平坂を超えて
遥か昔。
国産みの神、イザナギは、妻であるイザナミの死を受け入れられず、黄泉に下り、亡き妻に会いに行った。
しかし、そこで目にした妻は、無残に腐り果てた骸となり、かつての美しい面影は何一つ残っていなかった。
イザナギは漸く妻の死を悟り、激しく慟哭しながら、もと来た平坂を駆け登って行った。
この時、イザナギは二人の鬼に追われ続けた。
一人の鬼の名は虚無と言い、一人の鬼の名は絶望と言う。
虚無と絶望は、ひたすら駆け続けるイザナギに、絶えずこう囁き続けた。
「おまえは、これまで、多くの命を産み出し、育んみ、慈しんできた。だが、どんなに産み出し、育み、慈しんできても、やがて、おまえの妻のように死んで、腐り朽ち果ててゆく。」
「新たな命を産み出す事になんの意味があるだろうか。命を育み慈しむ事になんの意味があるだろうか。」
「そもそも、生きてる事に何の意味があるのだ?」
「さあ、おまえもこっちに来るが良い。こっちに来て、腐り朽ち果てるが良い。そうすれば、もう、慈しんだ者の死に嘆き悲しむ事はなくなる。」
「さあ、無駄に産み、無駄に育み、無駄に慈しむ事はやめるのだ。こっちに来て、亡き妻と共に腐り果ててゆくが良い。」
イザナギがどんなに振り払っても、駆け続けても、二人の鬼は何処までも何処までも追い続け、耳元近く囁きかける事をやめなかった。
イザナギは思った…
鬼達の言う通りだ…
もう、駆けるのをやめよう…
ここで立ち止まり、もう一度、妻のいる黄泉に行こう…
その時、忽然と辺りが白々と明るくなってきた。
長い闇夜が終わり、朝日が昇り始めたのである。
気づけば、平坂を超えて、目の前には美しい河が流れていた。
イザナギは、一晩泣き腫らして涙に濡れた顔を、河の水で洗い流した。
そして、ふと、顔を上げて見ると、日の照らす方角に、一人の幼い少女が立って、見つめていた。
この子は何処から来たのだろう?
この子はいつからいたのだろう?
イザナギが首を傾げていると、少女はニッコリ笑って、呼びかけてきた。
「お父様。」
と…
イザナギは、思わず少女を抱きしめた。
その温もりは、何とも暖かく、優しく、心地よく…
次第に胸いっぱいに、愛しい気持ちが広がっていった。
イザナギは、思わず、少女に呼びかけた。
「おお、日御子よ…」と…
日御子と呼ばれた少女は、また、ニッコリ笑いかけ…
「お父様…」
と、イザナギの懐に顔を埋めた。
この時、イザナギは思い出した。
これまで、多くの命を産み出してきた時、育んで来た時、慈しんできた時、その一日一日が喜びであった事を…
何より、その傍らには、常に愛しい妻の笑顔があり、目をつむれば、今も妻は優しく微笑みかけている。
「イザナミよ…」
イザナギは、平坂を振り返り、妻に語りかけた。
「私は、この子を育てよう。この子だけではなく、これから多くの命を新たに産み出し、育み、慈しもう。
例え、いつかは腐り朽ち果てる定めにあろうとも…
一日に百の命が死ぬのなら、二百の命を産み出そう…
一日に千の命が失われるなら、二千の命を育もう…
そして、この世に一つでも命があるなら、その命が腐り朽ち果てるその日まで慈しもう。
何より…
私は今日も生きてゆこう…
あなたの分まで…」
すると…
何故か、何処からとなく見つめている妻が、あの時と同じ美しい笑顔で、笑いかけているのが見えるような気がした。
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鬼ではなかった
鬼ではなかった
平安時代。
アテルイ率いる蝦夷が、朝廷に謀反を起こした時の事です。
討伐に当たった、征夷大将軍・坂上田村麻呂率いる官軍は、長い間、一人の蝦夷の将に、苦戦を強いられていました。
この頃…
反乱を起こした蝦夷達といえば、都では誰もが、人を生きながらに食らう鬼だと噂され、恐れを抱くと共に、忌み嫌っておりましたが…
大地に目を向ければ、森の木々の上から襲撃を仕掛け、木々の上に気をとられれば、地虫のごとく、地面から這い出て、夥しい官軍を殺傷し続けた、この蝦夷の将は、身の丈五尺もあり、頭には、一尺はあろう水牛の角を生やし、鰐の様な顎には、狼のような鋭い牙を生やして、毎日すすり上げる人間の生き血が、乾いた事が無い大鬼だ…
などと言う話が、まことしやかに語られていました。
そんな噂話は、戦が長引くと共に、更に尾ひれがついて、この大鬼は、一日千人の官軍兵士や、関東の和人達が、生きながらに四肢を引き裂かれて、もだえ苦しむの眺めながら、その肉を食らい、生き血をすするのを楽しんでいるなどと言う話となり…
最初のうちこそ、その噂話に憎しみをあおられて、戦意を高めていた官軍兵士達も、次第に、この大鬼率いる蝦夷に、憎しみよりも恐怖が勝るようになり、次第にしり込みして、都に帰りたがるようになりました。
これはまずい!
坂上田村麻呂は、そう思いました。
このまま、噂が更に大きく拡大して広まれば、戦そのものを続けられなくなる。
そうなれば、官軍は、戦わずして、反乱軍に敗れてしまう。
そう、考えたのです。
そこで、坂上田村麻呂は、一旦、アテルイの謀反そのものはおいておいて、大鬼率いる蝦夷軍を滅ぼす事に、全力を注ぐ事にいたしました。
それから、更に、官軍の苦戦は続きました。
けれども…
もともと、蝦夷軍より、数では、相当勝っている官軍です。
その官軍が、全ての兵力を、一つの軍勢に傾ければ、いかに、大鬼率いる蝦夷軍が強くとも、勝てるものではありません。
少し…
また、少しと、次第に、蝦夷軍が、追い詰められてゆきました。
そして、ついに、ある川のほとりで、大鬼も討ち取られ、彼が率いる蝦夷軍も全滅しました。
長らく官軍を苦しめ続けてきた、蝦夷軍に勝利した夜のこと…
まだ、この反乱の総大将である、アテルイとの大戦が控えているものの、束の間の勝利に酔いしれ、官軍兵達は、盛大な宴を催しました。
その宴の最中…
坂上田村麻呂の前に、その大鬼の首が引き据えられてきました。
人を、生きながらに八つ裂きにして食らう大鬼です。
どんなにか、邪悪で、残忍で、獰猛な、醜い鬼の首であるのだろう…
坂上田村麻呂は、恐怖心と共に、何処か、好奇心のようなものも抱き、その首を目の前で見るのを、今か今かと待ち焦がれていました。
ところが…
「こ…これは…」
坂上田村麻呂は、目の前に引き据えられた首を見て、愕然としました。
それは、まるで、乙女のように美しい、まだ十五になるかならずの少年の首だったからです。
「鬼では…なかったのか…」
坂上田村麻呂は、その首を両手にとって、まじまじと眺めながらつぶやきました。
「人だったのだな…」
思えば…
坂上田村麻呂は、ふと、今までの戦を振り返って、思いました。
都では、蝦夷達は鬼だと聞かされてきたけれども、これまで屠った蝦夷の兵で、一人として、都で聞かされた鬼などいませんでした。
みな、自分達と同じ肌の色をし、同じ顔かたちをし、太刀できれば、同じ赤い血が流れていたのです。
「和人も、蝦夷も、同じ人であったのだな…」
周囲では、まだ、宴が続き、官軍の兵士達は、束の間の勝利に浮かれ騒いでいます。
けれども…
いつまでも、掲げ持つ蝦夷の少年の首を見つめる、坂上田村麻呂一人だけは、その胸の奥底に寂寥の風が吹き抜け、何か空しい思いを抱き続けたのでした。
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