ええと、どこからですか?」

 

「ここまでは確認したから……ここ!」

 

 ふむ、現代技術史の宇宙開発についての項目か。自慢ではないが、この分野は得意な方だ。仕事(・・)が関わるのでね。どうだわかるか、とばかりに謎のドヤ顔を浮かべているトウカイテイオーには悪いが、見たところ全て知っているので普通に答えさせてもらう。

 

「うん、カッコ1から順にダイダロスⅡ計画、国際軌道エレベーター、月面マスドライバー、火星基地ですかね」

 

 余裕の笑みを浮かべつつ、答案冊子を開いていて答えを待っていたトウカイテイオーが愕然とした表情を浮かべると、立ち上がって再び詰め寄ってくる。そんな泣きそうな顔されても。

 

「エー!? なんでわかるのー!? こんなのカタカナばっかりでワケワカンナイヨー!」

 

「実は宇宙は個人的に好きな分野でしてね、開発事業なんかに仕事でも関わったことがありますし」

 

「ええ!? それはルール違反だよお!」

 

 一体なんのルールに違反したのかは最後まで分からなかったのだが、色々小言を言われた末、罰として問題の解説をすることになった。トウカイテイオーは私が解説するという話を飲んだことを面白がって全部解説させようとしたようだが、さすがにメジロマックイーンが止めてくれた。正直やっても良いが、おそらくとんでもない長丁場になってしまう。多分後悔すると思う。

 教務サーバーから教科書データをダウンロードしつつプロジェクタを起動して解説の準備をしていると、キタサンブラックとサトノダイヤモンドも椅子を持って前に来た。まるで小さな授業のようだ。私も気持ちは教師気分でスクリーンを天井から下ろし、レーザーポインタを構える。

 ガラスが白く曇り、部屋の照明が調光されて暗くなる。白いスクリーンに遥か上空まで続く塔が映し出された。

 

「──えー、はい。それでは一つだけということなので、単元の中でも私が一番説明しやすい国際軌道エレベーターを選ばせていただきます。新聞とかニュースは普通にこのまま表記しますが、名前が長くて覚えにくいと思うならISEVが公式略称ですので社会の先生も余程厳しくない限りそれでも丸をつけてくれると思います」

 

 まだ始まったばかり、しかも略称を教えただけでトウカイテイオーの目が輝き始める。覚えることがそんなに苦手なのだろうか……

 教科書を捲る。ケーブルを上る昇降籠の写真。青い空の中、ただの紐にぶら下がって浮いている。

 

「教科書の図にもあるとおり、これは宇宙空間まで伸びる巨大なエレベータです。JAXA、NASA、ESAをはじめとして多数の企業連合、政府の協力の元、アメリカ政府が主体となって建造が行われました。トウカイテイオーさんの問題集の選択問題にもありますが、このエレベーターは普通の建築物のように地上からは作られていないことは覚えておいた方が良いでしょう」

 

「質問よろしいでしょうか。なぜ、ですか?」

 

 サトノダイヤモンドの質問。まだ授業では名前ぐらいしか覚える必要が無いだろうにキタサンブラックと共に始終真面目に聞いている。真摯な態度で聞いてくれると教える側としても気分がいい。質問の内容にも真摯に返さないとな。

 

「ええ、それはですね。地上から積み上げて建設するにはあまりに軌道エレベーターは長過ぎますし、積み上げた材料自身の重さに耐えられる建材が存在しないからです。普通のコンクリートでこの高さを実現しようとするとどうしても円錐、クリスマスツリーのような形を取らざるを得ませんので、地上基地の必要面積がとんでもないことになってしまいます。そのために宇宙から材料を伸ばして地上と繋ぎ、そこから段々と構造を広げていく手法を取りました。この手法なら宇宙空間から力を釣り合わせることができます」

 

 サトノダイヤモンド含め4人の相槌。どうやら納得してくれたらしい。ふと、トウカイテイオーが授業ノートを開いてメモを始めた。正直かなり勉強について心配していたがやはり根は真面目だな。メジロマックイーンもいることだし、彼女をそこまで心配する必要もないのかもしれない。

 

「続けます。かかった期間についてですが、計画に20ヶ月、建造はわずか70ヶ月で行われました。すごい速さですよね。あれ、わからない?まあ確かに大きすぎて尺度がありませんからね……随分と速いこのスピードについてですが、アメリカ政府はエネルギー問題の解決を急務としていましたのでだいぶ急足だったわけです。早期の完成は日本の協力も大きかったはずですが──キタサンブラックさん、質問ですか?」

 

「はい! 東京タワーみたいに歩いて登れますか!?」

 

 元気いっぱいの輝く笑み。威勢の良い声。しかし投げかけられた質問は目をつける場所ががなんとも可愛らしい。

 

「ふふ、さすがに無理ですね……地上9000mまでなら風防メンテナンス用の非常階段はありますが、それ以降はただの紐なので」

 

 夢を壊すようで申し訳ないが、こればかりはしょうがない。宇宙服を着て成層圏の階段を登っている人間を想像したら笑えてきた。まあ風防塔の最上部などはほぼ宇宙だろうが、彼女が言っているのそういうことではないだろう。駆けて宇宙まで上がれたら、などと考えているに違いない。

 

「あの、質問よろしいでしょうか。その、エレベーターということは昇降用の乗り物ですわよね?エネルギー問題とのつながりが見えないのですが……」

 

 メジロマックイーンがちょうど切れたところを見計らって横ばいから声を飛ばしてきた。遠慮がちなトーンの質問ながら、知的好奇心の輝く目で問うてくる。これは何となくわかっているけれども、と言った具合な気がする。

 

「ええ、軌道エレベーター自体には発電機能はありません。紐と籠ですからね。ではどこがエネルギーを生産しているのかといえば、軌道エレベーター静止軌道ステーションにある宇宙太陽光発電所です。実際エレベーターと発電所は別物なんですけど、分けて書くと分かりにくくなっちゃいますよね。物資運搬などの利便性から、発電所のために軌道エレベーターを建てた、と言ってしまっていいかもしれません。エレベーターがあることで大規模な発電施設の建造が可能になったわけですね」

 

「へー……ん、あれ? でも宇宙で発電して、地球にどうやって電気を送るの?宇宙で発電するんだよね、電線で繋がってるわけはなさそうだし……」

 

「あら、いい質問ですね。トウカイテイオーさん。宇宙から地上まで電線を引っ張ってくるのは色々無理がありますから、レーザーとマイクロ波の二種類の方法で送電を行います。宇宙空間からアンテナを使って地上に電気を発射するんですね。日本にも静止軌道の中継衛星を経由してマイクロ波で給電が行われています。ここの近く、桜ヶ岡公園の向こう側にもとても大きなアンテナがあって給電を受けています。見たことありますか? そう、あれです。また別の話になるんですが、たまにエレベーターのテザー、紐のことですが、これに電気を流しているという説明があったりしますが、これは間違いですので注意した方が良いですね」

 

 ふと気になって左手に掴んでいたトウカイテイオーの問題集を確認するが、ちゃんと正しい説明が書いてあるようだ。ハイレベルを名乗るだけはあるな。大手新聞が間違えた時は結構炎上したのを覚えている。

 

「それと、教科書にはあまり書かれていませんが、少しこれからの話を。当初軌道エレベーターはエネルギー問題の解決を主目的として建造されましたが、近年の核融合技術の成熟を受けて、エネルギー政策から宇宙開発へ向けて運用構想が大きく変化しています。月基地の大規模化がその主たるものでしょうね。火星基地の建設にも軌道エレベーターは使われはじめましたし、地球の他の場所にもエレベータを建設しようという話も出てきています。今からの時代はもしかしたら宇宙がフロンティアになるのかもしれませんね」

 

 少し捲し立てるようになってしまったが、4人ともスケールの大きい話に驚いているようだ。歴史の話だったと思うんだが、かなりニッチななようになってしまったような気がする。

 深海、密林、高空。地球のフロンティアをほとんど探索し尽くした人類が目を向ける先は宇宙。今私の前で目を輝かせるこの子たちの未来にはどんな景色が広がっているのだろう。それが明るい物であることを願うばかりだ。

 用意した物品の電源を落として収納し直し、貸してもらっていた問題集を閉じてトウカイテイオーに返す。問題集の名前を一応脳にとどめておく。またこういうことがあった時用に一冊買っておこう。

 

「下手な授業でしたが、満足いただけましたか」

 

「うん! ありがとう。それにしても宇宙って色々すごいね! ボクも宇宙飛行士とかなれるかなー? エレベーターから飛び立つんだ!」

 

「なんだって努力すれば成れます。最近はウマ娘の宇宙飛行士も増えていますし。高カロリー食の開発が進んで長期滞在が可能になりましたから。さらにエレベータの開発が進めば、もしかしたら宇宙旅行も一般的になるかもしれませんよ」

 

 ワクワクといった擬音が聞こえてきそうな風貌のトウカイテイオーが問題集の軌道エレベータの項目を眺めている。それを一瞥して、本来の目的通り、部屋の扉のドアノブをつかみ一言残そうと口を開きかけた時、トウカイテイオーが何かを思い出したように、私を見てあっという声を漏らす。

 

「突然思い出したんだけど、桐島さんってなんでずっと手袋つけてるの?」

 

「あっ! 私も気になってました! 外にいる時も部屋にいる時も白か黒の手袋をつけてますよね?」

 

「本当に突然ですね……」

 

 トウカイテイオーの突然の質問にキタサンブラックが便乗、メジロマックイーンはあまり興味なさげだが、サトノダイヤモンドは知りたいですとでも言いたげな念が伝わってくる。三人の視線からは逃れられそうもない。あまり言いふらすような物でもないが、別に隠す必要もないか。

 

「あー、数年前に仕事で怪我しちゃいましてね。傷は塞がりましたが、ちょっと見た目が悪いのでね」

 

 何気なく興味で聞いたであろうに、まさか怪我が理由だと思ってはいなかったらしく、明らかに動揺して気まずそうな表情が一様に浮かぶ。ウマ娘は怪我が即選手生命に関わるわけだから怪我には敏感に反応すると聞いていたが、本当にセンシティヴなんだな。

 次の句が継げずにいるトウカイテイオーに、人の秘密にはそう易々と触れるものではありませんわよ、とメジロマックイーンが耳打ちするのが口の動きで分かった。顔を青くする彼女らが気の毒になってきた。

 

「いや、いいんですよ。そんなに大きな怪我じゃありません。それに手袋ってなんかかっこいいでしょう。色々買ってみたりするのも意外と楽しくてですね」

 

 気にしてません、だから大丈夫です。そういう意味を込めた念を全身から放射する。わかってくれるだろうか。

 

「……ふふ、じゃあ今度ボクにいい手袋紹介してよ。桐島さんがつけてるみたいなフォーマルなやつ。カイチョーみたいにかっこよくつけたいなあ」

 

「はは、いいでしょう。またオフの日にでも行きつけの店を紹介します」

 

 しかしカイチョーみたいに、か。随分と格式高い目安を設定されたな。いい物を見つけなければならないな。

 話を引きずって落ち込まれると私も困ってしまう。トレーナーたちにも迷惑がかかるし、空気をちゃんと読める子で助かった。私が色々未知だから彼女らの興味が先行してしまうのだろう。

 それに怪我自体に私は負のイメージを持っていない。言うなれば名誉の負傷というやつか。いや、ちょっと違うかもな。

 

「それでは、ちょっと外回りに行ってきます。空調と湯沸かし器、照明はいじっても大丈夫ですが、それ以外はできるだけ触らないでください。特にパソコンはダメですからね! では、勉強頑張ってくださいね」

 

 元気の良い四人の返事を背に、部屋を後にした。




日常(だと自分が考えているもの)編です。
日常を描くことに徹底的に慣れていないのでできているかについては自信はありません(キリッ
これでいいという方はアンケートの日常のところに票を入れていただくか、直接感想を送っていただけると方針を固めやすくなって作者が助かります。


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繁雑ッ!今日のトレセン学園

 昼下がりの事務棟。ガヤガヤと無音にならない程度の静かな喧騒の中、すれ違う職員と挨拶をしながら廊下を歩く。活気にあふれたいつもの学園だ。

 窓から空を見上げれば目を刺す陽光。陽はまだ高く、差し込む日差しが心地よい。少し立ち止まって下を覗き込めば、外廊下の屋根の下で生徒や教師が行き交っているのが見える。わずかに聞こえる笑い声。

 歩みを再び刻めば、沈み込み過ぎない絶妙な加減のカーペットが靴音を包み込む。派手すぎない赤色は校舎の色によく馴染んでいる。こうやって歩くのは幾度目ともしれないが、設備課の職員は仕事の機敏に加えてセンスまで兼ね備えているのだなあと毎度感心するものだ。

 

「あら」

 

「おや、駿川さん」

 

 階段に差し掛かったところで、踊り場からちょうど理事長秘書の駿川さんが現れた。しばらくぶりなので声をかけようとしたが、階段で話すのもどうかと思い上で登ってくるのを待つ。しかしそれが気を使わせてしまったようで彼女は気持ち駆け足で階段を駆け上がってきた。

 

「──お疲れ様です。秋川理事長が職務に復帰されたと聞きましたが体調などは大丈夫でしょうか?」

 

「お疲れ様です。ええ、ちゃんと休養は取れたようです。『復活』と書かれた扇子を掲げて張り切っておられましたよ」

 

 容易に状況が想像できる。駿川さんが“ちゃんと”という言葉を使うなら理事長の回復に間違いはないだろう。扇子、少し懐かしい。そんなに長い期間ではないが、学園内であの声と共に掲げられる扇子をしばらく見れていない。彼女の言葉から想像するにおそらく理事長は何も変わっていないだろう。安心する共に、脳裏に鮮明に浮かんだ情景にクスリと笑いを漏らす。

 

「それはよかった。理事長には健康でいてもらわないと。職務は大変ですが、今は私もいることですしあまり理事長が無理をすることがないようにお願いします」

 

「ふふ……わかってますよ──ところで、桐島さんはこれから外出でも?」

 

「はい。今の仕事が一段落つきましたので、設備課からのお願い事を一通り消化しつつ学園内を少し散策しようかと。この学園は広過ぎてまだ構造がわかっていないところがありますからね。校舎のある中央から離れるとどうにも……」

 

「まあ……確かにここは広大ですからね……新入生が毎年数人迷ってしまうのは常ですし」

 

「ええ、学園の理事が学園内で迷子にでもなったら笑い物ですからね。少しずつ把握しようと」

 

 窓越しに少しくぐもって聞こえる鐘の音。彼女に断りを入れて腕時計を確認すれば結構いい時間になりつつある。仕事でも愚痴でも駿川さんは聞き上手話し上手なのでいくらでも話せてしまうが、ここらで切り上げさせてもらおう。それに彼女の仕事の邪魔をしてはいけない。理事長秘書業務は忙しいはずだ。

 少し一方的になってしまうが謝って会話を切り上げ、彼女が踵を返したのを見て階段の手すりを掴んだ。

 

「───あっ……! すみません! 私ったら……あなたに用事があってここに来たのでした……」

 

 後ろから声がかかると同時に肩を掴まれ、階段を踏み外しそうになる。慌てて振り返った私に駿川さんが何度も謝りながらUSBメモリを2本渡してきた。貼り付けられた付箋に中身が書いてある。過去の研修のデータと振り分け履歴。どうやら理事長と駿川さんが掘り出してくれたらしい。個人情報保護だとかで面倒な手順を踏まないとデータの持ち出しができないと言われて、それをするぐらいなら手探りなりにも手を動かした方が早いだろうと思って作業を進めていた。愚痴にもならない小言を一言漏らしたぐらいしか記憶にないのに。全く理事長と駿川さんには頭が上がらない。思いがけない援助に低頭平身感謝を述べて彼女と別れた。これで作業がスピードアップできる。

 

 外廊下を歩きつつ、陽の光に目を細める。遠くからトレーニング中の生徒たちの声が聞こえた。トレーニングコースはここから結構な距離があるはずなのだが、まったく元気なものだ。

 ふと、腹の虫がなる。それを聞いて初めて空腹を意識した。ああ、そういえば昼食をとっていない。最近めっきり運動もできておらず、それに引っ張られて食事もおろそかになってしまっている。何かデジャヴを感じて過去をたぐると、食事を抜いて倒れた苦い思い出が蘇った。このままではまずい。

 散歩は一時中止だ。幸い時間はまだある。カフェテリアにお邪魔するのがいいか。昼は既に回っているし、購買も空いていることだろう。

 

 座学の終わった昼下がりの学園、トレーナー達は現在研修まっただなかなのでレースの近い学生以外はフリーなことが多い時期と聞いている。今も遊びの計画を立てているのだろう学生のグループの談笑が聞こえてきた。自主練習、学園散策、休息。それぞれが自分の好きなように時間を消費している長閑な学園が今ここにある。

 道筋、すれ違う学生達に挨拶をすれば皆笑顔で返礼をしてくれる。元気よく、少し間伸びしている子がいるが、それもこの明るい学園らしい。こっちがどう気を使っても真顔で会釈をしてくる官庁のお堅い方々との違いで風邪をひきそうだ。真面目なことはいいが無愛想なのはどうかと思うんだ。ここの学生を見習ってほしいものだよ。

 

 カフェテリア──この学園の中枢施設の一つ。広いホールに机と椅子が大量に配置されている。ランナーであり、学徒であり、ダンサーでもある生徒達はここでその消費エネルギーを補給する。通常の人間より多くのカロリーを消費するウマ娘の学生たちはその食事量も莫大だ。

 予算の内訳を初めて見た時は食材にかける額が多過ぎて驚愕した。桁が一つ間違っているのでは、と本気で疑ったが、カフェテリアから出てくる腹部が冗談のように膨らんだウマ娘達を見れば納得はできずとも理解はせざるを得なかった。湯水の如くじゃぶじゃぶと金が食費に消えていくのだ。殊更高級食材というわけではなく、むしろ安く仕入れてこれだ。まったく信じがたい。

 実は最近食材不足が発生しているらしい。冗談だと言ってほしい。腹に重力特異点でも飼っているのだろうか……

 

 学生寮でおやつが禁止されているためかスイーツ系の品揃えもそこそこ良い。メニューはローテションだが、人気メニューは固定。一番の人気メニューは、確かにんじんハンバーグだったか。購買も隣接しているために往来は増減はあれど常にある場所だ。購買の品揃えはそこらのコンビニとかよりよほど充実している。生協購買のくせして食品偏重が過ぎる気がしなくもないが、食事量を考えればこれが正常なんだろう。

 

 そこまで時間をかけるつもりがなかったので購買でおにぎりでも買ってさっさと済ませてしまうつもりでいたが、食堂の電光メニューにサンドイッチがあるのを見つけた。口が求めるものが変わったのを感じる。仕方ない、サンドイッチをもらおう。

 職員証を注文パネルにタッチしてメニューからサンドイッチを選択。食堂パスの承認の後、注文確定の表示が出た。無償提供というのは素晴らしいと思う反面、経営側にいる自分が予算のことを考えて頭を痛める。流石に一部スイーツ系は切実な予算とカロリー観点から食券制になっているとはいえ。食費の財政圧迫が冗談になっていない。

 受け取り口でしばらく待っていると、私待望の昼食をプラトレーに乗せて厨房の料理人がサンドイッチを持ってきた。白いシェフ服がよく似合う中老の男。ことり、と受け渡しのカウンターに平皿を置き、ポケットから棒付きのキャンディを取り出して口に放り込む。わずかに香る葡萄。

 

「桐島理事。あんたがここにくるなんて珍しいな」

 

「おや、料理長。こんにちは。お恥ずかしながらお昼を取り忘れてしまいましてね。不摂生はいけないとわかってはいるんですが」

 

 真っ白で見るからに衛生的な皿の上に乗せられた三角カットのサンドイッチ2枚。パンは角がしっかり出ていて、中の野菜はみずみずしい。出来立て。質素な見た目ながら実に美味しそうだ。唾液の分泌がはじまる。

 この学園の改装時に調理ロボットを導入して厨房を自動化する案があったそうだが、やはり人間にしか出せないものがあるというもの。

 

「よくない。人間ちゃんと食わないと生きていけない。あんたも責任背負ってんだから」

 

「はは、肝に銘じます。ところで……料理長自らということは昼はもう終わりですか」

 

「うん? ああ、もう遅いしな。学生達は全員一通りきた」

 

 カロン、と飴を転がして、娘たちがちまちまくるから俺は厨房から離れられねえけどなあ、とぼやく料理長からサンドイッチを受け取って近場の席に着く。時間が時間ゆえにカフェテリアの人数はほとんどいないのではと考えていたが、どうやら私以外にも遅めの昼食をとっている子達がいるようだ。いつもはこんなにいないと思うんだが……今日は何かあったか、と記憶を辿ってみればそういえば成績不安者への特別補習があったな。ということは、それで遅れたか、遅れた子を待っていたグループというわけだな。

 特別補修……トウカイテイオーの学年は明後日だったな。私の部屋でくつろぐぐらいだから多分大丈夫なんだろうが、どうにも不安が拭いきれない。彼女は回避できたのだろうか……

 

「本当にすみません!全然終わらなくて……」

 

「いや〜最後のテストが難しかったねえ。だいぶ遅くなっちゃてゴメンね〜」

 

「まさか特別補修に呼ばれるとは思いませんでした…春課題が遅れなければ回避できたはずデス…」

 

「まあ良いですわ、一流たるもの!短気ではいけませんわ! スペシャルウィークさん。味噌汁、そこに置いておくと腕があたりますわよ」

 

「早く食べましょう?せっかくの料理が冷めちゃいますからね」

 

 いただきまーす

 元気の良い唱和の後、和気藹々とした空気が流れてくる。聞こえた会話から推察するに私より少し前に来たようだ。つまり……特別補修か。トレーニングが日常的に生活の一部になっているために普通校と異なるカリキュラムでなるべく生徒たちに負担がかからないようにスケジュールを組んであると聞いてはいるが、文武両道の道はなかなかに険しいだろう。大変なのは誰しも理解しているが、レースと同様学問も流れが早い。私からはがんばれ学生としか言えないなあ。

 キリマンジャロが如く白飯を盛った巨大な腕を抱えて朗らかな笑みを浮かべているのは、スペシャルウィーク。トウカイテイオーからスピカ繋がりでこの学園に来て比較的初期に知り合った。けっぱるべーという文言がたまに聞こえてくるので北海道の子なんだろうなあ、と思っていたらやっぱりそうだった。快活で明るい、周りを笑顔にできるいい子だ。屈託のない笑みは学園職員達に愛されている。私との間に壁を立てるどころか積極的な交流を試みてくれるのはやはり人として嬉しい。他の四人は名前は分かるが直接の関わりがない。しかしあのスペシャルウィークの友達だ、きっと全員できたウマ娘に違いない。

 

「自業自得ですよ」「冷たいデース……」

 

 勉強はあまり得意ではないようであるが。さてはて、特別補修に呼ばれるのは意外と一般的なことなのだろうか。時間があれば教職の誰かに一度聞いてみよう。

 

「やっぱりこれデース!なんだって辛い方が美味しいに決まってます!!」

 

 大音声。さっきまでのしおらしさはどこへやら、エルコンドルパサーの叫び。少し声量を落としてほしい。ここはカフェテリアだぞ。

 彼女のいう「これ」が何者かはすぐ分かった。瓶の開封音の後ビチャビチャという水音。デスソース……か?少し掛けすぎではないかと思ったが、そこは個人の酌量。よほど辛いのが好きなんだろう。

 さあ、学生同士の会話に聞き耳を立てるなんて品のないことはやめてサンドを頂こう。時間は有限なんだ。

 

ビチャ

 

こっちもかけまーす!

 

ビチャビチャビチャ!!

 

 いや、え? ちょ、ちょっと待て。長い、長いよ。いつまでかけているんだ……? 余程の大皿料理でも料理よりソースの方が多いレベルの量をぶちまけた気がするのだが。

 若干引き気味に横目で後ろを見る。咄嗟に出そうになった叫びを喉の奥に押しやった。水音の発生元、エルコンドルパサーの前には真っ赤に染まったもはや何の料理かわからないブツが鎮座していた。食物……あれが……? エルコンドルパサー、もしかしてヤバい娘? いやもしかして何か悩みでもあるのだろうか……安心沢氏にそれとなくカウンセラーを頼もうか、いやあの人だと悪化しそうだな……いやいやなんて失礼なことを考えているんだ私は……いや、しかし、えぇ?

 辛いものが大の苦手である故、視線の先にあるまるで地獄の炎を体現したかのような真っ赤な食物らしきものを食べようという彼女がとてもまともに見えない。見てるだけなのに喉が痛くなってきた。もう拷問道具に使えるよ……辛いもの好きって限度がないのだろうか?

 うわ……うわ! 全く信じられないことに、新しい容器をバッグから取り出し始めた、空いた口が塞がらない。マイボトルなのか……

 私が驚きで固まっている先で、再び容器の蓋が開けられた。本当にまだ掛けるつもりなのか、嘘だろ。あの食物に慈悲を、神はいないのか。

 

「エル」

 

「…?…なんですかグラス?」

 

「私の料理にかかっています、エル」

 

「ケッ!?」

 

 笑顔のまま怒気を滲ませるグラスワンダー、強大な圧に怯えるエルコンドルパサー。文科省で何度か見た光景だな、上司と部下で。

 懐かしくもあまり気の良くない光景を思い出して遠い目をしていると、驚きで振り上げられた手からすっぱ抜けたデスソースがこちらに飛んでくる。くるくると回転しつつ綺麗な放物線を描き、テーブル上の布巾の上で一回跳ねて綺麗な着地を決めた。素晴らしい、10点。

 しかし着地の衝撃でソースが飛び出し、私のエッグサンドと机に壊滅的なトッピングを施してくれた。うーんマイナス100点。スーツに着かなかったのは不幸中の幸いか。まるで血飛沫のように飛散したデスソース。

 おいおい。私のエッグサンドが見るも無惨な姿に……

 驚いた顔でこちらに顔を向けている5人組にさっきのグラスワンダーと同じような表情を向けた。

 

 

 食べ物の恨みは恐ろしいというが、学生相手に大人気ないことをするわけもなく。二重のやらかしに気を落とすエルコンドルパサーにお詫びの代わりにエッグサンドを引き取ってもらった。あと体にも悪いからデスソースは控えめにするようにと。わざとではないだろうに泣きそうな顔で平謝りしてくる彼女には流石に苦笑してしまった。

 同じように決死の表情をむけて謝っていたグラスワンダーとの関係性が気になるものである。

 

 再び注文しようかと迷っていると、一部始終を厨房から聞いていた料理長がグラスワンダーの料理のメインと私のサンドを作り直してくれた。言葉なく目の前に皿を置き、ウィンクして帰っていった。若干の慣れを感じたが、スマートな対応に感激だ。

 これとは関係ないが前に厨房から申請のあった新型調理器具購入の認可をおろしたくなってきたな……これとは関係ないが。公私は混同してはいけないからな。

 サンドの味はといえば、これは文句のつけどころがない。さすが理事長被ヘッドハンティングの一員。一流の看板を背負った仕事は素晴らしい。

 激辛ソース飛散事件の解決はひとまず。落ち込んでいるエルコンドルパサーをこのままにして立ち去っては夢見が悪そうなので、ちょうどメニューに載っていた個数限定のパフェを余りに余ったデジタル食券で人数分振る舞う。甘いものは好きだけれどこういうのは趣味に合わない。友好(・・)のために有効(・・)に使うとしよう。

 

 

「驚きました。就任式で見た時はお堅い方かと思っていましたが」

 

「理事長のように親しみがある方が何かとやりやすいかと考えまして、ね。お堅いほうがよかったですか」

 

 取り替えてもらった鰆の焼き霜造を綺麗に完食し、先ほど運ばれてきた件のパフェを品よく口に運びながら合間に問いかけてきたグラスワンダーに悪戯っぽく問い返せば、困ったような笑みと共に、いえと返答した。とりあえず学園での立ち回りは間違えていないものだと思いたい。

 年相応の笑顔を浮かべながらスイーツを堪能している彼女らを横目に、就任式を少し思い出す。

 

「就任式の時は何を話せばよいか舞台裏でずっと考えていましたね。直前までアグネスタキオンさんの対応に追われていまして、スピーチのことをすっかり忘れていました。立場の上でしっかりと話ができたのか今でも少しドキドキしますね。こう、あなたたちに話してしまった時点で色々手遅れですが」

 

「まあ、それは……タキオンさん……」

 

 苦笑を浮かべつつあの一日の話をしてみれば、気の毒そうな顔を向けられる。改めてタキオンはこの学園でどう思われているのか分かるというもの。しかしやはり有名だな、彼女は。

 タキオン君、君本当に気をつけた方がいいと思うよ。一部の学生からはパトロン的な信頼を向けられているらしいけれども。

 

「アドリブだったとしても、十分にこの学園にふさわしいお話だったと思いますわよ。あら、スペシャルウィークさん。垂れちゃいますよ」

 

「堅くない方がいいよ〜学園全部がリギルみたいになったらセイちゃんみたいなのの居場所が無くなっちゃうからねえ」

 

 私の話に耳を傾けていてくれたらしい二人のフォローに微笑みを返す。皆人がいい。スポーツは精神を健全にするという論説には否定的だったが、この学園の生徒たちと接しているとある程度真である気もしてくる。

 

「えー!リギルはいいチームですよ!」

 

「そうですよ。おハナさんの指導は的確で、私たちを勝利へと導いてくれます」

 

「いや〜厳しいのはちょっと」

 

「スピカも負けてませんよ!」

 

 セイウンスカイが投じた一言がパフェに夢中だったテーブルに波紋を作り出し、たちまちそれぞれのチーム自慢がはじまった。言葉だけ聞いていれば喧嘩にも聞こえそうなものだが、彼女らの横顔は楽しそうだ。良き友でありライバルなのだろう。

 身振り手振りで自分達のチームがどれほど素晴らしいかをプレゼンしあう彼女らに過去の自分の姿を一瞬空目する。自分の学生時代の仲の良いグループの面々を思い出した。

 給仕ロボットが運んできたダージリンを口にしながら、白熱する5人の会話に耳を傾けた。

 

 

 長針が文字盤の12と重なり、低い音階の音が響く。程なくして追加注文しておいたにんじんジュースが私を除いた人数分テーブルに届いた。あとは仲良く楽しんでほしい。それぞれ感謝を述べる彼女らに手を振ってカフェテリアを後にした。

 さて、本来の予定に戻ろう。

 カフェテリアから出て、まだ高い陽光に照らされつつ靴音を立てて歩くこと数分。学園教室棟に程近いトレーニング施設群の一角、学園プールの機械室に入って担当者に話を聞く。巨大な機械がひしめく薄暗い部屋。揺れるような低音を響かせて巨大なポンプが水を循環させている。壁の小窓から半地下のプールで学生たちが泳いでいるのが見えた。

 随分昔から頑張っていたボイラーに不調が出たらしく、買い直しか修復か、会計と現場で意見が食い違っているというから私が向かったわけだが……聞く限りどうやら買い直しで一致しているらしい。聞いた話と違う、どういうことだ?

 

「ボイラー付きのポンプが水圧でおかしくなるなんて初めてでしてね。私どもは修復してもまた同じ壊れ方をするだろうから新しいのにしてほしいと言ったんですが、会計の人がどうやったら学生が泳いでいるだけでポンプが壊れるんだというから実際に見せたんですよ、ほら」

 

 指を刺す先の窓からプールを見れば、あまり女性に使う表現ではないのかもしれないが巨大と表現せざるを得ない学生──確かヒシアケボノ──がプールに飛び込んだ。飛び込みは至って普通に見えたが、そのあと水中のドルフィンキックで冗談見たく水面が持ち上げられる。水面の揺らぎとは明らかに異なる大きなうねり。

 内壁の温水出水口から水が逆流して床上の配管が嫌な音を立てる。ぎちぎちと不安になるような音がしばらく続き、収まったと安心した矢先、リベットが飛んだ。配管を壁に固定していた金具が床に落ちて大きな音を立てる。

 

「……すごい、パワーですね」

 

「でしょう? ポンプのブレードがこれでやられましてね。元々経年劣化もあったんですが、ここ最近の学生さん方はパワーがね」

 

 今しがた目の前で起きた一連の破壊現象に慄く。ボールペンを頭に当てつつため息を吐く担当者は困り顔だ。会計の人間もこれでは納得せざるを得まい。修理したところでまた壊れるだけだろう。

 

「ふむ、わかりました。耐久性能の高いものを購入しましょう、どうします? どうせなら他の2機のボイラーも新調しましょうか。改装前から同じ機種なんでしょう?」

 

「え?いいんですか? そりゃあこんな骨董品みたいなのを慎重に動かすより最新機種の方が便利なのは確かですけど」

 

「ええ、それなら全部新調しましょう。全部新調レベルの大金ともなれば国にかけ合えば補助金を出してくれるはずです。渋るでしょうが、元々それを受ける側だったのでやり方はわかってます。まあ、タダみたいなものですよ。一時期プールが使えなくなるでしょうが、そこはこちらで調整します」

 

「はあ、なんだかすごいですねえ。助かります。よろしくお願いします」

 

 ボイラー室長の男が作業帽をとって頭を下げた。現在のボイラーの仕様書を電子データで受け取り、設備課から後でカタログを送らせることを約束して別れる。特に私が来なくても解決できそうだったな。ならば交渉役ぐらいはしっかりやり遂げよう。役所は金をいつものように出し渋るだろうが、コネと権力のパワーで押し切らせてもらう。

 こちらトレセン学園理事、これにて当初の目標は達成、オーバー。

 

 執務室に戻る前に予定通り散歩を決行する。遠くの談笑がわずかなざわめきとなって耳を打つ。他に聞こえるのは鳥の囀り、葉鳴り。あと、わずかな水音。学園内に流れる人工川の横を上流に向かって歩く。大小様々な丸い石が敷き詰められた石畳の上に木陰が揺れている。頭の中の地図をひらけば確かこの先は庭園、まだ行ったことはない。

 プールに足を運んでから数十分とも経たず、まだ昼下がりは過ぎれど夕方というには早い時刻。日もだいぶ長くなってきたことを実感できる。空はまだ青い。

 若干の勾配に運動不足気味の体が節々の痛みを訴えてくる。デスクワークで運動ができていないのは仕方がないが、こうも調子が上がらないと情けなくもなる。

 鉄製の何やら紋様の編み込まれたアーチフェンスを潜って庭園に入った。公立公園のように広い場所ではないが素人目で見てもわかるほどに手入れの行き届いていて植物たちが生き生きとしているのがわかる。常緑樹の艶やかな緑色が目に優しい。背の高い木々の根元には色とりどりの花が楽しげに集まっている。

 ふと、目の前を淡いピンクが横切る。見上げれば、桜の木。ぱらぱらと桜の花びらが舞ってくる。もう随分と花は散ってしまって、緑の色が濃くなってきた。春の終わり、その季節だ。

 立って回りたい気持ちがあったが、どうにも膝がズキズキとうるさい。仕方なくベンチに背を預ける。学生が少ない時にジムのランニングマシーンを使ってみようかなどと考えつつ、長めの一息をついた。

 風が落ち葉と花びらをさらってゆく。周りを見渡しても他に人はいない。何か華々しいわけでもないが、この景色を独り占めとはなかなかに贅沢だな。

 

 いや、空に観客がいたようだ。気配を感じて見上げた空。小さかった形がだんだん大きく。大きな翼を広げて風を受けながら、空から降りてきた一匹の鷹。目の前まで歩いてきて、それほど可愛くもない声で一声鳴く。

 

「また会ったね。今度はどうしたんだい」

 

 特に返事を期待するわけでもなく話しかけてみれば、羽ばたいて横に飛び乗ってきた。ペンキの塗られた木のベンチに爪が当たって硬質な音がする。黒一色の瞳からは感情を窺い知ることはできない。

 噴水に落ちて溺れていたところを助けてあげてから度々会いにくる。よく上から頭だけ見て見分けられるものだ。最初の頃はネズミの死骸なんかを持ってきていたりしたが、いらないことを何度か伝えたら持って来なくなった。気持ちは嬉しいが、小動物の死骸をもらっても困る。

 私と目を合わせたままじりじりと間を詰めてきて、体だけ倒して膝の上に寝転がった。何回目の時か膝の上に直接乗ってきて爪で怪我をさせたのを気にしてくれているらしい。賢い奴だ。鳥についてはよく知らないが、おそらく懐かれているのだとは思う。しかし、足輪をしているし、匂いもしないからどこかのペットのはずだが放し飼いとはどうなんだろうか。信頼を置いて放し飼い……いや、この子噴水で溺れていたしな。かなり心配だ、飼い主のところに帰れているのだろうか。

 トレセン学園の空を飛んでいるのをよく見るから、誰か職員のペットか。学生寮は動物禁止だし。今度聞いておこう。

 綺麗に整った毛並みを優しく撫でていると目を瞑ったまま動かなくなった。猛禽類が何て様だと思わなくもないが、信頼されているのだろう。溺れるのがよほど怖かったのだろうか……

 

 

 まだ温かみの少ない木漏れ日を浴びつつ、タブレットで事務仕事を行いながら鷹を愛でること1時間弱。何かを感じ取ったのか突然目を覚ましてばさばさと飛んでいってしまった。温かみの残る太ももに名残惜しさを感じつつ、目で彼を見送る。

 どうしたことかと周りを見渡せば、足音とも自動車の音とも違う音が遠くから近づいてくる。車輪が擦れるような音、しかし車より軽い。電動モータの駆動音、か?

 なんだろうと聞こえる方向を注視していれば、長身の芦毛ウマ娘がセグウェイに乗って現れた。モーターの音を響かせつつこちらに近づいてくる。学園内では普通目にしないシュールな光景だったが、見知った人物に緊張が解けて自然と表情筋が緩むのを感じる。

 

「おお?理事ピッピじゃーん!もしかして仕事サボりー?」

 

 あちらも私を確認すると明るく朗らかな笑みを咲かせる。電灯にセグウェイが立てかけられ、若干無理のある呼びかけと共にパタパタと駆け寄ってきたウマ娘に目を細める。

 親愛のこもった声が自然と口から出た。

 

「ふふ、やあ、ゴルシ」



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嬉笑ッ!黄金船の寄港

「ふふ、やあ、ゴルシ」

 

 ゴルシ、という言葉を聞いて彼女は大輪の花のような笑みを浮かべ、見るからに上機嫌な様子でくるりと舞うように横に腰を下ろした。彼女──ゴールドシップはセグウェイ操縦用の脳波スキャナを首にずらして私に向き直る。興味、好奇心、そして親愛、さまざまな感情を瞳から感じ取る。

 ほのかに熱を感じる優しい陽光が照らす中、私は彼女の言葉を待った。

 

「やっと昔みたいに呼んでくれるようになったな。アタシとしてはみんなの前でもそれでいいんだぜ? 」

 

「それはちょっとね、流石に立場があるから……難しいかな」

 

 苦笑まじりの返答の後、ひとときの沈黙。鳥の囀りが聞こえ、それが合図だったかのようにゴールドシップが悪戯っぽい笑みを浮かべてずいと近づいてくる。彼女の芦毛の白が柔らかく広がった。

 

「理事ピッピさあ、さっきも聞いたけどサボりー? 暇なら河川敷で魚捕まえようぜ〜もちろん素手で! そしたらみんなでバーベキューだぜ! 」

 

「暇じゃあないよ、少し休憩のつもりで外に出ていたんだ。それと……その理事ピッピっていうのかなり無理ない? 」

 

 魚のつかみ捕りを執拗に勧めてくるゴールドシップを諌める。この季節じゃ風邪をひいてしまう。夏ならいいという話でもないが。どうにも話のペースがわからない。話すたびに距離を詰めてくる彼女に若干気圧されている。

 

「えー? そうかあ? トレピッピと同じ感じで行けると思ったんだけどなー……じゃあ昔みたいに呼ぼうか? 」

 

 昔のように、そういう彼女を胡乱げに見つめれば、ニヤリという悪巧み顔の後に大きく息を吸って「おに──」

 

「やめてやめて、立場があるって言ったでしょ。はあ……全く、ゴルシは変わったね……先生もなぜ君がいることを教えてくれなかったのか……」

 

 慌てて手を振って言葉を止めさせる。僅かに覚えた頭痛、手を頭に添えつつ横目で伺ったゴールドシップは本当に楽しそうだ。明るい笑い声を耳にしつつ思い浮かべるのは今のゴールドシップとよく似て快活とした壮年の男の顔。教えてくれなかった理由を聞いても面白いだろ?とでも言いながらサムズアップするであろうことは想像に難くない。先の読めない人だ。

 

「こっちの方がおもしれーだろー?あとアタシはアンタが来ることは父ちゃんから聞いてたぜ?」

 

「ええ! ならなんであの人何も伝えてくれなかったの!? いや確かに君がウマ娘系の学園に入学したことは聞いていたけれど、まさかこの学園だとは……」

 

「アタシがここにいるのはあたりめーだろー? 日本一の学園だぜ! ここが一番面白いに決まってんだろ! 」

 

 謎のガッツポーズとドヤ顔を輝かせるゴールドシップに苦笑する。軽く言ってくれるが、この学園の門は相当に狭いはずなのだ。自身の娯楽と目的のためにはとんでもない才覚を発揮するのが常だったが、やはりその才能を使いこなしているな。随分と変わったが、変わっていないところもある。

 おもしろい、か。君は人を楽しませるのが好きだったな。

 

「はあ……そうか。──ふふ、確かにここは愉快だよ。楽しいかと聞かれれば少し微妙な顔をせざるを得ないけれどね。今のところ、私にとって特にアグネスタキオンさんが」

 

「アイツはおもしれーことばっかりやってっからなー、アンタと再会したときもタキオンの実験に巻き込まれてたよな。話題につきねーぜ」

 

「そういえばそうだったね……久々だよ、あんなに焦ったの」

 

「なんかすげー音したと思って上見たら、三階の窓から扉と一緒に人が降ってきた時は流石のゴルシちゃんもびっくりしたぜ……なかなか本気の叫びだったよな、オメー」

 

 わざとらしく手を口に当ててくすくすと笑い声を上げるゴールドシップに目を細める。タキオンが私を巻き込んだ回数はすでに片方の手では数え切れない。

 

「君が咄嗟に受け止めてくれなかったら今頃どうなってたか」

 

「クク……でもいいじゃーん! 感動的な再会☆って感じで。なーまたやろうぜアレ!」

 

「勘弁して……笑って済ませてはいるけれど普通に労災案件なんだ。命をかけたアトラクションは流石に遠慮するよ」

 

「アタシがキャッチするから! 」「そういう問題ではないと思うんだ」

 

 あのちーへいせーん────

 冗談──冗談になっていない──に飽きたのか、天空の城を探す大衆的アニメ映画の主題歌を機嫌よく歌い出したゴールドシップを横目にいくつか通知を飛ばしているタブレットで時間を見る。通知の内容はネットニュースと学内全体連絡で特に私宛でもない。二桁目の数字の動きが示すように、鷹に時間をだいぶ渡してしまった。まあお返しに癒しをくれたので良しとする。今の仕事の期限は近くないし、せっかくゴールドシップと会えたことだ、しばらくのんびりしてから部屋に戻ろう。

 

「あー!!そういえば助けた礼をもらってねえ!」

 

 この空間でゆっくりしようと背もたれに大きく背中を預けた途端、ゴールドシップが横でいきなり不穏なことを叫び出した。礼、礼か。命を助けてもらったのは事実だし、確かに、当然か。

 目で続きを促す。なるべく、現実的な。

 

「権利行使するぜ! 地球一周! 宇宙旅行! 火星移住! 3つ叶えてくれー! 」

 

 ダメだった。

 

「いや、無理無理。私魔法のランプとかじゃないから。こう、もっと、ね? 現実的なものなら」

 

 私はアラジンの魔神ではない。頭を擦っても出るのは抜け毛だけだ。ストレスのせいでね。笑えない。

 

「えー? そんじゃあヘリで遊覧飛行! 運転できるだろ?」

 

「え……な、なんで知ってるの……?」

 

 仕事(・・)の都合で取得した免許のことをなぜ知っているのか、驚いた。あまり人に話していないはずなのだが。ゴールドシップに伝わりそうな人間というと一人ぐらいしかいない。ああ……またあの人か……ゴールドシップを甘やかすのはいいが、なんでもかんでもペラペラ喋るのはどうなのか……。

 ご自身の立場と影響力をお考えになってほしい。まあ万一にもゴールドシップがそれで悪さをするとは思えないが。事業用操縦士資格を持っていることがバレても別に問題はないのが救いか。

 

「いやあ、それも無理。そもそもヘリコプターなんてどこに──いや山吹家は持ってるな……いやいや、ダメダメ。もっとこう普通な、ね……」

 

「あ〜? んだよー面白くねーなー。じゃあなんか考えてくれよー」

 

 度重なる否定に気分を害してしまったのか、不満そうな空気を全面に押し出してそっぽを向いてしまった。申し訳ないが、私としては逆になぜそれらの要求が通ると思ったのか聞きたい。私に言うより先生に言ったほうが実現する可能性があると思うのだが……

 しかし、何か考えてくれ、ときたか。提案するまで場が動きそうにもない。うむ……学生がが喜ぶものなんてわからないしなあ、ましてや相手はゴールドシップ。もうわからない。無難な線を選んでおこうか。食事なら、悪くないだろう。

 

「ね……時間もちょうど良さそうだし、喫茶で何かご馳走するよ。どうかな」

 

 さて、どうだろうか。

 数刻後、ゴールドシップがくるりとこちらを向く。不満げだった空気は何処へやら、柔らかな笑顔でいいぜ、と。よし、とりあえずOKなようだ。見るからに上機嫌になったゴールドシップに胸を撫で下ろしつつ、その調子の良さに思わず笑いを漏らした。

 

 

 ここへ来た道とは別の道を下る。ウッドチップの混ざった樹脂舗装の小道。ザリザリという特徴的な足音が二つ。ゴールドシップは私の隣を歩いている。庭園へ来たときに彼女が使っていたセグウェイは彼女がスキャナのボタンらしきものを押したら一人でに寮の方に走っていった。そんな機能があるモデルを私は知らないのだが……私の預かり知らないルートがあるのだろう。

 手すりの向こう、植栽が途切れて開けた視界の先、だだっ広い運動場とコースに人影が小さく動いているのが見える。舞う土埃、かすかに聞こえる声援。随分と離れているというのに熱気が伝わってくるようだ。見える人影は学園ジャージの赤一色。トレーナーの姿は見えないから、皆自主練習中といったところだろうか。

 

「ねえ、ゴールド──ゴルシ。君もああいったトレーニングはするものなのかい?」

 

 ゴールドまで言って、不満げな目線が突き刺さり慌てて訂正する。

 

「あたぼうよ!岩盤浴も三年って言うだろ?トレピッピたちと勝ち星目指して日々邁進ってな! 」

 

「それは……なんだか肌がツルツルになりそうな新慣用句だね……沖野さん、大丈夫かな……」

 

「いい奴だぜ。アタシたちのことちゃんと考えてくれるからな。料理もできるんだぜ」

 

「へえ、やっぱりトレーナーってのなんでもできるんだね。ちゃんと考えてくれる、か。そうだよね。あの人は誠実で熱い、良い指導者だと思う。でね、私が心配しているのは君の行動の話でね? 少し前にスペシャルウィークさんから君が沖野さんにドロップキックをしたとかいう話を聞いたんだけど───」

 

「あ! あー! ちゃんと手加減したって! 怪我はさせてねえ! 誓って! 」

 

 ゴールドシップが珍しくかなり焦った調子で話を遮ってまで弁明を始めた。あまりの必死さに思わず上体を反る。

 昔、グランドを走り回って気分が高まったゴールドシップがその勢いのままドロップキックを私にぶちかまし、鼻の骨を粉砕骨折する大怪我をさせたことを覚えているのだろう。地面が芝じゃなかったら頭の中身を辺りに散らばしていたかもしれない。折れた鼻はなかなか治らないし、ゴールドシップはしばらくテンションが地の底だしで大変だったことを思い出す。

 ふう、と嘆息して苦笑すれば、私の顔色を伺っていた彼女が表情を少し柔らかくした。

 

「信頼関係あってこそのものだとは思うけど、手加減すればやっていいってものでも無いからね……?」

 

「はぁい」

 

 少し落ち込んで見えたゴールドシップに深く考えずに手を伸ばす。

 頭に帽子らしきものが乗っていることを認識して、この年でやることでもないかと思い直し手を引っ込めようとする。すると彼女はまた調子のいい顔をして帽子を頭から外し、にへらと脱力したような笑いを浮かべる。何をしようとしていたのか完全に理解されていたことに若干の気恥ずかしさ、一連の流れに懐旧の念。

 まったくこの娘には敵わないな。

 苦笑まじりのため息を一つ、突き出された頭に手を添わせて数回なでる。手の位置の変化に得も言えぬ気持ちが湧き上がった。

 

「こういうところは変わらないね。懐かしいよ」

 

 一瞬の躊躇の後、手を戻す。言葉はない。止まった歩みを再開しようとした私の足は、後ろから強く抱擁してきたゴールドシップに止められた。

 

「うわっ! ど、どうしたんだゴール──ゴルシ」

 

「へへっ、なんとなく〜」

 

 そのままいとも簡単に抱え上げられ、くるくると数回振り回される。目を回してふらつく私にゴールドシップは先に言ってるぜーとだけ言い残して坂を駆け下っていった。

 

 

「私、ハア、アスリートの君とは違って、ハア、そんなに運動できないからね。いや、ハア、きつい……」

 

 坂の終点、息も絶え絶えな成人男性と全く余裕な表情のウマ娘それぞれ一人。圧倒的ポテンシャルの差がそこに現れていた。

 

「ちょっと走っただけじゃねえかよ〜後ろから押してあげたじゃねえか! 」

 

「うん、ハア、押したから、こうなってるんだよね……」

 

「先に行ってるって言ったのに来るのが遅いからだろぉ? ゴルシちゃん自らわざわざ戻ってきてやったのにい」

 

 置いて行かれてしまったゆえ、一人でゆっくり歩いて後を追っていたら、その置いていった張本人が突如駆け戻ってきてそのまま背中を押されて駐車場まできた。

 一般アスリートの全盛期が幼少期に相当する別種族の方に遅いと言われましてもね……寿命が縮まる思いをした。膝の感覚が薄い。膝……私の膝……繋がってるよな……?

 何度かむせそうになりながらしばらく深呼吸を繰り返し、やっとのことで心拍を落ち着かせることができた。疲労感にため息を吐きながら自分の車のドアノブに手をかけたところで執務室で勉強中の四人に遅くなることを伝えていないことに気づいた。内ポケットを探って携帯端末を取り出し、執務室のスマートスピーカにつなげて一言呼びかける。

 

『もしもーし』

 

 すぐ返事が返ってきた。この声はトウカイテイオーだな。

 

「聞こえているみたいですね。ちょっと用事ができまして、結構遅くなりそうです。もし、勉強会がお開きになったりしたらこちらでオートロックに設定しておきますので普通にドアを閉めればそれで大丈夫ですから」

 

 部屋の監視カメラ映像を端末に出せば机に参考書とタブレットが広がっているのが見える。ちゃんとやっているようだ。

 

『はーい。仕事の休憩に仕事が増えるって大変だねー』

 

「ハハ、まあ仕事とはちょっと違うんですけどね」

 

「おーい、おせーぞー」

 

 なかなか出立しようとしない私に痺れを切らしたのかいつの間にか後ろに回っていたゴールドシップが顎を肩に乗せて抗議してくる。

 

『ゴールドシップ!? ええ? どういうこと? 』

 

「いやあ……捕まっちゃいましてね」

 

「コイツはゴルシ様が借りてくぜ〜」

 

 後ろから伸ばされた手に端末を取り上げられ、そのまま通話を切られた。全く。

 これ以上待たせてはそれこそ何をしだすのかわからないので、ドアロックを解錠して運転席に座る。ゴールドシップは自然と助手席に落ち着いた。

 ナショナルブランドのちょっといいグレードのセダン。黒色の塗装が鋭く光を反射する。新職場で使うと思って勢いで買ったが、まだほとんど使ってないゆえ、新車特有の匂いが強い。後席のシートに至ってはヘッドレストにまだビニールがかかっている。

 あまり馴染んでいないハンドルに手を掛け、ブレーキを踏みつつボタンを押し込んで電源を入れる。機械音声で挨拶と今日が何かの記念日であるかが平坦に読み上げられるのを聞き流しつつ、横に話しかける。

 

「何か音楽でもかける? スピーカ繋げるよ」

 

「うーん、特にねえな。マスターのオススメで」

 

 誰がマスターか。おすすめ……それならといつも聞いているプレイリストをハンドルのパネルからセレクトする。クラウドに保存された曲がシャッフルされて再生が始まった。鼓膜を震わせる空気の振動。前と後ろ、調和の取れた空間音響。使用回数は少ないが、スピーカーにはこだわってよかったと毎度思う。同乗者がウマ娘であったことを思い起こし、音量を少し絞った。

 

「第九?」

 

「そうみたいだね、やっぱりクラシックが私は一番好きだな」

 

「アタシも嫌いじゃないぜ」

 

 ゴールドシップがふんふんと鼻歌でメロディーをなぞり始めた。教養はあるのになんでこう『自由』なんだろう。私が見つめていることに気づいた彼女が何か、と首を傾げる。なんでもないと答えつつ、彼女がシートベルトをしっかりしているのを確認してアクセルを踏み込んだ。

 

 

 目的地は例の喫茶。学園に初めてきたあの日、雰囲気のある扉を開けて店の敷居を跨いでから、どうにもあの雰囲気に魅了されてしまって何度か訪れている。マスターの口数が少ないのは相変わらずだが、出されるものはなんでも美味しい。ここならゴールドシップも満足してくれる、と思いたい。

 駐車場からさほど距離があるわけでもないので、長めのクラシック曲が数回流れた頃には着いた。ゴールドシップはといえば助手席でずっと音楽を口ずさんでいた。しかし歓喜の歌をドイツ語で歌い始めるのは完全に予想外で驚いた。まだドイツ語を続けていたのか。

 

 カラン───ドアベルが乾いた音を鳴らす。数日ぶり入店。小さな軋みをあげて蝶番が開き、わずかにコーヒーの匂いと、古い木の匂い。ダークガラスに遮られて照明しか見えなかった室内が露わになる。

 

「いらっしゃいませ」

 

 グラスを拭いていたマスターが手を止めて歓迎してくれる。少し通ってわかったことだが、マスターは無口ではあるがちゃんと会話はしてくれるし、かなりの聞き上手だ。学生の話相手になんかにもなっているという。

 マスターと挨拶を交わして店内を見渡し、違和感にはたと気づく。

 

「いつもなら他にもお客さんがいると思うんですが、今日はいないですね。今日って何かありましたか」

 

「ファン感謝祭と一緒にやるはずだった商店街のイベントがおとといから開かれていると聞いています」

 

「ああ、なるほど」

 

 ファン感謝祭は学園理事会の緊急の案件のために前倒しで行われたと聞いている。緊急というのはまあ、つまり私の役職周辺のことであるが。理事長から聞く限りかなり大きなイベントだそうで、学生たちにとっても重要なものだとのこと。ついでに来年は頼むぞッ!とも言われた。未来を見れば行事がどこまでも詰まっている。

 ───仕事のことを考えるのはやめよう。

 ゴールドシップを連れていつものカウンターではなくテーブル席に座る。カウンター席で静かにカップを傾けるのがいつもの楽しみ方なのだが、今日は愉快な話し相手がいる。物珍しげに店内を見渡している彼女を見るにどうやらここにきたことはないらしい。学園から遠くはない位置のはずなんだが、そこまで有名ではないのかな。マンハッタンカフェさんは良く見るのだけれど。

 壁際のスタンドに収められていたメニューを手に取って開く。彼女の前に差し出せば、目を輝かせてあれがいい、これがいいと選び始めた。楽しそうな表情に少し笑いを漏らす。

 

「めっちゃ種類あるじゃねえか! カラシたい焼きとかおもしれーのもいいけどやっぱこういうのテンション上がるなー! 」

 

「カラシ……たい焼き……? 」

 

 ゴールドシップの口から飛び出した二つの単語がどう頑張ってもつながってくれない。もっともらしい考察をすれば練りからしを餡子の代わりに入れたとか? それはお菓子と言えるのだろうか。

 

「それは美味しいの? 」

 

「悪くはないぞ? マックイーンとテイオーはダメそうだったけど」

 

 彼女らに食わせたのか……あの甘党たちにカラシは鬼畜という他ない。何ということもないという調子で言う彼女がそれで嫌われないていないことに何か逆に感心してしまっている。

 

「うーんこれとこれとこれ、悩むなー」

 

 私が呆れを混じらせた目線を向けてもメニュー表に夢中の彼女は気づいていない。パラパラとメニューをめくっては戻り、めくっては戻る。しばらく待ってみれば、悩むなーと言いつつ何かを察してほしいとでもばかりにチラチラと見てくるではないか。あまりにもあからさま。だが、嫌いじゃない。今日何回目かの苦笑い。

 

「ハハ、わかったよ。好きなだけ頼んでいいよ」

 

「マジ? 太っ腹! マスター! 注文お願いします! 」

 

 これとこれと──つらつらと注文が並べられていく。スイーツ系の品を全て注文する勢いだ。マスターがメモ帳にメモしているところを初めて見た。永遠に等しく読み上げられる商品名を聞いて、昼下がりに食べた腹の中のサンドを意識する。……私はアメリカンでお願いします。メニューを聞いてるだけで満腹感が膨れてくる。彼女へのお礼が目的であることだし、嬉しそうな顔を見れただけでいい。

 少しの困惑を垣間見せ、ちょっと長くなります、と残してカウンターの奥にマスターが消える。置いていってくれた水を口にしながら壁のテレビに目をやる。どうも平日の微妙な時間であるからか、芸人だろうか無駄にテンションの高い男が中身のない話を永遠繰り返すよくわからないトークショーの後、おっとりしたキャスターが出てきて天気予報が始まった。モニターの中の電子ボードには晴れのマークが続く。別段面白いこともない。途切れ途切れに行き交う自動車の音が店内にわずかに入ってくる。いつものように仕事の確認でもしようか、そう考えたが今はゴールドシップと来ているのだった。取り出しかけた端末をポケットにしまい直す。

 雑味のない水、コーヒーの匂い。珍しくゴールドシップが静かなことも相まって落ち着いた空間だ。彼女は目を瞑っていて何を考えているのかわからないが。

 

 待った、と認識するには短い時間を経て、店の奥からカラカラとカーゴを引いてマスターが来た。上にはパフェ、ケーキ、タルト、ケーキ、アイスクリーム、ケーキ……多段のカーゴに所狭しと並べられた無数の甘味。

 まず第一に思ったのはこんなに食べられるのか……?という心配である。引き気味の私と待ってましたと言わんばかりのゴールドシップ。その間に食器と木製の机が発てるコトコトという音がしばらく続き、お楽しみくださいの一言の後マスターが下がっていった。

 

「……すごい量だね」

 

「これぐらいが燃えるってもんだろ〜!」

 

 燃える……大食いチャレンジかな。張り切り具合を見るに本当に食べられる分を注文したようだが。言動と本人が醸し出す雰囲気とは異なって非常に上品にパフェやらケーキやらを消費していく。学園の生徒とか教官が見ようものなら平常の彼女との違いでさぞ困惑することだろう。私はあまりにはっちゃけている平常の彼女で困惑したが。

 相変わらず文句の付け所のない美味しいアメリカンコーヒーをゆっくり口に含みつつ、幸せそうにスイーツの山を崩しているゴールドシップを眺めていると、ちょうどこちらを見た彼女と目が合う。どうしたのかと少し目を開くとゴールドシップの口角がぐいっと上がり、三日月の形をした。

 

「なんだあ? 分けてほしいのか?」

 

「いや、私は色々お腹いっぱいだからいいよ」

 

「ったく、素直に言えばいいのによ〜」

 

 話を聞いちゃいない。何をするつもりかと思えばスプーンでプリンを掬ってこちらに差し出してきた。

 いらない、遠慮するなって、いらない、遠慮するなって……

 同じやりとりがひたすら続き、まるでどこかの芸人の定番ネタかのようになってきた。終わりが見えないやりとりの末、私が折れた。不承不承口をひらけばアーンなどと言いつつ自分で食べるなどという意味不明な行動を入れてきた。人間不信になりそうだ、もうわけがわからない。ノリについていけずどうしたものかと呆けていると、2掬い目を突然口にぶち込まれた。全くの予想外に変な声が出る。

 

「どう?美味しい?」

 

 コーヒーの残る舌の上にカスタードの濃厚な味が広がる。悪戯な笑みを深めて聞いてくるゴールドシップには唸ることしかできなかった。全く本当に他に客がいなくてよかった。今更ながらゴールドシップ制服であることだし。プリンはとても美味しかったです。

 

 

 机の上に展開されていたスイーツ軍の掃討がやっと終わり、カウンターで会計。蛇腹折になった長い長い注文メモを横目に財布を開く。金なんて飲食ぐらいでしか使わないから別にいいけれど、トレーナーたちは大変だろうと思う。何か制度を考えるのも手な気がするな。何か救済システムを。

 カウンターの上に積まれている小箱が目に止まった。部屋で勉強を頑張っている組のためにクッキーもついでに買っておこう。

 

「さあ、帰るよ」

 

「はあ?何言ってんだオメー、アタシのターンはまだ終わってないぜ!」

 

 素で、は? と声が出た。私のターンはまだ回ってこないらしい。喫茶を後にして数歩、真隣の時間貸駐車場で立ち尽くす。

 

「商店街でイベント開催中だろ〜?行くしかねえじゃねえか!」

 

 スイーツの待ち時間に妙に静かだったのはこのことを考えていたからか。スマートキーの水素ゲージをちらっと見た。車の水素は十分ある。彼女の要求を受けることは可能だが……流石に遅くなりすぎやしないか。

 まあ、今日ぐらいいいか。

 

「はあ……しょうがないなあ」

 

「いよっしゃあ! 早く行こうぜ! 」

 

 

 

「はあ、流石に疲れたねえ」

 

「さすがのゴルシ様もくたびれたぜ…」

 

 斜陽の光を浴びつつ、大通りをゆっくり走る。トレセン学園へと戻る道。だいぶ地平線へと近づいた太陽は大きく滲んでいる。もう少しで遠くに見える山に隠れるだろう。半透明のサンバイザー越しに輝く西日に目を細めた。

 商店街ではゴールドシップにひたすら引き摺り回された。あれが気になる、これが面白い、と方々を駆け回る彼女について回って色々買ってあげたらトランクがすごいことになった。ガラスペンはまだわかるが、登山用蹄鉄なんていつ使うのだろうか。使うにしても怪我には気をつけてほしいな。

 それにしても今更ながら学園理事が一生徒とショッピングってまずいかな。まずいよな。バレたらなんて言い訳しよう。ゴールドシップだった、でどうだろう。許されそうな気がしてしまう私を誰が責められようか。

 

 学園駐車場の私に振り当てられている番号に車を停める。トランクの物品はどうしようかと買ったものを見てみるが、どうにも運べる気がしない。ゴールドシップの膂力なら運べないこともないだろうが、もう疲れているであろう彼女に無理をさせるのは良くないだろう。明日にでも配送ロボットを使って運ぼう。蹄鉄だとかダンベルだとか重いものが多すぎる。喫茶で購入したお茶菓子だけ持って執務室へ向かうことにする。するとゴールドシップも後ろについてくる。もう解散でいいだろうと考えてじゃあまた、切り上げようとすれば「ゴルシちゃんを置いていくのかー」とかなんとか。またどうせおもしれーかおもしろくねーかの判断だろう。深い意味はあるまい。

 

 まだ学園には活気があった。遠くの声援と掛け声。トレーナーの野太い声がわずかに聞こえた。トレーニングコースを走っている生徒たちを遠目に事務棟の門をくぐる。幾人かの職員とすれ違いつつ階段を登り、いつも通り職員証をかざして扉を開いた。入出履歴を流し目で見る、どうやらまだいるらしい。ちゃんと勉強中だろうか。驚かせないようゆっくりと扉を開くと退室した時と同じように談話用デスクに四人、と来客が二人。楽しげな雰囲気で談話中だった。

 

「おや、ルドルフさん、エアグルーヴさん。……もしかして外出中の表示出し忘れてましたか」

 

「やあ。外出中の表示は出ていたよ、書類だけポストに入れて行こうと思ったんだけれど、中から話し声が聞こえてね。ついさっき来たところさ。それにしても昼からずっと外出とは何かあったのかと心配し……た……」

 

「ピースピース! ゴルシちゃんが半日借りましたー! 」

 

 ゴールドシップが後ろに現れ、それをシンボリルドルフが視認すると同時に私に心配の目線を送ってきた。大丈夫、ゴルゴル星とやらには連れていかれていない、はず。イデア的にはこの部屋を出ていった時の私と今の私は同一のはずである。平常よりだいぶ体力は使ったが。

 

「愉快な日でした……」

 

 たはーと疲れた笑いを漏らせば、6人全員から同情の目を向けられる。ゴールドシップよ、君は普段の学園での行いにもう少し気をつけたまえ。いや、本当に。

 

 

 

「イチジクのクッキーなんて珍しいねー」

 

「最近は寒冷化で収穫量も減っていると聞きますし、久しぶりに食しましたがやはりこの味はたまりませんわね」

 

 甘党二人からお褒めの言葉をいただいた。キタサンブラックとサトノダイヤモンドも美味しそうに食んでいる。ドライフルーツのイチジクの小片を噛み砕くと濃厚な味が滲んでくる。確かに美味しい。また買いに行こうと思えるいい品を見つけることができた。

 

「ふむ、寒冷化か……しかし気温変化のサイクルが最近は早いと聞く。また暖かい気候がやってくるだろう。イチジク農家(・・・・・・)一時苦悩か(・・・・・)、というわけだな! 」

 

「……?っ! なるほど! 」

 

 エアグルーヴが衝撃を受けたような顔をして素晴らしいと言わんばかりの表情をシンボリルドルフに向ける。いやいや……生徒会長さんもしてやったりみたいな顔してるんじゃあないよ。彼女は妙に駄洒落にこだわる節がある。親しみやすさの演出なのかもしれないけれども、楽しそうな笑みには演技とかそういうものをあまり感じられない。本当にダジャレが好きなんだろうな。

 ぼうっと親しげにやり取りをする生徒会の面々を眺めていると後ろからぬっと手が伸びてきて前の皿からクッキーを取っていく。手の主はゴールドシップだ。

 

「確かにうめーな。今度作り方聞いてイチジク農場いこーぜ。車出してよ」

 

「ええ……?」

 

 また冗談なのか本気なのかわからないノリでちょっとハジけてることを言ってくる。私そこまで暇じゃあないんだけれども。あと肩にもたれないで……近いよ。

 

「……半日、か。この前のなんでもの件だが……思いついたかもしれない、また連絡するよ、ね?」

 

 いつになく真剣な顔で突然シンボリルドルフが約束の話をしてきた。顔が怖い。私は何かしてしまったのか? 眼光がすごい。急展開の驚いていると肩に痛みが走る。痛い痛い、ゴールドシップの肘が肩に乗ってる。数回手で触れると解放された。お、すまん、じゃないよ、全く。

 トウカイテイオーがシンボリルドルフに話しかけて別の話題に変わると不穏な空気は消えた。なんなんだ一体。

 

 

 門限の時間が近づいたことでお茶会はお開きになった。シンボリルドルフとエアグルーヴがちびっ子たちを連れて寮まで送って行ってくれた。ありがたいことだ。随分と暗くなった学園。まだ日は短い。学園内の電灯が暗く煉瓦の道を照らしているのが窓から見える。

 生徒会組がここへ来たのは書類を渡すためだったらしい。持ってきてくれた書類はお役所提出用の一般書類。生徒会の面々が既に確認してくれているだろうから、目を通すだけで終わるだろう。おそらくエアグルーヴが整えたのであろう、綺麗すぎるほどに角が整った書類のブロックからクリップを外し、要確認ボックスに入れる。ずれた角に少しの罪悪感。

 コンピューターを立ち上げ、他に新しい職務が増えていないか確認する。うん……なんかある。要望書.PDF──バカみたいに大きいデータ量。生徒から理事会への要望のまとめだ。理事会メンバー若干2名、かつ一人は病み上がり。私が全部確認して結論を出さなければ。ここまでの量になるとペーパレスとかもはや関係ないな。しかしやるしかあるまいて。

 PDFの中身を検討の価値があるものとないものに分別する。トレーニング用具を購入してほしい等は理解できるが、温泉を掘ってくれってなんだ。寮にお風呂あるでしょうに。

 

 コンコン

 

 ふと自分の立てるキーボードの打鍵音以外の音が聞こえたような気がした。訝しんで動きをとめてしばらく待つ。

 

 コンコン

 

 やはり聞こえる。正面からだ。どうやらドアを誰かが叩いているらしい。インターホンが備え付けられているのだからそれ押せばいいのに、一体誰だろうか。疲れを主張する足腰に鞭を入れて立ち上がり、ドアに近づく。ドアカメラを見てみるが、何かに覆われているのか廊下の様子を伺うことができない。

 訝しみながらも思いきってドアを開けると、そこには思ってもみなかった人物がいた。芦毛を靡かせるウマ娘に肩をつかまれる。

 

「ゴールドシップ!?」

 

「しー! バレちゃうだろ! あとゴルシな」

 

 そのまま力ずくで部屋の中に押し込まれ、ゴールドシップが廊下をキョロキョロと見た後にドアを閉め、物理ロックを閉める。何をするつもりかはわからないが、門限過ぎて寮の外にいるのは大変まずい。

 

「おいおい、わかってるとは思うけど門限過ぎてるぞ……流石にバレた時にフォローはできないからね」

 

「窓から出てきてやったぜ。インターホンは履歴残るから押せなかったけどな」

 

 窓から出ておいて履歴を気にするのか……寮の外出口のセキュリティロックをどう突破したのかは理解したが、どうしてそんなことを。今日一番の深いため息。緩い頭痛を覚えてソファーに倒れるように座り込む。

 

「どうしたの。今日まで聞く限りは門限破ったりとかルールやぶりをしたとかいう話はなかったと思うのだけど」

 

「ちょっとな」

 

 ゴールドシップがソファーの横に座る。昼のベンチの時より距離が近い。何か話したいことがあるようだが、なかなか話し出さない。何を考えているのかさっぱりなので彼女の様子を伺うわけだが、昼間とは打って変わって目を合わせようとしない。彼女にしては思い切りが悪く、無言の時がただ流れる。

 カチカチというアナログ時計の針の音が静かに響く。遠くの方から金属の擦れる音が聞こえてきた。自動車ゲートが閉められたのだろう、もう遅い時間だ。静かな夜、理事執務室には奇妙な空気が流れていた。もう10分ほど経つかというとき、執務机上のコンポから流れていた音楽が切り替わった。

 

「あ……この曲」

 

 流れ始めたのはショパンの練習曲op.10-3。日本での愛称は「別れの曲」───私とゴールドシップにとっては少し特別なものかもしれない。長調でありながら悲しげなメロディが私の記憶を刺激する。二人きりの状況といい、錆びついた記憶の引き出しを開けるには十分な材料が揃う。

 私の口は半ば勝手に動いていた。

 

「随分と経ったね」

 

 ゴールドシップがうんと小さく頷く。それを皮切りに彼女が口を開いた。今日一日聞いていた歯切れの良い喋り方ではなく、ポツポツと言葉を確かめるように話す。

 

「今日はありがとうな、楽しかったぜ」

 

「うん」

 

「もう一つお願いがあってな」

 

「うん」

 

「戻って……来られねえか……?」

 

 絞り出すような声。沈黙が場を支配する。私は天を仰いだ。抽象的な問いに含まれた彼女の本心は理解している。しかし──

 

「ごめんね」

 

 彼女を悲しませると分かっていてもこの回答をするしかない。

 

「私は山吹家の人間に戻ることはできない。立場の問題もあるが、これは私の意志でもある」

 

「そう……だよな……」

 

 ゴールドシップが俯き、銀髪が表情を隠す。悲しげな目と視線が交差した。火を見るより明らかであったが、彼女は奈落に落とされたとでも言わんばかりの落ち込み方だ。敏いこの子なら無理であろうことぐらい理解しているだろうに。

 「だけど」そう続ける。ゴールドシップがわずかに顔を上げた。

 

「今日は楽しかった」

 

 ちゃんと言葉にするべきだろう。

 

「ありがとう、ゴルシ」

 

「……あたりめーだろ! ゴルシ様とのお出かけだぞ!」

 

 眉を下げてはいたが笑顔を見せてくれた。強い子でよかった。さっきのゴールドシップのセリフをそのまま返すようになってしまったがこれは私の本心だ。久しぶりに何か心の深いところで喜びを得れた気がする。

 再びの沈黙は先ほどまでとは違って緊張感は無くなっていた。ソファをゆっくり動いて近づいてきたゴールドシップは、私に寄りかかって肩に頭を乗せてきた。彼女の好きなようにさせる。ため息ぐらいは許してほしい。

 

「……また聴かせてほしいな」

 

「ピアノ、まだあるんだ」

 

「うん、アタシの部屋に」

 

「……先生にも顔を見せないといけないし、いつか一緒に行こうか」

 

「……うん」

 

 しばらくの間。彼女が満足するまで、じっとしていようと目をつぶる。

 コンポで流れていた静かなピアノがフェードアウトしてゆき、曲が楽しげなものに切り替わった。跳ねるような曲、ゴールドシップがいきなり離れ、どうしたのかと訝しむ間も無く肩を掴まれてぐいと引き倒された。そのまま膝の上に頭が乗る。俗にいう膝枕という状況だろうか、かなり強引だったが。ニコニコとした顔が目の前にある。

 

「うわ、一体どうしたんだ」

 

「にしし、アンタちゃんと休めてねえだろ?」

 

「ヴッ」

 

「ゴルシちゃんサーベイによれば学園スタッフには千手観音、生徒からは不夜城呼ばわりだぜ? これは誰かが強制的にでも休ませねえとなあ」

 

 Sっ毛のある笑みに睨まれて冷や汗を流す、がふざけている場合ではない。今日中には要望書を分けておかないと新しい仕事がきた時大変だ。仕事に溺れるのは勘弁願いたい。もう時すでに遅しかもしれないが。頭を抑える腕に触れようとして、違和感を感じる。

 

「仕事なら手伝ってやるよ〜もちろんバイト代は請求するぜ」

 

 生徒に任せられる理事業務があるか、と言い返そうとして口が回らないことに気づく。体も動かない。視界もぼやけて遠ざかっていく。なんだ、なんだこれは。どうなってる。歪みながら視界が狭まってゆく。

 

「おお?効いてきたか?タキオン印の睡眠薬! んじゃ、グッナイ! 」

 

 茶会の時に紅茶に薬でも入れられたのだろうか……わからない……タキオン印などという危険な単語が聞こえた気がするが、もはや思考できる余裕は残されていなく、意識は闇に落ちていった。

 

 トレセン学園の夜は今日も更けていく。




お嬢様ゴルシ概念いいよね
感想、お気に入り感謝です。

ツイッターを開設したことを報告します。
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INTERLUDE:YOU CAN (NOT) REDO

「んじゃ、グッナイ!」

 

 さすがのタキオン印、すげえ効き目。さっきまでハキハキと喋ってたコイツがもう夢の世界だ。眉毛を触ってみたらうめき声が上がった。

 薬液入りの圧入式注射器を合皮のポーチと一緒にポケットに戻しておく。危ねえからな。コイツもまさか注射器で睡眠薬を注射されるとは思わねーだろーな。あまりにも簡単でびっくりしちまった。タキオンに頼んだ時は何に使うのかすげえしつこくて大変だったぜ……所用だからでゴリ押しちまったけど大丈夫だよな?

 

 聞こえるのはコイツの寝息とアタシの立てる音、そしてまだ流れてる音楽。音楽にこだわるのは変わってないらしい。クラシックばっかだな、アタシも好きだけど。

 コイツの寝息は至って普通だけど、顔が寝に入る前の顰めた表情のまま。ほっぺたを何度か引っ張る。何か唸ってるけど少しはマシになった、かな。

 

 本当は今日仕掛けるつもりじゃなかった。注射器だってもっと普通に休んでほしいと伝えて、聞いてくれなかったら強硬策として使う予定だった。アタシ自身何を考えているのかわからないまま、寮の部屋を抜けてきちまった。昼間出かけてからどうにも浮き足だっちまって……自分でもアタシらしくないと思う。

 ……調子狂うなあ。

 

 でも、楽しかった。ホントにな。ただ嬉しくて、一日はしゃいでた。菓子を選んだり商店街を回ったりするのはもちろん楽しいことだけど、何より日常の風景にコイツがいる、私のためじゃないことはわかってるけど……手の届く距離に戻ってきてくれた、それが嬉しかった。どういう巡り合わせかはわからないけど、感謝はしてる。

 プリンを不意打ちで口に突っ込んでやった時、商店街の蹄鉄輪投げに成功してどうだ見たかと振り返った時、特殊蹄鉄を買ってくれとせがんだ時、眉を下げつつアタシに向ける優しげな笑みが懐かしくて、愛しくて。

 途中から尻尾にかなり気を遣ったぜ、神経を使わないと勝手に暴れ出すんだからな。耳は……気づいていないことを祈るしかねえ。小恥ずかしい。

 

 今思い出しても魔法みたいな再会だった。

 電話で久々にお父様から話があると聞いて、学園にアイツが来るぞ、なんて。久しぶりに聞く名前が出てきてどんな話かと思ったら「学園に理事として就任する!」だなんて誰が聞いても冗談だと思うに決まってる。揶揄われたと思って怒り心地で電話切っちまった。名前が出た時点で何かを期待してしまったのは当然で、怒りが抜けた後はもう疲れとも似た脱力感しかなかった。気分を晴らそうと何か当てがあるわけでもなく校舎の近くを散歩してたら、爆音と共に人が上から降ってきて、なんとかキャッチしたらまさかまさかのコイツというわけよ。いやー父ちゃんめんごめんご☆

 その場では訳もわからず、感謝だけして別れた。その日から一週間ぐらいは何が起きたのかなかなかアタシん中で収拾がつかなくて、ぼーっとする時が多くてトレーナーとかスペとかにかなり心配されたっけ。

 再び会いにいって自分だと話した時の狼狽ぶりは何度思い出しても笑えてくる。大の大人が尻もちつくところなんてなかなか見れないぜ。

 

 アタシがコイツとの距離感を掴み損ねているように、コイツもまだ距離を測っているんだろうなとは思う。まだそんなに時間経ってないし。

 ルドルフのことはルドルフさん呼びだってのに色んな人が呼ぶゴルシを呼べねえのはおかしいだろうって、何度も何度も押してみたがダメだった。そもそもゴールドシップさん呼びを辞めさせるのにめっちゃくちゃ苦労したしな。立場立場って全く相変わらず堅物なところは変わっちゃいない。

 

 ぐっすり寝ているか耳をひっぱりしてみたりして何度も確認する。そしてスーツの袖を少し捲った。ここで再会してからから一度も外したところを見たことがない手袋も気になったけれど、それじゃない。少し上、左上の手首。そこにあるのは派手を好まなさそうなコイツが自分ではとても買いそうにない金装飾の多い少し古びた腕時計。時間を確認するときにチラチラ見えてずっと気になっあてた。

 

 ああ、やっぱり。

 

 ポーチをしまったのと反対のポケットから取り出したのは腕時計と同じくらいの時を経た古びた懐中時計。銀の装飾の施されたシンプルなデザイン。華美な腕時計とは対照的に落ち着いた雰囲気を纏っている。それぞれ逆のものの方が似合うような気がする。いや、きっとそう。

 龍頭を押せば蓋が跳ねて、控えめながら精緻な装飾の刻まれた銀の文字盤が露わになる。跳ね上がった蓋の内側には一枚の写真。今と隔絶した時を表すような、だいぶ色の抜けてしまったそれ。栗毛のような髪色の幼いウマ娘と学生服に身を包んだ男が時計を並べて、わずかにぎこちない笑顔でいるその瞬間を切り取ったもの。

 

「まだ使ってんだ」

 

 アタシも人のことは言えねえな。笑いかどうか自分でもよくわからないものが吐息となって口から漏れる。

 

 

 ───誕生日プレゼントです

 

 おお、綺麗な時計ですね

 

 じいやと選びました。私らしい色でしょう?

 

 ふふ、そうですね。大事にします───

 

 

 どこからか笑い声が聞こえたような気がした。記憶の中、自分の内側から。私にとっては大事な何か。彼にはどうかわからないけど、同じ気持ちだったらいいな。

 いつの間にか滲んでいた涙を拭う。

 音楽はいつの間にか止まっていた。耳をすませば、腕時計と懐中時計の秒針の立てる音が重なって聞こえる。

 

「やり直すのは無理かも知れねえけどよ」

 

 触れた腿から温もりを感じる。コイツがここにいることの何よりの証拠。消えて無くなってしまいそうもない、重さをしっかり感じて安心できる。夢じゃない。

 

「また一緒に……さ……」

 

 

 昼間の活気を裏返した静かな学園。不夜城の明かりが今日は落ちている。いつもより静かになった学園を見下ろす闇夜に、一条の流星が駆けていった。



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INTERLUDE:DEVOTION

 窓から差し込む日差しが眩しい、常より活気の少ないいつもより早い朝。そしていつも通りの研究室。所狭しと並んだ実験器具の横を通り過ぎて、まず第一に手を伸ばすのはこだわりのティーメーカーにこだわりの茶葉、そして数個の角砂糖。これがないと始まらない。自分に最適化されたこのドリンクは私の脳を最高のパフォーマンスができる状態に高めてくれる。今日も今日とて新たな研究テーマに挑むのがサイエンティストたる私のいつものルーティーンであるが、今日は研究休養日とする。

 ここ1ヶ月ほど何回か突発的な化学反応で部屋を破損してして研究に何度か制限がかけられることはあったが、それが理由ではない。トレーニングに出ようと言うわけでもない。この学生の生徒としてはトレーニング日数は完全に外れ値とか化してしまっているが、それも関係ない。つい先ほど、私の頭を悩ませ続け、私の能力に著しい制限をかけていた所謂悩みの種というものを取り除くことに成功した。なんとも清々しい、未解決問題をエレガントな解法で完璧に粉砕したような快感。今日はこの余韻に浸ろうと思う。なかなか得られる感情では無いのでレポートを残しておくのも悪くないかもしれない。

 ほう、と一息ついて赤橙色の液面を眺める。そこそこ上質な紅茶の香りが鼻口をくすぐり、自然と笑みが湧き上がってくる。ベージュのカーテンを遠て柔らかな光を届ける朝日が示すように今日の空は機嫌が良い。いい気分だ。

 

「おはようございます」

 

「ん? ああ、おはよう」

 

 突然引き戸が引かれ、この場をいつも共有しているウマ娘が現れた。どうも私としたことが部屋に近づく足音が聞こえていなかったらしい。集中力を散漫させて良いことが起きたことは私の経験上存在しないので気を付けておかなければね。

 

「今日は早いですね」

 

「ああ、朝一番に確認したいことがあってね、今日は早起きなんだ」

 

 じっと金色の目がこちらを見る。私がここに朝早くからいることがそんなに不思議だろうか。無表情の表情から僅かに訝しみのニュアンスを感じる。私はまだ何も問題を起こしていないはずだが? 周りが口々にいう問題というのも私はそこまで問題だとは思っていないが。

 

「気になるかい? どうだい、紅茶でも、私が淹れるよ」

 

「……私はコーヒー派です」

 

 茶葉の缶を持ち上げてヒラヒラと降ってみれば、若干機嫌の悪そうな目線に変わる。私がそれに小さく笑うと、知ってるくせに、とぶつぶつ呟きながらサイフォンでコーヒーを煎れ始めた。布フィルターをシンクで洗って絞っている。こだわりがあるんだろうけど、手間のかかることだ。

 香りは悪くないなんだが……どうにも苦味が強くて好きになれない。砂糖を入れて飲めるようになるか実験を行ったことがあるが、ついぞ飲めるようにはならなかったし、甘いコーヒーではなくコーヒー味の砂糖が生成されてアイデンティティクライシスが起きていた。もうやらない。

 ふと、いつも通りコーヒーを用意するカフェの作業から違和感を感じる。ガリガリとミルで砕かれた豆の匂い。アルコールランプの炎で熱せられた水がロートを上り、細やかなコーヒーと混ざってより香り強くなる。

 

「君に限って無いと思うが……火加減とか間違えていやしないかい? 」

 

「香りの違いだと思います。新しい豆を試してみようかと」

 

「新しい豆か……私も茶葉をいろいろ試したいのだけれど、最近また海運が滞っているせいで行きつけの店ですら在庫のものしか海外のものが手に入らなくてねえ。天然物がいいんだけれど、人工環境栽培のものばかりだよ。やっぱりそれも海上プラント産とかかい? 」

 

 私の疑問に彼女は口角をわずかに上げる「いえ」

 

「イタリアのヴェルニャーノです。もちろん自然の土で育ったものですよ」

 

「えぇ!? いったいどうやって手に入れたんだい? 」

 

 竹ベラで粉を攪拌しつつ、自慢げにカフェは桐島さんからもらいました、と話す。なかなか珍しく口が笑みの形だ。いつの間にかカフェは彼とコーヒー仲間とでもいうべき仲になっているらしく、彼の伝手で豆を分けてもらったらしい。職権濫用じゃないだろうね。特別輸入枠にコーヒを忍ばせるのは果たしてセーフなのだろうか。福祉厚生というやつかな?

 アルコールランプに蓋がかぶせられ、ゆらゆらと揺れていた青白い炎が消える。ゆっくりと茶色の液体がフラスコに移り、それをカフェがマグに注ぐ。湯気が登り、香りが辺りに漂った。

 

「ふう……美味しい」

 

「ふゥン……」

 

 随分と親しげなんだねえ、私のところにはあまり顔を見せないのに。たった3回ほど意図せぬ実験結果に巻き込んだだけじゃないか。そんなに敬遠しなくてもいいだろうに。喉の奥の小さな不愉快な感覚を砂糖たっぷりの紅茶で押し流した。喉が熱を受けてじわりと熱くなる。むせそうになったのを咳払いで誤魔化す。

 心なしか体が重くなったような感覚。背中の力を抜いて背もたれに体重を預ける。ぎしりと背もたれが軋んだ。

 香りを楽しんでいたカフェがこちらに目だけで視線を送ってくる。なんだいその不思議そうな表情は。

 

「それで……今日早起きだった理由はなんなんですか?」

 

「ああ、そういえばそうだったね」

 

 話す前に口を滑らかにしようと持ち上げたティーカップはさっき飲み干したばかりだった。スタンドからポットを手に取って追加で紅茶を入れる。湯気をあげるそれに角砂糖をぽとぽとと投入した。しまった、入れすぎた。ざらざらするのはあまり好きではない。どうにか溶けてくれないものか、と幾度か揺すってみるが。溶解度はこれで限界のようだ。冷めたら余計増えてしまうだろう。

 全く、とばかりにため息を吐いてからこの間彼女を待たせ続けていることに気づき、用意した紅茶に手をつける前に口を開いた。

 

「……過去親しかった人物と再会してね。本人かどうか確証が掴めなかったんだがね、今日の朝それが確定してスッキリしたという話さ」

 

「へえ、タキオンさんと……ウマ娘ですか?」

 

「ん、いいや、ヒトだよ」

 

 タキオンさんに合わせられるヒトっているんですね、とは流石に失礼じゃないかなカフェ君。

 

「実験と紅茶にしか興味ないんじゃないかと思っていました。よほど親しいお方なんですね」

 

「……そうだね」

 

 よほど親しい、という言葉に意図せず反応してしまった。親しい───私はそう考えていたが、彼はどうなんだろうか。私の記憶が正しいのならば、おそらく、きっとそのはずだが。ぼうっと目線を向けていた机の上に静かに横たわる耳飾りをおもむろに手に取って眺める。

 2環性炭化水素の一種、インダンをかたどったアクセサリー。これと同じ耳飾りは世に二つとない。元々耳飾りではなかったものをそれに加工したものだからだ。手で撫でればざらざらとした質感。アルミはまだしもプラスチックの表面の劣化がよくわかる。もうだいぶ古くなってしまった。

 

 ───あなたが何度も部屋を訪ねてくるのでもうスペアキーを渡しておくことにします

 

 いいのかい?これは楽しくなるねえ……!

 

 キーホルダーもつけておきますから、なくさないでくださいよ

 

 私のことを信用してくれないのかい?

 

 まったくもう───

 

 

 ──さん……オンさん……もう、タキオンさん……」

 

「あ、すまない」

 

「突然ぼうっとして返事しなくなるんですから、もう、早起きしても寝てるようじゃしょうがないですよ」

 

「ハハ、すまないね。ありがとう」

 

 心配そうな顔で嫌味を言ってくる心優しいカフェに素直に感謝をすると、驚いたような顔をしてこちらを見てくる。それがどうにもおかしくて笑いが湧き上がってくる。

 それにしてもコーヒー仲間か、ゴールドシップはバレていないつもりのようだがの注射器の件もある、彼の周りはなかなか面白いことが起きているようだ。

 

 どれ、私もその輪に参加させてもらうとしようか。



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第一章
Report.1:ReBoot;


「これから私は……どこへ行くんだい?」

 

 鬱蒼とした木々の中、ヒビの入ったコンクリートの広場。あたりに満ち満ちた霧が白く視界を濁らせる。先の見えない不安からか、目の前の背中に私は問う。

 

「学校です。あなたと同じぐらいの子たちがこの世界の仕組みや数学、語学を学ぶために通うところです」

 

 男が振り返ってしゃがみ、手を頭に乗せて撫でてくる。傾いた傘から流れる水滴が水たまりに落ち、水が跳ねる。

 

「君と……」

 

 また会えるかい、という言葉は届いただろうか。いや、そもそも口にしたのか。

 しとしと。雨音は鳴り止まない。降りしきる雨音は私の小さな声をかき消してしまう。

 

「迎えが来ています。私はここまでです」

 

 ここまで、という言葉に一瞬止まってしまった歩みを再び進める。目の前にセダンが止まっている。自動で開いた後席のドアでふらつく体を支え、倒れるように座り込む。ゆっくりとドアが閉まるのを無気力に眺める。

 運転手に彼が何かを言い、窓が開いた。雨粒が室内で弾ける。外の喧騒が再び耳に戻った。

 

「では、お元気で。また会いましょう」

 

 また会いましょう──その言葉に抑えていた感情がどうしようもなくなって、濡れるのも厭わず窓から身を乗り出す。開いた唇から言葉を出すことはできず、ただ涙と嗚咽が漏れるばかりだった。

 彼は困ったように笑うだけで、無慈悲にも車は出発した。

 

 

 

 

 

 

第一章

 

 

 

 

 

 

「はい───ええ───問題ありません───では、事前の書面の通りに」

 

 通話が終わって沈黙した携帯端末を内ポケットにしまい込む。予定どおりに物事が進んでいることに安堵した。腕時計の時間とスケジュールのずれは許容範囲といえる。

 腕時計から顔をあげ、向かい合わせの席の正面に緩く腰掛けて袖の大きく余った白衣をゆらゆらと揺らす少女に視線を送る。彼女はこちらを一瞥すると余った袖越しに器用にカップを掴み、そのまま優雅に紅茶を飲んでみせた。

 小さく嘆息して座席のリモコンから通話をするために止めておいた音楽を再生させる。パッヘルベル・カノン。彼女の趣味は私とよく似ている。ピアノとチェロの旋律が車載スピーカから流れ出始めた。

 

「すみませんね、現状確認の電話でした」

 

「かまわないよ。こうして学園の外に久しぶりに出れていることが楽しくてねえ、些細なことなど気にならないのさ!」

 

 そう言って彼女は大仰な身振りで感情を表現すると、その楽しげな表情を窓へ向ける。私もつられて外を見た。スモークガラス越しで明るさが落ちてはいるが、美しく雪の帽子を被った富士の山と、麓のマイクロ波受信用の大量のアンテナが見える。どちらも太陽の光を受けて純白にきらめいているが、人工物と自然のコントラストが自分の中に奇妙な感覚を湧き起こさせる。

 

「確か、ここのレクテナはほとんど撤去予定だったかな?ここの景色も見納めというわけだ」

 

「ええ、すでに運用は終了しています。東京周辺の需要には核融合が十分働いていますので。あなたのお陰ですね」

 

 ニヤリと口角を上げ、ため息を吐くような意図を掴みにくい笑いの後、まだまだ効率化ができるはずだ、と語り始めた。謙虚なのかどうなのか、私には推量れないが、彼女ができるというならばそうなのだろう。普段は学園で問題行動を次から次へとに起こしているわけだが……しかし、彼女の研究産物が世界に利益を与えているのは確固たる事実である。もちろんのこと国益という観点でも日本が最優先であるが。

 技研の人間たちが言うところでは、現在でも主流の一つであるノイマン型コンピュータの父である、かのジョン・フォン・ノイマンに並ぶ頭脳だとか。幼稚園児にもなる前に積分微分やらなんやらで遊んでいたなんて話も聞いたことを思い出す。彼女にとって数学や化学、物理は学問というより普段我々が使うような自然言語に近いのかもしれない。ウマ娘という種族は平均IQが人間よりかなり高いと言われるが、彼女はその中でも異質と言えるだろう。本人曰く、私は理論より閃き派、らしい。

 

「二人きりでドライブ、いや運転はしていないが。なかなか悪くないものだね、ロマンチックとでもいうべきかな?」

 

 何がロマンチックなのか私の灰色の頭脳ではわからないが、彼女が随分と上機嫌なのは声音だけでわかるぐらいだ。彼女が望むようなら気分転換にこうやって外に出るのも悪くないかも知れない。諸々手続きと通常業務とその他色々で私が圧死する点を除けば完璧だ。今回の手続きも決して簡単ではなかった。かなり、本当にかなりアクロバティックなことをしたのは間違いない。

 

「もしかしたら二人まとめてテロで爆散……あり得ない話ではないからねえ。まさに吊橋効果と言っても過言ではないよ。うんうん」

 

 ───だというのに、考えたくないことを次々と……眉間に皺が寄るのを防ごうとしたが失敗に終わった。情報漏洩の件はまだ解決していない。もしもにもしもが重なれば、最悪彼女の言った通りのストーリーも微小確率ながら起こり得る。何を考えているのかと彼女の表情を窺えば、最近よく絡まれるゴールドシップによく似た、人を揶揄うような表情を浮かべている。どうやら深い意味はないらしい、少し肩の力を抜く。

 幹線道路のバイパス。通行止めの表示がすべてのネットワークにおいて地図に出されているであろうその道を走っている。強権発動、というわけだ。理由は緊急の整備としている。

 フロントガラスとミラーを見れば黒塗りのセダンが前後ろに間隔をほとんど変えずについているのが見える。警備ロボットが鮨詰めになった無人車だ。人は乗っていない。彼女と私が乗っているこの車は向かい合わせの座席であるが、リムジンほどの長さがあるわけではないにもかかわらず広い。なぜなら運転席という空間が存在していないから。この車にもハンドルを握る人物はいない、正確に言うならハンドルを握っているのはこの車の制御AIだ。特殊目的の車には最近自動操縦形態が増えてきた。民間にもじわじわと浸透してきているがまだその速度は遅い。法整備がまだ行き届いていないというのが現状大きな理由だろう。技術者たちは皆、自動運転車社会の実現を確実視しているのだから。

 道路に張り巡らされた光ファイバーと低軌道を行き交う測量衛星のデータをもとに、政府統括コンピュータ隷下の国土交通制御コンピュータがこの車へ指示を出す。命令を受諾した制御AIが指定コースをカメラ、レーダー等で周囲を把握しながら走行する。すべて自動、もはやこの一連の自動交通管制システムに人間が途中介在する余地はない。その最たる例であるこの政府専用車は本来普通に他の車両と走行できるタイプのAIを搭載しているが、中身が中身なので安全策をとった。

 私にとってはどっちが爆弾なんだか。

 

「しかし急なお願いでも案外通るものだねえ、ん?」

 

 まったく、ついさっきまで座席をリクライニングさせてぐっすり寝てたというのに調子のいいことだ。高レベル防弾仕様の車体は分厚く外界を遮断して走行音すら微かに聞こえる程度、電子制御マグネットサスペンションはこの車が時速140KMを超える速度で走行していることを忘れさせる乗り心地を提供してくれる。睡眠に際して不快な要素はほとんどない。

 

「君からの“お願い”は極力通さないといけない立場ですからね」

 

「それは仕事だからかい? 」

 

 にまにまと三日月型に口を吊り上げて、粘度の高い喋り方で問われる。そうだ、仕事だ。そう答えられればどれほど良いことか……私としては唸ることしかできない。仕事だけの問題で無くしてしまったのは私自身だ。

 

「アーハッハッハ───なかなか愉快な顔をする。ねえ、桐島理事。いや、山吹情報官? それともモルモット君と呼んだ方がいいかな? 」

 

「……あなたの記憶能力を甘く見ていたことは謝ります……」

 

 そう、アグネスタキオンに私を理解されてしまった。覚えていない方が楽だったというのは言うまでもないが……小さい時のことをしっかりと覚えているとは驚きのことだった。トレセン学園入学後、その間の人間関係を経てまだ私を覚えているのか。終わりの間際に措置は色々あったはず。いや……覚えていたのではなく、思い出したのか。数年間しか彼女とは関わりがなかったはずだが……まあ、心当たりがないと言えば嘘になるな。

 しかし『山吹情報官』か、懐かしい呼び名だ。カメラのストロボのように過去が脳裏に浮かんだ。

 

「100歩、いや……1万歩ぐらい譲ってモルモット呼びは良いです、が! 山吹と呼ぶのはやめてください。私以外の人間にも影響が出ます。諸事情あって、名を変えました。」

 

「ふぅん。じゃあ、モルモットと呼ばせてもらおうか」

 

 アグネスタキオンは口実得たりとばかりにさらに笑みを濃くする。機嫌を表すように揺れていた袖は今やぐるぐると回転している。

 ため息を一つ、流れ行く富士に目を送る。過去一度もモルモットと呼ぶことを歓迎した覚えはないのだが、どうにも彼女は嬉しそうに笑う。感情の窺いにくい瞳にニヤニヤと見つめられるのが居た堪れない。何が言いたいのかわからずどうも居心地が悪い。

 窓から車内に視線を一瞬向ける。目が合う。

 

「クク、愉快だねえ」

 

 愉快愉快とばかりに興奮する彼女にどう言う対応をすべきか。広い車内とはいえ、そんな動き回るほどの容積じゃない。暴れるようなことはないだろうが、困ったな。

 咳払いを一つ、ラップトップで作業でもしよう。座席から机を引っ張り出してノートPCを乗せる。まだ見られている、一般男性の何が面白いのだろうか。いや、彼女のことだ、被験体が再び手に入って単に喜んでいるのかもしれない。身が持たないったらない。PCの蓋を開けて指紋認証と顔認証を済ませ、PWを入力してロックを解除すると、突然スピーカーが音を発し始めた。そう言えばテレビアプリを開いたままだった。開きっぱなしのウィンドウのなかでがコメンテーターが真面目な顔をして最近の海運について語り合っている。

 イヤホンはどこにしまったかとPCケースのポケットを弄っていると、スタジオの映像が切り替わる。何か嫌な予感を感じ、動きを止めた。

 

『───南部で3度目の新型爆弾が使用された模様です。放映中の番組を中断してお送りします。情報が錯綜しておりますが、中東紛争地帯において治安維持軍の駐屯地に国籍不明機が突入し巨大なキノコ雲と閃光が発生したと現地メディアが報じています。映像はSNS───』

 

 ───バタン!

 勢いよくトップを閉じた。ああ、くそったれ。よりにもよって。無警戒だった……まずい。

 慌てて彼女の状態を窺う。さっきまでの余裕の表情は見る影もなく、動揺して青白い顔をしている。たった一瞬の放送は確実に彼女のトラウマを抉ってしまった。急いで彼女に駆け寄る。退かし忘れた机が脇腹に刺さって鈍痛が走るが、気にしている場合ではない。背後でノートPCが落ちて音を立てる。

 座席で丸まるように俯いている彼女の前にかがみ込んで、余った袖をまくりあげ、小刻みに震える手を両手で包み込む。耳は完全に垂れ切ってしまって、彼女の意気消沈具合を如実に表している。

 

「あなたのせいではないんです。あなたが責任を感じる必要はありません」

 

 血の気の引いた手は白く、冷たい。でも、でも、と繰り返す彼女を見て唇を噛む。いつもの口調すらどこかへ行ってしまった。彼女の手首に巻き付けられたウェアラブル端末が心拍数の上昇を警告している。

 

「いいんです。それはあなたが背負う必要のない十字架だ」

 

 十字架、そう聞いてアグネスタキオンが私の目を見た。いつもの意欲に満ちた自信げな光はそこにない、意志の光の弱い瞳。

 

「あなたのせいではない」

 

「……でも……研究を完成させてしまったのは私───」

 

タキオン(・・・・)

 

 強い言葉で遮る。全米ライフル協会のスローガンが脳裏に浮かんだ。『Guns don't kill people, people kill people.(銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ)』だったか。確かにあれらの駆動原理を完成させたのは彼女だが、それの産物が起こしたことに彼女の責任があるとは思えない。ましてや、悪用されて生まれたものに。

 

「確かに理論を作ったのはあなたですが、それを基軸に今の核融合技術の成熟があります。たくさんの人々の生活を支えているのもまた、あなたの研究だ。それを忘れないでほしい」

 

 幾分震えの収まった手を離し、心拍数アラートが消えていることを横目で確認。彼女に目を合わせたままタキオンの横に座る。手に熱が戻ってきた。

 

「この十字架はこの国、いや……私が背負うべきものなんです」

 

 そんな大層なことをできるとは自分でも信じていないが、タキオンが背負えないものなら私が背負うしかないだろう。少なくとも、目の前では。彼女を支えられる人間は少ない。

 何か、うまいことを言えればいいのだが、あいにく私にはそういうセンスがない。ただ努めて真面目な顔でいること数分、目元を赤くして沈痛な面持ちをしていた彼女がわずかであったが、笑う。

 

「モルモット君……」

 

 この重い空気でその呼び方か……なんだかおかしくなってしまって力が抜ける。

 いや……もしかしたらこれが彼女なりの気の使い方なのかもしれない。

 

「すまないね。私としたことが取り乱してしまった。ふ、どうだい、昔みたいに慰めてくれるというのは」

 

「───はは、実験に失敗したーと泣き喚いていたあなたを思い出しますよ」

 

「えー!?そういうのは忘れてくれれたまえ!恥ずかしいじゃないか!」

 

 ぷんすこ、といった調子で猫のように目を吊り上げるが、いつもの彼女らしい覇気がない。空元気といった具合だ。無理をしていることぐらいわかる。

 

「目的地までまだだいぶあります。もう少し横になっていても大丈夫ですよ」

 

 彼女は私の言葉に少し驚いたようにこちらを見て、目尻を下げて小さく感謝を口にした。座席を傾けてやると、しばらくも経たずにすぐ横から規則正しい寝息が聞こえてきた。隅に畳まれていたブランケットをそっと被せる。年相応のあどけない寝顔を無警戒に晒している。

 本来こんな重責を少女一人に背負わせることなんておかしい。せめて私たちだけでも、理解者なんて傲慢なことは言わない、彼女の恒常的な味方でありたい。距離をとってサポートをするつもりだったが、彼女の方から接触してきてしまったしな……

 腰を上げようとして腕に抵抗を感じ、後ろに倒れ込む。見ればタキオンに腕を掴まれていた。起きているのかと思ったが寝顔に変化はない。幾度か揺すっても寝ながらどうやってその力を出しているのかというぐらいしっかり掴まれていて、解けそうにない。今日一番のため息。

 

「山吹……君……」

 

 またかと思い顔を見る。しかし彼女は寝たままだ。全く、困った。

 

「しょうがない、か」

 

 何度かラップトップを拾おうと試行錯誤をしてみたが叶わず。諦めて手持ちの小さな端末を使う。ポップが先ほどのニュースを持ち上げてきた。

 

 新型爆弾───国の進めていた技術防衛大綱の汚点。どの国も新型などと当たりの優しい言葉でぼかしているがその内実はただの核兵器。純粋水素爆弾と呼ばれるもの。起爆剤に原子爆弾を使用しないニュータイプの核兵器、残留放射線の少なさが利点である。そしてこの利点は使用のハードル大きく下げ、多くの国、地域の戦争で使用された。核の脅威は身近になり、紛争地帯ではいつもの空爆と一緒に落ちてこないとも限らない。幾人の生命と生活を破壊したのか、もはや数えることはできない。いちいち重大ニュースとして報道するなんてもはや日本ぐらいのものだ。

 彼女が開発したのはその起爆システムの理論体系。多くの人命を奪った核爆弾の点火システムと、多くの人間の生活を支える現代核融合理論は同じ人間、同じ理論から生まれたというのは皮肉な話である。皮肉で済む話ではないのだが。

 覆せない戦力差に対する防衛手段として、多少の倫理を捨てようとも多くの技術を独占する。それがここでいう技術防衛の意味。技術を守るのではなく、技術で守る。とはいえ何事もそうであるように理想通りになってくれるわけもなく。いつの時代も技術は悪さをしないが、人間は技術を悪用する。そんな当たり前のことを身をもって知ることになるとは、この計画に参加する前の自分は考えもしなかった。結局国防軍も秘密裏に新型爆弾を配備しているというのがまた始末が悪い。ただ火種を世界中にばら撒いただけになってしまった。技術を手に入れた先進国が使用ハードルを下げようと新型爆弾なぞと呼び始めた結果、核ではあるがこれまでの核とは違うなどという暴論が罷り通り世界中核武装国塗れだ。相互確証破壊がどうこうとかもう言ってられない。下手をしたら世界が終わる。

 

◇◇◇

 

『目的地に到着しました。運転を終了します』

 

 自動車が止まったのを感じてしばらく、人工音声を聞いて端末から顔を上げる。そうか、もうそこそこ時間経ったからな。タキオンは……まだ寝ているようだ。全く動きがないからそんな気はしていたけれど。腕は掴まれたままだ。

 

「タキオンさん、起きてください。着きましたよ」

 

 呼びかけてもなかなか起きないので肩をゆする。移動中はいいが、流石に到着しているのにまだ寝かせるわけにはいかない。スケジュールに余裕はあまりないのだ。そもそも予定ぎっちりなんだから。

 

「うーん、研究費で砂糖と紅茶を購入できれば……」

 

「一体何を、紅茶なら毎月支給しているじゃないですか」

 

「クスミスティとかのそこそこいいものを私は楽しみたいんだ!あ……」

 

「起きていたんですね……」

 

 全く何の茶番か、寝言で言えば買ってもらえるかもしれないなんて研究以外になると途端レベルが下がるのは一体なぜなのか。

 起床早々この調子ということは心配しているようなことはなさそうだ。道中の話を引き摺っていなかったのはよかった。学校と彼女の情報端末、マンハッタンカフェには新型爆弾の話題を避けるように色々と対策があるが、私は完全に油断していた。彼女がトラウマを克服できるに越したことはないのだが、サポートに気を抜かないようにしなければ。

 ドアを開いて外に出れば、都会とは違った空気を感じる。少し湿り気のある冷たい空気。それと木の香り。まさに森といった風体に木々が鬱蒼と茂り、奥の方は光が届かないのか暗く、見えない。シダ系の低い草が木々の足元に地面が見えないほどに根付いている。それらに囲まれたアスファルトの広場に私たちの車と、同じような黒いセダンが数車止まっている。私たちの乗ってきたものと違って有人仕様だが。

 鳥の囀りが聞こえる。森林浴を楽しむのも悪くないが、本来の目的を忘れてはいけない。歩み出して初めてまだタキオンに腕を掴まれっぱなしだったことに気づく。結構強い力で掴まれていたので感覚が麻痺していた。

 

「あの……」

 

「あっ、あ、すまない」

 

 指を刺して声をかければ一瞬呆けたように自分の手を見て、はにかむように苦笑を浮かべ手を勢いよく話した。珍しく焦りを見せる彼女と私の間に一瞬微妙な空気が流れるが、人の話し声が聞こえてきてたちきえる。

 坂になっている道をほんの少し登れば、一般人とは明らかに雰囲気の異なる集団が見えてきた。黒のスーツを着た男たちが何人か行ったり来たりしている中に見知った顔を見つけ、手を上げて呼びかけると、すぐにあちらも気づいたようで官給品のタブレットを頭上に掲げてひらひらと振る。

 

「やあ、一週間ぶりぐらいか? 」

 

「ああ。それにしても急ですまない」

 

「はは、問題ないさ。そんなに仕事がない部署なのは君も知っての通りだ。事情は分かっているよ」

 

 苦笑まじりの笑みを浮かべた斎藤が焦点を私から少し後ろに移した。私の後ろにいるのはタキオンだけだ。苦笑の形からニヤリと大きく口角をあげ、面白そうなものを見つけた子供のような顔を作る。「に、しても」

 

「相も変わらずタキオンはわがままだねえ」

 

 面白がるような斎藤の表情を受けて彼女は一瞬懐かしそうな表情をした後、ふい、とそっぽを向いた。そんなに仲が悪かったというのはなかったはずだが。

 

「あらら……」

 

「ああ、お前、そういえばあの時から避けられていたよな、お子様だと思って子供対応ばっかりして避けられてたんだったか」

 

「桐島ァ……その話は俺に効く」

 

 勝手に調子に乗って勝手に意気消沈している、変わらず大袈裟なやつだ。若干気落ちした様子の斉藤がタブレットを手渡してきた、親指で背後のエレベーターを指差す。

 

「我々でチェックは色々やっておいた。まぁ……流石に5年以上誰も触れることなく封鎖されてたから色々ガタがきてる。こればっかりは仕方ないな」

 

「だろうな」

 

「元々シェルターだったってだけあって構造体の方は何も問題ないんだけどね。整備不良の問題で車両エレベーターとかはもう使えないかな。人間用はまだまだ使えるみたいだけど」

 

 渡されたタブレットから詳細情報をスクロールして設備状況のチェック表と内部地図を眺める。立ち入り不可の場所もだいぶ多い。地図の上で今施設の中にいるらしい人間を表す青丸が動いている。

 

「外部電源ケーブルは封鎖時に取り外されてるし、地下の原子炉を動かせるわけもないからね。なんとか生きてる死にかけのキャパシターで滞在可能時間は……余裕を持って19時間といったところかな、十分だろう?」

 

「十分すぎるぐらいだ。設備の方は……換気システムが生きていただけでも僥倖だろう。酸素ボンベを片手になんて面倒なことはしたくない。助かった、ありがとう。───では、タキオンさん。行きましょう」

 

「ん、行こう」

 

 廃屋にしか見えない灰色のコンクリート製の建屋に足を踏み入れ、中でもそこそこ綺麗なコンクリートの塊から顔を覗かせる金属板にタブレットを近づける。少しの時間を置いてアクセス承認の表示。人を運んで下に行きっぱなしのエレベーターを呼び戻し、待ち時間に施設の情報を再確認しておく。

 外部接続、原子炉はレッド。稼働していない。そのほかはグリーン状態。かなりのシステムが生きている。無人機械たちが省電力モードで人がいなくなってからも整備をしているのだろう。施設復帰の可能性が0であっても機械たちにそれは関係のないことだ。

 

「全く、とんだ我儘ですよ……いきなり旧天龍研究所に研究資料を取りに行きたいだなんて」

 

「なに、色々思い出したついでだよ。せっかくの機会だしね、何かインスピレーションを得られそうな気がしたんだ。得た権利は、行使しないと損だとは思わないかい?」

 

 ご尤も、そう呟やくと同時に少し歪んだ音色のチャイムが鳴る。到着したエレベーターに乗り込むと、埃の匂いが強く鼻腔を刺激した。年月の流れを否応にも自覚せざるを得ない。

 そんな私の表情も見ず知らず、彼女はぐるぐると袖を振り回しながら後ろについてくると、私が押すより早く地下行きのボタンを押し込んだ。半歩下がって彼女が横に並ぶ。緩やかな加速度と共に動き始めたエレベーター。始終気分好調な彼女を横目に、私は在りし日の記憶に意識を向けていた。



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Report.2:RePeat;

一見して馬鹿げていないアイデアは、見込みがない。──Albert Einstein──

 

 私はこの言葉が好きだ。知の探求はやはり、馬鹿げていて、面白くなければならない。もし、それが他の誰かに理解されなくても、面白いと私の直感が感じるものを選ぶだろう。どちらが正しかったのかはいつだって結果が証明してくれる。結果はいつだって正直だから。そして私の統計上、正解の数は積み上がれど不正解という外れ値は存在していない。

 統計、とは言うがまだ10年も生きていないけれどね。標本不足という意見には残念ながら反論不可能さ。

 可能性としてもしかしたら信頼区間外かもしれない。私はそう思わないけれど。

 

「はっ──はっ──はっ──」

 

 ウッドチップの上に樹脂コートが施されたグラウンドを息が上がらない程度に加減しながら駆ける。時折自分の中に燻る走りに対する欲求は、存在意義に疑問を感じることはあれど不快に感じたことはない。

 生活といえば、仮説と検証の繰り返し。経緯を抜きにすれば研究は好きでやっているし、ここの設備は完璧。秘密保護の観点からできないことは確かにあるものの、私が本気で不満を持つものは意外と少ない。しかしながら、否応なく溜まるフラストレーションというものは、やはりある。それをこうして走るだけである程度霧散させることができるというのは、私がこの種族に生まれて幸運だったと考えているものの一つだ。フラストレーションの発散方法の解の一つがわかりやすい形で示されているというのはなかなか悪くない。

 駆ける私の視界には青々とした空と緑豊かな自然が見える。立ち止まって見るのならば自然に見えるのかもしれないが、自転車の平均速度より少し速いぐらいの速度で走っている私にはひどく不自然で立体感が感じられない。私の足が発てる樹脂とシューズの摩擦音はよく反響し、ここが閉鎖空間であることを理解することができる。新設されたものに仕事を譲った旧式の核シェルターを改装した施設だからか、収容者の精神配慮と思わしき機能があらゆるところに散りばめられている。閉鎖環境に長い間いる人間に対する配慮としてはおそらく効果的なものなのだろう。

 ウマ娘の視界の走行に対する影響を少し調べてみたい。紅葉樹主体の日本の森林であろうものが、白樺の白が特徴的な北欧の森と思わしき風景に変化していく壁のスクリーンを見ながら思った。色彩心理学に近いだろうか。

 まあ、近しい人にウマ娘が存在しないゆえに今は不可能だ。主観の強すぎる実験は結果に歪みを生む。

 

 かの偉人に私は憧れている。それこそ同じ年齢のヒトの男の子がサッカーでも野球でもメジャーリーガーに憧れるように。私と同じ年齢のウマ娘がレースをかけるウマ娘たちに憧れるように。2000年間、ヒトとウマ娘たちが積み上げてきた科学の常識をひっくり返し、新たな常識を作り上げた人類科学のブレイクスルー。彼がいなければ今の科学の発展はない。

 また彼に私はシンパシーを感じているのかもしれない。選択肢なく戦争に関わった人間として。彼自身は開発に参加していなかったが、彼の特殊相対性理論から導かれた質量とエネルギーの等価性は人類のその身に余るほどの力を具現化させた。人類の叡智が生み出した炎は一体幾人の同胞を焼いたのか。一世紀前、初めて殺傷目的の核反応がこの国で発生した。それからというもの、膨大なエネルギーをいかにして破壊に繋げるかという実験が世界中で行われ、技術の成熟に伴って膨れ上がった大きすぎる威力故に核は戦争の表舞台に姿を見せなくなった。少々ポエティックな物言いになるが、理性による歯止めであったんだろうと私は思う。国家の理性によって核は封じられ、その破壊力は空想の世界と、外交の交渉台の上だけで恐怖として威力を発揮していた。  

 

 ある時までは。

 

 数十年前に起きた第三次世界大戦は世界的な混乱の中始まった。国際的な情報の透明度によって社会が保障されていると言っても過言ではない21世紀。それを支える海底ケーブル、通信衛星、正常な国家システム。それらが潰えた時、国家理性というものを前提にした国際社会システムは機能不全に陥った。誰が、どの国が始めたのかは今なお分からない。送り主不明の一発の核弾頭、それが開始の合図になった。疑心暗鬼になった国々にとって全ては疑うべきものであり、疑いを晴らす手段は終わりの間際まで確立されなかった。

 この戦争が私がこの地下施設にいる遠因。ヴァチカン休戦条約によって歪な状態のまま争いを中断し、世界はカオスとコスモスのどちらかに舵を切るでもなく、カオスモスとして境界を失ってしまった。その状態を維持しているこの状況は誰が言うまでもなく不安定極まりない。核戦争がもたらした大量のエアロゾルは慢性的な寒冷化を招き、生み出された難民は戦争終結から復興を遂げつつある今も多くの国家を苦しめている。この国も難民は少ないとはいえ、本州に打ち込まれた三つの戦術核はいまだに癒えない深い傷跡だ。終焉まで一歩半を残して停滞した国際情勢の中でこの国が社会的地位を保つための部品として私はここにいる。世界に確かな存在感を示せるような技術を生み出すのが私に与えられた『任務』。復興がだいぶ進んだ今ではある程度元の世界に似たシステムはできつつある。混乱を理由に停滞すれば、孤立は免れない。一般人が日常を過ごせるようになってきた今、普通ではないらしい私は非日常側に立たされている。

 世界に存在を示したところでこんな小さい島国、暴力で潰して終わりじゃないか、というのはまさにその通りであるのだが、逆に各国に自身を狙わせることで拮抗状態を作るという国そのものをチップにした綱渡りのような防衛策をこの国はとっている。正気ではない。だとしても、もし攻め込まれたらどうするのかといえば、徹底抗戦の末、どうにもならないのならば最終手段として自国領土内であれ戦略核を起爆するという夢も希望もない防衛ドクトリンが用意されている。初めてこの構想を資料で読んだ時は考案者の心理状況を大変心配したものだが、この国は本気らしい。自爆を前提にしたドクトリンは果たしてドクトリン足りえるのかという疑問はあるが、実行に移す移さないは関係なしにその存在そのものに意味があるのだろう。

 矛盾するようだが、達成はすれどこれを任務として意識したことはない。自分で一つのものを完成まで持っていくこともあるが、たいてい私の思いつきを適当にレポートにすれば技研の人間が何も言わずとも色々生み出していく。技研のメンバーは素晴らしい頭脳を持った人間たちだと思うが、中に頭脳の代わりに頭のネジを数本を捨ててきたような倫理観の欠けたヤツが混ざっているのを知っているのであまり進んで関わりたくない。まあ、そんなことを言ったらここの人間は幼稚園を抜けて少し立った小学生程度の女子を地下に閉じ込めてそれを黙認している人間たちなわけだから倫理の話など今更なところがあるがね。おっといけない、口が悪くなってしまった。彼らも好きでこんなことをしているわけではないか。いや、どうだか。

 私がこの地下施設に収監されてから完成させた研究の中で最も大きな成果物といえば、実用的な発電用核融合炉を形にしたことだろう。実験炉は期待通り、正常に稼働した。すでに試験と実用を兼ねた第一号機がおそらく火力発電所とでも偽って秘密裏に建設中のはずだが、まだ改善の余地があるので新理論の構築に着手したところだ。

 ───そういえば私が当局に捕捉されたのは何が原因だったか。

 

「はっ──ふう……はぁ……」

 

 足の回転数をゆっくりと落とし、緩やかに足を動かしながら息が整うのを待つ。最近は研究が立て込んでいて少し期間が空いてしまったせいか、心音がいつも通りのセットのはずなのにより大きく聞こえる。大きな鼓動は体を揺らすようにすら感じる。また運動量の再計算を行わないといけないな。

 大きく息を吸って吐き出すことを幾度か繰り返す。ヒト種より進化した肺が激しく酸素の取り入れと二酸化炭素の放出を行い、水蒸気に富んだ吐息が少し白んで見える。血圧上昇によって浮き上がった血管がゆっくりと沈み、赤っぽくなっていた肌が元の白色に戻ってゆく。

 ああ、そうだ、思い出した。一般にも間口を開いていたアカデミーの科学コンクールに現行核分裂炉の改善すべき点と具体的な改善案を思いつく限りまとめて提出したときか。その時の自分にとって会心の出来だと思える力作で、大きなものは無理でも入賞は間違い無いだろうと考えていたら表彰状の代わりに御国の黒服がデリバリーだ。全く笑えないね。

 そのとき初めて幼稚園児は普通、ネットで物理教授と一般相対性理論で論議しないということを知ったよ。年齢を明かしていたらまずいことになっていた可能性は否めない。他にも多様体やら共形場理論だとか、薬剤学とかも少し齧っていたかな。自学で色々やっていたから幼稚園には通っていなかった。私の両親は放任主義というところまではいいのだが、ここまで一般からかけ離れた娘を不思議に思わなかったのだろうか。ウマ娘である時点で今更か。優しい両親だったことは間違いない。

 政府に囲われてから、特にこれを作れ、あれをやれ、と言われたことはまだない。しかし、自分の考えた理論がどのように使われたかは不透明だ。将来、もしかしたら既に、自分が大量破壊兵器の製作に意図する意図しない関係なしに参画してしまうことがあるかもしれない。直接でなく間接であっても私は自分を許せるだろうか。WW3の戦争遺物として世界中に散らばる人型の焼き付いた壁がフラッシュバックする。初めて写真を見た時の衝撃が忘れられない。アインシュタインも原子爆弾について相当苦悩したと聞く。

 運動後なのも相まって気分が悪くなってきた。感傷的なのはこれだからいけない。過去から学ぶことは重要だが、過去に囚われるのは良くない。過去は過去として分離して考えなければ。こんなに自身の過去のことについて考えたのはいつ以来だろうか。手首のウェアラブルデバイスで日付を確認すればあと数日でここにきてちょうど2年だった。おそらくそれが私の記憶を刺激した要因であろう。そうか、もう。

 大きなため息を一つ。センチメンタルな回想は終わりにしよう。運動は今日はここまで。足が鈍い痛みを訴えてきていてもう走れそうにない。北向きの壁へ向かい鈍色に光るパネルに手を近づければ、圧搾空気の音と共に気密ドアがスライドする。後ろでまた同じような音を発てて閉まるドアの音を背中で聞きつつ、LEDで照らされた無機質な廊下を先に進む。廊下からまた気密ドアを経て別室へ、さらにドアを開けて、またドア。最初の頃は多すぎるドアにうんざりしたものだが、もう慣れた。元の用途が用途だから厳重なのは仕方がない。

 最後の気密ドアを抜ける。やっと目的地のシャワールームだ。さっさとシャワーを浴びて研究室に戻ろう。後ろ手でドアに触れ、ランプを見てドアのロックを確認する。トレーニングウェアと肌着諸々を全て黒々と口を開けたダクトに放り込み、温度設定を済ませてノズルをひねる。シャワーというよりミストに近い水流を浴びて、洗浄剤を吹き付けられ、再び水流を浴びて終了。清潔になったのは間違いないが、シャワーというより車の洗浄に近い。何か人間として大事な情緒を失っているような気がする。

 壁から滅菌トレーと一緒に吐き出された無菌タオルで水気を拭き取り、壁のパネルに手首のデバイスを触れさせる。電子音とともに私の着替えの乗ったトレー再び壁の穴からスライドして出てきた。やはり研究所というより刑務所の趣があるな、ここは。

 

◇◇◇

 

 私の研究室。まだここにきたばかり、本当に最初の頃は見物人が何人かいたものだが、ある程度すると皆が皆怯えるようなそぶりを見せていなくなってしまった。ここにいるのは私と、研究補助のためのAIロボットだけ。AIと言っても会話ができるほど高度なものでもなく、配送ロボットのように試薬や用具を出し入れしてくれるだけの本当の”道具”だ。愛着がないかといえば嘘になるが、相棒と呼べるかと聞かれれば答えは否になる。一人で使うにはあまりに広い部屋だが、不快な緊張感とともに研究をするぐらいなら一人の方がマシだ。

 あまりにちゃちで幼児用のスモッグといった方がしっくりくる白衣を着込み、私専用仕様の背の低い実験机の隣を行き来する。流石に特別仕様が用意できなかった特殊設備たちにはステップ台を使って高さを合わせるしかない。ドラフトチャンバーなどはまさに身長が足りずとても使いにくい。今まさに使っている機器も、だ。台の上で短い手を精一杯伸ばして実験を行う。かなり辛い。だからマニュピレーター式の小型無菌室がよかったのに。

 無菌グローブボックスの中で滅菌したペトリ皿の中に糖液と実験体のバクテリアを広げる。1ダースほどセットを作り、グローブから手を抜いた。全く、本当に疲れる。最後の仕上げにボックスの中の人工光源のパラメーターを設定して太陽光を模した光線を照射する。

 

「さあ、今回は良い結果を期待しているよ」

 

 今は亡き国際宇宙ステーションのきぼう実験棟で行われたバクテリアを宇宙空間に曝露する実験で偶然獲得され、技研で保護、培養が行われてきた特殊なバクテリア。太陽光によって水素を含むさまざまな化合物を光と糖液から合成する。私が核融合研究の合間に最近行っているのは太陽光と水のみから水素を生産するバクテリアの開発だ。水素の用途は多岐にわたるし、将来的には核融合燃料の製造にも使えるかもしれない。副産物として長鎖炭化水素の製造バクテリアも作り出せそうなことが最近わかった。石油化学にも応用が効くのはなかなか面白い。

 物理と数学、そして工学は素晴らしいものだが、やはり化学は別格だ。私を心の底から楽しませてくれる。今の研究は生合成だが、いつかは薬学や医学にも手を出してみたい。そう、例えば謎の多いウマ娘の真理に迫るための研究とか。

 ハードディスクドライブの駆動音。バクテリアたちの状態をコンピューターたちが事細かに記録し始めた。上から吊るされたディスプレイで状況を確認し、正常に実験が進行している様子に満足する。まだ生成物に異物が混じっているが、いくつかのグループのスコアがいい。計画通りに物事が上手くいくのなら最短で十数回のゲノム編集と一年ほどの時間があれば完成するだろう。

 実験のために着用していた薄手のゴムグローブを外してゴミ袋に捨て、記録しているコンピュータとはまた別のパソコンの電源を入れる。データサーバーから研究ファイルを呼び出す。さて、核融合理論の続きを綴っていこう。ちょうどバクテリアと会話している時にいいアイデアを思いついたんだ。

 

◇◇◇

 

 良いアイデアなのは間違い無いのだが既存の理論モデルと綺麗に統合するのには少し手間がかかりそうだ。局所的には成り立つのだけれど、一般化するためのいい糸口がまだ思い付かない。時間が間違いなくかかる事を察して先に昼食を取ることにした。短針は1を少し過ぎている。

 エスカレータとオートウォークを数本使って移動し、食堂のあるフロアへ。長い通路の行き当たり、大きめの気密ドアを潜る。中で数人が談笑していたようだったが、私を一瞬見てすぐに目を逸らした。彼らにとって私は相当に異質なようで、何かしら恐怖の類の感情を呼び起こすらしい。すぐ談笑に戻ってくれるのは助かる、場がしらけて空気が重くなるようなことになったらそれこそ嫌だ。あまり空気というものを読まない方であると自分でも思っているが、空気が悪い場所に気分を悪くせずに居座れるほど肝は据わっていないのでね。

 フィルムの焼けた液晶に並ぶメニューを見るが、特にこれといって好物もない。いつもあるパンとサラダとスープにしよう。メニューをタッチするとウェアラブルデバイスに栄養素の表示。『白米も食べましょう』? やかましいな。

 コンベアに乗ってやってきたトレーを受け取り、隅の方の席に座る。硬めのパンをちぎってコーンスープに浸け、口に放り込む。変わらない味。料理ロボットの手腕は完璧だ、同じメニューを完璧に同じ完成度かつ高速で仕上げる。可もなく不可もなし、だが……母の料理の方が美味しかった。もう味を思い出すことはできそうにないが、確かにそう思える。面会はそう何度もできないし、電話はただ感傷的になるだけだからしていない。

 ……もういっそのこと食品庫から何か持ち出してミキサー食で簡単に済ませるのもアリではないだろうか。

 

 ここでの数少ない娯楽の一つである紅茶をメーカーで淹れ、ケースからボタンを押して角砂糖を数個投入する。手から感じる温もりが心地よい。茶葉は私の部屋のものと違って市販の安物のようなので香りはあまりよろしくないが。

 

「ふぅ……」

 

 思わずといった風体で吐息が漏れた。ふとした瞬間に身体的なものとは別の疲れを感じることはままある。なぜ自分が、とも。高級な研究設備を与えられていろいろやりたいことをやりつつ、移動以外の制限があまりない今の環境に文句をつけるのは贅沢かもしれないが、もし自分が普通のウマ娘として生活を送っていたら、と思いを馳せることを私は禁じえない。

 赤橙色の水面に映る自分の顔を眺める。瞳に諦めの色を見た、ような気がした。

 

「なあ、聞いたか?」

 

「んん? 何がだ」

 

「連絡役の竹本さん、人事入れ替えがあるらしくて、それで新しい人と変わるらしいぞ」

 

「へえ、知らなかったな。新しい人……ってなると、やっぱり政府とかの曰く付き人間か?」

 

「まあ、だろうな。ここにくる人間なんて、少なくとも『普通』じゃないだろうけどな」

 

「ハハ、違いねえや」

 

 若い研究員の会話を耳が拾う。竹本……ああ、政府との橋渡しの人間だったかな。子供だと思って露骨に態度も目つきも悪いものだから苦手だった。いや実際に子供なのは否定しないが。私の態度も露骨過ぎたかもしれないが、子供扱いするなら子供の行動として流したまえよ。しかしまあ、ふぅン、そうか、変わるのか。政府関係の人間で、この研究所の重要職に就くとなれば公安警察とか内閣情報調査室などの諜報系だろう。それもかなりお偉い系。またお堅くてプライドが高く私を煙たがるような人間なんだろうねえ。ああ、やだやだ。

 トレーと食器を洗浄機直結のダクトに放り込んで食堂を後にする。余計なことをしばらく考えてしまったが、栄養補給はできた。

 研究室への道をゆっくり歩いていると、軽快な音楽が左手首から突然流れる。受話器のマークが表示されている。着信だ。

 名前は『安心沢』緊張を解く。なんだ、この人か。無意識に後ろに絞られた耳を戻しつつ、ワイヤレスイヤホンのクリップを緩めに耳に挟んで電話に出る。

 

『はーい!タキオンちゃん、元気?』

 

 小さなモニタに映る怪しい服装に怪しいサングラス、そして怪しい喋り方の全て怪しい変人。安心沢刺々美女史──私の専属カウンセラー兼担当医。腕は確かだし、いつも親身になって話を聞いてくれる。怪しいのは格好と喋り方だけ。人間を印象をづけるところが全て怪しいというわけだが、これでも肩書きは結構物々しい人だ。

 

「なんとかやっているよ。いきなりじゃないかい? つい先週カウンセリングは受けたばかりのはずだと記憶しているよ」

 

『ワオ、冷たーい☆ ちょっとカウンセリングとは違う話題なのよ〜』

 

 大仰に手を振って悲しみを表現する彼女をスルーする。いつもこうだ。気にしていたらこっちが疲れてしまう。ふぅン……カウンセリングとは関係ない、か。このタイミング、ともすれば……

 

『人事異動の話をちょっとしないといけなくてね』

 

「なるほどなるほど」

 

 やはりとばかりに頷くと、彼女はまた口に手を当てて大仰に驚く。リアクション芸人か何かの教育も受けているのだろうか。

 

『あら? 何か知ってる風ね?』

 

「食堂で若い研究員が異動の話をしているのを小耳に挟んでね、耳はとても良いから」

 

 余計な情報まで拾ってしまうのが玉に瑕だが、と付け足すと、安心沢女史はなるほどと小さくうなづき、次に怪訝な顔を浮かべる。

 

『あら……? 異動の話は情報保護の観点から上級研究員以外へは開示されないはずなのだけれど、おかしいわね』

 

 なんとなくなぜ竹本氏が異動するのか透けてきたような気がする。本当に異動か怪しげだねえ。おそらく彼だけで済むような異動ではないのだろう。

 

『───まあ良いわ。話っていうのはね、竹本氏の交代と同時にあなたに一人付き人が派遣されるっていう』

 

「……は?」

 

『ワオ。珍しい顔。付き人というより護衛と言った方がいいかもしれないわね〜。ほら、最近反ウマ娘派のテロが相次いでるでしょ?上の狸たちは心配性でねえ……』

 

「これ以上肩身が狭くなるのは遠慮したいのだが……」

 

 思わず吐露してしまった本音に、彼女は苦言を呈するでもなく、笑みを形作った。

 

『大丈夫だと思うわ。少なくともあなたを疎かにするような人間じゃない』

 

「ふぅン……知り合いかい?」

 

『ええ』

 

 こんな見た目だが、彼女が大丈夫というなら本当に大丈夫なんだろう。私がこの施設内で唯一心を許している人間なのだから。たとえそれが任務ゆえの行動だったとしても、彼女の温かさは私を助けてくれる。最近直接会えていない、しばらく前から出張中だ。人事異動と何か関係があるのだろうか。

 彼女が働くべきところはここ以外にもいくらでもあるだろう。突然いなくなってしまったりしないといいのだが。

 

「連絡ありがとう」

 

『はーい、連絡は以上よ。最近あなた暗いから心配してるのよ、この環境じゃ無理もないと思うけど。いつでも連絡してね。人事異動関係の連絡は書面でも送っておくわ、あたしも多分同時に戻るから。じゃ!グッバーイ☆』

 

 ふざけたポーズながら妙に様になったウィンクとピースを最後に通話が終了した。騒がしくて忙しないが、温かみがある人だ。戻ってくるという確約は普通に嬉しい。本人には言わなけれど。

 

「……ふふ」

 

 突如として行われる環境変更。不安はまだある。だが、ほんの少しそれに期待する自分がいた。




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Report.3:ReConstruct;

 pipipipipi……pipipipipi……pipi───

 

 さほどうるさいわけでもないが耳によく残るアラームによって意識が無意識から覚醒し、私の睡眠が中断された。まつ毛に引っかかっていた自分の抜け毛をどかしつつ、焦点の合わない目を瞼の上からマッサージする。幸せな睡眠の続きは今日の夜までお預けだ。

 ベッドの振動でガタガタと揺らされて叩き起こされるのは大変不愉快なので二度寝はしない。起こそうという意思があまりに強いベットだ。二度寝の挑戦はすでに三度失敗した。流石に敗北を認めよう。規則正しい生活は心身を健康に保つ、実に正しくて大変よろしい。

 だるさの残る重い体を捩って上半身を起こせば、私の起床を感知したセンサーによってアラームが一人でに止まり、ベットの枕側が少しずつ持ち上がってゆく。わざわざ動かさなくてももう起きているよ。

 

「ふぁ……ぁ、ふぅ……」

 

 調光照明がゆっくりと光度を増し、少しずつ明るくなってゆく部屋。照明の白が目を刺してくる、眩しい。

 何度か目を瞬いているとぼやけていた視界が少しはマシに見えるようになる。床に無造作に転がるスリッパを見つけた。足で転がして向きを正し、足を突っ込む。ひんやりと冷たい。

 

『おはようございます。アグネスタキオン先端科学主任研究官。現在の時刻は午前8時17分です。本日は予定が一件あります』

 

 女声の機械音声で読み上げられる物々しい役職名に顔を顰める。体温が伝わって徐々に温まってきたスリッパをペタペタと鳴らしながら洗面台に辿り着く。壁の引き出しから除菌袋に入った歯ブラシを取り出し、まだ眠そうで気怠げな顔をした自分が鏡に映っているのを眺めて深いため息を一つ。鏡が白く曇った。

 曇り止めヒーターのスイッチを入れれば、さっきと変わらない顔が再び現れる。研究が上手くいっていません、そう顔に書いてある。わざわざ鏡で顔色を伺わなくても自分のことなんだからわかってはいる。研究がうまくいっていないというより、ここでの生活そのものに問題があるような……頭を振って思考を中断する。

 心なしか抵抗を感じる腕を力を入れて動かす。チューブからペーストを硬いブラシの上に絞り出し、口に突っ込む。きつめのミントと、響く擦過音。耳朶に届いたその音が日々のルーティーン通り1日の始まりを認識し、脳が活性化を始める。徐々に持ち上がる瞼、部屋がより鮮やかに映る。頭にかかっていたもやが晴れ、さっきから聞こうともしていなかった機械音声に意識を向ける処理能力の余裕が生まれた。

 

『────フトにて待機するよう通達されています。予定は以上の一件です』

 

 耳を向けようとした案内が、たった今終わった。ああ、二度手間になってしまった。頭に血が昇る感覚、少しの苛立ち、耳が後ろに撚れたのを頭皮のつっぱりから感じ取る。機械音声による案内をもう一度リクエストすることは簡単なことだが、私は壁面モニターから直接文章を確認した。音声案内を聞いていなかったのは私だが、私にもっと伝わるよう努力をしなかった音声側にも責任はあるはずだ。そうに違いない。

 冷静とは言えない判断が頭の中で行われたような気がするが、例外措置だ。例外例外。たまにはそういうこともある。

 モニタに表示した電子化書類の通達事項を指で流す。ふむ、そういえば今日だったか。1130……11時半にメインシャフトにて待機、と指示が出ている。最上層まで上がるのはエレベーター無しだと時間がかかる、ある程度早く動こう。今日は異動の面々がエレベーターを物品と自身の運送に使うだろうから混み合うだろうし。人混みは苦手だ。それなら歩いて行ったほうがいい。

 口を濯いで歯磨きを終える。歯ブラシはゴミ箱のペダルを踏み込んで空いた口に放り込んで処分。向き直った鏡の前で口を大きく開いた。うん、良い白色。ズボラな生活をしているとカウンセラー兼主治医の変人に怒られてしまうだろう。特殊な健康療法にひたすら付き合わせられるあの地獄はもう二度と経験したくないね。

 

「繰り返しの日々に小休止、か」

 

 洗面所からリビングに広くも狭くもない抜ける廊下、ぼうっと天井を見つめながら呟いた。光度の低いLEDランプが控えめな自己主張をしている。眩しさに目線を下に落とせば、自分の影が後ろに伸びているのが見える。自覚のなかった耳の形をそこで初めて認識する。自分が思うより不安というものを大きく私は感じているらしい。

 変化する環境は私にどのような影響を与えるのか。鬱々としたこの地下生活の日常に少しでも良い変革をもたらしてくれることを期待してしまうのは私が子供ゆえであろうか。直接の上司の首がすげ替わり、専属の護衛にとどまらず助手を兼任する人材がやってくる。双方きっと有能で上からの信頼も厚い人間なんだろう。人間関係の大変動、仕事の環境が激変するのは明らかだ。

 それが、今日。急速に現実感を伴ってその事実が理解される。前々から認知していたことであるが、今初めて主観で事態を飲み込んだ。足元に自信がなくなる。地面の存在感が希釈されたような奇妙な感覚。腹の奥、胃の辺りの違和感が不快だった。しかし変化に期待する自分もしっかり自覚できる。一度冷めた淡い期待が再び顔を出し、背反する感情がせめぎ合いを始めてしまって思考がまとまらない。

 大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。運動後に息を整える時と同じように。こういう時は、そうだ。考えるのをやめよう。解決できない問題から一度距離を取ることでうまくいくこともある。11時半にメインシャフトに行く、それだけ。喜ぶなり、悲しむなり、いろいろ検証は全部終わった変化後でもいい。

 頬を叩いて思考を切り上げる。うまくスイッチの入らない心身に別のアプローチをかけてみることにした。再びペタペタとスリッパを鳴らして木製のラックに歩み寄り、最上段から金属の小箱を一つ──しばらく迷って──選ぶ。手に取ったのはイギリス王室御用達ブランドの最高級茶葉。ある程度の質量を小箱から感じ取ってまだ残量がそこそこあることに安心しつつ、可愛らしい缶(可愛らしいとは論理的でないかもしれないが、どうにもこれを可愛い以外に形容することができない)の蓋を外す。するとすぐに期待した香りが辺りに漂いだした。私は逸る気持ちを抑えつつティーメーカーにスプーンで掬ってはいれる事を繰り返す。少し欲を出していつもの二倍ほどの量になってしまった。だが、もう出してしまったのだからしょうがない。誰が聞いているわけでもないのに白々しい言い訳をして、メーカーのスイッチを押した。作動中を知らせる小さな赤いライトとわずかに聞こえる低い響きを確かめる。気分が高揚するのを感じつつ茶缶を元の場所に戻し、すぐ横の戸棚から一番大きいマグカップを取り出す。

 まだかまだかとしばらく辺りを落ち着きなくうろついていると、食堂の安物紅茶とは比べるのも烏滸がましいような贅沢で上品な香りが辺りに漂い出し、待望の紅茶が完成した事を知らせるランプが点灯した。私ははやる気持ちを抑えきれずにポットを持ち上げ、なみなみとマグカップに注ぎ込む。ヨーロッパの硬水と最高級茶葉で作られた澱みのない赤橙色の紅茶。入れ物がマグカップであるところが少し風情に欠けるが、この際まあ、いい。近くの角砂糖の容器に手を伸ばし、大きいスプーンを使ってザラザラと純白のブロックを投入する。液面に触れた場所から赤橙色に染まり、透き通っていく。液体と個体の境界を見失った角砂糖が紅茶と同化していく。

 香りを満足するまで楽しんだ後、ゆっくりと口をつける。ホット用に薄くつけられたベルガモットの奥深い香りが一層強く感じられる。深みがありつつ透明感のある味わいは格別だ。心の中の私がスタンディングオーベーション。久しぶりに出した高級品をしばらくゆっくりと、深く楽しむ。

 そういえばベルガモットの蒸気にはストレス軽減効果があるのだとか、私にとってはまさに渡りに船だといえる。ふう。

 空になったマグカップを洗面台の上に置いておく、わずかに香る残り香すら素晴らしい。大量のスクロースはエネルギーを、素晴らしき紅茶の香りは私の精神を、それぞれ満たしてくれた。今日も頑張れそうだ。おそらく。

 さあ、予定までに時間は空いている。こういう隙間にも研究はやっておきたい。やりたいことばかり積み重ねていては全部終わらなくなってしまう。勢いよく立ち上がって背を伸ばし、ウェアラブルデバイスを手首に巻き付けて部屋を後にした。

 

◇◇◇

 

 甲高い電子音が部屋いっぱいに響く。作業を邪魔されたことに不快感を覚え、聞きなれないアラームに朝の目覚ましを思い出して眉を顰めた。音のした方向に首を曲げれば、壁際のシステムラックの一角が赤いランプを点滅させている。立ちあがろうとした矢先、アラームに数歩遅れて眼前のモニターにエラー表示。ん、記憶ドライブが読み込めない? バックアップが稼働しているからデータの保蔵状況に問題はなさそうだが。

 面倒だなあと思いつつも、もしかしてとラックの保護ドアをひらけば予想通り一台のハードディスクドライブの接続端子の警告灯が点灯中。嗚呼、本日何度目か分からないため息を吐かざるを得ない。数日前に備品倉庫まで自分で取りに行って挿入したばかりの新品、外装に傷があるから嫌な予感はしていた。まあ、中に復旧不可能なデータを収納する前に逝ってくれたのを幸運に思うことにしよう。精密機器なんだからたまにはこういうこともあるだろう。

 ドライブを固定している爪を壊さないよう恐る恐る押し込んで外し、出っ張った取手をしっかりと掴んでA4ほどの広さとルービックキューブぐらいの厚みがある長方体を引き摺り出す。鈍く光る金属筐体を踏ん張って持ち上げ、机の上に置いた。衝撃厳禁、取扱注意、温度注意、容量5PB、技研試供品、大きなデカールがテカテカと安っぽい光の反射をしている。どれだけ高性能だったとしてもこうなってしまえば無意味に飾り付けられた文鎮と同じだ。使い勝手が良い点で普通の文鎮の方が私にとって価値がある。より耐久力のある三次元光学ホログラム記憶デバイスが欲しい。容量だってもっと大きいし。

 今しがた取り出した文鎮もどきを指で引っ掻いていると部屋の端のコンピュータ群がファンの駆動音をより大きく発て始めた。記憶デバイスのデータ紐付けと振り分け優先順位の再構成を行なっているのだろう。室温が僅かに上昇した事を感知した空調が温度調節のために起動。先ほどまで私のキーボードのタイピング音ぐらいしか聞こえなかった部屋が一気に騒がしくなる。

 ヒシクロス格子の中でダクトファンが回転を始め、ヒートシンクの冷却を始めた。また新品を備品倉庫まで取りに行かなくてはいけない。しかし今はどうもやる気が出ない。カタカタと忙しなく音を立てるラックのハードディスクの音に疲れとめまいを感じ、椅子に沈み込む様に深く座った。

 おもむろに体の左側を流れる栗毛の毛束を手に取る。シャワーを浴びて雑に乾燥させただけの尻尾、毛の流れる方向すらまとまっておらず、所々跳ねてボサボサだ。そういえば安心沢女史がここにいる時はよくブラッシングをしてくれていた。

 

 ───あんしーん☆私が整えてあげるわ!あ、なによその顔!───

 

 私がブラッシングをしてあげる、突然そう言われて、わざと出しているとしか思えないあの怪しい雰囲気で「あんしーん☆」だなんて誰でも私と同じ顔をするに違いない。私にとっては驚くべきことに安心沢女史は非常に満足度の高い手入れをしてくれた。ウマ娘医療資格オールラウンダーというのはもしかしたら冗談ではないのかもしれない。完全に信じることができないのは普段の彼女の言動、行動による。

 あの人の手つきを真似してみようと、龍の如く乱雑に暴れる尻尾の毛にブラシを食い込ませるが、引っ掛かりがひどくて動かせない。しばらく諦めずに何度か試行したが、失敗。あろうことかブラシに毛が絡みついて尻尾から取れなくなってしまった。

 ここから得られた教訓は私にこういう事は無理ということ。自分の体の一部なのになんて様だ。ぐいぐいと何度も力を入れてブラシの柄を動かし、毛の抜ける痛みに涙を浮かべつつも、なんとか尾毛からブラシを除去することに成功した。ジクジクと痛む皮膚をさすりながら結構な本数がまとわりついたままのブラシをソファーに放り投げ、服に着いた抜け毛をゴミ箱に入れる。

 確実を取って安心沢女史にまたお願いしよう。

 大きなため息をついて脱力したところで、どこからか大きな音が鳴って驚く。体が跳ねてヘッドレストに後頭部をぶつけた。痛い。

 

「今度は一体なんだ、全く次から次へと……」

 

『予定の時刻をお知らせします。現時刻は11時10分です。アラートを解除します』

 

 人口音声が喋り始めて自分の腕から音が発せられていることに気づく。そういえばアラームをセットしておいたのだった。時間に注意を向けていかったことを反省する。しかし時間だけ過ぎてしまって隙間時間だったという言い訳を置いても進捗がないことに自分ながら呆れざるを得ない。全く今日は能率が上がらないようだ。

 驚きで逆立ちさらにひどいことになってしまったもはや竹箒のような尾毛をせめてマシな状態にならないかと弄りながら、引き出しやら書類の裏やらから持っていくべきものを取り出す。私は片付けが苦手であるが、散らかっていても物の場所はわかるんだ。身分証とカードキー、タブレットPC。最低限持っていくべきものを揃えて分厚いプラケースに押し込み、反発する蓋をバンドで無理やり留めて脇に抱える。服装はまあ、いいや。

 

◇◇◇

 

 私と彼らとの出会いはそれはもう劇的な物だった。少なくとも私の退屈としか思えない日常とは対極に位置する出会いと言っていい。

 

「竹本連絡官。あなたには機密漏示罪および内乱罪の嫌疑がかけられています。公安の指示に従ってください。抵抗はお勧めできません。我々は国家から直接の拘束命令を受けて行動しており、生死は問われていません。我々には日本国政府より多くの権限が与えられています」

 

 真っ黒なスーツの男二人。そのうちの一人が目を瞑って重々しく言葉を綴る。言葉の刃を向ける先に視線を向ければ、ぱくぱくと魚のように口を開閉するだけで言葉を発せない上司(竹本)。いや、この状況を見る限り元をつけるべきかもしれない。重苦しい空気が場を満たしている。いつも暗いエントランスがより暗く見える。

 

「自分がどういうモノを扱っているのか忘れてしまったんだね。でも──それでは困る。我々には8000万の国民に対する責任がある。責任は果たさなければならない」

 

 横にいたもう一人がさっきよりは軽い口調で、しかしより怒気を滲ませながら口をひらく。スーツの内側から取り出し、元上司に向けたのは、画面の中でしか見たことがないモノ。黒々とした鈍い色の拳銃だった。銃口の内側にライトが当たって鋭く光を反射する。小さな悲鳴は元上司のものか。引き金に指は置かれていないが、その状況に私は寒気を覚えた。緊張した面持ちの安心沢女史が無言で私の手を引いて下がらせる。

 男がゆっくりと手を挙げる。彼らと車両用エレベーターで一緒に降りてきた黒色のバンから硬い顔をしたスーツ姿の男たちがぞろぞろと出てきた。何かが落ちるような音のした方向を見れば竹本が膝から崩れ落ちたところだった。魂の抜けたような表情で地面に転がっている。彼らの言葉を聞く限り、わかりやすいシナリオを考えるならばここでの情報をどこかに売ろうとした、といったところか。バンから出てきた男たちが彼に近寄り、炭素繊維製であろう真っ黒な手錠をして引き摺るように連れて行った。

 彼らの言う罪状が全て真ならば、もう彼は自由の身にはなれないだろう。奇しくも馬鹿にしていた私と同じような拘束生活だな。私は混乱する頭の片隅でそんなことを考えていた。

 

「私は若草上級研究員を押さえる、君もこっちだ。南坂くん達は岸副所長を頼む」

 

「了解です」

 

 スーツ姿の男達、おそらく公安の人間が各々拳銃を構えながらシャフトを後にした。忙しない靴音が遠ざかり、静かになったシャフト。若干放心気味の私にカツカツという靴底とコンクリートの舗装が奏でるリズムが二人分、近づいてくる。

 

「あとは公安がやってくれます。すいませんね安心沢さん、こんなにいきなりで……もっと事前に話せればよかったんですが」

 

「もう! ほんとよ〜、彼女は大人びているとはいえ小学生ぐらいの年齢なのよ! 目の前でいきなり拳銃なんか取り出してびっくりしちゃうわ……」

 

「数週間前までは異動させて様子を見るという話だったんだけれどね。異動の話で焦ったのか彼が研究所内の回線から外部に通信をして、接続先はお隣のお国。さあ大変、どうしましょう。つまるところ僕らも焦っていた、というわけだ。許してほしい」

 

 誠実そうに謝罪する男に、わざとらしく腰に手を当てて怒る安心沢女史、そしてわざとらしくウィンクをしながら説明する男。随分と仲が良さそうな印象を受ける。二人からはさっきまでの人の命を奪うことも辞さないという重々しさと重圧は感じない。いつか見た気さくな公務員といった風体だ。

 ここにはこの3人以外に音を立てるものが存在せず、シャフトの広大な空間を壁と上方の耐爆扉に反射した会話が反響した。蛍光灯が瞬く。

 

「───それにしても、安心沢さん。相変わらずの運転でしたね……」

 

「最☆高の運転でしょ〜久々にハンドルを握ったから楽しくなっちゃってね☆」

 

「後ろに公安警察のバンが付いてきているのに、よくあんなに荒い運転ができるものだと感心したよ。仮にも安全運転は心がけて欲しいね。悪い事は言わないから車の運転は控えた方がいいんじゃないかな」

 

「ひどーい! あんしーん☆運転☆ちゃんと気をつけてるんだから」

 

 私に配慮してかどうかはわからないが、会話の内容が変わった。安心沢女史は運転が下手なのか、初めて知った。最初にぼかして話した男の言葉は流れてゆき、かなり直接的な言葉を使った指摘もあまり安心沢女史には効いていない様に見える。真面目そうな男は少し顔を引き攣らせて苦笑い、軽い雰囲気の男は肩をすくめて、こりゃあダメだね、と漏らした。

 

「さて、と」

 

 ふと視線が自分に集まるのを感じる。二人の男が一歩こちらに歩み出した。自然と身構えてしまう。

 軽い雰囲気の方が一つ咳払いをすると口を開いた。

 

「やあ、アグネスタキオンちゃん。初めまして、僕の名前は斉藤 直継。総理大臣直轄の公務員をやっている。日本の機関の命令を受けて今日から君の研究の管理者になることになった。よろしく頼むよ」

 

 わかりやすい作り笑顔で腰をかがめて話しかけてきた。む、と思った。明らかに子供対応。年下だと思って軽く見られている。いや、軽くは見ていないんだろうが、甘くは見られている気がする。

 

「……よろしく」

 

 ふい、と外方を向く。これじゃあ自分でも子供だと思うが、やはりそういう扱いを受けるのは気に触る。私の気が済まない。

 

「ええ……? あらら……」

 

 斉藤氏がもう一人に肘でどつかれている。痛がる斉藤氏をおいてそのもう一人が前に出てきた。斉藤氏が上司ポストということは、彼が

 

「初めまして、内閣情報調査室 機密保護部 特務係 山吹 亨です。あなたの護衛を主たる任務とし、研究補佐、スケジュールの交渉なども私が担当します。どうぞ、よろしく」

 

 膝を曲げて姿勢を下げ、私に目線を合わせて彼は手を差し出してきた。年下に向けた対応というもので一般的なもの、しかしその目に、私に対する敬意を感じた。斉藤氏になかったとは言わないが、より上の次元、仕事人同士に向けるようなリスペクトを含んだ瞳。差し出された手を掴む。確かに、安心沢女史の言う通りかもしれない。僅かな期待を乗せて、私も口をひらく。

 

「アグネスタキオンだ。よろしく頼むよ」

 

 そのままブンブンと手を上下に振る。いきなりの高テンションに驚く彼に、今日初めての笑顔を見せた。



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Annotation|Seeker of Knowledge

「いくわよー!」

 

 そう安心沢さんが叫ぶと同時に、音が聞こえるほど勢いよくアクセルがめいいっぱいに踏み込まれる。彼女の意思にECU(エンジンコントロールユニット)は正確に答え、モーター回転数が急速に上昇。回転を始めたタイヤが地面をグリップし、カーボン素材を多用した軽い車体はまさしくロケットのように発進した。あらゆる任務に対応できるように改造の施された特務係仕様の特別車はすこぶる好調だ。凄まじい加速度に体が一気に後ろに引っ張られ、座席に押しつけられる。突然の事に体が対応できず、一瞬呼吸ができなくなった。モーターよりエンジンの音の方が圧倒的な車内から、風のような速度で流れる風景に目をやる。我々が乗っているのはF1マシーンだったのだろうかか? いや違う、一般的な電気水素ハイブリッド乗用車だったはずだ。

 アシストグリップを強く握り込み、腹筋と腕の筋肉を使ってなんとか上体を起こした。速度は相変わらずだが加速度の緩まった車内で、運転席に座る奇抜な格好をした女性(安心沢)を凝視する。爆音と等しい走行音を突き破って鼻歌が聞こえてくる。まさにルンルンといった具合だ。彼女が運転をする、そう言って運転席に我先にと座り込んだ時点で嫌な予感はしていた。一般道路は某配管工カートの会場ではないということを理解してほしい。電子制御サスペンションとスタビライザをもってしても安定しない筆舌に尽くし難い素晴らしいハンドリング。車線アシストの制御ランプが諦めたかのように光を失った。助手席に座らなくてよかった、まったく今にでも事故を起こしそうだ。

 首を捻ってリアガラスを覗けば、スモークの暗い視覚の向こうに黒いバンが相当な距離を離して後ろについてきているのが見える。……そうだよな、巻き込まれたくない気持ちはとてもよくわかる。警察の方々の前でこんな暴走運転をして申し訳ない。正直普通に罰金案件だと思う。が、残念なことに我々に彼女は止められそうにない。暴れウマのようにガタガタと揺れる車内で斉藤と目が合う。もうやめてくれと言わんばかりのゲンナリした顔。言いたいことはわかるが口を開くな、舌を噛むぞ。そう目で念を送っていたら溝に引っかかったのか車が跳ね、一瞬の浮遊感のあとルーフに頭を強打した。くそ……舌を噛んだ。

 

◇◇◇

 

 職業柄体が動かないとまずいから適度に運動して鍛えているはずだが……車に乗っているだけで息を切らすなんて初めての経験だ。背中にうっすら滲む冷や汗が気持ち悪い。深呼吸をして息を整える私の横で青を通り越して黒っぽい顔をした斉藤が天を仰いでいる。私よりよほど胆力のある彼が呼吸を忘れるとは。テーマパークのジェットコースターに何十分も乗せ続けられていた気分だ。無論、落差が激しくて上下左右にGで引っ張られるようなものを指している。

 窓を開けてみれば、中に溜まっていた重い空気が外に吐き出されて幾分環境が良くなったように感じられた。森の空気が涼しい。気分が悪いと呻いていた彼だが、先ほど渡した飴玉の甲斐もあってか少し顔色の良くなったようだ。口を開いたかと思えば、言葉より先に長い長いため息が出てきた。

 

「……彼女に車を運転させてはいけない。これは推奨ではないぞ。某コンビニミサイルより酷いものを見た……公道を走るジェットコースターなんてものがあるとはね。いや、全く知らなかった!」

 

 斉藤の意見に私は全くの同意であるが、エレベーターのコンソールを操作するために降車していた彼女がこちらへ戻ってきていたので苦笑で答える。直接言ったところで、彼女の場合反省するどころかカリギュラ効果になりそうだが。二度目は御免蒙る。事故なら一人で───いや彼女に死なれてはこの国が困る。やはり運転をなんとかしてやめてもらわなければ。

 

「お待たせー☆ 車両エレベーターにご案な〜い。あら?顔色悪いわよ?ブスッと針治療☆でもどう?」

 

「遠慮しておくよ」

「遠慮しておきます」

 

 先程の運転の張本人は全く悪びれるそぶりも見せずにカラッとした調子で、自身が勉強する新しい医学分野の臨床患者の誘いを入れてくる始末だった。勘弁してほしい───綺麗に二人揃って拒否を伝える私たちに、彼女は心底残念そうな顔を向けるのだった。

 彼女が運転席に再び収まり、少し車をすすめてサイドブレーキを掛ける。位置ビーコンが車を認識し、積載パレットのアームがガッチリとタイヤをロック、チェーンで引かれて車両用エレベーターの昇降機の上へ。横目にもう一台のエレベーターの方を使う黒いバンが見える。エレベーターのゲートが閉まり、等間隔で灯る昇降洞のライトが下から上へと流れていくのが見える。室内灯の弱い光の中、頭の中でまずすべき任務を確認し、必要となるかもしれない物品の確認をする。ジャケットの内側のホルスターから自動拳銃を抜き取り、スライドをわずかに引いてチャンバーの中に銅色の輝きを確認する。実包装填よし。世間一般からして物騒なものだが、この施設の性質を考えれば必要だった。横の斉藤も愛用のベレッタで同じことをしている。

 再びホルスターに非日常をしまい直し、正面に向き直ったところでミラー越しに安心沢さんと目が合う。強い不安を感じさせる視線。おそらく彼女のことを心配しているのだろう。我々も困惑するほど急な予定変更だったから致し方ない面が多いが、彼女のケア全般を任せていることを考えれば不安になる気持ちも痛いほどわかる。本当に申し訳ないと思っている。そもそももっとしっかりと情報監視を行っていればこんなことにはならなかったはずだ。事が終わったらちゃんと頭を下げよう。

 シートから緩い衝撃を感じる。昇降機が下端に到着したようだ。

 情報を監視していれば───自分の考えに自嘲する。

 今日、明日、来月、来年、この国を未来に存続させるための手段を生み出す最前線。そのはずのこの場所から人間の腐敗が見つかる、というのはもっと根本的な問題があるだろう。斉藤を含め安心沢女史など信頼する人間たちはこの国のために心血を注いでくれているのはよく知っている。我々組織の集合としての意識もそれで合意されているはず。だがしかし、やはり個の意思として最終的に追求する利益に国体の存続が含まれない人間は政府にも財界にも”ここ”にも、居る。全く不愉快な事に。

 ただ自分の利益追求をするだけならまだしも、この国の命を削って自身の利益にしようとする輩が。共存ではなく、一方的な寄生、搾取。そう言ったことは認可できない、許されない。だが残念なことに情報の流れを監視するぐらいで全てを見つけ出すことはできない。

 斉藤と共に車から出る。安心沢さんがいち早くアグネスタキオンのそばに駆け寄る。

 私がいくら理想論を掲げて奔走したところで、どのみち限界は来る。今はただ、信頼できる人間と共に目の前のやれることをこなしていくだけだ。少しずつしか見つけられずとも、全てを見つけるまで確実に少しを積み重ね続けるのみだ。戦後から先人たちが続けてきたように、そうやってこれまでやってきた。

 こちらを見て呆けている下手人を睥睨する。連絡員、ただいまをもって元が付く。

 

「竹本連絡官───

 

◇◇◇

 

 国家にあだなす癌細胞の少々手荒な切除を終え、転移したものの処分のためにシャフトから駆け出しっていった公安のエージェントたちを見送る。優秀な実働部隊だ、確実に任務を遂行してくれるだろう。秘密裏かつ令状なし、銃器も正式な許可はないことになっている非合法まみれの任務ゆえに、超法規任務の担い手である我々がまず前に出る必要があった。任務は基本非合法、そのための特務係。超法規的措置というご都合ワードを政界人より使っている自信がある。日常のボキャブラリーに数えられるほどだ。いや、そもそも我々にとっての日常は正しく一般的な日常なのかと言う疑問があるな。

 法律法律と普通はやるものだと別部署はうるさいが、まず目の前の幼女をこの地下施設に閉じ込めることをどの法律が是としてくれるのか。非合法というより、この一連のプロジェクトは無法なのである。少なくない犠牲、倫理が目を背けた計画。だからこそ我々は誠実でなければならない。

 

「あらら…」

 

 馬鹿野郎、子供だと思って甘く見過ぎだ。飴ちゃんどうぞとでも言いながら棒付きキャンディーでも取り出しそうな話しかけ方しやがった。素人目でもわかるぐらい不機嫌になったアグネスタキオンを見て唸っている同僚を肘でどつく。「いてて」だの放言している相方をどかして一歩踏み出す。

 外方を向いてしまったアグネスタキオンに目線を合わせる。こちらに興味を持って視線を向けてくれた。その瞳を見る。全体的に小さい、まさに幼女としか形容できない体、幼い顔。しかしその瞳は知的好奇心に満ち満ち、深みを感じる。どこかの芸術雑誌で見た芸術家のものにも似た、直感で言うならば科学者の目をしていた。そうだろう、と感じた。何か断言する材料があるといえるほど人生は厚くなかったが、その私より一回りも齢の低い少女のものは、まさしく想像力で明日を見る目だった。

 技研の面々が口々に言うことを実感として理解する。確かにこの子は科学者(知の探求者)だ。幼さと知的な雰囲気が不思議な同居をしている。こんなに幼い子が明日の日本があるためのキーメンバー。あまりに重すぎる役割。敬意を払うには十分すぎることだった。ここに、自分と同じ”仕事”をする人間がいた。畏敬の心を持って手を伸ばし、名乗る。

 彼女はわずかに目を見張り、数秒遅れて私の手を取った。

 

「アグネスタキオンだ。よろしく頼むよ」

 

 自身の滲んだ幼い声。よろしく頼む、という言葉に相槌で返事をすると、突然手を勢いよく上下する。いきなりのことに驚く私に彼女は年相応の、花の咲くような笑顔を向ける。明るい笑み、私も自然と笑みを作ることができた。

 彼女とはうまくやっていける、そんな気がした。



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Report.4:ReActant;

「そこのフラスコをとっておくれ、緑色のラベルが貼ってある方だ」

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとう」

 

 強制排気が行われているドラフトチャンバーの中でフラスコの中の薬品をガラス棒に伝わらせてビーカーに流し込んで混合し、目的の薬液を作り出す。有機化合物にありきたりなゆっくりとした反応が順調に始まったビーカーから焦点をずらし、機械の樹脂カバーに反射してぼんやりと見える背後の男に意識を向ける。ここの職員が普通に着ているジャケット型の襟がついた真っ白な白衣、妙に似合っている。まるで随分前から科学者であったかようだ。ずっと前から着ているこの白衣もどきは私に全然似合ってくれないというのに。

 まだ反応を続けているビーカーに視線を戻し、じんわりと反応熱で温かいそれを軽く動かして撹拌する。くるくると縁を描くように左手でビーカーを揺すりながら頭は別のことを考える。

 護衛として派遣されると聞いていたので実験助手としてはあまり期待というとアレかもしれないが、していなかった。ロボットとか、コンピュータの方が聞き分けが良さそうだ、なんて考えていた。しかしながら実際彼、山吹君が来てから私はロボットが助手だった時よりパフォーマンスが良くなった。より良質な成果を出せている。明らかに有意な変化。

 人と共同で研究や実験を行うことは少なくとも私にとって有利に働くらしい。嫌な顔ひとつせず純粋な助手として作業に尽くしてくれる、全く思ってもないサプライズだよ、これは。この時ばかりは神を信じてもいいかもしれない。己の境遇から神の存在に絶望して久しいが、少しだけ信仰心が芽生えた。しかし“神はサイコロを振らない”ことが量子力学の発展で否定された以上、神の“絶対”には疑問があるな。やはり信仰はなしだ。

 思考に意識を裂きつつもじっと見ていた薬液の様子が変化する。攪拌は終わりだ。

 

「───よし、今日はここまで。新素材の研究はもう早足すぎると言っても良いぐらいに進捗状況が良い。私のスケジュールでは今の進捗レベルに到達するのは二ヶ月先の予定だったんだ。君のおかげだ、と言っても過言ではないだろうねえ」

 

 かつてないスピードで進む研究。予定表の更新が忙しいったらない。面倒なこともあるにはあるが、今のところは大体うれしい悲鳴だ。

 ひとまず今日の実験は完成した薬液の硬化過程を見るものなので、あとは放置するだけ。硬化のはじまった薬液入りビーカーを記録装置が所狭しと目を並べる台に他の薬液の入ったいくつかのビーカーと同じように並べる。次の実験テーマは来週新しい実験器具が届くまでできない。本当はコンピュータシュミレーションでできないこともないが、そんな面白みのないことをなぜ私がやろうというのか。つまり本当に実験でやることがなくなった。こんなことは初めてだ。

 

「次々とアイディアを浮かべては実践してみせるあなたの行動力には全くついていけている気がしませんが、役に立てているようでよかった」

 

 相好を崩して返答する彼を見て私も表情筋を緩める。最近の私は以前より明るくなったと思う。自分のことを考えてくれる人間が近くにいるだけでこうも変わるとはね。冷静に考えてみれば実験の補佐よりも精神的な貢献の面の方が私にとって大きいように感じる。安心沢女史の精神テストのスコアも緩やかな低下が続いていた前とは一変してとても良い値を最近はキープしている。たぶん、私のメンタルのことを彼女はいろいろ彼に言い含めているのだろう。彼は──この短い期間で推察する限り──誠実なので、助言をもとに、私に最適な対応をしているに違いない。

 

「はい、どうぞ。角砂糖はこちらに」

 

 最適な対応が早速きた。今日はここまで、そう言っただけなのにもう紅茶を淹れてきた彼に感心する。ソーサーとカップが立てる硬質な音とともに紅茶の良い香りが鼻腔をくすぐる。経費購入で一括で仕入れる安物ではない。私がもう少しいいものを実験室でも飲みたい、と愚痴をこぼしたら彼がわざわざ外に出て茶舗に購入しに行ってくれた。グレードはフォートナム・アンド・メイソンには劣るが、それ以上の意味を私はこの赤橙色の液体から感じる。わがままと言えるようなものを人に言ったのなんていつ以来だろうか。そしてまた、それを叶えてくれる人間がそばにいるのも。上機嫌が内側から湧き上がるのも無理はない、と思う。

 横に置いてくれた容器からザラザラと角砂糖を投入し、私好みの甘さになった紅茶に口をつける。心安らぐ紅茶の香りと温もりを感じながら、紙コップに注いだ紅茶を片手にタブレットで何か仕事をしているのであろう彼の横顔を眺める。画面を操作しながら、手を額にやったり、首にやったりと意外と動く。これが彼の考える仕草だろうか、なんて考えてみたり。

 初対面の幼いウマ娘に初仕事から全力で補助をしてくれている。同情の面も大きいだろうが、私がここに閉じ込められている理由を知った上で、同情よりも大きい敬意を向けて仕事を共にしてくれていることにとても好感が持てる。こういう生活のせいで人の感情には疎いが、さすがに何も感じないほど鈍感が極まっているわけでもない。斉藤君も彼に諭されたのかだいぶ私を気遣ってくれるが、どうにもね……

 初対面の印象というのはかなり大事なものだと思うのだ。

 

「山吹君」

 

「なんでしょう」

 

 沈黙。私は何を言おうとしたのだろうか、言おうとした言葉の引き出しは空だった。変な私。

 それこそ余計なことを言って関係が壊れてしまったら、私は大変困る。半年とはいえど、彼が助手を始めた期間だけで言えば1ヶ月と少々。たったそれだけ、彼が私の生活空間に入ってから経た時間はそれだけだ。こんな気軽な雰囲気になったのも最近。しかし、彼はすでに私の精神に不可逆的な変化を与えたことを私は認めざるを得ない。それだけ私が彼を信頼している証左でもある。彼はひたすらに私に対して真っ直ぐだった。誠実かどうかは──特にこういう職なら──視点によって変わるのかもしれないが、少なくとも私にとってはそう見えた。

 言葉で飾らずに正直な気持ちを吐露するとすれば、私はただ、単純に怖いのだ。元の一人の生活に戻るのがどうしようもなく怖くなってしまった。横に話しかけても機械音だけが聞こえる生活。今日は終わったと伸びをしても椅子の軋みだけが聞こえる生活。そこには紅茶を入れてくれる人影はいない。

 安心沢女史を軽視しているわけではない。彼女はそれと彼女が気づいていないのかもしれないが、カウンセラー、主治医としての一線を私との間にひいている気がする。それは私にとって両面の存在する問題だった。私に接近し過ぎれば、上に客観視点という意見を通し辛くなるだろうし、離れ過ぎれば……後は自明だ。私のための一線であることを私は理解している。

 自分で言うのもおかしな話だが、子供のメンタルはそこまで強くない。むしろウマ娘とい言う種族であるからより不安定だろう。一般論からもそれは明らかであるし、カウンセリングの専門家である安心沢女史がそれを知らないはずはない。彼女がサングラス越しに時折見せる無意識の苦悩の表情を私は知っている。彼女にとって山吹情報官はゴルディアスの結び目を切り裂く剣なのだろう。彼は彼女を縛るジレンマに縛られない。しがらみからより自由だ。

 

「……なんでもない。忘れてくれ」

 

 疑問符を浮かべる彼を横目に、私にとって彼はなんだろう、と考える。すでに他の一般的な職員たちよりだいぶ近い位置にいる。───もしかしたら、安心沢女史よりも。

 私の護衛だ。───書面の通りならそうだろう。私の助手だ。───今彼がやっていることはその通りだ。どちらもそれだけの関係かといえば若干の疑問がある。疑問というより違和感だろうか。護衛も助手もいれば助かることは間違いないが、彼といる時の表現し難い感情はそれらといても湧いてこないだろう。ならば彼は他の何者だと私は考えているのだろう。

 友人? 作った試しがないが、もしかしたらこれがそういうものなのかもしれない。共同体の中で形成し、同等の相手として接するもの。私は彼に友人になって欲しいのかもしれない。実験の話題の共有は楽しいし、彼は私を同等の存在として扱ってくれる。

 家族? わからない。両親に向けるような感情とは違う、気がする。しかし彼に代役を務めてほしいと考えている私はどこかに居るのかもしれない。私は彼に甘えたいのだろうか……いや、まさか。しかし家族の愛情も今や遠くにある、触れようとしないのは自分だが、同時に触れたくもある。

 わからないということが再確認された。安心沢女史と接している時に感じるものと似ていることはわかるのだが……

 

 金属が擦れる音を耳が捉え、いつの間にか潜り込んでいた思考の淵から意識が浮上する。音の発生源は彼。彼が部屋の隅のハンガーラックに白衣を片付けているところだった。いつもの黒いジャケットを羽織り直して形を整えていた彼が、私の動きに気づいてこちらに顔を向けて私と目が合う。

 

「ごめんなさい。邪魔しちゃいましたか」

 

 いつの間にか彼は横の椅子から移動していた。私が実験と理論のこと以外でこんなに自分の内側に入って周りのことが見えなくなるなんて珍しいな、と他人事のように少し驚いた。私の耳は割と神経質な方なのだけれども。

 

「いや、問題ない。実験とは関係ないことさ。どのみち結論は今出るものでもないだろうし」

 

 そう話すと彼は納得したようで、ハンガーにかけた白衣の皺をスチームアイロンで伸ばし始めた。しゅうしゅうという音と共に蒸気が噴き出して、白い煙が出てきたかと思うとすぐに空気に溶けて消える。アイロンをかけたとき特有の焦げた匂いに近い匂いが漂ってくる。

 しかし、好奇心の火が灯ったものは結論がつくまで考察と実験を繰り返したいと考えるのが私の性。小さかった興味の炎はマグネシウムリボンとなり、テルミット反応の起爆剤となって、思考の反応を激しく燃え広がらせる。結論は出ない、そう自分で言ったにも関わらずに諦め悪くまた思考の海に潜ろうとしている。どちらかというと心理とか哲学然としたテーマであって、完全に私の分野外だ。何か形として結論があったとして、私にはそれを言語化する語彙とでも言うべき力が足りないような気がする。これは直感だ。直感は表面的に論理的ではないが、たまには必要になる。

 本や科学紙は数多の数を読みこなしてきた。それで身につけることができたのは、今に役立つ膨大な知識と学者然とした口調、そして微妙に偏った語彙だ。おそらくその中に答えはないのだろう。

 こう言った専門は安心沢女史が一番詳しい。今度聞いてみるのも手だろうか。今のところは解決手段なし、検証は中断だ。顔を上げていつの間にか空になっていたティーカップを机に置く。すると横から手が伸びてきた。

 

「考えることが多くて大変ですね。ティーカップは片付けておきますよ。おかわりはいいですか」

 

「ん、ありがとう。大丈夫だ。それにしても……君は私の黙考中にはいつも気を遣ってくれるね。考えているときはパタリと私にかまわなくなるから……考えている人間特有の合図とかがあるのかい? それとも君が読心術を使えるとか……心理学は今少し気になっている学問でね、純粋に気になる。ウマと人が同じかどうかは知らないけれど」

 

 ソーサーを持ち上げて歩き出そうとした彼の背中に気になっていたことを聞くと、彼は振り返って微笑し、ああ、それはですねと

 

「あなたは考えている時、耳が忙しなく動くので」

 

 わかりやすいですよ、とまた笑う。

 なんだってえ、初めて知ったぞそんなこと。私のことなのに。自分でも知らない自分のことを他者に把握されているというのはなんだかむず痒いような気分だ。気恥ずかしさというやつか、これが。思わず耳を両手で確かめる。今は当たり前ながらなんともない。突然挙動不審になった私を見て彼が再び小さく笑いを漏らす。

 ふむぅ、助手のくせに生意気だぞ。子供っぽい感情が膨れるのを感じる。中身のない抗議の声を上げようと椅子から立ち上がる。さあどう抗議すればいいんだ?

 

「明るくなりましたね。よかった」

 

 ハッとして彼の顔を見る。遠く、優しい、そんな笑み。いま膨れっ面の私に明るいというのはおかしな話だが、私全体の話をしているのだろう。彼も私の精神スコアの値は知っているだろうが、それとは関係のない、彼の所感をただ話したように感じた。ただ、今そう感じたから言葉にした、そういう台詞だった。

 彼の私の内面まで透かすような瞳がくすぐったい、私には君の何もわからないのに。だいぶ削がれた抗議の念を乗せて尻尾で彼を叩いた。



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Report.5:RePlay;

 無機質な白い廊下が続いている。リノリウムのつるつるとした質感の床が表面のわずかな凹凸に合わせて歪んだ光を反射する。一定の感覚で壁から隆起した柱が規則正しく奥に続き、また後ろにも続く。現実の光景というよりコンピュータ・グラフィックスの世界のようだ。等間隔で瑕疵のない作りがずっと続く様はひどく不自然にすら見えた。研究室がある階層の廊下より天井と幅が狭く、空間から圧力を感じる。

 湿度も高い。耳の毛がいつもと違う空気に敏感に反応して不快だ。尾毛も気持ち重く、歩きづらい。空調システムが不調を起こしているのではないか、そう考えて天井に顔を向ける。吸気グリルの奥でファンが回っているのが見える、見る限りは正常動作中のようだ。

 

「湿度が高いねえ。空調モニタの不調かい?」

 

 一歩先を歩く男の背中に声を投げかける。声音が不満げなトーンになってしまうのを抑えられなかった。彼に怒っても仕方のないことなのだが、微妙に気温も適温とは言い難く、じっとりとした空気は私を苛立たせるのには十分だった。少し湿った床と靴裏が微妙なグリップで滑って間抜けな音を立てる。それも私を苛立たせた。

 

「空調モニタは正常なはずです。最近は“上”が雨続きでしたから、吸気の時点で湿ってしまっているんですよね。今も降っているかもしれません。しかもここ、最下層フロアですから」

 

 すみません、あと少しですから、そう申し訳なさそうに謝られ、ひとまず溜飲を下げる。私は上を向いてみて、外の天気のことを考えた。目を閉じてみればおそらくある、コンクリート色のどんよりと暗い空が想像できる。しかし想像できるのみだ。実際には見えない。まあでも、状況から考えて降っているか、少し前まで降っていたのだろう。

 二人で歩くのは実験室や自室のある地上から2ブロック下層のフロアよりはるか下の最下層フロア。たまに使うグランドやジムのあるフロアより下に行ったことはないので、ここに来るのは初めてだ。行ったことはないというより、科せられた行動制限のせいで行けなかったのだが。

 今日の昼頃、いつも通り実験が終わり、やはり進捗が早いものだから暇になってしまって、午後は理論と論文でもやるから君は仕事をしていていいとそう彼に伝えたら突然

 

「下のフロアに遊びに行きませんか」

 

 彼は見たことのない──斉藤君がたまにするものに似た──笑顔で私に提案をしてきたのだ。突拍子もない提案だったが、下のフロアという言葉が運動器具フロア以下階層を指すことを知った私は自身の好奇心に負けた。だって気になるじゃないか、衛星軌道から徹甲爆弾による軌道爆撃を受けても耐えられるこの核シェルター、その下層には何があるのか。知識としてある程度のことはあっても、やっぱり自分の目で見れるなら見たい。

 エレベーターで降りられる場所まで降りたあと、歩いて目的地に向かっている。なんと最下層への直通エレベーターがなかった。それだけ人が来ないということなのだろう。何を目指しているのかは秘密らしいので、わからない。彼にしてはかなり珍しい物言いだった。

 最下層フロアの特徴としては原子力リアクタ関連の配管と装置が至る所にあることが挙げられる。逆にそれ以外の特徴が見受けられない。縦横無尽に走る配管群は確かに異界の風景にすら見え、一種の遊覧に近いものを最初こそ感じていたが、金属の森は多様性に欠け、飽きるのに時間は要らなかった。本当に何もない。この最下層はただの発電エリアだったというのが一番わかりやすい結論だが、ならば彼は一体何を目指しているのだろう。

 螺旋階段を降り、配管上のグレーチングを渡り、真っ白な廊下をずうっと歩いている。私たちの発てる足音以外の音と言えば、結露した水滴が水たまりに落ちる音ぐらいだ。十数分、いや何十分? 少なくとも体感十分はこの廊下の景色は変わっていない。私の体力的にはまだまだ余裕はあるが、こうも閉塞感のある環境が続くと気が滅入ってしまう。まあ閉塞なんて今更な気がするけれども。

 

「ここです」

 

「え?ゔっ」

 

 突然停止した彼の背中に止まる間もなくダイブし、鼻をぶつけてしまう。鼻を押さえていると、彼が大袈裟に心配する。最近わかってきたことなのだが、山吹情報官は心配性で、過保護だと考えられる。子供扱いはしないが、それに準じた行動がたまに見られる。私のことを思ってのことだろうから不快には思わないが。あまりにも大袈裟では、と思うことも少なくない。

 

「もう大丈夫だ、相変わらず大袈裟だね。それで……ここが、目的地かい?」

 

 周りの壁と同じ色のドア、金庫の扉を思わせる重厚さを感じる。私の指より分厚い鋼を使ったとてつもなく頑丈そうな蝶番、出っぱった扉はその厚みをアピールしている。圧縮空気で開閉する上層フロアのスライドドアとは作りが違う。

 彼は頷くと、ドアの金属板にカードキーをかざし、ハンドルを回す。金属同士が擦れ合う音がいくつか聞こえた後、空気が勢いよく流れる音がした。内側から外側に向かって、部屋の中から私に風が流れる。程よい温度の風。ドアが自動で奥側に向かって開いていく。

 中は真っ暗で何も見えなかったが、彼がドアの先へ行ってしまったので私も続く。

 まず感じたのは空気の違い、湿気がない。そして涼しい。廊下より空調コントロールのレベルが高いようだ。そして、少し気圧が高いな。あと……これは何の匂いだろう。不思議な匂いがする。広い空間である気がするが、真っ暗で見えない。少しずつ慣れてきた瞳でうっすらと見えるものは……箱?

 

「照明をつけます」

 

 ガチャンという大きな音と共に照明が一斉に点灯した。痛いほどの光の濁流。あまりの眩しさに目を瞑る。

 目を開くと、そこには───広大な書物の世界があった。高い天井まで積み上がった本棚に書籍がギッチリと詰まっている。匂いの正体は本だった。父の書斎でも同じ匂いを感じたことがある、懐かしい。そうだ、古い本はこういう匂いを発するんだった。

 

「これは……」

 

「最近実験が少なめで、あなたが実験室に一人でこもっている時間が多かったので色々施設を探検していました。ここはシェルター運用のために最初期に設置された文化保護室らしいです。面白いものを見つけられましたよ」

 

 後ろでドアを閉じながらこの不思議な部屋について彼が説明してくれる。文化保護室か、核の炎から知的財産を守るための部屋。どおりでこんなに地下深くにあるわけだ。アクセスの利便性はそもそも考えていないらしい。

 確かに確かに面白いものが見つかった、が。珍しく得意げな顔を浮かべている彼を少しからかってみたくなった。

 

「面白いことは否定しない、が。探検とは……君は私が理論研究を必死に行っている最中、遊び歩いていたということかい?」

 

 彼の笑みがきゅっと固まる。我ながら倒錯的な趣味だと思う。彼を困らせるのが楽しいなんて。彼はなんとか弁明しようとして言葉に詰まっている。そもそも何を謝るというのか。流石に可哀想になってきた。

 

「ククッ……冗談だよ」

 

 冗談だ、そう言われて彼は一瞬呆けた後、自分が揶揄われていたことに気づいたようだ。大変に面白い。

 彼が相当に事務仕事が早いことは知っているし、理論の時はいなくてもいいと言ったのは私だ。もともと彼に非はない。ここに遊びに行こうと彼が誘ってくれたのは、最近研究がまた滞っていることをわかっているからだろう。気分転換の手段を新しく見つけてきてくれたのだ。彼が何かを提案するときはいつも私のための何かだ。大変好ましい。

 嬉しいことだが、自分のことを見透かされているようで落ち着かない。愚痴は最低限なんだけれど、それで全てわかってしまわれるものだから少し悔しい。だからこうして悪戯のようなことをしてみたくなってしまう。子供なのだろう、私は。

 ゆらゆらと次第に揺れの大きくなる尻尾に影を見て気づき、意志の力で抑える。気恥ずかしさを誤魔化そうと、一番近くの本棚に手を伸ばす。

 本の背に触れてみる。ざらざら、つるつる。このシェルターが新築だった時からここにあるのであろう本たち。物理書籍に触れるのはいつぶりだろうか。よく考えずに本棚から取り出す。ふむ、日本文学か。母が好きだったな。リビングの小さな本棚に十数冊古い本が入っていた。

 

「気になりますか」

 

 ショックから立ち直った彼が上から覗き込んできた。本をパタリと閉じて、本棚の元あった場所に戻しながら頭を振る。

 

「私には文学とかそう言ったものはよくわからない、科学書なら喜んで読むんだけどねえ」

 

 彼は私の返事に苦笑いをした後、それなら───と部屋の奥を指差す。

 

「ここ文化保護室ですから、何も文化は書物だけではありませんし、色々あるみたいですよ」

 

 本棚から身を乗り出して彼の指の先、部屋の奥を見れば、さらに別室が続いているようだ。何があるのか、そう彼に問えば、ここへ私を誘った時と同じような笑みで

 

「音楽は好きですか」

 

 そう彼は問うてきた。

 

◇◇◇

 

 本の発する乾いた紙の匂いも独特であったが、ここもまた別の匂いがする。多種多様な古い木の香りだ。古い油脂の匂いもする。コーティングの類だろうか。辺りを見れば、色形様々な多様な楽器が大きな木製のラックに所狭しと収納されている。壁際にまた本棚があると思って近づいてみれば、なんとレコードだった。黒い円盤を肉眼で見る日が来ようとは。

 

「ヴァイオリンにヴィオラ、チェコにハープまで。弦楽器の充実もさることながら他の楽器も山ほどあるね。人がいればオーケストラができそうだ」

 

 私の独り言がジグザグの吸音壁に吸われて消える。いつもならカツカツとある程度聞こえる足音も響かず、誰にも邪魔されずに楽器たちが静かに眠っているだけの空間。ラックの間をゆっくりと歩くうちに、ふとヴァイオリンの横に立てかけてある幾本かの棒状のものが目に入る。これは……詳しくは知らないがヴァイオリンの弓だろうか? 柔らかくて透明……これはナイロンか。硬いし金属光沢がある、これは鉄だな。うん? この毛は何の毛だ……? 生体繊維のようだが……

 

「それはウマ娘の尾毛ですよ」

 

「! びっくりさせないでおくれよ。しかし、ウマ娘の尻尾? ええと……その、貴族の変態趣味的な……?」

 

「いやいや、流石にそれはまずいですよ。ヴァイオリンの弓にウマ娘の尾毛を使うのは昔から一般的なんですよ」

 

 そうなのか、初めて知った。心の中で変態のレッテルを貼りかけた世界のヴァイオリン関係者に謝っておく。ヴァイオリンについて少しでも詳しく触れたことがなかったから、全てが新鮮だ。名前と形しか知らない。上部だけの知識だった。

 ピンとはった弓の弦に触れれば、硬質な冷たい感触。これがヴァイオリンの弦と触れて演奏するらしい。自分の尻尾に触れる。手入れは雑だが、流石に毛というだけあって柔い。

 

「ふぅン。尻尾がねえ」

 

「ウマ娘の演奏者などは自分の毛を使ったりする人もいるらしいですよ」

 

 面白い。すこし、ヴァイオリンに興味が湧いた。が、悲しいかな練習をするほど余裕もないし、ここでは習う相手もいないだろう。不可能に限りなく近いいつかやりたいことリストの中で眠ることになりそうだ。

 

「君は弾けるのかい?」

 

「私はヴァイオリンは無理です」

 

 だよねえ。ちょっとだけ期待した。なんでもできる彼ならヴァイオリンの演奏もできるんじゃないだろうか、と。根拠はなかったけれど。彼の演奏を聞けたら愉快だったのになあ。弦のないヴァイオリンを少し持ち上げて戻す。音楽、ね。

 ヴァイオリンを戻したところではたと気づく。ん? ヴァイオリン“は”無理です、と彼は言ったね。

 

「君、何か演奏できるのかい?」

 

 彼は驚いたように私を見ると、私の視線の圧に負けたようで「ピアノなら」と短く答えた。私は堪えきれずニンマリと笑みを浮かべる。

 面白そうだ。ぜひ、聞きたい。

 

◇◇◇

 

 楽器区画の一角、天井の高い円形のホールにピアノの音色が響く。どうやら演奏のためのスペースのようで、吸音材は近くにない。音が高く、よく響く。

 私はホール備え付けのソファの上で瞬きを忘れるほどひたすらに驚いていた。実験で全く予想外の結果が出て驚愕した、とかそれに似たような、いや、もはやそれそのものであった。ピアノが弾ける、そう彼が控えめに話した時、私が脳裏に描いていたのは猫ふんじゃった程度の曲をちょっと得意げに弾く彼の姿だった。

 

「クラシックで覚えているものしか弾けませんけど……」

 

 そういう彼が鍵盤に指を置き、演奏を始めた時、私は確かに衝撃を受けた。最初の数音で。

 流れるような演奏。優しい旋律がホールを包んだ。学問書で美しい理論に出会った時の感情に似ている。これは美しいものだ、そう確信できるものが私にとってそこにあった。調律ロボットによって健全に保たれたピアノは彼の演奏に狂いなく追随する。頼り甲斐がありながらもどこか抜けている、そんないつもの彼とは違う彼がそこにいた。鋭利にすら見えた。

 

「『カノン』です。母が好きな曲でした」

 

 忙しなく指を動かし、体を動かして演奏しながら彼が曲名を説明してくれる。私はその曲を聞いたことがないから、上手なのかどうかはわからない。ただ今演奏されるその旋律が気に入った。この曲は好きだ。嗚呼、紅茶を楽しんだ後の余韻に似た陶酔感。心の満たされる感覚。好き、以外の語彙は持てていなかった。

 主よ人の望みの喜びよ、エリーゼのために、曲名を教えつつ、次々と彼は音楽を奏でる。

 目を瞑って天を仰ぐ。ヴァイオリンを演奏してみたい。願わくば、彼と。どんな演奏になるだろうか、相性はどうだろう。音楽なんてやったことがないのに、できるつもりでいる。そんな自分が可笑しい。目をひらけば、そこにあるのは天蓋のみ。叶わない願いだろう。

 だが、明確に、この時私は音楽を好きになった。




音楽っていよね。音楽は完全に作者の趣味属性です。だって綺麗じゃないですか。


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Annotation|Crossroad

 緑色の低い草が遠くまで茂る小高い丘の上。地面を撫でるように走ってきた風が肌を撫でる。足元から流れる空気にネクタイがはためくのを手で押さえた。頭上に輝くのは母なる太陽。日差しは強く、少し汗ばむほど。前に伸びる影に入れたら涼しそうだが、自分の影に自分で入るのは無理だ。

 手で影を作って上を見上げる。正しく空色を表現した空はとても清々しい。

 潮の匂い──青い大洋。サラサラという漣のような音──風に靡く草原。

 外界。私はあの地下施設から久しぶりに外に出ていた。天蓋の存在しない空、広い空間めいいっぱいに腕を伸ばした大きな入道雲が沖の方に見える。手前からだんだんと濃くなってゆく海の青が、少しだけ湾曲した境界線を雲との間に索いている。右に左にどこまでも。季節は初夏であった。

 遠くの方で海鳥の鳴く声が降ってくる。沖のほう、テトラポッドの積み重なった護岸の上の方に海鳥が群れを作って飛んでいた。

 バタンというドアの閉まる音を耳が捉える。後ろに振り返れば、ちょうど黒いセダンから斉藤が降りてくるところだった。私と同じようにネクタイを押さえつつ、眩しさに目を細めながらこちらへ歩を進める。

 

「僕は写真でしか見たことはなかったけんだけれど……こうやって実際見ると、すごいね」

 

 私が心奪われていたのは広大な海洋とどこまでも続く草原、青々とした高い空と巨城のような入道雲であったが、斉藤が意識を奪われているのは眼下に広がる巨大な空港施設のようだった。丘の麓、少し行った先にフェンスが走り、さらに少し行くと草原がコンクリート舗装の平らな世界に変わる。この島の街並みとも違う、特定用途の為に専門化が極まった施設。そこはまるで異世界のようにすら見えた。

 大小様々な滑走路を何本も擁し、誘導路は蜘蛛の巣のようにそれらを網羅する。そこを縦横無尽に行き交う航空機を繰りなく管制するするための、天をつくような白い管制塔。その巨塔に併設するこれもまた巨大なターミナルビルの窓が太陽光を反射して宝石のように輝く。広大なエプロンには大型貨物機が何機か駐機していて、自動貨物運搬機が忙しなく辺りを走り回っていた。私たちが見ているこの時も大型機が二機、同時に飛び立っていった。

 メガフロート技術を応用して建設された半海上空港、新種子島国際空港だ。国際的な航空貨物サプライのハブステーションを担っている。

 

「山吹君! これが空港かい!? とてつもなく広いねえ!」

 

 さっきから意図的に意識を外していた足元を走り回る少女が興奮冷めやらぬというテンションで詰め寄ってくる。若干気圧されつつも頷いて同意の意を表明すると、彼女は目を輝かせて丘を空港のほうに駆け出してゆく。ここまではしゃいでいる彼女を見たのはこれが初めてかもしれない。どんどんと遠くへ駆けていく彼女を斉藤が慌てて追いかける。しかし一向に追いつけない。さすがウマ娘、とても速い。

 研究所を出てからだいたいずっとこの調子だ。我々もまだ年寄りではないと自負しているが、さすがに子供かつウマ娘の無尽蔵な体力に合わせられるほど人間は辞めていない。ずうっと接していればさすがに疲れるというものだ。しかし頭上で輝く太陽にも負けないような明るい笑顔を浮かべて走り回る彼女を見れば、そんなことを言えるわけもない。彼女の楽しみを邪魔するのは私の本望ではない。

 目頭を押さえて、痛み始めた頭痛を紛らわせる。草原に崩れるように座り込んだ。密に茂った草が私を優しく受け止める。海風が心地よい。

 

「タキオンちゃーん! そんなに走り回ると危ないよー!」

 

「いいじゃないか、少しぐらい! わざわざセラミック蹄鉄まで持ってきたんだ! あー! 風が気持ちいいねえ!」

 

 疲れの滲む声と明るい笑い声。くるくると楽しそうに走り回る少女───タキオンを遠くを見るように眺める。しばらくすると、一緒になって走り回っていた斉藤が力尽きた。多少は体力に自信のあるはずの同僚が肩で息をしながら草原に倒れ込む。そんな彼の様子を可笑しそうに笑いながら、タキオンは白いワンピースを靡かせる。安心沢女史コーディネート、ファッション界の妹の意見を添えて。

 しばらく一人走り回っていたが、さすがのタキオンもはしゃぎ疲れたのか草原に寝そべると、愉快とばかりに笑い出した。楽しそうなタキオンの笑い声に釣られて斉藤が地面に伏せたまま笑い出し、私もそれに釣られて笑う。タキオンはこの上なく楽しそうで、面倒な書類を山と書いて粘り強く上に交渉した意味があったというものだ。流石に心を許してくれているメンバーのみというわけにはいかず、丘の麓にまた数人護衛がいるが、それぐらいなら彼女も許してくれる。あの暗い空間から外に出れている、それが大きい。しかし、3回目の外出が種子島になるなんてな。ショッピング程度ならまだ易いものだったが。

 3人笑い疲れ、静かになった丘に海鳥の鳴き声が響いた。風のヴェールの向こうにほんの微かに聞こえる波の音。

 

「そろそろかい?」

 

 タキオンが耳をピンと立てて勢いよく起き上がり、私の方を向いてそう聞く。草きれを叩いて落としながら立ち上がり、反射で文字盤が見えないので手を翳して腕時計を見る。長針の位置を確認して、それから苦笑いを浮かべた。

 

「───そうですね。もうすぐです。……しかしまさかこれを見にくるためだけに外出許可を取り付けることになるとは……」

 

「別にいいじゃないか。得た権利は、行使しないと損だろう? 私は自分の好奇心を満たすためなら何でもするさ!」

 

 そう言って彼女は大仰な身振り手振りを披露しながら私に悪戯な笑みを向ける。こういう自然な動作からも、距離感の変化を感じる。随分と親しくなれたものだ。

 

「ほら、早く。双眼鏡を持ってきているだろう? 貸しておくれよ」

 

「ああ、そうでした。ええと、はい、どうぞ」

 

 肩掛けの鞄からゴテゴテと角張った双眼鏡を取り出して彼女に渡す。操作の説明でもしたほうがいいかと考えている間に、すでにタキオンは空港施設の方を覗いて遊んでいた。操作は現在進行形で習得しているようだ。習うより慣れろということか。太陽は見ないように、わかっているとも───流石に言うまでもなかったな。

 さてと、私も彼女を手伝う準備をしよう。鞄の中の黒いケースから通信機を抜き出して、ネジを回して長いアンテナを引き伸ばし、取り付ける。周波数のダイヤルを回し、事前通告の値に合わせる。折りたたみ式の簡易ヘッドセットを耳に押し当ててしばらく待てば、雑音の向こうからやりとりが聞こえてきた。

 

Tanegashima Tower(種子島タワー), SSTO SERVICE Uniform-Kilo-3(こちらSSTOサービスUK-3便),

Now 7 miles North East of "HINAW".(現在“ヒナワ”ポイント北東7マイル) RNAV Runway 21LC Approach.(RNAV方式で滑走路21LCに進入中)

 

SSTO SERVICE Uniform-Kilo-3(SSTOサービスUK-3便), Tanegashima Tower Roger.(種子島タワー了解) Continue Approach(進入を継続してください), Wind 330 at 6.(現在の風は330°から6ノット) QNH 2963.(高度計補正値は2963)

 

Roger, continue Approach(了解。進入を継続します), QNH 2993.(高度計補正値2963) SSTO SERVICE Uniform-Kilo-3.(SSTOサービスUK-3便)

 

 この丘より高い広い空のどこからか無機質な高音が降ってくる。プロペラ機のローター音とも、ターボファンエンジンの音とも異なる笛のような音。私にとっては音の方角もわからないような遠さだが、旅程から考えればもう終盤。そろそろのようだ。

 

「タキオンさん。そろそろきます。03RCと書いてある滑走路の奥から着陸しますよ。海の方です」

 

「ん。ありがとう」

 

 彼女が大きな双眼鏡を私が指を刺した方に向ける。スタビライジング機能とトレース機能付きの高性能品だ、見つけるのに時間はかからないだろう。大きな接眼レンズを覗き込む彼女からは実験をしている最中の集中力に近いものを感じる。僅かな変化すら見逃さない、肉食獣が獲物を狙っている時のような鋭い雰囲気。雲の間から一瞬光が見えた。太陽は頭上にあるから、コックピットに反射した光だろうか。彼女が歓声をあげているからには、おそらくそうなんだろう。

 

「見えたかい?! 山吹君!」

 

 感動を共有しようとばかりに目を輝かせながら彼女がこちらを見る。指をさす方向に目を細めるが、私の目では青い空しか見えない。せいぜい米粒のように小さい海鳥がもっと低いところを飛んでいるのがかろうじて見えるぐらいだ。私は苦笑する。

 

「流石に肉眼では無理ですかねえ……」

 

「音は聞こえてくるんだけどね。タキオンちゃん見つけるの早いね。一瞬だったじゃない」

 

 斉藤が横に並んで、座る。彼の言う通り、音は次第に大きくなっている。慎重かつ冷静に現状確認を互いに行う航空無線を聞き流しつつ、大きな空を眺める。形を変えつつ、ゆっくりと流れる雲。青と白のコントラストが美しい。見上げればいつもあった天蓋が今日は、ない。

 

「空っていいなあ」

 

「全くだね」

 

 服装と年齢が違えば学園青春系の物語で出てきそうな言葉を斎藤と交わす。日頃当たり前の存在だったはずの空と言うものがこんなにも美しいものとして映るようになるとは。私も斉藤に習って後ろに手を組み仰向けに倒れ込む。風に合わせて歌う草原。風の音がより近い。草の匂いがより強く感じられる。わずかな土の匂い。太陽の光が眩しい。草原に寝転ぶなんて子供の頃すらやっただろうか。小学生のように男二人、草原に大の字になってみる。悪くない。

 すばらしい、これが、などと歓声をあげていた彼女が私の寝転がる音を聞いてこちらを振り返り、少し不満そうな表情をする。まずい、何かやらかしたか。とりあえず慌てて上体を起こす。

 

「なんだい二人とも、興味なさげな顔をして。私が楽しんでいるんだから、君たちも楽しむんだよ」

 

 なんという理不尽。斎藤と私はきっと同じ表情をしていることだろう。なんと反応す流のが正解なんだ、これは。

 双眼鏡は一個しかないのだ、まだ肉眼ではっきりと見えるような距離ではないのだからしょうがないだろう。そう、膨れている彼女に説明する。しばらく前の彼女ならこういうことはそもそも言わなかっただろうし、少し前の彼女ならこれで引き下がっただろう。しかし今の彼女は不満そうな様子を隠そうともしない。

 

「ふぅン、そうかい」

 

 短い返答の後、しゃがみ込んだ彼女が感情を伺わせない瞳でにじり寄ってくる。何をするつもりかと訝しんでいると、彼女は素早く私の背中に回って双眼鏡を顔に押し付けてきた。いきなりのことに驚く私とは対照的に双眼鏡は私の目を認識して焦点調整を始めている。

 

「うわっ」

 

「どうだい、見えるだろう?」

 

 双眼鏡と一緒に頭を腕で挟まれて滑走路の方に向かされる。この細腕のどこにそんな力の源があるのか、ウマ娘パワー甘く見るべからず。全く抵抗できなかった。強制的に顔を向けられた方向、何もないようにしか見えない空の一点がターゲットボックスで囲まれ、拡大される。手ぶれ補正の上で細かく揺れる視界に見えるのは特殊な形状の航空機。思わず歓声を上げた。

 美しい。資料で見た時の第一印象はそうだった。機能美というのはこういうものを言うのだろう、とも。実際にこの目で見てその考えを補強する。耐熱セラミックタイルの黒色と白色の本体塗装の対比が印象深い。単段式宇宙輸送機、よくSSTOと略される。あのスペースシャトルが遠い親戚。かの宇宙機と比べればより扁平で大気を飛行するための航空機然としたフォルムであるが、確かにその面影を感じる。数学と物理によって計算の末生み出された最適解、流線型の美しいボディ。イギリスが最近開発した新型、愛称はレーベン───ワタリガラス。

 輸送しているブツはタキオンの研究用資材。ドイツの先端科学研究所で開発されている脳活動を仮想空間で再現するための巨大装置、そのプロトタイプだ。対価はタキオンと技研の開発したナノロボット技術とその周辺研究成果。ちょっとこちらが不利な取引だが、お互いの技術は尊重せねば良い関係は築けない。ドイツ人気質というか、受け渡しに確実を期すためにわざわざイギリスにSSTOの手配を頼んだらしい。イギリスを挟んだせいで今回の技術連携に余計な参加国が増えてしまったが。SSTO共同運営体にドイツは参加していないのだから仕方ない。

 

「山吹。僕にも見せてくれ」

 

「すまないが彼女に言ってくれ、今も頭が動かせないんだ」

 

 私の頭を挟み込んでいる腕を幾度か優しく触れると、力が緩み私はタキオンから解放された。斉藤が彼女から双眼鏡を受け取り、同じ方向に双眼鏡を向ける。レンチで挟まれて回される六角ボルトの気持ちなんて知りたくないよ。、彼女にその気はないだろうが、ちょっと肝が冷えた。首を何回か捻って調子をみる。大丈夫そうだ。

 タキオンに振り回されているうちに音は随分と大きくなっていた。ついに肉眼で確認できる点として北東の空に機体が見えるようになる。地面に転がっていたヘッドセットを耳に再び当ててみると、ちょうど終わり間際の通信だった。

 

SSTO SERVICE Uniform-Kilo-3(SSTOサービスUK-3便),

Runway 21LC Cleared to land.(滑走路21LCへの着陸許可) Wind 330 at 5.(現在の風は330°から5ノット)

 

Runway 21LC Cleared to land.(滑走路21LCに着陸する) SSTO SERVICE Uniform-Kilo-3.(SSTOサービスUK-3便)

 

 甲高い音はいつしか轟音となり、点は瞬く間に大きくなって滑走路に近づく。白黒の機体は大きく機首を上げて、ランディングギアを滑走路に触れた。ゆっくりと前輪がそれに追随し、巨大なエアブレーキが胴体から持ち上がる。機体はそのまま動揺することなく減速していき、ゆっくりと誘導路の方へ進んでいった。素人目で見ても綺麗な着陸、今日は風がそこそこあるにもかかわらず、風に揺られるような素振りは見せなかった。優秀なフライトコンピュータを搭載しているに違いない。

 

「ふぅ〜ン? ドラッグシュートなしで着陸できるのか。英国の最新型は普通航空機としての空力性能も優れているようだねえ」

 

「綺麗な着陸だったね。イギリスはまた航法装置の精度を上げたな」

 

 タキオンは誘導路に進んでいくレーベンを斉藤からもぎ取った双眼鏡で舐め回すように眺めている。英国科学の結晶、機密の塊。形状をよく知られることすら英国は嫌がっているが、彼女ならこうやって見ているだけでアレを再現してしまいそうな気さえする。ワタリガラスはそんな彼女の視線から逃れるように建物の影に隠れた。あからさまにタキオンは落胆し、不満の声を漏らす。

 

「あー! 見えない、見えないよ山吹君! 持ち上げてくれ!」

 

「流石に持ち上げても見えないと思います……」

 

 抱っこ! とばかりに両手を広げてせがんでくるタキオン。私はどういう顔をすれば良いのだろう。どうしようか迷っていると、彼女はどんどん頬を膨らませていく。子供扱いはイヤとばかりの態度を隠しもしなかったタキオンだが、月日が経つごとに子供っぽい言動が目立つようになってきた。彼女に信頼されているからと楽観的に受け取って良いものだろうか……安心沢さんによれば、あんしーん☆とのことだが何がどう安心なのか全くわからなかったので安心材料になっていない。

 

「ううん……しょうがないですね……」

 

 あ、しまった。

 しょうがないなあ、そんな態度を取ろうものならすぐに不機嫌になるのが常のタキオン。基本的に大人な彼女の唯一の気性難なところ。斉藤が軽率によくやらかしては私が機嫌取りに忙しくなるのがいつもの流れだったが……

 

「ん」

 

 彼女は含みのある笑みを浮かべて短く返事をすると、くるりと私に背を向け、双眼鏡を持ったまま少し肘を開く。脇を持って持ち上げろということだろう。予想と違う彼女の反応に戸惑いつつも、とりあえず彼女を持ち上げてみる。

 随分と軽い。食事量は十分か少し心配になった。

 

「ん〜……見えないねえ……」

 

 いつもと変わらない調子のタキオン。さっきは一体なんだったのか……どうにもよくわからないが、話を彼女に合わせる。いつも通り彼女の気まぐれか悪戯かの可能性の方が高そうだ。

 

「……でしょうね。先ほど航空無線で聞きましたが、RCSスラスタに不調があるらしいので荷物を下ろしても整備があります。多分今日は整備プラントから表には出てこないでしょう」

 

「えー! 新型機観察はたったこれだけかい?!」

 

「まあ、そういうことになります」

 

 そんなあ、私は探すぞ山吹君───方々に双眼鏡を向けて見つかるはずのないものを探し始めたタキオンからいったん意識を外して斉藤を探す。先ほどから姿が見えないと思ったら、いつの間にか随分と後ろの方に戻って車の近くで手を振っている。斉藤と目が合うと、何かジェスチャーを始めた。タキオンの対応には君が一番慣れているだろう、僕にタキオンちゃんはわからん、車の運転はしてやるから、色々頼むぜ、だろうか? はあ。全く、タキオンちゃんはわからん、じゃないんだよな……

 

「山吹君」

 

「はい、なんでしょう。……そろそろ腕がキツいのですが」

 

「アレ、なんだい? あの円柱」

 

 持上げられたままのタキオンが指差す方角を見る。少し遠いが、目を細めれば確かに彼女のいう通り、装輪台車に乗った円柱が見える。表面に穴がいくつか空いていて、全体が磨かれた金属のような輝きを放っている。まるで砲弾のようなフォルム。

 

「ああ。あれはコンテナです」

 

「コンテナ? 貨物船が乗せるようなものとは形状が違うが……」

 

「ええ、あれはマスドライバー用のコンテナです」

 

 タキオンがああ、なるほどと納得して頷いている。見たことはないが、知識として知っていたのだろう。私も実物を見るのは初めてだ。

 遠くを見る。空港のさらに奥の洋上に青く霞んで見える白い構造物。陸から橋梁がしばらく伸び、緩やかに空に向かってカーブを描く作りかけの橋のようなそれが、マスドライバー。貨物コンテナやSSTOを宇宙空間に向かって射出するカタパルト。莫大な電力と冷媒を消費して射出体を超音速域まで加速する。種子島はこの輸送システムを保有するために物流のハブステーションとして巨大化した。空港とマスドライバーの統合システムは宇宙センターの延長線上にある。だいぶ特殊な成り立ちだ。

 

「中身はなんだろうか」

 

「おそらく軌道エレベーター用の物品かと」

 

「軌道エレベーター……! 米国は本当に建造していたのか!」

 

 物見遊山に興味を失った様子のタキオンを地面に下ろし、彼女の問いを肯定する。すでに彼女の興味の対象はSSTOでもコンテナでもなく、海の向こう、まだ見ぬ軌道エレベーターにあるようだった。

 かの施設について私は専門部署というわけでもないが、ある程度情報は共有されているので、全体的な状況は把握している。

 

「とはいえまだ問題点は山積みのようです。最近ケーブルの強度に偽装が発覚したらしく、海の向こうの政府は大慌てらしいです。情報統制が敷かれていますが、軌道エレベータの心臓が頓挫となれば完成は危ういですね、いずれ明るみに出てしまうでしょう。米国社会の混乱は避けられません。複雑な問題ですから、日本政府は傍観の姿勢のようです」

 

「……ふぅン。ケーブル、ねえ」

 

 さまざまな技術の完成前に見切り発車で建設が開始された軌道エレベーター。すでに人工島をはじめとする地上ステーションとケーブル接続を待つ静止軌道ステーションの組み立てが始まってしばらく経つ。しかし一向にケーブル技術は完成せず、一番重要な技術が空白のままとなっていた。そこに追い打ちをかけるようにメイン材料のカーボンナノチューブの合成実験データの偽装が発覚。日程は遅らせるどころか未定に。

 米国の威信をかけたプロジェクト、そのはずだった。水面下で日本に技術提供の交渉が来ているが、解決案を我が国もそんなに都合良く持ち合わせているはずもなく。うまく解決できれば外交カードになるのだが……まあ、我々には関係あるまい。無理に交渉しても火中の栗を拾うようなことになりかねない。

 

「はい! 今日の目的は達成! と言うことで、帰りの輸送船は午後の遅い時刻に出発ですから、まだ時間があります。とりあえずターミナルビルで昼食でも取りましょう。見ての通り斉藤氏がもう待ちくたびれていますので」

 

「おぉーい! 遅いぞぉー!」

 

 後ろの方で手を振り上げて抗議の声をあげる斉藤に苦笑い。奴は待つのが苦手なんだ。これ以上待たせては置いて行かれてしまうかもしれないな。

 

「さ、行きましょう。だいたいなんでもあると思います。好きなものをリクエストして良いですよ」

 

 斉藤に手を振ってすぐに其方に行くことを伝え。車の方に足を踏み出すと、彼女に手首を掴まれる。双眼鏡の時のような強引さはなく、引っ張られたからではなく、私の意志で歩を止める。

 

「山吹君」

 

「ん? なんでしょう」

 

「ん、あ……その、だね」

 

 頭だけ振り返って返事をするが、すぐに何かを言うわけでもない。結構すぐ要求を言うタキオンにしては珍しく、歯切れが悪い。私を掴んでいた手を引っ込めて、両手を前に組んで俯いてしまった。いったいどうしたというんだ、さっきまで元気いっぱいだったのに。突然の態度の変化に心配になって彼女に踵を返して向き直る。

 しかし、彼女の耳が考えているとき特有の動きをしていたので、単純に答えを待つことにした。しばらくの間。風音と海鳥の声のみが空白を満たす。

 

「その……今日は、ありがとう」

 

 いつになく真剣な表情で。彼女は言う。虚を突かれて一瞬思考に空白が生まれる。無邪気に楽しんでいるものだとばかり思っていたが、やはりタキオンはタキオンだったようだ。地下生活は苦しいだろうに、一度それを棚に上げ、私が外出許可を取り付けるために動いたことに彼女は感謝を述べているのだ。そこまで考えなくて良いのに。君は自分の権利を行使し、それを私が汲み取って実現したのみだ。

 それを言うだけにしては切実で思い詰めた表情で見つめてくる。私は愛好を崩し、答えた。

 

「ええ、またいつでも」

 

 いつでも、その言葉に彼女は一瞬驚いた後、小さく頷いた。私も笑顔で頷く。そうだ、私にぐらいはわがままでいい。要求をしてもいい。権力が及ぶ範囲なら大体なんとかする。及ばなくても、きっとなんとかする。

 

「……私、イタリアンがいいな」

 

 とても可愛い要求だ。たったそれだけのことなのに、彼女の瞳は不安に揺れている。私は、私の良心をもって彼女の期待に答えねばならない。

 

「イタリアンですか、いいですね。最近パスタ食べてないんですよ」

 

 笑みを深めて肯定する。食事に好き嫌いのない斉藤なら文句は言うまい。彼女は私の言葉に安堵を滲ませた後、静かながら今日一番の笑みを見せたのだった。

 

【挿絵表示】

 



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Report.6:ReCeption;

 カン、コン

 

 私に向かってまっすぐ飛んできた小さな球を赤黒二面のカーボン製の薄い板、ラケットで打ち返す。

 

 カッ───

 

 わずかな手応えと小気味のいい音。私が弾き返した球がゆるりと放物線を描いて低いネットを超える。しかし放物線は戻すべき平面に交わらない。そのまま彼の横を通り過ぎていってしまう。

 

「おっと」

 

 天板を空かしてボールは床へと自由落下してゆく。しかし落ち切る前に彼が開いた手でそれを掴んだ。高い軌道で放り投げて返されたボールを掴みあぐねてしばらく慌てた後、若干顔に熱を感じつつ彼の顔を見れば「かまいませんよ」とでも言いたげに生暖かい目線を送ってきた。小馬鹿にされているようでムッとする。

 

「……おやぁ? なんだい、君には初心者の失敗を嘲笑って楽しむ趣味でもあるのかなぁ?」

 

「……またそうひねくれたことを」

 

 生暖かかった彼の目に呆れの色が混じり、上向きの弧を描いていた唇は下向きの弧になってしまった。少し前まではこういったことを言えばいつも冷静な彼がオドオドとして愉快だったものだが、今ではだいぶ淡白だ。彼が私の対応に慣れてきたということだろう。

 ふむ、あまり面白くない。

 

 カッ、コン

 

 無言のままラケットでピンポン球を弾く。白色の小球は緩やかにネットを越え、今度はしっかりと反対側の天板で跳ねる。完全に不意打ちのつもりだった一投を、彼は至極普通に返してきた。

 

 カン、コッ

 

 速度もほどほどに、気持ち高い軌道を描いて帰ってきた球を再びラケットで弾く、彼はそれを返す。私が口を開かないので、彼も同じように口を開かず、無言だ。今はただ小さな白いピンポン球だけが私たちのコミュニケーションツール。会話の代わりに天板でリズムを刻む。

 私は彼を負かしてやろうと拙い技術で際どい場所を狙うが、彼はそれを全て拾い上げて私が打ち返しやすい場所に返してくる。勝ち負けのある勝負をしたい私と、ゆっくりラリーを行いたい彼。

 体力と気力を使うのは当然激しい方であるので、結局先に私が折れた。彼を真似してラケットを振るう。淡々としたリズムで行われるラリー。

 勝負事のような激しさはないが、悪くない。楽しい、のだと思う。研究終わりの彼とのティータイムに似た空気を感じる。やはりこれは会話なのだ。繰り返すこと数十回。繰り返される動作に私の腕が慣れ初め、自然にラリーをつなげるようになってきた頃

 

「あ」

 

 初めて彼がミスをした。いや、ミスというには小さなものだったが、彼の送り出したピンポン球はラケットの持ち手の反対側に飛んでくる。なんとか返して見せようと体を捻って打ち返すが、コントロールがうまくいかず、球はあらぬ方向へ。ネットを越えはしたが、エッジに触れて勢いよく横へ飛び去ってしまう。力も咄嗟のことで加減できていなかったのか、地面に落ちたピンポン球は滑るように転がっていき、部屋奥の開けっ放しだった扉をくぐって暗い隣室に消えた。

 

「あらら……ごめんなさい。今取りに行ってきますね」

 

 ピンポン球が飛んでいった方へ彼がかけていった。足音が遠ざかっていき、私だけが取り残された空間は静かになる。手持ち無沙汰。遊び相手のいなくなったラケットを手でくるくると回しながら、ゆっくりと周りを見渡す。

 文化保護室の一角、高い天井から少し暗めの照明が照らす大きな部屋。いつも通り遊びに来て奥へ奥へと探索中、新しい部屋に入ったところで壁に扉を見つけ、開いてみたら中にはさまざまな遊戯道具が。ビリヤード台やら将棋盤、チェス盤など山ほどある物品の中にうっすら埃を被った卓球台を見つけた。

 その時の興味を強く引いたのがその卓球台だった。深く考えずに私が彼を誘ったのだが、あいにく私はラケットを握ったことなんて一度もない完全な素人だったので最初はまともに返すことすらできなかった。ずっと根気よく相手をしてくれているにも関わらず、うまくいかないからとムキになって彼に当たるなど今更ながら私は何をやっているのか。後で謝ろう。

 静かなホールで一人冷静になって小反省会を開き十数分が経過した。私が一人小さな決意を固めても未だ彼は戻らない。入り組んだ場所にでも入ってしまってピンポン玉が見つからないのだろうか。不在が長いことに不安になって彼が消えたドアに近づく。

 耳がわずかな空気の揺れを捉える。足音とは違うようだ。耳を立てて注意を向ける。

 話声だ。山吹君に違いない。

 

「───ええ、運営については平和そのものです───問題ありません」

 

 電話だ。彼は電話をしている。驚いたな、この施設最深部も通信可能エリアなのか。今更ながら、私の意志で色々連れ回して回っているが彼には彼の仕事があるのだ、なんてことを再確認する。

 話の様子を聞く限りピンポン球捜索中に電話がかかってきたらしい。足を忍ばせてドアに近づき、壁に背をつけて彼の会話に無断で耳を攲てる。彼は聞こえていないつもりなのかもしれないが、一般にウマ娘の耳は人間より優れるんだ。よって私の耳なら聞き取れる。

 先ほどよりよく聞こえるようになった声。得も言えぬ背徳感に背中がぞわりと泡立つ感覚。私の存在しない場所で彼が何を話すのか、気になる。好奇心は猫をも殺すというが、バレても彼なら許してくれるだろう。

 

「ええ───外出許可ですか───ふふ、ええ、とても喜んでいましたよ───係長の協力には感謝しています」

 

 話し相手は彼が少し前に話していた上司だろうか。

 外出許可───彼が多大な努力を払って私を外に連れ出してくれたことには感謝してもしきれない。強く要求を通そうと私が働きかけたわけでは決してなかったと思うが、彼の大袈裟なぐらいの気遣いが実現してくれた。

 青い空を見たのなんていつぶりだろうか。数回のちょっとした外出程度ならまだしも、高速船と航空機まで使った大移動なんてよく許可が降りたものだ。

 その種子島への外出なんてしたことのないおしゃれまでして。いや、させられて、か。見たこともないようなフリフリのついた白いワンピースを持った安心沢女史が現れて、あんしーん☆コーディネート☆なんて言われた時は幻覚でも見ているのかと思った。いつもの調子なら普通に断っていたかもしてないが……きっと私は浮かれていたのだ。安心沢女史の妙なテンションに押し切られてしまった。───まあ、彼女がおかしいのは今に始まった事ではないのかもしれないが。

 被験体見たくわちゃわちゃといじくり回されて、髪型まで変えられて、うんうん似合うじゃないと送り出され、何が何だかわからないうちに車の後部座席に収まって流れる街並みを呆然と眺めていた。

 

 ───タキオンちゃん、だいぶイメージ変わったね。ポニーテール?可愛いねえ。なあ、山吹───

 

 ───安心沢さんが色々いじり回したんだろう。でもまあ、そうだね───

 

 可愛いとはなんだ、と気恥ずかしさこそばゆさの混じった形容し難い落ち着かなさをどうにかするために暴れて──主に斉藤君に対して──うやむやにしたが、やはり思い出すとなんだかむずむずしてくる。心拍数の上昇、脳内伝達物質だろうか。研究成果を同業者に賞賛されるのとはまた違った感覚。なんだろうな、これは。届いたばかりの独逸製脳活動モニタを活用して調べてみたらわかるだろうか。自分の後頭部に触れる。一束にまとまった髪。本当に私は何をやっているんだろう。

 ああ、もう。額に平手打ちを食らって呆けていた斉藤くんの顔でも思い出して気を落ち着かせよう。

 

「───ですから……!」

 

 突然の怒声に驚く。尻尾が上に跳ね上がって壁に擦った。声量は抑えられていたが、さっきまでとは明らかに声色が異なる。電話相手の人間が変わったのかもしれない。

 

「そういった話は技研で完結させるように再三お願いしているはずです!───年端もいかない彼女に何を背負わせようと言うんですか───軍事技術の研究を彼女に直接頼むなんて話、冗談でもやめていただきたい───いまさらだとか、そういうことはどうでもいい。繊細な問題なんです、長官は同意していると聞きましたが」

 

 彼は少し熱っぽく声を荒げている。こんな声は聞いたことがない。正直、少し怖い。軍事技術という単語が聞こえた。片方の会話しか聞こえない断片的な情報でも話の内容はなんとなくわかる。私があまり好きではない話に違いない。

 

「もういいです、係長に戻してください───ええ、親身になって対応してくれる係長にあまりこういうことは言いたくないのですが……困ります───彼女にこれ以上重圧をかけたくないんです───上の圧力は理解しています、しかし……ですね」

 

 声を荒げていたのはやはり上司に対してではなかったようだ、技術の話を直接振ってくるとなると……技研の研究員か。最近技研から直接の連絡が減ったことには気づいていた。私の研究内容にあれこれ細かく直接口を出すことなんてめっきりなくなって、少し外が平和になったのかと考えたりしたが、私の勘違いだったらしい。彼が間に立ってくれていたのだ。

 

「迷惑をかけます───責任は私が負います」

 

 責任。随分と軽く流れた言葉、しかしそれは計り知れないほど重い言葉であることを最近私は痛感した。外出の時に見た街、人、それぞれの営み。私と彼らはそれらの平穏を守るためのピース、パーツであって、それら側ではない。優先順位はあれど、消耗品だ。ここに来た時に斉藤君が言っていた言葉を思い出す。8000万の国民に対する責任───彼は私のそれを肩代わりしている。私が同意せずに押しつけられたものを彼が代わって契約したのだ。無論、彼自身もともと背負っているものがあるに決まっている。

 安請け合いなわけはないだろう、彼が普通以上に頭が回る人間であることを私は経験として理解している。責任の意味を理解しているのは間違いない。責任に鈍感でもないはずだ。彼は他者に心を分けられる人間なのだから。

 

「ありがとうございます───では」

 

 どうやら終わったらしい。彼の長くて深いため息が耳を澄ませていなくても聞こえてきた。私の前ではほとんど笑顔で、疲れもあまり見せず、気もよく回る。そんな彼しか見たことがなかった。たまに意地悪をすれば困り顔は見せてくれるけど。初対面の時に一度だけ見せた『仕事』をする人間としての一面を再び見た。私のために色々尽くしてくれていることは分かっている。でも、それは彼が仕事に忠実だからで、私の前でそういう人間を演じているだけだとしたら。この前の約束、いつでも───それも立場のためだとしたら。

 それは、嫌だな。

 

 カツ、カツという靴音を聞いて、そういえば彼が通話を終えたら戻ってくるだろうということを思い出して慌てて卓球台の方に戻る。バレても許してくれるハズとは言ったが、盗み聞きなんて寛容な彼でも気分のいいものではないだろうし。

 彼を疑いたくない私と、それでも不安な私。種子島から帰ってからいつもこうだ。何が私をこうさせるのかは私自身もわからない。

 

「すみませんね、見つけるのに苦労しちゃいました」

 

 部屋に戻るなり彼は頭を低くして開口一番謝り、申し訳なさそうに眉を下げる。その瞳はしっかりと私の目を見て。少なくともそこに疑う材料は見つからなかった。

 

 ───大丈夫だと思うわ。少なくともあなたを疎かにするような人間じゃない───

 

 いつかの安心沢女史の発言を思い出し、彼にはわからないぐらい小さく笑う。胸のざわめきが少し遠のいた気がした。

 

「お詫びと言ってもなんですが、最近私側の仕事で研究も手伝えていなかったですし、3点先取であなたが勝ったらなんでも1ついうことを聞くというのはどうでしょう。もちろん私にできる範囲で、ですが」

 

 努力はしますよ、そう話す彼に口角を上げる。

 

「───ふぅン……随分と気前が良いねぇ。ぜひ挑戦させていただくよ」

 

 カッ、コン

 

 彼が弾いたピンポン球、ゆっくりと近づいてくるそれを大きく振りかぶったラケットではたき落とす。先ほどまでとは明らかに異質な音が響き、小球は目にも止まらぬ速さでネットを掠め、天板に激突して彼の横を掠めていった。

 青ざめる彼。ラケットを数回スイングする。早くも後悔の色を滲ませる彼に私は笑みを深めた。

 

「私に細かなコントロールはまだよくわからない。が、君が対応できる速度以上で攻撃すれば勝てるだろう。そして私はウマ娘。手加減は無しで行かせてもらう。あとは、わかるだろう?」

 

「……お手柔らかに……」

 

「ククッ……」



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Report.7:ReAppraise;

 いない。

 

 私の研究室を覗く。

 

 いない。

 

 いつもの第一食堂。

 

 いない。第二も第三も同じく。

 

 普段あまり行かない私室を訪ねてみたが、何度ノックして待っても返事がない。耳を当ててみても内側から気配がしない。

 

 ……そうだ。

 

 

 

 塗装が剥げて錆びついた空気循環用の巨大な配管に沿ってぐるぐると下まで続く螺旋階段を降りる。螺旋階段の形に伸びる円形の壁面には、老朽化でゴム被覆の剥がれかかった電気配線が張り付いていた。湿気がひどく、空気が重い。

 

 カン、カン、カン

 

 私の足音を鉄の板が増幅して、重くて鈍い音が上と下に響いては消えていく。立ち止まれば配管のなかで回っているダクトファンの駆動音がわずかに聞こえた。それだけしか聞こえない。大きな孤独感に耐えかねて、前より大きく音を立てながら階段下りを再開した。

 初めて来た時と同じような警戒心をいつしか抱えて歩く。結露した水の滴る錆びたグレーチングの上を歩き、黄ばんだプラケースの照明に照らされたうんざりするほど長い廊下を抜けて、重くて動きの悪いハンドルを回して重い扉を押し開け“いつもの”部屋へ。

 入ってすぐの壁にある三極ナイフスイッチを下ろす。大袈裟な音と共にブレーカーのランプが点灯した。私に近い方から順番に明るくなっていく。照明が点灯するのがいつもより遅い気がする。光も弱々しい。薄暗い本棚が私を見下ろす。高かったはずの天井が低く見え、全てが私を圧迫しているようにすら感じてしまう。重く暗い空気は、私にまるで空間が歪んでいるかのような錯覚を引き起こす。何もかもがいつもと違う。

 

 コツ、コツ、コツ、コツ

 

 いやに響く自分の靴音に理由もわからず怯えながら、楽器が眠っている広間を歩く。静寂の中に佇む楽器たちを眺めるのは嫌いではなかったが、今はひどく不気味に見えた。何か良くないことを囁きかけてきそうな、そんな雰囲気があった。

 目的地、小さなホール。暗がりの広がる薄暗い空間のなか、一段高い場で静かに存在感を放つ黒いグランドピアノ。ここだけはいつもと変わらない。探しているものはいまだ見つからないが、不安を掻き立てるものばかりだったゆえに少し安堵する。

 鎮座するピアノに近づけば、黒光りする側板に映る鏡面世界に鏡写しの自分が現れた。仄暗いホールゆえに暗く影になってしまって顔色は伺えない。手を触れれば、皮膚に滑らかな質感が伝わる。鏡の世界には当然触れられない。

 ふと、感じた違和感。背中に冷やかなものを感じる。いつも通りだと思っていたピアノに相違点を見つけた。鍵盤蓋が開いたままになっているのだ。

 私が頼めばいつでも演奏してくれる彼は、常にピアノに優しく、それこそ私が実験器具に対してそうであるように誠実だった。演奏が終わった後に鍵盤を隅々まで拭かないと気が済まないような人間が鍵盤蓋を閉め忘れるようなことなどあるだろうか。きっと、ない。私の考える彼の像にはてはまらない。

 何かがおかしい。先ほど鳴りを潜めた得体の知れぬ不安感が再び首をもたげる。

 焦りに似た感情が湧き上がってくる。恐る恐る鍵盤側に回り込むが、やはり椅子には誰もいない。推理小説みたいに誰かが倒れているなんてこともなかった。ただ、何もない。蓋が開きっぱなしである以外至って通常。しかし一向に不安の薄れる気配はしない。何が私をこうさせるのか、場違いな好奇心と憔悴感が私の足を椅子に踏み出させる。

 規則正しく、精密に配列した黒と白のコントラスト。押し込めばピアノがそれに呼応して音を奏でる。音ひとつひとつに結びついた88個の鍵。いつも淡い照明の光を受けて優しい輝きを放っていた。

 しかし今、それが曇っている。照明の光が弱いからではない。

 埃だ。埃が積もっている。彼がいつも綺麗に清掃していたはずの鍵盤に。埃が鍵盤を厚く覆って光を遮っている。

 高い天井の照明が一瞬点滅する。

 体の芯が冷たい。ありえない、か細く震えたそれが自分の声であることに気づくのに数秒の時間を要した。

 積もった埃の厚みは、このピアノが放置されていたのが数日程度ではないことを示している。数週間以上、もしくは数ヶ月。それだけここに人が、彼が来ていない。

 おかしい、つい最近ここに一緒にきて、いつも通りパッヘルベルのカノンを演奏してもらいながら私は、確かに私はオックスフォード大が発表したスーパーストリング理論の論文を読みながら考察を行なっていたじゃないか。なんだ、私は精巧な幻覚でも見ていたのだろうか? どういうことだ、わからない。認識の範疇を超えていて理解できない。抱えた手の隙間から溢れるように記憶の現実感が抜けていく。

 体から力が抜け、踏ん張ることもできずに足がよろけて後ろに倒れ込む。床が冷たい、触れた場所が熱い。随分と呼吸が荒くなっていることに気づいた。

 ああ、彼、山吹くんはどこだ。一体どこにいるんだ。これではまるで……

 

 いや、いや。部屋にいるんだ。部屋にいるに決まっている。きっとノックをしても反応しなかったのは、彼が睡眠でもしていたからに違いない。彼は最近忙しかったから、疲れているんだ。そうだ、そうに決まってる。

 滲む冷や汗をぬぐい、力のうまく入らない足でよろよろと立ち上がる。来た道を脇目も振らず逆に走り出した。トレーニングコースのランニングでは経験したことのない速度で足を回転させる。勢いよく足を地面にぶつけているはずなのに、妙な浮遊感を覚える。

 足音が響く廊下を駆け抜け、螺旋階段を轟音と共に走り登る。滝のように流れる汗が気持ち悪い。緊張で上がり続ける心拍数。激しい鼓動を繰り返す胸が痛い。末端から感覚が遠ざかっていく。

 

 気づけば、彼の私室の前にいた。

 呼吸が浅い。掠れた呼吸音が笛のような音を鳴らす。体が必要としている酸素量に対して絶対的に供給量が足りていない。末端の感覚が伝わってこない。口からは強烈な鉄の味がした。咳き込もうとして横隔膜が痙攣し、えずく。体のエネルギーサイクルの限界を超えている。尋常ではない脱力感。

 彼の名を呼ぶが、もはや声という形で発することができない。喘ぎが漏れただけ、さらにそれも激しい呼吸音にかき消される。喘鳴がうるさい。ドアにもたれてるも、姿勢を維持できずずり落ちる。筋肉の痙攣する腕でドアを叩いた。随分と力を入れたつもりが、ノック程度の音にしかならない。繰り返し叩き続ける。

 

「タキオンちゃん、どうしたんだい」

 

 意識が朦朧とする中、突然声が上から降ってきた。重い頭をもたげて顔を上げれば、そこに人影。白く滲む視界ではそれが誰かわからなかったが、この口調は斉藤君だろうか。彼のことを聞こうと口を開くが、もはや声を出す余力もない。彼はどこにいるんだ。

 

「もしかして山吹を探しているのかい」

 

 何も言えていないにも関わらず、聞きたいことを理解してくれたようだ。

 彼の沈黙。端が消失点に消える長い廊下に私の呼吸音だけが響く。斉藤君は動かない。へたり込んだままの私は指先を動かすのもやっとだ。

 強い違和感。息も絶え絶えの私を見てこんな平常な様子、本当に斉藤君なんだろうか。

 目の前の人影の存在が揺らぐ。

 

「彼なら異動したじゃないか」

 

 

 

 

 

 ────ア゛ア゛ァ!! 

 

「ッハァッ……! ハァッ……! ハァ……ハァ……」

 

 耳をつん裂くような高音に起こされた。滲む視界に映るのは自分のベットから見えるいつもの私室のようだった。目を覚ました時からずっと聴こえる異音の元を探すが、ヒューヒューとうるさいのは自分の喉らしい。何が起きているのか全くわからないまま、起き上がろうとして全く力が入らないことに気づく。ひどい倦怠感。頭痛も頭を何かにぶつけたのではないかというぐらいにひどい。呼吸は荒く、深呼吸をしようとしても体が言うことを聞かない。激しく空気を取り入れるために胸が上下するたび鈍い痛みが走る。

 しばらく他を考えるのをやめ、呼吸に集中する。酸素が頭に回って周りを見る余裕が僅かに出てきた。首を少し動かすにも随分と気力がいる。体全体の異様なだるさと横隔膜の疲れからしてかなり長くこの状態だったらしい。はだけたブランケットが地面にくしゃりとなって転がっている。全く平常ではない体とは対照的に頭は随分と冷静になってきた。もやのかかったような思考状態ではあったが、状況確認ぐらいはできた。

 荒れたベッド周辺以外は至っていつも通りの部屋。デジタル時計の赤い光を見るに目覚ましの時間まで幾分時間がある。どうやら私を起こしたのは私自身の叫び声のようだった。喉の痛みはこれも一因だろう。鉄味の充満した口が不快だ。まだ喘鳴はひどいまま。ふわふわとした感覚を体全体に感じる。ちょっと気を抜いたら気を失ってしまうかもしれない。

 目覚めてからずっとうるさかった耳鳴りが徐々に収まりはじめ、枕上のコンソールがずっと赤ランプを点灯させながらアラートを鳴らしていることに気づく。よく聞こえない、なんだろう。なんとか音を聞き取ろうと意識を耳に集中すると、再び激しくなりはじめた耳鳴りの向こうからアラートの内容ではなく、廊下を随分と焦りながら駆けているらしい足音が聞こえてきた。こちらに近づいてくる。

 ガタガタというけたたましい音が部屋の前で止まった。ドアのロックが解錠され、圧搾空気の音とともに開く。廊下の照明の逆光でシルエットになった人影が部屋に倒れ込むように駆け込んでくる。

 

「大丈夫!?」

 

 遅れて部屋の照明が最大明度で点灯した。眩しい。目を覆い隠そうとした腕は動かず、閉じた瞼の上から光が刺す。暗順応していた瞳孔が随分と遅く狭窄し、多少ましになる。滲む涙でぼやける視界に格好のだいぶ乱れた安心沢女史が現れた。彼女に応えようとして口を開くが、掠れた音が漏れ出るだけで声を発することができない。

 

「意識はあるのね……!」

 

 安心沢女史が動けない私に代わってベットの上から手首を引っ張り出し、手首に何か機械を巻き付ける。全身の感覚が遠く、持ち上げられた腕は人形のように動かない。ただ触覚だけが伝わってくる。

 

「発熱に加えてひどい発汗ね……血圧がだいぶ低いわ」

 

 何か計測を終えたらしい機械を外すと、彼女は持ってきたアタッシュケースの中から圧入注射器を取り出して、同じく取り出したケースの中のガラス瓶を物色し始めた。その様子を無気力に眺める。彼女は私の視線に気づいたようで、私の方を見た。

 

「そんなに心配そうに見なくても大丈夫よ。私一応ちゃんとした医者なんだからね☆」

 

 満遍の笑みを浮かべつつ、音が聞こえてきそうな勢いでウインクを飛ばしてきた。いつもと変わらない調子の彼女を見て息苦しさと胸の圧迫感が僅かに和らぐ。テキパキと仕事をこなしながら、私を励ましてくれる。普段は色々あるけど、この人がしっかりとした医者であることを再確認した。

 

「少し冷たいわよ〜」

 

 安心沢女史が二の腕を消毒綿で数回拭った後、注射器を押し当てトリガーを引く。プシュ、という小さな音とともに、押し当てられた部位に僅かな圧迫感。薬液が皮膚を透過して体内に入った。一瞬痺れを感じた後、体の感覚が切り離されたように感じられなくなる。浮遊感がより強くなり、重力の方向すら曖昧になってきた。

 

「安心沢教授……! すいません! 遅くなりました!」

 

「遅いわよ! まあ、とりあえず応急措置は済ませたわ。まだ手当が必要だから医務室まで運ぶわよ」

 

 薄れゆく視界に看護師を捉えたところで、私の意識は途切れた。

 

◇◇◇

 

 揺蕩う意識が、微睡の境に触れた。自他の境界が輪郭を持つ。浮遊感が徐々に薄れ、現実の重力が私の意識を掴む。瞼の上から優しい光が照らす。空調の風で揺れるパーテーションをぼやける視界で捉えた。

 心地よい暖かさを意識した。鼻腔をくすぐるのは体に染みついてしまった薬品の芳香。それに紅茶と、これは……彼の匂い……? 

 

「───あら、目が覚めたのね」

 

 横ばいから声をかけてきたのは、気を失う前に対応をしてくれた安心沢女史だった。状況がよくわからないが、とりあえず大変な状況から救ってもらったのだから、お礼を言わないと。そう思って口を開くが、声が掠れてまともに意思伝達ができない。

 

「喋らなくていいわ、喉が傷ついてるの。安静にしてて」

 

 頷いて理解を示す。視点を自分の体のほうに向ければ、左腕に点滴の管が刺されている。上を見れば、点滴スタンドにプラスチックパックが吊るされて私の体に少しずつ黄色の液体を送り込んでいた。色々処置をしてくれたのであろう。服も淡い青色の病衣に着替えさせられて、あんなに酷かった汗のベタつきも今は全然ない。しかし自分を客観視すれば患者、そうとしか表現できない風体。寝起きが酷いと言う言葉では表せないぐらい酷かったことはわかるが、一体何が起きたのだろうか。

 

「何が起きたのか説明してほしいって顔ね。教えてあげる☆  寝不足とか色々あるけど、一番の原因はカフェインの取りすぎよ。昨日どれだけ飲んだの?」

 

 カフェインの取りすぎ、そう言われてどきりとする。昨夜、研究で資料の読み漁りに没頭するあまり惰性で安物を1箱以上使って何杯も飲んでいた。確かに1日の基準を随分と超えていた気がする。

 

「前もあったわよねぇ、その時に取りすぎはやめなさいって言わなかったかしら? 命に別状はなかったけれども、危険なことには代わりないのよ」

 

 ずいと顔を近づけて聞いてくる。確かに前にも同じようなことをやらかした記憶がある。今回の方がひどいが。……目を逸らすことしかできない。

 

「はぁ……全く、どうしてかしらねえ。最近は紅茶以外の娯楽も増えて控えめだったじゃない……まぁ、過ぎたことはしょうがないわね。とにかく本当にカフェインには気をつけなさい。あなたがどれほど大人らしく振る舞っても体はまだ子供なんだから」

 

 子供と言われるといつもむっとするのが常だが、今、目の前の医者が言っていることは全て正しい。子供じゃない、とどれだけ私が主張しようとも実際私の体は子供であるし、大人であるというならば、自分でその量を調整して然るべきだった。

 

「カフェインの取り過ぎによる低血圧、動悸。それに不安と興奮。寝ている間に随分と暴れて叫んでいたようだけど、大方ひどい夢でも見たのかしらね」

 

 ひどい夢と聞いて一瞬体が硬直する。思い出した。今思い返してみても背中に冷感を感じるほど非常に気分の悪い夢だった。私の反応を見た安心沢女史がさらに言葉をつなげる。

 

「……そうらしいわね。まさかとは思うけど……山吹君が出張したから……とか?」

 

 驚いて目を見開く。そうかもしれない、いや、そうに違いない。あんな夢を見る原因はそれぐらいしかないだろう。昨日の夜、斉藤君から彼が東京に出張することを聞いてから落ち着きを失ってしまって、研究室で何をやっても上手くいかないものだから部屋にこもって資料読みをしていた。

 精神失調の原因は彼の出張、ようするに彼と離れるのが嫌だと私の深層心理が言っているのだ……ということになる。

 顔が熱い。勢いよく反対を向いたつもりが、まだ首に力が入らずゆっくり動く。さぞ可笑しく見えたことだろう。

 

「図星ね。本当に仲良くなったわねぇ……私も付き合い長いはずなのに、妬いちゃうわ☆」

 

 再び振り返って安心沢女史を睨む。力の入らない表情筋で強く訴えるがしかし、彼女は笑みを深めるばかりだった。腹立たしいばかりの余裕。

 

「でも、彼も似たようなものね」

 

 顎でベットの上を刺される。恨めしげな目線を送りつつ、「彼も」と言う言葉の真意を知るために仕方なく重い頭を動かして視線を動かす。

 思わず声をあげそうになって、喉の痛みを覚え、掠れた音が漏れた。

 そこに山吹君がいた。パイプ椅子の上に腕を組んで座り、頭が下を向いている。静かな吐息、寝ているのだろう。

 

「彼ね、あなたが高熱を出して医務室に運んだって電話したら詳細も聞かずに『すぐ戻ります』って。リニアとヘリで本当にすぐ帰ってきたわ」

 

 まだ仕事残ってるのにねえ、きっと後で上からお叱りでしょうね、そう話す安心沢女史に視線で疑問を送る。なぜ、と。

 

「なんで、とでも言いたげね」

 

 ゆっくり頷く。あなたならわかるのか、少し期待を乗せて再び言葉を待つ。

 

「さあね、わからないわ。彼とは仕事柄そこそこ長いけれど、考えること全てわかるわけじゃないもの。私は彼じゃない」

 

 あなたは分かりやすけどね☆──ひと言余計ではないだろうか。わからない、と言われてしまえばしょうがない。

 

「でも、これだけは言えるわ。ねえ、あなたは科学者だから色々なことに理由をつけたがるわよね」

 

 至って当然だ。物事全てには因果関係があるはずだ。それに根ざした理論が物理であり、化学であり、数学だ。これを確固たるものにしなければ、理論の追求はできない。可能性を検討するには初期条件がないと話にならない。

 

「だけどね、理由が全てじゃないこともあるわ。私から、斉藤君から、山吹君から。受けた愛に理由をつける必要はないんじゃないかしら。今は理解できなくてもいいわ。いずれ、ね」

 

 よく、わからない。わからないことを放置することは私の当たり前から逸脱するだろう。でも確かに、彼の優しさに理由を求めたくはない、そう思う自分がいる。理由を聞いても、きっと彼は困ったような顔をするだけだろう。

 出張を急遽切り上げてまで私の不調に駆けつけてくれるということが、彼の中での私の位置を表す証拠であって、確かな安心材料だった。

 

「ふふ、じゃ! 今日一日は絶対安静よ! それさえ守ればあんしーん☆よ! 破ったらベットに縄で縛り付けちゃうからね!」

 

 彼女は白衣の胸ポケットからいつもの奇抜なサングラスを取り出して、よくわからない決めポーズをとりながら掛けると、スキップをしそうな勢いで医務室から出て行った。相変わらずテンションの緩急が激し過ぎて風邪をひきそうだ。でも、助かった。彼女には頭が上がらない。心の中で、ありがとう、と呟いた。声が出るようになったら、また言おう。

 

 彼女が出て行ってしまって、後ろの気配に妙な居心地の悪さを感じる。研究室ではいつだって大体二人きりだったが、こんな妙な関係性の状態で二人でいるのは初めてだ。何が居心地の悪さを生み出しているのかはわからないが、彼は心配性なので、今起こしてしまうと大変なことになることだけはわかっている。

 冷房が妙に当たってくるのが気になり、自由に動かせない体で何度か身じろぎを繰り返した。シーツの擦れる音がやけに響く気がして妙に緊張する。気を遣って睡眠するのにいいポジションを探していると、ついに後ろからうめき声が聞こえてきてしまう。

 

「あっ、タキオンさん! 大丈夫ですか!」

 

 ギョッとして振り返る。彼が目を覚ました。決死の形相で詰め寄ってくる。とりあえず無事だから落ち着いてほしい、と伝えようとするが、そういえば声が出せない。体が重くてジェスチャーも厳しい。無言で目線を送ることしかできないが、安心沢女史みたいに目線で会話は無理らしい。

 もはやどうすることもできず、彼女が確認に戻ってきて彼を叱りつけるまで彼の心配レベルは上がり続けた。




随分時間かかりました。心情描写に悩み過ぎて全く進みませんでした…。考えることが最近多いので少し更新が遅れ気味になりそうです。


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LOG-20■■-031-■研究員の最新研究成果についての報告

【文書LOG-20■■-031(秘匿データアーカイブ)】

 

【■研究員の最新研究成果についての報告書-運営報告第271】

 

 

■■研究所における■研究員の研究成果物について特記の要あり。その詳細内容について本報告を行う。

 

ⅰ. 注意事項

 本報告書は第一級国家機密に指定される。許可のないものの閲覧、物理媒体への出力、複製・複写等を厳重に禁ずる。違反者は対処担当者によって即座に特定され、処分される。

 ■研究員については重要レベルが非常に高いため、あらかじめマスキングされている。いかなる権限を持った職員にも■研究員についての情報は文章では開示されない。

 また提出3日後に本文書は自動でアーカイブされ、数値等重要箇所はマスキングされる。アーカイブアクセス権限については、特殊文書取り扱い手順乙-2を参照せよ。

 

ⅱ. 研究成果物について

 ■研究員による研究・実験の副産物として獲得された化合物、呼称『超長躯多層同心円状カーボンナノチューブ』が本報告書で報告する成果物である。以下に概要を示す。

 カーボンナノチューブ(以下CNT)を理論上無限に連続合成することが可能になる新合成法とともに、■■■■■■■■を添付することによって鉄鋼の■■倍を超える引張強度、そして同寸法既存CNTの■■%の質量の超軽量を達成。耐熱パフォーマンスは既存CNTから■■%上昇

 全ての点において既存材料のそれを上回る当研究成果物は、マテリアル工学の常識を覆し得るものである。ほか詳細な物質特性については新材料報告No.10674-A4を参照されたい。

 

ⅲ. 提案

 本報告書はこの新材料『超長駆多層同心円状CNT』の具体的用法の最優先目標として、ゼネラル・インダストリー社(以下G.I.社)と米政府が推進する軌道エレベーター公社(以下ISEVC)事業に介入することを提案するものである。

 先月の米政府との水面下交渉、および内閣情報調査室 国際部門 ■■係の調査によって得られた情報によれば、G.I.社のケーブル製造記録の偽造が発覚し、ISEVC事業は停滞を強いられている状況である。

 構造物の移動として発表され、静止軌道から軌道遷移した建設中の高軌道ステーションについては月軌道への放棄であることはもはや明らかであり、この判断はケーブル材料開発リソースが建設中のステーションを軌道に維持するリソースを上回ったことを示している。このことから、G.I.社はケーブルについて十数年単位での開発を意識していることが推測される。

 当方の予測ではこの材料と同等の性質を持つ材料ををG.I.社が開発するためには■■年以上の年数が必要になる。早期の完成を願い、何よりもISEVC事業の頓挫に恐怖している米議会ならば、要求を通すことはそこまで難しいことではないだろう。G.I.社の意向を無視してまで米議会がイギリス国と我が国に交渉を持ち出してきたこともこの予測を補強する。

 この要求を米政府が通せば、G.I.社はISEVC事業の建設分野にリソースを割かざるを得なくなり、ケーブル分野の最先端からは離脱することになる。結果、G.I.社と同等の競争能力を持った企業、国家は現在存在しないために、ケーブル技術を今後十数年以上我が国が独占することになるだろう。細心の警戒を払う必要があるが、効果的に宣伝を行うことで強力な外交手段としても機能することは間違いない。

 我が国の未来のため、ここで行動することを強く勧告する。

 

ⅳ. その他利用法

 この新材料の利用方法については先に最優先と書いた通り、ケーブルとしての役目にとどまらない。すでに当方ではいくつかの研究・実験が進行中である。詳細については評価研究実行報告No.37643-V2に全て記載した。ここでは主要、また既に実用実験段階に入ったものを数個抜粋する。

 

(1)複合装甲

 セラミック複合装甲に強化繊維として新材料を用いる。

 パフォーマンスが最大■■%上昇。ユゴニオ弾性限界の大幅な上昇を確認。成形炸薬弾への強力な耐性。

 

(2)構造体

 従来型CNTより低コストかつ軽量。航空機などに有利か。効率的な立体整形法を模索中。

 

(3)半導体デバイス

 原子サイズでの演算装置への応用。回路形成に問題点あり。

 

 上記以外にも、ありとあらゆる分野への応用が可能であり、実証の用意が進められている。いずれにせよ、大量生産が近いうちに必要となる。製法は最上級機密として扱うべきであることは自明。よって生産に際しての企業の選定には注意を払う必要がある。

 当方の推薦する企業として■■■グループ傘下の■■■重工を挙げる。既存設備の応用で新材料の生産は可能であり、■■■重工は設備を所有する国内有数企業である。また、■■■グループは復興事業の先進グループであり、内情調査は全てパスしている。検討の参考にされたい。

 

ⅴ. 補遺

 技術的優位を得るために、製法はありとあらゆる方法を持って秘匿する必要がある。そのため、■■研究所職員に対する情報の封じ込めを徹底するとともに、開発者■研究員の保護体制について再度検討するべきである。

 ■研究員の安全は、■研究員がこの国の利益である限り全てに優先する。故に、現在認可されている外出許可の全面凍結を進言する。

 

 

20■■-■■-■■/■■:■■  ■■■■技■■■研■■■ ■■担当官

 

【LOG-END】



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Report.8:ReMember;

 国のために

 

 そう、何度も言われた。

 

 

 ───君の生み出す理論はかの数学者ラマヌジャンのように飛躍し、突拍子もなく既存のそれを覆す。我々が逆立ちをしても解決できないようなことを君はいとも簡単に切り崩して解き明かしてしまう。君の頭脳を完璧に活用することができれば国の利益になるだろうが、全くの野放しにするにはいささか君は頭が良すぎる。わかってくれ。

 

 くたびれた白衣を纏った技研とやらの人間は私にそう言った。わかってくれ、と口にしたその顔は機械的で冷たい。

 

 ───君は本当に素晴らしい働きをしてくれている。ここで生み出された新技術から広がる経済波及効果は我が国にとてつもない恩寵をもたらしてくれた。経済にも、外交にも、軍事にも、君の貢献は計り知れない。希望だなんだとこの歳でまた考えることになるとは。……ここだけの話だが、君の父親は出世するだろう。君のおかげだろうと思う。まあ、この国の未来のために、よろしく頼むよ。

 

 霞ヶ関から来たという高そうなスーツを着込んだ初老の男は私のそう言った。よろしく、そう言って笑みを浮かべる男の瞳は私を見ていない。

 

 父は私のおかげと聞かされてどんな顔をするのだろう。

 

 父と母は数少ない面会で暖かく私に接し、労ってくれる。母はいつも優しく、父も言葉足らずながら、母に習う。しかし、最後の別れ際にいつも父は言うのだ、すまない、と。笑い方を忘れてしまったかのように苦しそうな顔を浮かべて。苦悩と後悔の滲んだその顔を何度も見たくなかったから、テレビ通話は随分前に辞めてしまった。

 

 視察、調査、監査、確認───ここにくる人間は私を()として見てくれない。研究者は私のことを便利な有機コンピューターか何かだと思っているし、政治家は私のことを願いを叶えてくれる魔法のランプか何かだと思っているに違いない。少なくとももはや人間として見られていないことだけは確かだった。

 

 鬱々とした生活が続いていたある日、いつもと雰囲気の違う人間がきた。送迎のバンから彼女が降りてきた時の衝撃は今でも思い出せる。

 

 ───ワオ……本当に……初めまして。あなたの医療担当兼カウンセラーよ。カルテ越しには会っていたけれど、こうして顔を合わせるのは初めてね。今日からよろしくね。仲良くしてくれると色々円滑で嬉しいわ。わたしが来たからには病気も怪我もあんしーん☆、よ! 

 

 構成する要素が何もかも胡散臭くて、怪しくて、そして温かった。凝り固まった退屈なルーティーンを快く破壊してくれた。

 

 ───まだ小さいんだから紅茶をそうガブガブと飲まないの! 

 

 その目はしっかりと私を見ていて。医者だから当たり前かもしれないけれど、両親以外でそれは初めてだった。でも───

 

 ───ごめんなさい。私はあなたの医者で、カウンセラー。ね……? 

 

 それぞれの立場。あくまで客観を名乗るための距離を彼女は保とうとしていた。

 わずかながら色づいた景色はしかし、閉じられた世界の現実感をより深くした。手を伸ばしても届かないというのはどうにも苦しいものだった。学習性無力感というのだったかな。

 

 ───頭がいいんだなあ、全くわからないよ。電気推進機関……プラズマエンジン……? いやあ、畑が違いすぎてどうにも。すごいなあ。

 

 ───ええ、ええ。わかってます。紅茶ですよね、また買ってきます。今度の銘柄は何がいいですか? 

 

 新しくきた真っ黒スーツの二人は他の人間たちより彼女に近いようだった。現実感はここの職員より妙に希薄で、それでも不思議と人間臭く、初めて会う人間の種類だった。

 二人の役割は円滑な研究活動のための交渉、調整役と、私の助手と兼任の護衛役。軽い口調で距離が近い明るい人、丁寧で固いけど芯は優しい人。性格は反対と言ってもいいぐらいだったけど、二人とも私のために行動してくれる。私の背景では無く、私を見ているのが行動からわかる。それが嬉しかった。

 彼らの背後にどれほど大きいものがあるのか私には想像もできないけれど、至って真面目な彼らの対応が好きだった。

 

 特に彼はいつも、役職だからと言われてしまえばそこまでだけれど、他の二人よりも近くで気を遣ってくれる。

 

 ───はい、どうぞ。紅茶です。いつも飲んでいるでしょう? 飲み終わりそうだったので入れてきました。

 

 ───またピアノですか? いいですよ。でも、私の演奏はそこまで上手な部類でもないと思うのですが……

 

 ───え、町の商店街にですか? ……ううん……わかりました。上に交渉します。きっとなんとかしてみせますよ。

 

 ───もう、しょうがないですね……

 

 少しのわがままを言っても彼は困り顔はすれど、拒むことはなかった。調子に乗ってしまう私を許してほしい。それだけ彼は優しい。

 

 ───外出許可が全て取消されました。私の力不足です……すみません……

 

 

 

「タキオンちゃーん。送られてきた資料。はいこれ」

 

 後ろからぬっと手が伸び、赤いサイコロのアクセサリ紐に吊るされた黒いUSBメモリが目の前で揺れる。ぼうっと眺めていたモニターの画面からそれに焦点が移り、自分の思考世界から現実世界へ意識が帰還する。過去の時間軸を揺蕩っていた曖昧な思考は、正しく今を考え始めた。

 幾度か小さく頭を振って頭の中からもや(・・)を追い出し、ずれた調光メガネを指で押し上げる。椅子ごと振り返るとそこにはニコニコと内面を窺いにくい笑みを浮かべた男がいた。

 

「ああ、助かるよ。斎藤君」

 

 私がメモリを受け取ると、斉藤君はずいと身を乗り出してモニターを覗く。何か進歩的なことを考えるでもなくぼうっとしていただけなのだから、特にモニターに作業中のものはない。彼は顎に手を当てると、心配のニュアンスを含んだ疑問を口にした。

 

「どうしたんだい? 随分と真面目な顔をしてモニターを睨んでいたけど。ただのデスクトップだよね」

 

「ああ……いや……少し考え事をしていたんだ。問題はないよ」

 

 何もソフトの開いていないモニターを睨み付けるという、客観的に見れば不可思議な光景に対する疑義を呈した斎藤君はそれで納得してくれたらしく、私の後ろから離れる。スクリーンセーバーが作動して光度の抑えられたモニタの中でカーソルを動かして暗号照合ソフトを呼び出し、メモリを机下のUSBソケットに差し込む。両面対応のソケットは刺さらない(・・・・・)というありがちな苛立ちをスルーすることができ、大変私の精神衛生に良い。幾度となく繰り返されるモデルチェンジを経てもUSBには向きが存在している。一度めで刺さらなかった時、度重なる差し込み直しを繰り返している最中に殺意が湧き上がるのを禁じ得ない。なぜもっとユニバーサルなものが普及しないのか。通信速度だなんだというが、私だったらよりストレスがないように作るね。

 メモリの動作ランプが赤色に明滅し、モニタに暗号解除シーケンスのウィンドウがポップする。亀のように遅いプログレスバーがやっとのことで端に到達すれば、趣味の悪い技研のロゴが大きく表示されて小窓が次々と開いていく。数字、円グラフ、数字、表、数字、棒グラフ、数字。次から次へと情報が現れては重なっていく。ハイスペックなはずのコンピューターが対応に遅延を起こすほどの情報の濁流が現れ、最後に一際大きく現れた窓に『新材料各種試験結果』と表示された。

 途方もない大きさのため息が漏れる。自分の年齢は理解しているが、私だけ時間の流れが早くなってしまって随分と歳をとったような気分だ。フラーレンとカーボンナノチューブで原子サイズビリヤードなどというくだらない夢を見たことから始まった思考お遊びから、紆余曲折を経て我ながら全くとんでもないものを作り出してしまった。炭素ナノマテリアルなんて世界中で研究され尽くされているだろうと思っていたが、どうにも偶然とは恐ろしいものだ。しかも技研に提出してしまった。こんなことなら、なんて滅多なことを考えてしまいそうになる程には後悔がある。

 パキン、と硬質な音が右手の内側から響く。手のひらを開くとボールペンが爆ぜて真っ二つになっていた。パラパラと破片が机に落ち、黒い机の上をさっきまでボールペンだったものが滑っていく。

 ああ、いけない。苛立ちが。自己嫌悪の念が迫り上がってくる。全くもって冷静じゃない。科学には冷静さが必要不可欠だと言うのに。

 散らばった破片を集めて、私にとって価値のないアイディアの羅列された紙片の上に集める。同じように、書いてみては違う、そうではない、と掃いた思考の残骸が無造作に積み重ねられて机の上のスペースを圧迫している。

 

「随分だね。少し休んだほうがいいんじゃないかな」

 

 喉元まで登ってきていたため息を飲み込む。左手に湯気の立つ液体の入ったカップが置かれた。美しい赤橙色、匂い立つ香りが私を少しクレバーにする。私のことを気遣ってか、いつも会う時より距離をとって佇む斉藤君。顔を合わせれば、今度は裏を感じさせないただ明るい微笑みを湛えた。

 

「……ありがとう」

 

「おぉ……今日は随分と素直だね」

 

 一言余計だ、少し目線を厳しくする。すると、なぜか斉藤君はさらに笑みを深くした。まるく弧を描くように上がった口角は表面的なものに見え、また少し小馬鹿にされているような気もしてくる。何を考えているのか読みづらい、やはり斉藤君は苦手だ。

 

「……私には君がよくわからないよ、私とは随分とコミュニケーションの取り方が異なるし、メンタル、精神指向のベクトルの向きも違うだろう。まるでねじれの関係だ」

 

「はは、そこは他人だからしょうがないところもあると思うよ。こういう立場になると色々内側にしまい込んじゃうのは癖みたいなものになっちゃうからね。それに本当は山吹の方が人付き合いとかは苦手のはずなんだけれど。きっと僕よりあいつの方が君と周波数が合うということなんだろう」

 

 周波数、ねえ。

 電荷の流れをオシロスコープで観察するように人そのものを具体的な数値で理解できれば、目の前で含み笑いをしている優男風の男が何を考えているのか理解できそうなものなのだが。周波数と、振幅と、速さ。人の脳波がそれに当てはまるのだろうか。単純な数値化で推し測れるようなものではないことは考えるまでもないだろうが。

 まあ、斉藤君が言っているのはそういった意味のことではなく、比喩としての反りの合うか合わないかの話なのだろうが、表面的なものから受け取る意味については少し興味を惹かれた。周波とか、生体力場のようなものがあって、もしそれを解析・活用できれば愉快なことができそうなものである。普通健康詐欺師が使いそうな言葉だから自分で考えていておかしくなってきたな。測るにしても体に電極を差し込んで電流を流すとかそういう野蛮なことをするわけにもいかないし。

 そうだ、ちょうど都合のいいものがあるのだった。ドイツの装置で実験するのはどうだろう。脳と神経活動についてのことしか調べられないが、アプローチとしては悪くあるまい。問題は私一人ではサンプルの多様性にあまりに欠けるというところだが……山吹君を召喚すればいいだろう。うん、そうしよう。

 

 立ち上る湯気に白く曇る視界。一口含めば、やはりと言うべきか。香りから察してはいたが、彼から私の好みまで聞いているのだろうか。たった今部屋から出て行きつつピースサインを残していった。しかし、美味しい。私専用に用意した自由度の高いティーメーカー故、上手に使わないとあまり良くないものができてしまうのだが、斉藤君は大雑把に見えて器用なんだな。

 満足感と共にソーサーにティーカップを落ち着かせ、深呼吸をする。背もたれに体重を預けて天を仰いだ。LED恒久照明が眩しい。純白、白い光。度重なる労働に疲労した虹彩の代わりに光子の濁流を堰き止めようと調光レンズがより濃い色へと色調を変化させはじめる。

 緩やかに弱まる光を眺めつつ私が想うのは、あの太陽の光。そこにある人工光の欠点のない白色ではなく、わずかに黄みがかった暖かな陽光、また、夕焼けの燃えるようなグラデーション、紺色の空に顔を出した朝焼け。分厚い大気の層を通して多様に変化する核融合の光。私の皮膚で熱を持つ暖かな光線が好きだ。理論とか、そのプロセスとか、そう言ったものは関係なしに私のどこかがそれを求めている。

 まあ、もう、手を伸ばしてみても、駄々をこねてみても、届かないものになってしまった。もう覆ってくれそうにない。

 

 彼が言っていた軌道エレベーターのプロジェクトにこの国は途中参加することを決定し、それを米国政府が承認したらしい。私が発明した、してしまったモノを使って宇宙への架け橋を人類の大多数が夢見ることと引き換えに、私は地下に逆戻り。米国はこの計画にエネルギー政策の全てを賭けているし、この国はいつだって外交に手段を選ばない。わかっている、運が悪かった。私がこうやって地下にこもっていれば大体のことはうまくいく。情報保全だとか、身体保護だとか、言っていることはわかる。でも、どうにも、やはり、外を感じてしまったから。

 やるせなさと疲れが長い吐息となって漏れることを私は止めることができない。随分前に封印した「どうして私が」が蘇ってくる。瞼を閉ざせば、夏空の下、入道雲を眺めながら走り回った草原を思い出す。久々に走ることに快感のみを感じていた。側から見ていた彼と怪我を心配して追いかける斉藤君は対照的で愉快だった。斉藤君は私が日常的に運動フロアで走っていることは知っていただろうが、その量までは知らなかったのだろう。あのぐらいへっちゃらだ。あの時の二人の笑顔が懐かしい。全てが輝いて見えた。帰りの車の中で寝てしまって彼に運ばれたのは少し恥ずかしいが、楽しかった。

 今はどうだろう。外には出れない。私の生活の上での制限は前に戻ってしまった。それどころか研究活動への干渉は以前より強まり、研究内容を強制力を持って指示されている。

 正直に言おう。今、私は科学がつまらない。これが単に、自分のやりたいことができないことからきていることなのか、わずかな自由を奪われたことに対する反抗なのかは自分でも整理がついていないことではあるのだが、ただ言えることとして何か高揚感とでも言うべき研究に対する衝動が湧いてこない。あれだけ色鮮やかに、宝石箱のように広がっていた研究室の光景は今、灰色にしか見えなくなってしまった。

 しかし、研究活動、そしてここでの生活においてそれに蓋をして塞ぎ込んでしまうようなことがないのは、ひとえに彼のおかげであると思う。この出来事に関して、一番悲しんでいるのは私ではなかった。ショックを受けていたことは否定しないが、正直必死の形相で謝罪する彼を見た時の方が大きなショックを受けた気がする。両親以外であそこまで私に対して本気で感情を発露させた人間を見たのはこれが初めてだった。私より悲嘆に暮れ、憤懣の情を湛えた彼を見て、もはや私の方が冷静になってしまった。斉藤君が彼を宥める場面を見たのは初めてだったよ。

 

 あれから彼は何度も上、上司のさらに上の存在に無理を通してまで掛け合ったらしいが、まあ、覆らなかった。当然私への指示は彼の組織の方針でもあるわけで、指示に逆らいすぎて異動なんてことになったらそれこそ最悪だ。私は安心沢女史や斉藤君や彼のような存在が何人もいるなんて甘い考えは流石に持っていない。だから、私は彼を止めた。現状を受け入れる、そう伝えた。

 彼は随分と悲しそうな顔をして、静かに謝罪した。大人の涙を見たのは両親に次いで三人目。過ぎた感情移入は仕事柄許されないことだと理解はしていた、でもそれは無理だった──誰に聞かれたでもなく独白し、自分の生命をかけてもいいと、明らかに冷静でない彼に私は、ただ君がいてくれば私はいい、と。私も冷静ではなかったのだが、随分と気恥ずかしいことを言ったものだ。今でも思い出しては忘れたくなる。心の底では理解していた、彼に私はどうしようもなく傾倒している。自分でそう自覚すると、どうにも恥ずかしいな。

 私もよくわからぬうちに口から零した言葉を聞いて、彼は少しの間言葉を失い、何かを思い出したように遠い目をした後、先ほどまでとは明らかに違うニュアンスで一度だけ私に謝った。彼が何を想ったのかはわからないが、それから政治的に危険な行為はしなくなった。

 

 ここ1ヶ月ほど、今回の件を受けてこの研究施設の大規模な体制変更があるとかで、彼は調整のための仕事に忙殺されてしまい私のところに来ていない。先ほどのメモリの件もそうだが、斉藤君が一部彼の元々していたことを肩代わりしているぐらいだ。斉藤君から話を聞く限り、護衛の増員と研究員の入れ替えらしい。研究員はわかるが、護衛の増員とは。地下に閉じ込めておいてまだ警戒の要があるということなんだろうが、随分と神経質なものだ。

 何度か部屋に訪ねてみたが、あまり余力がないほどに忙しいらしく、不在のことも多い。東京とここを行ったり来たりもしているようだ。彼が実験室にいなかったり、ピアノを聴けなかったり、部屋にいなかったり、全て寂しく感じるが、私のためにやってくれていると思えば、それはそれで、いい。以前のように不安で挙動がおかしくなるようなこともない。人生の経験が浅いからよくわからないけれども、彼からの歩み寄りではなく、私の意志で、私の足で、私が彼に近づいた証左かもしれない。この出来事で新しい視点をもてた気がする。大きな悔恨とわずかな喜び。苛立ったり、悲観的になったりと精神には未だ波浪が出ているが、総じて自分は意外と冷静だ。

 しかし、随分と感傷的だ、心理的な成長を遂げたと喜んでいいものか。そもそも自分でわかるようなものでもないか。

 

 しばらく思考の空白。資料の散らばったデスクトップを特に理由もなく眺める。

 何か、誘われるようにマウスを握り込み、ピクチャーファイルのアイコンをクリックした。パスワード入力を指紋認証端末でスルーする。実験、研究作業で撮影した写真フォルダがずらりと並んでいる。無機的な記号と数字のフォルダ名が下から上へと流れていく。最後までスクロールすると、そこに一つ、周りとは雰囲気の違うものが現れる。『記録』とだけ銘打たれたフォルダ。サムネイルはついていない。

 クリック。現れる過去の一部が自然と私を笑顔にさせる。

 

「ふふ……」

 

 文化保護室で卓球対戦を行う私と斉藤君、商店街でアイスクリームを片手に笑う私と安心沢女史、レストランで口についた汚れを山吹君に拭いてもらっている場面なんかもある。彼らとの思い出の一片。その瞬間をカメラで切り取ったもの。写真に思い入れなんてあまりなかった、こうして彼らに出会ってから変わった。過去の自分の喜びをこうして感じることができる。

 種子島で夕方に撮った写真を見つけた。撮ってくれたのは斉藤君か。私が随分とはしゃいでいる様子と、それを困り顔で眺めている山吹君が写っている。

 

 ───こんなに愉快なことは初めてだよ、山吹君

 

 自分の声が聞こえた気がした。

 あの時、私は彼ならどんなことでも聞いてくれるのではないかという確信に近い思いを抱いた。実際その反例は今の所、ない。何か自分の中で欲望が膨れるのを感じる。すでに色々と彼にはわがままを言っては通してもらってきたが、まだ私の中には試してみたいことがあるのだろう。

 傾けたカップの中に何も残っていないことに気づき、ため息を一つ。すでに安心沢女史に決められた限度量。もう我慢しなければ。空になってしまったカップを未練を振り切ってソーサーに戻したところで、ソーサーの下にに紙片が挟まっているのを見つけた。カップとソーサーを置いたのは斉藤君だから、この紙片も斉藤君のものだろう。なんだろうか。

 二つ折りにされた紙片はどうやらメモ用紙のようで、内側に短い文字列が記されていた。

 

『山吹は19時に戻ります。』

 

 斉藤君の字。思わず吐息のような笑いが漏れる。そんなにわかりやすかっただろうか、確かに普段よりこうやって研究室に篭っている時間は長い気がするけれども。モニタの時刻を確認して少し喜ぶ。随分と都合のいい時間にこれに気づくことができた。部屋の前で待ち伏せしてみようか。いや、シャフトまで行って待つのも面白そうだ。

 思い立ったが吉日。モニタの電源を落としてコンソールにロックをかける。セキリュティには細心の注意を払え、だってね。椅子から立ち上がると、長い間同じ姿勢だった腰が少し抗議の声を上げた。背筋を伸ばせば幾分か楽になる。

 さあ行こうと部屋を後にしようとしてソファの上に放り投げられた物品が目に止まる。少し悩んで、白衣のポケットにそれを押し込み、部屋から飛び出す。

 気分良く足を前に踏み出し、廊下を駆ける。研究で感じられなくなった高揚感を、私は感じていた。




めちゃくちゃ時間かかりました


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Annotation|System Logic

 ラップトップが何台か積み重なったテーブル。コピー不可用紙に印字された重要書類の詰まったキャビネット。備え付けのコンピューターと暗号装置の入った巨大な機械筐体。部屋に光を満たす永久光LED。隅の方には大小様々な黒いキャリーケースが乱雑に積み重ねられている。

 共通居住区A-382、無機質な文字列がこの部屋の名前。そして私に与えられたここでの生活基盤の一つだ。つまりは私の私室、ということになる。最近は出張ばかりであまり使っていないけれども。

 ここの元々の運用思想からして仕方のないことだが、シンクとかトイレとかシャワーとか言ったものは部屋の中にない。そういったものは共通利用設備として各階層にいくつかまとめてあるのみだ。故にこう言った個人用の部屋は普通寝ることと狭い範囲でできる作業をすることにしか使わない。モジュール化されたアルミ合金の板に囲まれた箱のような部屋だ。実際私も睡眠とデスクワーク以外に使ったことはなかった。そう、今までは。まさに目の前でピョコピョコ動く茶髪の少女について説明せねばなるまい。

 東京帰りでひとまずの新しい職員を数人引き連れつつ帰ってきた私を見るなり駆け寄ってきて、ぜひとも頼みたいことがあるという彼女に、いつも通り実験の手伝いだろうか、と聞けば違うという。内容はよくわからないが、実験絡みでない話なら食堂でも会議室でもなんなら下の文化保護室でもいいと言ったのだが、この子は

 

「仕事帰りで疲れているだろうし、うん、君の私室で構わないよ」

 

 と宣った。紙の束を持って東京往復9回目という苦行──重要機密文書の共有には無線も有線も使えない──を終えてすぐのことだったので仕事帰りで疲れていることを理解してくれるのならまたの機会にしてほしいと思うこともないのだが、最近よく見るようになった企みごとのあるらしいにやつきを隠しきれていない彼女を見てそう断ることは憚られた。私にできる最後の抵抗といえば、しょうがないですねえと少し小言を漏らすことぐらいだ。それすらも彼女を愉しませている気がしなくもないが、まあそれでも良い。

 それにしても一体何を考えているのだろうか。実験でないなら何を求めているのか、文化保護室でもないとすると全く何も思い浮かばない。よほど気分が良いのかいつもより気持ち足を高めに上げて小走りで私の部屋へ私を先導する彼女を見て疑問符は消えるどころか増えるばかりであった。

 部屋に着いてからでも「ふぅン、本当に仕事ぐらいにしか使ってないんだねえ」などと言いつつ部屋を物珍しげに見回す彼女が何をしたいのかわからない。中に入れたのは初めてかもしれないが、別に見るのは初めてでもなかろうに。要求はいつもこれがしたい、あれが欲しい、とかなり直接的に言いつけてくるものだったのだが。

 

「それで、今日は一体どうしたんです。私の部屋なんて見ての通り面白いものなんてないですよ。触られては困るものならたくさんありますけど……」

 

 ついつい疲れもあって強めに当たってしまう。言葉を言い切ってから後悔した。私の声を聞いた彼女は机の上に置いてあった万年筆を手で遊ぶのをやめ、私の方を見た。が、滑らかに瞳が移動して目を逸らされる。顔色を窺うが、私の発言を気にしているそぶりではないよう。というよりあまり私の話が耳に入っていないような気がする。

 不思議に思って私の方から目を合わせる。そうすると再び微妙に逸らされる。何かを提案するなりすぐ話し始めるものかと思ったが、そういうわけでもないらしい。いつもと雰囲気が若干異なる。指先をポケットにしまったり出したりと忙しない。何か煮え切らないような不思議な行動をしている。らしくない、疑問が心配に変わるには十分な変化だった。

 

「……どうしたんです」

 

 もう一度、ゆっくりと聞いてみる。するとタキオンは頼みたいことがあって、と言う。それは聞いている。その内容を聞いているのだが……しかし、ここで急かすとこじれるだろうという確信めいた予感があったので私はそれをしない。タキオンは普段素直ではあるが対応が難しい。

 静寂。私は彼女の言葉を待つだけで、彼女はなかなか口を開かない。おかえり、と元気よく迎えてくれた時から口数が増えたり減ったり、最終的に部屋に着いてから時間に比例して活力が抜けていき、今ではこうだ。何か興奮していたけど冷静になったとでもいうかのように。

 少々明るさの足りない部屋の奥でチカチカとコンピューターのランプが光って控えめな自己主張をしている。空調と冷却ファンぐらいしか音を立てるものがない。

 

「ええと……」

 

 時計の長針が90度ほど角度を刻んだかといった具合の時間にタキオンがやっと声帯を震わせた。しかし歯切れが悪い。すでに何らかの言い出しにくいことなのであろうことは察しているが。最近彼女の中で流行っている変な薬の製薬でそれを誤飲してしまったとかの方が納得できる。動物実験で行えと安心沢さんに死ぬほど怒られていたはずなのだが。もしそうだったのならすぐ連絡せねば。

 またしばらく空白が生まれる。数刻後、タキオンは決心したかのように一歩こちらに踏み出すと、白衣のポケットに手を突っ込んで何か物を取り出すと同時に言葉を繋いだ。勢いよく取り出された何か、素早すぎる動きにぶれて残像しか見えないそれが私の手前に差し出される。

 

「頼みたいというのは」

 

 一体───

 

「これ……なんだが……」

 

 何───

 

「頼めるかい……?」

 

◇◇◇

 

「痛くはありませんか?」

 

「あ、うん。大丈夫だ」

 

 はねて抵抗する毛束を手で掬い取って、ブラシを当て、手懐ける。流れに沿って手前にブラシを引くとタキオンが小さく声を漏らした。触れるたびに耳がピクピクと揺れる。それが面白く、自分の内側の悪魔の囁きに流されて少し強めにブラシを当ててみると、小さな叫びと共に体が跳ねた。恨めしそうな睨みを流し目で送ってくる。それがどうにもおかしくて笑ってしまう。

 

「ふふ、くすぐったいですか」

 

「君ぃ……う、もう少し優しくだねえ……」

 

「はい分かりました」

 

 気持ち力を抜いて毛にブラシを滑らせる。何度も、何度も。蒸しタオルを幾度か当てながら、毛の流れを読んで言うことを聞いてもらう。少し乱れていた尾毛がだんだんとしなやかにまとまり始める。ベットの上に置いたノートパソコンでクラシックのプレイリストを流しながら、ただひたすら毛を撫で続ける。しばらく続けているとタキオンも慣れてきたのか、声は出さなくなった。しかしやはり落ち着かないのか耳はいまだにブラシを通すたびに跳ねる。

 温水を入れた霧吹きを使いながら、会話でもしようとジャブを打ってみる。

 

「それにしても驚きました。尻尾の手入れをしてほしいだなんて。いつもは安心沢さんに頼んでいたはずではありませんか。テールオイルとブラシを持ってくるなんて」

 

「……そういう気分だったんだ。君なら私の気まぐれさはよく知っているだろう?」

 

 気まぐれ、ねえ。そう言って返答はしてくれたもののこちらを向いてくれない。少し身を傾けて横顔を伺おうとしたら、反対側を向かれてしまった。風見鶏のようにくるくると首を回して私の目を避ける。私は風上らしい。やはり湧き上がってくる笑いを抑えることができない。

 

「なんだい、そんなにおかしいかい?」

 

「おかしいのもありますけれど、まあ、そうですね。端的に言ってしまえば嬉しいんですよ。尻尾はデリケートですから、あまり人に触られたくはないものだと理解しています。信頼してくれているんですね」

 

 私の笑いに不満が募ったらしい彼女が、若干声を荒げてそれを咎める。流石に笑いすぎたかと弁明したところ、タキオンは嬉しいと言うには少し意地悪ではないかという内容の小言をボソボソと口にした後、押し黙ってしまった。これ以上どうして「そういう気分」なのかは聞けそうにない。

 無言なのも少し空気が悪いので代わりに気になっていることを質問してみる。答えてくれるかはわからないけれど。

 

「それにしてもブラッシングなんて慣れていない人はそもそもできないと思うのですが、なぜ私ができる前提なんです?」

 

「……安心沢女史に聞いたんだ。作法を一通り知っているとね。それを聞いて頼んでみようと───それなのに君は私のことを面白がっていじり回すんだ。いやまったく! これは立派なハラスメントではないかい?」

 

「反応が可愛らしいので少し調子に乗ってしまいました。ごめんなさい」

 

「……潔いねえ」

 

 するするとブラシが滑る音。この子は自分の身だしなみにあまり気を遣わない。そのせいか尾毛がだいぶ傷んでしまっている。抑えても跳ねるいくつか細い線は諦めるしかあるまい。救急箱から取り出した小鋏で痛みすぎてしまった毛を切りつつブラシで整えていく。タキオンはぱちぱちと言う音が自分の見えない背後からするのが居心地が悪いのか、そわそわしつつたまにびくりとしていたが、しばらく続けているといちいち飛び跳ねるようなこともなくなり、目を閉じてされるがままになった。心地よく感じてくれているのなら私も仕事のしがいがあるというものだ。

 毛先を整えることに執心していると、今度はタキオンから質問を投げかけてきた。

 

「逆に私から質問するけど……なぜ作法を知っているんだい?  仕事は関係ないだろうし、趣味で覚えるような人間にも見えないから……家族にウマ娘でもいるのかな?」

 

 自分でも訳もわからずどきりとしてしまう。何か後ろめたいことがあるわけではないのだが……家族、家族か。あいつは家族だろうか。いや、家族だろう。少なくとも彼女は私をそう扱ってくれる。なら、私にとってもそうだ。いつも明るくて、やんちゃで、賢くて、可愛いやつだ。

 

「……大丈夫かい?」

 

 私を呼ぶ声にいつの間にか俯いていた顔を上げると、タキオンの茶色の瞳と目が合う。そこに浮かぶ疑問の色。家族という単語に過剰反応して作業の手を止めてしまっていた。手を再び動かしつつ、なんと答えればいいかと考える。心配させてしまってはいけない。

 

「───家族。ええ、家族です。義妹(いもうと)がいましてね」

 

「ふぅン……そうか、妹がいるのか」

 

 何か考える風にタキオンが部屋の隅の方、焦点はもっと近い、虚空を見つめる。何かを注視しているわけではないのだろう、彼女が何かを考えているとき特有の仕草だ。何を考えているのだろうか。いや、思い出している? のだろうか。直感的にそんな気がした。

  小休止。無言。しばらく手を休めて様子を伺っていると、タキオンがフッと脱力したように笑い、私の方を見た。疲れを孕んで光を反射しない空虚な瞳。

 

「母の手を思い出したよ」

 

 なんのこともない日常会話の延長でつぶやかれた言葉。大人がつい言葉にするようなものならそれは普通だっただろう。しかし目の前で懐かしさと寂しさのないまぜになった表情をしている人間は、年端も行かない子供なのだ。その年齢でそんな顔は普通できない。私は言葉に詰まり、タキオンは何か続きがあるわけでもない様子。

 家族。タキオンにとっては外力によって奪われたもの。安心沢さんにもデリケートな話題だと釘を刺されているのに。少し話題を間違えたかもしれないと焦る。

 何を話せばいいかと悩んで沈黙が生じた。彼女にとってはどうかわからないが、私にとっては少し居心地の悪い静寂。再びブラシが止まる。しかしそれは長く続かなかった。手の上に乗っていた毛束がするりと抜けて消える。タキオンが椅子から立ち上がったのだ。尾毛に引っ張られて床に落ちそうになったブラシを慌てて掴む。咄嗟に腰を上げた弾みで肘掛けに置いてあった霧吹きが床に落ちた。プラスチックの硬質な音。どうしたのかと私が驚く一方彼女は雑多に物が置かれた壁際の机に向かって歩いていく。触られても問題のない私物が適当に積み重なっているだけだったから大丈夫だろう。彼女の興味の移ろいはいつも突然だ。

 床に転がった霧吹きから水が溢れていないことにとりあえず安堵する。

 

「この写真」

 

 拾い上げようと伸ばした手が止まる。振り返った先でタキオンは写真立てをつかんでいた。好奇心をのぞかせた目がきらりと輝く。

 

「君のお母さんかい?」

 

 少し汚れた木枠。光沢紙に印刷された写真はフィルムに収められていてそこまで劣化していないが、右下に記されたデジタル数字は随分と昔の日付を指し示している。

 

「……ええ。私の母親です」

 

「優しそうな人だね。この男の子は君かい?」

 

 首を縦に振って肯定するとタキオンは愉快そうに笑った。「小さいねえ」とは。それは今より随分と若いんだから小さくて当然だろう。私の過去という新しい発見に研究者魂が刺激されたのか、写真をじっと見ている。彼女は気づいていないようだが、やはり写真の私は笑顔が少し歪んでいる。顔のパーツが笑顔以外の表情を少しずつ漏らしていて、何度も見た私にはもはや不気味にすら見える。写真を見るだけではなぜ歪んでいるのかを知ることはできないだろうが、当人たる私はよく知っている。

 

「ということは君がピアノを教えてもらったのはこの人かい? 君の師の演奏を聞いて見たいものだねえ」

 

 歪みの原因は焦りと、諦めだ。

 

「……母は、もういません」

 

「───え」

 

「私が小学生の時に他界しました」

 

 あの時の衝撃をよく覚えている。いや、忘れられないのだ。だんだんと弱っていく母の姿を見ながら、まだ明日は大丈夫だろう、大丈夫なはずだと何日も続けていた信仰が突如途切れたとき。傘をさしていたのを覚えている。雨の降っている日だった。

 

「ど、どうして」

 

「残留放射線症候群。母に目立つような要因はありませんでした。単に運が悪かったんです」

 

 前の戦争で大量の核兵器の使用によって生み出された大量の放射能汚染エアロゾル。いまだに終わりの見えない核の冬と同じく、戦後何十年と経った今も日常を脅かし続けている。多方面に負の影響は残り、拡大し続け、私の母はそれに捕まってしまった。多くの被害者の一人だ。大きな目で見れば、そう小さな確率ではない。生活習慣病と同程度には原因に疑われる事象なのだから。

 しかし母はホットスポットに足を踏み入れたわけでもない。警報が出ているような強い放射雨を浴びたわけでもない。全くの原因不明。遺伝病の可能性がある、そう医者からもっともらしく語られる病状の説明なんて子供の私には心底どうでもよかった。ただ母ともう一度日常に戻りたかっただけ。ピアノにまた触れてほしかった。思えば私がもっと小さかった時から母は強健とはとても言い難い様子であったし、説明を受ける父に驚いた様子はなかった。つまり知らぬは私のみだった。黙っていたのは私を心配させないためであろうが。

 今でもなぜ母がと考えることはままある。何度自問して天に聞いたところで時間は巻き戻らないし因果は変わらない。確定した結果に可能性は絡まない。時の流れは少なくとも体感的に皆平等だ。世には理不尽が溢れている。

 感情的になる自分を冷ややかに見ている自分もいる。一体何を感情的になっているんだ。何度目だと思っている。克服したと自分を納得させた回数は数え切れない。ピアノに触れられないトラウマも時間をかけて克服した。これまでの生活だって自分の定規では少なくとも普通を過ごしているはずだ。

 落ち着け、息を整えろ。今は一人ではないんだ。少し冷静になって横を見れば、タキオンは衝撃を受けて固まってしまっている。ぶっきらぼうな言い方をしてしまってこの話題を持ち出したことに責任を感じさせてしまっただろうか。とんでもなく大人気ないことをした。大人失格だな、これは。

 大人。私は変われたのだろうか。もう二十歳を超えてしばらく経つというのに自分が家族の死に諦めをやっとつけられたただの子供のような気がしてくる。大人になるとは諦めを知ることとは言うが……どうにもな。こうやって昔を思い出すと冷静さが揮発してしまう。こんな自分が護衛と協力者。もっと平たく、安心沢女史の言葉を借りれば保護者か。難しい仕事を任されたものだ。少なくとも彼女の前では頼れる大人でありたい、あらなければ。

 いけない。じっと黙っているものだからタキオンが思い詰めたような表情をし始めた。

 

「でも───過ぎたことです。少し振り返ってしまうことはありますが、少なくとも私は区切りをつけたつもりです。だからあなたがそんなに気にしなくていいんですよ」

 

 タキオンは人との関わりが少ないからこういう応対の経験なんてないのだろう。微妙な気まずい空気の経験は圧倒的にこちらに分があるに違いないと僅かに苦笑する。

 きっとこの状況、賢い彼女はこの発言の真意が本音か方便か探って迷っているのだろう。まごつくばかりで返答はない。もう少し踏み込まないと納得してくれないか。

 

「本当ですよ? それにね……こういうことを言うのは少し気恥ずかしいんですけれどね、私は母のことでずっと引きずっていたものの一つをあなたに下ろしてもらえたんです」

 

「え……」

 

「ピアノです」

 

 驚きを浮かべて上げた顔が続く「ピアノ」という単語で当惑を滲ませる。私とタキオンの関係を構築しているものの中でも重要なパーツであるピアノ。当初これがこんな立ち位置になるとは全く予測できなかった。これは私にとっての救いだ。言葉で伝えておきたい。

 

「ピアノ、実は嫌いだったんですよ。あ、いえ、習っていた頃は好きだったんですけれどね。母が逝ってしまってから、あの冷たい鍵盤に触れると最後の日を思い出してしまいまして。最初は指を触れられもしませんでした。そして時間をかけて触れられるようになってからも何処か距離を感じてしまって、好きにはなれませんでした」

 

 タキオンがまた顔を青くし始める。血の気のひいた頭で考えているであろうことは、さしずめピアノを弾くように頼んだことを後悔しているといったところか。確かにこの言い回しだと私にとってピアノは最悪なもののように聞こえてしまうだろう。そうしようとしたわけではないが意地悪だったかな。

 

「でもね、あなたが弾いてみろと椅子に座らせてくれた時、あなたが楽しそうに演奏を聞いてくれているのを見て初めてピアノの楽しさを思い出せたんです。久々の感覚でした。忘れない瞬間の一つですよ」

 

 一息つく。やはり気恥ずかしくなってきた。全く、どっちが助けられているのかわかったものじゃないな。

 

「私にとってのしあわせの一つを思い出すことができました。感謝しています」

 

「幸せ……?」

 

 わからない、という風の声色だ。タキオンはまだ小さい。すでに多すぎるほどのものを背負わされてしまっているが、私も斉藤も安心沢さんもいる。新しい信頼できる職員も増えた。我々で分けて背負っても問題あるまい。ゆっくりとこれから見つけていけばいい。幸い憎たらしいほどに時間はある。まあ、偉そうにいうほど私は人生に詳しくはないけれど、協力は惜しまないだろう。

 

「ふふ、ええ。そうですとも。数値で測れるようなものではないですよ? ふふ」

 

 言いたいことを言って私も落ち着きを持てたらしい。何か納得できないような様子のタキオンを見て自然と柔らかい笑いが出る。こういう笑い方をするといつもなら何かと私が笑うと小言を言ってくるものだが、今は神妙な面持ちで見つめてくるのみだ。

 

「でも、そうですね。あなたにもそういったものを見つけてもらいたいところです。あなたには健康な両親がいるでしょう?」

 

 タキオンは両親という言葉に体を揺らし、少し詰まりながら首肯した。安心沢さんからタキオンと彼女の両親の接触をタキオン自身が避けているということは聞いている。理由は知らない。安心沢さんもそれは知らないとのことだ。関係そのものは悪くないらしいが、きっと私とはまた違う何か歪んでしまったものがあるのだろう。

 

「面会は取れませんが……ビデオ通話も避けているんでしたよね」

 

「……うん」

 

「理由を詮索するつもりはありません。何か壁を感じているんでしょう。価値観は人それぞれですから、押し付けるつもりはありませんけれど。私からすると、ただ生きて、そこに存在するだけで素晴らしいものだと思うんです」

 

 少し目を瞑って昔に意識を向ける。過去に置いてきてしまった人間の顔が浮かんだ。私の身じろぎに椅子が緩く軋みを上げる。

 

「私は親以外にも友達を仕事柄何人も失ってしまったので。数えるようなものではないと思うんですけれどね。会えないというのは、寂しいんですよ」

 

「寂しい……ね」

 

 写真立てを掴む手に力が入ったのがわかる。寂しいんだろう。寂しくないわけがない。

 

「色々あなたは考えてしまうんですよね。でもそれを直接言ってみたことはないんでしょう?」

 

「う、そうだね」

 

「一つ自分勝手な助言を許してくれるなら……一度ぶつけてみてはどうでしょう。あなたのお母さんもお父さんも優しい人です。絶対に聞いてくれると思いますよ。家族というものはいいものです。私にとっては失いたくない、大事なものだった。私のように失ってから気づくようではあまりに遅すぎる」

 

 自分の思想がもれすぎて少し攻めた言葉になってしまった。明確に彼女の内面に私から踏み込んだのはもしかしたら初めてかもしれない。私の言葉を噛み砕いているであろうタキオンは静かなままだ。もうひとこと付け足しておこう。彼女には家族を大事にしてほしい。わかっている。これは完全に私のエゴだ。私が全て失ったあと新しい家族を得て初めて理解したもの。押し付けがましい妄言だと受け取られたとしてもそれでいい。

 

「私があなたの両親と対話を重ねたからこその確信で話していますが……もしどうにもならなくても私がいますから。ダメでもいつも通り実験して研究して、ピアノでもなんでもやりますよ。だから、ね」

 

 そこまで長くもない私の人生で積み重ねた考えをぶつけて彼女の出方を待つ。どうにかなれ、全く理性的でない考えと勢いで言葉を繋いだ。言葉を飾らずに話したつもりだ。

 

「……そうだね。そうしよう。挑戦してみることにするよ」

 

 タキオンは思い立ったように軽く背を伸ばすと、力強く頷いて笑みを見せた。握り込んでいた写真立てを元の場所に立てかける。写真から始まった話の暗い影は背に見られない。うまく伝えられたようで胸をなで下ろす。

 予想外の展開であったことだが、私も言いたいことが言えたことだし結果オーライ……かな。彼女と両親の関係が少しでも元に戻ると嬉しい。決断が大事だろう。いつでも物事がやり直せるとは限らない。壊れた機械はリブートできないのだから。

 

「さ、尻尾の手入れがまだ終わってません。テールオイルも持ってきたんですよね」

 

「!……うん、お願いするよ」

 

 重い話は一区切り、過去は過去に。振り返ることはあれど、戻ろうとしてはいけない。

 呼びかけにハッとしたような顔をして、こちらに駆け寄ろうと振り返った彼女の尻尾がキャビネットに当たる。弾かれた引き出しからものが落ちて散らばった。不織布のカーペットに文房具が跳ねる。天板に積み重ねていた書類のいくつかも散らばってしまった。

 

「あっ、すまない」

 

「あらら、片付けてからにしましょうか」

 

 足元まで転がってきた万年筆を拾い上げつつ床に積み重なる紙束を見て苦笑する。元があまり綺麗じゃなかったからだいぶ飛散したな。タキオンが慣れた手つきで書類をまとめてダブルクリップでとめつつ、散らばった小物を寄せ集めてくれる。実験室の片付けはよく手伝っていたけれど、なんだ掃除はできるじゃないかと思った矢先、落ちていたサングラスをはめて遊びはじめた。見つからないと思っていたらそのキャビネットに入れてあったのか……片付けができないのはどうもいけない。

 

「どうだい。マッカーサー、ってねぇ」

 

 不覚にも笑ってしまった。わからなくもない。ティアドロップと言ったら彼だからな。明るく笑う彼女を見て再び安堵のため息を漏らす。

 キャビネットに収納する場所を間違えただとか少し余計に整理整頓をして紆余曲折かなり時間がかかってしまったが、部屋は幾分か綺麗になった。少しは仕事場に見える。物置と言った方がここを表すのには適当だった。

 やっとのことで本来の目的に戻れる。テールオイルのラベルに印字された説明書きを斜め読みして、とりあえず私が知っている作法で問題ないことを確認しておく。準備よし。正直一日程度で片付く量の散らかりではないのは分かりきっているので、部屋の隅の方で書類をプラケースに押し込んでいたタキオンを呼びつける。時間が時間だ、あんまり遅くなると私が安心沢さんに怒られてしまう。

 

「タキオンさん、準備できまし───」

 

「山吹君、これは」

 

 私が言い終えるより早く、震える固い声音が遮る。私の方に一枚の紙が向けられた。バーコードと数字がところどころに躍る他の書類とは少し見栄えの違う紙。明朝体の冷たく黒い文字で印字された“診断書”の文字。枠の中にしっかりと私の名前が印字されている。背筋が冷えた。まずいものを見つけられてしまった。

 

「残留放射線症候群って……君、君も」

 

 知られたくなかったのが正直なところだ。

 

「いや、それは」

 

「そんな……」

 

 どうにか説明を通そうにも完全に冷静さを失ってしまって耳に入れてくれない。いつもの不調とはどうやら訳が違うらしい。タキオンが診断書を強く握りしめる。くしゃりと乾いた音がした。声を荒げるでもなく、ただ静かに悲嘆に暮れている。何を話しかけても返事がない。せっかく悪くないコミュニケーションができたと思ったのに。生気がなくなってしまったようだ。書類の置き場所が悪かったなと後悔する。

 場の空気が固まってしまい、居心地の悪い静寂が辺りに満ちる。静かな拒絶の意思が彼女から漏れ出ていた。知られてしまったのはもちろん困ったことだが、おそらくタキオンが考えているであろうことより実際は深刻ではない。誤解を解かねば亀裂が生まれてしまう。

 近くに寄ってしゃがみ込んで視線を合わせる。薄く涙ぐんだ目で見つめてくる。まだ説得の余地はありそうだった。

 

「タキオンさん」

 

 目の前で言葉を投げかけても反応を返してくれなかったが、何度も繰り返し話しかけていると口を開いてくれた。

 

「嫌、嫌だよ。なんでだい……また目の前からいなくなるなんて……私の意思で決められないなら、いっそ私が、私自身が離れることを決めるのが」

 

 大粒の涙が溢れ出してしまった。口調はいつもと変わらないけれど、より正直な強い感情を吐露している。強い焦りを感じた。まるで昔の私のようだ。私が死んで目の前から蒸発してしまうと考えているらしい。失うぐらいなら拒絶して、なかったことにしたいだなんて、あまりにも悲しい。病気にもステージがある、完全な誤解だ。それにまだ死ぬには早い。家族とまた会えるのは嬉しいが、今じゃなくていい。

 

「それは誤解です。私はいなくなりませんよ」

 

「嘘だ、嘘だよ。だって、これは君が話していたお母さんと同じ病名じゃないか、つまり……」

 

「ええ、同じです。ですが……母は重度、私は軽度です。少し、ほんの少しだけ目の神経が悪いだけですよ。光が僅かに眩しいぐらいです。本当にそれだけ」

 

「え、は……? 光が……眩しい……?」

 

「ええ。まあ、一生眩しいので大変ではありますけどね」

 

 深刻な顔が少し気の抜けた顔に変わる。死の病と光が眩しい程度では違いが大きいだろうから気持ちは察する。度重なる衝撃を飲み込むのに時間を要しているらしい。

 病気との付き合いは長い。今も私は遮光コンタクトレンズをつけている。太陽の光を裸眼で見ようものなら激痛でどうにかなってしまう。先天的な障害だった。誰のせいかといえば、誰のせいでもないのに母はよく私に「ごめんね」と繰り返したものだ。

 

「死んでしまうことはない……?」

 

「ええ」

 

「……いなくならないということかい……?」

 

「ええ、私はここにいる予定ですよ」

 

 タキオンは驚きを滲ませた顔を伏せ、膝を腕で抱き寄せて石のように動かなくなった。耳が後ろにひねれている。こういう時は触れるのはまずい。私にできることと言ったら待つことぐらい。何度目かわからない沈黙。壁に背を預けてタキオンの横で待つこと十数分。僅かなみじろぎと共にとてつもなく長いため息が聞こえてきた。

 

「───ああ!! なんだい、もう!  全く心配したよ、君がいなくなってしまったら実験助手はどうするんだい!?  それに……病気の話だってしてくれたっていいじゃないか!  私の心体データは安心沢シュジイから受け取っているんだろう?! 不公平だよ、不公平!」

 

「え、いや、私は」

 

「君は心配させないためとかいうんだろう?! そうとも、心配したよ!」

 

 もうめちゃくちゃだ。どう反応するのが正解なのかわからない。こんんどは私の思考が漂白される番らしい。ただ感情の爆轟をぶつけられている。驚いて立ち上がったら「もう!」と壊れた音響機器のように繰り返し叫びながら拳を何度も下腹部にぶつけてくる。普通に痛い。力の加減が怪しい。前門の怒れるウマ娘、後門の壁。逃げ場がない。

 

「ちょっと、ねえ。タキオンさん! 痛いっ痛いですよ! いや本当に痛い!」

 

「私は頭が痛いねぇ!」

 

 憤懣やる方なしという風で、スタスタと元いた椅子の方向に帰っていく。オイルを持ち上げたのを見てそのまま帰ってしまうのかと思ったら、私の方に真っ直ぐ腕を突き出してきた。やれ、ということらしい。ドスンという擬音が聞こえてきそうな勢いで椅子に座り込むタキオンを見て苦笑する。結構付き合いも長くなってきたが、こういう発作的なところの対応はいまだによくわからない。黙って従うのが最善策だろうとは思うけれども。

 くしゃくしゃになってしまった診断書を机に放り投げ、落ちていたサングラスを胸ポケットに掛ける。

 

「はーやーくー!!」

 

 オイルを受け取ると、私が使う椅子にタキオンが尻尾を投げ出す。合皮の座面に勢いよく当たって乾いた音がした。タキオン嬢機嫌ナナメ極まれり、大変なことになってしまった。まあでもこうやって感情を素でぶつけてくれるようになったのは関係の進歩と言えるだろう。よし。

 

「変だったら言ってくださいね」

 

 時間が経っていたので、霧吹きでつけた軽い湿りはもう飛んでしまっていた。それ以外の手間が増えに増えたが、それのおかげでドライヤーを使う必要はなさそうだ。手のひらに出した少しとろみのある液体を手のひらに馴染ませ、尾毛に触れて伸ばす。ブラシで念入りに解いたので引っかかりはない。毛束をほぐして内側の毛までしっかりとオイルを伸ばしていく。

 しゅりしゅりと小気味のいい音が響く。お客さまは……気持ちよさそうですね。力加減はこれぐらいでよさそう、丁寧に、滞ることなく進める。

 

「山吹君」

 

 黙々と作業を続けること20分ほど。作業も終盤かと言ったところで突然いつものトーンで名前を呼ばれた。さっきまで爆発していた感情の片鱗すら感じられない静かな声音。このまま無言なものだと思っていた私は少し応答が遅れる。

 

「……はい、なんでしょう」

 

「失いたくない、大事なものが家族なんだろう?」

 

 手が止まる。何を言いたいのか捉えようとしたが、失敗した。続きを聞くために短く答える。「ええ」

 

「それなら、私にとって君は……きっと家族かな」

 

 家族という単語が頭の中で反芻する。家族───生活を共にする血縁者や配偶者。それが定義。ただし、タキオンが言っていることの内容はそんな表面的な内容ではないのであろうことぐらいわかる。もっと概念的なもの。もしかしたらタキオンは私との漠然とした関係をしっかり定義したいのかもしれない。

 

「……家族、ですか」

 

 私の言葉に返事はない。次の句を待っているのだろう。返答を頭の中で吟味していると、タキオンが小さく体を揺らす。妙に緊迫した空気が流れた。タキオンの求める答えはなんとなくわかるが、これは私自身で考えないと意味のない問いだろう。私の椅子が軋む音にタキオンの尻尾が少し震えた。

 

「……そうですね、それなら……私にとってタキオンさんも家族ですね」

 

「!……そうかい!」

 

 尻尾が跳ねた。スラックスの上に伸ばしきれていないオイルが擦った跡を残してしまったが、まあいい。小刻みに左右する楽しげな耳を見る限り、タキオンの機嫌も治ってくれたらしい。一時はどうなるかと思ったが、真摯に対応して良かった。

 さて、残りの工程も少ない。あとは丁寧に仕上げよう。

 

◇◇◇

 

「終わりましたよ」

 

 ドライヤーの電源を落とし、サラサラになった尻尾を指で少し解いてみて確かめる。問題なし。我ながらいい出来だ、彼女のおかげだな。繰り返しやらされたおかげで自信を持てるレベルには上手になれた。家に帰れたらまたやってあげよう。

 

「タキオンさん?」

 

 終わったことを伝えても動きがないので、再び呼びかけてみたがやはり黙ったままだ。立ち上がって表情を窺えば、眠っていた。少し揺すってみても小さな変化すら見られない。熟睡だった。正直、今日だけで精神が相当に疲弊しただろうから仕方ないだろう。意図したものでもないはずだが、緊張して、安心して、怒ってと感情のジェットコースター状態だっただろうから。それもほぼ私のせいだった。都合よく不時着はできたけれども、まずかったなあ。

 研究室で寝てしまった時のようにまた私室まで運んでやるか。いや、それだと体に負担がか勝ってしまうな。タオルでも敷いてベッドを使わせるか。時計の数字も随分といい時間を表している。私は……ソファでもなんでもいいや。

 

「しかし、家族か」

 

 私にとっては色々な感情が複雑に絡む言葉で、おそらくタキオンにとってもそうだろう。それをわかった上で私を家族と。信頼以上の何かをタキオン自身の口から聞けたのは嬉しいことだ。少なくとも彼女にとって私の日々の行動に間違いはないのだろう。きっと。

 私を頼ってくれるのが嬉しい反面、無期限とはいえ私も仕事でここにいるから、もしかしたらくるかもしれない別れが怖いところだ。与えられた任務の内容を超えて深入りしたのは自分だったが、私に寄りかかりきるのではなく何か自分自身を支えられるものをタキオンには持って欲しいものだ。安心沢さんもそう思っているはず。私もここにいられるよう努力はするけれども。

 椅子から持ち上げてベットの上に優しく寝かせる。空調の温度を涼しい程度に調整してブランケットをかけた。

 

「おやすみ」

 

 さて、明日はドイツ製実験機材の運び込みだったな。スケジュールの再確認をしないと。



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第二章
Report.9:ReClaim;


 第二章

 

 騒がしい朝だった。薄暗い室内に防音扉の向こうから複数人が行き交う足音が反響を伴って入ってくる。あまり気分の良くない目覚め、うっすらと開けた目に飛び込んできたのはいつもの自室。いつものように照明が部屋に灰色のグラデーションを生み出し、無感情な合成音声が今日の予定を垂れ流している。

 いつもは目を覚ましてもしばらくは眠気が飛ばなかったものだが、今日は随分とすぐ目が冴える。モニタの見過ぎで最近目の奥に残り続けていた疲れを感じない。昨日の夜は結局どうしたんだったか。どうにも思いすことができない。

 ……そもそも部屋に戻ってきた記憶がないような気もするのだけれど……

 時刻を確認しようとデジタル時計を見てみたところ、驚くことにもう昼と言えるような時間になりかけていた。体が満足するまで寝ていたのならこの状況も納得だ。いつもの起床アラームはどうしてしまったのだろうか。狸寝入りを試みたところでベットから吹き飛ばしてでも起こそうとしてくる仕様だったはずだが……?

 血圧が上がり始めたのを感じ、手足がしっかり動くことを確かめてスリッパに足を通す。亀のようにゆっくりと歩き出すと、今私の起床に気づいたかのように部屋の照明がのっそりと灯った。煩わしいアナウンスが今日は再生されない。寝ぼけて何か設定をいじったかな。

 壁のモニターはいつものようにうるさく情報を並べず、当たり障りのないこの地球のどこかの山の画像を表示している。フォトフレームに見えないこともない。いつもと少し違う、いつもの部屋。違和感ははっきりと認識できるが、常より長く睡眠をとっていた頭は違和感の理由について思考をするにはまだ時間がかかるらしい。

 歯磨きと洗顔だけ済ませて研究室へ向かおうかと思ったが、妙にふわふわとした違和感が拭えないのでシャワーを浴びに行くことにした。移動は面倒だが、今の状態ではまともに進捗が得られるとは考えにくい。少し歩くのも悪くないだろう。湧き上がってきたあくびを噛み殺し、ドアの開錠ボタンに指を触れた。

 

◇◇◇

 

 シャワーを浴びている最中に妙に手触りの良い尾毛に気づき、その瞬間昨日のことを思い出した。最もあり得そうな仮説は尻尾の手入れをしてもらっている最中に寝てしまった挙句、どこかのタイミングで自室に運んでもらったというもの。いや、おそらくそうだ。どうしよう……いや、どうしようもないが……

 毛の状態は完璧、こんなにサラサラな毛は見たことがない。母の手入れよりもしかしたら上手かもしれない。作り物のようにすら見える綺麗な毛並みは妙に浮いていて、自分の体の一部であるにも関わらず妙に違和感を感じて落ち着かない。不満は一切ないのだが、こんなに丁寧にやってくれるとは思わなかった。

 感謝すらせずに寝入ってしまうなんて流石にどうかと思う。せっかくの好意だというのに、親しき中にもなんとやらだ。すぐにでも会いに行って感謝を伝えねばならない。

 彼の予定表を呼び出したタブレットを眺めながらいつもより人の往来が激しい通路を進む。見知った職員が特に私に興味を示すことなく通り過ぎてゆき、初めて見る人間がたまに通っては私を見て歩みを止め、困惑を一瞬のぞかせた後、興味を隠せない様子で一言挨拶をしてゆく。最初こそ意外な顔をしてしまったが、まあ気分の悪いことではない。普通に返礼している。彼らの研究対象を見るような目には少し寒気がしたけれど。

 目的地のメインシャフトに向かう道すがら、すでに空気の違いを感じていた。近づけば近づくほど初見の顔ぶれが増える。共通項としては、おそらく研究者であろうということ。ただの研究職ではないだろう。ほぼ全員が胸元に小さなバッチをつけている。鳥を象っているような抽象化されたそれを初見で何と特定することは難しいだろうが、それが何か私は知っている。ヤタガラス。技研の意匠。赤色の目は本物のルビーらしい。詳しくは知らないけれども。

 人員補填がどうこうという話は何度か聞いたが、これほど大規模だとは思わなかった。ここの秘匿管理はかなり重要度が高いはずなのだが、一気に人を増やして大丈夫なのだろうか。 

 私が心配することでもないか。どのみち技研メンバーなら洗いに洗われて身辺は綺麗だろうし。そういった人員の管理は事実上国外に出れないぐらい厳しいらしい。

 

 静かな駆動音で動くオートウォークに乗って移動するうち、白い壁面の続く通路の奥から何やら声が響いてきた。もうエントランスが近い。何かを巻き取るような機械音も聞こえる。

 気持ち駆け足で通路を急ぐと、次第に様子がわかってくる。予定表通り、ちょうど機材を取り込んでいるところらしかった。備え付けのクレーン車がアウトリガーを広げて大きなアームでコンテナを吊るし、車輪がついた金属の板の上に下ろすことを繰り返している。ドイツ語の印刻されたコンテナ、「衝撃厳禁」と書いてある。おそらくSSTOが運んだ積荷だろう。随分と時間が経ってしまったが、ちゃんと届いたようだ。また新しいことができる、そう思うと気分が高揚する。

 色々済ませたら技研の要求は一度置いて、紅茶でも飲みながらゆっくりアレについてできることを考えよう。かねてより考えていた協力も取り付けないと。彼なら渋ったとしても最終的には首を縦に振ってくれるだろうし。

 しかしまあ、とりあえず昨日のことの清算をしないといけない。

 やっと踏み込んだメインシャフトのエントランスで彼を探す。出入りする人間が物珍しそうに視線をぶつけてくることに若干の居心地の悪さを感じつつ、直感を頼りに前へ前へと足をすすめるとちょうどクレーン車の横でヘルメットを被っているスーツの二人組が目に止まった。

 あの距離感と背中の形は間違いなく彼らだろう。安堵していつものように呼びかけると、振り返った山吹くんがヘルメットを指で押し上げてこちらに笑みを投げかけてきた。私も自然と口が弧を描く。斎藤くんは何やら作業の指示をしているらしい。安全第一の文字が輝く。

 

「おはようございます。まあ、もうお昼になりそうですが」

 

「やあ、おはよう。色々部屋のものが常と違ったんだけれども……やっぱり君が?」

 

「ええ、まあ。随分とぐっすりでしたので、ちゃんと休んでもらおうと思いましてね。安心沢さんからも『休みを取れていないようだ』と聞きいていましたので、彼女に許可をもらって設定を一時的に変更しました」

 

 休みはちゃんと取りなさい、という電話の声が脳裏に蘇る。わざわざ電話までしてくれていたのに、最近ずっと研究室に篭りっぱなしで心身平常ではなかった。一過性の詰め込みだからと、適当に誤魔化して報告していたがやはり全部筒抜けだったか。心配と面倒を同時に増やしてしまうとは申し訳ない。

 

「すまない! 仕事帰りだったのに無理を言った上にさらに仕事を増やしてしまって……迷惑だっただろう?」

 

「いえいえ、大丈夫ですよ。あのままぐっすり寝てしまうとは思いませんでしたが、それだけリラックスしてくれたということで」

 

 迷惑ではないという返事に安心していると「疲れは取れましたか」と問われ、肯定すると彼は「そうですか」と一言笑みを深めながら頷いた。

 私がやろうとしていたことはとりあえず終わってしまった。本当にこれだけなのだが、これで踵を返すというのはどうにも妙な気がして手持ち無沙汰になってしまう。彼が斎藤くんに呼びつけられてこちらから目線をはずしたことで、居心地の悪さが若干軽減された。

 彼がすぐに戻るというのでコンクリートの壁に背を預けて待つことにする。尾毛を少し掴んで指に通した。さらさらと流れるように指を抜け、照明の光を受けて優しい光を放つ。櫛が引っかかって抜けなくなってしまうような過去のものとはとても同一に見えない。確かにオイルは安心沢女史に「結構いいヤツ」として渡された物だが、手入れの腕の影響は間違いなく大きい。今日もしかしたら二桁目の感動だ。

 国内大手の運送会社ロゴの印刷されたトラックの荷台からコンテナがいくつか運び出されては台の上に置かれてゆく。ロゴはおそらく偽装だろう。許可はとっているはずだが、民間人をこの施設に入れるわけがない。それに───迷彩柄の服を着た人間が護衛している民間輸送会社なんて私は聞いたことがない。イルカを模した運送会社のロゴとアサルトライフルを持った迷彩服の対比がシュールレアリスムに見える。覆面がより不気味さを醸し出す。

 いま取り出されたコンテナが最後のものだったらしい。斎藤くんの「確認よし」の声が合図なのか、コンテナの載った金属の板が独りでに動き出してエントランスの方へと一列に流れ出した。人が前にいると自動で止まる。無駄にハイテクだ。

 

「まったく、朝早くから面倒な仕事だよね」

 

「まあそう言うなよ。協力してくれた国防軍人は昨日の夜から運転してるんだから」

 

「それはそうだけどね。特別物資の話は僕だって特に文句はないさ。僕が言ってるのは人事の方で───おや、タキオンちゃん」

 

「お待たせしました。知っているでしょうが、コンテナの中身は例のドイツの資材です。第3フロアの空き部屋を改装して専用室にすることになっています。職員が既に動いていますので……遅くても一週間以内には稼働できるかと」

 

 業務にひと段落ついた後の二人がヘルメットを腕にぶら下げてこっちに来た。斎藤くんが仕事に文句を言っているのを見るのはこれが初めてかもしれない。仕事に熱心であることはよく知っているだけに珍しい。山吹くんは私の予想の答え合わせをしてくれた。もっとかかるものだと思っていたから嬉しい誤算だ。一週間が待ち遠しいな。

 

「仕事中で対応できなくてすみません。で、なんでしょう。私に何か用事でも?」

 

「あ、いや……うーん、もうお昼だし、い、一緒に食堂でご飯でもどうだろうか……?」

 

「そういえばまだ昼食はとってませんでしたね。いいですよ」

 

「へえ〜、ふぅん?」

 

 何も考えずに突っ込んできたところに『何か用か?』と問われ、咄嗟に出す答えもなかったので昼食に誘いに来たことにした。不自然ではない答え、悪くないぞ。山吹くんは素直に誘いに乗ってくれるが、後ろでヘルメットを指で回しながら見つめてくる斎藤くんが鬱陶しい。行動を把握されているのは今更だからどうでもいいが、それを茶化されるのは納得いかない。大変遺憾極まる。山吹くんに気づかれないように斎藤くんに睨みを向けると、彼の笑みから揶揄うような成分が抜けた。なんだ、なんだその表情。馬鹿にされてはいないが……こう、何か違う……。

 

「……いいんですけれどね」

 

 少し歯切れの悪そうに山吹くんがこぼす。何か問題があるのだろうかと視点をひいて彼を見ると、左手に付けた腕時計をスーツの裾の上から摩っていることに気づいた。彼が時間を気にしているときによくする仕草だ。なんだろう。状況的に人待ちか。斉藤くんの目線は意味ありげに上を向いている。

 まあ私が気を使う必要もないか、と何が問題なのか直接聞くために口を開きかけたとき、大きな駆動音と共に車両用エレベーターが降りてきた。あれか。

 降りてきた車を一瞥して頷く彼らから推察するに、あの車の乗員か積荷、もしくはその両方を待っていたのだろう。全面スモークガラスで覆われた纏う雰囲気が少し怪しいこと以外至って普通の黒いセダン。おそらく公用車。

 二人が車の方に動くのでそれについていく。大袈裟な擦過音とチェーンを巻き取る音が響くエントランスに自分達以外の足音が聞こえた。後ろからだ。すでに朝方来たメンバーは撤収した後だったようだったけれど、いまさら用がある人間もいるんだなあ、まさかまさか寝坊かな、などとそこまで興味を持たずに横目で後ろを見てみると、スーツ姿の男たちがこっちに来る。一直線に、いや、彼らもあのセダンに用があるのか。

 部署はどこだろう、部署把握用の腕章をつけているみたい。なんのマークだろう? 見覚えがないから少なくとも上層フロアの部署じゃない。黄色と黒、シワになっててよく見えないね。

 一際大きな音に首を窄ませて驚く。エレベーターが到着したらしい。振り返った先で見えたのは山吹くんの背中。鼻先から彼の背中に追突してくぐもった悲鳴が漏れた。カエルが潰れたらこういう音が出そうな気がする。カエルの鳴き声なんてそう聞いたことがあるわけでもないけど。

 痛む鼻を抑えていると、彼が振り返って心配そうな顔をする。相変わらず大袈裟だ。……ん? デジャヴを感じる。

 ロックが外れた音、すぐ後にドアが人力ではなくモーターによってゆっくり開く。『少し怪しい』という評価を訂正せねば、『すごく怪しい』車だったようだ。分厚すぎる。ドアの厚みが潜水艦のハッチみたいだ。

 暗い車内で何か会話が交わされた後、乗員がこちらに背を向けてぬっと表れる。二人よりも人ふたまわり背が高い。ヒョロリと背が高いうわけでもなく全体的に大きい。

 

「よォ、久しぶりだな」

 

 再び大きな音を立てて上昇するエレベーターを背に巨漢が振り返る。自分の喉が笛のような音を鳴らした。悲鳴だった。

 半ば反射的に山吹くんの脚を掴んで陰に隠れる。 

 

「マジかよ」

 

 巨漢が何か悲しげなトーンで呟いている。少し冷静になれば人の顔を見て悲鳴をあげるなんて失礼極まりないということはわかるのだが、いや……しかし、私が悪いのか? どうすればいいのかわからないまま、状況が変わってくれることを期待して人影に隠れる。

 私が悲鳴をあげて隠れた数瞬後、掴んでいる足の主が「しまった」と叫んだ。

 

「いや、本当に、すまない。タキオンさん、説明しておくべきでしたね」

 

 巨漢は肩をすくめて気にしていないとのジェスチャーをしている。顔の右半分を覆う大きな眼帯と鼻頭から左頬に走る大きな傷跡。ハロウィンの仮装にでも出てきそうだ。絶対言わないけど。

 目が合った。ニヤリと笑う。怖い。

 

「この人はですね、部署は違うんですけど我々の同僚で、今日から短期でここに着任します」

 

 そうなんだ。

 

「多分、気にしているのは、あの、顔のことだと思うんですけど」

 

 うん。

 

「言われてるね」

 

「うるせえ」

 

 悪戯っぽい笑みを隠そうともしない斉藤くんに、怒気を滲ませるでもなく軽い言葉の応酬。斉藤くんと巨漢くんは仲が良さそう。

 

「中身はね、とても普通かつ、まあ……いい人間なので」

 

「おう、俺が補償する」

 

 山吹くんの後ろからずいと大きな影が寄ってきた。やっぱり怖い。

 

「ちょっと黙っててくれ」

 

「はい」

 

 少し厳しめの山吹くんの声に男は肩を落として後ろに下がる。ニヤニヤとした表情を顔に貼り付けていた斉藤くんがついに耐え切れぬとばかりに笑い出した。再びうるせえと呟く男を斉藤くんは肩を持ってゆらす。男も斉藤くんに釣られるように脱力して笑い出した。悪い人ではなさそう。

 

「変わらないな───まあ、ように悪くない人ですよってことです。怖がるなっていうのも酷だと思いますが、容姿で嫌いにはならないであげてください。なんたって我々の業務を手伝うわけですからね、何度も顔を合わせることになるんですよ」

 

 手を動かして山吹くんが男を呼ぶ。気持ち遠めの位置まで近づいてくると、一度咳払いをして、今度は柔らかな表情をする。彼なりの気の使い方なのだろうか、こっちの顔の方が似合っていると思う。元が強面だから。

 

「自己紹介が遅れて申し訳ない。俺は奥寺 進策。内調の対外情報部、いわゆる外事部に所属してる。斉藤と山吹の所属してる内事、ああ、名前が違うのか、機密保護部だったか、それに元々いてな、それで仲がいいんだ」

 

 彼が一呼吸置いて二人の顔を見る。表情を見る限り、仲がいいというのは本当らしい。人の表情をしっかり観察できるようになったのは私の成長だろうか。何を考えているかわかる、とまでの程度の確度を持って言えるのは山吹くんぐらいか、安心沢女史もある程度わかるかな。精度にはまだ自信がない。だから、微妙な陰りを感じとったのは私の勘違いかもしれない。

 

「一仕事終えて待機中だったんだが、人手不足な内事に手伝いに行けって都合のいい仕事押し付けられて飛んできたってわけだ。てことで、よろしくな」

 

 差し出された手を掴んで短い握手をした。ひんやりと冷たい手が優しく私の手を掴んで、スッと離れる。やっぱり悪い人ではなさそうだな。顔が怖いこと以外普通みたい。

 

「奥寺くん……でいいのかな。よろしく」

 

 私がそう口にすると、奥寺くんは笑みの中に安堵の色を讃える。相手がよくわからず不安に思うのはお互いらしい。

 

「さて、とりあえずは平和的にことが進んでよかった。調整もうまくいったようだし」

 

「ありがとうな。山吹には感謝しても仕切れねえ。いいよな上の奴らは、やってほしいことだけ言えばよくて。人手不足が極まりすぎて諸々の調整まで現地の仕事だぜ」

 

「全くだね。機密保護部に対外情報部が一時的でも補助として入るなんて異例も異例。人がいないにも程があるよ」

 

「ぎりぎり仕事が回ってるだけ幸運だろうな。人員の採用レベルを下げるわけにもいかず、原因が内側ではなく外側にある以上、根本的な解決は難しい。上も同じことで悩んでいるだろうさ。ところで───奥寺、昼食は取れているか?」

 

 山吹くんの問いかけに奥寺くんが時計を眺める。そういえば私がここに来てから結構な時間が経っているな。昼食の提案からしばらく経っているから意識しなくても空腹を感じる。

 

「おっと、結構いい時間だな。実はまだとれてねえんだ」

 

「なら、一緒にどうかな。タキオンさん、彼が一緒でもいいですかね」

 

 奥寺くんがどういう人物だったとしてもこういう聴き方したら断りにくいと思うんだがねえ。それをわかってか山吹くんの表情は申し訳なさでいっぱいだ。まあ、悪い人でもなさそうだし、山吹くんの知り合いならなんの問題もないだろう。うん。

 肯定の意を相槌で示した。これで丸く収まる。

 

「食堂のフロアは2つ下だから少し歩くことになるよ。荷物を先に置いた方がいいと思うけど」

 

「ん、いや。荷物は先に送ってる。コイツはね、ちょっと時間をくれ」

 

 奥寺くんが後ろ手にしていた荷物に今気づいた。大きな黒い樹脂製ケース。よく見ると持ち手と奥寺くんの手が手錠で二重に繋がれている。ただの荷物ではないらしい。

 奥寺くんが手招きをして呼んだのは先ほど後ろにいたスーツ姿の職員たち。完全に存在を忘れていた。

 お疲れ様です、照合確認、確かに、短く言葉を交わすと職員がポケットから取り出した鍵を使って手錠を外し、受け取ったケースを携えて足早にホールから立ち去っていった。

 私はというと、彼らの腕章がなにを表す意匠なのかと注視していた。ピンで止められてシワになっていたのが意匠の位置だったので大体の色使いと形ぐらいしか読み取れなかったが───

 

「原子力保安部? 核燃料の管理部がなぜ……おい、一体なんの荷物だったんだ?」

 

 確かそういう名前の部署。同じ疑問を私も持っている。奥寺くんがちらと辺りを見回し、一度深呼吸をした。

 

「聞いて驚け山吹、濃縮プルトニウムだ。それも核兵器級のな」

 

 しん、とあたりが静まる。想定外の答えに三人で職員が消えた方向を勢いよく振り返る。すでに姿は見えない。

 

「札幌ジオフロントに保管されていた特級の呪物だぜ。元より一時保管だったらしく、より機密度の高いこっちに移送することになった、って具合よ。いやぁ防弾車とはいえ移動には肝を冷やしたぜ……」

 

 札幌ジオフロントなるものの存在すら初耳だ。とにかく問題の種になりそうなものがここに持ち込まれたという事実だけはわかった。

 

「なんでそんなものが……諜報セクション内部の我々すら初耳だが……?」

 

「山吹と同じ感想だよ。こっちが情報にアクセスできていない状態は平常じゃない。問題がなければ話してほしいな」

 

「まあそう焦るな。許可がなければそもそも中身について教えてねえ。高度に政治的な問題(・・・・・・・・・)らしくてな。続きは食堂でもいいだろ? なんだかんだ言って長い旅だったから疲れたぜ。腹も減った」

 

 山吹くんが彼の提案を了承し、微妙な雰囲気のまま食堂へ4人で歩き出した。その間上から降ってくる彼らの昔馴染みトークには、平常の私なら興味を示しただろうが、今はそれどころではない。

 問題の種どころか問題の塊だった。よくないことが連続している気がする。少し快方に向かっていた気分がまた陰鬱とするのを感じてしまう。山吹くんにまた遊びに付き合ってもらおうかな。

 ちらりと見上げた彼と目がぱっちり合う、いつもの優しげな笑みが帰ってきた。気恥ずかしくて目を逸らしてしまう。

 いつも通り、少なくとも山吹くんはそのままでいてくれるし、安心沢女史だってそのはず、斉藤くんはよくわからないけど、たぶん大丈夫だろう。奥寺くんはまだ未知数だけど、きっと悪くない人だし。

 まあ、なるようになるか。とりあえず先ほどからうるさい腹の虫を黙らせることにしよう。



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INSPECTION:NATIONALISM

 手早く選んだサンドイッチをプラトレーに乗せ、角の方の長机に場所を取る。ミートソーススパゲッティを選んだらしい奥寺が対面の席に座った。トマトの香りがわずかに香る。そっちの方が良かったかも。少し後悔。

 残りの二人はどうしたかと思えば、まだメニューの前にいる。いつもと同じでいいと譲らないタキオンちゃんを山吹が説得しているらしい。そういえば栄養の取り方が良くないとか言ってたね。あの子はどうにも自分について無頓着でいけない。あいつがいなきゃどうなることだかねえ。

 

「粉末材料から作られてるとは思えねえな。見た目もいいし。調理は全部オートメーションなんだろ?」

 

「流石にある程度の形にした後のものを備蓄しているはずだけどね。別に地下でサバイバルをしているわけでもないから生の食材も一部使ってるし」

 

 フォークで麺をつつく奥寺の呟きを拾いながら自分の皿を眺める。パンに挟まれた野菜と肉、一部の野菜以外全部粉末材料から合成された食材だ。そうは言っても、パサつくこともないし、コンビニエンスストアで買うより下手したら味はいい。これを食材の進化と捉えるか、偽物を食べさせられていると捉えるかは個人の自由ということになる。もちろんこの施設の食堂が保管のきく粉末食材とその調理の実験場であることは否定しないし、これはその産物。

 山吹の粘り強い交渉についに折れた小さき研究者が、今度は何を選ぶのかでメニューと睨めっこしている。何かを指差し、山吹が首を横にふる。それが2回3回と繰り返され「だったらどれならいいんだい!?」という叫びが聞こえてきた。あらかた栄養価的に同じようなものばかり選んだのだろう。メニューを変えてもそれじゃあ意味がない。

 考えるそぶりを見せた山吹が何かを指差すと、すかさず同じものを指を刺した。決まったらしい。山吹の手を引っ張って受け取り口へと歩いていく。相変わらず仲がいい。

 しばらくすれば来るだろうと彼らを盗み見するのをやめ、マグカップに入れたコーヒーを啜る。カップを手元まで下ろしてため息を一つ、顔を上げると強面と目があった。

 

「嫉妬か?」

 

「は?」

 

 あまりに意味不明な問いかけにカップを落としそうになる。跳ねたコーヒーの液滴が手の甲に落ちた。熱い。一体なんなんだよ。

 

「山吹はお嬢につきっきりみたいだからなァ」

 

「そんなんじゃないよ」

 

「どうだか」

 

「うるせえ……」

 

 目の前の不細工の腹立たしい視線をマグカップで遮り、熱い液体を流し込む。味は感じなかった。いい気分とはいえない。咽せそうになるのを気合いで抑える。

 手の甲についたコーヒーをハンカチで拭き取り、ジャケットについたしわを軽く引っ張って伸ばす。いきなり変なことを言い出すと思えば、いったい何だっていうんだ。元からこいつはこういうやつだけれど。一瞬どきりとした自分も自分だ。地下籠りが長過ぎて僕もおかしくなっちゃったかもしれない。

 奥寺の向こう側に受け取り口に佇む二人が見えた。もう来るかな。

 そういえば自分らの顔パスで食堂まで直接来たから一連の手続きをしていない。担当者は自分だったね。タキオンちゃんがいないうちに物騒なものだけ済ませよう。

 

「ねえ、ちょうど時間が空いているみたいだから、危険物のチェックだけしていいかな。僕が担当でね」

 

「お、わかった。つっても俺が持ってるのは先に申請したこいつだけだけどな」

 

 奥寺が慣れた手つきでジャケットの内側に手を伸ばし、彼の掌より少し大きいぐらいの黒い鉄の塊を取り出す。クルクルと指を引っ掛けて回し、こちらにグリップをむけて差し出した。

 自分のホルスターに収まるベレッタや、山吹が信頼をおくグロックとも違う高密度な重み。ずしりと実在をアピールしてくるそれを、もう片方の手も添えてホールドする。

 コルト・キングコブラ、357マグナム、6インチモデル。武器というより骨董品として扱われてもおかしくないようなものだけれど、隅々まで行き届いた手入れが鉄塊を武器として保っている。マグナム弾を使うためにどこも分厚い。ルガーでもトーラスでもS&W(スミスアンドウェッソン)でもなくコルトを選ぶあたり、持ち主の癖の強さが窺える。

 うん、申請通り。しかし、やはりというか、まだ使っているんだね。

 

「ありがとう。申請は僕が通しておく」

 

「おう。───その顔、まだリボルバーなんか使ってるのかって書いてあるぜ」

 

「そりゃあね」

 

「何度も言ってるけどよ。俺はオートを信用してねえの」

 

 鼻息荒く言い切った。現代のオートマチックで“ほぼほぼ”ジャムなんて起こらないことは常識。むしろリボルバーの方が可能性があるぐらい。年代物なら尚更。きっと奥寺も理解している。だけど、僕は言わない。

 奥寺がしたようにグリップをむけて返す。1キロを超える物体を保持していた腕はそれがなくなっても重く感じる。

 

「しかし重いね。こんなのをよく軽々と回せるね」

 

「技研特製だからな。慣れれば悪くないもんだぜ。おすすめはしないけどよ」

 

 奥寺が重みを感じさせない動きで受け取り、ショルダーホルスターにキングコブラが戻ったのを見届ける。そろそろかと山吹を探すと、タキオン嬢と二人でこちらに歩いてきている最中だった。ちょうどいいタイミング。

 同じものを乗せたトレーが机の上に置かれる。美味しそうだな……僕はなんでサンドイッチなんて頼んだんだろう。山吹が奥寺の隣に座り、タキオンちゃんは向かい──ではなく彼の隣だ。本当に随分と懐いたね。こうしてみると小動物のようだな。

 おっと、睨まれてしまった。そんな変な顔をしていたかな。

 

「随分かかったな。で、何頼んだんだ?」

 

「ちょうどいい具合に栄養価が揃っていたので、野菜炒め定食にした。今日のメニューはこれだけ日本語で浮いていたな」

 

「献立AIの気まぐれだねえ。私の摂取する栄養が偏りがちであることについて献立AIの責任を真剣に議論する必要があるよ」

 

「それはどうですかねえ。また安心沢さんに怒られますよ? さ、待たせてしまってすまない。頂こうか」

 

 いつもの作業のような食事とは違う、談笑ありの食事会が始まる。悪くないね。

 奥寺を前に不安そうにして、メニューの前でああでもないこうでもないと唸っていたタキオンちゃんも明るい顔をして箸を構えているのだから意味がないことでもないだろう。

 サンドイッチを一口。微妙だな。何だこれ。挟まれた具材には違和感を感じないんだが……パンが粉っぽい。幾度か口に運んでは後悔し、ついに食べるのをやめた。調理ロボットは優秀なのでおそらくこういうパンなのだろうけど、少なくとも僕の口には合わない。

 パンに対する興味を失い、残りを皿に寝かせたまま自分の食事を終えた。生まれた暇を消費するため、もりもりとパスタを巻いては口に突っ込んでいる奥寺に口を開く。

 

「相変わらず良く食べるね……ところで、待機中だったって話だけど、前の仕事は何してたんだい? ああ、飲み込んでからでいい」

 

 急いで飲み込もうとでもしたのかパスタがつっかえたようで、苦しそうにする彼の前に水をスライドする。呼吸を再開した奥寺が肩で息をしていることに苦笑い。急かすつもりはないんだけれどね。

 

「嬢ちゃんに聞かれても大丈夫か?」

 

「セキリュティ権限は僕たちと一緒だよ。そもそも情報を持ち出すのが難しいし、ここなら構わないさ」

 

「それもそうか」

 

 当の嬢ちゃんは山吹と今後の実験スケジュールか何かについて話していてこちらに一切の興味を向けていないようだけれど。山吹は聞いてはいるらしい、一瞬目があった。

 

「日本で待機を命じられるまではアメリカでの受動的な情報収集活動部隊の一つにいた。主に軍事についての情報を地道にな。終わる間際は軌道エレベーター専門部隊みたいになってたが。実際に日本が介入を決定したときに部隊丸ごと撤収してきたんだ。情報管理のちゃらんぽらんな軍と違ってCIA(ラングレー)は流石ってもんだぜ、結構ギリギリの攻防だった」

 

 わざとらしく肩を抱えてぶるぶると震える。ヒヤヒヤしたとでも言いたいのだろう。ボディーランゲージがやかましい。

 

「そうすると帰国したのは意外と最近なんだな」

 

 食事を終えたらしい山吹がティーカップを片手に会話に参加した。隣のタキオンちゃんも同じものを携えて耳をこちらに向ける。優しい香りは彼女お気に入りの紅茶か。常に持ち歩いているとは恐れ入る。

 

「ああ。国外活動チームはどこもかなり縮小されて国に引っ張り戻されたって話だぜ。情報保全に充てたいんだろう。俺の移動もその一環かもな。カーボンナノチューブの一件もあることだし。結局アレは日之出重工が生産を請け負うんだったか?」

 

「そうだね。僕の記憶が正しければ」

 

「サトノグループの地力には恐れ入る。まァそうは言っても国の関与も分厚く、もはや実質的な第三セクターか」

 

「相当に強引な決定だったようだがな。ことは実行に移っているというのに国会内での根回しすら終わりきっていないらしい。(まつりごと)ぐらい彼らで解決してほしいよ。それが仕事なんだから。我々は何でも屋ではない。いっそのこと最適化されたAIシステムでも導入したらどうだ。技研も内調ももうやってる。いつだってことを複雑にするのは人間の存在そのものなんだ」

 

 思想のストロングな発言が斜め前から飛び出た。技研、内調、政府、当研究所、それぞれ微妙に立場の異なる組織の仲介を半ば無理やりやらされている山吹の愚痴は怨念がこもっていて重い。先ほどまで気づかなかったが、目の下に隈があるじゃないか。ちゃんと寝ているといいのだけれど。

 愚痴なんて珍しいとまでは言わないけれど、山吹はあまり口に出さないタイプ。少し驚いていると彼は突然青ざめ、忘れてくださいと謝りだした。タキオンちゃんの前であることを思い出したらしい。いつも気を遣っているのは知っているが、口を突いて出てしまったんだろう。

 

「お前も苦労が多いな」

 

「ちゃんと休みなよ」

 

 山吹が小さく笑ってティーカップを持ち上げる。再び正対した顔の色は幾分か良くなっていた。こっちが何かいうより先に彼が一言感謝を口にした。

 一呼吸のクッションを置いて今度は何気ない日常会話が始まる。実験の最中に起こった珍事だとか、食堂の美味しかったメニューなど。地下の文化保護室の話に奥寺が飛びついたのが印象的。そういえば奥寺はバイオリンが得意なんだっけ。

 仕事の話を抜きにして引っかかりのない笑いを浮かべられるのはなかなか貴重なことだった。

 

「───ああ、そういえば。タキオンさん。新しい顕微鏡が技研から届いていますよ。研究室に運び込まれたはずです。前々から欲しがっていたものですよね。確認されては?」

 

「それは本当かい!?」

 

 終わりの時間らしい。山吹が空になったティーカップを優しくソーサーに下ろした。

 新しい実験器具に湧き立つタキオンちゃんが椅子を文字通り蹴飛ばして立ち上がる。もはや興味は完全にそちらに移っているらしく、早く見に行きたいという気持ちが身体中から溢れている。あまりの切り替えの速さに流石の奥寺も苦笑い。

 食器の片付けを山吹が申し出て、彼女はさながらロケットのように飛び出していった。流石はウマ娘、驚くべき俊足。しかし去り際に山吹に対して必ず手伝いに来るように、とは。

 彼女の駆け足が聞こえなくなったほどで自動ドアが自分の仕事を思い出したかのように閉まった。圧縮空気の鋭い音が余韻を残して消え、部屋の空気が変わったのを肌で感じ取る。

 

「さて、本題だ。話題に出さなかったということは私と斉藤以外に話せないということでいいんだな」

 

 山吹の問いに奥寺が頷く。山吹が手元のタブレットでいくつか操作をすると、部屋全てのドアから施錠音が響く。ちょっと強引だけれど、確実。

 

「今日ここに運び込んだ核兵器級濃縮プルトニウムだが、お前たちが知らないのも無理はない。政府のセントラルコンピュータどころか、内調のデータストレージにも情報は一切存在していないからな。あるのは物理媒体の紙っぺら数枚。当然持ち出し厳禁だから、口頭で説明する」

 

「CNT関連技術以上の秘匿レベルということか……厄介な匂いしかしないね」

 

「厄介なのは間違いねえ。アレの出どころだが、太平洋上での臨検で発見されたもの、らしい。らしいというのは、数少ない物理媒体文章ですら完全に正確な情報が記述されていない、ってことだ」

 

 正確な情報がどのような媒体でも残されていない。異常というほかない。

 

「おそらく臨検なんて生やさしいものではなかったはずだ。国防海軍の関与は確定的。機関砲で機関の破壊ぐらいはやっただろう。当該日時に記録のある海域に居たミサイル艦2隻と高速フリゲートの行動データが事後変更されている」

 

 国防軍行動情報の改竄。それ自体は特に珍しいことでもないが、開示なしに行われるのは前例のないことだ。事後報告すら来ていない。僕と山吹は今知った。

 最初から深刻な展開に意識を改める。

 

「一体何が起こっていたんだ……こんなことは初めてだぞ」

 

 声音は冷静だが、とても平常ではいられないとばかりの山吹。自分も同じ状態であることをはっきりと自覚する。

 国防軍が関与……クーデター、なわけはないか。ともすれば政府内部、もしくは諜報セクションからの要請。少なくとも政府が何かしらの意思を持って起こした行動か。情報統制がしっかり取れているとなると、動いた部隊はおそらく特殊沿岸守備隊。

 

「俺もだよ、まったく。複雑な状況だとかなんとかで共有制限がかかってるせいで縦横の連携ができねえ。部長に言ってみても上の指示だってんだよ。許可の降りたメンバーと協議しながら推論を交えるしかねえ。後々共有は行われるって話だがなあ。あの禿頭め」

 

 奥寺が自分の上司について頭髪の状態という理不尽を混ぜつつ不満を喚くのを聞き流しつつ、少し情報を整理する。この案件、積荷と同じく最も焦点を当てるべきこと。

 

「僕が今一番知りたいのはその船がどこの組織のものだったか、ということだ。掴めているのかい?」 

 

「それが正しいかどうかは置いておいて、船舶そのものは曳航中に水没。原因は不明。乗員は確認されていない。無人状態だったとの記録だ。水深が深すぎて引き上げは不能。つまるところ公式書類ではわからない、という回答になる。物の見事に識別情報が剥がされていたらしくてな」

 

「そこまであからさまに怪しい船、そう簡単に正体が割れるわけもないか───」

 

 それもそうか、と軽率な期待をしまいこみ、テーブルに前のめりになった体を背もたれに沈める。不審船といえば日本近海だけでもごまんといるわけだが、今回の件は流石に事情が異なる。強く政治的な何モノかが絡んでいるに違いない。いくら治安の悪い世界といえど核物質の追跡は相当に厳しい。網を潜り抜けるには相応の政治力かイリュージョンが必要だ。

 濃縮済みという点から新たに採掘されたものという線は薄い。無くはないが、それを手に入れるには濃縮設備がいる。プルトニウムなら地下に埋め込むのも難しいだろう。同じ理由で核燃料のリサイクルという線も無し。

 ───もとより核兵器として運用する予定だったものをどこからか発見した? いや……プルトニウム爆弾の製造施設なんてそれこそ───

 机を爪で叩く音、一度思考を中断して顔を上げる。音の主は奥寺、話には続きがあるらしい。

 

「まあ待てよ。外事はそこで諦めるほどやわじゃねえ。いくら情報を削ったとて、残っていた情報端末と衛星写真の遡及調査である程度絞り込める。衛星写真をかき集めて追跡調査コンピューターにブチ込んだ。計算キャパの大部分を占領した状態で一週間もかかったが、価値はあった。発見した最も過去の足取りはインド洋」

 

「インド洋? なんでまたそんなところから船が来るんだ」

 

 山吹の意見はもっとも、しかも無人船ときた。だいぶ安定化してきたとはいえ海賊と現地軍の入り乱れる世界屈指の危険海域を一体どうやって掻い潜ったのか。

 

「移動経路についてはまだ不明なところが多いが……正体については尻尾を踏んづけた。これまでのサーベイに部長にゴリ押して入手した情報を交えて推察するに、船舶はフェイセオン・サービシーズが所有していたもの、という結論に至った。結論の妥当性については外事のコンピューターも肯定14、否定2で肯定を議決している。ほぼ間違いねえ。処理の甘いトランスポンダが決め手だったな」

 

 コンピューターがそれほど高い評価をするなら確かに正しいんだろう。結論に疑義はない、しかし聞きなれない言葉、フェイセオン? 一体なんの組織だ。君なら知っているか、と目線で山吹に聞く。彼は私の目に気づくと一度顎に手をやって考えるそぶりを見せ、数瞬してから口を開いた。

 

Faitheon services(フェイセオン・サービシーズ)。私の記憶が正しければ、アメリカのPMC(民間軍事会社)に同じ名前の会社があったはずだ。米軍OBが設立し、海外での治安維持を主な仕事と標榜していた。過剰なレベルで軍備を充実させているらしく、要注意団体としてうちも別のセクションが調査をしていたはず。特段抜くような情報はなかったと、そう聞いていたが……」

 

「そのフェイセオンだ」

 

 PMCの船が出自不明ながらプルトニウムを携えてインド洋から日本近海まで。意図が掴めない。少し痛むこめかみを抑えて唸ってみるが、そう簡単に光明が見えるなら苦労はしていない。

 

「PMCが核武装でも企てたって言うのかい?」

 

「確かに企業が核を保有する前例は隣国にある。企業という看板を掲げた軍閥ではあるが。しかし政治の崩壊した大陸と違って会社があるのはアメリカ。腐っても大国だ。単純に同じことができるとは考えにくい。そもそも軍の権力の大きい米帝で軍の立場が下がるような行動が許されるはずがないしな」

 

 それもそうだと自分でもあり得ないと思いつつ取り出した話題を中断する。

 では一体なんのためのプルトニウムなんだ。グレーゾーンとはいえ、プルトニウムを発電に使うというならまだ理解できそうなものだが、それなら核兵器級まで濃縮する必要がない。なんにせよ不可解。

 

「確度の高い推論を言えるのはここまで。残りの多くは現時点で全部わからねえ」

 

 まだ全てを明らかにできるステージにはいないらしい。引っかかりはするが、続報を待つしかない。

 

「が……一つ、辻褄の合いそうな話がある」

 

 そう思っていたが、まだ明かせることはあるかもしれない。苦々しげな奥寺の顔を見る限り『辻褄の合いそうな話』はとてもいいシナリオではないだろうことは明白ではあったけれど。

 

「完全な推論、というかシュミレートであるという前置きを理解してほしいんだが……その話っていうのは外事のコンピューターに出させたいくつかの予測の中にあった。多くはPMCの核武装だの、米国内での核爆弾テロだの、コンピューターらしいちょっとズレたシナリオだったが……ひとつだけ笑えないモノが入っていてな」

 

 笑えない、そう明言された確定的に悪い話。緊張が走り、硬い表情のまま山吹と顔を見合わせる。

 とりあえず見てくれと折り畳みタブレットが全員に見えるように立てかけられる。奥寺のチームの独立調査だから持ち出しができているようだ。他言無用で頼む、とのことなのでちょっと許可関係がグレー。

 指紋、静脈、声紋、個人端末。分厚いセキュリティをロックが外され、文書が開かれた。文書の取り扱いに関する注意事項が長々と並べられ、過剰なほどに重い違反罰則がその後に列挙される。内調のロゴを挟んで本文が現れた。人間的ではあるが不自然さの残る特徴的な自然言語。AIの書く文章だ。

 奥寺が指をさす箇所に目を向ける。

 

『サーベイデータからの調査から得られ結果よりシュミレートを行った結果、我は強い懸念を示す』

 

『懸念はFaitheon Servicesの行動に関し』

 

『米軍、およびCIAの関与を強く疑うものである』

 

 背に冷たいものを感じた。何か不協和音を聞き、これからもっとひどい演奏が始まるのではないかという、そんな不安。

 

「……確かに笑えないね。しかし根拠は」

 

「自律戦略AIが優秀なのは間違いないが、鵜呑みにはできない」

 

 確かにありえるかもしれない。しかし、納得できる根拠がなければ信じられない。推論にも材料がいる。材料を見せてくれないと信じられないし、できれば信じたくないというのが本音だった。表情からして山吹も同じように考えているだろう。

 しかし、そうであってほしくない、と考えてしまうのは、その可能性について納得してしまう要素が自分の中にあるということでもあった。だから、神妙な面持ちで頷く奥寺を見るに、続きを聞くにはある種の覚悟が必要だった。

 

「手繰れる最古の情報で船舶はインド洋に存在していたことが確認されている。その数日前、中東で米軍がミッションを行なっていた」

 

「中東、米軍……その日時、確か紛争状況調査隊の帰還ミッションがあった日か」

 

「ああ、当の部隊はすでに本国に帰還している。彼らのミッション内容は、無政府状態となって不透明な内地状況の詳細な調査、および軍事的活動の観察」

 

「それで……例の船とどういう関係が」

 

 調査隊は別に後ろ暗いところがあるわけでもない、自己防御のための最低限武装しか持たず、活動内容も公開していたりと米軍内では珍しい開けた組織だったはず。そもそもの活動について米国政府の思惑はいずれにせいよ絡んでいるかもしれないが、今回の件とどうやってつながっているのかがまだピンとこない。

 より詳しい説明を求めると、奥寺はタブレットで別の文書を開き、それを再び僕らの前に滑らせる。

 

「ここ数回分の調査隊の行動データと部隊人員の内訳だ。米軍の公式発表じゃねえ、外事と国防省情報部のSIGINT (シギント)を元に作ってある」

 

 表の形にまとめられた数字と英字をざっと眺めると、すぐに違和感のある文字列が目に留まる。

 

CBIRF(化学生物事態対処部隊)? 海兵隊の特殊防護隊がどうして調査隊に。公式発表は」

 

「ない。一切。どこにも」

 

 それと、もう一つ。奥寺が表をスクロールして別の部分を指差す。作戦行動予定、および実際の行動の一覧。人の動きすらとらえる高分解能な光学監視衛星の写真が何十枚も添付されている。

 

「最新の調査隊の動きが予定と全く違う……?」

 

「ああ。正確には調査隊が二つに分かれていて、予定通りの行動をしている部隊と、別の作戦中の部隊がいるようだ」

 

 写真に一通り目を通し、表の他の記述を読む。他におかしなところはないか。文字と写真で埋め尽くされた資料を斜め読みする。

 山吹が画面に手を伸ばし、資料の一端を拡大した。調査場所についての記録。

 

「調査隊は広い範囲を平均的に調べるために毎回違う地域を調査するはずだが、別れた部隊のうち一つが同じ場所に連続で向かっているな。二つの部隊のうち、どっちだ」

 

「そっちは正規じゃねえ。そしてCBIRFは正規じゃねえ方にいる」

 

 前回の調査地域にと特殊防護隊がわざわざ秘密任務で出向く。こう色々証拠があると、何があったのかの輪郭はかなりはっきりしてくる。

 

「つまり……調査隊は前回の調査で何か(・・)を発見し、それを今回の調査の裏で秘密裏に回収した……?」

 

「おそらく。この資料にまとめられているものは今回の不審船がらみで衛星写真を穴が開くほど精密に調査した結果、たまたま見つかった案件だったんだ。秘匿度は相当に高い、普通なら見逃したに違いねえ」

 

 この資料から導かれる米軍と不審船との間の疑義。

 

「仮にこいつらが持ち帰ってきたのがアトミック的なものだったとしてもよ。米軍の船には高感度の放射線計がついてるから乗せられねえ」

 

 米軍の艦艇、車両には放射線計が標準装備されている。正規の任務部隊と混在していて、かつ秘匿度が高いのであれば、任務を知らない兵士も同乗しているはず。おそらく放射線計に細工をするのは難しい。なら、どうする。

 

「だったら別の船に乗せればいいよな。万が一に備えて、米軍と関係のない船にしておこうってな。その条件に合致した小型船がインド洋に見つかってんのは面白え話だ」

 

「流石にそれで関与を言い切るのはどうだ」

 

 山吹は慎重だ。確かにピースは揃っているように見えるけど、たまたま同じ形をしているだけかもしれない。それが事実と語るには状況証拠が少ないとも言える。そもそも仮定の条件が多い。

 

「だいぶできたシナリオだぜ。そもそもあの海域を護衛なしで抜け切るのは不可能だしよ。それに、もう一つ“偶然”とやらはあるぜ」

 

 再びタブレット。今度は上から見下ろした海の写真。ただ青が広がっているようにしか見えないが、不自然な波打で何かの輪郭が浮かび上がっている。

 

「光学迷彩でカモフラージュしているが……特徴的な太い船体、こいつはシーベア級原子力潜水艦で間違いねえ。おそらく第7艦隊のシアトル。重整備で本国に帰還任務中のはずの船だ。それが不審船を発見した場所で浮上している。不思議な偶然だよな」

 

 偶然であってくれたほうがいいんだが、そう付け足す奥寺。

 光学迷彩は多くの電力を使う。原子力動力艦とはいえ何もない海域で意味もなく使うようなものじゃない。ということはつまり、何かの目的があってそこに浮上していたということになる。不審船が発見された海域に、なんらかの目的があって米国の原潜が浮上する。しかもその不審船の持ち物は核物質。

 いや、しかし……そも核弾頭をそれこそ天文学的数保有している米帝がなぜ今さらそんなものを回収するんだ。

 

「もし全てが予想通りだったとしても、なぜ米国がそれを回収したかったのかは考えつかねえ。レポートとして上に提出したのもここまでなんだ」

 

 そう締めくくって奥寺は大きなため息を吐く。内容からして疲れるのは当然と言えた。

 彼は内ポケットから煙草を取り出し、山吹の方に許可を求める。考える姿勢のまま表情を動かさない山吹は頷いてそれに応えた。ZIPPOライターの澄んだ音が響き、フリントの擦過音を響かせて前と変わらない銘柄に火をつける。

 カッコつけてただけなのに疲れるとほしくなっちまうんだよな。ため息と苦笑まじりの言には苦労が滲んでいる。ちゃんと休めは全員に言えることなんだろうねえ。

 しかし目的については不明、か。煮え切らないね。全てのシナリオが予想通りとして、確かにここまでの秘匿レベル、CIAの関与は疑いようもない。

 

「ちょっといいか」

 

 黙りこくっていた山吹が口を開く。自分の中で何か結論を得たらしい。

 

「PMCの名前が、名義貸しのみでない場合については考えられないか?」

 

「名義貸しのみでない?」

 

「PMCが一連の計画そのものに参加している可能性だ」

 

 計画に参加。つまり、核武装とでもいうのだろうか。話が戻ってきた。いや、米軍とCIAの方針としてなら可能性がありうる。PMCの皮を被った何かしらの実行部隊。

 

「米軍……いや、おそらくCIAの指揮下に置かれ、かつ責任がそれらに向かない実行部隊としてのPMC。限りなく真に近い偽旗。PMCの一般構成員は真実を知る必要はなく、行動を起こした際には一企業として潰せばいい。大国アメリカ内部の話だ、自立した国ならまだしも、経済も軍事も握られているような国なら一企業のやったことだと開き直られては何も言えまい。そのためのストーリー制作の一環だった可能性」

 

 悪夢のような話だ。米国ではそこまでPMCが自由に行動できる下地が整えられていたかな。

 ……いや、ある。

 

「PMC法案……」

 

「ああ」

 

 法案可決の過程には多くの不祥事があったとされている、最近可決された悪法。業務成績に応じて国内権限の拡張、さらにはPMCに軍事業務を委託できるようにした。 

 

「審議中に不正な金の流れについて告発したペンタゴンの職員が交通事故死したんだったよな……そうか、PMC……なるほど確かに、つまり──」

 

 奥寺が指に挟んだままのタバコから灰が一片落ちる。

 

「そうだ。アメリカ政府は無責任な戦力、もっと言えば責任の不在な核戦力を作ろうとしていたのかもしれない。理由についてはいろいろ考えられる。世界情勢の安定化による石油資源の増産で下落が止まらないシェールガス。同じ理由で落ちるドルの価値。CBDC(中央銀行デジタル通貨)を推進したいタカ派にとって世界は不安定なほうがいい」

 

 まさか、何かの間違い、いや、否定の言葉を喉元まで持ち上げ、否定の材料がないことに気づいてそれが霧散した。

 

「これが全てその通りなのだとしたら、こっちの行動に米国も黙っているはずがない。何かアクションを起こすはず。そう思って少し前の内閣の情報を思い出していたんだが……ちょうど不審船発見日時あたりでまとまった話がある」

 

 日時と会議。上からの伝達。記憶を辿る。一つ、浮かび上がるものがあった。

 

「まさか、CNTか!?」

 

「あくまで推論であるが……軌道エレベーター計画への介入について決めるだけなら会談が多すぎるし、何より私の権限ですらアクセスできない非公開議事録の異様なまでの多さに引っかかっていた」

 

「すでに上は情報を根元まで抑えていたってのか」

 

「全て抑えた上でCNTを使って“交渉”した可能性はありうる。海底資源採掘が軌道に乗り始めたこの国は世界の安定化を望んでいるからな」

 

 すでに煙草を吸うことを完全に忘れたらしい奥寺がチリチリと短くなっていくタバコに一切目を向けず目を閉じて唸る。

 

「じゃあ、なぜその情報を下に伝達しないんだ……?」

 

 山吹が大きく息を吸い、吐き出した。彼は苛立つように机を爪で叩き、天を仰いだ。

 

「そんなもの、理由は一つに決まっている」

 

 触られていなかったタブレットが自動でセキリュティロックを掛け直し、電源が落ちる。

 落ち着かない気分をなんとかしようと口をつけたコーヒーは冷めきり、とても不味かった。

 

「彼らにとって、下に信用できない要素があるんだよ」



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文書LOG-20■■-00A-237(内閣情報調査室データストレージ-アーカイブ-A22ラック)

【文書LOG-20■■-00A-237(内閣情報調査室データストレージ-アーカイブ-A22ラック)】

 

【企業調査記録(簡易)No.237-Faitheon_Services】

 

【注意:本文書は セントラルコンピューター の判断によりロックされています。編集には セントラルコンピューター の許可が必要です。ロック理由は 開示不可 です。】

 

 

20■■年■■月■■日から20■■年■■月■■日までの■■■日間にわたるFaitheon Services社(以下SF社)についての受動的情報調査において、特記すべき事項、または継続的な調査を要する項を以下に記す。

 

i. 注意事項

 本報告書は第一級国家機密に指定され、この文書の存在も機密対象である。取り扱い、記載情報の伝達について厳重な管理を求める。

 特に許可のないものの閲覧、物理媒体への出力、複製・複写等を厳重に禁ずる。違反者は対処担当者によって即座に特定され、処分される。

 また提出3日後に本文書は自動でアーカイブされ、数値等重要箇所はマスキングされる。マスキングを除去した状態での文書閲覧は、レベル3文書閲覧規則に基づき、内閣総理大臣、情報大臣、内閣情報調査室長いずれかの許可が必要である。詳細については規則を確認せよ。

 

ii. 報告

 SF社は民間企業としてアメリカにて登録され、軍事サービスをその商品として活動する企業である。創業者は米軍OBの■■■■■■氏。他にも国防省OBなど、元公的機関メンバーが多数存在。

 軍備についての詳細な量的数値はサーベイデータ(237-01)を参照されたい。一般的なシークレットサービス等と比較すると、その活動規模からして明らかに軍備が過剰である。特記するべきこととして、装甲車等をはじめ、歩兵戦闘車、自走迫撃砲、小型戦闘艦、対戦車攻撃ヘリなどを保有する。昨今の大きくなりつつある民間軍事市場を前提とし、要人警護や対テロ戦闘を考慮しても武装のレベルは過剰と言わざるを得ない。

 またGeneral Industry社(以下G.I.社)の武器テスターとして活動していることが判明。G.I.社の米政府に対する影響力を考慮し、SF社の政治的影響力についての再評価のため追加調査を要請する。

 そのほかの点について、多くの未確定情報が報告された。確度による分類を行った資料(237-02)を参照せよ。

 また、未確定情報のうち、おそらく確定的だが証拠が不在であるものとして、米軍中東ミッションへの関与が疑わしい。現地協力者が交通事故(インシデント-023 別紙参照)で死亡したため、調査が中断されている。早急な追加調査を求める。

 

iii. その他資料

 FS社ロゴ

 

【挿絵表示】

 

 

iv. 補遺

  また、調査において、これも疑惑の域であるが、妨害工作を受けた可能性。組織内部の情報機密性について調査の必要性あり。

 (以下 セントラルコンピューター の判断で表示不可)

 

20■■-■■-■■/■■:■■  内閣情報調査室■■■■部■■■■係 ■■情報官

 

 

【注意:編集不可 要請:セントラルコンピューター  理由:開示不可】

 

【LOG-END】



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Report.10:ReForm;

「主任、ブランケット付近の不安定生とドリフト波による連続フュージョンの破壊について───」

 

「タキオン研究員。前の議論だが、学会に持ち込んでみた。この方向性は間違っていなさそうだ──」

 

「解近傍のカオス性の解明にそんなアプローチが! 思いつかなかったァ! また来ます!」

 

 今日も午前だけで3人が私の研究室に来た。それぞれ、見るだけでもなく、私に丸投げするでもなく、話し合って解決策を見つけ、自分の研究室に帰っていく。

 新しい環境に対する不安のほとんどは杞憂だった。技研の研究員は多くが変人というのは偏見でもなんでもなく、客観的事実であることはもはや明らかだが、やはりみんな科学者であるわけで、自分の分野の話をすると止まらない。彼らにとって自分の研究が進んだり、知的欲求が満たされれることは、目の前の年齢差に嫉妬や困惑することよりはるかに優先順位が高いらしく、一言二言交わした後に私と彼らの間に壁というものは存在し得なかった。元からここにいた人間とは比べるまでもない。

 自分が科学者であることに久々に感謝をした。でなければこれを楽しいと感じることはできなかっただろう。

 

「楽しそうですね」

 

 元々少し歪んでいた口元がさらに大きく弧を描くのを自覚する。振り返る前に、できるかぎり普通の顔を装った。器具の駆動音で満たされた研究室でも振り返らずとも声、足音でもうわかるかもしれない。自分の耳の良さを遺憾なく発揮できる。

 

「愉快だよ。思いついたことを直接ぶつけても理解と議論が帰ってくるというのはね」

 

 山吹くんが優しげな笑みをいっそう深めて、両手で持っていたティーカップを差し出す。私はソーサーを両手で掴むようにして受け取った。

 研究員の一人と入れ替わりで入ってきた足音には気づいたが、自分が大好きなはずの紅茶の匂いに気づけないほど集中していたことに我ながら驚く。

 

「彼らはせっかちなもので、私から色々言う前に交流が始まって心配しましたが……杞憂でしたね」

 

「心配感謝するよ。でも私だっていつまでも対人恐怖症まがいのことをやってるわけじゃないさ。成長もするよ」

 

 一呼吸おいて、紅茶を一口。私の好みの分量で砂糖があらかじめ入っている。

 

「……君のおかげかなぁ?」

 

 小声で呟くが、彼にはバッチリ聞こえているらしく、小さく肩を震わせている。馬鹿にされているわけではないことぐらいわかる。

 ゆっくり、昼も過ぎてなんとなく意識が弛む時間帯。仕事が忙しいらしく、人員補充の日以来研究室にずっといることは不可能になってしまった彼だが、だいたいこの時間あたりに必ず来る。毎日。

 この時間は私にとってきっと大事な時間。技研の人たちも悪い人じゃないけれども、やっぱり元から接してきてくれた人にはかなわないね。

 

「おいしいよ。いつもありがとう」

 

「手伝いはできますが、あなたの研究を理解することは私にはできませんので。これぐらいのことはやりますよ」

 

 それに私は助けられている。正直実験を手伝ってくれるより、こういう時間を作ってくれていることに感謝している。恥ずかしいから言わないけど。

 心を許せると思った相手なら、たとえ無言のみであっても時間の共有は心地がいいものなのだ、なんてそれっぽいことを考えてみたり。朝から作業のしっぱなしで血の巡りが悪くなった手先をカップに当てて温める。そこから感じる温もりには熱力学的指標としての温度の他に、彼の人情の温かみも含まれている──そんな気がする。

 非科学的だね。私はいつからかロマンチストになってしまったようだ。

 着地点の見つからない考えを巡らせることは嫌いではない、しかし、それは一人の時間でもできることだった。

 みじろぎ。最近の酷使でネジがわずかに緩んだらしい椅子が小さく音を立てる。カップを口に当ててちらりと彼の様子を伺った。いつもなら紅茶を用意して、しばらく経つと自分の仕事があるからと立ち去ってしまうのだが……彼は研究室に置きっぱなしにしてある自分のラップトップを開いた。もう少しゆっくりしていってくれるらしい。

 

「……いいのかい?」

 

「うん? ああ、今日はいいんです。もとより最近走り回っていたのも新しい職員にIDカードを配って回ってたのが理由ですしね。先ほど終わりました」

 

「君も大変だねえ」

 

「仕事ですから」

 

 そういって彼はラップトップと向き合う。たくさん積み重なった小さな仕事をコツコツと終わらせるのだろう。彼が仕事以外のことをしている場面といえば、食事と私の休憩に付き合ってくれている時ぐらいしか見ていない。流石に人間なのだから、私がみていないところで休憩したり睡眠したりするのは当たり前だと思うけれど、私からみて、彼は相当勤勉な方だと思う。それでもこうやって仕事が常にあるというのはこなすべきタスクが絶対的に多いのだろう。

 私は自らやりたい事として研究の分野を増やすので、自分の意思によって主にタスクが増えるが……彼、そして斉藤くんたちの仕事量は傍目から見ても人手不足感が否めない。国の情報機関がこんな調子で大丈夫なのだろうか。

 いつからかできていたこの研究室の彼専用スペースにも少量の書類とラップトップパソコンが2台。最初はただ彼がよく座っているというだけの場所だったのに、彼の仕事が物理的な容積を伴って私の部屋を侵食し始めている。

 私としては大事なものをここに置くというのは、私に対する彼の信頼の指標のような気持ちがして、悪くはなかったり……するかもしれない。もとよりこの部屋は広くて寂しいからね。

 

 キーボードを叩き始めた彼を横目に、私も作業を再開することにした。

 増員があってから職員の利便性向上だとかで、完全スタンドアローンだったこの研究所は技研のサーバーや政府のセントラルコンピューターと接続することになったらしい。もちろん技研の最新鋭の量子暗号装置を間に挟むそう。配布された資料からその自信の程を伺うことができるが、やはりリスクではあると思う。技研開発部の実力を疑っているわけではない。

 まあしかし、利便性については私もそれを享受している。リアルタイムで実験データの送受信ができるのは大変便利だ。

 今日も融合理論におけるプラズマパフォーマンスの実験を行い、その資料を受けとった。全てがタイムラグなしでやり取りされることのなんと素晴らしいことか。

 公開資料も好きに触れるので、より多くの知識にアクセスできる。資料が並ぶフォルダをスクロールして見るのが最近の日課であったりする。次世代船舶推進システム、宇宙空間の清掃について、先進量子コンピューティング理論。ずらずらと用語が並ぶ。

 ん、音波と心理……音……最近あの部屋に行ってないな。

 一度そう考えてしまうと、もう欲求を抑えられないのが自分の性。彼が忙しくても私のお願いならば聞いてくれるだろうという大きな甘えを多分に含んでいることは自覚している。

 

「山吹くん」

 

 私が言い終わるより早く、部屋のドアが開く。誰がきたとしてもこのタイミングは私にとっては明確に邪魔者だった。しかし訪問者は邪魔をしようとここにきたわけでもないだろうし、負の感情をぶつけてもそれこそ理不尽。寄りかけた眉を意識して元に戻す。

 

「よぉ。元気してるか」

 

 眉が寄った。

 

「うわ、そんな顔するこたァねえだろ」

 

 そんな顔と聞いて山吹くんがこちらを振り向こうとしている! 急いで普通の表情に戻した。きっと酷い顔をしているので彼には見せたくない。

 普通の顔を作ることに成功し、それをみた山吹くんが一体どうしたと言わんばかりに奥寺くんを見つめる。

 私と山吹くんの二つの視線を受けた奥寺くんは何か言おうとしたのか口を幾度かぱくぱく動かし、この世の理不尽全てを受けたような顔をして大きなため息を吐いた。

 

「吸ってねえって!」

 

 少し匂ってみる。ふむ……確かにあの嫌な匂いはしない。

 山吹くんが突然自分の匂いを確認しだした。もはやある種トラウマになってしまったらしい。奥寺くんが来た日、話が長引いたと言いながらいつものようにここに入ってきた彼だが、どうにも耐え難い匂いをしていて、どう伝えればいいのかわからず「臭い」とストレートに言った時の彼の顔といったら……思い出すのはやめる。絶望というものを体現したような表情だった。

 流石に申し訳ないと思っている。そもそもそこの奥寺くんのタバコとやらが原因らしいし。

 

「誓って吸ってねえ」

 

 近づかないでくれとまで言ってしまった奥寺くんだが、タバコを吸っていないと言うのは本当らしい。少し表情を緩める。

 全く、音と臭気にはいやでも敏感なんだから困るよ。

 

「……あの匂いがしないならいいんだ。ところで用事……だよね?」

 

「ああ、山吹にな。この時間ならここにいるって斉藤が」

 

 相変わらず斉藤くんと山吹くんのペアはお互いのスケジュール把握が完璧。彼らにとってそれも仕事のうちらしい。二人が仕事でタッグになってから長いとはいうが、二人とも若いし、必要がそうさせた、ということなのだろうか。

 国の非公開組織というだけあってこれだけ近くにいても彼らの業務についてはわからないことだらけ。奥寺くんも含め、3人のスーツ組は独特な雰囲気を持っている。

 

「明日東京だよな。ついでにうちの資料も持ってってくれないか」

 

 ん? 東京……? 東京って言った。ものすごく悪い予感がする。

 

「ん、わかった。7時には出る。それまでにまとめておけるか」

 

「え─────!?」

 

 奥寺くんの次の声を遮って叫ぶ。半ば無意識。声を遮ってしまった人物が驚きのあまり倒れるのを見たが、もはや意識の外だ。そんなことより非常に大事、憂慮すべき問題がある。

 

「聞いてないよ山吹くん!?」

 

 同じく驚きを顔に浮かべた山吹くんにさらに捲し立てる。聞いてないぞ! しばらくないって話だったし、する時は教えるって言ったじゃないか!

 

「言ってませんでした……長期ではないですから」

 

「君がいなかったら誰が紅茶を淹れてくれるんだい!?」

 

「斉藤でも──」

 

「いーやーだー!!」

 

 「斉藤……」と小さくつぶやく声が人が倒れた方向からする。斉藤くんには悪いがこれは譲れない。

 困り顔を極限まで煮詰めて、どんどん青くなっていく山吹くん。紅茶とこの時間がなくなっては困るよ。私が重きを置いているのは紅茶の方ではないんだ。

 

「夜には帰ります……!どうしても私が出ないといけないんです……埋め合わせでなんでもするので……言い忘れたことについては許してください……」

 

「や! …………なんでも……?」

 

 再び拒絶の声を上げようとして、はたと気づく。1日我慢すれば何を要求してもいいと……? これはひょっとしなくてもかなりいい取引の可能性がある。

 少し頭を冷やすと、ふつふつと要求が頭に浮かんできた。なんでも……なんでもだって?

 

「ピアノ……」

 

「わかりました」

 

「実験の手伝いもいいかな……?」

 

「ええ」

 

「何個でも?」

 

「……いいでしょう」

 

 頭の中の天秤が音を立てて一方に傾いた。彼の罪悪感を利用しているような気もするが……得た権力は行使せねば損だろう。

 

「──わかった。ただし要求はたくさん(・・・・)させてもらうよ」

 

「はい……」

 

 交渉成立だ。素晴らしい。そうだなあ、ピアノと手伝いは当然として、脳波実験の被験体にもなってもらおうかな。お昼ご飯をもう一度もいいし、そうだな……もう一度尻尾の手入れをしてもらうのもいい。まだ間隔的には気が早いかな?

 いつの間にか起き上がっていた奥寺くんが同情の目を向けつつ山吹くんの肩を叩いている。

 なんだい、私は何も悪いことはしていないよ。出張という重要事項を私に伝達しなかった山吹くんが悪いんだ。

 

「あ! そうだ! 早速要求をしてもいいかな?」

 

「……なんでしょう」

 

 恐る恐るといった具合。悪どいことをしている訳ではないと思うんだけどなあ。

 技研の表の顔の一つである大日本生化学のロゴが印字されたプラコンテナの一つを開けて、透明な試験管を一つ取り出す。滅菌済と書いてあるシートを剥がし、ロット番号が書いてある金属シールを剥がして蓋を開けた。無色の液体が波打ち、小さな波紋をつくる。粘度は水と同程度。匂いはしない。

 山吹くんと奥寺くんの顔色がだんだん悪くなっていく。やろうとしていることは予想通りだけど、別に毒とかではないよ。

 

「さあ、飲みたまえ」

 

 二人は一層青くなって試験管を見つめる。

 

「……大丈夫ですよね」

 

「フフ、害については大丈夫、毒ではないよ。粘膜吸収型の超即効反応薬さ。少し前から研究していたんだが、やっと形になったから技研に制作を依頼したんだ。安全性は私と技研で両方トリプルチェック済み。証拠はこの資料だ。理論上は無限のパターンを組むことができて、癌治療薬、抗生剤、栄養剤などはもちろん、細胞の色を変えたり、発光させたりだってできる。私は技研の技術は信頼しているからね、成功は約束されているんだ。さあ、飲みたまえよ。効能はわかりやすいものを選択してある。すぐに出るはずさ」

 

 山吹くんの手に試験管を押し付ける。彼は躊躇していたが、私が目をじっと覗き込むと、諦めがついたたのか液体を口に流し込んだ。しっかり全部飲み干したことを確認する。思い切りが良くて大変よろしい。

 

「うわ、おい、大丈夫か」

 

「……無味無臭。今のところはなんとも」

 

 空になった試験管を受け取る。飲み込んでから、5秒、10秒、15秒、そろそろか。びくびくしている山吹くんにジャケットを脱ぐように言う。

 彼がジャケットを脱ぎ去ると、腕が白いシャツの下で黄緑色にぼんやりと発光しているのが見えた。予想される結果が実証された。実験は成功だ。技研チェック済みなんだから成功は事実として約束されているのだが、自分の研究が目の前で形になっているというのは大変素晴らしい。

 

「うわ……光ってんな。どうなってんだ」

 

「すごい」

 

「腕の皮膚に反応するようにプログラムされた分子マシンだよ。少し散らばってはいるが……初期ロットとしては十分すぎる結果だろう。助かったよ山吹くん。いや、被験体1号とでも呼ぼうかな」

 

「被験体って……なぁ、おい、助手だったはずが、いつの間にかモルモットにされちまったな」

 

「モ、モルモット……?」

 

「クク、モルモットか……! モルモットくん……フフ」

 

 なかなか悪くないあだ名だ。可愛いじゃないか。奥寺くんのセンスも悪くない。

 それはないだろうと抗議する山吹くんを横目に、この調子ならなんでもやってくれそうだと悪い笑みを心の中で浮かべる。元々自分の体で試すために技研から送ってもらっていたが、山吹くんが協力してくれるとは。

 

「輝きが衰えない……いつまで続くんだ?」

 

「効能二日って書いてあるぜ」

 

「明日出張なんだけど……?」

 

 明日、明日さえ耐えれば楽しくなる。やりたいことを思い浮かべれば自然と笑顔になれる。山吹くんにそのまま笑いかければ、彼も微妙な笑みを湛えた。ハッピーエンドだ。

 1日ぐらい耐えてみせるさ。紅茶だって自分で───あれ?

 

 

 どう淹れれば自分好みになるんだったかな……



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Report.11:ReAffirm;

 いつも通りの朝を迎え、時計が示す通りの時間を信用して今日という1日をスタートする。起床から身支度まで、いつもと変わらず。しかし、一点のみ、研究室に向かうにあたって新たなルーティーンが生まれた。

 空調によって年中温度が変わらず、季節感も何も感じることのできない白い廊下を進むこと数分。自室から研究室に向かうには明らかに遠回り。私にはやりたいことがあるのだ。

 ドアが並ぶ廊下を歩き、その一つの前に立ち止まる。白衣のポケットからキーホルダー付きのカードキーを取り出し、少し躊躇した後、スキャナにかざした。軽快な音と共にドアがスライドする。

 

「おはよう! 山吹くん! 今日も迎えに来たよ!」

 

 調光LEDが暗めに照らす室内に向かって声を上げる。初めて尋ねたときに比べて幾分か綺麗になった部屋、その奥で動く気配。

 

「今日も早いですね。約束の時間の17分前じゃないですか」

 

 時間が早いと文句を言いつつ山吹くんが黒いラップトップとバインダーを脇に抱えて現れた。時間通りにしてほしいと言う割にはスーツの着こなしはいつもと変わらず、ネクタイピンも一切歪み無くいつもの位置で輝いている。どこにも慌てた後はなかった。

 

「なんだい? 君も準備はできているんだからいいじゃないか」

 

「あなたが早く来るから私も早く準備しているんですよ」

 

 時計に手を触れながら文句を言っている彼の手を掴んで部屋から引っ張り出す。今日も実験スケジュールは忙しいんだ。私が歩き出せば、彼もついてくる。彼の小言は形式的なものだった。

 私のせいで早く準備しているというが、私が初めて時間より早く行った時もすでにバッチリ準備できていたけれどねえ。準備できていない瞬間を知らないというか、いつ寝ているのかも私が観察する限り定かではないあたり、彼の性格なのだろう。今度強力な睡眠薬でも開発して投与してやろうかなんて考えたり。技研は開発に二つ返事で協力してくれるだろう。特権だね。安心沢女史の目を掻い潜る必要はあるけれど。

 睡眠薬のくだりで不穏な気配を感じ取ったのか山吹くんに少し距離を取られてしまった。口には出していないと思うが……

 そうだ! 耳!! 勢いよく耳を抑える。抑えたところで全部遅いのだが、毎度やってしまうあたり、私も進歩しない。

 彼の吐息。笑った。絶対笑ったね。

 

「山吹くん、そうジロジロ見るのはねえ、良くないと思うねえ」

 

「すみません。よからぬことを考えている気配がしたもので」

 

 振り返ってみた山吹くんの表情は至極真面目なものだった。だが、私は見逃していない。振り返った瞬間見た彼の口角の傾きを。

 軽くあしらわれているような気がする。釈然としない。何がと言語化することはできないが、悔しさを感じる。

 仕返しにハードな実験に付き合わせることを頭の中で決定した。覚悟したまえ。

 

◇◇◇

 

「悪かったよ」

 

「いえ……大丈夫で、ウッ」

 

 研究室とは別室の広い部屋、ドイツ製の脳活動測定装置の寝台の上で苦しげに呻いているのが彼だ。頭を押さえている。測定感度向上用に投与したマーカーが悪さをしているらしい。健康上の問題はないが、出力を上げすぎた。

 流石に私が悪い。謝るぐらいならやらなきゃいいのだけれども。

 

「……そろそろ大丈夫そうです。良いデータは取れましたか」

 

「それはもう、十分に」

 

「それはよかった」

 

 もとより技研からデータは送られているので私の興味8割で実験しているようなものだ。自由度の高い実験がしたかったのもあるけれど、自分の知識欲に従ったのみである。何に応用するかも今から考える。記憶系に作用する薬品なんてどうだろうか。前に発見した生体化学反応を使えば現実的かもしれない。結果の使用用途なんていくらでも生み出せるさ。

 頭を抑えながら起き上がった山吹くんが情報端末を見ている。実験の開始から終了まで4時間ほどかかった。彼はその間ずっと意識がなかったわけだ。

 何か重要な事項があったようで、彼の顔つきが変化した。ケースに入れていたラップトップを開いて膝の上で作業を始めたので、話しかけられる雰囲気ではないよう。私も私の作業を行おうと私用のラップトップを開いてネットワークに繋ぐ。

 得られたデータを解析に回そうとして、エラー表示。電算機が使えない。おかしい。この研究所のコンピュータだけでなく、他のネットワークの電算機も使えない。処理能力不足のエラー表示が全てに出ている。私のコンピューターの能力ではこの情報を処理することはできないんだぞ。これでは困る。

 

「電算機が使えないんだが……何かあったのかな。わかるかい?」

 

「今見てますが……ちょっと面倒なことが起きているようですね」

 

 山吹くんが私の質問に答え、ラップトップを操作する手を止めた。ちょうどその時、部屋のドアが開く。入ってきたのは山吹くんと同じスーツの男。斉藤くんだ。歩幅に焦りが見える。

 

「やっと見つけた。山吹、確認してるかい」

 

「ああ、今確認した」

 

 少し興奮気味の斉藤くんが言う確認事項が、おそらく問題の根源なのだろう。それが何なのか二人に問うてみる。

 

「電算機が使えなくなっている理由ですが、不明機の防空識別圏進入対応のためです。セントラルコンピューターはじめ、政府のコンピューター群はあらかた全て不明機の解析にリソースを割いているようで。おかげさまで内調の衛星も貸切で衛星情報センターが使えていない状況のようです。監視が停止しているため注意するように連絡が来ました」

 

 不明機の侵入程度にそこまでリソースを割く必要があるだろうか、という疑問の答えは次の斉藤くん言葉で解消される。

 

「小松からF-40JとFQ-20が上がったみたいだ。ロシアでない機相手にスクランブルがかかるのは戦前以来だね。その時はまだ自衛隊だったけれど。西は大陸単位でブラックボックスなんだ。監視の本気度合いが違うよ。情報を収集する良い機会だと踏んだんだろう」

 

「最近の大陸内部の動向と方角から見て……繁华(ハンファー)か?」

 

「結論は解析を待つとして、おそらくそうだろうね。軍閥ひしめく中国もついに動くか」

 

 セントラルコンピューターをはじめ日本各地のヨタフロップスクラスのコンピュターを総動員とは。通信手段から機体の流体特性までこの一回の監視で全部詳らかにしてしまうつもりらしい。処理能力の暴力だ。そこまでやる必要があるのだろうか。電子知性体たちの行動はたとえ効率的な手段をとっていたとしても、人間の直感からすると非効率に見えることがよくある。今回もその一例ということか。彼らの思考プログラムの素過程について理解していない以上軽率な判断は不正確さを持つことに注意する必要があるが。

 繁华(ハンファー)。名前ぐらいなら聞いたことがある。正式名称は確か繁华(ハンファー)精密科技公司(マイクロテック)。企業と言う体裁だが、中身は軍閥だ。過去の戦争でバラバラになった中国大陸の一部を軍事力で実効支配している。

 大陸内部は政治平衡を維持することに注力し、外部に手を伸ばさない状態を維持してきていたが、それが今回変わったらしい。

 

「最近の対外情報活動が妙に消極化していたのは中国大陸の方に集中したいからなのか……? 識別権に侵入してから大規模な解析体制を整えるまでが早すぎる。奥寺周辺のこともそうだが、セントラルコンピューターははじめからこういった体制を準備していたのかもしれない」

 

「その点では国防軍が一番秘密を握ってそうだけれどね。政府が干渉できない監視衛星を運用しているのは国防軍の情報部だけだ。最近は合同情報会議にも出席していない」

 

「しかし影響力は強まっているときた。最近の海外動向は不安定だが、国防軍の行動を自由にしすぎるのも問題だろう」

 

「権限的には一番自由な我々が言うのもアレだけど、確かに少し前の人員補充にしても警備の名目で軍人を捩じ込まれたからね。装備研究庁と技研は蜜月だが、内調と国防軍は正直仲が悪い。ここの管轄は内調だ。ええと、名前が」

 

「シルバーグリーズさんだ。第二空挺団とは大層な人材だよ。情報部に一時期所属している。十中八九──」

 

「言う必要はないよ。釘を刺されているね」

 

「彼女自身は誠実な人間なのは間違いないのだけれども」

 

「組織同士がこれではね」

 

「要改善項目として上に進言するか?」

 

 斉藤くんが黒い笑い声をあげる。山吹くんは大きなため息。

 言っている言葉の意味はわかるが、それぞれのバックに存在する情報の大部分が欠落している私に文脈を掴むことはできない。できることといえば、次第に重くなる空気を感じて漠然と不安になることぐらいのもの。

 途中で名前の出た軍人を思い出す。綺麗な芦毛で背の高い人で、応答が「問題ありません」「任務ですので」でほぼ済んでしまう人だった。私には随分と話しかけてくれたけれど、初めてみるばんえい種の同族という衝撃が大きすぎてそれどころではなかった。ウマ娘だけで構成される第二空挺団は都市伝説ではなく、実在した。今度はちゃんと話そうと思っていたのだけれど、ダメそうかな。

 

「我々の問題です。起こることの責任は全て私たちが持つので、あなたはいつも通りでいいんですよ」

 

 おっと、そこまで顔に出ていたかな。

 

「すまないね。こんな話面白くないだろうに。じゃあ、山吹。夜あたりにもう一度」

 

 山吹くんがひとつ返事を返すと、足早に斉藤くんが部屋から消える。部屋が静かになった。横の大型装置が規則正しく小さな音を鳴らしている。リング上の撮影機の中で超伝導磁石が回転しているのだ。

 

「さ、とりあえずデータ取りは終わったのでしょう?」

 

「ん、そうなんだが……電算機が使えないと検証も数値化もできないんだ。流石に生データは人が読める形ではないからね。今使える機器だと処理能力が足らない」

 

 空気を入れ替えてくれようとした山吹くんだったが、電算機が使えない状況が変化していないので、何もできない。

 今日のスケジュールは解析と検証に使うつもりで立てているので、これができないということはつまり、今日は何もすることがないということになる。

 

「そうですか……では、まあ……いつも通りに」

 

◇◇◇

 

「はい、どうぞ」

 

 テーブルの上に静かにソーサーに乗ったカップが置かれる。確かにいつも通り。今日の業務は終わりでいいや。なんだか気分が乗らないし。

 対面のソファーに座る山吹くん。私はカップを持つと、勢いよく立ち上がって、彼の横まで移動し、座る。

 

「ど、どうしたんですか」

 

 動揺する彼を横目に、一口いただく。相変わらず完璧、もはや私が淹れるよりも私好み。ずっと頼み続けていたから、私が淹れ方を忘れてしまった。少し前の出張のとき、全く期待する味が生まれず絶望したのを思い出す。これだ、この味が欲しかった。安心する味だ。温度やら砂糖の量やらを正確に同一にすれば同じ味になるはずなのだけれどね。

 紅茶側が変わらないはずなのであれば、私の方に問題があるのだろうか。受容体、いや……心理的なものだろうか?

 カップをテーブルに戻す。私は体から力を抜いて山吹くんの方に倒れ込んだ。

 

「わ! 大丈夫ですか」

 

「問題ないよ」

 

 彼の腿の上に頭を落とした。質のいいスーツの生地が頬に当たる。ひんやりとした感触の後、彼の控えめの体温を感じる。確かにそこにある。随分と大胆な行動だったが、今の私にはできた。

 彼が手に抱えていたカップを急いでテーブルの上に戻した。万が一があるといけないからだろう。

 

「君たちが仕事の話をしているのを聞くとね」

 

「ええ」

 

「やっぱりいつかは、とね」

 

「否定はできません」

 

 流石にそれがわからないほどバカではないし、とぼけたわけでもない。幾度目かもわからないただ事実の確認。それなのに胸が苦しい。

 

「だから、いつかが来るまではここでの仕事を全うしますよ」

 

 仕事という言葉に内包された意味を最近は私も捉えられるようになってきた。ただ表面的に彼はその言葉を使っていない。これまでの彼や、彼の同僚たちの振る舞いを考えて形而上の意味を捉えなければ真意について理解することはでない。

 

「ありがとう。もう少しこのままでいいかな」

 

「……かまいません」

 

 少しみじろぎして、もう少し心地の良い頭のポジションを探したり。彼はこそばゆいようで少し震えていた。

 目を瞑ってしばらくしていると、髪に手が触れる感覚。もしやと思い、耳を広げて待つ。すると、恐る恐ると言った具合に優しく手が頭に触れる。頭を撫でられているなんていつぶりだろう。子供扱いをするなと噛みついてきたが、全く不快感はなく、ただ安心を感じる。

 卓上のクオーツ時計の秒針が刻む音と、彼の手が私の頭を滑る音。規則正しい音が眠気を誘う。瞼を通して感じる光が遠ざかり、意識が不明瞭になっていく。

 

「失礼するわよ、タキオンちゃん?」

 

「静かに……」

 

「ん〜? え? あら〜 こんな顔するようになったのね────」




評価、お気に入り、ここ好き、全て見ています。いつもありがとうございます。


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Report.12:ReAlism;

「成功ですね」

 

「ああ、最高だね。ここまでいいスコアが出るとは。チームのみんなのおかげだ」

 

 心地よい高揚感を胸に細やかな数値がびっしりと印字された紙束をめくる。どれも目標値を超え、想定以上の評価値を示している。

 

「瞬間点火システムが先に完成するとは思いませんでした。主任のおかげです。先行していたはずのヘリカル型密閉容器の完成の方がいつの間にか遅れていますよ。我々も頑張らなくては」

 

「いや、西浦研究員の力が大きい、彼はもとよりこの部門で先行していたからね。感謝するよ」

 

「いえいえ、どうも……本当に」

 

 ここ最近の開発で点火器のサイズを大幅に縮小することに成功した。これで小規模な実験をもっと簡単に行うことができるし、低温化でも連続点火による継続核融合が可能だ。大幅な効率化にも成功し、レーザー発振に無駄なくエネルギーを使用できる。流石にその様な状況で使うことは想定していないが、スタンドアローン環境でもそこそこのキャパシターがあれば運転できるぐらいだ。出力的に三重水素がどうしても必要だが、今後の改良でどうとでもなる。三重水素の使用を前提としたシステムとしてはこの上ないベストなスコアだ。

 より簡単でかつ経済的運用に耐えうる核融合炉の実現に近づいたと言える。ここ最近は良い成果が並んでいるが、その中でも霞むことのないものと言えるはずだ。課題は後いくつか残っているが、大きな障害になりそうなものは後わずか。技研や技研のパイプを使って国立研究機関の協力を得つつあらかたの問題はすでに解決の兆しが見えている。

 

「残りは超電導磁石とブランケットですね」

 

「技研を通じてNIMS(物質・材料研究機構)に研究協力を依頼している。進捗は概ね好調と聞いているよ。スケジュール的には全体的に前倒しなぐらいだね」

 

 プラズマを容器内に留める磁場を形成するための超伝導磁石と、核融合発電として利用するためには必須のブランケット。前者は他の技術に関係してある程度研究が進んでいる状態だが、後者はまだ研究としてはよちよち歩きもいいところ。ブランケットは中性子を捉え、燃料生産に貢献し、さらに電気を作るための温度の受け渡しまでやらなければならない。過酷な環境で使われるブランケットの材料選出は難易度が高く、開発において重要なポイントだった。

 少しずつだが研究を進めているこのチームと技研とNIMSの核融合材料開発チームはそれぞれ相当に優秀であることは疑いようもない。

 優秀さが功を成して掴んだ成功だ。いつも無口な西浦研究員も笑顔を見せている。

 

「しかし素晴らしい、これなら燃料さえあればどこにだって使える、何にだって……」

 

 見せているのだが……無口なはずの彼が明るすぎるぐらいの顔で笑うのが妙に気になった。確かに成功は成功だが、正直本筋から外れる付随的な技術だ。あった方が有利だから作った。言ってしまえば副産物。

 山吹くんたちの影響で人の顔色に興味を持つようになったが、少し過敏すぎるのだろうか。彼らみたいに毎日顔を合わせているわけではないし、普段を知らないから勘違いかも。でも、気になったからには聞いておきたい。チームだからね。

 

「少しいいかな───」

 

 口を開いたところでブザーの音。ミーティングルームの据え置き時計だ。時間の間延びする会議は生産性を損なう。時間を決め、それを全員が共有することでより効率的な会議を行うことができるのである。すなわち、質問は取りやめ、ここでチームメンバーを自由にするのが主任としての役割だ。

 楽しいから続けられるけれども明らかに過剰労働だよ。私の年齢を幾つだと思ってるんだい。

 

「時間だね。次回の報告検討会議はスケジュール通りに。日程に変更はなし。解散!」

 

◇◇◇

 

 カツリカツリと靴が床を叩く音。私のスリッパの音とは違って硬質な響き。いつもと変わらず革靴は穏やかで曇りのない光を湛えている。いつも忙しいだろうに手入れはしっかり。身につけるものの手入れは仕事をする上での前提であって可否の問題ではない、らしい。神経質だねえ。

 

「まったく、いたなら手伝ってくれてもいいじゃないか」

 

「タキオンさん一人でも場はまとまっていましたよ」

 

「そういう問題じゃないよ!! 疑う余地もなく大差をつけて最年少の私がどうして場を仕切らなきゃいけないんだい」

 

「これまで通りですよ。人数は増えましたが」

 

「人数が増えたのが問題なんだ。発言数が多くて、もう」

 

「よくできていると感心していました。次からは手伝いますよ」

 

「頼むよ。君は私のお手伝いくんかつ助手くんかつモルモットくんなんだからさ」

 

「最後は勘弁してくれませんか」

 

「いーやーだっ!」

 

 山吹くんの抵抗を正面から拒絶する。彼はガックリと肩を落としてため息を吐いた。あれもこれも私の手伝いという君の仕事なんだからね。なんでもやってもらうよ。つきあってくれるんだろう?

 午前の予定が終わって肩の荷が半分下り、朝よりは軽快な足で研究室に向かう。少し遠いフロアだが、最近忙しかった彼が余裕を携えて戻ってきてくれたのであえてオートウォークもエレベーターも使わない。そう断ったわけでもないが、彼は文句も言わず横を歩いている。いつものこと。話しつつ歩く。

 先日の演算機が使えなくなった事件から仕事が増えたらしく、再び1日1回顔を合わせるのが限界になる期間が続いた。中国大陸で動きがあったそう。奥寺くんなんて顔すら見えないと思っていたら東京の方にいつの間にか出ていたらしい。戻って来れたようだが、いまだに忙しそうだ。外事というだけあって外国が動くと大変だね。

 

「……そういえば、技研外の研究機関に対して協力を仰いでからそれが認可されるまでの速度は目を見張るものがったのだけれど、何か知っているかい?」

 

「政治的な話になりますが、よろしいですか」

 

 やっぱり知っていた。それに加えて最近私の前で仕事の話をしていることを気にしているらしい。別に構わないんだがねえ。私だって研究の話ばかりさ。まあ、それしか話題がないということでもあるけれど。

 

「国防省の介入ですね」

 

「国防省?」

 

 驚いた。全く関係がないところの名前が最初に挙がるとは。研究機関しか関わっていないはずの案件だが。国防省は一体どこからなんのために手を回したんだ?

 

「ええ。国防省はあなたがここで研究を始める前から核融合に対して関心を寄せていまして、中国やアメリカのこともあるのでなるべく早く成果を出してほしいと上の方で話があったようです。話の内容について詳しくは知りませんが、核融合の独自研究を重複研究として却下されている国防軍としては研究機関に早く完成させてほしいのでしょう」

 

「国防軍は核融合技術を何に使うつもりなんだい?」

 

「想定としてすでに周知されているものとして艦艇の動力源ですかね。ちょうど空母ほうしょう(・・・・・)の大規模改修が近いですし、そこに間に合えば万々歳といったところでしょうか。先ほども言いましたが、中国大陸への警戒は当然、さらに国防軍は米軍を信頼していませんからね。最近の軌道エレベーター関連で軍事のバランスが動きましたから、国防省は焦っているのでしょう。当然アメリカより早く核融合を軍事の盤面上に持ってきたい。アメリカも研究は進めていますからね」

 

 軌道エレベーターといえば、すでにテザー敷設の基本段階は終了したと聞いている。あまりの速さに敬服せざるを得ない。材料のカーボンナノチューブを生産し続けている日之出重工業の生産力も並外れている。私が生産しやすいように設計したとはいえ、だ。

 多くの機能は未稼動だが、宇宙太陽光発電の試運転が開始されたと聞いた。米国内では内地の工業生産に対してのスポットライトとして期待されているが、大電力を常に発電し続けられるその能力はあまりに巨大な政治的カード。当然軍事利用は可能なはず。

 

「宇宙太陽光発電の受電システム開発が技研で始まったと聞いたが……」

 

「ええ、当局はカーボンナノチューブ提供の見返りにエレベーターのペイロード使用権と宇宙太陽光発電の電力供給権を取り付けました。供給システムはこちらで開発する必要があるので、フォーマットに則った効率的なシステムの開発が急務として技研で開発が始まっています」

 

「システムの供与までは取り付けられなかったのかな」

 

「カーボンナノチューブの製法をこちらは絶対に開示しませんからね。これで供与してくれるほど米国は優しくないですよ。特に送電システムを軍事利用することしか考えていない米軍が許さない。送電システムを利用する空中空母を作る計画があるとかないとか。まったく、やることがアメリカンですね」

 

 やはり軍事技術に利用するのは確定路線のよう。軍事プレゼンスの低下を純粋な軍事力の強化で推し進めようとするとはなんともアメリカらしい。自分の開発した材料がそういう道具に使われるのはあまりいい気分はしないな。

 この話はここまでにしよう。あまり気分が良くない。

 

「ところで……研究が随分とうまくいっているようですね」

 

 何かを察したらしい彼が即座に話題を変える。私が尊敬する彼の社会的スキルの一つだ。

 

「君たちのおかげでね。研究に集中する環境は完璧なまでに整えてくれるから。本当はやらなくていいことまでやっているのだろう?」

 

「やるかやらないかは我々の権力の範疇で判断しますよ。私がやるべきだと思った、それだけです」

 

「そうかい」

 

「技研の担当者と電話で話しましたが、『最近は化学系に寄っていたから物理に戻ってきてくれて嬉しい』だそうです」

 

「嬉しい、か。成果を期待されているんだねえ。まあ、私の自由にやるよ」

 

「それがいいでしょう。私たちも協力します」

 

 話しながら歩いているうちに目的のフロアについてしまった。目的地は目の前だ。会話するといえど、共通の話題なんてなかなかないからこうやって仕事か政治かどちらかになってしまう。全く情緒がないね。ないけど、悪くはないと思っている。話の内容は重要じゃない。なんだか変な話だけれども。会話が楽しいことを教えてくれたのは山吹くんだ。

 カードキーをかざして研究室のドアのロックを外す。ドアがスライドして現れたのはいつもの研究室───ではなく。人影が二つ。

 

「お、来たね」

 

「说曹操曹操就到、だな」

 

 奥寺くんと斎藤くんが椅子に座って待っていた。斎藤くんはいつもと変わらない笑顔、奥寺くんは特徴的な笑い方をする。ニヤリと口角を上げておそらく中国語で何かのフレーズを口ずさんだ。

 

噂をすれば影がさす(说曹操曹操就到)? 二人揃って一体どうしたんだ」

 

「そろそろ来るかなって話してたんだよ。お互い渡しておくものがあるのさ。僕からは新メンバー込みの人員表と、新設した設備一覧」

 

「俺からは出張帰りでついでに持たされた内調の書類だ。両方読んどけよ」

 

 二人がバインダーから見るからに分厚い書類の束を取り出した。あまりに分厚いものだからクリップが悲鳴をあげているよ。後ろに立つ山吹くんの顔は見るまでもなく想像できる。大変だねえ。

 

「そんだけだ。お、あと外事が掴んだアメリカの計画。ありゃガチだ」

 

「それは本当か」

 

「僕もさっき奥寺から聞いたんだけどね。本当にやるらしい。『プロジェクト・アーセナルプレーン』だったかな。軌道エレベーターの防衛用って名目らしいが、あの国は太平洋全体を自分の領海だと勘違いしているらしいぞ」

 

「新情報頭に入れといてくれよ。俺また東京行かなきゃいけねえんだ。じゃあな」

 

「僕も技研の方に用事があるからちょっとしたら出なきゃいけない。確認だけ頼むよ」

 

 本当に必要なことだけ言って二人はさっさと向かいの扉から出て行ってしまった。本当に忙しいらしい。静かになった空間に山吹くんのため息がやけに大きく響く。

 早口でやり取りされた情報はよくわからなかったが、どうやらここまで歩きながらした会話の内容にアップデートがあったようだ。空中空母は作られる、らしい。あまり良くない方向にことが運んでいる悪い予感がする。

 

◇◇◇

 

 彼が紙を捲る音、私のマウスのクリック音。斎藤くんから渡された設備一覧を眺めている彼と、実験データを整理する私。いつもの光景ではあるのだが、ちょっと違う。最近コンピューターを操作中に違和感を感じる。ファイルを移動させたり転送するときに妙なラグがあるような……

 実験申請書の入ったフォルダをまとめて移動させる。まただ、少し遅れた。マルチチャンネル光ファイバーの同時転送に知覚できるほどの遅延が発生することなどあり得ない。高速転送システムが導入されているのは私の部屋だけだが……何かがシステムに介入しているのではないか?

 前回の新設備導入の時に問題が起きて何かが干渉してしまっているのかもしれない。転送時のデータログと転送ステーションの通信記録を開く。しかしログでは何もわからない。正常な通信記録がつらつらと並んでいるだけだ。通信時の応答を示したシートを出力させる。生データが読み込みを前提としていない記号と文字の状態でずらりと現れた。これでは何がなんがかわからない。

 システム側で自動で作動している解析ソフトではなく、自作の解析ソフトでデータを洗い直す。わかりやすくするための省略が消えるためにいらない情報もついて回るが、より正確な形で得られる。

 

「少し気になっていることなんですけど」

 

 集中しているところだったので彼が突然話しかけてきて大袈裟すぎるほどに驚いてしまう。一つ咳払いをしてから答える。

 

「な、なんだい?」

 

「設備を新設してから色々な部署でシステムの誤作動が起きていて、タキオンさんのコンピューターには問題ありませんか?」

 

「誤作動? いや、特に影響は出ていないよ」

 

「そうですか。邪魔してすみません」

 

 解析が終わった。転送に遅延が発生している時刻のデータを参照する。が、文字化け。読める状態ではない。完全にノイズだった。システム側の問題のようだな。ケーブルの交換をしておこう。何か恐ろしいことでも起きているのかと思ったが、そうではないらしい。

 しかし、交換したばかりなのにな。不良品とは煩わしい。文字化けの文字列を眺める。漢字、数字、漢字、数字。意味のない乱雑な並び。

 うん? 英字が一箇所だけあるな。

 

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 特に意味はなさそうだな。

 

「山吹くん、ケーブルの交換をしなきゃいけない」

 

「わかりました」




ここすき、お気に入り、全て確認しています。
創作の糧です。いつもありがとうございます。


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Annotation|Calm Day

「プロジェクト・アーセナルプレーン。正式な名前は重要目標防衛用攻撃型空中機動プラットフォーム構想。あちらさんの思惑では空中空母と言うより空中要塞ってニュアンスだな。で、名前が『ジャスティス』『リバティ』『コンフィデンス』『ユニティ』。複翼の全翼機、宇宙太陽光発電で生産された電力を受電することで半永久的に飛行が可能。数は不明ながら多くの無人機を搭載、および管制。その他多目的用途に武装は山盛り。俺はSF小説の設定でも読まされてんのかってスペックだぜ。 何でもかんでも山盛りにするのはあちらさんの文化ってか? ええ?」

 

 情報保護のための機能が備わった薄緑色の特殊な紙束をめくりつつ、印刷された機密事項の要点を摘んで奥寺が話す。言葉の悪い彼の口から語られるのはもっぱら対外諜報の情報だった。元より外事から回ってきた書類だからそれも当然ではある。我々の機密保護部、つまり内事の方には目立った事項はない。今回も一枚の用紙が特殊用紙ではなく普通の用紙で送られて来た。

 なぜ普通の紙かといえば、そこに書いてある内容が『特記事項なし。以上』だけだからである。機密事項が一つもない事柄の伝達にわざわざ高価な特殊用紙を使う必要はない。紙が違う時点で内容について理解できる。もちろん確認はするが。

 何はともあれ、未だカオスな国際社会に対して一応の秩序を維持している、しようとしている日本国のことだ。内事にとっては特記事項がないに越したことはない。


「建造開始まで一才情報を抜けなかったのは驚きだな。我らが日本の諜報を信頼して考えれば、漏らさなかったというより検討や議論がとてつもなく短く、漏れる機会がなかった、という可能性も考えられる」

 

「やっぱり新型のロールアウトは確実かねえ」

 

「米国新型カンピューター侮りがたし……ジェネシスだったか? 名前の通りゴツい性能っぽいな」

 

「次世代有機的自己進化型が本格的に稼働しだしたか。我らがセントラルコンピューターと同じメカニズムだ。まだ第1世代クラスだろうが、うかうかしてられんな」

 

「全くだね。しかし、その、それにしても名前……正義、自由、信頼、団結ねえ。模範的アメリカンで大いに結構。しかも『フェイス』ではなく『コンフィデンス』か。なんとも“らしい”というか」

 

「変わってないのさ。昔からパクス・アメリ云々。国民性、すなわちナショナリズムの柱と言うべき精神構造だ。不可分なんだよ。しかしとんでもない規模の構想だな。軌道エレベーターも関わってる。どおりで米国エネルギー省(DOE)国防高等研究計画局(DARPA)の動きがやたらと激しいわけか」

 

 非常に独特かつ刺激的な某国内の愛国的計画について現時点で把握可能な全ての情報を読み終えた奥寺が最後のページを指で弾き、部屋備え付けのシュレッダーに束を放り込む。静かな駆動音とともに紙束がスリットに飲み込まれて細片となり、薬剤が噴射され、化学反応によって細片は空気に溶けるように粉になった。透明な屑入れの底に薄緑の粉がさらさらと積もる。紙面に存在していた情報は疑う余地もなく完全に破壊された。

 

「しかし……具体的に取れる行動といったら、監視に徹するのみだな。アメリカのチラつかせた情報ですでに混乱が発生してる。議会の構成を見る限り彼の国の国民感情は言わずもがな。国際的な状況は説明するまでもないだろうが政治的問題は今の所ラインを超えていない。そもそもCIAとNSAを掻い潜ってぶち抜いた情報だから現段階では話題にしにくい。世界に向けて発表が行われたとて、形式的な抗議がいくつか持ち上がって終わりだろうな。太平洋域が完全にアメリカの庭になるが、こっちが行動を起こす理由はないわけだ。まあ、国防軍は阿鼻叫喚だろうな。いや、すでにか。そっちは国防省からの続報待ちだなァ……素直に情報くれるかなァ……」

 

「誰にも止められないのだから認めざるを得ないってのは不健全な理由だと思うけど仕方ないねぇ。太平洋条約機構の一端を担っている我が国が余計なことを言ってしまえば、面倒な方向に事態が倒れていくのは目に見えてる。今は特に中国の動静に神経を尖らせる必要がある。おまけにロシア連共の動きも怪しい。タカ派の林道総理といえども、これ以上問題と政治的対応案件を増やしたくないだろう。情けない話だが、腐っても同盟国ってことで信用するしかないだろうね。新日米安保は確実に機能している、はず。戦争が終わった今なら、約束ぐらい守ってくれるだろうさ」

 

 斉藤が鼻で笑うように言葉を付け足す。「きっとね」

 短い言葉だが、それが終了の合図だった。我々の顔からスイッチを切り替えるように暗影な成分が取り除かれ、普段通りの顔──小さな研究員に見せるような──に戻る。キッパリと話題が終了するのは我々がこれを語り合ったところで大局を変化させる方法などないというある種の諦観なのかもしれない。とはいえど影響は不可逆的に上から下へ降ってくる。朝から面倒そうな話題によって少し頭が痛い。

 誰が合図したでもなく全員が同時に腕時計を見た。ある程度の広さを持っているとはいえ、閉鎖空間で長く生活をしていれば何かと同期し始める。我々だけでなく、なんとなしにどこでもみられるような光景だった。これから先の予定が始まる時間ぴったり、時針が10を少し過ぎ、分針が6の位置を指し、秒針があと少しで12の位置まで戻ってくると言ったところ。

 もうそろそろかなと、小さく息を吐く。その瞬間、ノックもなしに部屋のドアがスライドした。薄暗い部屋に廊下の照明が差し込み、眩しい。細めた目が廊下に小さいシルエットを捉える。

 

「やあやあ! おはよう! 今日は何か予定があると聞いているが〜?」

 

 予想をしていたが予期はしていなかった来客。「これぐらいの時間なら来てもいい」と言えば最も早い時間ぴったりに毎度来ていたタキオンだが、ついにその最も早い時間からズレた時刻に来るようになったらしい。私の指定より前に。遠慮なんてものはすでに形だけのようなものだったが、こうも当たり前かのように押し入られてはは流石の私も苦笑せざるを得ない。

 

「スペアキー渡してんのか……?」

 

 奥寺が非難にも似た胡乱な目を向けてくる。同意とその警戒は必要がないことを意図した相槌を一回。彼女を警戒しているわけではないが、この部屋は常にセキュリティシステムが動いているし、3重の認証を通過できなければ部屋の中のものは全て起動できない。彼女ならばそれぐらい突破できる可能性を否定することはできないし、おそらくしなくても突破は可能だろうが、そう言った意味でなく彼女は賢いので、そのようなことをする可能性は無に等しいだろう。奥寺や上が思うよりこの子は賢しい。奥寺はともかく、上はそうでない(・・・・・)ことにしているとも取れるが、どうもな。

 私に対する信頼か、それ以上は奥寺も何も言わなかった。

 

「ええ、久しぶりに下に行こうかと思いまして。奥寺にも教えておけば頼める人材が増えるでしょう? あとはまあ色々。ついてからのお楽しみということで」

 

 思考の迷走で迷いの出た目を彼女に見せるわけにはいかない。数回瞬きして予定通りの提案をする。私の提案に目に見えて表情を変化させる様子に、こちらとしても心が軽くなるように感じる。

 タキオンは何か完成間近のものがあるとかで最近は研究詰め、私も次から次へと積み上がる業務に追われる幾度目かの忙しい時期に突入し、ここのところ要求をどうこうというより、顔をあわせる機会すら希薄という状況だった。それらも数週間と数えるほどでほぼ同時に忙しい期間を抜け、空いている時間があるのは好機ということで、私の方から提案した。私が動けなくても、奥寺や斉藤が動けるのならば彼らは権限持ちなので彼女を文化保護室まで連れて行くことが可能だ。そのために奥寺を初めて下まで連れて行く。

 彼女は最近化学や物理の研究以外にも、ウマ娘についての文化史などにも興味を持ち始めている。自分の種族に対する興味が湧いてね、とはタキオン談だが、楽しそうなのはいいことだ。文化保護室の人文書架にはそういった関連の本が希薄に埃を被りつつ山となるほど収納されているはずなので、私がいなくても彼女の好奇心を満たす材料は十分に摂取できるだろう。

 この頃は顔をあわせる機会が少なくても彼女の精神が不安定になることは少なく、安心沢さんも安心の表情だ。私としてもそちらの方が健全で安心できる。できる限りのことはしたいが、私の職務の特殊性を彼女が理解できないはずもない。そういった話をすると強い拒絶と安心沢さんからの雷がついてくるものだが、可能性ぐらいは一片でも理解してもらいたいと思う。私の胃の痛みは常に後回しだ。

 照明を背にして複雑な情緒を隠す。色々な考えが頭を駆け抜けていったが、幸い彼女の表情に想定外の変化はない。

 

「ぜひ! ぜひ行こう! さあ!」

 

 現れた時から上機嫌だった彼女は声を高くして、より上機嫌な様子だ。少しも待てないという様子のタキオンがすでに背中を見せて歩き出す。尻尾と耳の調子を見るにすぐに走り出していってもおかしくなさそうだ。置いていかれてはいけない、まごついている男二人の背中を押す。ほら、君たちも行くんだよ。

 

◇◇◇

 

「下層で行動するに常にIDカードが必要だからね。確実に所持しておくように」

 

「常に持ってる、ほら」

 

 認証ロック付きのエレベーターや時折道を塞ぐ隔壁をIDカードでパスしながら進む。グレーチングの床を踏み歩き、原子力施設のパイプを横目に抜け、無機質で圧迫感を感じる廊下に入る。毎度のことながら無機質で変わり映えのない廊下は長く、当たり障りのない雑談やらを挟みつつ歩きつづける。

 いざという時動けなければならない我々と違ってタキオンは純粋な研究者であるのに、自主的なトレーニングや安心沢さんの管理、種族としてのポテンシャルも相まって、我々より元気に見える。今もこちらから十数歩先をスキップで進みながら、時折こちらを振り返っては───

 

「はーやーくー!!」

 

 このようにこちらを急かしてくる。我々を遅いと非難するというよりは、この状況を楽しんでいるように見える。軽快なステップと、時折ひらりと一回転。本当に元気という言葉が相応しい状況だ。

 

「わかってますから。転ばないようにしてくださいよ」

 

「IDカード未所持だと警備ロボットが怖いなあ。警備ロボットに任せたら不審者は影も形も残らない。奥寺、見た目があれなんだからカードは必需品だよ」

 

「AIに顔でいい悪いがわかるかよ。いや……わかるかもしれねえがそれとこれとは別だろ」

 

 前を歩いていたタキオンが歩みを止め、ドアのハンドルに手を引っ掛けてぶら下がった。今すぐ来いという強い圧を全身から放出する。何か定量的な不満が溜まっていくように、頬が次第に膨らんでいく。本人はただ不満の表明をしているようだが、可愛らしい以外の感想が出てこないのが愉快なところである。不満というイメージを直接的に伝えるにはいささか迫力が足りないようだ。

 これ以上待たせると本格的に臍を曲げてしまうことを私は経験則で理解しているので、学生時代のノリを延々と続けている男二人を無視して駆け足で先へいくことにする。

 私は内ポケットからIDカードを取り出したが、それをスリットへと差し込む前に小さな手が下から伸び、掴み取る。私が呆気に取られているうちにタキオンはドアを開錠し、ゆっくりと開くドアの隙間を抜け出し、そのまま慣れた手つきで照明のブレーカーをあげて室内に駆け出して行った。スキップをするように軽快なリズムを刻む足音がすぐさま遠ざかっていく。書架か、楽器か、何処に向かったかは不明だが、追いかけねばなるまい。

 

「元気だなあ」

 

 暇そうにこちらを見ている斉藤に奥へ行ったタキオンを追いかけるように言い、奥寺を内側に入れてドアの閉鎖操作諸々を行う。もっさりとした動作でドアが閉まり、重々しいロック音が聞こえた。文句を垂れつつ奥へ行った斉藤を追いかけようとしたが、入り口すぐの書架の前で佇む奥寺が目に入る。成人男性の五倍はあろうかという高い本棚の中腹に『思想・哲学』と書かれた樹脂製の白いプレートが置かれている。

 

「哲学か」

 

 後ろから声をかけた私に奥寺は巨大な眼帯の方で振り返り、見えないことに気づいて反対側から私の方を見る。彼は照れくさそうに笑うが、私としては翳りを隠し通すことができている自信がない。

 

「いくつか読んだ記憶はあるんだが……考える時間がなかったせいで読んでもいまいちわからんな」

 

「片手間で理解できるほど優しい世界でもないだろう」

 

「それもそうだ」

 

 乾燥した紙が捲られるたび、専門用語と何かを形容した図が次々と現れる。自分もいくつかの思想に触れてはいるはずだが、もう思い出せない。俗な思想に触れすぎてすでに受け入れる脳が残っていないのだろう。残念だ。

 高尚な思想を体現するような政治家などが存在するはずもなく、腐ったぐらいがデフォルトなそれらの影響下で動く我々もまた然り。コンピューター群が哲学思想を解しているというのならまた話は変わってくるだろうが、それらが我々と同じテクストで哲学を理解しているのかといえば高確率でNOだろう。AGIとして開発された強いAIたる政府システムAIたちは人間の人格に相当するパーソナリティを獲得しているが、実際の中身についての検証は遅々として進んでいないと聞く。だからそうらしい、としか言えない。我々と同じと解釈するには未知が多すぎる。AI自身が調査を妨害しているなんて陰謀論めいたことまで言われる始末。

 タキオンは人造知能たちの興味を常に惹いているらしいから、彼女が聞けば彼らも素直になるかもしれないなんて突飛な思考が一瞬よぎる。馬鹿馬鹿しい。

 

「お、こいつは覚えがあるな」

 

「なに」短く聞くと「目的の国」

 

「たしか……カントの」

 

 なんだったか。全ての人間が互いの人格を手段としてではなく、目的として用いる道徳的社会、と聞いたような気がする。うろ覚えだ。反応するには十分。

 

「実現したら俺らの仕事は無くなりそうだ」

 

 確かに我々の存在は究極的に手段化された人格とも言える。何かを達成するための手段として消費されるべき人格であり、我々単体の人員が目的として扱われることはない。そういう扱いはここに所属するときに断ち切った。だから、奥寺みたいにズタズタになることもありうる。我々が手段ゆえに、目的の達成に我々の安否は関係がない。内調秘匿セクションの人員のトップは人間ですらない。コンピューターによって完全支配される手段化された人格たち。言ってしまえば手段の国だな。

 そういったことが近くにあるゆえに私はタキオンを気にかけるのかもしれない。彼女の扱われ方は人格の手段化に他ならない。やはり原動力は同情だったのだろう。現在はまるで家族の一員かのような親しさだが。その扱いを彼女も望んでいるというのなら、それに則することが罪ではないと思いたい。

 しかしながら……むしろ近すぎることに危機感を覚えることもある。奥寺のこともあるし、状況は流動している。できる限り寄り添うというスタンスを変えたわけではないが、このままの関係で停滞できるような状況では無くなりつつあることを理解せねばならないだろう。私が仲介役を務めて、職員や同僚たちとも関係を深め、精神的な支柱を増やしてもらいたい。もしものことがあったときに、私の幼少期のようにはなってほしくないから。

 

「あとはわからん!」

 

 奥寺が哲学は俺にはもう無理だと笑いながら本を元あった場所に押し込んだ。上質な紙が使われているのであろう背表紙が綺麗に並び、近寄りがたいような雰囲気を醸し出す。お前らには不要だとでも言われているようだ。

 

「なくなってくれた方が嬉しいってもんだがなァ。どだい無理な話よ。これから先、どう事態が動こうとも数十年は必ず」

 

「必要ゆえに、だな。国内の不穏なものは鳴りを潜めてきたが、外に目を向ければむしろこれからだろう。全く大変なものだ」

 

「人ごとじゃねえぞオイ。このまま業務に押しつぶされそうだ。俺らの人権はどうなってんだよ」

 

「大変残念なことだが……そんなものはない」

 

「ハハ、違いねえ。俺たちは究極的に純粋な公務員だからな」

 

 面倒ごとは増える一方だろうし、複雑怪奇な時代の流れゆえに数年後のビジョンなんて想像することもできない。中国大陸関係問題を解決することが目先の目標ではあるが、現総理の手腕には内調は懐疑的、足りない部分を補うために薄暗い仕事が増えるだろう。公安との衝突も想定される。国防軍との関係などは言わずもがな。ああ、くわばらくわばら。頭を痛める材料しかない。いや、それ以上の悲観をする必要がないと考えるべきか。

 前進より停滞を選ぶことがベストな時代だ。上が冷静であることを祈る。方針の蓋然性を常に自問するべきだ。

 

「で、だな」

 

「ああ」

 

「わア!!!!!」

 

 突然の大声が背後から響くと共に背に強い衝撃を感じる。首に細い布が巻きつき、衝撃で前傾した背に人一人分の重みが乗しかかる。首に巻きついているのは見慣れた白衣に包まれた細腕。のしかかっているのはタキオンだ。少し前から気配を感じ、何をコソコソしているのかと思えば、これをするのが目的だったらしい。いきなり飛びついてくるのは予想外だが、耳やら尻尾やらをあちらこちらに動かして気配を振り撒きながらでは気づかない方が難しいというもの。

 

「ったく。嬢ちゃんよォ、不審者とかと勘違いしちまったらどうすんだよ……」

 

 奥寺の心配は尤もで、私もため息を吐きつつ姿勢を戻す。しかしタキオンは降りるつもりがないらしく、そのまま首に腕が引っかかる。重くはないが存在はする彼女の体重が私の首を少しずつ締め上げる。仕方なく再び前傾姿勢に。早朝アイロンをかけたばかりのスーツに皺がついてしまうな。

 ウマ娘のパワーで打ち込まれた平手は相当の威力で、背中はいまだに痺れる。研究熱心なのは良いが悪戯も上達されては寿命に影響が出そうだ。痣になってないといいが。物理的に寿命を削られるのは勘弁だ。できることなら精神的にも削りたくないが。

 

「…………斉藤はどうしましたか」

 

「斎藤くんかい? 途中まで後ろにいたけれども、しばらく走っていたらいなくなっていたよ」

 

 腰の調子を伺う私を気にもせず、タキオンはニコニコとしている。楽しそうなのはいいことだ。それにしても斉藤め……ターゲットを失尾するとは……自分の職業に対する理解が足りないのではないか。まあ、しかし、入り組んだこの部屋でウマ娘としての身体能力をすでに理解している彼女に追いつけと言うのは酷か。しばらくと形容されるほどの時間追跡したことを賞賛するべきか。バイクとの追いかけっこに近いわけだしな。陸上選手のポテンシャルを求める業務ではない。

 

「君たちが遅いからだよ。さあ! 早く本来の目的のために動こうじゃないか! 何が目的かはまだ不明だが! 早く!」

 

 幼い少女に尾行を撒かれた国家エージェントくんも歩いていれば見つかるだろう。奥で見つかるはずのない少女を探し回っているに違いない。道草を食っていたのはこちらであるわけだし、タキオンの要求に従ってさっさと動くべし。目的地は書架より奥だ。

 

「はいはい……悪戯はいいですが、もう少し手加減をお願いしたいですね。──ところでいつになったら降りてくれるんですか」

 

「ん〜? このまま連れて行ってほしいなぁ。なあ、構わないだろう?」

 

「しょうがないですね……」

 

 姿勢が苦しくならないよう手を回して彼女を支える。ため息を吐く私と対照的にタキオンはとても楽しそうだ。

 

◇◇◇

 

「カードは返してくださいね」

 

「ん〜、はい」

 

 首の後ろから垂れ下がる手がジャケットの胸ポケットにズボりと突っ込まれ、IDカードが返却された。一応かなり重要な物品なのだが、取り扱いが雑だ。無くしたりしようものなら書類を何枚もしばかなければならない。

 彼女の動きで歪んだジャケットを体を捻って正す。両腕は背中のタキオンを支えるために塞がれている。人をおぶって動いているなんて一体いつぶりだろうか。昔同じことをした相手はもっと小さかったが、奇しくも同じウマ娘だった。性格は随分違ったものだが。

 

「それにしてもちゃんと食べてますか? だいぶ軽いようですが」

 

「デリカシィ……まあ、ちゃんと食わねえと筋肉つかねえからなァ」

 

 背に掛かる重量は少女とはいえ随分と軽く、いつ見ても細い手足。定期的に運動をしている姿を見ている自分としては怪我など心配になる。骨密度や筋繊維の質がヒトとは違うために我々と同一して語ることは必ずしも適当とは言えないが、やはり人情としてはそう考えざるを得ない。

 

「それは心外だねえ。あらゆる数値は年齢的に基準値内のはずだ。栄養素的にも問題のない食事を極めて一般的な間隔で摂取しているし、トレーニングも適切に行っているからね。確かに食事と筋肉量は相関する関係ではあるが、それには適切な運動を含む複合的な要因を考える必要があるよ」

 

 体重の話はあまり面白くなかったらしく、私の背に乗った状態で器用に上半身を起こして、人差し指を立てて抗議している。体重を気にするにはあまりに早い年齢だと思う。同じようなことを考えたらしい奥寺は生暖かい笑みと共に自分が信奉する筋肉の布教を始めたようだが、次から次へと出てくる言説に押されて段々と苦笑いに。科学理論に筋肉で対抗するのは分が悪いだろう。

 確かに安心沢女史の管理のもと彼女は自己の発言の通りに行動しているはずだが……そうも完璧ではないことも私は知っている。横着は誤魔化せないものだ。

 

「安心沢さんから聞いてますよ。食堂の利用が不十分ですよね。まさかとは思うのですが、非常用の食料を持ち出してそれを食べていませんか」

 

 饒舌に筋肉の生理学的な解説を行なっていたタキオンの語りが急停止する。背後の揺れる気配から何か言い訳を考えているらしいことはわかるが、もはや沈黙が事実を認めている形だ。

 研究室の非常用食料がなぜか要補充になっていたからもしやとは思ったが、目を離すとすぐこうなってしまう。大方研究室から離れるのが面倒だとか小さな理由だろう。安心沢女史も本職の研究で忙しいようだし、私ができる限りのことをするべきではある。しかし、ここに我々が着任するより前は普通に生活していたと聞いていたし、着任直後はその通りだった気がするのだが……

 

「そもそも基準値内だとしてもほぼ下限や上限ではこちらも心配ですから。他にも最近は睡眠時間も削ってるらしいじゃないですか。いい加減安心沢さんの雷が落ちますよ。言動は不審者ですけどちゃんとした医学者なんですからね。紅茶のカフェインだって───」

 

「わ、わかった! ちゃんとするからストップだストップ」

 

 安心沢女史が普段言うような小言を順に並べると、タキオンは急に縮こまってわたしの口に蓋をするかのように手のひらを見せた。降参の意であると受け取る。

 聞き分けがいい方ではないタキオンが即座に意見を飲み込むあたり、安心沢女史に前に言いつけられた紅茶と砂糖の制限が相当に効いたらしい。まだ言いたいことはあるにはあるのだが、これ以上詰めてもしょうがないな。しかし言葉だけではどうとでも言えてしまう。

 

「まあいいでしょう。わたしも自由に動ける時間の確保ができそうなので、しばらくは見張らせてもらいます。食事には必ず引っ張り出しますからね」

 

「一緒に食べるってことかい?」

 

「余裕がある時は……」

 

「え──‼︎ 一緒がいい! それぐらい良いだろう⁈」

 

 タキオンが大声を出して抗議する。私はただちゃんとした食事を摂るように促しているだけなのだが……どうも別の場所に論点があるようだ。しかしおぶられた状態で色々喚いても格好がつかないな。ハハ。

 

「ぐ……! ネクタイを引っ張らないでください……! これお気に入りなんですよ!」

 

「大体食事なんてカロリーだけ摂らせてくれれば十分なんだよ。今の私に必要なのは頭の回転なのさ。わかるかい?」

 

「わかるわけにはいかないんですよ……あなたの健康管理を含めて助手もどきをずっとやってるんですから。そんな適当なことをしたら私も安心沢さんに詰められます。私は嫌です」

 

 訳のわからない格好をしたほぼ不審者の女医が妙な形をしたサングラスを光らせながら凄んでくるのだ。状況が意味不明すぎて頭がおかしくなる。あんなの何度もなんてごめんだ。

 いつぞやの光景を思い返しているとタキオンが今度は腕を首に回してきた。そこにぶら下がるように体重が後ろに行く。タキオンの抗議行動によって首が閉まる。

 

「だったら一緒に食事ぐらいしておくれよ〜 健康管理って言うなら心の健康を保つために私の要求はすべて聞いてくれたまえ」

 

「そんな無茶苦茶な……食事だって最初は一人で済ませていたのに」

 

「んんッ! とにかく、私は一人では嫌だね」

 

「じゃあ斉藤でも良いじゃないですか」

 

「嫌だね」

 

「奥寺はどう──」

 

「嫌!」

 

「ええ……? そんな、何もしてないだろ俺」

 

 思わぬ心のダメージを負った奥寺がクソ凶悪な面を歪ませているが、それはどうでもいい。最近は常にわがままを言うようになったタキオンだが、どうも今はさらにわがままな状態らしい。わがままを言ってくれる関係になれたことに喜ぶ回数はもはや飽きるほどであるが、それはそれとして無理なものは無理だ。『何でもかんでもやってあげてたらグータラになっちゃうわ』とは安心沢女史の忠告である。最近は彼女も忙しいので初期ほどつきっきりではない。ゆえに私が毎度毎度わがままと交渉をせねばならない。大人同士で真面目にやるネゴの100倍は難しいぞ。

 

「仕事がね……そんなに多くはないんですが、毎日処理しなきゃいけないんですよ……」

 

「何とかしようよ、山吹くん」

 

「何とかって言ってもですね……何とか……」

 

「よし!! 何とかしよう、俺が。書類処理は定期報告と暗号更新、それと技研関連だろ? お前に紐付けされてるわけじゃないなら俺が代わりにやってやるよ。セキュリティレベルは一緒だろ」

 

 突然横から会話に突撃してきた奥寺が想定外の提案を行う。驚くが、冷静に考えて各々に仕事はあるのだから、無理なことはさせられない。

 

「奥寺も外事との連絡があるだろう。無理はさせられない」

 

「むしろ暇だよ。諜報帰りで半分休養みたいなもんだ。新しい動きがないせいで随分と長いけどな。手伝えって命令されてきたのに斉藤とお前だけで処理しきっちまうから最高レベルの機密施設をぶらついてるだけの不審者になっちまってるよ。本物の不審者扱いをされる前に少しは使ってくれ」

 

「ぜひ! ぜひ使ってあげよう!!」

 

「いいのか?」

 

「ああ、やるよ」

 

 思わぬ助力により、タキオンの要求に対する障害が排除された。言動と顔に反して仕事に律儀な奥寺のことなので、処理可能と言うからには可能なのだろうが、少し申し訳なさを感じる。しかし最近はどうも彼女が要求する時間をうまく確保できないことが続いていたから助かることも事実である。

 その提案をしてくれた奥寺はというと、ドヤ顔でサムズアップ。そのまま口角をあげてタキオンにウィンク。なんだかんだ仲が良い。

 

「ってことで嬢ちゃん。山吹はフリーだ」

 

「ありがとう! 君には私と一緒に食事をする権利をあげよう!! 嬉しいだろう?」

 

「クソガキ〜 ハハ、ぜひ今度!」

 

 仕事の障害が排除されたのだから、自動的に彼女のわがままを飲み込むことになった。しかしこれは仕方がない。なぜなら彼女の望みを聞くのも私の仕事であるからだ。

 

「まあ、成果も出してるわけだしさ。お前も少しぐらいわがままに付き合ってやれよ」

 

「そうだぞ、山吹くん。付き合いたまえ」

 

「常日頃から付き合っていませんかね……? せっかく作ってくれた時間なのでこの要求は引き受けますけど」

 

「ちゃんと成果を出した人間は相応の報酬を受け取るべきなんだぞ! 何をやっても上に吸い取られてただけだったところに来たのが君だったんだ。すなわち!!! もうこれは君が報酬だと言っても過言ではないだろう⁈」

 

「過言ですよ!」

 

 とてつもない暴論が彼女の口から飛び出し、反射的に振り返る。きつい冗談かと思えば目が本気だ。至極本気で言っているぞ、この子。定期的にとてつもなく強い我を子供っぽく出してくる。否定することは簡単だが、首に手を回された状態で、彼女の機嫌を損ねるような危険行為が推奨されるはずもなく。

 

「いや、成果を出しているのは確かに事実ですから、ええ。まあ、そうですね。そうかもしれないです」

 

「そうだとも! 時間が空いたぶんこれまで以上に実験に参加してくれたまえよ」

 

「昼食が前提です」

 

「これだけの時間君を拘束できるなら安い条件だ。仕方あるまい。ククッ」

 

 ようやく話に決着がついたと安心する。ただ昼食に活かせるだけでなんだか色々と要件が増えてしまった。本当にこれで良いのだろうか。自分の役職のことを考え、胸ポケットに入ったIDカードをチラリと見た。少し振り返って満足げなタキオンの顔も見る。不安というより心配だ。

 

「ふぅン、どうしたんだい。もとより君は私の手伝いと護衛の為にきたんだから、なにも問題はないだろう?」

 

「いやぁ、私がここに来てからできていたことがむしろできなくなっていると安心沢さんにため息つかれましてねえ」

 

「俺も聞いたぜ『甘やかしすぎ』だってさ。ハハ」

 

「問題ないさ。君がいなくならなければ問題は発生しないのだから」

 

「ハハ……お前執事の才能あるんじゃねえの?」

 

 タキオンの解答に強面を引き攣らせて笑う奥寺が面白くもない冗談をパスしてくる。現実的な問題なんだぞこれは。大変ですねとでも言いたげな顔もやめろ。他人事みたいな扱いをするな。チームだろうが。

 

「我々の仕事は手伝いと護衛ですからね。いいですか、手伝いと護衛なら本業は護衛の方ですよ。最重要は連絡係としての業務ですが……本来は試験管やらビーカーやらフラスコやらの洗浄点検ではなく、施設設備の安全確認及び情報防護の監視、それと非常時に備えて銃器の点検を毎日繰り返すのが正常です」

 

「でもやってくれるじゃないか、ねえ。護衛と言っても情報防護だろ?」

 

「……確かにそうです……いや、いや! しかしですね……」

 

「物騒なのは嫌いだよ。なあ、もう割り切って研究だけやらないかい?」

 

「クク、そう詰め寄ってやるな。嬢ちゃん。こいつの言ってることは正しいぜ、嬢ちゃんの要求は本来は業務外、律儀なもんだぜ。護衛ってのもな、冗談ではねえ。汝平和を欲さば、戦への備えをせよ(Si vis pacem, para bellum)ってな。山吹と斉藤の9ミリパラベラムは有事にしっかり備えてる。今の平穏をこれからも保つためにな」

 

「……わかってはいるよ」

 

 タキオンを咎めるわけでもなく、いつも通りの軽い口調で助け舟を奥寺が出してくれた。私の努力で回せるものには限界がある。彼女の理解も常に必要だった。業務は何があろうとも完璧に回さなければならない。無邪気に無茶を言ってくるように見える彼女も、やはり負担をかけていることを理解はしているのだ。

 

「俺か? 俺はマグナム弾だ! 悪い奴が来ようものなら文字通り木ッ端微塵にしてやるぜ! やっぱり火力だよな、火力は全てを解決できる。押して開かない扉はマグナムリボルバーでズドンだ。引くまでもねえな。ってコトでよ、俺が一部を請け負う約束はしたが、仕事は真面目にやらなきゃいけねェんだ、ちょっとだけ手加減してやってくれよな」

 

「業務さえ回ればなんだってやりますから、少しの理解をお願いしますよ」

 

「……任せたまえよ。私にだって分別はできる」

 

「ま、嬢ちゃんだって仕事だもんなあ」

 

「最近はペースがすごく良いらしいじゃないですか。あまりにもフローが早くて題目程度しか確認できてなくてですね、手伝っているとはいってもさっぱりですよ。技研の方にいくつか成果を提出したと聞きましたが」

 

「ああ、そうとも。私が提出したプランのほとんどが実用段階に進んでいると記憶しているよ。発光ジャイルスを用いた省エネルギー能動光学迷彩、コヒーレンス増幅装置を用いた長距離ワイヤレス電力リレーの二つは特に自信を持って送り出したテーマさ。後者はすぐにでも役に立つのではないかねえ」

 

 後者は私の本来の職場の方でも話題に上がっている。ワイヤレス電力リレー、なにをリレーするのかと言えば、軌道エレベータの送信する電力だ。莫大な電力を、軌道エレベータから見える半球の向こう側に送信可能になる。減衰と照準が高難易度で、まだどこも実現していないが、この研究で実現の目処がたった。軌道エレベーターの電力はエネルギー問題に対する直接的解決策になりうる強力なカードだ。日本に融通される電力の使い勝手はこちらで決められるのだから、こちらがそれを又売りしても問題はない。役に立つとはすなわち外交。面倒(高度に政治的)な話だ。

 くれぐれも使い道は考えて欲しい、とタキオン。少し前の大きなテーマ、超伝導体についての研究は送り出して一ヶ月でレールガンになった。防衛装備庁の手際は恐ろしく良い。それを否定するわけではないものの、もっと夢のあることに使って欲しいと彼女は言う。手厳しい。大人の事情というものを説明したところで、彼女をはそれを分かった上で言っているのだろう。

 

「そういえば、もう一つ、これはそこまで大きく進めているものではないのだが……放射性物質を能動的に捕集するバクテリアの研究がだいぶ進んでいる。火山中から採集された特殊な細胞質を持ったバクテリアを誘導変化させたもの……もしかすると放射能汚染を無効化しうる画期的な生物マシンになるかもしれない。驚異的なことに、従来の理論では説明できないレベルで放射線を遮蔽するんだ」

 

「小さなバクテリアがね」彼女は大仰に手を振って続ける。

 

「今のところの見たてでは電磁波を含めたあらゆる放射線を緻密に凝集した複数層のアモルファス状タンパク質膜で捉え、利用可能な化学エネルギーに変換するのではないかと考えているよ。そのエネルギーで加速度的に増殖してクラスターを形成し、放射線が感じられなくなるまで滞留するようだ。エネルギー収支がマイナスになると最低限の個体を残して休眠状態に入る。放射能問題に対するまさに理想的な生物なわけだねえ。人体と人類社会に対する影響などを含めて未だ実験中だが、私としては復興困難区域の解消、そして残留放射能症候群の被害者を減らせるのではないかと期待しているんだ」

 

「……残留放射線症候群の解決、ですか。また大きなテーマですね。すごいですよ。本当に」

 

「余剰なエネルギーは光にして排出する。綺麗な青色だよ。ぜひ今度見せよう」

 

「是非に」

 

「───ねえ!! 見つけてるなら連絡してよ!!」

 

 タキオンが温めている壮大な研究を教えてくれたところで、しばらく前に行方不明になった人が合流した。感傷をぶち壊された気分だったが、随分と疲れた調子の斉藤を見て、何か言うのも可哀想になってしまった。今の今までずっと探し回っていたらしい、ご愁傷様である。連絡とはいうが、そちらからすればいいではないかと思い、携帯端末をチラリとみたが、大量の着信履歴があった。気づいていなかった。

 

「悪い悪い、じゃあ予定通り揃ったな」

 

「僕としては狂いに狂った予定だけどね!!」

 

「怒んな怒んな、アンガーマネジメントだ。アーユーオーケー?」

 

「そうだぞ斉藤くん。怒りの感情は体に対して様々な悪影響をもたらすんだ。血圧、動悸、息切れ、頭痛等々。よくないよ。技研で開発している鎮静薬の治験でも受けてみるかい?」

 

 ここぞとばかりに煽る奥寺とタキオン。斉藤はまた何かを言おうとしたが、そこで一度言葉を飲み込み、幾分か温度の冷めた表情で一言「いや、結構」張り合ってもしょうがないことは明白。斉藤は軽薄に見えるが冷静である。それにしても奥寺たち、子供かってんだ。ああいや、一人は子供だった。

 まだ何もしていないのに疲れている同僚を加えて再び進み、目的地に到着する。ピアノのホール。タキオンをおろす。

 

「何をするかというとですね。久しぶりに全員暇そうだったのでね。楽器でも弄り回そうかと。一般よりは皆できるはずですから。自室で練習してもらいました」

 

「おや、おやおや。それは素晴らしい! 鑑賞は私独り占めということかい?」

 

「おう、期待しとけよ。サプライズだ」

 

「君が楽器をできる側の人間なのが意外だよ。人は見かけによらないねぇ」

 

「意外だってさ、ハハ」

 

「うるせえ、趣味なんだよ」

 

「さ、準備準備。さっさとな。観客さんを待たせるなー」

 

「そうだそうだ、準備をしたまえ」

 

 タキオンの急かしに各々適当に返事をしつつ、それぞれの楽器を構える。奥寺ヴァイオリン。斉藤はサックス。各々音を響かせてみて、楽器の調子を確かめてから、こちらに頷く。私は鍵盤に指を置いた。せっかくの余暇。一旦面倒なことを考えるのをやめ、タキオンが喜んでくれることを願おう。

 

「では、始める」



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文書LOG-20■■-04A-1769(内閣情報調査室データストレージ-アーカイブ-A47ラック)

【文書LOG-20■■-04A-1769(内閣情報調査室データストレージ-アーカイブ-A47ラック)】

 

【企業調査記録(簡易急報)No.1769-0-繁华密科技公司】

 

【注意:本文書は現在調査中の対象に対する簡易報告書であり、情報は更新される可能性がある。文書番号を確認し、更新状態を確認せよ。】

 

 

 20■■年■■月■■日に発生した繁华密科技公司(Fan Hua micro tech)(以下ハンファー社)所属航空機と思われる未確認機の領空接近事案を受け、当該組織に対する詳細調査が開始された。中国大陸内部調査は戦後において前例がなく、諜報員の派遣は安全保障上の問題より不可能なため、長期的な調査となることが予想される。本報告書は通信傍受、および近隣諸国等の情報より構成した簡易報告第一報である。

 

i. 注意事項

 本報告書は第一級国家機密に指定され、この文書の存在も機密対象である。取り扱い、記載情報の伝達について厳重な管理を求める。

 特に許可のないものの閲覧、物理媒体への出力、複製・複写等を厳重に禁ずる。違反者は対処担当者によって即座に特定され、処分される。

 また提出3日後に本文書は自動でアーカイブされ、数値等重要箇所はマスキングされる。マスキングを除去した状態での文書閲覧は、レベル3文書閲覧規則に基づき、内閣総理大臣、情報大臣、内閣情報調査室長いずれかの許可が必要である。詳細については規則を確認せよ。

 

ii. 報告

 ハンファー社は旧上海市を中枢とし、内陸に向かっておおよそ半径550kmの円状領域を支配する軍閥組織である。企業としての運営も実際に行われているが、経済圏が完全に内側で閉じているため地域一帯の政治的支配の手段の一つであると考えられる。衛星より確認された都市構造、および公共交通機関等から推察されるインフラストラクチャ実装状況は極めて進んでいると予想され、国家に準ずる民主的運営が行われているようである。空撮写真(1769-24)を参照せよ。より詳細な経済活動調査のため、衛星使用許可の延長を要請する。

 また、別セクションにおいて前述の領空接近事案についての調査が進行中である。西方より飛来した不明機は国防空軍による迎撃行動に対して500kmほど並行に飛行し、現在解析中なれど不明な信号を5回ほど繰り返した後、マッハ3の速度で東方へ飛行。当該時刻は大陸上空の雲量が多かったため詳細は不明だが、ハンファー社支配地域に着陸したものと思われる。

 当該機体の型番については通信よりY-55、もしくはJ-75と推定。対熱電コーティングと思われる塗装のため内部構造は判明せず、搭乗員の有無は不明。ハンファー社が設計製造したと推察される不明機は戦術偵察機、もしくは戦術電子戦機であり、形状分析を行なったセントラルコンピュータおよび国防省中央電算体は“非常に優れた空力形状を持つ。キャノピーを廃して光学センサのみで飛行する形態は非常に先進的であり、推定無人機。高度な技術力”と評価しており、技術水準について“我が国が有利なるも差異は小さい”と結論した。現在も機体形状についての解析は実行中。

 

iii. その他資料

 周辺諸国で発見された当該企業の製品、および漂流物から復元されたハンファー社ロゴ

 

【挿絵表示】

 

 

iv. 補遺

 調査における衛星軌道の変更において米国衛星との調整が必要な事案が多数発生。米国が同様の調査を行なっている可能性あり。

 

20■■-■■-■■/■■:■■  内閣情報調査室■■■■部■■■■係 ■情報官

 

【LOG-END】



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