運命のヒモ男《ヒモ・ファタール》 (ヤン・デ・レェ)
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アマロの詩

ずっとヒモを世界史にぶち込みたかった。殺伐とした魔窟を和やかな変態に変態させるをモットーに進めていく所存です。


アマロの詩

 

 

どうして人は歴史を捨てることができないのか。この問いに対する簡潔な答えを諸君は既に持っている。

 

即ち、歴史とは希望だからである。

 

今は過去を、過去は今を相互補完する関係にある。

 

数限りない文明の盛衰に見られる、いっそ愚かにすら見える人々の歩みの循環。歴史は、今を生きる私たちの存在により先人達が繋いだ生命を証明することで初めて歴史となる。

 

前置きが長くなったが、本題に入ろう。

 

 

 

惨たらしくも美しい歴史。

 

そんな最高の舞台を借りて、一人のヒモ男を踊らせてみよう。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

気が遠くなるほどの昔々に生まれ落ちた彼に与えられた物はアマロ・カジャタムという名前と、人呼んで「宵アマロ」と称えられる究極の愛の波動であった。

 

星の意思と原史閲覧特権を得て、アマロ・カジャタムという一人の存在は生まれた。宇宙のさらに外側、外宇宙の根源から生まれた純粋なるエネルギーといたいけな意思の残滓でできた存在が、完全無欠の肉体と不老不死の生命を宿した人型生命体として地球に降り立ったのである。

 

 

原史の地球は混沌と本能で構成されていた。人類の過去は、同時に神秘によって裏付けられた人類の未来でもあった。

 

ギリシアのゼウスを筆頭にしたオリンポスの神々、冥界と天界に挟まれた古の人の世界が広がるメソポタミアなど…数数え切れない神秘が当時の真理であった。

 

神秘を解き明かすために生まれた存在こそが魔術師や魔法使い、錬金術師であり彼らの存在は我々が思う以上に古く深い。

 

そんな古の神秘に於いても特に解明不能な存在がいた。それこそがアマロ・カジャタムである。

 

彼が最初に訪れたのは古の神々の世界であった。神々はこの美しい未知なる存在を受け入れ、永遠の繁栄をさらに揺るがぬものとしたが、同時に血を血で洗う稚拙な争いへと身をやつすこととなった。

 

悲しいかな、その原因こそがアマロであった。アマロの魅惑は魔術や神秘でさえも立ち向かいようの無いものであったがために、神々の中でも特段に美しい者たちが男女問わず、こぞってアマロを求めたのである。

 

中には妻と別れたり、夫と別れてまでもアマロを求める神も後を絶たず、最終的には彼らの仲を引き裂いたものとして恨まれたアマロを排除すべくオリオンを筆頭に多くの男神が立ち上がり、壮絶な戦争が始まった。

 

神々の加減を知らぬ戦争により人の世界では天変地異が数限りなく降り注ぎ、天界では瑕疵無き場所は無いとまで言われるほどに激しい戦闘が繰り広げられた。

 

寝ても覚めても終わらない戦争は終始あらゆる優れた女神と男神を味方につけたアマロの優勢で幕を閉じたが、あまりの破壊と混沌に心を痛めたアマロは間も無くオリンポスの宮殿から姿を消した。

 

アマロの自主放逐に天界の主神の殆どが涙し、美と優を誇る神々の多くが自ら命を絶ち、アマロの加護を司る守護霊魂となる道を選んだ。大笑いに笑ったのはヘラに捨てられたゼウスや冥界を去りアマロの元へ向かうことができぬと悟ると終わりなき自死を選んだペルセポネを妻に持つハデスくらいである。

 

この時既にアマロには逃れられない極美の運命が宿っていたように思える。

 

孤独に生きることが最上であると理解しつつも、彼もまた情あるもの。孤独の寂しさに殊更弱かった彼は次の寄る方を探して旅に出た。

 

アマロが次に向かったのは影の国であった。当時は神代とも呼ばれ、ありとあらゆる神々が各々の世界を多層構造的に統治しており、一種の閉鎖的な世界を有していた。本来ならば渡り歩けないそれらを、アマロは美という免罪符を用いて苦もなく渡り歩いた。アマロが進むところ、閉じられていた門扉は自ら開き、深い河川は一時干上がり道を作り、天の宮殿へ向かおうものならば雲が階を築く。神代に満ちていた神秘もまた、彼に魅了されていた者たちの一柱であった。

 

彼の二つ目の故郷となった影の国はスカサハという美しい女王が治めていた。彼女には異系の義妹がおり、その名をスカディといった。

 

この厳格で妖艶な姉妹との最初の謁見にて、アマロは自身の容姿を打ち明けないことを許してほしいと懇願し、その甘く雅な声に耳から脳髄を魅了された姉妹はこれを許した。

 

しかし、アマロが教訓を生かして陰ながらの悲劇を回避しようと努力した結果は、彼の願いとは真反対のものとなった。当時の影の国では偉大な英雄と称賛される若きクー・フーリンがいた。

 

彼は女王の命により、この声だけで彼女達を魅了してしまった稀有な存在をいかなる悪意からも守る任を与えられることとなった。

 

女王の密命は命より重いものだ。クー・フーリンはそこをよく理解していた。だが、それでもこの女好きはあの厳格な女王をも魅了した警護対象に強い興味をそそられ、その好奇心を満たすための行動に移すのにそう長い時間は掛からなかった。

 

彼の行動は奇しくもコノートの女王メイヴにより影の国へと戦火がもたらされたのと同時に行われた。結果的に、セタンタの暴挙はこの戦争にさらなる地獄をもたらすこととなる。

 

ビリビリと破かれ顔全体を覆うターバンが取り除かれた。現れたのは常人には見ることすらできない眩い黒曜石の後光を放つ青年だった。小さく美しい声で驚愕の嘆を漏らした彼。彼の美は周囲の耳目を全て釘付けにした。敵も味方も男も女もそこには見境がなかった。

 

そして、不運にも彼に心を鷲掴みにされた存在が双方の頂点にいた。スカサハと彼女の義理の妹スカディ、コノートの女王メイヴである。クー・フーリンもまた魅了されてしまったが、彼は自身の師匠であり仕えるべき主君スカサハの表情と、敵国コノートの女王メイヴの表情を目にしてアマロへの執着を上回る絶望を覚えた。

 

スカサハは瞳から光を消してメイヴを睨みつけ、メイヴは爛々と瞳を輝かせながらアマロだけを穴が開くほど見つめている。

 

それからの騒乱は筆舌に尽くし難い。先手を取ったメイヴの目も眩むばかりの打擲と、後手に回り全身全霊で槍を振るうスカサハの暴虐は互いを傷つけてもなお不満げに衝撃が迸り、周囲は穴だらけに変わった。

 

新たなる河川や山脈が幾つもできては抉り取られ、それが何度となく繰り返された。

 

決闘はメイヴがアマロを抱えて逃げに徹したことで一旦の終結となったが、誰一人としてその場にいたものはこの恐怖に未だ終わりが来ないことを理解していた。

 

アマロを手にしたものと、そうで無いものの境遇は明確に異なった。アマロと時を共にする権利を得た者はこの上ない幸福と満足を味わい、アマロの手を掴み損ねた者はこれ以上の底はないと思わしめる苦痛と苦悩と渇きを味わうことになる。それはもはや執着ですら生ぬるい、究極の歓喜と絶望を約束するものであった。

 

メイヴとスカサハの両人もまたその快楽と絶望から逃れることは叶わなかった。

 

勝者たるメイヴはまず、それまで自分と愛を交わした者、自分と婚姻を結んだもの、自分に欲情を抱いたものを国の境なく世界中からかき集めると先の順に一人残らず八つ裂き、斬首、去勢の刑に処した。たとえ年齢が十もそこらの青年であろうと、国一番の美麗人であろうとも漏れなく抹殺した。

 

彼女の過激な行動に怒りを覚えた民衆と家臣達は女王を諌めようと宮殿に詰め寄せた。しかしメイヴは臆することなく自身の傍にアマロを立たせて見せると、彼よりも価値あるものが果たしてあるべきか?と問いかけた。詰め寄せた人々は一目アマロを目にするや否や抑え切れぬ情動に身を任せて傅いた。彼らは女王の横暴に怒りを抱いていたことがまるで遠い過去のように思えてしまったのだ。

 

それからのメイヴは四六時中アマロと共に時間を過ごしたが、彼女は堕落することはなかった。アマロと共にいるメイヴの王権は日増しに強くなっていったのだ。

 

メイヴはアマロに溺れに溺れたが、決してアマロの失望を買いたいわけではなかった。アマロはもとより文化人としての高い知性を持ち、物言わぬ人形ではなかった。傲慢で恋多き女王は、それまでの自身の横暴や趣向などかなぐり捨てるかのようにアマロに夢中になった。夢中になることは即ち、政務へと人が変わったように精を出す名君へと彼女が生まれ変わることをも意味した。経済状況の目覚ましい向上から、民より上がる王とアマロへの祝福の声が響き渡らない日はなかった。

 

メイヴがアマロのことを見ているように、誠実なアマロは自身の獲得者である彼女を尊重した。女王としてのメイヴのことはもちろん、女性としてのメイヴからも目を逸らすことなく、あくまでも慈しみと愛を持って接したのだ。

 

アマロとはこの頃から聖杯以前から存在する神代の生ける神宝として尊崇されるようになった。

 

アマロへと日々愛を捧げる女王の治める国が栄華を極めんとする頃、アマロを失った影の国では女王スカサハの乱心が狂気に達していた。

 

スカサハの1日はアマロへの後悔から始まり、悲しみの淵で打ちひしがれては枯れた涙を補充するかのように葡萄酒だけを口にし、食事は喉を通らず、頼りない幽鬼の如き足取りで自らの国を端から端へと歩いて回りアマロを探す。疲れ果てて眠り、メイヴへの憤怒と憎悪に突き動かされて起床する。

 

スカサハの限界が近いこととは同時に、影の国に生きるもの達の悲鳴でもあった。賢き女王の最後の理性がいかなる犠牲をも厭わない暴威をもって隣国へと攻め入ることへの躊躇を振り切れずにいた。だが、それもそう長くは持たなかった。

 

アマロを手に入れたメイヴが彼の子を身籠もり幸福の絶頂にあった時、スカサハと影の国は絶望の根底にあった。そして、ついに影の女王は狂愛に身を任せると、アマロの失損以来姿を消していた義妹スカディをも動員してのコノートへの大侵攻作戦を開始した。

 

軍勢の先頭に立ちあらゆる敵を情け容赦なく滅殺して爆進するスカサハへの恐怖に対抗するように、アマロへの信仰心からくる勇気に突き動かされたコノートの民はメイヴを先頭に奮戦した。

 

コノートの人々の勇気とメイヴの愛はついにスカサハを倒したかに見えたが、憤激に燃えたスカサハの渾身の一撃により生まれた隙はスカディが身重のメイヴからアマロを奪うのに十分な時間だった。

 

スカサハはアマロとの再会に涙し、メイヴは絶望と憎悪をスカディとスカサハに向け、両軍は互いに混沌とした思いを抱きつつも軍を一度退いた。

 

戦後間も無くメイヴの出産にアマロは立ち会った。アマロとの再会はメイヴの怒りも憎しみも鎮め、アマロの背後に立つスカサハとスカディの腹が膨れていようとも怒りが湧くことはなかった。スカサハとスカディもまた彼女と同様に穏やかな表情で新たな生命の誕生を祝った。

 

その後、スカサハとスカディは影の国を、彼女達と共にメイヴはコノートを去った。伝説の国は一度時間の渦に巻かれてその役目を終え、再び王が戻ることを永い時間待つことになった。

 

莫大な宝よりも、絶対の愛よりも欲しいものを手に入れた。

 

勝者として一人の男を手に入れた三人の美女神と、三人の美女神を手に入れた一人の男。

 

四人の運命は永い時間を経て、神秘の終わりと共に一旦の終わりを迎えた。眩い運命の輝きは、一人灯火の護人としての道を選んだ事の発端であるセタンタ青年により記録された。

 

いつの時代も記録者の手で歴史上の人物の評価は決まる。

後世のものに許されるのは批判的憶測と希望的想像だけだ。

 

セタンタ青年はアマロの旅立ちの前後を以下の通りに記録した。

 

 

ーーーーー

 

 

スカサハとスカディ、メイヴはアマロとの間に儲けた子供を育て上げると穏やかな死を迎えた。アマロに看取られて三人は神としてではなく人としての命を終え、アマロは子供達が年老いて死ぬのを見届けると次なる世界へと渡った。

 

 

「宵のアマロ〜希望の巻〜」より

 

ーーーーー

 

最終巻である希望の巻を一思いに描き上げた語り部は神秘の消失に身を任せ、英雄が一人墓碑に名を刻んだ。

 

後世に得難いアマロの遺産をまた一つ遺して。

 

そして三柱の愛妻を看取り旅立ったアマロの行先は、果てしない海と二つの大河に育まれた肥沃の大地。そこで彼は偉大な母神との邂逅を果たした。

 

 



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メソポタミア編
01愛の化身


感想と評価ありがとうございます。愛ある種馬と愉快な仲間たちを宜しくお願いします。
未実装の登場人物も多いかと思われますので英雄タグをつけております。英"霊"としては登場しない子たちです。ではどうぞ。


01愛の化身

 

 

 

愛の化身と聞かれて諸君は何を想像するだろうか。

 

ある人は愛の営みにより生まれた赤子を。

 

ある人は生涯に一人と決めた最愛の人を。

 

また、ある人は自らをこの世界に産み落としてくれた親を。

 

愛の化身は様々だ。だが一つ共通点を挙げるとするならば、自分が深い愛を注いでいるものに癇癪を起こされると、それはそれは恐ろしい目に遭うということだ。

 

いつの時代も尻に敷かれている内が平和である。とある世界線での隋の独孤皇后と文帝楊堅しかり、皇帝ネロ・クラウディウス・ドルスス・ゲルマニクスと母小アグリッピナしかりである。(*カエサルはユリウス・クラウディウス朝歴代皇帝の全員についているので省いた)

 

 

 

さて、ここにもまた一組の母と子がいた。

 

 

 

母の名前はティアマト。原始の母である。母胎回帰を奨励するくらいに愛情深い彼女であるから、その愛が憎しみに変わると極端にすぎるであろうことは想像に難くない。

 

そして子供の名前はマルドゥーク。雷とか嵐とかを飼い慣らす英雄である。そしてやんぬるかな、彼は生まれてこの方ずっと反抗期である。

 

見目麗しい母から生まれた見目麗しい男神。人はここに反則的な母子の情愛劇を想像するかもしれないが、母ティアマトと子マルドゥーク両者の関係はお世辞にも目と目が合った瞬間に恋に発展するほど温暖ではなかったのである。

 

神代の歴史は一種のタブーとして、一種の特権として古代から続く魔術師や錬金術師、神々の従僕となった選ばれし人間の一部によって綿々と紡がれ、秘匿され、守られてきた。

 

凡ゆる災難から守る為に、その身こそ祝福により長寿で剛健になっていたとはいえ、常人の身である人間の従者の多くは、秘密の場所を自身の終の住処の床下や地下、土蔵の奥にと決める者が多かった。

 

海に重石と共に投げ込もうと言うもの達もいない訳ではなかったが、彼らは例外といえよう。従者達といえども、やはり人間であるから、自身の手で完成させた世紀の力作を、再び日の目を浴びる確率が甚だ低いであろう海底深くへと沈める勇気はなかったのである。

 

さて、そんな人々が書き残した神代の石板に、当時の彼女達の親子仲が如何に冷めきっていたのかを教える記述がある。特徴的な超古代文字であるから、その解読には幾人かの権威を冥府から引っ張り出してくる必要があったのは言うまでもない。よって、以下の条文は何時ぞやの聖杯戦争の際に参加者の錬金術師、或いは魔法使いが召喚した神代のサーヴァント、ここでは偶然にも神古代の文字を解読し得る者に当たった者達をして解読させたものであると伝わっている。

 

アマロ伝説の謎は海底1万メートルよりも深く、果てしない奥行きをもつ研究分野であるから、現代に続く神秘の伝導者たる錬金術師や魔術師の殆どが少なからず一度は彼の謎に熱中することはまず間違いない事だ。そのため、誰がそのサーヴァントを使役して解読させたのかは正確には判明していない。もし判明しようものならば、その原文目当ての者達が研究者の家を荒らす事間違いなしであるから、と言うこともあるだろうが。

 

 

以下「古石板解読文の複写資料〜黒曜石の希望の章〜」より

 

 

ーーーーー

 

 

 

第三の目が伝えて曰く、大いなる母神ティアマトは偉大な英雄マルドゥークを産み落とした。大地を成す先兄の魔獣達は波打ち、マルドゥークの美貌を受け止めた。マルドゥークは四つの目を持っていたが恐ろしさよりも美しさに勝る容貌をしていた。マルドゥークは勇敢な戦士として育ち、或いは母にも勝る優秀な言葉を操る迄に育った。マルドゥークは母の持つ天の支配権を求めたが、ティアマトはマルドゥークの激しい気性を危ぶみ断った。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、ある時、マルドゥークは黒曜石の絢爛に輝く一柱の希望を手に入れた。その日からマルドゥークは母に対する無礼を謝し、諸兄を敬い、弟達や妹達に深い愛を持って接した。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、マルドゥークは黒曜石の希望を母に打ち明けることなく幸福な時を過ごしていた。ある時に母ティアマトによりマルドゥークは召喚された。マルドゥークは愛する黒曜石の希望に傅いて、帰りが母の息吹が我が兄弟の顔に穏やかに降るころであると、それまで決して門を開いてはならぬと言い伝えてから宮殿を後にした。

 

ティアマトの使いはマルドゥークを従えて母神への道を教えた。マルドゥークは母神の宮殿への道のりを進んだが、一向に終わりがない。不審に思い、マルドゥークは自身の足元を見遣った。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、マルドゥークの足元に道はなく、代わりに蠢く巨竜の背帷子があった。マルドゥークは激怒した。「母は何故私を欺かれたのか」とマルドゥークは天に訴えた。天からは母の声の代わりに、愛しい黒曜石の希望の声が聞こえた。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、マルドゥークは言った。「おぉ、全ての宝玉にも勝る我が美しき人よ、どうして貴方のお声が我が耳に届けられるのか。」黒曜石の希望は答えていった。「私はマルドゥーク殿が仰られた通りに母神の温かな息吹が諸兄の顔に降るのを目にしてから宮殿の門を開きましたとも」と。

 

マルドゥークは声を荒げて言った。「我が古の嵐に誓ってそのようなことはありませぬ。」と。黒曜石の希望は声を失った。マルドゥークは嘆いた。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、マルドゥークが嘆いていると母ティアマトの声が聞こえてきた。ティアマトが言って曰く、「マルドゥーク、我が子、我が英雄よ。貴方は私に秘密を作ってはならない。どうして我が子であるお前が私にこのような重大な秘密を作ったのか。」と。

 

マルドゥークは怒りを声に滲ませて母へと訴えて曰く、「母よ!このようなことがあって良いのでありますか!貴女は私に秘密を作るななど一つも教えてくれなかったではありませんか!!」と。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、マルドゥークはティアマトに黒曜石の希望を返してほしいと訴えたが、ティアマトは静かにこう返した「そんなに彼を返してほしいのであれば、彼の名前を呼びなさい。もし、本当に愛を献げているのであれば、貴方にはこの美しい彼の名前を贈られていても、おかしいことではないはずよ。」と。

 

マルドゥークは言葉に窮した。ティアマトはマルドゥークの言葉を待たずに「ほら見なさい。貴方は私に秘密を作った挙句、嘘までついた。独りよがりに彼を愛しているなどと言ったのよ。その嘘の代償は払われて然るべきだわ。私が貴方からこの美しい子を貰って上げましょう。これまでのどの神よりも、彼こそが私の夫に相応しい。」と言って、マルドゥークの声を聞くよりも早くその身を宮殿に隠してしまった。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、マルドゥークは長く永く悲嘆に暮れた。マルドゥークは初め、奪われたアマロを取り返す為に兄弟や信頼のおける仲間達に声をかけて回った。

 

彼は「我が母は私を欺き、私の最も大切なものを奪った。私が先に護っていたものを、偉大な母は自らその名誉を汚してまで手に入れたのだ。もはや母は天ではない。」と言って勇者を募ったが、多くの魔物や良心のあるもの達は「マルドゥークよ、英雄よ、偉大な戦士よ、貴方のおっしゃることはよくわかった。だがね、あの偉大な母が子供である私たちから大切なものを奪うだなんてことをなさるとは到底思えんよ。もしも本当に貴方からその最愛の何かを奪ったのが母だったとして、その証はどこにあるのか。悪戯に天の機嫌を損ねるものではないよ。」と言って皆寝ぐらに帰ってしまった。

 

長い永い年月の間にティアマトは創造の力を発揮して大いに世界を豊かにした。彼女の子らは大いに喜び、マルドゥークを除く全ての良心あるもの達は彼らの偉大な母を賞賛する碑文を捧げた。マルドゥークが耐え続ける間、ティアマトの力は増しに増し、遂に彼女は二人で天を成していた最初の夫のアプスーを自らの手で打ち殺した。彼女は自分一人で天となり、即ち海こそが天となった。そして、彼女はその子供達に「私は次の子が生まれるより先に最後の夫を皆に紹介しよう。」と宣言した。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、海の母神ティアマトは自分が産み落とした数々の神々と魔物を宮殿に集めて、それまで秘めていた黒曜石の希望を紹介して「私の最後の夫はこの黒曜石の希望その人に違いない。私は夫にこの方を迎え入れよう。私の子供は皆、この方に傅いて忠誠を誓いなさい。」と言った。

 

ティアマトが嬉しそうに子供達に紹介したのは眩い黒曜石の後光に包まれた言葉を喪失する他ない美の人であった。多くの魔物達は「おぉ!これほど美しい存在はどこにも置いて他に見たことがない!!我らが母ティアマトよ!!貴女の最後の夫の名はなんと言うのか!!」と問いかけた。

 

ティアマトはその美貌に喜びを湛えて「この方の名前はアマロ。愛しいアマロよ。どうか私の夫になってちょうだい。」と言った。

 

すると、宮殿の前の神々の中から大きな声が聞こえてきた。「母よ!!私は私の愛しい方の名前を呼べるぞ!!愛しいアマロよ!!どうか私の元に帰ってきておくれ!!母よ!今こそ約束を果たしてほしい!!!」マルドゥークが叫んだのだ。これに対して良心ある神々は「母よ!!それは真か!!おぉ、マルドゥークよ!貴方は正しかったのか!!」と口々にいった。

 

ティアマトは之に応えて曰く、「子供達よ!お前達の気持ちもわかるわ、けれど、私にとって最早アマロはどんな宝玉すら霞む何よりの大事になってしまったの!!マルドゥーク、貴方に渡すことなんてこれっぽっちも出来ないわ!!」と叫んで、アマロを横に抱えると宮殿の奥へと帰ってしまった。

 

マルドゥークは雷声で周囲の神々に「良心ある神々よ!!天は既に陰りを帯びられたのだ!!我が母は遂にその夫アプスーまでその手にかけたのだ!!我が大切のアマロを奪ったのは、私が秘密を作ったことを咎めるためではなく、最初から自らのものとする為だったのだ!!今こそ正義を知らしめる時だ!!神々よ!私に力を貸してくれ!!!さすれば私は母を破り、その身から新たな神々を産み落とそう!!」と言った。

 

これに神々は大いに奮い「おお!勇壮なマルドゥークよ!貴方には信義があるようだ。我らの母は乱心されておる、天が乱れているのだから正義を正さねばならない!!マルドゥークよ!勇気あるものよ!どうか、正義を果たしてくれ!!そのためなら我らは力を貸そう!!」とマルドゥークに応えた。

 

 




長くなりました。メソポタミア前編は三部構成でお送りします。オリジナルでも書かせていただいておりますので、交互に投稿していければと思います。筆が乗れば連投します。余談なんですけど拙者、実は世界史が好きでロランの歌とかの日本語訳の本を読みまして、それで硬派な文体で軟派な内容を描くことに可能性を見出しました。今後はこんな感じでぼちぼち参ります。


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02愛の結晶

感想ダンケなっす。感謝の連日投稿です。ご賞味あれ。


02愛の結晶

 

 

 

第三の目伝えて曰く、11の魔物を除く全ての神々と全ての魔物達がマルドゥークの友となった。それまで彼の言葉を信じなかったもの達は過ちを認めて力になれるようにマルドゥークの元へと毎日のように通った。

 

神々はマルドゥークに自らの血と骨で作った嵐の戦車を与え、他にも剣や槍を多く与えた。マルドゥークは友を率いて母ティアマトの宮殿へと向かった。長い長い道のりをマルドゥークと彼の友は勇壮にアマロの輝きを模した純黒の旗を掲げて一歩一歩確かめながら進んだ。

 

宮殿の中ではティアマトと11の魔物達がアマロを中心に楽しそうに戯れ合っていた。ティアマトは「愛しいアマロ。貴方はなんて美しいの。なんて優しいの。一度として私のことを顧みてくれる者はいなかったと言うのに、顧みられなくてもいいと思っていたのに、貴方と出会ってしまったから私は二度と貴方なしではいられなくなってしまったわ。ああ、なんと幸せなことでしょう。」と最愛の夫を褒め称えては頻りに彼の手を握ったり、その手で自分の頭を撫でさせたりした。

 

アマロも言って曰く、「お母さんというのは世の中で最も大変なお仕事ですから。貴女は人よりもずっと頑張ってらしたんでしょう。私は貴女のこれまでを存じてないけれど、とても心根の温かい、愛情深い素敵な人だということはこの身を持ってよく知っていますよ。」とティアマトを褒めては彼女の背を摩ったり、頭を優しく撫でたりした。ティアマトの尻尾は嬉しげに揺れ、角は淡く光ったり、温かくなったりした。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、ふいにアマロは「貴女と共にある幸福を願って。」と言って、ティアマトの額に口づけを落とした。

 

ティアマトは涙を浮かべて感激して「あぁ!愛しい!この気持ちをどう表していいものでしょう!!」と言うと、心を込めて夫の唇に口づけた。

 

すると、ティアマトの額からアマロには到底及ばないが素晴らしい絶世の美男が産まれた。

 

ティアマトとアマロの幸せそうな様子を喜んでいた周囲の魔物達はこの美男を受け止めて、彼らの母の元へ届けた。

 

ティアマトは喜んで「まぁ、貴方はなんと運がいい子なんでしょう。貴方は私とアマロの子供なのよ。私がいない間、私の代わりに父に尽くせる美しい子に育つのですよ。」と我が子の誕生を祝福した。

 

アマロも驚きつつ「子供がこんなに簡単に産まれてしまうとはたまげたなぁ。けれど私の子供に間違いない。よく産まれてくれたね、健やかに育ってほしいな。」と喜んだ。

 

ティアマトは生まれた子供を抱き上げて「貴方にはその生まれに相応しい、キングゥの名前を授けましょう。よく学び、よく育ち、芳しき愛を知るのですよ。」と優しくあやした。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、キングゥが健やかに宮殿で育ち、逞しくも輝かんばかりの美貌を備えた青年神へと育った頃、永い道のりを越えてマルドゥークの軍がやってきた。

 

宮殿の門を固く閉ざし、11の魔物を従えた若いキングゥはマルドゥークの軍に向かって「何の要件があってここにきたのか!!宮殿に土足で踏み入ろうと企む輩!!其方達は剣を帯び、雷を従えて天への階に足をかけることが神の母たるティアマトと私の父上に無礼であることを知らぬのか!!」と一喝した。

 

キングゥの声に追従するように魔物達の恐ろしい声が怒りの響きを纏って奏でられた。

 

今度はマルドゥークが全身に煌びやかな宝具を纏って進み出て「おぉ、私の荒れ狂う風はお前の噂をも運んできたぞ!!キングゥよ、お前は私の最愛の方であるアマロ様の子であると聞いた。そんな貴方に問おう、アマロ様を私の元に連れてくるのだ!一度でいいからお会いしたい!一眼でいいからこの目に焼き付けたいのだ!」と訴えた。マルドゥークは跪き叩頭してキングゥへ訴えた。

 

だが、キングゥはマルドゥークの必死の訴えを「いいや、残念だがそれは出来ない。神ティアマトは私を産み落としたが、私は愛父アマロが居なくては生まれてこれなかった存在だ。母はマルドゥーク殿に怒りを抱かれてはいないが、もしも彼の方をティアマトから引き離したいのであればやめておくのが賢明だ。母は決して、私の父をその身から離すことをお許しにはならないからだ。」と言って断った。

 

マルドゥークはそれからも幾度もキングゥへと頼み込み、それは引き連れてきた軍勢の中の魔物の何頭かが力尽き血肉と骨になり、新しい世界の材料に変わるまで続いた。

 

痺れを切らしたマルドゥークは「全く!貴様のような話の通じないやつは初めてだ!それほどまでに私の話を聞く気がないのであれば、例え愛しきアマロ様の御子だとしても打ち叩かねば通してはくれまい。ましてや貴様はアマロ様の御子であって、私の愛するアマロ様ではないのだから打ち殺されても文句は言うまいな!」と口から怒りの火を噴きながら嵐の戦車に鞭打った。

 

キングゥは落ち着き払った不敵な微笑を浮かべて「マルドゥーク殿も諦めが悪い。ティアマトは今、初めて愛を知っているのです。私は母からの言いつけを護って、初めて父からの愛を与えられるのだから、ここを通すわけには何としてもいかないのです。私の愛父に恋している貴方ならば私の想いもよく理解できるはずではありませんかな。」と言うと、ティアマトから指揮権を引き継いだ11の魔物達をマルドゥークの軍に襲い掛からせた。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、七日七晩戦い続けた両者は一度互いの野営地へと戻った。あたりは一面が抉り返され、神々の足元に泥のつかなかった所は無いほどであった。

 

マルドゥークは炎を噴きすぎて体が熱を持ち、口からは暫く煙が上がり続けた。マルドゥークの体に触れた友の魔獣の一人がこんがりと焼けてしまい、彼の香りに引き寄せられて沢山の魔獣がマルドゥークの周りに集まった。集まった魔物達は皆焼けてしまった。

 

マルドゥーク達は友の亡骸を葬るか、腹に納めてしまおうか悩んだ。そんな時、神の一人が「腹が減ったのだ。食べてしまっても良いだろう。」と言ったので、マルドゥークの軍は皆喜んで魔物の肉を食べた。

 

食べ終えたマルドゥーク達は自分達が何も食べ物を持ってこなかったことを思い出した。死んだ魔物のお陰でマルドゥーク達は飢えずに済んだのであった。

 

宮殿に帰ったキングゥは11の魔獣達から泥を落とし、拭った泥の塊を纏めて壺へと納めた。

 

キングゥは自身も泥と血に汚れ、汗をかいていることに気づき、母と父に会う前に体を清い水で洗い流した。

 

キングゥの体を汚していた神々の血や神代の泥は清水と共に壺へと注がれた。

 

身支度を終えたキングゥは魔物達を引き連れて母と父の元へ向かった。

 

宮殿の奥でキングゥを一人迎え入れたティアマトは「貴方は良い子ね。あの人にご褒美を貰うといいわ。」と褒め称え、キングゥを父の元に自ら案内した。

 

キングゥがティアマトに従い宮殿の中を進むと、幅の広い道を歩くアマロの姿があった。魔獣の首に鎖をつけて之に引かれながら散策するアマロは、やはり美しく、キングゥとティアマトは見惚れずにはおられなかった。

 

自身に見惚れているキングゥとティアマトに気づいたアマロは魔獣の鎖を引いて二人に近づいた。アマロはキングゥと見つめあって「おかえり、キングゥ。戦いのことはわからないけれど、キングゥが無事で何よりも安心したよ。ご褒美と言っても、私がキングゥに贈れるものは多くないからこれを譲ろう。」と言ってキングゥを抱き締めると、彼の手に自分の魔獣の首につけていた美しい鎖を譲り渡した。

 

アマロは「これは私がティアマトから譲ってもらったものなんだ。魔物の散歩に使えるものだから、他のどんな鎖よりも良いものだと思う。この鎖が私の持つものの中で、ティアマトとキングゥの次に一番素晴らしいものだから、これを私の子供である君に譲るよ。」と言うと、魔獣の首からも鎖を外してしまった。

 

キングゥは「私はこれ以上のものを頂いたことが一度しかありません。その一度は父上と母上の愛から産まれた際に生命を与えられた際の一度です。この鎖に誓って、私は母上に従い、共に父上をお守りします。」と鎖を抱きしめて宣言した。頬を染めた姿は父親に似てとても美しく、鎖を外された魔物も逃げることなくキングゥに見惚れていた。

 

キングゥは母と父に囲まれて共に過ごした。魔物達は皆、彼ら親子の穏やかな時間が少しでも長く続くようにと月と太陽を追い立てた。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、太陽と月を追い立てる魔物達が疲れて寝てしまった頃、再び戦いの日がティアマトの宮殿にやってきた。押し寄せる、以前にもまして夥しい数の神々と魔物、対してキングゥとティアマトが従えるのは11の魔物だけだ。アマロを宮殿の奥深くに隠してから、ティアマトは独り子のキングゥと11の魔物を連れてマルドゥークの軍団の前に進み出た。

 

ティアマトはマルドゥークに向けて「我が子マルドゥークよ!お前の罪を許そう!もしも、お前が自身の軍勢を初めからいなかったかのように全て元通りにすることができたのなら、私はお前を許そう。そして、お前に魔物と神々の王としての力を与えてやろう。これ以上、私の大切なアマロを怯えさせないでちょうだい。」と言って、キングゥを前に出した。

 

進み出たキングゥは「それが不服だというならば、私が率いる11の魔物を倒し、私のこの鎖から逃げ切り、母ティアマトの怒りをその身に浴びせられる、それに耐えられる覚悟と自信を示すがいい!!」と吼えて、煌々とした美しい鎖を天高く巻き上げると、一思いにマルドゥークの軍勢に叩きつけた。

 

マルドゥークの軍勢はその底に至るまで真っ二つに裂けてしまった。神々は恐れ慄き、魔物達は尻尾を丸め、首を引っ込めて唸るばかりになってしまった。

 

耐えかねたマルドゥークは進み出て「ティアマトよ!キングゥよ!あなた方の言いたいことはよくわかった!!だが、私にはあなた達の友とならなかった良心ある神々の手で鍛えられた強靭な宝具がある!!キングゥよ!お前の魔獣達は私の宝具の前に葬られるがいい!!」と吼え返して、嵐の戦車に跨り、頼りない神々や魔物達を跳ね飛ばしながら洪水の風に11の魔物達を襲わせた。その姿に勇気あるもの達が次々に続いた。

 

遂にマルドゥークとティアマトの戦争が始まったのだ。

 



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03愛の持続

感想が嬉しくて涙が出た。泣きすぎて乾燥した。感謝を形に、いい感じに完走したい。博識な世紀末諸兄にダンケなっす。これからもフィーリングでロストワールドを爆走していきます。


03愛の持続

 

 

 

第三の目伝えて曰く、焼き固められた小麦の菓子が腐れ落ち土塊に帰る頃、マルドゥークとその勇気ある輩は11の魔物達を全て倒し、遂にキングゥを包囲した。

 

力が尽きたキングゥは鎖で宮殿の門を閉ざし、一人軍勢の前に立ちはだかった。

 

マルドゥークはキングゥに「おぉ、キングゥよ!哀れな子よ!!お前に許しを与えよう!お前が私にアマロ様が何処におられるのかについて快く教えてくれるのならば、私はお前の全てを許そう!!」と言って笑いかけた。

 

キングゥは身体中から力の源を零しながら、マルドゥークへ「では私も問おう!そこに父上の子供としての私はいるのか!母上は父上の隣にいるのか!私と母上は共に父上を愛することができるのか!!」と問いかけた。

 

マルドゥークは答えて曰く、「いいや。残念だがティアマトが、我が母が二度とアマロ様のお近くにいることは許されない。私が許せないのだ。私を除いて、どうして他のものがあの美しいアマロ様の傍に立てると言うのか。キングゥよ、お前もそうだ。お前は神としてアマロ様に仕えるのだ。彼の方が大切になさる、さぞかし可愛がられるような、最愛の御子になど、お前がなっていいはずがない。私はお前が、私以上に御子としてアマロ様に愛していただくことが我慢ならないのだから。」

 

キングゥは豪快に笑い応えて曰く、「やはりな!お前は根の部分ですっかり独りよがりではないか!結局お前は自分ばかりが父上にも愛されたくて仕方がなかったのだ!ただそれだけのために母上の幸せも、父上の平穏も、私が父上へと愛を捧げる時間すらも奪ったのだ!そんな賊にどうして私が降ることがあろう!どうして父上の居場所を教えることがあろうか!」

 

そう言うとキングゥはマルドゥークに飛びかかった。マルドゥークは灼熱の火を噴いてキングゥを溶かしてしまった。溶けて泥になったキングゥの亡骸は細かく散らばり人間になった。美しいキングゥの血を引いた者が人間となった、だから後世この世界には似た顔の美人が多いのである。

 

アマロの血を受け継いだキングゥはこの世にまたと居ない美貌の持ち主だった。キングゥが溶けてしまったことで、神々の足元に渦巻く神代の混沌はキングゥよりも美しく溶けることはできないと慎み恥じらい、少しずつその身を固め始めた。

 

固まった所にキングゥの泥が注ぎ込まれ、不細工な型にはまった歪な泥人形ができた。泥人形は戦に飽きた神々の手慰みに育てられた。

 

育った泥人形は少しずつ神々の言葉や生活の技法を学び始め、そのうち独自の文明を築いていった。

 

初めて泥人形の手で作られた小麦と葡萄を使って作られたパンと葡萄酒は神に供えられた。

 

神の供えられたそれは神の許しを得る前に二人の泥人形が食べて飲んでしまった。

 

食い意地を張った神の怒りに触れた泥人形は元の姿に戻れない呪いと、一度朽ちると二度と同じ姿に戻れない呪いを浴びせられた。

 

呪いのせいで泥の代わりに柔らかい皮を手に入れた二人の元泥人形は神々から教わったことを思い出しながら文明を営み始めた。

 

初めて生まれた人間は少しずつ増えていき、神々の戦争が終わる頃、王となって現れたマルドゥークに従えられてバビロニアという国家を築くことになった。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、キングゥの死を知ったアマロは生まれたばかりの幼い魔物、アマロが鎖をかけて愛ていたムシュフシュと共に幾日と涕泣し続けた。ティアマトはキングゥがアマロを一人の情ある者として愛していたことに僅かな不満を覚えていたが、アマロを守って死んだ我が子の死を素直に悼んだ。そしてアマロの嘆きに心を痛め、怒りを燃やしてマルドゥークの軍勢を混沌の泥で丸々呑み込むと、すぐにはやって来れないほど遠くに、世界の果てに投げ飛ばしてしまった。マルドゥークは久しぶりに耳にしたアマロの声が悲痛な涙を伴うものだと知り、悔恨の余り腹を激しく下した。マルドゥークは決して治らぬ痔を患った。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、軍勢を投げ飛ばして辺りが静かになってから、ティアマトはアマロを胸に抱いてあやし続けた。これほどに泣いてもらえるキングゥへの嫉妬すら忘れて、ティアマトはアマロの揺籠に徹した。

 

破滅の釜のように荒れていた混沌がキングゥの死によってすっかり固まってしまった頃にアマロは泣き止んだ。

 

泣きつかれたアマロは眠ってしまった。アマロを膝枕から寝台に移したティアマトは、今度こそ暫しの別れを覚悟した。ティアマトは宮殿の外へ向かった。

 

宮殿の外では純黒の旗が見渡す限りにたなびいていた。軍勢の中から嵐の戦車に乗ったマルドゥークが出てきて「母よ。ティアマトよ。私は決着をつけにきたぞ。」と言った。

 

ティアマトは「それは私も同じ。貴方は子供達の中でも最も優れていたかもしれないけれど、最も愚かな子だったわ。私はアマロを泣かせた貴方に然るべき罰を与えるわ。」と凄んだ。

 

マルドゥークは「もはや、話し合うまでもない!さぁ、その泥からまた魔物を好きなだけ産むといい!!私はもう逃げる気などない!!ティアマトよ!貴女は強大だが、愛しい人の涙で覚悟を決めたのが自分だけだとは思わないことだ!!」と叫ぶと嵐の戦車を駆り、ティアマトめがけて全ての洪水と風をけしかけた。

 

マルドゥークに続いて全てを覆うような魔物と神々の軍勢がティアマトめがけて突撃した。世界を覆う荒波と、嵐と、旋風と、矢の雨と、剣の煌めきとがティアマトを呑み込もうと脈動したのだ。

 

ティアマトは厳かに、その美しくも冷たい瞳を瞑り、そして開いた。

 

ティアマトは「全て私が産んだ。貴方達も、貴方達が今立っている混沌も。全てが私なのに、全てを創り上げたと言うのに、どうして今頃になって私に、私の幸せだけを奪おうとするの。マルドゥークよ、子供達よ、お前達には試練が必要だ。」と言って世界を生み形創った混沌をその身に収束させた。莫大な真っ黒の泥が半球状にマルドゥークの軍勢とティアマトを覆った。

 

天井から崩れるように全てが文字通りに泥に浸ってしまった。洗い流されるようにマルドゥークの軍勢は消えてなくなり、生き残ったのは泥を纏えない空気の神や真空の神、泥に覆われなかった太陽の神や月の神だけだった。彼らは若い神々だった。古い神々の中で唯一生きていたのは、やはり最も勇敢で嵐の戦車に乗っていたマルドゥークだけであった。

 

マルドゥークはティアマトに「あぁ、なんと酷い。ティアマトよ!どうしてご自分の子供達を洗い流してしまわれたのか!!彼らの中には心穏やかな者達もおられたでしょうに!!」と詰問した。

 

ティアマトは答えずに、渾々と湧き出る泥から次々に魔物達や若い半神達を生み出して、生き残った神々に襲い掛からせた。

 

マルドゥークは最早こと此処に至って母を弑することを覚悟した。

ティアマトを倒すだけではいけない、母を殺さなければならないとマルドゥークは覚悟したのだ。

 

嵐の戦車でティアマトの追跡を逃げ切ったマルドゥークは、閉じ切られた宮殿の門を渾身の一撃で数えきれないほど打ち込んだ末に何とか突き破ると、奥へ奥へと向かった。

 

マルドゥークは巨大な宝の箱を見つけた。そして、これをこじ開けた。

 

神々の掃討に気を取られていたティアマトに気づかれるより先に、マルドゥークはアマロを見つけた。

 

マルドゥークは眠るアマロの姿を目にすると「あぁ!!アマロ様!!お会いしとうございました!!どうか、今は私のことをお許しにならなくてもよろしいですから、どうか私と共に居てください!」と感涙しつつも力強く眠ったままのアマロの体を抱えて宮殿を後にした。

 

宮殿の外で暴れるティアマトの前に、アマロを抱えたマルドゥークが現れた。

 

ティアマトは「マルドゥーク!!お前は決して許されないことをした!!最早お前は私の子供ではない!!今すぐに奈落へ落としてやる!!!」と金切り声を上げてマルドゥークの嵐の戦車へと迫った。

 

マルドゥークは嵐の戦車を巧みに操作してティアマトの懐に入ると、「ティアマトよ!貴女がそう言ったのだ!!ならば私も言わねばなるまい!!最早私は貴女の子ではない!!貴女からの愛は求めないとも!!だが、アマロ様は私が貰っていくぞ!!安心して眠るがいい!!」と吼えながら嵐と洪水をありったけ、ティアマトが纏っていた泥へとぶつけた。

 

マルドゥークの嵐と洪水は産みの主人へと牙を剥き、その身の消滅と引き換えにティアマトの力の根源たる混沌の泥を一瞬の間完全に吹き飛ばしてしまった。

 

「あぁ!アマロ!!私の愛しいアマロ!!!!」とティアマトが叫んだ。

 

ティアマトの叫びと同時に、マルドゥークの嵐の戦車がティアマトの体を二つに裂いた。

 

「アマロ…運命の人。どうか私を忘れないで。」とティアマトが言い遺すと、ティアマトの体は上半身が青空に、下半身が果てのない海と実りある豊かな大地となった。

 

マルドゥークの腕の中で目覚めたアマロはマルドゥークとの再会を喜んだが、ティアマトとの別れを知り滂沱の涙を流した。

 

ティアマトの体で唯一変わることがなかった禍々しい角羊はマルドゥークの命令で欠片と残さず拾い集められ、アマロへと献上された。アマロはこの美しい角羊をマルドゥークに頼んで神々一番の鍛治上手と細工上手の技術で黒く美しい首飾りに生まれ変わらせた。

 

以後、アマロの首元にはいついかなる時も超常の黒い首飾りが輝いていた。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、マルドゥークの勝利で終わった神々の戦争は、あまりにも多くの犠牲を払うことになった。

 

勝ったマルドゥークは生き残った全ての神々を従えて、戦から免れた神々が育てていた泥人形と、食い意地の張った神々のご馳走をつまみ食いしてしまった者達の子孫が生きる世界へと降り立った。

 

マルドゥークは此処にバビロニアという国を建て、自ら王を名乗った。

 

泥人形はマルドゥークの命令で全て柔らかい皮が与えられ、初めて皮で身を包んだ泥人形達の子孫と共に暮らせるようにした。

 

マルドゥークは王として都を建てた。そして、泥人形だった者たちは人間と呼ばれるようになり、神々が歳を重ねるうちに、彼らはすぐさま優れた文明と文化を築くようになった。

 

王の顧問官として宰相を越える最高位を与えられていたアマロは、片時も最愛の子と妻達のことを忘れることなく、しかし卑屈になることも絶望することもなく愛と強かさを携えて賢く健やかに暮らした。

 

マルドゥークの治世が最高のものとなった時、遂に神秘が目に見えて薄れてきた。神々は戦き、すぐさま天上へと戻るか、己の神殿に引き篭もるかどちらかした。

 

マルドゥークだけはアマロの側を死んでも離れたくはないと、自分の肉体が痩せ衰えていく恐怖に負けることなく王座から離れなかった。

 

それから更に月日が経ったある日、マルドゥークはアマロに「アマロ様は、私を恨んでおいでですか。」と問いかけた。

 

玉座の隣に、玉座よりは小さく、硬い玉座よりもうんと座り心地の良さそうな椅子に腰を沈めていたアマロは穏やかな微笑を浮かべて「いいえ。全く、滅相もありませんよ。どうして自分を愛してくれる人を、たとえ自分の愛する人を奪ったからと言って恨むことができましょうか。もしも恨むのならば、私は自分自身を恨まずにどうして貴方を恨まなければならないのでしょう。」とキッパリと答えたのだった。

 

マルドゥークは「やはり貴方と出会えてよかった。私は貴方の隣にいられるなら、神々の王としてではなく、人間の王として衰えて死んだとしても悔いはない。いや、貴方の隣であればこれ以上幸せなことはない。」と感嘆して涙を流しながら言った。

 

マルドゥークはそれからも良く民を治めた。人間の文明はいよいよ素晴らしい発展を見せ、日々の食事を奪われる恐怖に怯えずに食べられるほどに豊かになっていた。そして、そのことは神々の神秘に頼らずとも彼らが幸せに生きていくことができることを証明していた。

 

いよいよ、最後のひと吹きで消えようとしている神秘の灯火。

 

祭壇を兼ねた王の私室で、硬い石の寝台に体を横たえたマルドゥークはゆっくりと味わうように一息一息を吐き出しながら、傍で手を握るアマロへと顔を向けた。

 

胡乱げな瞳だが、そこには間違いなくアマロの顔が写り込んでいて、マルドゥークが最期のその時まで彼に夢中であることを示していた。肉体は細く痩せ衰えて、髪や髭は真っ白に色が抜け、弱々しい人間の末期の姿そのままであった。覇気と神威だけが厳としてその双瞳から発せられ、いつしかそれも霧散するような弱々しさに変わっていった。

 

マルドゥークは嗄れた声で「あぁ、貴方は、アマロ様は私の最期の時まで、こうして傍にいて下さるのですね。私は幸せものだ。バビロニアはこれから更に豊かになっていくことでしょう…そしていつしか私のように衰えて、そしてまた新しい王が立つのでしょう。」と言った。

 

手を握るアマロは確かに少しも歳をとっていない。何時ぞや見た時と同じくらいに、いや、その時以上に美しい黒曜石の後光を纏っているように思えてならなかった。

 

マルドゥークはアマロと合わせた目を細めながら「アマロ様、私は幸せでした。この年になって、人間として生きてきて思いました。母は、私を愛してくれていたんだと思います…たまたま同じ方を愛してしまったが故に、不幸な争いごとになりましたが…あれも、よく考えれば私が幼かったために意地を張ったのが原因なのかもしれません…」と懐かしむように、ほんのり懺悔を滲ませて言った。

 

マルドゥークはここで一つ、二つ咳き込んだ。周囲に侍っていた医官や侍女が寄り添ったが、大事ないと言い張り、すぐに彼らに部屋の外に出るように言った。

 

二人になったところでアマロの手を両手で握ったマルドゥークは「此処までくるのに随分と時間がかかりました…長かったな…いや、貴方と過ごせた時間はいっそ短いくらいでした…アマロ様はお気持ちが離れるまで、どうか私の国にいらしてください…すべて、整えるようにと…私の血の者達に堅く遺言しております……さようなら…愛しき人よ…」と言い遺して間も無く息を引き取った。

 

偉大な王が死に、それからと言うもの代々の王族は国を挙げて顧問官アマロを厚遇した。厚遇すればするほど、バビロニアは不思議な力で凡ゆる災厄からその平穏を守ることができた。旱魃や洪水の祈願のためにアマロのための神殿が建てられ、最も良質の品々は王よりも先にアマロの神殿に貢がれた。

 

 

 

第三の目伝えて曰く、アマロの加護は厚遇を打ち切り酒食に耽った愚王の誕生まで続き、その間にバビロニアは圧倒的隆盛を極めた。

 

愚王により厚遇を打ち切られたアマロは一度、バビロニアの地を後にした。

 

間も無く最初のバビロニアは呆気なく滅び去り、その跡に新たな王が立った。

 

新たな王は手にした土地を懸命に治めたが水利が弱く、民は間も無く飢えた。

 

幾人もの王が死に都が滅んだ。そして遂に新たな王が立った。

 

王ルガルバンダは古代王朝の祖マルドゥークの遺言に従い、黒曜石の希望を探すよう国中に命令を発した。

 

ルガルバンダは王命が中々果たされないことに悩み、ある年、ある神殿で神々へと希望を祈願した。

 

神々が言って曰く、「汝が子は力ある御子なり。強く、眩い輝きを纏って育つことだろう。」と。王は喜び、ひと月と経たずに子供が生まれた。

 

ルガルバンダの王命から七年のある日、彼の息子が狩で森に入った。

 

鬱蒼とした森の中で彼は眩い黒曜石の希望と出会った。

 

王は息子に命じて黒曜石の希望を国に迎え入れた。

 

新たなバビロニア王国は忽ち豊かになり、路上でパンを乞う哀れな老人の姿は見ることがなくなった。

 

迎えられた黒曜石の希望はアマロと名乗った。アマロは王から息子の教育を任せられた。王の息子は賢いが大人達の言うことを聞かないこと暴れん坊として、その名が高らかに広まっていた。

 

王の息子はアマロにどんな時もついて回った。食事の時も読書の時も、文字を書く時も、時にはアマロに用を足すからついてきてくれと言うほど、片時も彼から離れようとしなかった。余談ではあるが、アマロの体は人間のそれと同じであったが排便の必要がなかった。

 

しかし、アマロが王の息子の教育係になると、息子はすっかり人が変わり、アマロが見たいと言った武芸の技や、読み聞かせてほしいと言った書物の内容を、乾いてひび割れた大地が水を飲むように瞬く間に自らのものとしてしまった。

 

王にせがまれると王の息子はそこそこ素晴らしい武技を披露したが、アマロが頼むと王の息子は喜んで最高の技芸を披露した。それでもルガルバンダはアマロに感謝して宝物を捧げ、息子の成長を心から喜んだ。

 

ルガルバンダ王が老い衰え死んだ。王の妻であり、王の息子の母である女神リマトニンスンは神殿に籠った。王の息子が王として立った。

 

ルガルバンダ王の息子の名をギルガメシュと言う。

 

 

 

「黒曜石の希望の章」より

 

 

 

ーーーーー

 

 

冬木市にある古寺の境内に落ちていたと言い伝えられるこの複写文書の解読者が何者なのか判明していないが、解読された時期は約二百年ほど前とされている。当初は真贋確かなからぬ存在として、しかし捨てるに惜しいものであったからロンドンへと送られ、大英博物館での研究が進められていた。第一次聖杯戦争後に古代都市ウルクの遺跡近辺で発掘された石版と、その内容が酷似していることから取り沙汰された。

 

解読者の名前、解読した者の素性などは全くと言って判明しなかったが、後に解読者の直筆と思われる書簡が複数発見される。

 

発見元は英国のロンドン。ランドマークの時計塔の奥に秘物として扱われていた書類の中、偶然にも上記の文書を研究していた者の手で発見された。

 

[驚くべきことにこのような存在は他の如何なる並行世界にも存在していない。改めるべく全力を尽くしたが、ひと匙の改竄も、回帰も、干渉をも許されなかったことは初めてだ。]

 

[何人の干渉を受け付けず、何人の存在も興隆衰亡も妨げない。ただ惑わされれば才能や権力の有無に関係なく飲み込まれてしまう。そのことが当人達にとってこの上ない幸福に違いないのだから厄介だ。]

 

[磨かれずとも原石にして彼は根源に至っている。道理で神秘に愛されるわけだ。魔法使い達が彼の謎に一喜一憂することも当然だ。確かにこれは夢中で研究してしまう。月に噛まれたことに心から感謝したのも初めてだ。如何なる宝石にも勝ると言う表現は間違いがない、彼は霊長には早すぎた賢者の石だ。宵のアマロは実在する。]

 

解読者のメモは内容が不鮮明かつ抽象的で理解不能に尽きており、学術的な価値が無に等しいことが判明した。このことは殆どの研究者の期待が裏切られる結果となったが、一方で時計塔の管理者集団は頑なに公への開示を拒み、内容を知った者達には部外秘として扱うことを誓わせる誓約書を書かせる徹底ぶりであった。

 

アマロの謎はまた一つ深まった。

 

 



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05黄金色の希望

感想ダンケなっす。読んでニヤニヤしてます。


05黄金色の希望

 

 

思うに「ギルガメシュ叙事詩」とは、永遠の名作だろう。

 

その主人公ギルガメシュが人間である限り、彼を物語るこの叙事詩は最高の名作の座にあり続けるだろう。

 

古代の人々もまた今の人々と物語の好みに大きな違いはないことがよくわかる。

 

ギルガメシュは誰よりも逞しく、誰よりも美しく、誰よりも賢かったかもしれないが、決して完璧ではなかった。

 

完璧な人を好む人がいたとして、その人は好むだけであって共感ゆえの好みではないだろう。

 

人々はいつの時代も共感を求める。自身がより多くの人々と共感を共にできるものに心突き動かされてしまうのだ。

 

ギルガメシュは王としてだけでなく、神としてだけでなく、何より人間として鮮烈に描かれている。よく笑い、よく泣き、よく食べて、よく飲み、よく楽しみ、よく愛したから、彼は今もなお愛され続けている。

 

難しさはそこにない、彼は誰よりも人間臭かったのである。

 

しかし、昨今の研究により偉大なギルガメシュの伝説にも他の伝説同様に特異点が存在していることが明らかとなった。以前紹介した古石板の複写文書にも描かれていた通り、なんでも黒曜石の希望を継承する一続きの系譜を、ギルガメシュもまた受け継いでいたのである。

 

 

[黄金の詩〜愛の章〜]より

 

 

 

ルガルバンダ王は偉大なウルクの君主であった。彼は女神リマトニンスンを妻とし、太陽神シャマシュやその他の偉大なる神々によく仕えた。

 

彼が治めるウルクには王宮を越える巨大な神殿があった。その神殿には国唯一の大神官として黒曜石の希望、アマロが祭られていた。

 

 

 

 

古のバビロニア国の王マルドゥークはアマロへの厚遇により、末永い国家の繁栄を許された。賢いマルドゥークは彼の血を引く者達に、この神秘に愛された大切な存在を、国を挙げて厚遇するように、と言い遺して神の元へと昇天した。

 

偉大な、また賢い歴代のバビロニア王達はこの大切な言葉を守り続け、その言葉通りに黒曜石の希望に世の中で最も素晴らしいものを貢ぎ上げた。

 

ある時、時の王は最も上質の小麦で焼かれたパン一千斤と、最も芳しい葡萄から作られた葡萄酒百樽をアマロに捧げた。

 

アマロは言って曰く、「ありがとう。いや、すごい嬉しいんだけどさ、でもこんなに一度にもらっても食べきれないや…その、皆んなにも、それこそ風邪とか引いてる人に分けてあげて。」アマロの慈悲に全バビロニアが涙した。

 

アマロの言葉に従い病に打ちひしがれる民に分けたところ、腰が曲がっている者達は若く逞しい戦士の勇猛も霞むほどに筋肉が盛り上がり着ていた服は全て弾けて全裸になると、戦士が三人がかりでも持ち上げられない岩を叩き割り、これで新しい宮殿を建ててしまった。この者は国一番の大工の棟梁になった。

 

肺に病を持ち、立ち上がることもできないでいた者に葡萄酒を一杯与えると、服が弾け飛び、忽ち立ち上がり雄大な川の一際流れの早いところへ迷いなく飛び込み、息継ぎをすることもなく魚も流される流れに逆らって、雄大なその川の始まりから終わりまでを泳ぎきった。口には見たこともない大きな魚を咥えていて、この魚はアマロに献上され、アマロは王に譲り渡した。魚を食べた王は魚の言葉がわかるようになり、生涯溺れることがなかった。魚を捧げた者は国一番の漁師になった。

 

他にも数限りない弱々しい民が活力漲る健やかな姿に変態した。生まれる子供は前の年の倍に増え、実りの月に獲れた小麦と豆は前の年の四倍に膨れ上がった。

 

またある時、バビロニアの街の荒くれの男達は協力して、素手で、縄すら使わずに筋肉で、獰猛な肉食の獣を逞しい腕の筋肉で、全て筋肉で絞め殺すと、これをアマロへと貢物として捧げた。

 

アマロは喜び、「これを素手で!?すごいね君たち……これを素手で!?」と男達を誉め称えた。祝福された男達の筋肉は盛り上がり服は下着に至るまで弾け飛んだ。全裸になったこの者達は皆国一番の戦士になった。捧げられた獅子の革は鞣されてアマロの毛布に加工された。

 

このように数々の祝福をバビロニアにもたらした黒曜石の希望たるアマロの存在は、彼の平穏と喜びは、国家の繁栄の最大の根拠として世界に認められたのだ。

 

 

 

 

古の語手曰く、バビロニア王国は繁栄の絶頂を極めたが、ある時遂に愚かな王が生まれ、アマロを追放し、その財を恣にして清くない酒食に耽った。

 

愚王は強大な敵の進行を前になす術なく朽ち果てた。人々は王のことを懐かしむことが終ぞなかった。

 

愚かな王が再び現れるまで平穏が訪れたが、アマロは現れなかった。

 

愚王が再び現れ、国が滅び、文明は衰退し、人々の暮らし向きは貧しくなり、飢えや心の貧しさにつけいられて悲しみがバビロニアの末裔達の悉くに降りかかった。

 

 

 

 

ある時、新たな王朝がウルクに開かれた。

 

神々は喜んだが、そこにアマロがいないことに気持ちを落としてしまった。神々は不満げに頭を掻き、そのフケが大地を覆い隠してしまったがために賢き王が何人立ち上がれど、ウルクの国は豊作の喜びを共にすることができなかった。

 

そして遂に偉大な王が立った。王の名はルガルバンダといい、彼は古の王の、神々の王であり人間の王であるマルドゥークの遺言を発掘し、これに倣うことを家臣達に命令した。

 

王が命じて曰く、「黒き希望を、豊穣の女神イナンナが次の夫を見つけるより先に、私の子供が生まれるよりも先に見つけ出し、黒曜石の希望を、このウルクにお迎えせよ。」と。

 

また、王は続けて「さすれば、我がウルクは以前の如何なる王朝よりも豊かな、太陽よりも眩い黄金に満ち溢れた、民も、その家畜すら飢えることのない偉大な国に生まれ変わるであろう。」とも言った。

 

家臣達は大いに喜び勇み、その武勇と、その賢明と、古の王の言葉を忘れることなく今に伝えた偉大なるルガルバンダ王に敬意を表して言って曰く、「我々は必ずや、かの豊穣の女神イナンナ様が次の夫君を見つけるよりも早く、偉大なる我らがルガルバンダ王様の御世継ぎがお生まれになるよりも早く、伝説に名高い黒曜石の希望を我がウルクへとお迎えして見せましょうぞ。」と。

 

王はこの忠義の者達の存在に喜び、「お前達には太陽神シャマシュの加護がある。お前達が眠らぬ間、天から太陽が隠れることは決してない。お前達には知恵の神エンキの加護がある。お前達が惑った時、決して諦めなければ、必ずや素晴らしい閃きが与えられるであろう。」と家臣達に賞賛と祝福を贈り、同時に「ただし、決して、間違っても眠ることはならぬぞ、眠れば昼にも夜にもなく冷たい風が大地を覆うだろう。惑った時、もしも諦めれば、そこには決して解けぬ謎解きが待ち受けるであろう。決して神々の期待を裏切るでないぞ。」と警告した。

 

家臣達は旅立つ際に、シャマシュ神とエンキ神に割れた杯で葡萄酒を供え、硬く焼いたパンを一切れ、旅の食糧の中から取り出して、これを半分に分け、それぞれの口に放り込み、残りの半分を神の祭壇に供えた。

 

 

 

 

十人が旅立ち、永い寒冷と、過ちを顧みる暇もない飢えが人々を襲った。

 

王は悲しみ、「肉体がどれだけ強くても眠らねばならない。どれだけ賢く心が強くても、諦めずにいることは難しい。おお、我が忠臣達よ、お前達は英雄になること叶わなかったのか。」と嘆いた。

 

王の悲しみが癒える頃、すっかり痩せ細り、荒廃したウルクはしかし、まだそこに確かに存在していた。

 

王は神々に祈った。「黒曜石の希望の方は何処へおられるのでしょうか。偉大なる、慈悲深き神々よ、どうか我々を導いて下さい。私は一日として、あなた方が好まれる葡萄酒の杯を干上がらせたことがありません。私は一度としてあなた方が口にされるパンに口をつけたことはありません。今、ウルクは飢えております。希望に飢えております。私もこの通り、葡萄酒も、焼いたばかりのパンすらも口にできないようになってしまいました。神々よ、私たちにどうか希望を。」

 

王の祈り通じ、神々は祭壇を介して伝えた。「おぉ、志し高い、賢きルガルバンダよ。お前に希望を与えよう。お前の子がいずれ生まれる。お前の子は、我々と、神々とお前たち人間を繋ぐ楔となるはずだ、また、再びマルドゥーク王や歴代の偉大な王たちが、地上の神秘を糧に、人間を豊かにしてくれるだろう。お前の子には強い力があるのだ、お前の子には使命があるのだ。」

 

 

 

 

神々の言葉に王は大いに喜び、神々は王ルガルバンダに女神リマトニンスンを出会わせた。

 

王ルガルバンダは一目でこの女神に心奪われ、やがてリマトニンスンは豊穣の女神イナンナが新しい夫を見つけるより先に子供を産んだ。

 

子供が生まれ、神々はこの力強い、黄金色の希望に名前をつけた。

 

神々の声を聞いた者が伝えて曰く、「おぉ!偉大な祖先神よ!賢明な祖先王よ!この者はあなた方の素晴らしい後継者に相応しい!!地上に再び豊かさを広め、神々を微笑ませ、人間と我らを繋ぎ止める楔となれ!!祖先に誉あるお前にはギルガメシュと名を与えよう!!この者に賢き神の瞳を与えよ!この者に猛き神の勇気を与えよ!この者に美しき神の美を与えよ!この者に偉大なる者の力を与えよ!」

 

神々の祝福を受けて美しい子供が生まれた。

 

子供の名前はギルガメシュ。ギルガメシュの誕生はウルクの民に希望を与えた。民は「おぉ!偉大な黄金色の希望の誕生だ!!」と口々に王と神と若きギルガメシュを讃えて歌った。

 

また、神々はギルガメシュの誕生と共に、彼に天上で最も価値のあるものを一つ授けた。

 

神々は「この古の宝具を用いて、天と地を、神と人間とを繋ぎ止めよ。この宝を持つものは、必ずや黒曜石の希望と出会うことができるだろう。」と言い、ギルガメシュは生まれてすぐ、煌々と輝く一辺の美しい鎖を与えられた。ギルガメシュは物心がつくとすぐに、この素晴らしい鎖をより長く、より力強く操り伸ばすことが出来るようになった。

 

 

 

 

ギルガメシュは歴代のどんな王より美しく賢く育った。その賢さは賢王ルガルバンダを超えていた。ギルガメシュは5つの時にウルクの端から端までに賢いものがいないかと聞いて周り、全くの他人が5人続けて、口を揃えて賢いと言った古老と幾月もの時間をかけて問答を行った。

 

ギルガメシュはどのような質問にも答えて見せた。古老たちは驚きのあまり昇天してしまった。

 

ギルガメシュは武芸も素晴らしかった。6才の時に指南の戦士を剣も無しに倒してしまった。次に指南役となった将軍は王の前で模擬試合を行った。将軍は銅で出来た素晴らしい剣を選び、ギルガメシュは枯れ木の枝を選んだ。王も将軍も、大臣たちも司祭たちも皆驚き、ギルガメシュを除いた全員が、ギルガメシュのために薬と盾を用意した。

 

ギルガメシュは薬を放り捨て、盾を将軍に与えた。王は顔を顰めた。模擬試合が始まり、ギルガメシュは軽やかに舞うと将軍の首に枝の鋭い先を突きつけた。王は喜び、ギルガメシュに金の短剣を与えた。将軍は恥入り自害してしまった。ギルガメシュは将軍の妻と子に、褒美に貰った短剣を譲った。

 

人々はこれを大いに誉めたが、王と王の心を深く知る廷臣たちは将軍の死とギルガメシュの奔放で、人を見下した影に気づいて心を痛めた。

 

ギルガメシュは賢いが傲慢で、勇猛だが奥ゆかしさが足りず、自らを褒め称える民を笑顔で見下し、使命を忘れて横柄に振る舞う自らを思いやる王や臣を見下していた。

 

 

 

 

ギルガメシュが7つの時、彼は深い森へと入り、そこで運命と出会った。

 

ギルガメシュはある時、王や家臣達に許可を貰うことなく神聖な森へと狩りに出かけた。

 

このことはすぐさま王ルガルバンダはもちろんのこと、口さがない民や心の余裕のない廷臣達の元へさえ届けられた。そのもの達は口を揃えて「おぉ、ギルガメシュ、祖先にも勝る英雄の器よ、貴方はどうしてそう、奥ゆかしさが足りないのだ。父上のルガルバンダ様は王として誰より賢く、誰より奥ゆかしさを重んじられるのに。」と嘆いては、日がな一日酒浸りになってしまった。

 

王はその日一日を定休日として、自らは早くに祭殿へと祈りを捧げた。

ルガルバンダは父親として、神の僕として、神と人間を繋ぐであろうギルガメシュのことを信じていた。

 

 

 

 

ギルガメシュが鬱蒼とした森を分入ることしばらく。太陽神シャマシュの加護が最も美しく、天高く昇り詰めた時のことであった。

 

ギルガメシュはその日、中々目的の獲物を見つけることができず、悔しがり、それゆえ、常ならば歩くことのない獣の中でも特に権勢の大きなもの達が通り、人の恐れを誘うような臭いがする道を探した。

 

森は一層深く、薄暗くなり、まるで太陽神シャマシュがおやすみになったかのように辺りは肌寒くなった。

 

更に進むと、今度はやや光が差し、程よく暖かくなり、ギルガメシュは穏やかに感じられ、また太陽神シャマシュが慈悲深く輝いていることに安堵を覚えた。

 

不思議な森を、その豪胆さに恃んで更に進んだギルガメシュは、腹拵えに自ら焼いてきたパンを二つ、それぞれ半分に割って食べた。

 

ギルガメシュはパンを食べ終えると、再び勇気ある旅を続けることにした。鬱蒼と茂る草木はギルガメシュの動きを邪魔したので、彼は嵩張る狩の道具を、弓と矢を木に立てかけて、美しい神の宝具の鎖だけを頼りに進むことにした。

 

 

 

 

ギルガメシュは更に、更に進んだ。そこは、もはやウルクにいる誰もが至ったことのない程に森の奥深くだった。

 

見たこともない鳥や獣が悠々としていて、幼くも賢いギルガメシュに新鮮な喜びを与えた。世界の広さをギルガメシュは知り、この穏やかな、あるいは凶暴なもの達へ敬意を払った。

 

ギルガメシュは喉が渇いていた。焼き固められたパンは、彼の口の中から凡ゆる潤いを奪い、噛むごとに出る唾液はパンを食べ終えた後、あまり心地よいものではない感触をギルガメシュの口の中に残していた。

 

パンを葡萄酒も無しに食べたギルガメシュは困り果てて言った、「口の中がパサパサする。」と。

 

森深くに素晴らしい小川が流れることを、知恵の神エンキから授かった千里眼で見通したギルガメシュは、大いに喜び、喉の渇きを癒そうと、駆け足で向かった。

 

 

 

 

小川にたどり着いたギルガメシュは、水の神でもあるエンキに感謝の祈りを捧げると、懐からパンを取り出して半分に割り、片方の一切れを盛り土の上に供えた。

 

手を小川に浸し、数度、掬い上げては浸しを繰り返し、手を清めてから、直接この川に口をつけて、その、清涼な味わいを喉で知った。

 

ギルガメシュは笑顔になり「ボクが知る中で、この小川の水よりも美味しいものは知らない。どんな葡萄酒よりも、価値があるに違いない。」と言った。

 

たらふく水を飲み、喉の渇きを癒したギルガメシュはふと辺りを見渡した。辺りは太く立派な幹を持つ大樹が何柱となく立っている、とても雄大な力を感じる場所であった。

 

奥に向かおうと、口を拭い立ち上がり、膝の泥を払ったギルガメシュは、すぐ近くの木に腰掛ける人の気配を見つけた。

 

 

 

 

ギルガメシュは不思議に思いこの気配を探し当てた。そこにはこの世に在ることが決して信じられない、完璧という言葉では謙遜がすぎる、常人にはその目鼻立ちすら知ることのできないほど、美の概念を後光として処構わず放出して憚らない、ただただ美しい存在が木にもたれて眠っていた。

 

ギルガメシュは少しの間立ち尽くしていたが、懐から取り出した、複製でない、神より直接授けられた一欠片の鎖の宝具を取り出し、その鎖身が煌々と輝いていることに気がついて、我を引き寄せた。

 

ギルガメシュは、たったひと目見ただけで、この美しい、ただ美しい黒曜石の後光に包まれた存在に、心を奪われ他の如何なる美しいものや価値あるものにも揺るがないほど夢中になり、肉体の持つすべての素晴らしい権能をこの存在のためだけに使いたくて仕方がなくなってしまった。

 

そして、ギルガメシュは生まれた時のことを思い出し、初めて自分の使命と、自分が鎖を与えられたことの意味を自覚した。そして、相手が黒曜石の希望で在ることすらも悟った。

 

ギルガメシュは同時に、どうすれば自分が、出来うる限り長く、何人の、例え神であっても、からの妨害すら受け付けずに、この美しい方と共に時間を過ごせるのかについて考えた。

 

 

 



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06黄金色の出会い

感想ダンケなっす!


06黄金色の出会い

 

 

 

 

知恵の神エンキや神々の王エンリルから授けられた全ての力を注ぎ、ギルガメシュは考えた。そして、結論が出すか早いか、彼は言葉をかける余裕もなく、その美しい貌をぐっすりと眠る黒曜石の希望の顔に寄せて、この唇にむしゃぶりついた。

 

眠る黒曜石の希望の口の中に舌で分け入り、口の中の、比喩ではなくあらゆる果実よりも甘く、上等な香辛料を使った肉の料理よりも刺激的で、良質な葡萄酒よりも中毒性を持ち、後味爽やかな唾液を、地上の美しい者にのみ許された、唯一の、混じり気のない幸福の結晶を、己の舌で絡め取り、一度口を離した。

 

ギルガメシュはその幼い、戦士にも聖女にも傾き得る美貌を、蠱惑的に歪めて、甘美で聖なる蜜を絡めた舌を収めた口で、この素晴らしく美しい御仁の、これまた地上のどんなものより美しい形と香りの耳を、一思いに食んだ。

 

口の中で、ギルガメシュは、その蜜を絡めた舌を、黒曜石の希望の耳の裏へ回し、これに舌先の蜜を塗った。

 

ギルガメシュは一度、この絶対的な吸引力の権化から離れる覚悟を決めた。そして、離れた。

 

ギルガメシュは荒々しく息を吐き、胸を押さえて、その場で蹲り、すぐさま恵まれた根性で立ち上がり、鎖を天に向けて解き放つと、「ボクは神々に誓う!この美しい黒曜石のお方がボクから離れるのであれば、その時は神々がウルクを滅ぼすことを許そう!だが、この美しいお方がボクのそばにいる限りは、何人たりともウルクを滅ぼすことはできない!」と宣誓した。

 

天の神々の王エンリルはこれを聞き届け、「よくわかった。お前の言う通りにしよう。」と言い、誓約の証に、気象の神アダドに頼んでウルクに恵みの雨を降らせた。

 

 

 

 

ギルガメシュは次に、地下深くへと鎖を差し込み、こう言って曰く「冥界の偉大なる覇者よ!ネルガルよ!!ボクは貴方に誓いを立てる用意がある!!」と言った。

 

すぐに返事は来なかったが、代わりに美しい女性の声で、「冥界の外のことは私にはわからないのだわ。だけれど、どうしてこんなにも芳しい香りがするのかしら。私に、嘘をつかないで教えてくれれば、夫と合わせてあげてもいいのだわ。」と聞こえた。

 

ギルガメシュは正直に言おうか迷い、美しい声を持つものならば、この黒曜石の希望の御方のかんばせに見えることが出来るだろうと、不安になり言って曰く「いいや、それは貴女の勘違いですよ。ここには何もありませんよ。貴女の居られるその冥界にあるものよりも、尚素晴らしいものなど、ここには鷹の鋭い爪先より細くともありませんよ。」と嘘をついた。

 

ギルガメシュはこの世で、いや、例え凡ゆる伝説や神話に登場する美しいもの全てを合わせても、足元にも及ばない美しい唯一のものを目の前にしていると、そう確信していたが、自分以外の誰かに見初められたり、或いは自分以外をその目覚めに際して瞳に映して欲しくないと、幼心に、一心に想い募って、冥界の孤独な女主人に、そう嘘を返した。

 

 

 

 

女主人は「そぅ…それは、本当に残念なことだわ。もしも、貴方の言葉が嘘でないならば、私は貴方が冥界に渡って来た時に、貴方の大切なものを、最も大切なものを、イナンナの爪研ぎに残された爪の粉ほども、取り上げないであげると約束するわ。でも、もしもそうでないなら、貴方は私に、その、嘘をついていたとして、私との約束よりも大切にしたものを、私が全て貰うわ。いいわね。」と嬉しそうに、楽しそうに、だが偏屈に言った。

 

ギルガメシュは「ボクは、決してウソなんかついたりしませんよ。」と言い張った。

 

女主人は「わかったわ。なら好きになさい。」と言って、代わりに彼女の夫であり冥界の王であるネルガルが現れて言った。「おぉ、神と人の子よ、まだ生を湛えし者よ、冥界の王たる私に、何の用があるのかな。」

 

ギルガメシュは「一つ、とても重大な誓いを立てたく思います。」と言った。

 

ネルガルは「誓い、それはどのようなものなのか。生きているお前が、どうして死んだもの達の世界の王に誓いを立てるのか…。」と不思議そうな声で聞いた。

 

ギルガメシュは「どうか、どうか聞いていただきたいのです。このようなお願いは、偉大で、寛大な、冥界の主人であるネルガル様にしかお話できませんから。」と言い、ネルガルは「そこまで言うならば、仕方あるまい。何でも、然るべき誓いを、私の前で立てるが良い。」と言った。

 

ギルガメシュはすかさず「ボクが冥界の女主人様を王とお呼びしませんでしたら彼の方に大層嫌われておりますから、どうか女主人様には内密にお願いします。」と願った。

 

ネルガルは「冥界の主人であり王であるのは私だけである、だから当然だ。さぁ、誓いを立てるが良い。」と上機嫌に答えた。

 

 

 

 

ギルガメシュは鎖を持っていない手を胸に当てて言って曰く、「ネルガルよ、冥界の王よ、どうかボクとの誓いを守ってください。たとえこの世に最も美しいものが在るとして、そのものが自分の耳の裏を嘗めることが出来ない限りは、誰が欲しがったとしても之を人間から奪わないと。」

 

続けてギルガメシュは言って曰く、「たとえ冥界の女主人が欲しがったとしても、冥界の王はこの美しい存在を女主人に渡さないと、もし、天界の神々が欲しがったとしても、その時は冥界の王がその美しいものを冥界に一時だけ匿い、神々が退散すれば、必ず人間の元へと、地上へ返してくれると。」

 

ネルガルは「もしも、この世に自身の耳の裏を嘗めることができるものが本当にいないならば、その限りは私はその約束を守ろう。たとえ、私以外のものが冥界の王となっても、これは冥界が結んだ約束であるから、お前が言ったことが守られる限りは、その通りにしてやろう。」と笑いながら言った。

 

ギルガメシュは安心し、ネルガルは誓いを聞き届けて帰っていった。

鎖を引き抜いたギルガメシュは、木にもたれて眠る、須臾の間にまた一際、すっかり美しく、愛おしくなった人に初めて声をかけた。

 

 

 

 

ギルガメシュは赤い瞳に無垢を宿して、色恋を知らぬ、全くの白くて汚れのない幼子の快活さを音に込め「お兄さん!こんなところで眠るとお風邪を召しますよ?」と声をかけた。

 

黒曜石の愛し人は瞳をゆっくりと開けると、その美しい、後光が眩しいあまり常人には何色とも測れない、才能ある美しいもの達にのみ見ることが、知ることが許された二つの瞳に、ギルガメシュを認めた。

 

ギルガメシュを認めた黒曜石の希望は「おや、可愛らしいお客さんだね。心配してくれてありがとう。私は少し前からここで過ごしているのだけれど、人間にあったのは久しぶりのことだよ。」と言った。

 

ギルガメシュはニコニコと、純真を全面に出して、「不思議なお兄さん。ボクはギルガメシュと申します。少し離れたウルクからこの森に、遊びにお邪魔しました。よければお名前を教えていただけませんか。」と上目遣いで言った。

 

 

 

 

黒曜石の希望は人好きする笑顔で、「久しぶりに名前を聞かれたよ。嬉しいものだね、人とお話しするのは。君は、ギルガメシュ君と言うのかカッコいい名前だね。申し遅れました、私はアマロ。アマロ・カジャタムと申します。どこから来たのか…については少し説明しづらいかな…バビロニアに住んでいたんだけれど、その前はとってもとっても遠くにいたとしか私もわからないからね。」と快く答えた。

 

ギルガメシュは「すごいです!そんな遠くからいらしたんですね…もしよければ、何かのご縁ですから、ボクの住むウルクに一緒に来てくれませんか。ボクがウルクをご案内しますよ。」と満面の笑みを浮かべて、更に両手を胸の前で握る、懇願するような可愛らしい手振りまでつけて之を言った。

 

アマロは、大層寂しがりやであるようで、ギルガメシュとの会話に楽しみを見出して、この可愛らしいギルガメシュからの誘いに、「う〜ん。嬉しいお誘いだけど…迷惑にならないかな。」と前向きな気持ちを隠せずに答えた。

 

ギルガメシュは目を、獰猛な鷲のように瞬き光らせると、すかさず幼子の柔和な微笑で、しかし色恋の良識ある人が見れば熟れた色気が溢れた、興奮を隠し切れない面持ちで、背丈が頭二つ分ほど違うアマロに、アマロが木にもたれていることを利用して、飛び込むようにしがみついた。

 

 

 

 

アマロに抱きついて、その芳しさに痺れを覚えながらギルガメシュは、「是非!!皆んな必ずアマロさんとお会いできるのを楽しみにしてます!!ですから、是非、一緒にウルクへ行きましょう!迷うことがないように、ボクが手を固く繋いでひいて差し上げますから!」と叫ぶように言った

 

つい先ほどまで眠っていたアマロはしかし、眠たそうであったし、実際、まだまだ彼は眠たかった。

 

アマロは「うん。そうしようね。でも、私はまだ少し眠くてね…そう急ぐ必要もないのなら、私と一緒にお昼寝でもしようよ。」とギルガメシュに返した。

 

アマロはそう言うと外套がわりに羽織っていた、何時ぞやに貰った獅子の革を鞣した、上質の毛布を捲り、自身の胸元に頭を擦り付けて離れない、愛らしいが鼻息の荒い子供ギルガメシュごと、自分の身を包むと、木にもたれ直してまた目を瞑ってしまった。

 

ギルガメシュは気を失った。

 

 

 

 

ギルガメシュが目を覚ますと、空は火のような赤い色に変わっていた。

ギルガメシュは、毛布に包まれているのが自分だけだと気づくと、すぐにアマロを探した。

 

アマロは「おや、目が覚めたかな。かなり疲れていたんだね、ゆっくり休めたかな。ところで、ギル君はお腹空いてたりする。」と、何処からか獲ってきた果実や、豆と麦の汁物が煮込まれた、使い古した青銅の鍋を、木の大きな匙でかき混ぜながら、目をパチパチとさせたギルガメシュに声をかけた。

 

ギルガメシュは「あぁ、よかった。ボクはアマロさんがいなくなってしまったのかと。」と安堵の息を漏らし、同時にギルガメシュの腹の虫が鳴いてしまい、ギルガメシュは赤面した。

 

アマロは「ギル君はお腹が空いているみたいだね。作っている粥が無駄にならなくて良かったよ。」と言って朗らかに微笑した。

 

ギルガメシュはアマロの一挙手一投足に雷に打たれたような衝撃を受けては、心が軋むほどに甘く締め付けられるのを感じた。ただそこにアマロが存在しているだけで、意識せずとも、ギルガメシュは自分の心身が熱を帯び、息を吐くのと心の臓が忙しなくなり、指先や掌に汗を帯びるのを感じていた。

 

ギルガメシュの赤く色づいて中々冷めない顔に気づいたアマロは、「大丈夫!熱でもあるのかな、こっちにおいで!ほら、私におでこを貸してごらん。」と言うが早いか、親心もあってか、何か惹かれるものに突き動かされてか、鍋をかき混ぜていた匙を放ると、優しくギルガメシュを抱き寄せ、この大人びた悩みを秘めた少年の額に、自分の額を触れ合わせ、その体の赤みが、病や何か危ういものでないことを確認した。

 

力なく、アマロに解放されるがままに任せたギルガメシュは「あぁ、ボクは何て欲深いのでしょう…。」とうわ言を漏らしていた。

 

結局アマロに最初から最後まで、粥の最初の一匙から果実の最後の一切れまで「はい!あ〜ん。」で食べさせられたギルガメシュは、幸福に満ちた、実にあどけない寝顔で、アマロに抱きついて眠りについた。

 

 

 

 

次の朝、目を覚ましたギルガメシュは名残惜しいが、実に残念でならないが、血を吐く思いで、アマロに一度ウルクへ帰る旨を伝えた。

 

ギルガメシュは「一緒に来て下さらないのですか?」と上目遣いで、本物の、血の涙を滲ませてアマロに迫ったが、アマロが「ごめんね、また来て欲しいな。私はもう少し、ここで過ごしてから行くよ。前にバビロニアから追い出されてしまった時のことが不安でね…。」とギルガメシュに申し訳なさそうに謝ると何も言えなかった。

 

「お詫びに、良いことがありますようにの口付けを贈ろう。」と言って、ギルガメシュが何か言う前に、その額に口づけた。

 

ギルガメシュは自身の体に渦巻く力が瞬く間に爆発するのを幻視して、ついでそれが確信であることに気づいた。

 

ギルガメシュは、「次にお会いする時は、ウルクが美しい貴方のことをお迎えする用意が整った時です。ボクは既に二つの誓いを立てました。貴方とも、一つだけ誓いを立ててもよろしいですか?」と敬虔な眼差しでアマロの手を両手で握りしめて言った。

 

アマロは「もちろんだよ。私が君に差し上げられるものもそうないけれど、誓いを立てることはできるとも。」と快くこの申し出を受け入れ、頭二つ分は低いギルガメシュに視線を合わせるために中腰になった。

 

ギルガメシュは跪き、「どうかボクの傍に居てください。ボクが貴方を迎えに来ることができたら、どうかボクの傍にずっと寄り添ってくださいませんか。ボクはその誓いを果たすために、この世の全てをアマロさんに捧げます。」と神殿の巫女に婚約を申し込むような誠実さと善良さでもってアマロに誓いを立てた。

 

アマロは微笑むと、「ギル君の誓いを受けよう。私は、君が望む限り、君が私を必要とする限り、いつまでも君の傍に寄り添うと誓うよ。」とさっぱりと応えた。

 

ギルガメシュは心から喜び、「豊穣のイナンナ神が神々の主となるより先に、貴方をお迎えにあがります。」と宣言して、一度ウルクへの帰路についた。



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07黄金色の凱旋

07黄金色の凱旋

 

 

 

 

ウルクへ帰還したギルガメシュは多くの期待を背負っていたことに目を向けた。

 

多くの心あるもの達からの心配りと、多くの口さがない、言葉を選べば最もらしい人々がそれぞれウルクで、それでも自分のことを待っていたことに気づいた。

 

父のルガルバンダ王は丸一日帰らなかったことをいたく心配していた。ルガルバンダは太陽神シャマシュの加護無き暗闇の世界に、息子が飲まれてしまったのでは、と思い、日が昇り、月が昇るまでの間に昼食のパンが乾いてひび割れることにも気づかないほど祈り続けた。

 

ルガルバンダ王は、見違えて聡い瞳をした息子ギルガメシュの帰還に大いに喜び、神々に自らの痩せた体を顧みることなく太った山羊を捧げた。

 

ギルガメシュはウルクに帰るとまず、父王に自分の体験した神秘について事細かに説明した。

 

黒き後光を纏いし美しい人。その話にルガルバンダ王は驚き、喜び、「その方こそが我々の探していた、古代より伝えられる、黒曜石の希望の御方に違いない!」と叫び、「ギルガメシュよ、お前はその御方を我がウルクに迎え入れるために、再びその方の元へ向かいなさい。」と言いつけた。

 

ギルガメシュは微笑むと、真面目な顔で「父よ、王よ、迎え入れるためには、二度と古代の愚かな王がバビロニアからアマロ様を追放した時のような、恐ろしい真似を、後の世の愚かなもの達が出来ないように、王の力で禁じなければなりません。それがなくしては、アマロ様は決して、このウルクに訪れては下さらないでしょう。」と進言した。

 

王は「確かにそうであるな。よし、アマロ様を迎えるために、私は新しく禁じられるべき行いを民に教えよう。」と言った。

 

ギルガメシュはそれがよろしい、と言い一度退出した。

 

 

 

 

ギルガメシュの帰還は神々の耳にも届いた。

 

神々は口々に、「聖なる森に入り込んだことは許されないことだ。」と言ったり、「いいや、そのお陰でアマロ様に出会うことができたのだからギルガメシュは使命を果たしたのだ。」と言ったりした。

 

神々の王エンリルと主神アヌは、ギルガメシュの誓いを他の神々に伝えた。他の神々は「なるほど、そうであるならば仕方ない。我々は誓いに従おう。」と言って、後は何も言わなかった。

 

ただ、アヌの娘の、豊穣と美の神であるイナンナ…あるいはイシュタル…と呼ばれる女神が一人、「私はギルガメシュがどのような者なのか見てみたいわ。そして、ギルガメシュが誓いを立てたその黒曜石の希望とやらもこの目で見てみたいわね。」と興奮して言った。

 

父親である主神アヌは娘の激しい性格を知るが故に困り、イナンナと仲が良くも悪くもなかった神々の王エンリルは「誓いを破らない限り、イナンナ殿の行いを咎めるものでもあるまい。」と言った。

 

豊穣と美の神イナンナは「月の神が眠りについた、次の最も美しい新月の夜に、私はウルクの巫女の体を借りるの、そしてルガルバンダの息子ギルガメシュと、黒曜石の希望をこの目で見てくることに決めたわ!」と言った。

 

父親の主神アヌは「誓いをもう一度よく確かめて向かうが良い。」と娘に言った。興奮したイナンナはそんなことに耳を貸すまでもなく、次に最も美しい新月を心待ちにした。

 

次の最も美しい新月の夜は、10数年先のことである。

 

 

 

 

ギルガメシュはウルク中の名士たちを呼びあつめ、素晴らしい宮殿を建てるように命じた。

 

名士たちは日照りや洪水で飢えているウルクにあって、王に次いで豊かな者たちだったが、それでも皆痩せていた。ギルガメシュからの命令に名士たちは反発した。

 

宮殿が建てられれば、より完璧に近い形でアマロを迎えることができる、とギルガメシュは説明したが、名士たちはギルガメシュの言葉を信じずに、昼間だというのに地べたで眠り始めたり、前に座る名士の背中を貸してもらい、パン生地を捏ね始めるものもいる始末だった。

 

ギルガメシュはこの分からず屋たちには、何かを与えなければ言葉に耳を傾けてくれないと分かっていたから、自身の懐を探った。

 

すると、懐から乾いた豆と麦が一粒ずつ、果実の種が一粒落ちてきた。

 

名士たちは見たこともないそれに好奇心が刺激されて「王の子よ、賢いギルガメシュよ、それは何なのですか。なんの種なのですか。」と問わずにいられなかった。

 

10人、100人と集まってきた名士たち。ギルガメシュは「この種は、ボクがアマロ様からいただいた大切な実りの種なのです。」と言った。

 

名士たちは噂に聞いていた黒曜石の希望、アマロの話に興味をそそられ、また実りという、なんとも甘美な響きに釣られて「では、賢いギルガメシュよ、私たちは貴方の命令に従おう、だが、もしも貴方が慈悲深く、豊かなその実りを分けて下さるような、真に良心に認められた御方であるのならば、私たちはより短い時間で、最も素晴らしい神殿をアマロ様にご用意しようではないか。」と言った。

 

ギルガメシュは「あなた方も、また、飢えているのですから、そういうのも無理が無い話でしょう。」と言うと、惜しみつつも手の平に乗せた種を其々の名士達の代表者に貸し与えた。

 

「もしも、貴方達が実りを心から求め、民とその豊かさを分かち合おうと思う方々であるなら、この種はどのような種よりも立派な身をつけるでしょう。ボクの話を信じるなら、その種に、この国で最も清涼な水を捧げるのを忘れてはなりませんよ。」と警告したギルガメシュは、王宮に戻り、最も素晴らしい土地と、最も素晴らしい湧水の在処を父王ルガルバンダから教えてもらい、これを名士たちに教えた。

 

 

 

 

麦を植えた名士たちは、自分で水をやることがなかったので、物を知らない雇われの農人が、温くてあまり良くない水を捧げているのを知らず、普通の実りしか得られなかった。

 

果実を植えた名士たちは、最も肥えた土に種を蒔いて、最も良い水を使い、大いに実りを得た。しかし、手に入れた実りを、飢えた民や、物乞いの老人たちに分けることをしなかったので、二度と大きな実りを得られなかった。

 

豆の種を植えた名士は、自分の手で水遣りを手伝い、水は最も良いものを、土も最も良いものを用意していた。とても大きな実りが手に入ったので、名士たちはお互いの家族だけでなく、遠縁の若い夫婦や、年老いて貧しいものたち、子供のいる民の家に実りを分け与えた。豆は名士たちが実りを民に分け与えるたびに増え続け、次の年には初めて収穫した時の10倍に増した。

 

 

 

 

豆を作った名士たちは民から尊敬され、天に昇れば必ず沢山の、彼らの顔を知らぬ民さえもがその死を悲しみ、その慈悲深さを讃えて歌にした。

 

麦と果実を作っていた名士たちは豆を作っていた名士たちの成功を妬んだが、妬めば妬むほどに家が貧しくなり、ますます妬んだので遂には物乞いの老人の敷物の隣に、掘建小屋を建てなければならないほどになった。

 

物乞いに慣れていなかった名士たちは日々の糧を得られることができなかったため、すぐさま飢えた。飢えた名士たちは豆を作る名士たちや、物乞いの老人たちに糧を分けてもらい、生きながらえた。

 

慈悲深い人々に感謝した麦と果実の名士たちは、雇い入れていた農人に無礼を謝り、豆の名士と物乞いの老人たちに跪いて感謝した。

 

心を入れ替えた麦と果実の名士たちは自分で、最も良い土に、最も良い水で育てた麦と果実を、どんなに微々たる量であっても物乞いの老人や農人達、貧しく飢えた民達に分け与えた。

 

すると、一日で種は芽吹き、二日で大きく成長し、三日で収穫できるようになった。種を蒔いていないところからも、水を撒いてすらいないところからも黄金色の麦と、艶やかで丸々とした果実が実った。

 

民も名士達も喜び、名士たちは自分がすっかり豊かさを共にすることが楽しみになっていることに気づき、新しい楽しみを知る機会を与えてくれた、アマロとギルガメシュに厳かに感謝した。

 

 

 

 

名士たちは宮殿に集まり、ギルガメシュとルガルバンダにアマロを迎えるための神殿を建てたいと申し出た。

 

ルガルバンダは喜び、「おぉ、ギルガメシュよ、お前のおかげで我が国の繁栄は夢では無くなったぞ。お前は偉大な王になれるだろう。」と言った。

 

また、続けてルガルバンダは「ギルガメシュよ、お前はこれよりアマロ様をお迎えに行くのだ。」と言った。

 

名士達の気持ちが変わる前に、民が再び飢える前にとルガルバルダは、そう思ったのだ。

 

ギルガメシュは父親の思いを悟り、「分かりました。ボクはすぐにでも出立したいと思います。月がその体を起こすより前に、神々の宝具であるこの鎖と、知恵と水の神エンキがボクをアマロ様の元へと導いてくれるでしょう。」と自信を感じさせる声で宣言した。

 

名士たちは恭しくギルガメシュとルガルバンダ王に礼をすると、ギルガメシュに「未来の王よ、偉大なる賢き人ギルガメシュよ、どうか我がウルクに繁栄をもたらしてください。」と祈りを捧げた。

 

ギルガメシュは太陽神シャマシュが体を起こす前に宮殿を出て、そな恩寵が最も天高くに輝く頃に森に辿り着いた。

 

ギルガメシュは以前来た通りに進み、以前来た通りにパンを食べ、水を飲み、そして神秘の場所へと舞い戻った。

 

 

 

 

ギルガメシュがたどり着いた時、アマロは以前のように木にもたれて昼寝をしていた。

 

ギルガメシュは心が騒めくのを覚えて、衝動的にアマロの側に寄りかかった。

 

耳元から「おや、早かったね。それじゃあ、私も誓いを果たそう。」というギルガメシュが最も聞きたかった声が聞こえた。

 

ギルガメシュは驚きを上回る喜びを、共に過ごせる時間を瞼の裏に思い浮かべて、我慢できずにアマロへと抱きついた。

 

ギルガメシュは嬉し涙を瞳に浮かべて、「あぁ!嬉しい!アマロさん!ボクは貴方を迎えに来ることができました!もう、離れる必要はありません!ずっと、ずっと一緒です!」と言って、顔をアマロの腹に押しつけた。

 

アマロは笑顔になり、ギルガメシュのひと回り小さな手を、優しく重ねるように握ると、「ギル君…ギルガメシュ、君の気持ちを私は受け止めるよ。さぁ、私をウルクへ案内しておくれ。私は、君が私に誓ってくれた通りに、君が私を必要としなくなるまで、ずっと、君のそばに居るからね。」と優しく言い聞かせた。

 

ギルガメシュは号泣して、自身の手に重ねられたアマロの手に何度も口づけた。

 

アマロは「オマセさんだね。」と苦笑しながら言うだけで、嫌そうにする素振りもなく、ただその美と愛を振り撒いてギルガメシュの心を甘く溶かした。

 

 

 

 

アマロを連れたギルガメシュが凱旋した。門を抜けてウルクに入っても、アマロとギルガメシュの手は決して解けないように、溶け合うように握られていた。時は既に太陽神シャマシュが眠りにつき、月の神が仕事を始めており、松明がウルクの最も広い道の両脇に延々と焚かれ、火の道をアマロとギルガメシュは共に宮殿に向かって歩いた。

 

アマロの姿を初めて目にした民や名士達、様子見に使わされた王の廷臣達は、その美しさに瞳を焼かれた。驚いたことに、誰もがこのアマロの美しい姿に心を奪われ、心の臓は心を奪われている間完全に動きを止め、人々の声も、呼吸の音も、生活の営みの音も聞こえなくなった。

 

そして、次に瞬いた時、眠りについている神々までを起こしかねないほど、まさに天地を震わせる大歓声がウルクの街の隅々から上がった。

 

老いも若いも、女も男も関係がなく、中には赤子までが母の乳から口を離し、涙してアマロを見つめて夢中で手を振った。

 

熱狂に包まれた民は「ギルガメシュよ!英雄よ!繁栄をウルクに!!」と祝福を叫んだ。ウルクの民はそれまでの全ての困難と飢えと苦しみとが、すべてこの瞬間のためであったと、神すら足元に寄せ付けない美しさを人間の身で一眼見るためだったのだと確信せずにはいられなかった。

 

涙する老人達は豊かなものも、貧しいものも肩を寄せ合って建造中の神殿とアマロへ交互に祈りを捧げた。街の職人達は出来たばかりの袋や、焼けたばかりの器を砕いたり破いたりしてしまった。あまりにも美しいものを見た彼らは、物を作るものとして、今まで自分達が作っていた物の没美へと憤り、恥入り、憤激のあまり作品を砕かずにはいられなかったのである。

 

 

 

 

名士たちは民の先頭に立つと「おぉ!偉大なる祖先が奉りし、慈悲深き美しき御方よ!!ウルクは国を挙げて貴方に豊かさを約束しよう!!黒曜石の希望の御方よ、我々は貴方の叡智を尊び、その穏やかな繁栄に服するお許しをいただきたいのです!!」と声を合わせて言った。

 

民は、その敬虔により豊かさを共にしてくれた良心に認められた名士たちに追従して、彼らの言葉を復唱した。

 

民は跪いて、両手を合わせて「おぉ!偉大なる祖先が奉りし、慈悲深き美しき御方よ!!ウルクは国を挙げて貴方に豊かさを約束しよう!!黒曜石の希望の御方よ、我々は貴方の叡智を尊び、その穏やかな繁栄に服するお許しをいただきたいのです!!」と叫んだ。

 

民の声は神々の瞼を軽くしてしまうほどに高らかで、月の神は胸をムカつかせたが、松明に沿って人間の宮殿に向かう二人から立ち昇る、神々ですら感知できない、いや、そもそも、全く知らない神秘の力に気圧されて、怒りの気力も失せてしまった。

 

やる気を無くした月の神は供えられていた酒を飲んでしまったので、気象の神アダドが雲を引き連れて、月の神の怠惰を咎めたために、月が隠れてしまった。

 

真っ暗になったので、民の声に起こされた神々も、殆どが二度寝を始めたが、松明を従えた火の神だけは人間に、その目にアマロの美しい姿を映すことを許した。

 

火の神は眠ることのない慈悲深く気持ちの激しい神だったが、今日ばかりはアマロの姿に人間と同じように、いや人間以上に見惚れて、すっかり骨抜きになっていた。

 

 

 

 

民の声は月が隠れてからより一層に高まり、月の神にもう眠るようにと叱りつけた気象の神アダドも、この小五月蝿い小さな者どもを、どうしてくれようかと腹を立てた。

 

アダドの気分があまりよろしくなかったのだから、アダドに従う雲たちは怯えて泣き出してしまった。鳴き声は風に、涙は雨になった。

 

人々は、恵みの雨だと更に声を大きくした。風が吹いて、ウルクに蔓延っていた飢えと寒さと病の不安を、その源ごと全て洗い流してしまった。人々は更に声を上げて、神々と、王ルガルバンダと、勇敢で聡明なギルガメシュと、そして蕩けるように美しいアマロへの賛辞を声を揃えて謳った。

 

アマロの姿を見たいがために風が吹いても雨が降っても消えない火の神が従える松明は人間達を大いに喜ばせた。

 

アマロとギルガメシュが宮殿に入るまで騒ぎは続き、宮殿の中でアマロを歓迎し、ギルガメシュの勇気と賢さを讃える廷臣と王の詩が聞こえてくると、ぴたりと民の声は止んだ。火の神がアマロを追い、宮殿の方へと向かったのである。

 

月の神さえも眠りに着いた晩、民達はお互いの家々に遊びに行くこともなく、泥のように眠った。それまで抱いていたウルクの未来への不安がすっかり押し流されてしまい、重い荷物を置いたからか、安心していびきも聞こえないほど眠ったのだ。

 

どれほど小さな者達も、どれほど大きな者達も、皆同様にして、互いのこれまでの懸命を、沈黙で労いあった。

 

太陽神シャマシュが欠伸をしながら仕事に取り掛かるまで、ウルクの心ある人間達は力と希望を蓄えることができたのだった。

 

 

 

 

しかし、神々の中には民の声に起こされて寝覚が悪い者達も、いない訳ではなかったのだ。

 

例えば、そんな神々の中でも、夜の睡眠を美貌に良いとする、真夜中に揺り起こされることを嫌う、豊穣と美の女神イナンナがいるように。

 



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08黄金色の伴侶 前編

本二次創作は世界史の魔改造により、文字通りの魔改造展開が跳梁跋扈しまくり、荒れに荒れた世紀末の消毒系モヒカンの如く、時には全ての悲劇を灰燼に帰すことも御座いますので悪しからず。では、どうぞ。


08黄金色の伴侶 前編

 

 

 

 

真夜中に、ウルクの民が上げた高らかな喜びの声は、豊穣と美の女神イナンナの目を覚ましてしまった。

 

美しいことをなによりも大事であるとして、自らが美しいことが全くもって然りであると断ずる、この女神は機嫌が頗る悪かった。

 

寝ぼけ眼で見つめた空には、何と月がないではないか。

 

イナンナは今日がきっと、最も美しい新月の日に違いないと早とちりすると、愛牛グガランナに乗って神々の神殿の端まで行くと、ウルクの街で、まだ起きている巫女を探した。

 

巫女を探すことしばし、太陽神シャマシュのいびきが三度聞こえた頃に、イナンナは一人として巫女が起きていないことに気づいた。

 

腹を立てたイナンナは、ウルクに生きる者の中で、巫女を務めている人間の中で過去にも未来においても最も美しい者を、最も醜い者に変えてしまう呪いをかけた。

 

イナンナは清々したと、湿り気を帯びた息を一つ吐き出してから、再び神殿に戻り二度寝した。グガランナは神々の神殿の端で、一晩忘れ去られてしまった。

 

 

 

 

ギルガメシュとアマロは宮殿に入ると、煌びやかな黄金が飾られた美しい宮殿の、一際素晴らしい王の座に導かれ、王ルガルバンダとその廷臣達に歓迎の儀を催されていた。

 

ギルガメシュは父王に「ただいま戻りました。ここにおわす御方こそ、古代のマルドゥーク王にも奉戴されし、神秘に愛されし黒曜石の希望、その人でございます。」と改めてアマロを紹介した。

 

アマロは「こんばんは、貴方が今の王様であらせられますか。マルドゥークの時は大変お世話になりました。まさかまたこんな機会があるだなんて…また旅に出なくて良かったなとつくづく思います…。」としみじみと言った。

 

王と廷臣達は「おぉ、この方こそ正に、伝説の黒曜石の希望であらせられるか…。なんと有難い。なんとお美しいのだ。」と目を見開き、中には涙を流して祈りを捧げているものもいた。

 

王ルガルバンダは威儀を正すと、「改めて、貴方様の御名前を教えていただけませんか。私は神々の僕にして、ウルクの王、女神リマトニンスンの夫、そしてギルガメシュの父であるルガルバンダと申す。」と恭しく名乗り、アマロは問いかけと名乗りを受けて「いえいえ、こちらこそ改めてご挨拶いたします。私はアマロ・カジャタムと申します。貴方も、また良いお子さんを産んでいただいたのですね。」と誠実に答えた。

 

ふと引っ掛かりを覚えたルガルバンダは、その疑問を問おうとして、ギルガメシュの声に遮られた。

 

ギルガメシュは言って曰く、「アマロ様は、お子様がおられるのですか?」と。

 

アマロはギルガメシュが初めて見るような、寂しげな、しかしそれを上回る愛おしさと懐かしさが込められた表情と声音で、「うん。子供がいたんだけどね。今はもう居ないんだ。」と答えた。

 

ルガルバンダは「アマロ殿…申し訳ないことを聞いてしまったな…どうか、今日は宮殿で休まれよ。今、急ぎ神殿を建てておる。貴方が落ち着かれるように、ウルクの名士達が国一番の宝で作り上げているから、どうか待ってくだされ。」と言い、衛士と侍女にアマロを部屋に案内するように言いつけた。

 

案内の者がアマロを手で促したが、アマロは不満げにもせず、ただ淡々と「王ルガルバンダよ、お気遣いはとても嬉しいのだが、私はギルガメシュと不別の誓いを立てているのです。」と、ギルガメシュと繋いでいる手を胸の高さまで上げることで答えた。

 

ルガルバンダは「不別の誓いですかな。では、いつまで別れずにいるのですかな。」と問うた。

 

今度はアマロではなく、ギルガメシュが答えて、「ボクがアマロ様を心の奥底から、少しの残滓なく求めなくなるまで、です。」と言った。

 

廷臣達の中には「それでは、ギルガメシュよ、王の子よ、貴方は執務の時や祈りを神々に捧げる時でさえ、アマロ様と共にあると言われるのか。」と言うものもあった。

 

これに対してギルガメシュは「無論です。ボクは、ボクが知る限り、片時も、一生涯のアマロ様を知って以来の始まりから、その終わりに至るまでの間、決して離れるつもりはありませんよ。」とさも当然の表情で答えた。

 

廷臣達は何か言いたいのかも知れなかったが、ルガルバンダはこの、賢くも勇敢でもあるが、どうしても人を見下すところの直らない息子を、しかし大切に思っていたので、廷臣達の不満を手で制すると、「アマロ殿、ギルガメシュは貴方様によく尽くすでしょうが、時としてよく甘えるでしょう。どうか息子をよろしくお願いします。」と、軽く頭を下げて見せた。

 

ギルガメシュもこのことには流石に驚いたが、アマロは驚くこともなく「いえいえ。心配なさらずとも、ギルガメシュは立派な王に成長しますとも。私はただ、ギルガメシュの隣で、立っているだけですから。」と微笑んで答えた。

 

ルガルバンダはギルガメシュの部屋にアマロを案内するように侍女や衛士に命ずると、目頭を抑えて玉座を辞し、妻リマトニンスン神の神殿へと向かった。ルガルバンダはそこで、「おぉ、我が妻よ、リマトニンスンよ、お前の夫は役目を果たしたぞ、お前の子はよく学び、よく愛を知ったようだ。世継ぎも何を気にするものぞ。あの子らがきっと、ウルクを導くことだろう。」と妻に報告した。

 

妻のリマトニンスンは「あぁ、よく…よく頑張りました。貴方はよく働かれました、よく戦われました。ギルガメシュはきっと、私たち神と、貴方のような良心に認められた人間を繋ぎ止めてくれるでしょう。あぁ、よくここまで耐えましたね。」と言うと、神殿から自ら出てきてルガルバンダを抱擁した。

 

 

 

 

 

あれから十度目の新月を前にして、ルガルバンダはリマトニンスンの神殿の階を昇り、二度と玉座に戻らなかった。

 

凱旋の儀式の後、ギルガメシュとアマロは共に宮殿での暮らしを楽しんだ。

 

ギルガメシュはどんな時もアマロと共にあった。アマロもまた、ギルガメシュと共に過ごす時間を何よりも楽しんだ。

 

ギルガメシュは宮殿で父王ルガルバンダの涙を見て以来、以前に比べてずっと長く、この深慮な老王と共に過ごすようにした。心の距離を近づけた父と子は、まったくもって理想に叶った関係とは言えず、やはり神の血を受け継ぐギルガメシュは、アマロ以外の前では、例え父親の前であっても、決してその心の底を覗かせなかった。

 

時として見下し、時としてあしらい、だが決して互いに嫌い合っているわけではなく、むしろ父親であるルガルバンダはギルガメシュに父親らしい愛を注ごうとしていた。

 

ルガルバンダのというよりは、人間の何たるかすら知恵の神エンキの全てを見通す瞳により、労せずとも理解してしまうギルガメシュは、父の情けない姿を、父親らしく子供の成長に一喜一憂する姿に、飲み込み難い気恥ずかしさを感じていたのである。

 

古老曰く、「ギルガメシュ様は思春期であらせられる。」

 

不治の病と言ってもいい。ギルガメシュは悩みつつも、少しずつ父との間に石の橋を積み上げていたのだ。そのような中で、父ルガルバンダはあまりにも穏やかになくなった。

 

ギルガメシュは歩み寄り切れなかったことを悔いとせず、しかし、父ルガルバンダの満足げな死に顔に何とも言えぬ不満足を覚えたのであった。

 

時は頼まれずとも経ち、ギルガメシュの肉体は美しく頑強に完成の形を見せ始め、顔は可愛らしいものから凛々しく立ち込めるような魅力に満ちているものへと成長した。声もまた雄大で聡明な青年王に相応しいものへと成長し、その瞳は僅かに険を帯びてこそいたが、それはギルガメシュが王としての器を構築するまでの過程で、アマロとの時間を割かなければならなかったことに対する苦痛に耐えるための変化であった。

 

ルガルバンダの死を経て、ギルガメシュはウルクの王となった。ギルガメシュはアマロから離れることを断固拒否し、王の最側近として大神官の地位を与えた。

 

 

 

 

ギルガメシュは父の死に際して心を乱した。その未熟な奔放さと怒りに任せてウルクの民や廷臣達の些細な不手際を厳しく詰問したり、ウルクの民の生活を脅かすような豪遊をしたりしようとした。

 

だがギルガメシュは結局このような、実に愚かな暴君の所業を、一度として行うことがなかった。何故ならば、唯一の心の支えとも言えるアマロがギルガメシュの側に常にいたからである。

 

 

 

 

凱旋式から十度目の年の暮れのことであった。

 

父の死に心を乱したギルガメシュは亡骸が母リマトニンスンの神殿に捧げられ、その昇天を目に焼き付ける前に、宮殿の私室へと逃げ込んだ。

 

死というものに初めて触れたギルガメシュは涙を流さなかったが、体を酷く震わせて、怯えた様子で傍に寄り添うアマロへと問いかけた。

 

ギルガメシュはか細く風が漏れるような息を頻りに吐いたり吸ったりしながら「アマロ!父は死んだ!死んでしまったのだ!これが死、なのか!あぁ!アマロ!我のアマロよ!どうかいかないでくれ!どうか、どうか我と共にいてくれ!側に居てくれ!我が、我が死ぬまででいい!それまででいい!だから、どうか我の瞼が二度と開かなくなるまではそこに居てくれ。我の耳が、もう死の足音しか知ることができなくなるまで、その優しい声で囁いてくれ!」とアマロの胸に顔を埋め、縋りついて言った。

 

アマロは「ギル。大丈夫。私はここにいる。君は私が必要で無くなってしまったのかい。それとも、君は私にどこかへいってしまって欲しいのかい。」と諭すように問いかけた。鼻水まで垂らしたギルガメシュの顔を、その大切な獅子の皮の毛布を惜しげなく汚して、清め、瞳と瞳を合わせて諭すアマロの声に、頑なに瞑られていたギルガメシュの瞳は恐る恐る開き始め、そしてアマロの美しい瞳を目にした途端に、体を虫が這い回るような、絶えようもない不快感や恐怖感が綺麗に消えて無くなり、それどころか怯えた瞳の様子はすっかりトロンとしてしまった。

 

年頃の娘が見れば、言葉もなく虜になるだろう色気を滝のようにアマロへと注ぐギルガメシュ。アマロは少しも美貌に揺らぐことなく、ただ真っ直ぐと、大人というには幼すぎるギルガメシュの瞳の奥、その心までを見つめて語りかけていた。

 

ギルガメシュはアマロの瞳を通して自らの瞳の奥に潜む、心に邪な者達は口汚く罵るような、とても王としての矜持には不似合いなほどに、沸々と煮立つ情動を自覚し、その衝撃を受け止め切れずに我に帰った。

 

ギルガメシュはこの一件から、より一層、アマロから離れようとはしなくなった。そして傲慢な王の仮面を被るようになった。きっと、離れてしまえば、それはウルクによからぬ王が立つことと同義であると、他ならぬギルガメシュ自身が思ったからだった。

 



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09黄金色の伴侶 後編

感想ダンケなっす。評価もついてた、賛否が出てきて安心と緊張を感じましたね。


09黄金色の伴侶 後編

 

 

 

 

ギルガメシュとアマロの治世は、その始まりこそギルガメシュの思春期と不安定により民の心に暗雲を立ち込めさせたが、それも、アマロという究極の神秘の恩恵により、驚くほどあっという間に立ち消えとなった。

 

最初の治世の年、ギルガメシュはアマロを大神官に任命した。アマロはギルガメシュの王位と並び立つものとして、と同時に一心同体の王代として民の注目の的となった。

 

注目を裏切らぬ実績を、間も無くギルガメシュとアマロの双璧は築き上げた。

 

ギルガメシュが水利を求めるために各地の河川を巡った時、アマロが干上がった川を見て、「ここに舟を浮かべたいね。」と言えば、天から洪水が降るような大雨が、干上がった川の跡の真上にだけ降り注ぎ、見る見るうちにウルク近辺で一番の川になった。

 

のちに、「ギル、私は釣りがしたい気分だよ。この川も、湖のようにお魚が沢山いればいいのにね。」とアマロが言った日の夕方から翌る日にかけて天地を打ち鳴らすような大雨が降り、ウルク一番の漁獲量を誇る、魚を無尽蔵に産むと呼ばれた巨大な湖に変わってしまったという。

 

また、民が病に喘いでいると聞いたギルガメシュが、死を恐れるあまり何もしたくないと言い出したことがあった。王ギルガメシュがそっぽを向いてしまったので廷臣達は困り果てたが、アマロが「一緒に行こう。ここはギルの国だろう。」というと、ギルガメシュは「当然だ!!我の国にあるものは全て我のものだ!我のものが滅びるなど我慢ならぬ!アマロ!共にゆくぞ!」と叫ぶと、風よりも早く玉座から立ち上がり、病を治すための薬草を見つけ出したのだという。

 

この話にも続きがあり曰く、ギルガメシュが見つけた薬草は効き目があったが数が足りず、民は王の慈悲が皆に行き届かないことに、足が片方短い者や、病に弱り果てて救える見込みのない我が子、老いた父母を見捨てなければならないことに嘆いていた。

 

しかし、アマロが「植えてみよ。生えるかもしれないよ。」と言うと、あっという間に人の背丈ほどもある巨大な薬草が見渡す限りに根を張ったのだった。

 

芽生えた薬草は全て使っても使い切れず、ウルクはこの薬草を他の、病に苦しむ者のいる国に分け与え、その見返りに多くの宝を手に入れたという。

 

ギルガメシュは「アマロよ。お前は我をどれだけ喜ばせれば気が済むのだ!どれだけ愛おしく思わせれば気が済むのだ!」とアマロを抱きしめながら叫んだという。

 

 

 

 

アマロとギルガメシュは王の宮殿で片時も離れずに暮らした。

 

食事の時は二人だけの部屋に、二人だけの食器を一つだけの食卓に用意させ、二人だけが食べる料理を、国一番の料理人に作らせたと言われるほどであった。

 

食事について、こんな逸話がある。

 

ギルガメシュが王となって以来、初めて二人で食事を摂った時のこと。ギルガメシュとアマロが二人きりで食事をするのは朝も昼も夜も変わらない。試しにギルガメシュは王と大神官は冥界に行ったとしても決して離れてはいけないという法を作ったほどだ。

 

ギルガメシュは、そんな二人が共にする初めての食事を最高のものとするべく、ウルク一の名工に作らせた黄金の食卓と、黄金の食器、黄金の酒杯、金の酒瓶に黄金の灯火台を用意した。食事は基本手掴みであるから、肉切りのナイフだけを黄金で作らせた。取り分ける際の道具も用意できないわけではなかったが、ギルガメシュはアマロの素手で取り分けてもらいたいと思い、断固として作らなかった。

 

食材も選りすぐった。ギルガメシュは最初の晩餐に以下の素晴らしい品々を揃えた。

 

ウルク一番の葡萄農家が作った葡萄を使った、ウルク一番の酒職人が醸造した葡萄酒。

 

ウルク一番の狩人が仕留めた獣の肉を、ウルク一番の商人から買い上げた最高の香辛料を使い調理した、名づけるならば、とギルガメシュは悩み、この料理を「素敵に香る肉」であるからステーキと名付けた。世界最古のステーキはウルクで生まれたのだった。

 

そして、ウルクの名士達が育てた豆と麦を余った獣の肉と共に煮込んだ粥である。これはウルク一番であるか否かではなく、アマロとギルガメシュが初めて出逢った場所で口にした、謂わば最も思い出深い味だから選ばれたものだった。

 

添え物にはウルクの方々で取れた旬の野菜を新鮮なまま運ぶために、遠方の野菜の種を入手して、王の宮殿の裏庭で育てさせたもので作った和物である。古代の手引き書曰く、作り方は「サラッと作り、ダッと食べる」と書いているので、後の世ではサラダと呼ばれるようになったとか。サラダの発祥はウルクであった。

 

そして最後に、食後の楽しみとして、ウルクで最も立派な牛の乳を搾り、これを煮詰めたものに、金銀を惜しむことなく払い、遠方より強引に取り寄せた砂糖を、これまた惜しむことなく投入して、とびきり甘くしたものである。後の世で「飲むとホッとする、甘い牛の乳」であるからホットミルクと名付けられる食べ物が誕生した瞬間であった。ホットミルクの発祥はウルクであった。

 

こうして用意された、ウルクの最高級の粋を結集して作られた四品の料理は、目が痛くなるほどに眩い黄金の皿に盛り付けられ、失明するほど眩く磨き抜かれた黄金の食卓に乗せられて、炎を反射して目を潰しにかかるとされる黄金の灯火台を側に置いて、輝きのあまり目線と同じ高さに持ち上げられない黄金の酒杯に、同様の輝きで生半可な覚悟での給仕を許さない黄金の酒瓶に満たされた葡萄酒を注がれた状態で準備が完了した。

 

アマロと共に一日の執務を終えたギルガメシュは、アマロの反応に注視しつつ、この荘厳な食卓に相応しい、黄金の椅子をすすめた。

 

食卓を前にして、アマロは「あぁ!目のなんと痛いことか!」と叫んだ。ギルガメシュはアマロの悲鳴を聞くと、アダドの巻き起こす風よりも早く、少しの躊躇もなく、青筋を額に浮き上がらせて、ほぼ反射的に、黄金色の物を全て窓の外から投げ捨てた。しかし、太陽神シャマシュの加護厚き、日当たりの大変良い部屋に、部屋の壁や天井まで全て磨き抜かれた黄金を貼り付けていたので、アマロは目を開くことができずに倒れた。

 

ギルガメシュは目を抑えて倒れたアマロを抱き起こして「あぁ!愛しいアマロ!!どうか目を開けてくれ!!誰かおらぬか!!おぉ、神々の王エンリルよ!我の何が間違っていたのだ!!太陽神シャマシュよ!!どうして貴方は我の命にも勝るアマロを傷つけたのだ!!!」と慟哭した。

 

以来、ギルガメシュはアマロがいない時以外は磨かれていない黄金だけを身につけるようになった。食卓はアマロが好む素朴な木製のものを使うようになり、アマロとギルガメシュは二人で仲睦まじく食事をした。

 

時折、ギルガメシュはその険のある目元のまま、何も言わずに口を開けて、アマロから餌付けされるのをねだった。アマロはその度に「ギル、君は全く変わっていないよ。王の前のギルも、王になったギルも、私からすればとっても魅力的だよ。」と、全く無垢な笑顔でギルガメシュを褒め称えるものだったから、ギルガメシュは家臣や民に自身のことを理解してもらえず、その持ち前の寛容と短気の折衝が上手くいかぬ時に、頻りに、自分を理解している、愛しい人に認めてもらいたくて、アマロの匙をねだるのだった。

 

面倒見の良いアマロは食事の度にギルガメシュに甲斐甲斐しく世話を焼いた。回を重ねるごとにアマロは肉を切るのが素早く華麗になり、ギルガメシュは頬の筋肉が緩んでいった。

 

ギルガメシュは心底幸福を味わっていたに違いない。食事の前となると、傲慢な王とは思えぬほどに、表情が柔和になっていたのだという。

 

台無しにしてしまった料理を作ってくれた人々には、偉大な王ギルガメシュの名で砕いた純金が一袋ずつ送られたと言われている。

 

 

 

 

食事という話だけを切り抜いても、ギルガメシュはアマロという存在に耽溺し切っていた。歴史を詳らかにすれば、確かにギルガメシュ以上の、或いはギルガメシュと同じくらいアマロに耽溺した英雄などごまんといるが、しかし、ギルガメシュほど、言葉を選ばずに言えば「幼い」、アマロその人の言葉を借りるのであれば「愛らしい」執着でむせかえったのは、ギルガメシュを置いて他には片手で数えるほどである。

 

 

 

 

ある時、ギルガメシュはアマロに「欲しいものはないのか?」と問うた。アマロは「大切なものは全て揃えてもらっているからね。温かい食事と、清潔な寝台、そしてギルガメシュがいるからね。何の不満も無いさ。」と答えた。

 

ギルガメシュはしかし、「だが、時には何か欲しいものがあるだろう?我とて黄金を好み、時には黄金の剣を作らせることもある。それは欲しいと思ったからだろう。」と言って、アマロの好むものを聞き出そうとした。

 

アマロも少し困ってしまい頭に手をやりながら考え、「欲しいものか…私は欲しいものがないんだな…知らなかった。…あぁ、一つだけあるかもしれない。」と言った。

 

何か納得した様子のアマロに、ギルガメシュは玉座から身を乗り出し、「それはなんなのだ!!アマロ!」と隣の大神官用の、獣の柔らかい毛並みに体を埋めるアマロに顔を鼻息が当たるほど近づけて返答を迫った。

 

アマロは困った顔をした。ギルガメシュはアマロの体に勢いだけは伝わるように、指先には赤子の頬に触れる様な思いやりを込めて、肩を押さえた。ギルガメシュの瞳は王のものではなく、まだ王ではなかった頃のギルガメシュのものだった。

 

必死な、ともすれば怯えたような瞳は、ギルガメシュという王が、傲慢な仮面をすっかり外し、心の底から曝け出し、甘えられる相手であるアマロを、例え何を犠牲にしても…いや、犠牲にできる力ならあるから、だから逃げないで欲しい、という脆くて、同時にアマロの言う「愛らしい」本性が隠す余裕もなく曝け出されていた。

 

まだ二十にもなっていないギルガメシュは、久方ぶりに、王としてだけでなく、大人としての、理想の自分の姿まで砕いて「逃げないで下さい。隠し事をしないで下さい。アマロさんの好きなことを教えて?アマロさんの欲しい物を教えて?」とアマロの耳に唇を押し付けるほど寄せて、丁寧に注がれた酒のような、ふんわりと香る甘さを声にのせて囁いた。

 

アマロは怯まない。ただ少しだけ、意識して色っぽく笑った。

 

効果は劇的であり、ギルガメシュは一瞬のうちに意識を二度飛ばした。寄せていた顔はアマロの首に埋める姿勢で収まり、膝から力が抜けて倒れそうになったところをアマロにより正面から抱えられた。体が二度、三度と痙攣し、体温は上がり、じっとりと汗が滲み、ギルガメシュの柔らかな黄金色の御髪からは若い慕情の匂いが立ち昇るようだった。ギルガメシュは赤面し、アマロは今度は手加減でもするようにやんわりと微笑んだ。

 

ギルガメシュは震える声を振り絞り、顔が赤いままに、「アマロは…なにが、欲しいのか、我に教えてくれ…我は、お前を、アマロを喜ばせたい…我ばかり、我ばかり幸せになっている…そのうち、アマロは…呆れて、しまわないか?…我を…置いて行ったりはしないか?…我は、だから、我と伴に在ることが…我の、傍が一番…幸せだと…思って欲しいのだ…我は…アマロが…いれば、それで幸せだから…。」と、力を奪われた膝に力を込めて、目を合わせながら、尚アマロに問うた。

 

初めて見せたアマロの反抗…とも言い難いが、拒否の返答一つに、ギルガメシュは常人には理解し難いほどの恐怖と衝動を、渇きを感じたのだ。

 

ギルガメシュはこの感情に愛と名づけることにした。ギルガメシュは、初めてアマロを見た瞬間からその想いを胸に宿してきたのだとやっと、気付いたのであった。それまでの、父親とも、親友とも、最大の理解者とも言えたアマロに、ギルガメシュは初めて、アマロを愛している自分を見ていることを教えたくなった、伝えたくなったのだ。

 

だが、そう易々と伝えられるものでもなし、ギルガメシュは壁に阻まれ、結局今に至った。溜め込んだ気持ちは微笑み一つで無様に決壊し、残ったのは赤面する自身と、仄かに香る、若さを示すような、鼻をつく香であった。アマロの、慈しむような、欠片も動じていない様子にも、もしかすれば受け入れてもらえるのではないか、という誘惑に心乱されていた。ギルガメシュの胡乱な瞳を、ただじっと見つめていたアマロは、ギルガメシュの耳元に口を寄せると、こう囁いた。

 

「ねぇ、ギル?私の願いを叶えてくれるのは嬉しいよ?でも……。」

 

 

 

 



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10黄金色の嫉妬 前編

感想ダンケなっす!読んでて励みになります。


10黄金色の嫉妬 前編

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「でも…子供が欲しいと言われても困ってしまうだろう?」

 

 

 

 

 

アマロの言葉に、ギルガメシュの頬を涙が伝った。

 

アマロの言葉は終わらなかった。

 

アマロはギルガメシュの若くしなやかな体を、ゾッとするほど優しい手つきで、その背中を撫でながら言った。

 

「ギル、ルガルバンダ殿との最初の会話を覚えているかい?私はね、昔昔の話だけれど、奥さんと子供がいてね、ある時、とびきり可愛かった息子を、ちょうどこの地で失ってしまったんだ。戦いで倒れてしまった。私は、大事な時に居合わせられなかったんだ…だから、それだけが心残りなんだ。」

 

ギルガメシュは、その幼い、愛らしさゆえに悟ったのだと言う。

 

己が愛したアマロは、きっと、「今」を全て自分のために、誓いを結んだ、獲得者であるこのギルガメシュのために捧げているのだと。

 

ギルガメシュは自身が、また大切なことを見失うようで、見失わずに済んだことに安堵した。

 

冥界はその冥界だけでは意味を持たないのだ。冥界は、冥界がなければならないという死者たちがいなければ、必要としてくれる者がいなければ成り立つことのない存在だ。

 

顧みられることもない、その冥界だけでは、何の価値も持たないのだ。死者達は死者である以上、どこかに行かなくてはならないと言うわけではない。

 

死者達は、冥界が選択肢としてあるから、そこに行くだけに過ぎない。冥界は、ただそれだけでは存在を許されていなかったのだ。

 

はたして、アマロは冥界なのか、或いは死者達なのか。

 

ギルガメシュは、少なくとも「今」アマロという存在を強く繋ぎとめている存在は自分に他ならないと知った。そして、自分には出来ないことを、アマロは唯一の望みとしている。ギルガメシュは無力感と、アマロの心の闇を知り、その救いとなりうるであろう子供を、自身ではどうしようもないことだと理解しているからこそ、他の手立てでアマロが望めるようにしようと、その全てを見通す瞳を駆使して愛しい人の心に深く突き刺さっている楔を探した。

 

ギルガメシュは思考の末に、アマロの心の片鱗を掴み取り、その根底にある懸念、妄執を嗅ぎ取り、言葉に当てはめた。

 

ギルガメシュは疲労感など忘れてアマロの両肩を、今度こそは偉大な熱を込めて押さえて「アマロ!!「美しい」だけでは、本質的に価値がないなど、そんなことは断じてないのだ!!!」と語りかけた。

 

アマロの心に波が起こり、ギルガメシュは畳み掛けるように「我はアマロがいいのだ!アマロは美しい!!それは間違いようがない事実だ!だが、こうして日々を共にする我には、アマロのその美しさだけが映っている訳ではないのだ!!もしも美しいだけなら、どうして同じ男であるアマロにこれほど莫大な想いを抱けようか!!!アマロ!!我はアマロの美のみを愛しているのではない!!アマロの全てを愛しているのだ!!!」とウルクの中心で愛を叫んだ。

 

「ふふふ!!ふふ!あははは!!!!」アマロは笑った。ギルガメシュは感情に名前をつける余裕など無かった。ただ、アマロの、花が咲いたような笑顔を見れたことに、ただ涙していた。ギルガメシュは何度でも思う。確かにアマロはあらゆるものと比べて絶対的に美しい。だが、アマロの魅力はそこだけではない。アマロは誰一人として、仲間外れにしようとはしないのだ。

 

常に伴にいて欲しいと頼めば、本当にそばにいてくれるように、全てを受け入れてくれる偉大な包容力がある。全てを受け止めて、それでも美しいからこそ、アマロを孤独な者達ほど、その身を削ることも厭わない覚悟で愛するのだ。

 

ギルガメシュは温かい涙を拭うと、爽快に笑うアマロの貴重な姿を目に焼き付けることにした。

 

 

 

 

 

「あははは!!!ギル!まったく、かわいいやつめ!ほら!良い子にはご褒美だ!!」笑い疲れたのか、アマロはしんみりと彼を見つめていたギルガメシュを目一杯抱きしめて全力で「接吻」した。

 

「〜〜〜〜〜!!!!………………」ギルガメシュは自分からするのと、して貰うのとでは全く風味が違うのだな、などと接吻の味の感想を思い浮かべながら今度こそ気絶した。

 

 

 

 

アマロとギルガメシュの関係は一つ進んだ。アマロは明るくなったが、その代償としてほんの少し、全くの無意識ではあるのだが、一々の所作が致命的な色気を伴うものとなった。

 

ギルガメシュは執務の最中も頻りに唇に触れる癖がついたが、それ以外は実に精力的に政務に励む良い王様になったと言えよう。

 

時折「ご褒美」が貰える日があるらしく、その日は唇を触る頻度が三倍になるとか何とか。

 

少なくとも、初めの一年間の治世は理想に近いものとなった。

 

ウルクの柱となった二人の間には以前よりも更に強固な絆が結ばれ、国は豊かに、アマロの笑顔が増えたことに比例して、国力が一年で二倍になった。

 

だが、何が不吉へと通じるかを予め知ることのできる道理は無いのである。

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

黒曜石の希望とギルガメシュ王の治世が5年目を迎えた時、ウルクは前例のない豊かな国へと変貌していた。

 

その豊かさを描写するに、言葉は直接にその瞳に映すことを除けば最も雄弁である。

 

曰く、ウルクの地にて喉の渇きを癒したければ、汝は最も近くに流れる川の水を、そのまま飲むのがよい。喉に清涼な味わいが広がり、如何なる美酒も及ばぬ高揚を覚えるだろう。熱する必要は無い。例え、上流で、愚かな者が用を足したとしても、下流で口にするときは清涼な清水に生まれ変わるのだから。

 

曰く、薬或いは最も汁物に適した野菜を求めているのであれば、汝の足元に生える草本を見よ。逞しく、ウルクの大地から伸び出たその雑駁なる草めらを一株引き抜き、これを、泥を落とすことなく口に含むがよい。青々として水々しいこれら、名もなき草を食した途端に、汝はそのえも言われぬ旨味に驚くことだろう。さて、背に負いし荷を解き、これらから調理用の鍋を取り出し、これに先程の清水を入れ、更には草を一株或いは汝の好むがままに入れよ。そして、これを火にかけよ。草の株からは土や泥を取り除かぬことをお勧めする。極めて絶妙なる風味が楽しめる故。では、火は太陽神シャマシュの加護に焼かれる程度で、時間は三百歩上流から流した青葉が元いた場所にたどり着くまで、くらいで良いだろう。さて、出来上がったものを召し上がるがいい。野草味溢れる、刺激的な味わいが特徴的なこの汁物は、ウルクの麦と豆と共に煮ても美味である。言うまでもないが、これらの極めて初歩的な調理が施された珍味は、現在のウルクでは全くと言って良いほど供されておらぬ。理由は明白であり、飽食の如き有様であるからだ。草などを食う暇はないのであると言う。

 

曰く、ウルクの都には塵が全く落ちていない。我が知己によれば、ウルクの偉大なる王ギルガメシュと並び称される大神官アマロ様の御業によるという。

 

ある時、アマロ様はギルガメシュ王と伴に民と触れ合われた。その際にアマロ様が「埃っぽいね。」とおっしゃられて。次の日から、ウルクの街には埃なるものが全く湧かなくなったのだと言う。信じられぬ話だが、もっと信じられぬのはウルクで最も貧しい者たちは、三日に一度しか肉と香辛料を食うことができず、二階建ての十部屋しかない家にしか住めぬもの達のことを指すという話だ。全く眉唾であると思っていたが、先日世話になった時は一階建てで一部屋しかなかった家に住んでいた知己の者が、今日には二階建ての、他の国では長者者にしか許されまい生活を送っているのを知り、考えを改めざるを得ないと断ずる。

 

 

 

 

ウルクは豊かになった。同じ時代のどのような国よりも、どのような地域よりも、遥かに豊かな国となったのだ。二十を数えるギルガメシュ王とアマロ大神官により、偉大なウルクに影が指すことは全くもって想像もできないことであるが、しかし、ある時に王と大神官の元に、極めて難儀なる一件が舞い込んだのである。

 

 

 

 

ある所に、最も美しい女がいた。女の名前はシャムハト。神聖なる巫女として、王に仕える立場であった。

 

シャムハトはある新月の夜を境に、その美貌を、言葉に出すも悍ましい姿に変えられてしまった。

 

新月の翌朝、共に励んできた巫女達や、衛士達、廷臣達に追い立てられて王の宮殿を追い出されたシャムハトは、足取り不確かにウルクの町を彷徨った。

 

ウルクの人々はこの悲劇の女を憐れむこともなく、感じるがままに罵声を浴びせた。

 

シャムハトは宮殿から延びる大通りを真っ直ぐに進んだ。最初に通ったのはウルクでも特に豊かな者たちが暮らす、大きな屋敷が立ち並ぶ通りであった。

 

豊かな者達は子供達へ「あれは汚れた獣に違いない。いいかい、お前達はウルクに生まれた立派な民なのだから、決してあのように醜い姿を見てはいけないよ。目から腐ってしまうからね。」と冷ややかになじった。シャムハトは目を伏せて足速に歩いた。

 

次に通ったのは毎日上質の麦と豆を食べて暮らせる者達の家が立ち並ぶ通りだ。

 

暮らし向きの落ち着いているもの達も、「気持ちの悪い獣め!お前のようなのがどうして生まれてきたんだ!!さっさと飢えて死んでしまえ!!」と酷い言葉を投げかけた。

 

最後に通ったのは宮殿から最も遠く、数日に一度しか肉を食べることのできない貧しい者達の暮らす二階建ての家が立ち並ぶ通りであった。

 

遂には貧しい者達も、「おぉ、なんと醜い。いつまでそこにいるつもりなのか、我々も忙しいのだよ。醜いお前さんに慈悲をかけてはやれんのだ。」と嘲笑した。

 

最も美しい女として生きてきた彼女は、経験したこともない罵詈雑言の雨に貫かれ、心が殺されてしまったように感じた。

 

この世で最も醜い姿に変えられてしまったシャムハトは絶望しそうになったが、家族のいる家に向かってひたすら歩き、家の戸を叩いた。

 

戸が開き、父と母が出迎えてくれたかと思えば、二人はシャムハトの姿を見ると「お前が噂の化け物だな!!このウルクにどんな災いを持ってきたのだ!!早く消えてしまえ!!」と途端に酷い言葉をかけられた。

 

シャムハトは必死に「違うの!お願い気づいて!お父さん!お母さん!私よ!あなた達の娘のシャムハトよ!!」と訴えた。

 

身振り手振りをつけて必死に訴えたが、彼女の思いは伝わらなかった。容姿が醜いだけでなく、喉からは耳障りな呻き声しか出せず、シャムハトは実の父と母が呼び寄せた王宮殿の衛士達から、棒で滅多打ちにされて、近くの川へと投げ捨てられた。

 




エンキドゥの揺籠を着々と構築して参ります。


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11黄金色の嫉妬 後編

11黄金色の嫉妬 後編

 

 

 

川に流されたシャムハトは、流れ着いた先、とある森の辺りで目を覚ました。

 

シャムハトが嘆いて曰く、「どうして私がこんなに酷い目に遭わなければならないのでしょうか。慈悲深き神々よ、どうか私にその理由をお教えくださいませんか。でなければ、私は私の生まれたウルクを恨まねばなりません。恨んで死ぬことを、どうか選ばせないでください。賢者に卓越せし神々よ、どうか私にお答え下さい。」

 

シャムハトの願いは聞き届けられ、腹の底から愉快だという笑い声と、美しい美声が届いた。

 

美しい声は言って曰く、「まぁ、可哀想なシャムハト。貴女は運が無かったのね。この世で最も美しいからそうなってしまったのよ。忌々しいことね。もしも貴女が最も美しい女でなければ、貴女は醜い怪物に変わることもなかったでしょうに。運が悪かったと諦めると良いわ。さようなら。」

 

シャムハトは縋る気持ちで叩頭し、泥に服や顔を汚しながら、屈辱と涙を呑んで美しくも残酷な、この声の主人に「神よ!美しい神よ!貴女が私を救って下さらないのはわかりました!ですが、どうかお慈悲を下さい。私を救ってくれる方はこの世にいらっしゃるのですか?どうか、私を救ってくださる方がいるのかどうかだけ、いるのか、いないのか、ただそれだけでいいのです!最後の慈悲を与えてくださいませんか?」と問うた。

 

涙ぐむ声を隠そうともせずに縋り付くシャムハトの姿に美声の主人、イナンナは笑いに笑い、こう言って曰く、「あはははは!!!貴女は面白いわね!!こんなに美しくないのも初めて見たわ!!私の呪いの力ってすごいのね!じゃあ教えてあげる、貴女を救えるのは、全ての世界で最も美しいものよ!!その誰かだけが、唯一貴女の真の姿を知ることができるわ!!あっははは!!!貴女は世界で最も美しい女性だけど、貴女を救える人は、貴女を超える、全ての世界で一番の者よ!!全ての世界でね!!もしも最も美しいのであれば、例えそれが男でも、女でも、なんだったら牛でも良いわよ!!あはははは!!!まあ頑張りなさいねー!あはははは!!!」

 

イナンナの狂ったような笑い声は溶けるように消えてなくなり、沈黙だけが残った。

 

 

 

 

シャムハトは礼を取り払うと、自分を森まで運んできた川面に映る自分の姿を凝視した。

 

シャムハトは悲しんで曰く、「あぁ、なんと残酷なことでしょう。私の姿は少しも変わっていなかったのだわ。だと言うのに、どうして…醜い姿だから忌み嫌われるのなら、この苦しみもいずれ癒すことができたかもしれないと言うのに…あぁ、どうかこの世に救いがあるのなら、私を救ってくださる方が在るのならば、私はこの身全てを以てその方にお尽くし申し上げましょう。もしも叶えてくださるのなら、私は封じられた原始の母神にさえも祈りを捧げましょう。」

 

シャムハトは毎日毎日、辿り着いた森の中で、獣達や木々にすら恐れられ、避けられて、忌み嫌われて暮らさなければならなかった。

 

シャムハトが心安らげる時はただ一つ、自分を助け出してくれる救済者へとこの身を尽くすことに想いを馳せながら、ただ静寂の川面に映る、僅かの翳りも見せない曇りなく美しい自らの貌を眺めている間だけだった。

 

シャムハトは苦しみを吐き出すように、「私は生まれてから一度として美しくないと言われたことがない。古代の最も美しい原初の人間の血を最も色濃く受け継いだことを、何よりの誇りにして生きてきた。それは今も変わらない。だのに、今の私の苦しみの根源は他ならぬこの美しい容姿と、この色濃い血にある。」と言った。

 

シャムハトは鏡面のような川面に拳を落とし、自らの顔を見えないようにすると、目を瞑った。

 

 

 

 

再び目を開いたシャムハトは、今一度川面を見つめた。

 

シャムハトが詠じて曰く、「私はこの身の美しさが咎めて誰よりも醜い者として扱われるようになってしまった。私は苦しみ悶えている。心の救いを求め、安らぎに乾いている。全ての苦しみを私に背負わせたのは私のこのかんばせに他ならない。この森には私を汚く罵る人間はいない。けれど、私は誰にも愛されず、獣にすら嫌悪されなければならない。心を尽くして仕えた神々は私を見捨てた。」

 

「私を散々に美しいと言ったのと同じ口で、同じ言葉で、同じ顔で私を口汚く罵った者たちが見ていたのは、彼らが美しいと言って褒めてくれた私の顔と少しも違わない。共に王に仕えた衛士達が罵舌と暴力をもって打擲したこの心体は、お前達が私の眼を盗んで邪な劣情を滾らせていた心体に少しも違わない。私は醜く生まれていれば、初めからこのような思いもしなかったのかもしれない。」

 

「あぁ、私を救って下さる方よ、お願いです、醜いままで私を愛して下さいまし。私のことを心から愛してくれるのならば、私は醜くても許されたはずです。けれど、許されなかったのだから、この世に私を心から愛してくれていた方は誰もおられなかったのです。」

 

「神よ、私を貶めになった神よ、貴女をお恨み申し上げます。どうして、この世にこれ以上に惨たらしいことが御座いましょうか。この絶望の底で、唯一私に残された救いが、私を苦しめるこの美しい貌だなんて。あぁ、あまりに酷い。死ぬ勇気すらない私にとって最も美しいものが、神が変えて下さらなかったこの顔だなんて…。」

 

 

シャムハトはそれ以来、シャマシュの加護から身を隠し、月の神が放つ光を共として暮らし始めた。

 

 

 

 

シャムハトの悲劇から十年が経った。

 

シャムハトという名の巫女が姿を消し、彼女の両親は悲しみに暮れてしまい、間もなく病にかかり亡くなってしまった。

 

今ではシャムハトのことを知る者は誰一人としていなかった。

 

ギルガメシュは王として、アマロは大神官として過ごしていた。

 

ある日、辺境の森の近くに住む狩人達から恐ろしい野獣が現れたという噂話が報告された。

 

野獣は女のように長い髪で、森に住み着き、恐ろしい鳴き声で獣と共に過ごしており、獲物を仕留めようとすると狩人達に素早く気づいて、獣達を散らしてしまうのだと言う。

 

ギルガメシュはこの話を面白い話であると言い、アマロは不思議なことだと思った。

 

 

 

 

噂話の一週間後、遂に狩人達自身がウルクへと助けを求めてやってきた。

 

狩人が言って曰く、「つい最近まで、あんな怪物はいなかった。あれほど醜い獣を私たちは見たことがない。悍しい姿のあの獣を、どうにかしないと私たちは暮らしていけないのです。どうか、王様、大神官様、私達をお救いください。」

 

ギルガメシュは答えて曰く、「全て我に任せておけ!アマロの暮らすウルクを脅かす獣には、我がこの手でしかと躾を施してやろう!」

 

勇ましい王の出立に狩人達は心底安心した。噂を聞きつけた民達は口々にそれらを広め、王が醜い怪物を殺すのだと喜び騒いだ。

 

アマロは眉を顰めて曰く、「殺すなんて一言も言っていないというのに、民はどうしてそんなに乱暴な言葉を好むのだろうか。」

 

ギルガメシュは気にした様子も無く、「己一人ではか弱い民は、恐れを揉み消すために、騒ぐことに必死なのだ!より突き放したような、耳に刺さるような言葉を好むのだ。アマロや我がそうである必要はない。我の愛しいアマロ、アマロはそのままでいてくれ。」と言った。

 

アマロは「確かにそうかもしれない。けれど、あまり聞いていて幸せな気分には慣れそうにないね。…彼らもまた、不安なだけなのだろうけれど。」と言った。

 

 

 

 

ギルガメシュとアマロは不別の誓いに従い、決して別れることなく、野獣の元へと向かった。

 

野獣が現れたとされる所には森が鬱蒼と茂っていた。

 

ギルガメシュは叫んで曰く、「平原の野獣よ!!貴様に問う!!どうして我が狩人を脅かすのか!!」

 

森からの返答はなく、しかし、狩人達の必死な様子が嘘だったとも思えない。ギルガメシュは再び声を上げようとして、微かに叫びのようなものが聞こえるのが分かった。

 

ギルガメシュはアマロに言って曰く、「遠くに叫びのようなものが聞こえるぞ!!耳を覆いたくなるような、醜い声が響いておる!!」

 

アマロとギルガメシュは耳を澄ませて叫びを聞いた。

 

ギルガメシュは叫びが聞こえる方へと向かおうとしたが、ギルガメシュの腕をアマロが掴んで止めた。

 

ギルガメシュは問うて曰く、「アマロよ、我が伴侶よ、どうして我を引き止めるのだ。不安なのであるか。片時も離れた時などないというのに。」

 

ギルガメシュの問いにアマロは首を振り、ただ穏やかに答えて曰く、「そんなことは勿論心配していないさ。けれど、この叫びは決して醜いものなんかには聞こえないよ。だって私はこの叫びを知っている。」

 

 

 

 

ギルガメシュは驚き問うて曰く、「アマロよ、どうして貴方が野獣の叫びを知るのか。」

 

アマロは答えて曰く、「野獣の叫びなどではない。この叫びは間違いなく、私の子キングゥの声だ。」

 

ギルガメシュは「ではどうするのだ、いや、アマロはどうしたいのだ。」と問うた。

 

アマロは「私の記憶が間違えていなければ、間違いなく私の子は大昔に命を落としてしまった。悲しいことだが、私はそれを受け入れていままで生きてきた。けれど、もしもう一度あの子に会えるのなら、私は手を尽くして会いに行きたい。」

 

ギルガメシュは一笑し、勿論であるとアマロに向き合った。

 

アマロは「ギル、ありがとう。どうか、私のために君の力を貸してくれ。」と言い、ギルガメシュは喜んで肯んじ、二人は並んで森へと駆け出した。

 

 

 

 

 

シャムハトは十年も昔に仕えていた王が亡くなったことを、新たに名乗った王の名前がルガルバンダではかったことで理解した。

 

シャムハトは、自分を探しにきたのが分別のある王であるならば、もしかしたら救いの人であるかもしれないと希望を抱き、それと同時に王の手で楽にしてくれるのならば、それはそれで受け入れられそうであると思い、ギルガメシュ王からの呼びかけに、唯一残された言葉、蝶が瞬くことを忘れるほどに美しいその声が見る影もない、悲痛な叫び声で答えたのだ。

 

十年の間に、獣達は時間をかけてだが、シャムハトが決して自分達の命を脅かすような危険な余所者ではないのだと理解し、シャムハトの孤独を慰めるだけの寛大さを胸に開いていた。

 

獣はシャムハトが醜いからではなく、余所者であり、未知のものゆえに恐れていたのだ。けして、獣は美しいからシャムハトを褒めるわけでもなく、醜いからでは貶すこともなかった。

 

シャムハトは森の先住者達に敬意を払い、彼らの暮らしに従うようになった。

 

身綺麗さを忘れたことはなかったが、例え美しく着飾っていたとしても誰も愛してくれないのだ。シャムハトは逞しく、野に生きることを自らの当面の生きる目標とした。

 

罵詈雑言の聞こえない森の静かさはシャムハトの心を癒したが、決してその悲しみまでを忘れさせるほどの幸福も与えなかった。

 

シャムハトは川面に拳を落とし、体の泥を払った。

 

 

 

 

 

森は鬱々としていて、獣達が暮らすには最も道理の通った環境だった。

 

ギルガメシュはアマロの後について、森の中を進んだ。森の中に響く叫びは止んでいたが、アマロは迷うそぶりも見せずに進んでいく。

 

ギルガメシュは前を一生懸命に進むアマロの手を握った。どうか、置いていかないでくれと思いを込めて握ったのだ。

 

ギルガメシュの不安は、森の奥へと進むほどに、暗がりと湿った空気が満ちていくのにともない深まった。まるで、アマロを木々や蔦が囲んで呑み込んでしまうのではないかと、ギルガメシュは気が気ではなかった。

 

更に進み、遂に開けた場所に出たギルガメシュとアマロは辺りを見渡した。

 

ギルガメシュは目の前で自分達を待ち受けていたであろう毛むくじゃらの魔物に対して「貴様がアマロの子か?」と剣呑な雰囲気を殺さずに言った。

 

僅かに後退りした魔物からの視線を、ギルガメシュはアマロから遮ろうと前に出た。それは反射だったが、アマロの温かい手に制止されたギルガメシュは振り返った。

 

ギルガメシュは聞いて曰く、「どうしたのだアマロ。あれは本当にアマロの、お前の子なのか。」

 

アマロは何も言わずに泣いていた。

 

ギルガメシュは驚いて問うた「何があったのだ!何か辛いことがあったのか!我は何をすればいい!アマロ!頼む!泣くな!悲しそうな顔をするな!あぁ、アマロ!我のアマロ!我に教えてくれ!我はお前のことになると、ほんの些細なことでも堪らないのだ!!」

 

ギルガメシュの肩を優しく押して、アマロは野獣の前に出た。

 

アマロは言って曰く、「君は、キングゥではないね?けれど、君は私の可愛いキングゥに瓜二つだ。全く同じだ。違うのは瞳の色だけだ。君は誰なのかな?」

 

魔物は叫びを上げた。

 

言葉はわからないが、その声が伝えようとするのが苦しみや悲しみであること、心からの叫びであることはギルガメシュにもわかった。アマロの、親しげな声に落ち着きを取り戻したギルガメシュは、アマロと魔物のやり取りを何も言わずに見守ることにした。

 

アマロは我慢できないという様子で駆け寄ると、その悍しい魔物を力一杯に抱きしめた。

 

呆然と抱きしめられた魔物は天を貫く絶叫を上げた。安堵と、驚嘆と、それら全てを上回る歓喜に打ち震える、空が晴れるような、空飛ぶ鳥が鳴くような爽やかで透き通った叫びだった。

 

アマロは抱きしめた魔物に向けて「美しい人よ、どうかその重苦しい靄を掻き分けて私の胸においで。どうか君のその本当の姿を見せておくれ。」と言い、魔物は煌々と瞬いて美しい女に変わった。

 

美しい女、シャムハトは涙を流して膝立ちになり、呆然と、信じられないものを見たような顔をして、アマロの柔らかい笑みを凝視していた。

 

どれだけの時間が経ったか、シャムハトは止まらない涙を自由のままにして、アマロとギルガメシュに頭を下げ、「新しき王よ、そして私を救って下さった方よ、全ての世界においてたった一人の御方よ、私をお救いいただき心から感謝いたします。私の名前はシャムハトと申します。女神に姿を醜く変えられて絶望しておりましたところ、貴方様に救って頂きました。私に出来ることならば、例えどのような過酷なことであっても従います。私は今日より貴方様のものです。」と言葉尻まで石に深く彫り込むように強く言った。

 

ギルガメシュは「十年も昔、巫女の一人が居なくなったのだ。それは、お前だったのか。」と聞き、シャムハトは「はい、新たな王よ。」と答えた。

 

シャムハトはギルガメシュに一礼すると、アマロに向かい合い、「全ての世界でただ一人の、私を救って下さる方、私はこの身の全てを貴方に捧げましょう。これはその誓いの証です。」と言って、アマロの胸に飛び込むように抱きついて、その唇を捧げた。

 

ギルガメシュは驚き、次いで憤慨し「シャムハトよ!巫女よ!お前は自分がしたことを理解しているのか!我の至宝に何の狼藉か!!!」と怒鳴った。

 

シャムハトはギルガメシュの怒りを気にすることなく、いやむしろ見せつけるように、アマロと深く舌先を交わらせて見せた。

 

ギルガメシュは怒り、宝具の鎖をシャムハトに目がけて投げつけた。

 

 

 

 

ギルガメシュの怒りを纏い、煌々と眩い天の鎖は、太陽神シャマシュが時として人々を飢えさせるような苛烈さで叩きつけられ、気象の神アダドの雷よりも一直線にシャムハトを貫いてしまうはずであった。

 

だが、ギルガメシュの怒りを、その剛力を根拠に、天の鎖がシャムハトへと伝えることは無かったのである。アマロ以外の誰しもが理解できない、実に不可思議なことが起きた。

 

シャムハトは貫かれようとも、アマロから離れるつもりは毛頭無かったので、驚いたが、自身の肉体が過不足なく無事であると知り、生涯を捧げてアマロに、生者として尽くすことが出来るとわかると、全く好都合だと喜んだ。

 

対して、ギルガメシュは口をあんぐりと開け、呆然と鎖が力なく、革の鞭のように垂れ下がり、しなるだけになってしまったことに愕然として、息することすら忘れて、縋るようにアマロへと視線を送ったのだった。

 

唯一何事の不思議がこの場で起きたのか、ギルガメシュの鎖に何が起きたのかを知る、アマロは、「ギルガメシュ、君が手にしている鎖は、私が私の子供に譲ったものの一欠片なんだ。」とギルガメシュへ、幼子へ伝えるように、ゆっくりと優しく言った。

 

ギルガメシュは我に返って「シャムハトよ、我も頭に血が上りすぎた…」と言った。ギルガメシュはシャムハトの応を待たずに顔を背けた。

 

シャムハトはギルガメシュの声を耳に収めていたが、応ずる素振りもなく、一心不乱に、アマロに縋り付く勢いで抱きついていた。

 

ギルガメシュは不満げに顔を歪め、アマロはギルガメシュに気を配ってから、シャムハトに「ねぇシャムハト、君はキングゥの血を、一際濃く継いでいるね。あぁ、でなければこんなに似ているわけがないもの。」と嬉しそうに言い、こうも続けて「だからギルの鎖は力を無くしてしまったんだね、キングゥの、私の子の血に反応したんだ。」と言った。

 

シャムハトは、「私の体に流れるこの血も、全てアマロ様に捧げます。ですからどうか、私を貴方のお側に置いて下さい。」と言い、これにギルガメシュは「シャムハトよ、お前の呪いは解けたのだ、呪いが解けたのだからお前は今すぐに家族の元へと帰るべきではないか。全てはそれからであろう。」と言った。

 

シャムハトは歯を噛み締めて、ギルガメシュは不機嫌を隠そうともしなかった。アマロは怯む素振りもなく、不安げな表情もなく、ただ「この森にもう用はない。獣達が獣達の家に帰るように、一度、私たちも私たちが帰るべき家に帰ろう。」と言った。

 

ギルガメシュは「その通りだアマロよ。我は一早く狩人達の心を安心させてやらねばならぬ。」と胸を張ってアマロの左手を取った。

 

シャムハトは「私の帰る場所はもうアマロ様にしかございません。」と冷たい水をギルガメシュに浴びせるように言い、アマロの右手を握った。

 

アマロは「それじゃぁ今度こそ、私たちの家に帰ろうか。」と言い、不機嫌な、けれど頗る幸福げな二人の伴の手を引いて、元来た道のりを辿った。

 

アマロが呪いを解いたことは天の主人となった豊穣の女神イナンナにすぐさま伝わり、イナンナは「この世界には、全ての世界で最も美しい存在がいるということよね、なら、どうして私の夫にならないことがあるのかしら。いいえ、そんなこと、絶対にあり得ないわ。」と言って、月の神の元へと、次の新月の時は何時であるかと問い質しに向かった。

 



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12黄金色の渇望 前編

一言感想付き評価に誤字報告、そして感想ダンケなっす!!貰えるものは災厄以外は貰う主義ですが、世紀末諸兄からのお言葉にはとても助けられます。精神的にも頑張ろうと感じます。拙者が単純なのもありますが、やはり言葉には力がありますね。拙者は優しい言葉かけられると嬉しくなります。メソポタミア編もそろそろ終盤です。では、どうぞ。


12黄金色の渇望 前編

 

 

 

アマロに手を引かれてギルガメシュとシャムハトが凱旋した。

 

怪物が死んだと思っている、気持ちの小さい、強く耳に刺さる言葉を好む民達は、狂ったようにこれを祝った。

 

ある人が言って曰く、「偉大なる王は怪物を倒し、慈悲深い大神官はこの世のものとは思えない美女を救い出した。」

 

この話はウルク中が、実りに感謝して、その実りを、倉に堆く積み上げるために、誰一人として昼に眠るものがいない季節になるまで、そして、その季節が終わった後に再び、他のどんな噂話よりも好まれて、人々の口から口へと行き来した。

 

アマロはあまりこの噂を好まず、ギルガメシュは好むとも好まずとも無く、シャムハトは全く聞く耳を持たなかった。

 

一度、全員で王宮殿にたどり着いたギルガメシュとアマロ、シャムハトは、互いにすべきことが何であるか、その順番は何であるのかを確認した。

 

ギルガメシュは、「シャムハトよお前はまず長く空けてしまった家に帰り、家族に無事を伝え、そして家の仕事をよく手伝ってから、それでもまだ我のアマロに仕えたければ、その時は王宮殿にくるがいい。」と言って、アマロは「私とギルガメシュは、第一に、ことの顛末を説明して、そして怯えている狩人達を安心させなければいけない。」と続け、シャムハトは、「畏まりました。では、また明日、シャマシュ神が完全に体を起こされましたら、王宮殿に、こちらに伺いたいと思います。」と締めくくった。

 

アマロは「気をつけて行きなさい。もしも困ったら、いつでも私を頼りなさい。」とも言い、ギルガメシュは「アマロの頼みであれば、シャムハトよ、お前を再び巫女として受け入れよう。」とも言った。

 

シャムハトは、「偉大なる王と、愛おしいただ一人の御方の慈悲に心から感謝を。」と応えたが、「しかし、私は二度と巫女に戻る気はございません。私は、この心と、この肉体を、アマロ様のためだけに捧げると、そう固く誓ったのです。」と付け加えた。

 

シャムハトが王宮殿から出ていくと、アマロとギルガメシュは、狩人達の心を安心させ、そして民に怪物は倒されたが賢きものであり、王の友となったのだ、と説明した。

 

民と狩人達は「野獣をも友にした、懐深き我らが王よ!貴方は英雄に違いない!!」と声高らかに叫んだ。

 

ウルクの民は、また一晩を通して大いに騒ぎ、そして次の日の、シャマシュ神が体を起こし、その背を伸ばす頃に働き始めた。

 

 

 

 

王宮殿を出た後、シャムハトは父と母と共に暮らしていた家へと向かった。

 

王宮殿から続く大通りに沿って、シャムハトは真っ直ぐに進んだ。

 

シャムハトはまず、豊かなもの達が、その富に任せて立派な館を連ねる、王宮殿から程近い通りのを通った。

 

豊かな者たちはシャムハトの美しい姿を見て、「おぉ、子供たちよ、お前たちもあのように、美しいウルクの女や、逞しいウルクの男になるのですよ。あの美しい方は、きっとさぞかし祝福されて生まれてきたに違いない。」と口々に、シャムハトの容姿や所作を褒め称えた。

 

シャムハトは次に、暮らし向きが貧しくない、上質な麦で作られたパンを毎日口にできる者たちが家を連ねる辺りを通った。

 

心に余裕がある、偉大な王が魔物を殺したという話の方を好むもの達が、「おぉ、なんと美しい!見よ!やはり、王がその手で怪物を殺し、そしてその怪物から奪い返した美女こそ、あの御方に違いない!あの方はウルクの宝である!」と酒の杯を掲げて言い合った。

 

シャムハトは最後に、ウルクの中では最も貧しい者達が住まう通りを通った。

 

ウルクで暮らしているにも関わらず、数日に一度しか肉と香辛料を口にできないと嘆く彼らは、「おお、貧しい我らにはあまりに勿体ない。なんと美しい御方なのだろうか。一度でいいから、お声を聞いてみたいものだ。」と家の中や、路地の陰から出ることなく、日頃の不満も忘れて言い合った。

 

シャムハトは家に着いた。

 

シャムハトが長らく空けていた家は、他の、見知らぬ誰かのものとなっていた。

 

シャムハトは戸を叩いて、「もし、ここにお住まいであった老夫婦をご存じではありませんか。」と、扉を開けた穏やかな顔つきの、身なりの貧しくない男に尋ねた。

 

男が言って曰く、「あぁ、すまないね、隣の方ならご存知であろうけれど、私はここに住んでからそう長くないのだよ、申し訳ないけれど、前に住んでいた人のことは知らないよ。」と言った。

 

シャムハトは「そうですか、えぇ、そうでしょう。」と言い、家の前から足早に去った。

 

 

 

 

シャムハトの境遇を憐れんだギルガメシュは、シャムハトに、ウルクで、最も素晴らしい所で暮らせるようにする、と言った。

 

シャムハトは素直に感謝して、この申し出を受けた。

 

ギルガメシュは、民にこの国で最も素晴らしい所は何処か、と聞いた。

 

民は「王よ、最も素晴らしい場所は、最も美しい場所です。」と口々に言った。

 

ギルガメシュは「では、何処が最も美しいのか。」と問うた。

 

民は「貴方様ほど、その美しい場所をご存じになっている方は、他におりません。」と答えた。

 

アマロの神殿が完成したのはこの頃のことであった。

 

ギルガメシュはアマロの側に、シャムハトを呼び寄せて、アマロが穏やかに暮らすこの神殿で暮らせるようにしてやり、シャムハトは感謝した。

 

だが、ギルガメシュはシャムハトの感謝を受け入れなかった。

 

ギルガメシュが言って曰く、「シャムハトよ、お前が神殿に暮らす事は許そう。だが、それは我が約束を果たしたに過ぎない。」

 

しかし、シャムハトもまたギルガメシュにどうか感謝を受け取ってほしいと言った。

 

シャムハトが言って曰く、「王よ、賢きギルガメシュよ、英雄よ、貴方様が私を好まれていないことも、約束を果たすことに哀れみ以外の想いを源としていないことも、私は重々承知しております。しかし、貴方様が知恵の神エンキの加護を受けているように、私にも、貴方様のお心の具合を、僅かばかりにも知ることができます。」

 

ギルガメシュは、「我の何がわかると言うのだ。」と言った。

 

シャムハトは之に、「私は十年もの間、ウルクから身を隠さねばなりませんでした。その間に母と父は天に昇り、私を知るものは誰一人としておりませんでした。だと言うのに、ウルクの民は私の美を、知りもしない、十年もの間、ウルクにいなかった私のことを、ウルクの至宝であると、美しい人であると、そう口々に言いました。私のことを覚えているものが誰もいないウルクで、貴方様は、過去の、巫女としての私を、例え噂話を耳にしただけど言っても、私を覚えていらっしゃいました。そのことに、私は感謝申し上げているのです。」と答え、ギルガメシュに最高の礼儀を払った。

 

ギルガメシュは穏やかに息を吐き、シャムハトを許すことを決め、この、賢く、また思慮深い巫女が、恐らく、アマロの心の、その奥にある、命を奪われてしまった、死を見届けられなかった、己の子供への愛苦を、その美貌と、賢慮を用いて、救ってみせることができるだろう、と思った。

 

ギルガメシュは不本意であった。最初にこのウルクの地で、アマロと出会い、アマロを愛して、アマロに愛された、自分ではない、或いは、自分にはない力を持ち、その力で自分の愛しい人を救うのが、この女であることに。

 

ギルガメシュは、己には無い、シャムハトの、その容姿を、その血を、そして女としての肉体に、生まれて初めて嫉妬したのだ。

 

ギルガメシュは、シャムハトに問うた。

 

ギルガメシュが問うて曰く、「シャムハトよ、賢き女よ、逞しき巫女よ、貴様はアマロを、我の愛しい人にその身を捧げるのだな、ならば、もしそうであるなら、貴様は子供を、アマロが愛することのできる子供を産めるのか。」

 

シャムハトは答えて曰く、「アマロ様が望まれるように、私も望んでおられます。私は貴方様の許しを得ずとも、アマロ様が望まれれば、その御子を産んで差し上げます。」

 

ギルガメシュは怒ることなく、沈黙して、その話の続きを促した。

 

シャムハトは続けて曰く、「しかし、アマロ様の心を慈しみ、最もアマロ様が慈しまれている方が、他ならぬ貴方様が、私があの方の御子を産んで差し上げることを、心から、私に許されれば、私はアマロ様の御心だけでなく、必ずや、お許しになった貴方様の御心にも、喜びと祝福を届け、失望と悲しみを決して届ける事は無いと、そうお誓い申し上げます。」

 

ギルガメシュはシャムハトに、アマロと共に神殿で暮らすことを許した。シャムハトは感謝して、ギルガメシュはシャムハトの感謝を受け取った。アマロは、愛するギルガメシュと、心惹かれるシャムハトと、これからは神殿に3人で共に住むのであると知り、心からこれを喜んだ。ギルガメシュとシャムハトも、咲いた花が霞むような眩しい、アマロの笑顔に、顔を綻ばせずにはいられなかった。

 

神殿の前には、毎日多くの民が集まり、美しい王と、美しい大神官と、美しい巫女への礼讃の歌を贈った。王はこれを許し、手を振り返し、大神官は微笑んだが、巫女だけは怏怏として楽しまなかった。

 

それでも、ウルクに君臨する三人の美人により、その繁栄は更に強固なものとなり、民が彼らへの称賛を一日として叫ばぬ日はなかった。

 

 

 

 

神殿に暮らし始めてから、暫くが経ち、王の家臣達は王に、王の宮殿で世の諸事を司るように懇願した。

 

ギルガメシュは、アマロと、そしてシャムハトと共に宮殿の、王の間で、国の大事に裁可を下すようになったが、ある古くからの習わしを重んじる廷臣が、自らの懸念を王に進言した。

 

廷臣が王に言って曰く、「王よ、偉大な王よ、賢きギルガメシュよ、貴方様は、どうしてそのように一度巫女としての立場を追われた者を、豊かとも、貧しきとも知れぬ、魔物に狙われたような女を、神官殿と同じように重用なさるのですか。王は、我々を信じられぬのですか。王は、我々、古くよりの廷臣が申し上げても、毅然としておられます。女、シャムハトの言ったことにも、王は毅然としておられます。しかしながら、王は、女シャムハトの言葉を、大神官様がお褒めになると、そのお言葉を、ご自身のお考えに優先されます。それでは、全く何方が王として、このウルクの大事を、真に司られているのか、我々にはわかりません。」

 

ギルガメシュは、この古くも、全く然りである陳言に、頭を悩ませた。

 

ギルガメシュは、王として、一度、どうしても誓いを解かねばならないのでは無いか、と苦悩した。

 

その苦悩は、シャムハトが、自ら遠方の杉の森へと向かうまで止まなかった。

 

ギルガメシュは、シャムハトの深慮に感謝したが、愛して止まないアマロの、その美しい顔に翳りが見えたことに、この世で最も深い海よりも更に深く衝撃を受け、心を掻き乱されたのである。

 

ギルガメシュは、全く、信じ難いことに、自らがシャムハトの遠出に対して深い安堵を感じていることに、その聡明な性質から、気づかずにいられなかった。

 

王の苦悩は、ウルクの豊かさが、今に頂に達したことを伝えるものであったと、そう、後の世の、全ての賢き者達が語った。

 

この時、ウルクは夢物語の中でも聞いたことのないような、太陽を月に変えてしまうような、大変な豊かさを享受していた。

 

曰く、糧を得るために種を植えれば、どのような場所からも、素晴らしい実りが得られる、と。

 

曰く、水は清く、例えどのように汚してしまったとしても直ぐに、以前以上の清らかさを手に入れる、と。

 

曰く、天はウルクに住む、全ての幸運な者たちに甘美に囁くために、そこに住む民の声に、苦しみと悲しみの声が混じる事は、他の国々が旱魃や飢えに苦しむ時でも、僅かにも無くなった、と。

 

ただ、その豊かさの根源には、唯、黒曜石の希望がその心豊かに、愛情に満ちた息を吐き出していることによって、その全てがなされているのだということを、神々の中でも、最も古いものたちだけが知っていた。

 

だが、殆どの者たちは、過去に、かの偉大な、神々の王であり、人間の王であったマルドゥーク王が、その素晴らしい治世の末に、人間の力を甚だしく高め、結果として神秘を欠いたことで、老いて衰えて死んだ事を何よりの証拠であるとして、人間の力が神々の恩寵を超えて、自分達を豊かにしたのだと、そう確信するようになっていた。

 

ギルガメシュは賢く、知恵と水の神エンキから与えられた、全てを見通す瞳を頼りに、この言葉に尽くせない、語るも烏滸がましい過信により、昨日まで何より信頼を置いていた、聡い家臣たちまでもが、得体の知れぬ大神官を、自らの寵愛するアマロを、その素性の確かからぬ、或いは艶美に過ぎるのを根拠に、王の側に侍るべきではないと、その、アマロの美しささえも分からぬほどに曇った心に任せて放逐する様に進言し出すのもまた、時間の問題であると理解してしまった。

 

シャムハトが杉の森へと向かった晩、寝台の上の人であるギルガメシュは、常に共にあるアマロに、その夜着を着崩した逞しくも、均整のとれた美しい体を預けて、その心に溜まった悲哀と忸怩たる思いを、その根底にあるアマロへの想いと共に、受け止めてほしい一心で打ち明けた。

 

ギルガメシュが語って曰く、「アマロよ、我はお前のことが愛しくてならぬ。だが、それは決して、お前が我と、我の治めるウルクに恵みを齎す存在だからのみではない。我は、アマロのことを、その全てを、心から慕っておるのだ。だが、我が守るべきウルクの民は、必ずしもその者たちの全てが、我と同じ心を共にすることはないのだと、そう、我は理解した。我は怖いのだ。いつか、我が心を尽くして、お前と共に築いた、ウルクが、その豊かさ故に、愛すべきお前を我から遠ざけることが。」

 

アマロはこれに答えて曰く、「ギル、君は王様だ。私は、決して、一度として君から与えられた全てを。君から贈られたあらゆる物を、その一つとして私にした事は無いと誓うことが出来る。いや、君と常に共に生きてきたのだから、君がそのことはよく知っているはずだよ。ギル、私はね、もしも君の愛する民たちが、君を讃えて、讃えるが故に私を追いやってしまいたいと、そう思うのはおかしい事ではないと、そう思うんだ。」

 

アマロの言葉に対して、ギルガメシュは目を怒らせ、泣きそうな顔で憤慨して言った。

 

ギルガメシュが言って曰く、「言うな!そのようなことを、我の前で言うな!アマロよ、我の伴侶よ、お前が例え冗談だとしてもそんなことを言うことが、我は神々の怒りを前にしても、断じて、断じて許容できぬのだ!だから、二度とそんな言葉を我の前で言うな!まるで、まるで我の前からいなくなることを受け入れると、そう言っているようではないか!」

 

ギルガメシュは食いつくようにアマロを羽交締めに抱き締めた。アマロは穏やかに微笑んでこれを受け止め、一方で少しばかりむくれてギルガメシュと目を合わせて言った。

 

アマロが言って曰く、「ギル、ごめん、ごめんよ。だけどね、私は一度として君から離れるなんて言っていないだろう。私はね、ギル、君の側から居なくなるつもりはこれっぽっちもないよ。ただ、民が望むと言うなら、私が今与えられている神殿も、大神官という地位も、全て私には過ぎたものとして君に返してしまって構わないと、そう言っているのさ。だからね、君が一声かけてくれば、そうしたならば私は召使いにでも、何にでもなって君の側にいるとも。」

 

アマロは、透き通る笑みでギルガメシュのささくれだった心を穏やかに変えてしまった。ギルガメシュは甘えたように抱きついたまま、すっかり安心して、アマロの膝の上に頭を乗せると直ぐ様に眠りについてしまった。

 

 

 

 

次の日に、ギルガメシュは民へと宣言した。

 

王が言って曰く、「大神官の位は今日をもって禁ずる。王の側に侍る者として、我が友として、ここのアマロを任ずる。アマロは、その慈悲によって偉大な神殿をこのウルクの民へと返還することを欲した。我はこの想いを汲み、我の民にこの神殿を与えるものとする。この神殿は民が学ぶための場として、いついかなる時も清潔を保ち、学舎として、ここで慎みをもって多くを学ぶのだ。」

 

民はこれに喜び、アマロの慈悲に感謝した。廷臣たちはすっかり安心したり、或いは企みの用がなくなったと喜び、または自分達の王が思慮深く民を最も大切にすることを称賛した。

 

アマロはギルガメシュと、これまで以上に共に過ごし、共に寝起きし、共に食べ、共に笑い、共に泣いた。

 

それはまるで初めてウルクに来た時の二人のようであった。

 

ただ一つだけ変わった事がある。それは、二人で一つだけ誓いに例外を作った事である。それは、互いのためであり、ギルガメシュが王として振る舞うことに迷いを生ませないためであった。

 

不別の誓いに曰く、「ギルガメシュが王として振る舞わねばならぬ限り、アマロはギルガメシュのそばを離れなければならず。ギルガメシュは王としての務めを果たさねば、アマロと共にあることができない。」

 

言い出したのはギルガメシュであり、それはアマロが他ならぬウルクの民により、その心と体の安寧を脅かされることを何より恐れたからである。アマロは、そんなギルガメシュの不安と配慮をよく悟り、これを受け入れた。

 

 

 



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13黄金色の渇望 中編

感想ダンケなっす!一言評価が嬉しかった!
12だけだと後味が微妙なので、13も投稿します。アーサー王伝説への期待を書いてくださった方がいらっしゃったのですが、幕間を挟んでからはブリテンに移る予定です。では、どうぞ。


13黄金色の渇望 中編

 

 

 

 

アマロとギルガメシュから離れ、静かな杉の森へと向かったシャムハトは、最も自分が安心できるこの森の中で、獣たちと戯れ、木々と語り、鳥たちと笑い合い、森の齎す恵みを糧として暮らした。

 

シャムハトは取り戻した美貌から、時折現れる狩人たちから求婚されたが、その全てを断り、二度と再び求婚されることがないようにと、更に深く森の奥に足を踏み入れた。

 

深くへと進んだシャムハトは、ある時、森を守る野獣であるフンババの姿を見つけた。

 

恐ろしいフンババに姿を見つからないようにと、シャムハトは隠れ、この神々の言いつけに忠実な、神々が人間を恐れさせ、その神秘の減衰を留めおくために使わされた野獣のことを、偉大で聡明なギルガメシュ王と、敬愛する主人であるアマロに伝えなければと思い、フンババから気づかれぬようにと、三日もの時間をかけて、少しの音も立てることなく森を抜け出すと、真っ直ぐにウルクの宮殿へと向かった。

 

シャムハトは休みなくウルクへと駆けた。

 

シャムハトは夜も昼もなく走った。

 

それは、ある夜のことであった。真っ黒な暗闇に支配されてしまった、最も美しい新月の夜のことであった。シャムハトは、悲劇の一夜以来のこと、一度として新月の夜を眠ることができなくなっていた。彼女はこの日の夜も、その止むに止まれぬ事情も手伝って、眠ることなく荒野を駆け抜けて宮殿へと、真っ暗闇の空の中でたどり着いた。

 

新月を頃合いと見て、遂に豊穣と美の女神であるイナンナは、再び、天の端へと愛牛グガランナの足を進め、そこから地上の者たちに語りかけた。

 

イナンナが言って曰く、「この新月の夜の暗闇の下で起きている巫女よ、殊勝なお前の体を借りるわよ。私は、私の夫となるであろう者に会わねばならない。」

 

イナンナの声は、この新月の夜に眠らずに走り続けたシャムハトの耳にまで届いてしまった。

 

シャムハトは叫んで曰く、「あぁ!イナンナ神よ!どうかお許しを!私の体を奪わないでください!私はもう二度と、例え貴方様といえどもこの身を異ならせたくはないのです!!私を変えないで!!」

 

イナンナはこれを笑うと、残念だけれど無理な相談ね、と言ってシャムハトの肉体を一晩の間奪ってしまった。

 

シャムハトが王や主人に伝えたかったことなど、イナンナには伝える気がなく、全ての者の目を誘うように、何時ものシャムハトならば死んでもしなかったであろう淫靡な香りを振り撒きながら、迷うことなくギルガメシュとアマロの眠る寝室へと向かった。

 

 

 

 

イナンナは部屋の前に着くと、艶のある声で「王よ、そして黒曜石の希望の御方よ、夜の遅くに失礼いたします。」と言った。

 

目を覚ましたギルガメシュは「誰か。」と誰何し、イナンナは「私でございます。シャムハトでございます。」と返し、ギルガメシュは「入れ。」と言った。

 

イナンナは部屋に入る前に身につけているものを全て脱ぎ捨てると、「王に折り入ってお話がございます。」と言って、部屋へと入った。

 

ギルガメシュはシャムハトがその豊満な肉体の全てを隠すことなく露わにしていることに、全く隠す素振りもなく驚き、そして直様怒りを露わにした。

 

ギルガメシュはシャムハトに、「貴様は何者だ!!我を愚弄するか!!」と一喝し、その怒りに任せて天の鎖を呼び出すと、これを手に握りしめた。

 

イナンナは淫らな笑顔で笑いかけると、さも当然のように「どうなされました?王よ、私は何者であるのかですか、王様もご存知かと思いますが、私はシャムハトでございますよ。何をしに参りましたかと言うと、伽に参りました。」と答えた。

 

ギルガメシュはこの目の前の得体の知れない、シャムハトの身でありながら、その中身の異なった存在を前にも、王の威厳を取り戻して冷静になり、淡々と感情の読み取れない声で問いかけた。

 

ギルガメシュは鋭い目を差し向けて「貴様の目的はなんだ。貴様は何者だ。シャムハトに何をしたのだ。シャムハトはアマロが目をかけている者である。シャムハトは杉の森に向かったはずである。今ここにある貴様は、シャムハトを騙るお前は何者であるか。」と厳しく口早く言った。

 

イナンナはギルガメシュの聡明さに満足して、その傲慢な本性をすっかりもろび出したままに、シャムハトの身を借りた自分の姿が、布一つ纏わぬ裸体であることも忘れて、堂々とこの賢い王を品定めながら、高らかに笑って「あはははは!素晴らしいわ!認めてあげる!ギルガメシュ!貴方は私の夫となることを許されても然るべき相手だわ!!」と手を叩いて喜んでみせた。

 

ギルガメシュは声に聞き覚えがあったので、「イナンナ神がどうしてこんなところに、よりにもよってシャムハトの体を借りて現れたのだ。」と頗る不機嫌な顔で言った。

 

 

 

 

イナンナ神は知らぬものがいない豊穣と美の女神である。その力は絶大であり、天の主神で父のアヌ神や太陽神シャマシュ、そして神々の王エンリルを除けばどれだけ権勢が逞しい神々でも頭を垂れる必要があるほど偉大な神であった。しかし、同時にイナンナ神はその力の強さを理由に己の欲するがままに振る舞うような奔放な神でもあった。

 

そのようなイナンナ神は、新月の元でも輝かんと美しいギルガメシュの容姿と、威厳溢れる声、逞しくも均整の取れた美体をまじまじと品定めし、自身の夫に相応しいと満足に思ったが、思い出したかのように王の隣で穏やかに寝息を立てる、まだ見ぬ美しい存在への期待を強くして、「ギルガメシュよ、あなたの美しさはよくわかったわ。けれど、私はあなたにだけ用があってきたわけではないのよ。あなたの隣で、美しい私を前にしても寝息を立てる、そこの黒曜石の希望とやらにも用があるのよ。さあ、私にお見せなさい。」と王にそこから退くように手を振りながら言った。

 

ギルガメシュはこの素振りに「イナンナ神よ、貴女は我と天上との神々との間に約束された誓いをお忘れか。」と聞いた。これはすなわち、例えアマロを見たとしても、我から奪うことはあるまいな?というギルガメシュの確認であった。

 

これにイナンナは「もちろんよ。覚えているわ。」と、全く覚えていないにも関わらずそう答えた。

 

ギルガメシュは渋々、この美しくも恐ろしい女神が約束を違えることは流石にないであろうと思って寝台上で身を退け、アマロへと視線が注がれるのを遮るものを無くした。

 

イナンナはギルガメシュの全く納得のいっていない態度に口を尖らせたが、黒曜石の希望への期待が遥かに上回り、ずかずかと大股で寝台に近寄り、体を横たえるアマロの顔を不躾に覗き込んだ。

 

そしてイナンナは絶句した。イナンナはギルガメシュを美しく、人間の中では最も秀でた存在であると認めたが、それはあくまで自分を除く全ての中で、という立ち位置でのことであり、自分の美貌を超えるなどとはエンマー麦の粉末ひと摘み程も思い浮かべたことすらなかった。それはどれだけ期待が大きく膨らんだとしても変わらぬことであり、現に、イナンナは黒曜石の希望とやらはギルガメシュの少し下か、少し上程度であると考えて顔を覗き込んだのだ。

 

しかし、現実にイナンナが目にしたアマロ・カジャタムという存在は、その全ての概念を超越するほど美しかった。いや、イナンナはこう言わざるを得なかった。自分はこの瞬間まで美しいものをこよなく愛する神であると言ってきたが、それは違う。自分の貌までを含めた全てはこの存在を前にして、美に最も近い概念に過ぎないものに転落してしまったのだと。むしろ初めからそうだったようにも思えた。

 

 

 

 

イナンナは一目見ただけでこの美しい存在の虜になってしまった。彼女は何とかこの方を夫と言わず、父と言わず、子と言わず、如何なる手を使っても我が物にしたいと願うようになってしまったのだ。天上で自身とこの人が仲睦まじく愛し合う様が何処までも甘美な現実として差し迫っているのだと、そう思うが早いか、イナンナ神は顔を上気させて想像の世界に旅立とうとする自分の首根っこを掴むと、顔に傲慢でこの上のない上機嫌を塗りたくり、友好的ではない視線を自身に向けるギルガメシュへと向き直って言った。

 

「ギルガメシュよ!あなたは私の願いを一つ叶えなさい!もしも私の願いを一つ叶えてくれると言うならば、私は今すぐにでもあなたの願いを何でも一つ叶えてあげるわ!もしも断ればこのウルクに災厄をあげるわ!」と腕を組んで柔かに言ったイナンナ。

 

退路を断たれたギルガメシュは、この聞き分けのつかない女神の願いが禄でもないことを、その不吉なほど満面の笑みから理解していたが、もしもアマロを求められたとしても、それは誓いに反するのであるから他の神々の手を借りることができるだろうと考えて、また冥界へとアマロを隠す手立てがあることに一旦は安堵して、警戒を露わに女神の次の言葉を無言で促した。

 

相手の思考になど全く興味のないイナンナは、話の詳細をほったらかして、ただ、この者の名前は何だ?とギルガメシュへ聞き、名はアマロである、との答えに満足気に頷き、口の中でその名前を飽きるまで復唱したところで、初めて目に知性が宿り、ギルガメシュへと自らの願いを伝えた。

 

「ギルガメシュよ!私はアマロを夫に迎えることに決めたわ!だからあなたは次の新月までにウルクを挙げて天界に届くほど素晴らしい婚姻の宴の支度をしなさい!豪勢に!盛大に!贅を尽くして私とアマロの初夜を祝うのよ!!そしたら私はあなたの望みを、次の新月の日に叶えてあげましょう!でも…出来なければ、このウルクに私が災厄を贈ってあげるわね!!」と、目をギラギラさせて、前のめりになってイナンナは言った。心の中も、頭の中も、刻一刻と時間が経つ程に、遅効性の毒のように身を焼くような慕情が満ち満ちていく感覚がイナンナにはあった。イナンナはそのことに前例のない満足と、幸福を覚えて酔いしれ、目は見る間も無く胡乱になってしまいそうだった。その間の、機を逃すまいという僅かだが過激な知性が彼女の瞳に狂気を宿していた。

 

 

 

 

ギルガメシュは「よかろう。イナンナ神の願いを叶えようではないか。」と、先ほどの警戒心に満ちた表情から一転して不敵な笑みで応えたのだった。ギルガメシュの表情の、更にはその原因である心情の変化になど、良くも悪くも全く眼中になかったイナンナ神は、「あなたの願いも聞いてあげないこともないわよ。」と底抜けに軽い調子でギルガメシュに聞いた。

 

ギルガメシュは、「では、一晩だけ望んだ者の姿を借りることのできる力をくれ。」と望み、イナンナは「はいはい。その程度なら簡単でいいわね。」と言って、気が早いのかその場で見窄らしい金の杯を持ってくると、「これで最初にすくった水を飲めば姿を一晩だけ姿を変えることができるわ。誰に代わりたいかなんて私は興味ないから好きになさい。それじゃあ次の新月まで、しっかり準備なさいね!!」と捲し立てた。

 

言うだけ言ったイナンナは、「新月の夜にお迎えに参りますわね、愛しいお方。」ともう一度アマロの寝顔を顔赤くして体をくねらせながらじっくりと太陽神シャマシュの瞼が持ち上がるまで見つめてから去っていった。

 

残された金の杯。それを寝台近くの水瓶の脇に布をかぶせて安置したギルガメシュは、朝日が昇りイナンナが帰ったのを確認してから寝台に身を再度横たえ、巫女や衛士達が起こしに来るまでの間、アマロの背に抱きついて眠りについた。

 

イナンナはシャムハトの体のままでウルクの街を出てすぐのところでやっと、自分がまだ人間の体に入っていたことに気づき、シャムハトに体を返した。シャムハトは我に帰るとイナンナに怒りを募らせたが、淫靡な女神であるイナンナにより得体の知れぬ者と契りを結ばされ、この身が穢されるようなことがなくて心底安堵した。

 

この晩のことをギルガメシュは、イナンナ神から捧げ物を頼まれたのだと民に説明した。民は日頃強まる人間の力に慢心して、神々は、イナンナ神は、すっかり傲慢になられてしまったと口々に嘆き、かこつのだった。しかし、王からの頼みであるからこのウルクの力を天に見せつけてやろうと奮起して、民は次の新月に向けて素晴らしい麦や豆、羊に葡萄酒の用意に取り掛かった。

 

ギルガメシュはイナンナ神が誓いのことを知らないにも関わらず知っていると言ったことを逆手に取ることにした。彼女が誓いを知っているにも関わらず、人間に不条理な要求をしたのだと、それは神々といえども道理に背くことであるとギルガメシュは理解していたのである。この賢い王は、いずれにせよ、かの傲慢な豊穣と美の女神の願いに従い、愛するアマロを差し出す気も、あるいは婚姻を祝うつもりもさらさらなかったのである。

 

 

 



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14黄金色の渇望 後編

感想ダンケなっす!!力が漲ります。では、どうぞ。


14黄金色の渇望 後編

 

 

 

 

天界に帰るのが遅くなったイナンナを怪しんだ父のアヌ神は、娘が人間達の世界で何をしていたのか、周りの神々に聞いて、シャムハトがあまりに気の毒だと思ったが、自分に身近な事柄には頗る鋭いイナンナはこの、自身に比べると温厚な父である主神に対して「父上!!私の婚姻を邪魔したらただじゃおかないから!」と機先を制して脅迫したため、アヌは何もシャムハトに報いることができなかったのである。

 

シャムハトは嘆きと安堵で足腰が立たず、それでも歩いて宮殿に辿り着いた。昨日のことはイナンナ神に体を奪われていたこと以外は覚えていなかった。ただ、フンババの存在は彼女が人間の王と主人に伝えるべき事柄として記憶から離れることはなかったのだ。

 

宮殿にたどり着いたシャムハトは衛士や巫女を押し退けて、必死に王とアマロの元に走った。しかし、緊張が解けたからか、或いは疲労が限界に達したのかはわからないが、シャムハトは体から力が抜け落ちていく感覚に逆らえず、意識の暗転と共に倒れ伏してしまった。

 

突然倒れたシャムハトを見守るばかりで触れることが憚られていた宮殿の者達。彼らの人だかりを見つけたのは、奇しくもアマロであった。彼は王としての務めを果たさんとするギルガメシュの志を受け入れて、一時、独り切りで、王の私室で半日を過ごしていた。彼はギルガメシュへと丁度、シャムハトに会いたいから外出を許してくれるように願い出に行くところであった。

 

人集りに、「どうしたのですか?」と声をかけるアマロ。宮殿に務める者達はこの美人が、黄金に比べるのも烏滸がましいほど、絶対的な寵愛を王から受けていることを存じていたし、何より目の前に倒れ伏してしまっている美しい、かの女人のことを任せてしまうには最適であると思われたために、彼女が突然に倒れ伏してしまい、しかとてその美貌に触れることは憚られて困っているのだと懇切丁寧に説明したのであった。

 

アマロは倒れ伏すのがシャムハトであると気づくや否や、平時には決して見せない驚きと焦燥を露わに、飛び跳ねるような勢いで、彼女の体を仰向けにして、これを横抱きにし、声をかける時間も惜しいと慎重な駆け足で王の私室へと向かったのである。

 

 

 

 

王の私室はギルガメシュの不在時は、つまりは昼間の時間、アマロの私室でもあった。アマロの数少ない私物である、使い古した獅子の毛皮を加工した毛布を敷いて、その上に二人で眠っている寝台に、アマロは目を瞑ったままの、顔色の悪いシャムハトを横たえた。

 

シャムハトは形の良い眉を歪めて、苦しそうに声を漏らしては、じっとりと汗もかいていた。アマロは自分が会いに行こうと思っていた相手が、一人宮殿に来ていたことも、ましてやその廊下で倒れていることにも驚き、そして自分が穏やかに過ごす間に自分の大切な者が苦しんでいたことに言葉に尽くせぬ恐怖を感じずにおられなかった。

 

いうなれば、彼はその人生における最大の苦痛と言っても過言ではない我が子キングゥの死を想起したのであった。どれだけ心からの愛を捧げていても、命ある者には必ず最期が与えられる。それは、アマロには理解できぬ恐怖にも繋がるものだったが、同時にアマロには決して味わうことの出来ない安寧でもあった。終着のない旅を歩む彼にとって、愛とは唯一の心の支えであり、己の生への答えでもあった。

 

しかし、いや、だからこそ彼は愛する者の死をその目に焼き付ける。自分のような存在を愛してくれる者に、与えられた以上のものを返せるとすれば、それは愛だけなのだから。最初の一息から、最期の一息までを自分だけは見届ける。それが、アマロという一人の漢の覚悟だった。

 

あなたがどんな裏切りに遭おうと、私だけは決して裏切らない。

 

あなたと共にいることでどれだけの苦難に見舞われても、私だけは決してあなたの元から離れることはない。

 

あなたが私にどれだけの不条理を働こうとも、私はそれらを全て受け入れよう。

 

あなたが私のことを必要としなくなったとしても、私だけは永遠にあなたのことを愛し続けよう。

 

あなたがこの世界に生きる全てのものから忘れられたとしても、私だけは永遠にあなたを覚えていよう。私だけはあなたを決して忘れない。そうすれば、あなたが忘却の孤独を味わう必要なんて無いのだから。

 

万年変わらぬアマロの真理において、愛する者の死は、その生と同等に決して譲れぬものなのだ。例え、誰がなんと言おうともその生と共に生きる。例え、何億年経とうともその死を忘れない。

 

だからこそアマロは苦痛と後悔に胸を灼き焦がし、死を見届け損ねた愚かな自分を責めるのだ。愛子キングゥの想いに添い遂げられなかった己を忘れてしまいたいほど憎んでいる。そして、己への憎しみに負けないほどに、愛しいキングゥに今一度会いたいと、今度こそ君に逢おうと、その想いを受け入れたいと願って止まないのだ。

 

シャムハトはキングゥではない。そのことはよく分かっている。誰よりも理解していると言っても過言ではない。全く違う二人だが、その姿形は少しも違わないのだ。それに、シャムハトがアマロに向ける想いの中には、感謝と忠誠という慣れない感情の他に、あの子と最後にあった時にも嗅いだ覚えのある、間違えようもない甘い香りが混じっているのだ。

 

アマロはその香りの持つ意義を妄想せずにはいられず、妄想だと分かっていても堪らなかった。

 

まるで、キングゥの慕情がそのままに、我が子が手にできなかった女体を獲得して舞い戻ってきたように思われてならないのだ。シャムハトがその胸の内に、隠せないほどの莫大な想いをアマロに募らせているのと同じように、アマロもまた、ギルガメシュへのこれまた強い想いとは別に、一種の暴力的なまでに澄み切った盲目な想いを彼女に抱いているのである。

 

シャムハトに添い遂げられなかったことを考えただけで、アマロは全身を氷柱に封じ込まれるような気持ちだった。意識のないシャムハト。アマロは彼女にただじっと寄り添い、その険しい顔を少しでも和らげようと必死で介抱した。恐ろしい夢にうなされているのか、苦しそうに呻く彼女の頬を涙が伝えば、母猫が子猫の垢を舐めとるように舌で掬い取り、シャムハトの額に浮かんだ脂汗を濡らした布巾で拭った。

 

熱はないが、夜通し走り続けた彼女には、その肉体に活力を与えるべき良質の糧が足りなかったのである。疲労と睡眠不足、そして怨恨深い女神に肉体の主導権を奪われたことへの、精神の急激な過負荷は彼女の体に当然の休養を要求したのである。

 

アマロの介抱はさらに続き、ウルクに昼食の時間がやってくる頃にやっと意識を取り戻したのだった。

 

 

 

 

意識を取り戻したシャムハトに気づいたアマロは雨に濡らされたように泣いた。シャムハトは疲労が抜けず、しかし最後の記憶をたどり自らが倒れ伏してしまったことを悟った。そして、その介抱を生涯尽くそうと誓った相手にさせてしまったことも。その相手にこの上なく心配をかけてしまったことも、同時に悟ったのだった。

 

恥いって頭を下げようとするシャムハトを制して、安静にして欲しいと、その持ち前の美貌にむせかえるような憂いを帯びさせて諭すと、アマロは「何か栄養のある物を貰ってくるから無理せずに寝ていてね!」と珍しく強い口調で言い残してから、厨房へと向かうため王の私室を後にしたのだった。

 

 

 

 

一人で王の寝台の上に残されたシャムハトは、言いつけを守らねばと思いつつ、これ以上は心労をかけたくないという思いの葛藤もあり、僅かな時間を安静の状態で過ごすと、慎重に体を起こした。

 

シャムハトは己が野獣フンババのことを王と主人に伝えるために駆け続けたことを忘れていない。しかし、アマロにより介抱を受けた、という事実はフンババのもつ危険以上に、聡明なシャムハトの思考の余白を賭すに足ることに違いなかった。

 

 

 

 

愛しい人を想い浮かべる内に、シャムハトは喉が酷く渇いていた。部屋の中で目を迷わせた。シャムハトは吸い寄せられるように、寝台の脇にある水瓶に近づいた。器を探そうとして、布の被せられた物を見つけた。布を除くと、それは金の杯だった。シャムハトは金の杯に水瓶から水を注ぎ、これを呷った。

 

冷たい水は彼女の喉を癒した。安堵の吐息を吐いた彼女の脳裏に、またもやアマロへの想いが浮かび上がってきた。

 

賢いシャムハトは、アマロが自身を大切に思ってくれていることを知っているのと同時に、自分の肉体の裏に、自分以外の誰かの影を見ているのだということも勘付いていた。その点について彼女は何ら恨みには思わず、また不安も抱かない。盲目なまでにアマロへの信頼と、例え裏切られてもいいという思いがあったからだ。

 

だが、シャムハトはアマロへと尽くしたいという思いから、また王から問われたアマロの御子についての話への答えからもわかるように、決して愛されるだけで満足しているわけではなかった。彼女はアマロの心の深くにある傷を癒そうと、そのために出来ることは全てしようと、並々ならぬ覚悟でいたのである。

 

故に、彼女は日頃アマロへと祈りを捧げる時と同じように「どうか、彼の方の心を救えますように。」と願ったのである。

 

彼女の言葉は、最初に掬った水を飲んだものを、願った姿に一晩変えてくれるという金の杯によって実現された。

 

救うものが何者なのか彼女は知らなかったが、彼女の体に流れているその血は間違いなく答えであった。金の杯とて、曲がりなりにも強大な神イナンナにより与えられたものであり、願い手の祈りを聞き届けるくらいの度量はあったのだ。

 

体が光り輝いた。

 

光が収まり現れたシャムハトの姿は、しかし全く変わっているようには見えなかった。瞳の色は紫に、声は少し低く変わっていたが、その二つ以外に関してはシャムハトのままであった。

 

彼女の姿が変化してから間も無く、アマロが帰ってきた。

 



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15黄金色の歓喜

感想ダンケなっす!!読むのを楽しみにしております。何か楽しくて、メソポタミア編が延びちゃいました。では、どうぞ。


15黄金色の歓喜

 

 

 

シャムハトは自身を介抱してくれたアマロに「貴方様のお手を煩わせてしまい申し訳ありません。心から感謝を。」と深々と頭を下げた。

 

だが、アマロから言葉が返ってくることはなく。変に思ったシャムハトは頭を上げ、主人の顔を伺った。

 

シャムハトが目にしたものはポカンと口を開けたまま、目を瞠るアマロの、見たこともないほどに驚いている顔だった。

 

シャムハトの顔を目にした彼は驚きを更に強めた。手は震え、果物がいくつか乗せられている銀の盆を手から落としてしまった。

 

そして、石床に銀の盆が落ちるけたたましい音が響くより前に、シャムハトは気付けばアマロによって押し倒されていた。

 

シャムハトが驚き何かを言うより先に、アマロが「あぁ!キングゥ!私の可愛い子!!もう二度と逢えないと思っていたのに!!いいや!例え幻でもいい!!もうどこにも行かないでくれ!!」と叫び、声を上げて泣き出してしまった。

 

困惑したシャムハトは、自分がキングゥではないと説明しなければ、と思ったができなかった。声を出そうとした途端に、彼女の体が火照り始めてしまったのだ。何事かと思えば、身体を自らの肉体に押し込めるように逞しい抱擁を続けるアマロの体から、馨しい薫りが立ち昇るように発せられるのが幻視された。驚きの光景を目にするのと同時に、自らが息苦しそうに忙しなく息をして、その薫りを求めていることにも自覚してしまったのである。

 

シャムハトは体に幸福が食い込む様な錯覚を覚えた。目は端からとろりと溶け落ちそうになり、身体からは力が抜けていくというのに、反対に目の前の相手にしがみつく力は無理矢理に振り絞られた様に強まっていく。先程潤したはずの喉は渇き切り、そこではじめて無意識に忌避していた、自分を覆うアマロと瞳を合わせた。

 

日頃の穏やかな姿からは想像もつかない、凶暴な二つの瞳がシャムハトを射抜いていた。シャムハトは体の芯が真っ赤に燃える鉄におきかわったように感じた。彼女の体の最も奥深くが疼いていた。

 

アマロは「キングゥ…私は覚悟を決めたよ。あの時は受け止められなかったけれど、今なら君を受け止められるよ。私は君と心の底から愛しあえる。」と言うと、無抵抗のシャムハトの唇を激しく奪った。

 

渾身に漲る愛情を全力でぶつけるという前代未聞の口撃にシャムハトは頭の中を一瞬で沸騰させ、その熱は彼女の冷静であった部分も蒸発させると、その柔らかく豊満な肉体に準備命令を発した。力強く押しつけられていた唇が離される。ふるるとシャムハトの艶やかな口唇が動いたかと思えば、彼女の舌先が蛇の様にちろちろと顔を出して揺らいだ。空を掻き混ぜ、その寂寥を慰めてくれる相手を探していた。

 

 

 

 

平時の自らの声より幾分低い声で、「どうか…私を抱いてください。」と口をついて出た言葉に、他ならぬ言葉を発したシャムハト自身が驚いていた。だが、不思議と言葉を訂正する気など微塵も湧き上がらず、それところか彼女は身体を寂しげにくねらせたり、脚を目の前の主人の腰に回すことに忙しかった。両手は既にアマロの背中に回されていた。シャムハトは酒に深く酔うような、心地の良い酩酊感を覚えながら、その傍で冷ややかに今の己を見つめる、もう一人の自分の存在を感じていた。

 

自分は何をしているのか、これは王への裏切りではないか、これはアマロ様を騙していることにはならないか、自分はこれで良いのか。そんなことが浮かんでは消えた。

 

シャムハトは自分を清い存在だ、などとは考えたこともない。彼女は自分を通してアマロが誰か他人を見ていることに不安を感じたことはなかったが、紛れもない羨望を感じていた。それは嫉妬の様に、誰をも害しうる類ではなかったが、アマロだけに注がれる自らの懸想に、願わくば応えてほしいという欲動でもあった。夢中になって欲しい、一時でもいい、私だけを見て欲しい。そう、シャムハトは心底で頑なに願っていたのだ。

 

だが、シャムハトは神に祈ることをやめたのだ。断じて神々に祈ることはできなかった。今彼女の心を燃え上がらせている幸福が、皮肉なことに、偶然とはいえ最も忌むべき神の手で成されたものだと知れば、或いは考えを改めたかもしれないが、しかし、少なくともそれくらい、彼女の本心は巡りあわせた逢瀬の機会に満足していたのだ。

 

 

 

 

シャムハトからの許しにより、アマロはその全身全霊でもって目の前の存在に愛を注いだ。

 

最も太陽が高く昇っている時から、太陽神シャマシュが仕事を終えるまで、ギルガメシュが執務を終え王の間にアマロが迎えに来てくれるのを待ちかねるまで、アマロとシャムハトは褥を重ねた。

 

アマロは珍しく我を失うほどに猛り、甚だしい熱量が投入された濃厚な逢瀬の、その勢いたるや凄まじく、二人が愛を重ねた巨石の寝台は基礎から真っ二つに叩き割れ、事後一日と経たずにシャムハトは腹を膨らませた。

 

 

 

 

シャムハトを解放もとい介抱してから、常の時間よりやや遅れてギルガメシュを迎えに行ったアマロであったが、迎えに来るのを遅れた理由を、この御仁は全く隠すことなくギルガメシュへと打ち明けた。

 

アマロは言って曰く、「ギル!遅れてごめんよ!だけどね、キングゥが帰ってきてくれたんだ!それで、私はもう堪らなくなってしまって、それで遅くなってしまったんだ…ごめんよ。」

 

ギルガメシュはアマロの言葉に驚いたが、自身へ良くも悪くも隠し立てをしないアマロの心掛けに、その信頼に応える様に「うむ!流石は我が伴侶、常人の恥じらいなど不要!大義である!」と胸を張り言った。

 

だが、そんなギルガメシュの自信に満ち溢れた表情も、夕食を取るために私室へと戻った際に崩れ落ちてしまう。

 

「こ、ここで、一体何が起こったのだ!!アマロよ、怪我はないか!」と私室へ入るや否や、ギルガメシュは部屋の惨状に、主にはヒビの走った床と、真っ二つに叩き割られた寝台に理解が追いつかず、また之に血相を変えてアマロに詰め寄った。伴侶の身の心配を何より優先するところは流石であるが、アマロは全く無傷であった。

 

安堵と同時に混乱を抑えようと必死なギルガメシュは、その後、詳しい説明を求めつつ、その内容が甚だ自身の知る逢瀬とは異なることに、いや、何の変哲もない内容だからこそどうして寝台が叩き割られてしまうのか理解できずに、全く味もわからないまま夕食を終えた。

 

猥談を食事の席でするものではない。ギルガメシュはそう締めくくると心を切り替えた。今、彼の心を満たしているのはアマロの相手となったキングゥなる幸福者へのほのかな嫉妬と、其の者が味わい尽くしたアマロとの契りを、自身も、神により与えられた杯の力によって味わえるであろうことへの興奮と期待であった。

 

月の明かりのみを頼りに、この仲睦まじい二人は並んで寝台に敷いた獅子の毛皮の上に寝転ぶ。寝る前に新しい寝台を用意しなければならなかったが、それも恙無く終えて、二人は程よい微睡と共にあった。

 

酒に酔わずにアマロと繋がりたい。そう願い、しかし正常な状態で言葉を交わすことも気恥ずかしく思っていたギルガメシュは、いつものように寝付くまでのアマロを観察しつつ、深く寝入る寸前に敢えて声をかけた。

 

ギルガメシュはアマロに「アマロよ、我はアマロ、お前を慕っておる…それは、心だけでなく、肉体までを合わせてもいいほどに慕っているのだ…」と穏やかに語りかけた。アマロは半ば眠りつつ、「私もだよ、ギル…君のことを、思わなかった日は無いとも。」と答えた。

 

ギルガメシュは顔に火を灯したように赤くなり、すっかり心を明るくすると、傍から水瓶をとり、金の杯に注いでこれを一気に呷った。金の杯から布が除かれていることに気づかなかったギルガメシュ。月の明かりが揺らぎ、一時漆黒の闇が訪れた。互いの姿が見えぬままに、ギルガメシュは、赤面しつつも確固たる信念のもとで平時のシャムハトの口調を真似て、「あ、アマロさん、わ、私を抱いてくれませんか。」と声をひそめていった。誰にも、アマロ以外には聞かれまい。ギルガメシュの意地であった。だが、ギルガメシュがシャムハトの口調を意識したのとは裏腹に、彼の伴侶はその声をかの幼き日のギルガメシュのものと受け取った。

 

無論のこと、姿形がギルガメシュのままであることに、幸いなのか不幸なのかわからないが両者共に気づいていなかった。ギルガメシュが続けて「愛してます。」とか「私の身体をお好きになさって下さいください。」と繰り返し囁くので、アマロはいよいよ身体を起こした。

 

幼い頃の口調に戻った時、即ち、ギルガメシュが甘えたい時である。これまた運が無いのか有るのか判断し難いことであったが、ギルガメシュの声に、その声が紛れもなく男の威厳ある声であるにもかかわらず、アマロは昼間のように全身全霊で応えることにした。アマロが向ける愛情は、ギルガメシュの思慕とも少し異なるものであったかもしれないが、しかし圧倒的な質量と重みを伴う、謂わば実りあるものであった。幼い頃から片時も離れずに過ごしてきたギルガメシュへの愛情はひとしおであり、そこには一点の曇りもなかった。

 

心の底からの愛情の成果と云うべきか、ギルガメシュの健気で可愛らしい企みが、想定外の事態によりそもそもから崩壊していることをギルガメシュが知ることは無かった。

 

 

 

 

夜通しの情事によりギルガメシュは腰を痛めた。この負傷により彼は一週間起き上がることができなかった。また、寝台は例のごとく、いやそれ以上に砕かれてしまった。具体的には、ギルガメシュの「もっと!」という声に快く応えたアマロの妙技によって、跡形もなく粉々になってしまったのである。

 

互いに初めてのことであったが、ギルガメシュは腰が痛いことを除けば何の不快も無かったらしく、彼は「恐らく我の生涯に味わう他の全ての快楽を凝縮しても、アマロと夜を共にすることの足元にも及ぶまい…。」と感慨深く回想している。

 

ギルガメシュはこの晩以来、やっと世継ぎ問題に取り組むことにしたのであるが、しかしこれは全くの失敗であった。ギルガメシュは性技や雄としての格を含めて全てにおいて王に相応しかったが、女性との情事において、悲しいかなその度にアマロと過ごした夜と比較してしまい、満足というものを得ることができなくなってしまったのである。一層彼はアマロただ一人への情に心を傾けずには居れなかった。

 

「アマロと愛を交わしたことに一点の後悔も無いが、閨での己のかよわさを思い知らされる上に、中毒性が老若男女問わず狂気的なものがある故に気をつけるがよい。」とはギルガメシュが言い始めたことであるとされている。

 

アマロが何の躊躇も、忌避感もなくギルガメシュの想いに応えたことは…具体的には抱き潰して一週間執務を滞らせたことは…ある意味ではギルガメシュにとって金にも勝る素晴らしい解答であった。つまりは、この夜以来、アマロに誘いをかけることへのギルガメシュの懸念は晴れたのである。また、アマロにはギルガメシュが王としての自分になりきれる様にと一般的には清潔な関係を保つべきだと考えて行動していたらしく、ギルガメシュの本心を知って以来は、執務が滞っても問題がない場合に限りギルガメシュを盛んに受け入れる様になった。受け入れるのはどちらかと言うとギルガメシュなのだが…。

 

それはさておきシャムハトとギルガメシュ、そしてアマロにとって実に意義あるものとなった日の翌る朝、シャムハトの腹が何ヶ月と経った後の様に膨らんでいるという話が、ギルガメシュの耳にも届いたのである。

 




では、また。


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16黄金色の未来

感想とか一言評価とかダンケなっす。では、どうぞ。


16黄金色の未来

 

 

 

 

シャムハト受胎の報せはウルクに知れ渡った。民は国一番の美女が王の子供を成したのだと歓喜し、これを祝った。それは宮殿の中では一際顕著であった。すれ違い度に幾度とかけられる祝福の言葉。「貴方が王のお世継ぎをお産みになるとは思いもしませんでした。」とか「めでたいことだ。我がウルクは次代も安泰である。」とか、人々は好き勝手にシャムハトに言葉をかけた。

 

だが、当の本人は沈痛な面持ちをして、これらの言葉をかけられる度に不機嫌になり、全く楽しむことがなかった。

 

ある日、ギルガメシュはシャムハトを呼び、前置きもなく「アマロの子か。」と問うた。シャムハトは緊張の面持ちで肯んじ、ギルガメシュは瞳を瞑り「暇を出す。静養せよ。アマロの子に大事があってはならぬ。」と簡潔に言うと、玉座の間を立ち去った。

 

王の子では無い、という話が広まったのはシャムハトが住まいをアマロが暮らしていた森に移してからのことであった。ウルクの人々はシャムハトを、王の巫女でありながら王以外の子供を身籠るとは、と不満を口々にかこつのであった。ギルガメシュは、いつもの清々しさを伴わない、言うなれば愚者の傲慢をさえ露わに、これらを鼻で一笑にふした。

 

シャムハトがウルクから去ると、ギルガメシュはアマロにシャムハトの妊娠を隠して彼女は森へと居を移したと説明した。アマロはギルガメシュを疑うことなく、次に彼女に会えるのはいつだろうかと訪ねた。ギルガメシュはなるべく早くであること以外は答えなかった。そして、シャムハトの背中がウルクから遠く離れてから、ギルガメシュは安堵の息を漏らした。

 

王は淡々と執務に励む傍ら、街に出ては貴賤に別なく才女を選び、これと契りを結んだ。その絶倫ぶりは巷で噂になるほどであったが、結局子供は生まれなかった。これに廷臣達は頭を悩ませ、ギルガメシュはただ一人密かに安堵していた。

 

 

 

 

我が子が生まれた時、自らがアマロを蔑ろにするのでは無いかと、ギルガメシュは気が気ではなかった。

 

だが、王の務めを果たさねばならない。彼は己の使命とも向き合うつもりでいたのだ。

 

しかし、王であるギルガメシュが、必ずしも一人の情ある人間としてのギルガメシュと等しいわけでは無い。王は民を安んじなければならない。王は神々と人間を結ばなければならない。イナンナの要求には、盛んな宴を催せという要求には、存分に応えるつもりだった。一方、アマロがイナンナの夫として迎えられるなどとは、例え表心にも願ってなどいなかった。

 

許せるわけがなかった。ギルガメシュにとって、王よりも、己よりも、アマロが大事だった。それは、己の血を受け継いで生まれるであろう、次代の王という存在に対しても同じであった。ギルガメシュにとって、アマロが隣で穏やかに微笑んでいてくれることは息をすることよりも遥かに重要なことであった。そして、それは彼にとってだけではなく、ウルクにとっての大事でもあると、そうこの賢王は予見していた。

 

また、それは全て王である己と、民と、そして個人としての己のためでもあった。もしも、アマロが奪われる様な事があれば、ギルガメシュは冗談を含まずに、すっかり気が狂ってしまうという確信があった。

 

その笑顔が一時曇るだけで、それだけで心が引きちぎれる様な、そんな耐え難い苦痛を限りなく味わうのだ。ギルガメシュは己の気が触れないためにもアマロと共に生きる方法を模索することに必死であった。

 

そんな最中、ギルガメシュはアマロの子供という存在が生まれ得るという現実的な問題に直面した。そして、それは現実として目の前に迫っている。ギルガメシュは心に浮かんだ、爪先程の不安を、子供の誕生によりアマロが己から離れるのではないか、という荒唐無稽な脅威すらも許せなかったのである。故に、彼はほんの出来心からアマロにシャムハトの妊娠を教えることをよしとしなかったのである。

 

 

 

 

神聖な森に腰を落ち着けたシャムハトは、あの日のことを思い出していた。実に幸福な記憶であった。

 

半日の間だけ、あるいは一晩の間だけ、イナンナの神秘によりシャムハトはキングゥの、つまりはアマロが求めて止まない存在の姿を借り受ける事ができた。これは、本来ならば叶うはずもなかったことであるが、シャムハトがキングゥの血を濃く引いていたこと、紛れもなくアマロがキングゥを求めていたこと、この二つの念願が神秘に汲まれる形となって実現したのだった。

 

アマロは情熱的にシャムハトを求め、それは前人未到の快楽としてシャムハトに襲い掛かった。我が子へ莫大なものを抱えていたアマロは、それは後悔であり、互いに交わされる事がなかった情愛であったが、その身の全てをぶつけることでキングゥの想いを受け入れようとしていた。

 

故に真正面からそれら全てを受け止めなければならなかったシャムハトは数えるのも億劫なほど何度も果てては、その度毎に快感と咽せる熱気で揺り起こされ、終わることのない幸福を味わい尽くした。

 

甚だしい情交は彼女の全てを塗りつぶした。激しい行為に全身の力が抜け落ちたが、しかし意識を失うこともできず、かと言って苦痛ではなかった。むしろ、手足体が勝手に力を振り絞り、目の前のただ一人の存在を求めて、逃すまいと動いた。平時ならば失笑されるような無様な有様も、ことあの場所にあっては何も言えまい。

 

辺りが暗くなるまで、一度も気絶することを許されずに昇り続けたシャムハト。彼女の姿がキングゥのそれから、彼女本人の姿に戻ったのと、未だ漲るアマロの瞳に優しげな知性の光が宿されたのは同じ頃であった。

 

シャムハトは恥からではなく、純粋な逃避から自らの身を抱いた。彼女にとって、アマロへの贖罪以上に、アマロからの寵愛を失うことの方が恐怖であった。いや、より深く正確な言葉を選び出すのであれば、そこには彼女がイナンナにより舐めた辛酸の味を鮮明にさせるようなものがあったに違いなかった。自らの姿の変容に対する罵倒を、劣化とも、昇華ともなく彼女は恐れたのである。変わらない事が、言ってみれば安穏であったに違いない。

 

 

 

 

変わって現れたシャムハトの姿に対して、当のアマロは少しの不服や怒りも見せなかった。そのかわりの情感の表現として、彼は温い涙を用いた。

 

シャムハトはアマロが涙する理由がわからなかった。だが、彼女の唖然が終わるより先に、口元に熱が広がった。

 

それまでの情熱的で淫靡な接吻とは打って変わった、実に頑なに純情な口づけであった。顔と身を隠そうと騒ぐシャムハトの両の腕を掴むと、嗚咽を堪える、見るに耐えぬ絶望に固まった彼女の顔を支えて口付けたのだ。

 

互いに瞳を閉じて、唇をやや突き出す様にして交わされたそれは、なんとも青い余韻を残した。シャムハトの顔は絶望から驚愕に移り変わり、そしてすぐに赤く照れた顔に落ち着いた。

 

アマロは「シャムハト、君が何を思ったのか、私にはわからないけれど、私は君がキングゥの姿で私の前に現れたことにも、君が君の通りシャムハトの姿に変わったことにも、これっぽっちも怒ってはいないんだ。それは、そうだよね。シャムハトがどこかへ行ってしまった訳がないもの。なのに、私は自分に都合がいいからと、君をシャムハトとしてではなく、キングゥとして受け入れてしまったんだ。全て私の思慮が足りなかったのが悪かったんだ。」とシャムハトの涙を指で拭いながら謝罪した。シャムハトは言葉もなかったが、アマロがキングゥとして自らを見ていたことを素直に認めたことに、安堵と、そして嫉妬を抱いた。

 

シャムハトの心の内などアマロは全く存じ上げてなどおらなかったが、しかし、この男は続けて「シャムハト!だから、今から日が完全に沈むまで、私はシャムハトをシャムハトとして愛したいんだ!」と宣うと、全く明け透けな告白に驚きと嬉しさを覚えて顔を萌やしたシャムハトを押し倒し、それまでの激しさを遥かに上回る勢いでシャムハトに愛を注いだ。

 

シャムハトは自身が孕ったことを、その日のうちに確信していた。そして、子供を産むのならばと選んだ住処こそ、アマロがウルクに訪れるまで一時期過ごしていたという神聖な森であった。この地は神の恩寵も厚いと伝わる良地であり、何より彼女にとって第一だったのは他でもないアマロの穏やかな暮らしを追体験できることにあった。

 

彼女はキングゥという名も知らぬ、その血の源となった存在を自身に重ねて愛を交えたアマロに、欠片も怒りを抱くことはなかった。そこには盲目的な敬虔さがあったのも違いないが、しかしアマロの美しいが故の苦悩を、同じ美という一点で全てを奪われた覚えのあるシャムハトには理解できたという理由もあった。

 

彼女は元来の共通点に加えて、アマロの過去の思い出や暮らしぶりにおいてもこの森を通してアマロの良き理解者足らんとしていた。

 

 

 

 

誰かの平穏が約束されている場合、誰かの幸福が約束されている場合、その裏では誰かの憤懣が蓄積され、誰かの平穏が脅かされている事がしばしばである。

 

 

 

 

ある時、アマロはギルガメシュを誘い、シャムハトに会いに行った。

 

シャムハトが暮らしていたのはアマロとギルガメシュが初めて出会った場所であるから、向かう二人が迷うことは無かったが、少なくともギルガメシュの心持は重たかった。嘘をついたわけではない。単に沈黙していただけだ、とギルガメシュは己に言って聞かせ森の奥へと進んだ。気持ちが前へ前へと一歩も二歩も先を行くアマロの背中を追いながら、ギルガメシュは久方ぶりに森の奥へと引き込まれる感覚を覚えた。

 

何時ぞや、もそうであった。ギルガメシュはその時、まだ王では無かった。だが、間違いなく生まれついた時より、何者かであることを強いられていたのだ。そこに果たして自由なんてものがあったのだろうか。幼いギルガメシュは聡明であった。一人前の気概の持ち主であった。しかし、それでもギルガメシュは幼かった。彼は心を閉ざすのではなく、ただ求められる何者かになる為にもがき苦しんでいたのだ。そして、王としての矜持の完成を、この森で得たのだ。

 

傲慢であれ、奔放であれ、ギルガメシュは王としてその日から生きてきた。何故、今こうも感慨深く考えが巡るのか、そのことはギルガメシュにも分からなかった。しかし、再び、この森で何かが始まろうとしていることは、その全てを見通す瞳によって理解していた。

 

ギルガメシュは自分の青臭さも、誇りも、目の前を進む自身よりも幾分頼りない背中に預けてきた。王として、少年として、使命をもつ者として、ギルガメシュはこの縛ることのできない背中に憧憬を抱いていたのかも知れない。彼の思考は、森を抜けることを知らせる、穏やかな木漏れ陽との再会をもって締め括られた。

 

 

 

 

木漏れ陽が匂う、侵し難い穏やかさに包まれた空間がそこにはあった。片時も変わらないその美しさは、ギルガメシュにも、アマロにも、きっと時間が遡ったような錯覚を与えたのだ。あるいは、二人の心はこの地から離れることなく、不朽の思い出として共有されていたことを喜び合うべきだろう。

 

浅く流れる清水が、木々が赦した光を受けて燦き、どっしりと構えた大樹がぐるりとこの空間だけを守るように囲み、時折うろを大口で欠伸をするように開けている。個性豊かな老木たちに囲まれた柔らかい草本の敷物の上で、彼女たち二人はギルガメシュとアマロを待っていた。

 

その美しさに翳りは見えない。シャムハトは待ち人の到来に静かに頬を緩めて二人を迎えた。ギルガメシュは声をかけようとして、口元にアマロの人差し指が立てられていることに気づいた。どうしたのか、と疑問の目で語りかけるギルガメシュ。アマロはシャムハトに物音立てずに寄り添うと、彼女から優しくなにかを受け取った。

 

ギルガメシュは口をむずむずさせながら、アマロが行きとは真逆のゆっくりとした摺り足で側に来てくれるのを待っていた。

 

アマロは、その腕に抱いているものをギルガメシュに見せながら、ギルガメシュの耳元に口を寄せて言った。

 

「ギル、赤ちゃんが眠ってるんだ。だから静かに、だよ。」と囁いたアマロの声は、静かだが歓喜に満ちていた。ギルガメシュは口をむにむにさせてから、ふん、と息をなるべく大きく鼻から吐き出すと、「よかったではないか。」とだけ静かに静かに言った。

 

アマロは太陽神も隠れるほどに眩しい笑顔で「うん…うん。よかった、本当によかった。」と頻りに頷いていた。涙で瞳が潤んでいた。負けてられぬ、とシャマシュは照り返しを強くして、その光がアマロの瞳で弾けては燐光を咲かせた。体をゆるく揺らして、既に優しげな翠の御髪が生え揃った赤子をあやす彼の姿に、ギルガメシュは見惚れていた。そこに嫉妬はなかったと思う。ただ、こういうものが美しいのであると、そう強く心に訴えられているようであった。

 

産まれた赤子は母親のシャムハトに瓜二つであった。ただ、瞳の色は母親の黒色とは異なり、全く煌かんばかりの黄金色だった。

 

赤子には、キングゥの血に守られるようにと、そして父アマロの第一の方であるギルガメシュとも相性が良くなるように、との願いでギルガメシュにも加護を与えた、知恵と水の神であるエンキの名前からエンキドゥと名付けられた。

 

ここに、エンキドゥが誕生したのである。

 

シャムハトに赤子を返したアマロは、それからも笑顔を絶やすなど不可能であるようだった。すやすやと眠るエンキドゥを抱くシャムハトを抱きしめては、「ありがとう。シャムハト、私は幸せ者だ。こんなに可愛い子供を産んでくれて、君にどれだけ愛を伝えればいいのか、私にはわからないほどだ。あぁ、幸せだ。なんて嬉しいんだ。嬉しくて、愛しくて仕方がないんだ。産んでくれてありがとう。頑張ってくれてありがとう。シャムハト、ありがとう、本当にありがとうね。」と微笑み、涙を流しながら何度も彼女を労わるように体を摩り、頬を撫で、その誇らしく美しい髪に、儚く嫋やかな手首に、しなやかで艶かしい指先に、下るに順い、互いの想いを繋げるように唇を落とした。

 

シャムハトは心地良さそうにアマロの抱擁を受け、想いを伴にする様に、同じように唇を返した。アマロは顔を赤くして、より一層のこと彼女を胸に仕舞うように身を寄せた。

 

シャムハトとアマロの熱に我を取り戻したギルガメシュは、赤子が目を覚ましていることに気づいた。エンキドゥと名付けられた、この翠の御髪が映える、これまた空にも陸にも探せば見つかると言う者ではない、あどけなさに抜けるような美しさを湛える赤子は、目を覚ましていると言うのに泣きもせず、ただ、ぽんわかと父親と母親が泣きながら喜び合う様子を静かに、不思議そうな貌で見つめているのだ。

 

赤子から目を外したギルガメシュは、この子の不思議を見てやっとこさ理解した。いや、思い出したのである。「あぁ、アマロとはそういうものであったな。」と。

 

ギルガメシュは、己が出逢った不思議に、たった一目で虜になり、気づけば片時も離れずに十余年と夜と昼とを共にした相手を、その限りなさをすっかり思い出したのである。アマロが今日、この日まで一度もシャムハトに会いたいと言わなかったのも、全て知っていたからなのだろうな、とギルガメシュは己の浅はかさに苦笑した。そして同時に、アマロが少しも迷うことなく、シャムハトの抱いていた赤子を我が子と認めたのも、初めから知っていたからなのだろうな、とも思ったのであった。

 

再び赤子を見遣ると、エンキドゥはギルガメシュを不思議そうにじっと見ているではないか。ギルガメシュは今度は目を逸らした。

 

嫉妬に狂った自分に、どこか酔っていたのやも知れぬ、とギルガメシュは自覚した。今の自分に同じ雑念があるだろうか、彼はそう思い、今度は逃げまいとエンキドゥのくりくりとした瞳に、己の瞳を合わせた。

 

エンキドゥの満々たりし黄金色の瞳には、三人の姿が揺蕩っていた。シャムハトと、アマロと、そしてギルガメシュの姿が映っていた。シャムハトとアマロは幸せそうにしているが、ギルガメシュだけはなんとも真剣勝負といった険面である。全く滑稽に過ぎる。

 

くしゃりと歯を見せて笑ったギルガメシュは、顔を上げて、瞳を閉じて、少し深く息を吸った。吸った息は鼻からゆっくり吐き出した。焦りはなかった。

 

自分は少しアマロに意地悪してしまった。これは反省しなければ、と瞳を開いたギルガメシュはからりと一顧に自省して、「我にも赤子を見せてみよ!」とわざわざいつもの様な声を張り上げて、シャムハトとアマロが揃って口元に人差し指を立てる姿を甘受した。

 

今だ!とでも言うように、エンキドゥが一拍遅れて泣き出したのはそれからなのであった。

 



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17黄金色の幸福

感想。一言評価。誤字報告。いつもダンケなっす!さぁ、エンキドゥが待ちかねています。では、どうぞ。


17黄金色の幸福

 

 

 

 

新月の時は近い。素晴らしい日が待っている。そう口遊み、輝きを纏いながら、天の主人であり、豊穣と美の女神イナンナは偉大な神々の心に猛烈な雷雨を巻き起こしていた。

 

暫し前、イナンナは突然に下界へと赴いたかと思えば、見たこともない笑みで天界へと帰還して、「私は最高に最高な夫を迎えるから、お前たち!早々に私の婚姻の準備を始めなさい!」と言い出したのである。

 

神々は訳がわからずイナンナに「おぉ、天の主人にして美しきイナンナよ、貴女はどうしてそこまで猛られるのか。」と問い、イナンナは「私は運命の男を見つけたのよ!この美の女神に相応しい…いいえ、美の女神にも勝るほどの、真の美と出会ったの!私以外が、どうして彼の方を夫に迎える事ができるというの!」と答えた。

 

神々はイナンナ神が淫靡だが、全くそういった執着を持たないことを知っていたので、このことに驚いた。まさか、あのイナンナ神の心を射止めるようなものがいようとは、と噂しあった。しかし、この時のことはあくまでも何時もの激情に任せたものだと判断され、「いやいや、まさかあのイナンナ様が心から男を、ましてや人間を愛される訳もない。立ち枯れになることだろう。それまで、我々はおとなしくしているのが良さそうだ。」という噂に上書きされたのである。

 

 

 

 

果たして、イナンナ神は本気であった。

 

全く動く気のない神々に痺れを切らしたイナンナは自分に従わなかった神々を、天界の主人の大権を濫用し、一種の拷問にかけてまで婚姻の支度を始めさせたのである。神であるゆえに、神秘が枯れ果てない限り死なないとはいえ、神々はこの恐ろしい女神の所業に震え上がり、各々に一方的に割り振られていた役割を果たし始めた。

 

イナンナは全く聞き分けのつかない神々に手を焼いたが、次第に飽き始め、それならば好きにしろと放逐する代わりに、神という神に、如何に私の夫が素晴らしいのか、私の夫が如何に天界に相応しいのか、美しいのか、魅力的なのか、について滔々と語り続けるという暴挙に出たのである。

 

神々に残されたのはイナンナの派閥に入り彼女の婚姻に協力するか、協力を断り、協力を承諾するまで眠ることも許されずに自慢話を聞き続けるか、の二択であった。

 

恐ろしいことに、恋するイナンナ神には恐怖だとか遠慮だとかいう軟弱な概念を殲滅してしまったのだろうか、彼女は父であり主神アヌや神々の王エンリルに創造の女神エア、果ては太陽神シャマシュにまでこの論法を駆使したのである。

 

最も働き者の太陽神シャマシュに対して詰め寄せたイナンナの剣幕は凄まじく、遥かに力強く偉大なシャマシュが協力を拒んだとなるや、その憤怒に任せて金星を彼の巨神の腹に叩き込んだのである。

 

シャマシュは腹に金星が食い込んだせいで酷く咳込み、その影響でウルクを除く殆どの国では万年に一度の苛烈な旱が起きてしまった。

 

イナンナ神の狼藉に、流石のシャマシュも怒り、しかとて主神アヌの娘を弑するわけにもいかないので、意固地になって何がなんでも彼女の婚姻には協力しないと主張した。

 

自身の星である金星を、少しの容赦もなく全力で投げ込んだにも関わらず、咽せる程度で済ませたシャマシュを説得することは出来ないと、かのイナンナ神も諦めたのであった。

 

この時にシャマシュの腹に金星が打ち込まれたせいで、今日の金星は恐ろしいほどに熱く焼け付いているのである。

 

 

 

 

さて、偉大なシャマシュの奮闘により天界の重鎮を一人味方に付け損ねたイナンナは次に神々の王エンリルと、ご存知の通りの主神アヌの元に向かった。

 

気のいい、悪くいえば何事にも楽観的なエンリルは軽い気持ちでイナンナを手伝ってやろうと言い出した。思慮深く、何より娘がどんなに綱で繋げぬ奔放であるかを知る主神アヌは、イナンナが騒いでいることをどう収拾をつけたら良いものかと悩み、腹を下しそうになっていた。

 

イナンナはアヌ以外にもありとあらゆる神々に夫のことを、正確には夫になるであろうと彼女が信じて疑わないアマロのことを吹聴した。

 

何度となく語るものだから神々は洗脳されてしまったような心地になりつつも、次第に彼女の言うアマロという美人への興味を膨らませる様になった。

 

アマロを知る者、即ち今の天界の偉大な重鎮たちは、その美しさを懐かしさを含めて語る様になった。彼らの感傷的な語り口には神々も大いに食いつき、古くからの神々すらも垂涎する、イナンナ神が夫に迎えようとする者への歓迎の声を上げる者も、特段に若い神々の中から出てくる様になった。

 

気がつけば、神々の中に、ギルガメシュとの誓いを、彼がアマロと絆を共にする限りは、例え神々であってもウルクに手を出せないという誓いについて覚えている者たちは殆どいなくなる始末であった。

 

主神アヌはこの事態に大いに気を揉んだ。どうすれば良いのか、アヌは悩み抜き、遂にはギルガメシュへと少しでも天界の混乱を伝えることにしたのである。

 

 

 

 

主神アヌの声がギルガメシュに届けられたのは新月の夜の三日前であった。主神アヌは「ギルガメシュよ、使命の者よ、神々と人間を繋ぎ止める者よ、お前は知っておかなければならないことがある。」と王の執務を終えてアマロのことを玉座で一人待つギルガメシュに語りかけた。

 

ギルガメシュは、「主神アヌよ、偉大なアヌよ、我が知らなければならないこととはなんだ。」と返し、アヌは「我が娘イナンナが、豊穣と美の女神が、天界の神々という神々を巻き込んで、自らの婚姻の儀を成功させるために企みを立てておるのだ。」と答えた。

 

ギルガメシュは驚くことなく、泰然として「で、あるか。だが、我と神々は、我が幼き頃にかの神聖な森にて間違いなく誓い合った。よもや天界の神々ともあろうものが誓いに背くことがあってはならぬはず。主神アヌよ、あなたはどうしてそうも恐れておられるのか。」と言った。

 

アヌは「確かに神々は誓いを守らねばならぬ。ウルクに手を出させぬために、快い神々の多くは誓いを守るだろう。だがギルガメシュよ、神々が造りし者よ、お前は忘れてはならぬのだ。お前は神々と人間をつなぐ、楔となる者なのだ。誓いを我らが守るように、お前も使命を果たすのだ。」と言った。

 

アヌは、さらに念を押してこうも言った。

 

「…ギルガメシュよ、お前も気づいておろう、今の人間達は何時ぞやの、神を望まぬ者たちの様に、水で全てを押し流された者たちの様に、神殿を、神を敬うことが疎になっていることを…。黒曜石の希望の方が幸福であればあるほど、神も人間も幸福であろう、だがな、そのためには、人間に神を忘れさせてはならぬのだ。彼の方が穏やかに笑まれ、幸福を謳歌すれば、その大地は、その海川は、大いにウルクに味方することであろう…だが、お前も知る様に、豊かに満たされたウルクの今の民は、神々への祈りを忘れつつある。イナンナがあれほど盛んに騒いでも、常ならば神々はその心正しさに従い、我が娘の戯言に耳を貸すこともなかったであろう。しかし、今の天界は人間によって、今度こそ神秘が喪われることを恐れているのだ。神々とて、お前たちと同じだ。我ら神々は神秘の喪失を恐れる。若く闊達な神々は、恐怖のあまり、その有り余る力を用いてイナンナの叫びに従った。そういう者も多いのだ。」

 

ギルガメシュはアヌの言葉を、口を挟むことなく静かに傾聴した。ギルガメシュもまた、使命を忘れているわけではない。彼とて、理解しているのである。そして、アヌはギルガメシュの聡明さを知った上で、彼に人間の王であるべきか、楔となるべきかを問い直したのである。ギルガメシュは答えなかったが、ただ静かに頷いた。

 

アヌは最後に、「ギルガメシュよ、お前は素晴らしい王なのだろう。人間の王として、かの神々の王マルドゥーク様よりも多くを、黒曜石の希望の方より受け取っているに違いない。だが、かの王は神秘の枯渇を甘んじて受け入れ、そして、死んだのだ。土塊になることを、偉大な人間の王は望んだのだ。だが、お前は楔なのだ。努努、そのことを忘れるでないぞ。」と言って声は溶けて消えた。

 

ギルガメシュが玉座を立ちあがろうとした時、アヌの声が再び彼の耳に届いた。アヌは「忘れていたことがある。我が娘が悪かった。神の主人としてではなく父親として許せなんだ。出産の祝いとして、シャムハトへ預けるが良い。」と言って、古い陶器の小壺を置いて、今度こそ消えてしまった。

 

この壺が何なのか、賢い王にも見当がつかなかった。しかし小壺はアヌの言った通りに、シャムハトへと預けられることとなった。

 

 

 

 

エンキドゥが生まれてから、ギルガメシュはシャムハトとアマロが共に森で過ごすことを認める様になった。これにアマロは大喜びし、ギルガメシュに感謝の抱擁を捧げた。アマロとシャムハトと共にいる間、ギルガメシュの表情には余裕が生まれていたが、彼らがウルクの街を出るとその表情は疲れたものに変わった。フンババという脅威をシャムハトから聞かされてもいたギルガメシュは、自身の肩に重石が乗せられたように思ったが、同時に王たる矜持を強く実感した。

 

ギルガメシュが王である間、即ち太陽がウルクを照らしている間、シャムハトとアマロ、そしてエンキドゥは三人で神聖な森で、心の故郷で過ごした。ギルガメシュがただのギルガメシュに戻る時、太陽が傾きだすと、三人は森からウルクの宮殿へと戻った。夜はシャムハトとエンキドゥが新しく立てられた宮殿からわずかに離れた小さな家で眠り、ギルガメシュとアマロは王の私室で共に時間を過ごした。

 

アマロは活発な子供の様に、昼も夜も実に嬉しそうに家族と親身に過ごした。同じものを食べ、同じものを学び、同じものを楽しんだ。シャムハトはエンキドゥとアマロと共に、人騒がしいウルクの街中ではなく、鳥が囀る森の中で、大樹に身を預けて過ごすことが何よりの幸せになった。エンキドゥは父親に抱かれていると最もよく笑い、よく動き、日々の成長の証を見せては二人を喜ばせ、自らも嬉しそうに爛漫な笑顔を見せた。

 

ギルガメシュもまた、夜の間は誰の邪魔も入ることなく互いのことだけを考えて過ごす時間に、王としての自分も、楔としての自分も、かわらねばならない自分をも忘れられる安らぎを感じていた。

 

移動が大変なことを除けば、毎日が実に充実したものであった。

 

 

 

 

「この壺の中身は何なのでしょうか。」とシャムハトが言ったのは、ギルガメシュから預けられた年季を感じさせる壺である。

 

一ヶ月も経たぬうちに髪がすっかり伸びたエンキドゥは時折ひしとこの小壺に抱きついたりして遊んでいた。シャムハトは遊ばせておいて良いものなのかわからなかったが、アマロはエンキドゥが楽しそうにしているから遊ばせてあげたいと言って、好きなままに許している状態であった。

 

知識欲旺盛なシャムハトはエンキドゥに「ごめんね。お母さんに少しの間だけ貸してちょうだいね。」と断ってから、壺を両手で持ち上げ、耳元で揺らしたり、臭いを嗅いだりしてみた。蓋を開ける勇気が湧かなかったものの、シャムハトの探求は少しの間続き、玩具を取られてしまったエンキドゥは父親の体をよじよじと登ったり降りたりして遊び始めた。

 

蓋を開けてみないことにはわからないと言う結論になり、調べられることがなくなり、しかし諦めきれないシャムハトがじっと壺を凝視していると、隣から視線を感じ、振り向くとシャムハトの真剣な表情が興味を引いたのか、アマロと、彼の膝に乗ったエンキドゥが壺を見つめるシャムハトのことを不思議そうに見つめていた。

 

シャムハトは二人の熱視線に照れてしまい、壺を脇に置くとエンキドゥに手招きした。「エンキドゥ、お母さんのお膝にもいらっしゃい。ほら、ここよ。」と彼女が言うと、活発なエンキドゥは生まれた時のお包みをそのままに服にした、だぼっとした白い貫頭衣をゆらゆら揺らしながら母親に駆けていった。

 

シャムハトの元まで辿り着くと、頬が少し赤く、汗をかいているのがわかった。随分と遊んできたらしい。まだまだ小さいエンキドゥだが、その成長は尋常の人間を飛び越える目覚ましいものだ。

 

不可解な成長速度や、生まれてすぐに生え揃った美しい翠の御髪の不思議など、可愛い我が子の日進月歩の成長の前には一抹の気味悪さも起こらない。むしろ、この子が健康な証拠だと、浮世離れしたアマロとシャムハトは心の底から思っていた。

 

シャムハトは昼間の時間に森の木を自ら切り出して作った小さな木椀に、すぐそばに流れる清水を満たすと、汗をかいてほっほっとしているエンキドゥの額の汗を拭ってから、彼女はゆっくり手ずから飲ませた。

 

こくこくとエンキドゥの細い喉が動く。エンキドゥの両手が伸びて木の椀をおさえるシャムハトの手に重なった。賢母シャムハトはエンキドゥに木椀を持たせる様にして、自身は手を離した。

 

シャムハトのこしらえた木椀は大人の手には小さいが、エンキドゥの可愛らしい手にはぴったりの大きさだった。始め、自分の手で支えるのも不安定で水をぱたぱた零していたエンキドゥだったが、直ぐに下から両手で捧げる持つように工夫して、水を零すことなく飲めるようになった。

 

エンキドゥはシャムハトの膝の上で椀の中身をすっかり飲み干すと、大酒飲みのようにぷはーと一気に息を入れ替えた。シャムハトは何も言わずに優しくエンキドゥの頭を撫で、アマロの方にも優しく微笑んだ。

 

アマロは泣いていた。泣きながらエンキドゥに頬擦りし始めた。膝を草に埋めるほど体を低くして、シャムハトの膝の上ですっかり空になったお椀を満足げに見つめるエンキドゥを正面から優しく抱き締めて、涙で濡れた顔を拭ってから頬擦りをした。

 

アマロは「エンキドゥ!君は私の宝物だ!何があっても私は君のそばにいるよ。だから、私の前から消えないでおくれ。君のことを心から愛しているよ。何があっても、私は君の味方でいるから。どうか、健やかに生きておくれ。私はそれ以上は望まない。ただ、それだけでいいんだ。」と、また我慢できずに涙して、涙を拭うのが惜しいとエンキドゥの髪に、額に何度も口付けを贈った。

 

アマロは毎度、エンキドゥが自分で選んでしたことに素晴らしく喜んだ。喜んではエンキドゥを抱きしめて祝福の口づけを落とし、エンキドゥの次はシャムハトと一緒に抱き寄せて三人で一塊になって頬やおでこを寄せ合った。その間、エンキドゥは泣くことなく、心底心地よさそうにしていた。

 

ただし、啄む様に何度となく唇を贈られる度に、特に頬から勢い余って唇にまで贈られた日には、エンキドゥは顔を赤くして頭から湯気まで上げて、手を胸の前で組む様にもじつかせたかと思えば、てててと駆けて母親の腹に顔を埋めてしまうのだった。

 

新月の夜が来るまで、三人は森の中で色々なことをした。

 

手製の釣竿で魚釣りに興じたり、追いかけっこをしたり、アマロがいつかの日にも作った森で採れた豆と麦で作った粥をご馳走したり、花を集めたり、時には三人が過ごす場所にやってきた獣と戯れたり、三人は家族として色々なことを一緒に経験したのである。

 

森の恵みに任せて暮らし、その日採れた物の中でも特に素敵なものを木の葉に包んだり、木の椀に盛ってウルクの、もう一人の家族へのお土産とした。ウルクの門まで迎えに来るギルガメシュは、帰ってきたアマロやシャムハトから、時にはエンキドゥから手渡されるお土産を楽しみにしていた。

 

ウルクには、その時代の全てが揃っていた。最も豊かな都市として他の追随を許さぬ繁栄を享受していた。だが、ギルガメシュはその日食べたどの様な素晴らしいものにも無い、何をも無理矢理にしてしまわない平穏の匂いを、三人の家族から受け取る土産から味わいとっていた。

 

傲慢で、絶対であらねばならない王はエンキドゥとシャムハトにそのことを話すことはないが、毎夜、愛しい伴侶と安らぎを共にする際には、無邪気に、どれが好みだった、これはまた持ってきてほしい、と目の前で感じたことの一つ一つを報告するのだった。夜の時間、アマロとギルガメシュの関係は元の清麗なものに変わっていた。

 

だがそれはギルガメシュがアマロへの情欲に倦んだからではないだろう。時折、完全に眠りに落ちたアマロの背中をギルガメシュが遠慮がちに撫でては、寂しげに身体を彼の背中に寄せ直してから眠ることもあったのだ。ギルガメシュの想いは膨らみ、ただ奥行きを増していたに過ぎないのだと思えた。

 

ギルガメシュは、エンキドゥの誕生と共に一つの納得を手に入れたが、主神アヌからの言葉でまた一つ新たな苦悩を抱えることになってしまった。彼は覚悟をしなければならなかった。人間と神々のどちらかの側に立たねばならなくなる日が来ることを。

 




共感して貰えたら嬉しい。


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18黄金色の愛惜

感想ダンケなっす!しばしば難産に苦しむこの頃。まずはメソポタミア後編のハッピーエンドを目指して進んでいきます。では、どうぞ。


18黄金色の愛惜

 

 

新月の日が遂に訪れた。

 

朝の目覚めと共にウルクの民は盛んに声を張り上げた。「イナンナ神のご婚姻に祝福あれ!!」と言う声があちらこちらから上がった、

 

朝の目覚め。私室の外から民の賑やかな営みの声が聞こえてくる。寝台の上だけが安らぐ場所だった。ギルガメシュの目がゆっくりと開き、彼は腕の中を確かめる。手を胸に寄せて小さくなって眠るアマロの姿を認め、毎朝の例に従い安堵の息を漏らす。まだ目覚めぬ愛しい人を起こさぬ様に、しかし、起きて応えて欲しいような想いを胸の内で和え併せながら、ギルガメシュはアマロの閉じられた瞼へ心からの愛を贈ってから起床した。

 

この日をもって、ギルガメシュは楔の使命を果たさなければならない。それが、神々が違えることなく誓いを果たし、その後にもウルクに平穏が訪れることを約束させるために必要なことだからだ。なにより、アマロが、彼が生きる今を存続させるために必要だからだ。

 

彼が今どうしょうもないくらい幸せなのはギルガメシュが誰よりも知っていた。誰よりも長く伴にいるのだから。誰よりも昔から彼を愛しているのだから。彼が望んでやまないのは、自分とシャムハトとエンキドゥが一人として欠けていない平穏なのだから。

 

ギルガメシュはこの新月の日をもって、過去の自分との永訣を誓った。

 

 

 

 

玉座の間にて、ギルガメシュはアマロが眠りから覚めるより前にやらなければならないことがあった。玉座の間は神殿でもあり、そのまま神との交信の場でもあった。

 

ギルガメシュは鎖を大地の深くにまで突き立て、「冥界の王ネルガルよ、貴方に今こそ誓いを果たしてもらおう。」と語りかけた。

 

暫しの沈黙の後、帰ってきたのはネルガルのしゃがれた威厳のある声ではなかった。代わりに聞こえてきたのは一度だけ聞いた女の声だった。

 

「何か用かしら、嘘吐きのギルガメシュ。」と冷たく応える女の声に、ギルガメシュは焦りと驚きを呑み込んで、いつも以上に高慢に聞こえるように声を張り、「冥界の女主人よ、我は冥界の王ネルガルに用があるのだ。それに、嘘つきとは何のことだ。我には全く記憶にない話であるな。」と答えた。

 

女の声は不安定に震えながら「誰が王ですって!私に嘘をついたネルガルなんて、とっくの昔にただの亡者に堕としてしまったわ!もともと冥界の王は私なの!間違うのは不敬なのよ!それに、あなたまた私に嘘をついたわね!それなのに記憶にないなんてっ!よくもぬけぬけと!」と陰湿な怒りを迸らせながら轟いた。

 

ギルガメシュは冥界の女王エレシュキガルがなぜ怒り震えているのか理解していたが、あのネルガルが彼女に打ち明けるような真似をするとは考えられなかった。ネルガルの失脚は、ギルガメシュに大きな驚きを与えたが、彼はそのことを表に出さず何故彼女が怒りを得るに至ったのか、そしてこれからの話を飲ませるために何を譲歩すべきなのか頭を働かせた。

 

エレシュキガルは火を吹くようにかっかとしながら「ギルガメシュ!あなたは私に美しいものなんて無いだなんて嘘をついた挙句、愚かなネルガルをたらし込んで私に何も教えないで勝手に誓いを立てさせたわね?」と詰問し、ギルガメシュは感情を感じさせない瞳で「なぜそう思ったのか、我はわからぬ。故に、我が嘘を吐いたか否かを詰問する前に、そのことを説明してもらおう。」と鉄面皮でさらりと言い切った。

 

エレシュキガルは一周回りきり、呆れた口調で「自分が嘘をついたかどうか、頑ななのね。」と言うと、「まぁいいわ、教えてあげる!どうして私があなたの嘘を知ったのか?そんなのはね、私の!あの!奔放で自由勝手な妹が!私のいる冥界にまで自分の婚姻の自慢話をしにきたからよ!!」と語り、徐々に怒り心頭に発したのか「四六時中!自慢話ばかりで嫌気がさしてならなかったわ!!どうして、どうしていつも私ばかり!!妹はあんなに好き放題にしているじゃない!!」と叫んだのであった。

 

彼女の叫びに目をつけたギルガメシュは、自身の嘘を追求されるより早く、ぜいぜいと息の荒いエレシュキガルへ「では、その憎たらしい妹の伴侶を一時でも独占できると言うのはどうだ?」と悪神の企みを提案した。

 

エレシュキガルはひゅんと沈黙し、「ふーん」と感心ありげに鼻から音を奏でると、「もしも、あなたが本当に妹の夫になるはずだった、その美しい人を、一時だけだとしても私に好きにさせてくれるのであれば、私は妹のイナンナからその人を隠してあげてもいいわよ。冥界において、私以上に力を持つものは誰一人としてその存在を許されないわ。例え、父上のアヌ神だとしても。」とギルガメシュに答えた。

 

ギルガメシュは「それでよい。イナンナ神から隠してくれ。一時、あなたに我が伴侶を預けよう。」と言い、最後まで嘘を認めずに済むかと思われた。

 

しかしここで、エレシュキガルは「ただし!もしもあなたが私に再び嘘をつき、私が好きにしていい人が美しくなかったら、その人は二度と冥界から出してあげない。そのことを忘れないことね。…ネルガルとの誓いは冥界の真の女王との間に結ばれたものではないのだから、そもそも、成立していないことになるわ!よろしくて?」と条件と念押し、そしてギルガメシュが頼みにしようとしていたであろう誓いを無効にしたのであった。

 

ギルガメシュはここで初めて苦い顔をしたが、次の間には元の無表情に戻り、「しかと聞き届けた。我は誓いは破らぬ。故に、冥界の真の女王も誓いを守ることを切に願おう。」と答えた。

 

エレシュキガルは満足したのか、「夜までには、私の元に送り届けさせなさいよ。時間を守らないのなら、私もあなたの伴侶とやらを二度と時間通りに返してあげないからね。」と最後の念押しをしてから静かに声が溶けていった。

 

 

 

 

ギルガメシュは日が沈む間際までアマロを手放したくなかった。例え今生の別だったとしても、今だけは少しでも長く一緒にいたかったからだ。執務も早く片付けて、司祭の準備だけをして、夜の明かりをウルク中に灯す直前に、ギルガメシュは、話があると集めたシャムハト、エンキドゥ、そしてアマロに冥界の女王エレシュキガルとの誓いについて、あるいはその取引について説明した。

 

シャムハトはただ「わかりました。少しの間だけ、ほんの少しだけ離れるだけですから。」と平静を装って微笑み、エンキドゥは珍しくほろほろと鳴いて、首をいやいやと左右に振りながらアマロの袖を離そうとしなかった。アマロはエンキドゥの必死の懇願に足が地面に縫い付けられたようになってしまった。

 

険しい顔で、ギルガメシュはアマロにウルクを守るためでもあると伝えた。アマロはエンキドゥの纏う日の香りがするその服の上から、その柔らかいお腹に顔を埋め、次いで今度はエンキドゥを包み込むように抱き締めた。そして、いつもよりも丁寧に、強く、繰り返し自身の最愛の宝物に口付けを贈り、最後に一つだけエンキドゥの可愛らしい唇にも愛を贈った。

 

エンキドゥがすっかり顔を赤くして目を回し、ふにゃふにゃと脱力してしまうと、アマロはシャムハトに愛し子を預けてギルガメシュに向き直った。

 

ギルガメシュは「今生の別というわけでは無い。だから、そう不安げな顔をするな。我が、必ず迎えに行くのだ。安心して待っていろ。」と不敵に笑って言い、アマロは「うん。待ってるね。」と儚く笑った。

 

シャムハトとエンキドゥを最後にもう一度抱きしめて、愛を贈ると、名残惜しくエンキドゥの頬に柔く自身の頬を合わせ、必ず聞こえるように、なるべく優しく聞こえるように「いってきます」と囁いた。

 

エレシュキガルのもとへ、ギルガメシュは鎖を伝って行くようにアマロを送り出した。背中が遠くなる。エンキドゥはまだ目を回していたが、それでもその小さな手だけは、その背中を繋ぎ止めようと必死に伸ばされていた。背中がすっかり大地の下に消えてしまっても、エンキドゥの手は長く下されず、手が下されても尚その瞳の先にはアマロの背中が失われることはなかった。

 

 

 

 

冥界の女王エレシュキガルは、豊穣と美の女神である妹イナンナのことがあまり好きではなかった。いや、この場合には憎んでさえいたと言ったほうが良いかもしれない。

 

彼女は姉として、父神より冥界を任された。当初、冥界の主人という肩書きは彼女に一等の責任感と承認の満足を感じさせたが、一方で、天界から一人離れることに関して小さくない孤独感を抱いていた。

 

父は主神アヌである。偉大な父親に報いようと、認められようと彼女は弛むことなく王として高潔に、冥界の主人として厳粛に励んだ。

 

しかし、彼女は妹のイナンナが豊穣と美の女神に、次いで天の主人に選ばれたことに、あからさまな姉妹間の差を感じざるを得なかった。

 

元より真面目で責任感の強い彼女は、弱みを妹に見せたくもなかったし、父親や他の神々に失望されることも酷く恐れていたから、この時抱いた激しい不満足、美神である妹との扱いの差に対する劣等感を、全て呑み込み、誰にも打ち明けなかった。打ち明けることができなかったのである。

 

イナンナが権勢と美貌を甚だしくして天界に君臨し始めた時も、エレシュキガルは忠実に働いた。亡者を導き、死者を諭し、あるべき世界を保っていたのだ。

 

神々が成熟したイナンナ神を美神として口々にその妖艶さを褒め称え、父アヌがただただ妹の我儘を容認するばかりとなり、イナンナが快楽に耽るようになっても、彼女は、エレシュキガルは忠実に、頑ななまでに冥界の王として働いた。

 

そして、彼女はいつしか気づいたのである。

 

冥界とは、神が最初いなければならない場所ではなかった。神が導かなくとも、亡者、死者達は勝手に集まり、そして冥界と何ら変わりのない、ただ神がいないというだけの違いしかない、同質の拠り所を構築していったことを。

 

エレシュキガルはこの時に、よもや私は天界に忘れ去られてしまったのではあるまいかと、突然に猛烈な恐怖に襲われてしまった。彼女の体は激しく震え、寒くも暑くもない冥界の、最も立派な玉座の上で一人、孤独に足を抱えて落ち着くまで震えていなければならなかった。

 

エレシュキガルはしかし箱入りの、自らの神としての在り方に忠実な性格であったために、一度持ち直し、絶望を忘れて、神々への信義を取り戻そうとした。

 

彼女は神々から自らを必要されることを、自らの勤勉さを、その直向きを賞賛されることを願ってやまなかった。だから、自分に残された希望を一縷と言えど捨てる決心がつかなかったのだ。エレシュキガルは神である自分に縋るほかなかったのである。

 

冥府とは、冥界とは、本質として私を必要としていないのだから、神々が必要としたばかりに冥界などという虚構が生み出され、都合よく生まれた私は摘み上げられて覚束ない脚の玉座に座らされて、そこに私は必死にしがみついていた。

 

エレシュキガルは、果たして神々の中の異端ではなかった。彼女は誰よりも神らしくあろうとした。だが思いとは裏腹に、捨て切れなかった希望は裏切られた。彼女は終ぞ神として本当に必要とされることはなかった。

 

失望の度合いは目を血走らせるに足る。怒りの度合いは爪が剥がれるほどに冷たい石壁を掻きむしるに足る。そして悲哀の度合いは彼女がその神としての矜持を捨て去るに足るのであった。

 

彼女はそれから王となった。冥界の女王だ。傲慢で、陰湿で、どこまでも華やかな神々とは迂遠な存在に変わることにしたのだ。自身を守るために。誰かを二度と失望しないために。気に入ったわけでもないネルガルに王を任せたのもその為だった。見聞きしてしまえば言いたくなる。王が過ち、言葉を軽々しくすることは決して懸命には彼女は思えなかった。

 

不器用な彼女は王としての仕事をネルガルに、権力と共に預けてしまった。忠実でなくとも、王としての振る舞いは様になっていたネルガル、彼が自分に嘘を吐いたことは初めから知っていた。ただ、どうしても許せなかったのは、ネルガルが自らを神か何かと勘違いし始めていたからだ。ギルガメシュは神々と対等に誓いを立て、次にネルガルとも対等の誓いを立てた。ネルガルはギルガメシュからの褒め言葉に機嫌を良くした。それはエレシュキガルの癇に障った。彼女は我慢できなかった。道理を知らぬ子供にさえ、冥界の真の王は本来ならば敬われるべきだと、お前は真の王ではないと突きつけられた気がしたのだ。だから、ネルガルの生身を殺し、ただの矮小な亡者に落とした。

 

誰も私を見なかった。父も妹も見なかった。話もわからない子供でさえも見なかった。なら、最初から誰にも見られない、報われずに、沈黙を糧に励むべき高潔なままでいなければならないと、それがお前の使命だと、なぜ言ってくれなかったのか。

 

「エレシュキガルは歪んだ女神だ。冥界の女王を務めているのだから、生まれた時から陰湿だったに違いない。」彼女が夫ネルガルを失脚させたことを聞きつけた多くの神々は、そう口々に噂した。エレシュキガルは耳を塞いで、ただ嗚咽した。金切り声は上げなかった。冥界の女王が、そんな無様は晒せない。女神のような悲鳴をあげるのは、妹のイナンナだけで十分。

 

もう彼女には神としての矜持を守れるだけの余裕が与えられていなかった。彼女は目元を腫らして改めて玉座に座り、日々沈黙と共に王として励んだ。逆らう亡者は抹殺し、従順な亡者へは常に寛容を心掛けた。

 

神々はこの職務に忠実な冥界の女王を「最も恐ろしい女神である。偉大な冥界の主人だ。」と言うようになった。誰も、彼女が声を上げて泣いたことには気づかなかった。今更なんだと言うのだ。エレシュキガルは腹が立って仕方がなかった。

 

彼女はギルガメシュとの間に立てた誓いを、初めから守るつもりがなかった。彼が自分の嘘を贖う為に言い出したのか、本当に嘘など忘れていて新たな誓いを立てたのか、或いは自身を貶める為に新たな嘘を吐いたのか…その全てが彼女にとってどこまでも思考するに値しないことであった。

 

吟味するには実に味気ない。いや、危険な話題だったというべきか、エレシュキガルは期待をせず、納得などしてやるものか、と冷たい仮面を被り直した。相手が本当に美しかろうが、美しくなかろうが関係がなかった。彼女は自分に嘘を吐いたことになど、もはや怒りを感じていない。ただ、誰にも彼にもすっかり失望されきってしまいたいほどに、彼女は心を殺めていた。

 

殺められた心を、子供の癇癪のように慣れない手つきで縫うこと以外に、心幼い高潔の女王は逃げ道を見つけられなかったのだ。

 

地下にまで繋がれた光り輝く鎖、鎖のさりさりと擦れる音まで澄んで聞こえるほど、その鎖は見事なものだった。誰か、誓いに則り愚かにもこの冥界への片道の旅路を進む者の足音が聞こえた。

 

エレシュキガルは威厳を正しくした。

 

 

 

 

さりりさりりと手に握る鎖を一節ずつ滑り落ちるアマロ。彼の姿は自然と暗闇に満たされた冥界に一筋の光を注ぐものとなった。

 

エレシュキガルは音を立てて玉座から立ち上がった。声の無い叫びが上がる。声は響かない。響かせなかったのは彼女の最後の女王としての意地だったのか。エレシュキガルは目を見開いたまま、鎖を手放し、光の筋が徐々に小さくなるにつれて強まる光の源へと視線を注いで離さなかった。

 

黒曜石の希望と呼ばれる理由を初めて知ったのは誰か。その意味を初めて、本当の意味で知る機会に恵まれるべきなのは、誰よりも先ず最も絶望した者でなければならない。最も必要とする誰かに、鮮烈な希望を焼き付けなければなるまい。

 

その通りの輝きを、漆黒の中でこそ映える煌々たる希望を灯して、彼は冥界へと降り立ったのである。

 

アマロはエレシュキガルの前まで悠々と歩み寄ると、刮目したまま立ち尽くす彼女の目と目を合わせて、「私は誓いによりここ冥界のお世話になります、アマロと申します。貴女がエレシュキガル様ですか。」と、僅かな卑屈さも、一摘みの侮蔑も見せずに問うた。

 

エレシュキガルは口を開けたり閉じたりを二度ほど繰り返して、ほんの少しの間口元を一文字に縛ってから、「えぇ、そうよ。私が、貴方をお世話する冥界の女王エレシュキガルよ。ギルガメシュから話は聞いているかしら。」と答えた。彼女は落ち着き払って見せたが、やはりどこかアマロに飲まれているところがあるらしく、言葉の響きが頓珍漢になってしまった。そのことは彼女も自覚があったらしく、確認をとってすぐに顔を赤くした。

 

恥入る彼女の心を撫で落ち着かせるように、アマロは和かに「えぇ。存じています。私に出来ることであれば、貴女が感じるまま何なりと教えて下さい。」と笑いかけた。言葉に刺されまいと、アマロが喋る間際に反射的に目を瞑ってしまったエレシュキガルは、かけられた言葉の、その裏側までの清澄を隠すそぶりもない晴れやかな響きに驚愕した。そして、何を言われたのかを理解したことで、自分が何者かであったことも、その何者かである限りでは目の前の男を好きに出来る権利が委ねられていることを思い出した。正確には、すっかり忘れていたということを自覚したのである。

 

自分は女王。女王とギルガメシュが誓いを立てた。女王である限り、私は目の前の男を好き勝手に出来る。

 

滅法な初心であるエレシュキガルは、ギルガメシュとの取引上のあらゆる規定を吹き飛ばし、最も、今自分にとって肝心の所だけを抜き取ると、そこだけを口中で咀嚼した。少しの理解違いもしないという強い気持ちがあった。

 

「ち、誓いは理解しているわね?」とエレシュキガルは吃ったことに顔をさらに赤くして聞き、アマロは「はい、勿論ですよ。」と、二度も確認されても嫌味の無い微笑みで返した。

 

エレシュキガルはふわと心が浮くような心地がして、「な、なら!早速お願いしようかしら!」と踵を返して顔の赤さを隠すと、「はい。よろしくお願いします。」などと行って穏やかな顔で続くアマロを自身の宮殿の奥へと案内するのであった。

 

道行き、エレシュキガルは専ら自分が日々どのような業務に励んでいるのか、その詳細について事細かに説明し続けた。話が長く、その上退屈であると、多くの神々がイナンナを批判するのがよくわかる。あの妹に、この姉ありとでもいうべきか。しかし、ことアマロという男は話の長さなど欠片も見てはいない。

 

だから、彼は何の気なしに「独りは寂しいよ。褒められたく無いなんて、認められたく無いなんて誰もが言い張らなきゃいけないことじゃ無いよ。君は逃げ方を教えてもらえなかっただけなんじゃないのかな。私は君のことをまだ何も知らないけれど。逃げ方を知らない貴女も不器用で可愛らしいと思うよ。」などと、などと、彼はエレシュキガルに宣ってしまったのである。

 

エレシュキガルは心底不思議そうな顔をしたかと思うと、何に気づいたのか、赤くした顔を俯かせてしまった。彼女は何を言われたのかを分からなかったのだ。そして理解して、理解した言葉の一つ一つの意味が、体験したことのない類であることに、新鮮な余りどんな返しをすれば良いのか全く思いつかなかったのだ。端的に言えば、エレシュキガルは、その経験の浅さ故に、単純に困ってしまったのである。

 

元来の質と言うもの。原初の母神にも挨拶がわりに接吻を落としたと伝説がある男なのだから、然るべきも然りと、よりにもよって最も効果的な機を局地的に捉えた上で、最も火力の高いことを言うのである。その言葉は必ずしも正しいものでも、素晴らしく整った言葉であるわけでもない。万人の心を動かすこともできなければ、誰かから見れば心にも無いことを、と怒りを煽ったり、或いは私の何を知っているのか、と心を荒立ててしまうこともあるだろう。

 

だがしかし、一つだけ言えることがある。それは、少なくとも等身大の、まったくもって赤心からの言葉であると言うことだ。その言葉を口に出し、相手に伝えようという必死の思いが形となったものを、飾らないその一言を赤心からの言葉と言うのではなかろうか。ただ、その瞬間だけは、目の前の貴女のことだけを考えて言葉を紡ぐ。アマロの言葉の、彼の良心の本質とは其処であろう。

 

壁が奇跡的な間隔で、無意識的にではなく、衝動的に、詠嘆的に消失してしまうのは、アマロという存在が誇る、混じり気のない良心の為せる技なのだろう。

 

意を決して顔を上げても、エレシュキガルは何と返すことが正解なのか分からなかった。戸惑いが強く顔に現れていた。それはアマロから見ても一目瞭然であったから、彼は「ここでは貴女が一番偉いんですから。貴女の好きなようになさればいいんです。」と、胸を貸すようにおどけて言って見せた。

 

エレシュキガルは諭されたことなどなかった。それは彼女に比べて妹のイナンナが言うに余りあるということも、彼女自身が生真面目で実直だからと言うこともあろうが。それは彼女からすれば言い訳に過ぎまいて。

 

だから、彼女はあどけなく笑った。何とも似つかわしい照れ笑いである。実に結構であった。アマロも、エレシュキガルも互いの立場などよりも、目の前の情ある人間のことにすっかり集中していた。生まれてこの方知らなかった、嘲笑にも哄笑にも属さない笑い。穏やかな微笑みを付き合わせることの、なんと安寧なことか。

 

冥界の女王という枕詞は、今の彼女には、可憐な微笑みを浮かべてアマロに応えた彼女には、些かとも重苦しきに過ぎるに違いない。

 

エレシュキガルは出会って早々に目の前の男のことが気に入ってしまった。美しかろう、確かにそうだがそれだけに見出したわけでは無い。殊に彼女は己の心の傷を癒す役目に最適の者を見つけたと言える。

 

獲物を見つけた獣の如く、瞳をきらりと光らせたエレシュキガルは「さっ!行きましょう、アマロ!」と、日ごろは憎し愚妹の風を纏って、極々自然な流れでアマロの横に立つと、その手を抱いて歩き始めた。

 

突然の彼女の変わり様に、アマロは嬉しそうに微笑み返し、「はい。エレシュキガル様。」と少し演技じみた、しかし実に様になる返しでエレシュキガルの心を掴んだ。

 

再び歩き始めたエレシュキガルは「貴方が私に言ったのよ。貴方が、私に好きにしろって言ったから。その、変じゃなかったかしら?」と数歩と進まぬ内に事後評価を求め、アマロは穏和にこれを受け止め、「えぇ、その調子です、エレシュキガル様。貴女の好きなように、わがままを言ってみてください。お世話になるのは私の方なのですから。私も、出来る限りご奉仕します。」と、自分の気持ちをそのまま伝えた。

 

エレシュキガルは嬉しそうに「そうね!そうよね!よかったわ。間違ってなくて。そう、そうなのね、こういう風にするのが正しいのね!」と何かに合点がいったのか、実に晴れやかな表情をするようになった。

 

宮殿の最奥の居室に辿り着く頃には、「貴方のことはアマロと呼ぶわ。だから、貴方も、そのぅ、特別よ?私のことはエレシュキガルと呼んでいいわよ。でも、それだと長いかしら?…何がいいかしら、アマロの考えを教えて。」と問うては、アマロに「うーん。…エレちゃんなんてどうかな?」という、至極威厳を欠いた返しを受けたにもかかわらず、「そ、そんなに親密な呼び名も…いいわね。スゴく…有りだわね。決まりね、偉い私が決めたのだわ、貴方は私をエレ、或いはエレちゃんと呼ぶこと。いいわね、アマロにだけ今から特別よ?」と快活な笑顔で寿くまでになっていた。

 

こうして上機嫌なエレシュキガル、いや、エレちゃんはアマロと過ごす日程を、少しの無駄もなく完璧に組み上げることに思いを馳せたのだった。

 

誰が何と言おうとエレちゃんにとっての生まれて初めての体験だった。

 

冥界の王でも、女神としてでもない。情ある人間としてのエレちゃんが、彼女の心に寄り添ってくれる誰かと二人きりで過ごす初めての楽しい日となった。

 



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19黄金色の赫怒 前編

感想ダンケなっす!では、どうぞ。


19黄金色の赫怒 前編

 

 

 

新月の夜がやってきた。

 

イナンナは自分に賛同する、若い神々を中心とする派閥の面々に華美な装飾を天界から地上までの聖なる階に施させ、その一段一段を、誰よりも優雅に降りてくるのであった。

 

その派手な美しさのかんばせには満面の笑みが占めている。傲慢さが似合うと言えば良いのか、彼女もまた一種の光を纏って人間界へと降り立った。

 

自身への賞賛や祝福を叫んで歓迎する人間たちを、彼女は雅に手を振るものの、その瞳には人間の影とて映していない。そこに彼女の本質が垣間見得ているようにも思うが、しかし、事実誰から見ても彼女は女神の中の女神であり、その人物像は完璧な慈笑の仮面に覆われており、人間たちは彼女から己らを生命有る限りの者として虫同然に見做していることには全く無頓着に留まるのであった。

 

知るべきでないとして、単に神々からの無関心と同情を一種の慈悲として受け取り損ねたことが第一の間違いやもしれなかったが、美しいイナンナを前にして、都合のよろしいウルクの民達は口々に彼女への祝福を叫び、女神の美しさに感涙咽んでいた。

 

イナンナは美しい濡鴉の如き御髪をさらり、と優美にかき流して見せる。演技染みるその仕草も実に似合うのだから、女神が本気で女神を装う時の自己演出力は馬鹿にならないのかもしれない。彼女の一所作一所作にウルクの人々は不安を忘れた、実に急傾斜な、実に熱狂的な歓声を止むことなく上げるのであった。

 

神々を受け入れる神殿には山の様に上質の麦で焼かれたパンや最高の薫りを放つ葡萄酒、色彩の凹凸が眼と鼻を喜ばせる果実の数々が、ウルクこそが最も豊かであることを、人間を代表して誇示する様に積まれていた。皿や杯に満たされていないものはなく、また隙間など見えないほどに山は堆い。イナンナに従ってきた神々は、常の献上品すら超える飽食の極みをまざまざと目にしては、わかりやすく悦びを露わにした。

 

「さぁ!私の婚姻を祝して、儀式の前に大いに騒ぎましょう!好きなだけ食べて飲んで歌って、私と夫の幸福を祝うのよ!!」というイナンナ神の掛け声と同時に、神々と人間から同色の歓呼が夜空に響き渡った。

 

宴席は神々と人間で分けられず、ややもすれば理想的な人間と神々の融和であっただろう。神々は各々の個性を全面に出した楽しみ方を見せて、その物珍しさで人間達に素晴らしい話題を提供した。人間は神々に、その眼を楽しませ、舌に馴染ませ、喉を潤し、鼻腔を芳しくし、腹を満たすに相応しい美食と美酒を提供した。

 

神殿の高き御座に拵えられた宴席は、正に天地の間を繋ぎ止めるものであった。今日ばかりは月の神もお休みである。漆黒の元でぐるりと神々も、人もを取り囲む松明の灯りが地上に最上の光景を現出していた。

 

時に、羊の肉に齧り付く勇神の豪快さを、人間と神々が共に手を叩いて称えた。

 

時に、美神の喉を美酒が伝い落ちる、貴品のある様に神も人もなく息を呑み、共に見惚れた。

 

時に、大酒食いの者同士が、神と人間それぞれの中から第一の者を出し合って競い、飲み干せば拍手喝采を贈り、飲み干せなければ潔く冷やかしの声を受け止めた。

 

神々は人間の見所とやらを再確認し、人間は神々の陽気さや美しさを崇めた。そして、神々も人間も、お互いに実によく似た隣人もあったものですわね、と神々は神々同士の仲間内で、人間は人間同士の仲間内で言い合い、笑い合い、かと言って向こうの潜め話には、祝いの場で隠し事とは感心できませぬ、などと冗談の様に僅かな見損ないを覚え合うのであった。

 

ギルガメシュの姿は宴席を照らす松明の先がすっかり炭になるまで現れることはなかった。彼と同じように、シャムハトとエンキドゥもまた、宴会場に足を踏み入れることはなく、この日ばかりは、夜だと言うのに神聖な森の奥地で、二人は身を寄せて合って息を潜めていた。誰に見咎められることもないというのに。

 

 

 

 

縁もたけなわ。儀式の前座である大宴会にて、美酒と美食を堪能し尽くしたイナンナは満足そうに「ふふふ!素晴らしかったわ!さぁ、婚姻の儀を始めましょう!そういえばどうしてギルガメシュがいないの?私のアマロもいないじゃないの。待ちきれないわ、ギルガメシュを呼びなさい!」と手を叩いて命じた。

 

神の中にも、ウルクの民にも酔い潰れる者が出始め、儀式どころではないものもちらほらであったが、そんな些事はイナンナには関係がない。彼女は金の酒杯をその精美な指先でかちかちと鳴らしては、心の逸りを、口煩くするかわりに、顕にするようになっていたが、まだまだ心のゆとりがあるのか、手元の忙し無さとは異なり、その表情は実に鎮美な貫禄があった。

 

「王のご来場です。」と民の中から名士が進み出て王の到着を伝えた。王は「待たせたな。イナンナ神よ、我がウルクのもてなしは如何か。貴女を満足させることはできたであろう?」と胸を張り、不敵に笑いかけた。

 

イナンナは「えぇ!中々やるじゃない。天界の足元には及ぶかしらね!でも、ウルクならこんなものよね!女神への、も・て・な・し、というモノをわかっているようで、私も安心したわよ。」と、心からの感想を述べた。

 

満足と感謝を基礎に、女神の微笑で飾られた返答は、しかしである。あな、驚いたことに、ものの見事に一言一句全てが嫌味に聞こえたのだから不思議。イナンナには悪気がないのであるが、言われた方が如何様に受け取るかは別である。ギルガメシュはあまりの言葉に、堪えきれずこめかみをひくつかせたが、咳払いして誤魔化した。

 

ギルガメシュの到着が不敬に及ぶほど遅刻であったことなど、心地よく酒に酔い、美食を楽しんだイナンナには些細なことであった。いつになく寛大なイナンナに、周囲の神々は常以上に距離を取るか、ここぞと近寄る者の二つに分かれて、人間は背景の止むことのない喧騒を見事に担っていた。

 

 

 

 

イナンナはギルガメシュに「私の夫はどこかしら?」と笑顔のままに語りかけた。彼女からの問いに、ギルガメシュはただ「イナンナ神よ、よもや誓いを忘れたなどとは言うまいな。」と返した。

 

ギルガメシュの声はよく通り、幾人かの観衆を集めたが、辺りは未だ華やかな喧騒に満ちている。ギルガメシュの返答に、一度は寛容を示して頷き熟慮する素振りを見せたイナンナだったが、その手は拳が形作られていた。

 

イナンナは「ギルガメシュ王。賢いウルクの王にもう一度、聞くわよ。私の夫はどこなの?早くお呼びしなさいな。」と笑みを深めて言ったが、ギルガメシュはさも当然だと言わんばかりに、嘲るが如き無垢な疑問顔で「どうやら、イナンナ神は誓いを忘れておられるようだな。」と言って鼻で笑った。

 

この仕打ちにイナンナの笑みは跡形もなく崩れた。座から勢いよく立ち上がる。大机が音を立てて揺れ動き、並んでいた食器ががちゃがちゃと甲高く騒いだ。彼女の両手は拳の形になり、胸の前で戦意を顕にするように震えていた。

 

イナンナは目を怒らせて、「さっきから誓い誓いって何のことよ!!そんなことより、私の旦那様はどこだって聞いてるでしょ!アマロはどこ!私はあの人に、早く会いたいと言ってるの!!あんたこそ、私との誓いを忘れたわけじゃないでしょうね!!」と叫んだ。

 

痺れるような憤怒が声に込められていた。あたりに響き渡る彼女の、よく通る声は美しかったが、同時にその孤高の冷たさをも発露していた。活火山の噴火に驚いた周囲からは音が消え去り、霧深く内静まる早朝のような静寂だけが彼らの間に満ちていた。

 

イナンナの顔に、先ほどまでの上機嫌はすっかり消えていた。神々は腰を上げる。いつでも天界に帰る支度を始めたのだ。人間達は怖いもの見たさで王と、天界の主人の舌戦に固唾を飲んだ。

 

ギルガメシュは嘲る素振りを消して、全てを見通すその瞳に聡明を灯した上で、「イナンナ神よ、あなたは勘違いしておられるのだ。我は一度として、貴女の婿殿をご用意するなどとは言った覚えがない。我は貴女の婚姻の宴を、天に届くほど盛大に、ウルクを挙げて用意する、とそう誓いを結んだのだ。故に、我にはどうして貴女がお怒りになるのか見当もつかぬ。よもや、お門違いではあるまいな。」と毅然とした態度でイナンナに正論を突きつけた。

 

突きつけられたイナンナの目は憤激を焚き、色で例えるならば真っ赤であったろう。彼女は震える拳を叩きつけるように振り切り、ギルガメシュを貫くように指差しながら、「ギルガメシュ!!!あなた、私を小馬鹿にしているの?私を怒らせたいのかしら?私は寛大だから、寛大だからもう一度だけ、聞き分けの悪いあんたに聞いてあげるわよ。だから、さっさと、私の夫を、アマロをお呼びしなさい!!」と言い詰めた。

 

辺りが一層静まる中、これに対してもギルガメシュはあくまで少しも間違いなどないとの態度で、「イナンナ神は、どうやら神々と人間との誓いを破られるようだな。全く、嘆かわしいことよな。」と答え、身振りまでつけてイナンナの言葉を正当に貶めた。

 

イナンナの目つきは変わり、静まり返った水面のようになった。神々は悲鳴を上げた。彼女の凶暴が解き放たれる予感に身を震わせたのである。ギルガメシュは実に堂々と迎え撃つ覚悟で彼女の言葉を待った。

 

 

 

 

イナンナは「へぇ、そう。わかったわよ。私を怒らせたらどうなるのか教えてあげるわ!!約束破りのあんたとは違って、私って必ず約束を守るのよ?ウルクには約束通りに災厄を贈るわね…私の言うことを聞かない奴らなんか!皆んなしてグガランナに踏み潰されればいいのよ!!」と叫び、天に向けて掌を向けた。

 

神々は「おぉ!なんと恐ろしいことを!」だとか、「天界でさえ荒れると言うのに、このウルクになど…イナンナ様は本気であるぞ!!」だとかと騒ぎ、宴席は悲鳴の坩堝と化した。

 

廷臣や神官、神々の中でも老成した経験豊かな者達がギルガメシュに駆け寄った。家臣達は「王よ!ギルガメシュよ!アマロ殿は何処に!イナンナ様に早く差し出しましょう!!今ならまだ間に合います!」と目を血張らせて、脂汗の吹き出した顔で彼に迫り、神々は「おぉ、賢明なるギルガメシュ!其方は我らと人間を繋ぐ者であることをお忘れか?使命を思い出すのだ!」と引き腰で説得を始めた。

 

徐々に喧騒が悲鳴に変わり、悲鳴は瞬く間に混乱へと拡大した。ウルクの神殿から、我先にと逃げ出す貴人や名士達の姿に、宴会のご相伴に預かりほろ酔い気分であった民衆も脅威を感じ始め、不安がウルクをのたうち回った。人々は次々に病を分け与えられたかのように狂態を晒し始める始末であった。

 

祝いの夜が、神と人間の共楽の宵夢が崩れ去るのは、その過程を含めても味気なかったことだろう。ギルガメシュとイナンナを残した宴席は混乱の嵐が過ぎ去った静寂を受け入れたが、全てはイナンナの高笑いに支配されていた。

 

イナンナの高笑いは永遠に続くものと、当人含めて感じていたが、それはあまりにも変化のない天へ苦情を申し立てる、「いくらなんでも遅すぎる!!どうしてグガランナが来ないの!!!」というイナンナ自身の声により打ち据えられた。

 

イナンナは目で殺すような凶相を剥き出して天へと、この場では父である主神アヌへと迫った。果たして、天から与えられた声は以下の通りであった。

 

主神アヌが断じて曰く、「豊穣と美の女神よ、我が娘イナンナよ、グガランナをウルクへと堕とすこと罷りならぬ。私も、少しお前のことを甘やかしすぎたようだ。お前の奔放と自由に目を瞑ること枚挙にいとまがないほどであったが、しかし、今度ばかりは押し通ること許せじ。そこに控える使命の者、ウルクの王、賢きギルガメシュの言葉通り、いや、その誓いに則ることとする。お前の伴侶となるべき者は他にもあろう。今まで、散々と好き勝手してきたのではないか。何も全てを奪うわけではない。ただ、ウルク王の伴侶に焦がれることは諦めることだ。腹を立てるだけ無駄である。イナンナ、よいな。私の、父の話を理解したのならば、早急に天界へと帰還するがよい。いくら待てど、お前のグガランナの手綱はエアとシャマシュと私が離さぬ。」

 

これに、イナンナは唖然として、「そ、そんな、父上、ちちうえ!どう言うこと!なんで、なんで私じゃなくて、こんな奴の味方をするの!いっ、いつもは私が何しても、何にも言ってこなかったじゃない!!何にも言ってくれなかったくせに!!なんで!なんで今なの!本当なのに、今度こそ本気なのに!!」と嘆き叫んだが、アヌは「いいや、イナンナよ。お前はやり過ぎたのだ。私とて天の主神として、誓いが破られることを、ただ黙って見ておくわけにはいかなんだ。」と頑として譲らなかった。

 

イナンナは、信じられないものを見聞きしたように立ち尽くしていたが、その根の知性で事の仔細を承知すると、父の言葉に無言で承知しつつも、内心では憤怒の火泥を煮立たせていた。父にも、ギルガメシュにも。だが、この時の彼女には、ことを荒立てぬようにと、少なくとも思考する余裕があった。悲しいかな、その余裕を心の底から奪ってしまったのは、彼女自身の父神…否、天の、主神アヌであった。

 

アヌは言って曰く、「豊穣と美の女神イナンナよ、お前がどうしても伴侶を欲していることは理解した。だから、早く帰ってくるといい。お前が望んでも、手に入らぬものというものもあるのだ。考えてもみるがよい、お前の想いはどう考えても横恋慕ではないか。アマロには、シャムハトという妻も、エンキドゥなる子供もおるのだぞ。お前に入り込む余地など残されておらなかったのだ。さぁ、早く私の元へ帰ってきなさい。そこは些か騒がしかろうて。」

 

「妻?子供?…ねぇ、どういうことよ!どうして、そんな嘘を言うの?ちちうえ!ねぇ、どうして?なんでよ!!あ、あんたもなんか言いなさいよ!本当は違うんでしょ?ね?よ、よりにもよってシャムハトですって?そんな…じゃぁ、アマロはアイツの運命の…違うわよ!何かの間違いよ!!これじゃあ…ぁ、あんまりよ!」と、泣きながらイナンナは叫んだ。アヌの声はもうしなくなっていた。ギルガメシュは淡々と、冷徹な瞳でこの女神を見下ろし、彼女に付き従っていた神々はイナンナの周りに集まり、彼女に声をかけ出せずに屯し、人間は混乱の収束と共に、実に迷惑極まりない、この女神への尊敬を放り棄てるように、千鳥足で帰路についた。

 

取り残された彼女は、妻の存在も、子供の存在も、彼女は知らなかったのである。彼女は嘆き、喚き、叫び、父とギルガメシュを罵った。父へは、その全く無責任な父親としての在り方に憤り。ウルクの王には、ただ、とくとくと、その無礼と、思いやりの欠如と、そして己を嘲った全ての所業に対する憎しみを語った。立ち行かない彼女は、目を血走らせるとアマロの名前を呼び始め、それは叫びに変わり、困り果てた神々に両脇から支えられながら天界へと帰っていった。

 

ギルガメシュはその晩、眠らなかった。彼は一夜を通して、アマロが帰還することへの期待と、もしもへの不安と、正論を振り翳して得られた、完璧な正当性という勲の、そのなんとも言えぬ後味の悪さに顔を顰め、粗野な葡萄酒で誤魔化すのに勤しんだのであった。

 

 

 

 

天界に戻ったイナンナに、先ほどまでの狂態は微塵もなかった。背筋を伸ばした彼女は、ただ黙々と神々をかき分けて自身の宮殿へと籠ると、窓という窓、扉という扉を締切り、返還されたグガランナに跨り、誰に気づかれることもなく裏門から抜け出した。向かった先は天界の最果ての淵であった。

 

道中で泣き止んだ彼女は、憐憫を知らない機械のような表情のままグガランナから降り立ち、淵から一人飛び降りた。行き先は杉の森であった。

 

 

 

 

翌る日。主神アヌと神々の王エンリルの命令によって、イナンナの宮殿は完全に神々に囲まれた。アヌはイナンナに、その身柄を暫く謹慎の身に堕とすことを伝えるため、自ら宮殿に赴いた。アヌが宮殿に入り、イナンナにその処置を申し渡そうとした時には、既にふてぶてしく寝椅子に身を横たえるイナンナの姿がそこにはあった。

 

アヌは、この困った女神に「イナンナよ、お前はやり過ぎたのだ。ようやく観念したのだろうから、私も謹慎よりも重たい罰は与えるつもりもない。少し頭を冷やすことだ。」と、威厳のある重苦しい声で言った。実に悩ましげなその声に、それまで浮かべていた高慢な笑みが消えた、冷やした銅のように硬く険しい面持ちのイナンナは「主神アヌよ、父上は…貴方って人は、やっぱり娘の私になんか興味がないのね。結局一度切りも叱ってくれなかったわ。」と素気なく言うと、寝返りを打った。アヌも、イナンナも、それきり何も言わなかった。

 

 

 

昨晩の狂宴を、ウルクの民は色鮮やかに噂し合った。噂話は民にとっての娯楽であり、議論遊びであった。古老も若輩も混雑する旧アマロの神殿の議場は、専ら昨日の話で持ちきりであった。

 

曰く、「我らが王はかの淫乱の女神イナンナを破った英雄である。」と。

 

曰く、「いいや、イナンナ神は主神アヌの怒りに、その傲慢ゆえに触れたがために罰を受けたのだ。」と。

 

曰く、「神々を引き連れたイナンナ神は、宴会に託けて人間を弄ぼうとしたのだ。」と。

 

曰く、「我らが王は、その暴虐を食い止めたのだ。」と。

 

曰く、「いいや、イナンナ神は我等に豊穣を授けようとしたに違いない。彼の方は豊穣の女神であるぞ。」と。

 

曰く、曰く、曰く…ウルクの知者を僭称する者共は、早々本気で昨晩の喧騒について自論を戦わせていた。王の宮殿の前で朝から晩まで続くそれらは、最近になって働かずとも良くなった者たちにより楽しまれた。彼らはウルクで最も富の少ない者達に、その者らが必要とする分ではなく、その者らが暮らすのに十分だと自分達が決めた量の、麦と豆を分け与えて、富んだ彼らがするには恐らく億劫に思えてならない、臭かったり、重かったり、危なかったりする仕事を任せていた。

 

ギルガメシュ王は女神イナンナに誓いを守らせた。エレシュキガルには念の為三日はアマロを預けることになっている。愛しい人が帰ってくるまで三度の日没を認めなければならなかった。今日の日没前にはシャムハトとエンキドゥがウルクに着くだろう。彼らが帰ってくるまでに、彼には今日から果たさねばならぬことがあった。

 

彼は安堵と、自身の使命に向き合う覚悟を、今こそ実行に移さんとして、国の大事に精励な王にしては珍しく、強引な言葉で執務を取りやめさせると、全身に磨き抜かれた、荒ぶるような黄金の装飾を、がちゃがちゃきゅりきゅりと鳴らし立てながら、ウルクの街に良く出来た不遜な顔で繰り出した。

 

 

 

 

ギルガメシュがウルクの街を大股で闊歩する。足音をべだんらべだんらと響かせて、ともすれば滑稽な王の姿にも、豊かの極みを謳歌する民は歓喜の叫びでこれを迎えた。

 

老も若いも口を揃えて「ギルガメシュ王に祝福あれ!!貴方こそ、我らが真の王!!ウルクに祝福あれ!!」と歓喜の叫びを上げる。悪趣味に金で着飾った王の姿に、女達の顔は裏の面ごとギルガメシュに釘付けになり、頬を赤くして、上品ぶって口元を隠して手を振った。親子がいれば、どの家のもの達も、無邪気にギルガメシュに触れようとする子供を叱りつけては、王から引き離し、親子ともども跪いて手を合わせる。拝んで何になるのか、と思わずにはいられなかったギルガメシュに罪はあろうか。

 

色めき立つ民に対して、王は心の底から憐れんだ瞳を向けると、すぐさまにその美顔を歪めて言った。「…臭うな。臭うぞ、これは雑種の臭いだ。」

 

鼻を摘んで顔を左右に振るギルガメシュの顔には、目を覆いたくなるほど醜悪な卑劣が浮かび、大人達は王の豹変に表情を無くした。名士の一人は王の変わり様に目を白黒させると、よろよろ揺れながら近寄り、「お、王よ、い、いかがなされたのですか。どこか、よろしくないのですかな?」と声をかけたが、王は咳き込んでみせ、怒りと侮蔑に固められた鋭い眼差しで、「泥と革の間の子が…この、下等な混じり物が!不敬であろう!さっさと我の前から失せるがいい!!」と叫ぶと、名士の返答など聞くつもりもない、と示すように、黄金色の鎖を振り回し始めた。ギルガメシュは「逃げろ!逃げるがいい!泥と獣の皮から生まれた雑種め!!無様に逃げるがよいわ!」と、醜く歪んだ笑い声を上げながら人々に迫った。陶器の割れる音や作物が弾ける音と共に、恐怖が生々しく迫ってきた。

 

民はただごとではないと悟るや否や、蜘蛛の子を散らしたように逃げ始めた。悲鳴と怒号が飛び交う中には子供すら置いていく者もあったが、不思議なことに鎖は風を切りながら辺りを散々に荒らし回っても、子供にだけは一掠りと当たることがなかった。

 

ギルガメシュは散々に暴れて回った。喉を焼いた後のような、乾き切った呼吸をひっこめたり押し出したりしながら、ギルガメシュは今日の使命を終えた。

 

ウルクは半日で恐怖の底を這いつくばった。人々は栄光など見たこともないような、希望も無くしているような顔になっていた。埃まみれで王の鎖から逃げ続けたのだ。ウルクの最も北の土地から、ウルクの最も南の土地までを、彼らは逃げ続けた。恐ろしい力の前に、彼らは泣き叫んだ。「王よ!賢きギルガメシュよ!偉大な貴方はどこへゆかれたのか!何をそれほどお怒りになるのか!」もつれて転んだ男達は、鎖に弾かれては道を跳ね転がった。塵一つ落ちていなかった、最も清潔なことで知られた、宮殿から大門まで一続きの大路は見る影もなく、残飯や陶器の残骸が見るも無惨に散乱し、薙ぎ払われた酒の甕が大地に吐き出した葡萄酒の染みが、血痕のように壁や路地裏に惨たらしく点々としていた。

 

大路は偉大な通りであった。数千の民の暮らしの楽しみと豊かさが、その最たるものが集約していた。

 

連なって果てのない屋台が日々ウルクの豊かさを象徴した。早朝の肉の焼ける囁きは耳に快く、特注の青銅の大鍋で烹込まれた熱い羹からは旬の恵みを知らせる薫香が鼻腔に訪れては胸を踊らせた。

 

昼前になれば商人が食器や日用の入り物、外から持ち入れた物珍しい品々を敷物の上で整列させ、耳に残る飾り言葉で自慢の品を仕上げては、民の瞳と心を掴んで話さなかった。商人の弁舌もまた良品であるのは、民がその良品を味わい楽しむことができるのは、それだけでウルクの民の教養さえも異邦人達に伝えるほどだった。

 

ウルクに暮らす人々の営みが、細微ながらも、それゆえ確固たるウルクの繁栄の証として現れていた。

 

王もまた、漆黒の夜を除けば盛んに絶えず、流麗として天に届かんと登る立立たる白煙と、その根元に騒々しく暮らす民の盛んに、今日の活力を得るのであった。

 

そんな、麗しき全ては、嵐が通り過ぎた後のような刺々しい轍が残るばかりになってしまったのである。暮らしの表層の花は、他ならぬ花を植えた張本人によって毟り取られてしまった。

 

神々の言う使命が、神と人間の間を繋ぎ止めるということならば、今は正に断裂の寸前にあると言わざるを得なかった。発展は止まるところを知らず、幸福は眩く、だが、着実に人間達はウルクへの帰属を始めたのである。与えられたどこかではない。自分たちの手で育て上げたウルクという土地への帰属を始めたのだ。果たして、そこに神は居るのだろうか。いなくなることはないだろう。だが人間たちが神を見上げることは、時と共に擦り減り続けることも確かだろう。

 

ウルクはその繁栄のために神に風化の恐怖を味わわせた。そのことを、イナンナは知ってか知らずか追い風として、若い神々の殆どを陣営に呼び込んだ。彼らの言い分は、ギルガメシュの耳が痛いところであり、若い神々を古い神々が強硬に引き留めなかったのも、どこかでは協賛しているからなのだろう。アヌがギルガメシュに求めたことは何か。神が手ずから産み出した半神半人の人形に与えられた使命とは、突き詰めれば神秘の保全であったのである。神に仕える王は、人間達の側に立つものでは無い。ギルガメシュはこの時、アマロと共に暮らすために、使命に忠実であることをアヌに約束した。

 

そして、ギルガメシュはその約束を今日、果たしたのである。事ここに至った今、彼には人間の王としての規範に唾を吐かねば気が済まなかった。彼にとって、人間の王として生きることは誇りであった。父の代より育み守り続けてきたウルクの繁栄こそがその証左だった。

 

だからこそ、神秘の存続のために栄華を打ち止める裏切りを、暴君として詰られた上で受け入れることを選んだのだ。でなければ、ルガルバンダに合わせる顔がなかったし、他でもないギルガメシュの心が壊れてしまいそうだった。だが敢然と意地を張ると同時に、ギルガメシュは心の片隅で、自らがアマロへ抱いている愛情に偽りがないことに、寸微とも裏切るを得ざる有様にあることを、彼に溺れ切っている自分の姿を確認できたことに言い知れない快感を覚えていた。

 

そのことも扶けて、故郷への裏切りが彼に、ギルガメシュは暴君としての仮面を分厚く、重々しいものへと変質させていたのだろう。彼は仮面に狂気の笑みを凝固して表してはウルクへの裏切りに走った。婦女を攫う素振りをしては、悲鳴を響かせるだけ響かせてから獣を追い立てるように駆けて逃げ散らせた。鎖で男や子供を軽く払い飛ばしては、飛んだ先の柔らかい民家の屋根に受け止めさせた。

 

ウルクの狂騒は街の人々の心を荒んじたが、実害としてはその日暮らしに足りる程度の、陶器や葡萄酒に僅かな食べ残しだけであった。結局、ギルガメシュの恐るべき闊歩の前にも、誰一人怪我を負ったものはいなかった。

 

少なくとも、ギルガメシュは嫌われるだろう。憎まれるだろう。民の生活を、その害の多寡に関係なく、実に明瞭に脅かして見せたのだから。より多くの民には、そう見えたのだから。

 

自分は乱暴者として描かれることだろう、とギルガメシュは思った。だが、ギルガメシュは悲しみより、勝って余りある虚しさに心を患っていた。給仕も全て街の片付けに送り込んでしまったから、ギルガメシュは久方ぶりに手酌で、アマロと共に使っている木目がまろやかな酒杯に葡萄酒を注いだ。葡萄酒は何の気なしに、ただ目に止まったついでに街の路地から持ち帰ったものだった。特別な感傷もなく、単に王宮の葡萄酒を飲みたいとは思えなかった。

 

葡萄酒は温く、風味もあったものではなかった。だが、舌を打つ粗野で強かな酒精からは悪くない逞しさを感じられ、ギルガメシュの胸のむかつきを僅かに安んじた。

 

宮殿に帰る頃には陽が傾いていた。日没である。ギルガメシュは手で日陽射しを遮った。眩しさに皺が寄った険しい顔をほぐしながら、シャムハトとエンキドゥを、一人きりの玉座の間で待った。荒れる旋風が夜を運んできた。いつも以上に寂れた夜であった。神々がイナンナ神を天界から出すまいと、シャマシュ以外の神々の総出で彼女を見張っているのだ。月の神には宮殿前の夜番の仕事が与えられていたから、この晩は続けて漆黒の新月であった。

 

そして遅くとも日没までにはウルクの大門前に辿り着くはずであった二人がその日の内にギルガメシュの元へと帰ってくることはなかった。

 



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20黄金色の赫怒 後編

感想ダンケなっす!今回はかなーり長いです。では、どうぞ。


20黄金色の赫怒 後編

 

 

アマロという存在が怒りを顕にしたことは、霊長の歴史どころか、星の歴史を詳らかにしても、片手の指でも多い程しか無いとされている。

 

殆どの事象に対して、アマロは愛情と幸福で返してきた。そこには、彼なりの苦悩と信念があり、ある意味で、人類最古の価値とされる肉体を対価として、万年万事を治めてきた彼は最古の文明人とも言えるかも知れない。

 

そんな彼を怒らせることは、彼を笑わせるの以上に、圧倒的な労力が必要とされる。例え、どんなに偉大な神々であっても、彼を怒らせようと前向きに考える愚か者はいないし、実際そんな者は後にも先にも登場しないだろう。

 

しかし、事実として彼は決して怒らない訳ではない。即ち時として、加速度的に憤懣を拡大させてしまう、とびきり運がない、あるいは逆に運が良すぎた者というのが、確かに存在したということである。

 

 

 

イナンナは実に明晰な女神であった。もとより彼女は豊穣と美を掌る別段に強力な神である。そんな彼女が全力を払ったならば、人間の一人や二人程度など当に木端の如く弾き消されてしまうことだろう。強大な力故に人々は神々を畏れ敬ったのであるが、彼女の場合に限れば違うとも言える。人間達は、イナンナの、その人間らしさに恐怖の類を抱いていたに違いなかった。

 

良くも悪くも神々は人間とは全く異なる世界に住まう存在であり、人間が如何に懸命に騒ぎ立てようと、逆転的な奇跡でも起こらない限り、神々が本気になって怒ることはないのである。その昔の洪水の項とて、決して神々は人間に腹を立てての所業では無かったのである。その証拠に、大雨に注意せよと、天気を予め報せたはずである。そう人間の大工頭だったウトナピシュテムには伝えたはずである。

 

結果、何の誤差であるのか、ウトナピシュテム一人を残してウルク近辺の人間はすっかり一掃されてしまったではないか。このことは神々にしても大いに学ぶべきことが多かったようであり、神々はそれ以来、洪水より先に火山を噴火させたり、或いは地面を揺らしたりして人間に逃げるように促してから雨や波を起こしたのであった。

 

さて、そんな神々の中にあって、やはりというかイナンナは特異であった。彼女は、人間の言葉や動きを一つ取っては腹を立てる程に、人間というものを同じようなものだと考えていた。そのくせ、自分はその中でも神なる御大層な貴種であるから尊ぶようにと、そう鼻を高くすることを忘れない。彼女は、人間の神官が全身から石臼で粉引く音が聞こえやしないかという慇懃無礼に持て成せば、逆に巫山戯ているのかと腹を立て、お前の無礼を私が贖ってやろうなどと言って、軽い気持ちで神の力を使うのである。その度に幾つの王朝が滅びたことか。

 

マルドゥークの遥か後の世に生まれた彼女は人間に親しみすら抱いていたが、同時に、自分の強大な力を人間に振るうことに躊躇がなく、また神に生まれた故の周囲による冷鈍から、人間の親と子の思い遣りと叱咤に富む関係を妬み、滑稽に捻れた憎愛を抱くに至ったのである。

 

彼女が想起した、最悪の、彼女にとっては最高の筋書きが出来上がるまでに時間は然程要さなかった。

 

天界の宮殿が囲まれる前に彼女が杉の森でしたことは、端的にいえば神力を振りかざしての脅迫。即ち、悪魔的な行為であった。彼女は杉の森の番人として、人間が神秘への叛逆を許さぬために、人間の恐怖であることを使命とされたフンババの住処へと吶喊した。

 

大樹に囲まれた聖域で鼾をかいていたフンババを殺意を隠そうともせずに殴り起こすと、「フンババ。貴方にお願いがあるの。」とイナンナは言った。

 

痛む頭を摩りながらフンババは怪訝な顔で言った。「イナンナ様、とうしてこんな真っ暗闇の中でいらしたので?そのお願いとはなんなのですかな。」フンババの問いにイナンナは冷たく怖気を覚えさせる顔のまま、「ウルクに程近い神聖な森の聖域に、礼儀を知らない余所者が棲みついているのよ。懲らしめてちょうだい。」と言い、次いでフンババは応えて「おかしいな、それなら森が騒ぎ立てるはずです。しかし、私のところにはそのような兆しがとんと来ておりません。それに、懲らしめてと言われましても、私は人間どもが森に近づかないようにと言い付けられております。ここから出るわけには…」と言い、言い切る前にイナンナはフンババを殴り飛ばした。

 

イナンナの手には小さな球が握られていた。彼女は目を死に際の狼よりも鋭くして、「いいから、行きなさい。懲らしめてきなさい。不届き者は二人よ。人間の女と人間の子供の親子よ。私に不敬を働いたの。私を差し置いて、私の夫と子供を作るだなんて。私を差し置いて私の夫と契るなんて…もしも、出来なかったら貴方のことをもう一度この小さな金星で殴りつけるから。覚悟なさいね?いいわね?」と早口で捲し立てた。

 

フンババは小さな金星球の一撃で完膚なきまでに全身を痛めつけられたが、それでも二度、三度と殴られるまで「いいえ。出来ないことです。私は森から出てはならぬのです。」と頑なに拒んだ。

 

しかし、四度目に一際強く振りかぶったイナンナの狂気漲る威容の前に、遂にフンババは「わかりました。やります。やりますとも。だから、どうかその金星をお下げになってください。」と、イナンナに跪いて服従した。顔も体も砕け散る寸前の有様になり、やっとこさ自分の命令に従う姿勢を見せたフンババに、イナンナは一層冷たい顔で、「女は絶対に殺しなさい。いいわね。子供は攫ってきなさい。殺してしまってはあの人が悲しむわ。でも、無理なら殺しなさい。いいわね。」と念を押してから天界へと戻った。

 

残されたフンババは安心から腰を抜かしたが、帰り際に「遅かったら…グガランナを貴方の森へ落とすわ。父上の話なんか聞いてやるもんですか。」と言い残していったのを思い出し、すぐさま森を発った。

 

 

 

神聖な森の聖域で、シャムハトとエンキドゥの二人はウルクへ向けて出立しようと言うところであった。支度を終え、最低限の器や自然の恵みを携えて聖域から出ようという頃であった。

 

鳥が騒ぎ始めたのは、まさにシャムハトが芝生で走り回るエンキドゥを抱き上げた時であった。

 

「エンキドゥ…貴方もすっかり大きくなりましたね。赤ちゃんの頃がもう少し長くてもよかったのに…ほんの少ししか経っていないというのに…不思議なこともあるものね。きっと王様もあの人も驚きになることでしょう。」と、少し重そうに自身の胸下ほどに育ったエンキドゥを撫でながら、シャムハトはしみじみと言った。

 

エンキドゥは体が十代の子供ほどに育っていた。森の木々が日々、素晴らしい成長を見せるのと同じように、エンキドゥの成長のほどは全く偉大な力が働いているようであった。まだ言葉こそ話さないが、エンキドゥはとても賢く、森での暮らしを誰よりも楽しむ子供だった。

 

もしもアマロがいたならば、「キングゥは生まれた時から大人ほどであったし、喋ることもできたから、私の可愛いエンキドゥはこれっぽっちもヘンテコではないとも。」と反論していたかもしれないが、しかし、事実他人の目から見ればエンキドゥの成長は異常であり、その点も含めて、彼らが森で暮らすことは最善の選択であった。そのことに間違いはない。

 

「さぁ、出発しましょうか。王様もお待ちでしょうし、日没前には着きたいわね。」とシャムハトがエンキドゥに言い聞かせたのと同時に、恐怖の異変がこの神聖な森に襲い掛かった。

 

人間の胴ほどもある木々も、それよりもっと太い木々も関係がなかった。荒れ狂う天の怒りに触れたような剛力によって、次々に木々が圧し折られていった。木々の上げた悲鳴は平穏とは真逆に、何の赦しも与えられないほど殺伐としていた。この世のものとは思えない大重量が足音を荒々しく響かせる。その重さゆえか、一歩一歩が足裏にあどけない土の地面にめり込んでは、強引に耕した。

 

凶暴な獣の接近に気づいた森の獣達はすぐさま自分の生命を守るために行動を開始した。恐ろしさを覚えるほどの夥しい鳥の悲鳴が響き渡り、木々の上から小さな獣の姿は全て消え失せた。体の大きな、尋常の時ならば偉大な角や牙や爪を誇示する大きな獣達も、この時ばかりは、小さき獣達より早く、更には鳥達よりも数刻も早く逃げ出していた。

 

そして、突然の静寂が襲った。立ち止まったのは聖域のすぐ前であった。そこまでの道は見るも無惨に掘り返され、森の犠牲者達で混み合いすら見せていた。獣達の遠吠すらも聞こえない。

 

フンババは聖域を囲む大樹を軋ませて、乱暴にも他人の大事に闖入した。だがもぬけの殻。やはりな、誰もいないではないか。フンババの思いとは裏腹に、フンババの体はイナンナの小金星球の豪撲に恐れをなして獲物を探し始めた。辺りを見回し、荒くふぐふぐと鼻を動かしたフンババは、辺りをぐるりと囲む大樹のうろに、虱潰しに手を突き込んでいった。

 

 

 

うろの中でシャムハトとエンキドゥは息を潜めていた。エンキドゥはシャムハトに後ろから抱かれていた。シャムハトはエンキドゥに「口元をおさえて。声を出していけません。」と言いつけ、エンキドゥは母の言いつけを忠実に守っていた。エンキドゥは急成長しているとはいえ、まだまだ子供の柔らかいその両手を重ねるように自分の口を塞いでいた。不安なのか頻りに母とうろの外を交互に確かめている。

 

森の異変からのシャムハトの動きは早かった。荷物を全て捨て置くとエンキドゥを抱いて、二人で入れるような木のうろを探し出して今に至る。物腰穏やかで知性溢れる彼女の頬には、しかし冷たい汗が噴き出していた。彼女は確信に近いものを抱いていたが、それを敢えて口に出すことは無かった。自身を喪わんとするものなど、ウルクの外にも中にもただの一人しかおるまい。常の彼女ならば、三度目の轍は踏まぬ、と機転を利かせて逃れることも出来ただろう。

 

だが、今の状況下ではそれらも不可能であることは彼女自身が誰よりも理解していた。夫アマロにとっても同じだっただろう、と彼女は想像する。もしも彼が自分と同じ状況下に陥ったとしても、同じようにエンキドゥを守ろうと決断したに違いない。親とて、子供とは血が繋がっていること以外は他人と違いがない。故に、エンキドゥを守りたいという衝動がくる源は、この子が我が子であるだけでは断じて無かった。

 

アマロにも、そしてシャムハトにも、エンキドゥは希望に他ならなかったのである。エンキドゥの誕生によって二人は改めて良縁の仲となり、森での安寧を得ることができた。ギルガメシュとの和解も、王としての彼の更なる栄光にも、きっと貢献したに違いなかった。エンキドゥへの愛情に曇りはない。ただ、その源が多岐に渡るというだけだ。そう自分で言い聞かせる。我が子を見てみる。エンキドゥは険しい顔のシャムハトを、心配の面持ちで見上げていた。シャムハトは笑み、エンキドゥのハの字になった眉ごと我が子の目元を隠した。エンキドゥはうむむ、と可愛らしく唸り、視界を塞いだ母の手に両手をかけた。思いの外軽く手は退けられた。母は強い、清く美しい表情でエンキドゥの頭を撫でた。外では木が軋む音がすぐそこまで来ていた。

 

「まだまだ私には届きませんね…小さな手。」シャムハトはエンキドゥの手を愛おしそうに握った。少し痛いくらいに握った。エンキドゥは母から目を離さなかった。握られた手に力を込めた。シャムハトは嬉しそうに、名残惜しそうな表情をした。エンキドゥは力をもっと込めた。光が差し込んで仄暗かった木のうろの中が漆黒に呑まれた。息を呑む音が聞こえた。巨大な影が立っていた。シャムハトはエンキドゥの手を解いた。毛むくじゃらの、剣のような爪が生えた巨大な掌が近づいてきた。エンキドゥが声を上げようとしているのがわかった。シャムハトはエンキドゥの額に口付けた。分厚く巨大な手が少しずつ閉じていく。シャムハトの足が浮いた。苦しそうな悲鳴が喉まで迫り上がったが、シャムハトは必死に飲み下した。あくまでも、彼女は凛としていた。エンキドゥは動けなかった。うろの中を外から覗く恐ろしい目と、目があってしまったような気がしたのだ。手足が動かなかったエンキドゥは悔しかった。腹が立って仕方がなかった。何もできない代わりに、エンキドゥは思い切り睨め返した。

 

フンババは最後のうろに手を突き込んだ。ずいと入れて、手を左右にゆする。指先にあたるものがあった。潰さないように細い何かを握った。腕を引き抜こうとした時、イナンナに匹敵するほどの殺気を感じた。急いでうろの中を見るが、小さくて緑っこいのがいるだけだ。手につかんでいる方を見る。イナンナから言い付けられたのはこっちだった筈だ。必ず殺せと言われていた。フンババは口を開けた。

 

シャムハトは何が如何なるのか瞬時に理解すると、肌身離さず懐に入れていた、ギルガメシュから預けられていた小壺をうろの中に投げ入れた。シャムハトが何かをしたのを理解したフンババは、手に少し力を込めた。軽快に何かが砕ける音がした。エンキドゥは小壺を両手で抱くように握りしめると、うろの淵から外を見た。

 

フンババの口が開かれた。シャムハトはぐったりとしていた。死人のような真っ白な顔で弱々しく震えている。足はだらりと垂れていて、口元には赤色が痛々しかった。シャムハトは目を見開いてエンキドゥのことを見ていた。だが、何をも叫ばない。我が子に望むのは、おとなしくしていろ。息を潜めよ。生き延びよ。ただ、それだけだった。今生の別だとしても、彼女は涙の別れなど、後世にまで遺るような劇的な感動など求めていない。己が子供への、己が希望への愛情に曇りはなく、それ故にただエンキドゥが生き延びるための最善を尽くそうと考えたのだ。彼女にはもはや痛覚の権さえ残っては居なかった。

 

フンババは大口の真上で、その手を開いた。シャムハトの眼からは燦然と煌めきが伝い、その光景はエンキドゥの記憶に確と焼き付けられて彼女の最期の美を飾った。口腔壁に揉まれた彼女は咀嚼されるまでもなく、エンキドゥの姿が我が視界から喪われたと同時に絶命した。よもや幸運であったかなどとは、もはや語るに足らざるなり。エンキドゥは蜂の一羽撃きの間ほども彼女から目を離さなかった。

 

語るに余りある惨たらしさで母を失ったエンキドゥにも、フンババの剛腕が迫った。息を殺していても、この巨獣の嗅覚には敵わなかった。フンババは指先に意識を集めて、この小さな生き物をうろから引っ張り出した。怒って暴れるエンキドゥに、フンババは脅威を感じなかった。ましてや、まだまだ幼体である。獣とて、これほど幼いものを殺すものだろうか。それらの境を分けたものは、やはりか、少なからずフンババの胸の底に燻ったイナンナの強引への憤懣であった。

 

殺すには理由が足りない上に、攫うとなるとイナンナを喜ばせることになる。どちらも面倒臭がったフンババは摘み上げたエンキドゥに「お前はまだ小さいし、食い甲斐もないだろう。まぁ、イナンナ様には攫うように言われたが、一先ず死んだことにしてしまおう。見逃してやるからさっさと去ね。」と言って、指から力を抜いた。ぽてりと芝生に受け止められたエンキドゥは安堵と孤独感とに苛まれながら、去っていくフンババの背中を見つめて涙を流した。

 

 

 

フンババが去った後、泣き止んだエンキドゥは母から受け取った壺を見つめた。ただ呆然としていたエンキドゥの視界に、最後まで残っていたからだ。エンキドゥは、そういえばこの壺の中身は何なのか、ずっと気になっていたことを思い出した。今は母親の死について考えるだけの余裕が無かった。壮絶な体験に心が擦り切れそうだったエンキドゥは、意を決して壺の蓋を開けた。

 

壺の中を覗こうとすると、覗くまでもなく噴き出すものがあった。熱いものも冷たいものもあるそれは、泥、血、そして汗であった。壺から噴き上がったそれらは勢いよくエンキドゥへと降りかかった。頭から体全体を覆うようにエンキドゥを包んだそれは、徐々に光を帯び始めた。

 

驚いてなされるがままのエンキドゥ。彼が浴びた泥が放つ光はいよいよ煌々と眩いほどになっていた。森の中、荒らされた聖域は光に気圧されるように震えている。耳鳴りがエンキドゥを襲った。目を瞑り、耳を塞いでも耳鳴りは続いた。そしてぱたと静寂が訪れた。

 

瞳を開けると目線が異様に高い。わからなかったことが突然分かるようになった確信もある。何よりふと意識すれば、一連の黄金色の鎖が手の中に納まっていた。「私は…いや、僕は…。」エンキドゥは嘆息した。初めて彼が喋った言葉は父の名前でも母の名前でもなかったが、彼は確かに今、二度目の誕生を迎えたのである。アヌが詫びにと送り届けたものは、天界に遺る最も古いものであった。ティアマトの怒りに触れて、尚遺されたものなど片手で足りる程しか存在しない。その中でも、最も古いものこそこの壺であった。壺の中身は何だったのか、そのことはアヌも知らなかったのだが、運命の悪戯か、その中身こそはティアマトの泥と魔獣や神々の血、そしてキングゥの汗であった。ティアマトとマンドゥークによる天界での大戦争の最中の遺産である。そして、唯一現存していたキングゥその人の原典とも言える宝物であった。

 

凝縮発酵された神威を秘めたこの遺物は、エンキドゥの存在によって遂にその遺産としての真価を発揮した。父はアマロ、母はシャムハトであるエンキドゥはその実シャムハトをも越えるキングゥに最も近い血縁者である。その血の濃さは比ではなく、謂わば半神のギルガメシュに相当する神性を持ち得る唯一の存在であった。

 

イナンナの不手際により、偶然にも壺はエンキドゥ自身の手で封を切られることとなった。もしも、エンキドゥ以外の者が封を切っていたならば、例えアマロであっても何の変化も起きなかったであろう。中身はただの神秘の遺物に落ち着いたはずである。しかし、事実としてエンキドゥは壺を開けた。そして、もう一つの重要事項として、エンキドゥの憤怒と悲哀、そして隠された父へ捧げる情の存在が、最期に遺されたキングゥの原典との共鳴を奇跡的に果たしたのである。血筋、遺産、情念…全てが完璧に重なったことで、キングゥの遺産は神秘を振り絞り、その原典に遺された全てを自らの後継者に注ぎ込んだ。

 

もとより神秘に愛されたエンキドゥである。彼の肉体は急激に成長し、ギルガメシュにも追随するほど抜群の知性を獲得し、キングゥの知る限りの豊富な知識をも吸収し、仕上げに彼が父から与えられた最高の宝具である天の鎖を自由自在に扱う技術までも継承した。継承の完了と共に光はその泥や血と共に消失した。

 

ただ一つ言うべきことがあれば、エンキドゥは継承者故にその肉体もまたキングゥと同質に変容していた点と、その黄金色だった瞳が髪色と同じ翠に変質したことである。なぜ変質したのかについては諸説あろうが、一言で説明するのならばキングゥを継承した証であろう。黄金色のエンキドゥの瞳と紫色のキングゥの瞳が混じり合い、せめぎ合いの末にエンキドゥの生来の快活と無垢がキングゥの瞳を受け入れる形で思いがけなく美しい翠へと昇華したのであろう。

 

血筋、遺産、情念…そのほとんどを自らの手で取り揃えてしまったことに、恐らくイナンナは気づいていないだろう。だが、いずれ彼女も知らなければならない日が来るのだ。イナンナ神最大の天敵が今、遂に誕生してしまったのだということを。

 

立ち上がったエンキドゥは「…まずはウルクに戻らなくちゃ…ギルガメシュにこのことを教えないと。」と言うと、ウルクへ向けて走り出した。フンババとイナンナへの憎しみは消えない。だが今正面から受け止めるより、父の伴侶であるギルガメシュに何が起きたのかを伝え、協力を仰ぐことが先決であると聡明なエンキドゥは判断したのであった。

 

まるで初めから自分の体の一部であったように、使い方が完全に理解できる鎖を巧みに操り、森を風よりも早く駆け抜けたエンキドゥはウルクへと夜通し駆けるのだった。

 

 

 

「こ、ここは…どこ?私は…死んだはず…。」フンババに殺されてしまったシャムハトは肉体が失われたことで亡者となり、冥界の入り口にある真黒な川の畔で目を覚ました。彼女は体の痛みがすっかり消えていることに気づいた。よくよく体を見てみると傷ひとつ無い。呆然としていた彼女だったが、すぐさま我が子のことを思い出した。

 

「エンキドゥ!エンキドゥ!母はここですよ。いるなら返事をしてちょうだい!!エンキドゥ!」返事はない。もしや川の中にいるのかもしれない。動転している彼女は冷たくも温かくもない真っ黒い水が流れる川に胸まで浸かって探し回った。繰り返し呼びかけても返事は返ってこなかった。

 

「私は如何すれば…。エンキドゥ…貴方はどこにいるの…。」シャムハトの嘆きはただの独り言だった。途方に暮れた彼女は体の疲れすら感じなくなっていることに背筋が震える思いだった。「…私、死んじゃったの、よね。じゃあ、ここは冥界なの?」目を逸らしていたことに、彼女は向き合い始めていた。

 

「あれ?シャムハト…君がどうしてここにいるんだい?ギルガメシュの代わりに迎えに来てくれたの?」

 

途方に暮れていたシャムハトの耳に届いたのは、最も聴きたかった声であり、今最も聴くことが恐ろしかった声だった。

 

「あ、アマロ様…わ、私は…実は…」シャムハトは自身が死んだことを他所に、エンキドゥが見当たらないことに恐怖と不安が募った。

 

見かねたアマロは妻の尋常ならざる焦りと恐怖の感情を和らげようと顔を見合わせて言った。

 

「…シャムハト!私の目を見て?…そう、もう大丈夫。ほら、ここへおいで?…うん、いい子だね。落ち着いた?そっか……ね、ゆっくりでいいから私に教えて?何があったのかな…エンキドゥの姿も、ギルガメシュの姿も見えないし…。地上で、君の身に」

 

しどろもどろになっているシャムハトに救いの手を差し伸べたのはアマロだった。シャムハトは夫と瞳を合わせて瞬間に、すとんと呆気もなく恐怖も焦りも、全ての煩わしいものが源から綺麗さっぱり消滅するのを感じた。ただ抱擁の安らぎと温もりだけが残った。落ち着いた彼女が話し始めようとした時、もう一つの声が聞こえてきた。

 

「ア・マ・ロきゅん!!エレちゃんをおいていかないでよーー!!…って…誰よ、その女!!」

 

緊張感皆無の登場を果たしたのは冥界の女主人改め、冥界の絶対女王にまで今日までの二日で登り詰めたエレシュキガルである。今現在、冥界で彼女に敵うものは誰一人として存在しない。例え太陽神シャマシュでさえ、冥界ではエレシュキガルの足元にも及ばない程である。

 

そんな彼女とアマロの関係は端的に言えば極めて純純であった。二日ぽっちで手を繋いで、遂には「ちゅー」まで達成したエレシュキガルの奮闘鮮やかなるも優なるが、初心の申し子と言っても過言ではなかった彼女の実力を限界を超えてそこまで引き出させたアマロの末恐ろしさもまた鮮やかであった。

 

少しだけ二日間の振り返りをすれば、初日ではエレシュキガルの十八番である生真面目が炸裂し、二日目で彼女はアマロへの恋慕に完全融解した。エレシュキガルが文字通りアマロの世話を何から何まで焼くなど、初日の前半戦は比較的、いや、奇跡的な健全であった。その後も特に不健全ではなかったのだが、やはりそこはアマロである。単なる指先と指先の接触事故により、エレシュキガルのあるはずもない心臓が痙攣を起こした。それだけならまだ救済の余地ありだったのだが、ここぞという時に大凶が確定する星の下に神聖を受けたエレシュキガルのドジが予定調和的に暴発した。胸を押さえて後ずさった際、運良く躓いてしまい、倒れ込む彼女を、これまた予定調和的にアマロが受け止めることとなった。

 

エレシュキガルは絶頂した。そして、真っ赤な顔をふにゃふにゃにした上に鼻血を、剰えほぼ同時に両方から噴き出して気絶したのである。失神した彼女はアマロにより丁重に寝台まで運ばれた。閨事では優る者無しのアマロだが、こう見えて眠る美女に対しても下心とは無縁である。床で眠ろうとした彼を、無意識なのか狙ってなのかは不明だが…一先ずはよくやったと褒めよう…寝ぼけたエレシュキガルが寝台に引き摺り込んだ。

 

最早救済の余地はなかった。翌朝、目を覚ましたエレシュキガルは自身がアマロに純潔を捧げたのだと勘違いした…が、しかし、出会った時から顔も好みであったし、何より昨日に抱き止められた時の絶頂や、抱きしめられた時に包まれたふわりとした薫りが忘れられないし…などの諸事情により寧ろ気持ちを新たに、寧ろ吹っ切れたようにアマロへ甘え始めた。

 

妻帯者であることも、子供がいることも説明した上でエレシュキガルは「都合が良い女でもいいから!ね、一緒にいて!!私を褒めてよ!」と言って離さなかった。食いつかれるのでは、という圧もあった。しかし、やはり愛してくれる人を愛さずにはいられない彼の性もあり、アマロは「都合が良くなくても一緒にいるけど、私の妻と子供とは仲良くしてね。」と言って彼女を受け入れることにしたのである。

 

そうして、現在に至る。毎日…二日とは言え逢引と称して欠かさずに冥界の巡回を行う生真面目女王エレシュキガル。彼女と共に見回りを散歩がてらにしていた折に、アマロとシャムハトは再会したのであった。

 

先手シャムハトからの「夫が、アマロがお世話になっております。」というご挨拶に、一時は闘争も辞さない構えをとったエレシュキガルだったが、アマロが間をおかずに「彼女はエレちゃん。私の恋人。そして彼女がシャムハト。私の奥さんだよ。」と双方満足の行く説明で中を取り持ったために大事には至らなかった。エレちゃんとしても奥様は少し性急であると考えていたため、今の段階的には恋人が最適の表現であった。因みに、言うまでもないがアマロは素面である。シャムハトは柔かに恋人を受け入れる度量持ちだったため、こちらは何の心配もいらなかったかもしれない。

 

 

 

シャムハトの深刻な表情を鑑みたアマロはエレシュキガルに頼んで、彼女の宮殿で話を聞くことにした。宮殿に迎え入れると態々エレシュキガルが手作り料理を二人に披露した。本来ならば飲食はおろか睡眠も排泄も必要がない冥界で、わざわざ手料理を振る舞うのは花嫁修行のために他ならない。エレちゃんはどこまでも真面目であった。

 

「はい!アマロ、どう?美味しい?上手にできてるかしら?美味しかったら褒めてほしいーなー…なんて!」

 

話を聞く前に食べてほしい、と強くせがまれてシャムハトはおずおずと、しかし上品に食べ始めた。アマロは無邪気に喜ぶと、実に美味しそうに食べ始めた。麦や豆、乳や香辛料など…食材はウルクからギルガメシュがアマロのために運び込ませたものである。アマロが飲食や睡眠といった、何気ない生活行為を好むことをギルガメシュは知っているのだ。

 

「オホホホ!!褒めてほしいとは言ったけれど、そんなに褒められちゃうと…て、照れちゃうのだわ!!」

 

アマロからの「とっても美味しいよ。私は料理があまり得意ではないから、エレちゃんが上手だととっても助かるなあ。」とのお褒めのお言葉に、エレシュキガルは有頂天となった。シャムハトだけは黙々と食べながら、自らが体験したことを言語化して整理することに意識の大半を割くのに手一杯であった。

 

食事がひと段落ついてから、エレシュキガルとアマロに促される形でシャムハトは自身の体験を全て、その隅々までを話した。少しの偽りもなく話されたことには、エンキドゥと死に別れてしまったことも含まれた。シャムハトは泣きながら食い殺された時の恐怖に至るまで全てを語り切った。

 

「よく、頑張ったね。…ごめんね、側に居られなくて。」

 

アマロはシャムハトを正面から抱きしめた。彼もまた泣いていた。シャムハトは安心感に呑まれる感覚を覚えたが、エンキドゥの安否が知れぬことへの心配をアマロに語った。

 

「あ、あなたって…立派なお母さんなのね…わたしも、私も!あなたみたいなお母さんになれるように頑張るわ!さぁ、私とも抱き合いましょっ……!?」

 

エレシュキガルが一番泣いていた。泣いて、しかも感動していた。心強く動かされた彼女はシャムハトに自分も抱きつこうとしたが、突如として脂汗を浮かべたかと思えば完全に膠着してしまった。

 

 

 

突然のエレシュキガルの変化。なぜ?というシャムハトの疑問よりも先にアマロが彼女との抱擁を解いた。シャムハトは夫の顔を見てエレシュキガルの変化の理由を理解した。そして、力一杯アマロの手を掴んだ。

 

アマロは心内とは真逆の満面の笑みで「シャムハト、私はこれから行かねばならないところがあるんだ。だから、その手を離してくれないかな。」と、言った。

 

シャムハトは満面の笑みを浮かべるアマロの手を、初めて全力で握り締めた。今手を離して仕舞えば、恐らくは天地が揺らいでしまう気がしたのである。だがしかし、この男も本気であるらしかった。

 

「アマロ様!い、いけません!うむぅッ!?」と止めるシャムハトを抱き締めると、彼女は最後まで話すことさえ許されずに口を塞がれた。これまでで一番激しく口内の端から端まで蹂躙され尽くされたシャムハトは、頭の中で幸福を司る、曰く白くねっとりとした刺激的な液汁が止めどなく放出されるのを知感した。直後視界が暗転。鼻血を吹き出して彼女は気絶した。弛緩したシャムハトの体を横抱きにして寝台に横たえる。くるり。アマロは次の獲物に目を向けた。

 

エレシュキガルは「ピッ。」と鳴いて後退ろうかとして、「いや、今こそ好機。」と思い直して一歩進み出た。甚だ剛毅なり。瞬く間に目の前に立っていたアマロに顔の両側をがしり固定されたエレシュキガルは、徐々に迫ってくる瑞々しい唇に目を奪われた。生まれて初めて深い接吻を経験する…という妄想に飛び立った彼女は、その後の不健全な、極めて不健全な展開へと妄想を発展させ、最終的には三男三女に恵まれる自分とアマロの姿に思いを馳せた挙句、現実で唇と唇が合する寸前に限界を迎えて吐血した。気絶したエレシュキガルだったが、吐血如きでこの男の接吻を免れる訳もなし、血を啜り呑むことも厭わずにエレシュキガルが完全に堕ちるまで彼女の口内を蹂躙した。

 

「…っかは。し、死ぬかと思ったわよ!し、死なないけど。」

 

白目を剥き、左右の鼻から幸せそうに血の河を流しているエレシュキガルに、敢えて接吻をしたのは、気付けの意味もあったようである。快楽が限界を越えたことで、快楽の授受を司る部分が完全に破壊されてしまったエレシュキガル。一周回り切ったことで悟りを開いた彼女は何と快楽の渦から帰還したのである。無論、アマロ無しでは死なずとも生きてイけない心身に創り変えられてしまったやもしれぬが。さはあれ意識を取り戻したエレシュキガルにアマロは言った。

 

「私は今、冷静さを喪おうとしています。エンキドゥのことが心配でなりませんし、シャムハトは酷い目に遭わされ、剰え命を奪われました。再会できたものの、流石の私にも限界があります。もう我慢できません。かわいそうなエンキドゥ…母親を目の前で食い殺されるなど…許せません。なんたる仕打ち。イナンナという方には徹底的なお仕置きが必要なようです。」

 

エレシュキガルは「私アイツのこと好きじゃないのよね。あまり会いたくないのよ。」と言おうとしたが、アマロの顔が全く変化していないことに、寸分狂わず先程から同じ満面の笑みのままであることに言い知れない威圧感を感じて、「もちろんよ。あなたの恋人に任せなさい!」と勢いよく胸を張ってしまった。

 

 

 

アマロは赫怒した。最愛の妻子の命を脅かされた挙句、妻のシャムハトは食い殺され、可愛い我が子は幼くして地獄を味わわされたのである。この時、有史以来前例の無い激しい怒りが世界を睥睨していた。その世界とは果たして宇宙だったのか、それともその更に上なのか。矮小の身では見当もつかないが何者かへの絶対的な死刑宣告には違いなかった。

 

 

 

エレシュキガルはアマロを天界に押し上げる傍ら、久方ぶりに神々の姿を観察していた。そこには父神アヌもおり、幾分老けて見えた。外見が寸分とも衰えない彼女にとっては不思議な発見であった。

 

話は脱線するが、この不思議の背景にはエレシュキガルの統治する冥界の特殊性が、全く予想だにしない形で存在していた。

 

冥界は本来神を求めない。一方で、亡者の帰属場所として定着して以降は、彼らにとって欠かせない場所となりつつあった。死して尚亡者として生きると言うことには、相応の神秘が求められる。天界からほぼ完全に独立している冥界であり、亡者の帰属は天界ではなく冥界である。生者が天界に属するとして、人間の生者が存在する地上では常に一定の死が存在し、死によって亡者が冥界へと向かう。生者の世界では神秘の増減が、生者の信仰如何により変化するが、常に亡者は一定数が冥界へと帰属する。冥界は地上に生者が存在する限り、神秘は滞らないため天界のように地上での神秘の増減に左右されないのである。

 

いずれにせよ、結果的にエレシュキガルは並いる神々の中で最高の独立権限を有する女神としての地位を手にすることとなりそうである。

 

 

 

話は戻り、アマロを禍々しい専用の階で天界に送り届けたエレシュキガルと、彼女の助けにより天界に降り立ったアマロは、数百、数十億年ぶりに天界の土を踏んだ。

 

神々は突然の侵入者が神々にもいない、後光が眩しすぎて最早直視できない美人と、冥界という僻地を統治しながら少しも劣化を感じられない美女神エレシュキガルだとわかると色めきたった。

 

神々からかけられる声を全て素通りして向かう先はイナンナの宮殿であった。イナンナの宮殿はありとあらゆる美しい素材を用いて建立された。最も華美なそれは遠目にもはっきりと確認できるほどに存在感を発していた。宮殿の周囲には神々がそれぞれ時間ごとに見回りに来てはイナンナの動きを監視していた。

 

宮殿はその外観こそ素晴らしいものだったが、内側を伺おうとすれば明かりのない様子が手に取るようにわかった。生気を感じられぬ、本当にイナンナが住んでいるのかすら不純であった。しんと静寂ばかりが転がっており、宮殿の外に張る若い神々がアマロの美しさを噂する黄色い声ばかりが印象的であった。

 

神々が騒ぐのに連れられてアヌが現れた。主神アヌはアマロの姿を目に収めると、娘エレシュキガルと共にいることにまず驚き、その全く変わらぬどころか殊更に冴え渡って尚研磨の余地限りない美しさに驚愕し、最後にはアマロが静かなる憤怒に狂っていることを察知して仰天した。

 

「黒曜石の希望のお方よ、お久しく。貴方のお怒りに触れたのは我が娘でありましょうや。何卒、お手柔らかにお頼み申します。あれでも、やはり私の娘なのです。主神だ何だというものに逃げて来たのですから、私も、過ちを犯してきたのでしょうな。父親として、何卒、イナンナにお慈悲を。」

 

 

 

主神アヌはティアマトによってマルドゥーク以外の全ての古い神々が滅ぼされた際に、運良く生き残ったがために主神となって今に至る。彼にとって、あの恐ろしい母神の心を掴んで離さなかった、死んでも離さなかったアマロという存在は畏敬の対象であった。

 

そんなアマロの怒りに触れたと理解した途端に、彼は娘イナンナの死、あるいは消滅を想像せずにはいられなかったのである。

 

父親としての自分の行いから目を背けてきたが、事実あまり誉められたものではなかった。もとより徳目が認められての主神就任というわけでもなかったのだから、彼もまた決して手放しで貶められるべき存在ではないのであろう。

 

しかし、そのような思考の変遷を経て、走馬灯のように駆け巡ったこれまでの娘との会話の中から父親としての悔いを掬い上げるに至った彼は、せめて最期に父親としての責務を果たそうと、例えアマロから怒りを買おうとも慈悲を娘に賜ろうという壮絶な覚悟でアマロへと進言したのであった。

 

これに対してアマロの返答や如何に。「わかるとも。けど許せない。私にも譲れないものがあるんだ。」

 

無念。主神アヌは娘に懺悔した。許せ、この弱い父を。すまぬ、愚かな父で。主神を素通りし、アマロはついに一人宮殿に突入した。

 

エレシュキガルは父親の知らなかった一面を知ったことに少なくない穏やかな感情を抱いていた。以前の彼女から決して得ることがなかったであろう感慨。彼女がそれらを抱くまでに心の余裕を拡張できたのは、それまでの二日間でアマロによる癒しの時間を充分に経験したからである。そう考えれば、案外に父親としてのアヌの未来も明るいやもしれない。

 

 

 

宮殿の中は薄暗かった。煌びやかな装飾にわずかな光反射して目が痛いほどであったから、暗闇に怯える必要はなかった。進むこと暫し、仄暗い中で最も黒い流れが浮かび上がってきた。寝椅子に横たわるイナンナの流れるような御髪であった。

 

イナンナは涙まで浮かべて叫んだ。

 

「ようやく会えた。あぁ、アマロ。貴方に会いたかった。貴方から私に会いに来てくれるなんて。こんなに幸せなことはないわ!」

 

彼女の目元には隈が出来ていた。アマロは心が痛んだ。イナンナから注がれる愛を数乗倍で返すように、懸命な愛しさが込み上げた。だが同時に、言葉では果たせぬほど腹が立っていた。イナンナはアマロへと抱きついて言った。

 

「あ、貴方の前妻のことや、貴方の子供のことは残念だったわ。で、でもね、ほら、私がいるわ!私が、私の方が前妻よりもずっとずっとずっと貴方のことを幸せにしてあげられる!貴方が望めば何でも用意させるわ!子供だってそうよ?私の、私のことだって貴方に全てあげるの!だから、ね、だから、私の夫になって?それで、それでね、私が間違ったら叱ってほしいの!私が怒っていたら慰めてほしいの!私が悲しかったら一緒にいてほしいの!嫌なことがあったら話を聞いてほしいの!私は貴方がいてくれればいいから、もう何も我儘は言わないから!今度こそ、今度こそ本気なんだから……だから信じて…私を見てよ。」

 

子供の癇癪と何が違うのだろう。アマロは何も答えなかった。代わりに行動で示した。どさり。アマロはイナンナを押し倒した。イナンナは卑屈な笑みを引っ込めた。その目には期待と怯えと、そして狂気が混在していた。自分が何をしたのか、そのことには微塵も理解が及んでいない。興味すらも及んでいなかったようだ。アマロは怒っている。だが、それはイナンナという個人に対してのみではない。この、今に至るまでの全てに腹が立って仕方がなかったのである。奪われたものは決して戻らないことは身をもって知っていた。自らが愛していたものが苦しむ様ほど、これほどアマロが身を裂かれる思いをするものも他になかった。

 

甘いわけではない。しかし、間違いなく愛情深いことは彼の欠点にもなり得た。苦痛なのだ。目の前のイナンナに憎しみの感情を抱けないことは欠陥なのだろうか。愛を向けられた今、妻を酷い方法で奪った相手にも、これほどに限りない愛情を抱いている己は不純なのだろうか。イナンナの今も、イナンナがイナンナになってしまう迄の道のりにさえも愛着を捨てきれない私がいる。何を思ってきたのか、何を悲しんだのか、何を味わったのか、何を悩んだのか、何を繕ってきたのか、何に焦がれてきたのか…その全てが私には尋常には有り難く思えてならない。イナンナを思い遣って憚れずにいる私はおかしいのだろうか。

 

苦悩の末にアマロはイナンナに「君を狂わせてしまったことに謝ったりはしない。私を狂おしいほど愛してくれてありがとう。けれど、私は我儘なんだ。もしも君が私を愛してくれるのなら本当の愛が欲しい。愛してくれたお礼には本当の愛を君にあげる。私が君を忘れない。」と囁いた。イナンナは息を荒くした。口角が上がり目を淫惑に歪めた。だが、アマロの瞳は笑っていなかった。。

 

「けれど、君もわかるだろう?君が壊そうとしたのは私にとっての全てなんだ。」と宣言したアマロは生まれたままの姿になると、潤んだ瞳で身をぶるると震わせたイナンナに覆い被さった。

 

 

 

丸一晩アマロはイナンナを攻め立て続けた。アマロの本気である。その攻勢は人体には中毒性を除けば基本的に無害である。ただし怒りの余り空間を歪ませながら行われたため、絶大なる快楽による絶頂数に比例して交わっている者以外の環境に対する負荷が天災規模に膨れ上がっていた。ほんの一晩で数えて百の寝台が駄目になり、イナンナの宮殿は事後間も無く跡形もなく完全に崩壊した。

 

自身は全く満足はしていないがシャムハトとエンキドゥに謝罪することと自らに絶対服従することを宣誓するまで、アマロはイナンナを寝台から片時も下さなかった。アマロはこの時、間違いなく天地双方において最も恐るべき漢であった。

 

イナンナの悲鳴は天界全ての神に、その性別や階位を問わず響き続けた。一晩中自分の喘ぎ声を生中継する方も、される方も戦慄を禁じ得ない。恐ろしいことは最初から最後まで、少しも美声に翳りが現れなかったということである。イナンナが実は複数名いるのでは、という荒唐無稽な話まで現れる始末であった。美しいまま乱れる嬌声に神々は恐怖した。あの恐ろしいイナンナをよがらせる続けるアマロとは一体全体何者なのだ、と。神々の恐怖はともかく、アマロは怒りに怒ったのである。しかし、憤怒から暴力を働くことなど彼には出来そうもなかった。

 

だからこそ、彼はその怒りを相手の心と体を全て征服するために使った。平時の彼が断じて使用しないと誓う所謂、籠絡ごっこの使用であった。一晩の間、最初から最後まで愛を耳元で囁かれ続けたイナンナは初っ端から吐血。一言一言に、真心の篭った赤心からの愛情や慕情が充填されていた。疑う勿れ、実に信じ難いことこの上ないのであるが、アマロは怒りこそすれ、ほんの少しも憎しみは抱いていないのである。寧ろ溢れる愛情で互いの怒りごと上書きしてしまった彼は遂に、というよりまだ先っちょも入っていない段階でイナンナからの「アマロの言う通りにするわ。何でもあげるから!だから、だからもっと囁いて!囁かれていないと…て、手が震えるわ。」という言質を得るほどであった。

 

だが結局、御仕置きの免除は許されなかったためこうしてイナンナの誇りと尊厳は灰燼にきしたのであった。

 

 

 

翌日、宮殿の門扉が開け放たれてイナンナとアマロが出てきた。アヌは安堵。他の神々はこの騒動を通して何が変わるのか、確実に大きく変わるであろう何かに期待を寄せていた。アマロは何も答えずにエレシュキガルに迎えられて冥界へと帰っていった。残ったイナンナは神々に謝罪すると、自身の持つ宝物は全てアマロとウルクに譲渡すること。そして、自身は豊穣と美の女神として天界からの放逐を望み、その上で冥界へと降る旨を報告した。

 

主神アヌは泡を吹き、神々の王エンリルは楽観的に高笑いし、太陽神シャマシュは昼間の仕事で不在であった。老も若いも、その場にいた神々は目玉が飛び出るほど驚いて一斉に絶叫したのだった。

 

その日、天地が震えた。一件落着の契機であると誰もが思ったこの日こそが人間と神の間にある溝を決定的なものにした運命の日となるのであった。

 



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21黄金色の運命

感想ダンケなっす!もう少しお付き合いください。では、どうぞ。


21黄金色の運命

 

 

 

復讐者となったエンキドゥが日の出と共にウルクへと辿り着く直前。ギルガメシュはエンキドゥとシャムハトの安否確認のためにウルクを発っていた。

 

すれ違いとなった二人はそれぞれの行き先で、それぞれ衝撃的な事実を目の当たりとすることになった。そして、その衝撃が二人にとっては新しく、我々には馴染みの深い関係性を育む結果となったと言える。

 

 

 

シャムハトの肉体的な死から一晩。日の出が上がると共に翠の疾風がウルクの街へと勢いよく吹き込んだ。ギルガメシュへとイナンナの悪虐の事実を伝えねば、復讐のための協力を仰がねばとの一心で駆け続けたエンキドゥ。彼は奇縁により齎された神秘の賜物によって、目鼻立ちの秀麗に磨きがかかり、肉体は頑健かつしなやかに成長を遂げていた。そのほどは急激に過ぎており、知音であっても見間違うほどの成長度合いであった。

 

さて、ウルクに辿り着いたエンキドゥは門から宮殿へと直進しようとして、その足を止めた。鎮寂、その一言に尽きる、辿り着いたウルクには先日のような活気が見受けられなかったのである。妙だ、あまりに不気味ではないか。エンキドゥの記憶に依れば、まだ幼子の身で父母に抱かれて目にしたウルクとは朝から快活な笑い声が響くような街であった。そんな活気溢れる街が、朝っぱらから静かにすぎるではないか。

 

人がすっかり居なくなったように感じられて、エンキドゥは辺りを見回す。人が寝静まっているというよりは息を潜めているような、そんな生臭さがするのであった。これほど人が物言わずにいられるのはイナンナの神殿か、或いは墓場くらいである。エンキドゥはウルクの変貌に心を騒がせた。あれほど父からの愛厚き母にさえ悲劇が訪れたように、ウルクに何も起こらないなどと能天気なことを考える余裕は、今のエンキドゥにはなかった。

 

暮らした時間は森より短いものの、父から最も深く信頼されているギルガメシュその人が治める都市である。一方的とはいえよく知る間柄の者として、エンキドゥは憂慮を重ねずにはおられなかった。

 

エンキドゥの足は、気付けば宮殿ではなく最も活気があって然るべき、街の中心近くの市場へと向かっていた。

 

 

 

街一の市場はウルクで最も早起きであると同時に、ウルクで最も夜更かしな場所だ。

 

日の出と共に人々の営みを支える様々で満ち満ちる、ウルクの豊かさを代弁すると同時に、ウルクに生きる民の暮らしに即ちする鏡でもあった。上の海と下の海の間、ティグリス川とユーフラテス川に沿って栄える都市国家の中でも頭抜けた繁栄を極めるウルクを象徴する場所であったそこには、同時代のどの市場よりも曇りのない活気があった。

 

あった、である。エンキドゥは己の目を疑った。一度か二度ほどしか知らぬとはいえ、人が押し合いへし合いすることもしばしばである彼の市場が、荒れに荒れてみる影もなかったのである。無惨に崩れた屋台が点々と続いている光景は、過去から現在まで続く衰亡の遺跡が列を成しているようであった。

 

衝撃に打ち据えられたエンキドゥは、しかし誰もいない訳ではないことに気がついた。疎だが人の姿があった。煮炊きの白煙が上がっていた。エンキドゥは人の営みの香りに誘われるように市場の奥まった方へと進んだ。

 

 

 

奥まったそこに、幾つもの店が密集していた。人の姿も多く見られ、エンキドゥは安堵した。落ち着くと視野が広がるものなのか、エンキドゥの目には先程は目に入らなかったものが目についた。火事や風災害で受ける傷の跡や、洪水による泥水の汚臭がしないのである。しかし、それにしては傷跡の一つ一つが荒々しく目立って見えた。彼は疑問に思った。

 

疑問の答えとは即ち、自らがいぬ間のウルクに何が起きたのかについての答えである。エンキドゥは人々を見た。誰も彼もの顔に貧窮や酷労の傷跡は見られないが、随分と焦燥や不安を抱いているように見受けられた。身につけるものも整っていて、何かしらの物が足りぬという訳ではなさそうである。顔色も悪いわけではなく、歩く時によろけるということも無いようである。ただ、子供を除く誰しもの顔が見たこともないように暗く、背筋が曲がり俯くようにして暮らしているのである。

 

異常というより奇異である。不安の代わりに好奇心が台頭したエンキドゥは、子供以外が深刻な様子であることに気が付き、子供と大人たちに、それぞれ話を聞くことにした。

 

 

 

何人かで駆け回って遊ぶ子供たちを見つけたエンキドゥ。居住まいを正した彼は「僕もいっしょに混ぜてほしい。」と言って、まずは仲を深めてから子供たちに話を聞かせてもらおうとした。果たして、彼の思惑は的中し、エンキドゥは子供たちに入り混じって心ゆくまでかけっこを、楽しんだ。

 

すっかり仲良くなった子供たちにエンキドゥは「実は僕、街に来たばかりなんだ。だから街の人たちがどうしてあんなに暗い顔をしてるのか不思議で仕方がないんだ。どうしてなのか教えてくれないかな?」と聞いて周り、子供たちはこれに先を競って快諾するとそれぞれの知る限りについて話してくれた。

 

鼻を垂らした少年曰く、「この前のことなんだけどね、王様がね、なんかをぶんぶんして遊んでたの。そしたらね、お父さんたちがうわーってなっちゃったの。王様の周りがぐお〜って!すごかったんだよ!それから、なんかお父さんもお母さんも変な顔になっちゃって家の中もなんだかしーんとしちゃってつまんないんだ。」

 

前歯の抜けた少年曰く、「おいらの父ちゃんは串焼き売ってるんだけどさー。なんかねー、この前王様が街に遊びに来てから家にずーっといてくれるようになったんだよね。父ちゃん働き者だから、前は全然家にいなかったのに!不思議だよねー。全部吹き飛んじゃったって言ってたけど…それまで遊んでもらったことなかったから、おいら嬉しかったな。だからさ、何かよくわかんないけど王様にはありがとうございますって思ったよ。」

 

首に木彫りの飾りを下げた少女曰く、「ついこの間、王様が街に来たって大騒ぎになったの。それで、わたしはお母様と一緒に家の中でお昼ご飯を食べてたの。そしたら、外からすごい音が聞こえて、家の外に出たら、通りの屋台がぐちゃぐちゃになってたの。その子のお父さんもそれで困ってたんだと思うの。」

 

エンキドゥは三人に「ありがとう。また遊ぼうね。」と言ってからその場を後にした。少年二人の素直なお話と少女の簡潔な説明によってわかったことはギルガメシュの訪問により変化が現れたと言うこと。それは民の生活に少なくない変化を強いるものだったこと。つまりはギルガメシュに発端があると言うことだった。

 

 

 

エンキドゥが次に声をかけたのは街ゆく大人達であった。今度は「お忙しいところ申し訳ありません。僕はこの街に来たばかりで街の決まりごとに疎いのですが、もし気をつけなければならないことがありましたらどうか教えて下さいませんか?」と丁重に礼を尽くして声をかけた。大人たちは渋々であれ、沈黙の肯定であれ、受け答えは様々だったが快諾するものは居なかった。そして、彼らは決まって「今頃に訪れるとは時期が悪い。」と言ってエンキドゥに哀れみの視線を送った。

 

屋台で果物を売る男曰く、「王様が突然ご乱心になられたんだ!!顔まで恐ろしかった!俺たちのことをまるで虫を見るような目で見たんだ!」

 

葡萄酒の作り手曰く、「鎖を振り回しては人や物を吹き飛ばしたんだ。何が王様の癪に触ったのかわからないが、とにかくひでぇ目にあったよ。」

 

街角の古老曰く、「ウルクにも衰退の時が来たのであろうか…。ギルガメシュ王の治世ほど豊かなウルクは無いと儂は思う。だが、ギルガメシュ王の治世ほど神々が乱れる御代もまた無いと思うのだ。」

 

そして屋台や品々を壊された民は怯えて曰く、「きっと、俺たちにお怒りになったイナンナ様が王様に命じられたに違いない!あれほど乱暴な振る舞いを突然に行われるなど前代未聞だ!きっと、きっと、イナンナ神はあの晩のお怒りがおさまらないのだ!」

 

エンキドゥは子供たちの話と異なる大人たちの話に疑問を抱いた。しかし忘れるなかれ、エンキドゥは純真であり、聡明であるが、今この時ばかりは復讐者であったのだ。故に、エンキドゥは怒りの赴くままに、自身の思考すら濁流に呑ませてしまったのである。

 

エンキドゥは激怒と憎しみを、現状証拠を揃えた上でギルガメシュへと向けた。暴君ギルガメシュへと向けたのである。

 

エンキドゥは宮殿へと、並々ならぬ不穏な足取りで向かい始めた。

 

 

 

森へと向かったギルガメシュは全く知らぬうちにエンキドゥの怒りを、勘違いとはいえ買っているなどとは露にも覚えず、こちらもこちらで目の前の惨状に愕然としていた。

 

ギルガメシュは両手をわなわなと震わせて、「なんなのだ…この森で、一体何があったと言うのだ…。」と喉を悲しみと怒りに震わせた。

 

彼の目の前には思い出の場がその惨憺たる遺骸を晒していた。土色と緑色が汚くごちゃ混ぜにされた、この上なくできの悪い泥団子のような有様であった。

 

「これは…足跡か?…壺…我が預けた壺で間違いない…何が、お前たちの身に何が…これでは、我はアマロに顔向けできぬ!!」呆然としながら歩き回るギルガメシュは足跡を見つけた。人間以外のものと、人間のものであった。そして壺も。いや、正確には空になった壺を。

 

未知の脅威によって消失した二人の行方に、ギルガメシュは見当もつかなかった。だが、目の前には人間の足跡と、人間以外の足跡が残っていた。ここで、ギルガメシュは選択した。今、何を優先すべきなのかを。

 

 

 

結果、ギルガメシュは人間のものと思わしき足跡を辿った。見るからに襲撃者であろう人間以外の巨大なものからは一時的に目を背けることとした。今は獣の討伐ではなく、大切なものを安否の確認が重要である。

 

加えて、当事者とも目撃者ともわからない、しかし話の通じうる第三者の存在を先に探し止める方が優先順位が高いと彼の優秀な頭は算出したのである。足跡は森の外へと断続的に続いていた。ギルガメシュは焦りを覚えつつも、一度二度深呼吸の後走り出した。

 

徐々に近づいてきたのは彼のよく見慣れたウルクに他ならなかった。足跡が真っ直ぐと続く先が自身の治める都市であることに驚きつつ、ギルガメシュは厳しい顔を崩さずに門を通り越した。

 

 

 

「よくも裏切ったな!このイナンナの手先め!!」

 

ウルクへの帰還後第一に、煌々と輝く殺意満点の鎖と共に投げかけられた言葉であった。

 

ギルガメシュは軽やかに飛び退くと、「貴様は誰だ!何故我に刃を向ける?」と自身の鎖を引き出しながら下手人へと尋ねた。

 

下手人は進み出ると、「僕のことなどどうでもいい!それよりも質問に答えろ!どうして父上から格別の信頼を受けていながらこんな真似をしたのか?」と再び鎖を投げかけながら問うた。

 

ギルガメシュは避けつつ、下手人を観察する。ギルガメシュは驚いた。下手人はシャムハトに瓜二つである。ギョッとしたギルガメシュは次に下手人から投げかけられた言葉に更に仰天することになる。

 

「僕は知っているぞ!お前はイナンナに命じられるままに父上を冥界に追放し、その上で邪魔な僕と母を巨獣の餌食にしようとしたどころか、自分の治めるウルクにまで乱暴狼藉を働くことで神に媚びているそうじゃないか!恥ずかしくないのか!」と下手人は叫んだのである。ギルガメシュは鎖を避けるのも忘れて呆然となる。下手人の顔は憤怒に焼けついている。

 

ギルガメシュは体に鎖を受けてよろけたものの、それどころではないと痛みを忘れて声を上げる。「き、貴様は…まさかエンキドゥなのか!?ど、どうしてそんなに大っきくなってしまったのだ!!森で何があったのだ!?我は何も知らぬのだ!今、まさに森から帰ってきたのだ!あそこで何が起こったのだ!!ましてや、イナン何とかなど知るわけがなかろう!」必死の抗議であった。自身のウルクを思っての行動がこんなことになるとは想定外。ギルガメシュは驚きと焦りで変なことを言った。

 

ギルガメシュの抗議も、復讐者エンキドゥには届かない。民の暮らしを破壊したこと、その時期が自分と母、そして父の不在と被ったこと。憤怒で目の前が赤くてらつく今のエンキドゥには、何を言っても無駄である。エンキドゥは遂に「この裏切り者のイナンナの下男め!!お前なんかに父上は相応しくない!!冥界送りにして母上に謝ってもらうから覚悟しろ!!」と、禁句を含んだ宣言を発してしまう。

 

これに対してギルガメシュも怒り心頭に至り、「ならば拳で語るまで!貴様のような聞き分けのつかない奴は初めてだ!!ましてや、何が相応しく無い、だ!貴様こそアマロの美しさとは爪先ほども似通っておらぬわ!このたわけ!貴様こそ冥界に行ってシャムハトを呼び戻してこい!何が起きたのか、貴様から聞けぬのならあやつから聞くまでよ!!」と挑発も混ぜ込みつつ宣戦布告し、駆け出したのであった。

 

 

 

さて、こうして始まったのが世に有名なギルガメシュとエンキドゥの大喧嘩である。ありとあらゆる手を使って互いを貶しながら、ウルク中のご近所に多大なる騒音と言葉に尽くし難い罵声の嵐、そして物理的な景観破壊でご迷惑をおかけしまくりながら休む間もなく繰り広げられた大喧嘩であった。その闘争は正に互いに獣の如くであった。そうして丸一日中戦い続けた次の日。延長戦かと思われたその時にアマロが帰還したのである。

 

「何してるの二人とも!?めちゃくちゃだよ!?ウルクに何の恨みがあるのさ!!」

 

待ち望んでいた声は二人とも同じだった。ギルガメシュは「無事であったか!!迎えに行けずすまなかった。無事で何よりだ!」と駆け寄った。エンキドゥも「父上!!僕です!エンキドゥです!実は…は、母上が!」と感極まって涙目で駆け寄った。二人が先を争うようにアマロの胸に飛び込み、彼は二人を胸一杯に抱き止めた。

 

アマロは曇りのない笑顔で両腕に二人を抱きしめると、「遅くなってごめんね。ギルも、王様としてお疲れ様。エンキドゥ、母さんの心配はしなくていい。…それにしても君は少しおっきくなったみたいだね。子供の成長が見れるなんて、私も幸せ者だ。」とあやすように頭を撫でたり、頬を擦り付けたりした。

 

二人は先程までの猛々しさをすっかり忘れて、今こそ万事に勝る大一番であると確信して顔をアマロの胸や腹に埋めた。まるで何の説明すら受けていないと言うのに、心配しなくていい、大丈夫と言う一言に盲目的な安心を覚えてしまっていた。うっとりする二人へと、意図されぬ冷水が浴びせかかったのは、その至福の直後であった。

 

「あの!アンタがエンキドゥよね?こっちに来てくれる?話があるの!」ピシャリ。冷たい風切り音が耳を掠めた。ギルガメシュとエンキドゥの表情は氷のようである。件の声からアマロを庇うように、前に出た二人の息は寸分とも狂っていなかった。

 

アマロは帰ってきた、イナンナと共に。

 

ギルガメシュは無言。エンキドゥは「君は誰なんだい?どうして父上と一緒にウルクにきたんだい?母上ではなくて、どうして君がきたんだい?」と、事情を知らぬものからすれば無礼極まる内容を問いかけた。

 

エンキドゥはイナンナの顔を見たことがない。だが、少なくとも父親と共に帰ってきたのが母親ではなかった、と言う事実から目の前の存在が何かしらの事情を持つものであると警戒したのである。

 

さて、である。警戒されたイナンナは「こほん!」と一つ咳払いすると姿勢を正した。ごくり、ギルガメシュとエンキドゥの喉が鳴った。二人の姿勢が豹のように低く鋭利になる。イナンナは一歩前へ出る。姿勢は模範的に美しく、眼光は真面目。いっそ威嚇のようである。また一歩前へでる。二人の手に、同じ輝きの鎖が瞬く。イナンナの足が止まる。

 

イナンナの瞳が煌めいた。今だ!!踏み込む寸前に「そこで止まれ!」とギルガメシュが叫ぶより、彼女の動きは早かった。

 

そして、イナンナは綺麗な御辞儀を二人に披露した。

 

何?御辞儀だと?ギルガメシュとエンキドゥの思考は直接繋がっているように全く同じであった。驚く二人は顔を見合わせる。イナンナは頭を上げた。二人の後ろから圧の感じられる笑みがイナンナにぶつけられた。イナンナは弾かれたように再び御辞儀した。

 

二度目の御辞儀。二人は息を呑み、これ以上何があるのかと緊張に冷や汗を垂らした。

 

御辞儀してから数十秒後、遂にイナンナは「エンキドゥ!お母さんのことは、ご、ごめんなさい!悪気はなかったのよ!ちょ〜っと私を差し置いて狡いじゃない!って思っただけなの!ギルガメシュもよ!私が貴方に色々要求したことは、綺麗さっぱり無かったことにするわ!だから、その、ごめんなさい!!申し訳ありませんでした!!」と一気呵成に赤心からの謝罪を披露した。

 

衝撃という雷がギルガメシュとエンキドゥを貫いた。もはや二人は我慢できなかった。「何が起こったのだ!?あ、あのイナンナが謝罪だと?ふざけているのか!」ギルガメシュは少し大きすぎるほど叫んだ。エンキドゥは「謝れたのか?まっ、まさかそんな…君は本当にイナンナなのか?」と自身の目を擦った。目の前には信じられない光景が、しかし確かに存在していた。

 

二人の驚きっぷりに、なんとも失礼な奴だと思いつつ、イナンナの心は常に二人を跨いでアマロに向いていた。イナンナは目をチラチラとアマロに向けた。アマロは声を出さずに「よくできました。えらい。」と言った。イナンナは「えへへ」嬉しかったのである。

 

 

 

その後、初めて事の全貌とその顛末について説明を受けたギルガメシュとエンキドゥは互いに和解。イナンナとの一幕で案外にも互いの相性が悪くないこともわかり、良好な関係を築くことに成功した。関係性には恋敵という要素もあったが、それを含めても二人の間には全身全霊でぶつかったもの同士裏表の無い気安さが育まれた。

 

ウルクへと向かう直前、イナンナはアマロと共にエレシュキガルの手で冥界まで送り届けられ、そこで彼女はシャムハトへの謝罪を済ませた。肉体が失われた以上仕方がない。シャムハトはエレシュキガルが冥界で自らがアマロと共に暮らすことを許すことを条件に、イナンナへ赦しを与えると言った。

 

これに対してエレシュキガルが「私はお姉ちゃんだから仕方ないわね。そのかわり、私もアマロと一緒だからね?イナンナ…貴女も、混ぜてあげなくもないわよ。一応は、私たち姉妹なのだわ。」と言って快く許容したため、結果的にイナンナはシャムハトから赦しを与えられ、同時に冥界での市民権を得ることに成功していた。

 

即ちイナンナの謝罪は、他ならぬシャムハトからの免罪符を受け取った上でのものであった。アマロの口から説明を受けたこともあり、エンキドゥも渋々だったが受け入れた。ギルガメシュは傍迷惑な女だと思ったらしい。なるほど、悪気はなかったとはいえ赦されるや否や二人に見せつけるようにアマロへ甘え始めた結果、即刻エンキドゥに寛容を撤回される一幕を目の当たりにすれば仕方ないかもしれない。

 

イナンナが天界へ戻ることはない、という事実はその日のうちにウルクへと広がったが、殆どの民はこの傍迷惑だが人間臭い女神の不在を信じなかった。なんと言っても豊穣と美の女神である。いなくなるなど質の悪い冗句に思われたのだ。

 

こうして天界と地上、そして冥界に久しぶりの平穏がやってきたのであった。

 

 

 

それから、アマロを取り巻く環境は淀みなき繁栄を再び謳歌し始めた。というのも、なんと言ってもあのイナンナが天界から誰の元へと向かったのか考えても見てほしい。彼女は奔放なことを除けば極めて有力な神秘の持ち主である。信仰心に比例して莫大な力を扱う彼女には、皮肉なことに冥界に降りてからの方が好意的な信仰が集中していた。

 

イナンナが天界から降ったことは天界の問題であり、地上の人間たちには預かり知らぬことであった。彼らにとって、神の不在など持ちうる概念全ての範疇外のことである。彼らは変わらずにイナンナ神に信仰を捧げたのだ。良くも悪くも強力な彼女の存在は、謂わば大自然の恵みと荒涼とした理についての代弁でもあったのである。イナンナの奔放に腹を立てることは、即ち人間からすれば自然の災害と代わり映えのないものであった。

 

加えて、冥界に降ったイナンナは自ら肉体を殺すことで天界への不帰の意志を示したが、その力を手放しはしなかった。賢い彼女は自分の存在に付加価値を限界まで盛り込むことを決して忘れなかったのである。強敵は亡者系正妻やら、王様系美男やら、超寵愛系胤子やら、真面目系実姉など錚々たる面々が揃っていた。決して負けられぬ戦いである。しかもコレは終わりのない、維持の為の戦いであった。

 

頭の中身を覗けば九割九部九厘を一人の男への甚愛で満たしているイナンナが、その力を男のために使わないわけが無かった。天界にとって不運なことに、自分以外のために全力を尽くす彼女は頗る有能であった。ほんの僅かな情報から、言葉には出さないがアマロの望むことを導き出すと、誰よりも早く、誰よりも的確に、誰よりも強力無比にその辣腕を振るったのである。

 

結果、アマロの奇跡に相乗効果が上乗せされたのだ。文字通りの神の寵愛甚だしく、ウルクにはギルガメシュの奮闘虚しく絶望的な繁栄が訪れる羽目になった。

 

 

 

神々はこのことに困り果てたが、決して行動していなかったわけでは無かった。主神アヌはイナンナの保有していた神秘の巨富を、アマロの財務管理を担うギルガメシュとの協議の末に、少しでも多く分けてもらうと有望な神々に配り、それまでイナンナが一人で担っていた豊穣と美を担う神々としての権限を与えたのだ。

 

イナンナという一人の損失は天界にとってそれほど大きなものであった。肉体すら自ら進んで廃してしまった彼女を天界に連れ戻すことは不可能であった。苦肉の策としての面もあった。

 

一方で、アヌの心配とは裏腹に、神々の王エンリルなどは今回の騒動でイナンナの本当の奔放さを思い知り、面倒が消えたおかげで人間の信仰は以前よりマシになるだろうと考えていた。その考えにも一理あり、確かに彼女にほとほと困らされていた神々は内心でほくそ笑んだに違いなかった。

 

しかし、中にはイナンナの不在に苦心も、或いは安堵もしなかった神が一柱だけ存在した。意外にも、それは太陽神シャマシュである。シャマシュはイナンナが喜び勇んで冥界に降ったことを聞くと、声を上げて笑って言った。「これは大変なことになるなぁ。あの子は一度決めたら神でも動かせないぞ。私のお腹に星を打ち込むくらいだぞ。やり方は乱暴だったかもしれないが、彼女は大した女神だよ。きっと、今に大成するだろうさ。アヌ神も随分見る目がない。あの程度の神々ではあの子の足元にも届かんよ。」

 

シャマシュの愉快そうな様は、ある意味でいつ何時にも信仰を失う事のない安心からくるものであった。故に、実に客観的な物の見方が出来たと言えよう。

 

数ヶ月もしないうちにシャマシュの言葉は真を伴うものとなった。アヌの努力も、エンリルたちの安堵も所詮は見誤り甚だしい、神の傲慢であったことを思い知らされたのだ。

 

 

 

アヌ神が任命した神々から悲鳴が届いた。「おぉ、アヌ神よ我々の無力をお許しください。地上の人間たちは我々ではなく、イナンナ神への信仰を忘れなかったのです。」

 

つまり、求心力が無かったのである。天界の神に信仰が集まらねば意味がなかった。

 

アヌは困ってしまった。アヌの気疲れに拍車をかけたのは、見違えた清貧系女神イナンナによる恩寵増し増し豊穣祭りの開催であった。

 

 

 

あれ以来冥界と地上を行き来する生活をするアマロは、新しい生活を楽しみつつ変わらずギルガメシュの味方であった。

 

アマロは今回の騒動ですっかり吹っ切れたようであった。エンキドゥという愛児の存在はもはや天界から心が離れる、未練が離れるのに致命的であった。アマロは少しの翳りもなく、ギルガメシュの、人間に寄り添うことを伝えたのであった。

 

エンキドゥもまた、「僕を産んだのは、強いていうならば地母神だよ。今の僕が天界に捧げるべき祈りは全て父上と母上、そして祖先に捧げられて然るべきだ。」と言って、父親とはまた異なる視点から天界への帰属を固辞した。

 

ギルガメシュもまた、一つの山を越えたようだった。神々と人間を繋ぎ止めるという使命を忘れたことなどなかった。だが、イナンナとの出会いは神々の功罪と、彼らもまた情ある存在に過ぎぬという納得を彼に与えるには十分な体験となった。そこに、最愛のアマロからの宣言である。ギルガメシュもまた、人間の王として歩む心を固めたのである。

 

彼らの決心に冥界は全面的に賛成し、その旗頭に立ったのは冥界の絶対女王エレシュキガルと妹であり最強の居候身分イナンナであった。

 

彼女達はそれまでの陰鬱さや奔放さを、それぞれ積極的な真面目さと一途な生無邪気さに好変換することに成功させていた。二人ともアマロが左を右と言えば、彼が気付かぬうちに地上から左の概念を完全に抹消するくらい彼に夢中であった。

 

恋は人だけでなく神のことも変えるようだ。ウン万年越しの姉妹の意気投合であった。

 

こうして、完全に癒着した地上と冥界に主導される形でウルクは見事再興を果たしたのみならず、以前にも増して繁栄を極め始めた。イナンナが本気を出せば肥沃な土の一山や二山用意させるなど朝飯前であった。神の直接的な手が加えられたことで農業が爆発的に発展。気がつけば複雑な味覚が巷に出回るようになっていた。

 

災害、特に風水害には神威を用いて捻じ曲げるなど、イナンナはなりふり構わず力を奮いまくった。彼女は神々の中でも、特筆して容赦だとか加減だとかいう軟弱な概念を存じ上げない神であったから、文字通り地形が二度三度変わったとしても鼻で笑い飛ばすほど豪胆に采配することに何の迷いもなかったのである。

 

人々は神々に、殊更にイナンナへと祈りを捧げた。変わりなく、イナンナに捧げていた。新規で建立された豊穣神の神殿群には疎に人が見えなくもなかったが、イナンナの宮殿には以前に数倍する人々が祈りのために昼夜問わず訪れた。

 

また、豊穣とはつまり富である。とにかく容赦という言葉を知らないイナンナはエレシュキガルの冥界が支配の及ぶ範囲内に属するあらゆる土地を豊かにしまくった。ウルクから遥か北だったり、西だったり、はたまた東であったり南であったり…イナンナは適当だが力が莫大な女神だったので、手心を加えたと言いつつ各地方で目覚ましい発展を促していた。

 

結果、イナンナへの信仰はそれまでの閉鎖的なものから解放されて各地に広がることとなった。本来ならばウルクの都市神である彼女に、豊穣の神としての祈りが各地から、つまりは彼女の御座する冥界にも莫大な力が集中するようになったのである。

 

天界から追放されてもイナンナはイナンナであった。天界は目に見えて神秘に翳りが見えており、ギルガメシュも同時期に文明停滞のための務めを封印して元の賢王へと戻ってしまった。

 

功罪両面を鑑みれば、人類は独立独歩の希望を手にした一方で、神々の余裕を奪いすぎたと考えるのが妥当であろう。アマロを取り巻く環境は、いっそ性急に過ぎたとも言えた。

 

 

 

冥界と地上の隆盛目覚ましく、アマロは大切な者たちの笑顔に囲まれて暮らす幸福を噛み締めていた。半日を冥界で過ごし、半日をウルクで過ごした。昼夜はそれぞれ一週間で交代制にし、時には冥界の夜に契り、時にはウルクの夜に契り、両界の巨肩の仲を取り持ちつつ、互いに互いへの愛を深めた。

 

ある時はエレシュキガルとイナンナの二人を相手に実力を遺憾なく発揮した。結果、その年は旱魃が全く無くなった。またある時はシャムハトと清純な夜を共にした。アマロはシャムハトを腕枕で、シャムハトはアマロを膝枕で癒した。静かだが実に甘美な時間であった。

 

またある時はギルガメシュがアマロに攻勢に出たことがあった。気まぐれに彼の、男としての矜持が囁いての出来心であった。嬌態を晒してばかりではいられない。自分の雄を試そうと挑んだギルガメシュ。結果のみ言えば自ら進んで惨敗を喫してしまった。彼は改めた際、「こ、これが天地創造の剣…で、あるか。」と薄く笑って呟いたという。事後の感想は彼のためにも何もいうまい。ただ、英雄王は圧倒的満足の前に屈服したとだけ言っておこう。

 

そして彼、いや彼女のことも忘れてはならない。エンキドゥ、彼の体はその成長の源となった神秘に基づいているために、大変な柔軟さを有していた。変幻自在と言っても過言ではないその能力を、彼は他ならぬ自分と父親の逢瀬の場で遺憾無く発揮した。エンキドゥが後日冥界に招かれ、母親から「どうだった?」と尋ねられ羞恥心に頬を染めつつ肯んじたのは言わずもがなである。実に実に幸福な日々だった。

 

 

 

幸福な日々は続き全てを癒すかと思われた。だがそんな中でも、彼の心中に燻る憤怒が消えてはいなかった。むしろ愛の味と満ち足りた交わりを通して、彼の激情は一層の灼焦に徹していたのである。

 

 

 

夜のウルク。誰もが寝静まった夜。

 

「まだ、何も償わせていないじゃないか。何も贖っていないじゃないか。そんなことをどうして僕が許せようか。母上の肉体は人喰いの獣に奪われたままだ。小指の骨さえ遺っていなかったんだ。許せるわけがない。まだ、僕の目の前で奪われた時のままなんだ。」エンキドゥが暗闇の中で言った。月明かりで翠の霊光が揺らいでいた。瞳の中には低く唸るような怒りが渦巻いている。

 

「…エンキドゥ…我が友よ。貴様にはそれだけか?」ギルガメシュが言った。彼は葡萄酒で満たされた金の杯を片手に、エンキドゥへ問いかけた。いや、確認をとったのだ。

 

「それだけじゃないとも。僕は父上が信じる君を信じたい。だから、僕を前に進ませてほしい。きっと、このまま歩いて行けばいつか必ず僕は壊れてしまう。父上を想えば想うほど、僕を産んでくれた母上に感謝と嫉妬を抱いてしまう。父上は母上のことが大好きだから。でも、僕も父上の隣を歩きたいんだ。…生まれた時からあの人のことばかり見てきたんだ。」エンキドゥはそこで一度言葉を切った。エンキドゥはギルガメシュを見つめると、胸に手を置いた。

 

「父上は美しい。母上は僕のことなんか見てなかった。でも、それは僕もおんなじなんだ。僕も父上のことしか見えないんだ。生まれた時から…父上を想わない日はなかったよ。父上が僕を見て微笑んでくれるんだ。いつもの父上は恥ずかしがりだから何も言わないんだ。でも、ずっと見守ってくれる。僕のことを愛おしそうに見てくれる。僕はその度に幸福の絶頂を感じてきたんだ。僕の救いなんだって、僕の全てなんだって…微笑まれただけで心の底から思うんだ。」

 

「だから、僕は母上を僕から奪ったフンババが憎いわけじゃないんだ。僕は父上から母上を奪ったフンババが憎いんだ。…父上から、父上の大切なものを奪った奴のことが憎くて憎くて憎くて仕方がないんだ…。僕は憎しみを抱いたまま父上の隣を歩きたくない。きっと、父上はこんな僕を受け入れてくれる。けど、それじゃあ僕が我慢できないんだ。だから、ギルガメシュ。君の力を貸してほしい。僕は父上のためなら神をも打ち砕こう。君はどうだい?」エンキドゥはそういうと手を差し出した。

 

「ふん。我と貴様ではアマロと共に過ごした長さが違うのだ。そんなこと、聞くまでもなかろう?アマロは貴様が生まれた瞬間から、今も変わらず貴様に夢中だ。まぁ、我とアマロほど深く愛で結ばれてはおらんがな。とは言え貴様が怪我をしてアマロが泣いては元も子もない。心せよ!英雄の友は英雄に限る。この世に相応しいものが他にいないなら仕方なかろう?」ギルガメシュはそう言うとエンキドゥの手を取った。二人の表情は覚悟と自信に満ちていた。

 

その夜、宮殿の庭に呼び出されたギルガメシュがエンキドゥの悲痛な訴えに応えてフンババ討伐を決意したことで幸福な時間は、停まっていた時間は無情にも再び動き出した。もはや運命の車輪が止まることはないのだ。

 



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22黄金色の旅路(メソポタミア編完結)

投稿が遅れました。感想と評価と誤字報告と毎度ダンケなっす!お陰様で遂にメソポタミア編完結できました。かなり長くなりましたが何卒最後までお付き合いください。では、どうぞ。


22黄金色の旅路(メソポタミア編完結)

 

 

 

ウルクの王。賢きギルガメシュは親友エンキドゥと共に困難な道のりを越えて巨人フンババの守る杉の森へと辿り着いた。

 

本来ならば困難では無かったはずの道のりであった。誰かが妨害したのである。妨害したのは意外にも太陽神シャマシュであった。

 

シャマシュは昔、その名をウトゥと言った。彼は古くはイナンナの双子の兄であったとも聞くが、その関係は親兄弟の多い神々特有の穏やかな関係であったとされる。太陽神であるからこそ、シャマシュは神々の中でも特別に偉大で温厚な性格であった。

 

杉の森にある香柏とは、当時何よりの富であった。素晴らしい木材により生み出されるどれもが人々を魅了した。万人がそうであり、それはウルクの民も違わなかった。故に、神々はこの素晴らしい木々が失われることがないように、取られすぎないようにとの考えで森の番人を立てることとした。

 

選ばれたのはフンババという当時はまだ幼い巨人であった。フンババはまだ幼かったがその体は巨大だった。力は強く、並の神々では手を焼くほどであった。

 

そこで、この巨人を配慮ある存在にまで育てるように主神アヌや神々の王エンリルから頼まれたのが太陽神シャマシュであった。シャマシュは最も巨大な体を持つ神でもあった。その巨大さの前にはシャマシュの次に大きな如何なる存在でさえも赤子と同じようなものであった。

 

思慮深いシャマシュは神々の期待通りにフンババを思慮のある番人に育て上げた。反抗することもあったフンババだが、シャマシュの偉大な力の前には歯が立たず、次第に畏敬するようになっていった。

 

シャマシュの加護が厚くなり、杉の森は以前にも増して豊かに、香柏をより華やかに仕立て上げた。それからというもの次第に人間は危険も顧みずにこの素晴らしい材木を奪おうと杉の森へと足を踏み入れるようになった。

 

フンババは森の侵入者を、人間の大人を、これらを悉く食い殺した。時には踏み潰したりした。剛腕揺るぎない巨人の力の前には人間は無力であった。だが、人間とは知恵の回るものであった。

 

ある時、フンババは子供を一人見逃した。子供の腕には香柏の枝が抱えられていた。だが、フンババはこれを見逃した。子供の瞳にはそれまで見たこともない純粋な恐れだけがあったからだ。それは枝を手に入れることのできないことへの恐れではない。死ぬことへの恐れである。それまでの人間の大人の瞳には、どこか抜け目ないものがちらついていた。フンババはそれが気に食わなかった。だから殺していた。例え枝を持ち帰ろうとしていなくとも殺した。

 

だが、ある時出会った子供は何とも幼く、また、枝になど心底頓着していなかった。恐らくは周りの大人から求められての行動であった。だからなのかはわからないが、フンババはそっぽを向くとこの子供を見逃した。

 

子供が無事に香柏の枝を持ち帰ったことは瞬く間に人間達の間で広がった。時の王は町中から子供を集めると、杉の森へと子供達だけで向かわせた。三日後、子供達は香柏の枝を携えて帰ってきた。王と子供の親達は大いに富んだ。王はまた子供達を集めた。今度は更に多くの子供が集まった。前回参加した子供たちはどこか誇らしげであった。

 

誇らしげな子供達が他の子供らを率いて杉の森へと向かった。子供達は帰ってきた。腕には一杯の香柏があった。王や親達は大いに富んだ。王や親達は次第に子供達に枝を切るための道具や、より多くの枝を詰め込める大きな袋を持たせるようになっていた。王と親達は三度目の、杉の森へと送る子供達を集めた。以前にも増して多くの子供達が集まった。子供達は大いにはしゃいでいた。二度も参加した子供達は実に誇らしげであった。二度も森に行き香柏を持ち帰った子供達の中では、香柏を持ち替えれば王や親に褒めて貰えるのだと専らの噂であった。

 

王や彼らの親達は、煌びやかな貴石を身体中に纏うようになっていた。陽の光だけは王や親達が身に纏う石ころ共をジリジリと灼いていたが、王も親達もそんな事には気づかなかった。ちいさな手に入れた貴石や逞しい牛や山羊に夢中であった。

 

三日後、子供達は帰ってこなかった。四日後も、五日後も、一年後も。間も無く大人達も森に向かったが、誰一人として帰ってこなかった。それから十年と経つことなく、王の街は滅んだ。

 

シャマシュはあの日、フンババに言った。「子供達を殺せとは言った覚えがない。だが、フンババよ、私が育てた巨人よ、忠実で思慮深い者よ、子供達が腕に抱いている物はなんだ?香柏ではないのか?それに…さぁ、子供達の瞳を覗き込め。お前には何が見える。執着だ。この杉の森から、何があっても香柏を持ち帰らなければという執着が見える。どうだね?そうだろう?ならばお前には果たさなければならないことがある。だから、さぁ、迷うな。その力で、その忠実さで、その思慮深さで、淡々と使命を果たすのだ。考えることはない。動け。ただ、奪わんとしたことのみを罪として、簡潔に奪え。速やかに肉体から命を奪うのだ。」

 

フンババはシャマシュの言う通りにした。それまで、言葉を重ねる程になっていた子供達も、初めて見る子供達も、関係がなく瞳を合わせてはこう言った。「見える。お前達の目の内には、その心の内が見える。お前達は、あの時のお前達は決して、その枝に何すらも見出してはいなかった。だが、今のお前たちは違う。それは私に許してはならないと仰せ付けられていることだ。例え、お前達が望むものが、その香柏が齎す富そのものではなかったとしても。まったく残念だが、私にも、お前達のように逃れることのできない使命がある。使命がぶつかり合ったのだ。恨むなよ。」

 

こう言って、フンババは子供達を、枝を抱えたままにして、そのまま大きな口を開けた。開けた口に、三人、四人、と一つに纏めては次々に呑み込んでしまった。喉に枝が刺さったのでフンババは痛かった。痛かったがフンババは泣かなかった。喉ばかりが痛かったわけではない。だが、フンババは後悔はしなかった。悪いとも思わなかった。枝ごと呑み込んだのだ。この子供達は枝を抱いて死んだのだ。最後まで、人間の大人達の言いつけを守ったせいで死んだのだ。あの子供達は悪くはなかったのだ。フンババはすっかり静かになった森の中で暫く黙って動かなかった。フンババはなんだか言葉にできない重たいものを腹の中に抱いて眠った。この時は、結局言葉にはならなかった。

 

 

 

イナンナに叩き起こされるまで、フンババは何も落胆を覚えずに、静かに暮らしていた。それがいい、とフンババは教えられていたし、フンババ自身もそれでいいと思っていた。願っていた。フンババには、香柏が如何に素晴らしいかなど関係なかった。ただ、二度と子供達みたいに心の底から不味くて塩っぱい涙が出てしまうような思いはしたくないと固く願っていた。

 

だがイナンナに叩き起こされたフンババは行かねばならなかった。死にたくはなかった。そう思ったのだ。格好悪いとか、格好良いとかは関係なかった。シャマシュにも心の中で助けを求めたが、生憎シャマシュはこの時、イナンナから喰らわされた金星のお陰で胃腸を下していた。助けに来ないシャマシュを頼みにできないと悟ってからは早かった。何はともあれ死にたくなかったのだ。どうしてなのか、それはフンババにもわからない。

 

ただ思ったのだ。「あぁ、こんな風に死んでしまうのなら、あの時、初めから許さなければよかったのだ。食い殺して、さっさと放って仕舞えばよかった。そうしたら、あんなに喰わずに済んだのに。こんな、死に方をするくらいなら、あの時何かしてやればよかった。シャマシュ神とて私を助けには来ないのだから。こんなことなら、逃してやるなりすればよかった。」後悔だったか、残念がったのか。さはあれ、フンババは泣く泣くイナンナに従い、神聖な森へと向かうとさっさとシャムハトを食い殺して、エンキドゥをほったらかして、飛び込むように杉の森の寝床へと引き篭もった。

 

 

 

そして、今に至った。

 

シャマシュはウルクを発ったギルガメシュとエンキドゥの目的がフンババを殺す事にあると聞くや否や、これを手助けするふりをして、すこぶる遠回りに道案内をした。ギルガメシュとエンキドゥはシャマシュの意図がわからなかったが、ギルガメシュの守護神でもあったシャマシュを信じて、敢えてこれに従い、遠回りの道を進んだ。

 

この間に、果てしなく険しい道のりが二人を阻んだ。二人が越えられそうにない壁にぶつかるたびに、シャマシュは言った。「なあ、二人とも。これはきっとフンババのことなど放っておけということではなかろうか。でなければこんなに険しい道があるはずもない。それでも進むと言うならば、私は君たちに寄り道することをお勧めしよう。」

 

寄り道の度に、ギルガメシュとエンキドゥは素晴らしい宝具を手に入れた。万難を打開しては手にする眩い宝物の数々。その輝きを、己の権能でいっそう美しく演出しながら、シャマシュはその度ごとにこう言った。「ギルガメシュよ、エンキドゥよ、君たちには何と素晴らしい宝があることだろう。その美しいものを、その素晴らしいものを、君たちの愛する者はまだ見たことがない。きっと、その輝きを、樂を共にしたいと願って止まないでいるはずだ。きっと、これほど遠くにいることを心案じているはずだ。君たちの帰りを待ち望んでいるはずだ。なぁ、一度ウルクに帰ってみるのはどうだろうか?然すれば、きっと君の愛しい相手は君たちを惜しみない慈しみで迎えるだろう。さぁ、どうかね?」

 

シャマシュはそう言った。何度も何度も、この世のありとあらゆる宝物を二人が力を合わせて手に入れ終わる頃になるまで、直向きに二人に語りかけ続けた。「アマロ様にもご覧に入れたほうがいい。」だとか、「君たちもそろそろ疲れただろうに。さあ、ウルクへとお帰りになると良い。きっと、偉大な二人を暖かく迎えることだろう。」とか、「君たちの身なりは随分汚れているのではないかな?ならば、君たちの故郷へと導く頃に相応しい。そう思わんかね?」だとか、「そろそろ持ち運ぶには大変な量だろう?ここいらで一度、休んではどうだろう?」とか、決して声を荒げずに、しかし倦む様を全く見せずに毅然と声をかけ続けた。

 

だが、それでも二人は前に進んだ。気がつけば、一年以上も二人はウルクから離れていた。正直なところ、二人の心の中は今までにない程に愛しい唯一の存在への渇望を激にしていた。背負うことも、最早その莫大さ故にままならず、身に纏っても尚余りある宝物の山はエンキドゥの怪力とギルガメシュの賢明をして何とか持ち運ぶ有様であった。

 

素晴らしい宝が堆く積まれ始める頃になっても、それでもギルガメシュとエンキドゥはシャマシュの言葉にキッパリとこう返した。「シャマシュ神よ、偉大なる太陽神よ、貴方はご存じのはずだ。我々がどうしてこの険しい道を進むのか。貴方はご存知のはずだ、我々がこの身を賭して尚、磨いて尚、高みを目指してもまだ遠い、アマロの傍に生きることのいとおしさを。そのいとおしさへの渇きを、それを上回る幸福を。我々は追いかけて止まないことを。そのためには、何としても恐れを断ち切らねばならぬことを。」

 

シャマシュ神は遂に何も言わなくなった。ただ、その身の眩しさで本来の正しい道筋に案内した。それから三日かけて二人は森へと辿り着いた。三日の間は朝から晩まで、寝ても覚めても雨が止まなかった。晴れながらにして雨が止まなかった。シャマシュはうんともすんとも言わなかった。

 

 

 

何リーグ、何十リーグ、何百リーグと遠回りした果て、ついに杉の森に着くと、シャマシュはギルガメシュとエンキドゥに言った。「いままですまなかったな。これからはもう何も言わない。進むべきに進むと良い。お前達は何も悪くはないのだから。それもまた、使命なのだから。使命だと、お前達が信じているのならば。疑いのないのが明白ならば。然らば進むと良い。フンババもわかっている。待っている。だから、お前達も行くといい。」

 

ギルガメシュとエンキドゥはシャマシュに感謝の祈りを捧げると、一度荷を解き、武器になる宝具以外を全て置いてから森へと足を踏み入れた。

 

 

 

森の中は静かだった。誰も二人を邪魔するものはいなかった。

 

丸一日進んだ先にフンババの巨大な背中が見えた。フンババは眠っているようにも見えた。ギルガメシュとエンキドゥはフンババを起こそうと叫ぼうとしたが、すぐに口をつぐんだ。叫ぶ間も無くフンババが体を起こしたのだ。

 

仁王立ちしてフンババは言った。「シャマシュ神よ。貴方は間違っていなかったが、正しい訳でもなかった。だが、私は貴方の心遣いに感謝する。もう、いいだろう。これならば、これなら私も、私の腹の底に眠る子等も満足できるだろう。お前達が私から命を奪いにきた者達だな。さぁ、かかってくると良い。私が死んだら香柏も何もかもくれてやろうではないか。」

 

フンババのその言葉を皮切りに、ギルガメシュとエンキドゥは旅の最後の戦いを始めた。

 

 

 

シャマシュの願いは、フンババの死であった。だがそれは穏やかな、いっそ納得がいく死であった。フンババは賢かった。シャマシュがそうなるように育てたのだから。そうなるように育てるようにと、シャマシュは神々から言われた通りに育てたのだから。ただ、それだけのことだ。フンババが賢いことは何も悪いことではなかった。言われるがままに働いただけなのだから。だからフンババは番人に選ばれたのだから。フンババは子供そのものだったから。

 

フンババは最後まで子供でいなければならなかったから。香柏への頓着など無いままに。森を守ることへの疑いなどないままに。だからフンババが選ばれたのだ、とシャマシュは穿ち損じなかった。決して、忘れていなかった。

 

イナンナに迫られてフンババがシャムハトを殺した時、フンババは悲しいわけではなかった。申し訳なさも感じているわけではなかった。だが、間違いなくそこには居心地の悪さを感じていたのだ。フンババは子供のまま、番人として成長した。子供のまま、恐ろしい番人としては一人前になったのだ。そうなるように育てたのだから。香柏に誰よりも頓着していたのは人間か?否だ。誰が一番なのか、それはシャマシュにもわからない。彼にしてみれば、自分が近づいただけで炭屑になる物のどこに魅力を感じれば良いのかわからない。

 

だが、これだけは言える。きっと、誰よりも香柏に頓着を持たなかったのは他ならないフンババだ。彼にとって、香柏は苦いものに他ならなかったのだろう。噛みたくても噛まねばならぬものに他ならなかったのだろう。彼は生まれ、シャマシュに番人として育てられ、番人として力を振るってしまったばかりに、今まさに番人として死なねばならなくなっている。シャマシュは、ほんの少しだけ、フンババに静かな時を用意したかった。その時間は一年と用意できた。だから、自分はもう何も言うまい。シャマシュは静かに三人の使命を見つめた。

 

 

 

朝となく、昼となく、夜となく戦いは続いた。フンババは怒り狂ったように杉の森を暴れ回った。大切なはずの、少なくとも人間がフンババの宝だと思い込んできた香柏を、彼自身が何十本、何百本と薙ぎ倒しては笑った。「どうだ!私が番人だ!!番人はここだぞ!」フンババは叫んだ。腕をごうごう風を叩くように振り回した。清々しいほどにフンババは力に満ち満ちていた。今だけは彼に憂いなどなかった。

 

数千、数万と武器と拳を交わした。互いに傷だらけであった。「エンキドゥ!!天の鎖でフンババの足をとれ!腕をとれ!その隙に、我の宝剣で命を奪う!!そのための隙を作るのだ!!」というギルガメシュの叫びが森に響いた。ひどい有様の森は、神々が守らせていた、元々の杉の森には到底見えなかい程に滅茶苦茶であった。

 

エンキドゥはギルガメシュの叫びに、傾いたり半ばから折れたりしている森の木々を次から次に飛び回りながら応えた。「わかった!!僕の鎖が最も強く輝く時、ギルの剣を、その豪力の全てを持ってフンババの胸に叩き込むんだ!!さぁ、いくよ、覚悟はいいね?フンババ!」

 

星よりも早く、星よりも美しく翔る天の鎖は煌々として天から降り掛かり、フンババの体にきつく巻きついた。フンババは苦しげに笑った。巻きついた鎖が手足へ行き渡り、フンババは身動きが取れなくなった。エンキドゥは叫んだ。「今だ!ギル!剣を!フンババを打ち殺すんだ!!フンババ!!母上の肉体を返すんだ!!」

 

ギルガメシュは応えた。「フンババよ!友との約定に従い、人間の王として今ここに貴様の命を奪う!!中々に素晴らしき闘争であった!!」そう言うとギルガメシュの選りすぐりの中でも最も強力な剣が、深々とフンババの胸に突き立てられた。フンババは身じろぎ一つしないでこれを受け止めた。血が口から、胸の傷から溢れた。

 

鎖が解かれた。フンババの体は水が注がれた革袋みたいにぐなりと体をひしゃげさせると仰向けに横臥した。番人として縛られてきた巨人が死んだ。

 

エンキドゥとギルガメシュは巨人の死を受け止め、笑いもせず、悲しみもせず、静かに瞳を瞑った。耳元に音が聞こえてきたのはその時だ。エンキドゥの耳に声が届いた。よくみればフンババの口元が動いていた。ギルガメシュが剣に手を伸ばすのを制したエンキドゥが、この巨人の恐ろしい口元に近寄った。

 

 

 

フンババは命が抜けていく感覚と、自分の命が腹の底に眠る何かに分配される感覚を同時に感じていた。おぉ、私は死ぬのだな。それは、そうだろうな。フンババは淡々とそう思った。感傷的ではなかった。ただ、ちゃんとそうなってよかったと安堵していた。

 

口元に近寄るエンキドゥの姿を確かめたフンババは、自分の体から流れ出る血の海に沈みながら、自分が選んで見逃したこの翠の小さな子供に、僅かだが言葉を向けることにした。それは、彼がこれまでに得た経験知であり、エンキドゥが番人やそれに殉じるいかなる者にもならないようにと、人間というやつに少しだけ気を付けてほしいと、何処となく思い至ったからだった。フンババは自分が死ぬ感覚を忘れて、目の前の小さい子供に語って聞かせた。

 

「…私は、お前を一度見逃した…お前の親しい者を、私を殺すために用いたお前を、私は一度見逃した…腹を立ててはいるとも。だが、恨むなんて出来やしない。お前は、きっとこれから人間を知るはずだ。私が守ってきたこの杉っぽちは、全てお前達の物になるのだから。そうしてお前は知る。人間ってやつを。…私は十分だ。もうたくさんだとも。お前は、子供のまま、そのままでいることを忘れるな…その瞳のままでいろ…大切なものを見失うな……、ただそれだけだ…。」

 

分散した意志を掻き寄せつつ、エンキドゥは静かに耳を傾けた。フンババの瞳には何の頓着もなかった。自分の命にさえも。それが無性に心の奥に障った。喜びはなかった。悲しみもなかった。ただ少し、納得した。エンキドゥは言葉に出さなかったが、フンババの言葉を聞き漏らさないことでその思いを示した。フンババは知ってか知らずか、親しんだ様子でゆっくりと息を吐き出しながらエンキドゥに話した。

 

「お前は、私からお前の母親の肉体を取り戻すのだろう。その時…頼みがあるのだ。私は死ぬが、私の命はきっと、何かに繋がるのだ。私が終わりではないのだ。だから、繋がる何かを育ててくれ。きっと、お前ならわかるはずだ。私の死が、終わりではないのだ。ここから始まるものもあるのだ。やり直させてくれるから。だから、私の腹の底に眠る、あの子達を引き上げてくれ。それ、だけだ。それで、私は救われる…。」

 

息が吐き切られる。ゆっくりと生暖かい呼気が空気を震わせながら天へと昇っていく。エンキドゥは目を離さない。ギルガメシュはエンキドゥに倣い、この幼い番人を見送った。

 

昇る寸前。フンババは言い遺した。「エンキドゥよ…私たちは共に生まれることも、共に死ぬことも出来ない。だから…後悔しないことだ…私は、見ろ、最後に…暴れてやったぞ…ずっと…思ってたんだ…こんな、こんなのが、杉っぱちが、こんなのが何なんだよぅ…なんだっていうんだって…だから、すっとしたんだ…最期に言ってやれたんだ。だから、死んだとしても、私は悔いが…ない。…ありがとう…。」

 

エンキドゥは何も応えなかった。立ち昇った最期の熱い呼気は一筋になって、連日の雨で冷えた空に快く迎えられていった。それからすぐに太陽が顔を出した。涙は拭われたようだった。

 

 

 

 

 

フンババの命が抜けた肉体は、大地に帰った。エンキドゥが腹を割くと、シャムハトの骨は見つからなかった。だが、代わりに幾つもの植物の種があった。夥しい数だった。

 

どうして、こんなものがフンババの腹の中にあるのか、エンキドゥにもギルガメシュにもわからなかった。だが、エンキドゥはこの種をフンババが死んだ傍らに植えた。

 

植えてから二人は森を後にした。香柏を幾つか切り倒して持ち帰ることにした。香柏を切り倒そうと手で触れた時、二人は初めてこの立派な樹木を隅々まで観察した。エンキドゥは言った。「僕たちの森にある、年老いた木だって負けてないね。」ギルガメシュも言った。「あの森に勝るものなどない。例え、香柏と言えどもな。汲々とする程のものであるか?いや、そんなことはあろうはずがない。だが、求める民が居る。我は王である故な、持ち帰らねばなるまい。…これでは番人とどこが違うのか…。」

 

二人は力を合わせて木を切り倒そうとして、止めた。フンババが殴り倒したものの中から状態の良いものを選ぶと、これを二人で担いで持ち帰った。二人は新しく木を切り倒すことはしなかった。

 

 

 

ギルガメシュとエンキドゥが帰還した。ウルクの人々の喜びようと言ったらなかった。彼ら二人の肩には夢にまで見た香柏があるのだ。香柏を持ち帰ったのだ。それも、これまでに聞いたこともない一本丸々を。それは即ちフンババの、杉の森の番人の死を意味していた。人々はギルガメシュとエンキドゥが祭壇の上に無造作に放った香柏に殺到して、一度に何人とが集まっては畏れ多い様子で指先で触れては歓声をあげた。

 

ウルクの民は、香柏の周囲で屋台が設営され、炊事の煙をあげ始めるのに合わせて祭りを催し始めた。ギルガメシュとエンキドゥは香柏のことなど頭の片隅に追いやり、ただ一心にアマロの元へと足早に向かった。

 

 

 

ギルガメシュとエンキドゥとの再会をアマロは信じて疑わなかった。だから、エンキドゥが怒られるのに怯える様に「ただいま、父上。」と呟くように言ってもめくじらを立てることはしなかった。だから、ギルガメシュが「戻ったぞ…少し、遅くなったな。…土産を選ぶのに時間を要したのだ。」と珍しく謙虚な口調で言っても、笑うことはしなかった。

 

ただ、「おかえりなさい。」と優しく言うと、余計なことは何も言わずにただ二人を胸に迎え入れたのだった。ほっこりするような仕草に二人は初めて気が抜けて、帰るべき場所に帰ってきたのだと、そう実感したのだった。

 

ギルガメシュとエンキドゥは競うように、彼の温かい胸に飛び込んでいった。こんな時、決まってアマロは揺るがない強さを発揮した。飛び込んでくる大人の体を持つ二人を、両足に力を込めて受け止める。受け止めた二人は揃って頭をぐしぐし胸に擦り付けた。腰に二人分の腕が回って少し息苦しさを感じる。強い力だった。よほど応えたようだった。

 

三人は一年ぶりの再会を沈黙の下で噛み締めた。そこには一混ぜには出来ない複雑な想いが重なり合っていて、それらを言葉で表すにはまだまだ時間を要したのだ。旅の終わりとは、旅の始まりの時には見えなかった景色が見えるようになって初めて訪れるものだから。二人の旅は今ようやくひと心地着いたのだった。

 

脅かされる恐れの無い安心の下で、それらはゆっくりと噛み砕かれ、旅の最上の土産話として、教訓として、彼らの大切な者と共有されるのだろう。

 

喧騒から隔離された静寂の空間で、三人は抱き合ったまま心を交わし、互いの安穏を祝った。喧騒の輪がウルクの隅から隅までに広がる頃、三人は場所を宮殿に移した。ギルガメシュとエンキドゥはそこで旅の顛末をアマロに語った。

 

 

 

フンババが死んだ。巨人が死んだ。全ての恐れが居なくなった。

 

天界の神々はこの忠実な巨人の死に恐れ慄いたに違いない。神々の中でも弱い者達は盛んに次のように騒ぎ立てた。

 

「ギルガメシュとエンキドゥは、ウルクの双子の獅子は、最早神をも恐るに値しない凶悪な力を手に入れたのだ。次は我らを弑するに違いない。そうでなければどうしてフンババを殺してしまえるのか。」と。

 

この時ばかりは主神アヌや神々の王エンリルが諌めても、騒ぎ立てる声は一向に小さくならなかった。次第に、古い神々も若い神々や弱い神々に追従するようになった。

 

そして終いにはこんなことも言い出し始めた。若く血気盛んな神々曰く、「殺してしまおう!!ギルガメシュとエンキドゥのどちらかを、その力の穂先が我らに向く前に、我らへの傲慢を育てる前に、今にも打ち殺してしまおう。」

 

神々の中には、それまでのイナンナへの不満など無かったかのように、「イナンナ様の婚姻の儀に謀を持ち込むような輩でございます。アヌ様の娘神になんたる仕打ちでしょう。これは不敬極まります。地上の勢いづく様は見るに堪えません。さぁ、今すぐにでも除いてしまいましょう。」と言い出すものもいた。

 

いよいよ困ったアヌはエンリルと、天界で最も信頼に値する神である、太陽神シャマシュと、創造と水の女神エアを集めると、彼らに相談を持ちかけた。

 

アヌ曰く、「どうしたら良いだろう。神々の言葉にも、少なからず一理ある。ここのところ、確かに地上は盛んに過ぎる気がしなくもない。だが、何とするのが程よいものか、果たして私には見当もつかぬ。貴方達の考えを聞かせてほしい。」

 

アヌは深刻な様子である。ここのところ、イナンナから取り上げているグガランナの腹の居所も良くなさそうに見える。悪いことが重なるような感触に、流石の主神も頭を悩ませていた。

 

これに対してエンリルは簡潔に「洪水を起こしたらどうだ?前回は静かになったではないか。意図せずに酷いことになってしまったが、あれはあれで天界はしばらく静かになったぞ。」と洪水で何もかも洗い流すことを進言した。アヌは「なるほど、だが前回ほど大々的にしては冥界の力がまたしても増してしまう。それは看過できぬ。はて、どうしたものか…。」と難色を示した。

 

次にシャマシュが言った。「ならば、私が少しばかり旱でも起こして見せようか。それならば、程よく地上の民も祈りに励むようになろう。」

 

これにもアヌは「うむ。確かにそれも良さそうだ。…しかしな、やはり娘が何とするものか…豊穣の祈りはどこまで行ってもイナンナへと向かうのだ。故に、旱の苦しみを逃れんとすればするほどにあ奴の力が増してしまおう…。難しいことだ。」と難色を示した。

 

悩む三柱。あれやこれやと論議を重ねるも、結局導き出された結論は、「凡ゆる手を尽くして人間を減らし、あわよくば地上の力を削いだとしても、寧ろ削げば削ぐほど天界ではなく冥界の力が増してしまう。」というものであった。今になってあれほどの影響力を持つ者になるとは、苦々しい表情は父神アヌ。面倒臭そうな表情がエンリル神。一人苦笑いしているのがシャマシュ神であった。

 

埒が開かぬ、と気の早いエンリル神が帰り支度を始めた時、創造の水の女神エアが初めて口を開いた。「ではいっそのことイナンナ神の名の下に、地上に一時ばかりグガランナを放しては如何ですか?」ずっと思案顔だった彼女は最後の最後で最上の明案を三人に提示したのである。

 

不安気なシャマシュ神を除いて、アヌとエンリルはこの案に大賛成した。話し合いが終わるや否や、すっかり倦んでいたエンリル神はアヌ神の手からグガランナの首を繋ぐ鎖をひったくると、断るまでもなくこれを解いてしまった。

 

「お、お待ちを!!告知をしてからでなければ地上が滅んでしまいます!!」というエア神の金切り声も足が痺れた二柱の神の耳には届かなかった。

 

グガランナは腹の虫の居所が悪いせいか、真っ逆さまに地上へと堕っこちていったのだった。ものすごい速さで堕ちていくグガランナの後から、エンリル神とアヌ神は声を揃えて叫んだ。「豊穣と美と傲慢を司る女神イナンナの名の下に!!魔牛グガランナの怒りを地上に与えん!今こそ戒めの鉄槌を下そうぞ!!」

 

話を聞かない二柱に呆れたエア神は自らの宮殿に引きこもり、何となく、何となくこの後の展開が理解できたシャマシュはさっさと自分の持ち場に着くと、自らが照らす地上を高みの見物と決め込んだのだった。

 

 

 

「お、親方!!!空からバッッカでかい牛が!!!」「ナニィィィ!?」

 

ウルクは大慌てであった。何の前触れもなく、それこそ山のように巨大な牛が落っこちてきたのだから。前々夜の祭りの興奮もいまだ覚めやらぬウルクの民は頭から冷や水を打ちかけられたような混乱状態に陥った。

 

イナンナ神によるもの、という肝心の言葉だけが抜け落ちていたのは不幸中の幸いか否か…。ことが事だけに、人々は誰かの責任にするよりも先に自身の命を守らねばならなかった。神官の誘導に従い民のほとんどは宮殿と冥界神と豊穣の女神の神殿に詰め寄せた。

 

今地上に衝突しようかという緊急事態。地上への衝突の余波だけでウルク全壊の予感すらあるのに、相手は魔牛グガランナである。嵐と恐れと何もかもの災いを纏うこの巨大な牛を相手にすることは、特大サイズのマルドゥークを敵に回すようなものであった。

 

ウルクの運命や如何に……!?

 

 

 

ウルクが絶滅の危機に瀕していた時、即ちグガランナの腹の居所が悪い正にその時、何の偶然なのかイナンナの腹の居所も頗る悪かった。飼い山羊と飼い主は似るとはよく聞くが、これほど相互作用…いや、イナンナからの一方的な作用を周囲に撒き散らすものもないだろう。

 

さてどうしてイナンナの腹の居所が悪いのかというと、そこには浅からぬ訳がある訳ないだろう訳があった。というのも、一年前からアマロが冥界に帰ってきていないのである。「ギル達が帰ってくるまで冥界には帰らないよ。」と言うと、エレシュキガルとイナンナの誘惑も、シャムハトの制止も振り切って地上の宮殿に向かってしまったのだ。

 

何度となく一度冥界に帰ってくるように伝えても、朝から晩まで門と宮殿を行き来しては「帰ってきた時に待つ人がいないなんて私は耐えられない。」と言って二人の帰りを頑なに待ち続けた。

 

別に冥界の主人達はアマロを邪魔したい訳ではない。しかし、シャムハトはともかくエレシュキガルもイナンナも姉妹だからか引き止める理由は一緒であり、帰還してからの数日はアマロがギルガメシュとエンキドゥに独占されるだろうと予測してのことだった。散々待たせた挙句問答無用で甘い時間を独占されるのは、腹に据えかねるものがある。

 

そして二人が帰還すると案の定、今日の昼頃に帰ってくるはずだったアマロはまだ帰ってきていない。よりにもよって、ギルガメシュとエンキドゥと共にわざわざ杉の森のくんだりまで花を愛でに行ったと言うではないか。話を聞く限りだとエンキドゥが植えた謎の種が芽を出してはいまいかと様子見に行きたいのだそうだ。

 

何はともあれ、エンキドゥがイナンナを少なからず目の仇にしているのと同様に、エンキドゥを目の仇にしているイナンナの腹は煮え立ちまくっていた。腹立ち給えること限りなき女神イナンナの憤懣の源はまだあった。まあ、これは彼女の獣的な直感に過ぎないのではあるが、何となく誰かに噂されているような気がしてならなかったのである。誰とも解らぬ者に噂されることほど気に触ることもない。繊細な彼女はその内容も定かではないのだから尚更腹が立った。

 

彼女の憤懣は絶頂を迎えており、そこにアマロとのニャンニャン欠乏症が上乗せされ、僅かでも刺激すれば暴発しかねない活火山の様相を呈していた。

 

そんな、鋭利な刃物の様になったイナンナの耳にこんな声が聞こえてきたのは正に、これこそ不幸中の幸いであった様に思う。

 

「豊穣と美と傲慢を司る女神イナンナの名の下に!!魔牛グガランナの怒りを地上に与えん!今こそ戒めの鉄槌を下そうぞ!!」

 

イナンナは思った。「今なんて言った?」と。

 

イナンナはその寛大な懐を全開にしてもう一度、父神アヌと神々の王こと適当神エンリルの声を思い出した。

 

「傲慢を司るケバい女神イナン何とかの名の下に!!魔牛グガランナの怒りを地上に与えん!!今こそ、イ何とかへの鉄槌を下そうぞ!!」

 

イナンナは激怒した。ただでさえ腹の居所が悪かったのに、明らかな悪意が籠められた宣戦布告である。しかも相手は両名共に自分に負けず劣らず前科持ちの、父親失格の主神アヌと、女神人気の無さで知られるテキトー神こと神々の王エンリル。相手にとって不足なしとはこのことであった。お前だけには言われたくないと奮起したイナンナはエレシュキガルの制止を押し切って地上に仮初の肉体で顕現を遂げたのである。

 

 

 

「ギル!!ご覧よ!!すごい大きさの牛だ!!」杉の森からも気が遠くなるほど巨大な牛の姿は見えていた。

 

フンババの墓の隣には鮮やかな青の花が咲き誇っている。先ほどまで三人で祈りを捧げていたのだ。いざウルクへ帰還という所であった。アマロの指差した先には確かに巨大な牛の姿。三人は唖然としたが、牛が堕ちていく先がウルクだと知ると我先にと三人はウルクへ駆け出した。

 

駆け出す間際、エンキドゥの耳元に「ありがとう。」という優し気な声が微かに聴こえたのは気のせいであったわからない。だが、その後もエンキドゥはギルガメシュやアマロを連れて杉の森へと、フンババの元へと訪れるのである。

 

 

 

駆け出した三人の目線は牛に釘付けである。彼らと同じく、護人を欠いていたウルクの民も絶望と恐怖の表情で凍りついた様に魔牛の降臨を沈黙のまま見つめていた。

 

あぁ、ウルクは滅亡するのだ。誰かの口から音無き声が漏れた時、その時がやってきた。

 

「あ、アンタ!!どーしてこんなとこまできちゃったのよ!!!誰が飼い主なのか忘れた、なんて言わせないわよ?」

 

魔牛が今やという時、遂に腹立ち給えるイナンナがウルクに降臨した。暴風吹き荒れるをも意に介さず、爽風麗しい草原を散策する様な足取りのイナンナの神々しい御姿は、正に絶望の淵で沈黙を強いられていたウルクの民にとって希望の光に他ならなかった。

 

「イナンナ神に光あれ!!我らの神に力を!!」誰の声とも分からないが、その一言を皮切りに、イナンナを褒め称える声援は唱和へと瞬く間に変わった。ウルクの街を呑み込んだ唱和の響きは、言うのも今更であるが、褒められると伸びる女神の天界代表であるイナンナに、百の同情を買う以上の力を与えた。

 

先ほどまでの不機嫌から一転。上機嫌のイナンナは威風堂々、胸を逸らしてグガランナへと流し目を送った。」

 

「人間も見る目があるじゃない!!それじゃ、そういうことだから。グガランナ?覚悟はいいわね?…じゃなくて、アナタはいい子だから私のいうことが聞けるわよね?」グガランナはイナンナの凄みに二度返事で首肯した。よく見ると冷や汗が噴き出ている上に落下が止まっている。イナンナは気分良さげに高説を開始した。

 

「いい子ね!じゃあ、これから私が言うことを一言一句漏らさずに父上とエンリルおじさんにはハッキリ伝えるのよ?おっほん!」

 

咳払いしたイナンナの瞳は爛々と輝いている。グガランナは自分の失策を悟り、「ぶも!?」と鳴いた。

 

「これからグガランナを天界に放り込むわね!!これに懲りたら二度と私のことを傲慢でケバい駄女神だなんて、口が裂けても言わないことね!!もしも今度また何かちょっかいをだしてきたら、わかるわね?私自ら乗り込んでやるから、覚悟なさい!!以上よ!!グガランナ!!アナタは金星の代わりよ、ほら!!お逝きなさいな!!!」

 

「ぶもおぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!」

 

満面の笑みで、それまで溜め込んだ力の大半を足先に込めたイナンナは、生まれて初めて本気の蹴り上げを披露した。彼女の美麗な爪先は完璧な角度でグガランナの急所に直撃し、グガランナは絶命しながら打ち上げられて星になった。

 

光の速度を遥かに超える速さで直上に蹴り上げられたグガランナ。一瞬の出来事に、ウルクの民も、走りながら光の筋が天に突き刺さったのを目撃したギルガメシュとエンキドゥも、冥界からイナンナを観察していたエレシュキガルとシャムハトも…皆一様に絶句していた。喜怒哀楽を喪失した、ただ果てしない甚だしさに語るを禁じられていたのである。

 

蹴り上げた張本人のイナンナと、何かと経験豊富故に慣れているアマロだけがぼんやりと空を見上げてそれぞれの感慨を言葉にしていた。イナンナは「思ったよりもよく飛んだわね…。」と満足気に独りごち、アマロは「こんなに光が飛ぶのはルー以来かも…。」と目を見開いて良いものを見れたと驚きながら呟いた。

 

泣きながら、鳴きながら噴石の如く飛ばされていったグガランナの悲痛な叫びだけが人々の耳に残った。後世まで語り草になる、イナンナ信仰譚の最大の見せ場であった。

 

 

 

その頃、天界は一仕事を終えたとかいてもいない汗を拭う仕草で互いの労をねがらうアヌ神とエンリル神の姿があった。面倒ごとが片付いたことで神々の心を慰撫しようと、二柱は天界の主だった神々に召集をかけていた。

 

「もうすぐ来る頃だな。」とエンリル神が言うと、アヌ神は「これで何とか天界の騒ぎも落ち着く。エアには感謝せねばな。」と言って、何処となく悪どい高笑いをしてみせた。

 

「人間も地上も静かになるだろう!」とエンリル神の適当な発言に被せる様に、「イナンナの信仰も落ち込んで天界は力を取り戻す!良いことづくめだ!!」とアヌが父親失格の発言をかまして見せた。二人がまたしても演技くさい高笑いに勤しまんと大口を開き切った時、天界は前例のない揺れに襲われた。

 

「アヌ様!!エンリル様!!この揺れは何事か!!」招集されていた神々は不安な面持ちで二柱へ詰め寄る。二柱は何が何だかわからないと説明するが、それでは説明になっていないと神々は焦燥を顕に更に詰め寄った。

 

そして…エンリル神が「直ぐにおさまる!!」と適当な発言をした瞬間。「ぶもももももおぉぉぉぉ!!!!」と断末魔の叫びを上げて足元から気が狂うほど巨大なグガランナが噴き上げられたのである。

 

天界を縦に突き破ったグガランナは尚止まらず、シャマシュ神の土手っ腹に突き刺さることで何とかその破壊を止めた。これには流石のシャマシュも寝込むほどであった。かの太陽神シャマシュの惨状から鑑みて、天界の有様は押して測るべし。言葉に尽くせぬ惨憺たる光景が広がっていた。グガランナの遺言はイナンナからの警告という名の脅迫である。

 

アヌ神とエンリル神を含む神々はこの暴挙に震え上がり、これよりも上があるのか!?とイナンナへの恐怖を新たにした。イナンナ恐怖症となった天界は以後、地上から神秘が滅び去るまで一摘みほどの干渉すらも忌避したのであった。

 

 

 

魔牛騒動は神々の当初の思惑の真逆、人間と地上に完全な独立を齎す結果となった。人間滅亡を力ずくで回避した第一功労神として、豊穣と美の女神イナンナは地上で比肩する神がほとんど存在しない超越的な地位を獲得した。例外として知恵と水の神エンキ、偉大な太陽神シャマシュことウトゥも存在したが、それでも地上で最も栄えるウルクの都市神としてイナンナが選ばれたのはその権能の絶大なるに基づいてのことに他ならなかった。

 

「笑いが止まらないわね!!オホホホホ!」とは程よく酔ったイナンナご本人の談である。

 

 

 

天と地上は完全に分たれた。地上における無制限の繁栄を獲得したギルガメシュとエンキドゥはウルクの英雄として神格化され、新しい信仰対象として最高の栄誉を手にした。

 

ギルガメシュとエンキドゥが持ち帰った莫大な財宝は世界の全てと呼ぶに相応しく、以後数百年に渡るウルクの繁栄の礎となった。

 

繁栄の傍らで、ギルガメシュは王として、英雄の中の英雄としてウルクと人間の発展を静かに見守った。神々と人間を繋ぎ止める楔としての役を免れた今、使命の消失と共にギルガメシュは不老ではなくなった。

 

愛する者と静かに歳を重ねることを、人間として彼は選んだのである。とはいえ、その寿命は到底尋常の人間と同じものとは呼べず、数百年の長丁場となるのは明白であった。ゆっくりと、ゆっくりと、英雄王は自らの来るべき終わりの時へ近づいていく。

 

 

 

「ねぇねぇ、エンキドゥ、この花…とっても綺麗な花だね…見たことのない花だね。なんていう名前なのかな?」

 

杉の森。フンババの墓の程近くに青く美しい花が咲き誇っている。数株ほどに限られていた青い花は、今では一面の花畑になっていた。真ん丸く円を書く様に育まれた花畑は、見様に依れば豪勢な献花にも見えるかもしれない。百年、二百年。片時と絶やさずに、ギルガメシュとエンキドゥとアマロの三人が見守ってきたものだった。何時ぞやに見た景色に似ていた、と三人ともが思った。それは、第二の神聖な森の様だった。

 

アマロが指差してエンキドゥに尋ねたのは、花畑から外れた所に咲く一際青い一輪だった。エンキドゥは覚えている。確かにそこに、最初に植えたのだ。薙ぎ倒された香柏の根元に植えた一輪だった。あの日に声が聞こえた気がした一輪だった。

 

エンキドゥは花に触れず、一瞬きばかり愛でてからアマロに答えた。

 

「父上、この花の名前はフワワといいます。この森を見守る、優しい花です。」

 

エンキドゥの言葉にアマロは頬を緩めた。永遠に続くかの様な平穏がそこにはあった。風にあたりながら、三人は森を眺めた。素晴らしい香柏はウルクに富を齎した。だが、人が求めれば求めるほど森は小さくなっていく。遂には、今三人がいる花畑から百歩の距離まで森は小さくなってしまった。きっと、回復するまでには何百年と何千年という時間が必要になるだろう。杉の森が小さくなっても、三人がこの花畑だけは守り通して来たのは、中途半端な自己満足であったかもしれない。だけれど、結果として今もこうして青い花は残っている。森も小さくともまだ残っている。決してここが終わりではないのだ。

 

今が終わりではないと、そうエンキドゥは考えている。けれど、終わりが来ることも彼は知っていた。だから、彼は親友にこう問うたのだ。

 

「ギル、聞いて。フンババが言っていたんだ。僕も、父上も、ギルも、一緒に生まれることも、死ぬこともできないんだって。ギルは、怖い?」

 

何が、とは言うべきではないように思えた。ギルガメシュは少し俯いて考えてから答えた。「いいや。死ぬことなど、怖くはない。我がどうして、そんなことを恐れようか?我と貴様は力を合わせればあの巨人フンババすら打ち倒した英雄ぞ?どうして死などに恐れをなそうか。」と。

 

エンキドゥは儚く笑って言った。「そうだね。僕たちはフンババすら倒してしまったんだ。死ぬことなんて、そんなことは怖くなんかない。」ギルガメシュは「そうであろう。それでこそ英雄よ。我の友よ。」と何度も頷き笑った。

 

エンキドゥはこうも言った。「…今は怖くない。今は。でも、僕は時が来たらどうなってしまうのかな。死は怖くないんだ。でも、父上とも別れる、別れの時が、その時が来たら…。」

 

ギルガメシュは「今は、何も恐れることなどない!それで、良いではないか!もうこの話はやめだ!」と言い、強引に話を切った。エンキドゥの腕を引き、アマロの元へ向かう最中も、エンキドゥの心の中には次第に育つ別れへの不安を拭いきれずにいた。

 

 

 

平穏の時代は終わることなく二百年が経った。ギルガメシュの容姿は完全に成熟した大人の男となっていた。王としての在位は二百年を越えていたが、未だに後継者が生まれていないことだけが心残りだった。

 

ウルクの民は今や数万にも及ぶ程であった。毎日がお祭り騒ぎのように賑わい、飢え知らずの豊かな国に成熟期を迎えていた。だが、豊かであるがゆえに、次第に富は蓄積されはじめ、偏在の兆しを見せ始めていた。民の中にも階層が生まれ、持ち得るものと持たざる者が生まれた。それらは決して過ちなどでは無かった。純然たる、繁栄の結果に他ならなかったのだ。ウルクの富は群を抜いている。飽食であり、物乞いなど存在しない。水は澄み、肉を食することを僻む者はいないくらいに豊かだ。

 

だが、どれだけ他の都市以上に豊かであっても、どれだけ他の都市に比べて貧しさが貧しさと呼べぬほどに豊かな暮らしが与えられていても、ウルクの中での貧しさが確かに存在した。他の都市に暮らしていれば、その暮らしは王の如くと雖も、皆が皆豊かなウルクにあれば平凡な暮らしであるかもしれない。ウルクの中で極貧の部類に見做されようとも、他の都市であれば裕福な神官の暮らしに相当するものであるかもしれない。如何ともし難い不満足が、ウルク全体が享受する豊潤の表裏一体となって育まれていたことも、また否定できない事実であった。

 

賢王ギルガメシュはその統治を完璧なものとしていたが、完璧であるが故に璧に由来する瑕を無くすことは叶わなかったのである。彼はその一点に苦悩し、然れども超然としてウルク全体へと恵みをもたらし続けた。賢王として成熟した彼は人間に多くを任せるようになっていた。半日を森で、半日を宮殿で過ごした。森にいる間はアマロとエンキドゥと共に平穏と戯れた。

 

エンキドゥは人々の中で暮らすことを避け、杉の森や冥界で両親と共に穏やかに暮らした。望み通りの幸福に満ちた暮らしであった。変わらない安心や心の裕福を何より大事とした暮らしであった。その日の糧に感謝し、その日に起きた起伏の一幕一幕に学ぶ、そんな暮らしであった。風の吹くままに、水の流れるままに暮らし、時には色褪せぬ慕情をアマロと交わして、己の中に宿る全てを満たした。

 

時にはギルガメシュの手助けに駆けつけ、王の懐刀として力を振るうこともあったが、その生の多くを平穏に傾けた。生まれた所と同じ、自然に見守られ、自然を見守る生き方をエンキドゥは謳歌した。エンキドゥは、穏やかに、しかしギルガメシュより少しずつ早く歳をとった。外見が変わるのではなく、少しずつ、神秘とも神性とも言うべき何かが抜け落ちていった。

 

ギルガメシュはその様を確かに目に収めつつ、敢えて見て見ぬ振りをするようにした。ギルガメシュはエンキドゥと会うたびに心が躍るような話をするように心がけては森に響くような豪快な声で笑うようになった。

 

アマロもまた、エンキドゥのその時が遠くないことを理解していた。だから、だからこそ彼は何も変えなかった。それまでと同じように過ごした。同じものを食べ、同じ寝床で眠った。青い花を共に見守り、川辺に並んで座り涼に親しみ、小鳥の囀りに一緒になって耳を澄ませた。寄り添いあって日頃の感謝を伝え、時には冥界へ降りて家族三人で団欒した。シャムハトは少しも変わることなく、我が子を迎え入れていたが少しだけ目つきを寂しげにしていた。旅立ちか、別れか。アマロはそれまでと少しも変わらなかった。ただ、片時も離れずにエンキドゥに寄り添って暮らした。

 

 

 

 

 

 

 

そうして更に十余年が経ったある日、エンキドゥは動けなくなった。

 

ギルガメシュは声が出なかった。音のしない叫び声を上げながら一目散に宮殿を飛び出した。エレシュキガルの声で伝えられたという事実が、何より彼には痛く冷たい現実感を与えていた。

 

「エンキドゥ!起きろ!我に応えよ!エンキドゥ!我の親友よ!目を開けろ!声を聞かせてくれ!まだだ、まだ、我はまだ生きておる!!だから、まだいくな!」

 

森の奥、青い花に受け止められて眠るエンキドゥへ縋りついたギルガメシュは枯れた声で泣き叫んだ。大声を出していないはずなのに、カラカラに乾き切って喉の内側が互いにへばりついてしまったように擦れた音しか出なかった。泣き叫んでなどいないのに、殺したような懇願の叫びばかりが喉から搾り出されるのである。

 

エンキドゥの胸は静かに上下していた。ギルガメシュの手は小刻みに震えている。震える彼の手に、覚えたことがないほど冷涼な感覚が走った。アマロの手が重ねられていた。彼の表情は鏡のような水面にも思えた。ギルガメシュはどうしてアマロがそこまで落ち着いていられるのかわからなかった。それにはアマロがエンキドゥを誰よりも愛しているという明白な事実が拍車をかけていた。

 

ギルガメシュは純粋な疑問からアマロに問うた。「アマロ…エンキドゥは、死んでしまうのか?…なら、どうしてそうも落ち着いていられるのだ。」

 

アマロは言う。「私が、私だけは知ったような顔をしてはいけないから。エンキドゥは精一杯生きて、そうして「今」終わりを迎えようとしている。今しかないんだ。未来にも過去にも、エンキドゥの終わりはないんだ。私がキングゥの死から学んだことは、その生を喜び、その死を悼むことは過去にも、未来にもできると言うことなんだ。だからギル、エンキドゥから目を離さないで。見届けるんだ。私は死ねないから。終わりのない私にとって、泣くことも笑うことも、思い出すことも今じゃ無くても出来ることなんだ。今だけは他ならぬ「今」を生きているエンキドゥのことを見守るんだ。生きているエンキドゥを忘れないために。終わりがない私がこの子を決して忘れないために。私の「今」は全てこの子に捧げるんだ。だから、今は泣けないんだ。」

 

アマロのもう片方の手は固くエンキドゥの手に握られていた。穏やかな表情のエンキドゥは動かない。だが、胸が僅かに上下している。まだ、エンキドゥは生きている。固く握られた手と手は侵し得ないものだ。

 

ギルガメシュは顔を拭うとエンキドゥの手を握った。「エンキドゥ!!我はここにおるぞ!!」そう呼びかけた。目を離さない。少しずつ、エンキドゥの体から熱が奪われていくように思えた。涙が溢れそうだったがギルガメシュはその度に隣のアマロを見た。初めて見る気丈な姿だ。悲壮に見えるほど儚く、されども穏やかに微笑んでいた。ギルガメシュは唇を噛んでエンキドゥに声を掛ける。

 

エンキドゥは時折呼吸が止まるようになった。体の芯から凍るような、そんな恐ろしい冷たさが指先に刺さる。ギルガメシュは我慢できなかった。涙が幾筋と伝った。鼻を啜る。例え、エンキドゥが死んでも冥界との行き来はできるだろう。だが、それは生きているエンキドゥと共に過ごすこととは全く違うことだった。ギルガメシュは生命の終わりに向き合っているのだ。

 

夕日が三人を照らす頃、エンキドゥの体は冷え切っていた。胸の奥の奥に灯る僅かな燈だけが、彼をここに繋ぎ止めているものだった。ギルガメシュはエンキドゥの姿を見た。よく見れば、この半日でどっと老け込んだように見えた。艶やかだった髪は翠が薄れ、肌艶は目に見えて乾き切っていた。たった半日。然れども半日。肉体の三分の二を神が占めるギルガメシュとは違い、血こそこの上なく尊くとも、その実は人間の域を僅かに越える程度であり、神々には及ばない。キングゥの血と同化したことで今の今まで生きてきたのだ。ガタが来ていたのだ。アマロの特質はその子に受け継がれないのもあろうが、それでもエンキドゥは終焉の虜とされていた。

 

色艶の抜けた御髪、衰えて乾いた肌…ギルガメシュにはそれらがどうしても醜く見えたのである。死への恐れが美しさへの執着に転じた瞬間であった。ギルガメシュはしかし、醜いという強烈な感情に苛まれても尚エンキドゥを親友として変わりなく認めていた。エンキドゥの美しさゆえに親友になったわけでは無かったのだから。だから、ギルガメシュの恐怖は今ここに強迫することはなかった。むしろ彼は握る力を強めて、垂死のエンキドゥの顔を見つめた。

 

 

 

 

 

「ッ………ーーーーー……………。」

 

 

 

 

「……………。」

 

 

 

 

「……………。」

 

 

 

 

突然、一息が入れられた。浅い息だった。だが、鼓動を源にする力強く吸い込む息だった。それから直ぐに、掠れがちな息が抜けていった。朝靄が太陽に照らされた途端に、静かに溶け込んでしまうのによく似ていた。息が抜け切る前触れはなかった。余りにも淡々と、まるで肉体が最後の作業を終えたような、冷たく機械的に、末期の息が生暖かく頬に吹きかけられたようだ。ギルガメシュは何も言えなかった。頬を触り触り、恐る恐るエンキドゥの胸に手を置き、口の前に手を翳した。手のひらを見つめてみる。汗濡れで冷たく冷え固まった手だった。冷たい手を震わせながら、そのまま目元を覆う。喉につっかえて何も漏れ出てしまわない。目を覆う手の指の隙間から、アマロの顔が見えた。唇から血が流れ出していた。アマロが血を流しているのを見るのは初めてだった。両目からとめどなく滂沱の涙が流れている。「あぁ…もう、「今」は終わってしまったのだな。進まねばならぬのだな。」ギルガメシュは誰にということもなく独りごちた。アマロはエンキドゥに縋り付くと、その胸に顔を埋めて嗚咽を漏らし始めた。あれほどに落ち着き払っていたのが嘘みたいだ。呆然と、冷静の狭間でギルガメシュはアマロの号哭とエンキドゥの安らかで満足げな表情を見比べていた。「我にも、そんな風に縋ってくれるか?」とはとても聞けなかったが、ギルガメシュはそう思ってしまった。その瞬間に彼は理解した。「次は…次は、我の番なのだな。」そうなのだな。そうなって然るべきなのだな。ギルガメシュは嗚咽するアマロの肩を抱いて、一時、考えることをやめ、ただひたすらに前へ進むために、そのために泣いた。エンキドゥは死んだのだ。

 

 

 

エンキドゥの死は、ギルガメシュのそれからの生について回った。いや、アマロと共に生きる自身について回ったのだ。その悩みが膏肓に到りて、ギルガメシュは決意する。

 

「我はアマロの悲しみにはならぬ。我はアマロと共に生きる。我は、不老不死を勝ち取ろう。然すれば、煩わしい死の恐怖に苛まれることなどない。」

 

ギルガメシュの覚悟を知ったアマロは、彼の旅に同行すると言い、ギルガメシュはこれを受け入れた。

 

イナンナやエレシュキガルの協力もあり、神々の古の話から唯一不老不死となり得る知識をもつ存在を探し当てた。その存在こそはアトラ・ハシース或いはウトナピシュテムである。

 

彼は巨大な方舟を作り、神々による大洪水の生き残りであった。その幸運に免じて、後代に人間を絶やさぬようにと不老不死を授けられたものであった。

 

ギルガメシュはアマロを連れ立ち、この存在に会いに向かった。道のりは険しきも易しきもあったが、エンキドゥと共にシャマシュの試練を悉く制覇したギルガメシュには造作もないことであった。時にはアマロを担ぎ、時にはアマロを横抱きにし、時にはアマロを背負いながら悉くを駆け抜けた。

 

そしてとある街に立ち寄った際、ギルガメシュは酌婦シドゥリとの邂逅を果たした。ギルガメシュはこの賢く繊細な、巫女でもある女性に問うた。

 

「我は不老不死を求めて、ウトナピシュテムを探す旅をしている。貴様はここいらで最も見識が広く、思慮深いと聞いた。是非とも我に貴様の知る、不老不死についての全てを教えてくれ。」

 

ギルガメシュの言葉を静かに聞き終えたシドゥリは逡巡の末にこう答えた。「ウルクの王よ、賢き人よ、人間の王よ、貴方は本当に不老不死というものを理解しておいでなのですか?」

 

ギルガメシュは言った。「無論だ。我は、アマロと共に生きるためならば、アマロの幸福のためならば如何なる手段も厭わぬ。不老不死によって、我の愛おしいアマロの心から悲しみを除くことができるのならば、アマロの隣で永遠に共に歩めるのならば、我は如何なる困難をも打ち破ろう。」

 

シドゥリは悩むそぶりを見せてから、こう答えた。「貴方は是非ともアマロ様のことをもう一度お考えになるべきです。貴方は、どうしてアマロ様に愛されているのですか?貴方はアマロ様のどこに惹かれたのですか?アマロ様はどうして「 」を愛されたのですか?少なくとも、アマロ様が貴方を今も変わらず愛していらっしゃる理由に、不変であることなど含まれてはいないのではありませんか?」

 

ギルガメシュは「…貴様は我が思う以上に、遥かに識者であったか。」とシドゥリを褒め称えてからその場を後にした。シドゥリは去るギルガメシュの背に向かい、「一度手に入れてご覧になるとよろしい。ここから更に西に進んだところに川があります。その川を渡り、更には島に辿り着ければ、そこに貴方の探し人は居られましょう。それでも尚お求めになるのなら、或いは新たな道を見出されたのならば、また私の元にお立ち寄りください。きっと、心望に叶うものをご用意いたします。その時は、是非私にも貴方の愛してやまないアマロ様を一目拝見させて下さいな。」と言った。

 

ギルガメシュは「礼を言う。大義である。」と言うと、夜が明けぬ内に眠るアマロを抱いて西へと発った。

 

 

 

西の果てに見つけた一面に広がる水の流れを渡り、辿り着いた先でギルガメシュはウトナピシュテムと出会った。ウトナピシュテムはギルガメシュが不老不死を渇望していると理解していたが、敢えて知らぬふりをして身の上話を始めた。

 

ウトナピシュテムは語った。「人間は古に神々の怒りを買った。私と私の家族は敬虔に暮らしていたが、それが全ての人間に当てはまっていたわけではなかったのだ。人間は数ばかり多く、互いへの思いやりに欠け、神々はこれに腹を立てた。騒がしい人間を一度、選ばれたものを除いて全て洗い流してしまおうと考えられたのだ。私は神の声を頼りに、決められた月日を頼りに巨大な船を拵えた。そして、雨は降った。大洪水に全てが流されたが私と私を信じた者たちだけは生き残った。そして、神々が最も賢いと選んだ私だけが不老不死を与えられて、今もこうして生きている。私を信じたもの達は代々、この離れ島に私と共に暮らしている。」

 

ギルガメシュは聞いた。「ウトナピシュテム。貴方に伴侶はいたのか?」

 

ウトナピシュテムは答えた。「いいや。もしも伴侶がいたならば、私は耐えられなかっただろう。今もそうだ。不老不死とは、そう言うものなのだ。賢き王ギルガメシュよ。君は自身が求めるものが本当に不老不死だと思っているのかね。」

 

ギルガメシュも語った。「我は先日に友を失った。心を分けあった友だ。決して代わりのいない友だ。同じ人を愛した友だ。そんな友が死んだのだ。死ぬ時、あれは何も言わなかった。静かに、砂が風に吹き攫われるように死んだのだ。なんと、淋しいことだったろう。あれは死ぬ時、老いて死んだのだ。我はあれと同じ時を生きた。だが、今もこうして少しとも老いてなどいない。だが、昨日まであれ程に美しかったエンキドゥは、死ぬ時には老いてしまったのだ。醜く老いてしまった。置いて行かれた我は孤独以上に恐怖を感じた。我は…否、我もエンキドゥと同じになるのではないか、と。我もまた愛しいアマロを置いていくことになるのだろうか、と。我は恐ろしい。老いは死の前触れだ。だから老いは醜く、忌むべきものだ。我はアマロを置いてなど行きたくない。我はずっと、あれの隣にいたいのだ。」

 

ウトナピシュテムは頷いて言った。「わかったよ。君の言いたいことはよくわかったよ。ならばこうしよう。もしも、私が渡す霊薬をウルクにまで持ち帰ることが出来たならば、そうしたならば君はその霊薬を飲むといい。飲んで、そうして不老不死になるといい。だが、ただ帰るのではないよ。帰り道に君の気持ちが変わらないのならば飲むといい。帰り道に霊薬が失われないのならば飲むといい。帰り道に一度でも老いたるを美しいと思わなければ飲むといい。どれか一つでも、心の奥底に湧き上がるものがあるならば、然らば…君が寄り、君が学んだ彼女の元へ、シドゥリの元へと向かうといい。そこで、もう一つの霊薬を貰い、それを飲むといい。どちらとしても、君の願いは叶うだろう。その願いは、古いか新しいかの違いなのだ。さぁ、行くがいい。賢き王ギルガメシュよ。人間の英雄。人間の王ギルガメシュよ。」

 

ギルガメシュは言った。「貴方は真の賢人であるようだ。無礼を許せ。」そう言うと、ギルガメシュは離れ島を後にした。

 

 

 

ウルクへと変える道のり、ギルガメシュはアマロと並んで歩いていた。とある街へ立ち寄った時、二人は街角で高説家の話に耳を傾けた。

 

高説家は語った。「不老不死とは真に素晴らしきものであろうか。答えは否であろう。神々が定めた命を徒にしてしまうものではない。天罰を恐れる敬虔なるものならば、静かに自らの命を全うするのが賢明であろう。」

 

ギルガメシュは問うた。「では、その神々は死なぬのか?果たして、本当に神々だけが命とやらを定めるのであるか?奪われる命もまた、定められた命なのか?」

 

高説家は何も答えなかった。ギルガメシュの心は変わらなかった。

 

 

 

ウルクへと変える道のりが半分に来た時のことであった。昼の食事を摂ろうと手頃な石に腰掛けた二人は、それぞれ、剣と霊薬を石の影に置いた。食事の荷を持つアマロは二人分の素朴な木の杯と、硬く焼いたパンを取り出した。アマロは二人分の杯に葡萄酒を注ぎ、ギルガメシュはパンを二つに割った。

 

今今食事を摂ろうかと言う時、アマロが叫んだ。「ギル!!そこに蛇がいる!!岩陰に!」

 

ギルガメシュはパンを口に咥えると開いた方の手で素早く蛇を遥か向こうに放り投げた。霊薬は無事であった。

 

ギルガメシュは霊薬を失わなかった。

 

 

 

ウルクの手前に差し掛かり、シドゥリと出会った街が見えてきた。旅はそろそろ終わりを迎えようとしていた。

 

門から入り通りを二人で歩いていると、向かいから老夫婦が歩いてきていた。

 

老夫婦の後を見守るように彼らの家族らしき大人の男が歩いている。荷物を運んでやっているようだった。老夫婦の周囲を見た。ウルクとは比べ物にならぬ、ウルクに住むものからすれば何とも見窄らしい姿だ。周りの屋台で売られているものもウルクのものとは比較にならぬ粗雑な味覚に違いないと、そうギルガメシュは思った。老夫婦を見た。何方も皺くちゃで、手は分厚く、固くひび割れている。旱魃の後の大地のように、乾いた肌の中で小さな瞳が光っている。ギルガメシュは老いとは何とも醜いものだと思った。彼らとて、昔はもっと瑞々しかったはずだと思った。

 

ギルガメシュの心は老いたるを美しいとは思わなかった。

 

はずであった。

 

手を引かれる。ギルガメシュはアマロに手を引かれていることに気づいた。

 

ギルガメシュは聞いた。「アマロ。どうしたのだ?何か気になるものがあったのか?」

 

アマロは言った。「ギル、ご覧よ。あのご夫婦はしっかりと手を握って歩いているだろう?よく見てて、ほら!旦那さんは腰の曲がった奥さんがゆっくり歩むのに合わせて、自分もゆっくり歩いている。奥さんは自分に気を向ける旦那さんが転ばないように、人とぶつかりそうになると手を引いてくれてる。子供は二人が自分の足で歩くのを、助けるでもなく静かに見守ってる。彼らは互いのことを、老いても老いていなくても思い遣り合っているんだね。」

 

ギルガメシュは目を擦った。そしてもう一度老夫婦と彼らを見守る男の姿を観察した。確かに、アマロの言う通りだった。ギルガメシュは恥じた。今の今まで自身が恐れていた老いというものへの考え方は、間違いなく表面的なものに過ぎなかったのだ。衝動的な恐れが、かけがえのない友の死によって先鋭化してしまっていた。そのことを彼は自覚したのだった。

 

そして、彼は老夫婦の姿に、誰に言われるまでもなく自身とアマロの姿を重ねた。

 

老いたるは自分。そんな自分と並んで歩くアマロ。彼はきっと変わらずに自分を支えてくれることだろう。そして、二人を見守る誰か。それは、自身の子供であってほしいとも思う。誰との子なのだろうか。

 

そこまで思い至った時、ギルガメシュは一つ古い願い事を思い出した。そうして、もしもその願いが叶うのならば、それは不老不死にも勝るとも劣らぬに違いないと思えた。

 

ギルガメシュの熟考を断ち切ったのは、またしてもアマロの声であった。

 

アマロは語った。「…私は老いることがない。死ぬこともない。だから、これは無い物ねだりなのだけど。それでも、いやだからこそ、私は人間という存在がこの上なく愛おしいよ。君もさ、ギルガメシュ。あの老夫婦もいつかはその生命を静かに終えるのだろう。無意味とか、有意味とか、そんなことはどうでもいいんだ。ただ、惰性でもなんでもいいから、直向きに「今」を生き続ける姿が、心底美しいと思うんだ。私には無いものだから。だからこそ、美しいと思うんだ。愛おしいと思うんだ。」

 

ギルガメシュはアマロの本音を聞いた気がした。ギルガメシュの口をついてこんな言葉が出た。「アマロにも羨ましいと思う気持ちがあるのだな。そうか、人間は美しいか、老いても、美しいか。」しみじみと体に行き渡ったそれは自分にも語りかける言葉であった。

 

ギルガメシュは今一度老夫婦を見た。なるほど。アマロはきっと、彼らを心底美しいと思えるに違いない。その外見などに振り回されることなく、その生き方、在り方を美しいと言っているのだ。ギルガメシュは目が覚めたような気がした。

 

ギルガメシュはアマロの手を握るとこう言った。「アマロは我が老いても傍に居てくれるか?」

 

アマロは答えた。「たとえ、ギルが嫌だと言っても一緒にいるよ。何てったって、君は私の獲得者なのだから。君の最初から最期まで、私は君の隣で生きるよ。どんなことがあっても、これまでも、これからも、それだけは変わらないよ。」

 

ギルガメシュは笑って言った。「そうか…愚問であったな。そうか。そうなのだな。アマロが共に居てくれるなら…然らば、我もアマロのように老いを美しいと思えるやも知れぬな。…そうだな。」

 

ギルガメシュは一人老いることを醜いと思った。けれど、隣にアマロが居てくれるならば、そう彼の口から聞けたのならば、聞けた今ならば、共に老いることも美しいと思えたのだ。

 

ギルガメシュは老いたるを美しいと思ってしまった。心変わりとは言えなかったが、そこには新たに燃える夢が、焼き直しの願いが生まれていた。

 

ギルガメシュはアマロの手を掴むと走り出した。

 

驚いてアマロが聞いた。「ギル!?突然走り出してどうしたの?」

 

ギルガメシュは楽しげに答えた。「シドゥリの元へ向かうのだ!!彼奴が言ったのだ。もう一つの霊薬とやらを受け取りに来いとな!くれるというなら貰おうではないか!!」

 

するとアマロも楽しげに聞いた。「ふふふ!なら、もう不老不死の霊薬はいいのかい?」

 

ギルガメシュは更に楽しげに答えた。「フハハハハ!!!!こんなものッ!このウルク王の前には無用の長者よ!!こうしてくれるわ!!!」

 

ギルガメシュは走りながら宙に霊薬を投げると、器用に鎖で袋ごと木っ端微塵にしてしまった。キラキラと神秘的な粉粒が舞う中、アマロとギルガメシュはシドゥリの元へと風のように走って向かった。

 

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

ギルガメシュ叙事詩とは凡ゆる物語と、凡ゆる英雄の原典と呼ぶべきものだ。その歴史は長い。その長い歴史の中で数多の物語が紡がれてきた。それらの中には多様な矛盾と多様な潤色が加えられたものも多いが、真の名作とはそれらを呑み込んで面白味を増すものであるらしい。

 

フンババとの戦いやエンキドゥとの出会いなどそれぞれの展開一つとっても書き手の数だけ豊富な表情を見せてくれる。しかし、そんな中でも決して変わらない一点が存在する。それはギルガメシュ叙事詩の始発点と終着点は必ずウルクにあるということだ。

 

ウルクで始まり、ウルクで終わる。それが鉄則である。

 

さて世界で最も長く愛される叙事詩のクライマックスについて、作品の小宇宙の中から精選された珠玉の変わり種の中でも、一際異彩を放つ一編を最後に一つ紹介したく思う。

 

作者不明の、しかし古さに於いても他の追随を許さないこの一編には実に信じ難いことにその古さゆえに本物の原典ではないかという指摘も存在する。とはいえ、恐らくは同時代の派生作品または創作であろう、というのが殆どの学者が推す学説である。

 

そんな最古の一編にはこう記されていた。

 

 

ーーーーー

 

 

最終章に曰く、賢王ギルガメシュは不老不死の霊薬を求める旅から帰還した。傍には出立の時と変わらず黒曜石の希望が寄り添う。

 

王の帰還をウルクの民は歓喜と仰天で迎えた。何故ならば、王の姿は出立の時の面影を残したままに、絶世の美女へと変貌していたからだ。

 

ウルクの民は王の姿が変わったのは不老不死になった兆しであるとか、旅の途中で神の怒りを買ったが故の天罰であるとか噂しあった。

 

民が噂する中、王は堂々と語った。「不老不死の霊薬など蛇にくれてやった。もとよりそんなものなど無かったのだ。我は共に生き、共に老いることにした。」王はそう言うと民の歓声を背に宮殿へ入った。

 

ウルクは王の帰還でますます栄えた。街はますます広大になり、イナンナ神の神殿には貢物が絶えなかった。

 

王は子を産んだ。念願の後継者が誕生したのだ。名をばウル・ヌンガルと言う。偉大なウルクの次代の王である。民は王に祝福の祈りを捧げた。

 

 

 

 

ギルガメシュ王の治世が三百と数十余年に届いた時、王が倒れた。

 

王は老いてなお偉大であった。傍には常に黒曜石の君が侍っていた。老いは三百年に差し掛かると激流の速さで王の体を蝕み、天を貫かんばかりの美貌も翳り衰えた。民の中には男としての威厳に欠く、老婆の女王に何が出来るのかと、口さがなく言うもの達も後を絶たなかった。

 

だが、それから更に数十余年に渡りギルガメシュ王は王の責務を果たした。ウルクを繁栄に導き、災いを打ち砕き、悲しみを洗い流し、喜びを降らせた。

 

王の傍には片時も離れず黒曜石の君が居た。いよいよ、王は衰えた。ある者によれば、霊薬は王の肉体を蝕んだようである。神の身といえども人間として生きることを選んだ王は、太古の大王マルドゥークにも並ぼう。だが、人間として生きて尚、その繁栄を存続させんと黒曜石の君との間に子を産み落としたのは、霊薬こそ力を借りたとはいえギルガメシュ王が開闢以来初めてのことである。マルドゥーク大王にも成し得なかった、魅せられし者共の悲願を王は遂げられたのだ。

 

衰えた王は遂に静かに横たわるままとなった。王の肉体は三分の二が神であるが、それでも人間とそう変わりのないものだった。巫女や女官すら遠ざけた王の身近の世話は、その最後の時まで黒曜石の君が負った。

 

王といえども、神といえども飯を食い、便を拭う。それは偉大な英雄とて変わらなかった。食も喉を通らなくなった王は痩せ細った。すると黒曜石の君は王に口移しで粥を与えた。

 

黒曜石の君は共に同じ寝台で眠った。老いたる王は時には寝台を夜分の失禁で汚すことさえあった。だが、誰しもが嫌がる汚物の始末といえど黒曜石の君は王に優しげに微笑みながらこなした。瞳を開けずとも王は穏やかに、しかし時折恥いるような、悔いるように顔を歪めた。そんな時、黒曜石の君は弱り乾いた肌を水を吸わせた布で優しく拭い、それから柔らかく撫でた。歪んだ顔は穏やかに戻る。戻るまで、何度も声をかけるのだ。

 

黒曜石の君はいつも、必ずこう言い聞かせていた。「だいじょうぶ。私はこれっぽっちも後悔なんてしては居ないよ。ギル、私は幸せなんだ。だから、だいじょうぶ。そんな顔をしないでおくれ。私も一緒に老いるから。こうして、一緒に生きるから。見捨てたりなんかしないよ。私は英雄のギルガメシュを愛したわけじゃない。王様を愛したわけでも、神様が作った楔を愛したわけでもない。君を、人間の君を愛したんだよ。私はギル、君を愛しているんだよ。だから、だいじょうぶ。」

 

 

 

それから間も無くしてギルガメシュ王はウルクで息を引き取った。肉体は末期の呼気が天に昇ると、間も無く男の肉体へと戻った。艶やかな美しい男の亡骸であった。一つの伝説を、一つの神話を作り上げた王の遺骸には相応しいものだった。それは実に静かな終わりだった。黒曜石の君は、王の死した肉体が王墓に収められる最後の最後まで、決して王の手を離さなかった。

 

遺言は数十年も前に既に言伝があった。遺言に従い、王の亡骸のその宝物の殆どは王墓とウルクの財に収められたが、生前に王が手ずから編まれた最上のラピスラズリと金のみで出来た極めて貴重なビーズの手首飾りだけは黒曜石の君に贈られた。

 

次代の王であるウル・ヌンガルは王となったその日に言った。「神となった王は天界から、いや冥界より我らがウルクを見守られるのだ。黒曜石の君、我が父上におかれましては、ウルクに神殿を構えられるのがよろしいかと。」

 

ウル・ヌンガルの言葉に黒曜石の君は答えた。「いいや、ヌンガル、それは出来ないよ。私は、私はギルの最期の言葉を聞き届けた。ギルは私に自由にせよと言った。そして、今、私は私の獲得者を再び失ったのだ。ヌンガルよ、お前は我が子ではあるが、我が獲得者ではない。許せよ。だが、お前は賢く、実に勇敢な王だ。ウルクには暫し、揺るぎない繁栄がもたらされることだろう。ウルクよ、ギルが愛したウルクよ、さようなら。」

 

黒曜石の君はそう言うと、ギルガメシュから贈られた手首飾りを左手に通すと、着の身着のままでウルクの門を出ていった。

 

黒曜石の君はウルクの門から歩き続けた。道中、冥界の女王エレシュキガルとイナンナが彼との別れを惜しみ、だがギルガメシュの遺言を侵さず、彼の旅路に祝福を願った。二柱はそれぞれの加護を黒曜石の君へと贈った。

 

杉の森の近くへ通りかかる頃、少女の声と共にエンキドゥとシャムハトの声が二柱から僅かに遅れて黒曜石の君の元に届けられた。ギルガメシュはまだ冥界に辿り着いていないようだった。彼らもまた、別れを惜しみつつ、来るべき時が来たことを受け入れ、それぞれの加護を黒曜石の君へと贈った。少女の声は誰のものなのか、黒曜石の君が問いかけると、エンキドゥは透ける指で青い花畑を指して「フワワの声ですよ父上。」と答えたという。杉の森へ立ち寄った黒曜石の君はフワワから加護の代わりに青い花を一輪贈られた。決して枯れない花である。

 

花を御髪にさした黒曜石の君が笑んだ。皆は今度こその永訣を悟った。

 

遠く、遠くへと黒曜石の君は歩いていった。背が次第に小さくなっていった。

 

こうしてギルガメシュの物語はウルクで始まり、ウルクで終わった。英雄王の偉大なる物語は、彼と共に歩んだ全ての者達と共に永遠に語り継がれることだろう。

 

 

ーーーーー

 

 

 

伝説となったギルガメシュ叙事詩の爾後、霊長史の特異点と呼ばれる歴史の瞬間のその悉くに黒曜石の希望の姿を認めることができるようになる。ギルガメシュ王が一時といえども女体であったなど到底信じ難いことである。

 

しかし、近代以降の写真には確かに黒曜石の希望と考えられる存在を写したものが存在し、その殆どはフラッシュバンのような、いわば光の粒や通称「後光」に邪魔されて明瞭には素顔を確認できていないものの、極稀に顔以外の部分を明瞭に写したものが発見されることがあり、その際に彼が身につけている装身具の中には間違いなく青い花とラピスラズリのブレスレット、そして首元には黒曜石の角羊飾りが煌めいている。

 

神秘的なこの存在の正体とは一体何なのか、有史以来の謎は未だ解けていない。

 




難産に次ぐ難産でしたが何とか書き切ることができました。ありがとうございました。次からはもう少しテンポ良く行きたいです(退く)、あ〜あと次からはオニャノコをもっと増やそうグヘヘ、その方が読者がつきそうだぁ(媚びる)…何はともあれ長かったね(顧みる)。
ふぅ〜それではでは聖帝様(オルタ)ごっこも終わりましたので、息つく暇もなく次なる依頼人は、じゃなくて次なる特異点へ向かいましょう。

*結構真面目な反省です。次回からもがむしゃらに迷いながら続けていきたいと思います。

それでは、また。


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メシウマの国〜前日譚〜
Brtn00誓い


お久しブリテン。お待たせして申し訳ありまセンナケリブ。再びぼちぼちではありますが投稿させて頂こうと思いま崇禎帝。では、どうぞ。


B-0 誓い

 

 

 

「剣に誓おう。私は貴方を裏切らない。」

 

「剣に誓おう。私は貴方を傷つけない。」

 

「剣に誓おう。私は貴方を飢えさせない。」

 

「剣に誓おう。私は…私は、アナタを決して離しはしない。」

 

 

アルトリア・ペンドラゴン。或いは、アーサー・ペンドラゴン。

 

彼女は、彼は、世界規模において著名な歴史的人物である。

 

そして、極めて理想的なキリスト者であったとされるブリテンの君主である。

 

この場合、私は彼女を彼女と呼ぼう。

 

何故ならば、いずれにせよ二人の関係性には男性性的な側面と女性性的な側面があり、ただのアーサーが好んだのは、自ら進んで後者で在ることだったからだ。

 

彼の君の前で、アーサーはとても穏やかな笑顔を浮かべていた。

 

 

 

君主とは時に責任者としてだけでなく、信仰者としての側面をも持つ。

 

時代が遡れば遡るほど、その傾向は大きいと言わざるを得ない。

 

日本国でいえば古代の女君主卑弥呼、エジプトではファラオ、西欧での宗教指導者も、政治色が強いとは言え、概ね代表例と呼べるだろう。

 

アーサー王の存在は時間と共に姿形を様々に変遷させて来た。

 

時には理想的なキリスト者である君主。

 

時には華やかな騎士道の範を示す君主。

 

時には全ブリテンに限らず、全欧州を席巻した大英雄にして君主。

 

時には冒険と悲劇の君主。

 

時代の流れに身を任せ、アーサー王の物語は今日まで消え去ることなく残り続けて来た。

 

いや、遺され続けてきた。

 

それは何故なのか。

 

それは時間がどれだけ流れようとも彼女を必要とする誰かが居るからだ。

 

例え騎士の存在そのものが消滅したとしても、彼女を必要とする何者かが彼女の物語を残し続けてきた。

 

それは誰か。騎士道に縋り付く何者だろうか。或いは、アーサー王を信奉する高貴な人々か、古典的な情緒に可能性を見出してきた詩人か、それとも、特権を享受してきた宗教者だろうか。

 

歴史なるものに断定可能性は皆無である。一寸暇の過去でさえ、我々は証明する手立てがない。そして、それが唯一の確かなり得る答えでもある。

 

ただ、便宜上の答えではなく、我が愛おしき、かのアーサーへの私からの応えを挙げるとするのならば、それは上記の面々の悉くを論壇から排するものである。

 

私の応えは、顧みられなかった者達、民その人である。

 

 

 

アーサー王の物語とは、騎士道とキリスト者の模範的君主の姿をその興亡に冒険と悲恋を織り交ぜて紡がれたものだ。

 

端的に言えば、彼女の物語には騎士道とキリスト教が、他ならぬ彼女に立ちはだかり続けていた。彼女の物語の中に、彼女と民の共感は果たしてどれほど遂げられたのだろうか。

 

ブルフィンチの描いたアーサー王とその騎士達、ジェフリーオブモンマスの描いたアーサー王とその騎士達…数限りになく描かれてきたアーサー王とその騎士達。

 

どの物語の中でも、勇壮にして誇るべき忠臣に囲まれて、アーサー王は偉大なる君主として、ブリテンの王として、極めて理想的であったことだろう。さぞかし、優秀にして無欠の理想の体現者であったことだろう。

 

 

 

だが、彼女が最も望んだことは理想的なキリスト者であるべきことだったろうか?偉大な君主たるべきだったことだろうか?誉高き騎士の王たることだったろうか?悲劇の君主として時代を超えて憧憬の的として描かれて遺されることだったろうか?

 

成程、確かに諸賢の申しまします通りに、王としての、キリスト者としての彼女はそれを望んだことだろう。

 

だが、何者でもなかった時、運命に呑まれた彼女が王として、和を望んでまで手に入れたかったものは果たしてそんなに輝かしきものだろうか。

 

…この問いは、答えも応えも此処で見出す必要のないことだ。

 

ただ、ひとつだけ、さっきの応えの続きを少し語ろう。

 

彼女を、アーサー王を遺し続けたのは高貴な者達でも、象牙の塔の住人達でもない。彼女が寄り添えなかった、民その人である。

 

ただの応えだ。何者をも縛るものでも、何者をも遮るものでもない。

 

ただの応えなのだ。千年以上も昔の、面識もない救世主の復活を、今でもどこかで誰かが必要としている。

 

アーサー王は寄り添えなかった。だが、民は未だに彼女の帰りを待っているのかもしれない。

 

彼女の誓いは、いつの日か、報われるのだろうか。

 

ブリテンの救世主に、ただ一人の少女に、救いの光が届けられんことを。

 

 

 

 

 

何者かの願いが聞き入れられたのか否かは我々の知るところではない。

 

しかし、どうやら彼女達の物語は今、このもう一つの世界で始まりを迎えようとしていた。

 

冷えついた炉のような物語が、終わってしまったはずの、誰にも知られることも、誰からも顧みられることも、そして誰に紡がれることもなかったはずの物語にいま、ただ一人の幸運な男の手による新たな灯火が添えられようとしていた。

 

その灯火を大きくするも小さくするも、それは彼女達次第だ。

 

彼女達の物語がどのように紡がれるのか、それは誰にも分からない。

 

ただ一つ言えることがあるとすれば、それは、この物語が、一人の黒い漂着者と一人の白い孤独者の出会いから始まるということだ。

 

ブリテンの片隅から始まる出会いは、いずれ救いの光として彼女らの元にも訪れるかもしれない。

 

 

 

 

 

朽ちたローマの遺産は新たなる時代の到来を示していた。

 

青々しく、逞しい緑鎖に蝕まれるローマ統治時代以来の古宿の隣に憚りを忘れた粗末な小屋が建っていた。

 

曇り空と冷雨がしばしばであるこの頃のこと、ロンディニウムの片隅に飄々たる孤児(みなしご)の仮屋があった。

 

あった、と過去形なのはその世間に憚ることのない、大胆なのか傲慢なのかは他所として、彼の生来の気性が災いして、お隣の古宿の家主に家業妨害の咎を責められた挙句、彼の一城は打ち壊されてしまったからである。

 

生まれ持っての不思議な力を駆使して、辛うじて命を奪われることはなかったものの、慈悲深きとは尊大の裏目、己の身分を弁えぬ者が嫌われるのは世の常、偉大者となり得る運命を大いに持ち合わせていようとも、運の悪さに流されて、白い孤児は己の半生を顧みて、半ば自暴自棄になると、何を考えたのかロンディニウムの南方に向かった。

 

屋根無しの孤児の向かった先は南方の海岸。岩場の刺々しさばかりが目に不快であるように孤児は思った。気分次第の不器用な錯覚であろうが、それが今の彼にとっての本当であった。

 

何事を前にしても超然として、享楽主義、刹那主義に身を任せるはずの彼の姿は、将来、いつか成り得る彼の一側面に過ぎないのだろう。

 

今の彼の姿は、彼女達が知る彼とはかけ離れた、己の目を疑うような有様であった。

 

彼はその性分に似合うはずもない、浅薄な絶望に浸る自分自身に酔っていた。

 

 

 

彼の稚い双肢が向かった先は狙ってから否か、遥か昔にかのガイウス・ユリウス・カエサルがブリテンに征服者として上陸を果たした海岸に程近いのであった。

 

足の裏を傷つけかねない荒れた岩場から離れた所、遠景に、海の姿は黒っぽく見える場所だった。

 

何の抵抗もなく、白い孤児は海へと進み入った。

 

別段の覚悟もなしに足を進めた彼は爪先から少しずつ這い上がってくる海水の冷たさに身を凍えさせるでもなく、顔を歪めるでもなく、ただ困ったように微笑むのであった。

 

未練を学ぶほど成熟してすらいない短躯。白い孤児はその生まれに宿る影も、その生まれが齎した光になり得る不思議な力のことも、恨むことはなかった。

 

だが、ただ途方もない無気力が彼には宿っているのみだ。

 

諦観か、達観か、ずぼらな絶望が後から身を覆っていくようであった。

 

少しずつ進み出たその時であった、白い孤児の足先に重たい感覚が伝えられたのは。

 

 

 

白い孤児の足先に衝撃を伝えたのは、世にも美しい漆黒の男の頭だった。

 

どうして水中にこんな美人が沈んでいるんだ?生きているのか?死んでいるのか?

 

孤児の疑問が解けるより早く、否、速く。水中に沈んでいた美人は全てを置き去りにして立ち上がったのである。

 

ざばり。天日に照らされて、水濡れの黒曜の御髪が眩く光輝いた。

 

光燐と共に仁王立ち、かの君は白の孤児の視界を塞いだ。

 

だがしかし、やんなるかな白き短躯の眼前に示されたのは言語に尽くせぬ極美の麗顔に非ずして、幼き眼前に示されたのは、一面においては黒曜の分身といっても過言ではなかろう、世界に冠たるべし威容を誇る抜身の聖剣であった。

 

大きい。とても、立派だった。

 

水が肌を滑り落ち、海へと還っていく。

 

白き孤児の頬にも綺羅の滴が伝った。

 

涙が出てしまうのは何故だろうか、それは孤児自身にもわからないことだった。

 

ただ時折ピコピコと揺れ動く、その一大事の御真影は、孤児の抱えてきたそれまでの懊悩を、何と軽快なことかと笑い飛ばす契機となった。

 

馬鹿馬鹿しいことで絶望などするものではない。よもや想像もつくまい、これほどに不思議爽快な経験はもはや有り難い。

 

どこか吹っ切れた白き孤児はその美しい瞳を輝かせながら、ここに至りて初めて彼の麗しきを見上げたのであった。

 

光に満ち溢れた世界の中、孤児が最初に目にしたものは耀き黒曜の君の本顔ではなかったものの、こうして彼らは出会ったのである。

 




では、また。


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B0.1孤独者と漂着者〜孤独者の譚〜

ダンケなっす。


B-0.1 孤独者と漂着者〜孤独者の譚〜

 

 

 

いにしえの頃、魔法を持たざる尋常の人間と、不可思議な力を持ち得る妖精達は共存していたとか、していなかったとか。

 

双方の領分が支配者であれ、家畜であれ、相互に対する偏見は残された。

 

人間は矮小なり。愚かしく、時に強く短く光り輝く。

 

妖精は邪なり。万能にして、血も涙もなく、何より愛も悲しみも知らぬ。

 

時は流れた。両者の間から溝は消えなかったが、漠然とした無い物ねだりは憧憬と嫉妬、憎悪に姿を変えて継承された。

 

神秘の消失は、ブリテンの運命を早めたのやもしれなかった。

 

二つの運命が交差する時、そう定められた時には既に、互いに互いが災いの運び手であると信じるようになっていた。

 

皮肉なことに、互いに救いを求めさえしなければこんなことにはならなかったはずだ。

 

しかし、人間はその弱さから救いを求め、妖精はその好奇の渇きから救いを求めた。

 

今一度、ブリテンの寂れた南岸より、神秘は蘇ろうとしていた。

 

 

 

 

 

「孤独者の譚」

 

良きサクソン人は語る。

 

あるところ、運命に翻弄された一人の貴婦人がいた。

彼女に運命を運んだのは大気に住まう人ならざる者であった。古の血筋は夢魔の系であり、尋常ならざる力を用いる存在であった。

 

夢魔に魅入られた女は一人の子供を産んだ。生々しい交わりの記憶などない。だが、間違いなく我が身を献じて産み落とした子供であった。

 

産み落とされた子供の名前はマーリンと言った。名付けたのは彼の母であったように思う。名前こそ、マーリンが生親から与えられた数少ない贈り物であった。

 

生まれたばかりの赤児の姿を見て母親は言った。

 

「この子が生まれたことに、私は何と嘆こうか。放浪に乗り出し、見知らぬ下賤から慰めの言葉を受け取れば良いのか。この手で、今ここで我が子をお仕舞いにしてしまおうか。或いは、全てを忘れて、ただの母として、この子のこともただの人として育てあげようか…。」

 

暫しの逡巡の末、母親は子供の瞳の深い深い輝きに気分を悪くした。見た事もない、我の知らぬを教え込まれているような不気味であった。

 

夢魔の父性はいかんせん重篤な困難を、マーリンの無垢な瞳にさえも負わせてしまった。それが故意であろうと無かろうと、爾後、彼の孤独は定められてしまったようなものだった。

 

残酷な己への戒めや慄きは、それらをも上回る我が子への薄気味悪さにかき消されてしまった。

 

胸の奥に、一つ匙ほどの確信が生まれた。ただそれだけであろうとも母の胸中に芽生えた確信は、何処かに残っていた血情の緒さえもを、いとも軽々と裁ってしまった。

 

マーリンの母は産後の疲れも鎮まり切らぬ内に、秘密の産晩を仕切った修道院の長を、金切り声で呼びつけた。

 

マーリンの母は叫んだ。

 

「院長様!!どうか、どうか早くこの恐ろしいのを私から遠ざけてください!出来るだけ遠くに、限りなく内密に、何者も預かり知らぬうちに、早くこの子を私の目の届かぬ場所へ追いやってくださいな。私はこんなのは知った者ではありません。主が、もしも私を憐れんでくださると言うのでしたら、私の産んだこれが祝福されるべき存在であったならば、こんな、こんなに妖しい光を瞳に燃やすものではありません。」

 

「あぁ、お許しを…どうか、どうか私をお許しを……この子は、いいえ、これは間違いなく私の身を穢した。だから、身を穢された私を憐れみたもうた主が、私の身から追い出したのです。そうです、そうだったのです、そうに違いありません。そうでなければならないのです。」

 

「私が産んだのではない…私の身から主に追いやられ、そうして這い出してきた何かなのです。ですから、どうか早く、あっちへおやりになって下さい。神の名の下に、早く裁いておしまいになってください。それが、それが私に手を伸ばす前に早く!!」

 

血混じりの喉が絞られたような、聞くに耐えぬ弁明と、生まれたばかりのマーリンへの恐れと怒りを叫び連ねた母親は、修道院長の手を爪が食い込むほどに力強く掴むと、神の名の下に我が子の生誕を否定するようにと迫った。

 

修道院長は否応を明確にせぬままに、修道女を二、三も付けて母親を生家への帰路につかせた。

 

院長は最も年老いた修道女に、マーリンを迷信深き湖のほとりに置いてくるように、と言伝た。

 

老修道女はマーリンを大きな木籠に納めると、その夜のうちに湖のほとりに彼を置いて来てしまった。

 

 

 

良きサクソン人は語る。

 

マーリンが自分自身をマーリンであると明確に認めたのは、この晩が明けて、その生の最初の朝焼けに身を晒した時であった。

 

マーリンを捨てた母親は、それから死ぬまで一度としてマーリンの名前を口にしなかった。マーリンが母親から自らの名を呼ばれたのは、産み落とされる直前に投げかけられた一度だけであった。

 

 

 

良きピクト人は語る。

 

マーリンには不思議なところが多くあった。

 

そのどれもが、多くの信心深い人々にとっては耐え難いものであり、より多くの自らを変哲のない善良人であることに疑いのない人々にとって到底受け入れ難いものであった。

 

一つはその瞳であった。言葉で表しようもない鮮烈で複雑な虹彩が映し出されるそれは、ただ人からしなくとも魅入られるような妖しさと、超常の気配をひしひしと感じさせる特徴の第一であった。

 

二つはその肉体にあった。マーリンの肉体がどうであったか、その実際は詳細も何も断定し難いものがある。誰もが彼の姿を知っているように思えて、しかし誰も彼の本来の姿を知らないのである。精巧な陶人形のような美しい容姿も然り、賢者の範とも言われるべき豊かにたくわえられた口髭と深い皺の刻まれた思慮深い相貌も然りであった。

 

或いは、その不思議な噂話もそうであろうか。時にアーサーがアルトリアであるように。彼が彼女であるように、魔法使いマーリンは時として妖艶な魔女マーリンでもあったらしいのだ。

 

そして三つは、誰しもが心よりの期待を持って既知と謳う、不可思議な魔法の力である。

 

マーリンの偉大こそは、即ち魔法の偉大である、とは遠からずではなかろうか。マーリンの魔法の前には、万難もなにを恐るるものぞ。

 

アーサー王こそはマーリンに導かれし者に過ぎず、マーリンこそがブリトンの救済者であると謡いあげることの何と容易いことか。

 

マーリンの不思議は他にも数多くあるだろうが、マーリン自身が自らに見出す不思議とは何より先に、この三つのことだろう。

 

生み落とされて以来、彼は己が持ち得たただの三つしか、その頼りとすることが許されなかったのだ。

 

 

 

良きブリトン人は語った。

 

マーリンが誰に手を差し伸べられるでもなく、しかして物心の着くまでを生き延びることができたのも、その飄々たる人格を獲得し得たのも、全ては彼の生来の幸運と、皮肉にもその血に宿る夢魔の因子の忠良に依るところが大きかった。

 

何もしなければ、死ぬだけだったのだ。

 

自らの生に、否、凡ゆる生という生の輝きをその冷謐な瞳に映る現象の、些細な起伏としてしか捉えることのない夢魔には、人間としての或いは人間のような生き方は、砂利屑を咀嚼するだけの戯言に同じ、と言っても過言では無かったのだ。

 

しかし、マーリンは脱力し、ただ自らの死を待つことはなかったのだ。

 

同じ境遇に置かれた夢魔の血の者が、果たしどれだけの数、マーリンと同じ選択を、彼らから見ればいっそ馬鹿馬鹿しいほどの愚択を選ぼうか。

 

マーリンの胸中に芽生えた幸運とも運命とも言うべき天啓とは、彼を人間と共に歩む道程へと誘い得た妖燈とは、これ即ち、このまま粗末に身を滅ぼしてしまう己への、ぼんやりとした、どこか勿体の無いような落胆と期待であった。

 

これが人ならざる万能の霊主の族柄から考えるに及べば、物好きの蛇足であろうことは、マーリンという夢魔の端くれが最も良く理解しているところだった。

 

しかし、彼は純血ではなかった。

 

混血の命の導きは、決して愛に等しく降りかかるものでもないのかもしれぬ。

 

マーリンの始まりは断じて幸福とは言えまい。

 

だが、しかしマーリンは歩くことを選んだのである。

 

産まれ落とされ、捨て去られ、努めて忘れられようとする幼い命を、マーリンは自らの手で育て上げる事を選んだのである。

 

誰の心の片隅にもその存在を許されなかった自分自身が、いつか何かを知った時に落胆しない為に。

 

自らも知るところではない、言葉にすることもできない、それでも尚、己が求めてやまない何かを掬い上げた時、自分が知らない其れを与えてくれる誰かと出会った時、その時の期待を決して自分から投げ捨ててしまわぬ為に。

 

そして、それらこそが指先が埋まる程度の浅い未練の働きによる功であった。

 

だが、この未練は平時の人間が理解しうるような渇きにも似た激しさを伴うものではなく、些かの労苦を費やして獲得した果実を食べかけのままに、取り上げられてしまうようなものだったろう。

 

それは人間からすれば、それこそ夢魔から見た人間の生涯への冷淡な反応と同じ類の些細な何かであろうが、夢魔の一席が常識的に持ちうる範疇の情動の起伏を鑑みれば、異端も生易しいほどの逸脱的飛翔に他ならなかった。

 

夢魔は血を、人間は名を与えた。

 

だが依然として余白は埋まっていない。

 

他の夢魔は知らぬのだろう、この心地よい渇きを。

 

マーリンは己の余白を埋めるために、夢魔も人間のことも恨むつもりはなかった。

 

だが、そもそも己の生涯さえも遥か高みより覗き見る娯楽の一端程度に考えているマーリンにとって、恨みも憎しみも知ったところの話では無かったのかも知れない。

 

とはいえ、マーリンは己が持ち合わせる血と名前だけを頼りとして、その心の片隅に空いた余白は埋めてくれる何かを、埋めてくれる誰かとの出会いを求めて、改まった心意気でその成長の第一歩を踏み出したのである。

 

 

 

実在するか分からない、己を受け入れ、己に与えてくれる何かを、誰かとの出会いに対して、マーリンは早すぎる諦観とも達観とも呼べる感情を抱いていたが、それはマーリンの孤独な旅の始まりを遮るものでは無かった。

 

己の進むべき道筋を漠然と描き終えたマーリンは、最初の朝日を浴び終わるのと同時に、自らの生母への愛着など忘れてしまったかのような極めて冷徹な思考を働かせた。

 

産まれたばかりの赤児が黙々と魔力を練り、大気から養分を摂取している図柄は現実離れしていて薄気味悪いものに見えるかもしれない。

 

腹ごしらえを済ませたマーリンは今後について如何にも人間らしく考えた。

 

生き延びる為には、夢魔の系譜に連なるものといえども幾つかの段を踏まねばならぬ。

 

己を養うことを、産み落とされた当ての日から強いられたマーリンは、悲嘆の暇を己に許す事もなく、機械的なまでに生存の為の諸事を恙無く実行していくのであった。

 

夢魔は大気に起源を持つ種族だ。単調に生きる上では人間のように飲み食いに精を出す必要は無かった。

 

夢魔の自身が健全に育つために最適な方法としてマーリンが採用したのは多様な人間が入り混じり、老若男女を肉眼で知るに事欠かないだろう場所を転々と放浪する事だった。

 

出会いを求めることに気負いのないマーリンはその点でも生まれた時からの生粋であったのだが、その話はさておく。

 

全てを見通す千里眼はまだまだ拙さの残る扱い振りではあったが、何かと要領の良いマーリンにとってそんなことは些細な事であった。

 

果たして、より多くの精気が大気に満ち、より多くの出会いに恵まれる場所を目的地に設定した結果は、自ずと大きな街の盛場が第一に導き出された。

 

決断すれば行動のみ、迷いを知らぬマーリンは可愛らしい鼻をふくらませると、ふんす。

 

魔法で木の籠ごと自分を浮かせと、生まれながらに豊穣なその白髪を風に靡かせながら最寄りの盛場目指して出立した。

 

孤独者の旅はこうして幕を開けた。

 

 

 

良きサクソン人は語る。

 

マーリンの旅は当初順調に思えた。

 

吸い尽くせぬほどの精気に満ちた盛場の大気は彼を養うに十分すぎるほどであった。

 

だが、それだけだったのだ。

 

全くもって、マーリンの願いが成就することはなかったのである。

 

彼はある意味で晩成であった。後世を知る者の評価はおしなべて同様の談に終始する事だろう。

 

彼の望む、彼の余白を埋めてくれる誰かと出会うまでの時間は、マーリンにとって苦難の時間であった。

 

無論、人間の苦難とは悩み苦しむものであるが、夢魔である彼にとっての苦難とは全く持って起伏のない事であった。

 

 

 

当初は言葉通り、来る日も来る日も木の籠の中で精気を摂取しては寝て、摂取しては寝てを繰り返して肉体を育て、起きている時間はひたすら魔法を使って暇を潰した。

 

何の目的もなく魔法を使うことは味気なく、それほど上達もなかった。

 

それから次第に道ゆく人々を標的に、マーリン曰く可愛い気のあるイタズラを披露するようになってから飛躍的に魔法が上達したらしい。

 

盛場中の水たまりが突然凍りついて道ゆく人々が滑って転がったり、蜘蛛の巣が掛かった竈門が薪もなしに突然轟々と火を噴いたり、盛場中の娼婦の下着が白昼に宙を踊り狂ったり、マーリンのイタズラはその類に限りがなかった。

 

あまりにもイタズラに凝り過ぎた結果、街の人々は木の籠に入った白い赤児に気をつけろと噂話を言い合うようになった。なんでも、不思議な出来事が起こる度、酷い目にあった人々の視界の隅には見覚えのないひと抱えもある、それこそ赤児がすっぽりと入るような木の籠が浮遊しているのだという。

 

人々の警戒心が高まってしまっても、それでもマーリンのイタズラはしばらく続いた。

 

度の過ぎたイタズラを三度と繰り返したことで教会から祓師が送り込まれ、そこで初めてマーリンはイタズラを自粛した。

 

イタズラが無くなり人々の安心は戻った一方、退屈に耐えられなかったマーリンは、熱りが冷めるより早く次の町へと向かった。

 

イタズラをしては町中大騒ぎになり、悪魔祓いやら祈祷師やらが呼び寄せられる。人々の警戒が高まり過ぎると、熱りが冷めるのを待たずに次の町へと向かう。

 

自らの両手と両足を頼りに、彼方此方に出会いを求めるようになる頃には、ブリテン島の方々で空飛ぶ木の籠と、姿の見えぬ魔法使いの噂が実しやかに囁かれるようになっていた。

 

マーリン幼児期のおイタが、図らずも後に数限りない魔法使いマーリンの伝説群の形成に繋がったとか、繋がらなかったとか。何にせよ、マーリンは惰性気味にイタズラを通して魔法を磨き上げつつ幼児期を無事に脱し、立派な美少年へと成長したのであった。

 

 

 

美少年マーリンはしかし、夢魔であることに変わり無かった。そして、千里眼を通じて万事を既知のものとしてしまうことにも変わりなかった。

 

千里眼の加護をその身に負うて以来、即ち生を受けて以来の時間と経験は、須く既知、既得のものであり、長寿かつ聡明なこの白い夢魔からすれば、この上なく退屈なものとなってしまったのである。

 

言って終えば、その退屈を破ってくれる何か、何者かに出会う為の旅であるから彼の悩みは根本的な問題であり、端的な結論としてはマーリンの根気不足とも言える。

 

しかし、かような正論など何の役に立つものか。

 

夢魔の本性が自身の生命への無関心を時折垣間見せつつも、一度自ら決断したことを曲げることはしなかった。

 

放浪には幾度かの方針変更に迫られる事もしばしばだった。

 

時には、魔法を一切使わずに人間の生活を一から十まで演じることで出会いを探した。

 

時には、自分の珍奇な姿を晒して人間関係を築こうと挑んだ。

 

幾度もの試行錯誤の末、結論は与えられた。

 

結論は、あくびが出るほどの退屈を強いられるに留まった次第であった。

 

出会う人、見聞きした物。その全てが知り尽くしているものだった。マーリンは初めて明確に落胆を覚えた。

 

そして、マーリンの齢が十を数える日がやってきた。

 

 

 

当時、ロンディニウムの片隅に古ぼけた宿があった。

 

マーリンは宿の隣の土地を、注意されるまでの期間限定ではあったが、無断で占有して我が城と成していた。

 

雨が疎に降るこの頃のこと、マーリンの茅葺の城は外側からの大きな力にへし倒され、無残な瓦礫に帰してしまった。昼前の出来事である。

 

何事かと昼寝から起き出した眠気眼のマーリンは、己の城に討ち入った不届者の顔を見上げた。

 

己を睥睨する不届者。宿屋の店主は腕を組み、怒り眉でマーリンに怒鳴った。

 

「やい、白葺の餓鬼!お前が巷で随分と噂になっていることはよく知っておるぞ?彼方此方の淑女に片端から声をかけてるらしいじゃないか。人妻も幼女もお構いなしとは、道理でお客が来ないわけだ。お前のおかげでウチの宿屋は連れ込み宿か何かだと勘違いされてるらしいじゃないか!えぇ!?いつからかね?いつから、お前のような、それこそ客の一人も寄越さない使いを雇ったんだ?お前の顔などもう沢山だ!さっさと居なくなれってんだ!!」

 

正論である。

 

しかし、反省を知らぬマーリンは平然と答えた。

 

「まぁまぁ、そうお怒りにならず。どうか興奮を鎮めてくださいな。たしかに…貴方のお話は間違いがない。しかし、ボクはどうしても不思議に思うのです。どうして連れ込み宿での営業を画策なさらないので?」

 

唖然。店主は耳を疑った。マーリンは続けた。

 

「そうだ、ボクはこう見えて人の見る目には自信があります。これからかなりの後になりますが、世にも貴い御方々が世に出られる際には、大いにお手伝いになることになっているのですよ。いやぁ、貴方のことではないのが心底残念でなりませんね。それはそうと、ボクは大層な目利きに成長する予定が決まってますので、この目を活かしてくれさえすれば、貴方にも満足いただけるように、このボロ屋を立派な連れ込み宿に成長させて差し上げてもよろしいですとも。」

 

マーリンは気付けば張り倒されていた。マーリンの城は綺麗さっぱりペシャンコになった。店主は顔を真っ赤にして叫んだ。

 

「お前のような奴は見た事も、聞いた事もない!自分の押し売りができる分際なのか!最後まで話を聞いてやって損をしたわ!!あと、ウチはボロ屋じゃない!歴史があるんだよ!お前には分かろうはずがなかったがな!!死にたくなけりゃあ、犬のように走って向こうへ行け!!」

 

マーリンはいよいよ自分の命が危ないことを悟ると住みなれた家を後にした。大気に溶け込むように、白い子供はロンディニウムから消えた。

 

 

 

良きピクト人は語る。

 

家を追われたマーリンに落胆はなかった。

 

ただ、久方ぶりに大いに夢魔の本性がぶり返してしまった。

 

無関心がその瞳の虚な輝きに、顕著に現れていた。

 

マーリンはロンディニウムの南に向かった。何時ぞや、ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア戦記の終盤に軍を上陸させた、テムズ河の河口にほど近い所であった。

 

マーリンは独言た。

 

「何もあんなに腹を立てなくてもいいだろう。なんだか気が落ちてしまったな。ボクはボクなりにこれまで歩いてきたつもりだ。人間を憎むでも、夢魔の血を恨むでもなく、言ってしまえば真面目に生きてきたように思うよ。」

 

何処となく厭世臭さが漂っていた。夢魔の血は騒ぎ立てるように、その、忘れていた衝動に拍車をかけた。

 

マーリンの足は無意識にも水に沈んでいく。

 

潮風は明後日の方向へ、海の匂いに心を動かされる訳もなく、己の感慨にさえ冷淡なマーリンの瞳に映っていたのは、満満たる海原であっただろうか。

 

凡そ海を見つめる者の瞳ではなかった。

 

ぶつくさと託ちながら海に腰を沈めていく。

 

マーリンの瞳には海が、さぞかし角張って黒々と渦巻く平面状に見えていたのかもしれない。

 

並々ならぬ覚悟などない。主が涙するような絶望もない。淡々と無関心が渦巻いていた。

 

 

 

吸い込まれる直前。彼は今日こそが己の十年目の記念日であることを思い出した。

 

足を止めた瞬間、親指の先に当たる硬質。

 

目を落とせば。マーリンは感嘆を吐き出した。

 

「えぇ!どうして海の中にこんな美人が!?」

 

次瞬。海水を垂直に押し退けて、巨大な邪竜が目の前に現れた。

 

マーリンは呆然として、そして我に帰った。

 

初めて目にする成熟した竜は、竜というには巨大が過ぎて、過分に雄々しく、禍々しいはずなのに淫靡よりも先に完成された美を主張して止まず、そして認めざるを得ぬほどに馨しかった。

 

邪竜と形容しても不足かもしれない。もはやこれは…。

 

より崇高な礼讃の辞を探求するのにマーリンが精を出し始めたその時、天の声が彼に声をかけた。

 

運命の声である。

 

「坊や、そんなに見られると照れてしまうよ。」

 

磨き上げられた、均整のとれた肉体は筋肉質とは言えないが、余分な肉のない美しい造形であった。

 

その美体を隠すのではなく、寧ろ堂々と胸を張る黒曜の麗人の首元には、美しい角羊型の首飾りが照り輝いていた。

 

いつの間にか、陽が顔を出していたようである。不可思議なことに、この美人の頭上の雲だけが辺りに押しやられて光の柱ができていた。

 

美しい、とマーリンは思った。

 

感じるはずのないものを、彼は感じていた。

 

「こんな服装で申し訳ないね、寝るときは必ず服を全て脱ぐようにしていてね、肝心の服が全て流されてしまったようなんだ…私事は他所に置いておくとして、ところでココはどこかな?暫く前にローマを出る船に乗ってからの記憶がないんだけれど…。」

 

黒き君の尊顔上で愁眉が寄る。

 

その刹那のことである。

 

言語解説不可能な珍事が勃発したのは。

 

「ッふぉう…ハッ!ボクは一体…何が?ほ、頬が熱いよ!?」

 

黒曜の美人が己の記憶を遡り、正常な状況判断の為の情報収集を全裸で敢行し始めた最中、彼の眉が小さく動くのに合わせて、邪竜はその凶悪な相貌を上下左右に振り回したのである。

 

平常時の姿でありながら、小童の腕を鼻で笑うような暴力がマーリンの頬を往復で叩いたのである。

 

「あぁ、申し遅れたね。」

 

本能を独占しかねない凶悪な薫りに恍惚とした表情を浮かべ始めたマーリンのことはいざ知らず。

 

依然、覇者の風格を放射するが如き堂々たる仁王立ちで思考に没頭していた黒き君は、ここで初めて自身が名乗りを上げていないことを思い出した。

 

「私の名前はアマロ。可愛いらしい坊や、君の名前を教えてくれないかな?」

 

居住まいを正して、腰を屈めたアマロはマーリンと瞳同士を通わせると、努めて穏やかな声で問いかけた。

 

 

 

 

 

マーリンは一も二もなく答えた。

 

「ボクはマーリン、ただのマーリン。」

 

どうして水の中に沈んでいたの?

 

どうして裸なの?ねぇ、どうして裸なの?

 

そんな疑問は喉の奥につっかえて出てこなかった。

 

そして、ここに来て彼は自分が驚き、混乱していることに初めて気づいた。

 

「さっきまで知らなかったことばかりだ。」とマーリンは思った。

 

自身の全てに無関心になってしまった時、常ならば嫌でも全てを報せてくる千里眼が、今のこの事態を教えてはくれなかった。

 

彼の思考回路に火が灯された。

 

急激に情報が錯綜する中で、マーリンは再び天の声によって現実に引き戻された。

 

「よろしくね、マーリン。出会って早速で申し訳ないんだけれど、私は見ての通り身寄りも服もなくてね。」

 

自分の肉体美をこれでもかと、無意識に顕示すると、アマロはマーリンに頭を下げた。

 

「差し支えなければ街に案内して下さるかな?無一文ではあるけれど、必ず恩返しすると約束するよ。」

 

見た事も、聞いた事もないお願い事だった。

 

人からの頼まれ事も初めてだった。

 

しかし内容が、ではない。

 

頼んできた相手のことだった。頼み込まれながら、目の前の美人の旋毛を視ながら、マーリンは必死に千里眼を働かせた。

 

これまで意図して使ったことなどなかった千里眼を、全精力を注ぎ込んで機能させた。

 

過去、現在、未来。ほんの須臾に何度となく総覧し直しても、それでも、アマロがそこに映し出されることはなかった。

 

「ボクでよければ…よろしくね、アマロさん。」

 

マーリンは我を取り戻し、自身の状況を正確に理解した。

 

信じ難げに口元を笑みの形に歪め、そしてから静かに涙した。

 

涙の量は小川から滂沱のものへと瞬く間に変わり、か細い吐息は、吸気が追いつかぬほどの嗚咽へと変わっていった。

 

立ち尽くして満面の笑顔と溢れ伝う涙を儘とするマーリンの奇態に驚いたアマロが、己の恰好も忘れて白い少年を密着を辞さずに、漢気上等に抱き寄せる様は、黒曜の君が美の極みであるが故に赦される忘我の混沌であった。

 

 

 

 

 

良き魔法使いは語る。

 

あぁ、ボクはやっと出会うことが出来たんだね。

 

貴方なんだ、ボクが探していたのは貴方だったんだ。

 

名前はアマロさん…髪色は黒、背丈は大人の僕より少し低い、好物はまだ知らない、嫌いなものもまだ知らない、腰に邪竜を飼ってる…凄く魅力的で良い匂いもする。本当はクサいはずなのに。瞳の色は黒かったり青かったり赤かったり…ボクと一緒の虹色なのかも…嬉しいな。

 

知らないことばかり、知りたいことばかり、初めてのことばかり…ボクは今、期待で胸が一杯なんだ。

 

あぁ、未来のボク、君の隣にアマロさんはいるのかい?今のボクにはわからない。

 

一緒に居ないことを考えるとボクは胸が切り裂かれるみたいに感じるんだ。

 

一緒に居ることを考えると、ボクは、その時のボクがどれだけアマロさんについて知っているのか、アマロさんはボクについてどれくらい知ってくれているのか、ボクはアマロさんについてまだどれくらい知らないのか、アマロさんにボクはボクのことをどれだけまだ教えてないのか…ボクはどうしようもなく胸の奥がむず痒くなるんだ。

 

これまでのボクは誰よりも不幸だね、だってアマロさんを知る事も、経験する事も出来ないんだから。

 

これからのボクは誰よりも幸福だね、だってアマロさんを知る事も、経験する事も出来るんだから。

 

あぁ、どうしてこんなに顔が熱いんだろう。

 

ボクの瞳奥の堰は暫く戻らないかもしれない。

 

また一つ今まで知らなかったことを知れた。また一つ知らないことができた。

 

仕方ないよね、泣いたことなんて今までに無かったんだから。自分がいつ泣き止むのかさえ、今のボクには興味深くて堪らない。

 

今まで知ることのできた未来にアマロさんはいない。

 

全てを知ることができなくなったというのに、こんなにも晴れやかな気持ちになるなんてアマロさんは罪な人だ。

 

未来のボクの隣にアマロさんが居ないことは恐ろしくて堪らない。

 

なのに、貴方との未来があると思うだけで、どんな未来があるのかわからないというのに、分からないからこそ、ボクは楽しみで堪らない。

 

貴方のことをボクが知りながら、ボクのことを貴方に知ってほしい。

 

出会ってくれてありがとう

 

 

 

 

 

抱きしめられ、甲斐甲斐しくあやされ、柔柔と頭を撫でられる感触に、自らも知らずのうちに心地よさげに微睡み倒れ込んだマーリンを、全裸のアマロが陸地にまで運んだのは、また別のお話である。

 

 

 

 

 

然るべき時が来た。

 

いたずら好きの賢翁が、潰えぬ臘火に語った調は、時波に幾度と梳きさらわれようとも、日の照ると言えど、日の陰るといえども、淡々。

 

刻然として憚らぬ、とこしえに伏わぬ。

 

忘時と変わらぬ温みを、現現に伝ゆるのだ。

 

「去りぬ君、去らぬ王、去れぬボク。花の枯れるまで。確かに、あまりにも永い時間だ。」

 

何処ぞ。

 

堆く過去が積まれた尖塔より、花の魔法使いが展望する未来には、変わらざりし彼の慕情を今も抱いてくれたままの、場違いなほど長閑な黒曜の微笑みが健在であった。

 

「けれどボクは反省も、悲嘆もするつもりはないよ。いや、ちょっぴり後悔はしているのかも知れない。彼と彼女を出会わせたことは、ほんのちょっぴり後悔しているかも知れない。人間に嫉妬するなんて…ボクも少し歳をとりすぎたのかも…。」

 

全てを見通す瞳に恵まれた混血の白き麗人は、大袈裟な身振りに任せて己の憂いを、一匹を除けば誰もいない何処かで情緒豊かに表現して魅せるのであった。

 

一通り演じて満足したのか、彼はしょうの抜けた安楽椅子に腰掛けるとため息をついた。

 

ふと見た先、下がった目線のおかげで、塔頂から見通す展望画は、石造りの窓枠に区切られて作り物染みていた。

 

ご満足いただけなかったようで、彼は余りある暇の端を崇高な工作ごとのために畳む代わりに、感傷的な過去への憧憬のために使うことにしたようだった。

 

「孤独には慣れっこだけれど、流石に飽きはくるものだよ。あぁ、また彼と共に暮らしたい。勿論だよ、ボクは知っているとも。いつか必ず、またボク達が一緒になる日が来ることも、彼が今でもボクの想いを忘れずに持っていてくれてる事もね。」

 

誇らしげに胸を張って最後の一言に並々ならぬ気概で応えた彼の姿に、同伴を半ば強いられている白綿の一匹は気怠げに外方を向いて見せることで応答した。

 

「なんだい?ボクに嫉妬してるのかい?ぷぷぷ!そうかそうか、いや、仕方がないことさ!何と言っても生まれた時が悪かったね!でも、大丈夫、ボクの瞳にはしっかりと視えているよ?君がいかに幸運なのか、ね?」

 

不機嫌を知らぬのか、と獣面を引き攣らせて後ずさる素振りを見せた白綿の一匹。

 

それは、最後に見せた本能の抗いか、或いは幸甚の前触れか。

 

安楽椅子から妖霊然として立ち上がった花の若翁。

 

満面の笑顔でにじり寄ってきた彼から逃れよ。

 

白もこもこの本能が叫んだ。

 

が、時既に遅く、目前には果てしなく広がる花畑、下みれば、そこには惜しみなくばら撒かれた廉光が敷き詰められていた。

 

「君はこれから人間について学んでくるといい。出会う相手は出来るだけ多い方がいい。迷った時、投げ出しても、探すことをやめなくても、それは君の自由だよ。でも、一度でいいから彼に会ってみるといい。君は幸運だよ。ボクが言うんだから間違いない。」

 

猫を掴むように、小慣れた仕草で白綿を摘み上げた魔法使いは、彼を窓の外から投げ出すように掲げた。

 

魔法使いは、ここに来て実に人の良い微笑みを浮かべると。

 

「きっと、彼はボクのことも君のことも同じくらい人間だと言うのだろう。彼と出逢ったら、それからは君の好きにすると良い。それじゃ、また今度会おうねー!いってらっしゃ〜い!」

 

実に人の良い微笑みを浮かべると、その笑顔そのままで全身全霊全魔力を一点に迸らせた。

 

急角度。一直線に尖塔の外へ。

 

原始的な力技で、一匹の魔獣が世に放たれた瞬間であった。

 

 

 

 

 

「フオオオォォオォォウウヴヴゥゥゥゥ!!?!?」

 

 

 

 

 

日本国都心にあるアパートの窓際から、一人の少女は青白く眩い流れ星と野太い獣の鳴き声を体験したという。

 

「あ、流れ星…あぁ!早く!おっ、お願い事しなきゃ、良いバイト見つかりますようにッ!良いバイト見つかりますようにッ!!良いバイト見つかりますようにッ!!!」

 

明るい夕焼け色の髪色が美しい未だ名もなき彼女の呟き。

 

その願いを聴いたものは誰もいない。

 

だが、世の中には不思議な事もあるようだ。

 

少し先の話にはなるのだが、彼女の願い事は叶ったそうである。

 

何万、何億分の一の確率を引き当てた彼女に待ち受けるのは、果たしてどのような運命なのか、それを知るものはまだ誰も知らない。




読んでくれてダンケなっす。随分と長くなりました。


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B0.2孤独者と漂着者〜漂着者の譚〜

一言に評価に感想を下さった方々、そしていつも読んでくれる世紀末諸兄。本当にダンケなっす。

拙二次創作について感想をもらえるとすごく嬉しい。
もう、それはもう嬉しい。こればかりはどんな修辞に託しても伝えられません。ありがとう。

では、どうぞ。


B-0.2 孤独者と漂着者〜漂着者の譚〜

 

 

 

歴史上最も多くの子孫に恵まれたのは誰だろうか?

 

推定4000万人がその血を継いでいるとも言われるモンゴル帝国の始祖チンギス・ハーンだろうか。

 

華麗なるハレムを築き上げた歴代オスマン皇帝だろうか。

 

はたまた、人類の始祖とされるアダムとイブだろうか。

 

世界中、これらの話題を掘り下げればキリがない。終わりのない問いは哲学にまかせるとして、此処では一つの簡潔な答えを提供しようと思う。

 

一つの問い。一つの問いに答えさえすれば、その答えはそのまま貴方に世界史の答えを教えてくれるだろう。

 

世に蔓延る歴史紛争の原因は、その根本には民族がある。始まりが個別な、複数の民族が入り混じり合いながら歴史を紡ぐから、だから歴史紛争なんてことは起こるのだ。

 

さて、話は逸れたが問いを一つ。

 

全ての民族の始まりの時、見境なく種をばら蒔いた漢がいたらしいが…さて、彼は誰だろう?

 

 

 

…………。

 

 

 

御名答!!

 

これで世界から歴史紛争は無くなったも同然だ!!

 

なにせ、単一の血族が紡いだ歴史ってことになるのだもの!

 

諸君には世界平和の権威としてのライセンスを贈呈しよう。

 

 

 

さて…長くなったが前置きはこれくらいにしよう。

 

これより語られるのは、そんな漢が幼き花の魔法使いと出会うまでの軌跡についてのほんの一幕。大昔の御伽噺、その一欠片だ。

 

困ったことに、我らが黒曜の君は良くも悪くも運命(Fate)に愛されし御人だ。

 

老若男女美醜善悪に見境がない、その内側と外側の素晴らしさに限れば右に出るものが宇宙の何処を探しても居ないというのに…決まって特大の運命まで背負い込んでしまうのだから堪らない。

 

平穏好きには似つかわしくない運命が彼を蝕むのだろうが、運命の方が果たして保つのか否か…既に満身創痍だろうに、ご苦労なことである。

 

 

 

幾億の眩く(まばゆ)光る星達の、その悉くの胸を穿ち、運命(Fate)を狂わせ、救い上げ、尚愛おしむ宵の君。

 

 

 

おぉ、ここいらに座し(おわ)まします皆皆よ!

 

どうか!彼の、愛おしむべき罪人に!!

 

永遠(とわ)の轍を編む旅人に!!!

 

諸賢様より心ばかりの寛容を賜らん!!!!

 

 

 

 

 

一説によれば黒曜の君と目される存在が登場する最古の記録は、紀元前14世紀ごろに編纂されたギルガメシュ叙事詩において度々登場する「黒曜石の至宝」であると推測されている。

 

根拠として研究者が今も昔も変わらず挙げるものに、この「黒曜の〜」という記述が時代や空間を大きく隔てた文明からも共通して発見されているという事実がある。

 

古代におけるいくつかの事例を挙げれば主要なものは以下の通りである。

 

先述のギルガメシュ叙事詩における一節「黄金の詩〜愛の章〜」における「黒曜石の希望」の例。

 

ティグラト・ピレセル1世を起源とする歴代アッシリア王の年代記、その中でも「黒曜石の伴侶」の記述が特に頻出する新アッシリア時代の女帝サンムラマートによる「帝配伝」の例。

 

サンムラマートによる「帝配伝」の数十年後、短い間隔にも関わらず古代ローマの王国期の始祖となったロムルスに関する口伝承「狼と父」の中における「黒曜石の美丈夫と嫋やかな雌狼」の記述の例。

 

紀元前4世紀にアレクサンドロス大王本人が東方遠征以前から継続的に記録したとされている「黒曜紀」の中にしばしば登場する「余の黒き珠玉」の例。

 

中華の正史であり世界史的にも名高い司馬遷による「史記」、その中の「秦始皇本紀」にて登場する「後宮に黒曜侯あり」の記述が該当すると考えられている。

 

古代日本に関しては陳寿による「三国志」、その中でも「魏志倭人伝」に詳しく、邪馬台国の女王卑弥呼が朝貢した際に「黒麗君を返使として倭の邪馬台国に派遣した」との話が遺されている。時の皇帝がどうして「黒麗君」を手放したのかについては議論が白熱しがちではあるが、寵愛甚だしい黒麗君を疎んだ現場の責任者が、共謀の貴族を通じて言葉巧みに船に乗せてしまったというのが通説として立場を確立している。

 

この説の根拠としては、黒麗君派遣が報告された日から翌年同日までの期間、皇帝の勅命により粛清された人の数が貴賤の隔てなく前年の数倍に膨れ上がったことが挙げられている。粛清後、倭国への侵略の用意の有無に関しての議論も紛糾するのが常であるが、罪状の殆どが反逆罪であることから国内分子による策略であり倭国へのお咎めは無しと、最終的に判断した皇帝の不自然なほど分別がある様子は興味深い。

 

最近の研究によればこの「黒曜石の〜」という記述は古代世界において共通の存在を示す単語であるという説が確立されている。

 

古代を跨ぎ、中世、近世、近代そして現代へと時代が進むにつれてこの存在に関する詳細な情報は増加する傾向にある一方で、未だにその正体についての結論は出ていない。

 

有史以来の最大の謎としてまたまだ掘り起こし足りないというのが、全世界の研究者が共通して思っているだろうことは言うまでもない。今後の更なる研究の進展に期待が募るばかりである。

 

『雑誌 世界史人「特集!黒曜石の謎に迫る〜」』

(黒曜出版 2XXX年)より

 

 

 

 

 

「漂着者の譚」

 

 

 

その男がニネヴェに現れたのはいつのことだったか。

 

赤児を腕に抱いて、その男は迷いのない足取りで王宮殿へと足を進めたのだ。

 

王は偉大なり。神は至高なり。

 

古きアッシリアの民が曰く、それは河岸に流れ着いたのだ。

 

忌々しい時は色褪せることを知らず、栄達の頂きに迫れば迫るほどに一層濃淡は劇しくなるばかり、彼女は朧げながらも生々しい其れを覚えている。

 

「お前など産まなければ良かったのだ。お前が生まれなければ私はどれだけ幸せだったでしょうね。刹那の気の迷いで全てを喪うだなんて、望んだわけでもないのにどうして孕ってしまったのかしら。理不尽なことね。迫られたから仕方がなしだなんて神様は仰らないのよ?だから、私がこれからする理不尽のことも、神様は必ず見て見ぬふりをなさるわ。そうでなければ貴女を生かしたまま産んだ意味がないもの。」

 

それまで自分自身を包んでいた温もりが、惜しみも感じさせずに、ほっそりとした指先、爪の硬い感触を最後に消えてなくなった。

 

「貴女はこれからどうするのかしら。言葉も話せない今の貴女に問いかけたところで無為なことだわ。でも、私も貴女も理不尽な目に遭遇したということは同じだものね。私は神様に捨てられた、貴女はその神様に捨てられた私に捨てられる…無様ね、どっちも。少し教えてあげる。誰にも聞いてもらえないだろうし、それこそ神様だって。」

 

シリア人の女はやつれた顔をしていたが、全てを投げ棄てる覚悟が、黒々と濁る瞳から伺えた。

 

邪な感情など、悪意などどこにも無い。そこにあるのは、眩しいくらいに影のない絶望だった。

 

父たる神は、なんと痛ましい真似をしてくれたのか!!幼き赤子には親の愛も、温もりも与えぬの云うのに、どうして神の聡明を生まれながらにして背負わなければならぬのか。

 

理解できる、その残酷を理解できぬというのだろうか。神はなんと、惨いことを。生まれながらに、彼女は無知蒙昧の退路をさえ傲慢強権の神によって「奪われてしまった」のだ。

 

彼女の母である女は、静かに語った。我が子に向ける目ではなかった。青々しい草本の狭間、蟻の行進を何の目的もなく見つめる瞳に同じであった。

 

「あのね、…私は幸せになりたかったの…。神はそういうものだと、教えられてきたから。神は私たちに与えてくれるものだと、私の母も父も言っていたのだから。」

 

「けれど、実際とは異なるものだったようね。神は与えるけれど、与えるものが私たちの望むものとは限らないの。それに、神は奪うものなのよ、奪うものに限って私たちが一番望まないものを奪っていくの。奪ってほしくないものを奪うの。だから、貴女が生まれて、だから私は全てを喪ってしまったわ。」

 

「神々は笑っているのかしら?それとも不思議な顔かしらね…今は、どっちだっていいの。きっと、何方でもないのだもの。私のことなんて、とうの昔に忘れているのね。」

 

「神は私が最も望まないものを与えたわ。神は私から最も大切なものを奪ったわ。私には貴女だけが残されて、それ以外の、私が欲しかった将来の希望も、全てを奪っていったわ。だから、私は決めたの。貴女も捨ててしまえば、私はまたやり直せるって。私は幸せになりたかったの。でも、私は自分じゃない誰かに、貴女に幸せにして貰おうなんて考えていないの。だから、ここでお別れ。ごめんなさいね、貴女の母親ではあるのだろうけど、でも、貴女の中に神の血が混じっていると思うと虫唾が湧くの。」

 

「もう…奪われたくはないのよ。きっと、また何かを奪われてしまったら、私は貴女の所為にするわ。貴女を恨むわ。貴女を憎むわ。例え、何も貴女に非がなかったとしても、私は…そうしないと生きていけないの。だから、貴女とはお別れするのよ。」

 

女は両の手を摩り合わせた。顔が俯く。何を思っているのか、分からなかった。顔が彼女の方へと向けられた。忘れもしない、彼女の顔は酷く歪んでいた。

 

憎しみが入り混じる、恐ろしい形相だった。震える女の手は、静かに、しかし確実に彼女の据わってすらいない彼女の首元へと伸びていた。

 

女の指先が彼女の頬に触れた。指先は冷たかった。何度と摩り合わせていたというのに、冷え切った指先だった。汗が滴りそうなほど、冷たい汗で濡れた手のひらは照りを帯びていた。

 

「う…ぅ……もう会うことはないわ。貴女は私の恥、もう、顔も見たくないわ。さようなら…。」

 

女は手の汗を、自らの服の生地を握りしめて拭った。少しの間の沈黙。女は力が続く限り握りしめた。薄い布地が渦を巻くように歪む。喉を詰まらせた女は、勢いをつけて掲げた腕を力が抜けるに任せて垂れ下げると、自然な素振りで彼女のお包を両手で抱き上げた。

 

川岸に用意された木の小舟に彼女は置き去りにされた。

 

 

 

神の血が流れていることは、ある意味では不運であり、ある意味では幸運であった。

 

運が良かったらしい。舟の持ち主が現れたのである。

 

誰のものとも分からぬ小舟に、せめてもの情けで置き去られた赤児。彼女は運が良かった。なぜならば、運命が向こうからやってきたのだから。

 

現れたのは顔中を黒い布で巻き固めた異様な格好の人物であった。

 

乳白色の薄手のローブ、黒布は顔を隅々まで隠してしまい、この人物の相貌は知りようがない。

 

しかし、黒布の隙間から滴る、くぐもりながらも脳髄を溶かすような声がその人物が並々ならぬことを強烈に訴えかけていた。

 

「君が私を呼んだのかな?…ふふ、今度はまた随分と幼いね。ほら、おいで。」

 

赤児は自身の耳に届いた、人生で二つ目に耳にする人の声で体を一震いさせると、目を見開いて見せた。

 

男の声らしきそれ、その甚しさに生物の本能が叫んだのか、彼女は小さな両手を必死に動かし始めたではないか。

 

「ほっぺが柔らかい…指が気になるのかな?触らせてもらってばかりじゃ不公平だからね。ほら、僕の指を掴んでごらんよ。そうそう、上手だよ。」

 

彼女は自分の頬を優しく包む男の指を目敏く見つけると、やわやわしい両の御手手で、自らを右腕で抱える男の薬指を器用に捕まえてしまった。

 

衝動に任せて口に含んだ指を何だと思ったのか、彼女はそれを宇宙に生まれる漆黒の神秘にも勝る勢いで激しく吸引し始めたのである。

 

「あ…こらこら、指をもむもむしてはいけないよ?お腹を壊すかもしれないからね。あっ…あらあら、舌を動かすのは上手だけれど…そうじゃなくて、ぺっ!だよ?また今度、約束するから、うん。嘘じゃないよ。本当さ!……うん、ありがとう。いい子だね。」

 

細くしなやかな指とはいえ、赤児の口には大き過ぎる。焦燥の混じった声で赤児の暴挙を何とかしようと声をかける男。吸い込む力を強める赤児。

 

格闘は続いた。遂には、大海原に湧き立つ荒波の如き暴虐的な舌捌きで指を磨き始めてしまった。事態は混乱を極めていた。

 

一周回り切り平穏を取り戻した男により、何時とは決められていないが次回も薬指を貸すと約束が取り付けられることで、ようやく男の指は赤児の口から解放されたのであった。

 

ふやけてしまった指のことはさておき、気まぐれに眠り始めた赤児の顔はこの上なく満足げであった。

 

 

 

「そろそろ日が暮れてしまう。サンムラマートは僕の帰りが遅いと心配するからね…ねぇ、君も私と一緒に来るというのはどうかな?行く当てもないのだろう?まぁ、私も居候の身分なのだけれど…細かいことは後にしよう。さぁ、彼女がアダドの部屋に殴り込みに行く前に、早いところ家に帰ろう。」

 

男は赤児を胸に抱くと、なるべく足音を立てないように静かにその場を後にした。

 

 

 

帰り道のことだった。寝つきが悪いのか、赤児はぐずる様に鼻をふすふすと鳴らした。口元は落ち着きがなく、僅かに歪んでいる様に見えた。

 

苦しんでいるのか、寝苦しいのか男にはわからなかった。

 

足を進めながら、赤児の体をゆったりと揺らして様子を見てみたが効き目は怪しいものだった。

 

ふと男は赤児の顔を覗き込んだ。そして何に気づいたのか、薬指の先で目元をなぞった。それから、家に着くまで頭を撫で続けた。

 

もしも占い師の類が彼の横にあったならば、彼女の顔相をこう断じただろう。

 

「意志が強く、我が強く、聡明で、実務能力が高く、皮肉や謀に長ける。誰よりも自らに忠実で、誰よりも努力家だ。ただ…」

 

そしてこうも言ったはずである。

 

 

 

言葉を切った占い師は相手の了承を得てから声を潜めて耳打った。

 

「ただし…愛に飢え、執着心が強い。大多数に対して自信家である反面、一度心を許した相手を前にすると常に自分が不完全に思えて許せなくなる嫌いがある。おまけに、母親というものを心底憎んでいるくせに、父親に対する拘りが尋常ではない。精々、陥穽に嵌まらぬように気をつけることだ。」

 

 

 

 

 

偉大なる王であり、アッシリアの王であり、世界の王であるシャムシ・アダド5世の御代は、新アッシリア初期の絶頂期と呼んで過言ではあるまい。

 

偉大なるアダド三世は己が王権を手にして以来、王権の強化と新たなる秩序を構築することに腐心してきた。

 

新たなる秩序の一つとして、彼は自らの配偶者であるサンムラマートを副王あるいは摂政としての地位に位置付けた。伝統的には王が唯一の絶対的存在であったアッシリアの宮廷において、これらは大変な反発と賛成、真反対の紛糾の末に受け入れられた。

 

驚くべきことに、この新法に係る議論は満場一致で可決となったわけであるが、これは信頼のおける筋からの話によれば王の一声ではなく、サンムラマート本人の手腕によるところであるらしかった。

 

 

 

 

サンムラマートが、アッシリアの偉大なる王の寝宮にて揺るぎなき権勢を誇る様になったのはそう昔のことではなかった。

 

彼女が世に希なる才媛として世出し、遂には王の大権の半印をも担うに至ったのには、現王がその王権を手にする過程に理由があった。

 

 

 

時に前王が神として天へと迎え入れられて間も無く、玉座に空が巣食う王宮の百官達は、アッシリアの王として、即ち世界の王として彼らを導く次代の継承者を欲してやまなかった。

 

故に依るべき大権を望む伝統と忠誠、信仰を旨とする代々の官僚や神官達の推挙の元で、現王であるシャムシ・アダド5世が空座を埋めるに至ったのである。

 

しかし、シャムシ・アダド5世は即位間も無く王権の強化に取り掛かり、結果として諸侯である実兄達による激しい反乱を誘発させてしまったのである。

 

王権の強化に勤しみながらも、各地では王へと反旗を翻すことを王宮官僚に呼びかける徒党が肉親の命令により後を絶つ気配がなかった。

 

官僚と神官は王権と一蓮托生であったが、歴代の王朝に倣えば、王族間の争いは国家権力そのものの存続を危うくしかねなかった。

 

結果、王宮勢力の中にも離反の色が濃いものが増えていってしまった。これにより、王の精神を損ねるのみならず、王宮勢力の間で重篤な疑心暗鬼が蔓延るという事態に陥ったのである。

 

さて、この様な事態の折に王宮にて給仕の一人として出仕していたのがサンムラマートその人であった。

 

美しい女性であったサンムラマートの出生は明らかではなかったが、さまざまな幸運が重なった結果、王宮に仕える給仕の中でも、王に目通りが叶うほどの厚遇を手に入れていた。

 

アダドに見初められたサンムラマートはあれよあれよと正妻となり、類い稀な政治感覚で王を陰ながら支え続けた。

 

王との信頼関係が良好であったこと、サンムラマート本人が有能であったことも貢献して、一年後のサンムラマートと出会ったのと同じ頃には肉親による反乱の殆どを鎮圧することに成功したのであった。

 

偉大な双璧として玉座に隣ることとなったサンムラマートは、しかし謙虚で有能であった。豪奢と傲慢とは引き換えに、彼女は己を誰よりも幸運なだけであることに誇りを持ち、人に憚ることなく断言していた。

 

彼女の幸運はいつ始まったのか、それは突然であったことを、彼女自身が年代記に記している。

 

彼女の記述によればこうである。

 

「私の運命は黒曜の至宝を家に泊めた日から動き出した。私は彼の虜となり、ただ彼の平穏のために生きようと考えた。そして、気がつけば私は摂政の身分を手に入れていた。全てが変わったが、私が黒曜石の輝きに導かれるまにまに生きることには変わりなかった。私は最期まで彼に夢中だった。」

 

 

 

 

 

ある時、王宮でも特にくらいの高い官僚の一人が摂政であるサンムラマートの元を訪ねた。

 

官僚はサンムラマートに、治水政策に関する詳細な説明を貰おうと考えての来訪であった。

 

官僚は言った。

 

「摂政様、先日お尋ねしました治水の件にございます。私としましては、どうしてこの様な大規模な工事をお許しになったのかお教えいただきたいのです。我が国は、今まさに安定を手にしたばかりなのです。民に仕事を与えることはできても、彼らに出す褒章は何処より注がれますのやら。何卒、私にご教授いただきたい。」

 

サンムラマートは間髪を入れずに官僚に答えた。官僚の声には明らかな批判が滲んでいた。そのことを他ならぬ官僚が理解していた。官僚はサンムラマートの鋭い瞳に喉を引き攣らせた。

 

「安定を維持すればこそなのだ。王は外征のための資金を求めておられるが、その様なものはどこにもない。しかし、もしも私が私の愛する者の平穏を保ち続けられるならば。民を潤し、それらが私の宝の平穏に一助を差し出すならば、その限りならば、民が飢えることは、アッシリアの砂粒一掴みほどにもあり得ぬだろうよ。」

 

官僚は驚いた。叱責ではなく、しかし納得することも難しい答えである。安堵と疑問から官僚は、聞くべからざるとされてきた問いかけを摂政へと向けた。

 

「…摂政様のおっしゃることはわかりませぬ。あなた様のおっしゃることが真のことであるとするならば。あるいは、私どもの噂するところの、呪術や神の加護の思し召しでありましたかな?」

 

サンムラマートは官僚に答えた。

 

「如何にも私の言っていることは真だ。しかし、呪術でも、神の加護でもない。全ては我が愛しの黒曜が望んだ結果であるよ。この世で何より尊い私の宝、私の黒曜の主の、彼が望む平穏の念願が、全てを真にして魅せてくれるのだ。」

 

官僚はサンムラマートの話に結局納得することは出来なかった。

 

 

 

それから幾許の月日が経ち、官僚は王に謁見した。

 

王は官僚に尋ねた。

 

「治水の進展はどれほどのものか?」

 

官僚は恭しく一礼を払うと答えた。

 

「万事完了して御座います。」

 

王は満足げに哄笑した。が、何かに思い至ると官僚の顔を覗き込む様に身を乗り出して尋ねた。

 

「確かに、余の知る限りであれば大変な工事であったと聞いておったぞ。工事の完了があまりにも早いが、治水は失敗したのではないのか?何が何でも無理があろう。余を謀ることは良しとせぬぞ?さては…余の軍資金を無断で投入したのではあるまいな?」

 

怒気が漏れ始めた王からの詰問にも官僚は焦ることなく毅然と答えた。

 

「王よ、ご安心ください。抜かりなき事実で御座います。摂政様のお言葉は真でありました。今、天の恵みは我らが独占していると言っても過言ではありませぬ。先月末より、爆発的に麦の収穫が向上したのです。理由は分かりませぬが、恐ろしいほどの収穫高です。予想外の収入により我らは摂政様の許可の下、ニネヴェや近辺の町に住む貧民を大量に動員することが可能となり、気づけばこうして急速に工期を縮めた上での完成となったのです。」

 

王は言葉を失った。官僚を下げさせると、王は玉座から飛び上がるように退き、サンムラマートの元へと駆けて行った。

 

 

 

王はサンムラマートの居室へ赴くと、戸を叩くのも忘れ、焦りを帯びて王を遮る女中も押し退けて、そうして汗濡れの姿での入室を果たした。

 

王はサンムラマートに様々な説明を求めようとした。

 

が、出来なかった。

 

王は入室してすぐそこに立っていた一人の見知らぬ男の姿に全ての意識を奪われてしまった、そして戸を開け放った太い腕が下がるままに扉から手を離すと呆けた顔で固まってしまったのである。彼の首からは解けた黒布が垂れていた。

 

「あら陛下、いらしたのね。それにしても…初めてで、アマロ様の御着替えの場に出会すだなんて…貴方も幸運だわね…いいえ、むしろ運がないのかしら。」

 

陶然とする王の背後から、探していたサンムラマート当人が現れて、やれやれといった仕草で王の前へと進み出た。

 

進み出た彼女は、その流れに然るように、上裸で不思議そうな表情を浮かべる、絶望的に全てが美しい男、アマロの右半身に身体を沈める様に絡ませると、改めて王に向き直り、こう言った。

 

「王よ、遅ればせながら私からご紹介いたします。彼こそが私の最愛の宝であり、私と、そして貴方の希望でもあるアマロ様よ。」

 

王は言葉が出ない。否、アマロという名前だという情報は聴き漏らしていない。だが、それ以外のことは何も王の頭には入ってこなかった。

 

「どうも、二年ほどお世話になっております。旅人のアマロと申します。」

 

王の意識が戻ったのはアマロが自己紹介も兼ねて、上裸のままで手を差し出した時だった。

 

王は理由もわからぬ感無量の情動に襲われ、感涙しながらアマロの手を固く握り返した。鼻血が出ていた。手汗もすごかった。

 

「あ、アマロ殿か…なるほど、よーくわかったとも。サンムラマート!余はお前に言わなければならぬことができた。」

 

王は鼻から流血したままの状態で、貫く様な威厳を張り詰めさせてサンラマートへ向き直った。手は握ったままであった。

 

頼んでもいないのに向き直られたサンムラマートは冷徹に、酷く淡々とした表情で王を見返した。

 

一触即発の雰囲気。両者は同時であった。

 

「サンムラマートよ。余は二度と貴様を閨には呼ばぬことに今ここで決定した。これは神に誓った王命である。安心しろ、この大恩に報い、貴様を摂政の座からは降ろすつもりはないからな。だから二度と余の前に女を連れて来るでない。宮は今日から別別じゃ。それでだな…アマロ様、よくぞアッシリアへ参られた。早速、今夜にも余の私室にて歓迎の宴を内密に催したちのだが…いかがかね?よいのか!おぉ、これほど嬉しいことはない!国の威信をかけて…おぉ、質素がお好みとは…謙虚なのですな…好きです、そういうところ。」

 

「王よ。私は二度と貴方に身体を許すつもりはありませんから。ご安心を、頼まれずとも私は摂政の職務を放棄するつもりはございません。アマロ様の平穏を守るためには使い勝手のいい権力と財が必要ですもの。今からは他人同士ということで、あ、あと勿論私たちの部屋と部屋は二百歩以上離して下さいね。あぁ、アマロ様、これからは何も隠す必要など御座いません。どうか御心の赴くままに平穏を謳歌されます様に…あぁ、お恥ずかしいお話ですけれど、願わくば今夜も…待っておりますね?」

 

両者は同時に、相手へ並々ならぬ覇気をぶつけながら、前代未聞の宣言を果たしたのであった。アマロは両者の話を吟味した結果こう言った。

 

「…昨日はサンムラマートのお家で寝たから、今日は先に王様の元へお邪魔しますね。サンムラマートは、それからでもいいかな?」

 

王はアマロの答えに満足げに頷くと言った。

 

「異議なし。これ、まさに神の御心なり。サンムラマートよ、悪いな貴様のところへ向かわれるのは明日の朝になるやもしれぬぞ?」

 

サンムラマートもまた、敬虔な表情で頷いた。

 

「身を清めてお待ちしております。それと夜の件なら王よご安心を、アマロはスゴいですから。神話の英雄と言えど、彼の前には従順な雌鹿に過ぎませんもの。」

 

 

 

その晩、日が傾き始めた頃にアマロは王の私室へと招かれ、それから日が沈む相当前に部屋から退出すると、身を清めてからサンムラマートの部屋へと向かった。アマロがサンムラマートの居室を出たのは深夜であった。

 

成程、流石は付き合いが長いだけある。彼女は相当に粘った方だろう。

 

 

 

翌週、王は足腰の不良により執務を休んだ。王の不良を肩代わりしたサンムラマートは翌週、王と同じ目に遭い、次の翌週は王が、次はサンムラマートが…こうしてアッシリアは二大巨頭主導の政治により更なる飛躍を遂げ、黒曜の君ことアマロは王配であり摂政の夫としてアッシリアの王宮において絶対無冠の大権を掌中にしたのであった。

 

言うに及ばず…アマロの行使する権限は自由が全てであり、その実は頗る易しいものであった。

 

王宮で寝起きしては、昼は平民と、夜は王と摂政と食を共にし、各地に遺されたエンリルやイナンナを祀る懐かしい神殿や祠を歩いては一人歓談し、夜はアダド5世とサンムラマートの閨をハシゴして、地割れを二つほど起こしてから眠りにつく。

 

アマロの生活は相変わらず穏やかだった。

 

王と摂政は互いのことに欠片も興味がないにも関わらず、驚くほどに仲が良く、アマロの笑顔が深まる度にアッシリアには新たな恵がもたらされる様になった。

 

王はより偉大に、摂政は前代未聞の名宰として、歴史に刻然たる名声を獲得し、アッシリアの力の及ばざる領面を探すには、東西南北のいずれに百日向かうとも、休みなく歩き続けても、それは到底困難なほどであった。

 

新アッシリアの絶頂はこうしてサンムラマートの幸運と、王の奇遇によって実現されるに至ったのである。

 

 

 

 

 

しかし、その穏やかな生活は、皮肉にも、他ならぬ獲得者の不在こそが許す束の間の、運命の余暇であることは、到底アマロも預かり知らぬことである。

 

 

 

 

 

そして、約束の時は来たのである。

 

その日、彼は捨てられた孤児を一人抱いて王宮への帰路についた。

 

王と摂政は彼が赤児を育てることを受け入れた。

 

王と摂政は互いに自身とアマロとの間に授けられた子供として、赤児に準王族の厚遇を約束した。

 

この判断に対して神官と官僚は激しく反発した。

 

反発の結果、表面上は王と摂政との間の子供として養育されることとなり、養育係としてアマロが任命された。

 

アマロは名付けを頼もうと考え、王と摂政に案を尋ねた。

 

王はアダド六世を候補に挙げ、サンムラマートは訛りを外せば自己と同名のセミラミスという名前を挙げた。

 

王とサンムラマートは互いに「この子は自分とアマロの子供である」と主張して憚らなかった。

 

最終的に取っ組み合いの紛争に発展しかねなかった戦況を鑑み、アマロの提案により性別に従うという提案に落ち着いた。

 

公正を期して王とサンムラマートが同時に赤児のお包を外して確認すること、確認した事に対して異議を申し立てたり武力などを行使しないこと、などが神を前に宣誓された。

 

 

 

「この子はどことなく私に似ています。王よ、この子の名前はセミラミスに決まりましたわね。」

 

サンムラマートは自信満々に言った。

 

これに対して王は鼻を吹かして笑った。

 

「ハん!余は貴様がもう少し見る目があると思っておったぞ摂政よ。しかし、まぁ誰にでも間違いはある。この可愛い瞳を見よ!見るからにアマロ様の血を引いておるに違いない!そしてこの眉、これは間違いなく余の落胤に違いない!さぁ、負け惜しみはもう遅いぞ?今こそ真実を見せつけてくれるわ!」

 

両者の瞳は電光を交わし合い、ゆっくりと、しかしじっとりと汗ばんだ手で赤児のお包を外した。

 

あるべき場所に、あるべきものがない。

 

それは、或いは異なる役目を負って生まれた者に与えられし、真に崇高なる奥床しい寛容の余白であり、同時に痛苦を伴う咎であるのやも知れぬ。

 

 

赤児は女性であった。

 

 

「あーーーーー!!!!あーー!!あー!あー!!」

 

「やったわ!!これで決まりね!」

 

 

王は泡を吹き卒倒した。サンムラマートは嬉しくて鼻血を出した。混沌の渦中で、狂気に迫られて泣かずにいられようか。胸の底から純粋な恐怖に号泣する赤児。

 

飛び跳ねる摂政と、倒れたまま痙攣する王。

 

八の字眉と口元に立てた人差し指で、静かに二人を叱りつけたアマロが赤児を抱いてあやした。

 

アマロの腕にすっぽと収まった赤児は、寸として涙を引っ込めると、例の様にアマロの薬指を捕まえることに夢中になった。

 

落ち着いたのか、今度は不思議そうに赤児の様子を覗き込むサンムラマート。王は泡を吹いたままであることを除けば、赤児の「だぅだぅ」という愛らしい声だけが響く様になった頃、アマロはサンムラマートに視線をやった。サンムラマートはアマロの側に静かに寄り添った。

 

アマロは息苦しいほど優しげな瞳で赤児に顔を寄せて言った。

 

「君はこの子の名付け親になったんだよ。血が繋がってなくても、親は親さ。ありがとう、君とアダドのお陰でこの子には立派な親が出来たじゃないか。君の名前は、自分じゃない誰かが、君のために贈る最初で最後の贈り物なんだ。名前を変えることも、捨てることも、それは簡単なことじゃない。君はもしかしたら名前を変えるかもしれない。名前を捨てるかもしれない。けれど、君がサンムラマートから贈られたセミラミスという名前は、それだけは、後にも先にも君だけのものなんだ。…君の名前はセミラミス。これからよろしくね。」

 

伝わるか、伝わらないか、では無かったと思うのだ。

 

アマロは自分にそう言い聞かせたのかも知れなかった。或いは、彼にとってかけがえのない記憶に問いかける様な、語り聞かせる様な、円やかで労しい声音だった。

 

一通り息を吐き抜くと、アマロはセミラミスの額に自分の額を擦り合わせた。赤児の体温は、ほっほっ、としていて染み込む様に滑らかな温もりだった。

 

その全てが、今の彼には懐かしい。何時も、何度でも、それはアマロがこれまでにも度々感じてきたものだった。

 

平穏の終わり。運命の始まり。終わりなき旅の再開を報せる、儚くも愛おしい温もりだった。

 

 

 

彼女、セミラミスとの出会いこそは、アマロにとっても初めての出会いだった。

 

セミラミスこそが、アマロが出会いそして運命を共にした最初の異端者であった。

 

セミラミスこそが、アマロが出会いそして育て上げた最初の超越者であった。

 

セミラミスこそが、アマロが出会いそして愛し合った最初の覇者であった。

 

捨てられ、忘れられ、奪われた…それでも尚進むことを選んだ者との出会いは、アマロに更なる運命(Fate)の導きを与えた。

 

セミラミス。彼女との出会いこそ、アマロの終わりなき旅路の、第二の始まりであった。

 

 

 

 




読んでくれてダンケなっす。今回も長くなりました。
では、また。


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幕間 運命の濫觴

では、どうぞ。


幕間 運命の濫觴

 

 

 

それは、嘘ではない。

 

しかし、真実とも言い難い。

 

 

私は果たしてまやかし者か。それとも確信犯か。

 

偽善者なのか、偽善さえもを騙る欺瞞者なのか。

 

心からの愛、それは嘘ではない。

 

しかし、正義も美しさも、或いは真実とは言い難い。

 

否定しか出来ず、断定など不可能だ。

 

ただ、そこにあるだけの、それだけの何かなのだろうか。

 

 

同情することは出来ない。非情でも、冷酷でもいられない。

 

限りなく慈悲深くも居られず、際限なく寛容でも居られない。

 

喜びを忘れることはできない。快楽に嘘をつくことはできない。

 

自分を騙すことはできても、自分から逃れることはできない。

 

悲しみを捨てることは出来ない。

 

全てがそうであるから、結局、機械にはなれない。

 

心を拘束するだけの、冷えて固くなれるだけの覚悟がないのだから。

 

苦痛が身を蝕む。自分自身を、その中身を引き摺り出してやろうと企むのは何者か、毎夜毎夜、奴らはやってくる。

 

自分の良心を疑って、そして、それから後には何が残るというのだろう。

 

右隣の聖者が、私の左隣の悪漢に火を灯す。燃え上がる姿は松明のようだ。人間の脂は一層、自分の身の安否を奉じてまで、火の狂ったような光の幹を肥やすのに手を貸すのか。

 

火を囲むように連帯者は列をなす。煌々として、美しきか。耐え難い。忍びない。

 

然れ、ども。

 

汝は悪漢こそが、灰となるまで、その静寂を誇れよ。

 

暗黒の湿地が覆う、彌、夜が来てしまった。

 

聖者が皆々に何を言うのか、それを聴くまでは、身じろぎにも重篤な困難が付きまとう。それが己らへの免罪符が切られたことを示す犠牲の日であったことに、連帯者達は小躍りして喜ぶ。

 

とても単純なのね。だが、喜ばずにいられようか。

 

安堵せずにいられようか。醜いと分かっていても、溢れ出たそれを止めることは出来ない。

 

燃え尽きた、燃え尽きるまで燃えていた。今は灰となりし悪漢、そして灰となり得た、志無き連帯者よ。

 

夜の闇の中で輝いていたはずの松明が燃え尽きた今。

 

爾後には許されるべき陽の目が、未だに解放されていないのは何故なのか。

 

右隣の聖者が、私の左隣の灰を蹴り上げる。

 

灰を掬う。掬った灰を顔に撫で付け、勝利の微笑みを浮かべる聖者よ。

 

誇らしげなところに水を刺すようで悪いがね、君は自ら顔を汚してまで、それほどまでして何を笑っているのかね。

 

聖者の顔を埋める灰は、聖者を生者に押し留めてはくれない。彼は生者の行進の先頭に立ち、いずれ、顔のない連帯者達が続々と灰の下に、次なる生者となるべく灰塗れの聖者なりし者を襲う。そして次なる生者が襲い成る。

 

傷つきたくないのなら、失たくないのなら。

 

もしも望みあらば、今ここで吐き出すのが賢明だ。

 

もしも希望があらば、今ここで手放すのが賢明だ。

 

もしも記憶あらば、今ここで忘れてしまうのか賢明だ。

 

もしも、もしも。

 

そして、もしも、貴方に愛するモノあらば…さて、貴方は何を用いてソレを得るのか。

 

貴方はソレに、どれだけ捧げられるのか。

 

貴方はソレに、どれだけ尽くすことができるのか。

 

貴方はソレに、どれだけ裏切られることができるのか。

 

貴方はソレに、どれだけ憎しみを抱かれておられるのか。

 

貴方はソレに、ソレに、何を求めるのか。

 

貴方はソレに、ソレに、何を与え得るのか。

 

 

 

 

 

私は恐ろしい。自分の全てがまやかしになることが恐ろしい。自分が愛したソレが、全てまやかしになってしまうことが恐ろしい。自分が、ソレを愛しいと思うことがまやかしになってしまうことが恐ろしい。

 

失うこと、奪われること、たったそれだけのことで、私の中で、私自身の何かが、私を形創っていたものが、全て大したモノでもないように、そう感じられるようになってしまうことが恐ろしい。

 

そうはなりはしないさ。いや、そんなことは言えまい。そんなことはあり得ない。いいや、今こうして、私の心に蝕むものがある限り、私はソレが失われたことがないから、だからこうして震えておられるのだ。

 

今はまだ良いのだ。その時が来た時なのだ。何もかも、それまでの全てが真っ平らに均されてしまえば、私はどうして私自身でいられるのかね。

 

私は私ではなくなってしまうのだろうよ。私が話したこと、私が見たもの、私が食べたもの、その全てを共にした空間も、人も、物も、全てが平されてしまえば、ただそれだけになってしまう。

 

呆然として、目の端に移る、何かだったものを見た時に、初めて私は気がつくのだろう。そうだった。そんなものがあったはずだった、と。

 

全てが過去のものになった時、モノもヒトも、全てを通じて私は私自身のこれまでさえをも、繰り返して、思い出して、知り、見て、理解してきたというのに。

 

ソレがなくなった時に、何が私を、私であると、他ならぬ私自身に言ってくれるというのか。答えてくれるというのか。

 

その時が決して来ないように願う。その時が来ないように、その時が来ないように。

 

されども、決して、などとは言えまいて。

 

 

 

 

 

夢物語の中、古の石壇、神の御前。

 

古今東西の古くより、人の本質というものだけは変わることを知らぬらしい。

 

次第次第。人は火を手にして、黄金を使い、銅を使い、青銅を使い、鉄を使い…。

 

そうして今日まで着々、優雅に進歩を続けてきたわけであるが、しかし進化はいっぺんばかりもしていまいというのが、素晴らしいやら、情けないやら。

 

あな、いや、今のままが望ましくあるのだとすれば、それはある意味望外の喜びなのかもしれない。

 

だって、そうではないだろうか。

 

今も、昔も、問いかけは同じ、答えの本質も変わらぬというわけなのだから。そこには、えもいわれぬ心通じ合う悦びや納得があるに違いない。

 

 

 

 

 

彼もまた、いや彼こそが誰よりもそうだったのかもしれない。途切れずに歩き続けてきたその姿は、ある意味で霊長史の伴侶とも言えよう。そして、その変わらぬ、進歩を楽しみ、進化を知らぬ姿もまた霊長史の体現とも呼べる者かもしれない。

 

ただし、彼のそもそもは霊長ではないのだが…とはいえ、ある意味では、血の諸々を辿れば、彼こそが霊長そのものと呼べども苦しくはない。

 

彼は人間とは呼べなかったが、ジンカンに生きるものとしては霊長の第一人者とも呼べようて。

 

 

 

 

 

キャメロット城の、その鉄壁は、勇敢なる騎士王の、敬虔なる信仰と、彼に従う騎士たちが彼に捧げた忠誠の碧血と、によりその堅固を誇っているらしい。

 

後代において、存分に語り継がれるに足る言説である。

 

さて、そのような神聖な空間において、最も有難い場所はどこかと聞かれたとき、多くの者は祈りを捧げる場所だ、と答えるかも知れぬ。

 

しかし、敢えてこの際にこの有難いを規定したとするならば、それはブリテンの何処を探したとしても見つかり得ないという稀有な場所を指すべきである。

 

では、そこは何処なのか。祈りの空間は城外、ブリテンのあちこちにもあろうが、ブリテンにおいても、キャメロットにしかないものとは…円卓か?否、円卓は遠からずとも卓である。動かせるものを、そうであるとは呼べまい。では何か…。

 

答えを、それは王の私室、中でも寝室である…と、ここでは申し上げておく。

 

ブリテン狭し、王国広しと言えども、王が己の望むままに振る舞うことが許されるべき場所は此処を置いて他にはなかろう。

 

中でも、寝室というのは他にはないとっておきが用意されていた。王陛下たっての御希望で用意されたものである。モノというより者ではあるが…。

 

 

 

 

 

彼女にとって、その場は唯一、神の居られぬ場所であった。

 

 

 

 

 

ここに、神は居られぬ。

 

国王アーサーは重厚な門扉を前に都度思うのだった。

 

主の忠実なる僕として、民に慈悲深く、崇越にして壮健な庇護者として、彼の一日は圧倒的多数意志により構築された国家なる、この世にまたとある、一際獰猛なドラゴンとの格闘に終始していた。

 

今朝も、この門扉を通り、寝室から完全に引き剥がされる痛みを負う。そして今、また今日も、なんとかたどり着くことができたのであった。

 

だが、彼は油断をしない。この時ばかりは、戦場の覚悟にも勝る剣呑な瞳で周囲の気配を探り、問題なしと三度確信したならば、それからようやく門扉に手をかけるのだ。

 

毎年のように、新調したばかりの門扉。年を経るごとに鉄板の分厚さが増している。その重みすら、己と、そして唯一の彼とを、全てのしがらみと、苦痛から護るための重みだと思えば、それは彼にとって沈み込むような悦びであった。

 

木の軋む音が完全に戸を開き切る寸前で鳴った。いつもの音である。そして足を、扉を建て付けるための枠の内へと、帰るべき場所へと進ませる。

 

重い剣も、暑くて息苦しい鎧も、この時ばかりは全てが軽妙に思えそうになる。だが、ここで彼女は一息入れる。待っているのだ。来るべき彼の声を。

 

「おかえり。アルトリア。今日は遅かったね…さぁ、もう晩餐は用意が済んでいるよ。私が作った…訳ではないけれど。盛り付けたのは私だから、それで勘弁しておくれ。さぁ、重いモノを全て置き去って、それから、今日一日のお話を聞かせておくれよ。フンフン…随分と頑張った人の香りがしているな。どれ、食べる前に拭いて差し上げようか。アル、君はどうしたい?」

 

 

 

初めて新調した時に国一番の工人から、木の軋む音を無くそうか、と聞かれた。アルトリアは、彼女は「直してくれ。」と言おうと思った。

 

だが、横から彼が「帰ってきた時、君のことを、誰より早くに気づけなくなってしまう。」と言った。工人は何の話か理解できていない様子だった。そして彼女は「このままがいい。」と答えた。

 

 

 

「ただいま。…今日も、疲れました。先に、食べてしまいましょう。もうお腹が空いて仕方なくて…それに、ご飯が冷めてしまうのを心配しながら、アナタに体を拭いてもらうのは、なんというか勿体無くて…。」

 

毎度毎度、アルトリアははにかむように答えるのだ。

 

何でもない、そんな内容なのに少し顔は赤い。力が込められているというのに、辛うじて押しとどめるような具合に口の端が僅かに上を向いている。右頬に笑窪が薄らと見える。

 

陽が落ちる前にその日の実務が終わったとは言え、王たるもの誰よりも早く仕事を始め、誰よりも遅く終わらねばならないらしい。外は薄暗いが、それでも燭台を灯すほどではなかった。

 

彼女の表情が、椅子に腰掛け直したアマロにはよく伺えた。忙しない口元とは裏腹に、眉はすとんと落ち着き払い、安堵か脱力か、どっちもかもしれないが、王としての険しさはそこに無かった。

 

瞳にははっきりと光が見える。雄然として睨むものではない。高潔で貴品を誇るものでもない。短燭の先でうたた寝る火を、そのぎこちなさを愛でるような優しさが、彼女の瞳の奥から次第に溢れてくるようだった。

 

いつもの彼女だ。今日も、帰ってきてくれたのだ。

 

「アル、手伝うよ。」

 

アマロは心底からの安堵と歓喜を胸に溜めると、彼女を覆う重鈍な殻を脱ぐ手伝いを買って出た。

 

言葉少なに、だがソレがいいな。彼女はなんだか切ないような、ただどうしようもなくだらしなくなりそうで、だから胸を張って答えた。

 

「エぇ、お願いします。」

 

声が上ずる。

 

従者としてケイに仕えていた頃は、昼間は彼に命じられるがままに野をかけて、それから暗くなるまで一人で剣の練習をしたものだった。その時は、騎士道にも騎士にも純粋に憧れていて、神に仕え、弱きを救う騎士になるのだと、そう自信も無謀も足りないものはなかった。

 

暗くなってから帰ったある時、農民達の集まりに出くわしたのを覚えている。騎士エクトルが所有する人々だった。顔見知りではなかったが、彼らは門限にそびれた彼女が主人から締め出されたのだと考えたのか、ビール臭い息で彼らの輪に招いた。

 

その時に、農民は自由に婚姻を結べるものと、結べないものがいることを教わった。僅かばかりの汚れた貨幣を礼に、貰ったエールビールで唇を湿らせながら、理不尽だとも、仕方ないとも、あっさりと受け入れてしまえる自分に、王に成ってから、あとから酷く納得したことを覚えている。呆然と、すらしない自分に嫌になった。

 

望ましい婚姻関係とは、もしかしたらわたしと彼の間に育まれているものを指すのかもしれない。ぐるぐると腹の底に優越感が溜まって、喉を伝って重くて熱い息が漏れそうになった。堪えてしまったから、きっと頬には赤みがさしているに違いない。

 

何度、出迎えられても慣れない。あまりにも、平凡で、変わり映えがしなくて、特別じゃなくて、それが嬉しい。自分自身が此処にいることに、彼は少しも違和感や、忌避感を持たずにいてくれる。わたしが私でないことに、彼は寧ろ喜びを感じていてくれる。

 

これほどに手放し難い快楽には出逢った試しがない。与えられたことも、生み出すことも、出来た試しがなかった。

 

王でも、男でも、騎士でも、ペンドラゴンですらない。従者だった頃にさえ、これほどの自由や解放感などなかった。寧ろ、その時でさえ無知を棚上げして、剣を取る高潔な己の姿を夢想しては、埃の被ったお古の籠手と、自分の手で掃除の行き届いた部屋の床とを見比べて、硬い寝台の上で怠惰な騎士たる自分から目を逸らしたくなったものだ。

 

 

 

「鎧を着てる時はどんな感じなのかな。重いだけなのかな。心強かったり、安心したりするのかい。」

 

彼女が、脇に抱えていた兜を手近の木椅子の上に安置すると。肋骨の横、革ベルトと金具で固められた上半身の鎧から着手したアマロは、甲斐甲斐しく彼女の体を解放していく。

 

「無ければ困るものではあります。戦場に着くまでは、隙さえあれば脱ぎたくて仕方ないのが正直な所です。戦場では、流れ矢が肩や足に当たった時に着ていてよかったと思います。もしあの時、鎧がなければ…そう思うと頼もしく感じます。安いものでもありませんし…でも、必要が無くなれば、それが一番良いものです。アマロはどう思うのですか?」

 

「私は…美味しいものとか、歌とかの方が好きかな。あんまり欲しくはないかも。けれど、鎧を着る人と、作る人、直す人、それぞれの生きる術に繋がっていることは確かだから、突然なくなったらそれこそ困っちゃうだろうね。」

 

「確かに…そうですね。アナタの言う通りだ。」

 

「そっか…あ、此処も外すよ?これは革紐を引けばいいのかな?」

 

「アマロ、そこは違います。そう、そうです。金具を反対に倒してください。えぇ、上手ですよ。あっ、そこは違います。皮膚が、皮膚が挟まってます!」

 

「ごめんなさい!あ、ここは革紐を解くんだね。今、直すから。あぁ…また、やってしまった…。」

 

甲斐甲斐しい割には、手つきがぎこちない。剣も、盾もまともに触れた試しがないのだから仕方ないと言えば仕方なかったが、それにしても彼は不器用な性分だったらしい。

 

けれど、焦ったり、困ったり、痛がったりしながら、共に油と鉄臭くなりながらも、鎧を脱ぎ終わるまで二人の間に微笑みは絶えなかった。

 

殺伐とした戦場を駆け、儀典のために武装して、時には刑場の指揮を取り、生々しくて見るに絶えない非日常を共にしてきた、忌々しくも手放し難い鎧兜のことが、この時ばかりは大道芸人が帽子につける滑稽に揺れる飾りみたく思えた。許せる、許せないという選択肢があれば、どちらかといえば許せるくらいに、今まで沸々と虚際立つ溜飲が下がる気分だった。

 

「…ふふ。いいのですよ、鎧は一人では着ることも、脱ぐことも叶わぬ代物です。手伝われる分際で、文句なんかありませんよ。寧ろ、毎日食事時にこの匂いは堪えるでしょう?」

 

彼が金具をいじりやすいように、両手を肩の高さにまで上げて、腕を真横に伸ばした状態で、顔だけ和やかな苦笑いを浮かべながら彼女は言った。

 

これを聞いて、アマロは首を大きく回すように振ると答えた。

 

「いいや。鉄の匂いも、油の匂いも、拭えば消えてしまうから気にはならないよ。でも君の、アルの匂いが変わらないことを私は毎日こうして気にしているんだよ。人は、意外にも匂いで変わるものなんだ。それに、君の匂いは不思議と甘酸っぱくて、私は好きだよ。」

 

内容はさておき、言い切る様はなんとも、漢らしいではないか。さては、妖精を悩殺し足りておらぬと見えた。虹彩を通じ脳髄を灼き緊める微笑に、アルトリアは意識を失いかけた。辛うじて残った理性で意識を取り戻すと、待っていたのは前後不覚。初めて体験する、自身の体臭へと抱く羞恥は、ある意味で中世における最先端の文化的邂逅であったやもしれぬが、それは退けても彼女の顔面は、金床の上で熱気を上げる真っ赤な鉄のようであった。

 

「そ、そ、そうですか。それは…嬉しい、けど恥ずかしいですね。…私もあにゃたの匂いは好きですよ。…嗅いでいると、そのぅ…とても…よ、よく眠れるんです。」

 

わたしは何を言っているのか。なにが、よく眠れるんです、だ。王でも何でもない、乙女と云うには逞しく、男前というには繊細に過ぎた。彼女の表情は赤みが差すだけならばありきたりだったが、それに次いで挙動不審な様である。答えをもらっていない。返答が欲しい。一件の落着を、何卒に、頼もう。

 

「あのね…私も、だよ。知らないかもしれないけれど、君からは、優しくて安心する香りがする…君の香りの話はご飯を食べて、ベッドに入ってからまた、ね?」

 

「………。」

 

アルトリアの、その心が伝わったのか否か、アマロは無垢な表情ひとしお。微笑ましげ麗しゅうな口元に、そこに手をば立てると、風が泳ぐ程の声で彼女の耳に返事を添えた。

 

アルトリアはただ黙々と首肯を繰り返すのだった。

 

 

 

 

 

食事は宴会を除けば必ず二人きりで摂ることにしていた。決めたのはアルトリアでもアマロでもなく、強いて誰かとするならばマーリンだった。

 

なんでもマーリンとアマロが共に旅をしていた時の習慣らしいのだが、それが王になったアルトリアとアマロの間でも自然と適用されたらしい。

 

自然な流れとはいえ、心の内でアルトリアが喜んでいたのは一目瞭然のことだった。

 

普通、当時の価値観からすれば、妻グィネヴィアという者がありながら、このような振る舞いは、言語道断。逸脱は甚だしく、王権を支えるお歴々からすれば勘当ものであった。

 

しかし、それでもこうして二人が過ごしていられるのは、何とも驚くべきことに、グィネヴィアその人からお許しが出たからであった。条件としては、アーサーが必ず毎日自分の元に、アマロと共に会いに来ること、昼間は必ず、アマロをグィネヴィアの元に預けること、などがあったが、アーサーはこれを呑み干し、こうして今の平穏を掴むに至ったのである。

 

 

 

食卓の上に並ぶ料理は一品一品、色にあるべき活力が感じられないものばかりであり、流石天下一を争うブリテンであると世界の名匠方に滝の脂汗と共に唸らせしむるに値する完成度の高さであった。

 

しかし、その内実は極めて良好。いやいや、ブリテンだけと云うわけではないのだが、それにしても大層な面々が既に揃い踏みであった。

 

主食となり得る品としては、小麦粉、ライ麦、大麦でできたパンやビスキュイ、粥は勿論のこと、驚くべきことに大豆に米や稗や粟まであるようだった。トウモロコシやジャガイモこそないため、爆発的な食糧事情の改善には至らなかった模様だが、それにしても味覚の園には花開くものがあったことだろう。

 

味付けに至っては呆れたものであり、塩に胡椒にスパイス各種が惜しみなく投入されていた。それらの種は何処から?という問いには、アルトリアが御執心の真っ最中の彼がインド土産、エジプト土産、倭国土産、中華土産云々として、めっぽう嬉しそうに紹介した品々の中に、香り袋と勘違いしたアマロが延々と揉みしだいていた絹の袋があったらしく、それを開くと刺激的な香りの宝物が分類されておったと云う…。

 

爾今に至るまで、この奇跡的な出逢いに全ブリテン人が感涙に咽び申し上げたことは言うに及ばずであろう。

 

…なるほど、香辛料とは偉大である。極限まで活力のない色味に昇華された料理の数々も、圧倒的な香辛力を前にすれば味も優雅になろう。

 

 

 

 

 

こうしてブリテンがメシウマの国としての道を歩み始めたことは…また別の機会に語るとして、野蛮な味付けのフルコースを手掴みと無骨な銀のナイフと木の匙で平らげた二人の次なる催事は、恐らく今日という日の頂上となろう、貴重な薪をわざわざ燃やして用意した湯を用いる入浴代わりの、アルトリアの言葉を使うのならば洗礼である。

 

 

 

 

 

古のケルトの民は銀細工に長けていたという。貰い物らしく、彼の私物である銀細工の見事なボウルに注いでおいたお湯に、指先をつけること暫し。ほんのり熱いくらいが浸した布を絞った時には、心地よい温度になっているらしい。

 

確かめ終われば、彼はなるべく肌理の細かいだろう布巾を用意すると、これをボウルに浸した。

 

何とも、様になる。湯に布を入れ、そして絞る。誰にでもできることだというのに、何とも収まりが良く感じる。横顔からは底知れぬ温もりも、のんびりとした彼にしては嬉しそうに、それでいて真剣な眼差しも透けて見えてしまう。

 

「アル、背中を向けてごらん。」

 

それが、沈黙の中でただただ体を丁寧に拭われるとなると尚更であった。静寂の中で、何もつけていない背中を晒している。そして、無防備なそこを誰よりも慕わしく想っている相手から、穴が開くほど視線を感じるのである。

 

如何様に表すべきか。簡潔に、背中が熱かった。

 

優しく、思い遣るような手つきである。拭う、と呼ぶべきではない。湿った布面を柔やわと押し当てる、若しくは点を打つように軽快に叩くといった形容が相応しい。

 

寝台の上、すぐ後ろに感じる気配からは、熱心さや懸命さをひしひしと受け止められよう。

 

鼻から一度荒い息を抜き出してから、彼女は前を見たままに言った。

 

「お腹の辺りも…拭いて欲しい…。」

 

アルトリアは僅かばかりの悪戯心と、莫大な勇気を振り絞ると、耳まで真っ赤にしながらそう言った。

 

「うん、いいよ。」

 

「ぅふぅ……ありがとう。」

 

アマロの声は迷いなく、彼女の想像より遥か耳元で聞こえた。こういう時、どうしてそこまで頼もしい声が出せるのだろう。アルトリアはどこか遠くでそう考えていた。

 

濡れ布は温く、心地よく、肌に名残る水気が飛ぶ時のひんやりとした感覚は身が引き締まった。肌寒さは、隠しきれない火照りのせいでちっとも感じられない。

 

優しく、優しく、丹念に熱が体を這う感覚に酔いしれながら、アルトリアはこの時間がどれだけ続くのだろうかと思い浮かべていた。

 

「アル、気持ちいい?」

 

正面を向いたままの彼女には彼の表情がわからない。だが、きっとこう言えば喜ぶに違いない。一杯一杯の頭でそう考えて、彼女は背筋を正して答えた。

 

「はい、とっても。」

 

一世一代の告白と言われても裏切りのない程度に、良く通る返答であった。自分で考えた以上に響いた声に、彼女は俯くのではなく赤面のあまり固まってしまった。可愛らしいことである。

 

「そっか。うれしいな。」

 

彼も彼。当方も中々に人懐っこい笑顔で答えるものである。目の端がゆっくりと垂れていく様子には、アルトリアの言葉にじわじわと満足を感じている様子が隠せていない。よく見れば口の端が上がり、照れて窄まり、下唇の上に上唇が乗っている。嬉しそうにもごついている。唇読するならば、導かれるのは「気持ちいいって言ってもらえた、嬉しい!」といった所だろうか。

 

 

 

「背中…傷とか、ありますか?」

 

手持ち無沙汰というより、心からの心配事だった。自身の背中を見て不快に思われるのは、心に手酷く迫るものがある。

 

「ないよ。うん、綺麗な背中だね。」

 

アルトリアの心配を知ってか知らずか、アマロの返答は彼女の不安を払拭できたようだった。だが、綺麗と言われれば言われるほどに心が躍る反面で、彼女の短所とも言うべき、真面目なのか不器用なのか、兎に角も要らぬところまで均衡を取ろうとする性質が顔を出す。

 

「そう、ですか…照れ臭いですね…でも、腕とか、お腹とか…足とかには、傷が、あって…。」

 

照れ臭そうに、そう言いつつ、今度は足やら腕やらに痕する切り傷や抉り傷を示して見せる。大抵ならば、そんなことないよ、綺麗だよ、と返答するのだが、アマロの言葉そのままを受け取る素直さを甘く見てはいけない。

 

「まだ、痛いの?」

 

自らの体のあちこちに遺された傷を見せるアルトリアの振る舞いは、自慢するつもりでも誇るでもなく、私は貴方が考えているような美しい何者でもない、相応しくない、と自分から打ち消そうとするような、気持ちが舞い上がる自分に言い聞かせるように見えてしまう。確かにそうでもあるのだが、アマロが返した言葉には慰めも、煩わしさも含まれておらず、純粋な疑問と労りだった。

 

「たまに…痛いものもあります。でも、もう痛くないのもあるんですよ。」

 

ここにきてアルトリアは思い出したのだ。

 

アマロが血を流していることも、怪我らしき怪我をしているところを見たことがないことも。肉体的苦痛という比較が無い彼にとって、精神的苦痛はどれだけのものなのだろう。比較できない、宙にぶら下がったままの片切れの苦痛とは…肉体的苦痛のない様は都合がいいのかもしれないが、精神的苦痛のみの世界を生きている彼のことを、アルトリアは初めて真正面から見つめたのかもしれない。

 

答えに窮した彼女は、ただありのまま答えるしかなかった。顔を伏せたアルトリアは耳だけを探るように動かした。だが、アマロは気分を害したそぶりもなく、感心しているようだった。安堵のため息も聞こえた。

 

「痛いって、どれくらい辛いことなのかな?」

 

青褪めた顔に少しずつ血が流れ込んでいくのにつれて、少しずつアルトリアは頭と口を慎重に動かしていく。彼の不都合の全てから逃げよう、都合のいいところだけ抱きとめよう、だなんて考えたことはない。けれど、意識しなければ、自分のとってどんな存在と、誰と向き合っていることを忘れてしまいそうで、今こうして話している相手のことを考えていないようで、そんな許せない自分から出来るだけ遠くに行けるように、彼女は必死に頭を働かせた。

 

「……痛いと、痛いほど……貴方が遥か遠くに感じられます…。とても、寒いんです。」

 

搾り出した答えは一番初めに浮かんできた答えだった。痛い、寒い、苦しい。死に繋がる全ての道に、そこまでの道のりに、いつの間にか彼の存在を探し求めるようになっていた。彼が隣にいない。彼が私のことを見ていない。彼のことが私から見えない。恐怖は蘇生のための気付け薬にさえなり得た。傷を負うたびに思うことは、結局のところ彼のことだった。

 

嘘偽りのない言葉だった。器用で気の利いた答えではなかったかも知れないが、通じる人にしか通じない類ではあったかもしれないが、答えを待っていた彼本人にとっては胸の奥に納まるに足る答えだったようだ。

 

「……そっか。私も、アルが遠くに行ってしまうのは、耐えられないよ。」

 

胸が押し潰される様な声が聴こえて、それから、さらさらとした毛房の感触が背中にこそばゆかった。彼は瞳を閉じると、祈るように首を垂れていた。顔がゆっくりと上がるにつれて、彼の鼻息が背の稜線を上へ上へと伝っていく。彼女のしなやかな背筋に沿う浅い窪みに、彼の鼻先が当たって、僅かに埋まる。むずむずといじらしかった。熱い鼻息が静かに、更に登っていく。彼の頬が衣越しでない彼女の右肩に寄り添う。肩の熱は、更に彼女の側へと向かい、頼りない首筋。そして、吐息が耳に当たった。

 

肉体にも精神にも言えることかも知れなかったが、それでも両者にとって、確かなことだった。耐え難い苦痛を、直接に分かち合うことは出来ない。それは互いを思い合えばこそ、何より得難い救いになり得たかもしれないが、満足を与えたかもしれないが、それでも望むべきものではないのかもしれない。

 

どこまでも分かり合えない何かが、いつまでも欠落したままの何かが、その何かがあるからこそ探り合うものが両者にもあって、それもまた決してまたとない繋がりなのだと言えるのだろうから。

 

「私も、きっと大変なことになります。」

 

アルトリアは茶化すように笑った。しょんぼりとして答えたアマロの表情が堪らなく好きだと思ったからだ。探して見つかるものでもない。何の気なしの会話の端に落っこちる、そんな素敵なものだったのだ。堪えきれず、自分が発狂するだろうことを心底嬉しそうに語るのは如何なものか、とは思うが、堪えきれないこともまた然り。

 

「じゃぁ、お互いに痛くならないようにしなくちゃね。」

 

気に入った言葉を、手近、何度も使うのは幼児の特権ではない。気に入ったというより、口馴染みのない言葉や感覚を確かめるような気持ちで、しかし、あまりに正反対な微笑みで意気込む様子は何とも、物珍しい感じがした。

 

「貴方に誓って。」

 

アマロ構文なのかはさて置き、アマロの独特の感性にも怖気付かぬアルトリアは、己の執着心の向こう、恋心の先へと背伸びしたような、妖艶な笑みで、それでいて精悍な芯の感じられる声で、瞳を伏せつつ彼に宣誓した。向き直り、アマロの手を、その手に握る布切れごと包み込んで宣誓した。

 

「神様に、じゃなくていいの?」

 

アマロはアルトリアの閉じ切った瞼に倣うと、互いの額を合わせた。重ねられ、交わされた熱を欲しいままに、アマロはアルトリアの頬に沿う様に口を彼女の耳に寄せた。

 

誰にも聴こえない。彼女にしか聴かせない声だった。

 

「…内緒です。」

 

よく考えれば裸だった。

 

互いに恥ずべき箇所など無い、互いに知らぬ所などない二人であったが、それとこれとは別である。

 

アマロに酔いしれること深く、ひと回りして羞恥心を取り戻したアルトリアは頗る円滑にアマロへ背を向け直してから、耳元でも無いのに、か細い声で彼へと、そう答えたのであった。

 

 

 

人様にお見せするには単調で変わり映えのない会話だ。面白くも、何ともない。ウィットやら、何やらに富む訳でもない。

 

だが、今、そこにいる彼女と彼にとってはそれ以上を望むべくもなき得難い一時であることは、おそらくその場に居ることを許された何者かが居たのならば、二人の様子に狂いなく同意したことだろう。

 

彼女も彼も単純なのだ。言うは随分と失敬だが、事実だから仕方ない。それに、そう言うところも彼女にとっては魅力的に見えてしまう。

 

この時点で拭い終わった部分は、背中の全面。続いて、彼の腕が脇下を通って、探るような手つきで彼女の腹に布を伝わせ始めた。

 

「…うひぁ……失礼。」

 

「可愛い声、でたね。」

 

臍の周りを背中にも増して慎重に拭き始めた彼の手つきには、何の悪意も存在してはいないのだが、いかんせん受け止める側の緊張と感覚が過敏であったがために、お互いの間にしっとりとした空気が流れていた。

 

言い出しっぺであるアルトリア本人が、一番満足と後悔を心中で拮抗させていた。

 

 

 

 

 

心肺に重大な負荷をかけつつも最後まで遂行された洗礼もとい、アマロの手ずからによる行水は、両者の血色を満遍なく豊かにする迄続き、燭が頼りない短さになる頃にお仕舞いと相なった。

 

川の字には一本足りない。二人は並んでベッドの上に横たわる。

 

明日の朝にはアマロが居なくなるのではないか、いつもいつも、この時間が来るたびにアルトリアはそう考えてしまう。

 

浮かんでこないでくれ、そう思い、瞳を閉じる。不安になり、瞳を開ける。顔を真横に向ける。

 

寝台の上、眠る順序や寝る位置にこれといってこだわりなどなかった。けれど、それは誰かと一緒に寝るまでは気づかなかったことでしかなくて、自分の横で、自分には不釣り合いなほど美しくて、何もかもがどうでも良くなる程夢中になる存在が寝るのだと理解してからは、窓から月明かりが入ると、決まってアマロの顔が見れるように、より窓に近い方にアマロを寝かせるようにした。

 

良く晴れた夜、月はやや強気に彼の相貌を照らし出す。身じろぎをする彼の顔から、アルトリアは視線を外すことができなかった。

 

次の日の朝が早かろうが遅かろうが、月光が雲に遮られるまでの間、神秘的に暗闇の中に浮かび上がる頬の柔らかい造形や、闇に溶けるような黒髪の流れ、そして何よりも、その薄い胸が鷹揚に上下する様子をアルトリアは息を殺すように見入ってしまうのだった。

 

アルトリアは、その光景を見るたびに、自らに身も心も許す目の前の存在こそが自らの「神」であることを確信し、その「神」が、いついつ自らの元を去るやもしれぬことをも再認識して、そして我が身を抱き締めるのである。

 

目の前の男が自身の元を去ることほど、自分の存在を否定されることはない。

 

王でも、騎士でも、男でもない。

 

ただのアルトリアはそう、強烈に自覚していた。

 

とてつもない恐怖心が日増しに大きくなるに伴い、彼女の恋心もまた際限なく大きくなっていった。

 

ただ、彼女は暴走するには真面目すぎて。

 

ただ、彼女は絶望するには眩し過ぎた。

 

彼女はだからこそ、敬虔な信徒として彼と共に歩むことを彼自身に健気に祈り続け、壮絶な恋心を愚直なまでに己の二面性の中に力ずくで押し込めることで実現させようとする。

 

その結末が如何なるものか、それを語るには時期尚早であろう…。

 

 

 

 

 

 

「アマロ、わたしは、アナタが居なければ生きていたくない。初めて出逢ったその時から、わたしはアナタのことばかり考えている。マーリンを心の底から羨ましいと、そう思わない日は、悔しいけれど、一日だってありません。アナタとわたしだけで……いいえ、それは私に対してあまりに不誠実なのかも知れません。王としても、騎士としても。」

 

「アマロ、アナタは、何でも望みが叶うのだとすれば、一体何を望みますか?」

 

「アナタは…わたしと、最期まで一緒に居てくれますか?わたしは…アナタに何を捧げられるのだろう…。わたしはアナタがこうして居てくれるだけで、こんなにも全てがその通りだと思えてしまう。アナタとの時間は、沈黙すらも愛おしい。わたしは、私がアナタを傷つけてしまわないか、夜も眠れないほどに恐ろしい。」

 

「アナタは、私が抱えている以上に様々なものを背負いながら、わたしの隣に来てくれました。わたしは、アナタを知りたい。たとえアナタを見失ってしまったとしても、アナタに辿り着く、そのために。」

 

「主よ、私はあなたの僕となろう。民よ、私は彼らの庇護者となろう。騎士達よ、私は君たちの王となろう。そして、私の神よ。神よ、わたしはアナタの伴侶となろう。何度でも、アナタの隣に馳せ参じよう。たとえ其処が遠く未来であっても、わたしは必ずアナタを探し出し、アナタの剣となり、アナタの盾となろう。だからどうか…。」

 

 

 

 

 

 

「何者でもなかった、わたしを忘れないで。」

 

 

「皆んなが忘れてしまった、わたしを忘れないで。」

 

 

「アナタだけの、わたしを忘れないで。」

 




では、また。


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B0.3名もなき女帝の話

感想や誤字報告ダンケなっす。

では、どうぞ。


運命に選ばれし王よ。

 

貴方は選ばれしものだ。

 

貴方は強い。

 

貴方は聡明だ。

 

だが、だからこそ。

 

貴方には、共に歩むものが必要だ。

 

貴方には、貴方を信じる誰かが必要だ。

 

貴方には、貴方が信じるべき誰かが必要だ。

 

貴方には、貴方を教え導いてくれる誰かが必要だ。

 

貴方には、貴方が教え導くべき誰かが必要だ。

 

貴方には、貴方が守るべき何かが必要だ。

 

貴方には、貴方を守る何かが必要だ。

 

貴方には、貴方が守るべきを守るための力が必要だ。

 

貴方には、貴方自身を守るための力が必要だ。

 

貴方には、貴方が信じるべき何かが必要だ。

 

 

 

何にせよ、貴方は、歩き続けなければならない。

 

さもなくば、さもなくば。

 

貴方には、穏やかなる平生を生きる小路こそが相応わしい。

 

貴方が歩き続けるならば。進み続けるならば。

 

どれだけ緩やかでも構わない。迷い彷徨うことも過ちではない。逃げようとも、それは決して違わない。

 

貴方が、貴方を忘れてしまわない限り。

 

貴方が、貴方を殺してしまわない限り、

 

貴方は、貴方は描くことだろう。

 

貴方は、色褪せることのない唯一つの轍を描くことだろう。

 

貴方が歩き続けることを選択したのならば。

 

然らば、必ずや。

 

運命は貴方に寄り添うことだろう。

 

 

 

 

 

運命に抗いし覇王よ。

 

貴方は選ばれなかったものだ。

 

貴方は弱い。

 

貴方は臆病だ。

 

忘れられた貴方は、貴方だからこそ。

 

貴方には、貴方が決して奪うことの出来ない何かが必要だ。

 

貴方には、貴方が決して奪われることのない何かが必要だ。

 

貴方には、貴方が決して与えることの出来ない何かが必要だ。

 

貴方には、貴方にしか与えられない何かが必要だ。

 

貴方には、貴方を認める誰かが必要だ。

 

貴方には、貴方が従え導くべき誰かが必要だ。

 

貴方には、貴方が抗うべき何かが必要だ。

 

貴方には、貴方を貴方から守るための力が必要だ。

 

 

 

何にせよ、貴方は、歩き続けなければならない。

 

さもなくば、さもなくば。

 

貴方には、慎ましく長閑な平生を生きる傍路こそが相応わしい。

 

貴方が歩き続けるならば。進み続けるならば。

 

どれだけ拙くても、どれだけ非常識でも構わない。彷徨い、時には狂うことも過ちではない。逃げようとも、それは決して違わない。

 

貴方が、貴方を忘れてしまわない限り。

 

貴方が、貴方を殺してしまわない限り。

 

貴方は、貴方は描くことだろう。

 

貴方は、奪われることのない唯一つの轍を描くことだろう。

 

貴方が抗い続けることを選択したのならば。

 

然らば、必ずや。

 

運命は貴方にその身を委ねるだろう。

 

 

 

 

 

古きシリア人の語り部は、新しきシリアの人々に、先祖の偉大な王の小噺を語り継ぐ。

 

現代の老賢の口伝文の中に、正史においては名前も遺されてはおらぬ、とある覇者の物語が含まれていた。

 

今では、その物語を知る者も数えるほどしかおるまい。しかし、当代において最も遠古より脈々と伝承されてきた物語であった。

 

物語の名を、「幻の女帝」或いは「白麗の名君」とでも名付けようか。古のアッシリアの、その玉座を掴み取るや大層な善政を敷いたとも、強権を振り翳して毒を用いた暗殺を繰り返した暴君とも、残り少なな伝文の中にも大きな違いが見られる不思議な物語だ。

 

ただそれら全てに共通して描かれる、相違なき点もあるのだ。全ての物語の最初において、彼女は拾い子として育てられる。そして物語の最期において、彼女は白き鳩へと姿を変えると、謀反人の凶刃から、老の醜さから、全ての柵から解き放たれる様に、王宮の窓辺からアッシリアへの別れを告げるのである。

 

 

 

 

 

古き人は語る。

 

王シャムシ・アダド5世の時であった。王権を手に入れた王は間も無く、妻として迎え入れたサンムラマートを摂政に任じた。

 

王家に連なるもの以外で、ましてや王に次ぐ大権を握る女傑はサンムラマートが初めてのことであった。

 

伝統への逸脱による多難は覚悟の上、王シャムシ・アダド5世とサンムラマートによる双璧政治は徐々に偉大な時代を築くに至った。

 

二人による治世は王によるバビロン遠征により最盛期を迎えた。バビロンの宗主たることは歴史的、世界的な権威を証明する上で極めて重要な項目であった。

 

王の権威は留まるところを知らぬ勢いを孕んでいた。畳み掛ける様に、王の力は増強されていった。

 

時の対抗者として、ヒッタイトがあり。その武力と外交の要に鉄器があった。未だ重要な立場にあったこの鉄器を前にしても、王の権力はむしろ伸長の兆しを見せた。

 

アッシリアより更に東の地にて、王の治世より更に数百年以上前に鉄器の生み出し方を心得るもの達がいたのだ。

 

遠路を辿る困難をもものともせず、王宮に逗留して長い黒曜の客人の教えに従い、王は使節を派遣したという。使節は犠牲を払いながらも、東方より貴重な鉄を持ち帰ってきた。この鉄はヒッタイトに並ぶほどのものであり、鉄を鍛える力をヒッタイトからも、東方からも学びながら、アッシリアはより強大になっていこうとしていた。

 

後に、ヒッタイトを呑み干してからは、その技術の先鋭に努めた結果、東方からの伝来方法は忘れられてしまったという。

 

王の治世がバビロンの宗主として頂上に登りし時、王はその身が長くないことを悟った。

 

数えるほどの腹心にのみ打ち明けた王は後継者の選出に取り掛かった。

 

 

 

 

 

遡り、王が未だ権勢をその手に掴んで間もなかった頃のこと。

 

変哲のなき村娘であったサンムラマートは一人の男を家に泊めた。旅人だと名乗る男は顔を分厚い布で覆っていた。黒い布を下に巻き、更にその上から薄汚れた白い布で顔を覆っていた。背格好はそれほど高くなく、肉体は巻布と同じ色のローブで分かりにくかったとはいえ均整がとれていたものの細身であった。

 

水汲みに出ていたサンムラマートに、その男が声をかけたらしい。

 

男は身体の砂を払ってから、居住いを正すと、川辺にいた彼女にこう言った。

 

「もし、お手煩いの所に失礼をば、私は旅の者でして一晩屋根をお借りできるお宅を探しております。お礼はいたしますから、泊めていただける所をご存じありませんか。」

 

彼女は男の声の美しさにすっかり心奪われると、是非に是非にと彼を迎え入れた。翌日に男は礼として、物惜しみの素振りを何処に置いてきたのか、喜色を隠さず一握りもある金塊を差し出したという。サンムラマートが男の世間知らずに胸を騒がせたのは言うまでもない。

 

男を泊めたその日のうちから、彼女には幸運が降り始めた。

 

帰り道で募集されていた王宮の給仕に選ばれた彼女の人生は、良くも悪くもそれまでとは全くの別物になっていった。

 

王宮へと出仕する前日、眠る男の顔に巻かれている布を取り払った彼女は名も知らぬこの旅人に一目惚れした。恋する乙女となったサンムラマートは彼との出会いに感謝すると、これまで住んでいた家を男に譲り渡すや、なりふり構わぬ王宮での立身を目指して仕事に励んだ。

 

仕事を始めてから一月とする頃に、彼女は給仕の中でも一際に王の目の止まるところとなり、一年が経とう頃には王の妻としての地位を掴むに至っていた。

 

生来の聡明さには磨きがかけられ、素晴らしい機会を手落とすことなく拾い上げた彼女は、まさに奇跡的な成り上がりを果たすと、すぐさまに王宮の私宮へと男を招き寄せた。

 

「お久しぶり…待たせたかしら。そのぅ、これから一緒に暮らすわけだから、貴方のお名前を教えて下さらない?」

 

そして、其処で初めて彼女は男の名を知った。

 

「申し遅れた。私はアマロという。待たせただなんてとんでもない。とても住み心地の良いお家だったよ。感謝しかないさ、ありがとう。」

 

そして、感動の再会と愛愛の新生活が始まって以来、サンムラマートの勢いは夫シャムシ・アダド5世に勝るとも劣らぬものとなった。

 

これら一連の流れを不思議がった王が数ヶ月後に彼女の宮殿に訪問した。

 

王の訪問により、王は彼の虜となった。

 

以来、王はますます偉大な君主として、サンムラマートは希代の名摂政として辣腕を振るうこと留まるところを知らなかった。

 

アマロは王宮における自由を手にし、王権に深く食い込む重要人物として周囲からの認識を受けることとなっていく。

 

そしてある日、彼が赤児を抱いて王宮に帰ったことで名もなき女帝の、彼女の物語は始まったのである。

 

 

 

 

 

セミラミスと名付けられた女児は、彼曰く手の掛かる子供だったという。

 

宮殿に用意されたセミラミスのための、もとい彼女の養育を買って出たアマロのために用意された部屋は簡素な作りではあったが、部屋の何処にいても彼が彼女の様子を伺える様に、壁の代わりに柱が屋根を支え、至る所の仕切りが低く作られていた。見るものがみればギリシャ調の趣があったやも知れないが、それは今暫し先の流行の先取りであった。

 

赤児のセミラミスは、涙の堰が何処にあるのかわかりやすい子だった。アマロの腕に抱かれている間はすやすやと眠るのだが、彼が食事を摂ろうと彼女を揺籠に預けた途端に、機を見計らったように鳴き声が響きだすのだ。

 

無論、夜泣きは酷かった。というのも、彼はセミラミスが来てからというもの、王や摂政からの誘いを断固として断ったのだが、遂に王が「相手してくれないと王様辞めます。」と言い出し、これに便乗した摂政も「私も摂政やめます。」などとアマロの離宮の前で騒ぎ立て始めたのである。

 

その激しさ、騒々しさと言えば赤児のセミラミスの鳴き声に勝るとも劣らぬ程であり、流石のアマロも疲れた表情をしていたというのは、セミラミス本人の談である。

 

アマロとしては王だから、摂政だからという理由で二人に慕わしさを感じていた訳ではなかったので、何処に問題があるのかさっぱり分からなかったが、一方で王や摂政の側近たちは国家としての非常な事態を理解していたために大騒動であった。

 

ただ弁明をしたならば、王も間が悪いことに後継者の話をアマロにしていなかったために、如何に遥かな問題なのかという点を彼が正確に理解できなかったというのも事実である。

 

もしくはアマロとしては、彼の性質上知っている王様という生き物は子沢山だという先入観があり、シャムシ・アダド5世も例外ではないと考えていた様である。

 

結局、家臣団の必死の説得と、事態を理解したアマロの艶濃なる技法を用いた説得により一件は落着した様であった。

 

しかし、王と摂政の願いを叶えるとなると、必然的にはセミラミスとの時間が減るのである。

 

夜泣きが酷いことは既に知っていたアマロは、先に彼女を寝かしつけてから向かうことにしていた。

 

ある時、その日もいつも通りにセミラミスを寝かしつけていた時、眠り込んだと思ったアマロが彼女を揺籠に戻した時だった。

 

「ごめんよ、セミラミス。今夜はサンムラマートの所に呼ばれていてね、彼女も君みたいに泣き虫な所があるから早く行かなくちゃ。」

 

八の字眉で謝りながら、しかし、ほにゃりとだらけた優しい顔でセミラミスの寝顔を見守りつつ、慎重に彼女を揺かごに戻していく。なるべく頭を揺らさぬ様に時間をかけての仕事だった。

 

「すぐに帰ってくるからね、んっ…。」

 

出立の声がけ、そして、頬と頬を擦り合わせてから、加護とも呼ぶべき口誓を、彼女の額に刻んでおく。

 

赤児の体温は高い。王宮で暮らし始めてから彼女の頬は、頬というよりほっぺの方が相応しく、肌を合わせると、もったりとして心地よい和らぎが感じられた。

 

腕に抱かれていなくとも、アマロとの繋がりがあれば、それだけで彼女は利口な、満足げな表情で落ち着き払ってみせた。

 

指先であれ、唇であれ、額であれ、肌の温もりを交わし合う間、彼女が浮かべる表情はアマロが大好きな表情だった。

 

人は人。極端な物言いではあったが、彼は決して彼女に向かって赤ん坊言葉で話しかけなかった。彼はどれだけ幼くても、相手こそが自身の獲得者となろう事は理解していた。相手が赤児だから、相手が子供だから、相手が青少年だから…そんな時々で態度や言葉を使い分ける自分の姿を想像すると、何となく彼には自分の姿が不誠実とも、傲慢とも思えたのだった。

 

だから、と一括りにいうのも味に欠けるが、それでも彼なりの誠意を、彼は態度で示しているようだった。

 

「あぅ、こらこら、指をそんなに強く握ると私が行けなくなっちゃうよ。」

 

まるで大人の人間にする様な具合に、互いに頭が動いてしまわない様に、かと言って強引ではなく、崩れてしまわぬ様に、アマロは彼女の小さな顔を支えて額に口付ける。

 

しかし、そんな誠意が今回は仇となった様で、丁寧に別れを惜しみすぎたのか、彼女の瞳はぱっちりと開き、無垢な光を反していた。先程まで自由だったはずの薬指は彼女の手に確と捕まえられしまったようだ。

 

彼女の赤児にしては、やや伶俐に見える瞳には寂しがりと不満が現れていたようで、アマロも失態を悟った。

 

「ぶぅ…」

 

低く唸るセミラミス。そんな彼女に、いくら不満げとはいえ赤児にするには過ぎるような恐縮具合で、真正面から彼は応じる。

 

「うー…そ、そんなに指をぎゅっとされると、私も根が生えてしまうよ…これでは彼女の所には行けそうにないね……。どうしてもかい?」

 

眉がしょげている。しかし、どこか嬉しそうなアマロ。彼の語りかけに、セミラミスは彼の手を両手で抱く素振りで答えたようだった。

 

「むぅぅ……」

 

「…今日だけだよ、セミラミス。いいね?うん。いい子だ。」

 

暫し悩んだアマロだったが、セミラミスの視線が潤み出したのがトドメとなった。今日だけだ、と釘を刺した彼はさっさと外向けに羽織っていた服を放ると、セミラミスを抱き上げて自分の寝床へと急いだ。

 

「今日はもう寝てしまおう。私は幸い寝相も良いらしいから、セミラミスを踏み付けたりはしないだろう。一緒に寝るけれど、その代わり今度は見逃しておくれよ。」

 

寝床で横になったアマロは全裸であった。羞恥の表情がない所から察するに、正真正銘、彼の何時も通りの習慣らしい。

 

…赤児のセミラミスの顔が赤いのは果たしてどう言う事なのか…神の血のお陰か、些かオマセに育っている彼女が両手をワキワキさせて喜んでなど…喜んでなどいない…いないのだ。

 

然はあれ、アマロが早くも寝息を立て始めたころ、一通り興奮の舞が済んだセミラミスの瞳にもゆっくりと微睡が降り始めた。

 

彼が眠るまで、彼女は自分の傍から彼が居なくなりはしないかという不安に駆られていた。

 

毎晩のごとく襲いくるそれは、幼いか否かに関係なく、本能的な絶望から逃れるために、彼女の知性を急がせた。

 

昼間の彼女には見えなかった、知性の光が瞳に宿り、一人の男が静かに眠りに着くまでを、ただじっと見つめていたのだ。

 

きっと、多くは薄気味悪さに慄くだろう。

 

だが、そんな些事は彼女にとって二の次、三の次のこと。

 

目の前の男に、自分を終わらせなかった存在に、彼女は巨鐘が打ち響くような衝撃と、地の底から噴き上がるような熱を感じた。それを決して手放してはいけない。それを決して奪われてはならない。彼女の中に注ぎ継がれた、誰のものかもわからぬ血が、或いは彼女を誘う運命が、そう彼女に告げていた。

 

彼女は虎視眈々と狙っていた。彼が彼女と初めて出会ったその時に、確かに結んだ口約束の成就を。その時が来るのを。

 




読んでくれてダンケなっす。
では、また。


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B0.4セミラミス 前編

では、どうぞ。


B0.4 セミラミス 前

 

 

 

 

 

第三の目曰く、アッシリアは当に中天の時であった。

アッシリアは太陽の極大の恩恵に与り、何人の侵犯も受け付けなかった。偉大なる時の王の名前はシャルマネセル3世の子であるシャムシ・アダド5世であった。シャムシ・アダド5世の統治は長きに渡り、その統治こそが新アッシリアの王であり、大海の南端から大海の北端に至るまでを統べる王であり、即ち世界の王であるアッシリアの王にふさわしいものであった。

 

シャムシ・アダド5世の御世を完全なるものにしたのは王の溢れんばかりの威光であり、その威光の眩さに身を憚ることなくその隣に侍ることを許されたもう一人の大人物の存在があった。その者の名こそサンムラマートである。サンムラマートは元は町外れの寒村の娘であった。何の後ろ盾もない彼女は王の気まぐれにより募られた宮殿の下女の候補としての立場をつかみ、幸運にもその機会を我がものとした。

 

偉大なる王の御側に辿り着くまでには幾つかの障壁こそ存在したかもしれないが、事実として彼女を遮れたものはいなかった。宮廷の魑魅魍魎を相手取ると、彼女は目覚ましい才覚を発露したのである。王位を継いで間もないシャムシ・アダド5世は、過酷な宮廷闘争を勝ち上がるための知謀の嚢に活かすため、この下女を側妻として手招いた。

 

果たしてサンムラマートの采配たるや右に出るものはいなかった。謀反者を片端から片付け、神の恩賜の薄ら寒い各地の荒野を富の盛る大地へと生まれ変わらせた。偉大なるシャムシ・アダド5世はついに彼女を正妻として迎えた。

 

 

 

第三の目曰く、偉大なるシャムシ・アダド5世とサンムラマートの間には子供ができなかった。偉大なる王の懸想はサンムラマートにも向けられたが、正妻としての地位を盤固たるものとした彼女の心は次第に王を離れ、否、もとより王のものではなかった。王は訝しんだ。

 

王の不安は彼女の威光が宮中における第一を占めるが如き甚だしさに辿り着けばついに大河の堰を越え、もはや疑念は王の中で紛れもない確信となっていた。

 

王の疑念はしかし、図らずも手にした機会に途端に氷解することとなった。その機会こそは、古来冠たる神の寵愛の確証、黒曜の君との邂逅であった。

 

 

 

第三の目曰く、黒曜の君との邂逅は全くの納得を王に与え、絶大な信頼をサンムラマートが獲得するに足るものであった。王と王妃の懸想は一柱への忠良なる信仰へと昇華した。王は王妃に諮問し、王妃は王を輔弼した。両者の間に禍根は潰えた。隙間なく緻密な連鎖は断ち難く、それ故に柔軟かつ剛であった。

 

王と王妃の懸想が成就したことは、結果としてアッシリアに類の無い全盛期をもたらした。王の都は貴色で溢れ、飽食はあまりにありふれていた。王の御代のうちに生まれた者の中に旱苦を知るものは無く、洪災に親類を奪われたものもなかった。果ては老いも若きも、富める者も貧しい者も、その身に宿すべき重篤な病禍の種に懊悩することは許されなかった。

 

周辺国が飢饉に苦しめば地の果てまで続く飽食の車列を送りつけ、病魔に死に絶えんとする国が声を上げれば数万の大軍勢に護らせて黒曜の君をその暗黒地に派遣した。派遣された大地は見違えた。血膿と毒涙で身の隅々を穢された貧民も、痩せ衰えた煌びやかな衰亡の帷を身にまとうのみの瘦躯の貴種もが隔てなく、それまでの苦労は何であったのかと阿呆抜けた表情を晒す、筋骨まろぶ健康体へと瞬く間に変貌した。

 

諸侯、周辺国の王侯がこぞってシャムシ・アダド5世とサンムラマート、そして黒曜の君の足の甲へと唇を捧げた。宮殿の宝物殿が満杯になるのは、宝物殿を増築する素早さをも追い越した。譜代の家臣や王族の栄華はここに極まれりであった。

 

万富に飽くなきを許されるはずの王と王妃こそは、それらに陳腐ささえ感じていた。彼と彼女の関心ごとは、その歳を経るごとにますます黒曜の君と共有する日々の機微にあるらしかった。王と王妃は財宝にも飽食にも、品位と格を高めるために用いる以上の必要性を唾棄していた。王も王妃も黒曜の君の希望に忠実であることを何より優れたことであると考えていた。そしてそれは彼の君の平穏を守ることにあった。

 

宮殿の角に、人工の小川が流れる閑静な庭に面して建立された、こぢんまりとした庵の中で奏でられる些細な凹凸を撫でることこそは、華やかで、果てしなく、怖気の走らぬ日はない宮殿の頂から、国の隆亡を差配しなければならない王と王妃の凶心を慰めるために最上のものとなった。

 

王と王妃の間に子が生まれぬままに、黒曜の君と水潤に列する神の血が流れる運命の御子との出会いが果たされたのである。

 

 

 

第三の目曰く、ある時シャムシ・アダド5世は言った。「黒曜の君よ、我は貴方に請わなければならない。これは国に右するもの無き大事である。黒曜の君よ、我と王妃サンムラマートの間には子がいない。我らが御代は有難くも貴方の恩寵甚だしく、盤石にして過去に右するもの無きほどである。しかし、次の御代にも同様であると考えられるほど、我も安楽ではおられぬのだ。何とか、次代の王権の継承者を紡がねばならぬ。」

 

王の言説は真当であり、冷厳であった。王の肉体は衰えていた。鋼の様な肉体は衰えていた。御代を紡ぐこと数十年間、その須くは困難を砕き目覚ましい成果を達成することで国を富ませることに注ぎ込まれた。そして、今今に王の肉体は限界を迎えた。その心身は莫大な栄光に比例するかの様に、万苦を伴う病魔の最中にあり、憔悴した表情は厳格にして青白く、覇気はその灰色の御髪と同様に色褪せてやるせなかった。

 

王とは対照的に、王妃の様子は老いこそすれども未だ瑞々しく、覇気は尚も逞しかった。王の側、王のよろける体を支えている王妃の瞳は黒曜の君に向いており、しかし意識は王の心労にも向けられている様であった。時折王に向けられる慮るような瞳は温い。互いに互いを牽制し合い、一人の男、黒曜の君を姦しく取り合っていた彼と彼女の間には、夫婦の情にはない、悪友や戦友の間に芽生えるようなこざっぱりとして心地の良い信頼が見てとれた。

 

彼と彼女が、ある意味では断ちがたい友誼に結ばれて一端の家族へとその立ち姿を昇華させていることに黒曜の君は深い幸せを抱いていた。だが、その幸福に浸る間も無く、王妃は苦渋と遺憾を胸に秘めつつ、真摯な表情で黒曜の君へと決断を迫らなければならなかった。

 

王妃のサンムラマートは言った。「黒曜の君、貴方様の寵愛を受け、ゆくゆくは大人になる幼児がおりましょう。どうか、あの子を私と夫の養子として迎え入れることを許して欲しいのです。もはや、夫は、王は子を成せません。そして…王が苦しまれている様に、病は今や私の足元にも届こうとしております、これは老い故のものです。避け難く、時間は残り少ないのです。どうか、貴方様の寵愛を受けし彼女、セミラミスを、次代の王となるべく私に預けて下さいませんか?決して、貴方から奪おうなどと恐れ多いことを犯す試みは露もございません。ただ、栄華を受け継ぐ器は、貴方に愛されし貴児を置いて他にはいないのです。」

 

晩年になって彼女と王の間には確かな信頼から緩やかな愛情が育まれていた。それは、或いは両者が獲得者たり得なかったが故に成せるものであったが、王の世継ぎを産むことが吝かではない程度にはサンムラマートと王の関係は深いものであった。

 

しかし、後悔は先に立たず。王は病魔に心身を食い尽くされ、今や命を少しでも長く繋ぎ止めることが限界の状態であった。

 

王もまた、息も絶え絶えであるのをおして言った。「黒曜の君よ、どうか貴方の力を今一度貸していただきたい。貴方の愛するものを奪わせはしないとも。ただ、どうか貴方の愛するものにこの帝国を担う責を負わせることを許してほしい。我はこの国が王なき故に戦乱に飲まれる様を見ることだけは耐えられぬのだ。死ぬに死にきれぬよ。」

 

王と王妃の要請は、果たして黒曜の君に受け入れられた。

 

黒曜の君は言った。「王の言葉も、王妃の言葉も私が断るべき理はございません。構いませんとも。私はただ、あの子と共に歩むのみなのですから。」

 

斯くして、次代の王権を継ぐものとしての道がセミラミスに用立てられることとなったのである。

 

 

 

第三の目曰く、セミラミスは宮廷の奥でサンムラマートと黒曜の君の手ずから、以前にもまして丁寧に育てられた。幼い彼女のお髪は淡く青の透ける漆黒であり、何処となく鋭利な印象を抱かせた。

 

幼いセミラミスは、その名づけ親であるサンムラマートのことを認識していた様であった。だが、この認識は恭しさにも親しみにも欠くものであった。

 

まだ一人で立つことも叶わぬ幼児セミラミスは、抱かれるがままの身分であっても、断じてまつろわなかった。特別にして、サンムラマートを目の敵にしており、口元に指を寄せようものならば、歯のない口で必死に噛み付くほどであった。

 

対照的に、セミラミスは黒曜の君に並々ならぬ執着を見せ、それは彼が宮殿に生後間もないセミラミスを迎え入れた時から変わらないことであった。その執着の度合いたるや、名付け親であるサンムラマートへの憤怒とも憎悪ともわからぬ反抗、その空き間を代わりに満たす様な勢いであった。

 

初めこそ親心と義務感でセミラミスに甲斐甲斐しさを見せていたサンムラマートも、抱き上げるたびに泣き喚かれ、噛みつかれ、性根の底から外方を向かれる様では流石に堪えたようであった。

 

次第に彼女を育てる役割は、信頼のおける若い下女と黒曜の君だけが担う様になった。

 

宮中でのセミラミスの評判はお世辞にも悦ばしいものではなかった。瞳に知性を宿した不気味な赤子だと、そう囁かれており、黒曜の君に語りかけられると首を振るなり頷くなりと反応するものだから、否定も難しく、まずまずの事実として、神の血の恩賜であろうと畏敬される原因となった。

 

食事も、用便の始末も黒曜の君の仕事であった。生まれた時から黒々としたお髪に恵まれた彼女の将来の顔には、間違いなく一世一代の恵が期待できそうであった。未来の淑女の隅々を知る、とは聞こえこそ不穏で淫靡な響きだったが、その実は不器用に赤子の世話をする男の姿しかなかった。

 

麗しの姫として、ゆくゆくは高潔なる女帝としての道が整えられていた彼女であったが、不器用な手つきで黒曜の君に世話を焼かれる際には、何とも言えない表情を浮かべていた。その様子たるや、赤子なりにと言えば不思議だが、なんとも羞恥に赤く膨れて見えたものである。

 

屈辱ではなく、怒りではなく、穏やかに解けた羞恥に落ち着いた表情こそが、いわばセミラミスが赤子の時分より高度な知性を有した一人の、それも独立した女性であったことを象徴するものである証だったかもしれない。側から見れば不気味であれ、不思議であることは別として。

 

 

 

第三の目曰く、セミラミスを慈しむこと十年の月日が経っていた。光陰矢の如し、とは正しく黒曜の君こそが使うに相応しい言葉であろう。

 

十歳にしてセミラミスの容姿は完成していた。流れる様な漆黒の長髪は星が己を恥じた夜空の様に澄み切った美しさがあり、四肢には淀みがなくしなやかであった。白くたっぷりとした衣装から時折覗かれる、天下に希な微乳白の肌は、遠目からも咽せるような艶を畏れ知らずに見惚れる者に与えた。そして、彼女の容姿を完成したものであると衆人に言わしめたものこそ、その憂いを帯びた貌であった。

 

血脈に交わるところが無いとは思えぬほど、否、彼女こそが黒曜の君の実の愛娘であると言われても否定できぬほどに、彼女の顔は美しかった。欠けるところの無い滑らかな器のような美しさがあった。高く通った鼻、弾力に富み瑞々しく映える唇、憂と憐憫を湛えた瞳、神聖なる血脈を誇る長く形の良い耳、そして其れら全てを飼い慣らし、己が従僕に落とし込んで魅せる傲慢な表情。己の肉体を、己こそが恣にして、不敵に笑んでみせる彼女には人生遍歴十年の若輩には醸すことなど致し難い、目が醒めるような色気を纏っているようであった。

 

敢えて未熟な部分を挙げるとすれば、未だ肉も迫も足りていない肉体くらいのものであった。完成されたセミラミスは、十年の内を実に常識はずれに育ってきた。

 

 

 

第三の目曰く、一歳に差し掛かった時、彼女は初めて言葉を話した。もっぱらありのままで良しとする、口悪く言えば頓着と知識に乏しい黒曜の君からすれば、言葉を話し始めるのが遅いか早いかなど問題外であった。愛娘が初めて発した言葉は「あまろ」であった。元来赤子の食は乳であるが、サンムラマートであれ、誰であれ女の乳には躊躇なく噛み付くセミラミスの性が祟り、彼女に乳を飲ませられる我慢強いものはいなかった。

 

人見知りが強く、慣れを知らぬことも相合わさり、彼女が口にするものは専ら黒曜の君ことアマロを通して与えられるものに限られた。

 

言葉も話せぬうちから我儘な彼女に、その意志の強さに辟易とするものも多かったが、彼らの分も殊更アマロは彼女を可愛がった。四六時中抱いていないと泣き出す始末であったが、眠る必要のない彼だからこそ苦ではなく、眠る彼女の頬を突くなり、撫でるなり、寝惚けの涎を拭うなりして退屈に喘ぐ必要などない充実した日々を送っていたようである。

 

食事時にはセミラミスが必ずアマロの指を握って催促した。言葉こそ交わさないが、互いに意思の疎通を可能にしていたことは、アマロの不思議な魔性も関係しているのやも知れなかった。

 

さてさて、ある昼間にセミラミスの口へと、温めた獣の乳を匙で運んでいると、突然に彼女は声をあげ始めた。声には脈絡も何もなかったが、次第にその音に意味ある形状が生まれ、遂には「あまろ」へと辿り着いたのであるらしい。

 

アマロは叫んだ。「喋った!セミラミスが喋った!!」それからすかさず彼女を抱き上げた。

 

セミラミスの本生第一声の衝撃はアマロが匙を放り出して頬擦りに擦ることで報われた。満足げなセミラミスの純真な笑顔は珍重しても罰は当たらないものであった。

 

 

 

第三の目曰く、セミラミスの成長は一歳直前に第一声を上げてから連鎖的に進行して止まるところを知らなかった。

 

2歳になるとより多くの言葉を操った。

 

3歳になるとアマロの後を追いかけて何処へでもついて行った。

 

5歳になると高潔さと高慢の滲む口調に落ち着いた。この頃、宮殿にある書物に片端から目を通し始めた。

 

7歳になると未来の女王としての品格を得るべく、サンムラマートとの一時の和解を演じて教示を乞うた。この頃、最も関心を持って取り組んだのは薬効のある本草を中心とした医学であった。

 

そして、10歳にして彼女は正式に王位継承権第一位の立場を獲得し、その名分に紛わぬ貴威を放つまでに成った。

 

だが、目覚ましい彼女の壮健な成長の陰で、王の命の灯火は潰えんとしていた。

 

 

 

第三の目曰く、セミラミスへの継承権授与を宣言してから一ヶ月あまり、偉大なるシャムシ・アダド5世はその生涯に幕を閉じた。

 

大病に抗うことを許されぬまま、王は息を引き取った。王の死は多方に影響を発し、その後を追うように王妃も病み枯るる定めを負い、複数の王族、重臣がその正気を喪失した。

 

アッシリアを完全なるものへと成し得ていた双璧は崩れ去った。絶対的中枢、その証明たる玉座は空虚に輝きを放つばかりとなった。

 

王位の継承の試練は正に前途多難の動乱を迎えいれた。

 

王権の揺るぎ。周辺諸国は、超大国アッシリアの柱が腐り落ちるのを虎視眈々と窺い、その崩壊を促さんと密使をアッシリアの国内各地の地方領主の元へと派遣、同時に宮廷では次なる覇者の獲得闘争が激化していた。

 

何の陣営にも属することを潔しとしなかった彼女は、10歳にして宮廷闘争の荒波へと、その身を投じたのである。

 

奇しくもその苛烈な選択は、彼女が理屈など無しに嫌悪していた今や衰死の淵に臥す王妃サンムラマートの歩んだ大道の轍をなぞる様を幻視させた。

 

 

 

第三の目曰く、セミラミスは狡猾であった。だが、決して高潔さを忘れたことはなかった。

 

彼女は王権の継承を受諾した時から、先王と王妃の養子となったその瞬間から、嬉々として己が慕う黒曜の君のことを元のように「父」とは呼ばなくなった。

 

彼女が憎むものは、父であり、母であった。

セミラミスの心中には拭えぬ憎悪があった。

己を産み落として、その「どちら」の責をもとらずに自らをただ捨て果てた両親への憎悪である。

 

彼女の霊厳なる瞳は常に非凡な理知を灯して、彼女の道を照らしていた。両親から与えられたものは忌々しい血と、唯一の機会である。

 

彼女はその唯一の機会に救われたからこそ、今もこうして生きていた。そして、その奇跡には曇りが許されるべきではないと、完全なものでなければならないと彼女は考えていた。

 

セミラミスは誰よりも賢く、誰よりも気高く、そして誰よりも効果的に目の前の障害を排除する術を理解していた。そして、その執行を躊躇することはなかった。

 

 

 

第三の目曰く、古の文脈を忠実に辿れば、女帝セミラミスは人類最古の毒殺者であった。

 

その胆力はアッシリアの並み居る武辺士が感服するに足り、その苛烈な性質には汚穢の入り込む隙間などなかった。セミラミスは忠実に、冷酷なまでに淡々と自らが手に入れた王権に仇なさんとする者を抹殺していった。

 

セミラミスは疑心暗鬼と密告を奨励し、軍官と文官の対立を促し、その仲裁者として神官を矢面に立たせ、疲弊した中枢の三大勢力を自らに従順な王族や貴族階級に鎮圧させた。地方反乱の起きる直前に宮廷を完全に掌握した彼女は、最初に下す勅命として地方領主に各々の名義で神へと、正確には黒曜の君への忠誠証文の提出によってこれまでの不敬の罪状を帳消しにすることを、王権守護の大軍勢の武力を背景に迫り、反乱は起きる間も無く潰えた。

 

証文の提出を怠った者は一年とたたぬうちに都の郊外、各方への要衝に通ずる大路の路傍でその骸を晒すことになった。

 

圧倒的強権によって、彼女はアッシリアの主導権を僅か三年の内に掌握した。その間に千数百の粛清が執行され、彼女の周囲には血印と王印が並んだ粘土板の忠誠証文が次々に積み上げられた。

 

 

 

第三の目曰く、セミラミスは13歳の生誕日、13年前にアマロに抱かれて宮廷の角、閑静な庵へと迎え入れられたその日に、自らアッシリア史上唯一の「女帝」として王権を更なる高みへと押し上げることを宣言した。

 

彼女は先王シャムシ・アダド5世をも超越することを暗に国内外へと明言したのであった。

 

そして、彼女の宣言は決して僭称とは受け取られなかった。女帝セミラミスは正に、唯一の女帝に相応しい辣腕を振るった。その偉大さは先王シャムシ・アダド5世も遠く及ばず、その苛烈な即断振りは王妃サンムラマートを遥かに凌いだ。

 

セミラミスは手始めに国内の有り余る富を集約して都の規模、灌漑のための水路や流通のための交易路を整備した。文化と景観をより高次のものとするために惜しみなく富を市井に振る舞い労働力をかき集めた。都市に振りまかれた巨富は地方に燻る人寄せの呼水となり、都市は地方領主権を制限しつつ、都の国家中枢機能、人口規模共に世界へと誇るに余あるほど拡充することに成功していた。

 

文化の趨勢をアッシリアが握るべく、豊富な水を引き込み、これを天高くに押し上げる巨大工事を挙行した。天高くに届かんとする空中庭園は、砂色の都に眩い鮮緑の海を披露した。

 

国防に関して言えば、効果的に、陰湿に、冷徹にを第一にした。即ち、何よりもまず最低限の犠牲で最大規模の成果を挙げることであった。

 

その為に彼女は率先して医薬に長じるべく学んだ。彼女の労力はそのまま子飼いの暗部の強化につながり、同時に副産的ではあるが医療における芳しい教訓を与えた。

 

指導部を次々に抹殺されることは人材の摩耗という点で極めて大きな影響力を持った。帝国は大軍での圧殺も得意ではあったが、それは彼女の望むところではなかった。彼女は偉大な為政者であり、一代限りの絶対的な帝国の管理者であった。

 

彼女の苛烈な施政は決して万人に支持される者ではなかったが、彼女の飛矢の如き直情的で歪みない舵取りにより、周辺諸国はまたしてもかの帝国に膝を屈する羽目になったのである。

 

 

 

第三の目曰く、女帝セミラミスの治世が10年を数えた時、彼女は黒曜の君を夫に迎える旨を発表した。

 

その日、彼女は重臣達を神殿に呼び集めた。

 

集まった群臣の中から大臣が進み出ると女帝に問うた。「偉大なる女帝陛下、私達はどうして集められたのでしょうか。」

 

女帝セミラミスは胸を張り、息を吸い込んだ。両手を大きく広げると、不敵に笑んで彼女は叫んだ。「遂に、遂に、時は来たりて。我はこれより全てを手に入れる。この世の全てを、我の全てを、この暁に手に入れるのだ。」

 

群臣達は女帝の身から立ち昇らんとする覇王の気迫に押しやられ、堂々と仁王立つ女帝に恥いるように、広大な神殿の中で憚るように肩を寄せ合い平伏した。

 

セミラミスは男の名を呼んだ。「アマロよ。我のアマロよ。さあ、待ちに待った今が来たのだ。汝には、あの日の約定を果たしてもらおう。」

 

セミラミスに呼ばれて、黒曜の君は黒い布に身を包んで神殿の奥から姿を表した。彼はその顔を覆うものを全て取り去った姿でセミラミスの前に身を晒した。

 

多忙を極めるセミラミスとの再会は、幾年ぶりのように感じられた。いや、毎日毎日、1日と欠くことなく顔を合わせていようとも、彼女が自分自身のことだけを見つめている瞬間が訪れたのは、感慨に浸る程度には久方ぶりのことであった。

 

彼女の王権が雲の彼方に盤石なものとなった今、全ての努力に報うべく、彼女は彼女の渇望の儘を許すことにしたのだ。

 

群臣達は気がつけば顔を上げ、食い入るようにアマロの美貌に魅入っていた。口が開かれて呆けた顔のもの達が大勢であった。

 

群臣の醜態も、この時ばかりはセミラミスには関係のないことだった。彼女は自らの隣へとゆったりとした足取りで身を寄せたアマロの左手を取ると、今一度叫んだ。

 

セミラミスは言った。「アマロよ、我のアマロよ。汝には、今こそあの日の約定を果たしてもらおう。我が望むものは唯一つ、汝と結ばれること唯一つなのだ。さぁ、我が捧げる石輪を、今こそ受け止めてくれ。我を受け入れてくれ。」

 

セミラミスは世にも珍しい漆黒の澄んだ色の石から指を通せる程の小ぶりな輪型の装飾品を削り出させた。それは指輪であった。そして、彼女の煌めかん瞳、その無邪気さに当てられたアマロは微笑みを漏らすと彼女に応えて言った。「セミラミス、私の愛しいセミラミス。君との約定を今こそ果たそう。君がいついつ、何を望むのか気になっていたよ。…そうか、そうか、君は全く可愛い子のままだね。」

 

慈しむばかりの表情はセミラミスに気恥ずかしさを覚えさせて。何となく、彼の瞳の奥に映る自分の姿が、今よりもずっと幼く、肉付きも頼りなく、増してやあどけなさばかりが鼻につく頃のように思えたのだ。頬を赤らめ外方を向き、つんとしたふくれ面を、群臣の前だというのに披露した彼女の様子は、残念ながらアマロの表情に重ねて慈愛を呼び込んでしまった。

 

観念した彼女は素直にアマロに問いかけて言った。「そんなに我は幼く見えるだろうか?可愛らしい女子はいやか?我は汝の娘のままなのだろうか?汝の伴侶となるには、我はどうすれば良いのだ、我は解らぬ。」

 

豪気な姿が純真な少女に変わったかと思えば、成熟した女の顔のまま、捨てられた子犬のような瞳でアマロの手をとって不安げに見つめ始めた。焦りを含んだセミラミスの表情は悪戯心を弄ばれるようだが、何分嘘も建前も不得意なアマロは、彼女の手を包むように握り返すと、福々しく微笑んで応えた。

 

「嬉しいばかりで、文句などないさ。セミラミス、君は変わらないね。変わっていても良いけれど、私の中にいる君と、今の君の面影があまりにも親密に重なってしまって、何とも嬉しかったんだ。それに…私ほど君のことばかり見てきた男もいないよ。さあ、君の望みを教えて?」

 

 

 

第三の目曰く、セミラミスはアマロと瞳を交わらせると清廉として言葉を紡いだ。「アマロよ、どうか我と共に歩んでほしい。我の歩みが止まるその時まで、我の終の伴侶となってくれ。我は、あの日、汝に救い上げられたその時から、今この瞬間の為に命を繋いできた。もしも汝が…いや、貴方が隣に居てくれるなら、我と並び歩んでくれるなら、我の全ては貴方のものだ。我の持ちうる才気から、我の持ちうる財威の塵滓に至るまで…我は貴方に全てを捧げよう。我は貴方と全てを共にしよう。それが、我の望みだから。」

 

私が望むから。私が望んだから。私を望んでくれたから。

 

誰の声だろう?

 

セミラミスの内に潜む、「私」は彼女の言葉をなぞる様に、今一度、太古の誓いを諳んじる様に詠じた。

 

誰の声だろう。セミラミスには分からなかった。

 

「だからアマロ、我の伴侶となってくれ。」

 

セミラミスの言葉は沈黙の中に沈んでいく。大きくない声音はしかしよく通った。世界の静寂が背を押したように、広閑とした神殿の高い天井に反響した。

 

二度、三度と響いた。誰も口を開かない。平伏するか、息もできずに三柱の逢瀬を見守った。何か全てを左右する瞬間を目にしているようであった。

 

セミラミスの瞳が静かに閉じられた。彼女の指先、唇が震える。反響が勢いを失って墜えた。そして、気負いなく伸びた手がセミラミスの頭を両脇から包んだ。瞳はまだ開かない。耳朶に体温を感じる。掌の熱だけではない、不思議と鼓動の拍まで感じるようだった。激しく打つのは自らの胸奥から響くものか或いは。

 

判別もつかぬままに、唇に柔らかい感触を覚えた。震えは止まっていた。

 

瞳がゆっくりと開かれた。今にも塩辛い堰が決壊しそうな、そんな安堵の表情を浮かべたセミラミスは声もなく、自らと同じか僅かに小柄なアマロの体を強く抱きしめた。

 

彼の左手の薬指に黒石から削り出された輪を通すと、彼女はアマロを横抱きにした。群臣達を押し退けて、二人は神殿を後にした。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、セミラミスとアマロが結ばれた晩、稲妻が宮殿に落ちた。

 

そして王妃サンムラマートが身罷り、セミラミスは自らの胎に赤子を孕ったことを確信した。

 

セミラミスと抱き合って眠るアマロの胸元で黒い山羊角が揺れた気がした。

 




セミラミスの幼さ、痛々しさ、怜悧さ…全て含めて魅力なんだと思います。何処まで香り付できたかわかりませんが、何か彼女の呼吸とか匂いが滲んでくれたら嬉しいです。


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B0.5セミラミス 中編

感想ダンケなっす。


B0.5 セミラミス 中

 

 

 

 

 

セミラミスは決して忘れない。己を捨てた女の顔を、己を捨てた男の顔を。

 

会った覚えがなくとも、名も声も覚えていなくとも、己に流れる血が彼女に忘れることを許さなかった。その全てを。

 

だから彼女は赤子にして理知を芯に立てて、揺るぎない誓いを結んだ。

 

「(我は我の望むが儘に、我は我が欲するが儘に生きて、そして死ぬ。如何なる柵も我を蝕むことは許さぬ。如何なる制約も、如何なる障害も我を調伏させることは許さぬ。我は、我が望んだから生きる。我が欲した者の為だけに生きる。我は何人にもまつろわぬ。我は何者にも奪われはしない。)」

 

果たして、彼女はその誓いの通りに生きた。

 

 

 

あの日、我は黒曜の君に拾われた。

 

命潰えるまで、ただ憎悪を燃やして忌み殺さんとする我の矮小な身体を抱き上げたアマロは我にとって唯一、紛れもなく信仰するに足る、慕うに足る存在であった。

 

王宮で暮らすことになった我を迎え入れたのは、王宮の主人である王と王妃であった。王妃の名前を与えられ、我はセミラミスとなった。

 

我は母親振る王妃も、父親ぶるかと思えばアマロに媚びる先王のことも嫌悪していた故に不服であったが、満足げに我の名を呼ぶアマロに免じてセミラミスの名を甘受した。

 

我が半生は王宮の中という狭い世界が全てであった。暮らすこと10年間、この10年の時間こそ我の青春であった。早熟した感性は小手先の贅沢も過分な飽食にも食指が動かなかった。

 

ただ我の胸中を、年を経るごとに灼き焦がしたのは言うまでもなくアマロへの恋慕であった。それは乳を吸うばかりの赤子の時分に誓った、アマロと我が結んだ約定へと随う道程に他ならなかった。

 

アマロは我にとって大恩ある養育者であり、気の置けない友人であり、そしてかけがえのない想い人である。それは未来永劫変わり得ないことを、出逢いと共に、まるで心芯に刻み込まれたように感じたのだ。

 

 

 

我が王と王妃の養子となって間も無く、未だ言葉拙い幼児の頃、大人びるにつれて忘却されてしまうことが殊の外多いこの時代のこそが、我にとっては最も平穏に満ちた時代であった。

 

人の手で形作られた小川の流れる庭、その庭に面した庵が我の安息の地であった。赤児が待ち人を恃む訳もなく、庵の主であるアマロに四六時中あやされて過ごす日々だった。

 

見る者、聞く者次第で退屈に殺されそうだと感じるものも居るだろう。だが、アマロの腹の上で矮小な四肢を伸び伸びと、草原に横臥して昼寝に洒落込むのはえも言われえぬ安心感があった。

 

アマロは眠らなくとも良いらしいが、それでも嗜む程度に昼寝を大層好む。さくさくと柔らかい草原、彼が眠ると不思議と虫も寄り付かず、羽音すらも自粛して彼の安眠を守っている様に我には映った。赤児より先に、さっさと鼻提灯を浮かべるアマロの表情ほど、堪らなく母性をくすぐるものがあろうか。我はこの時から、何となく彼の根っこが温厚で怠惰な性であることを理解していた。

 

褒められるものではなくとも、それが絵になるのだから何とも罪である。幼い表情には憎む気も起きない。赤児にまじまじと観察されて寝苦しさを感じたのか、寝返りを打ったこともあったが、そういう時に限ってこの男は我の体を両手で優しく包んで寝返るのだ。アマロの胸に苦しくない程度に密着したお陰で、直にじんわりとした温もりと安眠に最適な薫りに包まれて、抗う間も無く熟睡したのは言うも更なりである。

 

川遊びには頼りないものの、分を弁えて奏でられる小川のせせらぎには、耳を傾けるのに相応しい控えめな音調であった。砂色の王の都の中でも、最も緑豊かな場所であった。何処にでもある青い草本に腰掛けて、ぼけらと時に身を任せることはしばしばであった。身動きの取れぬ赤児の分際故、我はただじっと黄昏の中で静かに瞑目するアマロの顔を見守っていた。

 

貴方は何を観ているのか。貴方の視界に我は居るのか。

 

我の表情は分かり易いらしかった。我の内側に不安が浮かぶと、アマロは黄昏れを愛でるのを放り遣ると、決まって我の頬と己の頬を合わせて見せた。抱き上げられて、手も脚も覚束なくて遂に下に目線が向かった。目敏く視線を追うと、アマロは直ぐに自分の腕に我の臀部を乗せて、脚を胸や腹に踏み掛けさせた。踏ん張りの効く様になった我は頭を見透かされている様で思わず彼を見上げたが、間抜け顔を晒してしまったようで癪に触り、何とか意地悪してやろうとぐすぐすと泣いて見せた。

 

頬を合わせたままぐずり出した我と目を合わせたアマロは苦笑いをした。「何を笑うことがあるのか!」と鼻息を吹いた我だったが、涙で濡れて頬を拭わぬ内に、アマロはごろりと草原に寝転んだ。我は首を傾げたが、寝転んだアマロの上で這い這いの体勢に導かれ、そこで初めて意図を理解した。

 

我は濡れた顔のまま、這い這いでアマロの体の上を伝い、彼奴の顔に我の方から頬を擦り付けてやった。拭うくらいに目一杯。涙やらがついてさぞかし不快であろう。だというのに、何とも満足げに笑いおって。物好きな男よな。

 

赤児相手にこれほど色を覚えさせるとは…全くなんて男だ。赤児に大人の男への恋慕を目覚めさせるとは…全くなんて男だ。

 

けしからん。甚だけしからん奴よ。

 

全くアマロには敵わない。この男は全くもって悪い男だ。今世、我以外では持て余して仕方あるまい。仕様がない故に、アマロは我が貰おうではないか。

 

 

 

10歳を数える頃には来る日も来る日も、王たる者の道を、術を、心構えを教え込まれた。王の顔に死相がありありと浮かんで以降は、我の命には寸鉄すらも脅威に映った。死にたくない、死んでたまるか。王位の簒奪そのものに恐れていたわけではない。王や王妃への恩義も、認めたくはなかったが親としてではなく、保護者としては少なからず感慨を抱く程度に忘れてはいなかった。

 

だが、我が恐れたのはアマロとの約定を果たすこともなく、道半ばのうちに彼を一人残して消え去ることだった。それがどれだけ恐ろしかったか…とても、上等な説明方法が見つからなかった。

 

我にとって、彼を残して今死ぬということは単なる一人の矮小な存在の死として収拾されるものではなかったのだ。少なくとも、我にとって、我の死は何かの消失、消滅を意味するようだった。取り返しのつかない、奈落が口を開けてしまうような、もはや己一人の進退には拘泥のしようもなく、超越的な気配が、漠然とした不安や恐怖という感覚をとって我に訴えていたのだ。

 

この直感的な天啓とも呼ぶべき現象は、ことあるごとに我に囁きかけた。

 

「あの大臣が、私の愛しいアマロを害そうとしている。」

 

「あの女が、私の愛しいアマロを誑かそうとしている。」

 

「あの将軍が、私の愛しいアマロから貴女を奪おうとしている。」

 

予想でも、予感でもなかった。よもや明確な声さえも伴って届けられたそれは、厳然とした事実、確定して起こる事象を報せるものであった。半信半疑を拭えぬままに執行すれば、悉くの嫌疑が事実であった。咲く前に芽を摘んでいく上で、これほど有能な仕掛けはありそうもなかった。

 

その声音は多分にアマロへの慈愛を含んでいた一方、諸衆による裏切りや奪うという行為への並々ならぬ憎しみが発露していた。それは我が慄かずにはいられぬほどの熱を放っていた。体の奥、いや、全身中に熱が迸る感覚は未だに刻み込まれている。それは我の血潮に由来するものであるとは、薄々ながらも気付かずにはおられなんだ。

 

それは決して我が望んで得られたものではなかったが、我が望むままに、アマロとの愛悦を完全なるものとする上では有益に働いている。故に、この直感に従うことへの忌避はなかった。例え、その果てに、声の主に、血の源泉に惹き寄せられたとしても、例え同じ結末をこの身に受け止めるとしても、我は窮して尚進む覚悟を固めている。

 

我にとって、この世の全てとはアマロである。この世の全てを支えとする果報者である上に、どうして覚悟を決められないで居られようか。我は我の望むがままに振る舞い、生きて死ぬ。その中に、アマロの存在は不可分にして一心同体である。我が望むのは、アマロが望むことに同じである。

 

女帝として先王を超える。大成の応報として、我は遂に二十三年前の生誕日に結んだ約定を解いた。

 

夢の成就は我に達成の余韻から来る無気力ではなく、気力健康が有り余る恩寵を与えた。恐れるものはなくなった。温め続け、育み続けた心体の全てを我は彼に馳走した。我とアマロは、互いにその温もりを以前にも増して、親密に、深く、濃重に捧げあった。

 

もはや何人にも奪われはしない。アマロとの想いを遂げた翌朝、我とアマロは互いに1日の休養をとった。彼は無事だったが我が無事ではなかったのだ。寝台が跡形もなく土台から砕けていたが、我には傷ひとつついていないのだからその真髄を見たように思った。

 

一時、水入らずの平穏を手に入れることができた我は、アマロの秘密を寝物語に聴いた。そして納得したことがある。手に入れて尚、手に入れる前とは比べ物にならない渇きが替の効かない充足と共に齎されてきたのだ。それは、我が獲得者として世にも陳腐な運命とやらに見初められたからこそ味わえるものであるらしかった。我はそこにえも言われぬ優越感と、そして同時に己より以前に彼を知り得た者たちへの強烈な羨望を覚えた。嫉妬ではないことが、やはりというか己の想いが正真正銘のものであるらしい証左のように感じて気恥ずかしくも、嬉しかった。

 

強靭な執着はいつか失われるのではないかという不安から産まれるものだ。しかし、何故か確信がある。我の頭を己の腕枕にのせた鼻先で薫る美貌の君は、何が起きようとも我の前から居なくなりはしないし、我から奪うどころか、我に与えるばかりであることを。気が遠くなるほどに、目の前の男の目には我のことしか見えていないようだった。背筋を温い舌に舐め上げられた時の様な、そんな生々しい悦が腹の奥に沁みた。

 

「我は一途なのだぞ…だというのに、貴方は浮気者だ。」

 

演技臭さは拭えなかったが、どうしても逆毛立つ好奇心が勝った。蕩り微睡んだ瞳が、ぼんやりと抜ける力を一点に注ぐように、縋るように我のことだけを見つめている。

 

問い詰めた我の胸が激しく脈打った。どうしても他人事のように感じるのは気のせいではない。急いた息遣いは妖しく歓喜を奏でるようだった。随分と、我の中の私も彼にご執心らしかった。否、我の想いには到底届かぬとも!

 

胸の弾んだ拍子に息を呑んだ。彼は空いている方の手で目を擦ると耳に口を寄せて言った。「そうなんだ、私は悪い男でね。独りぼっちは、寂しくて、息苦しくて、どうしようもない性分なものだから我慢できずに差し伸べられた手に縋ってしまうんだ。捨てられない思い出で少しずつ隙間を埋めていくけれど、体が温まるより前に失ったモノの大きさを受け止めては、何処でもいいから遠くに行ってしまいたくなる。正直なところは、結局自分を慰めることばかりに手一杯の自分が嫌になる。けど、その度に誰かが私を救ってくれる。無能な私はその度に思うんだ。私は私にしか出来ないことをしよう、と。」

 

初めて耳にするアマロの吐露は我に衝撃を与えて。そして、我の中の私にもまた。衝撃は我に訴える。彼の苦しみを除かねば、彼のことを知らねば。我は、私は余りにも彼に関して無知であった。我は焦りを隠そうともせずに問うた。「貴方にしか出来ないこと…それは何であろうか?」

 

我は「我は貴方に救われた」という言葉を飲み込んだ。

 

頬に赤みが差しているのが己のことながらわかった。意気込を感じる我の様子にアマロは穏やかな息を深く吸い、吐いてから応えてくれた。「彼女や、彼の全てを見届けることは私以外にもできる。けれど、いずれ彼らも死んでいく。彼らもまた一角の何者かになって死んでいく。私を愛してくれた彼や彼女は、私が愛した彼や彼女は、いつの日にか彼と彼女の姿形も知らない、数多の人々の手によって語り継がれることだろう。」

 

アマロは一度言葉を切り、ほんの少し瞑目した。喉仏が動いた。鼻からは湿った呼気が、震えながら滴り落ちた。我の耳の奥に染み渡るような、ゆったりとしたそれはしかし、その緩慢な勢いとは真反対の重厚な質量を鼓膜に載せた。

 

アマロは瞳を開いた。眦に雫が浮かんでいた。どうしようもなく、疲れたような表情だった。だというのに、悔しさの中に安堵の色が見え隠れする表情だった。彼の鼻の奥から嚥下する音が聞こえた。そうして彼は再び口を開いた。「彼も彼女も…あの子も、あの人も、何時迄も語り継がれるだろう。けれど、語り継がれる物語の中には、きっと私の知っている、私が愛した彼や彼女の姿は無いんだ。皆んな、何処か抜けていたり、不完全だったり、悪戯好きだったり…私に負けないくらい寂しがり屋だったり、心が弱かったり、実は下らない冗談が大好きだったり…本当は、あんなことしたくてしたわけじゃなかったり…。彼のことも、彼女のことも、見届けられて、遺されて、それでもきっと忘れられていく。だから私にしか出来ないことというのはね、忘れないこと。忘れないことだけなんだ。」

 

「彼らは非凡さ、血も涙もなかったかもしれない、完全無欠の超人であったかも知れない。頭抜けた才と引き換えに、確かに皆んなが言う普通や当たり前の物を持っていなかったかもしれない。」

 

「けれど、何処まで行っても結局彼らも人間なんだよ。私はそんな彼らがどうしようもなく大好きなんだ。ただ、彼のことが、彼女のことが好きなだけ。ただそれだけの男なんだ。人間臭くて仕方ない。英雄譚や物語を聞くたびに、私は彼を、彼女を思い出す。物語の彼らだって勿論本物さ。本物の英雄で、本当の物語さ。でも、その本物は私の知らない本当なんだ。だから私は私なりに、私の本当の彼を、本当の彼女を忘れることはないんだ。」

 

「自惚れだけど、私だけが何時迄も忘れないでいられる。全てが無くなってしまって、誰も居なくなってしまって、誰もが物語すら忘れてしまっても、私だけは変わらず皆んなのことを忘れずに居られるんだ。これが、私にしかできないこと。」

 

「それに…私に出来ることはこれくらいだからね。」

 

アマロは最後に、消え入りそうな声で言った。「なんて身勝手なんだろう。私は、どうしようもなく幸福なんだ。だというのに、同じくらいに切ない。」

 

アマロの独白はそこで終わった。我は何を問いなかったのか忘れてしまった。もはや、知りたかったことなどどうでもよかった。我はただ静かにアマロを抱き寄せた。腰から下の感覚が未だにじんわりとした快楽の波で覚束ない己の軟弱さが恨めしかった。太陽は一回りも小さく、その輝きばかりが強がるように瞬いた。沈黙の中で我はアマロの頭を己の胸に抱いて眠った。

 

 

 

第三の目曰く、セミラミスは想いを遂げた翌々日に王妃サンムラマートの葬儀を取り仕切った。

 

偉大な双璧はもはや、その何方も地上からその姿を消した。漠然と終焉を予感させていたものが、一つの時代が終わったという実感と共に確かな事実として時の国際社会に対して宣告された。

 

周辺諸国は鬼才に恥じぬ女帝セミラミスの台頭に警戒しつつ、表面上はその大いなる威光を寿ぎ、女帝の足下に恭順を示した。

 

女帝の名声は国内で二つの側面を伴って天井知らずに上がり続けた。冷酷なる粛清者としての側面は、野心的な廷臣と諸侯を震え上がらせ、その反抗の芽を淡々と摘み取った。文武に通じる辣腕の名君としての側面は、国内外から称賛と羨望の声を呼び込み、またその懐の深さへ信服するものが後を絶たなかった。

 

諸才を圧倒するセミラミスは畏敬を捧げるにこれ以上ない女帝として、不朽の統治者として大成した。

 

時にセミラミス23歳の時であった。早熟の鬼才は黒曜の君を正式に帝配として迎え入れ、彼が公私共に自身に不可欠な存在であることをより一層内外に向けて示した。それは一種の示威であり、万世に不羈である黒曜の君を擁することは、彼女の思惑通りアッシリアの隆盛を劇なるものにすることに貢献した。謂わば女帝へと向けられる畏敬に含まれる恐れを、黒曜の君への強固な崇拝を持ち出すことで相殺した上でより強固な支持の獲得に繋げたのだ。独占欲が働かなかったと言えば度し難い虚構であるが、それ以上に誰も彼もに…或いは己を捨てて何処にいるともわからぬ両親への幸福自慢であり、アマロとの想いを叶えて余裕を手に入れた彼女なりの意趣返しでもあった。

 

 

 

第三の目曰く、国葬によって過去と決別したセミラミスは、王妃の死から十月十日後に男児を出産した。次代の帝王となるべく、女帝セミラミスと帝配アマロの間に産まれた男児はアダド・ニラリ3世と名付けられた。

 

 

 

第三の目曰く、アダド・ニラリ3世はセミラミスの特徴を多く受け継いでいた。幼い頃から聡明であり、御髪は漆黒であった。体躯のしなやかさにも恵まれていた。そして、その情感もまた避け難い共鳴があった。

 

 

 

第三の目曰く、女帝はアマロを自身の私宮の奥深くに秘匿した。セミラミス34歳の時、アダド・ニラリ3世が10歳の時であった。

 

女帝は卓越した統治者であったが、しかし人の親としては一人前とは言い難かった。とはいえ、本来ならば長い時間をかけて、第一子を手本に、互いに教え教えられの関係を通じて、親子の情を育むものであった。世情に疎いとは言え、セミラミスもまたアマロに育まれたものとして理解できぬわけでもなかった。

 

しかし、理解できることと、実行するかどうかは違う。彼女には、元よりアマロしか眼中には無かったのである。

 

公において独身であった頃、宮廷内外でも指折りの大臣や将軍からの求婚が後を絶たなかった。しかし、求婚者を二桁大も毒殺する内に一人として求める命知らずは居なくなっていた。そして、それこそ彼女の思惑通りであった。

 

自分を求めて良い者は、自分が求める者のみ。

 

断固として、己の欠片なりとも、残滓なりとも部外者には与えたくない、奪われたくないという内向きの独占欲とも自尊心とも取れる激情がセミラミスの内にはあった。その激情に突き動かされるまま、彼女は然るべき力を振るった。

 

そして、その力の矛先は我が子にも向いていた。

 

万代を跨ぎ、黒曜の君こそは時に親子の円満を導くこともあれば、親子の破局を招くこともあった。敢えて釈明すれば、両者の間に確執はあれど、それは紛うことなき愛情からくるものであった。邪を知らぬ底抜けの情動に従ったが故の、爽快な決裂とも言うべきことであり、肝心である当事者達には後ろめたさも、悔いもあろうはずがなかった。

 

 

 

第三の目曰く、アマロが隠されてから十と数年が経った頃、次代の王として教育を受けていたアダド・ニラリ3世が母女帝への謁見を申し入れた。

 

時に女帝は46歳、アダド・ニラリ3世は22歳であった。既に若盛りを過ぎていたがその肌は瑞々しく、女帝の美貌に敵うものは宮廷にもいなかった。アダド・ニラリ3世の頑強な肉体と整った顔は親譲であった。

 

謁見の間にて、アダド・ニラリ3世は女帝へと己の重大事に関して嘆願した。

 

アダド・ニラリ3世は言った。「陛下、私は今日貴方の子としてこの場に参りました。そして、父上の子として、帝配アマロ様にお会いする許しをいただきたくこうして参りました。」

 

アダド・ニラリ3世の言葉は駄々広い謁見の間に反響した。冷たく澄んだ空気が、須臾の間に猛烈な熱波に呑まれる錯覚を覚えてアダド・ニラリ3世は顔を上げた。

 

女帝は犬歯を剥き出しにして、体から空恐ろしい気配を発しながら応えた。

 

セミラミスは言った。「次代の王、我が子アダド・ニラリよ。貴様の言いたいことはわかった。だが、貴様の願いも、その願いを生んだ…忌々しいほどに肥大した重しのことも、我はよく理解しておる。だが…理解していようとも、それだけは許し難い。」

 

女帝の言葉の内に、母の姿はなかった。アダド・ニラリ3世は母の言葉を受け止めると、唸る様に反駁した。「陛下、なぜですか。私がそれほどまでに憎いのですか。いえ、憎まれていても構いませぬ。母上が望まれる様になさってください…しかし、あくまで母上の願いに限ればの話。果たしてこれは父上の願いなのですか。父上は私のことを憎んでおいでなのですか。」

 

アダド・ニラリ3世の言葉は序に激しい気性を蒔き、次いで冷徹な言葉面を淡々と述べた。そこには、女帝との、母との決裂を悟った者なりの腹を据えた落ち着きがあった。

 

アダド・ニラリ3世の豹変に、セミラミスは尚以って冷淡であった。否、それは丹から来る振る舞いではなかった。寧ろ、到の昔に既知であった者の納得であった。やはり、思っていた通りではないか。そう、責めるような眼差しは何処へ向かうのか、目を伏せることもなく氷の瞳を子に向ける彼女には始めから迷いなどなかった。

 

だから、言わねばなるまい。荒ぶ謁見の間で、初めて彼女の表情から私情が抜けた。事務的な、尚一層冷淡にも見える表情は、彼女なりの忍耐の表れであり、無骨な心意気の表れであった。例え、それが我が子への餞別となろうとも。

 

沈黙もそこそこに、女帝は次代の王に向けて言った。「アマロが貴様を憎んでいるのか…だと?馬鹿も休み休み言え、彼奴ほど貴様を大事に思っているものなどこの世にはおるまいよ。ただ許せよ、獲得者は我なのだ。アマロは我を選んだ。我は選ばれた。我が望み、我の望みをアマロは優先し、そして受け入れた。ただそれだけのことよな。」

 

序は冷たく均して、次いで愉悦と自信の横溢の儘に言い放った。それは明確な宣戦であった。

 

アダド・ニラリ3世はぬらりと溶岩が火口から迫り上がるように仁王立つと、己が越えるべき女帝を真っ直ぐに見据えて応じて言った。「女帝陛下の御下知、この胸に確と承った…然らば、私も私の赴くままに進むことに致します。」

 

それだけ言うと、アダド・ニラリ3世は謁見の間を後にした。足取りは堂々として快であった。

 

我が子と袂を別ち、感慨に耽るまでもなくセミラミスは私宮へと向かった。

 

 

 

第三の目曰く、女帝とその子が袂を別つ、その根本たる事件が起こったのはある晩のことであったという。

 

セミラミスがアマロを奥宮に隠すまで、アダド・ニラリ3世をアマロが自ら育てていた。不器用さがいつまで経っても消えない手つきだったが、無垢な慈しみに富んだ様子を見て彼女の心には複雑な思いが産まれた。

 

それはアマロが己に向ける情量が我が子にも奪われるのではないか、という懸念ではなかった。

 

それは、彼に真心を注がれた我が子が彼に熱烈な思慕を抱くのではないか、行く行くは己のアマロとの蜜月を妨げる存在になるのではないか…という懸念であった。

 

まだ、罷り間違っても母への思慕ならば理解できた。自惚れはなくとも、絶世の美女としての自覚が無いわけがないセミラミスである、老若男女問わず己へ慕情を募らせた挙句に抹殺された者の数は両手両足の数では足りぬほど知ってた。

 

しかし、彼女の懸念はそうではなかった。彼ならば、それは当然の帰結として有り得るのだ。

 

殊ここに限れば、彼女には己が夫の美貌に遠く及ばぬどころか、根源的にその質に隔絶した差が存在することを認めずにはおられない。そうであるならば、我が子が父に向けて並々ならぬ想いを抱くこともまた、看過することの出来ない必然を伴っていた。

 

故に、故に、それは彼女なりの親心でもあった。女帝としての矜持もあった。女としての嗅覚が、その対応を鋭いものとしたことを否定はしない。しかし、そこに我が子への憎しみはなかった。

 

到底、手遅れであったことは既知のことであるが、彼女が親子間紛争を避けようとしたことに偽りは無い。実を結びはしなかったが、母にも親心があったことを子が理解するには十分であった。

 

こうして、歴史に埋もれた親子の闘いが幕を開けた。

 

 

 

第三の目曰く、アッシリアの頂には暗雲が垂れ込めていた。宮廷闘争は朝議において、互いの素行不良を糾弾し合うことから始まった。

 

女帝の粛清が度を過ぎていること。「いずれ、神意も民意も離れることは避けられない」とはアダド・ニラリ3世の言であった。

 

これに対して、「先の謁見に際して、世界の王たるアッシリアの女帝である我への無礼は、実母への無礼であると雖も看過されるべきでは無い。王位継承者としての分を弁えるべきである」とはセミラミスの言であった。

 

その後両陣営によって、公私の別なく互いの一挙手一投足に向けての非難合戦へと発展したのは無理もない。そして、それは単に見苦しい茶番という訳ではなく、明確にどちらの陣営に参加するのかを中立を気取る宮廷の実力者たちに迫る為に用意された場であった。

 

本格的な手段を問わない抗争が我が身に迫っていることを悟った古参の有力者の多くは現女帝セミラミスの陣営へと向かった。対して、アダド・ニラリ3世の元には現女帝の施政に対して不満を持つ者、周辺諸国との繋がりの深い地方領主達が挙って参仕した。

 

この朝儀後間も無く、アッシリアは二つの派閥に分かれて激しい抗争を開始した。

 




では、また。


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B0.6セミラミス 後編

では、どうぞ。


B0.6 セミラミス 後

 

 

 

 

 

第三の目曰く、宮廷闘争は宮廷のみには留まらず、地方にも飛び火した。アッシリア全土に派閥が生まれ、それを外部勢力が後押しした。

 

油を注がれ、日夜両陣営の暗部が活躍し、多くの有力者が命を落とした。

 

闘争に終止符が打たれたのは一年後のことだった。

 

 

 

その日、彼女は自身の生誕日が今日であることを思い出していた。何処で間違ったのか、などとは考えたこともなかった。国の荒廃こそなかったが、弱体化は免れないだろうことも理解していた。だが、それでも尚セミラミスとアダド・ニラリ3世は親子喧嘩によって手に入れることを選んだ。

 

生誕日、それは女帝としての運命が生まれた日であった。セミラミスという傑物の生まれた日であった。

 

後悔などないが、少しばかり彼女は疲れていた。暗部に鞭打ち、新興勢の有力者を潜在的脅威を感じられる順に排除した。一時的に落ち込んだ力が果たして戻るのかはわからなかったが、こそぎ取られた栄華の痕を埋めてこそ、次代の王に相応しいと考えることにしていた。

 

彼女の内に潜んでいた「私」はいつの間にか居なくなっていたように思う。寂しくはなかったが、喪失感は拭えなかった。

 

しんみりと玉座に背を預けたまま、装飾を凝らした窓の外を眺めていた。開け放たれた窓の外、何処かから慌ただしい鉄の音が迫ってくるのが聞こえて。耳鳴りか、幻聴か…それが何であるのか己の中で納得が行く前に、玉座の間に肩から矢を生やした側近衆の一人が駆け込んできて言った。「謀叛でございます!既に、宮殿は包囲されました。」

 

言葉では説明できなかったが、セミラミスには合点が入った気がした。終わりが近づいていた。だと言うのに、彼女は自分がとても落ち着いていることに気がついた。不思議と体は力んでいない。腰も抜けていない。少し、意識して微笑んでみた。

 

報告に来た側近は女帝の様子に怪訝な顔をしたが、直ぐに焦燥を張り直すと彼女に言った。「陛下。我々が血路を開きます故、どうか遠くへお逃げ下さい!直に、王子の私兵が乗り込んで参ります。さぁ、お早く!」

 

焦った側近の声。差し迫る槍の石突の音、つん裂くような戦士の悲鳴が聞こえてきた。

 

だが、彼女は小揺るぎもしなかった。優雅に腰を上げた彼女は側近の顔を上げさせると言った。

 

「これまで実に良く働いてくれたな。彼奴とて、我とアマロの子だという自覚があるならばお前のような有能な者を無闇に殺めたりはしまい。それに、そもそも誰を恨んで始めた戦でもない故な。さぁ、行け。命を繋ぐが良い。そして、彼奴を支えてやれ。大いに殺しあったのだ。癒すのには一人でも人手がいる。まして、我と彼の居なくなった国を立て直すのだ。励めよ。」

 

側近は何か言おうとしたが、彼の口が開くのを待たずにセミラミスは玉座の裏から宮殿の奥へ、奥へと姿を消した。彼女が向かった先は私宮だった。

 

 

 

第三の目曰く、セミラミスは宮の最奥を抜け、アマロの庵に辿り着いた。セミラミスにとって、そこは始まりの場所だった。そして、彼女が自分の最後に相応しいと望んでいた場所でもあった。

 

布で遮るばかりの不用心な戸口から、何も言わずに入った彼女を待っていたのは、予想外にも旅装のアマロの姿であった。

 

目を丸くするセミラミスのことを目に留めると、不穏な状況にそぐわない表情でアマロは言った。「待っていたよ。私の支度は万端だけど、君はどうにも外行きの格好には見えないな。さぁ、急いで急いで!」

 

状況を飲み込めぬままに、セミラミスは彼の予備の旅装を、正装の上から身に着けた。幾つか皮袋を渡されたところで、やっと彼女は今が非常時であることを思い出した。血相を変えて、彼女はアマロの肩を掴むと言った。「アマロよ!今はそれどころでは無いのだ…もう直、終わりが訪れるのだぞ?どうしてそれほど落ち着いて居られるのだ?逃げ場すら、もう何処にも無いのだぞ?」

 

アマロはセミラミスを真正面から抱き締めると、彼女と鼻先を重ねたまま応えた。「君が私の所に来たのは、私と死ぬ為なの?君が望むならそれもいいけれど、君は君が望むままに生きるんじゃなかったの?自分のためだと、本当に思うなら生きるという道もあると思うんだ。」

 

セミラミスは強かに頭を打たれた気がした。塞がらない口をゆっくり噤んでから、呆れたように言った。「は、ははは…然り、であろうな。」

 

彼女の心内に灯ったのは、この期に及んで未知を掘り当てたような達成感だった。自分のことを誰よりも知っているという自負は何処に行ってしまったのか…セミラミスは自分の中で国という概念や、女帝という地位を夫に比べれば例え得ぬほどに矮小なものだと断じてきた。

 

しかし実際は、それらが皆、彼女にとってかけがえのない価値あるものとして、自分が思う以上に重く、大きくなっていたことに今気づいたのだった。何か、一つしか取れないと言われれば迷いなく夫を取るだろう。だが、彼女はまだ何処か実感が無かったのだ。今までの落ち着き払った振る舞いも、達観したような余裕のある表情も、どれもがその時を、その瞬間を、本当が起きてしまった今という現実からの逃避からくるまやかしに過ぎなかったのだ。

 

理解した。彼女は自分を本当に理解したのだ。自惚れがあった、全能感があった、責任感があった、覚悟があった、風格があった、自負があった…。だが、あまりにも自分の人間らしさを忘れていたような気がした。

 

そのまま、アマロの言葉になど耳を貸さずに進めば或いは完全無欠の女帝としての死の極みにあってさえも語り継がれる英雄譚を遺したやもしれない。だが、現に彼女が手に入れたのは後世語り継がれる物語でもなければ、悲劇の内に酔うための火酒でもなかった。

 

「あぁ、そう…だな。このまま、死ぬなど言語道断だ…まだ、まだ我は何もしていない…。まだ、何も望みを叶えていないぞ…。まだ、まだだ…我は、我は死にとうないッ!!」

 

セミラミスの心中を悟るまでもなく、アマロは続けて言った。「ねぇ、セミラミス。一緒に旅をしよう。ずっとお仕事ばかりだったからね。それにほら、あの子も独り立ちできたみたいだし。二人で彼方此方を巡ろうよ。私はね、今度は西に行こうと思ってるんだ。あっちは少し寒いかもだけれど、どうかなぁ?」

 

 

 

アマロの言葉は暢気なものだった。門が軋んで強引に開かれる音が聞こえてきた。あぁ、もうそこまで彼奴は来ているらしい。我を呼ぶ声が聞こえた。我は可笑しくなって笑った。「ぷっ…ははははっ!!あっはっはっはっはっ!!!あぁ、全く愛い奴め!!そうだな、そうしようなぁ…そうだな…まだ我は観ていないな…そうだ…。」

 

我は腹が捩れるほど笑った。ここまで悠然としていた自分の姿が滑稽に思えて余計に笑った。そうだった、そうだった。全てが馬鹿らしく思えてきたぞ、お前のせいだぞアマロよ。自分が情けないな…だがアマロに言わせれば、これまでの我も本物。そして、これからの我も本物なのだ。

 

我はアマロの手を引いて言った。「さぁ、行こうか我が伴侶よ!何時迄も、我と共にあるのだろう?我を看取ってくれるのだろう?」

 

我は意地悪な笑みを浮かべて告げると、すぐさま走り出した。鈍臭いアマロも、この時ばかりは必死に着いてくる様が、やはりどうしようもなく爽快であった。真面目腐って宮廷闘争だと?今までのこと全てを忘れて駆ける自分を、数刻前の自分が見れば赫怒するかもしれぬ…いや、きっと羨ましがるに違いない。

 

我がにやけているとアマロが器用に神妙なのに嬉しそうな声で応えて言った。「勿論だよ!でも、今は看取るなんてこと言わないでよ!私が想像して悲泣きたくなっちゃうじゃないか!まだまだ死ぬのは先送りしておくれよ。私は君ともっと一緒に居たいんだよ!」

 

我は腹の底から「我もーーー!!!」と答えた。そしてまた笑った。

 

走りながら哄笑する我を、逃げ惑う貴人や詰めていた兵士達が雷が頭に落ちたような顔をして見送った。そうだろう、そうだろう、ピクリとも微笑みすら浮かべずにこれまで女帝の椅子に座っておったものな。快活に笑いながら、全速力で駆け抜ける我らの姿はさぞかし見ものであったろう。

 

 

 

庵を後にした二人が辿り着いたのは、セミラミスの行った公共事業の中でも最も大規模な、かの空中庭園であった。二人は辿り着いた端から、休む間もなく天への階を駆け登った。宮殿から続く直通路には包囲が敷かれて居なかった。都の全てを凌ぐ、いと高き頂に登ったところで逃げ道はなかったからだ。

 

だというのに、二人は逡巡の素振りも見せずに駆け登り、新緑の潤いに満ちた庭園の頂から都を見渡した。気がつけば庭園に向かって包囲の中から一軍が躍り出た。見知った顔に率いられて、精強な軍団は神聖な庭園へと突入した。

 

間も無くして、黄昏れるセミラミスとアマロの元に、首謀者たるアダド・ニラリ3世が兵士を引き連れ現れた。傍には都の守護を任せた将軍が侍っていた。そこでセミラミスはようやく、宮廷闘争で互いに暗黙の禁としていた国軍の動員が行われた訳を理解した。謀反の背景には、アダド・ニラリ3世を担ぐ新興勢が頑強なセミラミスの地盤を崩せぬことに業を煮やし、功を焦った結果将軍を懐柔したのだと、彼女は断じた。

 

呆気のない幕引きは味気ないと言うよりは、こんなものであろうな、という今度こそ本当の達観を伴うものだった。肺腑の息を入れ替えてから、セミラミスは己の子と向き合った。

 

セミラミスは言った。「遅かったではないか。随分と手こずったようであるな…して、此度の謀叛は何事か?」

 

アダド・ニラリ3世は謀叛という言葉に息を呑んだが、目をきつく開いて応えた。「否!これは謀叛に非ず!宮廷を掻き乱し、剰え我が国の国力を疲弊させた悪帝に向けて正当に抗議するものなり!これまでの壟断には目を瞑ろう。しかし、これ以上は許すべからざるなり。疾く、王位を次代に委譲すべし!」

 

アダド・ニラリ3世の言葉は、新たな統治者として、その門出を飾る分にはよくできていた。堂々たる体躯、整った顔、鋭く意志の強さを伝える瞳、澄んで良く通る声。どれをとっても、王者の風格を残して居た。だが、それはあくまでも王として、統治者として卓越して居たに過ぎなかった。

 

少なくとも母の目から見れば、我が子の目的が自らの王位には無いことは一目瞭然であった。瞬きをすると見せかけていても、アダド・ニラリ3世の視線はアマロに釘付けだった。威勢を上げて宣告する演技で誤魔化してはいるが頬の赤みも体温の上昇も歓喜の叫びに他ならない。

 

セミラミスが意識して己の体でアマロへの視線を遮って見せると、目に見えて憤怒を表した。青筋が浮いた顔。今となっては、セミラミスにとって息子の様子は中途半端なつい先ほどまでの自分の姿を見ているようで面白可笑しく感じた。

 

セミラミスの感慨の表情は、その場に居合わせたもの達からすれば不敵な笑みを浮かべているように映ったため、自分の想いを弄んだ挙句、小馬鹿にされたと認識したアダド・ニラリ3世が癇癪を起こした。

 

主人の憤激に圧されて、控えて居た兵士らが剣を抜いた。主君から下されるただの一声で、彼らは猛った獅子の如く二人に襲い掛かるだろう。

 

だが、アダド・ニラリ3世が赤ら顔で下知を飛ばそうとするのを遮るように、不敵な笑みを消して神妙な顔になったセミラミスが言った。「ふん…畢竟、貴様も無駄な前置きをせねば己の想いの一つも遂げられぬではないか。いや、我が言うことではないか……」

 

誰かが息を呑んだ。セミラミスは一時、女帝に戻った。覇気に当てられた者達は、その場に居合わせた者達は微動だにするを許されず、沈黙の中で女帝の許を待った。

 

そして、彼女は、女帝セミラミスは微笑みながら言ったのだ。

 

 

 

「さらばじゃ、我が民よ。ここまで大儀であった。共はいらぬ。我はこれから好きにする故、汝らも好きにするが良いぞ…そして王よ、アダド・ニラリ3世よ、精々気張るが良い。然すれば、旅の噂に馬鹿息子を思い出すのも吝かではないぞ…上々、励めよ。」

 

 

 

剣を振り上げたまま、兵士の動きが止まっていた。その隙を突いて、セミラミスはアマロと抱き合った体勢で身を乗り出すと、空中庭園の縁へと足を掛けた。

 

アダド・ニラリ3世が叫んだ。「ま、待て!!ぁああぁ!ちっ、父上ぇッッ!!!!」

 

時間がゆっくりと動いていく。天高く聳え立つ庭園の頂から、不自然なほど寛いだ様子で、淡く白い二つの影が舞い落ちた。

 

新王の声が虚しく響くより早く、セミラミスは今更ながらに瞳を閉じた。

 

あぁ、終わるのだ。

 

彼女は生きることを望んだ。だが、慕う男との生を渇望する己がいる一方で、現実の非情に心折られ、儘に身を任せようとする己がいる。

 

何方も捨てられないまま、彼女は空中庭園への道を走って居た。清々しい哄笑が響いた。己の笑い声だった。だがそれは、結末を悟ったが故の自らへの嘲笑であり、乾きひび割れた絶望感から来る笑いであり、そして何より最期まで己を選んで、片時も離れず、裏切らず、疑わずに共に歩む健気な男を道連れにする算段を淡々と弾く自分の醜さを憎んだ、懺悔すらも赦されない為に己への慈悲をも捨てた冷笑であった。

 

あぁ、静かだ。轟轟と激しい風が体を打つ。俄に寒さが足先から這ってきて、まるで死と絶望の底なし沼に微々と沈み始めた気分だった。そんな時であった。彼の声が聞こえたのは。

 

「…セミラミス、どうか泣かないでおくれ、そんな悲しい涙を流さないでおくれ。私の可愛いセミラミス。どうか、私を見ておくれ。私は君を見ているから。どうか、私を信じておくれ。私は君を信じているから。何も怒っていないよ。大丈夫だから、ほら、君の瞳を私に見せておくれよ。」

 

懐かしい声だった。ずっと、ずっと、昔のことだった。忘れていた声だった。わかった気になっていた。ゆっくりと瞼を開くと、目の前にはセミラミスが愛してやまない男の顔があった。それは父の顔であり、友の顔であり、夫の顔であり、他ならぬアマロの顔だった。許された気がした。寧ろ、初めから咎める気もなかったのだろう。セミラミスは自分が一人で見当違いに、もがいていたのが情けなくなった。だが、それ以上に安堵を感じていた。

 

のほほんと温厚な表情だ。セミラミスを真正面から抱き締めたまま、額を合わせて、怖がる子供に言い聞かせるようにゆっくりと、けれど意思の込められた言葉が胸を鎮めてくれた。音も、寒さも忘れていた。彼女は全てから守られているような錯覚にその身を任せた。

 

うるる、形を変えて音を奏でるアマロの唇が視界の端にあった。ぼんやりと滲む視界で、自分が堕ちている最中にあることを忘れて、セミラミスは彼の口に吸い付いた。潔いまでに躊躇が無かった。歯が当たっても気にしなかった。彼女は力の続くだけ、静寂の中で潔く涙を流しながら力一杯に唇を押し当てた。

 

 

 

それからどれだけの時間が流れたのか、何時迄経っても衝撃も、死の実感も訪れなかった。そのことに死の回避を差し置いて恐怖したが、明らかな異変に対する不安と好奇心に我慢が効かなくなったセミラミスはようやっと周囲に意識を巡らせた。

 

辺りは一面が真っ白であった。

 

セミラミスは驚いて言った。「ぷぁっ…あ、アマロよ、ここは何処だろうか?もしや、既に我は死んでいたのか?何処なのだ?ここが神の座なのか?」

 

混乱したセミラミスの問いに、息継ぎなしの接吻から解放されたアマロが応えて言った。「ぶはぁっ!!はぁ、はぁ…セミラミス、足元を見てご覧よ…ほら、私たちは死んでなんかいないよ、この子達が運んでくれたんだよ…!」

 

物知り顔のアマロの言葉を受けたセミラミスは、弾かれたように、無論未だアマロとは抱き合った状態で、己の足元を見た。

 

「この子達とはなんだ?…ん?わ、わわ!!なんじゃ!これ、ふかふかだぞ!これは…生き物か!?…はっ、鳩か!?この雲の如きの全てが鳩なのか!?」

 

セミラミスの素っ頓狂な声が上がった。セミラミスの声にアマロは楽しそうに笑って言った。「そうみたいだね、何とも運がいいや。偶然にも、私達はみっちり詰まって飛ぶ白鳩の群れの上に落っこちたみたいだ。」

 

嬉しそうなアマロの様子に納得の行かないセミラミスはぐぬぬと頭を捻った。

 

「(アマロの言が真だとしても…群れにしては密度が高すぎる上に、どうして翼を組むようにして飛んでいられるのだ?着地していたとしても…気付かぬほどに衝撃がなく、加えて随分と物々しく周囲を旋回する直掩鳩の姿まで見えるではないか…)」

 

セミラミスが頭を悩ませていると、彼女の腰からアマロが手を解いた。

 

「あぁ!アマロ!危ない!!」

 

咄嗟に伸ばされたセミラミスの手を、アマロは微笑みだけ返してぬるりと避けた。瞬時に顔中から血の気が引いたセミラミスの体から力が抜けた。あっ、と間抜けな声を出してこてんと転げたセミラミスは死を覚悟した…が、何も起きることはなく、ほんのり温かい羽毛に埋もれただけであった。ぐでりと羽毛の海に浸かって脱力したセミラミスの隣に、小悪魔のような笑顔のアマロが寝転んで言った。

 

「大丈夫だよ…君は、もう十分頑張った。これからは、のんびり色々なものを見て回りながら過ごそうよ。ほら、そろそろ見えてきたよ…あの海だ。あの海を越えたところに、私が昔散歩がてらに立ち寄った場所があるんだ。人も沢山いて、セミラミスの故郷とは肌の色や言葉も違うんだ。きっと、知らないものを沢山知れるよ?」

 

先ほどまでの絶望も、情けなさも、苦しさも、恐怖も、不安も…今はすっかり洗い流されてしまった。考えたこともない不思議な出来事に肝を取り換えられてしまったような気分だった。

 

セミラミスは今度こそ心の底から楽しそうに笑った。つい数刻前とは違う、憂のない綺麗な笑顔であった。否…アマロからすれば、彼女の憂のある表情もまた、彼女の本物の笑顔であると、そう言うのだろうが…。

 

美顔を綻ばせたセミラミスは横で同じように寝そべるアマロの腹を小突いて言った。「ククク…たしかに、貴方の言う通りであるな。そうだな、のんびりと…今度こそ貴方とのんびりと暮らすのか…それは素敵よな。だが…二度と先程のように我を避けるような真似はしてくれるなよ?戯れと雖も、だ!」

 

遠望が効くとは言え、まだまだ海は遠い。ちらりと鳩達が、先ほど見えた海の手前の村に着くまでどれだけの時間が残っているかを瞬時に算出したセミラミスは続いてアマロを見た。その視線は舐め上げるような…何かを見定めるような目である。アマロは拗ねたセミラミスの膨らんだ頬を指で突いて空気を抜く遊びに没頭していたが、何かを感じたのか福々しい笑顔を一転、何処か焦ったような冷や汗の浮かんだ表情でそっぽを向いた。

 

ニヤリと口角を上げたセミラミスは、「(悟ったのならば、話は早い)」と心中で悪どい微笑みを浮かべると腰を浮かせて起きあがろうとしているアマロの頭を己の胸に寄せた。

 

「心の臓が裏返った心地だったのだぞ!…反省しとらんな?こ、こら!そう言う切なそうな顔をするな!腹が疼くだろう!むむむ……よし。貴方には分別をつけてもらおう。その為にも、"次"を早いところ拵えなければな?」

 

優しい声音に油断したアマロは"次"の意味するところを理解すると何とか不安定な場所での格闘から、セミラミスの肉体への負担を心配して、逃れようと藻がいた。

 

が、無情。セミラミスとて、閨での生存を懸けて伊達に怪物と組み合ってはいない。心も体も交わすとは、即ちこの男との場合は尋常ならざる覚悟が必要であった。

 

もともと肉体的には卓越している訳でもないアマロである。何とか体を抑え込んだセミラミスは両眼を炯炯と滾らせて彼へと迫った。

 

「ふふふ、此処が安全だと教えてくれたのは貴方だぞ?ほぉれ!その傷一つない肌を我に晒さぬか!これこれ逃げるでないわ!!逃げる場所などないことは知っておろう?落っこちたくなければ疾く観念せよ!…これぞ真の空中庭園!!そういえば…アダドもそうであったなぁ。あの時は、三回戦目にして酔った貴方と繋がれたままであったな!!月下、貴方が庭園の散策へ繰り出したのを我は忘れておらんぞ!!」

 

赤裸々な惚気を他ならぬ当人に語りながら、興を削ぐどころか自ら猛り出したセミラミス。

 

ヒクヒクと鼻先を戦がせたアマロは肩を抱いた。何とも目の前の雌が淫靡に匂ひ始めていた。状況は非常に不味い。

 

今こそ報復の時!!とでも叫びそうなセミラミスは、己の衣を放り投げると肩を抱いて怯えるアマロに襲いかかったのであった。

 

もう一人分の衣が空高くを舞ったのと、情けないアマロの声が上がったのは同時であったとさ。

 

 

 

 

 

遥か昔のこと、偉大な女帝がアッシリアを治めていたと語る古老がおったそうな。

 

第三の目曰く、女帝の名はサンムラマート。その名が意味するは白い鳩であった。

 

彼女は先王シャムシ・アダド5世の妃の地位を、都から外れた寒村の出にも関わらず射止めた。彼女は有能な政治家であり策略家として王を補弼した。

 

だが、彼女は有能だったが強欲であった。王や王の重臣を次々に毒殺しだしたのだ。

 

誰も彼女に逆らえなくなった頃合いを見計らい、彼女は先王に任命された摂政の地位を自ら辞し、女帝を僭称したのである。

 

偉大なるシャムシ・アダド5世の実子であり、王位継承権第一位のアダド・ニラリ3世は女帝による壟断に心を痛めていたが、しかし度重なる暗殺により彼は力を削がれていた。彼は王子としての地位に甘んじて女帝の専横を憎み志あるものを密かに募った。

 

王子が力を蓄える間も、女帝はその王権を縦にして汚した。のみならず、様々な男に色目を使い、大臣や、将軍や、剰え同性の女にまで手を出し、飽きれば証拠ごと抹殺した。

 

また、女帝は大規模な公共事業を起こすと民に過酷な労働を強いた。国力は疲弊し、宮廷は周辺諸外国と通じる密使や、密使と通じた売国の徒が跋扈した。

 

そして時は来た。満を持して王子は挙兵した。謀叛という汚名を着せられたものの、女帝の圧政を嘆いた国軍の将軍の協力を得たアダド・ニラリ3世はセミラミスから王位を奪還した。

 

女帝の放蕩は深い傷跡を残した。女帝の呪いによりアッシリア各地は乱れた。

 

王となったアダド・ニラリ3世にもまた試練が課された。謀叛の咎が重石となり、官僚や地方領主に力が分与され、結果的に王権は弱体化を余儀なくされたのであった。

 

王アダド・ニラリ3世はその生前、母は鳩となって天高く飛び去ったと語ったという…。摂政時代も合わせれば42年間にもわたるサンムラマートの支配は歴史上稀に見る、卓越した女性の一人として列せるに余りあるほどであると言えよう。

 

 

 

「アッシリアの歴史〜謎大きな女帝編〜」

(黒曜出版社)より

 

 

 

 

謎の多い女帝の存在は世界史全体を見れば意外に多い。そのほとんどには共通点があり、それはその死が有耶無耶とされている場合が殆どである点だ。これは古代も中世も同様であり、また、死んでいないと仮定しても、その足跡を辿ることは困難を極めるであろう。

 

しかし、世の中は広く、また奇遇に満ちている。機会は思わぬところから湧き出すもののように思う。

 

さて、そんな奇遇の覚えめでたき時計塔にも縁のある「黒曜の君」研究の第一人者の一人がギリシャにて不思議な口伝承を耳にする機会に恵まれたようであった。

 

なぜギリシャに居たのか、と聞かれれば彼は戦友の時空を超えての里帰りに手を貸したまでだ、と答えるだろう。何も故郷はギリシャではないというのに、わざわざギリシャにも寄り道するとは…相当にポリスへの憧れが熱いのか、呆れ気味の彼が日程上休日返上である以上は元を取ろうと、思い出作りに立ち寄ったのが、現地人の間で口伝譚にかけてはギリシャ一番と言われる御老人の庵であった。

 

「ボロ屋…って言ったら怒られるよねぇ…。でも歴史があるとかで済ませないくらい傾いちゃってるし…はぁ、ライダーを置いてきたのは正解だったなぁ。惰弱也!!とか言って柱に掌底かましそうだもんな…。ギリシャの思い出が重要文化財の強奪と住居の破壊とか…最早国際問題だよ。ウジウジしてても仕方ない。よし、行こう!」

 

苦労人なのか、話を聞く前から愚痴とため息が止まらない様子の青年だったが、気を取り直すと建て付けの悪い所に手をかけた。

 

「ごめんくださーい…あの、今日の公聴会に参加予約をしていた者ですが…。」

 

「はい。料金は前払いですからね、どうぞ中へ。語り部が今話し始めるところですよ。」

 

「…ありがとうございます。」

 

室内はひんやりとしていた。電灯がなく、いかにも語り部らしい御老体の前に置かれた蝋燭の火が揺れていた。昼間だというのに、窓もない真っ暗な室内で小さな火が浮かんでいる様は何処となく神妙な雰囲気を漂わせるのに一役買っていた。

 

使い古されて塗装の剥げたL字型の木の杖に手を按じながら、安っぽい白のプラスチック製の椅子に腰掛けて老人が口を開いた。

 

火が時折隙間風に吸い寄せられて白いプラスチックにテラテラと反射した。話し始めれば、それは引き込まれるに値する、言ってみれば荒唐無稽、言ってみれば他では耳にする機会もなく死んでいたであろう非常に興味深い情報だった。

 

 

 

今日、ギリシャと呼ばれるに至った地の話。

 

幾星霜の古の頃のこと、東方の大国が大いなる加護を失い、均衡が崩れた。

 

騒乱に追われた民は、廃墟に祷る影になれ果てた。闇夜の時代が訪れ、食い荒らされた弱種の残骸ばかりを残した。

 

悲痛と旧習は時の濁流に押されて次代を肥やして。いずれ来る復興を夢と見た。

 

東方の由々しき事態はしかし、ここ西方に届く前に石鏡の剣で裁断された肉の如く、その憤禍の跡を絶ち、新たな時代を慈しむための寿のみが齎された。

 

そして、斯様な時代に、先んじて西へと渡った夫婦がいたという。

 

妻の名前はセミラミス。夫の名前は残っていない。が、夫婦共に大層な美人であった。特に夫は脳膏を穿つような、薫り立つような美貌であった。その美しさに形を持たせることは叶わず、ただ言葉に訳するのならば理想、幸福、或いは希望と称するほか許されぬであろう。

 

そして、もう一人が妻の腕に抱かれていた。赤子の名前は残らなかったが、しかしその子孫は未だにギリシャの何処かに居を構えているという…。

 

伝え聞くところ、かの一家は東の大国を捨ててこの地に辿り着いたらしかった。この地に渡るには海を越えねばならなかったが、女が言うには親切な鳩の群れに運ばれ、この地の岸に渡ったのだという。実に不思議な話ではあるが、しかし、その証として彼らは鳩の羽を掌に乗せて見せた。それはこの地の誰もが見たことのないほどに巨大な鳩の羽であった。白く美しく、そして逞しい羽は凶鳥のものと言われても納得してしまうほどであった。

 

果たして辿り着いた一家は、早々に仕事を見つけた妻が働き、夫が家事を担いこの地に根を下ろした。

 

妻の歳は、聞くところによると五十に届かんとしていたが、その容貌は先述の通り若々しくかつ気力に満ち溢れて病を宿すことは終ぞなかった。妻はこの地に着くと異郷人でありながら、この地の言葉を一年と経つ前に使いこなし、夫の方は古風で難解な話具合ではあったが始めからこの地の言葉を使いこなしていた。その夫も間も無くこの地で当時使われていた言葉を使いこなせるようになっていた。

 

妻はこの地について間も無く、学識に秀でたものとして様々な難儀を解決して周辺の村落からも一目置かれる程の存在になっていた。求婚が後を絶たなかったため未婚の女たちからは嫌われていたが、しかし求婚した端から男を殴りつけて振り払うものだからか、男の悲哀を慰めるのに託けて婚姻が円滑に進んだ結果に多くの夫婦が生まれていた。

 

夫の方は妻が勝ち得た信頼により建てられた小さな庵で年々とこさえた子供たちの世話に忙しそうにしていた。夫の美貌は言語に絶するものであったから、夫を一眼でも拝むためにと毎日のように手伝いが訪れていた。

 

伝承で知られる一つ目鬼のように強く、これまた伝承に聞くところの海の賢者の如く聡明な妻が帰宅するまでの間、つまりは昼間のほとんどの間は誰彼かが甲斐甲斐しく夫の手伝いに集まっていた。そうしているうちに、夫のいる家は頼んでもいないのに無償で増築が繰り返され、日替わりで手伝いの者が十人も侍る大きな館となっていた。

 

妻は呆れていたが、夫が毎夜その日はどんな親切を受け取ったのか、どんなお返しをしたのかという話を楽しそうにするものだから仕方なく許すことにしたのだ、という旨を仕事仲間に話す程度には集落にその身を落ち着けていた。

 

毎日のように夫が出迎えた訪問者の中には遠方からの客人も多く、いや、次第に遠方からの名士ばかりが訪れては熱心に夫へと求愛していた。

 

それは集落の風物詩となり、気がつけば夫を求めて、また妻の手によって整えられた集落の住み良さを求めて、人に次ぐ人が集まって一つの大きな街となっていった。

 

そして、一家が越してきて三十年余りが経ち、妻は老い衰えて眠るように死んだ。老いも衰えも見せない夫に看取られた。老いも、衰えも感じさせない完全な美貌のままに死んだ妻の肉体に宿る神秘は、更に多くの人を呼んだが、それは敬うべき、慕うべきものでなく、強欲に従えられた愚かな波となり、波が引く頃には妻の亡骸は無論のこと、夫の姿すらもが掻き消えていた。

 

村は神の逆鱗に触れたかのように瞬く間に廃れ、村の中心に建てられた伽藍堂の館だけが残った。人々が小さくなった街を捨て、小さくなった村を捨て、そして草の根さえもが土塊に姿を変えてから、更に幾星霜が流れた今、再び人々の華やぐ穏やかな大地に根ざした街が建てられたのである。

 

夫の姿を最後に見た者がいた。その者の言うことには、夫は妻の亡骸を横に抱いて街門から堂々と彼方へ向けて旅路に出たのだと言う。

 

彼らの残した家を、すでに自立していた二人の子孫が今日まで遺した。

 

時には打ち捨てられ誰もが忘れた家だったが、こうして今日まで遺されているのは、或いは確かに彼の一家がこの地で生と死を営んだ証として消えまいと、この土地に眠る古人の意志が固く、その風化を、忘却を拒んだからなのやもしれぬ。

 

また、このような話もあった。ある時、まだ村に居を構えて間もなくの時分であった。妻が子供を連れての旅路は辛かったろうと言われた。その際、妻は今の子供は海の上で空の上で出来たのだ、と答えた。問いかけた者が更に聞いた所、夫婦は海を渡る鳩の翼の上で交わり、海を渡り切る前に今の子を腹に宿したのだと言う。次男であるらしいその子供は、後に父から母の名前が白き鳩を意味する所であると聞くと、生涯鳩に対して深く感謝したと言う。

 

 

 

古老の話は終わった。そして話に聞き入っていた研究者、ウェイバー・ベルベットの胸には弾けんばかりの確信が生まれた。

 

「(ありえる!ありえるぞぉぉぉぉ!!!いやしかし…この話はライダーにだけは聞かせてはいけない気がするなぁ…このお爺さんが問い詰められてグロッキーになるのが目に浮かぶな…。)」

 

一目惚れした知己の、未だ全貌知れざる世紀の所業の編纂に勤しむ青年の懸念はしかし、最悪のタイミングで、最悪の結果を産もうとしていた。

 

帰り際に一言感謝を述べてその場を辞した青年。戸に手をかけた所、建て付けの悪いそれは中々開かなかった。いや、と言うよりも向こうから違う力が作用して尋常ならざる頑強さを発揮していた。

 

「あれ?あれ?おかしいな?さっきはこっちで開いたはずなのに…どうして?」

 

「あぁ、お若いのどうかもう少しお優しくお願いいたします。この庵こそ、先程お話しした、朽ちた本館の中で唯一残っている遺跡なのです。なので、どうぞ落ち着いて!!軋んで、軋んでおります!!」

 

少しずつ雑になっていく青年の様子に、先ほどまでの神聖な雰囲気を崩して、焦った様子の御老体が彼を諌めて言ったが、御老体の願いも虚しく扉越しに野太い声が響いた。

 

「ん?その声はウェイバーか!?我がマスターの身でありながら我を置いて何をしておるのか!さては…また我に隠し事か!?」

 

今一番会いたくない英霊の声が扉を突き抜けて青年の耳に刺さった。後ろで御老体が身構えるのがわかった。そりゃそうだろう、目に見えて家が軋んでいる。

 

「おい、ライダー!!やめろ!僕が手を離すから!だからそれ以上その常時展開型の馬鹿力を入れるんじゃなーーい!!頼むから!!本当に大問題が起きようとしてるから!!」

 

必死に叫ぶが青年の声は届いていない様子である。いや、届いてはいるが聞く耳を向こうが持っていない。

 

所変わって扉一枚挟んで向こう側、人集りの渦中でギチギチの正装に身を包んだ巌のような肉体の大男が木製の引き戸に手をかけていた。扉の向こうに届く適切な音量を無視した、二軒先まで届きそうな大音声で数度、控えめだが必死さの伝わる声の青年とやり取りをしていた。本人の自覚なく、力を込めすぎた取手には既に罅が入り目も当てられぬ状態である。

 

そして、何かに気づいたのか、鼻を仕切りに動かし始めた。それは悲劇の序曲であった。

 

「何ぃ?それほどまでに秘匿したいと!そうか!ならば良い!推して参る…ん?くんくん…くんくん…。」

 

冷や汗がワイシャツを濡らし始めて久しい。頭を働かせてこの場を切り抜ける手段を検索するが、最適解がヒットするより先に征服王が得意の電撃的勘違いによって最悪解を導き出してしまった。

 

 

 

「ぬぉぉぉ!!!よりにもよってッ!貴様!ウェイバー・ベルベット!!大抵の隠し事に対して余は寛大である。しかし!!こと、我が至宝に関しては別である!!この扉の取手に未だ残る!!黒宝の郁香が!!余の鼻腔を擽るぞぉぉぉ!!!ぬぉぉぉぉ!いじらしいぞ!逢いたいぞ!!余のアマロォォォ!!!!今、そっちへ行くぞぉぉ!!!」

 

 

 

埃や木屑が物凄い勢いで青年の体に落ちてくる。既に横へとずらすという正しい開け方を諦めた大男が、両手で力任せに扉を引き剥がしている。ズタズタに砕かれんとしている扉の隙間から覗く大男の顔に理性はない。雌馬のフェロモンに当てられたて猛り狂う悍馬のような形相である。メキメキと音を立てて遂に粉々に弾け飛んだ扉。遮る者がなくなり、全速力で征服王の突進が弱々しい支柱をも砕いた。瓦礫の山が自重の解放によって勢いよく青年を呑み込んだ。

 

瓦礫に呑まれる直前、青年は感情を失った顔で立ち尽くしながら他人事のように思った。

 

 

 

「(あ°っ…終わったわコレ…)」

 

 

 

その日、ギリシャ屈指の歴史遺産が無惨にも破壊された。何の恨みがあってか、柱から何から粉々に破壊されており、あまりの無惨さに卒倒した語部の高齢者一名が負傷した。損壊の犯人は二名とされており、一名は見上げるような浅黒い肌に紅毛の大男、もう一名は痩せ型の黒髪の白人青年である。

 

現地の警察の調べによると、大男の方が雇われた実行犯であり、大男に担がれて逃走した白人青年が本件の首謀者として見られており、現在は余罪と手口などに関しての調査が進められている。

 

 

 

「二度とお前の里帰りに付き合うのはごめんだ!!!一度付き合っただけで、どぉーーーして、国際指名手配される羽目になるんだよォォォ!!!!」

 

 

 

この世界のどこか、善意の結果世紀の大事件の首謀者に勘違われた一人の苦労人。その虚しき悲哀が叫ばれたのは言うまでもない。そして後日、破壊された遺跡が外見上は何事もなかったように修復されたのもまた言うまでもないことであろう。

 

 

 

 

 

「のぅ、貴方は幸せだったか?」

 

寝台の上で、瞼を閉じてセミラミスはアマロに問うた。

 

「うん。大満足さ…そう言う君は?満足できたかな?」

 

問われたアマロは迷いなく答え、逆にセミラミスに問うた。

 

「…ふんっ。満足など、できるものではない。貴方といると、我は我ではなくなったように感じてしまう。これ以上、何も望まないのにもっともっとと貴方が欲しくなった。それに…」

 

瞼は閉じられたまま。セミラミスはくすぐったそうに笑って言った。感慨に耽るような口振りだった。弱々しく、何かが立ち昇り消えていくようだった。

 

「それに…?」

 

静かで細い呼気だった。鼻で笑われたのだと気づくのに時間を要した。アマロは息が詰まった。腕を、痛くもないのに震えていた腕を摩った。摩った方の手でセミラミスの髪を掬い撫でながら、誤魔化すように聞いた。

 

「…こ、子供を、我があれほど子供を産むことになろうとは…人とはわからんものだな」

 

頬が赤く灯る。健康的な赤みには程遠かった。それでも、いくらか胸を撫で下ろした。

 

「そうかな?…そうかもね?」

 

セミラミスの顔。匂い。頬。唇。姿形の全て。それらばかりに目を奪われていた。生返事になってしまった。

 

「ふっふっ…我より余程、経験も豊富であろうに…いや、この話は止めよう、我が嫉妬に狂う故な」

 

アマロの様子を思ってか、セミラミスは少し力んで笑った。そして、冗談めかして言った。

 

「ふふふ…ここ80年は君とばかりだから安心してよ」

 

アマロの笑い声は弱々しかった。だが、何か言わなければいけないと思い、いや、勘違いもされたくないとも思い、ない混ぜの内悶を素直に吐露した。事実であり、アマロなりに揺るがなかった事だった。セミラミスが来てからと言うもの、王とも王妃とも持たなかった。それに従ってか、王も王妃も互いを尊重する関係になったのだから、それこそわからないものだ。

 

「…80年。寂しくはなかったか?それまで、独りだったのだろう?」

 

セミラミスの言葉に含まれる独り。その独りとは、アマロを深く知るものだけが理解に達する、極めて特殊な孤独だった。確かに、セミラミスの以前の相手というのも、或いはそれほど遡らなくとも居たのかも知れなかった。

 

「あ〜…うーん。そうなのかも。でも、ちょっと違うかもね。うーむ…説明が難しいけど、ずっと誰かと一緒にいるんだよね…うん。だから、一つ、一つ、私の中から溢れていってしまうようで、その瞬間が来るたびに寂しいし、怖くなるよ…でも、そうじゃなかった頃は、どれだけ独りぼっちでも寂しくなかったよ。だって、別れもなかったから」

 

アマロは言葉を濁したわけではなかった。ただ、己という存在の莫大なことを、当人も未だ完全には理解しきれていないのだ。奇跡とは同時多発的に起こる。あくまでも荒唐無稽な事実、そこにアマロは生きている。この世に誰が、「同じ時間に違う誰かと運命を共にしている。ほら、今も」などと言われて理解できるだろう。その全てが、完全に同一で唯一のアマロであったと言葉で伝えられても、それは矛盾を克服しているただ独りの彼自身にしか実感できないものである。

 

だから感じるがままにアマロは語った。

 

「……いまは、どうだ?寂しいか?そろそろ、我も逝かねば、ならんぞ?」

 

アマロの全てを理解できたなどとはセミラミスも考えていない。だから、その都度に聞く。いままでもそうしてきた。アマロとセミラミスは、互いを信じている。信じているからこそ聞く。本当を知りたいから。貴方のことを知りたいから。貴女に知って欲しいから。互いに、互いを捧げ合うために、父として、娘として、妻として、夫として。そして、唯一純粋なる伴侶として。

 

「…………、…、…ん…寂しい、よ。それは、もう…寂しくて、とても、暗くて冷たいよ」

 

涙は流さなかった。まだ、まだだろう。瞼の向こうから、セミラミスに見られている気がした。だから微笑んで見せて。セミラミスが夢中になった優しい微笑みだった。険の無い、すっかり懐を預けたような笑みだ。セミラミスは一度だけ、その微笑みを、自分にとって親の笑みだと言った。

 

「……暗くて冷たいの、は、いやか?」

 

手が伸びてきた。アマロの頬にセミラミスの手が伝い伸びる。向かったのは首元、掛けられた腕は力無い。華奢で、美しい腕を胸に抱く。こっちに来てから、少し日焼けした気がするセミラミスの腕。この年の始め、倒れてから外には出ていなかった。いつの間にか、また白くなっていたんだな。流れそうな熱を堰き止める。

 

「……ん…、うん。温かい君が好きだ。どんな君のことも。でも、暗くて冷たくなってしまうのは、止められない、そう、今までも、これからも」

 

できるだけ強く。出来るだけ優しく。混乱したまま、ただ目についたものを片端から捧げるように言葉を繋ぐ。声を絞る。なるべく、湿っぽくはならないといい。

 

「…つらい、思いを、させるな…許せ…いや、憎め、恨め、妬め…た、だし…我だけだ…」

 

アマロの努力を知ってか知らずか、セミラミスは顔を仄かに歪めた。眦に光の粒が浮かんで、消えた。アマロがセミラミスの瞼に触れる程の、柔らかく唇を落とした。何度も。何度も。涙は甘かった。

 

「…もう。そういうことは言わない約束だよ?忘れちゃ…忘れて、欲しくないなァ」

 

気障たらしく言ってみせた。声が震えているのを誤魔化してみる。今のセミラミスは、誰よりも強いに違いなかった。だから、きっとそんなことを言えるのだ。けれど、それはアマロにとって何よりも自分が嫌になってしまう言葉だった。

 

夥しい奇跡に愛されながら、必ず、必ず、こうして。その度に、己の無力さを噛み締める。日頃、富めば富むほど、恵まれれば恵まれるほど、愛されれば愛されるほど、続けば続くほど。

 

奪われるわけでもなく。当然として失われていく。目の前からじわじわと失われていく。死ぬこともできず、産むことも出来ず、ただ、ただ。

 

堰きは今にも放たれそうだ。

 

「わす、れぬ…例え、この身が朽ち果てようと…そ、れ、だけは、忘れぬ…」

 

セミラミスの瞼が開いた。目は何処も見ていない。ただ、掠れた穏やかな眼光が、自分の方を向いていた。それでも、堰きは止まった。代わりに笑った。優しく、壊れてしまいそうなくらいに。

 

「…眠たいの?…寒いの?」

 

セミラミスの瞼は再び閉じた。アマロは努めて声をかけた。

 

「……ぁぁ…眠、い…な……あた、ま…を、なでて」

 

酷く幼く聞こえてセミラミスの声。愛おしさ、痛ましさ、何者をも憎むを許されぬ悲哀をどうすれば癒せるのか。ただ溢れそうなそれを、空を見上げることで堪えた。見上げた天井の傷んだ木材に残る焦げ跡が見えた。生まれたばかりの三男の為に重湯を寝台の近くで煮たせいで火が伝ったのだ。運良く全焼しなかったが、まだ焦げ臭いのだったか。思い出の中の善意の結果に知った、自分の不器用さにアマロは苦笑した。

 

「…うん、撫でるよ…こう?」

 

優しく撫でる。頭だ。髪は嘘のように傷みを知らない。惚れ惚れするほどに最高の状態で保たれていた。まるでずっと、生きていてくれるような気がする。でも、そうじゃないことを既にアマロは知りすぎている。

 

「ぁぁ…ここち、よい、な」

 

セミラミスの口角が上がらなくなってきた。鼻を啜る。

 

「ねっ…ねぇ!何か、もっとして欲しいこと、言って、私に教えておくれ!」

 

耳元で言う。必死で、暑苦しいだろう。だのに、セミラミスはしばらく何も返さなかった。

 

「…さ、寒い、な…だか、ら…抱いてくれ…」

 

時間が経ってから答えが返ってきた。青い顔のまま、アマロは寝台に潜り込んだ。

 

「ほら、どうかな?あったかい?布団の中で、一緒だよ。私と、君だけだよ」

 

頬を擦り付け、頭を撫でた。額にも唇を落とした。息が浅く、早い。自分の方が余程死んでしまいそうだな、とアマロは思った。また、この感覚だ。あぁ、直に、直に、直に…

 

「…ぅぅ……」

 

セミラミスは口を開いたまま。か細く息を吐いた。喉を震わせて僅かに何かを言った。愛の言葉じゃ無い。告解でも懺悔でもない。其れだけはわかった。もっと、もっともっともっと…他愛のない話だ。昨日の晩御飯の話かな?もっと、味気のあるものを食べさせてやりたかった。一緒に、同じものを食べたかった。そういえば、しばらく水さえ飲んでいなかった。

 

「………いい子、君は本当にいい子だよ…大丈夫だよ…大丈夫…もう、私は大丈夫…私はちゃんと、最後まで君の傍にいる。ここにいるよ…最期まで、君のものだ。君の、最期の一息まで、私には君が全てなんだ…ずっと、ずっと忘れないとも」

 

セミラミスの瞼は閉じたまま。開いたままの口も閉じてしまった。いいや、アマロが閉じたのだ。しっかりと閉じておかなくては。しばらくすると固まってしまうからだ。

 

「……………」

 

じっとセミラミスの顔を見つめた。寝台から身を起こした。髪に手を通す。滑らかで、そして綺麗だった。

 

「……………」

 

唇も柔らかくて、甘かった。彼女に最後に求められたのは、昨日だったか。昨日の、寝る前だった。彼女は接吻を好んでいた。

 

「……………」

 

手には、東にいた頃にはなかったタコができていた。アマロより、余程力持ちだった。農作業を楽しいと言っていた。農民が羨ましい、だなんてセミラミスは本気で言っていた。すぐに、偶にする分には、と言い加えていたが。

 

「……………」

 

八十年も前は、あんなに小さかったのにな。今では、私の指よりしなやかで長い指だ。赤ん坊の頃に咥えていると君が口寂しいのを教えてくれた親指、人を指し示す偉い人の人差し指、気が立つと仕切りに机を叩いていた中指、約束を契った小指。そして、契りを果たした薬指。

 

「……………」

 

私は自分の薬指を見た。鈍く黒い指輪が煌めいた。いつにも増して美しい。潤んでいるのは気のせいだろう。折角の指輪が、磨かれた私の宝が、今だけは塩辛く、水浸しだ。

 

「……………」

 

まだ、私の旅路は続いていく。

 

私は歩む。ただ、君を忘れない為に。

 

全てを、君のために使うよ。全ての今を、全ての君に使ったように。

 

これからも、ずっと、ずっと。神様になんてなれない。奇跡なんて、私が起こしているわけじゃない。全てを救うなんて私は御免被る。

 

私は、ただ君が為に。

 

 

 

セミラミス

 

私の可愛い娘

 

私の大切な友

 

私の愛しい妻

 

 

 

 

そして、私の伴侶よ。

 

きっと、君が私だったらこう言うのだろう。

 

 

 

良い旅路であったな、我のアマロよ。

 

 

 

あぁ、そうさ。良い旅路であったな、私のセミラミスよ。

 

 

 

また…何処かで…必ず…君と…。

 




感想をもらうと嬉しい。では、また。


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メシウマの国〜序章〜
B01一人の王


副題〜旅人と魔法使い〜
評価、感想、誤字脱字報告ダンケなっす!!第三の目がレギュラー出演しました…とかどうでもいい話はこれくらいで。では、どうぞ。


B1 一人の王

 

 

 

 

 

汝、己が罪を積みて尚告解の末に枯るるを不服とするならば、ただ一時悲しみを、憎しみを、恐怖を忘れよ。

 

ただ静寂と誉の裡に眠れ。罪とは過ち。過ちは先んじ得ぬもの。汝、咎人に非ず。汝、生者なり。即ち、罪を得ることすら許されず。抑、罪なき者に許しは無し。

 

歩めよ、果てに着くまで。汝、いずれ辿り着かん。楽園に辿り着かん。閉ざされしかの地にて、贖罪の虚無を抱けよ、憐憫の狼煙を焚けよ、厳しく崇き己が剣を捧げよ、還せよ、然すれば孵らん、孵ればただ迫るを待て、這い寄り来る死の余夜に哭けよ。

 

 

 

然すれば、然すれば…

 

魔法使いは問いかける。汝は是に応えよ。

 

然すれば、然すれば…

 

全てを喪い、暗黒に眠るを待つのみ。汝は是に沈めよ。

 

然すれば、然すれば…

 

果てしなき暗黒の淵、陰りき坏の御座所へ渡る君を求めて、君を探して来たる者あらん。

 

 

 

其処で…底で…君は、君よりもっと罪深い彼に看取られることだろう。無間地獄の旅人が、尚慈しみ、愛しみ、翳るを知らない憩うべき微笑みを分け与える。万世の万流を形作る、星に愛されし虚構達の絶望を打ち払い、ありきたりな平穏で空の身体を埋め支える。

 

男が貴女を看取る。矮小な男が偉大な貴女を看取る。見知った男が貴女を看取る。涙する貴女を、一人の男が看取ることだろう。

 

いずれまた、必ずまた…必定の再会を期して、今今に終う生気を吐き、死の影を呼べ。影は貴女を支えよう。何人にも知られ得ぬ影が、ただ貴女のことだけを支える。今だけは何人も貴女を侵せず、貴女だけが彼に刻む。数え切れない、遺した者たちが、そうしたように。今だけは貴女が彼に刻む。影は貴女を支えて。貴女は影に支えられて。巨口を開けた御座へと、去ぬるべき光が迫る、虚構を跨ぎ楽園を足蹴に、光が君を呑む。

 

だが恐るな。光は貴女を奪えない。光は貴女を蝕めない。光は貴女を救えない。彼が健気に、滅びゆく貴女を支える。彼が健気に、滅びゆく貴女を看取る。滅びゆく貴女は、彼の手に己の手を重ねる。支えは解かれ、初めて貴女は許される。罪を数え、そして許される。悠久の悲哀と歓喜が靡く。聳え立つ今の礎に、押し潰されし己の名残を認めて。貴女は御座へと還る。貴女は御座へと還る。ただ一つ、永遠に清算されざる罪を楽園の彼方に遺したまま。

 

再会を待ち、静かに眠る。御座の虚器は眩く満ちて、穢れし霊光を貴女に注ぐ。貴女を濯ぐ。ただ唯一頑なに結ばれた影を遺して、潰えることなき伴路の證を。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、時は六世紀のブリテン島、かの地は今や在郷民族ブリトン人と移民族ピクト人、アングロ・サクソン人による武力紛争の只中であった。ブリトン人が野蛮人、蛮族と蔑視するアングロ・サクソン人はしかし極めて強大であり、その領土侵略の勢いたるや圧倒的にブリトン人が押しやられるばかりであった。これに対してブリトン人はより一層の憎悪を燃やしていた。

 

過去にローマ都市ロンディニウムが栄えていたのも今や遠い昔のようであった。

 

ローマという概念の崩壊に伴い、巨大な支配力から解き放たれし中小の現地有力者を軸として、新たな秩序が各地で構築され始めた。

 

それは旧植民都市ロンディニウムを有する、我らがブリテン島もまた然りであった。そして、侵略者に対して守勢に回らざるを得ないブリトン人の中にも、燦然と煌る綺羅星が存在した。

 

其れは一人の少女の運命を導くに至る、三人の王達であった。

 

一人は卑王と呼ばれてヴォーティガーン。

 

一人はヴォーティガーンに父王を殺された兄弟の片割れペンドラゴン。

 

一人はヴォーティガーンに父王を殺された兄弟の片割れウーサー。

 

三人は必然的に激しい衝突を繰り返すこととなった。しばしば各個がアングロ・サクソン人の脅威を退けつつ、忍ぶべき時に三者は同族同士に剣槍を向け合った。そして、偉大なる兄王の無念をあと一歩で晴らす前に、蛮族達の大軍勢が上陸を目前としているという情報がブリテン全土を駆け巡った。

 

ペンドラゴンとウーサーの兄弟は軍勢をまとめて海岸線へと向かい蛮族を迎え撃たんとしたが、卑王ヴォーティガーンはここぞとばかりに軍勢を出し渋り、我の居城を来るべき大戰に向けて鍛えることを選んだ。

 

蛮族の暴虐に立ち向かうブリトン人の希望の星である兄弟の英雄譚があちこちで語られた。

 

その勇気に感服し、また行く行くは王として多くの騎士を抱えるであろう貴人達からの覚えを少しでも目出たく致そうと図った志願兵が、続々と兄弟の元に集まった。その数たるや遥か向こうに聳えんとするヴォーティガーンの城塔からも眺めがつく程であった。

 

莫大な信望を糧にいざ聖戦へと向かう兄弟。そんな英雄譚の当事者たる彼らの元へと不思議な噂が、蛮族の上陸開始を報せる角笛と共に届けられた。

 

そして、その同日同時刻、卑王ヴォーディガーンの居城にも、兄弟が耳にしたものと同じく不思議な噂と、塔の改築が進まぬ原因を調査させるための学識者達の到着の知らせが届いていた。

 

 

 

噂に曰く、ブリテンには世にも珍しき旅人があり、それは二人組であり、一人は極めて美貌尊き黒髪の大人の男であり、一人は小柄で妖艶な白髪の少年である。

 

噂に曰く、男は祝福を、少年は魔法の恩寵を一宿一飯の対価として与える者也、と。

 

噂に曰く、祝福は超常にして大なり、魔法の恩寵は奇妖にして万能なり。

 

噂に曰く、旅人は直に其方らの元へも現れるであろう、と。

 

 

 

三者の反応は遠からず。怪訝に、しかし驚きつつ興味深げに耳を傾けていた。だが、三者の動きには時差が生まれ、その時差が三者の命運を分けることとなる。

 

機先を制したのはヴォーティガーンであった。配下のものを馬に乗せ、各地に向けて客人として件の旅人を探させたのである。

 

対して、兄弟は人探しどころではなかった。蛮族が雲霞の如く、海を木から切り出された浅底の船が黒々と埋め、満載された屈強な蛮人戦士が矢を火をものともせずに突撃してくるのである。前線は大混乱だったが、辛うじて軍勢の体を成しているのは兄弟が陣営を築いて攻め寄せる軍を撃退する防衛側であり、雨天で視界の悪さもさることながら激しく嵐が吹き荒び、荒波に飲まれてかなりの数の蛮族船団が海の藻屑と化したからであった。

 

しかし、抑の性質から異なる戦闘民族アングロ・サクソン人とブリトン人の間には戦意に限定してもかなりの差が存在していた。その差を、なんとか兄弟という希望の存在が下支えしている状態であった。だが、象徴と呼ぶにはあまりにもドラマ性が欠ける二人の力では、英雄譚を紡ぐことも、圧倒的不利を覆すことも不可能であることは瞭然なる事実として、彼らの未来に暗い影を落としていた。

 

 

 

嵐は続き、剣戟と断末魔だけが数刻の間繰り返された。数えきれない名もなき者達がその屍を晒した。海岸線沿いは汚染され、海は血で染まった。無惨に引き裂かれた陣地で命辛辛生き残ったのはブリトン人の方であった。英雄的な勝利とは言い難かった。だが、ブリトン人が勝利したという事実が残った。

 

押し返されて海に沈んだ蛮族もいれば、背を向けて海の彼方へと逃げてゆく蛮族もいた。血と泥で装具を汚した兄弟は、自分の体が雨風に長く晒されたからか冷えているのを感じた。だが、生きている。底から温もりが吹き返すような心地であった。生きた心地がした彼らは、未だ自分達でも理解できていない現実と向き合うべく、半数も残らなかった伴周りの腕を引き起こしながら、緩慢な勝鬨を上げた。それは次第に大きな歓呼へと延じていった。蛮族撃退の吉報は、多分に着色され、無名の戦士が死化粧まで施されて、枯葉の原が火に呑まれるような激流となって、ブリテン島を席巻していく。

 

英雄の誕生だ。偉大なる、騎士達の王だ。勇敢な戦士の凱旋だ。大義のため、正義のために喜んで死のう。それこそが誉れよ、神は必ずお導きになるが故。

 

血泥を噛むような雑兵の殺し合いも、ひしゃげた鉄兜で殴り殺しあう貴人の格闘も、糞尿と臓物の汚臭に吐瀉したペンドラゴンの姿も、蛮人から殺されかけて失禁して泡を拭いたウーサーの姿も…誰の記憶にも残っていなかった。ただの、味気なく、潔癖無欠な栄光だけが人々の心に居座ってしまった。

 

否、例え真実を存じておろうが、その悪趣味な光物を求めずには居られなかったのだろうが…。

 

 

 

荒涼とした大地は痩せて、民の亡骸が浮かぶ水面は毒煙を上げる。なんたる惨状か、言葉に尽くせぬ虚無の涙は人知れず岸辺へと伝い、例え妖師に縋ることすら厭わぬほどに、ブリトン人は希望を欲した。

 

わかりやすく、何よりも美しい希望の光を。

 

希望を求めて止まない者たち。そこに貴賎はなかった。だがしかし、希望の配分を受け取ることが許されるものに貴賎は無慈悲に通用するのである。過分な希望の恩恵に溺れる貴人は、外敵へと向けた己が惰弱と無力を、己が縦にできる持たざる者を足場として、その忙しく縮んだ己の姿を大きく見せようとする。痩せ細った矮躯を、その名も知らぬ者共を踏み場として立ち上がる巨獣は、俗に竜と呼ぶに足り、己が悍ましさを誇り吼える。黴びた希望をかき集めた矮小なる者の声は未だ届かず。

 

努努忘れる勿れ、その手に掴みし希望の正体こそ、いずれ至るべし、生温い己が肉であることを。

 

 

 

第三の目曰く、それは彼女の物語の序曲であった。三人の王の内、最初に命を枯らしたのは卑しき簒奪王ヴォーティガーンであった。老獪なこの男は、しかし最も王らしく死んだ。

 

 

 

「噂は真であったか。して、貴様らは何者か?怪しき術を操ると聞く。果たして、その力は主に背く者ではあるまいな?…いや、今はどうでもいい話か…」

 

峻な岩山の上に威容を誇る巨大な塔の前、未だ改築が終わらない塔の前に設営された急場の玉座に腰掛けたヴォーティガーンは、己の名前で招待させた件の旅人二人組と謁見を果たした。

 

「王様、それは滅相もございませんよ。僕は頼れる魔法使いのマーリン、そしてこちらが僕の大事なパートナーのアマロ君です。」

 

「はじめまして王様。私たちに何か用があるようだけれど…頼みごとからマーリンによろしくね?私は彼のお伴なのさ、荷物持ちぐらいしか役に立ててないからね。」

 

低く唸るような声で問答するヴォーティガーンに対して、マーリンは飄々と応え、アマロはマーリンの言葉に付け加えるように自分を紹介した。

 

「貴様らの噂は聞き及んでおる。さて、名の売れた御二方にはその力を見せてもらおう…否、これは命令だ。」

 

アマロの言葉を聞き流して、ヴォーティガーンは早速本題である、頼み事を申し入れた。相手の真偽など、頼み事という名の命令を果たせるのか否かで判断すれば良いと考えての行動であった。 

 

「えぇ、構いませんとも。偶にはこういうこともいいでしょう。アマロはどうですか?」

 

「うーん。マーリンが乗り気だから私も文句はないよ」

 

「ふん!無礼は許そう…ならば話は早い。ついて来い。」

 

状況を飲み込み期待の篭った無邪気な顔のマーリンと、状況に関係なく暢気なアマロの様子は、依頼側の卑王をして強い自信の表れであると受け取った。玉座を立った卑王は、二人組を引き連れて塔の基礎へと向かった。基礎の前には祈祷師や、呪い老、司祭やら、学者やらが取り留めのない様子で群れていた。

 

マーリンが問うた。「僕達もあの中に混じればいいのかな?」

 

アマロは困った顔で言った。「専門的なこと…うぅ、今まで暮らしてきた場所の言葉しか人に教えられるようなものなんてないんだけど…」

 

場違いに明るいマーリンと、場違いに手持ちを数えるアマロの様子に、遠目にこちらを伺っていた識者たちが騒ついた。マーリンの生意気な様子を嘲る声と、案の定見たこともないほど美しいアマロに息を呑むのが聞こえてきた。前者に対してマーリンは胸を張り、後者に気づくとマーリンは更に胸を張った。

 

騒がしくなった塔の基礎石の前。やや困惑し始めた周囲を鎮めたのは卑王の一拍手だった。

 

卑王は静寂を嗅ぎとると、厳しく眉間に皺を寄せながら語った。「さて、役者も揃ったのだから始めようではないか。識者よ其方らを集めたのは他でもない、我の玉座を据えるに相応しきこの堅牢な岩山に、どうして塔が礎ぬのか…その原因を明らかし、そして解決するためである。お前たちの怪しい呪いと、数週間にも及ぶ調査の結果を示せ。痺れを切らした儂が新しい客人のために、先客の血で汚した部屋の壁を塗り替えるまえに、おどれらの価値とやらを少しでも、この卑しき王にご教示願えぬかな?」

 

卑しき王の言葉に呼応して、周囲の幕から武装した兵士たちが現れた。招待客の周囲をぐるりと囲んだ彼らは槍を突き出し、一歩一歩とその円を狭めた。にじり寄るように、鉄のバケツで感情の読み取れない数十の兵士たちが迫る。

 

若干二名を除いて、集められた識者たちは腰を抜かした。中には祈り出し、中には何かの一節を一心不乱に諳んじ、中には失禁し泡を吹く者もいる。

 

老獪なヴォーティガーンは須臾の間、呆れた表情を晒したが、すぐに卑しき王の嗜虐的な表情を張り付けて識者たちに今一度問うた。「さあ!諸先生方、儂に教えてくれぬかね?どうして儂の塔は礎就かぬのかな?この岩山に問題があるのか?それとも材料か?人夫か?道具か?それとも呪いか?どうなのだ?」

 

退き退きと識者は肩を寄せ合い歯を鳴らした。そして、進退窮まった識者の中に一人、呪いに通ずる者がいた。この者は辺りへと救いを見出さんと頭蓋の中身を掻き回す勢いで捻り回し、そして思いつくがままに其の場凌ぎの忠言を絶叫した。

 

「王よ!賢明なる王よ!!ど、どうか槍をお納め下さい!!お話しします!!この塔が何故立ち得ぬのか、その根因についてお教えいたします!!ですから、どうか槍をお納め下さい!!」

 

必死な形相は視線が彷徨い、今にも飛び出さんばかりに瞳が開かれていた。尋常ならざる様相の識者に、悪どい笑みを上手に浮かべたヴォーティガーンが詰め寄った。槍は納められ、怯えと安堵に留まる群れから引き抜かれた識者が、震える足のままに朗々と語った。

 

「この岩山には然るべき儀式を行わねばなりませぬ!この岩山には竜が住んでおります!!竜が暴れる限り、この地には王陛下がいと高き城を築くことも難いと言わざるを得ませぬ。そこで!」

 

そこで、言葉を切った識者は渦を巻き、泡を吹きながら向き直った。

 

向き直った先、群から外れて隅の方で怯えもせず、安堵もせずに、今日の晩御飯をどうすればヴォーティガーンからご馳走してもらえるか、について真剣に相談していた旅の二人組を指差した識者は叫んだ。

 

「ここに夢魔の血を引く者がおります!!陛下!竜は腹の虫が鳴いておる苛立ちから暴れるのです。そして!竜の腹を満たすのに絶好の物がございます、そうです!同じく人の理を断りしモノたる夢魔の族にございます!血を、肉を、かの邪竜に捧げれば、然すれば、最早増築を妨げるものは何もございませぬ!」

 

この時点で、識者はうろ覚えの知識と適当な出鱈目を限界まで増幅したものを卑王に訴えた。竜がいることなどあり得ないし、夢魔だと断定したのは髪色が白で珍しいからだった。更に言えば、この場では誰かが犠牲にならなければ代わりに誰かが死ぬのだという考えが頭を支配していた。強ち勘違いではなかったが、しかし荒唐無稽な内容を迫真の絶叫を駆使して誤魔化した識者は達成感すら感じながら、卑王が自分の元から白髪の少年の元へと向かったのを心から安堵した。

 

そして、安堵の息を吐き終わるより早く、身体中に矢羽が突き立つ光景を最期に崩れ落ちた。二度と安堵することも恐怖することもなければ、二度と判断を過つこともなし。卑王はマーリンの前まで進むと、厳かに、見せつけるような緩慢な動きで腰の剣を抜いた。剣の腹にマーリンから自身の顔が映るようにと構えた卑王は、冷徹な表情で言った。

 

「貴様が夢魔であろうと、無かろうと関係がない。ただ、貴様は先程から緊張感に欠けておるな。この愚かな識者の言葉が真であるかもまた、どうでも良い。ただ、愚者の悲痛な叫びとやらに耳を貸すのも一興だ…どうだ?塔を建てるため、真相を解明するか、それとも夢魔として血を捧げるか?…安堵せよ、隣の御君に傷などつけぬ、ただ儂が貴様の骸から引き剥がした上で登用するだけだ。」

 

殺意の爆発に卑王は飛び退いた。冷たい目には灰色の塑像が並ぶばかり。人間性の介在しない圧倒的な気配は今度こそ識者と兵士たちの意識を刈り取った。ただ一人、卑王だけが残った。

 

身構える卑王の前まで進みいでて、鋭い気配を飄々たる泥で塗したマーリンは口を開いた。呼気は青白く濃霧を思わせ、鋭い牙が口から顔を出して、赤毒の滴るその様を幻視した卑王の頬に冷や汗が伝う。

 

戯れも程々に、今度こそ剽軽な表情の彼は愉快そうな足取りで岩山の方へと、塔の礎の方へと卑王を追い詰めた。立場の逆転に、その当然からなのか卑王に動揺はなかった。ただ、恐怖。得体の知れぬ何かと出会ってしまった。そして、自らの進むべき道の果てを先んじて定められたかのような…。狡猾にして聡明な卑王は底抜けな無力感と劣等感に襲われていた。

 

肩を揺らして焦りを顕にしたまま、彷徨う剣先にまで顔を寄せたマーリンの声はどこまでも澄み切っていた。地平線の山にまで、その更に先の血濡れた海岸にまで届くようの、深々とした反響が腹の底にまで響いた。

 

「卑王ヴォーティガーン、君の無礼は許そう。だが、それだけじゃ面白くない。君だって人間の端くれさ、折角だし種明かしをしてあげよう。そうだそうだ、後は下拵えも必要だね。大切なアマロの為さ、僕も出し惜しみなんかしない。」

 

ヴォーティガーンには何の話なのか理解できなかった。しかし、かの麗しき男に目の前の少年が尋常ならざる仕掛けを用意しようとしていることは分かった。その為に自らが供されるということも。それは納得であった。理不尽の外、純然たる事実として自らが歩んできた道を顧みれば、いずれ来たるべき終わりのことを考えなかったことはない。ただ、今だという。ただそれだけのこと。

 

卑王の中に漠然として明確な覚悟が芽生えたのは、あくまでも王たるヴォーティガーンの矜持に叶うものであった。それは誉に違いなかった。その類にはとんと興味のないマーリンにも、目の前の老公が確かにその名を後の世に遺す者であることを理解した。故に、マーリンは目の前の一人前の人間が抱えていた悩みの一つを解してやることにした。悪戯好きの彼の中に、敵味方の境とは跳べば越えられる程度の違いでしかなかった。親しきにしろ、そうではないにしろ、マーリンは己に忠実であった。

 

「さて、種明かしをしよう。君の頭痛の種を一つとってあげよう。」

 

そして、マーリンは曰く付きの岩山の真相について語り出した。

 

「卑王よ、君が殺した識者殿はどうやら本当に識者であったらしい。竜の話も夢魔の話も何方も事実だ…ただし、敢えて言うならば半分正解で半分不正解だねー。竜が岩山にはいることは正解、でも腹を空かせて暴れているのは不正解。そして僕が夢魔なのは正解!これは本当に驚いた、勿体無いことをしたかもね?いや…そうでもないか。だって、僕の血肉を捧げたところで竜の腹の虫は治りっこないんだから。寧ろ、気位の高くて潔癖な彼らのことさ、きっと逆上するに違いないよ!君、命拾いしたね!」

 

唖然とした表情の卑王。その顔を待っていたとマーリンはニンマリと笑った。やはり悪戯は仕掛ける側に回るのに限るな!と彼は思った。マーリンのいやらしき笑みに、揶揄われていると考えた卑王は意識して腹から声を張って問うた。

 

「まてッ!!貴様、その話は真だというのか?いや、真だと言うならば儂の目に、その竜の姿を見せてはくれぬか?望むべくは、答えも頂戴したい…どうかこの通りだ!!」

 

強硬な表情のままに、態度が下々と謙られたのが気持ち悪そうにマーリンは舌を出して言った。

 

「はいはい、わかったから。今日は特別に…いや、君にも知る権利は確かに有る。応えもあげよう。だから、最期までソコにいるように、ね?」

 

マーリンは笑みを萎めると、手を岩山の中腹に向けて翳した。卑王はマーリンが手を翳した場所こそが塔の礎を確かにする事を許さぬ、事の震源地であることを思い出して目を剥いた。得体の知れない咆哮が揺れを引き起こし、岩並は漣の様に変形していた。火口がないにも関わらず俄に熱気が昇る岩肌が、マーリンの手を推として、がらがらと、岩山の奥へと呑み込まれていくように崩れた。

 

「ほぉら、ご覧よ。これが、君を悩ませていた竜と言うやつさ。」

 

マーリンが指を揃えて、自分の家を案内するように丁寧に指し示した。先に見えたのは、白く禍々しい巨大な竜、そしてもう一頭の火で焼き付けたように赤く輝く鱗をもつ竜だった。

 

己らの世界の天輪が崩れて不届き者が高見物に現れたことになど気にも留めずに、巨大な二柱の竜は互いを傷つけあっていた。鋭く長い爪は断頭用の大剣にも勝る破壊力を誇り、鱗に覆われた尻尾は重装騎兵の一斉突撃にも勝り、堅く嶮しい肉体は鋼の城壁にも勝り、その赤々と熱波荒ぶ金剛の顎門から犇めく焔舌は凡ゆる英雄譚をも荒々しく焼き尽くすに違いなかった。

 

竜を前にして呆然と我を失った卑王は、マーリンにも肩を叩かれて向き直る。沈黙は続かず、急かすように卑王は言った。

 

「もう十分だ。アレはどうにもならん。儂らとは、全く異なる存在だ…もう、十分だ。岩戸を塞いでくれ。」

 

卑王の言葉はしかし、マーリンによって遮られた。マーリンは淡々と言った。

 

「それは出来ないな。ごめんよ。でも、君も見たはずだ、そして知ったはずだ、君がどちらなのか。岩山の塔は直に完成するはずだよ、だから安心するといい。」

 

マーリンは憎々しげな瞳を向ける卑王に向けて更に付け加えた。マーリンの憐憫の混じった瞳を見て、卑王の瞳から憎しみは失せ、ただ慈悲を乞うような弱さが瞳を満たした。だが、マーリンの憐憫が向かうところは初めから卑王に対してでは無かった。

 

マーリンは妖しく冷涼と告げた。

 

「卑王ヴォーティガーン、君の悩みの種は直に治る。何故ならば、白き竜は赤き竜の牙の前に倒れるからだ。死ぬはずも無い竜は直に死に、そして赤き竜もまたその役目を終えて眠りにつくだろう。死した白き竜は牙だけを遺して岩山の御座へと還らん。その美しく霊艶な奇跡の牙は鋼より堅く、梢より軽く、そして癒せぬ傷などない神秘を湛えている。直に竜は死ぬ…けれど、それでも君が竜を殺したければ、古の工徒に牙を研磨させるといい。そして、君の元に現れるであろう竜を殺すといい。」

 

マーリンは「ふぅ」と息を細く吐き、角張った声音と厳しい話し方をやめてから、まるで何も初めから起こらなかったような気軽さでアマロの元へと戻ると、その腕を引いて周囲の幕の奥へと消えた。

 

「待て!!ま、待ってくれ!!おい!たのむ、最後に、最後に一つだけ教えてくれ!!!」

 

崩れそうな足取りで走った。ただ叫んだ。どうしても知らなければならなかった。

 

「儂を!わしを、殺すのか!!竜が、かの竜が儂を!儂を殺しにくるのか!?!?答えろ!!応えよ!!!」

 

突然に何処かへと向かった二人を追って、二人の入った幕を開いた卑王だったが、そこには既に誰もいなかった。人二人がいた痕跡も、影も形もなく。ただ、時間の経過のみを無情に伝える埃が舞っていた。

 

力なく跪き、目を見開き、そのまま俯いた。咽せながら言葉を失った卑王の生んだ静寂は、周囲が騒がしくなったことで断ち切られた。

 

孤独から解放されてような心地で、幾分白くなった髪を後ろに撫で付けてから、慌ただしく駆け込んできた伝令の兵士から幕を出たところで報告を受けた。

 

兵士は言った。「陛下!!ペンドラゴンとウーサー兄弟が蛮族の大軍勢を海岸で退けました!!街は兄弟を讃える声で溢れております!!!そして、陣地前にこれが…。」

 

兵士が差し出したのは安物の皮紙に、炭を擦り付けて記された文言の羅列だった。達筆なのは嫌味なのか、等間隔の書式に流麗な文字が綴られていた。

 

 

 

「………赤き竜は眠りにつく。白き竜は死ぬ。人間の手にかかって……」

 

 

 

卑王は伝令の兵に言った。

 

 

 

 

 

「牙を磨げ、そして儂に槍と剣を鍛えよ。竜を殺すのだ。何来るべき、竜殺しの霊装を鑽よ」

 

 

 

 

 

第三の目曰く、蛮族を撃退したペンドラゴンとウーサーの人望はブリテン島に比類なきものとなった。憧憬の徒は挙って二人の偉大なる騎士公の元へと集った。激戦の傷癒えからぬ内に、兄弟は卑王ヴォーティガーン討伐の為の兵を挙げた。その数は勇猛な騎士を数千と揃えるほどであった。

 

圧倒的兵力で迫るペンドラゴンとウーサーの軍勢は数日の進軍の末に、ヴォーティガーンの居城を囲う石壁の前にたどり着いた。堅牢な城塞を更に囲んで陣幕を張った。昼と夜となく、整然と並べられた戦列は、煌々と篝火に照らされながらも日に日に威圧を増した。じりじりと兵を寄せ、着いてから二日後の夜中に戦の火蓋が切られた。

 

二日の間に梯子と大木槌、衝木錐を拵えた遺児達の軍勢は全方位からの攻撃を開始した。敢えて消耗戦を選んだのは、戦場の現実を知ったからこその自信であった。大軍勢という潤沢な駒の圧力が二人の王位継承者の足場を押し合い圧し合い強引に踏み固めてしまった。根拠のない全能感に突き動かされるままに、無謀なまでの蹂躙を命じたペンドラゴンとウーサーの目には、自らの姿こそ運命を切り拓く、不可能を可能とする、その末に念願を叶えるに相応しい英雄であるのだ、という確信が蟠を巻いていた。

 

彼らは確信した。確信してしまった。

 

惜しくも彼らの最大の不幸は、その確信を死に至るまで捨てずに進んでしまうことだろう。

 

偉大な二人の指導者の思し召しのまま、勇敢で純朴で無知な騎士達は愚直に堅固な城壁への突撃を開始した。後先を考慮しない劇的な攻めは、期せずして一種の狂宴を催し、前線の一兵卒に至るまで遺児達の確信が乗り移ったかのように奮闘した。血が沸騰したように、涎を垂らしながら武器を振るう騎士達の姿は、城に篭り耐え忍ぶ卑王の兵卒達にとって恐怖と不安を煽られるのに十分すぎた。

 

日に日に城内から逃げ出す兵士が増えていった。逃れる兵士が、他の兵士の口止めのために他の兵士の逃亡を手助けする悪循環が生まれた。

 

「どうか、どうか我らを貴方様方の軍勢の末席に加えて下さい!!必ずやお役に立ちます!!卑王へと付き従ったことへの贖罪を、槍働きでお返しいたします!!」

 

「ならぬ!!!!」

 

「そうだ!!そうだ!!兄者、此奴はヴォーティガーンの手先に違いない!!」

 

「その通りだ!貴様ら、我ら兄弟を謀った罪は大きいぞ?」

 

「殺せ!!殺せ!!!」

 

「裏切り者だ!!殺せ!!」

 

逃れた兵士たちは英雄と名高い遺児達に忠誠を誓うために兄弟の陣営に出頭し、そこで卑王の手先として惨殺された。猛った猿は敵が平坦な肉塊に変わるまで振り上げた拳を叩きつけるのを止めない。兄弟が同族を打ち殺す様は、それに良く似ていた。

 

「貴様らの罪は、正義の執行者である我が軍を阻み、剰え我らを謀ったことである。そして、投降などという恥ずべき謀略を用いて我が軍を混乱に陥れようとしたことは許し難い!!よって、貴様を神の名の下に正義の鉄槌の刑に処す!!懺悔の時間をくれてやる。」

 

ペンドラゴンは、血走った目で投降した兵士たちへの罪状を叫んだ。投降した兵士たちは縋り付くように命乞いを始めたが、ペンドラゴンは興味なさげに酒盃を呷った。

 

「おい!!騎士たる誉を示す機会を俺が与えよう!!さぁ、正義を示せ!!懺悔する気もない、恥を知らぬ輩らだ!今こそ、今こそヴォーティガーンへの憎しみを晴らす時!!さぁ、やれ!殺せ!!」

 

ウーサーはその処断を、決起盛んな志願兵の中から取り立てた若い一代騎士の群れに命じた。二人とも陣中での美酒に酔っていた。口答えをした投降者にウーサーが杯を叩きつけ、杯が転がり込んだ者達から順に、若く血の気の多い騎士達の手で次々に殺されていった。

 

お仕着せの甲冑を耳障りに鳴らしたてながら!彼らは正義の名の下に、ブリトン人がブリトン人を解体していく。身包みを剥がされた上で縛られて逃げ道もない、無抵抗のブリトン人を、荒々しく興奮した完全武装のブリトン人が忙しなく腕を振り上げ、そして振り下ろした。一振りごとに肉片が飛び散った。生々しい音が響き、血腥さで酒の酔いが覚めた兄弟は盛大に吐いた。

 

偉大な英雄の醜態に辺りは騒然となったが、二人はその場にいる者達を、血と肉を片づけさせてから陣幕より追い出した。残ったのは二人の兄弟と、正義を執行した余韻に浸る、口を半開きに夢現な様子の若人の群れのみであった。

 

追い出された古参の重臣達が兄弟の変貌に薄寒い噂を重ねる頃、若い騎士達は兄弟から形ばかりの賛辞を受け取ってから持ち場に戻った。

 

 

 

次の日、その次の日と、次第に城から逃げ出す兵士の数は減っていった。

 

卑王へと逃亡兵について報告していた兵士長は淡々と、兵士たちの心変わりについて報告した。一度逃げ出した兵士たちは自ら戻ってきたのだと言う。

 

「英雄と聞いていた二人の遺児達は英雄に非ず。人の皮を被り、貴き身分を騙る真の悪魔也」

 

彼らはそう語り、どれだけの地獄が兄弟により顕現せしめられたのかを滔々と語って。吐く息を噛むように語った兵士たちは、覚悟を見定めた瞳で兵士長へと、卑王への、王への忠誠を誓った。

 

卑王はただ頷くと、彼らを受け入れて己の側供えとして鋼で出来た剣と盾を預けた。

 

そして更に一月もの間、激しい攻防戦が二人の遺児に率いられた軍勢と、王ヴォーティガーンと運命を共にすることを選んだ軍勢との間で繰り広げられた。

 

遺児の軍勢は次第に活力を失っていったが、しかし正義という大義は甘く、献身的な志願兵を中核戦力として、村落から徴収して雑兵の夥しい骸を踏み台として城壁を遂に打ち破った。

 

兵糧の足りぬ雑兵は前線から生き残れば褒美に与えられる糧だけを頼りとして奮戦した。日に日に数が目減していく雑兵が残す余剰分の食糧によって、中核戦力である騎士や古参兵が飢えることはなかったが、脆弱な兵站によって雑兵の食糧事情は粗末なものであり、とても十分に報いられてはいなかった。

 

対して、王ヴォーティガーンの軍勢は備蓄の食糧で養える兵士の数を既に割り、一月分の兵糧の方が現在の残存兵力よりも尚多いほどであった。城壁を失い、もはや孤立無援と化した山腹の砦は各が潰滅するまで抵抗を止めず、生き残った兵士は全員が、戦間近に完成させた王の尖塔へと詰め、傍で剣を振るう王の姿を支えに、鬼気迫る抵抗を続けていた。

 

 

 

そして、遺児と王ヴォーティガーンの戦争が始まってから三ヶ月が経ったころ、岩山を覆うように存在した砦の全てが制圧され、あとは王の尖塔を残すばかりとなっていた。

 

そして、その日遂に王の尖塔に火がかけられた。

 

だが、上がった声は歓声でも絶望の声でもなかった。それは怒声と、困惑の声であった。

 

「おい!!なぜ塔に火がついている!!誰か!誰か!!おい!何故火をつけた!!戦利品をまだ一つとして得ていないのだぞ!?」

 

「クソっ!!クソっ!!!ヴォォォティガァァァン!!!」

 

狼狽える兄弟は陣営から身を乗り出した。いと貴き塔の頂、そこには火に包まれながら満足げに声を上げて笑う王ヴォーティガーンの姿があった。

 

兄弟の金切り声が聞こえているのか、片手に松明を持ち、もう片手で抜き身の剣を携える王は笑みを深めた。既に王ヴォーティガーンの体には火がまとわりついている。じりじりと火に巻かれながら、火の海に沈んでいく王ヴォーティガーンは最期まで笑い止まなかった。

 

 

 

そして、そして、尖塔は灰を纏った炭板が風に煽られるように、俄のうちに溶け落ちていった。

 

崩れしは、いと貴き王の塔なり。塔の残骸は、その財と、王の骸と共に岩山の山腹に開いた大口へと呑み込まれていった。

 

 

 

 

第三の目曰く、岩山に築かれた塔に自ら火を放ち、卑王ヴォーティガーンは死んだ。

 

 

 

卑王は死んだ。死んだ王の骸は見つからず、ただ一輪、人の掌ほどもある銀白の鱗だけが遺された。

 

遺児ペンドラゴンとウーサーは勝利した。ペンドラゴンは燃え尽きて炭化した厩の中から一振りの槍を、ウーサーは枯れし井戸の底から一振りの剣を手に入れた。

 

 

 

偉大な二人の英雄の手によってブリトンは一つに戻ったかに思われた、そしてまた一つ駒が進められた。

 

槍を按ずる駒は蒼く威偉として瞬き、剣を構えし駒は金色に咽ぶ。

 




感想ダンケなっす。いつも楽しみにしてます。では、また。


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B02契約と剣

感想ダンケなっす!誤字脱字もすごく助かってます。評価を頂けて喜んでおります。では、どうぞ。


B2 契約と剣

 

 

 

 

 

第三の目曰く、卑王ヴォーティガーンの死から数年が経ったころ、ペンドラゴンとウーサー兄弟は互いに自らの領地へと凱旋し、そこに宮廷を構えた。ペンドラゴンは槍を、ウーサーは剣を家宝とした。民は王の凱旋を喜んだ。凱旋した兵士たちの数が明らかに減っていたとしても、激戦の末に伝説的勝利を掴んだ二人に対して、膝下の都市に住まう彼らにとっては詮無きことであった。

 

二人の王は凱旋すると、それぞれ異なることを求めた。ペンドラゴンは更なる力を、土地を、宝を求めて周辺の諸侯に恭順を迫り、より強大になった武力を振るって版図の拡大に勤しんだ。

 

対してウーサーは自領での放蕩を繰り返した。並の放蕩では満たせぬ心を慰めるために、ウーサーは自らをより偉大に、より英雄的に演出することに腐心した。王の騎士には見目麗しい者達が選ばれた。ギラギラと光を反射する鎧には、悪趣味なまでに装飾が施され、王は都の大通りを毎月のように行進させた。皮肉にも、この催しの煌びやかさと、催しの際に民へと供されるご馳走を目当てに人が集まり税収を下支えすることで、綱渡りの状態ながらウーサーの国は火に飲まれることはなかった。

 

英雄の膝下で、華美な飾り鎧を付けた見目麗しい騎士達が整然と行進する。その様は物知らぬ多くの民からすれば、正に英雄譚の現象に他ならなかった。民は自然、容赦のない増税に喘ぐ地方の貧農の言葉を世迷言と切り捨てて、自らは払えなくもない血税を払って、王の荘列に意志の籠らない歓声を上げた。

 

 

 

ウーサーの治世が更に一年続いた頃に、片割れペンドラゴンが死んだ。その訃報にウーサーは涙したが、間髪入れずに怒りを噴出した。

 

「蛮人どもめ!許さん!我が片割れを弑することが何を意味するのか思い知らせてくれるわ!!」

 

ウーサーは酒杯を投げ捨てると宝石を過分にあしらった長剣を引ったくるように腰へ佩き、兵を募ってペンドラゴンの亡骸を届けた蛮族の使者を囲んで殺した。ウーサーは亡骸を燃やし、小さく捻くれたそれを樽に詰めさせてから川に流した。

 

蛮族の進撃の報せが届いたのはそれから一週間後のことであった。一週間の内にペンドラゴンの葬儀を行い、主人を守らなかったその槍をかたく城奥へと仕舞い込み、その帰りの足で各地から兵を集めて一軍を成した。

 

臨戦態勢のウーサーの軍勢には敗死したペンドラゴンの麾下も集結し、ここにブリトン全土を代表する大首領としてウーサーが名実ともに玉座に座ることが確定した。

 

しかし茨の道は他ならぬウーサーとブリトン人達を迎え入れんと口を開けていた。遠目に現れた蛮族の軍勢は久しく見かけていない、見渡すような大軍勢であった。城に篭る側となったウーサーは物見の兵からその数を聞き出そうとしたが、兵は見渡す限り全てが敵であると答えた。

 

ウーサーはその晩の内に少ない共周りを連れて城を抜け出し、兄王モインズの墓標となりし卑王の旧邸へと身を隠した。王の奇行に戸惑いながら、命を惜しんだ騎士達はウーサーに従った。

 

ウーサーの恐怖が癒えぬうちに戦争が始まった。遠く聞こえた鉄火の奏響は、数日と持たずに静寂と断末魔に変わった。遠望するのは豊かだった都が無惨に焼け焦げていく様であった。火に包まれることのない都は、呆気なく灰に変わった。

 

 

 

第三の目曰く、ウーサーは狂ったように配下の騎士達に命じて人を集めさせた。口から泡を飛ばして、迫力だけは満点の王の御下知に、健気な兵達も一蓮托生を悟り素直に従った。逃げ出すものよりも王に従うもの達が多かったのは、諦観と、何より贖罪の機会すら残らなかった己の罪状への罰を粛々と甘受する潔さが、最後の騎士の矜持として残っていたからであろう。

 

騎士達の苦悩など露も知らぬ偉大なる騎士でありブリトン人の王だったウーサーは、騎士達が己の路銀を割いてやっと、渋々と集まった者達に向けて、朗々と己の希望を語った。希望は無謀であり、荒唐無稽であったが、その語り口は見事であり奇怪ですらあった。口の端から泡を吹きながら、ウーサーは大袈裟な身振り手振りで吐くように言った。

 

「今やブリテンの救いの光は奇跡の魔法である!!あの日、蛮族を打ち倒したあの日!!我にお告げが降った!!これは預言である!!あの日、我ら兄弟はその言葉を聞いた!!人が竜を殺すのだと!!若く清涼な声が天雲から滴りおちるように、正に神聖な響きを持って我らに届けられたのだ!!これこそ神託、神のご加護は我らにあり!!今こそ、同日に耳にした魔法使いを探し出すのだ!!魔法こそ、この絶望を打開する究極の御業なり!!!」

 

ウーサーの堂々たる狂乱に当てられて、訳もわからず集められた民の中から数人の志願者が出た。彼らは近隣の寒村に住まう農夫であったが、腕っ節に自慢のある者達であった。

 

彼らの中から進み出た一人が王ウーサーに言った。「俺の名はエクトル。ただのエクトルだ。アンタに力を貸すのは吝かじゃない。だが、俺たちは見ての通り己の命以外は何も持っちゃぁいねぇ貧農だ。何か、命を賭けるに足るものが欲しい。おい!お前ら!何が欲しい!!」

 

村男の頭であるらしい、ただのエクトルにがなられて村男達は口々に思い付いたものを叫んだ。

 

「俺は金だ!金が欲しい!この寒村を出て、街で暮らすために金が欲しい!!」

 

若い男が言った。男は貧農に生まれ、抜け出せない境遇を嘆いていた。自暴自棄に畑を放り出して荒れているところをエクトルに誘われてこの場に来ていた。偶然にも手にした機会を前にして、遠慮などなかった。

 

「私も、私も金を!あと、嫁が欲しい!!」

 

貧農の三男として生まれた男には、家族を持つことも覚束なかった。致し方なく兄達を手伝いながら、タコの潰れた手を更に傷つけるように働いた。エクトルの群れに自分から加わった男だった。

 

「俺は…俺は騎士にしてほしい!爵位がほしい!!二度と俺を見下す奴がいないように、俺は騎士になりたい!!お貴族様の仲間入りだ、贅沢も、嫁も幾らでも手に入るだろう?」

 

そして、錆びた短剣を腰に佩た男がそう言った。

 

男の言葉を聞いて、先に言った男達が自分もソレにすると言い直した。男に興味を持ったウーサーは錆びた短剣の男に注視して問うた。

 

「それで、もう一つ、貴様は何を望むんだ?他のは爵位に加えて何かを頼んだぞ?さぁ、言ってみろ!」

 

ウーサーの言葉に、エクトルに呼ばれて進み出た錆びた短剣の男は、騎士がそうするように、ややぎこちなく跪いて申し上げた。

 

「俺…私は、馬が欲しい、でございます。」

 

男の言葉を理解できたのはエクトルだけだったようで、二人を除いた村男達は口々に言った。

 

「おいおい、馬は確かに財産だが、また農耕にでも勤しむつもりか?もう必要なくなるんだぞ?」

 

そんなことをぼやきながら、村男達は手に入れたもので何をするのか楽しそうに語り合い始めた。エクトルは錆びた短剣の男の隣に跪いて見せると、「俺も爵位と馬を貰おう。」と言った。

 

「わはっ!わはは!!愉快だ!いいだろう、俺が用立ててやる!!貴様らは来るべき日に向けて作法を習うとよいぞ!!」

 

村男達の喝采が上がる中、ウーサーは愉快げに膝を打って笑い、彼らの望みを全て叶えると答えた。

 

 

 

第三の目曰く、ウーサーと騎士と村男達は旧邸で人を募ることを繰り返した。騎士になれるぞ、という噂は瞬く間に広まった。次第に噂には尾鰭は鰭が加えられ、土地も家畜も思うままだという声まで彼方此方で上がり始めた。

 

安直な希望に弱い人々はこの噂に人生逆転を狙い集った。貧農の次男や三男から、先の主城陥落によって焼き出された市民や跡を告げない貴族の若者まで、着の身着のままの人波がヴォーティガーンの旧邸へと集まった。

 

集まった人々をエクトルや錆びた短剣の男に管理させ、その人々を騎士見習いの村男達に直接指揮させることに決めたウーサーは、大雑把ながら驚くべき速さで一軍を整えると、城の陥落から一月と経たぬ内に軍を率いて出陣した。

 

しかし、行き先は蛮族が版図を広げる旧主城ではなかった。ウーサーは当て所なく行進を繰り返して、道すがらに噂だけを頼りに着の身着のまま飛び出した者共を軍に加えつつ半月ほどもただただ行軍した。

 

痺れを切らした兵士たちを宥めすかして、ようやく半月が経った頃にウーサーは飢えた民の前に姿を表すと、豪奢な剣を抜き払って「隣領」の関を指し示して叫んだ。

 

「飢えし者たちよ!!富まざる者たちよ!!持たざる我が朋友よ!!我らの苦難の進軍は今、正に今この瞬間のためにあったのだ!!見よ!!かの街を!我らが必死に蛮族と戦いながら、泥を啜っていた間、奴らは何をしていたのか!!思い出せ!我らの進んできた道を!大地は枯れ果て、民はひもじさに喘ぎ、水は毒され、騎士達の遺骸は野に晒された!!我らは主に誓って、あらんかぎりの力を振り絞って蛮族共と戦った!!騎士も、農夫も、司祭も、我が民草全体が、皆が皆その身を削り聖戦を戦い抜かんとしたではないか!!」

 

鼻水も涙も流しながら、感情の昂りのままにウーサーは剣を振り回しては吠えた。「だというのに…だというのに、何故負けたのか!!主の力を疑ったことなき我らが負ける通りはない!!だのに、何故負けたのか!!わかるか?何故なのか?それは、我らの中にその身を神の正義に捧げぬ愚か者がいたからだ!!裏切り者がいたからだ!!我々は全てを投げ打ち戦ったが、そうでは無いもの達が、裏切り者がいる。そしてぇ!!!…この街を見よ。どうして、こうも華やいでおられるのか?民が死んでいるのだ、騎士が晒されておるのだ、我らの城が燃えているのだ…だのに、此奴らは我らの払った犠牲の上で安楽を貪っておるだけではないか!!」

 

ウーサーの叫びに触発されて、騒めく群衆から急激な熱が発せられた。次第に、それは一つの大きな流れとなり、声となり、叫びとなって辺りを包んだ。

 

「裏切り者だ!!悪魔だ!!神に叛し者だ!!我々が救いを得られないのは、全てかの邪な輩の仕業に違いない!!殺さなければ!!正義を!!神の救いを!!!」

 

ウーサーの役目は既に終わっていた。

 

誰が何を言ったのか、何をしたのか、それはわからない。だが、群衆が駆け出したことが全ての始まりを意味していた。

 

その日、ブリトン人の街が一つ滅びた。ブリトン人の手によって、ブリトン人の街が一つ焼き尽くされたのだ。運悪くウーサー王の徴兵要求に応えて男手が根こそぎ駆り出されており、守備兵以外は空の状態であったがために抵抗らしい抵抗すら許されずに蹂躙されることになった。家財、家畜は元より、婦女子に井戸に城館までが根こそぎウーサー王の名の下に群衆の手によって"正当"に略奪された。

 

新たな拠点を手に入れたウーサーは手始めに元の住人と城主一族を蛮族に通じた裏切り者として処刑し、手に入れた婦女子を手柄を上げた騎士見習いたちの花嫁として与えた。

 

論功行賞の場には辞退したエクトルの代わりに錆びた短剣の男の姿があった。男を気に入っていたウーサーは、縄跡の残る女達の中から好みの者を最初に選ぶ権利を与えた。錆びた剣の男は既に馬を与えられていたため辞退しようとしたが、それをエクトルが諫め、問答の末、エクトルが器量良しと認めた女を娶ることになった。

 

女は可愛げがあったが、ずば抜けて美しいわけではなかった、その点が結果的に錆びた短剣の男が過度に嫉妬されることも、女を奪われる目に遭うこともなく済むように運んだらしかった。

 

 

 

第三の目曰く、ウーサーは自らの新しい軍勢が新たな街に根付く間を与えずに、配下の騎士見習いの村男達に命じて周辺領地への侵略を命じた。大義名分は蛮族の手先を根絶することであった。錆びた短剣の男は王から新たに褒美として錆びていない短剣を与えられ、晴れて王の懐刀として破格の待遇を受けた。エクトルに次いで、騎士達を除けば王の側近として扱われた数少ない村男であった。

 

短剣の男は遠征には参加せず、代わりにエクトルや他の騎士達と共に王の命令を受けて旅人と魔法使いを探すために東奔西走していた。

 

遠征の成果として血まみれの財貨が山と積まれた荷車が次々に王の新たな街へと届けられた。王の指示で手に入れた財貨は騎士、村男達、古参兵の順に褒美として遠征前に取り決めた通りの規定額が払われ、民衆には略奪した食べ物や生きた家畜を現物で与え、半分以上も余った財の悉くは王の宝物庫に納められた。五つの街を滅ぼし、滅ぼした街の跡に、途中で軍勢に加わった煩わしい貧民を分別することもなく押し込んだウーサーは、遠征軍に更に領土を広げるようにと命令を下した。

 

溢れんばかりの財貨に埋もれて眠ったウーサーだったが、それでも、宝物庫が満杯であったのは初めの三日間だけであり、思い出したように王は散財した。恨むべくは、その散財が結果的に市井へのばら撒きに繋がり、少なくない民が飢えを凌ぐことに繋がったことであろう。だが、それだけであった。砦や城を己の新しい国の各地に建設させつつ、自らの居城をより大きく、より華美に装飾した。白亜の城は外見こそ素晴らしい者であったが、しかし旧き主城のように機能性を欠くものである上に、城の増築や装飾が付随して莫大な浪費であった。

 

こうして王城キャメロットが建設された。王の私室の真下には、寝ずの番兵をいつ何時であれ呼び出せるようにと、兵士が控えるための巨大な円卓が置かれ、十二刻を刻んで責任者を交代制にすることで警備責任者への権力の集中を防ぐ意図が加えられた。しかし、実際は発注ミスによって一刻余分な席が生じてしまい、体裁を取る為に全体の首領であるウーサーの席として、常時空席が一つ生じるというなんとも締まりのない巨大な卓が場内で幅を利かせることとなった。

 

 

 

第三の目曰く、王の命令により旅人と魔法使いの捜索が開始されて一月が経った。一月の間にまた二つの町が滅んだ。

 

牙を抜かれた状態で、今今滅ぶを待つのみとなった周辺領主は自ら進んで恭順の姿勢をとっていった。

 

対して、他地域に厳然たる力を秘めた有力者達はウーサー王の国との交易と、ウーサー王を追い出した蛮族との交易で財をなしつつ、ブリテン島の新たな支配者として足場を固める蛮族と、蛮族に追われたにも拘らず強かに勢力を拡大するウーサー王の国に対する警戒感を顕に、防衛力の強化に勤しんでいた。

 

そして、遂に短剣の男とエクトルの手によって、ウーサーは念願の旅人と魔法使いとの対面を果たした。ヴォーティガーンの死から、既に十年弱余りの時間が経過していた。キャメロットの北、とある街の宿を借りて戦乱とは無縁の朗らかな生活を送っていた二人組を、執念で探し出した短剣の男と、入念な下調べと得意の人付き合いを駆使して呆気なく見つけたエクトルの二人がほぼ同時に発見したのである。

 

元来二人はウーサーに重用され、騎士たるべく馬を選んだ者同士ということもあってか、馬が合ったために大きな軋轢もなく、旅人と魔法使いを連れ戻り、一人分ずつの褒美を分け合えばよいと決めての措置であった。

 

ウーサーは二人を褒め称え、エクトルと短剣の男を正式に騎士に叙してから、客人二人との謁見に臨んだ。

 

 

 

「貴様らが噂に知れた旅人と魔法使いだな?どれどれ、顔を見せてみよ。俺は十年近く前だというのにハッキリ覚えているぞ、蛮族どもを蹴散らしてから直ぐに、俺と兄の耳に届いたのは間違いなく貴様ら二人のことだ。神があの日、貴様らのことを俺に教えてくださったのだ」

 

ウーサーは駄肉のついた体を窮屈そうに玉座に収めながら、外にまで響くような大きな声で語った。語り口は底抜けな自信がこびりつき、明け透けに自慢気であった。落ち着きのある様を見せたかと思えば、近くに寄ってこない二人組の方へと自ら体を乗り出した。

 

「ほうほう…確かに噂は真であったな。白髪の美青年に、黒髪の尊顔持ち…うむ、噂通りだ。全く面妖であるが…そんなことはどうでもよいわ!!さぁ、今ここで俺に忠誠を誓うがよいぞ?このブリトン人の王にして、ブリテン島の王であるこのウーサーに傅き、その力を存分に振るうがよい。如何な魔法であれ、呪いであれ、なんであれ構わん!!蛮族どもを追い出せるなら、なんだろうと構わぬわい!」

 

弩級の態度で大股開きに宣言するウーサーは、確かに人懐っこさだけを見ればなんとも民意を慮ることに労を厭わぬ名君という言葉が映えたことだろう。だが、マーリンとて伊達に思慮深き魔法使いとして研鑽を積んでいるわけではない。ウーサーの瞳に映る己の姿に、少なくとも畜生よりはマシ程度の価値しか認めていないことは一目瞭然であった。だが、黙りを続けていても話が進まないのも事実である。

 

今を凌ぐ為には非ず。己が大望のためにマーリンは立つことを選んだ。

 

今当に目の前の王種がマーリンに示してしまった、旅の先に彼の生涯を注ぐに足る指針とすべき道程。その先に見据えし優逸なる一輪の花を咲かせる為の決断を、マーリンは躊躇なく選んだ。

 

マーリンは言った。「これはこれはお招きいただいて早々に嬉しい話だ。ウーサー殿、あなたに傅くことに僕は嫌やはありません。しかし、一つ約束していただきたいのですよ。」

 

自信満々に恭順を求めたかと思えば、早々にアマロに見惚れて口を半開きにするウーサーからアマロを庇うように、数歩進み出てからマーリンはウーサーに問うた。

 

「なんだ?約束?何が欲しいんだ?王位以外ならくれてやる。女か?金か?それとも剣とか鎧とかか?爵位も、働き次第でやろう…で、その約束とはなんなのだ?」

 

ウーサーは興を削がれたことを不満に思っていることを隠しもしない不承顔で、我が身を投げ出すように玉座に腰を預けると、貧乏揺すりをしながらマーリンに問うた。ウーサーの顔つきはのっぺりとしているように見えた。顔つきの変わった王の様子に、側で控えていたエクトルと短剣の男は顔を青くしていた。

 

王には良くも悪くも執着がない。老いた家畜を殺すのと同じように、睦み合った女や背中を預けた部下を塵を棄てるように殺してきたことを、誰よりも長くその狂気と並びながらも生き残ってきた二人の騎士は忘れていない。だが、二人が恐怖したのはそこでは無かった。

 

あったのだ、執着が。

 

王の瞳の奥の奥、細やかな表相であってもそれは間違いなく灯されたのだ。冷たく牢く平坦な表情のまま、王の瞳は今も…いや、二人を招き入れた時から片時もアマロと呼ばれる旅人の片割れから離れていなかった。その恐ろしいまでに冷めていた王の内は今や火で熱された執着が渦巻いているに違いなかった。二人の騎士は、生唾を飲み込んでマーリンの一挙手一投足にまで気を揉んだ。

 

そして、注目の集まった頃を見計らい、マーリンはようやっと溜に溜めた要望を告げた。

 

「ウーサー殿に最初の子供が産まれましたら、その子を僕に預けて頂きたい。もしも、この約定を飲んでいただけるならば…。」

 

衝撃的な一言を炸裂させてまだ終わらない要望。流石の王も唖然としたが、それは二人の騎士が王の逆鱗に触れはしないかと危惧したのとは根本から異なるものであり、謂わば用途に思い当たるものがないという事情故に疑問が先行したからであった。そして、またしても溜めるマーリン。

 

「おい!さっさと続きを言え、それで、どうなんだ?その契約を結べば、お前は俺に何をくれるんだ?えぇ?」

 

沈黙に痺れを切らしてウーサーはがなるように問うた。そしてマーリンは言った。

 

「僕の最も大切な者を一時、貴方に預けましょう。僕の魔法をご利用になる上での血約として、ウーサー殿に牙を剥かないという保証です。そして、僕にとっての保証でもあります。ウーサー殿が僕との契約を果たして下さることを条件として、僕はウーサー殿が望む力と……さっきから鬱陶しいほどに激らせておられるその執着を解消して差し上げましょう。悩みの種を一つ、知るべきことを一つ、それぞれを与えましょう。ウーサー殿もまた、一人前の人間であるようですから」

 

ウーサーは初めて明確に驚いた顔でマーリンをまじまじと見つめた。ウーサーの瞳は初めてマーリンという得体の知れない魔法使いを認識した。成程、確かに魔法使いである。それも、伝説に物語られるに足るほどの。

 

「…わかった。子供の一人や二人ならくれてやる。むしろ、それで後から文句は言わないことだ。それで?この条件を呑んだんだ、貴様は俺に…彼を預けてくれるのか?だとすれば、それは真であろうな?」

 

ウーサーは心が躍る様子が傍目にもわかるように目を爛々とさせて身を乗り出した。マーリンは柳眉を僅かに歪め、それを直ぐさま繕って笑顔を張り付けると応えた。

 

「えぇ、これで契約は成立です。僕はウーサー殿に魔法を一つ授けましょう。それはウーサー殿の希望を叶える魔法です。そして、ウーサー殿の知りたいことをお一つお教えましょう。ただし、その代わりにウーサー殿に子供が産まれましたら必ず僕に譲って下さい。その時初めて、この契約は未来を生み得るでしょう。」

 

「そうじゃない。そんなことはいいのだ。それより、俺の執着を解いてくれるのだろ?ならば、今すぐにでもそこの麗君をこちらへ引き渡して貰いたい。」

 

マーリンの言葉を聞き流すように顔を振ると、ウーサーは改めて聞いた。何を言わんとしているのか、聞かれる前から理解しているマーリンの顔には陰が浮かぶが、しかし傍の彼の顔を見たことでマーリンの内から溢れる感情は最も容易く霧散した。

 

「えぇ、構いませんとも。私は難儀なことはマーリンに任せ切りですからね。丁度いい、偶にはこの子の役に立ちたいと考えていたところです。」

 

応えたのはマーリンではなく、交渉材料として送り込まれようとしていたアマロ自身であった。

 

「おぉ、それは何とも素晴らしいお考えだ…ささ、此方へ…マーリンよ、俺は約束は違えん。だから安心して辞すが良い。おい!エクトル、アマロ殿をお部屋にお通ししろ!後ほど、改めてお会いしましょう。城一番の部屋を贈りますので、寛いでくだされ!」

 

アマロが自らの足でウーサーの元に向かうことに対してマーリンは仄暗い感情が湧かない訳では無かったが、しかし、単純な嫉妬などとは程遠いものであることは確かであった。なぜならば、マーリンの激情を霧散せしめたのは他ならぬアマロが浮かべていた、好奇心に富んだ自然体の笑みだったからだ。人は或いはその笑みを薄気味悪く、倫理から逸脱した悍ましいものとして捉えるだろう。

 

だが、マーリンという一人の魔法使いはアマロの笑顔に確かな安らぎを覚えていた。それはマーリンが寄る辺と定めし唯一の存在が、マーリンへの揺るぎない信頼と依存の証を自ら顕としたからであり、同時に彼という存在がマーリンの錯覚ではなく、夢魔の割血のことを心から伴侶として受け入れていることの根拠を示したからであった。

 

悍ましい存在に違いはない。無論マーリンはアマロを悍ましい存在だとは考えたこともない。

 

しかし、自らが望まれて産み落とされた訳ではないことをマーリンは理解していた。その理解に立脚した世界の中で生きていくこととは、即ち錆びついた錯覚だけを頼りに、無邪気に向けられるアマロからの愛情の枯渇に怯懦する日々を暮らすことだった。

 

暖炉の前で温めた山羊乳を啜って団欒していたかと思えば、草の根も死に絶えた極寒の吹雪の只中で前後不覚に陥るがごとき絶望を恐れぬ日はなかった。鋭敏な知覚と秀辣な魔法が、虚構の甘美に溺れることを許しはしなかったのだから。

 

だから、だから。

 

だからこそ、醜悪な狂王にさえ爛漫と微笑みを向けたアマロの存在は、マーリンの中で燻り続けていた絶望の癇火を無遠慮に踏み消した。諦めの中で飼い殺してきた絶望は呆気なく取り上げられ、真正面から見つめ合い、話し合った末に手にした結論でもないというのに、堪え難い歓喜と歯の浮くような融慕の熱がマーリンの膏肓をのたうち回った。

 

マーリンは救われた。救われたマーリンの思考には、もはやアマロへの後ろめたさも、ウーサーへの激情も、その影すら残されていなかった。残ったのは狂おしいほどに甘い、猫の毛が鼻を擽るようなむず痒さだけだった。それは心地よく、また何ともいじらしい。

 

願わくば、今度こそ真正面から見つめられながら、彼の微笑みに当てられたい。

 

マーリンは心の隅でそう思いつつ、アマロと暫しの別れを演じた。マーリンの不在を確認してからウーサーはアマロをもてなそうと貴人用の部屋へと足早に向かった。

 

 

 

第三の目曰く、ウーサー王は世界に二つとない素晴らしいものを二つ有していた。一つは全ての望みを叶える偉大な魔法使いを、一つは如何なる賛辞をも無為に帰す黒曜石の麗人を。

 

ウーサー王は二つの偉大な力を存分に振るい、一年と経たぬうちに周辺の人を土地を財を併呑し、巨大な王国を築いた。人は、かの王国を悠久のブリテンと呼んだ。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、王国の成立から程なくしてとある騎士に子供が生まれた。子供の父はウーサー王の誇る無二の短剣であり、人は彼を短剣の騎士と言った。短剣の騎士は若き日に娶った妻との間に一人の男の子を授かった。

 

ある時、短剣の騎士は遠征に参加した。そして二度と還らなかった。

 

短剣の男の妻はウーサーに従った夫や他の多くの男たちの手で故郷を奪われた。焼かれた家から這い出した所を捕らえられた。侵略者たちは力加減を知らなかった。柔らかい肌に荒縄がきつく食い込んだ。歩かされるたびに擦れ、直に血が滲んだ。首にまで回された縄は泥に塗れていて木が腐ったような香りがした。粗野で泥と血に汚れた腕が突き出される中を歩き、進み、そして人垣から突き出されるように男と対面した。まだ若きころのエクトルだった。既に貫禄を備えていた男はまじまじと女を見定め、そして彼女が選ばれた。

 

幾分丁重に縄をひかれ、突き出された先で夫となる短剣の男と出会った。そして、娶られ、交わって子を成した。

 

短剣の男の妻は男の死に様を聞きはしなかった。妻は夫の死を悲しまず、しかし喜ばなかった。淡々とその死を受け入れ、翌朝にはいなくなっていた。翌々日、女の亡骸が井戸から引き上げられた。

 

そして、まだ幼い男の赤子だけが遺された。男の子を引き取ったのはエクトルだった。赤児には名前がなかった。故に、エクトルは赤児に名前をつけた。

 

 

 

 

 

赤児の名前はケイと言った。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、ウーサー王は短剣の騎士の訃報を耳にしても小揺るぎもせず、初めからそんな男は居なかったと言うように、真隣で昼餉を嗜むアマロへと料理の感想やら、好みやら、到底人死ほどの緊急性を伴わない会話に花を咲かせた。

 

だだっ広いだけで使い道のなかった円卓に二人前にしては多すぎる料理を並べさせると、ウーサーはそれらを自分も口にしつつも、殆どの時間を、隣で小口を忙しなく動かし、黙々と頬を膨らませて食事を楽しんでいる様子のアマロの横顔を至近距離から観察することに耽溺していた。

 

ウーサーはアマロが預けられてからと言うもの、朝も夜もなくその美貌の虜となっていた。何をするでもなく、何を迫るでもなく、同じ空間で沈黙を共にするような二人の様子は周囲からすれば不気味や奇妙を通り越して感心さえしてしまうほどであった。

 

 

 

ウーサーとアマロの奇妙な関係が続くこと半年が経ち、その間にもウーサーは未だ一度としてマーリンを呼ぶことはなく、それどころか子供を作るどころか妻を求める素振りすら見せなくなっていた。

 

そして、ウーサーの子供が産まれず、また一度切りの全能の魔法すら使われない限り、互いの契約が果たることは無く、つまりは現状維持が続く限り、王の放心は半永久的なものであると言ってよかった。

 

それは明確な王の血統が生まれぬことを意味し、即ちウーサーの死後には後継者の居ない王国だけが遺されるということだった。

 

世界史に名高いアレキサンドロス3世の帝国。その分裂を招いたのは他ならぬ王が血統に基づく版図の継承を撥ねつけたからであった。それが全てではないにしろ、間違いなく絶対的な存在を失った巨体ほど維持することに苦労するものはなかった。

 

危機感を日に日に募らせた群臣達は、遂に騎士エクトルを通じてウーサーへの上奏を行った。

 

曰く、「国王陛下におかれましては、その英雄的功績を後世にまで受け継ぐべき、王国の継承者を選定していただきたく。また、そのために最も平和的な手段として実子を継承権第一位とすることが望ましいと愚考する次第。」

 

エクトルから差し出されて条文に目を通すと、ウーサーはそれを薪に焚べて言った。

 

「俺の後継者が俺の子供でなければいけない道理はない。しかし、貴き血を残すことが大事なのは理解した。確かに全くもってその通りだ。俺はそのための努力を惜しまぬ。この世には断じて失われてはならないものも存在するのだ。」

 

ウーサーは口笛でも吹くような爽快で無邪気に語った。口振りには思い演るような様子もなく、只管純粋にそう語っていた。血走った目とは裏腹に澄み切ったよく響く声が歪であった。

 

ひとしきり語ったウーサーは続けて、条文への実質的な応諾の旨を返した。エクトルが安堵の溜息を吐いたのは言うまでもない。

 

「よくよく理解した、お前達の言いたいことはわかったと伝えておけ。あと、そんなに国を継ぐ奴を選んで欲しいなら…それなら俺にも良い考えがある。折角だからアイツを呼ぼう。なぁに、魔法を使うわけじゃない。ただ一つ知りたいことを知るだけだ。そうすれば、あとはどうとでもなる。」

 

それだけ言うと、ウーサーは楽しそうに今度こそ口笛を吹きながら謁見を終えた。

 

 

 

「ウーサー、何かいいことがあったのかい?口笛が私の所まで届いていたよ?」

 

弾んだ足取りの王は真っ直ぐにアマロが暮らす貴人室へと入室した。寝台に寝転んでいたアマロはウーサーへと尋ねた。ウーサーは尋ねられたことには返答せず、居住まいを正すと真摯な瞳で語りかけた。

 

「アマロ殿、貴方には是非とも多くの女性と交わって頂きたい。全て、俺が養おう。だから、一人でも多くの貴方の子供を俺に育てさせてくれ!!この通りだ!!」

 

ウーサーは生まれてこの方経験のないほどの緊張感と覚悟を腹に抱えていた。嘘偽りなく心からの言葉であることは理解できた。だが、常人であればその求めに応じることはまず間違いなく倫理に悖るものであるとして断ったことだろう。

 

しかし、やんぬるかな彼らは尋常ではなかった。否、ウーサーにとってみれば寿ぐべきことに、アマロには断る理由がこれといってなかったのである。また、アマロにとっては常に己の目の前で生を営む誰かの存在こそが愛すべきものであることに変わりはなかった。

 

故に、アマロは応える。

 

「ウーサー、君の言うことはよくわかったよ。できる限り頑張ってみるよ。勿論、私でも良いと言ってくれる方に限定した上で、だよ?わかったかい?」

 

「あぁ!!よく決断してくれた!!ありがとう!あぁ、主よ!感謝します!!あぁ、勿論だ!勿論だとも!!貴方に相応しい幸運な者だけに許すつもりだとも!!」

 

何分暢気な性分なものである。気の抜けたような、ほんわかとした注意のみを告げると、何と言うことでもない風にアマロは寝返りを打って寝息を立て始めたのであった。

 

ウーサーは静かにその寝顔を見つめ続けた。アマロが来てからというもの、ウーサーの姿は変貌を遂げていた。駄肉を引きずっていた頃の面影はなく、限界まで絞られた肉体は往年の貫禄を超えて、洗練された威を纏うに至っていた。王擬きが、願わぬが故に風格ばかりは王に足るまでに高められたことは歪なウーサーの本質を表しているようだった。

 

 

 

第三の目曰く、新月の夜、ブリトン人の王ウーサーはマーリンを呼び出した。場所は卑王ヴォーティガーンの塔の跡地であった。

 

ウーサー王はマーリンに言った。「魔法使いマーリンよ、今こそ貴様の力を見せてみよ。貴様は俺に魔法とは別に何でも一つ教えてみせると言った。そして、教えを受ける時は来たり。」

 

マーリンは応えて言った。「ブリトン人の王ウーサー、君の願いを叶えよう。魔法とは別に何でも一つ教えて見せよう。時は来たり。さぁ、君は何を知りたいのかな?」

 

ウーサーは岩山の山腹で白煙を吐く大口を指差して言った。「俺はヴォーティガーンの剣の在処を求めよう。奴は神聖なる武器を二振手にしていた。そのうち、剣は俺が、槍は兄ペンドラゴンが手に入れた。しかし、霊装たる二振とは別に、奴は一振りの剣を持っていた。あの日、火に飲まれた奴の手に握られていた一振りだ。あの剣こそ、我ら兄弟にとっては何よりも価値ある剣である。簒奪者ヴォーティガーンにより奪われし兄王モインズの剣こそ、真の王の剣なり。俺はその剣の在処を貴様に問おう。」

 

弑逆されし兄王モインズの愛剣にして王たる証である剣。それは失われし宝であり、兄弟の生き残りたるウーサーにとっては親の形見であった。

 

マーリンは言った。「君の求めに応じよう。君が知りたいのは父王からヴォーティガーンが奪いし一振りの剣の在処。剣は自ら手に入れることだね、僕の魔法を剣如きに使いたくないと言うのならば。」

 

マーリンの言葉には冷静に、探るような挑発が仕掛けられていたがウーサーは神妙にその言葉を否定することなく頷いてみせた。黙りのウーサーの反応を、面白くなさげに受け取ったマーリンは厳かに、高らかに失われし宝の何処を明かした。

 

「赤き竜は既に済し。革めるは未だ済し。ただ片割れのみが大口を塒と成す。失われし王の剣の在処は大口の奥、身を革めし白き竜の眠りを妨げるな、静寂と平穏のうちに、かの剣を爪の隙間から抜き取れ、然すれば剣は然るべき者の手に入れられるだろう……以上さ。それじゃぁ僕はこれくらいで、君の健闘を祈るよ。」

 

マーリンはそれだけ言うと、仕事は済んだと言うように霧の如く姿を消した。

 

残されたウーサーは翌月、ヴォーティガーンが遺した槍を禁制物を封じた庫から引っ張り出して自ら手にして、数百の騎士を挙げて竜の眠る巨大な口へと向かった。

 

 

 

第三の目曰く、二週間の後にウーサーは帰還した。数百人の勇敢な騎士、そしてヴォーティガーンの霊装たる槍を対価として、変哲なき一振りの剣を掲げたウーサー王は凱旋を果たした。

 

騎士とその共周りはただの一人として還らなかった。ただ一人、ウーサーだけが無傷で帰還した。

 

莫大な竜の秘宝もなく、輝き栄える英雄的勝利もなく、手にしたものは王の手に収まった王の剣のみ。

 

民草は王への理解を諦めた。そしてただ祈り、来るべき希望の光を待つ身となった。

 

貴人達は口々に鬱屈と不満を語った。王の兇行に慄くばかりの彼らは、彼らに誉と富と平穏を与えるべき指導者を密かに渇望した。

 

そして、騎士達は王の行いにただ沈黙を返した。死した友は亡骸すらなく、しかし王は王であった。一振りの剣のため、何を遺すことも許されずに灰滓となり風に追われた名もなき者達を悼むことだけが、騎士を象る張りぼて達が曲げることを自らに許さなかった一線となった。

 

 

 

第三の目曰く、感慨もなく数百の命を踏み台としてウーサーは王の剣を手に入れた。あの日、大口の奥にて白き竜は数百の騎士を瞬く間に焼き尽くした。そして、ただ一人残ったウーサーは竜と相対して一計を案じた。槍から覆いの布を外して竜へと晒した。竜は槍への執着を見せ、ウーサーは賭けに勝った。

 

王の剣を槍を対価として手に入れたウーサーには、数百の騎士の存在意義など無に等しく、故に何ら思い致すことなきままに、手に入れた王の剣を鉄床へと力一杯打ち込んだ。

 

打ち込まれた剣はマーリンが「善意」で掛けた魔法により、例外を除けば何人にも抜くことが能わず、ウーサー王にすら抜くこと能わぬそれを目にし耳にした人々は、それを真の選定の剣と呼んだ。

 

ウーサーは彼方此方から呼び出した聖職者達に魔法の鉄床を調べさせ、それが正に神秘の御業であるというお墨付きを勝ち取った。元より神秘であることは承知のこと、それが神の息吹か或いは悪戯好きの魔法使いの手によるものであるかの違いであった。

 

王は準備が全て整ったことを確信した。

 

そして、マーリンもまた第一段階が成功したことを確信していた。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、ウーサー王は王国の継承権を真の選定者に与えることを宣言した。

 

ウーサー王が真の選定者だと認める条件はたった一つ、選定の剣を魔法の鉄床から引き抜くことである。

 

王は言った。「何人の挑戦も受けよう。神の御業により成ったこの魔法の鉄床に打ち込まれし王の剣、この王たる者の証を引き抜いてみせよ。王たる証を引き抜きし者こそ、真の信仰者であり、真の騎士であり、真のブリテンの王である。貴賎は問わぬ、力自慢でも構わぬ、引き抜くことができた者こそがこの国の王に相応しい。」

 

王の宣言にブリテン全土が熱狂した。その熱狂は近隣の諸国にも広がり、遠路遥々を超えて多様な人間が王の証へと手を掛け、そして引き抜くを能わずに帰路についた。

 

土台を砕こうとした者もいたが、砕くための槌が先に砕け、或いは鉄床だけが無傷のままで大地が抉れるばかりであった。

 

噂と熱狂は転がる雪玉の如く無制限に熱を熟し、ブリテンの王ではなく、世界の王としての証として尊ばれるのに時間はそうかからなかった。難易度と与えられる栄誉と富の間に存在する莫大な落差が人々の心を駆り立てた。あり得るかもしれないたった一つの可能性を否定し切れない群衆は、その魔法の様な引力に熱狂した。

 

人々は王の証へと我先にと手を伸ばし、そして引き抜くことなく帰路に着いた。帰る者、新たに向かう者、何度も引き抜くために宿を取り列に並ぶ者…鉄床が安置され、司祭や騎士に見守られた都城キャメロットの前広場は人の坩堝と化した。

 

それから一年が経つころになってやっと熱狂は鎮静され、次第に年中行事として諸侯や騎士が受ける洗礼式としての色を強めていった。

 

 

 

 

 

失われし剣は、選ばれし者の剣へと姿を変え、そして今や忘れられし剣へと意味を変えた。

 

 

 

 

 

カリバーンそれは、今や忘れられし剣であり、何れ来る希望へと、その栄光と終焉を約束する剣の名である。

 

剣の名はカリバーン。

 

それは、鉄を断つ名剣の名に非ず。

 

それは、傷を癒す聖剣の名に非ず。

 

それは、それは、それは。

 

それは、唯一運命を切り拓き得る、名もなき一振りの鋼の剣の名である。

 

 




では、また。


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B03ウーサー王

では、どうぞ。


B3 ウーサー王

 

 

 

 

 

第三の目曰く、ウーサー王は歪んでいた。その歪みは、当人が覚悟したものであり、望んだものではなかったが揺るぎなく選んだものであり、彼の理想に反駁するものであり、そして葛藤の種であり続けた。

 

 

 

ウーサーの兄王モインズの治世は安定していた。

 

かの王は名君と呼ぶに相応しく、如何な戦乱に於いてもこれほどの聖人もまたとおるまいと噂されることしばしばの人物であった。

 

民への施しを好み、清貧と平和を愛した兄王モインズはしかし、言語に乏しく振る舞われる暴虐に対しては頗る無力であった。

 

兄王モインズの死、それはその子らであるペンドラゴンとウーサーの兄弟をして、否、兄弟が最も必定也やと理解している所である。

 

兄王モインズは好人物であった。しかし暗愚であり、時代には嫌悪すらされていた。時代を読み間違えたことに気づけぬまま、胸襟を開いて殺戮者を歓待せんと無邪気に破顔しつつ群臣へと提案した王の姿は、間違いなく予断を許されていなかった状況下にあっては生存競争への明確な敗北宣言であった。

 

故に、とどのつまり兄弟達は卑王ヴォーティガーンに感謝の念すら抱いていた。だが、新たなる鉄と血を交えなければ明日を築くことすら難しい紛争の時代、その渦中の宮廷にあって純粋無垢であり続けることは二人に許されていなかった。

 

二人は生来純朴に、無邪気に、かの王の宮廷で育てられた。だからこそ、彼ら兄弟は兄王モインズの死に衝撃と、時代の波に漂う宮廷の黴臭さへの納得を得た。そして、その代償として王位継承権の簒奪と王都追放の憂き目に遭った。

 

 

 

兄弟にとって、生き残る為に己を演じることが必要になったのは言うまでもないことであった。そこに迷いはなかった。王位を追われたが故に、彼ら兄弟は権力という枷であり、盾であり、剣でもある力の喪失が、最早自分達に露ほどの価値も遺さなかったことに強い憤怒と、身の毛もよだつ恐怖を抱いたのである。

 

王に戻らなければ、自分達は最も容易く殺される。そんな単純で飛跳せし思考こそ、ウーサーとペンドラゴンの原点となった。そして、彼ら二人には皮肉にも決して名君とは言い難いが、時代に愛された者に特有の数々の機会を持ち得ていた。彼らはその糸を手繰り寄せることに掛けては、例え些事と雖も疎かにしなかった。

 

絶望を前にして開花した、鋭敏に政治と策謀の香りを嗅ぎ分ける均衡感覚とも呼ぶべきものが兄弟の"王道"を扶けた。例え、後世に王道ではなかったとしても、彼らの築いた土台こそ疑いもなきに、次代に現れる選定されし者の歩く"王道"へと継承され、その歩みへの嚆矢となった。

 

 

 

第三の目曰く、ウーサーとペンドラゴンの兄弟にとって、王位とはその唯一性を揺るがせにしたとしても、その名分のみであったとしても譲ることのできないものであり、同時に唯一の縋るべき依代であった。

 

だが、純朴ではいられないと悟った兄弟は容赦と慈悲の心を封印した。そして、卑王ヴォーティガーンへの憎しみに燃えて王統復興を掲げる王国の後継者として、自らを演出した。

 

兄弟の胸奥、当時を生きる一ブリトン人としての彼らの価値観に照らせばヴォーティガーンは救世主に映った。崩壊を待つばかりの、蝕まれるばかりの王国にあって、安穏と仮初の平和と豊かさを演出し続ける兄王モインズを討ち取ったヴォーティガーンは、その跡を武力を用いて掌握すると、驕ることも寛ぐこともなく満身を滅私ブリトン人の勢力圏保持と、その為に必要となる蛮族の侵攻妨害に邁進した。後に兄弟との対決のきっかけとなった蛮族の大侵攻に際しての日和見も、言うなれば内にも外にも力を少しでも温存するための戦略的な措置であったと受け取ることもできる。老獪なヴォーティガーンが、蛮人との闘争が大規模な局地戦の一つや二つで終結するものだと楽観視していたとは到底考えられないのだから。

 

それは紛うことなき、兄弟がそうなることを望んだ王たる者の背中であった。兄王モインズへの反動からか、兄弟の王道とは強き者の王道だった。その道が、決して常に大義として受け入れられるものではないことを理解していても、兄弟は弱き王であった長兄モインズとの対峙、そしてその道への反証を志し、王統を継ぐ者の宿命として、その道を敢えて進むことを選んだのだ。

 

ヴォーティガーンへの憎しみなどよりも、寧ろ火急の時分にありながらヴォーティガーンの果たした弑逆への拒絶という建前を己が独立自尊の為に利用した地方領主への憎しみの方が深かった。兄弟という王道志望の徒にとっては、地方領主独立の動きは紛れもなくブリトン人の弱体化の根拠であり、紛れもなくブリテン島が戴く王権への叛逆行為である様に感じていた。

 

卑王という虚構へ抱く憎しみを枷であり力の呼び水としつつ、ヴォーティガーンという一人の王へと心からの敬意を抱いていた兄弟は、だからこそ自らが進むべき王道にそぐわぬ者へ落ちぶれぬ為に、卑王との連帯ではなく、地方領主の利用という道を選んだ。その道は、兄弟にとって屈辱であると同時に、偉大な王への悔恨にけじめをつける意味をも有していた。

 

卑王は兄弟の命を最期まで奪わなかった。国軍を完全に掌握していながら、尚、自らの地位を脅かすこと必定の王の遺児達を生かして放逐することを選んだのだ。その事実は、戦乱の渦中で藻搔き抗うことを選んだ兄弟がヴォーティガーンを敬うに足るものであった。

 

 

 

第三の目曰く、ヴォーティガーンとペンドラゴンの死はウーサーに孤独を与えた。ウーサーが唯一執着していたのは他ならぬこの二人であったからだ。

 

ペンドラゴンにしてみてもヴォーティガーンを殺すことは何処かで忌避していた。だが、事実として卑王は死に、故に、兄弟が憧れた王も死んだ。

 

「王の抜け殻を、その虚を満たさなければならない」ペンドラゴンは斯く語り、そしてウーサーは兄が王位に就くことを望んだ。果たして、それは叶えられ、ペンドラゴンはペンドラゴン王として己の王道を進むことを選んだ。ウーサーはそれを己が、臣が、民が見届ける為には自分という同格の英雄現象の存在が兄の光に翳りを齎すことを危惧した。

 

だが、兄は弟と共に歩むことを望み、頑として互いが王たる国を持つことを譲らなかった。最終的にペンドラゴンの国を兄としてウーサーの国を弟とすることでウーサーが折れ、ブリトン人達に二人の王が誕生した。

 

ペンドラゴンが更なる力を求めて蛮人との戦争に明け暮れた日々の中で、ウーサーは凡愚な矮王を演じ続けた。金銭を湯水の如く使い続け、自分の手元に残ることは許さなかった。

 

一見無遠慮な豪遊が結果的にウーサーの国を破綻から救い続けていたのも、謂わばウーサー自身が富の蓄積を率先して禁じて、強引に富裕層の拡大を抑え付けつつ城下経済での富の回流を構築したからであった。無駄なことに金を費っているように見せつつ、実のところウーサーは民へと体裁を整える程度にしか富を使わなかったと考えていた。

 

少なからず実績を残したウーサーの演出だったが、無論、暗愚な王としての範疇から抜け出せるものではなく、実態として地方貧農が貧窮に喘いだことも事実であった。貧農の血税を湯水の如く城下都市へと投入し続けた分、高負担を賄えるほどまでに都市民の経済水準が極端に高収入化したことは、即ち他方から吸い取られた富が無計画に投入された根拠と言えた。

 

地方から上がる悲鳴に対して、ウーサーはその評価を甘んじて受け入れることを選んだ。それは兄王の存在をより輝かせる存在として、愚弟王の存在が実態を伴っている証拠であり、そのための冷酷な手段を厭う段階にウーサーは既に居なかったのだ。既にこの頃、ある種のグロテスクな意地とも、非論理的な殻とも言うべきものの内へ内へとウーサーは沈み込んでいたのだろう。

 

ウーサーは自身が次第に己の憧れる王道から道逸れて行く様をぼんやりと他人事のように眺めている自分の醜さ、無力さ、寒々しさ…それら全てを見て見ぬ振りをした。

 

 

 

だが、兄ペンドラゴンの死と蛮族の侵攻によって、ウーサーの楽観は無惨にも崩れ去った。

 

 

 

第三の目曰く、ペンドラゴンの死はウーサーの夢を砕いた。それは兄王による王道の完成を見届けることが永遠に不可能となったことであった。

 

自らの王道を求められ、敬いしヴォーティガーンに倣い、その滅私の名の下に兄王の日陰に潜まんとしたウーサーは、その信念に縛られるところとなり、否応なく新たな王としてブリトン人を導かねばならない使命に直面したのである。

 

使命の為に、今一度ウーサーは指導者とは冷たい鉄と心得なければならなかった。王として立つことを決断したウーサーには以前にも増して迷いも、容赦もなかった。

 

執着…即つ処の、寄る辺を喪失したウーサーはウーサーの望むべからざりし悪食の竜へとその身を堕としていった。次第に、その凶相は怠惰と肥満した肉体によって顕となった。

 

ウーサーはブリトン人の王として、必要悪であるか否かを問わず、疑問と倫理を轢殺しながら進んだ。ウーサーの歩みはブリテン島の王に至る道を見失い、王たる者の格すらも危うくした。だが、ウーサーは止まることができなかった。

 

立ち止まらなかったウーサーは、いつしか蛮人という外敵を忘れ、ブリテン島のブリトン人同族との勢力競争に耽溺した。兄王の為に演じ続けた愚王の姿見は、いつしか乱世に我を失い凶王と呼ばれる自分の真影として重なり合っていた。歪む輪郭震えながらも水を零すまいと張る浅底の坏のようであった。徐々に己を食い尽くしていく、虚影が真の影に置き換わる。暗く冷たく塗り替えられる己を前に、ウーサーはただ言葉と希望を喪った。

 

王は道を振り返り、純朴だった自分を、素直に王道に憧れていた自分との対決を恐怖した。そして、そこから逃げるように今度こそ己の赴くままに放蕩した。

 

友人と呼ぶべき古参の騎士が死ぬ度、そのことに対して何も感じなくなっていく自分自身から、王は目を逸らし続けた。

 

だが放蕩も直に終わりを告げた。ウーサーは喪ったものを取り戻したわけではない。だが、新たに得ることで見える景色が変わったことは、ウーサーにとって一度見失った道を再び取り戻したような心地だったに違いなかった。

 

 

 

第三の目曰く、王は運命と邂逅し、己の道を取り戻した。それは、漆黒の闇に差し込んだ一条の光に非ずして、それは暗月の下に手を繋ぎ進むが如き也。

 

それは福音に非ず、導きにも非ず。

 

それは蹲り身を捩ることさえ許されぬ人間が手をつき辿る為の寄る辺と成る者なり。

 

ウーサーはアマロとの出会いで変わった。いや、少しばかり純朴な王の道を思い出すきっかけを無駄にはしなかったのだ。これ以上、自分という存在にまで執着を喪いたくないのだ、とウーサーは強く自分に言い聞かせた。

 

ウーサーは過去の喪失と、新たな出会いによって、皮肉にも王として初めて一人前になることができた。

 

そして新たな夢、野望もまたウーサーは手に入れることができた。それは彼が得た新たな執着の、新たな寄る辺であるアマロに、己が見出した希望を託すことだった。

 

それは必ずしも賞賛には値しない、謂わば一方的で偏執的な夢にほかならなかった。

 

だが、ただただ、このブリテンという終局へと向かうばかりの世界が、ブリテン島に生きた己らが滅び、忘れられていく様を見届けることはウーサーという一人の王には出来なかった。

 

贖罪もあっただろう。奮起もあっただろう。

 

だが、根底には振り返ることもなく、がむしゃらに歩んできた歪な己自身の存在を、忘れられたくないという渇望があったのではないか。

 

ウーサーの渇きは癒えない。だが、新たな目的に向かい進むことはできる。生きることはできる。

 

そして、そのことをアマロはウーサーという一人の人と人の間に生きる者との交流の中に見出し、此れを認め、受け入れることを望んだ。

 

「忘れない。忘れることはない。そう、私が請け負おう」

 

後世に語るものがいれば、それはウーサー独自の願いではなく、魔法使いマーリンの術により誘導された可能性を指摘するだろう。

 

だが、例え誘導されたとしても、ウーサーは葛藤の中でこの道を選んだということに変わりはない。

 

ウーサーの選んだ、ウーサーの夢。それは全体から見れば決して真新しいものではないが、斯く望むことを遮ることは出来ないものだった。

 

 

 

ウーサーはブリトン人の血を、悠久に生きるアマロという異質な存在の血脈の中に保存しようと画策したのである。民族を、己を知る誰かの血脈を絶やすまいとウーサーは願い。その願いは受け入れられたのだ。

 

タブーも或いは、然ある道程を標榜する塁に過ぎない。

 

風を突き抜けて進む。時代の波を乗り越えて。

 

何かを遺すために意志は彌、その真価を発揮するのだ。

 

寄る辺なき者が為に在りし陰の棲まう荒野に、その足跡を染み込ませて。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、王は聖胎を担う貴婦人を募った。

 

莫大な財貨と広大な領地を報奨としていたものの、事実上の勅命であった。

 

ウーサーの名の下に各地から貴婦人が集められた。ブリトン人の名家に生まれた婦女子が王城キャメロットへと集った光景は壮観であったが、その日、ウーサーのお眼鏡にかなう女性は見つけられなかった。

 

蛮族への警戒や周辺への侵略を放棄してまで、今度は嫁探しに耽溺し始めたとウーサーへの誹謗中傷が密かに騒がれた。

 

市井の声を聞き流しつつ、ウーサーは毎夜の如く周辺領主を招いての宴を開いた。その目的は判然としており、しばしば招かれた者は礼を欠いてまで己や従者の細君を帯同しない者も多かった。

 

そこで、ウーサーは領主に向けて勅令を出す。

 

曰く、「これより開かれる宴に招かれた者は必ず、従者に至るまでその細君を帯同して参ぜよ。さもなくば、謀反の疑惑ありと判断してキャメロットより軍を遣わし弁明を仔細に糺す」

 

これに周辺領主は反発したが、しかしウーサーはこのようにも付け加えた。曰く、「当晩に参じた者には、蛮族による侵犯を受ける以前からの土地の永年安堵を誓約する」と。

 

この文言の効果は絶大であった。これは事実上のブリテンの中枢からの独立を王自らが諸侯に許したに等しく、たった一晩の忍耐によって永年の郷地の保有を認められるのである。行かないという選択肢は土地持ちの諸侯には無かった。

 

当日の宴には殆どの諸侯と貴族が参加した。

 

これまでに無い豪勢なものであると同時に、一種妖しい空気が漂う背徳的な雰囲気が形成されていた。それは宴の中で見定められる、聖胎への期待とも、その意味するところへの興味関心の昂りとも呼ぶべき、形容し難い世界であった。

 

その結末は、多くの者が想い定めし醜聞とは遥かに異なる壮譚へと帰着するのであるが…それはまだ今は語るべきに非ず故…。

 

然はあれども、果たして宴は催された。王の名の下に集う者たちの中に、未だ芽吹かざりし救済の種を揺らし抱き得る者を迎えて。

 

 

 

ウーサーは宴が始まる前から入場してくる婦人達を次々に見定めていった。王の側にはやや小さな人影があり、時折王はその小さな人影と言葉を交わした。人影は深くローブを被っており姿を垣間見ることは難しかったが、その髪色が虹の透ける銀白であることは判明であった。

 

「…マーリンよ、どの女だ?どの女が一番相応しい?俺には魔術とやらも、魔法とやらも、呪いも、果てには運命すらが佇ち薫る様などを読み取るなど全く出来ぬ。だが、大概の場合、そう言った何かをより多く持つ者を選ぶことが無駄にはならぬことを知っておる。」

 

「なるほど、確かにウーサー君のいうことも一理あるだろうね。けれど意外だね…君はもっと外見や肉体的な魅力に富む女性を好むと思っていたよ。いやいや、偏見とは恐ろしい。」

 

やや壁に寄って、二人は互いに囁くように議論していた。背の高い方はウーサー、背の低い方はマーリンであった。二人は選ばれし者を産み得る存在を、マーリンの千里眼を頼りとして探して回っていたのだ。

 

花嫁探しでもなく、勇者探しでもなく。二人の目的は、その勇者の母親探しである。幾分か関わりやすくなったウーサーと、アマロとの関係性が両想いであることへの確信を得て余裕を手にしたマーリンの関係性は以前と比べて気安いものへと深まっていた。

 

奇しくも、両者の目的が重なったこともあり。ウーサーはアマロの血脈を継ぐ運命に愛されし後継者を求めて。マーリンはブリテン島を救うと同時にアマロを救い得る、真の王たる選定されし者の誕生のため。

 

両者は微妙に重複した互いの目的を根拠に、言うなればブリテン島の聖母となり得る存在を探していた。

 

「…彼は?」

 

難航する捜索に無言になりかけたウーサーであったが、今回も無駄足であったか、と落胆を顔に浮かべる寸前にマーリンの口が開いた。

 

マーリンの視線の先には、恰幅の良い諸侯らしき男の姿が見えた。側には細身の美しい女がいた。

 

「…ティンタジェル公ゴルロース、とその妻イグレインだ…奴がそうなのか?」

 

やや焦った声でウーサーがマーリンに問うた。目の前の悪戯好きの魔法使いという奴は、ウーサーの予想を超えた化け物である。そのことを共闘する仕事の中で理解してはいたものの、ウーサーはまさかマーリンがゴルロースを女にするのではあるまいかと突然不安に駆られたのである。

 

「ううむ…あの腹は確かにふくよかだが、しかし殆どが駄肉だ、奴は酒もよく飲むのだぞ?赤児を産むのは不安だぞ…まさか、まさかだがアマロは男のままで孕ませることもできるのか!?」

 

ウーサーの想像が先鋭化していくに連れて、声が大きくなっていった。後半はどうやら周囲にも聴こえていたらしく、流石に壁際で侍る平服姿の護衛騎士も青い顔で頬をひくつかせていた。

 

周囲の様子など知らぬと、ウーサーは半ば本心から焦燥してマーリンの肩を掴んで問い質した。

 

「そんなわけないからね!?いくらアマロでも……否定は出来ないのが苦しい処だね…」

 

問い質されたマーリンは若干ウーサーから距離を取ってから正しい解釈を与えようとしたが、その前に自分の想い人が殊に性と生にかけては、なし得ぬことの想像が追いつかぬ、精力絶倫の絶対者であることに思い至った。旅程にて月下の草原に並んで寝転がりつつ話を強請った際に、マーリンは彼から聞かされてきた旅情での色詩の内容を思い出して口をつぐんでしまった。

 

「んんッ!!いやいや、流石に彼でも男のままで子供を産ませるなんて離業はまだ未経験だと思うよ。命を狙われたからオリオンを手篭めにした話や、アマゾネスを守る為に荒れ狂うヘラクレスを腰砕けにした話は有名だけれど…それだって眉唾さ!……だから、多分大丈夫…かな…?」

 

後半になるにつれ、自分で説明しておいて自信が無くなるのはご愛嬌である。聴かせて貰った事例の中に該当するものが無かったことで何とか安堵しつつ、マーリンはやっと本題にたどり着いた。

 

 

 

「って…僕たちはそんな話をしたくて来たわけじゃないからね?ほら、隣の女の人…」

 

マーリンの指の先には細身の婦人が佇んでいた。各、好きに飲み食いをする場である。珍味も美味も思うがまま。だのに、彼女は一人静寂に浮かんでいた。

 

「?…あぁ、イグレインか……あの女なのか?」

 

顎を擦るウーサーの視線は品定めをするような鋭い光を帯びた。査定を一通り済ませてから、ウーサーはマーリンに顔を向けた。

 

「…あぁ、そうだったよ」

 

マーリンは淡々と言った。記憶を掘り返すように、少し俯いたマーリンの様子は真を帯びていた。

 

「…見てきたような口振りだな…まぁいい。さぁ、問題は貴様の良人から言い含められている条件を果たせるか、否か、だ。」

 

ウーサーは人差し指を立ててマーリンに見せながら言った。特に表すものもなかったが、彼なりに明示すべきことを強調するための動作のようだ。

 

「条件?何だい、それは?アマロは滅多に自分から条件をつけないんだよ?何かしたのかい?」

 

マーリンは殊にアマロの習性とも言うべきものに照らして、あまり耳にする機会のない事例に対して好奇心を表した。知らないアマロの様子を想い、僅かな嫉妬と八当たり気味に問い詰めんとして語尾が強まった。表情自体は単純な疑問顔であるから、進歩したと言うべきか。

 

「貴様も協力しておるだろうが…子を成すことに、アマロ殿は明るく微笑まれた。だが、母となる者が了承しなければ交わらぬ…と、いうわけだ。」

 

さて、浮上した問題はそこであった。結局のところ、事前に否応の無いことは例え事後承諾であっても裏切りである。両者とも、流石に気が咎めるのだろう。

 

悩みつつ、二人はふと件の貴婦人の良人の姿を探した。

 

二人が見つけたのは、恰幅の良いティンタジェル公が外見通りに酒食に走っていた様子だった。まるで舞踏する猪のようだった。相変わらず、彼女の方は所在なく。今今に窓辺に椅子を見つけると、腰を落として窓から外を眺め始めた。

 

「成程…ならば杞憂だ。」

 

ウーサーか、マーリンか。二人共が同じように感じ、そして同じ文句を口にしたように思われた。

 

ウーサーはマーリンを引き連れて件の貴婦人が黄昏る窓辺へと近づいた。

 

 

 

「御婦人、少し時間をいただきたい」

 

ウーサーはイグレインに声をかけた。

 

「まぁ、陛下。夫は彼方にございますよ?」

 

声をかけられたイグレインは素気なくそう答えた。その言葉には抑揚がなく、とても王を前にした言葉には聴こえなかった。ウーサーにも、目の前の婦人が暗に「構ってくれるな」と言っていることを理解したが、神妙な表情で改めて声をかけた。

 

「…其方に用がある。時間は取らせぬ」

 

淡々とした王の言葉には日頃の凶相が形を潜め、噂に聞いていた恐ろしさも薄寒さも感じさせなかった。王として、どこか垢抜けたような風格を纏っていた。少なくとも、イグレインはそう感じ、この御仁の言葉に応ずることにした。

 

「……はぁ、ではお聞きいたします」

 

静々、と言う表現がよく似合う、ほんのりとした会釈。相変わらず撫然とした表情にも見えたが、瞳には嘲りの欠片もなく澄んでいた。

 

「人に会ってほしい」

 

王はイグレインの眼差しに、強い意志を込めた眼差しと言葉で返した。王は言葉少なに語った。

 

「何方ですの?」

 

イグレインは平然のまま受け応える。

 

「殿方だ。だが、今はそれしか話せぬ」

 

王もまた平静のまま、駆け引きじみた沈黙を挟みつつ応えた。

 

「……会うこと自体は構いません。私はどちらへ向かえばよろしくて?」

 

あっさりと。イグレインは王からの誘いに応じた。

 

「……今すぐにとは言わぬ、流石に会うことに憚ることもあろぅ…い、いいのか?俺が言うのも何ではあるが急な話だったぞ?」

 

あまりにも容易く応をいただけたことに王は素っ頓狂に確認をとった。その様子もイグレインは悪戯げに微笑むでもなく、静かに冷涼に見つめていた。

 

「えぇ、ご覧の通りですわ。夫は私より余程宴に夢中ですし。それに…何となく、不思議と心誘われる思いがしますの」

 

イグレインは初めて瞳を細めて言った。どこか、儚さを添えるような美しさが匂う貌だった。胸に握った左の手を当てて、どこか遠い何処かへ思いを巡らせるような表情は、ウーサーも、はたまたマーリンも知らぬ類の色であった。

 

「然り…か。相分かった、これから案内する。ここに居る白髪の従者が其方をとある方の部屋に誘う。この方の話に従い、その部屋の中で会い見えよ」

 

気を持ち直した王はイグレインの先導役として、後ろに侍ってティンタジェル公の動向に意識を巡らせていたマーリンを紹介すると、自分は背を向けた。

 

「…畏まりましたわ……王様、ウーサー様」

 

遠ざかる両者。イグレインは振り返り、ウーサーに声をかけた。何処となく戸惑うような、安堵したような声であった。

 

「ん?なんだね?」

 

毒気を抜かれて、ウーサーは彼の思う王らしからぬ随分と穏やかな声を返した。顔も、おそらくは目を丸くしているのだろう。

 

「……おかわりになられましたね」

 

イグレインの言葉は優しげであった。それでいて愉快な不思議を前に気を緩めたような響きがあった。

 

「……君も、変わるよ。喪ったものは戻らぬが、新たな道は継ぎ繋がる。取り返したのではない。今一つ、進んだ先で手に掴んだのだ…」

 

ウーサーは、王は、ふと胸に浮かんだ言葉を飾ることなく晒して言った。答えにはなっていなかったが、王の独白にイグレインは何も言わなかった。

 

「…さぁ、イグレイン様此方へ。僕の後に続いてください」

 

マーリンはウーサーの顔を一度見遣ってから、イグレインへと手で暗がりに篝火が浮かぶ通路を、先への道を示しつつ言った。慇懃無礼な所作は様になっていた。が、ウーサーは苦笑いを浮かべて見送るように頷くと、貴婦人へと優雅に一礼してみせた。

 

「……それでは、何れ再びの拝謁の折にて」

 

遠ざかる王の背を穏やかに押すように、イグレインはそれだけ言うと、もう振り返ることはせずに白髪の先導者に続いた。

 

「………」

 

 

 

「直に、ブリテンには嵐が吹く。白甲の竜は人に殺された。だが…不死の竜はどうすれば生まれる?」

 

「ヴォーティガーンよ……貴方の遺した、剣という解は失われなければなるまいよ」

 

ウーサーの言葉を綴じる者は無く。また、ウーサーもそれを望まない。ただ、答えを求めて彷徨う己の奔走振りが、骨折りと一喜一憂が、ウーサーにはどうしようもなく満足だった。

 

 

 

 

 

あぁ、我らがブリテンの行く末を託すに足る火を灯さねば…今はまだ、陰が仄かに蒼く游ぐのみ。

 

だが、それでよい。

 

彼は君を待つ。君を待つ。

 

いつまでも、貪欲な健気さを温もりで守り続けて。救う度に渇く君を潤すために、彼はここで君を待つ。

 

何れ迎える困難の中で激る火よ!!!

 

其方の猛き姿は!!

 

忌々しき仇を灼き尽くすであろう!!!

 

其方の眩く赫い光は!!

 

万戸の民を遍く照らし導くであろう!!!

 

明日ありと祈る者を護り、打ち捨てられし全てを護り囲わんとするであろう!!

 

其れ正に王道也!!

 

だが、何れ行き着く壁を確と見よ!!

 

この愚王の如く、この世界を見捨てる勿れ!!

 

汝こそ、選定されし者也!!

 

ただ強く、激しく進めよ!!

 

ただ純に、無垢に歩めよ!!

 

汝が救う者也。汝は救う者也。汝こそがブリテンを救う者也。

 

唯一つ、唯一つ。努努忘れる勿れ。

 

汝に救いが訪れること、断じて、然りと。

 

救いし者たる汝もまた、唯汝を救うが為に在る君を戴いていることを。

 

汝、君を忘れる勿れ。それは救い也。

 

救いし者たる汝もまた、唯一人の救われ得る者に過ぎぬと言うことを。

 

汝、君を忘れる勿れ。それは救い也。

 

恐怖に抗い。理不尽に激し。怨敵に克ち。脅えを祓い。貧しきに耐え。朽ちるに堕ちず。ただ己が剣にかけて揺るぎなき誇りを興し。

 

そして時として、己を、己だけを顧みよ。

 

汝は救う者也。汝は救われるべき者也。

 

汝の陰は、永劫、唯の汝が為だけにあり。

 

 

 

真の希望とは、漆黒の闇霧に囚われし者の足元を照らす一条の光明に非ず。

 

真の希望とは、ただ暗月の下に道あるを信じ、己の道を歩む者と手を繋ぎ共に歩む者なり。

 

 




では、また。


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B04貴婦人と騎士

コンでんす様、クラキ様、誤字報告と感想をありがとうございます。
では、どうぞ。


B4 貴婦人と騎士

 

 

 

 

 

石壁に囲まれた、木組の柱が見える窓もない部屋の中は薄暗かった。静かな空間には火の滴が浮かぶばかり。埃さえも沈んだまま浮かんでこないような、明確な清涼感とも霊澄感とも呼べる何かが込み上がってくる。招かれた客役たるイグレインは過去と未来を忘れさせ、自分を今に放つ魔力が、部屋の主人たる彼にはあるように思えた。溶けた蝋が根本で蟠る燭台が、ここでの時の流れが偽りではないことを辛うじて報せていた。

 

そんな部屋の中、椅子代わりの寝台に並んで腰掛けたアマロとイグレインは、お互いに距離を手探りつつ、説明不足で困惑する相手と前向きな時間を過ごそうと思い立った。

 

 

 

「初めまして、私はアマロと言う。今はこうしてウーサーやマーリンの元でお世話になっているけれど、実は旅人なんだ。特に行く当てもないけどね。君の名前を教えて貰えるかな?」

 

何とも巫山戯たような、場違いに初々しい臭いをプンプンさせながらアマロが言った。照れ臭そうな姿は意図したところでは断じてない。

 

気とも素とも呼ばぬソレに当てられたイグレインは案の定閉口した。眩しくて惹かれる感覚とは根本的に異なる。吸い寄せられるが如き精緻な引力に心根を鷲掴みにされたようか心地だ。

 

「……イグレインよ。ただのイグレイン」

 

外方は向かなかった。いや、向けなかった。幸運にも表に動揺が現れない自分の顔に、イグレインもこの時ばかりは感謝した。

 

「うん。わかった、イグレインよろしくね?ところで、君はどうして私の下に呼ばれたのか理解しているのかい?」

 

素気なく返したイグレインを不躾に見定めるでも無く、念のためにともじつきながら問うたアマロは控えめに言ってあざとい。が、しかしこの男にその自覚はない。寧ろ、落ち着いているようでその実は困惑していた。ウーサーはまぁわかる、だがマーリンまで折角言いつけた条件を履行しないどころか、何の説明もなしに察しろと言わんばかりに突き放すとは…アマロは困惑していた。

 

「……?いいえ、何も説明を受けてはいないわよ」

 

案の定。イグレインは事情など露知らず、己の抱いた形容し難い誘わしい情感覚に任せて身一つで乗り込んだのだから当然の如く、正直に回答した。

 

アマロは頭を抱えたくなった。己が好色であることは省みても間違いがないという自覚がある。我を忘れる己を戒めるためにも、と付け加えた条件であった。だのに…子供は好きだ、だが決して繁殖の為にする訳ではない。元より繁殖とは縁遠いアマロであるから、より意味合いや子供への愛着には深く重いものがある。見境のない性獣とは、一応は異なるのである。

 

「……うーん。やっぱりね…じゃあ、折角だから世間話でもどうだろうか?」

 

困り果てつつも、そこからの立ち直りが光の如く速いことがアマロの好ましいところだろう。

 

「……勿論、構わないわ。宴だからと、私は燥ぐのが得意ではなかったから時間を持て余していたの」

 

向こうに気を遣われたのを知ってか知らずか、或いは理由は何であれ目の前の尊顔麗威を味わう機会を逃すまいと思ったのか、イグレインも僅かに口角を上げて応えた。

 

「それならよかった…私も机と寝台しかないこの部屋で、こうして何もせずにじっと待機するのには飽きてきた頃だったからね」

 

アマロは提案を飲んでもらった安堵から、にぱっと笑顔を見せつつ前のめりに話し始めた。

 

「奇遇ね、何からお話ししましょうか?」

 

対してイグレインは落ち着いたままだが、その身に纏う雰囲気は柔らかい。

 

「じゃぁ…君のことを教えてよ」

 

じーッとイグレインを見詰めていたアマロが、真顔で提案した。

 

「………物好きね、少しだけならいいわ、教えてあげる」

 

ほんのり頬を紅潮させたイグレインは、モヤを消すように顔を手で仰いでから、勿体をつけて言った。

 

 

 

「夫は私のことを放って肉と酒と戯れているの。それに私を宴に連れて行くのだって…自分の妻が聖胎とかいう役目に選ばれるかもしれないからと、あの人の従者達は戦々恐々としていたわ…まぁゴルロースはそんなことなかったけれど。」

 

話し始めてすぐに、イグレインは愚痴をこぼし始めた。というのも、手近な世間話と言えば抜け出してきた宴の話だったからだ。

 

イグレインにとって宴とは余り好ましいものではなかった。清貧や質素を好むわけではないが、豪奢で派手な生活を好むわけでもない。平穏に、いっそ退屈に暮らすことに満足を見出せる類の貴婦人であった。

 

「ゴルロースさんって言うのかい?」

 

互いの感性に通じ合うものを感じたのか、アマロは少しずつイグレインを気になり始めていた。スラリと繊細で怜悧でいて温厚なイグレイン。抗い難い引力が滲む艶美で愛篤でいて陽穏なアマロ。

 

傍目から見ても二人の相性は悪いようには見えなかった。口数も少なく、どこか不器用そうな所も、雰囲気や素振りから見ても重なっていた。

 

「えぇ、名前負けしているわよね。若い頃は騎士として大層立派だったそうね…けれど、今は」

 

「今は?」

 

「強いても踊れる猪というところかしらね」

 

「ふふふふ…君の冗談は些か辛みが強いね」

 

イグレインは自分が寡黙な方であることを自覚している。それはアマロも同じくである。だが、寡黙だからと言って相手を喜ばせたり、笑わせたりしたくないわけではない。

 

ほんのちょっと、偶には面白いと自分で思った冗句を飛ばしてもいいのでは?

 

この人なら私の言葉で笑顔になってくれるのでは?

 

そう、イグレインは思ったのだ。

 

心臓が騒がしくなりつつ、大層な汗をかきながらも最後まで冗句を飛ばした。

 

結果はご覧の通りだった。微笑ましや。彼女の心配は杞憂に終わり、彼女と彼の関係性に、より良質な緩みを与える結果となった。

 

「貴族の冗談はもっと苦いのよ?苦いのと辛いのは何方がお好きかしら?」

 

「あはははは!!イグレインは自分が思っているよりずっと気さくだね」

 

「ぷふふ…ここでの話は内緒よ?ゴルロースは鈍感だけど、侮辱されると焼き豚みたいに赤くなって怒るから」

 

「ふふふ…笑ったらダメなのに、想像したら面白くなっちゃった…」

 

「……ぃ、いいのよ。笑ってくれて。いえ、寧ろ笑ってちょうだい!別に、私はあの人を嫌って言っているわけでもなし…言葉こそ辛辣だけれどホントのことなのよ?」

 

赤面は興奮半分、弁明半分であった。いや、夢中になっていた己を自覚したことへの、可愛げのある羞恥も付け加えておこう。忙しなく手を振るでもなし、薄く紅の差した顔を外方に向けつつ、鼻息は楽しげなイグレインはアマロに陰口を好む女だと思われぬようにと言い清めたのだった。

 

 

 

「……それで、ゴルロースさんとはどんな馴れ初めだったんだい?」

 

「…なんてことのない、貴族同士の婚姻よ?面白くも何ともなかったわ。でも、だからといって結ばれたいほどの殿方もいなかったから、不満もなかったわね」

 

「…ふぅん。ゴルロースさんって、どんな人なんだい?君の伴侶なのだろう、私に彼のことも教えておくれよ」

 

「物好きなのね…嫌いじゃないわ…ええ、いいでしょうとも」

 

 

 

言葉を切ってから視線を彷徨わせたイグレインの目に留まるものがあった。マーリンがいつの間にやら置いていったのか、二人が並んで腰掛ける寝台の脇の机には二つの杯があった。片方を取り唇を湿らせてから、イグレインはゴルロースについて自分が知り得ることをアマロに語っていった。

 

 

 

「ゴルロースが食べることに執着し始めたのは、蛮族との戦いが始まってからよ…それまでは、すれ違う人が振り返って見直すほどの美男子だったらしいの」

 

「ゴルロースは蛮族の襲撃を受け、焼ける街を見た。その光景がこびりついて離れない。だから、酒を飲むようになったというの。」

 

「ゴルロースは荒れ果てた大地でさえも奪われ、飢えてゆく貧農の喘ぎに耐えられなかった。自分の無力さに屈した彼は、それから吐くまで食べるようになった。そして吐けばまた食べる。でなければ、まともな自分が蘇る気がしたの。だから、常に狂うことを必要としたの。」

 

 

 

ティンタジェル公ゴルロースは絵に描いたような完璧な貴公子だった。だが、蛮族が持ち込んだ戦乱は彼を華やかな宮廷から、血腥いブリトン人の屍の山へと縛りつけた。

 

潔癖で、敬虔だった麗しきゴルロースは死んだ。そして、不潔で、野蛮な醜悪なるゴルロースが生まれた。

 

それは生き延びるため、ゴルロースが選んだ狂い方だった。それは彼にとってその時、他には考え付かなかった唯一の救いの方途であるように思えたのだ。

 

そして、今もその闇の中でゴルロースは蹲っているのだ。

 

 

 

イグレインの言葉はそんな顛末を迎えた。

 

言葉が流れるように話したことはこの時が初めての経験だった彼女は、ふと隣のアマロを見た。

 

そこには強い意志を瞳に秘めて、真剣な面持ちでイグレインを見つめるアマロの姿があった。イグレインはどきりと胸が波打った気がした。

 

アマロはイグレインの肩に手を置くと、目と目をしっかりと見合わせて言った。

 

「ゴルロースに会わせてくれ」

 

「わかったわ…えぇ、任せてちょうだい」

 

考えるよりも先に口が動いていた。イグレインはキョトンとした表情で己の頬を抑えた。そして、二度とアマロの顔と頬にやった手を見比べてから、添えるように微笑んで言った。

 

「…ここに来てよかったわ。貴方、不思議な殿方ね。魔法使いかしら?」

 

イグレインの言葉は揶揄うようで、それでいて揺らぎのない芯が通った声により紡がれていた。

 

アマロは真剣な瞳のまま、口元を緩めて答えた。

 

「いいや、魔法使いはマーリンの仕事だ。私はただの長生きな旅人だよ」

 

 

 

「………」

 

扉の外で一部始終を聞き届け、見届けたマーリンは静かに扉から身を離すと、宴の中の喧騒からウーサーの声を拾い上げた。

 

声の元へ、迷いなく進んでゆくマーリンの足振る舞いは舞踏のように淀みなかった。

 

「おぉ…どうだった?」

 

前置きもなしに答えを求めた王。辿り着いた玉座の真横に侍ると、マーリンは酒に酔おうにも酔えない様子のウーサーに耳打ちした。

 

「ウーサー君、君は甚だ読み間違えたようだね」

 

クスクスと笑いを漏らしながら報告した。マーリンの囁きに王はしかめ面を浮かべて言った。

 

「なんの話だ、俺にもわかる様に言え」

 

ウーサーの様子はうずうずとして堪え性のない飼犬の様であった。これがついこの間まで自暴自棄に凶王ぶっていた男かと思えば笑いもする。

 

仕方ないな、と手を掲げて首を振るマーリンは煽り立ての上手いこと上手いこと。まだ一言と発する前から既にウーサーはマーリンの報告を碌でもない事であると踏んだ。

 

マーリンは言った。「だから、君は見誤ったのさ。あの女人、イグレインは大層な運命を持っているらしい。アマロとの相性があんなに良いのは、僕の知る限りだとまだ今は彼女くらいのものじゃないかな?君の予想に反して、彼女はアマロの心に火をつけちゃったのさ。しかも、僕たちの予測の遥か斜め方向に向けてね!」

 

マーリンの言葉をウーサーは理解しきれていない様子であった。

 

ウーサーは言った。「ふむむ?相性が良かったのであるか…その何が予測の遥か斜め上なのだ?むしろよかったではないか。それでそれで、確と契ったのであろうな!?」

 

「ううん。契るどころか手も握らなかったね…これは僕も予想外。」

 

少し辟易とした顔でマーリンが言った。これはウーサーの書いた図だけでなく、マーリンの考えていた完成形にまでもインクを満々とぶち撒けた結果と呼んでも差し支えがなかった。

 

「な、なんだとー!?」

 

驚いたウーサーは玉座に座したまま大股開きで後退った。

 

「あ、あと補足すると、アマロの心についた火が向かう先はティンタジェル公ゴルロースだよ」

 

戦くウーサーを尻目に、マーリンは淡々と付け加えた。それはウーサーの常識どころか、起こりうる如何なる可能性をも鼻で笑うような答えだった。

 

「にゃにゃにゃにゃ!!??」

 

遂にウーサーは酒の杯を手から滑り落とし、そのままズズズと玉座に沈んでいくように気を失った。

 

「ウーサー…あぁ、気を失っただけか。…まぁ、わかるよ、僕もいつも思うもの、全てを知っているはずなのに…アマロは常に僕たちが考えた真っ当な方法を、思いもよらないトビキリので飛び越えていくんだからね…まったく、困ったものさ!」

 

マーリンも流石に同情的にウーサーを眺めつつ、しかし何処か楽しそうに聞こえるくらいに、声を弾ませながら真っ暗な回廊の向こうで、今も話し込んでいるだろう不思議な二人へと思いを巡らせた。

 

 

 

第三の目曰く、ウーサーに連れられてアマロがティンタジェルへと向かったのは宴の夜から数えて一週間ほど後のことであった。

 

「吾輩がティンタジェル公ゴルロースである。君が…イグレインが吾輩にどうしても会って欲しいと言ってきたのは…」

 

ウーサーは形だけの挨拶を済ませるなり領館から王都へと帰っていった。残されたアマロは、彼女との約束通りにティンタジェル公ゴルロースの元へと通された。

 

ゴルロースは屋内だと言うのに剣を決して手放さない。その噂通り、剣を脇に立てかけたまま大きな椅子に体を詰め込む様に座していた。

 

ゴルロースの問いに対して、イグレインは「えぇそうです」と答えた。ゴルロースはふんふん、と鼻息を立てつつアマロを視線で舐め回してから、今度はアマロへと問うた。

 

「……アマロ殿。貴殿が吾輩に会いたいと言ったことも、知っておる。だが、貴殿の様な霊艶な御仁が、訳もなく吾輩の様に…吾輩の様に、肉ばかりを肥やす醜男に会いたいなどとは言わぬこと、吾輩とて重々知っておる。さて、貴殿に問う。何が望みか?何をこのティンタジェルに求めて御座った?」

 

ぎろりとした瞳ではない。湿っぽく、情けなさが滲む突き放す様な視線である。ゴルロースはそんな視線をアマロに向けながら言った。その瞳は怯えと後悔と、どうしようもない自分をどうにかしたくとも自力では変われないことへの鬱屈が溢れていた。縋る様な、しかし諦めた様な視線は、言い切れば至極面倒臭い代物だった。

 

だが、この男はもっと面倒臭いのだ。見縊ってくれるな。

 

「いえ、本当に特に理由はなかったんだ。ただ、君に逢いたくなったんだ。…イグレインに色んな話を聞かせてもらって、そしたら君と、ゴルロースと会いたくなった。だから、こうして会いに来たんだ。ふふふ、確かにイグレインの話の通りだ。こうして、来た甲斐があったってものだ」

 

「けれど、……君は、どうしたいの?どうしたかったの?ただの旅人でしかない私には、わからない。私は常に無知で愚鈍だ。だけれど、今この時も胸に込み上がってくる熱い何かだけを恃み…その熱の赴くままにしてきた。今、こうして私がここにいるのは…私の中の強い何かが語りかけたからなんだ、君に逢いたかった。そう、強く囁いたものだから。」

 

「こういう時、決まって誰かが変わる時なんだ。流石の私も段々とわかるものさ。そして、それは君なのだと思う…だから、後は君の番だ。君が望むことをして見るといい、その為なら私は何か出来ることをしよう。」

 

アマロは正直に語った。それは全く荒唐無稽。そして支離滅裂の嵐であった。

 

いつも通り、歩いてきた道には山と谷しかない。まともな道を知らない旅人は、どうしようもなく道理に疎い。光の元には生きられない。光が溢れる道を歩くことはできない。

 

だが、だからこそ旅人は、アマロは決まって光を前にして暗闇の中に蟠る誰かの陰となる。陰は一条の光明になどならないし、なれない。だが、光に焼かれて生の道が霞んでしまう時であっても、ただ一人、君から離れることなく寄り添い続けるのだ。

 

アマロの言葉は意味を語るに足りなさ過ぎる。

 

だが、吸い込まれる様な尊顔は片時として歪まず、逸れることもなく、自ら醜いと認めるゴルロースの醜顔へと温かく澄み切った瞳を向け続けていた。

 

「……何を語られたのか…君が何を言いたいのか…吾輩にはわからない…だが、君が吾輩に会うために、本当にただその為に来てくれたことは信じるよ。…歓迎しよう。それから、吾輩に…少し、時間をくれまいか?」

 

「あぁ、私は待っているよ。君が望むままに振る舞ってみるといい。私にはわからない。君自身にしかわからないことだから。」

 

いつの間には部屋の中は静寂に満ちていた。領主の館でも最も天井の高く作られたゴルロースの私室。そこにアマロの声はよく響いた。それは優しく染み込む様にゴルロースと、その傍でアマロの声に耳を傾けていたイグレインの元に届いた。

 

「…イグレイン。アマロ殿を、お部屋に案内してくれ」

 

「畏まりましたわ。さぁ、アマロ様…」

 

ゴルロースに促されてイグレインはアマロを案内する為に軽やかに進み出た。

 

「アマロって呼んでほしい。ゴルロースもね」

 

だが、様付けに不服なのか、可愛らしく頬を膨らませて言うアマロへ、端からありもしない毒気を抜かれた二人は笑かしいような、小恥ずかしいような気持ちで各各に承諾した。

 

「うむ。わかったぞ、アマロ…吾輩も、そのままゴルロースでよい…うん、よいぞ」

 

心なしか嬉しそうにゴルロースは言った。

 

「…ふふ。わかったわ、アマロ。さぁこちらへ、部屋に着いてからも困ったことは私に教えてちょうだいね?」

 

イグレインは興味深そうに、それでいて痛快は気持ちでアマロの言葉を受け入れた。

 

「うん。じゃあまた後で、ゴルロース」

 

「…うむ。また、だな」

 

手を振るアマロの背中を見送るゴルロースの顔つきは、幾分ほろほろと柔らかいものだった。

 

 

 

「………吾輩が、したかったこと…出来なかったこと、守れなかったもの…守りたかったもの、成りたかったもの…」

 

 

 

ゴルロースの鼻にかかった野太い声が、幾分優しく静かに響いた。

 

 

 

第三の目曰く、その晩にゴルロースはアマロの部屋へと向かった。

 

「ようこそ、ゴルロース。夜更けにどうしたんだい?眠れないのかい?」

 

ゴルロースを迎えたのは寝巻き姿のアマロであった。眠たそうに目を擦るこの男は、客人が何方だったかゴルロースに忘れさせてしまいそうだった。

 

招かれ、招いたゴルロースはアマロのいる寝台へ、彼の隣に腰掛けた。しょんぼりとした大男の姿は哀愁にも増して情けなさが強調されていた。

 

ゴルロースは言った。「吾輩は…考えたのだが、でも、わからないのだ…未だ、半信半疑でアマロの部屋に来ている。こうして、吾輩は、貴方が何者なのかも見当がつかぬ。だが、なんだか逃げても、恐れてもいられないような気がして…それに、嬉しかったのだ…まさか貴方のような御仁にあれほど熱く見つめられるなど。だが、だから…吾輩は…吾輩は怖かったのだ…今もこうして、震えている。貴方に何と嫌悪されないか、罵倒されはしないかと、震えておる。しかし、どこかで貴方になら打ち明けてもいいと思ったのだ…言葉では何と言うも包めぬ…謂わば直感とも天啓とも…そんなあやふやで、でも強いものだった」

 

体を縮こめながら、涙さえ浮かべた醜男がぐすぐすと語った。アマロは自分より大きなゴルロースの背中を優しく摩り、その言葉へ静かに耳を傾けた。

 

「吾輩は…騎士に成りたかった。格好のよい、誉ある騎士に成りたかったのだ…だが、ティンタジェル公になった途端に、吾輩は目の前が真っ暗になってしまった。吾輩は、自分が初めて戦に出た時、初めて蛮族を殺した。その時、吾輩は思ったのだ…吾輩は騎士になれない、と。怖かった、それに汚いと思った。色々な臭い、音、色が混ざり合っていた、あんなに恐ろしいものを知らなかった。逃げたのだ…吾輩は騎士を諦めた。戦場を忘れるために酒を初めて飲んだ」

 

「公として、ウーサー王から町や村を任されたが、一向に豊かにはならなかった。だのに、吾輩の倉は常に山ほど食糧があった。これを分けようとも思ったが、群臣に反対され、そのままだ。領主として、多くの無力な民を助けるよりも…神輿や旗竿貴人として強欲だが力のある家臣達に媚びた方がいいと思った…彼らに失望されるのだけは御免だったのだ。人の死を見て、自分の死も怖くなった。いつか夢見た、騎士の姿の似姿を、家臣たちに高価な甲冑を買い与えて押し付けた。」

 

「吾輩は…」

 

吾輩は、何がしたかったのだろうか。

 

ゴルロースの言葉は最後まで続かなかった。口が塞がったのだ。

 

「難しい話はもう十分だよ。君はあまりにもまとも過ぎたんだ。純粋で、腐り切ることも出来なかったんだ。私に出来ることはただ一つ…君には、癒しが必要だ…嫌なら拒んでくれていい。私にはこれくらいしか得意なことがなくてね、でも、皆喜んでくれるから恐らく不愉快な思いはさせないよ」

 

何をされているのか理解できないまま、尊顔と尊体がゴルロースの身を、遥かに大きいゴルロースの身を、錯覚ではなく確かに覆っていった。細りとした体は逞しい肉体に、優しげな瞳は怜悧に。いつか夢見た、ゴルロースの憧れた騎士の理想像だった。

 

「……よろしく…おね、さ、スゥゥゥ………」

 

不気味な駆動音を立ててお辞儀をしながら、混沌に身を委ねたゴルロース。

 

その晩、ティンタジェル公の館に世界を貫き開ける様な声が響いた。

 

 

 

 

 

「まさか……こんな形で騎士になってしまうとは思いもしていなかった……いや、姫であり、騎士だな…吾輩も、やるではないか……忘れられそうもない…いや、それでよい…」

 

月夜の下、ボロボロのゴルロースは何とか私室に辿り着くと、寝台の上に砕けた腰を横たえて呟いた。

 

「……吹っ切れたな…あぁ、そうだ。やっと、やっと、空っぽだ。」

 

何処となく男らしくなった顔つきには、情けなさも頼りなさも消えていた。

 

 

 

アマロが館から帰って行ったのは三日後だった。毎晩の様にゴルロースはアマロの元に通った。三日間、毎晩のようにゴルロースはアマロと語り合った。ただ、語り合った。

 

そして別れの日の晩に、ゴルロースはイグレインをアマロの部屋に向かわせた。だが、イグレインは何事もなくアマロと添い寝をして夜を過ごした。アマロが帰った次の日から丸々二ヶ月拗ねたイグレインはゴルロースと口を利かなかった。けれど、その茶目を表に出す様になった姿がゴルロースには嬉しかった。

 

「………」

 

アマロの背中が遠のき、もう少しも見えなくなった。私室に戻り、沈黙に浸ることしばらく。ゴルロースは立てかけていた剣を引っ掴むと、靴を履き直し、館の中庭に出た。

 

そして鞘を取り払うと、抜身の剣を両手で握り込み、やけに整った所作で構えた。

 

徐々に、徐々に赤くなっていく顔。パンパンに膨れた赤ら顔から力が抜ける瞬間。ゴルロースは吠える様に息を吐き、止めを繰り返しながら素振りを始めた。

 

「…!…!…!…ぶ、ふひ!ひ!ふぶ!」

 

脈絡もなく、側からみれば乱心の形相で、ゴルロースはそのまま数刻の間も剣を振り続けた。

 

汗塗れで倒れ込んだ領主を見つけた領館の騎士に解放されながら、震える肉で膨れていた頬が削げた様に見えたゴルロースは、霞む視界で満足げに独り言ちた。

 

「吾輩は…いいや、僕はもう一度、抗ってみようと思うよ…なんだか、全てが可笑しくなった。不思議と、重かった体も軽くなったんだ…」

 

駆けつけたイグレインはゴルロースの額から汗を拭いつつ、呆れた様子だった。

 

ゴルロースは笑った。

 

 

 

ティンタジェル公領にウーサーの軍が攻め込んだのはそれから一年後のことだった。

 

「僕はゴルロース。真の騎士なり。不義の妻イグレインは離れ島の塔にて終身刑とする。騎士を騙りし者ウーサーよ、ブリトン人の王を語りし者ウーサーよ、僕は貴様へと反旗を翻すもの也」

 

「偽王ウーサーへの不服あるもの共よ集え!僕の掲げし御旗の下で力を存分に振るえ!今こそ、真の王が勝者となる時!蛮族に無力なる王は要らぬ、偉大な英雄は仮初の夢に過ぎぬ!!今こそ、真の救世を成さん!!」

 

一年前より、有力公の中でも一際異彩を放ち、急激に名声と力を高めつつあったティンタジェル公ゴルロースの挙兵にブリテンは沸いた。

 

ブリトン人の混沌に乗じるためにと、ゴルロースの元には現ブリテン国王ウーサーへと恨みや不満を持つブリトン人だけでなく、本国からの命令により強力な支援を受けた蛮族からの志願傭兵が殺到した。

 

戦力差、物量差。どちらを取っても歴然となりつつあった。ウーサーの元へは兵を出し渋る嘆願書が次々と送りつけられ、王城キャメロットからは次々に高級聖職者や商人が逃げ出した。

 

物も金も潤沢なゴルロースの陣営へと武器も食糧もが流出した。高値で買い占められ、文句を言うべき商人も、鉄を叩かせる工人も都から姿を消していた。

 

兵も、武器も揃わぬ。ゴルロース側の圧倒的な有利が揺るぐことは断じてないだろうこと。それは自明の理であった。

 

最初の会戦が最後の会戦となることを、両陣営の首脳部は共通の解として導き出した。

 

 

 

決戦の場はキャメロットから数十里、グラストンベリーの郊外にて。

 

剣を砥ぎ、鎧を着込め。

 

火を篝り、パンを焼き固めよ。

 

騎馬を調教し、従者に槍を。

 

敵を討て、ただ駆けよ。

 

騎士たる者、その猛き武威を第一に神へと捧げよ。

 

騎士たる者、その猛き武威を第二に正義のために捧げよ。

 

騎士たる者、その猛き武威を第三に貴婦人のために捧げよ。

 




では、また。


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B05魔法と落胤

副題:イグレインとゴルロース

多分今回だけだけど、アマロの影が薄いです。
ブヒる貴公子もありかなって、思いながら書きました。描きたい話じゃなくて、必要な話を書くって難しいです。難産です。


B5 魔法と落胤

 

 

 

 

 

ティンタジェル公ゴルロースによってイグレインが幽閉された。

 

その報告は他ならぬウーサー王の元に届けられた。敵に自陣営の痴情を漏らす者もいまいが、しかし、ウーサーはこの報告に対して挙兵で応じた。

 

後世には謎として遺るであろう、ウーサー王とティンタジェル公ゴルロースの戦いである。

 

それはウーサーの治めるブリテン王国始まって以来、最大規模の謀叛であり、最大規模の国内紛争となった。

 

ウーサーは数千の騎士と数万の兵を、王勅によって一月と待たずに揃えると、情報と人材の流出を妨げるために都城キャメロットに立て篭もった。

 

態勢を万全なものとするべく奔走するウーサーたちに対して、ティンタジェル公ゴルロースは去る一年間で蓄積した権力と財力を遺憾なく発揮して、既に万全の状態を整えていたにも関わらず、ウーサー陣営がてんやわんやとしている都城キャメロットを包囲することも、その周辺地域を略奪することもなく、ティンタジェル領内での待機のみを命じていた。

 

 

 

そしてウーサーの体勢が万全に整った頃、見計らった様にゴルロースは書簡を送りつけた。

 

書簡には曰くこう書かれていた。

 

「グラストンベリー郊外にて、僕たちの雌雄を決しよう。君たちが決戦の場に現れなければ、僕はイグレインを見せしめに処刑する。罪状はこうだ、僕に隠れてウーサー王との密会を設けた不義を問い、是を断罪するもの也」

 

ウーサーは返事を書かず、ゴルロースも返事を求めなかった。だが、二人の間にこの時初めて通じ感ずるものに共鳴が生まれたことは、両者のみぞ知る所である。

 

ウーサーは書簡を渡しにきた使者を傷一つつけずにティンタジェル領へと帰還させた。

 

読み終えた書簡を薪に焚べてから、ウーサーは深く息を吐いた。

 

そして、そのこと家臣から「陛下、裏切り者の従卒に何故慈悲をかけられたのか」と問われたウーサーはこう答えた。「是非にも及ばず。之は騎士同士の戦いである。まして、蛮族との生存競争とは訳が違うのだ。だが、何にせよ理由はただ一つ。いざ、グラストンベリーへ。彼の地にて俺たちの運命を決する…然るべき、運命を」

 

ウーサーの言葉は強く、明確であった。群臣はこれに平伏して応えて、軍議の場を辞すなり自らの武具防具に入念な手入れをした。

 

それはゴルロースの麾下に集いし騎士たちも同様であり、ティンタジェル王の実現のためにと志望した流浪の騎士たちは己の腕を振うことを夢想して武者震いしていた。

 

 

 

ウーサーはティタンジェル領に向けて使者を発した。書簡には一工夫なされ、ゴルロースにしか真意が伝わらぬ様になっていた。

 

「ウーサーからの手紙…持って参れ」

 

今や反乱軍を率いる一大陣営の盟主となったゴルロースは、ティンタジェルの寒々しいほど広い館の中で一人ぽつねんと座っていた。生きたままの使者を呼びつけ、直接手渡させると文に目を通した。

 

未だに使い続けている大きな椅子には、あの時とは真逆の、細身で清麗な貴公子が優雅に…しかし、滑稽と寂寥を纏いながらその身を収めていた。

 

書簡には曰くこう書かれていた。

 

「ティンタジェル公ゴルロースよ、其方の滅私に心より感謝する。俺は貴君に心よりの尊敬を捧げる。後の事は、イグレインのことは任せよ、貴君の望む通りに迎えよう。決戦の場はグラストンベリーの郊外にて、暫しの静寂と停滞の為に……ウーサー・ペンドラゴン」

 

そして、書簡の隅、ウーサーの名前の脇にはこうも書かれていた。

 

「汚名は遺さぬ、安心召されよ」

 

ゴルロースは感心した様に、ふんすと鼻から息を吐き出すと、その書簡を薪に焚べた。

 

ゴルロースは使者を傷一つなく都城キャメロットへ送り届けさせた。ゴルロースからの返信はなかった。また、ウーサーも返信は望まなかった。

 

両首領は、首の離れていない己の使者の姿を一目見た時に、一切の迷いを払い捨てた。

 

両者の間には憎しみなどなく、また憤怒すらもなかった。ただ、そこにあるのは澄み切って清涼な、日向で水浴びをする様な心地であった。

 

暗い影を押しやり、互いを理解した二人の騎士は決戦の場に向けて同日同刻、軍へ向けて進軍命令を発した。

 

 

 

 

 

グラストンベリーへ向かう戦列の最後尾。

 

ウーサーからの言伝を受けたマーリンは、悪戯を仕掛けるからと言い包め、なすがままとなったアマロに昨晩のうちに得意の魔法を仕掛けて眠らせておいた。

 

眠ったままのアマロを分厚い毛布で二重三重に包んでから姫抱きにしたマーリンは、ひょん。杖を一つ振り、その身を風に溶け込ませた。

 

お忍びの行き先は、離れ島の尖塔である。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、グラストンベリー郊外にて開かれた一大会戦の様相は詳しくは解っていない。しかし、その激しさや華々しさたるや、かの有名なベイドン山での一大戦争にも参じた騎士達をして、壮絶な戦いであったと回顧させる戦いであったと言われている。

 

戦いの大局を決したのは、ブリテンのウーサー王とティタンジェル公ゴルロースの一騎討ちである。申し込んだのは圧倒的優勢を誇るゴルロースの側からであったという。

 

二人は数刻に及ぶ激戦を繰り広げた。

 

一人は死に、一人は生き残った。

 

 

 

 

 

最後尾でマーリン達の姿が風に溶け込んでから暫くの時が経った頃、ウーサーは戦場を前に殺気立つ軍勢の先頭を進んでいた。

 

「王よ、エクトル殿を軍勢に加えずに…よかったのですか?」

 

王の馬に寄せた群臣の一人がそう問うた。王はこれに応えて言った。「よい。エクトルは子守りがあるからな…それに都城を空ける以上は信のおける奴がいい。エクトルはその点を弁えてるし、腹も据わってる。だから任せた」

 

王の答えに群臣は納得してから行進の列に埋もれた。

 

王の言葉に嘘はない。この戦のために、城には殆ど兵を残していなかった。頼みの綱は騎士エクトルと彼に預けた衛兵だけだ。

 

都が火の海になろうと、今や馬上の人となったウーサーにはどうしようもない。別働隊の存在が懸念されてもそれは同じであった。

 

本来ならば、出陣の前から別働隊への不安は募るものであるが、しかし、この場にあってはその心配が杞憂であることをウーサーは信じる他なかった。

 

自分が向かう先、己と死闘を演じようとする相手はティンタジェル公ゴルロース。ウーサー王は正直なところ、この男に対して少しなりとも深く知るところがなかった。だが、それも少し昔のことだった。汚れつつも騎士として、曲がりなりにも生きてきたウーサーの元に届けられて書簡は、久しく目にすることのなかった誠実な騎士の姿であった。

 

無論、イグレインを幽閉したことは多くの者からの非難を呼ぶだろう。だが、ウーサーがゴルロースとの共鳴を抱くに至ったきっかけこそがイグレインなのだ。彼女の幽閉をいち早く知らせたのは他ならぬ下手人たるゴルロースだ。だが、そのゴルロースの意図するところを憤慨する群臣の中から進み出て一番に見抜いたのはマーリンであった。

 

この王の相談役は「騎士とはわからないものだよ」と宣いつつも、ゴルロースが求めているものに関しての推測をウーサーに披露した。そして、ウーサーはその話を信じることを選んだ。

 

否、そこには選択肢はなく、既に首筋に当てられた白刃を凌ぐためには、ゴルロースが整えた道を歩む他になく。その道を歩むことこそ、ゴルロースその人を倒す術に繋がる唯一の道であると判断しての決断であった。

 

馬上でこれまでの道のりに思いを奔らせていたウーサーの目の前に、グラストンベリーの丘が見えてきた。丘の頂には、待ち構える様に旗がたなびいていた。

 

あぁ、そこを抜ければ、そこを越えれば決戦の地なのだな。ウーサーは誰に言うでもなく詠じた。

 

そして、迷いを捨てたウーサーは丘へと僅かな従者だけを連れて登って行った。

 

 

 

昇り詰めた先にはゴルロースがただ一人で佇んでいた。美しい金髪をたなびかせる、とてもあの踊る猪のようだったティンタジェル公その人には見えなかった。

 

ゴルロースの豪奢に飾られた旗は地中深くに差し込まれ、揺るぎない。ウーサーは旗の根元を一瞥すると、今度は仰ぎ見た。それから従者に言い付けて、運んできた己らの旗を差し込ませた。

 

ウーサーの旗は血や泥の乾いた汚れが所々についており、その上小さく穴も開いていて、目を凝らせば端にほつれも見えた。従者用の槍を軸としたそれは風にあおられれば、容易に撓って落ち着きがない。

 

「ウーサー殿、よく来てくれた。ことは順調かな?」

 

旗の頼りなさを別段の快も不快もなく見ていたウーサーに向けて、ゴルロースが声をかけた。ウーサーはゴルロースの顔も見ずに言った。

 

「ふむ…その体なら玉座に体も収まるだろうな…」

 

ウーサーはブリトン人の中でも特段に皮肉が苦手である。宮廷闘争の中でウーサーの苦手ごとは皮肉であった。だが、この時ばかりはやるせない心地がしてこんなことを口走った。

 

「……玉座に用はないよ。しかし、玉座に座る者に、その者に守るべきものを与えることには興味がある。命を賭けるに足るほどに…」

 

対してゴルロースは笑うでもなく、真摯に応えた。本心から自分が何を望んでいるのかをウーサーに初めて面と向かって宣言した。

 

「……順調だ。俺のこれまでの生涯に誓って」

 

ウーサーは沈んだ顔を浮上させ、静かに強く言った。

 

「………そうかい。それはいい。では、騎士ウーサーよ、騎士ゴルロースが君の玉座を揺るがそう!」

 

ゴルロースは喜ばしい表情で笑った。貴公子は騎士として、その姿を完成させていた。平静であれば、衆目の憧れになるに違いなかった。

 

「…騎士ゴルロースよ、騎士ウーサーが相手となろう。俺は、貴様が揺るがし……遺すものを守護して見せよう」

 

平静であれば、衆目の憧れになるに違いなかった。だが、そうであると同時に乱世でなければゴルロースは完成しなかったかもしれない。言葉にしても無駄なこと、過ぎ去りしことは雑草を数える様なものだ。目の前にいる覚悟を決めた騎士の姿、その現実を他所に置いて優先することがどうして出来ようか。いいや、できる訳がない。きっと、これほどの騎士とは己が生きている間には二度と見えることができないだろう。

 

ウーサーは言葉と共に己を飲み込んだ。ただ、泥と共に剣を握る一端の騎士として騎士ゴルロースの前に立っていた。

 

「よろしい。では明日の明朝より角笛と戦太鼓の音と共に、泥の中にどちらかの骸が沈むまで」

 

微笑んだゴルロースは爽やかに笑い、腰に下げた剣の柄に乗せた手。その甲を摩りながら言った。

 

「あぁ、わかった。泥の中にどちらかの骸が沈むまでだ…これは騎士と騎士の誓いだ。俺は断じて違わぬ」

 

ウーサーはゴルロースが手を摩るのを見ずに応じた。目線はゴルロースと交わしたままだ。

 

「然らば明日!!」

 

ゴルロースは滑らかにマントを翻すと、悠々と丘を下りていった。

 

「然らばだ…」

 

遠ざかるゴルロースの背中を見送るウーサーは十字を切ると、焚き染めるように呟いた。

 

 

 

離れ島の尖塔は、ティンタジェル公の保有する城の中でも、最も堅固な城塞である。塔へと至る道は、海に浮きつ沈みつ人二人分ほどの極狭い道が唯一塔へと延びるだけである。

 

さらに、塔を囲う海は常に荒れ狂い、どんなに大きな木造船で向かっても必ず転覆してしまうことで知られていた。

 

自然の要害を超えたとしても、そこには拠点を作ることも難しいほどに、離小島の土地の隅々までを重厚な石と鉄で組み込んだ堅牢な要塞が待ち構えているのだ。難攻不落の名を欲しいままにする、かの尖塔こそティンタジェル公が己の真の危急の時、その最期の恃みとする場所であった。

 

そんな要所の最枢、天高く立つ塔の最上階にて、イグレインは不自由のない待遇で、物々しい騎士達に囲まれつつも平静通りの静穏な日々を、この数ヶ月間過ごしていた。

 

その日はゴルロースに呼び出されたのだ。そして、数ヶ月の間にすっかり見た目も中身も変わったゴルロースにこう言われたのだ。

 

「イグレイン、僕は騎士になる。やっとわかったんだ。失ったあの日を取り戻すために、僕は騎士に成りたい。偉大な騎士に…。けれど、僕の成りたい騎士には大きな試練が伴う。得るものも大きいが、失うものも大きい。失うものの中に、君は居ない。君には迎えを寄越すから、それまで塔で暮らしてほしい」

 

イグレインは目をパチクリしたものだが、騎士に成りたいという言葉はその時分のゴルロースが言い始めて久しいものであった。妙に納得しながら、「あらそうなの。無理はしないことね、あんまり辛いとまた太るわよ」と答えて着替えをまとめるために部屋へ向かおうとしたのを覚えている。そして去り際に言われた言葉も。

 

「ありがとう、君は何だかんだ言って醜い僕のことを軽蔑もしなかった。僕は君と一緒にいると居心地がよかったよ。それじゃあね」

 

ゴルロースは滅多に御礼を言わなかった。それは今も前も同じことだったけれど、その時は随分と感傷的な物言いで礼を言われたものだと感じた。

 

悪い気はしなかった。婚姻を結んで数年の間も、終ぞ体の関係もなく、夫婦のような関係もなく、何処となく変わった同居人あるいは隣人同士とも呼ぶべき関係性だった。

 

イグレインはあまり質素も豪遊も好まない。たまに豪遊したくもなるが、たまに質素にもなりたくなる。恵まれた身だといわれれば、実にその通りだと思う。だが、イグレインは恵まれた身の通り、その中身にも恵まれていたのだろう。

 

つんとしているが決して人嫌いな訳ではない。退屈そうだが別に退屈な訳ではない。むしろ、平穏と静寂を愛でることもできる方である。聖人ではないが、ゴルロースが泥酔していれば毛布もかけてやるくらい優しさもある。泣きつかれれば、殴り倒すでもなく頭も撫でてやった。

 

哀れむことでもなく。仕方ないなぁ、とイグレインは思いつつ、まぁ偶にはこう言うのも悪くない、と考えて夫と言う名の隣人と不可のない日々に馴染んでいたのかもしれない。

 

イグレインはゴルロースからの礼に対しては言葉は返さなかった。だが、部屋を辞して、服と少ない私物をまとめて、それからふと数年間暮らした自室をぐるりと見渡した時、胸に込み上げるものがあった。

 

私も、しんみりするのね。

 

イグレインは自嘲しつつ、その込み上げてきたものをちゃんと言ってやらねばと思い立って、侍女に荷物を預けるまでもなく、まとめた荷を体に、両手に負ったままの姿でゴルロースに会いに戻った。

 

 

 

「どうしたんだい、イグレイン?忘れ物?」

 

「えぇ、そうよ…」

 

置き忘れたものを、渡しに来たの。

 

そんな言葉を聞こえないほど小さな声で呟いて、イグレインは首を傾げるゴルロースに言った。

 

「私、太っちょの貴方も嫌いじゃなかったわ」

 

「ぶひっ?」

 

それだけよ。

 

奇鳴を上げたまま目を丸くして立ち尽くすゴルロースに、本当にただそれだけを言うと、イグレインはカツリ、カツリと、そよ風に身を預ける様なゆったりとした足取りでゴルロースの城を後にした。

 

新居はジメジメとしていて、調度品も潮風で傷んでいた。少しばかり、イグレインはゴルロースの城館にある、住み慣れた部屋を懐かしく思った。

 

 

 

尖塔の頂の窓の外では波が巻き動いていた。窓から身を乗り出して下を見ると、底知れなく青黒い波浪が噴き上げる飛沫が岩と鉄が敷き詰められた尖塔に当たり白い粒に砕け散った。

 

イグレインはあまり高いところが好きそうになれなかった。ふと、外から音が鳴った様に感じて振り向くと、勘違いではない様で扉が叩かれていた。

 

一定の拍を刻んで響く音。急のことではなさそうだった。イグレインが扉を開けると、そこには目深くローブを被った背の高い男がいた。

 

「どなたかしら?…貴方には私、見覚えがないのだけれど?」

 

「…ゴルロース殿がウーサー殿へ頼まれました。こちらを貴女に、と」

 

塔の中は閉鎖された空間だ。数えるほどしかいない塔に回された衛兵全員と顔見知りのイグレインには、目の前の男に覚えがなかった。目深いフードから白い髪が溢れているが、表情は窺い知れず、声は蠱惑的だった。記憶にある、どの騎士の声とも似つかない。

 

イグレインは身を固めたが、ゴルロース、ウーサーという耳覚えのある言葉に肩の力を抜いた。肝の図太さにかけて、イグレインは大概の騎士にも負けてなかった。彼女自身に自覚はないが…。

 

 

 

「これを…私に?」

 

差し出されたのは巻かれた状態の分厚い毛布だった。

 

「………」

 

困惑していたイグレインだが、目の前の男がダンマリで差し出す形で固まっているので、疑問は挟まず毛布を受け取ることにした。

 

「……開けていいのかしら?」

 

首を傾げたイグレイン。半眼で気怠げに男を見つめていたが、別段に不機嫌な訳ではない。

 

「…はい」

 

男は端的に諾を示すと再び口をつぐんだ。

 

「ゴルロース…あの人に毛布を贈られるなんて…ここは潮風が痛いくらいだけど、まだこの時期は寒くないのよ?」

 

分厚い毛布を一枚ずつ、一枚ずつ解き始めたイグレイン。彼女は誰に聞かせるでもなく、口元でぶつぶつと言った。

 

「……」

 

されど、何かしらの言葉は期待していた。せめて、辞すような場合には断りが入るだろうと。そんな期待をして言ったイグレインだったが、反応が芳しくないことが気になった。

 

「…あら…居なくなってる…」

 

見上げてみると、誰も居なくなっていた。驚いてはいないのは、やはりイグレイン。湿った空気が底で流れる廊下は静かだった。

 

「……あら…あらあら…アマロ?…ねぇ、貴方もしかして…」

 

イグレインが気を取り直して毛布を解くこと更に数枚。こてん、とアマロが転げ出てきたのだ。毛布の中だと言うのに器用に鼻提灯を膨らませていたのか、ぐっすりと眠っている。

 

「……もう居ないのかしら?……ねぇ、アマロ…貴方置いてかれちゃったわよ?…帰りは、いいのかしら?」

 

今度こそ困惑したイグレインだったが、次第に頭が冷えてくると一年前のことが思い出されてきた。

 

「………」

 

目の前の男は、曰く大層な好色らしい。噂くらいは耳にする。ましてや、同じ館で寝食を共にしたのだ。四日の内の一晩だけとは言え、ブヒブヒ聞こえて来れば鈍くても気づくものである。

 

 

 

…というよりも、あれは、そう言うことなのだろうな。いやいや、それにしては翌日のアマロはいつも通りだった気がする…けれど、アマロにとってそういうことも寝食と同じなのかも知れないし…でも、だとしても凄いことじゃないかしら…嫌がっていた訳ではなかったけれど、妻である私ですら一度も体を重ねなかった、あのゴルロースよ?…でも、ならどうして私のことは…いいえ、それは多分私が人妻だったから…ふえぇ、人妻はダメで人様の夫なら良いのかしら…ハッ!そ、それとも私は好みでは、な…い…の…かし、ら…。

 

 

 

そんなことを考えていると次第に、イグレインは気色の悪さや、自分が文字通りの添い寝だけで一晩を終えたことをさて置いて、堪らない興味が沸々と湧き上がってきたのである。

 

「…私、そういえば…処女だったわ、ね?…えぇ、そうね……なのに…いいえ、だからこそ気になるわ…きっと、ゴルロースの人が変わったのもあの晩の所為よ…」

 

そして、イグレインはこうも思ったのだ。思ってしまったのだ。

 

「……物は試しよね、アマロ?起きて………。起きないのね、なら仕方ないわ…えぇ、そうよね…ところで……」

 

 

 

 

 

「…………肉の薄い女はお嫌いかしら?」

 

 

 

 

 

第三の目曰く、両軍は翌日の明朝にグラストンベリー郊外にて槍を交えた。

 

激しい戦闘は日の出から日の入りまで続き、更に何日もの間続いた。

 

 

 

騎士達が死闘を演じている時、イグレインは先日から半ば否応なく同居する形となったアマロとの日々に充足を感じていた。

 

生活音と口数が増えたことを除けば、潮風は強いし、湿っぽくて、おまけに住まいは高くて怖いままだが、穏やかで静かで文句はなかった。

 

話し相手のいない孤独感がなくなるや否や、イグレインの気分は上向きになった。そして、それまで知らなかった新しい悦びを学んだことでイグレインは大満足であった。

 

成程、確かに人生も変わるだろう、とイグレインは納得していた。適度な運動にも事欠かなくなり、薄い体にはくびれが出来てしまった。イグレインは不思議な心地であった。勝ったのに負けた気分だった。ゴルロースに肉付きで負けた。行きどころのない敗北感を感じたのは初めてだったが、我ながら思い出し笑いが気色悪かったのには驚いた。

 

だが、総じてイグレインは満足だった。冷えた頭でアマロに申し訳なくなったが、少しも気にした様子がないどころか早くも尖塔での一つ屋根の生活に適応していたので気にしないことにした。

 

情事の後に事情を話して「アマロが誘惑したのだ」というよくわからない理論を振り翳したところ、アマロは何故か納得してしまった。納得した、起き抜けのアマロは「イグレインが元気ならいいや」と言うが早いか、脇に一人分の余白を残して何処とも知れぬであろう部屋の寝台で丸くなってしまった。

 

イグレインが再び情事に挑戦し、無事無意識のアマロに敗北の末に気絶したらしいことは素面の彼女しか知らぬ話である。

 

 

 

 

 

そして、彼女の胎に小さな運命が芽吹いていたことは、まだ何者にも知られていない話である。

 

その運命が、二筋に別れつつあることもまた、誰一人として預かり知らぬ話である。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、その日は雨だった。土砂降りの雨になった。朝から降り頻る雨は止むことを知らず、大地をじゅくじゅくと冒した。地はぬかるみ、泥と血が乾いていた土に刻まれた騎士の足跡に出来た水たまりに、螺旋を描いて沈んでいった。

 

混じり合い、汚し合い、浄め合う大地の上で、夥しい戦士達が殺し合った。

 

雄大はグランストンベリーの丘の上からブリテンの旗が消えて久しく時間が過ぎていた。激闘は深みに嵌まり込むように、血と汗と共に希望まで根こそぎ奪うように容赦がなかった。

 

いつの間にか、自分が何処にいるのかわからなくなってしまう。戦場の只中で、自分という存在がいかに無力か、無意味なのか自覚させられる。

 

血が乾いてパリパリと音を立てて剥がれ落ちる。汗は血を潤わせ、溶け出した血と汗の入り混じるものが、頬や額にへばり付いた髪から滴っていく。

 

ゴルロースの軍勢は常に優位だった。だが、時折現れるサクソン人傭兵の部隊に対して、ウーサーの軍勢は恐るべき粘り強さと狂気的な強さを発揮した。高品質の武具と潤沢な資金で掻き集められた傭兵達にとって、割に合わない仕事に命を賭けることはとても出来ない話であった。

 

彼方此方で勢いを失い始めたのはゴルロースの陣営が先であった。だが、圧倒的な屍の山を築き、剣を振るう者も皆が傷を負っているのはウーサーの陣営であった。

 

崩壊の兆しが彼方此方で見え始めていた。時間をかければウーサーの敗北は必至である。覚悟を決めたウーサーにとって、この後の展開は天…にではなく、ゴルロースへの信頼により与えられるということをウーサーは疑わなかった。

 

そして、時は来れり。

 

ゴルロースは己の陣から旗を持ってこさせると、自ら旗を掲げながら未だ激しく息巻いて抵抗を続ける一角へと向かった。

 

辿り着けば、そこに斃れている兵士の数は両陣とも同等であるように見えた。相討ちさえも、探せば屢々目にされた。

 

そして、屍を超えて数の優位を誇るゴルロースの軍勢が押し込んでいる一所に、ウーサーは居た。

 

 

 

「ウーサー!!問おう、君は騎士であるか!!」

 

ゴルロースは叫んだ。力んだ旗の持ち手がギチギチと鳴った。

 

「あぁ、俺は騎士だ!!俺のこれまで歩いてきた道の全てに誓って!!ウーサーはブリトン人の騎士だ!」

 

ウーサーも叫んだ。

 

ゴルロースは息を吸い、ウーサーに叩きつけるように剣を抜いた。

 

「僕の名はゴルロース!!騎士として、君に決闘を申し込む!!一騎討ちだ!!」

 

馬の腹を蹴ったゴルロースが人馬一体となってウーサーへと一直線に迫った。

 

「あぁ!良いとも!!騎士ゴルロース!!お前の相手はこの俺だ!」

 

迫り来るゴルロースに向かって、両脇のサクソン人傭兵を瞬く間に切り捨てたウーサーは馬にも乗らぬまま駆け出した。

 

 

 

剣を交わすことは、戦いばかりに明け暮れるウーサーにとっては会話代わりでもあった。粗野で、野蛮だが、その剣技には繊細なものがある。ウーサーにとって、騎士らしいところはそこくらいかもしれない。だが、ウーサーにも自分が騎士であり続けるために必要な何かを譲ることはなかった。そして、それは戦の最中といえども変わらず、否、この時ほど譲れぬ時はなかった。

 

ウーサーはゴルロースに語りかけた。ゴルロースとの語らいを、心から望んでいた。

 

「ウーサー!!!」

 

「ゴルロース!!」

 

馬上からの一撃が雷のように脳天目がけて落ちてくる。ウーサーは転がるように去なすと、直ぐ様立ち上がって目の端に入る馬の尻を手で張ると、飛び上がってゴルロースに飛びかかった。

 

押されるがまま、ゴルロースは泥濘の中に落ちた。美しく鏡のように磨かれた鎧は泥に塗れた。マントを払い捨てたゴルロースは剣を握りなおして、己が立ち上がるのをじっと待っていたウーサーと仕切り直すように見合った。

 

息が合うや否や、騎士と騎士の戦いは終わらない剣戟の雨を打ち立てた。壮絶な決闘には、しかし、騎士ではない者にとっては些かの価値も感じられない、寧ろ極めて腹立ちを覚える機会が度々、その姿を表した。

 

片方が転がれば、片方は立ち止まり相手が立ち上がるのを待つ。

 

剣から泥を拭う素振りを片方が見せると、片方も動きを止めて之に倣い、もう片方は終わるまで何もせずに構えを解いて待つ。

 

斬撃を受けて血を吐いた相手が膝をつけば、どれだけ追撃の隙があろうとも、相手型が立ち上がるまで決して追撃しない。

 

それは…古臭く、荒唐無稽な、絵空事の中の騎士の真似事だった。それは、非現実的な光景だった。泥だらけの、両陣営の首領は二人だけで一つの狭い世界に閉じこもり、戦争の汚らしさや必死さから隔絶された空間でままごとに興じていた。

 

少なくとも、周囲の者達にとってはそれ以下でもそれ以上にも映らなかった。そして、ウーサーもゴルロースもそのことを承知していないはずがなかった。

 

だが、二人は数刻もの潔白な剣戟を、ただどこまでも純粋に、堂々と、笑みまで浮かべて演じ切った。

 

そして、その時が来た。

 

「ゴルロース!!騎士ゴルロース!!今こそ雌雄を決しよう!!我らの道を、今こそ切り拓かん!!」

 

ウーサーは枯れた喉を震わせてゴルロースの懐に入り込むように、それまでのままごととは全く別物の、狡猾なまでに滑らかな本気の斬撃を繰り出した。

 

「ウーサー!!!あぁ、今こそ!!」

 

受けるゴルロースはそれを棒立ちで、ただ受け止めた。

 

「ゴルロース様!!」「ウーサー様!!」

 

両陣営から噴出した声は困惑、憤怒、驚愕、安堵、落胆、失望、奮起…様々だった。平時には際立つような感情も、戦場では灰色の背景以上の役は与えられない。ただ、生と死が支配する場所だった。

 

この二人をおいて、それは正に戦場の真理であった。

 

存在しない騎士の姿に辿り着いたゴルロースは、満足を感じていた。何も語らずに、糸が切れた人形のように泥の中に沈んだ。

 

「ゴルロース様が負けた!!反乱軍の負けだ!!」

 

誰かが叫び、その叫びをキッカケに引き潮のように兵士達が逃げ惑い、それをウーサーの軍勢が狼のように追い立てた。

 

あれほどに目を釘付けた、神妙不可思議な一騎討ちの舞台には、夥しい鉄靴に踏み荒らされた大地と、二人の演者だけが残されていた。

 

 

 

「ウー、サー…」

 

倒れたゴルロースをウーサーは抱き起こした。

 

「…なんだ?」

 

雨が止んでいた。日が差して、ウーサーの顔を照らした。

 

泥の中で、真っ白な顔のゴルロースは語り始めた。

 

「僕、は……自分が、正しかった、とは…思って、ない…」

 

「…あぁ」

 

「…でも、僕、は…騎士に…姫を…守る…騎士に…なり、たか、た…僕、は…次を…君の…次を作りたかったんだ…君は、きっとブリテンを、守るだろう…でも、それだけ、だ…君の…次は…誰が?…その、誰か、が…育つ、までに…君は…生きて、いられる…のかい…?…だか、ら…僕は…時を…作りた

…たかっ…た…」

 

「あぁ、そうだな」

 

目は真っ直ぐ天を向いていた。ウーサーの手を、ゴルロースは強く握った。ゴルロースは天をみあげたままに、ウーサーに語った。

 

「ウー、サー…僕は、イグレインが…彼女が…生きて、いる内…は…静かな…まま…に…したかった…んだ…あの、子が…こども…育てられる…くらい…に…きっと…彼女、だったんだろ、う?」

 

彼女だった…それは、ゴルロースが一年という時間の間に辿り着いた、ウーサーの目的を調べつつ知り得た答えだった。このブリテンの聖母が、イグレインなのだと、根拠などなく、しかしゴルロースは納得したのだという。

 

「……あぁ、聖なる胎とやらだ…俺も、よくわからん…だから、俺じゃなくて、アマロに預けた…いや、眠らされてだから預けられたが正しいか?」

 

少し笑わせるような語り口で、ウーサーはゴルロースに語った。

 

「……ぷひっ…イグ、レインは、あぁ、見えて…へっぽ、こ…な、んだ…でも、アマろ…なら、大丈夫…だよ…」

 

「知っとる…俺は、怖くて試さなかったがな…」

 

「……それが、いい…」

 

ゴルロースは思いを馳せるように言い、ウーサーはマーリンから聴いた旅の噂の甚だしさを思い出して顔を青くした。

 

「……死ぬのか、ゴルロースよ」

 

ウーサーは問うた。硬くて冷たい指先だ。ゴルロースは天を仰いだままだ。

 

「……ぶふ…ぶふ…う、うん…そろ、そ、ろ…」

 

鼻からも血が垂れていた。張り詰めていたものが、語り尽くしたせいかはち切れそうに思えた。

 

「………一つ、贈り物がある…」

 

ウーサーは、脈絡もなくそう言った。

 

「なん、だい?おくり、もの?」

 

表情は変わらなかったが、ゴルロースは怪訝な様子だった。

 

「……逢わせてやる」

 

ウーサーは「今、使うよ。あとは頼むぞ」と言い捨てると、支えていたゴルロースの体から手を離した。

 

「……ぇ?」

 

はっきりと困惑したゴルロースの声が空に溶けたのと同時に、痛みが消えつつあったゴルロースの意識は暗黒に飲まれた。

 

そして、目を開けた先は石組みの見覚えのある部屋の中だった。見覚えのある顔が二つ。片方は幽閉したことになっている妻、もう片方は迎えに届けさせたはずの初めての人だった。

 

ゴルロースは困惑した。

 

 

 

 

 

「?」

 

不思議な気配を感じて振り返る。が、誰もいない。

 

「どうしたの?イグレイン?」

 

心配した声のアマロにイグレインは、色濃くなった気配から馴染み深いものを感じ取り、力の抜けた声で答えた。

 

「……誰か来たみたいよ?」

 

そして、現れたのはゴルロースだった。

 

「…わぁ!ゴルロース?どうしたんだい?すごい格好だね!」

 

「ゴルロース…貴方…」

 

「う、うん…ごめんね…泥だらけで…そのぅ、僕、イグレインとアマロに会いに来たんだ…」

 

泥だらけのゴルロースを前にして、アマロは純粋に驚きを、イグレインは淡々としていながら寂しげに口を抑えた。驚いて当然の登場を果たしたゴルロースも、自身の状況を理解していないながらも、何かの奇跡だと無理やり自分を納得させてから、二人に向き直り、その目的を伝えた。体には痛みも何もなかった。

 

「………いくの?」

 

イグレインは簡潔に問いかけた。聞いたこともないような、温かい響きだった。

 

「……うん。でも、大丈夫。僕は、僕が成りたかった騎士になれたから。何も」

 

ゴルロースは吃りそうになるのを堪えて応えた。清々しい気がして、意地悪な自分に反省しつつ、優しげなイグレインの姿が嬉しかった。

 

「……そう、ゴルロース!」

 

イグレインは大きな声でゴルロースを呼んだ。

 

「ぶひ!な、何?イグレイン!」

 

直立不動の姿勢を反射的にとったゴルロース。

 

「貴方…騎士様みたいね」

 

だが、イグレインはその姿を見咎める事なく、今度は撓みのない水面のような声で言った。清澄な響きが耳に残った。

 

「………そ、っかぁ!そっかぁ!」

 

ゴルロースは顔をぐしぐしと拭いながら笑った。

 

「うん…イグレインの、言う通りだよ」

 

アマロは、ゴルロースのことを見守りながら同意した。

 

「……ねぇ、アマロ…僕は、好きにしてやったよ…」

 

顔を拭ったゴルロースは、今度はアマロの方に向いて言った。

 

 

 

「うん」

 

「沢山の人に迷惑もかけた」

 

「うん」

 

「傷つけたし」

 

「うん」

 

「多分凄く嫌われちゃった」

 

「うん…」

 

 

 

ゴルロースは言葉を切ると、胸を張って言った。力んだ姿が滑稽なのに、とても愛嬌があった。

 

 

 

「でも、僕は自分で選んだから、あんまりやらなきゃよかったとは思ってないんだ…すごく、ふわふわしてる…ちょっと、疲れたかも…」

 

二人とも何も言わなかった。

 

そろそろ行くね、そう言ってゴルロースは光の粒になっていく。

 

「ゴルロース!!」

 

腰より上だけが残るゴルロースに、アマロは声をかけた。イグレインは、ただ静かに光の粒を見守っている。

 

「?何だい、アマロ?」

 

ゴルロースは、少し不思議そうにアマロの顔を見た。何も言い忘れたことが思い当たらない顔だった。アマロはゴルロースの消えゆく頭を両手で包むと言った。

 

「君のこと、忘れない」

 

ゴルロースは静かに頷いた。頭だけを残して消えてゆく彼が瞳を閉じた時、イグレインは一歩前に出た。

 

 

 

「……」

 

「……え?ぃ、イグレイッッ…………!?」

 

 

吸い付くような湿った音が響いた。何かを言う前に、ゴルロースは泡沫のように消えた。

 

頬を膨らませたアマロの姿を視界に入れたイグレインは微笑みながらアマロに問うた。

 

「あら、嫉妬してくれたの?」

 

「あぁ、君にね」

 

「わたし?」

 

予想外の答えにイグレインは首を傾げた。

 

「うん…私もしておけば、と…ね」

 

「……あら、ゴルロースは惜しいことをしたわね…代わりに私が貰うことにしましょう…」

 

アマロの言葉に納得したイグレインは、貰い手がいない余剰分の口づけを貰おうと迫る。

 

「あ、イグレイン…ダメだよ、流石に君の身が持たない!」

 

「ふふふ、どうしてよ?何もしないわ、唇を奪うだけよ!」

 

弁明するアマロの心配はイグレインのことなのだが、肝心のイグレインはほんの少しだと言って聞かない。

 

「君は一度始めると気絶するまで止まらないから、私が心配になるんだよ…」

 

「あら…いいのよ、そのうち子供が欲しいと思ってたことだし」

 

「え、いいの?」

 

当然ね、とイグレインは言った。

 

唐突に炸裂したイグレインの言葉にやや呆然としていたアマロだったが、彼のガラ空きの隙を逃すイグレインではなかった。非力なアマロがひんひんと言うのを引きずって寝台に放ったイグレインは、彼女にしては珍しい、明るく晴れやかな表情で、見送るように窓の外を見た。

 

荒れ狂う海の上に、場違いな虹が雲の隙間から差していた。陳腐ね、とイグレインは思った。でも、「それでいい」とも。

 

「だって、ゴルロースにも見せてあげたいのよ…私が生きた証を」

 

その言葉に容易く言い包められたアマロが、イグレインに子供の名前をゴルロースにしようと提案して断られたのはまた別のお話であった。

 

 

 

第三の目曰く、ゴルロースによる反乱はウーサー王側の勝利で幕を閉じた。この反乱は明確にブリテンを二つに割り、日和見を許さぬ断固たる反乱であった。

 

結果、それまで混在していた派閥闘争は形を潜め、ウーサー王に忠義を誓う者と、ウーサー王への不満を抱く者達の陣営へと分別された。

 

そして、勝者となったウーサー王陣営にとって国内の情勢は極めて単純な構造へと姿を変えていたのである。

 

戦争の経過に伴い、莫大な費用が必要となり各地で農民や地方民の困窮が促進された。一方、中央に近い市民にとっても補給がティンタジェル公軍により遮断されたために、その日の食事にも困る状況に陥っていた。

 

終戦により、勝者となったウーサー王は敗者から文字通り根こそぎ奪い取り、生き残った自陣営の者達へと惜しみなく与えた。

 

それまでの旧来の派閥が溜め込んだものは勿論、サクソン人傭兵や他の流浪騎士からも、徹底的に失われた戦費を補填するために資産を拾い集めた。王の金策が相なることとなり、国内は比較的広大な土地を持つ有力者が何体と倒れた代わりに、広大な土地を持つ王直下の騎士の台頭による、より時間的に迅速な対応が可能な中枢との管を手に入れた。

 

また、ティンタジェル公領の存続をイグレインが放棄したために、莫大な遺産はキャメロットに運ばれて様々な復興と防備強化のために生かされた。

 

そして、ウーサー王の命令により周辺地域に対して大々的なことのあらましが伝えられた。

 

ブリテンの紛争に関して、当時の書簡が伝えるところに曰く以下の通りである。

 

「ウーサー王はティンタジェル公の細君たるイグレインへと求愛したが、これを断られたことにより逆上した。ウーサー王から守るべくティンタジェル公ゴルロースはイグレインを尖塔へ匿った。しかし、怒り狂ったウーサーはティンタジェル公と戦端を開き、そして公を討ち取り、イグレインを我ものとした。だが、国内の混乱に託けてサクソン人による侵攻を受けたため、これを撃退した」

 

このことに対して、広報を担ったブリトン人達は疑問を挟まなかったものの、余り効果が期待できるものではないことは明らかな内容であった。

 

しかし、一方で王は国内に向けてこのようなお触れを出した。

 

「サクソン人達はティンタジェル公ゴルロースを脅してブリテンを掠奪した。ゴルロースはイグレインを守るために尖塔へと彼女を匿い、自身は人質としてサクソン人の手中に身を置いた。そして決戦の日、ゴルロースは見せしめとしてウーサー王に無謀な戦いを挑ませられ、そして討たれた。ウーサー王はゴルロース公を唆した多数の貴族や領主を罰したが、これは全てサクソン人の手先であった」

 

二つの触れの内、後世に残ったのは前者だけだ。

 

だが、時を生きるブリトン人達の多くは後者により強い影響を受けた。それは一つの巨大な連帯感としてブリテンという国を、極めて強引な手段によってではあるが、確かに一つのまとまりある集団としてウーサーの王権へと帰属させることに成功した。

 

ブリテンの紛争へと介入したサクソン人部隊の存在は、ブリトン人達にとってサクソン人こそが共通の敵であるという共通認識を与えるのに十分であった。

 

ブリトン人達は、同族同士で争わないという盟約を村単位から街単位、そして国単位で、期限付きとは言えども結び始めた。ブリテンは、ウーサーの治世から十と数年が経つ頃になって、初めて静かな年越しを経験した。

 

 

 

 

 

そして、激動の年が去った翌年の暮れに一人の赤児が生まれた。

 

 

 

 

 

赤児はモルガンと名付けられた。

 




これでやっと序章はおしまい。いままでで一番しんどかった。でも、僕がしんどいだけなので、楽をして寝取るという選択をとるよりも中性子星の重さの億乗倍ましです。明日は休みます。では、また。


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B06偶稀、代償、結縁 前編

お待たせしました。突拍子がなくても描きたいものを優先する覚悟を探しつつ、再び描き始めた次第でございますます。では、どうぞ。


B6 偶稀、代償、結縁 (前)

 

 

 

 

 

妖精の血は 碧く冷めて

 

淡々と蠢き 光明を嬉々招来し

 

積み木細工の感動よ

 

冷たい歓呼は 砂を喰み

 

爛々と 惨憺と 影が縋る

 

君を呼ぶ 君を呼ぶ

 

何処や知れぬ夜を待ち侘びる

 

火を炊いて 火を炊いて

 

光よ畢れと 火を炊いて

 

毒と知れ 毒と知れ

 

影こそ希望の 毒と知れ

 

 

 

愚純の衆く縋れば

 

優しき君が 茨の檻で身を抱く

 

鎖が光る 君の涙は鈍く

 

御髪は淡く銀と鳴り 締じるは君の碧き瞳

 

冷たき榮が 稚き君を焚くよ

 

光は悪辣に咲き 希望は闇に沈み混む

 

君の瞳に 澱は沈むよ

 

儚き御手の震えを抱いた

 

君を裂く 君を裂く

 

稚き毒が 君を裂く

 

手折るのか 手折るのか

 

優しき夜灯を 手折るのか

 

 

 

鎮む紅き竜は 閑かに息吹して

 

待人の来訪を寿きて その瞳を啓く

 

心に響くは 黒麗の痛み

 

光の疚しき仕打ちに 黒き君は悶うよ

 

翼を展げ陰を和ぐ 紅き竜は陰を抱く

 

紅き君は慎かに 胸に湧ける熱を摘み

 

黒き君は朗らに 肩を寄せて幸を編み

 

秘めたる談りは安らかに

 

二柱は一つの陰となれ

 

身を寄せて 身を寄せて

 

睦言は甘く饒舌に

 

耳に寄せて 耳に寄せて

 

孤独は夢と鮮烈に

 

尊き二つは陰に交わり

 

竜は紅く 竜は紅く

 

産むは紅き君

 

御髪は黒く 御髪は黒く

 

生むは黒き君

 

紅き君の懐影(おもかげ)を仄かに

 

希望は静かに君を呼ぶ

 

鱗が燐として 真紅の卵は温まれて

 

壁よ砕けよ 目覚めの時

 

金の御髪は靭く透け 闢くは君の碧き瞳

 

希望の陰が君を抱くよ

 

紅きを衷に秘め守り

 

君は行く 君は行く

 

陰に抱かれて 君は行く

 

君を呼ぶ 君を呼ぶ

 

契りの剣が 君を呼ぶ

 

 

 

 

 

第三の目曰く、イグレインの娘モルガンの誕生は祝うべきことであった。しかし、モルガンの誕生を祝ったのは決して人間種のみに限られなかった。

 

夫を亡くしたイグレインの身柄はウーサー王が後見したが、その関係性は正妻待遇と言っても良かった。

 

ウーサーには妻がなく、また親しい側女も居なかった。如何なる美貌にも食指の動かぬ王に対して周囲が後継者の心配をしたことは曰く当然であった。

 

しかし、後継者は半ば強引にも決定づけられた。無形の誓約として、鉄床に打ち建てられた選定の剣を抜いた者へと王国は、いや、ブリテンは継承されることになった。

 

この話に異議を唱える者は少なくなかったが、一方で何時ぞやとも知れぬ選定者の出現に希望を見出す者は少なくなく、外患の棘が徐々に身を食んでいくような鬱屈とした世情から、貴賎を問わずに多くの者が救いを求めていた。

 

故に遍くブリトンの人々が、貴姫モルガンの誕生に心からの祝福を贈った。彼女は、恵まれて生まれたはずであった。

 

そして…わかりやすく、光に溢れて陰を嫌い、潔癖な希望を求めたのは人間種だけではなかった。

 

 

 

 

 

アングロ・サクソン人やピクト人の侵攻が始まって間も無くして、ブリテン島には数限りない怨嗟が木霊した。その声は強く、強く、血と涙と共に大地に染み渡った。

 

大地の根深き処へと、揺るぎなき怨念の混沌を根付かせるには余りある時代であった。

 

ブリテンの島の心臓に沈んだ紫毒の針は、より明確な変転をもって島に棲まう全ての生物種に対して、その拒絶の旨を宣檄した。

 

ブリテン島は現世にして現世に在らずと成り、世に憚るべき渾沌の標として、島の各地に伝説の怪物や悪虐な魔物が次々に劫掠と共に登場し、人影潰えし恐怖の荒野と共に君臨した。

 

異形の者どもは、遥か古より島に住まう竜種とは根本から異なり、人間種の手により殺すことも可能であった。しかし、その一死を勝ち取るために百の屍を生む覚悟を求められた。

 

人々は救いを欲していた。蛮族による暴力が身を打ち叩くのであれば、異形のものどもはブリトン人の身を生きながらに噛み千切らんとする。

 

異形の魔はブリテン島の支配的な生物種の全てに対して見境なく牙を剥いたが、その事実は侵略する蛮人達にとっても、興亡の只中で諍うブリトン人にとっても、自民族のことで手一杯の彼らには些事に尽きた。

 

そして、ブリテンに棲まう支配種は人間を除いてもう一角存在していた。その種族は密やかに、しかし厳然と根付く種族であった。

 

その種を人は妖精と呼び、数限りない物語と教訓の糧としてきた。

 

人間の遥かな昔よりブリテン島に深く根付いて繁栄してきた妖精族は、紀元以後より急速に失われた超常なる神秘の一角に数えられるべき存在であった。万能の術に通じ、依然として強く存在感を示すブリテン島の妖精族は世に稀な、神秘の滅びを免れた例外とも呼べた。

 

 

 

第三の目曰く、魔に連なる者どもに踏み躙られたのは人間だけではなかった。妖精もまた、その存亡を今今の際へと詰め寄られていたのだ。

 

人間が救いを求めたように、妖精もまた救いを求めた。ただ、両者の間には明確な差が存在していた。

 

その差とは曰く、人間はただ明日の日の出を見るためにと、安穏と生存のためにと救いを求め祈り伏したが、一方で妖精は同族の生死に頓着することはなく、暮らし行きへの不安もなく、しかし、その享楽が終わりに向かうことを受け入れられないが故の、思いつきと惰性から呟いたような軽佻な懇願であった。

 

 

 

第三の目曰く、妖精の懇願した先は島そのものに対してであった。

 

世の中には誤算というものが屢々存在する。例え全てを見通すことができたとしても、必ずしも全てを清算することも、救済する力も持ち合わせているわけではないのだ。

 

魔法使いマーリンとて、そのことに相違はなかった。今や、アマロの背丈を越してスラリとした麗しの青年へと育った彼は、己の思惑通りに全てが進むものとは考えていなかった。しかし、進められるところまで進み続けることを選んだ。

 

そして、一度立ち止まらなければならなくなったのだ。その時が来たのだ。

 

 

 

第三の目曰く、モルガンが誕生して三日と経たない夜半に彼女は忽然と姿を消した。

 

城は蜂の巣を突いたような大騒動へと発展し、世話役の乳母を含めて多くの者達が一時身柄を城が預かる事態となった。

 

モルガンの失踪は多くの意味と、衝撃を齎した。それらは決して前向きな変化ばかりとは言い難かった。

 

ウーサーは心労で目の下に隈を作り、イグレインは高熱を出して倒れてしまった。

 

 

 

そして…

 

 

 

「私はあの子を探してくるよ。今回は私一人で行くことにしたんだ…マーリン、君はイグレインのそばにいておくれよ。」

 

「…アマロ、私は…いや、少し寂しくなるね。」

 

「うん…」

 

「ね、ねぇ!僕も、やっぱり僕がなんとかするから、だから君がっ、アマロがイグレインの傍に居るのではダメなの、かな…?」

 

「………」

 

 

 

アマロはマーリンの呼び声には答えずに、モルガンを探すために旅立った。持ち物は一振りの剣のみ。

 

 

 

 

第三の目曰く、ブリテンの暗雲は未だ晴れず。モルガンという光は強く、その光を一度でも浴びたもの達は脆かった。

 

イグレインの処遇は正妻扱いであった。ウーサーとイグレインの間には如何なる血肉の情も結ばれることはなかったが、しかし信頼関係に基づき、またウーサー自身が見せかけとはいえ子を宿した妻の存在を必要としていたために両者の関係性に翳りはなかった。

 

果たして両者の合意の元に、誕生したモルガンは名義上はウーサーとイグレインの間に、戦後生まれた子供であるとされた。

 

これによりモルガンはウーサーの第一子として位置付けられると同時に、マーリンの手によりブリテンの救済者たる王として立身する道筋が定められたのだ。

 

マーリンの魔法は既に、ウーサーなりの誠意としてティンタジェル夫人の故き良人のために使い果たしてしまっていた。

 

既に契約は履行されていた。あとは、モルガンをマーリンへと直接預けるだけであった。だが、結果としてモルガンは失踪し、モルガンの失踪と共に盤石なものとして伸長を迎えたはずのブリテン王国は、またしても苦難に直面したのだ。

 

人々は希望の喪失を幻視した。そして、モルガンの誕生を祝っていた人々の気力は時の経過に抗えず、次第に弱々しく萎んでいった。

 

 

 

第三の目曰く、マーリンの激怒は一種の同族嫌悪に基づいて噴出した。

 

激怒の矛先は下手人共に対してであり、彼奴という者は莫大な魔法使いであり、楽観的であり、鷹の秀眼を持つ己の立場を理屈や秩序の場外、番外の者として飄々と振る舞い、そこから染み出す些かの悦を何処かに抱えて余あり、そして何より生純な何者でもなかった誰かの運命を、淡々として、嬉々として、組み木細工を手繰るように狂わせんとしていたことに、欠片も悪意を抱いていないのであり、即ちは度し難き手前に連なる者共であった。

 

然はあれ!世に有り難き花の魔法使いマーリンを出し抜ける者など人の間には居るまいて。

 

果たして、モルガンを攫ったのは妖精であった。

 

 

 

ブリトン人の希望となる、救いの王としてマーリンの手に預けられるはずであったモルガンの身に何があったのか、その仔細をマーリンは間も無く知ることとなった。

 

モルガンが失踪した晩に何が起こったのか、マーリンの目が見通したものは、至極単純な犯行の一部始終だった。

 

満月が爛々と光を注ぐ深夜に、城深くへと忍び込んだ妖精の一団に囲まれて、宙を泳ぐ揺籠が音もなくモルガンを連れ去っていった。

 

ただそれだけ。マーリンにとって、不覚というべきことだった。そして、あのアマロが気づくこともなくにモルガンを奪われた事実にも僅かな違和感を感じていた。

 

マーリンは思考した。アマロが敢えて何もしなかった、ということだけは否定できる。しかし、彼が魔法に惑わされたとも考えられなかった。

 

千里眼の持ち主は考えた。その生涯でも有数の熟慮の末、マーリンが導き出した答えはアマロは単に眠っていただけであり、千里眼を通しても知り得ない気紛れによりマーリンは不覚をとったというものであった。

 

その答えは間違っていない。ただ、得体の知れない気紛れが何なのか、そのことはマーリンの力を尽くしても理解できそうになかった。

 

果たして、その正体が星の気紛れなのか、牽制なのか、或いは強制力なのか…それは誰にもわかるまい。

 

…しかし、これだけは言わねばなるまい。

 

「…私の力を尽くしても、わからないものがあることは嫌というほど理解したよ…。」

 

「けれどね…」

 

マーリンは月下で微笑みながら、朝焼けを背に城から飛び出していった最愛の人の後見を思い出して独り言た。

 

「私にはキミが誰なのか、ヒトなのか、モノなのかすらわからないけれどね、僕にしかわからないこともあるんだ。例え…キミが逆立ちしたってわからないことさ。」

 

マーリンの微笑みは挑発的な色を浮かべていたが、同時にその瞳には明瞭に慈愛が溶け込んでいた。

 

「僕はかれこれ十年以上の仲だからね…流石にわかるさ。僕と一緒の時でさえあれ程破茶滅茶に呼び込んだんだ、だのに、今度の旅は彼一人。」

 

「キミには到底できっこない。変えられっこない。いや、彼がその気になったんだ、彼自身にその気がなくったって…僕にも想像できない、何か特別なものを抱えて帰ってくるに違いないよ。」

 

「きっと、さぞかし優しい顔で帰ってくるんだろうね…少し、彼の顔を見る前から嫉妬してしまいそうだ。」

 

マーリンはそう言い終えると、月に向かってぷいと外方を向いた。ゆったりとしたマントが翻り、花の薫りが凛々と囀る。

 

側から見れば、マーリンの姿は実に自信に満ちた表情で長々と独り語りかける麗しくも怪しい青年の姿だ。

 

その美しい容姿のお陰で不審というよりも、どこか妖しい狂艶な雰囲気が演出されていた。月は人を狂わせるというが、マーリンには効きそうもなかった。狂いを忘れた穏やかな笑みを捨て台詞に、マーリンは一陣の花弁と共にイグレインの元へと、月の見守るテラスを辞した。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、アマロは旅に出た。アマロにとって、何度となく繰り返してきたことだった。嘗ての全てがどれも異なる色を纏う旅だった。そして遍く旅の記憶こそが、アマロの持てる全てである。

 

アマロの旅装はお世辞にも優れてはいなかった。城を出る前に通り抜けたウーサーの玉座の間、玉座の後ろ、そこに立てかけられていた矢鱈と目立つ剣を一振り腰に佩くばかりで、他は着の身着のままである。慣れない剣を携えたのは、モルガンを何としても取り戻したいという思いからだろう。

 

慣れない武器など、振り方もわからぬのに腰に携えてどうするのか…装備に頓着することなく旅へと向かうのは、アマロなりの旅へと全てを賭すという覚悟の現れなのかも知れない。とはいえ…少しばかり、天然染みた抜けがあることは否めないのであるが。

 

「……まずは進もう。何処ともわからないが、それでも私が立ち止まる理由にはならない。」

 

「私は無能だ。私は愚鈍だ。だが、私には畢りというものがない。畢りがないのだから、愚かな私は愚直に進もう。」

 

「私に出来ることはいつだって同じだから、私は君の元へ辿り着こう、君の傍に寄り添おう。いつだって…いつまでも私は、然うなのだから。だからモルガン、モルガン、君の元へ。モルガン、モルガン、あの子の傍へ…。」

 

アマロの旅はこうして始まった。アマロにとって、この旅は決して始めてのことではなかった。だが、一つ初めての点があった。それは、マーリンという獲得者の元から一時的にとは言え、その身を切り離した点だ。

 

これには他でもなくアマロが誰よりも大きな驚愕と、大きな困惑を抱いた。だが、それらを超えて尚余りあるような、何処か遥かな…だが間違いなく自分自身が望んだからこそ生まれた衝動に突き動かされている感覚があった。

 

アマロは、その衝動に身を委ねた。

 

アマロは、マーリンから一時だけ身を切り離した。それは初めてのことであった。

 

どうしてなのか。

 

アマロの有する、その狭小な一点にのみ突き抜けて、極めて鋭敏な直勘に分析を委ねたならば、アマロはこう答えるだろう。

 

「魂魄が、幾つもあるような実感。」

 

それはアマロの魂魄でもあるし、アマロと心を捧げ和うに足る誰かの魂魄でもある。

 

ようなと言いつつも漠然とした感覚ではなかった。身の内に迸るような、尽くして明晰な心身に満ちる実感であった。

 

だが、実感を伴っていてもわからない。何故ならば、その実感を知るのは万の次元、万の時代を通じて唯独りで有るからだ。誰とも「比較」の効かない体感が、しかしアマロには断然として存在している。

 

この実感は底知れぬ意義を沈黙の下に孕んでいたが、そのことに気づくヒトもモノも存在してはいなかった。過去にも、未来にも、或いは見捨てられたもう幾つの霊長史にも。

 

ただ、この時にアマロさえも生涯を通じて初めて覚えた其の実感は、間違いなく遠い未来に「偉大なる意志」を成すものなのだ。

 

全ての悲劇も惨劇をも振り払い、全てを踏み躙ることも厭わぬ程に、其れは彼らを彼女らの身を掻き抱いて離しはしないのだ。

 

柔和に、暖かに、愛しげに、穏やかに其れは成すのだ。

 

何処までも…何処までも寂しげなアマロの意志を、其れは成し得るのだ。

 

だけれども、それはもっと、ずっと先のお話。

 

 

 

斯くして、アマロの旅は始まり、そして畢りなき旅は孤独の旅人に否応なく運命を誘う。彼を誘うのではなく、彼の元へと運命を誘う。その悲しみを、その哀しみを、アマロが共に抱き解し得る誰かの為に。その痛みを、その悼みを、我が身をアマロが捧げて和らげ慈しまれ得る誰かの為に。

 

還るべき奈辺をも、もたざる永久の旅人は、その身一つで陰を成し、眩さに惑う君の手を取る。

 

真の希望とは暗闇に差して君を導く、一筋の光明に非ず。希望とは暗闇を歩み続ける君に寄り添う、畢りを知らぬ永遠の陰也。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、ブリテン島には第三の支配者が存在していた。かの存在は支配者と言うよりも島自体の深くに根幹を成す存在であると言う方が適切であろう。

 

時に破壊を司り、時に守護者として、雄大なる伝説の中心に君臨し続けてきた彼ら。

 

彼らを人はドラゴンと、竜と呼んだ。高潔な貴種はその悠久の寿命に支えられて世界を見守ってきた。そして時々、気まぐれのように現れては変革の波を呼び込み、時に破壊の限りを尽くした。

 

故に人々は竜を畏れ敬った。

 

時に、竜は一度大きく動いた後には数百年単位で眠りにつくことがある。それは彼らからすれば午睡にも等しいのだが、人間からすれば封印された旧世界の支配者にも見えたに違いない。

 

紀元を経て、概ね殺し尽くされたはずの疑い得ない神秘という存在はしかし、この時代には未だ健在であった。

 

そして、ここブリテンにも眠りの中に篭ったままの竜が一柱存在した。根本的に現世の生物からは隔絶した存在感を発揮する竜種の中でも、ブリテンにおいては右に出るもののいない巨大な個体であった。

 

焼け跡が残るばかりのヴォーティガーンの尖塔から暫くに口を開けた大穴から、更に暫くの処に広大な森が存在していた。

 

森を駆け抜けて、森の端から遥かに広がる草原に囲まれた黒々とした岩山が遥かに見えた。

 

その岩山の奥の奥、大きな洞窟を人間一人分の先も見えない暗闇に呑まれながら進むと、次第に明明とした赤色の光を源として、蒸し暑さが洞の奥から漏れてくる。

 

洞穴の最奥に辿り着けば、そこには巨大な竜が身を横たえていた。小山の様に巨大な体から熱波をひしひしと放射しては、穴ぐらの岩壁を仄かに黒く焦がしていた。

 

真紅の鱗、磨き抜かれた剣のような豪爪。

 

そして、誰かの気配に気づき開かれた宝玉よりも澄み切った碧い瞳と、火の粉舞う息吹に揺れる金色の髭鬣が美しかった。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、紅き竜の元へとアマロが辿り着いたのは例の如くに全くの偶稀であった。

 

アマロの旅が三ヶ月になるかと言う時のことであった、彼の旅は前途洋々とは言い難かったが、持ち前の美貌と人間力だけを武器に、寝食を忘れてブリテン王国の諸都市群の隅々までを渡り歩き終えていた。

 

しかし、モルガンを見つけることはできなかった。それでもアマロの意志を砕くことは無く、直様にブリテン王国で未だ手付かずの地を求めて、深い森に片端から足を踏み入れていた。

 

彼の足取りに躊躇は無く、また彼の心は常にモルガンのためにあった。とはいえ、屢々寂しさの余り独りで泣き出すことも一度や二度のことではなかった為に、全く堪えるものがなかったとは言えまい。

 

そんなアマロの旅は、案の定危険とは無縁であった。

 

 

 

とある森の奥、アマロは「いつも通り」に煮炊きの煙を見つけると、一泊させてはくれまいかと交渉する為に木の柵で囲われた物々しい拠点へと進んでいた。

 

この拠点は山賊が占拠する処であったが、見張りは目を凝らした先に見えたものに驚愕の余り目を見開いて言葉を失った。

 

胸を張り、迷いのない足取りで山賊のアジトに直進してくる旅人の顔は…そう、余りにも美し過ぎたのである。

 

邪な感情を滅殺し、代わりに幼い頃に見上げた先、晴天の空に泳ぐ涼雲の美しさを思い出させるような極上の視覚の暴力であった。

 

「フオォォオォ!!か、顔が!!顔がいいぞぉ!!なんてこってぇ!お頭!お頭ーー!!見てくれよ!なんか、目が覚めるような美人が来たぜ!!」

 

野太い声で山賊の男が絶叫した。遠目にも分かる美しさに混乱しているようだ。

 

「うおおおお!?!?目が、目が焼けちまうぅ…!こんな美人は見たことがねぇ!」

 

呼ばれて飛び出たお頭は間近で目があったが為に即死級の美しさをその身にうけて腰を抜かしてしまった。

 

「お、お頭ぁ…俺たちゃあ…今まで、何やってたんだろう…なんか、目から水が伝ってくらぁ…」

 

見張りの男は訳もわからずに涙を流して拝み始めた。

 

「……あぁ、心が…心が洗われるみてぇだ…」

 

対してお頭と呼ばれた男も、目から鼻から口からと、穴という穴から熱いものを溢れさせている。

 

「クンクン…ブハァッ!!ックァーー!危険だ!鼻から幸せが昇ってきたぞ!頭ん中だけ雲の上に居るみてぇだ!…グァ!?か、かひゅッ……。」

 

「うぉぉぉ!!い、いい匂いがする!っておい!だいじよ……ガハッ!?うっ……。」

 

お頭と見張りの絶叫を聞いて駆けつけた連中は開かれた門を通って現れた旅人の尊顔に、興味津々の勢いに任せて顔を近づけては鼻をヒクヒクと動かした。瞬間、心臓を潰されるような衝撃を与えられて数名が気絶。心が汚れていれば汚れているほどに、彼の薫りにより意識を刈り取られることは当然のことである。

 

「御免ください…私はアマロと申します。実は旅をしておりまして、一晩泊めていただけませんでしょうか?…あれ?だ、大丈夫かい!?なっ、何があったんだ!誰がこんなことを……」

 

山賊を意図せずに全員打ちのめしたことに気づくはずもなく、アマロはいつも通りに無傷で入城。一泊逗留の許可を貰うより先に、アマロは子供のような寝顔で気絶している総勢十数名の山賊達の介抱に追われるのだった。

 

後日、アマロが一週間三食お酒付きの逗留許可を無事に勝ち取ったことは言うに更なりである。

 

 

 

アマロの旅は、案の定危険とは無縁であった。

 

それは何故か…というのも、彼は先述した通りに何度となく夜盗に山賊に傭兵にサクソン人にピクト人に…とにかく物騒な連中とはほぼ毎週の頻度で遭遇していたのだが、遭遇するたびに、拝まれるなり歓待されるなりされてしまい対処に困るほどであったからだ。

 

また、山賊や夜盗団に喧嘩をする荒くれ者がうじゃうじゃと居たとしても、団の頭や幹部連中が勇み足で出迎えた客人であるアマロを一眼見てしまえば、先ほどまでの喧騒や険悪な雰囲気は何だったのだろうと感じるほど、喧嘩を放り出して接待し始めるなど急変したのであった。

 

場違いにのほほんとした歓迎を受けること、三ヶ月の間に実に数十回程度。

 

時にはアマロに後生だからと、一晩だけ伴柄になってはくれまいかと、頼み込む者もあったのは言うまでもない。

 

この頼みに対して、相手が毛むくじゃらの巨漢であろうと痩せぽちの小男であろうとも、アマロは欠片も頓着を見せることもなく笑顔で快諾し、その都度に翌朝には生まれ変わったように品行方正な人材を次々に生み落としていったことは尚更に言うまでもないことだろう。

 

 

 

さて、楽しい思い出は積もり、寂しさも募る頃になっても未だに一度として鞘から抜かれることすらなかった剣だったが、ある時遂にアマロの手によって振る舞われる機会が訪れた。

 

そして事件が起こる。

 

ある意味で、この事件こそがアマロと紅き竜の出会いの直接的な前日譚と呼ぶに相応しいものだった。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、アマロはある時森の奥で魔女と出逢った。

 

深い森には屢々不思議な現象が起こるものだ。森の奥に存在すると噂される清い泉を次なる目的地としていたアマロの前に現れた濃霧もまた、そのような類であったのかもしれない。

 

霧に呑まれたアマロは歩いてきた道も分からなくなり、完全に道に迷いながらも歩き続けた。

 

 

 

歩き続けた先に現れたのは美しい泉ではなく、荘厳な宮殿であった。

 

 

 

宮殿に入ろうか入るまいか、悩んでいたアマロに声をかける者がいた。

 

その声は言って曰く、「旅のお方、旅のお方、よく遥々いらっしゃいました。もし宜しければ、私の館で歓待させて頂けませんか?」

 

姿を見せない声の主に、怪しいことこの上のない濃霧の中での誘い語り。常人であれば話の内容が何であれ健全な警戒心から一度は断っておくべきところである。

 

しかし、この男は断るどころかその顔を綻ばせ、その瞳を煌めかせて言って曰く、「なんて素敵なお誘いなんだろう。親切なあなたのご厚意に甘えさせていただきましょう。」

 

アマロがそう答えると、次には声の主人の鈴を転がすような笑い声が真後ろから聞こえてきた。

 

振り返れば其処には、イグレインに勝るとも劣らぬ絶世の美女が佇んでいた。

 

美女が言って曰く「それは何よりです。さぁ、こちらへ。私がご案内致しましょう。」

 

美女はアマロに手を差し出した。引いてくれると言うことか、とアマロは首肯してからその手を取った。

 

 

 

宮殿の中は絢爛に彩られていた。壁には等間隔で素晴らしい装飾品や宝物の数々が展示されており、その列は長い廊下が続く限りどこまでも伸びていくようだった。

 

アマロは疑うこともせずに、並べられている宝物の曰くに関する美女の解説を聞きつつ歩き続けた。何もないところでも躓きがちなアマロであったが、転ぶことはアマロが躓く度に美女が華麗に支えてくれるお陰で終ぞなかった。

 

手を引く力は穏やかだったが、手を握る力は何処か頑なであった。

 

明るい廊下は次第に様変わりした。大きな門扉が現れた。気後れするアマロが手を引かれて門扉をくぐれば、透明な水底に陽光がか細く射し込んで居るような、光の垂れ飾りを思わせる幻想的な光景が現れた。

 

アマロは言って曰く「とても綺麗だ…そういえば、私は君の名前も聴いていなかった。私はアマロと申します。君の名前を教えて貰えるかな?」

 

光の回廊が現れた。回廊の奥からは高貴に着飾った夥しい数の騎士や召使の行進が迫ってくる。目前に迫った所で行進は二つに別れて壁に沿って整列した。客人を歓迎するための荘厳な出迎えであった。

 

美女はアマロに応えて曰く「私は貴方様のことを存じておりましたよ?…遅れ馳せながら名乗らせていただきます。私はヴィヴィアン…ようこそ私の宮殿へ…歓迎いたしますわ、アマロ様。」

 

美女…ヴィヴィアンはアマロの手を引いた。いや、手を握り留めたまま、二人の足元がゆっくりと動き出したのだ。

 

ゆったりとした速度で、螺旋を描きながら泉の水の階により、光の射し込む宮殿の上階へと運ばれてゆく二人の姿は美しいという外に無かった。

 

 

 

ヴィヴィアンとの出逢いはアマロにとって僥倖であった。そして、アマロとの出逢いはヴィヴィアンにとって幸甚に尽きて…それでいて二度目の出来事であった。

 

眉唾物語ではあるが…二人の因縁は遥か古に遡る。

 

その昔のこと、地の果てまでを征服せんとした大丈夫が存在した。大丈夫はある時、不思議な泉の精と邂逅した。大丈夫の傍には黒髪のそれはそれは見事な美人が侍り、大丈夫とは極めて深い仲であることが伺えた。

 

泉の精はブリテンの遥か遠くから現れた大丈夫に、その目的を尋ねた。

 

大丈夫は言って曰く「最果てを求めて幾星霜…果たして夢を目前としながら友を喪い…今や根無草の身よ。友が死んだことは分かっていたが、受け入れられずに全てを投げ出してここに来た。最愛の宝だけを抱えて、宝に連れ出されて…葛藤の海で遭難しておる。目的などという高尚なものはない…強いて言えば、そうだな自分探しだ。」

 

大丈夫は…いや、大丈夫とはこの時に限って言えそうにもなかった。纏う覇気にも歪みが目立っていた。鋼の如く鍛えられた厳なる巨躯にも、本来あるべき威圧感や調伏力というものがないように思えた。

 

その空間は不可思議であった。本来ならば交わるはずもない両者が対峙していた。

 

引き合わせたのは、文字通り人生に迷っている大丈夫の手を引いた…のは良いが、土地勘に疎いことも気にせずに只管直進した結果に大陸外れの島へと迷い着いたアマロの名状し難い手腕による。

 

アマロからすれば、らしくない大丈夫の姿も好ましいと思っていたが、しかし、それは大丈夫自身が望ましいものとは思えなかった。アマロにとっても無二の人物を喪失したのだから傷心の中にあることは二人とも同じだった。

 

しかし、アマロには自身の数奇な出会いの数々が必ず別れと、そして再会により因果づけられていることを、誰に教えられるまでもなく直感している。故に、彼は進み続けられる。歩き続けられる。其処には、もう一人や二人に肩を貸して、背に負うても構わぬ程の気概と、アマロには似合わぬような頼もしさや強靭さが育まれている。

 

時が来れば、出来ることをする。アマロにとって、今こそが大丈夫の危急だった。如何に劇烈な戦闘を勝ち抜いてきたからと雖も、アマロからすれば己を見失い、部下に当たり散らすような、まるきり破裂寸前の大丈夫の姿にこそ危篤を感じたのだ。

 

そして、アマロは時に思いがけない決断をする。夜の内に自分より遥かに背の高い大丈夫を、その酔い潰れて酒臭い巨躯を背負って、小船一艘と身二つで海へと出たのである。自殺行為だったが、現に二人が遥か遠くの離れ島に辿り着いたことを考えれば、思いがけない決断とはいえ流石はアマロと言うべきか。

 

斯くして二人は不思議な泉にたどり着いた。

 

大丈夫の悩みを聴き届け、泉の精は言って曰く「貴方の目的はよく分かりました…しかし、こればかりは私にも出来ることは何もありません。強いて言うならば…一心に貴方を想って、遥かな海をも越えさせた隣のお方のことを信じてみては如何ですか?」

 

この言葉に大丈夫は憤慨して言って曰く「何を言うか!さては貴様…たわけであるな!余がどうしてアマロを疑うのか!余の…唯一の宝を、唯一…遺された宝を!股肱と共に愛した我らの宝を…託された宝を…どうして、余が疑うことがあろうか?」

 

大丈夫の声は次第に小さくなっていった。

 

泉の精は言って曰く「だから、です。貴方は心の底から伴柄の御方を愛しておられるのでしょう…それこそ一時とて全てを捨ててしまうほどに…しかし、だからこそ…貴方はいついつ喪われるのかと戦々恐々としておられる。私にとって故人の方がどのような存在だったのか存じませんが…きっと、貴方にとっては余りにも喪ったものが大き過ぎたのでしょう。」

 

続けて泉の精は言って曰く「だから、貴方はこれ以上に莫大な絶望や悲痛を与えられるであろう、目の前の…貴方に寄り添うその御方の死を恐るのです。」

 

大丈夫は俯いて問うて曰く「では…余はどうすれば良いのか…余は、これ程にへファイスティオンの死を嘆き悲しむとは考えても見なかった。だが、今こうしてアマロを遺して先に逝った彼奴のことを悼むと…言いようのない恐れが背筋を撫ぜるのだ…。」

 

大丈夫は胸を張って、今度は大口を開けて吼えて曰く「今の余は、あらゆる上で情けない!!だが、どうしようもなく恐ろしいぞ!」

 

大丈夫は、ぐいい、と風を切るように首を動かした。

 

隣で八の字眉で見守っていたアマロの肩を掴んで、大丈夫は噛み付くような勢いで訴えて曰く「アマロよ!!余は恐ろしいぞ!お前が、本当はいつか余の目の前から居なくなってしまうのではないかと!ただ、只管に恐ろしいぞ…一度として、彼奴が死ぬなどと…どうして考えついただろうか。だが、現に我が最愛の同胞は死んだ!死んだのだ!…ならば、どうして御前が死なないなどと思えるだろう…余は、兄弟以上に深く心を交わした彼奴を喪った。喪って、こうして我を見失ったのだ…なら、御前を喪ってしまったら余は如何なるのだ?余は…御前を喪うことが恐ろしいぞ…。」

 

大丈夫の話を聞き届けたアマロは、肩に優しく置かれた大きな手を両手で包み込んで、背伸びをするように見上げながら語りかけた。

 

アマロは語って曰く「そんなに心配してくれることは嬉しいよ。けれど残念なことに、私はね、死にたくても死ねるものでもないんだ。それにね…ねぇ、アレク…剣を貸してよ。」

 

大丈夫が「否」と口にするより先に、アマロは彼の腰から短剣を抜き取ると、自らの体に突き立てた。

 

大丈夫は張り倒す勢いで「やめろ!!!」と咆哮したが、時すでに遅し。刃は真っ直ぐに軌道を描いてアマロの喉に突き刺さる…ことなく、肌に触れる直前で首元の黒い山羊角が眩く極虹色に点滅したかと思えば、恐ろしい程の重圧が全方位に対して放たれた。

 

次いで、アマロの身に纏う様々な宝物が次から次にと明滅し、怒り狂った様な叫びがアマロを震源に響響と木霊した。

 

一人を包み込む様に現れた不可思議は、他ならぬ当人の手によって突き進まんとする刃を根本から、それこそ枯れ草を燃やす様に崩壊させた。

 

柄すらも遺さずに燼滅した短剣に唖然として、言葉もなくした大丈夫の顔を両手で押さえ、瞳同士を合わせたアマロが神妙な顔で言った。

 

アマロが語って曰く「アレク、私を見ろ。君の心配は残念だけれど杞憂なんだ。だから、安心して君は進め。君が私を思う気持ちもよくわかる…嬉しいさ。」

 

「でもね、だからといって君は君自身を疎かにしていい筈がないんだ。未来…もしかしたら私も死ぬかもしれないね、けれどそんなのは君が死んでから更にずっとずっと後の話かもしれない。」

 

「だからね…私が言いたいことは、君が見ないといけないのはね、アレク…過去でも未来でもなくて、今なんだ。」

 

「説教なんかできる立場じゃないから、これは私の経験を語るだけだよ。でもね、人間が間違いなく生きていられるのは、今しかないんだ。」

 

「過去にも、未来にも、君はいないんだよ?私と一緒に居るのは、過去のアレクなのかい?それとも未来のアレクなのかい?…違うだろう?今、こうして私と見つめあってる君じゃないか。」

 

アマロはそう言うと大丈夫の頬肉を二度三度引き伸ばすように解し、微笑んでからその手を離した。

 

ぽけーっと口を開けて、呆然とした、恍惚とした表情で大丈夫は束の間、静かにアマロを見詰めていた。気恥ずかしげに頬を掻いて見せるアマロはあざとく、恐らくは幼い女子にも負けぬほど可愛らしかったのではないか。

 

瞳に雄力が宿る。大丈夫は顔を空に向けた。死んだ人間が空に帰るとは考えていない。ただ、何とも目の前の宝は守らせて貰えるばかりではなかったようで、考えていたよりもずっと頼もしい存在だったのだと…そんな驚きと発見を、せっかちにも先を逝った友と共有したかったのだ。

 

アマロの言葉は、或いは冷たくみられるかもしれない。けれども、大丈夫にはこれ以上なく暖かく感じられた。

 

ふと横に目を向けると、いつの間にか泉の精は居なくなっていた。

 

それから間も無く、同じような紆余曲折の末に無事二人は海の向こうの遥かに築き上げた帝国へと舞い戻った。

 

幾星霜の年月の先で、よく笑い、よく泣き、よく人を困らせてから、アマロの大切な大丈夫は死んだ。後悔はしないように頑張ったらしい。大丈夫は散々に迷惑もかけたようだが、アマロは自分を神とは思ってもいないし、抑、自分で万民をどうこうしようなど、世界をどうこうしようなどとは考えていない。ただ、自分の隣にいる誰かを、隣に居たい誰かの為に全身全霊で寄り添い遂げるまでだ。

 

また一人、見届けてから遥かな年月が経った。

 

そして今、あの時の泉の精…ヴィヴィアンとの再会を、アマロは思いがけずも果たしたのであった。

 

 




暫し週一投稿となりますです。理由は、今の場面は何となくゆっくり大事に書いたほうが良さげだと感じたからです。あと、前書きと後書きも以後しばらくは淡白にします。理由は、あんまり沢山書くのは良くない気がしたからです。

世の中…何が起こるか分からないものですね。僕は政治的なことも宗教的なこともココでは言いません。しかし、告知だけしておきます。皆様が忘れた頃に、次章「処女獅子は嘆かない」編を予定しておりますので悪しからず。

では、また。


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B07偶稀、代償、結縁 中編

暑中見舞い、お久しぶりです。本話は二万字超をなんとか分割しまして、来週には残りを仕上げてもう一話投稿します。


B7 偶稀、代償、結縁 (中)

 

 

 

 

 

第三の目曰く、再会を祝う饗応を通してアマロの顔は沈んでいた。ヴィヴィアンのことを忘れた訳ではなかった。しかし、彼の中には深い葛藤と、モルガンを求める衝動とも呼べるものが、複雑に混じり合い、荒れ狂っていた。

 

心ここに在らずのアマロの様子に対して、ヴィヴィアンは劇場的な変幻を用いて応えた。彼女が指を鳴らせば、辺りは突然に光を失い漆黒の闇に沈んだ。瞬く間もない周囲の変化に、アマロは目をパチクリとさせたが、ヴィヴィアンが居なくなった訳ではないという親近感を嗅ぎ取り、一脚残された、自分が座っている椅子で静かに待つことにした。

 

空虚には静寂ばかりが満ちていた。あまりにも静かなそこは、言葉で表せない安心感と共に、澱んで重たい空気が身に纏わりつくようであった。

 

椅子に腰掛けて、ただ待つうちに、アマロは眠気を催し始めた。それは異なることであった。本来ならば、彼が眠気を感じることなどあり得ないからだ。眠ろうという意志がなければ、アマロには睡眠も必要がない。

 

だが、この時のアマロには確かに眠気が存在しており、その勢いは徐々に抗い難くなり、遂には微睡の中へと沈んだ。意識の沈入に合わせて、アマロの肉体は脱力していった。椅子に深く腰掛けていたアマロの体が漆黒の水底に横たわりそうになった寸前に、その身を包むように抱き止める者があった。

 

しなやかな芯を備えた豊かな肉体でアマロを抱き止めたのは、他ならぬ宮殿の主人ヴィヴィアンであった。

 

ヴィヴィアンはアマロには語りかけて曰く

 

「アマロ、貴方は束の間休むべきです。」

 

「アマロ、貴方は貴方を蔑ろにし過ぎています。」

 

「アマロ、貴方には貴方の中で暴れるその葛藤を、ゆっくりと宥めるための時間が必要です。」

 

アマロの寝顔は苦悩を隠していなかった。悩ましい表情は、それだけでも耽美の極みであったが、その美しさは断じてアマロ自身の本領とは呼び難いものであった。眉間には皺が寄っていた。僅かに冷や汗も噴いていた。

 

ヴィヴィアンはアマロの頭を撫でた。眉間の皺を、眠っている間に解きほぐすように弄ってやる。皺は解れたが、代わりに口許が、うにゅうにゅと不機嫌そうに波打った。ヴィヴィアンは魔法の扱いにかけては、かの大魔法使いマーリンにも勝る。しかし、だからといってアマロなる玉体に敵うとも、抗うとも豪語できる道理はなく、案の定、その美貌に魅了されていた。

 

眠らせたはいいのだが、寧ろそのことで純真な中に我儘が垣間見える小悪魔な寝顔が爆誕してしまった。しまった…とヴィヴィアンが思うより先に、尊顔に心の臓を鷲掴みにされるだけならまだしも、如何やらこの泉の精から母性を引っ張り出してしまったらしい。

 

泉の精ことヴィヴィアンは、先刻、誰も見ていない所で叙事詩的な諫言を独りごちた。無論、それらは心の底からの深慮から来るものだったのだが、彼女の案外にアマロから魅了された今となっては、それが足枷となった。

 

あれだけの、ソレっぽい、カッコいい台詞を吐いたにもかかわらずアマロの旅路を強引に引き止める事は、アマロがヴィヴィアンを謗る事はなくとも、格好つけて独りごちたヴィヴィアン自身が、その羞恥心と高潔故に認められないものであった。矜持の埒外を優先する事は容易い、しかし、ヴィヴィアンは矜持も恋路も両方とも欲してやまない欲張りな精であった。

 

果たしてヴィヴィアンは、眠るアマロの尊顔を愛でながらも、如何にすればそれとなくアマロの旅路を邪魔せずに、尚且つ己がアマロへの想いを成就させ得るのかについて頭を悩ませるのだった。

 

 

 

 

 

眠りの中、アマロは所謂夢とやらの中で揺蕩っていた。姿形などはないが、浮上した意識にはアマロという自覚があった。

 

浮遊する意識をゆらゆらと靡かせながら、アマロは何時の間にか自身がヴィヴィアンの宮殿の、その漆黒の水底からは別の何処かにいる事に気がついた。

 

そこは、先ほどの暗黒とは全く異なる、青空に白い雲まで見える明るくて爽やかな空間であった。何事か、よく分からぬままにアマロは地平線まで見渡せようかと言う広大な草原を無心で進んでいった。

 

太陽が沈むまで、休みなく歩き続けても疲れは無かった。果てもなし。星空もまったくそれらしい出来栄えであった。現の事象とは到底思えなかったが、理性が、しかし幻にしては出来過ぎであると問いかけた。

 

草原で仰向けに寝そべると、アマロは眠くもない眼を擦り擦り、夜空に浮かぶ月を眺め続けた。

 

日の出と共に、アマロは立ち上がった。日が沈むまで歩いて、月が昇れば草原で横になって月光浴に勤しんだ。何度も何度もアマロは繰り返した。

 

平原は音だけを忘れてきたかの様に静寂と共に緑の盛衰の始終をアマロに見届けさせた。初めこそ違和感に悩んでいたアマロだったが、いつの間にか何も思わなくなっていた。

 

誰か人を探そう。いつの間にやら小高い丘へと地形を変えていた平原の真ん中で寝そべっていると、そんな思考がふつりふつりと頭をもたげた。だが、体がすぐさまに動くわけでもなかった。心の片隅で、初めから独りで居る方が楽だと言ってくる自分もいたからだ。

 

 

 

アマロの行動というのは、自他共に認める様に、何の秩序がある訳でもなし。しかし、最終的には決して無意味にはならないのだ、無意味にはさせないのだ、という願望とも意地とも呼べる意志が根底にある。

 

とはいえ、無意味だから棄てるだという訳でもない。アマロに歯切れの良さを求める事はお門違いであろう。天性の欲張りでもなければ、いつまで経っても終わりがこない永遠に気狂いになっていてもおかしくはないのだから。だからといって、アマロを人間の枠で考えるのもまたおかしな話だったが…いずれにしろ、分かりやすい答えなど持ち合わせようがなかった。

 

常に何処かに、何時かの胸の奥に後引くような余韻が居座っている。

 

何のために生きているんだろう。何を遺したところで最後は自分独りきりになることは分かりきっているのに。帰る場所もなければ、行き着く先もないのだ。宇宙が全く無くなったとしたら、そしたら自分は居なくなるのだろうか。ゴルロースみたいに、光の粒にでもなって死ねるのだろうか。或いは、腐った肉に変わり果てて、宇宙の塵に取って代わられるまで漂い続けるのだろうか。

 

「ブラフマーだって宇宙を創ったけれど、あの時も死にはしなかったしなぁ。そもそも、私の方が先に生まれていたのだから当然か…。」

 

詮なき事をぶつぶつと口に出していた。久方ぶりに出した割には、随分と明瞭に聞こえる声であった。アマロの言葉に応えるものは誰もいない。アマロの声を聴くものは誰もいない。

 

自分の死というものを考えなかった日はない。死んだ後、何処へ行くのか。死んだら、先に逝った彼や彼女に逢えるのか。

 

「死んでから再会する…っていうのは違う気がするんだよなぁ。」

 

首を傾げながらアマロは独言る。

 

「先のことなんて分からないけど、昔からずっとそんな気がする。何となく、生きてるうちにまた逢えるのかも。それが何時になるのか…は、わからないけれど…」

 

遥か昔に最初に見届けた誰か。遥か彼方で最後に見届けた誰か。彼との、彼女との間に育んだ時間こそがアマロの全てだ。

 

彼と、彼女との別離に勝る苦痛は無い。だが、その苦痛が単なる苦痛に留まるとは考えられなかった。

 

きっと必ず再会する。

 

矛盾だらけの言葉だったが、見届けるたびに感じてきた。今の今までずっと変わらない事だった。何処までも感覚的で、論拠を提示のしようがないものだった。だが、強ちにも間違う事はない様な気がするのだ。そして、確かに実現するだろう。

 

とは言え、アマロには今こそが全てである。終わることがないのだから、不貞寝しようが、自殺を試みようが、そんなことには既に飽々としている。いや、寧ろ初めから試みる気などない稀有な存在ではあったのだが。

 

 

 

草っ原で寝転がったまま、数百数千の太陽と月を見送る。アマロはこの間、呆けたように静寂な原野に一人で過ごしていた。

 

時には一念発起して何ヶ月分もの距離を休みなく歩くなり、走るなりしてみたのだが、残念ながら人っ子一人はおろか、虫の一匹もいなかった。

 

疲れはしないが、何となく物草になったアマロはごろりごろりと二転三転。青臭くもない無機質な野っ原に芝まみれで思考に耽ることにした。

 

出来ることといえばそれだけだった。そして、それこそが今のアマロには何よりも必要なことだった。

 

 

 

第三の目曰く、アマロはモルガンの誕生を心からの喜びと、心からの贖罪の念で受け止めていた。

 

心からの喜びは、娘の誕生に対する純粋な愛おしさからくる感情であった。

 

対して心からの贖罪は、娘の誕生の影で死んだゴルロースの死を未だに受け止めきれていない、ゴルロースの生と死を自らが明確に左右してしまったことへの、重苦しい罪悪感からくる感情であった。

 

だが、単に生と死を左右することなど、アマロの全生を通して数えれば文字通り星の数ほど在るだろう。その度に、アマロもまた全身全霊を懸命して自らの伴侶の傍に寄り添い続けた。例え、その先に毒があろうと、槍があろうと、火があろうと関係がなかった。屍を踏み越えることに関して、アマロとて一角の覚悟を持ち合わせている。誰よりも孤独な結末を背負いながらも、その運命を敢えて真正面から受け止め続けているアマロの生き様こそ、その究極の証左である。

 

星の数ほどの人の死を前にしても、アマロはそれでも立ち止まる事はしない。いやだからこそ立ち止まらない。立ち止まることなどできないからであり、他ならぬアマロ自身が立ち止まる事をよしとしない。アマロは自らを過大評価しない。何処までも愚鈍で、一人では生きてなどいけない。軟弱で、取り柄など人柄と見て呉れくらいだろうか。人に寄り掛からなければ生きていけない。だからこそ、自分を背負ってくれた誰かのために全てを捧げる覚悟があった。それでも自分という重石で誰かの人生の多くを埋めてしまうのだから、到底釣り合いようがないことも理解していたが…しかし世の中は広い。そんなどうしようもないアマロでも、否、そんなアマロだからこそ愛してくれる奇特な者も存在するのだ。

 

アマロはそんな誰かの為だけに生きることを矜持としている。そこに二心はなく、また違えた試しもない。アマロはこれからもその覚悟の通りに生きていくだろう。自らの獲得者の為だけに生きる。それ以外には目もくれずに、ただ貴方だけに全てを捧げる。貴方との最初から最後までを見届けて。

 

だが、それでも、永年の時代を生きるうちに、大きく問いかけてくる誰かが現れることがある。

 

時に出逢うそんな誰かの生き様に問いかけられた時、アマロは堪らない。彼の、彼女のことを想わずには、悼まずにはおられない。激しい衝動は濁流の如くアマロの心中を掻き乱す。その熱を覚えるたびに、皮肉にもアマロは自分が根っからの人間らしいことを思い出すことができた。

 

自分の生き方を見失う度に、アマロは自分がそれこそ本当に何もない、怠惰で愚鈍なだけの人間の容に納まったような気がするのだ。誰か、何よりも大切に思っている誰か。彼は、彼女は何処かへ行ってしまった。本当に、自分には何も無くなってしまうのだと思い知らされる。

 

アマロにとって、ゴルロースはどうでもいい存在の筈だったが、それはとんだ誤解だった。アマロは、自分を過大評価する事はない。だが、過小評価することは屡々であった。それを人は謙虚ともいうが、此度は自分自身の愛情深さを見誤っていたのだろう。短い間だったが、アマロにとってゴルロースは実に人間臭い存在だった。そして、その生き様は、確かに強い意志の輝きに満ちていた。

 

ゴルロースの半生など知りはしなかったが、それでも、嫌なことから必死に逃げたゴルロースの姿がなければ、自らの理想だった気障たらしくも高潔な騎士道を演じ切った騎士ゴルロースの姿は無かっただろう。躓いて、転んで、泥だらけになりながら脇道を進み、その先でゴルロースは何かを掴んだのだ。

 

正道にもあったかもしれないが、正道にはなかったかもしれない。今、見える景色は何時だってたった一つきりなのだから、ゴルロースは自ら選んで道を進むことができたのだと思えた。

 

ゴルロースは死んだ。そして、その死には確かな意味があった。ゴルロース自身が意味を見出していた。他ならぬゴルロースが満足して死んでいったのだ。だが、夥しい数の時代の殉死者達の全てが満足を感じていたか、と問われれば甚だ疑問を呈せざるを得ないだろう。

 

だが、それもまた局所的な視野にすぎない。誰かの救いになる為には、その大切な誰かに倍する誰かを敵に回す可能性を甘んじて受け入れることも時には求められる。望んで傷つけるわけではなくとも、人間を傷つけることに悪意は必要ないのだから。

 

無論、常に敵に回るかもしれない人の数を減らす努力がなければ、己の選択を問い、己が抱かんと欲する確信を疑い続ける労苦を惜しまぬ覚悟がなければ、そこには救済者たる資格などなく、所詮は、可能性を棄てて極道を迷いなく進む自己に陶酔する確信者にして、最も愚劣かつ下品なる殺戮者に過ぎないのではなかろうか。

 

意志や願望を貫き通す事は、何処までも、何処までも傲慢の極みである。故に、一度貫き通す事を選んだ者は常に選択を強いられる。何かを捨て、何かを得る。何かを奪い、何かを与える。傲慢であると、不誠実であると、罵られる事を呑み込む覚悟を放棄してはならない。そして、その道を問い続ける事を、時に迷い、時に疑い、時に悩み続ける事を疎んではならない。己が道を平坦なる直道と見做し、苦悩を捨てて直走るが如きは愚の骨頂にして、外道へと通じているやも知れない。

 

千年同じ道を歩んでも、次の日からは曲がるかも知れない。どんなに歪な道であろうと、自らの道の素直さを確信せず、脇道であれ下り坂であれ、己の道を歩み続けること。

 

それは、アマロの道もまた同じである。否、誰よりも、アマロの道こそが然りなのだ。

 

故に、アマロは確信しない。己の選択を時に迷い、時に疑い、時に悩み続けてきた。そして、その道はこれからも続いていくのである。

 

 

 

中空のように浮上した平穏は、他ならぬゴルロースの生と死が描いたものだ。その死には意味がある。束の間とはいえ平穏な世情の下、確かな祝福のもとでイグレインはモルガンを産み落とした。

 

ゴルロースは死に、イグレインは生き延びた。そして、生きたイグレインはモルガンを産んだ。そして、ゆくゆくはモルガンは騎士の王となるらしかった。

 

ウーサー王の後継者として、整えられた舞台で、衆人環視に見守られる中で選定者の剣を抜くのだ。そして、モルガンは王になる。ブリテンの王になるのだ。

 

アマロは、分からなかった。否、なあなあのまま、まるで宿命の様に騎士道の継承者として、群衆に希望として担がれて玉座に収められるモルガンの姿に、言い知れない冷酷を感じてしまったのだ。

 

産まれたばかりのモルガンを腕に抱いて、アマロが感じたのは安堵と幸福と、そして不安であった。産婆や駆けつけたウーサーの喜びよう凄まじく、彼らが口々に希望の誕生を口にしたのは言うまでもなかった。

 

 

 

富める貴種として産まれ、富める貴種として育まれたからには、その身を養った数多の富まざる者達の献身に対して然るべき責任と義務を負う。

 

ノブレス・オブリージュなる概念、それは謂わば圧倒的に少数である富める者達が、自らの存在意義を、圧倒的な多数である富まざる者達に対して一種の希望の担保という形で保証するものである、とも解釈できる。

 

アマロは決して有能でも天才でもない。優れた知能や腕力など持ち合わせてはいない。己の身一つで生きてきた者である。しかし、その生の中で確かに理解できるものがあり、人間は勝手に期待して、勝手に失望する様にできていることもまた、よく理解していた。例えその誰かの背景が如何なるものであれ、時に冷酷無比に、機械的に他者の人生を磨り潰すことが出来るのに、富者も貧者も関係がなかった。

 

アマロは知っている。人を殺すのに悪意は必要ないのだと。群衆や貴種が決断を下す時、彼らの大半は深刻に懊悩することも、嬉々として断罪することもない。寧ろ、強い意志に便乗する形で、悩む間も無くあっさりと、無思慮に選択してしまうものだ。如何なる結果を招くとも知れずに、目先の成果に拘泥する事は目に見えて愚かだが、選択者からはその愚かさを知ることができない。

 

故に、アマロは決して自らの選択に確信しない。自らの選んだ道を確信する事は出来ないのである。終わりなき懊悩の中に生きることこそが、アマロが人間として抱く信念なのだから。

 

 

 

腕に抱いた赤子の名はモルガン、この子が果たしてどんな王になるのか、騎士になるのか…どんな風に成長するのか、アマロにはわからなかった。だが、どんな風に育ってもアマロはこの子の傍に居たいと思った。

 

ふと、顔を上げるとイグレインと目があった。産後だからだろうか、白い顔だ。血の気が引いて、冷や汗で髪が額や頬に張り付いていた。だが、細身のイグレインは外見こそ辛そうだったが、呼吸は落ち着いていた…産婆曰く、稀に見る安産だったらしい。てっきりモルガンを見ているものと考えていたから、アマロは驚いてイグレインと暫し見つめ合っていた。

 

その時に、イグレインが何と話してくれたのか覚えている。イグレインは言った。

 

「この子は、ゴルロースが折角用意してくれた平穏な時に生まれたのだから、戦場に出て欲しくないわ。甘いかもしれないけれど、のんびりと育って欲しいわね。」

 

アマロは自分が何と返したのかも覚えている。アマロは言った。

 

「うん。そうだね、ゴルロースは騎士道に生きたけれど…モルガンも、騎士道に生きたいと思うかは分からないからね。色んなことを知って、それから自分で決められる様に育ってほしいなぁ。」

 

イグレインは「そうね。」と応えた。

 

アマロは、モルガンが騎士道を選んでもいいと思った。モルガンがどんな道を選んでも、アマロはこの子の傍に居るだけだ。けれど、アマロはモルガンに騎士道しか選択肢がないことだけは耐えられそうもなかった。まるで、その為だけに生きることがモルガンの全てになってしまう様に思えて、堪らなく不安になった。

 

色々なことを知ることがいいことで、一つのことしか分からないことが悪いことではないとアマロは思う。けれど、何も知らないのに選択肢がそれだけなのと、色々な事を知っていて選択肢がそれだけなのとでは全く違うとも思うのだ。

 

もしも何も知らないままに、たった一つの選択肢しか与えられなくて、選んだ先で心が折れてしまった時に、お前が選んだのだからお前の責任だと詰られてしまったら、きっととても辛いのだ。

 

自分にはそれしか無いのだから、その道すら貶められて仕舞えば、きっとモルガンは騎士道が嫌いになってしまうだろう。けれど、騎士道以外に知らない彼女は、底なし沼で溺れるような、何をすればいいのかわからないまま苦しみ続けなければならないのではないだろうか。勿論、奮起する強さがモルガンは備えているかも知れないが。

 

だが、色々な事を知っていれば、選択肢がたった一つしかなくて、その道を選んだ先に心が折れてしまっても、それ以外の道がある事が分かっているのだから、何も知らなくて、細い一本道を恐る恐る渡るよりも、幾つもの交差した大小様々の道の中の一本を通っている方が、気が楽なのではないだろうか。勿論、色々な道を知るが故に、たった一つの道しか選べない自分の境遇に心を痛めるかもしれない。騎士道に適性がなければ、自分の適性を知っていれば知っているほどに、自分の好きなことがなぜ出来ないのだと、なぜ選べないのだと無力さに打ち震えて、悔しくて涙することもあるかもしれない。

 

前者は何処までも機械的で痛々しく、後者は感情と理性が常に葛藤することだろう。何方がいいのか、と問われればアマロはわからないと正直に答える。だが、後者の方が人間らしくて何分かは好きだとも答えるだろう。だが、モルガンが同様に好きなのかはわからない。だから、娘たるモルガンの父親として、獲得者たるモルガンの伴侶として、エゴだとわかっていても、彼女を騎士の王としての宿命に、剰え人為の名の下に沈めることなど許容できなかった。

 

アマロの真の贖罪とは、妖精達の囁きを狸寝入りで見逃したことに尽きた。

 

もしも、色々な事を知ったモルガンが騎士道以外の、他の道を望んだならば、その道を誰も認めようとしなかったならば、アマロはモルガンの為に全てを捨てる心算だった。いつものように、モルガンと二人で旅に出てしまおうと考えていた。

 

イグレインは、アマロが何も話していなくともアマロの考えを悟っていた様だった。

 

モルガンとの逃避行のための計画を柄にもなく立てていたアマロに、イグレインは脈絡もなく「私のことも連れて行ってね。」と言った。

 

アマロが「どうしてわかったの?」と問うと、イグレインは「貴方、顔に全部出ているわよ。」と答えた。

 

それ以来、イグレインとアマロは屢々、モルガンの将来について意見を交わした。このままでは娘が戦場に立つのだと考えると、アマロは気が気ではなかった。いや、いつものことだが我が子が得体の知れない、顔のない群衆から据物にされると思うと、こればかりは流石のアマロも虫唾が走る思いであった。浮世抜けした思考のアマロだが、そんなアマロなりに必死に考えて導き出した結果だった。

 

アマロもイグレインも、モルガンが平穏に育つためには、何とかして王城の外に連れ出すことが必要だと考えていた。何はともあれ、モルガンを王城の外に連れ出せなければどうしようもなかった。

 

厳重に警備された王城の中から出れないまま、アマロはその夜を迎えた。

 

深い夜、窓辺から響く妖精の葉叩きでアマロは目を覚ました。薄らと瞳を開けてみれば、モルガンの入った揺籠が宙に浮いていた。あっ!と声を出しそうになって、アマロは喉を締めた。そして、ぐっと瞳を閉じて、ただ静かにしていた。

 

暫くして、葉叩きが遠くに溶けてから瞳を開ければ、そこにはモルガンの姿は最初からなかった様に消えていた。

 

出来心ではなかった。「あぁ、今しかないな。」という漠然と、解決の糸口を見つけた様な心地だった。きっと、イグレインも自分も辛いことになるが、だからといって王城の外に伝のない二人だ。マーリンにでも頼まない限りはモルガンを城の外には出せなかった。そして、そのマーリンがモルガンを騎士の王にしたがっているのだから頼めるはずもない。

 

マーリンもまた確かな獲得者であるにもかかわらず、アマロはマーリンの目的に殉じることは出来なかった。いや、殉じることに否があるわけでは断じてない。ただ、自分自身の身の振り方も選べない我が子の運命を、その始まりから終わりまで決めてしまうなんて、そんなことはアマロの生き方に反するものだった。

 

アマロは、自らが寄り添い尽くすと覚悟を決めた誰かの伴侶となり、彼の、彼女の歩く道を、愚直なまでに伴に歩む存在だ。片時も離れず、片時も裏切らず、彼の、彼女の選んだ道を誰よりも信じて伴に歩む。いや最早信じる信じないの域ではないのだろう。正しいか正しくないのかではない。互いに互いの生の全てを受け入れて、過ちも痛苦も伴に被る。真に世界を敵に回しても尚、アマロだけは彼の、彼女の隣で笑っていると断言できる。

 

そして、当のアマロすらも理解していないが、その生き方は一種の致命にまで到達している。というのも、アマロはその存在そのものが絶対的な真実性を帯びており、言うなれば流動的で暫定的な事実しか存在してはいけない霊長史に対して、唯一絶対の真実の審判が可能な存在なのである。

 

…何故ならば、アマロは最古から最新まで、常に当事者、時人で在り続けているからである。

 

即ち、汎人類史そのモノに対する致命的な絶対性を有する唯一の存在なのである。しかし、無論アマロにその自覚はなく。常に、鼻先三寸のみみっちい、人間臭い葛藤と自問自答で頭を悩ませている為にその凶悪性は事実上封印されている。一個人の言行が絶対性を持つことは本来ならばあり得ない話であるが、もしもアマロが自覚を持って実行したならば、その発言が虚偽でない限り、修正力を抹殺しつつ空間が歪むことだろう。

 

さて、この様な背景をも有するが故に、アマロはその生き方を、その矜持を撫で切りにするような真似だけは出来なかった。そこに、マーリンへの恨みや悪意などあろうはずも無く、ただモルガンの事を考えての一心であった。

 

しかし、結果としてアマロは拭い難い贖罪の念を抱くに至ったのである。恐らく、マーリンはことの真相を知ったとしても、アマロに大事がなければ全てが些事であると断ずることだろう。或いは、万事は妖精による犯行であると断定するかもしれない。何にせよ、アマロが告白したからと言ってアマロが不利益を被ることはない。

 

だが、アマロは告白するよりも、自らモルガンを探し出す事を選んだ。果たして、自らの選択が正しかったのか、誤ったのか…その真偽を確かめることも無論ないわけではないが、それはあくまでも次いでであり、真に求めたのはモルガンとの今後の身の振り方を決めることであった。

 

そのためにも、先ずはモルガンを見つけなければならない。我が子は我が身の半身であると思って譲らないアマロにとって、優先順位の遵守は数少ない絶対であり、我が子の幸福は己の矜持にも勝るものであった。

 

一時的とはいえ…矜持に勝ったという理由のみで、マーリンの傍を離れ、モルガンとの別離を涙を呑んで耐えた訳ではない。しかしそれは、アマロを求める狂おしい程の運命がアマロの元へと誘われ、またアマロを誘ったが故であり、その運命の主もまた獲得者としての格を偶稀にも有しているからであったが、その事を知るものはいない。

 

 

 

第三の目曰く、アマロの目覚めはヴィヴィアンが妙案を思いついたのとほぼ同時刻であった。

 

夢から覚めるのは突然であり、閃きも突然である。

 

目覚めたアマロは視界の霞が取れるまで惚けたように、自らを抱きながらうぬうぬと悩ましげに唸るヴィヴィアンの顔を見つめていた。

 

アマロは言った。

 

「ヴィヴィアン…どうしたの?」

 

ヴィヴィアンはこれに応えて曰く。

 

「あら、起きたのですね。随分と長い間眠ってらしたのですよ。」

 

これに対して「腕が疲れなかった?そこらへんに転がしておいてくれてもよかったのに…でも、ありがとう。お陰でよく眠れたよ。」とアマロは感謝を伝えた。

 

ヴィヴィアンは微笑んで曰く「それは何よりです。それと…いい夢は見られましたか?」

 

アマロも微笑んで応えて曰く「うん…少し大変だったけど、それでも私には必要な…いい夢だったよ。」

 

起き上がったアマロを、ヴィヴィアンは自身が先ほどまで座っていた寝椅子に腰掛けさせると、自らは立ち上がり、居住まいを正してから閃きを披露した。

 

ヴィヴィアンは得意げな顔で問うて曰く「さて、夢からも醒めたことですし、アマロ様にはこれからの事を教えていただきたいのです。」

 

アマロは疑問を顔に浮かべたが、直ぐに合点がいった様子で答えた。

 

「私は今まで通りにモルガンを探しに行くつもりだよ。本当は、ここに来たのも彼女の行方の手掛かりが在りはしないかと考えて来たんだ。」

 

ヴィヴィアンはこれに対して益々得意げな顔になった。瑞々しい唇にご機嫌な弧を描いたまま、ヴィヴィアンはアマロの耳に囁くように言った。

 

「あら、アマロ様は大層運が良い。私、ヴィヴィアンは貴方様の尋ね人の行方を、よくよく存じておりますとも。」

 

吉報にアマロは顔を喜色で満たした。「本当かい!」と澄み透った軽妙な声で歓喜を表したアマロは、得意げなヴィヴィアンの両肩を齧り付くように抑えると、額を合わせるような親密さで我が子の行方を乞い問うた。

 

「ヴィヴィアン!私の娘は、モルガンは今何処に居るんだい?私があの子に会うには、どうすればいいんだい?どうか、教えて貰えないだろうか。」

 

ヴィヴィアンは強調するまでもなく目と鼻の先にあるアマロの極美顔を前に、両鼻から血を噴出させつつ神妙につくった顔で応えた。

 

「貴方様の尋ね人を探し出す事は簡単な事です。しかし、尋ね人であるモルガン様を妖精達から取り返す事は大変に難儀なことでございます。」

 

ヴィヴィアンが如何にも困難であるという表情で言うとアマロは青くなり、それから愕然とした表情で抱いていたヴィヴィアンの肩から手を離した。

 

「あっ…手が…顔も離れて…勿体ない事をしましたね…」

 

ヴィヴィアンが低い声で落胆した気がするが、それは気のせいだろう。アマロはそれどころではなかった。

 

「そっか…それは、そうだね。難しいことだよ、でもせめて、せめて居場所だけでも教えてくれないかな?私が行くから。場所を教えてもらえれば、そこからは君の手を煩わせないから。」

 

アマロは笑みを消すと、キリリと締まった覚悟を決めた雄の表情に変えて言った。ヴィヴィアンは心の中で「残りは泣いてる顔も見れればもう言うことなしですね。」と言ったが、そのことをおくびにも出さずに、今度はしなをつくってアマロに自分から抱きついた。

 

「よよよよ…嗚呼、お労わしやアマロ様…そのような悲しい事を仰らないでください…このヴィヴィアンにお任せあれ!私の魔法を使えばアマロ様の願いも叶えることが出来るでしょう。」

 

悲しみに咽びガックリと俯いた所からガラリと変わり、出来る女の表情を貼り付けたヴィヴィアンが言った。単純なアマロは「ヴィヴィアンは多才なんだね!」と驚き半分、興奮半分でヴィヴィアンを眩しい視線で見つめていた。

 

しかし、再び不甲斐なさそうな表情に戻ってヴィヴィアンが言った。

 

「しかし…その為には魔法を使うために引き換えとなる代償を払っていただかなばなりません。このような事を言うのは心苦しいのですが…」

 

これといって代償など必要ないのだが、言うだけ言ってみたヴィヴィアンだった。しかし、アマロは真剣な表情で迫り、応じた。

 

「私にできることならなんでもするよ。」

 

なんでもするよ。

 

なんでもするよ。

 

なんでもするよ。

 

ヴィヴィアンの脳髄に…妖精に脳髄があるのかわからないが…永遠に聴かせて欲しいくらいに甘美な痺れが走った。

 

「誠ですの?」

 

予想の斜め上を行く…と言いたいところだが心の何処かで期待していた言葉に興奮を隠せていないヴィヴィアン。既に彼女の中で形作っていた泉の精像が崩壊していることに当人も気がついていなかった。目の前にぶら下げられた美肉に、猟犬ヴィヴィアンは夢中だった。。

 

「誠だよ。」

 

対して、この男も負けていない。明らかに文脈から言って頓珍漢な問いかけに対しても常に誠心誠意、文字通り誠実に応じてしまっている。この時に限らず、いつものことだが、アマロは自分から身を差し出してしまったと言っていいだろう。

 

端的に言えば、言質である。

 

「それなら話は早いですね。さぁ、こちらへ。」

 

雫を降り散らすような、そんな爽やかで瑞々しい笑顔のヴィヴィアンがアマロを手招く。招き入れようとしている先は寝室である。客人として入れば、その晩は水底の寝台で柔らかな灯火に見守られて幻想的な眠りを味わえたかも知れないが、残念ながら同じ客人身分とはいえアマロは寝かせてもらえないだろう。いや、端から眠らなくてもいいのだが。

 

「本当かい?さぁ、何でも言っておくれ。私に出来ることならなんでもしよう。私にあげられるものならなんでも差し上げよう。…とは言っても、差し上げられるものなんかこの身体くらいしかないのだけれどね…」

 

てくてく、と擬音がしそうなほど軽い足取りでヴィヴィアンの手招きにほいほい着いていくアマロの危機管理能力は生娘以下である。しかし、あまりにも無邪気だといっても、やはりこの漢にソッチ方面で隙は無かった。彼は本心から何を頼まれても拒みませんよという意思表示のためだったが、さり気なく上着を肌蹴て見せた所為でヴィヴィアンの方が先に限界を迎えた。

 

「……ソレ、ですわ。ソレが、欲しいんですわ。ですから、この身体くらいとかって言わないで下さいましッ!」

 

水中なのに暑苦しさを感じるくらいの剣幕でヴィヴィアンは叫んだ。心なしか、口調がお嬢様に変わっている。本人も気づいていない。無論、アマロも気にしていない。

 

豹変振りはさておき、肩で息をするヴィヴィアンを束の間、じいい、と見つめていたアマロだったが、ようやっと合点が入ったと頬を綻ばせると、何を思ったか上着を脱ぎ捨てた。

 

「キャァァァァア!!破廉恥ですの!ご褒美ですの!?」

 

ヴィヴィアンは絶叫した。両手で顔を隠しているが、指の隙間から焼き付けるように直視していた。

 

焦るヴィヴィアンを他所に、朗らかな笑みを浮かべたアマロは下着も含めてスッキリ脱ぎ捨ててしまうと、ヴィヴィアンを横抱きにした。

 

「ななな、なな、何を!?」

 

茹でたビーツの様に真っ赤になったヴィヴィアンに、アマロは言った。

 

「ヴィヴィアン…安心して。アレクが言っていたよ?*チョメチョメチョメ*は愛情のコミュニケーションだから恥ずかしがる事はないんだって。君が私に折角求めてくれたんだ、私が拒むことなんてないよ。寧ろ、喜んで君に抱かれよう。」

 

それで納得すると?ヴィヴィアンはアマロの独特の貞操観念を聴き真顔になった。言うまでもないが受け売りであり、アマロの貞操観念とはまた別物なのだが。

 

「いえ、アマロ様は納得しそうですね…。」

 

疲れが見える真顔から、覚悟を決めた雌の顔に変わったヴィヴィアンが言った。

 

「ねぇ、ヴィヴィアン…流石に私の身体だけじゃあ釣り合いが取れないと思うから、だから後で何かで埋め合わせをさせてくれないかな?」

 

アマロに耳があれば垂れていることだろう。力不足を嘆くばかりの表情で、云々と宣っているが、ヴィヴィアンからすればとんでもない話である。しかし、断らないでおく。なぜならば我慢できないから。

 

「えぇ、お任せしますわ。はぁ、まさかこのような形に落ち着くとは…こんな風に導いてしまわれるのは…」

 

アマロ様だけだと思いますけれど…。そんな言葉を喉で堰き止めたヴィヴィアンは、相変わらず緊張感のない、寧ろ子供の様にウキウキとした様子のアマロに身を委ねると、水底の寝室に浮かぶ灯火を吹き消した。

 

 

 

 




皆さま熱中症に気をつけて。ではまた、もんなみはー。


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B08偶稀、代償、結縁 後編

これでやっと前哨戦終了。長かった。


B8 偶稀、代償、結縁 (後)

 

 

 

 

 

第三の目曰く、ヴィヴィアンは意外と頑張った。

 

アマロ曰く「魔法って凄いね。」

 

ヴィヴィアンが閨で如何な技術を披露したのかは兎も角も一夜明けて、ヴィヴィアンはモルガンを妖精族から返還してもらえる様に全力を尽くす旨をアマロに約束した。

 

そして、アマロは前夜に言伝た追加の御礼として、腰に佩いていた大層立派な剣をヴィヴィアンに譲った。

 

ヴィヴィアンは「この世に二つとない代物ですよ?」と、本当に人に譲っていいものなのかと問うたが、アマロは「城の中にあったものだけれど、私には代わりに差し上げられるものがないからね。代わりに差し上げられるものが見つかったら、その時は交換して欲しい。」と言った。

 

ヴィヴィアンはその優れた審美眼で、この剣が明らかに人に譲っていい代物ではないことを理解していたため、アマロの言葉を二つ返事で了承した。

 

アマロはヴィヴィアンからモルガンを受け渡されるまでの間、ヴィヴィアンの宮殿で逗留する事を勧められた。

 

 

 

 

 

剣を受け取ったヴィヴィアンはなるべく早急に返還する為に、剣を返す口実に相応しい御願いを探すことに頭を悩ませた。そんな折、記憶の片隅に山を丸々と占領しているドラゴンの存在を思い出したのである。

 

乱世になっても我関せずのこの紅い竜は、随分前に白い竜との乱闘以来眠ったままだった。何時の間にやら泉の近くの岩山に陣取っていたらしく、周辺はすっかり禁域の様に人っ子一人いない有様であった。

 

ヴィヴィアンはアマロとの一夜を通じての経験則からまず間違いなくアマロが殺される様な事はないだろうと考えた。何故かと言えば、大魔法使いであり最高等の妖精でもあるヴィヴィアンをも魅了してしまったアマロであるから紅い竜とて例外ではないだろうという、打算とも確信とも取れぬ考えも浮かんだからであった。

 

「アマロ様には是非とも岩山に巣食う紅き竜の気を宥めてきて欲しいのです。かの巨竜の鼾で私は大層な騒音被害を受けていますから解決して下さればとても助かるのです。貴方様がお帰りになった時に、私が預かっている剣をお返しします。これは大変なお仕事ですが是非とも成し遂げてくださいませんか。」

 

「勿論、成し遂げてみせるよ。その間はモルガンをよろしく頼むよ。」

 

「えぇ、お任せあれ。無事にお返しいたしますわ。」

 

斯くしてアマロの逗留から三日目、ヴィヴィアンは依頼の達成により剣を返還する旨を伝え、此れをアマロは快諾した。

 

翌明朝、アマロは岩山に向けて出立した。

 

 

 

泉の底から透き通る螺旋階段を登って地上に出たアマロは、途端に湧き出した靄に包まれて、気がつけば森の只中に立っていた。

 

泉など無かったと言わんばかりの光景だったが、アマロは魔法なり魔術なりには慣れっこである。特に驚いた様子もなく、寧ろ自然体で歩き始めた。

 

向かう先は遠望できる丸裸の岩山、その岩壁を刳り貫くように開いた巨大な洞穴の奥に潜む紅き竜の御許である。

 

 

 

片道数時間程の距離にその岩山はあった。岩山と言いつつも、大きさは小ぶりな丘ほどであった。森を抜けてから、その丘の中腹に開いた洞までは動物の息吹が全くと言って良いほど感じられず、不気味な静寂の中で腹の底を揺さぶる様な鼾だけが微かに、しかし鮮明に響いている。

 

風に飲まれない程度の音量で響くそれは、紛れもなく竜の鼾であろう。

 

アマロは気を引き締めて洞穴に足を踏み入れた。

 

 

 

洞穴の中は驚くほど湿気が無かった。本来ならばジメジメとしている筈の其処は、砂漠の中の様に乾燥した熱風で満たされていた。アマロはどうして竜の棲家に入ろうと言う輩が存在するのか疑問に思った。誰しもが竜殺しを最高の武勇伝だと口々に言った。その中にはアマロの獲得者とて含まれていようが、しかし、こうして入ってみれば竜の棲家になど常人は入っただけで生死を彷徨ってしまうだろう。行き止まりがあるとはいえ、まるで見えない太陽が照りつける砂漠のど真ん中を進むようなものなのだから。

 

口の中はパサパサと乾き切るだろうし、ましてやこんな中を鎧を着て歩くなど…火の海で遊泳するようなものである。

 

そんな些細な不思議を思いつつ、アマロは軽やかな足取りで、抑えきれない好奇心を抱きながら奥へ奥へと進んだ。

 

洞穴の奥へと進めば進むほど、入り口に比べて暑さが強くなっていく。アマロの体感としては真夏の照りつける太陽の下にいるような暑さであり、これを常人の体感温度に直せば煮えたぎる油で茹でられる熱さである。

 

アマロはやや息を切らせて、「ふぅふぅ」と色っぽく吐息ながら進み続けた。入り口にはチラホラと雑草が見えたが、奥に進むにつれて乾涸びた雑草に変わり、遂には草本も生えない有様であった。風が吹けば視界を覆う粉塵が立ちそうな乾いて細粒の砂が地面を覆っていた。入り口では石畳のように硬質な岩の地面だったが、今では歩くたびに足跡が残るように変わっていた。岩壁の風化が入り口に比べて早いのかも知れない。それだけ深部に来たと言う意味でもあった。

 

歩き続けて体感では約数時間。何処までも続きそうな巨大な洞道の中は途中まで真っ暗であった。それは陽の光が届かない岩山の奥なのだから当然だった。

 

しかし、数時間も進む頃には当たりが淡い光で照らされるようになっていた。手元くらいしか見えなかったものが、気がつけば足元も、さらに進めば数十歩先までも見えるようになっていた。

 

目を凝らせば、ちらちらと粉雪のように紅い鱗粉が舞っていた。不規則に舞うソレは、地面に落ちると萎むように光を失ったが、次から次に現れては辺りを照らしていた。

 

何処から湧いてきたのだろうか。

 

不思議だ。直にそう思ったアマロは、この鱗粉を辿り、その源に向かおうと考えた。奥の奥から吹きこぼれ続けるこの鱗粉の源主こそ、目当ての紅き竜なのではないかと、そう当たりをつけたのである。

 

紅い鱗粉を吐き出しているところは何処なのか、誰なのか。舞っては堕ちて、萎んで消える紅い鱗粉の軌跡を慎重に手繰り寄せていけば、その光の筋が奥から奥から来ていることに気がついた。

 

アマロは洞穴の奥の奥、より暑い方へと、更に熱い方へと進んだ。

 

 

 

辿り着いた。其処は一際巨大な口を開けた、まるで門のような大穴であった。門を潜り左へと続く洞道を曲がれば、件の鱗粉の主人が鎮座していることが、距離があるにもかかわらず漏れ出る熱波を伴う赤い光から容易に推測された。

 

足を踏み込んだ。足元からはジクジクという靴底が煮立つ音や、岩肌が焼けて濁ったような香ばしい臭いが漂い、先ほどまで疎だった紅い鱗粉も、今では手で掴めるほど其処らじゅうに舞っていた。

 

一歩進むごとに赤々と辺りを照らす光は熱く、常人であれば肌を泡立たせていたやも知れない。到底、人理では太刀打ちのしようがない超越的な力がその場を支配していた。そして、数十歩も進んだ所で、アマロは遂にその支配者と見えたのだ。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、それは見上げるような巨躯であった。全身を紅く輝かしい鱗に覆った巨大な竜がそこにはいた。両前足を顎の下で重ねるようにして眠りにつく紅き竜。その鼻息が数多の鱗粉を産んでいた。ドラゴンにとっての穏やかな寝息はしかし、万夫からしてみれば灼熱の息吹であり、一息、一息が岩肌を灼き付け溶かした。竜の、ドラゴンの鼻先にある岩肌は無惨にも黒々と焼け爛れており、恐らくは燃え尽きた試しがないのであろう残り火が燻り続けていた。

 

巨大なドラゴンの全身を両瞳に収めることは難しそうだったが、しかしその身体はしなやかにして頑強であることが誰の目から見ても明らかだった。手足指は練り上げられた鋼で組まれたように緻密な鱗が覆い、剣も槍も歯が立ちそうにない。微動だにしない尻尾は壁に沿って窮屈そうに曲げられて、まるで軟体の丸太のように逞しい。表面が紅い蜜で固められたように透き通っていて美しいが、常人では触れることも叶わぬほどに強烈な熱を帯びている。

 

否。それは尻尾だけに限らない。全身が、ドラゴンの全身から。まるで内側から噴き出すように焔が纏わりついているのだ。透き通るまで赤熱した溶岩を身体中から滲み出しているようにも見えた。

 

身じろぎひとつしなくても、岩肌は爛れて、ドラゴンから離れた所で流れ落ちて溜まり、黒くて硬質な岩石に変質した状態で固まっていた。

 

ただ、ドラゴンの背骨に沿うように生えた黄金色に輝く鬣だけが燃えることも溶けることもなく無風の下で、炎熱に煽られるように雄々しく騒めいていた。

 

自然界での食物連鎖で頂点に立った人間種程度では、この威容に対して如何程の脅威となりうるだろうか。万人が崇め敬い、時に恐怖と憧憬を禁じ得ない理由も理解できよう。なぜならば、ソレは眠りつつも圧倒的な理不尽と暴力を感じさせる生命体だからである。その在り方は、最早空想の咎をも噛み砕くが如き凶暴さを湛えていた。対峙者は総じて目の前の存在から、何人にも触れ難く、侵犯し難く、ただ目の前の存在の成すことを粛々と受け入れることのみを定義された己の矮小さをしろ示されるように感じてしまうことだろう。

 

然る存在の前に、アマロはいた。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、アマロはドラゴンの元へと気負いなき足取りで近寄った。言葉はなく、ただ穏やかな顔で足を進めた。敢えて言い換えるならば、悪意が無さ過ぎる表情であった。人はソレを、特に何も考えていない状態とも呼ぶかも知れない。

 

好奇心で体が動いた時のような、地を滑るように滞りのない足取りで、アマロはドラゴンの鼻先に辿り着いた。

 

ぽーっ、という表現が実に似合う表情であった。目の前の存在に対して堪えきれずに、背伸びしたアマロはドラゴンの鼻頭を優しく一撫でした。

 

ぶおーー。

 

手が触れた瞬間、灼熱の息吹がアマロの全身を包んだ。真っ青な火をまばらに帯びた白焔がアマロの立っていた一点上に向けて集中的に放出された。白焔は淀みなく、一瞬にしてドラゴンの寝床を天井まで届いた。火焔の勢いは凄まじく、その熱は天井を瞬時に溶かし、焔が消える頃には恐ろしく巨大な鍾乳石が天井にびっしりと生えていた。少なくない鍾乳石が自重に耐えきれず落下したが、ドラゴンの鱗を軽快に鳴らすだけであり、ドラゴンには些かの痛痒も与えた様子はなかった。

 

言うまでもなくアマロの立っている場所の被害が最も深刻であった。

 

火焔と呼ぶには莫大な質量を伴うその息吹は、ドラゴンが無意識下に続けていた寝息とは紛れもなく異質な、絶望を具現化したような威力を発揮していた。

 

大きく抉るような穴が空いていた。アマロの半身を埋めるほどの噴火口のように大きな窪みができていた。真っ黒に焼け付いており、未だに火が燻り続けていた。陽炎が其処彼処に立っており、腕一本分先の人影すらも歪んで見えよう。

 

火を吐いたのは誰か。ドラゴンである事は自明であった。ぐぐん、と敏捷な動きで畳んでいた後脚を立てて、重ねていた前脚の爪を地面に立てたドラゴンは、もたげた首を高くに上げて、高所から吹き付けるように開いた口元で、第二射となる豪炎を溜め始めた。

 

そこまでの挙動に戸惑いはなく、一見すれば鷹揚に侵入者と相対する支配者たる風格とは無縁であった。機械的なまでに迅速な迎撃体制を整え、剰えとどめを差して何としても侵入者を塵殺せんとする強固な意志を感じさせる一連の行動からは、寧ろ過剰なまでの臆病さを垣間見ることさえ出来よう。

 

ドラゴンという種族に対しての偏見は何の役にもたたない。そのことの証左を実演するように、ドラゴンはそれから何度も確かめるように豪炎を一点に向けて吐き出し続けた。塗り重ねるように執拗なまでに白焔を放出すること四度、五度を数える頃には、ドラゴンの吐き出す炎からは白い炎が姿を消していた。勢いも弱として青くなり、赤くなり、それまでの灼熱に比べれば涼しささえ感じる小ぶりな炎に代わっていた。

 

疲労を感じさせる荒い息を吐きながら、両足下を確かめるように踏み締めるドラゴンの仕草は、火焔による遠距離戦から、己の強靭な肉体を武器とする肉薄戦への移行を予見していることを意図していた。ドラゴンの紺碧の瞳に慢心の色は見えなかった。

 

 

 

第三の目曰く、ドラゴンが極めて個体数の少ない種族でありながらも存続し続けてきたのは、彼らが個体として極めて強力であるのは勿論のこと、脅威となり得るかなり得ないかに関係なく、極めて臆病かつ執拗な性質を持ち合わせているからであろう。

 

 

 

この岩山に住まう紅きドラゴンにとって、己の寝床に侵入者が現れる事は初めてのことではなかった。ドラゴン同士でも諍いはある。その中で、己の棲家に殴り込みを掛けてきたドラゴンがいないわけではなかった。もしも相手がドラゴンであるならば、その時は鷹揚に、あくまでも同族同士で少なからず相手との闘争に敬意を払って闘争に望んだだろう。

 

しかし、目の前の存在は違った。

 

それまで一度として同種以外が、紅きドラゴンの棲家に辿り着いた試しはなく。また同様に自らの肉体に触れられた試しなどない。一度として、である。

 

ましてや、眠っている自身の肌に触れられた試しなど…同族のドラゴンにさえ許した試しがない事であった。

 

己の洞穴の最奥、ドラゴンの寝床に辿り着いた時点で、それは脅威として認定するには十分すぎる理由であった。加えて、眠っていた、完全に油断している状態の自分の肌に触れたのである。全く警戒を抱かせずに、一摘みの殺気すら漏らさずに接近した侵入者。そんな相手は、紅きドラゴンの全生涯を通じて後にも先にも目の前の存在だけになろう。そう思える程に、紅きドラゴンにとって計り知れない恐怖の具現が正に目と鼻の先に存在していたのだ。

 

寝起きの浮遊感は掻き消え、冷静に直近の脅威に対処する臨戦態勢へと移行した。挙動は鋭く的確に、何より無駄と慢心を排除したものでなければならなかった。相手が自らよりも矮小な存在であると分析する理性とは裏腹に、野生的でどこまでも摂理に従順な本能からの警鐘を優先して行動した。そこに容赦は存在しない。冷酷無慈悲という感覚とは異なる、一種悲壮なまでの必死さを感じる対応であった。

 

ドラゴンは力の続く限り焔を吐き出した。気配を感じる一点に向けて、只管に浴びせ続けた。

 

岩場が泡立ち悶えるように鳴いていた。超越的な熱に炙られて無惨にも辺りはドロドロに溶けるか中途半端に冷え固まった歪な岩石群が散乱していた。燃焼に次ぐ燃焼によって足りなくなった酸素を呑み込むように、ドラゴンの寝床へと続く気流が形成されて、岩山の外にまで轟々と凄まじい遠吠えが響いていた。

 

次第に燃焼が収まり始めると、今度は一寸先も見えない程の煙が充満した。火の勢いが弱まったものだから、邪魔するもののいなくなった其処で広々と幅を利かせ始めたのだ。

 

ドラゴンは動かなかった。否、動けなかった。目の前の煙幕の奥を凝視していた。その紺碧の瞳で、唯の一点を凝視していた。

 

影が、見えた。

 

影が動いた。前へと、ドラゴンの元へと。

 

形もわからなかった黒い影が、毎瞬形を持っていく。煙幕で漂う虚像が、明確な形と共に実像へと立ち替わる。次第に輪郭がはっきりと見えて来る。顔の無い脅威の正体がドラゴンの前に立っていた。

 

 

 

 

 

全裸で。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、男は言った。

 

「断りも入れずに触ってしまってごめんなさい!乙女に対して余りにも失礼だったよ。こんな風に肌蹴てしまっていては誠意も何も無いのだが…。本当にすまない…思慮が足りなかった。本当にごめんなさい。」

 

男…アマロの姿は肌蹴るという言語表現を用いるのに必要な文化的に最低限度の布面積さえも喪失してしまっていた。だが、敢えて言葉を選ぶとするならばそれ以上のものがないのだから仕方あるまい。

 

当然だがアマロの持ち物は古来から身に纏っている装身具を除いて本当に何も残っていなかった。磨き抜かれた裸体は無傷であった。その素晴らしさには美術的な価値を認めざるを得ず、しかし、不思議なことにある一定の条件を満たして許しを得た者が見れば忽ちに情欲を誘う淫靡な造形をしていた。

 

首元には黒い山羊角が輝いており、憤慨するように明滅していた。左の手首に巻かれた紫玉にも傷はなく、耳元に添えられた青い花にも欠けたるところは見られなかった。他にも幾つか見受けられたものの、装身具が霞むほどにアマロの肉体は隔絶した魅力を放っていた。

 

その魅力は正に理不尽な暴力であり、その理不尽の前にはドラゴンも沈黙する他なく、その紺碧の瞳はアマロの邪竜に釘付けであった。形や大きさもさることながら特にその点に気を取られているわけでは無い。どうにも真性の神秘の気配をドラゴンはビンビンに感じて警戒していたらしい。秘めたるものの莫大さは比肩するところがなかった。正に宝具と呼んで差し支えなかろう。否、差し支えはあるのだが。

 

隠すべき部分を隠す事なく堂々と降臨させつつ、己の身形になど脇目も振らずに誠心誠意謝罪に励んでいるアマロは滑稽ではあった。しかし熱意は伝わった。

 

 

 

第三の目曰く、アマロの謝罪は一旦の終わりを迎えた。

 

暫く頭を下げたまま、ドラゴンの目の前で直角に腰を曲げて平謝りしていた。無論、全裸であった。

 

一通りの謝罪を終えて、未だ申し訳なさそうな表情のアマロはその場から動かないように気を配りつつ、努めて優しい声でドラゴンに語りかけた。

 

「謝罪を受け取って欲しいなんて虫のいい事は言えないけど、少しだけ私の話を聞いて貰えないだろうか?」

 

呆然と警戒を半々にしたドラゴンは先ほどから沈黙を守っていたが、アマロが顔を上げたことにより姿勢を低くした。

 

アマロは申し訳なく思いつつも続けた。ドラゴンはアマロの顔…より下にある邪竜の方を凝視していた。

 

「実は山から離れた泉の精から頼まれていてね、君を起こしにきたんだよ。そのぅ…乙女にこんなことを言うのはとても心苦しいのだけれど、君の鼾が随分と聞こえていたみたいなんだ。でも、余所者から起こされる事は腹立たしい事だからね。君さえ良ければ…私を生贄だと思って好きにして貰っても構わない。」

 

出来れば時間は有限でお願いしたいのだけれど、という言葉を最後に付けて、アマロは全裸のまま身を差し出すようにゴロリと横になった。

 

ドラゴンは困惑した。

 

アマロは「さぁ、お食べ」とでも言うように、至極穏やかな表情で仰向けに横臥している。あっ、コラコラ、そんな所をぴこぴこさせるんじゃない。

 

ドラゴンは困惑した。

 

横臥するアマロを前にして、彼女は本来ならば滴るはずもない冷や汗を噴き出すような気分であった。そもそも、鼻先をひと撫でしただけで雌雄を嗅ぎ分けている時点で目の前の存在が異常であることは間違いがなかった。

 

 

 

それから暫しの間、ドラゴンとアマロの間には妙な沈黙が続いた。アマロは自分が死なない以上は何を差し出しても誠意が足りないだろうと考えて、文字通り全身を捧げているつもりである。対して、ドラゴンからすれば竜生において比較対象の存在しない脅威が何をして来るでもなく、己の目の前で無防備に寝そべっているのだ。ドラゴンは言い知れない恐怖と困惑に呑まれていた。

 

更に数時間の後、アマロは鼻提灯を浮かべながら眠ってしまった。眠たくて寝た訳ではなかった。ドラゴンが自分に何もできないのは、自分を警戒しているからだと気がついたからであった。だからといって眠りこける事を選択する辺りの価値観の相違は置いておいて、ドラゴンはアマロの堂々たる眠りっぷりに寧ろ感心していた。

 

警戒心を解く代わりに、観察に努められる程度には緊張感を和らげたドラゴン。彼女にとってアマロというものは興味深い存在だった。数メートルの距離を置いてドラゴンは眠りこけるアマロの顔を覗き込んでいた。何人にも許してこなかった肌に初めて触れた存在が、まさか同種ではなく、ましてや人間でもない不可思議な存在だったのだから。

 

隙を見せる事は無かった。弱肉強食の理こそ絶対であり、その通りにドラゴンは生きてきた。誰にも憚る事なく暮らしてきたが、その内心には常に過剰な臆病が蟠を巻いていた。彼女にとって、脅かされないことは、即ち何人にも脅かされうるという事だった。圧倒的な存在はあまりにも眩しく、周囲の全てに対して恐れと畏れを振り撒く。望む望まずに関係なく、ドラゴンとして生まれたからには常にその恐怖との闘争を続けなければならなかった。

 

数百年か、或いは数千年か。ドラゴンの長い生涯を振り返っても目の前でのほほんと眠る存在に勝るような脅威も、そして興味も抱いた事は無かった。ドラゴンにとって紛れもない未知が目の前にいた。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、紅きドラゴンはアマロを我が身に抱いて再び眠りについた。岩をも溶かすような熱は朗らかな陽気に変換されて、アマロに心地よさと安心感を与えた。アマロを抱いているドラゴンにも心身が火照るような感覚が生まれていた。初めて感じるそれは、恐らく前例のない感覚だった。

 

だが、その感覚を解明できぬままにドラゴンとアマロは身を寄せて休息した。屢々人間大の鍾乳石が崩落する洞窟の中、優しく気負いない寝息が二つ絡まるように木霊した。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、ドラゴンは己を前にしても自然体でいるアマロのことを大層気に入った。帰ろうとするアマロを、帰すまいと剛腕で抱きすくめては数日単位で眠った。アマロも、抱きすくめられれば快く寝床を共にした。というよりも、ここ暫くのアマロの寝床はドラゴンであった。

 

奇妙な同棲関係はドラゴンが何としてもアマロを帰すまいと動いた事で早くも一ヶ月が経った。

 

食事を必要としないアマロは、人間種なのに大丈夫なのかとドラゴンに心配される始末であったが、これ即ちアマロとドラゴンの間には当初の緊張が全く解消された事を意味していた。

 

そうして更に一月が経つ頃には、昼と夜となくドラゴンはアマロの側から離れることがなくなっていた。片時と離れずに、ピッタリと体を合わせていなければドラゴンは地団駄を踏んだ。ドラゴンの癇癪で鍾乳石がアマロの頭めがけて落ちてきたことも一度や二度のことではないが、その度に落としたドラゴン本竜が庇っているので問題は起きていない。

 

二月も経てば、ドラゴンはすっかりアマロに夢中だった。ドラゴンは言葉を話さなかったがアマロの言葉をよく理解した。ドラゴンが好きで堪らないという様子で喉を鳴らすようになったのは最近のことではないので、あっと言う間に懐柔してしまったとも言えた。

 

しかし、懐柔するつもりはアマロには全くなかった。寧ろ、己を抱いて眠る彼女の無聊を慰めようと気を配っていた。言葉が返ってこなくてもアマロは気にせずに語りかけ続けた。側から見れば不気味なほどドラゴンに語りかけては嬉しそうにしている美丈夫という残念な画になるかもしれない。無論、アマロにとってみればドラゴンの細やかな反応、それこそ喉を鳴らすだとか、アマロをガシガシと撫でる仕草から彼女の感情を的確に読み取ることなど朝飯前であった。

 

抑、アマロにとってドラゴンと暮らす事は初めてでは無かった。その上、これ迄に太陽神やら巨大なタコ、ヘビ、オオカミやらとも番になった経験があるアマロからすればドラゴンとの同棲など大した気負いすら必要としない事である。

 

故に、ドラゴンからの愛情表現に応えることも全くも以って吝かでは無かったのである。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、ドラゴンは己の中に生まれた火照りを明確に意識し始めていた。それは、同棲生活開始から三ヶ月が経った頃のことであった。

 

ドラゴンにとっての三ヶ月は、アマロという存在への理解が深まった三ヶ月だった。そして、己がアマロという存在に対して抱いている強烈な感情に対する理解をも深めた三ヶ月であった。

 

ドラゴンは悟った。己はアマロという存在を雄として見ているのだと。本来ならば有り得ない話だった。だが、ドラゴンはすっかりアマロの事を己の番として認識していた。この雄の卵を産む事が己の役目であるとまで考えていた。そして、この雄と同じ人間種に己が身を近づけてみたい、とも。

 

前者に関してドラゴンは可能であろうと考えていた。だが、後者に関しては面倒な手続きが必要であった。そして、後者の条件を全て満たす頃には己は生きていないだろうと思われた。

 

ドラゴンとて永遠の命をもつ訳では無かった。終わりは確かに存在しており、そして彼女にとっての終わりとは、然う、遠い話では無かった。紅きドラゴンが番を求めようとしてこなかったのは単に、己に相応しい同種を見出すことが終ぞできなかったからであった。しつこく付き纏ってくる同種のことは嫌というほど見てきたし、返り討ちにしてきた。だが、己の全てを捧げたいと、子を産みたいと思えるほどの雄とは終ぞ巡り会えなかった。

 

傷一つなく頑強無比の孤竜として君臨し続けてきた彼女の生き様こそ、その証拠だった。その在り方は多くのドラゴンを惹きつけて止まなかったが、同時に何人にも侵されざる存在として誰一人彼女のお眼鏡に叶う事は無かった。紅きドラゴンは孤独だった。若い頃は何の問題もなかった。強靭な己こそが全てであり、己こそが最も美しく素晴らしいものだと確信できた。だが死期を悟った今や、孤独とは耐え難い苦痛であった。終わりに向かうだけの、その最期の瞬間まで衰えざるドラゴンにとって、誰よりも強く美しい自分の最期が誰よりも孤独であることに紅きドラゴンは絶望を禁じ得なかった。

 

超越者として凡ゆる生命を凌駕しておきながらも、ドラゴンは孤独を克服する事なく死んでいく。その筈であった、だが今や彼女には違う運命が拓かれていた。それは僥倖であり、何よりの救いであった。突然に終の棲家に現れた人間種の男はこれまでに見たことがないほどの未知であった。同種にも触れさせたことのない無防備な肌を撫で、紅きドラゴンの全身全霊の火焔を受けても傷ひとつ負わなかった。剰え、紅きドラゴンのことを人間のメスに呼びかけるように、まるで心の底から可憐な令嬢を遇するように語りかけたのだ。紅きドラゴンはあまりの出来事に目を回した。

 

数日経って知った男の名前はアマロと言うらしかった。紅きドラゴンは目の前の男の化けの皮を剥がすのも一興だと思い、力一杯に抱き寄せて眠ったり、態と熱い息を吹きかけたり、口の中に突っ込んだり、尻尾で振り回したり…兎に角思いつく限りにのちょっかいをかけた。果たして結果はどうだったか、アマロは楽しそうにキャッキャっと喜んだり、或いは眠ったまま起きなかったり、逆に耳に息を吹きかけてきたり、口に入れて時には意趣返しで唇を奪っていった。全く、とんでもない雄だと紅きドラゴンは思った。

 

そして、気がつけば喉を鳴らしてアマロの帰りを阻んでいた。縋るように抱き寄せて甘える己の姿を、出会ったばかりの時の紅きドラゴンが見れば間違いなく閉口して気絶したことだろう。それくらいに、紅きドラゴンの心は容易くアマロのものとなった。アマロは恋人だとか夫婦だとかという便宜上の関係はそこまで気にしていないが、愛情を向けられれば返すことを良しとしていたため、喜んでドラゴンに愛情を表現した。紅きドラゴンが喜んだのは言うまでもない。

 

そうして身長差が甚だしい恋仲の生活は続き、終わりの予感は唐突に訪れた。終わり。この場合は二つの道があった。一つはアマロの帰還、もう一つはドラゴンの死期であった。そして、歩みの先に待ち構えていたのは後者だった。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、紅きドラゴンはアマロに懇願した。最初で最後の、人間の言葉での告白であった。

 

ある時、紅きドラゴンは眠るアマロを揺さぶった。驚くこともなく、パチリと瞳を開けたアマロを見下ろす紺碧の瞳には涙が溢れていた。

 

アマロは静かに項垂れる紅きドラゴンの鼻先を撫でた。外は真夜中であろうに、ここは真昼のように明るかった。光源であるドラゴンの喉奥から、一度、音が消えた。

 

そして、アマロの耳元で囁くように声が聞こえてきた。とても綺麗な声であった。

 

声の主人は紅きドラゴンであった。淡々と、しかし、安らぎを与えるような声音でドラゴンは語った。

 

 

 

「アマロよ、強き雄よ、貴方との番になりたい。貴方との間に子孫を遺したい。」

 

「私にはもう幾許かの時間も遺されていない。だから、貴方に私が生きた証を遺したい。私は貴方のおかげで孤独から解放された。私はもう直に終わる。けれど、貴方は終わらない。これからも、貴方は多くの番をもつことだろう。多くの誰かを救う分、多くの誰かから奪いもするだろう。貴方はこれからも続いていく。」

 

「私は貴方に私を遺す事はできない。けれども、私と貴方の間に生まれた子は私の生きた証となり、この子が産んだ子がまた、私と貴方の生きた証になり、私と貴方の間に生まれた子が生きた証となる。生き物とはそう言うものだ。」

 

「だから、私は貴方の為に、貴方に道の続きを遺そう。何処までも続く貴方の道の、ほんの一歩であっても。貴方の道に、私との消えない轍が遺るのだから。」

 

 

 

ドラゴンの独白に対して、アマロは瞳を閉じて答えた。ドラゴンは優しげに微笑むアマロにのしかかり、出会った頃に比べると遥かに弱々しげに焔を抑えてから、アマロの鼻先と己の鼻先を合わせた。

 

アマロは紅きドラゴンを受け入れた。

 

三夜の果て、紅きドラゴンは新しい生命を胎に宿した。そして、四日目の朝にアマロが目を覚ました時、辺りは真っ暗であった。

 

忽然とドラゴンの姿は無く、代わりにアマロの腕の中にすっぽりと収まるようにして人の赤子ほどの大きな真紅に照り輝く卵のみが遺った。

 

アマロは問いかけた「もう行ってしまったの?」と。

 

見上げるような巨体は影も形も残らずに消えて無くなっていた。高い天井にアマロの声がよく響いた。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、アマロの旅立ちから三日が経つ頃には、仕事の早いヴィヴィアンはモルガンを取り返していた。だが、中々帰ってこないアマロのことが次第に心配になり、虫の知らせのようにマーリンを呼び寄せた。苦肉の策であったが、ヴィヴィアンの警戒とは裏腹にマーリンは協力的であった。

 

ドラゴンを前にしては、魔法使い二人でも厳しいところがあった。結局、協議の末にアマロの帰りを待つことになり、待つ間に幼いモルガンの隅々までを研究することになった。ヴィヴィアンとしても、妖精たちが執拗に取り返そうとしたモルガンには興味があり、何よりマーリンに任せておけばロックなことにはなるかも知れないが、碌なことにならないのは明らかだったからだ。

 

対してマーリンもヴィヴィアンの監視の元ではあまり踏み行った研究は出来ないと思ったが、しかし、何か新たなことがわかればモルガンを騎士の王として据える計画を革めても良いと考えていた。というのも、アマロだけが知らないことではあるが、マーリンはアマロの家出と共にイグレインに魔法をかけてアマロの本心を聞き出しており、少なくない負い目をアマロに感じていたからである。しかし、モルガンに対する負い目自体は感じていなさそうな点に、妖精の血を感じる点には辟易を禁じ得ない。

 

両者共に事情は様々であったが、途中から明らかにモルガンの秘密に迫ることに夢中になった事はマーリンもヴィヴィアンも同じだった。

 

 

 

初めの一月で粗方を調べ尽くした両名はそれぞれが、アマロを待つ間の無聊をモルガンで解消することにした。もしもこの魂胆を知れば、温厚なアマロでも顔を顰めたことだろう。

 

果たして、続く二ヶ月間でヴィヴィアンはモルガンに妖精族の扱う魔術・魔法の真髄を徹底的に教え込み、マーリンはモルガンに妖魔の持ち得る狡猾で妖艶な術を本能で実現できるようにと素養を鍛え続けた。片手間に行われたえげつない行為を、ヴィヴィアンとマーリンはその妖精の血に従って嬉々として実行した。

 

そこに悪意はなかったが、明確な愉悦が渦巻いていた事は言うまでもない。赤子に教え込む、赤子を鍛えると言っても直接どうこうするまでもなく、大魔法使い両者の手によって緻密で複雑な魔法をモルガンのより本能に近い部分に流し込み続けることであった。曰く、素養の醸成に関して当代随一のキングメーカーの右に出るものはいなかった。千里眼を用いた所で、全ての悲劇を回避できる訳でもなし。万事が操者次第であり、殺意も悪意もないマーリンの、当の本人にすら理解不能な魔性の悪辣なる烈業を恨むことなど、アマロは思考の端にも上げないことだろう。ただ、真正面から立ち向かう業の担い手に並び、その苦痛と歓喜の前に身を晒すのみである。

 

 

 

アマロとその腕に抱かれた紅き卵の帰還により、モルガン魔改造の夜は漸く日の出を迎えた。例え手遅れであったとしても、マーリンは構わなかった。それで苦悩するアマロのことをマーリンは本気で心配するし、瀕死の誰かの為に悲しみに暮れるアマロに縋られれば喜んで死地にも赴くことだろう。否、寧ろ頼られる事は何よりも甘美である。マーリンは純粋に喜ぶ自分の姿に苦笑した。ヴィヴィアンもまたマーリンと同質の思考を持っていたが、しかし、その趣を異にしていた。

 

とはいえ、何にしろ事情を知らぬ全裸のアマロが人間の赤子ほどの大きな卵を持ち帰ったことで、ヴィヴィアンとマーリンは大歓喜し、アマロは久方ぶりに目にするモルガンの姿に大号泣した。

 

 

 

 

第三の目曰く、アマロとモルガンとマーリン、そして真紅の卵はヴィヴィアンの元を後にした。

 

アマロの帰還から数日間逗留したのち、マーリンの魔法により風に流されるように一行は飛び、ヴィヴィアンの泉から王城の一室に向けて帰路に着いた。

 

一行が帰路についてから数刻、ヴィヴィアンはアマロに剣を返すことを忘れていることに気がついたが、泉から離れられない身であるから、何にせよアマロが再び訪れるまで待つことにした。水底の宮殿で安楽椅子に座り胎を摩るヴィヴィアンの表情は淫貪なまでに晴れやかだった。

 

 

 

第三の目曰く、ブリテンの始まりと終わりは近く、然るべき時とは全てが揃い、全てが孵る時であろう、と。

 

 

 

 

 

第三の目曰く、モルガンが一歳を数えた日に真紅の卵の殻にヒビが走った。

 

片時と手放さず、毎晩アマロが我が身に抱いて眠った卵が孵った。卵から産まれたのは一歳児ほどの大きさの赤子であった。

 

金髪碧眼の赤子であった。

 

赤子はアルトリアと名付けられた。

 

 




すんごい難産でした。一万字近く書き直しましたが、何とか書き切れてよかったです。では、また。もんなみはー。


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メシウマの国
B09風邪


B11の背景を担う話です。ウーサーの物語の幕引きとして、またウーサーにとってのモルガンを垣間見るための一話です。


第三の目曰く、時に前ティンタジェル公ゴルロースの死から五年と数ヶ月の月日が流れていた。

 

場所はグラストンベリー郊外の何処か。丘を下り少し歩けば何処までも続くような草原は色褪せるように途切れていた。

 

代わりに現れたのは剥き出しの大地だ。雨が降り続くこと数週間。其処には未だ濃い雨の臭いが屯していた。今年の麦の収穫は終わっていたとはいえ、もしも少し時期がずれていれば不作に喘ぐことになっているところであった。

 

重たい空気が纏わりつく体を動かして、泥濘の大地に訪ねる者がいた。男がここへ来るのは二度目だ。

 

一度目は騎士の約束の為。

 

二度目は故人を悼む為。

 

花も、酒も、歌も持ってはいなかった。だが、その腕の中には居眠りをする幼児を抱えていた。雨が止んだのを頃合いにその者はここへ足を運んだ。

 

立ち尽くしていた者は緩慢な動きで泥に膝をつけると言った。

 

「久しいなゴルロース。今日は少し会わせたい者がいてな。これはモルガンと言う。貴様の娘でもある。イグレインの良いところだけ貰ったような娘だ。」

 

その者は腕の中で身動ぎ為ずに眠る幼児を見せて遣るように優しく揺すった。幼児…モルガンがむずがり不満げに鼻にかかったか細い声が漏れた。

 

「まぁ…お互いに知らぬままだろうが、せめて一度は会わせておこうと思ってな。実の所は何の問題もないのに、変に出自に疑問を持たれても厄介なだけだ。眠っているうちに会ったことにしてくれ。すまんな。」

 

その者は立ち上がると、膝の泥を払うことなくその場を後にした。少し歩くと立ち止まり、遠くを望む。そして溜息を吐き、暫しの間頼りなさげに立ち尽くした。

 

その者は腰に剣を佩く男だった。人は彼をブリテン騎士達の王と呼んだ。名前をウーサー・ペンドラゴンと言った。齢は四十に届くだろうか。顔には濃い髭が蓄えられており貫禄は中々のものがあった。

 

ウーサーが抱いていたのは聞くところに次期王候補とされているモルガンだ。赤子だった彼女は五歳程に成長していた。まだ幼児と呼べる齢にも関わらず、その美しさは母親イグレインの面影を強く感じさせた。

 

ウーサーは暫し、泥の原で立ち尽くし拠り所なく辺りを眺めていたが冷たい風に煽られると踵を返した。戦場を俯瞰できる丘。そこに立つ木々の中の一本に留めておいた馬の元に待つ者がいた。

 

ウーサーの帰還と共に、幼児モルガンは彼女を待つ者の腕の中に返された。モルガンを抱きあげた者がウーサーに言った。

 

「ウーサー、君が珍しいことをお願いするものだから驚いたよ。それで、君もゴルロースに会えたのかい?」

 

アマロと呼ばれる美しい男はウーサーに問うた。互いに気心の知れた仲とでも言うのが良いか。屈託なく問われたウーサーは至極穏やかに答えた。

 

伏し目がちに髭を二度三度摘んでは離してからウーサーが言った。

 

「いいや、会えなんだ。魔法でも使えば死んだ者にも会えるのだろうが。」

 

ウーサーの言葉にアマロは目を細め「全くその通り」と答えた。ウーサーはそれに一つ頷くともう一度だけ振り返り泥の原を眺めた。束の間、感傷的な弱さがウーサーの眦に浮かんだ。

 

「さぁ、城へ帰ろう。イグレインに無理をするなと叱られる前に。勝手にモルガンを連れてきたからな。」とウーサーが言った。

 

掛け声に応えて従者達は馬に飛び乗った。モルガンを抱いたアマロを乗せた馬車もゆっくりと動き出した。

 

城に着いた一行は乾いて明るい衣からすっかり濃紺で鈍重な有様だ。泥跳ねで汚れた人と馬の手脚。おまけに、幌の着いた馬車に乗っていたアマロとモルガン以外はマントも服も濡れ鼠だった。

 

泥の原を発って間も無く土砂降りの雨が走り去ったためだ。ウーサーは従者に馬車へ移るように言われたが頑なに拒んだ。

 

欠員も事故もなく、しかし雨上がりで夜のような曇天に見守られて一行は城下静かな王城キャメロットへと帰還した。

 

 

 

第三の目曰く、旅を終えて間も無くしてウーサー・ペンドラゴンは高熱を発して危篤状態に陥った。

 

突然の危篤は宮廷と民心を大いに憂慮させた。前後の行動から、また旅に同行した従者らが誰一人身を病んでいない点から人々は元ティンタジェル公ゴルロースの呪いであると口々に言った。

 

ウーサーの倒れたその日、天は前日の不機嫌を忘れたのか見事に澄み渡る秋晴れであった。

 




呪いじゃない。風邪を引いたのだ。

これ以上の「晴れ」の如何は皆さまの解釈の自由です。蛇足でした。


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B10従僕(サーヴァント)

従僕(サーヴァント)

 

アルトリアと呼ばれる少女には父がいる。一人は血統上の父であり、もう一人は戸籍上の父、そしてもう一人は彼女の養育を担った父である。この際、そこに別段に複雑な事情などなく、単純自然なモノとして受け取っていただければよい。

 

一人をアマロ、もう一人をウーサー、そしてもう一人をエクトルと言う。

 

 

「彼女」と申したように、アルトリアは女性である。彼女を育てたのは養父エクトルとその息子ケイであったが、しばしばアルトリアはアーサーと呼ばれた。

 

というのも、エクトルの言うところではアルトリアは行く行くは義兄ケイが養父の騎士爵を襲爵するのに伴い、晴れて騎士となったケイの従僕アーサーとなるべくして育てられているのだと言い聞かされたからだ。

 

今のうちに慣れておくように、ということらしい。純朴なアルトリアは養父の言葉を素直に信じ、自ずと公の場では…とは言っても養父の下賜された所領の巡回と称した散歩を指す程度なのだが…騎士エクトルの末子アーサーと名乗り、家屋の或いは私的な場面においてはアルトリアの自称を使い分けるようになった。

 

アルトリアという人間の住まう世界はこの時点ではまだブリテン島の片隅にのみ限られていた。それは決して広大とは言い難く、また彼女の知る世界とは老騎士エクトルが彼女の主君であるウーサーから与えられた所領のみであり、百人程が暮らす村を除けば馬で駆ければ一日で踏破出来てしまうような小さな森だけだった。アルトリアは血生臭い戦場も、野心や嫉妬や憎悪が渦巻く宮廷の権力闘争も知らない。

 

彼女の知る世界とはブリテン島の片隅でひっそりと営まれる中世騎士の耕された土の香りがする代り映えのしない日常であった。

 

その日常の中で彼女は育ち、自分の生きる世界を狭いとも、広いとも疑ったことはなかった。ただ、時折耳のするサクソン人やピクト人の略奪や野蛮な噂に対する嫌悪や、ウーサーや彼と共に外敵と戦ってきた騎士たちの武勇伝への憧憬を胸中に揉むこともあった。だが、決まってそう言う類の憧れや焦燥、嫌悪といったものが彼女を大きく変えることはなかった。また、何か激しい衝動に任せた行動を起こさせたりすることもなかったのである。

 

アルトリアの生きる世界は決して広くない。だが実際のところ彼女の生きる何処かは決して生死が煩雑に行き交う修羅場から遥かな安全地帯でもなかったのである。だのに、一時とはいえそのような喧騒から離れ、長閑で平穏な何処かで育ち養われたという事実は彼女にとって早々に忘れ去られるものでもなく、しかして強烈な刺激や、劇的な誘惑を前に縋りつくような…それら以上に夢を思い描ける拠り所にはなり得なかったのである。

 

それはとても非難のしようがない事実であった。彼女の生きる世界とは平穏であったが何か夢のような、人生を懸けるに足るような莫大なものを求めれば与えてくれるような環境ではなかったのである。

 

果たして、彼女の前に突如として現れた栄光の道があったとして、彼女はそれらを振り払えたのだろうか。

 

 

「それまで浴びたことのない熱視線は私を貫き、祝福の歓呼が言葉すら交わしたことのない貴人たちから惜しみなく振舞われた。」

 

 

「英雄の誕生に謝して主を讃える神官の祝詞が歌声の如く響き、用意された美酒、美味は元の通りの全生涯を顧みた時に果たして私の口に届いたのか、どうか。」

 

 

「生まれの改かな美男美女のみが集められた世話役が、耕土の匂いの染みついた私の衣服を清め、金銀に飾られた鎧兜で私の身を貴めた。」

 

 

「私を囲んだ誰しもが満面に笑みを讃えていた。幸福か、安堵か、愉悦か。何れにせよ、痛苦とはかけ離れていた。快楽があり、刺激があった。」

 

 

「たった一時が幻想のように感じられた。掛けられた試しのない美辞麗句が私を襲い、身に浴びたことのない期待と祝福が私を包んだ。」

 

 

「教会の尖塔を見上げれば光が私に降り注ぎ、周囲の人々は歓声を上げた。」

 

 

「口々に、彼らは言った。神が望んで居られるのだと。」

 

 

「兜は私の視野を狭窄にした。鎧が重く私を拘束していた。陽の光が中天を突き、眩い熱が私を灼いた。」

 

 

「押し付けるように腰に佩かれた剣は何も言わず、鉄に包まれた狭い視界の隅に女の姿を見た。」

 

 

白髪の女は目を見開き、私のことを見ているようだった。…いや、私ではなかった。私の腰に重く垂れた剣を見ていたのだ。」

 

「滑稽なほどに身を飾られた私に負けないほど、その女は華美で煽情的なドレスを身に纏っていた。だが、女の意思ではないのだろうことは明らかだった。」

 

「女は不格好なことを承知で腰に剣を佩いていた。細剣ではない。肉厚の騎士の剣を佩いていた。」

 

 

「女は射殺すように剣を見つめていた。私はいたたまれなくなり視線を外した。祝福と豪奢な饗宴の中にあって女は異質であり、そのことに私は困惑した。」

 

 

「ふと、違和がなくなったことに思い至りあたりを見回すと女はいつの間にかいなくなっていた。」

 

 

「女がいた場所には、腰にあったはずの騎士の剣が乱雑に打ち捨てられていた。」

 

 

 



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B11王太子

次期ブリテン王国国王。救世の君主。そう賛美され、次代にこそブリトン人の栄光を切り開くことを嘱望された騎士の名はモーガンと言う。

 

 

その誕生に際して妖精に拐されたことで一時ブリテンを混乱に陥れたものの、ウーサー王の智嚢として屡々その名前を高めた魔法使いマーリンの手によって無事に奪還された。その後、ウーサー王の王太子として遇された彼女は出生名を改められモーガンと命名され、生まれながらにして騎士爵を与えられた。

 

騎士モーガンは乳母やウーサーの近侍により厳格に教育された。彼女の日常は王太子の日常と呼ぶには華やかさの欠片もないものだった。

 

そこには騎士道の模範に則り淑女へと捧げる詩の余韻も、吟遊詩人の奏でる弦の囀りも、幸楽に満ちた饗宴も、勇壮なる騎行もなかった。そこにはウーサーが自ら体験した騎士の本質的な要事のみが凝縮されて在った。

 

即ち其れは、ウーサーが選んだブリテンで当代一流の戦略、戦術、謀略の大家により組まれた教練と、門閥貴族を招いての冷酷で陰湿な宮廷で生き残るための処世術の教授、現役の役人による万民を統制するために必要とされる合理的で冷淡な官僚の行政術の数々であり、ウーサーの自伝的な或いは教訓的、実践的な帝王学の粋を集約した教育方針であった。

 

モーガンは騎士となって以来、五年毎に昇爵を経験した。何の功績もなく、何の由縁もなく。彼女は年を経ただけで幾度も騎士の生涯にあってまたとない栄光を飾った。生誕の瞬間に騎士となり、五つで男爵、十で子爵、十五で伯爵、そして二十歳で侯爵となるのと同時に言わずと知れた『選定者の剣(カリバーン)』を引き抜く。そういう運命に彼女は生きていた。

 

彼女の父であるウーサーは爵位を重ねるたびに言い聞かせた。

「お前はブリトン人の良き王となる。然う(そう)お前が生まれた時から定められているのだ。」

 

また、人々も阿る様に、或いは熱に浮かされたように騎士モーガンに言った。

然う(そう)神が望んで居られるのです。」

 

 

騎士モーガンの毎日は濃密であり、倦むことも怠けることも許されていなかった。

 

朝の起床と共に世話役の手で見繕われると使用人の目に晒されながら朝食を摂る。前日教授されたしきたりやら、宮廷での饗応主の義務を頭の中で反復させながら毒見が済んですっかり冷たくなった食を片付ける。

 

朝食が終わればまだ薄暗い外を窓から見やりつつ、軍略の教授を受け、王侯たるものが覚えるべき要綱やら紋章やらを学ぶ。褒められることはなく、また上等の講義も稀であった。時には丸々と座学の時間が招かれた貴族が次期国王に自らを売り込む場にも変わった。

 

 

座学の終了と共にモーガンの両脇には骨太な騎士が侍り、王城の外での教練が行われた。

 

教練はウーサー肝いりの師範により厳然として戦場での剣術を叩き込まれる。繰り返し打ち込み、時には砂や泥までも利用して敵を打ちまかし自らが生き残ることを第一とした実技が教授された。数時間の稽古は容赦なくモーガンの繊細な身体を打擲した。打ち身や擦り傷を拵えた彼女は稽古が終わればすぐに社交を通じて宮廷での処世を学ばなければならなかった。

 

彼女の一日は長く、その終わりは一日の始まりに同様の光景を以て締められた。冷たい食を片し、寝台の寝相に至るまでの講義を受けてから司祭の語り口に従い主への礼拝を済ませて眠る。モーガンの一日は長く、その全ては彼女が王になる上で必要なことであるらしいのだった。だが、誰が見たところで彼女の日常は余りにも苦と楽の割合が極端な有様であったことは疑いない。

 

 

躰を痛めつけ、心を摩耗し、頭脳を酷使するばかりの日々の中でモーガンはしかし、彼女は狂わなかったのである。

 

我慢強いと呼ぶには異様なほどモーガンは従順であった。彼女は聡明であった。従容として己の境遇を義務として割り切っていた。

 

 

モーガンの生は或いは騎士道そのものを体現してしまうような出来栄えだったに違いなかった。モーガンほど忠実に、ウーサー王の騎士道に殉じた者はいなかった…とも言えるかもしれない。

 

ウーサーの騎士道がなんであったか、それはウーサーにすら一言で定義してしまえるものではなかった以上誰にとっても断言しえないものである。

 

しかし、モーガンはウーサーによって半ば押し付けられ強いられた其れを自らが人生を懸けるに足る何かであると定義することに努力を惜しまなかった。彼女の血の努力には諦観もまた滲んでいたのかもしれないが、何れにせよモーガンは度々ウーサーへと己の為すべきことを問うた。

 

モーガンは自らが進むべき道の果てに何が待っていてくれているのか…「何が私に報いてくれるのか。」がどうしても知りたかった。

 

 

ある時、ウーサーの見舞いに来たモーガンは問うた。

「王よ、生涯を懸けて私はブリトン人の良き王となりましょう。しかし、私には王が何をすべきなのかわかりません。私が知り、学んでいるものは戦士としての騎士の義務を果たすための物ばかりです。私は、王としてどのように振舞えばよいのでしょう。私は民に報いる方法を知らず、また私が世界を救済した暁に神が何を私に報いてくれるのかすら知りません。」

 

ウーサーは答えた。

「騎士モーガンよ、何をなすべきなのか私に問うことは不毛である。何故ならば私もまた何ら成し遂げ得なかったからだ。私は真の王城キャメロットを失陥し、それを取り戻すことなく今今に死んでいく身なのだ。騎士モーガンよ、お前は何が欲しいのか。私は終ぞ何も得られなかった。果たして私は神に報いられたのか。確かに、愚王としての報いは受けたのやも知れぬが。」

 

ウーサー王はせき込み顔を背けた。季節外れの風邪を召して以来ウーサーは病臥するようになった。騎士モーガンは王の寝台から辞し、己の望むものを思い浮かべた。

 

「私が望むものと言えば、あのひと時くらいのものだ。」

 

モーガンは自身の淡々として機械的な半生を顧みて、その中で唯一燦然と輝く一瞬を想起した。未だ幼い頃に自分を抱き上げたあの温もりを彼女は忘れていない。一生涯に一度として得難い、それほどの美しさと慈しみを一身に浴びた経験がモーガンをあらゆる苦難から救い続けていた。

 

その誰かは彼女の生母イグレインと魔法使いマーリンに伴い宮廷を後にしたとモーガンは聞いている。

 

行き先はティンタジェル領の辺境とも、或いは妖精の住まう森の奥地とも言われていた。誰に尋ねても口を揃えてその人のことを美しい黒曜石に例えるのだ。

 

恍惚とした様子で語る姿に貴賤の別はなく、モーガンは漠然と神に邂逅した聖者の感動を想起した。想起し、妄想する度に彼女の中ではより美しく、より優しく、より温和に磨かれていった。

 

 

心身の成長するに伴い学ぶことは増え、より偏った。そして、其の度に彼女の中で燻る温もりはよりその存在感を増した。望郷の念とも呼べた。彼女は彼の腕の中への回帰を熱望し、より強くその慕情へと縋り、より深く遠い理想の影を己の義務の果てに望むようになった。

 

朧げな記憶が憎らしい程に、彼女の生涯にあって一瞬に過ぎない時間でありながらそれは他の全てを合わせたよりも強く彼女に幸福と平穏を感じさせた。

 

「あの時の貴方、幼い頃に自分を抱いてあやしてくれていた貴方…私は、貴方が与えてくれた無償と言って差支えのない温もりがまた欲しい。」

 

騎士モーガンは素朴な慕情を胸にしまい込んだ。崇高な義務の虜として在る自身の境遇を疑うことなく、愚直なまでに彼女は良き王として君臨する為に必要な事のすべてを己の中に詰め込んだ。従容として華やかさとは無縁の騎士道を進む覚悟か、或いは諦観か…確かなことは騎士モーガンが今際のウーサーの王命によって王太子モーガンとして成ったこと。そして、彼女は父王ウーサーの死を悼む場に馳せ参じた諸侯と司祭達の前で『選定者の剣(カリバーン)』を堂々と引き抜き、その瞬間から彼女が騎士の王モーガンと成るということだった。

 

 

騎士モーガンが騎士道に捧げた時間はおよそ20年と半分。

 

彼女の前途には侵略者を懲罰してブリトン人一強の時代を創出する義務が当人の与り知らぬところで描かれていた。より厳格に、より苛烈になる日々の中で彼女は無理を重ねて繊細な中に逞しい肉体を育てた。開いた手の平は乾いていて分厚い。あちらこちらに胼胝(タコ)肉刺(マメ)が出来ていた。まじまじと見つめるとモーガンは身が締まるような、誇らしい思いを得ることができた。

 

自分の生涯を一顧にしたような、その実績が目に見えるようだった。

 

それが彼女の全てであり、彼女が騎士モーガンとして生きた実績であり軌跡である。

 

彼女の世界は王城に始まり、王城で完結する。その外の全てが未知であり、モーガンは王と騎士という概念の外の全てに対して無知であった。その全ては父王ウーサーにより補強され、王太子モーガンの存在が覆すことのできない事実だった。ブリテン王国の未来は開かれており希望と期待に満ちた栄光の道が騎士の王モーガンとしての将来を彼女に確約していた。

 

 

 




書き方を変えました。今後も色々と試すことがありますので悪しからず。

書いておいたB9を投稿し忘れておりました。申し訳ありません。後日投稿させていただきます。

*投稿頻度のお知らせ…暫くは短いので随時三日以内を目安に上げます。


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B12選定者の剣(カリバーン) 前編

選定者の剣(カリバーン)を最初に引き抜きし者がブリトン人の王になるのだ。」

 

ウーサー王は諸侯を集めてそう言った。諸侯は周知のことであったが、改めて数百の騎士の死の上に成り立った剣による王権の継承を受け入れた。

 

 

ブリテン王国国王ウーサーの死が迫っていた。

 

その存在感はブリテン島に在って無視できるものではなく、ブリトン人の誰しもが畏敬するに足る偉大な君主として彼のことを認めていた。諸侯もまたその権勢の大小に関わらず自分たちの王に対して騎士としての在り方への尊敬と、君主としての在り方への憧憬を抱いて接していた。

 

その治世の長きにわたること三十年を超えようか。ウーサーは外部勢力の浸食が明らかな混沌の時代に在って二十年以上もの長期に渡る安定期間を創出したのである。年二十を超えたブリトン人は皆、ウーサーの治世により自然に年を重ねることができたのである。

 

ウーサーの治世は決して聖君のものではなかったが、その功績は確かに次代へと継承されるに不足のない巨大なものであった。その偉大な王の死を目前として、多くの諸侯や司祭が項垂れ涙した。失意と不安を抱き始めた群衆の中から一人の痩躯が進み出た。騎士モーガンであった。

 

ウーサーは半ば閉じつつある瞼を重そうに擡げ、か細くも明瞭な声で言った。

「騎士モーガン…この場を借りてお前を王太子に任ずる。これは王命である…諸侯の皆々も忘れることなきように…。かの剣を抜きし者が次代の王と成る。これは例え他の王太子候補がいたとしても曲げられぬことである。…そして、モルガン…お前にだけそれは許されるのだ。」

 

モーガンはウーサーが自らをモルガンと呼んだことに驚いたが、すぐに居住まいを正して応えた。

「騎士の剣に誓います。必ずやブリトン人の良き王と成る、と。それこそが私の運命なのですから。」

 

諸侯は快哉を叫びモーガンを称賛し、ウーサーは一つ頷き瞼を閉じた。

 

 

その日の晩にウーサーは死んだ。病没であった。

 

ウーサーの死は瞬く間に周辺各国にまで知れ渡った。混乱の時代を苛烈に生き抜いたブリテン騎士の長者は過去のものとなった。ウーサー王に率いられてきた騎士たちは動揺と不安に陥った。

 

そのことは貴族や農民も同じであり、皆々が血生臭い戦乱の再来を恐れる一方で、噂に聞くところに名高い次代の君主に期待を抱いていた。

 

外敵は強大な重石が朽ちたことに歓喜の声を上げた。戦乱を望むわけではなかったが、ブリテン島で繰り広げられる各民族の生存競争には未だ決着が着いていなかった。何れ来る苦難が今か、後かの違いであると断じる者がいないわけもなかった。爪が、牙が研がれ始めたのはウーサーの死ぬ遥かに以前から。今やそれは喉元に迫るための機を伺う段階であった。

 

早急に偉大な王を立てる必要に駆られていた。また、ブリトン人の結束を固める必要もあった。国王と言えども絶対の神ではなく、人望や調服力の不足はそのまま王権国家の弱体に繋がるのである。

 

諸侯貴族だけでなく抜剣を見届ける証人として司祭、司教も集まるモーガンのお披露目式典においてウーサー時代から出仕する古参騎士達からの忠誠を受けることは重大な事柄であった。そのような場にウーサー王の股肱の臣として自他ともに認めるところのある老騎士エクトルが招待されないという謂れはなかったのである。

 

果たして、主君の遺命という形式で招待を受けた老騎士エクトルはこの記念すべき儀式に自身の後継である義息ケイと、ケイの従僕(サーヴァント)であるアルトリア或いはアーサーを自身の従者として帯同させることに決めた。その決断に違和感はなかった。また、誰一人として違和感を感じようもない出来事であった。騎士が従者を連れることは当然であり、式典ともなれば一人や二人では寧ろ少ないくらいであった。しかし結局、辺境の小領主であるエクトルは己の老齢と、次代の幕開けへの謙虚さも相まって親族二人だけを連れて運命の式典へと参列することとなった。

 

後の歴史家に言わせれば偶然の連続か、宮廷から遠い貴族たちによる計画的な犯行だろうか。後の世が下す評価の如何なるものもこの際には意味を成すまい。何故ならば彼女たちが生きるのは紛れもない今なのだから。未来を知ることは出来ず、過去を変えることもできない今に生きているのだから。

 

 

旅程の一幕。アルトリアは義兄の馬の轡に繋がる紐を握り徒歩で進んでいた。エクトルのピンと伸びた背。初めて所領の外にまで馬を駆るケイの肩には過剰に力が入っていて、アルトリアは自分に日頃偉ぶっている義兄をいい気味だと思った。馬が大きく揺れるたびに尻を気にするのは長時間の騎行で痛いせいか。ケイの腰にはピカピカの騎士の剣が金属のこすれる音を漏らしつつ揺れていた。揺れる馬上で父から譲られた騎士の装束に身を包んだ義兄の姿は馬子にも衣裳という言葉がよく似合った。

 

アルトリアの恰好は身綺麗な農夫といったところがいい具合だ。腰の短剣や革のブーツ。槍を手に馬の綱を引いていなければ従者として見られないかもしれない。アルトリアにとっては今に始まったわけでもない。

 

寧ろ平服にしては生地の立派なものであり、そこそこ気に入っている代物だった。地味な青色だが染料が使われているし…兎も角、アルトリアに不満はなかった。染みついた耕土の香りは愛嬌のようなものだ。

 

王城への旅路は数日。今日中にはつくだろうとはエクトルの弁である。アルトリアは気の抜ける馬の足音を背に、道中の用心のためだとケイに投げ渡された槍を握る手に力を入れなおした。それにしても、彼女は思うのであるきっと片手で手綱を握るのが嫌で私に投げてよこしたのだろう、と。

 

面倒見のよさとは別に、少々単純というか抜けているところが義兄にはあると思うこの頃であった。旅情にこれといった凹凸もないまま、時々槍を持つ手を入れ替えながら従者アルトリアと騎士二人の一行は賑やかな王城に到着した。

 

 

ウーサー王の死からひと月も経っていまい。不謹慎か、それとも立ち直りの早いことは良いことなのか…祭り騒ぎといった盛況の王城では王太子モーガンへの祝福の声がそこかしこから聞こえてくる。アルトリアは勿論、ケイにとっても初めての王城であった。

 

これが常のものと考えてくれるな、というエクトルの言葉が届いたかはさておき、露店でほころんだ顔を隠せない商人に聞けば王太子と彼女の後見を任された一派が催した祭りであるらしい。どおりで豪勢なわけだ。

 

アルトリアとケイは生まれて初めて体験するものの数々にすっかり打ちのめされており、エクトルも二人の様子を知ってか知らずか宿代と大事の際の備えの分を抜いた財布をケイに投げると、自身は先に王城に登城すると言ってさっさと行ってしまった。

 

残された二人が人生初の祭りを満喫しようと宿を飛び出したのは言うまでもないことである。

 

 

 

さて、宿を飛び出した勇気は認めるとして地の利のない二人は紛れもない「おのぼりさん」であった。

 

彼らの前には無数の壁が立ち塞がり、それらは明らかに地方では聞かない流麗な発音だったり、地元では食べる物が食べられていなかったり、ケイの騎士の恰好が悪い方向に働いて鼻につく香りを纏う御姉様方にアルトリア共々誘惑されるなど…当初の想定とはかけ離れた苦戦を強いられたのである。

 

 

「父上が私を財務卿に任じられたのだからこの金の使いどころは高度な柔軟性を保ちつつ臨機応変に決断する。」などと言い始めたケイが怪しいお店に向かうのを止めたり、明らかな鈍剣(なまくら)で散財しようとするのを阻止したりとアルトリアは大忙しであった。

 

とはいえ、苦闘続きの中でようやくありつけた露店の料理はケイにしてみてもアルトリアにしてみても平静に口にしている物より遥かに手の込んだものだった。店主が最高に美味いしいかと尋ねれば揃って首を傾げた兄妹だったが、確かに美味しい経験を積めたことはアルトリアにとって何よりの収穫であった。

 

 

 

陽が傾く頃にエクトルが大勢の貴族と共に兄妹を迎えにやってきた。

 

父の帰還に残念な気持ちが隠せない兄妹に苦笑いのエクトルが言った。

「お前たちも来なさい。これから明日のために最後の確認をするのだ。」

 

ケイがエクトルに尋ねた。

「父上、最後の確認とはなんでしょうか。私たちはまだ正式な爵位も拝命しておりません。父上と共に来られた方々は何れも立派な方々ばかりです。」

 

アルトリアはケイの言葉を継いで言った。

「父上、兄上は騎士の爵位をいただくことが決まっておりますから問題ありませんが…爵位をいただく予定もない従僕(サーヴァント)の私がご一緒するのは…。」

 

二人の言にエクトルは二度三度頷いてから言った。

「お前たちの言っておることは正しい。しかし、明日には二度と触れることのできぬものでな…折角だからこの祝事に肖る(あやかる)つもりで二人にも触らせてやろうと思い今回は連れてきたのだ。」

 

首を傾げる兄妹だった。エクトルが続けて言った。

選定者の剣(カリバーン)のことは知っとるだろう。あれのことだ。明日には王太子様が引き抜いてしまわれるからな、そうしたら引き抜いた剣が再び鉄床(かなとこ)に収められることはないのだ。陛下となった王太子様の腰に佩かれる訳だからな。」

 

兄妹は揃って「ああ~~なるほど。」と納得し、この機会が貴重なものになるだろうことを嚙み締めて一団の最後尾に加わった。

 

 

 




書き忘れてた。では、また。もんなみはー!←コレ


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B13選定者の剣(カリバーン) 後編

選定者の剣(カリバーン)の刺さっている鉄床(かなとこ)に向かう道中のことであった。

 

エクトルは真横を歩くケイの腰に佩かれている剣が宿で分かれた時の物とは別物になっていることに気が付いた。

 

不思議に思いエクトルはケイに尋ねた。

「ケイよ、お前の剣は確かそれほど肉厚でも、華美でもなかったと思うのだが。」

 

エクトルの言葉を受けてケイは馬上で揺られていた時のように肩を石のように固くして立ち止まった。

 

挙動不審のケイが口元を歪めて全く隠し事に向かない顔で言った。

「ち、父上、これは私が持ってきた予備の剣ですよ。先ほど骨のある騎士と意気投合しまして、それで一つ手合わせを試みたのですが見ての通り…剣が折れてしまい…。」

 

ケイは言葉を切ると目をぎゅっと締めるように閉じて言った。

「申し訳ありません。父上より預かった騎士の剣をダメにしてしまいました…。」

 

対してエクトルは全く怒る様子がない。口が達者で斜に構えた様な嫌いのあるケイが頭を深く下げて詫びる相手は父エクトルくらいである。

 

自身の後継に選ぶのだからと、ケイが教会に逃げ込むほど手厳しく騎士の礼節や剣術を指南したエクトルにはケイと言えども舌が回らない。

 

沈黙。ケイは顔を上げずに怪訝な表情になった。

 

兎角騎士としてのケイには厳しいあの父が、よりにもよって祭事に浮かれて剣を砕いた息子に雷を落とさないはずがないのである。

 

しかし、そんな子の気持ちを知らぬエクトルは「顔を上げろ」と言って今度はアルトリアに目を向けた。

 

エクトルが言った。

「私の記憶が正しければ我が家のどこにもあのような剣はなかったはずなのだ。騎士が戦場で剣を折れば、その替えの剣を用意して置くのは従僕(サーヴァント)であるお前の役目だ。私はそう教えてきた。ケイが盗みを働いたとなれば最早このエクトルも覚悟を決めて爵位は私一代で絶やすつもりだが…息子が手合わせで剣を折ったという言葉を騎士ケイの言葉として信じよう。」

 

エクトルが発する言葉に気負いはなかった。だがそのことが余計にエクトルがその処置を当然のものと考えているのだと強調していた。

 

「もしもアルトリアに嫌われていたらどうしよう。」というケイの心配は杞憂に過ぎないのだが、流石のケイもこの時ばかりはエクトルの言葉が終わるまでに顔が青くなったり白くなったり赤くなったりと大した慌てようであった。

 

そんな覚悟を腹に据えたエクトルの毅然とした視線に捉えられたアルトリア。彼女はわずかに身を固めたが、もとより嘘など吐くつもりがなく身の重心を改めると正面からエクトルを見つめ返した。

 

エクトルはアルトリアが十分に弁証できる状態にあると確信し、改めて問うた。

「さて、そうなると替えの剣を持ってきたのはアルトリアだということになる。では聞こう、あの剣はどこから持ってきたものなのだ。」

 

アルトリアが自身の言葉を発する為に息を吸い込んだ時だった。

 

甲高い悲鳴と野太い驚嘆の声が上がった。兄妹とエクトルが声の方に顔を向けると貴族がこちらに駆け寄って来た。エクトルの知るものらしく、先行していた一団からここまで知らせに来たのだ。

 

貴族は慄くように顔面蒼白で言った。

「エクトル殿…剣が、選定者の剣(カリバーン)が…。」

 

エクトルは兄妹に目を遣り言った。

「大事が起きた。お前たちもついて来るのだ、駆けるぞ。」

 

兄妹は健脚な父の後を呆然と追従した。

 

 

 

あたりは騒然としていた。人垣が例の鉄床(かなとこ)を中心に円く形成されていた。

 

エクトルは現場に着くなり立ち止まり、呆然として口を開けて立ち尽くしてしまった。

 

父に遅れてたどり着いた兄妹が立ち止まる間もなく、豪奢な衣装の貴人達が叫び声をあげた。

「これは真のブリテンの王が降臨された証である。」

 

叫びは次第に波紋を重複させ、気が付けば悲鳴と歓声との混交する渦が出来ていた。混沌とする中で眩暈を覚えたケイが倒れ、それを支えようとしたアルトリアが一緒になって衆目の中心で横倒れになってしまった。「ガララン。」という金属と石畳が打ち合わさる音が周囲に響き渡った。

 

目を回したケイの腰に抜き身の剣が一振り在り、其れが思いの外盛大に大音量を奏でたのだ。折れた剣の鞘に納めようとして合わず、抜き身のままで佩いたせいかもしれない。

 

甲高い金属音によって群衆の動揺は静寂に転じた。

 

異様な静けさに支配される中、貴族の一人がケイの腰に佩かれた剣を指して声を上げた。

「あの剣は…あの剣こそが選定者の剣(カリバーン)ではないのか…。」

 

貴族の声は半信半疑といった具合だったが、その周囲の人間にとってそれは疑いなき真実に見えた。波紋は再度、今度は異様な興奮に沸き立つ気配で現れた。

 

貴族は勿論、いつの間にやら見物に集まっていた民までもが声を上げた。

 

「新しい王の誕生だ。」

 

「ブリトン人の良き王の誕生だ。」

 

「救世主が遣わされたのだ。」

 

口々に自らの不安を払拭するかのような…底抜けに前向きな歓呼が充満していた。周囲に手を引かれて顔の青いケイが貴族のお歴々方の前に引き出された。強引で粗野な扱いに顔を顰めるも、ケイは目の前の貴人達に委縮して顔を引き攣らせた。

 

貴族の中から幾人かが声をかけた。

「貴殿が腰に佩かれるは選定者の剣(カリバーン)とお見受けする。果たして、貴殿がその剣を引き抜かれたのか。」

 

ケイはしどろもどろになった。なにしろ相手の顔は鬼気迫るものがあったり、期待に目を輝かせていたりで生きた心地がしなかったからだ。一人の質問を皮切りに幾人もの貴人から一斉に問われ始めたケイは泡を吹く勢いであった。その上で念を押されるように重ねて聞く者があったり、自分よりもうんと高貴な名家の当主が跪いたかと思えば自分を拝み始める始末。

 

肩をゆすられ始める段になると、一周回って諦観と混乱の境地から真顔になったケイは為されるがままになり、肩をゆすられる勢いのまま首が上下左右に激しく揺れた。

 

ケイの頷きを肯定として勝手に解釈した周囲から感嘆の声と悲鳴が上がった。歓声は宮廷に縁遠い地方貴族、悲鳴はモーガンに近い宮廷貴族たちの声であろう。

 

ざわめきに埋もれながら気絶しそうなケイの耳に誰か貴族の声が届いた。

「さて、誰が引き抜いたのかが分かれば話は早い。疑うお方もいらっしゃるでしょう、故に此方におられる選ばれしお方に今一度剣を戻していただき、それを皆様の前で改めて引き抜いていただけばよいのです。」

 

謡うように言った貴族に対して、他の一人が噛みつくように言った。

「貴様、そのようなことを言ってもしも偽物であったならばいかがするのか。」

 

この声に貴族は実に愉快という雰囲気で応えた。

「その時は王権を侮辱した偽物の首を王太子様に献上なさればよろしい。」

 

ケイの顔はいよいよ蒼白を通り越して紫に届きそうになった。「どうしてこんな目に…。」ケイは彼の苦悩など知らぬ群衆の蠕動に揉まれるようにして円の中心に吐き出された。もはや、逃げ場はなかった。

 

 

 

今にも死にそうな顔のケイが生まれたての小鹿のような足取りで例の剣が差し込まれていたであろう鉄床(かなとこ)までたどり着いた頃、アルトリアは義父エクトルにケイが腰に選定者の剣(カリバーン)を佩くに至った経緯を説明していた。

 

エクトルが問うた。

「なぜケイがあの剣を腰に佩いておる。あり得ぬとは断言せぬが、もしやケイ自身があの剣を引き抜いたと言うのか。」

 

アルトリアは首を振り答えた。

「いいえ、兄上は引き抜いていません。触れてすらいません。」

 

エクトルは目を細めた。眉が吊り上がり、元に戻すとアルトリアの言葉の先を待った。

 

アルトリアはエクトルの表情を伺い、それから伏し目がちに言った。

「私が引き抜いたのです。」

 

エクトルは尋ねた。

「何故、引き抜こうと思ったのだ。」

 

アルトリアは気まずそうに口元を波打たせると、息を溢すように言った。

「兄上が手合わせに興じたのは事実です。広場で力自慢や若い騎士達が技を競っていたのを見かけて通り過ぎようとしたら兄上が他の騎士に誘われたのです。誘いを受けて手合わせに熱中しているうちに石畳に強く打ち付けてしまった所為で剣が砕けました。」

 

アルトリアは群衆に囲まれるケイの前にある鉄床(かなとこ)を指さして言った。

「兄上に予備の剣を持ってこいと頼まれたので剣を探しに宿に戻ったのですが…兄上はどうやら鞘しか持ってきていなかったようで…槍を渡すわけにもいかず当たりに持ち主のいない剣が無いか探したのです。そうして走り回るうちに目の前にあの鉄床(かなとこ)が現れました。」

 

アルトリアは手の平を開いて見つめる素振りをしながら言った。彼女の手の平は乾いていて分厚かった。潰れた肉刺(まめ)胼胝(タコ)が盛り上がり硬くなっていた。それらは彼女が農民とともに大地を耕して得たものだった。

「私は…私も何故然う(そう)しようと考えたのかわかりません。ただ…あの剣には持ち主がいないと何となく然う(そう)感じたのです。そして、気が付けば剣を抜いていました。」

 

エクトルは瞼を瞬かせながらアルトリアに聞いた。

「あれが選定者の剣(カリバーン)だと知って引き抜いたのではないのか。」

 

アルトリアは首を傾げて答えた。

「いいえ、滅相もない。私が引き抜けるくらいですから誰にでも引き抜ける剣だと思いました。どうして誰も引き抜かないのか、どうして鉄床(かなとこ)に突き立っているのか…その時の私は何も違和感や疑問を感じなかったのでしょうか…。」

 

自身にもわからないことをこれ以上聞くことは出来まい。エクトルは堰を切って泣き出す寸前の息子のほうに向きなおった。

 

 

 

群衆の中からヤジが飛んだ。

「選ばれし王ならばその剣を今一度引き抜かれよ。さもなくば自ら偽物であると証明することになりますぞ。」

 

ケイが剣を差し込んで幾らかの時間が経過したが、未だに剣は鉄床(かなとこ)に深く飲み込まれていた。

 

脂汗が全身から噴き出していた。剣の柄を掴む手からは既に握力が失われかけ、視界は汗と涙で歪んでいた。そして、ついにケイに限界がやって来た。

 

ツルりと手から柄が抜けてしまったのである。「あ。」という間の抜けた声と共に、今度は罵声と失笑が爆発した。

 

誰が呼んだか司祭や貴族の従者が口々に罵詈雑言を投げ始めた。ケイはそれどころではなかったため、何を言われているのか一つも理解できなかったが…。然して、モーガン支持の貴族が上げた過激な声に従って騎士がケイの捕縛に動き始めていた。危機此処に極まれり。

 

絶体絶命の窮地の中で、縄打たれたケイの背中に声が掛けられた。聞き馴染んだその声は明朗に、かつ群衆を調伏する威を伴っていた。

 

 

選定者の剣(カリバーン)を引き抜いたのは私だ。」

 

「私の名はアーサー。騎士エクトルの末子アーサーだ。」

 

アルトリアの声は夕暮れの空に尊く(たかく)木霊した。群衆は息を呑んだ。貴種と 祷り手(いのりて)は瞠目し、ただの一点に意識を奪われた。

 

その時、群衆を形成していた人々は一人の例外もなく堂々たる一人の王と拝謁したのだ。

 

すべての眼がその芯に焼き付ける様に見つめていた。

 

朱き斜陽に照らされ天を衝く様に掲げられた一振りの宝剣を。

 

その剣の名を選定者の剣(カリバーン)と言う。

 




では、また。もんなみはー!


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B14ハレ 前編

 

 

捧げた時間20年と半分。そのことに後悔はなかった。私は王太子に成るべくしてなった。そして、王に成るべくして私は王に成るのだ。然う(そう)神が望んで居られるのだから。

 

 

父王ウーサーの死から三日後には、主要な貴族たちが宮廷に詰め夜を徹しての抜剣、それから戴冠式典のための段取りが執り決められた。

 

ウーサー王の遺命により、極めて異例ではあったが大幅に簡略化された喪に服すこととなり、不謹慎ながら私は久方ぶりの完全な休日を手に入れた。

 

騎士の王、そう自分が呼ばれる日が目の前に迫っていた。

 

「私に最初の名を遺して行かれた貴方は今何処(いずこ)に居られるのか。」

 

漠として思う、貴方は褒めてくれるだろうかと。私の心に安寧と慕わしさの種を蒔いた貴方にどうすれば私のこの想いを伝えることができるのだろうかと。

 

空を見上げるとそこには曇天が広がっていた。ウーサー王の死が触れ回られるより早く、天はやはり父王の死をご存じであったのだろうと思う。父王が昇られた夜から明けて、天は大いにその清澄なる様を万民を安んじるかの如く顕わにされた。それは見る者にとっては不謹慎にも底抜けに明るい晴天に見えたであろう。またある者にとっては父王の死に嘆き、その死が齎すであろう苦難と混乱に慄く民を慰撫する慈悲の聖光にも見えたであろう。

 

だが私は希う。かの晴天がただ純粋に父王を讃え、また慰めるものであったことを。父ウーサーの苦労を神が報いられたのだと。然う(そう)、希う。

 

父王の死を悼む間、今日から数日の間ばかりは誰も私の部屋を訪れないことになっていた。

 

それはつまり誰も私に剣を振るうことを強いず、誰も私に礼節と仕来りと紋章学に関する教授を行わず、また最低限の乳母や侍女を除けば誰一人として私に構わないということだった。

 

父が死に、ひと月と経たずに私は王と成らなければならなかった。そのことに否はない。

 

しかし、物心がついてから私に許された愉快というものがどれだけあったのだろうかとも思うのである。

 

私には純粋に愉快を感じた経験や、心の底から笑ったことがあったのか。私は王と成って、果たして何に楽しみ何を心の支えとすればよいのか。

 

私の世界は余りにも狭かった。城の中、殊更に礼拝堂と講義室と教練場と私室、それから父を見舞いそして看取った王の寝室以外の世界を私は欠片さえも持ち合わせていなかった。

 

故に、私はこの数日間を全て城の外で費やすことに決めた。この数日間を経て私の世界は今一度、この窮屈な城の中に舞い戻る。おそらく私が次に王城を出る時は戦争か、あるいは名も知らぬ顔も知らぬ貴人との婚姻のための外遊か、或いは私自身の葬列が門をくぐる時くらいだろう。

 

いずれにせよ、私はこの身に負う義務を果たさなければならない。何故ならば、然う(そう)神が望まれて居られるからだ。だから私はこのひと時を何人にも邪魔されることなく、また何人にも悪し様に論われる(あげつらわれる)ことなく、純然たる権利として享受することが許されるはずだ。

 

私の狭い世界はその柵から暫し解かれる。

 

私が目にし、耳にし、口にし、出会うであろうそのどれもが、城の外の民にとっては面白みのない普遍的な経験だろう。

 

だが、使命の虜である王として、また戦士たる騎士としての私にとってはそのどれもが新鮮な経験になるであろう。もう二度と味わうことの許されない経験になることであろう。

 

私の決心など、その成果など数に直せば如何(どう)ということにもなるまい。

 

 

「けど、城の外に住む人々の食むパンの色さえ知らぬまま私は王になりたくなかった。」

 

「城の外にいる貴方が何を口にされているのか、今の私には想像することすら許されない。」

 

「私は貴方と生涯出会うことはないかもしれない。民には何れこの身を晒すことになるけれど、貴方には私が立つ城の影すら届けることが叶わない。」

 

「この身を神と騎士道に捧げた20年と半分。その間、私を支えたのは貴方がくれた安息の記憶だけだった。私はこれまで積み重ねた思慕と感謝の一言すら貴方に届けられない。」

 

「もしこのまま届かないとしても、私は私を恨まない。私は私以外の全てをも憎まない。だって、然う(そう)神が望んで居られるのだから…。」

 

「父も、騎士も、官僚も、学者も、皆が私をこの道に導いたのだから。この道の先で神が私を報いてくれるのだから。」

 

「皆が望んだ。私はその度に問い、そして皆が言ったのだ。然う(そう)神が望んで居られるのだ、と。」

 

「故に私はこの生を、…私はこの生でしか生きる術を知らない。」

 

 

王の喪に服すと言っても民の営みまで停滞させることは出来ない。貴種は貴種の、民は民の道理の中で棲み分けがなされている。貴種の非常など、逞しく慎ましやかな境地で暮らす民にとっては遠雷のようなものに違いなかった。遠雷に打たれればまず命はないだろう、だが天に我が身の安寧を確約させることなどできはしない。

 

関心があっても自分たちが影響できる領分ではないのであれば、日々の糧を得るために身を軋ませる人々がその有限の気力を費やすに足るものでは無いことだけは明白だった。

 

私の後見に任命された宮廷貴族達が城の食料や酒を安価で放出したらしかった。あけ放たれた城の門の向こうから聞こえる喧騒には軽快な笛の囀り(さえずり)や優艶な弦の(せせらぎ)が無邪気に乱れ咲いていた。

 

あからさまな機嫌取りでも民にとっては遠き天き(たかき)より降ってきた幸運に違いない。門の衛兵ですら足元の杯を隠そうとしない。誰に尋ねずとも街は大変なお祭り騒ぎだと分かった。

 

ふと私は(そら)のご機嫌を伺いたくなった。阿るようなことはすまい。私室のあった最も(いとも)高き尖塔の窓から見下ろした外の世界は何色だったかが思い出された。何が聞こえたのだったか。何が欲しくて、窓の鍵を壊したのだったか…。

 

近づいていくにつれて、その門は白くて分厚い石で出来ていた。城壁はその威容を尚も巨大に誇るようで私の視界は微かに揺れた。

 

立ち止まればきっと二度と越えられない。私は腰の肉厚な剣の柄に縋る様に、それを強く按じながら歩みを止めなかった。

 

「門が口を大きく開けていた。私はその口の中に飛び込んだ。そして、ひんやりとした喉を通り抜けた。」

 

 

門をくぐった先で見た世界はあの日見た景色よりもずっと、ずっと広く感じられた。私は顔を上げた、生まれて初めて見る城の外の(そら)如何(いかが)

 

果たして、そこには鉛のような鈍く閃く灰色の空が広がっていた。

 

 

「ああ、懐かしい。」

 

 

「初めて見た筈なのに…いや、何処かで見たのだったか。」

 

 

然う(そう)神が望んで居られるから。それが、私の運命(Fate)だから。生まれながらにして私の生は私自身の意志の外で定められていたから。

 

父上は偉大な王であった。それでも、私はウーサーを超える王に成らなければならない。それが私の果たすべき義務であり、私の運命(Fate)なのだから。

 

伝説上の化け鯨の腹のように鈍重な曇天が私を睥睨していた。

 

気高き灰色の下で、私は王と成るのだ。




では、また。もんなみはー!


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B15ハレ 中編

大門を抜けて城下に踏み出したモーガンの足取りは軽やかとは言い難かった。

 

王城に住んで20年と半分。ブリテンで暮らす者の中でも生粋の都会育ちと言って差し支えなかった。だが、そんな彼女は些か(いささか)真面目が過ぎていた。

 

というのも、忠実な彼女の道を思い通りに決めてきた者達は一度として騎士モーガンに、その自由な振る舞いを許した試しがなかったからである。

 

殆どの場合、彼らが騎士モーガンに求めたのは壮麗にして威厳に満ちた王として国家に献身することだった。モーガンはこの求めに忠実である余り、今日に至るまで特筆すべき快楽を経験することなく成熟した人格を持つに至ったのである。

 

それは歪であり、一方で潔癖な君主に求める理想の体現とも呼べた。余りにも機械的な側面を除けば、であるが。

 

 

未知に完全に包囲された状態のモーガンは田舎から出てきたばかりの「おのぼりさん」のように、言い方は悪いがかなり挙動不審な足取りで街を大通りに沿って進んだ。

 

最初にモーガンが向かったのはパン屋であった。先々からの願いであり、彼女にとっては存在は知っていても実際には見たことが無いところであった。

 

時折立ち止まりつつ、時には路傍の犬や猫に驚きの声を上げて周囲に注目されつつ、モーガンはパン屋を探した。

 

 

パン屋を捜し歩くこと暫く。何故か、パン屋が見つからない。

 

それは事情を知る者からすれば必然的な事であった。

 

というのも中世の時分と言えばパンを焼くにしても穀物を挽かねば(ひかねば)ならず、焼き上げるにもパン(がま)が必要な時代である。それも備え付けの大きなものが必要である以上、一家に一台とはいかなかった。

 

当然、農村や城下には公的な施設としての挽臼(ひきうす)やパン窯というものがあったが、これは有料な上に臼や窯といった施設自体が場所を取る。

 

集合住宅が火気厳禁でキッチンが無かったローマの庶民のように、日銭を叩いて(はたいて)露店から料理を買って食べるか、大変な思いをして調理した上で食事をする必要があった。

 

手間も暇も富貴の嗜むものであれば。モーガンが四方八方に忙しなく顔を向けつつパン屋を探し歩いたのは城にほど近い住宅地に面した大通りである。

 

当然の如く、そのような場所に民草が常食する様な混ぜ物が多用された重厚なパンが販売されているはずもなかった次第。

 

しかし、城下は愚か城内の極々一部にしか認知の版図を広げ切れていないモーガンは無論その事実を知らない。

 

 

結論。モーガンは焦りを覚えた。

 

モーガンの焦りは他者との言語を通じての交流が極めて限定的だったことにも端を発した。身分が甚だしく違う者に話しかける為の方法など知っているはずがなかったのである。

 

故に、モーガンは独り託つ(かこつ)かずにはいられなかった。

 

「どうしてパン屋が見つからないのだろう。パンとは、民が何時も食している物ではないのだろうか。」

 

「しかし、正直にパン屋は何処なのかと聞くのも、自ら無知を晒すようで恥ずかしい。」

 

「とはいえ、身形の良くないものを見つけて「君、パンを知っているか。」などと聞くことなど私には出来ない。騎士か王太子か以前の問題だ。無礼すぎる。」

 

葛藤と自問自答が縦横無尽に脳内で浮きつ沈みつ。モーガンの呟きに答えてくれる者は居なかった。

 

途方に暮れたモーガンは一度城門前まで戻ろうと思い、周囲を見回して愕然とした。

 

「おかしい、ここは何処なのだ。どうして城があんなに遠くに見えるのだ。」

 

モーガンはパン屋を探して歩くうちに道に迷ってしまった。おまけに周囲は見通しが悪く入り組んでいる。城下町の地理に暗いモーガンでは自力で帰れそうにない。

 

城からはそう遠くないはずだ。だが、それでも城の外に初めて出たモーガンにとっては容易に行き来できる距離ではなかった。

 

モーガンはいよいよ不安になった。周囲は薄暗く、人通りも少ない。気持ちヒンヤリしているような気もする。根気と勇気が必要な状況だった。

 

「なんとか城まで帰る方法を誰かから聞かねば、しかし、どうすれば自然に話せるのだろうか。」

 

「民は皆私の剣を見て自ずから遠ざかっていく。遠目に私を見ていたのは酌婦だろうか、いずれにせよ私が声を掛けようとすれば避けられてしまう。」

 

モーガンはここまでの道中を振り返り考えた。誰にも何も尋ねることが出来ずに、気持ちに任せて進んだ結果だった。モーガン史上に稀に見る全能感の湧き処は何処か。其処が、迷ってしまった原因とも言えたのだが。

 

貴人が他人に直接話しかけるのははしたないことだと教えられてきた経験が祟ったらしい。ましてや民になど、尻込みしてしまうなどと言う段階ではない。

 

困り果てたモーガンはいっそのこと、面識のある者に会って不謹慎だのと小言を頂戴することになっても騎士や貴族に尋ねるしかあるまいと腹を括った。

 

「ああ、せめて私の事を知らぬ者が良い。城下に入るのが初めての者なら尚良い。そうしたら私も心置きなく「やあやあ初心者同士仲良くしよう」と言ってしまえるのに。」

 

城への道のりを訪ねた挙句、自分を知る貴族に謗られる(そしられる)ことは避けたかった。嘲笑されるくらいならせめて心細さを紛らわせるような、自分よりも身分が低くて気負わずに接することのできそうな都合のいい相手が欲しかった。

 

「嘘を吐くのは心苦しいが、しかし次期国王の非常事態なのだ。私が王に成ってから会うようだったら何かお礼でもしよう。」

 

口に出すことで余裕が出来た。モーガンは再び確かめる様にぼそりぼそりと呟いた。

 

「そうだ、そうしよう。それで何卒、勘弁して貰おう。」

 

「よし、そうと決まれば早速お供の者を探さねば。一先ずはこのまま行けるところまで真直ぐ進もうか。」

 

此処までパン屋を探してきたことすら忘れて、なるべく同輩に見える騎士を探すモーガンの足取りは不思議と軽かった。

 




では、また。もんなみはー!


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B16ハレ 後編

大通りを更に下ること暫し。

 

中流の旅籠(はたご)が軒を連ねるそこは大いに賑わっていた。若くて世間知らずな騎士を求めて来たモーガンも、賑やか(にぎやか)で雑多な光景に引き付けられた。

 

抑制する者がいない今、目的を忘れて、興味関心の赴くままに瞳を向け耳を傾けることは正にモーガンの自由であった。

 

広場は人で溢れていた。

 

吟遊詩人や楽器の奏者、ここぞと反物や土産を売り込む商人、果物や軽食を売る露店群、力を競わせる我こそは王太子様に身を引き立てて頂こうと都に集まった騎士志望や、その王太子に招かれて来た諸貴族の従者に下級騎士達。集まる者たちの背景は様々。集まった理由も、そこから持ち帰るものも様々。

 

斯くして広場は大いに賑わっていた。

 

 

広場で同輩と呼ぶに気負いない騎士を探すこと少々。モーガンは如何にも()の付く田舎者を見つけた。

 

「好機は今である。さあ、行かん。」

 

企図せずに口から洩れていた言葉に気を引かれたのか、相手の方もこちらを見ていた。しまった、そう思うのは後の祭り。モーガンは一歩を踏み出した。

 

「やあやあ、どうやら都は初めての御様子。実は私も今日が初めてでね、是非一緒に都を回らないか。ああ、申し遅れた、私はモー…。」

 

名乗ろうとして、モーガンは自身の名が王太子の名前であることに今頃になって気が付いた。王太子の名を名乗るのは余程の馬鹿か、同名の者か、或いは本人だけだ。

 

正直にここで名乗り、後からあの時の騎士は王太子だったなどと広まっては笑い話では済まない。なにより、王太子だと知らずに無礼を働いたことを相手が詰られ(なじられ)たり、宮廷から忌避されるかもしれない。不公平であり、何より王としては頂けない事態だ。

 

モーガンは須臾に思考を交錯させると、目の前で名乗りを待つ相手に向きなおり言った。

「私はモーサンという。うむ、騎士モーサンと言う者だ。以後お見知りおきを。」

 

モーガン改めモーサンは努めて平然と言った。

 

そして名乗りを聞き届けた相手も居住まいを正すと言った。

「ご丁寧に、えーとご機嫌麗しゅうございます。騎士モーサン殿、貴方の御誘いは我々としても有難い。見ての通り、兄妹共々まだ都に入って日が浅い身でして。」

 

「ああ、こちらこそ申し遅れた、私は騎士エクトルの長子ケイと申します。言葉遣いはご容赦を、何分都の清麗なものに不慣れでして。」

 

騎士の礼装をした男がそう言うと、その後ろに控えていた従僕(サーヴァント)がモーサンに向かって一礼した。主従の従の方が能動的に直接主である相手の騎士に自身の名乗りを上げることはまずない。しかし、モーサンは純粋に兄弟という言葉が気になった。

 

モーサンが意識して口角を緩めながら言った。

「ケイ殿、こちらこそ突然失礼した。出会って早々に不躾な質問かもしれないが、差し支えなければ貴方の弟君を紹介してくれないか。」

 

相手からの思わぬ要望に驚いたケイだったが、見るからに気品のある御仁から請われてしまうと断りずらかった。それに、妹のことを居ない者として扱わなかったモーサンの発言はケイに好感を抱かせるのに十分なものだった。

 

「さあ、お前も名乗りなさい。騎士モーサン殿がお前をお求めだ。」

 

ケイの言葉で彼の後ろで控えていた従僕(サーヴァント)が前に出て跪く(ひざまずく)と顔を伏せたまま言った。

「兄のケイの従僕(サーヴァント)をしております、騎士エクトルの末子アーサーと申します。」

 

モーサンはじっとアーサーを見つめた。ケイが怪訝な顔をしそうになり、頬を引き締めた。モーサンが自身の髪を女の様に弄って(いじって)いたからだ。

 

 

モーサンはアーサーに言った。

「お顔を上げられよ。気にせずに上げられよ。さあ、立ち上がられよ。」

 

戸惑うアーサーの背を押すように言うと、モーサンは続けて言った。

 

不思議そうなアーサーと正面から向き合って言った。

「ふむ、私は自分の髪を珍しいと思ってきた。銀糸のような髪だろう、今はすっかり短いせいで若白髪の様に見えてしまっているが。」

 

今はもうすっかり短くなってしまった。流れる様に長かった銀髪に指を通すように、モーサンは虚空を指でなぞった。アーサーにはそれが何かを探すような仕草に見えた。

 

「昔はもっと長かったのだ、今の君よりも。ああ、だが、そうだな。成るほど私はあの時、髪を切ってしまわずに君の様に編めばよかったのだな。」

 

モーサンはアーサーに顔を近づけた。ぐいと顔を寄せられたアーサーは、そのことに驚いているような、状況を呑み込めていないような表情だった。

 

モーサンは虚空を撫でていた指を止めた。冷えて固まった蝋の様な指先が、(ひび)割れる様に曲がった。束の間握り締めると、アーサーから視線を自らの拳に移した。そしてこれを食い入るように見つめていた。

 

目尻が吊り上がり壮絶を瞳に宿したかと思えば、手の平から力が抜けると共に静謐な水面の様な瞳に変わった。

 

モーサンは鼻からゆっくりと息を吸い、それから感慨深げに言った。

「ああ、そうすればよかった。君に気づかされたよ。ありがとう。」

 

アーサーはこれに「勿体ないお言葉です。」と答えた。

 

アーサーの答えにただ頷くと、モーサンはケイの方へと向きなおった。アーサーとモーサンが言葉を交わしたのはこれが最後となった。それからケイとモーサンは互いに見て回る場所を相談し始めた。相談が終わるとモーサンを先頭にケイが続いた。アーサーは時折兄が浪費しようとするのを父からの命令という体で諫めつつ、露店や大道芸を満喫する二人の後に追従した。

 

 

モーサンがケイと行き先の擦り合わせをする直前の事。

 

アーサーと目と目を合わせてモーサンが言った。

「それにしても、君の髪もまた随分と稀有なはずだよ。そんな風に、黄金の中で(あか)が揺らめくような髪は見たことが無い。良いものを見せてもらった。」

 

モーサンはアーサーの髪に、一言断ってから触れつつそう言った。

 

アーサーはこれに答えて言った。

「ありがとうございます。しかしモーサン様の御髪ほど見事なものも、この世には二つとありましょうか。私もそんな風に、白銀の中で(あお)が燃えるような御髪は見たことがありません。有難い経験を頂戴しました。」

 

そういうとアーサーはペコリと一礼した。モーサンは俯いて己の手の平を見ると沈黙した。

 

顔を上げたモーサンは言った。

「確かに、我々は好対照の稀有に恵まれたらしい。君にも神の御加護が在らんことを。」

 

そう言うと、モーサンはケイに向きなおった。




では、また。もんなみはー!


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B17魚と茨 前編

城下の催し物を一通り満喫したモーサン一行は広場の中心地に戻った。

 

そこでは丁度、自らの腕に自信のある者達による競技会が開かれていた。

 

 

疎ら(まばら)に聞こえる剣戟。民は怖いもの見たさで遠くから見守る様に、各地から集まった騎士や貴族の従者達は品定めする様な余裕の観戦に興じていた。

 

雇われた酌婦や町民らしい淑女から賞品が受け取れるからと、参加者の中には無頼の者も紛れていそうだった。

 

名だたる貴族もちらほらと見えたため、乗り気なケイと義兄を心配するアーサーとは他所に不安を抱えたモーサンはその場から離れたがった。

 

 

モーサンはケイに向かって焦りを隠しつつやや早口に言った。

「ケイ殿、実は私はこれからパン屋にいきたくてだな、申し訳ないがそろそろ広場から城の方へ行こうと思うのだ。」

 

モーサンの手は腰の剣を按じていた。ひそひそと告げられた言葉にケイは純粋に疑問に感じたことを問うた。

「勿論構いませんが、折角ですから私と一試合是非。それにしても、モーサン殿はパン屋に用事があるのですかな。」

 

ケイは握手するように手を差し出してモーサンを誘った。

 

アーサーは何も言わなかったが、モーサンが左右に揺れていることに気がついて義兄に耳打ちした。

「ケイ、モーサン様は何か急がれているのではないのですか。引き留めるにしても、少々手短に。」

 

ケイはこれに心底不思議だという様子で返した。

「しかしだな、アルトリアは不思議には思わないのか。道中で聞いたモーサン殿の言うパンは民の常食する分厚くて黒いパンのことだったぞ。」

 

「私たちの様に農夫の隣で暮らしていれば食べるものだが、モーサン殿は経験が無いというし、それに言葉遣いも流麗だ。」

 

「最寄りの農村には馬でも夜になるまでかかるだろうに。しかし、モーサン殿は従者を連れて居られぬ。もしや、(うまや)に待たせておいでなのか。」

 

「それとも、都会のパン屋ともなれば敢えて街中で黒パンを店頭に並べる物なのか。私にはさっぱりだよ。」

 

ケイに悪意は皆無であった。しかし本気で声を殺したつもりなのだろうか。掠れるように囁いたせいで高く裏返って寧ろ丸聞こえであった。

 

アーサーは半目でケイの肩を叩くと、義兄の体越しに立腹気味の御仁へ気不味げに頭を下げた。

 

瞳を閉じて顔を羞恥に染めたモーサンが言った。

「なるほど、ケイ殿が申し上げたいことはよくよく承知した。」

 

明らかに纏う雰囲気が異なっていた。

 

ケイが後ずさると、モーサンが追う様に一歩前に出た。

 

モーサンはケイの肩に手を置いて言った。

「さて、それは然う(そう)と先ほどのお話、死合いでしたかな。」

 

モーサンに問われてケイは真剣な顔で言った。

「忘れられよ。モーサン殿はお忙しい身でありましょう。さあ、我ら兄妹には構わず。」

 

ケイの言葉には突然迫られたことへの驚きがあった。しかし、ケイはまだモーサンが試合に乗り気になった理由を理解していなかった。

 

モーサンは更に一歩間合いを詰めると言った。

「いやいや、先ほどのお誘い是非ともお受けしたい。」

 

モーサンのあまりの変わり様にケイはたじろいだ。しかし、道中を共にしつつ期待していた試合が実現することは喜ばしかった。

 

気を引き締めつつも喜びが隠せていない顔でケイは言った。ほんの少し場を和ませる茶目っ気を含ませて。

「それは重畳。ところで、モーサン殿はパンをご存じか?」

 

モーサンは困惑した。

「如何されたケイ殿。いや、成るほど挑発か。流れる様な場外戦術とは恐れ入った。」

 

ケイは言った。

「いいえ、そうではなくて。モーサン殿はどうして苦労してまで民の食むパンを口にされたいのかと不思議でして。」

 

モーサンは努めて余裕を保ちつつ言った。

「ふふふふ、流石と言うべきか。敢えて続けるのですな、だが私も忍耐には自信がある。」

 

「私が民草の食うパンに興味があってもおかしくはないでしょう。ただ、純粋に食べてみたい。」

 

ケイは頷くと、自然な動作で剣の柄に手を掛けた。

 

 

ケイの質問は謂わば、「モーサン殿は民の食されるパンを口にした経験がおありですか。」という問いであった。

 

しかし、ケイは高揚していた。

 

気分の高揚はケイに小事を省かせてしまい、結果的に重要な配慮が省略されてしまった。

 

完全に凶刃と化した一言によって、意図せずに試合の火ぶたを切って落としたことにケイは気づいていなかった。

 

傍から見れば満足げな表情で毒を吐いたケイ。流石のアーサーの顔にも困惑が浮かんだ。

 

問答が終わり空気が変わる前にアーサーが言った。

「兄上、空気を読まれよ。」

 

ケイは鼻息荒く答えた。

「無論だ、モーサン殿は手練れに違いない故に、気を読まねばな。」

 

余裕の素振りに見えたモーサンは感心して言った。

「早くも機先を制するだけでは飽き足らず目の前で私の分析までするとは、ケイ殿は剛毅であるな。」

 

ケイは首を傾げた。

 

 

広場の片隅で始まった試合の観戦者は一人きり。ケイの従僕(サーヴァント)であるアーサーだけだった。

 

地は石畳。天は曇天。周囲には焦げ茶色の木造家屋が立ち並び、その中で灰白色の石造建築の頭に突き立つ十字架が目立っていた。

 

モーサンが言った。

「では、お誘いになったケイ殿から仕掛けられよ。」

 

ケイは頷くと剣を抜き、石畳を摺り足でにじり寄った。

 

息を吸い込む音が、風を切る矢羽根が奏でる高音のように聞こえた。ケイが踏み込んだ。

 

アーサーが叫んだ。

「危ない。抜かれよ、モーサン殿。」

 

寸前で止めるのが決まりだった。だが、ケイは足を滑らせてしまった。

 

目を見開くアーサーとモーサン。二人は突然前に飛び込んだケイの足元を見た。

 

果たして、ケイの一歩目が踏みしめた筈の、其処には何処からか滑り込んだが落ちていた。

 

弾力に富むの身とよく滑る(ぬめる)鱗に唆されて(そそのかされて)、ケイの踏み込みの型は崩れた。

 

崩れるままに、剣を突くように突き出した態勢でケイは剣を按じてすらいないモーサンの胸に飛び込む様に迫った。

 

(つるぎ)の先は鋭かった。大気を引き裂いて進んだ其れは、迷いなくモーサンへと向かっていた。

 

上段で構えられて、そして振り下ろす型は見る影もない。

 

ケイの呆然とした顔は遠くで(もや)に包まれていた。

 

 

束の間に剣に満ちたのは光だった。其れは燦然と呼ぶに相応しい。

 

不機嫌に曇る(そら)が見せる筈のない光景だった。

 

 

嗚呼、(そら)よ。汝は何を寿がん(ことほがん)というのか。

 

 

誰に問うでもない。

 

モーサンが言った。アーサーが言った。

 

「何故?」と。

 

気重(きおも)な雲が二つの顔を覗かせていた。

 

心底、癪に障る顔だった。

 

天に満ちていた雲の海は割れて。鬱蒼とする下界に一筋、栄光の(きざはし)賜し(おろし)た。

 

割かれた曇天は嘆いた。歪んだ顔を隠す素振りもない。

 

そして、忌み子を憐れむ(あわれむ)様に一筋の(なみだ)降し(おろし)た。

 

しかし、その(なみだ)は冷たく無力だ。怠惰にも荒れ地に堕ちて、人の身の上に降るものでなし。

 

 

何故かと問われれば、両者は首を傾げるしかない。

 

逃れるべき道も、術も、未だ彼らには与えられていないから。まだ知らないのだから。

 

今の両者が答えを導けば。それは同じものになるだろう。

 

そして、然う(そう)。きっと彼女らはこう答える筈だ。

 

「それが、私の運命(Fate)だから。」と。

 

 




では、また。もんなみはー!


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B18魚と茨 後編

偶然か、必然か。

 

ケイの剣先は鋭い殺気を纏ってモーサンの心の臓に向かって突き出されていた。

 

殺意の冷気が脇へ背中へと流れ込んだ。だというのにモーサンは動けなかった。目を見開いたまま、躰の自由が奪われていた。

 

モーサンはどうしてなのか理解できなかった。だが、ほんの少しの安堵と同情を禁じ得なかった。

 

だが突然、緩慢な時が襲った。剣とアーサー以外の像が全て歪んで見えた。

 

頬に滴が当たった。

 

 

「あゝ、温かい。」

 

 

その火照りでモーサンは我が身を取り戻した。

 

 

背中が泡立った。銀の髪が槍と起つ(たつ)

 

即ち(すなわち)、怜悧で静謐として余裕すら感じられたモーサンの瞳の質が変わった。燃える泥の泉に火を放てば、忽ち(たちまち)の内に煉獄と滾る(たぎる)様に。

 

モーサンの瞳に冷酷なまでの生命への渇望が迸った(ほとばしった)。怯えに揺れ、憤りに潤んで(うるんで)

 

手が空気の壁を掻い潜る(かいくぐる)ように泳いだ。剣の柄を掴み引き抜く一切の動作には無駄が無かった。

 

厳しい鍛錬の末に、熟達は反射へと昇華された。いっそ緩慢にも見えたそれらの一連は瞬時にして、まるで自然が現象するように披露された。

 

言葉で表現すると実に奇妙だった。だが真実として、モーサンの剣技の超越により抜き身の剣が鞘から溢れ出たのだ。

 

モーサンの腕の筋肉が盛り上がった。手足には勇躍する竜の尾の様なしなやかさが宿った。

 

肺活を打擲(ちょうちゃく)する鼓動は熱く。腹の底から迫り上がる(せりあがる)呼気を呑み込んで、不動の芯を軸に剣を振るった。

 

剣を一閃に振り切ると、またあの景色が世界を覆った。

 

 

まただ、頬に滴の熱を感じた。今度は視界の中心にアーサーが居た。

 

横薙ぎに振るわれたモーサンの剣は、濁った水中の様な世界の中でも俊烈(しゅんれつ)稜線(りょうせん)虚空(こくう)に刻んだ。

 

何かを切り捨てた手応えがあった。だと言うのに、何の音もしなかった。味もなく、影もない。頬にあたった(なみだ)は誰のものなのか。

 

先に見えたものは何なのか。モーサンは気圧されていた。幻想的な雰囲気に呑まれていた。

 

恐る恐る(そら)を見上げた。

 

あれだけ分厚く我が身を覆っていた曇天が砕けていた。覗いた(のぞいた)顔は青く澄んで、清廉の光が差し込んでいた。

 

光明の行方を追った。先には一人の姿があった。

 

モーサンは漠然と自身の口が動くことを自覚した。

 

 

「アーサー、君は光を浴びて尚、超然としているのだな。」

 

 

光に照らされたアーサーは私を見ていた。目を見開いた顔には不思議と愛嬌があった。

 

不思議な従僕(サーヴァント)も居たものだと私は思った。

 

私が浴びた試しの無い光を、アーサーは浴びている。それでいて尚、君は超然として其処に起つ(たつ)ことが出来るのだな。

 

ふと私はケイが突き出した剣へと目を遣った。

 

私が打ち払った所為で、ケイの剣は真っ二つに折れていた。

 

持ち主の剣筋を受け流した先にあった、石畳に強く叩きつけてしまったからだろう。

 

「すまない、君の剣を折ってしまった。」

 

代わりのモノを吐き出すように、私は強い声で言った。

 

遠く残響の様に、耳に残った鋼の破砕音は実に(げに)恐ろしき。私は凍え切った指先で耳に触れた。

 

頬に感じた温もりはもうどこにも居なかった。

 

 

私はケイに謝った。ケイは首を振り、寧ろ恐縮して私に頭を下げて来た。

 

「モーサン殿が打ち払ってくれなければ、私は貴方を貫いていたところでした。寧ろ貴方のお陰で命拾いしました。」

 

私は自分の半身とも呼べる騎士剣を譲るわけにもいかず、いたたまれない思いであった。

 

そんな私に気を遣ってか、ケイ殿は「アーサーに替えの剣を用意させるから気になさるな。」と言った。

 

言いつけられたアーサーは一つ頷くと、私に一礼してから足早に去っていった。

 

 

遠のく彼女(アーサー)の背中を見送りつつ、私は思った。

 

「私はこれほど他人(ひと)のことを羨ましいと思ったことがあっただろうか。」

 

「いいや、無かったとも。だが、お陰で私にも切り捨てる決心がついたよ。」

 

「もう二度と会うことはないだろう。私たちは交わるべきではないのだから。」

 

 

モーサンはアーサーの姿が完全に見えなくなるまで待った。それから、ケイへと急用ができたことを伝えてその場を辞した。

 

 

不思議なことに、モーガンの足取りに迷いはなかった。立ち止まり見上げると、明瞭に王城の威容を認めることが出来た。そこへと至る道のりも。

 

城への道すがら、モーガンは貴族が食べる様な白いパンをわざわざ買って食べた。王城のものよりもうんと味が落ちる代物だった。

 

だが、民が口にしているのはこれよりもっと質の落ちる物なのだ。

 

そう考えつつ、モーガンは次いで買った葡萄酒を渋い顔で舐めた。

 

食後にモーサンは苦笑して、それから独り言(ひとりごと)を溢した。

「私は葡萄酒も此処の白いパンも好きになれそうにない。」

 

 

坂道が続き、徐々に地理は高くなっていった。

 

あれほど恐ろしかった大門を何の気負いもなく通り抜けた先から街を見下ろした。陽が傾く頃だった。

 

モーガンの姿を認めた門の衛兵は、足元の酒杯を隠すように足で押しのけると、居住まいを正して王太子を迎えた。

 

城の中は何時にも増して静寂に充ちていた。

 

 

城の奥へと、自分の御座所である高い尖塔へと戻ったモーガンは部屋に入るなり窓を開けようとした。

 

転落か逃亡か、いずれかを危惧してウーサー王が尖塔の窓の錠を取り付けた。その錠を壊してまで見たかった景色とは何だったのか。

 

窓を開こうと力を入れた時だった。鋭い痛みが指先に走った。

 

鈍い動作で手を身に寄せて。モーサンは目を細め夢現(ゆめうつつ)に一人託ち(ごち)た。

「ああ忘れていたよ。が延びて居たんだった。ああ、指が、切れてしまった。」

 

あの時、モーガンは錠を壊してしまった。代わりにが植えられた。モーガンの尖塔を絡めとるように。

 

今度こそ慎重に窓に手をやり開くと、窓の先には切り立った崖と、その先に広がる広大な森があった。

 

森が蠢く様な、そんな姿にモーサンは懐かしさと寂しさを覚えた。

 

口寂しさに指先を口に含むと、血の味がした。けれど、酔えそうにない。

 

「何故だろう、さてな。」

 

剣から血振りをするみたいに、指から流れるままの血を窓の外へと払った。

 

窓枠を伝って、赤黒い一筋が尖塔を下に下に堕ちてゆく。

 

顔を上げても、目を凝らしても。街も村も見えない。気が滅入る程、いっそ清清しいほどに其処には黒い緑が広がっていた。

 

時折感じるのは魔性か、モーガンはその類を感受する度に不思議な心地になった。

 

荒ぶる心地と、其れに相反する鎮静する心地が同居していた。モーガンは其れが快だった。

 

 

モーガンは初めて見た時と変わらない景色を眺めていたが、ふと気になって後ろを振り返り言った。

「おや、町が騒がしい。歓声も聞こえる。祭りはそろそろ終わりの筈だが、何かあったのだろうか。」

 

自然の囁きが騒めきに変わる。水平線が漆黒に塗りつぶされて夜が来た。

 

森の木々が黒々と影を強めて軋んで(きしんで)は夜に吼える。

 

遠吠えに招かれて月が天高くに上った。何て美しい満月の夜だろう。

 

昼間の曇天が嘘のよう、鋭い冷気が冴える雲一つない夜だった。

 

 



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希望と絶望の芽

アルトリア・ペンドラゴン改め、アーサー・ペンドラゴン。彼女は戴冠と共に彼へと変わり、同時にモーガンもモーガン改めモルガンに、彼から彼女へと変わった。

 

二人は代わり、アーサーは希望に酔い、モルガンは絶望した。

 

そうして三年の月日が経ち、アーサーが初陣を迎えたその晩に、モルガンは再び王城から姿を消した。彼女はそれから二度と王城には戻らなかった。

 

 

 

 

私はアーサーを憎んでいた。恨んでいた。同時に、アルトリアを憐れみ、彼女のことを好んでさえいただろう。しかし、今となってはもはや全てが遅いのだ。私はあの日見た、祭りの日に見た深い深い森へと向かった。

 

 

 

 

森の中は静かだった。尖塔から身を乗り出して、茨に全身を裂かれながらも降り立った大地は荒涼としていた。荒れてはいない、ただ優しさは感じられなかった。王城が見えない場所へ、私は往きたかった。王城に見下ろされずに、私は生きたかった。

 

私は私の願いを叶える為に、そして少しでも最後に遺ったこのせめてもの誇りとアルトリアへの憐憫を守るために、新たな希望を掴まなければならなかった。私が今望むものは何か、この自由と忘却の身天において、私の願望は唯一つだった。私は私を生みだし、愛してくれたあの誰かを探し出したい。私はあのヒトと共に生きていきたい。あのヒトならば、あのヒトと共に暮らす安息の中でならば、私は私を襲い苛むこの災難を忘れ、或いはこの災難により生まれた腫瘍を取り除き、その切開した傷さえも癒すことが出来るだろう。

 

だから私は、物知る所の泉の聖女を探す旅に出る。噂に聞く彼女ならば、私が望むものの在りかすらも、教えてくれるはずだと考えたのだ。

 

私の目的地はかの深い森の奥地、暗き森の最奥、ドラゴンさえ息吹きするような妖精領域である。旅の友は…あの日捨てたこの剣。一度捨てた剣だが…やはり、半生を共にした物を容易く忘れることなど出来なかった。宴の終わりに回収し、今もこうして腰に佩いている。

 

もしも私が歩んできた道のりが全て間違いであったなら、私は運命に敗北することだろう。運命の敗北、即ちこれまで手にしてきた、学んできた全てが私に牙を剥くだろう。私の剣技が何の役にも立たなければ、つまりはそういうコトだろう。

 

だが、私は運命に敗北するつもりはない。私の運命は私が決める。少なくとも、今の私に王に成る資格も無ければ王に成る心積もりもない…ただ、それだけなのだ。

 

小人の戯言であれ、今はそれで好い。誰も私を視ないなら、誰も私を愛さないならそれでいい。私は私を愛してくれる人と自らの意志を以て出逢うのみだ。私を愛し、私が愛したい人を私は選ぶ。私は私を捨てた運命を踏み台にして生き、私が選んだ運命に死ぬのだ。

 

誇り高くも力強い力に突き動かされて、モルガンはその手にした自由を存分に謳歌する道を見出した。彼女自身の決断により、その胸に重くのしかかっていた絶望の苗木は立ち枯れとなった。

 

 

 

 

モルガンが旅に出た頃、アーサーは戦場の真ん中で呆然と立っていた。

 

「これが戦争だとでもいうのか…。」

 

アーサー自身は剣を振るわなかった。だが、彼の周りで死んでいく敵味方の骸を隠すことは出来ない。アーサーはただ茫然と、泥臭く、醜く、生き汚くも死んでいく敵味方の戦闘を眺めることしか出来なかった。

 

宿老が指示を出すだけであり、アーサーがしたことと言えば決戦の前に剣を掲げたことぐらいであった。

 

「いざ、野蛮なるピクト人を撃滅し、ブリテンを再びブリテン人の元に一つにするのだ!」

 

そんな内容を、宿老に言われた通りに叫んだ。声を張り、読み上げただけだ。

 

戦闘がそこかしこで行われ、前日の曇天と急な雨により泥濘の飛沫が舞い上がった。鬱屈とした泥と雨の不愉快な臭いの奥で、遠くも近き最前線から漂い来る死の香りがアーサーを苦しめた。嘔吐感を抑えることで手一杯のアーサーは頻りに鼻を啜り、忙しなく手を剣の柄頭や柄に置いては変えた。

 

戦場に騎士の道理はないのか、とは聞けなかった。アーサーが夢見ていた騎士同士の決闘など何処にもなかった。あるのは押し倒し、馬乗りになって滅多刺しにして殺したり、矢をハリネズミのようになるまで射かけられて死ぬ騎士と従者の姿だけだ。あぁ、そうだ、これは殺しだ。殺し合いなのだ。

 

遅ばせながら気づいたところで、アーサーの臓腑は限界を迎えた。世界の天地が逆になったかと思えば、抱えきれない責任と苦痛、理想との乖離による憔悴を煮詰めたような、酷く臭う反吐を辺り一面に吐き出していた。

 

宿老たちや、兄のケイ、父のエクトルが必死になって隠そうとしていたのが、愉快だった。あぁ、そうだ、隠してみろと言いたかった。私は酷い場所に居ます、とアーサーは天に向かって報告せずにはいられなかった。

 

「コレが運命だとでもいうのでしょうか…」

 

初陣を体験したその日、アーサーの胸に小さく小さく絶望の苗が植えられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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旅立ち

モルガンが出立し、アルトリアが嘔吐してから半年。両者の状況は完全に逆転していた。

 

誰もモルガンを覚えていない。誰もがアルトリアを、否、アーサーを知っている。にもかかわらず、前者は希望を掴み、後者は絶望に追われていた。

 

 

 

 

私は今、生を実感している。これまで学んできたその全てが、誇りとする剣技を除いて全て無に帰したと言うのに。私は今や、自由だった。

 

何処へでも行けて、様々な物を見聞きした。

 

野山を駆けずり回り、剣を活かして狩猟によって金銭を稼いで旅の資金とした。旅は楽しかった。私は王太子としてではなく、ただのモルガンとして民の口にするパンを食べたのだ。ようやく食べることが出来たのだ。その感動と言えば、何物にも代えがたい感慨深さだった。

 

私は兎を狩り、或いは鹿を狩った。皮を剥ぎ、鞣したりもした。獲れたての肉を削ぎ、洗い、肉の油で粥を作った。肉を焼き、野草と和えて食べたりもした。何もかもが新鮮だった。

 

古代ローマの遺跡を回り、古代人の息吹を感じた。

 

方々の街を訪れて黒曜石の人を探し、その先々でも多様な人と物を視た。ピクト人やサクソン人も見た。彼らとも言葉を交わし、酒を酌み交わしたりもした。

 

私は自由なのだ。そして、少しずつ少しずつ…私は近づいていることを実感していた。

 

日々埋まっていく思考と記憶、そして懐かしい薫りの螺旋を辿りながら、私は生に明け暮れた。あぁ、なんと素晴らしい実感か。この実感を、私はいずれあの方と共に。

 

私の目的地は近い。もう直に、私は旧ティンタジェル公領に入るのだ。

 

この思い出を全てあの方に語り聞かせよう。あの方なら聞いてくれるから。私の事を視てくれるから。

 

私は夢の中にいるような心地で旅の日記を積み上げた。これまで見たことも聞いたこともなかったことの経験を重ねた。

 

私は王太子であった頃よりも、はるかに幸福を感じていた。充実を感じていた。このことを、父王は知らぬままに亡くなったことを思えば…なんとも切なさを感じる。

 

父王ウーサーよ、貴方は見ておられるだろうか?

 

私は全てを失い、貴方が残した何をも手に入れなんだ。しかし、現に私は自ら選び取り、切り拓いた運命の道の途上で確かな意味を掴みました。生きる目的を見つけたのです。私は王である以上に、私であることを誇りに思います。

 

父王よ、ご覧になっていて下さい。貴方の娘は全てを失って尚、未来に向けて逞しく進んでおります。ブリトン人の誇れる勇者として、見知らぬ世界に果敢に挑み、こうして勝利を重ねているのです。

 

私の声が天に届こうが届くまいが、私にはどうでもよかった。だが、私を見限った天に嫉妬させてしまうほどには、私は幸福を手にしたいと願ってやまないのだ。

 

 

 

 

ピクト人やサクソン人との戦いは断続的だ。終わることは無く、かと言って絶え間ない訳ではない。

 

私は冷静にならざるを得なかった。いつもいつも、熱狂に浮かされたままに剣を振るえればどれだけよかっただろう。

 

死臭の海の直中で、呆然と立ち尽くすしか私には能が無かったのだ。

 

あぁ、なんたる非業。私は王に成ったが、依然として王たるものには成り得ない。それどころか、今や私は味方の兵を殺し、敵の兵を殺す、大量殺人鬼に成り下がったのだ。

 

私は大義の為に剣を掲げ、その大義の元に日々人が死んでいく。ただ大義の為に死ねれば寝覚めは好い方だが、現実では大義なき小競り合いの中であっても兵は死んでいく。村や町が荒らされ、或いは私の手のものが荒らしまわることで荒廃する。

 

荒涼たる大地は血を吸い、草を生やし、或いは泥濘となる。腐臭が生む地獄は自然の中に溶け込み、何れ私たちの跡形をも奪い去っていくのだろう。

 

宿老たちは私利私欲のために働き、略奪を戦果と呼んで論功行賞を行う。私はただ彼らの蛮行を見ているだけなのだ。

 

搔き集められた富が下々に行き渡ることは無く、極一部の者達の安寧の為に独占されている。

 

私はもはや限界だった。この狂気の淵で、私は王に成ることも、はたまた誰でもなかったアルトリアに戻ることさえもできない。

 

そんな中、私の元に手紙が届いた。差出人は「私の事をよく知る者」から、らしい。

 

あやしい手紙には毒が塗ってあるだのと、言われてはいたが好奇心を殺すことは出来なかった。

 

開封するなり紙の代わりに煙が舞い上がり私を包んだ。

 

煙の中で白髪の人とも魔ともつかぬ人が現れ、私に言った。

 

「君が本当に王に成りたければ、それこそウーサーのように王に成りたければ、泉の聖女を訪ねると好い。旧ティンタジェル公領で待つ。」

 

簡潔にして明瞭なメッセージは、限界だった私にとって一縷の希望に見えたのだ。

 

この差出人が誰であれよかった。私は宿老に黙って、城から出た。供はいない、私独りだ。

 

あぁ、例えこれが無駄足だったとしてもいい。少しの間だけ、私はアルトリアに戻ることが出来るのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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再会

それは偶然か必然か、泉の聖女を前にして三人は邂逅した。

 

モルガンとアルトリアとアマロの三人が、初めて互いを認めた瞬間であった。

 

 

 

 

モルガンの旅が終わりに近づいていた。旧ティンタジェル公領に入り、奥深い森の中を進むとそこには美しい泉が彼女を待っていた。

 

彼女にとって、これまでに見てきた何よりも美しく、また幻想的な光景だった。光の粒が水面から逆さ雨のように生まれては散り、青く儚い清涼なる風に満ち満ちていた。静謐のその場所は、まるで一度訪れたことがあるような懐かしさを彼女に与え、また自然とその涙腺を刺激した。

 

さらさらと清水のような涙が頬を伝った。舞い落ちた雫は泉の水面に小さな小さな波紋を起こした。ただそれだけで終わるはずだったが、しかし今や運命は、彼女の選んだ運命は花開くを許されたのだ。留まるはずもなく、青と銀の燐光に包まれて泉が螺旋階段を組み上げた。水底へと続く螺旋階段が完成するころ、そこには見たこともない美しい聖女が剣を抱えてモルガンを見つめていた。

 

「貴女は何者か?」

 

モルガンが問えば、聖女は言った。

 

「本来ならば、貴女の方から告げるべきことだけれど、生憎私は何者なのか、その始まりを貴女以上によく知る者だから。私がどちらも告げてしまいましょう。私は泉の聖女にして、この剣を…貴女の父であり伴侶となるべき運命の黒曜石、アマロ様から預かった聖剣を、然るべき享受者に授ける役目を負ったものです。そして貴女はモルガン…妖精の希望によりその生を確約された魔法術の申し子にして、救済されるべき運命の享受者でもあるのです。」

 

モルガンの衝撃は如何ほどであったろう、いずれにせよ計り知れない衝撃が彼女を襲った。

 

あまりの事態に、急激に流れ込む真実の乱流にまかれて、彼女はその場で膝を屈してしまった。

 

ぽろぽろと涙をこぼしながらモルガンは問うた。

 

「貴女は、聖女殿は私の父を、黒曜石のお方を存じておられるのか?もしも存じ上げているのなら、どうか居場所を教えていただきたい。私は是非とも逢いたいのだ。話したいことがたくさんあるのだ。見てきたものや聞いたものがたくさんあるのだ。例え竜の胃袋の中であっても、私は逢いに行きたい。」

 

モルガンの訴えに対して、聖女は柔和に微笑んでいった。

 

「貴女の気持ちはよくわかったわ。けれど、先ずは…そこで隠れているお嬢さんにも、詳しいお話をしなくっちゃ。」

 

聖女が「出てらっしゃい」と言うや、木陰から金髪碧眼の旅装の女性が現れた。それはモルガンにとってよく覚えのある顔をしていた。

 

「お前はまさか、まさかアルトリア…いいや、今はアーサーか。」

 

聖女がにっこりと笑んで、アーサーに「貴女はそれで好いの」と尋ねた。モルガンは何のことか理解できなかったが、アーサーが声を張ったことですぐに己のことのように理解した。

 

「ち、ちがいます!私は、今の私はただのアルトリア!旅人のアルトリアなのです。」

 

聖女とモルガンは目を見合わせた。アルトリアの頭に葉っぱが乗っていたからだ。

 

恰好がつかない訴えになってしまったが、聖女は優しく微笑んで話を進めた。

 

「さぁ、あとはあの人だけですね。直に来ますが、その前に貴女にお話が。」

 

聖女はアルトリアの方を見て、続けて言った。

 

「アルトリア…貴女にはこれから幾つかの試練とも、選択肢ともとれるものが現れます。貴女がそのどれを選ぶことも、どれを選ばないことも、それはすべて悪いことではありません。良いことでもありません。貴女には…ここにいるモルガンが憎しみよりも希望を見出したように、貴女には貴女の生を救い得る選択をして欲しいと思います。…個人的な願いとも、あの人の存在理由を代弁したともいえますが。」

 

アルトリアは聖女の言葉をよくかみ砕いてから、彼女に向かって頷いた。何がこれから起こるのか、起こらないのかさえわからなかった。だが、この場にあってモルガンとアルトリアは互いに静かにシンパシーを感じていた。

 

「さぁ、いらっしゃいましたよ。貴女方のことを、もう随分と長いことお待ちになっていた方です。」

 

 

 

 

森の奥から現れたのは、木桶と手拭いを小脇に抱えた男だった。美しい黒曜石のような男だった。首には妖しく光る山羊角の飾りが揺れていた。

 

「やぁ、お嬢さん方。君たちもこの泉で行水を?お先にどうぞ。僕はそっぽを向いておくよ。」

 

男は現れるなりそう言って立ち去ろうとするも、それを聖女が呼び止めた。

 

「貴方様、どうぞ存分にご覧になってください。きっとお気づきになるはずです。」

 

聖女の言葉に促されて、男は歩を止めて振り返った。まじまじとモルガンとアルトリアを見つめる男の瞳。熱烈な視線にさらされた二人は事態の急転についていけず、半ば麻痺したようにその場から動くことができなかった。

 

観察少々。男は目を見開き言った。

 

「これは…どうしたことだ、どう見たって僕にそっくり瓜二つだ。もしよければ、君たちの名前を聴かせてくれないか?」

 

聖女は二人の背を押すように笑いかけた。

 

まず動いたのはモルガンだった。

 

「私はモルガン。時にはモーガンとも名乗ったが。生まれたときに頂いた名はモルガンと言います。もし、もし、私はどうしても貴方のお名前をお聞きしたい。」

 

モルガンの言葉を受けて、男は驚天動地を顔に浮かべた。それから木桶を落として、ダっと駆け出しモルガンを真正面から抱きしめて叫んだ。

 

「あぁ、僕はこの日を待っていた!マーリン、君には悪いが僕の娘は僕の元に辿り着いたぞ!モルガン、僕の名はアマロ。救い得ぬ運命の救い手アマロだ!」

 

それまでモルガンには確信が持てていなかったが、この瞬間に幼き頃自分を抱いてくれた人の匂いだと理解した。わぁっと泣き出したモルガンの涙は大粒の宝石のようで、あっという間に男の胸を濡らしてしまった。

 

何が起こっているのか理解できないアルトリアに対して、泉の聖女はまた微笑んだ。

 

「今度こそ貴女の番ですよ」と言われているのだと、アルトリアは理解した。少し逡巡して、彼女は腰の剣を足元の草むらに置き、言った。

 

「私の名はアルトリア。アルトリア・ペンドラゴン。花の魔法使いから頂いた手紙に導かれて、貴方の元に辿り着いた。私は自分が何者なのか、王になった日に教えられた。私の父は三人いて、一人は育ての父親エクトル、一人は王としての父ウーサー、そして私の血の父親アマロ。もしも許されるならば、私も貴方の胸に抱かれたい。」

 

言葉を紡ぎながら涙を流し始めたアルトリアを、アマロよりも先にモルガンが手招いた。すり足でゆっくりと進みだしたアルトリアを、じれったく感じたモルガンとアマロが迎えた。

 

複雑怪奇な運命のより合わせにより、三者は一つの答えに辿り着いたのである。

 

彼女たちが運命の選択を迫られる前に、アマロは自らが沈黙してきたマーリンとの秘密を明かさねばならなかった。

 

全ては花の魔法使いとの純情と、彼の仄かな嫉妬から始まったことであることを。

 

 

 

 

 

 

 

 



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結末 ブリテン編完結

花の魔法使いマーリンの嫉妬は、些細なものだった。

 

元は自分と二人きりだったアマロが、生まれた二人の娘を可愛がりすぎたから、癇癪を起したのだ。

 

マーリンは腹を立てたが、その矛先は当然のように一歳にも満たない赤子に向かった。マーリンが掛けたのは、可愛い可愛い呪いだった。されど、それは所詮大魔法使いマーリンにとっての可愛い可愛いであり、実際は酷薄なものだった。

 

「僕の愛する人から、年を重ねるごとに遠く遠くに行きますように」と、マーリンはそういう呪いをかけた。

 

運命の修正力を利用した、自分にとっては都合がいいばかりの代物だった。

 

マーリンはその千里眼を以て理解していた。自身の隣にいるこの気の好い存在が、不思議なアマロという存在が、完全なる霊長史におけるイレギュラーであることを。そして、自分なら運命の修正力に彼を奪われることなく付き合い続けられると。

 

人間と夢魔の感性の違いが招いた、完璧な呪いによって恐ろしく違和感なくアマロは娘たちから遠く遠く離されていった。無論、彼は会いに行こうとするのだが、決まってマーリンは上手に言い包めてしまう。アマロも素直に言い包められ、時にはドラゴンの腹の底まで探しに行かせられた挙句、無駄足だったこともある。

 

しかし、結局はマーリンにも悪気などなかった。いつもの悪戯程度のつもりだったのだ。

 

 

 

 

マーリンの仕出かした呪いの副作用に、アマロが自力で気が付いたのは、ほんの数日前のことだった。魔法でしたためられた手紙を盗み見たことで、宛先がアルトリアという、明らかに自分の娘であること、マーリンがその居場所を本当は知っていたことを理解したのだ。

 

とはいえ、マーリンに悪気がないことなど百も承知の人であるから、叱るでもなく、なんとか自力で会いに行くことに決めたアマロは、こっそりマーリンとの愛の巣である貴き塔を抜け出して、古い知り合いである泉の聖女に、娘らを自分の元まで導いてくれるようにと願いこんだのだ。

 

泉の聖女はアマロと関係浅からぬ人であったから、また成長した彼との息子のことも見て知って欲しかったからと快諾した。因みにこの子の名前はランスロットと言う。

 

かくして、泉の聖女の協力と、それからマーリンが自分でしたためた悪戯の手紙が真を帯びた結果、モルガンとアルトリアはそれぞれの選択とそれぞれの運命を、もう一つの運命を掴み取り、自分の父親との再会を果たすことができたのである。

 

 

 

 

再会の経緯を父アマロから聞かせられた二人は納得したような、理解に苦しむような曖昧な表情をしばし浮かべていたが、それでも再会の熱が冷めやらぬのか再びアマロに抱き着いた。

 

二人を抱きしめ、おいおい泣き始めたアマロを見遣りつつ、泉の聖女が二人の愛されし子らに向かって言った。

 

「モルガン、アルトリア。貴女たちにはこれから、自分自身の運命を自分の手で選ぶ権利が与えられます。自分を救う決断をするもよし…既存の運命通りに、他を救い…救い得るかは別として運命に抗い、戦うこともよし。貴女方の運命は、貴女方の為にあるのです。どうか、慎重に選びなさい。」

 

泉の聖女の言葉に真っ先に反応したのはモルガンだった。

 

「私は、私は父と、この人と共に生きたい。その為の運命を選びたい。一度は王になるものとして育てられた私だったが、少なくとも天は、神はそのことを望まなかったではないか。私は、我が伴侶とともに暮らしたい。願わくばこの静かな泉のほとりで、この運命のほとりで暮らすことを許してほしい。」

 

モルガンは切々と泉の聖女に語り、静かに頭を下げた。

 

泉の聖女はモルガンの言葉に頷き言った。

 

「もしも、貴女が望むのならば、是非ともこの泉の近くで暮らしなさい。私にもその人との間に生まれた息子がいますし、可愛がってもらえるなら近い方が都合がいいもの。それに、貴女が既存の運命を選んだとして、憎しみと魔法の道を選んだとして、そこに救いがあったのか、それは私にもわからないわ。だから、私は貴女のその、自らの心と体の安寧の為にも、この道を選ぶことを祝福しましょう。」

 

モルガンは泉の言葉に納得しているようだった。そっと父の方へ振り向き、それから天を仰いだ。父王への贖罪か、それとも報告か…いずれにせよこの日の空は何処までも高い晴天だった。雲一つない天の狭間に、何者も見ることはない。

 

 

 

 

モルガンの進路が定まった傍らで、アルトリアは悩んでいた。父の腕の温もりに抱かれていても、彼女の体を冷たくきつく縛り付けて放さない、騎士王の肩書がそこにはあった。

 

アルトリアは泣きそうな声で言った。

 

「泉の聖女よ、私はどうすればいいのかわからない。願わくは、このまま腕に、温もりに抱かれていたい。しかし、現に私の身を縛る鋼鉄の鎧と騎士王の冠は重く、また鋭い。私はこの鋭利なものに心臓を打ち付けられてしまっていて、またその剣に伴う名誉と祝福に、その誘惑に一度屈してしまった。快楽を享受しなかったと言えば嘘になる。だから、私はどうすればいいのかわからない。私は嘱望されている。英雄にされてしまった。私は神の遣わしたものとして、でなければこの剣をあんな偶然に抜いてしまうこともなかっただろう。だが、あぁ、この何者でもないアルトリアとして旅をした数日間が余りにも今の私には心地よい。これを捨てて、私は王になどなりたくない。精一杯、椅子に腰を収めていても、私が何かを変えられたことはなかった。私は王でもなんでもなかったはずなんだ。私は村で畑を耕して、そうして偶に耳にする英雄譚に心躍らせる、そんな無数の誰かの一人に過ぎなかったはずなのだ。この運命の分水嶺に立ち会って、私は願わくば、ただの一人の人間に、アルトリアに戻りたいと思う。」

 

アーサーの訴えに応えたのはアマロだった。

 

「世界には運命というものがある。その通りに進んで救われるものもいれば、救われない人もいる。忘れ去られて、最早誰にも顧みられない人にとって、結局のところ運命とは余り居心地の良いものとは呼べないだろう。その運命の為に導かれ、惨たらしい死に埋没することを余儀なくされるものにとって、運命の脇道を見出すことは救いになりうるのではないだろうか。もしも、そこに救いがあり、その救いを選ぶ権利を有するのであらば、その道を選ぶことの、何が悪いのだろうか。何を、誰がどうして許さないと、そんな風に言えるのだろうか。一巡した運命があるように、僕の存在理由はその一巡した運命に、二巡目で救いを、脇道を齎すことなんだ。誰かが救われたように、救われなかった者をも救われる時が来る。そのために僕はここにいて、そうして君たちが選んだ脇道の先で待っていたんだ。僕は選ばれない限り、生きていても仕様がない。けれど、選ばれる限り、望まれる限りどんな困難や障害があっても、この道の先で君を待ち続けるんだ。救いが君たちに齎されるとき、その時こそ、僕にとっての、僕の存在が救われるときなんだ。だからアルトリア、もしも君が望むなら、この手を取って欲しい。この手を取った瞬間、君は英雄ではなくなるだろう。伝説ではなくなるだろう。いずれ、どこかで語り継がれるにしても、それは英雄譚の中に刻まれるような美辞麗句では綴られることのないものだ。けれど、君は、今の君は生きている。君は今、生きているんだ。死後、君は君を幸せにすることも、君が君を認めてあげることもできない。誰が何と言おうと、君は君の生を選ぶ権利があるんだ。君が救われなくて、どうして、誰が救われるというんだろう。僕にはわからない。」

 

アマロの言葉に、アルトリアは悲しいような悔しいような嬉しいような…喜怒哀楽の入り混じった複雑な表情を浮かべた。

 

そして、青草の上に捨て置かれた選定者の剣に目を遣り、それから自分を真正面から見据えるアマロと、自分を慈しみを込めた瞳で見守るモルガンを見遣った。

 

往復すること、二度、三度。忙しなく、彼女の中で葛藤し、迎合し、妥協し、研ぎ澄まされるものがあった。連綿と、背負われてきた憂いをゆっくりと、丁寧に剥がしていく、その道程は険しく、また冷たく痛みを伴うものだった。

 

冷や汗さえ浮かべながら、涙をためて目をつむり、懸命に前へと、道を切り開こうと口に、舌に意志の鼓動を伝える。蠟燭に灯されたか細い炎のような、今にも吹き消されてしまいそうなその希望を、曇りなく安寧に満ちた影の中への歩みを支えるように、アマロとモルガンの手がそれぞれアルトリアの左右の手を握った。アマロが肩を抱き、モルガンがこめかみとこめかみを抱き合わせて、彼女を勇気づけた。

 

アルトリアは泉の聖女に言った。

 

「私は、王には戻れない。戻りたくない。このまま、誰にも後ろ指さされずにここで二人と暮らしてゆきたい。誰のことを傷つけるわけでもなく、ここでただのアルトリアとして生きていきたい。その為には、このカリバーンが、選定者の剣が煩わしい。この剣に、この剣が私を縛り、苦しめる。その責務を放棄した痛みは消えないが、向き合うことさえ許されないのは御免なんだ。どうか、泉の聖女よ、この剣をどこか遠くへ。私が王だったその証を、どこか遠くへ。」

 

アルトリアの言葉を受けて。泉の聖女はにっこりと笑って言った。

 

「よく決断しました。私は否定も肯定もしませんが、貴女が選んだ道の先に安息がありますように。貴女の願いを聞き届け、剣も、マントも、全てどこか遠く、貴女の心も体をも煩わせない何処かへと運んでしまいましょう。さぁ、私の宮殿に、螺旋の下へとお投げなさい。」

 

聖女の言葉に従って。アルトリアはカリバーンを泉の底深くに投げ込んだ。

 

選定者の剣はどこか遠くへ流されてゆき、二度と彼女たちの前に現れることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 



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番外 晴天

泉の畔に暮らすアルトリア、モルガン、アマロ、それから時々マーリンとランスロットの一家。彼らの元に新しい家族が加わったのは、運命の分水嶺、あの日から約三年後の出来事であった。

 

アルトリアとモルガンの血を元に魔法で創造された大きな卵を、アマロが大切に大切に温めて孵した子供だった。ドラゴンの血の強さゆえか赤が燃えるように映える美しい金髪を持ち、また両方の母親の青い瞳に、父親の漆黒の瞳を一滴垂らしたような見事な碧色の瞳に恵まれて生まれてきた。

 

彼女の名前はモードレッド。アルトリアとモルガン、そしてアマロの愛娘であり、マーリンが魔法術の粋を集約した末に生んだ最高傑作であり、連綿と続くドラゴンの血が最も色濃く遺伝した、伝説的神秘の生命体である。

 

美しい容貌と気高い精神を持ち、そのままに伸び伸びと家族の愛に育まれた彼女は立派な青年に成長していった。

 

血から漲り、有り余る好奇心に任せて、ある日彼女は遠出をする。家のある泉からは遠く西へ西へ。

 

そして一休みするために立ち寄った西方の淀みで、彼女は一振りの剣を見つけたのだ。

 

 

 

 

岩に突き立つ剣。木々が撓り、淀みを囲んで呑み込むように生えている。草木は剣の真上だけぽっかりと空虚になっていて、頂点に達した太陽が齎す陽光を一矢として、その狭間から注いでいた。剣が一段と高い場所で聳えていた。剣に注ぐ光は、一直線に揺れ動き、なんと目撃者たるモードレッドにも、その運命を示唆するように注いだのである。

 

不思議な光に背を押されて彼女はその剣に触れたのだ。

 

瞬間、剣はビリビリと振動し、ドクンドクンと明滅しながら脈動した。

 

そして、岩を破砕して飛び上がると、モードレッドの意志とは関係なく、彼女はその剣を天に向けて掲げる格好になった。

 

須臾、沈黙の彼方から暗雲立ち込め、轟轟と風唸り、矢の如く凄まじい雨に手綱引かれて、爆雷のような稲光がモードレッドの直上で吼えた。

 

剣の意志。それを感じずにはいられなかった。

 

 

 

 

モードレッドは猛烈な雷と雨風の中で両親の話を思い出していた。彼女たちが出会い、結ばれるまでの物語を。魔法と剣と汗と泥と血の物語を。決して美しくはない物語を。この世界で生きる者の勇気の物語を。

 

そして、その物語を知っていたからこそ、両親を愛していたからこそ、モードレッドは吼えた。吼えることを理解し、そのままに、何時かアマロと交わった偉大なるドラゴンのように、その血の連綿たる威容を解き放ったのだ。

 

「お、オレは…オレはッ!!運命には囚われない!!オレの生はオレが決める!!オレは母上と父上と一緒に暮らすんだ!!天よ!!貴様の望むままにオレは王にはならねぇ!!オレをさっさと、放しやがれぇえええぇぇぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇッッ!!!!!!」

 

「るぅううぅううがあぁぁぁあぁぁぁッッ!!!グオォォォォォォンッッ!!!!!」

 

咆哮。のち、晴れ。

 

駆け抜ける紫電の閃光は天空にとぐろ巻く分厚い曇天を引き裂いた。天穿たれて天気雨来る。

 

さらさらと肌に残った汗を洗い流すように、清廉の雫がモードレッドの肌を伝った。湯気を全身から立ち上らせて、彼女はぐったりと、しかし爽快にも芝生の上に寝転んだ。

 

繁茂した青草の上に腰を落ち着けると、見上げれば月が出ていた。いけない。門限を過ぎている。

 

ひょこっと身を上げて、モードレッドは駆け足で泉の畔の家に向かって走り出した。

 

遺ったのは半ばまで砕け散った剣だけ。静かに、誰に引き込まれるのやら、淀みの中に沈んでいった。その様を誰も見る者はなく、また誰も知る事はないだろう。

 

 

 

 

 

泉の畔の家では、アルトリアが夕飯の準備をしていた。モルガンに習いながらではあったが、少しずつ家事スキルが上がっていた。今日は昨晩のシカ肉を焼いたものの残りをぶつ切りにし、貰い物の獣乳を使ったシチューに入れるようである。

 

モードレッドの帰宅に、二人の母親は息の揃ったお帰りの言葉を添えて、全く同じタイミングで振り返った。

 

「ただいまー!母上!父上!あのね、聞いてよっ!今日凄いことがあったんだよ!」

 

「おかえりなさいモードレッド…あと、母上ではなくママだと何度言ったら分かるのだ。」

 

「まぁまぁ、モルガンもそこまでにして…手を洗ってきなさい。お父さんはもう少ししたら泉での行水から帰ってくるから。あ…あと、私はお母さんだよ?」

 

「はーいモルガンママ、アルトリア母さん!じゃあ、オレも父さんと一緒に水浴びてくるねー!」

 

父の不在に気付いたモードレッドが泉まで行こうとすると、マーリン直伝で開花した魔法の才能を十全に活用したモルガンが娘のことをふわりと浮かせたまま注意し始めた。夫と一緒に水浴びなど、十年早いと言いたかった。泉が鼻血で真っ赤に染まってみろ、きっとマーリンには笑われるし、ランスロットは故郷が血まみれだと泡を吹くに違いない。

 

「まったくッ!アルトリアはあの子に甘い。あとそれはダメだ。パパが上がってからにしなさい。」

 

「そんなことありませんよ。あと、お父さんと一緒に入るのはダメ。ランスロットおじさんと入るのはもっとダメね?」

 

「ランスロットおじさんとは一緒に入りたくないよ!」

 

今は自分探し兼婚約者探しの旅に出ている、この場にはいない騎士に向かってひどい言い草である。因みにランスロットは泉の聖女がアマロに返しそこねた剣を掘り出し物だと勝手に持って行ってしまった。

 

さて、賑やかな夕飯時が近づいていた。暖炉で揺れる炎が温かい音と色、そして温度を家族の為に演出していた。

 

三人が着席するころ、四人目が行水から帰ってきたようだ。不器用故、釘の打ち間違いで建付けが悪い扉がぎゅむぎゅむっと鳴った。

 

三人が扉の方を向くと、扉の閉まる音と共に男がモードレッドを認めて言った。

 

「上がったよ~…あ、おかえりなさい。モードレッド。」

 

「ただいま!父さん…あ、あの、服、着たら?」

 

男は上裸だった。

 

 

温かい家の様子を万物を見通す宝玉で見守りながら、マーリンは思った。

 

「今度は僕も、ご招待願おうかな。それはさておき、そういえば僕たちの出会いの時も、君は裸だったっけ。」

 

懐かしい記憶に想いを馳せながら、膝の上のもこもことした白い獣を撫でていると、宝玉の中ではアマロも服を着て、四人が夕食を食べ始めたようだった。

 

香ばしいパンと肉の味がしっかりと利いたシチュー。その美味しそうな匂いと楽し気な様子につられて、間もなく尖塔を飛び出したマーリンが四人のお家で相伴に預かるのは遠くない未来のことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 









これにて本作は一旦の完結とさせていただきます。書き足りない部分は拙作『鈍として青く』へ引き継いで参ります。此処まで読んで下さり誠にありがとうございました。長くお付き合いいただきましたこと心より感謝申し上げます。


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