魔界の国のお侍さん (アルジェリア)
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第一話 「討手(其の一)」

仕事で溜まったストレスを晴らすために書きました。
今度こそはエタらないように頑張ります。
書き溜め分の投稿後は、不定期更新になりますが、コンスタントに投下できるように頑張ります。


(雪になってきたな)

 池波新左衛門は空を見上げた。

 今日は朝から寒気が厳しかったが、まさか雪になるとは思わなかったので新左衛門は思わず頬を緩めた。

 何が嬉しかったというわけでもない。ただ単に雪という現象が珍しかったからだ。

 無論その思いは彼だけのものではなかったようで、同じく道を歩む者たちは、それぞれが意外そうに、もしくは珍しそうに空を見上げて歩みを止めたり、息を洩らしたりしている。

 いま彼とすれ違った二人の親子連れ――その幼い男の子も「母さん雪だよ! これが雪なんだよね!!」と黄色い声を上げていた。

 その微笑ましい光景を視界の端に収めながら、新左衛門はふたたび歩き始めた。

 雪が珍しいのはいいが、少し風が冷たくなってきた。

 新左衛門は着物の襟元を狭め、肩をすくめて足を速める。

 あと小半時も歩けば目的地には着くが、帰りはおそらく夜になるだろう。

 それまでに雪が止んでくれればいいのだが、最悪、吹雪になったりしたら帰路はかなり面倒なものになる。

 とはいえ、

(まあ、それはそれでいいか)

 とも思うのだ。

 吹雪の中を寒さに震えながら歩く――その行為自体に対する好奇心までは抑えられない。

 のちのち家族や知人友人たちに対する話のタネにもなるだろう。

 そう思えば、この寒さも気にはならなかった。

(ジュピトリアムの雪、か……)

 ひとかどの文才があれば、即興で詩の一篇くらいは頭に浮かぶのかもしれないが、あいにく新左衛門に、そんな才能はない。

 それが少なからず腹立たしく、そんなとりとめのないことを考えている自分にさえ苦笑が湧いてくる。

 冷たい風の中、舞い散るように降り注ぐ銀色の粉――そして、そんな雪に彩られるジュピトリアムの街角は、そんな新左衛門の目にも非常に幻想的な眺めに見えた。

 

 

 このジュピトリアム市は『共和国』の最北端に位置する街であるとはいえ、『共和国』自体が大陸の南方に存在するため、緯度的にはかなり赤道に近く、したがって気候は一年中温暖で、冬でも気温が氷点下に下がることは珍しい。

 雪など数年に一度の椿事と言ってもいいだろう。

 北方からの寒波も『共和国』の北の国境線というべきハムラビ山脈に遮られ、気候だけで言えば、おそらく大陸でこの国ほど人の住みよい地はないであろう。

 南国で日当たりがいいだけではない。国土の大半を肥沃な平野が占め、需要を上回る量の収穫があるため物価も安く、飢える者が少ない。

 そのため、この『共和国』に住む者たちはみな、他国人と比較しても温和で、陽気で、まれな雪に心を弾ませる余裕さえある。

 池波新左衛門もそんな一人であった。

 

 

「おお、待たせたな池波」

 そう言いながら渡辺源太夫が襖を開け、部屋に入ってくる。

「は……いえ」

 答えながら新左衛門は座り方を改め、頭を下げようとするが、老人は微笑しながら「そう構えるな、楽にせい」と手で制し、上座に腰を下ろす。

 六十過ぎの老人であるとはいえ、その挙動は軽快で、見る者が見ればこの老武士の並々ならぬ武技の所有者である事実が見て取れるだろう。

 しかし、それも当然だった。

 この老人――渡辺源太夫は、ジュピトリアム市にある剣術道場『練武館』の道場主である。

 年齢的には還暦を過ぎていても、その剣の腕はまだまだ健在であり、『共和国』でも五指に入る剣客として高名な人物であった。

 が、新左衛門はこの国内屈指の使い手を前にしても緊張などしない。

そもそも渡辺源太夫は、壮年の頃こそ「鬼」と呼ばれたスパルタ指導で有名な男であったが、それでも老齢に差し掛かって以降は性格も丸くなり、よく笑い、気の利いた冗談を言い、格式張ったところを道場の外で見せることはまずないという老人だった。

 さらに道場でも古株の門弟である新左衛門にとって源太夫は、幼少の頃から二十年来の剣の師匠であり、加えてさらに言えば、現在の彼の職場であるジュピトリアム市庁での、直属の上司でもあった。

 それほどの縁で結ばれている間柄なれば、突然の呼び出しであろうとも緊張などするはずもない。

 

「この寒空に突然呼び出して済まなんだな」

「いえ、そのおかげで、拙者も珍しの雪にいきあうこともできましたし」

 軽口混じりにそう答えながら、しかし新左衛門は気になっていたことを尋ねる。

「しかし先生、なぜ今夜に限って道場ではなく、屋敷に来いとおっしゃられたのですか?」

「なんじゃ、屋敷でわしの話し相手をするよりも、道場で稽古をした方が嬉しいと申すのか?」

「その言いようは質問に質問を返すな、という先生の常日頃のお言葉に反しませんか」

「はて、わしがいつそんなこと言ったかのう。記憶にないんじゃがな」

「またそうようなことを……」

 苦笑しながらも、新左衛門もこのたわいもない会話を楽しんでいたのは事実だった。

「それに、単なる話相手が欲しいだけならば、せめて酒の一本でも付けて頂ければ、さらに先生のご意向に添えるかと」

「師匠を相手に酒を催促か。あの可愛らしかった小僧が図々しくなったもんだのう」

「そう言われても反省など致しませぬぞ。弟子の教育は師匠の責任でありますからな」

「わかったわかった、仕方のないやつじゃな」

 そう笑いながら源太夫はポンポンと手を叩き、人を呼ぶ。

 それを見ながら新左衛門も頬を緩ませる。

 市庁の上級職であるのみならず、市内でも大手の道場経営者だけあって渡辺家の経済状況は裕福だ。毎年正月の稽古始めで門下生たちに振舞われる酒も、新左衛門には滅多に飲めないような高級酒である。ならば今宵出されるはずの酒にも、かなり期待していいだろう。

 新左衛門はそれほど大酒飲みではないが、酒そのものは決して嫌いではない。

 が、開いた襖の向こうにいた人物を見た瞬間、新左衛門の表情は凍りついた。

 

 

 そこにいたのは尖った耳に褐色の肌、紫色の髪に赤い瞳の女。

 渡辺道場『練武館』筆頭剣士たるダークエルフ。

 池波新左衛門が、この道場内で最もそりが合わず、そして唯一歯が立たない相手。

 名をクシャトリス・バーザムズール。

 エルフ独特の凝った刺繍を縫い上げた外套を着込んだ彼女は――しかしその視線は、新左衛門と目が会った瞬間、やはり彼と同じく動揺の色を見せる。

 何故こいつがここにいる――ルビーのような赤い瞳は、そう訴えていた。

 が、この席の仕掛け人たる上座の老人は、そんな彼女の自己主張など気にもしていない。

 

「とりあえず酒を飲ませてやるのは、おぬしをこの屋敷に呼んだ本題を済ませてからじゃ。酔ってしまっては出来ん話じゃからなこれは」

 そう言った渡辺源太夫の表情には、先程まで自分たち二人の間にあった弛緩した気配は、すでに微塵もなかった。

「とりあえず座れバーザムズール。練武館序列一位のそなたと、序列二位の池波新左衛門。そなたら二人に、この渡辺源太夫から話がある」

 

 

とりあえず新左衛門は、その師匠の言葉に対して、猛烈に嫌な予感を覚えていた……。

 

 

」」」」」」」」」」」」

 

 

 この大陸には『魔界』が存在する。

 

 人ならぬ『魔族』に支配された地。

 人類の文明――国家――軍事力の及ばぬ地。

 地図上で言うと、大陸南方のハムラビ山脈を北の国境線とし、東のザクレロア川と西のグラブロア川を東西の国境線とする地域――アーガマニア半島と呼ばれる地域のことだ。

 大陸南方から海に突き出す地形ゆえ「半島」と呼称するとはいえ、その総面積は広大で、インド亜大陸と呼ばれるデカン半島を想像して頂ければ分かりやすいだろう。

 北を山脈、東西を大河に遮られ、南の国境線とも言うべきその長大な海岸線も急峻なリアス式海岸の断崖が続き、四方を天然の城壁と堀に守られたその地は、大陸の人類にとって一種の真空地帯として扱われ、その歴史にほとんど干渉する事無く存在していた。

 この“魔界”に住む者たちは、決して自分たちから人類に干渉しようとはしなかったからだ。

 

 

 結論から言えば、人間以上の知力・魔力・生命力を持つ生命体は、世界中に存在している。

 人類以上の高度な文明・技術を持つエルフやドワーフのような種族もいる。

 いや、その生命力や戦闘力を視野に入れれば、しょせん人類など、この星の食物連鎖の中でも低位置にある種族だと言わざるを得ない。

 しかし、それでも世界における「万物の霊長」の地位に人類が居座り続けていられるのは、ひとえにその繁殖力と好戦性のおかげであろう。

 少なくとも種族単位の人口を比較すれば、この大陸で圧倒的な最大勢力を誇る知性体こそが人類であり、かれら人外種族が歴然たるマイノリティである事実は変わらないのだ。

 たとえて言えば『王国』『帝国』『首長国』などといった、大陸に存在する人類文明圏に生活する一般人にとっては、人外種族など一生で数度も遭遇する機会があるかどうかという程度に縁遠い存在だと言える。

 また、そういう現実がなければ、とてもではないが「人類至尊」などというスローガンを元に国家を運営していくことなど、人間たちには不可能であったろう。人外種族と人間の間には、体力・知能・魔力・生命力において、それほどまでに歴然たる「格差」が存在するのだから。

 

 

 しかし、その常識はこの『魔界』では通用しない。

 人類文明圏では、知性をもつ人外種族を総称して『魔族』と呼ぶが、その地は、その『魔族』が、マジョリティとして生活する地域なのだ。

 無論その『魔界』を生活圏としている人間も存在している。

 しかし、あくまで最大多数の勢力を誇る種族としてではなく、あくまでエルフ種などと同じ知的生物の一種としてだ。人口の構成比率的にも『魔界』では、人間はあくまで国内人口の四割程度を占める種族に過ぎない。

 その『魔界』では、それら人間を含む雑多な――ワーウルフやリザードマンなどの獣人種やドラゴンやグリフォンら幻獣種など――すべての知的生物が市民権を保証され、種族間の垣根を越えた一種の議会制民主主義を構築し、社会を運営している。

 また、牛馬や羊といった通常の四足獣に加えて、知性を有さない大型爬虫類や大型肉食獣などの家畜化にも成功しており、それら『魔族』や『魔獣』を組織的に編成した彼らの軍事力は大陸でもまさに比類なき強さを誇り、川越し山越しに国境を接する『王国』や『帝国』などの軍が、何度彼らに蹴散らされてきたかわからない。

 さらに、大型獣類の家畜化により大規模農業を可能とした『魔界』の経済力は、いまだ人力中心の人類文明圏の比ではなく、いまや産業構造的にも、この大陸で『魔界』の存在を抜きにしては語れないほどの影響力を誇っている。

 

 

 だが、それほどまでの国力をもつ『魔界』でありながら、前述のとおり、彼らは表の人類史に決して自分たちから干渉しようとはしなかった。

 彼ら『魔族』は恐れていたのだ。

 同族同士であくまで戦い続ける、人類の飽くなき好戦性を。

「発情期」という限定的な繁殖期間に縛られず、疫病や飢饉で万人規模の屍を積み上げてもなお、百年程度の歳月で人口を元の数字に戻してしまう人類の繁殖力を。 

 なればこそ――農産物の一部を輸出に回しているとはいえ――彼らは人類文明圏からはあくまで『鎖国』という孤立・不干渉の立場を維持し、その「真空地帯」で国家を標榜し、独自の文明を発達させるという選択肢を採った。

 

 

 その国号は『共和国』。

 限定任期で就任する大統領と呼ばれる王が統治する、独自の体制を持つ国家である。

 しかし人類文明圏の各国は、いまなお、『魔界』『魔族』という蔑称を日常用語として使い続け、そしてこの国の元首を『魔王』と呼んだ――。

 

 

 




…………うん、まあ、こんな感じで続きます。


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第二話 「討手(其の二)」

 事の発端は、まさに今日の昼頃だったという。

 ジュピトリアム北区の某旅館に、一枚の大ぶりなのぼり旗が風に翻った。

 たたみ一畳分ほどの大きさのそれは、無論ただののぼり旗ではなかった。そこには大陸共通語で、とある一文が記されていたからだ。

 

 

「『魔界』の腰抜けどもに告げる。

 己が強さに誇りがあるならば我が挑戦を受けよ。

 ――我は帝国第二騎士団ズサ・ハンマガルスなり」

 

 

 近在の住人たちはざわついた。

 ジュピトリアム市は確かに“共和国”最北端の街であり、その「北区」には、わずか数軒ながらも旅館が並び、北の国境線たるハムラビ山脈を越えて入国してくる者たち相手の宿場町として機能している。

 しかし『共和国』の外交方針はあくまで『鎖国』が国是だ。

 入国者たちもそのほとんどが“共和国”政府が敢えて入国手形を発行した隊商たちか、もしくは北の隣国たる『帝国』の外交官たちくらいであり、少なくともこんな乱暴極まりない他国人は、この百年では、ほぼ皆無であったからだ。

 

 

「まあ、こんな無茶苦茶な連中に入国手形が下りるはずもないわな。おそらくは関所を通らずに山を越えた密入国者であろうよ」

 

 

 源太夫はキセルに火をつけながらそう話す。

 ジュピトリアムは「市」という行政単位を冠してはいるが、『共和国』の国都グワジニアのような城塞都市ではない。人口の流入によって村落や集落が合併を繰り返し、外に向かって拡大を重ねた、この地域一帯すべてを指す言葉なのだ。

 したがってこの「市」にはその内と外を隔絶する市壁がなく、山脈を越えた侵入者が容易に紛れ込むことができるのだ。

 国境警備の観点からすれば、あまりに非常識な話だが、ハムラビ山脈がそれだけ急峻な山々が峰を連ねる場所なのだという事もあるし、その山脈全体に『共和国』は日頃から数万規模の国境警備軍を常駐させているという事実もある。

 たとえ個人レベルの行動であっても、この山脈を抜けて『共和国』に密入国を果たすのは、実際に容易な話ではないのだ。

 しかし、新左衛門にはいまだに話が見えない。

 密入国者であるならば、それこそ逮捕してつまみ出せばいいだけの話ではないか。

 ジュピトリアム北区には国境警備軍の本営も存在する。いざとなれば、その無作法な侵入者を捕縛する程度の人員に事欠くはずもない。

 

「ところが、そうもいかなくなってしまったのじゃよ」

 

 

 その無礼すぎる挑発に引っかかった者たちがいる。

 偶然にもそこに居合わせた、巡回中の国境警備兵一個分班。

 オーク一人とワータイガー三人の四人で構成されているこの集団は、当然のようにこの幟に反応し、冷笑した。

――どうせ『帝国』で失業した騎士くずれが、この国で一旗揚げようと舐めた真似をしているのだろう。ちょっと撫でてやれば大人しく山を越えて帰っていくさ――そう判断し、旅館の扉を蹴破り、売られた喧嘩は買ってやる、表に出ろとわめいた。

 そして、その行動が哀れな獣人たちの最期を招く結果となった。

 獣人四人の中からは代表者として班長のオークが名乗りを上げて剣を抜き、ズサ・ハンマガルスを名乗る全身甲冑をまとった騎士と、旅館から出てすぐの往来、衆目の真っ只中で剣を以て立ち合い、その数秒後には無残な屍を晒したのだ。

 

 

「一刀両断唐竹割り……わしが聞いた話では、そのオークは脳天から胸まで真っ二つにされたという。それはそれは見事な手際だったそうじゃ。しかも話はそこで終わらぬ。仲間を殺され、頭に血が上った残りの三人の獣人が、その場で男に襲い掛かり、そして三人ともがそれぞれ一太刀で叩き斬られ、男はそのまま悠々と旅館に戻り、酒を喰らって眠ったそうじゃ」

 

 

 その言葉に、新左衛門は息を飲んだ。

 一瞬で獣人三人を斬殺する。それが事実ならば、そこには重大な意味が含まれるからだ。

 まずは、そのズサなんたらの使う剣が、間違いなく魔力付与の儀式を施された“魔剣”であるということだ。

 一口に「斬る」と言っても、獣人を斬ることと人間を斬ることは、その難易度的に全く違う行為だと言える。獣人種には人間の数倍以上に強靭な皮膚・筋肉・皮下脂肪・骨格があるからだ。

 そんな彼らを――しかも一人ならぬ四人だ。四人の獣人を、ただの刃物を使って斬殺するなどという行為は、もはや物理的に不可能と言っても過言ではない。

 普通の人間が、攻撃魔法や砲撃ならぬ「普通の刃物」を使って獣人を殺そうとするなら、槍兵十人がかりで槍衾でも作って突撃するくらいしか方法はないからだ。

 人間と獣人種とでは、そこまでの体力差が歴然と存在するのだ。

 あくまでもその凶器が「ただの剣」であるならば、だ。

 

 しかし、その男の剣が、魔力付与儀式を施した『魔剣』であるなら、話は別だ。

 

 魔力付与とは、その言葉通り、武器に特殊な魔術儀式を施し、その切れ味を本来の数倍から十数倍にまで高める技術であり、その『魔剣』を使用するなら、獣人だろうが魔獣だろうが、そして鋼鉄の甲冑をまとった騎士であろうが、一撃で致命傷を与えることが可能になる。

 しかし、真に憂うべきはそこではない。

 獣人四人と戦い、それぞれを一撃で即死させる。それは『魔剣』を持つ者ならば誰にでも出来る――ということではない。

 当然の話だが、ただ武器の切れ味が鋭いというだけでは、それが戦闘力に直接結びつくわけではない。名刀を活かすには、それ相応の腕がなければ話にならないからだ。

 そして、獣人たちを相手に見せた手並みから判断しても、この男の実力は間違いなく当代一流の水準にあると言える。

 

 

「……こやつは強い。おそらくは『帝国』でも五指に入る強者であろうな」

 

 

 染み入るような声で源太夫が言う。

 新左衛門も、その言葉に反論はない。

 魔力付与を施された『魔剣』は、彼も持っている。

だが、仮にも軍事教練を受けた獣人兵四人を一蹴してのける腕が、果たして自分にあるかと問われれば、やはり沈黙せざるを得ない。

 剣の玄人であるからこそ、このズサという男の容易ならぬ手練が理解できるのだ。

 そして老人は言葉を続ける――問題はそれだけではない、と。

 

 

「問題は、他国の騎士を自称する男が、傍目も多い宿場町で強さ自慢を標榜し、そして我が国の兵が四人がかりで敗けた――という事実じゃ。この事実がある以上、もはや大々的に軍を動かすこともできん。国のメンツに関わってくるからのう」

 

 

 おそらく数日中には、この自称帝国騎士の噂は『共和国』の各地方にも伝わるだろう。

 そうなってしまえば、もはや正式な決闘以外でこの男を黙らせる方法はなくなってしまう。

 この男が本当に『帝国』の騎士団に籍を置く者かどうかは、現時点ではわからない。

 しかし、彼がこの国に現れた動機が、気ままな酔狂によるものでなければ、この男の背後には間違いなく『帝国』政府の意思が存在するということだ。

 彼の勝利は『帝国』本国に大々的に喧伝され、決闘以外の手段による彼の無力化――たとえば軍による捕縛など――は、それ以上に「卑怯」という尾ひれを付けられて、人類文明圏諸国に喧伝されるであろう。

 それだけは『共和国』の名誉のためにも、どうしても回避せねばならない。

 

「――くだらない」

 

 

 そう、ぼそりと呟いた声が、部屋に響いた。

 それまで一言も発することなくこの場に座していた女剣士――クシャトリス・バーザムズール。

「ほう……」

 源太夫は、そう言い切った女エルフに、むしろ笑顔を向ける。

「何がくだらぬバーザムズール」

「要するに、一対一でその男を叩きのめして、この街から追い出せばいいんでしょう? なら最初からそう仰ればいいじゃありませんか」

 面白くもなさそうにそう吐き捨てるバーザムズールに、孫を見るような視線を向けながら、源太夫は脇息にもたれる。

「まあ、そう言うな。取り合えず背後事情というやつを話しておかねば、この手の事案は、後々いろいろと齟齬が出てくるでな」

「政治がからむってことはわかりました。でも、そんなことあたしには関係ない。関係ないんですよ先生。それを……聞いてもいない長話をくどくどと」

「おいバーザムズール、先生に無礼だろう、いい加減にしろ」

 

 新左衛門としては当然そう言わざるを得ないのだが、彼女は拗ねた子供のようにそっぽを向いて、こちらを見ようともしない。

 もっともここ数年、新左衛門はこの無愛想な幼馴染と、まともなコミュニケーションをとった記憶もなかったが。

 彼が知る限りクシャトリス・バーザムズールが道場内でまともに口をきくのは――その言葉尻の大半は無礼もしくは喧嘩腰なものであるが――この道場の老先生だけなのだ。

 しかし源太夫はこのダークエルフ娘の悪態を、いつも可愛くてたまらない駄々っ子でもあやすような態度で応える。それが二人の間の「師弟の絆」であることは新左衛門にも理解できる。だが正直なところ、心にモヤっとしたものが疼くのも事実なのだ。そして、その感情が何であるのか、彼にはわからない。

 そして、そんな自分を振り払うように、新左衛門は脱線してしまった話の流れを戻す。

「要するに先生は、我々に、その男を正々堂々と破った上で街から追い出せとおっしゃるのですか」

「いや、それでは足りんな」

「足りない?」

 

 

「斬れ――ということよ。そやつを生かしてこのジュピトリアムから外に出すなということよ」

 

 

 飄々とした態度を崩さずに吐いたにしては、殺伐すぎる言葉だった。

 むろん冗談でないことは、源太夫の目を見ればわかる。

 いや、目を見るまでもない。「斬れ」という言葉と同時に、老人から発された歴然たる殺気を感得した二人の男女は、まさしく冷水をぶっかけられたかのような表情になった。

「正々堂々と立ち合い、一切の言い訳ができぬ状況で、奴を斬れ。失敗は許さん。これは市長閣下ならびに、大統領閣下の意思じゃと思え」

(大統領!?)

 意外すぎるその名のもたらす響きに、しかし新左衛門は久しぶりに味わった師匠の殺気による動揺からむしろ覚めた。

 まるで茶飲み話でもするかのように師匠が語り始めたこの一件が、ここまで大事になっていたのかという驚愕だ。

 そして、むしろ納得もできた。それほどの事件が起きていたにもかかわらず、市庁の役人である自分に何の情報も入ってこなかったということは、国境軍どころか付近の住民に至るまで、よほど厳しい箝口令を敷かれたということであり、さらに、そんな権力をこの国で持つ者といえば、やはり『共和国』最高主権者しかありえない。

 そして、だからこそ源太夫が次に吐いた言葉に、彼は敏感すぎるほどの反応を示した。

 

 

「討手はそなたじゃ、クシャトリス・バーザムズール。池波は万一の場合に備えて控えおれ」

 

 

 

「――どういうことです、それは!?」

 反射的に新左衛門の口から出た言葉がそれだった。

 しかし老人は顔色も変えない。

「どうもこうもない。いま言った通りのことじゃ」

「拙者をこの女の補欠に回すことも大統領閣下の御意志であると申されるのか!?」

 が、源太夫はむしろ粛然とした口調で――さにあらず、と答えた。

「人選に関しては大統領ではなく市長の命令じゃ。その裏にどういう仔細があるのかは、もとよりわしの知るところでは無いわ」

「馬鹿な……先生は拙者に、そんな茶番に付き合えと仰せになるのですか!?」

「そうじゃ」

「冗談ではない!!」

 新左衛門は憤然と席を立った。いや、立とうとした。――が、それを制したのは、

 

 

「落ち着かぬかたわけ者がッッ!!」

 

 

 という鉄鞭のごとき一喝だった。

 新左衛門は雷に撃たれたように凝然となった。

 が、そんな彼に、源太夫は口調を変え、いたわるように言葉を続ける。

「万が一に備えて待機、と言うたであろうが。そもそも、その自称帝国騎士が本当に独りであるはずもない。無関係な他人のふりをして陰日向にそやつを見守っておる『帝国』の間諜の何人かは必ずそこにおる。万が一の場合、そやつらが立ち合いに乱入してこぬとも限らぬであろうが」

「…………」

「勘違いするなよ池波、なにもおぬしの剣が、その男に敵わぬと申しておるわけでもない。このわしとて池波新左衛門の実力は認めておる。ただ、市長が直接バーザムズールを指名した以上、市の官吏である我らには逆らえぬのじゃ。この道理はおぬしにも理解できるであろう?」

「…………はい」

 そう言われてしまえば、確かに新左衛門にも反論はできない。

 彼と源太夫が市庁に役職を持つ身であるのは厳然たる事実だからだ。そうである以上、所属組織のトップである市長に逆らうことなど出来はしない。子供でもわかる理屈だ。

 が、納得できるかと問われれば、やはり話は別なのだ。

 彼とて現役の剣客である。己の実力に自信も誇りもある。二番手扱いなど屈辱以外の何者でもない。

 奥歯を噛み鳴らしながらうつむく彼を、水のような目で見つめながら、源太夫はキセルを火鉢に叩きつけて灰を落とした。

「――話はここまでじゃ。夜も更けた頃であろう、そろそろ行くがいい。外まで送ってやる」

 そう言って老人は座布団から立ち上がった。

 

 




また二日後に更新します


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第三話 「討手(其の三)」

なかなか話が進まなくてすみません


 外に出ると、雪はすでに止んでいた。

 月下に見える町並みは、刺すような寒気と共に綿のような美しい雪化粧に覆われ、これまた幻想的な眺めとしてそこにあった。

 しかし、そんな光景を目にしても、もはや新左衛門は詩を作ろうとは思わない。

 口を利くのも億劫なほどの怒りが、彼の胸を占めていたからだ。

 

「それでは、今宵は失礼いたしました」

 そう言いながら新左衛門は、腹立ちを顔に出さぬよう懸命に努力しつつ、玄関まで見送りにきてくれた渡辺源太夫に深々と頭を下げる。

 弟子としては当然の礼儀ではあるが、そのままちらりと隣を横目で見ると、バーザムズールは同じく師匠に頭を下げるどころか、わずかに黙礼を返しただけで口すら開かない。

 もとより道場内では無愛想で知られた女ではあるが、その態度はさすがに新左衛門も、改めて苛立ちを覚えずにはいられなかった。

 もっともこのダークエルフ娘の態度の悪さは昨日今日のものではないので、新左衛門もいまさらその非礼を咎める気にもならない。

 彼女は門下生としては新左衛門と同じく幼少の頃からの入門で、そういう意味では同期の――幼馴染とさえ呼べる仲であるが、その当時から簡単に他人に頭を下げない女だった。

 エルフとは元来非常に礼儀正しいとされる種族ではあり、また新左衛門の知る彼女の両親は温厚で常識的な人格者なのだが、その娘は、彼が心配になるほどに素っ気ない性格だったのだ。

 

 

「先生、こんな時間ですが、少し道場をお借りしてよろしいですか?」

 

 

 そんな彼女が、ようやく口を開いたと思ったら、吐いた言葉がそれだった。

「おい、バーザム……」

 さすがに新左衛門も言葉を挟もうとするが、それをさらに源太夫が遮って破顔する。

「おう好きに使え。というより、そなたならそう言うと思っておったわ」

 そう言って道場の通用門の鍵をたもとから取り出し、バーザムズールに放り投げる。

「まあ、今夜の話が話じゃったからな。武者震いの一つもしたくなるのは当然じゃろう」

 師匠の言葉と、それを聞いて顔色ひとつ変えないバーザムズールを横目で見ながら、新左衛門は(好きにしやがれ)とばかりに荒い鼻息を吐きつつ背を向けた。

 が、そんな彼に源太夫は言い放つ。

「どこへ行く気じゃ池波。おまえもバーザムズールの稽古に付き合ってやらんかい」

 

 

――あぁ!?

 という顔で反射的に振り向くが、源太夫はニヤついた表情で新左衛門を見返し、その視線に、むしろ新左衛門はひるんだ顔を見せる。

「もう夜も更けたし帰れと仰ったのは先生、あなたですよ? こんな時間にバタバタやってたら近所迷惑だと思いますが」

「気にするな、なんなら朝まで一緒におってもええぞ」

「先生、いい加減にしてくれないと怒りますよ」

 さすがに眉間にしわを寄せながら言い返すが、源太夫は取り合わぬ顔をして笑う。

「ま、わしも玄関先で弟子に怒られたくはないから冗談はここまでにして、じゃ」

 そこで言葉を切って不意に厳しい顔を見せ、言った。

「池波……実はこの一件、わしは嫌な予感がしてならんのじゃ」

「嫌な予感、ですか?」

 

 

「あの娘を守ってやれ。それが出来るのはそなただけじゃ」

 

 

 新左衛門は師匠の意外な言葉に、気を呑まれたように絶句する。

 が、次の瞬間、源太夫の表情はふたたび、いつものいたずらっぽい顔に戻った。

「ま、いい加減うまくやれや。お前ら二人、もう古い仲じゃろうが」

 その言葉に、新左衛門は慌ててバーザムズールを振り向くが、彼女はすでにこっちに背を向けて、薄く積もった雪に足跡を残して遠ざかりつつあった。

 

 

」」」」」」」」」」」」

 

 

 渡辺家の屋敷と道場は背中合わせになっており、屋敷の正門から出て塀伝いに半周したところに道場「練武館」の門はある。

 開きっぱなしになっていた通用門をくぐると、すでに道場内に火は灯されているらしく光が漏れ出ており、敷石に揃えられているエルフ種独特の革靴が見えた。

 そして、それは――新左衛門に幼少の頃の、彼女に伴う記憶を回顧させた。

 

 

 風や水気を完全に遮断してしまうその靴は、新左衛門たちが日常的に履く草履(ぞうり)に比べれば、はるかに冬場に適した履物であったが、しかし通気性が悪いために悪臭や水虫の原因になるという欠点があり、新左衛門ら武士階級に属する人間たちはあまり好まない。寒ければ厚手の足袋(たび)を履けば問題なかろうという理屈からだ。

 もっとも、大陸でも南国に位置する『共和国』の平均気温は年中通して温暖で、そんな足袋すら所持していない武士たちすら多いほどだ。

 しかし新左衛門は、普段履くこともままならぬその「靴」に言い知れぬ憧れを抱いていた時期があった。

 むろん現在ではない。幼少の頃の話だ。

 その当時、新助という幼名で呼ばれていた彼にとって、同年代の遊び友達は隣に住む褐色の肌の美少女しかおらず、ほぼ毎日のように彼女の家に押しかけ、そこに住むダークエルフの夫妻もそんな娘の友達を歓迎した。

 もちろん当時のクシャトリス・バーザムズールも、やはり無愛想で無口で素っ気ない性格だったが、それでもまだ今と比べればかなりマシだったと言える。少なくとも彼の前では、感情の赴くままに泣いて笑う、年齢相応な幼女だったからだ。

 だから新左衛門――当時の新助は、その興味のままに彼女にその靴をくれと頼み、クシャトリスは文句も言わずに自分の予備の靴を新助に与えた。

 彼は自身の体格の成長によってその靴が履けなくなるまで愛用し、二人はともに泥まみれになるまで近所を駆けずり回ったものだった。

 

 

(もう昔の話だ)

 新左衛門は顔を歪める。

 思い出というものは、それが甘いほどに、対比する現在の苦味が表面化するものだ。

 ともに道場に通うようになって、二人の関係は変わった。

 もとより天稟があったのか、新助はメキメキと腕を上げ、元服して「新左衛門」を名乗るようになった頃には、道場内はおろかジュピトリアム市でもほとんど負け知らずと言っていいほどに強くなった。

 しかし、そんな彼にして、どうしても敵わぬ目の上のたんこぶがいる。

 クシャトリス・バーザムズール。

 彼女はまさに天才だった。

 道場主の渡辺源太夫をして「剣を振るうために生まれてきた女」と言わしめたクシャトリスは、昨年度、そして一昨年度と大統領杯――出場者の種族・武器を問わぬ『共和国』で最も権威のある武道会――で連覇を果たし、いまや国内最強とさえ評判される剣士にまで成長を遂げたのだ。

 しかし彼女は、強くなるほどに驕るどころか、さらに寡黙に、陰気に、他者を遠ざける空気を発散するようになっていき、反発するように新左衛門もクシャトリスから距離を取るようになっていった。

 

 

(何故おれが、そんなアイツと……)

 いかに「上」の命令とはいえ、あんまりだ――新左衛門としてはそう思わざるを得ない。

 草履を脱いで道場に入り、足袋越しに床板の冷たさを足裏に感じながら、険しくなる表情を懸命に抑え、無表情に徹する。

 クシャトリスは外套を道場の隅に無造作に脱ぎ捨て、スカートのまま床に座り込んで、これまたエルフ独特の股下まで伸びるタイツのような長い靴下を脱いでいるところだった。

 見る角度によっては彼女のスカートの奥に下着が覗けたかも知れないが、新左衛門は一瞬でもそんなことを考えた自分を恥じるように目を閉じて頭を振り、雑念を捨てる。

 上着を脱いで衣紋掛けに吊るし、刀の下げ緒でたすきをかけ、壁にかかっている十数本の木刀から一本選び、二三度素振りをして感触を確かめる。

 

(…………うっとうしいな)

 むろん新左衛門も気付いている。

 さっきから自分の背中に粘りつくような、何か物言いたげな空気が貼り付いているのを。

 敢えて無視してやろうかとも思ったが、しかし結局、新左衛門は振り返った。赤い瞳をこっちに向ける、ダークエルフ娘を。

「何か用か」

「別に」

「面倒くさいな。言いたいことがあるなら言えばよかろう」

「……言っていいの?」

「あ?」

 

 

「じゃあ聞くけど、討手にあたしが選ばれたのが、そんなに不満?」

 

 

 新左衛門は答えない。答えられない。

「あたしが指名されたのは、あなたよりあたしの方が強かったから。あなたが指名されなかったのは、あなたがあたしより弱かったから。それだけのこと」

「…………」

 ぐうの音も出ないとはこの事だろう。

 新左衛門は屈辱で憤死しそうになりながらも、しかし反論すら出来ずに唇を噛むしかない。この女は、大統領杯の二連覇を果たしたという実績もさることながら、道場内でもまさしく敵なしといった状態で、ここ数年は新左衛門でさえクシャトリスから稽古で一本を取ったこともない。

 何より、師匠の渡辺源太夫でさえ、道場内の席次で彼女を首席とし、新左衛門を次席につけた。それが師匠から見た厳然たる評価なのだ。

「……だから、どうしたと言うんだ」

――そう。だからといって、現実に屈する気は彼にもない。

 

 

「確かに今のおれは貴様に及ばぬかもしれん。だが……だが……断じてこのままでは終わらん……いずれ必ず貴様に勝ってみせる! それだけのことだッッ!!」

 

 

 新左衛門の怒りに満ちた眼光を向けられながらも、しかしクシャトリスは目をそらさない。

 むしろ静かな、すべてを見抜くような怜悧な目を彼に向けてくる。

 一切の感情を伺わせない、何かを観察するような目だ。

 普段の新左衛門なら、その冷静そのものな視線に耐えられず、逆に顔を背けてしまったかもしれない。

 しかし、今の彼は違う。

 胸に怒りが渦巻いていた。

 幼馴染の、あまりに直接的すぎる言葉に対して――ではない。

 彼女の強さに追いつけない、自分自身の不甲斐なさに対して、だ。

 ならばこそエルフ娘の、心を見透かすような小賢しい目を、彼は全力で睨み返す。

 

 

「そう……ならいいよ」

 

 そう言い、クシャトリスは目を閉じ、うつむいた。

 ただうつむいただけではない。新左衛門には見えた。

 瞑目した瞬間、彼女は確かに、何かに安心するように笑ったのだ。

 その微笑が何に対してのものだったのかは、新左衛門にもわからない。

 だが、数年ぶりに見たこの幼馴染の染み入るような笑顔に、彼は何も言えなくなってしまった。

 

 




ではまた二日後に


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第四話 「討手(其の四)」

「あれがズサ・ハンマガルスか」

 新左衛門が遠目の魔法で眺めるその男は、いかにもな巨漢で、全身から精気を発散しているような風貌をしていた。

「まるでワーべアーね。体臭もきつそう」

 やはり同じく隣で遠目の魔法を使っていたクシャトリスも、ぼそりと呟く。

 その言葉にフッと笑って、新左衛門はちらりと彼女を横目で見る。

 家族を心配させるほどに寡黙なはずの彼女は、道場で二人きりで過ごした昨日の夜から、妙に言葉数が増えていた。

 とはいえ、それでもよほどにクシャトリスと近しい間柄でなければ、そのわずかな変化には気づけない程度のものであったろうが、新左衛門から見れば、この幼馴染の変化は微妙ではあっても明確だった。

 もっとも、その原因は何かと問われれば、彼にはまったく心当たりはなかったが。

 

 

 話を戻すと――いま二人は、用心のために敢えてその旅館から距離を置いて、路地の角に身を潜めつつ、遠見の魔法で偵察をしている。

 が、例の男を見ようと思えば、そんな苦労はある意味まったく必要ないとさえ言えた。

 なにしろズサ・ハンマガルスは、その旅館の前の通りにいれば、どこからでも見ることのできる場所にいたからだ。

 

 己の宿泊する旅館の最高級・最上階(とはいっても三階でしかないが)の部屋を借り切っているであろうズサは、なんとその部屋のテラスで長椅子に腰かけ、そのまま眼下の街の景色を楽しむかのようにを見下ろしつつ、近在の娼館から呼び寄せた高級娼婦たちに酌をさせながら、酒を飲んでいたのだ。

 

 街の景観を肴に酒を飲む「観光客」は、ここでは決して珍しいものではない。

 人間と人外種族が渾然一体となって構成されている社会――ある意味『共和国』のどこにでもある日常は、この国に初めて来訪した「観光客」にとって何よりのカルチャーショックであるからだ。

 だが、その「観光客」が、誰の目にも明らかな『共和国』の敵にあるならば、話は別だ。

 買い物カゴを腕にぶら下げたラミア種の中年女性や、積荷を満載した荷車を引くミノタウロス、さらには四つ辻で細工物を売っているドワーフなど、街の住民たちは露骨な白眼を投げかけている。

 無論その対象は、下品な嬌声をあげながら、自分たちを見下ろすようにテラスで酒を飲んでいる白人種の男と、その頭上で翻る、この『共和国』に対するあからさまな侮蔑と挑戦を刻んだ、一枚ののぼり旗だ。

 

 

「しかし、あんな目立つ場所で……いくらなんでも無警戒すぎるだろう。攻撃魔法で狙われたらひとたまりもないのに一体どういうつもりなんだ」

「狙われないという確信があるんでしょう。だからわざとああやって挑発してるのよ」

「おれ達をか?」

「この国を――よ」

「なめやがって……ッッ!!」

 新左衛門は、拳を掌に叩きつけ、パシンという乾いた音を立てる。

 しかし、現実は確かに、あの白人男の想定通りに進んでいるのだろう。

 街中から白眼と嫌悪の視線にさらされながら、それでも彼は誰はばかることなく美女と酒を楽しみ、対照的に、同僚を斬殺された『共和国』国境警備軍の者たちは、歯軋りをしながらも奴に一指も触れられないでいる。

 それらはすべて、ジュピトリアム市長ゲイン・マルクスを通じて『共和国』大統領ギレニアン・ズムが命令したことだった。

 

 

「では、そろそろ行くぞ」

 そう言いながら、街角の路地に身を伏せていた新左衛門も威勢よく立ち上がった。

――祖国に挑む身の程知らずな『帝国』の白人に、ようやく罰を与えてやることができる。まあ、おれの手で斬れるならもっと最高だったんだがな。

 それが新左衛門の心中に存在する最たる感情であった。

 が、そんな彼の胸中を知ってか知らずか、クシャトリスは腰を下ろしたまま、何かを考え込むように俯いている。

「どうした?」

「まだダメ」

「何が?」

「まだ、見極めが済んでない」

 その言葉に、思わず新左衛門は「え?」と間抜けな声を漏らした。

 見極めとは、あの男の実力の見極めという意味か? 

 それが済んでないと言うが、むしろ当然ではないか。遠目の魔法で確認できたのは、結局日光浴を楽しんでいるズサの下卑た人相と薄汚い半裸だけなのだから。

「野郎の実力なぞ実際に立ち合えば見えてくるだろう。さあ行こう!」

 必要以上に大きな新左衛門の声に促され、クシャトリスは仕方なくといった様子で立ち上がるが、その表情は未だに晴れない。

 そして、結局彼女が歩み始めた方向は、討ち果たすべき標的がいる旅館とは正反対の方向だった。

「おい……どこへ行く!?」

 新左衛門は慌てて訊くが、しかしクシャトリスはもはや答えない。

 こちらを振り返りもせず、足早に歩いてゆく。

 必然的に新左衛門も、舌打ち一つして、彼女のあとを追うしかなかった。

 

 

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 今朝のことだった。

 このジュピトリアム市を含む『共和国』の八つの主要都市で、「怪文書」が大量に出回っていることが判明したのだ。

 その内容は『帝国』の騎士たるズサ・ハンマガルスが、単身この『魔界』に挑戦するという宣告と、それに合わせた挑戦者の募集だった。

 調査報告によると、その「怪文書」がバラ撒かれたのは、どうやら昨日の朝――つまり、彼がジュピトリアムで旅館にのぼり旗を上げた時間に合わせて配布されたらしい、ということだ。

 つまりそれは、この一連の事件が、きわめて周到に計画されたものであり、その背後に、敵国内の八つの都市で、同時に、そして大々的に文書を配布できるほどの、大規模な組織が存在することを証明するものであった。

 

 

(この『共和国』には、それほど大量の『帝国』の間諜が潜入しているのか)

 誰もがそう思い、この国の王たる大統領ギレニアン・ズムでさえそう思った。

 何が恐ろしいと言って、この件における『帝国』の狙いが全くわからないということだ。

『共和国』の各主要都市に、『帝国』の組織的な間諜団がすでに潜伏している(これ自体信じがたい話であるのだが)と仮定するとして、ならば、この一件でそれを事実上暴露してしまうメリットは何だ。

 

 考えられる回答は二つある。

 一つは示威行動だ。

 貴様ら『魔界』は、すでに我ら『帝国』の厳重な監視下にあるのだぞと脅しをかけ、この国における『帝国』の影響力を強めようとする。

 そしてもう一つは、間諜団の存在を誇示することで、この『共和国』在住の人間すべてに対する人外種族からの種族間疑惑、もしくは人間同士による疑心や不信を煽り、社会不安を招くことであろうか。

 しかし、そんな程度のメリットを期待して起こしたには、今度の事件は大掛かりすぎるのだ。

 常識的に考えれば、それほど大規模な間諜団が存在するのなら、あくまでその存在を隠匿して情報収集をさせ続け、『帝国』との開戦(あくまで仮定の話だが)に合わせて各都市でテロでも起こさせた方が、よほど彼らの国益に添うであろうことはわかりきっている。

 

 また、人間に対する疑心暗鬼の醸造という狙いに対しても、合理的ではないとハッキリ断言できてしまう。

 なぜなら、人類文明圏の構成人種は、例のズサ・ハンマガルスと同じく歴然たる白人種であり、そんな彼らが、黄色人種が九割以上を占める『共和国』の現地人の中に隠れ潜んで諜報活動を起こすことなど到底不可能と言うしかないからだ。

 また、人類文明圏の白人種と『共和国』の黄色人種の間には、深刻な人種差別感情が存在し、互いに「猿」「毛唐」と呼び合い軽蔑し合っているという現状があり、そういう感情面から考えても、『共和国』の現地人が『帝国』の間諜に手を貸す確率など、ほぼゼロに近いと断言できる。

 物理的に潜伏することも不可能。そして現地人が間諜の協力者となることもありえない。となれば、つまり疑心暗鬼など起きようがないのだ。

 

 

 ならば――なおのこと間諜団の存在をいたずらに誇示する目的はいったい何なのか。

 それがわからない。

 なればこそ、不気味なのだ。

 水晶玉を経由する念話魔法によってリアルタイム通信を可能としている『共和国』では、情報の共有速度は、まさしく人類文明圏の比ではない。そして、彼ら『共和国』上層部が念話会議によって下した結論は、可及的速やかなズサ・ハンマガルスの「無力化」。

 しかし、そのための手段が限られているというジレンマがあった。ここまで事が大きくなった以上、もはや軍や外交筋を使っての解決など、絶対にありえない。

 状況は結局、昨日から何も変わってはいないのだ。

 そのため、ジュピトリアム市長ゲイル・マルクスは、クシャトリス・バーザムズールに個人的な依頼を出し、事態の解決を独断で図ったという事実を大統領に報告し、あらためてその許可を得た。

 つまり今朝に至って、彼女がズサ・ハンマガルスと戦うという行為は、市長レベルではなく『共和国』大統領の意思である、という法的解釈を得たのだ。

 その旨を記した公式文書は、ただちにクシャトリス本人に届けられ、そして池波新左衛門も、その場に偶然にも立ち会っている。

 彼が必要以上に闘志を沸き立たせているのは、そのためだと言ってもいい。

 

 

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 クシャトリス・バーザムズールを追って、池波新左衛門が歩く。

 すでに彼女の態度に不快になっている新左衛門は、もはや一言の口も利かない。

(勝手にしやがれ)

 とばかりの表情で、拗ねたように押し黙りながら、クシャトリスの三歩後を歩く。

 が、数分も歩くと、どうやら彼女の真意について新左衛門にもようやく見当がついてきた。

(ここは七丁目ではないか)

 ジュピトリアム北区の七丁目といえば、国境警備軍の本営がある番地だ。そして、そこは、昨日ズサに斬殺されたオークたちの死体が引き取られている場所でもある。

(なるほど、死体を検分して、やつの剣筋を見極める気か)

 そう思えば、確かにクシャトリスの考えも理解できなくもない。

 だが、納得できるかと言われれば、新左衛門にとってもやはり、話は別だった。

 

 

「そんなに奴の実力が気になるのか」

 と問うが、クシャトリスは何も言わない。しかし無視したわけではないことは、彼女が無言で頷いたことでわかった。

「知ってどうする? どうせそんなことは戦えばわかることではないか」

 しかし、相変わらず彼女は答えない。

 というより今度は頷きすらしない。完全な無視だ。

「知ったところで意味があるのか? どの道おまえが奴を斬らねばならないことには変わりがないのだぞ。弱けりゃ戦い、強けりゃ逃げる――そんなことが許されない立ち合いなのだぞ」

 言いながら、新左衛門はだんだん腹立ちを抑えきれなくなってきた。そもそも彼は決して気の長い性格をしていない。年齢相応もしくは階級相応に血気盛んな一面を持ち合わせている男なのだ。

「大統領は、そもそもこの件の解決に、可及的速やかにと条件をつけたはずだ。この言葉の意味を理解しているのか? これは可能な限り早くという意味なんだぞ!? この御役目を理解しているのか貴様は!?」

 すでに声が荒くなっているため、道を歩く者たちも思わず振り返り、自分たちが衆目の的になりつつあるのはわかっている。だが、興奮状態に入りつつある新左衛門は、もはや他者の視線など気にもならない。

「今の自分の立場を名誉に思わないのか!? 御役目を受けた貴様がそのザマでは、補欠に回されたおれの――いや、道場や大統領杯で貴様に敗けた者たちの立場はどうなる!?」

「…………」

「そんなにあの毛唐が怖いのか!! なれば討手をおれと代われ!! お前に代わって、おれが立派にやり遂げてみせるわ!!」

 そこまで言われ、クシャトリスはようやく立ち止まり、新左衛門に向き直った。

 

 

「勝利に一番必要なのは臆病さと慎重さよ。少なくとも血気に身を任せることじゃない」

 

 

「な……ッッ!?」

 その言葉に、とっさに新左衛門は何も言い返せなかった。

 天才と称される女剣士の口から出たにしては、あまりに意外すぎる言葉だったからだ。

「いずれはあなたにもわかる。だからこれ以上余計な口出しはしないで」

 そう言い捨てると、クシャトリスは本営門番のケンタウロスに市長からの書状を見せ、

敷地内にスタスタと入っていった。

 

 

 




では、また二日後にお会いしましょう


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第五話 「討手(其の伍)」

予告していた更新時間から遅れてしまいました。
申し訳ないです。


 

(まだか……)

 新左衛門は、半ばうんざりしながら、霊安室の壁にもたれ、クシャトリスを待っている。

 そして、クシャトリスといえば、新左衛門を待たせていることに気付いていないかのような熱心さで、そこに安置されている四人の獣人の斬殺死体を飽くことなく観察している。

 すでにこの本営庁舎内の霊安室に案内されて、四半刻以上の時間が過ぎているだろう。

「部屋の外にいる。終わったら出てこい」

 そう言うと、新左衛門は部屋の扉を開けた。

 むろん彼女は、その言葉に返事もしなければ、振り向きさえしない。

(まあいい……)

 苛立ちを抑えつつ、そのまま新左衛門は部屋を出て、扉を閉めた。

 

 

 池波新左衛門は、職業人としては市庁の官吏であるため、市の領内にある、この軍本営に関しても多少の顔は利く。

 ここは、名義的にはジュピトリアム国境警備軍の「本営」であるとはいえ、軍そのものが常駐するのはここではなく要塞化された山脈内の山城や山砦なので、いわゆる普通の意味での軍事拠点ではなく、交代要員の詰所もしくは補給物資集積基地と表現した方が事実に近い。

 そのためか、この庁舎は敷地の広さに比べてずっと小ぶりで、定期的に訪れる大量の国境軍交代要員を除けば、事務や経理といった内勤者たちが三十名ほどがいるだけの施設でしかない。

 かつて新左衛門は、市庁の役目で何度となくここに来訪したことがあるが、ここには常にどこか寂しい、うらぶれた空気さえ漂っていたほどだ。

 が、今日に関して言えば、まるで雰囲気が違っていた。

 人員交代期ではないにもかかわらず本営の庁舎内はごった返しており、以前が嘘のような張り詰めた冷たい空気が支配し、廊下ですれ違う者たちも、皆どこか殺気立っている。

 だからこそだろう。門番には市長の書状を見せることで速やかに入場できたが、しかしそこから先はそう簡単にはいかなかった。

 不機嫌そうな軍人どもに誰何され、身分と要件を説明すればさらに鋭い視線にさらされ、声を荒げられ、しかもクシャトリス生来の無愛想さが、さらに彼らの不機嫌に油を注ぎ、新左衛門が少なからずここで顔の利く立場でなかったら、自分たちは死体の検分どころか、ここから追い出されていたかもしれなかった。

(まあ無理もないか)

 新左衛門もそう思う。

 なにしろ彼らは、つい昨日に同僚を無残に殺され、その犯人に手出しすることを完全に禁じられている。

 この『共和国』では文民統制の原則が軍法の根底に存在するため、軍に籍を置く者ならば、市長の命令には絶対に逆らえないのだ。

 しかも、その「犯人」は逃げ隠れするどころか、自分たちの目と鼻の先の旅館で悠々と酒と女を楽しんでいるとなれば、怒りで腹が煮えそうになっても当然だ。

 ましてや、その「犯人」に唯一手出しを許されている自分たちが、いまだにこんなところをウロウロしているとなれば、周囲からの殺気混じりの視線を向けられても文句は言えない。

 立場が逆であったなら、やはり新左衛門も、その討手とやらを睨みつけずにはいられないだろうからだ。

 

 

 クシャトリスの言葉に反論できない形で、いわば仕方なしにここまでついてきた新左衛門ではあるが、それでも、この四体の被害者の遺体と対面して、その傷を目にした時、

(なるほど……)

 と、納得したのは事実だ。

 一騎打ちでオークの頭蓋を唐竹割りにし、残るワータイガー三人を、あるいは袈裟斬り、あるいは首刎ね、あるいは心臓突きの一撃づつで仕留めた、その斬撃痕は確かに凄まじいものだったと言える。

 改めて自分の眼で確認したその太刀筋は、確かに新左衛門の予想以上のものであり、ズサの容易ならぬ実力を、改めて認めざるを得ない――そう思ったのは間違いない。

 と、同時に、クシャトリスが言いたかったのは、こういうことなのだろうかと理解できた気にもなれた。

 

 

 が……それでもやはり、ズサ・ハンマガルスの強さが、クシャトリス・バーザムズールを上回るとは思えない。

 

 

 身内贔屓ではない。

 客観的視点からの結論だ。

 認めるのも悔しい話だが、それでもあの幼馴染の強さは、師匠の渡辺源太夫を除けば、自分こそが誰よりも深く理解しているという自負が新左衛門にはあった。なればこそ、彼には自分の下した結論に対しての自信がある。

 が、彼女は今になってもまだ、そういう「結論」を出さない。

 それが何故なのか、新左衛門にはわからない。

 同じ死体を検分しながらも、クシャトリスには見えたが、自分には見えていないものがある、ということなのか。

(それが、おれとあの女との差だというのか……)

 そう考えるしかない現実が、彼の背中をチクチクと刺激する。

 かといって、もう一度霊安室に入り、クシャトリス本人に、新左衛門自身に見えていない何を見ているのか――などと訊けるわけもない。

 結局、彼は大きな溜息とともに、廊下の壁にもたれて、彼女の邪魔をしないよう黙って待つしかなかった。

 

 

「いっ、池波さん、大変ですッッ!!」

 

 

 そう叫びながら、一人のリザードマンの青年が、霊安室前の廊下に駆け込んできたのは、その直後だった。

 彼の顔面は光沢のあるウロコに包まれているため表情まではよくわからないが、その態度から、彼がひどく狼狽していることくらいはわかる。

「どうしたトムリャットくん、そんなに慌てて?」

 むろん新左衛門は、このトムリャットという男を知っている。この本営の補給物資の管理担当の一人で、市庁の役人である新左衛門とは、互いに顔を合わせれば軽口くらいは叩く仲だったからだ。

 

 

「我が軍の者が数名、辞表を置いて姿を消しました!! どうやら……ズサ・ハンマガルスの元に向かったようですッッ!!」

 

 

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 道を塞ぐ人だかりにをかき分け、旅館の前の通りに駆けつけたとき、新左衛門の眼前に転がっていたのは、無残に斬り殺された二つの死骸。

「…………ッッ!!!」

 新左衛門は無意識に息を飲んだ。

 右手を落とされ、悔しげな表情もそのままに、首を切り落とされたエルフ種の中年男性。

 そして、どこをどう斬られたのか傷口は見えないが、地面に突っ伏したまま微動だにせず、大量の血をこんこんと流し続ける黒豹頭の――ワージャガーが一人。

 そして――現在進行形で、ズサ・ハンマガルスとおぼしき全身甲冑の男と、道の真ん中で剣を構えてにらみ合うラミア種の女剣士。

 

 

 ズサは面鎧を併用した鉄仮面のごとき兜をかぶっているため、その表情まではわからない。

 一方、中段の構えからピクリとも動かないラミアは――しかし誰が見ても彼女が追い詰められていることは、剣の素人でもその表情を見ればわかる。

 それほどまでに彼女の顔には明白な、恐怖と、焦燥と、後悔が浮かんでいたからだ。

 

「……あんた……いったい何者なの……ッッ!?」

「ただの人間だ」

 

 

 その瞬間、ズサの構える両刃の長剣が動いた。

 目にも止まらぬ速度で籠手を打つ――と見せかけたその剣は、とっさに鍔元を立てたラミアの半月刀の剣先をあっさり打ち払い、一瞬ではあるが、ラミアの防御は隙だらけになってしまう。

「――死ね」

 彼女の顔面は、そのまま眉間から後頭部までズサの剣に完全に貫通され、無残すぎる死体がまたもや地面に転がる――はずだった。

 もしも堪えきれずに新左衛門が小柄を投げなかったならば、だ。

 その小柄は、ズサの兜に刺さりもせずハネ返されたが、その剣先にわずかながらも影響を与えたのだろう。

 ラミアはかろうじてズサの突きを身をひねって躱し、代わりに斬り飛ばされた片耳と、その傷口から青い血をまき散らしながら、なんとか間合いの外に後退する。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっっ!!」

 荒い息を漏らしながら、ひきつった表情とともにまだ剣を構えるラミア。

 そんな彼女をかばうように前に出る新左衛門。

 背後のラミアからは「え……?」という声が漏れたのが聞こえたが、もはや新左衛門に彼女を気遣う余裕は残っていなかった。

 なぜなら、ズサ・ハンマガルスは突きの残身から剣を下ろすと、そのまま真っ直ぐ、決闘の乱入者に視線を向けたからだ。

 

 

「いま邪魔したのはおまえか」

 

 

 新左衛門は答えない。

 いや、言葉よりも早く、肉体がその問いに反応していたというべきか。

 彼は自ら意識せぬままに抜刀し、その佩刀・甲州光政二尺三寸を構えていたからだ。

 が、剣を抜いた新たな闖入者をみても、ズサのどこか虚無的な口調は変わらない。

「サムライ……ニホン人か」

「いかにも、拙者は池波新左衛門正春」

「なぜ邪魔をする」

「すでに勝負はついている。それとも戦意を失った女を斬るのが『帝国』の騎士道か」

「いずれかの死を以て初めて決着となすのが一騎打ちというものだ。それは貴様も理解していようが」

 そう言うと、ズサは視線だけをふたたび彼の背後にいるラミアに向け――そして新左衛門の背中は、彼女が反射的に息を呑んだのを聞き取っていた。

 おそらく、いま彼女の表情には、露骨なまでの怯えが浮かんでいることであろう。

 

(無理もない……)

 新左衛門は――彼らしくもないが――このラミアに同情していた。

 軍に辞表を叩きつけてここに居るということは、彼女にしてもおそらく自分の腕に相当の自信があったのだろう。それがこのザマかよと責めるのは簡単だ。

 しかし、事態はそう簡単ではない。

 剣を以て対峙し、新左衛門はまさしく自分が、この男に対して何も理解していなかった事実を思い知っていた。

 獣人たちを一蹴したという話は聞いた。

 その死体を直接おのれの眼で見、その剣筋を確認した。

 それでこの男の実力のほどは理解した気になっていた。

――が、違う!

 相対して初めて理解できることもある。

 ズサ・ハンマガルスの放つ剣気は、もはや「妖気」と呼ぶにふさわしいほどの禍々しさに彩られている。こんな剣気にまともにさらされては、確かに現役軍人の獣人たちといえども気圧されずにはいられないだろう。

 

 己の「気」で相手の戦意をくじき、その動きを封じる。

 それは武芸の極意の一つとさえ言える。

 戦いとは、しょせんパワーやスピード、テクニックだけが勝敗を決めるのではない。それらを含めた心技体――総合力で相手を上回った者こそが勝者となるのであり、それは武を学ぶ者ならば、誰もが知る常識だ。

 死体に残された太刀筋だけを見ても、新左衛門はこの男が自分より実力が上だとは思わなかった。せいぜい五分五分といったところだと判断していた。

 が、この男がここまで相手を圧する剣気を放てるのなら、池波新左衛門とズサ・ハンマガルス――勝負の帰趨はまさに明白と言うしかない。面鎧の奥の眼窩から届くこの男の眼光を前に、すでに新左衛門の肉体は、まるで蛇に睨まれたカエルのように萎縮しつつあったのだから。

 むろん闘志までが完全に萎え切ったわけではない。

 彼は、自身の心を必死に掻き立て、煽り立て、心の火を維持しようと懸命になっていた。

 しかし、事ここまで及べば、新左衛門としても結論を下すしかない。

 

 

(この男……おれよりも強い……)

  

 

 剣を交えれば、おそらく負ける――胸を押し潰されそうな敗北感にまみれながらも、しかし、新左衛門は不思議と屈辱を感じなかった。

 いまや新左衛門は、眼前にいる全身甲冑の妖剣士が、確実に自分より「格上」の存在だと納得していたからだ。強者と弱者が戦えば、弱者が死ぬのは当然のことだ。そこに疑問を挟む余地はない。

 が、敢えて言うなら……この男に対する一抹の違和感だけがあった。

(こいつが本当に、旅館のテラスで女をはべらせて酒を飲んでいた、あの下品な白人野郎なのか)

 まるで別人だ――新左衛門は、そう思わずにはいられない。

 しかし、所詮はそれだけのことだ。剣を抜く前と、抜いた後で、まるで別人格のように豹変する剣士など、珍しくもない。ない――はずなのだが、

(だが、こいつは何かが違う……)

 という違和感が、どうしても拭えない。

 

 が――そんな雑念は一気に消し飛んだ。

 ズサ・ハンマガルスが、新左衛門に対して軽く頷いたからだ。

 

 

「よかろう。ならば、貴様から先に死ね」

 

 




ではまた二日後に。


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第六話 「討手(其の六)」

「よかろう。ならば、貴様から先に死ね」

 

 

 その瞬間、ズサが動いた。

 男が着込む、露出部分が一切ない鋼鉄作りの全身甲冑。おそらくその重量は十貫(約37kg)はあるだろう。にもかかわらず、その踏み込みは、むしろ身軽ささえ感じさせるものだった。

 反射的に後退しようする新左衛門ではあったが……しかし、その背はラミアの女剣士に、どんとぶつかり、その刹那になってようやく新左衛門は、いま自分が彼女をかばって剣を抜いたのだという事実を思い出す。

 

(おれは馬鹿かッッ!!)

 

 誰に頼まれたわけでもない。他人の一騎打ちに勝手に割って入り、あげくの果てに敵の気に呑まれ、守ろうとしたはずの女の存在を後退の邪魔と感じている池波新左衛門。

――なんという無様な。

 師たる渡辺源太夫が、そして幼馴染のクシャトリス・バーザムズールが見れば、間違いなくそう思うだろう。

 そんな、唾棄すべき自分への怒りが、新左衛門を突き動かした。

(死ね!!)

 下がるどころか一歩前に踏み出し、岩をも断つ勢いで振り下ろされるズサの一撃を、がっきと受け止める。

 新左衛門の刀とズサの剣が衝突し、激しい火花を散らした。

 しかし、もはや新左衛門には、さっきまで五体を萎縮させていた、この男の「妖気」に対する怯えはない。

 あるのは怒りだ。

(死ね……ここで死んでしまえ、池波新左衛門!!)

 無様すぎる自分への怒りが、新左衛門の剣を支えている。

 いや――もはや、相手が誰であろうとも、どうでもいいことであった。

『己に恥じぬ己であり続ける』

 これこそが、新左衛門が父から受け継いだ、武士としての最低条件だったからだ。

 

 

「ぁぁぁぁああああああッッッッ!!!」

 

 意味をなさない叫び声をあげ、肉体の奥底から気を、力を振り絞る。

 ズサの怪力に吹き飛ばされそうになるのを懸命にこらえ、鍔迫り合いの体勢を維持する。

(たとえここで惨めに斬り死んだとしても、それもまた武士の本懐)

(いや、そうではない)

(たとえ、ではない。おれは……)

(死ぬのだ。死なねばならない。死ぬべきなのだ。眼前のコイツは……)

(その死出の旅路の介添え人にすぎない)

 

 

 ただ己への怒りのみによって支えられた新左衛門の剣は――その瞬間、ようやく力が抜けた。

 

 

 鍔迫り合いの剣を通して伝わってくるズサの怪力。

 が、新左衛門はそれを誘い、導き、そして不意に力を抜き、体を入れ替える。

 支えを外された形になったズサは、たまらず前のめりに体勢を崩す。とはいえ彼も一流だ。そう簡単にブザマに転倒するような真似はしない。一歩踏み出してこらえると、後ろ殴りに剣を薙ぎ払った。

 が、新左衛門にとっては、彼が体制を維持するために一歩を踏み出す――その一瞬の隙で十分だった。

 後ろ殴りのズサの一剣を、まるで意に介さぬように踏み込んだ新左衛門は、渾身の一撃を敵の脳天に振り下ろし、魔力付与を施されてその威力を倍増された刀は、黒光りする彼の鉄兜を叩き割っていた。

 

 

 

「やった……やったぞ!! お侍さんが『帝国』のクソ野郎に勝ったぞ!!」

 どこの誰の声かはわからない。

 とにかく、兜を叩き割られ、そのまま沈むように大地に崩れたズサ・ハンマガルスをみて、それまで息を飲んで一騎打ちの成り行きを見守っていた野次馬の誰かが声を上げ、そして、その声をきっかけに、その場にいた野次馬たちは大歓声を上げた。

 旅館のテラスから蔑むように自分たちを見下ろしていたこの男に、皆よほどストレスを感じていたのだろう。

 新左衛門は誰とも知らぬドワーフに抱きつかれ、ミノタウロスに肩を叩かれ、ケンタウロスの美女には頬にキスマークをもらった。

「あんたスゲエな!! うちの娘を嫁にやるからもらってくれ!!」

「池波さんだっけ、やっぱ渡辺道場の人かい!?」

「こんなに胸がスカッとしたのは久しぶりだよ、お侍さん!!」

「いや、今からでもいいからウチの店に来なよ! 町を上げてアンタにおごってやるぜ!!」

 

 

 だが、割れんばかりだった歓声は、その瞬間ピタリと止まった。

 

 

 男は動いていた。

 兜の頭頂部――脳天を打ち砕かれたはずの全身甲冑の男は、そのまま地面に手をつき、ふたたび立ち上がったのだ。

 野次馬たちは、ふたたび悲鳴を上げ、蜘蛛の子散らすように駆け出した。

 とはいえ、ここから距離をとり、あるいは物陰に隠れ、あるいは路地の角に隠れ、身を隠す場所を見つけられなかったその他大勢の者たちは、さっきよりさらに遠巻きにこの場所を囲み、様子を窺っている。

 かつてズサ・ハンマガルスが、決闘の場所として使用したこの旅館前の道端という空間は、ふたたび静寂に包まれていた。

 

 むろん池波新左衛門は逃げてはいない。

 家伝の甲州光政を右手にぶら下げたまま――いや、そこでようやく彼は気づいていた。 

 己の刀に血がついていないという事実を。

 そして、立ち上がったズサ・ハンマガルスの、砕かれた兜からは血も流れず、人間の肉体と思しき一切のものが見えないという事実を。

「なるほど……」

 その異様すぎる眺めに、新左衛門はむしろ納得した。

 戦闘前に彼の脳裏に走った唯一の違和感が、ようやく腑に落ちたのだ。

 

 

「どうやら……あまり驚いておらんようだな」

 

 

 

『彼』はそう言ったが、その口調に微妙に羞恥の感情が混じっているように聞こえたのは勘違いではあるまい。

 新左衛門は、答えた。

「いや、充分驚いていますよこれでも。ただ……」

「ただ?」

「貴殿の言動と、ここのテラスで女をはべらせていたあの男が、どうしても繋がらないという違和感はありましたから」

「そうか……違和感があったか」

「貴殿とあの男は別人――それだけわかれば十分です」

「何故そう思う」

「尊敬すべき敵を軽蔑したくない、と言えばご理解いただけますか」

「そうか……ふふふ……」

『彼』はそう言い、小さくだが確かに笑った。

 

 

「で――いかがなさいます。続きをやりますか?」

 

 

 挑発のつもりはなかった。

 が、新左衛門にその気はなくとも、客観的にそう解釈されてしかるべき発言だったろう。

 現に『彼』からは、

「ほう、此の身の正体を知ってなお、まだ我が妄執に付き合ってもらえると?」

 という嬉しげな言葉と同時に、兜を砕かれ一度は消え失せた、例の「妖気」がふたたび発散され始めたからだ。

 だが、それも一瞬のことだった。

「いや、やはり見苦しき真似はよそう。私はすでに、そなたに敗れたのだから」

『彼』は、一度構えた両刃の剣を下ろし、鞘に収めた。

 一騎打ちの決着は、いずれか一方の死を以て決着となす――それが常識だ。

 が、死んだかどうかは問題ではない。死は相手に敗北を認めさせる一手段でしかないからだ。これが互いに生身同士なら、兜を砕かれた時点で『彼』の敗北は明らかだ。

 なればこそ『彼』は、戦闘再開を「見苦しき真似」と言ったのだ。

「それに、そんな時間もなさそうだしな」

『彼』はそう言い、ちらりと旅館の入口に目をやり、新左衛門もつられたようにそっちを見た。

 

 旅館の入口が開き、そこから――ダークエルフの女剣士が出てきた。

 しかも独りではない。

 とはいえ彼女は「二人連れ」でもなかった。

 後ろ手に中年の白人男性の頭髪を引っ掴み、ここまでズルズルと引きずってきていたからだ。

 その顔を見忘れるはずがない。この白人種の男こそ、遠見の魔法で新左衛門が目撃した、例のズサ・ハンマガルスであることは間違いなかった。

 しかも、そのあまりに異様な「荷物」と、それにそぐわぬ悠然たる物腰に新左衛門も、そして周囲で見物していた野次馬でさえ、唖然となった。

 

 

「クシャ子……何やってるんだお前……」

 

 

 あまりに予想外の光景だったので、思わず幼少期の呼び名を使ってしまったが、新左衛門はそれに気付いていない。

 逆に、クシャトリスは自分がその名で呼ばれたことを一瞬とまどったような顔をしたが、

すぐにいつもの仏頂面に戻り、

「何って決まってるでしょう、命令通りズサ・ハンマガルスを無力化してきたのよ」

 そう言い、その「荷物」を皆が見ている前に放り出した。

 道端に転がされた男は、まるで死んだように微動だにしない。

 いや「死んだように」ではない。

 彼はすでに死んでいた。

 血走った目を見開き、だらしなく緩んだ口元からは血が流れ、いや――それ以前にその顔色を見れば、この男がすでに死んでいることは、誰が見ても一瞥で判別できただろう。

 

 

「これは……おまえの仕業なのか」

「馬鹿言いなさい。取り抑えようとしたら勝手に死んだのよ」

 

 確かに、男の死体には刀傷はない。

 細かいことは分からないが、それが毒殺であることは死体の顔を見れば明白だ。

 そんなものをこの女エルフが持っているはずがない。

 クシャトリスは、兜を砕かれた全身甲冑に視線を移し、言った。

「で、あなたは誰なの?」

 そういえば、まだ名前を聞いてなかったな――と新左衛門も思いながら、『彼』に目をやる。

 しかし『彼』は答えなかった。

 少し照れたかのように顔をそらすと、

「かりそめの生にはしゃいで見苦しきところを晒した未練者じゃ。名乗るのは勘弁願いたい。だが、ひと時とはいえ、現世に戻れた甲斐はあった。礼を言うぞ池波新左衛門」

 と、笑った。

 むろん顔など見えようもないが、しかし声だけ聞いても『彼』の声は明らかに笑っていた。

 楽しげに。

 そして満足げに。

 

 

「――では、さらばだ」

 

 

 兜が落ちた。

 籠手が落ち、マントが落ち、そして甲冑全体がガラガラと崩れ落ちた。

 それはどこにでもある、がらんどうの鎧だった。

 

 

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「で、つまり……どういうことなんじゃ?」

 渡辺源太夫は釈然としない顔で訊いた。

 

 

 ここは渡辺家の例の客間。

 クシャトリス・バーザムズールと池波新左衛門は、おととい話を聞かされたこの場所で、昨日の一件の顛末(てんまつ)を、渡辺源太夫相手に語っていた。

 

 

「ズサ・ハンマガルスは死霊術者(ネクロマンサー)だったんです。彼は降霊儀式で、あの全身甲冑を触媒にして騎士の霊を召喚し、それを手駒に使っていたんですよ。挑発に乗って誰かが喧嘩を売りに来たら、自分は部屋に隠れてね」

「ふぅむ……」

「で、召喚主のズサが死んだので、鎧に憑依していた霊も魔力源を失って成仏したというわけです」

「つまりその騎士の霊は、なんじゃ――戦いたくて召喚に応じた、ということなのか」

「さあ、それはわかりませんが、それでも彼との一騎打ちに敗れたことで未練が晴れたような印象を受けましたから、あるいはそういうことかもしれません」

 そう言いながら、クシャトリスは新左衛門をちらりと見る。

「つまり、最初から正々堂々などと言わずに、死霊術者ズサ・ハンマガルス一人をとっとと始末しておけば、誰の血も流れずに済んだ――などと言う馬鹿がのちのちになって出てきそうだの」

 そう溜息をつく源太夫に、新左衛門は慰めるように言った。

「ですが、奴は結局死にましたし、鎧の騎士も拙者が負けを認めさせました。上々の結果だと思いますが?」

 しかし、その言葉を聞いた源太夫が新左衛門に向けた視線には、明らかに非難の意志が込められていた。

 

 

「そういえば池波、我々がズサ・ハンマガルス本人と思い込んでいた、その鎧の亡霊と戦ったのは、バーザムズールではなくお前だと聞いとるんじゃが……これに関して何かしらの釈明は無いのか?」

 

 

 新左衛門は答えない。

 というより、答えられない。

 あのとき新左衛門はとっさに思い出せなかったのだ。『彼』と戦うべく市長から認められた討手は、自分ではないという事実を。

 もっとも、あの状況において、鎧騎士と新左衛門が戦ったのは、ある意味避けられない成り行きであったというべきだし、言い訳ならいくらでもできる。

 たとえば、あの場に討手たるクシャトリス・バーザムズールはいなかった。

 そして、あのタイミングで自分が一騎打ちの邪魔に入り、名乗りを上げていなければ、あのラミアの女戦士は確実に殺されていただろう。

 犠牲者を増やさないために新左衛門としては、ああするしかなかったのだ。

 

 

「まあ、いいじゃありませんか先生。もう済んだことなんですから」

 

 

 しれっとそう言い切ったクシャトリスは、

「それに結局、本物のズサ・ハンマガルスは御指名通り、このクシャトリス・バーザムズールが討ち取りましたし、この事実を前に誰が何を非難できると言うんですか」

 と笑った。

「それは結果論じゃろうがバカタレ!! もし池波があの場で斬られておったらどうするつもりだったんじゃ!!」

 そう怒鳴りつける老人にも彼女は取り合わない。

「現に勝ったじゃないですか。師としてはむしろ弟子の勝利を誇るべきだと思いますが」

「じゃからそれは結果論じゃと言うとろうが!!」

 口答えをするな口答えを!!――と唾を撒き散らしながら源太夫が喚きたてるが、そっぽを向いたクシャトリスはもはや師匠を見もしない。

「ったく、市長から直々におまえに対処させろと命じられたわしの立場も考えんか、このたわけが……」

 なおも未練がましくボヤいていた老人ではあったが、やがてフッと力を抜いて座椅子にもたれて、諦めたように言った。

「……まあよかろう。市長閣下がなんぞ言うてきたら、お前がいま申したその線で押すこととするわい」

 しかし源太夫の目は鋭さを失わない。

 問題はまだ解決していないとばかりの口調で「しかし、な――」と続けた。

 

 

「バーザムズール、その死霊術者は、本当にそなたが殺したのではないのじゃな?」

 

 



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第七話 「討手(其の七)」

「バーザムズール、その死霊術者は、本当にそなたが殺したのではないのじゃな?」

 

 

 そう問われ、クシャトリスの顔にも緊張がもどる。

「はい」

「鎧の亡霊は術者の男が死んだことで成仏を遂げた……それはええ。なら、その術者ズサ・ハンマガルスを殺したのは誰じゃということになる」

「少なくともあたしじゃありません」

「ならば誰じゃ」

「わかりません。あたしが奴の部屋に踏み込み、取り抑えようとした瞬間、突然血を吐き、苦しみ始めたのです」

「自害か?」

「そうとも思えません。あの男は自分が吐いた血に驚いていたくらいですから」

「つまり、ズサ・ハンマガルスもまた、何者かの罠にハメられていたと?」

「おそらくは」

 

「ちょっと……二人ともさっきから何を言ってるんです!?」

 が、新左衛門は二人の会話を遮り、理解出来ないかのように訴える。

「市長や大統領からは奴を殺せと指示があり、我々はそれを無事果たした――それだけの話でしょう!?」

 しかし、源太夫は瞑目したまま新左衛門に向けてつぶやく。

「それだけの話……で済めばええがのう」

「どういう意味です」

「これは口封じじゃ。おそらくはあの白人もまた、何者かに操られる人形じゃったのじゃろう。これはそやつが仕掛けた呪いの類いじゃ」

 新左衛門は絶句した。

 

 

「おそらくは黒幕は、ズサ・ハンマガルス本人が官憲に現場を押さえられるようなヘマをしたら、すぐさま発動するような呪いを仕掛けていたのじゃろう。ズサの様子を聞くに、どうやら奴本人もおのれが呪われていることに気付いておらなんだようじゃが」

 

 

「いったい誰がそんな真似を……?」

 うわごとのように新左衛門が問うが、もはや源太夫は答えない。

 常識で考えるなら、例の怪文書をばらまいた連中の組織が、任務に失敗した死霊術者を始末した、と考えるべきであろう。

 この、誰が得をしたのか全くわからない今回の一件で存在が証明された、『共和国』内部に暗躍する巨大諜報組織であるが、その存在を主張するわりには、組織の末端構成員をあっさり始末するやり口に、源太夫はどうしても違和感を禁じえないのだ。

 むろん、本来は知られざるべきその組織が自分たちの存在を主張することと、そんな目立ちたがりの彼らが、その内情を知る構成員を始末することは矛盾しない。

 ある意味、任務に失敗して敵国の官憲に捕らえられそうになった工作員など、有無を言わさず「処理」して当然だ。非合法組織としてはむしろ健康的であるとさえ言える。

 しかし……源太夫には引っかかるのだ。

 どうしても、そこに違和感を覚えずにはいられない。

 もっとも、その「違和感」自体、他人に説明しろと言われても、素直に言語化するのが難しい、ある意味フワッとしたものでしかないのだが。

「わしに言えるのは、今度の黒幕連中が、この件を片付けた我々に狙いを定めぬように祈るだけじゃ……」

 齢六十を越えてなお『共和国』屈指の剣客――そう呼ばれる渡辺源太夫は、染み入るようにそう呟いた。

 

 

」」」」」」」」」」」」

 

 天に瞬く無数の星空。

 そして満月を背景に、犬の遠吠えが聞こえる。

 が、それだけだ。二人の耳に響くその遠吠えが、街の静寂を一層強調する。

 聞こえるのは、互いの足音くらいだ。

 しかし池波新左衛門とクシャトリス・バーザムズールは、仲良く並んでいるわけではない。彼女の三歩ほど後を、新左衛門は、微妙に頬を赤らめつつ歩いているだけだ。

 もっとも、その顔色が赤いのも、結局あの話し合いのあと渡辺家で酒が出たからであり、一緒にいるのも、帰る方向が同じだからというに過ぎない。

 なにしろ家が隣の幼馴染だ。違う道を歩くような白々しい真似はできない。

 

 

「……なあ」

 

 

 新左衛門の声に、クシャトリスは無言で振り向く。

 その沈黙に、彼は自分が呼びかけたにもかかわらず、少し眉をしかめた。

 何か返事をしてくれたというならともかく、こういう場合の無言で反応されると、それは、いわゆる無言の圧力というものに簡単に変容してしまい、話を切り出しにくくなってしまうからだ。

 が、ここで「やっぱり何でもねえよ」と茶を濁すわけにもいかない。

 新左衛門が、今ここで聞こうとしていることは、彼自身にとっても捨て置けない重大な問題だったからだ。

 

 

「おまえ、あの時……なぜあの場所に、鎧の騎士が暴れてるはずの、旅館の前に来なかったんだ」

 

 

 そう。

 それこそが新左衛門の胸の奥に引っかかっていた最後の疑問。

 新左衛門が鎧の亡霊と一騎打ちに臨んでいた――その隙を突いたからこそ、彼女は死霊術者ハンマガルスの結界を突破し、奴の部屋に踏み込むことができたのだ。

 鎧の亡霊が、その意識の赴くままに新左衛門と全力で戦うことを可能とするには、ズサ・ハンマガルスからの圧倒的な魔力供給が要求される。『彼』は肉体込みで召喚に応じたゾンビやグールではないのだから。

 つまり、あの瞬間、ハンマガルスはその魔術儀式にそれこそ全身全霊で没頭していたはずなのだ。

 そして、彼ほどの術者を狙うなら、まさしく、周囲の現実に対する注意力を失うその瞬間しかないし、彼女は見事それをやってのけた。

 つまり新左衛門は、知らずしてクシャトリスがハンマガルスの部屋に踏み込むための陽動の役を果たしたことになる。

 それはいい。しょせん物事は結果が全てだ。

 しかしここで一つ問題がある。

 彼女が、どういう意図で自分を囮にしたのか、ということだ。

 

 

「おまえは、おれを時間稼ぎのための捨て駒にしたのか? それとも――」

 

 

 クシャトリスは答えない。

 しかし、いつもの水のように冷静な表情もまた、彼女から消え去っていた。

 その上目遣いの視線には、まるで親に説教される子供のように、なかば怯えたような感情さえ込められているように見えた。

 むしろ新左衛門にとっては、彼女のこんな表情など意外としか言い様がなかった。

 その予想外な表情に「それとも」以降の言葉を続けられない新左衛門に、クシャトリスは、おずおずと口を開いた。

 

 

「ひょっとして……やっぱり怒ってるの?」

 

 

 意味がわからなかった。

 いや、その発言の意味が完全にわからない――とは言わない。

 もしもクシャトリスの意図が、自分を捨て駒として使い潰すことにあったというなら、新左衛門はそれこそ激怒する権利があるというべきだろう。

 しかし彼は、少なくともそういう話をしようとするつもりはなかった。

 

 

「怒る気はない。ただ、おまえの気持ちが知りたいだけだ」

 

 

 あたしは――、

 そう言いかけて、彼女は再びうつむく。

 が、その沈黙もせいぜい数秒の間だった。

 おずおずとではあるが、顔を上げたクシャトリスの目には、ある種の覚悟のようなものが宿っていた。

 

 

「あたしは……あんたに手柄を立てさせてあげたかった。だから、敢えてあの場に行かず、アイツをあんたに譲ったのよ」

 

 

 腹は立たなかった。

 おれが死んでたらどうする気だったんだ――などと言う気は、もとよりない。それは源太夫も言ったとおり、結果論の話だからだ。

 だが、頼みもしないのに、彼女が勝手に便宜を計らった根底にある感情は、間違いなく自分に対する同情と憐憫であり、それは本来ならば新左衛門のような戦士階級に属する者にとっては「屈辱」と解釈すべきものであったろう。

 しかし、それでも新左衛門にとって、彼女の言葉はむしろ、ある程度予想できたものであった。

(そうだ……おれの知ってる、あの頃のクシャ子は、そういうことを言うやつだった)

 己を一人前の存在だと自認している者ほど、予想外の同情をかけられることを嫌う。

 いや、今回の一件以前の新左衛門であれば、間違いなく怒りに任せてクシャトリスを怒鳴りつけ、場合によっては剣を抜いていたかもしれない。

――誰がそんなことを頼んだ、と。

 しかし今は違う。

 今の新左衛門は、同情とは優しさや思いやりの別の側面でもあることを理解している。

 なにより新左衛門が知っている、あの頃のクシャトリス・バーザムズールという少女は、無口で無愛想ではあったが、決して無神経ではなかったという事実を思い出していたからだ。

 だが、それでも一応、訊くべきことは訊いておかねばならない。

 その「同情」のあげく自分が生きているのは、やはりただの「結果論」なのかと。

 

 

「違う! そうじゃない!! あたしは、あんたがアイツに負けないと踏んだからそうしたの!! 死体の傷口を見て、何度も何度も太刀筋を検証して、あんたが十分対応できると思ったからこそ譲ったのよ!!」

「…………」

「現にあんたは勝ったじゃない!! あたしがやった仕事はしょせん体臭のきつい術者の死体を持ち帰っただけ。でもあんたは違う! あの鎧と戦い、勝ち、『共和国』の面目を保ったのは、他ならぬ池波新左衛門その人!! そうでしょ!?」

 

 

 そう言い、訴えるかのような眼差しを送るクシャトリス。

 しかし、彼女はあの鎧騎士の発する、妖気のごとき剣気を知るまい。

 対峙した瞬間に、新左衛門が確実な敗北を予感し、『彼』に対しての敬意を含んだ絶望さえ覚えた事実を、彼女は知るまい。

 しかし……それはもう、どうでもいい。

 この女は、おれに期待をかけ、そしておれは、この女の期待に応えた。

 それだけで十分ではないか。

 そう思えるだけの余裕が、今の新左衛門にはあった。

 

 

「そう、だな。お前の言うとおりだ」

 

 

――今回の一件、あらためてその配慮に礼を言う。

 そう伝え、改めて彼女に頭を下げる。

 そして、ふたたび顔を上げたとき、そこにあったのは、むしろ呆然と新左衛門を見返すダークエルフの赤い瞳。

 そのとき、新左衛門はようやく気付いた。

 今の言葉は、それこそここ数年の、顔を合わせてもろくに挨拶すらしなかった自分たちにとっては――まあそれでもここ数日で、かつての冷え切った関係は随分とマシになったというべきではあるが、それでもなお、非常に「らしくない」ものであったことを。

 

 

「…………っっ、話はここまでだ、帰るぞッッ!!」

 

 

 今度こそ、羞恥で顔が真っ赤になるのを自覚しながら、新左衛門は顔をそらしたままクシャトリスを追い抜き、足早に立ち去ろうとする。

 その背中に、彼女の声が追い討ちをかけた。

 

 

「待ちなさいよ、新助!!」

 

 

 それは池波新左衛門が、まだ元服を済ませていなかった頃の幼名。

 そして、彼女と互いに泥まみれになって遊んでいた頃の呼び名。

 反射的に振り向いた新左衛門の背中に、軽い肘打ちを入れつつ、やはり頬を染めたクシャトリスが小声で囁いた。

 

 

「今度あたしをクシャ子呼ばわりする時は、少なくとも二人きりの時だけにしなさいよ。いいわね?」

 

 

 




第一章、完といったところです。
第二章以降はまた近日中に、ということで。


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第八話 「竜の子(其の一)」

 この国の朝は早い。

 日の出とともに人は起きだし、活動を開始する。

「早出(はやで)」という早朝出勤のシフトが大抵の職種に存在し、そうでない者たちも明六つ半(あけむつはん:午前七時)の鐘が鳴る頃には、みな出勤を済ませて職場にいるのが当然という常識もある。

 とはいえ、それでもやはり低血圧で朝が弱い者たちもいるのが現実だ。

 たとえば、池波新左衛門の家族たちがそうであろう。

 

「母上、いい加減に目を覚ましなされ!!」

 と、毎朝叫び声を上げながら、母親を揺り動かす。

 しつこく二度寝・三度寝をし続ける彼女の顔を濡れ手ぬぐいでこすって強制的に洗顔させ、状況によっては着替えの手伝いまでしなければならない。

 以前はここまで母の寝坊癖は酷くはなかったはずだが、ここ数年はいよいよ寝起きが悪くなり、今では新左衛門が起きた時に、彼女が朝食を作り終えていたことなど皆無と言っていい。

 とはいえ、それは彼に朝食を作る者がいないというわけではない。

 

 

 

「兄上、もうそんな人のこと放っといて、一緒に朝食を食べましょう……」

 

 

 水気を含んだ声でささやくように新左衛門の袖を引っ張る女性が一人。

 新左衛門の妹、綾。

 いや、いま「女性」と呼んだが、彼らの所属する武家階級は、成人年齢が低いため、客観的には彼女など思春期のハイティーンに過ぎないのだが、それでも十代後半での婚姻・出産が当たり前のこの階級的には、彼女もいわゆる「行き遅れ」の一人であり、新左衛門にとっては悩みの種の一人でもあった。

「放っておけって、そういうわけにも行かんだろう」

「でも兄上、このままではお味噌汁が冷めてしまいますよ……?」

「ん~~~うるさいにゃ~~~」

 枕元でやりあう二人の子供を尻目に母は寝返りを打ち、頭から突き出た猫耳をひくひく動かしながら、そうつぶやく。

 イラっとした新左衛門は、枕を蹴り飛ばし、

「とっとと起きんか!! それでも武家の一家を預かる母親か!!」

 と怒鳴りつけた。

 

 

 そう――池波新左衛門の実母たる池波静流(しずる)は、人間ではない。

 彼女は獣人種のワーキャットである。

 そして、母がそうであるように、その娘である新左衛門の妹・池波綾もやはりワーキャットであった。

 

 

 そもそも獣人種というのは、その外見に獣類の身体的特徴を多く残すものであり、たとえばワーウルフやワータイガーなどの、いわゆる一般的な獣人などは、それこそ二足歩行する狼や虎そのものと言えるほどに、人間とは異なる外見を持つ。

 が、それは獣人の中でも男性だけの話であり、獣人種の女性は、男性に比べて体毛も少なく骨格も平均的な人間サイズで、早い話がその外貌などは、人類種の女性と比べてもさほどに差異はない。

 彼女たちにはヒゲもなく、全身を覆う毛皮もない。

 敢えて言うなら、その頭髪から突き出た耳や、八重歯状に伸びる牙、もしくは尾てい骨から生える尾くらいであろうか。その気になれば服や帽子でいくらでも隠せる程度の(ことさら隠す必然性もないが)ものであった。

 もっとも、彼女たちも種としては純然たる獣人である以上、その身体能力や五感の鋭さなどは人間とは比較にならない。が、人間と結婚し、その家族として家庭を築くことを選択した獣人種の女性にとっては、平均的な人間を凌駕する能力というものは、もはや社会生活的に不要と言えるものだった。

 

 ここで言えることは、人間と獣人種との結婚は、この『共和国』においては決して珍しいものではないということだ。

 そして新左衛門にとってこの母は、決して血の繋がらない義理の存在ではない。

 妹の綾が、母の実の娘であるように、新左衛門も彼女の腹から産まれた実の息子である。

 が、彼はワーキャットではなく純然たるヒト種であり、獣人特有の身体能力も鋭敏な感覚も受け継いでいないのだ。

 これは何も新左衛門の両親が特殊なわけではない。

 厳密に言えば、この世界において、知的生物を含むあらゆる種は、交配によって血が混じりあうことはないのだ。

 魔術儀式を応用した品種改良ならばともかく、異種族同士が子をなした場合には「ハーフ」という概念は存在せず、その新生児が男児であった場合は父の、女児であった場合は母の、どちらか一方の種族として、この世に誕生する。

 池波家を例に取ってみると、新左衛門の亡父である文左衛門と、ワーキャットの静流(当時の名はシズラー)が結婚し、一男一女をもうけた。

 そして男子は人間として、女子はワーキャットとして育ったというわけなのだ。

 くりかえすが、これは『共和国』においては何ら珍しい家族構成ではない。

 

 

――結局、池波家の家族が全員揃って、朝食の膳の前に座ったのは、それから四半刻(約30分)が経過してからだった。

 

 

」」」」」」」」」」」」」」」

 

『結局遅刻ではありませぬか、これも全部母上のせいですぞ!!』

『新左殿、それは私の知ったことではありませぬ。この母を咎めるならば、なにゆえ私のことなぞ放置して寝させてくれなかったのです』

『それが武家の母親の言葉ですか!! 恥を知りなされ恥を!!』

『ええい、うるさい! いいからとっとと仕事にお行きなさい!!』 

 

 

(相変わらずうるさい家ね……)

 クシャトリス・バーザムズールは隣の池波家から聞こえてくる怒声や罵声を聞き流しつつ、稽古着をまとって自宅の庭で木刀を振っていた。

 彼女は新左衛門とは違って定職に就いていないので、道場に出かける以外の時間も、ほぼ100%の確率で自主稽古に当てている。

 というより彼女の日常は、道場での稽古もしくは自宅での稽古だけがあり、その他の時間は食事と睡眠のみと断言できてしまうようなものであった。

 同年代の一般女子のように恋愛・遊興・美食・趣味・おしゃれといったものに一切興味を持たず、その修道者のような生活態度は、もはや粛然というより殺伐とさえ表現できるものだった。

 バーザムズール家は、隣の池波家のように異種族婚で成立した家庭ではない。

 両親二人ともに保守的なダークエルフである彼女の家では――特に父親は、そんな娘の神経を測りかねていたし、そして彼女本人も、自分が家族に心配をかけているという事実を自覚していた。

 しかし、剣術の面白さに没頭している彼女にとっては、そういった浮世の事々はどうにも、わずらわしいものでしかなかった。

(剣を振っている間は、そういう面倒なことを考えずに済む)

 という逃避の要素が皆無であったとは言わないが、それでも――やがて剣を振る彼女の脳裏からは雑念が消え、全人格的な没入状態になり始めていた。

 

――防具をつけて竹刀で打ち合うだけではわからないことがある。

――撃剣はあくまでも型稽古の応用に過ぎない。

 それがクシャトリスの出した、自分なりの「武道論」であった。

 彼女が渡辺道場『練武館』で学ぶ剣は、『共和国』の武士階級で一般的な流派とされる無明流であるが、しかし師匠たる渡辺源太夫が永年の修行によって自得した工夫と独創をかなり加えて技術再編を行っているため、もはや別派と言っていいほどに変質してしまっており、世間的には渡辺道場の流儀は「渡辺流」もしくは「渡辺派無明流」で通っている。

 クシャトリスに言わせれば、渡辺源太夫が独創したという「型」は、おそろしく実戦的かつ機能的であるという。というのは、彼女が道場で頭角を現したのは、個人的に型稽古を重視し始めてからだという事実があるからだ。

 

 

「お姉さん頑張ってるねえ……欲求不満でも溜まってるの?」

 

 その声を聞いた瞬間、クシャトリスは雷に打たれたように驚き、かつ振り向いた。

 ここ数年、彼女は気づかぬままに、自分の間合に勝手に他者に入り込まれたという経験を持たない。しかし、その声はまさに彼女の背後二歩あたりの距離から届いてきたからだ。

 だが彼女は、そこに誰の姿も視認できなかった。

(幻聴……? いや、でも、確かに聞こえた……)

「こっちだよこっち」

 そう言いながら、発言者はパタパタと羽ばたきながら彼女の眼前まで舞い降りてくる。

 それを見てクシャトリスは絶句した。

 

 

 そこにいたのはドラゴンの幼生だった。

 

 

 その大きさは一尺(約30センチ)程度であろうか。まるでぬいぐるみのような可愛らしい外見に小さな翼をはためかせ、彼女の眼前を悠然と浮遊している。

「ちょっとボクお腹減っちゃってさ、何か食べさせてくれない?」

 そう言うと、ドラゴンはいたずらっぽく笑い、彼女の木刀の上にちょんと止まった。

 

 

 

 ドラゴンは『共和国』を含むこの世界で、最強の個体戦闘力を有する生物である。

 五百歳以上の成獣であればその平均体長は十丈(約30m)を超え、それほどの巨体であるにもかかわらず、背中の翼は亜音速飛行さえ可能にするという。

 また、全身を覆うそのウロコは、鋼鉄以上の硬度を誇り、さらにその一枚一枚に対魔法属性があるため、魔力付与を施した武器をもってして傷つけることは難しく、さらに、その個体属性によって――火属性ならば火炎、水属性ならば吹雪、風属性ならば稲妻――といった、様々な「息」を吐く。

 つまり彼らは、攻撃力・防御力において世界最強レベルの力を種族単位で備えているというデタラメな種族であり、もし成竜が三頭も集えば、国さえ容易に滅ぼせるであろう。

 しかも、話はそこで終わらない。

 無限の寿命を持つ彼ら竜族は、数千年以上の生を積み重ねると、最後の脱皮を果たしてトカゲ型の四足獣「竜(ドラゴン)」から竜頭蛇尾の神獣「龍(ナーガ)」に羽化すると言われている。

 むろん伝説上の話であり、羽化を遂げた竜族の個体は『共和国』でさえ確認されていないのが現状であるが、それでも「神獣」の存在は、この世界の生物進化の極限として人類文明圏の某国では信仰対象にさえなっている。

 

 もっとも、かれら竜族の真骨頂は、その戦闘力ではなく、あくまでもその無限の寿命を活かして蓄積された膨大な知識と高度な知性である。

 その叡智は神に等しく、真偽のほどは分からないが、現在のこの世界の知的生物に文明を与えたのは、古代竜族であるという伝説まである。

 彼らはまだ知的生物に進化する以前の、獣人・人間・エルフたちに火を扱う知識を与え、文字と言語を与え、そして魔法を与えたという。

――むろん伝説上の話であり、確認された事実ではない。

 

 とはいえ、そういう神秘的なヴェールをすべて捨てた具体的な話をするなら、ドラゴン種というのは、この『共和国』に市民権を持つ知性体としては、もっとも個体数の少ない少数種族にすぎない。

 その生活圏も、死火山の火口や樹海の最深部といった、都市部から隔絶した場所ばかりであるため、『共和国』の一般市民にとってドラゴン種は、直接交流する機会などほぼ皆無と言ってよく、彼らに比べれば、同じ竜族でも知性を持たないワイバーン種の方が、よほど社会的に馴染み深い生物とさえ言える。

 また、ドラゴン種は無限に近い寿命をもつが、その繁殖力はむしろ乏しく、竜族の新生児などそれこそ数百年に一度しか誕生しないとさえ言われている。

 

 

 

 つまり、この『共和国』内でも、ただでさえ珍しいドラゴン種。

 その幼生ともなれば、一般市民層の目撃例など、ここ数百年間でほぼ絶無と言えるだろう。

 クシャトリス・バーザムズールの目の前をふよふよと飛んでいるのは、そういう生物なのだ。

 

 

「そんなところで凍りついてないで、少しは何か答えてよ。ひょっとしてお姉さん、その歳で言葉がわからない人なの?」

 飄々とした口調でそういうドラゴンではあったが、しかしその態度は、呆然となっていたクシャトリスを正気に戻し、なおかつ彼女が本来備え持つ、気の強さを刺激するものだった。

 彼女はおもむろに手を伸ばすと、ドラゴンの眉間に強烈なゲンコツを一発叩き込む。

「あぎゃ!!」

 可愛い声で悲鳴を漏らすドラゴンの、その頭部から生える角を鷲掴みにすると、そのまま、幼生を自宅の勝手口まで持ち運んだ。

「ちょっ、お姉さん!? 痛い痛い、そこ引っ張られると痛いってば!!」

 と騒ぐドラゴンの幼生ではあるが、クシャトリスはもちろん一顧だにしない。

「肉が食べたいんでしょう? だったら望むものを振舞ってあげるわ」

「それは嬉しいけど……痛い痛い痛いツノ引っ張っちゃダメだってば!!」

「その前に少しあんたは礼儀ってやつを学ばないとね。少なくともあたしは赤ん坊にそんな生意気な口をきかれる覚えないし」

 

 

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「『目標』発見。ジュピトリアム中央区の民家で住人と接触、邸内に入りました」

「どういうつもりだろう」

「住人を懐柔して味方につける気かもしれませんね」

「『目標』にそんな知恵があるか?」

「あれでも一応竜族の子だぞ、生まれたての赤ん坊でも油断するな」

「逆に言えば、今この瞬間『目標』は油断しているはずだな」

「突入するか?」

「馬鹿言え、『目標』は自分が追われてることを認識している。また逃げられるだけだ」

「魔力追跡も、対魔属性持ちの竜族には通用しないしな」

「では何故『目標』は、自分の現在位置を我々に確認されることを承知で、あの民家に降りてきたのですか? あのタイミングで降りてこなければ、我々は『目標』を捕捉できなかったはずなのに」

「何か理由がある、ということか」

「まあ、想像は出来なくもないな」

「というと?」

「遠見の魔法で見た限りだと、あのダークエルフはクシャトリス・バーザムズールだ」

「誰です? 有名人なのですか?」

「昨年と一昨年の大統領杯の優勝者だ。さらに言えば今年の最有力優勝候補でもある」

「それが事実なら、護衛として使うには最適な人材だな」

「我々から逃げ回るのに飽きて、その女を使って後顧の憂いを断つ気か」

「強いのか」

「ああ、強いな」

「我々よりもか」

「それはわからん」

「所詮は表の流派の使い手だろう」

「やるか」

「やるか」

「面白そうだな」

「ああ、面白そうだ」

「馬鹿な、冷静になれ」

「我々の任務は戦闘ではありません。危険は可能な限り回避すべきです」

「そうだな」

「どうする」

「どうする」

「クシャトリス・バーザムズールと直接矛を交えることなく無力化する方法はあるか」

「あるにはあるが」

「殺しますか?」

「そこまでやる必要はなかろうと思うが」

「まあ、状況次第だろうな」

「しかし、その女を封じても『目標』に逃げられては意味がないぞ」

「そうだな」

「では、しばし様子を見よう」

「今のうちにボスに連絡を送ります。次の指示を待ちましょう」

「わかった」

「わかった」

 

 



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第九話 「竜の子(其の二)」

「ちょっ……クシャトリス!! あんた一体どういうことよこれ!!?」

 

 

 突然客間に放り込まれたこの奇妙な生き物を見て、家族の母親たるラヴィアン・バーザムズールは、娘を振り返って声を上げるが、クシャトリスはしかめっ面を戻しもしない。

「母さん、こいつに何か食べさせてあげて。肉がいいんだってさ」

「肉って……昨日の残りでいい?」

「十分よ。で、あんた名前は?」

「え?」

「母さんじゃないわよ、あんたに訊いてるのよ。名前は!? あるんでしょう!?」

 

 ドラゴンの幼生は、そう問われて、にわかに態度を改めた。いや――改めたというよりは、戻したと言う方がより正確だろうか。

 クシャトリスの不意の暴力に涙目になっていたが、さっきよりもさらに傲然と胸を張ると、甲高い声で叫んだ。

「無礼者!! エルフ風情にこの正統なる竜の血を継ぐ我が真名(まな)を教えろと申すか! 身の程を知れ!!」

 しかし、そんな言葉にひるむクシャトリスではない。

 むしろ大人気ない力を込めたゲンコツを、先程と全く同じ眉間にブチ込むと、低い声で宣告した。

「じゃあ、あんたの名前は今あたしが付けてあげる。取り敢えず、あんたの名前は『ナマイキ』よ。わかった?」

「そっ、そんな名前は嫌だっ!」

「うるさいっ!! 要求通り肉を食わせてあげるんだからガタガタ言うんじゃない!!」

 

 

 

「これ、美味しいねえ……おかわりある?」

「はいはい、ございますよ」

 まるで幼児のようにあどけない表情で、ナマイキ――結局彼は、しぶしぶその呼び名を受け入れた――は眼前の肉料理に舌づつみを打つ。

 とはいえ、それは特に贅を凝らしたメニューでもなんでもない。

 兎肉とオスカー豆のシチューといえば、『共和国』のごく一般的な家庭料理でしかなく、より詳しく言うなら、バーザムズール家の昨日の夕食の残りでしかなかった。

 しかし、そんなことはまるで無関係のように竜の幼生は、器にがっつき、健康的な音を立てながら肉や豆を咀嚼する。

「ナマイキちゃんはよほどお腹がすいてたのねえ」

 ラヴィアンは、笑顔を崩すことなく、要求通り彼の器におかわりをよそってやる。

 最初は彼女も、クシャトリス同様に竜の幼生という希少すぎる生物に戸惑っていたが、それでも冷静さを取り戻すと、まるで子供をあやすように上機嫌になり、ニコニコと彼の健啖っぷりを見守っている。

 

(そういや母さんは子供好きだったっけ)

 そう思いながらクシャトリスは母の笑顔を見ている。

 母のその笑顔は、単に可愛らしい愛玩動物にではなく、年端もいかない幼児に向けるものだったからだ。

 思い当たるフシもある。

 ラヴィアンは、年に一度の、一族一党が集まるイベントを特に好んだ。

 クシャトリスから言わせれば、会いたくもない一族の長老や親戚たちの顔を見なければならない、ただ面倒くさいだけのものでしかなかったが、母はつねに上機嫌で一族の子供たちの面倒をみていたものだった。

 エルフ種は、人間と同じく一年中発情が可能だが、妊娠出産に関しては人間ほど自由ではなく、数年に一度の繁殖期にしか子を成せない。

 バーザムズール家は、隣の池波家と違って両親ともに健在な家庭ではあるので、今からでも子供を作ること自体は決して不可能ではない。が、やはり、努力が結果に結びつく可能性は、これまでの結婚生活を鑑みても低いと言わざるを得ない。

 ましてや、本来ならそろそろ結婚適齢期であるはずの一人娘クシャトリスの、およそ年頃の娘らしくない殺風景な日常を毎日見せつけらているのだ。母がこの家庭生活に一抹どころではない寂しさを感じているのは間違いなかった。

 

 

 やがてナマイキは器を舐めるようにシチューを食べ尽くし、ごちそうさまとあどけない顔で言うと、大口を開けてあくびをした。

「まあまあ、ナマイキちゃんったら、もうおねむなの?」

「うん、満腹になってちょっと眠くなったよ」

「じゃあ、二階のベッド使う?」

「いいの?」

「もちろんよ。好きなだけお眠りなさい」

 そう言うと、ラヴィアンはまるで赤ん坊のようにナマイキを抱きかかえ、階段を上っていき、その様子をクシャトリスは、じっと見ていた。

 

(でも、だからって今更あたしに、どうしろって言うのって話だし……)

 そう思うと、クシャトリスは首の関節をこきりと鳴らし、ソファから立ち上がると、木刀を拾った。

 それを、階段から降りてきたラヴィアンは見とがめる。

「どこか行くの?」

「稽古を続ける。まだ途中だったし」

「そう……」

 とだけ言い、娘に背を向ける。

 その背中が何を感じているのか、おおよその見当はつくが、それでもクシャトリスはこれ以上母に何か言われる前に、庭に出てふたたび稽古に没頭したかった。

 

「とりあえずクシャトリス、お母さんもそろそろ出かけるわね」

 

 クシャトリスは無言で頷く。

 母は、この時間になると、近くの大衆食堂の手伝いに出かけるのだ。

 拘束時間は午前中から夕方までなので、夕食時の混雑は別のお手伝いに引き継ぎ、ラヴィアンは基本的に日が暮れる前には帰宅する。

 もっとも日によっては夜の手伝いも頼まれることもあるらしく、父が勤めから帰ってくる時間までクシャトリスが家に一人になることも珍しいことではなかった。

 とはいえ、ここ数年は、彼女もそれを寂しいなどと感じたこともなかったが。

 

 

 

「ああ、それから、あんたの昼食はもうないわよ。全部あのナマイキちゃんが食べちゃったし」

 

 

 その言葉に戦車のような勢いで振り返るクシャトリスだったが、母は動じない。

 むしろいたずらっぽい顔を向け、言う。

「あ、もうちなみに食材の予備もないから買い物にも行っておいてね。何を買うのかはあんたに任せるから好きな物を買ってきなさい。財布はいつものところにあるし」

「ちょっ、なにそれ……?」

「それともお昼は『お隣さん』に食べに行く? 昔みたいに」

 そう言われてクシャトリスもさすがに苦い顔でそっぽを向く。

 が、その表情に羞恥の感情が混じっているのを確認すると、母はそんな娘に生温かい視線を送り、

「ま、あんたもたまには自分で料理でもしてみなさい。一応は年頃のお嬢様でしょ?」

 と言い放ち、そのままクシャトリスに何も言わせず、笑顔で出て行ったのだった。

 

 

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 ジュピトリアム中央区の露天市場は、この周囲一帯では最大のアーケード街というべきだろうか。

 面積的には数町(一町:約100m)ほどの長さの通りにすぎず、大型馬車が二台もすれ違えばその時点で大渋滞が発生する程度の道幅しかない。

 が、そこはつねに多数の買物客でごった返しており、客引きの大声や迷子になった子供の泣き声、店先で買物客が主人と値下げ交渉している怒声などの喧騒で満ち溢れている。

 この混雑は、日没による市場自体の閉店時間まで続き、逆に日中は、雨が降ろうが風が吹こうが解消されることはない。

 そこは、あらゆる食材はもちろん日用雑貨や衣服、魔術用品から武具、または得体の知れない肉や酒を出す一杯飲み屋や一膳飯屋などが軒を連ね、さらにそこから裏通りに行けば娼館のポン引きや違法麻薬の密売人なども徘徊しているという。

 時刻にしてちょうど正午。

 汗まみれの稽古着を、いつもの民族衣装に着替えたクシャトリス・バーザムズールは、杖を一本たずさえながら、幼竜「ナマイキ」とともにそこにいた。

 

 

「ねえ、ちょっとお姉さん、こんなうるさいところに何をしに来たの?」

「何って買い物に決まってるじゃない」

「買い物はいいけど……なんでボクを叩き起してまで付き合わせるの?」

「あたしの昼食の食材がもうないのよ。全部あんたが食べちゃったから」

「だから買い物に付き合わせると?」

「当然でしょ。あたしが買い物行ってる間にあんたがグーグー寝てるなんて許せるわけ無いし」

「なんかひどいな……もう少し偉大なる竜族に尊敬の態度をとってもいいと思うけど」

「あんたのどこが偉大なのよ。図々しいだけじゃない」

「それに、さっきから何か周りの視線が痛いんだけどさ」

「偉大なる竜族なんでしょ? 有名税か何かだと思ってなさいな」

 

 確かに二人は注目を浴びている。

 より正確に言うなら、彼女の頭上を浮遊するように飛び続ける幼竜に対して、だ。

 当然といえば当然だろう。クシャトリスですらこの竜の幼生を初めて見たときは驚きで呆然となったくらいだ。

「ねえ、あれ本当にドラゴンなの?」

「いや、でも、こんなところをドラゴンがうろついてるわけないしなぁ」

「だいたい本物のドラゴンってワイバーンとは違って私たちには懐かないって聞いたわよ?」

「でもさ、やっぱアレ、どっからどう見てもドラゴンにしか見えないんだけどさ」

「だよなぁ……」

 

 とはいえ、それはクシャトリスの歩みを妨げるほどの騒ぎには発展しない。

 道行く者たちは、皆この露天市場に遊びに来ているのではない。敢えてこの幼竜を無視するような者たちはいないが、それでも彼女の道を塞いでナマイキについての詳細を尋ねてくるような暇人もいないというのが現実だ。

 それにクシャトリスにしても、そんな好奇の視線にいちいち付き合えるほどの余裕もなかったと言えた。

 

 

「――で、まだ追って来てるのかい、例の尾行者ってのは?」

「ええ」

「お姉さんって随分恨まれてそうだしね」

 あまりに白々しい幼竜の言い草に、クシャトリスも苦笑する。

「何言ってるの、あんたの客に決まってるじゃないの」

 

 

 母親が出勤していった後、それでも心のモヤモヤを晴らすかのように庭で稽古を再開したクシャトリスではあったが、やはり空腹と、家に食料がないという事実の前にいかんともしがたく、結局母の指示通り買い物に行くしかないと諦めたのは、正午の少し前。

 井戸水を沸かして汗まみれの体をぬぐい、稽古着を普段着に着替え、家族共有の財布を家の手文庫から取り出すと、中に入っている額を確認する。

 もちろん両親のベッドでのんきに熟睡していたナマイキは、眉間に一撃を入れて叩き起し、外に出る。

 彼女が、自分をぴたりと追尾する不穏な気配に気付いたのは、その直後だった。

 

 むろんクシャトリス・バーザムズールも決して清廉潔白と言える身ではない。

 これまでの人生では、持ち前の無愛想さで必要以上に敵を作ってきた自覚はある。

 道場内にも彼女を嫌う者たちはいくらでもいるし、大統領杯などの公式試合で恥をかかせてきた者たちも、いちいち数えるのも面倒なほどだ。

 それに剣の修行だと思えば、ただでさえ売られた喧嘩は全部買うようにしてきたし、相手によっては自分から積極的に喧嘩を売ったことさえ何度もある。

 しかし、いま自分たちを追って来ているのは、そういう「素人」たちとは明らかに違う。

 しょせん尾行を気付かれるような連中ではないかという言い方もできるが、それでも違うのだ。

 敢えて言うなら――雰囲気が。

 戦意に冷静さがある、とでも表現すればいいのか。

 そこいらのチンピラのように、これみよがしな殺気を発散するような不細工な真似をせず、糸のような細く、それでいて執拗な視線は、明らかに荒事に慣れた連中だと確信させる。

 

(いったい何者だろう……?)

 

 そうクシャトリスは思う。

 が、その疑問に対し、彼女は必要以上に考え込むようなことはしない。

 彼らが一体何者か、そんなことは彼らに直接訊けばいい。どうせ今、あれこれ考えたところで答えなどえるはずがないのだから。

 そう結論づける彼女の口元に、獰猛な笑みが浮かぶ。

 クシャトリス・バーザムズールは決して好戦的な性格をしていない。だが、売られた喧嘩に背を向けるような精神も持ち合わせていないのだ。

 彼女はまだ今起こっている事態をまるで把握していない。それは事実だ。

 そして、なればこそクシャトリスは、この現状を、むしろ楽しんでいた。

 

 

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「しかし、あの女、存外食えぬやつだな」

「とは?」

「とりあえず我々の追跡には気付いているようですが」

「というより、むしろわかりやすいではないか。あの女エルフ」

「だな。露骨に後方に警戒と敵意を放っている。いつでも好きなときにかかってこい――そう言いたいのが丸分かりだ」

「しかし、この混雑の中で仕掛けるような真似はできんぞ」

「これみよがしに『目標』を連れ回しているおかげで、周囲の注目まで浴びているしな」

「自宅まで監視されている事実には気付いていなかったようですが」

「わからんぞ? 気付いてないフリをしているだけかもしれん」

「我々全員を引っ張り出し、なおかつ我々が容易に手を出せぬ状況を作り出している。それが偶然なのか意図的なのかも測りかねる、となればな」

「食えぬとはそういうことか」

「ああ、そうだ」

「……考えすぎではないか?」

「そうか?」

「俺が見るに、この現状はすべて偶然が積み重なった結果だと思うが」

「根拠は?」

「我々への警戒が本物ならば、あの女の態度は無邪気すぎる」

「私もそう思います。彼女の背中には……なんというか、覚悟が感じられません」

「それも演技かもしれんぞ」

「…………」

「…………」

「…………」

「まあいい。で、例の段取りはどうなった」

「さきほど入った念話通信によると、無事成功したようです」

「それを証明できるものは?」

「すぐに届けさせるとボスは仰せでした。今頃こっちに向かっているはずです」

「よし、ではそれが届き次第、クシャトリス・バーザムズールに仕掛ける――いいな?」

 

 




少し遅くなってしまいました。
申し訳ございません。


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第十話 「竜の子(其の三)」

(くる……!)

 クシャトリスは顔を上げた。

 いままで付かず離れず自分たちを追尾してきた視線が、殺気を含んだものに変化したのだ。

 その変化は微妙なものではあるが……しかし間違いない。

 周囲の気配から察するに、尾行者は、自分たちを包囲するように七人存在している。

 しかし、この露天市場の混雑の中でいきなり何かを仕掛けてくる可能性は低いと、彼女は見ていた。なにしろ自分たちは今、幼竜のせいで必要以上に周囲の注目を浴びている。

 ならば、連中は一体どう仕掛けてくる気だろうか。

 いや、どうせやる気ならば、敵の仕掛けを待つなど馬鹿げている。

(どうせ動くならあたしの方から、よね)

 市場の表通りから、裏道に続く角を左に曲がり、人気のない方に歩を進める。

 同時にナマイキに目配せを送り、彼を上空に逃がす。

 路地裏にたむろしてる酔っぱらいや客引き女郎が、ギョッとした顔を見せるが、気にしている暇もない。

 足を早め、次の角を右に曲がったところで彼女は待ち伏せた。

(そろそろね……)

 自分たちを包囲していた七人が、一斉に狭い路地をバタバタと追っかけてくるとはおもっていない。位置的に前方にいた数人は別の裏道から、クシャトリスを挟撃すべく回り込んで来るはずだ。

 そして、クシャトリスの予測が正しければ、自分たちを背後から追っていた何人かが、そろそろ眼前に現れるはずだった。

 

 杖を握り直しながら魔力を通し、杖に仕込まれた魔力回路を励起させる。

 この杖は、いわばクシャトリス・バーザムズールにとっての魔術礼装の一つで、かすかな魔力を通すことで、魔力付与を施された武器と同じ威力を発揮させることもできれば、彼女個人の魔力属性たる「風」の魔法補助具として使うこともできる。

 ダークエルフ種である彼女は、その種族特性として生まれながらに強力な魔力をその身に宿しているが、それだけでは魔法を行使することはできない。

 己の魔力をエネルギー源として「魔法」という物理的奇跡を行使するには、そのやり方を学ばなければならない。

 彼女はそれを、両親から、そして「学校」で学んでいる。

 この『共和国』には義務教育の制度はない。だが、中流層以上の市民には例外なく近在の私塾で初等教育を受ける習慣があり、その事実が『共和国』の高い識字率とともに、世界でも類のない魔法習得人口と魔法技術水準の高さを支えているのだ。

 例を挙げるならば、池波新左衛門を始め、彼女が道場でともに学ぶ同門の者たちも、そのほとんどが基礎レベル以上の魔法技術を持っている。

 この国において魔法とは、文字や九九と同じく、あくまでも一般的なものなのだ。

 

 つまり何が言いたいかというと、彼女の追っ手もクシャトリスと同じく、ほぼ間違いなく魔法の使い手であり、彼女は追っ手の武技と同じく魔法を警戒せねばならないということだ。

 三人分の足音が近づいてくる。

 相手はいつもの――戦闘に剣しか使わない連中ではない。

 何をしてくるかわからない。

(だからこそ……面白い)

 クシャトリスは無意識のうちに口元が緩んでいるのを自覚していない。

 

 

 一人目のワーホースは、眉間にクシャトリスの刺突を受け、その瞬間に昏倒した。

 二人目のミノタウロスは、脳天に面打ちの一撃を受けると同時に、股間に強烈な金的蹴りを喰らい、泡を吹きながら失神した。

 この時点でようやく、三人目のワータイガーは事態を把握したようだった。

 が、どっちにしろ遅い。

 相手が魔法を使う可能性を考慮した上で、剣士が取れる最上の攻撃法は、すなわち奇襲。

 敵が呪文を口する前に倒してしまえば、どんな強力な攻撃魔法の使い手であっても関係ないのだから。

 そして、魔力回路を励起させることで『魔剣』と同じ威力を持つこの杖で打てば、たとえ獣人といえども、それは人間を木刀で打つのと同じレベルのダメージを容易に与える。

「てめ――」

 その台詞を言い切る前にクシャトリスが動く。

 ワータイガーは、首筋に袈裟斬りの一撃を喰らい、後方に吹っ飛んで倒れた。

 

(弱い……)

 とは、クシャトリスは思わない。

 一呼吸の間で三人を倒した彼女であるが、こんな攻撃はしょせん不意打ちだ。誇れるような技を振るったわけではない。

 が、それでも彼女が対決を望んだ追跡者は、眼下にブザマに横たわるコイツらではない。この三人の獣人は、おそらく彼らが臨時使いに雇ったチンピラだろう。

 つまり――。

 

 

「なるほど評判通りの腕ですね、クシャトリス・バーザムズール」

 

 

 そこには、黒の背広に身を包んだ四人組が立っていた。

 種族はリザードマン。

 肥満体、長身痩躯、小柄、そして標準体型とそれぞれ体格は違えど、あつらえたように身の丈にピッタリな揃いの背広を着込んだ四人のリザードマンが路地裏に立っている光景は、ある種のコントのような場違い感を醸し出しているが――しかしクシャトリスには笑みを浮かべる余裕など無い。

 それも当然であろう。

 彼ら四人組が発しているものは、歴然たる戦意であり、今の一瞬の攻防から彼女の技を見極めんとする分析の視線でり、さらには厄介事に巻き込まれた哀れな被害者を見る目でさえあったからだ。

 彼女を後ろから追ってきたこの四人こそがおそらく――いや間違いなく、クシャトリスがその冷静なる気配を嗅ぎ取った「玄人」たちなのだろう。

 いや、雰囲気を感じ取るまでもない。

 彼らの目の配り、腰の座りからして、一瞥で彼女にはわかった。この四人全員が、さっきのチンピラたちとはまるで違う手練の戦士であることが。

(一体こいつら何者なの……?)

 そう思考する暇さえなかった。

 クシャトリスは、地面に寝転がるミノタウロスの着る派手なシャツ――その襟元を引っ張り上げ、とっさに盾にする。

 

 

「ぎぇぇえええあああっっっ!!!」

 

 

 

 その瞬間に周囲に轟くような野太い悲鳴を上げて、ミノタウロスは火だるまになった。

 評判通りの腕ですね――と、先頭にいる肥満体型のリザードマン(以降、本文中ではデブと呼称)が話しかけ、彼女が動きを止めたその瞬間を見計らって、その背後にいた長身痩躯のリザードマン(以降、ノッポと呼称)が呪文を詠唱し、彼女に向けて放ったのだ。

 おそらくは「火」の上級攻撃魔法なのだろうが、その魔法名もクシャトリスには見当もつかない。

 いや、そうではない。

 その瞬間、彼女は動揺したのだ。

 タンパク質が焼ける悪臭。

 耳をつんざく悲鳴。

 なにより紅蓮の炎に巻かれてのたうつ半人半牛の男。

 そして、さっきまで自分たちの為に働いていた「味方」に対して攻撃魔法を放っておきながら、まったく表情も変えない、この男たち。

 無論こうなることを見越して、彼女はこのミノタウロスを盾にしたわけではない。

 しかし、彼を身代わりにしなければ、ここで丸焼きになっていたのは間違いなくクシャトリス本人だった。

 つまり――この連中の意図は、自分と戦うことではなく、自分を殺すことなのだ。

 

 

 

 そう思い至った瞬間、クシャトリスは無意識のうちに恐怖を覚えていた。

 

 

 荒事には慣れているという自負はあった。

 真剣での決闘を申し込まれて、相手を斬ったことも一度ならずある。

 しかし、それはあくまで戦闘の結果による「死」だ。

 最初から「殺人」を目的として剣を振るった経験は、クシャトリスにはない。

 なるほど、確かに以前、彼女は師匠たる渡辺源太夫からズサ・ハンマガルスの「始末」を命じられた。しかし、それだけだ。彼女は結局あの一件で誰とも戦うこともなく、誰を斬ったわけでもない。

 何より、あの死霊術者はいわば「国家の敵」であり、それは彼女自身にとっても戦う理由としては十分なものだったのだ。

 しかし今回のこの一件は違う。

 クシャトリスにとっては、彼らが何者なのかも、自分に戦いを挑んでくる理由さえわからない。戦いに応じたのも、いつものように売られた喧嘩を買っただけだ。見知らぬ者たちから命を狙われるような覚えはない――。

 

 書けば長いが、しかしこの瞬間にクシャトリスの脳裏に浮かんだ感情を、文章化すればこうなるというだけの話であり、それは時間的には一瞬のものに過ぎない。

 この路地は大人が腕を広げれば指先が両壁についてしまうほどの広さしかない。したがって、倒れこむように四人組の方向によろめく、火だるまのミノタウロスとすれ違うことなど不可能だ。

 だが、そのミノタウロスは、その瞬間に火刑の苦痛から解放される。

 四人組の先頭に立つデブを追い抜くように、その背後から標準体型のリザードマン(以降、標準と呼称)が一歩前に踏み込み、抜き打ちにその眼前の燃える牛頭を斬り飛ばしたのだ。

 いや、それだけではない。

 見事な居合抜きを見せた仲間の背を踏み台に、一丈(約3m)ほどの高さまで跳躍した、四人組の中で一番小柄なリザードマン(以降、チビと呼称)が、そのまま空中から彼女にナイフを投げつけてきたのだ。

 

 

 しかし、その攻撃によってクシャトリスの精神状態は、むしろは均衡を取り戻したと言える。

 

 

 標準の見事な一太刀。

 そしてチビの鋭い投げナイフ。

 己に迫る危険こそが、彼女の剣士の本能を揺り動かし、その五体を縛る恐怖を忘れさせる。

 一流の剣客は、戦闘において「思考」という隙を作らない。

 そこに在るのは、すべからく反射だ。状況に対する最善・最上の一手を、思考に頼らずして選択する。それが出来てこそ初めて一流を名乗れるとさえ言えるだろう。

 

 チビは仲間の背をジャンプ台にして、直上ではなく前方に向けて跳躍していた。

 つまり、クシャトリスが足を止め、ナイフを防御している隙に、そのまま彼女の間合いに飛び込み、直接攻撃を仕掛ける意図だったのだろう。

 彼女の背後には、さきほど一瞬でやられたワーホースとワータイガーが未だに昏倒したままだ。その二人が邪魔で、後退してナイフを躱すことは不可能だ。

 彼女がナイフを処理するには、手に持つ杖で叩き落とすしかない――。

 しかし、クシャトリスはそうはしなかった。

 彼女はそのナイフを杖で防ぐ動作すら取らず、空中のチビの方向に踏み込むことによって飛来するナイフを回避したのだ。

 これはチビにとっては、完全に意表をつく動きであった。

 彼女の杖は、いまだ宙にあったチビの脇腹を打ち、その肋骨をへし折りながら壁に叩きつける。

 そして、壁にぶつかってバネ仕掛けのように地面に倒れ伏す彼の首に、杖を突きつけた。

 

 

「ほう……」

 四人組――いや、三人組は、そんな彼女に、またも感嘆したような声を漏らした。

 

 

 首を失ったミノタウロスは、すでに黒焦げの焼死体となって横たわり、黒煙を吐き出し続けている。

 その煙越しに、彼らに向けてクシャトリスは口を開く。

「今すぐあたしの視界から消え失せなさい。さもないとコイツを殺すわ」

 可能な限り冷徹に、冷酷に言い放つ。

 しかし……いや、やはりというべきか、彼らはまるで動じない。

「ハッタリだと思ってるの?」

「キミ、大統領杯の優勝剣士だか知らないが、戦場経験もないオンナノコなんだろ? 簡単に殺すなんて言葉使っちゃいけないよ」

 このセリフを吐いたのは、さきほど見事な「火」の魔法を使ったノッポだ。

「舐めないで、あたしは剣士よ。降りかかる火の粉を払うためなら「敵」を斬ることをためらうと思うの?」

「いや、我々はむしろ貴女のために言っているのですよ。それはやめた方がいいとね」

 そう言いながらデブは、そのズボンのポケットに手を突っ込んで何かを取り出そうとする。

 

「動かないで!!」

 とクシャトリスは声を上げるが、デブはまるで気にせず、ポケットから手を抜き、その掌を彼女に向けて広げる。

「これが何か、わかりますか?」

 クシャトリスは無言で首を振る。

 嘘ではない。実際、彼女の目には、デブの掌に乗った、光る小さな何かが見えただけだ。

「なら、これは差し上げますよ。受け取ってください」

「ちょっ、待ちなさい!!」

 という彼女の声も虚しく、デブはヒョイっと「それ」を投げ渡し、クシャトリスは三人から視線を外さぬように警戒しながら、「それ」を受け取った。

「確認しろ。そして、要求する側は貴様か我らのどちらなのか、それを理解しろ」

 と、大仰な口調で言ったのは、見事な居合いを見せた標準体型のリザードマンだ。

 そしてクシャトリスは、むしろ渋々と掌を広げ、そこにある物を初めて視認する。

 

 

――その瞬間、驚きのあまり彼女の呼吸は止まった。

 

 

 そこにあったのは、彼女の母親ラヴィアン・バーザムズールが常に身につけている結婚指輪だったからだ。

 

 




書き溜め分がなくなるとどうしても更新が遅れがちになりますね・・・
また四日後までに投下できるように頑張ります。


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第十一話 「竜の子(其の四)」

 

「竜の幼生?」

 あまりに意外な言葉を聞いて、池波新左衛門は思わずオウム返しに聞き返した。

 そして、その上ずった声に、渡辺源太夫が重々しく頷く。

「そうじゃ。今このジュピトリアムに数ヶ月前に誕生したばかりの竜の幼生が逃げ込んできているらしい」

「逃げるって誰から? いや――そもそもここ数年で『共和国』のドラゴン族に子供が生まれたなんて話は初めて聞きましたよ?」

「そりゃそうじゃろう。わしも今朝初めて聞いたのじゃからな」

 そう言い返す源太夫に、たまらず新左衛門は眉をしかめる。

「どうも話が見えてきませんね。最初から順序だてて話してくれませんか先生」

 

 

 ここは市庁のとある一室。

 市長直轄の「特別総務掛(とくべつそうむがかり)」の詰めの間だ。

 ジュピトリアム市庁舎は基本的な構造としてはやはり洋館であり、庁舎内に和室は存在しない。だが、渡辺源太夫はその権限で、部屋に畳を敷き、火鉢を据え、座布団を用意し、入室する者は全員履物を脱がせるというスタイルを強制していた。

 とはいえ、今この部屋(つまりこの職)に籍を置いているのはわずか二人。

 局長の渡辺源太夫とその局員たる池波新左衛門だけである。

 

 この役職は、行政職でも司法職でもない。市庁の各セクション間の意見調整やら人手不足の応援やら、つまりは雑務に近いと言えなくもない。

 が、それはあくまでも庁舎内での仕事内容だ。この特別総務掛の真の役目は、むしろ庁舎外にある。

 市長ゲイル・マルクスの直命によって、ジュピトリアム市の抱えるあらゆる面倒事の芽を摘む――というのが、あくまでもこの部署の任務である。

 先日のズサ・ハンマガルスの一件も、市長がこの二人に対して命令権を持っていたのは、あくまで彼らが「市長直轄」の役職に就く役人であったからで、クシャトリス・バーザムズールに対する命令権はない。彼女があの一件で動いたのは、あくまでも師匠たる渡辺源太夫の言葉と、彼女自身の自発的な意思の結果である。

 つまり、この『共和国』の法理的には市長といえども、あくまでも市民個人に対する強権発動は不可能であり、ローマの属州総督やヨーロッパの封建領主のような、その地に住む一個人に対する絶対権を持っていないということだ。

 そして、なればこそ『共和国』の自治体指導者は、例外なく手足たりえる駒を、その支配下に揃えており、ジュピトリアム市庁の場合は、それがこの二人だというだけなのだ。

 もっとも、市長レベルの高官が、二人しか手駒を持たないなどありえないと言えなくもないので、彼らの知らない「市長直轄」の人員が他にいるのかも知れないが。

 

 

 

「で、竜の幼生がどうしたんです?」

「おう、その話の途中じゃったな」

 そう言うと、源太夫は畳に置かれた膳の上の緑茶を一口飲み、続きを話し始めた。

 

 現在、『共和国』内には、確認されているだけで八柱の成竜がいる。

 真名を世間に秘する彼らは、ウロコの色である赤青白黒黄緑紫灰のカラーリングで個体識別され、俗に「八大竜王」と呼ばれている。

 その一柱たる緑竜王が四百年ぶりに子を産んだという情報を、五日前『共和国』中央政府が掴んだのだ。

 

 ドラゴン種は、その能力の高さから、個体数の増減には特に『共和国』政府が目を光らせている。

 なにしろ彼らがその気になって蜂起すれば、国家程度の存在などあっさり引っ繰り返るのだ。大統領を始めとする政府首脳が、彼らに熱い目を注ぐのは無理からぬと言える。

 ドラゴンたちも、それを理解しているため、政府の監視に特に文句は付けない。彼らも自分たちの存在が警戒に値するという事実を認識しているからだ。

 彼ら八大竜王は、個々に政府との間に相互不干渉を主旨とした契約を結んではいるが、それでも戦時にはドラゴン族の戦争協力に関する交渉権などを認めており、完全に国家としての『共和国』と断絶しているわけではない。

 その契約条項の一つとして、繁殖または死亡による個体増減の報告義務があり、ここでようやく話は本題に入ってくるわけだが、緑竜王と呼称される成竜が、自分たちの新生児誕生を政府に報告しなかった、という事件が起きた。

 つまりそれが、前段落での「政府がつかんだ四百年ぶりの新竜誕生の情報」という一文につながってくるわけだが、ここで問題なのは、その情報が緑竜王サイドからの情報開示ではなく、政府がそのドラゴンのもとに潜入させた「隠密」からのものであった、という点だ。

 

 

「市長によれば、中央の閣僚どもは大騒ぎになったらしい。なにせ四百年ぶりの新たな竜の誕生じゃ。ドラゴンどもにしてもそれを祝う気持ちこそあれ、後ろめたく思う気持ちなどあるわけがない。じゃが――結果として新竜誕生の情報は報告されなかった」

 

 

 何故じゃと思う? とイタズラっぽく笑う源太夫。

 だが、無限の寿命を持ち、この世界の生物進化の究極に位置する生命体の考えることなど、矮小卑小なる池波新左衛門に理解できようもない。

 いや――そうではない。彼らが究極生物たるドラゴンであればこそ、一つだけ思い浮かぶ理由がある。

「誇り高き竜族が、その子孫誕生をいちいち政府ごときに報告する義務など、馬鹿馬鹿しい。やってられるか……と、考えたとか?」

 その言葉を聞いて、源太夫は愉快そうに笑った。

 新左衛門は、その師匠の哄笑にやや不快を禁じ得なかったが、それでも源太夫が笑い飛ばすというからには、彼の出した解答は不正解ということになる。

 

 

「いやいや、そうではない。わしが笑うたのも、そなたの発想が中央の閣僚どもと全く同じだったからじゃ」

 

 

 政府首脳は、この報告不履行を「情報隠匿」と解釈した。

 そのドラゴンには、新生児誕生の情報を政府に隠匿せねばならない理由があるのだと判断したのだ。

 つまり政府は、緑竜王が『共和国』との間に結んだ契約内容に不満を持っているのではないかと警戒を高め、最悪の場合、緑竜王による首都攻撃までも想定した対策案を立て始めた。

 そして同時に、緑竜王への事情聴取のため、大統領は何人かの政府高官をその「巣」へと派遣した。

 官位・職階ともに政府内で位人臣を極めたとも言えるはずの高官たちが、わざわざ足を運んで、彼を怒らせぬように、そして彼の真意を見抜くために直接会談に臨んだのだ。

 

 

「じゃがのう、蓋を開けてみればそんな空騒ぎもとんだお笑い草よ。なんと緑竜王は、新竜誕生祝いの百日宴の真っ最中で、報告を怠ったのも単なるど忘れじゃったという話じゃ」

 

 

 はぁ!?――と、声をあげたのは新左衛門だ。

 愉快そうに源太夫は頬を緩める。

 彼としては、竜族に必要以上に怯えて空回りを続ける政府の対応と、それを歯牙にもかけない緑竜王の反応に、たまらぬカタルシスを感じているのだろう。

 まあ竜族といえども所詮は子の親だ。特に配偶者を必要とせず単性生殖で繁殖する彼らにとっては、我が子というのはそれこそ己の分身のごとき存在であり、その情愛も並々ならぬものがあるという。

「神の叡智」とか「文明開闢の父」などと呼ばれていても、一子誕生の嬉しさの前には、そんな契約なぞ頭から綺麗さっぱり消えてしまうらしい。

 

 余談になるが――上の段落でも言及したが、この世界のドラゴン種は「性」という概念を持たず、その繁殖に同種との交尾という手段を取らない。

 彼らは数百年に一度産卵し、その卵から孵った幼生と、親子水いらずな核家族構成で巣を構えるが、その幼生も齢二百歳ほどで親から巣立ちして、いずこかに独自の生活権を築き上げ、そのまま二度と親竜と接触を持たないケースがほとんどであるという。

 だがドラゴンの「巣」には、その眷属として多くのリザードマンが忠誠を誓い、居住区を築いて定住し、教祖に対する信者のごとく仕えているため、そのコミュニティはむしろ大所帯と言って差し支えない。

 政府から情報隠匿の真相を詰問すべく現地に到着した高官たちが最初に見たものは、そのコミュニティが飲めや歌えの大騒ぎをしている真っ最中だったのだ。

 そのあまりにも微笑ましい事件の真相にホッとした反面、彼らは少なからず怒りを覚えたという。

 

 

「まあドラゴンの側からすれば、忘れてスマンの一言で済む話じゃしのう。じゃが、その『詰問団』の随員の中には苛立ちのあまり、そのドラゴンに生意気な口を叩いた者もおったという話じゃ」

 

 

 とはいえ、その失言が緑竜王の逆鱗に触れた――というわけではない。

 竜族は基本的に、他種族の言動には寛容だ。というより、幻獣種同士ならばともかく彼らドラゴン種が、人間やエルフ・獣人などに対して感情を剥き出しにすることはない。『共和国』から市民権を付与されていても、彼らにとっては、二本足で地上をうろつくしかない矮小な生物など、しょせん自分たちと同格の生命体たりえないのだ。

 『詰問団』の一同も、結局は緑竜王にあしらわれ、その酒宴に半ば無理やり付き合わされ、そのまま首都グワジニアに無事帰還という成り行きになったわけだ。

 が、それでも当の緑竜王本人がいかに寛大でも、その周辺に仕えるリザードマンたちからすれば、それは穏やかな話ではない。偉大なる主君に対する無礼、このままには捨て置けぬ――と、いきり立つ者たちも少なからずいたが、それでも主の意に背いてまで何かをしようとはしない。彼らにとっては主君たる竜族の意向は絶対なのだ。

 が、そう考えない者がいた。

 

 

 

 

「それが、他ならぬ生まれたばかりの幼竜じゃ。なぜ我ら偉大なる竜族が、政府ごときにそんなイヤミを言われねばならんとな。で――「巣」を飛び出した、と」

 

 

 その言葉に新左衛門は唖然となった。

 源太夫の言葉が真実ならば、その幼竜は生まれて間もない赤ん坊のはずだ。

 それがわずか百日程のあいだに知性を芽生えさせ、偏見まみれとはいえ「誇り」という感情を理解し、「巣」から単身飛び出すほどの行動力を見せたというのか。

 ドラゴン種という生物の潜在能力の凄まじさに驚きながらも――しかし、それでも新左衛門には納得がいかない。

 源太夫は最初に、その幼竜は「ジュピトリアムに逃げてきた」と言った。

『詰問団』とやらの失言に怒ったのなら、その幼竜の向かう先はグワジニアであってジュピトリアムであるはずがない。

 つまり――首都に向かったはずの幼竜が、このジュピトリアムに逃げ込まねばならない羽目になる過程が、もう一つあるはずなのだ。

 新左衛門が信じられないのはそこなのだ。

 単なる失言で幼竜を怒らせたというだけならともかく、竜に本格的な害をなそうとする者がこの『共和国』にいるはずがない。その幼竜に手を出せば、今度こそ緑竜王が本格的な怒りをむき出すだろう。そうなれば、もはや国家規模の大災害だ。

 考えられるとすれば、ズサ・ハンマガルスの一件で暗躍した例の組織の連中が、緑竜王の怒りを『共和国』に誘導しようと意図的に幼竜に危害を加えるというケースくらいだが、それも疑わしい。成獣化したドラゴンの知能は並みの人間やエルフの比ではない。そんな小細工はあっという間に見破られて、緑竜王が『帝国』を襲撃する結果となるのがオチだろう。

 この世に竜と戦おうとする者がいるとすれば、それは――。

 新左衛門は不意に表情を改めた。

「まさか…………」

 そして、源太夫も真顔で応える。

「そのまさかじゃ」

 

 

 

「その幼竜は、他の竜から襲撃を受け、やむなく進路を変えてこのジュピトリアムに逃げ込んできた、というわけじゃ」

 

 

 

 ドラゴンという種族は、その叡智から鑑みれば信じがたいことだが、実は同族間でのコミュニケーションが極度に不得手で、中には歴然たる敵対関係にある者たちもいるほどだ。

 たとえば黒竜王と赤竜王などは、何度も直接対決を繰り返したほどの仲で、互いに指揮下のリザードマンを引き連れ、火炎や稲妻を吐きながら巨大な四足獣が闘う様子は、まさに特撮怪獣映画そのものと言っていいほどに壮観なものであったという。

 そして緑竜王にも、やはり同じく敵対関係にある一柱の成竜――黄竜王が存在する。

 おそらくはその眷属のリザードマンであろうが、その一団が、巣から飛び出しグワジニアに入府寸前だった幼竜を襲ったのだ。

 

 

「ゲイル市長からの命令じゃ。早急にその幼竜を保護し、緑竜王に返さねばならん。やつらがこのジュピトリアムを舞台に殴り合いを始める前にじゃ」

 

 

 とはいえ――。

 源太夫は途方に暮れたように顔を上げる。

「しかし、あてもなく闇雲に探したところで見つかるはずもないしのう……」

 確かにそうだ。

 竜の生態に詳しい専門家ならばともかく、都市に紛れ込んだ幼竜を見つけ出すなど、どう考えても市庁中の人員を総動員した人海戦術でやるのが一番手っ取り早い。というか、自分たち二人だけにそんな仕事を押し付けられるのが、むしろ納得いかない。

 が、一人の武士として上から与えられた「お役目」に不満を漏らすわけにも行かない。

 つまり――新左衛門もまた、うつむくしかなかった。

 その時、部屋の扉がノックされ、取次の者の声が聞こえてくる。

「渡辺局長、局長に面会を希望している方が受付に参られていますが」

「わしに面会? 誰じゃ?」

「ダークエルフの女性で、クシャトリス・バーザムズールと仰られるお方です」

 

 



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第十二話 「竜の子(其の五)」

 

 

「キミの母上に危害を加える気はないよ。でも、このまま我々に抵抗を続けるならば、こちらとしても非常手段に訴えざるを得ない」

「我々の要求が何かくらいは、貴女にも想像できるはずですね?」

「こんな結果になったことを残念に思うがな。貴様とは是非五分の条件で腕を比べ合いたかった」

 

 

 無表情のまま、口々にそうしゃべる三人のリザードマン。

 だが、クシャトリスはもはやそんな無駄口を耳に入れていなかった。

 一切の思考が凍結したような感覚に襲われ、結局のところ、彼らがどうすれば母を返してくれるのかもわからず、呆然と三人を見つめるしかない。

 さきほど、この四人組の殺意が本物だと理解した瞬間も、彼女の精神は動揺を見せた。

 だが、いまクシャトリスを襲っている動揺は、その瞬間のものとはまさに比較にならなかったろう。彼女はまさに、自分の行動の責任によって母の生命を脅かしているという、あまりにも予想外の結果に、文字通り呼吸の仕方さえも忘れたような表情を浮かべ、その思考が完全停止した状態であることは、誰が見ても明白だった。

 それまで彼女が杖を突きつけていたチビのリザードマンも、脇腹を抑えつつ、やれやれとばかりに起き上がり、

(おい、どうする?)

 とばかりに、仲間と視線を合わせている。

 先程までの冷静沈着な戦いぶりに比べて、彼女の狼狽ぶりは、さすがに予想外過ぎたのだろう。

 やがて代表者のつもりか、標準体型のリザードマンが一歩前に出る。

 

 

「貴様がナマイキと呼んでいる竜の幼生を、こちらに引渡せ。さもなければバーザムズール家に二度と母上が戻ることはない」

 

 

(そんなことでいいのか)

 とばかりに、クシャトリスの目に希望が灯る。

 母親一人の命の危機に比べれば、今朝いきなり家にやってきたチビ竜一匹などどうなろうとも知ったことではない。

 上空にいるはずの彼の姿を求めて、空を見上げるクシャトリスの目に映ったものは――狭い路地から見える、虚空の青空。

 

「あれ……?」

 

 そこに幼竜ナマイキの姿はなかった。

 いったい何が起こっているのかクシャトリスにはわからない。

 なぜ彼がそこにいないのか。

 この得体の知れない四人組から母を取り戻す唯一の手段である、あのチビ竜。

 今日、自分が食べるはずだった昼食を食べ尽くし、母がまるで幼児を愛でるような待遇で世話をした、あの生意気すぎる竜の幼生。

 それが――いない。

 

「あれ……?」

 

 彼女の眼前がふたたび暗然たる色に染まる。

 溺れそうになっている状態で顔を上げ、呼吸をした瞬間にまたも水中から足を引っ張られたような、そんな絶望がクシャトリスを包む。

「ちょっ……何やってるのよ……冗談はいいから早く降りてきなさいよ……」

 絶望のあまり、その呼びかけすら小声になってしまっている事実に、彼女自身気付いていないようでさえあった。

 そして、弾かれたように視線を戻し、四人組の表情を見た瞬間、クシャトリスの絶望は決定的なものになっていた。

 彼ら四人のリザードマンの顔に浮かんだ表情は――いたましい者を見るかのような同情。

「まあ、結局こうなることは予想がついたけどね」

「自分の戦いに他者を巻き込んでおいて、自分は早々と逃亡か」

「所詮は緑竜王の子ということですよ。己の行動に芯を通せないザマは父親にそっくりですし」

「だがな、クシャトリス・バーザムズール」

 

 

――このままでは、我々は貴様に母上を返還することは出来ない。

 

 

 クシャトリスは地面に膝をついた。

 その言葉の恐ろしさに、背筋から一気に力が抜け、現状での自分の唯一の武器であるはずの杖さえも取り落としていた。

 しかしリザードマンたちは、むしろいたわるような視線を彼女に向ける。

「安心しろ、今この瞬間に人質を殺すとは言っていない。貴様が取引に乗るならば、母上を無事に返してやってもいいということだ」

「とっ、取引!?」

 あえぐように言うクシャトリスを見下ろし、そのリザードマンは言う。

 

 

「一日の時間をくれてやる。明日のこの時間――そうだな、明日の正午の鐘が鳴る時刻に、我々はジュピトリアム南区の円象山で待つ。そこで『目標』を引き渡してもらおう。さすればラヴィアン・バーザムズールは無傷で返すことを約束する。それでどうだ?」

 

 

」」」」」」」」」」」」」」」

 

 

「何じゃ、その成り行きは……?」

 渡辺源太夫は話を聞いて、半ば呆れたようにクシャトリス・バーザムズールを見返す。

 彼女は自身を恥じるようにうつむいたまま口を開かない。

 それでなくとも普段から重いクシャトリスの口から、ポツリポツリとちぎったように語られる言葉を繋げながら話を聞いていたので、老人としてはこの不可解すぎる超展開に呆然となるのは、ある意味無理もない。

 が、新左衛門としては、さすがに黙ってはいられない。

 なんといっても、その話の中で誘拐されたという彼女の母親は、隣人たる新左衛門にとっても他人ではない。幼馴染の母親という、ある意味親戚や友人などよりはるかに近しい存在なのだ。

「で、クシャ……バーザムズール、おばさんは結局家に帰ってきたのか?」

 彼女はその質問に一瞬身を切られるような顔をして新左衛門を見上げ、そして俯き、ゆっくりと首を振った。

「ッッッ……馬鹿野郎!! だったらこんなところで油売ってる場合じゃねえだろ!! とっとと騎士団に連絡を取って――」

 

 

「ダメだッッ!!!」

 

 

 怒りと後悔と悲しみに顔を歪めながら、エルフ娘は叫ぶ。

「この一件を騎士団に通報したら、人質はその場で殺す――奴らはそう言ったんだ。だから通報できない。父さんに話すこともできない。母さんが殺されてしまう!!」

 その剣幕に新左衛門も一瞬ひるんだように仰け反るが、源太夫はむしろ納得したように深く頷く。

「じゃろうのう。……いや、状況としては当然な話じゃ」

 ここで言う騎士団とは、軍の戦術単位としての騎兵集団ではない。

 市街地の治安維持と犯罪捜査を主任務とする警察組織「市警騎士団」のことであり、クシャトリスの父親ガルス・バーザムズールはその組織の上級幹部の一人なのだ。父にも相談できないと叫ぶ娘の気持ちも至極当然というべきであった。

 そこまで聞くと、源太夫はやおら立ち上がり、座布団に座ったまま深くうなだれ、肩を震わせる彼女の頭を抱き寄せ、優しく撫でてやった。

「わかった。わかったからもう泣くなバーザムズール。この一件はわしらが何とかしてやる。だから大丈夫じゃ」

「せんせい……」

 涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を上げるクシャトリス。

「独りで色々と辛かったじゃろう。ようわしらを頼ってくれた。頑張ったのうバーザムズール」

 

 そんな孫と祖父のような二人を見ながら、しかし、新左衛門の胸中には苦いものしかなかった。

(そんな調子のいいことを言って……) 

 数年ぶりに見る幼馴染の涙にすらも、内心腹立ちを抑えきれない。

 クシャトリス・バーザムズールが道場の外で色々とトラブルを撒き散らしていたのは彼も知っていた。

 尋常の立ち合いであったとはいえ、決闘騒ぎで死者を出したことさえある。

 これまで彼女は、そういった件を新左衛門や源太夫に頼ることなく解決してきた。それを水臭いとも寂しいとも思ったこともある。

 が、それでも今度のこの一件に関しては、彼女のそういう生活態度が敢えて招き寄せた厄災であるように新左衛門には思えてならない。

 が、もはや今はそんなことを言っている時ではないのだ。

 ラヴィアン・バーザムズールの命がかかっている以上、こうなってしまっては、一分一秒を争ってその幼竜を探すしかない。幼竜を見つけ出し、そのリザードマン四人組とやらと人質交換を無事果たすしか、ラヴィアンの命を保証する手段はない。

 ドラゴン直属のリザードマンというのは、市街地で市民生活を満喫しているリザードマンとは完全に別種の思考法をする連中なのだ。法や倫理よりも、最終的に主君の意思を何よりも優先する彼らは、必要とあれば容赦なく人質を殺すだろう。

 だが、結局のところ事態は、さきほど源太夫と二人で天を仰ぎつつ途方に暮れていた時から何も変わっていない。

 自分たち二人だけでは――結局のところ、その緑竜王の幼生を見つけ出すすべがないのだ。

 

 

「…………いや、存外そうでもないようじゃぞ?」

 

 

 まるで新左衛門の思考を見抜くようにつぶやく師匠は、ほれ見ろと言わんばかりに窓の方向を目で指し示す。

 新左衛門が何気なく振り向き、そして絶句した。

「ドラゴンが本当の誇りを持ち合わせておる種族であるなら、己が巻き込んだ災厄の種によって泣く者どもを、平然と無視することは出来まいて」

 と、この結末をあらかじめ予期していたかのように言う源太夫。

 窓ガラスの外には、まるで照れたように顔を赤らめたヌイグルミのような生物――竜の幼生がふよふよと浮遊していたのだ。

 

 

 



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第十三話 「竜の子(其の六)」

 時刻は暮六つ(くれむつ:午後六時)。

 季節は冬ということもあり、すでに陽は落ちている。

 いかに南国の『共和国』とはいえ、冬の夜は気温が下がり、風も冷たくなる。

 が、この場所まではその寒風も届かない。ハラワタのように曲がりくねった洞窟の奥なので、火を炊いてもその光が入口から漏れることもない。

 また、木を組み合わせワラ袋を敷いた簡易ベッドが人数分据えてあったり、洗った衣服が干してあったりと、数日間分の生活感はある。

 とはいえ、その天井にはコウモリが飛び回り、空気も焚き火によって少しは暖かくなったが、それでもじっとりとした湿気は健在で、寒気が刺すように伝わってくる。

 つまり、お世辞にも居心地のいい空間とは言い難いのだが、それでもこの四人組はむき出しの地面に座り込んで愚痴の一つもこぼす様子はない。

 彼らは無表情に淡々と、会話すらなく、それぞれがそれぞれの赴くままに時間を潰していた。

 

 

 肥満体のリザードマンは、木の枝に突き刺した肉を焚き火であぶってパクついている。

 名はザーン。

 一同の中では最年少であるが、その体格的貫禄によって初見の者ならば誰もがそうは思わない。

 長身痩躯のリザードマンは、焚き火に背を向け、一心不乱に読書にふけっている。

 名はリア。

 一同の中ではお調子者のムードメーカーだが、その「火」の魔法の腕は一流で、しかも一度本を開くと周囲でうるさく騒ぐ者には本気で怒りを向けるような、大人気ない一面もあった。

 標準体型のリザードマンは、日本刀の手入れをしている。

 名はムーア。

 一同の中では最も身分が高く、来世流の免許皆伝という剣の腕と沈着冷静な性格もあって、四人のリーダー格を勤めている。

 小柄のリザードマンは上半身裸になり、包帯を巻き直している。

 名はハッテ。

 飛ぶ鳥落とすとまで言われる投げナイフの腕と、その飛び抜けた身軽さを利用し、主に潜入作戦などで能力を発揮する。

 さらに治癒魔法の使い手で、一同の衛生兵的役割も果たす。

 

 

 ここはジュピトリアム南区――の更に南のはずれにある円象山。

 その斜面北側の森林には、市街地に面しているという立地条件もあって、陽が出ているうちは薪拾いやキコリなどの林業民で賑わうが、この南側は人も寄らない荒地として姿を晒している。

 その中腹にある、とある洞窟を彼ら四人は滞在拠点と定めていた。

 理由は色々ある。

 彼らは自分たちが緑竜王の幼生を狙っているという事実が、いずれ露見するという確信を持っている。なにしろグワジニアで一度失敗している身だ。当局がその気になって捜索すれば、市内の適当な宿に潜んでいるよそ者のリザードマン集団など、あっという間に見つかってしまうだろう。

 いやこの場合、彼らが恐れるのは市警騎士団のごとき官憲どもではない。真に警戒すべきは緑竜王配下のリザードマンであり、そいつらが、いつ彼らの居場所を突き止め、逆に殺しに来るかわからないのだ。

 ならばこそ、ムーアはこの洞窟の存在を知った時、まったく躊躇することなく、ここを塒(ねぐら)と定めたのだ。

 そして彼らは今、ジュピトリアム中央区の露天市場での後始末をつけた後、しばしの休息に身を浸していた。

 

 

「おい、少しは手伝ってくれよ……包帯って自分で巻こうとすると結構難しいんだからさ」

 ハッテがそう言うが、三人は誰も返事をしない。

「おぉい!」

「さっき巻くの手伝ってやったろ。なんで同じことを二度やってるんだ」

 リアが、本のページをめくりながら、いかにも面倒くさそうに言う。

「お前が巻いた包帯が適当だったから今になって緩んできやがったんだよ」

 そうハッテも言い返すが、リアはもはや彼の方向を一瞥すらしない。睨むような眼差しをページに注いでいるだけだ。

「仕方ないですねえ、もう……」

 あぶり肉を食べ終えたザーンが、口元をハンカチで拭いながらハッテの元まで来ると、その背後に座り込んで包帯を巻き直してやる。

 彼らが仲間の声を無視したのは、そこに不和があるためではない。

 彼らは集団行動をとってはいるが、その個々の関係性に至ってはむしろ互いに冷淡かつ無関心であり、極端に言えば、彼らはビジネスでチームを組んでいるだけであって、友人でもなければ同志でもなかった。

 それゆえ一度作戦行動に移れば、それぞれ担当する役割分担を歯車のようにこなしはするが、それ以上の個人的なフォローまではまるで気を回すことはない。

 

「すまねえなザーン、恩に着るぜ……っていうか覚えてろよテメエら」

「その肋骨はハッテさんの治癒魔法で完治できないんですか?」

「無茶言うな。魔力付与した杖でぶっ叩かれたんだぜ? 折れて肺に刺さらなかっただけマシってもんさ」

「あの娘の腕は本物だったということですか」

「少なくとも、腕だけならな」

 そう答えたのはハッテではなく、それまで無言で刀の手入れをしていたムーアだった。

 が、彼の目は相変わらずハッテには向けられない。

 その眼差しの先にあるのは、洞窟の隅に放り出された、六尺(約180センチ)ほどの、口を縛った布袋だった。

 よく見れば、規則正しい間隔でわずかに伸縮を繰り返しているその袋は、その内容物が呼吸している「誰か」であることは明白であった。

 

 むろん「腕だけなら」というムーアの言葉は、この場にいる四人全員が理解している。

 自分の母親が人質に取られたということを認識した瞬間に見せた、あの狼狽っぷりから判断して、彼女が真の意味での修羅場を経験していない剣士であることは、あまりにも歴然だったからだ。

 クシャトリス・バーザムズールは、道場で防具をつけて竹刀で打ち合う分には、十分な強さを持っている。それは間違いない。

 が、ここで重要なのは、そういう種類の「強さ」は、彼らにとっては意味を持たないということであり、そして、そういう相手であればこそ、彼女に対して特に警戒する必要を、彼ら四人は感じない。

 クシャトリスのうろたえっぷりから判断して、彼女が事態を官憲に通報するとは考えにくいし、その上で、明日の指定時刻までに彼女が『目標』を連れてくれば人質を引き渡す。さもなければ人質を始末して立ち去るまでだ。 

 加えて言うなら、この不運な人質に対する何らかの感傷も、この四人組にとっては、やはり存在しない。約束を違えた敵の人質を殺すなど、彼らにとっては食事に等しいほどに日常的なものでしかないのだ。

 これは彼らの人格が特に酷薄なものだというわけではなく、彼ら四人が身を置いている世界とは、そういうものであるというだけの話でしかない。ルールが違えば戦法もおのずと違ってくるものなのだ。

 

 

 その瞬間――四人の表情が同時に変わった。

 

「結界に侵入した者がいる」

 そう言いながらリアが静かに本を閉じる。

「人数はわかるか」

 日本刀を鞘に収めながらムーアが訊く。

 この洞窟には、その入口を中心に半径一町(約百メートル)にわたって簡易結界が張られており、その実施者は、四人の中では最も魔法技術に長けたリアである。つまり、結界を破った者がいればそれは直接リアに伝わるということなのだ。

 もっとも、彼らほどの手練ならば、結界の魔力の乱れを敏感に察知することくらいは出来る。

「一人……いや二人ですか?」

 さっきまでとは別人のような厳しい顔でザーンが気配を読む。

「二人だ」

 が、そう答えたリアの頬には、逆に皮肉っぽい笑が浮かんでいる。

 

 

 

「来たのは例の娘だ。しかも『目標』を片手にぶら下げている。隣にいるのは……サムライか?」

 

 

 

 その言葉を聞いた三人のリザードマンは、それぞれ唖然となっていた。

 クシャトリス・バーザムズールが、何故この洞窟の場所を知っているのか。

 または、そんなエルフ娘を利用するように使い捨て、逃げ去ったはずの『標的』を、彼女がどうやって捕獲することができたのか。

 そして、そのサムライとやらは一体何者なのか。

 が、しかしそれも一瞬のことだ。

「……まあいい。諸々の疑問は女に直接訊くだけだ」

 ムーアが膝を払いながら立ち上がり、それに促されるようにハッテも着衣(黒背広)を着込み、ザーンとともに動き始める。

「リア、貴様はここに残れ」

「人質か?」

「そうだ。目を離すなよ」

「わかった」

「では行こう」

「行こう」

「行きましょう」

 そう口々に言い、三人は洞窟から出て行った。

 

 

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 洞窟の外はすでに陽が落ちている。

 しかも今夜は雲が出ているため、月光や星明かりが見えにくい。

 が、その男女の姿はすぐに見つかった。

 彼らは赤々と燃える松明を持ち、一直線にこの洞窟に向かって山道を歩いてくるからだ。

 とはいえ、洞窟の中から出てきた三人の黒背広のリザードマンたちを見て、彼ら男女のの表情にも一応動揺が生じていた。

 サムライの方は腰に大小二本の刀をたばさんでおり、エルフ娘も例の杖を持っているが、それでも甲冑を着込んでもいなければ、槍も弓矢も持ち合わせていない。二人ともやや長めの松明を掲げている以外には、いわば平服平装のままなのだ。

(どうやら殴り込みに来たわけではないようだな)

 ムーアはそう判断するが、もちろん油断はしない。そう見せかけているだけの可能性も当然あるのだから。

 しかし重要なのはそこではない。

 リザードマンたちの視線が、エルフ娘の左手に集中する。

 彼女はその左手に、両手両足を一まとめに縛り上げた竜の幼生をぶら下げていたからだ。

 ムーアは二人の部下に目配せして、洞窟の入り口から十歩の位置で立ち止まる。

 

 

「まさか本当にここにいるとはな……この人さらい野郎が」

 

 

 そう言ったのはエルフ娘の隣に立つ、年齢二十歳ほどの若いサムライだ。

 身にまとう殺気から判断して、かなりの手練であろうと推察できる。そして、ムーアたちに対して本気の怒りを抱いていることも。

 クシャトリス・バーザムズールが学んでいる渡辺派無明流は、ニホン人の――いわゆるサムライ式の剣の流儀だ。つまりこの娘には、同門のサムライに人脈があるということになる。ならばこの男も渡辺派の剣客の一人であろう。

(まあ、それはどうでもいい)

 ムーアは思う。

 この状況を素直に受け取るならば、この数日感にわたった彼らの「竜の子捜索」の仕事が一気に解決したことになる。

 だが、果たしてこの事態を素直に受け取っていいものであろうか。

 結界に侵入してきたのは二人だけ――これは間違いのない事実だ。

 ということは、この二人には伏兵はいない。ならば彼らが今ここにいるという事実も何かの陽動という線は考えにくい。

 もっとも、あるいはこの男女が全く何も考えずにここまで来た、という可能性もある。

(まあ『目標』さえ入手できれば、必ずしも皆殺しにする必要はないのだがな……)

 が、そんなムーアの思惑の機先を制するかのように、サムライが言う。

 

 

「最初に言っておくが、おれたちは剣を捨てる気はないぞ。そちらがあくまでが武装解除にこだわるならば交渉は決裂。おれたちは剣を抜き、全力で戦わせてもらう」

 

 そのあまりな言い草に、ムーアはしばし絶句する。

 いや、彼だけではない。部下の二人も同じく呆れたような顔になっている。

「……一応、参考のために伺いますが、人質の命はどうでもいいと?」

 そのザーンの言葉に、エルフ娘は一瞬うろたえたように何かを言おうとするが、サムライはそんな彼女を目で制し、言葉を続ける。

「そんなわけなかろう」

「では何故――」

「決まっておろうが。刀を捨てれば、貴様らは今この瞬間に襲いかかってくる。そのチビ竜を奪うためにな」

「…………」

「刀を持たねば何の抵抗もできず、結果として人質もおれたちも両方殺されて終わりだ。違うか?」

「…………」

 ザーンとハッテは何も言わない。

 ムーアもそうだ。

 その理由を聞かれれば答えは簡単――このサムライの言葉はすべて真実だからだ。

 図星を突かれたという事実に対するショックなどない。そもそも交渉とは、武力において相手と対峙できる立場になければ成立しないものだ。だからこのサムライの言い分はある意味当然のものだとすら言える。

 

 この場合、ムーアたちにとって最も優先すべきことは、その幼竜の入手であり、そして最も回避すべき事態は、幼竜を取り逃がし、なおかつこの男女と戦闘になって味方に被害を出すことだ。

 ならば、戦闘回避は『目標』入手のために当然踏まねばならない段階ということになる。

「やむをえんな……ならば、帯剣の権利だけは認めてやろう」

 ムーアはそう言いつつザーンに目配せし、視線を受けた太ったリザードマンは一歩前に出た。

「いいでしょう。しかし、その前に貴方たちにいくつか質問があります。人質交換はその返答を聞いてからです。いいですねクシャトリス・バーザムズール?」

 名を呼ばれ、それまで一歩後方に控えていたエルフ娘は、ようやく顔を上げ、こちらを見る。

 その視線は、やはり猜疑と戦意と緊張が混ざった、複雑なものになっている。

「……なによ?」

「まず、貴女はなぜ我々がこの場所にいることを知っていたのですか?」

 そう問われ、クシャトリスは初めて頬を緩めた。もっともそれは、いかにも質問者を小馬鹿にしたような皮肉な笑みであったが

「あたしたちはこのジュピトリアムの地元民よ? 円象山で取引してやるなんて言われたら、この洞窟を思い浮かべるのは当然でしょう。ここは昔、あたしたちが秘密基地にしてたような場所なんだから」

 

 

 そう言われて、ムーアは内心舌打ちしそうになった。

 いかにもここは円象山中腹の天然の洞窟だ。

 この数日、彼らはここを拠点にしてジュピトリアム市中での『目標』捜索に勤しんでいたわけだが、それとて誰かの指示を受けたからそうした、というわけではない。彼らがこの場所を見つけたのは、全くの偶然だからだ。

 重ねて言えば、この円象山を彼女との取引場所に指定したのもムーアだが、これも取り立てて深い考えがあったわけではない。敢えて言うなら、自分が拠点にしている地点を、まさか取引場所に指定するなどとは考えないだろうという程度の思考の結果に過ぎない。

 例えば麻薬取引の定番場所といえば港の埠頭だが、その取引相手がまさか「その埠頭に住んでいる」などと考える者はいない――そういうことだ。

 だが、所詮それはアウトロー同士の思考法でしかない。

「では、我々がここにいることを知っていたわけではないと?」

「当然でしょう。知っていたらそれこそアンタたちが言った時間に来ているわよ。まさか本当にいるなんて思わなかったもの」

 むしろ憎々しげにバーザムズールが言い捨てる。

 その言葉に、

(確かに油断だったか)

 と、ムーアも思わずにはいられない。

 この洞窟の存在をあらかじめ知っている者ならば、確かに彼女の言葉通り、ここを一度は検分してみようと思うかもしれない。そういう可能性を考えなかったあたり、素人女に所在をあっさり突き止められてしまった責任は、全面的にムーア個人にあると判断せざるを得ない。

 

 

「で、訊きたいことはそれで終わり!?」

 と、いかにも苛立たしげにバーザムズールが言う。

 が、それでも彼女のペースに合わせる義理はないとばかりにザーンが言葉を続ける。

「まだです。質問はいくつかあると最初に言ったでしょう」

「だったらさっさと言いなさい! いちいち勿体つけるんじゃないわよ!」

「では、貴女の横にいるそのサムライは一体どなたですか? 我々は取引に余人を連れてきていいなどと言った覚えはありませんよ」

 そう言われて、初めて女の目元がわずかに歪む。彼女にしても、やはり痛いところを突かれたという思いはあったのだろう。

 そこでサムライが、バーザムズールに代わって口を開く。

「おれは池波新左衛門、ここにいるコイツの幼馴染でな、お前らが拉致したラヴィアン・バーザムズールはおれにとっても他人にあらざるゆえ一枚噛ませてもらった」

「気軽におっしゃいますが、当方としてはそれを許した覚えはないと言ってるんです」

「こっちも人さらいに何かを許してもらおうと思ってはおらん。こいつの言葉を信じるなら貴様らは『騎士団には通報するな』としか言っておらんはずだ。だったら、おれがここにいることに何の問題もないはずであろうが」

 

 敢えて開き直ったかのように断言する若いサムライに、ムーアは失笑を隠せない。

 なるほど、その直情的な面構えを見れば特に嘘を言ってるようには見えない。幼馴染という関係も本当だろうし、その母親を心配するのも納得できる。

 だが、彼は本当に自分の行動がもたらす結果を予想しているのだろうか。

 自分たちは、このサムライが言うところの「人さらい」なのだ。そんな言い草が通用するような相手ではないことくらい理解しているはずだ。

 現にザーンも、自分と同じく苦笑いを浮かべながら言い返す。

「屁理屈もいいところですね。こちらは今この瞬間に人質を始末することもできるんですよ?」

「…………そうなったら、このチビ竜を空に逃がすぞ。それでもいいのか貴様ら?」

「好きにしなよ。どうせこの間合いじゃ、どこに逃げたところで俺のナイフからは逃げられねえ」

 ハッテが内ポケットから取り出したナイフをぺろりと舐めながら言う。

 さっきまでアバラの痛みに耐え兼ねて泣き言を漏らしていたくせに、この男はこういうチンピラ臭い振る舞いが実に上手い。

――が、その効果はある。現に二人の表情が明らかに変わった。

 エルフ娘の表情は恐怖に蒼白になり、サムライの表情は焦燥に歪んだ。

 



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第十四話 「竜の子(其の七)」

 

 

「……そなたらは本気なのか……本気でこのチビ竜を害しようとしておるのか」

 

 

 苦しげに顔を歪めながらサムライは問う。

 ムーアたちにとっては何を今更というべき質問だが、しかしこの『共和国』の一般市民としてはむしろ当然というべき疑問ではある。この国において最も神聖不可蝕たる権威は国法でもなければ国家元首でもない。竜族を怒らせるという事態――それこそがこの国で最もしてはならない禁忌であり、常識なのだ。

 自分たち四人は、そのタブーをあっさりと踏みにじっている。彼ら二人から見れば、さぞかし異様な者たちに見えることであろう。

 が、ハッテはむしろそんな自分たちを誇るかのように言葉を続ける。

「我が主君たる黄竜王陛下の命に従い、そこの緑竜王の小せがれの首を取る。それの何が不思議なんだ?」

「その結果何が起こるか、そなたらは理解しておるのか?」

「考えるのは俺たちの仕事じゃねえ。俺たちの仕事は、上からの命令をきっちり遂行することだけだ」

「…………」

「だから俺たちゃ必要なことは何でもやるぜ? 人質になってるダークエルフのババアを俺たちの里に連れ帰って、寸刻みにしてやることだってな」

「なッッ!?」

「お前らは竜族を怒らせることをえらくビビってるみたいだが、この世の竜族は緑竜王だけじゃないんだぜ? 俺たちの仕事を邪魔してる時点で、お前らは黄竜王陛下の意思に逆らってるってことを理解してるのか?」

(なるほど、いい攻め口だ)

 ハッテの言葉に、ムーアは内心ニヤリと笑った。

 その発言は、確かに彼らの思考の盲点を付いたらしく、二人はぐうの音も出ない顔をしている。

 特にエルフ娘は明らかに血の気を失っている。

 おそらくはあと一押しで、娘の心は折れる――そう思い、ムーアはハッテをちらりと見、それに応えるかのようにハッテはとどめの一言を言い放つ。

「主君の腹いせの対象として、仕事を邪魔したクソエルフの母親一匹連れ帰りゃ、里じゃさぞかし歓迎してくれるだろうよ。ヒドラの餌かオーガーの餌か、どっちがいいってなぁ」

 

 

 

「わかった……あたしたちが悪かったわ、それは認める!! 刀だって捨てる!! こいつが目障りだって言うならここから帰す!! だから……だから……母さんだけには手を出さないでッッ!!」

 

 

 

 そう叫びながら、まるで子供のように取り乱すクシャトリス・バーザムズール。

「お、おい、お前いきなり何言ってるんだ!?」

 と、言いながらエルフ娘に言い返そうとするサムライを、彼女は、

「うるさいッッ!! やっぱりアンタなんか連れてくるべきじゃなかったのよ、余計なことばかり言って相手を怒らせてッッ!!」

 と、一喝し、なんとそこから縛られた幼竜をサムライに押し付け、山道に膝と手を付き、額を地面にこすりつけたのだ。

「クシャ子……」

 サムライが絶句する。

 ハッテとザーンも、その異様なポーズに気を呑まれたかのようになっていたが、それでも彼女のとった行為の真の意味までは理解していないようでもあった。

 が、ムーアにはわかる。

 彼は来世流というサムライ式の剣術を学んだ身だ。これが何を意味する所作なのかくらいは十分すぎるほどに知っている。

 

 

 それは土下座(ドゲザ)という――この国の人間種における、相手への最上級の謝罪と敬意を含んだ礼法だった。

 

 

 ダークエルフの彼女がなぜ人間の礼をするのかはわからないが、そんなことは問題ではない。

 わかるのは、このエルフ娘は彼女なりの最大限の礼を尽くしてでも、己の母を無事に取り返したいということだ。

(なるほど……)

 ムーアは納得できた気がした。

 彼女の真剣さにほだされたわけではない。

 この気位の高そうな娘が、ここまでやるからには、もはや罠はあるまい――そう判断したのだ。

「よかろう」

 その台詞を聞き、ハッテとザーンが振り返る。

 が、ムーアは二人の部下を目で制した。

「その竜の子を渡してもらおう。それさえ手に入ればこちらとしても文句はない」

「……本当に母さんを返してくれるのね?」

「嘘は言わん。もとより我々としても貴様の母親の命などに関心はないのだ。目的のものさえ入手できれば、もう用はない」

 そう言い切るムーアの瞳を、土下座の姿勢のまましばらく睨みつけていたクシャトリスであったが、やがて決心したように目を閉じ、

「新助、その子を渡して」

 と告げ、そこから更に数秒ためらっていたサムライも、やがて諦めたように幼竜をこちらに差し出す。

 両手両足をひとまとめに縛られ、眠ったように動かない『目標』を受け取ったザーンが確認を済ませ、こちらに頷いてみせると、ムーアはハッテに改めて指示を出した。

「これで任務は終了だ。人質は引き渡すと言って来い」

「おう」

 そう言うや、ハッテは踵を返して洞窟に駆け込んだ。

 

 もとより油断はなかった。

 人質の女にはずっと魔法をかけて眠らせてあったから、こっちの身元の手がかりになるような会話も聞いていない。だから敢えて口を封じる必要もない。

 ここにいる二人にしてもそうだ。このサムライも少なからず腕が立ちそうだし、エルフ娘に関して言うまでもない。本気で抵抗する気が無いなら、敢えて戦闘に持ち込む愚を選択すべきではなかろう。

 だから人質を二人に返したら、すみやかにここを立ち去る――それがこの場における最善の判断だったのだ。

 

 

 

「さあ、それは果たして本当に最善かな?」

 

 

 

 エルフ娘でもサムライでもない。それが誰の声か――などと疑問に思う暇さえなかった。

 振り向いたムーアが見たのは、荷物のように引き渡された幼竜が、カッと目を開くと同時に、突然口から火を吐いた瞬間だった。

「ぁぁぁぁああああああッッッ!!!」

 今日の昼間に黒コゲになったミノタウロスとそっくりな悲鳴を上げて、ザーンがその顔面を真っ赤な炎に包み、その場にのたうちまわる。

 そして、その頭上を幼竜が、ふよふよと飛んでいる。彼の自由を奪っていたはずの縄はそのままだが、背中の翼で宙に浮く程度の動作なら、確かに四肢の戒めなど意味はない。

「息(ブレス)だと…………ッッ!??」

 うかつだった――などと思う暇もない。

 確かにドラゴン種にとって『息』は、その牙や爪以上に危険な武器だ。とはいえ、生誕百日程度の幼竜の吐く『息』など威力としてもたかが知れているはずだった。

 だが、それも至近距離から吐きかけられたなら話は別だ。

 ザーンとしてもなんでたまろう。その胸に抱きかかえた距離から火を吐かれては火ダルマになる以外に選択肢はなかったろう。

 そして、最初からこうする予定であったというなら――つまり自分たちは、彼らに一杯食わされた、ということなのだ。

 ならば、事ここに至っては、ムーアのすべきことは一つしかない――。

 

 

 三歩の距離を半呼吸で詰め、いまだにのんきに宙を浮かぶ幼竜に、ムーアは渾身の抜き打ちを叩きつける。

 人を小馬鹿にするような顔をしていた幼竜が、初めて明確に恐怖の表情を浮かべる――。

 

 

 ムーアの学んだ来世流は、『共和国』内の剣法諸流派の中でも、その特徴として抜刀術に特化した流派だという事実がある。

 抜刀術とは、いわゆる「居合(いあい)」のことで、あらかじめ剣を構えず、腰に差した鞘から剣を抜きながらの斬撃のことであり、極めれば、この技一つであらゆる武技・剣技に対抗できるようになるとまで言われる。

 ムーアは、流派の抜刀術に自分なりの工夫を加え、それを評価されて師から免許皆伝を得た。いわば彼にとって抜き打ちの一刀は、まさに得意技であると同時に必殺技であると言えた。

 が、この場合――ムーアにとって不幸であったのは、そこにいたのが、クシャトリス・バーザムズールと池波新左衛門の二人だったということか。

 硬い手応えと金属音。

 皆伝を得た時に師匠から譲られた総州村綱二尺三寸の一撃を、見事に受け止めた一本の杖。

 そして、我が意を得たりとばかりに会心の笑みを浮かべるダークエルフ娘。

 

 

「やらせないよ」

 

 

 その言葉を聞いたという自覚すらない。

 クシャトリスがその一撃を受け止めたのと全く同時に、池波新左衛門の峰打ちの一刀が、彼の横っ腹に叩き込まれていたからだ。

「かは……ッッ!」

 肺の中の息を残らず吐き出し、たまらず膝をつくムーア。

 しかし、そのまま無様に倒れるような真似はしない。

 地面に手を付き、そのまま悪鬼のような表情で睨み上げる。

 さっきとはまるで逆の構図となったわけだが、とはいえ、その視線の先にあるのはサムライとエルフ娘ではない。

 ホッとしたような表情を浮かべる、ぬいぐるみのような外見をした竜の幼生。クシャトリス・バーザムズールが「ナマイキ」と呼ぶこの生物こそが、彼の刃物のような視線の先にある存在だった。

 だが――。

 

 

「おお、上手くいったようじゃな」

 

 

 そう言いながら、洞窟から出てきたサムライ装束の老人を見た瞬間、ムーアの意識は混乱した。

(馬鹿な……ッッ)

 結界を張っていたリアは、侵入者は確かに二人だと言い切った。

 ならばこの老人は一体いつの間に、どうやってこの場に入ってきたというのか。

 もうわけがわからない。いったい何故こんなことになってしまったのか。

 すべての状況が、ムーアの想定の斜め上を行ってしまっている。この稼業について結構経つが、こんな不可解すぎる事態が連続するのは初めてだ。

 しかし、ムーアに分かることもある。

 この老人が無傷で、洞窟から出てきたということは、つまり――。

 

 

「済まんのう、中におったおぬしの部下は全員斬らせてもらったぞ。まあ、わしの弟子にちょっかいかけた以上は、少しは懲りてもらわんとな」

 

 



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第十五話 「竜の子(其の八)」

 

「済まんのう、中におったおぬしの部下は全員斬らせてもらったぞ。まあ、わしの弟子にちょっかいかけた以上は、少しは懲りてもらわんとな」

 

 

 その言葉に何も感じなかったといえば、さすがに嘘に近い。

 しかしクシャトリス・バーザムズールの師匠ということは、この老武士こそが、世に高名な渡辺源太夫ということになる。ならば、リアとハッテの二人があっさりやられたのも当然と言える。

 いや、どうせなら、この老剣客と相対する役は、是非ともムーア自身が勤めたかった。

 暗黒街で生きてきた彼にとって、敵に対する奇襲・不意打ち・騙し討ちは「正義」と断言できるほどに当然の行為であったが、それでも前世流皆伝の剣士としての矜持は今もなお存在している。

 敵にまんまと一杯食わされ、こんなブザマを晒すくらいならば、まだ剣士として一対一で戦える機会を得る方がまだマシだ。たとえその結果が死であったとしてもだ。

 とはいえ、ムーアにはもはや余計なことを考えるだけの余裕さえもなかった。

 大地に倒れ、焦げた肉の臭いをまき散らしながら微動だにしないザーン。その横に並ぶようにムーアも崩れ落ち、意識を失った。

 

 

 

「おうナマイキ殿、おぬしに借りたこれは大したもんじゃのう。洞窟の中におったリザードマンが、目をパチクリさせておったわ」

 そう言いながら源太夫は、お守りのように首からぶら下げていた物を見せつける。 

 大きさ一寸(3センチ)ほどの半透明の楕円形の物質が三枚、穴を開けて紐に貫かれ、薄く光っている。

 竜の鱗――ドラゴン種はそのウロコの一枚一枚に対魔法属性があり、あらゆる攻撃魔法や防御結界に有効である。むろん一枚一枚の効果は知れたものであるが、それを数枚も重ねれば、術者に気づかれずに結界を素通りすることなど何でもない。

 もっとも、そこからリザードマンたちに全く気付かれることなく洞窟に侵入し、中にいた敵を斬り捨てて、人質たるラヴィアン・バーザムズールを救出したのは――新左衛門とクシャトリスが敵の三人の目を引きつけていたおかげもあるが――渡辺源太夫の隠業がいかに完璧なものであったかということを証明するものでもある。

 が、そんな老人に、幼竜が何かを言おうとした瞬間、クシャトリスが飛び込んでくる。

 

「母さんは!? 先生、母さんは無事なの!?」

 

「中じゃ。魔法か薬で眠らされとるから死んではおらん。安心せい」

 その言葉に返事をする暇さえ惜しむように、クシャトリスは洞窟に飛び込んでいき、その背中を柔らかい視線で見送りながら……しかし新左衛門を振り向いた老人の表情は厳しかった。

「池波、殺してはおらんじゃろうな」

「はい」

「よし、この男には色々と話を聞かせてもらわんといかんからのう」

「はい……しかし」

「なんじゃ?」

「先程この男が見せた見事な居合から考えても、まともに仕合っていたら、おそらくはこうも簡単に峰打ちなど入れられはしなかったでしょうね」

 そう言ってうつむく新左衛門を、源太夫は鼻で笑うように言い返す。

「何を言うか、お前とバーザムズールを同時に相手にして凌げるような剣士など、この国にゃ三人とおらぬわ」

「同時にって……先生!?」

「冗談じゃ、冗談」

 

 真顔で抗議せんばかりの新左衛門を軽くいなすと、源太夫は脇差を抜き、パタパタと浮遊する幼竜の手足を縛っている縄を切断してやる。

 が、ナマイキはむしろ不機嫌そうな口調で老人に言う。

「まあ段取りが予想以上に上手くいったことに関しては喜ばしいと言うべきだけどさ」

「ん、どうした?」

「そのウロコ早く返してくれない? 生皮になったところがまだ痛いんだよね」

「おう、それは気づかず済まなんだな」

 源太夫はその場に座り込むと、首からぶら下げた紐をほどき、ぬいぐるみのようなチビ竜を膝に置いて、その背にウロコを差し込んでいる。

 傍から見れば、まるで縁側で猫のノミ取りをしている好々爺に見えなくもないが――それでも新左衛門の心は晴れなかった。

 

 

 焼死体の隣で、地面に転がったまま死んだように動かないリザードマン。

 この、名も知らぬ敵を、新左衛門は背中から斬った。それも二対一の形でだ。

 もっとも、それは彼にとっても反射行為に等しいものだったので、意図的な攻撃ではなかったと言い訳することもできなくはないが、しょせんは詭弁だ。それを仕方のないものだったと割り切る大雑把さを、若い池波新左衛門は持ち合わせない。

(武士としてあるまじき行為だ)

 そう思う心を抑えきれない。

 もっとも、このリザードマンが手段を選ばぬ単なるチンピラだったなら、新左衛門の罪悪感も、ここまで湧き上がることはなかっただろう。

 現に新左衛門は、幼馴染の母親を誘拐したこの犯罪者たちに、非常に真っ当な怒りを覚えていた。その怒り自体は今もなお完全に冷めたわけではない。

 が、それとこれとは、また別なのだ。

 このリザードマンが見せた、あの見事な抜き打ち。渡辺道場『練武館』次席剣士たる彼にはわかる。

 あれは二年や三年の修練で身につく技ではない。その人生の大半を剣に捧げた者のみが可能にする鋭さを、あの居合は持ち合わせていたからだ。

 あれを見た瞬間、新左衛門の認識の中で、この敵は、単なる犯罪者ではなく一人の「剣客」になってしまった。願わくば、まともな立ち合いで雌雄を決したかった――そう思う心がある限り、新左衛門の心は晴れない。

 

(いや、違う……)

 我ながら、何故こんなことにここまで罪悪感を覚えてしまうのか、それを問われれば理由はハッキリしていると答えざるを得ない。

 そう思いながら、新左衛門は師匠と、その膝の上の竜の幼生に目をやった。

 

 

――話は数時間前にさかのぼる。

 

」」」」」」」」」」」」」」」」

 

 

 

「……で、ナマイキ殿、結局そなたは今までどこで何をしておられたのでござるか?」

 

 

 落ち着いた口調で新左衛門が、幼竜ナマイキに尋ねる。

 一応は竜族に対する敬意を残した言葉遣いであるが、事件の一因がこの竜にあることを考えると、少なからずその言葉尻には穏やかならぬものが混じるのを抑えきれない。

 もっとも、その向こうで師匠になだめられながらも狂犬のごとき表情でこっちを睨んでいるクシャトリスを見れば、彼の意識も自動的に冷静にならざるを得ない。

 ナマイキは、特に恥じる様子もなく言った。

――身を隠しつつ、例の四人組を上空から見張りつつ追尾し、その塒(ねぐら)を突き止めていたのだ、と。

「あんたのッッ!! あんたのせいで母さんがッッ!! それについて言うべき言葉は無いのッッ!!」

 と、ヒステリックに叫ぶクシャトリスだが、幼竜はむしろ無邪気なままの口調で、言い返す。

「だって、あのときは逃げるしかなかったじゃない。お姉さんはボクを引き渡す気満々だったし、奴らに捕まったらもう逃げられないのは目に見えてたしさ」

「そのせいで母さんが今どういう目に遭ってると思ってるのッッ!?」

「まあ、それに関しては謝るけどさ、ボクにも自分の身の安全を守る権利はあるからさ」

「それで謝ってるつもりッッ!!」

 そう喚きながら剣を抜こうとするクシャトリスだが、さすがに源太夫がその手を押さえ、

「よさぬか、たわけ者がッッ!!」

 と、一喝する。

 だが、そんな老人でも幼竜を振り向く視線は険しい。

「で、ナマイキ殿は、これからどうなさるおつもりで我らの前に姿を現しなされたのか?」

 しかし――と言うか、やはりと言うべきか――ナマイキはまったく態度を変えることなく放言する。

 

 

「決まってるじゃないか。あの四人組をやっつけておばさんを救い出すんだよ」

 

 

 新左衛門とクシャトリスはさすがに凝然となった。

 今回の一件の責任を取って人質交換に身を晒す――そんな殊勝なことを言うキャラクターではないことは、今までのやり取りの中で充分理解できたが、言うに事欠いて、まさか人質奪回などとは……。

「……まあ、そうするしか無いわな」

 という一言で新左衛門の思考を遮ったのは、師匠の渡辺源太夫だ。

「馬鹿な!! 先生は母の命を見捨てろと申されるのですか!!」

 と、クシャトリスも声を荒げるが、源太夫はむしろ沈鬱な表情で振り向く。

「実はなバーザムズール、そなたには言っておらなんだが、わしらも市長から直命を受けておる。この幼竜殿を保護し、緑竜王に無事引き渡すという使命じゃ」

「え……?」

「役目に従ってこの者を緑竜王の使いに渡せば、人質交換は不可能になる。かといって人質交換を優先すれば、この幼竜殿もタダでは済むまいから、わしらはお役目を果たせぬことになる」

 その含みを持った言い方にエルフ娘は、それこそ刺すような視線を向けて問いかける。

 

 

「それでは先生は、あたしの母親の命より自分のお役目とやらの方が大事だと……そう仰るのですか?」

 

 

 いや、そうではない――と言いながら、首を振る源太夫。

「もしもこの幼竜が四人組に引渡し、殺されでもしたら、その直接の死に関わったわしらを緑竜王は決して許すまい。最悪の場合、そなたの母君が無事に帰ってきても、この街は緑竜王に襲撃され破壊されるという可能性も考えられる。わしらは立場上、そんな可能性を見過ごすわけにはいかぬ」

 そんな馬鹿な……とつぶやくクシャトリスだが、その表情にはもはや怒りはない。

 確かに竜族を怒らせるという行為がいかなる結果をもたらすか、彼女にしてもその程度のことに考えが至らぬ程に頭に血が上っているわけではなかったのだ。

「じゃあ……どうすれば……」

 しかし、絶望したように宙に視線を漂わせる彼女に返答したのは、源太夫ではなかった。

 

 

「わからない人だなぁ……だから四人組をやっつけて、おばさんを救い出すんだって言ってるじゃないか。ボクの身柄を父上の家臣に渡しても、例の四人組に渡しても、結局はろくな結末にならない。なら、残された選択肢は一つしかないじゃないか」

 

 

(確かにな……)

 新左衛門としても、その発言に納得するしかなかった。

 むしろ強攻策を前提として考えないと、この一件はとても円満に大団円を迎えられそうにない。

 それに戦力としても、ここにいる自分たちなら申し分ないと言えるだろう。無明流渡辺派の総帥と道場序列一位と二位の剣士ならば。

 そして幼竜ナマイキは、この場にいる全員の視線を引き受けつつ、むしろ得意げに言葉を続ける。

「だからこそボクがわざわざ連中のあとをつけて、その拠点を突き止めてあげたんじゃないか。それともお姉さん、腕ずくだと無事に済ませる自信がないのかな?」

 その言葉が終わらないうちに飛び出したクシャトリスは、幼竜の眉間に拳の一撃を叩き込み、黙らせる。

 しかし、そのあと振り向いた彼女の表情には、確かな覚悟があった。

 

 

「――でナマイキ、あんたが突き止めたっていう四人組の塒(ねぐら)はどこだって?」

 

 

」」」」」」」」」」」」

 

 

 以上の成り行きの末、新左衛門たちはこの円象山の洞窟にやってきたわけだが、しかし、実は彼がそれを思い出したのは、ついさっき――幼竜が口から息(ブレス)を吐いて、太ったリザードマンを焼き殺した瞬間だった。

 つまりナマイキは、新左衛門とクシャトリスに精神魔法をかけ、その記憶を改ざんしていたのだ。

 それは自分たち二人も承知の上であったし、師匠たる源太夫も賛成したことである。

 無論その効果も永久的なものではない。

 現にナマイキは、己の「火を吐く」という行動を引き金に、彼らの記憶が回復するように魔法を調整してくれていた。

 そもそも、ナマイキが何故そんな魔法を彼らにかけたのかといえば、新左衛門とクシャトリスの不器用さに、作戦遂行上の不安を覚えたからであり、早い話が、彼ら二人自身の責任だと言えなくもない。

 

 この作戦の要諦は、クシャトリスと新左衛門の二人が敵の目をひきつけている間に、源太夫が結界内に侵入して洞窟内の人質を奪回するという、非常にシンプルなものである。

 しかし、そのためには、様々な意味で敵から疑われてはならないという前提条件が付随していた。

 たとえば、二人が囮の役割を果たすためには、敢えて正面から彼らの結界を破り、その存在をアピールしなければならない。

 だが、この場合、敵リザードマンに伏兵の存在を疑われないためにも、彼ら二人は、あくまでも円象山の洞窟に、何の意図もなく立ち寄り、そこで「偶然」リザードマンたちに出会ったという小芝居を貫かねばならない。

 その上で人質解放の交渉に持ち込めたとしても、二人はあくまでも自分たちが時間稼ぎの陽動である事実を敵に察知されてはならない。

 

 

 そして――そんな演技力が自分たちにあるかと問われれば、新左衛門にしろクシャトリアにしろ「無い」とハッキリ答えるしかなかった。

 

 

 しかし、今更言うのもなんだが、術が解けてしまえば、自分たちが見事なまでに事実と異なる記憶を信じ込んでいたということに、まさしく新左衛門は慄然となる。

 あの瞬間、彼自身は自分の言っている言葉をまるで疑っていなかった。

 この洞窟を探索してみようと思い立ったのも、そこに当然のように取引の切り札たるナマイキを伴っていたのも、今から思えば不自然極まりないと思うが、それでもまったく疑問を抱かなかった。

 それはクシャトリスにしてもそうだろう。あの強情狷介な女が、たとえ芝居にせよ敵への土下座などという屈辱に耐えられるはずがない。自分たちは嘘をついているなどという認識がカケラもあれば、たとえ母親の命が掛かっていたとしても、もう少し違う行動に出たはずであろうし、あのリザードマンたちの冷たい目には、そんなわざとらしさは確実に見破られていたに違いない。

 

 新左衛門は、源太夫の膝の上で身を丸めるナマイキに、視線を移す。

 ドラゴン種の個体が、それぞれ大規模なコミュニティを経営しているという事実も、ひょとしたらその「眷属」を名乗るリザードマンたち一人一人に、いま自分たちにかけたような精神魔法を施しているのかもしれない。

 そう思うと、新左衛門はぬいぐるみのような竜の幼生に、言い知れぬ不気味さを覚えた。

――その瞬間だった。

 

 

 

「あぶないッッ!!!」

 

 

 

 それが師匠たる源太夫ではなく、ナマイキの声であった事実を奇異に思う暇さえなかった。

「ッッ!!」

 とはいえ、新左衛門がその剣をかろうじて回避し得たのは、正しくその声のおかげと言ってもいい。それほどまでの鋭さを、その一撃は持ち合わせていたからだ。いや、それ以上に、新左衛門自身にとってその攻撃は文字通りの不意打ちだったからだ。

 身をひねって体勢を立て直し、腰の刀を抜き合わせて構える。

 そこには、峰打ちを喰らって意識を失っていたはずのリザードマンが、剣をぶら下げ、息を荒げながら大地に立っていた。

 

(油断していた……?)

 正直なところ、そう思う。

 願わくば一騎打ちで雌雄を決したかった――などと傲慢な思いを持ってしまったからこそ、新左衛門は気絶していたこの男の手から、握られたままになっていた刀を蹴り飛ばすこともしなかったし、その体を縛り上げることも急がなかった。

 もっとも言い訳はある。

 あのタイミングで、あの角度で峰打ちをまともに喰らった者が、こんな短時間でここまで動けるはずがない。池波新左衛門は、己の剣の威力にその程度の自信は抱いている。

 が、もはやそんな雑念というべき思考に費やしている時間はない。

 渡辺源太夫も、幼竜ナマイキも、一瞬前とはまるで別人のような表情になり立ち上がっている。いや、すでにリザードマンの背後の逃げ道を塞ぐべく動いている。

 ならば、ここで新左衛門がすべき行動は、たった一つだ。

 

 

「名乗れ。さすれば名も無き誘拐犯としてでなく、せめてその剣に見合った死を与えてやる」

 

 



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第十六話 「竜の子(其の九)」

「名乗れ。さすれば名も無き誘拐犯としてでなく、せめてその剣に見合った死を与えてやる」

 

 

 新左衛門の宣告に、リザードマンの右斜め後方を飛ぶチビ竜は、

(おいおい、そんな悠長なこと言ってないで、とっととやっつけちゃいなよ)

 と言わんばかりの顔をし、それに反して、リザードマンの左斜め後方に回り込んだ源太夫は、

(それでええ。そろそろバーザムズールのやつも洞窟から出てくる頃合いじゃ。それまで時間を稼いで三対一でかかれば、万に一つも逃がす恐れはないわ)

 と言わんばかりの顔をしている。

 が、新左衛門にはそのいずれの意思にも添う気はなかった。

 

 

「安心しろ、後ろの連中に手は出させない。武士として誓ってやるが、これはおれ――池波新左衛門と貴様との一騎打ちだ」

 

 

 その言葉に頬を緩めたのは、当のリザードマンだけだった。

「ずいぶん人の良いことを言われるが、その言葉を信じてもいいのか」

「かまわぬ。武士としてと申した以上、偽りを言う気はない」

 そう断言した新左衛門の表情に真剣なものを感じ取ったのか、源太夫やナマイキが、

「おい、本気で言うとるのか池波!?」

「違う! そうじゃない!! この男は――」

 口々にそう叫ぶ両者を遮るように新左衛門は声を荒げた。

「ご両所は口出し無用に願いまする!!」

 その言葉にムッとしたように口を閉ざした幼竜や、ため息をつきながら顔を背ける師匠に反して、新左衛門は、

(むしろ、いい機会だ)

 などと思ってさえいた。

 あの居合を見て以降、このリザードマンに剣士として興味を覚えていたのは事実なのだ。

 ならば、その剣士としての欲求を抑える気は新左衛門にはない。

 この敵にしても、あれほどの剣の使い手ならば、そういう気持ちを理解できるはずだ。

 現に、彼の言葉を聞いてリザードマンの表情も少し変わった。

 

「変わっておるな貴公……賊の頭目である俺を剣士として遇しようとてか?」

「敵に対する敬意を忘れず、その敬意ごと敵を斬る。それが武士というものだ」

「…………」

「して、そなたの名は?」

「……ムーア・フォースサイズ。貴公の名は池波新左衛門、でよいのか?」

 敵に名を聞かれる。それは互いに一人前の武士にとって誇るべき事実である。

 しかし、そう思う新左衛門の目に映ったリザードマンの顔に浮かんだ表情は――あからさまな嘲笑だった。

 

 

 

「しかし池波殿、今後のために言っておいてやるが……敵に『お人好し』と言われたら、それは褒め言葉と解釈しないほうがいい」

 

 

 

 上空から突風に近い風がこの場を襲う。

「な、にぃ……ッッ!?」

 反射的に後ろに飛び下がった新左衛門が見たのは、上空から真一文字に急降下してきた一頭のワイバーン。

 そして、リザードマンの黒背広の胸元からこぼれる、首飾り状に紐で結えられた「竜笛」。

 

 それを見た瞬間に、新左衛門は先刻の自分への警告が、なぜ源太夫ではなくナマイキからの声だったのか、ようやく理解していた。

 あのリザードマンは、意識を回復させた瞬間に新左衛門に襲いかかったのではなく、まずその竜笛でワイバーンを呼んだのだ。犬笛と同じく、人間の可聴域外の音波でワイバーンを操るその笛の音を、この場では同じ竜族のナマイキだけが聞き取ることが可能だった。だからこそ、あの瞬間に新左衛門に警告を発することができたのだ。

 そして、新左衛門が体勢を立て直して刀を抜く前に、リザードマンが続けて斬撃を打ち込んでこなかったのも、単純に峰打ちのダメージが抜けきっていなかったというだけではあるまい。この男もまた、ワイバーンが到着するまでの時間を稼いでいただけに過ぎなかったのだ。

 

 

 ワイバーンは、その後ろ足でリザードマンを鷲掴みにすると、再び羽ばたいて、ふわりと宙に浮き、口をカッとほぼ垂直に近い角度にまで開いた。

(まずいッッ!!)

 新左衛門がそう思った瞬間、源太夫がナマイキの首根っこを掴み、彼の傍らに飛び込んできた。

「ボヤボヤするな、息(ブレス)が来るぞっ!!」

 正直なところ、新左衛門にとって、この師匠の声がこれほどまでに心強く響いたのは久しぶりの経験だったというしかない。 

 返事すらせずに、彼はナマイキや源太夫と魔力を同調させ、自分たちの眼前に防御結界を張る。

 まるで竜巻のごとく螺旋に渦を巻いた火炎を、その結界は見事に防ぎ切った。

 しかし、それだけのことだ。

 数瞬後、視界が晴れた三人の前には、すでにワイバーンは上空遠くに飛び去ったあとだった。

 

 

「その名は覚えたぞ池波新左衛門!! 機会があったらまた会おうぞッッ!!」

 という捨て台詞だけをのこして。

 

 

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「――で、先生は怒ってたの?」

「当然だろ。おれが奴をとっとと縛り上げていれば、少なくともこんな結果にはならなかったんだからな」

「ま、そりゃそうよね」

 そう言ってクシャトリスは微笑む。

 正直なところ、新左衛門にとっては笑い事では済まされない話なのだが、この幼馴染の笑顔を見た瞬間に――まあそれで済んだのならいいかと思ってしまったのも事実だ。

 今は道場での本稽古の帰りである月夜の晩。

 時間にして、ムーア・フォースサイズと名乗るリザードマンがワイバーンで逃げ去ってから三日が経過している。

 クシャトリス・バーザムズールはこの日の夜、事件以降初めて道場に顔を出した。

 

「で、おばさんは元気にしてるか?」

「うん、結局のところ単に眠らされてただけだしね。自分が拉致されたことさえ知らなかったし」

「……それ一体どういうことだよ?」

「だからさ、母さんは魔法で眠らされてから奴らの手に落ちたから、自分が誘拐された記憶がないのよ。結局次の朝まで起きなかったし、話を聞いたらパートの職場である大衆食堂へ向かう途中までしか憶えてないらしいから戸惑ってはいたけどさ」

「で、どう説明したんだ?」

「してないわよ、そんなもん」

「なに?」

 その言葉に新左衛門は目を剥いた。

 

 

「ナマイキの奴に、今度の事件の関係者全員に精神魔法をかけて記憶を改変させたのよ。まあ、関係者って言ってもそんなにいないし、時間もかからなかったしね」

 

 

 新左衛門はしばし絶句したが、クシャトリスはそんな彼を見て、むしろ不快げな顔をする。

「なによ、言いたいことでもあるの?」

「……いや」

 と、言って彼は目を逸らした。

 そんな新左衛門に彼女は口を尖らせる。

「どうせ、あたしがナマイキの精神魔法に頼りすぎてるとか勝手に思ってるんでしょう? 言っとくけど、これは先生の指示でもあるんだからね。母さん本人と父さんと食堂の人たちに、ラヴィアン・バーザムズールはその日風邪で一日寝てたっていう記憶を上書きして解決しろってね」

「……人の心や記憶を簡単に操るような術を気安く使うべきじゃない。そう思うだけさ」

「それですべてが丸く収まるならいいじゃない。今回の一件は、どうせ嘘で誤魔化すしかないんだし、だったらより確実な方法をとっただけよ」

「まあ……確かにな」

 その言い捨てるような口調がやや気に食わなかったが、しかし新左衛門にしてもクシャトリスの今の一言に反論することはできない。

 

 今回の一連の事件は、市長ゲイル・マルクスによって最重要機密指定を受けており、直接事件に関わった源太夫・新左衛門・クシャトリスの三人には守秘義務が課せられている。

 つまりクシャトリスが、リザードマンの魔法で丸一日眠らされていた母に「自分に何が起こったのか」と問われても、真実を説明することはできないということなのだ。

 そして、口下手で不器用なクシャトリスが、関係者を恒久的に黙せるような上手い作り話を考えつくはずもなく、ならば源太夫が彼女に、ナマイキの精神魔法を使うように指示したのも当然と言えた。

 

「まあ、あんたの言い分もわかるけどね……」

 

 そう言いながら彼女も、なにか苦いものを飲み下すような顔をする。

 その顔を見て新左衛門も、クシャトリスが決してチビ竜の精神魔法を、何の抵抗もなく便利使いしていたわけではないと知り、やや安心した。

「そうか……なら、それで以前と同じく平凡な日常に戻ったということでいいのか」

 新左衛門はそう言い、大きく息を吐いた。

 どのみち、もう幼竜ナマイキはすでにジュピトリアムにはいないのだ。

 新左衛門は、事件の翌日に市庁に現れた、緑竜王配下のリザードマンに会っているし、彼らは今すぐにでも、この人騒がせな御曹司を里に連れ帰ると言っていた。

(ならば、災いを持ち込んだあのチビ竜に、最後に一仕事やらせたというだけの話ではないか)

――そう思った瞬間だった。

 

 

 

「ひどいなあ、まるでボクを厄介払いしたような言い方してさあ」

 

 

 

 数瞬の沈黙の後、クシャトリスは、ふわふわと自分たちの眼前を浮遊する幼竜に向かって歩を進め、その眉間に向かって拳を振り下ろした。

「いぎっ!?」

 ナマイキの口から悲鳴が漏れる。

 さっきの沈黙の間に、チビ竜がクシャトリスに精神魔法をかけたのではないかという疑いが新左衛門の脳裏を走らぬでもなかったが、その鉄拳制裁を見て、そんな事実はないと安堵した。

 彼女の背中から発散される感情は、紛れもない怒りだったからだ。

 

「そんなに怒らなくてもいいじゃん……」

「どういうこと? あんた里に帰ったんじゃなかったの? それともまた家出してきたの? 親御さんに心配をかけたことを後悔してるって言ってたのはやっぱりウソだったの!?」

「帰ったよぉ! その上で今度はちゃんと父上の許しをもらってきたんだよぉ!!」

「許し? 許しって緑竜王の?」

「そうだよぉ! お前ももう少し世間を知る必要があるって言ってくれたんだよぉ!!」

「ナマイキ殿」

 そこで初めて新左衛門は竜と少女の会話に口を挟んだ。

「それは一体どういうことです? まさか再びバーザムズール家に滞在するという意味ですか?」

「うん、そのつもりだけど、それが何か?」

 

 しれっとそう言う竜の幼生に、新左衛門とクシャトリスは深い溜息を吐く。いや、吐くだけでは終わらない。

 クシャトリスは、無言で幼竜の首根っこを引っ掴むと、エルフ独特の端正な顔をチンピラのように歪ませて睨みつけた。

「……ねえナマイキ、あんたがウチにいる間にまた誰かに襲われて、それでウチの家族がまた巻き込まれたら、今度は誰が責任を取ってくれるの? あんた? それともあんたのパパ?」

「ああ、さっきから怒ってたのはその件か。それなら大丈夫さ、黄竜王とはもう話をつけたって父上が言ってたし」

「嘘をつきなさい!! そんな簡単に仲直りできるくらいなら初めからあんたを狙って殺し屋なんか来るはずないでしょッッ!!!」

「本当だよっ、そうでなきゃいくらボクでも、護衛もつけずに一人でフラフラ飛んでやしないさっ!!」

 その言葉の持つ意味に、さすがに二人はしばし沈黙し、顔を見合わせるが、ナマイキの口調は変わらない。

「護衛がいないっていうのは、つまりボクの最低限の安全保障に関する話がついたって証拠さ。ボクだって命は惜しいからね」

 

 

「クシャ子……ナマイキ殿を離してやれ」

 新左衛門からそう言われ、少し不満げな顔で振り向いたクシャトリスだったが、しぶしぶ幼竜を彼の胸元に放り投げる。

「ふう、助かったよサムライのお兄さん、首のここをギュッとされるのって結構痛いんだよね」

「ナマイキ殿」

「なに?」

「そなたの言葉、本当に信じてもよいのですな? そなたを家に招くという事は、クシャトリスのみならず彼女の家族の命にさえ関わる事柄です。今の言葉が単なる作り話ではないと、本当に信じてもよろしいのですな?」 

「……偉大なる竜族の言葉が信用できないと?」

「残念ながら」

「え、なんでよ?」

 そう問われ、新左衛門の表情にムラムラと抑え込んできた怒りが立ち上る。

 

 

 

「なんでもクソも……忘れたとは言わさねえ……てめえは三日前のあの時、あの居合抜きのリザードマンが竜笛を吹いていた事実を、おれに言わなかった。それを知ってりゃ、さすがにおれも野郎と一騎打ちでケリをつけたいなんて思わずに、とっとと動いてたはずだったんだ。あの後おれが先生にどんだけ怒られたか知ってるか?」

 

 

 

「そっ、そんなことボクは知らないよっ! だいたいボクが言おうとしたのを遮って口出し無用に願いますると叫んだのはお兄さんじゃないかっ!!」

「うるせえ!! とにかくお前を先生のとこに連れてくから、あのときのおれの弁護をしろ!! ぶん殴られたこっちの奥歯がまだ痛いんだぞ!!」

「いやだよ面倒くさい!!」

「嫌とか言うなこの野郎、とにかくこっち来い!!」

 そう言いながら二本差しのサムライが竜の幼生を追っかけ回すシーンは、傍目に見ても滑稽なものであったが、それを仲裁しようと両者の間に入るダークエルフ娘の背中にナマイキは隠れる。

「おいクシャ子、そいつをとっととおれに渡せ!!」

「もうやめなさいよ、みっともない……いま聞いた話はあたしからも先生の耳に入れておくからさ」

 が、そう告げるクシャトリスの顔は、明らかに笑いを噛み殺してた。

 その弛緩した空気を敏感に読み取ったのか、ナマイキはすかさず調子に乗る。

「お姉さん、ボクお腹が空いたんだけどな」

「アンタ、なし崩しにうちに厄介になろうなんて甘いこと考えてないでしょうね?」

「え……じゃあ、やっぱりどうしてもダメなの……?」

 

 まるでヌイグルミのような可愛らしい外見を持つ幼竜が、真摯な表情で手を合わせ、拝むようにこっちを見上げてくる姿は、傍目にはいかにも健気で哀れを誘う。

 だが、クシャトリスがかれに向ける視線は、新左衛門に向けていたそれとは違い、冷たいままだ。

 もっとも彼女にしてみれば、それも無理はない。

 生後百日という一歳に満たない幼齢でありながら、このチビ竜の性格が、まさに一筋縄ではいかないものである事実を、クシャトリスはこの街の誰よりも知っているからだ。

 

 

 

「三つ――あたしの家で暮らしたいなら、少なくともこの三つの条件だけは絶対に守ってもらうわ。それでもいい?」

 

 

「……わかったよ」

 彼女の厳しい表情に、少し困惑したような表情をしていたナマイキも、やがて諦めたように顔を伏せる。

「まず、今後はあたしに隠し事を一切しないこと。もしもアンタがうちに来た時点で自分が狙われてることを話してくれてたら、少なくとも母さんは巻き込まれずに済んだのよ。わかってる?」

 無論そんな事実を最初に聞いていたら、クシャトリスは躊躇なくこの竜の幼生を、自宅から叩き出していただろう。そういう意味では、ナマイキにとってはあの時点でそんなことを言えるはずもなかったのだが、しかし彼はその不満を極力出さず、うなずく。

「……はい」

「次に、あんたの精神魔法――あの術は、今後はあたしの許可なく使わないこと。いい?」

「え、なんでよ!? ボクの魔法をボクがどう使おうとボクの勝手じゃないか」

「口答えしないッッ!!」

 その一喝に、幼竜はふたたび口を閉ざす。もっとも、今度の沈黙には明白に不満げな感情が浮き出ていたが。

「…………はい」

「最後に――いい? いま言った二つを守っても、この三つ目の条件に逆らったら即座に家を追い出すからね」

「………………はい」

 

 

「たまには肉ばかりじゃなく、野菜も食べること。健康に悪いからね」

 

 

「え?」

 反射的に顔を上げたナマイキの目に映ったのは、少し照れたように顔をそらすダークエルフ娘。

 そして、塀にもたれながら、そんな彼女を見て肩をすくめる池波新左衛門。

「で、返事は?」

「は、はい!!」

 そう叫ぶと、幼竜はクシャトリスの頭上に飛び乗った。彼女はそれを鬱陶しがりもせず、言い訳のようにつぶやく。

「ま、ここでアンタを追い返したりしたら、母さんが悲しむからね」

「ありがとう、お姉さん!」

「その代わり、もう厄介事を持ち込むんじゃないわよ、わかったわね!」

 

 

 




ちょっと時間がかかりましたがこのお話はここまでで終了です。
次回からは新展開が始まります。


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第十七話 「黄竜王の放埒な日々」

いわゆる幕間という話です。
で、やや18禁ですね。


「内務省保安局第一室長シャーリー・アブラウ、お召しにつき、まかりこしました」

「伺っております。お入りください」

「はっ」

 

 その部屋の前に立つ2名の護衛が、ズズズ……と重そうに観音開きの扉を開き、シャーリーは中に入った。

 やがて扉が先程と同様に閉まり、もうもうたる湯気が彼女を包む。

 部屋の中は100平方メートルほど広大な浴室であり、中にいる彼女の主人は、湯気に視界を遮られていまいちハッキリしないが、それでもこの広い湯船の中央辺りにいるのは間違いないようだ。

 が――主君はどうやら一人ではないらしい。

 熱気や湯音と共に、裸の肉体と肉体が絡み合う淫靡な音と、そして隠す気のない開放的な嬌声が響く。

 

(やれやれ……)

 シャーリーはため息をつきつつ、着衣を脱ぎ捨て、湯船に足を入れる。

 まるでプールのように広い風呂なので、その中央で睦み合う主君の足元に辿り着くまで、少し歩かねばならない。

 面倒だとは思わないが、ここ数ヶ月の主君の乱行には、やはり臣下の者として一言言いたくもなるが、実際に主君を眼前に迎えた時に、シャーリーの口が諫言など発せた試しはない。

 たとえどれほど酒池肉林に身を浸していようと、その表情から緩みが消えた瞬間、反射的に死を覚悟するほどの威厳を、彼女の主君は持ち合わせているからだ。

 

 

 それがシャーリー・アブラウの仕える主――八大竜王が一柱たる黄竜王であった。

 

 

 

 かれら竜族がそれぞれ「王」を名乗るのは、その個体それぞれが強大な戦闘能力をもっているからという理由だけではない。

 実際のところ、彼らは王のごとく領地を経営し、その領民を支配しているという事実があるからだ。

『共和国』は本来、郡県制を基本とする中央集権体制であり、貴族階級による大規模土地所有を政府は容認してはいない。

 その大いなる例外こそが、彼ら竜族のコミュニティなのだ。

 むろん原則的にはドラゴン種といえど、ヒト種・エルフ種・獣人種などと同じく、『共和国』政府の前には平等に権利を認められた幻獣種という、一種族に過ぎない。

 しかし現実はそれを許す余裕を持たないのだ。

 彼らドラゴン種の持つ知性、戦闘力、そして「眷属」と呼ばれる彼らの支持集団を鑑みれば、その存在をガルーダやスフィンクス、グリフォンといった他の幻獣種と同一視することは不可能なのだ。

 無論その竜たちが、自分たちに特権を認めよと政府に迫ったような事実はない。『共和国』首脳が竜族を恐れ、はばかり、一方的に彼らのコミュニティの存在を追認したという言い方が正しいだろう。

 もっとも歴史を振り返れば『竜の里』と呼ばれる竜族のコミュニティの成立は、この『共和国』建国よりもさらに古い歴史を持っており、この広大なアーガマニア半島全域が『魔界』と恐れられてきた根本的な理由となっているという歴史的背景もある。建国当時の『共和国』政府が、彼ら竜族に法的便宜を図ることを条件に、建国への協力を取り付けたというのが、教科書に記されぬ史実といったところであろう。

 もとは竜族への信仰を核に集った宗教集団であったはずが、それも代を重ね、今では国内における純然たる独立国家の体をなしており、それが八つも存在を許しているという事実は、この『共和国』が所詮は一枚岩でないという事実を如実に示している。

 もっとも彼ら竜族の『里』は、明治初年度の鹿児島県のごとく、政府の仮想敵国として存在しているわけではない。敢えて言うなら連邦制国家の一国といった解釈の方が、その存在を理解するうえでわかりやすいであろう。

 

 その八つの『里』の大半は『共和国』の政治原則であるはずの共和制を無視するがごとく、竜王を頂点とする君主制によって運営されている。

 君主たる竜王自身を政治的に規制する憲法を持っていないため、立憲君主制と呼ぶことはできないが、それでも現人神たる「竜」を元首として戴くその国家体制は、一君万民思想を背骨に持つある種の平等思想を背景として持つため、決して全体主義国家のごとき息苦しさはもたない。

 さらに言えば、その国家システムは『共和国』のそれよりもさらに先鋭的で、実験的とも言える諸制度を施行するような一面を持ち、その政治思想は、決して旧態依然とした空気を匂わせない。

 特にこの黄竜王の『里』では産業資本が、内政・建築・軍事・国土開発などを担当する各省庁を圧迫せんばかりの勢いで成長を遂げており、それが官対民の構造的対立が年々深刻化しつつある原因となっていた。

 勿論こんな現象は、人類文明圏はもとより『共和国』内にもありえないものであり、主君である黄竜王は、それらの政治現象を面白そうに見つめるのみで抜本的な対策は講じていない。

 

 

 

「陛下」

「きたかシャーリー」

 二人の男性リザードマンを前後にはべらせ、それぞれ女性器と肛門に男根の奉仕を受けている美女が、そう言って笑う。

 黄竜王はその変身魔法を使い、妖艶かつ淫蕩な美女の姿となって、眷属相手に性戯にふけるのが、ここ数ヶ月の愉悦なのだ。

 もっとも人間種や獣人種と違って生殖に牡の精を必要としないドラゴン種にとって、いわゆるセックスはただの快感追求のための行為に過ぎない。故に、この主君の伽は、場所も、時間も、相手の性別すらも問わず、このシャーリー自身も何度か主君の褥(しとね)の相手を務めたほどだ。

 やがてサンドイッチセックスの形で主君と交わる二人は、同時に短く息を漏らし、彼らが達した――いや、イカされたのがシャーリーの目にもわかった。

 

 

 

「ズァル、ズェル、そなたたちは今宵ここまででよい。下がれ」

 

 

「「はっ」」

 その命令とともに、二人のリザードマンは主君の傍から離れ、湯船に膝をついて一礼をし、そのまま背を向けた。

 もっとも、そのうちの一人――ズェルと呼ばれたリザードマンが、去り際にシャーリーに鋭い視線を向けたことは黄竜王には気付かれなかったようだが、しかしシャーリーは何も言わない。

 むしろ、彼ら二人が浴室から退出してから、シャーリーは主君に、

「よろしかったのですか? 陛下はいまだ絶頂を迎えておられぬように見受けいたしましたが」

 と、彼ら二人のために尋ねたほどだ。

 そう問われた黄竜王も、やや苦笑いを浮かべると、言う。

「どうやら最近になってまた体の嗜好が変わったようでな。魔羅を突っ込まれてもなかなか達せぬのだ」

「で、わたくしをお召しになられたと?」

「どうせ突っ込むなら、男の尻よりも女の方が具合がいいはずだろう?」

 そう言うと、黄竜王は小声で呪文をつぶやき、そのクリトリスが変形し、一本の男根がニョキニョキと生え伸びる。

 それは、さっき主君に奉仕していた二人のリザードマンたちよりも、さらに逞しいイチモツであった。

「とりあえず遠慮はいらぬ。そなたも参れ」

 

 

 

 余談ではあるが、この『共和国』に於ける一般的な魔法とは、いわゆる風火地水の四大元素魔法が主であり、種族・階級を問わず、この国の国民はそのほとんどが、この魔法を行使することができる。

 が、竜族が使うのは、それら元素魔法に加え、一般には失伝したとされる古代語魔法であり、ナマイキが使う精神魔法もそこに含まれる。

 いま黄竜王が行使している変身魔法も、当然そこに属するものであり、その膨大な魔力を使って体細胞を自在に変化させるという、傍目にも奇跡にしか見えない術式であった。

 とはいえ、個体としての成竜本来のサイズは、体長30メートルにも達する巨大なものであるため、八大竜王と呼ばれる『共和国』の成竜たちは、普段のほとんどの時間を変身によってダウンサイジングされた肉体で過ごす。

 特に黄竜王はここ数ヶ月、この美女の姿に己の外見を固定していおり、さらに言えば、本来の竜態に戻ったことさえここ数十年ないほどだ。

 もっとも、自在に姿を変化させられる彼ら竜族にとって、己たちの外見など、もはや意味を持たない要素であることは間違いない。

 

 

 

「実はな、そなたを呼んだのは他でもない。先日の緑竜王の一件の話を聞こうと思ってな」

 そう言って笑った主君の目に、先程までの淫蕩な光はない。

 もっとも、黄竜王がこの浴室にシャーリーを呼びつけてから、時間にしてすでに数時間が経っている。

 擬似ふたなりとも言うべき姿を取る主君はシャーリーの体内に数回分の精を吐き出し、彼女はそれ以上の回数の絶頂を経験して、いまや二人の性器の結合は解かれ、彼女たちは湯舟のへりに腰掛けて、小休止の雑談を楽しんでいたところだった。

 しかし、シャーリーは意外だった。その一件なら、すでに調査報告書を主君に提供していたからだ。

「いや、私はそなたの口から聞きたいのだ。ああいう書類はどうも味気なくていかん」

「わかりました。では……結論から」

 そこでシャーリーは、こほんと一度咳払いをして息を切る。

 

 

「この『里』には、陛下のお許しなく緑竜王の幼生に手を出した者はおりませぬ」

 

 

 そう断言したシャーリーを見返すこの美しい主君の眼光は、まるで心の底の底まで見通すような透徹さを持っていた。

 が、いまさら気後れはしない。

「間違いないか?」

「間違いありません」

 無論そう言い切るからにはシャーリーにも根拠はある。

 

 この黄竜王のコミュニティの総人口は約十万。他の七柱の竜のそれと比べても平均的という程度の規模のものでしかないが、勿論そのすべての構成員が、ロボットのごとく意思を持たずに黄竜王に隷従しているわけではない。

 知性体が集団を組めば、派閥が生まれるのは人も獣人も変わらない。黄竜王の里にも隠然たる「勢力」というものが存在する。

 むろん勢力といったところで、主君たる黄竜王をないがしろにして構わないなどと考えるグループなどは存在しない。彼らは竜族に対する信仰と奉仕を何よりも誇りとして生きる者たちだからだ。

 が、その「奉仕」に対する解釈の違いによって、意見を異にする者たちの派閥があるのだ。たとえば主君がわざわざ口に出さぬ意思を配慮し、命なき令を独断で実行しかねない者たちのことだ。

 そして、シャーリーの予想通り、主君はその徒党の名を口に出した。

 

 

「ゼクスリー派の者たちは?」

 

 

 いま黄竜王が口にしたのは、『里』の武官のトップというべき軍務卿マシュー・ゼクスリーという名のリザードマンを首領とする派閥である。

 彼らはコミュニティの武闘派というべき連中であるため、もしも緑竜王の幼生に手を出すとしたら、誰もがこの者たちを容疑者リストの筆頭に上げるであろう一派であった。

 が、シャーリーは首を横に振る。

「主だった者たちに監視を付け、その言動を検分しました。その結果判明したのは、彼らはむしろ襲撃犯たちの行動に、先を越されたと悔しがっていたという事実のみでした」

「つまり、襲撃の計画自体は存在していたと?」

「……お叱りにならないであげてください。それもこれも全ては陛下のおん為を思っての行動でございます」

「ふん、心にもないことをほざきおる」

 そう言う主君に対し、シャーリーも苦笑いを禁じえない。

 ゼクスリー派は、ここ数年目立った軍事活動もなく冷や飯を食わされている軍人たちの、いうなれば利益代表のごとき側面を持ち、保安局の監視網を一手に仕切っているシャーリーとの関係は、互いに良好とはとても言えないからだ。

 

 

 もとより、この主君は緑竜王の出産の報告を聞いても、その子に対する暗殺指令など出してはいない。それは歴然たる事実だ。

 

 

 とはいえ、もしもその幼竜が無事に成長を遂げれば、その存在は緑竜王陣営における巨大なる戦力となるであろう。

 一般的に竜の幼生は親竜の膝下で薫陶を受け、その後、齢百歳の頃になってようやく巣立つという。しかし竜族という種は他の幻獣種に比べて成長が早く、五十歳にもなれば親竜から受け継いだ遺伝的能力をほぼ全て開眼できると言われており、つまり、その幼生が成長しきって巣立つまでの半世紀は、仮想敵国たる緑竜王陣営に成竜が二柱に増えるという危機的事態を迎えることになってしまう。

 黄竜王陣営の軍人派閥であるゼクスリー派が、その事態を警戒するのはむしろ当然のことであり、そういう意味では、シャーリーも彼らの幼竜襲撃計画を無理からぬものと理解はできるのだ。

 だが――結局のところ彼らは、計画を立てただけで、実際にジュピトリアムで起こったこの事件には関わっていない。

 それがシャーリー・アブラウの監視網が下した結論だった。

 

 

「なれどシャーリー、そなたは我が『里』の一人一人の行動を調べた訳はあるまい。先走った真似をしそうな者たちは他にもおるのではないか?」

「いいえ陛下、その疑問はごもっともなれど、我が監視の目は、何もゼクスリー派にのみ向けられていたわけではありませぬ。ロンフェイ派やドーベイン派にも相応の監視を放ち、つぶさに主だった者どもの動向を追わせておりました。私がさきほど御報告させていただいた結論は、それら全ての情報を入手した上でのものであります」

「ならば、それらの派閥に属しておらぬ者はいかがじゃ?」

 

 

 そこでシャーリーはようやく口ごもった。

 むろん彼女にしても、それを想定した上での調査活動も実施してはいる。

 今回の幼竜襲撃事件は、ジュピトリアム市庁によって箝口令が敷かれてはいるが、彼女の耳には既に事件のあらましは届いている。その上で判断できる事実としては、あの実行犯の四人組のリザードマンたちは、明らかにその道のプロだということであり、そんな連中を雇える者たちもまた、それ相応の経済的基盤を所持していなければならない。

 とはいえ『里』の資本家派閥というべきロンフェイ派に怪しき動向はなく、かといって無党派層の中で、そんな経済力を持つ分限者はわずかしかいない。無論それらにさえシャーリーは抜け目なく監視の目を放っており、彼女の結論はその上でのものであったが、ここに居る質問者が余人であったならば、当然シャーリーはそう言って質問者を黙らせたであろう。

 しかし、ここにいるのは他ならぬ主君たる黄竜王自身なのだ。

 内務省保安局第一室長シャーリー・アブラウとしては、主君の質問に対し、こう答えるしかない。

 

 

「確かに……派閥には無所属の者たちを含めてすべての疑わしき者たちに監視の目を注いだという自信はありますが……それでも、陛下の臣民十万人すべてを調べ尽くしたというわけではござりませぬゆえ、我が目の届かぬ名も無き者が、あるいは事件の黒幕である可能性も――ありえぬと言い切れるほどに低くはありますが――否定はできませぬ……」

 

 

 が、黄竜王は済まなさげにつぶやく部下を、責めるような言葉をかけたりはしない。

「そう言うな。どちらにしろそなたの仕事を私は評価している。よくやってくれた」

「陛下……お言葉もったいのうございます」

 感動のあまり目を潤ませながら顔を上げたシャーリーを黄竜王は落ち着いた瞳で見下ろし、言った。

「ここから先は政治の話になる。そちに頼んだ調査は、あくまでも我が方に弱味がないことを確認するためのものだ。つまり、私はそなたの仕事によって後背に危地が存在せぬことを知った。それで百万の援軍を得た気になれる」

「それは……先日結ばれたという、緑竜王との盟の話でござりますか?」

 そう訊いたシャーリーに、この美しき主君は花のような笑顔を見せた。

 が、その笑顔の華やかさに反し、シャーリーに浮かんだのは困惑と驚きのみであったと言ってもいい。その驚きが、思わず彼女に心中の疑問を口に出させた。

 

 

「陛下は……緑竜王との間に盟が結ばれたことを喜んでおられるのですか……?」

 

 

 

「さて……どうであろうか」

 と言ったきり、黄竜王はその問いに答えない。

 が、彼女の口元に浮かんだ笑みは、未だ消えていなかった。

 

 

 

 かつての幕末における薩長同盟のように、互いに憎悪し合っていた二つの勢力が一夜にして手を結び合うことは、実は珍しい例ではない。

 しかし、政治的にはともかく、対立期間に醸造された敵対感情そのものまで解消されたというような例は皆無であろう。そういう感情があればこそゼクスリー派は机上だけにせよ幼竜襲撃計画を企画し、その思いを無理からぬものとシャーリーも認めたのだ。

 端的に言えば、感情面において、緑竜王との同盟を喜んでいる者など、この『里』には一人もおらぬと断言できるだろう。

 が、この主君においては、それは当てはまらない。

 偉大なる竜族の一柱たる黄竜王陛下には、それら眷属が抱く下卑た感情に左右されることは毫もない――ということなのか。

 そう思ったとき、シャーリー・アブラウは、その胸中に一つの疑問が沸くのを止められなかった。

 

 

 今回のこの事件――ジュピトリアム市における幼竜襲撃事件は、政府によってその事件情報自体を深く秘されたため、『共和国』の一般市民でさえこの事件を知る者はほぼいないが、それでも客観的に見て、『共和国』建国以来の大事件であることは間違いなく、特に八大竜王の各コミュニティに対して激震を与えたと言っていい。

 自らを「黄竜王の家臣」と名乗った犯人グループは、結局のところ幼竜の殺害には失敗して逃亡したが、もしも幼竜が事件で死んでいたら、もはや黄竜王陣営は確実にのっぴきならぬ立場に追い詰められていたであろう。黄緑両陣営の関係はもはや修復不可能となり、即時開戦は確実となっていたはずだ。

 しかも上記したとおり、黄竜王に犯行動機があるのは間違いはない。黄緑の二柱の竜には、数百年にわたる遺恨があるのだから。

 そうなれば二百年に及ぶこの冷戦という名の平和(多少の小競り合いという名の戦闘はあったにせよ)は終焉を迎えてしまう。

 いや、それだけではない。息子を殺された緑竜王の立場を考えれば、和戦も休戦もありえない、どちらかが滅ぶまで戦い続けねばならぬ最悪の全面戦争となるはずだ。そうなれば喜ぶのはゼクスリー派の軍人どもくらいで、他の黄竜王の臣民には何一つ得るもの無き泥沼の殺し合いが始まるのだ。

 どちらにしろ犯人が、自分は黄竜王の家臣だと名乗ったという事実がある限り、もはや両者の間に戦端は開かれたと解釈していい――特に『共和国』の政府関係者はそう考えているため、それぞれの『里』に、大統領から開戦を思い止まるように特使が来たほどだ。

 

 

 なればこそ政府では、二柱の竜王の間に盟が結ばれた事実に腰を抜かしかねない勢いで驚いている。

 

 

 が、そうではない。

 竜族の『里』に生まれ、竜族に身近に仕える者たちからすれば、「犯人が幼竜を殺せぬまま逃亡した」という時点で、黄竜王は黒幕ではないと判断できるであろう。

 なぜならば、ドラゴン種のコミュニティに所属するリザードマンたちは、主君の勅命を果たすためならば「死ね」と教えられて育つからだ。特に、この種の特殊任務に従事する者たちにおいては、それはなおさらだ。

 つまり、緑竜王はその情報によって、息子を襲撃した黒幕が黄竜王ではないことを確信し、さらに自分たち両陣営の関係を悪化させようとする何者かが存在する事実を知ったのだ。

 幼竜ナマイキが池波新左衛門とクシャトリス・バーザムズールに語った、黄緑両竜王の同盟締結の事実は、以上の事情によるものと言える。

 もっとも、この和議自体は外務省が推進してきた交渉でも何でもなく、黄竜王自身が緑竜王との念話による直接会談の末に成立したものであるらしく、その報告を聞いた『里』の住人はみな、ことごとく寝耳に水を食らったような顔をしたという。それはこのシャーリー・アブラウにしても例外ではない。

 

 

(が、もしも、そこまで計算の上で幼竜に刺客を送った者がいたとしたら)

(幼竜を狙いつつもあくまで殺さず、他者を巻き込んでおきながらその口をあくまで封じず、「黄竜王」の名を口走ることさえ襲撃実行犯たちの任務に含まれていたとしたなら)

 そして、たとえ黄竜王の膝下にある十万の「眷属」たち全ての中に、例の四人組を雇った黒幕がいなかったとしても、そこに含まれない最大の容疑者が、眼前にいることをシャーリーは知っている。

 すなわち、この主君・黄竜王。

 なぜなら――もしも主君が緑竜王との和議に何の抵抗も感じていないと仮定したなら――結果的に、この一連の事件でもっとも利益を得たのは他ならぬ黄竜王であるからだ。

(いやいやいや、そんな馬鹿な)

 シャーリーはとっさに目をつぶり、首を振ってその疑問を否定する。

 もしもこの件の黒幕が本当に黄竜王陛下だとしたなら、その調査を自分に命じるような無意味な真似をするはずがない。

(しかし、私に……内務省関係者に、そう思わせるための内務調査だったとしたなら)

 そこまで思い至って、彼女は反射的に主君の美麗な横顔を見上げる。

 

 

「ん?」

 

 

 が、ちょうど覗き込むように自分を見つめる主君と視線を衝突させたシャーリーは、とっさに目を伏せる。

 しかし、その伏せた視線の先にあったのは、ふたたび鎌首を持ち上げようとしていた、主君の男根であった。

 顔を赤らめ、またも顔を上げる彼女を迎えたのは、無邪気に笑う黄竜王の瞳。勿論そこには先程までの淫蕩な光が再び宿っている。

 

 

「シャーリー、そなたを見ておるうちにまたしても催してまいったではないか。責任をとってもらうぞ?」

 

 

 そう言って、いやらしく微笑する主君に、シャーリーは何も言えず頷き、とりあえずその男根を、そっと口に含んだ。

 

 

 

 



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第十八話 「辻斬り(其の一)」

前回投下から予想以上に時間がかかってしまいました。



 

 

「一同、神前に礼!!」

 という渡辺源太夫の声に応じる様に、

「ありがとうございましたァッッ!!」

 と、床に座した門弟たちは、一斉に道場上座に設けられた神棚に頭を下げた。

 

 

 数秒後、彼らは顔を上げ、そして池波新左衛門は立ち上がる。 

 同じように道場の門下生たちの中には、膝を払って立ち上がるエルフもいれば、互いに隣の者たちと私語を始めるワーウルフたちもいる。「今日の稽古はキツかったなぁ~~」と寝そべって独りごちるドワーフもいれば、周囲に構わず汗まみれの稽古着を早速脱ぎ捨てようとするオークもいる。

「おいおい、まだ女子が残っているうちに服を脱ぐな服を」

 新左衛門が苦笑いしながらたしなめるが、そのオークも「さーせん」と誰に向かって言ったのかもわからない謝罪を照れたように口にするだけで、その汗臭い道着をふたたび着ようとはしなかった。

 そして、数人の女子たちも、そんなオークの半裸にいまさら照れたりはしない。この道場においてはそんな眺めは、ある意味日常茶飯事と言っていいものだったからだ。

 

 が、そんな女子たちがぞろぞろと、更衣室に入ろうとした頃、手ぬぐいで汗を拭きながら渡辺源太夫が、思い出したように振り向いた。

「ああ、そうじゃ、今夜は皆でバラバラに帰らず、なるべく道を同じくする者同士一緒に帰れ」

「何ですか先生、その寺子屋の集団下校みたいなお言葉は?」

 そう、からかうように言い返すワーゴートのガルヴァ・ルーディに、新谷喜十郎という武士が師の代わりに答える。

 

 

「たわけ、先生が仰っておられるのは最近ジュピトリアムに徘徊しておる辻斬りのことじゃ」

 

 

「辻斬りぃ……?」

 ガルヴァは半分嘲るように喜十郎を見下ろすが、喜十郎の目は笑っていない。

「七日前に木星流のメッサーラがやられた。五日前は白天木馬流の小林隼人がやられた。三日前に至っては武才流のジン・デニムまでがやられたのだ。今夜あたりこっちに来るかもしれぬ」

 その三名ともにジュピトリアムの剣壇においてはいずれも名を謳われた者たちだ。

 が、このガルヴァも一応は道場の高弟(序列高位の門弟)に名を連ねる一人であり、その三人に己の腕が劣るなどとは考えてもいないのだろう。喜十郎の言葉を、道場内に響くような大声で笑い飛ばす。

「来たら返り討ちにすればいいだけでしょうが、そんなもん」

「そうあっさり行くかのう」

 と言い、ガルヴァの喚き声を遮ったのは源太夫だった。

 さすがに師匠に口答えするわけにも行かず、山羊頭の獣人は喉に物でも詰まらせたような顔で口ごもるが、源太夫はこれ以上彼一人を相手にはせず、皆の方を振り返る。

 

 

「他の者も聞け、巷(ちまた)で噂になっておるこの辻斬りを侮るではない。夜道を一人で帰ろうなどとは、ゆめゆめ思うな。自分だけは大丈夫だなどと根拠のない自信を持たず、皆と一緒に帰りながら周囲を警戒せよ。敢えて危地から身を遠ざけるもまた修行ぞ」

 

 

「しかし先生」

 ガルヴァが食い下がるように口を開く。

「仮にも渡辺派の剣士たる我々が、たかが辻斬り風情を恐れて徒党を組んで帰ったなどと風説が立っては、それこそ流派の名に傷をつけることになりませぬか」

 それは苦し紛れにしては、なかなか勘所を得た扇動句だったと言える。現に師の言葉を黙って聞いていた門下生たちの顔にも、ざわざわと同意するような反応が現れ始める。

 が、そんな弟子たちを沈黙させたのも、やはりこの師匠の一喝だった。

 

 

「そなたら、少しは頭を使え。わしの言葉の裏を最後まで言わねばわからんのか。いまジュピトリアムをうろつきまわっておる例の辻斬り――奴を捕まえるのは、我が渡辺派じゃということよ」

 

 

 その言葉を聞いた門下生たち全員の頭に、大きなハテナマークが一斉に浮かんだことだろう。

 が、源太夫はむしろ出来の悪い教え子に授業をする教師のごとき表情になり、嘆息混じりに先刻の言葉の続きを吐く。

 

 

「集団で帰れと言ったのは、ガルヴァが申したような、単に辻斬りを恐れて徒党を組むなどという意味ではない。これは――陣形じゃ。戦のための備えじゃ」

「…………」

「木星流、白天木馬流、そして武才流を血祭りにあげた辻斬りは、間違いなく次の標的を我ら渡辺派無明流に定めるはずじゃ。そして貴様らは、我らを狙うこの不埒者を確実に包囲し、捕えよ。これはそのための陣形なのじゃ」

「…………」

「ジュピトリアムの主だった流派を総なめにしたこの辻斬りを、我らが捕えれば、渡辺派の剣名も更に不動のものになるであろう。わかるか? これはむしろ好機じゃと思え。練武館には大統領杯優勝者クシャトリス・バーザムズール以外にも剣士ありということを世に示してみよ!!」

 

 

 おおおおお!!!と、どよめくような怒号とともに、門下生たちが一斉に興奮したように拳を突き上げ、羽目板を踏み鳴らす。

 その様相を見て、新左衛門もさすがに(すごいな、この先生は……)と思わざるを得ない。

 余人ならばいざ知らず、日頃から源太夫と共に過ごす時間が多い新左衛門には、さすがに師匠の本心がわかる。特にここ最近の事件で、源太夫の思考回路がまさに一筋縄ではいかないものであることを充分すぎるほど思い知っていたからだ。

 師匠の本音は、まさにガルヴァが言った通り、辻斬り風情を恐れて徒党を組んで帰れという一言であったに違いない。それをこんな口車一つで門弟たちの士気を下げず、集団帰宅に積極的に同意させたのは、まさに鮮やかな手並みであると言うしかない。

 そう感心する新左衛門の心を見抜いたかのように、不意に源太夫は振り向き、不機嫌そうに言う。

「何を笑っておる池波」

「え、いや……拙者笑っておりましたか?」

「白々しいことをほざくでないわ。よし――ならば「陣構え」の具体的な班割りはおぬしに任せる。他の高弟どもと協議して速やかに人員を振り分けよ」

「え……そういうことは普通、先生の御下知があってこそだと思いますが……」

 そう答える新左衛門の肩に手を置くと、源太夫はそのまま囁くような声で、

「わしを笑うた罰じゃ。面倒くさいことは全部おぬしに任せるゆえ、適当にやれ」

 と言い捨て、毅然とした背中を見せたまま屋敷の母屋に通じる渡り廊下に出ていく。

 あとには「え~~?」という表情をした池波新左衛門と、必要以上にテンションを上げた門弟たちが残された。

 

 

 

 現在『共和国』に存在する武術は、その発祥を辿れば、ほぼその全ての開祖が人類種であるという事実がある。

体力・身体能力、生命力においてことごとく人間を凌駕する獣人種たちにとっては、「技」という概念によって戦闘をマニュアル化するという発想はなく、エルフ種やドワーフ種においては魔力を行使しない近接戦闘などそもそも考慮の外だ。

 これはつまり武術という概念が、そもそも人類が、人外種族に対抗するための手段の一つとして生み出した技術であるという証拠であり、人類が人外種に対していかに劣等感を持っていたかという証拠でもある。

 そしてそれは、この大陸の大半を支配している人類文明圏諸国において武術が廃れ、人間が総人口の四割ほどしか存在しないこの『共和国』において深く根付き、今では武術諸流派の高弟の大半を人外種が占めているという現実に対する、強烈な皮肉であるとも言える。

 そういう意味では、高弟にずらりと人間を並べるこの渡辺派無明流という流派が、現在の『共和国』において、いかに異端な存在であったかがわかるであろう。とはいえ、その序列筆頭には人外種たるダークエルフのクシャトリス・バーザムズールという名が燦然と輝いていたが。

 

 

 とはいえ、そのクシャトリスは道場内にあっては、実はさほどに重んじられていない――というより歴然と孤立している事実がある。

 仮にも大統領杯で二連覇を果たした剣士である彼女は――流派総帥たる渡辺源太夫を別格とすれば――いまや名実ともに渡辺派の最強剣士であることを、すべての門弟が認めている。

 だが、彼女が認められているのは、その「強さ」という一点のみだ。

 渡辺道場「練武館」は、ジュピトリアム市でも最大手の剣術道場であるゆえ、その門弟は総数五百人とさえ号される規模を持つ。

 まあ、その全員が一斉に稽古ができるほどに広大な道場ではないため、その習熟の度合いによって稽古時間は分けられ、その指導には高弟がそれぞれ師範代として就くという慣習が存在している。

 すべての時間のすべての門弟を指導するには、渡辺源太夫の身体は一つしか存在しないのだから、これはある意味当然のことだ。さらに言えば源太夫は市庁の現役の官吏でもある以上、その直接指導に割ける時間に限界があるのもやむを得ない。

 が、以上の事情があるにもかかわらず、当時序列十位となり「高弟入り」したばかりだったクシャトリス・バーザムズールは、師範代として指導者の立場に身を置くことを拒絶したのだ。

 彼女は自分の剣がまだ他者に指導できるような域には到達していないと断言し、他の高弟たちと共に後進を指導するというに道場の慣習に、敢然と逆らった。

 もしもここで源太夫が、師としての立場から彼女の身勝手を叱っていれば、それでも事態はここまで深刻化しなかったかもしれない。だが、渡辺源太夫はクシャトリスの主張を認め、彼女にそれ以上師範代就任を迫ることはなかった。それが他の高弟たちの更なる怒りを呼び、彼女の孤立を決定的なものにしてしまった。

 もともと社交的でなく、寡黙だったクシャトリスは、道場でこれといった友人もおらず、さらに彼女を唯一庇える立場にいた新左衛門にしても、当時は他の門弟たちと同じ気持ちだった。いや、旧知の仲であるだけに彼女への怒りはさらに激しかったと言っていい。

 

 だが、今はもう、その事件から三年以上の歳月が経っている。

 なにより、ズサ・ハンマガルス事件やラヴィアン・バーザムズール誘拐事件を経て、クシャトリスに接する機会が増えた新左衛門は、この件に対する彼女の本心も一応聞いてはいる。そのためもあってか、新左衛門の彼女の発言に対する不快感は、かなりの部分が解消されている。

 彼女は現在、毎夜のこの時間――序列最上級者三十人の稽古時間にのみ道場に顔を出し、それ以外の、例えば初心者や中級者たちの稽古時間は、ほとんどここに寄り付かない。

 しかし、その時間に家で寝ているというならともかく、クシャトリスは自分なりに己の剣を向上させるための個人練習に打ち込んでいるのだという。

 その個人練習にどんなメニューを組んでいるのかまでは新左衛門も聞いてはいないが、しかしそれが無為なものでなかったことだけは確かだった。

 なぜなら――クシャトリス・バーザムズールの剣がさらに飛躍的に伸び、道場の序列筆頭になり、大統領杯で優勝するまでの剣士に成長したのは、師範代就任を拒否し、その個人練習とやらに打ち込むようになって以来の話だからだ。

 しかし彼女は、現在もなお道場の師範代就任を頑なに拒み続けている。

 

 

 

 それから四半刻(約三十分)ほど時間をかけてようやく集団帰宅のための「班割り」を終えた新左衛門と、その他の門弟たちはようやく道場を出た。

 最初の四つ角で集団はそれぞれ帰り道の方向に分かれ、新左衛門は自らが率いる八人ほどの小集団の先頭に立って提灯を掲げる。

 渡辺道場において一応「高弟」と呼ばれるのは序列十位以内の者たちだけであるが、この小集団は序列二位の新左衛門と序列一位のクシャトリス、そして序列四位の新谷喜十郎が差配するという段取りである。もっとも彼女は帰宅時の班割りをしている段階から興味なさげな顔を見せるばかりで、一言も口をきかなかったが。

(やっとれんな実際……)

 新左衛門としてはそう思わずにはいられないが、傍らの喜十郎が後輩たちと辻斬りの強弱論で盛り上がっているような現状の空気では、ここで不満を漏らすわけにもいかない。

 隣にいるのがクシャトリスなら小声で愚痴くらい言えるのだろうが、彼女は集団の最後方を黙々と一人で歩いている。いや、そもそも彼女は公衆の面前で新左衛門と親しくする姿を見せることを好まない。ならば彼女が現在位置に選んだポジションは当然とも言えた。

 そもそもこの時間帯に道場にいる門弟は、序列三十位以内のいわば渡辺道場の最精鋭というべき者たちであり、ここまで世話を焼かねばならない義務が本当に必要であるかは疑問なのだが、先生の命令には逆らえない。つまり新左衛門とクシャトリスと喜十郎の三人は、ここにいる全員が無事に帰宅するまで、まるで保護者のように彼らの背後を守らねばならないということだ。

 そうこうする内に最初の角を曲がり、通りに出る。

 そして、そこにあるのが、いわば渡辺道場の門弟たちの溜まり場ともいうべき「だるま」という一杯飲み屋である。

 

 

「おう新左、今夜ちょっと付き合わぬか?」

 

 

 と、喜十郎が右手でクイッと盃を傾ける仕草を見せる。

 今更ながらの説明だが、この新谷喜十郎という武士は、年齢的にも新左衛門に近く、彼にとっては渡辺道場の同門の中でも特に気の合う友人と言える。が、なにしろ度外れた飲み助で、さほど酒好きではない新左衛門は、懐具合によっては彼の誘いを断るのに苦労するという相手でもあった。

「おいおい、今夜はさすがにまずいだろ」

 面倒ではあるが、それでも自分たちは源太夫から直々に門弟たちの先導役を命じられているのだ。それを露骨にボイコットするわけにもいかない。

 が、喜十郎は言う。

「なあに、先生が禁じたのは我らがバラバラで帰ることだけじゃ。ならば、ここにいる全員で飲めば問題はなかろう」

「いや、まあ……しかしな」

「それにじゃ、ここに居並ぶ面々を見れば、少々酔ったところでどうということはなかろうが」

 

「おお、確かにそうですね」

「いいッスねぇ~~行きましょう行きましょう」

「新谷さん、奢りッスか? 奢りッスよね?」

「池波さんも行きましょうよ。こないだの妹さんの話の続きを聞かせてくださいよ」

 などと皆が盛り上がり、新左衛門としては無視できぬ場の空気が醸されつつある。

「しかしなぁ……」

 と口ごもりながら、横目でちらりと集団の最後方にいるはずのクシャトリス・バーザムズールを見る。

「気になるのか?」

 からかうように言う喜十郎に、新左衛門は慌てたように「何のことだ」と言い返した。

 

 

 ここ最近、新左衛門にとっては稽古からの帰り道を、クシャトリスと一緒に歩くというのが習慣となっており、そういう意味で彼女の存在が少し気になったことは間違いない。

 とはいえクシャトリスが、道場内で浮いた存在であることは未だ変わらぬため、新左衛門としても彼女と並んで道場を出るというような真似はせず、帰路の道すがら、いつの間にか彼女と合流するといった風を装ってはいたが。

 クシャトリスにしても、そんな腫れ物に触るような新左衛門の態度には思うところもあるだろうが、今はまだ何も言わない。彼女自身も、ここ最近で急速にかつての親密さを回復させた新左衛門との関係を、道場の連中に知られたくないという気分があったのだろう。

 が、そんな二人の白々しさは、見る者が見れば一目瞭然ではあった。

 現に、この新谷喜十郎のように、事あるごとに新左衛門をからかうような口をきく者たちも道場にはいる。もっとも、その最たる存在が師匠たる渡辺源太夫であるという事実が新左衛門を閉口させたが。

 

 

「じゃ、そういうことなら、あたしは先に帰らせてもらうわ」

 

 

 その声に振り向いた新左衛門が見たのは、クシャトリスが無表情で、一団のしんがりで屹立する姿だった。

「え~~、そんなこと言わずにバーザムズールも付き合えよ~~」

 一応申し訳のように喜十郎が彼女を誘う言葉を吐くが、その表情にはあからさまに感情が込もっていない。もっともそれは喜十郎だけではなく、新左衛門以外の全員が同じような顔を彼女に向けている。

 そういう空気の中で、クシャトリスが「あたし、お酒は苦手なの」と返答したのが、まだしも以前より彼女が丸くなった証拠とさえ言える。かつてのクシャトリスなら間違いなく無言でここから消えていたはずだ。

「おいバーザム――」

 何か言おうとする新左衛門の横をすれ違うように通過し、そのまま一同に背を見せたまま、彼女は夜道を去ってゆく。

 が、新左衛門の顔には、先程までなかった微笑がある。

 彼のとなりを通過する際、彼女は新左衛門にだけ聞こえるような小声で「あんまり飲み過ぎるんじゃないわよ」とささやいていったのだ。

 

 

」」」」」」」」」」」」」

 

 月は出ていない。

 星あかりが無いこともないが、雲に遮られて地上にはあまり届いていない。

 早い話が、夜道はほとんど一点の明かりなき暗黒に包まれていたが、それでもクシャトリスは携帯用の提灯に火を入れることもしない。

 エルフ族――ことにダークエルフ種は、一般的に夜目が効くと言われているがそれだけではない。彼女にとってこの道は、少女時代から通い慣れた、まさしく目をつぶっても歩ける道なのだ。

 とはいえ、ここ最近、彼女の傍らを共に歩いていた池波新左衛門の姿はここにはない。

 

 しかし、クシャトリスの胸中には、自分の側から新左衛門を連れ去った道場の連中に対する怒りなどない。

 というより彼女の中には、新左衛門の不在を寂しがるような感情は、そこまで育っていないと言ったほうが正確だったろう。

(アイツにはアイツの付き合いがある)

 そう考える分別くらいは持ち合わせているし、何よりクシャトリスにとって一人で歩く帰り道は決して苦痛ではない。新左衛門以外にこれといった友人もない彼女は、むしろ集団の中に身を置くほうが苦手だったからだ。

 

 

「…………ッッ」

 

 

 その瞬間だった。

 一抹の殺気を勘が捉えると同時に、彼女はその場に立ち止まった。

 ただ止まっただけではない。

 腰を落とし、竹刀や防具といった荷物を放り出し、エルフ愛用の杖に魔力を通し、それを逆手に構えた。のみならず、小声で囁くように呪文を唱え、自分の周囲に対攻撃魔法用の結界を貼る。

 そこまで戦闘態勢を整えた上で、クシャトリスは数間先の曲がり角の暗闇に潜む気配に向けて、ようやく口を開いた。

 

 

「一応、人違いかもしれないから言っとくけど、あたしは渡辺道場のクシャトリス・バーザムズール。そこに隠れてる奴、あんたが最近話題になってる辻斬りさんなら、せめてツラを見せな」

 

 

 

 



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第十九話 「辻斬り(其ノ二)」

「しかし、おぬしら手ぐらい握ったのか?」

 

 新谷喜十郎が好色そうな顔を近づけ、ささやくように池波新左衛門に尋いてくる。

 むろん誰との話をしているのかは一目瞭然だ。

「おれとアイツはそんな関係ではない」

 新左衛門はそっぽを向いて否定するが、それで追求をやめるほど喜十郎は行儀のいい男ではない。酒が入ったときは特にだ。とはいえ、同じ店で飲んでる後輩たちや女将に聞えよがしな大声を出さず、店の隅で二人だけの内緒話の体を装ってくれてるだけマシなのだが。

 

 

 ここは渡辺道場の門弟たちの溜まり場というべき「だるま」という名の飲み屋である。

 現在ジュピトリアム市では有名道場の剣客のみを標的として狙う辻斬りが横行しており、渡辺源太夫もその対策の一つとして、道場からの帰り道は単独行動を禁じ、帰路を同じくする者同士で集団を組めと命じたが、新左衛門と同じく渡辺道場の高弟・新谷喜十郎の率いる組は――その飲み屋で酒を飲んでいる。

 

 

 

 

「おれとアイツはたまたま生家が隣同士だったというだけの仲であって、それ以上ではない。この説明は確かもう百回以上したはずだが?」

 と、新左衛門はこの酔っぱらいに言うが、喜十郎は、それこそそんな言い訳は聞き飽きたと言わんばかりに鼻で笑うと、つまみの干し肉を口に放り込む。

 くっちゃくっちゃと硬い肉を噛む喜十郎の訳知り顔が、新左衛門には非常にカンに障るが、だからといってここで声を荒げて、周囲で飲んでいる道場の連中の注目を浴びるのは、やはり新左衛門としては話題的にちょっと避けたい。

 そんな彼の心理は、喜十郎も当然理解している。だからこそこんな密談のようなヒソヒソ声のボリュームを必要以上に上げるような真似もしない。が、この男の悪趣味なところは、新左衛門が嫌がることをわかっていてなお平気でクシャトリスの話を持ち出すところだった。

「しかしな新左、あのバーザムズールの家は、ダークエルフの氏族の中でもかなりの名家だと聞くぞ。そんな家の娘があの年頃まで身を固めずにいるのは、やはりおかしいじゃろう」

「それがどうした。おれに何の関係がある?」

 そう言いながら杯に残った麦酒をくいっとあおる新左衛門。

 が、喜十郎はそんな彼に勝ち誇るように言う。

 

 

「わからんのか新左、あやつがこの歳まで独りでおるのは、ひとえに貴様の求婚を待っておるからではないか?」

 

 

 その一言に、新左衛門は思わず口中の酒を吹き出しそうになったが、かろうじてこらえ、なんとか飲み下す。

 が、喜十郎は新左衛門のその反応を見て、むしろ意外そうに首をひねる。

「そんなに驚くようなことか? 普通に考えれば行き着く結論じゃと思うがのう」

「…………それはいくらなんでも飛躍しすぎだろう」

「馬鹿かおぬしは。男と違って女が意味もなく独り身でおるわけがなかろうが」

「それは普通の女の場合だろう。あいつはクシャトリス・バーザムズールだぞ? お前が考えるような精神構造をしていると思うか?」

「何をほざくか、女はしょせん女よ。エルフであれ人間であれ、それは変わらんわい」

 と、言いながら豪快に笑う新谷喜十郎。

 こんな男尊女卑的な酔言を吐く割には、彼は家に帰ればワージャガーの嫁さんに頭が上がらない恐妻家の一面もある。というより、恐妻家なればこそこういう必要以上に男の立場を強がってみせる発言をするのか。むろん未婚の新左衛門には分かりようもない。

 しかし夫婦生活のことはともかく、新左衛門にもわかることはある。

 それはクシャトリスが独身を貫く理由についてだ。

 女が無意味に独りでいるはずがない――喜十郎はそう言ったが、それはやはりクシャトリス・バーザムズールという存在を、あまりにも理解していないと断じざるを得ない。

 

 

(あの女にとっては剣以外の全ては所詮どうでもいい俗事に過ぎないのだ。ただそれだけのことなのだ)

 

 

 そう思う。が、無論そんなことを今ここで喜十郎に言う気はない。

 そんなことを言えば、なおさらクシャトリスとの仲を勘ぐられるだけだし、それについて言い訳するのも馬鹿馬鹿しいからだ。

 しかし、それを自覚しながらも一抹の寂しさに似た感情が、フッと新左衛門の心をよぎるのを抑えられない。あいつにとっては、このおれでさえもどうでもいい俗事なのだろうか――そう考えてしまう自分が、我ながらみっともなさすぎてどうにも耐えられない。なればこそ新左衛門は、そんな自分を全力で否定し、いま以上の関係を彼女との間に築こうと考えかねない自分を懸命に押し殺し、無視する。

 そして、そういう誰にも言えぬ葛藤があればこそ、したり顔で彼女の話を続けるこの新谷喜十郎のデリカシーのなさが、腹が立って仕方がない。

 もっとも、だからといってここで殴り合いを始めるつもりも新左衛門にはない。新谷喜十郎はこういう男ではあるが、それでも普段は気のいい友人であることは間違いないのだ。

 

 

「しかし喜十郎、そなたバーザムズールにやけにこだわるが、あやつのことが嫌いではなかったのか?」

 

 

「ではなかったのか、だと? 馬鹿を申せ、うちの道場であやつを嫌っておらぬ者など一人もおらんわ。おぬしと先生を除けばな」

 真顔でそう言い捨て、ぐびりと米酒をあおる喜十郎だが、新左衛門にとってもそれは予想できる言葉だったので、特に表情も変えない。

「まあ、あれだけの才能があれば、先生があいつを可愛がるのもわかる話ではあるがな」

「そういうことを言っておるわけではないわ」

 と、喜十郎は言い、一度言葉を切ると再び盃に米酒を注ぎ、飲む。

「道場に入ってくるときも挨拶一つせぬ。こっちが話しかけても返事もせぬ。後輩にまともに指導もせぬ。幼馴染のおぬしからすれば少しは庇ってやる余地もあるのかもしれんが、アイツのあの態度はいつになったら改善されるんだ」

「…………まあ、な」

 それに関しては、新左衛門にとっても返す言葉はない。

 クシャトリス自身が、道場で人間関係を築く気はないと明言していることを新左衛門も知っている以上、彼女の道場での態度が変わることはもはやありえないと言っていい。

 かといって、ここで露骨に彼女の味方をする気にもなれないのは確かだ。なんといっても今ここで喜十郎が吐き出しているクシャトリスに対する不満は、それこそ数ヶ月前まで新左衛門自身が抱いていたものだからだ。

(だいたいアイツも悪いんだよな)

 自業自得と言えば厳しいが、それでも敢えてクシャトリスをかばってやる気は、新左衛門にもない。これは所詮、クシャトリス自身が解決する気にならねばどうにもならぬ問題だからだ。

 

 

「しかし新左、おぬしもいかんぞ」

 

 

 喜十郎の矛先が不意にこっちを向いた。

 とはいえ、新左衛門は何を言われたのかも理解できず「はあ?」と目を剥くくらいしかできない。

 が、喜十郎はまるで兄が弟に説教するような態度で、新左衛門に口を開く。

「おぬしが今もなお独り身を貫いておるからこそ、あやつも余計な期待を抱いておるということじゃ。もしもおぬしがとっとと身を固めておれば、バーザムズールもあそこまで頑なにならなかったのではないか?」

 さすがにその論調は新左衛門にも予想外のものだった。彼としてはクシャトリスの独身と自分の独身を関連付けて考えたことなどなかったからだ。

「それこそ飛躍しすぎであろうが」

「飛躍なものかバカタレ。ならば聞くが、仮にも池波家の家督を継ぐ貴様が二十歳を過ぎて一人でプラプラしておるのは、どういう事情があるのじゃ? 答えられるものなら答えてみい」

「…………貴様には関わりのないことだろう、それは」

 新左衛門が苦しげにそう言い返すと、喜十郎はニヤリと笑った。

 

 

「わかっておるわかっておる。おぬしにはおぬしの存念があると言いたいのじゃろう? あの女に勝つまでは求婚もできぬし、他の女と所帯を持つなど、それこそ論外と言いたいのじゃろう? 健気でいいではないか」

 

 

 さすがにこの発言には、新左衛門も顔にハッキリと怒気が出たのだろう。

 喜十郎も「おっと怒るな、悪かった悪かった」と一瞬怯えたような表情で、新左衛門をなだめにかかる。

「今のは確かに言い過ぎた。失言じゃ、許せ許せ……というか新左よ、いくらなんでも刀に手をかけることはないであろうが」

 そう言われて初めて新左衛門は自分が刀の鯉口を切っていることに気づいてゾッとした。

 とはいえ、この男に煽られたという事実は間違いないので何かを言う気はないが、それでも酒が入ればここまで煽り耐性がなくなるというのは、新左衛門自身も自覚してなかったことなので、少なからず狼狽もしたし、それを隠すために必要以上に険しい顔でそっぽを向かずにはいられなかったが。

 とはいえ、喜十郎が言ったことも、まんざら違っていないのは事実なのだ。

 

 人間という種は、この『共和国』の知性体の中では、最もその寿命が短い。

 それを補って余りある繁殖力があるため、人口比率的にある程度の発言力を他種族に対して持っているが、それでも平均寿命百歳の獣人種や五百歳のエルフ種などに比べれば、その結婚適齢期はあまりにも短いと言わざるを得ない。

 そういう意味ではクシャトリスの結婚について、人間である新左衛門や喜十郎が何かを言う筋合いはないとさえ言える。エルフ種の外見年齢は個人差があるためハッキリとは言えないが、それでも新左衛門や喜十郎が老衰で死んでもなお、下手をすればクシャトリスは今のままの若さを保ちかねない生物なのだから。

 しかし、亡父の跡を継いで池波家を宰領していかねばならない新左衛門が、いつまでも独身のままというのは、確かに『共和国』の武家常識に比べて奇異というしかない。とっとと嫁を見つけて嫡子を育てねば、家が維持できないのだからそれは当然のことだ。

 とはいえ、実は新左衛門にとっても、今もなお身を固めぬ確たる理由があるのかと問われれば、そんなものは無いと言わざるを得ないのが正直なところなのだ。

 あえて言うなら、それこそ喜十郎が言ったとおり、剣においてクシャトリスに差をつけられたまま、結婚という新生活に逃避する気になれないというところであったろうか。そういう意味では、彼にとっても剣以外の生活要素は「俗事」と切り捨てて後悔しない程度の存在でしかないのかもしれない。

 

(まあいい)

 そう思いつつ、新左衛門はしかめた顔をつるりと撫で、杯の中の麦酒を一口飲む。

 その独特の苦味を味わいつつ、横目で喜十郎を見る。

 彼は、少し所在無さげな表情を浮かべつつ、無言で米酒を盃に注いでいる。しかし、これ以上新左衛門にクシャトリスの話を振るのは危険だと判断したのか、これ以上何かを話しかけてくる気配はない。

 新左衛門はため息を一つ吐くと、口を開いた。

 

 

「そういえば、今この街に関白殿下が来ておることを知っておるか?」

 

 

 その意外すぎる名に、喜十郎は先程に倍する反応を見せる。

「殿下が……ジュピトリアムに!?」

「驚くことはなかろう。あの方のお忍び癖は有名だからな」

「いや、まあ、確かにそうだが……しかし新左、それを俺に教えていいのか?」

 クシャトリスの話をしていた時以上に声をひそめて喜十郎は尋ねる。が、新左衛門は意に介さない。

「いかんということはなかろう。仮にも我らの御主君様だ。どこかの道端ですれ違う可能性を考えれば、むしろジュピトリアムの武家衆はすべからく殿下の所在を知っておくべきでさえあるはずじゃ」

「頭の悪いことを申すな新左、それではお忍びである意味がなかろうが」

「ふん」

 面白くもなさそうに、つまみの干し肉を新左衛門は口に入れる。

 

 

 

 関白豊臣家は『共和国』の武士階級の頂点に立つ「武家の棟梁」と呼ばれる名家であり、その家督を継ぐ者は、旧ニホン時代の官位である「関白」という敬称を世襲することとなっている。

 そもそも『共和国』におけるこの武士という階級は、かつて四百年前、人類文明圏の中でも極東に位置するニホンという国から、豊臣秀頼という男が二十万の軍を率いて『共和国』に入府したことに端を発する。

 その大規模すぎる亡命劇によって『共和国』は一気に人口を増やし、国内の労働人口と戦闘要員の増加に貢献したという功績により、武士という身分をそのまま制度化し、その「棟梁」であった豊臣家に公爵位を贈って国政に取り込んだのは、当時の大統領であったエマ・ベッケナーという女エルフである。

 このベッケナーが辣腕であったのは、豊臣秀頼を優遇しておきながらも、法理的には豊臣家の私兵でしかなかった二十万の武士たちを「棟梁」である秀頼個人から引き離して『共和国』国軍に再編成し、豊臣家の武士たちに対する実権を奪ったという点であろう。

 とはいえ、それは『共和国』が世襲による封建的主従関係を否定した共和政を国是としている以上、ある意味当然の処置であったとも言える。竜族のコミュニティならばともかく、ただのヒト種の一個人ごときに軍閥を丸々構成できる兵力を持たせておくなど危険極まりないことだからだ。

 結果的に豊臣家は、公爵という爵位と引換に、その家臣団であった武士たちへの法的な指揮権を剥奪されたという、無様な現実のみが残った。この国における貴族は、中世ヨーロッパのごとく広大な土地所有を認められておらず、貴族としての家格筆頭たる公爵位といえど、実際には元老院議員への世襲くらいしか特権を認められぬお粗末なものであり、二十万の兵力ととても見合う条件とは言えない。しかし「棟梁」であった豊臣秀頼は、むしろ望んでその待遇に身を任せたという伝承さえある。

 それに法的な軍権こそ奪われたが、今もなお豊臣家は武士階級をはじめとする『共和国』内のヒト種に対して絶大な影響力を保持してり、盆と正月には国中の武士たちが、首都グワジニアにある豊臣家の上屋敷に詣でるという慣習が、未だに根強く残っているほどだ。

 

 そして今、その十八代豊臣公爵家継承者・豊臣秀綱という男がジュピトリアムに来ている。

 

 

 

「これ以上仕事を増やさないで欲しいんだよなぁ……とっととグワジニアに帰ってくれればいいんだが」

 武家言葉も忘れ、そう言いながら頭を抱え込む新左衛門。

「新左、その物言いはいくらなんでも無礼であろうが。仮にも相手は関白殿下だぞ」

「ここにおらぬ相手に無礼もへったくれもなかろうが」

 そんな彼の乾いた杯に、喜十郎は自分の米酒を注いでやりながら、尋ねる。

「先程からやけに言いたいことを言っておるが、おぬしと先生の部署になんぞ面倒な御下知でも届いたのか?」

「……まあな」

「しかし今更おぬしらに護衛の命令でも来たわけでもあるまい。殿下ほどの御方であれば護衛にしろ自前の家士を使うはずじゃしな」

「そんな簡単な話なら貴様に愚痴をこぼしたりはせぬよ」

「ならば、一体何があった?」

「…………」

 新左衛門は答えず、喜十郎が注いだ米酒を一口含み、ごくりと飲み干す。美味いとも不味いとも言わない。

「焦らすな新左、とっとと言えよ」

 そう言いつつ、喜十郎は新左衛門の杯に自分の米酒を追加する。それを横目に見ながら新左衛門は重い口を開く。

 

 

 

「大統領杯優勝剣士クシャトリス・バーザムズールと会いたい――殿下はそう仰っておられるそうだ」

 

 

 

」」」」」」」」」」」」」

 

 

 月は未だ雲に隠れたままだ。

 が、本来は森林狩猟民族たるエルフ種であるクシャトリスの赤い瞳は、闇中に潜む辻斬りの存在をハッキリと捉えていた。

 彼女の「ツラを見せな」という言葉を聞いたからかどうかはわからない。

 だが、数間先の路地の曲がり角に隠れていた「そいつ」は、その言葉の直後に、道に姿を現したことには間違いない。もっとも路上の暗さは真の闇に近かったので、人間なら到底その姿を視認できなかっただろうが。

 

 

 獣人ではない。エルフでもない。そこにいるのは、紛れもなく人間であった。しかも黒ずくめの羽織袴に黒い頭巾という衣装から判断して、武家――それもかなりの階級上位者であると思われる。

 それは何も着衣や頭巾の生地が一見してわかる高級布地であるから、というだけの理由ではない。姿を現した武士とは別に、さっきまでそいつが隠れていた路地から、さらに数人分の気配を感じるからだ。

(護衛、か……)

 おそらくはそのサムライから出てくるなと言われているのであろうが、いざとなればそいつらをまとめて相手せねばならないと考えれば、事態は少なからず厄介になる。

 その殺気から判断するに、この辻斬りはかなりの使い手であることは間違いない。となれば最悪の場合、その護衛を含めて、手練を数人まとめて相手にするとなれば、これはさすがに無事では済まない公算が強い。

(どうする……?)

 いざとなれば逃げることも視野に入れなきゃならないかな――そう考えながら、クシャトリスは不意に失笑する。

 眼前の黒い武士に対する笑いではない。この場を無事に切り抜けるために、敵に背中を見せることさえ無意識の内に選択肢に入れていた自分自身に対して、つい可笑しみを覚えたのだ。なぜなら、数ヶ月前の彼女なら、こんな格好の実戦機会をむざむざ見逃して是とするような思考は絶対にしなかったはずだからだ。

 

 

 

 その瞬間だった。

 サムライが動いた。

 とはいえ、それは腰の刀を抜いたわけでも、こちらに向けて間合いを詰めようとしたわけでもない。何かの呪文を唱えたわけでもない。

 なんと彼は――地面に転がる石ころを、彼女に向けて蹴飛ばしたのだ。

 見るからに高級武士らしき着衣や護衛の存在、さらには辻斬りでありながら奇襲を仕掛けてこなかった態度などから、無意識に正攻法の攻撃を予想していただけに、こんなチンピラまがいの喧嘩殺法は、まさにクシャトリスの思考の死角を突いたと言っていい。

 が、それでもそんな石ころをまともに喰らうほど狼狽はしていない。それまで脳裏を占めていた雑念は瞬時に消え失せ、思考を必要とせぬ反射が彼女の四肢を支配する。

「ふんっ!」

 わずかに杖を動かして石を弾き飛ばし、なおかつバックステップで一歩身を引き、間合いを取る。 

 

 客観的に考えるなら、黒衣の武士が石を飛ばした狙いは明らかだ。

 クシャトリスが一瞬でも石に気を取られたその隙に間合いを詰め、抜き打ちの一撃を振るうつもりだろう。

 攻撃魔法や飛び道具による中距離攻撃を一発かました上で間合いを詰め、近接戦闘に持ち込むのは、路上の喧嘩ならばある意味清々しいと言えるほどの「正攻法」ではある。

 しかし喧嘩慣れせぬ一般道場生ならばともかく、クシャトリス・バーザムズールには通用しない。

 彼女が間合いをとったのは、距離を詰めてくるであろう眼前の敵に備えての無意識の行動だったが……しかし、そこでクシャトリスは思わず驚きに目を剥いた。

 

 

 

 黒衣の武士は、襲いかかってくるどころか、そこで身を翻して背を向け、黒い袴に包まれた己の尻をポンポンと軽く叩いたのだ。まるで「クソでも喰らえ」と言わんばかりに。

 いやそれのみならず、一瞬だけ振り向いた彼の顔には――頭巾によって顔自体は完全に隠されていたにもかかわらず――「あかんべー」と言わんばかりの、無邪気な子供のような挑発が見えた気がした。

 

 

 

 そこから脱兎のごとく彼が走り去ったのは、その直後のことだった――もちろん彼の後を、慌てて追いかける護衛とおぼしきニンジャ装束の者たちが続く。

 そして、そこには、呆気にとられて立ちすくむクシャトリスだけが取り残された。

 

 



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第二十話 「辻斬り(其の三)」

「辻斬りにあったぁ!?」

 

 

 池波新左衛門と渡辺源太夫が、驚きのあまり目を剥くが、当のクシャトリス・バーザムズールは涼しい顔で、ずず……と、湯呑の緑茶をすすっている。

 

 ここはジュピトリアム市庁の特別総務掛の詰所――言わずと知れた新左衛門と源太夫の職場である。彼女は今日、そこに源太夫から呼び出され、やってきたのだが、しかし師匠がその用件を言う前に、クシャトリスは昨日の夜の事件を話さずにはいられなかった。

 そして二人の男たちは彼女の予想取り、驚きのあまり呆然となり、ダークエルフ娘はその顔を愉快そうに見ている。

「それは……昨日の夜のことか?」

「ああ。あんたらが『だるま』で楽しくやってる最中の話だよ」

 その一言を聞いて源太夫の険しい視線が新左衛門に突き刺さり、新左衛門はうろたえたように顔をそらす。その様を面白そうに見つめながらクシャトリスは、さらに緑茶を一口すする。

 

「で、ケガはなかったのか」

 口ごもる新左衛門の代わりに源太夫が厳しい表情で尋ねるが、彼女はあっけらかんと答える。

「はい。どこにも」

「偽りは申しておらぬであろうな。そちの手傷が我が道場の不名誉になるなどと勘違いしておるなら、構わぬから正直に申せ」

「大丈夫です。我が父に誓ってケガなどしておりませぬ」

「……そうか」

 と呟くと、源太夫は浮かせた腰を下ろし、脇息にもたれかかる。

 そこでようやく、この場に安堵したような空気が漂う。

「で、相手は? 辻斬りはどのような奴であった?」

 そう訊いたのは威儀を整え直した新左衛門だ。

 だが、その質問にクシャトリスは何かを思い出したように、ぷっと息を吹き出し、うつむいて笑いをこらえ出す。

 むろん新左衛門には何のことかわからない。

「なんだ、何を笑っておる?」

 

 

「いやいや、辻斬りにしては面白い奴だったよ。なにしろ去り際にあたしに尻を叩いて見せるようなひょうきんな奴だったし」

 

 

 新左衛門は一瞬言葉を失った。

 「辻斬り」という単語と「尻を叩く」という行動が、彼の脳裏でうまく繋がらなかったせいだが、ある意味それも無理はなかった。

「それは……辻斬りがお前のケツを撫でたとか、そういうことか? 助平親父が若い女にやるような?」

「違う違う。去り際にこっち向いて自分の尻を叩いてみせたんだよ。子供が喧嘩で『ここまでおいで』ってやるみたいにさ」

「…………なんなんだそいつは。本当に辻斬りだったのかそれは」

 呆気にとられたように言う新左衛門。しかし、そこでようやくクシャトリスの顔に厳しさが宿る。

「それは間違いないよ。互いに対峙したのは数秒くらいだったけど、あのサムライの殺気は間違いなく本物だった」

「サムライ?」

「ああ、頭巾から羽織袴に刀の拵えから足袋の色まで黒一色で統一したサムライさ。しかも着物の生地が黒光りしてたから、あれはそこらの浪人や貧乏侍じゃないのは間違いない。おまけにニンジャ姿の護衛まで背後にいたくらいだし」

 

「ふ……ん」

 しかし、新左衛門はその情報を聞いても特に驚かない。死体に残された太刀筋からして、辻斬りが使った剣技が、流派はともかくいわゆるニホン剣道のものだというのは判明していたからだ。

 しかし、去り際に己の尻を叩いたという子供っぽさや、高級身分っぽい身なりや護衛といった情報は、確かに聞く価値がある――とは新左衛門は考えない。

(だいたい辻斬りなんて真似は食いつめ浪人か、もしくは暇を持て余したお偉いさんのボンボンくらいしかやる馬鹿はいないもんだ)

 そういう常識が彼の頭にはある。

 そして今回の犯人は、被害者の懐から財布を抜き取るような真似をしていない。それはつまり容疑者としては後者――上流階級に属する武家に絞られるということであり、それに苦労知らずの坊ちゃんなら、クシャトリスが目撃した子供っぽさも(少し苦しいが)まあ納得がいくというものだ。

 

「しかし、そんな奴が本当に強いのか?」

 新左衛門が首をかしげる。

 辻斬りにやられたという木星流のメッサーラ、白天木馬流の小林隼人、そして武才流のジン・デニムは、いずれも新左衛門の旧知の剣士であるが、彼らは決して雑魚ではない。特にジン・デニムは道場で筆頭剣士を務めるほどの使い手であり、そんなわけのわからん子供じみた辻斬りごときにやられたとは、少し信じがたい。

「ひょっとして、辻斬りは二人いるということか?」

「いや……そうじゃない。そいつらを斬ったのは、間違いなくあたしを襲った奴だよ」

 クシャトリスは、ある種の確信をもってそう断言する。

 しかし、新左衛門は納得いかない。

「何故そう言い切れる? おまえはそいつと直接剣を交えてはおらんのだろう?」

 

 

「だからこそ――じゃよ。だからこそバーザムズールは、そやつを強いと言い切れるのじゃ」

 

 

 彼女の代わりにそう答えたのは、それまで新左衛門とクシャトリスの会話を聞いていた源太夫だった。

「はぁ?」

 説明してくださいよと言わんばかりの表情で振り向く新左衛門に、源太夫はいかにも面倒くさげに嘆息する。

「互いの空気を嗅ぎ取れる距離で睨み合っておきながら、相手の実力を正確に読み取り、なんら恥じることなく背を向ける。ただの阿呆にできる芸当じゃと思うか?」

 師匠にそう言われて、さすがに新左衛門の顔にも少しは冷静さが戻る。

 確かにそうなのだ――武芸者にとっては、対峙した相手の実力を正確に測定するのも強さのうちであり、さらに言えば、一流と呼べる実力者でなければ、相手の強さを正確に測ることなどできないものなのだ。

「その辻斬りがただのお調子者ならば、何の迷いもなくバーザムズールに斬りかかり、あっさり返り討ちにあっておったろう。が、奴は堂々と逃げた。去り際に挑発までかましてな。そのふてぶてしい態度こそ、奴が相応の強者だという、何よりの証だと思わぬか」

「…………」

 新左衛門は答えない。そんな彼に源太夫は苦笑する。

「まあ、おぬしの気持ちも少しはわかるがのう。おぬしは、その三人とはかなり親しくしておったのじゃろう? そんなふざけた相手にあっさりやられたとは思いたくはないわな」

「…………はい」

「じゃが、現実を認めぬのはやはり危険じゃ。その三人は斬られた。負けたのじゃ。つまり、その辻斬りは少なく見積もっても、その三人以上の腕を持っておると考えねばならん」

「…………はい」

 

 悔しげな顔のまま俯く新左衛門に、源太夫はやれやれとばかりに苦笑いを送ると、クシャトリスの方を振り向いた。

「まあ、とりあえず当分の間は警戒が必要じゃな。一度逃げた以上、その辻斬りが再びバーザムズールを狙うとは考えにくいが、これは裏を返せば、うちの他の門下生が狙われる可能性が増えたということじゃからな」

「じゃあ……やっぱり昨日のうちに斬っておけばよかったですかね?」

 いかにも済まなさげに言う彼女に、源太夫は目を細めて「いやいや、そちが気にすることではない」と微笑するが、しかし次の瞬間には真顔になって一言付け加えるのも忘れない。

「ただ、もう二度と勝手な単独行動を取ることは許さぬぞ。よいなバーザムズール?」

「は、はいっ」

「池波、貴様もじゃ。今度わしの言葉を無視して飲み屋にしけこむような真似をしたら、即刻破門にするぞ」

「は、破門ですか!?」

 師匠の口から飛び出た、予想外に重い処分に新左衛門はたちまち狼狽する。

「此度は許す。じゃが、もはや次はないと思え。仮にも貴様は道場の次席――練武館の幹部格と呼んでも差し支えのない立場じゃ。自覚なき振る舞いには相応の責を負ってもらう。わかったな?」

 そう言われて新左衛門は――だったらそこにいる筆頭剣士の言動はどうなんだ――と言わんばかりの目をしたが、それも一瞬のことだ。新左衛門は畳に手をついてそのまま頭を下げた。

「申し訳ござりませぬ先生。此度の不始末に対する寛大なご処置、まことに感謝致します!!」

 その土下座をを満足そうに見下ろしながら、源太夫は「ふむ、よかろう」と言いつつ、キセルを火鉢の縁に叩きつけ、灰を落とした。

 

 

「さて、それではバーザムズール、今日おぬしをここに呼び出した本題に入ろうかの」

 

 

「本題、ですか?」

 そう言われて、クシャトリスは初めて自分が辻斬りの話をするためにここへ呼び出されたわけではないということを思い出した。

「何の用かは知りませんが、道場で言っていただければ済むことだと思うのですが」

「たわけ、それだけ重大な用件ということじゃ」

 とツッコミを入れる源太夫の口調は優しいが、しかしその目には、むしろ弟子を叱っていた先刻よりも厳しいものがある。

 クシャトリスは視線を移すと、そこには苦汁を飲んだような顔で目を伏せる新左衛門がいる。彼もどうやら、その「用件」とやらを知っているようだが、口を挟む様子はない。というより、彼の表情から察するに、どうやらロクな用ではなさそうだ――クシャトリスは腹をくくる。

 

 

 

「関白殿下が、そちに会いたいと仰せになられておる。明後日にここの謁見室でじゃ」

 

 

「カンパク……デンカ?」

 クシャトリスはポカンとした顔のまま源太夫を見上げる。無理もなかった。彼女はそんな名をこれまで聞いたこともなかったからだ。

 しかし、彼女の間抜け面とは対照的に、源太夫の顔に走った表情は苛立ちだった。

「知らんのか、我らが武家の棟梁――関白太政大臣・豊臣秀綱卿じゃ!!」

(ああ、公爵豊臣家のことか)

 そう言われて初めてクシャトリスは「カンパクデンカ」なる存在に思い当たった。

 むろん豊臣家の存在も知っている。初等教育の歴史の授業で必ずといっていいほど習う名前だったからだ。

 

「で、その公爵様が、このクシャトリス・バーザムズールに何の用で?」

 

 いかにも面倒そうに言うダークエルフ娘に、二人の侍たちは不安を隠せない顔をする。

 武家の棟梁などと仰々しく言ったところで、武士階級にあらざる者には、所詮その権威は通用しない――わかっていたことだが、ここは『共和国』であってニホンではないのだ。

 しかし、エルフ娘がいかにその権威に対して鈍感であっても、結局それが許される立場なので、その点に関して何を言うこともできないが、二人にとっては立場的にそうはいかない。すべての武士にとって豊臣秀綱とは階級上の象徴なのだ。少なくとも、エルフ娘にこんな不遜な態度を取らせたまま会わせていいような存在ではないのだ。

「バーザムズール、殿下がそなたに何用があるのかは、わしらも知らぬ。知る立場にないしのう。しかし、一応言っておくが、関白殿下は我らの旧主じゃ。つまり殿下にお前が無礼を働けば、我ら二人がその責任を負わねばならん」

 と源太夫が厳しい声で言うが、それでも彼女はピンと来ていない顔で「はぁ」と言うだけだ。

 そんな彼女に、師の言葉を引き継いで、それまで黙っていた新左衛門が苛立たしげに口を開く。

 

 

 

「わからんのか、お前の態度次第で我らは腹を切って殿下に詫びねばならんということじゃ!!」

 

 

 

「腹を切るって……え!?」

 そこでようやく驚いて腰を浮かせるバーザムズールに、二人の武士は苦虫を噛み潰したような表情を隠さない。

「いや、その……確かにサムライと言えばハラキリだけどさ……今どき本当にそれをやるっていうの?」

 クシャトリスにとっては、むろん素直にその言葉を信じる気にはなれない。

 武家階級の所属者が事あるごとに自害を繰り返し、『共和国』の社会問題になったのは、武士という人間たちがこの国に腰を下ろして最初の数世代まで――つまり、すでに三世紀以上前の話だ。今ではもうハラキリという言葉はある種の揶揄用語にさえなっているほどだ。

 しかし、その言葉が現役の武士の口から出たとなれば、もはや重みが違う。

「本気、なのですか……?」

 新左衛門から視線を師匠に移し、恐る恐るといった感じで尋ねるが、源太夫はむしろ子供に諭すような口調で言う。

 

 

「バーザムズール、わしらは侍なのだ。侍とは単に和装の帯に刀をぶち込んだ者を言うのではない。命を担保に主君に奉公する者を初めてそう呼ぶのだ」

 

 

「で、でも、あたしが何かやらかしたとしても……その責任はあたし自身が負うべきでしょう!? それを先生たちがどうして!?」

「…………」

「それにさっき『命をかけて奉公する』とか言ってたけど、今はもうそんな時代じゃないでしょう!? なのに何故そんな時代錯誤なことを言い出すんです!!」

「…………」

「じゃ、じゃあ――その謁見とやらが中止になれば、無礼も何も起こらない。先生たちがハラキリするような責任はどこにも発生しない!! そうしましょう!! それで全ては丸く収まるじゃありませんか!!」

「そうはいかん」

「どうしてですかっ!!」

「それじゃと、主君の御意向を完遂できなかった責任を、結局我らが負わねばならん」

「…………ッッ」

 

 

 クシャトリスが絶句するが、しかし新左衛門はそんな彼女を見て苦笑する。

「おいおい、何も必ずおれたちが腹切る羽目になると決まったわけじゃないんだから、そんなツラをするなよ。要はお前が下手な真似をせずに、つつがなく謁見を終わらせりゃそれで済む話なんだからさ」

 そう言われて、クシャトリスもようやくホッとした顔を見せる。

「そっ、そうだよね……あたしが普通に終わらせりゃ、それで無事解決なんだよね……!」

「おうよ。まあ、いかに傲慢不遜で知られたクシャトリス・バーザムズールといえども、おれたちの命を背負ってると思えば、無難を目指してくれるだろ?」

「何よその言い草、お偉いさんにあたしを会わせるのがそんなに不安だったって言うの?」

 口を尖らせてはいるが、クシャトリスの目は笑ったままだ。

 新左衛門は(少し脅かしすぎたかな)と思っていたので、彼女の表情にちょっと安心した。

 

 

 もとより生来のトラブルメーカー属性持ちの彼女のことだ。これくらい脅しておかないと、謁見の際に何を言い出すか知れたものではない。

 昔カタギの武士道や切腹という用語を持ち出してクシャトリスに釘を刺したのは、もちろん彼女に好き勝手な真似をさせないために、源太夫と示し合わせて言ったことだ。さもないと、この女エルフは謁見の約束さえ「面倒だ」と言って、すっぽかしかねない。

 もちろん本心を言えば、新左衛門といえども腹など切りたくはないし、切るつもりもない。もっとも関白殿下から「死ね」という直命があれば自害でも切腹でもせざるを得ないが、それでも謁見でクシャトリスが少ししくじった程度なら、まさか死を命じられることはないだろう――が、クシャトリスを大人しくさせる程度には、「切腹」という言葉の効能は十分だ。

 とはいえ、彼女に対する不安が全く解消されたわけではない。

「しかしな、バーザムズールよ、先程わしは殿下がそなたに何用があるのかは知らぬと言ったが、ある程度想像することはできるのじゃ」

 という源太夫の言葉に、クシャトリスはふたたび首をかしげる。彼女にしてみれば名も知らぬ貴人から会いたいと言われたところで、それは当然の反応だったろう。

 だが、源太夫と新左衛門は違う。

 と言うより、彼ら二人が本当に言いたい「本題」は、ここから始まるのだ。

 

 

 

「殿下は『大統領杯優勝剣士』のクシャトリス・バーザムズールに会いたいと申された。つまり、殿下の目的は、おぬしと剣を以て立ち合うことではないかと推測できる。なにせあの御方は、神風流の免許皆伝を許された剣士でもあるからな」

 

 

 

 その瞬間に、クシャトリスの表情が消えた。

 当然だろう。さすがにここまで言えば、この二人の言いたいことは馬鹿でもわかるだろうからだ。

「つまり、その際に――あたしに勝ちを譲れ、と先生は言うのですか?」

 源太夫は無言でうなずく。

 新左衛門も何も言わない。

「なら、切腹うんぬんの話も、あたしにその負けを認めさせるためですか?」

 なるほど、この女は不器用ではあるが馬鹿ではない――わかっているつもりではあったが、新左衛門は改めて思い知る。

 しかし、ここで怯むつもりはない。ここでの彼女の返事次第で新左衛門たちがペナルティを負うという現実は変わらないのだから。

「立ち合うといってもどうせ竹刀でのものじゃ。負けても死ぬわけではない」

「だからって!! わざと負けろなんてそんなこと!! あたしが承知できるわけ――」

「万一の際、責めを追うのは我ら二人じゃと言うたはずじゃ」

 

 その言葉でクシャトリスは沈黙する。

 しかし、その表情を見れば、彼女が納得していないのは明らかだ。

 とはいえ源太夫もこれ以上は強制はできない。クシャトリス・バーザムズールがどれほど本気で剣に打ち込んでいるか、師である彼自身が誰よりも理解しているからだ。

「まあ、今日のところはこれで話は終わりじゃ。あとはそなたが己でじっくり考えて結論を出せ」

「……はい」

「池波、外まで送ってやれ」

 そう言うと、源太夫は沈鬱な表情のまま、すっかりぬるくなった緑茶を一口すすった。

 

  



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第二十一話 「辻斬り(其の四)」

「ねえナマイキ」

「ん、どうしたのお姉さん?」

「あなたの家臣はあなたが死ねと命じれば死ぬの?」

「へ……?」

 その異様な質問に一瞬、幼竜ナマイキは目を白黒させるが……それでも静かに答える。

 

 

「うん、死ぬよ」

 

 

 そっか……死ぬのか――そうつぶやきながらクシャトリスは静かに目を閉じる。

 そのまま何も言わなくなった彼女に対し、ナマイキも少し不安になった。さすがの緑竜王の息子も、今日彼女が市庁で師匠と幼馴染に何を言われたかなど、予想のしようもない。

 

 ここはバーザムズール家のクシャトリスの部屋であり、時刻は子の刻(午前零時)。

 普段なら彼女はとっくの昔にベッドに潜り込んで寝息を立てている時間であるが、今夜に限ってクシャトリスは、なかなか眠ろうとはしない。

 ついでに言えば、幼竜ナマイキの就寝する空間は、この家においては特に決まっておらず、クシャトリスの布団の中に入り込んでくることもあれば、両親のベッドに潜り込むこともあり、さらに庭や屋根といった吹きっさらしの屋外で眠ることもあった。勿論その意図を、ここの家族はただの気まぐれだとしか理解していない。

 そして今夜、クシャトリスのベッドに当然のような図々しさで潜り込んできていた彼は、夜中に不意に目を覚まし、そこでようやくこの部屋の主が傍らにいないことを知ったのだ。

 彼女は布団から出、ベッドに腰掛け、明かりも付けずに虚空を睨みつけている。その表情はいかにも沈痛なものであったが、窓から差し込む月光のせいで、ナマイキにはむしろ彼女の背中が美しい一個の彫像のようにさえ見えた。

 

「ねえ、お姉さん、何かあったの?」

 クシャトリスは答えない。

「お姉さん?」

 重ねて呼びかけ、彼女はようやく顔を上げた。

 が、その目にいつもの毅然とした覇気はない。

 

 

「あたしが試合で八百長しないと、最悪の場合、新助と先生が切腹しちゃうんだってさ」

 

 

(なるほど……)

 ナマイキは納得したようにうなずく。

 満年齢に換算して一歳にもなっていない彼ではあるが、それでも竜族独自の「叡智」によってナマイキは、この世界に対する膨大な知識を遺伝的を所有している。

(たしかサムライという階級には、自害の際に自らの腹部を切り裂いて己の赤心を晒すという野蛮な風習があったんだっけ)

 と、他人事のように思い出すと同時に、彼女の暗然とした態度も理解できたのだ。

 池波新左衛門と渡辺源太夫なら、彼にとっても知った顔だ。そしてその二人が、眼前のダークエルフ娘にとって単なる幼馴染と師匠という以上の存在であるということもだ。

 

 

「……じゃあ、八百長してあげればいいじゃない。それで事が済むなら簡単な話でしょ?」

 

 

 それを聞いて、こっちを見るクシャトリスの瞳に、揺るぎない殺意が浮かぶ。

 ナマイキは思わず恐怖にのけぞるが、そのキツイ視線も一瞬だった。彼女はすぐに顔をそらし、寂しげにフッと笑う。

「そうよね……それで済むなら、そうすべきよね……」

「へ……?」

 その非常に彼女らしくない言い草に、ナマイキはこの会話二度目の気の抜けた返事をする。が、発言とは裏腹にクシャトリスの表情に浮かぶ苦悩を見届けると、彼は何も言わずに頭を掻いた。

 

 もちろんナマイキは、このバーザムズール家という居候先の一人娘が、どれほどの情熱を剣に打ち込んでいるかを知っているし、そんな彼女にとって、剣の試合で勝ちを相手に譲るという行為が、どれほどの精神的苦痛を生むのか、ほぼ完全に理解することができた。

 しかし、それと同時に新左衛門と源太夫の立場に対する理解も、少なからず不可能ではない。詳しい事情をまだ聞いていないので、あくまで想像でしかないが、武士階級の男たちは、この『共和国』の社会では珍しく封建的な忠誠心に基づく思考をする存在だからだ。

 つまりサムライという連中は、絶対服従の宗教的主従関係に結ばれた、彼の「眷属」と同じ思考パターンを保持していると解釈してほぼ間違いない。早い話が、ナマイキにとって立場と自由意思の板挟みに苦しむ武人というものは、かなり見慣れた存在だったのだ。

 

 

「お姉さんが試合する相手は、そんなに大物なの?」

 

 

 という質問に、彼女は無言でうなずく。

 しかし彼女が、その人物の名を敢えて挙げないという事実によって、ナマイキはその相手が何者なのかという予測を、ほぼ完全に立てることができた。

(相手は豊臣家、か)

 もっともナマイキは、あの二人のサムライとはともに生死の境をくぐった仲だ。直情的な池波新左衛門ならともかく、あの老獪狡猾な渡辺源太夫なら、よほどの事情がない限り己の弟子に敗北を強要などするはずがないのだが、相手が豊臣公爵家ならナマイキも納得できる。

 たとえどのような形であれ、主君に恥をかかせることを最大の禁忌とするのは、君主制の普遍的な常識というべきものだからだ。

 

「でもお姉さん、そういう事情なら仕方がないじゃない。お姉さんが負けることで保たれる秩序ってものがあるなら、それこそお姉さんの価値が認められてる証拠だと思わないと」

「……意味がわからないんだけど」

「だから、お姉さんがただの雑魚なら、勝ちを誰かに譲ったところで何も生まれないでしょ? クシャトリス・バーザムズールが勝ちを譲るからこそ意味がある――そういうことだと理解して、溜飲を下げるしかないってことだよ」

「…………」

「そもそも、お姉さんに八百長をやらせることに関して、あのお爺さんとお兄さんが何も悩まなかったと思うかい? 二人ともひょっとしたら、お姉さん以上に悩んでるはずだよ。特に新左衛門のお兄さんは真っ直ぐな人だしね」

「……そう、かもね」

 池波新左衛門の名を聞いた瞬間だけ、この強情なエルフ娘の表情は緩む時がある。しかし、それも刹那のことだ。彼女は不意にナマイキに真摯な目を向け、尋ねる。

 

 

「でもさ、でも――もしもあたしが、その相手に負けてあげなかったら、やっぱり新助と先生は腹を切ると思う?」

 

 

「それは……ボクにもわからないよ」

 ナマイキは正直に答える。

 彼らサムライは、竜の眷属と違い、その封建的主従関係を過去において断絶させられている。今もなおその忠誠心とやらがどれほど本物なのかは、もはや現役の武士階級の者たちにしかわからないことだろう。

 しかし、まだ若い池波新左衛門ならともかく、あの渡辺源太夫が、そんなに簡単に腹など切るだろうか。少なくともナマイキから見たあの老人は、そういうキャラクターではないような気がする。

 とはいえ語らぬままの彼を見て、クシャトリスはその沈黙を、自分の質問に対する肯定と解釈したのか、

「つまり……やっぱりあたしには、選択の余地はないってことね?」

 そう言って寂しげに笑う彼女に、ナマイキは返す言葉を持たない。

 やがてクシャトリスは静かに立ち上がり、無言のままベッドの中にもぞもぞと入ってくると、「おやすみ」の一言も言わず、布団を頭からかぶってしまった。

 

 

――翌日、クシャトリス・バーザムズールは道場にその姿を見せなかった。

 

 

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「来て……くれたのか」

 

 さらにその翌日、つまり源太夫に告げられた『明後日』、市庁内のロビーに姿を見せたクシャトリスを見て、新左衛門はホッと息を漏らした。とはいえ、彼女の表情は変わらず曇ったままではあるが。

 しかし前日、彼女が道場を休んだ時には、新左衛門もかなり慌てたことは間違いない。

 とはいえ、クシャトリスは約束の時間に、約束の場所にきた。

 ここから先はもう、新左衛門にはどうすることもできない。

「じゃあ、行くか……」

 そう言うと、彼はクシャトリスに背を向け、歩き出した。

 謁見室まで先導しているといえば聞こえはいいが、つまるところ新左衛門は、もう彼女の顔を見ていられなかったのだ。

 にもかかわらず、その沈黙にも、やはり後ろめたさを覚えるような腰の弱さが、池波新左衛門という男にはある。

 

「……なあクシャ子、ちょっといいか?」

「……なによ」

「お前、その、なんで昨日、稽古休んだ?」

「それっていま訊くこと?」

 その言葉に思わず口ごもる新左衛門の背中をドンと叩き、疲れたような微笑を浮かべたクシャトリスは、言う。

 

 

「そんなことよりちゃんと訊きたいことを訊きなさいよ。カンパクデンカさんにわざと負ける覚悟は決まったのかってね」

 

 

 一瞬顔を引きつらせる新左衛門だが、しかし数瞬のうちに迷いを捨て、腹をくくった表情を浮かべると、口を開く。

「そうだな……で、どうなのだ?」

 むろん新左衛門の目は笑っていない。

 しかし、クシャトリスも厳しい顔で訊き返す。

「その前に一つ聞いておくわ。もしもあたしがその人に勝ったら、あんたと先生は本気でハラキリするの?」

「……そうだと言ったら負けてくれるのか?」

「質問に質問を返すのは、この場合卑怯だと思わない?」

 真顔でそう言い返すクシャトリスに、またも新左衛門は引きつったような顔をするが、それでも彼はもうひるまない。

 

 

「実はな……正直に言えばそれもよくわからんのだ。お前が勝つにしろ負けるにしろ、要は殿下がお前に対してどれだけお怒りになられるか、というだけの話でしかないのだ」

 

 

 その言葉にクシャトリスは口を挟まない。無言で続きを言えと目で促す。新左衛門もそれを見て口を開く。

「あの御方は貴人には珍しく下々に対して寛容にして鷹揚と聞く。実際のところ、お前が余程ムチャをしない限り、おれたちが腹を切る羽目にはならんと思うが、それでも万が一ということがある」

「…………」

「特にお前は、剣に対しては妥協を許さない性格をしているしな」

「…………」

「とにかく、全てをつつがなく無難に収めるためには、お前に勝ちを譲ってもらうのが一番手っ取り早いのは確かなのだ」

「…………」

「さんざん切腹という言葉をチラつかせて脅したのは申し訳ないとは思うが、万が一お前が殿下に勝ったとしても、我らがその場で責任を負わされる事はない、と思う――殿下がお前に対して余程お怒りにならない限りはな」

「……だから?」

 

 

「だから……だからさ、お前が負けなきゃ、おれたちが即ハラキリってオチには多分ならないと言ってるんだ。だから、お前が……そんなに負けを認めるのが不本意だっていうなら、勝ってもいい――そう言ってるんだ」

 

 

 それはわざと負けろという師の命令に、憔悴するほどに苦悩していた彼女にとって福音となる言葉のはずだった。

 しかし、クシャトリス・バーザムズールの表情は相変わらず晴れない。

「…………クシャ子?」

「でも、結局のところアンタたちの生殺与奪の権利を握ってるのは、そのお偉いさんであることに変わりはないってことでしょう?」

「……まあ、それは確かに、な」

「だったら、やっぱりあたしに選択肢はないってことじゃない」

「じゃあ、お前……?」

「うん、まあ……他ならぬアンタと先生のためだしね」

「…………」

「仕方ないよね、世間ってそういうものなんだから」

 

 きっぱりとそう言い切った彼女の顔には、何かを諦めたような潔さに溢れていた。

 

 

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「そなたがクシャトリス・バーザムズールか、会いたかったぞ」

 

 そう言って爽やかに笑ったのは、謁見室のソファに座りつつ、湯気の立つ白磁のカップから、紅茶の香りを楽しんでいた青年だった。

 

 

 この部屋は市庁の謁見室なので、当然の如く和室ではない。したがって上座下座の区別もなく、床に畳も敷いていないので、クシャトリスが苦手な正座もしなくて済む。とはいえ貴人の前であることに変わりはないので、同じくソファに座るどころか、床に片膝をついて礼を守らねばならないのだが。

 しかしクシャトリスは、にこやかに微笑しながら無遠慮な眼差しを自分に注いでいるこの男に、なぜか好感のようなものが胸中に生まれつつあるのを自覚していた。

 なぜか――といったが理由はある。

 この男が、一瞥でハッキリとわかるほどに、若者独自の陽気さ、爽やかさ、こだわりのなさ、そして精気と活力を発散していたからだ。

 

 

「いかがした? 緊張しておるならその必要はないぞ。なにしろ余は一介の貧乏貴族でしかないからのう」

 

 

 そう言って高笑いするこの男からは、その自嘲じみたセリフとは裏腹に、拗ねたひねくれ根性など一片たりとも感じられない。

 彼はその笑顔を崩さぬままにソファから立ち上がり、カツカツと靴音を鳴らして彼女に歩み寄ると右手を差し出す。反射的に立ち上がったクシャトリスはどう反応していいのかも分からず、思わず口に手を当てて仰け反りそうになったほどだ。

 もちろん握手の慣習は『共和国』にも存在したが、それはあくまで平民同士、貴族同士といった社会階層を同じくする者同士の挨拶であり、現役の公爵と一介の平民エルフがする行為ではない。

 が、そんな彼女の戸惑いなど意にも介さず、男は「余と握手するのは嫌か?」などと言い、結果的にクシャトリスはこの『共和国』武家階級の頂点たる存在と、右手を握り合わせざるを得なくなった。

 

 

「豊臣秀綱と申す。今日は国内最強の誉れ高きバーザムズール殿が、我が招きに応じていただき、余としてもまことに祝着至極じゃ」

 

 

 サムライ独自の和装ではなく、公爵らしき贅を尽くした洋装を着込んだその体格は、六尺(約180センチ)越しの長身でありながらバランスのとれた筋肉に包まれ、その容貌は明るさと精悍さが見事に同居しており、貴族の御曹司によくある脆弱さは全く感じられない。

(これが「武家の棟梁」と呼ばれる男か……)

 クシャトリスは思わず納得した。

 この男が戦陣に立って鼓舞すれば、数万、数十万の大軍といえど喜んでその指揮下において死地に赴くだろう。その程度のカリスマならば彼は充分すぎるほど持って生まれている――少なくとも、彼女にはそう思えた。

 

 

「クシャトリス・バーザムズールです。本日はお招きいただき、誠に有難うございます」

 

 

 普段から無愛想なクシャトリスとしては、いま自分がうまく笑えたかどうか自信はなかったが、それでも秀綱は短くうなずくと、傍らのソファを目で示し、

「どうか楽になされよ」

 と言い、それを合図のように秀綱の後ろに控えていた者たちが無言で動き出し、彼女のテーブルに白磁のカップになみなみと注がれた紅茶と、茶菓子とおぼしき黒い塊(のちにこれはヨーカンという和菓子であることを彼女は知った)を提供する。

 秀綱に従ってソファに腰を下ろしたクシャトリスは、さすがにそれらに手を付けはしなかったが、それでもようやく周囲を見回す余裕が出来た。

 秀綱は洋装であったが、彼の周囲で動くサムライ装束の男たちは、そのいずれもが手練の遣い手であることはクシャトリスの目から見れば、まさに一目瞭然だった。彼らこそがこの豊臣公爵様の世話役兼護衛なのだろう。

 その護衛たちと距離を置いて、この謁見室の壁際に直立不動で立っている源太夫や新左衛門は、普段身に着けぬ裃(かみしも)さえ身に付けている。

 今この瞬間こそ、二人とも対面の挨拶がつつがなく済んだことに胸を撫で下ろしたような顔をしているが、それでも秀綱が自らクシャトリスに握手を乞うた瞬間は、顔を引きつらせていたに違いない。

(それを見逃すなんてもったいないことしちゃったな)

 と、思わず失笑しそうになる頬を引き締める。

 この男がどれだけ涼しげな大将ぶりを見せても、それでも幼馴染と師匠に対して生殺与奪の権限を持つという事実を忘れてはならない。わずかな油断こそが自分にとっての普段通りの無礼さを発露させてしまうかもしれぬと思えば、こんなところで気を緩めるわけにはいかない。

 

「さあ遠慮はいらぬ、御賞味くだされ、サラミス産の紅茶でござる」

 

 嬉しそうにそう勧める秀綱の言葉に、クシャトリスは「では」と目礼して、眼前のカップに手を伸ばす。もちろん彼女はサラミス産などと言われても、それがどこなのかも、そこで採れた紅茶がどの程度高級品なのかも知らない。

 一口飲んで「美味しいです」と礼を言うくらいの才覚はあったが、普段から紅茶を飲み慣れていない彼女にとっては、正直なところ味の良し悪しなどわからない。

 むしろこれが最高級の緑茶だったならば、さぞかし美味しそうに舌づつみを打ってあげたものをと思わずにはいられないが、それでも自分がエルフだということを考えて紅茶をわざわざ用意してくれたのかと思えば、そんな失礼な本音を吐くわけにもいかない。

 そう思った瞬間だった。

 

 

「さて、早速だがバーザムスール殿は、余がそなたを招いた理由を聞いておるかな?」

 

 

 あまりにも単刀直入な物言いだったので、クシャトリスはしばし絶句するが、それでもそこで気後れするような性格はしていない。壁際に立ったまま狼狽を必死に隠す渡辺源太夫に一瞬目をやり、せいぜい無礼にならないように言葉を選びながら口を開く。

「殿下は……剣士としてのあたしとの謁見を望まれたと師から聞いております」

「ふむ、それで?」

「さらに師は、殿下御自身も一流の剣士であると仰っておられました」

「おう、こう見えても神風流の免許持ちじゃ。とはいえ、あれは我が豊臣の御家流じゃから、余が本当に免許皆伝にふさわしい技量を持っておるのかは少し疑問なんじゃがな」

 そう言いながらも、彼の笑顔からは己に対する揺るぎない自信が伝わってくる。恐らくはこの男は、本心では自分の実力が皆伝の水準に達していないなどとは毛ほども思っていないに違いない。

「それを踏まえて師は言いました。殿下があたしに対して望まれているのは、剣士としての試合であろうと」

「――うむ、そのとおりじゃ。承知の上なら話は早いのう!!」

 

 そう快活に言うや、秀綱は背後に控える護衛たちを振り返り、「バーザムズール殿に剣を持って参れ」と指示する。

 無論クシャトリスも今になって慌てたりはしない。ここまでの展開は新左衛門や源太夫を通じて散々言われてきたことだからだ。

 もちろん試合に備えて愛用の竹刀や防具を持参しているため、いまさらここで剣を借りるまでもないので、一人のサムライから袋に入った棒状のものを差し出されたが、ソファから立ち上がり、それを断ろうとしたが……しかし、袋から出された「それ」を見た瞬間、彼女は言葉を失った。

 そのサムライがクシャトリスに差し出したのは、一本の真剣だったからだ。

 

 

 

「勝負は一本、もっとも真剣勝負である以上、一本決まれば次など無いのじゃが……では、庭に出ようか。まさかこの部屋で斬り合う訳にもいかぬからのう」

 

 

 

 豊臣秀綱は、そう言って一部の曇りもない表情で微笑んだ。

 

 



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第二十二話 「辻斬り(其の五)」

 

「殿下!! そのお言葉、しばしお待ちください殿下っ!!」

 

 

 呆然と刀を受け取ったクシャトリア・バーザムズール。

 楽しそうに破顔する豊臣秀綱。

 その光景を絶句したまま眺める池波新左衛門。

 そして、まるで秀綱の吐いた言葉が聞こえていないかのように顔色も変えず、微動だにしない秀綱の側近たち。

 そんな謁見室の中で、秀綱の真剣勝負宣言に唯一まっとうな反応を示したのが、この渡辺源太夫だった。

 

「殿下、仮にも関白豊臣家の長として『共和国』の武家衆を統御せねばならぬ御方が、そのような御短慮をなさってはなりませぬ!!」

 と、まるで彼の足元に縋り付くようにして諌止の声を張り上げる。

 もっとも、源太夫からすればこの叫びは当然のものだった。この若き「武家の棟梁」が、己の腕にどれほど自信を持っていようが、それでも大統領杯で二連覇を果たしたクシャトリス・バーザムズールを凌ぐほどであるわけがない。

 もしもこの勝負が実現すれば、さすがに源太夫といえども、もはや弟子のクシャトリスに勝ちを譲れとはとても言えない。真剣勝負での敗北とはすなわち死を意味するからだ。かといって、彼女が本気を出せば勝負の帰趨はあまりにも明らかである以上、己の旧主が己の弟子によって斬殺されるような状況を座視するわけにも行かない。

 まさに板挟みというにはあまりに過酷な状況だが、そんな彼の心境を嘲弄するのように秀綱は言う。

 

 

「渡辺、そちが心配しておるのは余か、それとも弟子か、いずれじゃ」

 

 

 そんなことを言われてしまえば、源太夫としても

「何を戯れ言を申されますか、この国のすべての武士にとって殿下以上に案じねばならぬ御方などおりませぬ!!」

 と言い返すしかない。

 しかしその言葉は同時に、

「つまり、余とそなたの弟子が立ち合えば、余が斬られるのは確実じゃと、じゃから真剣で立ち合うなと、そう言いたいのか?」

 という秀綱の言葉を全面的に認めることになってしまう。

 が、それでも源太夫は懸命に反論する。

「いやいや、さにあらず。我が不肖の弟子ごとき、殿下の御身を傷つけることなど到底叶うはずもござりませぬ。なれど――!!」

「なれど、なんじゃ?」

「なれども、勝負は時の運と申しまする! 殿下の御身に万が一のことがあらば、この老骨の皺腹などいくつ掻っ切ったところで追いつくはずもござりませぬ!!」

「ふむ、なるほどのう……」

 と秀綱は、源太夫の言葉を少しは理解したようなつぶやきを漏らすが、それが口だけのものであることは、この青年の顔を見れば歴然だ。

 源太夫は歯ぎしりせんばかりの表情で、秀綱の背後に居並ぶ側近たちを振り返り、

「おぬしらも何を黙って突っ立っておる!? 殿下をお止めせぬか!!」

 と叫ぶが、彼らはやはり沈黙を保ったまま一向に動こうとはしない。

「この状況がわからんのか貴様ら!! この期に及んで一体いかなるつもりじゃッッ!?」

 と、旧主に向けられぬ怒りを代わりにぶつけるかのように、源太夫は彼らに声を荒げるが、涼しい声でそれを遮ったのは、他ならぬ秀綱自身だった。

「この者たちは、余の指示がない限り動きはせぬよ。加藤、福島、黒田といった我が家の家老連中と違って、こやつらは余の子飼いじゃからのう」 

 それを聞いた源太夫は、まさに「ぐぬぬ……」とうめき声を上げんばかりに歯を食いしばるが、それも一瞬のことだった。老人は若者に向き直ると、その場に土下座した。

 

 

「どうか!! どうか殿下には、真剣での勝負だけはなにとぞお止め下さりますよう、この渡辺源太夫、切にお願い申し上げまする!! この老人を助けると思って、なにとぞ! なにとぞ!!」

 

 

 その叫びは、確かに見る者の肺腑を貫く気迫に満ちていた。

 この秀綱が凡庸の男であったならば、おそらくはその悪ふざけもこの場で終了していただろう。が、源太夫にとって不幸だったことは、この若者が、渡辺源太夫という一個の高名な剣客の血を吐くような叫びを目の当たりにしていながらもなお、己の自尊心を優先できる硬骨さを持ち合わせていた点であろうか。

 秀綱はここに至ってようやく、その顔に貼り付けた涼やかな微笑をかき消して怒声を放つ。

 

 

「この無礼者がッッ!! たとえ万が一であっても、余が貴様の門弟ごときに遅れを取る恐れがあると、左様に申すかッッ!!」

 

 

 その叱責を浴びながら、源太夫は絶望する。

(もうだめだ)

 そう思わずにはいられない。

「万が一」という可能性自体を「無礼」として封じられてしまえば、もはや源太夫にはこの若者を諌める言葉がないということになってしまうからだ。

 顔を歪めて絶句する源太夫から、秀綱は視線をクシャトリスに移すと、ふたたび微笑を浮かべ、

「見苦しきところを見せたな。では行くか」

 と言って扉に向かって歩き始める。この期に及んでもその笑みに嫌味が漂わないことにクシャトリスは半ば感心しながらも、しかし彼女は今まで黙っていた口を開いた。

 

 

 

「待ちなよ、カンパクデンカさん。あたしはまだその決闘を受けるとは言ってないよ」

 

 

 

 ふたたび室内の空気は凍りついた。

 これまで一応は礼に則った口をきいていたクシャトリスが、明らかに普段の傲然不遜な態度に戻っている。

 いや、それはいい。

 問題は彼女が、この試合を「決闘」と呼んだことだった。

 いや、確かに秀綱が主張するこの勝負は、命懸けである以上、稽古試合の域を明らかに逸脱している。もはやこれは客観的に見て「決闘」と解釈して差支えはないだろう。しかし『共和国』において法的に制定されている決闘のルールとしては、当事者間にいわゆる拒否権が存在することは、この国の国民ならば誰もが知る常識だ。

 しかも彼女は、渡辺派無明流という武士の剣術を学んでいても、しょせん武家階級の所属者ではない。関白太政大臣であろうが武家の棟梁であろうが、命懸けの真剣勝負を強制される筋合いはないのだ。

 

 しかし、一介の侍としては己の主君にそんな態度を取る者を見過ごすわけには行かない。

 たまらず新左衛門が二人の間に割って入り、クシャトリスを怒鳴りつける。

「控えよバーザムズール!! いったい誰に向かってそんな無礼な口を利いておる!?」

 しかし、もはや遠慮は無用と判断したのか、クシャトリスは顔色も変えない。

「あたしはこいつの家来じゃない。ここにこうやって顔を出したのも、アンタと先生の顔を立てて試合をするため。生き死にの決闘をするためじゃない」

「いや……それはそうかもしれんが……しかしだな」

 言い返された途端に口ごもる新左衛門に、秀綱はクシャトリスに向けていたのとはまるで別人のような冷たい視線で「目障りじゃ、下がれ」と言い放ち、新左衛門を硬直させる。

 そして、その冷たい表情のまま秀綱はクシャトリスを振り返ると、言った。

「なんじゃ、おぬし今になって臆病風に吹かれたのか? 国内最強を謳われる剣士にしては野暮なことをほざきよるのう……いや、これは少々買いかぶっておったかな?」

 が、クシャトリスも負けてはいない。

「こっちもあんたの酔狂に付き合って捨てるほど安い命でもないんでね。とはいえ、やらない――とも、あたしは言ってない。そういう酔狂自体は嫌いじゃないしね」

「ほう……つまりは条件次第というわけか。望みは何じゃ? 金か?」

「金はいらない。欲しいのは言葉よ」

 そこでクシャトリスは初めて新左衛門と源太夫にちらりと目をやり、厳しい顔で秀綱に言う。

 

 

「この場で誓いなさい――もしも勝負であたしがアンタを斬ったとしても、我が師と我が友に一切の責任を負わせず、渡辺派無明流に一切の後難が及ぶことはないと。この国のサムライすべてを代表して約束しなさい。それがあたしの条件よ」

 

 

 もはや敬語すら使わないダークエルフ娘に、しかし関白秀綱はむしろ納得したような顔さえ見せる。

「なるほど、これは確かに余の迂闊……そなたの申す通りじゃ。たとえ勝負の結果としても余を手にかけたとあらば、それは『共和国』中の武家衆を敵に回すのと同義じゃしな」

 おい、誰ぞ紙と筆を持て――そう側近に呼びかける秀綱はクシャトリスに笑いかけ、

「言葉だけでは不安であろうから一筆したためてやろう。余の直筆の誓紙があらば、よもやそなたらに手を出す愚か者もいまいし、こやつら二人も早まって腹を切ったりすることはなかろう」

 そう爽やかに言い切り、そして、それを聞いたクシャトリスの顔にも入室以来初めて笑みが浮かぶ。

 

 

(まずい)

 その獰猛な笑顔を見て新左衛門は、クシャトリスがその気になりつつあるのを見抜いた。

 もはや手段は選んではいられない。たとえ虚言を並べ立ててでも、この決闘だけはなんとしても防がねばならないからだ。

 言うべき言葉を失い動かない師匠に代わり、羊皮紙に向けてさらさらと文章を書き連ねる旧主に向けて、新左衛門は膝をついて声を上げる。

「申し上げます!! 確かに英邁たる関白殿下がひとたび剣を振るえば、たとえ相手が誰であろうとも殿下の勝利は動きますまい。なれど――なれど、それが殿下の身に更なる厄介事を持ち込む可能性がございます!!」

 その言葉を聞き、秀綱も興味を催したのか「ほう、申してみよ」と発言を許可する。

 

 

 

「そこのクシャトリス・バーザムズールは士籍を持たぬ一介の平民に過ぎませぬ。なれど、その父はジュピトリアム市警騎士団において本部長を務めており、いわば市における顕官の令嬢というべき女でありまする。もしもこの女が殿下の手にかかって果てたということになれば、殿下は彼女の父、ひいてはバーザムズール家の属するダークエルフ・ズール氏族そのものを敵に回す恐れがございます!!」

 

 

 

 確かにこの発言は、すでに成立しかかっていた決闘に冷水をかけるには十分な威力を持っていた。

 源太夫は命綱を見つけたかのような表情で俯いていた顔を上げ、秀綱の顔からはその微笑が消えた。

 それに新左衛門の発言は、確かに大げさではあるが決して無根拠なものではない。ガルス・バーザムズールが市警騎士団の上級幹部であることも、さらに一人娘が剣術に夢中になっていることに対して不快な目を向けていることも事実なのだ。この決闘で彼女の身に何かがあれば、新左衛門も知るあの頑固親父が黙っていないことは確信を持って言える。

 が、それに水を差したのは、肝心のクシャトリス本人であった。

 

 

「ああ、確かにそうなるかもしれないけど、多分そうはならないよ。この勝負でいかなる結果になろうとも自己責任だって、あたしも父さんに向けて一筆書くし」

 

 

(クシャ、てめえ……!!)

 声を出せるなら、まさしくそう発したであろう表情で新左衛門がエルフ娘を睨みつける。

 いや、愕然として彼女を振り返ったのは源太夫も同じだ。

 が、クシャトリスはまるで平気な顔でソファから立ち上がり、にやりと笑って新左衛門に言う。

「大丈夫だよ、決闘決闘と大袈裟に言っても、しょせんアンタが考えるような結果にはならないよ。誰も死なないし、あたしもケガなんかしない」

 そこで言葉を切って彼女は挑戦的な目を秀綱に向けると、言い放った。

 

 

「ただ、そこのカンパクさんは、腕の一本くらい覚悟してもらうことになるだろうけどね」

 

 

 ほう、なかなか煽るのうバーザムズール――そう楽しげに言うと、秀綱とクシャトリスはもはや無二の親友のように声を合わせて笑う。

 その様子を呆然と見つめる新左衛門の耳に、師匠の囁き声が届く。

「どうやらここまでじゃ池波……こうなってしまっては、もはや我らには止められぬ」

「しかし……本当に良いのですか先生?」

「これでも手は尽くしたのじゃ。それに殿下が仰せられた通りの誓紙を書いてくださるなら、もはや我らが勝負の結果に責を負わねばならぬ義務もない。それにじゃ……」

「それに?」

「実はわしも、この成り行きには少なからず腹に据えかねておる。殿下には……少し痛い目を見てもらう必要があろうよ」

 これまで見せたこともないほどのしかめっ面でそう囁く源太夫を、新左衛門は絶句しながら見つめるしかなかった。

 

 

」」」」」」」」」」」」

 

 風は南東。

 陽は中天。

 男は上段に剣を構え、女は中段に剣を構える。

 睨み合う両者から一歩離れて渡辺源太夫が審判役として屹立し、そこからさらに数歩離れて池波新左衛門や、秀綱の御側衆である武士たちが、この立ち合いを検分する。

 

 上段に剣を構えた秀綱は、もはやさすがに笑ってはいない。

 空にピンと伸びた一本の日本刀からは、尋常ならざる剣気が漂い、この空間を圧していく。

(言うだけのことはある……か)

 クシャトリスは思う。

 いや、その思考すらが強がりであることを、彼女はすでに気づいている。

 この男は強い――予想以上に――という確信がある。

 しかし動揺はしない。

 自分自身の強さに対する余裕ではない。彼女は彼女なりに場数というものを踏んできている。国内最強と呼ばれる今の実力を手に入れる前には、自分より強い相手と生き死にの決闘をしたこともある。その経験によって生み出された豪胆さが、彼女の強さを支えているのだ。

 

 

(くる……!)

 彼女の勘がささやいた。

 その瞬間、秀綱が五歩の距離を一気に詰め、頭上に掲げた一刀を振り下ろす。

 その踏み込みの速さは、確かに一派一流の免許皆伝を口にするだけのことはあった。この初動で放たれた一撃をさばける者は、少なくとも渡辺道場『練武館』の高弟たちの中でも三人とはいまい。が、勘に従い予測を済ませていたクシャトリスは、余裕を持ってその剣を躱した――つもりだった。

 しかし、彼女の肉体はそうは動かなかった。

 その一撃のタイミングは予測できても、その一撃の鋭さはクシャトリスの予測以上のものだったからだ。回避にこだわった動きをしていれば、おそらく躱しきれずに斬られ、即死していただろう。

 だが、彼女の身体は、その攻撃が予想以上のものであった事実など全く感じさせない動きで間合いを詰め、秀綱の渾身の一刀を受け止める。

 鋼と鋼がぶつかり合い、衝撃によって毀れた刃の微小な破片が、金属音と火花と同時に光を伴って舞い散る。

 

 額と額をくっつけ合わせるような体勢のまま、豊臣秀綱とクシャトリス・バーザムズールは鍔迫り合いに入る。

 が、剣さばきのテクニックならばともかく、剣を介しての力比べというべき鍔迫り合いの姿勢になっては、クシャトリスの不利は明白だ。単純なパワーという土俵では所詮ダークエルフ種の、しかも女性でしかないクシャトリスは、ヒト種の二十代男性である秀綱に及ばない。人間がパワーで獣人に敵わないように、エルフと人間では、その生まれついての筋力量にどうしても差が生じるのだ。

「くっ」

 クシャトリスは顔を歪めて息を漏らし、懸命に踏ん張る。

 とはいえ、彼女にとっても鍔迫り合いという体勢の攻防に自信がないわけではない。

 彼女レベルの剣士ならば、自分のパワー不足という弱点に気づき、克服していて当然だ。さもなければ大統領杯という国内最強の戦士を決める大会で連覇を果たすなどということは出来るものではない。

 クシャトリスは道場にいる獣人種の剣士たちを相手に「鍔迫り合いの体勢からの攻防」というシチュエーショントレーニングも普段から充分に積んでいるし、たとえオークやオーガーを相手に鍔迫り合いになっても、相手の膂力を足さばきや重心移動で崩す技術を持ち合わせている。

 が――クシャトリスの最大の誤算は、眼前の相手が道場の獣人どもごときではなく、神風流免許皆伝の剣士であったという事実だった。

 

(こいつ……うまいッッ!)

 鍔迫り合いの体勢に入って、初めてクシャトリスは秀綱のテクニックに舌を巻いていた。

 体勢の入れ替え、足さばき、重心移動が絶妙で、クシャトリスといえども彼の姿勢を崩せないのだ。

「どうしたぁ……こんなもんかバーザムズール?」

 秀綱がそう囁く。

 と同時に、彼は手首を返し、己の刀を使ってクシャトリスの刀を上から押さえつける。

 それだけではない。刀を押さえながら体を入れ替え、己の左肩を彼女の右肩に預けるような姿勢になる。

 ここまで間合いが近づいてしまえば、もはや剣は使えない。互いの耳が触れ合うような体勢で、両者ともに間合いを取り直すための一瞬の隙を、この消耗戦のような力比べの中で探り合うしかない。

 彼女がそう思った瞬間だった――。

 

「ぐッッ!?」

 クシャトリスの全身を不意の激痛が貫く。

 秀綱が左足のかかとで、彼女の右足の甲を踏みつけたのだ。

 並の剣客なら、その痛撃は一瞬以上の隙を作るに十分なものだったろう。

 が、必要以上に喧嘩慣れしているクシャトリスの肉体は、この事態に陥ってもなお反撃のリアクションを失わない。激痛によって動きを止めるどころか、その痛みを引き金として彼女の反射神経は、彼女自身すら予想だにせぬ動きを繰り出した。

 それは、手に持つ刀どころか拳や蹴りさえ不可能な超近間からの――頭突きだった。

「ごはッッ!?」

 思わず勝利を確信した笑みを浮かべていたのであろう秀綱は、その顔面にクシャトリスの頭突きをまともに食らい、たたらを踏む。

 その隙にクシャトリスは後方に大きく飛び下がり、間合いを取り直す。

 

 

「今のは……なに? まさかそれが神風流とかいう剣の技なの?」

「その台詞はそっくり返すぜ……まさか渡辺派には頭突きの技術まであったとはな」

「そんなわけないでしょ。ただの反射よ」

「そうだよなぁ、そんなわけないよなぁ」

 

 

 踏まれた右足をかばうように半身に立つクシャトリスが言い、曲がった鼻から血をたらしながら秀綱が言い返す。

 

 

「でもさっきの足踏みは、確かに効果的だと思うわ。特に鍔迫り合いにはね。武家の棟梁を名乗る公爵様の技にしては少し下品だけどね」

「そう言うなよ。頭突きほどには下品じゃ無いはずだしな」

「ただの反射だって言ってるでしょ……アンタと違って普段からそんな真似をしてるわけじゃないわよ」

「へえ……わかるかい」

「わかるわよ。こっちも伊達に喧嘩慣れはしてないんでね」

 

 

 互いに笑いながら軽口を叩いているように見えるが、もちろん隙など見せていない。

 秀綱は話しながら、曲がった鼻梁を掴んでむりやり捻じ戻し、その鼻血も止まりつつあるし、クシャトリスも半身になって浮かせていた右足の痛みが引いてきたのか、重心を両足立ちに戻す。

 

 

「確かに色々聞いてるよ。練武館のお姫様は道場の外でもかなりお転婆だってな」

「噂してくれてアリガトウね。あたしはアンタなんか知らなかったけどさ」

「今日で忘れられなくなったろう?」

「そうだね。正直言って名前を聞いたこともない奴と立ち合うなんてって思ってたけど……ちょっと気が変わったよ」

「ほう、それは余の腕を評価してくれたと解釈していいのか?」

「ええ。利き腕一本くらいで許してあげようと思ってたけど、そんなぬるい覚悟じゃ、あたしも無事に済まないって今更ながらにね」

「つまり、お遊びはここまでだと?」

 

 

 

「そうね。この国のおサムライさんたちには悪いけど……あたし、アンタを殺すわ」

 

 

 

 そう言いながらクシャトリスは刀を下段に下ろす。

 それは彼女の得意技である刺突をコンビネーションに組み合わせた構えで、つまりはクシャトリス・バーザムズールの本気の構えであると言ってよかった。

 いや構えだけではない。それと同時に、彼女の放つ剣気も露骨に殺意を含んだものに変わったのだ。それを見る源太夫や新左衛門の表情が変わったのは言うまでもない。

 が、その剣気をまともに浴びていながら、豊臣秀綱は動じない。

 

 

「おもしれえ……そうこなくっちゃな」

 

 

 そう言って獰猛に笑う男を見て、女もまた、不敵な微笑を浮かべた。

 

 



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第二十三話 「辻斬り(其の六)」

 

「それでは今日という善き日に、ジュピトリアムの紳士淑女と杯を交わせる栄光を祝して――乾杯!!」

 

 

 その声に応じる様に、会場にいる者たちは杯に満たされた葡萄酒をあおり、飲み干してゆき、その様子を、乾杯を号した豊臣秀綱は一点の曇りもない笑顔で見守る。

 今ここに催されているのは、豊臣秀綱公爵のための歓迎の宴だ。

 とはいえ、彼のジュピトリアム滞在はお忍び――つまりは非公式であるため、宴の規模も大々的にするわけにも行かず、この市庁内の小講堂には二十人ほどの人数しかいないのだが、それでも市長のゲイル・マルクスを始め、ジュピトリアム市の有力者がズラリと居並び、豊臣公爵家に対する精一杯の歓迎の意を表している。

 もっとも秀綱としては、それをいちいち感謝したりはしない。彼の持つ影響力を鑑みれば、この街の大物たちが自分を歓迎するのは当然のことだからだ。

 今も市長を筆頭に、ジュピトリアムの各種商業ギルドの頭取たちや、市警騎士団の団長などが、彼との知遇を得ようと順番待ちをしているような状態で、秀綱はその爽やかな笑顔と陽気な態度を保ったまま、次々に彼らと握手と挨拶を交わし、「武家の棟梁」としての社交をこなしていく。

 これこそが彼の日常だ――と言ってしまえば身も蓋もないが、それでも今更この「作業」を苦痛に思うほど、豊臣秀綱は幼くはない。

 

 挨拶と挨拶の合間に、ふとこの講堂の隅に目をやると、壁にもたれたまま鳥肉の串を仏頂面でかじるダークエルフ娘と、これまた苦虫を噛み潰したような表情で彼女に何かを話しかけている若い武士がいる。

 そっぽを向いたままのエルフ娘に業を煮やしたのか、武士は彼女の肩に手をかけ何かを言うが、エルフ娘はその手を強引に振り払い、怒りの表情もあらわに言い返している。

(おいおい……)

 その様子を見て秀綱は、苦笑を禁じえない。

 むろん発言の内容までは彼の耳には届かないが、二人の空気が殴り合い寸前の険悪なものであることは見ればわかる。

 しかし、非公式であるとはいえ、この豊臣秀綱ほどの者を遇する宴の最中に口論など始めては、結果的にその事実は彼らの不名誉となることは間違いない。が、さすがにそんなこともわからぬままに熱くなるほど馬鹿ではあるまい――そう思った矢先、侍装束の老人が、若い武士の後頭部に拳を一発叩き込み、二人の男女を黙らせる。 

 むろん周囲は誰も、この珍事に気づいていない。例外はこの自分だけだろう――と思いながら、秀綱は吹き出しそうになるのを懸命にこらえ、杯の中に残った葡萄酒を一気にあおった。

 

 

 

 この『共和国』の総人口はおよそ一千万人。

 大陸北部の人類文明圏諸国と比較すれば、その数字は膨大と言えるが、それでも『共和国』が存在するアーガマニア半島の面積から人口密度を換算すれば、この一千万という人口は、この広大な亜大陸全土を埋めるには到底及ばない。このアーガマニアの地はゆうに数億、あるいは数十億の民を養うに足る広大さと肥沃さを備えているからだ。

 その中でも、人類の占める比率はおよそ四割――つまり四百万の人間がこの『共和国』の国民として生存しており、さらにその四百万の半数――つまり二百万の人間が「武士」という階級の所属者である。

 とはいえ、この『共和国』における武家階級はニホン時代とは違い、武士が武士であるだけで主君から職と食を保証されるという貴族的特権を『共和国』から認められておらず、いまや彼らは、社会的には旧ニホン時代の文化と伝統を受け継ぐ名誉階級でしかない。

 主君に忠誠を尽くし、その報酬として俸禄米を保証される、「御恩と奉公」という武家の社会システムは、主君たる豊臣家とその家臣団(武士団)が政治的に切り離されたために崩壊し、かつて家格を表すバロメーターであった主君からの俸禄石高は、過去の無意味な数字に成り果てた。

『共和国』の武士たちは、たとえ武門に生まれた身であっても、合戦で武功をあげようと思えば、まずはこの国の国軍に入隊せねばならず、国家のためならぬ主君個人のために剣を取ることさえ禁じられたのだ。

 

 以上のことはすべて、初代豊臣公爵たる豊臣秀頼が『共和国』入府の際、当時の大統領であるエマ・ベッケナーが、彼らの市民権と生存権を認める代わりに出した交換条件であるという。

 ニホン時代に比べればあまりにも急変したというべき武士たちの立場だが、しかし彼らは『共和国』からの処遇に激怒して反旗を翻すような真似はしなかった。

 その「棟梁」である豊臣秀頼の決断に異を唱えることを躊躇したというだけではあるまい。おそらく当時の侍たちは、極東の島国から大陸最南端というべきアーガマニア半島にいたるまでの流浪の軍旅によって疲労の限界に達していたのだろう。

 そして、主君からの俸禄という収入源を失った武士たちは、その新たな居場所と働き口を『共和国』の国軍に求め、その死を恐れぬ勇猛果敢な戦いっぷりによって自分たちの存在感を国内外に示した。現在でも認められている、武士出身者の国軍への優先的入隊権の伝統は、この当時のサムライたちへの敬意から端を発していると言われている。

 

 

 余談が続くが、かつて豊臣秀頼が二十万の軍勢を率いて『共和国』に入府したのが、今からおよそ四百年前。

 それまでエルフや獣人たちの種族連合に過ぎなかった『共和国』が、その二十万の移民を得ることで、ようやく国家としての体裁を整える契機となったわけだが、逆に言えば当時の『共和国』はそれほどまでに深刻な人口不足に悩んでいた。

 エルフや獣人たちは、その個体の寿命や魔力・生命力に反比例するように、一様に出生率が低く、ヒト種の卓抜した繁殖力は当時のこの国にとっては何よりも魅力だったに違いない。現に秀頼入府以来、わずか四世紀の歳月で約五十倍という爆発的な人口増加を遂げ、人類文明圏諸国が手を出せない国力を『共和国』が持つに至る結果をもたらしたのは、人間と交配のおかげであると言える。

 二十万の軍と前述したが、当時の豊臣軍は純然たる外征軍どころか、むしろ本国ニホンからの亡命軍といった色彩が濃かったので、当然その行軍には家中の女性も多く同行しており、それらの多くが秀頼の命令で、獣人種やエルフ種と婚姻を結び、その彼らがまさに空前のベビーブームを生んだのだ。

 これもかつて前述したが、この世界における異種族婚に混血児は生まれない。異種族婚によって出産された男児はすべて父側の種として生まれ、女児はすべて母側の種として生まれる。

 つまり獣人同士のカップリングでは数年に一度、エルフ同士に至っては数十年に一度の繁殖期を待たねば新生児は生まれないが、獣人やエルフに嫁したヒト種の女性は、まさに年間を通しての妊娠出産が可能なため、秀頼入府数年でこの国に空前の人口爆発が開始されたのは、ある意味当然の結果だった。

 

 つまり、豊臣家はこの『共和国』においては、まさに国を挙げての恩人とも言うべき家系であり、その影響力は現在においても容易に衰えてはいない。齢を重ねたエルフの長老たちの中には、初代秀頼と面識を持つ者が未だに存命だったりするのだから、それも無理からぬ話であろう。

 それどころか、法的に切り離されたはずの豊臣公爵家に対する武士階級の忠誠心は、今なお健在であり、もしも豊臣家が反乱の兵を挙げよと檄を飛ばしたなら、そのほとんどが呼応するだろう。

 つまり秀綱は、竜族を除く『共和国』最高のVIPの一人なのだ。

 しかし――秀綱個人がその境遇にたまらぬほどの退屈を覚えている事実を知る者は、この場にはいない。

 

 

 

(この酒は美味いな)

 そう思いながら秀頼は杯に満たされた酒を飲み干し、杯をテーブルに置く。

 空になった杯は、給仕の手によってすぐさま新しく酒を注がれ、秀綱はそれをまた飲み干す。

 わかっている。

 酒が美味いのは、この酒が高級品だからではない。

 気分だ。

 抑えてはいるが、彼にしては珍しく興奮している精神状態が、口に入れるものの味を昇華させているのだろう。

 ならば何故昂揚しているのかと訊かれれば、答えは簡単だ。

 今日の午後、市庁の中庭で行われた真剣勝負の結果が、彼の心に常ならぬ上機嫌をもたらしているのだ。

 思い出すたびに緩みそうになる頬を引き締め、その喜びを、あるかなしかの薄い爽やかな微笑に変換すると、彼は歩き出す。

 目的地は、講堂の隅で仏頂面のまま壁にもたれているダークエルフの女剣士。 

 ちょうどジュピトリアムの要人たちの挨拶攻勢も一段落着いたところだったし、問題はなかろう。

 そう思いながら秀綱は、公爵家の略式礼装の襟元のボタンを外し、首をくつろげた。

 

 

 

「あら、これはこれは公爵閣下じゃありませんか」

 不機嫌な顔をさらに歪めてクシャトリスは、一応といわんばかりのよそよそしさで頭を下げる。

 その様子を見て秀綱は思わず苦笑を禁じえない。この国で彼にこんな態度を取るような者とは会ったことがないからだ。

 が、そんな不遜なエルフ娘とは対照的に、老若二人の武士たちは半ば狼狽しながらその場に片膝をつき、挨拶の口上を述べようとするが、秀綱はそれを遮った。

「気にするな渡辺、今宵は無礼講じゃ、堅苦しい礼などいらぬ」

 と言ったはいいが、この二人は恐縮した顔をうつむかせるだけで、こちらを見ようともしない。もっとも武家の典礼には貴人に対してまともに視線を向けるのを無礼とする作法があるので、それも仕方がないと言えるのだが。

 やむをえず秀綱は二人に対して言葉をかける。本当は空気で察してくれれば楽だったのだが、そうもいくまい。

「少しこの娘と二人にさせてくれぬか。余直々に話があるのじゃ」

 

 

 

「――で、カンパクデンカ様が、このあたくしめに一体いかなる御用でございますか?」

 

 

 二人が立ち去り(とはいえ、会話が聞こえぬ距離からこちらの様子を伺ってはいるようだが)いかにも面倒くさげにクシャトリスがそう言う。

 彼女のそういう態度に対する新鮮さはまだあるが、言われっぱなしというのも面白くないので、

「えらく愛想がないが、そちの親はしつけに失敗したのか? それとも渡辺の道場で余の悪口でも吹き込まれたのか?」

 と言ってやると、クシャトリスは顔を引きつらせて凍りつく。

 その歪んだ顔に秀綱は思わず吹き出しそうになるが、あんまり煽るとこの娘はカンシャクを起こしてこの場を立ち去りかねないので、

「冗談じゃ冗談、これでも一応は公爵様じゃ。左様に怒った顔を向けるな」

 と、一応フォローを入れておく。

 もっともそんな一言で娘の表情が和らぐはずもない。

「あまりいい気にならないで下さいねカンパク様。あたしはあんな決着認めていませんから」

「ほう?」

「道場内だったら――いや、少なくとも公式試合だったらあんなことにはなってませんよ。あなたがやったのはどう擁護しても反則ですから」

 

 早口でそうまくし立てる彼女ではあるが、今度はそっぽを向いたままこっちを見ようもしない。

 むろん秀綱には、彼女が自分をまともに見ようとしない理由はわかっている。

 事実をむりやり捻じ曲げて解釈することで、彼女は自分の身に起こった現実をなかったものにしようとしている。その心苦しさがあるからこそクシャトリス・バーザムズールは豊臣秀綱をまともに見ようとしないのだ。

 その気持ちは彼にもわかる。気づかぬうちに自分の強さにおごり、酔いしれ、無意識のうちに他者を見下すようになっているときに現実を突きつけられれば、普通はそうなる。

 秀綱自身もそうだった。自分が仰ぎ見られることが当然だと思い込んでいるうちは、見たくもない現実から目を背けて、心中に言い訳を量産して己を慰めてしまうものなのだ。

 なので秀綱はあえて言ってやる。

「見苦しいなバーザムズール。それが貴様の言い訳か?」

「…………ッッ」

 その言葉に、クシャトリスは戦車のような勢いで振り向く。

 彼女のその目には、もはや怒りさえ伴っていると言っていい。

 しかし当の秀綱にとっては意外でもなんでもない。当然だろう。いま彼はクシャトリスのプライドを現在進行形で踏みにじっているのだから。

 が、彼女の目に宿っているのは、怒気だけではない。むしろ無分別な怒り以上に、そこに見える感情は、まるで裸を見られた乙女のような羞恥だった。

 しかし、秀綱にとって彼女が恥じらっているという事実は重要だった。つまりクシャトリス自身に、己が現実から目を背けているという自覚が十分にあるという証拠だからだ。

 なので、秀綱はむしろ安心して言葉を続ける。

 

 

 

「貴様は余に負けたのだ、クシャトリス・バーザムズール。あの瞬間、余はそなたを確実に斬ることができた。今そなたが生きているのは、殺せる相手を余が敢えて殺さなかったという結果にすぎぬ。それを敗北と言わずして何と言う」

 

 

 

」」」」」」」」」」」」」」

 

 風は南東。

 陽は中天。

 市庁の中庭に、豊臣家の桐の家紋入りの万幕で囲われ、急ごしらえで用意された「試合場」であるが、中で剣を構えているのはただ二人。

 下段に剣を構えるクシャトリス・バーザムズール。

 八相に剣を構える豊臣秀綱。

 

 検分するのは審判役の渡辺源太夫と、秀綱直属の家士数人。そして池波新左衛門。

 しかし、源太夫と新左衛門は露骨に顔を歪ませている。

 理由は明白だ。

 その下段の構えは、彼女自身の本気の構えとでも言うべきものであり、その構えから繰り出される突き技――そして突きを含む連携技は、道場ではまともにさばける者もおらぬほどに高い完成度を誇る。

 なにより彼女の発する気は、ただの剣気ではない。

 技を食らった相手が死んでも構わない。むしろ斬られる前に斬らねば、自分の身が危ない。

 そう覚悟した剣気――つまり、眼前の相手に対する遠慮のない殺意が、まともに伝わってくるからだ。

 むろん彼女は自分が対峙している相手が何者であるかを知っている。彼が、この国に生きるすべての武士にとっての旧主というべき男であり、彼を手にかけるということが一体どういうことなのか、彼女はすでに承知している。

 にもかかわらず、クシャトリスがこの構えを取ったということは、ある意味秀綱を評価すべきとさえ言えるかもしれない。

 つまり、クシャトリスがこの構えを取ったのは、あくまで彼女自身の意思ではなく、秀綱の剣こそが、彼女にこの構えを取らせた――そう解釈するしかないからだ。

 

(それでいい)

 秀綱はそう思う。

 生まれついての豊臣家の嫡男であった彼は、対戦相手に勝ちを譲られることなどゲップが出るほど経験している。

 しかし、なまじ剣に天稟のあった秀綱は、相手の遠慮によって一本を取るという行為に、次第に嫌悪感を覚えるようになっていた。

 無論そうせねばならぬ家臣たちの立場は理解している。彼らの遠慮は決して自分を侮ってのものではない。

 が、それを理解するほどに彼は剣の稽古に没頭した。

 その不満を解決するためには、自分の相手を務める者たちが、遠慮などする余地を持たぬ程に強い自分になるしかない――そう判断したからだ。

 むろん彼の両親は、秀綱の狂気じみた修行に激しく難色を示したが、彼自身はそんなことなど歯牙にもかけなかった。当時の彼は屋敷内での道場稽古以外にも、暇さえあれば木刀一本を携え、屋敷の外で実戦練習という名の喧嘩に明け暮れる、札付きの不良少年でさえあったのだ。

 やがて両親に心配をかけることのデメリットを悟った彼は、元服を機に、それまでの生活態度を嘘のように改めたが、その性根が完全に消え失せるものでもない。家督を相続して十七代豊臣家公爵となった今でも、お忍びで地方都市にふらりと赴いたりするのも、かつてのヤンチャな頃の名残であると言える。

 

 いや、かつての――ではない。

 現に秀綱は、今こうして自分に対して殺意をむき出しにするクシャトリス・バーザムズールに対して、たまらぬほどの喜びと楽しさを感じている。

 彼女に対して真剣勝負を提案したのは間違いなく、この瞬間の――白刃を手にして、命のやり取りをするスリルを味わうためなのだから。

(この楽しさを覚えてしまえば、女と寝る快楽さえ児戯に等しい)

 彼は半ば本気でそう思い、しかしその本音を腹中に深く秘している。彼が愉悦を覚えるのは、あくまで五分の条件での真剣勝負であって、殺戮そのものではないのだが、ある意味では、彼は歴代豊臣公爵の中で最も武士的な血を濃く受け継いだ存在なのかもしれない。

 だが「武家の棟梁」たる自分が、命のやり取りに喜びを見出すような人間であることを世間に知られるリスクは、やはり明白なのだ。

 しかし理性でいくら納得していても――所詮それは上辺のものでしかない。特にこういう、ギリギリの勝負の瞬間における血のたぎりは、その事実を十二分に彼に思い知らせてくれる。

(さあ……来い)

 そう思うほどに、秀綱の口元は楽しそうにほころんでいく。

 

 

 秀綱はいま八相に剣を構えている。

 八相の構えとは垂直に立てた剣を右肩に引きつけ、左足を一歩前に出した状態の構えで、一見すると野球におけるバッティングフォームに見えなくもない。

 が、これはあくまでも攻撃のための構えであって、防御のための構えであるとは言い難い。

 そういう意味でクシャトリスは、彼の取った八相を奇異に思う。

 いまクシャトリスがとっている下段の構えは、本来ならば防御の構えなのだが、それでも彼女にとってはそうではない。この下段から突きを含む多彩な攻撃を見せることこそ、大統領杯優勝剣士クシャトリス・バーザムズールの真骨頂というべき姿なのだが、それでも豊臣秀綱ほどの手練であれば、この下段が彼女にとっての最大攻撃の構えであることを見抜けるはずだからだ。

(つまり、こいつはあたしの攻撃を防御ではなく、迎撃で凌ぐ気なの? このあたしから後の先を取れると、本気で考えているの?)

 舐められた、という思考が一瞬彼女の頭をよぎる。 

――が、彼女はすぐにその雑念を捨てた。

 相手の構えなどどうでもいい。

 今わかっていることは、眼前のこの男を斬らない限り、自分はこの場を生きて出られないであろうという確実な予感だ。

 

 

 風がやんだ。

 さっきまで鳴いていた鳥も、何処かへ飛んでいってしまったのか、その声は聞こえない。

 クシャトリスは、その静寂に導かれるように、静かに一歩を踏み出した。

 

 

 見る者にとっては、その初動は瞬間移動のように見えたであろう。

 完全停止から、予備動作なしのわずか一歩で最大加速を得るクシャトリスの踏み込みは、まさに相手が反応するその瞬前のうちに間合いに入ることを可能とする。

 並の使い手ならば棒立ちのまま一本取られるしかない。一流の使い手であっても、かろうじて竹刀を揺らす程度の反射しかできない。

 しかし――そのスピードも、完全に予想外の攻撃に対しては、裏目の効果しか果たさない。

 豊臣秀綱は、クシャトリスに対する迎撃に、八相に構えた己の刀を使わなかった。いや、それどころか彼の取った防衛行動は、剣士としてのものでさえなかった。

 秀綱は、八相の構えで一歩後方に引いていた己の右足で、足元の地面を思い切り蹴り上げたのだ。

 蹴り上げられた地面は、当然小石や砂利が前方に飛び、それが――矢の勢いで彼に迫るクシャトリスの顔面を襲ったのだ。

 

 

「なッッ!?」

 

 

 彼女は思わず声を上げた。

 いや、それだけでは済まない。クシャトリスは、このあまりにも非常識な迎撃に、剣を持つ両腕で反射的に顔面をかばってしまい、その結果、瞬間的にとはいえ彼女の胴はガラ空きになってしまったのだ。

(しまった――ッッ!!)

 実際には、そう思う暇さえなかったろう。

 その瞬間には、クシャトリスは自分の胴を深々と両断する一撃をまともに食らい、意識を失ってしまったからだ。

 

 

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「でもアンタはあたしを斬らなかった。真剣勝負のはずなのにアンタはあの瞬間刃を返して、峰打ちであたしを打った」

 

 

 

 

 まるでヤケ酒のように杯をあおり、クシャトリスは据わった目で秀綱を見返す。

「なぜ斬らなかったの?」

 彼女の口調は、あたかも自分が生きている事実に不満を抱いているかのような響きがあった。しかし、その気持ちも秀綱にはわからなくもない。彼とて剣を己の魂と規定して生きる一個の剣客なのだから。

「何故と訊かれても、とっさのことじゃから理由など無いと言うしかないのだがな」

「なによそれ、まさかブシのナサケだとか言うつもりじゃないでしょうね」

 と言いながら秀綱を睨みつける彼女の態度には、有無を言わせぬものがある。

 それに怯えた――というわけではないが、しかしこれ以上うわべを取り繕っても仕方がないと判断した秀綱は、とりあえず本音をもらすことにした。

 

 

「敢えて言うなら、まあ……惚れた弱み、というやつじゃな」

 

 

「ふざけてるの?」

 そう畳み掛けるクシャトリスの目には、もはや先程までの羞恥はない。そこにあるのは屈辱に耐え兼ねた純粋な怒りだけだ。

 しかしそんな彼女を、これ以上ないほどに真摯な視線で見返しながら、秀綱は言う。

「ふざけてなどおらん。余は本気じゃ」

「聞こえないね、貴族のお坊ちゃん。これ以上あたしをからかうつもりなら、今度こそ容赦しないよ」

 そう言いながらクシャトリスは、壁に立てかけていた愛用の杖を手に取り、素早く秀綱に突きつける。

 が、それに応じて彼が腰の剣を抜くことはなかった。むしろ彼はその杖の先端が己に触れる寸前の距離まで前に出る。

「死にたいの?」

「馬鹿言え。自害がしたければ他人の手など借りぬわ」

「馬鹿を言ってるのはそっちの方でしょ? 一体アンタがいつあたしに惚れる暇があったっていうの」

「野暮を申すな。男女の仲に時間など関係あるまい」

「もう一度だけ訊くわ――死にたいのアンタ?」

 クシャトリスの目に、いよいよ本物の殺意が宿る。つい昼間に一度見た表情だけに、さすがに見間違えようもない。そして秀綱は、そんな彼女さえ美しいと思ったが、とりあえずこれ以上、この睨み合いを維持するわけにはいかない。なにしろ彼は豊臣秀綱なのだ。雑談ならばともかく、これ以上宴席で剣呑な真似をしていれば騒ぎになってしまう。

「とりあえずその杖を下ろせバーザムズール。そろそろ周りの者も気付き出すぞ」

 その言葉に、彼女もしぶしぶ杖を下ろすが、その眼光だけは秀綱に固定されたままだ。どうやらこの娘は、もはや戦闘中と同じ次元で秀綱を警戒し始めているようだった。

 なので、秀綱は再度その言葉を吐き出した。

「こちらも今一度言う。余は本気じゃ」

「本気って……いったい何が本気だって言うのよ」

 

 

 

「余の妻の一人となり、我が子を産め――そう言うておるのじゃ」

 

 

 

 こんなことを、この豊臣秀綱から言われて動じぬ女など、恐らく『共和国』には一人もいまい。

――そういう思いが彼にあったのも間違いない。

 秀綱は自分の男っぷりに少なからず自信を持っていたし、実際のところ、たとえ身分を隠したままであっても彼はモテた。ぶっちゃけた話をすれば「武家の棟梁」「豊臣公爵家当主」などという冠を持たずとも、彼の男性としての魅力は、この世の平均的な男どもに比べて卓抜していると言えるレベルだったろう。

 なればこそ秀綱は次の瞬間の、彼女の返答に耳を疑わざるを得なかった。

 

「お断りよ。他を当たりなさい」

 

 先程までの怒りが言わせた台詞かと思ったが――しかし、彼女の表情はすでに冷静だった。クシャトリスの表情が示していたのは、一分の妥協もありえないほどの冷厳なる拒絶だった。

「何故じゃ」

 そう問う声が震えなかったのは、まさに奇跡に近い偶然だろう。

 この衝撃は、かつて自分の求愛を拒む女性など見たことがないという彼の驕りだけに由来していない。つまりは――それだけ秀綱は本気だったということなのだ。

 彼がいかに自身の客観的魅力に自負を持ち合わせていたかは先述したとおりだが、それでもいま秀綱が、クシャトリスに求婚したのもプレイボーイの道楽ではない。

 繰り返しになるが――彼は本気だった。

 エルフ種特有の繊細な美貌は、秀綱の女性の好みに添ったものであったし、何よりその剣の腕、その気の強さは大いに彼に心を揺さぶった。

 むろん勝負を挑んだ時点から彼女を口説こうと思っていたわけではない。

 あの瞬間、彼はクシャトリスを本気で斬るつもりだった。にもかかわらず、手首を返して峰打ちで眠らせるに留めたのは、まさに純然たる反射行為というべきものであり、その、己自身の肉体の反応を見て、そこで初めて彼は、クシャトリス・バーザムズールという女性を豊臣秀綱が欲している――という己の感情に気付いたのだ。

 しかしクシャトリスはそのプロポーズを拒んだ。しかも、まるで躊躇の余地もなく、だ。

 そして、その理由として彼女が発した返答によって、秀綱はさらに完膚無きまでに言葉を失う結果となる。

 

 

 

「だってアンタなんでしょ、最近この街を荒らしてる辻斬りは? 公爵様だかカンパク様だか知らないけど、そんな男と契りを交わすなんて、いくらなんでも無理よ」

 

 

 

 忍び装束で護衛を務めた家士以外、誰も知らぬはずの事実をズバリと言い当てられ、秀綱は呆然と立ちすくんだ。

 



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第二十四話 「辻斬り(其の七)」

「いったい……なんのことを言ってるのか……俺にはさっぱり……」

 秀綱はもはや侍言葉さえ忘れたように動揺している。

 クシャトリスはさすがに苦笑しながら、手近にあったテーブルから葡萄酒の瓶を取ると、彼の空になった杯に注いでやる。

 そして、無様にうろたえる秀綱の目をまっすぐ見ながら言った。

 

 

「見苦しいわね。それがあなたの言い訳?」

 

 

 彼はその表情のまま凍りついた。

 この『共和国』で武家の棟梁と仰ぎ見られる豊臣秀綱。その出自、武勇、男性的魅力――それら全ての点において彼の右に出る男子は、この国には十人といまい。それほどまでの存在である秀綱が、ここまで醜い顔を他者に晒したことは、かつてなかったであろう。

 が、それでも彼はさすがに、ただのネズミではなかった。

 やがて力なく笑うと、その手の酒を一息にあおり、空になった杯をテーブルに置いた時には――その狼狽は綺麗に消え去っていた。

「確かに、今のは見苦しかったな」

 そう言いながら、彼はやおら歩き出すと、わざわざクシャトリスの傍らを素通りし、どさりと壁に体重をかけてもたれた。

 クシャトリスは一瞬彼が酔ったのかと思ったが、そうでないことはすぐにわかった。

 壁にもたれた秀綱が、猛禽のような油断のない視線をめぐらし、この宴席を瞬時にして見渡したのが見えたからだ。

(まあ、そりゃそうよね)

 クシャトリスは納得する。さすがにこの話題は、どこで誰が聞いているかわからない立食パーティーでするには危険すぎるのだから。おまけに秀綱はこの宴の主賓だ。いつ誰がどのタイミングで彼に近寄ってきても不思議はない以上、警戒するに越したことはない。

 

「なんなら、あなたの部屋に行く?」

 クシャトリスはそう尋ねるが、秀綱は首を振る。

「その申し出は嬉しいが、宴の主賓が他の客を無視して女連れで消えるわけにも行くまいよ」

「お貴族様は割と平気でそういうことをするとも聞くけど」

「それは礼をわきまえぬ馬鹿貴族の話であろう。そんな奴輩と一緒にされたくはないしな」

「武家の棟梁様のわずかな失態が、サムライ全体の評価に関わる?」

 彼女のその言葉が、秀綱の辻斬りという奇行に対する痛烈な皮肉であることは、さすがに彼にもわかる。もっとも一度犯行を認めてしまった以上は反論のしようもないため、彼としては苦笑するしかない。

「手厳しいな……もう少し容赦してくれれば助かるのじゃが」

「それは無理ね。下手すりゃ殺されてたのはあたしなんだから」

 クシャトリスも応じる様に微笑を返す。

 秀綱も杯の酒を一口飲むと、話を続けた。

 

 

「――で、余のことはいつから気付いておった?」

 

 

 が、クシャトリスはいかにも呆れたような表情で秀綱を見ると、逆に聞き返す。

「アンタ本当に気付かれてないと思ってたわけ? 本気で?」

 そう言われて、秀綱はようやく自分の質問の間抜けさを理解し、目をそらす。

 クシャトリスが辻斬りの正体を秀綱と見抜くのは、ある意味当然であろう。

 なにしろ、わずか数日のうちに、勝負の最中に地面の小石を蹴り飛ばすような相手に続けて出逢えば、それが同一人物だと考えるのは当然ではないか。そう言いたげな彼女の視線を受け、さすがに秀綱も「まあ、そうだわな」と恥ずかしげに頭を掻く。

 しかし秀綱からすれば、戦闘中に地面の砂利や小石を武器として使用するのは、喧嘩に明け暮れた少年時代からの実戦における癖のようなものなので、迂闊(うかつ)にも彼はまったく自覚のないまま同じ戦法を使ってしまったのだ。

(余としたことが……いかにも無用心じゃったな)

 舌打ちをこらえながら秀綱は、杯の中の酒を一口飲む。

 そんな彼を見据えながら、クシャトリスは真顔で秀綱に向き直る。

 

 

「むしろ訊きたいのはこっちの方よ。アンタ、あたしをわざわざ呼び出して勝負する気だったんなら、なんであの晩、あたしを狙ったの?」

 

 

 その質問を前に、今度は秀綱が沈黙する番だった。

 金属のごとく無表情になり、無言で自分の杯に葡萄酒を注ぐ。

「答えない気?」

「…………出来れば答えたくはないな」

「どうして?」

「どうしてもじゃ」

 もっとも、クシャトリスは彼の反応を予測していたかのような表情で溜息をつくと、言った。

 

 

 

「別に言わなくてもわかるわよ、アンタがあの晩待ってた獲物はあたしじゃなくて、池波新左衛門だってことくらいわね」

 

 

 

 振り向く秀綱の視線は、先ほどに倍して鋭くなったが、それを見返すクシャトリスの冷静そのものな視線を受け――やがてうなだれた。

「やはり気付くか。まあ、そなたならあるいはと思ったが、やはりな」

「そんなの当たり前でしょう」

 なにしろ、渡辺道場からあのルートを通って帰宅するのは、クシャトリスと新左衛門だけなのだ。辻斬りが誰を狙っていたのかという疑問も当然この二人に絞られてしまう。そしてクシャトリスとは市庁で戦う気だったなら、あの晩に彼が待ち伏せていたのは本当は誰だったのかという疑問は、簡単な消去法ですぐにわかる。

 秀綱は大きく息を吐くと、葡萄酒をあおり、恥ずかしげな表情をクシャトリスを向けた。

「まあ、この期に及んでそんな尻の見える隠し事というのも馬鹿げた話じゃが……余にも羞恥心というものがある以上、言わずに済むことは黙っておきたかったのよ」

「……ここまで聞いた以上、別にもう何を聞いてもアンタをあらためて軽蔑したりはしないわよ」

「そう言ってくれるのはせめてもの救いじゃな」

「でも、なんでなの?」

 

 

 その発言が、具体的に何に対する問いなのか、彼女はハッキリとは言わなかった。

 それでも彼女の言葉が「なぜ新左衛門を狙ったのか」ではなく「新左衛門を狙っていたはずなのになぜ自分を襲ったのか」でもなく「なぜ辻斬りなどするのか」という、彼の行為の本質に対する質問であることは秀綱にも、なんとなく理解できた。

 

 

「これは余の病のようなものでな……理屈で説明できるものではないのじゃよ」

「殺人衝動?」

「違う」

「自殺願望?」

「違う」

「退屈しのぎ?」

「それも違う――と言いたいが……敢えて言うなら確かにそれが一番近いかもな」

 そう言って微笑する秀綱には、血に飢えた殺人狂のような歪みは見受けられない。

 とはいえ、クシャトリスはそんな彼を一瞥すると、何も言わずに自分の杯に葡萄酒を注いだ。

 そんな彼女に向き直ると、秀綱は囁くような声で言った。

 

 

「取り繕うなバーザムズール、そんなことを訊くまでもなく、お前には余の言うことが理解できておるはずであろうが」

 

 

「アンタと一緒にしないでよ辻斬りさん」

 と、たまらず彼女は言い返す。

 確かに、正直に言えば、この男の言うとおり、すでに訊くまでもなく彼女には秀綱の心理が理解できていた。

(こいつは命懸けの勝負そのものを楽しみたいだけなのだ。ただそれだけのことなのだ)

 あたかもギャンブル狂が、賭博の利益のためではなく、賭博そのものがもたらす緊張感に中毒性を覚えるように、この男もただ単に勝負の緊張感そのものに病みつきになってしまっているのだ。

 そして緊張感を追求したいのであれば、相手の実力、武器の危険度、周囲の状況など、条件は危険であればあれほどいい。なればこその辻斬りなのだ。防具・竹刀を用いた道場での練習試合と、路上での野試合では、危険度はまさに天地の差があるのだから。

 かつて実戦練習として他道場の門弟たちと決闘騒ぎを幾度も起こしていたクシャトリスには、そのスリルを楽しむ気持ちは理解できる。理解できるが――しかし、だからといって秀綱の行動に共感できるかと言われれば話は別だ。

 

 

「あたしにも確かに喧嘩好きの一面はあるけど、アンタのように夜な夜な辻斬りまでして実戦を楽しみたいとは思わない。わかるかと言われればわかるけど、それだけのこと。あたしはアンタの同類じゃない」

 

 

 そう毅然と言い放つクシャトリスに、秀綱は一瞬酢を飲んだような顔になるが、やがて寂しそうに「そう、かもな……」とうつむいた。

 が、彼女は彼女で、そんな秀綱に何かを言おうとはしない。もっとも、クシャトリスにしてみれば、今の言葉は混じりっけなしの本音の吐露なのだから、いまさら秀綱にフォローなど入れようもなかったのだろう。

 二人のあいだに、ある種の気まずい沈黙が漂う。

 が、秀綱は杯の中の葡萄酒を一気にあおると、ある意味サッパリしたような顔で振り向いた。

 

「ところでバーザムズール、池波新左衛門とは親しいのか?」

 

「え……なんで、そんなことを、訊くの……?」

「訊いてはいけなかったのか?」

「そんなことはないけど……なにしろ生まれついた時からのお隣さんだしね」

「ほう……」

 そこで秀綱はようやく彼女の動揺に気付いたように、興味深げな視線を向ける。

「なるほど、道理で余の求婚をあっさり断るわけだ」

「ちょっ、何言ってんのよアンタッ!?」

 反射的に大声を上げ、すぐさま周囲を見回してうつむくクシャトリス。その頬は褐色の肌ゆえにわかりにくいが、おそらく羞恥で真っ赤になっているのだろう。そんな彼女を、秀綱は可愛らしいとさえ思う。それはクシャトリスが今日初めて見せた、年頃の女性らしい反応だったからだ。

 もっとも秀綱から言わせれば、彼が新左衛門の名を出したのは、秀綱がこの宴席で彼女に話しかける前に、彼女が新左衛門と口論していたのを思い出したからだが、それでも別に唐突だったとも思わない。なにしろ自分たちの話題が辻斬りの動機論になる前は、彼自身があの晩本当に待ち伏せていたのは池波新左衛門だと認めたばかりなのだから。

 だからなのだろう。彼はクシャトリスが見せた、幼馴染の名に対する少女のような初々しい反応を敢えてからかうこともせず、聞きたいことだけをズバリと聞いた。

 

 

「で、池波新左衛門とは、どういう剣士なのだ?」

 

 

 クシャトリスの表情が凍った。

 いや、のみならず次の瞬間、彼女の目には再び殺気がみなぎり始める。

「それを聞いてどうしようっていうの?」

 さすがに秀綱もその反応は意外すぎたため、思わず振り返る。

「どうした、何か気に障ったのか?」

「どうしたじゃないわよ……アンタまさか、まだ辻斬りを続ける気なの?」

(ああ、そういうことか)

 その言葉にようやく秀綱はエルフ娘の反応に納得したが、しかしクシャトリスは納得などしていない。なので、そこはキチンと明言しておくことを忘れない。

「安心せい、もうこの街ではやらんよ」

「この街では?」

 その言い様に秀綱は苦笑する。

「絡むなバーザムズール。お前たちに迷惑はかけぬと言っておるのだ、もはや池波にも手は出さぬ。これはあくまで興味本位の質問じゃ」

「……本当でしょうね」

「ああ」 

 そう言質を取らせてからようやく彼女は殺気の矛を収めたようだったが、とはいえ、クシャトリスの表情はまだ少し固いままだ。

 

 

「で、強いのか?」

「うちの道場の次席よ。弱いと思う?」

「思わぬ。思わねばこそ辻斬りの獲物に選んだのじゃからな」

「獲物って何よ、その言い草」

 クシャトリスは思わず鼻白むが、さすがにもう秀綱は相手にしない。

「怒るな。それは認めたという言葉と同義じゃと思え」

「ふん」

「これは巷(ちまた)の世評じゃが、剣豪・渡辺源太夫の衣鉢を継ぐ者は、クシャトリス・バーザムズールではなく、池波新左衛門であるという声すらあるという」

「はぁ!?」

 その言葉に、またもクシャトリスは目を剥いた。彼女はそんな世評など聞いたこともなかったからだ。

「その説によれば、バーザムズールはあまりに天才すぎるため、渡辺の指導を必要とせぬからだという。なればこそ渡辺にとっての真の後継者とは、そなたではなく池波新左衛門なのだそうだ」

「なにそれ……誰が言ってるのそれ?」

「誰が言ったのかも、その説が真実なのかもどうでもいい」

「そりゃ、アンタにとっては他人事だから――」

「余にとって重要なのは、世間に左様に評されるほどに池波という男が強いのかどうかという点だけじゃ。なにしろジュピトリアムの他の道場の連中は、余の予想以上に呆気なかったしのう」

 

 

 そう問われ、彼女はにわかに黙り込む。

 確かに新左衛門は強い――というより、かつてに比べて格段に強くなったと断言することができる。

 かつてというのは、二ヶ月前に起こった例のズサ・ハンマガルスの事件である。あの日の鎧の幽霊騎士との決闘をクシャトリスは見ていない。新左衛門が戦っている間、クシャトリスは死霊術師ハンマガルスの確保に時間を取られていたからだ。

 しかしそれ以降、道場における新左衛門の剣は、確実にその冴えを増した。おそらくはこのクシャトリス・バーザムズールでさえ、五分の立ち合いで絶対に勝てるとは言えないだろう。

 とはいえ――それでも池波新左衛門が、豊臣秀綱に勝てるとは思えない。

 クシャトリスは秀綱を一瞥する。

 この男の剣は本物だ。斬撃の鋭さ、鍔迫り合いの上手さ、何よりその状況判断力。

 そして、その腕以上に、この男は公式試合ならば反則となるはずの、なればこそ実戦ではその威力を発揮する技術に長けている。

 踏み付け、頭突き、石蹴り――などといった技は、おそらくそのほんの一端にすぎないはずだ。この男に期待できるのは苦戦のさなかに援軍を呼ばぬという点くらいで、いざとなれば勝つためのあらゆる手段を迷いなく使うだろう。

 

 

「あいつは……アンタに比べりゃ育ちがいいからね」

 

 

 その台詞は、秀綱にとっては何よりの皮肉であったろう。

 彼は何しろ公爵家の嫡男として生を受け、この国の武士階級を統率する「棟梁」として育てられた身なのだから。

 たまらず秀綱は破顔する。

「そうか、余はあやつに比べて育ちが悪いかハッハッハッハッハッハッ!!!」

 その笑い声は、まるでそう言われたことを喜んでいるかのようだった。

 いや、実際のところ秀綱は喜んでいたかもしれない。

 何を競っても他人に勝ちを譲られ、何をやっても他人に名誉を守られる立場から脱しきれない自分自身に嫌悪感を抱き、剣に没頭することによってその境遇から飛翔しようと考えた――それがまぎれもない豊臣秀綱という男の本性なのだ。

 そんな彼にとって「育ちが悪い」などと言うような者は誰もいなかったし、ならばこそ、その言葉は、彼にとって福音のごとく心地よい響きとなって聞こえたのだろう。

 いかにも楽しげに笑い続ける秀綱だったが、もとより彼ならぬクシャトリスには、今の言葉の何が彼の笑いのツボを刺激したのかなど理解しようもない。なればこそ、秀綱の笑顔を見る彼女の視線は、かなり訝しげなものだったが――しかし、やがてその笑い声に引かれるように、彼女の表情もいつしか和らぎつつあった。

――そのときだった。

 

 

 

「殿下、マルクス市長閣下がお帰りの挨拶をなさりたいそうでございます」

 

 

 

 という声を聞き、二人は同時に振り返った。

 そこには、それまで誰もいなかったはずの空間に、忽然と一人の武士が立っていたのだ。

(いつの間に……!?)

 気付かなかったのだ。クシャトリス・バーザムズールともあろう剣士が、知らぬ者に知らぬ間に己の間合いに入られ、それを気付かなかったのだ。

 いや、気付かなかったのは秀綱も同じであろう。目に狼狽の色を残しながら、

「なんじゃ山中か、驚かすな」

 と、威厳を取り繕う。

 そのヤマナカという名は初耳であったとはいえ、クシャトリスもその顔は一応覚えていた。確か秀綱の近従を勤めていたはずの男であった。

(いや、ということは――)

 クシャトリスは不意に気付く。秀綱の側近ということは、この男も辻斬りの際にニンジャ装束で彼を護衛していた者たちの一人に違いない。ならば、この見事すぎる穏業も納得できなくもない。

 

「しかし帰るとはどういうことじゃ? 宴はまだまだこれからではないか」

「それが、どうやら市長閣下に急用が入ったようでござります」

「左様か、ならば是非もないのう」

「はっ。閣下はこちらでお待ちでございます」

「うむ、参ろう」

 

 そこで秀綱はようやく彼女を振り返り、

「というわけじゃバーザムズール殿。済まぬがこれで席を外させてもらうが、どうか最後まで楽しんでいってくれ」

 と告げ、ふたたび背を向けた。

 おそらく彼は、もはやクシャトリスの傍らには戻るまい。さっき彼女が見た秀綱の表情は、まさに言いたいことを全て言い終えたとばかりの顔だったからだ。

 彼はこれより再び「武家の棟梁」としての象徴存在に戻り、宴が終わるまでその仕事を全うするのであろう。

 それはいい。もはやクシャトリスに口を挟む義理も義務も権利もない。

 突然の求婚や辻斬りの自白など、あの男の「告白」はまさにとんでもない内容ではあったが、それでも豊臣秀綱という男の印象は彼女の中ではそこまで悪くはない。種族も階級も違う自分に、あの武家の棟梁は己の素顔を見せ、本音を以て相対してくれたのだ。その素直さはやはり大器の片鱗と解釈せざるを得ないだろう。

 しかし、それでもクシャトリスは、胃の中にしこりの残ったような違和感を、どうしても拭えなかった。

 それは何故か、などと思うまでもない。

 あのとき――自分に全く気配を感じさせなかった、あの山中というニンジャ(推測ではあるが)が一瞬自分に送ったあの目線が、どうにも彼女の心に引っかかっていたのだ。

 

 

」」」」」」」」」」」」

 

 

「なん、だと……ッッ!?」

 

 

 池波新左衛門は、隣を歩くクシャトリス・バーザムズールからそれを聞いて、開いた口が塞がらなかった。

 もっともクシャトリスは、自分がさほどに重大な事実を漏らしたという自覚も無さげな顔で歩いているが、これが世間に漏れたら一体どういう事態になるか想像もできない。

「本当なのか……本当に例の辻斬りの下手人が……関白殿下なのか?」

「うん。本人もそう言ってたから間違いないよ」

 

 

 時刻は子の刻――午前零時。

 市庁で開催されていた宴も無事終了し、二人は闇夜の帰路をてくてくと歩いている。

 師匠の渡辺源太夫は、秀綱が用意した駕籠によって先に帰宅し、すでにここにはいない。

 風はさほどに冷たくはないが、月も星も出ていないため、新左衛門は提灯をかざしており、その熱が冬の夜道のちょうどいいカイロ代わりになっていた。

 ちょうどそんな時だったのだ。

 クシャトリスが雑談の合間に、そういえばさ――と何気ない調子でその話を持ち出したのは。

 

 もとより新左衛門にとって、その話は寝耳に水だった。

 辻斬りなどするのは、武士の中でも食うに困った貧乏浪人か、もしくは余程の高級武家の御曹司の退屈しのぎだろうとは思っていたが、それでもまさか『共和国』の武士の頂点に位置する御方の犯行だったなど、あまりに予想外すぎた話だからだ。

 というより、彼が気になっているのは、実はそこだけではない。

「クシャ子……おまえ、なんでその話をおれに聞かせた? 気軽に他人に漏らしていい話かどうかくらいわかるはずだろ?」

「え……でも、あのデンカさんは特に『誰にも言うな』とは言わなかったよ?」

「お前酔っ払ってるのかよ!! いちいち言われるまでもないことだろ!!」

「そんなことを配慮する義務はないでしょう。あたしはサムライでもなければ人間でもないんだから」

 と、言い切るクシャトリスの顔は、ほんのり赤らみ、宴席で飲んだ酒がまだ完全に抜けていないことは明白だ。

 しかし、そんな話を聞かされた新左衛門はそうもいかない。ほろ酔い気分はみるみるうちに覚め果て、途方に暮れそうな現実だけがのしかかってくる。

 だが、クシャトリスの方はそんな彼に平然と言い放つ。

 

 

「っていうか、アンタだから話したんじゃないの。誰彼構わずこんなこと言えるわけ無いでしょ、馬鹿じゃないの?」

 

 

 その言葉に、新左衛門はしばし呆然となり、さらに数秒後、覚めたはずの酔いが突然ぶり返したかのような勢いで頬を染め、顔を背けた。

「い、いきなり何を言ってやがる」

「あによ照れてんの? カワイ~~」

「この……張り倒すぞお前!!」

「でもまあ、今のはアンタが期待したような意味じゃないわよ? アンタだってこの事件の当事者になるはずだったんだから、真相を知っておく必要はあると思ったのよ」

 そう言ったクシャトリスの目には、理性と冷静さが宿っている。

 つまり、この女が自分にこんな話を持ち出したのは、厳然たる理由があるということだろう。その結論は、わずかに新左衛門の心を失望させたが、さきほど彼女が漏らした「当事者」という言葉も気になる。

 

 

「よし、最後まで聞かせろ」

「そうしてあげたいところだけど……」

 

 

 そう言って彼女は歩みを止め、前方の闇に厳しい視線を向ける。

「どうした?」

 と言いながら新左衛門も、同じく足を止め、前方に提灯を向けるが、人間の視力ではダークエルフの暗視力にはとてもついていけない。彼女がそこに何を見ているのかまではわからなかった。

 いや、そうではない。見えずともその気配を感じることは新左衛門にも出来る。

(……誰か来る?)

 だが、その気配は一人だけだ。

 しかも新左衛門の経験則から言えば、ここまで開放的な気配は、どう考えても素人の一般人のものであり、敵のものではありえない。

 しかし、クシャトリスの緊張は本物だった。彼女は道端に手荷物を投げ捨てると、愛用の杖を逆手に構え、魔力を込め始めたのだ。そこには先程までの酔態など毛ほども窺えない。

 

(やはり、敵……なのか)

 新左衛門としては、彼女の反応からも、そう判断せざるを得ない。

 とはいえ、考えられる「敵」としては、秀綱が、事情を知りすぎたクシャトリスに刺客として忍びを放つくらいだが、それでも彼としては、それがクシャトリスの勘違いであることを切に願うばかりだ。

 なにしろその敵が秀綱の意思であるならば、ここから起こる戦闘は、下手をすれば新左衛門にとっては、武家の棟梁への反逆を意味するものであり、それすなわち彼個人の武家社会との永久的な決別を意味するのだから。

 果たして、あの若すぎる関白殿下が、そこまで恥知らずな真似をする男なのかという疑問が残るが、秀綱と直接コミュニケーションを取ったことのない新左衛門には、もはやそれは想像の外だ。

 しかし、ここで見て見ぬフリを決め込んで、このヤンチャすぎる幼馴染を見捨てるという選択肢も、彼にとっては存在しない。

(しょうがねえなぁ……)

 ワーキャットの母と妹に心中で詫びながら、彼もまた、そっと刀の鯉口を切った。

 

 

 

 数秒後、ようやく新左衛門の視界に、例の接近者の姿が入った。

 しかし彼には、それはどう見ても、ただの酔っ払いにしか見えなかった。

 千鳥足で鼻歌を唄い、耳まで真っ赤になったワーウルフの男性。仕事帰りなのかその背にザックを背負い、もちろん手には武器らしきものは何も持っておらず、その上機嫌っぷりは傍目に見ても明らかだ。

(囮か……?)

 とも思ったが、しかし周囲に殺気はない。

 しかも当の酔っぱらいが、どうやら自分たちの殺気じみた態度に気付いたようだ。

「おろ、なんじゃ兄ちゃんたち、わてに何か用か?」

 少し驚いた表情で、そう言うワーウルフ。

 とはいえ、道の真ん中で強面を晒しながら男女に待ち伏せなどされたら、誰でもそんな声を出すだろう。おまけに今は深夜だ。下手をすればこっちが辻斬りと疑われてもおかしくない。

「いえ、すみません、どうやら人違いです」

 そう答えて道をあけたのは新左衛門だが、同じようにクシャトリスも安堵の息を漏らしたのが聞こえたため、彼も安心して刀にかけた手を外し、臨戦態勢を解く。

 

「おっとっとっと」

 その瞬間、酔っぱらいは足をもつれさせ、クシャトリスの方向によろめいた。

 すぐさま新左衛門に緊張が蘇るが、ワーウルフは彼女にぶつかる寸前で態勢を持ち直し、

「いや、こら済まなんだな姉ちゃん」

 と笑うと、その手でクシャトリスの尻をパンと叩き、

「おう、エルフにしちゃええケツしとるわ。大事にしたれや兄ちゃん!!」

 と、新左衛門に笑いかけ、そのまま鼻歌を再開させながら、道の向こうに去っていった。

 

 

「ふぅ……驚かせやがって」

 

 

 そう言いながら新左衛門がクシャトリスを振り向くと、ギョッとなった。

 深夜のことゆえ褐色の肌のダークエルフの顔色までは新左衛門の視力では確認しようがない。が、それでも彼の目には、クシャトリスがさっきまでとはまるで別人のように怯え切っているように見えたからだ。

「クシャ子……?」

「ああ、うん……じゃ、帰ろうか」

 そう言いながら、彼女は新左衛門の視線から逃げるように背を向け、道端に投げ捨ててあった自分の荷物を拾う。

「どうした?」

 思わず訊くが、彼女は取り繕うように新左衛門に笑顔を見せるだけで、何も言わない。

 そのままクシャトリスは、彼を振り返ることなく足早に歩き始め、それを追った新左衛門はいよいよ訝しみ、彼女の肩を掴んだ。

 

「どうしたクシャ子」

「なんでもないよ」

 

 そう言って振り返った幼馴染の顔を、新左衛門は一生忘れることはないだろう。

 それほどまでにクシャトリスの顔には、今まで彼が見たこともない負の感情と、それを取り繕おうとする理性との葛藤が見えたのだ。

 このような顔をされては、さすがにもうこれ以上「どうした?」とは訊けない。「なんでもない」という女の言葉が偽りであることはあまりにも明白だが、それでも訊けない以上は「そうか」と言うしかない。

 そのままクシャトリスは、池波家の隣にある自宅に到着するまで沈黙を貫き、その背中を新左衛門は見守るしかなかった。

「おいクシャ子!」

 時間的には非常識な声を出したのは、新左衛門にしてみれば精一杯のことだったであろう。

 振り向いた幼馴染の顔には、さきほど見たような絶望的な表情は、もはや張り付いていない。

 彼女はそのまま、少し寂しげな笑みを浮かべながら、新左衛門に向けて、

 

 

 

「おやすみ」

 

 

 

 とだけ言い残し、そのまま家の中に入っていった。

 

 そして――クシャトリスはそのまま、翌朝になっても、そのさらに翌朝になっても、目を覚ますことはなかった。

 



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第二十五話 「辻斬り(其の八)」

 

「池波、バーザムズールはまだ目を覚まさんのか」

 

 

 池波新左衛門が、自らの職場であるジュピトリアム市庁・特別総務掛の詰所に入ってくるなり、中にいた渡辺源太夫はそう聞いた。

 もっとも、その返事はある意味聞くまでもなかった。新左衛門の絶望と疲労にまみれた顔を見れば、源太夫にも彼女の現在の容体はおおよそ察しがつく。

 はたして新左衛門は力なく首を振り、源太夫自らが畳を敷いて和室に改造したこの「詰所」に入ると畳の上に腰を下ろし、無言のまま風呂敷から書類を取り出して仕事を始めようとする。とはいえ、こんな憔悴した状態の新左衛門に、平常通りの仕事ができるのかは源太夫にとっても果てしなく疑問だが。

「そのザマでは仕事になるまい。いいから帰ってあやつを看てやれ」

 と源太夫は言ってやるが、新左衛門は頷かない。

「拙者が出来ることは……もう無いようなんですよ。向こうの親父さんにもこれ以上迷惑はかけられないと言われてしまいましたし」

 と、かすれた声で言うと、新左衛門は書類を書見台に並べ始める。

「左様か……ならば、好きにするがええ」

 我ながら陳腐な言葉だと思うが、しかし源太夫は、これ以外に眼前の愛弟子にかける言葉を思いつかなかった。

 

 

 

 現在、クシャトリス・バーザムズールは昏睡状態に陥って四日目になる。

 彼女が豊臣秀綱と真剣勝負をし、さらに秀綱を内々に歓迎する祝宴が市庁で開催されたその夜、自宅で眠りについた彼女は、その翌朝になっても、その夜になっても目を覚ますことはなかったのだ。

 さすがに事態の異常さに気付いたバーザムズール家の家族たちは、一人娘の意識を覚醒させるためにあらゆる手段を使った。 

 幸いクシャトリスの父親ガルスは、このジュピトリアム市の警察機関である市警騎士団の本部長であり、彼は自分の娘に起こった異常事態の対処に、その持てる権力と人脈を最大限に利用した。

 ジュピトリアムでも高名な治癒魔法や薬草調合の専門家を自宅に招き、または、この昏睡がある種の呪いである可能性を吟味して呪詛対処ために陰陽師まで自宅に招き、さらには幼竜ナマイキの人脈から、緑竜王の里から外科医まで招き、ガルスはクシャトリスの目を覚まさせようとしたが、その誰もがさじを投げざるを得なかった。

 クシャトリスは幼児のごとくあどけない寝顔で眠り続け、一向にその意識が回復する兆しは見えなかったのだ。

 そして、その寝顔と対照的に、彼女を看病する者たちの絶望は深まる一方だった。

 

 

 点滴や注射による外部からの栄養補給の手段は、『共和国』の医療分野においては、未だ確立されていない。

 つまり、眠り続けるクシャトリスは、必然的に飲まず食わずのままということになり、この昏睡状態があと数日続けば、彼女に待っている運命は確実な餓死以外にはなかった。

 

 

 無論そんな状態のクシャトリスを放置して、のこのこと職場にツラを出すような新左衛門ではない。この男とクシャトリスの微妙な関係性は道場では周知のことであり、道場主の源太夫も当然承知している。

 新左衛門から聞いた話によると、クシャトリスの父ガルス母ラヴィアンは言うに及ばず、家族ぐるみの付き合いのある池波家の家族たちも協力して、交代制でシフトを組んで看病につき、新左衛門も当然のように仕事や道場を休んでクシャトリスの傍にいた。が、その彼が今日、クシャトリスが倒れて以来初めて職場に顔を出したのだ。

 とはいえ、これ以上の池波家の協力を拒んだクシャトリスの父親の気持ちを察するのは、源太夫にとっても容易だ。

 いかに交流の深いお隣さんとはいえ、池波家とバーザムズール家は、種属も氏族も違う他人同士であることは間違いない。頼るべきは遠くの親戚より近くの他人という慣習が『共和国』にあることは確かだが、それでもガルスからすれば池波家は、身内にあらざる他人なのだ。ならばこれ以上、この隣家を娘の看病に巻き込むのは、やはり心苦しいのであろう。

(まあ、同じ立場ならわしも同じように言うであろうな……)

 源太夫もそう思わざるを得ない。

 他者に迷惑をかけてはならない――というのは、社会における大人の一般常識だ。他者から頼られる喜びという感情も確かにこの世には存在するが、度を越すとそれはただの甘えになってしまう。ガルス・バーザムズールが池波家の人々に「もういい」と告げたのは当然のことであったろう。

(とはいえ、その父親も酷なことを申し渡したものよ……)

 新左衛門の顔を盗み見するに、源太夫もそう思わずにはいられない。

 それほどまでに彼の目は明らかにうつろで、書見台に置いた書類など何一つ目に入ってないことは確実だった。

 

 

 

 池波新左衛門は苦悩していた。

 もちろん昏睡状態の幼馴染のこともある。

 が、それ以上に、彼の心を悩ませていたのは、この事件の裏に豊臣秀綱の存在が関わっているであろうという確信であった。

 少なくとも例の夜、自分とクシャトリスの前に出現して消えた、あのワーウルフの酔っ払いが、彼女を今の状態にした直接の下手人であることに間違いはない。

 バーザムズール家に招かれた治癒魔導師や薬師、陰陽師、そして外科医までが、声を揃えて昏睡の原因は毒物でも呪詛でもないと言ったが、新左衛門にとっては正直そんなことはどうでもいい。

 あの晩のワーウルフが、秀綱配下の忍び衆の変装だとしたら(そうとしか考えられないが)クシャトリスが意識を失ったのは、その忍者流の暗殺術に類推される何らかの技術であり、ならば市井の医者や魔導師ごときに簡単に治療できるはずがないのだ。

 そしてクシャトリスは、豊臣秀綱から命を狙われる理由を持っている。彼女は、秀綱が最近ジュピトリアムに出没している辻斬りの犯人である事実を知っていたし――何よりこれが重要な点なのだが――彼女はそれを新左衛門に「話して」しまったのだ。そしてそれを、おそらくは市庁より彼女の監視についていた忍びの者たちに見られた。

(おそらくはアイツがおれに喋らなければ、今度の事件は起きなかったに違いない)

 そう思う。

 ならば何故、彼女から話を聞いた池波新左衛門が無事に済んでいるのか、と訊かれれば答えは簡単だ。

 

 

(おれが武士――関白殿下に忠誠を誓っているはずの、現役の侍だからだ)

 

 

 仮にも武士たる者が、その「棟梁」にとって明らかな醜聞となるはずの情報を、余人に漏らすはずがない。それゆえにわざわざ口を封じる必要もない――それが秀綱の判断なのであろう。

 そして、新左衛門個人にとって非常に無念かつ不本意なことに、その判断は間違っていないと言うしかない。なぜなら、彼自身の胸の内にも、父祖の代から叩き込まれた豊臣家への忠誠心が根付いているのだから。

 もしも、新左衛門自身が現役の武士でなかったとしたら(無意味な仮定ではあるが)今回の一件に対しても、取るべき手段はシンプルだ。

 クシャトリス・バーザムズールの昏睡も、秀綱配下の忍び衆の仕業であると現時点で判明している以上、その治療手段を持つ者もまた彼らであると判断できるであろう。

 ならばやるべきことはハッキリしている。

 秀綱のもとへ出向き、クシャトリスの治療を依頼すればいい。奴がそれを渋るなら、辻斬りの一件をネタに脅迫すれば否応もないだろう。

 クシャトリスの父親は市の警察機関の上級幹部だし、なにより今バーザムズール家には緑竜王の息子ナマイキがいる。その両方のコネを使えば、わずか数日で『共和国』全土にこの醜聞を拡散することができるだろう。その事実を条件に交渉すれば、いかに豊臣秀綱が剛毅強情であっても首を横に振ることは不可能だ。

 つまり新左衛門が、武士としての忠誠心などドブに叩き込んでしまえば、今日中にもその程度のアクションは取れるのだ。そして、それはクシャトリスの命を救うほぼ唯一の道でもある。

 

 

 ならば、なぜ新左衛門は行動しないのかと問われれば、その答えも簡単だ。

 その行動を選択するということは、もはや言い逃れのしようもない程に明白な「武家の棟梁」への反逆を意味するからだ。

 

 

(それでもあの夜は、殿下に対して剣を向ける覚悟があったというのに……)

 そう思うと新左衛門は、我ながら泣きたくなってくる。

 確かにあの晩――自分とクシャトリスに向けて近づいてくる気配に対し、新左衛門は剣を抜いて抵抗する意思があった。接近してくる気配が秀綱の放った上意討ちだったとしても、少なくともこの幼馴染を、むざむざ死なせてたまるかという思いが、彼に刀に手をかけさせたのは間違いないのだ。

 しかし、今となってはどうしようもない。

 あの時は、眼前に迫る身の危険という緊張感があった。だが一度冷静になってしまえば、もうダメなのだ。

(これが侍の血、というやつか……)

 ヘドを吐きたくなるような思いとともに、新左衛門は瞑目する。

 武士道という概念は、主君への忠誠心と切り離されては存在し得ない。ならばこそ武家階級の所属者たちは父や祖父から、四百年前に政府によって関係を切り離されてしまった豊臣家への忠誠心を、繰り返し刷り込まれる。

 もちろん人間は、エルフ種や幻獣種のような長寿を持たぬため、かつての故国ニホンや初代秀頼の時代をリアルタイムで知る者はいない。なればこそ親から子へ、子から孫へと語り継がれるその忠義は多分に情緒的なものとなり、主家から引き離されて失業者となった当時の武士たちの苦労譚ではなく、家臣を失って孤独となった歴代豊臣家の旧主を慕うエピソードが中心となる。

 今こうして自分たちが『共和国』に生きていられるのは、すべて豊臣家のおかげであると――それこそ読み書きソロバンや魔法の基礎と同じレベルの常識として、価値観の根底に、その思考を刻みつけられるのだ。

 それは池波新左衛門としても、決して例外ではない。

 彼もまた、社会における一匹のパブロフの犬に過ぎないのだ。

 

 

 

『お兄さん、大変だよお兄さん!!』

 

 

 

 新左衛門は顔を上げ、とっさに周囲を見回した。いったいそれが誰の声なのか判断がつかなかったからだ。

 いかにも挙動不審な新左衛門を、訝(いぶか)しげに見守る源太夫の様子から、その「声」が物理的な音声ではなく、彼の耳にのみ届いている念話魔法だと気付くと、新左衛門はようやく冷静さを取り戻した。

 念話という魔法は『共和国』においても一般的と言えなくもない魔法技術だが、その行使には送信側受信側ともに魔力を封じ込めた水晶玉が必須であり、せいぜいが政府官庁や商業ギルド、もしくは軍隊における部隊運用に使用されるような技術であり、民間に普及しているとはとても言えない。

 しかし、ナマイキを始めとする竜族の古代語魔法であれば、そんな水晶玉のような高価な触媒も必要とせず、まさに携帯電話のごとき気安さでの双方向通信が可能なのだという。

『ナマイキ、か?』

『うん、驚かせてごめんね。でも、こっちもちょっとビックリするようなことがあってさ』

『びっくりって……まさかクシャ子が起きたのか!?』

『いや、そうじゃないんだけど……ちょっと、さ』

『何だ、ハッキリ言え』

 

 

 

『トヨトミヒデツナってお偉いさんが、家来を二人連れて今この家に来てるんだよ。お姉さんのお見舞いだとか言って』

 

 

 

 その瞬間に、新左衛門は空を睨んで立ち上がっていた。

 書見台からバラバラと書類が落ちるが、そんなものは彼の視界には入っていない。

「おい池波、さっきから一体どうした?」

 たまらず源太夫が聞くが、その声もやはり新左衛門の耳には届いていない。

「池波!!」

「あ、はい」

 振り返った新左衛門の顔を凝視した源太夫は、しばしの間を置いて立ち上がり、やがていたわるような目をして言った。

「今日はもう帰れ。やはり貴様は、しばし出仕には及ばぬ」

「……申し訳ございません、先生」

 今にも泣きそうな顔で頭を下げると、新左衛門はそのまま刀を掴んで部屋から飛び出していき、その背中を、源太夫も沈んだ眼差しで見つめていた。

 源太夫にしてもクシャトリスを心配する気持ちは当然ある。なんといっても彼女を国内最強とまで言われる剣客に育て上げたのはこの渡辺源太夫なのだ。付き合いの長さ古さ以上に、あの不器用な娘には、弟子というより孫娘でも見るような愛情もある。

 しかし、そんな源太夫でも、この新左衛門の様子を見ていると、さすがにたまらなくなってくる。

(アホンダラが……そんなにあの娘のことが心配なら、ちゃんと起きてるうちに口説かんかい……)

 源太夫もそう思う。

 とはいえ、こればかりは、たとえ二十年来の剣の師匠とはいえ、どうしようもない。男女の縁というやつは、所詮は本人たち以外には如何ともしがたいものだからだ。

 

 

 

 街角で辻馬車を拾い、池波新左衛門はそれに乗り込む。

 バーザムズール宅の住所を御者に伝え、叫ぶように言う。

「全速力で頼む。運賃は割増込みで言い値で払ってやる。行け!」

 その言葉にニヤリと笑った御者席の中年オークは「はいよォォ!!」という、新左衛門への返事なのか馬への叱咤なのか分からぬ一声を上げ、そのまま馬にムチを入れた。

 馬車が猛然とスタートするが、首都グワジニアの主要街道ならばともかく、ジュピトリアムの田舎道など舗装は当然なされていない。胃の内容物が逆流しそうなほどの揺れが新左衛門を見舞ったが、しかし馬車酔いを気にしているような状況ではない。

 新左衛門は、いまだに念話が繋がったままのナマイキに話しかける。

 

『いま仕事場を出た。馬車を拾ったのでそっちにはすぐに着ける』

『うん』

『とりあえずナマイキ、殿下が何をして何を言ったのか、逐一教えてくれ』

『逐一って、そんな面倒なことはできないよ』

『おい、こっちは冗談で言ってるんじゃないんだ』

『だから、こっちだって冗談で言ってないさ。あのお偉いさんは、もうお姉さんの部屋に入って家族を締め出しちゃってるんだからさ。何を言おうが何をやろうがボクに分かりようがないんだよ』

『なん、だと…………!?』

『とりあえずお姉さんにトドメを刺しに来たわけじゃないのはわかるけどね。でも、部屋の中で何をやってるのかまでは、ボクにも知りようがないんだよ』

『トドメってナマイキ……おまえ、殿下とクシャ子のことを知ってるのか?』

『え、あんたに頼まれてこの人相手に八百長試合やらされるって、お姉さんが散々愚痴ってたけど、それ以上に何かあるの?』

『……いや、ならいいんだ』

 

 

(いったい殿下が今更あいつに何の用があるというんだ……)

 新左衛門にはわからない。

 もしもクシャトリスに対する害意があってのことなら、秀綱が自らバーザムズール家に姿を見せる意味などないのだ。放置しておけば彼女は確実に死ぬのだから。

 ならば、純粋にクシャトリスを見舞いに現れたということなのか。

(それもありえない)

 そう思う。クシャトリスの昏睡の裏に秀綱の意志が介在している以上、そんな嫌味ったらしい行動を、あの関白殿下が取るとは思えない。

 ならば、クシャトリスの衰弱状況を確認しにきたというのか。あの女がいつ死ぬのか、それをこの目で確認するために、わざわざ秀綱が足を運んだというのか。

(それもまた、ありえない)

 ナマイキの話によるならば秀綱は、自らの従者だけを連れてクシャトリスの部屋に入り、人払いをしたという。彼女の現状を確認するためだけが目的なら、そんなことまでする必要はないはずだ。

(いや、そもそも……)

 彼女の死が確実でないというなら、そんな方法での暗殺を秀綱が指示するはずがない。

 クシャトリスの昏睡が、一般的な毒でも呪詛でも病気でもない以上、その起因に秀綱の意思があるのは確実なのだ。ならば、秀綱自らが経過を視察に来ねばならぬような半端仕事を、彼の配下の忍び衆がするはずがないではないか。

(わからぬ。いったい殿下はいかなるつもりなのか)

――その瞬間だった。ナマイキの悲鳴のような念話が彼の脳を直撃したのは。

 

 

 

『お兄さん、お姉さんが!! お姉さんが!!!』

 

 

 

『おいどうした!? ナマイキ!! 返事しろナマイキ!!』

 新左衛門はそう念じるが、もはや一度切れてしまった念話魔法は、あのチビ竜の側からでないと通信を再開できない。

(まさか――)

 という思いに顔が歪みそうになったその瞬間、拷問のようだった馬車の縦揺れが停止した。

「ほい、着いたよ」

 その声はまさに新左衛門にとって天使の声のようだった。

 気付けばここは見覚え深い池波家、そしてその隣家のバーザムズール家の前だったからだ。

「ありがとう」

 そう言い捨て、新左衛門は馬車を飛び出し、彼女の家に駆け込む。

 玄関で草履を脱ぎ捨て、廊下を走り、階段を駆け上る。

 そして、開けっ放しになっていたクシャトリスの部屋に突入する。

 そこで彼の網膜に飛び込んできた景色は、ベッドに横臥するクシャトリスに抱きつき、号泣するラヴィアン・バーザムズールと、その肩に手を起きながら妻を慰めるガルス・バーザムズール。そして親子の頭上を狂ったように飛び回るナマイキの姿だった。

(間に合わなかったのか……おれは)

 新左衛門がそう思った瞬間だった。

 

 

 

「あら、今度は新助じゃない。アンタまで一体どうしたっていうの?」

 

 

 

 泣きじゃくる母親に抱きつかれ、困惑顔のままクシャトリスが、部屋の入り口で凍りつく新左衛門に言う。

 もっともその顔は、ここ数日の昏睡でむくみ、栄養失調によって頬はげっそり痩せこけているが、どうやら自分がどうなっていたのかさえ彼女はまだ認識していないらしい。

「母さん、その、もうわかったから、離してくれない? ちょっと苦しいからさ」

「ああ、うん……ごめんなさいね」

 ラヴィアンは謝りながら娘から離れ、ガルスはそこでようやく新左衛門に向き直り、妻子のもとを離れて新左衛門の傍までやってくる。

「君にも心配をかけたね。ありがとう新助くん」

「いったい、何をなさったんです?」

 そう新左衛門がかすれた声で聞き返すが、しかしガルスは静かに首を振った。

 

 

 

「それは私にもわからんのだ。この子を目覚めさせたのは私ではなく豊臣公爵閣下だからね」

 

 

 

「殿下が……!?」

「ああ、さきほど見舞いにこられてね。家伝の秘術でこの子を治せるかもしれないと言うものだから、藁にもすがる思いでお任せしたら……ふふ、このとおりさ」

 そう言って父は娘を振り返る。

 クシャトリスはといえば、泣きながら喜ぶ母親にいまだに困惑しながら父親と新左衛門の方向をチラチラと気にしているようだった。とはいえ父親が発した「豊臣公爵」という言葉に反応しないところを見ると、まだ意識がハッキリしていないのかもしれない。

「もっとも家伝の秘術なればこそという理由で、この部屋から人払いを食ったわけだが、まあその甲斐はあったというものだよ。一体どんな魔法を使ったのか聞きたいものだが」

「殿下は?」

「さきほど帰られたよ。明日にはグワジニアに戻られるとも言っておられた」

「そう……ですか」

 そこで新左衛門の表情が微妙に変わったのを、ガルス・バーザムズールは気付かない。もっとも意識不明だった一人娘が四日ぶりに目覚めたばかりという現状であれば、眼前の相手のそんなわずかな表情の変化に気が付かないのは無理もない。

 

「何にしろ、とりあえずよかった」

 そう言って新左衛門は、そこでナマイキを振り返って手招きし、そしてチビ竜を伴って廊下に出る。

「お兄さん、どうしたの? 今ならドサクサまぎれに、お姉さんのほっぺにキスの一つくらいしても怒られないと思うけど」

「馬鹿たれ、するかよそんな真似」

 そう言って苦笑するが、そんな彼をまっすぐに見据えながら、ナマイキは、

「そういえば、今は何か怖い目をしているけど、もっと喜んでもいいんじゃない?」

 と、言った。さすがにガルスと違い、ナマイキは新左衛門の表情が厳しくなったのを見届けていたらしい。

 新左衛門は真顔のまま、幼竜の視線を受け止めると、尋ねた。

 

 

「ナマイキ、関白殿下がクシャ子を目覚めさせたというこの事態、お前はどう判断する?」

 

 

 ナマイキは、しばし瞬きを繰り返し、新左衛門を見返す。

「どうって……お兄さんはお姉さんが起きたのが不満なの?」

「そういうことじゃない。おれには、この一件の顛末があまりにもわけがわからないから、参考までに訊いたまでだ」

「買いかぶってもらっちゃ困るよ。最初から最後までこの件に関わってたお兄さんがわからないことを、ボクがわかるわけないじゃないか」

 そう言って口を尖らせるナマイキを見て、さすがに新左衛門もうなずかざるを得ない。

「……たしかにな。だから、これからそれを確認に行く」

「確認?」

「アイツが目覚めたことは嬉しいが、それで一件落着と締めくくるには、おれにはあまりに納得のいかないことが多すぎる。そう言ってるのさ」

「いや、でも確認って?」

 

 

「今から殿下に会いに行く。今度の一件、いったい何がどうなったのか、すべて説明してもらう。その上で、今後二度とこういうことが起こらないよう、お頼みする――それだけだ」

 

 

 そう言うと、新左衛門は部屋の中を覗き込んだ。

 あなたはこの四日間ずっと眠ってたのよと娘に語って聞かせる母親と、それを信じられないような顔で聞く娘。

 そして、そんな娘に、お前のおかげで父さんの休暇は全部使い切りになってしまったんだぞ、今後はせいぜい親孝行してもらうからなと苦笑いで言う父親。

 そこにあったのは親子水入らずの団欒だった。

 新左衛門はそれを見届けると、無言で背中を翻し、足音を立てぬように廊下を階段の方へ歩き始める。

 

「本気なの、お兄さん? 下手したら殺されちゃうよ?」

 そう耳元で言うナマイキ。勿論その声に、いつものような人を揶揄する響きはない。

 当然であろう。新左衛門がこれから行おうとしていることは旧主への詰問であり尋問なのだ。いや、それだけではない。彼は今度の一件に関して旧主に思い切った諫言をするつもりでいた。そんな真似をすれば、たとえ寛容で知られた秀綱といえど激怒することは間違いなく、彼は確実に殺されてしまうだろう。

 が、新左衛門の胸の内の憤りは、もはや自身の死など問題にはしていなかった。

「死ぬことは怖くない。このまま殿下がグワジニアに戻られてしまったら、おそらくこの一件は永遠に闇に葬られてしまうだろう。おれにはそれこそ納得できない」

「綺麗事を言ってる場合じゃないでしょ。本当に死んでもいいの?」

 そう言いながら、ナマイキは新左衛門の前に立ちふさがるように飛び回ると、言った。

 

 

「お姉さんを悲しませてもいいの?」

 

 

 新左衛門の足が止まる。

 が、それも一瞬だった。彼はナマイキに道を譲るようにして廊下をすれ違うと、階段を下りる。

「ナマイキ、おれは臆病な男だ。武士であることを言い訳にしてなすべきことを迷っていた」

 ナマイキにとっては何のことかわからない。新左衛門が今日ここに来る前に職場でどれほどの懊悩を見せていたかなどナマイキにとっては知る由もないし、それに例の辻斬りの犯人を知らないナマイキには、新左衛門の苦悩など推測する余地さえ無いと言ってもいい。だが、それでも彼が何を言いたいのかくらいは、おおよそ見当はつく。

「それは豊臣公爵のことなんだね?」

 新左衛門はうなずく。

「結果としてクシャ子は目覚めた。それも関白殿下自らの御手でだ。それはいい。だが、もうこれ以上、忠義という言葉を言い訳として使いたくはない。それはおそらく、武士としては最も見苦しい姿のはずだ」

「それは死ぬ覚悟が出来てるってこと?」

「ああ」

「ねえ、お兄さん……もし、お兄さんが死んだら、今度はお姉さんが黙ってないよ? あの人が本気で暴走したら、もう誰かに斬られなきゃ止まらないよ? そうなったら討手に選ばれるのは間違いなく先生だよ? そこまで考えて言ってるの?」

 

 

 その言葉で、ふたたび新左衛門の足が止まる。

 確かにナマイキの言うことももっともだ。新左衛門にとって己の死は己一人の問題でしかないが、他人にとってもそうであるはずがない。

 ことにクシャトリスは間違いなく豊臣公爵家に殴り込みをかけるだろう。そうなってはもはや事態は秘密裏に決着をつけるどころではない。下手をすれば『共和国』内の政治問題の火種になりかねない。

 しかし新左衛門は、そうならないための方法を一つだけ知っていた。

 

 

 

「そうなったらナマイキ、お前の魔法で、あいつからおれの記憶を全部消してやってくれ」

 

 

 そう言って寂しげに笑うと、玄関に腰を下ろし、乱雑に脱ぎ捨てられた草履(ぞうり)を履く。

 自分を見る幼竜が呆気にとられているのはわかる。

 わかるが、もはやこれだけはどうしても抑えきれないのだ。

 今回の一件の説明を聞くと言ったが、新左衛門もそう簡単に秀綱が何もかも話してくれるとは思ってはいない。それよりも彼の胸中の真意は聞くことではなく、言うことにある。

 とはいえ旧主が働いたこれまでの凶行を公表する気はない。脅し文句として交渉のネタにする気もなくはないが所詮は脅しだ。本気ではない。だがそれでも、今後一切、辻斬りなどという誰にとっても不幸しか産まない犯罪を重ねるのはやめてくれと、新左衛門は言わずにはおれないのだ。

 もはやこれは、武士道や忠義がどうこうのといった話ではない。

 新左衛門にとっては意地とさえ言ってもいい。

 

 

「わかったよ……ボクも付き合ってあげるよ、仕方ないからさ」

 

 

 ナマイキはそう呟くと、草履を履き終え、立ち上がった新左衛門の肩にチョコンと、オウムのように止まったのだ。

「仮にも緑竜王の息子が立ち合えば、少なくともその場でお兄さんがあっさり斬られちゃうことはないでしょ。後のことは知らないけどね」

「ナマイキ……」

「勘違いしないで欲しいんだけど、ボクはお兄さんがどうなろうと知ったことじゃない。でもお姉さんたちを悲しませるのも本意じゃない。それだけなんだからね」

「いいのか? お前もまとめて殺されるだけかもしれないぞ?」

「人間風情に不覚を取るようなボクだと思うかい? 竜族を舐めてもらっちゃ困るなあ」

 

 そう言いながら一人と一匹はバーザムズール家から外に出ると、そこには、先ほど新左衛門が乗り付けた辻馬車が待っており、御者席の中年オークが怒りで顔を真っ赤にして、姿を見せた新左衛門に運賃を払えと叫んでいた。

「こりゃ、おあつらえだ」

 懐から財布を取り出すと、新左衛門は小判を一枚手渡し、高台寺の住所を告げる。

 そこはいわゆるブッ教の寺院であるが、『共和国』各地に存在する豊臣家の菩提寺の一つでもあり、その敷地は広大で、豊臣公爵がジュピトリアムに滞在する際には宿所として利用されるのが慣例になっている。

 新左衛門は御者に、そこへ行けと指示したのだ。

 もっとも、今度は急げとは言わなかったが。

 

「そういやナマイキ、お前さっきの念話、絶対わざと勘違いさせるような台詞で締めやがっただろ? お姉さんが~~とか言ってよ」

「あ、憶えてた?」

「憶えてたじゃねえよ! てっきりアイツが死んだかと思ったんだぞバカ野郎!!」

「なんだよ唐突に怒り出して面倒くさい……いいじゃないか生きてたんだから」

「お前のそういう! そういうところがイマイチ信用できないんだよこっちは!!」

 

 



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