自分以外誰もいない状態でジャングルに投げ出され、異世界の無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に冒険者たちに助けられた中身が日本出身の爺な竜娘の生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述 (野良野兎)
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無人島サバイバル編
おはようジャングル


TS人外娘がディ〇〇バリーして生きる為に四苦八苦する作品が書きたかった。

TS褐色ロリジジイモン娘とかもうこれわかんねえな……。


 目が覚めたら全裸だった。

 あ、いや、目が覚めたらそこは深い森の中であった。

 かなり混乱している。だが、これほど特殊な状況に遭遇すれば、誰だってこうなるだろう。

 それこそ、パニックになって泣き喚かないだけまだマシなのかもしれない。

 高い木々、苔むした岩や地面、それらに巻き付く蔓状の植物。足元にはシダ系の葉が生い茂り、湿り気を帯びた空気は肌に張り付くようだ。

 頭の上で、ぎゃあぎゃあと聞いたことのない声で鳥たちが騒いでいる。

 まさしく絵に描いたような熱帯雨林(ジャングル)

 そのただ中で、私は目を覚ました。

 全裸で。

 訳が分からない。

 脳裏に過るのは、ここで目を覚ます前、最後に見たあの光景。

 見慣れた我が家の天井、穏やかな日差し、傍らで手を握り寄り添う最愛の人、家族たち。

 九十と六年。

 自分で言うのも何だが、大往生であったと思う。

 好きなように生き、やりたいことをひとしきりやって、美人ではないが気立ての良い妻と出会い、ひ孫の顔まで拝んで。

 幸せな人生だったと、そう思う。

 そうして特に苦しむこともなく安らかに逝ったと思った矢先、これだ。

 

「天国、にしては随分と泥臭い場所だなあ」

 

 どう聞いても年寄りのしわがれたものではない、若い女の声。

 どことなく孫を思い出す、鈴を転がしたような澄んだ声である。

 そっと喉を撫でれば、(しわ)一つない絹のような肌と、少し力を籠めれば手折れてしまいそうなか細い首とがそこにあった。

 指もしなやかで、体つきもすらりとしていてくびれた腰などが実に健康的だ。

 肌は日に焼けたのか程よい土色で、水銀を溶かし込んだような美しい髪が尻の辺りまで伸びている。

 鏡がないので顔つきまでは確かめようがないが、身体つきを見るに十代初めから半ばほどの瑞々しい肉体だ。

 その美しい肉体の中に紛れ込む、明らかに人のものではない部位が複数。

 頭と背中、尻、そして両足である。

 頭頂部にあるのは、手触りからして山羊のような凹凸のある大きな角だろうか。

 私の腕ほどはある太く長い角が、こめかみよりも少し上の辺りから額の少し前まで、波打ちながら伸びている。

 そして背には蝙蝠のような皮膜に覆われた翼――これはいくつか傘のように骨が入っており、広げれば背丈ほどの大きさになる――があり、尻のところには黒曜石のような美しい鱗に覆われた、トカゲのそれに似た太い尻尾が生えていた。

 さらに不思議なことに、翼と尻尾はまるで第三の腕や足のように、自在に動かすことができる。

 仕組みはさっぱりわからないが、動かそうと意識するとその通りに動くのである。これが実に驚きで、九十年以上生きてきて初めての経験であった。

 そしてさらに驚きだったのは、足である。

 尻尾と同じく黒曜石の鱗で覆われたそれはもはや人のそれではなく、さらには指が五本ではなく四本、それぞれがナイフのような鋭い爪を持ち、まるでカメ、いや、怪獣のようなものになっている。

 骨格もどちらかといえば獣のそれで、人でいうかかとの部分が少し地面から離れた位置についている。

 常につま先だけで立っている状態といえば伝わり易いだろうか。その状態でいて、人の頃とまるで安定性に変わりがないのだからなおさら驚きだ。

 外見的には人と、創作などに登場する竜との合いの子、といったところだろうか。

 しかしまた、なぜこんな珍妙なことになってしまったのか。

 まず思い至ったのが輪廻転生、生まれ変わり。だがこの場合、肉体は赤ん坊か、あるいはもっと幼いものであるはず。

 ちょうど年頃の、うら若い肉体に突然じじいの魂が宿るなどと、そんなことがあり得るのだろうか。いや、一度死んだ筈の男がこうして生きている時点で、とうの昔に常軌を逸しているのだが。

 あるいは、私にはまったく、これっぽっちも覚えがないことではあるが、万が一、億が一に、このくたばったじじいが何の気の迷いか悪霊やら、怨霊やらに成り果てて、このうら若き一人の少女に乗り移ったのではないか。

 もしもそうであったなら、私はこの娘っ子の親兄弟に申し訳が立たぬ。

 あるいはこれが泡沫の夢であり、本来の私はまだあの病室でお迎えを待っているのではないだろうか。

 ある意味ではこれが一番納得のいく答えであり、そうであってほしいと願う自分も確かにいるのだ。

 だがこの肌に感じる空気も、足の裏から伝わる地面の冷たさも確かに現実のものである。

 ばっさばっさと翼を動かし、尾をくねらせながらうんうんと唸ること数分。

 どうにも結論が出ないので、私はとりあえずやらねばならぬことをやろうと、潔くその問題を後回しにしたのだった。

 自分が何者であれ、まずはここがどこなのか調べなくてはならない。

 日本、ではない。間違いなく。

 観葉植物のようなものがいくつも自生しているようだが、私の両手ほどはあるだろう大きな葉をつけたシダ系のものなどは国内では見たことがない。

 そもそも、今の私のように背に翼を生やした人間がいればとっくの昔に世界的な騒ぎになっていることだろう。

 日本ではない。あるいは、地球ですらないのかもしれない。

 今まで生きてきた世界とは異なる、まさしく異世界と呼べる場所。

 幸いなのは、自生する植物が自分の記憶にある地球のものと大差ないことだろうか。

 試しに足元にあった石をひっくり返してみれば、小さな蟻が何匹も歩き回っているのを見つけることができた。

 どうやら生息する生物にも、そう大きな差異はないようだ。

 もっとも、私の姿を見る限り、他の大型動物まで地球と同じ姿かたちをしているかどうかは怪しいところであるが。

 もしかすれば豚や馬に羽が生えていたり、恐竜のような生物がいるかもしれない。探索には細心の注意が必要だろう。

 

「ともあれ、ここで呆けていても埒が明かんな」

 

 もうすっかり綺麗になった顎をつるりと撫で、重い腰を上げる。

 目的地は高台、もしくはある程度の高さの山があればありがたい。

 ともかく、周辺が一望できるような場所が望ましい。

 まずは己の置かれた状況を正しく理解しなければ、あるのはただただ無意味な死だ。

 自分一人の命であるのならば、こちらは一度死んだ身だ。甘受できるものではないが、ある程度受け入れることはできる。

 しかしこの身は見知らぬ娘のもの。無為に終わらせてしまうのはあまりにもこの娘に申し訳が立たぬ。

 仮に借り物であるのならば、大切に扱ってお返ししなければ失礼というものだろう。

 

「しかし見通しの良い場所、となると……」

 

 ぽつりと呟き、私は視線を背後に向ける。そこには一対の大きな大きな翼があった。

 浮力だとか、物理学だとか、そんな難しい話は私にはわからないが、これだけ立派な翼だ。まさか何の意味もなく付いている訳ではないだろう。

 そう、もしこの翼を使って空を飛ぶことができたなら、事態はいっきに好転する。

 周囲の状況を確認することはおろか、うまくいけばそのまま人が住む場所までひとっ飛び、なんてこともできるかもしれない。

 無論、自力で空を飛んだ経験など私にはない。だが物は試しとめいっぱい翼を広げると、その場で数度羽ばたいてみる。

 大きな音と風が生まれ草木を揺らすが、残念ながら体が浮き上がる様子はない。

 ならばと次は軽く地面を蹴り、飛び上がりながら羽ばたきを繰り返すが結果は同じ。唸り声のような音を響かせるばかりで、まるで飛べそうな予感がしない。

 生きる世界が違っても、世の理はそう思い通りにはいかないようだ。

 ため息を一つ、私は空を見上げる。

 生い茂った緑の天井のその向こうで、まるでこちらに呼びかけるように(とんび)に似た鳥の声が響いた。

 ともあれ、飛べないのであれば仕方がない。少しばかり重くなった足で、私はまた森の中を行く。

 幸い、足の裏まで頑丈な鱗で覆われているおかげで、枯れ枝や石だらけの悪路であっても難なく進んでいける。

 まるで分厚い登山靴でも履いているような頼もしさだ。

 

「枝先でも踏んで怪我をすれば命取りになりかねんからなあ……よっこらしょっと」

 

 横倒しになった丸太をまたぎ、ようやく見つけた坂道を上へ上へと進んでいく。

 少し視線を上に向ければ、途中からかなりの急こう配になっているようだった。

 ここを登っていくのはかなり億劫だが、頂上まで行けばかなりの範囲を見渡すことができるだろう。

 よし、と一声気合を入れて、木の幹を掴みながら一歩一歩確実に前へ進んでいく。

 ここでも、足についた大きな爪がさながら登山靴のスパイクのような役割を発揮し、非常に役に立った。

 

「しかし、山登りなんていつぶりだろうか」

 

 地面を這うように伸びた蔓を掴み、体を引き上げながら、気づけばそんなことを口にしていた。

 若い頃には山登りはもちろん、最低限の装備だけを担いで野営なんかもやったものだが、やがて年を取るにつれてその回数は減り、体が思うように動かなくなってからはぱったりと行かなくなってしまった。

 もうかれこれ三十年以上は昔の話になる。

 それを思えば、全盛期以上に力強く、軽やかに動かせる今の体がどれほど素晴らしいことか。

 不謹慎にも心躍り、ついには笑みまで浮かべながら、私はとうとう山のてっぺんに生えていた木を掴み、山頂へと辿り着いた。

 立ち上がり、大きく息を吸うと、得も言われぬ高揚感が胸の中を満たしていく。

 僅かに残る足の怠さ、べたつく汗の不快感が今はとても心地よく、かけがえのないものに感じられる。

 ふう、と息をつき、いよいよこの森の全容を確認するべく私は登ってきたばかりの山道へと振り返った。振り返り、そして言葉を失った。

 

「これはまた、なんというか、ううむ……」

 

 ある程度、予想はしていた。そしてその予想は、半分ほどは当たっていた。

 しかしそれでも、この世界は私の想像など容易く飛び越え、絶句する他ないほどの光景を私に突き付けた。汗ばんだ、少し震える右手で自身の顎を撫でる。

 そこにあったもの。森林の奥に広がるもの。それは海だった。

 辺り一面に広がる青い海。

 白い波が打ち付ける浜は白く、森の深い緑を交えたその三色の景色はまさしく筆舌に尽くしがたい絶景であった。

 だが、私が言葉を失ったのは、私の頭を真っ白に染め上げたのはそれらではなく、さらにその()にあった。

 広がる海原のその向こう。

 本来であれば水平線があるべきそこには、何もなかった(・・・・・・)

 言葉を失う光景だ。

 まるで盆から水が流れ落ちるように、海が空へと落ちている。海の先には何もなく、あるのは白く漂う雲ばかり。昔、旅先で目にした雲海によく似た光景だが、これは明らかにあれとは違う。

 どちらかといえば、そう、飛行機に乗って眺めた時のような、ただ雲だけがある景色。それに似る。

 つまり、この島は、空に浮かんでいるのだ。

 まさしく誰しもが言葉を失い、己の正気を疑うほどの絶景と言えるだろう。

 

「いや、ううん、困った。困ったな」

 

 あまりにも常識外れ、空前絶後、奇々怪々な光景。見たところ煙があがっていたり建物が建っていたりといった、自分以外の人間が暮らしている様子もない。

 ここが無人島である可能性も考慮はしていたが、まさかただの無人島ではなく、空の孤島であったとは。

 たとえ無人島であっても生き抜いていけば万が一、億が一だろうと近くを通った船に見つけてもらったり、船を作って脱出したりと希望はあったのだが、海の外があれ(大空)では全てご破算。

 せめて背の翼が使えれば地上を目指すこともできるのだろうが、先ほどの様子ではせいぜい滑空するぐらいが関の山だろう。

 それではどのみち着地に難があるため、飛び降りているのと大差ない。

 そもそもこの島の下に地上があるとして、ここがどれぐらいの高さにあるのかすらわからないのだ。命を懸ける博打としては、あまりにも勝ちの目がなさすぎる。

 だがここが空の上だとすれば、私が今動かしているこの体はいったいどこからやってきたのだろうか。

 いやそもそも、体付きからしてまだ幼さの残る少女である。近くに親がいてもおかしくはないものだが。

 まさか地面から生えてきたわけでもあるまい。

 何かある。きっと、この島から脱出する方法が。

 

「よしっ、いつまでも呆けている訳にもいかん。今はまず、生き延びることを考えなければ」

 

 両手で頬を張り、活を入れる。野垂れ死ぬつもりはない。せめて、私がどうしてこの体に宿ったのか。

 その真実を知るまでは、死ぬわけにはいかないのだ。道具もなく、水も食料もない。だがそれでも、生きなければ。

 そうして私は、ある場所を探して山を下り始める。

 こういった状況下に置かれた場合、優先すべき三の法則というものがある。

 一つ、人間は適切な体温が維持できなかった場合、三時間で死に至る。

 一つ、飲まず食わずで人間が活動できる限界は三日間。

 一つ、人間が水だけで生きていられるのは三週間。

 三時間、三日、三週間。これらを三の法則と呼ぶ。

 実際にはここに『空気なしで三分間』が加わるが、今回これは関係がないので省く。

 ともかく、現在最優先すべきは三時間、つまりは体温の維持。それを可能にするための拠点、シェルターの作成だ。次いで飲み水の確保、食料の調達が続く。

 理想としては水場が近く、平坦な場所。だがここに来る途中、川のような場所は見つからなかった。

 山頂から確認しようにも鬱蒼(うっそう)ととした木々に遮られ、小さな川などは隠れてしまう。だがあてもなく森の中を歩き回り、何もできないまま日が暮れるという最悪の事態は避けなければならない。

 ゆえに、まずは拠点を作りやすい平坦な場所を探す。そして、可能であれば火も確保したい。

 そんなことを考えつつ、周囲を探索していく。

 ついでにここで、木に巻き付いている蔓も何本か引きちぎり、確保する。

 拠点を作成する際、建材を固定する為に使用するのだが、蔓にはその他にも様々な使い道がある。例えば、そう、身に着ける衣服の材料にだってなる。

 

「いつまでも素っ裸だと、さすがに問題だろうしなあ」

 

 こちとら子も孫もいる、九十を超えたじじいである。今更娘の裸にどうこう感じるほど若くはないが、鋭い枝や葉から体を保護するために、最低限の衣服は必要だろう。

 ともあれ、それほど立派な服ではない。材料には紐代わりの蔓と、木から剥ぎ取った樹皮を使う。

 手ごろな間隔が空いた二本の木に蔓を結び、そこに短冊状に裂いた樹皮を、洗濯物を干す時と同じ要領で吊るしていく。

 そして出来上がったのを腰に巻き付ければ、即席ではあるが腰(みの)の完成である。

 この娘っ子の体には申し訳ないが、時間がないので上着(・・)はまた後日作ることにする。

 なんとも、まさしく野生児といった恰好ではあるが、これがあるだけでも随分と気が楽になる。

 腰回りに草木の葉が当たる不快感もなくなるし、なにより羽虫に(たか)られる心配がなくなる。

 肌の上を虫が這うあの(おぞ)ましさといえば、例え慣れたとしても堪え難いものだろう。

 さて、気持ちばかり文明人に近づいたところで探索再開である。

 木々をかき分け、時折ぎゃあぎゃあとわめき散らす鳥たちを仰ぎ見ながら、ぼんやりと思い浮かべるのはかつて愛した家族たちの顔。

 息子、娘たちは元気にやっているだろうか。それなりの遺産はあった筈だが、苦労はしていないだろうか。

 本来の肉体はしっかり火葬され、埋葬されているだろうから、私が生前の私(・・・・)として彼らに会うことはきっともうないのだろう。

 しかし、だからといって、はいそうですかとあっさり忘れられるほど、私はできた人間ではない。

 十分に生きて、何の未練もなく逝ったつもりではあったが、何ともまあ、我ながら未練がましいことだ。

 しかしもう随分と歩いてみたが、いまだに川や泉はおろか、水音すらも聞こえてこない。

 目に入るのはあいも変わらず木、木、木である。少しばかり樹相も変わり、目が覚めたあの場所に比べれば湿気もマシにはなってきた気がするが、森を抜けられるような気もしない。

 背が高く、大きな枝葉が頭上を覆っているのではっきりとはわからないが、日も少しずつ傾き始めている。この調子では、あっという間に日が暮れるだろう。

 まだ水も食料も見つからず、火も起こせていないが、今日はこのあたりで丁度いい場所を探し、野宿の準備を始めるべきだろう。

 何が出るかもわからない森である。真っ暗闇の中を探索し続けるのは、あまりにも無謀と言えた。

 ぐるりと辺りを見回し、寝床にできそうな場所を探る。

 注意すべきは虫や蛇など、毒を持った生き物だ。直接地面に横になるのは避けた方が良いだろう。枝が少なく、それでいて身体をすっぽりと隠せるような太い木が理想的だ。

 そうして寝床を探しながら少し歩いていると、運がいいことにそれらしい大木を見つけることができた。

 優に二十メートルはあろう高さに、今の私が両手を広げて五人分はありそうな太さの立派な大木である。

 根もその巨体に見合ったもので、私の腰ほどの高さまで盛り上がった大きな根が放射線状に広がっている。

 根と根の間に積もった落ち葉を掻きだしてみたが、蟻や蜂、蛇の寝床にもなっていないようだ。

 寝床にするには、うってつけの優良物件であった。

 

「よし、今夜はここで休むとしようか」

 

 ともあれ、少しばかり場は整える必要がある。

 雨が降るかも知れないし、この森が夜間、どれだけ冷え込むかもわからないのだ。

 まずは適当な枝葉を集め、寝床へと敷き詰めていく。虫除けとしては心許(こころもと)ないが、無いよりはましだろう。

 次は根と根の間に枝を渡し、その上にまた葉を折り重ねる。

この巨木と小柄な今の身体だからこそできることではあるが、一夜を過ごすには十分すぎるシェルターが完成した。

 それからさらに草木を集め、根の間に体を滑り込ませた頃にはもう日はすっかりと暮れてしまい、辺りには星明りすら届かない、本当の暗闇に包まれてしまっていた。

 集めた草木を掛け布団代わりに被せながら、私はすっと目を閉じる。

 不気味な鳥の声。揺れる枝の音。木々の間を吹き抜けるぬめりとした風が鼻先をかすめ、泥臭い匂いに思わず顔をしかめた。

 どうにも、安眠などできそうにもなかった。

 

 




ちまちまと書いていた、あったら読みたい設定の作品です。

そうです、私の趣味(性癖)をぎゅっと閉じ込めております。

元々縦書きで書いていたものなので、少し読みにくいところもあるでしょうが、

気に入っていただければ幸いです。


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拠点作り

 

 熟睡とは程遠い朝であった。

 さもありなん。雨露を凌げる場所とはいえ、寝床はお世辞にも寝心地が良いとは言い難く、身に着けるのは原始的な腰みの一枚。

 自前の翼で身体を包んでいくらかましにはなったものの、それでも日が昇るまでは芯が冷える寒さであった。

 さらに気が気でなかったのは、時折寝床の周りから聞こえてくる物音である。

 どうやら己は自覚していたよりも遥かに消耗していたようで、草木が発する僅かな葉擦れから川音、虫の羽音に至るまで、ほんの僅かな音でさえ身体が過敏に反応し、意識を微睡みから引き戻してしまう。

 柔らかな布団と藺草(いぐさ)の香りが恋しいと思いつつ、己が不甲斐なさを悔いる長い長い夜であった。

 

「やれやれ、初日からこれとは我ながら先が思いやられる」

 

 ぐっと拳を突き上げるように伸びをして、そう独り言ちる。

 ぐう、と腹の虫が鳴った。それと、僅かにこめかみの奥がじんじんと鈍く痛む。

 空腹なのはともかく、頭痛は無視できない。おそらくは軽い脱水症状だろう。昨日寝覚めてから何も飲んでいないのだから、無理もない。

 どうやら今日も今日とて、水場を探して歩き回ることになりそうだ。

 

「ありがとうな、おかげさんで助かったよ」

 

 一宿一飯の恩義というが、返せるものと言えば礼ぐらいのものである。

 一晩世話になった大木に手を合わせて頭を下げると、すっと髪を梳くような爽やかな朝風が吹き抜けていった。

 ははっ。

 何やら心地よくなり、思わず笑みが漏れる。

 悪くない。

 腹も空くし喉も乾くが、悪くない気分だった。

 さて、挨拶も済ませたところでぼちぼち出発するとしよう。昨日歩いてきた方向は覚えているので、今日はそれとは違う方向を探索することにする。

 高望みではあるのだろうが、バナナの木や竹なんかが見つかるとありがたい。

 前者はその幹に大量の水分を含んでいるし、後者は空洞になった内部に水を貯めこんでいる場合があるのだ。

 もっとも、日本でもなければ地球ですらないこの地にそういった植物が見つかる可能性はかなり低いだろうが。

 そんなことを考えながら進んでいると、私の耳が鳥の鳴き声や草木の揺れるもの以外のある音を敏感に捉える。

 ちょろちょろと涼しげに響くその音を聞いた途端、私は半ば本能に従うように、その音のする方へと歩きだしていた。

 腹も空き、喉も乾き、これまでさんざ歩き回ったというのに、自分でも驚くほどすんなりと足が前に出る。いやはや、この身体の強靭さたるや、もはや野生の獣顔負けであろう。

 そうしてはやる気持ちを抑えながら視界を遮る枝先を潜り抜けると、そこには我が目を疑うような、望外の景色が広がっていた。

 これまで歩きとおした疲れなど吹き飛ばしてしまうような、鮮やかな青緑色(ターコイズブルー)

 大きさはサッカーコートの半分ほどはあるだろうか。地下水が湧き出ているのか、奥のほうに行くほど水の色が暗くなっている。

 溢れた水が流れ出し川になっており、両手ですくい上げてみれば濁りもなく、異臭もしない。

 できることなら火を起こし、煮沸消毒してから口にしたいところだが、何せ山登りを含め数キロは歩き回ったあとである。今は腹を壊すリスクよりも、喉の渇きが勝っていた。

 ごくりと喉を鳴らし、すくい上げた水を啜る。雪解け水のような冷たさが喉から胸へと広がり、優しく喉の渇きを満たしていく。

 ああ、五臓六腑に染み渡るというのは、きっとこういうことをいうのだろう。

 天を仰ぎ見ながら、私はほうと息を吐いた。

 そうして一息ついたあと周囲を確認してみれば、このあたりは極端に水かさが増すこともないのか、日が照っている場所は森の中のような湿っぽさがなく、足裏からほのかに地面の温かさが伝わってくるほどであった。

 日当たりがよく、小川が流れる開けた場所。

 まさしく探し求めていた、理想的な水場である。

 しかし何より目を引くのは、泉の傍に佇む一本の大樹。

 高さは軽く三十メートル以上はあるだろうか。

 大人五人でも抱えきれないだろう太い幹はところどころ苔むし、乾いてしわくちゃになった表面は、相当な齢を重ねていることを感じさせた。

 どこか懐かしささえ覚えるその肌をそっと撫でると、青々とした葉をつけた枝が風に煽られ、まるで笑い声のような音を奏でる。

 

「自分より年長のものに会うのは久しぶりだ。すまないがちょっとばかり失礼するよ」

 

 周囲に生えるものとは、明らかに種が異なる大樹。

 どこか神聖なものを感じさせるそれに一礼し、私はその根元へと潜り込む。そして自分の予想が正しかったことを確信し、思わず笑みが零れた。

 大樹の根元にあったのは、人ひとりがすっぽり収まってしまうほどの空洞。

 中は思った以上に広く、三畳はあるだろうか。天井に隙間もなく、獣臭さもないので野生動物が寝床として使っている可能性も低いだろう。

 足元に腐った枯草やら落ち葉が積み重なっているが、これらを掻き出して中を綺麗に掃除すれば、十分に寝床として利用できる。

 日はまだ高い位置にあるから、時間的には余裕がある。しかし、だからといって寝床の掃除にすぐさま取り掛かるべきか。

 答えは否だ。掃除は後でもいい。

 運がいいことに、本当に幸運なことに、現時点で雨風をしのげる寝床(シェルター)と水は確保できた。では次に何を求めるべきか。

 火だ。

 火があれば夜に体を温めることができるし、食料を調理することもできる。

 さらに野生動物は火に近づくことを嫌うため、安全の確保にも繋がる。

 この浮島――ただの島と呼ぶにはあまりにも摩訶不思議なのでこう呼ぶことにする――に危険な動物、狼や熊がいるかはわからないが、警戒しておくに越したことはないだろう。

 必要なのは火種を作るための火きり棒と火きり板、そして火種を移して火を大きくするための火口(ほくち)になる枯草などだ。

 これらの道具自体はすぐに見つけることができるだろう。

 問題は湿度だ。先程まで彷徨っていた森の中よりは幾分かましにはなっているが、それでも春の日本程度には高い。

 この湿度の中ではたして順調に火がおこせるのか、正直に言って不安だ。

 さらに言えば、知識はあれど実践などしたこともない。

 しかし、残念ながらここにはマッチもライターもない。やらなければいけないのだ。

 幸い泉の周りは日当たりもよく、寝床と決めた大樹の傍に乾いた倒木があったおかげで道具はすぐに用意できた。

 枯れ枝を丁度よい長さで折って二本の棒を作り、片方は石で成形して先端を滑らかに、もう片方は側面にすり鉢状の溝を作り、ほんの少しだけ切り込みを入れておく。

 あとは棒の先端をすり鉢部分に押し当てて両手でごりごりと回してやれば、棒の摩擦熱で高温になった削りかすに、切り込み部分から入ってきた空気(酸素)が反応して火種ができる。

 きりもみ式と呼ばれる、おおよそ殆どの人が想像するだろう原始的な火おこしの方法だ。

 火口には枯草と、腰みのにも使った樹皮を細く裂いたものを使う。

 ただしこのままでは湿っていて使い物にならないので、しばらくの間は日の当たる泉の傍に石を積み、その上で乾かしておく。

 そうして火おこしの準備を終えた私は、さっそく大樹の洞の掃除に取り掛かる。

 積み重なった落ち葉を一掴みしてみれば、掴み上げた下からむわっとした異臭が立ち昇った。

 下の方にある落ち葉や枯草が腐り、異臭を放っているのだ。

 虫や微生物にしっかりと分解されれば腐葉土となり、立派な肥料になるのだが、これは虫が食ってくれなかったのか、それとも雨水などがしっかりと蒸発せず腐ってしまったのか、どぶ川のような臭いがする。

 よく分解された腐葉土であれば、これほどの悪臭は放たないだろう。

 しかし、一度しっかりと乾燥させてやればそのうち肥料として利用できるかもしれない。

 この場所で畑まで作るかはわからないが、保存しておいて損をすることはないだろう。

 だが出せども出せどもまるで減らない落ち葉の山に、私は額に浮かんだ汗を拭いながら大きく息を吐いた。

 大樹の裏に積まれた落ち葉の山は、もはや私の背丈に届かんばかりである。

 さもありなん。何年積み重なってきたかも計り知れない、三畳分の落ち葉である。

 それだけでも辟易とする作業であるのに、しだいに洞の中に充満する腐った土の臭いといったら、まさしく鼻が曲がりそうなほどである。

 さらには落ち葉を取り除く際、毒蛇や毒虫が潜んでいないか細心の注意を払いながらの作業であるので、神経をすり減らすことこの上ない。

 だが、この浮島に病院や薬局の類があるとは思えず、薬や血清など夢のまた夢。

 不用心から噛みつかれ、毒をうけてしまえば治療もできず、ただただのたうち回り、死を待つしかない。

 当然であるが、一度死んだ身ではあっても死にたがりの阿呆ではないのだ。避けられるのならば、いくら手間がかかろうとも避けるべきである。

 結局、洞の大掃除が終了し、寝床となる一角に新しい枯草を敷き詰めたころには日は傾き、空は茜色に染まっていた。完全に日が沈むまで、あと一時間もないだろう。

 だがひと仕事終えて気が緩んだのか、ぐう、と腹から情けない音がする。

 目が覚めてから何も食べていなかった為、たまらず腹の虫が抗議の声をあげたようだ。

 ともあれ、申し訳ないが食の問題はひとまず後回しにせざるを得ない。

 雨露をしのぐ寝床が完成した今、次に優先すべきは火の確保だ。

 乾かしておいた枯草と樹皮を確認すれば、数時間日光に晒したそれらはよく乾燥しており、火口(ほくち)とするには十分な状態になっていた。これで準備は十分。

 あとはひたすら体力、気力勝負だ。

 よし、と私は気合を入れたあと、先ほど(こしら)えた木の板を足の裏で押さえ、手のひらに唾を吐いた。これで少しは滑り止めの代わりになるだろう。

 そうして片膝立ちの状態で木の棒の先端をすり鉢状の穴にあてがうと、それを両手で挟み込んでごりごりと回していく。

 ごりごり。

 ごりごり。ごりごり。

 ごりごりごりごり。

 一心不乱に、木の棒を回す。

 火よ灯れ、火よ灯れと念じながら、茜色の空が暗くなり、暗闇に虫が鳴き始めるまで、回す。

 回す。

 回す。

 

「かあっ、なかなかうまくいかんなあ!」

 

 じとりと身体に汗をかき始めた頃、私は胸にため込んだ息とともに四肢を投げ出した。

 頭上には爛々と星が輝き、その光の瞬きはまるで四苦八苦する私を見て笑っているようであった。

 煙は出るし、焦げるような匂いもする。あと一息というところまではできている気がするのだが、そのあと一息が上手くいかない。

 何かこう、肝心なところで間違えているような、そんな違和感があるのだ。

 力の入れ方が悪いのか、それとも道具が悪いのか、あるいはその両方か。

 

「いっつ、これはまた、ひどいな」

 

 鋭い痛みに顔をしかめる。見れば、両手に真っ赤な血まめがいくつも出来上がっていた。男の頃と同じ力加減でやったせいだろう。

 人間離れした姿形をしていても、女の柔肌には違いないのだ。明日からは、この身体の使い方も覚えていかなければならない。

 月明かりだけを頼りに川の水で手を洗い、裂けてしまった手のひらを舐める。

 一見すれば汚く感じるかもしれないが、唾液にはリゾチームなどの殺菌作用を持つ成分が含まれている。

 さすがにちゃんとした薬と比べるべくもないが、これでなかなか馬鹿にはできない。何よりも、何もしないよりはマシだ。

 じんわりと熱を持つ手を振って水気を飛ばしながら、火口を乾かす時に利用した倒木へ腰を下ろす。

 空を見上げれば、文字通り満天の星空が所狭しと輝きを放っていた。言葉を失い、思考を放棄するほどの絶景。

 陳腐な言葉にはなるが、それはまさに夜空に宝石を散りばめたような、心奪われる光景であった。

そして何よりこの島自体が空に浮かんでいる為か、星空が驚くほど近くに感じる。

 それこそ、手を伸ばせば届いてしまいそうなほどであった。

 だが、私が真に目を奪われたもの。それは何も、その美しい星空だけではない。

 頭上に輝く星空のその向こう。黄金の輝きを放ち、弓なりになった月。生前の記憶にあるものよりも巨大な月の、さらにその向こう。

 欠けた月の隙間を埋めるように寄り添う、もう一つの月(・・・・・・)

 

「ううむ、これはまた、驚いた……」

 

 馬鹿のように口を開けたまま、私は奇想天外な光景を見上げ続ける。

 手のひらの痛みは、いつの間にか消え失せていた。

 



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探索と果実

 

 木々の間から差し込む朝日が冷え切った身体を優しく包み、私は背の翼を目いっぱいに広げながらその温かさを余すことなく受け止める。

 そうして十分に身体を温めたあと、気付け代わりに泉の水で顔を洗う。一度、二度、すっかり可愛らしくなった手で水をすくっていると、そこでふと気が付いた。

 

「これはまた、驚いた」

 

 昨日火おこしをしようと格闘した際、両手にできた肉刺(まめ)がすっかりなくなっていた。治癒した、というにはあまりにも早く、あまりにも綺麗すぎる。

 まるで初めからそんなものはなかったかのように、そこにあるのは傷一つない、白魚のような美しい掌であった。

 やはり見た目通り人ではない、ということなのだろう。どういう原理なのかはさっぱりわからないが、都合がいいことには変わりない。

 手を振って水気を飛ばしながら、私はじっと水面を見つめた。僅かに揺れるその奥で、土色の肌をした少女が、深紅の大きな瞳で同じようにこちらを見つめている。

 爬虫類を思わせる縦に裂けた瞳孔。頬に張り付く白銀の髪が輝き、長いまつ毛から滴った水滴が水面に小さな波紋を作る。

 少女の鏡像が揺らめいて水面に消えると、ぐう、と可愛らしい音が鳴った。

 

「腹が減ったなあ……」

 

 火はまだ起こせていない。故に水も食物も加熱して殺菌することができず、肉や魚を手に入れたとしても、そのまま生食すれば食中毒や寄生虫のリスクが付きまとう。

 しかし、火を起こす為の体力が必要なのもまた事実。さすがに魚介類や生肉は避けるべきだろうが、果実などであればまだ危険性は低く、比較的安全だろう。

 私は川の水で軽く喉を潤した後、火おこしの際に必要な薪と枯草を日向に干してから探索へ出発することとした。

 目的地は海岸、川沿いに進んでいけば、深い森の中であっても迷うことはないだろう。

 しかし驚くべきは、この身体の健脚ぶりである。足裏は固く、川辺の尖った石の上を歩いてもちくりとも痛まない。

 半日歩いても息切れしない程度には、体力も底抜けだ。

 これで腕力もあればサバイバルにおいて有利であるが、外見的には十五も超えていないような少女の身体にそう期待するのも酷であろう。

 サバイバル環境において過信、慢心は命取りだ。

 

「だがせめて、肉刺(まめ)ができない程度にはこっちも頑丈であればなあ」

 

 そう呟きつつ前を遮る小枝を払えば、私の小さな耳がこれまでとは違う水音の様子を耳ざとく捉えた。

 小川のような穏やかなものではない、いくつも桶をひっくり返したような激しい水音。

 自然界でこのような音が出る場所などそう多くない。

 その音を耳にして、老いて枯れ果てた筈の男心が僅かに弾む。

 枝をかき分け、視界が開けたそこにあったのは小さな滝。

 私が両手を広げた程度の川幅ではあったが、一段、二段と分けて流れ落ちるその様は、男心をくすぐるには十分すぎる光景だった。

 辺りに漂う霞が肌をしとりと濡らし、髪が腰に張り付く。

 高さは今の私の背丈ほど、滝つぼ付近も腰が浸かる程度のもので、水浴びにはもってこいの場所だ。

 だがそれ以上に、こういった場所には魚が集まりやすいので罠を仕掛けるにも適しているだろう。

 事実、傍から目を凝らすと水中できらりと光るものがいくつも見受けられた。

 木漏れ日が魚の鱗に反射しているのだ。

 可能であれば罠を仕掛けるか、釣り上げるかしたいものだが、残念ながら今は道具がないし、火も起こせていない。

 課題はまだまだ、山のように残っている。

 肌に張り付く髪を指先で弾き、口元に笑みが浮かぶのを抑えられずに私はまた歩を進めた。

 不安がないわけではない。だが、私は奇跡的にも素晴らしい環境に巡り合えた。

 頑丈なシェルターを手に入れ、水場が近く、魚や木の実、果実が獲れれば食料も問題ない。

 あとは火さえどうにか用意できれば、盤石とは言えずとも最低限生存できる程度の生活を送ることも夢ではないだろう。

 そうして、さらさら流れる心地よい川音を聞きながらどれぐらい歩いただろうか。

 深い茂みからようやく抜け出た私をこれまでにない強い日差しが照り付けた。

 思わず目を細め、手で(ひさし)を作ってゆっくりと辺りを見回せば、そこは白々と広がる美しい砂浜であった。

 寄せては返す波の音。鼻先をくすぐる潮の匂い。まったく手付かずな、処女雪のように美しい浜辺を歩けば、太陽に優しく照らされた心地良い温かさが足裏からじわりと伝わってくる。

 目の前に広がる原始的な絶景に言葉を失いつつも、私の興味は別のことになった。

 非常に非現実的で未だに信じられないが、この島は空に浮かぶ天空の孤島である。

 山から辺りを確認した際、彼方の水平線の向こうには雲が広がり、海がその縁から流れ落ちていく様を、私は確かに見た。

 にも拘わらず、この砂浜にはそんな事実などなかったかのように平然と波が打ち付けており、水位もまるで変わる様子はない。

 あれだけの水量が島の端から流れ落ちているのにもかかわらず、だ。質量保存の法則を完全に無視した、物理学者が見れば卒倒しそうな光景である。

 だが海が枯れず、生前の世界と同じような姿であるのならば、そこから得られるものもまた、相応に期待できるというもの。僥倖、実に僥倖だ。

 魚介類に海藻類、塩。海がもたらす恩恵は、それこそ数えきれない。

 そして、期待に胸を膨らませる私の前に現れたのは、海の幸とは言えないが、南国の砂浜ではお約束ともいえる、その植物。

 陸から海岸にしなり、首を垂れるその植物は太い幹を持ち、頭の方には扇状に裂けた大きな葉をいくつも付けていた。そしてその葉の根元に丸々と肥えた、ラグビーボールほどの大きな実をつけている。

 南国ではお馴染みの、ココナツの木だ。

 まさかと目を疑ったが、縄を巻き付けたような独特の縞模様も、天辺から広がる大きな葉も記憶にある姿そのままで、まず間違いはないだろう。

 どうして生前の世界の、地球の植物がそっくりそのままと首を傾げはしたが、とりあえずはまあ、それはまた考えるとしよう。

 肝心なのはあの瑞々しい、いかにも美味そうな青い果実をどうやって手に入れるかだ。

 木の高さはおおよそ十メートルほど。垂直ではなく、少し海側に傾いているため登ろうと思えば何とかなりそうだが、万が一足を滑らせて転落すれば無事では済まないだろう。

 胡坐をかいて座り込み、ううむと唸ってココナツの実を見上げること数分。

 木から落ちて怪我をする恐怖よりも、先程からやかましく主張する腹の虫が勝るまでそう時間はかからなかった。

 要は、落ちなければいいのだ。

 そんな適当な誤魔化しで恐怖心を薄れさせながら、私はココナツの木に手をかけた。右手、左手、そして右足を幹に引っ掛けたところで、私の身体が完全に地面から離れる。

 そうしておっかなびっくり木登りを始めた私だが、いかんせん本来人間が持たない余計なもの(翼や尻尾)があるおかげで、バランスをとるのがなんとも難しい。

 右にふらふら、左にふらふら。

 足が人間のものとは違う、木登りに適していない形状をしていることも相まって、気を抜けばすぐにでも滑り落ちてしまいそうな不安定な状態に、冷や汗が流れる。

 だが食料を目の前にして、諦めるという選択肢は既にない。一歩一歩。じわりじわりと縮まる距離。

 やらなければ、あと少し、あと三歩ほど。手を伸ばせば、届く距離。

 ぐっと力を籠め、震える指先を必死に伸ばす。

 ほんの少しの焦り、不注意。

 それがいけなかった。

 あっと言う間もない。ぐるりと半周する視界。全身から血の気が引く感覚。体全体に、地面に叩き潰さんとする力が加わる。

 しっかりと掴んでいたはずの左手が離れる。

 爪先で幹を引っ掻く。足先はまるで役に立たない。

 トカゲのようなつま先は、物を掴むには余りにも不向きであった。

 落ちる。

 だが覚悟を決めたその瞬間、がくりと何やら身体を引き留めるような力が働き、私は四肢を投げ出したまま宙にぶら下げられる格好となった。

 髪も腰みのも逆さになった阿呆のような格好ではあるが、何故だかわからないが、地面に叩きつけられる惨事は避けられたようである。

 いったい何がどうなったのか。未だ混乱する頭を懸命に働かせながら、私は視線を頭上――今の状態では足元になるが――に向ければ、そこには太い幹にしっかりと巻き付いて離さんとする尻尾の姿。

 どうやらこれが無意識のうちに木の幹を掴み、命綱の役割を果たしたようだ。

 まさに九死に一生。猿のような使い方ではあるが、助かったのなら文句はない。

 尻尾様様である。

 だが、ここからがまた一苦労だ。

 逆さまになったまま、私はぐっと腹に力を入れて上体を起こし、手を伸ばす。

 

「よっこら、せい!」

 

 ぐっと伸ばした指先、あと少しで掴めそうなそれを助けたのは、またもや人間の身体にはないはずの器官だった。鱗が生えた、目一杯広げれば両手よりも大きな翼。

 その半ばにある鋭い爪が、三本目の腕として木の幹を引っ掻かり、ほんの少しばかり私の身体を引き上げたのである。

 そのおかげで私は幹をしっかりと掴み、身体を木の上へと引き戻すことができた。

 なんとも奇妙な感覚である。本来持ち得ない器官であるにもかかわらず、それが当然かのように無意識のうちに動かし方を、使い方を理解している。

 そう、まるでこの身体が、長年連れ添ってきた慣れ親しんだものであるかのように。

 この肉体の本来の持ち主、その魂の影響か。あるいはそんなものなど元から存在せず、この肉体に私自身が順応し始めているのか。

 いや、今はそんな小難しいことを考えている場合ではない。今はただ、生きること、生き永らえることにこそ集中すべきだ。

 今度はうっかり足を滑らせないよう、しっかりと幹を掴みながらじわりじわりと木を登っていく。

 尻尾を木の幹に添わせるように張り付け、翼を身体よりも下げることでかなり重心は安定するようになったが、見た目も相まってまるでヤモリにでもなったような心持ちである。

 だが、うむ、これはとても便利だ。素晴らしい。

 使い方を覚えてしまえば、自在に動かせる腕が二本、尻尾を含めれば三本増えたようなもの。

 さらに尻尾はもちろんのこと、翼の方も見た目以上に頑強にできているらしく、自分の体重程度ならば余裕で保持できてしまいそうだ。

 そうしてゆっくりと、しかし危うさを感じないまま私はココナツの実が成っている場所まで登りきると、丸々と肥えたそれをもぎ取り、一つ、また一つと地面へと落としていく。

 そして最後の一つ、三つ目となるココナツの実をもぎ取った所で、私は少し離れた場所にごつごつとした岩場、磯場が広がっているのを見つけた。

 辺りの浜辺よりも少しばかり高くなっていて、岩の隙間からは白い波の飛沫が飛び出したり引っ込んだりしている。

 ああいった岩場には潮だまり——潮が引いた際にできる水たまりのようなもの——ができやすく、運が良ければそこに取り残された小魚などを捕獲できるかもしれない。

 するりするりと木から滑り降りた私は集めたココナツの実を木陰へと転がして、件の磯場へと向かった。

 そこは予想通りいくつもの潮だまりがある大きな磯場だった。

 怪獣の背びれのような尖った岩に波がぶつかり、さざ波程度まで細かく砕かれて潮だまりの水面を静かに揺らしている。

 顔を出している岩の表面や隙間には小さな貝類がいくつも張り付き、潮だまりの中を覗き込んでみれば、驚いた小魚たちが慌てて岩陰に逃げ込むさまがはっきりと見て取れた。

 予想よりも遥かに理想的な漁場を見つけ、思わず頬が緩む。だが食料に恵まれていても、火がなければ安心して食べることは難しい。まずは火、火が必要だ。

 歯がゆい思いをしながらも磯場の探索を終え、ココナツの実を保存している木陰へと戻ってきた頃には日はもう一番高いところを通り過ぎ、ゆっくりと反対側の空へと下り始めた頃であった。

 ここから拠点へ帰る時間、そして火を起こす為に必要な時間を考慮すれば、そろそろここを発った方が良い。

 そう考えた私は両手、そしてかなり動かしやすくなった尻尾で一つずつココナツの実を抱え、川をさかのぼっていく。

 できることならば、この川底にある石も拾って戻りたいところなのだが、二兎を追うものは一兎をも得ず、欲をかきすぎれば足をすくわれる。

 今は一つ一つ、足元を固めながら確実に前へと進んでいくしかない。

 さて、拠点へ戻ればまずやることは火おこし――ではなく、腹ごしらえである。

 せっかく手に入れた貴重な食料、大事に大事に頂くべきではあるのだが、それはともかく私の空腹もそろそろ限界に近い。少しだけでも、何か腹に入れておくべきだ。

 問題はどうやってこの固いココナツの実を割り、中に詰まっているであろう甘い果汁にありつくか、というところである。言わずもがな、素手で割るのは不可能に近い。

 であるならば、知恵を凝らしてこの問題を解決するほかない。しかしながら道具という道具があるわけでもなく、その方法は原始的な、良い言い方をすれば極めてシンプルなものとなっていく。

 用意するものはココナツの実を固定するための土台となる石がいくつかと、とびきり大きな、私が両手で抱えられる程度の大きさの石を一つ。

 くるみを割るときのような、ココナツの実の先端に圧力を加えて押し割るような仕組みを意識する。

 尻から頭へ、どんぐりや栗のように一定方向へ繊維の筋が入っているのを見つけて思いついた方法だが、果たしてうまくいくだろうか。

 幸い、必要な石は近くの小川で見つけることができた。

 地面にココナツの実の尻が埋まるぐらいの穴を掘り、その底に大きめの石を敷く。ココナツの実を叩いた時の衝撃が、柔らかい地面に吸収されてしまうのを防ぐためだ。

 さらに側面にも小石を詰め込み、ココナツの実をがっちりと固定してしまう。

 最後に私の頭二つ分はあるだろう大きな石を持ってくれば、準備は万端。すきっ腹に響く作業ではあったが、力を振り絞る思いで何とか用意することができた。

 ココナツの実がしっかりと固定されていることをもう一度確認し、私は祈るように石を頭上へと掲げる。

 狙いは一点。ココナツの実、その天辺目掛けて振り下ろした。

 石と石がぶつかる音。

 ココナツの実が縦に裂け、隙間から水しぶきが噴きあがる。

 やった、と思ったのも束の間、私は裂け目から止めどなく果汁が溢れ出るさまを見て、慌ててそれを拾い上げた。

 

「ああっ、だめだ、待て待て待て!」

 

 なりふり構わずココナツの実を拾い上げ、零れ落ちる果汁を一滴も無駄にしないよう大きく口を開けて、顔中が果汁まみれになるのも気にせずに無我夢中でしゃぶりついた。

 想像していたよりは甘くない。薄めたスポーツドリンクのような味気無さ。

 しかしそれでも久しぶりの甘味ということもあり、その刺激は脳天へと突き抜けるようであった。

 最後の一滴が、舌の上で跳ねる。ぶるりと身震いをし、ぴんと張っていた尻尾からようやく力が抜けていく。

 

「くあーっ、こいつは効くなあ!」

 

 呵々と笑みが漏れる。

 裂けた実を力任せに引き裂くと、中から真っ白な、瓜のような果肉が現れた。

 がりがりと爪でそれを削り、一口頬張る。

 目覚めてからこっち、初めて口にする固形物。ありがたく味わいながら、ゆっくりと咀嚼していく。

 うん。

 うーん。

 うん?

 なんだろう。これも想像とかなり違う。

 食感はかなり柔らかく、そして意外と弾力がある。

 味はかなり薄く、甘みなどが全て果汁のほうに漏れ出してしまったのではないかと思ってしまうような、まるで寒天をそのまま食べているような感じだ。

 不味くはないが、なるほどこれは、果汁と一緒に味わった方がより美味しく食べられるだろう。

 しかし味はともかく貴重な食料だ。余すところなく、ありがたく頂くとしよう。

 そうして二つに割れた片方をぺろりと平らげた私は、満足げに腹を撫でながら手を合わせたのだった。

 



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 また朝が来た。

 ぶるりと身を震わせて、私は粗末な寝床から身を起こす。

 昨日はあれから火起こしにチャレンジしてみたが、結果は惨敗。くすぶって煙が上がるところまでは上手く行くのだが、そこから火種を大きくし、火口に移すまでがまるで上手くいかない。

 やり方や道具が悪いのかと色々品を変えて試してみたが、結果は同じ。

 あまりの歯がゆさに、昨夜は半ば不貞寝するような形で床に就いたのだった。

 のそりと樹洞から顔を出せば、朝露に濡れた草花がきらきらと輝き、すぐ傍の枝先では小鳥たちが悠々と翼の手入れをしているのが見える。なんとも清々しい朝であった。

 いや、相変わらず寝不足で頭の中はいまいち血の巡りが悪いし、腹も減っているのでまったくもって心の中は清々しくもなんともないのだが。

 現に私はあの枝先に留まる小鳥たちを見るや否や、火があれば獲って食えるのに、なんて風情もへったくれもないようなことを考えている。

 いやはや、貧すれば鈍する、とはよく言ったものだ。

 

「さてさて、今日も頑張って生きねばなあ」

 

 川の水で顔を洗い、ぐっと背を伸ばす。

まずは周辺の散策を兼ねた薪集めから始めるとしよう。

 まだ火を起こせたわけではないが、どのみち火を起こした後で大量に必要になってくるのだ。今から集めておいて損はないだろう。

 泉を中心にぐるりと一周しながら、手ごろな薪を拾い集める。

 この泉がある場所は片側が高い丘になっているのだが、そこだけ土質が違うのか周辺のように背の高い植物が生えておらず日当たりが非常に良い。

 昨日までは拠点の近くを利用していたが、薪を干すならこちらの方がよく乾きそうである。

 柔らかい土の上にどかりと座り込み、翼をいっぱいに広げて日の光を浴びながら、そんなことを考える。コウモリのような見た目通り翼に血管でも走っているのか、こうしていると体全体がすぐ温かくなり、とても気持ちが良いのだ。

 うとり。

 うとり。

 暖かな日差しを浴び、体が左右に揺れる。

 微睡みの中、とうとう体が前に倒れそうになってようやく私ははっと意識を取り戻し、舟を漕いでいた頭をぶんぶんと振った。

 

「ああ、いかんいかん。うっかり二度寝してしまいそうだった」

 

 ジャングルの真っ只中にあるというのに、我ながら呑気なものだと頭を掻く。

 しかしこの島で目覚めてからというもの、ろくに熟睡できていないのもまた事実。

 そのうちにどうにかせねばと思いつつも薪を拾っていると、足元に何やら見慣れぬ物が転がっていることに気が付いた。

 どうやら何かの果実であるようだ。緑色で楕円形、一見すると熟れる前のレモンに似ているが、表面には皴がある。

 周囲を見回してみれば、同じような実がいくつも転がっていた。

 二つに割ってみれば、ぎっしりと詰まっていたのは瑞々しい赤い果肉。

 生前見たことのあるグアバの実によく似ているが、食べられるものだろうか。

 匂いを嗅いでみる。特に刺激臭はしない。

 周囲に転がった果実には虫や鳥が食ったような跡もあるし、食べられる可能性は高い。

 高いが、念には念を押すべきである。

 私は二つに割った果実の断面を、己の二の腕に刷り込むように押し当てた。

 パッチテスト、または可食性テストと呼ばれる、アレルギーの検査にも使われている方法だ。

 植物などをこうして肌に当て、腫れや炎症、痒みなどが出れば人体に悪影響を及ぼす、つまりは毒性の高いものである可能性が非常に高い。

 今回は時計も時間もないので薪を拾いながら体感で計るが、本来はおおよそ十五分ほど経過を見た方が良い。

 そこで問題がなければ次は舌の上に乗せ、十五分。その次は咀嚼して十五分。

 最終的には少量食べてみて、八時間ほど様子を見る。

 かなり時間がかかり面倒ではあるが、後々高熱にうなされたりだとか、腹を下して地獄を見るよりはましだろう。

 ちなみに他の動物が食べていれば安全、というのを聞いたことがあるがあれは間違いである。

 犬や猫に対しチョコレート、たまねぎが危険な毒物となるように、他の生物が食べられるからといって安全だという保障はどこにもないのだ。

 同じ人間であっても、日本人は生の海藻を食べても平気だが、欧米人が食べると腹を壊したりする。

 だからこそ、例え見覚えのあるものであったり、他の動物が食べているものであったとしても、しっかりと、自分に対し毒ではないかの確認は行うべきである。

 そんなこんなで薪を拾い集め、拠点に帰ってきた辺りで腕に張り付けた果肉を剥がしてみる。見たところ赤くもなっていないし、腫れや痒みなどの症状もない。

 指先で果肉を摘み、舌の先に乗せてみる。

 痛み、痺れは感じない。少し青臭い香りが鼻に抜けていった。

 大丈夫だろうか。

 大丈夫なはずだ。

 本来ならば慎重に時間をかけて調べるべきだが、今はとにかく空腹を満たしたかった。

 肌に張り付けていた半身に、たまらず齧りついた。

 実はかなり柔らかく僅かに粘り気があり、ザクロに似たような食感だ。だが甘味は熟れたメロンのようで、特徴的な強い香りが口いっぱいに広がる。

 グアバの実より甘味が強いが、味はかなりそれに近い。

 やはり世界が違う分、動植物も異なる進化を遂げているのだろう。

 これは、かなり美味い。

 昨日食べたココナツの実がかなり薄味だっただけに、脳髄を貫かれるようなこの甘味はまさしく麻薬のようであった。

 あっという間に、もう半切れも食べ尽くしてしまう。

 できればもっと食べたいが、今優先すべきは火の確保である。

 未練たらたらで残った皮を捨てて、私は火おこしの準備を始めた。

 今回は今までのきりもみ式ではなく、火溝式という発火法を試してみようと思う。

 木の棒に溝を掘り、そこを木の棒で前後に擦って火種を作るという方法なのだが、こちらは太古の発火法とあってきりもみ式と比べると仕組みが単純な分、体力さえあれば成功しやすい、ような気がする。

 生前から不器用な私ではあるが、体力に恵まれたこの体ならば、この火溝式でうまく火を起こせるのでは。そう思ったのだ。

 相変わらず動機がいい加減だが、あながち間違いというわけでもないだろう。

 溝を掘るのには、少しばかり行儀が悪いが足の爪を使った。このナイフのような爪先は、ちょっとした加工をするのにはうってつけなのである。

 そうして作った溝に棒をあてがい、体重をかけながら前後に擦り付けていく。

 何だろうか、まるでこびりついた汚れを必死になって拭き取ろうとしている時のような、そんな力加減だ。

 ごしごし。

 ごしごし。

 ごしごしごしごし。

 

「おっ!」

 

 しばらく続けていると、溝から白い煙が上がり始めた。

 溝の端には黒く焦げたような木屑がたまり、今にも赤い火種が現れそうな様子である。

 さらに擦る。

 擦る。

 擦る。

 ばきりと、擦り続けていた木の棒が真っ二つに折れた。

 どうやら、枝が柔らかすぎたらしい。

 

「くそっ、だめか……」

 

 歯がゆい思いをしながらも、別の棒を用意して再び擦りつける。

 次は溝を掘っていた方の棒が折れた。

 声にもならぬ声をあげながら、私は手にした棒を力いっぱい投げ捨てていた。

 惜しいところまではいっている。そう感じるのだが、肝心なところがうまくいかない。

 焦り、心から余裕がなくなっているのがわかる。

 だめだ。

 流れが悪い。

 栄養が足りず、体と頭がうまく動いていないことが原因なのはわかっているが、ひとまず精神状態を落ち着かせるために、私は先程の果実を集めることにした。

 また丘の方に歩いていき、幾つも散らばった果実を集める。

 見上げれば、すぐ近くの枝先にいくつも同じ果実が生っているのが見えた。しばらくすればあの果実も熟して食べられるようになるだろう。

 両手と尻尾を使って合計十五個。一つ一つは小さいが、これだけあれば少しは腹も満たされるであろう。

 果実を寝床の傍へ片付けると、次は泉で水浴びをする。

 そういえば今の私の体には爬虫類に類似する特徴が多数あるが、水浴びなどで体温が下がっても大丈夫なのだろうか。体調を崩したり、冬眠なんて始めてしまっては目も当てられないのだが。

 だがそんな心配も杞憂だったようで、しばらく水に浸かっていても体の反応が鈍ったりだとか、頭痛がしたりといった変調は感じられない。

 逆に尻尾を振ることで推力を得て泳ぐことができたり、不思議なことに水中でも視界がはっきりとしていたりと、どちらかといえば水中に適した肉体であるようだ。

 魚や貝を獲るために海に潜ることもあるだろうから、これはかなり有益な情報だった。

 翼を広げ、ぷかぷかと泉に漂いながら空を見上げる。

 ぎゃあぎゃあと響く鳥の声。丁度空のてっぺんまで登っていたお日様が明るくこちらを照り付けて、とても心安らぐ時間を過ごすことができた。

 そうして水浴びを堪能して泉からあがると、丘の上で体を乾かしてから再び火おこしを始める。

 気分転換の効果は覿面(てきめん)だったようで、先程よりも体が軽く感じ、思うように腕を動かすことができた。

 ごしごし。

 ごしごし。

 ごしごしごしごし。

 火種ができますようにと願いながら、何度も何度も棒を擦る。

 木屑の中に、赤い、赤い灯りが見えた。

 

「よし、よしよしよし!」

 

 すかさず火口を用意し、出来上がったばかりの火種をそっとその上に落とす。

 優しく火口で包み込み、空に掲げるようにして下から細く息を吹きかける。

 煙が上がる。

 白い煙が立ち上り、その奥でちりちりと火種が燻っているのが見えた。

 さらに息を吹きかける。

 火よ、火よと祈りながら、二度、三度と繰り返し、繰り返し。

 ぼっと、赤い火が生まれた。

 

「やった! いいぞ、いいぞ!」

 

 飛び跳ねんばかりの喜びに満たされながら、生まれたばかりの火に薪を焚べていく。

 小さな火はやがて炎になり、ぱちぱちと気持ちの良い音を立てながらそのオレンジ色の体を躍らせた。

 

「やった、やったぞー!」

 

 感無量、まさしくそう表現する他なかった。

 拳を天高く突き上げながら、私は叫んだ。

 何せ、これで身を震わせながら眠ることもなくなるのだ。食物の加熱調理もできるようになるし、虫除けにもなる。

 生きる為の選択肢がかなり広がったのだ。喜びのあまり、涙すら浮かぶほどであった。

 

「やったー!」

 

 誰もいない密林の中に、可愛らしい叫び声がひたすら響いていた。

 



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焼く

※作中登場する貝類は日本でも捕獲できる種類ですが、

むやみな魚、貝類の採集は漁業法違反に問われる可能性があります。


 

 火を手に入れたら、次は食料の調達だ。

 先程手に入れた果実も食べられそうだが、やはり体力を付ける、体を作るには動物性のたんぱく質が必要になる。

 つまりは動物、魚、貝などを捕らえ、食らう。

 捕まえやすいのはやはり貝類だ。

 幸いなことに、貝類なら海岸で何種類か見つけているので、まずは先日ココナツの実を見つけたあの海岸へ向かう。

 だがその前に、探索中に火が消えないよう大きく太い薪を数本用意し、火にくべておく。

 これで一、二時間は大丈夫だ。

 その間に手際よく、食料の調達を済ませてしまおう。

 昨日食べてしまったココナツの実の殻を抱えて、私は海岸までの道のりを行く。

 一度は通った道であるものの、蛇や虫には気を付けて。しかし火を手に入れた喜びは隠せるものではなく、慎重に慎重にと思ってはいてもやはり足はせわしなく前へ前へと動いてしまう。

 鱗に包まれた足と持ち前の健脚も相まって、川べりを跳ねるように進んでいけばあっという間に海岸へと到着してしまった。

 前回来た時の、おおよそ三分の一ほどの時間しか使っていない。

 この体が馴染んできたのだと喜ぶべきか、それとも危機感が足りていないことを憂うべきだろうか。

 憂うべきだろう。少なくとも、この島で長生きがしたいのであれば自戒すべきだ。

 童心に返ったように浮ついていた心を、そう諫める。

 ともあれ、結果的に必要な時間が短縮できたのは喜ばしい。

 きゅっ、きゅっと小気味のいい音を鳴らしながら、岩場へと向かう。

 日光で熱された砂を踏んだ時、足裏から伝わる温かさが心地よかった。

 岩場に到着すると、私は早速潮だまりの中を覗き込む。すると居るわ居るわ、岩肌に張り付いたもの、水底に溜まった砂利の上を這いまわるもの。

 小指の先ほどの小さなものから、親指一本分はありそうなものまで、さまざまな貝類がそこに集まっていた。

 さらに幸運な、そして不思議なことに、それらはどこか見覚えのある、地球に生息していた貝たちと似たような姿かたちをしていた。

 

「これはイシダタミガイか。おお、カメノテまでいるじゃないか」

 

 イシダタミガイはその名のとおり、貝殻にレンガを並べたような模様がついているのが特徴の巻貝で、カメノテも名前そのまま、亀の手に似た形をした貝、ではなく、実はカニやエビと同じ甲殻類に属するフジツボの仲間だ。

 どちらも食べることができ、カメノテはコクがあって実に旨い。

 さすがに地球にいたものと同種の貝ではないだろうが、食べられる可能性は高そうだ。

 イシダタミガイは手掴みで、カメノテは海岸に落ちていた貝殻を使って岩から剥がし、ココナツの殻へ放り込んでいく。

 

「おお、こいつはいい、今夜はごちそうだな」

 

 貝を拾っていると見つけたのが、貝殻を背負いごそごそと動き回るもの。

 みんなご存じ、ヤドカリである。

 こいつも食える。無論、捕まえて食らう。

 ヤドカリはエビやカニの仲間で、その身もカニに似ていて凄く美味しい。

 さらには貝殻に隠れている腹の部分に内臓が詰まっているのだが、これが濃厚でまた美味いのだ。

 捕まえたのは小さい種類のヤドカリだったが、何匹か捕まえれば食いではありそうである。

 潮だまりにはそういった生物の他に、ハゼに似た小魚も棲み着いているようだが、こちらはかなりすばしっこいので捕まえるのは苦労しそうだ。

 罠でも作って設置しておけば捕まえられそうだが、今は材料もないので諦めるしかないだろう。

 欲を出して時間を無駄にすることもできないし、今回は貝とヤドカリだけで十分満足だ。

 いっぱいになったココナツの殻を抱え、拠点へと戻る。

 行きと違い、帰りは少し上り坂になっている分時間はかかるが、それはつまり行きよりもじっくりと周りを観察できるということでもある。

 周囲にどんな植物が生えているか、どんな生き物が住んでいそうか、どんな形の石が転がっているか、目に入る情報すべてが、生存するための鍵になりえるのだ。

 無駄な情報など一切ない。

 

「おっ、これは……」

 

 見つけたのは、川が流れ落ちる滝のすぐ傍。

 崩れた斜面の中に、明らかに周囲とは異なる質感の土が混ざっている。

 近づいて手に取ってみればそれはかなり粘り気が強く、握りこめばしっかりと固まり、指の凹凸までしっかりと型が取れるほどだった。

 間違いない、粘土だ。

 思わず、私はココナツの殻を放り投げて万歳三唱するところだった。

 素晴らしい。

 どこかでいつか見つかるだろうと思ってはいたのだが、よもやこれほど早く、それも拠点のすぐ傍で見つけられるとは。

 粘土があれば、土器を作ることができる。

 土器さえあれば水の煮沸消毒も、様々な食物の保存も容易になる。

 さらにはかまどや土壁、レンガなどなど、その用途は枚挙に暇がない。

 

「これはまた、しばらく忙しくなりそうだ」

 

 胸躍るとは、まさしくこのことだろう。

 火も手に入れ、食料も最低限は確保できる。そこに粘土が加われば、快適な生活も夢ではない。

 私の足取りは、軽くなる一方であった。

 跳ねるように拠点まで戻ると燻っていた焚火に薪をくべ、周りをぐるりと石で囲む。

 そして川から平たくて大きな石を持ってくるとそれを焚火の上に置き、多めに薪をくべて火力を上げる。

 これで石全体が十分に温められれば、即席のホットプレートの出来上がりだ。

 だが分厚い石に熱が通るのにはかなり時間がかかるので、その間にお茶の用意をしよう。

 先ほど土器を使えば煮沸消毒ができると言ったが、実は見た目に拘らなければ土器などの容器がなくとも水の煮沸は可能だ。

 方法はいたって単純。

 まずは川の傍の地面を掘り、軽く固めてから水を流し込む。

 次にそこへ焚火で熱した石を放り込み、石の熱で沸騰させる。

 以上。

 あとは熱々になったそこへグアバに似た果実を皮ごと細かくちぎって入れ、小枝でかき混ぜるだけ。

 土やら石にくっ付いていた灰やらでかなり濁っているため見た目は相当悪いが、これで温かいお茶の完成である。

 無論、ストローやコップなんてものがあるわけもないので、腹ばいになって直に啜る。

 (あし)か竹があればまだやりようはあったが、こればっかりは仕方がない。

 ずず、ずずず、と口をすぼめて啜り飲む。

 うん。

 

「ははっ、まっずいなあ!」

 

 正直言って、笑ってしまうほどの不味さであった。

 洗練された日本茶や紅茶のような香りもなく、風味もへったくれもない。

 土と灰が混ざっているから舌触りもざらっとしているし、果実を皮ごと入れたのがまずかったのか何やら青臭さも感じる。

 だがそれでも、この島で初めて味わう温かい飲み物に、私は涙が零れそうだった。

 火を起こした。ただそれだけだというのに。

 生前ならば台所でコンロの摘まみを捻れば、あるいはライターを使えば易々と手に入ったものが、ここではこれほどまでにありがたい。

 陳腐な言い回しにはなるが、失って初めてその大切さに気が付くというのは、まさにこのことなのだろう。

 そんな風に深く感じ入っている間に、石板の方も程よく熱されてきたようである。表面に手をかざせば、じりじりと焦がすような熱が伝わってきた。

 さっそく獲ってきたばかりの貝やヤドカリを石板の上に広げ、しばらく待つ。

 ぱちぱちと音をたて、殻と身の間から泡を吹き始めたら食べ頃だ。

 まずはイシダタミガイから。

 日本の食卓には余り登ることのない貝だが、さてさてどうなるか。

 爪楊枝ほどの細い枝を突き刺し、中身をくるりと取り出す。

 ぷりっとしたその身からはうっすらと湯気が立ち昇り、口に入れれば濃厚な潮の香りとアワビのようなしっかりとした弾力が返ってくる。

 美味い。これは、美味い。

 味もアワビに近く、小さいが歯ごたえがある分食べ応えは十分だ。

 

「さて、こちらはどうかな」

 

 続いて手を伸ばしたのは、少々グロテスクな見た目をしたカメノテ。

 こいつは真ん中、爪のような部分と根っこの部分の境目から二つに割って、その下から出てくる白い身を食う。

 見てくれは悪いが、意外にもその身はクセもなく、生臭さもない。

 味はエビっぽくもあり、カニっぽくもある。

 うん。

 当然ながら、こっちも美味い。

 ああ、無性に味噌汁が飲みたくなってきた。こいつは味噌汁に入れると実に良い出汁が出て美味いのだ。

 味噌づくりは無理だろうが、土器を作ることができれば、海水で塩ゆでぐらいならできるだろうか。そうなれば、もっと味噌が欲しくなってしまいそうだが。

 ああ、何とも悩ましい。

 うーん、うーんと唸りながらも、私の手はちゃっかりと貝を次々とほじくっては、取り出した身を口へと運んでいた。

 うーん、美味い。

 最後はお楽しみ、ヤドカリの登場だ。

 赤くなった殻をぐっと引っ張ると、貝の中に隠れていたぷりっとした身が現れる。

 見た目的にはエビのお尻に巻貝がくっ付いているような、何とも不思議な感じだが、これが中々美味い。

 小ぶりなので殻ごとバリバリと食うのだが、身はやはりエビに近く、腹の部分は濃厚なエビ味噌のような味がする。

 焼けた殻の香ばしさとパリッとした食感がまた楽しい一品である。

 

「ごちそうさまでした。いやあ、食った食った」

 

 温かい食事というものは、こうも食が進むものなのか。

 獲ってきた貝たちをあっと言う間に平らげた私は感謝しながら手を合わせると、満足げに腹を撫でた。

 とはいえさすがに腹いっぱいとはいかず、精々腹八分、いや六分ほどといったところなのだが、これまですきっ腹が続いていたこともあり、じんわりと体中に染み渡るような幸福感があった。

 調理に使った石板を外し、焚火に薪をくべる。

 ぱちぱちとはぜる炎を眺めながら、明日は何をしようかと、これからのことを考え、計画を立てていく。

 真っ先に思い浮かぶのはやはり、昼間に発見した粘土だろう。

 あれを活用して火に耐えられる器を作ることができれば調理の幅が広がり、食が豊かになる。

 食といえば、魚を獲るための道具も作らなければいけないし、大型の魚を獲るのであれば、それを捌く刃物も必要だ。

 動物も狩りたい。

 今のところは果実や貝でどうにかなっているが、長期的に見ればこれだけでは到底暮らしてはいけないだろう。

 やはり良質なたんぱく質が必要だ。

 この島にどれだけの動物が生息しているかは不明だが、少なくとも鳥はいる。

 これらを捕獲するための罠もまた、作らなければならないだろう。

 火を手に入れたことでかなり生活レベルは向上したが、それでもまだまだ、やるべきことは山積みである。

 焦る必要はない。

 ひとつひとつ、確実に前に進んでいこう。

 そうして私は、また焚火へ薪を投げる。

 空は雲に覆われ、炎の光だけがぼんやりと森を照らしていた。

 



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打って、砕いて、磨いて

 

 最悪な朝だった。

 寝床である(うろ)の中で私は、どんよりと暗い雲が広がる空を睨みつけた。

 雨である。

 とはいえその規模は小雨程度で、ジャングルで発生するスコールのような強烈なものではないが、この天気では外で焚火はできそうにない。

 降り始めたのは早朝のことで、すぐに気が付いて火種と薪は洞の中に退避させたので火は無事だが、さてさてどうしたものか。

 あまり体を冷やすわけにもいかないが、雨が止むまで洞の中に引きこもっているのも時間がもったいないように感じる。

 それに事前にある程度集めていた薪はともかく、食料は備蓄していない為、どのみち外には出なければならない。

 意を決し、私は洞から出て海岸へと向かった。

 しとしとと降り注ぐ雨が体を濡らし、熱を奪っていく。なるべく雨に打たれないよう木々の密集した場所を選んで進んでみたが、それでもやはり、葉から零れ落ちる無数の雫までは避けようがない。

 雨の影響か先日よりも少し水位が高い気がするが、貝を採るのには何ら支障はない。

 狙うのは昨日採ったイシダタミガイ、カメノテだが、今回は新しい発見もあった。

 潮だまりの岩をひっくり返して見つけたのは平たく、楕円形の貝。

 外見はアワビそっくりだがその大きさは一回り以上小さい。

 

「これは、トコブシか」

 

 地方によってはその形からゴケンジョとも呼ばれる貝で、これも無毒で食べても問題ない。

 人の手が入っていない為か、この島は本当に自然豊かだ。

 この調子なら、少し潜ればサザエなんかも採れるかもしれない。

 さて、十分な量の貝も採ったし、ここからは拠点に帰って道具作りだ。

 帰り際、川の傍で利用できそうな石も集めておく。

 打ち付けた際に金属のような高い音を出すものが、打製石器としては理想である。

 黒曜石辺りが見つかれば万々歳であるのだが、あれはマグマが冷え固まって出来るものなのでこの辺りではまず見つからないだろう。

 まあ黒曜石といわず、薄くガラス質な鉱石ならどれでもいいのだが。

 せっかくの異世界なのだから、ミスリルやオリハルコンなどの如何にもファンタジー的な鉱石でも見つからないものだろうか。

 そうして十ほど手ごろな石を拾い集めると、それを両手に抱えながら拠点へと戻った。

 

「おお寒い寒い。やはり濡れっぱなしは冷えるなあ」

 

 ぶるりと肩を震わせ、ちろちろと燻る焚火を消してしまわないよう注意しながら体中の雨粒を振るい落とす。

 濡れ鼠ならぬ、濡れ蜥蜴(とかげ)となった私はずぶ濡れになった髪を束にしてぎゅっと絞る。   

 しとりと水気を含んだ銀の髪もまた艶やかで美しいが、乾かさないことには体中に張り付いてしまって色気もへったくれもない。

 ああ、今回は腰みのまで水浸しである。これは少し干しておかないと痛んでしまうだろう。

 仕方がないので腰みのを外し、焚火の傍に石を置いてそこに寝かせておく。

 こうしておけば、焚火の熱でじきに乾くだろう。

 焚火に薪をくべ、火を大きくしたところで先日世話になった石板を置く。

 下からごうごうと熱し、調理に使えるようになるまでは持ち帰った石を使っての道具作りである。

 作り方はいたって簡単だ。硬い石で、柔い石の縁を叩く。

 だがこれがまた意外と難しい。力加減を間違えれば真ん中から二つに割れたり、刃として使えるほど鋭利にならなかったりする。

 重要なのは打点と、力の向き。

 ハンマー代わりの硬い石を正確に、最適な位置へ最適な角度で打ち込む。

 石に対し、直角に力を加えてはダメだ。

 イメージとしては斜め上から入り抜けていくような、石を掠めるぐらいの感覚で打つ。

 打って、割る。

 割って、割って、理想的な形へ整えていく。

 とはいえ、その形は金属製のナイフなどに比べると随分と武骨で、不細工なものだ。

 だがその切れ味はナイフに比肩しうる。人類最古の刃である。

 打って、打って、打って。

 真ん中で、ぱかりと割れた。

 こうなっては全てご破算。また一からやり直しだ。

 もんどりうって、苦々しいうめき声が喉の奥から絞り出た。

 

「くあー、なんとも細かい仕事だなあ」

 

 向こう(・・・)に遺してきた、あの気立ての良い妻ならばうまくやるだろうか。

 あいつは粗野な私なんかと違って器用であるから、小さな細工や裁縫などそれはもう驚くほど綺麗に拵えていた。

 一度興味を持ってご指南を願い出たこともあったが、半日かけて手拭いではなくぼろぼろの雑巾が出来上がった時などは、妻と一緒に大笑いしたものだ。

 ああ、何とも、懐かしい。

 ふとそんなことを思い出した。

 ゴケンジョ。トコブシなんか獲ってきたからだろうか。

 志摩だったか、一部の地域では二枚貝に似ているのに一枚しか貝殻を持っていない姿から夫を亡くした未亡人、つまりは後家に例えてそう呼ぶのだそう。

 いやはや、なかなかうまいことを言うものだ。

 いや、妻を未亡人にした私が言うべきではないのだろうが。

 あれは本当に良い、私の最期も笑って看取ってくれるほどの良妻であったが、まだ元気にやっているだろうか。

 娘や息子、孫たちに囲まれて幸せにやっているのなら、なによりであるのだが……。

 冷え切った体の奥の奥。ずっと深いところにじんわりと温かい何かを感じながら、また石を打つ。

 打って、打って、打って。

 持ってきた石ころの数が倍に増えようかというところで、ようやく一つ目の打製石器ができあがった。

 持ち手を含めても手のひらほどの小振りな石器ナイフだが、魚や動物の解体ぐらいなら問題はないだろう。

 次は薪などの木材を集めるための斧を作る。

 用いる石はナイフ用のものよりも大きく、楕円形のものが望ましい。

 そして用意した石の先端、刃となる部分をなるべく細かく、小さく打ち割っていく。

 ここで大きく割ってしまうと木材に打ち付けた時に簡単に砕けてしまうし、この後の工程にも支障が出てしまう。

 細かく、細かく、のこぎりの刃を作るように。

 そうしてある程度成形した後は、その細かい刃を他の石で研磨(・・)していく。

 勿論、なるべく滑らかなものを砥石として選んだが、それでも細かな凹凸はあるし、なにより磨き上げるのは精錬された金属ではなく、川辺で拾ってきた石だ。それなりに時間はかかってしまう。

 磨き、磨き、磨き。

 時折、研磨剤として雨水や砂利をまぶしながら一心不乱に研磨を続ける。

 没頭し、かなりの時間が経ってしまったことに気が付くのは薪が少なくなり、焚火が白い煙を吐きだし始めた頃であった。

 

「ああいかんいかん。まったく、何かに手を付けだすとすぐにこれだ」

 

 参った参ったと笑いながら、燻る火種に薪をくべる。

 石板もちょうどいい塩梅に温まっているようだし、ひとまずは少し早い夕餉といこう。

 とはいえ食卓に並ぶのは昨日と同じイシダタミガイにカメノテ、あとは新しく発見したトコブシと貝尽くしではあるのだが。

 彩り、いや栄養的には野菜と、やはり肉が欲しいところだが、日が沈めば月明りだけの闇夜が広がるこの島では探索に割ける時間も限られてくる。

 時間をできる限り効率的に、計画的に使うことが肝要だ。

 ともあれ、朝はまず薪拾いと木の実集めに時間を使いたいので、そこから余った時間で探索、帰りの足で海岸に立ち寄り食料調達。今のところはこれが最善であろうか。

 雨の日はこうして道具作りに専念すれば良いのだが、そうなるとこの洞の中では少しばかり手狭だな……。

 雨が降る度に火種を移すのも手間であるし、先々薪を干したり調理をする場所も必要になってくるので、道具を拵えた後はまず拠点の拡張に手を付けるべきか。

 幸い材料は豊富にあるので、まあ、半日かそこら時間をかければ足りるだろう。

 そうしてうんうん唸っている間に貝が焼け、昨日の調子でほじくり出し、食らう。

 今夜のお楽しみは勿論、トコブシだ。

 見た目は小さなアワビそのもので、味もアワビに似ており肉厚で、しっかりとした歯ごたえがあり美味い。

 数が少ないのが残念だが、それでもこの見た目と味は、ちょっとした幸福感を得るには十分すぎるものであった。

 

 「ご馳走様でした。さて、もうひと頑張りするかあ」

 

 手を合わせ、じんわりと温かくなった腹をひと撫で、作業を再開する。

 しとしと。

 しとしと。

 心地よい雨音に耳を傾けながら、ただひたすらに石を研磨していく。

 磨いては水を足し、刃の具合を吟味し、また磨く。

 持ってきた石が良かったのか、それともこの肉体が持つ底なしの体力のおかげか、研磨作業は想定していたよりも早く終えることができた。

 表面はとてもなだらかな、それでいて鋭利な石の刃。

 磨製石器の完成だ。

 あとはこれを木製の柄に嵌め込んで固定すれば、原始的な石斧が出来上がる。

 その柄の部分に関しても、もう材料は揃えてあった。薪拾いの時に、後々利用できそうな大きな枝も拾い集めていたのだ。

 勿論、このままでは使えない。先端に石器を嵌め込む為の穴を作る必要がある。

 本来ならば木材などを削る(のみ)やら、それに代わる石器やらを使うのだが、そこはそれ、己の体に便利なものが付いているのでそれを利用する。

 つまり、足の爪を使う。

 熊のような、いや、それ以上に頑強で、鋭利な爪だ。

 であれば、木の皮を剥いだり、獲物の皮を裂いたりなどの、熊が出来る程度のことはできるはずだと、まあそういうことである。

 

「それじゃあ、よっこらしょっと」

 

 少しばかりばっちいが、まあこれで食い物を扱うわけでもなし、このサバイバル環境下では四の五の言わず、使えるものは使っとくのが吉だろう。

 爪先を棒の先端、穴を開ける位置にあてがい、ぐっと力を込めてみる。

 すると驚くことに、まるで土に爪を立てたかのように、さっくりと爪先がそこへ突き刺さったではないか。

 ふと、足を浮かしてみる。

 よほど深く突き刺さったのか、棒は落ちる様子もなくぷらぷらと力なく揺れるままであった。なんとも間抜けな光景である。

 

「ははあ、こりゃあ便利だ」

 

 爪の大きさからして、さすがに細かな加工は無理だろうが、削ったり穴をあけたりする分にはまるで不都合しなさそうだ。

 大発見である。なぜ今まで使っていなかったのか。

 いや、必要となる場面が今までそうなかったからなのだが。

 足を下ろし、棒を両手で押さえながら爪先で少しずつ抉っていく。半分ほど()り進めたら、ひっくり返して反対側から同じようにして穴を空ける。

 柄が完成したら次はまた石器を加工していくのだが、今度は刃の部分、頭ではなく尻の部分を整えていく。

 形としては三角形に近づけるように、柄に空けた穴にしっかりと嵌る程度の大きさになるよう、石を打ち付けて成形する。

 言うまでもなく、ここで力加減を間違えて石器を大きく破損させても、また一からやり直しだ。失敗は許されない。

 慎重に、慎重に形を整え、穴と合わせて大きさを確認し、また整える。

 何度かその作業を繰り返した後、ようやく私は大きく息を吐いた。

 

「ふう、よし、こんなものだろう」

 

 焚火に照らされ浮かび上がったのは原始人が振り回していそうな、絵に描いたような原始的な石斧の姿。

 それでもようやく手に入れた道具らしい道具であることには変わりなく、先程完成させた石器ナイフと並べてみれば、思わず笑みが浮かんでしまう程度には喜ばしい成果だった。

 また一つ、また一歩前へ。

 得も言われぬ高揚感を胸に、私は夜空を見上げる。

 雨は止み、そこには祝福するような満天の星空だけが広がっていた。

 



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切る、組み立てる

 

 朝だ。

 雨上がりの爽やかな朝である。

 昨夜まで降り続いた雨が嘘のように空はからりと晴れ渡り、森はいつも通りの静けさを取り戻していた。

 寝床から顔を出しすっと息をすれば雨上がり特有の匂いが鼻の奥にむっと広がり、私は思わず眉間にしわを寄せた。

 腐葉土のような、湿気た土の臭いである。

 生前はさほど気にならない、爽やかで澄んだ空気だと好んですらいたのだが、ここではその土臭さが桁違いだ。

 比較的開けたこの辺りでもこれだけ濃いのだから、森に入ればもはや匂いが肌に纏わりつくほどだろう。

 それがわかっていながらも、生きる為には森へ入らなければならない。なんとも、まあ、気が重くなる話だ。

 しかしそんな重くなった気持ちも、寝床から一歩踏み出せば霧散してしまう。

 草と、苔と、昨日たっぷりと雨水を吸ったはずの土から、まるで湿り気が感じられなかったのである。

 いや、僅かに湿ってはいるのだが、それも雨が降り出す前とほとんど遜色のないものであり、草木に雨露が浮かんでいなければ、昨日丸一日雨が降ったなどとは誰も信じないことだろう。

  

「これはまた奇怪(きっかい)な。丸一日降られてこれかい」 

 

 踏み出した足裏から伝わるのは、瑞々しくもしっかりとした土の感触。

 相当水はけが良いのか、それとも地面を覆う草木や土壌が特殊なのか、まるで昨日の雨が嘘のようにさっぱりと乾いている。

 ここに畑なんか作れば、良い作物が育ちそうだ。

 これだけ乾いていれば火種を外に移しても大丈夫そうだが、その前にそれを保護するためのシェルターを作らなくてはならない。

 もはや日課である薪拾いを終えた後、昨夜拵えたばかりの手製の石斧を手に私は森へ入った。

 昨日の雨の影響か、森の空気は先日よりも澄み渡っており、まるで滝の傍を歩くような清々しさであった。

 心なしか草木もより青々としており、なんと言うべきか、森全体が活気に満ちているような気がする。

 そんな清々しい空気の中を進みながら、私は周囲に目を光らせる。

 雨が降り、風が吹けば、それに伴って手に入りやすくなるものがある。

 

「おっ、あったあった」

 

 足元に転がっていたそれを拾い上げる。

 丸っと肥えた、緑色の果実。先日から何かと世話になっている、グアバの実だ。

 もっとも見た目が似ているだけで実際は異なる種類なのだろうが、似たような見た目と味なのだから仮称だろうが何だろうが構いはしないだろう。

 周囲に転がった果実を拾い集め、頬張りながら周囲を確認してみるが、あるのは私の胴ほどはあろう太さの巨木ばかり。

 探しているのは手頃な太さの、私の腕ほどの太さの若木だ。

 屋敷を建てるわけでもなし、そもそも手製の小さな石斧では、巨木を切り倒すなどできるはずもない。

 丁度いい塩梅のものはないものかとまた森を進んでしばらくすると、ようやく目当ての木を見つけることができた。

 見つけたのは理想よりも少しだけ太い、男の二の腕ほどの背の高い木であったが、この程度ならば少し時間をかければ切り倒すことは可能だろう。

 まだ若いのか表面はあまり苔むしておらず、天辺あたりに青々とした葉を茂らせている。

 

「すまないが、頂いていくよ」

 

 肌を撫で、静かにそう語りかける。

 長く生きた樹木には、神や精霊が宿るという。

 この木がどれほど生きているのか知りようがないが、私よりも先にこの地に生きていた命を、こちらの一方的な都合で切り倒すのだから最低限の礼儀は必要だ。

 生前であればあまり意識していなかった感覚である。

 だがこの島で目覚め、生きていく中で、そういった他の命への意識というか、自分は他の生物の命を頂いて生きているのだという実感、それを強く感じるようになった。

 だからこそ、感謝しなければならないのだろう。

 手を合わせ一礼した後、私は木の幹へ石斧を打ち付けた。

 がつんと固い音がして、石の刃が樹皮を数ミリ程度削り取る(・・・・)

 お世辞にも、切る(・・)とは言い難い切れ味だが、数回打ち付けても刃は欠けることはなく、道具が壊れず体力勝負となればもうこちらのものだ。

 がつんがつんと石斧を振るい続け、半分ほど削ったらちょいと飛び上がって幹にしがみつき、体重をかけて引き倒していく。

 あとは削った反対側をまた斧で叩き切り、予想よりも少し早い時間で一本目を切り終えた。

 しかし、これ一本だけではシェルターを作るのには少し足りない。

 息つく間もなく、二本目に取り掛かる。

 額に汗し、肉体労働に勤しむ。

 嗚呼、なんと健全な生活だろうか。

 と、殊勝なことを考えたところで近代世界、その中でも先進国、いわば恵まれた環境で生まれ育った人間がそう簡単に甘えを捨て切れるはずもなく。

 鉄の斧があれば、いやチェーンソーがあればこの十倍以上の速度と労力で、あっと言う間に掘っ立て小屋でも建てられるだろうに。

 嗚呼、懐かしきかな近代文明。

 冷房の効いた涼しい室内。冷蔵庫で冷やされた麦茶に調味料をふんだんに使った料理たち。

 がつん、がつんと斧を振る毎に、煩悩(それ)はまるで湯水の如く湧きあがった。

 

「煩悩退散、煩悩退散」

 

 念じながら、二本目を切り倒す。

 やれやれ、我ながら呆れる軟弱、強欲ぶりである。

 何の因果か、老いさらばえてくたばった筈の爺がこうして二度目の生を得られたのだ。

 例えそれが近い将来、この肉体本来の持ち主(たましい)へお返しするまでの仮初の生だとしても、得がたい経験に感謝こそすれ、不平不満を漏らすなどあってはならない。

 全身全霊をもって、本来の主に失礼のないように生きる。

 それこそが、私が今すべきことであろう。

 さて少しばかり湿っぽい思考になってしまったが、無事に材料は確保できた。

 切り倒した木を両肩に担ぎ、引きずるように拠点まで戻ってきた私は、まずこれらの木材を加工するところから始めることにした。

 石斧で丁寧に枝を落としていくのだが、ここで落とした枝も後で使うので、葉が付いたまま固めてすぐ傍に置いておく。

 次は私の背丈ほどの長さのものが四本。その半分ほどの短いものが二本。少し長めのものが四本できるように木材に目印を入れる。

 それが終わったら目印の部分を焚火の上に置き、両側から焼いて炭化させた後、石などに立て掛けてへし折る。

 てこの原理を使えば、炭化して脆くなった部分なら簡単に蹴り折ることができた。

 石斧を使っても切り分けることは可能だが、こうした方が早いし楽だ。

 そうして必要な分を揃えたらまずは背丈ほどのものと二本、短いもの一本を組み合わせてローマ字のAの形になるように固定する。

 固定するのには蔓を使う。丈夫なロープがあれば文句はないが、これも上手く使えば十分にその役目を果たしてくれるだろう。

 それを二組作ったら、次は長い木材をAの字の頂点に乗せて固定する。

 そうしてバランスを確認した後、残った最後の一本をAの字の真ん中辺りに足して固定すれば、簡単な骨組みの出来上がりだ。

 あとはここに、先程取っておいた枝を立て掛けていく。根元を骨組みの頂点に結び付け、なるべく隙間ができないように。

 どうしても隙間ができてしまう場合は、拠点周辺に自生する幅の広い葉を上から被せて固定した。

 作業時間、およそ半日。

 火を雨露から守る、簡易シェルターの完成である。

 今回は火を守ることが目的であるので一方向だけ屋根を付けたが、同じ要領で残りの三面も葉で覆えば簡易的なテントとしても利用できるだろう。

 まあ寝床はあの洞があるので、当面は休憩所兼調理場として利用することになるだろうが。

 

「いやあ、やればできるもんだなあ」

 

 さっそく火をシェルターの下に移し、よっこらせと地面に座り込む。

 少しばかりぼうっと空を見上げ、自由気ままに形を変える雲を眺める。

 このあとすぐに食料を集めに行かなければならないが、一仕事終えた後だ。ちょっとぐらいのんびりしたってバチは当たらないだろう。

 翼を揺らし、ぐでっと地面に伸ばした尾っぽから伝わるひんやりとした感触を楽しみながらそうしていると、呑気していた私の思考を吹き飛ばすような光景が目の前に飛び込んできた。

 見上げた空の向こう、流れる雲の奥から現れたのは、島であった。

 土砂や岩、木の根が入り混じった断崖絶壁。

 外縁部に並ぶ大小さまざまな滝。

 遥か上空にある為に正確な大きさはわからないが、周りに浮かんでいる雲を見るに相当な大きさだろう。

 もしかすれば、私がいるこの島より大きいかもしれない。

 

「本当に浮いているんだなあ……」

 

 頭が真っ白になり、阿呆みたいに開いた口が塞がらない。

 空に浮かぶ島。

 自分がそういった所で生きている事実は理解していたが、それでもやはり、実際に島が浮いているという非現実を外から見た瞬間に湧き出た感情は、まさしく言葉では表現できないような複雑怪奇なものであった。

 人は、いるのだろうか。

 真っ白になった頭に、まず浮かび上がったのがそれだった。

 ここからでは島の裏側しか見えない。もしかすればあの島には大勢の人々が暮らしていて、町や港なんかがあるかもしれない。

 あるいはあの島から何かしらの人工物でもこの島へ落っこちてくるようなことがあれば、この不思議な世界にも私以外の人類が存在する証明になるのだが。

 あの高さなら酸素も相当少なそうだが、今の私のような人とは少し異なる種も存在しているようだし、この特殊な環境に適応し、進化した人類がいたとしても不思議ではない。

 風が吹く。

 焚火がごうごうと燃え上がり、吹き飛んでしまいそうな薪を尻尾と両手で慌てて押さえつけた。

 島全体を吹き上げるようなその風に乗り、鳥たちが遥か上空へと飛び去って行く。

 あの島に行くのだろうか。或いは、また別の浮島が近くにあるのだろうか。

 

「私も連れてってくれると、助かるのだけどねえ」

 

 その呟きは風の中に溶けて消え、森には水を打ったような静けさだけが戻ってきた。

 浮島が、また雲の中に消える。

 雲の合間から顔を出すことは、もうなかった。

 



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掘る

 翌日。

 寝床から這い出して見上げた空にはもう浮島の姿はなく、雲一つない気持ちの良い青空が広がるばかりであった。

 ぐっと背伸びをし、ついでに翼と尻尾もぴんと伸ばす。そのままラジオ体操をするように体中をしっかりとほぐした後に泉の冷たい水で顔を洗えば、微睡んでいた頭もすっかりと冴え、四肢に力が漲ってくる。

 

「さて、今日も今日とて働きますか!」

 

 両手で頬を張り気合も十分、私は森へと入る。もはや毎日の日課となりつつある薪集めやら木の実拾いをさっさと済ませると、集めたそれらを洞に放り込んで足早に海岸へと向かった。

 今日は食料集めなど必要最低限のことは昼までに終わらせて、残った時間で粘土を集めて土器作りに手を付ける予定であったのだ。

 何度も往復するうちに踏み慣らされて獣道になりかけている川辺の道を進み、いつもの潮だまりで貝を集める。今回は、いつもよりも大きなヤドカリを何匹も見つけることができた。

 しかし、あまり獲りすぎると生態系のバランスが崩れ、安定して手に入れることができなくなってしまう。この辺りの見極めが、素人の自分にはひどく難しい。

 人の手が入っていない、命に満ち溢れた環境であるが故に、自身が周囲に与える影響がどのような変化をもたらすのか。

 今は生きることに精一杯でそこまで考える余裕もないが、やりすぎて手痛いしっぺ返しを食らう前に、ある程度の自制は必要だろう。

 それこそ前世において美味であるから、利用価値が高いからと乱獲され、人間の手によって絶滅した生物は嫌というほど見てきたのだから。

 

「うん、これぐらいならば大丈夫だろう」

 

 あくまで最低限、昼と晩に食べる分だけをココナツの殻に入れて拠点へと戻る。

 日はもうすぐ天辺まで登ろうかというところ。拠点で腹ごしらえを済ませたら、さっそく土器作りに取り掛かるとしよう。

 そう息巻いて拠点へと戻ってきた私であったが、待っていたのは予想だにしなかった信じがたい光景であった。

 あちこち掘り返され、でこぼこになった地面。なぎ倒されたシェルター。寝床にしていた洞からは枯草が放り出され、あろうことか保管していた木の実は根こそぎ食い散らかされていた。

 さらには鼻を突くような異臭が辺りに漂い、私は思わず顔をしかめた。

 どぶ川にも似た、強烈な獣の臭いである。

 放心。

 五秒かけて現状を理解し、十秒かけて過去の経験から似たような出来事を引っ張り出す。

 そうして、私は頭を抱えた。

 

「参ったな、こりゃあ。猪がおるのか」

 

 穴ぼこの傍にあった足跡を見て、確信する。

 二本指で引っ掻いたような溝の後ろに、押し付けたような丸い跡が二つ。

 田舎で何度か目にした、猪の足跡と一致する。

 地面が荒らされているのは虫を探して鼻先でほじくった後だろう。まさかここに来て、生前手を焼いた獣害に頭を抱えることになるとは思ってもみなかった。

 それも足跡を見る限り、それなりの大物である。

 いやはや、本当に参った。

 木の実が根こそぎやられているのを見るに、十中八九、この辺りも餌場として認識されてしまっただろう。となれば、ここで私が安心して暮らしていくには元を断ってしまうしかない。

 つまり、捕獲して殺す。

 私が別の場所に移住するという選択肢もあるが、この島にここと同等以上の恵まれた場所があるとも限らない。やるしかない。

 幸い、これほどの大物となれば、得られる肉は相当な量になるだろう。それこそ、うまく燻製などにすれば一週間以上は食うに困らない。

 では次に考えるべきは、どう捕らえるかだ。

 食うためならば、括り罠だろう。

 罠を踏んだり、鼻先を突っ込んだら引き金が落ち、輪っかにした縄が獲物を捕らえる。

 これならば生きたまま捕獲できるので、絞めた後すぐに解体すれば新鮮な状態を維持できるので味が落ちにくい。

 しかし暴れまわる獲物にトドメを刺す必要があるので、多少のリスクも伴う。

 安全にやるなら、落とし穴型(ピットフォール)が確実だ。

 2メートルほどの深さの穴を掘り、底の部分に尖った木の棒を並べるだけの簡単な罠だが、獲物を落下させ、刺殺するので自らトドメを刺す必要がない。

 ただこちらの場合は獲物が死んでから発見するまでの時間差で肉が悪くなってしまうことが多い。食べられなくはないが、味は相当に落ちる。

 味か、安全か。悩むべくもなく、結論はすぐに出た。

 落とし穴型でいく。

 この小さな体で、巨大な猪を相手取るのはあまりにも無謀と判断した。

 そも、プロの猟師が銃を使ってなお苦戦する相手なのだ。素人が石槍や石斧でどうこうできるようなものではない。

 さて、そうと決まれば早速罠作り、の前に腹ごしらえである。

 腹が減っては戦はできぬ、ではないが、空きっ腹のままで作業にも身が入らないというもの。

 幸いなことにまだ燻ったままであった焚火に薪をくべ、大きくしてからいつも通り貝たちを石焼きにしていく。

 そうして貝を焼いている間に、私は猪に荒らされた拠点周辺の手入れを始めた。

 掘り返されたところを埋めなおし、とっ散らかった薪を集めなおす。

 そうしているうちに浮かんできたのは、何故今になって猪がやってきたのか、という疑問であった。

 見た目によらず猪は非常に賢く、警戒心の強い動物だ。

 飛び越えられる高さの柵があっても、その向こうに何があるのかがわからなければ決して侵入してこないし、下手な罠なら易々と回避してしまう。

 場合によってはウリ坊(我が子)に罠がないかを確認させ、罠だった場合は自分だけ逃げてしまう、なんて話があるほどだ。

 真偽の程は定かではないが、まあ、それほどにずる賢い奴なのだ。

 そんな猪が、明らかに人の気配が残っているこの場所にやってきて、餌場にするだろうか。

 あるいはずっと以前から私を観察していて、脅威にはなり得ないと判断されたかだが、自分で言うのもなんだが今の私の姿はそれなりに攻撃的だと思う。爬虫類的な尻尾もあるし、足にはいかにも武器になりそうな鋭利な爪だってある。

 野生の動物ならば、それこそ警戒されそうな見た目をしている。

 となると考えられるのは、この島に天敵となる動物がおらず、他の生物への警戒心が退化しているか。

 地球においても、一部の地域に生息する生物は周囲を警戒することもせず、まるで殿様のように我が物顔で生き続けているものがいる。

 それは自身が生態系の頂点に君臨しており、他の生物から害されることが一切ないことを自覚しているからだ。

 今回拠点を荒らした猪も、その類なのかもしれない。

 もっとも、そもそもこの空の孤島でどうやって猪が誕生したのか、という根本的な疑問が残るが。

 

「ごちそうさまでした。うし、それじゃあひと働きするかね」

 

 昼食を平らげた後は、さっそく罠作りに取り掛かる。

 石斧を片手に森へと入ると手ごろな木々を切り倒し、拠点まで運んだあと枝を落とす。

 十分な量の木材を集めたら、次は罠を仕掛ける場所に穴を掘っていく。無論、スコップやシャベルなんていう便利な道具があろうはずもなく、使うのは手ごろな大きさの石のみである。

 これがまた重労働で、拠点から海岸まであれだけ歩き回っても息すら切らさなかったこの肉体をもってしても、腰ほどの深さまで穴を掘ったころには体中に玉のような汗をかき、腕など僅かに痙攣するほどであった。

 しかし、収穫もあった。

 つい先日雨が降った後、随分と水はけの良い土地だと驚いたものだが、掘ってみればその土質は粘性の低いさらりとした砂質の層が多かった。おそらくは、この土質も水はけの良さに繋がっているのだろう。

 表面には腐葉土が積み重なっているし、上手く手を入れれば良い野菜が育ちそうである。

 まあ、その育てる野菜が手に入ればの話ではあるが。

 そうして一休みした後、私はまた穴掘りの作業へと戻る。

 相手が予想以上の大物だった場合も考慮すれば、せめて私の背丈ぐらいまでは深くしておかなければならない。

 痺れる腕を振り、じんわりと痛み始めた腰をさすりながら穴を掘り続けること数時間。

 ようやく頭のてっぺんまで隠れるほどの穴を掘り終えた頃には、辺りはすっかりと暗くなっていた。

 あとはここに先端を削って鋭くした木の棒を仕込んで完成なのだが、暗がりでの作業は危険な為、続きは明日の早朝から始めることにする。

 

「まあ、とりあえずはひと段落だなあ」

 

 穴倉からよっこらしょと這い出した私は、そう言ってぐっと背筋を伸ばした。

 長時間身を丸めて作業していた為か、全身の骨が小気味のいい音を立てる。

 それにしても、今日は随分と汗をかいてしまった。

 こんな時は熱い風呂にでも入ってさっぱりしたいものだが、残念ながらこの島にそんなものはない。泉での水浴びぐらいがせいぜいだろう。今はそれで十分だ。

 焚火に薪をくべ、焼きヤドカリに舌鼓を打ちながら、私は猪を捕らえたらどう食らってやろうかと、そんなことを考える。

 まだ姿すら見てもいないのに、我ながら呑気なものだ。

 とらぬ狸のなんとやら、そんな風に笑いながらも、やはり食い気のほうが勝ってしまう。

 焼くか、茹でるか、食いきれない分は燻製にして保存食に、油はラードに加工できるかもしれない。

 さらにその毛皮は着てよし、敷いてよしと用途は様々、骨も道具の素材にでき、加工すれば釣り針にもなる。

 今の私にとっては、まさしく宝箱のような存在だ。

 しかしそれも、仕留めることができればの話。

 相手は武装した人間すら返り討ちにすることすらある大型の獣だ。油断すれば、食う食われるの立場はあっさりと逆転する。

 まさしく弱肉強食。自身が自然の生態系の中に立っているのだと自覚し、私は震える手を固く握りこんだ。

 空を見上げる。

 星々は相も変わらず、みっともなく足掻く私を嘲笑うかのように可憐に瞬いていた。

 



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貴重なたんぱく質です

■注意■
今回、昆虫を食べる描写があります。
虫が苦手な方、昆虫食に嫌悪感を抱かれる方はご注意下さい。


 

 翌日、作業は早朝より始まった。

 朝食代わりにグアバに似た果実を頬張りながら、集めた丸太を焚火の上に並べて丁度良い長さに焼き切っていく。

 必要な本数分を揃えたら、次はその断面の炭化した部分を岩に擦り付け、先端を槍のように尖らせたそれらを穴の底部に並べれば、おおよその形は出来上がる。

 あとは上部に枝やら葉を敷き詰めて、軽く土をかぶせれば完成だ。

 なんやかんやで日がかなり高い位置になるまで時間がかかったが、この罠がすぐ役に立ってくれるかと言えば、それは否であろう。

 何度も言っているように猪、というよりも野生の動物は得てして警戒心が高い。

 以前と少しでも変化があればそこには絶対に近づかないし、さらにそこに外敵、人の匂いがべったりついていたりすると、それだけで罠を見破ってきたりする。

 なのでそこは知恵比べ、というよりも根競べだ。

 少しでも罠の効果を高めるために、拾い集めた果実を適当な大きさに千切り、落とし穴の周辺に撒いておく。

 それが終わったら、次は食料調達だ。今回は海ではなく、森の中、それもまだ探索を終えていない範囲を重点的に探っていく。

 食料を得るならいつもの海岸へ向かうべきだが、今回の探索の目的はヤシの実などの果実や貝類などでは効率的に摂取することが難しい、とある栄養素を豊富に含んだ食材を得ることにある。

 その栄養素とは、たんぱく質。

 誰もが知る脂質、糖質、ビタミン、ミネラルに並ぶ、五大栄養素の一つであり、骨や内臓、筋肉を作る重要な栄養素である。

 これが不足すると基礎代謝や免疫力が低下して病気にかかりやすくなり、思考能力にも影響を及ぼすので正常な判断ができなくなったりする。

 つまりこのサバイバル環境下では命取りになる、決して軽視してはいけない要素の一つなのだ。

 たんぱく質の含有量が多い食物としてはやはり肉類、魚介類、卵類などがあるが、肉も魚も今のところ手に入れる方法が無い。将来的には両方とも罠を使って手に入れるつもりだが、それも効果が出るまでに時間がかかる。

 となれば、労力も時間もかけずに高たんぱくな食物を得る手段は限られる。

 運よくナッツ類、落花生や胡桃の類を見つけるか、アレを捕まえるか。

 できれば、前者のほうがありがたい。ありがたいが、そんな都合よく狙った獲物が見つかるほど、自然は甘くない。

 体感で一時間ほど歩き回ってはみたものの、ナッツ類どころか食べられそうな木の実すら見当たらない。

 あまり気は進まないが、次善の策を打つしかないだろう。いや、次善とは言ったが、圧倒的に効率が良いのはこちらの方ではあるのだが。

 探すのは朽ちて脆くなった倒木の中や、その裏側。枯れてぼろぼろになった倒木などは、持ち前の鋭い爪先で蹴り込めば面白いように崩れてくれる。

 倒木を蹴り、次へ。

 迷わないように木の幹に目印を付け、倒木を蹴って、次へ。

 蹴り、次へ。

 小さな川の支流を見つけ、その先に澄み切った美しい本流を見つけ、魚用の罠を仕掛けるのはこの辺りにしてみようかと見当をつけながら、拠点に引き返す途中の倒木の中に、それはいた。

 

「おお、見つけた見つけた。これはまた立派だなあ」

 

 出てきたのは、親指ぐらいの大きさの生き物。

 肥え太った白い体の先っちょに、茶色い小さな頭がちょんと乗っかっている。

 細い枝でほじくり出して見れば、尻から頭へと体を波打たせながらのたうつその姿は、妙に愛嬌があるようにも見える。

 それは、俗にいう芋虫であった。

 とはいえ体の大きさは一般的に想像するカブトムシの幼虫のおおよそ二倍。表面は動きやすくするためか凸凹としているが足もなく、産毛のようなものも生えていない。

 地球の生き物で例えると、ココナッツワームが一番近いだろう。

 これこそが、次善の策。

 栄養面だけで考えれば最も効率の良い、探し求めた食材であった。

 食材。

 そう、食材である。

 気が狂った訳ではない。意外かもしれないが、昆虫食は世界的にもポピュラーな文化だ。

 日本人ならイナゴの佃煮やハチノコは見聞きした者も多いだろうし、メキシコでは蚊の卵にレモン汁をかけて食う。大昔のローマでは、カミキリムシの幼虫を養殖していた、なんて話がある程だ。

 何より、昆虫は非常に栄養価が高い。

 種類にもよるがたんぱく質、脂質ともに牛肉並みで、何より牛ほど手間がかからない。

 昆虫の強みは、その繁殖力だ。彼らはその繁殖力を武器に、生態系の下部に位置していながらも現代まで種を存続させてきた。

 つまり、放っておけば勝手に増えるうえに、多少捕って食っても生態系に影響が出ない。

 まさしくサバイバル環境下において、これ以上ないほどの食料となりえるのだ。

 と、偉そうに講釈を垂れたが、私自身昆虫を食らうのはこれが始めてだ。

 いや、イナゴの佃煮は食ったことがあるのだが、あれは既に加工されていたこともあって、食品、つまりは食べても大丈夫なものとして認識できたのでまだ嫌悪感は少なかった。

 だが、これは全く違うものだろう。

 食えるのだろうか。いや、食わなければならないのだけれども。

 そんなことを考えながら、一匹、二匹と同じような幼虫を捕まえては持参したココナツの殻へと放り込んでいく。

 これがまた不思議なもので、嫌々探し始めた途端、面白いように見つかるのである。

 五匹が十匹、十が十五と、拠点に帰ってくる頃には、ココナツの殻は蠢く幼虫たちでごった返していた。

 落とし穴の様子を見てみるが、猪が拠点にやってきた形跡はない。地面も掘り返されておらず、出発した時と変わらず綺麗なままだ。

 前回で腹を満たして大人しくなったか、それとも罠の存在を察知しているのか。

 とりあえず今は、目の前の食材である。

 

「薄目で見れば白玉団子のように……いや、さすがに無理があるな」

 

 しかしまあ、見てくれは悪いが貴重なたんぱく質だ。

 選り好みできるような状況でもなし、それこそ生きていく為には何だってやっていかなければならない。

 意を決して私は幼虫を一匹摘まみ上げ、丁度よい細さの枝をその丸々と肥えた腹に突き刺した。

 下拵(したごしら)え自体は苦でも何でもない。魚釣りをする時に、生餌を針に付けるのと似たようなものだ。

 そうして一匹、二匹と串代わりの枝に通し続け、最終的には三本出来上がったそれを、熱した石の上で焼いていく。

 

「せめて塩か醤油があればなあ」

 

 ついそんなことを言いながらじっくり焼いていくと、驚くことに幼虫の腹からじわりと油が滲みだし、ぱちぱちと音を立て始めた。

 それと同時に鼻先に立ち昇る香ばしい匂い。

 火が通り、ほんのりと焼き色の付いたそれはまるで焼き鳥の皮のようであった。

 こうなると人間単純なもので、動いている姿には抵抗があっても、焼いただけとはいえこうして加工してしまえば不思議と美味そうに見えてくる。

 じゅわじゅわと音を立てる串焼きを手に取って見れば、やはり鳥の皮というか、ホルモンというか、いかにもジューシーそうな見た目をしていた。

 ぐう、と遠慮がちに腹が鳴り、笑う。

 どんなに頭で考えたところで、身体は正直ということだろう。

 空腹に勝る調味料なしとはよく言ったものだ。

 

「それでは、頂きます」

 

 手を合わせ、恐る恐る齧りつく。

 ここまで来てまだ及び腰になっているのだから、我ながら度胸のない男である。

 そうしてその丸々とした腹に歯を立ててみると、食感はやはりパリッと焼いた鳥の皮に近い。だがそのすぐ後に歯を押し返すような弾力があり、以外にも甘味が強い。

 しかし油の香ばしさや僅かな苦みもあり、何とも不思議な味わいだ。

 だが悪くない。それどころか、つい食が進む美味さがある。

 一口齧り、また一口。

 そうしてあっと言う間に一本目を胃袋に納めてしまった頃にはもう嫌悪感は全くなく、私の目にはこの串焼きが立派なご馳走として映っていた。

 ああ、何故私は今の今までこれを食わなかったのか。

 そんなことを思ってしまう程度には、それはもう美味かった。

 

「ご馳走様でした」

 

 そしてとうとう三本目まで食べきって、私は満足げに腹を撫でる。

 空を見上げればもう日が落ち始めており、また探索に出るだけの時間はないと判断した私は、眠気が来るまで焚火の傍で道具作りに勤しむことに決めた。

 材料として使うのは、あらかじめ集めておいた植物の蔓だ。

 まずは太めの蔓を米の字に組み、中心部分から円を描くように、互いに上下に交差するよう別の蔓を編み込んでいく。

 丁度、縫い物のなみ縫い(・・・・)のような感じだ。

 そうして全体の三分の一ほどを編み終えた辺りで、次は骨組みになっている蔓の先端を纏め、また蔓で縛る。こうするとちょっとそこの深い壺のような形が出来上がる。

 そうしておいて、また残った部分を編み込んでいく。

 蔓が無くなれば継ぎ足し、継ぎ足し、空に星が輝きだした頃、ようやく一つ目が完成した。

 出来上がったのは、蔓で編み上げた背負い籠だ。

 大きさはランドセル程度しかないが、一人分の食料や薪を入れるには丁度いいだろう。

 もっとも、背負い籠とは言ったが今の私の背には立派な翼がある為、邪魔になってうまく背負えない。ではどうするかといえば、尻尾に引っ掛けて使うのだ。

 今までの生活で、尻尾の力が腕以上のものであることは確認しているし、両手も塞がらないので丁度いいだろう。

 試しにひょいと尻尾で引っ掛けてみれば、なるほど、これは思った以上に便利かもしれない。

 腰より上にくるように提げておけば落ちることもなさそうだし、まさしく三本目の腕といった具合だ。

 しかしまあ、所詮は妻の真似事ではあったが、思いのほか上手く出来たではないか。

 少しばかり形が歪ではあるが、実用には足り得るだろう。

 他にも幾つか作っておけば食料の保管にも使えるだろうし、日が落ちて手持無沙汰になった際にでもまた拵えておこう。

 ぱちりと音を立てて弾ける焚火を眺めながら、私はそんなことを思うのであった。

 

 



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練る、作る、考える

 

「そういえば、もう一週間以上は経っているのか」

 

 朝日差し込む朝もやの中、ぐっと伸びをしながらふとそんなことを思う。

 ひい、ふう、みい、と指折り数えながら記憶を辿れば、なんとなんと、この無人島で目覚めてからもう九日も経っていた。

 生き残るのに必死でそんなことを気にする余裕がなかったのもあるが、それ以上に毎日薪を集め、食料を調達し、火を起こしたり道具を作っているだけで一日が終わってしまうので、時間の感覚がかなり狂ってしまっているのだろう。

 まあ今私がいるのはテレビも電車もバスもない異世界の無人島であるので、体内時計が狂っていようがさほど気にする様なことではないのだが、せめて日数ぐらいは把握しておきたい。

 まさかこの世界で地球の暦(太陽暦)が通用するとも思えないが、さすがに季節ぐらいはあるだろう。少なくとも冬は来ると考えて行動しなければ、最悪飢えて死ぬはめになる。

 そんなわけで、私は手ごろな石板に石器で傷を付ける。

 横棒を六つと、縦の線を一つ。これで七日とし、さらにその横に追加で横線を二つ引いて九日となる。

 簡易的かつ原始的だが、まあ無いよりは随分と良い。

 こうして何日経ったかを記録していくことで、この島の気温、気候がどのようにして移り変わっていくのか、それを図る指標となる。

 

「願わくば、冬までにこの島から脱出したいものだがなあ」 

 

 洞の中にカレンダー代わりの石板をしまい込むと、遥か遠い雲を眺めながらそう独り言ちる。

 周辺の植生や気候を鑑みるに、この島は地球でいうところの熱帯雨林に近い。

 日本人にはあまり馴染みのない単語だが、要はアマゾン、ジャングルと聞いて連想するような深い森のことだ。

 一年を通して気温が高く、日本のように雪が降るほど冷え込むことはまずない。

 ならば冬に向けてそう悲観的にならなくても良いように思えるが、そもそもが空に浮く島の話であるので、地球でこうだからここでもこうだろう、という判断はあまりにも軽率すぎる気がするのだ。

 さらには気温がそれほど高くもなく、雨の頻度も少ないのも気になる。

 素人の私でも簡単に火が起こせるほど湿度も低いし、記憶にある熱帯雨林の情報との差異がどうしても気がかりだ。

 考えすぎかもしれないが、それなりに用心して備えておいた方がいいだろう。

 その為にも、目指すべきは冬を迎えるための保存食の作成。そしてそれらを保存しておく為の容器と場所の確保である。

 その第一歩として、まずは土器を作る。

 材料はいつだったか、海へ向かう道中に見つけた川辺の粘土を使う。

 木の棒を使い、掘り出した粘土を蔓で作った籠に詰め込んで拠点に持ち帰ると、それを大きな平たい石の上に広げ、丁寧に細かく砕いていく。

 この時、粘土に混ざった小石や枝、落ち葉の欠片などはひび割れの原因となる為、丁寧に取り除いておく。

 それが終われば次は少しずつ水を加えながら、ほどよい粘り気になるまで練り続ける。

 最後に成形。いよいよ土器の形を作る。

 皿のように丸くして器の底部分を作った後、棒状に伸ばした粘土を使ってその縁に沿うようにして輪を作り、何段も重ねていく。

 そうしておおよその形ができたら、水で濡らした指の腹を使いそれぞれの接点を繋ぎ合わせ、表面を滑らかにする。

 ここも大事。ここで少しでもひびを残すと、焼いたときに割れる原因になってしまう。

 

「しかし、こんな森の中、半裸で陶芸をすることになるとは、人生何が起こるかわからんもんだなあ」

 

 しわがれ、ひび割れた枯れ枝のような指先はもうなく、粘土で汚れるそれはまるで瑞々しい若葉のようで。

 丸太に腰掛け、尻尾を揺らしつつ黙々と土器を作ること数時間。ようやく三つ土器を作り終えた頃にはもう空は赤く染まりはじめ、うっすらと星が顔を出し始めていた。

 小中大と、三つ。

水飲み用と、調理用と、保存用。

 昔取った杵柄のおかげか、それとも身体を借りているこの娘っ子が元々器用なのか、べちょりと潰れることも、崩れることもなく、形だけならばそれなりの見た目にはなった。

 勿論、これで完成ではない。

 ここから乾燥、そして焼きの過程が必要になるのだが、かなり時間がかかるので今日はここまで。

 出来上がった三つは崩れないように石板の上に置いて、洞の中で保管する。

 とりあえずは一晩このまま乾かし、明日の朝から火を使ってさらに乾燥させるとしよう。

 

「これでよしっと。さて、それじゃあ暗くならないうちに今晩の御飯(おまんま)でも採ってくるかな」

 

 とはいえ、そう時間の余裕は無い。のんびりしていれば、あっという間に夜になってしまう。

 川でささっと手を洗い、森の中へ。開けた泉周辺はまだ明るかったが、背が高い木が多い森の中はもう夜のように暗く、まるで別の世界のような、妙な怪しさがあった。

 

「いや、実際に別の世界に来ているのだったな」

 

 そうやって呵々と笑いながら、もうすっかりこの程度なら見渡せるようになった目で、もうすっかり我が家の食事の定番となったいつもの果実を拾って歩く。

 拾った果実は、尻尾にぶら下げた籠の中へ。ゆらりゆらりと勝手気ままに揺らめきながらも、ひっかけた籠がずれ落ちることはない。我が身体ながら、器用なことである。

 いつも通りの、何度も繰り返してきた慣れた作業。そんな意識であった。

 思えば、それもある種の油断だったのだろう。

 新しい環境に慣れ、適応しつつあった意識の隙間。ほんの少しの気の緩み。

 自然は、野生はそんな生への甘えを許さない。

 

「……これはキツイな」

 

 初めに感じ取ったのは、異様なまでに濃厚な獣の臭い。

 間違いなく、猪のものである。

 それと同時に見つけた、ある異変。

 森の中に並ぶ木々の中でもひときわ太い幹をもつ大木に刻まれた、下から上に切り上げたような切り傷。

 これ自体は、猪が牙を研いだ跡だろう。昔、知り合いの畑の近くで見かけたことがある。

 だが、異様なのはその太さと、高さ。

 腕ほどはある太さの鉈で切りつけたような、巨大な切り傷。それが私の胸当たりの高さに刻まれていた。

 尋常ではない大きさだ。少なくとも、百キロ程度では収まらないだろう。

 百キロ越えの猪でも、十分に怪物サイズ。その大きさは大型犬を軽く超え、馬力は言わずもがな、丸腰の人間がどうこうできるものではない。

 瞬間、若返った脳細胞が全力で動き出す。

 拠点に残っていた痕跡から、相当な大きさとは思っていたが、まさかこちらの常識を超えるほどのものだとは思っていなかった。

 この巨体に対し、落とし穴の深さは十分か。埋め込んだ槍の長さ、耐久性は致命傷を与えるに足るか。

 いやそもそも運よく仕留めたとして、果たして石器だけで解体できるものなのか。

 あるいは罠を見抜かれ、襲われた時にどうするか。

 応戦。

 下策中の下策だろう。百キロ以上の猪、いわばフロントに鉈を付けた大型バイクに真っ向からぶつかるようなものだ。

 逃げるしかない。それも、ただ逃げるだけでは駄目だ。

 猪の走る速度は最高で四十五キロ。百メートルを九秒台で走る陸上選手ですら逃げ切れないほどの速度で走ることができる。

 より確実、安全なのは高い木に登ることだろう。さすがの猪も、木の上までは追ってこれない。

 問題は、拠点としている泉周辺にそういった木がなく、開けてしまっている点。

 よーいどんで逃げ始めたら、まず勝ち目はない。私が木に登るよりも先に、猪の牙が私を貫くだろう。

 ひやりと、背中を冷たいものが伝う。

 ともかく、まずは拠点へ帰ろう。

 視界がきかず、充満する獣臭のせいで鼻も役に立たなくなった森の中では、あまりにも心許ない。

 ひとまずは比較的安全な拠点へと戻り、今後の対策を考えることにしよう。

 しかし、急いではいけない。

 慎重に、慎重に、周囲を警戒しつつ、いつ草陰から獣が飛び出してきても対応できる気構えで、すり足に近い歩みで来た道を戻る。

 いざとなれば、抱えた籠すら投げ捨てて遁走しなければならないだろう。

 だがそんな私を嘲笑うかのように、森は静けさを保ったまま。

 気が付けば私は森を抜け、泉の傍へと帰ってきていた。周囲に獣の気配はなく、辺りを浄化するような清々しい風だけが吹いている。

 一つ、二つ、三つ数え、ぶはっと息を吐いた。

 

「ああ、生きた心地がしなかった。しばらく、森に深入りするのはやめておこう」

 

 倒れるように尻もちをついて、そうぼやく。

 肉は食いたいが、バケモノ猪とやりあうなんて文字通り死んでもごめんであった。

 なんとか、しなければ。

 真っ向勝負で勝つ方法、ではなく、追い払う、この場所に近づけさせないようにする、そんな手を。

 空を、頭上で瞬く星を見上げる。

 今夜は、まるで眠れそうな気がしなかった。



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土器と梯子

 

 案の定、翌朝はひどい寝不足であった。

 いや、この島で目覚めてから一度も熟睡などできた試しがないので、いつもより(・・・・・)ひどい寝不足だった、というのが正しいのだろうけれども。

 洞の中から這い出して、泉の水で顔を洗う。ぼんやりとした頭が、少しばかりはしゃきっとした。

 夜通しかけて考えてみたが、猪、というよりは獣対策としてやはり逃走経路はしっかりと用意しておこうと、そういうことになった。

 ということで、今日は土器を乾燥させる作業を進めつつ、梯子(はしご)を作ろうかと思う。

 そう、猪から逃げるには高い場所へ避難することこそが最も確実かつ安全。ならば、私がいつもお世話になっているこの大樹に登ってしまえばいいのである。

 生憎と大樹の枝が伸びる場所まではかなりの高さがあり、道具を使わずに登るのは不可能に近い。いや、この鋭い足の爪を突き刺しながら登れば何とかなるかもしれないが、毎日世話になっているこいつを傷つけるのは極力避けたい。

 だからこその、梯子である。

 とはいえ、それほどしっかりとした物を作る必要はない。要は登ることができればいいのだから、それこそ縄梯子のような簡単なものでもいい。

 まずはそのための材料集めからなのだが、その前に焚火に薪を足し、一晩かけてかなり乾いた土器を火から少し離して並べておく。こうして少しずつ少しずつ火に近づけていき、芯の部分までしっかりと乾燥させる。

 そうして十分に薪をくべると、いよいよ材料集めだ。

 日はまだまだ顔を出したばかりだが、のんびりとはしていられない。

 迷わないよう川沿いに歩きながら、私は周囲に目を光らせる。

 ロープ代わりになるような太い蔓があればいいが、枝までの高さは五メートル近い。足を引っ掻ける踏み木(・・・)を縛る分まで考えると、相当な長さが必要になる。

 果たしてそれほど長く、さらに太い蔓が都合よく見つかるものだろうか。

 

「うん、おお、あれはまさか」

 

 しばらく歩き、もうじき海が見えるかというところで、私はそれを見つけた。

 ヤシの木に似た太い幹。扇状に開いた細い葉。

 しかしその背はヤシの木よりも遥かに低く、幹全体を繊維質の皮が包んでいる。

 

「これは驚いた。棕櫚(しゅろ)の木かこれは」

 

 思わず駆け寄って、その固い幹を撫でた。

 シュロの木は日本にも自生している植物で、暑かろうが寒かろうが、乾燥していようが湿気が多かろうが関係なく根を生やすほどの頑丈さを持つ。

 さらにその用途は多岐にわたり、葉は箒や籠に、実は薬として利用できるし、なによりその繊維質な皮は加工すれば縄として利用できる。

 シュロ縄といえばとても頑丈で腐りにくく、木の枝打ちなどの作業にも用いられる程で、梯子を作るにはこれ以上ない素材と言えた。

 見渡せば、ぽつりぽつりと何本も同じような木が生えているのが見える。これだけ群生していれば、かなりの長さの縄が作れるだろう。

 

「ん、しっかし固いなあ!」

 

 これを逃す手はないと、さっそくその皮に手をかけてみるが、これがまた驚くほど固い。

 左右に編み込むように交差した繊維が、幹を締め付けるようにして巻き付いている。素手で剥がすのは、相当難儀しそうだ。

 持ってきていた石器ナイフを幹と繊維の間に差し込み、筍の皮を剥がすように少しずつナイフを奥へ押し込んでいき、ようやく一枚切り離すことに成功した。

 格闘の末手に入れたのは三十センチ四方ほどの皮一枚。当然ながら、これだけでは足りない。少なくとも尻尾にぶら下げている籠三つか、四つ分。多すぎるぐらいが丁度いい。

 かなり手間だが、拠点とここを数回往復する必要があるだろう。

 だが手間をかける価値はある。

 

「ようし、やるかっ」

 

 頬を叩いて気合を入れると、私は黙々とシュロの皮を剥ぎ、籠へ詰め、拠点へと持ち帰る作業を続けた。

 時折、燃え続ける焚火の状態を確認し、火が小さくなっていれば薪を足し、土器の状態を見て火に当てる方向を変えたり、火に近づけたりもした。

 そうして拠点とシュロの木を行ったり来たり、往復すること十数回。

 額にじわりと汗がにじみ始めた頃、私が寝床とする大樹の傍には、苦労して集めたシュロの皮がこんもりと詰まれていた。

 焚火で乾かし続けた石器もかなりいい感じだ。これならば、そろそろ焼きに入ってもいいだろう。

 と、その前に、シュロの皮の下拵えだ。

 採ったばかりの状態でも使えなくはないのだが、繊維が絡み合って非常に扱いにくいので、まずは水に漬けて繊維をほぐし、ついでに汚れも落としておく。ほぐし終わった皮は倒木に並べ、乾燥させる。

 かなりの量を集めたので、かかる手間もそれなりだ。

 その間に土器の方がかなり乾いてきたので、いよいよ焼きの工程に入っていく。

 炭だけになった焚火の上に土器を並べると、それを囲うように薪を組み、数時間かけてじっくりゆっくりと火力を上げていく。

 野焼きという方法で、縄文時代の頃から行われてきた原始的な土器の作り方である。

 

「細工は流々仕上げを御覧じろってなもんだ。さて、続きをやってしまうか」

 

 とはいえ、仕上がりの良し悪しをどうこう言う輩など、この島に居ようはずもないのだけれど。

 伸るか反るか、答えはごうごう燃ゆる炎の中に。

 火の様子を見つつ、シュロの皮を洗い終えたら次はほぐしたそれを糸状に()っていく。

 両手のひらで繊維を挟み、そのまま前後に動かして繊維同士を絡ませる。

 幼い頃、友達と一緒になって竹とんぼを飛ばした時のような、強すぎず、しかし緩すぎない力加減で一本、また一本。

 そうして細長い束を何本も拵えると、次はその束同士をさらに編み込んでいく。

 束を二本手に取って、先程と同じ要領で捩じり、()える。

 これもまた、力加減が難しい。

 道具があればまた違うのだろうが、要は慣れと、経験で身に着ける技術。

 数回見聞きしただけの猿真似が、そうそう上手くいかないのは道理だ。

 右にふらふら、左にだらだら。

 初めは不格好だったものが、半ばからまっすぐに、綺麗に伸びていく。その過程がまた、楽しいと思える。

 

「わっとと、危ない危ない、忘れるところだった」

 

 ついつい夢中になってしまうが、焚火の火加減にも気を配らなければならない。

 のめり込むと周りが見えなくなるのは、昔からの悪癖である。

 生前、妻に口酸っぱく叱られたものだ。

昔から、そうなのだ。

 一つのことにのめり込むと、それしか見えなくなる。

 馬鹿は死ななきゃ治らないとは聞いたが、どうやらとびきりの阿呆は死んでも治らないらしい。

 ねじる。ねじる。

 日が頭の上を超え、反対側に沈み込む。

 くべ続けた薪が燃え尽き、白い灰の中にちろちろと熾火が見え隠れするぐらいになった頃、私はようやく十分な長さのシュロ縄を二本仕上げることができた。

 右に左にくねった縄はお世辞にも立派とは言い難いが、梯子にするには十分だろう。

 ついでに、余った分で細い物も何本か作っておいた。こちらもまた、様々な道具に利用することができるだろう。

 

「さて、あとは踏み木をつけるだけだが、こっちはどうかな」

 

 燃え尽き、灰になった焚火を枝でほじくってみると、真っ白に煤けた土器が三つ転がり出てきた。

 残念ながら一番大きなものは真ん中から二つに割れてしまっていたが、残りの二つは無事のようだ。

 それなりに上手く焼けているように見えるが、どうだろうか。

 試しに枝の先で土器の頭を叩いてみれば、まるで金属を叩いたような固い音が返ってきた。

 おお、と思わず声が出る。

 見たところひびも入っていないようだし、実際に使うのが今から楽しみだ。

 温度を下げる為に土器を火から離れたところに運び、焚火に薪を足した後で縄梯子の仕上げに取り掛かる。

 と言っても、あとは二本の縄に適切な太さの枝を等間隔で取り付けるだけの簡単な作業だ。

 枝を取り付ける際はてこ結び(・・・・)という結び方を使う。

 枝に縄をぐるっと一周、向こうにいった縄が外側から出てくるように巻き付ける。

 あとはその外側に来た縄を、内側の縄の向こうから引っ張ってきて、出来た輪っかに枝の端っこを通す。

 仕組みは簡単だが、だからこそ頑丈でほどけない。

 反対側も同じ手順で結び、これを均等な間隔をあけて繰り返す。

 単調作業なだけに、あっという間に縄梯子は完成した。

 試しに踏み木を足で抑えながら反対側の踏み木を掴んでめいっぱい引っ張ってみたが、これがまた頑丈で千切れる様子も、踏み木が外れる様子もない。

 大成功と、そう言えるだろう。

 あとはこれを大樹の枝に固定するだけだが、日も暮れてきたのでその作業は明日に回すことにしよう。

 続いて、土器の出来栄えを確認する。

 縄梯子を完成させている間にすっかり冷えたようで、手に取ってみればその手触りはまるで陶器のようであった。

 

「おお、これはいいな」

 

 試しに泉の水を汲んでみる。小さい物も中ぐらいの物も、どこからも漏れることはない。

 土器の中に揺らめく澄んだ冷水を、ぐいと呷る。

 コップで水を飲む。ただそれだけの、生前では当たり前であった行為のはずなのに、今この場ではそれが何よりも嬉しく、水の美味さを数倍にも引き上げているような気すらしていた。

 飛び上がらんほどの歓喜を押しとどめながら、私は最後の確認作業に入る。

 それはつまり、焼き上げたこの土器が、どれほどまで火に耐えられるか、というものであった。

 そう、小さい物はともかく、中ぐらいの物は調理用に作ったのだ。

 いくらこの身が頑丈にできているとはいえ、生水を飲み続けるのはさすがにリスクが高すぎる。

 煮沸消毒、加熱処理は生存への絶対条件であった。

 しかしここで熱に耐えきれず割れるようなことがあれば、これまでの努力は水の泡。また一から作り直しだ。

 ひとまずは中ほどまで水を注ぎ、恐る恐る焚火の上に置いた。

 じわじわと、器の温度が上がっているのがわかる。

 ゆらりゆらりと揺れる炎を、じっと見る。

 日が沈み、辺りを焚火の灯りが照らし始めた頃。

 沸々と踊り始めた水を見て、私は本日何度目かになる歓喜の声をあげたのだった。



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一本釣り?


罠を使っての漁(遊漁)は地域により漁業調整規則違反となる場合があります。
違反者には懲役、罰金などの罰則が科せられますので、
各自治体の「漁業調整規則」や「内水面漁業調整規則」をよく確認し、使用してください。


以降週一投稿(目標)になります。
誠に申し訳ありませんが、宜しくお願い致します。


「よっと、まあこんなものか」

 

 翌朝、私は日が昇るのと同時に作業を再開していた。

 大樹の枝に縄梯子を固定するのは少しばかり骨が折れたが、登ってみればきらきらと陽光を反射して輝く泉がなんとも美しく、流れる川のせせらぎを耳につい居眠りをしてしまいそうなほどであった。

 ともあれこれで、猪が襲ってきた場合にも速やかに避難することができるようになった。

 何ならこのまま大樹の枝を借りて、家でも建ててみようかと、そんなことを思う。

 ツリーハウスといえば男子ならば一度は夢見たであろう心躍る代物であるが、勿論目的はそれだけではない。

 地上から離れた場所に作ることで虫や獣の被害から身を守ることができるし、何より安心して眠ることができるようになる。

 熟睡できれば体力の回復も早くなり、体力に余裕ができれば昼間の作業効率も上がる。

 そして作業効率の向上は、生活の豊かさに繋がる。

 当たり前だが、やはり拠点、住居の品質というものはかなり重要なのだ。

 大樹はその逞しい体に相応しい、太く頑強な枝を多く伸ばしているし、簡単な拠点ならばなんら問題なく支えてくれるだろう。

 問題があるとすれば、それは時間。

 

「いったい何日かかることやら」

 

 枝の上で尻尾を揺らしながら、独り言ちる。

 朝から火を起こし、薪や食料を集め、罠や道具を作る。

今のところ、これだけで一日の大半が終わってしまう。

 勿論、暗くなってしまうと高所での作業などできる筈もないので、拠点作りをするとなると当然昼の間になるのだが、この時間がなかなか捻出できそうにない。

 

「どうしたものかなあ」

 

 ゆらりゆらりと尻尾が揺れる。

 少しずつ食料を備蓄しながら、余裕ができてきた頃に三日に一度。それぐらいなら、まだ何とかなるだろうか。

 

「せめてもう少しましな道具があればなあ」

 

 何せ今使える道具は石器だけ。これでは木を切るにもかなりの時間がかかってしまう。

 鉄製の道具でもあれば文句はないが、まさか鉄鉱石から製鉄を始めるわけにもいくまい。

 となればこれはもう、地道に進んでいくしかないだろう。

 そうそう、建材の問題もある。

 太い枝を伸ばしているとはいえ、さすがに耐えられる重量には限界がある。

 となれば、家の中に食料やら道具を置くことを考慮すると、建材として利用するものはなるべく軽いものがいい。

 理想としては、やはり竹か。

 しなやかで軽く、火で炙れば簡単に曲げることができる加工のし易さ、さらには工事現場の足場に使われるほどの頑丈さ。

 建材としてみれば、これ以上のものはない。

 が、この空に浮く島でそんな簡単に、そんな都合よく竹が見つかるものだろうか。

 まだ島全体を探索した訳ではないので無いとは言い切れないが、まあ、この辺りは今考えたところでどうにかなる問題でもないか。

 ぐっと枝の上で伸びをして、私はするするっと縄梯子を伝って下へと降りる。

 ともあれまずは今日の糧だ。腹が減っては戦ができぬ、という訳ではないが、まずは食って体力をつけなければどうにもならない。

 今日は海まで行って、魚用の罠を仕掛けようと思う。

 使うのは蔓とシュロの縄で作った(うけ)と呼ばれるシンプルな罠だ。

 名前自体はあまり馴染みのないものだろうが、要は子どもがペットボトルの頭を切ったりしてよく作っているあれだ。

 大きな筒の中に先をすぼめた三角錐の入り口が付いていて、中に入った魚が外に逃げられない仕組みになっている。

 これを都合三つ。いつも貝を集めている磯場に仕掛けようかと思う。

 さすがに大物は無理だが、小魚やエビ、カニなどが獲れれば万々歳だ。

 背に腹は替えられぬと誤魔化してはきたものの、精神的な面でも、栄養的な面でも、そろそろ貝と果実だけでは限界に近い。

 海岸に到着すると、私はさっそくお手製の罠を、あらかじめ目星をつけておいた場所へ設置していく。

 餌にはココナツの果肉を使う。波で流されないように石で固定し、しっかりと動かなくなったことを確認して次の場所へ。

 そうして罠を設置している最中、思いもよらぬトラブルが私を襲う。

 それはある意味必然であり、私がまだこの身体に馴染めていない、ある意味迂闊とも言える隙を突くような形で襲ってきた。

 始まりは臀部付近、人間では持ちえないとある部位に感じた圧迫感。ぐっと、何か石のような冷たく固い何かにつかまれる感覚。

 そしてその違和感に気が付いた刹那、それは急激に圧力を増し、万力で締め付けられたような、あるいは熱鉄を押し付けられたかのような痛みが脳天まで走り抜けた。

 そのあまりの唐突さに、年甲斐もなく私は声にならない悲鳴を上げながら磯場の上を飛び回る。

 

「ひい、ひい、な、なんだこりゃ……!」

 

 磯場から飛び出し、砂浜を転げまわった挙句に痛みの元、己の尻尾の先を確認してみれば、そこには磯場と同じ岩の色をした、私の拳ほどはある大きな鋏がぶら下がっていた。

 蟹。うん、蟹や海老によく似た鋏だ。なぜこんなものが、私の尻尾を掴んでいるのか。

 首をかしげながら考えていると、視界の隅にかさかさと動くものがあった。

 蟹だ。岩と同じ色と形をした、大きな蟹が砂浜を歩いている。

 その姿を見て、私はようやく合点がいった。

 恐らくあの蟹は、私が先ほどまで罠を仕掛けていた磯場の岩陰に潜んでいたのだろう。

 そうして隠れていた場所に運悪く私が無意識に動かしていた尻尾がぶら下がり、蟹はそれを餌、あるいは外敵と誤認して攻撃した。

 とまあ、概ねそんなところだろう。

 

「しっかし、馬鹿みたいな力で挟みおってからに……よっこら、せっと!」

 

 鋏の上下をしっかりと掴み、外す。挟まれたところは少し鱗が凹んでいたが、出血やら目立った外傷はなし。

 しかし触ったところ私の尻尾の鱗も相当な硬さのはずなのだが、それをアルミ缶のように凹ませるあの蟹もなかなかのものだ。

 例えば日本は沖縄で見られるヤシガニなどはその強い力でヤシの実すら割って食べてしまうというが、あの蟹もそれに近しいものなのだろうか。

 

「それにしても、でかい鋏だなあ」

 

 尻尾から取り外したそれはずしりと重く、私が日々集めているヤシの実と比べても遜色のない重量感であった。

 そして、重たいということは、それだけ身が詰まっているということでもある。

 ちらりと、未だのそのそと砂浜から磯場に帰らんと横向きに歩いている蟹を見る。

 鋏を見る。蟹を見る。

 だらりと、口の端から涎が滲み出るのがわかった。

 そこからはもう、手慣れたものだ。

 逃げようとする蟹の背を自慢の足で踏みつけ、押さえつける。反撃しようと振り上げた鋏を捕まえ、蔓で縛る。蟹は挟む力は強い反面、鋏を開く力はそう強くない。こうしてしまえばもうまな板の鯉、もとい蟹である。

 あとは表裏をくるっとひっくり返して、蟹の口に木の枝を差し込み、しめる。

 びくりと手足を跳ねさせ絶命する光景は残酷なように見えるが、こちらも命がかかっているのだ。可哀想だから殺さない、などと綺麗事を言っていれば、明日は私の亡骸をこいつらが啄んでいる、なんてことにもなりかねない。

 他の命を、己の命を繋ぐために食らう。

 それが植物だろうと、動物だろうと、その真理は変わらない。

 ただ、無駄にしない。

 硬い殻も、その中に詰まった肉も、全て余すことなくありがたく頂く。

 それが、それこそが、それだけが、今の私にできる、私が奪った命に対しての最大限の敬意であると、そう思う。

 

「これでよしっと」

 

 蔓で縛りあげた蟹を担ぎ、帰路へと就く。

 頭の中は、もう蟹のことでいっぱいだった。

 なにせこの島に来てから初めてのご馳走である。自然と足取りも軽くなり、心なしか翼もいつもより大きく羽ばたいているように見えた。

 拠点につくと、さっそく調理の準備だ。焚火に薪をくべ、土器に水と蟹の鋏を入れひと煮立ちするまで待つ。

 その間、残った部位は石焼きにする。

 じわりじわりと立ち上る熱気と、辺りに漂う香ばしい蟹の匂い。

 ぎゅるると、腹が鳴った。

 すきっ腹をさすりつつ、じっと蟹が焼きあがるのを待つ。

 そろそろ、いいだろうか。

 いや、もう少し待ったほうが。

 まだ、まだ。

 もう少し?

 まだ早い。

 もう少し、もう少し。

 もう、いいだろうか。

 いいだろう。

 うん。

 

「いただきます!」

 

 そうして両手を合わせ、手を伸ばさんとしてから、はっとする。

 大きな蟹。丸焼き。熱々。

 素手で、どうやって食べれば……。

 

「ど、どうすっぺか……」

 

 うんうん唸るも、火傷を負うリスクを冒せる筈もなく。

 長い尻尾がゆらゆらと揺れ、翼が落ち着きなく動き回る。

 ともあれ、そんなことをしても解決策など絞り出せるはずもなく。

 

「これは、正しく蛇の生殺しになってしもうたな……」

 

 そうしてとうとう困り果てた私は、頭を抱えそんなことを呟くのであった。



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最悪の災厄

中身重い分これぐらい軽い方がいいかなと(サブタイ)


 翌朝。まだ空も白み始めたばかりの頃。

 私は、かつてないほどの痛みと共に目を覚ました。

 激痛である。

 まるで、腹の内側を引き裂かれるかのような痛みであった。

 思い当たる節は様々ある。昨日食べた蟹か、貝か、あるいは島での生活を始めた頃に飲んでいた生水が今になって悪さを始めたのか。

 何はともあれ、尋常な痛みではない。

 さらにそれは強烈な眩暈と吐き気を伴って、朝から私は腹の中の物を全てぶちまける羽目になった。

 止まらない嘔吐と下痢。

 典型的な食中毒の症状であった。

 

「これは、不味い、なあ」

 

 不味い、どころの話ではない。

 幸い、僅かながら食料に蓄えはある。獲ってきた貝を干したものと、多めに拾ってきたグアバの実を少しずつ貯め込んでいたのだ。

 水もまあ、土器で煮沸するぐらいの無理ならば、何とか押し通せるだろう。

 だが、火はまずい。非常にまずい。

 夜中にも細かく薪をくべて絶やさないようにはしていたが、万が一火が消えてしまうようなことがあれば、もう一度火おこしからやり通すほどの体力はない。

 身体が重い。まるで四肢が鉛にでもなったようだ。

 しかし体力を失い、これ以上体調が悪化することは防がなければならない。

 私は聞きかじっただけの知識を総動員させ、脱水症状だけは避けるべきだとまず煮沸消毒した飲み水を無理矢理に流し込み、寝床でひたすらに丸くなった。

 無論、痛みで眠ることなどできず、ただただ身体中を苛む激痛に耐える為に尻尾を抱え、歯を食いしばり、それでも堪えられなくなって、まるで赤子のように泣き叫んだ。

 地獄だった。

 この島に病院などあろうはずもなく、薬も無ければ医者もいない。

 薬草があれば何としても欲しいが、探しに行く体力、気力が残っている訳もなく。

 ただただ、耐え忍ぶしかない。

 この時ばかりは、死んだ方が、一度死んだこのくそじじいでさえ、死んでしまった方が楽なのではと思うほどの生き地獄。

 水を飲んでは、吐き。

 少しだけでもとグアバの実を齧っては、また吐き。

 薪をくべに寝床から這い出してはのたうち回り。

 腹を抱えて泣きわめき。

 ようやく、口からも尻からも何も出なくなった頃。

 日が天辺を超えて、空が赤く染まり始めた頃。

 未だじんじんと痛みを抱える腹を撫でながら、私はようやく歩ける程度にまで回復した身体を引きずり、薪やら木の実やらを集め始めていた。

 腹も頭も痛い。倦怠感はいつまでたっても身体中に纏わりついたままであるし、関節は油の切れた機械のように軋み、ぎこちない。

 つんとした匂いが口内に残っているせいで、鼻もまともに利いていないように思う。

 正直、寝床で横になっていたい。だがそんな呑気なことをしていれば、私はあっさりと死んでしまうだろう。

 それがわかっているからこそ、動く。

 今日の命を切り詰めて、明日の命を繋ぐ。

 辛い。

 今にも身体がばらばらになってしまいそうだ。

 だが幸いなことに、無理を押し通して得たのは何も苦痛ばかりではなかった。

 

「これは、ドクダミ、だろうか。ああ、なんとありがたい」

 

 それはまさに、地獄に仏であった。

 腹を抱え、俯きながら歩き回っていたのが吉と出たのか、森の中で見つけたのは日本でも良く目にした薬草によく似た植物。

 ハート形の葉に、くっきりと浮かぶ葉脈。

 似ているだけで実は全く別の植物なのかもしれないが、一日中のたうち回った私にとって、そんなものは些細なことであった。

 ドクダミは古くから生薬としても利用され、十薬(じゅうやく)などと呼ばれるほど様々な効能をもっている。

 食せば高血圧、動脈硬化の予防、食あたりや下痢に効き、塗れば湿疹やかぶれなどに対する薬として利用できる。

 つまり、これを食らえば少しは苦痛を和らげることができるかもしれない。

 私はそんな浅はかとも思える短絡的な思考で、見つけたばかりのドクダミの葉をむしり取り、無我夢中で食んだ。それが無害である保証など、どこにもないというのに。

 藁にも縋る、とはまさしくこのような心境なのであろう。

 鼻に抜ける独特の香りを感じながら、私は人心地が付いた気分であった。

 心なしか、腹の痛みも和らいだような気がする。

 しかし、弱り目に祟り目、という言葉があるように、人生不思議なことに悪いことは往々にして重なるものである。

 匂いが強いドクダミを、これでもかと頬張ったのも良くなかった。

 元より馬鹿になっていた鼻が、これでもう完全に役立たずになってしまっていたのだ。

 それがなければ、私はその異常を感じ取り、難を逃れていたかもしれない。

 あるいは、その後訪れる苦難が、いくらかはましになっていたのかもしれない。

 しかし、弱り切って気も滅入っていた私は、あまりにも無防備であった。そう、己のすぐ傍までやってきていたその気配にまるで気が付かないほどに。

 それは、私が腹を撫でながら木陰に座り込もうとした直後の事であった。

 枝を踏み折り、草むらを薙ぎ払いながら迫りくる何かの気配。

 ぞくりと背筋が震え、半ば反射的に翼を畳み、尾で己の脇腹を庇った。

 刹那、私の身体を衝撃が突き抜ける。

 生半可ではない。まるでトラックにでも撥ねられたのかと錯覚するような衝撃であった。

 翼と尾で二重に防御したというのに身体中の骨は軋み、ぶちぶちと何かが千切れるような嫌な音がした。

 

「か、はっ」

 

 驚くべき速度で、森の景色が横に流れる。

 何本か、木がへし折れる音。

 跳ねる。折れた枝先や石で身体中に傷をつけながら、二度、三度地面を跳ねる。

 ぐるりぐるりと、景色が回る。

 回って、回って、回って。

 背中と後頭部に強い衝撃が走ったところで、ようやく止まった。

 どうやら、かなりの大木と激突したようだ。

 頭の中は、大混乱である。

 しかし、歪む視界の中で、それでも必死に頭を回す。

 何が起こった。

 殴られた。

 否、ぶつかられた。

 何に?

 痛い。

 翼は、どうか。

 左が折れている。

 皮膜に裂傷。

 尻尾は。

 真ん中あたりが大きく陥没。鱗も何枚か剝がれた。

 左腕。

 動く、が、芯からくる痛み。骨折の可能性。

 脇腹。

 痛みはあるが打ち身程度の怪我。

 獣?

 猪?

 襲われたのか?

 意識がはっきりしない。

 咳込む。

 血を吐いた。

 かなりの距離吹き飛ばされた。

 正面を見る。

 何本も木がへし折れ、獣道に似た痕跡がずっと奥まで続いている。

 その先に、いた。

 土色の、岩?

 違う。

 足がある。蹄も見える。

 猪?

 あれが?

 馬鹿な。あんな猪がいるものか。

 体高だけでも二メートル近い。

 全長はいくらだ。

 四メートルは超えていそうだ。

 体に比べ、小さな頭。

 反り返りながら伸びる、二本の牙。

 かなり太く、大きい。私の身体ぐらいはありそうだ。

 あれに貫かれなかっただけ、ましか。

 立派なたてがみが生えている。

 眉間から尻まで、まっすぐに。

 何をしている。

 私が座ろうとした、木の根元を掘っている。

 根を齧っているのか?

 まずい。

 目が合った。

 真っ黒な、不気味なほど真っ黒な目。

 吠えた。咆えた。

 口元から濁った(あぶく)と泥を吐きながら、虎のような雄叫びをあげる。

 まずい。まずい。

 蹄で地面を掘る動作。

 わかりやすい、突進の前兆。

 まずいまずいまずい。

 本能が最大音量で警鐘を鳴らす。

 震える身体に鞭打って、痛みをこらえ、歯を食いしばって立ち上がった。

 巨体が爆発的な加速を以て、まるで大砲から打ち出された砲弾の如く迫る。

 転がるように、身を投げ出した。

 轟音。

 まるで嵐の日のような、暴力的な風の音がすぐ背後を走った。

 先ほどまで背を預けていた大木が、めきめきと音を立てて倒れる。

 馬鹿げた威力だ。

 車がぶつかってもああはなるまい。

 よくもまあ、私は無事だったものだ。

 頑丈な身体でよかったと、呑気にもそんなことを考える。

 怪物が振り向く。

 不気味な目で、こちらを睨みつける。

 本能的に、足元に転がっていた枝を握っていた。

 馬鹿馬鹿しいと、自分でもそう思う。

 こんな化物を相手に、小枝一本でどうなるというのか。

 いわゆる錯乱状態だったのだろうと、思う。

 巨大な牙が迫る。

 薙ぎ払われた。

 よりにもよって、先程と同じ左の脇腹を強かに打ち据えらえる。

 防御した左腕の骨が軋む。

 だが、ここでまた吹き飛ばされる訳にはいかない。

 距離が開けば、またあの突進が来る。

 そうなれば、次はもう、避けきれない。

 おぼろげな意識の中で、それは確信に近い直感であった。

 だからこそ、私は左腕にぶつかってきたその逞しい牙に力いっぱいしがみついた。

 化物が暴れる。

 咆える。咆える。

 身体が、まるで布切れのように左右に振り回される。

 しかし、身体中を化物の涎と泥で汚しながらも、私は決して組み付いた腕を解きはしない。

 激しい動きに、意識が明滅する。

 限界が近い。

 また、目が合った。

 化物の左目。

 まるで感情を感じられない、夜の海を見るような、不安感を煽られる目。

 手にした枝を、ぎゅっと握る。

 振り上げる。

 だが、片手ではもう、化物の牙には捕まっていられない。

 振り解かれる。吹き飛ばされる。

 だが、その前に。

 振り上げた枝を、化物の左目に突き立てた。

 身の毛がよだつような、化物の叫び声が響く。

 浮遊感。

 直後、身体中を衝撃が襲った。

 もう身体のどこをぶつけているのかすら、わからない。

 身体の感覚が、輪郭がぼやけている。

 瞼が、重い。

 意識が、沈む。

 ゆっくり、ゆっくりと暗くなる景色の中で、私が最後に見たもの。

 それはのたうち回り、辺りの木々をなぎ倒す化物の姿であった。

 ふ、ははは。

 

「ざまあ、みろ」

 

 そうして、私の意識は

 深い深い

 闇の中に

 沈んでいった――

 



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怪我の功名

 

 妻との出会いは、特に運命的でも、感動的でもなく、どうしようもなく俗っぽい、互いの親同士が決めた見合いの席であった。

 美人ではなく、下町の居酒屋で注文を取っていそうな、いわゆる芋臭い女性だった。

 訊けば親が田舎の、それなりの規模の地主で、普段は畑仕事に精を出しているとかなんとか。

 当時は都会人だなんだと粋がっていた私は、なんでこんな女と見合いなどさせるのかと思ったものだ。

 だが話しているうちに、不思議と私は彼女に惹かれていた。

 己とは全く異なる価値観。

 男勝り、とは少し違う、女性らしい心の強さ。

 あの野菜はこう育てると良いだとか、この草は薬として使えるだとか。

 彼女と共にあぜ道を歩き、ああだこうだと他愛のない話をする。

 その時間が、実に楽しかった。

 そうして数年の交際を経て、私は彼女に婚姻を申し込んだ。

 あの時の光景は、今でもまだはっきりと覚えている。

 茜色に染まる里山。

 赤とんぼが飛び交うさまを、屋敷の縁側で眺めながら。

 共に生きてくれと。

 夫婦になってくれと。

 彼女の手を握りながら、そう言って。

 すると彼女は目じりに涙を浮かべながら、まるでお日様のような温かい笑みを浮かべて。

 間違いなく、人生の絶頂であった、幸せな記憶――

 

「う、ん。いて、いてて、これは、ひどいな」

 

 意識が覚醒する。

 頭を振り、痛む身体を持ち上げる。

 何やら、随分と懐かしい夢を見ていたような気がする。

 あるいは、あれが噂の走馬灯というやつなのだろうか。

 いずれにせよ、どうやら九死に一生を得たらしい。

 右へ、左へ、視線を投げる。

 あの獣は、あの化物はいない。どうやら、逃げてくれたらしい。

 ひとまずは、難を逃れることが出来た。

 

「ああ、くそ、酷い目にあった」

 

 化物が圧し折った巨木の根に体を預けながら、大きく息を吐いた。

 一度、二度、呼吸を整えて、自分の身体を確認する。

 さすがの治癒力というべきか、脇腹の痛みは既にない。

 だが折れた翼、そしてあの突進をまともに受けた尻尾の回復はまだ十分ではなかった。

 特に左の翼は酷い有様だ。破れた皮膜にはもう薄っすらと新しい膜が張っていたが、骨の方は半ばからぽっきりと折れてしまっている。

 動かそうとすると、神経を引っ掻かれるような鋭い痛みが走った。

 これは一度、正しい位置に骨を戻さないと後が大変そうだ。

 

「ああ、本当に参るな……」

 

 溜息一つ。深く深呼吸を繰り返して、覚悟を決める。

 傍に落ちていた枝を咥えると、ぐっと、折れた翼を握りしめた。

 翼の骨、とは言ってもその太さは立派なもので、二の腕の骨、上腕骨程度にはしっかりとしていた。

 

「いっせえ、の、っせ……!」

 

 ごきりと、痛々しい鈍い音が響く。

 めきりと、口に咥えた枝に牙が食い込んだ。

 額に大粒の汗が浮かぶ。

 声にならない声。

 焼き鏝を押し付けられたような熱さ、痛みが脳髄を焼く。

 パニックに陥り、短く浅く呼吸を繰り返す身体の手綱を、理性で握る。

 落ち着いて。落ち着いて。

 深く、大きく息を吸い、吐く。

 空を見る。木漏れ日の中に揺れる、枝葉の動きをぼうっと眺める。

 よし、よし、大丈夫だ。

 最後に一つ、大きく息を吐いた。

 

「ふうっ、はあっ、ああもう、厄日だな今日は」

 

 額に流れる汗を拭う。

 腕などの骨折ならば添え木を当てがった方が良いのだろうけれど、翼の場合は添え木を蔓などで固定することができない。

 骨が引っ付くまで、安静にしておくしかないだろう。

 さて、次は尻尾だ。こちらの様子も確認しておかなければ。

 翼ほどではないにしろ、こちらもなかなかに酷い。

 出血はしていないようだが、化け物の突進をまともに受けた部分の鱗が砕けてしまっており、下の黒い地肌があらわになっている。

 まるで怪我をしたトカゲ、というよりは傷ついた魚を彷彿とさせる見た目だ。

 出血はしていないようだし、消毒は必要だろうか。

 爬虫類を飼った経験がないのでわからん。いや、そもそも爬虫類と同じ扱いで良いのだろうか。

 とりあえず、拠点に戻ったら煮沸消毒した水で洗浄しておこう。

 しかし、派手にやられたものだ。

 そして、なんとも情けないな、と思う。

 借り物の身体で、迂闊にも食あたりで死にかけた挙句、野生動物への警戒を怠って身体の一部に傷を作ってしまった。

 自分の愚かさに、腹が立って仕方がない。 

 そうして散乱していた枝を杖代わりに周囲を確認してみたところ、地面は抉れ、木はなぎ倒され、岩は砕かれと凄惨極まる光景が広がっていた。

 薪を作る手間が省けたと前向きに考えるべきか、これだけの惨状を作り出せる化物に目をつけられたことを呪うべきか。なんとも困ったものだ。

 だが、思わぬ収穫もあった。

 化物に砕かれた、私の鱗、だったものである。

 杖を突きつつ、拠点へ帰ろうかとまっすぐ伸びた獣道、もとい私が吹っ飛ばされた跡を辿るように歩いていたところ、荒れに荒れた森の中、木漏れ日を反射してきらりと光る何かを見つけたのだ。

 日の光を浴びてうっすらと透けるそれは、化物の攻撃によって砕かれた、私の鱗の残骸。成れの果て。

 手触りは鱗というより硝子に近く、しかしその頑丈さは私が両手で力を込めても折れず、曲がらず、さらにその断面は研ぎ澄まされた刃物のように鋭い。

 実際、興味本位で触れた指先が薄っすらと切り裂かれる程であるので、その切れ味はそんじょそこらのナイフなど目でもないだろう。

 つまり、これを上手く利用すれば調理用のナイフにも、斧の代わりにもできるということだ。

 竜の鱗、恐るべしである。

 いや、それを言うならば、その頑丈な鱗を砕くあの化物が如何に恐ろしいか、ということなのだが。

 牙を受けて砕けたのか、それとも鼻面の頑強さが鱗を上回ったのか。

 猪の鼻は、想像以上に固い。

 地面に埋まっている根っこや筍を掘り出すときに使うのだから当然といえば当然なのだが、鉄と見まごうこの鱗を砕くほどかといえば、そうでもない。

 まああの体格からして地球の生物と比較すること自体が間違っているし、どのみち突進を食らえば致命傷になりかねないのだ。

 鱗で受け止められるから警戒しなくてもいい、ということにはならない。

 

「色々と、備えたほうがいいのだろうなあ」

 

 自分の姿を見下ろして、そう独り言ちる。

 今回は翼と尻尾だけだったとはいえ、これらも立派な身体の一部。

 嫁入り前の玉肌に傷をつけたことには変わりなく、今まで衣服にまで頓着していなかった自身の迂闊さに、今は恥じ入るばかりである。

 だが、さすがに明確な外敵が現れた以上、いつまでも腰みの一枚という事態は何としてでも避けなければならない。

 私には、この娘にきちんと身体をお返しする義務があるのだ。

 その時まで、なるべく大切に扱ってやらなくては。

 気を引き締め、改めてそう思う。

 

「となると、防具、か。いや、まずは素材の吟味からだな」

 

 不幸中の幸いというべきか、剥がれた鱗は何枚もあり、いくつかを道具に使ったとしてもまだ余る。

 この鱗がどれぐらいの衝撃に耐えられるかは未知数だが、それを加味したうえで、最低限の防具は作るべきだろう。

 竜の鱗で作った防具。

 字面だけで見れば、なかなかに格好もつく。

 とはいえ、数が限られているので、鎧やら盾やらと、そう大層な物は作れないだろうが。

 三か所、あるいは四か所。

 最低限の急所を防御する為の装備。

 となると、胸、脇腹、太腿、この辺りだろうか。

 素材が素材だけにうまく加工できるかが不安ではあるが、こればかりは多少不格好になろうとも何とかするしかない。

 武器も必要になるだろう。

 弓、は駄目だ。

 鳥や小動物など、皮が柔らかい動物ならばまだしも、化物のあの分厚い毛皮を、素人が作った矢が貫けるとは思えない。

 となると、槍が妥当だろうか。

 化物の巨大な牙、その間合いの外から攻撃できる武器。

 手に入れた鱗を使えば、恐らくはあの毛皮を貫く威力は出せるだろう。

 しかし、いくら防具や武器を作ったところで、真正面からあの怪物を相手にするのは無謀すぎる。

 熊に素手で挑むようなものだ。

 この身体に小説やお伽噺に出てくる竜のような力でも宿っていれば話は別だが、今のところは怪力を発揮したことも、口から火を吐いたこともない。

 その頑丈さと体力、治癒力の高さはたしかに人間離れしているが、それであの化物を倒せるわけでもない。

 だからこそ、知恵を振り絞る。

 罠だ。これしかない。

 くくり罠や落とし穴などの罠にかけて動きを封じ、奴の間合いの外から止めを刺す。

 これが、私があの化物に勝ちうる唯一の方法だ。

 無論、こちらが手傷を負わせたことで、安易に手を出してはいけない脅威であると奴さんが判断してくれるのが一番平和的だが、縄張りが重なっている以上、そうそう思い通りになるとは思えない。

 私自身も、この資源溢れる土地を離れるつもりはない。

 しかし罠にかけるとなると、少し前に拠点近くに作った落とし穴も作り直さなければならないだろう。

 あの深さでは明らかに不十分だし、底に設置した杭も明らかに強度不足。

 せめて深さは倍にして、杭ももっと太いものを使わなければ役に立たない。

 いやそもそも、あの化物が簡単に罠にかかるとは到底思えない。いや、思わないほうがいい。

 少なくとも、地球の生物と同じ感覚で挑んではだめだ。

 ここは島が空を飛び、双子の月が浮かぶ異世界。

 徹底的に、執拗に、過剰ともいえる対策をして、ようやく十分。

 それぐらいの気構えでいたほうがいい。

 それにこちとら伊達に一世紀近く生きてきた訳じゃない。

 蓄えてきた知識を、搾れるだけ搾り出してやる。

 老獪さ、というものが私にあるかはわからないが、泥臭く、狡賢くやってやろうではないか。

 とも、あれ。

 

「まずは体調を整えるところからだなあ」

 

 這う這うの体で拠点に戻り、大樹の枝の上で私は腹を抱えた。

 人心地つき、気が緩んだところであの腹痛がまたじわじわとその顔を覗かせ始めたのである。

 これはまた、別の意味で長い戦いになりそうだ。

 枝の上でげんなりと伸びる私が苦痛から解放されたのは、日がすっかり落ち切った夜のことであった。

 



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どらごんすぴあ

「ううん、こんな感じか……?」

 

 十四日目。

 まだ腹の中に僅かな違和感が残るものの、体調は概ね快復に向かっている。

 昨日は夜中から火を起こし、ぼんやりとした灯りの中で作業を進めていたのだが、その成果を身に付けながら私は何とも言えぬ感情に顔をしかめていた。

 作成したのは、手に入れたばかりの尻尾の鱗を使った防具。

 斧やナイフなどの道具に使用する分を除いた手頃な大きさの物をシュロ縄で固定し、最低限の急所を守ることができるよう拵えたのだが、出来栄えがなんとも、こう、色々と想定とは違うものになった。

 

「なんだか、妙にそわそわするな」

 

 落ち着かない。

 慣れない感覚に私は犬のようにその場でくるくると回りながら、何度も何度も全身を確認する。

 信じがたいことに、私の鱗はそんじょそこらの石では加工できないほど固く、何度試してみても石のほうが先に砕けてしまう。

 なので仕方なく拾った形のままで利用しているのだが、裏地に使う布がある訳も無いので、鱗が直に接している胸と股が妙にひんやりしているわ、シュロ縄はチクチクするわで、残念ながら着心地の方はあまり宜しくない。

 見た目としては防具というより、ビキニタイプの水着に近い。

 それも普通のやつではなく、布面積が少なめのやつだ。

 この年頃の娘がこんな格好をしていたら、生前の私なら大いに頭を抱えることになるだろうが、こうなったのは別に私の趣味嗜好という訳ではなく、勿論理由がある。

 圧倒的に、量が足りないのだ。

 昨日拾い集めた、尻尾から剥がれ落ちた鱗の数はそう多くない。

 その限られた数で、最低限の防具を、あるいは身を守れる衣服に代わるものを作ろうとした結果、このような形になってしまったのだ。

 しかし防具として、鎧として見れば心許ないが、鱗自体の頑強さは先に記した通りであるので、保護されている部分の防御力だけは鋼鉄並みである。

 何より昨日までは葉っぱで拵えた腰みの一枚という、野性味溢れる恰好をしていたこともあり、これでも人間として、仮にも文明人として最低限の箇所を隠せている分、精神的には随分と楽になった。ような気がする。

 ちなみに背中側は全て露わになったままであるので、翼や尻尾の動きを阻害せず、実に動きやすい。

 欲を言えば上着が欲しいが、これはいずれあの化物と決着をつけた後、奴の毛皮で作ってやろうかと思っている。

 あれほどの巨体であれば、その毛皮は上着を一着拵えてもまだ余りあるだろう。

 もっとも、今のところは仕留めるどころか罠の一つも作っていないので、捕らぬ狸の皮算用ではあるのだけれど。

 それにしても、何故だか今の中途半端に身体を隠した姿の方が、枯れ切ったと思っていた羞恥心がふつふつと湧いてくるのだから、不思議なものだ。

 それは私自身が一歩、いや半歩ほど文明人としての自覚を取り戻したからか、あるいは私の精神、魂がこの身体に順応してきている為か。

 どちらにせよ、今日も今日とて、今日を生きる為に働かねばならぬ。

 まずは日が昇りきる前に、何だかんだと仕掛けっぱなしであった磯場の罠を確認しに行くとしよう。

 

「よっ、こら、せい、と」

 

 まだじんわりと熱を持つ尻尾を動かし、作り直したおかげでいくらか見栄えが良くなった二代目の籠を引っ掻ける。

 初代はあの突進を受けて、文字通り木っ端微塵になってしまった。

 二代目には、完成後十日も経たずに逝ってしまった初代の分も頑張ってほしいものだ。

 ところで怪我の調子であるが、尻尾の方は鱗が砕かれて禿げてしまっていた箇所にうっすらと鱗が生えてきており、この分であれば数日中には完治しそうである。

 翼の方も折れた部分はもう綺麗に繋がってしまって、まだ少しばかり痛みがあるが、動かす分には問題ない。

 尻尾はともかく、翼の方は完治するのに二週間ほどはかかるだろうと思っていたのだが、それが一晩であっと言う間に繋がり、もう動かせるまでに回復している。

 凄まじい、尋常ではない回復力だ。

 そろそろこの身体、この娘っ子に関しても、色々と調べておいた方がいいのかと思いもしたが、まさかそんなことをする時間的余裕があるわけでもなく、ひとまずは薪を拾い、食料を集め、道具を作る日々である。

 嗚呼、時間が欲しい。

 嗚呼、余裕が欲しい。

 そんなことを考えながら、いつもの磯場へとやってきた。

 漂流物は無し。

 私以外の生物の痕跡も無し。

 天気は快晴。白い砂浜は輝き、渚は穏やかで、特に変わった様子もない。いつも通りの、実にのどかな光景である。

 ヤシの実がいくつか木から落ちて転がっていたので、これはありがたく頂くとする。

 

「さて、たしかこの辺りだったか……っと、あったあった。おお、入ってる入ってる!」

 

 丸二日放置したままだった罠を引き上げて見れば、中には小さな魚とエビが数匹入っていた。

 魚の方は、どこか見覚えのある姿をしている。

 小さな胸ビレに、小さな顔。

 体は全体的に茶色く、触ってみれば表面にはうっすらとぬめりがあった。

 姿かたちは、地球でギンポと呼ばれていた魚に非常に類似している。

 おそらくは、同種の魚とみて間違いないだろう。

 エビのほうは、正直識別が難しい。

 透明な体に、黒い縞模様。

 おそらくはスジエビか、それに近い種なのだろうけれど、さすがに細かい名前までは憶えていない。

 もう一つの罠も引き上げてみたが、そちらにも同じような魚とエビ、あとはどこから来たのか大きなヒトデが混ざっていた。

 ヒトデは食えないので、残念ではあるが逃がす。

 食えるヒトデもいることはいるのだが、そちらも水質などによっては有毒になるので、わざわざリスクを冒してまで食う必要はない。

 魚とエビは、まあ無毒だとは思うが、先の一件があったので念のため可食性テストは行っておく。

 あの地獄の苦しみは、可能であれば金輪際一片たりとも味わいたくないものである。

 そうして食料を調達した後は、拠点に戻って土器で湯を沸かしつつ、魚とエビをすり潰したものを手の甲に塗って反応を見ながら罠作りに精を出す。

 作るのは、くくり罠用の縄だ。

 シュロ縄を何本も束ねてより太く、より頑丈なものへと編み上げていく。

 勿論、一本だけでは駄目だ。

 下手をすれば千キロを超える化物を相手にするのだから、五ケ所以上は罠を設置しておきたい。

 それに、くくり罠以外の罠にも、道具にも、このシュロ縄は大活躍する。多く作っておいて損はないだろう。

 それを思えば、あの時にシュロの木を見つけることができたのは正しく幸運であった。

 

「いっそ大型の檻でも作って捕獲するか……いや、あの化物を捕まえるとなると、丸太で組んでも耐えられるかどうか……」

 

 あーでもない、こーでもないと独り言ちつつ、縄を編む。

 水が沸騰すれば内臓を取り出した魚とエビを放り込んでスープにしつつ、空いた時間で釣り糸用の細い紐も作っておく。

 ちなみに可食性テストでは何の異常も確認できなかった。

 カニの一件で随分と疑り深くなっている自覚はあるが、本来であればこれぐらい慎重になった方が良かったのだろうと、今更ながらに反省する。

 

「そろそろ出来上がったかな。うん、うん、良い出汁が出てるじゃないか!」

 

 出来上がった魚介スープに舌鼓を打ちつつ、手元は止めない。

 次は槍を作る。

 とは言っても、それほど複雑な作業ではなく、適当な長さ、太さの木の棒に私の鱗を括り付けるだけだ。

 尤も、より殺傷力を高めるために、鱗の研磨にはそれなりの時間をかける必要がありそうだが。

 まずは川辺で拾った平たい石の表面を水で濡らし、鱗の断面を押し当てながら軽く、表面を撫でるような力加減で削っていく。

 真上から石を叩きつけても割れないほど強固な鱗だ。こうやって少しずつ、時間をかけて加工していくしかない。

 額に汗しながら磨く、磨く、磨く。

 何故か鱗ではなく、砥石の方が薄くなっているような気がしないでもないが、きっと目の錯覚だと思いたい。いや、そう思うことにしよう。

 そうして磨き、磨き、磨いて、日がゆっくりと傾き、辺りが茜色に染まり始めた頃。

 数時間前にそれほど複雑ではないとのたまっていたそれは、ようやく完成と相成った。

 皮を剥ぎ、滑り止め代わりにシュロ縄を巻き付けたその先に、黒曜石のような鱗が輝いている。

 竜の鱗の槍。

 名前だけは立派なものだが、果たしてその威力は如何なるものか。

 

「たあっ」

 

 試し切りとばかりに、その辺りの倒木めがけて一突きしてみる。

 さくっと。

 返ってきた手応えは、予想をはるかに超えるもの。

 丸太を突いた感触ではない。まるで砂の山にシャベルを突き入れた時のような、呆気ない手応え。

 さあっと、頭から血の気が引いた。

――そりゃあ竜の素材で作った武器なら、それなりの威力にもなるっしょ。

 そんな、どこか小馬鹿にするような、あるいは呆れているような、テレビゲームが大好きだった孫の声が聞こえた気がした。

 

「こりゃあ、大変な物を作ってしまったなあ」

 

 角の根元をぽりぽりと掻きながら、私はそんな間抜けな声を漏らすのだった。

 




Q.どうしてこんな装備にした!言え!

A.平気っす、性癖っす。


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穴掘りと嵐と竜と

お待たせいたしました。
ちょっとエルデの王を目指してました。



 ここのところ、拠点周辺で見かける鳥の数が少なくなってきたような気がする。

 見かける、とは言ってもその殆どは鳴き声であったりとか、羽ばたく音であったりとか、いわゆる気配と呼ばれるものではあるのだけれど、ここ数日の間で森の中が随分と静かになったような気がするのだ。

 私の勘違いであれば良いのだが、あるいは渡り鳥のように他の島へと移動してしまったのかもしれない。

 何にせよ、この辺りから動物が減ってしまうのは、少し残念だ。

 勿論、静かになって寂しい、という感傷的な気持ちではなく、単純に獲物が減る、得られる食料が少なくなるという、実に俗っぽい理由である。

 勘違いして欲しくないが、動物と仲良くしたいという気持ちはあるのだ。

 動物は好きだ。

 生前だって犬に猫、インコ、兎と様々な動物を飼っていたし、こんな、今まさに動物を殺して食う為に罠を仕掛けている私であっても、何も動物を愛でる心が無くなった訳ではない。

 だが、それは衣食住に、生きることに余裕がある場合だ。

 もしも今、私の目の前に子犬が現れたとして、私は飢えに耐えてその子犬を食わずにいられるのか、正直自信がない。

 いやきっと、我慢はできるのだろう。

 それは百年近く、日本という国で生きてきた中で育まれた倫理観、道徳観があるからこそであり、いくら飢えに飢えたとして、それなりの教育を受けてきた人間であれば、その道を外れる行為というのは最後の最後、それをしなければ死ぬ、という究極においてこそ選択されるべきなのだ。

 そして、だからこそ私は恐ろしい。

 愛情を以て育てた子犬を、最後の最後、そうしなければ死ぬという場面で、私はきっとその選択をする。きっと、私は抗えない。

 一度死を経験した老人が、何だかんだと死を恐れないと思っている老いぼれが、最後の最後で本能に負け、きっと生にしがみ付く。

 私は、それが恐ろしい。

 それはもう、人間ではない。

 それはもう、獣だ。

 今まさに、私が仕留めようとしている獣そのものだ。

 あるいは、それを超えたナニカ。

 化物。

 

「いや、いかんな。どうにも気分が滅入ってくる」

 

 空を見上げる。今日は生憎の曇り空。

 灰色の雲が空を覆い、この様子では近いうちに雨になるだろう。

 天気が悪いと、気分も悪くなる。

 うん、どつぼに嵌る前に、あまり深く考え込むのはやめておこう。

 今はひたすら、手を動かす。

 作るのは、スネアトラップと呼ばれるシンプルな仕掛けの罠だ。

 まずはシュロ縄を程よい高さ、太さの枝に括り付け、その先に棒を付ける。この枝を引っ張った時に、元に戻ろうとする力が動力になる。

 さらに棒の先には、引っ張られるときつく締まるように縄で輪っかを作っておく。

 次は三本の棒をコの字になるように組み合わせたものを地面に打ち付け、その支柱二本の延長線上にもう一本、四角く加工した杭を打ち込む。

 そして最初の枝に繋がっている棒を引っ張ってきてコの字の下に潜り込ませ、戻らないように別の棒を杭との間に挟み込む。この棒が引き金の役割をする。

 獲物がこの引き金を踏めば棒が外れ、しなっていた枝の力で輪っかが締まる仕組みだ。

 単純な仕組みだが、だからこそ扱いやすい。

 これと同じものを、都合十か所ほど設置する。

 勿論、これであの化物が止まるとは考えにくい。何せ大木を粉砕するほどの怪力の持ち主だ。数秒その動きを止めることができれば御の字だろう。

 だが、その数秒がまさに肝。命運を分ける数秒になる。

 槍で一突きする時間があれば、奴に手傷を負わせることができるかもしれない。あるいは、上手く急所を突くことができれば、それで仕留めることができるかもしれない。

 もっとも、相手も相当に暴れるだろうから、そう簡単にはいかないだろうけれども。

 

「これでよしっと。さて、次もやってしまうか」

 

 スネアトラップを仕掛け終えた私は、続いて拠点近くに仕掛けた落とし穴の改良に取り掛かった。

 被せていた枝や葉っぱを取り除き、底に埋め込んだ杭を掘り起こす。

 とりあえず、あの巨体を狙うのであれば今の倍は深く掘っておいた方がいい。

 雨が降り出す前に、やれるだけやってしまおう。

 幸い、ここの土は砂利や石が少なく、掘り進めるのにそう手間はかからない。体力の問題はあるが。

 そして今回はあらかじめ作っておいた石器シャベルを使う。

 太い枝に凸型に加工した石を括り付けただけの単純な作りで、さすがに現代のシャベルのように掘った土をそのまま運ぶといった器用な真似はできないが、石だけを使って作業していた前回と比べるとその作業効率は天と地の差であった。

 しかし、ここで苦労したのが掘り出した土の扱いである。

 初めは頭の上まで持ち上げれば外に捨てることができていたのだが、穴の深さが私の背丈を超え、二メートル程になってからはそれも難しくなってきた。

 背伸びをしても、まだまだ届かない高さである。

 では、どうするか。

 考えて、考えて、考えて、思い出したのは昔テレビで見た、とある動物の姿。

 カンガルー。

 知らぬ人はいない、お腹に袋を持った動物園でも人気の動物である。

 彼らは喧嘩などの時に強力な前蹴りで相手を攻撃するのだが、その際に自分の尻尾だけで体を支え、直立することがあるらしい。

 さすが、あれほどの立派な尻尾を持っているだけのことはある。

 ところで、自慢ではないが私にも立派な尻尾が付いている。その頑丈さは、先日証明して見せたとおりだ。

 だから、こう考えた。

カンガルーにできるなら、私にもできる筈だ、と。

 そしてその考えは、恐らく間違ってはいない。

 少なくとも枝に巻き付けてぶら下がる、そしてその後身体を持ち上げるだけの筋力はあるのだから、第三の足として機能させることも可能の筈だ。

 まあ、論より証拠だ。

 やってみて何かリスクがある訳でもなし、私は軽い掛け声の後、背伸びをするのと同じような感覚で尻尾に力を込めた。

 ぐっと、身体が上に持ち上がる。 

 

「おっ、とっと、どっこらっ、せっと」

 

 右にゆらゆら、左にゆらゆら。

 まるで初めて自転車に乗った時のような頼りなさに肝を冷やすが、何とか穴の縁に手をかけることに成功した。

 ここまでくれば、あとは簡単だ。

 自由になった尻尾で籠を引っ掻け、右手に受け渡す。そしてそれを翼で支えながら、ゆっくり穴の外へ。

 外に出した後は、両翼を上手く扱って籠をひっくり返して土を捨て、籠はそのまま回収。

 両手を放して穴に戻り、また作業を再開する。

 かなり面倒ではあるが、こうすればいちいち穴を登るよりも効率が良い。

 そうして穴を掘り終え、底に杭を並べ始めた頃、頬にぽつりぽつりと当たるものがあった。

 

「あっちゃあ、降り始めたかあ」

 

 罠づくりも佳境に入り、あとは杭を打つだけだったのだが、無理をして風邪でも拗らせたら大変だ。

 女が身体を冷やしちゃならんとは、我が子にも孫にも言ってきたことである。

 ましてや身体も小さく、爬虫類的な特徴を持った少女であるので、体温には人一倍気を付けなければならない。

 私は手早く先ほど土を捨てた時と同じ要領で穴にぶら下がると、今度は翼で穴の外を掴んでぐいっと身体を引き上げた。

 少しずつではあるが、雨脚が激しくなってきている。

 一日中穴を掘って、すっかり泥だらけになってしまった身体をさっと川で洗い、足早に簡易シェルターへ。

 小さくなった焚火に薪をくべ、冷えた身体を温める。

 ぱちぱちと薪が小気味の良い音を鳴らす頃には、辺りはバケツをひっくり返したような土砂降りになっていた。

 

「こりゃあ、穴が崩れなければいいけどなあ」

 

 大なり小なり、穴の傍に積み上げた土砂は流れ込んでしまうだろうが、その程度ならまた掻き出せばいい。

 だが穴の側面が大きく崩れたりすると、元通りにするのにそれなりの時間と手間がかかってしまう。

 それは勘弁してほしいものだ。

 ともあれ、ここでただ焚火を眺めながらやきもきしていても仕方がない。

 私は洞の中から干した貝やら魚を引っ張り出すと、それを枝で作った串に刺し、焚火で炙り齧り始めた。

 凝縮された旨味がじわりと口の中に滲み出て、僅かな潮の香りが鼻へ抜ける。

 美味い。

 これで熱燗でもあれば文句はないが、残念ながらここは文明とは程遠い森の中。

 飲み物は煮沸消毒した白湯だけだ。

 

「ドクダミ茶でも、作ってみるかあ」

 

 今まで見つけてきた中で、茶として利用できるとすればそれだけだ。

 作り方も干して刻んで煎じるだけと聞いたことがあるし、そうややこしいものでもないだろう。

 何より、たまには白湯以外も口にしたい。

 かなり贅沢な悩みだと自分でも思うが、炭酸飲料や紅茶、コーヒーの味を知っている身からすれば、白湯ばかりではさすがに飽きてしまうのだ。

 まあ、その前にあの化物との決着を付けてしまわないと、安心してドクダミ摘みもできやしないのだが。

 なんとも、世知辛い世界である。

 

「ん、なんだ……?」

 

 私がそんなくだらないことを考えていると、ぴりっと何か感じるものがあった。

 頭頂部、角の生え際である。

 何やらむずむずとして、すわ虱か何かでも入り込んだかとぞっとし、頭を掻いてみたが、どうやらそういうことでもないらしい。

 では何だというのか。どうにも頭の、角の辺りがむず痒いのだ。

 私があまりの違和感にあーだのうーだの呻きながら頭を左右に揺らしていたところ、かっと雨雲に覆われた空に閃光が走った。

 あっと思った次の瞬間、どかんと、腹の底に響くような雷鳴が響き渡る。

 どうやら、この島のどこかに落ちたようだ。

 だが私が目を奪われたのはその雷鳴でも、稲光でもなく、雷雲の中に一瞬だけ浮かび上がった何かであった。

 それは、巨大な影であった。

 鳥か、飛行機か、いや、そのどれも違う。

 波打つ長い胴体。

 鋭い鉤爪が付いた短い手足。

 後ろ向きに伸びる角。

 それは巨大な蛇。いや、竜の影であった。

 呆気にとられる。

 豪雨に身体を打たれながらも、私は言葉を失っていた。

 開いた口が塞がらないとは、まさにこのこと。

 その時の私の顔ときたら、それはそれは面白いことになっていたことだろう。

 本当に、この世界は信じられないことばかりだ。

 いや、私が、この身体が鱗を持ち、翼と尾が生えていたことからまさかとは思っていたが、本当に竜が、空想の生き物が実在しているとは。

 竜の姿が、雲の向こうへ消える。

 時間にして、十分にも満たない僅かな間。

 嵐が過ぎ去った後、そこには雲一つない、美しい星空が広がっていた。

 



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生きるということ

お待たせしました
少し長めです。


 

「これでよし、と」

 

 翌日。

 朝霧立ち込める早朝から作業を始めた甲斐あって、お日様が空の一番高いところに昇るまでには、新しい落とし穴は無事完成と相成った。

 昨晩の大雨のおかげで穴の底は随分と泥濘(ぬかる)んでいたが、もうあとは杭を並べていくだけだったのでそう時間はかからなかった。

 しかし予想以上の力仕事だったことに加え、跳ねた泥を頭から被るわ、足を取られて泥の中にすっ転ぶはめになるわ。

 特に泥塗れになった髪が乾いた時など、頭に針金でも巻いているのかと思うほどの不快感であった。

 汚れるのはわかりきっていたので全裸で作業していた分、まだましだったのかもしれないが。

 

「ふぅっ、いやあ、一仕事終えた後の一服はたまらないな」

 

 そんなこんなで、水浴びである。

 無論、飲み水としても利用する水源であるので、今回のように汚れに汚れた場合は川の下流まで歩いて行ってから身を清めている。

 長い銀髪に纏わりつく泥を丹念に洗い流し、角の先端までしっかりと磨き上げる。

 うなじから首、胸、腰。面倒なのが、本来人間にはない部分。つまりは翼と尻尾。

 いかんせん手入れなどした経験がない部位であるので、ついつい忘れがちになってしまう。

 もっとも、翼の方は骨の部分に細かな鱗があるぐらいで、そう手間はかからない。

 大変なのは尻尾だ。

 何せこちらは長いし大きいし、硬い鱗がずらりと並んでいるので洗うにもコツがいる。

 まず表面を撫でるのにも一方向、根元から先端へ向けて撫でなければ、下手をすれば逆立った鱗で怪我をする。

 なので今までは上から下に水をかけながらゆっくり綺麗にしていたのだが、今回はそんな面倒を減らすための秘密兵器を用意した。

 

「ふふん、夜通しかけて作ったこいつを試す時が来たか」

 

 満を持して籠から取り出したるは、茶色くて丸くてごわごわしたもの。

 たわしである。

 いや、正確にはたわしのような何か、である。

 はじめは馬の毛繕いなどをするブラシを作ろうとしたのだが、試行錯誤(あーだこーだ)を繰り返した末に、何故だか不格好なたわし擬きが出来上がった。

 だが、見た目はどうあれ、触った感触はたわしである。

 

「こいつで、こうだ」

 

 私は泥だらけになった尻尾を腹の方で抱え込むと、ごしごしとたわしで擦り始めた。

 するとぼろぼろと落ちるわ落ちる。表面にこびり付いた泥が、面白いように落ちていく。

 やはり髪に櫛を通すのと同じで、上から下へとやらなければ引っかかってしまうが、これはいい。これは楽だ。

 まさにあっという間。いつもの半分以下の時間で、尻尾は元の美しい光沢を取り戻した。

 同じように、鱗に覆われた脚も磨いていく。

 こちらは鋭い爪があるのでより慎重に。

 地面と直接触れる部分であるので、鱗に細かな傷、破損がないかもしっかりと確認する。

 

「傷なし、汚れなし。いやあ、本当に頑丈な足でよかったよかった」

 

 すらりとした足を撫で、髪や身体からさっと水気を落とす。

 翼を二度、三度と羽ばたかせれば、表面の水滴はほとんどが取り払われてしまった。

 

「さて、それじゃあ朝飯でも取りに……何だ?」

 

 まるで傘みたいだな、とそんな呑気なことを考えながら伸びをすると、ざわりと何か言いようのない感覚が全身を襲った。

 角が震える、いや、ざわつくような感覚。

 それは昨夜、あの嵐の中で竜を見た時と似た感覚であった。

 だが、何だろうか、似てはいるが、どこか違う。

 竜を見たときは何というか、そう、危機感というか、危ないという感じはしなかった。

 だが今回は明確に、背筋に抜けるような冷たい感覚がある。

 刺すような、刃物の切っ先を向けられているような冷たさ。

 髪を流れ落ちた水滴が、小さな音を立てて水面に消える。

 弾かれるように私は川から飛び出し、防具を身に着けて槍を担いだ。

 何かわからんが、恐ろしいものが来る。

 直観に従って槍の穂先を向けたところで、むせ返る様な獣臭が森の奥から匂い立った。

 荒々しい息遣い。枝を踏み折る音。

 ずしんと、重々しい足音に水面が揺れる。

 

「よお、来たなあ化け物が」

 

 森の奥から、雄々しい巨大な牙が覗く。

 泥にまみれた、岩と見まごう大きな体。

 太い脚、硬い蹄が地面を抉る。

 鬼火を宿す、こちらを射殺すような黒い瞳は片方が閉じ、傷口から病気にでもかかったか、乳白色の目ヤニで随分と汚れていた。

 対峙する。

 ぶるりと、背筋が震えた。

 完治した筈の、尻尾と翼が疼く。脇腹が痛み出す。

 目は逸らさない。睨みつける。睨みつけながら、ぼんやりと見える周囲の光景から冷静に最適解を弾き出す。

 できることなら踵を返し、森の奥に引っ込んでほしい。

 偶然の、予期せぬ遭遇であってほしい。

 だが、私の賽の目は往々にして悪い目ばかりが出るようになっているようで、化け物猪はひときわ低く唸り声をあげると、その凶悪な牙を突き出しながら爆発的な加速を伴って、こちらを挽き潰さんと吶喊(とっかん)してきた。

 だが、前回とは異なり、今回はその僅かな前兆、行動の起こり(・・・)が見えている。

 蹄が地面を抉る瞬間、その体がほんの僅かにこちらへ沈み込むのとほぼ同時に、私はその射線から逃れるように身を投げ出していた。

 飛び出したのは、私から見て右側。

 つまりは奴の潰れた左目。死角になっている場所へと、回避した。

 水飛沫があがる。

 まるで丸太で素振りでもしたような、身の毛もよだつ轟音がすぐ傍を走り抜ける。

 へし折れた丸太が、めきめきと音を立てて倒れた。

 

「ああ、くそ、やられたっ!」

 

 思わず悪態を吐く。

 突進をかわしたまではいい。だが、奴が走っていった方向がすこぶる悪い。

 あれは、拠点がある方向だ。知ってか知らずか、完全にこちらの退路を断ってきた。

 立ち上る土煙の中で、奴がこちらに向き直る気配を感じる。

 奴の左目は完全に潰れている。こちらが死角に入っている限りは反応できない筈だが、獣の嗅覚と聴覚で、その弱点をある程度補っているのだろう。

 ならば、次善策をとる。

 槍を構え、じっと奴がいるであろう方向に視線を投げながら、私はじりじりと森の中へと後退していく。

 雄叫びが響く。

 奴が来る。

 土煙を吹き飛ばし、体中に塗れた泥をまき散らしながら、こちらへと向かってくる。

 左へ。

 回ろうとして、左の脇腹を何物かに強かに打ち据えられた。

 

「か、は」

 

 直撃。

 驚くことに奴は突進の途中で急制動をかけ、その牙を薙ぎ払ってきたのだ。

 獣とは思えない知能の高さである。

 だが、事前に突進を避けるため右に飛び込んでいたのが幸いし、その威力の大半は受け流され、前回のように骨まで衝撃が抜けることはなかった。

 とはいえ、尋常ではない巨体から放たれた攻撃である。大半を殺したとはいえ、その衝撃は私の身体を吹き飛ばすには十分すぎる。

 恐ろしい勢いで風景が回り、流れていく。

 だが、手にした槍は離さない。どれだけ枝にぶつかり、地面を転がることになっても、この最後の命綱だけは決して手放さなかった。

 

「ぐ、く、せっかく、さっぱりしたところだったのに、このっ」

 

 起き上がる。

 腕は、動く。足も動く。痛みはあるが、骨までは達していない。

 そして不幸中の幸いか、奴との距離は十分に取れた。

 あとは、誘導するだけだ。

 

「きたぞ、きたぞぉ」

 

 めきめきと、木々がなぎ倒される。

 手に唾を飛ばし、槍を固く握りなおした。

 地を蹴る音が響く。角がぴりぴりと震えて危険を知らせてくる。

 二歩、三歩左へ。

 反撃開始だ。

 

「来い、こぉい!」

 

 藪の中から、化け物が飛び出してくる。茶色い飛沫を口元から飛ばしながら、狂ったように突っ込んでくる。

 だが、ここから先は私の陣地だ。

 踏み抜かれた枝が折れる。それと同時に、化け物の後ろ足を頑丈なシュロの縄が勢いよく縛り上げた。

 つんのめり、化け物が転倒する。

 全力疾走している足をすくい上げたのだ。盛大に土ぼこりを巻き上げながら、岩のような巨体が転がり迫る。

 足を縛っていた縄が、結んでいた枝ごと引っこ抜かれた。

 

「らあーっ!」

 

 裂帛の気合とともに、転倒し、露になった横っ腹に槍を突き込んだ。

 鱗の穂先が、化け物の固い毛を断ち、皮を破りながらずぶりと奥へ突き刺さる。

 手元に伝わる生々しい感触に、思わず顔をしかめた。

 化け物が叫び声をあげる。

 豚の叫び声。痛々しい、獣の悲鳴があがる。

 そして化け物が身をよじる前に、私は素早く突き出した槍を引き戻した。

 槍はこれ一本しかない。折られてしまえば、唯一の武器を失うことになる。

 その場から飛びのき、次の場所へ。

 槍は刺さったが、致命傷ではない。分厚い筋肉と脂に阻まれて、内臓までは達していない。

 そして、手負いの獣ほど恐ろしいものはない。

 森の中を駆ける私の背後から、悍ましい叫び声が響く。

 今の今まで生態系の頂点に君臨してきて、手傷など負わされたこともなかったに違いない。

 さながら森の王者、いや、暴君といったところか。

 そんな存在が一度とならず二度までも、新参者に後れを取らされた。

 その怒りはまさしく怒髪天を衝く勢いだろう。

 

「よしっ、ここだ!」

 

 背後から迫る気配に冷や汗を流しつつ、私は無事に次の罠がある場所へと辿り着いた。

 振り返り、槍を構える。

 赤黒い獣の血に塗れた刃の向こうで、藪から化け物が顔を出す。

 そしてその表情を見て、私は冷や水を浴びたような、生き血を抜かれたような感覚に襲われた。

 悪鬼羅刹。

 脇腹から漏れる血で体を赤く染め、湯気さえも立ち昇らせる鬼の形相。

 興奮して傷口が開いたのか、潰れた左目から時折赤黒い血が噴き出していた。

 気圧される。

 押しつぶされそうな存在感。

 息ができない。手負いであることを知らなければ、なりふり構わず逃げ出していたことだろう。

 だが震えて奥歯を鳴らしながらも、失禁して股を濡らしながらも、それでも私は決して目を逸らさなかった。

 生きるか死ぬか、なのだ。

 自然界において絶対の掟。

 弱肉強食。

 食うのだ。

 食われるのではない、私が、俺が食うのだと。

 

「こい、こいやあ!」

 

 どちらともなく、叫ぶ。

 恐怖に竦む身体から、力を振り絞る。

 化け物が駆ける。その足元が爆発する。

 全てが、時間がゆっくりと流れていく。

 こい。

 こい。

 もう一度罠で足をとってやる。

 もう一度腹を見せたところを、とってやる。

 あと三メートル。二メートル。

 一メートル。

 枝が折れる。罠が作動する。

 縄が絞られる。その輪は、化け物の前足にしっかりとかかっていた。

 やれる。

 勝てる。

 勝った!

 槍を突き込む。前に、前に踏み込む。

 前に、踏み込まれた。

 地面が沈む。蹄が半ばまで埋まるほどの強烈な踏み込み。

 縄が、引き絞る力が拮抗した。

 ほんの一瞬、刹那の硬直。

 そして、ただの木の枝が、化け物の頑強な骨格に勝ることなど、あるはずもなく。

 枝が折れる。

 刹那の拮抗が崩れる。

 止まらない。

 信じられないことに、化け物は罠があることを承知の上で、そのうえで全てを力で捻じ伏せて、突っ込んできた。

 駄目だ、間に合わない。

 止まらない。

 咄嗟に構えた槍の柄を、化け物と自分の間に挟み込む。

 だが所詮は棒切れ。それで化け物の暴力を受け止めきれるはずもなく、笑えるほどあっけなく、私の手元でそれは砕けた。

 どん、と衝撃が背後(・・)に抜ける。

 腹がかっと熱くなった。

 

「あ、が、」

 

 突き上げられた巨大な牙。

 その槍先に、私の身体はぶら下がっていた。

 化け物の牙は私の右脇腹を貫き、まるで勝鬨をあげる侍のように、まるで戦利品を誇る戦士のように、私の身体を天高く掲げていた。

 焼き鏝を押し付けられたような、なんて生半可なものではない。

 かつてないほどの激痛に、喉が裂けてしまいそうな程の、自分のものとは思えない叫び声があがった。

 だが、化け物の攻撃はそれだけに留まらない。

 びりっと、角が何かを察知する。首を横に動かす気配。

 咄嗟に腹に突き刺さった牙を掴むが、もう遅い。

 牙を大きく振り回し、化け物は私をまるで礫か何かのように放り投げた。

 腹から夥しい量の血を吹き出し、私は空を飛ぶ。

 木々の帳を突き破り、飛ぶ。

 飛ぶ。

 地面にぶつかる。

 弾む。

 弾む。

 転がる。

 血反吐を吐きながら地面に転がり見上げた空は、それでも憎たらしいほど快晴だった。

 手には、もはやナイフのように短くなった槍の穂先が。

 どうにもこんな目にあって、まだ生き汚く握っていたらしい。

 耳元に、水が流れる音がする。

 ぱちりと、焚火が爆ぜる音。

 どうやら何の因果か、拠点の傍まで吹き飛ばされたらしい。

 我ながら、悪運尽きぬ男である。

 なら、悪運尽きるまで足掻いてみようか。

 ちらりと、抉れた脇腹を見やる。

 これは酷い。腹の三分の一は持っていかれたか。

 それでもなお手足を動かす活力が残っているのは、この身体の特殊さ故か。

 なんにせよ、ありがたい。

 両手と翼、尻尾まで使って、血反吐を吐きながら身体を起こす。

 起こして、奈落の底のような目がそこにあった。

 まさに、目と鼻の先。

 息がかかるほどの距離に、それは立っていた。

 口元から血の泡を吐きながら、どこか力のない足取りで。

 まるで吟味するかのように、こちらをじっと見つめていた。

 だが、すぐには襲ってこない。

 恐らくは前回、死に体だった私に左目を潰されたことを覚えている。

 手負いの獣は恐ろしい。

 化け物はそれを本能で、体で覚えている。

 だからこそ、完全にこちらが弱り切るまで待っている。

 血を流し、力尽きるのを待っている。

 右往左往(舌なめずり)しながら。

 落とし穴の、すぐ傍を。

 ここにきて、化け物は冷静で、慎重だった。

 だからこそ、勝ちの目が出た。

 死に物狂いで、死ぬ気で勝ちに来なかった。

 

「かかっ、俺は勝つぞ、化け物」

 

 半ば、無意識での行動だった。

 血を失い、意識も混濁した状態での、本能に近い行動。

 地面を蹴って、翼で大きく風を掴み、身体ごと前へ、前へ。

 そしてそれは化け物の予想を大きく超えた勢いを生み出し、その巨体をほんの数センチ、後方へと押し込んだ。

 大雨の後の、まだ少し泥濘んだ地面である。

 化け物の蹄は、地面を掴まなかった。

 落とし穴の、蓋が抜ける。

 落ちる。落ちる。

 化け物ごと、私ごと落とし穴の底へ。

 断末魔の悲鳴。私のものか、奴のものか。

 知るものか。

 息が続く限り、もがき続ける。

 手にした槍の穂先を、振り上げる。

 突き刺す。

 突き刺す。

 突き刺す。

 身動きが取れなくなるまで、身動きを取らなくなるまで。

 力尽きるまで、振り下ろし続けた。

 そうして残った柄が折れ、穂先の鱗が粉々に砕け散った頃。

 落とし穴の底、血と泥に塗れながら、私は狂ったように雄たけびをあげたのだった。

 



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解体


動物の解体描写、グロテスクな表現が含まれます。
苦手な方はブラウザバックをお勧め致します。

また、一部描写に不適切な表現が含まれる可能性がございます。
にわか知識にて恐縮ではございますが、都度ご指摘いただけますと幸いです。
宜しくお願い致します。




 

 清々しい気分だった。

 力が漲る。

 煮えたぎるほど熱い血潮が身体中を駆け巡り、指先まで余すところなく満ち満ちていく。

 煙が、蒸気が立ち昇るほどの熱量を感じながら、私の心を満たすのはこの上ない充足感であった。

 口元は血で塗れ、足元には無残にも食い散らかされた大猪の残骸が横たわっている。

 むせ返るような血の匂いに包まれながら、私はまた、鷲掴みにした拳ほどの大きさの心臓に喰らいつく。

 濃厚な血の味わい。力強く押し返してくる歯ごたえ。嚙み締めれば滲み出る油の甘さ。

 嗚呼、なんと甘美な、芳醇な肉であろうか。

 貝や魚、果実では味わえない力強さ。

 食物連鎖の上位者として君臨し続け、濃縮され続けた瑞々しい生命力の味。

 嗚呼、漲る。染み込んでいく。

 育まれていく。身体が、命が。

 

「熱い、熱い。だが、良い、心地良い……っ」

 

 身じろぐ。

 火照った肢体に汗が流れる。 

 蛇が這いまわるかのような、その這いまわるような感触すら今は心地良い。

 まるで全身の神経が剥き出しになったよう。ほんの少しの風の流れ、香りすら肌で感じ取れるのではと思うほどの感覚。

 満ちる。満ちて、巡って、膨れていく。

 それはまるで、皮袋に水を灌ぐように。

 あるいは果実が熟し、その身に甘露を貯め込むように。

 熟れていく。熟していく。

 そして、そして、熟した果実はやがてその身を弾かせる。

 瑞々しい甘露を滴らせながら、熟しきったと鳥や虫たちに知らせる為に。

 そして、そして、私もまた熟す。

 古い外皮を引き裂いて、旧き殻を打ち砕き。

 私は、私は、私は……。

 私、は……。

 ……。

 気が付けば、私は晴れ渡る青空をじっと見つめていた。

 はて、私はいったい何をしていたのだろうか。

 あの化け物と共に落とし穴へ転がり落ちたところまでは覚えているのだが、そこから先の記憶が随分と曖昧である。

 何やら一心不乱に鱗の刃を振り下ろしていた覚えはあるので、恐らくは仕留めたのだろう、とは思う。

 しかし、そこから私はいったい何をしていたのか。

 

「げほ、げほ。うぐ、なんだこれは、血か?」

 

 口の中に広がる、えずきそうなほどの血の匂い。

 すわ吐血かと内心ひやりとするが、どうやら自分のものではないようだ。

 周りを見やれば、そこには見るに堪えない、悍ましい光景が広がっていた。

 それを一言で表すならば、血の海である。

 あっと、私は声を上げた。

 今の今まで、己が何の上に座り込んでいるのか、まったく理解していなかったのだ。

 それほどまでの、地面だと錯覚するほどの巨体。

 すでに息絶えた化け物の腹の上で、私は呆けていたのである。

 そこからは、一息の間に様々なことを確かめていった。

 日の傾き具合から、どれぐらいの時間が経過しているのか。

 化け物の毛皮、肉の状態。

 特に私自身の身体に異常がないかどうかは、入念に確認を行った。

 その結果、私の肉体に尋常ではない変化が起こっていることが分かった。

 まず、怪我が完治していた。

 全て。

 化け物の牙で抉り取られた腹も、吹き飛ばされた時にできた細かな裂傷、掠り傷も、ひとつ残らず完全に、綺麗さっぱりなくなっていた。

 むしろ、以前よりいっそう健康体ですらある。

 そしてもう一つの大きな変化。

 身体が、大きくなっていた。

 いや、成長していた、というべきか。

 以前までの肉体はよくて十代半ば、下手をすれば十を超えたばかりの未成熟さであったが、今はそれよりも二、三ほどは年を重ねているように見える。

 あまり性差を感じなかった胸も僅かに膨らみ始めているし、肩や腰、尻も少し丸くなった。

 背丈も、はっきりとはしないが多少は伸びているのだろう。以前と比べ、明らかに視点が高くなっていた。

 肉体が成長したから傷が治ったのか、あるいは怪我も完治し、肉体を急成長させるほどの効果を持つ何かを食ったのか。

 ちらりと、足元を見やる。

 化け物の肉はその四分の一ほど、内臓がいくつかと前脚一本、そして肩と首の肉がまるっと食われていた。

 状況的に見て、認めたくはないが、私が喰らったのだろう。

 口に残った血の味、腹を満たす幸福感。

 この小さな腹に、少なく見積もっても数百キロはあるだろう生肉が詰め込まれているとは思いたくないが、残念ながらそれ以外考えられない。

 つまり、腹いっぱい肉を食ったから腹の傷も満たされたし、精がつくものを食ったから、身体もすくすくと成長して大きくなった、と。

 そんな馬鹿な。

 ないさ、いくら何でも、そんな馬鹿げた話はない。

 ならば今まで食ってきた果実や貝の分まで育っていなければ、おかしいではないか。

 四分の一で幼子から少女に変わるのならば、残り四分の三を食らえば、私は老婆になるのか。

 ない、この摩訶不思議な島であっても、それはない。

 苦笑いを浮かべ、頭を振って無駄な考えを拭い去る。

 ともかく、怪我が完治したというのならば、まずは解体、毛皮の肉の確保が優先だ。

 幸か不幸か、もうすでに腹は割かれ、内臓は掻き出されている。

 胃袋や腸、膀胱などは傷付いていないため食えないほどではないが、仕留めてからしばらく経つので肉にはもうかなりの血が回ってしまっていた。

 どうやら無意識のうちに首元へ食らいついたようだが、大きさが大きさ故にそれだけでは血抜きとして十分に機能しなかったようである。

 これ以上放置していては、この大量の肉がすべて駄目になってしまうだろう。

 それは駄目だ。

 それは、命に対する侮辱だ。

 可能な限り手早く、丁寧に解体する。

 骨のひとかけらに至るまで、無駄にはしない。

 しかし、解体するにはまず、この巨体を川で洗い、木やら何やらに吊り下げないといけないのだが、果たしてこの落とし穴の底から引きずり出せるのだろうか。

 落とし穴に仕込んでいた杭もがっちり刺さっているようだし、重機でもなければこれは引き抜けないのではないだろうか。

 ……などといった心配は、まったくもって杞憂であった。

 案ずるより産むが易し、というべきか。

 あるいは瓢箪から駒、棚から牡丹餅と表現するべきか。

 

「よい、こら、しょっと」

 

 軽い掛け声。

 腰を深く落とし、しかし目いっぱい踏ん張りを利かせるほどでもない力加減で、腕と、背中の筋肉で持ち上げる。

 手ごたえは、まるで米の詰まった袋を持ち上げる時のような、軽いもの。

 ぐっと重さは伝わるが、持ち上がらないと感じる程でもなく。

 あまりにも軽く、呆気なく、大猪の巨体は穴の外に放り出された。

 正しく怪力。怪しい、人ならざる、その細枝のような見た目からは考えられない出力。

 降って湧いた戦利品に内心複雑な気持ちではあるが、私は使えるものは使う主義である。

 生き死にの関わった場なら、特に。

 何故、こんな怪力が宿っているのか、そんなことはどうでもいいのだ。

 ただ、大猪の解体が容易くなった。

 その事実だけがあればいい。

 

「できれば下流の方で片付けたかったが、仕方がないか」

 

 まずは血だらけ、虫だらけの毛皮を洗う。

 さすがに水源である泉でやるわけにはいかないので、すぐ傍の川を使用する。

 勿論洗剤などあるはずもないので、今朝使ったたわしを使う。

 自分の身嗜み用の道具を獣に使うのは僅かに抵抗があったが、駄々をこねている場合でもない。

 ごしごしと、毛皮を剥ぐくらいの心持ちで洗っていく。

 私の怪力で目いっぱいやっては本当に毛皮が傷んでしまわないかと心配だったが、大猪の毛皮は想像以上に丈夫で、多少毛が千切れたりはしたものの、大きく傷んだりはしなかった。

 そうして血と泥を落とし、ノミやらダニやらをひとしきり追い出した後、次は内臓を掻き出していく。

 優しく、慎重に。

 特に膀胱は丁寧に扱い、万が一にも破れないように気を配る。

 猪の尿は匂いが強烈で、過って破ってしまえば最後、尿を被った部分はその殆どを廃棄しなければならなくなる。

 いわば爆弾のようなもの。

 少しでも衝撃を加えれば爆発する危険物だと思いながら、慎重に摘出する。

 そうして内臓を取り出し、腹の中を洗い終えたら、これを手頃な木の下に吊るす。

 しかし流石は規格外の大物と言うべきか、吊るすにはシュロの縄を何重にもして太くした物でなければ耐えられなかったし、私の背丈よりも高い枝に吊るしたというのに、その首は地面の上でくの字に折れ曲がっていた。

 

「さて、まずは皮だな」

 

 道具は、私の鱗を利用して作ったナイフを使う。

 ぶら下がった後ろ足から、頭の付け根まで。皮と肉の間、正確にはその肉についている脂と皮を切り分けるような感覚で、刃を入れる。

 ここで綺麗に剥げれば後のなめし(・・・)が楽になるのだが、これがまた大きいので非常に手間がかかって仕方がない。

 ここで時間がかかればかかるほど、肉の質は落ちていく。

 そんな焦りもあって後半はかなり雑な仕事になってしまったが、ひとまずは日が落ちきる前には皮を剥ぐ工程は終えることができた。

 首元で皮を切り離し、次は頭を落とす。

 通常であれば頭と胴を繋いでいる頸椎をのこぎりで切断したり、隙間を落としたりするのだが、これもまたその巨大さ、太さ故に大仕事となった。

 手持ちのナイフでは刃が通らず、最終的にはもうお役御免かと思われていた石斧を引っ張り出し、何度も何度も頸椎に打ち付けて切り込みを入れ、足で蹴り折る羽目になったのである。

 しかし、その甲斐あって、日が落ち始め辺りが茜色に染まり始めた頃、私はようやく大猪の、大きな大きな頭を切り落とすことに成功し、大きく息を吐いたのだった。

 ここまでくれば、後はもう肉を部位毎に切り分けていくだけだ。

 見てくれだけなら、精肉店に並ぶ前、解体される前の牛の肉とそう大差はない。

 早いとこ燻製なり、焼き肉なりにしなければならないが、そう急ぐ必要もなくなった、というわけだ。

 と、なると、先に手を付けるべきは掻き出した内臓と、頭の片づけである。

 これはそれぞれ落とし穴に投げ入れて、土を被せて処理することにした。

 可能であればあの大きな牙も加工して利用したかったが、残念ながらあれに関しては私の鱗も歯が立たず、どうしても取り外せる気がしなかった。

 奴に残った最後の意地というべきか、誇りというべきか。

 そんなこんなで早々に牙を諦めた私は、せめて首だけでも手厚く葬ってやろうと、そんな偽善染みた思い付きをしたのであった。

 こいつからしてみれば私は、後からずかずか縄張りに侵入し、不法占拠したならず者である。

 最終的には私が勝利したが、それこそ罠やら道具やらを利用した結果で、正々堂々と勝負した訳ではない。

 だから、まあ、私なんかに手を合わせられてもこいつは嬉しくともなんともないのだろうし、結局は私の自己満足なのだろうけれども。

 それでも私は、手を合わさずにはいられなかった。

 深く深く埋めた墓穴の上に、墓標代わりの石を置いて。

 

「お前さんとは色々あったが、どうか、どうか安らかに眠っておくれ」

 

 貴方の命は、無駄にはしない。

 祈る私の頭の上で、流れ星が一つ、煌めいて消えた。

 



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謝肉祭

 

 肉だ。

 肉だ!

 肉の山だ!

 先ほど解体が終わったばかりの、新鮮な肉である。

 重さを量る道具がないため正確な数値はわからないが、おおよそ八百キロ、下手をすれば一トン近くはあるだろう肉の山、宝の山である。

 そしてこの大仕事をやり切ったおかげで私の手は脂まみれで艶々としており、舐めてみれば鼻を突く獣臭さと、さらりとした脂の甘みが僅かに舌の上を撫でる。

 いかん。久しぶりの肉とはいえ、この脂の甘さは癖になりそうだ。

 指を舐ること数分。はっと意識を引き戻した私は、ほんのり熱くなった頭を振り、火照った身体を冷ますように翼をばたつかせた。

 今は肉、肉である。

 いかんせん素人の仕事なので血抜きも完全ではなく、香りにも獣臭さが残っているが、表面を覆う脂の艶やかさとくれば実に煽情的で、今この時においては世界中のどんな美女よりも魅力的に見える。

 思わず両手で鷲掴み、貪りつきたくなるような、魔性ともいうべき艶姿である。

 殆どは長期間保存できる干し肉や燻製にするつもりだが、それでも普通に消費していては食べきれない程の量だ。

 しかしあれだけ苦労して手に入れた肉である。傷んで捨ててしまうのはあまりにも忍びないし、何よりあの大猪に対して失礼極まる。

 なので、干し肉や燻製用に切り分けた肉以外は、一度のうちに食えるだけ食ってしまうことにした。

 食い溜め、というのは長期的に見て利のない行為に思えるが、腐らせるよりは良い。

 いや、腐ったら腐ったで実際はいくらでも利用方法はあるのだが、貴重な食糧、それも肉なのだから、できる限りは己で味わいたい。

 つまるところ、ただの我が儘である。

 そして大量の肉を調理する方法だが、これにはかなり原始的な方法を使おうかと思う。

 まずは穴を掘り、底に石を敷き詰める。

 次にその石の上で焚火をし、十分に熱したあと肉を置き、葉っぱを何枚も重ねて包み込んでから土を被せて蓋をする。

 こうして石の熱を中に閉じ込めて、肉を蒸し焼きにするのだ。

 問題は焼き加減が確認できず、肉を取り出すタイミングの見極めが難しい点だが、これだけ大きな肉塊である。大げさなぐらい時間をかけて丁度いい塩梅だろう。

 

「ふう、とりあえず穴の深さはこんなものか」

 

 肉、今回は特に大きな足の部分。豚でいう肩、スネ肉を丸ごとぶち込む。

 あまりの大きさに一本しか収まらなかったが、これでも数百キロはある。それを無意識に、丸ごと一本ぺろりと平らげてしまったこの娘(私自身)の胃袋はいったいどうなっているのかと腹を撫でてみるが、そこにはきゅっと締まった腰と可愛らしい臍があるばかりである。

 爬虫類のような特徴を持っているのに臍とはこれ如何に、と明後日の方向に流されてしまった思考を引き戻しつつ、隙間なく敷き詰めた石の上で火を焚き始める。

 小さな薪から、大きな薪へ。

 火が大きくなって安定したら、石を熱している間に他の肉を切り分けてしまう。

 まずは表面を覆っている脂を丁寧に取り除き、一口大に薄くスライスしていく。取り除いた脂は後々利用するので、土器に固めて保存。

 できた薄切り肉はそれぞれ半分ずつ干し肉と燻製に加工する。

 ので、その為に必要な道具をまた拵えていく。

 切って、干して、はいお終い、とならないところが辛いところだ。

 とはいえ、そう手間のかかる仕事でもない。

 燻製に関して言えば、要は肉を吊るして煙で燻せればいいのだから、仕組みは簡単でいい。

 以前作ったことのある雨避けの簡易シェルター。

 あれを応用する。

 骨組み自体は全く同じだが、今回は左右一本ずつ横木で繋いで、その間に細い枝を等間隔で並べていく。

 フレームの真ん中あたりに、棚を作るような感じだ。

 だがその前に、薄切り肉はさっと海水に浸しておきたい。

 塩漬け、などと贅沢なことはできないが、幸いここは海も近いのである程度塩味を効かせるぐらいのことはできるだろう。

 そんなこんなで海へひとっ走り、といきたいが、時刻は真夜中、明かりは焚火と月明かりのみで、正しく一寸先は闇である。

 大猪を仕留めた以上、そうそう凶暴な野生動物はいないだろうが、それでも暗がりの中、森の中を進むのは危険すぎる。

 肉の加工は、夜が明けてから行うことにしよう。

 で、あるならば、残るは今日明日で食う分の肉である。

 巨大な足が二本と、あばら、肩周りの肉がたっぷりと残っている。

 

「どれから手を付けるか……」

 

 食らう肉をどうするか悩むとは、これまた随分と贅沢なことだとは思いはしつつも、一度に食べきれる量に限界があるのもまた事実。

 結局悩みに悩んだ末、残った二本の足を先に片づけることにした。

 まずはももの部分を一口大に切り分けて、串焼きにしていく。

 野菜も香辛料もないので彩りもへったくれもないが、この粗野な見た目がまた食欲をそそる。

 そして一本、二本と焚火の傍へ。

 じゅうじゅうと、肉の焼ける音。

 溢れる肉汁が滴り落ちる度に炭が弾け、ほのかに甘い香りを立ち昇らせる。

 原始的な、本能を直に揺さぶってくる官能的な香り。

 たまらず、一本目に噛り付いた。

 固い。

 歯を押し返す、牛肉とも豚肉とも異なる歯ごたえ。

 だがしっかりと噛み締めていけば、その奥から甘い、濃厚な脂がじわりと滲み出てくる。

 ブランド牛のような気品の高さも、いつも食べていた精肉のように整った美味さもないが、この、野性的な、暴力的な味わいこそが、今の私には何より甘く、極上に感じられた。

 気が付けば、私は一本目を瞬く間に完食し、二本目へと手を伸ばしていた。

 こちらは脂身が多く、噛めば噛むほど甘い脂が口内で弾ける。

 筋張った部位もまた、他とは異なった弾力で小気味のいい歯ごたえを返してくる。

 三本目、四本目。

 これまで貝や果実ばかり口にしていた反動か、私の食欲はこの濃厚で肉厚な相手を前に止まることをしらず、気付けば私の腰回りほどはあった肉塊をあっさりと胃袋に収め、ついにはどう控えめに言っても一口大とは呼べない、拳ほどはある肉を枝に突き刺し、まるで原始人のような様相で一心不乱に肉に喰いついていた。

 美味い。

 美味い。

 そういえば、これほどまで脂に塗れた食べ物を口にするのもかれこれ何年ぶりになるだろうか。

 この島に来る前、つまり病室、我が家の一室で看取られるまでの数年はひたすら病院食のようなものだったし、それ以前も油っこいものは体が受け付けずそう多くは食べられなかった。

 そう思えば、今のこの、いくら肉を詰め込んでもびくともしない胃袋のなんとありがたいことか。

 肉の美味さと、そのことへの感謝で目尻から涙が溢れてくる。

 

「美味いなあ、美味いなあ」

 

 そうして涙をぬぐいながら、少しばかり塩味の効いた串焼きを全て平らげた頃には空は白み始め、森の中にはうっすらと朝霧がかかり始めていた。

 何だかんだで夜を通しての作業になってしまったが、美味い肉をたらふく腹に詰め込んだおかげか眠気も倦怠感もなく、正しく意気軒高といった様子である。

 ならばこのまま残った作業もしてしまおうと、私は薄切りにした肉を土器の壺いっぱいに詰め込んで、海へ向かって駆け出した。

 背丈が伸び、足も長くなったので一歩一歩が以前と比べ大きくなっているが、川辺の石の上を跳ねるようにして進んでもまるで足元が危うくなる様子もないことから、どうやら感覚のずれも無く、やはり膂力だけでなく身体全体が相当強化されているようだ。

 しかし、それならばと翼を大きくはためかせてはみたものの、やはり空を飛ぶにはまだ何か足りないのか、私の翼は相変わらずつむじ風を巻き起こすのが精いっぱいであった。

 そんなことをしている間に、私はあっという間にいつもの海岸へとやってくる。

 あとは海水に薄切り肉を漬けて、拠点へと戻るだけだ。

 それほどしっかりと漬け込む必要もないだろうから、肉を詰めた壺で直接海水を汲み、中でさっと混ぜ込んでおく。

 あとはこれを乾燥させ、煙で燻すだけだ。

 

「ふっふっふ、これは出来上がりが今から楽しみだなあ」

 

 何やら丸一日ほど食べ物のことばかりを考えている気がするが、それはそれとして、この保存食作りが上手くいけば食料にも幾ばくかの余裕が生まれてくる。

 そうすれば、ようやく食料集め以外、つまりは拠点作りや周辺の探索に割く時間も生まれてくるだろう。

 最大の困難(大猪)を乗り越えられたことは僥倖だが、解決しないといけない問題は、まだまだ山のように残っているのだ。

 何ともまあ、気の滅入る話であるが。

 

「せめて空を飛べればなあ、探索もかなり楽になるのだが」

 

 少しは訓練でもするべきなのだろうか。

 壺を抱えた尻尾を右へ左へくゆらせながら、私は頭を悩ませる。

 鳥や昆虫ならば、生まれた時から空の飛び方、翼の扱い方を心得ているものだが、この身、魂は日本で暮らしていた何の変哲もないじじいである。

 で、あるならば、少しでも身体の動かし方を知る為に色々と試してみるのも吝かではないのかもしれない。

 さしあたって、まずは翼の使い方を覚えるべきだろう。

 サイズ的には全長、片方の翼の端から反対側までおおよそ四から五メートル程の、私の身体をすっぽり覆えてしまうほどの大きさである。

 しかし人間が空を飛ぶには、おおよそこれが三十四メートル。つまりは片翼十七メートルというとんでもない大きさが必要だと、昔何かのテレビ番組で聞いたことがある。

 その時想定していた体重が六十キロ。

 私の今の体重がざっくり五十キロだったとしても、とてもではないが理論上飛行できる大きさには達していない。

 となると、どうにかして翼を大きくするか、別の方法で飛行するしかないのだが……。

 

「空の飛び方なんぞ、考えたこともないからなあ」

 

 それこそ、羽ばたいて空を飛ぶなんて、想像したこともない。

 いっそのこと、超能力や修行で身に着けた超パワーで空を飛び回る方が、日本人としては馴染み深いぐらいだ。

 しかしまあ、ここは島が空に浮き、超ド級の猪が闊歩する異世界である。

 

「まあ、やれるだけやってみるかい」

 

 翼の爪で頭を掻きながら、溜息交じりにそう漏らす。

 朝霧が晴れ、お天道様が海岸線から顔を覗かせ始めた、十八度目となる清々しい朝のことであった。

 



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宴は続く

新キャラが出るよ!
やったね竜娘ちゃん!


 

「さて、そろそろいい塩梅かな」

 

 石を熱していた薪が真っ白に燃え尽きるのを見届けた後、まだ赤く燻る灰を穴の傍に掻き出して、その上に青々とした大きな葉を何枚も、灰の白が見えなくなるまで重ねる。

 そうして満を持して取り出したるは、でっぷりと肉付きの良い大猪の足。

 その太さ、大きさはまるで牛の枝肉のようで、水に濡れたように光るその表面は、甘い甘い脂で塗れている。

 これを穴の底、敷いた葉の上に寝かせ、包み込むように上からまた葉を重ね、灰や土で汚れないよう丁寧に梱包していく。

 そうしたらその上から優しく土を被せ、さらに火を起こして熱気を土に伝える。

 こうすることで上と下、石と焚火の熱が肉にじわりじわりと伝わり、しっかりと中まで焼くことができる、らしい。

 らしいというのは、私も実際にこの方法で調理したことが一度もないからである。

 それはそうだろう。老いさらばえたとはいえ、こちとら科学が発展した現代日本で生きてきた人間なのだから。

 似たようなことをやった経験はあるが、これほど本格的なものとなると、やったことがある人間を探すほうが難しいだろう。

 まあ、ともかく、やるしかないのだから、手探りだろうが何だろうが、とにかく試してみるしかない。

 さて、火を焚いている間、干し肉と燻製の準備を終わらせてしまう。

 燻製にする分は手製の燻製器に並べ、その下で火を起こして煙で燻す。干し肉の方はもっと簡単で、私の背丈ほどの枝に次々と突き刺して、手ごろな枝先につるして終わりだ。

 大きなものは枝とシュロ縄で作った簡易的なハンガーに吊るして、これもまた同じ枝に並べる。

 場所がなくなれば縄を使って下へ、下へと継ぎ足していき、おおよそ全ての肉を干し終えた頃、そこには正に肉の(すだれ)とも呼べそうな代物が出来上がっていた。

 さらに量が量であるので、その肉の簾があっちにも、こっちにも。

 肉、肉、見渡す限り肉だらけ。

 圧巻の光景だが、これだけ肉の匂いをまき散らしていれば、腹を空かせた獣が迷い込んできても不思議ではない。

 獲って食うつもりはない、いや、場合によっては獲って食うかもしれないが、大切な食料を盗まれるわけにもいかないので、私は周囲の安全確認も兼ねてぐるりと拠点の周りを歩くことにした。

 その手に焼いたばかりの骨付き肉と、棍棒代わりの枝を握りしめて。

 ちなみに肉はあばら肉、いわゆるスペアリブだ。

 これがまた絶品で、食らいつけば堰を切ったかのようにさらりとした脂が流れ出し、その芳醇な甘さを追うようにして、赤身の歯ごたえ、旨味が口内に広がる。

 口の周りは脂まみれ、握った手から滴る脂が肘まで汚す始末であるが、その脂を舐めとると、これがまた、たまらなく美味い。

 とてもとても人様にはお見せできない有様だが、生憎とここは未開の森の中。人目(はばか)る理由はない。

 

「これで酒でもあれば文句はないが、酒の成る木でも生えていないものかねえ」

 

 そんな軽口が漏れるほどの浮かれようであった。

 とはいえ、あの大猪を仕留めてからこちら、この立派な二本角が何かを感じ取ることがなくなったので、少なくとも敵意のあるものが潜んでいることはないだろう。 

 まあ、あれほどの化物がそう何匹もいてはたまらないのだが、この島は狭いようで広い。

 熊やら虎やら、危険な野生動物が潜んでいても不思議ではないのだ。

 どちらにせよ、こちらの姿を見て逃げ出してくれる程度には賢ければいいのだが。

 槍を手に野生動物とやりあう等と、できればもう二度と経験したくはない。

 

「おっと、こんなところにもどくだみがあったかい。ちょうどいい、持って帰って茶にするか」

 

 案の定、拠点の周囲は穏やかなものであった。

 しかし道すがら野草や果実を集めて帰ったところで、私はあっと声をあげた。

 なんと、枝から垂れ下がっていた薄切り肉に何とかしてありつこうと、黒い毛並みをした獣がぐっと身を伸ばしていたのだ。

 それを見た途端、私は思わず駆け出していた。

 

「こらあ、何を悪さしとるかっ!」

 

 棍棒を振り上げ凄んでみせると、その獣はぴょんとその場に飛び上がった後、慌てふためいた様子で藪の中へと逃げ込んでいった。

 その後ろ姿、そしてちらりと見えたあの顔つきには生前見覚えがあった。

 

「猪の次は狸ときたか。これはまた、次から次へと……」

 

 あの穴熊に似た顔つきと犬のような体格。夏毛なのか顔も尻尾もすらりとしていたが、あれは間違いなく狸だった。

 この辺りを縄張りにしていた大猪がいなくなって顔を出してきたか、肉の匂いに釣られてやってきたか。

 どちらにせよ、大猪とは別の意味で厄介このうえない。

 冬気になればころころとした丸っこい体つきになり、愛嬌のある顔つきもあって犬のような愛くるしさを持つ狸だが、油断はできない。生息圏が重なった場合、彼奴らも立派な害獣となり得るのだ。

 狸は雑食性で魚も小動物も、昆虫だろうが見境なく食べる。つまり、私が今しがた丹精込めて作っている干し肉も、連中にとっては美味しい獲物に他ならない。

 こちらの与り知らぬところで暮らしてくれていればよかったのだが、一度目を付けられた以上、あの個体はまたやってくるだろう。

 下手をすれば、己の身内まで伴って。

 

「参ったなあ、ついつい大物の心配ばかりしていた」

 

 思えば、あの大猪が幅を利かせている間、陰で細々と生きていくしかなかった者たちもいたはずで、その最大の脅威が取り除かれた今、そうした者たちが生活圏を広げてくるのは半ば必然であった。

 幸いなのは、あちらにこちらを害する意思も、能力もないということ。

 窮鼠猫を噛む、というわけではないが、それほどまでに追い込まない限りは精々が食い物を盗んだり、荒らしたりといった程度であろう。

 それでも命に繋がる一大事ではあるのだが、出会い頭にこちらを殺す気で突進してくる輩に比べれば随分とましである。

 さらに、一番初めに顔を出したのが狸、というのもまた幸いであった。

 狸がいるということは、その獲物、鼠もきっといるはずだ。

 こいつが曲者。あるいは大猪よりも手強い相手になる。

 小さな体は少しの隙間からでも家屋に浸入できるし、丈夫で鋭い歯は家の壁など簡単に穴を空けてしまう。

 さらには驚くべき速度、文字通り鼠算で数を増やし、大食いで悪食。

 噛まれるのは勿論のこと、場合によっては風化して空気中に舞い上がった糞を吸い込んだだけでも様々な感染症にかかったりと、とにかく質が悪い。

 

「こりゃあ、早いとこ手を付けないと駄目だなあ」

 

 日本の歴史を振り返ればわかる通り、鼠に対し効果的なのは高床式、つまりは地面から離れた高いところに家を建てることである。

 もっとも、鼠返しなどを取り付けなければ効果は落ちるが、ひとまずは鼠どもに目を付けられる前に、干し肉は出来上がり次第あの大樹の上に移しておくことにしよう。

 

「しかしまあ、一応はこれでも大猪を仕留めた張本人なんだが、随分とまあ、すんなりと顔を出してきたな」

 

 人懐っこいのか、あるいは侮られているのか。

 怒鳴りつければさっと逃げたので、それなりに臆病ではあるはずだが。

 

「せめて猫なら鼠狩りでもさせたが、狸ではなあ」

 

 そう独り言ちつつ、肉片も残さず食べきって綺麗になった骨を籠へ入れる。

 日は傾き、うっすら夕暮れになり始めた辺り。

 そろそろ良いかと、私は肉を埋めた穴を慎重に、慎重に掘り起こした。

 ここで土や灰がかかってしまえば、せっかくの御馳走が台無しになってしまう。

 そうして丁寧に土を取り除き、包んでいた葉をゆっくりと解いていけば、その途端むわっとした熱気と、頭の奥を貫くような濃厚な肉の香りが顔中を嘗め回していった。

 

「おお、おお、こりゃあ凄い!」

 

 汚さないよう慎重に、まるで赤子を扱うかの如く優しく取り上げ、テーブル代わりの石板に置いたそれはこれまで見てきたどの肉料理よりも豪快で、野性的で、魅力的であった。

 皿代わりの葉からは止めどなく肉汁が零れ落ち、煌めく脂がまるで星空のような輝きを放っている。

 さらにはこの香り。

 串焼きも相当に甘美な香りであったが、これはそれを何倍にも濃縮したような、くらりと目眩すら覚えるほどの、まさに淫靡な誘惑ともいえる代物であった。

 たまらず、その肉の塊に齧り付く。

 牛の枝肉ほどはある馬鹿でかいステーキに齧り付く経験など、後にも先にもこれっきりであろう。

 ぐっとこちらを押し返す、固い歯応え。

 それに構わず力づくで身をよじり、肉を食いちぎれば、その端々から肉汁が弾け、甘い香りと共に辺りへと舞い散った。

 そして噛み締めるごとに溢れ出る旨味と甘さたるや、まるで一晩砂糖に漬け込んだよう。

 これで香辛料も何も使っていないのだから、驚きである。

 堪能する。

 これ以上ない美味を、この先もう味わえないであろう御馳走を、一口一口じっくりと味わい、腹に収めていく。

 そうして半分ほどぺろりと平らげ、辺りがすっかり暗くなった頃に、またそいつはやってきた。

 

「お前な、また来たのか」

 

 がさがさと藪を揺らし、ひょっこりと顔を出したのは昼間の狸であった。

 痩せぼそった顔だけを藪から出して、くりくりとした丸い目でこちらをじっと見つめている。

 いや、正確には私ではなく、私の目の前にある肉を凝視していた。

 その口端から、だらだらと涎を垂らしながら。

 くっと、耐え切れず肩を揺らす。

 

「お前、お前なあ、そんな顔で見ても分けてはやれんぞ。これは私が仕留めた獲物だからな」

 

 わかるか。

 そう問うてみるも、狸は小首を傾げるばかり。

 代わりに、その奥底からくう、と可愛らしいうめき声を漏らした。

 その間抜けな様子に、もう辛抱たまらなかった。

 

「く、くく、お前、お前なあ、そんな腹が減ってんのか」

 

 いかん、尻尾が痙攣する。

 思わず地面を叩きそうになる尾を空いた手で抱きかかえながら、逆の手に持っていた肉片を差し出した。

 じっと、一対の丸い目がこちらを伺う。

 

「いいか、分けてやるのはこれっきりだからな。次からは鼠を捕るんだぞ。お前さんばっかり贔屓するわけにはいかんからな。もし悪さをすれば、鍋にして食っちまうからな」

 

 こちらの言葉を理解しては、いや、恐らくは警戒心より空腹が勝ったのだろう。

 藪から出てじわりじわりとこちらとの距離を詰める狸であったが、肉のすぐ傍まで来ると、ぱっと引っ手繰るようにして肉を咥え、藪の中へと飛び込んでいった。

 

「やれやれ、素っ気ない奴だ。礼でも言っていけばいいものを」

 

 とはいえ、ただの肉一切れ、ただの気紛れである。

 そこまで恩着せがましく言うのも、またみっともないか。

 呵々と笑い、残った肉に食らいつく。

 と、また藪から狸が顔を出した。その口には、先ほどの肉が咥えられたまま。

 何事かと目を細める私を見て、まるで礼でも言うように。

 くう、と一言だけ鳴いて、狸は今度こそ藪の奥に消えた。

 数瞬の間。

 目を丸くし、とりあえず口に含んだ肉を飲み下した後、

 

「こりゃあ、狸に化かされたかな」

 

 柔らかな月明かりの下、そんな間抜けなことを呟くのだった。




※新キャラ(人間とは言ってない)
※野生動物への餌付けは止めましょう
※最近食ってばっかりだなこいつ


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大空を夢見て

 

「ご馳走、様でしたっ……」

 

 げふり、と盛大に息を吐きながら、私は倍以上に膨れ上がった腹を晒して大の字に倒れこんだ。

 結局また丸一晩食べに食べ、半分以上は干し肉や燻製に回したが、それでも数百キロは胃袋の中に収めることができた。

 明らかに身体の質量を超える肉を食った気がするが、恐ろしきは人外の肉体か。

 腹の中に火力発電所でも飼っているのではないだろうか。

 しかし食後に言うのもあれだが、出るものは出ているのでしっかり消化はしているのだろう。

 ちなみに出すときは離れた場所に拵えている簡易トイレを使っている。

 穴を掘って屋根を付けただけだが、今のところ不便はない。

 小さいほうはその辺で片づけられるし。

 本当に、食後にする話ではないな。

 ともかく、これで肉を腐らせる心配はなくなった。

 干し肉と燻製作りも順調であるし、これでしばらくは食料に困ることもないだろう。

 まあ、当分の間は肉を見るのも辛くなりそうだが。

 かつては腹いっぱい食うのを夢見た肉ではあるが、流石にこれだけの量、それも調味料すら無くひたすらかっ食らえば飽きも来ようというものだ。

 とはいえ昨夜の狸の一件もあるので、目を離すわけにもいかず、しばらくは拠点近くで道具作りに勤しむことになりそうである。

 籠、石器、土器にシュロ縄。

 足りないものは山のようにあるので暇になることはないが、せっかく生まれたゆとりなのだから出来る限り有意義に過ごしたい。

 そうすると、今までやろうにも出来なかったことに手を付けてみるのもいいかと、そう思いついた。

 つまりは、この身体がどういったものなのか、どこまで出来るのかを試してみようかと思う。

 幸い、泉の傍であれば、派手に動き回ったとしても砂埃などで肉を汚す心配もない。

 

「そうと決まれば、よっこらせい、と」

 

 でっぷりとした腹を抱えながら起き上がると、私は少し、いやかなり重くなった足取りで泉の傍まで行き、ぐっと翼と尾を伸ばした。

 やはり気になるのは、この翼だろう。

 被膜があり、Wの字に折り畳むことができて、折れ曲がった、腕で例えるならば肘にあたる部分に固い爪が生えている。

 第三の腕としてこれまで活用してきたが、やはり翼の本分とは風を捕まえ、大空へと舞い上がることにこそある。

 ダチョウやペンギンなど、飛べない鳥も数多くあれども、私にはこの翼がお飾りだとは到底思えなかった。

 間違いなく、空へ舞い上がる能力はある。

 ぼんやりとした感覚ではあるが、確信にも似た思いがそこにはあった。

 足りないのは経験か、それとも身体能力か。

 だがもし空を飛ぶことが出来たのならば、周囲の探索はおろか、近くの浮島へ飛んでいくことも可能になるかもしれない。

 つまりそれは、この無人島からの脱出を意味する。

 それは、我武者羅に求めるには十分すぎる光明であった。

 

「とりあえず、物は試しだ」

 

 大きく広げた翼を、ゆっくりと動かしてみる。

 ばっさばっさと、巻き起こしたつむじ風が泉の水面を揺らす。

 羽ばたく速度を、少しずつ上げていく。

 揺らめく程度だった水面が音を立てて飛び跳ね、泉全体に波紋を作り始めた頃。

 ぐっと、空気以外の負荷が翼にかかる感覚があった。

 何か、こう、地面から引っ張られているような、翼の先に重りでもつけられたような妙な感覚だった。

 だが、翼はまだ動く。

 動かせなくなるような重さではない。

 何の気なしに、軽く地面を蹴ってみた。

 スキップするような、そんな軽い跳躍。

 足が地面を離れた瞬間、ぐるりと世界が一回転した。

 

「うおおっ!?」

 

 思わず、素っ頓狂な声が漏れる。

 目の前には地面。顔面から、勢いよく突っ込んだ。

 真っ暗になった視界の中、自分がバク転のような恰好で後ろ向きに回ったのだと理解するのには、数秒の時を要した。

 思い返せば、私は翼を愚直に、斜め下に打ち下ろすように動かしていた。

 それがいけなかったのだろう。

 単純な動きではダメだ。それでは飛翔する為に必要な力を生み出せない。

 もっとしなやかに、滑らかに。

 顔を上げ、もう一度挑戦する。

 脳裏に描くのは、力強く羽ばたく大型の猛禽類。

 思い出す。

 飛び立つ際の彼らの雄姿を、鮮明に。

 まず姿勢は直立、ではなく、前傾姿勢に。

背骨を地面と水平に保つ、陸上競技のクラウチングスタートに似た姿勢。

 翼は斜めではなく、真下に打ち付けるように。

 しなやかに、それでいて力強く。

 力むのは振り下ろす時だけ。力を抜けば、翼は自然と元の位置まで帰ってくる。

 ゆっくり、確実に。

 一、二、三。

 一、二、三。 

 徐々に、翼に込める力を増やしていく。

 ぐっと、翼が重くなる。

 大気以外の負荷がのしかかる感覚。

 同時に、地面を抉り取るぐらいの心意気で、飛び上がった。

 一瞬の浮遊感。

 下腹部から、内臓が押し上げられるような感覚。

 翼を開く。

 つま先には、何の感触もない。

 浮いた。

 浮いている。

 高さにして一メートルあるかないかの、ほんの僅かな飛翔。

 それでも、それでも確かにこの瞬間、私は空を飛んでいた。

 

「や、やったへぶっ!」

 

 思わず歓喜の声を上げようとしたその瞬間。

 先程の比ではない勢いで、私は地面と熱い接吻を交わしていた。

 その姿はさながら放たれた槍の如く。

 いや、随分と見栄を張ったが、とどのつまりは墜落である。

 不格好にも、頭から。

 我ながら、頚椎を痛めてもおかしくない勢いであった。

 だが、それに相応しい成果はあった。

 私の翼は空を飛ぶのに何ら不足ない立派なものであったのだ。

 あとは扱い方を知り、経験を積むだけである。 

 よしそれではさっそく続きをと、顔を上げようとしたところで予想だにしないトラブルが発生した。

 角が刺さった。

 地面に。

 深々と。

 身体の成長と共に少し伸びていた立派な二本角が、地面に顔面を打ち付けた勢いでぶっすりと刺さってしまっていた。

 妙に反り返っているのが返し(・・)になっているのか、首の力だけでは抜けそうにない。

 くう、と、背後で聞き覚えのある鳴き声がした。

 

「あっ、お前こないだの狸だなっ。待て、待てお前、まさか干し肉に手を出したりはしてないかっ。ちょっ、ちょっと待てお前、すぐ懲らしめてやるからなっ」

 

 じたばたと、もがく。

 首をぐりぐりと動かし、翼も尻尾も総動員してのたうつ姿は、それはもう滑稽に映っただろう。

 心なしか、狸にすら笑われているような気がした。

 生娘の尻を見て笑うとは、とんでもない狸である。

 だがもがいたおかげで、深々と突き刺さった角は無事に引き抜くことができた。

 顔も角も髪も土だらけだが、それよりもまずは肉の心配をしなければ。

 土塗れの顔を振って鳴き声のした方を見やれば、そこには興味深げに干し肉を見つめ、前足を伸ばす狸の姿が。

 あと少しで届かずにぷるぷると身を震わせるその姿はあまりに愛くるしいが、それはそれである。

 私は傍に転がっていた木の枝を拾い上げると、あえて犬歯をぎらつかせながら怒鳴り散らした。

 

「こらっ、この畜生め、悪さすると食っちまうぞ!」

 

 棒で地面を叩きながらそう威嚇すると、狸は文字通り飛び跳ねながら森の奥へと逃げ去っていった。

 まったく。

 仏の顔も、という訳ではないが、今度見かけたら本当に捕って食ってしまうかもしれない。

 しかしあの様子では、完全に()の場所は覚えられてしまったようである。

 せめてもうしばらくはここで干しておきたかったのだが、食われてしまっては元も子もない。

 これだけの量をぶら下げる場所があるかどうかはともかくとして、今のうちに新居予定の大樹の上に運び込んでしまうとしよう。

 吊り梯子を往復するのは少し手間だが、まあ、翼と尻尾を使って運べばそう時間はかかるまい。

 鼠除けにもなるし、丁度いい機会だと思うこととする。

 手足も多少長くなったので、前ほど吊り梯子を登るのも苦ではないし。

 土塗れになった顔を泉で洗った後、私はさっそく作業にとりかかった。

 干してあった肉の短冊を回収して、何本かに纏めて尻尾でくるりと巻いて持ち上げる。

 他は翼の爪に引っ掛けて、空いた両手でするするっと大樹の上へ。

 手近な枝に干し肉を吊るしていると、あの狸が茂みの中から恨めしそうに見つめている姿が目に入った。

 

「残念だったなあ。お前さんの短いあんよじゃ、ここまでは登ってこれないだろう」

 

 勝ち誇ってそう言ってみれば、奴さんは鼻先をふすふすとさせながらまた藪の中へと消えていった。

 これでもう、肉を盗まれる心配はない。

 だがああいった獣が出てくるとなると、畑を作るときにはしっかりと対策をしておかねば痛い目に合いそうだ。

 鼠なんかはもうどうしようもないだろうが、鳥や獣除けは今から作っておいて損はないだろう。

 新居に畑、ゆくゆくは石を組んで(かまど)なんかも作ってみたいものだ。

 ああいや、その前に空を飛ぶ練習だろうか。

 自由に空を飛び、他の島に渡ることができれば、そこで私以外の人間に出会うこともできるかもしれない。

 未だ人類はおろか、文明の影すら見えないありさまではあるが、希望は捨てず、夢は大きく異文化交流である。

 この身体の持ち主が目覚めてくれれば話は早いのだが、今のところ夢に出てくる様子もなし。

 であれば、日々是地道に進んでいくしかあるまい。

 

「今更生き急ぐ歳でもなし。まあのんびりとやらせてもらうよ」

 

 尻尾を巻き付け、大樹の枝の上で大あくびを一つ。

 暖かな日差しを浴びながら、ひとまずは食後の昼寝と相成るのであった。

 



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彼方より来たりし者

なんかもう狸が勝手に動き出した件について。


 

「だからな、お前さんはもう少ぅし警戒心というものをだなあ」

 

 翌朝。

 腹もすっきりし、引き締まったくびれが腰に戻ってきた頃、私は寝床のすぐ傍で、呆れながらそうこんこんと言い聞かせていた。

 前足を持ち上げられ、目の前でびろんと伸びているのは先日からこの辺りをうろついていたあの狸である。

 事の発端は今朝、寝床から這い出た私を出迎えるようにして、この狸がじっと座り込んでいたことから始まる。

 眠気眼を擦りながらまた食料でも狙いに来たのかと身構えるも、狸が咥えていたそれを見て、私はまだ自分が寝ぼけているのではないかと己が目を疑った。

 狸が咥え、私の足元にそっと置いたそれは鼠であった。

 思い返すは、こいつと初めて出会った時の夜のこと。

 

――いいか、分けてやるのはこれっきりだからな。次からは鼠を捕るんだぞ。

 

 そんなことを、言った。

 たしかに、言った。

 だがそれは鼠を捕って食え、という意味で、鼠を捕ってこい、と頼んだつもりはなかったのだが、どうやらこの狸は後者だと思ったようである。

 いや、それにしたって驚いた。

 目の前には、行儀よく座って丸い目でこちらを見上げる狸の姿。

 その姿はどこか、投げたボールを拾ってきた犬のそれを彷彿とさせる。

 

「狸に化かされるっていうのは、こういうことを言うのかね」

 

 うなじを揉みほぐしながら、そんなことを口にする。

 転がされた鼠の尻尾を指先でちょんと摘まみ上げてみれば、仕留めてからそう経っていないのか、頭の先からは未だに血が滴っていた。

 ううん、新鮮とはいえ食う気にはならないし、とりあえずこれは後で穴を掘って埋めておこう。

 そうして、私は目の前で呑気にこちらを眺めている狸に向き合うような形で腰を下ろした。

 そして、話は冒頭へと戻る。

 随分と、本当に野生動物なのか疑問に思ってしまうほど、この狸は大人しかった。

 それこそ、両腕を持ち上げた今の状態であっても、まるで抵抗する様子を見せないほどだ。

 神妙に考え込む私を見て、狸が首を傾げる。

 ともあれ、鼠の被害はまだ出ていないものの、こちらの意を酌んで鼠を狩ってきたことは事実な訳で、このまま以前のように追い払うのも気が引ける。

 ううむううむと唸ること数度、私は狸にここで待つように言うと縄梯子をするすると登り、樹上から大きめの燻製肉を一つ取ってきて、言いつけ通りにじっと座り続けていた狸の鼻先にそれを差し出した。

 

「そら、鼠の礼だ」

 

 鼠一匹と、燻製肉一つ。

 正直、何度も邪険にされた私の前に姿を晒すぐらいなら、捕まえた鼠をそのまま食った方が割が良いと思うのだが、いったい何を考えているのやら。

 そんな私の心中を知ってか知らずか、狸はぱくりと燻製肉を咥えると、さっさと藪の方へ走って行ってしまった。

 くるりと振り向き、こちらを見やる。

 それは何か、こちらに期待しているような、何かを求めるような、そんな目だった。

 

「ああ、また獲ってこい。そしたらまた、食い物を分けてやるよ」

 

 何ともまあ、ちゃっかりしたやつである。

 私がそう言うと、狸はさも言質は取ったと言わんばかりに一声鳴いて、茂みの奥へと消えていった。

 残されたのは風の音と鼠の死体が一つ。

 変わった協力者の登場に困惑しつつも鼠を埋め、昨日まで肉の処理に追われて手が付けられなかった作業に取り掛かる。

 用意したのは大型の木枠と、大猪の毛皮。

 まずは毛皮を川で何度も洗う。こびりついた血肉は事前にある程度こそぎ取っておいたが、ここでもしっかりと擦り、汚れやノミ、ダニなどを除去する。

 しかしまあ、あの巨体を包んでいただけあって大きさもかなりの物で、加工するにも大きすぎるので三分割した今でさえ、私の全身をすっぽり覆ってなお余りある程である。

 これだけあれば上着にズボン、敷物まで一式は揃えられるだろう。

 しっかり汚れと血肉を落としたら、次はいよいよ皮を(なめ)す作業だ。

 通常はタンニンやらクロムやらを溶かした液に浸すらしいが、この無人島にそんなものがある訳も無いので、今回も例によって原始的な方法で鞣していく。

 その方法とは、口噛み鞣し。

 文字通り皮を噛んで柔らかくする、古来より伝わる鞣し方である。

 他には動物の脳みそを皮に刷り込む方法もあったりするのだが、大猪の頭は埋めてしまったし、元々あの固い頭を割るつもりもなかったのでこちらの方法にした。

 洗った毛皮を拠点に持ち帰ると、土がつかないよう広げた葉の上で作業を始める。

 とはいえ、あとはひたすら皮を噛んでいくだけなのだが。

 身体が成長し、膂力と共に顎の力も増しているだろうから、初めは力加減を間違えないよう慎重に作業を進めていった。

 しかしまあ、これが想像以上の苦行であった。

 まずあれだけ洗ったにも関わらずほのかに匂う獣臭さ。

 実際に噛んでいるのは無味無臭の皮の裏側なのだが、時折鼻に入るこの匂いとくれば、何度かえずいてしまう程であった。

 しかしこの作業をしっかりと行わなければ皮は固くなり、使い物にならなくなってしまう。

 ただでさえ肉の加工と処理に二日使ってしまって劣化が進んでいるのだから、なるべく手早く済ませなければ。

 そうして格闘すること数時間。

 ようやく鞣す工程を終えると、後は用意した木枠に毛皮をしっかりと固定してひとまずは完了だ。

 

「やれやれ、顎が外れるかと思った」

 

 一息つき、土器で湯を沸かしながら細い顎をつるりと撫でる。

 大昔、この口噛み鞣しを行っていた女性はみんな歯が平たく削れていたそうだが、そうなるのも納得の重労働だった。

 次からは脳みそを使って鞣そう。うん。

 白湯を飲んで一息つけると、次は拠点作りの建材集めに森へと入る。

 他にも幾つかの道具を入れた編み籠を尻尾に吊るして、手には石斧と、先日作り直した鱗の槍を。

 大猪がいなくなったとはいえ、野生動物に襲われるリスクが無くなった訳ではないのだ。

 あの狸のように、大猪の脅威が無くなったことで現れる動物も少なからずいるだろうし、用心するに越したことはない。

 まずは消費の多いシュロの皮、薪になりそうな小枝を集め、籠の中へ。

 ある程度集まったら、私の腰程度の太さの木を数本切り倒し、均等な長さに揃えてから持ってきたシュロ縄でまとめる。

 膂力が増したお陰でこの程度なら特に苦労せず楽々切り倒せるようになったし、多少重量のある物を持ち上げても息切れ一つしなくなったのは実に僥倖であった。

 そうしてしっかりと縛り上げた丸太を担ぎ、上機嫌で拠点へと向かっていた私であったが、その道中で予想だにしていなかった、目を疑うある物を発見した。

 それは何の変哲もない、ただの平べったい、長方形の木の板。

 一見少し大きなまな板にも見えるそれを目にした瞬間、私は手にした丸太を投げ捨て、飛びつくようにそれを掴み取っていた。

 そう、ただの木の板。

 木の板(・・・)なのだ。

 切り揃えられたその形、滑らかな断面は明らかに加工された、人の手が加えられたもの。

 そして、私はこんな代物を作った覚えはない。

 つまりこれは、私以外の人間が作った物。

 私以外の人間が、この島にいる。

 

「誰か、誰かいるのかっ!」

 

 溜まらず、声を上げていた。

 何度も、何度も、喉が痛くなるまで叫んだ。

 だが返ってきたのは風と、鳥の声のみ。

 人の気配は、ついぞ感じなかった。

 呆然と、その場にへたり込む。

 周囲を確認するとどうやらこの木の板は一枚だけではないようで、茂みのてっぺんや木々の枝先にと、まるで木々よりも高い位置からばら撒かれたような様子で散乱していた。

 驚くことに、その中には金属製の釘が打たれたものまであった。

 散らばったそれぞれの形から察するに、どうやら元々は四角い木箱のようなものだったらしい。

 それが木にぶつかり、ばらばらに砕け散ってしまった、と。

 見上げれば、相当な太さの枝に大きな傷が入っているのが確認できた。

 枝の周囲に不自然な木屑が散らばっているのを見るに、どうやら木箱はあそこにぶつかったようだ。

 あれだけの高さと木箱の大きさからして、猿や鳥の仕業ではない。

 となると、考えられる可能性は一つだけ。

 

「他の島から、落ちてきたのか」

 

 以前、この島の上空を他の島が通り過ぎたことがあった。

 恐らくはああいった具合に島同士がすれ違った際に、この木箱は落ちてきたのだろう。

 つまりその島には人が住み、この木箱を作れるだけの技術を、この大きな木箱が必要になるような文明を築いている、ということ。

 村か、あるいは町か。

 規模はともかく、人が暮らしている。

 それだけでも、生きていく活力が湧きあがる心地であった。

 生きる希望が、見えた。

 

「よ、よかったあ」

 

 飛ぶ練習をしよう。

 空を自由に飛ぶことができれば島から島へ、渡り鳥のように旅することもできる。

 そうしていけば、やがては人の住む島に行きつくことも、夢ではないだろう。

 何日、何年かかるかはわからないが、やる価値は十分にある。

 と、そこでふと気づく。

 木箱が壊れたのなら、中に入っていたであろう品はどこに消えたのか。

 まさか木屑まで詰めておいて、空だったということはないだろう。

 少しばかりふわふわした足で立ち上がると、木片を回収するついでに周囲を探索する。

 かなりの勢いでぶつかったのだろう。木片は予想よりも広い範囲に散乱していた。

 だがこれはこれで、まな板や拠点の屋根に利用できそうである。

 そうしているうちに藪の中から見つけ出したのは、これまた何の変哲もない代物であった。

 それは日本でも見慣れた、真っ赤で丸い艶のある果物。

 りんごである。

 それが、三つ。

 勿論、この島で林檎の木など見かけたことはない。

 あの木箱にたったこれだけということはないだろうから、残りは動物にでも持っていかれたのだろう。

 さすがに少し傷んでいるが、食えないほどではない。

 鉄製の調理器具や鉄板でも出てくればと思っていたのだが、まあそうそう上手くいくはずもないか。

 だが、これ以上ない収穫はあった。

 じっと、私は木々の間から覗く青空を見上げる。

 

「辿り着いて見せる、いつか、必ず」

 

 そうして齧りついたりんごはこれまでで一番甘く、酸っぱい味がした。

 



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ドラゴンブレス

 

「はぁっ、はぁっ……もう一回!」

 

 人は、その先に希望という光があってこそ、前に進むことができる。

 たとえ進む道が如何に険しくとも、どんな困難が待ち構えていようとも、進んだ先に希望があるからこそ、人は傷つき、泥にまみれようとも折れず、必死に前へと進み続ける。

 その姿はまるで篝火に引き寄せられる羽虫のように儚く、哀れで、そして美しい。

 風を掴む。

 打ち付けるのではなく、しなやかに大気を包み込み、翼の内側で回すように。

 羽ばたく。

 草が打ち倒され、泉の水面に大きな波紋が広がる。

 羽ばたく。

 白い飛沫が跳ねる。風が唸りを上げ、両の翼が水を吸ったように重くなった。

 四つん這いに近い体勢から、両手足で思い切り地面を蹴り上げる。

 一瞬の浮遊感と、内臓が腹の下に押し込まれるような不快感を合図に、翼を大きく動かした。

 カメラの倍率を下げた時のように、目の前の光景がぐんと遠くなる。

 高さにして、おおよそ三メートル。

 順調、ここまでは予定通り、何度も繰り返してきたいつも通りの流れ。

 泉の水面に映る、手足をぴんと伸ばし、大の字で浮き上がった己の姿は少し、いやかなり不格好ではあったがとにかく、ここまでは順調だ。

 問題はこの後、身体が重力に引かれ、自由落下を始めてから。

 翼を広げる。

 意味などこれっぽっちもないのだろうが、ついつい両腕も一緒になって動いてしまうのはもはやご愛敬である。

 一緒になって、翼と同じ動きで振り下ろした。

 そしてここからも、今まで通り。

 いや、今回は少し違った。

 左右の力加減が上手くいかなかったのか、翼を振り下ろした途端に私の身体は右向きに傾き、そのまま滑空するような恰好で泉の縁、小さな見物客が呑気にも大欠伸をしているその横へと突っ込んだ。

 顔から爪先まで泥だらけになりながら、さながら飛行機の胴体着陸である。

 

「んーあー、やっぱりこうなるか」

 

 青臭い草の香りに顔をしかめながら、私は空を仰ぎ見た。

 憎たらしくなる程の青空。その端っこに、丸っこい獣の耳が映り込む。

 

「本当に呑気な奴だなあ、お前は」

 

 野生動物ならばもっとこう、(せわ)しなくしていてもいいだろうに。

 いや、野生動物だからこそ、こうも自由なのかもしれない。

 

「必死に生き急ぐ奴なんて、人間様ぐらいのものか」

 

 それこそ二四時間三百六十五日、常に何かしなければと見えない何かに追い詰められ、丸一日のんびり生きられたことなど、老いさらばえた後でしかなかったか。

 いや、そんなことより目下の課題、飛行についてである。

 警戒心をどこかに置き忘れてきた狸を脇に、現状の問題について考える。

 飛び上がるまでは問題ない。

 翼で風を掴む感覚も随分と掴めてきたし、浮き上がる途中に墜落することは無くなった。

 問題は、浮き上がったあと高度を維持、安定させること。

 私の勘が悪いのか、それとも翼の扱い方が下手なのか。

 恐らくは、その両方だろう。私自身、幼少の頃より覚えが悪いだの何だのとよく父に叱られていたのをよく覚えている。

 思えばこれまで翼を腕の代わりのように扱っていたし、そのせいで変な癖でもついてしまったのかもしれない。

 どちらにせよ気長に焦らず、こつこつと慣らしていくしかないのだろう。

 

「とりあえず、水浴びが先か」

 

 今朝からずっとこの調子で練習を続けていた為、全身くまなく草まみれ泥まみれになってしまった。

 まあどうせこの後も土器作りやら建材集めやらで埃まみれ草まみれになるのだが、爪の間やら鱗の隙間やらに挟まった泥や砂利が気になって仕方がない。

 特に泥で張り付いた髪の不快感ときたら、まるで常に頭を虫が這い回っているかのような不快感である。

 そんなこんなで身に着けた防具をぱぱっと脱ぎ去って、泉へと飛び込んだ。

 いつもならもっと下流の川で身体を洗うのだが、今日は飲み水として利用する分は汲み終わっているし、あの狸が寝床を荒らさない保証もないので手近な場所で済ませることにした。

 何より雲一つない快晴の下、燦燦と降り注ぐ日の光を浴びながらの水浴びはえもいわれぬ心地よさがあり、ある意味でこの島唯一の娯楽とも言えるのだ。これを逃す手はなかった。

 

「あー、生き返るなあ」

 

 泉の縁に腰掛け、しゅろ製のたわしで足の鱗を磨き上げながら熱い息が漏れた。

 何やらこう、歯に挟まった食べかすが綺麗に取れたような気持ちよさがある。

 鱗の汚れをあらかた落としたら、次は髪を水に浸し、優しく揉みながらこびりついた泥を落としていく。

 角の部分は何度も水をかけながら、表面の溝に汚れが溜まらないよう丁寧に。

 付け根は指の腹で揉みながら、上から下へ。髪全体を洗い終えたら軽く絞って一纏めにし、角を留め金代わりにくるりと巻いて頭の上へ。

 誰かが見ればものぐさだと口を尖らせるかもしれないが、生憎ここには私一人。雑な仕事を咎める者がいないなら、私の好きなようにやらせてもらうまで。

 うなじを洗い、肩から腕へ。凹凸の少ない胸元を下って、もうすっかり傷跡もなくなった細い腰を撫でる。

 引き締まった腿を揉み解して、先ほどしっかりと磨いた膝から先はさっと流す程度に。

 この身体になってかれこれ三週間余り。何だかんだですっかり馴染んだものだと我ながら感心するばかりだ。

 

「はじめは線の細さに心配したものだったが、成るように成るもんだ」

 

 最後はお楽しみ、尻尾の磨き上げだ。

 私の腰ほどは太い立派な尻尾だけに、洗い甲斐があるというもの。

 ここも脚と同じく、たわしで洗う。

 上から下に。鱗の流れに逆らわず、撫でるように磨いていく。

 ふと、こちらをじっと見つめる視線に気が付いた。

 

「なんだ、助平狸め。お前さんも洗ってやろうか?」

 

 可愛らしく小首を傾げる狸に歩み寄り、ひょいと持ち上げてみる。

 うん、夏毛で短いとはいえやはり野生動物。泥と獣臭さが入り混じり、すさまじい匂いがする。

 ありていに言えば、臭い。

 丸っとした黒い瞳と見つめあうこと、数秒。

 追加の仕事は、狸の丸洗いと相成った。

 

「なんだ、本当に呑気だなお前さんは」

 

 もっと暴れまわるかと思ったが、私に洗われている間、狸は実に大人しいものだった。

 これならばまだ、娘や孫を初めて風呂に入れた時のほうが手を焼いたぐらいである。

 そして丸洗いされてさっぱりした本人はというと、泉の傍、一番日当たりのいい場所を陣取ってごろごろと横になり、地面に体を擦り付けていた。

 

「はは、あの分じゃあ、明後日には元通りだな」

 

 まあ、獣は獣で色々とあるのだろう。

 こちらはこちらで、髪が乾くまで一休みさせてもらうとしよう。

 ああ、今のうちに防具の方も洗っておくか。元が鱗で小さい為そう時間がかかるものでもないが、自分の肌と直接触れ合うものであるので、こちらもなるべく丁寧に磨いておく。

「シ、シ、ド、レ、レ、ド、シ、ラ……」

 

 綺麗さっぱりして、陽気な空模様の下でのんびりと手を動かしていたからだろう。気が付けば、私の口先は生前良く聞いた、馴染み深いメロディを奏でていた。

 翼を揺らし、尻尾を指揮者の指先のように振りながら、心に鳴り響くは整然と並びたった交響楽団が奏でる美しい旋律。

 もう耳にすることはないだろう思い出に心和ませながらそうしていると、ふと私の肩先に止まるものがあった。

 狸ではない。

 それは美しい緑の羽をもった小鳥であった。

 こちらをまるで警戒せず、小さな嘴で上機嫌に囀るその姿に、私は目を丸くする。

 ありえない、とはもはや思うまい。

 野生の狸があれほど人に懐き、あまつさえ大人しく水浴びまでさせるのだから、小鳥が一羽二羽肩に停まったところで、腰を抜かすほどではない。

 だがこちらが驚いて鼻歌を止めると、その小鳥はまるで続きを促すように、その嘴でこちらの肩を叩いてくるではないか。

 まさか鳥に歌を催促されるとは思ってもいなかったので、これには流石に腰を抜かすかと思ったが、可愛らしいお客のリクエストを無碍にするわけにもいかず、少し気恥ずかしくなりながらも私は鼻歌を続けた。

 そして、そんなことをしながら少しばかり時は流れ。

 

「随分と大所帯になったもんだなあ」

                 

 ようやく髪が乾ききった頃、私の身体には十羽近い小鳥たちが集まっていた。

 肩やら、翼やら、角やら。

 身体のあちらこちらを止まり木代わりにして、中には体を丸くして熟睡するものまでいた。

 

「こらこらお前さんたち、そろそろ飯の時間だからちょいと退いてくれ。じゃないと焼き鳥にしちまうぞ」

 

 私がそう言って立ち上がると、小鳥たちはいっせいに羽を広げ、空高く飛び去って行った。

 やれやれ、どうせなら翼の扱い方でも教えてくれれば良いものを。

                            

「ま、鳥に言っても仕方ないか」

 

 よっこらせっと、少しばかり軽くなった身体を持ち上げ、泉から足を抜く。

 お日様のおかげで芯まで冷えることはなかったが、今回は少し水に浸かりすぎた。

 腹ごなしは、焚火で身体を温めてからにしよう。

 ぶるりと震える肩を抱き、そんなことを考えながら焚火へと向かおうとしたその矢先。

 先ほどの小鳥たちの置き土産であろう、頭のてっぺんに残されていた小さな羽毛が、ひらりと鼻先に舞い落ちてきた。

 むずむずと、堪えようのない衝動が鼻の奥からせり上がってくる。

 そう、どうしようもない生理現象だった。

 

「は、はっ、っくしゅ!」

 

 爆発音。

 あえて言うが、くしゃみの音ではない。いや、そう表現すると語弊があるし、たしかにくしゃみではあるのだが、くしゃみではない。

 それ自体は、我ながら情けない、しかし身体の年頃を考えれば可愛らしいくしゃみ。

 だがその途端、私の口から噴き出したのは、可愛らしいとは到底思えない、物騒極まるものであった。

 端的に言えば、火を噴いた。

 まるでガスに炎が引火したように、巨大な炎が吹き上がったのだ。

 それは先ほどまでの和やかな雰囲気を文字通り吹き飛ばす、私の理解力を遥かに超える出来事であった。

 あー、うー、と唸り、一言だけ零れ出る。

 

「火おこしが、楽になるなあ」

 

 どうやら私の頭は、あの狸並みにのんびりしているようだった。

 

 




はくしょん大爆発(ドラゴンブレス)


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力の一端

現時点での無人島の地図を作ってみました。

【挿絵表示】


今後、定期的にこちらも更新していきます。


「は、は、はっくち!」

 

 ぼふん。

 我ながら気の抜けるようなくしゃみと共に小規模な、ガス爆発にも似た炎が弾ける。

 場所は海岸。余計なものに燃え移らないよう、髪は束ねて頭の上に、腰みのも今日は外して拠点に置いてきたので、身に着けるのは鱗の防具のみである。

 

「ううん、いまいちよくわからんなあ」

 

 手にしたこより(・・・)を眺めつつ、私は首をひねる。

 ちなみにこのこよりはシュロの縄を解いて作ったもので、何度もくしゃみをすればこの火炎を吐き出す現象について少しは何か掴めるかと思ったのだが、これがどうにも上手くいかない。

 どうやら喉の絞り方や息の量によって火炎の規模も変化するようなのだが、おかしなことにくしゃみ以外であの火炎を吐くことができないのだ。

 

「びゃっくしょい!」

 

 どかん、と先程の数倍はあろう火炎が飛び出し、海面を焼く。

 不思議なことに、これだけの火炎を吐いても喉は焼けず、口の中に火傷を負うことはない。

 よほど頑丈に出来ているのか、あるいは超常の力が働いているのか。

 まあ、己の吐き出した炎で喉が焼き付いて窒息死、などという頓馬を晒すことはなさそうで一安心なのだが、森の中でついうっかりくしゃみをして森が焼けてしまいました、なんてことになってしまえば同じことだ。

 云わばいつ爆発するともしれない危険物のようなものだが、使いこなすことができればこれほど心強いものもない。

 基本的に火を嫌う野生動物に対しては非常に効果的な武器になるし、自由に火が起こせるようになれば夜通し火種の面倒を見なくても済む。

 非常に体力と時間を使う火おこしを避ける為とはいえ、これまでは夜明けまでに何度も寝床を抜け出して薪をくべていたので、朝まで熟睡できた試しがなかったのだ。

 だがそれも、自由自在に炎を吐けるようになれば解決できる。夜に火種が消えることを気にすることなく、ぐっすりと熟睡できるようになるのだ。

 ああ、なんと素晴らしい。 

 何としてでも、それこそ拠点作りを後回しにしてでも、この火炎を操る術は身に付けなければ。

 

「とは言ったものの、原理がさっぱりわからんのだよなあ」

 

 遥か彼方の水平線を見やりながら、うなじを揉む。

 そもそも物理現象なのか、それとも超常的な、いわゆる魔法のような力なのか、それすらも曖昧だ。

 どちらかといえばその根っこは物理現象に近いものではないか、というのが私の所感ではあるのだが、だとすると気管や口内がその影響を受けていないのがどうにも引っかかる。

 もしかすると案外、物理と魔法を掛け合わせたような、そんなとんでもない現象なのかもしれない。

 しかしまあ、まさか生前に火を吐いた経験などあろうはずもなく、毒を吐く生き物はいても火を吐くものなど見たことも聞いたこともないわけで。

 

「いっそぎゃーてぎゃーてーと呪文でも唱えていた方が、わかりやすいのだがなあ」

 

 くしゃみで飛び出すぐらいだからなあ、と私はまた首をひねる。

 

「とりあえずは、飯にするかあ」

 

 見れば、お天道様がもう空の天辺まで昇っている。

 程よく腹も減ってきたし、満腹になれば沸いてくる考えもあるだろうと、私はさっそく薪を拾い集め、砂浜に簡易的な焚火を作った。

 本来であればここから気が重くなるほどの重労働、火起こしが待っているのだが、今回はその心配をする必要はない。

 先ほどのこよりで鼻先をこちょこちょっとすれば――

 

「っくち!」

 

 ぼふん、と口から飛び出した火炎が火口(ほくち)を焼く。

 今日の昼餉(ひるげ)は今朝がた海岸で獲れた新鮮な小魚と貝の串焼き。

 ハゼによく似た小魚とカサゴはさっとぬめり、鱗を取り除いて枝を打ち、遠火でじっくりと。同じく枝に刺した貝は直火で炙って頂く。

 じわりと表面に脂が浮かび、香ばしい磯の匂いが立ち昇ってきたところで一口。

 うん、美味い。

 噛み締める度に口の中に旨味が広がり、僅かに効いた塩味がこれまた食欲をそそる。

 

「あー、こりゃあ酒が飲みたくなるなあ」

 

 どうせなら、空から酒樽でも落ちてこないだろうか。

 空を見上げ、白雲のその向こうへ視線を投げる。

 あれから散々探してみたのだが、残念ながらあの林檎が入っていた木箱以外、それらしい漂流物は見つからなかった。

 そも、他の島からの落し物を期待しようにも、この島の上空を通り過ぎなければどうしようもない。

「早いとこ飛び方も覚えないとまずいからなあ。ああ忙しい忙しい」

 

 そう独り言ちながら、カサゴの串焼きにかぶりつく。

 いい加減、物理的な考え方は捨てた方がいいのだろうか。

 その方面からの検証は散々無駄な結果に終わったし、大前提としてこの身は地球には存在しなかった生き物なのだから、鳥や蝙蝠のように空気力学やら何やら、小難しいことに拘るべきではないのかもしれない。

 だがそうなると、やはり火炎を吐く仕組みについても違う角度から検証してみるべきか。

 ぱっと思いつくところとしてはやはり魔法、魔力と呼ばれる、おとぎ話や小説ではお馴染みの超常の力。

 炎や雷を操り、空を飛び、時に人を惑わす力。

 大事なのは、それを成す為の、自分ならそれが成せるというイメージ。

 実際にそこにあるかどうかは、重要ではない。

 イメージする。

 胸の奥底から、燃え滾る炎が渦を巻いて噴きあがってくる様を思い描く。

 息を吸う。

 吸う。

 吸う。

 目いっぱいまで。

 胸が張り裂けんばかりに吸い込んだそれを、吐き出す。

 吐き、出す。

 吐き――

 

「げふっ」

 

 ぼふん、と口から黒煙が上がった。

 

「う、げえ、ちょっと飲んだ……」

 

 口が臭い。

 いや、そう言うととんでもない誤解を受けそうだが、口の中にガソリンのような臭いが充満して、口を閉じているだけで先程食べたばかりの貝やら魚やらが飛び出しそうになる。

 何が悪かったのだろうか。

 途中までは上手くいっていたような気がするのだが、炎の素になる何かを溜め込みすぎたのか、あるいは吐き出すのが下手だったのか。

 口を開け、まるで煙突のように煙を吐き出しながら考える。

 失敗はしたが自分の身体に何か、特別なものが循環している。それは理解した。

 四肢に、胸に、腹に巡り巡っているこれを、血液ではない、細胞に満ちるこれを利用する。

 その感覚を、応用する。

 吸い込む。

 呼吸ではない。

 酸素を取り込むのではなく、大気中に満ちる何か、これを抽出して体内に巡らせる。

 腹が熱い。

 身体中を、熱い何かが走っている感覚。

 巡らせ、巡らせ、抽出し、濃縮したそれを、吐き出す。

 肺からではなく、身体中から集めたその何かを、口から噴き出すイメージ。

 発火。

 轟、と目の前が真っ白に染まった。

 爆発、ではない。

 まるで引き絞ったホースの先端から水が噴き出すように、明らかな指向性を持った火炎が、海面に直撃した。

 

「どわっと、何だあ!」

 

 慌てて口を閉じる。

 閉じた牙の間から、燻るように黒い煙が漏れる。

 直後、耳をつんざく爆発音と共に巨大な水柱が立ち昇った。

 水蒸気爆発だ。

 ぞっと、私は背筋に氷でも突っ込まれたような寒気を感じた。

 やりすぎた。それは、そう。

 だが私は、水蒸気爆発を起こすほどの火炎を吐き出した、吐き出すことができるこの身体を、初めて恐ろしいと思った。

 呼吸を落ち着ける。

 パニックを起こしかけた思考を、ゆっくりと元の位置に戻してくる。

 軽く、今度は蠟燭を消すように細く、息を吐き出した。

 ぼん、と軽い爆発音の後、口先に拳大の炎があがる。

 なるほど、なるほど。

 この感覚には慣れなければならないが、どうやら火力の調整はそう難しくはないらしい。

 しかし先程の火炎は、まさしく小説や映画に登場する竜そのものであった。

 今回は海面に向かって吐き出したのでこの程度で済んだが、森の中でこの力を振るえば大惨事は免れないだろう。

 

「何やら、とんでもないことになってきたなあ」

 

 まるで怪獣映画。

 東京の街を焼いて回った、あの怪獣のようである。

 ビルを踏み倒さないだけマシなのだろうがともかく、大出力の利用はよほどのことがないかぎり封印するべきだろう。

 しかしまあ、あれだけの火炎を吐き出したというのに、この身体は未だ火傷もせずぴんぴんとしている。

 せいぜいが、火炎を吐いた影響で身体が火照っているぐらいのものだ。

 もっとも、それほどの頑強さがなければ、あれほどの力を扱い、御しきれないということなのかもしれないが。

 だが、この経験は私にとって非常に有意義なものであることは間違いなかった。

 何せこの世界に魔力というか、魔法の素というか、そういったこちらの常識の埒外にある物質が存在するということが知覚できたのだから。

 恐らくは、この翼を扱いきる為のヒントもそこにあるのだろう。

 

「こりゃあますます忙しくなるぞ……っと、何だ?」

 

 火照った身体に翼で風を送り、額に浮かんだ汗を拭うと、自身の二の腕に見たことのないものが浮かんでいることに気が付いた。

 赤い。

 火傷かと思ったが、どうやら腫れている訳でもなさそうだ。

 何やら、呪術的な紋様のようにも見える。

 二の腕、胸、腹から下腹部へと伸び、太腿にも数か所。

 鱗に覆われた部分には現れていないが、以前まではこんなもの浮かんでいなかったはずだ。

 炎を吐いた影響か。

 いや、先程目に見えない何かを大量に吸い込んだし、恐らくはその影響である可能性が高い。

 しばらく眺めていると、紋様はやがて黒く変色し、それに伴って身体の火照りもしだいに収まっていった。

 ううん、問題を一つ解決したと思ったら、また次の問題が出てくる。

 持ち主を飽きさせない、何とも困った身体である。

 

「ともかく、次は飛ぶ練習だな!」

 

 燻る焚火を踏み消すと、私は鼻息荒く帰路に着くのだった。

 




TS
褐色
ロリジジイ
モン娘
淫紋 New!


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Bamboo dragonfly

 

 次の日の朝。

 私の眼下には青く美しい湖と、力強く生い茂る森林が広がっていた。

 翼をはためかせる。

 風ではなく、風だけではなく、大気中にある何かを掴む。

 目には見えないが、そこに確かにあるもの。

 私はそれを仮に魔力、と呼ぶことにした。

 恐らくは、私が火炎を吐き出す際に用いるエネルギーと同質のもの。

 それはどうやら私の意志を反映、いや、影響を受けてその性質を自由自在に変えることができるようだった。

 詳しくはわからないが、まあ、手軽に利用できる便利なエネルギー。今はそんな程度に捉えている。

 ともあれ、この世に私が知りえない物質が存在すると、昨日の一件で理解してからはとんとん拍子で、それこそ今までの苦労は何だったのかと思うほど順調にことは進んだ。

 初めはふらふらと頼りない空の旅であったが、今ではこうして、景色を楽しめるぐらいの余裕がある。

 

「はは、これは良い。素晴らしい!」

 

 空を自由に駆け回る。

 誰もが夢に見た体験に、私の心は年甲斐もなく浮かれていた。

 翼を打つ。

 頬を撫でる風の感触、風に乗る感覚に酔いしれる。

 足に何も触れない。

 重力から解き放たれたような、途方もない解放感。

 翼を広げ、滑空する。

 風に身を任せ、空を飛ぶ小鳥たちとじゃれるように舞い上がる。

 我ながら、恥ずかしくなるぐらいはしゃいでいた。

 止めておけばいいものの、すっかり気が大きくなってしまった私はとうとう曲技飛行じみた真似まで始める始末であった。

 高度を上げ、宙返りをしてみたり。

 逆に翼を畳み、高高度から自由落下してみたり。

 まるでスリルに酔う子どもじみた、幼稚な遊び。

 それが堪らなく、生きる為に気を張り続けていた私の心に麻薬めいた快感を齎していた。

 勿論、伸びに伸びた鼻っ面を圧し折られる機会はすぐにやってきた。

 調子に乗って高高度まで飛び上がっていった矢先、ある高度にまで至った途端にまるで翼の制御が利かなくなったのである。

 表すなら、まるで突然梯子を外されたような、そんな感覚。

 いくら翼を振っても何も掴まない。まるで抵抗がないのである。

 今まで翼の内に溜まっていた何か、魔力が霧散したような手ごたえの無さ。

 

「う、おおお!」

 

 落ちる。

 落ちた。真っ逆さまに。

 翼を広げ、必死に羽ばたくがまるで浮力が得られない。

 速度が落ちない。

 頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 先程まではしゃぎ回って緩み切った頭を引き締め直すには、その時間はあまりにも短かった。

 そして、あれよあれよと言っている間にも、地面はどんどん近くなっていく。

 墜落する直前、何とか地面に腹を向け、翼で風を受けることに成功した。

 ぐん、と上に引っ張られる感覚の直後、私は鬱蒼と茂る木々の中に突っ込んだ。

 折れた枝が肌を裂く。

 衝撃。

 運が良いのか悪いのか、私は泉や固い岩の上ではなく、柔らかい土の上に墜落したようだった。

 直前の減速と木の枝でかなり勢いを殺せはしたが、その威力はかつてあの大猪に食らった体当たりに匹敵するものだった。

 僅かに陥没した地面が、その威力が如何ほどであったかを雄弁に語っている。

 だが打ち所が良かったか、あるいは大猪との一戦の後さらに頑丈になった身体のおかげか、私は大きな怪我も負わず、せいぜいが数か所の打撲と切り傷だけで事なきを得ていた。

 しかしなんの抵抗もできず墜落するという臨死体験を得たお陰で、先程までの浮かれた気持ちはすっかり冷え切り、今はただただ、呆然と上空を見つめるのみであった。

 

「し、死ぬかと思った」

 

 何なら少し漏らした。

 何が、とは言わんが。

 それから少し調査を進めてみたところ、どうも大気中に漂うこの魔力は島を中心に濃度が薄くなっているらしく、東西南北、上にも下にも、ある程度まで離れると途端に制御が難しくなることがわかった。

 恐らくは今の私の技術では、この島から離れての飛行はあまり現実的ではないだろう。

 しかし勿論、それを加味しても空を自由に飛べるようになった恩恵は大きい。

 高度は限られているものの島を移動する分には困らないし、制御できるぎりぎりの高度からは島全体を見渡すことができるのだから、探索も捗って仕方がない。

 だがその反面、この島だけが今の私の全てなのだと考えると、どうしようもなく胸を締め付けられる思いである。

 感傷的になって良いことなど何一つないのだが、死ぬ間際まで身内に囲まれて逝ったじじいからすれば、どうしようもなく寂しくなってしまう時もあったりするのだ。

 だが、まあ、生き残る為には切り替えも大事である。

 翼をひと打ちし、慣れ親しんだ泉を離れ山の方へ。

 もう随分昔のようにも感じるが、私がこの島で目覚め、真っ先に登ったあの山である。

 あの頃は正しく驚天動地というか、どこか死の間際に見る夢のような心地であったので周辺の確認などまるで出来ていなかったのだが、かれこれ二十日以上この島で過ごし、馴染んできた今ならはっきりと、見逃すことなく調べることができるだろう。

 そうして山の麓へ向かっている途中、私は思いがけない珍客に頭を悩ませる羽目になった。

 鮮やかな青い羽と橙の胸をした、森の中でも何度か目にした小鳥たちである。

 

「おい、こらお前たち、私はお前たちの仲間じゃあないぞ」

 

 囀りながら飛び回る小鳥たちを手で払いのけるも、まるで効果はない。

 それどころか遊んでもらっていると勘違いしたのか、余計に纏わりついてくる始末であった。

 あの狸もそうだが、もう少し外敵に対しての警戒心を持った方がいいのではないだろうか。

 いやまあ、干し肉を始め食料の備蓄もまだまだあるし、寄ってきた小鳥を獲って食うほど腹も減っていないので事実無害ではあるのだが。

 

「ああこらこら、翼に近づくな、巻き込まれても知らんぞ。おい、頭に乗るのはやめろっ。いい加減にしないと焼いて食っちまうぞお前ら」

 

 そんなに空を飛ぶ人間が珍しいか。

 いや、珍しいな。

 私が鳥でも、野次馬根性丸だしで首を突っ込むだろう。

 それがいかにも噛みついてきそうな強面(こわもて)ならともかく、今の私のような、いかにもひ弱そうな少女ならなおさら。

 結局私は目当ての山の麓に到着するまでの間、この悪戯小僧どもの相手をする羽目になった。

 

「ほらほら、もう構ってやる暇もなくなったからな、邪魔にならないようにあっち行ってな」

 

 意外なことに、私がそう言うと小鳥たちはまるでこちらの言葉を理解しているかのように、あっさりと山の向こうへ飛び去って行った。

 そう言えば先程、翼に巻き込まれないように言った時も素直にこちらの言うとおりにして、それ以降は翼の周囲には寄り付かなかった。それ以上に、腕や頭やらに集られたが。

 もしかすればこの世界の生き物は、私が思っているよりもずっと賢いのかもしれない。

 そう思うと、少しばかりやり辛い。

 この島で生き残っていく以上は遅かれ早かれ、鳥も狸も食らう時がきっと来るだろう。

 もしその時が来たら、私が仕掛けた罠に彼らが命を奪われた時、私は今までのように喜ぶことができるだろうか。

 やはり、余裕もない私のような人間が迂闊に、まるで愛玩動物に接するように気安く触れ合うべきではなかったのかもしれない。

 

「狸はないかもしれんが、鳥はなあ、食いたいしなあ」

 

 ある意味、生前では悩みもしなかった内容ではある。

 いや、きっと私が見ようとしなかっただけで、生前も私の見知らぬどこかの誰かが代わりにこの葛藤に頭悩ませ、しかしそれでも生活の為、あるいは見知らぬ誰かに美味い肉を届ける為に日々努めていたのだろう。

 ありがたいことだ。できることなら今すぐにでも拝みに参りたいが、新たな身体に宿ってしまった今となっては化けて出ることすら叶わぬ。

 ひとまずは、ただただ手を合わせるのみである。

 

「さて、しんみりしたところで本題だ。何か使えそうなものでもあればいいが」

 

 (かぶり)を振り、手で(ひさし)を作って眼下に目を凝らす。

 目当てとしてはやはり果実だろうか。次点で朽木(きゅうぼく)、いわゆる倒木やら腐って死んでしまった木であるが、そういった物には丸々と肥えた幼虫が潜んでいたりするので、それが狙いである。

 新しい家を建てる為の建材も欲しいところではあるが、まあそう都合よく見つかったりはしないだろう。

 そう思っていた矢先、私の目に信じられないものが映った。

 

「まさか、そんな馬鹿な」

 

 それを目にした途端、私は力いっぱい翼を動かし、一本の矢のようになってその場所まで急降下した。

 そうして森の梢にぶつかる寸前で翼を広げて急制動をかけ、枝を折らないよう注意しながら着陸する。

 そこに広がっていたのは、これまでの暮らしを振り返ってなお、我が目を疑いたくなるような光景であった。

 節のある青々とした茎に、細長い葉。

 風が吹く度に葉の揺れる涼しげな音を奏でながら、そこはまるで周囲から隔離されたような、異色ともいえる雰囲気に包まれていた。

 竹だ。

 竹林である。

 まさかまさか、今生で再びお目にかかれる日が来ようとは、露ほども思っていなかった。

 そっと、その美しい体に触れる。

 しっとりと冷たく、しかし確かに生きている鼓動を感じた。

 間違いない。見間違うことなどあろう筈もなく、私の知る竹そのものであった。

 それが、見渡す限り一面に広がっている。

 ぐい、と己の頬を抓ってみた。

 痛い。

 

「夢では、なさそうだなあ」

 

 呆けたようにそう言って、私はその場にへたり込むのだった。

 



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夢のマイホーム

 

 青々とした竹が立ち並ぶ林の中に、竹を打つ音が響く。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 己の鱗で作った手製の斧を、私の腕ほどはある立派な竹へと振り下ろす。

 切り込みを入れた反対側から蹴倒してやれば、竹は大きな音を立てながら反対側へと倒れ始めた。

 

「たーおれーるぞおーっと」

 

 誰に言うでもなく、口元に手を添えそう叫んでみる。

大きく軋ませながら倒れる竹を眺めつつ、額に浮かんだ汗を拭った。

 これでようやく五本目。

 切り倒した後は枝を打ち、均等な長さに切り分けて、縄で縛って纏めておく。

 長いものから短いものまで、全て含めるとその数は五十本以上。

 見た目ほど重くないのが竹の良い所ではあるが、それでも長いものは私の背丈の倍以上はある。

 これを抱えて拠点まで飛んで帰ることができるかといえば、正直なところ不安ではあった。

 

「まあ、とりあえずやってみるか」

 

 縄、は持ち合わせでは長さが足りなかったので、その辺りの木に巻き付いていた蔓を拝借して竹の山に巻き付け、持ち上げてみる。

 持ち前の馬鹿力のおかげで担ぐ分には問題ないが、いけるだろうか。

 翼を広げ、二、三度羽ばたいてみる。

 ううん。

 うん。

 なんとなくだが、いけそうである。

 思い切り翼を広げ、空気中の何か、魔力を掻き集めるように力いっぱい打ち付ける。

 巻き起こる突風に土埃が舞い上がり、周囲の竹が大きくその身をしならせた。

 ぐん、と空高くから見えない糸に引き上げられるように、翼のひと打ちで私の身は高い竹の頭を超え、島が一望できる高さにまで飛び上がる。

 うむ、相も変わらず良い天気だ。

 

「さて、それじゃあ帰るか」

 

 森の中に一か所だけある、ぽっかりと口を開けた泉の場所を確認して尻尾をひと振り、舵を切る。

 ある程度高さを稼いでしまえば、後はもう翼を使う必要はない。

 翼はただ風を受けるだけに使い、尻尾や頭、姿勢など、身体の重心を操って流れる向きだけ決めてやればいい。

 空を飛ぶのもこれで三度目。一度は調子に乗って酷い目にあったが、三度目ともなればもう随分と身体の動かし方にも慣れてくる。

 ゆっくり、のんびりと。

 気分はまるで、風に乗って舞う綿毛のようで。

 足元に気を付けながら進む陸路とは打って変わり、空の旅のなんと気楽なことか。

 そうして拠点と竹林とを行き来すること数回。日が傾き始める頃になると、拠点には大小様々な青竹が横たわっていた。

 ひとまずは、これだけ。

 家をひとつ建てるにはまだまだ足りないだろうが、最低限の部分ぐらいはこれで十分だ。

 それでは、日が落ちて辺りが真っ暗になるまでに、出来る限り作業を進めるとしよう。

 まずは基礎、骨組みとなる部分を組んでいく。

 吊り上げたりだとか、引き上げたりだとか、縄梯子(なわばしご)の先まで建材を持っていくのは本来かなり手間がかかるのだが、そこはそれ、空を飛べるようになった私にはさほど関係のない話で、四本を一束に纏めたものを抱えて枝の上までひとっ飛びすればあっと言う間であった。

 この分だと、縄梯子を外す日もそう遠くはないかもしれない。

 ともかく、まずは長めに切り取った青竹を大樹の幹にあてがうように縄で固定し、大きな四角形、土台となる部分を組み上げていく。

 次に同じ長さのものを等間隔で並べ、こちらも縄で土台に固定する。

 これが床材を支える部分、根太と呼ばれる部材になる。

 しっかりと固定したら、次は四隅に柱を立てていく。

 突き立てる地面が無いので初めはかなり不安定だったが、天井になる高さに(はり)を通したあとは驚くほどしっかりと固定することができた。

 あとは四隅の柱の中間に他の柱より少し長いものを固定し、頂点に棟木となる竹を渡す。

 今回はさほど大きな建物にはならないので、母屋は無しで垂木を固定していく。

 側面が凹型になるように加工した竹を二本嵌め合わせ、縄で縛ったものを計二か所、それぞれ棟木の端に取り付ける。

 これであとは屋根を張っていくだけだが、その前に床の仕上げだ。

 まずはぐるりと、竹の表面に切り込みを入れていく。

 七夕に子どもが作る編み飾りのように、なるべく互い違いになるように切り込みを入れたあと、片側から竹を割って左右に開く。

 これを上から思い切り潰すと、一本の平たい短冊が出来上がる。

 あとは同じものをいくつか拵えて、先程の根太に並べていくだけだ。

 ただこのままでは押さえている手を離すとまた元の筒状に戻ろうとするので、張り終わった後に上から長細い短冊状に切った竹で押さえつけ、縄で固定しておく。

 これで床は完成。

 ここまでくれば、見てくれも随分と家らしくなってきた。

 見栄えの良くなった新居を見れば気分も乗り、作業も捗るというもの。

 地上からまた新しい竹をいくつか持ってくると、いよいよ屋根の仕上げに取り掛かる。

 まずは竹を半分に割り、中を区切っている節を丁寧に取り除く。

 それを垂木の長さに合わせて切り分け、表と裏が互い違いになるように垂木の間に並べていく。

 こうすることで屋根材の間から雨水が漏れることなく、スムーズに外へと流れてくれるようになる。

 並べ終えたら細い竹を二本使って上下から挟み込み、縄で縛って完成である。

 壁を張っていないのでまだ吹きっ曝しには違いないが、いやはや、思ったよりも立派な物が出来上がって我ながら感心してしまった。

 出来立ての床へ手足を投げ出して寝ころべば、作りの粗さからかちくりと肌を刺すような感覚があったが、(おおむ)ね満足のいく出来であった。

 

「藺草の香りが懐かしいが、流石に畳は無理だなあ」

 

 やはり日本人としては畳の上に寝転んでみたいものだが、流石にそれは欲が深すぎるか。

 そもそもこうした簡易的な家であれば私でもどうにかなるが、職人が手掛けるような畳ともなるともう素人がどうこうできる範疇ではない。

 月明かりに照らされながら、私は静かに息を吐いた。

 

「さてそれじゃあ、残ったところをやっちまうか」

 

 とはいえ辺りはすっかり暗くなってしまったし、やれることは限られるか。

 私はふわりと飛び上がって地上まで降りると、炎の吐息で火を起こし、残った竹を使って道具の作成を始めた。

 まずは竹を真ん中から割った後、さらにそれを四分割ほどにしていくつもの短冊を作っていく。

 あとはそれを一つずつ、シュロ製の紐で繋いでいけば、(すだれ)の完成である。

 本来ならばもっと丁寧に、短冊も細くして作ったほうがいいのだが、それはまたおいおい、時間に余裕ができた時にでも手を付けるとしよう。

 できた簾はくるりと丸めて大樹の洞の中へ。明日はこれを新居の出入り口に取り付けて、扉代わりにでもしてみよう。

 さてさて、やれることをすべてやったら、お楽しみの時間である。

 あらかじめ作っておいた小さな竹筒を覗きこめば、そこには小さくうねるミルク色の生き物が十数匹。

 竹虫、あるいはバンブーワーム、タイなどでは急行列車(ロット・ドゥアン)などと呼ばれる、まあ、蛾の幼虫である。

 一列に連なって動く姿を列車に例えたらしいが、見た目は先日食べたココナッツワームを細長くしたような感じで、なんとこちらは竹の香りがするらしい。

 では早速と、熱した石の上に干し肉、干し貝とともに竹虫を投入。

 ぱちぱちと油の弾ける音とともに、やがて程よい飴色になったところで、ぱくりと一口頂く。

 もはや嫌悪感などはなく、私にはこの焼かれて飴色になった竹虫が美味しそうなつまみにしか見えなくなっていた。

 カリッとした鳥皮に近い食感とともに、ほんの少し香る程度に、竹の爽やかな風味が鼻先に抜けていく。

 味はクリーミーで、ココナッツワームよりも濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。

 塩をまぶして食えば、ビールに良く合いそうだ。

 あるいは塩味の効いたクラッカーなどと合わせるか、煮物なんかにも良さそうなので、次は果肉やら野草とともに煮込んでみようか。

 そうしてまた竹虫をかじり、干し肉を頬張る。

 ああ、つまみになるものばかりを食っているせいで、無性に酒が飲みたくなってきた。

 そういえば晩年より、身体に良くないからと酒を断ってもう十年以上は経つ。

 久しぶりに、喉が焼けるような熱い酒を飲んでみたいものだ。

 まあ、この島で酒など天からのお恵み(落とし物)を願うか、時間はかかるが果実などから作るしかない。

 落し物はそう期待できないだろうから実際は後者一択になるわけだが、酒、酒かあ。

 作るとすればやはりぶどうだろうか。

 たしかワインはぶどうを潰して容器に入れておくだけで出来るだとか、そんなことを聞いたことがある。

 一番手軽に試せるのは、恐らくこれだろう。

 ビール、日本酒は無理だ。麦芽だの麹菌だの、こんなジャングルの真っ只中でそんな繊細な作業ができるとは思えない。

 

「しかしぶどう、ぶどうなあ」

 

 竹虫を頬張りつつ、ぼんやりと月を眺める。

 この島に来てから、果実というのはココナッツとグアバの実だけしか見たことがない。

 いや、竹もあったのだからぶどうが自生していても不思議ではないのだが、これはまた、探索する目的が一つ増えてしまった。

 そこでふと、思う。

 この身体は明らかに未成年。そんな身体で酒を飲んでも、果たして大丈夫なのだろうか。

 うーん、と唸ること三度。

 

「ま、大丈夫だろう」

 

 そういうことになった。

 



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ドッグ・ファイター

人により、GW最終日とのことで出来立てを投稿します。
またお仕事が始まりますね(ニチャァ


 

「出来たあっ!」

 

 空は薄っすら曇り空。しかし心中は雲一つない晴れやかさで、私は万歳三唱せんばかりの勢いで両拳を天高く突き上げ、呵々大笑してみせた。

 我ながら小僧のような浮かれぶりだが、これが喜ばずにいられるだろうか。

 念願の小屋が、新たな住処が完成したのである。

 青竹の三角屋根に、潰した竹を張り付けた壁。出入口と窓には(すだれ)がかかり、大きさとしては三畳半あるかないかのこぢんまりとした、まさしく掘っ立て小屋といった風体のものではあるが、それはまぎれもなく家であった。

 雨風を凌ぎ、外敵に襲われる心配をすることなく眠ることができる我が家。

 そう我が家、我が家なのだ。

 もう地面に藁を敷き、物音に怯え夜中に目を覚ますようなこともない。

 それだけではない。余った青竹でちょいと拵えた寝台(ベッド)にはあの大猪の毛皮を重ねており、肌触りは固いが夜中も身体を温めながら眠ることができる。

 しかし流石は大猪というべきか、毛布替わりにかなりの量を使ったのにまだまだ尽きる様子がない。この分なら上着を一、二着ほどは仕立てられそうだ。

 さらにさらに、今回作ったのはこれだけではない。

 竹を加工し、水筒と食器、さらには箸まで拵えた。

 湯を沸かしたり、食料を保存するのはまだまだ土器の役目ではあるが、これで少しは我が食卓も華やかになるだろう。

 食料の備蓄もある。水の心配も、火を起こす手間もかからない。

 今日を生き残る為に走り回る必要のない生活。

 文明人への第一歩を、今まさに踏み出したのだ。

 ともあれ、余裕が出来たとはいえ、未だ細い糸の上を渡っている状況なのは変わらない。

 備蓄は備蓄。生きていればいつかは尽きる時がくる。

 それまでに、安定した食料源を手に入れる必要がある。

 構想は、ある。

 だが未だ、その手掛かりになるものがない。

 それを得る為にはこの島をくまなく調べ回り、新たな資源を見つけるしか方法はない。

 場合によっては、何日か日を跨ぐような遠征を行うことも覚悟しなければならないだろう。

 あとは、先日見つけたあのりんご。

 腐るのを恐れて三つともさっさと食べてしまったのだが、実はその種を泉の丘の上、この辺りでは一番日当たりの良いあの場所に植えてみたのだ。

 芽吹くか腐るかは運しだいだが、もし元気に芽を出したのならば、しばらく面倒を見てみるのも面白かろうと、そう思っている。

 もっとも、りんごの木は実が生るまで五年はかかるという。五年、さすがにそれまでにはこの島を脱出しておきたいものだ。

 そんなことを考えていると、何やら足元が騒がしくなってきた。

 猫とも犬ともとれぬ、おおい、おおいと誰かを呼ぶような獣の声である。

 この辺りでこんな声を出す輩など一人、いや一匹しか心当たりがないが、やけに慌てたような様子にすわ何事かと新居からひょっこり顔を出して下を覗き込めば、やはりいつもの狸がこちらを見上げながらぎゃんぎゃんと喚き立てていた。

 新居祝いにしては、随分と物々しい。

 

「なんだ朝っぱらから、お前。そんなに喚かなくても聞こえて――」

 

 あまりにも騒ぎ立てるものだから思わず眉を寄せたその瞬間、びり、と電気が流れたような感覚が角全体を襲った。

 予感。胸がざわめく様な感覚。

 ひったくるようにして鱗の槍を手に取り、私は新居から飛び出した。

 翼を打ち、高度を上げる。

 その動きに呼応するように、森中から鳥たちが飛び去って行く。

 それはまるで何かを恐れるような。捕食者から逃げる獲物の姿であった。

 

「なんだ、何が来る」

 

 槍を構え、周囲に目を光らせる。

 あの嵐の夜。雷雲の中に竜の姿を見た時でさえ、ここまでの混乱は起きなかった。

 獣たちは感じているのだ。

 明確な敵意を、自分たちを脅かす者の気配を。

 来る。

 角が震えた。

 気配。

 直感に従い、頭上を見上げた。

 日を覆う雲の中、こちらに向けて何かが、何者かがやってくる。

 甲高い、鳶に似た声が私の身体を打ち据えた。

 雲を突き抜け、私を撃ち抜かんと飛来したそれを大きく躱す。

 それは鷲であった。

 しかしただの鷲ではない。

 片方だけでも数メートルはありそうな巨大な翼。

 人間程度なら鷲掴みにできそうな鋭い鉤爪。

 ぎらりと怪しく光る嘴に、見るもの全てを竦ませる黄金の瞳。

 私よりも一回り、いや、二回りは大きい、茶色い羽をした怪鳥である。

 それが、三羽(・・)

 揃いも揃ってぎゃあぎゃあとこちらを威嚇するその光景に、私は思わず槍を投げ捨てて新居に引き籠りたくなってしまった。

 それぐらいに、げんなりする光景だった。

 大猪がいなくなったと思ったら、次は大鷲の連隊と来た。冗談にしても笑えない。

 

「あー、お前たち。悪いことは言わん、今からでもどこか別の島に――」

 

 私の言い分など知らんとばかりに、大鷲三羽が同時に叫び声をあげ、こちらへと躍りかかってきた。絹を裂くような雄叫びと共に、鈍い光を放つ鉤爪が迫る。

 翼を操り、背中から地面へ向けて飛び込むように急降下。鼻先を掠めた爪先に肝を冷やしながら再び翼を打って急加速。大鷲たちから距離を取った。

 背泳ぎの姿勢から反転、腹を地面に向けてちらりと背後を見やれば、血走った目の大鷲どもがぎゃあぎゃあと喚き散らしながら追ってくるのが見える。

 どうやら連中には、私が相当美味しそうに見えるらしい。或いは、見境が無くなる程飢えているか。

 とにもかくにも、このまま森の上でやり合う訳にはいかない。

 向かうは、海。

海上ならば、こちらの武器も十二分にその威力を発揮できるだろう。

 と、眼前に影が落ちる。

 

「くそっ、もう追いついてきたか」

 

 身を捻り、転がるように右回転。その直後、先程まで私がいた位置を、大鷲の鋭い一撃が襲う。

 やはり、空を飛ぶことに関しては相手の方が一枚も二枚も上手であった。

 さらに左、後方からも大鷲が迫る。

 繰り出される鉤爪による攻撃。当たれば肉まで裂け、掴まれれば骨ごと砕かれるであろう一撃を時には身を捻り、時には鱗の槍で受け流しながら、揉み合い、交差し、絡まるように空中を右へ、左へ、上に下にと飛び回る。

 

「ええい、しつこいなあ!」

 

 その場で回転しながら槍を振り回し、大鷲たちの包囲が僅かに緩んだ隙を突いて一気に高度を下げる。

 翼を畳み、身体全体を一本の矢のように真っ直ぐにして、ひたすらに地面を目指した。

 無論、背後から大鷲たちも追ってくる。風切り音の中に、絹を裂くような悍ましい声が混ざり込む。

 森の梢を吹き飛ばし、地面すれすれのところで身を捩って反転。上下を入れ替えたあと翼を広げ、無理矢理に頭を引き上げた。

 

「あが、れぇっ」

 

 がりがりと、太い尻尾が地面を削る。

 一歩間違えば地面に激突し、大怪我は免れない博打であったが、どうやらうまくいったようだ。

 あれほど大きな翼ならそれほど小回りは効かないだろう。連中が森の上でやきもきしている間に目的の場所へ――

 枝を圧し折る音がした。

 

「うっそだろう」

 

 ぎゃあぎゃあと捲し立てながら器用にも、本当に腹が立つぐらい器用に翼を畳んだり広げたりしながら、大鷲三羽が木々を縫うように飛び回り、こちらへと迫る。

 これにはさすがに目を丸くして、思い切り翼を動かし一目散に逃げだした。

 

「てめえら、こちとら若葉ともみじ両方付けてんだぞ。もう少し手加減しろ!」

 

 目を白黒させながら叫ぶも追撃の手は止まず、凄まじい勢いで迫りくる木々を右へ、左へ。

 岩を避け、枝の下をくぐり、川の水を吹き飛ばしながら森中を駆ける。

 ぞわりと、角がざわめく。

 咄嗟に下げた頭の上で、がちん、と鉄同士をぶつけた様な音が響いた。

 こちらの頭上に陣取った一羽が、その大きな嘴でこちらを啄もうとしたのである。

 ぞっと、背筋が凍るような恐怖であった。

 

「この、やろうっ!」

 

 空を切り、無防備に曝け出されたその首元へ向け、カウンター気味に槍を突き入れた。

 するりと、雪に棒を差し込んだような軽い手応え。

 空を駆ける勢いをそのままに、樹の幹へ縫い付けるようにして槍ごと叩きつける。

 断末魔の叫びが響き、打ち込んだ槍が半ばからぽっきりと折れた。

 ぐったりと動かなくなった大鷲をあっという間に置き去りにして、翼をひと打ち、再び森の上へ。

 残った二羽の大鷲も続いて飛び出し、螺旋を描くようにこちらへと迫る。

 右へ、左へと視線を投げ、藍色に輝く海原を見つけた。

 加速。翼を大きく使い、一度の羽ばたきで後ろの二羽を引き離す。二度羽ばたけば、眼下には美しい水面が広がっていた。

 海面すれすれ、胸先が触れてしまいそうな位置を滑るように進む。

 鏡のように静かな、凪いだ水面に映り込んだ自分と目が合った。

 赤い瞳の中に、縦に開いた瞳孔。

 水鏡に映った少女は一度だけゆっくりと瞬いて、己の姿を掻き消すように、その大きな尾で水面を叩いた。

 真っ白な水柱が天を突くように立ち上り、後方よりこちらを追い立てていた大鷲二羽を飲み込まんと迫る。

 先頭を進んでいた一羽は降り注ぐ飛沫を潜り抜けるようにして何とか躱したが、続く二羽目は正面からまともに突っ込んだ。

 そして、羽が濡れたことで速度を落としたその個体の頭上を取った。

 思い描くは点ではなく、面で押しつぶす赤い激流。

 氾濫した川が全てを押し流し、叩きつけ、微塵に砕く光景。

 じわりと、腹が熱を持ち始める。

 全身の黒い紋様が、腹の下から上へと滲むように赤へと変じる。

 そして、喉元まで至った灼熱の吐息を、いまだ眼下でもがく大鷲目掛けて解き放った。

 

「がぁっ!」

 

 轟。

 堰を切ったように溢れ出す業火が、大鷲を水面へと叩きつける。

 濡れた羽はぐずぐずに溶け、水が蒸発する音と、肉が焼け爛れる音が混ざり合い悍ましい光景を作り出す。

 やりすぎたか。

 少しばかり湧き出た憐憫の情を、頭を振って吹き飛ばす。

 思い出すのはあの大猪。

 あいつほどではないにせよ、あの大鷲もこちらの常識が通用しない生物である可能性が高い。であるならば、やりすぎるということはないはずだ。

 甲高い声。

 見れば、流石に形勢不利と見たか、残された最後の一羽がこちらを一瞥もせず、一目散に逃げ去っていく姿があった。

 砂浜に降り立ち、いまだめらめらと燃ゆる海面を見ながら息を吐く。

 べたりと、その場に尻もちをついた。

 

「あー疲れた。もうやらん。二度とやらんぞこんなことは!」

 

 大の字になって倒れこみ、うっすら空を覆う灰色の雲に向けてそんなことを吐き出した。

 一難去って、また一難。

 どうにもこの島は、この世界はまだまだ私を飽きさせる気はないようだった。

 全く、ありがたいことである。

 本当に、まったくもって。

 遠くの空から、雨の匂いがした。

 




気が付いたら空中戦してました。
次からはまた探索したり物作ったりすると思います。


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焼き鳥屋どらごん

 

 「たしかこの辺りだったはず、っと、あったあった」

 

 浜辺で一休みした後、私は森で仕留めた大鷲の回収に向かっていた。

 見上げた先には、半ばから折れた槍に串刺しにされた大鷲の姿。

 飛び回っていた時には意識していなかったが、どうにも随分と高いところに縫い付けたらしく、私の背丈の倍ほどのところから、真っ黒な血が根元まで垂れてきていた。

 仕留めてからそう時間は経っていないはずだが、手早く血抜きをしなければ肉まで駄目になってしまう。

 そうして私は大鷲のところまで飛び上がって槍を引き抜くと、持ってきた縄で手早く足を縛り、手頃な高さの枝へ逆さに吊るした後で首を飛ばす。

 鶏なんかと同じ方法であるが、まあデカい鶏みたいなものだし大丈夫だろう。

 流石にあの大猪に比べれば血抜きも楽ではあるが、それでも足元にたっぷりと血だまりができる程の血を抜くと、次は羽を処理する為に海岸へと向かう。

 本来ならば熱湯に浸してやる方が良いのだが、大きさが大きさなだけに今回はこちらで代用する。

 腰まで浸かる程度の場所で、全体をしっかりと濡らして羽を掴み、力任せに引き抜いていく。

 だが私の背丈以上の体躯を持つ大鷲であるので、その羽の量たるや周辺を真っ白に染め、あまつさえ積み重なった羽毛が宙に舞い上がる程であった。

 飛沫と共に柔らかな羽毛が舞う光景は実に幻想的で美しくあったが、現実に立ち返ってみればそれはただただ羽の中に隠れていた病原菌やら害虫やらを巻き上げる厄介者以外の何物でもない。

 結局、私は余計なものを吸い込まないよう片手で口元を覆いながら尻尾で大鷲の体を掴み、残った手で地道に羽を毟り続ける羽目になった。

 しかし今は厄介極まりない代物であっても、綺麗に洗い、整えればこれらも貴重な資源になる。

 細かいものは風にさらわれてどこぞへ行ってしまったが、それでも一抱え以上の量は残った。私はそれらを海水でさっと洗うと籠に詰め、丸裸になった大鷲を担いで帰路に着いた。

 羽を毟ったあとの肉は驚くほど小さくなり、今や私が両手で抱えられる程度になってしまったが、筋肉質な為か、それでも肩に食い込むほどの重量がある。

 それはつまり、それだけ肉が締まっているということなのだが、果たして美味しく頂けるのだろうか。少しばかり、不安が残る。

 そうして拠点に帰ってくると、羽を詰めた籠を日当たりの良い場所に晒したあと、肉の解体を始めた。

 ちょこんと、隣に図々しい狸を添えて。

 

「お前な、さすがに気が早いぞ」

 

 まあ今回の獲物に関しては、事前に知らせてくれたこいつにもいくらか分け前を貰う権利はあるのだろうが、それにしたってそそっかしいというか、厚かましいというか。

 ともかく、肉が傷む前に手早くやってしまうことにする。

 図体自体は私が腹の中に納まってしまいそうなほど大きいが、毛皮に覆われていない分、いつぞやの大猪よりは楽だ。

 肉質だってずっと柔らかいし、関節に気を付ければそう時間はかからないだろう。

 まずは表面に残った細かい羽や産毛を火で炙り、焼いていく。

 自前のバーナー(火炎放射)で焼いてもよかったのだが、うっかり火加減を間違うとそのままローストになってしまうので焚火を使ってさっと取り除いた。

 そうしたら次に内臓を抜く。

 肛門より少し上の部分を丸く裂き、腕を突っ込んで内臓を引っこ抜くのだが、大きさが大きさだけにこれがまた大変。

 結局腕どころか肩まで入れて、ひと抱え分の内臓を引きずり出した。

 これは川で洗い、心臓(ハツ)肝臓(レバー)は取っておく。

 鳥なんだから他の部位も食えるのだろうが、こいつが普段から何を食って育ったのか全くわからないので、消化器系は避ける。

 ちなみに白子があったので、こいつは雄だったらしい。

 鶏の白子は食えるが、こいつはどうだろうか。外見は正しく鷲なのだが、大型猛禽類の肉など生前にも食ったことがない。

 とりあえず、まあ、こいつも確保しておく。

 内臓を抜いたら、次はもも肉を剥がす。

 肉を仰向けにして、ももの付け根にさっと切れ込みを入れる。そのまま力任せに外側へ引っ張れば、鶏肉の場合はするすると肉が剥がれていく。

 あとは股関節の骨を折って外し、切り分ければしまいだ。

 次に肩甲骨の辺りから切り込みを入れて関節を外し、あばらに沿って丁寧に切り分けて引き剥がせば胸肉。引っ付いている手羽を根元から外せば、これで手羽元と手羽先のできあがり。

 最後に尻尾の部分を落とせば、これがいわゆるぼんじりになる。

 細かく解体すればヤゲンやらげんこつやらも採れるだろうが、今回はまとめてスープにしてしまう。

 と、解体も終わって一息ついたところで、切り分けた部位がいくらか見当たらないことに気が付いた。

 下手人はわかりきっている。

 見れば、一仕事終えた私そっちのけで、泉の傍で新鮮なもも肉にかぶりつく狸の姿が。

 盗人猛々しいとは言うがああまで図々しく、美味そうにがっつかれてはこちらの毒気もすっかり抜かれてしまい、私は苦笑いしつつも解体した肉の調理に取り掛かるのだった。

 とりあえずもも肉は燻製に、他は汁物と串焼きにするとして、まずは傷みやすい内臓を片付ける。

 心臓、肝臓は薄切りにして串に刺し、白子は汁物にしてしまう。

 それぞれがとんでもない大きさであるので、薄切りにして串に刺せば見た目は鳥というよりはまるで牛のそれであり、随分と贅沢をしているような光景となった。

 それを焚火の周りに並べ、遠火でじっくりと焼いていく。

 表面に泡のような脂が浮かび、それが滴り落ちて弾ける度に甘い香りが鼻先をくすぐる。

 できることなら炭火で味わいたいのだが、残念ながら今は無い。

 作るのは少しばかり手間ではあるのだが、竹も手に入れたことであるし、冬備えも兼ねていくつか作り置いておくのもいいかもしれない。

 そうこうしているうちに薄桃色だった表面が小麦色になり、滲み出た脂がその上でふつふつと沸き立つようになった。

 

「どれ、そろそろ食べ頃かな」

 

 いただきます、と手を合わせ、先程から堪らない香りを漂わせる串焼きへと手を伸ばす。

 まずはハツから。

 何度か息を吹きかけてから薄切りにしたそれに齧りつけば、途端に濃厚なコクと甘さが口の中いっぱいに広がった。

 まるで洪水のように唾液が口内に溢れ、甘い脂と溶け合って舌を蕩けさせる。

 塩がないことが悔やまれる。これほど甘い脂ならば、塩をひとつまみ振りかければよりその甘さが引き立っただろうに。

 続いて、レバー。

 こちらは少し血の臭いが残っていたが、それを押しのけるような濃厚な味わいがあり、ハツとは異なるしっとりとした食感が舌を楽しませる。

 大きさが大きさなので見た目は完全に牛のレバーなのだが、あちらとは違いクセが少なくとても食べやすかった。

 二種の串焼きに舌鼓を打ちながら、私は次なる料理、鶏がら、いや鷲がらスープの仕込みを始める。

 とはいえこちらも量が量なので一度ではなく、何度かに分けて頂くとしよう。

 鍋用の土器に水をたっぷり、一口大に刻んだもも肉、皮、白子を入れて火にかける。

 煮えてきたら竹で作った匙で灰汁(あく)を取り除き、もうひと煮立ち。

 

「こりゃ、お前はさっき食っただろうが。悪さするんじゃないよ」

 

 鍋をかき混ぜていると、口元を脂でてかてかさせた悪ガキが腋からひょいと顔を出した。

 でっぷり腹を大きくさせている癖に、まだ食い足りないらしい。

 

「楽を覚えたらろくなことにならんぞ。そら、これやるからもう帰りな」

 

 呆れ混じりに差し出したのは、まだ肉がこびり付いたままの足の骨。

 また明日の朝にでもスープにしようと思っていたのだが、こいつのおやつには丁度いいだろう。

 狸は出されたそれを躊躇いなく咥えると、礼を言うでもなくとっとと森の奥へ引っ込んでしまった。

 まあ、今朝はあいつのお陰で助けられたところもあるし、文句は言わんが。

 そうこうしているうちに出来上がったスープを、これまた竹を割って作った皿によそい、竹の箸で頂く。いやはや、竹のお陰で我が食卓も随分と華やかになった。

 ずず、と汁を啜ってみて、ううむ、と唸る。

 美味い、美味いが、なんだろうか、凄く臭い。

 スープ自体はあっさりとしていて濃厚な出汁も出ているのだが、血生臭いというか、獣臭いというか、とにかく雑味が強いのだ。

 肉も食ってみたがこちらも固く、同様の臭みがあるので評価としてはいまいちと言わざるを得ない。

 血抜きがいけなかったのか、それとも肉そのものに下処理が必要だったのか。

 ハツやレバーが美味だっただけに、これは少し残念な結果だ。

 だが白子。嬉しいことにこれは当たりだった。

 チーズのような食感に、魚類のものと比べクセの少ない旨味。

 味としてはフォアグラが近い、か。あちらよりもずっと濃厚なので、あっさりしたポン酢やもみじおろしが合いそうだ。

 あるいは辛口の日本酒をぐっといきたくなるような、そんな味わい。

 

「ああ、酒が欲しいなあ」

 

 別に私が飲兵衛という訳ではないのだが、こうも酒の肴ばかりが続くと本音の一つ二つは出てくるというもの。

 しかし無いものは無いので、これもまたつまらない愚痴にしかならず、私は早々に考えるのを止めて最後のお楽しみを味わうことにした。

 狸の目を盗んで弱火でじっくりと火を通していたのは鳥の尻尾、ぼんじりである。

 元々脂の多い部位ではあるのだが、これはまた桁が違った。じゅわじゅわと音を立てて弾ける脂、光沢を放つ表面はまるで牛のホルモンのようで、串焼き、スープと平らげた後にも関わらず思わずごくりと喉が鳴るほどだった。

 たまらずかぶり付けば、圧倒的な弾力は歯を押し返してくる程であり、噛めば噛むほど濃厚な脂が奥から染み出してくる。

 しかし濃厚でありつつもしつこくはなく、これもまた塩かレモンが合いそうなきめ細かい味わいであった。

 

「ふう、食った食った。ご馳走様でした」

 

 両手を合わせ、命に感謝すると腹をひと撫でし、けぷり、と満足げに息を吐いた。

 実に幸せな、そして考えさせられる食事であった。

 美味いことは美味い。これ以上なく。

 とても贅沢を言える状況ではないのだが、しかしいつまでもただ焼く、煮るだけでは飽きが来るのもまた事実。

 調味料。味に変化を加える物が必要だ。

 砂糖、塩、酢、醤油、味噌。

 さしすせそ、ではないが、このうちいくつかは手に入れたいものである。

 さしあたっては、まあ、作るのが一番簡単そうな塩から始めるべきか。

 

「住処を作ったはいいが、課題はまだまだ多いなあ」

 

 雨の匂いを漂わせる空を見上げながら、私は尻尾をひと振り、腹を撫でるのだった。

 




数々のご感想、ありがとうございます。
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塩作りとオジサンと

 

 塩を作るといっても、窯で海水を煮込んではい出来上がり、という訳にはいかない。

 偏に塩作りといっても、意外と時間と手間がかかるものだ。

 まず塩作りを始めるにあたり、私は水をろ過する為の道具を作った。

 とはいえそう複雑なものでもない。

 用意する物はシュロ縄と竹、川で集めた石や砂利、砂、そして焚火で燃え残った炭をいくつか。

 まずは竹を適当な長さに切り、中の節を抜く。この時、端っこの節だけはそのままにしておき、中心に小指の先程度の小さな穴を開ける。

 あとは竹の中に石、砂利、炭、砂、シュロ縄の順で詰めていき、柱となる竹に縛り付ければ、これで誰もが一度は見た、あるいは子どもの頃に作った経験があるだろう、簡易的なろ過装置が完成だ。

 これを二つ(こしら)えて、一つは泉の傍に打ち立てて飲み水用に、もう一つは持ち運べるように縄で持ち手を付けて海水用に使う。

 そうして出来立てほやほやのろ過装置と鍋替わりの土器二つを抱え、さらに翼の間には竹で作った釣り竿を背負(しょ)って、やってきたるはいつもの磯場。

 砂浜にろ過装置を打ち立て、汲んできた海水を縁いっぱいまで注いだ後に土器を穴の下に置いておく。これでろ過された海水は底に空けた穴から滴り落ち、土器に溜まるという寸法だ。

 さて、これで後は十分な量がろ過されるまで釣りでもしながらのんびりと待つだけである。

 手製の釣り竿を揺らしながら磯場の奥、波打ち際までやってきて尻尾を畳む。先の方だけとぐろを巻かせて身体を預ければ、即席の座椅子が出来上がった。

 よいこらせっと腰を下ろし、ちょんと竿を振って下手から仕掛けを投げる。

 餌は磯場で獲った貝を小さく切り分けたものを使い、針は猪の骨、糸はシュロ縄で拵えたものだ。

 ウキが無いので、アタリは全て指先の感覚だけで判断しなければならない。

 頭上には相も変わらず曇り空。降り出してしまえばせっかくろ過した海水が駄目になってしまうので、塩作りは延期である。

 

「降るならいっそ、さっと降って晴れてしまえばいいのになあ」

 

 ぼやきながら、揺れる竿先を眺める。

 仕掛けを沈めてからしばらく、つん、とその竿先が大きく揺れた。

 だがまだ、アワセない。じっくり、じっくり、獲物が完全に食い付くまでじっと待つ。

 つん。つん。つん。

 ぐい。

 ひと際大きなアタリに、どんぴしゃりで竿をアワセた。

 弓なりに竿がしなり、握る手に力が入る。

 だが、いざ勝負と腰を落としたその直後、すぽんと手応えが無くなったかと思えば、まんまと餌だけ取られた針が海面から空高く飛び上がった。

 

「ととっ、まあそう簡単にはいかないか」

 

 何せ今回は何から何まで手作りだ。太い糸は指先に伝わる感触を狂わせるし、骨の針は鉄のそれに比べあまりにも鈍らで、しっかりとアワセなければ魚の口から簡単に外れてしまうだろう。

 だが、まあ、だからこそ丁度いい。のんびりと竿を眺めながら、上手くいっただの、いかなかっただのと一喜一憂するぐらいが、丁度いい。

 新しい餌を針に付け、寄せては返す白波の向こうへ落とした。

 辺りには波と風の音だけが流れ、時折雲の切れ目から差し込む陽光が手元を照らす。

 その穏やかな光景に、ついついあくびが漏れそうになる。

 

「くあ……っといかんいかん。のんびりと言っても、怠けてはいかんわな」

 

 緩んだ頭をがりがりと掻く。

 それからしばらく釣り糸を垂らし続けたものの残念ながら釣果には恵まれず、小腹が空いてきた辺りで私は竿を片付け、ひとまずろ過装置の様子を見に戻ることにした。

 そうして浜辺に突き立てた竹筒の下を覗いてみれば、土器にはおおよそ五分の一から四分の一ほど水が溜まっており、どうやらろ過装置は正常に働いているようで一安心である。

 だがこの分ではまだまだ時間はかかりそうだと、新たに汲んできた海水を装置に注ぎながら小さく息を吐く。

 ともあれ、急かしたところでろ過する速度が変わる訳でもなし、やはり今は気長に構えているのが最良であろうと、私はまた元の場所で釣り糸を垂らすのだった。

 それにしても、腹が減ってきたな。

 拠点、いや、今は立派な家だったか、そこから干し肉の一つでも持ってくれば良かったものの、今朝の私は何だかんだ小魚の一匹二匹ぐらいは釣れるだろうと高を括って何も持って来なかったのである。

 まあ磯場で貝やら小魚を漁れば小腹ぐらいは満たせるのだが、こうなるとどうしても魚を釣り上げ、それを食らってやろうという浅はかというか、負けず嫌いの気が顔を出す。

 そも、生前より勝負事には向いておらず、下手の横好きというか、向いてもいないのに勝ち負けには拘る、要はカモになりやすい男であった。

 賽を振れば悪い目ばかり、絵柄を揃えようとすればブタになり、釣りに興じれば坊主になって帰ってくるのが日常茶飯事。そんな男なのだ。

 だが、今回は珍しく運が向いたのか、あるいはこの娘っ子の気質か、釣り糸を垂らして数分ともせぬ内に竿先が大きくしなり、私はあっと声を上げて竿を握り直した。

 竿ごと海中に引き込まんとする力強い手応え。右へ左へと釣り糸が走り、ふっとその力が緩む瞬間を見計らって、力いっぱい竿を引き上げる。

 我ながら見事な一本釣り。

 海面から飛び上がったのは真っ赤な魚体をした、なかなかの大物である。磯場に打ち上げられてなお、捕まってなるものかと暴れる獲物を両手でしっかりと押さえつけ、その大きく開いた口を掴み上げた。

 顔つきは鯉に近く、しかしその口元からはドジョウにも似た立派な髭が二本伸びている。

そのどこか見覚えのある姿に首を傾げること数秒。

 

「ああ、オジサンだなこれは」

 

 たしか和名ではホウライヒメジだっただろうか。

 日本でも和歌山や九州地方などといった温かい海で獲られている魚で、その髭が生えた顔つきからオジサンと呼ばれてはいるものの、こう見えて一部地域では神事や祝い事に出されたりするありがたいお魚だったりする。

 生前、とうとう一度も食べることのなかった魚ではあるが、その身はとても美味らしい。

 ラグビーボールほどはある大きさで肉付きもよく、これは食いでがありそうだ。

 私は腰に下げた鱗のナイフで手早くオジサンをシメて鱗と内臓、エラを取り除いて下処理を済ませると、手頃な枝を突き刺してさっそく焚火を始めた。自前の炎を使うため、焚きつけも一瞬である。

 そうしてさっと海水に漬けたオジサンを遠火で炙れば、やがて脂の爆ぜる音と共に香ばしい匂いが立ち昇ってきた。

 どうせなら手製の塩が完成してから味わいたかったが、背に腹は代えられない。

 付け合わせは磯場で見つけてきたわかめである。細かく刻んで、海藻サラダのようにして頂く。

 

「さて、それでは頂きます」

 

 手を合わせた後、両手で串を持って齧りついた。

 焼き加減は素晴らしく、ぱりっとした皮の下から羽毛のように柔らかい白身が顔を出す。そしてふんわりと鼻へと抜けていく香ばしさと、独特な臭い。

 

「う、これはなかなか」

 

 思わず顔をしかめた。

 美味い。たしかにその旨味を閉じ込めた白身はほんのりと甘く、噛めば噛むほど味が染み出てくるのだが、噛んだ瞬間に僅かに香る独特な臭みが食欲に二の足を踏ませる。

 なんだろう、皮目が臭いのだろうか。あるいは内臓の臭いが移ってしまったのか。

 しまった。これは私の不手際だろう。しっかりと調理すればより美味しかっただろうに、素人が適当にやってしまったものだから、本来の味を損なってしまったのだ。

 オジサンは丁寧に扱わないと臭い。

 字面にすれば何ともシュールではあるが、事実なのだから仕方がない。

 口に残る臭みを消し去るように海藻のサラダを放り込み、また一口。うん、臭い。

 オジサン臭い。

 失礼。部位によっては臭くない。

 皮を取り除いて、白身だけを食えば臭いは相当ましになるようだ。

 食べ物にあれこれ文句を付けるなど、私も随分と贅沢な身になったものだと思いはするが、やはりあのひと月程度では生前の贅沢、とは言えないまでも、調味料をふんだんに使った食事の味を忘れることなど出来る筈も無く、具体的には醤油ぐらいは寄越せと愚痴りたい気分である。

 さりとて、空腹は最高の香辛料であるとは昔の偉い人はよく言ったもので、再びろ過装置が空になる頃にはオジサンは骨しか残らず、目玉まで含めてまるっと私の胃袋へと収まっているのだった。

 

「ご馳走様でした」

 

 手を合わせ、残った骨を地面に埋めるといよいよ塩作りへと取り掛かる。

 半分ほど海水が溜まった土器を火の傍に置き、蓋をして煮えるまで待つ。

 待つ。

 そう、ひたすらに待つ。また、待つだけ。

 ぼうっと揺れる炎を眺めること、数分。軽く探索でもするかと、私は欠伸を噛み殺しながら立ち上がった。

 足裏の感触を楽しみながら、砂浜をのんべんだらりと歩き回る。

 空模様は相変わらず悪く、しかし薄っすら雲のかかった水平線もまた乙なものかと考えながら歩いていると、ふとしたことで足が止まった。

 白い砂浜の中に広がる、薄紫の絨毯。中洲のようにぽつんと広がるそこには大きな緑の葉と、太い茎を伸ばした植物たちが身を寄せ合うようにして群生していた。

 ふわりと、淡い紫色をした小さな花が揺れる。

 またも、見覚えのある姿である。こうも立て続けに、あまりにも都合が良すぎるとは思いつつもその葉を手に取り、かき分けて根元をしげしげと観察してみれば、それは正しく生前の記憶にある、地球にも自生する植物にそっくりであった。

 

「驚いた。ハマダイコンだ」

 

 根元を掴んで引き抜いてみれば、大根という名とは正反対の、ゴボウのような細い、しかし真っ白な根っこが現れる。

 ハマダイコン。

 日本全土の海岸、その砂地に自生する大根に非常によく似た植物である。

 その見た目は大根そっくりで、あまりにも似ているので以前までは大根が野生化した種であると考えられていた程だ。

 私は生前、妻が近くの浜で採ってきたものを食べたことがあるが、味は大根と違い繊維質が多く、生ではそれほど美味くはない。しかし葉の部分はおひたしに、数珠のような凹凸のある実は生で食べても良し、炒め物などにしても良しと、調理さえすれば無駄なく美味しく頂ける食材である。

 それが、こんなに。

 今は薄紫の花をつけた状態だが、また少し経てば実が生り、やがて種も手に入るだろう。

 いや、いっそ我が家の近くに植え替えてみるのも手か。

 引き抜いたハマダイコン、らしきものを手に、しばし考える。

 ううん、ううんと唸ること数回。まあ、ひとまずは持ち帰ってから考えるかと、私は花の少ないものを選んで三本程引き抜くと、尻尾を揺らしながら帰路に着くのだった。

 




オジサンに対し悪意はありません(重要)


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川、洞窟、這い寄る者

 

「おお、今日は晴れたなあ」

 

 島で目覚めて三十日目の朝。波乱万丈な日々ではあったが、とりあえずはひと月、大自然に屈することなく生き延びることが出来た。

 暦代わりに印を刻んでいた石板も、今となってはもう二枚目である。

 たったひと月、されどひと月。

 これまでの苦労を思えば、カレンダー代わりに刻まれたこの印もまた感慨深い。

 ともあれ、ひと月経って未だ脱出の目途が立っていないのもまた事実。人が住んでいそうな浮島も見つからず、それどころかこの島以外の浮島を目にすることすらまるでないのである。

 風の流れが悪いのか、あるいは一年に一度しか重ならないとか、そういった決まった流れになっているのか。そもそも、この世界、この星がどれぐらいの広さなのかもわかっていないのだ。もしかすると、同じ島には二度と出会えないのかもしれない。

 そう思うと、ぞっとする。

 これから何年、何十年、あるいは何百年とこの島で、たった一人で生きていかなければならない。そう考えるだけで頭がおかしくなりそうだった。

 

「いかん、悪い方に入りそうだ」

 

 両手で頬を叩き、思考を切り替える。現実逃避、ともいう。

 ともにもかくにも、生きること。やるべきことをやること。それだけを考えなければ。

 それだけを、考えるべきである。

 それに良いことだってある。例えば、先日からちくちくやっていた毛皮の一張羅が、ようやく完成したことだとか。

 仕立てたのは、上着と腰巻きだ。上着は肩から掛けて上半身をすっぽり覆えるように拵えたが、少しばかり丈が足りなかったのと、ごわごわした猪の毛のせいで見た目は背中蓑(せなかみの)のようになった。あと、翼の部分には切れ込みを入れてあるので空を飛ぶ時も邪魔になることはない。

 このひと工夫は、我ながらよくぞ思いついたと褒めてやりたいぐらいお気に入りだ。

 腰巻きは太腿あたりまであり、こちらも尻尾の動きを邪魔しないよう尻の部分には切れ込みを入れてある。

 すべて身に着けてみれば何というか、芋っぽいというか、田舎者でもこうはなるまいという時代錯誤な感じはあるが、着心地は悪くない。

 素材が素材なだけに多少乱暴に扱っても傷まないぐらいには頑丈であるし、これは大切に使っていこうと思う。

 あとは、そう、昨日から続けていた塩作りであるが、昨晩ようやく少しばかりの塩を手に入れることができた。

 量にして、ほんの小さじ一杯ほど。それも真っ白ではなく、少しばかり黒ずんだ小石のような見た目の物で、かかった時間と労力に見合うか怪しいものではあるのだが、塩は塩だ。

 嚙んでみれば金平糖かと思うほどの硬さではあったが、塩は塩なのだ。

 今までは海水で塩味を加えることしか出来なかったことを考えれば、これもまた大きな進歩であった。

 ただ時間と手間がかかること、雨の日は作れないことが難点ではあるが、一度にたくさん使わなければ、まあなんとかなるだろう。

 いや、まあ、目的の物を作る為には大量に必要になるのだけれども。

 少なくとも瓶一杯分は欲しいので、これもまたこつこつやっていくしかない。

 

「お前が手伝ってくれれば、随分と楽になるんだけどなあ」

 

 そう冗談交じりに見つめる先には、こちらの気など知ったことではないとのんびり毛繕いなどに精を出す狸が一匹。こちらの視線に気が付いたのかふとその手を止め、小首を傾げて見せた。

 さて、それでは今日も今日とて探索である。

 そろそろ島全体がどうなっているか把握しておきたいし、今回は野宿も視野に入れての大規模な探索を行うつもりだ。

 ともあれ、空を飛べばあっと言う間に島を一周出来てしまうので、よほどのことがなければ日が暮れる頃には戻ってこれるだろうが。

 腰には鱗のナイフと竹で作った水筒を二本。あとは干し肉をいくつかと、もはや頼れる相棒と化した鱗の槍を背負っていざ出発(テイクオフ)である。

 ぐんと森の上まで飛び上がると、まずは海岸へ出て、そこから時計回りにぐるりと一回りするように翼を打ち、風の流れに乗った。

 まず目指すは前回の探索で竹を見つけた、あの山の向こう側。白い海岸線に十字の影を落としながら、潮風を肌で感じながらの空の旅である。

 目的地にはすぐ到着した。元々がそう大きくない島であり、山と呼べるものも一つしかないのだから道に迷う心配はない。麓にある竹林を目にした際、ついつい幾つか集めて拠点へ持ち帰りたい衝動に駆られたが、今回は探索が目的であることを思い出しぐっと我慢した。

 筍とか、生えていないだろうか。採れたての新鮮な筍を焚火に放り込み、ほどよく焦げた皮を剥がして湯気をあげる柔らかい身に齧りつく。

 ああ、想像しただけで涎が溢れそうだ。

 いや、いかんいかん。

 頭を振って、這い寄る誘惑を振り払う。

 そうして竹林を右手に見つつ、やがて砂浜は大小様々な岩石が転がる断崖絶壁へと変わり、半島のようにせり出した岬を超えれば、また前方に山が見えてきた。

 やがて岩肌ばかりが露出していた海岸線に緑が増え、カモメによく似た海鳥たちが物珍しそうに周囲を飛び回り始めた頃、私は山の麓から伸びる大きな蛇のような川の河口部へと降り立った。

 随分と川幅の広い、拠点から伸びるそれとは比べ物にならない大きな川である。

 深さは私の膝が浸からない程度のものだが、少し歩いただけでも日の光を浴びて銀色に輝く小魚たちの群れであったりとか、突然現れた見慣れない生き物に目を剥いて岩陰へ飛び込む可愛らしい蟹の姿であったりと、その生態系の豊かさを十分に感じさせてくれた。

 少し先では真っ白な翼を持った大きな鳥がその細長い嘴で小魚を捕まえて丸呑みにしている。満足そうに目を細めた後、こちらを一瞥して山の向こうへと飛び去って行った。

 その姿を追うように、私は足裏から伝わる砂利の感触を楽しみながら上流へと向けて歩を進める。人間の手が入っていない、原初の風景。それはただただ美しく、澄み切った青い川の向こうに新緑の山がそびえ立つその景色は、まるで一枚の絵画のようである。

 やがて川幅が狭まり、両脇に並んだ木々がこちらを覗き見るように頭上を覆い始めた頃、川の源流、山の麓で見つけたそれに、私はしばし難しい顔をして己のうなじをひと揉みした。

 それは険しい崖の下にぽっかりと口を開けた洞窟であった。

 覗き込めばどうやら相当に深い横穴のようで、時折周囲の空気を吸い込んで不気味な呼吸音を響かせている。

 動物の気配もなく、私の角もざわつく様子はない。今のところ危険はなく、洞窟とくれば男子誰もが浪漫を抱かずにはいられない、冒険心をくすぐる代物ではあるものの、別に奥底に海賊が隠したお宝が隠されている訳でもなし、わざわざ狭苦しいところに潜り込むほど暇でもない。

 

「とりあえずここは、保留だなあ」

 

 天井もしっかりしていて崩れる心配もなさそうであるし、嵐の日であったりとか、一時的に雨風を凌ぐ為の仮住まいとしては十分使えそうなので、場所は覚えておくことにしよう。

 と、そうして踵を返し、さあ探索を続けようと翼を広げたところで、ふとした違和感があった。どうにも尻、いや、尻尾がずしりと重いのだ。

 まるで重りでもつけられたような感覚に振り向けば、何やら尻尾に纏わりついているものがあった。

 それは一見すると芋虫のようにも見える丸みを帯びた体をしており、中央には黒い縦縞模様が三本入っており、その身を縮めたり、伸ばしたりしながら尻尾の周りを這い回っている。

 間髪入れず、私は尻尾ごとそれらの生き物を炎で焼き払った。

 

「しまった、ヒルがいるのか」

 

 私は己の不用心を悔いた。

 ヒル。気配もなく生き物の肌に吸い付き、その生き血を啜る不気味な生物である。

 模様、色からしてヤマビルだろうが、その大きさが異常極まっていた。なんと、小さいものでも私の親指ほどはあるのだ。吸血したあとならともかく、通常でこの大きさならばもはや怪物と言わざるを得ない。

 幸いなことに纏わりついていたのは尻尾の部分だけで、足や腕などにはまだ取り付かれてはいなかったが、ヒルがいると分かった以上、不用心にここへ近づくのは得策ではない。私は翼を打ち、さっさと上空へと飛び上がった。

 そうして安全な高さまで上昇したところで、また尻尾のところに違和感が。

 すわまたヒルにでも食い付かれたかと慌ててそちらを確認すれば、引っ付いていたのはヒルではなく、拳ぐらいの大きさの石。

 何故尻尾に石が張り付いているのか。首を傾げながらその石を引き剥がして見てみれば、黒ずんだ表面に多角形の結晶が浮かび上がった、この島では今まで見たことのない石であった。

 ふと、その色合いに閃くものがあり、そっと石を己の尻尾に当ててみる。先程と同様に、ぴたりと貼り付いた。

 続いて脚。こちらも貼り付く。腕、はダメか。

どうやらこの石は、鱗がある部分になら貼り付くようだ。

 なるほど。なるほど。

 これはまた、面白い物が手に入った。

 

「これでまた、やらないといけない仕事が増えたな」

 

 石を手のひらで弄びながら、そう言って笑う。

 とはいえ、今すぐ始めなければいけないという訳でもなく、やったところで上手くいくのか、あるいは上手くいったところでどれほどの益が生まれるのか、それはまだわからないが、選択肢が増えること、どこに何があるかを知っておくのは良いことだ。

 洞窟にせよ、ヒルにせよ、そしてこの石にせよ。

 

「さて、探索が終われば何から始めたものか」

 

 年甲斐もなく心躍らせながら、私はまた海岸線の上を往く。

 水平線の彼方、空の果ての向こうから、大きな大きな入道雲が迫っていた。

 




現在までの地図

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竜と龍と

 

 その日は朝から酷い豪雨だった。

 獣にも似た唸り声をあげながら吹き荒ぶ突風。横殴りの雨はまるで石礫のようで、今にも小屋の壁に穴が開くのではと私は戦々恐々とした心持ちで身を縮め、部屋の隅で丸くなるしかなかった。

 まさしく嵐、台風、木々を根こそぎ吹き飛ばし、泉の水さえ巻き上げんとする暴威である。

 そんな中でこの掘っ立て小屋がまだしっかりとその形を保っているのは他でもない、身を委ねるこの大樹のお陰であった。

 今にもばらばらに引きちぎられ、巻き上げられんとする小屋を大樹の豊かに茂った葉が守り、逞しい幹が支えているのだ。いや、それだけではない。言葉では形容しがたい感覚ではあるが、今この時、確かにこの場所は不可思議な、見えない何者かの力で守護されていた。

 何となく、直感に近いものではあるが、そう思う。

 その証拠にこれほどの暴風に殴られ、吹き付けられているというのに我が家は戸の一つも吹き飛ばされていない。きっとこの大樹に寄り添ってさえいなければ、こんな素人が拵えた粗末な小屋などひとたまりもなかっただろう。

 

「それにしても、今度のは凄まじいな」

 

 股から回した尻尾を頼りなさげに抱きしめて、とうとう雨漏りまで始めた天井を見上げて息を吐いた。

 その直後である。かっと空が真っ白に染まった刹那、耳元で爆弾が炸裂したかと錯覚するほどの雷鳴が脳天を突き抜けた。耳を覆う暇すらない。

 その凄まじさたるや打ち付ける風の音をかき消し、ほんの僅かな間ではあるが呼吸を忘れ意識すら失うほどであった。

 頭が真っ白になり、気が付いた時には私は呆けたように口を開け、焦点の定まらない目でぼうっと天井を見上げていた。

 そしてはっとなって、今更思い出したかのように大きく息を吸い込んだ。

 肌がひりつく。こめかみが、角の付け根が馬鹿みたいに痛い。明滅する視界、霞がかかった思考のままで、私は小屋の出入り口へと這っていった。

 何故か。

 呼ばれているのであれば、出向くのが道理である。

 誰に。

 このような激しい嵐の中を訪ねてくるものなど、それこそ風神、雷神様ぐらいであろう。

 だが私は気でも狂ったか戸を引き上げ、荒れ狂う嵐の中に身を投じる。半ば無意識に、何者かに操られるようにそうしていた。本能が囁くままに、夢遊病のような歩みで小屋を出て、音もなく泉の傍へと降り立った。

 ぴたりと、雨風がその動きを止める。あれだけ激しく吹き荒び、渦巻いていた嵐が。

 訪れるのは薄暗がりと、不気味なまでの静寂。

 毛先から滴り落ちる雨粒の音さえも聞こえそうな静けさの中で、私は空を見上げた。

 そこに何かが、何者かがいるという確信と共に。

 そこにあるのは大きくて分厚い、真っ黒な雨雲であった。時折その隙間から稲光を漏らしては、そこに潜む何者かの影を浮き上がらせている。

 やがてその内から、ぬっと巨大な尾が顔を出す。鯉のような緑色の鱗に覆われ、鮮やかな赤いたてがみを(なび)かせた美しい尾であった。

 次に腕が出た。五本指。鋭い鉤爪。その手の片方には、何やら黄金に輝く玉を握っている。

 そうしてようやく顔が出てくる。

 たてがみの生えた蛇。そのような顔つきであった。

 珊瑚のような枝分かれした角。ぎょろりと剥いた目玉の上にはたてがみと同じ色の眉が乗っかり、顔の三倍はあろう長さの立派な二本の髭の下では、のこぎりのような鋭い歯列が光っている。

 竜。いや、印象としては龍と書いた方がしっくりくるだろうか。

 いつぞやか雨雲の中に見た、あの龍である。

 しかし大きい。とぐろを巻けば、この島全体を一回りできそうな大きさだ。

 だが、その威容を目の当たりにしてなお、私の口を突いて出たのはあまりにも気安く、そして無礼な言葉であった。

 

「おい、誰だお前は。お前さんだろう、私を呼びつけたのは」

 

 不思議なことに、恐怖はなかった。ご近所さんに挨拶をするような軽い心持ちで、こんな酷い天気の中に人を呼びつけやがってと、畏れるどころか僅かに腹を立てながら、私は頭上で八の字になりながらこちらを睥睨(へいげい)する龍を見返していた。

 やがて龍は頭だけを器用に泉の上まで降ろしてくると雷にも似た唸り声を響かせ、その眉間に収まってしまいそうな小さな私を興味深く観察するように視線を這わせたあと、やがてくっと喉を鳴らした。

 笑った。

 いや、嘲笑った、というのが正しいか。

 とにかく、何やら小馬鹿にされたような、そのような雰囲気は察した。

 

『随分と変わった趣だな。同胞(はらから)よ』

 

 それは子をあやす母のような優しい色であり、子を諫める父のような厳格な色をした声。

 そして明らかに日本語ではない、それどころか人のものですらないその言葉の意味を私は正しく理解していた。私にとっては龍が言葉を発したことよりも、そちらの方が驚きは大きかった。

 そして何よりこの島に来てから初めての、かれこれ一か月ぶりになる言葉を介した対話である。気分が高揚し、何から話したものかと胸の奥から溢れんばかりの言葉が湧き上がっては消えていく。そうして魚のように何度か口を開けたり閉めたりした後、私はようやく次の言葉を絞り出した。

 

「同胞、と言ったか。お前さん、この娘っ子のことを知っているのか」

 

『娘、とは誰か。同胞よ、余は無駄な問答を好まぬ。此度は久方ぶりに同胞の気配を感じた故、気紛れに訪れたまで』

 

「誰って、私しかいないだろう。なあ、お前さんや、私はこの身体をこの娘にお返ししたいのだ。死にぞこないの枯れた爺に乗っ取られたとなっては、この娘があまりにも不憫でならんのだ」

 

 その言葉に偽りはない。もしも今、この娘の身体に私の、老いぼれた爺の魂が憑りつき、その居場所を奪ってしまっているのなら、とっととお返しするのが道理である。情けないことにいつまで経っても、一度死んでも死ぬのは怖いが、若者の命を奪ってまで生き永らえようとは思わない。そんなことをすれば私を看取ってくれた妻に、家族に申し訳が立たぬ。

 どうせなら、胸を張って三途の川を渡りたいのだ。

 だが私のその言葉に龍は何やら目を細めた後、口元を僅かに釣り上げながらそのたてがみを逆立てた。珊瑚のような角から紫電が(ほとばし)り、辺りをかっと照らす。

 

『戯言は止めよ、幼き者よ。余は無駄な問答は好まぬ。三度目はない。確かに貴様は不思議な色を宿してはいるが、それは星の意思に()るものよ。星がかくあれと定めたのなら、貴様はそれに従うしかない』

 

 龍のその言葉には明らかな苛立ちの色と、これ以上無駄な問いを投げるようなら相応の報いを受けさせるという、彼、あるいは彼女の冷たい意思が籠っていた。

 改めて言うが、島をぐるりと一周できるほどの巨大な龍である。そう凄まれてしまえば、さしもの私も黙り込むしかない。

 

「いや、いや、気に障ったのなら申し訳ないが、もう一つだけ答えて欲しい。私は人が沢山暮らしているような町、いや村やら集落でもいいのだが、そんな島に行きたいのだけれど、お前さん、いや、貴方にそういったところまで送って頂くことはできるのだろうか」

 

 ほんの僅かな希望。だがそれは、数秒と待たぬうちに霞と消える。

 

『ならん。幼き同胞よ、赤子は揺り籠にて育つもの。良く育ち、善く生きよ。そうすれば悠久の時の中で、再び相まみえることもあるだろう』

 

「……そうか。それは、そうか」

 

 ぼんやりとだが、確信めいたものはあったのだ。

 私の翼では、島から離れた場所まで飛ぶことはできない。ある程度のところまで行くと、何故か翼から浮力が、あの不思議な力場が失われるのだ。

 はじめは島を中心に何らかの超常的な力が発せられていて、それが薄まることで力場の維持が難しくなる、そう捉えていた。だが、きっとそれは真実ではない。

 赤子と揺り籠、この龍はたった今そう表現した。恐らくはその比喩こそが真実に最も近いのだろう。つまり私には、この島から出る資格が、それに足る何かが決定的に欠けているのだ。

 それは肉体的な成熟、時間、あるいはもっと単純な、竜としての力なのかもしれない。

 だが一つだけ確かなことは、私はそう簡単にこの島から出られないだろう、ということだった。

 いや、待て。

 何か見落としている。重大な何かを。

 龍は島からは連れ出せないと言った。だが、町があることを、人がいることを否定はしなかった。

 

「やはり、人はいるのか!」

 

『いる。己を人と呼ぶ者たち。小さく弱い、愚かで賢明な生き物よ。同胞の中には人と共に生きる変わり者もいたが、姿まで人に似せる者は稀だ。だからこそ、余も興味を持った』

 

 やはり、やはり、この世界にも人は暮らしている。

 これまでは物的証拠からの推測でしかなかったが、これではっきりした。ならば、堪えられる。

 救いがあるなら、まだ踏ん張れる。

 

「そうか、そうか……!」

 

『月のように涙を流すのだな、幼い同胞よ』

 

 それはまるで海辺の波音のような、慈愛に満ちた声であった。

 そして何やら考え込むようにして数度唸り、やがて雨の香りのする吐息を漏らして小さく喉を鳴らしてみせる。何が何だか、龍の心中など察しようがないのだが、何やら腑に落ちるものがあったようだ。

 

『成程、それこそが其方の定めか。成程、成程。で、あればその色、その姿であるのも道理よ』

 

 何やら面白がってああだこうだ言っている。それぐらいは察することができた。

 そして、ここにきてようやく私は畏れ(・・)という言葉の意味を真に理解した。

 圧倒される。何もかも。

 九十と少しばかり生きてきて、それなりに老熟したと思い込んでいた我が身のなんと浅はかなことか。

 何百、いや、何千か。いったいどれほどの時を生き、どれほどの世を過ごせば至れるのか想像もつかない、命としての究極。何もかもを上回る、人間の力など取るにも足らない圧倒的な存在感。

 それはまさに、神にも等しい姿だった。

 

『気紛れも存外良いものだ。幼き同胞よ、汝の良き巣立ちを願っているぞ』

 

「あっ、ちょっと、ちょっと待て!」

 

 なんだその、如何にもそろそろお暇しますね、みたいな台詞は。

 にわかに焦りだす私を横目に、龍は首をもたげ、辺りには再び嵐のような暴風が吹き荒れ始めた。ああ、せっかく言葉を交わせる者と出会えたというのに、こんな短い時間で。

 手を伸ばす。

 言葉を探す。

 大いなる存在を、かの龍を私程度が引き止められるなどとは思っていない。だが、最後まで、奇跡的に得たこの機会を最後まで活かすために、私は叫んだ。

 

「名は、貴方の名を教えてほしい!」

 

 縋りつくような私の声に、龍は角を光らせながら言った。

 

狂飆(きょうひょう)と、人は余をそう呼ぶ。ではさらばだ、幼き月の朋よ』

 

 最後にそう言い残し、眩いばかりの雷光と共に龍はその姿を消した。

 あれだけの巨体がまるで幻であったかのように、今はもう影も形もない。ただただ無残に薙ぎ払われ、吹き飛ばされた燻製器やら、焚火台の残骸だけが、先程までの出来事が現実であることを静かに語っていた。

 空を見上げる。そこにあるのは雲一つない、美しい青空。

 

「とりあえず、まあ、足掻くしかないわなあ」

 

 角の付け根を掻きながら、私は気の抜けた声でそう呟くのだった。

 




待望の新キャラだよ!(即退場

ただこちらに関しては主人公と対にするつもりなので、後々再登場します。
あとこっちは人化します。ケモナーの皆様申し訳ない。


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嵐の後には夏が来る

 

 嵐と共に彼の龍が島を去ってから早三十日、ひと月の時間が流れた。

 今思い返しても夢のような時間であったが、あの龍がもたらしたものはその言葉や吹き荒ぶ嵐だけではなかった。あの嵐は島中の木々を吹き飛ばし、巻き上げ、少なくない破壊の後を残したが、逆にその風に乗って島へと流れてきた物も多くあったのだ。

 それは見知らぬ植物であったり、生物であったり、はたまた人工物であったりと様々である。勿論、あの縦横無尽に荒れ狂う嵐の中を流れてきた者たちであるので、その様相は凄惨という他なく、殆どが折られ、砕かれ、圧し潰されていた。

 だがその中でも奇跡的に形を残し、生き残ったものたちもいる。

 そういった漂流物を探し出し、収集するのもまた、今の私の日課となっていた。

 特に海岸はまさしく嵐の後といった様子で、陶器の端っこやぼろ布、木片、鉱石の欠片など、様々なものが漂着している。しかし磯場の陰で一抱えはある大きな鼠の死骸を見つけた時などは、年甲斐もなく声を上げて腰を抜かしてしまった。

 毛皮も肉も腐っていて使えそうになかったので、病気が広がらないようにと自前の炎で焼いて処理したが、それほどまでに様々なものが、今この島に流れ着いているのである。

 

「おっ、あったあった」

 

 そして今日も今日とて、変わり種がこの島へとやってくる。

 白い砂浜、渚のきらめきに混ざる異色。

 砂に刺さったそれを持ち前の怪力で引っこ抜いてみれば、それは大きな木箱であった。胴のところは四角く、上部の蓋はアーチ状になっており、私がすっぽり収まってしまいそうなほど大きい。縁取りには金の装飾が施され、正面に拳大の頑丈な南京錠が嵌められている。

 それは立派な、見れば見るほど絵に描いたような宝箱である。

 しかし引っ張り出したそれを見て、私の口から漏れ出るのは落胆を含んだ溜息だった。

 というのも、こういった宝箱染みた木箱を見つけるのは、実はこれが初めてではないのだ。

 物置き代わりにしている大樹の洞に、同じような木箱があと三つも眠っている。それぞれ金属製の錠前が取り付けられているのだがこれがどうにも頑丈で、石をぶつけようが、崖から地面に叩きつけようが一向に壊れる兆しがない。空高くから放り投げても壊れないのだから、これはもう尋常ではない。

 傾けてみると中から何やら転がったりぶつかったりする音がするので空では無さそうなのだが、思い切り踏みつけて足の爪がちょっぴり欠けてしまってからは心も折れて、どうせ食べ物ではないのだからと諦めてしまった代物であるのだ。

 そしてどうやら今回の木箱もその類であるらしく、両手で抱えて振ってみればじゃらじゃらと、何やら小銭のような音がした。

 どうせなら金物、鍋やら包丁やらでも入っていればやる気も出るのだが、人のいないこんな島で金目の物などいくらあっても腹の足しになるわけもなく、残念だが今回のこれも物置きで腐らせる羽目になりそうである。

 

「せめて鉄の外枠だけでも外せればなあ」

 

 どちらかといえば何かもわからぬ中身より、見えている金具が欲しい。

 箱の縁取りに使われている金属はどうやら鉄のようで、いつぞやか洞窟の入り口で見つけた例の石を近づけると、これが驚くことにぴったりと引っ付いてしまった。そう、あの石は大きな磁石であったのだ。

 正確には磁鉄鉱、つまりは鉄鉱の一種であり、これを原料にすれば製鉄すら可能なのだが、残念ながらその設備がない。たたら場ほどの大規模なものは必要ないが、製鉄用の炉を作るとなるとさすがに簡単ではない。

 幸い、今のところは鱗の鉈や斧で事足りているので、これもまた後回しになるだろう。

 そんなことを考えながら拠点へ戻り、持ち帰った宝箱を洞に押し込んだ後はお楽しみ、昼餉の準備を始める。

 今日の献立は小魚と貝を煮込んだ汁物と、新鮮な筍を焚火で焼いたものだ。

 そう、つい最近ではあるが、ついにあの竹林で筍を見つけたのである。丸々と肥えた身は瑞々しく、焦げた表面の皮を剥がせば真っ白な湯気が立ち上がり、その奥にある黄白色の身に食らいつけばコリコリとした心地よい歯ごたえと共に、豊かな風味がふわりと鼻先に抜けていく。

 実に美味い。だらしなく頬が緩んでしまうほどの美味しさであった。

 ここに醤油をたらせばどれほどのものかと思わずにはいられない。だが、その願望が叶うのはまだまだ先の話。今はまだ、耐えるほかない。

 筍を頬張りつつ、ちらりと我が家の方を見やる。そこには私の古臭い脳みそから絞り出した知識を元に、見よう見真似で作った魚醤の試作品が眠っている。

 魚醤。

 生魚、あるいは干物を大量の塩で漬け込み、発酵させた調味料である。

 地方によってはいかなご醤油と呼ばれるだけあって、いわば魚から作る醤油のようなものだ。ナンプラーといえば、聞き覚えのある者も多いのではないだろうか。

 これを今、我が家の枕元で作り始めている。

 複雑な工程が必要になる醤油と比べ、こちらは容器に生魚と塩をぶち込んで発酵させるだけなので非常に楽だ。非常に時間がかかるのが難点ではあるが、一年や二年でこの島から出られないということは、先の龍が語った内容からも察することができる。

 であるならば、今は焦るのではなく、落ち着いてどっしりと構え、長く安定して生きられる土台を作るのが先決であろう。

 と、尤もらしいことを並べたが、実のところは味に飽きたというだけの話だ。

 この試みが上手くいけば塩に加え、魚醤まで手に入ることになるのでかなり味に幅と深みが出せる。何より、焼き魚や野菜に醤油をかけられる。これに勝る喜びはないだろう。

 

「ゆくゆくはさしすせそを揃えてみたいものだが、難しいだろうなあ」

 

 砂糖、塩、醤油、酢、味噌。

 この内、砂糖と酢と味噌。これが実に面倒で、砂糖は蜂の巣などを探して蜂蜜で代用しようと思うのだが、酢と味噌、麹菌やら酵母菌やらが絡んでくるこれらが非常に厄介だ。

 そも、簡単にどうにかなるのなら職人はいらない訳で、高野山の坊主も四苦八苦しなかった筈である。こんな無人島でそれをどうこうするのは無謀とも思える。

 それにかまけて本丸が疎かになっては元も子もないし、これは諦めるのが賢明だろう。

 その辺りに麹菌でも歩いていれば話は別だが。

 事実は小説よりも奇なり、という言葉があるが、いくら何でも限度があろう。いや、化物染みた大猪や大鷲が襲ってきたり、龍が嵐とともにやってくる世界で限度も何もあったものではないだろうが、今のところ植物などにはそういった変わり種は出てきていないし、そうそう都合の良い生物もいないだろう。

 ともかく、今はやるべきことをやる。ただそれだけだ。

 と、いうわけで、私はまた洞の中に頭を突っ込んで鱗の斧を取り出すと、泉の周辺に並んだ木々の一本に力いっぱい打ち付けた。

 この島に長く滞在し、生き残ること。それが目標になってから私が取り組み始めたのは、拠点周辺の整地であった。畑や家屋を作るために木を切り倒し、根を掘り起こして土地を拡げるのである。

 設備が整えば、家畜など飼ってみてもいいかもしれない。いまだ野生の鶏などには出会っていないが、あれだけ大きな猪がいたのだから小さい猪も探せば見つかるだろう。

 食らう為に育てるのは残酷だと思うだろうか。しかし、やはり食肉の安定した供給と保存を目的とするのならば、野生動物の家畜化は最適解に近い。

 しかしどうせならば、まずは鶏を捕まえておきたいところだ。肉も卵も食用として利用できるし、何より飼いやすいし増えやすい。最近はめっきり空ばかり飛んでいたし、また地上を入念に探索する必要がありそうだ。

 

「ああいや、畑やったり家畜を飼うなら解決せんと駄目な問題があったなあ」

 

 私の腰ほどの細い木を切り倒しながら、溜息まじりに泉の方を見やる。そこでは、先月よりも少しばかりしゅっとした毛玉が我が物顔で毛繕いなどに没頭していた。

 やがてじとりとしたこちらの視線に気が付いたのか顔を上げ、そのくりくりとした黒い目でこちらをじっと見やり、やがて後ろ足で首筋のところをばりばりと掻きむしった。

 なんともふてぶてしい態度であるが、家畜を飼うのならばこいつにもきつく言い聞かせておく必要がある。

 何せ狸と言えば畑は荒らすわ家畜は襲うわ病気は移すわで、碌なことがない。私自身、友人の畑や家畜が散々な目にあっているのを幾度となく見てきたのだ。ここの狸には多少の知恵があるようだが、悪さをするようならそれなりの仕置きを考えなければならない。

 私は相も変わらずぐうたらとしている狸に歩み寄り、その腋にさっと手を差し込んで頭の高さにまで持ち上げた。でろん、と小さなあんよがだらしなく垂れ下がる。

 こうまでされながらもまるで抵抗しない呑気なその瞳をじっと覗き込んで、言った。

 

「いいか、ここが畑になっても、鶏が来ても悪さはするなよ。もし勝手に食ったり荒らしたりしたら、今度こそ鍋にしてやるからな」

 

 こんこんと言い聞かせる私に対し、狸はいつもの馬鹿みたいな顔をこてんと傾げて、わかったのかわかっていないのか、きゅう、と一度だけ鳴いた。

 本当にこいつは。

 というかこいつ、結構な頻度でここに入り浸っているが、狩りは大丈夫なのだろうか。

 しかもそろそろ本格的に夏の気配が漂い始める頃であるので、野生動物としては嫁さん探しに勤しまなければならない時期なのではないだろうか。

 

「お前さんも、もうちっとしゃきっとしていれば嫁さんも簡単に見つかるだろうに。ダメだぞお、楽ばかりしては。いいか、私が婆さんを嫁に貰った時などはそれはもう――」

 

 夏の空に、虫の声。ところにより、年寄りのお節介。

 あーだこーだと昔話を始めた爺を見て、狸はさも退屈そうに、くあ、と大あくびを漏らすのだった。

 




今回以降、ちょいちょい年数を飛び越えることがあります。
28年分ぎっちり書いたら三十年ぐらいかかるからね、仕方ないね。
申し訳ありませんが、宜しくお願い致します。


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竜娘だって出すもんは出す

※注意
今回う〇この話が出ます。
苦手な方はブラウザバックをお勧め致します。
これにより気分を害した等のご意見は受け付けませんので、宜しくお願い致します。



 

 しとしとと、雨が降っていた。

 霧雨である。

 肌をしとりと湿らせるような静かな雨が、ここ数日降り続いていた。

 夏の初め、そろそろ本格的に熱くなり始めるのではないか、という頃合いの長雨である。

 時期的に梅雨なのではないか、と勘繰ってしまう。

 いわゆる卯の花腐し、というやつだ。

 雨が降り続けるこの時期はどうにも気が滅入って仕方がないが、小屋に引き籠ってばかりではせっかく蓄えた食料も減っていくばかりである。

 こんなことでは冬備えなど夢のまた夢であるし、雨が降ろうが槍が降ろうが、人は飯を食わねば生きていけない。

 そんなこんなで私は昼過ぎになってからようやく、よっこらせと重い腰を持ち上げて、這いずるように我が家の扉をくぐったのであった。

 

「ああ、どうにも気が乗らんなあ」

 

 ぐっと背伸びをしてから、そんなことを漏らす。

 気持ちが沈み込んでいるのは、きっとこの天気だけが原因ではない。

 この島に来て、今日で九十日目となる。これだけの期間をただ孤独に過ごすと、枯れ果てた爺であれ思うところもある。いや、最期まで妻や子、孫に囲まれていた私であるから、人恋しくなるのも当然だったのかもしれない。

 つまりは、懐郷病(ホームシック)というやつだ。

 そういった願望が隠しきれなくなったのか、今朝はとうとう家族に囲まれていた、かつての懐かしい思い出を夢に見た。

 妻と子を連れて、地元の小さな遊園地へ遊びに行った夢である。

 目が覚めて己の目じりが濡れているのに気付いた時は、それはもう嬉しいやら悲しいやら、何とも言い表せない複雑な感情が胸中を渦巻いていた。

 そして何より、恐ろしかった。何せ、夢に見るまで息子たちの顔すら忘れかけていたのだから。長年寄り添ってきた妻の顔こそ鮮明に思い出せるものの、それに負けないほど愛していた息子たちとの思い出を失いかけていたことは、私にとっては死よりも恐ろしい出来事であった。

 そうして、一度家族たちのことを想ってしまえばそれは心の奥底に眠っていた未練を湧き上がらせる呼び水となり、こうして昼過ぎまで、情けなく部屋の片隅で惰眠を貪る姿を晒す結果と相成ったのである。

 気分はまさに本日の空模様にも似た、あるいはそれ以上の湿度の高さでもって、口から出るのは辛気臭いため息ばかり。これでは駄目だと頬を張り、ひとまずは作業に没頭しようと大樹の洞へと飛び降りたところで、雨宿りをしていたのだろう、全身濡れ鼠ならぬ濡れ狸になりながら身を震わせる先客を見て、私はそこでようやく笑うことができた。

 

「お前さんもすっかり馴染んじまったなあ。ちょっと待ってなよ、すぐ火を用意してやるから」

 

 そう言うと洞の奥から乾いた薪を幾つか取り出して、新しく拵えた雨避けの下で枯れ草などの火口(ほくち)と一緒に自前の炎で焼いてやる。数日雨が降り続き、湿気が多い中でも私の喉に不調は無い。

 やがて火が大きくなり、ぱちりぱちりと薪が音を奏で始めた頃、濡れぼそった狸は暖の取れる一番いい場所に陣取って、図々しい態度で毛繕いなどを始めた。私は枝に干し貝や肉を刺し、焚火で炙りながらぼんやりとそれを眺める。

 

「お前さん、名前でも付けてやろうか」

 

 そうして串焼きを頬張りながら、何の気なしにそんなことを口走っていた。

 それ自体に意味はなく、恐らくは己の孤独感を紛らわす為に無意識のうちに口から出た、自慰にも近い言葉であった。

 名を付ければ情が移ってしまうとずっと避けてきたことではあったが、どうにもこいつとの縁は切れそうな気がしないし、何より名など無くてもこいつに対してもうすっかり情愛を抱いてしまっているのは紛れもない事実であるので、名前を付けたところで大して変わらないだろうというのが正直なところだった。

 とはいえ、すぐに洒落た名前を思い付くような洒落た爺でも無いので、私はしばらく顎を撫でながら考えた結果、ぽんと手を打って。

 

「ごん、でいいか」

 

 なんとも適当極まるが、そう名付けられた張本人はちらりとこちらを一瞥した後、どうでもいいとばかりに毛繕いを再開した。手を打って喜ぶ、までは期待していなかったものの、何とも拍子抜けである。いや、我々にとってはこれぐらいの距離感が丁度良いのかもしれない。

 よし、と景気よく膝を打って、私は立ち上がった。

 何だ何だとこちらを見上げる狸、ごんの頭をひと撫ですると、串焼きを飲み下してぐっと翼を伸ばす。

 そうして翼をひと打ちして空へと飛び上がれば、向かうはもはや自分の庭も同然となったいつもの海岸である。いつも通り編み籠を尻尾に引っ掛けてひとっ飛びすれば、先の嵐でやってきた漂流物たちも粗方片付けられ、すっかり綺麗になった砂浜が見えてくる。

 きゅっと心地よい音を鳴らす砂の上に降り立てば、霧雨で濡らされ、首筋に張り付いた銀の髪を指先で弾いた。

 

「さて、それでは始めるとしようか」

 

 そうして私は砂浜にしゃがみ込み、砂の中に埋もれている大小様々な貝殻を拾っては籠の中に放り込み始めた。

 食えもしない貝殻など集めて何に使うのかといえば、焼いて畑に撒くのだ。正確に言えば畑にする予定の土地に、であるが。

 貝殻は焼いて砕けば有機石灰という、土の質を高める土壌改良剤として利用できる。

 石灰とはつまり炭酸カルシウムであり、このカルシウムが植物にとってとても大事なミネラルになるのだ。

 さらにこれはアルカリ性であるので、土に混ぜ込めば土壌の酸性を中和する効果がある。

 ややっこしい話になるので割愛するが、これが酸性のままだと土壌に植物の生長に必要な栄養素が溜まらず、作物の育ちが悪くなるのだ。

 あとは微生物の動きを活発にしたりだとか、カルシウムの補充など様々な効果があるが、窒素、リン酸、カリといった植物の生育にとって重大な三大要素は含まれていないので、これはこれで他から補う必要がある。

 そちらに関しては別で手を打ってはいるが、まずは土壌を整えなければ話にならない。

 それに石灰は色々と他にも使い道があるので、集めておいて損はないだろう。

 籠一杯に貝殻を集め終えると、磯場のかご罠に入っていた小魚やら貝やらを回収して小屋へと戻る。

 燻っていた焚火に薪をくべ、大きめの土器に貝殻を押し込めて火にかける。真っ白になったら細かく砕き、木の杭で仕切った畑の上に撒いていく。それが終われば石器の鍬で土を起こし、よく混ぜる。この時、土に混ざった小石や木屑は取り除き、塊になっているところがあればしっかりと砕いておく。

 これでしばらく寝かせれば畑として十分に利用できる土が出来上がるのだが、その前にもうひと手間加える。

 用意したのは一抱えはある大きな壺が二つ。口に縄をかけ、棒を渡して肩に担げるようにしてある。

 中に入っているのは堆肥、つまりは肥料だ。材料に関してはあまり言いたくないが、泉から少し離れたところに拵えた便所にあるものを使った。これで察して頂きたい。

 そこに溜まった物を汲みあげて、いつぞやか洞の中から掻き出した、枯れ葉やら枯れ枝やらが混ざった腐葉土のなりかけと混ぜて発酵させた。

 初めこそ強烈な悪臭を放っていたが、日が経つにつれそれは薄れ、今となっては一般的な動物性肥料とそう変わらない程度に落ち着いている。

 ちなみにこれは、りんごを植えた丘の上にも撒いておいた。いわゆる人糞ではあるが、竜の堆肥といえば少しは聞こえもいい。

 これも畑一面に撒いて、しっかりと混ぜていく。

 しとしとと雨が降る中での作業である。土が柔らかいのは助かるが、足は取られるは跳ねた土を顔に浴びるわで、一通りやり終える頃にはもうすっかりと泥だらけになってしまった。

 これだけ土いじりをしても全く腰が痛くならないのはありがたい限りだが、こればっかりは勘弁してもらいたいものだ。

 

「よし、さっさと水浴びをして夕飯にするか」

 

 額に浮かんだ汗を拭いながらそう言うと、私はいつも水浴びに利用している場所へと小走りで向かう。元は片田舎の爺とはいえ、いつまでも泥だらけでいて平気でいられるほど無神経ではない。

 そうしてさっさと身に着けた腰巻きやら防具やらを取っ払うと、ひんやりとした川の水を頭から被る。

 髪に纏わりついた泥を丁寧に取り除き、爪の間、鱗の間に入り込んだ汚れを丁寧に落としていく。

 と、そうしているうちに気になることがあった。

 何やら、胸にしこりのような違和感があるのだ。

 未だ手のひらに収まるほどのささやかなものではあるが、しかし触れてみると確かに固く、そして僅かな痛みがある。

 まさか、悪性の腫瘍か何かであろうか。真っ先に思い浮かんだのはそれであった。

 見たところ十代前半から半ば程の肉体ではあるが、十代で乳がんなどの悪性腫瘍を患う可能性だってあるのだし、ただでさえ人間離れした身体なのだから、それこそ地球上には存在しない病魔が潜んでいることだってあるだろう。

 ひとまず身綺麗になり、洗ったばかりの鱗の胸当てをあてがいながらうんうんと唸ってみるも、さっぱり心当たりがない。

 わからん。こればかりはお手上げである。

 妻ならば何か心当たりもあるだろうが、こちとら生まれてこの方ずうっと男子であったので、女子の身体の事情など知る由もない。

 娘を育てたこともあるが、当然ながらその辺りの相談は専ら妻の役目であったので、これもまた役には立たない。

 よほど強く揉まなければ痛みは無いし、痣や出来物など、他の症状も今のところはない。

 仮に悪性の腫瘍だったとして、どうせこんなところで外科手術など出来る筈もないのだからひとまずは様子を見ることにしようと開き直り、私は毛皮の外瘻を巻いて帰路へと着いた。

 まさかそれが、人生を通して初めてとなる険しい試練の始まりになるとは、その時の私には知る由もなかった。

 




※not 狐 but 狸


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それは甘く、切ないもの

 

 それは、まるで夢のような光景であった。

 

「いただきます」

 

 手を合わせ、私は白い湯気を立ち昇らせる茶碗に手を伸ばし、よく粒立った白米を箸で摘み上げる。なんとも香しいそれを口に含めば、噛めば噛むほど旨味と甘味が口内に広がっていく。

 その味わいに頬を緩めながら、次は皿に盛られた焼き魚の身をほぐし、白米と共にいただく。これが実に美味い。焼き魚の程よい塩気が白米の甘さを引き立て、互いの旨味が混ざり合い調和し、それぞれをさらに上の段階に高め合っている。

 さらにそれを豆腐の味噌汁で流し込み、こりこりとした沢庵漬けを挟むことで食感を変え、舌を飽きさせない。

 これはいかん。箸が止まらない。

 

「そんなに急がなくても、ご飯は逃げませんよ」

 

 あっと言う間に茶碗一杯の白米を平らげてしまい、名残惜しそうに箸を置く私の隣でそう微笑むものがあった。

 割烹着を着た若い女である。長い黒髪を一つに纏め、それを首筋から前に流している、どこか田舎臭い女であった。たれ目の端に泣き黒子(ぼくろ)があって、頬にそばかすの跡が残っている。

 女は畑仕事でがさついた指で私の茶碗を取り上げて、慣れた手つきで横に置いたおひつから白米をよそい、私の前にそっと戻す。その落ち着いた所作にどうにも気恥ずかしくなってしまった私がぎこちなく笑って礼を言えば、女はその夜空のような瞳をこちらに向けて、また静かに微笑みを返した。

 

「本当、――さんはせっかちなんですから」

 

 それはかつての幸せな日々。かけがえのない思い出であった。

 そう、思い出。過去の出来事である。

 もはやとうに過ぎ去った、あるはずのない光景。

 景色が歪む。

 あの温かい、穏やかな日々が薄れていく。

 あの懐かしい味も、最愛の人の穏やかな表情も、己の意識さえもその色彩を失って、墨を溶いたように薄まり、歪み、混ざり合っていく。

 そうして辺りが薄暗がりに落ちた後、ふっと私の目の前に立つ者があった。

 それは銀の髪を腰まで伸ばし、夜色の肌をした、目の覚めるような美しい少女であった。腰はきゅっと細く、幼い体つきながらもどこか魔性めいた色香を感じさせる。

 そして蜥蜴(とかげ)のような瞳孔をした赤い目が、暗闇の中で怪しく光っていた。

 少女は、何も語らない。ただ静かにこちらを見つめ、鱗の並ぶ大きな尾を揺らすだけ。しかしその瞳はまるで何かを諭すような、慈愛とも憐憫ともとれぬ色を孕んでいた。

 さっと、暗闇を銀色の光が払う。

 現れたのは二重の月。まるで目の前にあるかのような巨大なそれは少女の背後を優しく照らし、その艶やかな肢体を縁取っていく。

 月光が少女を照らし、銀の光が少女を包み込む。

 それはまるで銀色の糸。静かに、そして優しく少女を包み込み、月明りで浮かび上がったそれは巨大な繭のようであった。

 そしてその繭の中で、何かが揺れる。巨大で、強靭で、何物にも犯しがたい何かが。

 そうして繭を突き破り、生まれ出でたものこそは――

 

「んが、米、おかわり……」

 

 そんな、何とも言えぬ間抜けな寝言と共に、私は目を覚ました。

 何やら随分と懐かしい、そして不思議な夢を見ていたような気がする。

 大方、生前の思い出でも夢に見たのだろう。この島での生活もいよいよ百日の大台に乗り、私の精神も随分とすり減ってきたと見える。

 

「しかしこれは、酷いな」

 

 そう呆れながら、私は口元に塗りたくられた大量の涎を拭う。

 普段私は背にある翼と尻尾が邪魔にならないよう、だいたい横向きかうつ伏せの体勢で眠るのだが、そのおかげで寝床に敷いていた毛皮はそれはもう涎まみれのぎっとぎと。赤子でもこうはなるまいというぐらいの汚しっぷりであった。

 これはもう、一度洗って干してやらないと使い物にならないだろう。

 

「それほど腹は減っていないのだけどなあ」

 

 可愛らしい臍が乗った腹を、そっと撫でる。

 よほど美味い物を食う夢でも見たのだろうか。特に私は妻の作った飯には目がなかったので、新婚当時のそんな夢を見た日には、もしかすればこうもなる、かもしれない。

 

「まったく、こっちはそれどころではないというのに、我ながら呑気なものだ」

 

 泉の水で毛皮をざぶざぶと洗いながら、私は肩を竦めた。そんな私の胸には、毛皮で拵えたさらし(・・・)が巻き付けられている。

 こうしておかなければ寝転んだりした時にひどく胸が痛み、とてもではないが眠ることができないのだ。

 原因は、先日から感じていた胸のしこりにあった。はじめはすわ悪性の腫瘍か、と慌てたものだが、さらしを巻き始めたことで徐々にその正体についても察しがついてきた。

 勿体ぶっても仕方がないので結論から言えば、これは恐らく成長痛である。

 どうやら中身が爺でも身体はしっかり育ち盛りの女子のようで、日々さらしを巻き、注意深く観察していたことで、己の胸が僅かながらに膨らんできていることに気が付くことができたのである。

 私自身、背丈が伸びる際の成長痛に泣かされた苦い思い出はあれど、それももう随分と昔のことで、まさか女子の胸にも同様のことが起こるなど、露にも思っていなかった。

 正直、どこまで大きくなるのかと、今から不安で仕方がない。

 この世の女性たちには誠に申し訳ないが、あまり大きく膨らまれると動くのに邪魔になりそうなのだ。特に、左右に揺れるほどになれば走るだけでも影響が出るだろうし、何よりうつ伏せで寝ることが多い私にとっては、これが邪魔になるのは何よりも辛い。

 柔らかい布団やらマットレスがあればまた違うのだろうが、生憎ここにあるのは固い竹の床とごわごわした毛皮だけである。つまり、潰れた乳はそのまま身体を押し上げてくるのだ。邪魔以外の何物でもない。

 幸いなことに、今はまだ手で包んで少し余るぐらいであるので、そこまで影響は出ていないが、これから先のことを考えると何とも頭の痛くなる問題であった。

 いや、女子としては大きいほうが良いのかもしれないし、乙女の身体を好き勝手に扱っている爺が言えたことではないのかもしれないが。

 ともかく、大きくなるなと唱えたところで成長が止まる筈も無し、こちらはしばらく様子見である。

 

「さてと、それじゃあ今日も頑張って生きようか」

 

 さらしに腰巻き、編み籠に鱗のナイフと、いつも通りの格好に加え、今回は枯れ枝とドクダミを少々持っていく。

 向かう先は拠点から山を挟んだ向こう側。断崖絶壁が並ぶ岬の手前に広がる森の中。

 そこにある大きな木の洞に、面白い物を見つけたのだ。

 その当時は装備も揃っておらず、泣く泣く拠点まで引き返してきたが、今回はそうはいかない。

 育った胸の分、心なしか少しばかり重くなった気のする身体で空高く飛び上がる。珍しく本日は快晴であり、遠くの空には大きな入道雲が見えていた。

 燦々(さんさん)と照り付ける心地良い陽光を背中に浴びながら目的地へと降り立った私は、目をつけていた大木を少し離れた場所から覗き込み、しめしめと笑う。

 一見すれば、何の変哲もないただの木である。だが、その大きく開いた洞の周りには小さな蜂が数匹たむろしており、時折どこからか別の蜂が飛んできては、その洞の中に出入りしていた。小さな体に丸い胴、黄と黒の縞模様をした尻。間違いない、蜜蜂である。

 つまりあそこには、彼らの巣があるのだ。そして蜜蜂の巣とくれば、そこには甘い甘い蜂蜜がたんまりと貯め込まれているに違いない。

 蜂蜜。この島では極めて貴重な甘味である。

 これを頂戴しない手はなかった。

 私は用意した枯れ枝とドクダミに火をつけると、樹を燃やしてしまわないよう細心の注意を払いながら立ち上る白煙を洞の傍まで近づけ、翼を使って中へと送り込んだ。

 こうして巣にいる蜂たちを追い出して、その間に巣の一部を頂戴する算段である。

 ドクダミを混ぜたのは、何やら薬草を燻すと鎮静効果があるらしいと小耳に挟んだことがあったからなのだが、ドクダミにも同様の効果があるかは定かではなく、まあ無いよりはましだろうと、そのような曖昧な動機であった。

 やがて、何事かと巣から大量の蜂が飛び出してきた。あっという間に木の周りは、文字通り蜂の巣をつついたような大騒ぎである。

 凄まじい羽音が耳元で鳴り響く。幸いなことに今のところ襲ってくる様子はないが、相当気が立っているようなのでさっさと目的の物も頂くとしよう。

 そうしておっかなびっくり洞の中を覗き込めば、黄金色に輝く大きな短冊がひとつ、ふたつ、みっつ、おおよそ六つほど。樹の大きさにふさわしい、立派な巣である。

 今回はそのうちの一つだけ、一番小さいものを頂戴した。本当は一番大きなものを持って帰りたいが、一人分ならばこれでも十分であるし、何よりこの巣にはこれからも何度かお世話になるだろうから、なるべく小さいものを選ぶことにした。

 何であれ、一方的に巣を壊され、持ち去られる奴さんからすればたまったものではないだろうが。

 

「あいて、こら、こら、すまん、ご勘弁を!」

 

 これまで穏便に済ませてくれていた蜜蜂たちも、巣を崩すために手を突っ込んだ無礼者には容赦しなかった。翼があろうが鱗があろうがお構いなしに、外敵から家族を守るために殺到してきた。猛毒を持っている訳ではないだろうが、無数の蜂に集られて平気でいられるほど図太い人間という訳でもなく、最終的には翼で身体を包み込みながら、這う這うの体で海岸まで逃げ帰る羽目となった。

 ともあれ、抱え込んだ腕の中には一抱え分の大きな蜂の巣が甘い香りを立ち昇らせており、苦労した甲斐は十分にあったと言えるだろう。

 晴れ渡った空の下、鮮やかに広がる大海原を眺めつつ、私は艶やかに煌めく、甘い甘い指先を舐め上げ、満面の笑みを浮かべるのであった。

 




やったね爺ちゃん、甘味が増えるよ!


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真夏のドラゴン娘

四十度って人間が生存できる限界超えてると思う(真顔
皆様も熱中症にはくれぐれもお気をつけて、健やかにお過ごしください。


 

 雨季、梅雨が明ければ何が来るか。

 言わずもがな、夏が来る。

 暑い、暑い夏が来る。

 

「暑い……」

 

 ひんやりとした竹に頬を押し当てながら、私は蛙のようなうめき声を漏らす。

 暑い。うだるような暑さである。

 大樹の陰に隠れているお陰で朝方はまだマシだが、昼頃になるとじわじわと炙るように太陽が照り付け、家の中にいても滝のような汗が流れる程であった。こればかりは、日当たりの良い場所に小屋を建てた私の失敗である。

余談ではあるが、鱗に覆われている脚や尻尾、翼には汗腺が備わっていないようで、これらの部位から汗が染み出ることはなかった。

 しかし、この身が龍だと言うのならば生命力もそれなりの筈で、偏見ではあるが暑さ寒さにもめっぽう強い印象があったのだが、やはり創作物と現実は異なり、そうそう美味い話などありはしないということなのだろうか。

 

「しかしこれは、何とかしないとなあ」

 

 額の汗を拭い、尻尾を氷枕替わりに抱いてみる。ひんやりとした鱗の感触がただただ心地良く、しかしそれも身体の熱が伝わってあっと言う間にぬるま湯のようになってしまった。いや、そもそもとしてこの尻尾も私の身体の一部であるので、ここに熱を移したところであとで本体(胴体)の方にその何割かが返ってきそうで、ほんの一時しのぎにしかなっていないようにも思うのだが、そう考えると何とも気が重たくなるので気にしないことにした。

 しかし、こうなってくると恐ろしいのは熱中症だ。

 高温多湿の日本で暮らす人間にとっては馴染み深く、その対策も広く認知されているにも関わらず毎年多くの死者を出している、非常に厄介な病気である。

 まあ日本の場合は室温を適切に保つ、こまめに水分を摂る、外出を避けるといった対策をとることが業務上難しい、あるいは責任者諸々があえて指示しないというブラックな一面も、また被害を広げる一因となっているのだろうけれど。

 そして我々高齢者にとって警戒すべきは、室内での熱中症だ。

 日の当たらない室内にいれば安全、というのは大きな間違いで、例え室内であっても水分、ミネラルの補充は必須である。これをしっかり行っていないと最悪の場合、ちょっと昼寝をしている間に熱中症で身動きが取れなくなり、そのまま帰らぬ人に、なんてこともある。

 熱中症のサインはまず筋肉痛、眩暈、頭痛。この辺りが出始めたらすぐさま対策を講じた方が良い。症状が悪化すれば意識が朦朧とし、手足の筋肉が正常に動かせなくなり、痙攣(けいれん)などが起こる。

 応急処置としては日陰などの涼しい場所へ移動し、衣服はなるべく薄着に、首や手首、(わき)などの太い血管が走っている部位を濡れタオルで冷やすなど、とにかく体温を下げることを優先する。あとはやはりスポーツドリンクなどで水分、塩分を補給し、症状が落ち着いてくるまで動かない。治まらない場合は早急に救急車を呼ぶこと。

 症状が進めば脳や内臓に後遺症が残るほどの大病である。決して軽視せず、我慢することは己の命を掛け金に博打をしているのと同義であると自戒すべきである。

 と、ここまで長々と語ったが、生憎ここにはスポーツドリンクなんていう便利なものは存在しない。何せ塩ですら貴重品だ。冷房器具はおろか、氷を手に入れることすら難しい。

 

「仕方がない、川に行くか」

 

 泉に近い上流であれば程よく冷えている筈であるし、とにかく体温を下げなければ本当に茹蛸(ゆでだこ)ならぬ茹でドラゴンになってしまう。これまで生活基盤を整え、何とかやってきたのに熱中症でぽっくり、なんて笑い話にもなりはしない。

 そうして重い腰を上げて外に出てみれば、洞の中でひっくり返っている間抜けな狸を見つけた。腹を上にして、気持ちよさそうに昼寝を楽しんでいたようだ。

 

「ごん、お前は相変わらず呑気だなあ」

 

 私がそう声をかけると、仰向けになっていたものがうつ伏せになり、丸い尻の向こうから小さな寝惚け(まなこ)が二つ、ちらりとこちらを見やった。

 随分なだらけようであるが、まあ、これでも蔵の番としては十分に働いているようで、ごんが我が家の周りをうろつき始めてからというもの、我が家の蔵や食料に鼠が入り込んだ様子はない。以前は数日に一度、捕まえた鼠を咥えてやってきていたが、それもここ最近はめっきり無くなっていた。

 間抜けそうに見えるが、抜け目のない狸なのである。

 暑くなってきてからはこうして涼しい洞の中か、自分の巣穴でのんびりとやっているようだ。

 こちらを一瞥した後、何事もなかったかのように昼寝を再開する居候の様に呵々と笑い、私は当初の目的通り、泉にほど近い川辺へと向かった。

 

「おお、冷たい冷たい。これは気持ちが良いなあ」

 

 そうして身に着けた物を全て取っ払い、石ころだらけの川底に足を突っ込んでみれば、やはり川の水はとても良く冷えており、思わず肩を震わせるほどであった。

 だがそれも初めだけのことで、熱せられた鱗が表面からじわりじわりと冷やされていく感覚は生前では体験したことのない、得も言われぬ気持ち良さであった。

 やがて私は川底にぺたりと座り込み、腰まで水に漬けると翼を大きく広げ、川の上に流れる涼やかな風を受け止める。どうやら翼の皮膜には細い血管がいくつも走っているようで、これを広げて冷やしてやるとこれもまた筆舌に尽くしがたい心地良さがあった。

 しかし、それでも木漏れ日がじりじりと頭を焼いてくるので、今度は冷水をすくい上げ、頭から被ってみた。

 直後、脳髄から足の爪先まで、形容しがたい感覚が稲妻の如く走り抜ける。

 

「はあっ……!」

 

 口をついて出た嬌声に、思わず両手で口元を覆った。

 角だ。

 直感的に、そう確信した。

 どうにも角の根元、生え際の部分が想像以上に敏感であったらしい。そこに突然冷水を浴びせたものだから、角が驚いてしまったようだ。

 まるで首筋に氷の塊でも押し当てられたような感覚に、そっと(うなじ)を撫でる。

 老いも老いたる男が情けない声をあげてしまったと意気消沈しつつ、次は驚かせないようにゆっくりと髪を冷水で梳いてやった。

 川の流れに沿い、きらきらと煌めく銀髪をぼんやりと眺めていると、ふとその向こう、岩陰に何やらきらりと光るものがあった。どうやら川魚が数匹、身を寄せ合うようにして集まっているらしい。

 そういえば、今日はまだ何も口にしていなかったな。そんなことを思い出し、ここはひとつ涼のついでに魚でも獲ってみようかと私は舌なめずりをした。

 イワナか、鮎か、いずれにせよ川魚だ。捕まえて串を打ち、塩焼きにすればこれ以上ないご馳走になるだろう。

 釣り竿も網も無いが、水深が浅い場所であれば魚を獲る方法はいくらでもある。

 そしてお(あつらえ)え向きに、魚たちが集まる岩陰の傍には一抱えはありそうな大きな石が、ちょこんと頭を出していた。で、あるならば、方法はひとつだ。

 私は魚たちを驚かせないよう静かに川から上がると、子供の頭ほどある石を持ち上げて勢いよくその石へと振り下ろした。

 がつん、とけたたましい音が木霊する。

 振り下ろした石は粉々に砕け、やがてそのすぐ傍から、目を回した魚たちが腹を上にして水面へと浮き上がってきた。

 これは石打漁、あるいはガチンコ漁と呼ばれており、石を打ち付け、その音や衝撃で水中の生き物を仮死状態、あるいは殺してしまい、浮かんできた魚を集めるのだが、水中の生き物を無差別に殺め、そして乱獲に繋がる為、日本では禁止されている方法である。

 ともあれ、ここは日本ではなく、それどころか地球ですらない異世界であり、さらに人っ子一人いない無人島であるので、生態系を壊してしまわないように配慮、自制こそ必要ではあるものの、罰せられる法律などあろう筈も無い。

 

「しかしまあ、加減はせんとなあ」

 

 何しろこの馬鹿力である。下手をすれば石どころか、川底ごと砕いてしまいかねないのだ。

 そうなれば川の環境が変わり、最悪の場合は川魚がいなくなってしまうかもしれない。

 目先の利益に惑わされた結果、後々取り返しのつかない事態に繋がるかもしれないことを忘れてはならない。

 浮かんできたマスによく似た魚を捕まえながら、そう戒める。

 しかし、まあ、それはそれとして、思い返せば魚用の罠はいつもの磯場に仕掛けてばかりで、川魚を食するのは意外にもこれが初めてのこと。ついついその味を想像し、腹を鳴らしてしまうのは仕方のないことであった。

 よく脂が乗った、二十センチほどの鮎である。これが三匹。

 私は鱗のナイフで腹を開き、さっと内臓、エラを取り出して血合いを綺麗に処理すると、拠点まで戻って串を打ち、さっそく焚火で炙り始めた。

 川魚は海の物以上に寄生虫が怖いので、弱火でじっくりと、過剰なぐらい時間をかけて焼いていく。

 やがて表面の水分が弾け、胸鰭(むなびれ)が黄金色に代わり始める。

 まだ我慢。

 香ばしい香りが漂い始め、開いた腹から脂が滴り始めるも、まだ我慢。

 

「それでは、いただきます」

 

 そうして皮が僅かに焦げ始め、振りかけた塩が固まり零れ落ち始めた頃合いを見計らい、背中から齧りついた。

 ぱりっとした皮の心地良い歯応えの後、程よい弾力があり、しかし少し力を込めればころりと解れる柔らかな白身の甘さが皮の塩気により引き立てられ、染み渡るように口内に広がる。この暑い空の下、さすがの魚たちも少しは瘦せ細りそうなものであるが、これはしっかりと脂が乗っており、舌に絡みつくようであった。

 美味い。美味い。

 付け合わせには貝の干物で出汁を取ったお吸い物を用意したのだが、これもまた美味い。

 汁を啜り、口内の脂をさっと洗い流してまた一口喰らい付く。これがもう、止まらない。

 そして川魚三匹とはいえ貴重な食料。大切な命を頂くのであるから、頭の身、目玉までありがたく、あっという間にぺろりと平らげて。

 

「ごちそうさまでした」

 

 そうして残された白い骨に手を合わせ、私は頬に流れる汗を拭う。

 

「しかし、暑いなあ……」

 

 もうこれは、日が暮れてから働いた方が良いのかもしれない。

 脂で甘くなった串を咥えながら、私は燦燦と輝く太陽を睨みつけるのだった。

 




※ガチンコ漁は日本では禁止されています。絶対に真似しないでください。
竜娘はあーだー言い訳してますが普通に生態系が崩壊します。


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新たなる隣人

 

「参ったなあ」

 

 夏の盛りを過ぎ、しかし依然として猛暑が続く森の中。仕掛けておいた罠を見回っていた私は、流れる汗を拭いながら溜息交じりにそう零した。

 目の前には罠にかかった兎、あるいはそれに近い動物の足がぶら下がっており、鼻が曲がりそうな程の腐臭を放っている。集っている蠅やら羽虫やらの羽音がやかましく響き、それらを手で払い除けながら、私は思わず顔をしかめた。

 昨日の昼間に見回った際にはまだ罠は作動していなかったし、傷み具合から見てかかったのは恐らく昨日の夜中頃だろう。ここまで傷んでしまうと、もはや利用価値は無いに等しい。

 いや、それはいい。せっかく捕まえた獲物を横取りされたことは残念だし悔しいが、問題は誰がこれをやったか、である。

 罠が作動し、獲物は私の胸の高さ、おおよそ一メートル前後まで吊り上げられたはず。狸などの小型の捕食者では捕まえるには難しい高さだろうし、何よりいくら小動物とはいえ、骨ごと食い千切る程強靭な顎は持っていないだろう。

 と、なると、必然的に下手人は大型の肉食獣となる訳だが。

 地面を見る。僅かに獣臭さが混ざる空気の中、地を這うように罠の周囲を確認し、そして見つけた。

 恐らくは獲物を横取りした捕食者の足跡。

 三角形の上に、丸い指の跡が四つ。どれも、私の拳より一回り以上は大きい。

 熊か。いや違う。熊は前足と後ろ足で違う形になる筈だし、何より爪の跡が残る。同様の理由で狼など、イヌ科の動物も除外。

 残る可能性は、一つ。

 大型のネコ科の動物だ。爪を出し入れできる彼らであれば、足跡に爪の形は残らない。

 それも足跡の大きさ、歩幅などから、足跡の主はかなりの巨体であると察することができる。そしてここが深い森の中ということを考慮すると、おのずとその正体は絞られるのだが……。

 

「大猪の後釜は大虎と来たかい。まったく、笑えない冗談だ」

 

 参った。

 私は思わず天を仰ぎ見た。

 もし本当に足跡の主が虎であった場合、その縄張りは雄であれば十数キロメートルに及ぶ。にも拘わらず、つい先日まで気配すら感じさせなかったところを見るに、大猪がいたお陰でなかなか広げることが出来なかった縄張りを、ここぞとばかりに広げてきているのだろう。

 あるいは、何らかの方法で最近この島に渡ってきた新参者か。

 いずれにせよ、面と向かっての争いならば負ける気はしない。何しろ、こちらには自由に空を飛ぶ術があるのだから。

 あちらが襲ってくる前に、空に飛びあがって上から炎を吐き掛ければそれで終わりである。どれだけ鋭い爪や牙を持っていても、それが届かなければ意味がない。

 問題は、気配を消して突然襲い掛かってきた場合だ。

 野生動物は、それが怖い。

 流石に泉の近くまでは進出していないだろうが、それでも野草集めや薪拾いの際に背後から襲い掛かられればひとたまりもないだろう。

 特に、虎であればなおさら得意分野だ。

 彼らは気配を消して獲物に忍び寄り、一息に襲い掛かって仕留める狩りを得意とする。

 チーターのように獲物を追い掛け回したり、ライオンのように群れで襲ったりはしない。

 一撃で、獲物の喉笛に食らいつくのだ。

 虎の噛む力はおおよそ三百キロ以上。これにかかれば、人間の頸椎などひとたまりもない。

 まさしく必殺の一撃と言ってもいいだろう。

 だが、そんな恐ろしい彼らであっても、何も手当たり次第に襲い掛かる訳ではない。

 

「ああ、こいつかあ」

 

 周囲を警戒しつつ探索を進めると、すぐ近くの樹の幹に、強烈な臭気を放つ不自然な染みを見つけた。スプレーと呼ばれる、ネコ科の動物が縄張りを主張する為に尿を吹き付ける臭い付け行動で、猫を飼った経験がある者ならば一度は耳にしたことがあるだろう。

 位置は私の頭ぐらい。すぐ傍には爪を研いだ後だろう、無残に皮が剥がされた樹も見つけることができた。

 この臭いは、しっかりと覚えておいた方が良い。

 最近はかなり鼻が利くようになってきた私ではあるが、何しろあの大猪でさえ、あれほど見事に気配を消して見せたのだ。息をひそめ、足音すら消してみせるネコ科の肉食獣であれば、まさしく自然と同化することすら可能だろう。

 だからこそ、臭いは重要なのだ。いくら気配を殺そうと、臭いだけは誤魔化せない。

 もっとも、これも臭いが流れてこない風下から忍び寄られると意味がないのだが、覚えておいて損はない。

 見つけ出して駆除するか、とも考えたが、森に潜む野生の虎などそう易々とは見つからないだろう。虎の縞模様には迷彩効果があるので、空から探すことも難しい。

 大猪の時のように落とし穴を仕掛けてみるか。

いや、あれは作るのに相当時間がかかるし、何より木々が密集し、足元も悪い森の中に、虎を捕らえられる大きさの穴を掘るのはほぼ不可能である。

 近くに水場などがあれば相手の行動を予測し、罠を仕掛けることもできるが、この辺りの水場などあの泉か山の向こう側にある川ぐらいのものだ。もしかすれば森の中に別の水源があったりするのかもしれないが、それを探すのもまた骨が折れる。

 つまりは、まあ、八方塞がりというやつだ。

 しかし八方塞がった状態であれ、備えは必要である。虎相手に人間が出来ることなどたかが知れているが、備えあれば患いなしとも言う。やっておいて損はない。

 縄張りの範囲をおおよそ把握し、拠点へと戻ってきた私は洞から素材を幾つか引っ張り出し、さっそく道具作りを始めた。

 まずは木の棒を幾つか束ね、三十センチほどの板の形になるよう整えた後、その上に節を取り除き、平たくした竹を何枚も重ねて固定する。

 そうして反対側に持ち手を取りつければ、簡易的な盾の出来上がりだ。

 ともあれ、いくら頑丈な竹とはいえ、虎が相手では少し心許ない。故に、この盾は爪を防ぐ為ではなく、噛みつかれた際に虎の口を塞ぐ為に使う。盾が虎の口に挟まっている間に空へ飛び上がり、難を逃れようという算段であった。

 要は、使い捨ての盾である。

 次は、弓を作った。

 こちらは私の胴程はある丸太から形を削り出し、木の皮を乾燥させ、捻じり合わせて作った弦を張ったのだが、これが結構な手間で完成には一晩かかった。

 何が手間かと言えば、私自身の膂力が予想以上に強かったのである。これにより生半可な物では引いた瞬間に弦が切れたりだとか、弓が折れたりだとかしたのだ。

 力加減を考えれば問題はないのだが、咄嗟に構えて壊れてしまうような道具に信は置けないと度々作り直し、最終的にはかなり大型化した、私の身の丈ほどはある強弓が出来上がった。

 日が昇り、仮眠から目覚めた私はこれを見て悪い癖が出た、と我ながら頭を抱えたものだ。

 それもそのはず。森の中での遭遇戦を想定して作っていたのに、出来上がったのはどう考えても森の中では取り回しの利かない大弓なのだから、頭の一つも抱えようというものだろう。

 理想は腕の長さ程度の短弓であったのだが、作ってしまったものはもうどうしようもない。どんな獲物でも仕留められる逸品が出来上がったのだと思うことにする。

 矢には竹を使い、(やじり)には鱗の破片を、矢羽根にはいつぞやか仕留めた大鷲の羽根を加工し、樹脂で張り付けた。

 数はひとまず十本ほど。

 鱗は水浴びの際などに勝手に剥がれ落ちる時があるので補充が利くが、大鷲の羽根には限りがあるので射た後はしっかりと回収して使いまわすことにする。

 丸太相手に試し打ちをしてみれば、さすが私の膂力にも耐えうる強弓というべきか、引き絞られた矢は甲高い金切り音と共に丸太を掠め、その側面を僅かに削ぎ取って後ろの樹へと突き刺さった。

 威力は申し分なさそうだが、いかんせん狙いを定めるのが難しい。

 思えば九十余年生きてきて弓を扱うなど初めてのこと。こればっかりは練習しなければどうしようもない。

 続いて、防護柵と鳴子を拵えた。

 防護柵は広場を拡張する際に切り倒した丸太の先端を削り、互い違いに組んだ簡易的なものを幾つか。鳴子は植物の蔓と竹、そして木の板を組み合わせて作った。足元に張った蔓に引っかかると、吊るされた竹筒が揺れて木の板を叩き、音が出る仕掛けだ。

 これで何者かが拠点に近づけば、それをいち早く察知できるようになった。

 それぞれ完成するまでに三日。食料集め等の空いた時間を使っての作業であったが、予想よりも時間がかかってしまった。

 しかし、これでひとまずは寝込みを襲われる心配はない。

 あとは不用意に縄張りの中に入らない。くくり罠を設置しない。探索を行う場合は上空から。

 これを守りさえすれば、そう襲われることはないだろう。

 野生動物だって馬鹿ではない。下手に手を出して、逆に痛手を負いかねない未知の生物(人間)相手には慎重になる筈だ。

 理想は互いに距離を置き、縄張りには踏み込まない共存共栄であるが、元々が狭い島の中であるし、相手は野生動物だ。人間の意思でコントロールできるような存在ではない。

 最悪の場合、互いに生存を賭けた殺し合いになるだろう。

 

「虎の肉なんて食えたもんじゃないだろうし、争いごとは勘弁してくれないかなあ」

 

 溜息交じりに零した言葉は鳥の声に紛れ、雲の合間に消えていった。




頭胴長(体長)140 - 280センチメートル。
体重90 - 306キログラム。
尾長95 - 119センチメートル。
※Wikipediaより

異世界に放り込んでも普通にやっていけるスペックですよね(猪もだけど)


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竜虎相搏

グロ表現があります。
苦手な方はご注意下さい。


 

 獣の痕跡を発見してから、早十日が過ぎた。

 あれから森の中を探索し、虎と思われる獣の縄張りがどの程度の規模か、その大まかな範囲は把握することができた。

 どうやら奴さんは予想よりもかなり狭い、しかし島全体で見ればそれなりの範囲を縄張りにしているようで、具体的に言えば島の中央、あの一つ山とそこから流れる川の殆どが縄張りの中に納まっていた。

 どうやら前回、川の辺りを探索した際に出くわさなかったのはかなりの幸運であったらしい。あるいは、当時はまだ川の付近にまで縄張りを広げていなかったか。

 いずれにせよその範囲、境界を把握したことで今のところ獣に襲われることもなく、今まで通りの日々を送れている。

 ただ、幾つか変化はあった。

 一つは、最近になって獣の縄張りが広がる様子を見せなくなったこと。ほんの数日前までは森の中で新たな痕跡などを見つけることが出来ていたのだが、これがぱったりと無くなった。

 もう縄張りを広げる必要が無くなったのか、あるいは他のことに気を取られているのか。

 そしてもう一つは、私の第六感というか、本能というか、そういった直感的な部分の変化。

 何というか、ずうっと角の辺りがむず痒いのである。

 今までに何度かあった、異常を察知してのざわつきとはまた違う感覚で、何というか、落ち着かない。

 異物感というか、嫌悪感というか、そう、頭を洗っている時、背後に何者かの気配を感じた時のような、形容しようのない不気味な感覚。それに近い。

 それがここ数日ずっと、起きていても、寝ていてもまるで影のようについてくるのだ。

 そんな状態で安眠など出来ようはずもなく、今日も今日とて私は目の下に大きな(くま)を作り、欠伸を噛み殺しながら身支度を済ませ、空へと上がる。

 背には大弓、腰には矢筒とナイフ、そして手には鱗の槍を持ち、竹の盾は蔓でベルトを作って尻尾の先端に固定できるように工夫した。こうして尻尾で盾を扱うことで、槍や弓を取り回す際も邪魔になることはない。

 たかだか尻尾と侮るなかれ。こう見えて私の体重程度なら軽く持ち上げる力があるのだ。

 そうして、完全武装の上で私は違和感の元、その気配が強くなる方へと向かう。

 どう考えても善いモノではない、悍ましさすら感じるモノではあるのだが、その正体を確かめないことには私に穏やかな夜が訪れることは二度とない。であるならば、どれだけ気が乗らなくとも確かめねばなるまい。

 

「うっ、なんだこれは」

 

 そして、異変はすぐに見つかった。上空にも届く程の強烈な悪臭が、森の一角から立ち昇っていたからである。チーズとくさやを混ぜ合わせて腐らせたような、筆舌に尽くしがたい臭いに私は思わず鼻を摘み、目を細めた。最近は自分でも猫か犬かと思う程に鋭くなった嗅覚であったが、それがここにきて完全に裏目に出た。ほんの少し、せいぜい一息程度であったにも関わらず、まるで鼻孔の裏に纏わりつく様な悪臭に涙まで浮かんでくる。

 しかし、いかに鼻が潰れそうな臭いであろうとも、明らかな異変を前にして逃げ帰ることなどできようはずもない。鼻を摘み、えずきながら臭いの原因を探すこと少し。森へと降りた私の目の前に広がっていたのは、予想を遥かに超える、目を背けたくなるような惨状だった。

 動物の死骸である。

 背は三メートル以上。胴回りは私が二人横に並んでなお余るほど。しかし筋骨隆々で逞しいその肉体も今は半透明の粘液に覆われ、虫も寄り付かないほど強烈な腐臭を放っていた。両目はとうに腐り落ち、茶と黒の縞模様をした腹からヘドロのような色の(はらわた)がまろび出ている。

 そのあまりにも凄惨な姿に、私は腹の奥からせり上がるものを堪えきれず、その死体から背を向けるようにしてぶちまけた。

 どれぐらいそうしていただろうか。やがて腹の中も空っぽになり、喉が焼けるような不快感だけが残った頃、ようやく私は現状の確認を始めた。

 恐らくは、虎の死体である。

 虎柄の毛皮。大きな牙と手足。長い尻尾。

 体格こそ地球の虎を遥かに凌駕しているが、その特徴は概ね一致する。

 そしてここ最近まで縄張りを広げていた、例の獣の正体とみて間違いないだろう。

 では何故、島の三分の一近くを縄張りにし、間違いなく生態系の頂点に立つであろうこの大虎が、こんな尋常ではない死に方をしているのか。それが問題だ。

 込み上げるものを必死に抑えながら死体を改めていると、その首筋にかなり大きな、私の拳ぐらいならすっぽり収まってしまいそうな刺し傷を二つ見つけた。どうやらこれが致命傷となったようだ。

 同族同士の縄張り争いでもあったのかとも思ったが、それでは纏わりついている粘膜の説明がつかない。

 そうして正体不明の粘膜を調べる為に木の枝を突き入れてみると、何ということか、粘膜に触れた枝の先がぶすぶすと音を立て、煙まで上げ始めたではないか!

 先程まで胃をひっくり返してげんなりしていた私であったが、これには翼と尻尾を跳ね上げ、まさしく弾かれたようにしてその場から飛び退いていた。

 酸か。毒か。

 どちらにせよ、尋常ではない。

 よくよく目を凝らして見てみれば、虎の死体が横たわっている辺りの草木はぐずぐずに腐り、黒く変色していた。

 嗚呼、何と馬鹿な男だろう。あれだけわかりやすい異常が目の前にありながら、まるで警戒することなく近づいてしまうだなんて。

 しかし周囲の環境にも悪影響を及ぼすとなると、あの死体をこのまま放っておく訳にもいかなくなった。今のところ拡散する様子はないが、何かの拍子にアレが風に乗って島中に広がりでもすれば最悪の場合、この島が草木の生えない不毛の土地になってしまう可能性だってあるのだから。

 しかし、かといって不用意にアレに近づくわけにもいかず。

 

「仕方がない。焼き払うか」

 

 少しばかり考え込んだ後、そう決心した。

 周辺への延焼が心配だが、今から木を切り倒して防火線を作る余裕など無いし、近場の枝を落とした後は様子を見ながらやるしかない。

 そうと決まれば早速始めるかと、私が腰からナイフを取り出したその時。

 森の中に、地を揺るがすほどの獣の咆哮が響いた。

 まるで雷鳴のようなその咆哮に私が身構えると、森の奥、木々の間から大きな足がのしり、とその姿を現した。茶と黒の縞模様をした、象と見まごう程の強靭な前足である。

 そうしてひりつく様な緊張感の中、威厳と高貴さを感じさせる、王者の(かんばせ)が露わになった。

 黄金の瞳に歌舞伎の隈取に似た縞模様。頬は引き締まり、唸る口元からは鋭い牙が僅かに覗いている。

 平伏したくなるような、威圧感。

 涙さえ零れそうになるような、美しさであった。

 

「凄い」

 

 そうとしか、言えなかった。

 逃げるとか、戦うとか、そういった感情、思惑はとっくの昔に頭から抜け落ちて、まるで絶世の美女の艶姿を目の当たりにしたように、私の目は現れた大虎の姿に釘付けになっていた。

 だがそんな蕩け切った腑抜けた心は、次の瞬間には魂さえも凍り付く恐怖へと変わる。

 低く唸る大虎の黄金の瞳。その中に自分が映っていないことに気が付いたのと、明らかに異質な音が森に染み入るように響くのとは、ほぼ同時であった。

 それは微かな息遣い。

 細く、静かに吐き出す、何者かの冷たい声。

 全身の毛を逆立てながら、大虎が咆哮をあげる。鋭い牙を剥き出しにして、僅かに姿勢を低く構えながら正面を睨みつけた。

 ぞっと、背筋が凍るようであった。

 頭上を覆う木々の合間を縫うように這う、鉄色の体。

 細長い口先からは二股に分かれた舌が顔を出し、大虎と同じ黄金の瞳に宿るのは寒気がするほど生気を感じさせない冷酷な意思。

 それは巨大な蛇であった。

 眉のような、あるいは王冠にも似た逆立つ鱗を持ち、鋭い牙が乱雑に並ぶ口元からは悍ましい腐臭を放つ、亡者のような蛇である。

 瞬間、理解する。

 先程の惨状は、この者によって作られたのだと。

 大虎が咆える。それは警告であった。

 それ以上近づけば命はないという、最期通達。

 しかし大蛇は何ら臆する様子もなく、悠々とした態度でその大きな頭を持ち上げた。

 その体格は大虎にも引けを取らず、頭から尾の先までは十メートルはありそうだ。

 大虎の唸り声と、大蛇の冷たい息遣いが交差する。

 先手を取ったのは大蛇の方であった。

 大きく裂けた顎から、僅かに濁った半透明の液体を大虎に向けて放つ。

 これを大虎は大きく横に飛び退くことで躱すが、放たれた液体は大虎の背後にあった木にぶつかると、これをぐずぐずに腐らせてしまった。恐ろしい程の腐食性である。これをまともに浴びてしまえば、いかに大虎といえどもひとたまりもない。

 逃げるべきか。

 あるいは戦うべきか。

 どちらと。どちらも、私の命を脅かす脅威には違いない。

 漁夫の利を狙うか。

 いや、見たところ大虎はあの腐食液を警戒して攻めあぐねている様子だし、何より同格であろう別の個体が大蛇に殺されているところを見るに、実力は大蛇の方が上。

 であるならば、ここは大虎を助けてより大きな脅威を排除するべきか。

 物陰に隠れ、そんなことを考えている内に状況に変化があった。

 今まで腐食液を躱し続けていた大虎が、ついに攻勢に出たのである。

 大蛇の僅かな隙を突いて飛び掛かった大虎はさっと相手の背後へと回り込むと、その鉄色の鱗へと己の牙を突き立てた。

 苦悶の声をあげ、大蛇がその大きな体を振り回す。大虎も相当な体重であろうに、それを諸共振り回す大蛇のなんと力強いことか。

 対して、大虎も必死に首元に食らい付いてはいるものの、その長い首を振り回し、勢いをつけて周りの木々にぶつけられてはたまらない。やがて打ち所が悪かったのだろう。ぎゃん、とひときわ大きな声をあげて、ついに大虎は大蛇の首元から振り落とされてしまった。

 大蛇の瞳がぎらりと光る。振り落とされた勢いで地面に叩きつけられ、力なく横たわる大虎を忌々しげに見下ろして、その口を大きく開け拡げた。どろりと、異臭を放つ粘液がその口元から垂れる。

 耳に届く、弱弱しい鳴き声。

 それを聞いた瞬間、私は背の大弓を取り出して、大蛇に向けて矢を放っていた。

 自分ですら驚くほど冷静に、そして正確に放たれた矢は大蛇の首元、大虎がその牙で穿った傷跡へと吸い込まれていった。

 大蛇が悲鳴を上げる。身の毛もよだつ程の冷たい瞳が、ぎょろりとこちらへ向いた。

 

「ああ、やっちまった」

 

 色々と考えていたくせに、いざとなるとこれだ。

 行き当たりばったりの出たとこ勝負。

 ほとほと、私は頭が悪いらしい。

 そうして盛大に後悔しつつ、私は引きつった笑みを浮かべる。

 それは、牙を剥く獣の(かお)に似ていた。

 




次回は明日7/17の12時に更新します。

2022/07/16 特大ガバ(竹の盾忘れ)の為、加筆修正致しました。
どうしてもフルアーマー竜娘がやりたかった。


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竜騰虎闘

 

 音もなく獲物へと忍び寄り、その強靭な顎で捕らえて絞め殺す。

 あるいは、人間でさえ命を落とすほどの強力な毒をもって弱らせ、捕食する。

 蛇に対する印象は、おおむねそんなものだろう。

 だからこそ、蛇は狡猾で冷酷、そんな印象を抱く人間も少なくない。

 しかしそうして恐れられる反面、蛇は世界中で信仰の対象にもなっている稀有な動物である。 

 人を唆し、誘惑する悪魔であったり、神の使いであったりとその姿は様々だが、日本においては穀物を食い荒らす鼠を狩ることから田の神として、あるいはその姿から龍と結び付けられ、蛇神として崇められたりもした。八岐大蛇といえば、日本人ならば誰もが耳にしたことがある蛇神の代表格である。

 前置きが長くなったが、つまり蛇とは即ち悪ではなく、どちらかと言えば害獣から食料を守ってくれるありがたい存在ではあるのだが、コレ(・・)は明らかに例外であった。

 

「くそっ、どれだけ頑丈なんだこいつは!」

 

 そう悪態を吐きながら、新たに矢を放つ。矢は大蛇の腹を射抜かんと風切り音をあげて襲い掛かるが、しかしそれは大蛇の硬い鱗と滑らかな表面に受け流され、その表面をほんの少し削るだけに留まった。

 追い詰められた大虎を助けようと咄嗟に横槍を入れたのは良かったが、戦況はあまり芳しくない。というのもこの大蛇ときたら、本当に蛇なのかと疑いたくなるぐらい狡猾で、戦い慣れているのである。

 先程見せた矢を鱗で受け流すという技も偶然ではなく、どうやら狙ってやっているようで、表面の細かい鱗を器用に動かして、矢の当たる部位だけ形を変えることで威力を受け流しているのだ。

 奇しくもそれは、現代でこそある新型砲弾のために絶滅してしまったものの、第二次大戦以来数十年にわたりあらゆる戦車に採用され一時代を築いた傾斜装甲と同じ発想、仕組みであった。

 さらに厄介なのは、その速度である。

 蛇といえば蛇行移動、その身をくねらせながらゆっくりと移動している印象があるが、世界で最も恐ろしい毒蛇とも呼ばれているブラックマンバという種は最高時速二十キロで移動することが出来る。これは、一般的な自転車と同じぐらいの速度だ。

 そしてこのブラックマンバの体長はおおよそ二から三メートルで、大蛇はその三倍はあるだろう。つまり、そこから生み出される速度もそれなりのものとなる。

 

「本当に蛇なのか、こいつは!」

 

 森の中を縦横無尽に飛び回りながら、私は次の矢を番える。

無論、私は全力疾走しながら弓を扱えるほど器用でもなければ、空を飛び回りながら狙いをつけられるほどその扱いに長けている訳でもない。

 そもそも、空からでは鬱蒼と茂る木々の枝が邪魔をして、大蛇の姿を視認することすら難しいのだ。

ではどうするか。大蛇に追われ、苦し紛れに繰り出した戦法があった。

 それは翼と尾を使って木の枝を掴み、木から木へと飛び移りながら後退しつつ矢を射るというもの。奇怪な手段であることは承知の上だが、低空を飛行するよりも狙いがつけやすく、後ろ向きに走るより速度が出るし何より足元に気を付ける必要がない。

 そのおかげか何とかあの粘液を浴びずに済んでいるが、矢も残り少なく、体力はともかく精神的な疲弊は私から集中力を確実に奪っていた。

 いっそ、空から森ごと焼き払うか。

 いや、それをしてしまえば生き残ったところで食料が枯渇したり、住処を無くした動物たちと残った資源を奪い合う地獄が出来上がる。これは最終手段だろう。

 せめて大虎が回復し、二方面から牽制することが出来れば事態はかなり好転するのだが、こちらが大蛇の注意を引き付け、巻き込まないようにと距離を放した後、大虎の姿はおろかあの低い唸り声すらも聞こえない。

 どこかで息を潜め、隙を伺っているのか、それとも機に乗じて逃げ去ってしまったか。

 前者であることを祈るばかりであるが、もし後者であればこのまま逃げ回っていてもじり貧である。

 せめて、炎が自由に使える海岸までは引きつけなくては。

 そうして矢を放った直後、己の背後、海岸へと向かう道筋を確認したほんの数舜。

 狡猾な大蛇は、そのあまりにも迂闊すぎる隙を見逃さなかった。

 

「しまっ——」

 

 正しく、あっと言う間だった。

 ひと際鋭く放たれた粘液が、私の進行方向、今まさに翼で掴もうとしていた木の枝を撃ち抜く。止めようとしてももう遅い。異常な速度で腐食した枝は私が掴んだ途端に溶けるように折れ曲がり、空中に投げ出された私は勢いをそのままに固い地面へと打ち据えられることになった。

 明滅する視界の中で、それでも私の身体は自然とその状況における最適解を弾き出し、膝に小石やら砂利やらが刺さったまま、海岸に向けて飛び上がろうと翼をはためかせた。

 そこに降りかかる、無慈悲な一撃。

 今まさに飛び立たんと力を込めた翼に、大蛇の粘液が浴びせかけられたのである。

 

「あ、ぎ、き」

 

 熱い。

 熱した油を浴びせられたような痛みであった。

 ぐずぐずと、背後から悪臭と共に煙があがる。

 いったい何をされたのかと、痛みで錯乱した私は理性が押し留める暇もなく、己の背中へと視線を投げ、そして見てしまった。

 泡立ち、焼け爛れてどろりと落ちる、己の翼を。

 そこにあったのは黒い皮膜が腐り落ち、鱗で覆われた骨の部分だけが辛うじて残った、醜く変わり果てた翼の姿であった。

 

「そんな、そんな、くそっ、くそおっ!」

 

 泣き叫びたい感情を必死に押し殺し、私は駆け出した。

 背中が焼けるように熱い。翼を溶かし、なお勢いの衰えない粘液がとうとう私の背中の皮まで溶かし始めたのだ。

 だが、痛みに喚く暇など無い。

 背後から、大蛇の啜るような息遣いを感じる。

 足を止めれば、待っているのは確実な死だ。

 追撃はない。

 大蛇は知っているのだ。一度でも自分の毒を浴びせれば、放っておいても獲物は力尽きると。必死になって追い回さなくても、力尽き、動かなくなった獲物をのんびりと食らえばいいのだと。

 そしてその考えは正しかった。

 視線の先、立ち並ぶ木々の先に差し込む光。森の切れ目。波の音が僅かに私の鼓膜を打った。

 あそこまで、あそこまで行けば。

 そう少しだけ気を抜いた着後、私の全身から力が抜け、気が付いた時には頭から地面へと突っ込んでいた。

 何があった。

 腰から下の感覚がない。

 擦りむいた膝の痛みも、痙攣しそうだった筋肉の痺れすらも感じない。

 視線は、向けない。

 振り向けば、脳裏に浮かんだ最悪の光景が形になりそうだったから。

 そして辛うじて自由の利く腕と、残った片翼を使って私は這いずりながら海へと向かう。

 こんなことになるのなら、手出しなどするべきではなかった。

 いや、森への影響など気にせずに、さっさと大蛇を焼き払ってしまえばよかったのだ。

 それをせず、中途半端に先のことを考えて、そのざまがこれか。

 

「全く、成長しないな、私も」

 

 ひたり。

 大蛇の冷たい体が私に巻き付き、じわりじわりと締め付けていく。

 決して逃がさぬよう、決して助からぬよう。

 息を吐けば、吐いた分だけ。

 ほんの僅かな胸の動きを察知して、それ以上吸い込めぬようにと万力の如く締め上げられる。

 まずい。

 意識が遠のく。

 大蛇がその大きな首をもたげ、吐き出される死臭が死神のように頬を撫でていく。

 食われる。

 大猪を退けて、ようやくこれからというところで。

 まだ畑も作ってないし、魚醤も完成していない。

 林檎の木もまだ育っていないし、蜂蜜だってまだ十分に堪能していないというのに。

 満足し、思い残すこともなく逝った前回とは全く異なる、生への執着。

 それが、死を待つのみだった私に僅かな力を蘇らせた。

 

「死、んで、たまるかっ!」

 

 振り絞った力が、大蛇の拘束をほんの少しだけ緩めさせた。

 瞬間、それを押し返さんばかりに大きく息を吸い込む。全身に走る紋様が力強く光を帯びた。

 異変に気付いた大蛇が息の根を止めんと牙を剥いて襲い掛かるが、一足早く差し込んだ尻尾、その先端にある竹の盾が大蛇の大顎を食い止める。

 剥き出しの牙から滴る腐食液が鱗に触れて煙を上げるが、私の鱗はその程度で溶けてしまうほど脆くはない。

 全身の紋様がひと際強く輝いた次の瞬間。

 かっと、私の口から放たれた紅蓮の炎が大蛇の頭を焼いた。あらん限りの力を振り絞り放った、文字通り渾身の一撃であった。

 その熱は大蛇の喉を焼き、粘液を沸騰させ、黄金の瞳を弾けさせる。

 断末魔の叫びすらも炎に溶かされ、もがき苦しむ大蛇の体から私はようやく解放された。

 いや、放り出されたといった方が正しいだろうか。

 苦し紛れに森の先へと投げ付けられた私は砂浜の上を一、二度跳ねたあと、波打ち際へと力なく横たわる。ひんやりとした感覚がなんとも心地よく、波が私の身体を洗う度に背の痛みが和らいでいくようであった。

 ちらりと、己の背を確認する。

 

「ああ、そりゃあ動かんわな」

 

 背中にあったのは、ぽっかりと空いた大穴であった。

 大猪の毛皮で守られた肩周りは難を逃れているが、腰の部分がごっそりと腐り落ちている。

 背骨は半分ほど繋がってはいるが、筋肉や神経は跡形もない。

 

「こりゃあ、駄目かもなあ」

 

 この身体の治癒能力は異常だ。それこそ、折れた腕ぐらいなら数日で治癒するほど常軌を逸している。

 大猪との戦いの折り、腹に風穴を開けられても完治したが、ここまで損傷が大きいとそれもどこまで期待できるか。

 ともかく、まずは手当てをしなければ。

 もう少しこうして波に打たれていたかったが、死んでしまっては意味がない。

 そうして砂浜に爪を立て、ひとまずは木陰にでも入ろうかと顔をあげたところで、私は言葉を失った。

 そこにいたのは頭を真っ黒に焦がし、両目も潰れ、自慢の牙も炭にして、それでもなお私を、自身をこんな目に合わせた怨敵の息の根を止めんと這い寄ってくる、幽鬼のような大蛇の姿であった。

 間違いなく、致命傷の筈だ。目も喉も潰し、あれだけ頭が潰れてしまえば蛇が持つピット機関とやらもろくに機能していないだろう。

 にも関わらず、大蛇は潰れた目で私を睨み、半ば溶けた牙を剥きだしにして迫ってくる。

 私の身体を大蛇の影が覆った。

 再び炎を食らわせようと力を込めるが、先程締め上げられた際に肋骨までやられたのか痛みが走るばかりでろくに力を練ることができない。

 

 やられる。

 

 そう覚悟した瞬間、こちらを嚙み砕かんと大口を開けた大蛇の動きがぴたりと止まった。

 すわ何事かと見上げていると、その背後から虎柄模様の毛皮がちらりと覗いた。

 大虎である。

 あの大虎がその強靭な顎で、大蛇の首を噛み砕いていたのだ。

 そうして大虎は大蛇を咥えて二、三度と振り回した後、その亡骸を砂浜に打ち付けてさらに喉へと牙を立て、確実に息の根を止めてみせた。

 勝鬨の声は上がらない。

 

「かっ、これは、一本、取られたな」

 

 まんまとしてやられたと、私は血反吐と共に笑みを漏らす。

 漁夫の利。

 自分が物陰に隠れて企んでいたことを、そっくりそのままやられたのだ。

 ちゃっかりしているというか、ずる賢いというか。

 この辺りのしたたかさこそ、私も見習うべきなのだろう。

 

 食え食え、食って腹でも壊してしまえ。

 

 最後の悪態はもはや声にもならず。

 薄れゆく意識の中で、金色の瞳だけがじっと静かに、こちらを見つめていた。

 



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虎穴に入らずんば

少し短めです。


 

 揺れる。

 優しく、しかし力強く、それはまるで子を抱きあやす母親のような繊細さで。

 揺れる。

 それは記憶の奥底に眠っていた、幼少の記憶。覚えているはずのない、かつての光景。

 それは寝付きが悪くぐずっていた私を抱く母の微笑み。

 あるいはそれは、泣きつかれて眠る私を背負う、父の背中。

 優しく、力強く、そして誰よりも厳しかった両親の姿であった。

 やがてひんやりと心地よい感触が肌を伝い、私の意識はゆっくりと常世から現世(うつしよ)へと浮き上がってくる。

 そうしてまず目にしたのは、こちらをじっと覗き込む水晶玉のような瞳であった。

 思考が固まる。

 身体が凍り付く。

 すわ何事かと私が声を上げるよりも早く、瞳の主がその大きな前足を持ち上げて、少しの躊躇(ためら)いもなくこちらの頭目がけて振り下ろされる。

 

——ぷにっ。

 

 そんな音が聞こえるような、柔らかい感触が顔面に押し当てられた。

 

「んが、んごご」

 

 猫、いやどちらかといえば犬の肉球が近いだろうか。柔らかく、土臭い、何とも言えぬその感触を払いのければ、そこにあったのは記憶にあるものよりもずっと小さな、柴犬程度の体付きをした虎の姿があった。

 縮んだ。そんなまさか。

 狼狽えている私の顔が面白いのか、甲高い、虎というよりは子猫に近い鳴き声を発しながら右へ左へと飛び回るその後ろから、同じような顔をしたもう一匹がひょっこりと顔を出した。こちらは警戒心が強いのか、はしゃぎ回る個体の後ろからおっかなびっくりといった風に耳を伏せ、岩陰から顔を半分出したりしまったりしている。

 その姿を見て、ぴんときた。

 この二匹は、あの大虎の子どもなのだろう。

 先に見つけた、あの死んでいた大虎が(つがい)であったならば、その間に子を儲けていても不思議ではない。

 となると、ここはあの大虎の巣であろうか。どこかの洞穴のようだが、奥は暗闇で覆われておりどこまで続いているのか、その全容を知ることはできない。

 ここで私はこれから、この可愛らしい仔虎の夕飯にでもなるのだろうか。

 ちらりと背を見る。傷はまだ、癒えてはいない。相変わらず腰から下の感覚も曖昧であるし、ここから逃げるのはかなり困難を極めるだろう。

 あの状況で止めを刺されなかったのは解せないが、状況的に見れば私は身動きが取れない新鮮な餌以外の何物でもない。

 だが幸運なことに、仔虎たちは私のことを遊び道具、あるいは初めて見る珍獣程度に思っているようだし、親が返ってくる前に這ってでも身を隠さなければ。

 そうしてじゃれついてくる仔虎を尻目に、身体を引きずるように洞穴の出口へと向かった、その時であった。

 どすんと、ひと際大きな足音。

 低い唸り声。

 巨大な影が、私を覆い隠す。

 恐る恐る、顔を上げる。まるで悪戯が見つかった子どものように、ぎこちない動き。

 大きな前足。鋭い牙が覗く口元には、戦利品の如く大蛇の亡骸をぶら下げて、冷徹な瞳でじっとこちらを見下ろしていた。

 僅かに見えた希望が、無慈悲にもすり潰されていく絶望感。

 私の行く末を暗示するように、大蛇の亡骸がぼとりと目の前に零される。そして、先程までそれを咥えていた牙が、ゆっくりと私の首筋にあてがわれた。

 圧倒的な死の恐怖に、目の前が真っ白になる。

 頭の中はもうぐちゃぐちゃで、下腹部がじわりと湿っぽくなるのを感じた。

 そのまま、持ち上げられる。力はまだ込められず、私の首は繋がったまま。

 小柄故にあっさりと持ち上げられた私は洞穴の奥、仔虎たちが待つ場所まで運ばれる。だが、その運び方が妙だった。

 はじめはこのまま首の骨を噛み砕かれ殺されるのだと恐怖し、失禁までやらかしたものの、どうにもおかしい。やけに私の扱いが丁寧なのである。

 獲物、すぐに食い散らかす餌の扱い方ではない。

 優しく、壊れないように、しかしうっかり落としてしまわないよう確かに力は込めながら。

 どこか懐かしいその感覚に目を丸くしていると、やがて私は仔虎たちがじゃれあう寝床の真ん中にそっと置かれた。

 あっという間に、仔虎がまた纏わりついてくる。

 そこには警戒心など欠片もない。こいつは絶対に自分を害さないという、確信的な信頼があるのだろう。そこにあったのは相手が満足に身体を動かせないだとか、親が近くにいるだとか、そんなことではなく、それはまるで弟が兄に甘えるような、親愛に似た感情であった。

 何故だかわからないが、そんな風に思う。

 やがて私を運んできた大虎が、入り口から大蛇の死骸を引きずってきた。

 仔虎二匹が飯だ飯だと盛り上がる中で、大虎はそれを引き裂き、食い千切り、引き千切っていくつかの肉塊へと変えていく。

 そんなことをしてあの腐食液は大丈夫なのかと心配になったが、どうやらあの液を含んだ分泌腺だったり毒袋だったりは頭に固まっているらしく、私が燃やして黒焦げになったそちらは誰も手を付けず、巣の奥で虫に集られていた。

 動物としての本能なのか、あるいはどこぞの狸のようにそれなりに高い知能を有しているのか、なんとも器用にやるものだと感心しつつ蛇肉にがっつく仔虎たちの様子を眺めていると、目の前にでんっと赤黒い物体が置かれた。

 私の頭ほどはある巨大なそれは、大蛇の心臓であった。私の頭ほどはあるそれは、驚くことに死んでからかなりの時間が経っているにも関わらず未だ脈打ち、その命を必死に繋ごうと足掻き続けていた。

 恐ろしい、いっそ壮絶な程の生命力に圧倒されていると、それをじっと見つめていた大虎がまるで何かを催促するように、それを鼻先でこちらへと押し出してきた。

 食え、ということなのだろうか。

 いやいや、確かに蛇は精力増強、滋養強壮に良いとは言われているが、いくら何でもこのサイズを、それも生で食うというのはいささか理性が咎めるというか、食中毒だとか、寄生虫だとか、その辺りを考慮すると到底食っていいものには思えないのだが……。

 ちらり、と大虎の目を見る。

 いくらか穏やかになったように見えるその瞳にはしかし、全部食らうまでは目を離さないという、確固たる意志が浮かんでいた。

 これを、食う。

 再び、大蛇の心臓を見やる。

 まだ血の滴る新鮮な心臓が脈打つ。

 互いの存在をかけた闘争の果てに、私が奪った命。

 止めを刺したのはこの大虎であるが、あそこで私が致命傷を与えなければ、大虎自身もどうなるかわからなかった。事実、この大虎の番はあの大蛇に殺されているのだから。

 であるならば、奪った命に敬意を払うことこそが生物としての、自然の中に生きる者としての掟なのではないだろうか。

 差し出された心臓を、そっと抱き上げる。

 命を頂くのであるから、礼は尽くすべきだろう。心臓を抱え、私は残った腕と翼を使って身体を起こす。軋み、痛む腰に鞭打って姿勢を正し、徐々に弱りゆく心臓へと手を合わせた。

 

「頂きます」

 

 目を開き、掴み上げた心臓へと牙を立てた。

 濃厚な血の匂い。口が裂けたのかと錯覚するほどの鉄の味が舌を蹂躙し、嘔吐くほどの生臭さが喉の奥を掻きまわす。

 胃液が逆流する。花火が爆発したような閃光と衝撃が頭の中を駆け巡る。

 しかし、それらを理性で無理矢理に押し込んで、私は食い千切った心臓のひと欠片を何とか飲み下した。

 ほぅ、と蕩けるような吐息が漏れる。

 変化は劇的であった。

 それが胃の中に入った途端、血生臭さは脳を麻痺させる麻薬めいた甘い香りに、鉄のような血の味は高級和牛にも引けを取らない、得も言われぬ旨味の塊へと変わった。

 それからは、あっという間だった。

 残っていた理性はそのあまりの旨さに数秒で消し飛び、まるで腹を空かせた野犬のように心臓を、その血肉を食らいつくした私は全身を走り抜ける快楽に酔いしれながら、いつしか夜も更け、怪しく光る二つの月をぼぅっとした目つきでぼんやりと眺めていた。

 両の足で、しっかりと大地を踏みしめながら。

 銀の髪が、風に流れる。

 柔らかな月明かりを全身に浴びながら、私は両翼をいっぱいに広げ、火照った身体を夜風で冷ます。

 すらりとした足はより長く。

 尻は女性らしい丸みを帯び、腰は柳の枝のように細くしなやかで、たわわに実った乳房は手の平で掬い上げてなお溢れるほど。

 少女(子ども)から(大人)へと変わりゆく儚さと、それ故の背徳的な美しさ、そして妖精のような妖しさを孕んだ肢体が、そこにはあった。

 

「ああ、なんという、なんという心地良さか」

 

 身体から漲る生命力に、私は両手を広げて歓喜した。

 溢れ出る万能感。今ならばどんなことでも成し遂げられそうな、それほどの充足感。

 これだ、これこそが、私だ。私という、存在なのだ。

 そうして、私は月に向かって雄叫びをあげる。

 背後でどこか冷ややかな視線を向ける獣の気配にすら気付かずに。

 そうして、一通り勝鬨の声を上げたその直後。

 

「あれ、なんだ、力が……」

 

 ふっと、まるで電池が切れたように、私の意識は再び闇へと沈むのだった。

 




さらばロリ(血涙)
でもまだJKぐらいなのでまだロリでも通じるか……?

これ以上成長させるかは未定です。


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往く者と、残される者

難産でした。

少し短めです。


 

 私が再び目を覚ました時、そこにはもうあの大虎親子の姿はなかった。

 いったいどれぐらいの時間が経ったのだろうか。身体は汗と土埃にまみれ、外から流れ込んでくる風は心なしか少しばかり涼しくなったように感じる。

 私は全身に纏わりつくような倦怠感に顔をしかめながら起き上がると、剥き出しの岩肌を伝いながら穴倉から這い出した。

 虎たちの行方も気になるが、それよりも今は、たまらなく喉が渇いていた。

 だが翼を広げ、泉の方へと向かおうとしたその時である。どかんと、まるで大地そのものを大槌で殴りつけたような揺れが島全体を襲った。

 

「なんだ、何が起こった!」

 

 たまらず倒れこんだ私の頭上に、山頂から転がり落ちてきた砂利やら石やらが降りかかる。それらを翼で防ぎながらしばらく地面に這いつくばっていると、やがて揺れは収まり、辺りは元通りの静けさを取り戻した。

 先程の揺れは、地震だろうか。

 まさか。空に浮かぶ島で地震など起きるのだろうか。いや、先程の揺れはまるで何かにぶつかったような……。

 はっとして、私は勢いよく空へと飛びあがった。

 そうして島中を一望できる高さにまで昇った後、右手で(ひさし)を作りながら辺りをぐるりと確認する。

 そして、見つけた。

 海の向こう。そこに繋がる、新しい浮島。

 先程の揺れは、あれがぶつかったことで生じたものだったのだ。

 凄まじい。ただその一言に尽きる。

 それぞれが流れる高度も、早さも、向きも違うというのに、正しく奇跡のような確率の出来事なのだろう。

 あそこになら、人がいるかもしれない。

 私の胸中から、抑えようのない期待と喜びが沸き上がる。

 だが震える肩を抱き締め、新たな島へといざ行かんと翼へ力を込めたところでまた変化があった。

 島が震え、轟音とともにその身を削りながら離れ始めたのである。

 拮抗していた力が崩れたのか、あるいはどちらかの島が進行方向を変えたのか。その原因はともかく、今を逃せばもうあの島とは出会えないだろう。

 私の胸を満たしていた希望が、滲むように絶望へと変わっていく。

 

「ま、待ってくれ!」

 

 我武者羅に、藁にも縋る思いで翼を打った。

 それが、いけなかった。

 病み上がりの上に、身体が成長したことも忘れて以前と同じように扱ったばかりに力加減を間違え、私の身体はまるで出来の悪い紙飛行機のように錐揉み回転し、真っ逆さまに森の中へ。

 枝を折り、木をへし折り、岩を砕き、地面を盛大に抉りながら何度も跳ね飛び、最終的には拠点の泉へ頭から突っ込み、特大の水柱を打ち上げたところでようやく止まった。

 ぐったりとした様子で水面から顔を出した私を見て、泉の傍で日向ぼっこを決め込んでいた狸がさも不思議そうに首を傾げている。少しぐらいは心配してもいいだろうに、この狸は今日も平常運転らしい。

 しかし成長した為か、あれだけ派手に墜落したのに骨はおろか、珠のような肌にも傷一つない。

 ふと見れば、肘から手の甲にかけて、まるで籠手のように鱗がびっしりと並んでいた。腰から腹にかけても同様である。

 また少し、人間から龍へと変わった、ということなのだろうか。

 

「いや、それよりも島だ!」

 

 水に濡れ、陽の光を受けてきらきらと輝く鱗に見惚れることしばし、ようやく正気に戻った私は水面から飛び上がった。

 だが時すでに遅く、先程まで島があったところには憎らしいほどの青空だけが広がり、その向こうにはもう豆粒ほどに小さくなった島の姿が。

 がっくりと肩を落とし、泉の傍まで戻ってきた私を狸が出迎える。その頭をひと撫でしたあと、私は亡者のような声をあげながら青々と茂る草の上へと五体を放り投げた。

 

「ああ、やってしまったあ」

 

 逃した魚は大きいと言うが、あの島はここと同じか、少し小さいぐらいに見えた。しかし人が暮らすには十分な大きさであり、それでなくとも何かこことは異なる動植物が手に入った可能性は高い。きっとあの大虎たちも、それを求めてあの新天地へと向かったのだろう。

 それを逃したとなると、口から草臥れたため息ばかりが漏れ出るのも仕方がないといえる。

 そんな私の足元を、おっかなびっくり嗅ぎ回る狸が一匹。

 私の身体に染み付いた虎の匂いを警戒しているのか、足の指をちょんと嗅いではおずおずと二、三歩ほど下がり、また嗅いでを繰り返している。

 野生動物としては仕方のない反応なのだろうが、仮にも乙女の匂いを嗅いでその反応はどうなのか。

 

「はあ、しかし、でかくなったもんだ」

 

 太陽に手をかざし、眺めてみるは一回り大きくなった己の手。

 鱗は生えたがその肌は絹のように美しく、水に濡れて艶やかさが増した肘から二の腕へと視線は下り、肩を経由してご立派な双子山へと至る。

 

「本当に、でかくなったなあ」

 

 その時に渦巻いた感情は、戸惑いが五割、驚きが二割。残りの三割は服やら防具やらの手直しをしなければいかんという間抜けな悩みが占める。

 下手をすれば、妻よりもでかいかもしれぬ。

 そんなことを考え、記憶の中の妻に尻を蹴り上げられながら、また一つため息。

 ともあれ、いつまでもうじうじとしているわけにもいかない。

 島があった場所の確認もしておきたいし、何よりここ数日は虎の巣穴にいたせいで薪も食料も集められていないので、手早く済ませておきたいところだ。

 だがその前に、まずはさっと服の手直しをやってしまおう。

 鱗の胸当てなどは大きさが合わないのでまた作り直すとして、腰巻きは肩掛けに使っていた毛皮を代用し、胸は余っていた毛皮と蔓を使ってさらしのようにして固定。揺れても邪魔になるだけなので、少しきつめに巻いておいた。

 とりあえず、着るものに関してはこれでいい。

 簡単に身なりを整えた後、私は空へと飛びあがり海岸線の向こう、あの島がぶつかっていた場所へと向かった。

 そして結論から言えば、そこでは何ら新しい成果を得ることはできなかった。

 島同士がぶつかった衝撃で海底が隆起し、新しい小島がいくつか生まれてはいたものの、そこもせいぜい釣り場として利用できるぐらいで、見たことのない植物だったり、人工物だったり、そういったものは残念ながら見つからなかった。まあ、これに関してはもし見つかれば幸運程度のものだったので、それほど落胆もしなかったが。

 

「ああ、しかし残念だなあ。もしかしたら人がいたかもしれないのに」

 

 小島に腰を下ろし、足で海面をかき混ぜながらそう独り言ちる。

 そして、ふと考える。この世界の人々はいったいどんな姿をしているのだろうか、と。

 あの龍は、狂飆(きょうひょう)と名乗ったあの龍は、人がどんな姿をしているかまでは語らなかった。だが、私の姿は人を似せたものだとも言っていた。となれば、少なくとも足が八本も九本もあったりだとか、目玉だけの化け物であったりとか、カエルの姿をしていたりだとか、そういったことはないだろう。

 それにこの島で出会った動物の姿を見る限り、地球と比べてそう大きく異なる進化を遂げているわけでもなさそうである。

 となると、ほぼほぼ地球人と同じ姿、と考えてもいいのではないだろうか。

 髪の色は金だろうか、あるいは黒だろうか。

 地球と同じように、様々な人種が寄り添って暮らしているのだろうか。

 言葉は通じるのだろうか。

 狂飆(きょうひょう)とは問題なく話せていたが、あれは何というか、人の言語ではなく龍のそれであったので、あまり参考にはならない気がする。

 私のこの姿は、この世界の人々に受け入れられるだろうか。

 もし受け入れられたのなら、いったい何を話そうか。

 前世の、こことは異なる世界の話をしたら、やはり驚かれるだろうか。あるいは信じてくれるだろうか。

 楽しみだ。

 本当に、楽しみだ。

 空の彼方を眺めながら、私は未だ見ぬ誰かに思いを馳せる。

 どこか遠くで、虎の雄叫びを聞いた気がした。

 




えっちベルトがやりたかった。


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炎に、ドーン!

難産で(ry

前回に続き短めで申し訳ありません。


 

 百八十日目。

 この島で暮らし始めて、おおよそ半年の時が流れた。

 肌を火で炙られるような厳しい夏も今はそのなりを潜め、肌をくすぐるような涼やかな風が森の中を流れ始めた頃、私はいつもの広場でせっせと泥遊びに精を出していた。

 作っているのは、木炭である。

 まず木材を円錐形に組み上げ、練った泥で周りを覆う。大きさは私の身体がすっぽりと収まるほどで、一番上は排気口(・・・)になる為、完全には塞がずにおく。

 そうして周りをぐるりと泥で固めたら、底の部分に吸気口(・・・)となる横穴を幾つか空ければ完成である。

 あとは天井の穴から炎を吹き込み、程よく火が回ったところで天井と横穴を完全に塞ぐ。

 ややこしい説明は省くが、こうしてしっかりと密閉し、窯の中の酸素を減らした状態で燃焼させることで、灰になることなく木材を炭化させることができるのだ。

 しかし相応に時間がかかる為、出来上がりを待つ間に広場の整地を進めておく。

 取り出したるは身体が成長してから新しく拵えた鱗の斧だ。身体と共に尻尾もまた大きく、しなやかに成長したのだが、それに伴って鱗の一枚一枚もまた分厚く、頑強になった。

 これはそんな、もはや鋼鉄のそれと比較しても遜色のない鱗を何枚も重ねて作った特別製の斧である。

 鋭さと耐久性を重視した結果、斧と呼ぶには些か巨大な代物になってしまったが、私の桁外れの膂力があれば通常の斧と何ら変わることなく扱うことができる。

 そしてその見た目相応に威力の方も素晴らしく、初めは切り倒すのに数十回は斧を打ち付けなくてはならなかったところが、今となってはほんの数回、細い木であれば一発で切り倒すことが出来る。

 そのおかげで最近は拠点周辺の開拓も随分と捗り、今となっては畑以外にも小屋程度ならば問題なく建てられる程度の土地を確保することができた。

 ここには、来るべき冬に備えてチセ、と呼ばれる小屋を建てるつもりだ。

 チセとは、日本は北海道、アイヌの人々の伝統的な家屋である。

 屋根や壁に(アシ)やススキなどの茎を使っているのが特徴的なのだが、これらの植物の茎は中が空洞になっており、ここに溜まった空気が断熱材の役目をすることで夏は涼しく、冬は暖かい、とても暮らしやすい家が出来上がるのだ。

 ただし、何層にも重ねなければ効果が薄い為、それなりの量が必要になる。

 幸い、葦自体は山向こうの川辺に群生地を見つけたので問題なく用意できるのだが、これを狩り取り、拠点まで運んでくるのがこれまた一苦労であった。

 とはいえ、小屋はまだ骨組みすら組み上がっていない状態であるので、こちらはのんびりと集めればいいだろう。

 現在はまだ縄張りと呼ばれる、小さな木の杭を何本も打ち込んで、そこに縄を張ることで家の大きさや部屋の配置を確認している段階だ。

 広さは大体十畳ほど。後々は隣に物置なども併設したいが、今は大樹の洞で事足りているのでひとまずは居住空間だけでいい。

 大まかな配置を決めたら、柱を立てる位置に穴を掘っていく。今回は私の胴回りより太い丸太を使う為、それを打ち込む穴も少し深めにしておいた。

 次はいよいよ、ここに柱を立てていく。

 先端を炎で焼いて炭化させ、削ることで鋭く尖らせた丸太を担ぎ、穴に向かって力いっぱい打ち付ける。

 そうして柱を打ち込んだ後、穴の隙間を土で埋めてしっかりと踏み固める。

 と、ここに来てようやく、私の錆びついた脳みそが動き出した。

 

「しまった。先に地面を固めないと駄目だな」

 

 これは地固め、あるいは転圧と呼ばれる作業である。工事現場などで見られる、手押し車のような機械で地面を平らにしているあれだ。

 これをやっておかないと地盤が緩いままで、長年使っていると家が沈んでしまい傾いたり、崩れたりする。

 通常はタコ(・・)という丸太に取っ手が付いたような道具を使って地面を叩いて(なら)していくのだが、今回は丸太を丸太のまま使う。

 両手と尻尾で二本の丸太を持ち上げて、どんどん、どすどす、どんどんと、持ち上げては振り下ろし、まるで公園の遊具にでもなったような心持ちで、次々と地面を固めていく。

 人並み外れた剛力、そして無尽蔵の体力があればこそのゴリ押しであるが、その効果、効率の良さは抜群であった。正しく機械いらずである。いや、機械が使えるのなら絶対にそちらを使うだろうが。

 そうして地面を固め、柱を立て終えた頃には辺りはすっかり日が暮れてしまっていた。最近は獣並みに夜目が利くようになってきたのでこのまま作業を続けることも不可能ではないが、さてどうするかといったところで、私の腹の虫が盛大に抗議の声を上げた。

 どうやら、今日のところはここまでのようである。

 だが夕飯の支度を始める前に、木炭がしっかりと出来ているかを確認しておこう。

 時間が経ち、すっかり火も消えて少しばかり焦げた窯の前を崩し、そこから真っ黒になった木炭を掻き出し、籠に集めていく。一つ手に取り、折って中を確認してみれば、しっかりと芯の部分まで炭化していた。こうなっていれば成功だ。

 残念ながら表面だけが炭化して、芯の部分がまだ生木のままの失敗作もいくつか混ざっていたが、これはこれで再利用が出来るので取っておく。

 一度の作業でおおよそ籠一杯分。これだけでもかなりの量に思えるが、冬を越すことを考えるともっと沢山、それこそ洞の中から溢れ出る程の量が欲しい。

 これもまた、何日かに一度、定期的に作っていった方がいいだろう。

 それはともかく、さてさてお楽しみの夕飯である。

 今夜の献立は貝の汁物と、焼き魚だ。代わり映えしないいつもの品だと侮るなかれ、今回は少し趣向を凝らす。

 今回作るのは、いわゆる漁師飯だ。

 まずは地面に浅く穴を掘り、そこに薪と、先程の木炭の出来損ないを敷き詰めて火をつける。ごうごうと火が踊り始めたら、その中に今朝獲れたグレ、メバルを放り込む。

 これで終わり。あとはしっかり火が通るまで待つだけである。

 料理というにはあまりにも豪快な手法だが、教えてもらった知人の漁師曰く、これが一番美味いのだとか。

 そうして貝の煮汁を啜りながら待つことしばし、もうすっかり真っ黒になって炭なのか魚なのかわからなくなったそれを取り出すと、香ばしい煙を上げる皮を指先でこそぎ取る。

 つるりと剥けた皮の下から現れたのは、ほくほくと蒸気を上げる、乙女の柔肌のような真っ白な身。

 そこに軽く塩を振り、肉厚な腹の部分にかぶり付いた。

 さっと鼻先に抜ける磯の香り。そして濃厚な脂が口内に流れ込み、その甘さを軽く振った塩が引き立てる。ほろりと解れる白身。噛み締める度に旨味が溢れ、気が付いた時には半身をぺろりと平らげていた。

 

「いやあ、これは恐れ入った」

 

 脂に塗れた口元を拭い、私は感嘆の声を漏らす。

 いやはや、焚火に放り込んで焼いただけである筈なのに、素材の味を活かし切っているというか、調理器具や調味料を使った料理よりも味わい深い不思議。

 料理の道は、かくも奥深い。

 そうしてもう半分もぺろりと平らげて、さらに一匹、焚火へと投げ込む。

 食い意地が張っていると笑われるだろうが、どうにもこの身体になってからその健啖具合に拍車がかかったような気がするのだ。

 具体的に言えば、以前と比べて倍ぐらいは食うようになった。これでも自重し、腹八分目で止めるようにしているのだが、それでも倍なのだ。

 それだけ一日に消費する熱量(カロリー)が増えたというべきか、燃費が悪くなったというべきか。

 これもまた、最近の悩みの種。

 思い通りに身体のサイズを変えられればいいのだが、そんな摩訶不思議な真似が出来る筈も無く、何とか食事の量を減らせないかと目下思案中である。

 

「ああ、腹いっぱい米が食いたいなあ」

 

 流れ落ちる星々を眺めながら、そんなことを呟いてみる。

 揺らめく炎の中で笑うように魚が弾け、舞い上がった火の粉が夜空に昇り、月の輝きに溶けて消えた。

 



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芽吹き

 

 二百回目の朝が来た。

 建築を始めたチセも後は屋根を()くだけとなり、冬の到来までには何とか間に合いそうだ。干物をはじめとした保存食も逐次作成中であり、今は大樹の洞に所狭しと積み重なっているが、何せサバイバル環境での越冬など初めての経験であるので、こちらは例え洞から溢れ出そうとも続けていくつもりである。

 あとは、そう、あの狸。ごんのことだ。

 奴さん、私が開拓を進めてこの辺りが快適な環境に変わりつつあることを察してか、なんと大樹のすぐ裏に巣穴を拵えやがったのだ。

 いや、もしかすると元々あった巣穴から横道を伸ばしてきたのかもしれないが、その図々しくも逞しい様子に、初めてそれを見つけた時は呆れを通り越してついつい関心してしまった。

 そんな、相変わらず太々(ふてぶて)しい奴であるが、最近はさすがに冬支度に忙しいのか、枯れ葉だったり木の実だったりを咥えて日に何度も巣穴から出たり入ったりを繰り返している。

 その様子から、なるほどこの島はそれなりに厳しい冬が来るようだと予想を立てて、建築中のチセの壁を少し分厚くしたりだとか、日に一回だけだった木炭作りを二回に増やしたりと、こちらも最近は西に東に忙しないのだが、嬉しい出来事が一つあった。

 いつぞやか丘に撒いたリンゴの種。それが芽を出し、すくすくと成長を始めていたのだ。

 その成長速度たるや凄まじいもので、今朝確認した時にはもう既に私の(へそ)ぐらいまで背が高くなっていた。

 これは本当に驚くべきことだ。

 種を植えたのがおおよそ半年前。この調子で育てば、予定よりもかなり早くりんごの果実にありつけるかもしれない。

 通常の、日本で栽培されているものとは性質が異なるのか、あるいは土壌、肥料に成長を促す効果があったのか。

 可能性としては、後者の方が高い気がする。

 何せ人の形をしているとはいえ竜の大便を堆肥にしているのだから、予想以上の効果をもたらしても不思議ではない。

 と、なると、りんご以外の作物に対しても同じ効果が働くのか。そこが非常に気になるところだ。

 そんなわけで、堆肥を撒いて耕しておいた畑にハマダイコンの種を蒔いてみた。

 りんごと同じ効果が期待できるなら、もしかすれば冬が来る前に立派なハマダイコンを収穫できるかもしれない。

 そうして淡い期待を胸に、私は次の作業へと移る。

 拵えるのは斧だ。しかし狩猟や伐採用とは違う、戦闘用の斧を作る。

 先日の大蛇や大虎、いや、あの大猪の首さえも一撃で落とせるような、それほどの威力を持った武器がいる。

 槍や剣、弓では駄目だ。それでは奴らの強靭な毛皮や鱗は撃ち抜けない。

 だからこそ、鋭さと重さで叩き切る。私にしか扱えない、私だけの武器が必要だ。

 柄は丸太から削り出した。

 太さは私の腰回りほど。掴んで振り回すには太すぎるが、私の手の大きさに合わせて側面に穴を開けた。ボーリングの球を投げる時のようにその穴に指を突っ込んで握り込めば、今の私の握力であればすっぽ抜けることはない。

 刃は岩を割って作った二枚の板に私の鱗を十枚以上挟み込み、縄できつく締め込んだ。

 全長二メートル以上。私が見上げなければいけない程の巨大さで、大の大人でも数人がかりでなければ持ち上げられないだろう超重量に仕上げた。

 そして重量とは、すなわち破壊力である。

 両手で握った時のその一撃は木々を軽く薙ぎ払い、岩さえも粉砕する。

 その巨大さ故に閉所での取り回しは最悪に近いが、正面切っての殴り合いならこれに勝るものはそうないだろう。

 いったいどんな化物と戦う気なのかと正気を疑われそうな逸品だが、常軌を逸した生物ばかりのこの島では、むしろこのぐらいでなければ役に立たない。

 ちなみに着手してから完成まで、丸五日の時間を要した。

 空いた時間での作業であったが思ったよりも早く、完成したその晩には遅れがちだったチセの屋根もようやく葺き終わり、その夜は新築祝いとばかりにチセの中で火をおこし、干し肉をふんだんに使った料理を自身に振舞った。もっとも、料理とは言っても焼くか煮るかぐらいのものではあるのだけれど。

 そうしてチセは完成したが、今の季節ではまだ木の上の方が過ごしやすいので寝床までは移してはいない。せいぜい洞から保存食を移し替え、棚を幾つか拵えて並べた程度である。

 そうして新しい住居が完成したあとは、森の探索に多くの時間を費やした。

 目的はイネ科の植物の収集である。

 種類を問わず、それらしいものは全て集めて回ったが、意外というか、やはりというべきか、生前の記憶にある種と似通った物が幾つか見受けられた。

 一番わかりやすかったのは、(ヒエ)だ。

 小さな実がいくつも連なった特徴的な外見は、森の中にあってもすぐに見分けることが出来た。

 これは日本でも五穀の一つとして知られており、米が主流になる以前まで主食とされてきた穀物である。栄養もあり、雨量の少ない瘦せた土地でもよく育つ。

 正直、何かの奇跡でも起こって古代米や小麦なんかが手に入らないかと期待していたのだが、残念ながら発見した植物の中で食べられそうなものはこの稗ぐらいのもので、他は見たことのない種であった。

 しかしながら、先に述べた通り稗は非常に優秀な植物で、十分に米の代わりとして利用できる。

 何より、こいつは酒に化ける。

 これが何よりも嬉しい。

 カムイトノト。

 アイヌ語で神の酒と呼ばれるその酒は、他でもない稗から作られているのだ。

 正しい製造法は残念ながら記憶にないが、穀物であるならば発酵させる方法はいくつかある。これもまた試行錯誤になるだろうが、時間はたっぷりとあるのだからのんびりとやっていくつもりだ。

 しかし、まあ、我が食卓にようやく主食が登場したのはいいが、今回用意した分ではあまりにも少なすぎる。

 こちらもまた残念な、非常に残念なことに、まずは畑に蒔き、十分な量を栽培するところからになるだろう。

 通常であれば、おおよそ一か月。竜の堆肥が利いたとして、二週間から三週間ほどになるだろうか。

 ああ、待ち遠しい。

 この島で目覚めてから肉や魚は口にしたが、穀物はまだ食ったことがない。

 白米ではないことは残念だが、しかしそれでも日本人として生まれ育ち、天寿を全うした爺からすれば、それは脂滴る肉よりも魅力的に見えるものなのだ。

 しかし本当に、探索すればするほどこの島は生命に満ち溢れている。

 それこそこの調子で探索を続ければ他の五穀や大豆、さらには大麦、米に至るまで見つけることができるのではないだろうかと、そう思わせるほどに。

 全く、摩訶不思議とはこういうことを言うのだろう。

 全てが違う、島が空に浮き、龍さえも存在するこの世界で、何故こうも生前の記憶にある動植物が、記憶通りに存在しているのか。

 この島だけの現象なのか、あるいは他の島も同様に、地球の物と瓜二つの生物が生息しているのだろうか。

 考えたところで、答えは出ない。出る筈も無い。

 それを得る方法はただ一つ。

 ひたすらに、がむしゃらに生き抜いて、他の島へと渡ること。

 見知らぬ世界を、己の目で見て回る他に謎を解く方法はない。

 だからこそ、生きねば。

 この身体の謎。世界の謎を解き明かすまで、死ぬわけにはいかない。

 決意を新たに、私は空に浮かぶ月を見る。

 慈愛に満ちた優しい光を浴びながら、私の足元で小さな芽がひょっこりと顔を出した。

 




少女+巨大武器=浪漫
大きさはだいたい戸愚呂チームのあの人ぐらい。


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雪、竜、無人島にて

 

 秋である。

 実りの秋。食欲の秋。そして、芸術の秋。

 私としてはもっぱら食欲の秋といった心持ちなのだが、しかし赤や黄に染め上がった芸術的な山肌を見やれば、やはり元日本人としては風情を感じずにはいられないというか、あるいは愛郷心を著しく刺激されるというか、まあ、少しぐらいはセンチな気持ちにもなるというか。

 

「おっ、これは栗か。素晴らしい、拾って帰って食ってみよう」

 

 しかしまあ、そういった繊細な気持ちを食い気が押しのけて勝ってしまうのもまた私であると呆れるべきか、環境に慣れてきて逞しくなったと誇るべきか。

 恐らくは前者である。

 新たに見つけた栗の実を背中の編み籠に放り込みながら、私はまた森の中を行く。

 しかしこうして秋になり、実り豊かになった森の中を歩いてみて実感するが、この島は本当に、驚くほど豊かな自然に恵まれている。

 先ほどの栗に加えてノビル、アケビにクルミ、さらには山椒と、日本でも目にすることの多かった山菜が、ここでは文字通り山ほど採ることができた。 

 まるで日本の里山さながらの豊かさに当初は我が目を疑ったが、採って食えればなんでもいいと、私は早々に開き直ることにした。

 確かに、この島の生態は不可思議極まりない。

 初めは、海外の熱帯雨林によく似た植生であった。しかしそれから時間が経ち、探索を進めてみると驚くことに日本の里山にも似た姿をとっている場所まであるではないか。

 これがこの世界では普通なのか、あるいはこの島の持つ何らかの不可思議な力が作用しているのかは定かではないし、地球の学者さんでも連れてきたら実に有意義な見識を述べてくれるだろうが、まあ、その原因を解き明かしたところで私の腹が満たされる訳でも、この島から解放される訳でもない。

 であるならば、その恵みを最大限に活用し、味わった方が合理的というものだろう。

 勿論、森がもたらす恵みは何も植物だけではない。

 

「お、いたな」

 

 森の香りの中に混ざる、僅かな獣臭。

 それを鼻先で感じ取った私は息を潜め、物音ひとつ起こさず背中の弓を握った。

 狙うのは三十メートルほど離れた、藪の中。

土の中に鼻先を突っ込み、木の根や虫を貪っている猪に向けて弓を引く。

 体長おおよそ百三十センチほどか。

 かつての大猪に比べると随分と小さく感じるが、それはあの大猪や虎、蛇が非常識なだけであって、これでも猪としては十分立派な個体と言えるだろう。

 (やじり)の先、狙いをしっかりと見定めて。

 息を吸って、吐いて、また吸って、ぴたりと止める。

 澄んだ弦の音が響いた。

 放たれた矢は甲高い風切り音を響かせて、瞬きの間に獲物の首筋、頚椎を貫通した。

 断末魔は一瞬。

 即死である。猪は痛みを感じる間もなかっただろう。

 先の大蛇との戦いでは活躍させることができなかったが、この大弓もまた、並みの獲物相手であれば十二分の威力を持っている。

 

「さて、これだけあれば当分は大丈夫だろう」

 

 仕留めた獲物を担ぎ上げると、私は翼をはためかせて帰路に着く。

 集めた山菜を小屋(チセ)の中に放り込むと、川で猪の解体を済ませ、肉を燻しながら道具の手入れをする。

 弓の弦を張り直し、鏃の点検を行いながら考えるのはもうすぐ訪れるであろう冬のこと。どれぐらい冷え込むのか、どれぐらいの期間続くのか。

 保存食は十分に、それこそ三、四か月は食い繋げる程度には用意したが、逆に言えばそれ以上の期間冬が続けば、最悪の場合待っているのは餓死だ。

 勿論、冬であっても猪や兎は獲れるだろうし、ハマダイコンをはじめとして冬に採れる植物も存在するので実際はもう少し生き永らえるだろうが、それでも未知というものは恐ろしい。

 寒さに関しても対策は重ねてきたが、それも十分であるかはっきりするのは冬になってから。つまりは出たとこ勝負である。

 住処こそ寒さに強い、アイヌの人々が暮らしたチセを参考して作り上げたが、所詮は爺の頭からひり出した素人仕事。本格的な冬にどこまで耐えられるか。

 だが実際のチセと同じく、部屋の中央に囲炉裏を作ったことで室内はかなり温かくなり、断熱効果の高い(アシ)などを壁材に使ったお陰でそう冷え込むこともなくなった。

 唯一の想定外といえば、その暖かい囲炉裏の傍を陣取る毛玉が一匹いるぐらいか。

 

「こりゃ、ごん小僧こら。お前また人の家でだらけてるのか」

 

 手入れの終わった弓を壁に引っ掛けながら、私は腹を見せて寝転がる狸にそう言って呆れ顔をして見せた。

 おおかた、その敏い鼻で私が獲物を仕留めたことを察して、あらかじめ先回りしていたのだろう。野生などまるで感じないその腹を私はひとつ撫でると、ちりちりと燻る囲炉裏へと新しい薪を放り込んだ。

 

「ほら、お前の駄賃だ」

 

 しかし私も、この狸(ごん)とはかれこれ数か月の付き合いだ。もうその扱い方も随分と慣れたもので、あらかじめ懐に忍ばせていた肉の切れ端を見せつけるように何度か顔の横で揺らしてやれば、今までのだらけた態度はどこへやら、ごんは号令を聞いた兵隊のようにしゃきっとその場にお座り(気をつけ)をして、くりくりとした丸い目を爛々と輝かせてこちらを見上げるのである。

 そんな様子にまた呆れながら口元に肉を放り投げてやれば、ごんは俊敏な動きでそれをキャッチし、また囲炉裏の傍まで駆けて行ってがつがつと食らい始めた。

 狸というよりは、完全に飼い犬のような姿だ。

 こちらに向けた丸っこい尻なんかは、何やら柴犬を彷彿とさせる愛らしさすらある。

 そういえば夏毛から冬毛に変わりつつあるのか、以前よりもその姿は全体的に丸くなったような気がする。

 そうして、その少しばかり丸くなった尻尾を眺めながら、私は串に刺した猪の心臓やら腎臓やらを囲炉裏の周りに刺していく。

 初めは食あたりのリスクがある為避けていた部位ではあったが、以前に一度だけ試しに食ってみて、その後しばらく様子を見ても腹を壊す様子がなかった為、最近では解体して真っ先に味わう、ある種の楽しみになっていた。

 勿論、徹底的に火を通して、表面が焦げる程焼いてから食っているのだが、濃厚な心臓(ハツ)は勿論のこと、腎臓などの歯応えのしっかりした部位もまた美味い。

 そういえば遥か昔、縄文時代を生きていた人々は主に冬の間に狩りを行い、春や夏などには狩りを控えていたのだとか。理由としては春、夏は多くの動物にとって繁殖の時期であり、そこで若い個体や繁殖期の雌などを狩ってしまえばゆくゆくは全体の数が減少し、結果的に自分たちの首を絞めることになるから、だそうだ。

 その他にも草木が生い茂って獲物を見つけにくかったりだとか、冬の方が雪の上に足跡が残って獲物の追跡が容易だったりだとか、色々理由はあるらしいが、たしかに、肉は美味いが狩りすぎて繁殖すらできなくなってしまえば、最悪の場合は絶滅すらあり得る。

 それが閉鎖された、この島のような環境であれば猶更である。

 肉が食えなくなるのは、非常に困る。

 で、あれば、春の狩猟は控えるべきだろう。

 あとはやはり、養鶏、養豚だろうか。

 猪は大食いなので畑の方が整うまで現実的ではないだろうが、鶏ぐらいならどうにかなるだろう。野生の鶏さえ見つけることが出来れば。

 この考えは前からあって、今回の探索でもそれらしい生物が見つからないかと期待してはいたのだが、残念ながらここ数週間、その姿はおろか影すら拝めないでいた。

 鶏が手に入れば卵と鶏肉の安定した供給が見込めるのだが、やはり自然はそう優しくはないらしい。

 

「新しい罠でも仕掛けてみるか。いやはや、いっそお前さんが連れて来てくれると助かるんだがなあ」

 

 そう言って、おかわりを要求するようにこちらを見つめるごんへと、新しい肉を放る。

 そうしてうんうん頭を捻りながら串焼きを頬張っていると、ぶるりと寒気が来た。

 

「やれやれ、年を取ると近くなっていかんなあ」

 

 溜息一つ、立ち上がる。

 何が、とは仮にも乙女の身体であるので口には出さないが、うちの便所は小屋から歩いてしばらくした場所にあり、夏場はともかく冬になればそこまで歩いていく間にすっかり身体が冷えてしまうだろう。

 もう少し近場に作ればよかった。

 そんな風に後悔しながら小屋の外に出てみれば、何やら空からはらりはらりと舞い落ちる白いものがある。

 それを見て、私はあっと声をあげた。

 

「こりゃあまた、随分と勇み足な将軍様もいたもんだ」

 

 空から舞い降りてくる真っ白な雪の結晶を眺めつつ、気付けばそう呟いていた。

 しんしん、はらはら、こんこんと。

 空に浮かぶ無人島に、初めての冬がやってきた。

 




くっそ暑い今日この頃、物語の中ぐらいは涼しげに。
冬は何をしましょうかね。


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冬の蒸し竜娘

 

 冬。森の木々たちは真っ白な雪化粧に包まれ、川も凍てつき穏やかな静けさが島を支配する季節。

 肌を刺すような冷たさを感じながらも、しかし骨身に染みるほどの寒さではなく、真っ白な息を吐きながら私は今朝も日課の薪割りに精を出していた。

 身に着けるものは大猪の毛皮で作った防寒着と、尻尾巻きと翼掛け。

 防寒着はともかく、後の二つは急ごしらえで用意したので見てくれは悪いが、これでなかなか便利だったりする。というのも、これが無ければ身体が冷えてしまって仕方がないのだ。

 翼に張られた薄い皮膚の部分、飛膜というのだが、ここには細かな血管が無数に走っており、ここを冷やすことで放熱板のような役割を発揮して夏場はそれはもう大活躍だった訳だが、冬に入ってこれが完全に裏目に出た。

 このまま放り出しておくと芯まで凍ってしまいそうな程だったので、用意したのが肩掛けならぬ翼掛けである。これがどうしてなかなか便利で、まるでジャケットを一枚羽織っているような温かさがあった。

 尻尾巻きはこちらも毛皮をぐるぐると巻き付けただけの簡素な物だが、こうしておくことで尻尾に雪が積もっても腰まで冷えることはない。

 重ね着をしたおかげで少しばかり空が飛びにくくなったが、元々この寒空の下を飛び回るつもりも無く、今は以前よりも随分とのんびりとした時間を過ごしていた。

 そしてチセ、新しく建てた住居の住み心地も素晴らしく、流石は先人たちの知恵、古くから脈々と伝わってきた伝統というべきか、中央に据えた囲炉裏の熱は外に漏れることなく部屋中を暖め、あらかじめ用意しておいた木炭のおかげで頻繁に薪をくべる必要もなくなった。

 ちなみに時折忍び込んでくる(ごん)は湯たんぽ代わりに使っている。獣臭いのが難点だが、冬毛になってその内部に熱を溜め込んだごんは身体を暖めるのに最適であった。

 そんなこんなで割と快適に過ごしてはいるのだが、困ったことが一つあった。

 それは、川の水が凍ってしまった為に満足に水浴びが出来なくなってしまったこと。

 もっとも、常に泉の底から地下水が湧き上がっているため完全に凍ったわけではなく、表面の氷を砕けばいくらでも水は手に入るのだが、流石の私も真冬に冷水を頭から被るほどの根性は無く、冬に入ってからというもの、一度も身体を清めることが出来ていなかった。

 幸いなことにまだ不快に感じるほど体臭は悪化していないが、嗅覚疲労といって人間の嗅覚は疲労しやすい。これは自らの体臭によるストレスを緩和する為の、一種の防衛本能であるのだが、もしや自覚していないだけで自分は相当不潔なのではと、そう思うと何とも気持ち悪く、全身がむず痒くなる。

 それに、清潔はサバイバル環境下でも重要な要素だ。

 定期的に身を清めることで感染症、寄生虫のリスクを減らし、ストレスも軽減させる。身を清める、清潔に保つということはつまり、己の生存に繋がる行為なのだ。

 何なら水ではなく、馬などのように砂を浴びることでも寄生虫の予防にはなるが、今やっても身体中が雪まみれ泥まみれになるだけだろう。それでは逆に不快感が増してしまう。

 なので、今日は早速その解決策を拵えてみた。

 まずは冬でも葉を茂らせている木々から枝を拝借し、ドーム型の小さなテントを建てる。

 大きさは大人四人が収まるかどうかといったところだが、小柄な私であればこれでも十分だ。

 次はテントの中の雪を掻き出し、中央に何本か杭を打ち込んで籠を作る。

 そうして丸太で椅子を作り、出入り口を塞ぐ戸を作れば簡易的なサウナの完成だ。

 洒落た風に言えば、フィンランドのロウリュに近いだろうか。

 元日本人としては暖かい湯船に浸かりたいところであるが、これも立派な蒸し風呂(・・)ではあるので、贅沢は言わないでおこう。

 それでは早速と、私は土器に水を汲んでサウナの中に設置し、赤くなるまで炎を吹き付けて熱した石を中央の籠に積み込めば準備万端。衣類を全て脱ぎ去って丸太の椅子に座り、土器の水を焼石へと振り掛けた。途端、水は焼石に触れた端から蒸発し、激しく音を立てながら熱々の蒸気を立ち昇らせる。

 それを三度、四度と繰り返せば、サウナの中はむせ返るほどの熱気と蒸気で満たされ、額には玉の汗が噴き出すほどであった。

 

「かあー、効くなあ」

 

 血管が拡張し、全身から疲れが汗となって流れ出る心地よい感覚に思わず頬が緩む。

 だが、まだまだ。

 サウナの醍醐味はこれからである。

 私はサウナで十分に汗を流した後、そのまま雪が積もる外へと飛び出して泉の縁へ足を突っ込んだ。そこは前もって氷を砕き、冷水を張っておいた場所である。

 

「ひい、冷たい冷たい」

 

 肩まで浸かれば、芯まで響く冷たさで全身が一瞬で引き締められる。

 心臓に負担がかかるため晩年ではとてもとても出来なかった真似だが、この全身が冷やされ、引き締まる感覚がまた心地良い。

 そうして数分じっくり冷やされた後は、サウナの外で小休憩。外気温に慣らした後、またサウナに入って温める。そして十分に温まったらまた水風呂へ。

 サウナ、水風呂、外気温、これを三セット程繰り返す。

 こうして血管の拡張、収縮を交互に行うことによって血行が良くなり、疲労回復や自律神経の調整など様々な効果が期待できるのだ。

 

「おっ、お前さんも一緒にやるかい?」

 

 そうしてしばらくサウナを楽しんでいると、全裸で泉の傍を行ったり来たりする私の姿がさぞ珍妙に映ったのか、怪訝そうな顔をした狸が一匹、ひょっこりと顔を出した。

 すっかり冬備えは済んだのだろう。ごんはこの間よりも一回りほど丸っこくなった身体でとことこと私の足元までやってきたが、一瞬サウナの中に鼻を突っ込んだ後、何やら草臥れたような顔をしてチセの方へと帰っていった。どうやらサウナはお気に召さなかったようである。

 その様子を呵々と笑いながら私もその後を追い、囲炉裏の傍に腰かけた。

 ごんはいつものように一番上座、もはや指定席となったそこで丸くなり、時折寝返りを打ってはいびきまで漏らしている。そのうち鼻提灯でも拵えそうな堂々とした寝相をぼうっと眺めながら、ふと思う。

 

「前から思ってはいたが、お前さん、こうも呑気で良いのかね」

 

 聞いた話では狸が番を作るのは冬であり、さらには一度番になれば生涯その相手と添い遂げるのだという。どちらかが先に死んだ場合も、新しい伴侶は作らないというのだから相当な夫婦愛である。

 逆に言えば、それほど嫁、あるいは婿探しには慎重なのかもしれないが、これは慎重だとか大胆だとか、そういった範疇ではない気がするのだが。

 そう独り言ちながら尻尾の先でふくよかな腹を突いてみれば、肝心の狸様はむず痒そうに寝返りを打つばかりであった。

 

「まさかお前、私を番と思ってるわけではないだろうなあ」

 

 そのまま、まったく反応しない図太い狸の腹をくるりと巻いて手元まで持ってきて、逆さになったその顔をじっと覗き込んでみる。

 

「いいか、ちゃあんと狸の嫁を見つけるんだぞ。もう嫁がいるのなら、一度ぐらい私のところに連れてこい。ちゃんと挨拶しておかんと後が怖いからな」

 

 何せ、万が一ごんに嫁がいるのなら、こいつは嫁を放り出して別の女の家に入り浸り、あろうことか食い物まで強請るなかなかの浮気者ということになりかねん。

 私は嫌だぞ、化けた嫁に背中を刺されるなんてことは。

 しかし神妙な声色で語ってみても、逆さにされた狸はこてんと首を傾げるばかり。

 わかっているのだろうか。

 わかっていないのだろうなあ。

 盛大に溜め息を吐き、私は囲炉裏で温めておいた茶を啜る。

 雪に埋もれた森の中、くぐもった低い獣の声が、ひっそりと響いた。

 




※水風呂を用いた入浴方法は人により心不全などのリスクを伴います。
心臓が弱い人、体調がすぐれない人は真似しちゃダメ、絶対。


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熊風

お待たせ致しました。


 

 枝先に降り積もった雪が落ちる音で目が覚める、二百三十日目。

 私はまたしても、新たなる問題に直面していた。

 目の前には引き倒された丸太の戸と、食い荒らされた保存食たちの無残な姿。

 大樹の洞には主に拾ってきた宝箱の他に木の実や薬草などを保存していたのだが、ものの見事に食べ頃の木の実だけをごっそりとやられたようだ。

 ほんの少し、海岸まで魚を捕りに出掛けている間の出来事であった。

 とうとう鼠が出たか。

 否、鼠程度が丸太を組み合わせた頑丈な戸を倒せるはずがない。

 横たわる戸を持ち上げ、雪の積もる地面を観察してみればそこには無数の大きな足跡が。無論、人ではない。狸でもなく、虎や猪の類でもない。

 私の掌がすっぽりと収まってしまうほど大きなそれは、ほかならぬ熊の足跡であった。それも足跡から察するに、かなりの大物である。

 ううむ、と私は絞り出すように呻いて頭を抱えた。

 

「猪、鷲、虎、蛇ときて、今度は熊か」

 

 いや、正直なところ戦力的にはまあどうにかなるだろうと、自惚れなどではなく、こう、ぼんやりと、直感というか本能のような部分でそう感じるのだが、やはり熊というのは恐ろしいのである。

 頑丈な檻の中で、硝子越しならばなんとか対峙できるか、というのが正直なところだろう。

 いやいや、それを言えば虎も十分に恐ろしかったのだが、元日本人の爺としては、やはり熊の方が恐ろしい。

 何せ日本は北海道に生息するヒグマになれば三メートル、体重は三百キロを超え、世界最大級のホッキョクグマであればさらに倍以上、八百キロにもなるというのだから驚きである。

 ここで注意しておきたいのは、これがあくまで地球に生息する熊の大きさ、という点。

 思い返してみてほしい。ここまで様々な野生動物と戦ってきたが、そのどれもが地球のものとは比較にもならない大きさであったことを。

 この世界が特殊なのか、それともこの島に生物が巨大化するような要因があるのかは定かではないが、とにかく、猪も虎も蛇も、私の記憶にあるものより数倍は巨大であった。

 となれば、この熊もそれなりの化物であると思った方がいいだろう。

 つまりは四メートル、五メートル、さらには六メートルを超える個体が現れても不思議ではない、ということ。

 六メートルともなれば、その高さはおおよそマンションの二階程度に相当する。

 いや、足跡の大きさからして流石に六メートルは無いだろうが、それぐらいは覚悟しておいた方が良い。

 何せ遅かれ早かれ、この足跡の主とはやり合うことになるのだから。

 熊には、一度味を覚えるとそれと同じ物、場所に執着するという習性がある。

 そしてその執着心は、我々の想像を絶する。

 とある獣害事件では、大学生の登山グループが食料の入った荷物を熊に漁られ、隙を突いて奪い返したところ数日に渡って同じ個体の熊に追い回され、結果三名が死亡するという凄惨な結果となった。

 広い山の中で、たかだか数人分の荷物を追って、である。

 それほど、熊の執着心は強いのだ。

 さらに今は冬。本来ならば熊は冬眠している時期だ。

 この時期に出歩く熊は冬までに十分な食料を得られず、冬眠に失敗した個体である可能性が高い。

 穴持たずと、そう呼ばれることもあるこういった個体は飢えからか凶暴なものが多く、日本最大の獣害事件を引き起こしたのもこの穴持たずと言われている。

 つまり、大虎の時のように穏便に済ませられる可能性は極めて低い。

 幸いなことにツリーハウス、大樹の上に拵えた小屋に保管している干し肉や魚などは全て無事なので今のところ冬越えには支障なさそうだが、熊は木登りの名人でもあるので、ここも目をつけられたらそれまでである。

 全て抱えて逃げるか。いや、それも追いかけられたら同じだ。

 迎え撃つしかない。

 意を決し、背にした大斧を握りしめたその刹那。

 がさりと、大樹の向こうの茂みから音がした。

 直後、どこかまだ呑気していた頭とは裏腹に、身体は驚くほど俊敏に、速やかな戦闘準備を整える。腰は深く落とし、視線はぶれることなく音のした藪の方へ。

 口の両端から白息(しらいき)が煙のように溢れ、握りしめた大斧の柄が軋んで震えた。

 そうして、睨みつけるその先。

 張り詰めた空気の中。

 雪が振り落とされた茂みの奥から。

 一匹の狸がひょっこりと顔を出した。

 

「おま、お前なあ、いい加減に、お前は本当になあ」

 

 張り詰めていた緊張感が、溜息と共に霧散する。

 構えた大斧をそのまま杖代わりにして、私は目の前のお調子者を睨みつけた。

 そして気付く。

 現れた狸、ごんが歩いた後の雪が、赤い。

 咄嗟に、私はごんを抱え上げていた。

 出血していたのは、後ろ足。

 骨には至っていないが、肉を裂く刃物のような切り傷があった。

 襲われたのだ。

 恐らくは、保存食を漁ったものと同個体の熊に。

 そして、何とか這う這うの体でここまで逃げ果せてきたのだ。

 ここが一番安全な場所であると、ここならば助けてくれると、冷たい雪の中を必死になって、片足を引きずりながらやってきたのだ。

 私はごんを抱えて小屋へ飛び込み、すぐさま傷の手当てを始めた。

 とはいえこんな、文明とは程遠い島の中である。薬も無ければ、傷口を保護する包帯も無い。

 せいぜいが傷口を清め、身体を温めてやる程度。

 囲炉裏の傍でせっせと傷口を舐めるごんの姿に、胸が痛む。

 よくも、とは思わない。

 可哀そうだとは思うが、これが野生の生き物同士の、自然の掟に従っての結果であると理解しているし、私だって兎や猪を狩って食らっている。

 それを、見知った相手の時だけ憤り文句を言うのは、些か都合が良すぎるのではないかと、そう思う。

 ごんを襲った熊だって、生き延びることに必死なのだ。

 

「だが、まあ、うちの食料の件はまた別だわな」

 

 赤く明滅する囲炉裏の炭を眺めながら、息を吐く。

 そうすると、本当にこの狸は運が良い。

 熊に襲われておいて運が良いとは妙ではあるが、熊に襲われても生き残り、さらにはその個体が私の食料にも手を出している不届き者であったことは、幸運と言える。

 そして、助けを求められた以上、ごんを放って一人逃げる訳にもいくまい。

 奴さんは、近いうちにまたやってくるだろう。

 それこそ、早ければ今夜のうちにでも。

 熊はかなりの大食らいで、聞くところによるとホッキョクグマは日に一万キロカロリー以上を摂取する必要があるという。

 であれば、それを超える巨体であろう今回の個体ならばその倍は食うだろう。

 実りが少ない冬の森で、それほどの量を確保するのは相当に難しい。

 他の動物を狩るにもデカい身体は雪の中でかなり目立つだろうし、熊は臭いもキツイ。不意を打つにしても、風の流れや周囲の状態などが上手く嚙み合わなければ狩りなど成功しないだろう。

 手負いにしたごんを取り逃がしていることが、それを証明している。

 いや、普段は呑気しているこいつであるが、実のところ見た目以上にずる賢く知恵が回る。そんなこいつに一撃を食らわせているのだから、奴さんも相当な手練れなのかもしれないが。

 しかし、自分の十分の一にも満たない大きさの狸にまで襲い掛かるということは、それほどに飢えている証拠でもある。

 そんな中見つけた、大量の食料。

 まず、戻ってくるだろう。

 まだある筈だと。まだまだ腹いっぱい食えるはずだと。

 私が熊ならば、まずそう考えるだろう。

 洞の食糧庫には私の匂いもかなり染みついていた筈だが、飢えた獣がそんなものを警戒するとは思えない。

 奴の頭の中は今、食い物のことで一杯の筈だ。

 まず、戻ってくる。

 今日中に。

あるいは今、この瞬間にも。

 角の付け根が疼く。

 壁に立て掛けた大斧を手に取り、私はおもむろに外へ出た。

 吹き付ける風雪の中、鼻の奥にこびり付く様な獣の匂いが混ざっている。

 胸を打つ心臓の音が、やけに耳に残った。

 大斧を担ぎ、視界を塞ぐ程の雪の向こうを()め付ける。

 その先から幽鬼の如く、染み入るように現れたのは、大岩であった。

 

「よう、うちの狸が世話になったみたいじゃないか、なあ」

 

 大岩が身じろぐ。

 そうして足が生え、手が生え、やたら大きな頭が生えて、それはのっそりと立ち上がる。

 おおよそ私の倍ほどはある高さになった大岩は、その突き出した口元から真っ白な息を吐き出した。

 それこそまさに、地獄から這い出てきた鬼のように。

 斧を構える。

 足の爪が、雪に深く食い込んだ。

 犬歯を剥き出し、決して気圧されぬよう全身に力を巡らせる。

 腕に、胸に、脚に走る紋様が、一層激しく火花を散らす。

 瞬間。

 雪を吹き飛ばすほどの咆哮が、森の中に響いた。

 



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尊く、美しいもの

今回、特に残酷な描写を含みます。
グロ表現苦手な方はご注意ください。

テレビで三毛別事件を取り上げたと聞いて、盛り上がってしまいました。
でも多分、現実の熊はこれ以上に怖い。

※一部加筆修正を行いました。


 

 時に、獣は想定される以上の能力を発揮することがある。

 曰く、窮鼠猫を噛む。あるいは火事場の馬鹿力か。

 窮地に立たされたヒーローが新しい力に目覚めるお約束、とまではいかないがともかく、追い詰められた獣は時として信じられない底力を発揮することがある。

 あるいはそれは、鷹の前の雀があろうことか鷹の目玉を抉り取ったりだとか、蛇に睨まれた蛙が蛇を呑んでしまうことすらありえる、それほどの力なのかもしれない。

 つまり何を言いたいのかというと、ことこの瞬間において、私はまだ野生動物というものを、自然というものを舐めていた、ということだ。

 そんなことを私は加速する思考の中で考えていた。

 吹き飛ばされ、泉の水の上をまるで水切りの石のように飛び跳ねながら、洗濯機の中に放り込まれたように上下左右と目まぐるしく入れ替わる視界の中で、そんなことを考えていた。

 左腕一本と皮一枚。

 開口一番、私が見上げんばかりの巨体を誇る熊に飛び掛かり、浴びせかけた斧による一撃の成果がそれであった。

 そして、いくらデカかろうと熊は熊。そう回る知恵など持ち合わせていないだろうという、私の浅はか極まる愚かな行為のツケの清算は速やかに、これ以上ない痛烈さを伴ってやってきた。

 私の攻撃に対し、熊が取った選択は防御。

 飢えて飛び掛かることもなく、その大きな身体を機敏に動かしての回避でもなく、腕一本を犠牲にすることも厭わない防御。

 そして、奇しくもそれはその場においての最善手であった。

 飛び掛かってくれば、その爪が私を引き裂く前に、私の斧が熊の図太い首を刈り取っていただろう。

 避けようとすれば、私は容赦なくその逃げ足を切り飛ばしていただろう。

 どちらも命に係わる致命傷。であるならば、腕一本。大きな代償には違いないが、命よりは安い。そんな選択。

 事実、私の一撃は差し出された熊の丸太のような左腕を切り落とした後、その奥に控えた熊のぶ厚い毛皮で押し止められることになった。

 いわば、熊の覚悟の分だけ、私は奴の命に届かなかったのだ。

 そして大きな得物を振り切って、中空で制止する少女の身体ほど狙いやすい的はない。

 私が熊の思わぬ行動に面食らったほんの数秒。

 ほんの僅かに生まれたその隙に、丸太のような右腕が叩き込まれた。

 完全に意識の隙間を撃ち抜かれた一撃だ。防御する意識などあろうはずもない。

 諸に入った。

 大リーガーのフルスイングが温く見える速度の薙ぎ払い。

 肋骨が浮き出るほど華奢な脇腹から、官能的な鎖骨へと破壊的な衝撃が抜ける感覚。

 手放した大斧が地に落ちるより早く、私の身体は遥か頭上、大樹の枝へと打ち据えられる。

 そしてこの世界においても万有引力はしっかりと存在している。

 故に、上に打ち上げられたものはやがて下へ、地面に向かって落ちていく。

 僅かに霞んだ視界の中、遥か彼方の地上で、今まさに私を打ち上げた化け物が勇ましく地を掻いているのが見えた。己が左腕を奪った怨敵へさらなる一撃を加えんとしてか、あるいはただただ痛みにもがき苦しんでいただけか。

 ともかく、私はようやく回り始めた思考回路を死に物狂いで動かして、来るべき追撃に備えた。

 差し出したのは、奇しくも熊と同じく左腕であった。

 私が地面に不時着するほんの少し前。長い銀髪が地面に流れ始めたその瞬間。

 耳をつんざく雄叫びとともに、熊の全体重が私の左腕に浴びせかけられた。

 熊の頭蓋骨。その硬さは我々の想像を優に超える。

 歴戦の猟師、マタギですら苦戦する原因の一つであり、ちゃちな銃弾ならば貫通せず弾き返すというのだから相当である。

 いわば、生まれ持った鉢金だ。

 そしてそこに軽く三百キロ以上はあろうその巨体の重量を乗せる。

 結果は見ての通り。

 私はダンプカーに跳ね飛ばされたように錐揉み回転しながら横へと吹っ飛び、ちょうど開拓予定であった場所の木々をほんの四、五本ほど圧し折って血だらけ土塗れの有様へと相成った。

 だが、見てくれほど怪我は酷くない。

 派手に吹き飛ばされはしたが、頑丈になった身体のお陰で目立った傷は左腕の一本だけ。

 他は細かい切り傷などもない、綺麗な状態を保っている。

 ともあれ、その左腕は見るも無残な状態だ。

 肘から先は二つに折れ曲がって第二の肘関節を作っているし、肩は砕けて感覚が無い。

 ダンプカーに撥ねられてこの程度で済んだと喜ぶべきか、あるいは自分の迂闊さを呪うべきか。

 とりあえず、私は尻尾の先で肘を固定し、己の左手首を右手でがっちりと握りしめた。

 

「いくぞ、いくぞっ、いち、にの、さっ……!」

 

 ごり、と鈍い音が腕から脳天まで走り抜け、焼き鏝を押し当てられたような激痛が襲う。

 音にならない悲鳴。苦悶の声が漏れる。

 何せ控えめに言っても乱暴なやり方で折れた骨を戻したのだ。神経も肉も筋繊維もずたずたのぼろぼろだろう。

 だが、元の位置に戻ったのならそれでいい。

 ならば、あとはこの身体の尋常ならざる治癒力がどうにかするだろう。

 だが、少なくとも今日のうちには回復しない。あの馬鹿げた大きさの熊を相手に片腕とは、少しばかり気が滅入る。

 そして、この時点でもまだ私は侮っていた。

 それを思い知らされたのは足元に黒い影が差し、凄まじい力で顔面を地面に叩きつけられた時だった。

 鼻が折れ、口いっぱいに土の味が広がる。

 地面に押し付けられ、呼吸することも困難な状況で私は考える。

 誰にやられた。まさか、あの熊か。

 もう私に追い付いてきたのか。あの頭突きで百メートル近くは吹き飛ばされた筈だが。

 いや、熊の走る速さは最高時速六十キロ。地球に存在する熊でもそれほどの速度であるので、あの規格外の個体であればそれ以上の速度で走っても不思議はない。

 しかし前足を一本切り落とされた直後だというのにこの速度で走り、あまつさえ逃げもせず向かってくるとはなんという熊だ。

 だが、問題はそこではない。

 後頭部を押さえられ、まともに顔も上げられないこの状況。これは非常に不味い。

 翼と尻尾で何とか追い払おうと試みてはいるが、あの巨体に対しては焼け石に水。

 そして、恐れていた事態が訪れる。

 

「ごっ、おっ、いぎっ……!?」

 

 脇腹に激痛。

 うつ伏せに組み敷かれたまま乱暴に、まるで遠慮の欠片もなく脇腹を貪られたのだ。

 鉄並みの硬さを持つ外皮であろうとも、化物じみた熊の牙は止められない。

 顔を上げようにも三百キロを超える重量が首にかかっている為、そうそう容易くはいかない。むしろ重さで頸椎がへし折れていないだけ幸運なのだろう。

 腹が裂かれる。

 (はらわた)を引きずり出され、くちゃくちゃと咀嚼するぞっとする音がいやに耳に響いた。

 これまで数々の化物じみた生物と戦ってきたが、吹き飛ばされ、溶かされ、食われそうになったことは幾度もあった。

 しかし、生きたまま食われるだなんて。

 何とか飛んで逃げようと翼を必死に動かそうとも、頭を押さえられ、脇腹に食い付かれたこの状況で浮き上がる筈も無く。

 

「やめ、おっ、ぎゃっ」

 

 腹に口先を突きこまれる激痛、不快感たるや。

 あまりの痛みで気が飛びそうになるが、続く痛みがそれさえも許さない。

 いっそ狂ってしまったほうが楽なのかもしれない。そう思うほどの地獄。

 みしみしと軋む音は、己の首から鳴るものだった。

 規格外の重量に、とうとう首の骨が悲鳴を上げ始めたのだ。

 折れる。

 私は己の凄惨な死に様を想起した。

 あまりの恐怖に身の毛がよだち、喰われてがらんどうになった腹から言い様のない冷たい感覚が脳天へと走り抜けた。

 下腹部がじわりと温かくなる。

 恐怖で失禁したか、あるいはただ熊に膀胱が食い破られたか。

 熊を、自然を侮ったツケの代償としては、あまりにも暴利が過ぎる。

 違う。本当はもっと上手くいくはずだった。

 心の中でそう吐き捨てた悪態は、誰に向けてのものか。

 死ぬ。今すぐにでも。生きたままクマに食われて。

 思考が、心がどろどろとした黒いものに蝕まれていく。

だがその時、そんな私を窮地から救い上げる救世主は、意外なところからやってきた。

 突然響く、苦悶の声。

 それは私のものではなかった。

 同時にふっと軽くなる頭。

 すわ何事かと霞む視界で見上げてみれば、そこには勇猛果敢に熊の頭に食らいつくごんの姿があった。

 否、あれは勇猛などではなく蛮勇。

 あまりにも無謀すぎる行いである。

 

「ごんっ、お前っ、何してるっ!」

 

 がらんどうの腹を引きずって、私は叫んだ。

 その体格差は、大人と子どもの比ではない。人が象に挑むようなものだ。

 勝てるわけがない。

 

「馬鹿っ、逃げろ、さっさと!」

 

 熊が頭を振って抵抗する。ごんの牙はがっちりと、熊の片耳を捕えていた。

 だが、そんなささやかな抵抗などそう長く続くものではない。

 ほんの数秒。

 私が立ち上がり、満身創痍で何とか熊の気を引こうと枯れ枝を拾い上げている間に、ごんは暴れ回る熊の頭から振り落とされる。

 まるで投げ放たれた砲丸のように放物線を描きながら、ゆっくりと、ごんの姿が遥か彼方、雪の中へと消えていく。

 その光景を、私はただぼうっと眺めていることしかできなかった。

 

「おい、嘘だろ、お前、お前えっ!」

 

 目の前が真っ赤に染まる。

 腹も食われ、首も折れかけているのに、身体中に熱い血が駆け巡るようであった。

 心臓が、胸を突き破らんばかりに鼓動する。

 

「お前っ、お前っ、よくもっ、ヨクモッ!」

 

 髪を振り乱し、血が流れるほど頭を掻きむしる。

 身体が熱い。

 まるで溶けるようだ。

 熊が、僅かに怯むような様子を見せた。

 身体中が、五臓六腑が切り刻まれるような感覚。

 だが、痛みはない。

 感じたのは、快感すら感じるほどの開放感。

 ぐるりと世界が一周する。

 光が溢れる。

 身体を包み込むのは、月の光にも似た銀の糸。

 巻き付く。巻き付く。巻き付く。

 それはまるで、蚕が紡ぐ繭のように。

 変わり、変わって、変わり果てて。

 ゆっくりと、繭が解けていく。

 帯が解けるようにゆっくりと、繭のその奥、そこに隠されていたそれは、黒曜石のような鱗に覆われた、見惚れるような龍であった。

 官能的な美しさすら湛える龍が、宝石のような、見るだけで陶酔しそうな紅い瞳で獲物を撫でる。

 獲物は動けない。動けるはずもない。

 体格は己と同じ、いや、あるいは己の方が勝っているはずなのに。

 それでも、動けない。そしてそれは道理であった。

 対峙するは己などその姿を見ることすら憚られる、絶対的上位者。

 生物の理の外。

 自分たちが隷属する、自然の摂理そのものであるのだから。

 

――嗚呼、汝

 

――世界()の胎へと還りたまへよ

 

 脳髄に染み渡るような、甘い声が響く。

 それはまるで母のような、溺れそうな程の愛に満ちた優しい声。

 その声に溶け込むように、やがて私の意識は闇へと堕ちていった。

 




???「余だよっ!」


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狂飆来りて

お待たせしました。

新キャラ(大嘘)登場します!

ps.台風が近づいてきてますので、皆様くれぐれも大事の無いようお過ごし下さい。
私? 仕事っす!(笑顔


 

 火の弾ける音で、目が覚めた。

 生きている。

 まだ僅かに霞がかった頭で、ぼんやりとそんなことを思う。

 見上げる天井はよく見知った物で、ここが小屋(チセ)の中であることを理解すると共に、一体なぜ自分はここにいるのか、一体何が起こったのか、新たに次々と湧き上がってくる疑問に思考が追い付かず、ひとまず私は軋む身体をゆっくりと持ち上げ、そこで自身の身体の変化に気が付いた。

 

「ちびに戻ってる」

 

 そう、目覚めた私の身体は十前後の、この島で目覚めたばかりの頃のような幼い姿に変わっていた。

 随分と小さくなってしまった手を何度か握り、傷跡一つ残っていない腹を撫でる。

 全裸であった。

 

「目覚めたか、幼き同胞よ」

 

 そして、不意にかけられた声に肩が跳ねる。

 猫のように全身を飛び上がらせた私が咄嗟に声のした方へ向き直ると、そこには目の覚めるような美しい少女が、穏やかな表情で囲炉裏を見つめ座っていた。

 胸元まで流れ落ちる燃えるような紅蓮の髪。

 気だるげに半ばまで閉じられた瞼の奥に光る、硝子玉のような透き通った金色の瞳。

 雪のように白い肌の上で、薄く紅が塗られた桃色の口元が背徳的な色香を放っている。

 十二単に似た衣装を纏うその姿はまるで雛人形のようで、十を過ぎたばかりに見える幼い顔立ちの中に、彫刻のような冷たい美しさがあった。

 だが何よりも目を奪われたのは、その側頭部から伸びる珊瑚のような空色の角である。

 その角には見覚えがあった。

 

「まさか、いつぞやの龍か」

 

 少女の瞳が静かにこちらへと流れる。

 身震いするほどの妖しさを孕んだその所作に私はつい言葉を失い、目の前のこの少女が尋常ならざる化生であると、心の奥から理解した。

 

「貴女が、助けてくれたのか」

 

 私の言葉に、少女は首を傾げた。

 赤い髪が数本さらりと頬へ流れ落ち、縦に裂けた瞳孔がこちらをじっと見据える。それはまるで、こちらの心を見透かすようで、何ともむず痒くなってしまった私が視線を逸らすと、少女はまた囲炉裏の火を眺めながら言った。

 

「やはり不可解なことを言う、幼き同胞よ。人の姿を、人の生き方を倣う貴公は余の興味を惹く。故にまた、こうして貴公を眺めに来た。力の発露は感じたが、余がここに来た時から貴公はずっとここに在った」

 

「力の発露……」

 

 覚えている。

 霞がかった記憶が、やがて鮮明にその色を取り戻していく。

 熊に貪り食われる感覚。牙を突き立てられる、腹を切り裂かれるあの痛み。

 龍に変わる自分。あの、身体が溶けるような熱さ。

 そして、吹き飛ばされる友の姿。

 ぞっと、背筋を冷たいものが走った。

 

「そうだ、ごん、ごんはどうなった!」

 

「ごん」

 

「そうだ、これっくらいの、小さい毛むくじゃらな奴だ」

 

「知らぬ。余がここに来た時から、ここに在ったのは貴公だけだ」

 

「なら、近くで見かけなかったか。大事な、大切な友なんだ」

 

「知らぬ。余は無駄な問答は好まぬ」

 

 感情の宿らない瞳が妖しく光る。

 刹那、身体を通り過ぎたそれはまるで、氷の刃で袈裟懸けに切り裂かれたような悍ましい感覚。

 思わず口を噤んだ私に対し、少女の興味はいまだ囲炉裏で踊る火の方にあるようだった。時折火かき棒代わりに置いていた枝で薪を突っつくと、舞い上がる火の粉を無感情な瞳で追いかけ、さも興味深そうに天井を、そして室内をぐるりと見まわしていた。

 

「そんなに面白いかい」

 

 その様があまりにも不思議で、ついそう口に出していた。

 ごんのことが頭から離れず、思った以上にぶっきらぼうな言い方になってしまったがどうやら機嫌を損ねることはなかったようで、少女は赤くなった枝の先をぼうっと眺めながら。

 

「興味深い。この、人が作り上げたものが、ではない。それを模倣し、利用する貴公の在り様が、だ」

 

 そう言ってその唇から細く息を吹きかけた。

 柔らかな口先から吐き出された息は小さく旋風(つむじ)を巻き、枝先で燻っていた赤い火を呑み込んだあとぱっと弾けて消えていく。

 

「貴女だって、今やってるじゃないか。その立派な着物は誰かが拵えたものだろう」

 

 金色の瞳と視線が交差する。

 

「否。これは余の古い記憶から汲み上げ、魔力によって編み上げた仮初の姿に過ぎない」

 

 魔力とは、また聞きなれない単語が出てきたな。

 しかし心当たりが無いわけではない。空を飛ぶ時に翼が掴む不思議な力場や、炎を吐き出す際に身体を巡る謎の熱量も、魔力という、地球には存在しなかった力が働いていると考えれば納得はできる。理解はできんが。

 

「本来、目覚めていない同胞の傍に我らが在ることはない。それは未熟な力を掻き乱すことになるからだ。故に、貴公の程度にまで力を押さえ、姿も似せた。そして、余がこの姿をとることは極めて稀だ」

 

 何だか色々と難しい話をしているようだが、つまり、この龍は姿を自在に変えられると、そういうことだろうか。

 

「それ、私にもできないか」

 

 姿も自由自在、服も意のままに作り出せるとするならば、これほど便利なものはない。

 彼女、でいいのだろうか。仮に彼女と呼ぶことにするが、私が彼女と同じ種族であることはこれまでの話から明らかであるし、であるならば、彼女と同様の御業を私が扱えても不思議ではない。

 しかし、彼女の答えは否であった。

 

「貴公はまだ力を扱いきれていない。先に行った未熟な覚醒こそ、その証左」

 

 覚醒とは、あれのことか。あの、身体中が作り変えられるような感覚のことだろうか。

 ならば、私はあの時、龍になったのだろうか。

 幼い竜ではなく、彼女のような上位者に、龍になったのだろうか。

 

「扱いきれていない故に力が枯れ果てる。まずは貴公、己を識ることだ」

 

 そうして、彼女の姿がすうっと薄くなる。向こう側の壁が透ける程、目の前にいるのに、本当にそこに存在しているのかすらわからなくなるほど、その気配が希薄になっていく。

 己を知る、とはどういうことだろうか。

 私は、私である。

 地球で生まれ、生き、往生した爺である。

 その筈だ。それこそが、私である筈である。

 ならば己とは龍である私、この身体の本来の持ち主、この少女のことであろうか。

 そう私が頭を悩ませている間に、とうとう彼女は空に浮かぶ雲のように解け、消え去っていく。

 はっとして手を伸ばすも、それが彼女を掴むことはない。

 正しくそれは、自由に空を行く雲のように。

 

「待てっ、待ってくれ、また言うだけ言って帰るのか、貴女は!」

 

 消えていく。

 やがてそこには、小さく渦を巻く風だけが残り。

 

『また来る。貴公の良き巣立ちを祈っているぞ』

 

 そう言い残して、彼女は一切の気配を残すことなく消えてしまった。

 まるで狐に摘ままれたような気分である。そう、狐に。

 

「そうだ、ごん、ごんだ!」

 

 狐ではなく、狸であるがともかく、いまだ安否の知れぬあの図々しい同居人のことを思い出し、私は外へと飛び出した。

 着の身着のまま、何も着ぬまま、とにかく外に飛び出して。

 まず飛び込んで来たのは、緑。

 雪の色ではない、鮮やかな新緑の光景がそこにあった。

 ほんの僅かの、思考停止。

 穏やかな日差し。咲き乱れる花々。爽やかな森の香り。

 春が、そこにはあった。

 そう、私は冬の間すっかり眠りこけていたのだ。

 まるで冬眠する熊のように。

 それを理解するまでに、数分の時を要した。

 そうして、あまりに予想外な光景に停止した私のぽんこつな脳細胞を動かしたのは、足元から伝わってきた柔らかな感触であった。

 はっとして、足元に目を落とす。

 そしてそこには、人の足元で腹を見せて寝ころび、あまつさえ美味そうに黄色い花なんかを頬張ってぐうたらする、見知った狸の姿があった。

 そこでまた、思考停止。

 一つ、二つ、きっかり三つ数え。

 

「お前、ほんとお前なあ……っ!」

 

 私は特大の溜息と共に大の字に倒れ込んだ。

 憎々しい程晴れわたる、気持ちの良い空であった。

 




ごん「なにしてんの?」


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山の幸、海の幸

お待たせしました。



 

 春である。

 穏やかな日差しが泉を照らし、爽やかな風が吹き抜ける中で私は一人、丘の上で瞑想に耽っていた。

 まずは己を識ること。

 そう言い残した彼の龍の教えを実践すべく始めたこの瞑想も、今ではもう毎朝の日課になりつつある。

 背筋を伸ばして足を組み、両手は膝の上に。安楽座(スカーサナ)とも呼ばれる、瞑想を行う際の基本的な構えを取りながら目を閉じ、ゆっくりと深く息を吸い、吐く。

 時に、仏教においては人間の心は多層的な構造を持っていると考えられている。

 それ即ち眼識、耳識(にしき)鼻識(びしき)舌識(ぜっしき)、身識、意識の六識であり、それぞれが人間の視覚や触覚、自意識などを感じる心なのだという。

 またこれに類似したものに六根というものがあり、六根清浄(・・・・)とはこの目耳鼻舌身意の六つが清く健やかでありますようにと唱える言葉である。

 ちなみにこれが変化していき、どっこいしょ、という言葉になったという説もあるそうな。

そしてこれらとは別に末那識(まなしき)阿頼耶識(あらやしき)の二つを加えた八識と呼ばれるものも存在し、これは簡単に言えば自我、無意識のようなものである。

 私が向き合うはこの阿頼耶識、意識の奥のさらに奥、心の最も深い場所へと潜っていく。

 息を吸い、細く吐き出す。

 心を無にして、身体全体が自然の中へと溶け出すように。

 やがて周囲の音すら消え去って、私の心は世界の奥へと――。

 

「まあ、そう簡単には行かんわなあ」

 

 目をぱちりと開ければ、私の肩やら翼やらに留まっていた小鳥たちが慌ただしく飛び立っていった。

 そも、九十年以上煩悩に塗れて生きてきた爺がほんの数日云云かんぬんやってあっさり開ける悟りなら、お坊さんたちは皆ああも熱心に修行などやっていないだろう。

 どっこらしょと立ち上がり、凝り固まった肩やら尾やら翼やらをぐっと伸ばしていく。

 

「んーっ、よし、それじゃあ今日も頑張りますか」

 

 一通り伸ばし終わり、両頬を張って担ぎ上げたのは最近になって改良を加えた大斧である。

 刃となる鱗を増やし、より攻撃力を高めた巨大な頭を支えるのは巨大な白骨。そこいらの大木など目でも無いほど頑強なこの骨は他でもない、かの大熊の足から取り出したものであった。

 あの日、狂飆(きょうひょう)という名の龍がやってきたあの時、大熊は泉の傍、私が殴り飛ばされ、喰われかけたあの場所で静かにこと切れていた。

 冬を超え、春の日差しの中であってまるで腐ることなく残ったその死骸には傷という傷もなく、その姿は職人の手によって仕上げられた剥製のようであった。

 まるで、一息の間に魂を抜き取られたような、美しくも悍ましい死にざまであった。

 ぞっとした私は、毛皮や骨、爪や牙こそ剥ぎ取ったものの、その肉はとてもとても食べようとは思えなかった。

 しかし、喰らわぬならばそれなりの供養をと、その肉と頭は私の炎で燃やし尽くし、骨は海へと流した。

 森の中に置いておけば獣と虫があっと言う間に喰らい尽くしてくれるだろうが、それで何か良からぬものでも取り込んで第二、第三の化物が生まれても困る。

 いや、まあ、どうせそのうち第三と言わず十でも二十でもああいった大物は湧いて出るのだろうと半ば諦めてはいるのだが、どうせならば私の生活圏とは被らない場所で慎ましく生きてくれないだろうか。

 或いは、この辺りにああいった化物を引き寄せるような何かがあるか。

 その辺りは狂飆がよく知っていそうだが、どうせ尋ねたところであの思わせぶりな言い回しで煙に巻かれるのは目に見えている。今はただ、言われた通りに生きていくしかない。

 そんなこんなで、小難しいことを考える時間は終わり。

 私は編み籠を背負い、爽やかな涼しい風が吹く森の中を飛び回る(・・・・)

 これもまた、一つの変化。

 場所にもよるが、移動する際には意識的に翼を使うようになった。

 これは飛行練習も兼ねているが、主な目的はもしもまた巨大な獣と戦闘になった際、反射的に空中へと退避できるようにする為だ。

 思えば、あの大熊との一戦も、すぐさま空中へ飛び上がっていればあそこまで深手を負うこともなかった筈である。

 あの時は著しく冷静さを欠いていたとはいえ頭上から攻撃を、それこそ炎を吐き掛けていれば全く逆の展開になっていただろう。

 全く、我ながら恥ずかしい。

 だがしかし、過ちを認め、それを改善していくことこそが肝要だ。

 だからこそ私はこうして生い茂る木々にぶつかりそうになりながらも、えっちらおっちら忙しなく翼を動かしているのだ。

 ちなみに、今回の探索の目当ては山菜である。 

 ワラビにノビル、フキノトウ、ゼンマイ、タラの芽、ハマダイコン。

 厳しい冬を超え、実り実った山の幸を優しく摘み取っては背中の籠へと放り込んでいく。

 実際には大熊に伸されて気を失っている間に冬を越してしまったのでその厳しさなど知る由もないのだが、ともかく、春を迎えた浮島のその豊富な実り具合とくれば夏や秋と比べても遜色のない程であった。

 

「しかし、春となるとアレが食いたいなあ」

 

 程よく育ったタラの芽を摘み取りながら、ぽつりとそう零した。

 春と言えばやはり、(かつお)であろう。

 特に私はカツオのたたきが大好物であり、さらにはどうしようもない飲兵衛でもあったので、初カツオのたたきを肴に清酒で一杯などと、そんなことを考えるだけで何とも堪らなくなる程度には駄目な爺であった。

 しかし鰹は回遊魚であり、地球でもかなりの広い範囲を泳ぎ回っていた魚である。

 磯釣りは勿論のこと、一見すると広そうに見えるこの島の沖合でさえ、とてもとても獲れそうにはない。

 そも、この海にそれほど大きな魚などいるのだろうか。

 これまでも磯場で罠やら釣りやらをして魚は捕まえてきたが、大きいものでもせいぜいが三十センチほどのものばかりで、鰹ほどの大物にはまだお目にかかれていない。

 もし存在するのであれば一尾だけでもかなりの食料になるだろうし、今日は少し海の方にでも行ってみるか。

 そう思い立ったら何とやら、私は翼をひと打ちして海岸線へと舵を切った。

 木々の間を縫うように森を翔け抜けて、砂浜へと飛び出したところで大きく頭を起こし、高度を上げる。足元には、吸い込まれてしまいそうな程の深く、青い海。

 そこへ、足先がちょんと着くかどうかというところまでゆっくりと落とし、じっとその波打つ水面の奥へと目を凝らす。

 何かいる、気はする。いや、それはそうか。海なのだから、大なり小なり生き物はいる。

 

「とりあえず、行ってみるか」

 

 少しばかり考えた後、私は着ていたものを全て砂浜へと脱ぎ捨てて海へと潜った。

 百聞は一見にしかず、とは少し違うが、やはり水の中を探るのならば潜ってしまうのが一番手っ取り早い。

 幸い、この身体は泳ぎもそれなりに得意なようで、翼をぴっちりと身体に密着させ、尾を左右にくねらせながら実に器用に泳ぐ。これは私が編み出したのではなく、不思議と身体がそう動いたのだ。身体が覚えていた、というよりは、本能的なものなのだろう。

 さらにこの目は水中であっても遠くまで見通せるようになっており、少し潜った後に周囲を観察してみれば、色とりどりの、とはいかぬまでも、大小様々な魚が泳ぎ回っているのがよく見えた。

 だが、残念ながら目当ての大物は見当たらず、やはり大きいものでもせいぜいが三十センチあるかどうか、というところである。

 陸地があれほど豊かなので海の方もそれなりに期待していたのだが、やはり空に浮かぶ島の、端が滝のように流れ落ちているような特殊な環境ではそうそう上手くはいかないようだ。

 しかし、少しばかりの落胆と諦めを胸に私が海面へと浮き上がろうとしたその直後、海底に並ぶ岩場の影に動くものがあった。

 そこからの私の動きは、まるでイルカやシャチのように俊敏であった。

 さっとその岩場まで潜っていくと、慌てて奥へと隠れようとしたそれの襟首をむんずと掴み上げ、そのまま全身を引き摺り出した。

 掴み上げられ、それでもなお全身を私の腕に巻き付けながら抵抗を続けるそれを逃がすものかともう片方の手でがっちりと捕らえ、私は一気に海面へと浮上する。

 勢いをそのままに空中へと飛び上がり、掲げるはしかと掴んだ戦利品。

 丸い頭にぬるぬると光る赤黒い肌。八本の足に、びっしりと並ぶ吸盤の列。

 そう、日本人ならば誰もが知るそれは紛れもなく。

 

「蛸、獲ったぞー!」

 

 優しい春の日差しを浴びながら、私は満面の笑みを浮かべながら鬨の声を上げたのだった。

 




生か焼きか、それが問題だ。


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運命の出会い

大変お待たせして申し訳ありません。
新キャラが出ます。


 

 蛸というのは、こう見えて中々手間のかかる食材である。

 というのも、その全身を包むぬめぬめとした粘液、これがかなり厄介で、日本ではそのぬめりを取るために洗濯機を使う地域すらあるというのだから相当なものだ。

 他には片栗粉や塩で揉む方法もあるが、片栗粉に関しては芋すら見つかっていないし、塩を使うにしても相当な量が必要になってくる。

 ただでさえ海水から少しずつ作り置いてきた貴重な塩だ。蛸を美味しく頂く為とは言え、過度な消費は避けておきたい。

 ではどうするか。

 頭を捻って思いついた苦肉の策は、八本全ての足の皮を丁寧に引き、吸盤を外すといったものであった。

 かなり手間がかかるし、道具が包丁代わりの鱗のナイフしかないので身の部分も多少は削ってしまうが、塩が無くなってしまうよりはだいぶ良い。

 そうして真っ白に剥いた身と吸盤は茹でた後に薄く切り刺身に。同じく茹でたタケノコと木の皿に並べてハマダイコンの花を添えれば、見てくれだけはそれなりのものになった。

 

「それでは、頂きます」

 

 枝を削り作った箸で蛸の刺身をちょんと摘まみ、口へと運ぶ。

 そして口の中に含んだ途端、やはりというか、まずは生臭さと少しばかりのぬめりが口の中に広がった。下処理をきちんと行っていないのだから、これは仕方がない。

 しかし歯を押し返す、この強烈な弾力は何だ。生前でもこれほど歯応えの強い蛸にはお目にかかったことがない。そしてそれに負けじと強く噛み締めれば、その強靭な身の奥から滲み出るのは、その見た目からは想像もできない甘味と旨味。噛めば噛むほど溢れ出るそれらに、私は頬が緩むのを止めることが出来なかった。

 美味い。

 僅かに残る生臭さを加味してもなお、この島に来て口にした中でも上位に入る美味さである。

 げに惜しむべきは、十分な下処理が出来なかったことか。しっかりと塩でぬめりを取り、生臭さを取り除いていればもっと美味い蛸料理が出来たことだろうに。

 

「まあ、無い物ねだりをしても仕方がない」

 

 そう小さく溜息を吐き出して、また一口噛み締める。

 思えばこんな、世界の果てのような無人島で蛸料理にありつけるだけで随分な贅沢なのだ。これ以上求めていては罰が当たるというもの。

 切り分けて茹でただけのものを料理と呼べるかどうかは別として。

 

「ごちそうさまでした」

 

 しっかりと手を合わせ、感謝。

 丸々太った蛸はまるっと私の腹に収まり、少しばかりふっくらとした腹を満足げに撫で回しながら次に私が向かったのは泉を見下ろす丘の上。少し前までは何もなかったその場所には私の腕ほどの太さと、私の背丈よりも大きく育った若木が一本。

 驚くなかれ、これこそはあの日、冬が訪れるよりもずっと前に植えたあのりんごの木なのだ。

 まるで狐か狸にでも化かされたような馬鹿げた話であるが、どうやらあの堆肥にはとんでもない効果があったようで、種を蒔いてから一年と経たずにここまで立派に育ったのである。

 龍の力恐るべし、というべきか。

そんじょそこらの牛やら馬やらのそれや、化学肥料など比較にならない。

 小屋の横に拵えた畑にも同じ堆肥を使ってみたが、そちらはそちらで驚く様な変貌ぶりで、りんごの木の世話が終わったら今度はそちらの手入れが待っている。

 

「おう、今日も元気そうだなあ。早く美味しい実を付けておくれよ」

 

 力強く根を張り、瑞々しい葉をつけたその幹をそっと撫でれば、まるでこちらに笑いかけるように頭上の葉が音を奏でる。

 生前に聞いた話では、りんごやらみかんやらは剪定して無駄な枝を落としてやった方が枝も実も良く育つらしいが、見知った世界の品種でさえ扱ったことのないずぶの素人が、本職の人間でさえ見知らぬ異世界の果樹に適当に手を出して腐らせてしまっては大変なことになると結局触らずじまいであった。

 だがそれが功を奏したのか、りんごの木はこうして上へ横へとのびのびと育っている。

 種を植えた頃は、大きくなれば挿し木なりなんなりして株を増やしてみようかと夢見たものだが、種からでもこれだけ早く、大きく育つのであればその手間も必要なくなるかもしれない。

 

「しっかしこれだけ早く育っちまうと、りんご農家はやってられんだろうなあ」

 

 なんせ地球(あっち)では昼も夜も汗水を流しながら、手間暇かけて数年がかりでようやく収穫にかぎつけるところをこっちではほんの半年から一年だ。

 仮にこの肥料を地球に持って帰れば、業界に大革命、いや、世界中の食糧問題を一気に解決することすら可能だろう。

 まあ、私は黒いスーツを着たサングラスのお兄さんに連行されてあれやこれやと大変なことになってしまうだろうが。

 ピカッとされるのは嫌だなあ。

 そんな馬鹿なことを考えながら丘を下り、やってきたるは最近少しずつ愛着を感じ始めた我が畑。

 大きさこそ八畳程度と家庭菜園のような規模だが、見て驚けこのたわわに実り首を垂れる稗と所狭しと葉を伸ばすハマダイコンの姿を。これこそ、りんごの木を半年であそこまで成長させる堆肥の効能である。

 その成長速度は通常の倍以上。初めこそ貧相だったその実りも数度の世代交代で驚くほどの改善を見せた。

 こちらとしても、これだけすくすくと育ってくれると手間暇かけて世話をした甲斐もあるというものではあるが、最近はちょっとした心配事から畑の拡大作業などに手を出している。

 草を刈り、木を切り倒して土を耕す。根を引き抜いて、また耕して、柵を打ち込む。

 その繰り返し。

 なかなかの重労働ではあるが、重機いらずのこの怪力と底なしの体力があればそう難しい仕事ではない。

 

「よっこらしょ、と。いやあ、いい汗をかいた」

 

 引き抜いたばかりの切り株を椅子代わりにして、私は土塗れの手で額に浮かんだ汗を拭った。少しばかり広くなった泉の広場を眺めながら、竹で作った水筒を呷る。

 そうして一息ついていると、小屋の入り口からひょっこりとごんが顔を出した。

 あの狸ときたら、良い日和なのを良いことに今の今まで小屋の中でいびきをかいていたのである。まったくいいご身分だといつもなら呆れるところであるが、はて珍しいこともあるもんだと、その時の私は首を傾げた。

 何故か。それはまだ、お日様が天辺まで昇りきっていないからである。

 いつもの調子なら昼過ぎぐらいまではぐうたらしている奴が、どういうことか今日に限って早起きではないか。

 

「どうしたどうした。畑仕事を手伝うほど孝行者でもあるまいに」

 

 ちょろちょろと足元に絡んできたごんをひょいと持ち上げてみれば、どういうことかその丸い瞳は私ではなく遥か彼方、晴れ渡った空のその向こうをじっと見つめていた。

 何だろうか。

 島の上を行く浮島の影も無い。

 怪鳥が襲って来た時のような、ざわめく様な感覚も無い。

 だが、なんだ。

 何だ。

 空をじっと見つめる。薄くかかった雲の向こうに、何かある。

 ごんを下ろし、翼をひらめかせ飛び上がった。

 そして、私が森から飛び出すのと同時にそれは現れた。

 

「なんだ、あれは」

 

 雲を抜けて現れた物。それは一隻の船であった。

 そう大きなものではなく、せいぜいが個人用のヨットやら、漁船ぐらいの大きさである。

 細長い胴体の真ん中に三角形の帆が一つ張ってあり、左右に蜻蛉(トンボ)の翅に似た、玉虫色のオールのようなものが幾つか並んでいた。全体的な姿はいつぞやか映画で見たガレー船に近い。

 そんな少し変わった船が、頭を下にして落っこちてくる。

 まさに今、私の真下にある泉目掛けて真っ直ぐに。

 これには私も目を丸くするしかなかった。

 泉に落ちてくれればまだ周囲への影響は少ないだろうが、間違って小屋や畑に直撃してしまえば大変なことになる。いや、それならまた作り直せば何とかなるが、りんごの木は駄目だ。あれだけはこの島には自生していないもので、傷ついて枯れようものなら二度と手に入れることができないかもしれない。

 

「止めるしかないなあ。やれやれ、爺に無茶をさせるもんじゃないぞ」

 

 溜息一つ、私は落下する船の真横へと接近し、速度を合わせて並走する。

 幸い船は木材で組み上げられているようなので、重量的には抱えられないものではないだろう。さらに不思議なことに、雲の上から落ちてきたのにも関わらずその落下速度も大したものではない。

 これならいけるか。

 よしっ、と小さく気合を入れて、船底へと回り込む。

 

「そら、いくぞ。いち、にの、さんっ!」

 

 まだそれほど使い込まれていないのか、思ったよりもずっと綺麗なそこを両手と尻尾を使って背負い込むと、大気を真横に叩きつけるような勢いで翼を打った。

 ぐん、と船首が持ち上がり、舟の重みで背骨が軋む。

 だがそれも一瞬のことで、体勢さえ整えてしまえば船は驚くほど軽かった。使われている木材が特殊なのか、それとも未知の技術が使われているのか。

 まあこんな、文字通りの雲海が広がっている世界なのだ。そこを泳ぐ船が普通である筈も無い。

 ともあれ、これで惨事は免れた。そのことに一安心しつつ、私は抱えた船をひとまず泉の広場の、開拓したばかりの畑予定地へと降ろすことにした。

 壊してしまわないよう慎重に着陸させた船を眺めてみれば、何やら船底全体に呪文のような、紋様のようなものがびっしりと刻み込まれていることがわかった。何が書かれているのかはわかる筈も無いが、その形には何やら見覚えがあった。

 どこで見たのかとうんうん唸り思い出してみれば、そう、私が炎を吐き出す時に浮かび上がってくる紋様とそっくりである。であるならば、この紋様も何かしらの呪いで、不思議な効果を発揮するものなのだろう。

 なるほど、面白い。実に非科学的というか、この世界が地球とは異なる法則で成り立っているのだと改めて実感した。

 さて、外面をまじまじと観察したところで、次は中身である。

 甲板は中央より少し後ろに丸い舵輪が置かれているだけで、かなりすっきりした作りになっていた。大きさ的に一人か二人、三人乗ればかなり窮屈な広さである。こつんと叩いてみれば、返ってきたのは見た目以上に軽い、抜けるような音。どうやらこの下に積み荷を詰め込む為の空間があるようだ。探してみれば、四角い扉らしきものが床に設置されていた。

 

「ぐ、ぬぬ、これは中々、尻と背中がつっかえる」

 

 正確には、尻尾と翼だが。まあ、普通の人間にはどちらもついていないだろうし、もしかしたらそういった種族もそういないのかもしれない。

 そうして中を確認する為に頭だけを突っ込んで、私は己の目を疑った。

 そこにあったもの、いや、そこに居たのは人であった。

 人間の、男であった。

 

「おい、おいあんた大丈夫か!」

 

 手を伸ばし、男の黄ばんだシャツを掴んで外へと引き摺り出す。

 尻尾も、翼もない。まごうことなき、普通の人間である。

 金髪に、白い肌の男。髭がだいぶ伸びており、正確な面相は伺えないが歳は三十か、四十ぐらいに見える。衰弱しているのか意識はなく、しかし僅かに上下する胸とか細い呻き声が、彼がまだ生きていることを懸命にこちらへと伝えてきた。

 

「大丈夫だ、大丈夫だぞ。絶対に助けるからな!」

 

 相当長い間、漂流していたのだろう。担ぎ上げた男の身体は酷い臭いであった。腕も腰も痩せ細っており、もう羽虫が集り始めている。

 明らかな、死臭。

 生前の、最期の記憶が脳裏をよぎり、私は大きく頭を振って小屋へと急いだ。

 薬も、道具も無いこの限られた環境で、果たして私に何ができるか。

 いや、考えるのは止めろ。

 今はただ、やれることを精一杯やるだけだ。

 

「死なせるか、死なせるものかよ。頑張れよ、爺を残して死ぬんじゃないぞ!」

 

 穏やかな風が吹く、とある春の日。

 それは正しく、運命の出会いであった。

 




(この作品に恋愛要素なんて)ないです。


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出会いと別れ

明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します。




 

 男の容態は、ただただ凄惨の一言に尽きた。

 私には医学の心得などないが、そんな素人の私の目であっても、目の前のこの男が危篤状態に極めて近いものであると一目でわかる程であった。

 肌は乾いた砂漠の砂のようで、脈はあるかどうかもわからぬほど。履いていたズボンと船内の状況から、下痢や嘔吐も繰り返していた可能性が高い。

極度の栄養失調、脱水症状の症状である。

 だがしかし、そんな中であってもひと際目を引いたのは、身体全体に広がる皮下出血の跡。唇をめくって見れば歯茎は腫れあがり、酷い所は腐り落ちて鼻の曲がるような悪臭を放っていた。

 この症状には、生前覚えがあった。

 壊血病という、ビタミンCが不足することによって引き起こされる病気だ。

 現代日本においては全くと言っていいほど目耳に触れることのない病気ではあるが、十五世紀半ばから十七世紀半ばの、いわゆる大航海時代においては二百万人もの船乗り達の命を奪ったとされる恐ろしい大病である。

 小難しい説明は省くが、これに罹ると非常に出血しやすくなり、痣のような皮下出血や、歯茎からの出血などの症状が現れ、末期になれば脳内出血などを引き起こし、適切な治療を行わなければ百パーセント死に至る。

 私は背筋に冷たいものを感じ、身震いした。

 助けられるのか、この爺に。

 いや、助けるのだ。

 暗くなった意識を、頬を張って奮い立たせた。

 幸い、致命的な外傷はない。外科手術などという、この島ではどうあがいても実行できない処置が必要な訳ではないのだから、であるならば、抗うべきだ。

 

「ええと、まずはあれだ、応急処置だ」

 

 取り急ぎ、私は男を小屋まで運んで回復体位を取らせた。

 横に寝かせて手は頬を支えるように顔の下へ、そして顎は少し前に出して気道を確保。足は上側を前に出し、膝を九十度ほどに曲げておく。

 これでひとまず、舌が気道を塞いだり、吐血、嘔吐などで出たもので窒息することは避けられる。

 そうして私は島中を飛び回り、治療に必要と思われるあらゆる物を掻き集めた。

 まずグアバの実。

 これにはビタミンA、B、Cが多く含まれており、壊血病の治療にはこれ以上の物は無い。

 まずこれを絞り、種を取り除いたグアバジュースを器一杯に確保。

 集めた野草を細かく刻みながら、湯を沸かすために囲炉裏へ火を入れた。

 男の、未だ優れない顔色を伺いながら、私は思考に耽る。

 くすんだ金髪に、青白い肌。顔つきは欧米人に近く、なかなかに彫りが深い。

 しかしいかんせん髪も髭も伸び放題で汚れており、衰弱しきって目は窪み、頬はこけている為、かなり老けて見える。

 一人旅。

 そんな良いものではないだろう。

 あの程度の大きさの船ならば積み込める物資の量もたかが知れているだろうし、この大海原、もとい大空を旅するのには少し、いやかなり心許ない。正直に言って無謀、自殺行為に近いだろう。

 ならば何かの事故に巻き込まれたか、嵐に巻き込まれて流されたか。

 脳裏に過ぎるのは、あの赤い髪の少女。

 嵐を引き連れる者。

 荒れ狂う大風、狂飆(きょうひょう)の名を冠する龍。

 あれに巻き込まれれば、あんな小さな船などひとたまりもないだろう。

 だが、あれほどの嵐に巻き込まれたにしては舟の状態が綺麗すぎる。

 あの龍の嵐に巻き込まれたのであれば引き裂かれ、振り回され、それこそ二つに折れて原型など残っていないはず。

 であるならば、後は水難にでも遇ったか、人為的なものか。

 亡命、流刑、口減らし。

 思いつくものなど、いくらでもある。

 そうして私が深い思考の底に沈んでいると、不意にそれを引き上げるものがあった。

 小さく、男が呻き声を漏らしたのである。

 私は弾かれるようにして飛び上がり、男の枕元へ転がり込んだ。

 そうして、必死に声をかける。

 

「おい、おい、気が付いたか、私の声が聞こえるか、おい!」

 

 今にも男の肩を抱え、揺さぶりたいところではあるが、壊血病で脳内出血の恐れがある病人にそれをやってしまえば致命傷になりかねない。

 故に私は男の顔を覗き込むように、床に頬をぴったりと重ねながら声をかけ続けた。

 私の問いかけに、男が答えることはない。

 だがその目は確かに開き、露わになった青い瞳は何かを求めるように力なく左右へと揺蕩っていた。

 

「なんだ、水か。待てよ、すぐに持ってきてやるからな」

 

 私はひとまず男を仰向けに寝かせ、先程作っておいたグアバジュースを持ってきて飲ませた。

 ゆっくりと、少しずつ。まずは唇を湿らせる程度から始め、一滴一滴、浸すように飲ませる。

 そうして器の三分の一、少しばかりのジュースを飲んだところで、男はまた意識を失った。

 これまでか、水を飲ませたのがいけなかったのかと慌てふためいたがどうやらそれは杞憂だったようで、横になった男から穏やかな寝息が聞こえてきたところで私は大きく息を吐いて倒れるように腰を落とした。

 

 そうして、翌日。

 目を覚ました男の目には、心なしか前よりも強い光が宿っているように見えた。

 だがどうやら言葉を発せる程には回復していないようで、ああ、ううと呻きながら視線で私を追いかけるばかりである。

 果たして、彼には私がどう見えているのか。

 

 男が目覚めて、二日が経った。

 この二日、ひたすらグアバジュースを絞っては男に飲ませることを繰り返していたが、ついに男はたどたどしくではあるが、しっかりと言葉を発せる程には回復していた。

 

「おお、大丈夫か、自分の名はわかるか?」

 

 私の問いかけに男はたどたどしく、すきま風のような声でゆっくりと答えた。

 男はウィリアムと名乗った。

 驚くことに、それは地球でもそれなりに耳にするものと同じものであった。

 私はこの世界に来て初めて出会う人間との会話に心躍るばかりであったが、次に彼が放った言葉は、そんな私の心を深い絶望の底へと叩き落とすことになった。

 

「君が、助けてくれたのか、ありがとう、ありがとう、シエラ」

 

 シエラ。

 誰だそれは。知らぬ名である。

 私はまだ、彼に名乗っていない。

 そも、私は生前日本人であり、男であったのでそのような、いかにも別嬪さんについているような洒落た名などではない。

 彼が発したのは英語のような、あるいはラテン語のような、聞いたことがあるようでまるで覚えのないものであったが、私はその聞き覚えの無い言語を自然と理解していたことよりも、彼が発した聞き覚えの無い名前の方に衝撃を受けていた。

 

「おい、ちょっと待ってくれ、それは誰だ、嫁さんか、娘さんか」

 

 上ずった私の声に、ウィリアムは答えなかった。

 ただただ、嗚呼ありがとうシエラ、と、私ではない誰かの名を添えて、祈りのような言葉を繰り返している。

 そしてどうやら、件のシエラという名は彼の娘のものであるようだった。

 それもまた、彼がうわ言で愛しの娘、だとかなんとか零しているところから知りえたものであった。

 そう、彼は回復の兆しを見せ始めていたが、正気ではなかったのである。

 私は泣いた。

 いつも通っていた浜辺で叫ぶように、さめざめと、嵐のように泣いた。

 この一年、死に物狂いで生き抜いてきた。

 そうしてようやく出会った、この世界で生きる純粋な人間。

 私を島の外に導いてくれる、希望の光。

 しかし掴み取ったその光はあっさりと、嘲笑うかのように私の手のひらからすり抜けていく。

 そうして、いつの間にか傍にいたごん太を抱きながら幼子のようにひとしきり泣き喚いたあと、私はウィリアムの元に戻ってまた彼の看病を続けた。

 シエラと名乗り、彼の娘のふりを続けながら。

 彼の命がそう永くはないだろうということは、朧気に察していた。

 恐らくは壊血病が原因で脳出血が起き、それによって認知症が併発している。

 どうやら彼は、この小屋も自分の自宅と思い込んでいるようであった。

 ならば、彼には最後まで家族に囲まれた、穏やかな思い出を。

 そう、前世の私に、家族がそうしてくれたように。

 だが、記憶すら曖昧である筈のウィリアムであったがそれでも、ぽつりぽつりと零すその言葉は私に予想以上の情報を齎してくれた。

 ウィリアムは冒険者と呼ばれる、この空を渡り歩いては新たな島を開拓することを生業とする人間ということだったりだとか。

 クレアという妻がいたが、ずっと前に病で先立たれてしまった、だとか。

 また、彼の舟は大きな嵐に襲われ、備え付けられていた小型の船で命からがら逃げだしてきたのだとか。

 彼の国では、龍は森羅万象を司る神のような存在として奉られているだとか。

彼が暮らしていたのはマス・ティアラという名の国であり、アレキサンダーという王が統治しているだとか。

 そのようなことを、彼は突拍子もなく突然、思い出したかのように語った。

 私は彼が、我が子に語るように瞳を輝かせながら聞かせる冒険譚を、彼の娘のように寄り添いながら静かに聞いていた。

 だが、もう、彼がその冒険譚を語ることはない。

 丁度、彼が目を覚ましてから十日が経とうとした頃であった。

 彼はそっと、眠りにつくように息を引き取った。

 ありがとう、と。

 貴女の炎で、送ってください、と。

 驚くほど穏やかな声で、たったそれだけを、言い残して。

 それを聞いた時、私の頬を涙が伝っていた。

 彼はきっと、今際(いまわ)(きわ)のほんの一瞬だけではあるが、正気に戻っていたのだろう。

 そして、私が龍であることを見抜いた。

 私のような外見的な特徴を持った者は龍であると人間たちに伝わっているのか、あるいは彼の信仰心に寄るものか。はたまた認知症による錯覚か。

 真偽のほどは定かでは無いがともかく、彼は最期にそれを望んだ。

 私は海が良く見える崖に丸太を組み、彼の遺言通り、龍の炎で荼毘に付した。

 ぱちりとはじけ、天へと昇っていく炎に手を合わせながら、私はまたしとしとと涙を流した。

 

 翌日。

 彼の墓もまた、同じ崖の上に建てた。

 本来ならば彼の母国語で名を刻むべきなのだろうが、私は現在の年数も、家名もわからずじまい。さらには文字も綴りもわからなかった為、墓標には英文字で“William”と刻んである。

 

「また、お前さんの国にも行ってみるよ。そうしたら、今度はこっちが色々と土産話をしてやるからな」

 

 

 墓前に手を合わせながら、私は静かに眠る彼へと語りかける。

 頭上には、雲一つない青空がいっぱいに広がっていた。

 




お待たせしました。

彼の役割はプロットの時点で決まっていて、ようやく序盤の節目を終えられたかな、というところです。
今年中にいい感じの山場まで仕上げていきたい(完結するとは言ってない)

※勝手ながら、話の整合性を取るために一部変更しました。


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流れる月日と鳥と子と

『結果』だけだ! この世には『結果』だけが残る!


 

 あの別れから、三年余りの月日が流れた。

 光陰矢の如しとは言うが、この三年は正しく矢のような早さで過ぎ去り、私の、この島を取り巻く環境も少しばかり勝手が変わってきた。

 

「どっこら、せいっ!」

 

 手にした、身の丈を超える大戦斧が唸りを上げる。大岩をそのまま削り出した刃が獲物の胴へと喰らい付き、斬る、というよりは抉るような手応えと共に腰と胴が泣き別れになる。

 断末魔の声をあげ、二つになって落ちていくのはいつぞやかの三羽烏、もとい大鷲と同じ種類の、しかし記憶に残るものとは一回りは大きな(なり)をした獣であった。

 これで五つ。

 この十日の間に、これで五羽目だ。

 多い。あまりにも多い。

 私は石斧を担ぎ直しながら大きく息を吐いた。

 一つ目の変化が、これだ。

 あの三年前のあの日から、この手の、生前の世界では見たことも聞いたことも無いような生物の姿を目にすることが多くなった。

 勿論、以前から大猪をはじめ虎、蛇、熊と規格外の化物たちもいるにはいたのだが、何というか、質が変わったというか、時が経つほどに私の記憶にある生物たちの面影が薄れていくというか、いよいよ(もっ)て正真正銘、化物染みてきている。

 この間などは罠にかかった兎に角と牙が生えていたものだから、年甲斐もなく大声を出して腰を抜かしてしまった。

 しかし、まあ、そういうことなのだ。

 いよいよ以て、異世界染みてきたと、そんなところなのだ。

 これまでどこに潜んでいたのか、あるいはこの島にそういった存在を寄せ付けるような何かがあるのか。その原因はともかくとして、確かなことがひとつだけ。それは、これまで以上に気の抜けない環境になってきたと、極限へと一歩近づいたということ。

 だが、何も悪いことばかりではない。

 そういった新顔、映画や小説の中から抜け出してきたような生物たちはやたらと凶暴な、敵意を剥き出しにした個体が多いが、私の肌に傷をつける程の力を持つものは今のところ出現していない。

 そしてこれは嬉しい誤算ではあったのだが、彼らの肉は毒性も無く、味はともかくとして食べても問題の無いものばかりで、そして往々にして巨体、つまりは可食部が多い傾向があった。

 食料の確保でさえ苦労する島の生活において数キロ単位の肉が定期的に手に入る。そのメリットは獣と格闘するデメリットを補ってあまりにも余りあるものと言えるだろう。

 勿論それ以外にも毛皮、羽毛、骨などなど、利用できる箇所は全て余すことなく有効利用し、お陰様で島での生活もそれなりに豊かになってきた。

 皮の服も夏用、冬用と使い分けられるようになったし、寝床は大鷲の羽毛を詰め込んだふかふかの羽毛布団に変わった。

 そして豊かになったと言えば、忘れてはならないものがあった。

 ミード。

 最古の酒と言われている、蜂蜜で作った酒だ。

 とはいえ、その作り方自体はいたって単純で、蜂蜜と水を混ぜ合わせて発酵させるだけである。度数としてはおおよそ十パーセント前後だろうか。まろやかな口当たりと香りが楽しめ、今では島での数少ない娯楽となっている。

 蜂蜜酒、というよりも蜂蜜自体の話でもあるが、その素となった、蜂たちが好む花の種類によって味や香りがまた変わってくるので、様々な場所の蜂蜜を集めるというのもまた一興かもしれない。

 いや、いっそのこと養蜂も考えてみるべきだろうか。

 最近になって実を付け始めたりんごの木の近くに巣箱を作れば受粉しやすく、実りもよくなるだろうし、ありだろう、養蜂。

 まあ、そんな風に島の環境が変わり始めた。

 これが一つ目の変化。

 そして二つ目。

 こっちは実にめでたい話である。

 なんと、うちの居候たぬき、ごんの奴に嫁が出来た。

 ついこの間、何気ない顔をしてしれっと連れてきたのである。

 ごんの奴よりも恰幅の良い、毛艶のよい雌であった。

 そして旦那同様、あるいはそれ以上に肝が据わっているようで、初見であるにも関わらず何ら警戒することなく私の身体の匂いを嗅いだり、小屋の中を覗き込んだりしていた。

 夫婦仲も良く、順調にいけば来年辺りには泉の傍で子狸たちが走り回る光景が見れるのではないかと楽しみにしている。

 まあ、当然のことながら自分たちの巣にいる時間が増えたのでこっちに顔を出す頻度が少なくなってしまったのだが、しっかりと食っていけているのだろうか。

 いや、奴のことだから今頃はしっかり者の嫁さんに尻でも叩かれていることだろう。

 しかし家族、家族か。

 当たり前だが、この世界において私に家族と呼べるような者は存在しない。

 妻も、子も孫も皆、あちら(生前)の世界だ。

 仕留めた獲物の羽を毟りながら、ぼんやりと空を眺めてみる。

 三年前に私が看取った男、ウィリアムもまた、苦境に耐え、死線の上でさえ娘を思っていた。

 

「家族、家族、なあ」

 

 川の水で身を清めながら、紋様の浮かぶ下腹部を撫でる。

 今の私は、年頃の娘の身体だ。

 普通とは少し勝手が違うが、女性には違いない。

 と、なれば、やることをやれば、子を成すこともあるのだろうか。

 ううん。子、子かあ。

 角の根元をがりがりと掻きむしりながら、生前考えもしなかったことに呻いてみる。

 いや、思いはした。子が欲しいと思ったことはあるが、これはまた意味が違う。

 その身に子を宿す。

 生物であれば当然の機能であり、己の子孫を、遺伝子を残そうとするのは生物の本能ではあるのだが、ううん、うぬう。

 

「いや、どうにも形にならんなあ」

 

 きっとそれは、素晴らしいことなのだろう。幸せなことなのだろう。

 興味がない、こともない。

 しかし、何というか、爺としての記憶が原因で男子と致すのが無理だとか、母としてやっていく自信がないだとか、そういうものではなく、もっと根本、本能的な部分として、どうにも子を成せる気がしない。

 いや、まあ、一度死んで生まれ変わった身とはいえ私には妻も子も、さらには孫もいたわけで、新しい伴侶を迎えるということは彼女らへの不貞行為になるのではないかとか、そういった思うところもあるのだけれど。

 そも、竜とは、龍とは子を成すものなのか。

 そこからして、違う気がする。

 そも、私とて外見上はまだまだ幼さの抜けない少女であるが、しかしこの島で親らしき龍がいた気配を感じたことがない。

 いつぞやか狂飆(きょうひょう)の奴は言った。汝の良き巣立ちを祈っている、と。

 また、奴はこの島を揺り籠に例えたが、私自身はこの島は卵に近いのではないか、と考えている。

 で、あるならば、親とは。

 島を卵として、その中で育つ私の、龍の親とは何ぞや。

 わからない。わかるはずもない。

 島が浮かび、舟が空を泳ぐこの世界で、私程度の理解が及ぶ筈も無い。

 

「まあ、あれやこれやと考えたところで埒が明かんか」

 

 羽を抜き、下処理を済ませた鳥の肉を串に刺し、炭火でじっくり、皮が黄金色になり、甘い甘い脂が炭の上で弾け始めた頃合いで齧り付く。ぱりっと焼かれた心地良い歯応えと、奥から広がる濃厚な脂の甘さ。

 拳三つ分はあった肉塊は、あっという間に胃へと収まった。

 そうして二つ目を焼き始めた辺りで、とっておきの蜂蜜酒を手製の竹の酒器、ぐい呑みに注ぎ込む。量に限りがある為そうがぶがぶと飲むわけにはいかないが、数日に一回、特に島へやってきた何者かとどったんばったんやり合った日などにはこうして、一杯だけ楽しんでいる。

 蜂蜜の濃厚な香りと、どこかビールにも似た風味。

 この島で唯一の嗜好品を精一杯味わいながら、軽く焦げ目が付くまで焼いた鳥の皮を頬張る。

 そして口いっぱいの鳥皮を飲み下し、手羽を骨ごと噛み砕いたあと、また酒を飲む。

 うん。やはり酒は美味い。

 ただ、欲を言えばバリエーションが欲しい。

 というよりも辛口の酒、いや、日本酒が飲みたい。

 米、あるいは芋の類があれば何なりと方法はあるのだが、これがまた、島中を探してもなかなか見つからない。

 どうにもこの島にはそういった類の植物が自生していないのか、しかしそうなってくるとこれはもう、いつぞやのように空から木箱が降ってくることを祈るか、あるいは、そう、地球でそうあったように、他の生き物の力を借りてやってくるのを待ち続けるしかあるまい。

 例えば、渡り鳥のような。

 そこでふと、串に刺され焼かれた肉を見やる。

 

「渡り鳥、か」

 

 これは、試してみる価値あり、か。

 この鳥たちがどこからやってきたのかは知らないが、それがここ以外の島であることは間違いない。

 で、あるならば、食っていた筈。

 動物であれ、植物であれ、その島にある食料を。

 完全な肉食性であればどうしようもないが、雑食であればあるだろう。食らった果実の種、それが腹の中で消化されずに残っているという可能性。

 試してみる価値は十分にある。

 焼き上げた最後の一本、脂に濡れた骨を丁寧に舐めあげながら、私は尻尾を揺らしながら立ち上がった。

 

「さあて、明日もまた忙しくなるぞ」

 

 そうして私は、歩き出す。

 遠くの空で、鳥たちの鳴き声が聞こえた気がした。

 




※まだ五年目


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彼の名は

実は以前にちらっと登場したのですが、
ようやく主人公の名前が出ます。



 

 夏である。

 五度目の夏が、やってきた。

 

「どっこら、せいっと」

 

 木を削り、石の刃を嵌め込んで拵えた鍬を振るう。

 泉の傍、ほんの小さな囲いから始まった手製の畑も今はもうバスケットコート一つ分ほどになり、十分とは言えないが一人で暮らしていくには不自由ない程度の広さにはなった。

 だが、畑とは何かと手間がかかるもの。適当に耕して種を蒔けば終わり、というような簡単なものではない。

 まずは土作りから。これをしっかりと行っていないと、作物は元気に育ってくれない。

 

「よし、次はこいつだな」

 

 畑を一通り耕し終わったら、次はそこにいつも使っている例の堆肥と、貝殻を焼いて砕いた石灰を撒いていく。あとは鍬を使って土とよく混ぜ合わせれば、栄養満点、ふかふかの土の出来上がりである。

 あとは平たく(うね)を作っていくだけだが、日も随分と高くなってきたことだしここは一息ついて昼休憩にするとしよう。

 額に浮かぶ汗をぬぐうと、私は鍬を適当な切り株に立て掛けて川へと向かう。

 島の夏は相も変わらず()だるような暑さであるが、泉から湧き出し流れる川の水は思わず手を引っ込めてしまうほどの冷たさであった。

 そうして手を顔の泥を洗い流し、喉を潤して小屋へと戻ろうと踵を返したところで、角の付け根に何とも言えぬむず痒さを感じた。ここのところあまり感じることのなかった感覚に目を細め、空を睨む。

 ぐっと足の裏に力を込めると一息のうちに森を抜け、島の上空へと飛び上がった。

 敵意というか、そういった悪いものは感じない。

 だが、何かある。いや、何かが近づいている。

 感覚としては先日の、ウィリアムが乗っていた空飛ぶ船の時と似ているが、今回はそれよりももっと強い。

 そうしてしばらく私が雲の向こうをじっと見つめていると、悠々と立ち上る入道雲を掻き分けながらついにそれはやってきた。

 島である。

 決して見間違いではない。

 私が暮らすこの島と同じか、僅かに大きな浮島がごうごうと大気を唸らせながらやってきた。

 そのあまりにも圧倒的な光景に私が言葉を失っている間に浮島はぐんぐんとこちらへと接近し、やがて雷鳴にも似た轟音を響かせながらこちら側の海岸線と衝突した。

 島全体が震え、驚いた鳥たちが森の中から一斉に飛び立っていく。海面が波立ち、大地が隆起する。衝突したところがかなり浅瀬の場所だったことが幸いし津波というほどの高波は発生していないが、隆起した海底がまるで一本の道のようにこちらとあちらとを繋ぐその光景は、この摩訶不思議な世界で五年間生きた私であっても目を疑いたくなるような異様であった。

 島同士がぶつかるというのは、過去にも経験があった。

 いつぞやか大虎が島を渡っていった、あの日のことである。

 だが、実際にこれほどの、巨大な質量同士が衝突するという圧倒的な光景を目にした時の衝撃たるや、かつて狂飆(きょうひょう)の奴と出会った時にも相当するものがあった。

 しかし、いつまでも呆けている訳にもいかない。

 あまりの光景に吹き飛ばされた思考をようやっと引き戻した私は、今なお余震を繰り返している島の上空へと向かい、その全容を確認する。

 大きさはやはり、こちらの島と同じ程度のもの。明らかな違いは、どうやらあちらの島には海と呼べるものがなく、せいぜいが池が数か所と、川が何本か流れている程度のものであった。そして全体的に荒廃、とまではいかないが、荒れている。あるいは、痩せていると表現した方がいいかもしれない。

 とにかく緑が、木が少ないのだ。

 見たところ、島の半分以上が荒れ果てた荒野と岩山で形成されている。

 いるのか。こんな島に生物が。

 砂漠化はしていないが、その一歩手前。草木さえも枯れ果てたようなこんな荒野に。

 と、そうして上空から島を観察しているさなか、足元に何者かの気配があった。

 何ぞやとそちらの方へと目をやれば、島同士が衝突した場所。その接点から伸びる隆起した海岸線を進む影がいくつかあった。

 生物である。それを目にした途端、私の胸が否応なく高鳴ったのは言うまでもない。

 

「おい、おい!」

 

 翼を打ち、声をあげながらその影の方へ向かう。影の数は五つ。過酷な日差しから体を保護する為か、皆が編み笠のような、木の皮で編んだ笠をかぶっている。

 私の声が届いたのか、濡れた足場を慎重に進んでいた影の歩みがぴたりと止まった。

 

「こっちだ、こっち。いやあ、良かった、まさか人が暮らす島とぶつかるとは。ああ、角やら翼やら生えているが、警戒しないでおくれ。お前さんたちをどうこうする気はないんだ、どうだ、せっかくだしうちで茶でも飲ん、で……」

 

 影たちの前に降り立った私は、舞い上がった気持ちのまま口早に捲し立てた。

 だが、それも束の間。向かい合い目にした影たちの姿に、私はまたも言葉を失うことになる。

 影たちは、人間ではなかった。

 いや、人の形はしている。だがその背格好は、人間というよりは猿に近い。

 背丈は軒並み、百五十センチもないだろう。子どものような体格である。

 髪の生えていない、石のような頭。小さい目に平べったい鼻。尖った耳。

 肌は燃え尽きた灰のような色をしていて、痩せこけた胴に短い足と、その倍はあるだろう長い腕が生えている。

 いつぞやか目にしたことのある、仏教における餓鬼と呼ばれる亡者。

 あれの見た目を幾分か整えたなら、このような見目になるのではないだろうか。

 そう思ってしまうような生き物であった。

 彼ら、と、そう呼んでいいのかも怪しいがともかく、皮の腰巻に編み笠というどこか頼りない恰好をした彼らは、突然空からやってきた私の姿にたいそう驚いたようで、ぎいぎい、ぎゃあぎゃあと、何やら猿にも似た声で互いにあーだこーだと何やら話し合っているようであった。

 当然であるが、日本語ではない。むしろどちらかといえば、あの時ウィリアムが使っていた言語に近い。

 果たして、意思疎通はできるのか。

 この際、友好的な関係を築くことができれば見た目などどうでもよかった。

 だが、それもどれほど期待できるか。

 ちらりと、いまだ話し合いを続ける彼らの姿を観察する。いや、正確にはその手に握ったそれらを確認する。

 石の刃を嵌め込まれた手斧に、木の枝に弦を張っただけの原始的な短弓。腰には矢筒と、これもまた石を削って作ったであろう短剣を帯びている。

 明らかな武器。狩りのためか、はたまた別の用途か。ともかく、生き物を殺すための道具。

 穏便に済ませてくれるなら、これ以上のことはない。

 だが、もしも敵対し、襲ってくるようなら……。

 そうして私が固唾を飲んで見守る中、どうやらお相手さんの話し合いは滞りなく終了したようであった。

 さて、どうなるか。

 身構える私を、五対の緑色をした小さな瞳が射貫く。瞬きほどの空白の後、彼らが取った行動は私の予想だにしないものであった。

 彼らは何を思ったのか頭の編み笠や手にした武器を全て打ち捨てると、私の面前で跪き、両の手を組み合わせ頭上高く掲げ始めたのである。

 命乞い、いや、それこそは正しく祈りの所作であった。

 余りにも突然のことに呆気にとられ、立ち竦む私。何やらむにゃむにゃ口上を述べながら組んだ両手をゆらゆらと揺らす彼ら。何やら怪しい宗教でも始まったのかと疑るような光景である。

 だがしかし、いつまでも彼らにそんな真似をさせる訳にもいかない。ただでさえここは元々海底だった場所であり、足元は尖った岩やら貝殻やらで埋め尽くされているのだ。そんなところで膝をつくものだから彼らの膝はもう切り傷だらけの酷いもので、早く手当てしなければ感染症などに罹る危険があった。

 

「こら、こら、あんたたちが敵じゃないのはわかったから、顔をあげてくれ。ああもう、傷だらけじゃないか、あんたら、私がそんな怖い生き物に見えたかね」

 

 私のように鱗が生えているわけでもないだろうに、無茶をしたもんだ。

 私がそう言って肩を撫で、顔を覗き込んでみれば、そこにはまるで叱られた子どものように委縮しきった小さな目があった。

 私は彼らを身振り手振りで言い聞かせようやく立ち上がらせると、近くの川まで彼らを案内して傷の手当てを行った。

 手当と言っても真水で傷口を洗った程度だが、やらないよりはマシだろう。

 そうして世話を焼いていると、どうやら五人組の内の一人、獣の牙で作った首飾りをした男がリーダー的な存在であることがわかった。

 何をするにも彼が率先して先頭に立ち、私の話も彼がまず聞き、他の四人に伝えているようだった。

 彼はどうやら、ヨークという名であるようだった。

 果たして私の発音が正しいかどうかはわからないが、ともかくそのように名乗ったのだ。

 対して私はどう名乗ったものかと考えたが、しばらく頭を悩ませた後、シエラと名乗ることにした。

 生前の名を使うこともできたが、それはあくまで生前の、爺だった頃の名であり、この娘のものではない。

 そこでどうしたものかと悩んだ時に口から漏れ出たのが、この名前であったのだ。

 あの日、ウィリアムが病の床で漏らしたシエラという名。

 人様の娘の名だった筈が、それはまるで生まれ出でた時よりそうであったかのように、染み入るように私の心に馴染んでいった。

 シエラ。

 シエラ、か。

 

「何とも、妙な気分だ」

 

 しかし、悪い気はしない。

 ウィリアムには悪いが、しばらくこの名、借りることにしよう。

 小さく微笑む私を見て、ヨークとごんが並んで首を傾げていた。

 




もしかして:ゴブリン


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招かれる者と、招かれざる者

お待たせしました。
ちょっとショッキングな描写があります。


 

 その日は、私にとって特別な日の一つとなった。

 泉の周辺に掲げられる篝火に、どこか楽しげに奏でられる太鼓と柏手の音。

 どこか囃子にも似た旋律と共に、篝火に照らされて伸びる影たちが手を振り足を踏み鳴らし踊り回る。

 それは正しく宴や、いや、場に満ちる雰囲気としては祭り。それも神仏を崇め奉る、神事にも近い神聖さ。しかしその様は原始的、儀式的なもので、映画などでネイティブ・アメリカンの人々が焚火の周りを歌い踊っているような、そんな光景。

 どうしてこうなったのか。時は私がヨーク達をもてなそうと、夕食の準備を始めた辺りまで遡る。いつものように干し肉を切り分け、スープを煮込んでいる間にふと気が付けばヨーク達の姿がない。この島には凶暴な獣も生息している為、絶対に森には入らないようにと言い聞かせていたのだが、はてどこに消えてしまったのか。

 もし森に入ったのならばすぐにでも連れ戻さなければと私が身支度を始めていると、森の獣道、ヨーク達の島がある方向から彼らが戻ってきているのが見えた。いや、彼らだけではない。同族と思われる、彼らと似通った背格好の人影が十と少し、手に手に松明やら編み籠やら、旗のような物なんかを持ってこちらへと向かっている。

 暗い森の中で彼らの丸い目が松明で照らされ怪しく光る様はどこか不気味に見えるが、手にする物の中に武器の類は見当たらず、敵意も感じない。彼らはゆっくりとした歩みで私の元までやってくると、先頭に立っていたヨークの号令に合わせて一斉に跪いた。

 異様な光景。気分は殿様か、あるいは怪しい宗教の教祖にでもなったようだ。

 あまりに予想外のことに私が目を白黒させていると、やがて彼らの一番後ろから、何やら仰々しい姿の人物がやってきた。

 それは頭にワニの頭蓋骨を被り、身体全体を黒い獣の毛皮で覆い隠した老婆であった。

 かなりの高齢なのだろう、足元も覚束ない彼女を支えるように、若い男二人が左右に控えている。彼女が歩を進める度に手にした杖がこつこつと地面を叩き、髑髏の奥にある妖しい瞳が月明りに照らされて鬼火のように揺らめく。やがて彼女は私のすぐ前にまでやってくると跪き、しわくちゃになった両手を握ってぎゃーてーぎゃーてーと何やら唱えながら祈り始めた。

 驚いたのは、その呪文のような言葉の中に、私が理解できる単語が含まれていたこと。

 日本語ではない。しかし理解できるその言語はかつてあの龍、狂飆(きょうひょう)が用いていたものと同じものであった。

 龍語、とでも呼ぶべきか。ともかく彼女はそういった言語を使って龍がなんちゃら、感謝をかんちゃらと祝詞のような呪文を唱えた後、また深々と頭を下げた。

 それを見守っていた私といえば、正直なところ少しばかり困惑していた。

 それもそうだろう。ヨーク達の種族と出会うのはこれが初めてであり、ただでさえ彼らがどういった者たちなのかを見定めようとしていたところで、これだ。カルチャーショックというにも、あまりにも強烈が過ぎる。何よりも突然自分自身が、恐らくは宗教的な何かの対象にされるのは何とも言えない怖ろしさと不気味さがあった。

 

「こら、こら、そろそろ顔を上げてくれ。そう畏まられても困ってしまうよ」

 

 私は膝を折り、老婆の肩に手をやりながらそう言った。

 恐らくは一族の中でも最年長であろう、目は窪み、顔中染みと皴だらけになった老婆である。しかしその目には確かな知性を宿した光があり、穏やかで、とても優しい瞳がそこにはあった。

 しかしその直後、その瞳からは大粒の涙がひとつ、ふたつと静かに頬を伝い始め、老婆はいかにも感無量といった風にその声を震わせ、合掌して何度も同じ、恐らくは感謝なりなんなりを意味しているだろう言葉を繰り返した。

 ううむ。これは困った。

 彼女らの様子を見る限り、龍とは相当に畏れ多いものらしい。

 それこそ神様仏様といった具合であるが、所詮はくたばり損なった爺の身としてはとんでもなく分不相応なことこの上なかった。別に即身仏になって飢餓疫病を鎮めたわけでもなし、これほどまでに崇め奉られる覚えもない。

 狂飆(きょうひょう)のような立派な姿であったり、嵐を操ったり不思議な術を扱うのであればまだしも、こちとらまだ二十も年を数えていないような小娘の身である。龍というよりも竜、ドラゴンというよりはワイバーンの方がまだ近いだろう。

 と、そのようなことを私は彼女らに懇々と語り、私はそんなに立派なものではないのだよ、と説いてみるも悲しきかなここは日本語の通じない異界の地。尻尾を振り振り熱弁する私に対し、彼女らはしきりに首を傾げるばかりであった。

 そうして結局は私の方が折れる形で場は治まり、ひとしきりむにゃむにゃと拝み倒された頃には泉の広場はすっかり祭りの場と化していた。

 目の前には彼女らが持ち込んだ瑞々しい果実と焼いた肉が並んでおり、対して私の用意した干し肉と山菜のスープは誰もが畏れ多いと口を付けず、結局はいつも通り私の胃へと収まるに至った。

 そうして始まった祭りというか、祭られ、であるが、意外にもその内容は十分に楽しめるものであった。

 

「おお、可愛い子だなあ。お名前は、ユーノというのか、男の子か、おう、たくさん食ってでっかくなれよ」

 

 大人に連れられやってきたのは、私の胸ほどもない小さな子どもたち。これがまたとても可愛らしく、私の身体にあるものと似た紋様が描かれた丸い身体に大きな目。小さな手足をぱたぱたと振りながらこちらの気を引こうとするその様子は、かつての孫たちを彷彿とさせて何とも爺心を刺激してやまない。

 どうも儀式的には七五三に近いようで、私が順番に膝に乗せ、頭を撫でて可愛がってやると大人たちは実に嬉しそうに拝み倒していくのだが、まだ幼い子どもたちにとってはどうも恥ずかしさが勝つようで、特に男の子は膝に乗せる前に顔を真っ赤にして俯いてしまう子が多かった。

 それもまた可愛らしいことこの上ないのだが、やってきた子どもの人数がかなり少ないことを考えると何とも胸が痛んだ。

 乳飲み子がいなかったことからこれが全員ではないのだろうが、それだけで彼らがいかに過酷な環境に身を置いているのかが痛い程よくわかった。

 私程度がどれほどの助けになれるかわからないが、こうして子を愛し、彼らの祈りを受けることで少しでも役に立てるなら、私はいくらでもそうしよう。

 そうこうしているうちに夜も更け、朝が来た。

 私は朝霧が立ち込める中のそりと寝床から這い出すと、篝火やら編み籠やら、昨夜の余韻が未だ残る広場をぼんやりと眺め、ぼりぼりと角の付け根を掻きむしった。

見上げればどんより曇り空。

 夏にしては少し肌寒い、何とも気持ちの悪い朝であった。

 ヨーク達の姿はない。明け方まで続くかと思われた宴であったが、月が雲に隠れ、一雨きそうな空模様になった途端あっさりとその場はお開きとなっていた。宴の熱量に対し実にあっさりとした幕切れであったが、雨に打たれでもして下手に身体を冷やしてもかなわんし、賢明な判断と言えるだろう。

 

「しっかし、あの様子だと今日も賑やかになりそうだなあ」

 

 くあ、と背伸びをしながら私は独り言ちる。

 ともあれ、賑やかなのは大歓迎だ。一人で、いや、一人と一匹しかいなかった頃を思えば、喧しいぐらいが丁度いいというもの。

 そうだ、昨日遊んでやった子たちに何か玩具でも作ってやろうか。幸い材料は沢山あるし、竹とんぼ、竹馬ぐらいならそう時間もかからないだろう。

 思い立ったらなんとやら、私はすぐさま材料となる竹を集めてこようと翼を広げ、空へと飛び立った。

 その、直後。

 ざわりと、うなじを舐めあげられるような不快感。

 悪い予感。

 金切り声が鼓膜を貫く。

 声は、ヨーク達の島がある方から。

 私は顔を真っ青にして小屋から大斧をひったくり、胸騒ぎのする方向へとひと飛びに向かった。

 そして海岸へと飛び出した私が見たものは、予想を遥かに超える悍ましい光景であった。

 そこにいたのはヨークと、他数人の若い男たち。

 その誰もが血に塗れ、必死の形相で空へと雄叫びを上げている。

 彼らが睨みつけるその先には、一匹の獣。

 それは、白い鳥であった。

 だがその姿は鳥と呼ぶにはあまりにも巨大で、私がこれまで相手をしてきた大鷲と比較してもそれは一回りも二回りも大きく、その鋭い鉤爪は象ですら一掴みに出来てしまいそうな程で、私はこれほど巨大な生物を未だかつて見たことがなかった。

 ぎゃあぎゃあと足元で叫ぶヨーク達を、氷のような眼がぎょろりと睨みつける。

 ぞくりと背筋に冷たいものが走るのと同時、そのすぐ傍、鯨でも丸呑みにできそうな嘴の隙間にぶらつく、何か。

 人間に似た、灰のような色をした小さな手。

 それを見た瞬間、私は地鳴りにも似た龍の咆哮をあげながら手にした大斧を振りかぶり、巨鳥へと飛び掛かっていた。

 身体中の血液が沸騰するような激情。

 こちらの咆哮に巨鳥が怯む。その隙を打って、その太い首へと大斧を振り下ろす。

 確かな手応え。が、浅い。

 あまりに分厚い羽毛の鎧に刃が阻まれ、渾身の一撃はその首をほんの少し切り裂くに留まった。

 私は振り下ろした勢いのままヨーク達を庇うように翼を広げ、歯が軋む音を聞きながら巨鳥を睨みつけた。

 

「てめえが、あの畜生共の親玉か。ふざけるな、ふざけるなよ」

 

 口先から炎が漏れる。

 全身に紋様が浮かび上がる。

 気が付けば、私の身体は最も戦いに適した、二十前後の若い女の姿にまでその身を変じていた。

 

「てめえ、生きてここから帰れると思うなよ」

 

 手にした大斧が唸りをあげる。

 島中に響いた咆哮は、果たしてどちらのものか。

 嵐のような決戦の火蓋が、切って落とされた。

 




久々のボス戦


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死闘の末

熱が入って少し文字数が多くなりました。
少しでも臨場感を楽しんで頂ければ幸いです。


 

 巨鳥との戦いは苛烈を極めた。

 飛び交う炎と風、そして咆哮が二つ。

 甲高い、金切り声に似たものと、地を震わせるような獣のもの。

 足元の雲に映し出された二つの影が交差する。

 迫りくる突撃槍のような鉤爪を胸元すれすれ、紙一重で躱しながら私は思わず舌打ちをした。

 失敗した。

 もしもあの時、あの巨鳥の首元に一撃くれてやった時に少しでも冷静であったならば、今回ここまで苦戦することはなかっただろうに。

 というのも、目の前にいる巨鳥は体格こそ常軌を逸しているものの、その身体の構造そのものは他の鳥類とそう大差ないということがここまで戦ってみてわかってきたからだ。

 であるならば弱点もわかりきっている。

羽の一番外側にある風切羽。これを失えば、鳥はその飛翔能力を著しく失うことになる。

 インコなどの小型の鳥であれば、このクリッピングを行うことで飛べなくすることも可能らしいが、今回に限っては翼自体がジャンボジェット機並みの相手であるので果たしてどれほど効果が出るかはわからないが、少なくとも行動を制限することは出来る筈である。

 しかし、出会い頭に見舞ったあの一撃、湧き上がる怒りに任せ振るったあの一撃で、巨鳥は私が自身に危害を加え得る存在であると認知してしまった。不用意に攻撃を許せば、己の命すら奪いかねない強敵であると。

 対して私は、怒りに支配されていたとはいえ侮った。

 たかだか身体がデカいだけの鳥風情、そう手こずることもないだろうと。

 そしてその結果、私は相手に互角以上の戦いを許してしまっている。

 再びの交錯。

 巨鳥の鉤爪に(ひび)が入り、私の頬に赤い一文字が刻まれる。

 胸いっぱいに空気を吸い込む。身体中の紋様がより一層輝きを放ち、胸が赤熱する。

 

「があっ!」

 

 振り向き際、吐き出した。

 (ほとばし)る龍の息吹は赤熱する巨大な(あぎと)となり、触れるもの全てを焼き尽くし溶かし尽くさんとばかりに巨鳥へと迫る。いかに分厚い羽で守られた巨鳥といえど、まともにこの火炎を浴びればひとたまりもないだろう。奴は確かに図体に見合わずすばしっこいが、動き出しの初速は遅く反応が鈍い。私の火炎もそう早くはないが、この距離、このタイミングであれば避けようはない。

 決まった。

 そう確信する程の一撃はしかし、巨鳥の甲高い一声でその勢いを失い、見えない何かに巻き上げられるようにして頭上へと立ち昇り、雲を突き抜けてその姿を消した。

 それは、竜巻であった。

 明らかに自然発生したものではない。だがしかし、巨鳥がその大きな翼を使って生み出したものでもない。何より竜巻が発生した瞬間、あの巨鳥は羽ばたいてすらいなかった。

 前兆も何もなく、ただの一声であれほどの竜巻を呼び出す理解を超えた技、摩訶不思議な能力。

 魔法。

 その単語と共に脳裏に過ぎるは、かつて嵐を操り、嵐と共に現れた龍の姿。

 その規模こそ違えどその根本は恐らく同じもの。

 馬鹿な、とは思わない。

 私だって何の変哲もない喉の奥から火炎を吐くし、明らかに揚力の足りていない翼で空を舞う。

 ここは前世の、地球の常識が通用しない異世界。であるならば、馬鹿げた大きさの鳥が風を操ったところで不思議ではない。

 問題は、その操る風をどう突破するか、ということ。

 炎の吐息はもうあてにならない。相性が悪すぎる。

 いや、要は出力の問題であって、炎と大気という組み合わせ自体は悪いように見えてどうにでもなるのだが、そう易々と切る手札でもない。

 

「ならばっ!」

 

 翼を力いっぱい打ち鳴らし、高度を上げていく巨鳥を追う。空中での戦い方などこれっぽっちも知りえない私であるが、頭を押さえられたらまずいことぐらいはわかる。

 距離を取っての戦いは五分かジリ貧、ならば接近戦、取り付いての取っ組み合いなら小回りの利くこちらが有利である筈。

 さらには加速力もこちらが上。馬力はあちらが上だろうが、鳥とはいえあの巨体、重量に加え空気抵抗の差は如何ともしがたい。結果、足元から迫る私に対し、巨鳥は頭上からの迎撃を選択した。迫る鉤爪、早い、が、捉えきれない程ではない。

 

「っ、の、ちぇえすとおー!」

 

 急降下し、こちらを串刺しにせんと迫る鉤爪をすれ違いざま一閃。四本のうち一本を切り飛ばしながら胴体を巻き上げ、裂帛の気合と共にその肩口へと切り抜けた。

 太陽の熱がじりじりと身体を焼く。眼下では巨鳥が悲鳴をあげ、もんぞりうって赤く染まった羽をまき散らしていた。

 いける。やはり接近戦では圧倒的にこちらに分がある。

 そしてこれは好機だ。奴が体勢を立て直す前にけりをつける。

 

「だらあーっ!」

 

 尾を丸め、空中で回転。十分に遠心力を乗せた大斧を、いまだ呻く巨鳥目掛け叩きつける。首を落とす、そんな生易しいものではない。頭蓋を割り、トサカから尾羽まで両断するつもりで放った渾身の一撃。

 だが、それほどの一撃でさえ、届かない。

 阻んだのは、またしても不可思議な、不条理な力。

 轟音を伴い撃ち放たれた一撃を止めたのは、不可視の壁だった。

 風の壁。

 唸り、ぎちぎりと不快な音をたてて大斧の刃を阻むそれは押し返す真逆の力ではなく受け流す横の力場。風の流れ。いや、巨大な重量を持つ大斧の刃さえ侵入を許さないそれはもはや激流、鋼鉄の風。

 流される。

 歯を食いしばり、何とか押し通らんとする私の眼前で巨鳥の、氷のように冷たい光を孕んだ黄金の瞳が妖しく光った。

 

「こ、のおっ、があああっ!」

 

 ああ、なんということか。

 力比べの結果、先に音を上げたのはこちらの方であった。

 目の前で大斧の刃、大岩を削り嵌め込んだそれが砕け散り、残った柄は風の鎧に巻き込まれ文字通り木っ端になる。まずいと思い手を放すも既に遅く、風の鎧は私の右腕さえも巻き込み、それに引き摺られた私をまるでヤスリに掛けるように乱暴に、無慈悲に削り取り、空中へと放り出した。

 幸いだったのは、鱗に守られた翼と足は無事であったこと。そして、風自体に私の肌を、肉を深く傷つける程の威力がなかったこと。

 そのお陰で私は全身から血を流しつつも意識を保ち、すぐさま体勢を整えることが出来た。

 しかし失ったものは大きい。奴に致命傷を負わせることが出来る武器は砕け、風の鎧に直接巻き込まれた右腕は筋肉や腱こそ無事なものの見るも無残な姿となっており、この身体の自己治癒力をもってしても完治まで数日はかかるだろう。 

 何ともまあ、厄介なことだ。

 厄介ではあるが、それは奴さんも同じはず。

 睨みつけるは、静かにこちらを見下ろす巨鳥の胸元。美しい、美しかった白い羽を赤く汚し、なおも流れ続ける深い傷跡。

 私は右手を失ったが、あちらはそれよりも大きなものを失い、そして未だそれを失い続けている。

 その出血量であと何分、何時間動いていられる。

 いかに巨大といえど生物は生物。血を流しすぎればやがて死に至る。

 そう、もうこちらに武器は必要ない。

 奴が動かなくなるまで時間を稼げば、逃げ切れば私の勝ちだ。

 ようやく見えた勝ちの目。

 しかしそれは、私をさらなる窮地へと引き込む悪魔の罠であった。

 ゆらりと、視界の端が僅かに揺らぐ。

 笛の音とも、鳥の声とも取れる高い音色が響いた。

 直後、視界の隅に映り込む異物。

 

「はっ……?」

 

 ぼろ雑巾のようなそれは、私の腕であった。

 正しくは、私の腕であったもの。

 慌てて己の右腕を見る。無い。肩の少し下、二の腕の真ん中からばっさりと。

その切断面は、恐ろしく鋭い刃物で切り裂かれたような鮮やかなものであった。

 不思議なことに、その断面から血は流れない。しかし、だからこそその傷口はより一層惨たらしく見えた。

 そうしてくるくると回り、雲の下へと消えゆくそれを見送りながら、私の頭が状況を理解するには数秒の時を要した。

 目の前、巨鳥がその羽を翻した瞬間に大気が歪み、またあの笛の音が響く。

 ぞわりと、背を冷たいものが奔る。

 咄嗟にその場を飛び退いた直後、逃げ遅れた尻尾の鱗ががちりと耳障りな音を鳴らし、何者かを弾き返す感触が伝わってきた。

 

「くそっ、くそっ、あの野郎、やりやがったな!」

 

 どうやったか、なんてことは考えるだけ無駄だ。

 魔法。恐らくは風を刃に変えて撃ち出したのだろう。いわゆる鎌鼬のようなものだ。

 しかし満身創痍であったとはいえ、それなりに頑丈な私の腕を切り飛ばすほどの威力。流石に鱗には傷一つ付けられなかったようだが、それ以外の箇所に命中すれば下手をすれば致命傷になりかねない。

 明らかな誤算。

 ほんの数秒の間に賽の目がころころと変わる、極めて不安定な状況が続く。

 連続して、笛の音が鳴り響く。

 舌打ち。この時ばかりはさしもの私も己の運の無さを呪ったが、いくら心中で罵詈雑言を繰り返そうが状況が好転することはない。

 躱す。

 躱す。

 右に左に、あるいは上へ下へと身を躱し続ける。

 無論、無傷ではない。

 限りなく不可視に近い風の刃を躱し続けることは、この身の超人的な動体視力をもってしても不可能である。

 裂かれていく。徐々に、徐々に。

 脇腹が削れ、指が飛び、耳が欠け、やがて眼球が割れて視界の右半分が真っ暗になった辺りで、不意にその攻撃が止んだ。

 ようやく、止んだ。

 ようやっと奴さんも限界かと、息も絶え絶えといった様子でぼんやりと頭上へ目をやると、そこには全身を真っ赤に染めて、しかしなお力強く羽ばたく巨鳥の姿が。

 その黄金の瞳と、目が合う。

 そして察した、これが最後であると。

 巨鳥の体力も限界。しかし何が奴をそこまでさせるのか、全身全霊、持てる全てを注ぎ込んで最後の一撃を、必殺の一撃を放とうとしている。

 甲高い、しかし先程までのものとは似ても似つかない、背筋が凍る程の風の音。

 生み出されたのは巨鳥の身体と同じか、それ以上はあるだろう巨大な風の刃。それはまるで断頭台に立たされたような、絶望的な光景だった。

 受けるか、避けるか。

 否、避けるなどという選択肢は最初から存在しない。

 何故ならば私の背後には島が、彼らがいる。

 あれほど巨大な一撃が当たれば、彼らは勿論のこと、その威力は島をも砕くだろう。

 ならばここで刃を躱して生き永らえたところで、帰る場所がなければ結果は同じ。

 受けるしかない。たとえそれでこの身が滅んだとしても。

 ゆっくりと息を吸い、吐き出した。

 

「来いっ!」

 

 断頭台の刃が、落ちてくる。

 雲を吹き飛ばし、ごうごうと唸りを上げながら、落ちてくる。

 その刃目掛け、飛び出す。

 全身の紋様が光を放つ。持てる力の全てを絞り出し、限界をも超える勢いで炎を放った。それはもはや炎というより熱線に近く、触れるだけで全てを蒸発させる熱量をもって大気さえも歪ませながら、一直線に刃へと喰らい付いた。

 一瞬の拮抗。風の刃がほんの少し、その動きを鈍らせた。

 しかし無情にも、全てを焼き尽くす炎が全てを切り裂く刃を呑み込むことは終ぞなく、風の刃はその炎さえも両断してなおも私を両断せんと迫る。

 次の手を考えている暇など無い。

 喉が焼ける感覚に顔を(しか)めながら、私は迫りくる刃へ左腕を突き出した。

 接触。

 瞬間、まずは指が吹き飛んだ。

 鱗に覆われた足を差し込む。まだ止まらない。

 翼を盾にして自身と刃の間に差し込んだ。まだ足りない。

 ついに左腕が吹き飛んだ。足と翼も鱗が剥がれ始め、その隙間からは鮮血が噴き出し始めた。

 

「まだ、まだあっ!」

 

 背後には、守るべき者たちがいる。

 私一人がくたばるのなら、まだいい。所詮は死に損なった爺の魂、ここで終わるのならば、死に際に見た束の間の夢とも思えるだろう。

 しかし、背後で見守る、私に祈りを捧げる者たちは違う。

 言葉を交わし、笑い合った者たち。

 私の膝で無邪気に笑っていた子どもたちもいる。

 爺が見る泡沫の夢で終わらせるには、彼らはあまりにも美しすぎる。

 守ってみせる。

 守ってみせろ。

 私は龍だろう。あの嵐を操る、超常の者と同じ存在だろう。

 ならば、負けるな。

 負けるわけにはいかないだろう。

 負けるわけには、いかないのだ。

 

「があああああ!」

 

 私はひたすらに叫んだ。

 それは咆哮。それは魂の叫び。

 そしてそれは、産声であった。

 かちりと、自身の中で何かが噛み合うような、あるいは何かが嵌るような感覚。

 視界が一気に回復する。閉ざされた右目は光を取り戻し、削れた脇腹が光の糸を編み合わせるように元に戻っていく。

 がちりと歯が、牙が鋭い音を立てる。

 角が軋み歪な音を奏でる。

 光の糸が、私の身体を這い回る。それは全身の傷を癒し、より強靭なものへと作り変えていく。

 黒曜石のような鱗が鎧となり腹を、胸を覆い、斬り飛ばされ、吹き飛ばされた私の両腕に新たな形を与えた。

 それは鋭い爪を持ち、強靭な鱗で覆われた龍の腕。

 何物にも侵されることのない、絶対的な矛であり盾であった。

 両腕に感じる、確かな感覚。圧倒的な力。

 より大きく、より逞しくなった翼を操り、前へ。

 風を手繰り寄せ、今まさに私を引き裂かんとしていた風の刃さえも巻き込んで推進力とし、次の瞬間には私は巨鳥の胸を食い破り、雲一つない晴天の下に立っていた。

 断末魔の叫びは、聞こえない。

 互いに全力を尽くし、自身の全てを賭けての死闘。

 その末の決着に、無粋な雑音などあろうはずもなく。

 私はただただ、暖かな日の光に身を預け、息を吐くばかりであった。

 



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さらば友よ

お待たせしました。
少し詰め込みましたが、一区切りです。


 

 不幸中の幸いと言うべきか、その後の調べで巨鳥による被害は最小限に留められていたことがわかった。ヨーク達の一族は岩山に洞穴を掘って暮らしており、巨鳥の襲来を察知してすぐにそこへ逃げ込んだらしい。

 それでも老人、子どもが避難するまでの時間を稼ごうとした若い戦士数人が奴の嘴の餌食となったが、彼らの遺体は巨鳥の腹から無事取り戻し、一族全員に見送られながら昨夜遅くに火葬された。

 私の、龍の炎によって。

 これは、遺された者たちの懇願に寄るものだった。貴方の力で、龍の炎で弔ってほしいと、依然として言葉は通じていないが、そのようなことを身振り手振りで訴えてきたのである。

 龍とは、それほどまでに特別な存在なのか。

 明け方、もうそれが誰のものかもわからなくなった遺灰を集め、壺へと詰めていく者達の姿を少し遠くから眺めながら、私はぼんやりと思考に耽る。

 尋常ではない、とは思う。

 人と変わらぬ姿で、しかし人ならざる屈強な身体と数々の摩訶不思議な力を操る存在。

 じっと、己の両腕を眺める。そこにあるのは、もうすっかり見慣れてしまった、褐色の肌をした傷一つない乙女の細腕。

 あの時、巨鳥の一撃を打ち破ったあの瞬間、この腕は確かに人のものではない何かに変わっていた。黒曜石のような美しい鱗に、太い爪。あれは確かに、龍のもので間違いない。

 しかし私が奴の胸を貫き、ヨークたちの元へ戻る頃にはこの腕は元の姿を取り戻していた。鱗の一枚もなく、一つの傷もなく。

 そしてそれに応じるように私の身体もまた、以前の幼いものへと立ち戻っていた。

 切り飛ばされた腕が生えてきたことには、もう何も言うまい。

 熊に(はらわた)を食い荒らされても元通りになる身体だ。腕の一本ぐらい、難なく生えるだろう。

 再び我が腕を見る。

 じっと、じいっと見て、念じる。思い描く、あの一瞬だけ現れた、漆黒の龍の腕を。

 瞬き。刹那の暗転。

 すると次の瞬間には、私の右腕は見事なまでに、それはもう逞しい龍の腕と化していた。

 かちりと爪を鳴らしてみる。硬い、金属の棒をぶつけたような音がした。

 腕を振れば、像が僅かに揺らいだ後にはもう元通りの柔らかな腕に戻る。

 一瞬で身体の一部が全く異なる物に変化する。なんとも妙な感覚だが、これは以前、化物熊と対峙した時に感じたものと非常に近しく、故に慣れるのにもそう時間はかからなかった。

 しかし、全く、厄介だ。

 これもまた魔法の一種なのだろうか。

 このままいけば私はそのうち人の姿さえも失い、完全な龍へと変じてしまうのではなかろうか。あるいはそれこそが本来の姿なのかもしれないが、あれこれ細工をするのに便利な人の手足を失うのは嫌だ。なにより龍の姿になってしまえば、これまで頑張って作ってきた道具も建物も全て無駄になる。

 貧乏性と言われればそれまでだが、例え傷つくことも病になることもない身体を手に入れられたとしても、雨ざらし野ざらしの生活は辛い。

 それはともかくとして、そろそろ私も、龍、というものについて深く考える必要がありそうだった。

 というのもあの巨鳥、猪や蛇と合わせれば三度目となる異形の獣だ。

 単なる偶然、ああいうのがまま存在す()る世界なのだと思えば腑に落とすこともできるが、恐らくはそうではないのだろう。

 もしああいった奇想天外な化け物たちが頻繁に闊歩する世界であるならば、ヨークたちのような翼も持たない小さな種族など真っ先に淘汰されていそうなものだが、しかし彼らはしっかりと血を残し、繁栄している。ではあれらに対する対抗策でも持ち合わせているのかといえばそうでもなく、魔法も扱えず、弩のような強力な武器もない。であるならば、彼らの島、彼らが暮らしてきた環境ではあれこそが異常であるのだろう。

 ならばならば、そんな、この世界に住まう者ですら異常と捉える事態が三度も起こっているこの島は何なのか。

 島自体が特殊なのか、あるいはそこに住まう者、私こそが特殊であるのか。

 恐らくは後者であろう。

 龍という、信仰の対象にすらなりえる大いなる存在。

 私の知り得る龍は私以外にあの狂飆(きょうふう)だけであるが、彼女は容易く天候を操り、己の姿すら変化させて見せた。もしも私に彼女と同じだけの力が宿っているのならば、なるほどそれは、ここが地球であったとしても奇跡と呼ばれ、畏れられることだろう。それこそ、世が世ならば奉る社の一つや二つ、作られてもおかしくはない。

 しかしそれほどの力ともなればきっと、それをつけ狙う者も出るだろう。その殆どが圧倒的な力の前に屈するか、それこそ虫でも払うように屠られるだろうが、それがまだ殻を被った幼い竜だとすれば、また話は変わってくる。

 幼いとはいえ龍は龍。超自然の、尋常ならざる力の塊だ。より強い力を求める者たちならば、野心を持つ者ならば、挑んできても不思議ではない。

 挑まれる側としては、堪ったものではないが。

 しかし、私の仮説が正しいとすれば、これから先も巨鳥のような化物が龍の力に惹かれてやってくる、ということになる。それは、少し厄介というか、とてつもなく迷惑な話だ。

 両手両足を放り出し、唸りながら空を見上げる。

 

「付き合わせる訳にもいかんしなあ」

 

 起き上がり、翼をひと打ち。

 巨鳥を仕留め、その血肉を食らって以来、この身体はすこぶる調子が良い。一度目で木々の頭上まで行き、二度、三度も羽ばたけばヨーク達が暮らす岩山の麓まではあっと言う間だった。

 翼を器用に動かして軟着陸を済ませると、洞穴から飛び出してくる小さな影がひとつ、ふたつ、みっつ。どれも先日、宴の席で遊んでやった子ども達だ。一番最初に私の元にやってきたいっとう足の早い子を抱え上げ、それを羨みながらじゃれついてくる子ども達の頭を撫でて愛でていると、奥から骸骨を被った老婆がヨークをはじめとした若い男の戦士を伴ってやってきた。

 流石、年の功というべきか、こちらの用件は概ね察しているようである。

 私は遊びをせがむ子どもたちを宥めると、老婆にこれまでこの島でどのようなことが起こったか、そしてこれからどうするべきかを言って聞かせた。

 ここで私と一緒にいれば、あのような恐ろしい獣がまたやってくる。

 だから一族をこれ以上危険に晒さないよう、島が動く気配を見せたら皆はそっちに行きなさい。

 内容としては概ねそのようなものであったが、話し合いは特に難航することもなく、呆気ない程スムーズに進んだ。

 考えてみれば彼女らにとって私は上位存在。基本的にその意思が蔑ろにされることはない。信仰対象の為ならその命すら捧げるような狂信者ならば話は別だが、そんなものは様々な宗教が入り乱れる地球であっても極めて稀だ。

 全くない、と言い切れないのがまた、人間の恐ろしい部分でもあるが。

 ともかく、方針としては島がまた離れる時、彼女たちの一族は共にここを去るということで決まった。彼女たちは随分と名残惜しそうにしていたし、遊んでやった子どもたちには大泣きされたが、こればかりは仕方がない。彼女らがこちらに残るにせよ、私があちらに移るにせよ、どのみち力を狙う者はやってくる。そして、傾向としてそれは巨大な獣である可能性が高く、であるならば小さく牙を持たない彼女らは奴らにとって都合の良い餌でしかないのだ。

 私としても奇跡的に巡り合えた彼女らと別れるのは身が裂ける思いであるし、まあ数日は引き摺るし泣き喚くだろうが、だからと言ってあの可愛い子ども達を獣の餌にする訳にもいくまい。

 しかしせっかくこうして出会ったのだからと、翌日から私たちはお互いの島で採れた植物や果実などを持ち寄り、物々交換を始めた。

 いや、元々はあちら、仮に小鬼族と呼ぶが、彼らが家畜やら、工芸品などを手に手に持って現れて、どうぞこちらをお納め下さいとばかりに供え始めたのが始まりである。

 いや、こちらの島が豊かになるのは嬉しいのだが、私は神にも仏にもなった覚えがない上に放っておけば赤子まで置いていきそうな勢いであったので慌てて止めに入り、貰った分は別のものでと干し肉やら魚の干物を渡し始めたのだ。

 食べ物、特に蜂蜜などの甘味は正しく泣いて喜ばれたが、赤子には決して与えないようにとひと際きつく言い聞かせた。

 そうして数日経った頃には、泉の広場も随分と賑やかになっていた。

 若い山羊が二頭に鶏が五羽、山盛りにされた真っ赤なサボテンの実と肉厚な葉、そして植物の種が幾つか。どれも生前の記憶にあるものと似通っているが、少しばかり違う。

 山羊に関しては脚も胴も太く、まるで牛と山羊を掛け合わせたような珍妙な見た目をしていた。老婆に話を聞くと、どうやら乳も肉も美味らしい。

 よく躾けられていた為しばらくは泉の周りで放し飼いにしていたのだが、夜な夜な小屋に忍び込んでは私の髪をもしゃもしゃとやり始めたので突貫で広場の一角を柵で区切り、今はそこに放り込んでいる。彼らには私が木を切り倒した後の、雑草の掃除係にでもなってもらおう。

 ちなみに先輩である狸のごんとの関係は中々に良好らしく、どうも呑気というか、のんびりとした気質が合ったようで、たまにその大きな背中で昼寝を決め込む狸の姿が見られたとかなんとか。

 

 そうして夏が過ぎ、秋。

 島全体を揺るがす地響きの後、彼らはまた何処かを目指し、大空の果てへと旅立っていった。

 別れ際、これまで世話になった礼にと私の鱗で拵えた首飾りを渡したところ、受け取った老婆が感極まって卒倒するという珍事があったり、私が十分に力を扱える空域ぎりぎりまで子どもたちにせっつかれて大変だったものの、その他は事前に準備を進めていたこともあり比較的のんびりとした、穏やかな別れとなった。

 私は、そして彼らもまた、お互いの島が雲の向こうに隠れて見えなくなるまで、ずっとその姿を追い、手を振り続けた。

 日が落ち、残ったのは肌寒くなってきた秋の空と、波の音。

 意外にも、涙は流さなかった。

 彼らが残した多くのもの、その全てに彼らの思いが、思い出が残っていたから。

 

「さあて、明日からまた頑張るかあ!」

 

 きっとまた会える。

 そんな確かな予感を胸に、私は月明りの中を行く。

 あの温かな思い出の詰まった、大切な我が家(たからもの)へと向かって。

 



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月に照らされ咲く花は

大変お待たせいたしました。


 

 小さな訪問者たち(小鬼族)との別れから月日が流れ、また冬が来た。

 今年の冬は一段と厳しい寒さで、家畜たちは初めこそそれぞれ身を寄せ合い温め合っていたのだが、日が落ちるとそれでも暖が取れなくなり、夜な夜な柵を飛び越えては我が家に忍び込んでくるようになった。

 ただでさえ狭い小屋である。山羊二頭、鶏五羽が入り込めば足の踏み場もなくなるのは目に見えており、さらには小屋中に充満する獣臭さといえばそれはもう凄まじいものであったが、外に放り出して凍死されては堪ったものではないとこちらが折れることにした。

 ともあれ、いつまでも寝床に忍び込まれてはこちらの気が滅入ってしまうと、今日はお天道様が顔を出す前から冷たい手を擦りながらの建築作業である。

 竹林から立派なものを何本か拝借し、適当な長さに切り分けて柱を立て、屋根を組んでいく。大きさは違えど、小屋を建てるのもこれで三度目となれば本職には適わないまでもそれなりに手つきも慣れてくるもので、お天道様が空の天辺まで登りきる頃には立派な小屋が一つ出来上がっていた。

 ともあれ普通の山羊ではない。牛のような体付きの山羊であるので、私が翼を伸ばしてのんびり寛げる広さの小屋であっても彼らにとっては犬小屋サイズ。十分に暖は取れるだろうが、彼らが満足するかどうかは実際に試してみないとわかりようがない。

 踏み抜いて怪我でもしたら大変なので床板は張らず、代わりに柔らかい藁を敷き詰めておいた。

 

「おおい、出来たぞー」

 

 手を振って呼んでみれば、遠くで呑気に草を食んでいた二頭がのっそりとその頭を上げ、これまたのんびりとした足取りでこちらまでやってきた。

 がっちりとした体付きでのんびりとした性格の雄が富士、少し小柄で人懐っこいのがちよである。どちらも黄褐色の毛をしているが、角は雄の富士にだけ小さいやつがちょこんと生えている。

 

「よしよし、元気そうでなにより。お前たちの小屋が出来上がったんだが、ちょっと具合を、おい、こらこら、私じゃなくてあっち、あっちに行けって」

 

 小屋の居心地を確認して欲しかったのだが、どうも二頭は私に遊んでもらえると勘違いをしたようで頭をごりごりと擦り付けながら催促を始めた。人懐っこくて愛嬌もある二頭であるが、牛のような力でぐいぐいとやってくるので堪らず尻もちをつきそうになってしまう。前に尻もちをついた時は、そのまま二頭に顔中を舐め回されて大変なことになった。

 頭を撫でながらなんとか小屋に興味を持ってもらえるよう身振り手振りで誘導するが、これがどうにも上手くいかない。

 力ずくで無理矢理動かすこともできるのだが、そんなことをすれば二頭との信頼関係に傷をつけるのも如何なものかと思うし、何よりそれが原因で小屋に入ることを嫌がるようになれば本末転倒というもの。

 結局は私が折れることになり、富士の背中に跨ってのんびり散歩でも楽しもうかということになった。

 

「せっかくだし、竹林の方まで行ってみるかい、なあ」

 

 そう言って背中を撫でると、二頭は牛のような鳴き声で答えながらのっそりと歩み始めた。牛歩と言えばかなりのんびりとした速度を連想するだろうが、実際は人間と同じぐらいか、大人の小走り程度の速度を出すことが出来る。さらにこの二頭はそこに加えて踏み込む際の力が凄まじく、恐らくその馬力はばんえい競馬で活躍する大型の馬にも匹敵するだろう。

 二頭ともがそれほどの力強さで進むものだから、ちょっとした藪ぐらいなら文字通り踏み倒し、薙ぎ倒し、通った後に振り返ればそこにはちょっとした獣道が出来上がる程である。

 しかし流石に木や岩を踏み潰すほどではないので、切り拓くのが面倒な草むらやら、足場が不安定な険しい山道を踏み固めて生活用の道を通すにはこの二頭は実にうってつけであった。

 ともあれ、普段は空を飛んで移動している私であるので、こうやって作ってもらった道を活用する日は果たしてくるのだろうか、という心配はあるが。

 

「しかし、まあ、たまにはこうして、のんびりするのも良いもんだ」

 

 身を刺す寒さはあるものの差し込む木漏れ日は十分に温かく、耳に優しく届くのは二頭の穏やかな足音と枝先から零れ落ちる垂り雪の音色。さらに寝ころんだ時に腹からじんわりと染み入るような富士の体温の心地良さといえば、冬の寒さを忘れつい欠伸が出てしまう程であった。

 そうして夢見心地のまま森を進んでいると、私は不意に胸のざわつきを感じて目を覚ました。気味が悪いとか、嫌な感じではない。何かこう、意識を引っ張られるというか、つい気になってしまう、何とも落ち着かない感覚。

 そのすっきりしない違和感の元を探ってみれば、それは竹林の向こう側、山の側面にぽっかりと空いた洞窟の奥へと続いていた。いつぞやか島の探索中に見つけた、川を吐き出すように口を開けたあの洞窟である。この辺りは例の巨大ヒルが出るのであまり長居はしたくないのだが、前回は感じなかった不思議な感覚がやけに私の胸をざわつかせ、心を惹きつけてやまない。

 行くべきなのだろう、きっと。

 気が付けば私はひとり洞窟の入り口に立ち、ぽっかり開いたその奥を見据えていた。

 恐れはない。見据えた先には深い暗闇が広がり、時折吹き付ける風がまるで亡者の呻き声が如き不気味な音を奏でるが、それでもなお、私の心を怖気づかせるには及ばなかった。

 

「そら、お前たちは先に帰って小屋の調子でも確かめておいておくれ」

 

 二頭の頭を撫で、見送ってから私はいよいよ洞窟の中へと踏み込んだ。

 めら、と口元から炎が漏れる。暗闇を身体中の紋様が払い除け、吐き出された火炎がぼうっと浮かび上がった岩肌を舐め回すように蹂躙した。さらに翼を大きく動かし、灼熱の炎を洞窟の奥へ奥へと送り込む。当然、炎は見る見るうちに小さくなっていくが、その光と熱は洞窟の中に潜む者たちを驚かせるには十分すぎるものであった。

 ぎゃあぎゃあと騒ぎながら飛び出してきたのは、無数のコウモリたちだ。文字通り尻に火が付きながら洞窟から飛び出した彼らは真っ黒な雲のようになって、やがて森の向こう側へと消えていった。

 残されたのは未だ立ち昇る陽炎と、赤熱し星空のように煌めく洞窟の内壁だけ。まばらに光るその岩肌を注意深く観察してみれば、煙草色をした壁の中にぽつりぽつりと黒光りするものがある。どうやらその黒い部分が炎で熱され、ほんの少しの間だけ光を放っていたらしい。

 

「こりゃあまさか、石炭か」

 

 試しに片腕を龍の姿に変化させ、その鋭い爪で黒い部分を掘り起こしてみればまさかまさか、それは正真正銘の石炭であった。どうやらこの辺りは石炭の鉱脈になっているようだ。ここに来て、よもやの収穫物である。これがあれば、冬の厳しい寒さもかなり快適に過ごすことができるようになるだろう。

 さらにこの石炭を手のひらに乗せ、自慢の炎を吹きかければこれこのとおり、即席の松明としても役立ってくれる。煙が多く、独特な臭いがあるのが玉に瑕だが、分厚い鱗に覆われ熱に強い龍の腕であれば火傷をすることなく安全に取り扱うことができるし、燃え尽きたらすぐ傍を掘り起こせば容易に手に入る。これ以上に便利な照明はない。

 さて、手頃な灯りを手に入れたところで洞窟探索を再開するとしよう。

 どうやら洞窟はほんの少しずつ地下へと伸びているようであり、奥から流れていた川の影響で湿っていた足元も奥に進めば進むほど固い感触へと変わり、しばらくすればコウモリたちが残していった糞尿による異臭も薄れ、僅かに肌寒い空気が肌を撫でるようになった。

 特に極端な変化を見せたのが、洞窟の内壁である。

 初めは石炭の鉱脈がずっと続いていたのだが、ある深度を境にその肌色が徐々に変わり始め、黒の代わりに氷のような、透明度の高い幻想的な鉱石が姿を現すようになった。

 多角形をした、硝子のような鉱石である。

 手に取ってみればそれは容易に削れ、ともすれば石炭よりもずっと脆い、砂糖細工のような水晶、いやこれはクリスタルであろうか。透明石膏(セレナイト)に似ているが、記憶にあるそれよりもずっと透明度が高い。

 加工が容易なことから装飾品などには適しているだろうが、虫除けなどの効果があるならばともかく、私しかいないこの島でどれだけ着飾ったところで褒める者が居る訳も無し、せいぜいが水鏡にでも映る自分相手に自画自賛するぐらいのものだろう。

 松明の光を受けてきらきらと幻想的に輝く結晶の中を、私は進む。

 下へ、下へ。

 不思議なことに、洞窟はひたすらに一本道であった。

 洞窟と言えばもっと枝分かれをしていると思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。あるいは、この洞窟が特別なのか。

 しかし、やけに気が利いていると思えば、そうでない部分も多い。例えば小さく空いた、子ども一人がやっと這って潜れるような小さな穴であったりとか、私の薄い身体を横に畳んで何とか進めるような窮屈な道だとか。

 翼や尻尾を曲げたり伸ばしたりして何とか進むことが出来たが、そのせいで身体中が砂まみれになってしまった。

 これで何も成果を得られなければ泣きっ面に蜂、帰って不貞寝でも決め込むところであったが、どうやらそれは杞憂に終わりそうだ。

 それはやたら低い天井を腹這いになって潜ったその先にあった。

 広い。そして天井が高い。一軒家ぐらいなら丸々収まってしまいそうなぐらいのその場所は、どうやら巨大な半円形の広場になっているようだった。一面に透明な結晶が並び、輝く光景はまるで星空の中に立っていると思う程に幻想的で美しく、心を奪われるとはこういうことなのかと、間が抜けたように口をぽっかりと開けながら私はそんなことを考えていた。

 そして、だからこそ私はそれを見つけるのにしばらく時間がかかってしまった。

 これ見よがしに広場の中心に鎮座していたのにも関わらず、だ。

 

「なんだ、これは、花か」

 

 そこにあったのは、一輪の花。

 拳ほどの大きさをした真っ白な花だ。円形に開いた花弁はまるで周囲で煌めく結晶にも似た、どこか無機質さすら感じさせる美しさであるが、広場の中央から伸びる、天井まで続く結晶の柱に蔓を巻き付け、まるでこちらに頭を垂れるように静かに咲くその姿に私はほんの僅かだけ警戒心を抱いた。

 こんな洞窟の奥深くで、花が咲くものなのか。

 こんなに都合よく、一輪だけ、お誂え向きに私が訪れたこのタイミングで。

 不自然。明らかに、あからさまに。

 しかし敵意は感じず、角がざわつく様な悪い感じもしない。

 結局しばらく花と睨めっこを続けた結果、私はほんの少しだけ警戒したまま、やや腰を引きながらその花へと歩み寄っていって、そっと下からその白い花弁を覗き込んでみた。

 途端、起きる異変。

 ぶるりと花弁が震え、柱に巻き付いた蔓が淡い光を放ち始める。

 すわ何事かと、その瞬間に私がその場から飛び退いたのは言うまでもない。

 そうして遠巻きから光る謎の花の様子を見守っていると、どうやら地面から花の化物が飛び出してくる、という馬鹿げたこともなく、花はその花弁を閉じてぶるりと一度震えたのを最後にぴくりとも動かなくなった。

 

「も、もう終わったか?」

 

 おっかなびっくり近づいて翼の先で閉じた花を突っついてみれば、花はまるで硝子のように砕け、中から一粒の種が私の手のひらに転がり落ちてきた。

 一見すれば何の変哲もない、私の爪ほどの大きさの植物の種であるが、ここに来て、この場において授かったのだから何かしらの意味はあるのだろう。そのことを察することが出来る程度には、私もこの島で生きてきたつもりだ。

 とにかくこれは持ち帰り、大切に育ててみることにしよう。

 そうして私が踵を返そうとしたその瞬間、広場のさらに奥から何かが崩れるような音が聞こえてきた。どうやら壁の脆い部分が崩れ、別の道と繋がったようだ。

 覗き込んでみればどうやら道は下ではなく上に伸びており、奥からは笛の音に似た風の音も響いていた。それはつまり、この道が外へと繋がる出口であるということなのだが、それよりも私が驚いたのは、その風が届けてきた匂いであった。

 いつぞやか嗅いだことのある、記憶に深く刻まれた香り。あるいは獣臭さというべきか。

 

「ああ、なるほど、そういうことか」

 

 物言わぬ結晶たちに囲まれながら、私はひとり頷き、道の先へと進むのだった。

 



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花龍風月

お待たせしました。


 

 露わになった洞窟を抜けると、そこは見知った森の中であった。振り向けば、いつぞやか世話になった大虎一家が巣穴として使っていたあの洞窟がぽっかりと口を開けている。

 そう、川の洞窟は丁度反対側にあるこの洞窟までまっすぐに繋がっていたのだ。あの時、洞窟の最奥で流れ込んできた匂いからまさかとは思ったがいやはや、本当にここに出てくるとは。彼の一家はまだ、健やかに過ごしているだろうか。僅かに懐かしさを覚える洞窟の入り口をそっと撫で、遥か遠い地へ思いを馳せる。

 そうして少しばかり感傷的になっていると、背後の草藪が大きな音を立て枝が踏み折られる音が辺りに響いた。

 すわ何事かとその場から飛び退いて音のした方を見れば、藪の中からどこか見覚えのある大きな角が二本、ひょっこりと顔を出した。続いて小さな耳がぴょんと出て、呑気な表情をした三角形の頭がにゅっと顔を出す。口元に食べかけの草をぶら下げて、呆気にとられるこちらを不思議そうな目で見つめている。

 そんな二頭に、私は大きく息を吐いた。

 

「なんだ富士、誰かと思えばお前か。ちよの奴はどこに、おお、お前もそこにいたのか。こら、年寄りを驚かすんじゃない。腰が抜けるかと思ったぞ。まあ丁度いい、帰りも背中を貸してもらうとするかい」

 

 富士の尻に隠れていたちよの頭を撫でて、その背中へ飛び乗る。

 日は既に沈み始め、森の向こうは早くも茜色に染まり始めていた。のんびり帰れば、丁度夕飯時には家に着くだろう。

 そうしてちよの背中に揺られながら家まで帰ると、まず私は空いていた土器に土を詰め、そこに洞窟の奥で手に入れたあの謎の種を植えることにした。

 たった一粒だけの謎の種。大切に大切に育てなければ。

 

「さてさて、お前さんはいったい何者なのかねえ」

 

 順当に考えれば、あの洞窟の奥で咲いていたものと同じ、結晶のような美しい花が咲くのだろう。しかし、果たしてそれだけだろうか。

 蒔いた種に優しく土をかぶせ、水をやりながら考える。

 恐らく、それだけではない。そんな単純な話ではないだろう。

 むしろ、そうでなくては困る。そうでなくては、面白くない。

 これは枕元において、姫のように世話をしてやるとしよう。

 そうして夜が更け、朝日が昇り、また夜が来て、それをしばらく繰り返していくうちに、また春がやって来た。

 

「ううん、ううーん、何だろうなあ、困ったなあ」

 

 穏やかな陽気のとある春の朝。泉の表面が朝日で鮮やかに輝き、気持ちよさそうに横になった富士の腹の上で子狸三匹がじゃれ合う、そんな和やかな空気の中、私は鉢植え代わりにした土器を前に云々と唸り、頭を抱えていた。

 芽は出た。しっかりと、間違いなく芽は出ている。

 土を押し上げ顔を出したのは真っ白な、まるで星の光を留めたような美しさを湛えた小さな芽であった。いつぞやか起き抜けに鉢植えの中を覗き込み、芽が出ていたのを見た時は正しく飛び跳ねて喜んだものだが、そこからが問題だった。

 ひょっこりと二枚の若葉を伸ばしたまま、まるで育つ気配がないのである。

 いや、少しずつ大きくなっている、ような気がしないでもないのだが、目の錯覚と言われればそうかもしれないと悩んでしまう程度には、その差は極めて微妙なものであった。

 やたらとのんびりとした者が多い我が家ではあるが、これは些か呑気が過ぎるのではないだろうか。

 

「ううん、どうしたもんか、うーん」

 

「稀有なものを得たようだな、同胞よ」

 

「いや、珍しいのは珍しいんだが、これが中々曲者でなあ」

 

 はて。

 今、誰ぞ言葉を差し込まなかったか。

 澄み切った、晴れやかな雪山の肌を撫でる涼風のような音色。

 

「興味深い。やはり、貴公は興味深い」

 

 ふと横を見やれば、そこには黄金のような美しい瞳があった。

 長いまつ毛、小さな鼻、無表情な整った(かんばせ)はまるでよくできた人形のようで。

 思考が停止する。

 まるで全身に甘い毒を流し込まれたよう。

 絹糸のような赤い髪が、真っ白な頬から紅の塗られた妖しい唇へさらりと流れ落ちる。むせるような、心ごと引き寄せられるような色香であった。

 互いの息が混ざり合う程の、至近距離。

 艶やかな流水紋様の着物。僅かに露わになった胸元。

 薄っすらと浮き上がる鎖骨。

 透き通った金色の瞳の中には、呆ける自身の姿が映っていた。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 私の口から、生娘のような悲鳴が鳴り響いた。

 

「だあっ、おま、おま、お前ぇっ!」

 

 ごろごろ。

 ごちん。

 ぼちゃん。

 それはまるで、不意を突かれた猫のような有様だった。

 転がって、泉の傍の岩に頭をぶつけて、そのまま足を滑らせて泉に転落。

 今更、岩に頭をぶつけたぐらいでどうこうなる軟弱な頭ではないが、泉から這い上がった時の惨めさ、恥ずかしさときたら、穴があったら入りたいぐらいであった。

 そうして全身くまなく水浸しになった私は髪をぎゅっと絞りながら元居た場所へと戻り、こほんとひと息。

 

「面白い」

 

 びくんと、肩が跳ねた。

 

「そりゃあ、お気に召したようで何より。お前さんも、現れる時はもう少しゆっくりと出てきてくれんかね」

 

 唇を尖らせながら私がそう愚痴ると、真っ赤な髪の少女、狂飆(きょうひょう)はまるで無垢な娘のように首を傾げ、すっとまたその瞳を目の前の小さな芽に向けた。

 

「否。いや、貴公を故とするからこそ、これは現れた。ならば、やはり、面白いのは貴公であるのかもしれない」

 

 なんというか、相変わらず難解な言い回しをする龍である。

 何を考えているのかわからない、能面のような顔をして鉢植えを眺める彼女を見て、ふと気が付く。先程まで呑気に昼寝をしていた、富士たちの姿がない。

 いや、彼らだけではない。

 走り回っていた子狸たちもいつの間にか巣穴に引っ込み、普段は我が物顔で辺りを歩き回っている鶏たちも、どうやら今は巣箱の奥に姿を隠しているようだった。

 見慣れぬ来訪者の姿に警戒しているのか、いや、それにしたって富士やちよまで小屋に逃げ込むとは相当である。

 

「人と巡り合ったか」

 

 不意にかけられた声にそちらを向けば、鉢植えにはもう興味がないのか、次は広場の隅に押し込んでいた飛空艇、いつぞやかウィリアムが乗っていたそれに目を付けたようであった。

 あれから気が向けば手入れをしていることもあって、飛空艇はほとんど当時と同じ状態のまま保存されている。それにはもし動かすことができるなら、これに乗って島の外に旅立つことができるかも、という淡い希望もあったりするのだが、残念ながら今の今まで飛空艇が動き出すような素振りを見せたことはない。

 

「ああ、残念ながら助けることはできなかったがね。優しい、良い男だったよ」

 

 どういった顔で、ああいった性格で、おおよそこういった事を成していたのだろうと、そういった内容のことを私は彼女に語り、彼女自身もこの島に流れ着いた人間には多少の興味が湧いたのか、長ったらしい爺の話を大人しく、時折頷きながら聞いていた。

 特に関心を引いたのは、私の名に関する部分であった。

 

「シエラ、名が付いたのか。名を付けられたのか」

 

 特にその部分に関しては、普段は仮面でも被っているのかと思う程の彼女の無表情が、ほんの一瞬、見間違いかと思うほど僅かに揺らいだ、そんな気がした。

 何ぞ不味いことなのかと私が問うと、彼女はいつもの能面のような顔に戻って首を横に振る。

 

「否。それもまた、貴公なのであろう。貴公であるからこそ、なのであろう」

 

 彼女は、それ以上は語らなかった。

 無駄な問答は好まぬ、とは彼女の口癖のようなもので、これ以上追及しようものなら彼女の機嫌を損ねてしまうことは火を見るよりも明らかであった。

 君子危うきに近寄らず。

 わざわざ藪をつついて蛇を出す必要もなかろう。

 結局、彼女はそれからしばらく私の思い出話に耳を傾け、手製の茶や焼き魚などを興味深げに味わった後、あっさりと去っていった。

 

「それは今まで通り、貴公の傍で育てるといい」

 

「貴公が如何なる花を咲かせるか、楽しみにしている」

 

 そんなことを言い残して、彼女はまたどこぞへと飛び立っていった。

 長い身体をくねらせながら、まるで泳ぐように優雅に空を飛ぶ姿は何度見ても目を奪われるような光景であるが、しばらくして風を生み出し雲を巻き込み、やがては雷鳴まで響かせる巨大な嵐になっていくその様こそ彼女が如何に規格外の存在であるのかを雄弁に語っていた。

 見るもの全てを畏れさせ、また魅了してやまない存在。それこそが、龍なのだろう。

 古今東西、龍が信仰の対象になるのも当然といえる。

 尤も、この世界において龍は幻想でも何でもなく、確かにそこに存在しているというのが凄まじいところであるが。

 

「しっかし、傍で育てろ、と言われてもなあ」

 

 彼女がそういうのなら、この芽はきっと健やかに育ち、花を咲かせるのだろう。

 しかし、三か月以上は経とうというのに一向に背を伸ばさぬこの芽は、花が咲くまでにいったいどれほどの年月を必要とするのか。一年、二年、あるいは十年以上かかるかもしれない。

 足元に置かれたままの鉢植えを抱え、私は天を仰ぐ。

 空は憎らしいぐらいの快晴。真っ白な月が二つ、薄く遠くに映っていた。

 



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兆し

お待たせしました。


 

 六度目の夏。

 あれから鉢植えの中の小さな芽は少しばかり背が高くなって、天辺に広げた葉も親指の爪ほどの大きさに成長した。

 花を咲かせるまで数年は要するだろうと覚悟はしていたものの、一年経ってようやくこれだけとは。僅かばかりでも大きくなってくれたことに喜ぶべきではあるものの、しかし戒驕戒躁(かいきょうかいそう)を心掛ける私とはいえこれは流石に悠長が過ぎるのではないだろうかと気が気ではないこの頃である。

 しかし鉢植えと向き合い語らったところで腹が膨れる訳でもなく、今日も今日とて日々の糧を手に入れる為に浜辺へと向かう訳であるが、もうすっかり踏み固められて道になった川沿いを少し歩いたところで私は己の眉間を揉み解した。

 

「ううん、どうもおかしいな」

 

 具合が悪い、ということはない。

 ここ最近はありがたいことに食料を切らすことも無かったし、寝不足が続いている訳でもない。無論どこか怪我をしたとか、変なものを口にした記憶もないのだが、どうにも見えるのだ。

 変なものが。

 いや、別に気をやってしまった訳ではない、筈なのだが、先日から森の中などを歩いているとこう、(もや)というか、白や赤や緑と様々な色をしたものがうっすらと、風に乗って流れていくのが見えるのである。

 幽霊だとか妖怪だとか、そういったものではない。

 初めて夜中に見た時は腰を抜かすかと思ったが、偶然そのような形になって人に見えることはあれど、それに意志だとか魂だとか、そういったものが宿っている様子はなく、 消えたり現れたり、見えたり見えなかったりはするが、どちらかといえば自然現象、例えるならば虹やオーロラに近いのではないか、というのが今のところの私見である。

 これが私や他の生き物に悪影響を与えるようなら何かしらの対策を考えなければならないが、これが見え始めて十数日経った今でも体調に変化はない。であるならば無害なのだろうが、それはそれとして得体の知れないものがちらちらと視界に入るというのは中々に落ち着かないものなのだ。

 現代日本で暮らしていた私からすれば、色の付いた気体のようなものといえばあまり良い物である記憶がない故に猶更である。

 

「ええい、悩んでいたところで埒が明かん。とりあえずは飯だ、飯!」

 

 どうせこの謎の靄をどうこうする手段は今のところないのだし、つまるところは慣れるしかない。そうして頬を叩いて悶々とした気持ちを吹き飛ばすと、私はいつもの磯場でいそいそと貝集めに勤しむことにした。

 スガイ、イボニシ、マツバガイ。豊かな土壌から溢れ出した栄養たっぷりの海には、丸々と太った貝たちが所狭しと身を寄せ合って暮らしている。しかし、そんなより取り見取りの中で私が真っ先に向かったのはいつも貝を集めている場所から少し離れた岩場の陰。少しばかり盛り上がった岩の後ろに回り込めば、そこにはびっしりと張り付いた紫色の貝たちが。

 ムラサキイガイ。

 そう聞けばぱっとしないだろうが、ムール貝と言えば殆どの者が聞き覚えがあるだろう。

 フレンチ、イタリアンでは代表的な食材であり、とても良い出汁が出るので蒸したり煮たりするとそれはもう絶品である。

 その名の通り紫色の貝殻が特徴で、その色合いから日本の一部の地域ではカラスガイなんて呼ばれたりする。そう、こいつは意外にも日本の海でも獲れる貝なのだ。

 元々は船底に引っ付いて日本にやってきたらしいが、もしかすればこの島にもどこぞの漂流物に張り付いてやってきたのかもしれない。

 ともかく、これほど美味な食材が獲り放題とくれば、これを見逃す手はない。

 特に今後はとある目的の為に貝殻が大量に必要となってくるため、我が家の食卓にはしばらく貝料理ばかりが並ぶことであろう。

 背負った編み籠にムール貝を放り込んで、ついでに先程の磯場でもイボニシをいくつか集めて我が家へと戻れば、お日様もあと少しで空の天辺まで昇りきろうかという頃合い。

 昼飯時には少し早いが、島での調理はとにかく時間がかかるのでこれぐらいに手を付け始めないと下手をすれば昼飯が夕飯に化ける。

 まずは火おこしから。

 とはいえ自前の炎を吐き出すだけなのだが、ここしばらくはこの単調な作業がまた楽しく思えてきた。というのも最近になってついに、いや、ようやくと言うべきか、我が厨房に(かまど)がやってきたのだ。

 石と粘土で組み上げた簡易的な、出来上がりとしてはお粗末な代物であるがその利便性は焚火などとは比べ物にならない。火の持ちも良いし、風の影響も受けにくく何より火力が段違いだ。嗚呼、文明とはなんと素晴らしい物か。

 私は水を注いだ土器を竈で火にかけ、その間に集めた貝を洗い、ムール貝は中身だけを取り出して沸騰した湯の中へ。イボニシたちは石板の下で火を焚いて石焼きにする。

 続いて畑からハマダイコン、蔵代わりにしている大樹の洞から筍を取ってきて刻み、ムール貝が踊る土器の中へ。

 スープは貝の出汁だけで、石焼きの方には魚醤をちょんと垂らしてから頂く。

 枝を削って作った楊枝で身をほじくり出してぱくりと食らいつけば、磯の香りが鼻先に抜けると同時に貝自体の旨味が口内にふらりと広がる。

 

「うん、相変わらず美味い、美味い」

 

 続いて箸はムール貝のスープへ向かう。

 ぷりっとした肉厚の身は意外にも柔らかく、食感としては牡蛎(かき)に近いだろうか。他の貝と比べて強いクセや風味も無く、クリーミーでほんのりとした甘さがある。

 これは是非とも酒蒸しで頂きたいが、残念ながらまだ酒造りには着手出来ていない。アテはあるのだが、取り掛かるのにはもう少しばかり時間がかかる。

 イボニシを頬張りながらちらりと見やるは丘の上、りんごの木の傍に拵えた手製の巣箱。

 実はこの春先に、巣箱へと数匹の蜜蜂がやってきていたのだ。

 その時は巣箱の中を観察してどこぞへと飛び去ってしまったが、私はこれが分蜂(ぶんぽう)、蜜蜂たちが群れを二つに分ける予兆ではないかと思っている。

 蜂の群れには毎年、春になると新しい女王蜂が生まれてくる。すると新しい女王蜂を生んだ元々の女王蜂は群れを二つに分け、新しい巣へと引っ越しを始めるのだ。

 そう、面白いことに蜂の場合は新参者が出ていくのではなく、元々の家主が子孫に巣を引き渡すのだ。これにはより若い個体に安定した環境を引き継がせるという合理的な理由があるのだがそれはともかくとして、重要なのはこの分蜂の際に新たな住処を探す偵察部隊が我が家の巣箱にやってきていた、ということ。

 残念ながら今季の分蜂では新居に選ばれることはなかったが、巣箱を改良したりだとか、周りの環境を改善していけば次の女王様のお眼鏡に適う可能性は十分にある。

 そして先程述べた通り、一度定住すれば蜂は次の世代にその巣を引き継ぎ続ける為、毎年安定して蜂蜜を入手することが出来るようになる。さらには蜂は植物の受粉を助けるポリネーターと呼ばれる媒介者であり、住み着いてくれればりんごや他の作物の収穫量も上がっていくだろう。

 まさに農業を行う者にとっては心強い味方ということだ。

 まあその分、外敵や越冬から群れを守る為の手助けは欠かせないのだが。

 蜂蜜が安定して手に入れば、水を混ぜて蜂蜜酒(ミード)が作れる。蒸留すればより度数の強い酒にだって出来るだろう。

 さらに楽しみなのが、小鬼族から譲り受けた植物の種である。

 実はこれ、どうやら古代米に近い穀物の種だったらしく、今は我が家の畑で少しずつ品種の改良を進めている。品種改良と言えばさも小難しいことをしているように聞こえるが、実際は実りの良い個体同士を交配、雄しべと雌しべを擦り合わせて受粉させ、より大きく、より多く実るように手を加えているだけなのだが、当然ながらこれがまたとんでもない年月がかかる。

 質としては野生、(ひえ)などに近い逞しい品種ではあり、品種改良が重ねられたものと違い水田などを用意しなくともそれなりに実ってくれるので非常に助かっているのだが、喉から手が出るほど望んで止まなかった米が食えるかも、となればどれだけ時間がかかろうとも必死になるのは必然であった。

 

「まあどれもこれも、いつになるかはわからんがなあ」

 

 グアバの葉を乾燥させて煮出した茶を啜りながら、私はほっと息を吐く。

 泉の上で、青色をした靄が踊るように身をくねらせていた。



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龍の吐息は湯気に蕩け

サービス回(?)


 

 木々が葉の色を変え、森全体が赤みを帯び始めたとある秋の日。

 僅かに冬の気配を感じさせる肌寒い風に身を震わせながら、私は小屋の裏でひたすら拡張工事に勤しんでいた。

 柱を立て、屋根を作る。素材はいつもお世話になっている竹と泉の周辺から切り出した木材やら丸太やら。

 拵えているのは四阿(あずまや)と呼ばれる、屋根と柱だけの建築物。公園などの休憩所によくあるあれだ。

 正確には四阿らしき物であり、ある物を用意する為にそれなりに広く、雨が凌げる屋根があればそれで十分な為、作り自体はかなり簡素なものとなる。

 流石に小屋を何件も建てていればこれぐらいの作業なら手慣れたもので、昼飯時になり腹の虫が鳴り始める頃には六畳程の広さの、それなりに整った四阿が出来上がっていた。

 本日の昼餉(ひるげ)は焼き魚と貝のスープだ。

 午後も作業が残っている為、手早く胃に流し込むと私は海岸までひとっ飛びして、下準備していたとある品物を担ぎ上げた。

 三日月のような形をした、ともすれば大きな獣の爪にも見えるそれは何を隠そう、いつか仕留めた巨大な怪鳥の(くちばし)そのものである。あの時、怪鳥の体は肉から骨から、内臓に至るまで活用できそうな部分は全て解体して保存、小鬼族の人々と分配していたのだが、この嘴はその時に確保していたものだ。

 大きさは私の身体がすっぽりと収まってしまう程だが重量はそれほどでもなく、抱えて飛ぶ分には何ら支障はない。あれほどの巨体であっても鳥は鳥ということなのか、しかしその強度は骨というよりは鋼鉄に近く、なるほど確かに、これほどの嘴であればその一撃は鯨でさえも容易に仕留めることができるだろう。文字通り一口サイズの小鬼族などひとたまりもない。

 しかし今はこの強度こそが肝要。

 嘴を我が家まで運び終えた私は、そこで改めて寸法を測り直して丸太で土台を組み始めた。四角く土台、枠組みを拵えたらそこへ逆さにした嘴を嵌め込んでいく。土台と嘴が接触する部分に凹型の溝を掘って固定し、底部は地面から少し離れるように高さを調整する。

 完成したら、それを土台ごと持ち上げて先程作った四阿(あずまや)の下へ。ここまでくると、全体的にそれらしい形になってくる。

 

「よしよし、素人にしてはよく出来てるじゃないか」

 

 完成したそれを見て、満足げに頷く私。

 小屋の裏に出来上がったのは、怪鳥の嘴を浴槽代わりにした露天風呂だ。

 屋根以外に視界を遮るものはなく、いつでも正真正銘の森林浴が楽しめる。家畜小屋が近いので少しばかり獣臭いのが難点だが、あまり離れた場所に作ると水を汲んでくるのに苦労するので仕方がない。

 壁がないので辺りから丸見えだが、そもそもが私しかいない無人島であるので覗きの心配はない。

 問題は、この嘴がしっかりと浴槽として機能してくれるか、である。

 固いとはいえ骨は骨なので、湯が沸く前に脆くなって穴が空いたりしたら使い物にならない。一応は私の炎で炙ってみたりして耐火性は確認しているが、それでも精々が一分前後。それ以上続けてどうなるかまでは試していない。

 まあ実際には中に水を張るので燃えることはないだろうが、いかんせんこれほど大きな嘴を浴槽にするなど前代未聞のこと。何があるかは実際にやってみなければわからない。

 

「さて、それじゃあ試してみるかい」

 

 まずは泉から水を汲む。と言っても土器でちまちま汲んでくるのは手間がかかりすぎる為、ここは自慢の腕っぷしにものを言わせて浴槽ごといく。おおよそ二百キログラムはあるだろうが、今の私にとってこれぐらいの重さは子犬を抱き上げるのとそう変わらない。

 そうして水を張った浴槽を土台へ戻し、その下で火を焚いて湯を沸かせる。

 しばし時間を置き、しっかりと適温にまで沸き上がったらさっさと着ているものを脱ぎ捨てていざ湯舟へ。まずは土器で湯を汲んで身体の汚れを落とすのだが、ここで取り出したるは白濁した四角い物体。

 これは今の今まで食べ続けた貝の殻で作った石灰と獣脂、そして海藻を灰になるまで燃やし、それを水に浸すことで出た上澄み部分、つまりは水酸化ナトリウム、あるいは苛性ソーダと呼ばれるものを使った、手作りの石鹸である。

 材料さえ揃えばどんな世界であろうと作ることが出来る代物ではあるが、この苛性ソーダはとても強いアルカリ性で劇物に指定されており、手に付着すれば爛れ、目に入ろうものなら失明の可能性すらある。

 つまりは軽い気持ちで手を出すと取り返しのつかないことになる超の付くような危険物なのだが、これに関しては流石の私もなるべく皮膚には付着しないよう慎重に取り扱った。

 まさか竜の肌を傷つける程の力はないだろうが、念には念を、というやつだ。

 そうして拵えた手作り石鹸だがこれが中々に素晴らしい出来で、水に濡らして軽くこすれば真っ白な、通常の石鹸と比べてもそう遜色のない綺麗な泡が次々と湧き出してくる。

 デカい猪やら鳥やらと獣の脂には事欠かなかった為にそれなりの量を作っていたりするのだが、それらが遂に本領を発揮する時が来た。

 まずは髪から。

 この島で目覚めてからこちら、水で汚れを流すぐらいしかしていなかったにも関わらず不思議と傷むようなこともなく、その美しさに一切の陰りも感じさせない自慢の銀髪ではあるものの、だからといって手入れを怠って良い道理はない。

 まずは手櫛で軽くごみや汚れを落とし、何回かに分けて湯をかけて髪全体をしっかりと濡らしておく。奥までしっかり濡らしたら、泡立てた石鹸を髪全体に優しく、丁寧に揉み込んで馴染ませる。男の髪と違って細く繊細なので、強く擦ったり乱暴に扱うのは厳禁だ。

 この島で初めて作った石鹸は少しばかり獣臭さがあったものの洗い流せばそう気になる程でもなく、概ね成功と言っていい仕上がりであった。

 

「はは、もう半世紀以上前のことだが、案外しっかり覚えているもんだ」

 

 肩から流れる髪に指を通しながら、遥か彼方の記憶を辿り苦笑する。

 まだ娘が幼い頃は、こうして髪を洗ってやったもんだ。

 特に子どもの髪なんかは大人よりもずっと繊細な為、少しでも雑に扱うとすぐに痛がって大変だった。ずぼらだった私なんかはその都度、女子の髪はこう扱うべしと妻に厳しく躾けられたものだが、まさか昔取った杵柄がここに来て役に立つとは、人生何があるかわからないものだ。

 そうして髪に馴染ませた泡をこれまた丁寧に時間をかけて洗い流し、くるりと丸めて角に乗せたら次は身体を洗っていく。

 これもまた、随分な手間だ。

 何せ人よりも洗う部分がいくらか多く、さらに腰回り、胸元、腕や足の鱗まで磨かなければならないのだから、人の倍以上は手間も時間もかかる。

 

「なんだ、また少し増えたか」

 

 きゅっとくびれた腰に泡を塗りながら、私は以前よりも鱗の数が増えていることに気が付いた。腰回りに広がっていた部分がまるで肋骨に沿うように這い上がってきており、手触りから察するに背中の方も背骨を覆うように鱗の部分が広がっているようであった。

 見れば内腿の方にも鱗は広がっており、どうやら傷付けられれば致命傷になりやすい部分を優先的に防御するように、皮膚の表面が徐々に鱗へと変異しているようだ。

 

「まさか、背びれでも生えてくるんじゃないだろうな」

 

 竜なのだからあり得ない話ではない。

 しかしそうなると竜というよりは恐竜、怪獣の類ではなかろうか。

下手な鎧よりは頑丈な鱗が急所を守ってくれるのは実に心強いのだが、これ以上背びれ尾ひれ(余計なもの)が引っ付くと、いよいよ仰向けで眠るのにも苦労するようになってしまう。それは、出来れば勘弁してほしいものだ。

 

「まあ、悩んだところで成るようにしか成らんか」

 

 褐色の肌に浮かぶ白い泡を洗い流しながら、私はそう言って頭を振った。

 足の爪先まですっかり綺麗になったことを確認すると、いよいよ、ようやく湯舟へと身体を沈めた。

 身を清めるのにかなりの時間がかかったのでもうすっかり冷めてしまっているかと思いきや湯は丁度いい塩梅で、腰まで浸かるとついうっかり口から間抜けな声が漏れだしてしまった。

 

「あー、生き返るなあ」

 

 尻尾と背中が邪魔になるので寛ごうとするとどうしてもうつ伏せに近い、浴槽にもたれかかるというよりはしな垂れかかるような体勢になるのがちょっとばかり不満ではあるが、これはこれで心地良い。

 特に翼は皮膜の部分に細い血管が通っているのか、どっぷりと湯舟に漬けるとまるで蕩けるような温かさであった。

 立ち昇る湯気。森に響く鳥たちの声。木々のざわめき。

 尻尾が湯舟を揺らす音。 

 富士(動物)たちの声と匂いで色々と台無しではあるが、これもまた一つの味というものだろう。

 

「良いなあ、これは堪らんなあ」

 

 日々の忙しさ、殺伐さを束の間忘れ、私の口から甘く熱い吐息が漏れる。

 娯楽の少ないこの島に、新たな楽しみが生まれた瞬間であった。

 



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ゴマダレ

お待たせしました。

※誤った表現があった為、一部修正


 

 とうとう、この日がやってきた。

 石板にびっしりと刻まれた印を眺めながら、私は大きく息を吐く。

 横に九つ、そしてそれらを縦断する大きな線が一つ。

 これは暦だ。線一つが一日、十で束ねたそれは全部で三十六と余りが五本。つまりは石板一つで一年分。

 そしてその日付の上に斜めに並んだ九つの線。これは今まで暦を刻んできた、刻み終わった石板の数だ。

 

「とうとう、これで十、か」

 

 新たな石板に刻まれたのは横一文字の大きな傷。

 つまりは十年。

 ようやく十年、まだ十年、あるいはあっと言う間の十年か。

 ともかく、一区切りである。

 ここ数年は特に目立った変化も無く、小鬼族のような予期せぬ来訪者もない平和な、平坦ともいえる日々であった。

 何かあったかと言えば、出来ることが少しばかり増えたぐらいだろうか。

 私の今の姿は十代半ばを過ぎた頃。僅かに丸みを帯び、背も伸び始めた年頃だ。

 これは年数によって成長したのではなく、私自身が意図的に変化させたものである。

 身体の変化、操作はより正確、精密なものとなり、暑い夏の間は小柄な幼い姿を。そして寒さが厳しい冬の間は少し成長した少女の姿と、環境に合わせて適切な姿を選ぶようになった。

 これには体内で生産できる熱量だの、筋肉量だの、バルクマンだのアレン何某だの小難しい話が絡んでくるのだが、早い話がその方が体温維持に都合が良いのだ。

 頑張ればもう少し成長した、蕩ける蜜のような美女の姿にも変じられるが、あれは色々(・・)と邪魔になるので好き好んであの姿になろうとは思わない。

 あとは、全身の鱗をある程度自由に動かせるようになったぐらいか。

 動かす、とは言っても今は細かく震わせて鱗同士を擦り合わせ音を出すぐらいのことしかできないのだが、私はいつからガラガラヘビになったのだろうか。この島で私を襲ってくる連中にはこんなちゃちな威嚇で手を引いてくれる温厚な奴なんていないだろうし、便利なことといえば鱗を洗う時に隙間に入り込んだ汚れを落とし易くなったぐらいのものだろうか。

 ああ、そうだ、これ以外にも重要な変化があったのであった。

 それは、少し前から目につくようになった例の不思議な(もや)のようなもの。あれが以前よりはっきりと目に捉えることができるようになった。どうやらこれは万物、有機物や無機物問わず様々な物から発生しているようなのだが、その中でも特に大小さまざまな生物に引き寄せられ、体内に蓄えられる性質があるらしく、その許容量は宿った生物の体積に比例するようであった。

 つまりは巨大な生物ほどこの不思議な靄を多く溜め込んでいる可能性が高いということなのだが、はたして体が大きいから靄を沢山溜め込めるのか、それとも靄をたくさん溜め込んだ結果、体が大きく成長するのか、その辺りはまだ解明できていない。

 わかっているのは、宿主が死ねば蓄えられた靄は時間経過と共に大気中へと気化するように少しずつ放出されるということと、この靄はこちらの意思に反応してある程度操ることができる、ということである。

きっかけは毎朝必ず行っている火付けの時だった。いつものように炎を吐き出そうとして、自分の周りに例の靄が吸い寄せられるように渦巻いていることに気が付いたのだ。

 そしてどうやらこの靄は私が何かしらの力を行使しようとした際、全身の紋様へと吸い込まれ、それが何かしらの反応を起こして発光しているらしかった。

 勿論すべて仮説ではあるが、あながち間違ってはいないだろう。

 私はこの不思議な靄を魔力と名付けた。

 実におとぎ話のような創作めいた名前ではあるが、そもそもが映画や小説めいた摩訶不思議なこの島、この世界であるので、むしろ魔力という名前はなかなかに違和感なく、しっくりと腑に落ちていった。

 恐らく、これがこの世界におけるあらゆる事象に影響を与えているのだろう。

 ありとあらゆる不思議の根幹、私の、龍の力の根元にあるもの。燃料、と言い換えてもいい。ともかく、私は、私をはじめ不思議な力を扱う生物はこの魔力を使って炎を生み出したり、風を操ったりしているのだろう。

 と、ここまでだらだらと魔力云々の話を垂れ流して、ひとつ気になることがある。

 不思議な現象、現代世界の常識では到底理解できないものがこの魔力を元に発現しているというのならば、この島にある物でもう一つ、それを体現している物があった。

 森で、砂浜で、どこからともなく流れ着いては大樹の洞に溜め込んできた木箱、宝箱の類である。

 どれだけ叩いても傷一つ付けられない錠前と、どれだけの高さから落としてもびくともしないあの頑丈さは明らかに尋常なものではない。そして、尋常でないとすればそれすなわち魔力が何かしら作用している可能性が高いのではないか。

 そう思い立ち大樹の洞から適当に宝箱を引っ張り出して観察してみれば、やはり、やはり、宝箱の表面と錠前を覆うように魔力が渦を巻いていた。

 

「面白い。これが頑丈すぎる仕掛けのタネかい」

 

 錠前を守るように、まるで知恵の輪のように複雑に絡み合った魔力の糸。

 それがどういった仕組み、どういった術なのかはさっぱりわからないが、どうやらこの魔力の糸は指先に意識を集中させることで触れることができるようだった。

 となれば、どうすれば錠前にかけられた術を解くことができるのかもおのずと見えてくるというもの。

 私は大樹の前にどっかりと腰を据えると、新しい玩具を与えられた子どものような心持ちで宝箱の錠前をいじくり始めた。

 糸を指先に絡めながら右へ左へ、引っ張ってみたり、押し込んでみたり。あーでもない、こーでもないと唸りながら、手元に連動した尻尾もまた右へ左へ。

 やってみると、どうやら感覚としては糸を解すというよりは知恵の輪を解いていくといった方が近く、一つ目の錠前にかけられた術を解き終わるのにはそれなりの時間がかかってしまった。

 しかし術を解いたからといって鍵が開くわけではないので最終的には持ち前の怪力で錠前を殴り壊してしまったのだが、そうしてようやく御開帳となった肝心の中身といえば案の定というか、宝箱に詰められていたのは金貨や銀貨、大きな宝石があしらわれた首飾りや耳飾りなどの装飾品や金の盃、儀礼用とみられる短剣などなど。

 しかるべき人間からすれば目も眩むような金銀財宝、当たりも当たりの大当たりなのだろうが、私からすればこんな無人島で腹も膨れない貴金属の類はその辺りの石ころと同等の価値しかない。

 飾り付けられた短剣は獣の解体や調理用で使えるだろうか。あとはまあ、箱に戻してまたお蔵入りである。

 

「うーん、次」

 

 こうも厳重に鍵がかけられている時点でその中身などおおよそ察してしかるべきではあるが、それでもやはり、中身がわからない箱を開ける瞬間というのはどうしようもなく期待に胸を膨らませてしまうもので、気が付いたら日が暮れるまで、私は洞に溜め込んでいた宝箱を弄繰り回していた。

 数にして六つ。

 その殆どが金貨銀貨、装飾品の類ではあったが、ほんの一握りだけ実用的な物もあった。

 一つは宝剣。宝箱に収まる大きさだけあって、大物を処理するには難儀するだろうが魚や果物を切り分けたりだとか、特に鋭い切っ先はどうしても石器や鱗では作るのが難しく、細かな調理をする際には重宝しそうだ。

 次は書物。

 これが入っていたのは金属製の、特に頑丈に作られた宝箱の中だった。

まさか宝箱の中に詰められているとは思いもしなかったが、書物は全部で十二。巻物であったり、あるいはきちんと本として纏められていたり、その形はそれぞれであるがそのどれもが金の帯でしっかりと封をされて傷みも少なく、文字もしっかりと読める程のとても良い状態で保存されていた。

 焚火の傍で、オレンジ色の光に照らされながら私はその内の一冊を読み進めていく。

 とはいえ、勿論この世界の見知らぬ国の言語など解読出来る筈も無く、何やら文字らしきものと挿絵が入った図鑑のような、あるいは学術書に近いものということはわかるのだが、それらが何を語っているのかはまるでさっぱりである。

幸いにして文字や文章の形は英語に近く、文章の横に挿絵やら図解が添えられているので時間をかければ解読することもできそうだが、私はそれよりも人の気配に、この世界で人間が築いてきた文明の一端に触れられたことが何よりも嬉しかった。

 

「いやはや、まさかこの歳で勉強をすることになるとは」

 

 粗い羊皮紙の表面を指でなぞりながら、笑みが零れる。

 予期せず始まった月夜の勉強会は、とうとう空が白み始めるまで続くのだった。

 



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蛸と龍と

お待たせしました。



 

 十一年目、夏。

 入道雲を向こうに見ながら、水面がうねる。

 海面を押し上げ、水飛沫と共に飛び出してきたのは大人の胴を三つ束ねたような太さの、無数の吸盤が並んだ触腕であった。一つ、二つ、三つと続いて飛び出しては、空中を飛び回る私を絡め捕らんと唸りを上げて襲い掛かってくる。

 

「やれやれ、また厄介な奴が現れたな」

 

 あの巨大な吸盤に捕まれば最後、水底まで引き摺り込まれて後はもう貪られるばかりだろうが、幸いにして動き自体は緩慢であり、これならばよほど余所見をしない限り万が一もないだろう。

 四方を囲んで包み込むように迫ってきた触腕を熱線と石斧で切り裂きながら、私は浅く息を吐く。

 残心。

 私が静かに見つめる先で、先程分断されたばかりの触腕が不気味な青い血と生臭い粘液をまき散らしながら海底へと引っ込んでいく。

 それらと入れ違うようにして海面がこれまで以上に大きく盛り上がると、そこからつるりとした頭に巨大な丸い目をした怪物が現れた。

 赤黒い体色に、ぬめりのある体、八本の太い足。

 蛸である。

 鯨でも丸齧りにできそうな、小島のような大きさの蛸であった。

 焼けばさぞ食いでのありそうな巨体であるが、その表面を覆う粘液は夏の日差しに十日晒した生魚のような強烈な臭いを放ち、とてもではないが食おうという気にはならない。

 ぎょろりと、頭の下の方に引っ付いた目玉がこちらを睨み付ける。

 どうやら足を切り落とされて相当ご立腹の様子だが、こちらからしてみれば逆恨みもいいところだ。

 私は腰に手を当て、尾を振り回しながら睨み返す。

 

「言わせてもらうがね、初めに手を出したのはお前さんの方だからな」

 

 溜息を吐く私の身体には、股から腹、そして背中にかけて判を押したような丸い吸盤の跡がくっきりと残っていた。

 これは今朝方、磯場で罠の確認をしていたところを襲われ、水中に引き込まれる直前で何とか脱出した時に付けられたものだ。枯れ切った爺な私ではあるが、嫁入り前の娘の身体にこうもキズ物にされては腹の一つも立てる。

 そも、こいつはいったいどこから湧いて出たのか。

 大猪や大虎とは文字通り桁違いの巨大であるし、これほどの異様を見逃すほど私も耄碌(もうろく)していないつもりだったのだが。

 

「まあ、どのみちいつかは相対する運命だったのだろうし、喰うか喰われるか、それ以外の問答は無用か」

 

 奴さんの足は半分切り落としてあと四本。こちらは頭上から一方的に攻撃できるし、冷静に対応すれば負けはない。

 そうして私が得物を構え直したその直後、先程まで青い血が噴き出していた大蛸の足がその動きを止めた。いや、僅かに震えているように見える。力強く握りしめられた拳のように、あるいはきつく結ばれ軋む音さえ聞こえそうな口元のように。

 そして次の瞬間、乱暴に切断されたその断面から新たな足が飛び出してきた。

 そういえば、蛸の足はトカゲの尻尾のように、切られてもまた生えてくるのだったか。であるならば、蛸をそのまま大きくしたようなこの怪物もまた、蛸と同じ特徴を持っていても不思議ではない。流石に、ものの数秒で再生したことには目を丸くしたが。

 しかしその再生力もそう万能ではないらしく、切り落とした足のうち新しく生えてきたのは二本のみ。龍の炎で焼き切った残り二本は傷口が焼いて塞がれている為か、再び生えてくる様子はない。あるいは、龍の力に寄るものか。

 ともかく、これで方針は固まった。

 あとはもう、特に記すようなこともなく。

 寄ってくる足を炎で焼き払い、無防備になった眉間に一撃。

 久方ぶりの怪物との相対は、それで呆気なく幕を閉じた。

 奴さんも途中からは口から墨を吐いたり、体色を変えて海中へ逃げようとしていたようだが、今回ばかりは相手が悪かった。

 相手が蛸で、その性質もほぼほぼ私の記憶の中にあるものと相違がないとわかった以上、逃走の際に使用する墨やら何やらには当然警戒していたし、これまで油断や慢心から散々痛い目を見てきた私であるので、こういった手合いと戦う場合は念には念を入れ、相手の息の根を止めるまで一切の油断、容赦を捨てる心意気でかかった。

 その結果、件の蛸さんは奥の手も虚しく空を切り、今まさに砂浜で私の夕餉になろうとしていた。

 

「ここまでデカいと捌きやすくて助かる」

 

 大部分、特に頭などは内臓の臭いがきつく捨てるしかないだろうが、八本の足の真ん中辺りは臭いの原因であるぬめりを皮ごと取り除いてしまえば何とか食べることが出来そうだ。少し身が残るぐらい厚めに皮を取り除き、ゴムのような弾力の身をぶつ切りにした後で蔓を使って纏めて縛り上げた。

 そうして戦利品を担ぎ上げて家まで帰ると、薄切り、厚切り、ブロック状と用途に合わせて切り分け、小屋(チセ)から少し離れた場所にある別の小屋へと運び込む。

 その小屋自体には、何もない。ただただ、部屋の中央に藁が敷かれた木の蓋があるだけである。しかし蓋を開け、備え付けられた梯子を下れば、夏とは思えない冷ややかな微風が肌を撫でた。それもその筈、常に一定の温度に保たれた地下室に並んでいたのは幾つもの氷の塊。

 ここは、去年の夏にようやく完成した氷室(ひむろ)だ。

 外気温の影響を受けにくい地下室を藁や葦で作った小屋で覆い、冬のうちに川やら泉で出来た氷を切り分けて運び込んでおいた。

 こうしておくことで夏の間も食料を長持ちさせることができる。いわば原始的な冷蔵庫のようなものだ。

 そうして今夜のうちに食べてしまう分以外を保存すると、次は家畜と畑の面倒を見る。

 それが終わる頃にはだいたい空は赤く染まり、私はようやく出来た余暇の間にぼうっと空を見上げた。

 家畜も増え、初めは一畳分も無かった畑も今となっては随分と大きくなり、人ひとりが食っていくには十分な実りも得られるようになった。

 私の龍としての力も次第に強くなるばかりで、あの大鷲を超えるような化物でない限りはそう易々と後れを取るようなこともなく、逆に今日のように返り討ちにしては、十日か、あるいはひと月は持つ程の食料にしてしまう、そんなことばかりだ。

 そうしていくと、こうやってぼうっと、何も考えずに過ごす時間が増えてくる。

 心に余裕が出来る、と言い換えてもいい。

 しかしこの心の余裕というのが実に厄介で、考えなくてもいいこと、思い出さなくてもいいようなことまでその余裕に滑り込んでくる。

 

「あいつらは、元気にやっているかなあ」

 

 空を見上げ、思い出すのは家族の顔ばかり。

 大往生した爺が何を女々しいことを、と思われるかもしれないが、生憎それ以外に縋るものがない。

 目を見張るような、例えば空いっぱいに広がる大陸でも浮いていればそんな余計なことも考えなくなるだろうが、今となっては空に小さな島が一つ二つ流れていたところで、川を泳ぐ魚を眺めるのと何ら変わらない。

 慣れてしまった。

 

「慣れんでもいいのになあ」

 

 ぽつりと、そんなことを漏らす。

 されとて十年、十年である。

 どれほど突飛なことであれ、珍妙な世界であれ、十年も暮らせば慣れもしよう。

 こんな時、妻なら、あの人ならばどうするだろうか。

 或いは孫なら、あの遊び上手な男であればどのようなことをして気持ちを紛れさせるだろうか。

 思いを馳せる。彼の地に、今はもう届かないあの場所を思い浮かべる。

 

「何見てるの?」

 

 そんな私の頭上から、声が降る。

 中性的な、少年とも少女ともつかぬ虹色の声が。

 見上げれば、そこにあったのは鮮やかな翠色(すいしょく)の瞳と、真っ白な、ふわふわした羽毛に包まれた大きな頭。そこから二本、金の枝が絡み合って伸びているような美しい角が緩やかな曲線を描いて後ろへと伸びていた。

くりっとした無邪気な瞳に、私の間の抜けた顔が映り込んでいる。

 

「やあ、初めまして!」

 

 呆気にとられる私を置き去りにして、真っ白な何者かは溌剌とした声と共に翼を広げた。

 赤、黄、緑。

 先端が色鮮やかに彩られた、雪のように白く美しい翼に目を奪われる。

 

「は、初めまして」

 

 辛うじて口から零れたその言葉は、夏の夕焼けに溶けて消えていった。

 

 



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語る龍

書き貯め分投下。
折角のGWですので。

次回は水曜日更新予定です。


 

「君が噂の新しい同胞だね。ボクのことは、そうだな、うん、緑って呼んでよ。芽吹かせる者とか新緑とか、ヒトには色々な呼び方をされるのだけれど、それが一番呼びやすいと思うから」

 

 そう言って、突然現れた純白の君はなんとも心地よい声で笑った。同胞、ということは彼もまた龍なのだろうか。

 しかし龍というには鱗が生えている訳でもなく、全身が柔らかな羽毛に覆われている。

 不敬になるだろうが、頭に枝が絡み合ったような角さえなければ大きな鳥と言われた方がしっくりくるだろう。

 羽はその先端が赤、黄、緑と鮮やかに彩られており、尻の方には孔雀のような立派な尾羽が伸びている。足元にはほんの僅かに鱗が並び、そこから猛禽類に似た鋭い鉤爪が伸びていた。

 真っ白で、それでいてどこか森の息吹を感じさせる色鮮やかな龍。

かつて相対した大鷲とさして変わらない体躯ではあるがそこから感じる力は比較にもならず、ともすればそれはあの狂飆(きょうひょう)にすら引けを取らないだろう。

 その威風は正しく龍と呼ぶべきものであり、まるで山を一つ、いや、島一つを丸ごと押し固めたような圧倒的存在感であった。

 それでいて気圧されるようなことはまるでなく、むしろ母の胸に抱かれているような安らぎすら感じるのだから不思議なものだ。

 この感覚には、どこか懐かしいものを感じる。そう、もう十一年前になるが、この島で目覚めて初めて寝床にしたあの大きな木の根元、そこで眠る時に感じた安心感と似たような感覚。

 まるで森に包まれているような安らぎを感じる。

 そしてその影響を受けているのはどうやら私だけでは無いようで、家畜たちもこれほどの存在が近くにいて、一切騒ぎ出す様子がない。本能で理解しているのだ。この存在が、自分たちを害することは決してないと。

 しかし、うん、一風変わってはいるものの、龍の姿をしたものと膝を突き合わせて話すというのも初めての経験。

 狂飆はあまりにも巨大すぎて面と向かって話している実感が薄かったし、人間の姿を取っている時は貴族の姫様を相手にしているような心持ちだったので、こう、如何にも龍といった風の相手と話すのは何とも、流石の私も少しはたじろいでしまう。

 

「ええと、私はシエラ。その、緑は何故この島に?」

 

「うん、面白い同胞がいるって話を聞いてね。ボクもヒトとは色々と縁のある方だけれど、君はヒトの姿ばかりか、その生き方までヒトそのものだと言うじゃないか。これはもう、一度会ってお話をしてみたいと思ってね」

 

 いったい誰がそんなことをと尋ねてみれば、なんとこの緑と名乗る龍、少し前にあの小鬼族の人々と出会ったらしい。

 どうやら私の気配を辿って行った結果、彼らの島に行きついたらしいが、緑自身はヒト、というよりは自分以外の生命を好ましく思っているらしく、数日彼らと交流しながら彼の地の龍、つまりは私に関して色々と話を聞いたのだとか。

 

「まさかヒトの短い生の中で立て続けにボクたちと言葉を交わすなんて考えられなかったんだろうね、初めはそれはもう、嵐のような騒がしさだったよ。掻き乱すのはボクの役割じゃないのだけれどね。ああ、怪我をさせたりはしていないから安心してね」

 

「はは、いや、その様子だとばあばたちも元気そうだな」

 

 私は彼らが今も元気にやっていることに安堵しつつも、この調子で方々に私についての、恐らくは背びれも尾ひれも付いているであろう逸話を吹聴していくことを考えると、むず痒いやら照れくさいやら、まるでうなじをくすぐられているような気持ちになる。

 

「特にヒトを助け、ヒトと同じものを食らい、ヒトと共に眠る同胞は凄く珍しい。うん、でもこうして直に会ってみてよくわかったよ。なるほどなるほど、君は人として生きたことがあるんだね」

 

「おお、わかるのか!」

 

 私は掴み掛らん勢いで緑へと詰め寄った。

 どこまでも見通すような翠色の瞳に、顔を赤くした私の姿が映り込んでいる。

 そんな私の様子に、緑は喉の奥をころころと鳴らしながら科を作るように体を横たわらせた。ふわりと風が舞い上がり、心を揉み解すような爽やかな森の香りが髪を梳いていく。

 

「わかるとも、わかるともさ。なるほど、この星もまた面白い仕掛けを作ったものだ。なるほど、なるほど、これは確かにアレが、攪拌する者が興味を示すのも仕方がないか」

 

 緑はぶつぶつと何やら呟くと、人であった頃の私の話を聞きたがった。

 それはまさに渡しに舟。往生したと思った矢先に無人島に放り込まれ、今の今まで何とか生き延びてきた私である。溜まりに溜まった鬱憤をここぞとばかりに吐き出さんと、生前の、どういった世界でどういった風に生き、そしてどういった風に天寿を全うしたのか、それらを身振り手振りでぶつけるように話し続けた。

 そして、得てして老人とは話が長くなりがちである。

 

「ああ、申し訳ないこんな夜更けまで話し込んでしまって」

 

 話し相手が狂飆とはまた違う、人の心を解し、また人が心を許してしまう雰囲気を持った緑だったこともあり、私は夜空には二重の月が昇り、辺りで虫が鳴き始めた頃にようやくはっとなった。

 それと同時に、くう、と小さな腹から抗議の声が上がる。どうやら空腹すら忘れ語りに没頭していたらしい。いやはや、何とも恥ずかしい。

 

「そろそろ飯にしようか。よかったら緑も食べていくかね?」

 

「うーん、いや、折角だけど遠慮しておこうかな」

 

 長ったらしい爺の話でも嫌な顔一つせず、終始にこやかに相手をしてくれていた緑であったが話を聞いているうちに何か思うところがあったらしく、私が小屋から鍋を引っ張り出してきた頃には既に翼を広げていた。

 どうやら、もう行ってしまうらしい。

 

「もう行ってしまうのか。どうせならもう少しゆっくりしていけばいいのに」

 

「ごめんね。でも、あまり長居をすると君にとってもあまり良くないからね」

 

 大きな翼が風を掴む。

 軽くひと振りすれば、緑の大きな体はまるで重さなど無いような軽やかさでふわりと宙へと舞い上がった。

 

「頑張ってね。龍としてあまり干渉はできないけれど、応援してるよ」

 

「ありがとう。また、会えるだろうか」

 

「きっとまた会えるさ。それじゃあ、またいつか」

 

「ああ、それじゃあ、また」

 

 風が吹く。

 目を開けた時には、もうそこに白い龍の姿はなかった。

 音もなく、まるで幻だったかのように、彼の龍はまた何処へと飛び去って行った。

 残されたのは、一人だけ。

 たった一人立ち尽くす私を、二重の満月が静かに見下ろしていた。

 胸が苦しい。

 置いていかれる。一人になる感覚というのは、いつになっても慣れないものだ。

 その時、私の足元に何やらぶつかる感覚があった。何だ何だと見下ろしてみれば、そこには私の脛に縋りついて何やら抗議の声を上げる狸が一匹。

 くりくりとした丸い目と視線がぶつかった。

 

「ふはっ」

 

 目元を拭って、私はごんを抱き上げる。無防備に晒された腹をわしゃわしゃと撫でてやれば、この太々しい居候は抗議するようにその指を甘く嚙んだり、気持ちよさそうに尻尾を振ったりする。全く、普段は素っ気ない癖にこういうところはちゃっかりしている。

 

「全く、この女誑しめ。女房に叱られちまえ」

 

 実のところは鍋を取り出す音を聞きつけ、晩飯にありつこうとやってきたのだろうが、今はただただその無遠慮さこそがありがたい。

 

「そうだな、ここにはお前たちがいるものな」

 

 夏毛になって少し貧相になった頭を、そっと撫でる。

 今夜の分は、少し多めに分けてやるとしよう。

 そんなことを考えながら、私は鍋を火にかけるのだった。

 

 



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火照り

お待たせしました。
予定していた更新から遅れてしまい申し訳ございません。


 

 気さくな龍が去ってから、また冬がやってきた。

 冬は良くない、とても良くない。雪が積もる程の厳しい寒さは鱗の奥まで凍てつくようだし、川は凍って湯を沸かさなければ飲み水を手に入れることすら難しい。

 それでいて腹はしっかり減るものだから狩りには出ないといけないし、家畜たちの世話も必要だ。夏の間に保存食は大量に作ってあるが、流石にそれだけでどうにかなるほど冬は優しいものではないし、こう寒くては農作物もろくに育たない。

そんな訳で冬の間ずっと温かい家に引き籠る訳にもいかず、私は今日も今日とて毛皮のコートを身にまとい、手を擦り合わせながら森の中を歩き回っていた。

 

「ああ嫌だ嫌だ。どうせなら常夏の島にでも流れ着いていれば楽だったのになあ」

 

 とはいえ文句を言っていても腹が膨れる訳も無く、さらに言えばこうして空を飛ばず、多少面倒でもこうして自分の足で森を歩いて回っているのにもまた訳がある。

 こちらの方が空を飛ぶよりも寒くないというのが一つ、そしてもう一つが――

 

「出たな」

 

 綿帽子を振り落としながら現れたのは、どこぞ見覚えのある巨大な熊であった。

 これだ。この大熊こそ、私が朝方から半日かけて森中を歩き回っていた理由である。

 現れた大熊は記憶にあるあの大熊よりも一回り小さな体躯ではあるものの、それでもその体長は三メートルは下らないだろう。

 十分に化物と呼べるサイズ。

 鼻息荒く唸り声をあげる大熊を前にして、私は身を包んでいた毛皮のコートを脱ぎ捨てる。四肢は長くしなやかで、艶やかな銀髪は(くび)れた腰へ流れ落ち、胸と尻が程よく膨らんだその身体はおおよそ十代半ばを超え、二十には満たぬ程度の齢か。

 様々試した結果、運動性においては一番バランスがよい体付きがこの辺りであった。

 コートを脱ぎ捨てた下にはよく鞣した皮で拵えたサラシと腰巻きのみ。正直、物凄く寒い。年頃の女子の身体でこんな寒空の下こんな薄着になるなど、もし子や孫であれば慌てて上着を被せてやるところであるが、これは何もとち狂った訳ではなく、しっかりとした理由がある。

 

「よし、やるか」

 

 息を吸い、全身に力を漲らせる。露わになった肌を通し、辺りに漂う(もや)、魔力を感じ取り吸い寄せる。

 それはまるで大きな渦のように否応なく巻き込み呑み込み、己の力へと変換していく。

 これもまた、ここ数年で練り上げた技だ。

 吸い込んだ靄を体内で練り上げることで一時的に身体の強度や膂力、反射神経などを上げる便利な技だが、これがまた、肌を晒しているかどうかで効率がかなり変わってくるという難点があった。

 こんな凍えるような寒さの下で水着めいた格好をしているのは、そういうことなのだ。

 ともあれ、力を練り込めば体温も上がって寒さ自体がそう気にならなくはなるのだが、間違っても人目のあるところで扱うような技でないことは確かである。

 そうして漲らせた力を利用して両手は龍の爪を備えた強靭なそれへ姿を変え、急所となる胸、腰、脇腹は強靭な鱗で覆われて全身へと赤い紋様が広がり奔っていく。

 息を吐く。ちろりと赤い火炎が漏れ、足裏の雪が蒸気と共に掻き消える。

 この間、数秒。

 大熊が咆える。

 これだけ姿を変えれば龍の力の気配は感じ取っている筈だが、奴さんも穴持たず(・・・・)、つまりは冬眠に失敗し食うにも困り果てた果ての果て、ここで退けば死ぬしかない背水の陣。

 だが、私とてここで此奴を仕留めねばならぬ理由がある。

 いつかあの大熊にやられた雪辱を果たす、という訳ではない。

 獲物が少ない冬に、腹を空かせた熊が楽に仕留められる家畜に目を付けるだろうことは想像に難くない。つまりここで奴を仕留めなければ富士やちよ、つまりは我が家の家畜が襲われる可能性が高いのだ。

 冬備えに失敗し、食うに食えず彷徨う飢えの苦しさは十二分に理解できるが、だからといって食料を分け与えていては次はこちらの身が持たない。

 故に、ここで仕留める。

 踏み込んだ。

 足元で雪が爆ぜ、仁王立ちで身構える大熊の姿があっと言う間に目の前にまで迫る。

 大熊の鋭い爪が振り下ろされた。

 躱す。否、受ける。

 私はもう、あの頃の脆い私ではない。

 龍の腕で、鋼よりもなお強靭な龍の鱗で大熊の爪を迎え撃つ。

 鉄で鉄を打つような、鈍い音が響く。

 木々に積もった雪が雪崩落ち、血飛沫が舞う。

 裂けたのは私の腕ではない。弾け飛び、くるりくるりと回り落ちたのは大熊の爪。鉈のような爪がさっぱりと切り飛ばされ、雪の中へと沈んでいった。

 鋭く固い鱗に思い切り打ち込んだのだ。それはまさに寝かせた刃物に拳を振り下ろすが如く。鋭いものが、より鋭いものによって切断されるのは道理である。

 大熊が怯む。

 よもや自慢の武器がこうもあっさりと敗北するとは思いもしなかったのだろう。先程まで飢えによる狂気に支配されていたその目に宿るのは少しばかりの戸惑いに似た色。

 大熊が状況を理解し、次なる行動選択に至るまで数秒。

 そこに生まれた僅かな隙に、私はするりと滑り込む。

 振り上げるのは石斧。丸太に大岩を嵌め込んだだけのそれは切断よりも殴殺することに重きを置いた、余りにも武骨すぎる一振り。

 細く息を吐く。

 状況を理解し、目の前の脅威から逃走しようとほんの僅かに身を鎮めた大熊に向けて、その凶器を振り下ろした。

 唸る。

 悍ましく響いた轟音はまるで嵐の日の夜のようで。

 後ろ向きになった大熊の頭へ、冷徹な一撃が入る。

 手に伝わるのは、命を奪う感触。

 肉を切る、魚を捌く、それらとは明らかに違う、重い手応え。

 振り下ろされた石斧は、大熊の頭を八割ほど潰してあっさりとその命を奪った。

 大熊の体がびくりと跳ねる。

 手にした丸太の柄から伝わる、生暖かい感触。

 残心。

 息を吐く。細く吐き出された白煙は大熊を弔うように天へと上り、やがて痙攣すらもしなくなった大熊の亡骸を前に、私はそっと手を合わせた。

 

「頂きます」

 

 たったそれだけ、万感の思いを込めてそう唱えた。

 命を食らう。

 命を頂く。

 生前は何気なく繰り返してきた行為の、なんと尊いことか。

 そしてなんと罪深いことか。

 己が生きる為に、他の命を奪う。

 死にたくないと、まだ生きていたいと足掻きながら、その肉に刃を突き立てるのだ。

 だからこそ、私はその亡骸に手を合わせるのだろう。

 許してくれと、あるいは許しは請わぬと祈るのだろう。

 そうして罪を喰らい、喰らって、最期は――に還るのだ。

 ――眩暈。

 世界がぐにゃりと歪に歪み、堪らずその場に膝をついた。

 頭を振る。

 二、三度瞬きを繰り返すと、世界はあっと言う間に元の形を取り戻した。

 

「少し頑張りすぎたかな。さて、ささっと片付けて飯にしようか」

 

 少しばかり頼りない足取りで立ち上がると、私は大熊の体を手近で一番逞しい木の枝に吊るし血抜きと解体を始める。

 まずは皮を剝ぐところから。

 初めはぎこちないことこの上なく、剥いだ皮には赤い肉がごろりと残る程であったが今となっては実に手慣れたもので、件の宝箱から頂戴した短剣を皮と脂の間に滑り込ませればあっと言う間に毛皮を剥ぎ取ってしまう。まだ少しばかり赤い肉が残ってしまうのは御愛嬌。これでも随分と上達した方なのだ。

 そうして腹を開いて内臓を掻き出し、手足を落とす。珍味で知られる熊の手であるが調理するにはかなりの時間と手間がかかる為、食べられるのはもう少し先になるだろう。

 ちなみに熊の手は左手よりも右手の方が旨いらしい。

 理由としては利き手である右手を使って蜂蜜などを舐めている為、その味が染み込んで旨味が増しているのだとかなんとか。真偽のほどは定かでは無いが、その味は豚足などに似てゼラチン質でとても美味だそうなので食卓に並ぶ日が今から楽しみだ。

 そうして頭を落とし、背、あばら、肩など部位ごとに切り分けたらお終いである。

 巨体なだけあって肉の量もかなりのものとなった。これだけあれば、この厳しい冬の中であっても当分は食っていけるだろう。

 私は戦利品を担ぎ急ぎ足で小屋まで帰ると、地下の貯蔵庫へと肉を詰め込んでさっそく夕飯の支度を始めた。

 

「腹いっぱい肉を食えば調子も戻るだろう」

 

 焚いた火の上で炙るのはあばら肉。

 私の腕ほどはあろう太さのあばら骨をがっしりと掴み、直火で焼く。これがもう、堪らなく良い。兎に鹿、猪、果てには熊と、この島で様々な動物を喰らってきたが、やはり一仕事終えたあとのこれほど素晴らしいものはなかった。

 あばら肉、いわゆるスペアリブであるので肉付きは悪いかと思いきや大きさが大きさ故にその肉もまるで厚切りのステーキのようで、火に炙られて脂の泡を浮かべるその様子はもはや官能的ともいえる。

じゅうじゅうと肉の焼ける音。大型の獣とは思えないほど香ばしい脂が赤い肉の上で踊り、滴り落ちては線香花火のように弾けて消えていく。

やがて表面に少し焦げ目が出来始めた頃、私は何度か息を吹きかけ、満を持して熱々の肉へ食らい付いた。

 

「熱、うまっ」

 

 口元から湯気が溢れる。

 噛めば噛むほど溢れ出る甘味と旨味。後味にふわりとジビエならではの獣臭さがあるが、数日干した後のような野性味溢れる濃厚な味わいはまさに暴力。口内を蹂躙する滋味の氾濫だ。

 食らう。食らう。

 こびり付いた肉の一片まで余すことなく、舐めれば舐める程甘い太い骨に卑しく舌を這わせて、私は脂塗れになった唇から熱い吐息を吐き出した。

 

「さて、お楽しみだ」

 

 腹を撫でながら取り出したるは私の頭ほどある肉の塊。

 遠火で中までじっくり焼かれたそれは、あの大熊の心臓である。

 これだけの大きさ、完全に火が通るまでかなりの時間がかかると思い、あばら肉を食べている間に枝に刺して焼いておいたのだ。

 味付けは少量の塩だけだが、改めて見ればその威容は思わず固唾を飲んでしまう程。それは立ち昇る湯気まで旨そうなその見た目だけでなく、そこに渦巻く例の(もや)、その量にこそあった。

 もはや凄まじいという他ない。死してなおその炉心には濃厚な、小動物数匹分はあるだろう命の力が残り、ともすれば今にでもまた脈動しそうな力強さすら感じる。

 

「頂きます」

 

 筆舌に尽くしがたいその生命力に感謝し、甘い香りを立ち昇らせるそれへと牙を突き立てた。

 直後、溢れ出たのは肉の比ではない量の肉汁。

 ()せ返る程の濃厚な香りが鼻へと抜け、口内から零れ出た蜂蜜のような脂が胸元へと流れ落ちる。

 噛む。

 口内で爆発した肉汁を飲み下し、ぐっと押し返してくるその肉を噛み締める。

 歯応えはあるが、固くはない程よく歯切れの良い食感。

 しかしそこに秘められた命の源泉は一口飲み込むたびに身体を火照らせ、内側から肉体を叩く程の力強さ。

 額に汗が浮かぶ。身体中から湯気が立ち昇る。

 

「嗚呼、なんという旨さだ」

 

 翼が広がる。尾が喜びに打ち震える。

 汗ばみ、上気した頬に手を当て、身体の熱が溢れるように口先から炎が漏れた。

 降り注ぐ雪が、肩に触れるなり蒸気となって消えていく。

 身体を捩る。嬌声が漏れる。

 しかし、肉を喰らうその手が止まることはない。

 嗚呼、嗚呼、なんと心地良く、そして罪深い味なのだろうか。

 まさか肉を食って酔うことがあるなんて思いもしなかった。まるであの大熊の生命力がそのまま体内に流し込まれたようだ。

 精が付く、などという話ではない。

 まるで媚薬。食らう者によっては正気すら失いかねない劇薬である。

 その後、その強烈な効果から獣の、特に大型の心臓は基本的には幾つかに切り分け、時間をかけて食べるという決まりが生まれた。

 

「いやはや、老いさらばえ枯れ果てたと思っていたが、異世界とはかくも不思議なことばかりよ」

 

 蕩けるような倦怠感に包まれながら零したその言葉は立ち昇る湯気と共に解れ、真っ白な空へと昇って行った。

 




エッな装備にしてナニしたかった。
後悔はしていない。


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さらば親友よ

 

 ここのところ、ごんの様子がおかしい。

 相も変わらず何かにつけて我が家に顔を出すことは出すのだが、一日の殆どを寝て過ごすようになった。

 怪我をしているだとか、病に蝕まれているような様子はないのだがどうにも動きが鈍く、食欲もない。

 色素が抜けて灰色になった体毛。目は濁り、鼻は鈍り、名を呼んでも反応しないことが増えてきた。

 恐らくは、老衰だろう。

 それによって天寿を全うした私だからこそ、はっきりとわかる。

 彼はもう、長くない。

 この島で出会ってから、かれこれ十六年。

 野生の狸がどれほど生きるかは知らないが、しっかりと体調を管理された飼い犬であってもその寿命はおおよそ十五年。そう考えれば、私と出会った時に一歳だったとしてもかなり長く生きた方だろう。

 大往生も大往生。今となっては玄孫(やしゃご)どころか仍孫(じょうそん)雲孫(うんそん)にまで至るのではないかと思われるほどの、間違いなくこの島においては最も繫栄した一族にして、その礎を一代にして築き上げた彼は間違いなく大王と呼ばれるに相応しい傑物であった。

 

「お前さんもおれに負けず劣らずの爺になっちまったなあ、ごん」

 

 潤いなどまるでない、針金のようになったごんの背をそっと撫でる。

 動きは鈍い。若かりし頃の機敏さはなく、しかしその図々しく太々しい性格はまるで変わりなく、鈍った鼻で私の指の匂いを嗅いだごんは腹が減ったとばかりにその濁った瞳でこちらを見上げるのだった。

 

「呵々。そうかそうか、それじゃあお前さんでも食いやすいのを拵えるかね」

 

 変わるものと、変わらないもの。

 胸を締め付ける寂しさの中で、今はただ、その変わらない心がありがたい。

 目じりを拭い、私はさっそく昼餉の支度を始めた。

 作るのは粥である。

 それも稗や粟ではない、米の粥だ。

 そう、ついに完成したのだ。年々こつこつと品種改良し、十年の時をかけて手塩に掛けた米が。

 その名も龍米(りゅうまい)

 銘をつけたところで誰に見せる訳でもないが、こういうのは気分の問題だ。

 米自体もその名の通りよく実り、病気にも強い素晴らしいもので、流石に味は現代日本のそれと比べれば劣るもののそこはそれ、私とて十年程度で、先人たちが代々心血を注いで作り上げてきた物と並び立てると思う程己惚れてはいない。

 しかし、やはり手ずから育て上げた米というのは可愛らしく感じるもので、初めてこれを食べた時などは今まで食べたどの米よりも美味いと飛び上がって喜んだものである。

 そうして地下の蔵から米と干し肉を持ってくると、まずは米を洗って炊いていく。精米せず糠を残したいわゆる玄米の状態だが、少しの栄養も無駄に出来ないこの島においてはこの状態こそが理想であった。

 米を炊いている間に干し肉は一口サイズに切り分け、ハマダイコンの葉、根を刻んでひとまとめに。米が炊き上がったらそれらを投入し、全粥の状態になるまで水を足しながら煮込んでいく。

 

「あとは魚でも焼いて……と、おや、まだ残っていると思ったが、違ったか」

 

 蔵の入り口に頭を突っ込みながら、床から飛び出た尻尾が右へ左へ。

 燻製や干したものがまだ残っているものだと思っていたのだが、どうやら先日食べ切ってしまっていたようだ。たしかに保存食の類は冬を越す間に粗方消費してしまうのだが、これは何とも間が悪い。

 しかし折角だ。どうせなら新鮮な魚を食わせてやろうと、私は蔵から頭を引っこ抜くと一転、翼を広げまだ雪解け水が流れる山向こうの川へと向かった。

 ここで精のつく川魚、鯉などでも捕まえられれば上々なのだが、上空から水中を観察する私がまず見つけたのは流木に引っかかった、今まで見たことのない半透明の粘液であった。

 初めはクラゲでも流されてきたのかとも思ったが、ここから海岸まではあまりにも距離があるのでその可能性は低い。

 傍に降りて木の枝で突いてみれば、あまりの粘り気に突き入れた枝が半ばからぽきりと折れてしまった。まるで蜂蜜を混ぜているような力強い手応えである。

 折れた枝を鼻先に持ってくる。ほぼ無臭ではあるが、ほんの少しだけ川の水と同じような香りが混ざっていた。となれば川魚か、それに類する生物が残したものだろうか。

 ぬめりがある魚といえばうなぎ(・・・)だが、どれほど巨大なうなぎであってもこれほどの粘液は分泌しないだろう。

 

「また何ぞ、厄介な化物でも——」

 

 流れ着いたか。

 そう続く筈の言葉は、不意に足元を掬い上げられたことによって水泡へと変わった。

 水底へ引き摺り込まれた。

 元々、そう深くはない川である。一番深い場所であってもせいぜいが胸に達するかという程度。であるならば、足を滑らせたぐらいならさっさと立ち上がればいいのだが、脚に絡みつく何者かが私の身体をがっちりと川底へと縫い留め、その動きを封じていた。

 それは雪解け水が混ざる川の中にあって不気味な冷たさを持ち、まるで巨大な舌に舐め回されるような気味の悪い感覚があった。しかし両足は絡めとられたものの上半身、つまり両腕は無事である。だからこそ咄嗟に下手人を引き剥がさんと手を伸ばしたわけなのだが、伝わってきたのはぬろりとぬめる気色の悪い手触り。

 まさか、うなぎか。

 ぬめりがあり、脚に巻き付くほど胴の長い魚など、私はうなぎしか知らない。

 しかしうなぎだとしてもこのぬめりは何だ。指に絡みつく、などというものではない。

 ぬめりを取ろうと動かせば動かすほど、藻掻けば藻掻くほどそのぬめりは粘り気を強め、今となってはまるで水飴の塊に両手を突っ込んでいるよう。この身の怪力があればこそまだ動けているが、これは悠長にやっている時間はなさそうだ。

 翼を広げ、水掻き代わりにして水を捕らえる。本来ならばひと打ちで陸まで飛び上がる程の力を込めたつもりだったが、しかしその感触は石でも抱え込んだような重々しいものであった。いや、事実抱えているのだ。足に絡みついたうなぎらしき生物が纏う粘液、それが川底にある石を巻き込んで私の身体を川底に繋ぎとめていた。

 そうこうしているうちに、ぬめりはついに私の胸元にまでやってきた。ここまでくると、先程まで粘液に隠れていた下手人の顔も見えてくる。

 それは、うなぎとは似て非なるものであった。

 鋭い歯がずらりと並んだ削岩機のような口。そしてそこから伸びる髭。妖しく光る四対八つの赤い目。胸びれも背びれもないつるりとした体。

 それは記憶に残るうなぎの姿とはあまりにもかけ離れており、まるで映画に登場するエイリアンにも似たその風貌に私はつい怯んでしまいそうになる。

 いや、いつぞやか見たヤツメウナギ。正面から見ればそれに似ていなくはない。

 必死に翼を動かし、何とか陸地へ逃れようと足掻く私であったが、うなぎモドキがその丸い口を大きく開き、自身の胸元目掛け飛び掛かってきたのを見てぞっとした。

 咄嗟に龍の姿にした右手を盾にして防いだものの、びっしりと並んだ鋭い牙が回転し、腕を食い破らんとしているのが鱗越しに伝わってくる。

 とはいえ、今となっては鋼鉄の強度を誇る我が鱗である。いくら大きかろうが魚如きの牙で貫けるほど軟な代物ではないのだが、このごりごりと牙が鱗を噛む感覚、そして何より全身を粘液で包まれるこの気持ち悪さときたら筆舌に尽くしがたい。

 何というか、生理的に受け付けない。

 そんなわけで、そろそろ押し通らせてもらうとしよう。

――全身に力を込める。

 浮かび上がるは深紅の紋様。魔力の流れ。

 身体中に力が行き渡るのを感じながら、私は未だ自由であった左手でもって思い切り川底を殴りつけた。

 この島で暮らし始めた頃、川でガチンコ漁というのをやったことがあった。石と石をぶつけ、その衝撃と音で魚を気絶させて捕まえる漁法であるが、この時、龍の腕が川底の岩で炸裂させたそれは数秒とはいえ川の水さえ吹き飛ばし、うなぎモドキの意識を狩り取った。

 ふっと脚を締め付ける力が緩んだその隙に、私は再び翼を広げて宙を舞う。そのまま全身を回転させて粘液と共にうなぎモドキの拘束を振り解く。

 

「ふ、んっ……?」

 

 その拍子にぞり、と、粘液に塗れた長い胴体が全身を舐めあげた。

 ぶるりと身体が震える。まるで電気を流されたような、これまで感じたことのない感覚が背骨の芯を走った。

 それに思わず首を傾げるも、今はその未知なる感覚の正体を探っている場合ではない。振り落とされ、空中に投げ出されて無防備になったうなぎモドキの頭を掴んで急降下。足元の岩へと叩きつけた。

 飛び散る体液。幸い顔面に浴びることはなかったが、身体は奴さんの体液まみれ粘液まみれ。あまり生臭くないことが救いだが、これは少し、人様にはお見せ出来ない有様であろう。

 ねばつく液体に塗れた美少女となれば何とも劣情を催す様相を思い描くだろうが、それが自身のこととなればこれがまた情けないやら頼りないやら。

 

「精のつく獲物を得たのはいいが、こりゃあ水浴びが先だな」

 

 べとべとになった両手を振り振り、溜息を吐く。

 しかし、これであの同居人も少しは元気になってくれればいいのだが。

 そんなことを考えながら、空を見る。

 

――ごんが息を引き取ったのはそれから三日後、二重の月が満ちた美しい夜のことだった。

 




ついにこの時が来ました。
賛否両論ありそうですが、彼には一生物として天寿を全うしてもらいました。
たぶん爺様はしばらく病みます。


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送る者

お待たせしました。


 

「また一人ぼっちになってしまったなあ」

 

 海を臨む崖の上、二つ並んだ墓石の前に座り込み尻尾を垂らす龍が一匹。墓前に供えたうなぎモドキの白焼きを眺め、私は深く溜息を吐いた。

 こちとら九十以上歳を食った皺くちゃ爺だ。それだけ生きれば愛犬愛猫との別れは何度も経験してきたし、知人友人と死別することも珍しくなかった。

 しかしそれでも、今回ばかりは心の芯に響いた。これほどまでに堪えたのは、かつて親兄弟を看取った時以来だろうか。

 ごんは、この島で目覚めた私の孤独を癒してくれたかけがえのない友であり、家族のような存在だった。あの太々しい姿に救われたことは一度や二度ではない。

 己が手を見る。

 十六年前、初めて目が覚めた時からまるで変わらない小さな手のひら。

 きっと、私はこれからも多くの者たちを見送っていくのだろう。弔っていくのだろう。龍というものがどれほど長く生きるのかなど知る由もないが、きっと百年や二百年などではないのだろう。そも、老いや寿命という概念が存在するのかすら怪しいものだ。

 また溜息が漏れる。空を見上げ、流れゆく雲を眺める。

 あの雲のように、私以外の、龍以外の存在は私を置いて去ってしまうのだろう。

 どれだけ親しい者だろうと、どれだけ愛した者だろうと。

 そして、私が去っていった彼らに追いつくことは決してなく、やがてその存在すらも風化し記憶の残滓となり、ついには忘れ去ってしまうのだろう。

 かつて死という一線を跨いだ身だからこそわかる。それはきっと、死よりも辛いものだ。

 であれば、この身が不滅となる前に、まだ血を流すことが出来る内に、その線をまた跨げる身である間に跨いでしまった方が幸せなのではないだろうか。

 人の身を全うしてから、この島に流れ着いてから十六年。

 それだけの時が流れれば、きっと向こうに残してきた妻も今頃は彼岸の彼方で私を待っているに違いない。

 妻に会いたい。

 子に、孫たちに会いたい。

 水面に浮かぶ龍の少女は、私に何も語りかけてくれない。

 足元には底の見えない奈落のような雲海が広がっている。

 もう一歩前に踏み出せば、この身は重力に従ってあの白い顎の中に消えるだろう。

 もう少しだけ身体を前に押し出せば、楽になれる。

 妻に会える。

 

――風が頬を撫でる

――辺りから音が消えた

――静かな息遣いと共に私は奈落の底へ足を――

 

――気が付けば、私はまた青い空を見上げていた。

 何が起こったのか。

 ちゃぷちゃぷと海の上に浮かびながら、島の縁にある岩に引っかかっている。

 島から身を投げようとしたその瞬間、真下から吹き上げてきた突風に身を掬い上げられ、そのまま後ろへと放り投げられたのだ。

 それはまるで見えない何者かの手が私を引き上げたような、あるいはこちらに来るなと押し上げられたような。そんな形容しがたい、不思議な感覚であった。

 目の前が滲む。

 

「ありがたい、ありがとう……」

 

 涙を拭い、翼を使って身体を起こす。

 全身ずぶ濡れのまま我が家へ帰ると、囲炉裏の火に当たりながら見覚えのある着物姿の少女が静かに佇んでいた。

 

「奇妙なものだな、人というものは」

 

 桜色の唇が、心を包み込むように静かに言葉を紡ぐ。

 

「共に在りたいと想いながら、共に在ることを願わない。龍として生きようと、その在り様を変えない。不変である余には理解できないものだ」

 

 鼻を啜り、少女の隣へとどかりと腰を落とす。

 この際、この(少女)がさも当たり前のように我が家にいることには目を瞑るとして、その相変わらず全てを見透かしたような、悟ったような物言いは少し癪に障った。

 

「お前さんにはわからんだろうな。愛する者の為に己を曲げる、己の幸せを二の次に置く、それこそが人の尊さよ。それこそが、愛情というものよ」

 

「情、か。それこそが醜く美しい、人の輝きか」

 

 囲炉裏の火に、少女の顔がぼうっと浮かび上がる。

 普段ぶっきらぼうな物言いが目立つ彼女にしては、今回はやけに饒舌であった。

 

「余は攪拌する者である。淀みを払う者である。又、彼の者は芽吹かせる者である。新たな流れを生じさせる者である」

 

 ずい、と狂飆(きょうひょう)がその身を前のめりにして迫る。

 胸元から真っ白な、手折れそうな鎖骨がちらりと覗き、紫陽花のような香りが鼻先をくすぐる。まるで能面のような無表情でありながら、その姿には人の心を狂わせるほどの魔性があった。

 

「余には、我らにはそうあれと定められた在り方がある」

 

 白蛇のような指先が胸元に触れ、ぞっとするような冷たさで頬へと這い上がる。

 蜂蜜のような色をした大きな瞳に魂ごと引き摺り込まれるようだった。

 

「そして、貴公もまた定められた者。貴公が人に近く在ろうとしても、その定めは変えられぬ。我らは不変、我らは不滅。努々、忘れぬことだ」

 

 風が吹く。

 炎が渦を巻いて伸び、戸が引き千切られん勢いで軋みを上げた。

 いつもより少しばかり荒々しい去り際は、彼の龍の心中を表したものか。あるいは腑抜けた同胞(わたし)を鼓舞する為のものか。果たしてその真相は嵐の唸りと共に消え、また彼方へと去っていった。

 取り残され、魔性に魅入られ呆けた私の手には真っ白な蕾をつけた鉢植えが一つ。

 はて、今朝手入れをした時にはまだ蕾などつけていなかった筈だが。

 

「お前さんも随分とのんびりしてるが、きっと私より先に枯れちまうんだろうなあ」

 

 そう自傷気味に呟いて、私は鉢植えを抱いたまま少しばかり取っ散らかった玄関を出る。空は赤らみ、二重の月が薄っすらその白い姿を晒していた。

 

「さて、色々あったがまずは飯だ」

 

 今日の夕餉は、いつもより豪勢にいくとしよう。篝火も派手に燃やして、皆で一緒に送ってやろう。それこそがきっと、あいつにとって最高の手向けになる筈だ。

 まずはウナギもどきの肉を処理してしまう。そのぶ厚さはまるで座布団かという程であるが、これを腹から炭火でじっくり焼いて白焼きに。

 脂が炭の上で弾ける音を聞きながら米を洗って火にかけておき、家畜小屋で鶏を絞める。

 (ごん)が死んだ時には後を追って身を投げる程弱っていたというのに、その日の晩にはけろっとした顔で我が子のように育てた鶏の首を撥ねるとはいやはや、狂飆の奴がいなくてよかった。もしもあの龍がこの場にいたのなら、また小難しい小言を頂いたに違いない。

 そうしてさっと鶏を捌くと、その肉と内臓を竹串に通していく。もも肉はひと口サイズに切り分けて、米が踊る土鍋の中へ。

 汁物は干し貝とうなぎモドキの肉を入れてお吸い物に。

 さっと片手間で拵えるのはハマダイコンの葉のおひたし。刻んで茹でて、絞った後に魚醤をちょんと垂らす。

 頭上に月が輝く頃には、我が家の食卓には数々のご馳走で彩られていた。

 

「それじゃあ、頂きます」

 

 手を合わせ、箸へと手を伸ばす。

 まずはうなぎモドキの白焼き。これに関しては襲われ仕留めたその晩に味わっているのだが、ふわりと柔らかい身は噛めば噛むほど旨味が溢れ、あの不気味な見た目からは想像もつかないほどの美味であった。

 

「うん、やはり美味い」

 

 出汁の染み出たお吸い物を啜り、焼き鳥を頬張る。

 ハツにレバー、皮にむね。味付けが少量の塩だけなのが実に惜しい。嗚呼、ここにタレをこれでもかという程塗りたくって齧り付ければ、これ以上の幸せはないだろうに。

 しかし、お楽しみはこれから。

 傍らに鎮座した土鍋を開ければ、中から現れたるは芳醇な香りを立ち昇らせる炊き込みご飯。

 鶏めし、にしては色が薄いが、残念ながらここに醤油や砂糖なんていう上等なものはないのでご勘弁願いたい。

 しかし私にとっては、鶏の出汁がしみ込んだこの米こそ何よりのご馳走であった。

 鶏めしを掻っ込み、白焼きを摘まむ。

 口の中を落ち着けたくなった時にはハマダイコンのおひたしの出番だ。これもまた、大根の葉に似てさっぱり美味い。

 

「さてさて、秘密兵器のお目見えだ」

 

 宴もたけなわといったところで部屋の奥から引っ張り出したのは、大事に大事に封をされた一抱えほどの壺。満を持して封を解き、竹の杓子で救い上げたのはきらきらと輝き、芳醇な香りを放つ黄金の液体であった。

 これぞ私のとっておき。

 蜂蜜酒、ミードと呼ばれる人類最古の酒である。

 製法はいたって簡単。蜂蜜を水で薄めて寝かせるだけ。あとは自然と発酵が始まり、三週間もあれば酒になる。

 無論、現代日本であれば酒造法に触れる違法行為であるがここは異世界であり、人っ子一人いない空の無人島である。私が勝手に酒を造ったところで誰が咎められようか。

 

「それじゃあ、小さな友人の幸せを祈って、乾杯」

 

 器になみなみと注がれた酒を、ぐっと喉奥へ流し込む。

 すっと、鼻先に蜂蜜の甘い香りが抜ける。度数はさほど高くなく、白焼きや鶏めしに合っているかと言われれば正直喧嘩しているぐらいだが、この喉奥がかっと熱くなる懐かしい感覚たるや、思わず目頭も熱くなろうというもの。

 

「美味い、美味いなあ」

 

 反対側にちょこんと置かれた白焼きのその向こう。太々しい態度で欠伸を漏らす獣の姿を幻視する。

 十六年目の春の夜。

 手酌で注いだ酒の上、零れた雫が弾けて消えた。

 



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覚醒

お待たせしました。
少し駆け足です。


 

 小さな友人がこの世を去って、丁度一年が過ぎた。

 あの日から今日で丁度三百六十五日目。この世の暦が生前の世界と同じものかどうかは定かでは無いが、私の基準であれば丁度一年、今日がごんの一周忌になる。

 

「よっこら、せいっ!」

 

 あの日、身を投げる程の悲しみに暮れていた私は今、ただひたすらに斧を振るっていた。

 木を伐っては薪にして、皮を剥いでは柵にして、根を掘り起こしては畑を広げ水路を引いた。ただひたすらに身体を動かしていなければ、あの日の情けない自分が背後からさっと追いついてきそうで怖かった。

 幸いこの身体の体力は無尽蔵である。その気になれば七日七晩走り続けることもできるだろう。

 現実逃避と言われればそれまでのことだが、しかしそのお陰で泉の周りは随分と賑やかなものになった。

 この泉に辿り着いてからずっと世話になっている大樹には手製のしめ縄が巻かれ、その傍には洞から溢れんばかりだった漂流物の数々を収めた蔵が一棟。泉の傍にも休憩用の床几台(しょうぎだい)が備え付けられ、我が家の軒先には竹製の風鈴まで靡いている。

 

「よし、とりあえずはこれぐらい広げればいいだろう」

 

 額に浮かぶ汗を拭い、私は以前よりも少しばかり広くなった広場を眺める。

 後は新しく切り拓いた場所を柵で囲み、家畜たちを放すだけだ。面積としてはサッカーコート一つ分ほど。これぐらいの広さがあれば、富士たちものんびりと過ごすことが出来るだろう。

 一仕事終えたら川で汗と泥を流し、海岸で食料集めと漂流物探し。

 なのだが。

 

「あっ、おいこら、またやりおったな」

 

 水浴びを終え、髪を絞りながら川べりへ戻ると、そこには引き倒され、ひとりでに転がる籠がひとつ。ため息交じりにそこへ手を突っ込むと、乙女の肌着を頭巾にした不届き者の丸い尻尾がぽろりとまろび出た。

 どこか見覚えのあるのんびりした顔の下手人は、ごんが残した子孫たちの一匹である。島ではかなりの数を見かけるようになった彼らであるが、子狸のうちはこうして悪戯をする個体も少なくなかった。とはいえ成熟するまでの一年余りのことであり、遊び回る子狸たちの様子は実に微笑ましいものなのだが、たまにこうして物をかっぱらおうとするのは困ったものだ。

 何を隠そう、広場を拡張したのも半分はこいつらの遊び場を作る為だったりする。

 

「ほれ、あっちが広くなってるからあっちで遊んできな。ああもう、こら、離さんか、破れるだろ。ほれ捕まえたぞぉ、この悪ガキめぇ」

 

 遊んでもらっていると勘違いしているのか、肌着を咥えたまま右へ左へ、捕まえようとする私の腕からするりするりと逃げ回る子狸と格闘すること数分。ようやくその首根っこをとっ捕まえて腹をくすぐっていると、ざわりと角の付け根に随分と久しぶりな感覚が走った。

 

「おっと……何だ?」

 

 まず耳にしたのは、幾つもの刃が空を切り裂くような甲高い音だった。

 森が震える。腕の中の子狸が背中の毛を逆立てながら一声鳴き、慌てふためきながら茂みの中へと逃げ去っていった。

 なんだ。まるで島そのものが身を強張らせているような、これまでにない張り詰めた空気が肌を刺す。かつてあの怪鳥が現れた時でも、これほどの変化は見られなかった。

 私はさっと身支度を整えると、我が家から相棒(石斧)を引っ張り出して空に出る。

 そして見た。

 それは巨大な舟であった。

 それは私の記憶にある舟とは少しばかり異なる姿をしていて、いつぞやかウィリアムが乗ってきた、いまだ泉の広場の片隅に転がるあの船ともまた違う。

 似ているものを挙げるのならば、そう、大航海時代に活躍していたガレオン船に近い。あれのマストと衝角、そして船尾にプロペラを幾つか取り付ければこうなるだろうという、戦艦とレシプロ機を足して二で割ったような不思議な見た目をしていた。

 そんな船が、島から少し離れた海の上に錨を降ろしている。がらがらと、音を立てて錨が海へと沈んでいくのが見えた。

 それの様子を目にした時、我が胸に去来したのは喜びではなく悲しみであった。

 自然に流れる島ではなく、人が作った船。ということは、そこには少なくともあれだけの大きさの船を操り、航海できるだけの知能、文明を持った人がそれなりの人数いるのだろう。

 これまで何度も夢に見た、この世界に生きる人間との邂逅。

 歓喜し、飛び跳ねて韋駄天の如く疾くあの船へと向かうべきだろうに、私はそれをしなかった。

 何故ならばその船からは人の気配が、生命の息吹が欠片も、これっぽっちも感じられなかったから。

 苔の生えたマストに、圧し折れた衝角、穴だらけの甲板。横っ腹には大きな穴が開き、そのまま二つに圧し折れても不思議ではないほどその船は傷んでいた。

 人同士の争いに寄るものか、あるいは龍の嵐にでも巻き込まれたか。ともかく私はその脆く、今にもぼろぼろと崩れ落ちてしまいそうな甲板の縁に降り立った。

 そこは、思わず咳き込んでしまう程澱んだ空気に満ちていた。それは、死の気配であった。

 甲板上の様子は、それはもう酷いものだった。

 骨、骨、骨。そこら中に転がる人の骨。

 あるものは胸に剣を突き立てられ、またあるものは頭蓋に拳大の穴を開け。

 それは地獄だった。

 私は嘔吐した。この凄惨な、凄惨だったであろうかつての光景を想起して涙さえ流した。

 それは明らかに争いの跡だった。

 何者かに襲われたか、あるいは仲間割れだったのか。

 間違いないのは、この場で人と人との凄まじい殺し合いが発生した、ということ。

 

「なんて酷い。なんまいだぶなんまいだぶ……」

 

 拝み手で念仏を唱えながら、私は甲板の奥に立派な拵えの扉が嵌められた部屋を見つけた。場所からすると、恐らく地位の高い人物、船長が使っていた部屋に違いないだろう。

 鍵はかかっていない。しかしその豪華な金の拵えの上には、夥しい程の赤黒い染みが出来ていた。

 喉が鳴る。今にも心臓が口から零れ出そうだった。

 意を決し、私はドアノブに手をかける。ぎい、ぎい。不気味な木の軋む音と共に扉が開く。

 ごつんと、石斧の柄が扉の縁に引っかかった。なんとも心細いが、中もそう広くはなさそうだし石斧はここに置いていくとしよう。

 そうして石斧を壁に立て掛け入った奥にあったのは机と椅子、そしてそこに鎮座する豪華絢爛な服装をした骸骨がひとつ。

 手には金の盃と短剣。争った跡はなく、最期は自死か衰弱死か。どちらにせよ、外の有様を見るに穏やかな最期ではなかっただろう。

 日が陰る。濁った硝子が嵌められた鉄格子が、風に打たれて呻き声のような音を立てた。

 

「可哀そうに。せめて安らかに眠っておくれ」

 

 手を合わせる。今の私に出来ることはこの程度しかない。

 ふと、骸骨が向き合う机の上に、小さな木箱を見つけた。

 随分と長細く、装飾も金縁の立派なものだったのでてっきり骸骨の握る短剣を収めていたものかと思いきや、覗いてみれば何と中身は煙管であった。

 船乗りの喫煙具と言えばもっと丸っこいパイプを連想するが、どうやらこの船長は随分と洒落っ気が強い人物だったようだ。

 煙管、煙草か。そういえば最後に煙草を吸ったのはいつだったか。

 正直、興味はある。興味はあるが、流石にこれ(遺品)に口をつける気にはなれない。

 

「主人と一緒に弔ってやるからな。さて、まずは船を島に寄せるか。まずは(こいつ)を固定している錨を引き上げて――」

 

 そこまで口にして、私は全身の血がさっと引いていく感覚に襲われた。

 そう、錨が下りているのだ。いや、下ろされている、といった方が正しいか。

 誰が下ろした。私はこの船に来る前、錨が海へ下りていくところを見た。あれは、何らかの衝撃で錨が勝手に転げ落ちたようには見えなかった。明らかに、しっかりと操作されて、本来の役割通りに動いていた。

 では、誰が。

 ごとりと、背後で何かが落ちる音がした。

 こつんと、床を転がったそれが私の踵にぶつかる。恐る恐るそちらの方へと目をやれば、そこには煌びやかな装飾をされた金の盃が転がっていた。

 先程まで骸骨が握っていた、金の盃が。

 さっと身を翻す。両手の肘までを龍の姿に変えて、振り向き際に捉えた白刃を手の甲で弾いた。

 

「ひっ……!」

 

 思わず、声が出た。

 そこにいたのは、先程まで椅子に腰かけていた筈の船長の亡骸。空洞になった眼窩に青白い鬼火を宿しながら、けたけたと顎の骨を鳴らしてこちらを睨みつけていた。

 一世紀近く生き、死まで経験した私であるが、流石に干乾びた皮膚の切れ端を引っ掻けた人骨に襲われれば悲鳴も上がる。

 あまりの出来事に我を忘れ、咄嗟に扉を開けて逃げようとした私の後ろ髪を枯れ枝のような骸骨の指が絡めとった。

 不意を突かれ、龍の膂力を発揮する前に床へと引き倒された私が見たのは、今まさに自身が逃げ出そうと開いた扉の奥から、真っ白な骨の腕がいくつも溢れ出る背筋も凍る光景であった。

 それはまるで地獄から這い出る亡者の如く、悍ましい呻き声のような音を頭蓋から響かせながら、無数の腕が私の足先を、股を、腹を、胸を、首を這い上がり、絡めとらんと迫る。

 私はそのあまりの光景に、想像を絶する感触に気が狂いそうだった。

 このまま私は地獄に引き摺り込まれるのだろうかと、そんなことすら頭を過ぎった。

 だがついに意識を手放しそうになったその瞬間、私は聴いた。亡者たちの呻き声の中に混じる小さな小さな異音。濁流の中に紛れ込む、小さな声を。

 それを耳にした瞬間、私の胸の奥底がかっと熱を孕み、全身の紋様が室内の薄暗がりを吹き飛ばさん勢いの輝きを放った。

 

――嗚呼、そうか

 

 視界が透き通る。

 全能感が身体中を駆け巡る。

 光が満ちる。月の光に似たそれは亡者たちを吹き飛ばしその身を壁に、天井に、床に叩きつけた。

 風が吹く。舞い上がった銀の髪が全身を包み込み、まるで繭のように私を覆い隠す。

 変容する。身体が、心が龍のそれへ変わっていくのを感じる。

 そうして理解する。己の使命。定め。在り方。龍とは何か。私は何故ここにいるのか。

 繭が解ける。

 現れたるは一柱の龍。

 闇夜の如き鱗。妖しく光る緋色の瞳。龍としては小さな体躯。しかしそこに宿るのは夜空のような底知れぬ神秘と魔性。

 

『嗚呼、嗚呼、可哀想な迷い子たちよ』

 

 零れた声は、自分のものとは思えぬほど甘く、そして優しかった。

 見つめる。

 吹き飛ばされ、手が折れ、足が折れても尚立ち上がろうとする哀れな亡者たちを。その向こうにある、哀しい魂たちを。

 

『よくぞ、よくぞ余の元まで辿り着いた。さあ、愛しい我が子たちよ、其方らの苦しみは余が飲み干そう』

 

 翼を広げる。

 屋根を突き破り、船を眼下に納める。弓を手にした骸が矢を放ってくるが、それがこの鱗に触れることはない。その悉くが、この身から漏れ出る力に触れて灰塵と化していく。

 翼を広げる。

 背後に開くは月の門。死者を送る黄泉の道。

 甲板の上、こちらを見上げる亡者たちが手を伸ばす。それはまるで神へと祈りを捧げる信者のように、母へと愛を求める赤子のように。

 

――助けて

 

 あの時、確かに耳にしたそれは、救いを求め苦しむ亡者たちの、道に迷い泣きじゃくる子どもたちの声。魂の叫びだった。

 月の門が、二重の月が一つになる。月の光が船を照らし、迷える魂を吸い上げる。

 

――ああ、ありがとう、ありがとう

 

 門を潜り、天へと昇る魂たちの声が響く。それは本当に、本当に安らかな声色で。

 そうして仮初の月が消えた時、もうそこに泣きじゃくる魂はひとつもなく。

 ただただ、どこか穏やかになった船だけが佇んでいた。



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龍か人か

 

 困ったことになった。

 寄せては返す白波をぼんやりと眺めながら、私は深く溜息を吐いた。

 龍として覚醒したのがつい先日。己が何を成せるのか、己が何と定められたのか、ぼんやりと、まるで曇り硝子の向こうから見ているような感覚で、それでいて所々曖昧な記憶の中であるが、それらを何となく理解したのもつい先日。

 そして、この世界にやってきてからこっち、ずっと気掛かりであったこの身体に抱える問題。つまりはこの身体に私以外の、本来の持ち主ともいえる魂は宿っているのか、そして両親と呼べる者たちが存在するのか、その問題もまるっと解決した。

 結論から言えば、この身体に私以外の魂は存在しない。つまりこの身体は私自身のものであり、それはつまり私は私として、龍の少女として今後悠久の時を生きていかなければならない、ということであった。

 いや、それはいい。あるいはそうなるであろうと覚悟していた一つではあるし、これで晴れて何の後ろめたさも抱かずに日々を送れるというものである。

 問題は、今の私の姿にあった。

 龍である。

 黒い鱗に覆われ、大きな翼を持ち、立派な角を生やした、まるで絵に描いたような見紛う事なき龍である。

 その大きさこそいつぞやの熊や猪程度のものではあるがこれがまた厄介で、何しろ私がこれまで拵えてきた家やら食器やら風呂やらは当然ながらその全てが人間用であり人間サイズ。つまりはこの身体で扱えるようにはなっていないのである。

 家に入ろうとすれば入り口で詰まるし、そもそも爬虫類のようなこの手はどうやっても皿や匙を扱えるようにはなっておらず、満足に行えるものといえば水浴びぐらいのもの。ついでに言えばこの姿のままでは家畜たちがどうにもよそよそしく、私であることは薄々察してはくれているようなのだが、なんというか子どもが初めて大きな犬を見た時の距離感というか、これがいわゆるドン引きというやつなんだろうなあ、と。

 そんな感じであった。

 さて、まあここまでだらだらと前に置けば概ね言いたいことは察して貰えただろうが、そう。

 戻れなくなったのである。

 龍の姿から。

 件の幽霊船がやってきた日からもう三日経っているが、まるで人の姿に戻る様子がない。いくら念じようと、後ろ足で立ち上がって人のように振舞おうと、挙句の果てにはそれっぽい変身ポーズを決めてみてもうんともすんとも言わなかった。

 これは困る。非常に困る。

 食ったり寝たりする分には問題なのだろうが、文明的な暮らしにおいてこの姿はあまりにも生きにくい。

 

「流石に今から野犬のような生活というのはなあ」

 

「やあ、お姉さん。何かお困りかな?」

 

 溜息交じりに呟く私に、横から返す声があった。

 横に視野が広くなった目でそちらを見れば、そこには少年が立っていた。いや、あるいは少女なのかもしれない。中性的な、人の姿の時の、幼い方の私と同じぐらいの年頃の中性的な姿をしている。薄っすらと笑みを張り付けて、緑色の、春先の新芽を思わせる瑞々しい色をした瞳の中に黒い龍が映り込んでいた。

 驚きはしまい。この島に来てこの展開は何度も経験した。故に驚くのは終いだ。

 いや、正直なところ少しばかり面食らった。まさかあの龍がこういった姿になるとは、こういった姿を選ぶとは思いもしなかった。

 瞳と同じ色をした、顎をなぞるように切り揃えられた髪がふわりと揺れる。それと合わせるように赤色と黄色で染められた、藍染めのような淡い色合いのワンピースが舞った。

 

「まあ、まあ、うん、まずはおめでとう、かな。前に話した時より、ずっとボクたちらしく(・・・)なった」

 

「らしくなった。らしくなった、か」

 

 薄々感じてはいたが、どうやら今の状態が、この姿になったことが完全に覚醒した、という訳ではないようだ。

 それはそうだろう。力の扱い方も以前より随分と上手くなったが、完全に操れている訳ではない。何より完全に龍としての力を使えるのならば、人の姿に戻れないと夜な夜な頭を抱える事態にはなっていない。

 閉口しもにょもにょと唸る私を見て、緑がころころと笑う。全く、こちらとしてはとても笑いごとではないというのに、他人事だからと気楽なものだ。私がふんすと鼻を鳴らすと、緑は特に悪びれた様子もなくひらひらと手を振って見せた。

 

「ごめんごめん。(ぼくたち)に成りたいと悩む子は星の数ほど見てきたけれど、人の姿になりたいと頭を抱える同胞(かぞく)は初めてだったから可笑しくて。でも、うん、やっぱり君は稀有な存在みたいだね」

 

 こつんと、緑の小さな、若葉色をした靴が地面を叩く。

 こつん、こつん。

 叩く度に柔らかな髪が跳ね、ワンピースの裾が踊る。

 しかし私が目を剥いたのはその妖精のような美しさではなく、その周囲で舞い踊る赤、青、緑などの色鮮やかな(もや)たち、魔力であった。それらはまるで緑の動きに吸い寄せられるかのように集まり、やがてその小さな体躯をすっぽりと覆い隠してしまった。

 

「世界が定めた(すがた)を変えるというのは、ボクたちからしても特殊な力の操作が必要になる。力押しでやってもダメだよ、肝心なのは力の扱い方さ」

 

 靄が晴れた時、そこにはいつぞやか見た色鮮やかな龍の姿が在った。

 力の扱い方。そうは言ってもこちとらついこの間にようやく初心者マークが外れたようなもので、その力というのもまだまだ理解したとは言い難いものなのだが。

 じっと緑の目を見る。星を散りばめたような美しいその瞳には、何かを期待するような光が宿っていた。

 己が手を見る。脳裏に思い浮かべるは人だった頃の、あの見慣れた少女の腕。

 力を込める。緑がそうしたように、周囲に漂う魔力を掻き集め、思い浮かべる形へと成形する。そう在れと強く念じて腕を振れば、そこには傷一つない、健康的な褐色をした少女の腕があった。小さなその拳を握ったり、開いたりしてみる。うん、動作には何も問題ない。変身は無事に完了したようだ。

 腕だけ。

 

「これは流石に気味が悪いな」

 

 黒い龍の胴からか細い人間の腕だけ生えている光景は、控えめに言って心臓に悪い。

 見れば、そんな私の姿があまりに滑稽だったのか、緑の奴はその鮮やかな色をした身体を小刻みに震わせながら、腹を抱えて身を捩っていた。

 何ともはや、お見苦しいものをお見せしてしまって恥ずかしいやら、笑われたことに腹が立つやら、複雑な心境である。

 ともあれ、姿を変える感覚は掴めた。あとはこれを、この感覚を全身に巡らせるのみである。

 目を閉じ、息を吸う。思い浮かべるは十七年共に過ごしてきた己の、龍の少女としての姿。

 息を吐く。周囲の魔力が、不可思議な力場が私を中心に渦を巻いているのがわかる。集めた魔力を、自身が思い描いた形へ練り固める。押し固める。溶けた鉄を型へ流し込むように、私という、シエラという器へ流し込む。

 ゆっくり瞳を開けば、そこには見知った両手と両足があった。

 

「ああ、何とか上手くいった……」

 

 息を吐き出し、ぱたりと四肢を投げ出して横になる。背中から伝わる砂の熱が心地良い。思えばこうして仰向けに寝転がるのも三日ぶり。龍の姿が窮屈という訳ではないが、やはり一世紀近く慣れ親しんだ人の形は実に馴染む。まるで全身に巻き付けていたベルトが外されたような解放感であった。まあ実際に一糸纏わぬすっぽんぽんではあるのだが。

 

「おめでとう。それじゃあ君の顔も見たことだし、ボクは行くよ。あまり長居をすると良くないからね、君にとっても、この島に暮らす者にとっても」

 

 緑がその翼を広げる。甘い花の香りが鼻先を舞った。

 

「緑よ」

 

 今まさに飛び立たんとしたその背へ、声をかける。

 

「私は、善い龍なのだろうか」

 

 それはあの日、龍としての力を振るったあの時から私の胸の奥に燻っていた一抹の不安。

 私はあの時、あの世に行けず彷徨っていた亡霊たちの魂をあるべき場所へ還した。それこそが、私という龍が成すべきことだという確信があったからこそ。しかし私という龍が振るう力はそれだけではない。

 思い出すのはいつぞやか、冬の日に襲い掛かってきたあの大きな熊の姿。泉の傍に横たわる、こと切れたあの巨大な亡骸。

 奴を仕留めたのは他でもない私だ。私の龍としての力が奴から命を奪った。

 それは何も比喩や言葉の綾ではない。文字通り『命を奪った』のである。私にはそういう力が、命を、魂を操る力があった。それはまさに死神のように、私の力は問答無用で命を狩り取ることができる。

 それは、人間と共に歩もうと夢見る私にとって絶望でしかない。私がこの世界にとって畏怖される存在であり、傍に在るだけで彼らを傷付ける可能性を孕んでいるのだとすれば、いっそ私はこの孤島で、誰とも会わずにひっそりと暮らしていた方がいいのかもしれない。

 

「ボクたちに善悪はないよ。いや、善であり悪である、と言った方がいいのかもしれないけれど、ボクたちはこの世界に在るだけで周囲を変えてしまう存在だ。だからこそ人はボクらを畏れ、伏して祈りを捧げる」

 

 それは母が子を諭すような、慈愛に満ちた声であった。

 

「でも君は、一度は人として生きた君ならばあるいは、生きとし生けるもの全ての傍らにある君の力ならばあるいは」

 

 こちらを見下ろすその瞳には、いまだ何かを期待するような光があった。

 

「足掻いてみるといい。龍としてはみっともないかもしれないけれど、人という存在は足掻くものだ。足掻いて藻掻いて、より良い道を探し出す。それこそが人としての在り方だと、ボクは思うよ」

 

 風が吹く。砂を巻き上げ吹き荒れるつむじ風に思わず目を閉じる。

 しばらくして風が収まった時、目の前にはもう誰もいなかった。

 

――君には期待しているよ

 

 花の香りと共に、そんな言の葉だけを残して、彼の龍は去っていった。

 

「言われずとも、精々足掻いてみせるとも」

 

 ひらり舞い降りたひとかけらの花弁を握りしめ、私は踵を返す。富士たちの世話に、畑の手入れ、ガタが来ている小屋の補修もしなきゃならん。やるべきことは、文字通り山のように。

 しかし、まあ。

 

「……くしっ」

 

 とりあえず、着る物を拵えるところから始めようか。

 身震いする私を笑うように手のひらから花弁がひらりと舞い落ち、空へと消えていった。

 



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二十年目の君へ

お待たせしました。



 

「ううん、また大台に乗ってしまったなあ」

 

 唸る私の目の前には、丸太を加工し、その断面を滑らかに整えて拵えた一枚板。私の背丈ほどはあるそれに木炭で刻まれた丁の字はしかし丁ではなく、()の二画目、つまりは何かを二つ数えた状態であり、それが意味するところは二十(・・)であった。

 二十年目の春が、やってきた。

 

「言葉にすれば長く感じるが、実際にやってみればあっという間だったなあ」

 

 尻尾を揺らしながら口に咥えた煙管を噛む。これはあの幽霊船にあったものだが亡霊たちを冥土へ渡した駄賃代わりに頂戴し、それからはこうして考え事をする時だったり、口寂しい時などに咥えて口先で遊ばせるのが癖になっていた。

 ちなみに件の船は海岸に引き上げて時折、具体的には夏の嵐の日などに我が家の天井が吹っ飛ばされた緊急時などに仮宿として使ったり、その補強の為に床板を剥がしたりしている。

 墓荒らしの誹りを受けそうであるが、彼らの亡骸はしっかりと私の炎で弔っているし、彷徨っていた魂はしっかりきっちりあの世へと送り届けているのだから荒らしたところで化けたり祟ったりするものがある訳でもなく、ならばあのまま海の藻屑にしてしまうのは勿体ないとあれこれと有効利用させて頂いている次第だ。

 これで煙草の葉でもあればこの上なくありがたいのだが、残念ながら船の中、そして漂流物の中からもそういった類のものは見つからず、今はこうして風来坊よろしく口先に咥えるだけで辛抱している。

 以前、三年前まではこんなはしたない真似をこんな年端のいかぬ少女にさせる訳にはいかなかったが今となっては、この身体の家主が正真正銘私自身とはっきりした以上は何の後ろめたさも無く、私の好きなように扱ってもよいだろうと、そういうことになった。

 しかしまあ、前世はどうあれ今生では女の身。ならばそれなりに女らしくしてみようとは思いはすれど、これがまたどうにも難しいというか、むず痒いというか。やはり一世紀近くも男として生きてきた記憶が、経験がある以上どうしてもそれが邪魔をする。

 それでも長い髪の先っちょを二つに結ってみたり、米の研ぎ汁なんかを使って手入れをしてみたりとそれなりに、我ながらいじらしい努力を続けていたりするのだが、身体の動かし方や仕草、考え方なんかはもうどうにもならない。

 挙句の果てにはどうせ龍として永遠に近い時を過ごすのだからどうとでもなるだろうと、もうすっかり匙を投げてしまった。

 生前、お転婆だった孫娘には少しは女らしくしなさいなどと口を尖らせたものだが、いやはや、まさかまさかその言葉が巡り巡って自分に返ってくるだなんて誰が思うだろうか。

 

「まあ誰に見られるでも無し、しばらくは気ままにやらせてもらうさ」

 

 三年前に龍としての力を振るえるようになった私ではあるが、やはりというか何というか完全とは言えない状態のようで、一度龍の姿になって遥か頭上に流れていた浮島に飛んでいこうとしたのだが結果としては今まで通り、島から一定の距離まで離れたところで不意に翼が浮力を失い危うく墜落するところであった。

 まだまだ力が制御できていない、いや、周囲の力場、魔力を操ることが出来ていないということなのだろう。

 ともあれ、前述した通り龍は無限の時を生きる存在であり、時間はたっぷりある。この世界がどれほど美しく、どういった人間が、種族が暮らしているのか。どのような文化を築き、どのような歌を奏で、笑い、泣き、愛を育んでいるのか。

 興味は尽きぬが、今はただただ己が出来ることを、成せることを成すしかない。

 成せなければ、ただ死ぬのみである。

 ともあれ、ともあれ、衣食住に関してはそれなりに充実してきた。これは小鬼族から送られた植物の種、大豆や大麦が安定して収穫できるようになったことが大きい。正確にはそれらによく似た全く違う種ではあるのだろうがともかく、我が家の畑にこの二つが加わったことでそれはもう、調味料の問題さえ除けば生前の食事とも大差ないのではないかと大ぼらを吹きたくなる程度には、毎日の食卓が豊かになった。

 大麦を粉にして水と混ぜ焼く、いわゆる平焼きパンはすぐに完成したが、最近はこれにひと手間、発酵を加えた柔らかいパンを味わうために日々苦心している最中である。

 そして発酵とくれば、忘れてはならないものが二つ。

 一つは大豆、そしてもう一つは米。つまりは納豆と酒だ。

 この二つに関しては去年の夏頃から完成を目指して色々と試してはいるのだが、これがまた上手くいかない。納豆は煮た大豆を稲わらで包んで作る藁苞(わらづと)納豆、酒は米を噛んで吐き出したものを壺などに詰めるいわゆる口噛み酒を目指して試行錯誤しているのだが、環境が悪すぎるのか何度やっても腐ったり、カビが生えたりしてしまう。

 この島は日本と似たような気候をしているので案外あっさりと出来てしまうのではと期待していたのだが、この調子ではどうやら捕らぬ狸の皮算用になりそうだ。

 いやしかし、それでこそ、であろう。生活が安定してきたことは喜ばしいが、食って働いて寝るばかりでは実に味気ない。少しぐらいこうして苦労するぐらいの方が、気も引き締まるというものだろう。

 

「蜂たちが定住してくれたのが救いだな」

 

 ちらりと、丘の上に設置した巣箱を見やる。

 りんごの木に寄り添わせるように佇むそれに蜂たちがやってきたのが一昨年の夏頃。そこから湿気や外敵、蜂を捕食するムカデやら大型の蜂やらに気を付けながら甲斐甲斐しく世話を焼き、そのお陰か去年には甘い蜂蜜を沢山蓄えてくれた。

 この調子であればそろそろ巣箱を増やしてみてもいいのかもしれないが、大量に蜂蜜を作ったところで消費するのは私一人であるし他の仕事もこなさなければならないことを考えるとそう迂闊なこともできず、巣へと戻ってくる働き蜂たちを眺める度に頭を悩ませる日々である。

 

「いっそ、この島に定住してくれるような人間がいてくれればなあ」

 

 難しいとはわかってはいるが、ついついそうぼやいてしまう。人間とは言ったが、小鬼族のような一風変わった種族であっても意思疎通さえできるのであれば外見は特に、顔が犬だろうが蛇だろうが、胴が豚だろうが馬だろうが構いはしない。顔を合わせた途端にこちらに襲い掛かってくるような獣でなければ、どういった者だろうと大歓迎、来るもの拒まず極まった心情ではあるのだが……。残念ながら小鬼族の一件以来、この島に他の島がぶつかってくるようなことはなく、島は今日も平和そのものであった。

 

「上やら下は通っていくのだけどなあ。まあ、ぶつかった島に話の通じる生き物がいるとも限らんが――なんだ」

 

 ぼやきながら家畜たちに餌をやっていると、ふと久方ぶりの感覚が角の付け根にぶるりと来た。前回はいつのことだったか、ここ数年はとんと感じることのなかった痺れに私は顔を上げ、天を睨む。

 頭上に大きく口を開けた空の向こう、天辺に座す太陽の中になにかある。ひとつではない。ふたつ、いやみっつはあるだろうか。いつぞやの巨鳥ほどの力は感じないが、どこかで覚えのあるような不思議な力の気配を感じる。

 

「これは、もう見つかっているな。すまんな、散歩はまた後でな」

 

 目的は十中八九、(わたし)であろう。獰猛な獣の息遣いと、研ぎ澄まされた刃のような殺気。知性の程はどうだろうか。もし、万が一にでも話が通じるようであれば、穏便にお引き取り願いたいものだが。

 龍の力は最終手段だ。一度振るえば並大抵の相手は文字通り鎧袖一触に終わらせることができる力ではあるが、それほど強大な力、闇雲に使えばどんなしっぺ返しが来るかわかったものではない。

 富士の頭を撫で、武装を整える。

 胸巻き、腰巻きを絞り、刃に鱗が並ぶ大石斧を担いで私は海岸へと走った。あそこならば、多少(・・)暴れたところで森への被害は最小限に抑えることができるだろう。

 そうして砂浜へと飛び出すと、私の目の前にそれはやってきた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 それらは石礫の如く大地にぶつかり、向こう側の水平線が見えなくなるほどの砂埃を巻き上げる。口元を手で覆い、睨み付けるその向こう。視界を遮る砂埃の奥で、金色の瞳が妖しく光った。

獣の咆哮が響く。頬を裂く様な咆哮が砂埃を吹き飛ばし、そこに隠された主の姿を露わにした。

それは金の瞳を持っていた。縦に割れたその瞳孔の奥には、背筋さえ凍りそうな冷酷さが潜んでいた。

 それは鋭い爪を持っていた。土色の鱗に包まれた、肉を裂き骨さえ断つ鉈のような爪であった。

 それは翼を持っていた。傘のような骨格の間に薄い皮膜を張った蝙蝠のような翼であった。

 しかしそれは、腕を持っていなかった。

 腕がある筈の場所からは翼が生え、それを腕の代わりにして地面を掴んでいた。

 長い尾に、鮫のように乱雑に並んだ牙。時折その間から赤い舌が顔を出し、先が二股に裂けたそれがこちらを探るようにちろちろと踊っている。

 

「これはまた、いよいよというか、とうとう来たか……」

 

 どうやら話し合いでの解決は無理そうだ。

 頬を引き攣りながら、私は石斧の柄を掴む。全身を龍の鱗が覆っていく。

 三頭のうちの一頭、最も体の大きな個体が再び咆哮をあげる。大きく開け放たれた顎の奥で、見知った色をした何かが踊る。

 放たれるは紅蓮の炎。しかしそれが私の身を焦がすことはない。

 操る。力勝負ならこちらが有利だ。故に我が身を撫でる炎を統べて、我が力へと変換する。

 全身に赤い紋様が浮かび上がる。統べた力を炉心(しんぞう)()べられ、()られ、新たな力となって砲身へ込められる。

砲門(・・)を開く。

 開け放たれた口先には何重にも折り重なった紋様が浮かび、炉心の鼓動に合わせて脈を打つ。

 圧倒的な、己たちとは似て非なる龍の力を察知し、退避したのは真ん中と右の二頭。構うものか。一頭でも仕留められれば御の字だ。

 閃光。

 煉られ放たれたそれはもはや炎であって炎でなく、一本の紅い線となって逃げ遅れた一頭を襲った。きっとこれまでに数多くの刃を防ぎ、牙を折ってきたであろう土色の鱗が、その紅い線に触れた途端にどろりと溶ける。

 焼けるのではなく、溶ける。流れ出る筈の血潮はすぐさま煙となり、その熱量は肺を、喉を即座に焼き尽くし、殺し尽くしていく。故に断末魔の叫びさえも上げられず、哀れ獣は、飛竜とでも呼ぶべき大いなる獣はその身を二つに断ち切られ、己が死したことにさえ悟ることなくこと切れる。

 それはあまりにも強大な、理不尽なまでの力の差。

 その力を前にして、私は――

 

「え、いや、ないわ……」

 

 あまりに予想外のその火力に、普通にドン引きしていた。

 二十年目の春の空。

 思わず零れたその言葉は、呑気に流れる綿雲のその向こうへと消えていった。

 




もしかして:内閣総辞職ビーム


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パンツじゃないから

大変お待たせいたしました。


 

 飛竜たちの襲撃から一夜明け、私はいつも通り泉の広場で汗を流していた。しかしこの空飛ぶ不思議生物たちは素晴らしい。身を守る鱗は固く、翼に張られた薄い皮膜はゴムのように伸縮性に富み、それでいて破れにくい。そしてその肉は鯨の肉に似た力強い歯ごたえで、噛めば噛むほど旨味が溢れる今までに食べたことのないような美味であった。

 そして今日は、そんな特上の肉を干し肉に加工しながらのちょっとした手仕事に精を出している最中である。素材は言わずもがな、飛竜たちを解体して得た鱗や皮だ。

 鱗は皮に引っ付いたまま、彼らの牙を加工した鋲で何枚かの竹の板に打ち付ける。出来上がったしなやかで強靭なそれは肩に巻けば甲冑でいうところの大袖に、腰に巻けば草摺(くさずり)の代わりとして使える。

 龍の身に変ずればこのような防具など無用の長物になるだろうが、あれはあれで力を消耗するし、狂飆(きょうひょう)ほどではないにしろそれなりに巨体であるので狭い場所では身動きが取れなくなる恐れがある。そんな訳で、状況によっては小回りの利く人間の身体の方が都合がいいこともあるのだ。

 それにことあるごとに龍の姿へ変わっていて、ある日突然人間の姿に戻れなくなっても困る。太くて融通の利かない鱗まみれの手で、今やっているような細々とした作業をするなど御免だ。

 

「それから、こいつは、こうして、こうっ」

 

 柔軟で肌触りの良い皮膜は帯状に切り分けて、蔓の繊維を編んで作った紐と飛竜の牙を使ってボタンを取り付ける。その反対側にはボタンを通す穴をいくつか開けて長さを調節できるようにし、さらしのように胸に巻き付ければちょっとした下着の出来上がりだ。

 これと同じものを幾つか拵えて、ついでに余った端材を使って()も何枚か作ってみた。ざっと寸法に沿って切り分けた皮を、おむつ(・・・)のように下から巻いて紐で止める簡素なものではあるが、これがまた不思議なことに、今の今まで半裸に近い状態で過ごしてきたにも関わらず、こうしてきちんとした下着を身に着けただけで胸の底の方から羞恥心がにわかに湧いてくるのである。

 いや、こういった感覚というのは、つまりはそれに似通った(・・・・・・・)ものを身につけた経験は確かに、いつからか寝たきりになってくたばるまでの間にぼんやりと味わったことはあるのだが、こうしてはっきりと女物(・・)の形をしたそれを身に着けるというのはなんとも、私の奥底にほんの僅かに、小指の爪の先ほどだけ残った文明人としての道徳観というか、男としての最後の砦のようなものが崩れ去ったような、そんな後ろめたさがあった。

 つまりは、何か変態的なことをしているような、そんな背徳感。

 

「いや、男物でもこういった形の物はあるし、うん、女物とは思わないようにしよう」

 

 そう、男物のブーメランパンツだと思えば、羞恥心も少しは紛れるだろう。腰の後ろに尻尾があるおかげでどうしても丈が短く際どい感じになっているが、これは水着なのだ。そういうことにしよう。そういうことにした。

 さて、残りである。

 骨と、内臓と、(たま)

 骨などいくらでも使い様はある。軽く、そして硬いそれは道具の柄にして良し、建材にして良しだ。小さなものは割って釘やボタンの代わりにできるだろうし、煮込めばいい出汁が取れるかもしれない。

 次に内臓。心臓は焼いて食ったが、胃は綺麗に洗って水筒や腰袋に、腸は干して紐として利用できる。

 問題は、心臓のすぐ傍に引っ付いていたこの珠だ。

 大きさはりんごと同じぐらい、両手で包めば少し足りない程度のもので、まるで朱漆(しゅうるし)を塗ったような美しい赤色をしている。その光沢感から硝子細工のようにも見えるが重さをまるで感じない不思議な素材で出来ているようだった。

 さらに異様なのは、その内側から感じる力強さである。存在感と言い換えてもいいが、これからは持ち主であった飛竜と比べても遜色がないほどの力を感じるのだ。

飛竜一頭の力を押し固めたような熱量を孕んだそれは、まるで炉心のようだった。

 いや、正しくそれは炉心であり、飛竜の力の源であったのだろう。たかが飛竜一頭と侮るなかれ。数十キロはあろう巨体を空へと運び、口から火を吐く化け物である。そこに秘められた力は相当なものだ。

 しかし、これには不思議と見覚えがあった。

 はてどこだったか。最近ではない。十年か、二十年か、それぐらい前のような気がする。

 

「そうだ、あれだ」

 

 そうして一人唸りながら記憶の糸を辿ること少し。

 膝を叩いて立ち上がった私はそそくさと広場の隅、漂流物が山と積みあがった一角へと駆け寄っていった。

 そこにあったのは、小さな船。そう、いつぞやか彼、遭難者であったウィリアムが残していった船である。

 

「たしかこの辺りに、あったあった」

 

 船内へと続く小さな出入り口に頭を突っ込んで引っ張り出したのは飛竜のそれと似た色をした、同じぐらいの大きさの珠。色こそ風化したように薄れて埃だらけになっているが、それでもほんの僅かに感じるその力は飛竜のものと同質のそれだ。

 これがどこにあったのかといえば、船の底、竜骨の中心に嵌め込まれていた。そしてそこから船全体に伸びるようにして呪文のような紋様が描かれており、それはどこか電子回路を彷彿とさせた。きっとこれが、この船のエンジンのような役割を担っていたに違いない。

 であるならば、これを取り換えればこの船も息を吹き返すのではないか。もしそうなったならば、この空飛ぶ船で別の島へと渡ることも出来るのではないか。

 私の心は踊っていた。

 それには新たな土地へ旅立つことができるかもしれないという希望が大部分を占めていたのだが、空飛ぶ船で大空を泳ぐ、これに胸が熱くならない男がいるだろうか。

 かつてないほど高鳴る鼓動を飲み込んで、私はがらんどうになった窪みに飛竜の珠をぐいと押し込んだ。かちり、と何か嚙み合うような感触があった直後、さっと水が流れるように周囲の紋様へ朱い色が広がっていく。ぼうっと、まるで蛍のような淡い光が立ち上った。

 

「おおっ、もしかしてこれは上手くいったいなあもう!」

 

 突如として船内を激しい揺れが襲い、ごちん、と目の前で星が舞う。

狭い船底に不安定な体勢で頭を突っ込んでいたところを下から突き上げられたものだから、それはもう見事なまでに私の頭は天井へと突き刺さった。

 悪態を漏らしながら角をさすりつつ船底から頭を引っこ抜くと、驚くことに船の左右にあった蜻蛉の翅のような形をしたオールたちがその頭を上げ、その間を鮮やかな緑色と青色の(もや)が互いに絡まりながら前から後ろへ、上へ下へと流れていた。

 

「おお、どうやら上手くいったようだ」

 

 しばらくすると足元から伝わる振動も大人しくなり、二十年ぶりの目覚めに機嫌を悪くしていた船体も、しだいに涼やかな風の音を鳴らし始めた。

 

「よしよし、良い子だ。で、お前さんはどうやったら言うことを聞いてくれるのかね」

 

 船上をぐるりと見まわすも、そこには帆が巻き付けられた(マスト)があるばかりで、船を操るために必要なハンドルやら舵輪のようなものは見当たらない。

 まさか魔法使いのように呪文やらなんやらを唱えなければ動かせないだとか、そんな馬鹿げた話もないだろうに、いや万が一そんなことがあればもうお手上げなのだが、動力は問題なく伝わっているのだしあとはそこまで複雑ではないと思いたい。

 

「っと、まさかこれか」

 

 そうして目を皿にして探し回った結果見つけたのは、船尾付近に取り付けられた大きなオールであった。いくつも伸びた翅のオールに混ざって横へ延びていた為に見つけるのに苦労したが、持ち上げてみればその先端部分は丁度船底と同じぐらいのところまで伸びており、どうやらこれを左右に動かして舵を取る仕組みになっているようだった。

 そういえば、いつぞやか観光に行った先で乗ったろ船(・・)の船頭が、このような長い舵を操っていた記憶がある。意匠どころか世界ごと違うが、仕組みとしては似たようなものだろう。

足元に何やらペダルらしき板が備え付けられているが、推進力は風とあの不思議な翅のオールで生み出すのだろうし、となればこれは何だろうか。

 

「おっと、はは、なるほどなるほど」

 

 まあ下手に弄っても爆発することはないだろうとペダルを手前に踏み込んでみれば、側面のオールが一斉に動き出してふわりと船体が浮き上がった。高さは地面から一メートルもないが、確かに浮き上がっている。おお、なんということだ。私は今、空飛ぶ船の上に立っているのだ。

 童心に返ったように、私は飛び上がって喜んだ。

 ペダルをさらに踏み込めば、船はその頭をぐいっと引き上げてぐんぐん上へと昇っていく。今となっては己の翼一つでもっと早く、もっと自由に空を駆けることができる我が身だが、空飛ぶ船で大空へ、あの青い大海原へと漕ぎ出すこの高揚感はそれに勝るとも劣らぬ素晴らしいものであった。

 そう、船体ががたがたと痙攣するように震えだす、その時までは。

 

「な、なんだっ」

 

 そこからはもう、あっという間だった。

 舵から手を放し、床下へと頭を突っ込み見たものは異常なまでに赤く熱を帯びた飛竜の珠と、溢れんばかりに光を放つ紋様の束。それはまるで、内側から溢れ出んとする何かを押し留めるようで。

 

「まずいっ」

 

 硝子のような音を立て、紋様に幾つもの亀裂が走る。

 手を伸ばす。

 何がどうなってこのような事態になっているのかは皆目見当もつかないが、あの珠が原因であることは火を見るよりも明らかだ。

 指先が、珠の表面を引っ掻く。

 であるならば、まずはこの珠を船から離さなければ。

 珠を掴む。

行儀よく丁寧にやっている場合ではない。私は勢いそのまま台座から珠を引っこ抜き、天井を突き破りながら空へと舞った。

熱い。まるで熱した鉄球を抱えているようだ。

足元で、力を失った船が泉へ向けて墜落していくさまが見える。嗚呼、私のような素人が迂闊な真似をしたばかりに。

 込み上げてくるものをぐっとこらえ、私はいまだ温度を上げ続ける熱球を島の外へ投げ捨てんと構え――

 

 閃光。

 熱。

 無音。

 

「なんとも、これは、まったく、参ったね」

 

 意識が暗転する。

私が最後に感じたのは身を打ち付ける土の硬さと、いっそ安らかともいえる抗い様のない眠気であった。

 



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希望へ

 

 迂闊だった。そう言わざるを得ない。

 全身泥まみれの埃まみれ。冷たい地面の感触を背に感じながらじわりと熱と痛みを帯びる頬を撫で、私は長く息を吐く。

 見上げた空は、いつもよりも少し狭い。

 どうやら右目が焼けたようだ。

 飛竜の炎を受けても焦げ目ひとつできなかったこの肌が、まさか己の馬鹿な行いのせいでこうも焼かれることになろうとは何たる皮肉か。

 ぼろぼろと炭化して崩れる、しかしその下から傷一つない新たな柔肌が覗く腕を天へ伸ばし、空を掴む。

 溜息。伸ばした手が力なく地へ落ちる。

 僅かに見えた、確かに手の届く場所にあった希望に目が眩み、その他のことをまるで鑑みることなく浅慮に走った。

 あの船は二十年の間、一度も火を入れられることなく過ごしてきたのだ。手入れこそされていたものの、それは簡単な清掃のみ。そこに先程まで生きていた飛竜の力の核とも言える物を捻じ込み、一息に大量の力を流し込めば悪い方にしか転がらないだろうことは子どもでも察せられることだった。むしろ、嵌め込んだ瞬間に船が爆発しなかっただけ私は運が良かったといえる。

 船はどうなっただろうか。

 泉に落ちたのならば、壊れはすれどもその形は保ってくれているだろうか。

 あれはあいつの、ウィリアムの形見とも呼べるものだ。私のような、こんな愚か者の行いで失うにはあまりにも勿体ない。

 反省すべきだ。そのような物を粗末に扱った点も含めて。

 しかし同時に学びもあった。

 空飛ぶ船があの珠、正確にはそこに満たされていた力、魔力によって動くことは間違いない。であるならば、後はそれを制御する技術、あるいは装置があれば今回のように暴走することなく動かすことが出来る筈だ。

 見つけてみせる、きっと。

 しかし、まずは慎重に。己がこの世界の技術に関して全くの無知であることを自覚し、ひとつひとつ積み木を積み上げていくように、針の穴を通すような正確さが必要だ。

 船はある。一隻だけではあるが、見るからに頑丈そうなやつが。

 あれならばウィリアムの船より機関部は大きく作られているだろうし、島から脱出するにしてもより多くの物資を積み込むことが出来る。

 

「その前に、まずは尻を拭かんとな……」

 

 ようやくいつも通りの景色を取り戻しつつある目を何度か瞬かせ、上体を起こす。ぐるりと辺りを見回せば、よほどの勢いで落ちてきたのだろう、地面は数十メートルに渡って抉れ、まるで隕石でも落ちたようなありさまだった。

 これはまた、この島にも申し訳のないことをした。

 しかしまあ、これはこれでまた埋め合わせておくとして、第一優先はあちら(・・・)である。

 翼を広げ、森の木々を縫うように走り抜けていった先には見知った泉の広場が、そしてそこに浮かぶ見知った、少しばかり姿を変えたあの小舟の姿があった。

 どうやら頭から泉に落ちたようで、細長いその胴体が三分の一ほどのところで二つに折れ、マストはひしゃげ、あれほど美しかった側面のオールも残っているのは約半数ほど。残りは根元から折れ、辺り一面に散らばっている。

 飛び散った破片が家畜たちに当たらなかったのは不幸中の幸いというべきか、いや、全ては私の愚かさが招いた事態。幸いだ等と、言葉の綾としても口にするべきではない。

 

「申し訳ない。馬鹿なことをした」

 

 今の私にできることは、手を合わせて詫びることぐらい。

 それから私は壊れた船体を泉から引き揚げ、散らばった部品を一つ残らず搔き集めた。竜骨ごとぽっきりと折れてしまっているので、恐らく修理することは不可能に近いだろう。

 しかし、だからといって打ち捨てるなど言語道断である。せめてその外見だけでも復元する為、それから数か月、私はこの壊れた船体を繋ぎ合わせ、折れたオールを元の位置へ納める作業に一日の殆どを費やすことになった。

 そうして不格好ながら小舟の修繕を終えた辺りで、新たな計画を進め始める。

 それはあの、今なお海岸に佇む巨大な元幽霊船を復活させようという、一見無謀な計画であった。

 しかしその実、成功する可能性がゼロかといえばそうではない。

 というのもあの船はこの島にやってくるまでは正常に動いていた。ということは、その動力が船に淀んでいた亡者たちの念というか、摩訶不思議な力によるものでない限りは、まだあの船は生きているということになる。

 さらに表面上の傷みや、私が龍に変じた際に吹き飛ばした箇所を除けば内部はまださほど劣化しておらず、今からでもしっかりと手入れをすればそれなりに立派な風貌を取り戻すだろうと、そう思える程度には保存状態がよかった。

 少しばかり、嵐の日に我が家が吹っ飛びかけた時にその床板を拝借したりしたのでところどころ虫食いのように穴が開いてはいるが、それはそれとして。

 早速私は海岸で眠る船に資材を集め、船体の修理を始めた。

 木材を切り出しては腐った床板を取り換え、苔むした箇所は鱗で削り、今にも折れそうだったマストは飛竜の骨と皮で補強する。

 そしてその巨体を動かす為の動力はやはり、三階層に分かれた船内の一番下、位置としてはウィリアムの船と似通った場所に備え付けられていた。しかしその台座はあれほど簡素なものではなく、その威容は我が目を疑うものだった。

 龍である。

 八角形の柱の上に、色あせた珠を咥えとぐろを巻く四つ足の龍の像が鎮座している。

 しかしその姿は私が見知ったあの二柱とは似ても似つかないものであり、全体的な造形はむしろ私が龍へと変じた際のそれに近い。

 

「はあ、こりゃあたまげた」

 

 間抜けな声を漏らしながら、私は己のうなじを揉み解した。

 ともあれ、さすがにこの場であの台座に飛竜の珠を嵌め込むような暴挙は犯さない。まずはあの珠に込められた力を制御することからだ。でなければ、間違いなく二の轍を踏む羽目になる。

 力の制御は、船の修繕を進めながら試行錯誤を進めていた。

 性質としてはやはり私の龍としてのそれに近いが、実際のところは細部が異なる。なんというか、飛竜の珠から取り出せる力は大雑把というか、粗い感じがする。

 洗練されていない。精製されていない。純粋ではない。そんな印象。

 故に、その扱い方も私が龍へと変じた際のそれとは少し異なる。少しの操作で、こちらが意図しているよりも大きな動きをする。こちらは一の力で動かしているつもりが、飛竜の力は三や四、六の動きをする。要するにめちゃくちゃ雑だ。はじめのうちはこのズレに感覚を合わせるところからだった。

 そうしてある程度自由に操れるようになり、ついには珠から水玉のような、あるいは赤い飴のような物質として取り出せるようになると、次第に私自身の力も精密に操れるようになった。しかしそれも当然の話で、癖だらけの暴れ馬を自由自在に操れるようになってしまえば、品行方正でお上品な馬など乗りやすいことこの上ないだろう。

 明らかに踏んでいく手順が逆な気がするが、むしろ私にとってはこちらの方がよかったのかもしれない。

 そうして珠の力を制御することに成功した私は、次に船の台座、その周りに彫り込まれた紋様の意味を、その流れを読み解くことを始めた。

 どうやって。それは文字通り、身体を張って。

 まず飛竜の珠からほんの少し、百分の一ほどの力を取り出す。そしてそれを爪先に浮かべて、船の台座へとそっと慎重にくべていく。

 そうすると力を取り込んだ一瞬、紋様が光を放つのだがそこにヒントがあった。

 私はてっきり台座を中心として船全体に行き渡るように光が広がっていくものだと思っていたのだが、どうやら紋様にもそれぞれ役割があり、それによって光り方に違いがあるようなのだ。

 まず船全体に広がったもの。これはわかりやすく船に動力を伝えるものだろう。

 それとは別に、台座の周りを囲むように掘られた紋様。よく見ればこれが他のものとは少しばかり意匠が違う。他は茨のような細長い何かが絡み合ったような形をしているが、これはいくつかに分かれた角がぶつかり合っているように見える。

 恐らくは、これが珠から伝わる力を制御するためのものなのだろう。

 試しに先程よりも少し大きな力を取り出して吸わせてみれば、この角の紋様は少し軋むような動きを見せた。

 

「なるほど、(パイプ)が細すぎるのか」

 

 試しに龍の力を操る要領で、紋様に手を加えてみた。イメージとしては蛇口を捻るような、ぶつかり合う角の感覚を広く取り、詰まって弾けないように、そこにより多くの力が流れるように調整する。

 そうしてもう一度試してみれば、今度は角同士が軋むような様子はなく、心なしか光り方も穏やかになったように見えた。

 なるほど、なるほど。どうやらこれが鍵になりそうだ。

自然と、私の口元には笑みが浮かんでいた。

 

「いいぞ、いいぞ。ようやく要領を得てきた」

 

 ようやく見えた一筋の光。手を伸ばしても掴めなかったそれはしかし、その伸ばした指先に絡まり、私は今まさにその絡めた糸を辿り始めていた。

 数年後、私はついにこの島を脱し、遥か彼方まで広がるあの大海原へと漕ぎ出すことになる。

 しかしまさか、希望に満ち溢れた筈のその旅路にあのような事態が訪れようとは、今の私には知る由もなかった。

 



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とある世界の片隅で

※私がどうしても差し込みたかった閑話的なお話です。
主人公以外の視点で物語が進みますので、飛ばして頂いても
物語全体に影響はありません。


 

 この世界には神に等しい、人類ではどう足掻いても抗いようのない絶対的な事象が存在する。

 龍。

 古来よりそう呼ばれ、時には信仰の対象にすらなるその存在は、これまで我々人類に数多くの試練を与え続けてきた。

 形を持った災害、あるいは人類に恵みを与える神の使いだという者もいる。

 確かに、とある記録では不毛の大地を一晩で緑豊かな肥沃な地に変えたと記されているが、俺からすればそれこそほんの些細な、一時の気紛れによるものではないかと、もしくは龍に()るものではない純粋な伝説、作り話なのではないかと思いたくなる。

 というのも、歴史上に時折現れるこの龍という存在はどれもが荒々しく、人に災いを振りまいたと伝えられているからだ。

 

――その恐ろしい(あぎと)から放たれる炎は街を焼き尽くし、巨大な翼は逃げ惑う人々を吹き飛ばした。嗚呼、神は何故このような試練をお与えになるのか!

 

 これは龍に滅ぼされた国の聖職者が書き残したといわれている書物の一節だ。

 その書物では徹頭徹尾、龍とは神が遣わした破壊の化身として扱われている。他の書物に関しても多少の差異はあれどおおよそ恐ろしいものとして、人類を害するものとされている点はどれも同じ。

 そういった背景から三百年ほど前から龍とは大昔の人々が嵐や干ばつ、疫病などの原因として作り出した、在りもしない空想上の存在だと思われていた。

 しかし近年、つまりは飛空艇に関する技術が進歩し、人々がこの大空を開拓し始めた辺りからその考えは覆されることになる。

 亜人。雲の向こうで出会った私たちとは似て非なる姿をした、私たちとは似て非なる文化、文明を紡いできた人々。

 彼らとの出会いは良くも悪くも、私たちの常識を覆すことになった。

 俺たちと違い千年の時を生きることが出来る彼らの中にはなんと、実際に龍の姿を見たという者が何人もいたのである。

 龍は実在する。

 そんな噂が実しやかに市井へ流れ始めた頃、とある冒険者の一団が持ち帰った一枚の鱗が国中を沸かせることになった。

 記録によると新芽のような美しい緑色をしたその鱗は、大人数人でようやく持ち運べるというぐらいに大きく、どんな剣でも傷付かず、どんな槌でも罅一つ入らなかったそうな。

 そして冒険者たちは口々に言った。

 俺たちは見た。嵐の中、島より大きな化け物の姿を。

 この鱗はその嵐の中、稲妻と共に降り注ぎ俺たちの船に大穴を開けたのだ。あれこそは伝説の龍に違いない、と。

 冒険者たちが遭遇したというその龍は後に『嵐を引き連れる者』、『島喰らい』、そして『狂飆(きょうひょう)の龍』と呼ばれた。

 あっという間にその逸話は国中に広がり、件の鱗は当時の王が国の宝として定め、今も王城の奥深く、王族しか立ち入れぬ秘密の蔵に収められているとかいないとか。

 そして冒険者たちは王より金銀財宝様々な褒美を与えられ、その中にはそれをきっかけに国一番の大商人にまで上り詰めたものまでいたという。

 鱗一枚にそこまでの価値があるのかと誰もが思うだろうが、それがまた数々の憶測を呼び、龍の鱗には金百枚を超える価値があるというところから始まり、やれその爪は金貨何枚だの、ならば牙ならば、目玉ならばと、今となっては龍といえば全身が宝の山であると、そんな出鱈目な話まで出てくる始末であった。

 勿論、その殆どは酒場の席で酔っ払いが語るような、枕元で幼子に聞かせるような夢物語として扱われたが、しかしそんな夢を追いかけるどうしようもない連中もいた。

 数多くの大馬鹿者たちがそういった与太話を信じ、一攫千金を夢見て大空の向こうへと旅立っていった。

 龍が本来、人々では抗いようのない災害であることを忘れて。

 俺の親父もそんな、救いようのない大馬鹿者の一人だった。

 妻も子も放り出し、龍という夢幻を追い求めた稀代のろくでなし。

 奴が連絡を絶ってから、はや二十年が経とうとしていた。

 

「おい、おい大変だ。大変なことが起こったぞ!」

 

 その時、我が家の今にも音を立てて崩れそうな頼りない扉が勢いよく叩かれ、見知った顔の男が泡を吹きながら転がり込んできた。

 ひょろりとした手足に赤毛のぼさぼさ頭。瓶底のような眼鏡をかけたこの男の名はフライデーという。

 なんとも情けない、気の弱そうな外見の彼ではあるが、こう見えても立派な航海士であり、そして俺がガキの頃からの友人でもある。

 

「フライデー。転がり込むのは勝手だが、扉の蝶番(ちょうつがい)が外れたら自分で直せよ」

 

 読みふけっていた書物を閉じ、これ見よがしに溜息を吐いてみせたものの、友人の顔色から尋常な要件ではないことだけはすぐに理解できた。

 

「ああこの唐変木め。そんな呑気なことを言っている場合じゃないんだ。ウィリアムさんの、君のお父さんが見つけられるかもしれない!」

 

 慌てて起き上がり、一息に捲し立てられたそんな友の言葉に、俺は息を吞んだ。

 がたりと音を立て、腰かけていた椅子が床に転がる。

 

「冗談、じゃあないみたいだな。しかし(にわ)かには信じられん。親父が消息を絶って二十年、まるで手掛かりすら掴めなかったんだぞ」

 

 あの日のことは、今でもはっきりと覚えている。

 二十年前、俺の父親であるウィリアムが率いる冒険者たちの一団が、とある空域で突如として消息を絶った。

 冒険者とは、まだ誰も発見していない未開の島を見つけ出し、そこに眠る資源や隠された財宝などを持ち帰ることを生業とする者たちの総称だ。しかし親父の場合はそこに『龍の探索』などという馬鹿げた話が加わってくる。

 

――なあ、龍というのはそれはもう、この世のどんな宝石よりも美しい姿をしているそうだぞ。

 

――なあ、龍というのはそれはもう、この世のどんな生物よりも力強く、ありとあらゆる魔法を自由自在に操るそうだぞ。

 

――いつかお父さんが、本物の龍を見つけてやるからな。

 

 ガキの頃、俺は親父がそうやって身振り手振りで語る龍の話が大好きだった。

 いったいどんな姿をしているのだろうか、と。

 いったいどんな不思議な力を操るのだろうか、と。

 いつしか、夜が更けるまで龍のお話を聞かせてくれとねだる俺を、母さんが力ずくで寝かしつけるところまでがお約束となっていた。

 そんな風に、幼かった俺が夢中になってしまうぐらい、親父の龍に対する熱意は凄まじかった。

 そして、いつかその夢が現実になるのではと、あの男ならば本当に龍を見つけ出してしまうのではと、そう思わせるほどの実力と実績を、ウィリアムという冒険者は持っていた。

 そんな一流の冒険者が、一切の消息を絶つ。

 きっと奴は龍に食われちまったんだ。

 誰かが言ったそんな言葉が、まだガキだった俺の心には強く、深く刺さった。

 馬鹿な。あの、あの素晴らしい冒険者ウィリアム・セルカークがそう簡単にくたばるものかと、きっといつか平気な顔をして帰ってくる、そしてまたあの無邪気な笑顔で龍の物語を聞かせてくれると、俺はひたすら港で親父を待ち続けた。

 しかし、何年経っても親父が帰ってくることはなかった。

 俺が成人した時も、母が病で倒れた時にも、そして葬儀の時にさえ。

 俺の中でウィリアムという男が『夢を追い求めるかっこいい父親』から、『夢を追って母と子を残し消えたろくでなし』に変わるまで、そう時間はかからなかった。

 だから、いつの日かそんなろくでなしを見つけ出し、一発ぶん殴って母の墓前に引きずり出してやると暇を見ては親父の足跡を辿っていたのだが、まさか二十年経って突如としてその機会を得られるとは、思ってもみなかった。

 

「聞かせてくれ、いったい何があった」

 

「先日、未開の空域から巨大な魔力反応が感知されたんだ。はじめは嵐か何かを誤認したと思われてたんだが、詳しく解析してみたら驚くことに古い型の魔力炉の反応に極めて近いということがわかったんだ。これが組み込まれていたのは三十年前に製造された特定の小型船だけ。一人乗りで航行距離もそう長くはない代物だったけど、これを救命艇代わりに取り付けていた飛空艇がひとつだけある」

 

「親父が乗り続けていたセントクルーソー号か」

 

 友は何度も何度も、高ぶりを抑えられない風に小刻みに頷いてみせた。

 

「残念ながらそっちの反応はなかったけど、今でも時折、別の飛空艇らしい魔力炉の反応が見つかってる。ウィリアムさんかどうかはわからないけれど、きっと何か新しい発見はあると思う」

 

 聞けば、その反応は移動することなく一か所に留まり続けているらしい。ということは停泊している、浮島がある可能性が高い。ならば、少なくとも新しい資源は持ち帰ることが出来るか。

 

「距離はどのぐらいだ」

 

「島自体は流れてもいないし座標もしっかりしているけれど、そうだな、ざっと三十日は見ておいた方がいい」

 

 三十日。決して楽な航海にはならないだろうが、賭けてみる価値はあるか。

 

「よし、手配してくれ。なるべく屈強で、場慣れした連中がいい」

 

「それなら、いつものところに声をかけてみるかい?」

 

 思わず、声が詰まる。

 たしかにあの冒険団なら、あの連中ならばその実力は確かなものだが。

 悩む。

 確かなのだが、しかしそれとは別に悩みの種が多すぎる。

 

「良い人たちだと思うよ。ちょっと変わってるけど」

 

「ちょっとではないだろう、あれ(・・)は」

 

 苦手なんだよなあ。特に親分が。

 悩む。悩む。

 そうして唸ること数分。

 

「ああもう、仕方がないか。頼んだ。報酬はいつものように」

 

「うん、頼まれた。それじゃあ皆を集めてくるから、それまでにしっかり準備しておいてね、シエラ船長(・・・・・)

 

 瓶底眼鏡を指先で押しあげながら、フライデーはそう言い残して我が家を後にする。

 きいきい、きいきい、壊れた蝶番の音を聞きながら、俺は一つ溜息を吐いた。

 

「さて、それじゃあ行きますか。待ってな大馬鹿野郎、今にその尻を蹴り上げてやるからな」

 

 壁に掛けてあった剣を腰に差し、俺は友の後を追う。

 しかしまさか、クソ親父の背中を追って始めたその旅路にあのような事態が訪れようとは、今の俺には知る由もなかった。

 




以降、色々と詰め込んでいきます。


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月と共に歩む者

お待たせしました。


 

「があっ!」

 

 吐き出した熱線が飛竜を逆袈裟に切り裂く。臓物をまき散らしながら落ちていくそれらを眼下に、私は黒煙混じりの溜息を吐き出した。

 船の修繕を始めて、五年が経った。

 作業自体は実に順調である。元々そこまで大きな破損があった訳でもなく、三年経った頃には海に浮かべても問題がないぐらいには船としての機能を取り戻していた。

 問題はやはり力の制御と、船に施された細工の理解。これをある程度習熟する為にさらに二年を費やした。

 予想していたよりもかなり時間はかかってしまったが、失敗することは即ち死を意味する今回の試みに対して、どれだけ準備をしようとも大袈裟ということはないだろう。

 そうして島での生活が二十五年を迎えた今年であるが、今は船へ積み込む食料の用意と家畜たちを収容する為に船の中をちょいと手直ししている最中である。

 何せ次の島を見つけるまでどれぐらいの時間がかかるのか、それがまるでわからないので積み込めるだけ積み込むつもりではいるが、それでもひと月ほど保てれば良いほうだろう。

 その内容としてはまず干し肉と魚。島での生活においてはこの二つが最も馴染み深い。そして米粉に塩を加えて焼いた堅パンと呼ばれる、ビスケットのようなもの。これは別名をハードタックといい、保存が利く代わりにべらぼうに固い。その固さから、とある軍隊の兵士からはアイアンプレート、つまりは鉄板と呼ばれ嫌われていたほどだ。

 しかしまあ、例え鉄板のように固くとも私の顎であれば何ら問題はない。むしろ程よい噛み応えでスナック菓子代わりに重宝している程である。

 ちなみに我が島随一の悪食を誇るごんの一族にこのハードタックをお裾分けしてみたことがあるのだが、すこぶる評判が悪く四方八方から抗議の視線を向けられる結果になった。解せん。

 あとは水。これはもっと短い。恐らくは三日か四日。

 島を発つのは気候が穏やかになる春先を予定しているのだが、まだ肌寒い頃であっても生水というものはそう長持ちするものではない。

 その代わりに用意しているのが蜂蜜酒や口噛み酒。より日持ちする蒸留酒が欲しいところだが、これがまた、蜂蜜酒を利用して何度かやってみたがなかなか上手くいかない。とはいえ飲み水の確保は最重要課題であるので、これに関しては数年以内に解決する必要があるだろう。

 しかし口噛み酒。そう、口噛み酒だ。これに関して私は、致命的な過ちを犯していた。

 それこそ、これらの発酵をあろうことか納豆と同時に、同じ場所で行っていたという信じがたい愚行であった。

 納豆を作るうえで欠かせない納豆菌は自然界に存在する微生物の中でも最強とまで言われ、その乾燥や熱に対する耐性は勿論のこと、何よりも厄介なのがその繁殖力。その強さはなんと、一個の納豆菌が十六時間で四十億個にまで分裂、増殖するというのだから凄まじいの一言に尽きる。

 そしてそんな繁殖力の強さが、ほかの菌類、酵母菌やイースト菌の生育を妨げてしまう。なにせたった一つからでも爆発的に増える代物だ。さらに納豆菌は百度の熱にも耐えるほどの耐性を持っているのでちょっとやそっとでは死滅しない。醸造を行う酒蔵などでは、発酵中のお酒が全滅してしまう可能性があるため、納豆との接触を禁止している程である。

 つまりそんな代物を同じ場所で管理していた為に、口噛み酒の完成には少しばかり時間がかかった。

 何故うまく発酵できないのか、その原因を食いながら美味い美味いと舌鼓を打っていた当時の自分をぶん殴ってやりたい。

 そんなこんなで船の改造や食料の確保、動植物の積み込みにさらに三年かかった。

 準備期間だけで八年である。

 しかし、ついに明日の朝、私はあの大空へと旅立つのだ。

 夜空に輝く二重の満月を眺めながら、私は両手を強く握りしめた。

これだけしっかり準備したのだ、もはや万が一にも失敗は許されない。

 大柄で大食な富士たち牛もどきは残念ながら連れていけない。今回の旅では、余分な物資を積み込むほどの余裕はない。しかし鶏たちはこの準備期間で少し多めに繁殖させて、その数を増やしておいた。彼らは船の食料が尽きた場合の頼みの綱だ。飼料が少なく済み、繁殖力も強い鶏は最強の保存食といってもいい。

 それも尽きたらいよいよ飛竜の皮でも齧る必要が出てくるが、今はただ、そんな事態にならないことを祈るしかない。

 気になるのはここ数年、飛竜たちの襲撃が増えてきていることだ。今のところその戦力が脅威になることはないが、それなりの数で船を囲まれると守り切れない可能性がある。最悪の場合は、龍の姿となって力を振るう必要があるかもしれない。

 そして、そう、気になることといえば、この島の住民として忘れてはならない彼ら、ごんの血を引く狸たちのことだ。

 彼らもまた富士たちと同様、この島に残ってもらうことになる。前述のとおり食料諸々の事情もそうだが何より、船の食料が尽きた時に彼らまで食ってしまいそうで怖い。

 なに、そもそも彼らは元々この島で暮らしていた種族だ。私がいなくなってもうまくやっていくだろう。

 

「あ、そうだそうだ、忘れるところだった」

 

 最後の荷物を積み込んだ後、私はぽんと手を叩いた。駆け足で戻っていったのは長年世話になった小屋の中、戸棚の上に飾った一輪の花。

 そう、あの洞窟で見つけて以来、ずっと傍に置いていた水晶の花である。

 あれがつい先日、ついにその(つぼみ)を開き始めたのだ。

 月明かりに照らされながら、私は泉の傍でその蕾を覗き込む。その開きかけた花弁の間からはきらきらと何やら雪の結晶にも似た光の粒が零れ落ちている。

そのなんとも幻想的な姿に見入っていたその時、変化は訪れた。

蕾が一度ぶるりとその身を震わせたかと思えば、じわりじわりと花弁を押し広げ始めたのだ。

 

「おお、ついに来たか!」

 

 思えばあの洞窟の奥で出会い、狂飆(きょうひょう)の奴からただただ育てるように言われて二十年と少し。花を咲かせるまでこれほどの時間を要する植物など聞いたこともなかったが、毎日手入れを欠かさなかった努力がついに、ようやく実を結ぶ時が来たのだ。

 押し広げられた花弁から、光が漏れる。

 白い雪のような、いや、これは月の光だ。柔らかで人の心を包み込むような優しい光が溢れている。

 そうしてついにその頭が持ち上げられ、大輪の花が開く。

 それと同時に、かっと、目も明けていられないような眩い光が辺りを白く染め上げる。

 真夜中の、月明かりしか照らすもののない森の中である。抗うことなど出来る筈もない。

 そうしてどれぐらいの時が経っただろう。

 森の中に再び静寂が訪れた頃、私の目の前には思わず目を疑いたくなる光景が広がっていた。

 人である。

 真っ白な、お月様に型を押し当ててくり抜いたような、美しい少女であった。

 二つに束ね、それでもなお足元まで伸びる月の光を編み込んだような髪。

 処女雪のように儚げな肌。

 触れただけで砕けてしまいそうな肩からは、水晶のようなドレスが吊り下げられていた。

 そしてその後ろには、花弁にも似た半透明な翼が四枚。

 何より驚きなのは、その大きさ。

 私の両手ですっぽりと覆い隠せそうなほど、その少女は小さかったのだ。

 この島で暮らしてから驚かされることばかりだった私であるが、これには腰を抜かすかと思った。

 

「これはたまげた。妖精、なのか」

 

 そう、それはおとぎ話に登場する妖精そのものであった。

 しかしなぜ、妖精が花の中から現れたのか。狂飆の奴はこのことを知っていたのか。

 頭が混乱する。大事な旅立ちの日の前だというのに、私の頭は彼の龍が巻き起こす嵐の中に放り込まれたようなありさまだった。

 右往左往する私をしり目に、妖精はその長い睫毛を震わせて、ゆっくりと瞳を開く。露わになったのは吸い込まれるような、星空を映し出したような美しい瞳。

 そしてほんのりと朱に染まった、私の爪先ほどしかない、しかし果実のように柔らかな唇がゆっくりと言葉を――

 

「おっそいのよ、このおたんこなす!」

 

 目の前に突如として現れた小槌が、強かに私の頭頂部を殴打した。

 

「あいたーっ!」

 

 それは正しく、意識の外からやってきた衝撃だった。二重の意味で。

 おたんこなす。

 聞き間違えであってほしいが、まさかこの妖精、おたんこなすと言ったか!

 

「何十年もたらたらだらだら、呑気にやってんじゃないわよまったく。次の代(・・・)まで出てこれないかとひやひやしたわ!」

 

 何だろうか、この、あの、何だろうか。

 先ほどまでの幻想的な雰囲気を、利子をつけて返してほしい。

 私の中の妖精像が、音を立てて壊れていく気がする。

 しかし彼女はどうやら私と、正確には私と同じような者と面識がある様子。何やら誤解があるようだが、少なくとも敵意はないようだ。

 開口一番、頭は叩かれたが。

 

「待て、待ってくれ、まずは落ち着いてくれないか。遅いだの、次の代だの、どうにも話が見えてこないのだけれど」

 

 私の言葉に、勢いよくがなり立てていた妖精さんの動きが止まる。そして怪訝そうにその瞳を歪めた後、私の鼻先まで飛んできてこちらの瞳をじっと覗き込んだ。

 私が何事かと固まっていると、今度は盛大にため息を吐き、何やらぶつぶつと呟き始めた。

 

「おい、何かあったのかい」

 

「だあーっもう!」

 

 何か良からぬことでもあったのかとその顔を覗き込んだ途端、妖精さんは突如としてその長い髪を振り乱しながら金切声をあげる。そしてまた私の鼻先まで飛んでくると、垂れ下がった前髪をむんずと掴んで抗議するように前後へ振り回し始めた。

 

「何にも継承できてないじゃないあんぽんたん! だから拾い物の魂なんて上塗りするもんじゃないって言ったのに、そりゃあ私を起こすのに時間がかかるわけよ!」

 

「あの、とりあえず、相当に込み入った事情があるのは察するが、お前さんは何者なんだい?」

 

 その時彼女が浮かべた表情を、なんと表現するべきか。

 呆れ、悲しみ、憐憫、それらをない交ぜにしながら、仮面の下に押し隠したような、そんな表情。

 まだ彼女の名も知れぬ私であるが、それでもなお、私の何気ない一言が彼女を傷付けたのだろうと察せられる程の、一瞬の変化だった。

 

「ルールーよ」

 

 たった一言、そうぶっきらぼうに口にされた名前を聞いた途端、私の心の奥底で、じわりと広がる温かく穏やかな感情。

 そっと胸に手を添えて、私はそれを懐かしむ。

 

「シエラと、そう名乗っている。何やら期待を外してしまったようだが、どうか仲良くしてやってほしい」

 

 そうして伸ばした私の指を見て、少女はため息を一つ。

 

「変な名前ね、まあいいわ。成ってしまったものはどうしようもないし、私の役目が変わるわけでもないし」

 

 その指を妖精の、ルールーの小さな掌が包み込む。

 

今回も(・・・)宜しくしてあげるわ。感謝しなさいよねっ」

 

 そうして、島の生活に新たな仲間が加わった。

 ルールーという名の、小さくも美しい少女が。

 何やら私の、私となる前の龍に関しても詳しいようであるし、彼女の存在はこの世界で、この島で生きていく上で何よりも得難いものとなるだろう。

 そう、この島で生きて――

 

「あ、そういえば明日の朝にはこの島から出ようと思っているのだけれど、君は何か食べ物が必要だったりは――」

 

「ばっかじゃないのー!!!」

 

 妖精の叫び声が再び、島中に響き渡った。

 




ようやく出したかったキャラを出せました。
二十八年目に入ってるのでタイトル詐欺ではない!


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最後の試練

お待たせしました。


 

 朝が来た。

 旅立ちの朝だ。

 見渡す限りの青い空には雲一つなく、私の旅路に立ち塞がるものは何もない。

 正しく処女航海に相応しい、そんな朝。

 

「もう一度言うけど、本気で島を出る気なのね」

 

 甲板の上、舵輪を前に両手を広げ、吹き抜ける涼風に頬を緩める私の肩で妖精の少女、ルールーが呆れ顔でため息を吐いた。

 彼女は月の妖精であり、月の龍に付き添う眷属のような立ち位置にあるらしい。そしてその月の龍というのが私であり、私の本質というか、本来の在り方らしかった。

 どうやら彼女は私が私となる前、つまりはこの地球育ちの爺がこの身体に宿る前の私と面識があり、それなりに親しい間柄であったようなのだが、それについてあまり詳しく語ろうとはしない。

 教えられたのは、月の龍というのがどうやら生と死、そして魂の巡りを管理する役割を担っていたということ。そして以前の私は全く変化のない日常に、世界に飽いていたということ。

 辟易した末にこの世界を変革する為、この世界とは全く異なる理で生きた魂を呼び込み、己の身に取り込んだ、ということ。

 彼の龍が、以前の私が何を思い、何を憂い、何を願い私にこの身を任せたのか、その真意は定かではないが、今の私は龍と人の魂が複雑に絡み、溶け合っている状態なのだという。主導権が地球から来た私にあるのは、数千、数万という悠久の時を生きた龍の記憶を私の、人間の魂では受け止めきれないから。

 あえて記憶に鍵をかけ、私という人間の記憶だけを残すことで魂が砕け散ってしまうのを避けたのだという。

 何やら、不思議な気分だ。

 つまり私という、地球で生きた――という人間は確かにその天寿を全うし、そして生まれ変わったのだ。しかしその生まれ変わりも輪廻転生、巡り巡ってというよりは横から掠め取られて無理矢理与えられたような、そんな歪な形。

 正常に巡ればまた地球のどこかで新たな、無垢な魂として生まれていたような、そんな流れの中から奪われた、無造作に掴み取られた魂が私なのだ。

 不思議な気分だ。

 恨みや怒り、悲しみなどの感情は傍からなく、感謝というには少し足りない、そんな不思議な、ふわふわした気分だった。

 何せ魂だとか、異世界だとか、常人として生きて死んだ私にとってはあまりにも理解の外。そんなところの話をされたところで、ああ、そうですか、ぐらいの感想しか浮かんでこない。

 とにかく私はこの世界に二度目の生を受け、なんやかんやで龍として生きなければならない。

 それだけわかれば十分だろう。

 そも、人とは元より何故生まれ、何故生きているのかを考えながら死んでいく生き物である。これぐらいで丁度よい。

 

「本気も何も、島を出るというのはそんなに悪いことかい。私は外の世界が見たい。この世界をもっと見てみたい。前の私やお前さんはもう飽きるほど見てきたのかもしれないが、今の私にとってこの世界はまだ初めてのことばかりなんだよ」

 

 潮風にさらわれた髪をかき上げながら、私はにっかりと笑ってみせる。もっとも、ルールーがこうも口酸っぱく言う理由もわからないでもない。何より、それは私が今の今までこの島を出なかった、出られなかった理由でもあるのだ。

 この島から一定の距離まで離れると、私は龍としての力の多くを失う。

 今となっては墜落しかけることも無くなったが、それこそ龍の力を扱えるようになる前はろくに翼も扱えなくなるほどだったのだ。しかしそれも、度重なる訓練と力の覚醒のおかげでそれなりに、万全の十分の一、いや百分の一ぐらいは、島から離れても力を振るえるようになった。

 今回の船出を決めたのは、そういった変化もあってのことなのだ。

 まあ、いい加減に一人でいることに堪えられなくなってきた、というのが正直なところではあるが。

 

「まあ、アンタがそうしたいならそうすれば? それでこそ(アンタたち)らしいのでしょうし。でも、どうなったって私は知らないからね」

 

「はは、まあ、もしも野垂れ死にしようものなら、墓石に大馬鹿者とでも刻んでおいてくれ。さてさて、それじゃあ行くか!」

 

 むくれ顔で頬杖をつくルールーにそんな軽口を叩きつつ、私は広げた両手に力を、魔力を漲らせる。

 船の心臓に火が灯り、巨大な船体の隅々にまで大小様々な文様が光の尾を残しながら走り抜けていく。

 軋む。マストが揺れ、船全体が大きく息を吸い込むように身をよじった。

 行け。

 浮け。

 動けっ!

 

「さあ、目覚めろ!」

 

 船体が浮かび上がる。

 床板が軋むような唸り声をあげ、船体に取り付けられたプロペラが降り積もった砂を振り払いながら回り始めた。轟々とうねるその音はやがて甲高い風切り音となり、足元の海面にいくつもの白波を作り始める。

 

「おお、おおっ、やったぞ!」

 

 翼をばたつかせ、尾を振り回しながら私はその場で飛び上がった。

 成功だ。ついに、ついに私はやり遂げたのである。

 手元の舵輪を握り、そこに走る紋様を操れば船はその高度をぐんぐん上げ、あれだけ大きかった島はあっという間に私の手のひらに収まってしまうほど小さくなってしまった。

 森の中にぽっかりと開いた泉の傍に、今まで散々世話になってきたあの逞しい大樹と小さな小屋が見える。

 もうすっかり小さくなってしまったそれを見下ろした時、私の胸の中に筆舌に尽くしがたい情動が大挙して押し寄せてきた。

 二十八年。

 二十八年である。

 それだけの長い時をあの島で、あの場所で過ごしてきた。

 これから私を待ち受けるであろう未知なる世界。そこへ進み出すことに一片の迷いもない。しかし住めば都とはよくぞ言ったもので、文明のブの字すらなかったあんな無人島であっても、数々の苦難を乗り越えた後となってはそれなりの愛郷の念も湧こうというものであった。

 今までお世話になりました。

 言葉にすることなくそう念じ、じわりと滲んだ光景を拭い去って私は前を向く。

 目の前には清々しいほど青く、どこまでも広がる美しい大空が広がっていた。

 

「よし、それでは行こうじゃないか。面舵いっぱーい!」

 

 舵輪を回し、船が頭を振り始める。

 風が流れていく。

船と並走するように海鳥たちが歌い、穏やかな陽の光を受けながら、足元でころころと太った毛玉が心地よさそうに腹を見せていた。

 そう、毛玉が。

 毛玉。

 

「おい」

 

 いつの間に紛れ込んだのか。ご先祖様に似てふてぶてしい顔立ちをした毛玉を拾い上げて睨みつければ、当の本人は何のことかと間の抜けた顔を晒すばかり。

 

「あら、可愛らしい子ね。荷物に紛れ込んできたのかしら」

 

 頬がひくつく。

 ルールーはこんな呑気なことを言っているが、あのごんの子孫でここまで血を濃く受けついた個体であれば、そんな理由で島を離れる船に乗り込んでくる筈がない。

 大方、私についてきたほうが美味しい思いができると踏んだか、あるいはただただ、リンゴが詰め込まれた木箱でだらだらごろごろしていたら船が出てしまったとか、その辺りであろう。

 島に戻そうにも出発してからもう随分と時間が経っているし、この分だと何度連れて帰ってもあの手この手で乗り込んで来ようとするだろう。そこでかかる時間、手間を考えれば、いっそのことこのまま連れて行ったほうがまだ楽かもしれない。

 ため息。

 餅のような手触りの頬を摘み、にゅっと伸ばしてみる。

 

「まったく、似なくていいところばかり似おってからに……」

 

月の龍(アンタ)にここまで懐くなんて、この子たちの祖は随分と(したた)かだったのね。どちらかといえば妖精(わたし)に近い、精霊の類だったのかもね」

 

「そんな馬鹿な」

 

 あの唯我独尊を地で行くような毛玉が精霊なら、今頃は島中が精霊だらけになってしまう。いや、たしかに野生動物とは思えないような賢しさはあったが、しかしあれはどう見ても狸であったしなあ。もしかすれば、化けるぐらいのことはできたのかもしれない。

 とにもかくにも、着いてきてしまったものは仕方がない。こうなったらもう、早いこと人が暮らす島を見つけて腰を落ち着けるしかないだろう。

 遊んでくれとせがむ様に腕の中で身じろぐ毛玉を見やり、またため息。

 刹那。

 予感。

 寒気。

 頭のてっぺんからつま先まで、まるで雷に打たれたような強烈な痺れが走り抜けた。

 それは直感。私の奥底に根付く、龍としての第六感によって与えられた数秒の猶予。

 抱えた狸をそのままに、普段の数十倍は緩慢な、まるで空気が水飴にでもなってしまったような濃厚な時間の中で私はルールーに手を伸ばす。

 端正な顔立ちがゆっくりと驚愕の表情に変わっていくさなかでその細い体をむんずと掴み、二人まとめて胸の中に抱え込んだ。

 背後、遥か頭上よりこちらを押しつぶさんばかりの圧が迫る。

 足に力を籠める。

 床板を踏み抜かん勢いで、後のことなど考えず己の直感が告げるままに私は船から身を投げた。

 執行猶予は、残り何秒か。

 その間に何度羽ばたける。もはや龍としての力が弱まり始めたこの身体で、いったいどこまで飛んでいける。

 一つ。

 風を掴み、少しでも距離を稼ぐために大きく、大袈裟なまでに翼を振るう。

 二つ。

 船が離れていく。しかしあれは私が離れようと勝手に沈むことはない。

 今はただ、掛け替えのないあの船が傷付かないように。

 三――

 

 世界から音が消えた。

 耳鳴り。

 胸の中で、ルールーが何やら訴えている。

 背中が、熱い。

 翼が動かない。

 龍の姿に、龍に変じなければ。

 嗚呼、駄目だ。

 力が、薄れていく。

 最後に見たのはこちらに覆いかぶさる巨大な影と、鱗に覆われた大きな足と鋭い爪。

 閃光が奔る。

 眩い、しかしどこか優しい光を浴びながら、私は青く深い空の底へ、黒煙に巻かれながら墜ちていく。

 どこか遠くで、私を呼ぶ誰かの声を聞いた気がした。

 

 




少し詰め込みました。
次回、あの人たちが再登場します。


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運命の出逢い

お待たせしました。


 

 飛空艇『輝ける白鳥号』は、マスティアラ王国で活動する『黒薔薇冒険団』が所有する、船尾の辺りから左右に張り出した白い翼と、船首に取り付けられた鋭い衝角が特徴的な高速飛空艇だ。

 それを操る冒険者たちも鍛え抜かれた強者(つわもの)ばかりであり、冒険者、飛空艇乗りと聞けば野蛮な荒くれ者を連想するものだが、この一団に限ってそれはない。

 それは長く続く団の歴史の中で洗練されたものであり、そして団長でもあるシャルルの強い拘り、信念によるところが大きく、粗野な口調でがなり立てることはあっても、その統率が取れた動きは騎士団のそれに近い。

 実際、彼らの積み上げてきた実績は凄まじく、数々の新素材や亜人族の発見、交流、さらには他の島々とのいざこざの仲介役を買って出たりと、王国内で黒薔薇の名を知らない冒険者はいない、と言われるほどの実力者集団である。

 だからこそ、俺自身も数ある冒険団の中で最も信を置いているし、今回の冒険も彼らでなくては決して成しえないであろうという確信があった。

 そしてそんな俺の直感は正しかった。

 

「強い力を、感じます」

 

 甲板で風を受ける俺の背後で、黒い外套を纏った細身の女がそう呟いた。

 編み込まれ、背中に垂れる長い黒髪。白い肌。すっと通った鼻筋。正直、同性の俺でさえ羨む美貌の持ち主であるが、その両目は呪いの刻まれた麻布で塞がれている。

 彼女はアイビス。この船において最も重要ともいえる風読み(かぜよみ)であり、船をより最適な航路へ導くことを役目とする彼女は、誰よりも風の流れや変化、そしてそこに含まれる魔力の探知に優れていた。

 そんな彼女の一言で、男たちが慌ただしく行き来する甲板上にひりつくような緊張感が走る。

 

「魔物か、あるいはそれに近しいものです。しかし、その近くに別の、これは、今まで感じたことのない力です。これはいったい……」

 

「何だかわからないが、ヤバいのが近づいてるってことだろう。目的地が近いってのに、参るねまったく」

 

 辟易しつつ、腰の剣に指を絡ませる。

 港を出て二十と六日。これまで魔物や空賊の襲撃にも、嵐にさえ当たらずここまで来たが、どうやら快適な船旅もここまでのようだ。

 

「避けられそうか」

 

「航路、風向きからして難しいかと。気配遮断の魔法を使います」

 

 アイビスはそう言うと、懐から龍の意匠が刻まれた杖を取り出し、頭上に掲げて何節かの呪文を唱えた。杖の先端、龍の頭に嵌め込まれた赤い宝石が淡い光を放ち、船全体を覆っていく。

 やがて外套をはためかせていた風がぴたりと止み、辺りが雲に覆われたように薄暗くなる。いや、実際に雲に覆われているのだ。船自体を流れる白雲と同化させ、外敵から身を隠す。それこそが気配遮断の魔法の効果であった。

 

「これでしばらくは誤魔化せるかと。私は団長へこのことを報告してきますので、シエラ様は引き続き見張りをお願いします」

 

「ああ、任せてくれ。いざとなれば戦える奴を何人か借り受けるよ」

 

 そうして彼女を見送った後、薄く張られた雲の向こうへ目を向ける。

 何かいる。雲の向こう、僅かに赤くなった空の果てに。

 

「まったく、もうすぐ日も暮れるってのに勘弁してくれよ」

 

 もしも相手が魔物の類だった場合、完全に日が暮れてしまえば夜目が利かないこちらが不利だ。勿論、魔物の中にも夜目が利かず日中しか動かない奴もいるが、この時間帯に空を飛び回っている時点でその可能性は低いだろう。

 頬がひりつく。まるで烈火の向かいに立っているようだ。しかし何だろう、身を焦がすような炎の中に、凪の中にいるような安らかさと穏やかさが混ざっている。

 俺自身、色々な島を巡って様々な亜人、魔物を目にしてきたがこんな感覚は初めてだ。

 雲の向こうにいるのは本当に魔物なのか。

 魔力を感じることに長けた魔法使いや、アイビスのような風読みであればより詳しく感じ取ることができるのだろうが、素人に毛が生えた程度の俺ではどうしても大雑把な感覚しか掴めないでいた。

 ともかく、備えはしておいた方がいいだろう。

 

「おいアンタたち、何だかわからないがヤバいのがいる。魔法が効いているうちは見つかることはないだろうが、念のため砲の準備を――」

 

 俺が船員たちにそう指示しようとしたその直後、空が火を噴いた。

 大空が赤く染まり、耳をつんざく爆音が船体を大きく揺らす。

 

「な、なんだっ!?」

 

 甲板上の男衆がにわかに騒ぎ出す。(ひさし)にした指の向こうでは、樽いっぱいの火薬が炸裂したような黒煙が立ち昇っていた。

 だが俺の目を引いたのはその黒煙の向こう。目を凝らさなければ捉えられないであろう雲の隙間に微かに見えたそれ。

 あれは、飛空艇か。

 雲に隠れるほんの一瞬ではあったが、あれはたしかに船の尻だった。

 俺たちの他にも、この空域を飛んでいた連中がいたのか。しかしそれにしては気配を感じさせなかったし、風読みであるアイビスも気が付いていないようだった。

 こちらと同じような気配を消す魔法を使っていたか、あるいは――

 そうして雲の向こうに消えた船に思考を巡らせていた俺の頭上で、今度は夕闇を吹き飛ばすような閃光が(ほとばし)った。

 船体を隠す雲の向こうからでも目を焼かれそうな光だ。現に甲板にいた百戦錬磨の戦士たちの中には、その閃光を直に見たせいで苦しそうに頭を抱えている者も何名かいた。

 謎の爆発の次は、謎の閃光。次々と襲い掛かってくる異常事態の中にあって、それでもそれぞれの持ち場へ向かい武器を構えるその様は流石は『黒薔薇』といったところか。

 しかしそれでも、三度襲い掛かってきた、いや飛び込んできたそれには全員が己の目を疑い、呆気にとられてしまった。

 

「何か落ちてくるぞ!」

 

 甲板にいた男の一人が叫んだ。

 指差した先には黒煙から飛び出し、今まさにこちらへ向かって落下してくる何かの影。

 そこからはもう、あっという間。

 慌ただしく指示を出し、甲板を走り回る団員たち。中にはそれを撃ち落とさんと弓を射る者もいたが、放たれた矢がそれを貫く前に不思議な光の膜に受け流されてしまい、まるで効果がないようだった。

 時間にして十数秒余り。

 身を隠す薄雲を突き破り、とうとうそれは甲板のど真ん中へと着弾した。分厚い床板にいくつも罅を入れながら、二度三度と跳ね回った後ようやくその動きを止める。

 そうして男たちが手に手に武器を持ち、俺自身も腰の剣を引き抜いていまだ黒煙を上げるそれに切っ先を向けていると、誰ともいわずあっと声をあげた。

 

「女、女だ!」

 

「亜人の女だ!」

 

 誰が予想できただろうか。

 空から落ちてきた何か。煙が晴れたそこに横たわっていたのは、まだ年端もいかないような幼い少女だった。

 日に焼けたような褐色の肌に、銀色の髪。細い手足。やけに肌を晒した服を着ているが、年中暑苦しい島に暮らしている民族も似たような恰好をしていたので、それはあまり気にはならなかった。

 気になったのは、やはり頭と尻に見られる異形。

 牛とも山羊ともつかぬ角と、蜥蜴のような尻尾。

 よくよく見てみれば、足と腕も尻尾と似たような鱗で覆われている。

 明らかな亜人。

 しかも、男であれば誰もが目を奪われるほどの美貌。

 今はまだ幼さを残し、美しさより可愛らしさが前に出た顔立ちではあるが、それでもなお、取り囲んだ男どもの何人かが生唾を飲み込む程度には色香を放っている。

 どこぞの姫君だと言われても不思議ではないような、それほどの美しさだ。

 しかし煤に汚れたその顔は苦痛の表情に歪み、何かから身を守るようにその小さな身体を丸く固めていた。

しかし何故こんな亜人の少女が空から降ってきたのか。

 いや、今はそんなことはどうでもいい。

 

「おい、医者だ、医者を呼んで来い!」

 

 俺は目を覚ます様子のない少女に駆け寄り、戸惑う男たちに向かって叫んだ。

 少女を抱え込んだ俺の腕は焼けるような熱を帯び、見る見るうちに赤黒い血に塗れていった。

 少女は深手を負っていた。

 いや、深手なんてもんじゃない。何をどうされたのか背中の肉の殆どが焼け爛れ、一部は固い炭のようになってしまっている。

 正直、治療を施したところで助けられるかどうかは怪しいが、少なくとも死にかけの少女を放っておけるほど、俺は人でなしではない。

 

「呼んでも無駄よ」

 

 だがそれを否定したのは誰でもない少女自身、いや、その腕の中から響いた何者かの声であった。

 固く抱き込まれた少女の腕を押し退け現れたのは、全身から淡い光を放つ、拳三つ分ぐらいしかない大きさの美しい少女だった。その背には四枚の羽があり、光の粒を零しながら小刻みに羽ばたいている。

 驚いた。目にするのは初めてだが、彼女は妖精族だろうか。さらにその後ろからは灰黒い毛色をした犬、いや、犬ではない、何だこの生き物は、犬に似たずんぐりむっくりした謎の獣が顔を覗かせていた。

 そんな、混乱の極みにある俺たちを睥睨した後、妖精族の少女は足元で苦悶に呻く亜人の少女を見下ろして小さくため息を吐き、やがてとある方向を指差して見せた。

 

「時間がないから要点だけ伝えるわ。あそこまで私たちを連れて行って」

 

少女が指し示すその先には、俺たちが目指していたあの小さな島が。まさか、彼女たちはあそこからやってきたというのだろうか。

星空を嵌め込んだような、美しい金色の瞳が俺を見る。

 強い意志を秘めた、あるいはこの船にいる誰よりも力強い瞳だった。

 

「……よし野郎ども、気合い入れろ。尻に火が着いたつもりでな!」

 

「だ、だがよ姐御、まだ団長の指示も出てねぇのに――」

 

「天下の黒薔薇が四の五の言うな! とにかくのんびりしてたらヤバいことになる。生きたまま国に帰りたいなら黙って仕事に戻りな!」

 

 そうして俺は手を叩き、呆けていた男衆の尻を蹴り上げる。

 違和感はまだある。肌を刺すような緊張感、空気が焦げ付くようなひりついた感覚はいまだ雲の向こうに何かあることを雄弁に語り、本能は速やかに身を隠した方がいいと、逃げてしまった方がいいとしつこい程に俺の胸を叩いていた。

 ぐんと、船がその足を早める。恐らくは甲板にいた誰かが、操舵室にいる団長へことの次第を伝えたのだろう。しかしその様子はいつもの明らかに違い、どこか切羽詰まったような余裕の無い急加速に船旅に慣れた俺や団員たちでさえたたらを踏んでしまう。

 何事かと訝しんだその直後、船尾から炸裂音が響き、黒煙が立ち昇るのと共に船全体を大きな揺れが襲った。

 慌てる団員たちの頭上を、巨大な影が覆う。

 現れたのは、俺たちの予想を遥かに超える化け物だった。

 

「来たわね。ほら、食べられたくなかったら急いでよね。まあ、貴方たちがアレ(・・)を倒せるのなら、のんびりしててもいいけど」

 

 馬鹿な。

 誰かが呟いた。

 そう、こんな馬鹿げたこと、誰が予想できるだろうか。

 金の鱗に覆われた岩のような体。船一隻を丸々包めてしまいそうな大きな翼。丸太のように太い足。剣のように鋭い爪。

 そして血のように赤い目が嵌め込まれた、鋸のような牙が並ぶ恐ろしい三つ(・・)の頭。

 

「三つ首の化け物……まさか、こいつが龍か!」

 

 外見的特徴は、書物に記されたものと一致している。嵐こそ伴っていないが、肌で感じる魔力の強さはこれまで見知ってきたどの生物とも一線を画すほどの強大さだ。

 こいつが、いくつもの文明を滅ぼしてきた、龍という存在。

 剣を引き抜きながら、俺は全身が粟立つのを感じた。

 腕の中には傷付いた美姫。肩には妖精。お供につくのは犬もどき。

 これで俺が純白の鎧でも着込んでいれば絵になったろうが、残念ながら俺は俺だ。武勇の一つも持っていない、冒険者の小娘だ。

 そんな奴が、伝説の化け物と対峙する。

 酒場で聞かせる馬鹿話にしても、出来が悪い。

 だがそれでも、そんな俺でもそれなりの死線は潜り抜けてきた。

 目の前に訳のわからない化け物が現れたのも、それに剣を向けるのも初めてではない。

 ならばやってやろう。

 この死線も、潜ってやろうではないか。

 

「こいよ化け物。そのそっ首叩き落として、うちの玄関に飾ってやる」

 

 こちらの言葉を理解しているのか、あるいは単純に目障りだったのか、その鎌首をもたげた化け物が吼える。

 矢が、槍が、あるいは銛が、筋骨隆々な冒険者たちの手により放たれる。

 俺が鬨の声と共に化け物へ飛び掛かるのと、奴の三つの顎から真っ赤な炎が吐き出されるのは、ほぼ同時であった。

 




ラスボスです。


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其は世界の理

お待たせしました。


 

 今にも肌に火が点きそうな熱気の中で、俺は額に浮かんだ大粒の汗を拭う。

 睨みつけた先、夕暮れの中にあって燃えるように赤い空の上には、いまだ傷一つなく悠々とこちらを見下ろす化け物が一匹。

 三つ並んだ、鋸の刃に似た細かな牙が並ぶ顎の奥。ちろりと燻る赤い光が灯る。

 

「こん、のおっ!」

 

 杖代わりに甲板へ突き刺していた剣を引き抜き、下から上へ、剣へ魔力を流しながら振りぬく。直後、龍の顎から鉄さえ溶かす灼熱が解き放たれた。

 巻き起こるのは旋風。周辺に満ちた熱気を巻き込みながら放たれたそれはやがて巨大な竜巻へと変わり、龍が吐き出した紅蓮の炎さえ吞み込んで天高く上ってゆく。

 

「撃てぇ!」

 

 炎の壁が消え去った瞬間、号令と共に矢が、槍が、手斧が龍めがけて放たれる。

 だが、それらが奴を傷つけることはない。その全てがあの馬鹿みたいに固い鱗に阻まれ、あるいは巨大な翼が生み出す突風に吹き飛ばされて雲の中へと消えていった。

 もう何度目かになるその光景に舌打ちを一つ、俺はまた剣を構える。

 空賊を追い払う時に使っている大砲か大型弩砲(バリスタ)でも命中させればあの鉄並みの鱗も打ち抜けるだろうが、空を縦横無尽に飛び回る相手に命中させるのは至難の業だ。

 しかもどうやら奴は知恵も回るらしく、砲口を向けた途端に素早く射線から外れるように立ち回っている。

 流石は伝説の龍と言うべきか、いや、これが、この程度が龍なのか。これが天候すら操り、一国を滅ぼしたとまで伝わる龍なのだろうか。

 たしかに強大な相手ではある。しかし伝説の、数々の文献に天災とまで記される程の力かといえばそうではない。現に俺は、大砲などの高い火力を用いれば倒すことも不可能ではないと感じている。

 何かがおかしい。

 だが奴が龍ではないというのなら、あの時、雲の向こうから感じたあの圧倒的な気配の正体はいったい何だったのか。

 頭の片隅にこびりついた違和感に顔をしかめるが、とはいえまずはあの化け物を片付けるのが先だ。

 空に目をやれば、奴さんもこちらが一筋縄ではいかない獲物であると認識を改めたのか、船から少し距離を取って様子を伺っているようだ。雲の狭間に、あの三つ首の影が見え隠れしている。

 

「あのまま諦めてどっかに行ってくれれば楽なんだがな」

 

「いえ、それは絶対にないわ」

 

 ぽつりと零したその言葉に、妖精の少女がはっきりとした口調で答えた。

 

「アイツからすれば今は千載一遇の好機だもの。この程度の邪魔が入ったところで諦める筈がない。すぐにもう一度、今度は本気の攻撃が来るわよ」

 

 アイツも、のんびり構えてもいられないでしょうし。

 そう呟いて見つめる先には、船医によって治療を施される亜人の少女の姿があった。

 矢弾飛び交う戦場に寝かせたままというのは(いささ)か抵抗があったが、何せ背中全体を抉られたような重傷なのでむやみに動かすこともできず、今は甲板の隅で止血などの応急処置を行っている。

 だが、何か様子がおかしい。

 何故だか妙に慌ただしいような、いや、そりゃあこれまで見たこともないような傷なのだから多少は慌てもするだろうが、あれは何というか、困惑しているような、そんな雰囲気だ。

 あまりに妙な雰囲気に少し様子を見てこようかと足を浮かせた途端、雲の向こうから雷鳴にも似た悍ましい咆哮が響いた。

 

「来るわよ。アイツは何としてでも私たちが島に近づく前に仕留めようとしてくるはず。まず間違いなく、甲板に取り付いてくるわ」

 

船橋(ブリッジ)か魔力炉が狙われる可能性は?」

 

 黒薔薇の団長が舵を取る船橋は船の後部。辺りを見渡せるよう周囲よりも少し高い位置に作られている。あの団長がそう易々とやられるとは思えないが、あの巨体で突っ込まれたら中にいる団長はともかく、船橋自体はひとたまりもないだろう。

 そして船の心臓ともいえる魔力炉ある機関室はその下、船底に近い場所にある。その位置関係から頑強な甲板と船橋がある上からの攻撃には強いが、腹の下に潜り込まれた時にはめっぽう脆い。

 だが目の前の妖精は、そんな俺の懸念を一蹴してみせた。

 

「それはない。アイツにとって貴方たちは巣を守る蜂のようなもの。少し面倒ではあるけれど平手で叩けば何とでもなる、その程度の認識よ」

 

 だからこそ、小細工なしに正面からやってくる。虫を平手で潰すように。

 

「なんだそれ。俺たちは虫か」

 

 鼻で笑う俺に、妖精は肩を竦めてみせる。

 だがしかし、こちらとしても奴に効果的な一撃を食らわせるにはどうにかして接近戦に持ち込む必要があった。何の策も弄せず、向こうから突っ込んできてくれるというのならこれほどありがたいことはない。

 

「大砲とバリスタに弾を込めろ! 喉元に食らいついてきた瞬間、奴のどてっ腹に風穴を開けてやれ!」

 

 応、と俺の声に荒くれ者どもが拳を突き上げる。

 直後、雲の向こうから身の毛もよだつ雄叫びと共に巨大な影が飛び出してきた。三つの顎からめらめらを炎を漏らしながら、船の真上から真っ逆さまに落ちてくる。

 

「来るぞ、来るぞっ!」

 

 巨大な影に覆われ、まるで真夜中のような暗闇に包まれた中で俺は細く息を吐き、手にした剣を頭上高く掲げた。大きく息を吸い、止める。

 そうして俺が渾身の力を込めて剣を振り下ろすのと、三つ首から紅蓮の炎が吐き出されるのはほぼ同時であった。俺の全身全霊、体内に宿る魔力の殆どを注ぎ込んで放った斬撃が竜巻となり、船を焼き尽くさんとする炎を吹き飛ばす。

 周りの男たちが感嘆の声を漏らすが、ここまでは想定通り。肝心なのは、次だ。

 吹き飛ばした炎の向こう。炎の残滓で揺れる陽炎のその向こうから鱗に覆われた丸太のような足が二本突き出され、そこに備わった鋭い鉤爪が甲板に深く食い込んだ。

 それはさながら水面で魚を浚う海鳥のようで、その図体は翼を伸ばせばこの船全体を包み込んでしまえそうなほどであった。

 長い三つの首をしならせ、ぞっとするような金の瞳で辺りを睥睨している。

 たまらず、叫んだ。

 

「撃てえっ!」

 

 号令に合わせ、響いた轟音は四つ。甲板上にある大砲全てが一斉に火を噴き、続けてバリスタ二門から大型魔物用の矢が放たれる。

 この至近距離で弾が外れる道理はなく、放たれた矢弾はその全てが化け物の胴へ命中し、砕け散った鱗が雨あられの如く頭上から降り注ぐ。

 大の大人が二人がかりで運ぶような砲弾を四発も浴びたのだ。貫通こそしなかったものの、その衝撃力は凄まじいものだろう。

 さらに砕かれ脆くなった鱗の上からはバリスタから放たれた大型の矢が突き刺さっている。普通の生物ならば、まず致命傷だ。

 

「やった、やったぞ!」

 

「化け物を仕留めた!」

 

 確かな手ごたえを感じたのだろう。先程痛烈な一撃を加えた砲手たちが両手を空に投げ出し、満面の笑みで勝鬨の声を上げていた。

 そんな様を遠巻きに見つめ、そして血を垂れ流し、力なく項垂れる化け物を見上げる。

 本当に、これで終わりなのか。

 たしかに致命的な一撃は与えられた。だがしかし、あまりにも上手く行き過ぎているような気がする。

 その時、ぐらりと化け物の巨体が揺らいだ。

 長い三つ首を力なく垂れ下げたまま後ろへ、背中から空中へ身を投げるようにして落ちていく。

 その鋭い爪で、船の甲板をしっかりと掴んだまま。

 さっと、顔が青くなるのがわかった。

 

「おい、おいおいおい!」

 

 がくんと、船全体が大きく傾き始める。あの巨体、あの重量を引っ張れるだけの馬力などこの船にはない。まるで小山に翼を生やしたかのような化け物をぶら下げて、俺たちの船はぐんぐん高度を下げていく。それはもはや、墜落とそう大差ないありさまだった。

 甲板にいる船員がそれぞれ手近な何かにしがみつく。俺も船橋へ続く階段の手すりに飛びついて、全身を襲う浮遊感に肝を冷やしていた。

 

「ま、ここなら何とかなるかしら。じゃあ私はアイツを叩き起こしてくるから、あとはまあ、適当に頑張りなさい」

 

 そんな、顔を真っ青にした俺の横までやってくると、妖精の少女は信じられないような気軽さでそう言い残し、手まで振りながらどこぞへと飛び去ってしまった。

 

「てめぇっ、ずるいぞそれはっ!」

 

 必死にその小さな背中にそう文句を飛ばすも、まさかしがみついた両手を離すわけにもいかず。そして船は大きな水飛沫を上げ、海面へと突き刺さった。

目尻には涙が浮かび、きゃあだの何だの、何とも情けない悲鳴も上げていた、気がする。

 目指していた島の外縁部分、その端っこに何とか着水した俺たちは、全身水浸しになりながらもなんとか五体満足で生き延びていた。

 これまで未開の島々を渡り歩き、度々酷い目にも()ってきた俺であるが、流石に今回は腰を抜かすかと思った。というか、抜けた。

 手足の震えが止まらないのは、頭から海水を被ったことだけが原因ではないのだろう。

 そんなことよりも、今はあの化け物だ。

 大砲四門とバリスタ二門による一斉射撃により与えたあの深手。普通の生物ならば即死、あるいは致命傷は避けられない筈だが首を飛ばし、止めを刺した訳ではない。

 まずは、確かめなければ。そして万が一にも息があるようなら心臓を抉りだすなり、首を搔き切るなり、きっちりと息の根を止めなければ。

 そう思い、手すりに掴まって身体を引き上げた。

 その瞬間であった。

 目の前で、海が盛り上がった。

 現れたのは、牙を剝き出しにして怒りに歪む三つの頭。

 血走った眼は赤く、深く裂けた口の奥を舐めるように灼熱の炎が燻っている。

 死んだ、と思った。

 船員は皆満身創痍。仮に動けるものがいたとしても、この巨大な化け物を相手に大立ち回りを演じられる者などいるのだろうか。

 可能性があるとすれば黒薔薇の団長ぐらいだろうが、この状況で未だ船橋から現れない辺り墜落の衝撃で気を失ったか、くたばったかしたのだろう。肝心な時に役に立たない奴だ。

 

「まあ、足掻けるだけ足掻いてみようか」

 

 六つの目に睨まれながら、俺は剣を構える。

 残された魔力はほんの僅か。特別製の剣も、度重なる魔法の行使に悲鳴を上げ始めている。だがそれでも、ただで食われてやるほど俺の命は安くない。

 せめて、あの世で親父に自慢できるぐらいの土産話は欲しいもんだ。

 三つ首の奥で炎が揺れる。遥か頭上にありながら、その熱はまるで全身を焼き尽くされるようであった。

 息を吸い、吐く。

 口から迸るのは死にゆく者の断末魔などではなく、強敵へと立ち向かう強者どもの鬨の声。

 振り上げた剣をそのままに、前へ。

 そして放たれた地獄の業火に、戦士たちは骨まで溶かされ――

 

「おい」

 

 炎が止まった。

 振り下ろさんとした剣の切っ先。そこに見えない壁でもあるように、揺れる姿はそのままに炎は何者かに押し留められていた。

 

「私は今、非常に機嫌が悪い」

 

 炎が捻じれ、引き寄せられる。

 引き寄せられた先には、一人の少女がいた。

 俺の腕ほどはある太い角に、水銀を溶かし込んだような美しい白銀の髪が尻の後ろまで伸びている。そして手足は光沢のある黒い鱗で覆われ、その背中には同じ色をした大きな翼と、大きな尻尾が生えていた。

 かつん、かつんと床板をその爪で鳴らしながら、少女は俺の前に立つ。化け物の前に、立ちはだかる。

 見たこともない、亜人の少女。

 いやその顔つきには覚えがある。先程、何の前触れもなく空から落ちてきた、瀕死の、瀕死だったあの少女だ。だが棚引く銀髪のその隙間から見えるのは、傷一つない硝子のような背中だった。あの悲惨な光景がまるで嘘だったかのように、そこには何もなかった。

 そうして少女は三つ首の化け物を見上げ、己の右手を、その小さな掌を掲げた。

そこには先程引き寄せた炎が渦巻いており、骨まで溶かされそうな程の熱気を孕んだそれを、少女は徐に自身の口元へと誘い。

 

「は、夢でも見てんのか、俺は」

 

 あろうことか、吞み込んだ。

 文字通り蛇が蛙を飲み込む様に、固めた炎を一口で呑み込んでしまった。あの、近づくだけで肌を焦がすような灼熱を。

 少女の身体に、その全身に紋様が浮かび上がる。

 どこかで目にしたような、どこかで憧れ、そして畏れた紋様が、怪しく光る。

 

「てめえルールーを、ごんの身内を狙いやがったな」

 

 それは満月のように穏やかで、しかし溶けた鉄のような熱さを含んだ声。

 そして次に訪れた変化に、俺は己の目を疑った。

 紋様から溢れた光に思わず目を瞑ったその直後、そこに在ったのは世界そのものだった。

 闇夜の如き鱗。血のように赤い瞳。

 三つ首の化け物の半分に満たない体躯でありながら、しかしその圧倒的な存在感たるや、まるで島一つ、いやこの空全てをこの形に押し込んだようではないか。

 気が付けば俺は己の胸の前で手を組み、目の前の存在に祈りを捧げていた。

 人の理を超える者、あるいは自然そのもの、意志を持つ摂理とまで呼ばれた存在を前に、俺はただただ、祈ることしかできなかった。

 

「強欲に罰を、傲慢に報いを。さあ、理を喰らわんとした己の愚かさを知りなさい」

 




三つ首ドラゴン「あっ」


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父と子と

大変お待たせしました。
想定より話があっち行ったりこっち行ったりして、最終話までもう少し続きそうです。


 

 この島で暮らして二十八年。数々の苦難を乗り越えてきた私であるが、今ここに至りある意味で今生最大の試練に対面していた。

 それはあの時、船にいた私を襲ってきた三つ首の竜――ではない。あれは確かに強大な力を持っていたし、ただの生物にしては規格外なほど他者を食らい力を蓄え、そして長い時を生きてきたのだろうが、その程度で超えられるほど覚醒した龍は安い存在ではない。いや、力の強弱に関わらず自然の、世界の一部でもある龍の力に比肩するものなど、永い永い世界の歴史の中でもほんの一握りだろう。

 ともかくあの竜は、龍を喰らい龍に至れると思いあがったあの生物は、力を十全に扱える私の前では脅威足りえず、今では私の背後で静かに(むくろ)を晒している。

 そう、問題はこれではない。

 それは私の目の前に立つ、一人の女性だった。

 年は二十から三十。すっと通った鼻筋に白い肌。少しくすんだ金色の髪を肩のあたりまで伸ばしている。気の強そうなつり目は蒼く、背丈は百七十近い。

 負けん気が強そうな金髪の美女。

 初見としての印象は、概ねそのようなものであった。

 問題はそのような美女が鈍色に光る剣を握り、切っ先をこちらに向けて怯えた目でこちらを睨みつけている、というところなのだが、はてさてこれはどうするべきか。

 いつぞやか船とともに落ちてきたウィリアム以来の、この世界に暮らす人間との邂逅。無論、この胸に大挙する感情たるや、今すぐにでも目の前の娘に駆け寄り抱きしめたいぐらいではあるが、そうするとあの鋭い切っ先でぶすりとやられそうな雰囲気である。

 あ、いや、そういえば龍の姿になったままだったか。ならばここまで警戒されるのも当たり前だ。

 そう膝を叩きするりと少女の姿へ戻ってみれば、娘は僅かに目を見開いた後、しかし構えた剣はそのままに、僅かに震える唇でゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「何なんだ、お前は」

 

 月明かりに照らされ光る剣先が、かたかたと声を漏らしている。どうやら少女の姿をとったところで、彼女は幾分も警戒を緩めるつもりはないようだ。

 さてどうしたものかと顎を撫でていると、何やら娘の背後、浅瀬に横たわった船の方から幾つもの足音が聞こえてきた。現れたのは、剣やら槍やらを手にした筋骨隆々の男ども。彼らは誰もが手や足に切り傷青あざを拵えていたがその表情に陰りはなく、その瞳には力強い、太陽にも負けないような強い光が宿っている。

 

「お嬢、大丈夫か!」

 

「何だこの亜人は。こいつがあの龍をやったのか!」

 

 そうして口々にがなり立てられながら荒くれどもにあっという間に、まるっと取り囲まれた私であったが、胸中にあるのは恐れではなく三割の困惑と、七割ほどの歓喜であった。

 何せこの世界にきて、ここまで多くの人間に出会うなど初めてのこと。きっと今の私の顔には悲喜こもごもとしたような、何とも形容しがたい気持ちの悪い笑みが張り付いていることだろう。

 

「お止めなさい!」

 

 剣が並び、弓が引き絞られる剣呑な、いや私にとっては剣呑というほどのものではないのだが、番えられた矢が今にも私に向け殺到しそうな雰囲気の中で、まるで発破をかけたような鋭い声が響いた。

 男の声である。

 知性的で艶のあるバリトンの声色。その男性的にも、女性的にも聞こえる不思議な声の主は、見上げるような背丈の逞しい大男であった。丸く刈り上げられた頭に右目から頬にかけて走る大きな傷跡。首から右からにかけて鱗のような黒い入れ墨が彫られている。布一枚纏わず露わになった上半身は岩のような筋肉に覆われ、丸太のような脚は皮のズボンを引き裂きそうなほど。そしてその大きな背中にあるのは、私の身の丈よりも大きな両刃の斧。

 まるで歴戦の戦士。益荒男とはきっとこのような男のことを言うのだろう。

 

「おい、ちょっと団長!」

 

 ずいっと、まるで警戒もせず私と娘の間に割って入った男に対し、娘が声を荒げる。

 団長、ということは目の前の大男はこの集団の長なのか。なるほど、たしかに納得できる堂々とした佇まいだ。

 しかし近くで見ればこれまたデカい。その体格は二メートルを超え、三メートルにも迫るだろうか。よく見れば、その肩には鳶のような鳥が停まっていた。

 不思議な鳥だ。頭の後ろから靄、魔力の糸がどこかに向けてゆるりと伸びている。

 

「そんなにぴりぴりしても無駄よ、シエラちゃん。いくら身構えたところで、この子がその気になったらアタシたちなんか蝋燭の火より簡単に消せちゃうんだからン」

 

 そう言って星が飛ぶようなウインクを放つ大男に、娘が頬を引きつらせる。

 一見すればイロモノ極まる誰もが度肝を抜かれる立ち振る舞いであるが、しかしその立ち姿から放たれる存在感たるや、ついさっき私が屠り去ったあの竜程ではないにしろ、その巨岩を思わせるような立ち姿に私はかつて鎬を削った、かの大猪を思い出していた。

 自然と、頬が緩む。

 

「凄いな。凄まじい豪胆。貴方たちに危害を加える気は毛頭ないが、とはいえ貴方たちにとって私は理解の外にいる存在だろうに。いやはや、勇者とは貴方のような者のことを言うのだろうな」

 

 事実である。

 彼らにとって私は抗いようのない嵐のようなもの。あるいは、死という概念を押し込めたような存在。小鬼族のような信仰心があるわけでもなく、大猪や竜のような野心、驕りを孕んでいる訳でもない。そのような状態で私という死を前にこうも平常心でいられるというのはもはや異常。見たところ五十は生きていないだろうに、相当な数の修羅場を潜ってきたのだろう。

 しかし、後ろの娘はシエラというのか。

 私と同じ名、いや、その本来の持ち主であるあの男の娘と同じ名だ。

 そういえば髪と目の色もそっくりだし、よくよく見てみればその顔立ちにも少しばかりあの男、ウィリアムの面影を感じなくもない。

 

「すまんがお嬢さん、ウィリアムという名に聞き覚えはないかね」

 

 駄目で元々と投げかけた言葉、それを受けた娘の変化は劇的であった。

 剣を取り落とし、目は明らかに狼狽(ろうばい)した様子で左右に揺れ、あっという間にその顔から血の気が引いたかと思った次の瞬間、私は彼女に両肩を掴まれていた。

 美しい、まるで群青色を透かしたような、宝石のような瞳が目の前で揺れている。

 嗚呼、ウィリアム(あの男)と同じだと、その瞳を見た途端に私の胸はにわかに暖かくなって、ついつい笑みを零してしまった。

 だがどうやら娘にとってウィリアムの名は私とは少し違う意味を持っているらしく、それは肩を握りつぶさんばかりに力強く握られた両手と、瞳の奥に揺れる僅かな憤怒の色が明瞭に語っていた。

 

「お前、親父に会ったのか!」

 

 親父、親父かあ。

 もう随分と聞くことのなかった、どこか懐かしい響きである。

 しかし思ったより随分と粗野な話し方をする娘だ。きちんと身なりを整えさえすれば良家のお嬢様でも通りそうな美人だというのに勿体ない。

 しかし体付きは、うん、同じぐらい大きくなった私には及ばんな。ふふん。

 

「何だ、何故だか馬鹿にされた気分だ」

 

「いやいや、馬鹿になんてしていないとも。それより、嗚呼、やはりウィリアムの娘のシエラだったか。いや、話には聞いていたが随分と別嬪さんだ、おっと、こらこらこんなでも一張羅なんだ、雑に扱わないでくれ」

 

「会ったんだな、親父に。アイツは、あの糞野郎はどこに行った!」

 

 胸当ての紐を掴まれ、ぐいと引き上げられたそこにあったのは癇癪をおこした子どものような、怒っているようで今にも泣きそうな顔であった。

 流石に目に余ったのだろう、顔を(しか)めて間に割り込もうとする大男を、そっと手で制す。

 

「いやはや何とも、倅と大喧嘩した時のことを思い出すな。お前さんと親父さんの間に何があったかは知らんが、文句を言いたいのなら言いに行くかい?」

 

「行くって、まさかこの島にいるのか」

 

「いた、というのが正しいかね。とにかく、まあ、娘のお前さんが手でも合わせてやりゃあ、ウィリアムも少しは安らかに眠れるだろうさ」

 

 そうして私は、船が不時着した砂浜より少し離れた崖の上まで彼女たちを案内することになった。美しい海を一望できるそこにあるのは、少しばかり角が取れて丸くなった墓石が二つ。

 片方が掛け替えのない親友のものであり、そして大きい方がある日突然やってきた遭難者、つまりはウィリアムの墓であることを伝えた時の彼女の取り乱しようは、凄まじいものだった。

 

「てめえ、何こんなところでくたばってるんだよ!」

 

 それはもう、今にも墓石を蹴り飛ばしそうな剣幕だったので流石の私も少し身構えたが、その表情は怒っているというよりも小さな子どもが駄々を捏ねているような、怒りと悲しみをない交ぜにしたようなもので、私ができることは肩を震わせる彼女の背中をそっと撫でてやることぐらいであった。

 先程ウィリアムの名を出した時の反応もそうだが、看病していた時はこれほど娘から恨みを買うような人物には見えなかったのだが、相当込み入った事情があるのだろうか。

 いや、人様の家庭事情に口を出すほど出来た人間ではないのだけれど、どうにもこう老婆心が顔を出し、余計なことを口走ってしまう。

 

「実はな、私の名もシエラというのさ」

 

 不意に語りだした私に娘は怪訝そうな表情を浮かべたが、私は静かに、じっとウィリアムの墓を見つめながら続けた。

――とある日、偶然この島に流れ着いた男がいた。

 男はとても重い病に罹っており、ここに流れ着いた時点で既に半分死人のような状態であったが、病床に伏しながらもひたすらに呼び続けた名があった。

 故郷に残した、娘の名だ。

 どうやら看病していた私を娘だと勘違いしたようでな、シエラ、シエラ、とその名を呼んでは色々なことを聞かせてくれたよ。

 自分のこと、家族のこと、国のこと、そして龍のことも。

 特に龍のことはとても嬉しそうに話していたよ。龍は凄いんだぞと、子どものように語るんだ。あまりにも楽しそうに話すものだから、ついつい私も聞き入ってしまってね。私自身が龍だということもすっかり忘れて、日が暮れるまで耳を傾けたもんだ。

 しかし、やはり限界だったのだろうね。十日経つ頃にはもうかなり弱ってしまっていて、最後に私の炎で弔ってほしいと言い遺してね、眠るように逝ってしまったよ。

 

「そうして娘のふりを続けた名無しは、どうせならその名も借りてしまえと相成ったわけだ」

 

 そう言って、足元に擦り寄ってきた狸を抱き上げる頃にはすっかり夜も更け、辺りには波の音だけが響いていた。

 シエラは何も言わない。ただ俯き、何かに堪えるように唇を噛み締めていた。

 流石に一度に語りすぎたかと私は己の(うなじ)を撫で、震えるその背を一度撫でて後ろに控えた男衆の元へと戻っていった。

 対峙するのは勿論、先程の大男である。しかしその隣にはいつの間にか外瘻を纏った美女と、眼鏡をかけた線の細い若い男が立っていた。

 団長と呼ばれた大男と並び立っているのでそれなりの地位にいる人物たちなのだろうが、ミステリアスな雰囲気の美女はともかく、若い男の方は戦士という風貌でもないし、偉い学者さんか何かだろうか。

 まあそれはともかくとして。

 

「お前さんたちもお疲れだろう。寝床と焼いた肉ぐらいしか出せんが、まあゆっくりしていくといい」

 

 私はどこかしんみりとした雰囲気の集団をぐるりと見まわすと、なるべく上機嫌に見えるよう大きく尻尾を振りながらにかっと笑ってみせたのだった。

 




出したかったキャラ②
ハゲでオカ〇は最強。


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団欒と龍と

お待たせしました。


 

 朝が来た。

 この島で、この世界で目覚めてから数えきれないほど繰り返してきた、しかしその中でも間違いなく一番特別で新鮮で、喜ばしい朝がやってきた。

 結局、昨晩は誰もあの三つ首ドラゴンの肉を食らうことなく床に就いた。

 どうやらあの手の化け物の肉というのは内に宿す魔力というものがあまりにも大きく、普通の人間が食べれば一発で気が狂ってしまうような代物なのだという。

 一応、食えるようにする方法もあるらしいのだが、それが熟成、つまりは時間経過によって自然と肉から魔力が抜けていくのを待つしかないのだとか。

 いつものように、日課の水浴びを行いながら私は思考に耽る。

 思うに、魔力とは生前の世界でいう毒に近いものなのだろう。つまりは適量であれば薬になるが、過ぎれば身体に害を成すもの。より巨大で、食物連鎖の上位にいるものほど内包する魔力が増えていくというのも、いわゆる生物濃縮のような現象が起こっていると考えれば理解もしやすい。

 下から上へ、内包する魔力の薄い個体を上位の者が大量に喰らい、そしてまたその上位者に食われる。牡蠣が食あたりしやすかったり、河豚が毒を溜め込んでいるのもこの生物濃縮という仕組みが原因だ。

 まあ、それでも(わたし)たちは例外なのだが。

 龍だけは、他から魔力を補うことなく、大気中の、否、世界という存在そのものから魔力を取り込み、燃料にすることができる。

 私が力を振るう時、肌を晒した方が火力が出たり、全身の紋様が発光するのはこれが理由であるのだが、しかし世界から魔力を汲み上げているとは言え当然ながら我々が世界よりも上位に位置している訳ではなく、借り受けている、といった方が正確だろう。

 世界から一時的に魔力を借り、そして龍が力を振るった後その魔力は世界に還る。

 まあ、そもそもが魔力の塊とも呼べる龍であるので、よほど未熟な状態でなければそうそう世界から魔力を借り受けることもないのだけれど。

 

「だーっ、お前ーっ!」

 

 そんなことを考えながら泉から上がると、少し離れた場所から大声をあげて駆け寄って来る者があった。

 肩まで伸びたくすんだ金髪に、モデル顔負けのスタイルを誇る美女。シエラは翼を振って水気を払う私を一目見るや否や、その負けん気が強そうな釣り目をさらに吊り上げてやってくると、手にした麻布、現代でいうところのバスタオルぐらいの大きさをしたそれを投げつけてきた。

 

「野郎だらけのところで何やってやがる! 早く隠せっ!」

 

 突然タオルを投げつけられて目が点になっていた私であったが、身体を私と小屋、つまりは昨日の一団が寝床として使っている辺りとの間に割り込ませて壁を作った彼女を見て、ああなるほどと呑気に手を叩き。

 

「ああ、いや、そうかそうか。そうだな、そうだったそうだった」

 

 そう言って、両の翼を身体の前に回して目隠しをしつつ、念のために渡されたタオルでも前を隠しながらそそくさと大樹の陰へと引っ込んでいった。

 そう、今の私はうら若い娘の身体で、朝早いとはいえもうそろそろ男衆も寝床から顔を出す頃だろう。荒くれどもに、今の私の裸体は毒以外の何物でもない。なのだけれど、どうにも男として一世紀近く生きた魂と、二十八年も人目を気にしない無人島生活を送っていたせいでどうにもそのあたりの機微に疎くなってしまった。

 いっそ婆さんのような姿をとってしまえば、いや、元が龍とかいう規格外であるので、老婆の姿であっても腐りかけの果実のような、鼻の奥にずしりとくるような色香を放ちそうで怖い。ならばいっそ、倫理観に訴えかけられる今の幼い姿のほうが都合がよいか。青い果実を貪りたがる変態(ろりこん)は古今東西、世界変わっても尽きぬだろうが。

 そうして手早く身体を乾かしいつもの一張羅を着込んで出ていけば、先ほどまで顔を真っ赤にしていたシエラは自分たちの船から鍋やら何やら持ち出して、泉の傍で炊き出しを始めているようだった。

 

「良い匂いだな。どれどれ、おお、これは美味そうだ」

 

 鍋の傍で匙を回す彼女の脇からちょいと中を覗き込んでみれば、どうやら中身は肉と野菜のスープらしかった。大人数に振舞うための大きな鍋の中には、角切りにされた白い鳥の肉に、人参とキャベツに似た野菜が浮かんでいる。透き通った鳥の脂が表面に浮かび、胃袋をくすぐるような甘い香りを立ち昇らせていた。

 

「お前、昨日あれだけ食っておいてまだ食い足りないのか」

 

 そう呆れ声で言うのは頭上のシエラである。

 というのも昨夜、魔力が濃すぎて食えないと誰もが遠慮した三つ首ドラゴンの肉であったが、その場で適応できる者が一人だけいた。

 私だ。

 魔力の濃いだの薄いだの、そのような話は龍にとって全く関係がない。どれだけ魔力を取り込もうと世界の一部である龍の許容量を超えるようなことはあり得ないし、その胃袋の強靭さは語るまでもないだろう。

 

「いいじゃないか。飯は皆で一緒に食った方が美味いというし、爺を一人除け者にするもんじゃあないよ」

 

「爺って、またその話かよ」

 

 涎を垂らす私に、シエラ嬢は呆れたようにため息を吐いた。

 こことは異なる世界。そこで生き、大往生した一人の男の生涯。そして誰もいない無人島で目覚め、二十八年生き延びてきた一人の娘の物語。そういった身の上話は、昨夜のうちに皆に語って聞かせていた。

 しかしこの無人島での出来事はともかく、こことは違う世界での話となれば流石に荒唐無稽に聞こえたのだろう、龍のする話は難しくていけないと早々に聞き流されてしまった。

 

「そもそも、アンタたちは自由自在に姿を変えるらしいじゃないか。男とか女とか、そういうのはないだろう」

 

「いやまあ、そこは好みというか、男の姿にもなれるのだろうが、なんというかこう、どうにもしっくりこなくてなあ」

 

 尻尾をくゆらせ、私は眉間に皺を寄せて答えた。

 たしかにその気になれば男だろうが女だろうが、何だったら獣にだろうと姿を変えられるのだろうが、実際にそういった姿を選ぶ必要がないというか、気が向かないというか、収まりが悪いというか。形も大きさも歪な椅子に、無理矢理ぎゅっと尻を押し込んでいるような不快感があるのだ。

 そう私が云々しているうちに男衆も起き出し、皆で火を囲んでの賑やかな朝餉が始まった。

 わいわい、がやがや。いかにも荒くれ者といった風体をした、傷だらけの肌を晒した筋肉質な男たちが手に手に皿を持ち寄り、大鍋から野菜のスープをよそわれては豪快に笑いながらそれぞれ気に入った場所に腰を落ち着ける。

 

「ほら」

 

 そんな賑やかな様子を傍目に眺めていると、横合いからぶっきらぼうに茶碗のような、両手に丁度収まるぐらいの大きさをした皿が差し出された。使い込まれ、縁の部分などが少しばかりささくれだった木製のそれには熱々のスープが注がれ、こちらの食欲を誘うように湯気を躍らせている。

 

「呆けてないで、ほら、アンタの分」

 

「おお、これはかたじけない。うん、実に美味そうだ」

 

「余分にはないから、よく味わって食えよ。場所は、うん、丁度あそこが空いてるな」

 

 そうして連れてこられたのは、大樹のすぐ傍。いくつか丸太が転がった先では、既に小さな先客が大口を開けて野菜くずに齧りついていた。その横には、美しい妖精の少女の姿もある。

 

「どこに消えたのかと思えば、こんなところにいたのか」

 

 丸々太った狸の背をさらりと撫で、足元の丸太を椅子代わりに腰を下ろせば、私の肩にルールーがすっと降りてきてさも退屈そうに足を組んでいた。

 

「ここが一番、魔力の巡りが良いのよ。アンタこそ、よくもまあ人間の傍で眠れるわね」

 

「なんだ、人間は嫌いか」

 

「どうでもいいわ。ただ、人間がいると明かりで夜空が薄れてしまう――それが嫌いなだけ」

 

 なるほど。彼女は月の妖精であり、月夜にこそ安寧を見出す種族である。だからこそ闇を恐れ、火で闇夜を吹き払わんとする人間の考えには理解できないものがあるのだろう。

 それを言うと私も月の龍。静寂な闇こそが我が領域であるのだが、まあ中身が私なので足し引き丁度いい塩梅といったところか。

 それよりも、今は目の前の料理である。

 

「いただきます」

 

 手を合わせ、よく煮込まれて柔らかくなった野菜を匙ですくい口へ運ぶ。流石に香辛料などは入っていないだろうし、少し塩を効かせた程度の優しい味付けだろうと思っていたのだが、驚くことに出汁が効いていた。

 これは、鶏がらのスープだろうか。よく見ればスープの表面には透き通った脂が浮かび、素朴な味わいの野菜たちに深みを与えている。かなり簡易的な物ではあるが、生前の世界でいうブイヨンに近い。

 

「こりゃあ美味い。鶏の出汁が良く効いてる」

 

「あったりめえよ。シエラの姐さんが作った料理だぜ。美味いに決まってらあ!」

 

 想像以上の一品に私が思わずそう零すと、少し離れた場所で仲間と食事をしていた男衆の一人がそう言って、手にした匙を高々と天に掲げた。

 

「なんでお前らが偉そうにしてるんだよ。調子の良いこと言ったってお前の分のスープは増えねえぞ!」

 

「そりゃねえぜ姐さん!」

 

 がっくりと肩を落とす男を、周りの男衆が笑い飛ばす。そしてああは言ったが料理の腕を褒められて悪い気はしないのだろう、男衆と共に溌溂(はつらつ)とした笑みを浮かべるシエラ嬢の耳の先は少しばかり赤くなっていた。

 しかし、これだ。この団欒(だんらん)を求めて、私は二十八年もこの島で生きながらえてきたのだ。

 かつて小鬼族の人々と囲んだ団欒もまた、私にとってはかけがえのない唯一無二の大切な思い出だ。しかしこうして言葉を交わしながら同じ釜の飯を食う。人間同士、とは言えないが、そこに特別な価値を感じる私は文字通り人でなしなのかもしれない。

 

「そういえば」

 

 そう一人で感傷に浸っていると、ふとシエラ嬢が何やら思い出したようにそう言って、スープを啜る私へ視線を落とした。

 

「アンタ、あの時俺たちの船に落ちてきた時は随分と傷だらけだったが、ありゃ何があったんだ。あれ、あの三つ首の化け物にやられたんだろ。あれだけの力の差があるのに、何をどうしたらあれほどの手傷を負わされるんだ」

 

「ああ、あれはな――」

 

 咀嚼していた人参、に似た野菜を飲み下し、私はあの日、シエラ嬢たちの船に墜落するまでの経緯を語って聞かせた。

 私は龍としてまだまだ未熟であること。未熟故に、揺り籠であるこの島から出ればその力は極端に制限されてしまうということ。そして、その制限を知りながらも元々幽霊船だった船に荷物を押し込み、無謀な旅に出たところであの三つ首の竜に不意を突かれ、偶然彼女らの船に墜落することになったこと。

 そういったことをかいつまんで説明した。

 まだまだ未熟という話をした時には周りの男衆共々かなり引きつった顔をしていたが、幽霊船の話をした時にはシエラ嬢が何やら神妙な面持ちになり。

 

「なあ、その元幽霊船ってまた見つけられたり、この島に持ってきたりできないのか」

 

 そんなことを訪ねてきた。

 

「いやあ、難しいだろう。私とて乗せていた家畜たちを取り戻したい気持ちは十分あるが、何せ突然襲われてなり振り構わず飛び降りたのでなあ」

 

「成熟した龍なら可能でしょうけどね。この子が出来るようになるには、まだまだ時間がかかると思うわ」

 

 ルールーの言葉に偽りはない。

 時間をかければ私の力の残滓から見つけ出すことぐらいはできるだろうが、そこから引き寄せたり、動かしたりするとなると相当に細やかな力の制御が必要になる。

 そして、それを成せる程の技量はまだ私にはない。

 

「しかしまた、なんでそんなことを気にする。船ならもう立派な奴があるじゃないか」

 

「それが、この島に落ちてきた時に随分と派手にやられちまってな。幸い重要な部分は無事だったから補修すれば問題ないが、この島から木を切り出して必要な材料を用意してたらかなり時間がかかるんだよ」

 

 なるほど。だから他の船から修理に必要な部品を流用しようと、そういうことのようだ。

 たしかにそうすれば修理に必要な時間はかなり短縮できるだろうし、何ならあちらの船に積み込んでいた食料や家畜たちをシエラ嬢たちの船に移してもいい。そうすれば、帰りの航路でも飢えることはなくなるだろう。

 まあ、それも件の船を再び手に入れる手段が用意できなければ絵に描いた餅だ。やはり時間はかかってしまうが、根気強く材料を用意するしか方法は――

 

「貴公の船ならここにあるぞ。同胞よ」

 

 不意に響く、澄み切った声。それは私の背後より、この場にいる誰一人にも察知されることなく現れた。

透き通るような白い肌に、氷のように冷たい金の瞳。

 艶やかな着物を纏うその肩を、真っ赤な長い髪がさらりと流れる。

 私の同類であり、そして私がこの世界で初めて言葉を交わした少女。

 嵐を纏う龍が、そこにいた。

 




もう少し続きます。


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解き放たれる龍

お待たせしました。


 

 シエラ嬢曰く、龍とはこの世界における頂点に位置するとも言われる存在であり、私に出会うまでは誰しもがまさか実在するなどとは思っていなかったほどの、正しく伝説上の生き物として扱われていたのだとか。なるほど、その辺りは生前の知識にある龍と似たような扱いなのだなと私は呑気に相槌を打ったが、それに対し周りは頭を抱えたり目を回したりと、まあ阿鼻叫喚の一歩手前といった具合であった。

 私としてはこの島で暮らす中での数少ない意思疎通ができる人物の一人であり、もう一人の龍、緑の奴も随分と気さくな人物であったので、まさかそこまでありがたい存在(もの)だとは露ほどにも思っていなかったのである。

 そんなことをぽつりと零せば、まさか三体、いや三柱目(・・・)まで出てきたりしないだろうなと割と深刻な顔つきで訪ねてきたので、流石にそれはないだろうと答えておいた。

 どうやら本来であれば龍同士がこうして面を合わせるのも極力避けた方が良いようであるし、未熟な私はともかくとして狂飆(きょうひょう)と緑は名実ともにしっかりと竜神様だ。この二柱がばったり出会うことなど、そうはないだろう。

 しかし神出鬼没はいつものことだが、まさか私以外の人間がいるこの場に狂飆が現れるとは予想だにしなかった。さらに驚きであったのは昨日、あの三つ首の竜に襲われた際にどこか空の彼方へ消えてしまったと思っていた私の船を、狂飆がこの島まで引き連れてきたことであった。

 経緯(いきさつ)を訪ねてみれば、どうやらこの島に向かう道中、妙に私の力を感じる船があったので寄って見れば船にいるのは家畜ばかり。肝心の私はどこにもおらず、また妙な、彼女からすれば興味深いことをしでかしたのかと思い、ひとまずこの島までやってきたのだという。

 

「未熟なまま人間の道具を使って揺り籠を飛び出すとは。つくづく貴公は興味深い」

 

 そんなことを言いつつも、狂飆の顔はいつも通りの無表情であった。

 ともあれ、助かったことには変わりない。これでシエラ嬢たちの船を直す段取りも進むだろうし、あの船にはこの大食らいな私であっても数週間は生きていけるだろう食料を積み込んでいる。流石に十数人の男衆を相手にどれほどの足しになるかはわからんが、この島中から食い物を掻き集めるよりは楽だろう。

 そして奇しくも、狂飆が私の船を置いてきた場所はシエラ嬢たちの船が座礁したあの浜から目と鼻の先だったようで、早速で悪いがシエラ嬢たちには船に積み込んでいる物資の回収と家畜の保護をお願いし、先んじて船へ向かってもらった。

 その間、私はこの絶世の美少女と少しばかり話をすることにする。

 その話とは他でもない、私自身の、龍の力に関してだ。

 

「昨日、三つ首の怪物を殺して食らった」

 

 共に草の上に座し、蜂蜜のような色をした、魅入られそうな魔性を秘めた瞳をじっと見つめる。

 昨夜、誰もが寝静まった夜更けに私は三つ首の竜の心臓を喰らった。流石に血の滴る臓物を喰らう様は人様に見せられたものではないと忌避したのと、心臓を喰らった際に、正確にはそこに宿る魔力を取り込むことで強大になった龍の力が周囲に影響を与えることを避ける為にそうしたのだが、結果としてそれは杞憂に終わった。

 取り込んだ三つ首竜の力は、私にさしたる影響も及ぼさなかった。何も変わらなかったのだ。何も。

 これまでのように内側から身を焼かれるような熱に襲われることも、脳を蕩かすような幸福感に包まれることもなく、まるでただの肉を喰らった時のように、まるで私の身体は特別な反応を示さなかった。

 それほどまでに、あの三つ首の化け物が宿す力は弱いものだったのか。いや、それはありえない。万全の状態ではなかったとはいえ、龍である私の身に傷をつける程度の力は持っていた。その力は、いつか戦ったあの化け物鳥さえ凌ぐだろう。

 では何が変わったか。器だ。

 三つ首竜の力を注いでなお溢れない程、器が大きくなったのだ。

 つまりは総量。私が扱いきれる力の総量が増したのだ。それはつまり、成長である。

 そして、巨大になった器に並々と注がれる三つ首竜の力。それは更なる成長への呼び水となり、私の龍としての格をまた一つ押し上げた。

 狂飆がこの場にやってきたのも、きっとただの気紛れではない。より龍として覚醒した私の気配を感じ、様子を見にやってきたのだろう。無表情で不愛想で冷血な様に見えて、これでなかなか面倒見が良い龍なのだ。

 だからこそ、この場で問いただしておきたかった。

 

「私は、まだこの島から出てはいけないのかね」

 

 それは確認だった。

 私自身、内から溢れるこの力に確信染みたものは感じている。しかしそれでも同じ龍として、あるいはこの世界をより詳しく知る者として、私は龍たり得ているのかと、この揺り籠から旅立つ資格はあるのかと、彼女の口からはっきりと聞いておきたかったのだ。

 片膝を立て身を乗り出す私に対し、狂飆は答えない。ただじっと、その全てを見通す金色の瞳で私を見続けている。澄んだ瞳のその奥に、少しばかり強張った表情をした私の顔が映りこんでいた。

 そうして対峙することしばらく。彼女の桜色をした唇がゆっくりと解ける。

 

「貴公は、まだ未熟だ」

 

 そこから染み出るように零れたのは、氷のような声であった。

 

「龍としての在り方も、この世界の在り様も、何一つ知らぬ幼子だ」

 

「まだ、足らんかね」

 

 それはほんの少し、口答え程のものでも、異を唱えたつもりもない、ほんの少しの反抗心から出た言葉だった。

 そして刹那、私の心臓は氷の刃で貫かれていた。

 狂飆は変わりない。いまだいつもの無表情のまま、私の前に座っている。だが、そこから発せられる存在感、圧力が一変した。まるで一息で海の奥底まで引きずり込まれたように手足が重くなり、押しつぶされた肺からは壊れた笛のような音が漏れる。狂飆と呼ばれ畏れられる龍が、その力を私を殺し尽くす為だけに研ぎ澄まし、振るわんとしている絶望感。常人ならば魂ごと砕かれているであろう圧倒的な力。

 何より恐ろしいのはその殺意が、破壊が私以外に一切の影響を与えていないということ。誰も彼も相も変わらず、小鳥は枝先で(さえず)り、泉の水面も波風一つ立てることなく静寂を保っている。それはまるで音もなく静かに喉を切り裂く暗殺者の刃が如く、いっそ慈悲すら感じるほどの悍ましい意志。

 しかし、それでもなお私は正気であった。

 翼も畳まず、尻尾も丸めず、身体中に力を漲らせてその場に踏みとどまる。

 負けていない。私という龍はこの目の前の龍にも負けないほど強くなったのだぞと、そう自分に言い聞かせては震えそうになる膝小僧を握り締め、その双眸を睨みつけていた。

 狂飆の瞳が、僅かに見開かれる。

 

「なるほど、やはり貴公は興味深いな」

 

 衣擦れの音と共に、狂飆が立ち上がる。止まった時が再び流れ始め、途端に全身から玉のような汗がどっと溢れる。私は張り裂けんばかりに鼓動する胸を押さえながら、えずくように息を吐き出した。見れば、手足の鱗がほぼ全身にまで広がり、半ば龍の姿に変化し始めている。どうやら無意識の内に、本来の姿に立ち戻らんとしていたようである。

 長く息を吸い、吐く。額の汗を拭い顔をあげれば、無機質な金色の瞳が目の前にあった。

 吐息が混ざり合うような距離にあるその貌に、思わず目を奪われた。

 永遠にも感じられる刹那の間。心の奥底まで見通しているような妖しい瞳が不意に離れる。

 

「いまだ未熟ではあるが、その在り様は定め始めているか。ならば同胞として見送ろう」

 

 燃えるような赤い髪が逆巻く。木の葉と共に舞い上がった髪はその先端から風に溶けるように解け、次第にその形を失っていく。金の刺繍が施された絢爛な着物が、白い(うなじ)が、その美しい(かんばせ)がつむじ風の中にかき消えてゆく。

 

――揺籃の時は終わった。感じるまま、願うままに生きよ。

 

――貴公の在り様、見届けさせてもらうとしよう。

 

 そうして森には、再びの静寂が取り戻された。

 風が吹き去ったそこにはもはや何者もおらず、嵐が去った後のような、澄み切った風の匂いだけを置き去りに彼女はまた何処へと去っていった。

 晴れ切った空を見上げれば、ひらり舞い落ちた木の葉が一枚、私をからかうように鼻先をかすめていく。

 

「とりあえず、お墨付きは頂けた、ということでいいのかな」

 

「いいんじゃない。まったく、相変わらず身内には甘いんだから」

 

 足元に落ちた木の葉を拾い上げてそんなことを言ってみれば、いつの間にか肩に乗っかっていたルールーがどこか不満げに息を吐く。

 彼女はこんなことを言っているが、あの厳格な狂飆の言である。後顧の憂いはもう無くなったと判断していいだろう。

 大きく息を吸い、吐く。

 翼を目いっぱい広げ、私は再び空を見上げた。

 

「あっ、ちょっと待ちなさ――」

 

 次の瞬間、私はルールーの制止の声すら聞かず力いっぱい地を蹴り、大空へと飛び出していた。

 昇る。昇る。昇る。

 緑の天蓋を突き抜け、遠くで船を調べるシエラ嬢たちに影を落としながら(そら)へ、(そら)へ。

 そうして突き抜ける、島を覆う力場、私を二十八年保護してきた殻を抜ける。

 全身に漲る龍の力は、それでもなお衰えず。少女の姿から(ほんらい)の姿へと変じた頃には島はすっかり遥か彼方へ過ぎ去って、頭上には無限の空に瞬く星々の光と、真っ白な二重の月だけがあった。

 それは私が、私という存在が解放された、この世界での自由を手に入れた瞬間であった。

 



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船出の予兆

お待たせしました。


 

 船出の準備は大至急に、手際良く進められた。

 狂飆(きょうひょう)が持ち帰った件の船であるが、どうやら相当な年代物ではあるもののその状態はとても良いらしく、補修の為にその身の幾らかを剝ぎ取られた後であっても一応は、シエラ嬢たちがやってきた島へ渡る程度の道のりならば耐えられるだろうと例の団長殿が太鼓判を押すほどであった。

 さらにはどうやら名のある船乗りたち、彼らの言う冒険者の一団が乗っていたというありがたい船らしく、船体さえ大きく損なっていなければそれなりの値で買い手がつくのだとか。それもあって剥ぎ取られた板や釘は最小限に留められ、乗り込んでいた家畜たちもいっそそのまま積んでいこうと今は男衆が甲斐甲斐しく世話を焼いている。どうにも手慣れた様子であったので訳を尋ねてみれば、空に出ていない間は実家で牛や豚を育てて生計を立てているそうな。冒険者、海の男も色々だ。

 そして私はといえば、あくせく働く男たちを眼下に大欠伸をかましていた。

 というのも、私が手を貸せば木材や積み荷の運搬、加工、修繕作業に至るまで文字通り百人力の働きをする自信があるのだが、どうにも龍の手を借りることを畏れ多いと考えているのか、あるいは若い娘を働かせることに抵抗があるのか、中々声がかからぬ。あまりに呼ばれないので何か仕事はないかと団長殿に訪ねてみたこともあったが、貴女はいつぞやのような化け物がまた現れないか辺りを見張っていて欲しいと言われるばかりであった。

 私としては島の周囲にそういった危険な気配があれば眠りこけていても察知できるのだが、龍である私が見守ることで皆が安心して作業に集中できると、貴女にしかできない重要な仕事だと、そこまで言われてしまえばもう駄々を捏ねる訳にもいかず、大人しく引き下がる他なかった。

 

「シエラ様、少し宜しいでしょうか」

 

 そんなこんなで大樹の枝先で足をぶらぶらさせていると、ふと足元から呼びかける声があった。はて何事かと足元を覗き込んでみれば、そこには目隠しをした黒髪の美女の姿が。

 相も変わらず息を呑むほどの妖艶さであるが、ふと目を引いたのはその細い肩の上に乗っかった一羽の大きな(とんび)だった。

 いや、本当に鳶なのだろうか。主の髪とよく似た艶のある黒い羽。くりくりとした丸い瞳は可愛らしくも理性的な光を宿しており、その体躯は記憶に残るそれよりも一回り程大きく、鷲のような筋肉質な作りをしている。

 しかし、何やら見覚えのある鳥だなと顎を撫でていたのだが、ふと思い出した。そうだ、彼らがこの島へやってきた晩に、あの団長と呼ばれていた大男の肩に停まっていたのと同じ鳥である。てっきり彼、いや彼女だろうか、ともかく団長さんのペットか何かだと思っていたのだが、どうやら私の思い違いだったらしい。

 その体躯からして普通の鳥ではないことは想像に難くないが、不思議なのはその身体から伸びる《もや》、つまりは魔力で編まれた縄のようなもの。ぼんやりと薄く、しかし解けることなくしっかりと編まれたそれは烏の首元から伸び、美女の項の辺りへと繋がっていた。

 手綱、ではないだろう。龍の知識をある程度思い出した今だからこそ理解できることであるが、どうやら感覚の幾つかを共有している、そういったことを可能にする術のようであった。

 どれとどれを共有しているか、そういった細かいところまではまだ見通せないが、彼女が盲目であるところから察すると少なくとも視覚は共有していそうだ。

 なんとも気になる限りではあるが、あまりずかずか無遠慮に詮索するようなものでもないだろうし、また機会があれば訪ねてみることにしよう。

 

「これはまた、別嬪さんがこんな爺に何か用かい」

 

 そう口にしてから、随分と高いところから人様に物を言うじゃないかと、慌ててそう反省した私は腰かけていた枝からひらりと身を翻し、翼を広げて大樹の根本へと着地した。

 いかん、いかんなあ実に。何十年と人と関わっていないものだから、ついつい接し方を間違えてしまう。

 そう(うなじ)を掻きながら顔をあげれば、そこには少しばかり目を丸く、いや実際には目隠しをしているのでその瞳など見えようはずがないのだが、そんな雰囲気で立ち尽くす美女の姿があった。

 

「ええと、たしかアイビスさんだったかな。高いところから大変失礼した」

 

 実際に言葉を交わしたのはほんの数回だが、彼女の名前はしっかりと憶えていた。何せその特徴的な外見と神秘的な美しさである。頭に残らない方がどうかしている。

 彼女は私が頭を下げるのを見るや否やさっとその場に膝をつき、静々と首を垂れて両手を合わせた。その姿には教会で神に祈りを捧げる修道女のような神聖さがあったが、目の前で突然それをやられたこちらはぎょっと飛び上がらんばかりであった。実際に私の尻尾は飛び上がった猫のようにぴんとはち切れんばかりであった。

 

「いや、いやいや、どうか顔を上げておくれ。お前さんみたいな別嬪さんにそんなことをされると何というか、その、困る」

 

 美人に弱いのは男の性だ。これは世界が変わっても、龍となっても変わらない。

 妻一筋の私ではあるがそれはそれ、これはこれ。

 あたふたする私を、彼女の肩に乗った烏が首をくりくり動かしながらさも不思議そうな目で眺めている。

 

「失礼致しました。畏れながら、シエラ様に船へお越し頂けないかと、団長より言伝を預かっております」

 

 ほう。

 私はそう短く呟き、顎を撫でながら尻尾をゆらりと一度しならせた。

 団長直々の呼び出しとなれば、それなりに重要な用件であろう。私自身、あの益荒男には非常に興味があったし、シエラ嬢たちが乗ってきたあの大きな船にも一度乗ってみたいと思っていたところだ。

 何せ私が修繕して利用したあの元幽霊船とはどうやら様式が異なるようで、シエラ嬢たちの船の方がより近代的というか、すっきりした形をしている。所々に金属の装飾も施されているし、何より大きな帆船など浪漫を感じずにはいられない。 

 

「本来ならば団長自ら足を運ぶべきところ、誠に申し訳ございません」

 

「いやいや、だからそこまで畏まらなくても……。いや、うん、私はそんなこと気にしていないから、船まで案内をお願いしてもいいかな」

 

 こちとら生前はしがない農家の爺である。家屋よりも田畑の方が多いような田舎暮らしであったし、爺さん爺さんと敬われることはあれど、こう、まるでお殿様のように持ち上げられてはなんともむず痒い。

 そりゃあ、今の私は彼女らにとって伝説上の存在であり人智を超えた怪物であるのは間違いないのだけれど……。いや、そういえば小鬼族、あのヨーク達の種族は龍を信仰の対象としていた。となればシエラ嬢たち人間もまた、龍を神だ何だと信仰していても不思議ではない。というか、幽霊船の動力部に龍の装飾が施されていた辺り、その可能性は高いだろう。

 これは困った。

 私の願いは、この島を出てまだ見ぬ広い世界を見て回ることだ。だが龍が信仰の対象となっているのであれば、行く先々で色々と騒ぎになるのは火を見るよりも明らか。人の姿になっても角や翼、尻尾はどうしようもないし、はてさてどうしたものか。

 そんな風に一人云々と唸っていると、シエラ嬢たちの大きな船が見えてきた。

 いやはや何度見ても立派なものだ。大きさや作りは元幽霊船とそう変わらないが、船の先端には雄々しい龍の飾り物が嵌め込まれ、要所要所に大きなバラの花をあしらった細工が施されている。

 冒険者(あらくれもの)たちが操る船というよりは、紳士淑女を乗せる客船のようにも見える、野性味と気品が絶妙な塩梅で溶け合った美しい船であった。

 

「あらシエラちゃん、呼びつけちゃってごめんなさいネ」

 

 そんな船のやや後方。中央に大きなバラの花の細工が嵌め込まれた扉を潜れば、天井に頭がぶつかりそうな程の大男が妙に艶っぽい声で出迎えてくれた。

 あの夜、月夜の元で晒されていた分厚い胸板は真っ白なシャツに押し込められ、薔薇の刺繍が施された茶色のチョッキは今にもはじけ飛びそうであった。

 相も変わらず、気圧されそうな程の存在感である。色々な意味で。

 

「こちらこそ、こんな素晴らしい船に招待して頂けるとは光栄です。いやあ、なんせ初めて乗った船が初めからあんな状態だったもので、賑やかなところに出てくるとなんともこう、小恥ずかしいですな」

 

 ここまで案内をしてくれたアイビスさんが傍にいたこともあったのだろうが、まあ人目を引くわ引くわ。甲板で金槌を振るい修繕作業に当たっていた、長い航海で女日照りが続く男衆にとって今の私、つまり瑞々しい若い女など目の毒だろうに、やはり世界が変わっても男の性は変わらないのだろう。

 

「あらあら、ごめんなさいねうちのコたちが」

 

「いやとんでもない。私としても、もう少し身なりを整えた方がいいとは思っているのですがね、残念ながらこれが一張羅でして。それに、ああこれは誤解して頂きたくないのですが、肌を晒していた方が調子が良いのです。私には翼も尾もありますし、結局はこういった形になってしまうのです」

 

 それに、今更スカートだのワンピースだの、見た目相応のお洒落をするのはこの格好で男衆の前を歩くのよりよほど恥ずかしい。そろそろこの身体に合わせるべきだと思わなくはないが、こちとら一世紀近く男として生き、今生では三十年近く獣同然の生活を送ってきたのだ。今更小奇麗に着飾れと言われても困る。

 

「それは困ったわネ。うちの船にはシエラちゃんに合う大きさの服なんて置いてないし、でもそのままの恰好でいてもらうっていうのも、ネエ?」

 

「いや、私は別にこれで不便していないので――」

 

「ダメよ!」

 

 私の遠慮しがちな言葉は、鬼気迫る団長さんの声に吹き飛ばされた。

 

「シエラちゃんはこんなに美しい(ビューティフル)なのだから、それを活かさないなんてアタシが許さないワ! 任せて、この黒薔薇冒険団の団長たるこの私が、ゥこのローズ・フォン・ロートリンゲンがっ、必ずシエラちゃんに相応しいドレスを用意して見せるわッ!」

 

 やばい、なんか変なスイッチ入った。

 身振り手振り、文字通り熱の入った弁を振るう団長さんを前に、私は若干、いやかなりドン引きだった。

 というかドレスって言ったか。もしそんなものを持ってきたら私は飛んで逃げるぞ。例えでもなんでもなく。

 

「あ、それはそれとして、明後日の朝には出航することになったから、今からシエラちゃんの扱いについて皆で話し合っていきましょうネ」

 

「それを先に言ってくれんかなあ」

 

 急に素面に戻りそんなことを言う団長さんに、私は大きくため息を吐く。

 崇め奉られるのも勘弁だが、こうも濃ゆいのに振り回されるのもそれはそれで遠慮願いたい。

 そんな風な、とある日の昼下がり。

 呆れる私の心情を表すように、甲板で釘を打つ金槌の音がかあんと響き青空の向こうへと消えていった。

 



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自分以外誰もいない状態でジャングルに投げ出され、異世界の無人島で28年もたった一人で暮らし、最後には奇跡的に冒険者たちに助けられた中身が日本出身の爺な竜娘の生涯と不思議で驚きに満ちた冒険への旅立ち

大変お待たせいたしました。


 

「よおし、どんどん積み込め!」

 

「違う、それは向こう! 龍の嬢ちゃんの船に乗せるんだよ!」

 

 見慣れた砂浜を、上半身裸の屈強な男たちが走り回る。手に手に担いだ木箱の中には私がこの島で暮らす内に溜め込んだ漂流物、つまりは金銀財宝が詰め込まれていた。

 

「よかったの、全部あげちゃって」

 

がちゃがちゃと喧しく音を鳴らすそれらが次々と二隻の船に積み込まれていく様子を帆柱の天辺から眺めていると、私の肩を止まり木代わりにしたルールーが溜息を吐いた。

 

「呵々。あんなもんが船代替わりになるんなら願ったり叶ったりよ。それにこんな上等な洋服まで貰っちまったんだから、それなりにお返しはしないとバチが当たっちまうよ」

 

 とはいえ、その洋服も元はといえば貯め込んでいた宝箱の一つから見つかった物の幾つかに手を加えただけなのだが。

 言いつつ、私は団長さん手ずから拵えた逸品の裾を指先でちょいと摘まみ上げる。

 かの益荒男曰くここ数年で会心の出来であるという作は、現代日本の価値観からすれば奇天烈極まるものであった。

 配色は私の褐色の肌に映えるようにと白を主とし、上は金の刺繍で縁取られた前掛けが股のすぐ下まで伸び、腹の真ん中あたりで朱色の紐によってきゅっと絞られている。そして下は臍より少し上の辺りから前掛けと同じ丈で揃えられた赤いスカートだけ。それも尻のほうは尻尾の邪魔にならないようにとざっくり開いている為、正直後ろから見たらほぼ全裸だ。

もし孫がこんな格好をしていたら卒倒する自信があるぐらいだが、どうも龍の精神と混ざり合った故か自分が着る分にはどうにも羞恥心が湧いてこない。

 そもそも本来の、龍の姿も全裸といえば全裸であるし、布面積の点でいえば最近私が愛用していた一張羅も似たようなものだしなあ。

 それを思えば、獣の皮だけで拵えたあれとは比べ物にならないぐらい立派なものだ。素材も良いものを使っているのか、肌触りも申し分ない。

 

「せっかくだし、お前さんも団長さんに一着拵えてもらったらどうだ」 

 

「嫌よ。私のこのドレスは特別な物なの。これの代わりに人間の作った服を着るなんてまっぴらごめんよ」

 

 そうつんけんとした態度でそっぽを向くルールーであるが、その言葉の端々には決して譲れない拘りのようなものを感じ取ることができた。であるならば、私が気安くとやかく口を挟むものではないだろう。

 

「まあ、お前さんのその一張羅も立派なもんだからなあ」

 

 透けるような銀髪に白い肌。華奢なその体付きをうっすらと浮き上がらせ、彼女が纏う神秘的な雰囲気をより強調するようなそのドレスの美しさたるや、正しく芸術的と評するに相応しいものだ。

 そして要所要所に施された刺繡や細かな仕事ぶりを見るに、恐らく手掛けたのは人ではない。いかほどの名匠であろうとも、これほど細やかで美しい細工を施すのは至難の業だろう。

 そのようなことを、多少の美辞麗句で飾り立てて伝えてみれば彼女は何とも言えなそうな、まるで胡散臭い三流詐欺師でも見るような目をして眉間に皺を寄せてみせた。

 

「なんだ、爺に褒められるのは嫌かい」

 

「いえ、別に、何でもないわ」

 

 別にお世辞を言った訳でもないのだが、どうやらお気に召さなかったらしい。

 ぷいっとまたそっぽを向いてしまった彼女の憂いげな横顔に肩を竦めつつ、穏やかな陽気にくあ、と欠伸など漏らしてみれば、ぴんと張った尻尾がだらりと垂れ下がったところで、足元からこちらを呼ぶ声があった。

 見れば、シャツの袖を捲り、深紅のバンダナを巻いた何とも男前な格好をしたシエラ嬢がこちらを見上げ、声を張り上げている。

 

「おーい、そろそろ出発するから降りてきてくれ。そこにいられると仕事の邪魔になる!」

 

「あいよ、今日も今日とて元気だねえ」

 

 もうすっかり気安くなったシエラ嬢にひらりひらりと手を振って、私は帆柱の天辺から身を躍らせた。逆さまのまま勢いよく翼を広げ、曲芸飛行のように地面すれすれで上下を入れ替え、ふわりと甲板へ着地する。

 はい、と両手を掲げれば、それを見ていた船員たちから拍手喝采が沸き起こった。

 

「さすが龍の嬢ちゃん!」

 

「いやあ、イイモノ見させて貰ったわ!」

 

「眼福眼福!」

 

「どうも、どうも。しかしあんまり鼻の下伸ばしてっと、団長さんに叱られるぞあんたら」

 

 団長さん以下、船の乗組員たちとの関係は良好である。

 時折こうして茶化した真似をしていたのが功を奏したのか、今となっては私を見る度に龍神様だなんだのと手を合わせる者もごくごく一部の信心深い者だけとなっていた。

 隙を見て尻だの腰だのを撫でようとしてくる物好きもいるが、適度にお灸を据えていればそこは腕利きの海の男たち。荒くれといえども船の掟は絶対らしく、過度に悪戯をしようという輩は現れなかった。

 

「お前な、もうちょっと恥じらいというかな、隠せ、色々と」

 

 逆に甲斐甲斐しく世話を焼くようになったのが、このシエラ嬢である。

 ことある毎に私の迂闊な、男臭さが抜けきれない細かな仕草などを指摘したり、髪の手入れはこうしろだとか、肌着の付け方はこうだとか、まるで母が娘に、いやずぼらな妹に手を焼く姉のような感じだろうか、ともかくこうして気楽な私を窘めるシエラ嬢という構図は、今はこの船における日常の一部となっていた。

 

「いやあ、心配してくれるのはありがたいが、覗こうとして覗けるもんじゃあないと思うがね。ほら、(これ)とか尻尾(これ)があるだろう」

 

「だから、それが駄目なんだって。お前、そんなんじゃあ向こう(・・・)に着いてから苦労するぞ。鳥人族(ハーピー)じゃないんだから、もう少し自覚をだな……」

 

「おお、ごん太、お前さんまた部屋を抜け出してきたのか。駄目だぞ仕事の邪魔をしては」

 

「聞けよ、話を」

 

 足元に纏わりつく毛玉を拾い上げ呑気に笑う私に、頭を抱えるシエラ嬢。

 こんな下らないやりとりこそ、私がこの三十年近く追い求めた掛け替えのない宝物であった。

 

「さあ野郎ども、持ち場につきやがれ! 船出の時だ、錨を上げろお!」

 

「アイアイ、マム!」

 

 甲板の一段高いところ、舵輪を握る団長さんから檄が飛ぶ。

 丸い頭の上には薔薇の花をあしらった三角帽が乗っかり、丸太のような腕が天を衝かんばかりに突き上げられる。

 

「さあさあ愛しの港に錨を下すまで気を抜くんじゃあねえぞ! あ、小さい方のシエラちゃんは、あっちの準備も宜しくネ」 

 

 ふと団長さんの燃える瞳と目が合えば、ばちこーん、と火花が散るようなウインクが飛んだ。

 

「おっとそうだ、そうだった。よっしゃ、それじゃあひとつやってみようかね」

 

 そうぐっと伸びをして、私は帆を張り始めた船を飛び降り、すぐ横に着けていたもう一隻の船へと乗り込んでいく。

 さっと帆を畳んでいたロープを解いてするりと機関部へ潜り込めば、いつぞやかと同じ手順で龍の魔力を練り上げ、それを船全体へと行き渡らせた。

 船体が軋む音。三度鼓動を蘇らせた幽霊船が、此度こそはと白海を往く。

 百戦錬磨の黒薔薇を船頭に、空へ、空へ。

 

「おもかじいっぱーい、なんてな」

 

 舵輪を手に、私は再び空を征く。

 徐々に小さくなっていく古巣を背に、しかし決して振り返ることなく船は雲を切り裂いた。

吹き付ける涼風が、私の小さな背中を強かに叩く。

 

――いってらっしゃい

 

 そんな風に、声がして。

 思わず振り返った先には、相も変わらずとぼけ面でこちらを見る狸が一匹。

 その向こうには小さくなったあの島が、もう豆粒ほどになってしまった、あの岬が。

 あの、墓石が。

 頬を涙が伝う。

 気づけば私は深く深く、その岬に向かって頭を下げていた。

 

「ありがとう。行ってくるよ」

 

 涙を拭い、私はまた舵を取る。

 目の前には見渡す限りの青い空。

 私の、私たちの旅路を妨げるものはもういない。

 全身に爽やかな風を受け、私は笑う。

 身体が熱い。血潮が燃えるようだ。

 痛いぐらいの心臓の鼓動に胸を押さえながら、それでも私は、この旅路の先に待ち受ける未知の世界に溢れる笑みを抑えきれなかった。

 人として歩んだ九十年。

 龍として生を受けた二十八年。

 それだけの時を生き、いまだ知らない世界がこの先に待っている。

 全身の紋様が浮き上がり、唇から炎が漏れ出でる程の高揚感。

 素晴らしい。

 だからこそ、人の生は面白い!

 

「さあ行くぞ。全速前進、ヨーソロー!」

 

 雲をかき分け、風を切り裂き龍が往く。

 私の冒険は、まだまだ始まったばかりだ!

 

 第一章 完




本作をここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
そしてここまで約二年、お付き合い頂き誠にありがとうございました。
これにて第一章、完結となります。

はい、第一章です。
次回より第二章ということで、引き続き筆を執らせて頂きます。
なので完結タグは付けません。

若干タイトル詐欺になる心配もありますが、その時はその時かなと。
また今後年内は第二章の構想、書き溜めの為休止期間とさせて頂きます。

その間の活動内容等はX(旧Twitter)にて呟いたりしてます。

それでは皆様、少しばかり早いですがよいお年を。


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異世界漫遊編
爺様、船旅にてかく語りき


明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します。

相変わらず亀更新になってしまいそうですが、ひとまず新章開幕です。


 

薄暗い闇の中、蝋燭のぼんやりとした灯りに照らされた影法師たちが壁から天井へと背を伸ばす。中央にはもうすっかり使い込まれてささくれだった木製の長テーブルが一つ。

 

「なあ」

 

 もう随分と続いている沈黙に耐え切れず、向かいに座る大男、剃髪した頭に龍の鱗の入れ墨を走らせた益荒男に声をかける。

 しかし男は応えない。ただテーブルに両肘を突き、口元を隠すように手を組んで神妙な顔つきでじっとテーブルの中央で揺れる蝋燭の火を見つめていた。

 

「なあ、おい」

 

 そんな様子に尻尾を一振り、私は背もたれのない丸椅子をがたつかせて背後に控える女に視線を投げた。くすんだ金髪がこの薄暗がりでより鈍色を帯びており、どこか哀愁を湛えた蒼い瞳は陰鬱とした夕立の空を彷彿とさせた。

 がたがた。

 がたがた。

 まるで駄々を捏ねる子どものように椅子を鳴らす私であったが、返ってきたのは何かを諦めたような小さなため息だけだった。静かに目を伏せ、首を横に振る女、シエラ嬢の様子に私は眉を歪める。ならばと向かいの大男、ローズ団長殿の後ろにいる盲目の美女に視線を投げるも、これも柳に風といった様子。では少し離れたところで、我関せずを貫いている眼鏡の男はどうか。

 

「なあ、なあ、おい」

 

 今度は翼も広げて主張してみたが、これも駄目。男は指先で眼鏡の位置を直すふりをしながら、困った様子で腰から上ごとそっぽを向いてしまった。

 先程から、もう随分とこんな感じである。私は神妙になってしまった雰囲気の中でこれ見よがしに眉間に皺をよせ、ため息を吐いてみせると丸椅子から立ち上がり、テーブルから身を乗り出すように翼を向かいに座る大男――その後ろで垂れ下がっていたカーテンに伸ばし、勢いよく開け放った。

 

「うわっ」

 

 背後でシエラ嬢が焦ったような声をあげる。

 カーテンの奥から勢いよく飛び込んできたのは、目の覚めるような爽やかな陽の光であった。嵌め込まれた窓枠の向こうには澄み切った青空が広がり、甲板からは慌ただしく走り回る男たちの喧騒が聞こえてくる。

 そうしてカーテンを全て開け放ってしまえば先程までの陰鬱とした雰囲気はもうすっかり取り払われ、何とも困り果てた女が二人と男が一人、そしてそんな中でさえいまだ神妙な構えを崩さずにいる女(仮)(かっこかりかっことじ)が一人。

 

「あのな、話はわかったが、まだ漫才を続けるなら私は自分の船に帰るぞ」

 

「あらやだ。こういうのは雰囲気が大事なのよシエラちゃん」

 

 私がため息混じりに眉間を揉めば、ようやく顔をあげた団長さんが(しな)を作りながらこちらにウインクを投げる。そして、まるで親が子どもを咎めるような様子でそのごつごつとした人差し指を立ててみせた。

 

「それにほら、さっき決めたばかりじゃない。口調と、立ち振る舞い。ダメじゃないちゃんと意識しなくちゃ」

 

「いや、そう言われてもなあ」

 

「団長、本当にこれで上手くいくのかよ。言っちゃなんだけど、龍とはいっても獣みたいに生きてきた奴だぞ」

 

 本当に失礼だな。いや事実なのだけれど。

――無人島から旅立って早くも三十日が経とうとしていた今日。船長室に呼び出された我々を待っていたのは先程までの、団長さん曰く雰囲気たっぷりの暗がりが一つと、重要な議題が一つ。

 その内容とは、もう今日にも到着するであろう彼らの母国においての、私の身の振り方であった。

 今更言うまでもないことだが、私は龍である。それも、おとぎ話などに登場するような生易しいものではない。人では抗いようのない嵐や洪水、津波、地震、あるいは火山の噴火のような、自然そのものが形を持ったような超常的な存在が龍であり、故にこの世界の人々はそれを畏れ、己たちに害が及ばぬようにと祈り、どうか我々を御守り下さいと奉ってきたのだ。

 時が経ち、その存在が伝承となり半ば風化した今でなおその信仰は根深く、聞くところによると彼らの国には立派な教会まで建っているという。

 そんな存在が、私なのだ。

 いや、正確には日本(・・)という国で百年近く生きた爺の魂を取り込み、混じり合った異端ではあるのだが、ともかく私はそういったものである。しかし二十八年も無人島で暮らし、人恋しさからシエラ嬢、団長さんに引っ付いてきた私ではあるが、ここで問題となったのがまさにそこだった。

 例えるならば、どこぞの宗教のシンボル的な聖人が、また復活しちゃった、なんて言いながらひょっこり聖地に顔を出すようなものだ。これで偽物扱い、おふざけ扱いで相手にもされないならまだいいが、まあ棒で殴られるか、石を投げられるかはするだろう。

 一番最悪なのは、本物扱いされて神輿に担ぎ込まれた時だ。シエラ嬢たちの故郷は王国、つまり単純に言えば王様が一番偉い国だ。投票で決まった民主主義的な代表ならまだしも、国のシンボルとして王が君臨するところに私が龍ですと大手を振って出ていくのは大変宜しくない。

 宗教というのは力だ。私が生きていた世界(げんだい)では宗教戦争という言葉があったぐらい、宗教というものは恐ろしい。ただでさえ龍という、いつ爆発するかわからない歩く核爆弾のような存在だというのに、ここに信心という厄介なものまで加わってくるともう歯止めは効かないだろう。

 まず崩落する。国が。

 私を、龍を神輿に乗せて国を都合よく動かそうと、あるいは作り変えようとする者が必ず現れる。或いは龍という核弾頭を御しきれると思い上がった人間が、必ず。

 そういうものだ。そういうものなのだ。

 だからこそ、団長が提示してきた案はその内容こそ、それはもう、私が苦虫を百匹単位で嚙み潰したような渋面を晒すようなものであったとしても、その価値は計り知れないものであった。

 しかし、だからといって――

 

「世界の果ての果てで見つけた異種族の姫君って、それはちょっと、張子の虎にしてもお粗末すぎやしないか」

 

 つまりは龍じゃないですよ、角と翼と尻尾がありますけどそういう種族なんですよと、そういう風に収めてしまおうというのだ。現にそういった、角があったり羽が生えていたりトカゲのような尻尾を持っていたりと、その全てを含むものはまだ見つかっていないが、似たような種族は確認されているし、交流もあって人々の認知度もそれなりに高いらしい。

 まあそれはいい。名案だとも思う。

 だがしかし、それで私がなんぞ高貴な身分にされてしまうのはまた話が別ではないだろうか。

 

「ダメよ。シエラちゃんったらすっごく綺麗なんだから。それに、お姫様ってことにしておかないと色々と(・・・)辻褄が合わなくなるだろうしネ」

 

「いや、だからといって、今からそれらしく(・・・・・)しましょうというのは……」

 

 それらしく。

 あえて濁した物言いでそう口にしたのは、それが私に残された最後の砦というか、超えてはいけない分水嶺というか、そういうものであったからだ。

 いやもう、三十年近くもこの身体で生きてきて今更何をという話ではあるのだが、私にだって心の準備をする余裕ぐらい欲しいというか、そういうことである。

 

「ダメダメ。もう時間もあんまり無いし、ここにいる皆でびしびしイクわよ」

 

「ええっ、僕もですか!?」

 

 思わぬところからの飛び火に、部屋の隅っこで縮こまっていた男がぎょっとして目を丸くした。たしかフライデーという名前だったか。背丈はそれなりにあるが、気弱そうに丸まった背中と肩のせいで一回りは小さく見える、いわゆる学者さんというか、あけすけなく言ってしまえば根暗な印象を受ける人物である。

 

「当り前じゃない。フライデーちゃんには王国での一般常識、まあ座学ね、その辺りをお願いするわ。貴方が一番、そういうのは得意そうだし」

 

「そんな、そういったことならアイビスさんだって得意じゃないですか!」

 

「アイビスちゃんには風読みのお仕事があるからダメ。もう王国は目と鼻の先だけれど、だからこそ気を抜くわけにはいかないわ。船長ちゃんは引き続き、身の回りのお世話をお願いネ」

 

「団長はどうするんだよ」

 

「私は淑女としての立ち振る舞いを、ネ。さあ、のんびりしている時間も無いし、びしびしイクわよ!」

 

「いや、私の意見は。私に拒否権はないのか」

 

「ないわネ!」

 

 言い切ったな。

 それはもう、清々しい程のイイ笑顔だった。

 背後で揺れていた尻尾が、力なく床へ垂れる。

 

「まあ、団長の言うことにも一理あるしな。諦めろ」

 

 そう言って私の肩を叩くシエラ嬢の顔には、どこか諦観したような色があった。どうやら彼女自身色々とあったらしいが、この期に及んで藪蛇は真っ平ごめんであるので私は見て見ぬふりを決め込もうと心に誓った。

 王国まで、あと三日。

 これまでにはなかった類の試練に私はほんの少し、爪の先ほどだけちらりと、この船に乗ったのは間違いであったと、そう後悔するのだった。



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爺様、女子力を知る

お待たせしました。


 

 一日目。思えばこの日が最も心身共に疲弊した日であったのかもしれない。

 朝一番から、いまだ眠気の覚めぬ頭で寝床から這い出た私を待っていたのは清々しい朝日、ではなく、呆れ果てて頭を抱えるシエラ嬢の姿だった。

 状況を理解するまでに一つ、二つ、三つほど数え、ああそういえば団長さんが色々と言っていたなあと私が手を叩くのと、ため息たっぷりにシエラ嬢がその手を掴んで部屋へと引き戻すのはほぼ同時。そうして乱暴に椅子に座らされた辺りで、私の思考は穏やかな微睡みの中からようやっと頭の方へと戻ってきた。

 

「なんだなんだ、まだ顔も洗ってないのに」

 

「馬鹿、こんな格好で表に出る奴があるか! 今までよく男衆に襲われなかったなお前!」

 

 不満げにそう口に出せば、まるで子どもを叱りつけるような様子でそう肩を押さえられる。

 こんな格好とは言われても、いつも通りの恰好ではあるのだが。

 私は椅子に押し付けられた己の身体を見下ろして、そんなことを考える。たしかに上着一枚というのは問題だろうが、とはいえ足は爪と鱗のせいで靴どころかズボンの裾に足を通すことすらできないし、背中にも翼と尻尾があるので着れるものは自然と限られてくる。これはもう、どうしようもないことだと思うのだが。

 そんなことを、長生きして培ってきた理屈やら屁理屈やらでかさ増しして伝えてみたら、再びの大ため息と共に櫛で髪を梳かされる羽目になった。

 

「こら、待て、そう引っ張るな」

 

「うるさい。アンタが頑固なのは十分にわかったから、大人しくしとけ。くそっ、こんな、適当、なのに、何で、寝ぐせ一つないんだ腹立つな!」

 

「そんな、こと、言われても、なあっ」

 

 どうにも理不尽な妬みが多分に含まれているような気がするのだけれど、そんな乱暴な口ぶりとは裏腹にその手つきは随分と慣れたもので、多少引っ張られる感覚があるもののそこに不快感や痛みはない。

 しかし彼女の髪はそこまで長いものではないし、もしや姉や妹でもいたのかと尋ねてみればどうやら近所の子どもたちの面倒を見ているうちに(こな)れてきたのだという。

 なるほど、たしかにそう言われてみれば納得である。シエラ嬢は面倒見が良さそうだし、要領も悪くない。気が強いので角が立つ場面もあるだろうが、相手があの眼鏡の青年(フライデー)ならば丁度いい塩梅にはなるだろう。

 ついつい老婆心からそんなことをぽろりと口走ると、急に目いっぱい髪を引っ張られてしまった。ぐきりと、首から嫌な音が鳴る。

 

「お前な、いくら私が頑丈だからといって、いくらでも乱暴にしていいということにはならないんだぞ」

 

「ば、馬鹿、アイツはただの幼馴染で、そんなんじゃねえよ!」

 

 (うなじ)を撫でつつ彼女の方を見上げれば、そこには林檎のように顔を真っ赤にして前髪を弄るいじらしい美女の姿が。

 おや、普段の様子からしてあまり意識していないのかと思ったが、これは意外と脈ありなのではないだろうか。

 

「呵々。よきかなよきかな。人の一生っていうのは長いようで短いからな。目いっぱい、思い残すことのないよう生きなければ駄目だぞ」

 

「また年寄り臭いことを……」

 

「呵々ッ、実際に年寄りだからな」

 

「ほんと、アンタの話は与太なのかマジなのかわっかんねえな。ほら、終わったぜ」

 

「おっ、流石に手早いね。ありがとう」

 

 梳かされた髪に指を通してみれば、なるほど以前と比べても艶が増したような感じがする。指ざわりなどは歴然の差だ。

 これでも髪を洗ったり手櫛を通したりと、無人島での限られた環境下でできる限りのことはやっていたつもりだったが、こうまで違いを見せつけられると私としても閉口せざるを得ない。

 

「どうだ、見違えただろ」

 

「ああ、こいつは驚いた」

 

「元々不思議なぐらい綺麗な状態だったけどな、それでも少しは傷むし、汚れもするってこった」

 

 言われてみれば、これまで三十年もこんな気の利かない爺に手入れされていたにしては、私の髪は状態が良い。これもきっと龍であるが故なのだろう。もしかすれば、髪も鱗と同じような成分でできているのかもしれない。

 そうして三十年ぶり、いや生まれて初めて髪を梳かれるという経験をした私であったが、続けて鱗や翼、尻尾などの邪魔にならないよう創意工夫がなされた肌着やら、衣装の扱い方を一通り教えられて、やっと部屋の外へ出ることができた。

 朝日の元で露わになるのは、肩から股下まですっぽりと外套で覆われた私の姿。まるでてるてる坊主にでもなったような心持ちだが、このありさまは淑女がむやみやたらに肌を晒すものではないという団長さんの考えからくるものであった。

 一応、翼を畳まなくてもよいようにスリットのような切れ目が背中にざっくりと入ってはいるが、それでもこの窮屈な、狭苦しい箱に押し込められたような居心地の悪さはいかんともしがたいものがある。

 ほらみろ、甲板で仕事に精を出していた男たちも、すわ何事かと目を丸くしているじゃあないか。

 あ、いや、あれはお目当てのものが拝めなくてがっかりした顔だな。色に目がない盛りとはいえ、もう少し隠さんと私はともかく、隣にいる女傑が怖いぞ。

 そう思っていた矢先に、件の男はシエラ嬢にひと睨みされて肩を竦めていた。

 

「ったく、船乗りってのはこれだから」

 

「まあまあ、男ってのはどんなになっても女の肌には弱いもんさ」

 

「だからって、アンタみたいなナリの奴だろうとお構いなしってのはね。アタシやアイビスぐらいの歳ならまだしも」

 

 そっちの方にも成れるが。

 そんな台詞を、私は既のところで呑み込んだ。

 見た目が年端もいかぬ少女の今でさえこれほど口うるさいのだ。これが己と同じぐらいの、女盛りの姿になってしまえばもう、付きっ切りであれやこれやと世話を焼かれかねない。それはちょっと、ほんの少し嬉しい気持ちもあるが、やはり困る。

 今のこの衣装も色々とサイズが合わなくなるし、必要に迫られない限りは、もうしばらく黙っていよう。うん、それがいい。

 そんなことを考えながら船長室までやってきたところで、私はひょいと両脇を抱えられ、まるで犬猫でも扱うようにぽんと室内へ投げ入れられた。てんてんと転がった私を、科を作った団長さんが凄くイイ笑顔で見下ろしている。

 これから訪れるだろう苦難の数々を想像し、私はごくりと喉を鳴らした。

 

「来たわネ、シエラちゃんズ」

 

「纏めるな。ほら、あとはアンタの仕事だろ」

 

「任せてちょうだい。さあ可愛らしい龍様、これからたっぷりねっとり、淑女(レディ)が何たるかを教えてア・ゲ・ル」

 

「はは、お手柔らかに、お願いします」

 

 ぎいぎいと、まるで亡霊が引っ掻くような音と共に船長室の扉が閉じる。

 それからはもう、筆舌に尽くしがたい荒行であった。

 

「はい、また上半身がブレてるわよ! 肩は動かさない、イイ女は腰で魅せる!」

 

「ぐぬぬ、腰に余分な物(しっぽ)が引っ付いてるから余計に歩きにくい……」

 

 頭に本を乗せて、ひたすら床板に沿って歩かされたり。

 

「はいはい、座る時にお股は開かない! イイ女に隙はないのよ!」

 

「どうにも落ち着かんなあ。妙に収まりが良いのも逆に違和感が……」

 

 ひたすらに立って座ってを繰り返したり。

 

「はいはいはい、動かない。あらやだ、シエラちゃんってばお化粧のノリがすっごくイイのね。お肌も赤ちゃんみたいですべすべぷにぷに、羨ましいワ」

 

「これ、どうせ落とさんといかんのだろう。わざわざ手間暇かけんでもよくないかあ」

 

「ダメよ! この素材を活かさないだなんて、全人類に対する冒涜よ!」 

 

 鏡の前で何時間も化粧の手引きを受けたりと、それはもう濃厚で未知に満ち溢れた時間であった。

 何というか、通算百年以上生きてきた我が身であるが、まだまだ世界は広いのだなあと実感した次第で。開いてはいけない扉を開いたというか、無意識の内に避けていた部分を突き付けられたというか。

 

「つ、疲れた」

 

 ようやく解放された頃には日はすっかり沈み、ふかふかのベッドに身を投げた私の口から空気の抜けるような音が漏れた。

 

「お疲れ様。随分とまあ、いいようにされてたわね」

 

 うつ伏せに沈む私の後頭部に、遠慮の欠片もない妖精の尻が乗る。

 返事代わりにため息を漏らすと、寝台から投げ出した指先に無邪気な毛玉がじゃれついてきた。相変わらず元気いっぱいな狸を掴み上げて抱き枕代わりに抱え込めば、それは何度かもぞもぞと身じろぎして収まりのよい場所を探り当てると、満足げに鼻を鳴らした。

 

「見ていたのなら、少しぐらい助け舟を出してくれたってバチは当たらんと思うがなあ」

 

「あら、貴方が色々と足りていないのは事実じゃない。私がその都度指摘してあげてもいいけれど、その手間を人間たちが纏めて片付けてくれるのならそれに越したことはないわ」

 

「薄情な奴だなあ。な、お前もそう思うよな」

 

 ごん太にそう問いかけるも、返ってくるのはとぼけたような丸い瞳と表情だけ。

 

「色々見て知ってはいたが、いやはや、いざ経験してみると色々大変なんだなあ」

 

 爺だった頃はなんだかんだと準備に時間をかける妻を急かしたもんだが、今になってその努力には感心するばかりである。

 ああ、そんなことを考えているうちに心地よい眠気が――

 

「おい、気になったから見に来てやったぞ。ああもう、寝る前にちゃんと髪を纏めろって」

 

「もう勘弁しとくれぇ」

 

 龍を殺し得るもの、それは剣でも槍でもなく、女子力なのかもしれない。

 じたばた暴れる毛玉を抱きしめながら、私はそんなことを思うのであった。




諸事情からPNを変更させて頂きました。
今後は蒼い兎改め野良野兎として活動していきますので、どうか宜しくお願い致します。


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爺様、大地に立つ

お待たせいたしました。


 

 無人島を発って三十と九日。本日も空は青く晴れ渡り、真っ白な鳥たちが風に乗って泳ぐその横で、私は興奮を隠しきれずにいた。

 

「見えてきたぞお!」

 

 帆柱の天辺から船乗りの声が響く。丸い望遠鏡が覗くその先には、私が三十年以上も夢見てきた光景が広がっていた。

 

「おお、おお、あれがそうか!」

 

 手摺から乗り出し、年甲斐もなくはしゃいでしまう。

 そこには島があった。無論、ただの島ではない。いくつもの島々が連なった、まるでおとぎ話に登場するような不思議な島である。

 まず中央に大きな、あの無人島が三つは収まりそうな程の大きさの島があり、それを囲むように大小さまざまな島が浮かび、それぞれから巨人が扱うような、目を疑うほど大きな鎖が中央の島へ向かって伸びていた。

 よく見ればそれぞれの島から小さな船が幾つも行ったり来たりしていて、規模は小さいが港町のようなものも見て取れる。

 しかし驚くべきはやはり中央の島だろう。

 王国というぐらいだから相当に大きい島であろうことは予想していたが、まさかこれほどとは思いもしなかった。島の端、突き出した岬などには多くの港が設けられ、そこから中央へと延びる道の先には鮮やかな赤煉瓦の屋根が連なった、美しい街並みが広がっていた。

 さらにその中央に聳えるのは、目を奪われる程に美しい白亜の城だ。小高い丘の上に建てられたそれは雲のような白さで、青い煉瓦が敷かれた三角屋根の周りに、円錐状の帽子を被ったような塔がいくつも飛び出している。

 

「凄いなあ、これは凄いなあ!」

 

「あれがティアラ城だ。ティアラってのは光って意味で……って、そういうのはアイツから習ったか。城を中心にして円形に広がってるのが王都ファンフェルで、手前にあるのが島で一番大きな港町ルーノクだ」

 

 翼をはためかせ、尻尾を暴れさせる私の隣でシエラ嬢が指差しながら教えてくれる。

 光の城か、たしかにそう呼ばれるに相応しい立ち姿だ。

 

「あの鎖はなんだ!」

 

「ありゃあ龍の鎖って言ってな、大昔の王様がエルフやらドワーフやらと協力して作ったって話なんだが、あれで島と島を繋いで大きくなっていったのが、今のマスティアラ王国って訳だ」

 

 ちなみにマスというのは王国の言葉で集まる、集うという意味があるらしく、つまりは古代の人々が過酷なこの世界でも生き抜こうと身を寄せ合い、協力し合ったことが国の起こりとなったのだという。

 そして当時小競り合いばかりを起こしていた周辺の種族、民族を束ね先導したのが初代国王アレキサンダーその人であり、彼の冒険譚といえば枯れ切った年寄りの私をもってしても心が躍るような物語ばかりであった。

 

「そろそろ船を寄せるわよ。しっかり働け野郎どもォ!」

 

 舵輪を握りながら団長さんが吼える。いつもは(たお)やかな彼、いや彼女ではあるが、仕事にかかる場面となればやはり根は海の男というか、見た目通りの雄々しさが顔を出す。聞くところによると素手で熊すら殴り殺したことがあるとか、ないとか。

 酒の席で語られる武勇伝であるので多分に尾ひれ背びれは付いているだろうが、しかしそうであっても不思議ではないと思えるほどの威圧感であった。

 そんな団長に尻を叩かれるものだから、それはもう船の男たちも人一倍以上は働く。それはまるで訓練を積んだ軍隊のようで、言葉遣いこそ粗野ではあるものの、このような働き者たちは生前の日本でさえそう目にしたことはない。

 そうしている間にも迫る港の景色。近づいてみれば目の前の港は他の港よりも規模が大きく、停泊している船たちもかなり大型の物が多いようだった。しかし不思議なのは、海岸が広がる島の側面ではなく、王城を正面に見る切り立った崖の腹に港が設けられている点であった。いや、大型の船をこれだけ収容するとなると海岸ではなくこうして崖を利用して立体的に空間を使った方が便利というのはわかるのだが、いやはや何とも面白いというか、文字通りに岸壁に船を停めるその光景は目を丸くしてしまうには十分なものあった。

 そうして口を開けて間抜け面を晒している間に、どうやら我々の船は港の一番天辺にある場所へと停泊するようである。

 

「にしても、随分な歓迎だなあ」

 

 見えてきた停泊所は、それはもう結構な賑やかさだった。花弁が舞い音楽隊が高々と行進曲を吹き奏でる、とまではいかずとも、少なくとも三桁には達しそうな人々が手に手に花を投げたり、手ぬぐいを振ったりする程度には賑わいを見せていた。

 中には着の身着のままといった風体で、涙を浮かべながら手を振る妙齢の女の姿もあった。

 

「そりゃあ冒険団の、それも黒薔薇冒険団の凱旋となったらこうもなるだろうさ。空の旅、それも未開の地への冒険ともなれば港で別れたきり、二度と帰ってこないことだってざらにある。大体は命知らずの馬鹿野郎どもだが、その中には家族を残して船に乗った大馬鹿野郎だっている。残された側からしたら、そりゃあこうもなるだろうさ」

 

 その瞳は目の前の光景ではなく、どこか遠く、ここではないどこかへ思いを馳せているようであった。あの日、あの晩、あの丘に響いた慟哭が脳裏をよぎる。

 その小さく震える肩を見て、私はしばし目を伏せることしかできなかった。

 

「そうか、そうか」

 

 短く呟き、再び港の方を見る。シエラ嬢の言を聞いた後だと、この光景もまた変わって見える。

 ふと、今まさに船が横付けしようとしているすぐ傍の、桟橋の端っこに乗り出して何やら振り回す子どもの姿が目に留まった。十歳前後の男の子。刈り上げた坊主頭に水兵のような帽子を乗せて、端材をそのまま繋ぎ合わせたような玩具の剣を頭上に高々と掲げてこちらの気を引こうとしている。

 そこだけ見れば微笑ましい、船乗りに憧れる子どもが背伸びをしている姿であるのだが、気になったのはその背後。何人かの子どもが、明らかに仕切り代わりに張られたロープの向こう側で、全員が顔を真っ青にして木剣の子どもに何かを呼び掛けている。さらにその後ろには、慌てて駆け付ける大人たち数人の姿もあった。

 これはもう、尋常ではない。

 背筋に冷たいものを感じ、気づけば私は羽織っていた外套(がいとう)を脱ぎ捨てて隣のシエラ嬢に投げ渡していた。

 

「すまんシエラ嬢、少し預かってくれ」

 

「わっ、お前、いったい何を――」

 

 突然のことに目を丸くするシエラ嬢をしり目に私は船の縁に足をかけ、畳んでいた翼を目いっぱい広げた。

 

「ちょ、ちょっと待っ――」

 

 そして制止する声を置き去りに、空を駆ける。言うまでも無く、桟橋ではしゃぐあの子どもの元へ向かって。それと同時に、無邪気に木剣を振っていた男の子の足元の板がぐらりと傾く。あっと手摺に手を伸ばすも、子どもの手足で届くはずもない。誰か、港に集まった女性の悲鳴が響く。

 小さく息を吐いた。

 広げた翼で力いっぱい大気を叩き、悲鳴をあげて落ちていく子どもの元へ。ここは港の中で最も高い位置にある停泊所、つまり下にはまだ何層にも分かれて停泊所が存在し、当然ながらそこには船が幾つも泊っている。そこにぶつかればまず命はない。

 崩れた足場をすり抜け、目を丸くする少年の手を掴み取る。そうしてそのまま横抱きにすると、すぐ下の停泊所に泊められていた船の帆柱を掠めるようにして急上昇。正しく皮一枚ではあったが、何とか先程の停泊地にまで戻ってくることができた。

 腰が抜けたのだろう、あんぐりと口を開けて微動だにしない少年をゆっくりと桟橋の上に下ろすと、これまで以上の歓声がわっと沸き上がった。あまりの音量に、びくりと尻尾が跳ね上がる。

 

「なんだなんだ。いや、それよりもだ、こら、子どもがあんな危ない場所に入ったら駄目だろう! 今回はおれがおったからどうにかなったものの、怪我どころじゃあ済まんのだぞ!」

 

 こほんと咳払いを一つ、私はぴんと指を立てて少年を怒鳴りつけた。無邪気、元気なのは良いものであるし、無理無茶無謀は子どもの専売特許のようなものだがそれにしたって限度はある。こういうときは大人がしっかりと叱ってやらなければ。

 そういった思いからの説教であったが、少年は何やら顔を真っ赤にした後、言葉にならない叫びをあげながら脱兎の如く逃げ出してしまった。しまった、言葉がきつすぎただろうか。最近の子は繊細だと聞くし、もう少し言葉を選ぶべきであったか。

 

「わぷ」

 

 そんなことを考えていると、背後から何やら投げつけられた。何事かとそれを掴んで確かめてみると、それはつい先ほどシエラ嬢に押し付けたあの外套であった。

 

「お前、いきなり飛び出すなよ!」

 

 それに続けて、いつの間にか係留を済ませていた船からシエラ嬢が駆けつける。トレードマークの金髪が乱れている辺り、相当に焦っていたのだろう。

 

「いや、すまんすまん。嫌な予感がしたのでつい、な。しかしそのお蔭であの少年を助けられたのだから、今回は大目に見てはくれんか」

 

 そう言うとシエラ嬢はあーだのうーだの呻いた後、結局は非常時であったので致し方ないという結論に至ったようで、大きな溜息と共に肩を落としていた。

 

「ありがとな、ロビンを助けてくれて」

 

「なんだ、知ってる子か」

 

 外套をまた羽織っていると、神妙な面持ちでシエラ嬢がそんなことを言ってきた。なんでも先程の少年は港町でもそこそこ名の知れた悪童らしく、彼の母親が自身の両親と懇意にしていたこともあり、昔はシエラ嬢もそれなりに手を焼いていたようだ。それこそオムツを変えたこともある間柄だそうだが、最近は船乗り、それも黒薔薇冒険団に入れるような凄い冒険者になるんだと息巻いているそうな。

 なるほど、あの年頃の子が華やかな舞台に憧れるのは古今東西、世界が変わっても同じらしい。

 

「しかしあの無謀さは危ういな。それこそ、そこいらの船にこっそり忍び込みかねんぞ」

 

「私からも、おばさんにきつく言うよう伝えとくよ。まあ、さっきの様子を見るにしばらくは大人しくなりそうだがな」

 

「そりゃああれだけ怖い目にあえば、しばらく港に近づこうともしないだろう」

 

「そうじゃないが、いや、まあ、港には近づかないだろうな」

 

 顎を撫でつつそう言うと、何やら意味深な言葉が返ってきた。

 苦笑いを浮かべる彼女の様子に眉を寄せていると、何やら慌てて駆け寄ってくる一団があった。どうやら港町を仕切る組合の者たちらしく、余りにも大慌てで走ってきたものだから全員が肩で息をしながら、息も絶え絶えに感謝したり謝罪したりと、首が取れるんじゃないかと心配になる勢いで頭を下げている。

 最終的には一仕事終えた団長さんが合流し、特に迷惑を被った訳でもないので謝罪は不要であるが、桟橋の劣化をそのままにしていた件については厳重注意とし、組合の方で早急に対応するようにとお小言を貰い解散となった。

 

「で、これからどうするんだ」

 

「そうねえ、まだ荷下ろしもあるし、今日はひとまずルーノクで一休みして明日の朝に王都へ向かいましょうか」

 

「いいのか、そうゆっくりしていて」

 

「要点を纏めたお手紙はアイビスちゃんに届けてもらうし、アタシたちの王様はそんなせっかちさんじゃないから大丈夫よ」

 

 たしかに彼女の相棒であるあの鳥さんならば王都まであっと言う間だろうが、そんな感じでいいのだろうか。いや、話を聞く限りはかなり臣民に好かれる善き王様ではあるようだし、そもそもそう緊急性の高い案件でもないだろうし、いいのだろうか。

 一人云々唸っていると、団長さんはそれよりも、と指を鳴らして。

 

「バタバタしちゃって忘れてたけど、ア、レ、うちの船の反対側に着けてもらっていいかしらン」

 

 はて、何かあったろうか。何やら困り顔を浮かべて私の背後に投げられた視線を追ってみれば、そこには団長さんの輝ける白鳥号と比べても遜色ない大きさをした、相当に年季が入った船が一隻。

 あ、と間抜けな声と共に外套の中で尻尾が揺れる。

 

「いかんいかん、忘れていた。それじゃあちょっくら行ってくるかい」

 

「行ってくるかい、じゃねえよ! こんな衆人環視の中で脱ごうとするな馬鹿!」

 

 すぱこーん、と、賑やかな港町の空に快音が響き渡った。

 



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爺様、王様に会う

お待たせしました。
サブタイはこのぐらい緩い方が良い気がする。


 

 かっぽかっぽと、耳に心地よい蹄の音が室内に響く。

 港町に一泊した翌日、私たちは二頭立ての立派な馬車へと乗り込んで王城への道を進んでいた。

道中は石畳が敷かれ舗装こそされていたものの、固い車輪とサスペンションも何もない車体ではそれなりに揺れる。小さな段差で尻が浮き上がることも珍しくなく、窓の外に広がる牧歌的な光景を楽しむ暇もないありさまであったのだが、聞くところによるとこういった人を乗せる馬車自体が他国のお偉いさんや教会の司祭が謁見の為に登城する時ぐらいにしかお披露目されない代物らしく、つまりは儀式用というか、乗り心地は二の次として作られているそうな。

 

「余りにも大袈裟、とは言わんが、どうにも落ち着かんなあ」

 

 それは翼や尻尾のせいで窮屈だから、というだけではなく、やはり元庶民の身としてはこう、空港で降りたら急にやたら長い高級車に押し込められた感じというか、それほどの居た堪れなさを感じずにはいられない。

 これならばいっそのこと歩いて向かった方がのんびりできて良かったかもしれない。そんなことをぽろっと零せば、対面に座っていた団長さんが楽し気な笑みを零し、隣のシエラ嬢がため息と共に肩を落とした。

 

「それ、外では絶対に言うなよ。送迎用の馬車が出されるなんて、よっぽどのことなんだからな」

 

「わかっているさ。だからこそ、朝っぱらから団長さんが腕を振るっておめかし(・・・・)をしてもらったんだろうに」

 

 きっとこの気怠さは、馬車の揺れだけが原因ではないのだろう。窓硝子にうっすら映り込む我が顔を見て、私は小さく息を吐く。そこには薄く紅が引かれ、頬にも目元にもしっかりと化粧を施され化けに化けた美しい少女の姿があった。

 化ける(よそおい)とはよく言ったもので、初めて目にした際には見慣れた顔だというのについ見惚れてしまう程の化けっぷりであった。頭から伸びる大きな角にも金のネックレスやら腕輪やら、無人島で暮らしていた頃に集めていた貴金属の中からそれらしいものを団長さんの手により選別され、これがまた絶妙に俗っぽくないというか、派手過ぎず寂しすぎず、私という素材を最大限に活かせるような絶妙な手腕をもって飾り付けられている。

 何というか、筆舌に尽くしがたいというか、世の女性たちの美に対する技術というものは凄まじいものなのだなと感心するばかりだ。

 そうこうしているうちに、馬車は城門の前までやってくる。御者が門番の兵士と一言二言やり取りを済ませると、大きな扉が重々しい音と共にゆっくりと開かれた。思わず見上げてしまう程に立派な門を抜けると石畳が敷かれた広い中庭があり、どうやら馬車はその城壁沿いに停められるようだった。

 団長さん、シエラ嬢がまず外に降り、最後に私が角や尻尾をぶつけないよう慎重に顔を出すと、そこにはまるでおとぎ話の世界にでも迷い込んだのではと思ってしまう程の光景が広がっていた。

 

「おお、これはまた……」

 

 こういったお城の中庭というと丸い噴水があったり、芝生が敷き詰められていたり薔薇が咲いていたり、そういった華やかな風景を想像していたのだが、実際にはそういったものはなく、大きな樹木が一本佇むだけの随分と無骨なものであった。

 しかしその荘厳な佇まいといえばどうだろうか。真っ白な壁に高い塔、長方形の立派な建物に三角屋根。

 この、これぞ男が大好きな城というか、これで嘴が尖った全身甲冑の騎士でも立ち並ぼうものなら、男子であれば誰もが昂ぶりを抑えられないような、そんな光景であった。

 

「おい」

 

 そうして目を輝かせていると、横から小さく声をかけるものがあった。何事かとそちらへ目をやると、何やら少し居心地の悪そうな顔をしたシエラ嬢がちらちらとこちらへ視線を投げている。

 その視線の先を追ってみれば、そこには建物まで伸びる赤絨毯の脇で控えた老紳士が、穏やかな笑みを浮かべてこちらに手を伸ばしていた。

 白髪交じりの灰色の髪を後ろに流した、すらりとした体付きの紳士である。丸い片眼鏡(モノクル)を左目に乗せて、燕尾服に白手袋。皺だらけの顔であって不思議な色香があり、英国紳士然とした雰囲気を纏う男であった。

 

「僭越ながら、お美しい姫君のお手を取らせて頂いても宜しいでしょうか」

 

「姫君……あ、いや、これはご丁寧に、どうも」

 

 おっかなびっくり手を取って馬車を降りれば老紳士はすぐさま我々に一礼し、自身は王家に仕える執事であり、謁見の間までの案内を仰せつかっているのだと告げた。名はウァルターというらしい。団長さんたちとは知古の間柄らしく、シエラ嬢のことを『シエラお嬢様』と呼んだ時にはついぎょっと目を丸くしてしまった。

 父親のウィリアムがかなり有名な人物であることはここまでの船旅で少し耳に挟んでいたのだが、二人のやり取りを見る限りどうやら他にも理由はあるようだ。

 

「こちらが玉座の間にございます」

 

 しばらく城内を歩くと、やがて目の前に立派な扉が現れた。左右に龍の紋章が描かれた、両開きの扉である。

 その装飾になんとも言えないものを感じながらも開かれた扉を潜ると、そこにあったのは豪華絢爛を絵にしたような、何とも華やかな光景であった。

 左右に吊り下げられ並んだシャンデリアに玉座まで続く赤絨毯。床は鏡のように磨き上げられ、立ち並ぶ柱には全て金の装飾が施されている。

そしてその奥、一段高くなった場所にある玉座に腰かけた、龍の旗を背に佇む男こそが――

 

「よくぞ参られた、龍の姫君よ。余がアレキサンダー王である」

 

 第一印象は、思っていたよりも若い、だった。

 顔つきを見るに歳は四十から五十の間ぐらいだろうか。白銀の髪が胸元まで流れ落ち、堀が深くすっと鼻筋が通ったその顔立ちは美丈夫と呼ぶに相応しいものであった。

 その隣には王妃様であろう、綺麗な金髪をした美女が静かに腰かけている。さらにその奥、王を挟んだ反対側には王妃を一回り小さくしたような、可愛らしい少女が一人。彼女がお姫様だろうか。菓子を目の前にした童女のように瞳をきらきらとさせて、湛える笑みを隠すことなくこちらを見つめている。

 そしてその近くには白と黒の鎧を着込んだ騎士が二人、王たちを守るように両脇を固めていた。背には盾、腰には剣を佩き、鷹のような鋭い眼光でこちらを睨みつけている。驚くことに、黒い鎧の方は女性であった。

 少しばかり進んだところで団長とシエラ嬢が跪き、目を伏せる。私もそれに倣おうとしたのだが、目の前の王に手で制されてしまった。

 

「よい。其方にそうさせるほど、余は愚かではない。ロートリンゲン卿、そしてシエラよ、此度の遠征、大儀であった。其方らには後ほど、相応しい褒美を与えよう」

 

「はっ、ありがたき幸せにございます」

 

 何というか、凄くこう、場違い感が凄いな。見た目は立派に飾り付けられているが、中身は片田舎の百姓であり、三十年近く無人島で暮らしていた爺である。

 それがこう、両脇の二人が粛々としている中で立ち呆けというのは、何とも居心地が悪い。

 

「父上、父上、こちらからお呼びしたのに他の方とお話ばかりをしては、龍さまも困ってしまいますよ」

 

 しかし、思いもよらなかったところから助け船が出た。少し身を乗り出し、鈴の音のような声で王に意見したのは小さなお姫様。それに対し王妃様は口元を手で隠しどこか楽しそうに目を細め、王もまるで気を悪くする様子はなく、むしろ少し困ったように眉を動かす程度であった。

 

「おお、これは失礼をした。しかし龍の姫君よ、臣民を労うのもまた王の務めであるのでな、理解してほしい」

 

「んん、いや、いえ、お気になさらず。こちらこそ、作法がわからん田舎者ですので何か無礼を働いてはいないかと気が気ではなく」

 

 何せ本物の王様とこうして話すことなど前世を含めても初めてのことだ。現代日本で一通りの教育を受けているおかげで一般的な礼儀作法は弁えているし、ここまでの道中で団長さんから叩き込まれた知識もあるが所詮は付け焼刃、いつ田舎者の癖がぽろりと零れるかわかったものではない。

 実際、私はこの部屋に入ってから戦々恐々といった心持ちであった。主に、いつ両脇の騎士が無礼者に対して激高し剣を抜かないかというところで。

 いや、実際に剣を抜かれたところで私が害される可能性は零に等しいだろうが、それとこれとは別である。

 

「ふむ、文にもあったが存外、我々に近い在り様なのだな。すまぬが、その外套を外してもっとよく顔を見せてくれぬか」

 

 王様の言葉とあらば、是非もない。私は外套を脱ぐと、背中に折り畳んでいた翼を目いっぱい広げた。少しはしたないかもしれないが、馬車に乗り込んでからずっと押し込めていたのでかなり凝ってしまっていたのだ。これぐらいの粗相は大目に見てほしい。

 そうして、いつの間にか傍に控えていたウァルターに脱いだ外套を渡すと、彫刻のような顔に少しばかりの驚きを浮かべた王様と目が合った。隣の王妃様も同じような表情で、無邪気に目を輝かせているのはお姫様だけ、いや、女騎士殿の方からも何やらまじまじと視線を感じる。

 

「成程、たしかに尋常ではない力を感じるな。龍の姿にもなれると聞いているが」

 

「あー、たしかにそれはそうですが、少し部屋が窮屈になるやもしれません」

 

 目を細める王様に対し、謁見の間を見まわしてそう答える。私は龍としては小さい個体であるのでこのぐらいの広さであれば何とか収まるだろうが、そうすると長い首が王様のすぐ傍まで伸びてしまう。それ自体がとんでもない不敬になるだろうし、何より首筋が騎士さんたちの間合いに入るのが物凄く嫌だ。

 だが無邪気なお姫様には、そのような些事は関係がないようで。

 

「まあ素敵っ。龍さま、わたくし是非その御姿をお目にしたいです」

 

 宝石のような青い瞳をきらきらと輝かせながら身を乗り出すお姫様。

 ううむ、と私は思わず唸った。

 私とて、孫娘ほどの年頃の姫様の喜ぶ顔は見たい。しかし本当に良いのだろうか。柱や床に傷が入る恐れがあるし、龍の力を間近で当ててしまってはそれこそ恐慌状態にならないだろうか。

 そんな私の考えは、王様の眼を見た途端に全て否定された。

 それは王の眼であった。一国の王としての、まさに人の上に立ち導くに相応しい、人を超えた強い意志を感じさせるものであった。

 ちらりと団長さんとシエラ嬢へ視線を投げる。異議はなし、と。

 

「いやあ、しかし、ううん、仕方ありませんなあ」

 

 どちみち、私が龍であることを完全に信用してもらうにはこれが一番手っ取り早いのだ。団長さんたちと話し合った際にも、どうしても王の信頼を得るに必要であればやむ無しとしていた方法でもあるし、正直なところ早いか遅いかの違いでしかなかった。

 私は皆に部屋の隅へ寄るように頼み、自身は部屋の一番奥、入ってきた扉の方へ陣取った。ここならば、王様に近づきすぎるということもないだろう。

 

「では、失礼をして」

 

 大きく息を吸い込み、力を巡らせる。

 思えば、龍としての力を行使するのも随分と久しぶりのこと。あの島では日常的に、それこそ火をおこす際に毎日使っていたようなものだったので、ここまでの道中はかなり新鮮というか、本当に穏やかなものだったのだなと今更ながら実感する。

 全身に紋様が浮かび上がる。身体の奥底、龍の心臓に火が灯り、謁見の間が月明かりにも似た柔らかな光に満たされていく。

 

「……美しい」

 

 零れた言葉は誰のものか。

 光が収まったそこには、闇夜の如き漆黒の鱗と(あか)い月のような瞳を持った、美しい龍の姿があった。

 しかしその姿を晒したのも一瞬のこと。先の言葉が解け消える頃にはまた光がその姿を覆い隠し、次の瞬間にはまた少女の形をした私の姿があった。

 元の姿に戻った私は恐る恐る目を開き、右、左と視線を彷徨わせる。

 

「こ、こんな感じ、ですう……」

 

 空気が重い。

 予想はしていたが、なんというか、今にも騎士さんたちが剣を抜かんばかりの緊張感があった。というか、実際に騎士二人は腰の剣を掴んで王の前に立ち塞がっていた。

 そこは龍の圧倒的な存在感の前であっても王を守らんとしたその忠誠心を褒めるべきなのだろうが、あと少し元の姿に戻るのが遅ければ首元にそれを振り下ろされかねなかった私の心中も察して欲しい。

 しかし流石に予想を遥かに超えていたのだろう、先程まで目を輝かせていた姫様は呆けたようにこちらを見つめ、王妃様も口元に手をやり驚きを隠しきれない様子。ただ潜ってきた修羅場の数が違うのか、王様だけは先程と変わらず、全てを見透かすような目でこちらを静かに見据えていた。

 

「凄まじいな。その力にその心の在り様では、さぞ難儀するだろう」

 

 それは、あるいはこの部屋に入ってから初めて耳にする、人としての感情を孕んだ声であった。

 

「我が王国は貴女を歓迎しよう。望むものがあればそこのウァルターに言いつけるといい。余の名において、善処することを約束しよう」

 

 そうして、何十年かの寿命を擦り減らすような緊張感の中、謁見は終了した。

 後日、私には王国の一部の土地と、立派なお屋敷が与えられることになり私は腰を抜かすことになるのだが、それはまた別のお話。

 

「ああ、私はもう肝が冷えて冷えてどうにかなってしまいそうだ。帰って温かいスープでも飲みたいなあ」

 

「何言ってんだ、今晩はこのまま家臣も集めた晩餐会に出るんだぞ」

 

「……もう勘弁してくれえ」

 

 このまま飛んで逃げてしまおうかと考えたのは、後にも先にもこの一度きりであった。

 尚、晩餐会に供された食事はそれはもう大変美味しかったことを、ここに記す。

 




王様の言葉遣いがちょっと不安。
気を抜くと一人称が我の英霊が出てきてしまう病に侵されています。


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爺様、いそうろう

大変お待たせ致しました(スライディング土下座


 

 穏やかな陽の光が差し込み、小鳥たちの囀りが優しく窓を叩く。心地よい微睡みの中を揺蕩いながら、私はゆっくりと目を開いた。少し埃臭い枕に、自分以外の匂いが残る固いベッドとぼろぼろのシーツ。借り物の寝床は、お世辞にも寝心地の良い物とは言えない。しかしあの無人島で愛用していた手製のそれと比べれば、私にとっては最高級品にすら劣らない、正しく至高の寝心地であった。

 何より外敵の心配をしなくてもいいのが素晴らしい。これほど安心して熟睡したのは、果たしていつぶりだろうか。

 私は凝り固まった手足、翼や尻尾をぐっと伸ばすとベッドを降り、窓の外を見やる。

 今日も今日とて気持ちがいい程の青空が広がり、少し離れたところからは仕事へ向かう大人たちの話声やら、走り回る子どもたちの元気な声が響いていた。

 

「あら、ようやくお目覚め?」

 

 少し呆れたような色を含んだ声に振り向けば、部屋の隅に置かれた姿見の前で、ルールーがその長い髪に指を通し整えているところだった。そのすぐ傍では、茶色い毛玉が丸くなっていびきをかいている。

 

「おう、おはよう。いやはや、あの島ではこんな上等な寝床は用意できなかったからな、ついつい堪能してしまう」

 

 呆れたようなルールーの視線を背に受けながら、私は幅の狭い階段を翼やら尻尾やらがぶつからないよう、一歩一歩慎重に下っていく。降りた先には居間、であっただろう部屋があり、中央には分厚い本が幾つも重ねて置かれたテーブルが、そしてその先には今にも外れて倒れそうな、蝶番がぶら下がった四角い扉が嵌め込まれている。一応、扉の上には来客を知らせるための鈴が備え付けられているが、あれが本来の役割を発揮するかは甚だ疑問である。

 そんな、余りにも防犯意識の低い光景を横目に奥へ進めば、そこはキッチンであった。石組みの(かまど)が二つ並び、そのうちの一つでは既に鍋が火にかけられ何やら美味しそうな香りを立ち昇らせている。

 ひょいと覗き込めば、どうやら今日の朝食は芋のスープであるようだった。

 

「おお、これは美味そうだ」

 

 そう私が涎を我慢できず尻尾を右へ左へ振り回していると、居間の方から扉が軋む音と鈴の音が響いた。どうやら同居人、というよりもここの家主が帰ってきたようである。

 

「ああ、起きたのか。今朝は港で良い魚が手に入ってな、丁度いいから夕飯にでもしようかと思うんだけど――」

 

 そうして手に青魚、どこかサンマに良く似たものを三尾程掴んで入ってきたのはくすんだ金髪に蒼い目をした女性、シエラ嬢であった。彼女は手にした魚を部屋の隅に吊るすとこちらに向き直り、そこでぴたりと動きを止めてしまった。

 そして額に手を当て、たっぷりとため息を吐いた後。

 

「お前な、ほんと、真っ裸でうろつくなって散々教えたよな」

 

 そう言われ、己が身体を見下ろす。相変わらず傷一つない、玉のような肌である。

 尻尾を一振り。

 

「おお、そういえばそうだったか。いやあ、いつのも癖でついつい」

 

「いい加減どうにかしてくれよ。俺だからよかったものの、フライデーの奴が見たら泡を吹いて倒れちまう。まったく、ルールーの奴にも言っておいたのに……」

 

「いや、泡は吹いてなかったぞ。できの悪い案山子みたいにはなってたが」

 

「……見せたのか」

 

 再びのため息。今度のは一回目より少し長い。

 とはいえ、あれはノックもせず家に入ってきた奴さんが悪い。いくら気心が知れた間柄だろうと、仮にも女二人が暮らしている家の戸を勝手に開けるなどと、むしろ相手が私であったのは彼にとって幸運であったと言える。これがシエラ嬢であったならば、今頃彼の頬は両方とも倍以上に腫れあがっていることだろう。シエラ嬢がそんな迂闊な真似をするかどうかはさておいて。

 

「だから最近アンタに対してよそよそしかったのかアイツ。まあいい、とにかくまずは服を着てこい。今日は色々と予定が詰まってるんだ」

 

 咎めるようなシエラ嬢の視線を背に受けながら、私はまた二階へ戻り用意された下着やら衣装を着込んでいく。今日用意されていたのは白いワンピースだった。袖がなく、肩ひもだけのタイプなので頭からずぼっと被るだけ。背中側もざっくりと開いたデザインになっているので、翼が引っかかることもない。なお尻尾はスカートの中に収める。

 初めこそ角やら翼が引っかかって少しばかり手を焼いたが、今となってはささっと着替えることができるのでずぼらな私としてはかなりお気に入りの種類となっていた。

 

「見た目はいいんだけどな、見た目は」

 

 とは、着替え終えた私の恰好を見てのシエラ嬢の言である。

 

「ほら、ここ座って。髪、やってやるから」

 

 促されるまま椅子に座り、髪を梳かされながらも視線は食卓の方へ。芋のスープに黒パン、目玉焼き。実にシンプルな献立ではあるが、彼女の懐事情を考えれば少しばかり寂しい内容ではる。聞くところによれば、私の、というよりもあの島を探索する為に団長さん率いる黒薔薇冒険団を雇ったのは彼女であるらしい。あの大人数であの実力となれば、それにかかる費用も相当なものだっただろう。さらにこちらに戻ってきてからは、王からの報酬もかなりの額入っている筈。私が島で蓄えていた金銀財宝も船にいた全員に分配しているし、大金持ちとはいかずとも、幾らかは贅沢ができる程度には稼いでいる筈なのだが。

 

「なあ、お前の親父さんや、団長さんがやっているような仕事は儲からないのか」

 

 だからこそ、私は髪を梳かされた後、石のように固くなった黒パンに齧りつきながらそんなことを訪ねてみた。シエラ嬢は固いパンをスープに付け、柔らかくなってから口にしていたが、私にとってはこれぐらいでも丁度いいぐらいであった。

 

「なんだ、贅沢がしたいならあのままお姫様と一緒にいればよかっただろうに」

 

 シエラ嬢のその言葉に、私は思わずしかめっ面をした。

 事の起こりは先日、王に謁見した後に催された会食が終わったあたりのこと。貴族だのなんだの、どうやらこの国のお偉いさん連中の相手で精魂尽き果て、さあ港へ帰ろうかというところで王から待ったがかかったのだ。どうにも、表向きには国賓として招かれている以上はそれ相応の扱いを受けて欲しいと、そういうことであった。

 無論、つい先日まで人っ子一人いない森の中を駆けまわっていたような私である、今更ここにきてお姫様扱いを受けるのはどうにも気が乗らないというか、前世と合わせて百年余りそういったことに縁がなかった身としてはどうにか遠慮したかったのだが、まさか国民に敬愛される王を前にして否と言えるはずもなく、私はノーと言える日本人になれなかった己を恨みながら城に戻り、贅を尽くしたような歓待を受けることになった。

 それはもう、筆舌に尽くしがたい内容だった。

 美味い飯。美味い酒。風呂に入るにしても侍女(メイド)さんが付き添い、服を脱ぐのも、身体を洗うのも全てその侍女たちが行うという徹底ぶりで、よもやよもやの展開に度肝を抜かれた私が風呂場でひっくり返るという珍事まであった。

 間違いなく、前世を合わせても一番の贅沢な時間であった。

 二日目には、私の部屋までお姫様がわざわざやってきて色々と話をした。

 どこからやってきたのか。龍とはどういったものなのか。皆そのように可憐で美しい者ばかりなのか。そして、自由に空を駆けるとはどういった気持ちなのか。

 目を輝かせながら問いかけてくるお姫様の姿は年相応の少女のそれであり、どこか孫娘を彷彿とさせるその姿に爺の心が蕩け切ってしまうまでそう時間はかからなかった。

 だが、お姫様との時間を楽しみつつも私はその贅沢な暮らしにどこか窮屈さを感じずにはいられなかった。たしかに腹も膨れるし毎日ぐっすり眠れるが、自由に空を飛び、野を駆けたあの無人島での暮らしを思えば不自由はあれど押し込められるような窮屈さはなかった。

 故に私は王に城を出ることを伝えた。

 侍女の方々も親切だし、お姫様も大好きだが、どうも自分に城での贅沢な暮らしは合いそうにないと。

 そうしてその後紆余曲折(なんだかんだ)あり、私はシエラ嬢の自宅に転がりこむこととなった。初めは滅茶苦茶、それはもう物凄く嫌そうな顔をされたが、否と言われればもう馬小屋か、どこか橋の下で寝るしかないと手を合わせたら渋々了承してくれた。

 とはいえ、何だかんだと文句を言いながらも面倒を見てくれる辺り、やはり根はとても優しい子なのだ。

 

「そうは言っておらん。言っておらんが、王からの褒美やら私が譲った宝石やら何やらでそれなりに稼ぎはあったろうに、あのぼろぼろの扉も直さんので心配になってな。何だ、まさか借金でもあるのか」

 

 ため息は、勿論シエラ嬢から。

 

「色々あるんだよ、こっちにも。それより早く食え、今日は市場に行くぞ」

 

「おお、いいな、市場というと、大通りにあったあれか」

 

 先日、城に向かう道中で目にしたことがあるが、港町から城へと伸びる大通りに露店が軒を連ねるあの光景は中々に壮観であった。活気に満ち、沢山の人々が行き交うその光景にいつかは行ってみたいと思っていたのだが、まさかシエラ嬢からお誘いがあるとは。

 しかしあの人通りの多い場所に向かうとなれば、顔を隠せるようにいつもの外套は用意した方がいいだろう。そう考えた私は朝食を済ませるとすぐさま二階へ戻り、壁に掛けていた外套を引っ掴み、すっぽりと顔を覆った。

 

「出かけるの?」

 

「ああ、シエラ嬢のお誘いでな。ちょいと市場まで行ってくる。お前さんも来るかい?」

 

「遠慮しておくわ。月も出ていないうちに人間だらけの場所に行こうだなんて物好き、アナタぐらいのものよ」

 

 窓辺に腰かけ、ぼんやりと外を眺めていたルールーに声をかけるも、彼女はまるで取り付く島もない様子であった。家の中で暇そうにしているぐらいなら、少しぐらい付き合ってくれてもいいものだが、どうにも彼女の人間嫌いは筋金入りのものらしい。

 これさえなければ心根の優しい娘なのだが、いやはや、まるで反抗期真っ盛りの我が子を見ているような心持ちである。

 

「本当にいいのか? きっと楽しいと思うがなあ」

 

「行かない」

 

「お菓子も買ってやるぞ?」

 

「行かない!」

 

 いやはや。

 梃子でも動かないといった風のルールーに、私は肩を竦めた。

 

「それじゃあ、留守は頼むよ。ごん太も、勝手に外をうろつかないようにな」

 

 私の言葉に大欠伸で返すごん太と呆れ顔のルールーに手を振り、玄関で待っているシエラ嬢の元へと向かえば彼女は淡い若葉色のシャツに革のズボンという、随分と動きやすそうなラフな格好に着替えを終えていた。すらりと伸びる長い足が映える、彼女に良く合った服装である。

 そんな彼女の着こなしをじっと見、次いで己が身体を見下ろしてみる。やはり、どうにも野暮ったい。ワンピースだけならまだしも、その上に被った外套がどうにも全体を重く見せてしまうし、実際重いし邪魔だ。

 そうしてじとりとした目線を向けてみれば、彼女はこちらの言わんとしていることを察してか少し居心地の悪そうな顔をして頭を搔いた。

 

「仕方ないだろう。アンタの見た目で市場を練り歩いたら、それこそ買い物どころじゃなくなっちまう。尻尾やら翼やらはどうにか誤魔化せるが――」

 

 そこでシエラ嬢はこちらをじっと見、

 

「顔が悪い」

 

 と宣った。

 

「人聞きが悪すぎる! こんなに愛らしい顔のどこが悪いもんか」

 

「いや、ごめん、たしかに言葉が悪かった。良すぎるんだよ、顔が。その顔で表を歩いてみろ、変なことを考えた野郎に路地裏へ引き込まれても文句は言えないぞ」

 

「龍を引き込めるほどの腕っぷしがあるのなら、そら大したもんだ」

 

 そう言って胸を張ってみれば、何故だか盛大にため息を吐かれた。

 

「いねえよそんな人間。うっかり相手の腕を引き千切らないか、そっちの方が心配なんだ」

 

 いや、そんなことは。

 すぐさまそう否定しようとするも、いやたしかに、無くはないなと思い止まる。いや、しかし、いくら耄碌(もうろく)している私であってもうっかり人様に傷を付けるなんて――

 そう思い、実際にそうなった場面を想像してみる。

 市場でのんびりと買い物を楽しむ私。不意に物陰から伸びる手。二の腕を掴まれ、まさに路地裏の薄暗がりへと引き込まれそうになったところで、そうはさせじと足に力を漲らせ目いっぱい腕を引き返さんとする。無論、龍の膂力を惜しみなく使って。

 ううむ。

 飛ぶな、人が、物理的に。

 いや、飛び上がるまで腕が持てば良いが、間が悪ければ飛ぶな、腕だけ。肘か肩か、外れやすいところから。まるで玩具の人形のように。

 さっと、顔から血の気が引いていくのがわかった。

 

「わかったか? それで相手に遠慮して好き勝手させようもんなら、そっちはそっちで大問題になる。お前だって嫌だろ」

 

「ううん、それは嫌だが、まあ、人の子は孕まんしなあ。それに力んでしまえばそこに挿入()れられるナニ(・・)を持ってる人間はいないだろうし、やり様はいくらでもンガッ……!」

 

 快音が響いた。

 すわ何事かと、ひりつく頭頂部をさすりながら顔をあげればそこには手頃な大きさの本を手に、それを振りぬいた姿勢のままのシエラ嬢の姿があった。息も荒く肩を震わせる彼女の顔は熟れた林檎のように赤く染まり、心なしかその金髪は鬼のように逆立っているように見えた。

 

「どうやら教育が足りなかったみたいだな」

 

「あ、いやこれはほら、私こう見えても中身はかなりの爺でな?」

 

 どうやら虎の尾を踏んだようだ。こめかみに青筋を浮かべ、口元を引くつかせるシエラ嬢に私の言葉はどんどん尻すぼみになっていく。

 これは恐ろしい。生前、妻が本気で怒った時よりもよっぽど恐ろしいかもしれない。

 

「喜べ、これからまたきっちりかっちり教育してやるからな」

 

「いや、まあ落ち着いて話をしようじゃないか。龍と人とでは色々と感性というか、価値観が違うだろう? まずはその部分からすり合わせをだな」

 

「何か不満でも?」

 

「いや、はい、なんでもないです……」

 

 口は禍の元。

 これからは、シエラ嬢の前では迂闊なことは言わないでおこうと心に誓った私なのであった。

 




難産オブ難産。
話もあまり進んでませんが、長くなりそうなのでひとまずここまで。


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爺様、出会う

お待たせしました


 

 マスティアラ王国とは中央に座す本島と、その周囲に配された六つの小島から成る島国、と言ってもこの世界に大陸があるのかどうか、という疑念はあるがともかく、六つの島は農耕が盛んであったり、林業が盛んであったり、あるいは職人が集まり日々鎬を削っていたりと、不思議なことにそれぞれ特色があった。

 それが元々そうであったのか、はたまたかの名君の采配によるものなのかは定かではないが、ともかくそういった六島から集められた数多くの品々が集まるのがこの港町から王城へと向かう道筋に伸びる露店の集まり、通称『六色市場』である。

 国内でも最大の市場だけあって、まだ昼前だというのに通りは多くの人でごった返し、露店からはいかに己の扱う品が素晴らしいかを語る威勢のいい声が響いていた。

 見たことも無いような珍しい物からどこか見覚えのある品まで、興味を惹かれるものには事欠かない場所ではあるものの、何よりも私の心を動かしたのは市場を行き交う人々の、その多様性であった。

 生前から見慣れた普通の人間は勿論のこと、獣の耳や尾が生えたもの、羊の角を持つもの、手足が鳥のようになったものなど、正しく小説の挿絵や映画でしか目にすることのなかったその姿に私の目は爛々と輝き、ワンピースの裾からちらりと覗く尻尾はそれはもう、大好物を目の前にした犬のようなありさまだった。

 

「あんまりきょろきょろするなよ、恥ずかしい」

 

「いや、本当に色々あるもんだなあと、世界は広いなあと、そう思ってな」

 

「どんだけ田舎者だよ………」

 

 呆れた様子のシエラ嬢もなんのその、右へ左へと忙しなく眼玉を動かしながら歩いていると、私はようやくお目当ての人物を見つけ出し、嬉々としてそこへ駆けていった。

 

「あ、おいこらどこ行くんだ!」

 

 背後からの制止の声すらまるで聞かず、向かった先には一軒の露店。赤、黄、緑と色とりどりの果実を扱うその店の軒先には、子ども程の背丈しかない、尖った耳に禿げ頭をした若い男が立っていた。服装こそ革のチョッキにズボンと立派なものを身に着けているが、その特徴は見間違うはずもなかった。

 私は彼の傍にさっと駆け寄ると、突然のことに狼狽える彼の手を取り。

 

「突然すまないね、いやあ、あの島を出たらまず真っ先に探そうと思っていたのだけれど、よもやよもやこうも容易く見つけられるとは思ってもいなかった。おっとこれは失礼、私はシエラという者なのだが、君、ヨークという名に覚えはないかい。あるいは、ユーノという名の少年を見たことはないか。ああ、彼らは私の恩人なのだが――」

 

「この馬鹿ッ!」

 

「あいたぁっ!」

 

 目を白黒させる男を前に早口で捲し立てる私の頭に、シエラ嬢の鉄拳が振り下ろされた。じんじんと痛む頭をさすりながら背後を見やれば、そこには何故か涙目になって飛び跳ねるシエラ嬢の姿が。

 

「この、石頭めっ」

 

「いきなり殴りつけておいて、酷い言い草だ」

 

 それに、まだ角を殴らなかっただけましな方だ。私の角は鱗と同じような素材で出来ているので、文字通り鉄より硬い。素手で殴ろうものなら拳を痛めるのは確実である。

 しかしいきなり拳骨を落とすとは、あまりにも乱暴が過ぎるのではないだろうか。子どもを躾けるときにだって、最初はもう少し穏便に、まず言い聞かせるところから始めるというのに。この分では、子どもが出来た時に色々と苦労するに違いない。

 そんなことを言ってみると、彼女は顔をますます真っ赤にして、今度は私の見事な角を鷲掴みにしてぐいと引っ張ってみせた。

 

「いくら止めても聞かないからだろ! なあ、耳が遠いのは歳のせいか、それとも龍というの(おまえら)はいっつもそうなのか、なあ?」

 

「ああ、それはいかん、いかんぞ! 首が、首がっ!」

 

 なんか、こう、物凄く寝違えた時みたいになるというか、ああ、筋が、筋が!

 しばらくして、何事かと周りの目がにわかに集まり始めた辺りで、ようやく私の自慢の角は解放されることになった。危うく元に戻らなくなるところだった首筋を揉みほぐしながら、突然駆けだした訳と、あの島で彼と同じ種族と出会ってからの話などをかいつまんで説明すると、シエラ嬢は何やら考え込む様子を見せた後、何やら神妙な顔で口を開いた。

 

「恐らくだが、コイツはお前が出会った連中とは別の島の出だな。もしあの無人島を知っている連中がこの国を訪れていたらその情報はまず俺たち冒険者の耳に入るだろうし、何よりお前が言った特徴でいくと、十中八九そいつらは勇ましい者たち(ブルベガー)だ。コイツらは賢しい者たち(ホブゴブリン)で、種族としては同じゴブリンだが得意としているものが違う」

 

 言われてみれば確かに、あの島で出会った彼らはもっと腕が長かったし、体格も立派だった。まあ、それでも人間の子どもの方が肉付きが良いと思える程度には頼りなかったのだが。

 

「ブルベガーも比較的友好な種族ではあるが、俺たちと取引をすることは殆どない。自分たちの生まれた島から出ることも無いし、会うことがあっても他のゴブリンたちの仲介がまず必須だ」

 

 取引する旨味もないしな、と締めくくり、シエラ嬢はいまだ状況を飲み込めないでいる目の前のゴブリンから赤い、りんごによく似た果実を二つ買い取り、そのうちの一つを投げてよこした。瑞々しく、いかにも美味そうな果実である。

 私はその果実をじっと見、そしてシエラ嬢から受け取った硬貨を大事そうに皮袋に詰め込んでいたゴブリンの青年に頭を下げた。

 

「お仕事中だというのに、大変お騒がせしました。また立ち寄ることがあれば、今度は袋いっぱい買わせて頂くよ」

 

「いえ、いえ」

 

 流石にこの通りで店を開いているだけあって、この国の言葉も十分に扱えるようであった。彼は私に気にしていないことを伝えると、これは美しくも慎ましい貴女へと、そんな口説き文句を添えてなんと追加で三つも果実を包んでくれた。まさか――これは第一印象からの私の偏見が大いに含まれているが――彼らに近しい種族の者からそのような浮ついた台詞が聞けるとは思わず、私はこの果実のように目を丸くするのであった。

 

「なんだ、口説かれるのは初めてか」

 

「口説いたのも口説かれたのも、生涯で一度っきりさ」

 

 からかう様なシエラ嬢の言葉に、肩を竦めて返す。

 

「例の、人間だった頃の妻か。なんともまあ、お熱いこって」

 

「おうとも、最愛の人さ。お前さんもさっさと良い人と一緒になって、この爺に子どもの顔でも拝ませておくれよ」

 

「うわっ、急に爺臭くなりやがった。いいんだよ俺は。どうせ縁にも恵まれねえしな」

 

 そんなことはないと思うが。

 ふと、苦労性の青年の顔が脳裏を過る。

 まさか、気軽に家を訪ねてくるような気心知れた男がいて、まるで意識していないというのだろうか。この国に向かう船旅の中でも、特にシエラ嬢とあの青年、フライデーの距離は近いように感じていたし、実際に昼間とはいえ、己の寝所に易々と招き入れることすらあったというのに。

 もしやこの娘、私が思っているよりもかなりのおぼこ(・・・)なのではないだろうか。

 

「なんだその顔は。まあいい、さっさと用事を済ませるぞ」

 

 シエラ嬢は呆れ果てた私の視線に怪訝な顔をしていたが、やがて小さく息を吐くと私の手を取って歩き出した。

 これには私も意表を突かれてしまい、先程まで浮かべていた老婆心極まりない思考などあっという間に吹き飛んで、被った外套に隠していた翼が飛び出してくるほどにぎょっとしてしまった。

 

「おい、おいこら。これじゃあまるで子どもじゃないか」

 

「手でも繋いでないと、アンタまたどっか行くだろ。紐で繋がれないだけまだましと思え」

 

 これまた酷い言い草である。

 犬や猫でもあるまいし、そんなことをしなくとも買い物ぐらいはできるというのに。

 

「お、見ろ、美味そうな無花果(いちじく)だ。ちょっと寄っていこう」

 

「そういうとこだぞ、ほんと! 食い物の前に、まずは厄介な方の用事を片付けるって言っただろ!」

 

 そうして、甘い香りに誘われて尻尾と身体を右往左往させる私の手を引きやってきたのは、とある大きな商店の前だった。

 露店ではない、石組みの立派な建物である。正面には両開きの大きな扉が嵌められ、二階にあるバルコニーからは薔薇を模した紋章の(バナー)が風に揺られはためいている。

 扉の奥からふわりと漏れ出る花の香りに、もはや慣れ親しんだ何者かの気配。

 この大層な大商店の主が誰なのか。それを察するのにそう時間はかからなかった。

 

「ああ、そういえばごん太の飯を用意してなかった」

 

 そう言って、私はくるりと回れ右をした。

 しかし回り込まれてしまった。

 

「逃げるな。気持ちはわかるが、逃げるな」

 

「やだー! こんなの、もう何が出てくるかわかりきってるじゃないかあ!」

 

 必死の抵抗も空しく、扉は開け放たれる。

 現れたるは筋骨隆々、ギリシャの彫刻を彷彿とさせる美丈夫。丸い頭、入れ墨、煌びやかな衣装の下からはち切れんばかりの筋肉が躍る。薔薇の花弁が舞い、眩いばかりの後光が輝くその光景に、私は思わず真顔になった。

 

「あらやだ、物凄い美の気配をビンビン感じると思ったら、龍ちゃんじゃない! お城ぶりねえ!」

 

 大きく開かれた大胸筋と上腕二頭筋が、真顔で立ち尽くす私を万力が如き膂力で締め付ける。ベアハッグかな?

 私だから熱い抱擁ぐらいのニュアンスで済んでいるが、常人がこれを受ければ轢殺された蛙待ったなしだろう。ちょっと良い香りがしているのが腹立つ。

 

「どうしたのボス、急に飛び出して……あらやだなにこのお姫様、ボスの隠し子?」

 

「やだほんと、異国風(エキゾチック)な美少女じゃない。嫌いじゃないわ! 嫌いじゃないわ!」

 

「どんだけー!」

 

 そしてその広い背中から現れたのは、団長さんに勝るとも劣らない圧倒的存在感を放つ三人の男たち。三人の、男たち、である。

 それぞれが赤、黄、緑に髪を染め、ゆったりとしたローブのような服に髪と同じ色のスカーフを巻いている。団長さんのような大男ではないが、そのキャラの濃さはもうステーキの後にもつ煮込みを出された気分というか、食卓に三日続けてカレーが並んだ時のような濃ゆさであった。流石の私も胃もたれしそうだ。

 

「あー、盛り上がってるとこ悪いが、コイツの服を適当に見繕ってやってくれ。普段着と肌着、あと亜人向けのやつも幾つか。予算は気にしなくていいから、宜しく頼むよ」

 

「まあ太っ腹ねえ。任せて、龍ちゃんにぴったりなやつを用意してあげるわっ。アナタたち、気合い入れていくわよ!」

 

 若干引き気味のシエラ嬢に押され、哀れ私は魑魅魍魎ひしめく魔境へと引き込まれていく。おかしい、異世界で二度目の生を受けた筈が、いつの間にかどこぞの二丁目に迷い込んだらしい。

 背後で手を振るシエラ嬢に目いっぱい抗議の視線を向けつつ、これから襲い来るであろう光景を思い、息を吐く。

――その後、国一番の大商店から可愛らしい悲鳴が響いたとか、響かなかったとか。

 

 




オ〇マ三人衆:アードラ&ティーガー&ソトレル
たぶんそんなに出ない


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爺様、市場にてかく語りき

お待たせしました。


 

「疲れた」

 

 結局あの後、かれこれ二時間ほど団長さん達から着せ替え人形のような扱いを受け、解放された頃にはすっかりお日様も高くなり、市場を流れる人の波も、少し落ち着きを見せ始めていた。

 ぐう、と腹の虫が派手に抗議の声をあげる。

 

「腹が減った」

 

 私がそう言って腹をさすり、項垂れるように垂れた尻尾の先でこれ見よがしに何度も地面を叩いてみせれば、少し前に立つ娘の背中に僅かに戸惑いの色が浮かんだ。

 

「ああ、腹が減ったなあ」 

 

「だあ、もう、わかったわかった。好きなの食っていいから、そろそろ機嫌を直してくれ」

 

 大きく溜息を吐きながら、シエラ嬢はがっくりと肩を落とした。そのしおらしい姿に、思わず笑みが漏れる。

 流石に意地悪が過ぎ、あまりに大人げない真似ではあったが、そも初めに騙し討ちを仕掛けてきたのは彼女の方であり、反省はしつつもそこに申し訳ないという気持ちはこれっぽっちもなかった。

 しかし彼女とてこちらのことを慮っての行動であろうことは百も承知であるので、私としてはこれで手打ち、後腐れなく仲直りとしたいところである。

 

「呵々、すまんすまん。お前さんが意地悪をするものだから、つい揶揄(からか)いたくなってな」

 

 少しばかり小さくなった肩を叩いて、私はぐるりと辺りを見回す。六色と名の付く市場ではあるが、店先に並ぶ品々はとてもその程度では収まりようがない程に多色であり、食べ物もその例に漏れず見たことのない魚であったり、果物であったりと、その豊かさは私の心を惑わせるには十分なものであった。

 私は懐に忍ばせた巾着をそっと握りながらほくそ笑んだ。巾着の中には先日拝謁した際にお付きのウァルター殿から渡された、銀貨やら銅貨やらが入っている。つまりは王様からの贈り物というか、お小遣いのようなものであるのだが、どうやらこれで飲み食いをし、我が国を楽しんでほしいと、そういうことであるらしい。

 そんなわけで、先程は飯をねだる様な真似をした私であるが、流石に孫の歳ほどの娘の懐にたかるほどの甲斐性なしではない。流石に露店で銀貨何枚だなんて話にはならないだろうし、これだけあればそれなりに腹を満足させることもできるだろう。

 

「おっちゃん、これ二つ」

 

 そうしてまず目を付けたのは、骨がついたままの動物の肉を炙り、なかなかに悪魔的な香りを立ち昇らせていた店。首に手ぬぐいを引っかけた、如何にもな感じの強面な店主の目玉がぎろりと動く。

 

「あいよ、銅五枚だ」

 

「銅貨が五枚ね。はいどうぞ」

 

 空腹に響く肉の香りに耐えながら銅貨を取り出し、店主へと渡そうとした私であったが、その前にその伸ばした手を掴むものがあった。何者かと背後を見やれば、何やら穏やかではない目つきをしたシエラ嬢が店主を睨みつけている。

 彼女は何か無作法をしただろうかと訝しむ私の手から銅貨をひったくると、その中の四枚を摘まんで店のカウンターに叩き付けた。

 

「おいこら、ドランのおっさん。いつもは一本銅貨二枚でやってる癖に、初顔の客だからってボッてんじゃねえぞ」

 

 いやはや、怒っている美人というのは何とも恐ろしいものである。その眼光はまるで狼のような鋭さで、これを受けては大抵の男は怯んでしまい、酒に誘おうという気すら失せるだろう。

 店主は舌打ちをひとつ、カウンターの銅貨を集めると焼きたての肉を二つ包み、シエラ嬢へと差し出した。

 

「なんだ、アンタの連れかよ。ってことはあれか、例の亜人の姫様ってやつか」

 

「そんなとこだ。見ての通り、お姫様って柄じゃないけどな」

 

 何やら、本人が与り知らぬところで貶められている気がする。

 とはいえ、受け取るや否や肉を頬張っている辺り、気品より食い気が勝っているのは疑いようのない事実ではあるのだが。

 焼かれていた肉は、どうやら羊のものであるらしかった。香草が擦り込まれた表面からはどこか懐かしい、カレーのような香ばしさが漂い、がぶりと齧り付けば歯を立てたそこから肉汁がじわりじわりと滲み出てくる。

羊肉独特の臭みは僅かに残るものの香草のおかげでかなり癖の強さは抜けており、大きさの割に肉厚で食いでがある、現代でいうファストフードのような感覚だった。

 何より骨を掴んで食うというのがいい。食い終わった後は手が油まみれになるのが難点ではあるが、それもまた買い食いの楽しみといえよう。

 

「美味い! ほら、お前さんも一つ食うといい、美味いぞこれは。おっちゃん、もう一つ、いや二つおくれ」

 

 これはいい。これほど手軽に食える、これほど美味い肉をこれ一本で終わらせるのはあまりにも勿体ない。

 私は巾着から銅貨をまた四枚取り出して、カウンターに並べる。それを見てシエラ嬢は呆れたようにため息を吐き、店主のおっちゃんはぎょっとして目を丸くした。

 

「俺が言うのもなんだがな、嬢ちゃん。アンタも随分と肝が据わってるな」

 

「何を言うか。美味いもんは美味い、それだけのことさ。明日からは銅貨三枚で売るといい」

 

 そうして肉を受け取り、また齧り付く。

 いかん、美味い美味い。尻尾が止まらん。

 気付けば二本目もぺろりと平らげ、ついでに店の周りにはちょっとした人だかりが出来ていた。どうやら私があまりにも美味しそうに食べるもので、どんなものかと道行く人々が足を止め始めたらしい。

 ついでに、私の容姿も流れを澱ませることに一役買っていることは間違いなく。

 

「見たか、すっごい綺麗な女の子」

 

「噂によると、どこぞの国のやんごとないお方らしい」

 

「亜人のお姫様だって」

 

 がやの中に、ちらほらそんな声が混ざっていた。

 右を見る。シエラ嬢が少しばかり困った様子で周囲を警戒している。

 左を見る。予想だにしない事態におっちゃんがその強面をさらに固くして立ち呆けていた。

 ゆらりと、尻尾が揺れる。

 なるほど、なるほど。

 小さかった澱みは徐々にその大きさを増し、ついには通りの半分ほどを埋めるほどになっていた。

 そのような光景を前に、私は考える。

 目を伏せ、無い頭で思考を巡らし、思案する。

 また、尻尾をひと振り。

 そうして目を開いた私は、おっちゃんの屋台に転がっていた、恐らくは肉を焼く際に椅子代わりにしていたであろう木箱を店先まで引っ張ってきて、その上に飛び乗った。

 外套に、手をかける。

 それにぎょっとしたシエラ嬢が止めようとするが、まるで遅い。

 私は人で溢れる市場の大通りにて、さぱっと外套を取り払った。

 銀の髪が舞う。

 青空の下で広げた翼は、いつになく気持ちがよかった。

 衆目に晒されながら、人々がどよめく中で大きく息を吸う。

 胸いっぱいに空気を吸い込んで、ぴたっと止めて――

 

「さあさあお立合い。家で赤子が泣いている、葬式通夜でなければ見といで寄っといで。ほらそこ行く麗しいお嬢様、そう、貴女でございます。そんなに生き急いでどこ行くの。散り行く様が美しいとは誰もが言うが、美しい花はなるべくのんびり、長いこと咲いていてほしいと思ってしまうのが男の甲斐性というもんですよ。そう、そうそう、なにそんなに長いこと捕まえはしませんよ。蝶は自由に舞ってこそのものでございますから」

 

 そうして始まるは竜の娘の売り口上。娘を売るって? 馬鹿を言っちゃいけねえ。

 これここに並ぶはこの店主が手ずから仕上げた羊肉の香草焼き。無骨な店主が作った無骨な料理、しかしその味はまるで生娘のように繊細でまろやか。香草で丁寧に臭みを消してあるので淑女様方のお口にも大変宜しい。馬鹿な野郎どもは手で掴み取って齧り付きますがね、この料理はそれが作法でございやす。

 なによりこの肉汁。見てくれほらこの通り、綺麗なもんでしょう。下拵えが違いますよ。

 私も初めは蜜でも仕込んであるのかと疑ったものだがそれぐらい甘い。そして美味い。ナイフフォークで切り分けてこの肉汁を無駄にするだなんてとんでもない。お天道様が許しても、この私が許しゃあしません。

 まあまあまずはひと齧り。なに金がない? 馬鹿だねえお前さんは、一つぐらい奢ってあげるからまた明日にでも返しに来なさい。ほら食った食った。どうだ、美味いだろう。そら美味いに決まってる。なんせ人の銭で食う飯だ、美味いと言わなきゃ後が怖い。

 さあこの魅惑の香草焼き、一本銅貨三枚でどうだと言いたいところだが今回はこれだけお客様に集まって頂いたもんだからもう一声、一本二枚でどうだ。

 さあさあ一本二枚。この私が太鼓判を押す絶品が銅貨二枚となっちゃあもう買うしかない。なに、お前は誰なんだって。よくぞ聞いてくださった。

 何を隠そうこの私、果てはここより三十日は空を泳いだ先にある、それはもう辺鄙で小さな島からやってきた、口先と見栄えだけが取り柄の娘でございまして、名はなんと隣におりますこの美人と同じシエラと申します。

 故あってしばらくこの辺りで世話んなることになりましたが、見た目以外は皆様方とそう変わりないただの娘っ子なもんで、何卒宜しくお願いできればと思います。

 姫様姫様とちやほやされるのも悪くはないが、こちとらここまで名も響かない田舎の国の姫でございますから、向こうじゃ着飾るより土をいじってることの方が多いくらいで、あまりにも畑に入り浸るもんでほら日に焼けて肌もずうっとこんな感じになっちまった。

 おっ、いいねご主人、二本お買い上げ。二本でいいのかい。いや羊肉というのは精をつけるにはもってこいな代物でね、うちの国じゃあ戦に出る前の男たちがゲン担ぎにこぞって食ってたようなもんで、そんなもんだからね、沢山食べて精をつけりゃあ、そりゃ夜の戦も負け知らずってなもんで――はい四本ね、まいどあり!

 

 そんなこんなで、突如始まった叩き売りは店の在庫が底をつき、店主のおっちゃんがひっくり返るところまで続いた。

 しかしそのお陰で私の人相と人柄はあっという間に街中の人々の知るところとなり、際立ったこの容姿や世間離れした言動も、ちょっと変わったお嬢さんぐらいの認識で落ち着くことになった。

 その後、私はこれ以上ないほどシエラ嬢に叱られ、家に帰るまではひたすら荷物持ちをさせられる羽目になったのだが、それはまた別の話。

 

「あ、ちなみにアンタ、十日後には出てって貰うからな」

 

「は?」

 

 見知らぬ土地での波乱万丈な生活もまた、始まったばかりだった。

 




なお箱は尻尾含めた自重で潰れかねない為、ひっそりと尻尾で支えている。


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爺様、引っ越す

お待たせしました。


 

「これはまた、たまげたなあ」

 

 今日も今日とてよく晴れた気持ちの良いある日のこと。先日、あの市場での一件にてその名も姿も、その面相すらもすっかり国中に知れ渡り、もはや人目を避けるように顔を隠すこともなく、白昼堂々とその顔と翼を晒して、そして見上げた。

 洋館、である。

 壁は白く、屋根は赤。二階建て、左右対称のデザイン。中央には大きな玄関があり、その上にはバルコニーが。窓は硝子張り。そしてそれらが眺める庭は実に美しく、花は無いが荒れているわけではない。壁や屋根が朽ちていないのを見るに、どうやらこまめに手入れがされているのだろう。

 いや、それにしても綺麗すぎる。まさか、新築か?

 私が王と謁見してからまだひと月と少ししか経っていないというのに、これほどの屋敷を建てたと。いや、魔法という超常の力があるこの世界である。見た目こそ似通っているものの、建築一つとっても扱われている技術は全くの別物なのかもしれない。

 

「家具などは既に運び終えております。手入れの方も、私がこの目でしっかりと確認しておりますのでどうぞご安心下さい」

 

そう言って、王城でも色々と世話になった執事のウァルター殿が胸に手を当て、深々と頭を下げる。

 

「寛ぐ、と言われてもなあ」

 

 尻尾を揺らめかせ、私は頭を掻いた。

 事の起こりはつい先日、シエラ嬢と市場に買い出しに赴いたあの日。初めは食料であったりとか、日用品を買い足しに来たのかと思っていたのだが、途中からは箪笥やら鏡やら鍋やら匙やら、どうにも様子がおかしくなった。

 それはまるで誰かが一人暮らしを始めるような、そう、私がまだ爺であった頃に息子が実家を離れ都会へ移る前の日のような。

 そうして彼女に問いかけてみれば、私にはあと十日程であの家を出て行ってもらうと、今日はその為の準備をするために市場に来たのだと、そういうことらしかった。

 それを聞いて私は少し悲しくなったが、話を進めていくとどうやら厄介者を追い出すとか、邪魔になったとか、そういうことではないようだった。何やら私が暮らす家が見つかったとかで、私はそこに引っ越すことになったらしい。

 だから、居候生活はもうお終い。

 そういうことらしかった。

 そんな訳で後日、私はこうして六島の一つ、本島の後方に控える牧場島にやってきたのだった。

 牧場島とはその名の通り、牧畜を主にした島である。豚、牛、羊、山羊、馬、鶏、様々な家畜が放たれ、そしてその様々な家畜を育てるに適した気候の島であり、それ即ち、人という獣にとっても最も暮らしやすい島とも言えた。

 龍をこの島に据えるとは、あの王も中々に皮肉が効いているというか、豪胆というか、そのようなこともふと考えたものだが、恐らくこの采配は王ではなく、かのお姫様が振るったものであろうことは想像に難くなかった。

 というのも、王城で世話になっていた際に私はあのお姫様に生前の話を幾らかしていたのだ。朝起き、畑を耕し、作物を育て、夜が更ける頃には家に帰り飯を食う。そんな、どこにでもある日々の話を。

 だからこそ、彼女は私にここを宛がったのだろう。のどかで、穏やかで、のんびりと時間が流れるこの島の、この場所を。

 幸い、本島へはこの翼があれば渡るのは容易い。それこそひとっ飛びというやつで、その辺りの渡し船よりも遥かに早く渡ることができる。故に、生活にそう支障はない。

 だがしかし――

 

「こんな立派な屋敷とは、これは困ったなあ」

 

 用意された住処はそれはもう、一人では、いや、一人と一匹とひと妖精では広すぎる、立派過ぎるものであった。

 

「それでは、お部屋をご案内致します」

 

 ウァルター殿に連れられて、屋敷の中を歩く。

 いつものように尻尾を揺らし、後ろには呑気な獣が一匹と、その背に座る妖精が続く。

 大きなエントランス。大きな厨房、大きな浴室。

 十を超える部屋。天蓋付きの寝室。

 床は木製であったが、これは私の足を、この龍の足を考えてのことだろう。大理石であろうと削り取るこの爪先であれば、適応するのは固い物よりも柔軟な物になる。

 それでも床板は定期的に取り替えなければならないだろうが、つるりと足を滑らせて頭を打つよりは随分ましだ。

 さらに感心したのは玄関や各部屋の扉、廊下の幅など、ありとあらゆるところに私用、というよりも私のような翼や尻尾を備えた亜人の為の工夫が見られた点であった。

 つまり扉や通路の幅は翼や尻尾がぶつからないようやや広く、天井も高い。そういえば浴室も随分広かったが、もしかすればあれも身体の大きな種族であっても十分に寛げる為のあの広さなのかもしれない。

 それにこの匂い。館全体から立ち昇るこの木の香り。信じられないことではあるが、どうやらやはり、この館は私専用に、私の身体に合わせて拵えらえれたものに違いなかった。

 いやはや何とも凄まじいのは王の力か、はたまたそれを振るわせる龍の力か。

 

「ご安心下さい。ご用命とあらば庭師、大工、使用人に芸術家に至るまで手配致しますので」

 

「それはまた、至れり尽くせりというやつだな」

 

「本来ならば使用人を何名か派遣する予定でございましたが」

 

「それは勘弁してくれ。若者に身の回りの世話をさせるというのは、何というかこう、困る」

 

 食事から着替えから、風呂で身体を洗うところまでうら若いメイドさんたちに世話を焼かれるというのは、爺からすれば少々複雑なのだ。恥ずかしいとか申し訳ないとかそういうことではなく、何だか介護施設にいるような気分になる。

 そもこの世界に生れ落ちてから三十年近く無人島で暮らしていた訳であるので、大抵のことは一人でこなせるし、熟すべきなのだ。仮初のものではあるものの、この国において私が辺境の姫という扱いをされているのは仕方がないことだと理解しているが、それはそれ、これはこれである。

 

「本来なら、こうして貴女が人間に寄り添っていること自体が在り得ないことなのよ」

 

 私の肩に飛び乗りながら、ルールーは呆れたようにそう話す。

 いや、私が殊更変わり者であるのは否定しないが、それはそうと先程まで彼女が乗り物代わりにしていたあの毛玉はいったいどこに消えたのだろうか。

 

「ああ、彼ならさっきまでいた部屋の窓辺が気に入ったとかで戻ったわよ。今頃昼寝でもしてるんじゃないかしら」

 

 呑気か。呑気だったわ。

 流石と言うべきか、これからどう暮らしていこうかと思案している家主よりもよっぽど寛いでいる。

 あいつも元は野良の獣だった癖に、野生の本能はどこに行ってしまったのだろうか。いや、元から無かったのかもしれない。

 初代(ごん)の血が濃いのか無人島の狸はどいつもこいつも随分と図々しいというか、間の抜けた連中ばかりだったし、ごん太は島での生活からして大物だったからなあ。

 トイレの場所も覚えるしちょっとした言いつけも守るので馬鹿ではないのだが、どうにもこう長い物には巻かれておく気質というか、威を借るのが得意というか、そういったどちらかといえば狡賢い類なことは間違いないだろう。

 

「そういえば、お前さんも気に入った部屋があれば好きに使ってくれていいぞ。どうせ幾つか部屋は余ってくるだろうから」

 

「別に、私にとっては人間用の住処なんてどれも同じでろくに使えないものばかりなのだけれど、そうね、バルコニーには大き目のテーブルと、鉢植えを一つ用意して貰おうかしら」

 

 バルコニーにテーブル。茶会でも開くつもりかと私は訝しんだが、話を聞くにどうやらあそこは月の光をより浴びやすい場所らしく、日光浴ならぬ月光浴には丁度いいのだとか。

 月光浴。私には馴染みのない言葉であるが、月の妖精である彼女にとってそれは生きる上で欠かせないものであり、人間でいう食事に近い。そして彼女が月光から得ているもの、それは魔力。月より降り注ぐ微量の魔力を取り込んで、己の活力としているのだ。

 尤も彼女の場合は私の身体から流れ出ている魔力を取り込むだけでも十分らしいので、やはりこれは食事というよりティータイムに近いのだろう。

 たしかに私自身、龍の姿になるのも、その力を振るうのも、月の光がより強ければ強い程負担が少なくなるし、身体の調子も良い。

 ような、気がする。きっと。

 いや、私自身も月に縁深い龍であるので、少なからずその恩恵を受けているのだろう。

 

「あい心得た。ついでに椅子も一つ見繕ってこよう。しかし、鉢植えは何に使うんだ」

 

「アナタもしっかり便乗する気じゃない。鉢植えの方は気にしないで。ま、私の趣味みたいなものだから」

 

 趣味。妖精の趣味とはいったい。

 いや、詮索は止めておこう。私は個人の意思を尊重する龍故に。

 

「では時間も丁度良いですし、紅茶などは如何でしょう。こんなこともあろうかと、焼き菓子も用意してあります」

 

「おお、それはいいな、素晴らしい」

 

 そうして、いつの間にかバルコニーに運び込まれていた円卓を囲んでのティータイムである。茶請けは三角形の焼き菓子。スコーンに近いが甘みは薄く、少し粉っぽい。しかし現代の、バターや砂糖をふんだんに使った代物と比較するのは余りにも酷だろうし、これはこれで素材の味を上手く引き出していて美味い。

 そして茶請けの甘みが薄い分、それが紅茶の風味を良く引き立てている。

 

「うん、これは良いものだ!」

 

「感謝の極み」

 

 アールグレイに似た味わいに舌鼓を打ちつつ、屋敷の前に広がる庭を眺める。

 敷地はサッカーコート二つ分、といったところだろうか。中々に広い。実に弄り甲斐がありそうだ。

 市場を眺めた時、まず目を引いたのはそこに並ぶ作物の、その種類の豊富さだった。恐らくは様々な島の、様々な環境が幸いしているのだろう。流石に主食となる穀物は偏っていたが、野菜に関しては相当な種類が揃っていた。

 腕が鳴る。土いじりを生業としていた私としては、それはまさに宝の山。まあ半分は家畜用として利用するとして、残り半分は土壌の改良を含めても相当な時間をかけることになるだろう。

 さらにはそれらの作物を運んできた多くの島々。まだ見ぬ世界。それらを想い、私は高鳴る胸の鼓動を押さえるように、また一口紅茶を含む。

 

「うん、美味い、美味い」

 

 そうしてまたスコーンへと手を伸ばそうとして、掴んだのはもふっとした獣の尻。

 どこからともなく、呼んでもないのに現れた狸が一匹、焼き立てのスコーンにがっついていた。

 

「お前、ほんと、お前なあ……」

 

 ため息と共に、力なく尻尾が床に落ちる。

 呑気な狸の鳴き声が、晴れ渡る青空に響いて抜けた。

 




最近タヌキの諸々がXに流れてきて、このぐらい図々しくてのろくても
本物には遠く及ばないのだなと痛感しております。
流石タヌキ。タヌキやばい。


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爺様、教鞭を執る

お待たせしました。


 

「先生だぁ?」

 

 とある日の昼下がり。今日も今日とて額に汗し鍬を振っていた私であったが、ふらりとやってきたシエラ嬢の話に思わず手を止め、訝しむような視線を投げてしまった。

 対して彼女はどこ吹く風といった体で、畑の傍にあるりんごの木の下に布を広げてのんびりとサンドイッチのような、薄くスライスした黒パンに野菜やら干し肉やらを挟み込んだ物に齧り付いている。

 

「ああ、港近くの空き家を使って三日に一回ほど、街の子どもを集めて文字の読み書きやら、物の数え方やらを教えてるんだが、そこでちょっと知恵を貸して欲しくてな」

 

 なるほど、つまりは寺子屋のようなものだろうか。尋ねてみればどうやら先代の王が存命だった頃から行われていたものらしく、特に先の王は子を愛し、先人の知恵をより多く次の世代に引き継ぐことこそ豊かな国を創ると説き、わざわざそれ用の家まで建てさせたという。

 やはり鳶から鷹は生まれぬというか、鷹の親もまたやはり鷹なのである。船旅の中でフライデーの坊から教わった歴史では先々代の王様はちょっとあれというか、戦上手ではあるが統治には向いていない性格であったようだが、先代、つまりはアレキサンダー王の親父さんがそうして教育に力を注いだことで国内の識字率も上がり、優秀な人材も次々と生まれているのだという。

 

「アンタ、どうせ暇だろ?」

 

 いや、お陰様で最近は実に充実した毎日を過ごさせてもらっているし、畑仕事もそれなりに忙しいのだが、担いだ鍬に呆れがちな視線を注いでいる辺り、彼女にとっては暇そうに見えるのだろう。まあ実際、そう間違ってはいないのだけれど。

 

「そもそも、私に何を教えろって言うんだ。自慢じゃないが、死ぬまで畑仕事ばかりやっていた爺だぞ、私は」

 

「いや龍だろアンタ。こう、魔法とか、俺たちが知らない理とかさ」

 

「知らん」

 

 そもそも魔法といってもそれっぽいことが出来るというだけというか、火を吐いたり空を飛んだりというのも感覚的なところでやっているし、龍の力に至ってはそれこそ人間の理解の外にあるものだ。彼女らにそれを伝えたところで益があるとは思えないし、そもこの国においての私は世界の片隅にある小国の姫君、という体になっている。

 そのやんごとない筈の身分の者が昼間っから畑仕事をやっているのはどうなんだ、という言もあるだろうが、まあそこは田舎者のじゃじゃ馬娘ということで納得してもらった。してもらう。

 

「いや、長生きばかりしているからな、蘊蓄(うんちく)はそれなりにあるが、そんなのでいいのか」

 

「ああ、何だったら子どもたちの質問に答えるだけでもいい。知りたいことを知れるという機会も、ありそうでそうないことだからな」

 

「そんなもんかね」

 

「そんなもんだよ」

 

 そういうものらしい。

 こんな老人の話を聞かせたところで退屈させてしまうだけのような気もするが、世界が変われば感性も変わるものなのだろうか。

 

 そんなこんなで翌日、私はそれなりに身綺麗な格好をして件の学び舎までやってきていた。隣には監督役兼見張りのシエラ嬢と、普段から子どもたちの先生役を買っているというフライデーの姿もある。

 学び舎とは言ったがその大きさは小屋に近く、扉を開いたらすぐに教室という構造になっている為、中にいる子どもたちの騒ぎ声が響いて辺りは随分と賑やかな様子であった。

 

「いいか、アンタは信用しているが、変なことはしないでくれよ」

 

 冗談交じりにそう釘を刺してくるシエラ嬢に、肩を竦める。

 

「やらんよ。あ、いや、豚もおだてりゃ木に登るというし、龍もおだてられれば火ぐらいは吐くかもしれんな、呵々っ」

 

「頼みますよ、本当に……」

 

「お前さんは相変わらず肝が小さいな。もっと胸を張らんと男前が台無しだぞ」

 

 そうして丸くなったフライデーの背を叩いていると、やれやれとため息を吐きながらまずはシエラ嬢が扉を開け、中へと入っていった。途端、わっと教室内が沸き上がる。

 それなりに女子の数も多いのか、沸き上がった歓声の中には何やら黄色いものも随分と混ざっていた。

 

「女の子には人気なんだよ、彼女。ほら、男顔負けの強さだし、実績もある冒険者だからさ」

 

「ああ成程、憧れの存在というやつか」

 

 そうこうしているうちに教室内の喧騒は徐々に大人しくなり、やがて小さく開かれた扉の隙間から、シエラ嬢が手招きしているのが見えた。どうやら出番のようである。

 

「さて、それじゃあひとつ頑張りましょうか」

 

 尻尾を一振り、私は扉に手をかけいよいよ教室内に顔を突っ込んだ。建物の中はやはりというか手狭な感じで、日本の小学校のひと教室ぐらいの広さしかなかった。

 教室の前方、出入り口がある側が一段高い教壇こそあるものの黒板はなく、子どもたちは三つ並んだ長机に羊皮紙、いやパピルスだろうか、それらしい茶色い紙を広げている。

 ほとんどは見慣れた人間の子どもだが、中には頭に犬のような耳が生えていたり、小さな翼が生えた亜人の子どもも混ざっていた。

 しかしこれは何だろうか。

 先程まであれほど賑やかだった教室が、まるで水を打ったように静まり返っている。

 その異様に、後から教室に入ってきたフライデーも首を傾げるほどだ。

 ふと、生徒たちの一人、赤毛を三つ編みにして肩に垂らした少女と目が合った。丸眼鏡にそばかすが特徴的な、可愛らしい顔立ちをした少女である。

 呆気にとられたような顔をするその少女に、何の気なく手を振ってみる。

 

「わ」

 

 和?

 

「わあーっ!」

 

「凄く可愛い、なになにどこの子!?」

 

「すっげぇ、角生えてる!」

 

「尻尾もあるぜ、かっけえ!」

 

「げっ、アイツあの時の……!」

 

「彼氏いるの!?」

 

「結婚してください!」

 

「男子サイテー!」

 

 どっと、赤毛の少女の声を皮切りにして、そこからはもう興奮の坩堝(るつぼ)のようなありさまだった。

 ところで最後の方でふざけた奴がいるな。先生怒らないから表に出なさい。

 

「こらこら皆、落ち着いて。今日はこちら、シエラさんに特別にお話をして貰うことになりましたので、失礼のないように、マスティアラ王国の民として恥ずかしくない振る舞いをするように」

 

 生徒をなだめるように教壇に立つフライデーだが、教室に集まっているのは誰もが十もいかない、生前の日本でいえば小学生低学年ぐらいの子どもたちだ。流石に百年以上平和が続いた現代国家と化物(まもの)が蔓延り、文明としても精々が中世が始まるかといったところのこの世界の価値観を同列に語ることはできないが、子どもという純粋無垢な存在であるからこそ、そこに差異は生まれないだろう。

 と、長ったらしく語ったが、ぶっちゃけ下の話やらなんやら(う〇こち〇こ)で盛り上がる鼻たれ小僧たちにそう語っても、誰も聞く耳など持たないだろうと、私は薄く笑みを浮かべ、困り顔のフライデーの肩を叩いた。

 

「まあ、そう堅苦しくやることでもないだろう。みんな初めまして、私はシエラ。見てのとおりちょいと変わった種族でな、こんな姿だがここにいる誰よりも長く生きている老人だ。今日は長生きの秘訣と、みんなの知りたい(・・・・)に応えるためにやってきた。では前の席から順番にやっていこう」

 

 そうして私が手を叩くと、教室中の子どもたちが我先にと勢いよく手を上げ始めた。その、どこか懐かしさを覚える光景に思わず口元が緩む。

 

「ではそこの女の子から。お名前は?」

 

「ラニ! お姉さんどこから来たの?」

 

「遠い遠いところからさ。あの黒薔薇冒険団でさえ、行くには三十日はかかるような場所だよ」

 

「次は俺な! その角って本物!? 触ってもいい!?」

 

「名前を教えてくれたらな。うん、漁師の息子のジャック君か。ではお礼に角を触ってもいいぞ。優しくな、力を入れると節で指が切れるかもしれないから気を付けるんだぞ」

 

「コリンですっ。あの、どれぐらい長生きなんですか?」

 

「コリンちゃんか、宜しくな。歳はそうだなあ、覚えている分では百年とちょっとぐらいかな。生きてる分で言えば千年は生きてるぞお」

 

「千っ、いや伝説が本当ならそれ以上にはなるか……」

 

 そんな風に所々シエラ嬢の驚く様子を挟みつつ質疑応答は進んでいき。

 

「さて次は、おっと、お前さんあの時の悪ガキか」

 

 とうとう残った生徒もあと少しというところで、何やら見覚えのある丸頭が目に入った。

 たしかロビンという名前だっただろうか。彼は私に気付かれないようにと必死に他所を向いていたが、あの丸坊主の頭はしっかり印象に残っている。

 

「おふくろさんには心配をかけてないか。あれから危ないところには近づいてないだろうな」

 

「うっせえ。お前のせいで、来たくも無いこんなところに来ないといけなくなった」

 

「あれからこってり叱られたらしくてな。罰としてここに通わされてるらしい」

 

 ああ成程。それで先程からご機嫌斜めなのか。

 我々大人からすれば自業自得以外の何物でもないのだが、子どもからすれば理不尽な仕置に感じるのだろう。

 

「いいかロビン、学ぶというのは大事なことだぞ。字が読めれば仕事が増えるし、計算、勘定が出来れば商売だってできる。畑をやるのだって、学があるのと無いのとでは雲泥の差だ」

 

 私としては暖簾に腕押し、馬の耳に念仏といった結果になるだろうとは思いながらの言葉であったが、どうやら何か感じるものがあったようで、ロビンは顔を横にしたまま視線だけをこちらに向けて。

 

「お前も、頭がいい奴の方がいいのか」

 

 そんなことを言ってきた。

 はて、どのような心情だろうか。

 

「頭が良いから、というのは少し違うかもしれないが、真面目な奴は好きだぞ私は。そして人とは己が好きな物事ほど真面目に向き合うもんだ。仕事も同じだぞ、ロビン。自分が真面目に向き合えるように、自分が好きな仕事が出来るように最低限の知識は学んでおくべきだと、私は思う」

 

 あの時真面目に勉強していれば、そんなことを言いながら腐っていく人間を、私は散々目にしてきた。そうして後悔をしないように、あるいは時間を無駄にしない為にも、学は必要だ。

 そのようなことを語ると、ロビンはそうかよ、と一言だけ零して、またそっぽを向いてしまった。なんともはや、やはり難しい年頃である。

 

「本当厄介だなお前」

 

「なんだ藪から棒に、失礼な」

 

 そんな一幕もありつつも授業は滞りなく進み、私は頭から尻尾まで散々質問攻めにあって本日はお開きとなった。

 それ以来、定期的に開かれる勉強会に私も度々招かれることとなるのだが、その時の出席率は他の日より群を抜いて高かったそうな。

 やはり、良くも悪くも子どもの原動力は好奇心なのだろうと、私は呵々大笑するのであった。

 




初恋ハンターG(爺)


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