吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい (ボンゴレパスタ)
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吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい
むせかえるような煙に、あたりにバケツからひっくり返したように散らばる瓦礫の山。この杜王町の一角は、まるで地獄を書き写したようなありさまだった。
そしてそこには4人の男たちが傷だらけの1人の男を詰問するように取り囲んでいた。
もっともこの場合、自身の快楽に身を任せた大量殺人という罪を、年端もいかぬ中等部の少年をあまりにもむごたらしく命を奪ったという罪を重ねた罪人を裁く断罪の場といったほうが正しいだろう。
スカしたスーツに身を包んだ罪人は、自身の置かれた窮状を打開するために卓越した頭脳をフル回転させていた。
「テメーがしげちーを殺した殺人鬼だな」
罪人を取り囲んでいた男たちのうちの1人…頭をリーゼントに固めた学ラン姿の少年は、両目にその罪人をとらえると瞳に怒りの炎を宿らせて一歩近づいた。
「仗助!気をつけろ!」
彼の横にいた、ブルドックのように凶悪な顔をした、ポンパドールの髪をした学ランの少年が声をかけて注意を促すと、仗助と呼ばれたリーゼント頭の少年の足は、忠告を聞き入れてピタリと止まった。
東方仗助に虹村億泰…
先程死闘を繰り広げ、致命傷を与えたはずの広瀬康一と空条承太郎も東方仗助の手によって、あっという間にその傷は治癒し、私の前にこうして立ちはだかっている。
杜王町に長年巣食い続けたこの男…吉良吉影。およそ十数年もの間、誰にも知られる正体を悟られることなくひっそりと、自身の快楽を満たすためだけに何の罪もない人々を手にかけてきた、殺人鬼。
彼は自身の目の前に広がる、絶対絶命の状況を前にしても、取り乱したり命乞いをしたりすることはせず、ただおもむろに口を開いた。
「私の敗北だ…どうやらもう熟睡できないらしい」
吉良吉影という男は、「平穏に生きる」という信条を胸に生きてきた。激しい喜びや、絶望がない平穏な人生を。植物の心のような、そんな人生を。
「人を殺さずいられない」という醜悪な性を持ちつつ、その相反する思いを常に抱き続けた。そしてこの状況でも、吉良はその願いを諦めることは決してしなかった。
吉良はつぶやくと、ためらいもせず自身の左手を見えない何かで断ち切る。血潮が噴き出し、腕から切り離された左手は音もなく地面に落ちた。
殺人を犯さずにはいられないという性を抱えながらも平穏に生きたいという歪な念を抱えた男の執念からもたらされた行為に、一同は驚愕の声と表情を浮かべた。
「シアーハートアタック…私を守るんだ」
苦悶の表情を浮かべた吉良が言うと、既に彼のものではなくなった左手から何かが飛び出る。吉良を取り囲んでいた一同はその何かが視界に入ると、それを警戒するように身構えた。
一同が左手に気を取られているその隙に、吉良はその場から足を引きずりながら離れていった。
自身の手首から先がなくなった左腕にネクタイを強く締め付けながら、吉良は壁伝いに血を残して這いずるように歩いていた。
…平穏に生き延びてみせる
視界が霞み、全身は隈なく激痛が走り回っている。
きっと東方仗助たちは自分のことを必死に追いかけてくるだろう。状況は依然変わらず吉良にとっては逆風が吹きつけている。
それでも。そんな状態であっても、吉良は決して「生き延びる」ことを諦めていなかった。
目的地は決まっている。あとは私のコピーを探すだけだ。確固たる邪悪な意思を抱え、吉良は一歩ずつ確実に歩みを進めていた。
…その時だった。
「大丈夫ですか?」
そう声をかけてきた間抜けが一人。よく見れば背恰好も私とよく似ているようだ。
どうやら運は、この吉良吉影に味方してくれているようだ。
……こいつにしよう
悪魔は獲物を見定めるとほくそ笑んだ。
仗助の能力によって、離れたはずの左手はその持ち主の元へと戻っていく。一同はその宙に浮いて持ち主の元へ戻っていく左手を追っていたが、そのたどり着いた先に男たちは驚愕した。
「エステシンデレラ!?」
杜王町に構えるエステ店、「エステ・シンデレラ」…この店の店主である辻絢は仗助たちの仲間として、杜王町に蔓延る吉良の行方に注意を払っていた1人だった。
彼女が危ない。
直感が働いた男たちが、急いで店内に足を踏み入れると、そこには顔を失った男の死体と、辻絢が既に虫の息で倒れていた。
「辻絢さん!どうしたんだ!」
仗助の問いかけに、口から血を吐き出しながら辻絢はゆっくりと上体を起こし、途切れ途切れに言葉を続けた。
「…吉良は別人になった。背恰好が似た男に……」
つまりこの男の遺体は吉良のものではなく、その運の悪い被害者のものということになる。吉良は逃走の途中に自身と似た背格好の男を見繕ってここまで連れてきて、辻絢のスタンド能力で無理矢理顔を交換させたというわけだ。
辻絢は口から血を吹き出しながらも、なんとか上体を引き起こし口を開いた。
「奴の…入れ替わった奴の顔は……」
……カチッ。
そこまで言った彼女だったが、続きの言葉を紡ぐことは叶わなかった。
無機質なスイッチ音が部屋に鳴り響いたかと思うと、彼女の体は、最後の言葉は爆発によってかき消された。
爆風によって身体は部屋の隅に叩きつけられ、一同は顔を顰める。爆風が落ち着き、部屋の様子が再び確認できるようになったが、そこにいたはずの辻絢と、男の死体は跡形もなく消えてしまっていた。
「あ、あれは!!」
吉良の元へと戻ろうとする左手は、ドアが半開きとなった店の裏口から外へ出ようとする。
一同はそれに気がつくと、左手を見失わないように裏口に向かって走るが、一歩遅く左手は裏口から外へと飛び出していった。
ドアを開けて左手の行方を追おうとした一同だったが、ドアを開けた瞬間に驚愕の表情に染め上げられることになった。
裏口から繋がっている外は、帰宅ラッシュのサラリーマンたちでごった返していて、とても吉良はおろかその左手さえも追跡することもできなかった。
「吉良吉影はどいつになったんだ……!」
「これじゃあ、探すのは……」
一同の動揺をよそに、康一は雑踏の中央にまで走り寄ると、恐らく自分達を遠巻きに見ているであろう殺人鬼に向かって大声を上げた。
「吉良吉影ーー!卑怯だぞ、出てこいーーー!」
少年の心痛な叫びは、周囲からの奇異なものを見る視線に晒されながら、虚しく雑踏にかき消されていく。
「逃げ切りやがった……」
彼らはあと一歩のところで、辻絢に気を取られて、裏口から持ち主の元へと戻った左手と共に殺人鬼の足取りを失った。
数日後、悪魔は善良な市民の皮をかぶって、別人として新たな人生を送っていた。
真っ黒な髪を撫でつけたオールバックの髪形に、その色を流し込んだような漆黒の瞳。
……新たな名は川尻浩作。28歳の一人暮らし。どうやら日本トレーディングセンターM県支部のトレーナーとして勤務していたようだ。
この世界には人と似ているようで異なる容姿をした生物である「ウマ娘」という生き物が人と共にこの社会で生きており、その特徴である驚異的な身体能力を用いて彼女らが出場するレースは、日本において大人気の競技として一大ムーヴメントを引き起こしていた。
無論吉良にとっては興味のない話であり、あのしげちーとかいう始末したガキが言っていた言葉を借りるのならば、「スタンド」という特別なギフトを持っている自身にとっては、彼女たちも自身の獲物の中の一部だという認識でしかなかった。
しかしながら、職務に携わる人間に成り代わった以上はそうもいかない。トレーナーをしている川尻浩作が途端に業務に支障をきたすようになれば、怪しまれるリスクがある。
周囲から違和感を抱かれることがないように、吉良は急いでその知識を死に物狂いで取り込んでいた。
幸い川尻浩作の家にあったトレーナーという職業に関する資料や、自身が日ごろ心がけていた健康法やストレッチをはじめとした様々な医学知識、そして学生の頃に周囲に溶け込むためにやっていた陸上競技の知識も相まってなんとか周囲には疑問を抱かれずに職務に全うしていた。
「ちょっと、川尻君。」
自身の職場にある席に腰を落ち着かせると、上司であろう男に呼び止められた。なんの用だろうかと疑念を抱きつつも上司の部屋に招き入れられ、対面に座ると男はおもむろに口を開いた。
「川尻君に朗報だ。君が前から出していた中央への異動の希望、そして最近の勤務実績が認められて中央への移動が認められたよ」
「……中央?」
「そうだ。東京都府中市内にあるURA育成期間、日本ウマ娘トレーニングセンター学園…通称トレセン学園。君はそこに今月付で異動が決定した。」
なんてこった。生前の川尻浩作はどうやら向上心の強い男だったらしい。本当は職務に慣れているか自信は無いし、何より生まれ育った杜王町からは離れたくない。
しかしながらこの異動には利点があるのも事実だ。
新しい職場に移動となれば人間関係をリセットすることができるし、違和感を抱かれるリスクはかなり減少する。そして東京に移り住んでしまえば仗助達の目をかわすことができるはずだ。
私は生まれてから今まで、杜王町を出ようとは思ったことなど毛頭なかったが、致し方あるまい。
覚悟を決めると、吉良はゆっくりと口を開いた
「ありがとうございます、慎んでお受けいたします」
こうして吉良の、新たな生活は始まった。
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吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい2
新幹線に揺られて2時間と少しばかり。車体が減衰しながら小刻みに揺れ、やがてアナウンスが車内に響き渡った。
「本日も東北新幹線をご利用下さいましてありがとうございます。この電車は〇〇号東京行、まもなく終点東京に到着になります。お忘れ物のないよう、お支度ください。」
やがて車体が停止すると、車内の席に座っていた吉良は徐に立ち上がり、席の上のスペースにしまっていた荷物を下ろし、ドアの方へと向かって行った。
それからしばらくして、府中駅から徒歩しばらくの距離にある、広大な敷地を有するウマ娘の育成機関として国内最高峰の機関である日本ウマ娘トレーニングセンター学園…その学園の仰々しい表札が掲げられた校門の前に吉良の姿はあった。
…はぁ
重々しく、そして心に秘めていた苛立ちを端的に表すその一つのため息が口から溢れると、彼は独り言を呟いた。
「東京ってやつはまったく騒々しくてまいる…」
暮らしていたM県も、東北の地方都市として地方の中では1番の賑わいを見せていたが、ここはその比ではない。新幹線に乗って東京駅に降り立った時にその人の多さに、そしてその騒々しさに生まれてこの方杜王町をほとんど出たことがなかった吉良は舌を巻くことになった。
普通に歩いているだけで、誰かとぶつかりそうになり、辺りからは雑音がひっきりなしに鼓膜を震わせる。
これからこの騒々しさにはなれなければならないと思うと、体の中で胃がきりきりと痛み出すのを感じて吉良は顔をしかめた。
「これから新たな場所での生活だな、吉影」
ふいに自身の胸ポケットからしわがれた声が聞こえる。
「まったく災難だよ、親父」
胸ポケットから自身に声を掛けたのは、私の父、吉良吉懬だった。もっとも私が21の時に、彼は病気で死んでしまったが。
親父も私と同じ特別な能力を持っていて、死んだ後は写真に写った幽霊として、写真に写った空間を支配する能力を使い、自信が写った写真を拠り所として生活を送っていた。
親父は私の持って生まれた性を理解していて、ことあるごとに助けてもらっていた。先日の一件でも仗助たちに足がつく前に連絡し、事情を説明したうえで助けとして東京に共にやってきた。
合流する前に別人となった私の痕跡を探すために仗助達が家にやってきたようで、親父とひと悶着あったようだが、隙をついて私の能力を引き出した矢を持って逃げ出したことを合流した後で聞かされた。
今でも写真の縁に画鋲で突いたような穴が広がっていて、裏にはテープを剥がされた後が見受けられる。見たところ相当手酷く仗助たちにやられたのだろう。
それでも私への追跡を躱すために、親父は私が東京に向かうまでの間に杜王町にいた人々に矢を使ってスタンド能力を持たせ、私のことを追う奴らに差し向けるように手配をしていた。
これで奴らも私が杜王町から出たとは思わないだろう…仮に仗助たちが自身が既に杜王町にいないことに勘づいても、時が経過すればするほど、奴らが私の元に辿り着く可能性は低くなっていく。
「これからは奴らに目を付けられないように人を殺すのは抑えなきゃならんぞ、吉影」
ここに定着する以上、しばらくは仗助たちはもちろんのこと、周囲からも怪しまれないように生活を送らなければならない。そのためには殺人など御法度であることは頭では分かってはいるのだが、改めて人からそのことを指摘されると、フラストレーションが風船のように膨らんでいく。
昔からどうしようもないこと、ままならないことが目の前に立ちはだかると無性に爪を噛みたくなる。胸にしみ込んだ黒い染みを取り払うように頭を振ると、突然自身を呼び止める甲高い声に気が付いた。
校門の向こうから緑色の制服と帽子に身をまとった女性がやってくるのが見えた。小さく見えていた彼女もあっという間に吉良の目の前にやってくると、雪解けごろの太陽のような、朗らかな笑みで声をかけてきた。
「M県支部からいらした川尻トレーナーですね?トレセン学園へようこそ!理事長秘書の駿川たづなと申します!」
「よろしくお願い致します。M県支部から参りました川尻浩作です」
社会人としての社交辞令をすませると、たづなは笑みを崩さぬまま口を開いた。
「早速なのですが、川尻トレーナーには二人の人物にあっていただきます!まずは一人目、学園長のもとに案内いたします!」
長い廊下を歩き、ひときわ重厚な扉の前でたづなは立ち止まると、こちらを振り向いた。
「ここが理事長室になります」
扉を2回ノックすると、幼い声で「入り給え!」という声が聞こえるとたづなと吉良は部屋に足を踏み入れた。
理事長室の中は荘厳なつくりとなっており、その奥には頭に猫を乗せた少女が座っていた。
「歓迎ッ!トレセン学園にようこそ!私は本学の理事長、秋川やよいだ!」
こんな年端もいかぬ少女が理事長…?
頭の中に浮かんだ疑念と呆れが顔に出ないように必死に勤めながら吉良は言葉を紡いだ。
「よろしくお願いいたします…M県支部から参りました川尻浩作です」
「うむ!M県で前々から中央への異動を希望する前途有望なトレーナーがいると聞いた!ウマ娘のため、それを支えるすべての人々のため、できることは惜しまない所存だ!」
どうやら私を中央へ異動する運びとなったのは、彼女の差し金のようだ。ならばここは下手に出ておくのが正解だろう。
「本当にありがとうございます…すべて秋川理事長のおかげです」
「期待ッ!これからウマ娘のために尽力してほしい!」
なんとか最初の挨拶では相手に疑念を抱かれずに済んだようだ。ここに長居は無用だ、さっさと切り上げて次の場所に向かおう。
その時だった。理事長の頭の上で眠りこけていた猫が目を覚まし、吉良に真っすぐ視点を定めた。すると火に触れたかのように頭から転げ落ち、その小さい身体を精一杯こわばらせて威嚇を始めた。
シャーー!
「ど、どうしたんでしょうか…?」
「驚愕ッ!今までこんなことはなかったのに!」
……これも野生の本能というやつだろうか
人間と違って犬や猫は理性ではなく、本能で相手の如何を問う。時々このように犬や猫から恐怖の念を抱かれることはあった…それは偏に自身のうちに秘めているものを感じ取ったからだろう。
理事長とたづなが異様な光景に驚き、猫に気を取られている隙にその忌々しい猫に向けて殺意をむき出しにしてやると、潰れたカエルのような情けない声をあげて窓から飛び出していった。
「たづな!私は猫を探さなければならない!川尻トレーナーの案内の続きを頼む!」
そう叫ぶと理事長は扉を開け、外へ飛び出していった。
二人目に案内された人物は、その人物の元へ行くまでにたづなから受けた説明によると、本学の生徒会の会長らしい。
たかが一生徒になぜ挨拶をと思ったが、どうやらトレセン学園の生徒会は他の学校とは組織図がかなり異なるようで、生徒会と、その頂点に立つ彼女の影響力、そして権力はかなり絶大なもののようだ。
少女が理事長の学園だ。例え老婆が生徒にいても驚くまい。
吉良はもはや理事長と対面した以上、驚くことはせず淡々とたづなの説明を聞くことに徹していた。
やがて生徒会室と書かれた部屋の前に立ち止まり、ノックをすると今度は凛とした声で入室を促す声が聞こえたため、扉を開くとそこには先ほどの理事長とは対照的な理性的な眉目秀麗な女性、もっとも人と大きく違う点として特徴的な耳と尻尾がついてはいたが、まるで皇帝のような覇気を放って席に座っていた。
「生徒会長のシンボリルドルフだ。これから君には前途多望なウマ娘たちと切磋琢磨することを望むよ」
彼女が放つ言葉の一つ一つに重みがある。数多くの修羅場を潜り抜けてきた吉良も、彼女が発する皇帝の威厳に一瞬たじろいだ。
こいつは一筋縄ではいかないだろう。
「この度はありがとうございます。M県支部から参りました川尻浩作です。トレーナーとしてウマ娘のために尽力することを誓います。」
シンボリルドルフはその言葉を受けると、目を細めて口を開いた。
「…時に川尻トレーナー。君は本学の教訓をご存じかい?」
「…Eclipse first, the rest nowhere、唯一抜きんでて並ぶものなし、でしたか?」
その質問は既に織り込み済みだ。川尻浩作に成り代わるのに際して、基本的なトレーナーとしての、そしてトレセン学園の知識は既に頭の中に入っている。
「その通りだ…君がこの言葉の通り一心一意ウマ娘のために尽くしてくれることをねがっているよ。…そのために」
「…そのために?」
一瞬室内に静寂が流れたかと思うと、彼女はやがて口を開いた。
「少し早いが、君には担当をみつけてもらう必要がある」
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吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい3
コンコン。
生徒会室に無機質なノック音が響き渡る。
「…どうぞ」
室内にいたシンボリルドルフが入室の許可を促すと、黒髪のボブカット、その目には一筋の赤いアイラインが引かれている凛としたウマ娘が入ってきた。
「やぁ、エアグルーヴ」
彼女の名前はエアグルーヴ。トレセン学園の生徒会副会長として、常日頃私の右腕として働いてくれている同志だ。
彼女はルドルフが執務中であることを確認すると、邪魔しないようにソファに腰掛けながら徐に口を開いた。
「お疲れ様です、会長」
「君もね。今日の業務はどうだったかい?」
「滞りなく終わりました…そういえば会長は今日異動してきたというトレーナーと会ったそうですね?」
「あぁ、彼か…」
「…その男がどうかしたのですか?」
機微に聡い彼女のことだ、世間話のつもりで振った話題の、私からの返答に含みがあったのをつぶさに感じ取ったのだろう。
まったく彼女には敵わないな。
エアグルーヴの訝しむような視線に観念すると、ルドルフは徐に口を開いた。
「いや、彼自体はまったく問題ないよ…ただ」
「……ただ?」
「聞き及んでいた印象と違った、というだけさ。こちらに来る前の彼は非常に明るい人物だと聞いていたんだ。……ただ、今日の彼の物腰は柔らかだが、何か凄みを感じたんだ。」
「凄み?」
トレーナーに抱く印象としてはあまりにも突拍子もないその一言。エアグルーヴが不思議そうに首を傾けると、ルドルフはその補足説明をするために口を開いた。
「あぁ、いくつもの修羅場を潜り抜けてきたような、その顔の裏に何か恐ろしいものを飼いならしているような…まぁただの直感というやつだよ。戯言として受け流してくれ」
皇帝が感じた川尻浩作への直感は、図らずも最悪の形で的中していた。尤も、彼女が及び知ることではないが。
疑念を振り払うように窓に近づくと下校時刻となりターフに向かう生徒の姿を眺めていた。ルドルフは彼にふっかけてしまった難題を思い返していた。
…そんな彼だからこそ、担当を見つけろという無理難題を与えてしまったのだろうか。
トレーナーとはいえ、地方から出てきたばかりの実績のないトレーナーに自身の競技者人生を捧げるウマ娘にはなかなか出会えることはないはずだ。
本来であれば新人トレーナーは、ベテランが率いるチームの補佐についてノウハウとキャリアを積み重ね、数年後に担当をつけるのが定石だ。
それについては重々承知のうえだったが、彼にはそれを可能にしてしまうような何かを感じる。
ルドルフはこちらを見つめるエアグルーヴのいる室内へ視線を戻すと、不敵な笑みを浮かべた。
さて、お手並み拝見といこうか
トレセン学園に異動し、業務を始めてから数日
杜王町にいたころには想像もつかないような驚きと疲労の連続が吉良に押し寄せていた。
一人で食堂のご飯を空にしてしまうほど大食漢な、北海道から来たという黒鹿毛のウマ娘
突然奇妙な色をした液体を飲ませようとする、実験狂いのウマ娘
シラオキ様?とかいう珍妙な神様の宗教勧誘をしてくるウマ娘
突然校舎にシールを貼りまくり、校内で焼きそばを売り始める頓智気な芦毛のウマ娘
働き始めてからたった数日だというのに、数々と目撃する驚愕の光景に吉良の精神はすっかりとすり減ってしまっていた。
カリ…カリカリ……
苛立っているからといって、獲物を選定することは御法度だ。今はまだ、周囲の人間に溶け込みきれていない。ここで下手に動いてしまえば、仗助たちに足取りを掴まれる恐れがある。
自身に割り当てられたトレーナー室で、自身に蓄積された疲労と苛立ちのはけ口として、吉良は自身の爪を噛み続けることでせめて気を紛らわせようと苦心していた。
ストレスの捌け口として、長時間噛み続けられた爪はひび割れ、血が噛んだ箇所から滲み出ていた。
気分転換に何か飲み物でも買うか。
こんな時には気分転換が必要だ。トレーナー室を後にして自動販売機まで歩みを進めていた、その時だった。
ドンッ!
「キャッ……!」
「………!」
出会い頭に誰かにぶつかってしまった。どうやら相手は尻餅をついてしまったらしい。相手はトレセン学園の生徒のようで、ずいぶん小柄なウマ娘だった。青色の帽子を被っており、長髪で片目が隠れている。
倒れた彼女は自分のことをみるとまるで虐待を受けた子犬のように怯え切った目で、すぐに立ち上がると私に謝り倒してきた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ライスのせいでまた不幸な人が…本当にごめんなさい」
なんだかよくわからないことを口走っているが、これではまるで私が彼女に何かしたようなじゃあないか…
吉良は尻餅をついてしまった彼女に膝をついて目線を合わせると、穏やかな口調で語りかけた。
「私の方こそすまない…不注意で君とぶつかってしまったよ…怪我はないかい?」
彼女が私の問いかけに首を縦に振ったのを確認する。すると吉良は手を差し伸べて彼女を立たせ、お詫びにと言って彼女に自動販売機でニンジンジュースを買い与えた。
「それじゃ…」
ジュースをおずおずと飲み込んだ彼女の様子を確認すると、吉良はその場を立ち去ろうとする。そんな彼の背中に声がかけられた。
「あ、あの…!」
「…?」
去り際にそのウマ娘から声をかけられ、吉良はその足をとめる。一体何の用だろうかと訝しげに首を傾げる吉良をよそに、彼女はおずおずとその口を開いた。
「どうしてトレーナーさんはライスに優しくしてくれるの?」
ライス…?こいつの名前だろうか。何を意図としてそんなセリフを口にしているのかは分からないが、ここは気の利いたことでも言ってやるとするか
「なにを言っているのかよくわからないが、ウマ娘のために力を尽くすのがトレーナーの役目だよ」
そう言うと、吉良はその場を颯爽と立ち去った。
翌日、たづなから選抜レースの知らせを受けた吉良は、レース場にいた。
「生まれてこの方、この競技にまったく興味はなかったが…すごいなこの盛り上がり」
生まれて初めてレース場にきた吉良は、選抜レースといえどその盛り上がり具合に少々舌を巻くことになった。
「今日のレースには沢山の将来有望なウマ娘たちが出走するので、気になった子にどんどん声をかけてあげてくださいね!」
たづなにはそんなことを言われたが、片田舎から出てきたどこのウマの骨とも分からないトレーナーに、自身の競技者人生をささげられるようなウマ娘は滅多にいるものじゃあない
それに大前提として私の素性を悟られるようなことは絶対にあってはならない。もしもの時はそいつを私の能力で消してしまえばいいのだが、競技者として第一線にたつ彼女らが行方不明になってしまえば、それこそ承太郎たちに気づかれてしまう恐れがある。
それだけは絶対に避けなければならない。
シンボリルドルフのように勘のいいやつではなく、目立つことのないような、私に従順なやつを担当につけたいところだが…
そんなことを思っていると、やけにそそっかしい、やかましそうなウマ娘がやってくると、甲高い声で大声を発し始めた。
「ライスシャワーさん!ライスシャワーさん!もうすぐ出走ですよ!どこにいらっしゃるんですか!その学級委員長である私が探して差し上げます!ライスシャワーさん!」
…ライスシャワー…?あー、あのぶつかったウマ娘のことか
どうやら彼女も選抜レースに出る予定のようだが、姿が見えないらしい。
その後も何度も彼女の名前は呼ばれたが、結局その日彼女がレース場に姿を現すことはなかった。
全ての出走が終わり、残った業務をトレセン学園でかたづけると辺りはすっかり暗くなっていた。
今日のレースに出ていたウマ娘にある程度目星をつけながら、吉良は思考の波に身を投じていた。
…素人目ではあったが、競技というものはここまで厳しい世界だということか。
少しの間ではあったが、M県支部で指導に当たっていた吉良にとっては、中央のレベルの高さ、そしてその中でも名前を残すことができるものは一部であることに思うところがあった。
今日のレースだと、ミホノブルボンとかいうやつには何か凄みを感じたな
見たところ、スプリンター、マイラー適正が高いように思うが、トレーニングによっては彼女にはもっと成長する余地があるだろう…
そう思っていると、何か音が聞こえるのに気づいた。……どうやら誰かが泣いているようだ。
音の出どころを頼りに近づくと、そこにはライスシャワーがうずくまり、小さな体を震わせて涙を流していた。
「変わりたいのに、走りたいのに…だめなライス…グスッ」
「君、今日は選抜レースだったんじゃあないか」
吉良が声をかけると、ライスシャワーは素っ頓狂な声をあげてこちらにふりかえった。
「…ふぇ…え…あ、あなたは、このまえの?」
トレーナーとして気の利いた一言でもかけようと近づくと、その言葉をライスは遮った。
「それ以上近づかないで…ライスは不幸な子だから、ダメな子だから…だから変わりたかったのに、デビューしなきゃって思ったのに」
どうやらこのライスシャワーとかいうやつ、だいぶウマ娘として難があるらしい…だが、私が求める担当ウマ娘の条件にはかなっていそうだ。
人を疑わず、自責思考…精々承太郎たちの目をかいくぐり、川尻浩作としての生活のために利用させてもらおう。
「ライスシャワー君」
吉良は初めて会った時のように膝を曲げ、彼女に目線を合わせると、笑顔で彼女に語りかけた。
「君をスカウトさせてくれないか?」
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ライスシャワーは走りたい
デビュー戦を前日に控えたある日、ライスシャワーがターフの上を駆け抜けていく様を眺めながら、吉良は静かに思案していた。
…このライスシャワーというウマ娘、体躯は大分小柄だが、デビュー前で既にこの持久力。
どうやらステイヤーの素質がありそうだ。
デビュー戦を控え、まだまだ詰めの甘い箇所があるのは否めないが、彼女に眠る才能を上手く引き出してやることができれば…
そこまで考えたところで吉良はハッと思考の海からその足を引き上げた。
…この吉良吉影、今何を考えていた?彼女をどうやって芽を開かせ、レースで勝てるようにするのか、そう考えているのか?違う、こいつはただの承太郎たちからの追跡をかいくぐるための隠れ蓑に過ぎない…
するとちょうど走り終わったライスシャワーが、いそいそと吉良の元へとやってきた。
「おに…トレーナーさん、走ってきたよ」
「あぁ、ライス君。お疲れ様。先ほどより上がり3ハロンのタイムが上がっているな。上出来だ。しかしコーナーの処理がまだ甘いな。コーナーの時は歩幅を詰めて、ロスをなくすようにするんだ。」
「わかった!」
彼女自身も非常に呑み込みが早く、私が言ったことをすぐに実践する。素直な奴は嫌いじゃあない。
…まだ気になる点があるといえばあるが、明日は彼女にとって初めてのレース、あまり根を詰めて練習しても芳しい成果を得ることは難しいだろう。早めに休んで、英気を養うに越したことはない。練習を切り上げようとライスの方を向くと、吉良はその違和感に気がついた。
「…どうしたライス君?」
なにやら彼女の様子がおかしい。まるでライスシャワーは何か言いたげに、その手を何度も組み替えながら、もじもじとその場にとどまっていた。吉良の問いかけに顔を上げると、彼女はおっかなびっくりに口を開いた。
「あのね、トレーナーさん…ううん、何でもない」
「今日の練習はこれぐらいにしよう…明日はいよいよデビュー戦だ。今日はぐっすり寝るといい」
彼女の口から言いたくないのであれば、別段無理に聞く必要もないだろう。最も私自身がそこまで興味がない。
手に持っていたバインダーを閉じると、ライスシャワーの肩に手を置き吉良はそのままターフを後にした。
翌日、約束の時間になっても現れないライスに、吉良はしびれを切らしていた。
彼女は一体なにをやっているんだ…!これじゃあデビュー戦に間に合わないじゃあないか…
ここで彼女が出れないことになっては、私の管理不行き届きという評価に繋がることも十分にあり得る。今私がそう言った意味で…つまり悪い意味で目立つことは得策ではない。
承太郎は趣味が悪いと抜かしやがったが、自身の左腕に付けられた、独身の自分にとっては数少ない嗜好品である手元の腕時計で現在の時刻を確認していると、突然背後から大きな声で呼びかけられた。
「あ!ライスちゃんのトレーナーだよね!」
声をかけられた方向に首を向けると、そこにはピンク色の髪色をした少女が、その顔に満面の笑みを浮かべ、手を振りながらこちらに近づいて来ていた。
こいつは確か、ハルウララだったか…ライスシャワーと仲が良く、彼女と比較的一緒にいることが多いようだが。
吉良はライスの担当になったその日から、彼女の身辺を調べ上げて自身の正体に近づく恐れがないか否かを徹底的に確認していた。ライスの部屋の同室であり、読書仲間であるゼンノロブロイに、目の前にいる学友で友達のハルウララをはじめとした交友関係は既に仔細まで把握している。
幸いだったのが、彼女は別に嫌われているというわけではないのだか、フレンドリーであるというわけでもない。つまり、ほかのウマ娘たちと比較するとその交友関係は極めて限定的であり、これは自身がその正体を隠して生活を送る上でも非常に都合の良いことだった。
…全ては前回からの失敗だ。あんな目にあったが、あの失敗から学び取ったものも多くあることもまた事実だ。次は必ず上手くやってみせる。
「それじゃあ、行こうか!ライスちゃんのトレーナーさん!」
「……は?」
ハルウララは問答無用で私の手を引っ張ると、ぐんぐんと先に進んで行ってしまう。
「ちょ、ちょっとまて。ウララ君。一体どういうことだ!?」
「あのね、ライスちゃんが今朝からいないからみんなで探してたんだけど、ウララが寮の空き部屋でライスちゃんを見つけたときに小さい声でトレーナーさんの名前を呼んでたから、トレーナーさんに見つけてほしいのかなって!」
…彼女の話を要約する限り、どうやらライスシャワーの悪い癖がここで出てきてしまったようだ。彼女はここぞというときで踏み込めない弱さがある。大方選抜レースの時にバックれた時と同じ心境なのだろう。
これを克服しない限りは、彼女が競技者として大成することはできないだろう。吉良としてはこのまま彼女を放っておくこともできるのだが、今は不祥事を起こさない方が身のためだ。万が一M県支部に逆戻りとあっては、承太郎に追跡されるリスクがまた上がる。
「ちょっと待ちな!アンタなに入ろうとしているのさ!ウマ娘寮にはトレーナーは立ち入り厳禁だってことは、知らないわけじゃあないだろう!?」
思案していると、褐色肌のウマ娘にウララ共々寮の入り口で呼び止められた。
……彼女は確か、寮長のヒシアマゾン。女傑と名高いウマ娘である。彼女に訳を説明し、今回は特別ということで寮に足を踏み入れることを許可された。
ウララになすすべなく腕を引っ張られていたが、とある部屋の前で彼女は突如立ち止まった。彼女に礼を言って引き払ってもらい、その扉の前で耳をすませると中ではすすり泣く音が聞こえた。
「…ライス君、入るよ」
ライスシャワーが素っ頓狂な声をあげるが、吉良は入室を促す声を待たずに扉を開けると、そこには薄暗い部屋の中で大きな目に大粒の涙を溜めたライスシャワーの姿があった。
「おに…じゃあなかった。トレーナーさん…?ど、どうして……?」
「…訳を聞いてもいいかい?」
「…ライスね、変わりたかったの。弱い自分から、不幸な自分から。だから選抜レースにも出ようとしたのに…怖いの。レースに出て、ライスは変われないってことがわかっちゃうのが。…みんなを悲しませちゃうのが」
…彼女は彼女なりに思い悩んでいたということだろう。私には到底理解できないが。
理解は全くできないが、手放しにすることもできない。私の未来のためにも、ここで彼女には部屋に引きこもってないで走ってもらわなければならない。ならば私が彼女に取るべき行動は…
「ライス君」
吉良は決して笑みを崩さず、座り込む彼女の目線に合わせると、語りかけた。
「君の走りは、今回のデビュー戦におけるほかの出走者と比較しても遜色なく戦えるほど仕上がっている…」
だが、彼女が本当に求めているのはこの手の理屈的なの言葉ではない。もっと彼女の感情に揺さぶりをかけるような言葉をかける必要がある。吉良は笑みを崩さぬまま言葉を続けた。
「…私は君を信じている。君の走りを、君の未来を。そして君のすべてを。君が自分を信じられなくても、私がその分君を信じるよ。」
彼女に必要なのは、精神に訴えかける言葉。もっと精神の深みに入り込んで、盲目的に私に依存させる……私のことを決して疑わぬように
「…本当に?ライスのこと、信じてくれるの?」
拠り所を失った少女のもとに差し込んだ、輝かしくもどす黒い一筋の光に彼女は縋り付いてしまった。
……掛かったな。
どす黒い感情を押し殺し、吉良は毒に侵された彼女の手を取った。
デビュー戦を目前にしたら控室で、ライスシャワーは小さく震えていた。
…まだ手が震えている。怖い。負けてしまうんじゃないかって。
でも、ライスにはトレーナーさんがいる。トレーナーさんが信じてくれている。それだけで走りたいって、一歩踏み出したいと思える。前を向くと、きれいなスーツに身を包んだトレーナーさんがライスのことを見て微笑んでくれた。
――真っ黒で底が見えないけど、きれいな目。
「いってくるね…トレーナーさん」
長い通路を抜けて、ゲートの前に着くと、練習の時とは全く違う緊張感がターフの上を風と共に走り抜けていく。
一瞬の静寂の後、一斉にゲートが開く。
前方に位置を取って、展開を窺う。集団に挟まれないように注意しながら、最終カーブで外から抜け出せるように一気に足を踏み込んだ。
トレーナーさん、ライス変わりたいんだ。
弱い自分から、なにもできない自分から。一つ一つの意思が、確かな思いとなってターフを駆け抜ける力となる。
「外からライスシャワー!…ライスシャワー一着でゴール!デビュー戦を華々しく飾りました…」
レース場には1人のウマ娘の勝利を告げる実況と、それを祝福する観客の歓声に包まれた……
その日の夜、ライスシャワーが華々しくデビュー戦で一着を取った祝勝会を兼ねてトレーナー室で二人でお祝いをしていた。
せっかく勝ちを持ってきたんだ、なにか欲しいものでも一つ買ってやるとするか…
「今日のお祝いだ、何か欲しいものはないかい?」
吉良が尋ねると、ライスは恥ずかしそうに口を開いた。
「じゃあ…ひとつだけ」
「…?」
「トレーナーさんのこと、お兄さまって呼んでもいいかな?」
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アナタヲ・オイカケテ1
M県S市杜王町ーー東方仗助と虹村億泰、そして広瀬康一は、いつものようにオーソンの前で屯していたが、その顔はどこか浮かない様子だった。
「ーー吉良吉影、まだ見つからないの?」
「あぁ、あれから数ヶ月、まだ尻尾すら出さないらしい…承太郎さんはもう他所に居場所を変えたことも視野に入れて捜索してるらしいぜ…」
「でもよ〜、それなら今でもたまに俺らに襲いかかってるスタンド使いたちはどう説明すんだよ、仗助?ここに吉良が居るから、俺らを消したがってるんじゃねーの?」
3人が頭を悩ませていると話題を振り払うかのように、康一は向かいの電気屋にディスプレイされているテレビに映り込む映像の話題に切り替えた。
「あ、ウマ娘たちの話題がテレビでやってるよ、仗助くん、億泰くん!」
「あー、クラスの奴らも話題にしてたな、確かこの間東京優駿ってやつがあったんだろ?」
「トウキョウユウシュン…?んだそれ?」
「億泰くんたら…東京優駿っていうのはウマ娘たちのクラシック級に行われる三冠路線の内の一つのレースだよ!」
「確か一着になったのはミホノブルボンとかいうやつだったよな…次の菊花賞を取ったら三冠ウマ娘になれるんだろ?」
「メディアにも引っ張りだこで、今注目のウマ娘!って感じなんだよ!…ただ」
「ただ?」
「僕としては、2着だった子に可能性を感じたんだ!それこそ菊花賞あたりですごいこと起きるかもよーー
―――――てめーはもう逃げられないってことだよな~、吉良吉影!
自身の血がこびりついている体を見下ろし、前方にいる忌々しい東方仗助や空条承太郎たちをにらみつける。
――もうやつらに対抗する手段もない
「てめーの裁きは地獄の閻魔様にみてもらうんだな~!!」
――東方仗助のスタンド能力、クレイジーDの拳が迫ってくる
「うわあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
拳が吉良の顔面をとらえる直前、玉のような汗を全身に浮かべながら吉良はベッドから飛び起きた。
――なんて最悪な夢だ。熟睡もくそもないじゃあないか。
ベッドからずり落ちるように起きると、夜明け前の空を忌々し気に睨んだ。
「――おはよう、ライス」
「おはよう。お兄様」
デビュー戦以降、ライスシャワーは私のことをお兄様と呼ぶようになった。
どうやらライスの好きな絵本に出てくる登場人物になぞらえてそう呼んでいるらしい。
私も彼女との心の距離が縮まったと思わせるために、彼女のことを「ライス」と呼び捨てで呼ぶことにした。初めてそう呼んだ時の彼女の嬉しそうな顔を見れば、思惑は外れていなかったようだ。
「――ところでライス、昨日はよく眠れなかったのかい?」
「ふぇ?どうしてわかったの?」
「目の下のクマがすごいぞーーちゃんと眠ることもトレーニングの一環だ」
「実は怖い夢みちゃったの…」
「怖い夢…?」
「…お兄様と離れ離れになる夢。お兄様が急にどこかに行っちゃう夢…すごく怖かった」
ライスシャワーも悪夢を見たのか…そういえばこの間の職員会議で、トレセン学園で生活する人々が悪夢にうなされる、という報告が多く上がっていたな…寝不足でトレーニングに身が入らないウマ娘が増えているらしいーー当時は私もくだらない偶然だと思っていたが…
実際の当事者となった吉良は一つの可能性に行き着いた。
「…まさか、私のほかにもいるのか、この学園にも…」
目元にクマを携えて、力なく私の腕をつかむライスシャワーを見下ろす。
――先日の日本ダービーを二着で収め、秋の菊花賞に向けてこれから調整が必要なライスシャワーにとっても、悪夢騒ぎが続くのは悪影響だ。
仮にスタンド使いだったとして、その目的はなんだ?
まさかこの吉良吉影の正体を探る、ということはあり得ないだろうが無差別的に人に悪夢を見せるという行為の目的が全く見えない。
「いずれにせよ…避けては通れないということか」
写真の親父がかつて言っていた、「スタンド使いとスタンド使いはいずれひかれあう」という言葉を思い出しながら吉良は顔をしかめた。
――アナタヲオイカケテ…
――気づいたとき、吉良は茨の中にいた。
辺りを見渡すと、空が見えないほどの茨が辺りに群生していた。
――どうやらまたあの夢をみているようだ。
自身の置かれた状況を冷静に分析しつつ、吉良はここから移動しようとしたが辺りには茨がびっしりとおおわれており、とてもじゃあないが進むことはできない。
「仕方がないか…」
この夢を見せているスタンドは、何人にも同時に、異なった夢を見せている。
ということは、その行為自体だけでもかなりのパワーを消費することになり、一人一人の夢の中での状態を詳細に確認できるほどの精密さはおそらくないだろう。
――つまり、私の能力が明らかになることもないわけだ。
「キラークイーン!!」
吉良がそう叫ぶと、吉良の背中から禍々しいオーラが出たかと思うと、ロボットと猫を足して割る二したような、体の各部に髑髏の彫刻があしらわれた人型のスタンドが姿を現した。
そのスタンドの目からは、まるで生気を、感情を窺い知ることができない。
杜王町で15年もの間、表沙汰になることなく殺人行為を繰り返し、平気で他人になりすまして顔を変え、名前を変えて生活しているどす黒さを体現したかのようなそのスタンドは、吉良の元から離れると、少し先にあった茨を拳で振り払った。
キラークイーンで茨を振り払いながら先に進むと、どこかですすり泣く声が聞こえた。
音の出どころを探すと、茨で作られた繭のような中でライスシャワーがすすり泣いていた。
吉良が繭の中にいるライスシャワーに優しく声をかけると、ライスシャワーが顔を上げた。
「さぁ、ライス。ここから出よう」
――どうやらここはライスシャワーの夢の中だったようだ。
「どうしてお兄様がここにいるの?」
不安そうに見上げる彼女の顔に吉良が笑顔で語り掛ける。
「ライスのことを守るのが、私の仕事だからねーー」
そう言い切らないうちにライスシャワーが叫び声をあげた。
「お兄様!!危ない!」
そう聞くや否や彼女をかばいながら転がると、肩に鋭い痛みが走った。
攻撃を受けた方向を見ると、茨がうねりを上げながらこちらに向かっていた。
――どうやらこの悪夢野郎は、おとなしく帰してくれる気はないらしい。
「お兄様!大丈夫!?」
吉良の傷を見て涙を流しながら吉良を心配するライスシャワーとは対照的に、吉良の声はひどく落ち着いていた。
「ライス、危ないから私のそばから離れるんじゃあないぞ」
そう彼女に告げると、今にもこちらに届かんとする茨の攻撃を見据えた。
「さて…この吉良吉影がこの程度のことを予想していないとでも思ったか?ここらの茨の根、その出どころは一か所に集中していた…そこを破壊してしまえば」
そう言うや否や吉良はライスシャワーがいた繭に視線を向けた。繭は何十本もの茨を束にしたかのように太い茎に実るように付けられていた。
「キラークイーンはすでに繭に触っている。」
爆発から彼女を守るため、彼女に覆いかぶさると、すかさずスイッチを入れる。
その瞬間、けたたましい爆音とともに吉良達を襲おうとしていた茨もろとも、あたりを爆風で吹き飛ばした。
爆発が起き、残された場所にはしわがれた老婆のように黒ずみ、消し炭となった茨の残骸が散らばっていた。
吉良は袖についた煤を払い除けると、ライスシャワーに優しく語りかけた。
「大丈夫かい?ライス?」
「うん…これ、お兄様がやったの?」
「夢の中だからな…ライスのためだったらなんでもできるよ」
すると先ほど繭があった場所に、空間の亀裂のように穴が開いていた。
――どうやら穴の先にも空間が広がっているようだ。
「どうやら先に進むしかないようだな」
――アナタヲ、オイカケテ…
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アナタヲ・オイカケテ2
空間の亀裂を抜けた先の見覚えのある景色に、吉良は思わず呟いた。
「ここは、競技場…?」
ウマ娘たちが日頃の成果を見せるため、自身に打ち勝つため、自分や大切な人、応援する人の想いを乗せて走る競技場ーー吉良とライスが突然の出来事に戸惑っていると、後ろから不意に声が聞こえた
「あなた達、でしたか…」
声がする方に振り向くと、そこには黒い長髪の少女が佇んでいた。彼女の姿を認めると、ライスは驚きの声を上げた。
「カ、カフェさん!?」
カフェ…そういえば、彼女の友達にマンハッタンカフェというやつがいたような…彼女は割と有名人…もっとも、それは決して良い意味ではなく、ひとりで壁に向かって話したり、誰もいない場所に向かって喋りかけたりする姿が目撃されており、「不気味」なやつという認識だったが…
吉良はまっすぐ彼女を見据えると、言葉に堅さを持たせたまま話しかけた。
「マンハッタンカフェ君…だったかな?君が今回の悪夢騒ぎの犯人って事でいいのかな?」
吉良が彼女を見据え質問すると、カフェは小さく頷いた。
「その節に関しては本当に申し訳なく思っています、ですがこれには訳があるんです…」
「訳だって?」
「幼い頃から、私の側にはいつも「あの子」の存在がいました。私を走る世界に導いてくれた存在……元々、他者に危害を加えるような子じゃなかったんです……それが数ヶ月前から…それこそ、ライスさんのデビュー戦前後ぐらいから急に、人が変わったように走ることへの執着を見せ始めて…夢の中で一度あの子とレースをしましたが、全く歯が立ちませんでした…
……なんだって?つまり、彼女の言う「あの子」の豹変には、何か引き金があったということになる。考えられる可能性としては…
…私ということか
時期としても、私がトレセン学園にやってきた時期と一致するじゃあないか…
「私には夢を人に見せる能力があります…幼い頃から、時々自分がみたい夢を自分で見る程度の使い方しかしませんでしたが、彼女が私にも干渉を始めて、人々に悪夢を見せるようになったんです…悪夢を乗り越えた精神力の強いウマ娘を選ぶために…そのウマ娘と勝負するために…」
元来、ウマ娘は皆「勝ちたい」という執念の強い生き物だと聞いたことがある。即ち、それほど思いが強いと言える。そんな彼女らがスタンド能力を持っているとしたら…?スタンド能力の強さ、成長性は持ち主の精神力に由来する以上、その可能性はとてつもないものを秘めていると言っても過言ではないだろう。
ーそして、私がトレセン学園にやってきたこと。「スタンド使いとスタンド使いはいずれ惹かれ合う」という言葉にある通り、図らずも私の来訪が、スタンド使いである彼女の成長に作用するきっかけを引き起こしてしまう一因になってしまったのだろう。
「ーーそれで悪夢から次のステージ、つまり君の言うあの子とのレースにライスが選ばれたってわけか…」
「…ライス、走る。カフェさんのためにも、お兄さまのためにも」
昔の彼女であれば逃げ出すであろうこの局面。恐れながらも人の為に動こうとするライスシャワーも、少しは精神的に成長したというところだろうか。
「だが、ライスが走る相手の「あの子」?とやらはどこにいるんだ?幽霊的なものだったら私たちには見えないじゃあないか」
「…その点に関しては問題ありません」
そう言うや否やカフェの周りに何か異質なオーラが集まっていく。そしてカフェの中に入り込んでいったかと思うと、口を開いた。
「…コレデ、ハシレル」
…先程の彼女とは全く別人のオーラを纏ったマンハッタンカフェが口を開く。恐らく「あの子」が彼女の身体を間借りしてる、ということなのだろう。
「…確かに、それで勝負できるな」
ーー距離3000メートル、馬場良。
奇しくも秋に控えた菊花賞と同じだ。
あの子の横にたつライスシャワーは、その禍々しいオーラにあっという間に呑まれてしまいそうなほどちっぽけに感じるが、それでも彼女も日本ダービーをはじめとした様々なレースを潜り抜けてきたウマ娘ーーその足で、あの子に並び立つものとして立っていた。
ーーゲートが開き、2人が一斉に走り出す。
レース展開は、あの子の後ろにライスシャワーがぴったりと張り付いた状態。
予断を許さない、拮抗した状況に吉良も思わず息を呑んだ。
ーー前方にいるカフェさんから、すごい圧力を感じる。
いつものカフェさんの走りは後方で展開を伺って一気差し切る走り方のはずだ。走り方、息遣い、コース取りまで以前併走した時とはまるで違う。それこそ、別人のように…
ーー菊花賞に向けて、お兄さまが指導してくれた過酷なスタミナトレーニングのおかげか、ある程度冷静に、落ち着いて走ることができている。
最終コーナーに入り、まず最初にあの子がギアを入れ、それに続いてライスシャワーも加速に入る。
ーーあの子の驚異的な加速に必死に食らいつくも、ライスの顔には既に苦悶の表情が浮かび、その距離は徐々に広がりつつあった。
ーーライス、もう駄目…
結局、弱いライスのままで変わらないのかな…
そう心が折れかけた刹那、柵の向こうから大きな声が聞こえた。
「ライス!」
ーーお兄さまがゴールで待ってる。さっきはお兄さまに助けてもらったんだ。
ーー次はライスが頑張る番だ。
ーーなぜ自分でもそうしたのか分からない
ライスシャワーの懸命な走りに、吉良は声を上げずにはいられなかった。
「ライス!君なら勝てるぞ!ライス!」
声の限り彼女の名前を呼ぶ。
彼女に届くように、彼女の力になるように。
自分でも全く予想外の行動に吉良自身も驚きを隠せなかったが、これこそ夢の中の出来事として片付けておこう。
ーー声が届いたのか
瞬間、ライスシャワーの走りがまるで差し馬のような切れ味で上がっていく。
そして、ゴールにハナ差で先に着いたのは紛れもなくライスシャワーであった。
「ライス!」
柵を乗り越えて、ライスの元に走って向かうとレースの疲労か倒れ込みそうになるのをすんでのところで抱きとめた。
「…アリガトウ」
声のする方を振り向くと、あの子がどこか悲しそうな、そしてどこか嬉しそうな笑みで立ち尽くしていた。
そしてまたオーラが彼女の身体から抜け出たかと思うと、先程の彼女に戻ったようで、落ち着いた様子で口を開いた
「ライスさん、そしてそのトレーナーさん。あの子とのレース、ありがとうございます。あの子もとても満足したようです…」
「それは結構だが、もう二度とトレセン学園の生徒に悪夢を見せようとするんじゃあないぞ、と伝えておいてもらっていいかな?」
「…その点については大丈夫です。あの子も目的を達成した以上、悪夢を見せる必要性はなくなりますから…」
ーーあたりが急に明るくなっていく。
どうやら、夢から醒める時間のようだ。
目が覚めると、いつも通り見慣れた天井が吉良の目覚めを出迎えた。
ーーどうやら、元の世界に戻ってこれたようだ。
小鳥たちの囀りが、いつもと変わらぬ1日の始まりを告げていた。
ドリーム・ウォーカー
破壊力-D スピードD 射程距離-A 持続力-A 精密動作性-E
成長性-A
能力者 マンハッタンカフェ
他者に自由に夢を見せることができる
またカフェ自身が他者の夢の中に入り込み、精神的作用を引き起こすことができるが、彼女自身にその気がないため基本的には害のないスタンドである。
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菊花賞ーーブルーローズ・チェイサー
「――ライスさん、素晴らしい仕上がりですわね」
声のする方を振り向くと、葦毛のウマ娘とその隣には長髪を後ろにまとめた男が立っていた。そのウマ娘は小柄ではあるが非常に聡明な印象を受け、その立ち姿には気品があふれていた。
「マックイーンさん…!」
…メジロマックイーン
昨年から今年の春の天皇賞を連覇したスターウマ娘。ステイヤーとしての名声をほしいままにしている彼女であるが、吉良はこのウマ娘に若干の苦手意識を抱いていた。
この小娘…感じるのだ。この吉良吉影の勘が告げている。目の中にあいつと同じ誇りを、光を感じるのだ
忌々しい奴の…杜王町で私のことを探り、私の平穏をかき乱したあいつ…
「すごいですね、川尻トレーナー!この仕上がりだったら菊花賞を征することもできるかもしれないですね!」
隣にいるこいつ…小娘の担当トレーナーか。こいつは誰彼構わず犬のように付きまとってくるやつ。夜11時には床に着くことを日課としている(トレセン学園の業務でただでさえそれを守れないときもあるのに)こいつの呑みの誘いにはうんざりしているところだが、ライスをステイヤーとして成長するためのトレーニングのアドバイスや、マックイーンとの併走に快く了承するところは…まあ、助かっているといったところか。
またこいつはトレーナーとしては優秀なようで、長距離を得意としたチーム「シリウス」を率いるトレーナーとしてその手腕を発揮しているようだが…
「ありがとうございます…」
「相手はあのミホノブルボン。一筋縄でいく相手ではありませんわ」
実際のところ夏合宿の時に見た彼女は、日本ダービーの時とはもはや別人であり、ステイヤーとしての実力が十二分であることは疑いようのない事実であった。
――ただ、それをみこしてのライスシャワーに対するトレーニングである。
この夏を通して、彼女は私の期待以上の成長を見せてくれている。私の見立てが正しければ彼女は十分ミホノブルボンと渡り合えるはずだ。
「私もライスも、全力を尽くすだけです…行こうライス」
「うん…お兄様」
吉良がターフを後にすると、ライスも後ろ髪を引かれるようであったが、彼の後ろをぴったりと付いていった。
「――やっぱ川尻トレーナー、考え読めねーな―」
「あまり人についてあれこれいうものではありませんよ」
「でも、M県支部にいる養成所の同期から聞いてた印象とあまりにも違うからさ~」
「そうなんですの…」
「おい!ゴルシちゃん差し置いてなに話し込んでんだよ!」
「トレーナー、渇きを癒す新たなレースはないか?」
マックイーンとそのトレーナーの思考は、奇しくもチームメンバーたちの割り込みによって切り上げられたのだった。
――菊花賞当日。
京都競技場はミホノブルボンの3冠を見届けようと、そしてその王手を阻止するウマ娘の誕生を願って12万人もの人々が詰めかけていた。
出走の目前、吉良とライスは控室でレース前最後の会話に講じていた。
「――いよいよだな、ライス」
ライスシャワーの小さく震えている手を取ると、吉良は彼女に向けて笑みを向けた。
「ライスなら勝てる…胸をはって行ってきなさい」
「うん…いってくるね、お兄様」
ライスシャワーがパドックに歩み出ると、12万人もの人々の熱狂が出迎えた。
「…ライスさん」
声のする方へ振り向くと、そこにはブルボンさんが立っていた。
「私にはマスターとの約束、クラシック三冠の夢があります…絶対に負けられません」
「…ライスもね、勝ちたい。私のために、お兄様のために」
「…お互い、いいレースにしましょう」
――両者の想いはターフの上で激突した。
「ミホノブルボン…」
夏合宿の時彼女の姿はちらりと見た程度だったが、その体の仕上がりは見違えるほどのものとなっていた。
サイボーグのような勝負服に身を包み、私の担当ウマ娘の前に立ちはだかるその姿は、正に怪物…隆々と、そしてしなやかな無駄のない筋肉に、そして冷静ながらも奥からにじみ出る強い意志…
柵の向こうで両者のやり取りを観ながら、吉良は思考の波に身を投じていた。
確かに、選抜レースで感じた彼女の片鱗は、間違いなかったようだ。
皐月、そして日本ダービーを経て彼女はもはや怪物と化していた。
「ライス…」
ゲートが開き、一斉にウマ娘たちが飛び出していくーー18人が身命を賭して、そして12万人の想いをのせて。
ミホノブルボンは前方から2番目の位置を取り、その後ろにライスシャワーがぴったりと続いていく。
「…作戦通りだ」
坂路の申し子、クラシック2冠を征した怪物を打ち倒すにはどうすればいいか
ミホノブルボンに勝つ算段として吉良が思いついた案は、奇しくも自身が追い詰められた際に感じた執念から着想を得たものであった。
――杜王町で、私をどこまでも追跡しようとする執念。こじ付けといってしまえばそうだが、意思というものには、そして執念というものには時として当人の実力以上の力を与える場合がある。
――ミホノブルボンの真後ろに着き、やがて追いつき追い越す。
ミホノブルボンの私生活まで追跡していたときは流石に止めたが、その執念もまた彼女の武器となる…
――その小さな体が、まるで青い炎に身を焦がすかのように走っていく。
吉良は、ライスシャワーの自身の命さえ燃やしかねないその走りを回りの観客と同じく目を離せないでいた。
「――ライス、君は」
純粋に、そして狂気的に研ぎ澄まされた彼女の走りは会場の空気をひりつかせ、その場にいるものの視線を釘づけにしていく。
――ミホノブルボンが最終直線を駆け抜けていく。
「逃げるミホノブルボン!しかし外からライスシャワー!ライスシャワーが差していく!」
――ライスシャワーがゴール!!クラシック三冠、最後のレースを征したのはライスシャワーだ!!
場内は、ミホノブルボンの三冠制覇を期待していたものが多くいる場内は異様な雰囲気に包まれている。
「予想はしていたが…あまりいい出迎えではないか」
彼女がその違和感に気づく前に、精神的ダメージを受ける前に何とかしなければ…
吉良が柵を乗り越え、ライスシャワーの元へ駆け寄っていく。
――その時だった。
一つの拍手が場内に響き渡るーー小さくも、場内の全員に聞こえる拍手が。
たった一人の勝者を称えるその音は、先ほどのレースで敗れたミホノブルボンから発せられたものだった。
――その音を皮切りに、広がっていく拍手。
懸命にその足でターフを駆け、勝利を執念でもぎ取った少女に向けて。
やがて場内に包まれた盛大な拍手は、ライスシャワーを暖かく包み込んでいた。
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先頭の景色1
ハアッ、ハアッ、ハアッ…
寮の門限時間などとうに過ぎ、閑散とした学園内を走るウマ娘が一人
―――なんで私がこんな目に
脂汗が額を流れ落ちていくーー最も、彼女をここまで駆り立てる理由は門限時間を過ぎたことによって寮長にどやされることでは決してなかった。
背後を振り返ると、そこには彼女のあとをぴったりとつけるように足跡がついてくる。
ひっ…
声にならない悲鳴を上げて懸命に足を繰り出していくが、そのスピードはウマ娘である彼女の速さを遥かにしのいでいた。
「誰か助けーー…」
その続きの言葉を話す前に、彼女の意識は闇に引きずり込まれていった。
菊花賞で無事勝利を収め、吉良は久方ぶりにくつろいで熟睡した後の朝を満喫していた。
朝食のベーコンエッグとトーストを朝のコーヒー一杯と共に楽しむ…これ以上ない贅沢である。
「こんな朝を美しい手の彼女と過ごせたらどんなにいいことか…」
テレビを流し見ながら身支度を整えていく。テレビではウマ娘に関するニュースが尽きず報道されていた。
「漆黒のステイヤー、菊花賞で大金星」「天皇賞の悲劇、意識不明の重体か」「メジロ家の令嬢、秋華賞で勝利」…まったく話題が尽きないものだな…
――トレセン学園に着くと、何やら騒ぎが起こっていた。
人を捕まえて何が起こったのか話を聞くと、どうやら昨晩にトレセン学園の生徒が廊下で倒れていたのを警備員が発見したらしいのだが、その奇妙な状況が騒ぎを引き起こしているようだーーすなわち発見された際にその生徒は栄養失調寸前の状態だったらしい。数時間前まで健康な状態の彼女が目撃されている以上、発見時の様子は怪奇というほかない。
幸い命に別状はないようで、現在は病院に運ばれており彼女の意識の回復を待つ状態とのことだが、目撃者から話が聞けない以上全貌の見えない事件に多くの人々が不安を抱くのは当然のことであった。
一応ライスには、今日は寮でおとなしくしていろと言っておくか。
今日はトレーニングはオフなので問題はないだろうが、新手のスタンド使いの可能性もあり得るーーその場合の能力、その目的は一体何なのか…
もしこの吉良吉影の敵となりうる存在だったら…
思考の波に身を投じながら吉良はトレセン学園の校舎に入っていった。
―――授業が終わり真っすぐ帰り道につこうと、ライスシャワーは校舎から外に出た。
お昼ご飯をお兄様と食べていた時、お兄様から昨日の事件が解決するまではできる限り外に出てはいけないといわれたのだ。
本当は新しい絵本を買いに行きたかったのだが、吉良に言われたことを破るつもりなどライスシャワーには毛頭なかった。
明日以降のトレーニングで遅くなる日はお兄様が送ってくれるって言ってたからーー
少なくとも、彼女はこのまま真っすぐ寮まで帰るつもりだったーーしかしその予定は彼女に被せられた麻袋によって狂わされることになった。
「――――!!!」
唐突のことで声も出せないでいると、やがて彼女の体は担ぎ上げられ、どこかに連れていかれることになった。
――しばらく麻袋の中で揺られていると、やがて外に放り出されてしまった。
ライスが自身に対して誘拐まがいの行為を行った犯人の顔を見つめると、その顔はよく見知った顔であった。
ウマ娘にしては大柄で非常に眉目秀麗な、葦毛に頭に小さな烏帽子のようなヘッドギアを付けたウマ娘が満面の笑みでライスの前に立ち尽くしていた。
「ゴールドシップさん…!」
――事件あるところにこのウマ娘あり。
そう言わしめるほどの問題児であり、その奇行はもはやトレセン学園の名物の一つと化していた。
「おいお米!」
お米ってライスのことかな…?
生まれて初めて呼ばれた頓智気なニックネームに困惑するライスをよそに、ゴールドシップはその笑顔を崩さぬまま彼女に対して大声で言い放った。
「今日からお前をゴルゴル探検隊に任命する!」
「ゴルゴル探検隊…?」
「昨日うちの生徒が廊下でぶっ倒れてただろ!あの事件を解決するためにたった今アタシが結成したチームだよ!ほら!メンバーが隣にいるだろ!」
指さされた方角に首を向けると、そこにはロープで体をぐるぐる巻きにされたマックイーンと、彼女らが所属するチームのトレーナーがいたのだった。
その日の夜、寮の門限時間まで30分を切ったが彼女らは何も手がかりを見つけ出せずにいた。
吉良の言いつけを破ってしまった手前罪悪感に苛まれながら、ライスは3人の後に続いていた。
ーー昼過ぎから降り始めた雨が、ポツポツと身体に降り落ちていく。
昨晩の事件もあり、校舎に残っている人物などおらず、いるのは物好きとそれに付き合わされる4人のみだった。
「あとはコース場だけか…」
夜の帳が下りたレース場では自分たちの足音以外何も聞こえず、投光器の光のみが視界の頼りとなっていた。
「二手に分かれて回ろう」
その提案を元にマックイーンとライス、ゴールドシップとトレーナーに分かれて片方は左回り、残るは右回りでレース場を回って何かないか探していく。
「ーーライスさんはトレーナーさんのこと、随分信頼なされているのですね」
「うん…ライスにとってお兄さまは全てだから…命の恩人だから…」
「全て」と言い切る彼女の言葉に違和感を覚えたが、マックイーンは会話を続けた
「命の恩人…?」
「うん、ライスの人生に色を与えてくれたんだよ。…それにこの間だって夢の中で…」
その時だった。
「あーー!」
ゴールドシップの声が響き渡る。
いつもの冗談かとも思ったが、その声にはいつもの余裕はとてもではないが感じられなかった
何かあったのかと彼女のもとに集まると、そこにはゴールドシップとトレーナーが倒れていた。
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先頭の景色2
一体目の前で何が起こっているのか。
眼前の光景を認識しつつも、自身の常識を遥かに超えたその事態に、マックイーンはひたすらその光景から目を逸らすこともできず立ち尽くすことしかできなかった。
ーーゴールドシップさんとトレーナーさんが倒れている
本来スタンド使いではないマックイーンとライスシャワーはこの2人に牙を剥いたスタンドを視認することは出来ない。
しかしながら、今日は昼から続く雨模様である。空から降り注ぐ雨がその体に当たり、跳ね返ることによって彼女らを襲った犯人の輪郭を確認することができたーーしてしまった。
その追跡者は長い首と頭を有しており、長い四肢で地面に立っていて、さながら動物のようにも見受けられた
「認識シタ…ワタシのスガタを…」
どこからかそのような声が聞こえたかと思うと、数十メートルは離れているだろう距離からこちらに向かって真っ直ぐ向かってきたのだった。
「…気をつけろ!ソイツ、自分のことに気づいたやつに襲いかかるみたいだぞ!やられるとアタシたちみたいに力を吸い取られるぞ!」
ーー苦しそうに首をあげ、ゴールドシップが注意すると同時に、追跡者は音もなく、しかし確実にこちらに向かって走り出してきた。
ライスシャワーとマックイーンは追跡者から懸命に逃げながらも、窮状を打開するべく口を開いた。
「なんですの!あのシルエットは!」
「ずっとライスたちを追ってきてるよ…!」
「ーーこれからどうしますの!?あの追跡者からずっと逃げることはおそらくできませんわ!」
「…ライス、何とかしてくれる人知ってるかも」
――幸いライスは知っていた。同じような事件があったことを、自身が当事者だったことを、そして同じような能力をもつウマ娘がいることを。
ライスシャワーが足を懸命に繰り出しながらポケットからスマホを取り出すと、ある人物に電話をかけた。
.
「…なるほど、状況はわかりました。ライスさんの言う通り、それは私と同じ能力を持つ人の行為と言って差し支えないでしょう…」
夜に唐突の来電に戸惑いながらも、先の一件で迷惑をかけてしまったライスのためになんとか力になろうとマンハッタンカフェは頭をフル回転させていた。
「…まずその追跡者ですが、いくつかわかった点と気になる点があります」
「まず1つ目に、恐らくその能力者は能力を制御出来ているわけではありません。私が「あの子」によって能力が暴走してしまった時と非常にシンパシーを感じます。その追跡者は能力を使いこなせていない、もしくは出来ない状況下にあると考えていいでしょう」
「2つ目に、追跡者の出現場所とその目的です。能力には必ず当人の意思や特徴が出ます。今回の場合、学園のレース場を根城にして、追跡した相手の力を奪い取るという目的があります。考えるに自分が今栄養や力を欲しているということでしょう…」
「3つ目に事件が起こった時期です。事件が起こったのは昨日から…つまり、能力者が栄養や力が必要になった、目的が出来たのが最近ということになります…」
「これらのことから考えられる能力者の像は…」
「…犯人は恐らくウマ娘。目的は、栄養を使って自身の身体を強化、もしくは癒すことが目的でしょう…」
カフェがそう言うと、マックイーンが徐に口を開いた。
「ーー1人心当たりがありますわ…」
青ざめた顔でマックイーンが言葉を続ける
「この時期に栄養が必要なほどの怪我を負ったウマ娘を…私は知っています…」
「マックイーンさん…?」
「先のライスさんが活躍した菊花賞と同時期に行われたレース…秋の天皇賞で1番人気だった彼女がレース中の事故で大怪我を負いましたーー今も彼女は意識不明の重体のはずですわ…」
「――まさか…」
「異次元の逃亡者と呼ばれたウマ娘…」
「…サイレンススズカさんですか…?」
しばしの沈黙が流れた後、カフェが口を開いた。
「…たしかにスズカさんは意識不明の状態…能力を制御出来ないのも頷けます」
「――つまり、スズカさんが事故のけがを癒すために、無意識に発動した能力がその能力ということ…?」
「――その可能性が高いと思います。スズカさんの入院先は中央病院です…一度お見舞いに行ったので病室も把握しています。幸いここから距離は近いので、追跡者を躱しつつそこまで目指してください」
電話を切るや否やスズカの入院している中央病院に向けて足を繰り出していくが、トップクラスのスピードを誇るスズカの能力の発露である以上、ペース配分のために速度を落とすことさえ許されない。ステイヤーとして名の馳せる二人も、ペース配分を度外視した走りにそのスタミナは大きく狂わされていた。
「仕方がありませんわ…ここは二手に分かれましょう。もしも片方が捕まったとしても、スズカさんを止めることができればなんとかなりますわ…」
「…うん、マックイーンさんも気をつけてね…」
お互い目を合わせて校門を出ると、二手に分かれて病院へと足を繰り出していく。
マックイーンが後ろを振り向くと、ウマ娘がシューズに装着する蹄鉄によく似た足跡が自身の数メートル後ろをついてきているのを確認した。
「こっちについてきたってわけですわね…」
前方を見据えてその足を繰り出していくが、ハイペースで走り続けてきたマックイーンの足はすでに限界を迎えていた。
――どこかで少し休憩したいところですわ
しかしながら追跡者が追ってきている以上、その足を止めることなどできない。かといってこのまま病院まで同じスピードで走り続けることなど到底できない。
マックイーンは悲鳴を上がる足に鞭打ちながら、必死にその頭を回転させていた。
「――どうやら追跡者は、先ほどの話から察すると意思や知能を持っているというわけではなくロボットのようにただプログラミングされた行動――認識した相手を真っすぐ追跡するという行動しか起こさないようだ
「それならやりようがありますわ…!」
マックイーンは視界に入った工事現場に近づくと、ちょうど路面工事をしていたようで、地面に穴がぽっかりと開いていた。
マックイーンはそれを認めると、立ち幅跳びの要領でその穴を飛び越えた。
「これでいかがでしょうか…?」
後ろを振り返ると、やはり追跡者は細かい状況の把握などできず、馬鹿正直に穴に突っ込んだようで先にいるマックイーンを追跡する様子はなかった。
「――これで少しは休めそうですわね…」
しかしこの追跡者もすぐにこの穴を上がってくるだろう…マックイーンはつかの間の休息を取ると再び病院に向かって足を繰り出した。
中央病院についたマックイーンは、カフェから伝えられた病室に向かうと、階段を駆け上がっていくーー汗が吹き出し、足は風に吹かれる小枝のように震えていた。
スズカの眠る3階にたどり着き、病室に向かってその足を繰り出そうとするーーしかし一歩踏み出そうとすると、彼女の体はつんのめるように前に押し倒された。
「しまっーー」
瞬時に体から力が失われていのを感じる。手から砂が零れ落ちていくように、自身の器から力が等加速的に失われていくーー
その時、自身の背中に感じていた重みがフッと軽くなるのを感じる。
幾分か力を失った体を何とか立たせ何が起こったのかと目を向けると、ライスシャワーがうずくまっているのが目に入った。
――マックイーンに一拍後に病院に入ったライスシャワーの目に入ったのは、目に見えない追跡者に追いつかれてしまったのかマックイーンが倒れている姿だった
「…マックイーンさんを助けなきゃ」
恐怖にがんじがらめになりそうになりながらも、ライスシャワーの目に、決意に迷いなどなかった。
――きっとお兄様も、ライスがマックイーンさんと同じ状況にいたらこうするから
ライスはマックイーンの元に走ると、ぶつかるようにマックイーンの背中にいるであろう追跡者に抱きついた。
「…マックイーンさん、スズカさんのところにいって…!」
声が絶え絶えになりながらこちらを真っすぐ見つめるライスの想いを受け取ると、よろけながらマックイーンは病室に向かった。
「ここですわね…」
病室の部屋番号の下にあるサイレンススズカの名前を確認すると、マックイーンはその扉を開けた。
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先頭の景色3
「ーーサイレンススズカ、何があったのか!?
」
最終コーナーを間近に控えた大槻を越えた先。
左脚の痛みに気づいた時はもう遅かった。
ターフに脚を取られ、地面に叩きつけられる…
ずっとあの時の夢を見続けている。
ーーまた走れるようになりたい。また先頭の景色を見たい。
…ただそれだけなのに
「誰か…助けて…」
暗闇の中で少女はただ一人、涙を流し続けていた。
病室のドアを開けたマックイーンは、奥に位置しているベッドに目を向けた。
ーー栗毛の長髪の少女がまるでそこで時が止まったように、静かに目を閉じて眠っていた。
「ーースズカさん、ライスさん。今助けて差し上げますわ」
そう言ったはいいものの、どうすれば彼女の能力を止められるのか…彼女の意識が戻れば能力は止まるはずだが、現代の医療でも目覚めぬ彼女を起こすにはどうすれば…
打つ手がなく頭を抱えていると、不意に後ろから声が聞こえた。
「…どうやら、間に合ったようですね」
後ろを振り向くと、そこにはマンハッタンカフェが立っていた。
「カ、カフェさん!?」
「…ライスさんとスズカさんを助けるために今は急ぎましょう」
マックイーンを尻目に、カフェはベッドまでズンズンと進むと、眠るスズカの体にそっと触れた。
「ーースズカさんが目を覚さなければあの追跡者は止まらないようですわ…私たちにはどうしようも…」
「ーー私の能力があればできるかも知れません。そう思ってここまで足を運びました…マックイーンさんはここにあの追跡者が入ってこないように扉を押さえていてください…私はあの姿を見ることができるので、自分の姿を認識した私と、一度見たマックイーンさんを襲ってくるはずです…私がスズカさんを起こすまでの時間を稼いでください」
そう言うや否や閉じた扉から大きな衝撃音が聞こえるーーどうやら本当に追跡者が追ってきたようだ
「急いでください!」
今にもぶち破れそうなドアを必死に抑えながら、マックイーンは懸命に消耗した身体に鞭を打った。
カフェがスズカの夢の中に入ると、あたりは灯ひとつない夜のように暗闇に覆われていた。
ーー夢の様子はその人の精神状態から作用される
スズカの気配を探りながら進むと、スズカは暗闇の中で佇んでいた。たった1人で立ち尽くす少女の表情を窺い知ることはできなかった。こちらが一歩近づくと、スズカはゆっくりとこちらを振り返って口を開いた。
「ーーカフェさん?」
「…こんにちはスズカさん。あなたのことを助けに来ました」
「…助ける?」
「あなたは今苦しんでいる…暗闇の中でもがき苦しんでいます…元の世界に帰りましょう」
そう言って彼女に近づこうとすると、スズカは叫び声を上げた
「来ないで!」
「…スズカさん」
「ーー目覚めたとして、意味なんてないわ
私の足は目が覚めたらレース後の足…怪我してる現実に戻ってしまう…それならいっそあの時レースの時に…」
「…それ以上言ってはいけません」
友人であるマンハッタンカフェの聞いたことがない声にスズカは顔を上げる。その顔はいつになく真剣であった。
「…生きていれば挫折、後悔、そして苦しみ。いろんなことが付き纏います。…ですが前を向かなければいけません。…立ち止まってもいい、でも歩みを諦めることはしてはいけません…」
「……」
「…苦しむことも、そこから立ち直れるのも生きている私達だからできることなんです…私も時々思います…ずっと夢の中にいられたらいいのにって…でも夢は夢だからいいんです。醒めない夢なんてありません…」
徐々にスズカの硬く閉ざされた心が開いていく。
「それに、辛い時は私がいます。…あなたのために動いてくれたマックイーンさんやライスさんがいます…あなたのことを助けたいんです」
「…カフェさん」
ーー真っ暗な世界に、朝日が差し込んでいく
彼女の心が、魂が前を向こうとしていた。
絶望という闇の中で、彼女は現実に向き合おうとしていた。
ーー明けない夜はない
ーーサイレンススズカが目覚めたことで追跡者は消滅し、栄養は持ち主の元へと返された。
スズカは少しずつではあるがリハビリを懸命にこなし、早くターフに戻ることができるように努力している。
ーーしかしながら寮の門限時間後の外出によりライスやマックイーン、ゴルシとそのトレーナーは寮長やたづなさんから大目玉を喰らうこととなった。
ーー数日後、マックイーンは事件以降気になっていたことをライスに質問を投げかけていた。
「ーーそういえばライスさん、どうして能力と言うのかしら?それを持っていないのにカフェさんの能力をご存知でしたの?」
「それは前にカフェさんが能力で出した夢の中でライスが苦しんでた時にお兄様に助けてもらっ…」
そこまで言いかけた時だった。
「ライス」
短くも、2人の会話を遮る声。マックイーンが振り向くと、そこには川尻トレーナーがこちらを観察するように立っていた。
「ライス、こっちに来なさい」
そう言うと、ライスシャワーは飼い慣らされた忠犬のように、意思を持たぬロボットのように川尻トレーナーの元に駆け出して行った。
「先程までライスさんが言いかけていたこと…カフェさんの夢を見せる能力が本当である以上、ライスさんが言ったことは本当ですわ….つまり川尻トレーナーは夢の中でどうやってライスさんを助けたんでしょうか…?」
「…川尻トレーナー、一体何者ですの…?」
「ーーライスが余計なことを言いそうになっていたから声をかけたが…ライスにはこのことは言いふらさないように強く言っておくとするか…」
「マックイーンめ…あいつの勘が働かなければいいが…ウマ娘を消すことは得策ではないが、もしも私のことに万が一にでも気付こうものなら」
「…殺さなければならない」
ジェニー
破壊力-Bスピード-A射程距離-A持続力-C精密動作性-E
成長性-A
能力者:サイレンススズカ
動物の馬の姿をしたスタンド。
自身の姿を認識した者をどこまでも追跡するが、半端自動操縦のようなものなので、スズカ自身が視認できない範囲の行動は制御することはできず、その際は対象を追うことしかできない。
天皇賞で起きた故障の怪我を治すため、意識不明だった彼女が無意識下で発動した。
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猫は吉良吉影が好き
「川尻トレーナーが…?確かに何者なんだろうな…マンハッタンカフェがこの間の悪夢騒ぎの元凶だったとして、それを解決したのがあの人だったってことか?」
放課後、突然2人きりで話がしたいとマックイーンに呼び出され、衝撃的な話を聞かされたトレーナー…班目洋一は、自身の担当ウマ娘の言葉を聞きながら、顎に手を当て、表情を曇らせた。
「おそらく、そういうことでしょう…」
「でも、どうやって…?マックイーンの話の限りじゃ、カフェも能力者なんだよな…能力の中でどうやって…」
メジロマックイーンはトレーナーの問いに振り返った。
「もしかしたら…ひょっとしたら川尻トレーナーも能力者なのではないでしょうか…?」
「…だとしても、仮にそうだったとしても騒ぎを解決したんだから何の問題もないんじゃあないか?」
「…それはそうなのですが、トレーナーが以前おっしゃっていたM県支部のころからの豹変と言い、何か引っかかりますわね…」
――二人の会話を物陰から聞いていた写真の親父は、二人に気づかれないように物陰から飛び出ると、必死の形相で矢を握りしめた。
「吉影にメジロマックイーンのことを尾行するように言われ付いてきたが…吉影のことを追う野郎ども…今はまだ吉影が何者か気づくはずはないが、また杜王町の時ようにスタンド使いを増やし、やつらに差し向ける必要があるかもしれん…」
写真の親父は一休みしようと木の上に休むと、後ろから鳴き声が聞こえた。
「こ、こいつは…猫!?」
吉影がトレセン学園に赴任した際、あのチビの理事長にあいさつしたときに吉影に威嚇しておったやつか…
猫は理事長の元を離れ、よく学園内をふらついていた。
偶然登った木の上で、遊び道具を見つけた猫はその足で写真の親父を突っつき始めた。
「は、離れんか!このくそ猫…」
すると写真の親父が押された拍子なのだろうか、それとも矢の意思なのだろうか。
写真の中から矢が飛び出ると、猫の首に深々と突き刺さった。
フシャ――!
潰れたような声を上げて猫は木から滑り落ちていった。
「なんだと!儂は矢に触れておらんのに!」
騒ぎになって誰かに気づかれると厄介だ、写真の親父は木の側から誰にも気づかれないように去っていった。
吉良が仕事を終え学園内にある自身の社宅に向かおうとしていると、学園の片隅で理事長とたづながある一点を見つめて立っているのを見かけた。
「…いかがされました?」
吉良が二人に声をかけると、理事長は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらこちらを振り返った。
「傷心…私の猫が…私の猫が…」
言葉にならないほど涙を流す理事長の隣で、辛そうな顔を滲ませながらたづなは口を開いた。
「理事長の猫が、先ほどここで倒れているのが見つかりまして…私達が来た時にはもう…」
二人の視線の先に目を向けると、そこには猫が地面に血の池を作りながら力なく倒れているのが目に入った。
「…首についた傷が致命傷だったようですね…誤って木から落ちた時に枝に刺さってしまったのでしょうか…」
「そんな…そんな…」
「…お二人は辛いでしょうから、私がこの猫を一目のつかないところへ埋葬しておきます」
吉良は猫を持ち上げると、一目のつかない校舎裏に埋葬した。
「――あの首の傷、枝に刺さったということしておいたが、恐らくあの傷は…」
――あとで親父に聞いておくか
「しかし、君には結局のところスタンドの才能はないということだったのかな…」
煩雑に掘った穴に使い古した靴下をゴミ箱に捨てるように猫を放り込むと、土を上に被せ吉良はその場を後にした。
――翌日、誰からも忘れ去られたような校舎の裏でその植物のような何かは目を覚ました。
――自分は一体何をしているのか
いつものようにストレッチしようと身体を引き延ばすと、自身の身体の異常に気が付いた。
あれ、なんか俺の体…おかしくないか?
俺の自慢のふさふさな毛が無い。自慢の爪も、食べるときに少し邪魔だがチャーミングな髭も尻尾もない。
どうして?どうして?
頭の中で疑問はつきない。すると頭上でハエが飛んでくるのが見えた。
いつものように捕まえようとしても、ジャンプすることができない。
――え?
自身の足元をみると、足がないことに気が付いた。地面に埋まってしまっている。
――腹も減ってきているというのに、これじゃあ動けないじゃあないか!
いつもであれば、飼主であるチビが飯をくれるというのにどうすればいいのか。
すると、5メートルほど頭上に小鳥が舞っているのが見える。
「―――腹が減った。死にたくない」
飢えという生物として最ものっぴきならない事情が押し寄せた時、その身体から何か発射されたのが感じた。
「――!今俺の体から何かでた!?」
その物体は頭上に向かって飛んで行き、小鳥に当たったかと思うと、その小鳥は風船を針で突いたかのように破裂し、植物の目の前に落ちていった。
――彼は本能でこの能力の使い方を理解した。
目の前の馳走にかぶりつくと、自身が生まれ変わった最初の食事を楽しんだ。
――案外この姿も、能力も悪くないかもしれない
すると頭上から、不意に声が聞こえてきた。
「――こいつ、スタンド使いか」
吉良は注意深く植物を観察しながら考えた。
「昨日の猫にスタンド能力の才能があったということか。親父に事情を聞いて、一応確認に来たが…まさかな」
「そして…今小鳥を攻撃した能力…見づらかったが、僅かに球体のような輪郭が見えたぞ。――私の見立てが正しければこいつの能力は」
「…空気を操る能力といったところか」
「そして問題なのは…こいつが敵なのかどうかということだ」
植物――猫草は目の前の男に恐怖した。
本能で生きてきた自身にとって、本能は生存の上で最も重要なレーダーとなる。
――こいつ、初めて会った時からやばいと思ってたんだ
こいつが学園にやってきて、飼主とあった時も、こいつは隠しているつもりだろうが、その殺気を感じた。
――人間は感じないだろうが、こいつはやばい。
多分、人を殺したことがあるーーそれも一人二人なんてもんじゃない。
ーー怖い、怖い、怖い…
吉良の身体から湧き出る殺気を感知した猫草は、その身体を懸命に捻じらせて腹部を吉良に見せた。
目の前で懸命に体をよじらせようとしている猫草を見て、吉良はほくそ笑んだ。
「こいつーー服従しようというのか。この吉良吉影に」
ならばいいだろう。この能力、私にとって何か助けになるかもしれない。
吉良は植木鉢に猫草を移し替えると、その場を立ち去った。
「仲良くやろうじゃあないか、君」
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天皇賞(春)ーー最強の名を懸けて1ーー
ーー朝の目覚めと共に一日が始まる。
冬の寒さが通り過ぎ、暖かさが少しずつ顔を出し始める4月
7時きっかりに起床しベッドから起き上がると、洗面所へ真っすぐ向かい、身支度を整える。
「――おはよう。今日もいい朝だね」
身支度を整えた吉良は、テーブルに朝食を次々と並べていく。
「今日はホットケーキを作ってみたんだ――そういえば君と初めて会った時も君は駅前の喫茶店でホットケーキを食べていたね…」
――手を取り、その甲に接吻を交わす。
「確か…早妃さんだったかな?本当に君は美しい手をした女性だ…」
吉良は彼女の手――正確に言えば手だけになった彼女を見つめてこれ以上にないほど幸せそうに微笑んだ。
吉良は2か月ほど前から女性――基、手の綺麗な女性の狩りを再開していた。
川尻浩作に成り代わってから大分周囲との生活に溶け込んだこと、そして年月が経っても一向に承太郎や仗助たちの追手がやってこないことから、完全に自身の手がかりを失い、また掴めていないこと…これらのことから細心の注意を払って獲物を選定すれば問題にならないとして吉良は久しぶりの彼女との生活を謳歌していた。
――しかしながら川尻浩作に成り代わってから必死に押さえつけていた「人を殺さずにはいられない」という生まれながらの衝動。ずっと押さえつけられていたゴムまりが、放した拍子に高く飛び跳ねるように、その反動からか狩りを再開してからの吉良の彼女は現在で3人目に登っていた。
「――さあ、一緒に仕事を行きたいところなんだが…ウマ娘たちは鼻が利くというからね…連れてはいけないんだ…」
手をクローゼットに持っていき、戸を開けると中では植木鉢に猫草が眠っていた。
朝の光がクローゼットの中に差し込み、猫草が目を覚ますことがないように注意しながら手をクローゼットの中の箱にしまい込むと、吉良は部屋を後にした。
――猫草はその後も成長を続けており、光を浴びると目を覚ます。
基本的に猫草は吉良に対して絶対服従であり、害を加えるようなことはしないのだが、朝の寝起きが極めて悪く、この間迂闊に餌を与えようとしたら条件反射で攻撃を受けてしまったことがあった。それ以降は基本的に日の光に当たらせないように細心の注意を払いながらクローゼットの中で飼育している。
――何て清々しい朝なんだ。
この吉良吉影、最近ようやく運が向いてきた気がする。
――だからこそ、何としても守り抜く。私の日常を。私だけの平穏をーー
――お兄様はなんだか最近機嫌がいい
春の天皇賞まで残り僅かとなり、最後の調整を吉良の指導の下行いながら、ライスシャワーは吉良の方を見つめた。
思えば2か月くらい前だろうか…人前ではほとんど表情を表に出すことがない吉良だが、ライスは吉良の機微を敏感に感じ取っていた。
それに、お兄様から何か臭いがする…ほとんど分からないが、いつものお兄様の匂いの奥から湧き出てくるような、何か嫌な臭い…何か顔をそむけたくなるような、そんな臭い…
他のウマ娘には決してわからない、気づかないことだろうが、吉良のことを四六時中想い続けているライスだからこそ感じる僅かな変化に、彼女自身戸惑っていた。
「…お兄様、終わったよ…」
「あぁ、ライス…完璧だ。この調子なら天皇賞、勝てるかもしれないな」
――気のせいだ
いつも通りのお兄様だ…お兄様はいつだって優しいし、ライスのことを考えてくれてくれてる。
「3連覇がかかってるマックイーンさん…ライスが勝てるのかな…」
「…問題ない。自分で言うのもなんだが、ライスのトレーニングはとても厳しく課してきたつもりだーーそれこそ同僚に心配されるほどにな…だが、それにライスはしっかりついてきた…君の身体は今、至高の領域に達しているはずだ。」
「うん…!ライス、頑張るね!」
…お兄様の言葉はいつだってライスの背中を押してくれる。
お兄様がそばにいて、ライスのことを見てくれてる。
だから安心していられる。ライスはお兄様のために頑張れるーーー
ステイヤーとして絶対の地位を確立しているメジロマックイーンの3連覇がかかっている春の天皇賞に、世間の彼女に対する期待も並々ならぬものであり、メディアも彼女のことを大々的に取り上げていた
レースを間近に控え、闘志をその眼に宿らせたマックイーンは、トレーナーや「シリウス」のメンバーと共に最後の調整を行っていた。
「やるな、マックイーン!すげータイムだぜ!お前もだいぶ仕上がってきたな!」
ゴルシがストップウォッチを片手に歓声を上げる。
トレーナーはたった今走り終わったマックイーンのもとへ駆け寄ると、タオルを差し出しながら声を掛けた。
「いよいよですわね…メジロ家の名に懸けて、必ず盾を持ち帰って見せますわ」
「君のことを信じている…今年もきっと勝てるだろうさ」
「今年の天皇賞…ライスさんも出られるのですよね?」
「あ、あぁ…」
「だからこそ、決して負けられませんわ…友人として、ライバルとして…」
「…君らしいといえばらしいな」
「…それと、川尻トレーナーのこと何かわかりましたか…?」
本来であればトレーナーだけに吉良のことを話すつもりだったマックイーンだが、情報収集のためにも他言無用という厳正な条件の元、シリウスのチームメイトにも協力を仰いでいた。
「まだ何か疑っているのかよ~マックイーンも神経質になりすぎだな~」
「…生徒会の方でも以前のような騒ぎや些細なことが何かないか観察したが何もなかった…」
口を開いたこのウマ娘…黒鹿毛の後ろに髪をまとめた口数少ないこの硬派なウマ娘、ナリタブライアンは生徒会の副会長であり、マックイーンの願いもあり生徒会のほうでも情報収集を買って出ていた。
「確かに私の思い過ごし…ただネガティブになりすぎていたかもしれませんわ…」
あるいは…
「…いずれにしても、今は目の前の天皇賞に集中しますわ」
天皇賞当日、自身の担当ウマ娘が待つ控室に吉良は向かっていた。
…やれることはすべてやった
ライスのために、ライスが勝てるためにトレーナーとしてできることは全てやった
――コンコン
「――ライス、入るよ?」
扉を開け、部屋に入ろうとしたその時。
部屋の中でただ一人、勝負の時を待ち続ける少女の姿を見て、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた殺人鬼である吉良も、一瞬たじろいでしまった。
「――この殺気――」
――私が言うのもなんだが、なんというウマ娘に育ててしまったものだ。
殺気という冷たさ、鋭さが純粋に研ぎ澄まされ、部屋全体に立ち込めている。
その殺気の出どころは、まぎれもなく自身の担当ウマ娘から出ているものであった。
「…あ!お兄様!」
ライスは吉良の姿を認めると、その顔には笑顔が宿り、殺気は瞬く間に霧散していった。
――菊花賞にもその片鱗を見せ始めていたが、ついにその全貌を見せていた。
殺人鬼によって育てられたウマ娘は、無意識下でそのどす黒い瘴気を肌で受け、吸収し、自身のものとして昇華していたーーしてしまっていた。
――パドックに上がり、ターフの上に進んでいく
メジロ家の想いと使命を背負うものとして、チームシリウスのエースとして。
会場の声援に応えながら、歩みを進めていたその時だった。
――首筋に冷たい何かを感じる
ナイフのように、いやそれ以上に鋭い何かを首筋に当てられているような、そんな感覚。
――な、なんですの…この感覚…
レースの時の緊張感とは明らかに質の異なる、恐怖とも取れるこの感情。
本能に訴えかけてくるような、冷や汗が吹き出し、吐き気さえ覚えるこの感覚。
その違和感の正体が明らかになったのは、パドックに一人のウマ娘が姿を現した時であった。
「ラ、ライスさん…?」
目の前に自分とそう変わらぬ体躯のウマ娘と向かい合いながらも、その身体からは想像もつかぬほど強大な、湧き出ている鋭いそれに恐怖を覚えながらも、必死にこらえながら彼女は口を開いた。
「どうなされたのですか…?ライスさん。明らかに普通ではないですわ…」
「マックイーンさん…ライス、負けられないの。ライス自身のため、お兄様のためにも…」
――運命の歯車は確実に動き始めていた。
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天皇賞(春)ーー最強の名を懸けて2ーー
――ターフを駆け抜ける四月の風が、頬を強くなでつけていく。
純粋に研ぎ澄まされた強き思いを載せて、ゲートが開いた瞬間に18人が走り出していった。
「この勝負…負けられませんわ」
両足に力を込めてターフを力強く蹴りだしていく。
――メジロ家の名に懸けて、最強の名を懸けて。
最終カーブに差し掛かり、一気にスピードを加速させていく。
全ての追随を許さないために、マックイーンは先頭で最終直線に向かっていった。
「メジロマックイーンが先頭を行く!しかし大外からライスシャワー!ライスシャワーが差していく!」
――徐々にその足音が近くなってくるのを感じる。
肺が苦しい。足はもう限界などとうに超えている。
――徐々に身体を突き抜ける電流のような威圧と共に、小さな体躯から発せられる力強い足音は、先頭を行くマックイーンに迫り、ついに並び立ったのだった。
――その刹那だった
――観衆が瞬きを忘れたその一瞬。
――吉良が、らしからずその目を僅かに見開いたその一瞬
――並んで走るライスの顔がマックイーンの視界に入ったその一瞬
――レース前にライスの姿を認めた時、僅かに感じてしまったその可能性。競技者として決して感じていけなかった可能性
――ライスシャワーがその目に勝利への渇望と狂気を宿らせ、彼女の前を行く直前。
マックイーンは心の中で図らずも認めてしまった。無論、会場にいたそのレースを見届けている観客も、吉良も、そこにいる無心の境地へと達したライス以外の全ての人々は勝負がゴールを通らずとも決してしまったことを悟ってしまった。
吉良は彼女の走りから目を離せず、うわごとのように彼女の名をつぶやいた
――ライス
「ライスシャワー、1着でゴールイン!」
一瞬の間を置いて、湧き上がる驚嘆と歓声。
絶対といわれた、春の王者。3連覇を目されたステイヤーを打ち破った少女に対する賞賛は、いつまでも止むことはなかったーーー
吉良はミホノブルボンやハルウララ、マンハッタンカフェといった彼女らの友人とささやかな祝勝会に参加しているライスシャワーからメールで来てほしいと連絡を受け、トレーナー室に足を運んでいた。
「ライス?入るよ?」
――祝勝会が終わった自身のトレーナー室。
友人たちが丹精込めて作ったのであろう横断幕や、テーブルの上にあった皿はすでに丁寧に片づけられおり、小さなコップが二つ並べられているテーブルにライスがちょこんと座っていた。
ライスは吉良の顔を認めると、恥ずかしそうにはにかんだ。
「ライスね…お兄様ともお祝いしたかったの」
「――ライス、本当におめでとう」
「ライスね…本当は少しだけ天皇賞、出たくないって思ってたの」
「ライス…」
「祝福の名前をもらったのに…菊花賞の時みたいにマックイーンさんの3連覇を邪魔しちゃうなんて嫌だなって…」
「…でもね、それ以上にブルボンさんたちの支え、励ましがあったり、ライスの走りを楽しみにしてくれる人たちがいたりーーでもなにより」
「――ライスにはお兄様がいるから。お兄様がライスのこと、ライス以上に信じてくれてるから」
――川尻浩作という新たな身分になってから、最悪な気分だとずっと思っていた。
慣れない土地での新たな仕事、承太郎たちが今にでも私の正体に気づくのではないかという不安
――ただ、本当にそれだけだったか?
彼女と出会って、彼女の担当トレーナーとなって、彼女の成長を間近で見守って。
――本当に何も感じなかったのか?
ーー様々なことを思い出す
吉良自身、幼いころから両親には深く愛されていたと自覚していたーー正確には愛されすぎていたが。
――吉影!まだこの問題も解けないの!?
――母は教育熱心な人だった。
杖を片手に息巻く母。正座をして彼女の説教に耳を傾ける私の手には、ミミズが這ったような痣がいつもあった。
――いつから私は3着にこだわるようになった?
自身の能力を隠すためか?それとも母に叱責されないように幼心に苦心した結果だったか?1着を一度取ってしまえば、もう順位を落とすことなどできない。
「――ライス」
目の前の少女に向き直る。
「――これからも二人で頑張ろうな」
――私もまた平穏な生活を送ることができるだろうか?
――私と、目の前にいる少女と二人で
――吉良がライスに会いに行く少し前、マックイーンはライスとそのトレーナーに会いに行こうと彼女らを探して学園内を歩いていた。
あのレースは全身全霊で挑んだものだったーーだからこそ、敬意を表したかった。
あのレースで自身を下した良き友人に。その友人を教え導いたトレーナーに。
話を聞くところ、ライスは友人たちと祝賀会を開いているようなので、先に吉良に挨拶に行こうと学園内にある吉良の部屋に向かおうとしていた。
たづなさんに吉良の居場所を尋ねた際、用事ついでに手渡して欲しいと渡された資料片手に、彼女は吉良の部屋の前に立った。
「川尻トレーナー?メジロマックイーンです」
ドアの前で声をかけるが、返事はない。
試しにドアノブをひねると、ドアは僅かに音を立てて開いた。
悪いとは思っていたが、好奇心からか、それとも心にわずかに残っていた彼に対する疑念がそうさせたのか、マックイーンは部屋の中に一歩踏み出した。
――吉良の部屋は非常に整頓されており、生活必需品や最低限の家具があるーー悪くいってしまえば特徴のない部屋であった。
「殿方の部屋に入ってしまうなんて…早く出ましょう」
――その時だった。
「…ペットフード?」
この部屋におおよそ似つかわしくないもの。周囲を見渡すが、生き物を飼っている様子はない。
それにわずかに感じる、嫌悪感を覚える臭い
――どうやら臭いの出どころは、クローゼットの中から漂っているようだった。
恐る恐るクローゼットに近づき、扉を開ける。
中には大きな植木鉢に植えられている奇妙な植物が入っていた。
「――植物?」
――カーテンの隙間から日の光が植物に差し込む。
すると、その植物は正に目覚めるように起き上がったのだった。
一方そのころ、吉良はたづなからの突然の呼び出しに急いで彼女のもとに向かっていた。
――するとポケットにしまった携帯が鳴り響く。
まったく、いったい何の要件だ?
画面に表示された名前を確認すると、それはたづなからの電話だった。
「――失礼します!川尻トレーナーですか?」
「はい…たづなさん、どういった御用でしょうか?」
「今日提出いただいた書類に不備が見つかったので、取りに来ていただきたかったですが」
「…それは大変失礼いたしました。今そちらに向かっています」
「それが、先ほどメジロマックイーンさんが川尻トレーナーにお会いしたかったそうですので、書類をお渡ししました!今お部屋の方に向かっているそうなので、マックイーンさんから受け取ってください!」
「そうですか…わかりました」
――確か部屋を出た時、鍵はかけていなかった。
「…急いで戻る必要がありそうだな」
「――なんですの、この植物…目が付いていますし…植物というより、まるで生き物...」
突如として起き上がった謎の植物は、うねり声をあげるとマックイーンに眼前にいたマックイーンに対して目に見えないなにかを発射した。
その何かがマックイーンのもとに到達すると、押さえつけるように彼女の身体を空中に浮かせ、とどまらせた。
「なんですの!この目に見えない、パンパンに張っている何かが私の身体を磔にしていますわ!」
――その時だった。下の階から足音が聞こえてくる。
「川尻トレーナーが帰ってきましたわね…」」
――こんな植物を飼っているなんてこと自体が異常である。この状態を川尻トレーナーにみられるわけにはいかない…
その植物は勢いをそのままにまた見えない何かを発射する。すると今度は大きな音を立てて彼女の身体を壁に押し付けた。
――恐らく上の階の自身の部屋から聞こえた衝撃音に、吉良は目を見開いた。
「今の音は…!」
急いで階段を登っていくーーーその傍らにはいつでも侵入者を吹っ飛ばせるようにキラークイーンを従えて。
――階段を登ってくる音が聞こえる。
この窮状を打開するために頭をフル回転させる。
壁に打ち付けられたマックイーンは胸元に着けていたペンを取り出すと、自身の身体にまとわりついた何かに突き立てる。
すると風船が萎むように、見えない何かは消滅し、刺したところから噴き出した空気がクローゼットの戸を動かし、偶発的に日の光が植物に当たらないように調整した。
――すると、植物は再び眠るように活動を停止した。
「日の光によって動いているようですわね…」
この部屋で何も起こらなかったように元に戻して、ここから立ち去るにはあまりにも時間がない。
マックイーンが辺りを見回すと、ペットフードが目に入ったーー
吉良は自室のドアを蹴り開けると、辺りを注意深く見渡した。
――クローゼットの扉が半開きになっており、猫草がいつものように眠りこけている。
辺りの家財は散乱しており、袋がズタズタになったペットフードから、フードの粒が猫草に向かって点々と続いていた。
「猫草め…腹がすいていたのか。空気弾を操作してここまで飯を持ってこようとしてぶちまけたのか…」
「…不注意でクローゼットの扉が閉め切っていなかったか?この明るさでも動き出すんじゃあ、保管場所を変える必要があるかもな…」
クローゼットを開けて箱の中にある彼女の手を取り出すと、その手は灰のように消え去っていった。
「しかし…メジロマックイーンが部屋の中に入り猫草を見たんじゃあないかと思ったが、思い過ごしでよかったというところか…」
「もしもそうだったとしたら…」
「…殺さなくてはならないところだった」
吉良がしばらくしてライスから連絡を受け部屋から姿を消すと、ベッドの下から震えながらマックイーンは這い出てきた。
「…川尻トレーナー、いったい何者ですの?クローゼットの中から取り出した手…あれは本物…?それを一瞬で消してしまったのも…私のことを殺すといったのも…」
恐怖で身体をきつく縛りつけられながら、マックイーンは殺人鬼の巣から後にした。
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〜43、8、1〜その1
吉良は腕時計で時刻を確認すると、隣にいる担当ウマ娘に優しく微笑み、そして声をかけた。
「――時間だよ、ライス。忘れ物はないかい?」
「―うん!行こう、お兄様」
彼女の力を込めれば折れてしまいそうなほど細く繊細な手を取って、外に出る。
吉良とライスは6月に行われる宝塚記念に向けて、理事長から受けた技術指導のための出張と、遠征合宿を兼ねてトレセン学園関西支部でおよそ数週間をすごし、そのまま現地に向かうつもりだった。
「――お兄様、ライス頑張るね。」
「――あぁ。二人で、だろ?私もライスのために頑張るからね…」
一方そのころ、人目につかないように上空を飛ぶ一枚の写真――吉良吉影という悪魔が15年も平然と社会に溶け込んでいる一因ともいえるこの男…歪んだ親としての愛情の元、死してなお息子の犯罪を隠匿するために、息子の正体に迫る者を抹殺するために暗躍する写真の親父は、暗がりから見かけたマックイーンの顔で自身の愛する息子の核心に薄々気づいている、もしくは何かその正体に気づくような何かを見たことに感づいていた。
「儂にはわかる…あの小娘。かつてくそったれ仗助どもが吉影を追っていた時と同じ目じゃ…」
もはやなりふり構ってなどいられない…
吉影がいない今だからこそ。吉影に疑いが掛からずに奴らを排除することができるはずだ。守ってやれるのは儂だけだ…
「消してやる!ついでにメジロマックイーンの周りの奴も!」
矢の方向に向かってその目に狂気の決意を宿らせ、矢を両手で握りしめる。
すると、目の前のウマ娘の前で、矢は強くその反応を示したのだった。
「矢よ!こやつを選べというんじゃな!」
写真の親父は矢を大きく振りかぶると、そのウマ娘に向かって投げつけたのだったーーー
ーー黙れば美人、喋ると奇人、走る姿は不沈艦と言われる問題児、ゴールドシップは今日のチームミーティングでマックイーンが言っていた川尻トレーナーのことを思い出していた。
「マックちゃんは大嘘こくようなやつじゃあないってことはわかってるけど…」
――マックイーンが見たという川尻トレーナーの裏の姿。
その話をするマックイーンの目をみれば彼女が嘘を言っていないことは一目瞭然だったが、あまりにも突拍子もない話に班目トレーナーも含め、チームメイトはいまいちその話を信じられないでいた。
川尻トレーナーがいない今、もしもマックイーンの言ったことが本当だったとしても、大きな動きがトレセン学園で起こるとは考えにくいだろう…
「おっとこうしちゃいられね~フラッシュたちを待たせてるんだった!」
実はこの問題児、同じ穴の狢ともいえるウマ娘たちと時々集まってカードゲームや麻雀といった遊びに興じていたーー無論そんなことがバレたら、生徒会から大目玉を食うことだろうーー
いつものたまり場である教室の前へとやってくるが、その瞬間に今まで感じたことのない殺気にゴルシは思わず顔をゆがめた。
――なんだ?この背中に氷を押し当てられたような…
ドアを開け辺りを注意深く見ると、床にゴルシの友人―――エイシンフラッシュが力なく倒れているのが目に入った。
「おい!?どうしたフラッシュ!」
彼女の身体を抱きかかえ何とか起こそうと試みようとすると、前方から不意に声がしたのだった。
「――大丈夫だ。死んでねーよ…」
声のするほうを鋭く見やると、その人物はゴールドシップのよく見知った人物だった。
――グレーのニット帽に、そこからはみ出た特徴的なウマ耳。スカジャンに咥え楊枝という如何にも勝負師といった風貌。
このたまり場でよくいる面子である彼女に戸惑いつつ、ゴルシは声を上げた。
「ナカヤマフェスタ…」
「気絶しちまっただけさ…アタシの勝負に負けてね」
「…お前がやったのか?」
「頭の悪い奴だなぁ…言ったろ?――アタシとの勝負に負けたんだって。そこに転がってるそいつは、アタシとの勝負で心の中で最も大事なものを賭けた…その勝負で負けたんだよ…そしたらどうなったと思う?電話が鳴って、そいつのトレーナーが急に倒れたとかで病院行きってわけさ。」
「…」
「それを聞いたやつはショックでぶっ倒れちまったってわけさ…アタシの能力でなぁ」
「―――能力…」
「あぁ。今朝突然、首に何か刺さったと思ったら急に使えるようになった…勝負師としての血が騒いでしょうがねえ~…」
――思えば、いつものフェスタの様子とは異なるようだ。目の焦点があっていないし、喋りかたも少しおかしいようだ
「――能力の暴走か…?」
――マックイーンから聞いた、ウマ娘たちの能力の暴走。生物として元来想いの強いウマ娘が能力を持ったらどうなるか…
ましてや、フェスタは今朝突然能力者になったようだ。そんな彼女に能力の操作、精神力の制御などできるはずがないーーどうやら、彼女の目を覚まさせる他ないようだ。今朝の状況も詳しく聞かなければならないし、フラッシュのトレーナーを救わなければならない。
「…フラッシュのトレーナー、助かるのか?」
「…あ?んなこと知ってどうすんだよ~どうでもい「答えろ!」
一瞬の静寂の後、話を遮られたフェスタは憎々し気に口を開いた。
「――あぁ、能力で取り立てたものだからな…返すことだってできる」
「返せって言っておとなしく返すわけないよな…」
「――わかってるじゃあねーか。ならどうするべきか、わかるだろ?」
「…あぁ」
緊張が、恐怖が身体を突き抜けていく。自身の手には、友人の大切な担当トレーナーの命がかかっている。それを賭けて、正気を失ったとはいえ生粋の勝負師の彼女と勝負をしなければならない。
ゴールドシップは眼前の友人を見据えると、ゆっくりと席についた。
「―――さぁ、勝負といこうか」
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〜43、8、1〜その2
「――それで、どうするんだ?いつものように、ポーカーで勝負するか?」
ゴルシは机の向こうに座り、こちらを窺うウマ娘――ナカヤマフェスタを見据え、いつものような余裕を繕いながら言い放った。
「ポーカー?確かにそれも良いが、それはさっきのやつとやっちまったからな…どうだ、これで勝負しようじゃあないか」
フェスタは机の上に丼のようなお椀を置き、その中に3つのサイコロを振り下ろしたのだった。
「…チンチロリンか」
「――勝負は三回。その間に一回でもアタシに勝てたら、ぶっ倒れたトレーナーを元に戻してやるよ。今なら多分何の後遺症もなく元に戻るはずだ」
「…アタシは何を賭ければいいんだ?」
「…簡単だ。負けたらテメーにはトレセン学園をやめてもらう…テメーは超が付くほどの問題児だーーいなくなったって困る奴なんかいねーだろ?」
――アタシには選択肢なんてない。こいつとの勝負を降りることはできないし、それをしてしまうことはフラッシュのトレーナーの死を意味していた。
ゴルシは覚悟を決めると、口を開いた。
「――その勝負、吞んでやる」
――1回目。ゴールドシップは3度賽を振ったが、当然役が揃うことはなかった。
3度目の賽を振り終わった後、フェスタはゴルシを見据えながら口を開いた。
「勝負において一番大事なことを教えてやるーーそれは飢えだ。勝利に対する欲求は、勝利の女神を振り向かせる一番の手段なんだよ…」
お椀の中のサイコロを取り、お椀の中へ振り下ろす。すると目は「3.3.6」を示したのだった。
「――ほらな?勝利への梯子は、アタシに向かって伸びてるみたいだぜ、ゴールドシップ?」
彼女の言う通り、2回目の勝負もフェスタの役が揃ったことで、彼女の勝利で2回戦は幕を閉じたのだった。
――2度の圧倒的勝利を収め、残る最後の1回。フェスタの勝利は目前に迫っていた。
正気の彼女であれば決してしないが、すでに勝利という美酒に酔い、目の前の敗北者をあざ笑っていた。
――正に絶頂にいる彼女は、ゴルシに嘲り、そして口を開いた。
「――おいおい。生ぬるいな~、ゴールドシップ。あと一回負ければ、アンタは学校を去ることになるんだぜ…真剣にやれよな~」
――被捕食者を前にした、勝利を確信したそのセリフ。
ゴールドシップはその姿勢を崩すことなく、おもむろに口を開いた。
「――確かにマジになんなきゃならないみたいだな…一つ提案なんだが、賭けるものを増やすことはできるのか?」
「…おいおいおい。別にアタシは構わねーが、一回賭けたら能力があるから取消はできないからな?」
――気でも狂ったかこいつ?ただでさえもうあとがないのに、賭けるものを増やす?…いいだろう。全部奪いつくしてやる。その顔に絶望の表情にして、アタシの前に跪かせてやるよ。
「なら好都合だ…アタシはこの勝負に「ウマ娘としての走る能力」を賭けさせてもらう」
――ナカヤマフェスタの顔が歪む
――ウマ娘としての禁じ手。ウマ娘という生物上、その根幹をなすものであり、生きる意義ともいえる「走る能力」。
その能力を賭け金としてベッドするということは、ウマ娘にとっては自身の生命を賭けることに等しい。
「――ふざけんな!!テメー、この勝負に負けたら、死ぬつもりってことかよ!」
荒々しく声を上げ、フェスタが椅子から立ち上がる。その顔には最早、余裕なんてものはまったく感じられない。
「――アタシはこれだけの代物を賭けたんだ。お前にもそれなりのものーー同じもの。「走る能力」を賭けてもらうからな」
「―――なっ」
「――おいおい。いつものスカした顔はどうしたんだ?勝負するだろう?」
「~~~~~っ」
――ゴルシは双六を手に取ると、卓上のお椀に振り落とす。
「――飢えが勝利をもたらす最大の要素って言ってたよな?」
「アタシは自分で最大の飢え、ピンチを作りだした。そうじゃねーと、勝利の神様はこっちに傾かね~よな~!」
――お椀の中のサイコロが回転を緩め、やがて止まる。そのお椀の中の3つの数字は、「4,5,6」を指し示していた。
「――な…シゴロ!?ふざけんな!―――ありえない!」
フェスタはこれでもかと目を見開き、卓上のサイコロを払いのける。
「―――次はお前の番だぜ、フェスタ」
「…ふざけんな。やってやる…やってやる!!」
フェスタは震える手で落ちたサイコロを握り、お椀の前に向き合うが、その様子はさながら死刑台に向かう死刑囚のような顔つきであった。
――1回目。当然役は揃わない。
―――やってやる、やってやる…アタシは博打打ちだ…勝負してやる…
頭ではそう思っていても、サイコロを握る手は汗ばみ、震えるばかりで一向に振ることはできない。
――負けたら走れなくなる、負けたら走れなくなる、負けたら死ぬ…
――2回目、またも役は揃わない。
ゴールドシップに勝つためにはあと一回でゾロ目かピンゾロを出すしかない…
彼女を勝負の場へ留まらせているのは、最早勝利への執念ではなかった。
――息が思うようにできない。恐怖が心を締め付け、視線を定めようと視界は揺れ動くばかりだ。
――目の前のフェスタの動揺ぶりをみながら、ゴルシは言葉を続けた。
「…お前はさっきまで、負けが続いていたアタシを見て絶好調だったーーだからこそ、さっきのアタシの覚悟、飢えを見た時の動揺はすごいだろ…立て直すことなんてできやしない…その時点で勝利の女神ってやつからは見放されちまっただろうな…もっとも、正気のお前だったら勝負師として立て直しもできたかもな」
フェスタは白目を剥き、泡を吹きながら後ろに向かって倒れていった。
――彼女の手に持ったサイコロは、彼女が意識を手放した拍子に転がっていき、ゴルシの前で止まった。
「――どちらにしても、お前は負ける運命だったようだな」
彼女の足元で転がるサイコロの数字は、「1.2.3」を示していたのだった。
――フラッシュのトレーナーが病院で何事もなかったかのように意識が目覚めたという電話を受けた後、正気に戻ったフェスタの口からでた衝撃的な話にゴルシは目を見開いた。
「――つまり、今朝何者かに首を刺されて、そこから能力に目覚めたってことか?」
――つまりその首を何かで刺されたことが能力を得る原因となったことは間違いないようだ。生まれ持ってその才能が発芽していたり、その片鱗をみせていたカフェやスズカとは違い、強制的にその能力を引き出されてしまったため、フェスタのような能力の暴走を引き起こしてしまったのだろう。
――何の目的で?
今朝のマックイーンの話を思い出したゴルシは川尻トレーナーのことを少し疑ったが、あの人は今朝から関西支部に数週間出張に行っているはずだ。彼であるはずがない。
ただ彼に繋がる誰かがアタシたちを消そうと動き始めたってこともあり得る。
実際、フェスタも先ほどの勝負でアタシの退学を引き合いに出していた。
――だとしたら、マックイーンたちが危ない。
急いでスマホを取り出すと、マックイーンに電話を掛けた。
「――おい!マックイーン、能力者だ!誰かが能力者を増やして、アタシたちを襲うように仕向けているかもしれねぇ!」
「…どうやらそのようですわね…ですが」
「…少し遅かったようですわ」
グリーディーソウル
能力者:ナカヤマフェスタ
破壊力E/スピードD/射程距離A/持続力A/精密動作性D/成長性A
「賭け事」を司るスタンド。賭けにおいて負けた人間が賭けていたものを取り立てる能力を持つ。その取り立ては絶対であり、負けてしまえばその取り立てから逃れることはできない。
しかしフェスタ自身も賭けが始まってしまえばこの拘束化に置かれ、負ければ彼女自身も能力の取り立てにあうことになるため、ある意味非常に中立的な能力ともいえる。
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〜U=ma2〜その1
チームシリウスでのミーティングが終わった後、マックイーンは浮かない顔でターフに向かっていた。
ーー川尻トレーナーのあの姿。とてもトレーナーとして、教育者としてかくあるべきという姿とは言い難い、殺意と狂気に満ち満ちた、あの姿。私のことをまるで息をするかの如く殺すと言い放ったあの姿。
考えれば考えるほど思考の波から抜け出すことは出来そうにないーーそんなマックイーンの背中を、とあるウマ娘がポンと叩いてたのだった。
「マックイーン!練習行くんだよね!?一緒に行こうよ!」
ーー彼女の名前はウイニングチケット。シリウスのチームメイトであり、日本ダービーを制した実力あるウマ娘である。現在のメンバーだと最年長であるがその天真爛漫な様は、良く言えばムードメイカーであり悪く言ってしまうと子供っぽいウマ娘であった。
ただこの時ばかりは、彼女の分け隔てない明るさがマックイーンの心に良い作用を及ぼしたのは言うまでもない。
2人がターフに向かうと、珍しい人物がターフに姿を現していた。
「あれは…」
「アグネスタキオンさん…?」
研究といえばアグネスタキオン、アグネスタキオンといえば研究ーーそんな言い換えが成り立つほど、日々ウマ娘の可能性を模索して研究を進める彼女は、学園内でも有名人であった。ほとんど自身の研究室と称した占領した理科室から出ることがなく、時折出てきたかと思うと自他問わず自身の研究の材料として訳の分からない薬品を飲ませようとするため、非常に奇異の目に晒され、時には厄介者扱いされていた。
「今日はシリウスがターフの申請を出していたはずですよ、タキオンさん?」
ハイライトのない狂気を孕んだ瞳がこちらをじっと見つめてくる…タキオンはしばらくして、徐に口を開いた。
「そうだったかい…それは悪いことをしたね…今日はとても気分がよくてね、走りたくなってしまったのだよ…どうだろう?すこしだけ私と軽いレースをしないかい?」
――なにかがおかしい。タキオンはいつもおかしいと言ってしまえばそうなのだが、今日の感じるいつもとは異なる毛色の違和感に、マックイーンは思わず顔をしかめた。
――せっかくですが、今日は遠慮しておきますわ
眼前のタキオンの誘いを断ろうとした瞬間、チケットが目を輝かせて横から割って入ったのだった。
「いいの!?走ろ!一緒に走ろ!」
「そうこなくては!…普通に勝負をしても面白くない…どうだろう、もし私が勝ったら君をデータにさせてくれないか? 」
さすが研究家気質のタキオンといったところか…彼女らしい提案にマックイーンが苦笑し、チケットはその満面の笑みを崩さず大きな返事と共に首を縦に振ったのだった。
「データ?よくわからないけどいいよ!」
「ありがとう…そうと決まれば早く準備したまえ!」
チケットはあれよあれよという間にアップを済ませ、タキオンの横に並び立つ。
マックイーンの合図で一斉に二人が走り出す…どちらもウマ娘としての実力は一級品でありタキオンとチケットは並んで走っていたが、最後ゴールに僅か先にたどり着いたのは、タキオンであった。
「悔しい~あとちょっとだったのに~!」
チケットが悔しそうに、しかしどこか満ち足りた様子でこちらに戻ってきた。
「お疲れ様です、チケット先輩」
激戦を繰り広げたチケットにねぎらいの言葉を送ると、マックイーンは勝者のタキオンにも声をかけようと彼女の方を向くと、その異変に気が付いた。
「…素晴らしい」
――ぼそりと、しかし確かに周りに聞こえる声で呟くタキオン。その言葉を皮切りに彼女は自身の研究者としての感情を爆発させた。
「素晴らしい!チケット君のラスト2ハロンの加速力には目を見張るものがあった!見たところだが、他のウマ娘と比較しても大腿四頭筋を初めとした脚の筋肉量が0.8キロ以上は多そうだぞ!あぁ、素晴らしい!君のデータでまた一つ、ウマ娘の可能性の果てに近づけるというものだよ!」
台本があれば思わず噛んでしまいそうなほど長い台詞を早口でしゃべりながら、彼女はチケットの元へグングンと進み、彼女の目の前で止まるとチケットの手を取った。そのあまりの変質さに思わず、チケットも顔をしかめた。
「あの~、タキオン?ちょっと怖いよ…?」
「あぁ、こんな上質なデータが手に入るなんて!なんて私は幸運なんだ!君には窮屈な思いをしてもらうが、仕方ない!これも研究のためなんだ!これもウマ娘の可能性のためなんだ!」
チケットの手を握る力が次第に強くなっていく。チケットとマックイーンもここでようやく事の重大に気づいて声を荒げた。
「タキオンさん!その手を放しなさい!」
「タキオン!痛いよ!」
「それはできない!君をこれからデータにしなければならない! 」
「ど、どういうこと!?」
「君は確かに約束した!私が勝てば君をデータにすると!私の能力は対象をデータにすること!チケット君!君は確かに勝負し、私に負けた!その時点で能力は発動している!」
――能力ですって!?
アグネスタキオンに感じていた違和感の正体。それは、サイレンススズカの能力に追跡された時と同じ種類の違和感であることに気が付いた時にマックイーンは声を上げたが、その時には既に遅かった。
「チケットさん!タキオンさんからすぐに離れてください!」
――チケットの身体が見えない何かによって持ち上げられ、一瞬の内に1冊のファイルに変貌してしまった。
「――チケットさん!」
地面に落ちたファイルをタキオンが持ち上げ、3日ぶりの水にありつけた漂流者のように、貪るようにページを開いていく。緋色一色に塗りつぶされた瞳がこの時ばかりはルビーを埋め込んだように光り輝いていた。
「――今朝、何者かに首を何かで刺された時、この能力を授かったが…正に三女神からのギフトといっても差し支えない…これで私の研究は飛躍する…ウマ娘への可能性へと」
――何者かに刺された?能力に目覚めた?タキオンには聞かなければならないことが沢山あるようだ…マックイーンは愉悦の海を回遊するタキオンに向けて強く言い放った。
「能力に目覚めた?一体どういうことですの?チケットさんを元に戻しなさい!」
後ろを向いていたタキオンは首だけこちらに向けると、顔の周りにハエが集るが如く鬱陶し気に口を開いた。
「――返す?君は間抜けかい?これは私の研究を発展させる、正に可能性の1つそのものだ…返すわけがないだろう」
どうやらスズカさんのときのように、正気を失っているようですわね…
マッドサイエンティストとしての邪悪さ、狂気さが全面に押し出されてしまっている正気を失ったタキオンを眼前に捉え、どうするべきか思案していると、タキオンは何か思いついたように不敵な笑みを浮かべながら口を開いた。
「――いいだろう。彼女を元に戻してやってもいい。ただし」
「先ほどのように私とレースをして、勝てたらの話だがね」
――どうやら私のこともデータとして取り込む気のようですわね…
しかしながら、現状タキオンとのレースを勝利し、彼女を正気に戻すこと以外手はないようですわ…
マックイーンは腹を括り、彼女との勝負を受けるべく口を開こうとした瞬間、後ろから突然声が聞こえてきた。
「――私と勝負してください」
――清流のように透き通ったその声
マックイーンは唐突に聞こえた声の方向に振り向いてそこにいた人物を目にとめると、驚きのあまり大きく目を見開いたのだった。
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〜U=ma2〜その2
――マックイーンの背後から唐突に聞こえた声。
恐る恐る声のする後ろを振り向いたマックイーンは、声の主の姿を認めると驚きの声を上げた。
「ス、スズカさん!?」
――起こるはずのない悲劇。あってはならない悲劇。あのレースを目撃したものは後にそのレースを「沈黙の日曜日」と呼んでいた…その事故で左脚の骨折という競技者としてはあまりにも大きなハンデを負ってしまった彼女―――サイレンススズカがその足で、確かな意思を瞳に宿らせて立っていたのだった。
「これはこれは…スズカ君じゃあないか」
タキオンはその狂気的な瞳で真っすぐスズカの姿をとらえていた。
「君が私と勝負するだって…?」
「えぇ、私が勝ったらチケットさんを元に戻してもらいます」
「…あいにくだが、今の君と勝負なんかしても話にならないよ…翼を折られた鳥はもう二度と空には羽ばたけない…競技者として致命的なケガを負った今の君に勝っても大したデータは取れそうにもないし、一ウマ娘としてもちっとも嬉しくないからね…」
――正気を失っているとはいえ、余りにも酷い言い様である。
その言動にマックイーンが注意を促す前に、スズカは静かに口を開いたのだった。
「…もしも私が走れるようになっていたら?」
「…なに?」
「競技者として二度とターフに立つことが叶わないほどの大怪我…もしそれを克服したウマ娘として私が力を取り戻しているのなら、タキオンにとってはこれ以上にないほどのデータになるんじゃあないかしら?」
「…特にガラスの脚のあなたにとっては」
その言葉を聞いた瞬間、タキオンの顔が酷く歪む。秘密を暴かれた怒りだろうか、それとも困惑なのだろうか…額に青筋を立てながら彼女は口を開いた。
「…知っていたのか」
「あなたの走りを見ていれば分かるわ…極力脚に負担がかからないように尋常じゃあないほど研究され尽くされた走り…」
二人の一触即発な空気の前で、マックイーンはなにもできない自分を奮い立たせ、口を開いた。
「スズカさん…!あなたにシリウスのためにそこまでしていただくのは…」
マックイーンがスズカにそう言うと、スズカは微笑みながら口を開いた。
「いいんです。この間、マックイーンには迷惑をかけてしまったし、それに…」
「タキオンさんのあの様子…きっとかつての私のように能力を上手く使いこなせてないみたい…正気も失っている…救ってあげないと」
スズカがこう言うと、タキオンは噴き出すように笑い出し、口を開いた。
「…救う~~?面白いことを言うね~、私は救われているよ。この能力によってさらに研究は飛躍するのだから…いいだろう!勝負してやる!君のデータがどんな紙屑であったとしても、すべて奪い尽くしてやろう!」
――鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた、たった二人のウマ娘が立つレース場。
先ほどのチケットとのレースとは打って変わった空気に、レース場は水を打ったように静まり返っていた。
――マックイーンの合図で、一斉に二人は走り出す。
スズカはいつものようにペース配分など度外視するかのような、大逃げの走り。そしえその後ろをタキオンが追うというレース展開。
「…さすがはサイレンススズカ君…腐っても異次元の逃亡者と呼ばれたウマ娘といったところかな…だが。」
「――最盛期とは程遠い実力だな。明らかに飛ばしすぎだ。以前のデータによれば、このままじゃあ君は最終カーブに入った時点でもう余力は残っていないはずだ…」
――やはりただの口からでまかせだったようだな。がっかりだよ、スズカ君。
最終カーブに差し掛かり、勝利のためにギアを加速させようとしたその時、タキオンは自身に起こった異変に気がついたのだった。
――なぜだ。
いつものような加速ができない。いつもであれば、私のデータによればもう彼女の背中をとらえているはずなのに…
突然の緊急事態に、現状を打破するためにタキオンは頭をフル回転させる。そして、自身が犯した一つの失態に気がつくのだった。
―――まさか…!
狂わされていたというのか…!このアグネスタキオン、相手の力を見誤ったというのか…!データになかったペースでの逃げの走り。最終直線で確実に追い抜くために彼女との距離を離さないための走りが、意図せず私のペースを乱されていたというのか…!
彼女のレースでの位置取り、視界を広く持たせないための作戦だったのか…?考えれば考えるほど彼女はデータになかった走りを展開し、それに気付かず策にはまった自身の未熟さ、愚かさを悔いた。
「あなたの研究に対する熱、そして努力…目を見張るものがあるわ。でも、研究室に籠りっきりで、ちょっとハングリーさに欠けるようね…?まぁ、ケガした私が言えることではないけど」
――私もあなたのように、苦しみの中にいたわ
天皇賞でのケガから目覚めなかった夢の中
病室から眺める外の景色
ベンチからただ見ることしかできなかったウマ娘たちが練習する姿
リハビリで泣きそうな思いになる度に、雑誌やニュースで「サイレンススズカはもう競技者として終わった」と言われる度に、タイムが全盛期のようには当然振るわず、涙をこぼす度に
――それでも私には、トレーナーさんがいた。支えてくれる友人――カフェさんやライスさん、マックイーンさんがいた。待っていてくれるファンの人たちがいた。
―――また先頭の景色を感じたい。またここに戻ってきたい。だからこそ負けられない。
「――今度は私の番!!」
「―――ありえない!データにはなかった!私が敗北することなど、あってはならない!あってはならないのだぁぁぁぁ!」
恐ろしい末脚でアグネスタキオンがその距離を詰めてくる。みるみるうちにその距離は縮まり彼女の背中にタキオンが迫るが、ゴールに先にたどり着いたのは、逃げ切ったのはサイレンススズカであった。
「スズカさん!おめでとうございます!」
マックイーンが柵を乗り越え、スズカの元へ向かっていく。
敗者となったタキオンは力なく腕を垂れると、口を開いた。
「――完敗だ。なるべくしてなった結果だ。研究に、そしてデータに驕り、「ウマ娘の可能性」を度外視した私の完全敗北だよ」
「―――済まなかった。約束通り、チケット君は元に戻すよ。どんな誹りも甘んじて受けよう」
深々と頭をさげるタキオンに対し、スズカは穏やかな表情で口を開いた。
「――能力を発動するにはウマ娘の大きな意思が関係するらしいの…つまりそれほどタキオンの想いが強かったってことだから…もう能力を悪用しないと約束するなら私もマックイーンも許します」
「――えぇ。貴方も能力の暴走で正気ではなかったようですし、今回は致し方ありませんわ…」
――その時マックイーンの電話が唐突に鳴り響いた。画面を確認すると、電話はどうやらゴールドシップからのようだった。
話を聞くと、どうやら向こうも能力者となったナカヤマフェスタとひと悶着あったようだ。
しかし彼女から聞いた話に、思わずマックイーンも顔をしかめた。
フェスタさんも、タキオンさん同様、何者かに首を刺されたことによって能力を発動したようですわ…つまり今回の事件は何者かによって人為的に引き起こされたということ…
より情報を得るため、タキオンから当時の話を聞こうと彼女に声をかける。
「首を何かで刺された時に、何か覚えていることはありますか?」
「――う~ん、すぐに気を失ってしまったからね…ただ一つだけ」
「一つだけ?」
「恐らく犯人だろうが…私の元を立ち去るであろう時、こう言ったんだ」
「――これで三人目だと」
U=ma2
能力者・アグネスタキオン
破壊力E/スピードE/射程距離C/持続力A/精密動作性D/成長性A
対象の人物を資料としてファイルにする能力。ファイルとなった中身には身体情報はもちろん、其の人物が今まで生きてきた経歴や出来事などが詳細に記録されており、その人物についてタキオンが知りたいことは全て知ることができる。ファイルを破いたり、燃やしたりすることで対象の人物に危害を加えることも可能。
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ピュリティオブハート1
生徒会の業務が滞りなく終わり、チームメイトであるマックイーンのもとに向かうため、ナリタブライアンは廊下を足早に歩いていたのだった。
――先ほどマックイーンからの電話が届き、彼女の話を聞いたブライアンは先ほど聞いた話を冷静に考えていた。
マックイーンやゴールドシップ、ウイニングチケットが能力者によって襲われてしまったらしいーー犯人はどうやらナカヤマフェスタとアグネスタキオンだったようだが、その二人が当初から能力者だったわけではなく、何者かによって首を何かで刺されたことによって能力に目覚めたそうだ。どうやら能力者になったウマ娘は3人いるらしく、フェスタとタキオンを除いてもあと一人がこのトレセン学園のどこかにいるということになる…
マックイーンは川尻トレーナーが怪しいと言っていたが、彼は早朝から関西へ出張に行っているはずだ…とてもじゃあないがそんなことをする時間はない。だとすれば一体誰が、何の目的でこんなことをしたのだろうか…
情報を詳しく聞くため、また最後の能力者を急いで特定するため、マックイーンの元に急いでいたブライアンだったが、そんな彼女に声をかける人物がいたのだった。
「――ブライアン」
彼女に声をかけたウマ娘―――特徴的な葦毛の癖っ毛に、眼鏡をかけた彼女、理性という言葉を体現させたような彼女の姿を認めると、ブライアンは少しため息をついた。
「…姉貴」
―――彼女の名前はビワハヤヒデ。ナリタブライアンの実の姉であり、チームシリウスのメンバーの一人であるウイニングチケットとナリタタイシンの二人とクラシック路線を賑わせたBNWの一人として、その脅威的な連対率と、理論に基づいた徹底的なロジカルな走りは彼女をスターウマ娘として押し上げていたのだった。
「こうして話すのは久しぶりだな…ブライアン。野菜はちゃんと食べているか?」
「――姉貴。悪いが今話している時間はない」
その眼鏡の奥の目がわずかに下に向いたのに気づいたブライアンだったが、マックイーンたちとの要件が急迫性を有する以上、ここで長話をするわけにはいかない。
ハヤヒデに対して申し訳ないという気持ちはあったが、ここは急いで断りの言葉を続け、すぐに彼女らのもとに向かわなければならない
「―――すまない姉貴、今は本当に急ぎの…」
彼女の方へ振り向きながら言葉を続けるブライアンだったが、そこにハヤヒデの姿はなかった。
「―――姉貴?」
彼女はどこにもいないーーー正確には彼女がいた場所に、1回り2回りも小さい少女がそこにいた。
ブライアンは大きく目を見開き、目の前の幼児を真っすぐと見つめる
――この子、見覚えがある…昔の記憶…昔、私が幼稚園に入った時の写真と言って姉貴が見せてきた…
「――――まさか」
――ありえない…だが間違いない。目の前にいるこの少女。特徴的な癖っ毛に、赤縁の眼鏡…
「あ、姉貴…?」
ーー決してありえない非現実的な目の前の光景
唐突な出来事に戸惑っていると、目の前の少女ーー幼いハヤヒデはしたっ足らずな様子で口を開いた。
「――おねーちゃん、だぁれ…?」
――どうやら姉貴は私のことを妹だとは認識していないようだ…記憶も昔の当時の頃に戻っているらしい。
目の前に広がるあまりにもショッキングな光景にブライアン自身戸惑いながら、自身とハヤヒデに降りかかった状況を何とか冷静に分析していた。
マックイーンから受けた電話を思い出し、ブライアンは一つの可能性にたどり着いたのだった。
――まさか、能力者による影響か…?
だとすれば、アグネスタキオンが言っていたという、何者かに刺されて生まれたという合計3人の能力者のうち1人が襲ってきたということだろうか…
必死に考えを巡らせていたブライアンだったが、その考えは唐突に声を掛けられたことによって中断されることになった。
「あ~~~!ここにいたんですね、私のかわいこちゃんたちは」
夕暮れ時となり、凡そ半ハロン先の暗がりからゆっくりとこちらに歩み寄ってくるウマ娘―――鹿毛のロングヘア―、学生服にエプロンを身に着け片手に赤ちゃんをあやすときに用いるガラガラを手にし、オグリキャップやイナリワンたちと共に三強の一角を成したスターウマ娘…彼女はトレセン学園でも有名人であった。
「スーパークリーク…?」
「今かわいこちゃんになったのは、ハヤヒデさんだったんですね~。すぐにブライアンさんも一緒に、いい子いい子してあげますからね~」
――どうやら話が見えてきたようだ。能力者になったことによる能力の暴走…今朝能力者となった最後のウマ娘とは、どうやらスーパークリークのようだ…
「――すぐにあなたもかわいこちゃんにしてあげますからね!」
その途端、クリークの足元から光線のような光がこちらに向かって伸びてくる。まるで意思を有した生物のようにこちらに向かってくる光に危機感を覚えたブライアンは、間一髪のところで幼いハヤヒデを抱えて横に跳ぶことによって間一髪で接触を防ぐことができたのだった。
「あら惜しい~もう少しでいい子いい子できたっていうのに~」
どうやらクリークが繰り出した光線に当たると、姉貴のように幼児化してしまうらしいーーそうとわかればその光に触れることはできない。
「タイシンさんに続いて、ハヤヒデさんもいい子ちゃんになったのに~ブライアンさんもそうなってしまえば楽なのに~」
ーークリークの同室のタイシンはどうやらクリークの毒牙にかかってしまったようだ…差し詰めクリークが能力を発言させた理由は、他人を甘やかしたいといったところか…バカげているといえばそうだが、能力を発言させるにはその意思が深く関わるという…ブライアンはある程度能力の推察を立て、その理由もある程度予想はついたが、現状彼女の能力の暴走を止める手立てがないため、この場で彼女と向き合うのは得策ではないようだ。
ブライアンは幼いハヤヒデを抱きかかえたまま、クリークとは逆方向へと走り出したーー少しでも彼女と距離を取るために、少しでも彼女を止めるための時間を稼ぐために。
階段を駆け上がり、すぐに扉が開いていた教室の中に入る。
「おねーちゃん…?」
ブライアンの腕の中からハヤヒデは不安そうにこちらの顔を覗き込んできたのだった。
――私は…ナリタブライアンというウマ娘は、生まれてから今まで妹と呼べるような存在に頼られたことがないーー幼い時は姉貴がお節介を焼いていたし、(それは今もだが)今は基本的は一人でなんでもできる…だが、姉貴とはいえこんな小さな子が不安を抱いているとき、その不安を解すことなんて私にできるのだろうか…?
何とか彼女に自身の不安に悟られることがないように、慣れない笑顔をなんとか取り繕いながら、ブライアンは彼女に語り掛けた。
「い、今…かくれんぼをしているんだ…さっきお姉さんがいただろう…?あのお姉さんが鬼で、私たちが逃げる番なんだ…鬼に見つからないように、声を出さないことってできるか…?」
ブライアンが必死に取り繕った提案に、ハヤヒデは小さく頷いたのだった。
その反応を確認すると、急いでブライアンは身を隠すために行動を起こすのだった。
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プュリティオブハート2
――日没が間近に迫り、カーテンの隙間から夕陽が差す教室。
ナリタブライアンは能力によって幼児となってしまった自身の姉を膝に抱えながら、教卓の机の中にうずくまり、スーパークリークの目を搔い潜っていた。
幼くなってしまった姉を前に、ブライアンは少しの気まずさを感じながら彼女を見つめていた。
―――沈黙が二人の間を流れていく。
…別に姉貴が嫌いになったわけじゃあない。
だがトレセン学園に入学し、顔を合わせる機会は次第に減っていき少しずつ姉貴とは疎遠になってしまっていた。今では姉妹だというのに姉貴と顔を合わせてもどんな話題を話せばいいのか、どうやって話を続ければいいのか内心困惑するようになってしまっていた。
そんな沈黙を打ち破るかのように、幼いハヤヒデは口を開いたのだった
「私ね、妹がいるの…ブライアンって言うんだけど」
「姉k…ハヤヒデちゃんにとって、ブライアンってどんな存在なんだ?」
―――ずっと聞いてみたかったこと。姉貴とは腹を割って話したことなどほとんどない…
「ブライアンはすごいんだよ!この間の駆けっこだって、私より速かったんだ!」
「そうなのか…ハヤヒデちゃんはそれを見てどう思うんだ…?」
「…私が勝つ。私が勝って、ブライアンに背中を見せてあげないと!ブライアンが退屈しないようにーー私が目標になれるように!」
「――だって大好きな妹だから!」
――何歳になっても、姉貴は姉貴だな
ハヤヒデの本心を聞き、僅かに微笑むブライアンの前で、ハヤヒデは不安そうに言葉を続ける。
「ブライアンは私のこと…きっと嫌いじゃないよね…?」
幼い彼女だからこそ、あふれ出る彼女の本心。その気持ちに応えるようにブライアンも口を開いた。
「妹は…きっと妹はハヤヒデちゃんのこと、大好きだよ…心配しなくていい」
不器用ながらも、きっと記憶が残らない今だからこそ伝えられる素直な気持ち
今まで話せなかった分も。伝えられなかった分も。一歩踏み出すために、クリークの能力を解かなければならないーーー私が戦わなければならない。
「――今から鬼ごっこを終わらせてくる…ここで少し待っていてくれないかい?」
「――うん!おねーちゃん、頑張って!」
スーパークリークとの決着をつけるため、ブライアンは教室の戸に手をかけた。
「あらあら~自分から姿を現すなんて~いい子いい子してほしくなったんですね~?」
スーパークリークはブライアンの姿を認めると満面の笑みをこちらに向けてきたが、その表情の裏には言い様のない狂気を滲ませていたのだった。
クリークからにじみ出るオーラに対する恐怖が顔に出ないように努めながら、ブライアンは口を開いた。
「…姉貴を元に戻してもらおう」
「そうなんですね~ブライアンさんは最初に何で遊びますか~?かくれんぼはさっきしたから、次は好きなだけ甘やかせてあげますからね~」
――どうやら話が通じる状態ではないらしい…今のクリークは本能と願望の赴くまま、行動しているようだ…
覚悟を決めたブライアンは前傾姿勢を取ると、クリークに向かって一直線に向かっていった。
「あらあら~ママがすぐにいい子いい子してあげますね~」
笑顔を張り付けたクリークが繰り出す光の攻撃をかわしながら、ブライアンはまっすぐクリークのもとへ突き進む…その目に姉を助けるという確かな意思を宿らせて
クリークまでの距離が5メートルほどになったその時、何者かに足をつかまれたことでブライアンの足は止まった。足を見てもその方向には何も見当たらないが、確かに足には何者かがこれ以上前に進まないように彼女の足をつかんでいたのだった。
「よしよし~これ以上お痛をしないように抑えておかないと〜ママのところにようやく来てくれましたね…これでいい子いい子してあげられます~!」
何者かにとりつかれたように、クリークはブライアンの元に近づいていく。そして確実に彼女に光線を当てられるように正面から光線を撃ち出したのだった
「―――これを待っていたんだ…お前が油断してご丁寧に正面から光線を撃ってくるこの瞬間を待ってたんだ」
ブライアンは胸ポケットから何かを取り出すーーーそれはハヤヒデが日ごろ持ち歩いている手鏡だった。
「確実に光線を撃ち返せる瞬間をなーー!」
光線が鏡に反射し、跳弾となってクリークのもとへと向かっていく。
「の、能力を解除しないとーー」
光線が当たるその瞬間に能力を解除したクリークだったが、思い切り後ろに仰け反ったためバランスを崩した彼女は強かに後頭部を打ち付け、意識を手放したのだった。
ハヤヒデはゆっくりと目を覚ます。
――ブライアンは…?
ーー早く妹に会わなければ
妹の姿を探しに廊下に飛び出すと、ちょうどこちらに向かってきたブライアンと鉢合わせするのだった。
「ブライアン…」
「姉貴、目覚めたか…」
――伝えたいことは沢山ある。話したいことが沢山ある。目の前に現れたハヤヒデの姿にブライアンが言葉を詰まらせていると、ハヤヒデは口を開いたのだった。
「――そろそろ門限だぞ。生徒会副会長たるものが、これを破ってしまってはな…」
「相変わらず口数多いな…頭でっかちだな姉貴は」
「誰が頭でっかちだ!私の頭は大きくないぞ!」
でかいという言葉に過剰に反応を示したハヤヒデが頻りに自身の頭部を触っているーーその様子を見て思い直したブライアンは口を開いた。
「―――すまん…言い過ぎた」
ハヤヒデとの関係を一歩前進させようと決意していた手前、いつものように突き放す態度を取ってしまったことを詫びると、ハヤヒデは口元を僅かに上げながら口を開いたのだった。
「―――いいんだ、ブライアン。先ほどやっと可愛い妹の本心が分かったんだから…
――お姉ちゃんのこと、大好きだってことが」
―――え?
「~~~~~~っ!!!!」
ハヤヒデの記憶が戻ることはないだろうと言った剥きだしの、素直な台詞。その時のことをハヤヒデが覚えていたという想定外の焦りと、恥ずかしさで顔を真っ赤に染め上げながらブライアンは似合わず矢継ぎ早に言葉を取り繕ったのだった。
ピュリティオブハート
能力者;スーパークリーク
破壊力D/スピードB/射程距離B/持続力A/精密動作性D/成長性A
光を光線のように発射し、当たったものを幼児化させるスタンド。放った光に掠ってしまっても能力は発動する。クリーク自身も光に当たることによって効果は作用し、光は鏡といった反射するもので跳ね返すことができる。
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決戦前夜ー宝塚記念
「…ということは、うちのチームメイトが同時に襲われたってことか…?」
事件があった翌日、チームシリウスの面々から報告を受けた班目トレーナーは、一通りの話を受けたあとにため息をつく様に口を開いた。
「―――どうやらそのようですわ…私とチケットさんがタキオンさんに、ゴールドシップさんがナカヤマフェスタさんにーーそしてブライアンさんがスーパークリークさんに」
「実際にチケットやフラッシュとそのトレーナー、姉貴にも被害が出ている…内々で生徒会の方でも調査が行われるそうだが…タキオンたちも被害者だ…私の方から彼女らに疑いの目が向かないようにしておくよ」
「まぁ生徒会の方で調べたとしても、犯人はわからないだろうな…シンボリルドルフといっても能力者ではない以上、どうしようもないだろう…」
トレーナーが途方に暮れたように頭をかくと、マックイーンは覚悟を決めたように口を開いたのだった。
「――やはりあの男ですわ…川尻トレーナーの仕業に違いありません」
「だけど、マックちゃん。あいつは今関西にいるんだぜ~?どうやってあいつらを能力者にしたっていうんだよ?」
「――もしかしたら川尻トレーナーには協力者がいるかもしれませんわ…」
「この学園の中に!?そんな仲間がいるってこと…?」
「―――いや、それはないだろう…あの手の男に恐らく仲間というものはいない。そこから自身のことがバレるってこともあり得るからな…それにこの学園にいる人だったら、多少なりともウマ娘を襲うことに多少抵抗があるはずだ…」
――シリウスは先代トレーナーから受け継いだ、マックイーンと二人で始め、メンバーに恵まれた大切なチームだ。
だからこそ、そんな大切なチームだからこそ…そんなチームメイトが傷つけられているからこそ
――川尻トレーナーには、宝塚記念が終わったあとに色々聞かなければならない。
班目トレーナーは心の中で静かに決意の炎を燃やすのであった。
「なるほど…状況はわかった…また連絡する」
写真の親父からの一報を受け、吉良は苦々しくスマホを耳から離した。
―――親父も余計なことをしてくれたな
いずれにせよ、私の正体に気づくということは、私が川尻浩作ではなく吉良吉影であるということに気づくということはあり得ないが、マックイーンが私を疑っている以上私に対する疑いの目はますます強くなったというところか…
――宝塚記念。今はそれに集中しよう。動き出すのはそのあとだ…
スマホから目を離し、阪神レース場で着々と進む宝塚記念への準備に目を向ける。
天皇賞で1着という功績を残したライスは、宝塚記念のファン投票では1位となり、開催セレモニーに出席することになっていた。
そのリハーサルに今日は阪神レース場へと足を運び、ライスと共にその段取りを確認していたのだった。
「――お兄様?」
勝負服に身を包んだライスシャワーがやってくる。
「――心配ないよ…たづなさんから少し確認の電話をもらっただけさ」
吉良が笑顔でライスに向かって答えると、ライスの頬は少し赤らんだ。
すると数人のスタッフが吉良達のもとへやってきて言葉をかけた。
「すみませーん、花束贈呈の位置を確認したいのですが…」
「それが終わったらこっちお願いしますー」
スタッフたちが様々なセレモニーの確認を取り、そのたびに私やライスが対応する。
吉良にとっては造作もないことだが、ライスは目まぐるしく飛び交う質問に、目を回してしまっていた。
「――少し、休憩しようか」
吉良が隣にいるライスに声をかけると、彼女は小さく首を横に振った。
「――ううん。大丈夫だよ。スタッフさんもお兄様も、ライスのために頑張ってくれてるから。皆を笑顔にできるなら、ライス頑張るから」
そう言うとライスは小走りでスタッフのもとへと向かっていたが、セレモニーのために取り付けられていた門が音を立ててライスのもとへと倒れていく光景が吉良の目に入った。
「―――ライス!」
彼女の元に走り出し、ライスをかばうように突き飛ばすと、誰にも気づかれないようにキラークイーンで彼女の身体をそっと支える。
「お兄様!!」
キラークイーンでガードしようにも今キラークイーンはライスのもとにやっており、しかもそんなことをしてしまえば周囲の人間が不審がるのは火を見るよりも明らかだ。
一瞬判断が遅れた吉良は、倒れる門に頭を打ち意識を手放したのだった。
吉良が目を覚ますと、そこは病室でライスは隣で涙を流していた。
「――よかった!目覚められたんですね!今お医者さんを呼んできます!」
近くにスタッフはそう言うと病室を駆け出していき、ライスは震えるように口を開く。
「――お兄様がライスのせいで…」
――どうやらまたいらぬ心配をしているようだ…吉良はライスの頭をそっとなでると、口を開いた。
「自分を責めるな…ライスを守るのが、私の仕事だ。ライスにケガがないならよかったよ…」
――――病院での検査が終わり、異常がないとして吉良達が病院から出ると、スタッフは申し訳なさそうに口を開いたのだった。
「大変申し訳ありませんが、こうなってしまってはセレモニーはおろか、宝塚記念そのものが開催できない可能性が高いです…」
「…それは一体どういうことですか…?」
「今回の事故は万が一にありえなかったことというか、原因が全く分かっていないんです。事故を受けて、原因を究明するために場内を全て点検しなおすことになりまして…そんな状態なのにレース場をつかうことはできないということで…」
――どうやら私が気を失っていた間に大事になってしまっていたようだ。
隣にいるライスに目を向けると、まるでこの世の終わりかのように顔を真っ青に染め上げてこちらを見つめていた。
「――お、おにいさま…」
「――ライス、落ち着きなさい。今日は色々と疲れているだろう…?今日はホテルに戻って、ゆっくり考えよう」
一方そのころトレセン学園の生徒会室では、シンボリルドルフをはじめとした面々が顔をしかめてルドルフが座る室内の奥に坐する卓を囲んでいた。
「――先日の幾人かのウマ娘やトレーナーが襲われた事件、あれは一体何者の仕業なんだ?」
エアグルーヴが深刻そうに口を開くと、ルドルフは重々しく口を開いた。
「いずれも同日に起こった事件だそうだが、その事件の現場にはチームシリウスの面々が同席していたそうじゃあないか…「群疑満腹」、ブライアン…君は何か知っているんじゃあないか?」
凍てつくように突き刺さるルドルフの視線に、一瞬だがブライアンは本当のことを打ち明けてしまおうかと思った。この学園の長である彼女にとって、すべてのウマ娘の幸福を願う彼女にとって、今回の事件の犯人を許すことなど決してできないだろう。実行犯としてはアグネスタキオンらであることに間違いはないのだが、彼女らはただの被害者であり、そしてその背後に真犯人がいることは自明の理である。
――だがそのことを打ち明けてしまえば、能力のことをルドルフやエアグルーヴに話さなければならない。それはスズカやカフェが偶発的に起こしてしまった事件のことも、聡い彼女らのことなら勘づく可能性は大いにある。
また川尻トレーナーのことを彼女らに話してしまえば、一体どうなることか…犯人を決して許さないであろうルドルフやエアグルーヴがあの男にそのことを問い詰めることは自明の理であり、その場合に川尻トレーナーがどういう行動を取るかは全く予想ができない
ーーそれこそマックイーンが目撃し、予想していた通りに彼が人を殺すことにためらいがない能力者だったとしたら、二人の命を狙う可能性は非常に高い…
「――私は、私たちは何も知らない」
嘘をついたことを悟られないように、目をそらすことなく彼女の目を見つめ返す。
永遠とも感じるような冷え切った空気が室内に流れた後、ルドルフは口を開いた。
「――そうか。君の友人たちを疑ってしまって悪かった…引き続き調査を続けることにするよ…この話はいったん終わりにしよう」
エアグルーヴとブライアンが部屋から退出して間もなく、入れ替わるように一人の男が生徒会室に入っていった。
――彼の名前は甲斐俊。名前とは裏腹に非常に中性的な顔立ちをしており、身長も平均男性と比べても一回り小さいーーそんな彼だが、シンボリルドルフのトレーナーとして若くしてその手腕を発揮する前途有望な男である。現在は第一線を退いたルドルフだが、日ごろのトレーニングの指導は彼が行っており、時折レースに出場することもあった。
「――ルナ。今日も生徒会の業務、お疲れ様。随分深刻そうな顔をしているね…」
「――あぁ、トレーナー君…先日起きたウマ娘やトレーナーが襲われた事件についてだよ。犯人の手がかりが全くつかめなくてね…」
「あの事件か…僕に何か手伝えることはないかい?」
「ありがとう、トレーナー君…なら一つ頼まれごとをしてくれるかい?」
「いいよ、何をすればいい?」
「君はチームシリウスのトレーナー…班目トレーナーと同期で親しかっただろう?あの日の事件のそれぞれにはチームシリウスのメンバーが同席していた…犯人ではないだろうが、何か事情は知っているはずだ…それを彼から探ってほしい」
――ブライアンは嘘をついている。何の事情かは知れないが、彼女は、チームシリウスのメンバーはこの事件に関してきっと何か重大なことを知っているはずだ。
ルドルフの依頼に甲斐トレーナーは承諾の意を示すために首を大きく縦に振った。
「――わかった。明日から出張だから、その前にあいつにそれとなく聞いてみるよ」
「――ありがとう、トレーナー君…それはそうと明日から出張なのかい?」
「そうなんだよーーM県支部に数日間ね。URA職員とのミーティング、漫画家さんの取材の対応に現地のトレーナーに技術指導をしたりと大忙しさ」
「――くれぐれも気を付けてくれ。帰ってきたら土産話を沢山聞かせてくれ…」
トレーナーが部屋から退出したのち、ルドルフは静かに立ち上がり窓の外に広がる眼下のトレセン学園の様子を見下ろした。
――すべてのウマ娘のために。この事件の犯人にはそれ相応の償いを受けてもらわねばならない。
ルドルフは決意の炎をその目に宿らせ、部屋を後にしたのだった。
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宝塚記念ーーささやかな祈り1ーー
ライスシャワー、一体どうしたというのか!向こう正面でまさかの減速…
――残念ですが、ライスさんの足はもう…
――お兄様。もうライスは…
「ライス!」
玉のような脂汗を額に滲ませ、吉良は最悪の目覚めと共に朝を迎えた。
「――夢か」
ホテルのベッドから鉛のように重い身体を鞭打ちながら起こし、鏡の前に向かいそこに映った自身の酷い顔を見ると、吉良は自嘲気味に口元をゆがませた。
「――我ながらひどい顔だ」
昨晩の夢のいったい何がそうさせたのか、そう考えながら吉良が身支度を整えていると、携帯電話が着信を告げていた。
朝から一体だれだ?
画面に表示された相手の名前を確認すると、そこには秋川理事長と表示されていたのだった。
「…はい、はい。そうです…川尻浩作です…」
電話で活気のある理事長相手に、吉良は頭を下げながら対応を続けた。
「えぇ、…はい、ライスシャワーにケガはありません…私が少し打ち身をしたくらいで…いえ!理事長、こちらに出向いていただかなくても大丈夫です…はい、はい…宝塚記念は…そうなる可能性が高いです…昨日簡単に説明させていただきましたが、設備の倒壊の原因が特定できていないそうで…」
「―――驚愕っ!川尻トレーナーは何も聞いていないのか!ライス君が京都レース場で開催することができないか掛け合っているそうだぞ!」
――なに?ライスが単独で掛け合っているというということか…差し詰め、この吉良吉影に迷惑がかからないように、というところか…
「――それは初耳です…はい、私の方からも確認をいたします…それと理事長、お願いがあります…
頼みを理事長に告げた後、頭を45度傾けた状態のまま電話を切った吉良は、忌々しそうに顔を歪ませた。
――ペコペコしやがって、川尻浩作め…
――だがそれを自然とできるようになったこと…なってしまったということは、川尻浩作としての振る舞いも板についてきたというところか。
「――今はとにかく、ライスに確認を取らなければ」
吉良は髑髏の模様があしらわれたネクタイを首に締めると、ホテルのドアを開け担当ウマ娘を探しに行ったのだった。
宝塚記念のセレモニーのリハーサルでの一件の少し前、ルドルフから頼みを受けた甲斐トレーナーは、数メートル先にいる斑目トレーナーの背中を見つけると、小走りで彼の元に向かっていったのだった。
「よぉ、斑目!」
努めて明るい声を保ちながら彼に声をかけると、班目は眉を曲げながら口を開いた。
「おぉ、お前か…一体何の用だ?」
「親友のお前に何の用もなく声をかけちゃダメか?それとも声をかけられたらまずいことでも?」
「いや、そんなことはない。お前は最近出張ばかりだからな。久しぶり会えて嬉しいよ――元気そうで何よりだ」
屈託なく笑う彼の真意を探るため、甲斐はカマをかけるように本題に切り込んだ。
「そういうお前は何か元気がなさそうに見えるぞ…何かあったのか?」
しっかりとその目を覗き込むように、しかしさりげなく質問した甲斐だったが、班目はその笑顔を崩すことなく言葉を続けた。
「―――お前の飼い主に何か聞いてこいって言われたのか…?悪いが俺も、シリウスのメンバーも何も知らないよ」
半分茶化すように誤魔化した斑目だったが、その目には確かな決意と覚悟の意識が宿っているのを甲斐は見逃さなかった。
「――そうか。別に他意があって聞いたわけじゃあなかったんだが…」
「――いや、こちらこそすまない…このあと
出張なんだろう?帰ってきたら色々話そう。土産話、楽しみにしてるよ」
去っていく班目の背中を見送りながら、甲斐は彼との在りし日を思い出していた。
――トレーナーになった当初、僕は臆病な人間だった。
元々身体が他人より小さく、顔つきのせいで人から馬鹿にされたり、なめられることも非常に多く、そんな自分に自信を持てなかった。
だからこそ、同期の班目の分け隔てない竹を割ったような性格に救われた。
――シンボリルドルフの腰巾着と、その栄光にふさわしくないと言われ孤独だった僕の心は救われたんだ。
だからこそ、彼が今まで見せたことのないような顔つきに、甲斐にも思うところがあったのだった。
…一体お前は何を知ってるんだ…?
いづれにせよ、僕が調べられることは予め調べておこう…
班目と別れ歩みを進める彼の目にも、確かにトレセン学園を守りたいという黄金の意思を宿していたのだった。
――チームシリウスが各々当事者である事件には、その異質性から理事長やたづなさんも認知せず、生徒会での内々の調査となっている。
一体このトレセン学園で何が起こっているのか。
…そういえば、去年にも栄養失調の生徒が発見されたり、悪夢によってうなされる生徒が続出したりと、普通とは言い難い事件がいくつかあった。
――事件はそこから始まっていたのだとしたら…?
「――始まりは日本ダービー直後の悪夢騒ぎからか…きっかけがその事件からと仮定して、何かきっかけになるようなことがあったということか?」
――今までトレセン学園にはなかった変化。トレセン学園に起こったその変化が事件の全ての始まりだったとしたら…?
事件の核心へと近づいた甲斐の思考だったが、その思考は首の鋭い痛みによって中断されることになった。
―――え?
当然の出来事に、自身の身に何が起こったのかわからず、痛みの原因を探ろうと首を傾けると、そこには驚きの光景が映っていたのだった。
「――矢?」
一本の矢が自身の首筋に深々と突き刺さっている。息もできないほどの激痛が体を貫き、思考を頭から追いやっていく。
――首筋に感じる痛みと共に、彼は意識を失った。
京都レース場に赴き、何やら職員に頭を下げているライスの姿を認めると、吉良は軽くため息をついたのだった。
――どうやら理事長の話は本当だったようだ。
「ライス」
短く、鋭く彼女に声をかけるとライスはわかりやすく驚きこちらを振り返った。
「私に無断で一体何をしているんだ、ライス」
「ごめんなさい、お兄様…でもライス…」
「私達は二人で一人じゃあないか…なんで教えてくれなかったんだい?」
「お兄様に迷惑が掛かっちゃうかなって…お兄様は昨日のことでケガしちゃったし、ライスの無茶に付き合わせちゃうのは…」
「…でもライスは宝塚記念、開催させたいんだろ?」
吉良の問いに真っすぐこちらを見つめ、小さく頷くライスを見て、吉良は彼女の成長に驚いていた。
――初めて会った時はあんなに小さく震え、涙をその目からこぼすことでしか意思を伝えられなかった彼女が、自分の意思のもと行動し、思いを伝えている。
――だからこそ、彼女のために何かしたいだなんてこの吉良吉影が思ってしまったのか。
「――先ほど阪神レース場、京都レース場の責任者に理事長に掛け合ってもらうように頼んできたよーーまもなく許可が下りるだろう」
「…お兄様」
「…ライスがやりたいこと、成したいことを実現させることが私の目的だ」
「ライス、応援してくれるみんなのために、お兄様のためにやりたいの…宝塚記念…絶対勝ちたいの、お兄様」
――この吉良吉影も変わりつつあるということか?こんな甘っちょろいやつに成り下がったというのか…?
ライスに言葉を掛けながら、あまりの変わりように自身を侮蔑し、憤りとほんの少しの期待と、どこか言い様のない感情を抱えながら、吉良はライスに笑みを向けた。
――こんな日々がずっと続くのだろうか
続けられるのか
――トレセン学園M県支部の一室。
一人の男が後に来る自身の取材の対応に来るであろう人物を待ちながら、来客用に出された薄いお茶をすすりながら腕時計を確認した。
――額に巻いた珍妙なヘアバンドに、両耳に着けたペン先の形をしたイヤリング。
その性格を反映させたように吊り上がった眉と目つきからは、その男の頑固さ、高慢さを窺い知ることができる。
――彼の名前は岸部露伴。杜王町に住み、大ヒット作「ピンクダークの少年」を連載している超人気漫画家である。
短編5回の読み切りを書くにあたり、ウマ娘を主人公にした作品を書こうとトレセン学園M県支部に取材を申し込んだ露伴だったが、彼の顔に張り付いている表情は好奇心に満ち溢れているものではなく、苛立ちがありありと浮かんでいるものであった。
――担当のものが来るとか言っていたが、あまりに遅すぎるんじゃあないか?
中央から来ているというトレーナーが取材に対応するらしいが、約束の時間からは既に20分が経過している。
その男は、ウマ娘に知見がない露伴でも知っているウマ娘、シンボリルドルフの担当のようで非常に有名な人物らしい。
――その時、ドアから入室の許可を求めるノックオンが響き渡る。
「どうぞ」
露伴の声の後に、部屋に一人の男が入ってくる。
皇帝と名高いウマ娘の担当トレーナーと聞いてどんな人物かと想像していたが、その男は思ったより小柄で、中世的な顔つきをしていた。
――どことなく康一君に似ているな…
露伴がそんなことを思っていると、入室した男が口を開いた。
「ハァ、ハァ…お、遅れてしまい申し訳ありません…甲斐俊と申します。今日はよろしくお願いします」
「――いや、遅れたことに関しては気にしないよ。早く着くなんてことやるよりもよっぽどマシだからね…ただ」
「たった今、どうしても気になることができたんだ…漫画家としての些細な興味ってやつなんだが…
――どうして壁に背中をつけているんだい?」
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宝塚記念ーーささやかな祈り2ーー
ーー漫画家という職業柄なのだろうか、それともこの男、岸辺露伴の性というやつだろうか…露伴はウマ娘の取材という仕事を忘れ、目の前の男が懸命に背中を隠すその姿に関心を奪われていた。
ーーヘブンズドアーで彼に命令することで背中を見ることは簡単だ。
だが、それではダメなのだ。この岸辺露伴が「見てやった」ということにはならない。
僕が直接彼の背中を見ることが重要なのだ。
「えーと質問を続けるが、ウマ娘の練習の内容としては、どのようなものが…」
取材として質問を投げかけるが、重要なのはそんなことじゃあないーー彼の背中だ。
隙があれば彼の背中を見ようとするが、そのたびに甲斐は体の向きを調整し、露伴に背中を見られないようにするーーそのことが却って露伴の好奇心というものを酷く刺激していたのだった。
――やがて露伴は一つの作戦を思いつくと、さり気なく、わざとやったものだと悟られないように取材で用いていたペンを転がし、彼の傍の机の下に落としたのだった。
「初対面の人に頼むのはとても気が引けるんだが、そこのペンを拾ってくれないかい?」
「――いいですよ」
甲斐は露伴が落としたペンを拾おうと椅子から立ち上がり、机の下に手を伸ばすーーすかさず露伴は背後のカーテンを開けると、昼下りに昇る太陽の陽が室内に鋭く差しこみ、ペンを拾った後に顔を上げた甲斐の顔に直撃したのだった。
甲斐の視界を鋭い光が包み込み、反射的に体を逸らすーー
「すまないね~~~部屋が少し暗かったからカーテンを開けたんだ!」
そんな台詞をいけしゃあしゃあと吐きながら、すかさず露伴は彼の背中を覗き込むのだったーーー
宝塚記念を翌日に控え、吉良吉影はライスシャワーと最後のミーティングを行っていた。
吉良の作戦の説明を咀嚼し、自身のコンディションを鑑みた意見を適格に織り交ぜるライスの姿を見て、吉良は初めて出会った時の彼女のことを改めて思い出していたのだった。
――初めて出会った彼女は、正に弱者という言葉を体現したような存在だった。
自信がなく、ウマ娘というポテンシャルをその臆病さによって存分に活かすこともできない。選抜レースには出場することもできずに校舎の隅で感情を押し殺すこともできずにめそめそと泣いていた彼女。
――それが今はどうだろうか
菊花賞、そして天皇賞を征した一流のウマ娘としてその確固たる信念と自信を基に明日のレースに臨もうとしている。
―――それなのに何だろう、この焦燥感は。
昨晩の夢から、吉良の胸の中には僅かな不安が空に立ち込める鱗雲のように居座っていた。
――トレーナーとして、ライスのケガには細心の注意を払ってきたつもりだ。
だが万が一。
「――なぁライス。本当にケガはないか?少しでも体調に不安はないか?もしも何かあるんだったとしたら…」
「…お兄様?いつものお兄様らしくないけど、どうしたの?」
「…いや、なんでもない。ミーティングはこれで終わりに…」
――違和感を残す言い方になってしまったか。
急いで話を切り上げようとした吉良だったが、ライスはじっとこちらを見つめたまま、静かでありながらも確固たる意志を宿した声色で吉良に問いかけた。
「お兄様」
「何があったのか、聞かせて欲しい。お兄様が何か思ってることがあるなら、聞かせて欲しい」
「……」
このまま何でもないと白を切ることもできるが、レースの前日に彼女の心にシコリを残すようなことは得策ではない。
吉良は観念したようにため息をつくと、ライスに昨日見た夢の内容を淡々とーーあくまでも彼女の心に不安と残す形とならないように注意を払いながら説明した。
ライスは吉良の話が続いている間、真っすぐ彼の目を見つめたまま聞いていたが、やがて吉良の話が終わると静かに口を開いたのだった。
「――ありがとう。ライス、嬉しいんだ…お兄様がライスのこと、心配してくれてるってことだから…」
「…いや、私がただ気になっただけなんだ…いらぬ心配をさせてすまない」
「…あのね、お兄様」
「…?」
「ライスね、お兄様が心配してくれてるってわかってーー」
「――やっぱり勝ちたい」
「明日のレース、絶対に一着でお兄様のところに帰ってくるから。お兄様の心配が夢の中の出来事だけだったってなるように、ライス頑張るから」
「――ライス」
本当に彼女は選手としても、精神的にも成長したようだ。
吉良に臆することなく真っすぐと向き合い、自身の確固たる自信と覚悟をぶつけるその姿に吉良の心は揺れ動かされていた。
「――これが、信念というやつか」
ならば私も信じよう。
――目の前の彼女を
――彼女の信念を
――彼女の覚悟を
彼女の強さに、ある種の感銘を受けた吉良は一つの願望が心の中で生じたのを感じ取った。
――彼女に、本当の自分を打ち明けたい。
――自身の出自。自身の本名…自身の罪を。
殺人衝動を抑える反動によって生じたものでは決してなく、まぎれもなく彼女の成長を見守る存在として改めて立つために…その資格を得るために。
罪のない人々を自身の快楽と保身のために殺してきた罪人には到底許されない思いを抱えた中、吉良はその願望をぐっとこらえ、動きかけた唇をぐっと抑える。
――自身の行いを悔いているわけでは決してない
私には持って生まれた性というものがある。それに向き合った結果の行為である以上、その行為をしなければ良かったとは決して思わない。
吉良はライスの決意に首を縦にふることで答えると、静かに彼女に微笑んだのだった。
露伴の眼前に晒される、甲斐の背中。露伴は漫画家として探求心がたどり着いた勝利をかみしめながらその背中をまじまじと見つめた。
「見たところじゃあ、別に何て言うことはない普通の背中じゃあないか…」
――すると、甲斐は尋常ではないほど身体を震わせ、呻くように声を上げ始めた。
「――もう終わりだ。背中を見られた以上、もう終わりなんだ…」
余りの甲斐の憔悴具合に、露伴もさすがに事態の深刻さを察知し詫びの言葉を並べたが、甲斐は構わず言葉を続けた。
「…何かはわからないが、背中を見られたら終わりだっていう感覚だけはあったんだ…ちくしょう…あの時からだ…矢で射られたあの時から…」
―――なんだって?
…この男、たった今、矢に射られたと言ったのか?
とんでもない言葉を聞いた露伴は、詳しい話を聞くために甲斐のもとに駆け寄ろうとしたが、彼は突然自身の胸を押さえて苦しみだした。
――なんということだ
自信の命の灯が急速に失われていくのを感じながら、甲斐は既に自身のこととは別のことを考えていたのだった。
――やはり班目が巻き込まれた出来事とはこれだったのか
矢で首を射られた時から、自身の身にもしものことがあった時に彼にメッセージを残したのだが、どうやら本当にあとは彼に託すことになってしまいそうだ。
急速に暗転していく世界の中で、甲斐が最期に思ったのは最愛のウマ娘に対する謝罪の念だった。
――初めて彼女と出会った時
――彼女とウマ娘の未来について、語り明かした時
――彼女がクラシック三冠を征し、その栄光を二人で祝った時
――ウマ娘の未来について語る彼女の横顔を眺める時
彼の脳内には、最愛のウマ娘と過ごした日々が走馬灯のように流れていく。
本当はもっと彼女といろいろな景色を見たかった。
「――本当にすまない」
――ルナ
目の前で突然倒れて動かなくなった甲斐の姿を見て、露伴は一つの可能性に行き着いたのであった。
「―――これはスタンド攻撃か!」
このトレーナー、既に背中にスタンドが取り憑いていたということか
すると自身の背中から底冷えするような声が聞こえてくる。
「――おんぶして、ねっ!」
後ろを振り返って正体を確認しようとしたが、その姿はどこにも見えない。声の出どころを確認しようとした露伴は、鏡に映った自身の背後を見て戦慄としたのであった。
――自身の背中に、小人のような物体―――スタンドがへばりつき、囁くように語り掛けてきている。
「ぼく…チープトリック。そこに転がっている甲斐から産まれたスタンド…背中に取り憑いて、背中を見られたら憑いた奴を殺して見たやつに取り憑くって能力さ…」
「ヘブンズドアー!」
チープトリックが言い終わらぬうちに自身のスタンドであるヘブンズドアーの能力を使って、背中から剥がれるように命令を書き込もうと試みるーーしかしながら、チープトリックの顔からノートのようにページが出現すると、露伴の自身の顔もヘブンズドアーの能力によって同様の状態となってしまったのだった。
「なっーーーこれは一体っ!?」
「――僕の本体、甲斐俊はもう死んじまって、あなたのエネルギーで動いている…つまり今の本体はあなたってことさ…!僕へのスタンド攻撃は全て、本体であるあなたにかかるってことなのさ…!」
――どうやらとんでもないスタンド能力に襲われてしまったようだ。
しかし、厄介なことになった。甲斐が死んだということは遅かれ早かれこの部屋には誰かがやってくるということだが、その時に誰かに背中を見られでもしたら…
甲斐の死体を確認しようと振り向いた露伴だったが、すでに倒れた彼の死体があるはずだが、彼の死体はまるで手品のように消えていたのだった。
「――ど、どういうことだ!?彼の死体はどこにある…」
その問いに答えるように、チープトリックは囁くように口を開いた。
「僕は背中を見られた者を殺して新たな人物に取り憑くとき、かなりのエネルギーが必要なのさ…そのエネルギーは元の宿主の精気を全ていただくから、そいつの死体なんて残らないよ…ねっ!露伴センセッ!諦めて背中見せちゃおうよ…!」
――どうやらこの部屋に誰か来る恐れはないようだが、ここにとどまっていても何の解決にもならない。
「…ねっ!背中見せてよ!露伴センセッ!…どうせもうあなたは助からないよ!」
いちいち癇に障るやつだ…露伴は忌々しそうに顔を歪ませると、ドアを開けて部屋の中から出ると、細心の注意を払いながら、壁に背中をつけて廊下を歩きだしたのだった。
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宝塚記念ーーささやかな祈り3ーー
M県トレセン学園支部。露伴はその顔に疲労を浮かばせながら、永遠とも思える廊下を壁に背中をつけながら、歩いていくーー道行く人はその光景の異様さに好奇の目を送ったが、露伴にはそれに難癖をつけたり、睨みつけたりする余裕さえもなかった。
慎重に周囲を確認し、エントランスから外に出る。そして露伴は目の前のタクシーを止めると、息も絶え絶えになりながら乗り込むのだった。
「―――とりあえず、前に進んでくれ…道は指示を出すよ。」
「わ、わかりました…お客さん、大丈夫ですか?大分体調が悪いようですが…」
「し、心配ない…早く向かってくれ」
タクシーが発車すると、また耳障りな声が脳内にこだまする。
「露伴センセッ!…どこに向かおうっていうのさ!何をしたってもうあんたは終わりってことなんだ、ねっ!」
「うるさい…黙って見てろ…この岸部露伴をコケにしたこと、必ず後悔させてやる...」
「あ、あのお客様?ラジオ、うるさかったですか…?」
運転席のドライバーが不安そうにミラー越しに此方を覗き込んでいるーースタンドが見えない彼にとっては、露伴がこちらに怒鳴っている構図にしか見えないのだろう
「い、いやーーそうじゃあないんだ…すまない」
露伴を乗せたタクシーは、ある箇所に向かって真っすぐと走り続けるのだった。
――阪神レース場の事故によって本会場を使用することができなくなったことによる、例年とは異なる京都レース場での宝塚記念の開催。
しかしライスをはじめとしたURAの懸命な開催への働きかけはメディアによって大々的に取り上げられ、それを相まって観客は通常に勝ると劣らない人数が押しかけていた。
上半期の締めくくりとしてなのか、はたまたファン投票にとって自身がレースに間接的にでも関わることができるからか、観客席には人々が喜々としてひしめき合うように密集し、今か今かとレースが始まるのを心待ちにしていた。
――コンコン
無機質なノック音が室内に響き渡る。吉良はライスの返事が聞こえた後に室内に入ると、ライスに優しく声を掛けた。
「――ライス、時間だ。そろそろ行こう」
「――うん」
ライスの目には、天皇賞の時のような殺気のこもった鋭さはなかったーー代わりに、その目には熱く、燃え滾るような意思が宿っている。
そんな彼女の姿を見て、吉良はある種の苛立ちを感じているのだった。
彼女が無事に、一着で帰ってくることを信じてやることしかできないなんて…何てもどかしいのだろう。
――こんな時にかけてやれる言葉は…
「――ライス」
「…信じているーーライス、勝ってこい」
――上辺だけの、彼女に取り繕うだけの言葉とは異なる、心から絞り出された殺人鬼の言葉にライスは小さく頷くと、ゆっくりとターフに向かっていくのだったーー
――そよ風がターフの上を駆け抜け、ライスをはじめとした選手たちの頬を撫でつけていく。
周囲の視線はこの場の誰よりも小さな少女に注がれ、彼女への期待を乗せたレース場の緊張は等加速的に高まっていく。
選手たちがやがてゲートに収まると、ライスは静かに目を閉じた。
――こんなに誇らしい気持ちでレースを迎えられたことはあっただろうか
ライスのことを、ライスの走るレースを楽しみにしてくれているファンの存在がいる。
ライスの練習に付き合ってくれた、大切なブルボンさんやカフェさん、マックイーンさんといったお友達の存在がいる。
――そして
どんな時もライスのことを信じてくれて、ライスのことを待っていてくれ
るお兄様の存在がいる。
――さっきのお兄様の顔、今までのどんな場面でもあんな顔を見せたことがなかった。
吉良との距離が一歩近づいたという事実は、追い風となってライスの背中を強く後押ししていたのだった。
――絶対に帰ってくるからね、お兄様
ゲートが開くその直前、ライスはその目を大きく見開いたのだったーーー
―――とある場所でタクシーは止まり、露伴は這いずるように車外へ体を出すと、再び体を壁に密着させて這いずるように歩みを進める。
「――メーターが持ち金を上回ったのかい、露伴センセッ!こんな何もないところで降りちゃってさ!あそこのオーソンで何か買おうってことなのかい!」
――このチープトリックというスタンド。ただ囁くだけの能力だが、この能力が延々と続くと中々にしんどい
露伴は顔を歪ませながら牛歩のような速度で歩みを進めていくが、既に彼の精神は限界を迎えていたのだった。
誰かに背中を見られたら死んでしまうという恐怖。そして四六時中脳内に直接語り掛けるように囁き続けるチープトリック。これらの事柄は少しずつ、しかし着実に露伴の心を蝕んでいたのだった。
角を曲がり、住宅街に足を踏み入れた露伴だったが、その時彼を呼びかける一つの声が聞こえたのだった。
「露伴先生――!遅いですよ、待ち合わせ場所、間違えたかと思いましたよ!」
――彼女の名前は、泉京香。
オレンジ色のカールの髪が特徴の、後ろに黒い大きなリボンをつけ、ショートパンツにカラータイツを履いた特徴的な服装をしている彼女だったが、大手出版社に勤めるれっきとした編集者であり、変人として名高い岸辺露伴の担当として彼に振り回される日々を送っているのだった。
「急に連絡をして申し訳ないーー今日は君にお願いがあって連絡をしたんだ」
「――背中?どういうことですか…?」
眉をひそめる彼女をよそに、チープトリックは歓喜の声を上げたのだった。
「――ついに頭をやっちまったのか!これで次は背中を見るあの女に取り憑く、ねっ!」
露伴はそんなチープトリックに目をやると、困惑する彼女に声をかけたのだった。
「――そういえば泉君。君に一つ注意しとくんだが
―――背中を見せる際に、絶対に後ろを振り向くんじゃあないぞ」
そう言うと、露伴は泉の眼前にその背中を晒すように道の中央に移動したのだった。
「――バカめ!露伴、貴様ももう終わりだ、ねっ!」
チープトリックが次の標的である泉の背中に移動するために首を後ろに見やると、露伴は笑みを崩すことなく言葉を続けた。
「――初めから目的地はここだったんだ。チープトリック、お前はここで振り向いた…もっとも、ここがどんな場所か知っていたとしても、その能力ゆえに振り向かざるを得ないんだがなーー」
チープトリックは、振り向いた先に広がる光景を見てその目を大きく見開いた。
――次なる標的である彼女の後ろに延々と続く、底の見えない暗闇。
そこから生気のない無数の手が伸び、自身の身体を掴んでその暗闇に引きずり込んでいく。
「ど、どこに連れていくんだ!ねっ!ねっ!やめろ!」
恐怖の叫び声を上げるチープトリックだったが、そんな断末魔をかき消すように無数の手は暗闇に彼を引きずり込んでいくのだった。
状況を掴めず困惑する泉を無理やり帰宅させたのち、露伴は考え込むように手を顎に当て俯いていた。
――あの甲斐という男は、矢で刺されてチープトリックを発動させたと言っていたな。
矢が絡んでいるということは、犯人はおそらく写真の親父ということになる。
つまり甲斐の痕跡を辿っていけば、吉良吉影に繋がる手がかりを得ることができる可能性が大いにあるということだ。
ーー彼は確か、中央に勤めているトレーナーと言っていたな…
「ーー調べてみるか、トレセン学園」
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宝塚記念ーーささやかな祈り4ーー
一日の仕事がひと段落着いた班目は、自身の携帯にメールの着信があることに気が付いた。
――件名は無題だったが、どうやら送り主は甲斐のようだ。
訝し気に内容を確認すると、メールにはファイルが添付されており、動画ファイルが同封されていた。
――何かがおかしい
班目の勘が、形容し難い危機感を告げていたーーこのファイルを見てはいけないと。
だが、甲斐が件名もつけず、動画ファイルのみ送ってくるという異質性。彼の身に何かあったのかもしれないと班目は恐る恐る動画ファイルの再生ボタンに指を伸ばしたのだった。
動画を再生すると、そこに映っているのはインカメで写したのであろう甲斐が映っていたーー画面の甲斐は見るからに憔悴しきっており、脂汗を額に浮かべながら動画を見るであろう班目に向けて、息も絶え絶えになりながら語り掛けていた。
「――多分俺は、生きてトレセン学園に戻ってくることはできない。出張に行く前、お前とあった直後に首に矢を刺されたんだーーそこから、何かわからないが自分の背中を見られたら終わりだって感じが伝わってくるんだ…」
――矢で首を刺されただって!?
班目はよく似た状況を知っていたーーシリウスの面々から聞かされた、タキオンたちが能力を発動するきっかけとなった状況と酷似している。
息をのみながら動画を食い入るように見つめる班目をよそに、甲斐は苦しそうな顔を浮かべながら説明を続けた。
「――多分僕はトレセン学園まで背中を誰にも見せないで帰ってくることなんてできないーーお前が抱えている事件の片鱗がつかみかけたっていうのに…本当に残念だよ」
「同日に起こったチームシリウスの事件、あの事件は恐らく一連の流れの中の延長に過ぎないと思う。始まりは多分…去年の日本ダービーの後に起こた悪夢騒ぎ。その影響となった出来事が、一連の事件の発端になった出来事が前後にあったはずなんだ」
「――甲斐…」
ら
――この短時間でそこまでの推理を進めていたのか。班目は同僚の卓越した洞察力に驚きを隠せなかった。
「…すまん。お前が戦っているのに、なにも役に立てなかった。ルナに…シンボリルドルフに何も言い残せないことだけが心残りだよ…彼女にはこの件に関わってほしくない。彼女が僕のことを知れば、絶対に死ぬ気で犯人を追い詰めるだろう」
「――だから、この件が片付いた後で彼女に真実を話してほしい」
「――すまない」
甲斐から送られた動画はここで終わっていた。班目は震える手で甲斐に連絡したが、いつまでたっても彼が電話に出る気配はないーー班目は続けてM県支部に電話を掛け、甲斐の安否の確認を急いだのだった。
「―――突然失礼します、トレセン学園の班目洋一です。今日そちらに窺った甲斐俊はおりますか?」
「――それが私達も彼を探しているのですが、どこにもいないんです…荷物や携帯もそのままで…」
必死に湧き上がる気持ちを抑えながら班目は電話を切ると、目から大粒の涙を流しながら地面に崩れ落ちた。
――恐らく、彼はもうこの世にはいないのだろう。
突然突き付けられたあまりにも残酷な、揺るぎない事実を前に班目は喘ぐように涙を流し、友との別れを直視することができなかった。
―――どれほど涙を流したのだろうか
班目はゆっくりと立ち上がると、その目には決意の意が強く宿っていた。
――甲斐の推理と、マックイーンから聞いたマンハッタンカフェによる悪夢騒ぎ。
これらのことから鑑みても、川尻浩作が関わっていることはほぼ間違いないだろう。
――仇は取ってやるからな、甲斐
ゲートが開き、選手が一斉に走り出していく。
選手たちが各々の作戦に合わせ、位置取りをしていく中、ライスシャワーは普段のレース展開とは異なり、はるか後方に位置している様子をみて、場内の観客たちには動揺が広がっていた。
「ライスシャワー、春の天皇賞で見せた先行策とは異なり後方でのレース展開となるが、これは大丈夫か!?」
吉良は柵の内からその様子を静かに、決して目を逸らすことなく視線を送っていた。
――これは吉良が考えた、決死の策だった。
いつものように前方から中団に位置するのではなく、後方で足を溜めて消費を限りなく抑えるーーライスの走法を知っている者にとっては通常とは異なる作戦ではあるが、これでバ群に埋もれるリスクを最小限にすることができる。
――あとは宝塚記念に備えて仕上げたライスの瞬発力、加速力を信じて見守ることしかできない
――そしてライス自身も、吉良の想いを信じて作戦通りにレースを展開させる。
彼女を無事に戻らせるため、先頭で帰ってくることができるように思案した末に編み出した作戦に沿って、ライスは最終カーブ手前でカミソリのような切れ味を持つ加速力で、あっという間に先頭集団に迫っていく。
――決して下を向かない、決意の走り。
その目に黄金の意思を宿らせ、約束を果たさんとその足を繰り出すその少女の姿に、その場にいる誰もが心奪われていた。
「先頭はライスシャワー!もはや独走状態!」
その走りは最終直線で当加速度的に早くなり、ライスは先頭でゴールに帰ってくることが出来たのだった。
「先頭はライスシャワー!淀の坂を乗り越えて、夢の一着を手にしました!!」
ライスは立ち止まり、観客席をゆっくりと見回す
ライスには先頭で帰ってきた彼女に対して、その健闘を称える祝福の雨が降り注いでいたのだった。
――きみの居場所はここだ
彼女を包む祝福は、彼女の存在意義を示し、また彼女を肯定する存在そのものであり、彼女にそう言っているようだった。
ライスは観客席の前に立つと、改めて小さくお辞儀をしてその喝采に応えるのだった。
――もう彼女の心の中には、昔のような不安や迷いはない。
彼女の視界に、この景色を見せてくれた彼女にとってなによりも大切な存在が映る。
――もうライスは自分のこと、嫌いじゃないんだよ…?
それは隣にお兄様がいてくれているから
お兄様と二人だったら、どんなことだって怖くない
ーーだから神様
このささやかな祈りが神様に届きますように
ライスは吉良の方を向くと、彼との約束を果たした証としてとびきりの笑顔をみせるのだった。
―――宝塚記念が無事終わってトレセン学園に戻ってきた後、ライスとささやかな祝勝会を開いた吉良は、パーティーが終わるとライスを帰らせ、一人で片付けをしていた。
上半期の最後を締めくくる宝塚記念が終わり、明後日には夏合宿も始まるーーライスは関西にずっといたので、合宿の準備をしっかりする時間を取らなければならない。
空になった皿を水場で洗っていると、唐突に吉良の背中に向かって声が投げかけられたのだった。
「――川尻トレーナー」
吉良がゆっくりと振り向くと、そこには班目が立っていたーーしかしその様子はどこかおかしい。いつものような飄々とした様子は鳴りを潜め、猛禽類のように鋭い目つきで吉良のことを睨みつけていたのだった。
「…これは班目トレーナー。一体何の御用でしょうか?…宝塚記念の直後で疲れているから、呑みの誘いでしたらまた今度にでも…」
「川尻トレーナー」
吉良の言葉を遮った班目は、その目を逸らすことなく言葉を続けた。
「――俺はアンタの秘密を知っている…この人殺しが」
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受け継ぐ者
先代のシリウスのトレーナーとオグリキャップが有馬記念で引退し、マックイーンと二人きりなったその日。
「――とうとう二人きりになっちまったな」
「――えぇ、トレーナーさんはまだ少し頼りないですので、私がお力添えしますわ」
「――アハハ…これは手厳しいな」
「――トレーナーさん。改めて、よろしくお願いいたしますわ」
最初は二人きりで始まった新生チームシリウス。
段々とメンバーが集まり、今では個性的なメンバーが揃う大所帯のチームとなった。
「トレーナー!今から山籠もりして、修行しようぜ!」
「…トレーナー。次のレースはなんだ…渇きを癒すレースに出たい」
「トレーナーさん!!目指せダービー!!」
「…トレーナーさんーー」
俺はなんて幸せ者なんだーーこのチームでトレーナーをやって、彼女たちの成長を間近で見守ることができる。
この日常がずっと続けばいいのに
シリウスの面々の前で、班目は心の中でそうささやかな願いを抱くのだったーー
部屋の中で、二人の人間が相対しているーーー吉良はまるで子供の冗談を優しく諫める父親のような笑顔を浮かべ、班目に声をかけた。
「えーと、班目トレーナー?一体どうしたんですか?…私が人殺し…?」
両手を広げながら近づく吉良に対して、鬼のような表情を浮かべた班目は、鋭い声をかけたのだった。
「そこで止まれ!」
吉良は班目が取り出した物体を目にとめると、彼の指示通りに歩みを止めるのだった。
――彼はその手に銃を握っていた。
黒く、鈍く光を放つその存在は、真っすぐ吉良の方に銃口を向けていた。
「…班目トレーナー。悪い冗談はやめてください。そんなおもちゃをむけて…」
吉良がそう言い終わらない内に吉良が持っていた、洗っている途中の皿が大きな音を立てて割れるーー班目は重々しく、淡々と吉良に語り掛けた。
「これは改造したエアガンだ…今見てもらって威力は分かると思うが、当たれば勿論致命傷になる…わかったら席に座ってもらおう」
吉良が言われた通りに席に座ると、班目は距離を保ったまま口を開いたのだった。
「――M県に出張に行った甲斐が行方不明になっている。あいつは行方不明になる直前、俺に動画でメッセージを送っていた。あいつが首を矢で刺されたこと、それによって発現した能力のせいでもう死ぬこと…」
「……」
「――お前がM県からやってきたことで、日本ダービー直後の悪夢騒ぎ、菊花賞の後に起きたウマ娘が襲われた事件……それぞれ起こしてしまったのはマンハッタンカフェとサイレンススズカだったが、二人の能力が暴走した原因はお前にあるんじゃあないか?」
「それに、同日に起きたシリウスの面々が襲われた事件…それぞれ犯人はその日の朝に甲斐のように首を何かで刺されたと言っている…その日からお前は関西に出張に行っているが、お前のほかに協力者がいるんだろ!?」
「――あなたの言っていることはよくわかりませんが、私が人殺しだという並べ立てた言葉ですが…いづれも辻褄があっているだけの状況証拠であって、確かな証拠にはなりませんよね…?それに矢とか能力とか、一体何を言っているんですか?」
――吉良が静かに言い返すと、班目は深くため息をついた。
…川尻がこう言ってくることは想像がついていた。
班目はもう引き返せぬところまで来ていた。違法である銃の改造まで行い、同僚である川尻に向けているーーそして川尻に対して、銃の引き金を引く覚悟を既に班目は持っていた。
――こいつは法によって裁くことなんてできない。
――例え自分が川尻を殺して罪に問われたとしても、トレセン学園を、マックイーンやゴルシたちシリウスのメンバーをこいつから守ることができるなら本望だ
班目は切り札となるカードを切るため、口を開いた。
「――女性の手。保存してなんのつもりなんだ…?それに猫のような植物も持ってるみたいだな…川尻トレーナー」
――マックイーンがその目で見たという川尻の裏の顔。
その言葉を聞いた吉良は、その席から立ちあがると徐に口を開いた。
「―――そうか。なら仕方ない」
すると何の躊躇いもなく吉良は班目に真っすぐと向かっていった。
班目は吉良に向かって銃の引き金を引いたが、発射された弾は吉良には当たらず手前で次々と弾き飛ばされていく
「―――なっ」
班目は再び狙いを定めようとしたが、直後に腹部に激痛が走る。
自身の身体を見下ろすと、腹部にぽっかりと穴が開いていた。
――どうやら眼には見えないが、何かに腹をぶち抜かれたようだーー目には見えない何かが引き抜かれると、班目は吐血しながら地面に崩れ落ちたのだった。
吉良は倒れこんでいる班目の前に立つと、髪を撫でつけながら彼に言葉を掛けた。
「――知ってしまったのなら仕方ない。君を始末させてもらうよ」
「…な…がはっ…」
「――もうまともに喋ることもできないみたいだが、いくつか確認したことがある。君は私の持っていた手首と猫草について言及したが、それは君自身が見たものじゃあないだろう?手首は自室から出したことがないからね…」
「――な、なんで…手首なんかを…」
顔に苦悶の表情を浮かべ、絶え絶えながらも言葉を続ける班目を無表情に見下ろすと、吉良は淡々と口を開いた。
「――趣味なんだ。持って生まれた趣味なんで前向きに行動しているだけさ」
――どうやらこの男。想像をはるかに上回る、ドス黒い怪物だったようだ。
人を殺すことが目的ではなく、ただの手段。自身の快楽の赴くままにまるで生活の中の一部かのように平気で人の命を奪う。
――それが表沙汰にならないのも、たった今自身の腹を貫いた能力のおかげなのだろう。
「――それでさっきの確認の質問なのだが、どうして手首のことを知っているんだい?」
「――そ、そんなことをして、良心は痛まないのか…?」
班目が吉良に対して質問を投げかけると吉良は様相を豹変させ、声を荒げたのだった。
「質問を質問で返すなぁーー!疑問文には疑問文で答えろと学校では教えているのか?今は私が質問しているんだ…」
その豹変ぶりに班目が口をつぐんでいると、それを見かねた吉良はため息をつき、言葉を続けた。
「――まぁいい。検討はついている。過去に一度、私はちょいとした用事で部屋のカギを掛けずに出かけたことがあったーーその時に部屋が少し荒らされていてね…てっきり猫草の仕業かと思っていたが、どうやらその時に部屋に入ったやつがいたようだな…」
「たづなに頼まれ、私に書類を届けようとしたやつーーあいつがどうやら見てしまったようだな。なら話は簡単だ…メジロマックイーンを始末する。それにお前がその話を知っているということは、他のやつらにも話してるかもな…そいつらも始末することにしよう」
吉良から発せられた非情な言葉に、班目の顔は蒼白した。
――この男ならやりかねない
班目は決意の表情を浮かべると、胸ポケットから薬品の入った瓶を取り出すと、地面にたたきつけたーー地面に触れて瓶が割れるとそこから白煙が発生し、部屋の中を満たしたのだった。
「くっ…!キラークイーン!」
煙を払いのけるように吉良がキラークイーンを再び発動させたが、そこにいたはずの班目の姿は跡形もなく消えていたのだった。
辛うじて吉良の目をかいくぐった班目は、開いていた部屋の窓から外へ飛び出し、生垣に身を潜めていたのだった。
――もしもの時に用意していたタキオンの研究室からくすねた薬品が役に立ったようだ
「…人目の付くところに移動しなければ」
何度も激痛に意識を手放しそうになりながら、班目は音を立てないように何とか立ち上がり、一歩踏み出そうとした時、後ろから奇妙な音が聞こえてくる。
…一体何の音だ…?
自身の後ろから近づいてくる何かがこちらに向かってくる音。その音は何か重機や戦車のようなキャタピラ音に似ていて、班目が音のする方を振り向くと、地面には姿は見えないが、キャタピラ痕がこちらに近づいていたのだった。
――姿は見えないが、何かやばい
本能で危険を感じ取った班目は、反射的に腕で体をガードし一歩後ろに下がったが、途端に目の前で爆発が生じ、彼の身体をズタズタに引き裂いたのだったーー身体を吹っ飛ばされた班目は壁に身体を打ち付けられ、静かに地面に崩れ落ちた。
「確実に仕留められたと思ったが…どうやら爆発が浅かったようだな」
「う、ガハッ……」
「フン…腹に穴が開いている君が遠くに移動できないとは踏んでいたが、シアーハートアタックで追跡をして正解だったというところか…」
吉良は窓から身を乗り出すと、無機質な目で死にかけの班目を見下ろし、口を開いたのだった。
「――二度も同じ手を食らうわけにはいかない…君の手口は、既に見切っている」
――もはや班目の命は消えかかっていた。腹部の負傷に、今受けた爆発のケガ。
――こいつの能力は、爆弾を使う能力ってことか。
「…しかし、せっかく策を弄したというのにすべて無駄になったというところか…」
――全てが無駄になったわけじゃあない。俺が作った悪魔の目から逃れた数秒間は意味があった。
先ほどまで自分が隠れていた生垣の方に視線を向けるーーそして班目は最後の力を振り絞って銃を再び吉良に向けたーーしかし吉良はその笑みを崩すことなく口を開いたのだった。
「キラークイーンはすでに、その銃に触っている」
吉良が右手を握りこみ、親指を薬指の横腹に打ち付けるーーすると班目の銃を握っていた腕に亀裂が入り、砕けるガラスのように全身に広がっていく。
――甲斐すまない。仇、討てなかったよ…ふがいない俺をそっちで叱ってくれ
――あとはあいつらに任せることになっちまった…
班目の脳裏には、マックイーンをはじめとした大切なチームメイトの顔が浮かんでいく。
「トレーナーさん」
「トレーナー!」
「トレーナー」
「トレーナーさんっ!」
一人一人が俺の命よりも大切な担当ウマ娘たちだーー本当は彼女たちを守り切りたかった。
トレセン学園にこんな悪魔がいてはならない。ウマ娘たちが切磋琢磨する、そして夢を乗せて駆けるこの誇り高き神聖な場所に存在してはならない。
――気づいてくれ、俺のメッセージを
爆発が班目の身体を包み、広がっていくーーそして爆発が収まった後には、そこにいたはずの班目の身体は跡形もなく消失していたのだった。
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アナザーワン バイツァ・ダスト1
――朝練の時間になっても現れない班目に、チームシリウスの間には不穏な空気が流れていた。
「おい…今まであいつが練習に遅れたこと、練習に来なかったことなんかなかったよな」
いつもは奇人っぷりを披露するゴールドシップも、その鳴りを潜めて、顔には険しい表情を浮かべていた。
「…練習はおろか、昨日から姿を見た者はいないらしい。寮に帰ってないとたづなさんにも確認した」
「――トレーナさん、どこに行っちゃったんだろ~…心配だよ」
面々が重苦しい空気の中、マックイーンは考えを思いつき顔を上げたのだった。
「…一人知っていますわ。トレーナーさんの捜索をできる方を」
「―――私にマックイーンさんのトレーナーさんを探してほしい…?」
サイレンススズカはたった今マックイーンに言われたことを繰り返し復唱し、首をかしげたのだった。
「えぇ、スズカさんが持っている能力…人を追跡する能力があればトレーナーさんを探せるじゃあないかと思いまして…」
マックイーンがそう言うとスズカは考え込むように手を顎に当て、しばらく俯いた。
「皆さんに迷惑をかけてしまったので、本当は私の能力は使いたくないんです…でも」
スズカは顔をあげると、マックイーンの目を真っすぐ見ながらこう言った。
「…あの時マックイーンさんには助けてもらいました…だから力になりたいんです。私の能力でマックイーンさんのトレーナーさんを探してみます。なにかトレーナーさんに手がかりになるような、普段使っているものを持ってきてください」
マックイーンが持ってきたトレーナーのハンカチをもとに、スズカは自身のスタンドージェニーを出現させ、彼の痕跡を追跡し始めたのだった。
「彼の痕跡はここで途切れていますーー申し訳ありませんが、あとはどこにも痕跡はつづいていません」
申し訳なさそうに頭を下げたスズカと別れ、マックイーンは痕跡が途絶えた場所を見回した。
――ここはどうやら校舎裏のようですわね
ここにトレーナーさんがいたとして、一体何処に行ってしまったというのでしょうか。
ふと生垣に目をむけると、何か光るものがあるーー何かと思い目を凝らすと、そこには携帯電話が生垣の中に置かれてあったのだった。
携帯電話を開くと、それは見覚えのある携帯――班目トレーナーの携帯電話だった。
――この携帯電話を調べれば、トレーナーさんの様子がなにか分かるかもしれませんわ
携帯電話を充電し様子を見ると、どうやら録画中に電源が切れたらしかった。
最後に保存されていた動画を調べると、どうやら携帯電話に発見された場所で撮影されていたようだーー映っているトレーナーさんは傷だらけになりながら、窓の方を睨みつけていたのだった。
「確実に仕留められたと思ったが…どうやら爆発が浅かったようだな」
窓の方から聞こえてきた声には聞き覚えがあったーーそんな、ありえない。
地面に血だまりを作りながら、声の主を睨みつける班目のあまりに痛々しい様子に、マックイーンはその目に大粒の涙を溜めながら動画を見つめていた。
――こちらに向かって班目が静かに視線を送るーーそして声の主に向かって銃を向けた班目が、身体が粉々になっていき消滅してしまった。
「――全く君は大した奴だ…スタンド使いでもないのに、この吉良吉影を追い詰めようとしたのだから」
そう言いながら画面に姿を現した人物に、マックイーンは息をのんだ
「…川尻トレーナー…!!」
この男があの場所で、トレーナーさんを殺したんですわ。
やはりあの男が一連の事件の元凶だったんですわ…
それにいま男、自分の名前をキラ・ヨシカゲと言いましたわ。あの男の名前は川尻浩作だったはず…彼の名前がキラ・ヨシカゲだったとして、本物の川尻浩作はどこにいってしまったんですの…?
そして画面の中のトレーナーさんは、死ぬつもりで銃を構えていたーーキラ・ヨシカゲの能力を記録に残すために。キラの凶行を白日の下にさらすために。
――トレーナーさんは覚悟していたんですわ…既に自身が助からないこと、だから託したのですわ…この動画に、動画を見た人に。
マックイーンは携帯電話である人物に電話を掛けたーー電話の人物は、しわがれながらも気品に満ち溢れた声でマックイーンの来電に応対したのだった。
「爺やーー調べてほしいことがあります」
トレーナー室で爺やの報告を受け、携帯電話を力なくおろしたマックイーンだったが、突然ノック音に現実に引き戻されたのだった。
「――どうぞ」
ゆっくりとドアが開き、その人物が室内に入ってくるーーその人物は班目トレーナーの命を奪い取り、トレセン学園の誇りを踏みにじった張本人――キラ・ヨシカゲだった。
「―――やぁ、マックイーンさん。ここに班目トレーナーは来ていませんか?」
吉良の来訪にマックイーンは恐怖で身体が強張った。一体何の目的でここに…トレーナーさんはこの男が殺しているはずですわ…だとしたら目的は
――私を始末しに来たというところですか
「――トレーナーさんに一体何の御用ですの?」
「――少し込み入った話をしようかと」
笑顔を浮かべながら近づいてくる川尻トレーナー…このままだと私も彼に殺されてしまいますわ
――こちらから動かなければ殺されてしまう…マックイーンの顔に既に恐怖はなかった。このトレセン学園を守りたい、大切な仲間を守りたいという確固たる意志を従えて、マックイーンは最初に切り札を切ったのだった。
「――そうやって、トレーナーさんみたいに私を殺すおつもりですか…吉良吉影さん?」
「―――なっ」
――このトレセン学園で聞くはずのない、自身の本名。
吉良はその驚愕の表情を顔に浮かべ、まじまじとマックイーンの顔を見つめた。
「…一体…」
「一体どうして私の本名を知っているのか、ですか?実はあなたが私のトレーナーを殺した時の様子、撮影されていたんですの…私のトレーナーさんを殺す直前、トレ-ナーさん自身が携帯で撮影して…」
「その時にあなた、自分の名前を口走っていましたわよ?以前あなたがいたというM県にキラ・ヨシカゲという人物がいたかどうか調べさせましたところ…そうしたら出てきましたわ。M県S市杜王町勾当台住む、吉良吉影、33歳。東北でチェーン展開する亀友デパートに勤務されていたようですわね…?」
「――そしてトレーナーさんが言っていたM県支部にいたころの川尻トレーナーの豹変から考えると」
「あなた、川尻トレーナーを殺して成り代わったんじゃあありませんの?…そしてそこで生まれる疑問があります」
「どうしてあなたはそんなことをする必要があったのでしょうか?わざわざ名前や顔も変えて、まったくの別人として生きる必要がどうしてあったのか」
「――だれかに追われていた。もしくは追われているんじゃあありませんの?」
吉良は目の前の少女を睨みつけながら、追い詰められた現状を打破するために頭をフル回転させていた。
よもやここまで私の正体に気づいていたとは。
このメジロマックイーンはもっと早くに始末するべきだった。この小娘にここまで情報を掴まれているとは…この女、自分のトレーナーの死を知り、その加害者と相対したのだとすれば、それなりに取り乱しそうなものだが、その様子は微塵もない…くそったれの仗助同様、確固たる意志のもと私を追い詰めようという気概を感じる。
「君のトレーナーが撮影したであろう動画だが、能力者でもなければ私の能力を視認することはできない…それこそ、警察につきだすこともできない。ただのイタズラに思われて終わりだぞ?」
「――そうかもしれませんわ…しかしこれは取引ではありません。私が命を落とせば、この動画は拡散されるようになっていますわ。きっと能力者であるあなたを追っていた人物もその動画を見つけて、吉良吉影であるあなたを探し出すはずですわ」
――これはブラフだった。マックイーンが死んでも動画が拡散されることはなく、そんなことをしても吉良の凶行を明るみに出せる可能性は低いだろう――出口を目指して走り出したマックイーンだったが、臨界点に達した吉良が声を荒げながらキラークイーンを発現させたのだった。
「甘いぞ!そんなことを私が許すと思っているのか!」
我を失った吉良の指示によって出現したキラークイーンの拳がマックイーンに迫っていくーーー
――杜王町の中央にあるホテル。
195センチもの巨躯を持ち、白いコートに身を包んだこの男――空条承太郎はホテルに届いた電話の相手に対して、言葉を続けた。
「露伴が遭遇したスタンドに取り憑かれた男だが、SPW財団の調べで既にM県S市に到着した時点で背中を隠すように歩いている様が防犯カメラで確認できた…つまりその男は東京で矢に刺された可能性が高い」
「その男の勤務先――トレセン学園に行って調査をしようと思う。仗助、今から東京に向かうぞ…お前、学校サボるのに罪悪感覚えるたちじゃあねーだろ」
――電話の先の男――東方仗助も口を開いた。
「――了解っす。億康と康一にも声かけときます…それと気は進みませんが、露伴の野郎にも言っておきますよ」
――東京か。
電話を切った後に承太郎はホテルの眼下に広がる杜王町の景色を見下ろしたーー
吉良吉影が姿を消してから既に1年近くが立っている。
――既に犠牲者は出ているだろう。
ジョースター家の一人として、黄金の意思を持つものの一人として、承太郎は険しい表情を浮かべると部屋を後にしたのだった。
吉良から電話で呼ばれた写真の親父がシリウスのトレーナー室に窓から入った時には、すべてが終わった後だった。
力なくマックイーンが倒れこみ、その床を血で濡らしているーーその少女の亡骸の横で、吉良はひたすらに爪を噛み続けていた。
「お前ともあろうものが、しくじったな…吉影」
「どうするか今考えている」
下を俯く吉影を見ながら、写真の親父は静かに首を横に振った。
「――確かにこの小娘の遺体はキラークイーンで消せる…じゃが、時期が悪かったな。事件を嗅ぎまわっていた甲斐がM県であった取材の相手が、あろうことか岸辺露伴だったようじゃ…つまりやつはスタンドに遭遇したことになる。明日にでも、奴らがトレセン学園に調べに来るじゃろう」
その言葉を聞くと、吉良はしゃがみ込んでより一層深く爪を血が出るほど噛み始めるーーその様子を見ると、写真の親父は憐れむように涙をこぼすのだった。
「…吉影。昔からお前は絶望すると爪をよく噛む子じゃった…お前は今とても絶望しているのだね…」
実際、吉良の心の中には流し込まれた鉛のように重く絶望がのしかかっていた…マックイーンを衝動的に殺してしまったことに加え、振り払ったと思っていた仗助達による追跡。
その様子を見かねた写真の親父が愚図る幼子を諭す父親のように優しく声をかけた。
「もう打つ手はない…急いで逃げるぞ、吉影」
その言葉に反応すると、吉良は写真の親父を掴んで声を荒げたのだった。
「――逃げるだと!もう私の顔は割れてしまっている!こいつが私の正体に気づいていたんだ!この小娘はメジロ家の令嬢っ!仗助たちに加えてそんな奴らからも目を掻い潜る毎日を送るなんてまっぴらだ!」
――それに私には彼女がいる
もう私は一人ではない。彼女を守らなければ。彼女との平穏を守らなければならない。
――この期に及んで、この殺人鬼は自分の美学と願望を押し通そうとしていた…その気迫に写真の親父が気負していると、吉良は突然左手に激痛を感じた。
写真を離し、手を裏返すと、手のひらには矢が突き刺さっていたのだった。
「何ぃぃーーーーーーーー!!」
「矢が勝手に!儂は矢に触れてもおらん!」
動揺する二人とは裏腹に、矢は吉良の腕をカテーテルのように昇っていく…そして飛び出した矢は、吉良の首に深々と突き刺さったのだった。
写真の親父はその様子に成すすべなく見守りながら、何か様子がおかしいことに気が付いた。
「…キラークイーンが!」
キラークイーンがにじみ出るように吉良から出現する。そして、亜空間を発現させすべてを飲み込んだのだった。
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アナザーワン バイツァ・ダスト2
「うわっ!今何時だ、億康っ!」
「不味いぜ~、仗助!完全に遅刻だ!康一と承太郎さんも、もう先にトレセン学園に行ってるらしいぜ~!」
「ってことは間違いなく、露伴のヤローは先に行ってるぜ~。また小言の一つや二つ言われちまうな~」
昨晩東京に来たからとはしゃいでホテルで夜更かしをしていた仗助と億康は寝坊してしまい、待ち合わせの時間には間に合うかは五分五分の時刻になってしまっていた。
「――行くぞ億康!」
二人は学ランに着替え、急いで部屋を後にしたのだった。
ーー最悪な目覚めと共に1日が始まる。
メジロマックイーンは身体中に汗を流しながら目覚まし時計のタイマー音と共に目覚めた。
時刻は6時。
今日は夏合宿が始まる日――7時にはバスが出発してしまうためこの時間に起きたマックイーンだったが、とてもじゃあないがそんな気分にはなれなかった。
「――トレーナーさんは亡くなってしまっていた…もうあの声は聞けない。あの優しい顔を見ることができないなんて…」
トレーナーさんのことを思う涙が流れてくる…隣のイクノディクタスに知られないように枕に顔を埋めてあふれ出る涙を、嗚咽を懸命に押し殺すーーやがて涙が枯れると、マックイーンの頭の中には一つの疑問が浮かんだのだった。
――吉良吉影、全く表情を崩しませんでしたわ
昨日吉良がトレーナー室にやってきた時に、彼の本名を揺さぶるために呼んだーーしかし吉良は自身の本名を露わになっても、まるで私があの男を吉良吉影だとわかってたことが予め知っていたかのようにあの男はその表情を崩すことなく不敵な笑みを浮かべたのだった。
―――あの男は一体なにを考えているのでしょうか
いくら考えても、答えを出すことはマックイーンにはできなかった。
ため息を一つつくと、マックイーンは重苦しくベッドから起き上がったのだった。
結局マックイーンは、バスに乗り込むことはできなかった。
仮病の連絡を寮長のフジキセキに入れてバスが全て出発すると、マックイーンは胸のつかえを少しでも晴らすために近所で朝の走り込みを行っていた。
いつもの朝の風景が、何処か現実感のないものに感じるーー当然練習に身に入らないマック―ンが朝の走り込みを終えて学園に帰ると、時刻は既に8時20分を回っていた。
校門の前に着いたマックイーンは、顎に手を当てて少し考え込んでいたのだった。
「――吉良は一体何を考えているのでしょうか…?」
「――私にそこまでご執心とは、班目同様、見上げたやつだな…メジロマックイーン」
突然に背後から聞こえた声に、マックイーンは身構えて後ろを振り返るーーそこには渦中の人物、吉良吉影が腕を組んで立っていたのだった。
特徴的なオールバックに、白のスーツに髑髏の柄があしらわれたネクタイを身に着けているーー吉良は昨晩に見せたような不敵な笑みを浮かべながらマックイーンに声をかけたのだった。
「清々しい気分になったり、絶望で落ち込んだり…このところ色んなことで気分の差が激しいよ…でももう不安を感じることなんてない…成長したんだからね」
「ど、どうしてここに貴方がここに…」
「まだ業務が少し残っていたからね~。出る前に君が出発していないことを小耳に挟んだから、少し顔を見ておこうと思って…昨晩逆に私を脅したことに敬意を表してね…」
「――私を殺すおつもりですか?」
「殺す?私の秘密を知ったからかい…?その必要はない。私は成長したんだからね。」
吉良はマックイーンに顔を近づけると、笑みを浮かべたまま口を開いた。
「君が何処で何をしようと、私は無敵になったんだ」
そう言い残すと、マックイーンを置いて吉良は笑顔のままで歩き出したのだった。
「それじゃあ私は一足先に合宿先に向かうとしよう。ライスを待たせちゃあ悪いからな…あいにく君のトレーナーはいないからトレーニングには難儀するだろうが…まぁチームメイト同士で練習を見合うのも悪くないんじゃあないか?」
吉良がそのまま消えると、マックイーンは屈辱と怒りで懸命に抑えながら、校門から外に向かって出ていく吉良の背中を見たーーー正確には見ることしかできなかった。
――これからどうするべきか。
マックイーンは頭を悩ましたが答えが出てくるはずもなく、小さくうなだれたのだった。
――とりあえず、合宿先に向かいましょう。
電車で向かえば、午後からのトレーニングには参加できるだろうーーもっとも真実を知ってしまったマックイーンは、班目トレーナーの死や吉良のことをどう伝えればいいのか分からなかった。
重い足取りで駅に向かっていたマックイーンだったが、唐突にとある男が彼女を呼びかけたのだった。
「――君。メジロマックイーン君だよね?」
声をかけてきた男は20代くらいの男で、特徴的なヘアバンドを頭につけており、耳にはペン先の形をしたイヤリングをつけていたーーその男は値踏みするかのようにマックイーンを見つめていた。
「――えぇ。その通りですわ」
「僕の名前は『岸辺露伴』。漫画家さ…週刊少年ジャンプで「ピンクダークの少年」を連載してる…ちょいと君に確認したいことがあって声を掛けさせてもらったよ」
「…一体何の御用でしょうか?」
「僕らは「とある男」を探しているーーその男を探すために僕らはM県から来たんだ。情報収集のためにその辺を歩いてた用務員を能r…いや、聞いた話だと君の所属するチームのトレーナーが数日前から行方不明になっているみたいだね?何か知っている人がいるんじゃあないかと思ってほかの奴らを探そうとしたが、全員合宿に行っちまったらしいじゃあないか」
「――だが偶然君に出会ったーーどうだろう、何か知っていることがあったら話してくれないか?」
――吉良吉影は恐らく誰かに追われて川尻浩作に成りすましている
ということは、この男が吉良を追っていた人たちの内の一人だということだろうかーー現に彼は「僕たちが探している」と言っていた。
――あの男を倒す為には私じゃあ力不足ですわ。同じように能力を持つものじゃあないと…
この男を試すためにマックイーンはついに決心し、口を開いた。
「――あなたは能力を持ってらっしゃいますか?――露伴先生」
その言葉を聞いた露伴は目に見える形で驚いたーーなぜそのことを知っていると言わんばかりに。
「――何か知っているんだな」
やはりこの岸辺露伴という男、能力者のようですわ…だとしたらこの方を信じるほかありませんわ。
「――えぇ。このトレセン学園で働くトレーナー…川尻浩作は、吉良吉影ですわ」
―――岸部露伴は遂にたどり着いた。杜王町から忽然と姿を消し、のうのうと生活を送る殺人鬼…吉良吉影の正体を遂につかんだのだった。
「吉良吉影だって!?それは本当かい!」
「――えぇ。私のトレーナーさんもあの男に殺されました」
苦痛に顔を歪ませながら言葉を紡ぐマックイーンを静かに見つめ、露伴は言葉を続けた。
「――やはりあの男、他人に成り代わっても殺しをやっていたのか」
「あの男は一体何者ですの?」
「…あの男の名は、知っているだろうが吉良吉影。杜王町で15年もの間、手の綺麗な女性を自分のどす黒い欲望を満たすためだけに殺し続けた最低最悪の殺人鬼だ…」
――吉良吉影という男の恐るべき全貌
マックイーンほどの淑女も、吉良ほどの醜悪さには吐き気を覚えずにはいられなかった。
「―――ありがとう。これで奴の正体をつかめた。早速承太郎さんにーーー」
携帯電話を取り出した露伴だったが、違和感に気づいた。
――開いた画面にノイズが走り、唐突に禍々しい姿をしたスタンド…キラークイーンが姿を現したのだった。
「キラークイーン 第3の爆弾『バイツァ・ダスト』!!」
目の前に現れた吉良のスタンド、キラークイーンに攻撃するべくヘブンズドアーを出現させた露伴だったが、その攻撃はまるで幽霊にするかの如くすべてすり抜けてしまった。
「岸辺露伴、キラークイーンを見たということは、既に瞳の中に入っている!第三の爆弾「バイツァ・ダスト」も既に作動している!」
――唐突に露伴の背中から血しぶきが吹き出すーーその光景にマックイーンは恐怖のあまり後ずさった。
「い、一体何が起こっているんだ…?」
口から血を吹き出しながら露伴は空を見つめたが、やがて班目のように、爆発が全身に広がり露伴は跡形もなく消し飛んだ。
「きゃああああああああああ」
その光景を見て、マックイーンは恐怖の叫び声をあげたーー
――気がつくと、マックイーンは街路樹にいた
「…ここはいつものランニングコース…?」
時計を見ると、時刻は7時25分を指していたのだった。
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アナザーワン バイツァ・ダスト3
いつものランニングコースである街路樹に立つマックイーンは、呆然としてその場に立ち尽くしていた。
「一体何が起こったのですの…?」
――岸辺露伴という漫画家に出会って、吉良の正体を伝えた…そして気づいたらまたこの場に意図せず戻ってきたのだった。
マックイーンは現状を理解することができず立ち尽くしていたが、その場に居ても当然答えが出るはずもなく、いつものようなコースを回ってトレセン学園に戻った。
白昼夢を見ていたような気持ちに包まれつつ、マックイーンがトレセン学園の校門に着くと、後ろから唐突に声が聞こえてきたのだった。
「…やぁ、メジロマックイーン。合宿に行かずサボりなんて感心しないな」
マックイーンは少なくともこの光景にデジャヴを感じていたーー校門に着いたこの時、この男に話しかけられるというこのシチュエーションに見覚えがあったのだった。
「……」
訝し気に首を傾けるマックイーンを見つめると、吉良は満足げに微笑んだ。
「その様子じゃあ、まだ2回目というところかな…まだ君は私の能力の全貌を掴んでいるわけじゃあないだろう…もう少し君にはそのまま頑張ってもらうとするよ」
吉良はそう言うと腕時計で時刻を確認し、校外に歩みを進めていった。
マックイーンはその様子を見て、静かにその背中を睨みつけるのだった。
――本当は吉良に続いて合宿所に向かうべきなのだろう
しかし何か嫌な予感がした。
このままだと先ほど見た幻覚同様のシナリオに進んでしまうーーそれに今さっき吉良が言ったセリフだ。彼の言葉には何か自身のまだ及び知らぬ恐ろしいものの片鱗をマックイーンは感じていた。
踵を返し、行く当てもないままマックイーンは学園の方へと歩みを進めた。するとマックイーンのポケットが静かに振動するーーーポケットの中を確認し手を伸ばすと、それはマックイーンの携帯が来電を告げるバイブレーションだった。
「――はい、もしもし。メジロマックイーンです」
マックイーンが自身の名前を告げると、返ってきた声はマックイーンのよく知る声だった。
「―――マックイーン、私だ。ナリタブライアンだ」
その声はマックイーンのチームメイトの一人、ナリタブライアンだった。
ブライアンは生徒会の一員として、そして先発隊合宿所に向かって出発し、既に到着していた。
「――マックイーン。体調不良だそうだな…心配したぞ。ゴールドシップやチケットもお前のことを待っている。いつでも来るといい」
――嘘をついてしまった手前、マックイーンの心の中には深い絶望感が真夏の青空の積乱雲のように立ち込めていた。彼女の言葉になんとか取り繕いつつ、マックイーンは口を開いたのだった。
「…心配いりませんわ。この後に合宿所には向かいます。ゴールドシップとチケットさんをどうかお願いします」
「おい!それはどういう意味だ!マックイーン!」
「そうだよ!まるで私達が問題児みたいじゃあないかぁ~~!酷いよぉぉぉ!」
ブライアンの後ろから二人の大きな声が聞こえてくるーーどうやらブライアンとの会話が聞かれてしまったようだ…マックイーンが苦笑すると、ブライアンは改まったように口を開いたのだった。
「…聞いて分かるように、私達は元気だ…マックイーン、何かあったのは声を聞けばわかる…こんな時、何て言ったらいいのかわからないが…私を信じて、話してほしい。何か力になれるかもしれない」
「私達、だろ!ブライアン!マックイーン、ゴルシ様に隠し事は抜きだぜ!」
「そうだよ、マックイーン!なにかあったのなら正直に言ってよ!」
チームメイトのマックイーンを心配する声が、彼女の心に染みわたっていく――通常とは程遠い緊張状態を送っていたマックイーンは、その言葉にマックイーンの頬には熱い涙がこぼれていった
――話しましょう。彼女たちの力を借りれば、何か活路が開けるかもしれませんわ。
マックイーンは意を決し、自身が見聞きした全てを包み隠さずブライアンたちに話したーーマックイーンの話を全てを聞き終わると、ブライアンは口を開いた。
「――――ありがとう。マックイーン。やはりトレーナーは…」
冷静に返しているように聞こえるブライアンの声だったが、その声が僅かに震えているのをマックイーンは気づかぬはずがなかった。ブライアンはチームの中では新参だが、気性難故受け入れてくれるチームは少なく、彼女の考えを尊重し熱心に指導するトレーナーの死は受け入れ難いものだろう…ゴールドシップやチケットたちは言うまでもない。
「…そうしましたら、今後どうするべきか考えましょう、ブライアン…」
そう言葉を続けたマックイーンだったが、いつまでたっても彼女から返事はない。
「…ブライアン?」
再度小さく彼女の名前を呼びかけると、彼女から返ってきたのは返事ではなかった。
「グハッ…」
電話の向こうからブライアンの吹き出す声が聞こえ、何か倒れる音が聞こえるーーーそして何かが破裂する音が響き渡ったのだった。
「ブライアン!ブライアン!一体どうしたのですか!」
電話の彼女に向かって懸命に呼びかけるが、その返事が返ってくることはなかった。
三度目の同じ光景を目の前にしたとき、マックイーンは自身の置かれた異常性に気づいた。
――あの男の仕業に違いありませんわ
―――急いでトレセン学園に戻って、吉良のことを探す。
しかし彼の姿はどこにも見当たらず、既に時刻は8時27分を回ってしまっていた。
「一体あの男はどこに…」
「―――どうやら私のことをお探しのようだな」
唐突に背後から聞こえてきた声の方向に急いで振り向くと、そこには探していた人物―――吉良吉影がいたのだった。
「―――あなた一体、露伴さんやチームの皆さんをどうしたのですか!?それにこの朝を繰り返しているのは何ですか!?」
「――そんなことを言うということは、マックイーン。君は誰かを吹っ飛ばして時間を巻き戻したようだな。ということはマックイーン、君は少なくとも3回くらいはこの朝を繰り返してきてるんじゃあないかな…?」
――やはりこの悪魔の仕業だったのだ
マックイーンは憤怒のこもった目つきで吉良を睨みつけたが、吉良はそれを意にも介さず言葉を続けた
「――私の能力、キラークイーンは成長したんだ…「第三の爆弾、『バイツァ・ダスト』君が私のことを誰かに喋ったり、誰かが私のことを探ろうとすると発動する爆弾で、発動すると私を追った者を爆弾で吹っ飛ばして時間を一時間ほど巻き戻す能力なのさ…」
「――そして君は今、露伴という男。そしてシリウスのメンバーをどうしたのかと言ったな…君がそいつらに私の正体を話したからこうなったのさ…君はある意味、歩く地雷と化したってわけだな」
…この男という精神のどす黒さ。そしてそれに気づかず正体を話してしまった自身の浅ましさ。
その毒牙にかかってしまったマックイーンは、吉良への憤りと自身の不甲斐なさに見せまいとした涙をあふれさせながら、せめてもの虚勢を張って吉良に問いかけた。
「――――時間が一時間ほど戻ったというのなら、露伴さんやブライアンさんは死んでいませんわ」
その言葉を聞くや否や、吉良は眉を吊り上げて高笑いを始めたーーまるで掛け算のできない同級生を小馬鹿にするガキのように、吉良は彼女を嘲ながら口を開いた
「フハハハハハッ!確かにそうだな…だが君は見ただろう!?ここに来るまでのランニングコースの中で、何か見覚えがあるというデジャヴを感じているはずだろう…?同じ景色を繰り返していると」
「つまり前の朝に行われたことは、必ず運命として固定化されるということさ!…つまりあとは頭の回る君なら皆まで言わずともわかるはずだ!」
――その瞬間、マックイーンの顔は青ざめた。
前の朝に起こった出来事は運命として固定化される…つまり前の朝に爆破された人間はその事実を固定化するということになる
マックイーンは校門から飛び出し、100~200メートル先に目を凝らすーーーそこには岸辺露伴が誰かを待つかのように誰もいない交差点の一角に立っていた。
―――彼を助けなければ
懸命に足を繰り出して、露伴のもとに駆け寄る…しかし彼の距離まで残り数十メートルとなったところで、彼の背中から突然血しぶきが吹き出し、そのまま爆破が全身に広がり消滅したのだった。
―――助けられなかった
力なく地面に座り込み、涙をアスファルトに落とす…露伴の様子を見たらブライアンに電話する気にはとてもじゃあないがならなかった。
「ククッ…時刻は8時31分を回った。君に憑依したキラークイーンは、君が露伴と出会い、彼や君のお仲間に私の正体を話したという事実を消し飛ばして時間は流れていくわけだ…君は私の正体を能力がある限り話せないし、何か書いたり動画で残したりしても、見た者は爆死するわけだな…君がどんな行動を起こしたかは知らないが、今みたいに君の行動が原因となって彼らは死んだってわけさ。このままバイツァ・ダストを解除すれば、露伴たちの死亡は揺るぎないものになるが、まだ解除はしないよ。まだ君に私の正体を嗅ぎまわっている奴が何人か尋ねてくるだろう。そいつらを始末するまでは解除はやめておこう」
吉良はそう言うと、踵を返して去っていった。
マックイーンは絶望に打ちひしがれていた――正に無敵というべき吉良の能力。その恐るべき能力の手の内を明かされても尚、マックイーンに打つ手はなかった。
第三の爆弾「バイツァ・ダスト」
能力者;吉良吉影
破壊力 - B / スピード - B / 射程距離 - A / 持続力 - A / 精密動作性 - D / 成長性 - A
マックイーンを衝動的に殺害し、絶望的状況に追い込まれた吉良が矢に刺されたことによって成長し、発現した能力。
憑依した人物から吉良の正体の情報を得ようとすると爆弾が発動。吉良の正体を知ろうとした人物を何人だろうと爆殺し、どんな能力をもってしても抵抗は不可能。
同時に時を吹っ飛ばして1時間ほど戻す。時間が戻る前に起きた出来事は『運命』として残り、バイツァ・ダストを発動している限り時間が戻った後でも再現される。ただし、憑依されている者の行動次第では、この運命は変わりうる。
時間が戻ったことは、キラークイーンに憑依されている人間以外は感知する事が出来ない。このことは吉良本人も例外ではなく、時間がもどったことを知っていて記憶もそのまま保持していられるのは憑依されている本人だけである。ただし、発動と同時に時が戻った初回については吉良だけが記憶を持ち越せる。
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アナザーワン バイツァ・ダスト4
――――私のせいですわ
私が岸辺露伴やブライアンたちに吉良の正体を話さなければーー吉良の能力の全貌を知っても尚、マックイーンには最早打つ手が残っていなかった。
小さく身体を震わせながら立ち上がろうとしても、思うように力が入らず、思わず倒れこんでしまう…マックイーンの身体が地面に激突する寸前、彼女の身体を何者かが支えたのだった。
「大丈夫!?」
マックイーンを助けた少年は随分小柄で逆立ったクセのある短髪という風貌をしており、マックイーンと同じ年くらいか、少し年上のようだった。
「…君、トレセン学園の生徒だよね?――僕の名前は広瀬康一。ちょっと君に聞きたいことがあるんだけど」
―――まさか、この方
だとすると非常にまずいことになる。この広瀬康一という男はもしかして。
「…あ、ありがとうございますーー大変失礼いたしました」
力なくその少年にお礼を述べると、急いでそこから立ち去ろうとする…しかしマックイーンはその進路を大柄な男によって塞がれてしまったのだった。
「…すまない。ケガはなかったか?」
190センチ以上はあろうかという身長に、全身を白に統一した服装――特徴的な風貌をしたその男は、非常に眉目秀麗な顔で覗き込むと、ぶつかったマックイーンに詫びを入れた。
「承太郎さん!集合場所はここで合ってますよね?露伴先生、先に着いてるはずなのにいなくって…」
――やはりこの方たち、岸辺露伴さん達の仲間のようですわ
岸辺露伴とこの場所で待ち合わせしていたということは、この男たちは能力者ということになる。やはり吉良はこの男たちの追跡の目を免れるため、川尻浩作としてトレセン学園に潜り込んだのだ。
そしてこの男たちがこの場所に来たのは…
―――調べに来たんですわ、吉良吉影のことを
康一たちに質問を受けるわけにはいかない。マックイーンはすぐにこの場から立ち去ろうとしたが、唐突に背後から声が聞こえたのだった。
「おっと、集合にちょっと遅れちまったな。もう8時33分だ…」
後ろを振り返ると、そこには二人の男がいたーーー1人はブルドックのように凶悪な目つきをしており、ポンパドールのような髪型をしていた。もう1人はさながらミケランジェロが彫った彫刻のように美しく、先ほどの大柄の男とよく似た顔つきの男だったが、その頭には特徴的なリーゼントを乗っていたのだった。
「あ!仗助君に億康君!遅いよもう!」
「ごめんな、康一~、ちょいと寝坊しちまってよ…って露伴のヤローは来てねーのかよ!あいつがいなきゃあ情報を聞き出せないじゃあねーかよ!」
―――こ、この二人も仲間なんですわ
急いでその場から立ち去ろうとするマックイーンだったが、その時彼女に康一が声をかけたのだった。
「君、さっきここに男の人は来ていなかったかい?」
「――いいえ。岸辺露伴さんなんて人、私は知りませんわ」
尋ねてきた康一の顔を見ようともせずにマックイーンは立ち去ろうとしたが、唐突に彼女の肩を掴んだものがいた。
「承太郎さんっ!どうしたんすか、突然!?」
「―――待ちな…お前今『岸辺露伴』って言ったな。俺たちは一度もあの男の苗字を口にしてないんだぜ…」
――――なっ
周囲の視線がマックイーンに注がれる。返事に窮していたマックイーンだったが、返事を待たずに承太郎は口を開いた。
「――君はメジロマックイーン君、だな?先ほど露伴から連絡が来たんだが、君のチームのトレーナー、数日前から行方不明だそうだな…怪しいと思うかもしれないが、何か事情を知っているなら教えてほしいんだ」
―――情報は既にこの人たちの手に渡っていた。
マックイーンが声を出せずにいると、間に仗助が入り口を開いたのだった。
「…ごめんな~メジロマックイーン、だっけ?今君に質問したのが俺の親戚の空条承太郎さん。最初にあったやつが広瀬康一。怖そーな顔してるやつが虹村億康だ…そして俺の名前は東方仗助だぜ」
――もう逃げることなんてできませんわ
恐らくこの4人が、吉良を追っていた最後の人たちで、露伴と合流して情報収集をするつもりだったのでしょうが、私の素性が知られていること、そして岸辺露伴のことを口にした時点で逃げることはもうできない…
実際に4人はマックイーンが逃げ出すことがないようにやや間隔を保ってはいるが、取り囲むように彼女の周りに立っていた。
――恐らくこの4人の能力者が吉良を倒す最後の希望である以上、彼らに質問をさせるわけにはいかない。
「ちょっとした質問なんだが、君が何か知っていることは…」
「お答えできません!!」
仗助の声を、質問を止めさせるために咄嗟にマックイーンは大きな声で遮るーーーしかしながら、そのことが却って4人の心に大きな疑念を残すこととなったのだ。
「おい…急にどうしたんだ…叫んだりして」
「まだ何も質問してねーのによ~」
――――もう駄目ですわ。今の私の言い方じゃあ、ますます疑いたくなりますわ
――最早マックイーンに手立てなど残されていなかった。これから4人には質問を投げかけれる…吉良に迫った時点で能力が発動する以上、彼らが質問した時点で吉良の能力が発動する可能性は否定できないため、彼らに質問をさせてはいけないとマックイーンは判断した。
――――1つ可能性がある。たった1つだけ、彼らからの質問を切り上げさせ、彼らがその異常性に気づくことができる手段がある。
――正直怖かった。ただあの汚らわしい殺人鬼を倒せる可能性が彼らにある以上、彼らには生きていてもらわなければならない
マックイーンは静かに目を開けると、胸ポケットからペンを静かに取り出すーーーそして4人には見えないようにペンを喉元に突き付けると、満身の力を込めてそれを喉元に突き立てた。
―――その手段は、私が死ぬこと。私がこの場で死ねばあの男の能力を解除できますし、彼らは殺人鬼の存在に勘づくことができるはずですわ。
「承太郎さん、早く質問しましょうよ。この子、吉良吉影のこと何か知ってるかもしれないっすよ?」
「―――待て。もしかしたら質問すること自体に何か問題があるのかもしれない…そして何か様子がおかしい。急に蹲ったりして…」
承太郎がうずくまるマックイーンに近づき肩を掴んで起こすと、マックイーンは両手でペンを掴み、喉に突き立てていたーーーしかしそのペンには見覚えのある姿…キラークイーンがマックイーンの握るペンを抑え込んでいたのだった。
「さ、刺せない…ペンがピクリとも動きませんわ」
「こいつはキラークイーンっ!」
「この姿は一度見たら忘れねぇ!」
4人がキラークイーンに向かってスタンドを繰り出して攻撃するが、その攻撃は全て露伴の時のようにすり抜けてしまったのだった。
「正確に言うと、キラークイーン第三の爆弾「バイツァ・ダスト」さ…君たちの瞳に入ったということ、それはつまり攻撃が既に完了しているということだ!」
キラークイーンがスイッチを入れると、4人の身体が一斉に破裂音と共に崩れていくーーその光景をマックイーンはただ見ることしかできなかった。
「きゃああああああああああああああああ!!!!!!!」
小鳥がさえずり、人々の往来が朝の訪れを告げる…いつものランニングコースである街路樹にマックイーンは立ち尽くしていたーー時刻は7時36分、訪れた4度目の朝にマックイーンは大粒の涙をこぼしながらうわ言のように呟いた。
「また救えませんでしたわ…どうあがいても1時間後、吉良を止められる4人が露伴さんみたく爆破されてしまいますわ」
―――吉良吉影の醜悪さ、どす黒さを体現したような能力
自動的に吉良を守るバイツァ・ダストの能力は、マックイーンがどう考えても無敵の能力だったーー吉良が死ぬか、バイツァ・ダストの能力を爆死する前に解除しない限りこのまま何もしなくても彼らが死ぬことは既に運命として確定していた。
「―――能力を解除するか、あの男が死ぬか」
――何れにせよ、この4回目の朝があの男を止められる最後のチャンスですわ
これから私がすることは、メジロの顔に泥を塗ることになってしまうでしょう…ですが吉良を倒せる可能性があるなら、大切な仲間たちと、トレーナーさんが愛したチームやトレセン学園を守ることができるのなら
マックイーンの顔には最早、迷いなどなかった。
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アナザーワン バイツァ・ダスト5
トレセン学園の生徒たちが、ヒシアマゾンやフジキセキといった寮長や、エアグルーヴをはじめとした生徒会の指示によって続々とバスに乗り込んでいくーーー吉良は一列になって順番を待つライスの姿を認めると、駆け寄って声をかけたのだった。
「――ーライス」
「お兄様!一体どうしたの?」
「実は急な仕事が入ってね…合宿所にすぐに行くことができないんだ。午後の練習には間に合うようにするから、午前はゆっくりとしていてくれ」
ライスは吉良の言葉を聞くと少し残念そうに俯いたが、直ぐに顔を上げて口を開いた。
「…わかった!ライス、待ってるね!…あとお兄様に渡したいものがあるの…」
ライスはそう言うと、おずおずと何か箱を吉良に手渡したーー吉良が受け取った箱を開けると、そこにはペンダントが入っていたのだった。
「――――つけてもいいかな?」
ライスが静かに頷くと吉良はペンダントを首に掛け、目立たないようにスーツの内側に入れると、ライスに笑顔を向けるのだった。
「――本当は宝塚記念の後すぐに渡すつもりだったんだけど、遅くなっちゃった…」
「―――いいんだ。凄く嬉しいよ、ライス…また会おう。合宿所にすぐ行けるように仕事を済ませてくるからね…」
吉良はライスの頭をなでると、校舎の方へと向かっていったのだった。
―――時刻は7時31分
マックイーンはいつものランニングコースの途中で4度目の朝を迎えていた。
―――切磋琢磨してきたトレーナーさんを失った。
―――大切なチームメイトを失った
――吉良を倒すことができる可能性を持った人たちを失った
このループする時の中で、絶望と呼べる経験の限りを尽くしたマックイーンの目には、最早弱さや躊躇いなど微塵も感じられなかった。
―――この朝で、ケリをつけてやりますわ
マックイーンは踵を返すと、学園に戻るために走りながらポケットから携帯電話を取りだし、とある人物に電話を掛けた。
―――吉良はここにあれを隠していたはずですわ
マックイーンが吉良の部屋に忍び込んだ後、とある場所に電話を掛けた後、人気のない倉庫の前に立ってマックイーンは力づくで倉庫の扉を開けると、そこには暗がりの中で猫草が不気味な寝息を立てながら瞳を閉じて眠っていた。
―――以前見た時よりも成長していますわ
猫草はマックイーンが吉良の部屋で見た時よりも成長しており、見た目はより凶暴なものとなっていた。
―――成長しているなら、あの時よりも空気の弾の威力も上がっているはずですわ
あの男は、起こった行動は運命となって繰り返されると言っていた。
――つまりあの男と8時27分ぐらいに校門で会うのは既に運命づけられていることになる。
――私のことを何の力もない無力な小娘だと思って近づいてきたところを、この生き物の空気を当てられれば…
無論マックイーンのしていることは例え相手が殺人鬼であったとしても立派な犯罪であり、許されることではないことも当人も理解していた。しかしながら能力を解除する方法がこれしかない以上、マックイーンは既に腹を括って吉良に空気弾を喰らわせる決意を固めていたのだった。
マックイーンは扉をすぐに閉め、猫草を陽の光に当たらないように細心の注意を払いながらバッグに入れると、マックイーンは急いで外に出たのだった。
―――露伴の爆発まであまり時間がない。
マックイーンが急いで校門に向かっていると、突然後ろから声が聞こえてきたのだった。
「――――待て。メジロマックイーン」
マックイーンが後ろを振り返ってその姿を確認すると、そこには本来合宿所にいるはずの皇帝――シンボリルドルフの姿があった。
「――君は合宿所に行かないで何をしている」
ルドルフの顔は見るに堪えないほどやつれていたーー噂では、甲斐トレーナーがM県支部で失踪後にひどく参ってしまい、生徒会の業務もエアグルーヴに任せているとのことだったが…マックイーンはいつもの冷静さを失い、猛獣のように鋭い視線を送ってくるルドルフを見据え、口を開いた。
「何をしているのか、とはどういうことですか?」
「とぼけるな!チームシリウスの面々が巻き込まれた事件、何かお前たちが隠していることは分かっている!!」
―――今の会長の様子だと、物事はどう転ぶかわかりませんわ
水を打ったように冷たく静まり返った空気が二人の間を流れていく。
彼女もまた、一連の事件の被害者の一人である。真実をまだ伝えられないにしても、彼女に嘘をつくことはマックイーンの良心が許さなかった。―――マックイーンはルドルフを見据えると、口を開いたのだった。
「――これから一連の事件の元凶ともいえる人物と決着をつけてきます…すべてが終わったら真実をお話します…ですからご猶予を」
ルドルフはマックイーンを睨みつけてたまま、視線を動かすことはないーーー永遠とも思える数秒が経過するとルドルフはため息をつき、徐に口を開いた。
「―――私は常日頃、すべてのウマ娘の幸福を願ってきた。そんな私がこんなことを言うのは虫が良いのはわかっている…だが」
「…後は頼んだ」
ルドルフはマックイーンに対して深々と頭を下げたーーーやがて頭を上げると、ルドルフは静かに去っていくのだった。
去り際、マックイーンはルドルフが小さくつぶやいた声を聞いた…全てのウマ娘を導く先導者としての声ではなく、たった一人のウマ娘としての切なる願いを。
「…トレーナー君の仇を取ってくれ」
会長は一体どんな顔をされているのでしょうか…
同じように最愛のトレーナーを失い、失意のどん底に落ちたマックイーンは、彼女の気持ちが痛いほどわかった。
―――こんな思いをする人がこれ以上生まれてはなりませんわ
マックイーンは再び顔を上げると、校門に向かって歩きだしたのだった。
――時刻は8時27分
マックイーンはトレセン学園の校門の前で、吉良が声をかけてくるのを待っていたーーー
すると、背後から突然声が聞こえてくる
「やぁ、マックイーン…サボりとは感心しないなぁ...」
――ついに来ましたわ
この悪魔の、悪夢のような能力を打ち破るため、そしてこれ以上トレセン学園を汚させないためにーーマックイーンがバッグを開きその口を吉良の方に向けると、陽の光によって活動を再開した猫草が空気弾を放つーーーその空気弾が吉良の胸にめり込むと、吉良はそのまま倒れこみピクリとも動かなくなった。
吉良が起き上がらないことを確認し、確実に仕留めるために再びバッグを開けようとするーーしかしマックイーンの視界に映った男を見て、彼女の手は止まったのだった。
それは遥か遠くで空条承太郎たちを待つ岸辺露伴の姿だったーー吉良の能力が解除されれば、彼も助かるはずだ
―――露伴さんはご無事でしょうか
およそ数百メートル先の露伴の無事を確認するため、マックイーンがわずかに吉良から目を離し、目を凝らすーーすると、背後から絶対に聞こえるはずのない声が聞こえてくるのだった。
「――班目といい、君といい、本当に大した奴だな」
―――そんなまさか
マックイーンが身体を小さく震わせながら振り向くと、吉良が口から血を流し、よろけながらも猫草から受けた空気弾をものともせず立ち上がっていたのだった
―――なぜこの男は攻撃を受けて立っているのか
眼前に広がる俄には信じがたい光景にマックイーンが言葉を失っていると、吉良は血の混じった唾を地面に吐き捨て、口を開いた。
「……なぜ私が立ち上がれるのか不思議か、メジロマックイーン?それはな…」
吉良はスーツの内からひしゃげたブレスレットを取り出すーーそれは今朝ライスが吉良に手渡したものだった。
「つくづく私は本当についていると実感するよ…もしもブレスレットがなければーーライスとの繋がりがなければ私とて無事じゃあなかっただろう…」
―――果たしてそんなことがあっていいのだろうか
その様子を見ながら吉良は言葉を続ける。
「そして猫草の空気弾で私のことを攻撃しようとしたということはだ…マックイーン。君は少なくとも3…いや4回はこの朝を繰り返しているとみたよ…そうでもなければ思いつかないアイデアだ」
――マックイーンの決死の作戦は失敗した。
彼女の顔が絶望に染まっていく表情を満喫しながら、吉良は勝ち誇った顔を浮かべ、マックイーンを絶望に叩き落とす台詞を口にしたのだった。
「4回繰り返したということはだ…これから何人かが近くで始末されるということだなぁ~?そいつらが始末されるのを見届けてからバイツァ・ダストは一旦解除させてもらうよ」
――最早運命というツキから見放されたマックイーンに成す術はなかった。
地面に膝をつき、目からあふれる屈辱の涙をこぼしながら俯くマックイーンの姿を見て、吉良の気分は最高潮に達していた。
「バイツァ・ダストは無敵だ!メジロマックイーン!この吉良吉影に運は味方してくれている!!」
その言葉を聞くとマックイーンは身体はわずかに震え、吉良のことを信じられないものを見たかのように見つめながら小さく口を開いた。
「―――言いましたわね?その名前。自分の本名を」
吉良は訝し気に彼女を見つめると、肩をすくめながら口を開いた。
「だからなんだと言うんだい?君は私の本名を既に知っているじゃあないか」
「私は、電話しただけですわ…寝坊して集合時間に遅れた彼の部屋を名前を手掛かりに調べてもらい、彼が泊まっている部屋に無言電話を掛けただけですわ」
「もう一度言いますが、貴方自身が自分の名前を口にしたんですからね?猫草で攻撃したのも、貴方のことを必死こいて待っていたのも、時間を稼ぐためですわ…彼を前回より一秒でも早くここを通らせるために、そしてその彼に貴方が自分の正体を自信で明かすことを目撃させるために」
吉良はその僅か一瞬でマックイーンの言葉の真意にたどり着いてしまった。
「―――まさか」
そんな馬鹿な。そんなことがあっていいのか。吉良が恐る恐る後ろを振り向くと、そこには顔に怒りの表情を浮かべ、東方仗助が立っていたのだった。
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クレイジー・D(ダイヤモンド)は砕けない1
時刻は8時28分。
吉良吉影がバイツァ・ダストを発動し、その勝利は確実かに思われた――しかしメジロマックイーンの奇策によって、吉良の正体が遂に杜王町からやってきた東方仗助に知れ渡ることになったのだった。
「てめー、今確かに言ったよな?」
不良が喧嘩を吹っ掛ける時の挑発とは比較にならないほどの、仗助の殺気のこもった目つきや構えにマックイーンは思わず身じろぎした。
「なっ…」
吉良も先ほどまでの様子とは打って変わり、青ざめた顔つきで仗助のことを見つめていた
「吉良吉影っつたよな~!」
吉良は仗助の姿を認めると、反対の方角へと逃げようとするーーーしかし仗助がポケットから手を出すと、吉良が頬から血を吹きながら地面に吹っ飛ばされたかのようにマックイーンには見えた…やはり東方仗助も能力者だったのだろう。
実際仗助の繰り出した中世のグラディエーターのような恰好をしたスタンド、クレイジーダイヤモンドの拳は吉良の顔面を捉え吹っ飛ばしていたのだった。仗助は地面に這いつくばる吉良の姿を冷たくにらみつけると、手の平を慎重に髪にあてがいその乱れを整えるのだった。
――頭上には淀んだ雲から雨がポツポツと降り注ぎ、その様は無様な罪人の処刑を嘲り笑う聴衆のようだった。僅かに湿ったアスファルトに惨めに這いつくばりながら、吉良は眼前に立ちふさがる仗助の姿を憎々し気に睨みつけたのだった。
――全てはそこの小娘のせいだ
スタンド能力を持たない非力な少女によって破綻した自身の安寧。
吉良にとってそれは取って代えることができない代物であり、それを奪ったのがメジロマックイーンであるという事実は吉良の自尊心を深く傷つけていた。
仗助と接敵してしまった以上、最早生き死にを掛けた戦いを避けることはできないだろう。依然地に這いつくばりながら、吉良は前方の無表情にこちらを見つめるクレイジーDを睨みつけた。
――今の仗助の攻撃
吉良の逃走を防ぐために行ったクレイジーDの攻撃。
牽制のために放った攻撃のために満身の力は籠っていなかっただろうが、今の攻撃は…
――私は必ず生き延びなければならない
私自身の平穏のために、そして…
吉良は眼前の仗助を睨みつけると、マックイーンの傍に落ちているバッグに目配せした。
――幸い運はまだこちらに向いているようだ
仗助は吉良を睨みつけながら、さながら死刑執行人のように冷え切った声で吉良に話しかけた。
「もしもてめーが同姓同名の人違いであれば、治してやるからよ」
仗助がクレイジーDに声をかけると、雄たけびをあげながらクレイジーDが一歩踏み込んでくるーー吉良は最早自身に選択肢が一つしか残されていないこと、そしてこれからの運命に腹を括ると、吉良は身を守るために自身のスタンドの名前を叫んだのだった。
「戻れキラークイーンッ!!」
マックイーンの背後からキラークイーンが飛び出し、吉良の眼前に立つーーそして、繰り出されたクレイジーDの拳を間一髪のところで防ぐのだった。
マックイーンは現在の時刻を確認し、すかさず遥か先にいる露伴の姿を確認するーーすると岸辺露伴の身体は時刻になってもその身体は崩壊することはなく、降り始めた雨空を忌々し気に睨みつけているのだった。
―――露伴さんが生きているということは
つまりバイツァ・ダストは解除され、露伴をはじめとした人々が爆破される運命は消滅したということになる。
「運命に勝ちましたわっ!!」
喜びのあまりマックイーンは大声を上げるーーしかしその一時の喜びは、殺人鬼の言葉によってかき消されることになった。
「激しい喜びはいらない…その代わり深い絶望もない。植物の心のような人生を…そんな平穏な生活こそ私の目標だったのに」
目の前の殺人鬼が放った唐突な人生論――ある意味生き方としては理にかなっているのかもしれないが、それを口にしているのは平穏とは程遠い人殺しを繰り返す怪物である。
「そんなことがよ~許されるはずがね~だろがよ~!てめーが重ちーを殺したから追ってんだろうが!!」
吉良の口にした、エゴイズムと矛盾を孕んだ醜悪な価値観に思わず仗助の怒号が飛び、二人はその吐き気を覚えるような邪悪さに顔を歪ませていると、吉良はそれを全く意にも介さずに言葉を続けた。
「そしてその平穏を妨げるのは、貴様らたったの二人だけだ。つまり君たちを始末すれば、再び私たちの平穏な生活が戻ってくるということだ」
その言葉に反応し、再び仗助がクレイジーDを構えると、続けて吉良もキラークイーンで戦闘態勢を取るーースタンド同士が一歩踏み出す直前、二人の間には互いの息遣いが聞こえるほどの静寂が流れる。パラパラと流れる雨の一粒一粒がくっきりと視認できると錯覚するほど、スローモーションに時は流れていた…やがて同時にクレイジーDとキラークイーンが踏み出し、攻撃に入る。
互いに一歩も譲らずに肉弾戦を繰り広げていくーーやがてキラークイーンの絶え間ない攻撃の中で、僅かな間隙が生じたーーそれをクレイジーDがその隙間を縫うように拳を繰り出していくが、キラークイーンはそれを躱すと、クレイジーDの顎に鮮やかな蹴りを繰り出したのだった。
「グッ…」
仗助が顔から血を吹き出して吹っ飛んでいく…そして側道に生えている生垣に突っ込むと、マックイーンは驚愕の声を上げた。
「そ、そんな…まさか吉良の方が…」
吉良はスーツの身だしなみを整え、ほくそ笑みながら生垣に倒れこむ仗助を見下ろすという、先ほどとは逆の構図で彼に言葉を投げかけた。
「――さっきの攻撃で、君のクレイジーDの実力はある程度わかったよ、東方仗助…私も成長しているということさ。トレセン学園という場所で、精神的にも肉体的にも成長したからね…それに君はキラークイーンの拳に触れないように防御をしながら戦わなければならないからな…本来の力を発揮するっていうのは難しいんじゃあないか…?」
吉良の言葉に、仗助は顔を歪ませたーーー確かに吉良の言葉は的を得ていた…現在仗助の前に立ち塞がるキラークイーンの戦闘力は、承太郎が靴のムカデ屋で戦った時の話よりはるかに向上していた。
―――もしかすると、承太郎さんよりも
体勢を立て直すために急いで生垣から立ち上がり、吉良から距離を取るーーすると吉良はますます顔に冷酷な笑みを張り付かせながら言葉を続けた。
「―――おいおい。私のことを追ってきたっていうのに、逃げたら意味がないだろう?…まぁ、遠距離の方がこれの真価を発揮できるがな」
マックイーンは吉良の言葉を聞いて、地面に落ちた自身が持ってきたバッグを見るーーーするとそこに入っているはずのものが、いつの間にか姿を消しているのだった。
―――まさか
もしもあれが吉良の手に渡ったとしたら…だがそれしか考えられない。あれは自分で動くことはできないはずだから。
マックイーンは吉良と仗助の間に目を凝らす…すると、そこには非常に見えにくいが透明の円形の物体が真っすぐ仗助に向かっていた。
―――やはりそうですわ
考えるよりも先に、身体が動いていた。マックイーンは咄嗟に仗助の元に駆け寄ると、彼の身体を突き飛ばした。するとその円形の物体は、火を吹きながらマックイーンの身体を貫通していった。
「―――フム。もう少しで仗助に一発喰らわせることができたのに、お前のせいで当たらなかったじゃあないか…メジロマックイーンーーだが、まぁいい。どうせお前も仗助を吹っ飛ばした後に始末するつもりだったからな」
吉良はそう言うと、身体からキラークイーンを再び出現させた…キラークイーンの腹部には、マックイーンが先ほど吉良を倒すために持ってきた猫草が収納されていたのだった。
「私がわざわざこいつを飼っていたのはこのためさ…猫草の空気弾はキラークイーンの爆弾に利用するためにな」
―――目の前で一人の少女が力なく倒れる…仗助は眼前の吉良を阿修羅のごとく煮えたぎった怒りを内包した視線を送ると、怒号を発するのだった。
「吉良吉影ッーーーーーーーーー!!!!」
本来であれば仗助の怒号は辺りに響き渡り、集合場所に到着している仗助を除いた4人の耳にも届くはずだったーーしかし突然降った通り雨は仗助の魂の慟哭を雨音で打ち消したのだった。
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クレイジー・D(ダイヤモンド)は砕けない2
東方仗助の眼前には、地面に血だまりを作りながら倒れているメジロマックイーンの姿が広がっているーー仗助はその少女の姿と、過去に自分の腕の中で息絶えたかつての祖父を重ねていた
仗助は動揺と怒り、焦燥感が綯い交ぜとなった表情を浮かべ、マックイーンの元へと駆け寄った
「今助けてやるからなっ!」
マックイーンのもとに駆け寄り、仗助が手をかざすと一瞬でマックイーンの傷が癒えていき、マックイーンは再び正常な呼吸に戻るのだった。その様子を見ると、吉良は口元を歪ませながら口を開いた。
「―――傷もたちどころに治してしまうほどの能力か…つまり君が生きている限り、攻撃しても意味がないということか」
怒りが心臓を強く脈打ち、正義のためにこの殺人鬼を倒すという黄金の意思が勇気となって仗助の体内を駆け巡っていくーーー
仗助がスローモーションのようにゆっくりと、そして静かに立ちあがると、吉良は先ほどマックイーンを攻撃した時と同様にキラークイーンを構えた。
「東方仗助…君の能力は私にとって非常に邪魔な能力だということを改めて理解したよ…マックイーンは君を吹っ飛ばした後に始末することにしよう!」
キラークイーンによって発射された空気弾が、再び仗助のもとに向かっていく。猫草の空気弾は空気を固めて発射しているため、大気中に繰り出されると視認することが難しい。従って仗助も空気弾が近くに来なければ位置を確認することができず、仗助の視界に空気の輪郭が映った時には、既に空気弾は仗助に5メートルの距離まで近づいていたのだった。
空気弾の位置を確認した仗助は、直ぐにクレイジーDを繰り出すと足元のアスファルトをその拳で叩き割るーーすると砕けたアスファルトの破片の数々が仗助の前で結合し、即席の盾を形成したのだった。
仗助の前の盾に空気弾が接触した瞬間、けたたましい音を立てて空気弾が爆発した。
すると爆風の後ろからキラークイーンの拳が急接近してくるーー突然のキラークイーンの攻撃に間一髪で対応すると、直ぐにキラークイーンの肘鉄がクレイジーDのみぞおちを捉えるのだった。
仗助は口から血を吹き出し、思わず地面に膝をつくーーすかさずキラークイーンは拳をクレイジーDに繰り出したが、クレイジーDの顔面に拳が届く寸前、その手は止まった。
吉良は自身に起こった異変に気が付き、足元を見るーーそれを見た仗助は不敵な笑みを浮かべると、こちらを見下ろす吉良に向かって挑発的に声をかけるのだった。
「…俺のクレイジーDの治す能力はよ~、物を治せる…遡れば原材料までな~…つまりアスファルトを原油にまで戻せるってことだぜ!」
吉良の足元のアスファルトは、クレイジーDの能力によって原油に戻され、底なし沼のように吉良の足にへばりつく…意識を失っているマックイーンを抱え、仗助はトレセン学園の中に入っていったのだった。
ーーここは…
メジロマックイーンはゆっくりと意識を戻していく…確か自分の腹部に猫草の空気弾が貫通して…
マックイーンが状況を掴みかねていると、前方から突然に声が掛けられたのだった。
「目が覚めたようだな…大丈夫か?」
―――そこには東方仗助が身体を傷と煤だらけにしながら、マックイーンを静かに見守るように立っていたのだった。
「―――東方仗助さん」
「…今更なんで俺の名前を知ってんだってことは聞かねーよ。吉良がおめーに本名を名乗ってたことは、危機一髪って状況だったみたいだしよ~名前はなんて言うんだ?」
「――メジロマックイーンと申します」
その名前を聞くと、仗助は驚愕の表情を浮かべた。
「メジロって、マックイーン!お前まさかあの有名なメジロ家のお嬢さんかよ~!?口ぶりからいいとこのお嬢さんとは思ったが、まさかな~!?」
「―――そ、そうですわね」
「うひゃ~!俺なんてオフクロにお小遣いもらってちびちび生活してるってのにな~!宝くじの金も使わせてくれねーのによ~」
「……」
メジロ家の令嬢として生きてきたメジロマックイーンにとって、東方仗助のようなここまで砕けた口調の、所謂不良と話すのは人生で初めての経験だった。しかしマックイーンはその男の口ぶりに、そして竹を割ったような性格に特に嫌悪感を抱くことはなく、寧ろ心の何処かで親しみを感じていたのだった。
「―――助けていただきありがとうございます、仗助さん…ここは一体…?」
マックイーンの言葉を受けると、仗助の顔からはひょうきんさは鳴りを潜め、真剣な顔つきで口を開いた。
「―――すまねーな。トレセン学園を巻き込みたくはなかったんだが、吉良からの追跡を躱すにはしょうがなかったんだ…校門入って右折して、少し進んだところにあった木造の建物に身を隠させてもらったぜ」
「―――ということは、ここは旧校舎のようですわね。今日から夏合宿でほとんど人はいませんし、ここは人も来ないので、人を巻き込む心配には及ばないと思いますわ」
旧校舎の2階。今は使われなくなった教室に二人は身を隠していた。マックイーンがひとまず休もうと壁に背をつけると、髪が突然不自然に浮き上がったのだった。
―――そんなまさか
「仗助さんッ!!空気弾が教室内に入ってきましたわ!!」
マックイーンは目を凝らすと、微かにその輪郭を確認することができるーー彼女は仗助に空気弾の位置を伝えるために、大きな声で彼に空気弾の位置を伝えるーーしかし仗助が室内を移動すると、空気弾はまるで仗助の位置が手に取るようにその後を追っていくのだった。
「な、何故空気弾は仗助さんをピッタリと追っているんですの!?一体どこから吉良は私達を見ているんですの!?」
「マックイーンッ!やつが何処にいるのか探してくれ!!」
仗助はジグザグに曲がりながら校舎を走り回るが、空気弾はその速度を増し確実に仗助との距離を詰めながら追跡していた。マックイーンは吉良の姿を探すために血眼になって彼を探したが、窓の外を見て声を上げたのだった。
「いました!旧校舎の1階、ちょうど玄関の所にいますわ!」
仗助が窓の外に目をやると確かにマックイーンが言っていたとおり、吉良は旧校舎の1階で他者の目を気にするように柱に身体を隠しながらその手に携帯電話が握りながら立っていたーーーしかしあの様子では明らかにこちらの様子を視認できているわけではないはずだ。
――吉良の姿に気をとられている間に、空気弾は仗助の身体の側に音もなく近づいていく。そして、空気弾は仗助の前で音を立てながら爆発するのだったーーー仗助はクレイジーDでガードしようとしたが、キラークイーンの強力な爆発を防ぎ切ることはできず、仗助の身体を爆破が包んだのだった。
「じょ、仗助さんッ!!!」
マックイーンは爆破によって吹っ飛んだ仗助の元に駆け寄り、傷を確認する…仗助を襲った爆発は、致命傷は免れていたが、木片が足や腹部に突き刺さっており今にもその目は閉じそうだったが、その目には未だに確固たる意志が宿っていたのだった。
すると再び壁から空気弾がすり抜け、室内に入ってくる。マックイーンが空気弾を回避するために懸命に仗助を引っ張ろうとするが、仗助はそれを制止するとおもむろに口を開いたのだった。
「―――俺の能力は自分の傷は治せない…一発貰っちまったが、おかげで今の爆破で謎が解けた」
仗助は苦しそうにポケットからとあるものを取りだすーーそれは何の変哲もない、ただのライターだった。
「―――それは」
「―――この際、ライターを何で持ってるかなんて不良の俺に野暮なことは聞かないでくれよ…それとちょいと熱いかもしれねーが、我慢してくれ」
仗助はライターの回転式のヤスリを回し、火をつけるーーするとマックイーンが肩にかけているバッグに何の躊躇いもなく火をつけるのだった。
「じょ、仗助さん…?一体何を…?」
「―――どうしてやつは見えないのに俺たちのことを空気弾に追尾できるのか…?奴は携帯電話で誰かに電話していた…もしかして、やつは見えてるんじゃあなくて、聞いているのかも」
すると火をつけられたマックイーンのバッグが揺れ出し、飛びだしてきたのは1枚の写真―――自身の息子を守るためという性根の腐った親心から吉良の犯罪を隠匿し、トレセン学園の生徒たちをスタンド使いにすることによって暴走させ、何の罪もない甲斐の命を奪った写真の親父だった。
写真の親父の手には携帯電話が握られていたーークレイジーDがすかさず携帯電話を取り上げると、写真の親父は醜悪な罵声を仗助に吐くのだった。
「畜生ッ!このくそったれ仗助め!」
「こ、この男が、この写真が吉良の協力者ッ…!!」
―――この男が吉良の協力者…この男がトレセン学園で暗躍し、能力者を増やしてシリウスに襲わせるように仕向けたということですわね…
マックイーンがその目に静かな怒りを宿らせて、前方に飛び出した写真の親父を睨みつけるーーするとそれを横目で見た仗助は、取り上げた携帯電話に低く、囁くような声で話しかけたのだった。
「――仗助は…3メートル先にいる」
――すると空気弾は仗助から離れ、真っすぐと写真の親父の方へと向かっていく。
「な、なんて事をしやがるんだ、貴様ら!」
仗助の狙いに気づいた写真の親父は必死に逃げ回るが、その後方にぴったりと空気弾は追尾していたのだった。
――ぼそぼそと話しているから、吉良は仗助さんの声と見分けがついていないんですわ
写真の親父は必死の形相で逃走を図るが、空気弾は確実に写真の親父との距離を詰めていた。
「―――今だ。スイッチを押せ」
空気弾に亀裂が入り、瞬時に爆発が広がっていく…写真の親父はせめて声が息子に届くように声の限り叫ぶのだった。
「吉影ェェェェェェェェ!!!!!」
しかし写真の親父の断末魔は、皮肉にも自身の溺愛した息子の手によってもたらされた爆破によってかき消されたのだった。
「やったか!?仗助を!!」
電話の向こうから、歓喜の混じった吉良の声が聞こえてくるーーここで吉良に写真の親父に成り代わり、自身の誘導によって写真の親父が吹っ飛んだことを伝えてもよかったのだが、妙案を思いついた仗助は再び受話器に顔を近づけたのだった。
「―――仗助は死んだ。あとはマックイーンだ…やつは2メートル先にいる」
電話の向こうから聞こえた指示に、吉良は再びキラークイーンを構えて空気弾を発射する。
腹部から発射された空気弾は、獲物に忍び寄るサメのように静かに天井をすり抜けていった。
「―――もう少し。左に1メートル…今だ!スイッチを作動しろ!」
―――これで邪魔なマックイーンを始末できる。この吉良吉影の正体を知る者は、誰もいなくなるわけだ…
「点火ッ!」
キラークイーンがスイッチを押し、空気弾が破裂するーーその瞬間、吉良の頭上の天井が大きな音を立てて崩れ落ちたーー吉良が唐突の出来事に目を見開くと、煙の中から仗助が落ちてきたのだった。
「―――東方仗助ッ!」
「――さっきテメーが吹っ飛ばしたのはよ~…幽霊になったテメーの親父だぜ…まぁ、もともと死んでんだから、やっと死んだって感じなんだろうがな~…」
「クレイジーD!!」
クレイジーDの拳が迫り、吉良の顔面を捉えるーーその瞬間、吉良の頬がナッツを砕いたような音が響き、形が変わるのを感じるーーー殴る度に響き渡るクレイジーDの「ドラァッ!」という掛け声とともに、吉良の骨が折れ、身体中から血が噴き出していくーーー機関銃の掃射のように絶え間なく繰り広げられたクレイジーDのラッシュによって、キラークイーンの腹部にあった猫草は零れ落ち、吉良は窓を突き破って旧校舎の外で地面に吹っ飛ばされた。
――――これは何かの間違いだ
ぼろ雑巾のようになった身体を無理やり立たせ、壁にもたれながら吉良は一歩一歩外に向かって歩いていた。側に控えるキラークイーンの身体も、身体中のあちこちがひび割れ、その輪郭も心なしか薄くなっているように見える。吉良をここまで付き動かしている原動力は、最早気力だけになっていた。
――植物のように平穏に生きたいと願う私の人生に、こんなヒドイことがあっていいはずがない。
吉良の心には、こうなってしまったのは今までのツケが回ってきたからだとかいった罪悪感などは全く存在していなかった。あるのは自身に降りかかった理不尽な災厄に対する非難の気持ちという悍ましい被害者意識だけだった。
しかしながら、そんな怪物に対してまたしても運命は味方していた。一つ目の幸運は猫草を腹部に収納していたということ。猫草は吉良が攻撃された際、自身が攻撃されたものだと思って反射的に空気弾で攻撃をガードしていた。二つ目の幸運は、仗助が負っていた負傷である。爆破によって受けたダメージによってクレイジーDは吉良に攻撃はできたものの、そのいずれも致命傷までは達していなかった。このような複数の事象が偶発的に重なったことで、吉良は本来であれば即死してもおかしくないクレイジーDの攻撃を受けても尚、立ち上がっていたのだった。
―――帰らなければ…
たった一つの意思に導かれ、吉良は餌を持ち帰る働きアリのように遥か先で吉良をまつ拠り所に向かって歩みを進めていくーーーしかし、突然背後から聞こえた足音によって吉良は現実に引き戻されることになった。
「―――東方仗助」
そこにはマックイーンに支えられながら、東方仗助が立っていた。身体中は爆破によって傷だらけであり、腹部と足には木片が刺さっており、マックイーンに支えられないと立っていることもままならない…しかし東方仗助は、偉大なる意思によってーーー杜王町とトレセン学園の尊厳を平気で踏みにじり、多くの罪のない人々の日常を奪った眼前の殺人鬼との決着をつけるという確かな意思のもと、吉良の前に仁王立ちしていた。
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メジロマックイーンは挫けない
木造の旧校舎から響き渡った大きな爆音は、待ち合わせをしていた空条承太郎たちの耳にも届いていた。
「じょ、承太郎さんっ!今の音って!!」
「トレセン学園の方から聞こえたみたいだぜ~!!行こうぜ、承太郎さん!」
4人はトレセン学園の方で聞こえた大きな音に、すかさず駆け出していくーーその音はトレセン学園一帯に響いており、人々はその騒ぎに何事かと集まり出していたのだった。
―――視界が霞み、息をするたびに空気を取り入れようと肺が悲鳴を上げる。
仗助の容態は、腹部や脚に木片が深々と突き刺さり、その身体は切り傷と火傷に覆われている。仗助は最早いつ倒れても可笑しくないような状態だったが、同時に彼は覚悟をしていたーーすなわち、どんなことがあっても吉良との決着をつけるという覚悟だった。
「―――東方…仗助…」
「出しな…てめ~の…キラー…クイーン…を…」
マックイーンは仗助から側から離れるように促され、その勝負を静かに見届ける…トレセン学園の一角で繰り広げられる、恐らく誰にも気づかれることがない静かな闘い…しかしその闘いには杜王町の尊厳と、トレセン学園の未来が懸かっていた。マックイーンが固唾をのんで見守っていると、その静寂を打ち破るかのように吉良と仗助が雄叫びを上げながら向かっていく。
既に満身創痍の中、キラークイーンとクレイジーDは一進一退の肉弾戦を繰り広げていくーーマックイーンはその闘いを視認することができないことに、また自身が何の役にも立てないことへの憤りを感じながら、仗助に声援を送っていた。
――正直先ほどの戦いでは吉良の方が少し上手でしたが、今はお互いが負傷していますわ…どう転んでも可笑しくないはず…
クレイジーDに触れようとキラークイーンが拳を繰り出すが、その度にクレイジーDは的確にその攻撃を防いでいくーーークレイジーDが反撃を加えようと拳をキラークイーンの頬にあてると、吉良はうめき声をあげながら何とか仰け反りながらキラークイーンの蹴りで反撃を加えた。
「―――ウグッ」
キラークイーンの蹴りによって仗助は膝に着いたのだったーー吉良はゆっくりと立ち上がると、忌々し気に仗助に対して口を開いた。
「―――やはり最悪の時にこそ、この吉良吉影に運命は味方するということか…東方仗助…貴様は本当によくやったと言っていいんじゃあないか…敵ながら天晴なやつだ」
「―――キラークイーン!!こいつを爆弾に変えろ!!」
勝利は最早揺るぎないものになったーーー吉良の指示によってキラークイーンが倒れた仗助に拳を繰り出していくーーマックイーンはその光景を見て、動かずにはいられなかった。仗助と吉良の間に割り込むように入ると、両手を広げ、仗助のことを懸命に守ろうとするのだった。
―――もう二度と失いたくない
マックイーンの脳裏にはチームメイトやトレーナー…守りたい人たち、守りたかった人たちの顔がよぎっていく…これ以上自分の手から零れ落ちないように、これ以上目の前の悪魔から大切な人を奪われないようにーーーマックイーンは自身に迫ってくるキラークイーンの攻撃から目を瞑るーーすると、キラークイーンの攻撃は手前で止まったーーー正確にはその拳は止められていた
「―――――そんなまさか」
吉良はキラークイーンの拳が止められている場所をまじまじと見つめるーーそこには最初何も存在していないかのように思われたが、蜃気楼のようにぼんやりと見えるヴィジョンが浮かび上がってくるーーその姿はさながらルーヴル美術館に所蔵されているギリシャ彫刻の傑作であるサモトラケのニケに顔と腕を付けたように双翼が背中に生えた女性のような、清廉で、しなやかでありながら猛々しさも感じる容姿をしていたーーその天使のようなものがキラークイーンの腕を力強く握ると、吉良の腕はその手形がくっきりと浮かび上がるのだった。
「――――ありえない……まさか…発現したというのか…?」
万が一にもありえなかった逆転劇。吉良はキラークイーンをすぐに離れさせると、信じられないものを見たかのようにマックイーンの横に控えているそれを見つめ、口を開くのだった。
マックイーンは恐る恐る閉じていた目を開くーーー目の前には、自身を吉良から守るように天使のような者が立ちふさがっていたーーそれはマックイーンの側に控えると、倒れている仗助に手をかざしたーーすると仗助はゆっくりではあるが、自分の足で立ち上がったのだった。
「…気持ちってやつはよ~人を動かす原動力になるんだよな…本当はいつ死んでもおかしくはねーんだろうがよ~…勇気が後押ししてくれている…ここにある正義の心が俺を後押ししてくれているのを感じるぜ…マックイーン…それがお前のスタンドの能力なんだな」
「―――私の、能力―――?」
「……あぁ、奇跡みたいだがよ~最高のタイミングで開花したんだな…マックイーン。その天使みたいなやつがお前のスタンドなんだ…そしてさっき触れられてわかったんだが、お前のそのスタンドの能力は…」
「―――感情を操る能力だ。触れた者が持っている感情を膨らませたり、反対に無くしたりできる能力だぜ…お前のスタンドに触れられたおかげで、ちょっぴりだがよ~立ち上がる気力を戻せたぜ……」
「―――これが…私のスタンド…」
無表情だが、聖母のような暖かさでマックイーンを見守っているスタンドーーそのスタンドはマックイーンが試しに心の中で念じると、吉良の前の悍ましい姿をした、人と猫を掛け合わせたような容姿をしたスタンドの前に立ちはだかり、両手を構え戦闘態勢を取ったのだった。
「ば、バカな…運命はこの吉良吉影に味方していたはずなのにーーーキラークイーンッ!」
キラークイーンが再びマックイーンを攻撃するために攻撃を繰り出してくーーしかしそのスタンドはキラークイーンの攻撃をいなすと、キラークイーンの腹部に拳を打ち当てるのだった。
吉良の身体が宙に浮き、力なく地面に崩れ落ちるーーマックイーンは信じられないという顔で、自身のスタンドを見つめていた。
「―――決めましたわ」
「私のスタンドの名前はーーーGREAT DAYSです」
――――ありえない
腹部にグレイトデイズの攻撃を受けながらも、その悪魔は身体に駆け巡る醜悪な執念のもと、ふらふらと立ち上がったーー吉良は立ち上がると、仗助達と距離をとるかのように、そして自身がもう打つ手がないことを認めたくないかのように無意識に数歩下がった。
――どうやら戦いの中で校門付近に戻ってきていたようだな
時間は今何時だ…?ライスは今頃何をしているのだろうか。きっと私が合宿所にやってくるのを今か今かと待っているだろう…
――帰らなければ
しかし運命は、トレセン学園に根付く正義の心は最早吉良のこと見放していた。校門の外、吉良の10メートルほど離れた距離から、まるで吉良を追い討ちするかのように声が上がったのだった。
「ほら!承太郎さん!爆発が起きていますよ!」
「――康一君、それよりも聞き込みをしないと。あの仗助は一体どれほど待たせるつもりなんだか…」
そこには爆発騒ぎを観物に来た野次馬と共に、吉良を追うために仗助と共に杜王町からやってきた承太郎たち4人の姿があった。
「あ、あの人ケガしてる!それに仗助君もいるよ!」
「仗助、なんでケガしてんだ!?」
「―――仗助のケガとさっきの爆発…どうやら無関係じゃあないようだぜ…どうやら話が見えてきたようだな」
―――杜王町とトレセン学園にある、確かに存在する正義の心…そして黄金の意思が遂に殺人鬼を追い詰めたのだった。
グレイト・デイズ
能力者;メジロマックイーン
破壊力 - A / スピード - A / 射程距離 - D / 持続力 - D / 精密動作性 - D / 成長性 – A
天使の姿を模したスタンド。スタンドが触れた者の感情を増減させることができる。
戦う際に恐怖という感情を取り除いたり、逆に勇気という感情を増やしたりすることも可能。元々触れた者が有していない感情を操作することは不可能。(例えば吉良に罪悪感を抱かせたくても、元々その感情とは無縁なため罪悪感を抱かせることはできない)
次回、最終回になりますが分岐エンドがあるため分けるかもしれません
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さよならトレセン学園ーー黄金の心
雨が上がり、雲の隙間から夏の日差しが顔をのぞかせている。
トレセン学園の校門付近…硝煙と瓦礫に包まれた一帯は騒然としていた。
「こ、これは夢だ…」
譫言のように呟き、曇天に霧散していく一言。杜王町に産まれ落ち、産まれながらに罪を犯すしかないという性を背負った罪人は、今ここに裁きの時を迎えようとしていた。
自身が一年もの時をかけて積み上げてきた新たな人生ーーその全てが瓦解するように吉良は糸の切れたマリオネットのように力なく倒れ、後は審判の時を待つのみとなったーーすると遅れて救急隊員たちが現場に到着し、その内の1人が吉良の元へと駆け寄ったのだった。
「大丈夫ですか?もうすぐ救急車が来ますからね」
救急隊員としての責務全うしようとした、声をかけた正義感あふれる彼女に対して、吉良はその手を一心不乱に掴み取るーーその瞬間、もはや吉良の傷を映し出したかのようにヒビが入って傷だらけなキラークイーンが姿を現し、隊員に憑依するのだった。
ーーまさかこれは
最早打つ手は全て封じ、追い詰めたかに思われた悪魔…だがその悪魔のその目には、未だ執念が宿っていた。
マックイーンはすぐに叫ぶかのように周囲の仗助たちに声をかけたのだった。
「大変ですわ!バイツァ・ダストが発動致しますわ!!」
「―――バイツァ・ダスト?」
「今まで説明する暇がありませんでした…吉良は成長したんですっ!スタンド能力を持っていなかった時の私や、今吉良の側にいる女性のように無力な人間に対して発揮して、吉良が絶望した時に偶然発動する能力ですわ!つまり今、正体が明るみに出てとことん絶望している今のように!!時間を一時間ほど巻き戻す爆弾なんです!!」
たった今一同が知った、吉良の恐るべき能力。その突拍子のない話に一同が驚愕していると、隊員の腕をつかんだ吉良は、何かに取り憑かれたように言葉を捲し立てたのだった。
「ーー私の名前は吉良吉影だ。今まで手の綺麗な女性を50人以上手に掛けてきたーー貴方だけだ。私の正体を知るのは、貴方だけになるッ!!」
「大変ですわ!!バイツァ・ダストが始まりますわ!!今吉良を倒さなければ、吉良の正体を知るものはみんな爆死してしまいますわ!!」
――その瞬間、弾かれたように承太郎たちが吉良に向かって駆け出して行った。
いつもは冷静に状況を分析する承太郎が、何も言葉を発さずに駆け出していることからも、その緊急性は十分に窺い知ることができたーー吉良はこちらに向かってくる承太郎たちを見据えると、口を開いたのだった。
「来るか!承太郎っ!!近づいてこい!時を止めてみろ!きっとその限界さが、再びバイツァ・ダストを作動させるのだ!」
「承太郎さん!!時を止めろ!!キラークイーンにスイッチを押させるな!」
負傷によって身体を動かすことができない仗助が力の限り叫ぶーーしかし既に吉良はキラークイーンの右手を握りこみ、スイッチを押そうとしていた。
「いいや!限界だ!押すねっ!!…今だ!」
キラークイーンの親指が今まさにスイッチに触れようとしていた。
勝利まであと一歩というその場面。吉良は自身の身に起こった異変に気が付いたのだった。
―――スイッチを押そうとするその手が動かない
「キラークイーンッ!!!スイッチを押せ!!」
再び自身の側に控えるキラークイーンに命令するが、キラークイーンは静かに首を横に振るのだった。その顔はいつものように表情を窺い知ることはできない…だが、スタンドとは能力者の精神を表すもの…吉良は自身の身に起こったことを認識できなかった。
―――なぜだ?
涙があふれて、前が見えない。
―――ライス、ライス…
一体なぜだ。なぜ今彼女への想いが…吉良が重い頭を前に向けると、その答えが視界に飛び込んできた。
「―――メジロマックイーン…!!」
――既に彼女のスタンド、グレイト・デイズの射程範囲に入っていた。
ーー恐らくこの男は罪悪感で動くような男ではないはずですわ。
だとしたら、この男の心にあるもの。この男の心の中でスイッチを押すことを一瞬でも遅らせることができるもの…それはライスさんとの…
――時間で言えば、吉良がスイッチを押すことを遅らせたのはほんの一瞬だった。
だがそのたった一瞬が勝敗を左右するには、トレセン学園の未来を救い、その因縁の決着をつけるには十分だった。
「スタープラチナ・ザ・ワールド!!!」
その瞬間木に付いた葉の水滴が地面に落ちる直前で動きを止める。スタープラチナの能力によって世界は数秒間、時を止めてその中を承太郎はたった一人、行動することができるのだった。
承太郎は制止した時の中で、静かに吉良のことを制止するというファインプレーを成し遂げた彼女に、静かに視線を送るのだった。
仗助や目の前の少女―――マックイーンたちにこの役目はさせたくない。
―――手を汚すのは、一人で十分だ
仗助をはじめとした、杜王町に住む黄金の意思を持つ若者たち。そして、出会って数分しかたっていないが、恐らくたった一人でこの学園を守るために戦っていたメジロマックイーン。
その成長を肌で感じながら、承太郎は目の前で停止する吉良に向き直り、静かに深呼吸をするーーすると承太郎は背後から自身のスタンド、古代ローマの拳屈強な戦士のような容姿をしたスタープラチナを繰り出したのだった。
―――やれやれだぜ、間に合ったようだな
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラァァァァァァァァーーーーーーーーーーーー!!!!!!!」
スタープラチナはその拳を繰り出すたびに、雄たけびを連ねていくーーその力強い拳が吉良の身体に撃ち当たるたびに、吉良の身体は、骨は、そして血管は粉々に砕けていった。
承太郎は静かに吉良から背を向けると、口を開いた。
「―――時は動き出す」
スタープラチナの能力が解け、世界に再び時間の流れが戻るーーースタープラチナに撃ち込まれた攻撃の痛みと衝撃が、津波のように吉良の身体を駆け巡っていく。その衝撃に吹っ飛ばされた吉良は数メートルを滞空すると、静かに地面に崩れ落ちたのだった。
「やった!間に合いましたわ!」
―――最早勝敗は決した。
仗助たちはぼろ雑巾のように倒れている吉良を、静かに神妙な面持ちで見下ろしていた。
吉良は地面に血だまりを作りながら、その中で何か小さく呟いていた。
ウマ娘という生物は、生来人間よりも聴力に優れ、小さな音でも聞き分ける能力を持つ…つまりマックイーンは聞いてしまった。承太郎たちには聞こえなかった最期の声――トレセン学園の誇りを傷つけ、自身のトレーナーの命を平気で奪った男が審判を下されるその直前、譫言のように呟いたその一言を聞いてしまったのだった。
「…ライス」
「おいストップ!そこに誰か倒れているッ!!」
マックイーンがその言葉の真意を聞くことは叶わなかった。
突然吉良の背後から、救急車が近づいてくる。スタープラチナの攻撃によって致命傷を負った吉良には近づく救急車を止める術はもう残されていなかった。
後輪が吉良の頭を巻き込み、ひしゃげた音が辺りに鈍く響く。
「大変だ!男が救急車の下敷きに…」
「いるのに気が付かなかったんだ!!」
「早く車を戻せっ!!」
辺りは突然の出来事に騒然となり、救急隊員や警察は事態の確認や収拾のために慌ただしく動き始める。警察官は承太郎や野次馬たちをテープを使うことによって追い出し、救急隊員は救急車の下で血だまりの中で倒れこむ男の安否を確認するため、男の元へと駆け寄っていく。仗助やマックイーンたちはその光景を、固唾をのんで見つめることしかできなかった。
「―――死んでいます。即死です」
吉良の元へと駆け寄った救急隊員から発せられた一言。
その一言は、杜王町とトレセン学園の尊厳を踏みにじり、大勢の罪のない人々の命を奪ったこの男との長い闘いの終わりを告げる一言だった。
―――同じですわ
マックイーンは目の前でたった今死んだこの男―――吉良と自身がやったことは何ら変わらないという、喉にへばりついたザラメのような不快感を抱いていた。
―――この学園を守るためとはいえ、私は人を殺してしまった。
――吉良が救急車に轢かれる直前、既に能力は解除していた…それに吉良が胸につけていたペンダント…あれはライスがくれたものだと吉良は口にしていた。つまり、あの男の心の中には、少なくともあの少女との絆を感じていた節があったということではないだろうか…それにあの男が死の間際に発した一言は、彼が最期に思っていたのは、決して自分のエゴだけではなかったのではないだろうか。バイツァ・ダストを発動させたのも、承太郎さんの攻撃を受けても尚そのスイッチを押そうと試みたのも、自分が心許した少女のもとへ帰りたかったのだとしたら…
マックイーンは自身の友人――ライスの顔を思い浮かべる。彼女は生来、薄幸な気質を持つウマ娘だった…そんな彼女にとって、自身を支えてくれた吉良の存在がどれほど大きいものかは彼の話をする時のライスの顔を見れば明らかだった。結局自身のやったことが、ライスから大切なトレーナーを取り上げることに繋がってしまったのだ。
―――これは私が背負うべき罪ですわ
マックイーンは空を静かに見上げると、心の中で自身の大切な存在にーーーたった一人で孤独にこのトレセン学園を守ろうと、その誇りを取り戻そうと闘い抜いたその男に、その闘いが終わったことを報告するのだった。
―――終わりましたわ…トレーナーさん
この報告が何処かで彼に届いているのなら。どうか彼に心の安寧を。
街の喧騒の中で、今にも埋もれてしまいそうな少女の小さな、静かな願いは雲の切れ間から差す日差しに乗って天高く昇っていくのだった。
――トレセン学園で起きた、爆発事故。
旧校舎の2階で起きた爆発は、幸いにも周囲の建物には被害を及ぼさず、また生徒の殆どは夏合宿に向かっていたために生徒に被害は出なかったが、爆発直後にトレセン学園の校門付近にて爆破によってケガをした男が混乱し、救急車に飛び出してその場で死亡が確認された。男の遺体は顔がタイヤに巻き込まれ損壊が著しかったが、死亡の直前に男の手当てをしていた救急隊員の証言や、またその証言をもとに歯形の照合を行ったところ、その男の身元は1年程前から行方が分からなくなっていたM県在住の吉良吉影であると断定された。爆発事故の原因は警察の調査が行われるも、現在のところ爆発の原因はわかっていない。
シンボリルドルフは表向きの報告書を読み上げると、静かに向き直り目の前のマックイーンを見つめるーーマックイーンは彼女をじっと見つめ返すと、ゆっくりと口を開くのだった。
「―――わかりましたわ。今からお話いたします…このトレセン学園で何が起こったのかを…」
マックイーンの報告を聞いたルドルフは、誰もいない生徒会室で静かに目を閉じていた。
――何故トレーナー君は何も教えてくれなかったのだろう。
そう心の中で問いかけるが、既に彼女はその真意に気づいていた。
きっと私のことを巻き込みたくなかったのだろう…彼はそういう男なのだ。だから私は彼をトレーナーとして信頼したし、彼と共に全てのウマ娘のために邁進したいと願った
…そして、だから彼のことをーーー
彼女の頬に熱いものが流れていくーーその溢れ出る感情と共に。少女は誰もいない、部屋の中でしゃくりあげるように、皇帝と呼ばれた完全無欠のウマ娘としてではなく、たった一人のトレーナーを想うウマ娘として、一生背負っていくその想いを、傷を想って泣いていたーールドルフは大粒の涙を流して、声にならない声で届くはずのない彼の名前を何度も呼んだ。
――とある空き教室の一角
一人室内で佇む少女――マンハッタンカフェは、険しい顔を浮かべながら口を開く…最も傍から見ればその光景は、誰もいない教室の中で一人の少女が独り言をつぶやいているという異様な光景だが、カフェは意にもそれを意にも介せず空間に向けて言葉を投げかけたのだった。
「――それがあなたの本当の顔、というわけですか……マックイーンさんから貴方が生前何をしてきたのか聞きました…本当は顔も見たくありません…貴方がトレセン学園にいること自体、本当は嫌なんです」
「―――それでも、貴方の願い。聞き入れようと思います――貴方のためではありません…大切な友人のため…ライスさんのためです」
――突如として起こった、連続トレーナー失踪事件
短期間の間に失踪したトレーナーの数は3名にも上り、何れもその消息は現在も分かっていない。しかしその失踪の日時、状況や場所はそれぞれ異なっておりその関連性はないものであるとされ、次第にその話題は過ぎ去っていった…
その事件の元凶ともいえる吉良吉影が残した負の遺産…心の傷をライスは確かに負っていた…吉良がライスの元を去ってから既に1週間が経とうとしていた。ライスは部屋から一歩も出ず、無気力な毎日を過ごしていた。
今日もライスはぼんやりとした思考の中、無為に一日を過ごそうとしていた。すると、室内に急に風が吹き込んでくるーーその方向にゆっくりと目を向けると、開けた覚えがない窓が開いており、カーテンが室内に向かって静かに揺れていたのだった。
―――すると、カーテンの側にある机に見覚えのない1枚の紙が置かれていた。
ゼンノロブロイさんの物かな?
ライスがゆっくりと机に近づきその手紙を手に取ると、その差出人は、今ライスが会いたいと願って止まない人物だった。
------------------------ー--------
ライスへ
突然君の前から消えてしまって済まない。本当はあの日君のもとに帰りたかったんだが、事情があってそれも出来なくなってしまった。
そして併せてライスに謝らなければならないことがある。それはしばらくライスとは会えないということだ。それは君のことを嫌いになったからというわけでは決してないーー私にとって君は…私の全てだった。選抜レースが終わったその日の夜に、孤独に涙を流す君を見つけてから、宝塚記念を征するまでライスは私にとってかけがえのないものとなっていたということを伝えておきたかった。
―――あとは私の願いを聞いてほしい。
それは、これからもライスには走り続けてほしいということだ。
君の走りは素晴らしい。君の走りは人を魅了する才がある。
私はライスのことをいつまでも見守っているーーーだから、私にライスのことが届くように走り続けて欲しいーーーーー
--------------------------------
ライスは一字一字を噛みしめるように読み終えると、静かにベッドに涙を落としながら吉良の痕跡を抱きしめた。
―――お兄様
ライスの心に迷いはなかった。
お兄様はライスのことを見ていてくれているーー今はまだ会えないかもしれない…でもお兄様のところにもライスの祝福が届くようにーー
ライスがその悲しみの楔を振り払うかのように、ゆっくりと一歩ずつ外に向かって歩みを進めていくーーやがてライスが閉め切ったドアを開き部屋の外に出ると、数日振りに部屋を出た彼女に対する歓声が誰もいなくなった室内にも漏れ聞こえたのだった。
すると部屋の窓が開くと、カーテンが室外に向かって微かに膨らんでいき、その窓は再びゆっくりと閉まるのだった。
「東方ぁ~東京観光の途中で事故に巻き込まれて、長い間入院していたところ悪いんだが、まだ進学届出してないのはお前だけだぞ…」
ぶどうが丘高校の教室の一角――二つの机と椅子が向かい合わせにつけられ、片方には頭が禿げかかった教師が座り、もう片方に座る男…東方仗助に話しかけた。仗助はゆっくりと教師に向き直ると、静かに口を開いたのだった。
「―――見つかったっす。やりたいこと」
「――え?」
「だから、見つかったんすよ…将来やりたいこと…だから俺、頑張るっす」
そう話す仗助の目には、新たな可能性と意思が強く宿っていた。
―――果たして悲しみというものは、乗り越えられるものなのだろうか
ある人は、きっとそれは時間が解決するだろうと言うだろう。
ある人は、それはきっと癒すものではなくその傷を抱えて生きていくものだと言うだろう。
トレセン学園の受けた傷―――それは決して深くなく、多くの人がその尊厳と命を奪われた。それでもいつかは、焦土の中から芽が生まれ、花が咲く様に空を見上げることができる日がいつか来ることを願うばかりだ。
――遥か先に待つ再生に向かって、トレセン学園は少しずつだが、確実にその一歩を踏み出していたのだった。
「――会長。午後からの会議の準備、全て整いました」
「――――ありがとう、エアグルーヴ。すぐに向かおう」
「――はい…ですが会長。よろしいのですか…?もう少し休んでいても…」
「――いいんだ。止まない雨はない。私もまた歩み出さなければ…行こう、エアグルーヴ」
悲しみは心の中に今もあるーーだが残されたものとして、受け継いだものとして歩き出さなければならない。誰もいない生徒会室の机の上には、彼女のかけがえのない証である写真が彼女を見守るように掛けられていた。
夏の暑さが通りすぎ、涼しさが顔をのぞかせる秋口
新生シリウスは、新体制の中でまた歩き出そうとしていたのだった。
「今日は新メンバーを紹介する…と言っても俺がまたトレーナーに戻るとはな」
「先代トレーナーさんが戻ってきてくれるとあれば、とても心強いですわ」
「――あいつが行方不明とあれば、他の奴らにチームを任せたくはないからな」
「…そういえば、新メンバーとは?」
「そりゃあおめー、ライスだろ」
「まったくゴールドシップさんたら…ってえぇ!?ライスさんが!?」
その言葉を聞くと、トレーナーの背後からライスがちょこんと現れたのだった。
「――えへへ。皆さんよろしくお願いします!」
「本当にライスさんが…!」
「おいお米!うちのチームはスパルタで有名だからな~!息を抜いたらすぐにおかゆにしてやるぜ~!!」
「え、え~!?ゴールドシップさん…」
ライスたちはゴールドシップとの会話に夢中になっているーーそれを見つめたマックイーンは、傍から見れば誰もいないと思われるであろう空間に向かって口を開いた。
「――――貴方を許すつもりはありませんわ…決して
…ですが、私は貴方の死をもってその罪を償わせました。これ以上、もう私が貴方に対して攻撃することは致しません…生身を失ったその身体じゃあ、もうこの世に干渉はできないみたいですし…せめて貴方にできることを……見守ってあげなさい。貴方の罪を、そして身命を賭した貴方の証を…」
マックイーンは誰もいない空間に向かってそうつぶやくと、新たなチームメイトであるライスに声をかけたのだった。
「さぁ、ライスさん…練習に参りましょう」
「―――うん!」
もしかしたら、あの男と少女の行く先に救いなんてないのかもしれない。
それでも尚、マックイーンはターフに向かって走る、いつか最愛の人が自分の元に戻ってくることを信じている少女と、彼女を見守るようにその少し後ろをついていく男に神が慈悲を与えることを願わずにはいられなかった。
ターフの上を、爽やかな風が駆け抜けていく。
2人の行く末に果たして救いがあるのか否か、それは誰も知らないーーターフの上を駆け巡る微風だけが、その行先を知っていた。
吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい 完
[
to be continued?
これにて「吉良吉影はトレーナーとして静かに暮らしたい」は完結となります。
元々大好きなコンテンツだったジョジョとウマ娘を掛け合わせた本作、如何だったでしょうか?
書き始める前にある程度ストーリーは構築した上で書き始めたため、作品をあげる度に皆さんから感想のコメントで前向きなコメントをいただけると非常に嬉しい気持ちでした。
個人的に本作の終わり方に関しては思うところがありまして、本当は吉良がバイツァ・ダストを成功させ、ライスの元へ帰るエンドも考えていました。
ですが吉良の性格を考えると自分の解釈としては、吉良は根本から人を殺めた過去を反省し、真っ当な人間になるという人間ではなく、あくまで吉良は殺人を抑えることができない人間であり、ライスは自身が望む平穏の中の一部になるに過ぎないという矛盾を抱えたエゴイストであると思いますし、それが吉良の悪役としての魅力であると考えています。
ですから顔を変えてトレセン学園に潜り込んでもマックイーンらによってその悪事を暴かれるという部分を描きたかった節があります。
何はともあれ、私の書きたかったストーリーは概ね書くことができたので満足してる次第です。
この作品を見ていただいた全ての方々に感謝します。
作品を通して何か質問があればぜひ書いていただければお答えしますので、よろしくお願いします
最後になりますが、本当にありがとうございました
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君の元へ帰るまで
「―――時は動き出す」
スタープラチナの機関銃の掃射のような重厚な攻撃をうけ、空中に向かって吉良の身体は吹っ飛んで行くーー最早痛みなど感じない。その段階などとうに過ぎていた。
スタープラチナの攻撃の衝撃と共に吉良の意識も吹き飛びかけていたが、すんでのところで意識を勝負の場に踏みとどまらせたのだった。
――――私は、帰らなくてはならない
彼女の元へ。私が唯一心許した彼女の元へ。
そのためだったら腕の一つや二つ。そんな端た金、喜んで差し出してやる。
吉良は文字通り死力を尽くしてキラークイーンを発現させる--その姿は身体の節々が折れ曲がり、ひしゃげ、そしてヒビと傷まみれであり、およそ以前のような力強さなど微塵も感じられなかった。
――それでも吉良は決してあきらめなかった。
ほんの少しだけでいい。ほんの少しだけ、キラークイーンを動かすことができれば。
「―――――キラー……クイーン……」
キラークイーンがその手を僅かに傾けるーーーすると吉良の身体は柔道の選手が受け身を取るかのように身体の右側を少し引き、右腕を思い切り自身の背中に向かって引っ張るのだった。
―――これでいい
果たしてこれが成功するのかはわからない…だが私は彼女の元に帰るために全てを差し出した。そして、これが最後の局面だ。泣こうが喚こうがこれで全て決するのだ。
――吉良の身体が地面に崩れ落ちる。
正確には、自身の右腕を体の下敷きにして。
「―――やりました!間に合いましたわ!」
マックイーンは歓声を上げたーーしかしそれがーーー掴んだと思われた勝利にあげた、つかの間の勝利を宣言するためのその言葉が、マックイーンの最期の言葉となった。
地面に打ち捨てられた紙屑のように吉良の身体が横向きに転がっていくーー死角になっていた吉良の右手がマックイーンたちの視界に飛び込んでくるーー吉良の自重によって下敷きになったその右手は、見るに堪えない方向に折れ曲がっていた。しかしその右手は辛うじて握りこまれており、親指はスイッチの点火ボタンに触れていたのだった。
「―――押してやった…スイッチを。もう身体は動かせない……だから地面に…落ちる力を利用させてもらったよ……」
「―――そしてバイツァ・ダストは作動する」
その瞬間粉々になった吉良の右手から火花が飛び散り、爆発が広がっていくーーその爆発は全てを包み込み、吉良のことも飲み込んでいった。
―――トレセン学園で起こった前代未聞のウマ娘、及びトレーナー集団失踪事件
宝塚記念の前後の短い期間に2名のトレーナー、そして数多くのウマ娘が忽然と姿を消した本件ーー特に夏休み合宿期間の中でその数は凄まじく、メジロマックイーンをはじめとしたチーム「シリウス」の全員が姿を消したことについては、その異常性も相まって物議を巻き起こしたのはいうまでもないーーーしかしながら、それぞれのメンバーやトレーナーが失踪した日時や場所にズレが生じていることから、その捜査は難航を極めている。
その男はいつものルーチンワークの一環である朝のテレビを鑑賞しながら、煩雑なゴシップを聞きながすように身支度を整えると、髑髏の柄があしらわれたネクタイに、上質なスーツをまとい学園に向かっていく。
―――今日もいい天気だね
美しい彼女を胸ポケットに忍ばせながら、吉良は道を歩いていく。
――君の手を見た時、絶対に彼女にしようと決めていたんだ。
仗助どもに追い詰められたことは癪だったが、救急隊員である彼女との出会いの機会を設けてくれたことだけは感謝しなければならない。
職場であるトレセン学園に着いた吉良だったが、学園の様子は正に異質という他なほどの雰囲気に包まれていたーー大切な友人や先輩、後輩が突然と姿を消し、パタンと消息がなくなっている。一部では「神隠し」などと呼ばれており、明日は我が身と考えて転学したウマ娘もいるくらいであった。
―――私の眼鏡に適わなければ、「神隠し」に遭うなんてことはないのにな
私を追うものがいなくなった以上、これからは思い切り羽を伸ばすことができそうだ。
はれて逃亡生活が終わった吉良は、杜王町以来の本当の自由を謳歌していた。
吉良が校門を潜り、進もうとすると最愛のウマ娘に声を掛けられたのだった。
「――お兄様」
――自由の身になった吉良は、本来トレセン学園に残る必要などない。
それでも吉良は、川尻浩作として…トレセン学園のトレーナーとしてもう少しトレーナーを続けることを決めた。
―――それもこれも、すべては君のためだ。
生まれてこの方、自分以外のためにしか行動をしてこなかった吉良にとって、それは初めて経験だった。メジロマックイーンらに追い詰められ、承太郎に時を止められて攻撃を受けた時、恐らく以前の私であれば自身の敗北を認めていただろう
ーーしかし、私は諦めなかった。彼女の元に帰りたいと強く願い、既に振られていた賽の目に待ったをかける覚悟ができたのだ。そんなことは恐らくないだろうがいずれは君が私を必要としない時がくるかもしれない…その時まで私は喜んで今の「平穏」を守り続けようじゃあないか…
吉良は杜王町にいた頃よりも少しだけ範囲が広がった自身の「平穏な生活」に居心地の良さを感じながら、その生活を謳歌していた。
吉良は声の聞こえた方角に振り向くと、温かな笑みで彼女のことを出迎えた。
「―――おはよう、ライス」
罪深き罪人は、最後に自身の在り所を見つけたーー吉良とライスは仲睦まじくターフに足を運んでいき、段々と小さくなっていく…二人はやがて校舎を通り過ぎて右折し、その姿は見えなくなった。
こんにちは、ボンゴレパスタです。
分岐エンドになります。
本当は本ルートの前に書くつもりだったのですが、これを入れてしまうと最終回に伝えたかったことが薄れたり、テンポが乱れてしまうことを考慮してカットしていました。
皆さんはどちらのエンドがお好きでしょうか?
ちなみに本シリーズの第二作を書き始めようと思っています。流石にジョジョキャラを増やすのは難儀するので、またトレセン学園の中で話を展開させようと思ってます
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さよならの向う側
「She keeps Moet et Chandon In a pretty cabinet……She’s a Killer Queen……」」
美しいハイトーンボイスの男性が織りなす軽快な曲調とは裏腹な物々しい歌詞の曲がラジオから吐き出され、男はその旋律にそって鼻歌を漏らしている。モーニングコールで朝の7時には目を覚ましたその男は、ラジオをBGMとして部屋に流しながら、出勤前の準備をすることを日課としていた。冷蔵庫に昨晩の残りであるタッパーに入った煮物を取りだして電子レンジに入れ、男は炊飯器から白米をよそうと男は朝のルーチンの一つである洗顔のため、洗面所へと向かうのだった。
……もうこの顔にも慣れた。
以前の彼の顔は金髪で日本人離れした眉目秀麗な容姿を有していたが、現在の彼の顔は黒髪のオールバックにありふれた容姿へと変貌していたが、却ってその方が人々から怪しまれることもないため彼は現在その顔に満足していた。電子レンジから電子音が聞こえたことを確認すると、男はタオルで顔を拭いながら電子レンジから煮物を取りだし、席に着くのだった。
「……いただきます」
この間圧力なべを買ったが、それから彼の料理のレパートリーは大幅に広がっていた。数日前に作った豚バラのブロック肉で作った角煮は、お店で出せるのではないかと見紛うほどの出来栄えであった。昨晩作った煮物……大根には面取りが行われ、飾り包丁も入れられている。それを平らげ、皿をシンクで洗い食洗器に入れると、男はクローゼットを開けてスーツに着替えていく。しわ一つないヴァレンチノのスーツに、髑髏の柄にあしらわれたネクタイ。彼がジャケットに袖を通し終えた直後、突然玄関からチャイムの音が響き渡るのだった。男が玄関まで歩み寄ってその扉を開くと、そこには配達業者が立っていた。荷物を受け取った彼は宛名に「川尻浩作」と書くと、業者から手渡されたその荷物を受け取るのだった。
グラフォロジーに関して彼は大学に在学中に自身の趣味の手助けになるかもしれないとその文献を読み漁り、スキルを取得していたため、そのポイントについては既に頭に入っていた。この「川尻浩作」の筆跡、とめや払いがしっかりしていてほんのわずかに右上がりのその字を完璧にマスターしている自信があり、実際自身がこうして数年間川尻浩作として生活できていることは、そのスキルが多少なりともその一役買っていたといっても差し支えないだろう。その男はカバンを手に取り靴を履くと、外へと足を繰り出していくのだった。
自身の職場、トレセン学園内の広大な敷地にその寮は併設されており、歩いて5~10分で校舎には着いてしまう。昨今の労働環境から鑑みれば、労働との物理的、また心理的距離が近くなる寮生活は息苦しいと感じるものがいることも事実であり、一部のトレーナーは無理をしてでも独身で校舎外のマンションやアパートに住んでいる者もいる。しかし、寮生活も2点のメリットがあった。それはすなわち家から職場の位置が近いこと、そして家賃が安いということである。朝の肌寒い外気が頬を突き刺すのを感じながら、その男は植樹された並木道を歩いていく。あとひと月もすればこの並木道も桜で満開となり、桜の花びらがカーペットを織りなすことだろう。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます!」
「おはよう」
すれ違う生徒……ウマ娘たちの朝の挨拶を流れ作業のように、しかしそれを悟られることがないように返事を返しながらその男は自身の職場…トレセン学園へと足を進めていた。何百回とその目に焼き付けた校舎の光景その男が歩みを進めようとすると、突然背後から声を掛けられるのだった。
「お兄様!」
そこには一人のウマ娘。黒髪のロングヘアーに、ゴスロリ調の帽子を被ったウマ娘……ライスシャワーがそこにいるのだった。お兄様と呼ばれたその人物……数年前に川尻浩作に成り代わり、トレセン学園を恐怖のどん底へと叩き落とした張本人、吉良吉影は、笑顔を彼女に向けながら振り返ると、徐に口を開くのだった。
「おはようライス。昨日はよく眠れたかい?」
「うん!」
ライスの快活な返事に顔を緩め、彼女の頭を優しくなでつけながら吉良は流れるような動作で彼女の隣につき、少しでも彼女との会話を長く楽しむために、ゆっくりとした足取りで校舎へと歩みを進めていくのだった。
「今日の授業はなんだい?」
「今日は卒業式の予行練習だよ!」
その言葉に、吉良の足は思わず止まる。そして誰にも聞こえないほどの小さな声で、その言葉を唇を震わせながら反芻させるのだった。
「卒業、か……」
もう時期は3月。彼女は既に引退し、数日後に卒業を控えるのみとなった。一度彼女に卒業後の進路について尋ねたことがあったが、その時は何故かライスにははぐらかされてしまった。自身が卒業した時はどうだっただろうか?今となっては全く思い出すことはできないが、彼女は間違いなく人生の変わり目に立とうとしている。それならば私にできることは、彼女の選択を応援してやることくらいだ。顔を上げた吉良だったが、その時一つの事柄が頭を過るのだった。
……別に彼女が卒業すれば、最早トレーナーなんぞに興味などない。
それは吉良自身の進退についてであった。東方仗助を打ち倒した数年前から、本来追手から解放されて自由の身となったはずの吉良がトレセン学園でトレーナーの任を辞することなく続けたのも、それは偏に彼女のためであった。そのトレーナーという任に繋ぎとめていた彼女が卒業し、新たな進路へと進むというのであれば、彼自身も最早トレーナーの職に就き続ける必要は何処にもなかった。そもそもメディアに注目されるウマ娘をサポート職である以上、自身にもそのスポットがあたることもしばしばあるため、その点については吉良の性分にはあまりあってはいなかった。
吉良吉影と他の一般的なサイコパスの決定的な違いがここにある。1891年にユリウス・コッホが定義づけたパーソナリティ障害の一種のであるサイコパスというものは、一般的に上昇志向が強く他者を踏み台にしてその高い能力を生かすことができる職業……企業の社長や弁護士といったそのナルシズムを昇華することができ、注目される職業につくことが多いとされている。しかし吉良は全くの逆……彼は生きることにおいて「目立つ」ことを何よりも忌避し、誰よりも浮き沈みのない人生を望んで生きてきた。つまり彼の殺人欲求と、その「平穏」を目指すマインドは全く持って彼の中では別物として棲み分けされているということである。
東方仗助たちの脅威が取り除かれた今、いっそのこと杜王町に戻ろうか。私もそろそろ実年齢で言えば40歳を手前にしている。およそ人生の折り返し地点にきて、残りの人生をどこで過ごしたいかと問われればそれは生まれ育った杜王町であろう。実を言えば既に退職届は理事長に提出していた。すっかり少女の容姿から成長した彼女であったが、その顔には成長というには聊か不自然なしわと隈を携えていた……理事長は一言、「本当にいいのか?」と力なくこちらに尋ねてきたが、吉良が首をゆっくりと縦に振るとそれ以上は何も言わず、となりに控えていた理事長秘書であるたづなにそれを手渡し、それが受諾されたことを示したのだった。
トレセン学園が数年前に比べていくらか活気が失われてしまっていることは、否めない事実であろう。数年前に生徒会長が精神に異常が来したとかで自主退学し、一つのチームのトレーナーとウマ娘全員が集団失踪を遂げ、それからトレセン学園は「いわくつき」として囁かれるようになったからである。生徒会長の後釜に据えられた副会長や、理事長の尽力によってそのイメージは拭うことは辛うじてできたが、その傷が埋まることは決してなく、今でもその傷は膿となって学園のウマ娘や、それを支える人たちの心を抉り取っているのだろう。まぁそんなことは私の知ったことではないが。
「……お兄様?」
心配そうにライスがこちらを覗き込んでくる。徒に彼女のことを不安がらせたくはない。吉良は何事もなかったように努めながら笑顔を再び浮かべると、口を開くのだった。
「何でもないよ…さぁ、ライスは教室に行っておいで」
「うん!またお昼休みにトレーナー室でお昼ご飯一緒に食べようね!」
吉良はライスを見送ると、踵を返して自身の職場であるとトレーナー室へと歩みを進めていくのだった。
それから数日後。いよいよ卒業式を翌日に迫ったトレセン学園は、いつもの日常とはほんの少し異なる空気を醸し出していた。吉良とライスは最後のミーティングをトレーナー室で行っていた。最も彼女は既に競技者としては引退していたため、その殆どは思い出話に花を咲かせるのみにとどまった。消灯時間に近づき、吉良は何気なくライスに気になっていたことを質問として彼女に投げかけるのだった。
「そういえば、ライスは卒業したらどうするんだい?ずっと教えてくれなかったが……」
その瞬間、ライスの表情が何処か決意したかのようなものに移り変わったことを吉良は視界に捉えるのだった。ライスはしばらく口をつぐんでいたが、やがて意を決したかのように顔を上げると、言葉を発するのだった。
「そのことで、お兄様に言いたいことがあるの……だから明日の卒業式が終わったらトレーナー室で待って欲しい」
何年も側にいた彼女だ。彼女の伝えたいことは何となくだが分かっていた。吉良は彼女のことを見据えると、徐に口を開くのだった。
「……わかった」
ライスを送った後、その日の業務を滞りなく済ませると吉良は職場であるトレセン学園をあてもなく彷徨っていた。いつもの日常、いつもの生活。それが終わろうとしている。ライスやその友人たち……彼女たちはこれから自分たちの人生をこのトレセン学園を巣立って、歩んでいくことになる。吉良はふらふらと歩いていくと、校舎のとある一角……初めてライスシャワーと出会った場所に引き寄せられていたことに気が付いたのだった。
ここから私と吉良の生活が始まった。泣くことしかできない、ひ弱だった少女が、数々のレースで勝利をもぎ取り、競技者としても、そして人としても成長を果たすことができた。そしてその成長を間近で見届けることができたことは、間違いなく贅沢なひと時であっただろう。吉良はその場所をしばらく見つめていたが、やがて一つの結論に達するのだった。
……やはり自分は、彼女の隣に居続けるわけにはいかないだろう。
自身のやってきたことを後悔しているわけでは決してない。そうしなければ私は生きることなどできなかった。前向きに、生きるために私は他者の命を結果的に刈り取ってきただけだ。それでも私のやってきたことが許されることか否かという二元的な問題に当てはめようとするのであれば、それは間違いなく後者に位置づけられるだろう。彼女の未来は光に満ち溢れている。ウマ娘として一流の成績を収め、将来を約束された彼女の隣に今後もい続けることは、決していい方向へと作用することはないだろう。
最後にこの目で彼女と共に過ごしたトレセン学園を見ておこう。吉良はその場を離れると、校舎内へと入り屋上に向かって歩みを進めていった。屋上へと続く扉を開けると、高所特有の強い風が体に吹き付けていく。吉良は落下防止用の柵に身体を預けると、眼下の景色を静かに見下ろした。
……さよならだ、ライス。
きっと明日の彼女を見てしまえば、その決意も揺らいでしまうだろう。今日そのまま、この学園を去るしかなさそうだ。残念だが、最後の最後で彼女との約束を裏切ることになってしまった。
「これでよかったんだ」
数年間。彼女のために生きたこの数年間を過ごしたこの校舎との別れを惜しむように、吉良は屋上からぼんやりと眼下の景色を見下ろしていた。この数年間、東方仗助たちと決着をつけてから不思議とあの欲求に襲われることはなくなった。その要因は既に分かっていたことではあったが、それもまたこれで元通りになってしまうだろう。あの一人だけの日々に、自分のためだけに生き続ける日々に戻るだけだ。吉良は頬のあたりに手の甲を一度あてがうと、その場を後にした。
「お兄様」
屋上から階下につながる扉へと進もうとしたその時。吉良は唐突に自身のことを呼びかけた声に足を止めるのだった。そうやって自分のことを呼ぶ人物は、この世で一人しかいない。吉良がゆっくりと声のする方へと振り向くと、そこには自身の担当ウマ娘、ライスシャワーが立っているのだった。
「なにをやってるんだい、ライス?明日は卒業式だろう…?」
自身の動揺が悟られることがないように、そしてライスを諭すように繕いながら吉良は彼女へと声を掛ける。ライスの表情には、有無を言わさぬ激情が孕んでいることは一目瞭然であり、それは同時にこれから彼女に対して掛ける言葉にほんの一滴の嘘を含むことさえ許されないことを示していた。
「お兄様、どうしてこんなところにいるの……?」
「それは……」
「お兄様」
言い訳の一つでも言おうかとした矢先、有無を言わさぬその言動に吉良の口はつぐまれることになった。やはり彼女は自身がこの学園を去ろうとしていることを悟ったうえでここに立っている。ついに観念した吉良は俯きながら辛うじて言葉を口にするのだった。
「どうして……どうしてわかったんだ?」
「何年お兄様と一緒にいると思ってるの……?さっきのお兄様の顔を見れば、わかるよ……」
その表情は、怒りではなく哀しみがありありと刻み付けられていた。彼女の心に報いたい。きっと彼女は私と共に生きることを望んでいる。しかしそれは彼女に自身の罪を共に背負わせることに他ならない。吉良が伏し目がちに俯くと、ライスが徐に口を開くのだった。
「……それはお兄様の過去が関係してるから?」
その言葉に吉良の目は大きく見開かれ、ライスの方へと注がれる。その一言は吉良へ膨大な情報と衝撃をその頭に叩きこみ、彼は数回パクパクと口を開け閉めするのだった。一体何処で?一体いつ?心の中で疑問は反芻させていくが、当然その答えが得られるわけがない。動揺の表情をありありと浮かべる吉良の表情を見据えると、ライスは言葉を続けるのだった。
「最初におかしいな、って思ったのは天皇賞の前にお兄様からした嫌な臭いだった。お兄様は上手く隠してたけど、ずっとおかしいなって思ってたの…ケガしたお友達を保健室に連れて行った時、血の匂いを嗅いだ時、それが同じ匂いだったって気づいたの……」
「それから時々お兄様のあとを追いかけて、お兄様がやったことも何回か見たの。マックイーンさんたちがいなくなったのも、お兄様がやったんでしょ?」
ライスに知られてしまった。あのライスに…私は、私はもう…絶望感が心を深く包み込み、彼は力なく膝を地面につけるのだった。今までの所業を悔いているわけではない。たった一人…この世で知られたくなかった人物に知られてしまった…いや、正確には既に知られてしまっており、それでも彼女は普段通り振舞っていたということか。なんと彼女に言葉を返そうか…いや、この場でかける言葉などないだろうし、その答えは何を言ったとしてもこの夜空に霧散してしまうに違いない。しばしの沈黙がその場を支配したが、その沈黙を打ち破ったのは、意外にもライスの方であった。
「お兄様だったら、ライスのことを口封じすることもできるでしょ?……だからね、もしお兄様がライスのことを殺したいって思うなら。それでもいいよ……だってライスにはお兄様しかいないから。」
「そ…そんな…」
そんなことをするはずはない。ライスは、だってライスは……吉良が口をつぐんでいると、ライスは言葉を続けるのだった。
「でももしそうしないなら、ライスはお兄様と一緒に生きていきたい。お兄様が抱える罪も背負ってライスは一緒に歩いていきたい。」
それは黒く歪んだ、狂愛のプロポーズであった。吉良は憔悴した様子でライスのことを見つめ、放心したようにライスのことを見つめる……ライスは既に真実を知りながらも、目の前の殺人鬼の手を取る道…自身の友人を手にかけ、トレセン学園を恐怖のドン底に付き落としたその男の正体を知ってもなお、その手を取ることを選択し、その身を全て委ねたのだった。
吉良は正面に立つ彼女のことを見据えた。月夜に照らされた彼女の瞳は、狂気に満ち溢れ、その顔には僅かではあるが笑みが浮かんでいた。彼女をこうさせてしまったのは、まぎれもなく自分だ。生まれて初めて抱いた罪悪感に身を焼いている吉良であったが、同時に自身に渦巻く、今まで死んだ人間の手にしか抱くことができなかった感情が次々とあふれ出していくことに驚いた。独占欲。庇護欲、そして、そしてこれは……胸に宿ることの感情は……吉良はやがてライスへと近づいていくと、彼女の前でひざまずき徐に口を開くのだった。
「君のことを殺すはずがないじゃあないか……君のことを愛している」
そう言って吉良は彼女の手を取る…彼女の手は恐怖を体現する震えを微塵も起こしておらず、それが吉良の心に喜びという陽の光を差し込んでいくのだった。二人だけの何処か歪んだ愛の世界……それでも。観客もいない、祝福する者さえいないたった二人だけの世界でも、当人たちにとっては何よりもその幸せをかみしめることができる、そんな瞬間だった。
翌日、卒業式を控えたトレセン学園であったが、一人のウマ娘とその担当トレーナーが揃って姿を消すという事件が起きた。その行方は誰も知らない。ただ、そのすべてを見つめていた空だけがその行方を知っていた。
ピクシブでフォロワー200人記念として書いた作品ですが、この度ハーメルンの方でも投稿させて頂きます。吉良とライスのその後になります。一応35話(ifルート)の続きという形で、吉良が仗助たちに勝利した世界線で書き進めました。
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