思ひ出 (山田甲八)
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一 再会

For me at the time of “The boyfriend of celery”

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場所、施設名等の固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。

思い出というものは
作られるものなのだろうか?
それとも
作るものなのだろうか?

 プロローグ

 ある年の春分の日の午後の風景。僕は自宅の庭で草花に水をやっている。春分の日のことを英語では「スプリング・ハズ・カム・デー」というそうだ。「春が到来した日」、なるほどありがたみがある言葉だ。高緯度に住む英語圏の住民はそれほどまでにこの季節の分岐点を待ちわびるのだろう。
 春分の日は通常、三月二十一日だが、三月二十日という年もある。この年もまさにそうで、その日の午後、僕は草花に水を飲ませながら、僕の二十五年という短い人生の中で経験した不思議な出来事を振り返っていた。
 今から四年前、僕は故郷の幼なじみと七年ぶりの再会を果たした。その半年後、僕はその幼なじみと婚約をした。そして昨日はその彼女の一周忌だった。



 ジリリリリ~ン、ジリリリリ~ン

 

 目覚まし時計の音がする。

いや、何か変だ。目覚まし時計は電子音のはずだ。それに僕の部屋に目覚まし時計はあるにはあるが、僕は生まれてこの方そういう道具の世話になったことはない。朝は自然に目が覚める。というより目が覚めたときが朝なのだ。

 しばらくまどろみがあって理解できてきた。電話の着信音なのだ。もっとうっとりするようなムードのある音楽、例えば「G線上のアリア」なんかを着信音にすれば気分も良くなるのかもしれないが、面倒な設定の嫌いな僕は黒電話のベルの音を携帯の着信音にしている。当然のことながら僕はこの音が好きではない。はっきり言って大嫌いだ。かかってきた電話がグッドニュースという経験はほとんどない。通常、電話の後には何か厄介な事件に巻き込まれるのがオチなのだ。

 僕はつい先月、父親を亡くしたばかりで物心ともにまいっていた。そんなときに限って不躾なセールスの電話がかかってきたりして僕を一層イライラさせていた。電話の着信音は、十数回は鳴っただろうか。携帯を不携帯だと諦めたのか、一度は切れた。

(「やれやれ、スッカリ目を覚ましてしまったよ。」)

 僕は仕方なく畳の上に敷かれた薄っぺらい布団から起き上がった。まくらもとの時計は午前九時ちょうどを指している。九時ちょうどに電話する約束でもあったのだろうか。時計の隣には読みかけの税務会計の教科書とエマニュエル・カント著「道徳形而上学原論」の文庫本が無造作に置かれていた。昨日の夜、読みながら眠ってしまったのだ。

 雨戸がしまっていて部屋の中は暗かったが天気はよさそうだ。鳥の鳴き声がする。まだ眠い。季節は初夏、雨戸を開けると気持ちのいい五月の日差しが飛び込んでくることだろう。何もかもが平和な平日の朝だ。社会人はこういう朝でも律儀に決められた時間に目を覚まし、職場へと出かけて行くのだろう。僕はまだ学生であることを素直に感謝した。

 

 ジリリリリ~ン、ジリリリリ~ン・・・・・・

 

 再び、重い電話の着信音がけたたましく鳴った。さっきと同じ人からであろうか。僕は安アパートに一人暮らしなので僕が電話に出ない限りこの着信音は永遠に鳴り続けるのかもしれない。もちろん防音工事など施されていないし、居留守は近所迷惑だ。僕は観念し、布団から出て一メートルほど離れた机の上の携帯を握った。

「もしもし。」

 僕は寝起きの思い切り不機嫌な声で電話に応えた。電話の向こうからはそんな陰鬱な雰囲気を一発で木っ端微塵に吹き飛ばすエネルギーが飛び込んできた。

「もっしもーし!おっはよー!あたしが誰か分かりますかあ?」

 元気な若い女性の声だった。聞いたことがあるような気もするがすぐには思い出せない。間違い電話かもしれないと思った。

「どちらにお掛けですか?僕は石水啓一といいますけど。」

 僕はもう一度、不機嫌な声で電話の主に答えた。

「啓ちゃん?すっご~くお久しぶり。あたしだよ!白石裕子。もう忘れちゃったかな?」

「えっ?」

 僕は思わず聞き返した。忘れかけていた少年の頃の記憶が蘇った。

 

 白石裕子、通称「裕ちゃん」は僕の幼なじみだ。裕ちゃんと僕は新潟県南西部の街、柏崎の生まれだ。裕ちゃんが五歳のとき、三歳だった僕が裕ちゃんの通っていたピアノ教室に通うようになったことがきっかけで二人は知り合い、純粋に幼なじみになった。一緒にピアノを弾き、お手てつないで学校に行き、僕が学校でおしっこをもらしたときはパンツも貸してくれた。

 裕ちゃんの父親は白石権蔵という名の政治家で、身体もでかいが態度もでかい参議院の大物だ。元々は衆議院議員だったが落選を機に参議院に転進、当選回数を重ね大物にのし上がった。しかし地元での人気はあまり高くはなく、衆議院の柏崎選挙区では子分の県議会議員や秘書を擁立するのだが対立陣営に負け続けている。この原因を本人は白石の血がないからだと考えていて、二人娘の長女で幸子という名の裕ちゃんの七歳年上の姉を柏崎選挙区の候補者にしようと徹底的にスパルタ教育したことがある。しかし過ぎたるは及ばざるがごとし、この作戦は失敗した。幸子さんはスパルタ教育に耐えられなくなって高校三年生のときに地元でも有名な悪ガキと駆け落ちしたのだ。

 幸子さんがその後、どうしているのか僕は知らされていない。知っているのは幸子さんがいなくなってから今度は裕ちゃんが柏崎選挙区の候補者候補となり、スパルタ教育が再開、裕ちゃんは中学卒業と同時に東京のお嬢様学校に通うため柏崎を出て行ったということだけだ。

 柏崎を去るその日、僕は裕ちゃんを長岡駅の新幹線ホームで見送った。それが最後だった。それから裕ちゃんは何度か柏崎に帰省することもあったようだけど僕と会うことはなかった。裕ちゃんの声を聞くのは七年ぶりだった。

 

「ねえ、昨日、柏崎の啓ちゃんのおうちに電話したんだけど、啓ちゃん東京に出てきてるんだって?ビックリしちゃった。連絡くれればよかったのに。ねえ、会わない?会おうよ?」

 裕ちゃんの声が僕を回想シーンから現実に引き戻した。僕は高校卒業後、一年の浪人生活の末、東京の大学に通うため上京してきた。確かに上京の際、裕ちゃんに連絡してもよかったのかもしれない。でも裕ちゃんそのものがもう僕にとっては忘れかけていた少年の日の思い出になってしまっているのだ。

「今日、暇?」

僕が絶句していると裕ちゃんが初球からいきなり直球、ストライクを投げてきた。

「午前中は講義があるけど。・・・・・・おふくろに聞いたかな?今、大学二年生やってるんだ。」

「午後は暇なのかな?」

「まあね。」

「じゃあ決まりだね。午後、会おうよ。銀座辺りなんかどう?遠いかな?」

「まあいいけど。」

 僕に考える暇を与えない。

「じゃあ午後二時に銀座四丁目の和光の前で待ってるね。場所、分かるよね?」

 裕ちゃんのマシンガンが僕を撃ちぬいた。昔と変わっていない。恐ろしくマイペースだ。僕の話はあまり聞いていないようで、これだけ自分本位だとかえって気持ちがいい。

「午後二時って、裕ちゃんはもう社会人でしょ?仕事大丈夫なの?」

 僕の計算に間違いがなければ裕ちゃんは社会人一年生のはずだ。裕ちゃんは元々僕より二学年お姉さんだが、僕は大学入学にもたもたして一年ダブってしまったので今では三学年離れている。

「ああ、仕事ね。そんなこともあるにはあるけど、あたし、マスコミだから時間の融通は結構つくのよ。じゃあ午後二時に銀座ね。バイバ~イ。」

 そう言うと電話は一方的に切れた。電話を切るのも裕ちゃんのペースだ。

 僕は少し不思議な気持ちがしていた。着信履歴には残っているから今すぐ、あるいは土壇場でキャンセルすることも不可能ではない。しかし、消極的であったとはいえ、一度約束した以上、約束の不履行は僕の性分に合わない。あるいは下心もあったかもしれない。若い女性と銀座で二人きりで会うなんて東京に来て初めてではないだろうか。僕の心は少しときめいていた。しかし、それでも僕は意外にしっかりしていて、宗教やマルチ商法の勧誘ではないかという疑問も感じた。裕ちゃんはお嬢様であり、お金には不自由していないはずだからマルチ商法に引っかかることはないかもしれない。しかし、宗教の勧誘は十分にありうる話だ。

 結局、僕は出て行くことにしたが、出かけるときはお守り代わりに「人間が神を作ったのであり、神が人間を創ったのではない」というくだりがある文庫本の哲学書を学ラン、つまり詰襟の男子学生服のズボンのポケットに隠していった。

 

 午前の講義が終わると、僕は約束どおり、銀座に向かった。銀座は夜だけでなく、昼間も忙しい街だ。昭和二十九年にゴジラによって破壊されたはずの和光ビルは何事もなかったかのように健在で、待ち合わせ場所のチャンピオンとして君臨していた。

 和光ビルの前で裕ちゃんは、約束の十分前だったのにもう僕のことを待っていて、学ラン姿の僕に気付くと笑顔で手を振ってくれた。これにはいささか驚いた。僕は時間厳守の性格でいつも約束の時間には遅れたことがない。ときには一時間くらい前に待ち合わせ場所に到着し、本でも読んで相手を待つということもある。それゆえ、待ち合わせをする場合、僕が相手を待たせるということは通常ない。いつも待たされるのは僕の役割だったので待っている人がいるというのは妙な気持ちだった。

(「何かある。」)

 僕は非日常の予感を感じ始めていた。お互いに大人になっていたが裕ちゃんは一目で僕が分かったようだった。裕ちゃんはイエローのツーピースを着ていた。イエローのスーツ姿の裕ちゃんは七年前、長岡駅の新幹線ホームで見送った裕ちゃんとはまるで違っていた。別人のようであった。

(「あれっ?こうだったかな?」)

 それが二度目の第一印象だった。

「待ったぁ?」

 僕はなんとなくそんな挨拶から始めた。

「やあ、啓ちゃんお久しぶり。あんまり変わんないね。学ラン着てるんだ。体育会?」

 裕ちゃんは満面の笑みで応えた。本当に嬉しそうだった。何時間もそこで待ち続けていたようだった。

「いや、別に体育会じゃないけどこれが好きなんだよ。それに今はこれしか着るものがないし。学ランは嫌いかな?」

 僕は体育会系の学生ではなかったが普段は学ランを着ている珍しい大学生だった。着る物に無頓着ということもあるし、学ランが好きだということもある。他に着るものはなかったからどこへ行くにも学ランだった。

「ううん。似合ってる。それにあたし学ラン好きだから大丈夫だよ……。飲みに行く?」

「昼間から?まあ、裕ちゃんがどうしてもって言うのなら付き合うけど、僕はあんまり酒が好きじゃないんだよ。というよりも苦手だと言った方がいいのかもしれない。…」

「そっか。お父さんは大好きだったけどね。まあ、今のは冗談。どうせ今日はあたしもお酒飲めないから。…甘いものはどう?ケーキとか、パフェとか?」

「ああ。そっちの方がありがたいや。」

「じゃあケーキ食べに行こうか。いい店知ってるんだ。」

 そう言って僕の腕をつかむと、裕ちゃんは有楽町の方向に向かって歩き出した。裕ちゃんが案内してくれたのはケーキバイキングが呼び物のお洒落なカフェだった。裕ちゃんはウエイターに案内されテーブルに落ち着き、「ケーキの食べ放題でいいね」と一言言うと、僕の承諾を待つまでもなく、僕の分までウエイターに注文してしまっていた。そのスピード、強引さに僕はただ呆気にとられるばかりだった。

「なかなかいいお店でしょ。」

「いい店だけど、システムがよく分からないな。」

 僕はやや難しい口調で言った。

「そんなに難しくないよ。あそこのテーブルにあるケーキを好きなだけ食べられるの。あたし先にとってくるから待っててね。」

 そういうと裕ちゃんは席を立ち、ケーキの並べてあるテーブルに向かった。僕は少し変な気持ちだった。七年ぶりに再会した幼なじみの、今ではすっかり大人になってしまった女性にケーキバイキングにまで、まったく向こうのペースで連れてこられてしまった自分に少々酔っていたのかもしれない。もちろん、どんな気持ちだったかと聞かれれば幸せな気持ちだったと答えるに違いない。しかし、裕ちゃんの意図がどこにあるのかよく分からないというのは不安ではあった。

(「わなにかけられているのかもしれない。」)

 そんなことを考えているうちに裕ちゃんはケーキとコーヒーをお盆に載せて戻ってきた。

「お父さん亡くなったんだって。ちっとも知らなかった。」

 ケーキとコーヒーを僕の前に並べながら裕ちゃんが言った。

「ああ。急だったんだ。元々親父は健康診断なんか受けことがない人で、それでいて大酒飲みで、健康には根拠のない自信を持ってた人だったからね。倒れたその日もお店の予約が入ってたんだ。」

 僕の実家は柏崎の駅の近くでちょっとした小料理屋をやっていた。親父は料理人で、おふくろと二人で何十年も小さな店を切盛りしながら一人っ子の僕を育てた。

「ごめんなさい。何も知らなくて。」

「まあしょうがないよ。音信不通だったんだから。で、裕ちゃんは今、何やってるの?僕のことはおふくろに聞いてるんでしょ?」

「うん。東京に出てきてるって聞いてビックリしちゃった。こんなことならもっと早く連絡すればよかったよ。あたしのことは何か聞いてる?」

「う~ん、僕も最近は柏崎にあまり帰らなくなったからなあ。裕ちゃんのことといえば、東大に入ったってことくらいかな。それももう四年前の話だよね。・・・・・・後、何かの機会にお医者さんと付き合ってるってことは聞いたことがある。」

「ははん。噂って怖いねえ。」

「幸子さん、・・・・・・お姉さんとは会ったりするの?」

「たまにね。あたしも東京出てきてようやく会ったんだけど、家出して一年くらいして子供産んでたの。女の子の双子。もう小学生だね。」

「へえ~っ。それは初耳だ。」

「そんなこと表には出てこないよ。お父さんも自分にとってマイナスになることは隠してるからね。今、品川の戸越でラーメン屋さんやってるよ。お父さんとは相変わらず絶縁状態。」

「ふ~ん。お父さん、権蔵先生のことはよく新聞で拝見するよ。出世したね。」

「そうだね。娘のあたしが言うのもおかしいけどもう参議院のドンだよね。まあ、地元じゃそれほど人気ないけど。衆議院の議席は取り返せないし。」

「でもそれも時間の問題でしょ?もうすぐ裕ちゃんが出馬するんじゃないの?そうすれば議席は取り返せるでしょ?」

「ところがそうもいかなくなってきたんだなあ。それで今日、啓ちゃんに来てもらったの。相談というか、お願いしたいことがあって。」

 それを聞いて僕は少しドキッとした。昔からそうだがこの人のお願いというとろくなことがない。何か嫌なことを押し付けられるのだ。

「お願いって何?」

 相手のペースに乗せられてしまうかなとも思ったが、僕は自分から相手の懐に入った。

「その前にケーキ食べてもいい?」

「ああ、そうだね、僕も食べよう。」

 ケーキとは都合がいい。僕は元来、甘党だ。酒よりはこっちの方が余程よかった。

 そこからが少しおかしかった。裕ちゃんは僕にフォークを一本渡し「では、いただきます」と言うと、僕と同時に、同じモンブランをつついたのだ。フォークがモンブランに突き刺さるのが同時だった。裕ちゃんと僕は目を合わせ、僕は一瞬ぞくっとしたが構わずケーキを削り取ると、裕ちゃんと同じタイミングで口の中に持っていった。そして裕ちゃんと僕はフォークを口にくわえたまましばらく目を合わせた。見詰め合ったと言った方が正確かもしれない。まるで打ち合わせでもしたかのようなコンマ一秒の狂いもない息の合った動きだった。シンクロナイズドスイミングのようだった。

 しばらくしておかしさがこみ上げてきて二人でげらげらと声を上げて笑った。裕ちゃんはしばらく腹を押さえて笑っていた。

「あー、おかしー。ねえ、どうしてモンブランに行ったの?」

 裕ちゃんはまだおかしさがこらえきれないようだった。テーブルの上には定番のイチゴショートやガトーショコラ、紅茶のケーキやチーズケーキなどが並んでいる。僕は元々モンブランが好きで、好きなケーキを一つ選べと言われればモンブランになる。

「どうしてって、一番おいしそうだったから。裕ちゃんは?」

「あたしも。・・・二人の相性って実は最高かもね。」

 なるほど、ケーキ占いは成功のようだ。

「おっかしー。・・・で、なんの話してたんだっけ?」

 話が元に戻った。

「僕にお願いしたいことだよ。」

「あっそうだった、そうだった。実はね、啓ちゃんにあたしの彼氏になって欲しいのよ。」

 僕は(「はあ?」)と思ったが冷静さを取り戻すのに時間はかからなかった。昔からこの人といるとこういう状況に巻き込まれるということは分かっているのだ。僕は裕ちゃんにもはっきり分かるように一度、大きく深呼吸した。

「ねえ、裕ちゃん。そういう話はなしにしようよ。そんなことのために七年ぶりに再会したんだったら僕は悲しいよ。誰かにふられた腹いせに僕を利用するんだったら柏崎の頃と全然変わらないじゃない。あの時も僕は裕ちゃんの執事みたいなもんだったんだから。」

 僕がそういうと裕ちゃんはニタッと不気味に微笑んだ。

「なるほど執事かあ~。うまこと言うね。まあ中々の名推理だけど、残念ながらあたしはふられてなんかいないのよ。言葉が足りなかったかもしれない。彼氏になって欲しいじゃなくて、正確には啓ちゃんがあたしの彼氏だってことにして欲しいの。お芝居に付き合って欲しいってこと。」

「どういうこと?」

「あたしねえ、この四月からテレビ局に入社したの。放送協会。女子アナとしてね。」

「ああ、そうだったんだ。それはすごいね。まあ東大出身の才女だっていえばそれまでだけど、それにしてもすごい競争を潜り抜けたんじゃない?」

「まあ、お父さんの政治力も使ったしね。アナウンサーとして全国に顔を売ってから選挙に出るという作戦だったし。」

「ああ、そういうことか。やっぱり選挙に出るんだ。衆議院。」

「でもね、いいことが続いちゃったの。ついこないだ、ポップスコンクールに出てね、優勝しちゃったの。」

「そうなんだ。それは良かったね。長年の夢がかなったんだ。」

 裕ちゃんは柏崎にいる頃から歌が大好きで将来の夢は政治家ではなく、歌手として、音楽家として成功することだった。同じピアノ教室に通っていた僕は誰よりもそのことをよく知っていた。

「ありがとう。啓ちゃん、やっぱり柏崎のときからあたしの理解者だったよね。そう、それはとってもいいニュースでデビューのスケジュールも具体化されてきたの。でもこのことをお父さんがどう思うか分かるよね?」

「うん。」

 裕ちゃんを衆議院の柏崎選挙区に立てることしか考えていない権蔵議員にとってはそれがたとえ愛する娘の悲願だったとしても歌手デビューなどとうてい受け入れられないだろう。

「お父さんには政治家になるのは止めたと言った。音楽を続けたいとね。もちろんお父さんは怒ったけど、姉のことがあるからお父さんもそうそう強いことは言えないの。あたしにも家出されたら跡継ぎがいなくなっちゃうからね。お父さんは『それなら自分の薦める男と結婚しろ』と言ってきた。まあお婿さんを跡継ぎにしようという作戦ね。でもあたしはそれも断ったの。やっぱり自分の結婚相手は自分で見つけたいからね。」

「だったら裕ちゃんも家出しちゃえばいいんじゃない?」

「確かに音楽は夢だったし、一生、続けて行きたいと思ってはいるんだけど親孝行もしたいのよ。まあ親孝行っていうのもおこがましいかもしれないけど、親を裏切りたくないっていうのかな。お父さん、お姉ちゃんに逃げられちゃったでしょ?その上、あたしにも逃げられちゃったらかわいそう過ぎるじゃない。だからお父さんにはいい顔したいの。それに白石の財産がなくなっちゃうのも惜しいしね。今までさんざん贅沢してきたから贅沢に慣れちゃったし、明日からいきなり一文無しっていうのも厳しいしね。」

「でもポップスコンクールで優勝したんでしょ?」

「それはデビューするきっかけにすぎないでしょ?音楽界で成功したわけじゃないし、毎年、デビューするアーティストなんてたくさんいるんだし。その中で本当に成功できるのは片手で数えられるくらい。」

「で、どうするの?」

「要は音楽に打ち込めてそれでいてお父さんも裏切らない魔法のようなロジックがあればいいのよ。」

「そんな上手い話あるか?」

「それがあるんだな。お父さんには『それより今、付き合ってる彼氏がいるから、将来、結婚するつもりだし、彼氏を衆議院に立てたらどうだ』って持ちかけたの。」

「はあ?」

「そういう事情で啓ちゃんの登場というわけよ。どう?お願いできないかなあ?」

「だって、それって、・・・・・・僕が衆議院議員に立候補するっていうの?無茶苦茶だと思うけど。僕はまだ学生だよ。」

「学生だからいいんだよ。衆議院議員の被選挙権は何歳からか知ってるよね?」

「ああ。二十五歳だよね。『公民』で習ったと思う。」

「啓ちゃん、今、何歳?」

「二十一だけど。」

「そうでしょ。立候補は一番早くても四年後になる。それまで時間稼ぎできるじゃない。いざ、立候補という段になったら『あの人とはもう別れたから』ってことにすればいいし。それに啓ちゃん柏崎の出身だし、柏崎の選挙区に立てるには都合がいい。幼なじみだから昔から何か引かれるものがあったってことにすれば話の辻褄も合わせやすいし。お願い!迷惑はかけないから。」

 裕ちゃんはそう言って僕の前で手を合わせた。昔から裕ちゃんにはこういう無理なお願いをされてきた。しかし、少年の頃のお願いとはレベルが違う。

「僕は嫌だよ。第一、権蔵先生に嘘をつくってことになるんでしょ。」

「そうだけど音楽は続けたいし、お父さんの夢もかなえてあげたいのよ。」

「他の人をあたってよ。別に僕じゃなくても裕ちゃんだったら彼氏もどきになる人はいくらでもいるでしょ?」

「ねえ、啓ちゃん。昔、啓ちゃんが小学校でおしっこもらしたときあたしがパンツ貸してあげたの覚えてる?」

 裕ちゃんが急に昔話を持ち出した。それは忘れるわけがない。僕の少年時代の最も悲惨な記憶だ。小学校一年生だったとき、僕は学校でおしっこをもらし、悪友たちにさんざんからかわれた。僕はただめそめそと泣くことしかできなかった。そこに三年生だった裕ちゃんがやってきて悪友を追い払い、自分のはいているパンツをその場で脱いで僕に貸してくれたのだ。それ以来、僕は裕ちゃんに逆らえなくなってしまった。

「そんなことまだ覚えてるんだ。」

「そう。あのときの貸しがあると思うけど。」

 裕ちゃんは自信に満ちた表情でそう言った。そう言われると僕はもう何も言えない。僕があの時、人生で最悪の経験をし、裕ちゃんがその最悪の経験から僕を救ってくれた永遠のヒロインであることは事実なのだ。

「・・・・・・分かったよ。本当に僕に迷惑はかからないんだろうね?」

「大丈夫だよ。啓ちゃんは名前貸してくれるだけでいい。じゃあ、決まりだね。やっぱり啓ちゃんなら引き受けてくれると思ったよ。さあさあ、じゃんじゃん食べてね。今日はぜ~んぶあたしがおごっちゃうからね~。」

 裕ちゃんはそう言って笑い、休ませていた手と口を再開させた。それから二人はこの七年間の出来事や近況を話し合った。裕ちゃんは社会人になって、研修終了後、埼玉の放送局に配属になったがテレビ局ゆえに勤務時間は不規則で、平日の昼間でもこうして学生と付き合えるそうだ。やはりお芝居とはいえ彼氏のことは良く知っていないといけないのだろう、僕はプライベートを根掘り葉掘り聞かれた。

 

 七年ぶりの幼なじみとの再会で話すことはいっぱいあった。そしていつの間にかウエイターが「そろそろお時間です」と言ってくる時間になっていた。ケーキバイキングには時間制限があり、それが終了したのだ。一時間半はいただろうか。

 裕ちゃんは「今日はあたしが強引に誘ったんだから」と僕の財布を下げさせ、さっさと一人で勘定を済ませた。そして店を出るとすぐに次の提案を切り出した。

「ではこれから横浜に移動しますね。」

 裕ちゃんは当たり前のようにさらりと言った。

「横浜?なんでまた?それも随分急なんだけど。」

「まあいいじゃない。」

 そう言うと裕ちゃんは、一人でどんどん歩き出した。やっと裕ちゃんに追いついたとき、裕ちゃんは路上の白いクルマに手をかけていた。

「乗って。」

 当時の僕は、クルマはおろか免許も持っておらず、自動車に関しては皆目分からない素人であったが、それが左ハンドルの超高級車であることはすぐに分かった。

「これ裕ちゃんのクルマ?」

「うん、びっくりした?」

 裕ちゃんは超高級車の助手席を開け、もう片方の手で乗るよう合図した。公共放送のアナウンサーといってもやはりお嬢様だ。持ち物が違う。僕とは別世界の人であることをあらためて感じさせられた。裕ちゃんは僕を助手席に押し込むと自分は運転席に座り、ダッシュボードの上のサングラスをかけた。

「どうして横浜なの?」

「そこでお父さんに会ってもらいます。彼氏として紹介するから。」

 それを聞いて僕は再び強い衝撃を受けた。あまりにも展開が急すぎる。

「ええっ!ちょっと待ってよ。心の準備ができてないよ。いや心の準備だけじゃない。着るモノだって。僕は学ランだよ。これで彼女の親御さんに会うなんて非常識だよ。」

「別にいいよ。その方が今どきいない気骨のある若者だっていってお父さん喜ぶと思うけど。大丈夫だよ。お父さん、啓ちゃんのこと絶対に気に入るから。まあ、床屋さんくらいは行った方がいいかな。現地に着いたらどっか探そうね。」

「ねえ裕ちゃん。真剣に言うね。ちょっとというか随分ひどいと思うけど。僕の気持ち全然考えてないよね?」

 僕が少し真面目にそう言うとイグニッションにキーを差し込み、エンジンをふかした裕ちゃんは僕の方を見た。サングラスをしているので瞳は見えない。

「じゃああたしも真剣に言うね。あたし今までめっちゃ頑張ってきたの。めっちゃ頑張ってきたあたしの夢が実現しようとしてるの。これをどうしても逃したくないの。だから・・・・・・分かってね。」

 そう言ってニタッとすると、僕の慌てようは黙殺し、裕ちゃんはクルマを発進させた。初夏の太陽がまぶしかった。

 



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二 面接

 首都高速横羽線を横浜方面に向かう間、裕ちゃんは饒舌だった。これまでどれだけ苦労してポップスコンクール優勝を勝ち得たかを自慢げに話していた。僕はどちらかというとどっちらけだった。所詮は左ハンドルの超高級車を乗り回すお嬢様。苦労話にも説得力はない。ケーキの食べすぎでお腹はパンパン。高速を走るクルマの揺れも心地よい。僕は何度となくウトウトした。三十分くらいで高速のランプを降りるとしばらく市街をグルグルし、白と青と赤の帯がグルグル回っている床屋さんのトレードマークの前でクルマを止め、降りるよう僕に親指で合図した。

「よかったあ~。ここにしよう。」

 裕ちゃんは独り言のようにそう言うと僕の承諾を求めるまでもなく、クルマのキーはイグニッションに差し込んだままクルマを降りて一人でずんずん床屋の中に入っていった。僕はあっけに取られた。クルマからは降りたものの一人でぽかんと立ち尽くしていると床屋のドアが開き、裕ちゃんが顔だけ覗かせた。

「ちょっと、なにぼんやりしてるの?主役が来なきゃ始まらないでしょ。」

 そう言って手招きしたので僕は仕方なく店の中に入った。

「ちょうど良かったよ。すぐにやってくれるって。」

 裕ちゃんはそう言って、僕の腕をつかみ、床屋の椅子に座らせた。上着はクルマの中なので僕はワイシャツ姿だ。

「スミマセン。この人、床屋さんが嫌いなものだから。」

 裕ちゃんが姉のような口調でそう言うと、僕のボサボサの頭を見た店主はさもありなんという表情を見せた。

「短めにしてください。後ろとサイドはバリカン入れて刈り上げてくださいね。」

 裕ちゃんが勝手に注文を出したので僕は慌てた。

「ちょっと待ってよ。勝手に決めないでよ。」

「彼女の言うことは聞くものよ。刈り上げた方が啓ちゃん、男前になると思うよ。じゃあ、あたしは色々、準備があるから。終わったらインターコンチの一階のロビーで待ち合わせということにしてね。」

 裕ちゃんはそう言うとお店の人に「お代です」と言って慶応義塾の創始者、福沢諭吉先生のブロマイドを一枚渡した。

「ねえ、裕ちゃん。」

 僕は鏡の中の裕ちゃんを呼び止めた。

「もし僕がこのままずらかったらどうするの?」

「啓ちゃんはそんな人じゃないよ。それはあたしが一番良く知ってる。なんてったってあたしは啓ちゃんの彼女なんだから~。」

 裕ちゃんはおどけた口調でそういうと「じゃあ、またね~」と鏡越しに明るく手を振って僕の視界から消えて行った。

 

 それから一時間後、翼賛型ともいうべき後ろと両サイド刈り上げの髪型にチェンジした僕は床屋の近くにあるヨット型のホテルのロビーの喫茶店で裕ちゃんの到着を待った。暇だったのでお尻のポケットに隠してあった文庫本の哲学書を読んだ。

 本を読んでいると背後に人の気配を感じたので振り返ると目の前に裕ちゃんの顔があり、ビックリした。本を後ろから覗き読みしていたのだ。

「わっ、ビックリした。」

「随分、硬いの読んでるんだね。」

 哲学書だから硬いのは当たり前だ。

「まあ、お守り代わりに持ってきたんだよ。裕ちゃんが急に呼び出したから宗教とかマルチの勧誘かと思ったんだ。」

「そっか。まあ、似たようなもんだったけどね。」

 裕ちゃんはニッコリ笑ってそう言うと僕の対面の椅子に座った。

「随分、男前になったね。やっぱり啓ちゃんは刈り上げの方が似合うよ。」

 裕ちゃんはそう言うと僕の目の前にあるレモンスカッシュに手を伸ばし、ストローで一すすりすると「いらっしゃいませ~」とメニューを持ってきたウェイトレスにグラスを掲げて「これと同じもの」と注文した。

「マルチとかにひっかかったことがあるんだ?」

「引っかかったことはないけど引っかかりそうになったことはあるよ。」

「へ~、啓ちゃんらしくないね。」

「まったくだね。去年のクリスマスイブだよ。クラスの女の子から朝、電話があってさ。『今晩会えないか?』って言うんだよ。そう言われるとこっちも期待するじゃない。で、プレゼントも準備して出かけていったら男が何人も集ってるわけ。それでその子が登場してマルチの説明が始まったのさ。」

「ハハハ、それは災難だったね。でもそれって既に引っかかったっていえると思うけど。プレゼント、騙し取られたんでしょ?」

「まあそうともいえるけど、それにしてもひどいと思わない?クリスマスイブだよ?」

「それであたしもマルチかと思ったんだ?」

「まあ、マルチとは思わなかったけど、宗教の勧誘かなと。裕ちゃん、お嬢様だし、さすがにマルチには手を出さないかなあと。」

「そっか。それでその本がお守りなの?それって哲学書?革命本?書いたのは革命家だよね?」

「まあ両方かな。『人間が神を作ったのであり、神が人間を創ったのではない』というくだりがあるんだ。だから裕ちゃんに何か言われたら『この本にこう書いてある』って言ってさっさとサヨナラしようかと思ってたんだ。」

「そっか。でもその本、今日、これからの展開でちょっとお役立ちになるかも。」

 そう言って裕ちゃんは既に手元に寄せてある僕のレモンスカッシュをもう一度すすった。

「ねえ、裕ちゃん、それ僕のなんだけど。」

「ああ、ゴメン。喉かわいちゃったから。甘いの食べ過ぎたし、コーヒーと紅茶も飲みすぎたからやっぱり炭酸がいいよね。」

「よく人の飲んだもの平気で飲めるよね。」

「何言ってんの。あたしと啓ちゃんの仲じゃない。間接キッスくらいでガタガタ言わないでよ。あたしと啓ちゃん、直接キスもしてるんだよ。」

「はあ?」

「忘れちゃったかな?保育園の頃。あたしの家だったか、啓ちゃんの家だったか、それは思い出せないんだけど、おままごとしてて、あたしが啓ちゃんに『ねえ、キスってしたことある?』って聞いて、啓ちゃんが『ない』って答えて、『じゃあ、やってみようか』ってことになってやったんだよ。軽いフレンチキスだったけど。」

「僕が三歳くらいのときかな?」

「そんくらいだね。」

「全然、覚えてないや。」

「あたしは時間や場所はもうあやふやだけどファーストキスの相手が啓ちゃんだったことは鮮明に記憶してるの。」

「でもものごごろつく前の話だよね?」

「ものごころついてたらそんなことするわけないでしょ。」

「そりゃそうだ。」

「・・・・・・よく逃げなかったね。」

「逃げるって。」

「さっき、ずらかるとか言ってたじゃない?」

「逃げられるわけないよ。僕の大切なものを質に取ってるでしょ?」

「えっ、なんだろう?」

「学ランだよ。僕の上着。クルマの中でしょ?」

「ああ、そうだったんだ。そっか。それは気付かなかった。」

「携帯もポケットの中だしね。」

「そっか。さっきから啓ちゃんの携帯に何度か電話したんだけど出なかったから怒って帰っちゃったのかと思った。それはゴメンね。気が付かなかった。」

「そうだったんだ。それで、これがおつりと領収証ね。」

 僕はそう言ってさっきの床屋のおつりと領収証をテーブルに並べた。

「へ~、律儀というか生真面目だね。ピンはねしないんだ。」

「する方がどうかしてると思うけど。」

「いや~久し振りに感動しました。領収証までついてくるとは。啓ちゃん、税務署の人みたい。」

「茶化さないでよ。」

「そっか。啓ちゃんて財布の中身、円単位まで合わせられる人だったよね?」

「はあ?どういう意味?」

「あたしが中学三年のときかな、啓ちゃんに『今、いくら持ってる?』って聞いたら啓ちゃんが円単位まで答えてさ、財布の中身確認したら本当に円単位までピッタリでビックリしたことがあるの。それを思い出してさ。」

「まあ、僕は昔から几帳面な性格だからね。特にお金は裕福な方じゃないし、僕にとっては貴重な資源だから当然、管理は厳格になるよ。」

「あたしはいっつもアバウトだけどなあ。」

「それは裕ちゃんがお嬢様でお金に苦労してないからでしょ?僕はどんぶり勘定というわけにはいかないよ。」

「で、ちなみに今はいくら持ってるの?」

「今?今、財布の中には四千八十四円入ってるけど。まあ裕ちゃんに会うっていうんで僕としては入れてきた方だよ。」

「悪趣味で申し訳ないけど、お財布の中身確認してもらってもいい?」

「ああ、まあいいけど。」

 キャッチセールスでは「今、いくら持ってる?」という問いは常套手段だが、裕ちゃんは別に詐欺師でもないので財布を取り出し、テーブルの上に四千八十四円を並べて見せた。裕ちゃんは慎重にお金をカウントしていた。

「ホントだ。ピッタリだ。あの頃と変わってないね。」

「まあ、これは習慣だからそう簡単には変われるもんじゃないと思うよ。……それでこれからどうなるの?」

「ハイハイ、これからね。お腹はこなれてきたかな?」

「まあ空いてはきたけどケーキはしばらく勘弁してほしいな。」

「あたしも同感。半年くらい勘弁してほしいね。でも大丈夫。今度はフレンチのコースだから。このホテルの上のレストランで豪華ディナーになります。」

「権蔵先生はもう来てるの?」

「まだまだ。お父さん忙しいからね。今日も鎌倉の方で会合があって、夜はまた東京で会合があるんだけどその合間をぬってちょっと顔出すだけだから。だからあたしと啓ちゃんがディナーデートをしている最中にちょっと臨席するっていうのが正確なところかな。」

「なんの話すればいいのかな?」

「啓ちゃんはあまり話さなくていいよ。お父さんはいくつか質問してくると思うけど、適当に答えてくれればあたしが助け舟出すから。」

「ふん。」

「ただ一つ覚えておいてほしいのはあたしが言うことには逆らわないでほしいの。」

「どういうこと?」

「つまりね、あたしが言うことに『それは違う』というようなことは言わないでほしいの。事実と違うのは当たり前なんだから。所詮はフィクション、お芝居の世界なんだから。」

「つまり、僕に政治家になる意欲があるようなことを言うんだね。」

「まあ、そういうことだね。」

「分かった。頑張ってはみるよ。乗りかかった船だし。」

「もう、乗っちゃってるけどね。まあそんなに心配しないでよ。就職の面接の練習だと思えばいいじゃない。どうせ就活するんでしょ?」

 裕ちゃんがそう言うと、ちょうどその時、ウェイトレスが「お待たせしました」と言って、レモンスカッシュの入ったグラスを持ってきた。もう一つのグラスは裕ちゃんの手前にあるのでウェイトレスは持ってきたグラスを僕の目の前に置き、「ごゆっくりどうぞ」と言って下がった。裕ちゃんは今、置かれたグラスに手を伸ばし、今まで使っていたストローを中に入れ、再び一すすりし、「おいし~」と言って僕と目を合わせニッコリした。

 

 それから二人は地下の駐車場に行って、僕の学ランを取ってから最上階のフレンチレストランに移動した。奥の個室が用意されていて、円卓に三つの椅子が置かれている。窓際の一番奥の椅子に主賓が座るようで、裕ちゃんと僕は下座の方に腰掛けた。七時頃から晩餐が始まった。

 コースが始まるとさすがにこれから起こる出来事に緊張しているのだろう、僕は無口になった。今日会う参議院議員とは幼少の頃、何度か会っているのだが、良い印象は持っていない。威圧的で暴力的で、始終、怒鳴り散らしている、そんな印象しか持っていないのだ。それでも裕ちゃんは饒舌に喋りまくり、ずっとニコニコしていた。

 メインディッシュが到着し、数分が経過すると、ギャルソンが「お連れ様がお見えになりました」と言って巨漢の男を個室に招きいれた。今日の主賓が到着したのだ。裕ちゃんと僕は立ち上がってその巨漢を迎えた。巨漢は僕の目の前に立った。

 なるほど新聞やテレビではよく見かけるようになったが、実物にこれだけの至近距離で会うのは本当に久しぶりだ。身長百八十五センチはあるだろうか。恰幅もよく、見上げる大男だ。一方の僕は百六十五センチしかなく、体重も六十キロに満たない。これからリング場で戦うとなると一発でノックアウトされるのがオチだろう。年齢は忘れてしまったが裕ちゃんの父親なのだから六十は超えているに違いない。しかし黒髪が保たれていて実年齢よりもかなり若く見える。

「やあ、待たせたな。」

 巨漢の大きい声に僕は思わず身震いした。誰かが「鬼の権蔵」と言っていたのも分かるような気がする。

「柏崎では何度かお会いさせていただきましたが石水です。いつも裕子さんにはお世話になっています。」

 僕は巨漢の十分の一にも満たない小さな声でそう言い、深々と頭を下げた。巨漢の政治家は一瞬、キョトンとした表情で僕を見た。それから僕の目の前を通り過ぎ、円卓の奥の窓際の椅子にドスンと腰掛けた。傍にいたギャルソンがグラスにワインを注いだ。

「そうだったか。初めてではなかったか。すまないが君の事は思い出せないよ。」

 巨漢はあまりすまなくはなさそうに言った。

「いえいえ、僕なんかただ裕子さんと同じピアノ教室に通い、小学校と中学校が同じだったっていうだけですから。」

「そう。そのときは別になんとも思ってなかったんだけど、あたし、こっちでちょっとつらいことがあってね。そんなときに久しぶりに再会して色々と元気づけられたの。そうするうちになんかこの人がいいんじゃないかって思って。お父さんもいいでしょ?柏崎の人だし。」

 裕ちゃんが僕の後に続いてそう言った。

「まあ、座りなさい。まずは乾杯だ。」

 巨漢はやや退屈そうな表情でそう言い、裕ちゃんと僕は椅子に座った。巨漢はたった今、ワインが注がれたばかりのグラスを右手で持ち上げ、裕ちゃんと僕もそれに倣った。

「遅れてすまなかったな。じゃあ、乾杯!」

 巨漢が相変わらずの大きな声でそう言うと、裕ちゃんと僕も「乾杯」と唱和し、僕は飲まずに口だけをつけ、グラスをテーブルに戻した。

「体育会か?」

 学ラン姿の僕を見た巨漢のそんな質問から始まった。

「いいえ。」

「なんで学生服を着ている?」

「いや、その~、この格好が好きなものですから。」

「今どき珍しいでしょ?気骨があるよね。」

 僕がしどろもどろにしていると裕ちゃんが横からフォローした。

「そうか。確かにチャラチャラはしていないようだな。申し訳ないが私は忙しい身でね。あまりのんびりはしていられないんだ。少し君に質問させてもらうよ。」

 巨漢はそう言って僕をにらみつけた。僕は「はい」と言ってあらためてかしこまった。

「最近、どんな本を読んだ?」

 読書なんか最近はしてはいない。しかし、哲学の宿題でカントの『道徳形而上学原論』を読んでいたはずだ。

「カントの『道徳形而上学原論』を読みました。」

「随分、硬いな。どう思った?」

「はい。人間、必要なのは善意思だと思いました。どんなに頭が良くてもそれがいいことに使われなければ価値がないと思います。」

「政治はそんなに甘くはないけどな。政治の本とかは読まないのか?」

「はあ。」

「啓ちゃん、今、読んでる本があるんじゃないの。ズボンのポケットに入ってるでしょ?」

 裕ちゃんがまたフォローした。

「なんだ。じゃあ見せなさい。読んでいる途中のものでもいいよ。」

「はい。」

 僕はそう言って仕方なく、お尻のポケットからさっき読んでいた文庫本の革命書を取り出して巨漢に差し出した。巨漢は黙ってそれを受け取り、タイトルを見てから中身をパラパラとめくった。

「君はまさかこっちの思想の人間じゃないだろうな?」

 行間を視線で追いながら巨漢はドスの効いた声で言った。

「そんな人、あたしが選ぶわけないじゃない。むしろ逆よ。こないだも二人で靖国神社に参拝してきたんだから。それにもしそっちの思想だったら学生服とは真逆だと思うけど。」

 裕ちゃんが再びフォローを入れた。「二人で靖国神社に参拝」はまるで嘘だ。

「なるほど。敵を知るということか。」

 そう独り言のように呟き、巨漢はサイドラインやラインマーカーの引いてある箇所をチェックしているようだった。

「ありがとう。良く勉強しているようだな。で、政治についてはどう考えている?」

 文庫本を僕に返しながら巨漢が質問した。

「・・・・・・」

「そんな抽象的な質問じゃ啓ちゃん答えられないよ。もっと具体的に聞かないと。」

 僕が答えられないでいると裕ちゃんが救いの手を差し伸べた。

「そうか。じゃあ例えば税制なんかどうだ。日本の税制はどうあるべきだと思う?」

 それも難しい質問だが、今、税務会計のテキストを読んでいる最中で、少しは知識がある。

「そうですね。僭越ですが直間比率を是正すべきかと・・・・・・」

「消費税率を上げろというのだな?」

 「思います」まで言うのをさえぎって巨漢が言った。

「はい。」

「そんなことで選挙に勝てるか?」

「お言葉を返すようで恐縮ですが、今のままでは富裕層は海外に逃げてしまうでしょうし、国債を国内で消化できなくなるのも時間の問題ではないでしょうか。確かに選挙は大切かもしれませんがそもそも政治家の志は・・・・・・」

「なるほど、まだ若いな。まあいいよ。若いということはそういうことだ。私も昔はそうだったからな。」

 また僕の発言を遮って巨漢が言った。すると開いているドアがノックされ「失礼します」と言って中年の男性が個室に入ってきた。

「先生。ご歓談中、恐縮ですが、そろそろお時間です。」

「ああ、十分という約束だったな。」

 巨漢はそう言うとワイングラスを持ち、口をつけ、三分の一くらいを飲んだ。

「石水君とかいったかな?」

「はい。」

「すまないが今日はこの後、別の会合が東京であるんだ。それに出席しなければいけないのでね。私はこれで失礼するよ。君達はゆっくりしていってくれ。今度、また別の機会にゆっくり君の話を聞こう。じゃあ。」

 巨漢はそう言うと立ち上がり、ドスドスと個室から消えて行った。裕ちゃんが「クルマまで送るよ~」と言いながら後を追い、僕は個室に一人取り残され、ワインを一口、口に含んで喉の渇きを潤した。

 

 しばらくするとクルマを見送ってきたくらいのタイミングで裕ちゃんが戻ってきた。

「お疲れ様でした。これで今日の気を使う行事はおしまい。後はのんびりディナーを楽しもうね。」

 裕ちゃんはそう言ってハンドバックの中から何やらタブレットを取り出し、口に放り込むとテーブルに置いてあるグラスに入った水で身体の中に流し込んだ。運転があるので裕ちゃんはワインを飲んでいない。

「何それ?」

「ん?」

「胃薬?」

「ああ。もちろん胃は痛いからね。お父さんと会って胃の痛くならない人はいないと思うよ。娘ですら胃が痛くなるんだから。」

 裕ちゃんはもう一度グラスに口をつけた。

「あんなんで良かったのかなあ?」

「百点満点だよ。ここまでうまく行くとはあたしも思わなかった。さすがは啓ちゃんだね。」

 裕ちゃんはニッコリ笑って言った。

「権蔵先生何か言ってた?」

「うん。『今までの男の中では一番いい』って言ってた。」

「今までもこういうことやってたんだ。」

「まあ、お見合いとかも含めてね。」

「お見合いしたこともあるの?」

「お見合いっていったって政略結婚だよ。上場会社の創業者一族とかさ。お父さんも結局、お金が欲しいからね。」

「政治家の娘にはそれなりの苦労があるってわけか。」

「それで、交際は父のオーケーが出ました。おめでとうございます。あなたは合格です。」

「気に入ってもらえたんだ。」

「良く勉強している真面目な青年と見たようだね。まあ実際、そうなんだろうけど。」

「そんなに勉強もしてないけどね。あんなんで僕の人となりとか分かるのかなあ?」

「『読んでいる本を見ればその人物が分かる』っていうのがお父さんの持論でね。さっきロビーで啓ちゃんあの本、読んでたでしょ?であたしこれは使えるって思ったの。」

「だからあんなこと言ったんだ。」

「そう。うまくいったでしょ。ということで、啓ちゃん、今日からあたしの、お父さん公認の彼氏になりましたからそのつもりでね。」

「でもダミーなんでしょ?」

「ダミーの方が幸せだと思うよ。啓ちゃん、こんな我がまま女を本物の彼女にしたくはないでしょ?」

 「そりゃそうだ」と言ってやりたかったがその言葉は飲み込み、下を向き、メインディッシュの続きにフォークを刺した。

 

 デザートにはさすがに手が出ず、そそくさとディナーを済ませると二人は再び夜のドライブのため高速に乗った。みなとみらいのランプから第三京浜に向かった。

「ありがとう。やっぱり啓ちゃんなら引き受けてくれると思ったよ。」

 左ハンドルを握りながら裕ちゃんがさらりと言った。

「本当に僕には迷惑はかからないんだろうね?」

「うん。まあ、しばらくは何もないと思う。でもこれだけはどうか忘れないでね。あたしの彼氏はあなた。そしてあなたの彼女はあたしだってこと。」

「でもそれはお芝居なんでしょ?」

「でも真実を知っているのはあたしと啓ちゃんの二人だけ。この秘密は絶対に誰にも喋っちゃいけないからね。親兄弟にも。」

「親兄弟って言っても、僕は一人っ子だし、裕ちゃんはお姉さんが一人いるだけでしょ?兄弟はいないと思うけど。」

「ああ、そうとも言うか。とにかく言いたいことは大親友にも秘密を漏らさないでねってこと。もしパーティーとかで『彼女を連れて来い』って言われたらあたし付き合うから。」

「よくそこまでできるね。」

「それだけあたしは自分の夢の実現に真剣だってこと。だから啓ちゃんも理解してね。」

「はいはい。それでその逆もまた真なんだね。僕も裕ちゃんのパーティーとかには付き合わなきゃいけないってことだね。」

「その通り。とにかく相手が誰であれ、『彼女はいるか?』って聞かれたら『いる』って答えといてね。」

「もし秘密をばらしたらどうなるの?」

「そしたらあたしは雪女になってしまいます。『とうとう本当のことを言ってしまいましたね』とか言って。そして口から冷凍光線を吐いて啓ちゃんは凍死。」

「じゃあ、僕は恋愛禁止なんだ。なんか芸能人みたいだね。」

「どうせ大学は男子の方が圧倒的に多いんでしょ?それに啓ちゃん、真面目だし、おくてだし、彼女なしでもしばらく大丈夫じゃない?」

「勝手に決めないでよ。」

 僕はため息をついたが裕ちゃんの言うことも的を射ている。

「・・・・・・ごめんなさい。今のは言い過ぎでした。」

 裕ちゃんがおどけた調子で謝った。本当に反省はしていないようだ。

「・・・・・・いいよ。僕は別にモテる方じゃないし、女好きというわけでもない。形だけの彼女でも僕には贅沢なくらいだよ。」

 僕はしんみり言った。裕ちゃんは相変わらずニタニタしている。

「でもモテるより、モテない方が案外、幸せかもよ。」

「どういうこと?」

「つまりね、モテモテより、一人の女性から強烈に愛される方がきっと幸せになれると思うってこと。」

「なるほどね。でも今の僕にはその強烈に愛してくれる一人もいないんだけどね。」

「ゴメンゴメン。でももし本当の彼女が欲しくなったらそのときは言ってね。まあこのお芝居が結末を迎えてからということになるけど。誰か紹介しますから。啓ちゃんにピッタリの女性をね。」

 それから左ハンドルの超高級車は第三京浜を終点で降り、環八経由で裕ちゃんは僕を仙川の安アパートまで送ってくれた。

「ここでいいよ。」

 僕がそう言うと裕ちゃんはクルマを止めた。

「そこが僕の今、住んでるアパートだよ。二階の一番左が僕の部屋だ。」

 アパートを指差して裕ちゃんに説明した。

「本当に安そうなアパートだね。」

「学生はこんなもんだよ。裕ちゃんが特殊なんだから。」

「そっか~。そうだよね。でもどうする、ここから未来の総理大臣が生まれたら。今太閤だよね?」

「・・・・・・今日はごちそうさまでした。しばらくはパンと牛乳だけで暮らしていけそうだ。じゃあ。」

 裕ちゃんのチャチャは無視してお礼だけ言うと、僕はクルマから降りた。パワーウィンドウの開く音がして

「啓ちゃん!」

 裕ちゃんがクルマのドア越しに僕の名前を呼んだ。

「ん?」

「今日はありがとう。正直、啓ちゃんにまた会えたのはうれしかった。元気に頑張ってるみたいで。これからまた色々とご面倒をお掛けするかもしれないけどよろしくね。」

 裕ちゃんはニッコリ笑ってそう言うとパワーウィンドウを閉め、エンジン音を立てながら夜の闇に消えていった。

 



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三 結納

 裕ちゃんと七年ぶりの再会をしてから既に半年が経過しようとしている。日も随分と短くなり、学生野球も秋のシーズンを終えた。

 昨日、柏崎のおふくろから久し振りの仕送りが届いた。親父が帰天してからおふくろは仕事を探していたのだがようやく、柏崎市内の清掃会社に就職が決まったのだ。初めての給料をもらったそうで僕に仕送りしてくれた。そのお陰で昨日は久し振りに豪華なディナーにありつくことができた。もっとも豪華ディナーといっても牛丼の特盛りに卵がつくレベルなので、「廉価な贅沢」といった方がふさわしいのかもしれない。

 あれから裕ちゃんは本当に約束を果たし、僕に迷惑はかかっていない。というよりもあれから裕ちゃんとは音信不通なのだ。ただ、裕ちゃんと僕が付き合っているということは本当の話として噂になっているようではあった。

 仕送りに同封されていた手紙には「白石先生のお嬢様とお付き合いしていると聞いてびっくりした」と書いてあった。柏崎は東京に比べると狭く、人のつながりも濃い。噂が広がるのも速くて正確なのだろう。もっとも僕の携帯の電話番号を裕ちゃんに教えたのはおふくろだし、東京で裕ちゃんと僕がなんらかの接点を持ったことは理解しているはずだ。

 そんなことを考えながら仙川のアパートで簿記の勉強をしていると部屋のドアがノックされ「お届けもので~す」という若い女性の声がした。

「はい~。」

 僕はそう言ってハンコを持ち、ドアをあけるとそこには招かれざる客が立っていた。手に何か持っている。

「裕ちゃん!」

「お久し振り。元気だった?」

 半年振りの裕ちゃんだ。

「ねえ。なんで嘘つくの?お届け物だなんて。」

「だってそう言わないと居留守使われるかもしれないと思ったから。それにケーキ持ってきたから嘘ではないよ。はいお届け物。」

 裕ちゃんはそう言ってケーキの入っているであろう箱を僕に渡した。自分が招かれざる客だという認識はあるようだ。

「来るなら来るで電話くれればよかったのに。」

「電話したら逃げられちゃうかもしれないでしょ?」

「逃げられるかもしれないような用で来たんだ。」

「まあね。奇襲攻撃というのは無予告でやるもんだよ。で、上がってもいいかな?」

「まあいいけど。」

「じゃあ、お邪魔しま~す。」

 裕ちゃんはニコニコしながら、靴を脱いで僕の四畳半に上がりこんだ。

「随分綺麗に整頓されてるね。あたし、男の一人暮らしってもっとごちゃごちゃしてるのかと思った。」

「僕は几帳面な性格だからね。」

「そうだね。ねえ、ケーキ食べようよ。啓ちゃんの大好きなモンブラン買ってきたんだから。」

「うん。」

「コーヒー入れてもらえる?」

「ゴメン。コーヒーとかそういう高価なものはないんだ。僕は貧乏学生だから。裕ちゃんとは違うよ。」

「そっか~。ゴメンね。じゃあ、買ってきてもらってもいい?お金出すから。」

 裕ちゃんはそう言うとハンドバックの中から財布を出し、僕に日本が誇る細菌学者のブロマイドを一枚渡した。

「ああ、いいけど。」

「お膳とかあるかな?」

「お膳?」

「ちゃぶ台みたいなの。」

「ちゃぶ台はないけどコタツは押入れの中にある。」

「じゃあ、後のことはあたしがやっとくから。」

「近くの自動販売機でいいかな?」

「自動販売機って?」

「コーヒーだよ。何かリクエストある?缶コーヒーにも色々種類があるでしょ?無糖とか微糖とか。」

 僕はややぶっきらぼうに答えた。それはそうだ。裕ちゃんは平和なこの空間に突然侵入してきたのだ。当然、ぶっきらぼうにはなる。

「ゴメン。あたし缶コーヒーってダメなの。てか、あれはそもそもコーヒーではないよね。日本特有の不思議な飲み物だよね。」

「・・・・・・」

 僕は深呼吸というかため息をついた。

「ここは田舎だけど、駅前まで行けばファーストフードの一軒くらいはあるよね?」

「まあそうだけど。」

 僕の下宿先の調布市は確かに東京郊外には違いないが二十三区に一番近い自治体だし、そもそも生まれ故郷の柏崎に比べればはるかに大都会だ。田舎呼ばわりは失礼な話だ。

「じゃあブレンドでいいからよろしくね。」

「はい。」

 僕のぶっきらぼうをよそに、裕ちゃんは相変わらず、ニコニコだ。僕は仕方なく駅前まで買い物に出かけた。

 

 二十分ほどでアパートに戻り、ドアを開けると僕はビックリした。四畳半の畳の上にコタツが置かれ、コタツの上にはケーキの箱が開けられた状態で放置されていた。箱の中には手付かずのモンブランが二個残っていたがコタツの上には既に食べたと思われるモンブランを支えるカップが二個、無造作に置かれていた。裕ちゃんは僕の布団を押入れから引っ張り出したようで布団にくるまって口を開けて寝ていた。僕は買ってきたコーヒーをコタツの上に置き、裕ちゃんの傍に寄った。

「裕ちゃん。・・・・・・何、勝手に人の部屋に上がりこんで寝てんの!」

 裕ちゃんを揺り動かすと、裕ちゃんはパッと目を覚ました。

「ゴメン、ここどこ?どうして啓ちゃんがいるの?」

「どうしてって、裕ちゃんが僕のアパートに押しかけてきたんだろ?」

「ああ、そうだった。啓ちゃん遅いよ。先にモンブラン食べちゃったよ。」

「食べるのはいいけど寝ちゃうのはちょっとひどくない?」

「ゴメンゴメン。最近、あまり寝てないんで。」

「忙しいんだ。」

「そうだね。あたし達、彼氏と彼女になったけどあれっきりだもんね。」

「コーヒー買ってきたよ。」

「ああ、サンキュー。」

 そう言うと、裕ちゃんはむんずと起き上がり、コーヒーの入っているファーストフードのふくろを引き寄せると自分の分と僕の分を取り出し、カップのふたの上に砂糖とミルクとマドラーを置いた。そして僕に「どうぞ」と言うわけでもなく、自分の分のふたを開け、砂糖とミルクを入れてマドラーでかき混ぜ、一口、ごくりと飲んだ。

「あ~、生き返る~。」

 裕ちゃんが上を向いてしみじみと言った。

「僕もいただいていいかな?」

「あっ、ゴメンゴメン。先いただいちゃって。モンブランもどうぞ。」

「モンブランなんて半年振りだよ。」

 そう言って僕もコーヒーに砂糖とミルクを入れた。

「半年振りって、あのケーキの食べ放題以来?」

「そうだね。僕はこんな贅沢できないから。」

 そう言って僕は裕ちゃんが持ってきた使い捨てのフォークでモンブランにパクついた。

「そっか。」

「で、今度はなんの用なの?」

 僕は少し不機嫌そうに聞いた。もっとも僕の気持ちが裕ちゃんに伝わるわけもない。

「今度はねえ~、婚約してもらいます。」

「はあ!・・・・・・婚約?」

 今度も展開が急激だ。

「そう。柏崎で結納するの。」

「結納って?」

「そんなに難しい話じゃないよ。結納は結婚披露宴と違って大袈裟なものじゃないから。ただうちの両親と啓ちゃんのお母さんとがあたし達二人と一緒に柏崎でご飯食べればいいだけ。」

「それだけじゃ済まないでしょ?」

「もちろんあたしは四月生まれだから誕生石のダイヤモンドの指輪とか必要になるけど、準備は全部こっちでするからさ。だから啓ちゃんは柏崎に来て、ご飯一緒に食べてくれるだけでいいよ。夏休みも帰省してないんでしょ?」

「まあ、帰省してもゴロゴロするだけだし。夏休みはこっちで勉強とバイトしてたよ。僕は裕ちゃんと違って学費も自分で稼がなきゃならないんだ。」

「お母さんも、『夏休みも帰ってこない』って言ってたよ」

「おふくろに会ったんだ?僕は聞いてなかったけど。」

「ホント久し振りにね。それで『お付き合いさせていただいています』って言っておきました。」

 なるほど、情報源は本人だったのだ。手紙には情報源は書いていなかったが。

「なんで急に結納なの?早すぎない?僕はまだ学生だよ。」

「まあ政治的な理由だと思ってよ。啓ちゃんを今度の、まあ今度の次かもしれないんだけど選挙に立てるには啓ちゃんが白石の娘婿だってことを早めに公表しなければならないんだって。だから結婚はともかく結納は早くして欲しいんだって。」

「もし僕が拒否ったらどうするの?」

「大丈夫。啓ちゃんは絶対に拒否らないから。」

「どうしてそんなことが言えるの?」

「ねえ、啓ちゃん。最近、何かいいことなかった?」

「いいことって?」

「例えば何か美味しいもの食べたとか。」

「ああ、まあ、牛丼の特盛り食べたけど。・・・・・・それがどうかしたの?」

「久しぶりに贅沢しちゃったんだ。」

「まあそうだけど、裕ちゃんには関係ないでしょ。」

「臨時収入でもあったの?」

「おふくろから仕送りがあったんだ。久し振りにね。」

「お仕事でも始めたのかなあ?」

「うん。市内で清掃員の仕事を始めたそうだよ。親父が死んで、店はやめちゃったからね。仕事探してたんだけどなかなかなくてね。ようやく見つかったそうだ。」

「この前、柏崎で啓ちゃんのお母さんに会ったとき、お仕事を探しているようだったのね。」

「うん。」

「だからあたしの父の支援者の人に頼んでお母さんの希望にかなう仕事を見つけてあげたの。」

「・・・・・・」

 僕は絶句した。おふくろに仕事を紹介したのは裕ちゃんだったのだ。そしてその稼ぎのおすそ分けで僕は牛丼特盛りを食べてしまったのだ。もう特盛りは胃袋の中だ。

「もちろんあたしが絡んでることをお母さんは知らないはず。あたしは奥ゆかしいから黒子に徹したからね。」

「・・・・・・そうだったんだ。・・・ありがとう。」

 僕はかなりトーンダウンした。

「どういたしまして。こんなこと啓ちゃんがあたしにしてくれることに比べればなんでもないよ。」

 裕ちゃんは自信満々の笑みでそう言った。少し間があった。

「大丈夫だよ。結納っていったって所詮はお芝居だよ。」

 僕が考えていると裕ちゃんがダメを押した。

「権蔵先生はともかく、おふくろとか地元の人を騙すのは心苦しいなあ。」

「それもあたしの夢の実現のためだと思ってよ。」

「それでデビューの方はどうなの?僕はその~、芸能界は疎いんでよく分からないんだけど。」

「芸能界じゃなくて音楽界って言って欲しいね。デビュー計画の方は着々よ。まあ、あたしも絶対に失敗したくないんでじっくりやってるから遅いように見えるかもしれないけど。」

「いつ頃の予定なの?」

「来年早々だね。二月の初めを予定してる。」

「僕は何もやらなくていいんだね?ただ柏崎に帰りさえすれば。」

「うん。段取りはこっちで全部やっとく。切符とかもこっちで手配するから。」

「僕が白石家の婿になるんだよね?」

「まあそういうことになるね。」

「おふくろ大丈夫かなあ?僕は一人っ子だよ。」

「お母さん気の強い方じゃないし、いざとなったら鬼の権蔵が自ら説得にあたるから大丈夫だと思う。」

 なんかよく分からない理屈だ。

「で、その結納はいつやる予定なのかな?」

「今度の勤労感謝の日を含む連休のときを予定してる。ごめんなさい。臨時国会中だし、父の予定が最優先になっちゃうんだけど。」

「はあ?」

 それも急な話だ。

「とにかく、何はともあれ、勤労感謝の日の週の連休は空けといて欲しいんだ。もう何か予定入ってる?」

「別にないよ。ここで勉強する予定だったから。」

「勉強って何、勉強しているの?」

「ああ、そこにも出してるけど簿記だよ。来年、公認会計士を受けるつもりなんだ。」

「ほう。それはいいね。まあ、勉強の邪魔して申し訳ないけど、どうかご協力お願いします。」

 裕ちゃんはニッコリ笑って僕の前で手を合わせた。僕は相変わらずムッとした表情でコーヒーをゴクリと飲んだ。

 

 勤労感謝の日の連休とは言われたものの、勤労感謝の日は水曜日なので結局、前の週の金曜日の夜に慌しく帰郷し、土曜日に準備、そして日曜日に本番を迎えるという強行スケジュールとなった。もっとも僕の役回りは本当にご飯を食べるだけで、言われたことをハイハイとこなせばよかった。きっと秘書に操られる政治家やマネージャーの管理下にある芸能人もこういうことを日々やっているのだろう。

 政治日程が厳しい権蔵先生は、最優先にスケジュールされていたはずだったが、結局、来ることはできず、結納は、儀式的なものはあったものの裕ちゃんのお母さんと僕のおふくろを囲んでの四人の食事会という性格のものとなった。元々家が近く、裕ちゃんと僕がお互いの家を行き来していたこともあり、裕ちゃんのお母さんと僕のおふくろは知らない間柄ではない。おふくろは「お父さんが生きていたらどんなに喜ぶか」と涙を流して喜んでいた。騙すのはなんだか可哀想な気がしたが、それよりも膝を痛がっていたことの方が僕には気がかりだった。慣れない外での仕事で痛めたのかもしれない。

 結局、結納はなんの滞りもなく無事に終了し、裕ちゃんと僕は恋人でもなんでもなかったが、婚約が正式に成立した。僕は不思議な気持ちだった。

 

 次の日、裕ちゃんと僕は午前中に権蔵先生の地元秘書が運転するワンボックスで柏崎を発ち、長岡に向かった。裕ちゃんはこれから仕事なのか、パリッとしたスーツで社会人風に着こなしているが、僕は相変わらず一張羅の学ラン姿だ。ワンボックスの中でも裕ちゃんは良く喋り、僕はそれに合わせた。

 長岡でワンボックスを降りると、裕ちゃんと僕は上越新幹線の上りホームに向かった。このホームに二人で立つのは七年前、裕ちゃんが上京するのを見送って以来だ。

「裕ちゃんと二人でここに来るのも七年ぶりだよね。正確には七年半かな。」

 僕はポツリと言った。

「え~っ、あたし、啓ちゃんと二人で上京なんかしたことあったっけ!」

 裕ちゃんがビックリした。

「そんなにビックリしなくてもいいじゃない。二人で上京なんかしてないよ。僕が上京する裕ちゃんを見送ったのさ。この新幹線ホームで。」

「ああ、中学卒業したときか。啓ちゃん、見送りに来てくれたんだっけ?あんまり覚えてないや。」

「そう。・・・・・・僕は思い出せるような、思い出せないような、少年の日の記憶だね。」

「そう言われるとなんとなく思い出してきたぞ。そうだ、啓ちゃんだけが長岡までついてきたんだよね。」

「なんかコバンザメみたいな言い方だね。」

「うん。このままこの人、東京までついて来ちゃうんじゃないのかなあと、心配したのは覚えてる。」

「もういいよ。」

 どうせその頃の僕は裕ちゃんの執事に過ぎなかった。共有したはずの思い出でも、受け止め方はまるで違うのだろう。一人っ子の僕にとって裕ちゃんは姉のような存在だった。その姉が僕を置いて一人、東京に行ってしまうのだ。僕は寂しかった。でも裕ちゃんにとってはいつまでもついてくるうるさい存在だったのかもしれない。

 しばらくすると上りの新幹線が入線してきて裕ちゃんと僕はグリーン車に並んで座った。当然、裕ちゃんは上座の窓際で僕が通路側だ。

「啓ちゃん、今日は特に予定ないよね。東京に帰るだけだよね?」

 新幹線がホームを離れると裕ちゃんが言った。

「ああ、これがあったから特に予定は入れてないよ。てか、予定は入れるなっていう指示だったと思うけど。」

「じゃあ、お疲れのところ申し訳ないんだけど、もう一つお願いしていいかなあ?」

「はあ?まだ何かあるの?」

 僕は嫌な顔をした。

「今度はそんなに面倒じゃないよ。会って欲しい人がいるの。」

「会って欲しい人?」

「うん。黒田聡美っていうあたしの親友。東大の同級生で一緒にアナウンサー目指して頑張った仲間。今は新日本放送の女子アナ一年生。名前くらいは聞いたことあるかな?」

「さあ。うちにはテレビもないし、僕は業界には疎いから。」

「そっか。」

「で、次は婚約者として親友に紹介ってこと?」

「ううん。あたしは同席しない。聡美と二人で会って欲しいの。聡美が啓ちゃんに話したいことがあるっていうから。二人きりでね。」

「なんだろう?」

「聡美はね、ただ一人あたしと啓ちゃんの結婚に反対してる人なの。」

「なんでまた?親友だったら祝福してくれてもよさそうじゃない?僕の知らない人だし、僕に恨みがあるわけでもないよね?」

「さあ、啓ちゃん、自分の知らないところで人のことを傷つけてるかもよ。」

「へんな冗談やめてよ。」

「まあ、理由は本人から直接聞いてよ。」

「ヒントくらいくれてもいいでしょ?」

「ヒントもダメだなあ。啓ちゃんはあたしから何も聞いてないってことにした方がいいと思うから。とにかく、啓ちゃんは聡美に会って、啓ちゃんの知らないあたしを知って動揺して欲しいのよ。」

「僕の知らない裕ちゃん?」

「ドラマとかでもよくあるじゃない。自分の知らない妻や恋人の一面を知ってしまって激しく動揺する男。」

「僕が動揺するような秘密があるの?」

「そう。」

「まあ、話したくないのであれば聞かなくてもいいんだけど、その後はどうすればいいのかな?」

「まずは激しく動揺して欲しいの。『知らなかった~』って言ってね。それで動揺はするんだけど、『それでも僕は裕ちゃんと結婚する。そんなんで僕達の愛は壊れない』っていうようなことを言ってくれればいいや。いいでしょ。どうせお芝居なんだし、あたしの事情がどうあれ啓ちゃんには迷惑かけないと思うけど。」

 なんだか利用されているような、遊ばれているような気分で面白くない。

「僕が動揺するような秘密ってなんなの?例えばそのお友達と・・・・・・同性愛とか?」

「は~ん、答えはブブーだけどそのくらいのインパクトはあるかもしれない。」

「親友なんだったら本当のことを打ち明けてもいいんじゃないの?この婚約がお芝居だってことも。」

「親友だからなおさらダメなんじゃない。この前も言ったけど、この秘密はあたしと啓ちゃん二人だけのもの。他の人には絶対に知られちゃダメだからね。」

「そう。で、今回も僕が拒否れない状況ができてるんだね。」

「お母さん、膝が痛いとか言ってたね。」

「ああ。辛そうだった。」

「お父さんの支援者で柏崎一の整形外科の先生がいるの。その先生、開業するときお父さんのお父さん、つまりあたしのおじいちゃんなんだけど、そのおじいちゃんの世話を随分受けていて白石家には逆らえない人なの。」

「うん。」

「結構、偉そうな先生なんだけど、あたしが頼んだら『裕子お嬢様の義理のお母様になられる方でしたら是非、往診させていただきます』って言ってた。だから一週間もすれば膝の痛みは取れると思う。診療代も請求されないよ。」

 裕ちゃんはニッコリ笑ってそう言った。

「はいはい。で、僕はどうすればいいの?」

 僕は半ば呆れ顔でそう言った。いつものことだが、この人の要求は不思議に拒否することができない。

「今、神宮球場で学生野球やってるよね?」

「そう?もう早慶戦も終わったはずだけど。」

「秋の全国大会だよ。」

「ああ、そんなの確かあったね。」

「で、それを観戦して欲しいの。バックネット裏でね。」

「見てればいいの?」

「うん。啓ちゃんは聡美を知らないけど、聡美には啓ちゃんの顔、教えてあるからあっちから声をかけてくると思う。」

「は~い。」

 僕は面倒くさそうに返事をしたが裕ちゃんは何かをたくらんでいるようでニタニタしていた。それから裕ちゃんとは終点の東京駅で別れ、一度、仙川のおんぼろアパートに立ち寄って、昼食を済ませてから裕ちゃんの指示通り、神宮球場に向かった。

 

 その日の午後、僕は約束どおり、明治神宮野球場、通称「神宮球場」と呼ばれている屋外施設のバックネット裏スタンドに一人座り、学生野球を見た。秋の全国大会が開催されていて、グラウンドでは近畿代表と九州代表が対戦していたが、スタンドはガラガラで、バックネット裏は数えられるほどしか人が入っていなかった。

 野球は僕にとって元来、好きなスポーツだ。全然、興味のないカードでもなんとなく見ていられる。もっともゲームは投手戦の様相を呈していて、スコアボードにはゼロが並び、見ていて面白い試合では決してなかった。むしろスタンドの応援合戦の方が見ごたえがあったほどだ。

「スミマセン。取材させていただいてよろしいでしょうか?」

 ゲームが終盤に差し掛かった頃、マイクを持った若い女性が僕に声をかけてきた。ラジオの取材だろうか、テレビカメラの姿はなく、女性一人だ。放送機器のようなものを肩からぶら下げている。

「はあ、別に構いませんが。」

 人を待っている身ではあるが、短時間の取材に応じるくらいは構わない。

「はい。では失礼します。」

 そう言って、マイクの女性は僕の隣に座った。相当の美形だ。絶世の美女といっても的外れではないだろう。僕がこれまで出会った女性の中で案外、ナンバーワンかもしれない。

「では、まずお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

 美形が言った。

「はあ。石水といいますが。」

「石水啓一君ですね?」

 そこまで言われて僕はこの目の前の女性が裕ちゃんの言っていた盟友の女子アナであることを理解した。少し間をおいた。

「・・・・・・あなたが黒田聡美さんですね?」

「ええ。」

「今日はお仕事なんですか?」

「仕事というか、研修かな?神宮で取材してレポートをまとめるの。アナウンサーっていってもまだペーペーだからね。」

 女子アナは砕けた表情で言った。

「裕ちゃんにはあなたの話を聞くようにって言われてるんだけど。」

「なんの話をするかは聞いてないの?」

「うん。」

「そう。それで、・・・・・・裕ちゃんと結納はしたの?」

「ああ。さっき柏崎から戻ったところだよ。」

「やっぱり結婚するんだ?」

「何が言いたいの?裕ちゃんにはあなたが二人の結婚に反対してるってことしか聞いてないんだけど。何が気に入らないの?」

「じゃあ、率直に言うね。裕ちゃんを返して欲しいの。」

「返す?どういうこと?さっぱりわかんないんだけど。」

「そっか。何も知らないんだ。」

「うん、何も聞いてない。」

「じゃあ教えてあげるね。裕ちゃんはね、私の兄の彼女だったの。いやそうじゃないね。彼女なの。今でもね。」

「はあ?」

「裕ちゃんの男関係は何も知らないの?」

「まあ、お医者さんと付き合ってるっていう噂は聞いたことあるけど。」

「なんだ。知ってるじゃない。その医者が私の兄だよ。」

「ああ、そうなんだ。」

「あんまりビックリしないんだね。」

 裕ちゃんとの婚約はお芝居なのだからビックリする理由はない。しかし裕ちゃんに言われていることもあり、少しは演技をした方がいいのかもしれない。

「いや、・・・その・・・冷静に受け止めてるだけだよ。」

「そう?・・・・・・兄は人間嫌いで、ひねくれ者で、人を愛したり、人から愛されたりしたことのない人だった。でも裕ちゃんと出会ってから本当に変わったの。今まで苦労ばかりだったけど、ようやく人生に明るい日差しが見えてきたの。」

「うん。」

「でもそれを邪魔したのが石水啓一。あなたよ。」

 聡美さんはそう言って僕をにらみつけた。僕は一瞬、たじろいだ。

「待ってよ。それは言いがかりだと思うけど。」

「言いがかりじゃない。私は知ってるの、兄と裕ちゃんがとっても愛し合ってるってこと。でも兄はそういう性格だから裕ちゃんのお父さんが好きになるタイプじゃない。その隙を突いてあなたは裕ちゃんのお父さんを丸め込んで無理矢理、裕ちゃんと婚約したんでしょ?裕ちゃんと結婚しちゃえば柏崎から衆議院議員になれるもんね。あなたってホントに恐ろしいほどの野心家だね。どうせ政治家になるのが目的で裕ちゃんはその手段なんでしょ。」

 そうまで言われてしまうとさすがの僕もカチンときた。裕ちゃんとのことはボランティアのつもりなのだ。

「たとえそれが事実だったとしてもこれは僕と裕ちゃんとあなたのお兄さんの三人の問題でしょ。あなたが干渉してくる問題じゃないと思うけど。もし異議を申し立てるならお兄さん本人が直接来るべきじゃないのかなあ。」

「兄はまだ何も知らないの。教えないし教えられない。そんなことしたら兄はあなたのことを殺してしまうかもしれない。もちろん兄は何も言わないかもしれない。兄はいつだって賢くて我慢強いから。でも私は許せない。だから絶対に裕ちゃんを返して欲しいの。」

 この女性は最初から真剣だ。何か事情があるのかもしれない。

「・・・・・・何か事情があるんだね?」

 少し間を置いて僕がそう聞くと女子アナは静かにうなずいた。

「聞かせてもらってもいいかな?」

 そう言うと女子アナはもう一度小さくうなずいた。

「じゃあ話すね。私達にはね・・・・・・両親がいないの。そのことで私達はとっても苦労した。それでも私は兄に随分とかわいがってもらったし、面倒も見てもらったからそうでもなかったけど、兄の苦労はとても想像できないと思う。いじめや偏見、差別、そして貧乏、色々なことを経験してきた。友達もできなかった。でも兄は決してぐれたりせず、自分は絶対に成功して世間を見返してやるといってものすごく努力したの。そして東大医学部を卒業して医者になった。私も東大に入れてくれた。」

 もしそれが事実だとしたらそれだけでまるで信じられない、奇跡のような出来事だ。

「でも、人を愛するということについてはまったく縁がなかったの。二十年以上生きてきていいことなんか一つもなかったというのが兄の口癖だった。でも四年前、裕ちゃんが入学してきてから兄は変わったの。本当に変わったの。私は生まれて初めて兄の本当の笑顔を見た。兄は初めて人生を前向きに評価できたんだと思う。裕ちゃんは元々私のクラスメートで私も大好きだった。明るくて、天真爛漫で、本当に自分もこうなりたいと思えるような女性だった。兄と付き合い始めてからこの人が兄とずっと一緒にいてくれたらどんなに素晴らしいだろうと思ってた。でも、兄はもともと素直な性格ではないから裕ちゃんの前では好きなくせにわざと冷たいふりをしたりして、傍で見ていてじれったいくらいだった。私がこう思うくらいだから裕ちゃんにとっても兄の優柔不断な態度は我慢できなかったと思う。裕ちゃんは兄から離れていった。それから兄はまた、元の兄に戻ってしまった。」

 なるほど、頑固者には裕ちゃんのわがままはコントロール困難だろう。

「でも裕ちゃんのことは忘れられなかったみたい。この前、久し振りに裕ちゃんに会ったらしくてその日は一日中ご機嫌だった。そのとき私は思ったの。兄は本当に裕ちゃんのことを愛しているんだなって。」

 そこまで話すと女子アナは大きく深呼吸した。そして続けた。

「それで、私は決心して裕ちゃんに話したの。兄のところに戻ってくれって。裕ちゃんは躊躇していた。そしてあなたの話をしてくれた。あなたの話を初めて聞いたとき、はっきり言ってあなたが憎かった。兄の幸せを邪魔するなんて許せない、そう思った。でも裕ちゃんはあなたのことを愛しているようで、それで、私自身ジレンマで、……、きっと裕ちゃんはもっと悩んでいるんだろうけど。」

 それを聞いて僕は複雑な気持ちになった。なるほど今も彼女だと言われれば僕はダミーなのだから正しいのだろう。裕ちゃんがこの人のお兄さんと疎遠になった原因は音楽のはずであり、僕ではない。裕ちゃんが僕のことを愛していると言ったのもお芝居に違いない。

 僕は話を聞いていて女子アナが少しかわいそうになった。本当の話をしてあげたくなったが、本当の話をしてしまうと裕ちゃんは雪女になってしまう。あるいは案外、目の前の女性が急に雪女に変身し「しゃべってしまいましたね」と言って冷凍光線を口から発射するのかもしれない。怪談とはそういうものだ。

「確かに男関係のことは裕ちゃんからは全然、聞いてない。でも、今、裕ちゃんと僕が愛し合っていて、たった今、柏崎で結納をしてきたのは事実なんだ。それに僕にはそもそも政治的な野心なんかないよ。ただ裕ちゃんとは幼なじみで、久し振りに東京で再会して付き合うようになっただけだよ。もしそのことがあなたのお兄さんをひどく傷つけたというんだったら原因は僕にあるんだから謝るけど。」

「謝ってもらわなくてもいい。裕ちゃんを返してくれさえすればいい。」

 女子アナは相変わらず真剣だ。ここまで来ると僕も自分自身が演技なのか本気なのか分からなくなる。僕は右手で頭を抱え悩ましいポーズをとった。

「それは無理だよ。裕ちゃんのお父さん、権蔵先生もこの結婚には賛成なんだ。今すぐ婚約解消なんてできないよ。」

「お願い。兄が私を施設から引き取ってくれたとき、兄はまだ寒さに震える新聞奨学生だった。その後も医学生だというのに塾の教壇に立ったり、家庭教師を掛け持ちしたり。今まで兄が私にしてきてくれたことを思うとほうってはおけないの。」

「無理だ。相手のある話だよ。僕一人では決められない。」

「今すぐでなくてもいい。とにかく、石水君が裕ちゃんとの結婚を諦めてくれさえすればいいの。その代わり、私にできることならなんでもする。あなたの奴隷になってもいい。私はどうなっても構わないからどうか、兄から裕ちゃんを奪わないで。」

 女子アナは泣いていた。僕ももらい泣きしそうな気分になってきた。こういう話には僕は弱い。どの道、僕には裕ちゃんと結婚する意思などないのだ。僕は考えるふりをした。

「・・・・・・分かったよ。お望みどおりにするよ。裕ちゃんとの結婚を諦めればいいんだね?」

「石水君・・・・・・」

「でも相手のある話だから婚約解消は少し待ってよ。僕一人でできることでもないし。」

「分かった。ありがとう。」

「じゃあ、もういいね?」

「はい。失礼します。」

 そう言って、女子アナは席を立ち、涙を隠すように、足早に僕のところから去っていった。その後、僕は結局、試合を最後まで見ながら今日のことをどうやって裕ちゃんに報告するか考えていた。「何がなんでも二人は結婚する」ということは言わなかったのだから裕ちゃんとの約束は守っていない。もっとも僕から積極的に連絡する義務はないわけだから裕ちゃんから何も言ってこなければまた半年くらいこの問題からは離れることができるかもしれない。

 試合は九州代表が僅差を制し、僕は家路に着いた。

 

 



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四 天才

 僕は色々なことを考えながら仙川の商店街を歩いていた。このところ一日の時間が長く感じる。日は短くなってきていて、安アパートの前に着く頃にはまだ午後五時前だというのに暗くなっていた。

 アパートの前にはクルマが一台止まっていて、僕に気付いたのか突然ヘッドライトを点灯させた。僕が一瞬たじろぐと向かって右側のパワーウィンドウが開いた。左ハンドルの高級車だ。

「お疲れ様~!」

 裕ちゃんが元気にそう言って僕に左手を振った。僕はやや疲れ気味に手を振って応えた。

「待ってたんだ。」

「今来たとこだよ。聡美からメールもらって、そろそろかなって思ってたところだった。」

「報告があったの?」

「ううん。『私が勝ちました』って一言だけ。訳がわからないから聡美は刺激しない方がいいかなあと思ってまだ返信もしてない。啓ちゃんに確認してからと思って。」

「そう。」

「まあ、立ち話もなんだからさ、乗ってよ。ドライブしよう。」

「ああ。」

 僕は疲れていたが、いずれ報告はしないといけないのだし、いいタイミングだと思って超高級車の助手席に座った。

「シートベルト締めて。」

 裕ちゃんはそう言うとエンジンをふかし、夜の街へと出発した。

「聡美どうだった?」

「どうって?」

「美人でしょ?」

「ああ、それは認めるよ。さすがは女子アナだね。」

「あたしも女子アナだったんだけどね。でも聡美は別格。なんてったってミス東大だもん。」

「ああ、そうだったんだ。」

「ホントはあたしが無理矢理、聡美をミスコンに引き込んだんだけどあたしは予選落ち。世の中ってこんなもんだよね。」

「裕ちゃん、お医者さんと付き合ってるのに僕と婚約したんだ?」

「そう。だから啓ちゃんとは本当にお芝居なの。分かってもらえたかな?」

 裕ちゃんがストレートに肯定したので僕は肩の荷が下りたような、寂しいような、なんだか複雑な気持ちになった。

「でも、聡美が勝ったっていうのはどういうことなの?まさかホントのことは言ってないよね?」

「言ってないよ。でも『裕ちゃんを返して』って言われて、『それは構わないけど相手のあることだからちょっと待って』って答えた。」

「・・・・・・そうなんだ。あれほど『何があっても結婚するって言って』って頼んだのに。」

「ごめん。だって、元カレっていうより、今の彼氏でしょ?」

「まあ、そうだけどせっかく婚約までしたのにあたしを返しちゃうんだ?」

「元々そういう約束でしょ。それに彼女の身の上話を聞かされたらそれしか答えようがないよ。」

「話、全部聞いたんだ?」

「うん。」

「そっか・・・・・・啓ちゃん、やっぱりやさしいね。昔からそうだったけど。」

「で、これからどうするの?」

「どうするって?」

「婚約は解消するでいいのかな?」

「今はまだダメだよ。デビューは来年になるし、しばらくは父のご機嫌をとらないといけないから。」

「彼は知らないの?この婚約のこと。」

「うん、知らない。案外、興味もないかもしれない。」

「どういうこと?」

「研究命の人だから。あたしのことは結構、どうでもいいの。そこに惚れたようなもんだけどね。・・・・・・だから啓ちゃんには申し訳ないんだけど、今のまま、しばらく婚約者でいてほしいんだ。聡美には話は分かったけどこの婚約には何百人っていう人が関わってるから婚約解消はすぐにはできないって言って、啓ちゃんと合わせとくから。」

「僕の質問に答えてないよ。彼氏との関係はどうなってるの?なれそめとか。」

「なれそめか~。話さないとダメかな?」

「どうしても話したくないなら無理にとは言わないけど、僕は今、裕ちゃんの婚約者なんだし、これからどうするかにあたって聞いておく必要があると思うけど。」

「なるほどね。展開としては柏崎で結納を済ませた啓ちゃんはこの結婚に唯一反対しているという裕子の親友聡美と会い、衝撃の事実を告げられる。そして裕子を問い詰める。そんなとこかな?」

 裕ちゃんはおどけた口調でそう言った。

「ねえ、裕ちゃん。僕は結構真面目なんだけど。」

「そんなに真面目にならなくていいよ。どうせお芝居なんだから。」

「でも聡美さんだっけ?さっきの女子アナ、ものすごく真剣だったよ。」

「そう。彼女はホントにお兄ちゃん子だからね。いいよ、話すよ。・・・・・・彼の名前は黒田潔。啓ちゃんが噂で聞いたっていうお医者さんだね。そういう噂になってるってことはまずまず有名な話なんだね。出会ったのは大学に入ってすぐ。それが聡美と博士、まあ医学博士で研究ばかりしている人なんであたしは彼のことを『博士』と呼ぶんだけど、その博士と聡美は兄と妹だけどあたしとは別々に出会ったの。聡美は東大に入ってすぐ。同じ文三でクラスも一緒、同じアナウンサー志望ということですぐに仲良くなった。博士もあたしが東大に入ってすぐ。ある詩人の勉強会があって、席が隣同士になって、なんとなく意気投合。博士とはそれから付き合い始めた。付き合うっていっても研究最優先の人だったし、お金もそんなにある人じゃなかったからそんな贅沢なデートはできなかったけど。」

「どこに惚れたの?」

「頑張ってるところかな。あたしって今まで何不自由なく暮らしてきたでしょ?だからそういう頑張ってる人を見ると応援したくなっちゃうの。そのうち彼のことを愛していることに気付いた。彼もあたしの愛を受け入れてくれた。付き合い始めて半年くらいたってからかな。だから入学した年の十月頃だよね。彼のアパートに初めて行ったの。そしたら聡美がいてこれまたビックリ。『聡美と同棲してるんだ~』と思ったら兄と妹だっていうじゃない。あれは人生の中で一番、ビックリした出来事だったな~。」

「聡美さん、裕ちゃんがその博士から離れていったって言ってたけど。」

「別に離れたわけじゃないよ。ただ、音楽の方が忙しくなっちゃったから前みたいには会えなくなっちゃったっていうだけ。それにあたしは博士のことが大好きだけど、博士の方はそうでもないのかもしれない。」

「どういうこと?」

「ハートのバランスはあたしの方が重いってこと。一度っていうか、啓ちゃんと再会したころかもしれないんだけど、博士があまりにも冷たいんで聞いたことがあるの。『あたしと研究とどっちが大事か』って。そしたら博士『一番が研究で二番目が妹だ』って言ったの。笑っちゃうでしょ?あたしは二番目にもなれなかったの。」

「それでもその博士とやらがいいんだ。」

「そうだね。不思議だね。こんなに冷たくされてるのに。でも、彼は天才だよ。絶対にいつかは世間に認められるときが来る。天才にして努力家だからね。・・・・・・『二番目が妹だ』って言われたっていう話は聡美にもした。あたしは冗談のつもりだったけど、聡美は真に受けたんだね。」

「そっか。そこでタイミングよく僕との婚約が出てきたから聡美さん、僕が裕ちゃんを奪ったって思ったんだ。」

「まあ、博士はあたしが婚約したくらいで嫉妬する人間ではないよ。でも聡美は本気でお兄ちゃんとあたしを結婚させようと思ってるかも。」

「ああ、そんなことも言ってたよ。裕ちゃんが兄を人間らしい人間にしてくれたってね。」

「そうでもなかったけどそう言ってくれるのはうれしいかな。」

 クルマは永福の入口から首都高速四号線に乗った。

「ねえ、どこに行くの?」

「東大に行くね。」

「東大?」

「そう、医学部。」

「なんでまた?」

「その、噂の彼氏に会わせるよ。」

「はあ?どうするの?『これが婚約者です』って僕を紹介するの?」

「それでもいいよ。」

「でも裕ちゃんが婚約したことを知ったら博士は僕を殺すかもしれないって聡美さんは言ってたよ。」

「あたしはそんなに深くは愛されていないんだけどなあ。まあ、大切なのは真実だよ。真実が何かっていうこと。」

「真実?」

「そう。あたしと啓ちゃんが婚約したのは真実。それがお芝居であることも真実。」

「で、どうするの?」

「申し訳ないけど、啓ちゃんにはまたお願いかな。」

「お願い?」

「まあ、着いたら話すよ。」

 クルマは環状線合流点の渋滞につかまり減速した。

 

 クルマが東京大学の構内に入ると裕ちゃんはクルマを駐車場に入れ、僕を医学部の研究棟に案内した。医学部の研究棟は随分と時代を感じさせる建物だ。エレベーターもなく、裕ちゃんと僕は学園紛争の頃の落書きが消えない階段を三階まで上り、「黒田研究室」と書いてある一番奥の部屋の前に来た。扉や壁には中にいるであろう研究者を非難、中傷する文章が落書きされたり、メモが張られたりしていた。裕ちゃんは慣れているのだろう、ノックもせずにドアを開け、僕に中に入るよう促した。

「こんばんは~」

 裕ちゃんはそう言って研究室の中に入り、僕が続いた。部屋の中は廊下に比べると格段に明るかったので眩しさで目が少ししょぼしょぼした。研究室は広く十五~二十畳くらいだった。部屋の隅にはモルモットなのだろう、小動物が飼育されている籠が置かれていた。真ん中やや左寄りに大きなテーブルがあり、白衣を着た、動物に例えると百人中百人が「猿」と答えると思われる男がノートパソコンを見つめながらマウスを操作していた。男は僕達に気が付くとその猿顔を上げた。

「お疲れ様。噂の彼氏、連れてきたよ。」

 裕ちゃんはそう言って左手の手のひらで僕を示し、紹介した。

「ああ、裕子の幼なじみか。」

 僕が二十一年間の短い人生経験の中で見た最も類人猿に近い顔を持つ男は事務的にそう言うとパソコンを操作し、立ち上がった。

「では早速ですまないがそこにある白衣を着てくれないか。」

 猿顔はそう言って僕の目の前にある椅子にかけられている白衣を指差した。

「はあ?白衣ですか?」

「ゴメンなさい。まだ啓ちゃんには何も説明してないの。」

 僕がキョトンとしていると裕ちゃんが猿顔にそう言い、僕の方を向いた。

「啓ちゃん。急な話で申し訳ないんだけど、博士の研究を少し手伝って欲しいの。」

「研究?」

「実は、博士は今、ある研究をしていて、年末までに論文を完成させないといけないの。」

「うん。」

「今まではあたしや聡美がお手伝いしていたんだけど、二人とも社会人になっちゃったでしょ。それに今、あたしは音楽の方で忙しくなっちゃったし。」

「お手伝いっていってもそもそも僕は医学のことなんか分からないよ。」

「そんなに難しくはないよ。とりあえず洗い物をしてくれると助かるんだが。ビーカーや試験官を洗うくらいだったら君でもできるだろ?」

 僕がモジモジしていると猿顔が初対面とは思えないずうずうしさでそう言った。裕ちゃんは目の前の白衣を取り、僕に着せようとする。

「啓ちゃん、お願い。もうあんまり時間がないの。お母さんのことは私が責任を持って対応させていただきますから。ねっ。」

 裕ちゃんは耳元で僕にそうささやくと半ば強引に白衣を着せ、僕の手を取って部屋の隅の方に誘導した。研究室の端にはシンクがあり、シンクの中には使用済みの試験官やビーカーやシャーレなどが無造作に積まれていた。

「これを僕が洗うの?」

「ごめんなさい。どうかお願い。」

 裕ちゃんが僕の前ですまなさそうに手を合わせると「くれぐれも手袋をするのを忘れないでくれよ」という猿顔の事務的な声が聞こえた。

「じゃあ、啓ちゃん。あたしは博士とちょっとお出かけしてくるから洗い物お願いね。」

 裕ちゃんは本当にすまなさそうな顔をしてそう言うと猿顔を促し、二人で部屋を出て行った。僕は膨大な実験器具を前に初めてきた研究室に一人取り残された。

 

 僕は何がなんだか分からなかったが、とにかく洗い物はした。洗い終わると白衣を脱ぎ、シンクと反対側にある長いソファに座って少し休憩した。あちこちがガムテープで修繕されている黒いソファは、この研究室には不釣合いだったが恐らく仮眠用のベッド代わりなのだろう。しばらくすると猿顔と裕ちゃんが戻ってきた。

「ただいま~。啓ちゃん、ありがとう~。で、どんな感じ?」

 無愛想な猿顔をよそに、裕ちゃんが作り笑いで僕に話しかける。

「こんな感じだけどいかが?」

 僕は洗い終わった実験器具を二人に見せた。

「随分几帳面だな。」

 上から目線の猿顔は相変わらず無愛想に言った。

「そう。啓ちゃんはとても几帳面な人だからね。」

「それで明日も来てくれるのかな?」

 猿顔がそう言うと裕ちゃんは慌てて僕の腕をつかみ「それは、これから啓ちゃんと相談するから。じゃあ研究、頑張ってね」と早口に言うと「じゃあね~」と軽く猿顔にあいさつして研究室を後にした。

 裕ちゃんは腕をつかんで離さないまま僕を駐車場まで誘導し、そのまま高級車の助手席に押し込み、クルマを発進させた。

「ねえ裕ちゃん・・・」

「ごめんなさい。今回のことは本当にあたしが悪かったと思ってる。」

 クルマが出発すると僕は裕ちゃんに話しかけたが僕が何も言わないうちに裕ちゃんは大きな声を出して謝った。

「僕にどうしろって言うの?」

「さっき言ったとおりだよ。研究を手伝って欲しいの。アメリカの科学雑誌に今、執筆中の論文を投稿したいの。」

「それも随分、急な話なんだけど。」

「十二月二十二日が締め切りなの。あたしも最近は音楽の方が忙しくなっちゃってなかなか博士の方を見てあげられないの。こないだ久し振りに研究室のぞいたら随分滞っているみたいで、やっぱり人手が欲しいみたいで・・・・・・」

「それは分かったけどなんで僕なの?」

「研究室の入口の落書きとかビラ、見たでしょ。」

「ああ。随分ひどいことが書かれていたね。」

「博士、大学の中で孤立してるの。常識に囚われない真の天才だからね。周りの人が非難するようなことでも平気でやるの。まああたしはその天才肌に惚れたんだけどね。で、博士が信頼してるのは妹の聡美とあたしだけ。でも二人とも社会人になってしまった。それで博士は自分一人でなんでもやろうとしてるんだけどもう時間があまりないの。だから論文ができるまででいいから助手になって欲しいの。」

「そんなにあの男のことが好きなんだ。」

 僕は嫉妬していたのかもしれない。少し意地悪く言った。

「うん。」

 裕ちゃんは力なくうなづいた。昔から僕はこういう裕ちゃんの表情にとても弱い。普段強いはずの人が突然弱くなる瞬間がある。それはその人の真実の姿であり、真実の姿を見せられると人はもろいものだ。

「・・・・・・分かったよ。まあ、前向きに考えてみるよ。」

 ここで後ろ向きに考えても裕ちゃんはあらゆる手を使って僕を説得にかかるだろう。それも面倒くさい。

「ありがとう。やっぱり啓ちゃんやさしいね。柏崎の頃とちっとも変わってない。」

 やさしいというより僕は気が弱いだけだ。

「・・・・・・ところで話し変わるんだけど、啓ちゃんの英語のスコアってどのくらい?」

「英語のスコアって?」

「Tから始まる世界統一試験だよ。まだ受けてないのかな?」

「ああ、あれね。まあ七百六十五だけど。」

「そんなにあるの?」

「別にびっくりすることでもないんじゃないの?裕ちゃんは八百をはるかに超えてるでしょ?マスコミ志望だったんだし。」

「それはそうだけど、でも啓ちゃんはまだ大学二年生でしょ?」

「そうだけど、八百超えくらいもう珍しくないと思うけどなあ。」

「よく勉強したね。」

「まあ、僕は日本とアメリカ両方の公認会計士を取るのが目標だから。」

「ホントに努力家だね。」

 裕ちゃんはそう言ってクスッと笑った。

「何がおかしいの?」

「いや、なんか博士と啓ちゃん似てるかなあって思って。」

「僕ってそんなにサルに似てる?」

「ええっ?・・・違う、外見じゃなくて中身だよ。」

「あんなに性格悪くないと思うけど。」

「努力家だってことだよ。それに・・・・・・博士は、本当はそんなに悪い人じゃないよ。」

「長い付き合いになるのかなあ。」

「長くするかどうかは啓ちゃんが決めてくれていいけど、でもお願い。論文が完成するまでは付き合ってあげてね。お母さんの身体のことはあたしが全責任を負いますから。なんてったってあたしのお姑さんになる人なんだからね。」

「婚約は解消するんじゃないの?」

「そうだ。でもそれはまだこれからの話?う~んあたしも何が事実で何が嘘だか分からなくなってきたぞ。」

 僕が助手を引き受けると言ったので安心したのだろう。裕ちゃんは一人で悦に入っている。僕はやれやれという気分になった。

「ところで話元に戻るけど、どうして僕の英語のスコアなんて聞くの?」

「ああ、まあ参考までにね。また啓ちゃんにお願いすることがあるかもしれないから。」

 そう言われて僕はまたドキッとし、それ以上は突っ込まなかった。それ以上突っ込んでやぶ蛇になったら嫌だからだ。僕の方から話題を変えた。

「ところでさっき、博士とどこ行ってたの?」

「ああ、ご飯食べてたんだよ。」

 それを聞いて僕は自分が空腹であることを思い出した。時間は夜の八時頃。僕は下宿で昼食を食べたきりなのだ。

「そう言われると僕もお腹空いてるなあ。」

「ごめんなさい。でも啓ちゃんは、お昼ご飯は食べたんでしょ?」

「ああ、まあね。」

「博士はここ三日くらいろくなもの食べてないんだって。」

「なるほど。研究命の人なんだ。」

「そうあたしなんかよりずっとね。」

 それから裕ちゃんは僕をファミレスに連れて行き、晩ご飯をご馳走してくれてから、仙川の下宿まで送ってくれた。下宿前に着いたときには午後十時を過ぎていた。

「啓ちゃんいつもゴメンねえ。変なことばかりお願いしちゃって。」

 僕が高級車から降りると裕ちゃんはドアの窓越しにポツリと言った。どことなく申し訳なさそうだ。この申し訳なさそうな表情に僕は恐ろしく弱い。実は裕ちゃんはとてもしたたかな女で僕の弱点を知っていて、その弱点を攻撃しているだけなのかもしれない。しかし頭の中でそうは思っても僕は本当にもろかった。

「いいよ。どうせおふくろが世話になるんだし。」

「もしどうしても嫌なら博士の研究室には行かなくてもいいからね。」

「それはあした、目が覚めてから決めるよ。」

「啓ちゃん、ホントにいつもありがとう。この埋め合わせはいつか必ずさせていただきます。じゃあ。」

 裕ちゃんは、最後は笑顔で左手を上げると、窓を開けたまま左ハンドルの高級車を発進させ、夜の街に消えて行った。そしてとてつもなく長かった週末は更けていった。

 

 次の日の朝、僕は結局、猿顔の研究室に出かけていった。おふくろの面倒は見てもらうのであり、せめてそれに見合う分の労働力の提供はしなければならないのではないかと思ったのだ。大学はあったが講義は午後からだったので午前中は空いている。僕は京王線とJR中央線を乗り継ぎ、御茶ノ水から徒歩で昨日訪れた研究室を目指した。

 僕は裕ちゃんと違い二度目なので一応ノックしてから「失礼します」と言って研究室の中に入ると、室内の電気は消えていて誰もいないかのように静かだった。しかし、すぐにドアの脇にあるソファが動き出したのでそこに博士が寝ていることがそれとなく分かった。博士は僕に気が付くと小さく伸びをして「おはよう」と軽く言った。

「おはようございます。すみませんお休みのところ起こしてしまって。」

「構わないよ。じゃあまた洗い物をお願いできるかな。」

 博士にそう言われてシンクの方を見ると、昨日と同じように実験器具がうず高く積まれていた。

「昨日洗ったもの、全部使ってしまったんですか?」

「ああ。実験器具がなくて滞っていたものがあったんだ。君のお陰で充実した夜を過ごすことができたよ。」

「徹夜だったんですか?」

「徹夜かあ。そう聞かれればそうなんだけど俺はもう昼夜逆転なんだ。アパートにも帰ってないんだ。」

「妹さんと二人で暮らしている?」

「聡美のことは知ってるんだな?」

「はい。ご本人さんにもお会いしています。」

「聡美は就職してから会社の寮に入ったよ。アパートは倉庫みたいになってる。時々聡美がメンテナンスしてるんじゃないのかな。」

 博士は他人事のように言った。

「じゃあ、早速ですが洗い物を始めますね。」

 僕はそう言って昨日、脱ぎ捨てたのとまったく同じ状態の白衣を着てシンクに向かうと博士もむくっと起きて付いてきた。

「君・・・名前はなんといったかな?」

 相変わらずの高飛車だ。

「はあ、石水啓一と申しますが。」

「石水君か。君の事は裕子から色々と聞いているんだ。でも名前はまだ聞いていなかった。裕子から聞いていると思うが、来月の二十二日までがヤマなんだ。手を貸してくれるとありがたい。」

 人にモノを頼むときはもっと低姿勢でもよさそうなものだがその辺は個性なのだろう。僕はゴム手袋をはめ、実験器具を洗い始めた。

「そうですか。僕は博士のことはあまりお聞きしていないのですよ。妹さんからは少し聞いていますけど。それで、・・・・・・なんの研究をされているんですか?」

「ほう、素人が俺の研究に興味を示すのか?」

 人をバカにしたような態度だ。この人に友達ができないのも分かるような気がする。

「素人で悪かったです。・・・・・・興味というか、好奇心です。」

「まあ、君の頭脳では理解は不可能だろう。一応、専門は心臓だが、今はイシュセイタイカンイショクを研究している。今回の論文のテーマもそれだ。」

「イシュセイタイカンイショク?」

「異なる種族の種、生きている個体の間の移植だよ。」

「スミマセン。ちんぷんかんぷんです。素人にも分かるように説明するとどうなりますか?」

「俺は、素人は相手にしないんだけどな。まあ簡単にいうとヒヒの心臓を人間に移植するようなことだ。」

「ええっ?」

「どうだ。嫌な気持ちになっただろ。だから俺は人に嫌われるんだよ。マッドサイエンティストとか言われてね。」

「なるほど、異種生体間移植ですか。」

「ああ。君の次のセリフも分かっているよ。神を冒涜する行為だと言いたいんだろ?」

「別にそこまでは。」

「その通りだよ。神を冒涜する行為だ。だがな、俺は神なんか冒涜されてしかるべきだと思っている。神が人間を創ったんじゃない。人間が神を作ったんだ。なんで人間はそんな己の空想の産物に振り回されなきゃいけないんだ?」

 どこかで聞いたセリフだ。

「しかし自然の摂理に反するのでは?」

「それをいうなら堤防だって自然の摂理に反するんじゃないのか?それでも人間の英知は自然に挑戦してきたんじゃないのか?そしてあるときは自然の偉大さに叩き潰され、あるときは自然を完膚なきまでに叩きのめしてきた。」

「それはそうですけど。」

「まあマッドサイエンティストだと言いたければ言えばいい。悪口を言われるのは別に今始まったことじゃないし、君が初めてというわけでもない。」

「別にそんなつもりじゃありませんけど・・・・・・、よく分かりませんし。しかしなんでそんな研究を。苦労されてきたというのであればまず生活を改善させるのが第一じゃないんですか?東大出身の医師なのですから引く手あまたじゃないんですか?」

「君の話は裕子から聞いているけど、金儲けのことばかり勉強しているそうだな?」

「・・・・・・」

 反論しようとしたが、僕は経営学部の学生だし、来年の公認会計士試験受験を控え、勉強の中心は簿記だったので博士の指摘は間違っていない。

「俺の同級生にも医学を金儲けの道具にしているやつがいるけど俺にはそんなことはできない。医学はあくまでも救えるかもしれないかけがいのない命を守るためにあるべきだと思っている。だから俺は金儲けには興味はないんだよ。」

「別に僕は金儲けに興味があるわけではありません。ただ、貧乏からは脱出したいと・・・」

「君は親に育ててもらったんだろ?俺にはその親もいないんだよ。君は今の生活が貧乏だと思っているかもしれないけど俺にしてみればブルジョアだよ。」

「そうかもしれません。」

「金に一体なんの価値があるというんだ?所詮、額面以上の価値はないじゃないか。」

「・・・・・・その通りです。ではなんのための異種生体間移植ですか?単なる真理の探究ですか?」

「人の命を救うためさ。」

「人の命?」

「そうだ。異種生体間移植が簡単にできるようになれば同種生体間移植なんてわけなくなる。同種生体間移植が簡単にできるようになれば死体生体間移植なんてわけなくなる。」

「はあ。」

「まあ難しい話をしても君には分からないだろう。言いたいことは俺が医学を探求しているのは人の命を救うためであって、金儲けには全然興味はないということだ。」

 僕は黙った。確かに博士の言うことに間違いはない。僕は自分がなんだかちっぽけな人間に見えた。僕が黙ると博士もそれ以上は言わず、「じゃあよろしくな」とだけ言って、ソファに戻り再び眠りについた。余計なことはしゃべらない人だった。

 洗い物を終えると僕は白衣を脱ぎ、近くのコンビニでパンを少し大目に買い、研究室に戻ってパソコンの置いてある大きな机の上にパンの入った袋を置いてから自分の大学に向かった。机の上には裕ちゃんと聡美さんが並んで写っている写真が飾られてあった。博士はまだ夢の中だった。

 



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五 論文

 十二月も中旬を過ぎた十二月十七日、僕の下に一通の現金書留が届けられた。おふくろからだ。いつもよりはるかに厚みがある。中を開けてみると案の定、いつもよりも一桁違う仕送りが入っていた。同封されている手紙を読むと、膝はもちろん、腰や肩も治してもらい、身体が十年くらい若返ったそうだ。おふくろが健康を回復したこと、僕に予想外の仕送りが送られてきたことはグッドニュースに違いない。しかし、僕はそのことを素直に喜ぶことはできなかった。これまでの傾向からするときっとこれから数日の間に裕ちゃんが僕の前に現われ、無理難題を押し付けるのだ。

 次の日、僕は既に日課になってしまっている博士の研究室訪問をやめようかどうしようか迷った。研究室に行ったら実は裕ちゃんが待っていて無理難題を押し付けてくるかもしれない。しかし、ここの下宿にいても裕ちゃんが襲ってくる可能性は否定できないのだ。結局、熟慮の末、僕はコイントスで決めることにし、百円玉を準備した。表が出たら外出、裏が出たら下宿にいることとし、結果、表が出て僕は本郷のキャンパスに出掛けていった。

 裕ちゃんとの結納を済ませた次の日から、博士の研究室に通うことが僕の日課になっている。特に時給いくらで雇われているわけではないので完全なボランティアだ。婚約者の今の彼氏の下に毎日通い、雑用を引き受けるというのもおかしな話だが僕はこのボランティアがそれほど嫌ではなかった。博士は素人の僕が見ても天才であり、僕の知的好奇心を満足させるには十分だった。きっと裕ちゃんもその才能に惚れたのだろう。

 僕はいつものように京王線とJR中央線を乗り継ぎ、御茶ノ水から歩いて東大の本郷のキャンパスに向った。そして学園紛争の面影を残す研究棟の三階の一番奥の部屋の、相変わらず誹謗、中傷する落書きが一杯書かれているドアを開けると中には意外な人物が待っていた。

「裕ちゃん!」

 僕は思わず大声を出した。それはそうだ。裕ちゃんに会わないためのコイントス、でも僕は生まれつき運が良くないのだ。きっと「強運」ではなく「凶運」の持ち主と表現されるのだろう。

「よかった~。来てくれるとは思ってたんだけど。」

「珍しいね。てか結納以来だね。音楽の方は一段落着いたのかな?」

「着くわけないじゃない。デビュー前の一番忙しい時期。ホント人生の中で一番忙しいかも。なんてったって婚約者にも会えないくらいなんだから。」

 僕の気持ちなどお構いなしで裕ちゃんはいつものペースだ。

「こんなところで何してんの?博士は?」

「それがね、博士は出かけちゃったの。」

「買い物でも行ったのかなあ?それも珍しいね。」

「ううん。札幌。出張っていった方が正確かもしれない。」

「出張?だって論文の締め切りは・・・・・・四日後でしょ?まだ完成してないはずだし、急に出張だなんてそんな話も聞いてないよ。」

「急な話だったんだけどね。で、論文を途中で放り出すみたいなこと言ってて、あたしに何かできることないかなあと思ってとりあえず来てみたの。」

「ほぼ出来上がってて、最終チェックして送るところまで行ってるって聞いてるけど。」

「さっきから、見てるんだけどまだところどころにほころびがあるね。」

「分かるの?相当高度な論文だけど。」

「もちろん内容は分からないけどスペルミスとかは分かるよね?英語の問題だからね。」

「で、どうするの?」

「とにかく、一通り読んでみて校正するよ。それで最終稿を作ってメールで札幌の博士に送って、了解とってアメリカの科学雑誌社に送りたいとは思ってる。」

「思ってるって、裕ちゃん、そんなことできるの?裕ちゃんも忙しいんだろうし、内容は英語だし、かなりハイレベルだよ。」

「啓ちゃん、お母さんの身体の具合良くなったみたいだね。」

 裕ちゃんが急におふくろのことに話題を変えたので僕は大きくため息をついた。まあ、予想の範囲内ではある。

「そうか、僕がやるんだね?」

「啓ちゃん、こないだ英語得意だって言ってたよね?」

「そんなこと言ってないよ。科学論文なんて読めるわけがないし、ましてや書くなんて雲をつかむような話だよ。」

「とにかく、ここに医学用の英和辞典があるから逐一翻訳して内容をチェックして欲しいの。特に専門用語のスペルとか。」

「僕なんかじゃなくてネイティブの医者に頼めばいいじゃないか。裕ちゃんならそれくらいできるだろ?」

「もう時間がないの。それに医者に頼むと論文公表前に論文の内容が外部に漏れるかもしれないし、ネイティブの医者だからってなんでもかんでも分かるわけでもないよ。」

「どういうこと?」

「例えば啓ちゃん、憂鬱とか涅槃とか書ける?」

「・・・・・・いや、辞書引かないと分からない。」

「でしょ?ネイティブだからってあてにはならないの。パソコンだってすべての単語を記憶しているわけじゃないし、パソコンの校正機能もあてにならない。」

「裕ちゃんはどうするの?」

「あたしもできるだけ力になりたいけど、スケジュールが厳しいのよ。」

 裕ちゃんは懇願の眼差しで僕を見つめた。小学校のときパンツを貸してもらってからというものの僕はこの人に逆らえなくなってしまった。

「分かったよ。でも締め切りは二十二日の二十四時だよ。」

「それは分かってる。あたしもできるだけ都合つけてこっちに泊り込むことにするから。」

「ねえ裕ちゃん、確かに博士は今の彼氏かもしれないけど、所詮は他人なんじゃないの?どうしてそんなことができるんだ?裕ちゃんは裕ちゃんで自分の夢の実現のために一杯一杯なんじゃないの?」

「よく分からないけどあたしは博士の夢の実現のお手伝いをしたいの。あたしの夢の実現のお手伝いは啓ちゃんがしてくれてる。啓ちゃんの夢の実現のお手伝いもきっと誰かがしてくれるよ。人生ってそんなもんなんじゃないのかな?情けは人のためならず。」

「博士はどうして途中で投げ出してもいいなんて思ったんだろう?もう少しで完成じゃないか。」

「それは人の命が懸かっているからよ。」

「人の命?」

「そう。札幌で博士なら手術できるだろうっていう患者さんがいるんだって。それで人を介して博士を頼ってきたの。」

「論文とその人の命を天秤にかけたんだ。」

「博士はそういう人だよ。性格はキツイけどね。でも本当は悪い人じゃないよ。」

「分かったよ。乗りかかった船だし、頑張ってみるよ。」

「もう乗っちゃってるけどね。」

 そう言って裕ちゃんはニッコリ微笑んだ。僕はその笑顔に負け、裕ちゃんの座っている隣の椅子に腰掛けた。

 

 僕は夢の中にいるようだった。女性の声が僕の名前を呼ぶ。そして僕のことを揺り動かす。声の主は裕ちゃんの名前も呼んでいるようだ。僕が夢とうつつの間を何度か往復し、まぶたを少し開けると日差しが瞳孔を刺激した。しばらく眩しさと戦うと目の前に声の主が浮かんできた。

「ああ、聡美さん。来てたんだ。おはよう。」

 目の前には猿顔の医師の妹の美人アナの顔があった。猿顔の医師と美人アナは兄と妹のはずだがまるで似ていない。僕がこの研究室に通うようになってから僕はこの美人アナとは何度か顔を合わせている。聡美さんは民放在京キー局のアナウンサーで社会人だが、時間のあるときには食事などを差し入れしてくれる。

「ねえ、なんで、二人でこんなところでお泊りしてるの?」

 聡美さんは咎める口調で言った。

「ああ、博士から聞いてないのかな?」

 目を覚ましたばかりと思われる裕ちゃんの声が僕の隣から聞こえた。時計の針は七時ちょうどを指している。確信はないが恐らく午前七時なのだろう。昨日は夜遅くまで裕ちゃんと論文をチェックしていたが午前三時くらいまでの記憶しかない。僕は裕ちゃんと同じ毛布にくるまれ、同じソファに並んで座って眠っていたようだ。

「お兄ちゃんは?」

 聡美さんの口調は相変わらず厳しい。

「北海道に旅行に行きました。」

 裕ちゃんはまだ眠そうな声だ。

「どういうこと?」

「緊急手術だよ。博士にしか治せない患者さんがいるんだって。」

「そう・・・・・・」

 聡美さんは過去にも経験があるのだろう。即座に理解したようだった。

「それで論文を投げ出すようなこと言ったんであたしと啓ちゃんでなんとかしようと思って昨日から泊り込んでるの。」

「そうなんだ。ありがとう。・・・・・・それは感謝するしすまないと思うけど、でも同じソファで一つの毛布にくるまれて寝てるのはちょっと尋常じゃないと思うけど。」

 聡美さんの心の中に葛藤があるようだ。言葉を選んでいる。

「別にいいじゃない。あたしと啓ちゃんの仲なんだからさ。」

「随分仲がいいんだね。」

 聡美さんが皮肉っぽく言った。

「あたり前でしょ。二人は婚約してるんだから。」

「でもそれはなしにするんだよね?」

「いずれはね。でも婚約解消したとしても幼なじみではあるんだからあたしと啓ちゃんが仲良しでなくなることはないよ。」

「石水君はどうなの?私との約束忘れてないよね。」

 聡美さんが僕に振った。

「もちろんだよ。」

「怪しいなあ。なんだかんだ言って柏崎の議席を狙ってるんじゃないの?」

 それを聞いて僕はムッとした。僕は議席などには興味はない。そもそも僕には政治的な野心などないのだ。今回のボランティアも目の前の美人アナの兄が困っているからということでの無償の支援なのだ。いや、無償という言葉では軽すぎる。僕は身銭を切ってこの常に空腹の兄に差し入れとかもしているのだ。僕はこの兄の恩人であるはずであり、その妹からは感謝される筋合いはあっても文句を言われる存在ではない。

「別に柏崎の議席と啓ちゃんとの婚約は関係ないと思うけど。」

 僕が黙っていると裕ちゃんが言った。

「関係ないわけないでしょ。石水君はお兄ちゃんと裕ちゃんのこと知ってて裕ちゃんに近付いたんだから。」

「どうかなあ。そんなのただの縁だと思うけど。そしてあたしと博士は復縁した。それでいいじゃない?」

「じゃあどうして正式に婚約を解消しないの?結納からもうすぐ一月になるよ。」

「まだ一月でしょ?それはこの前も言ったと思うけど、この婚約には父を初め多くの人が関わっているからおいそれとは解消できないからだよ。父が博士のこと大嫌いなことも知ってるでしょ?」

「それはそうだけど。」

「そんなに心配なの?」

「うん。石水君のことは・・・・・・残念だけどまだ信じられない。」

「じゃあ聡美があたしから啓ちゃんを奪えばいいじゃない。」

「ええっ?」

 聡美さんはビックリした表情を見せた。僕はただ黙って二人の会話を聞いている。

「別に驚くことでもないと思うけど。聡美はミス東大の美人アナなんだからさ。確かに啓ちゃんは真面目一本やりの堅物だけど色仕掛けで迫れば難攻不落でもないよ。案外あっけなかったりして。」

 裕ちゃんがケロッとした表情でそう言うと聡美さんは大きくため息をついた。こういう話題は好きではないようだ。生真面目なのだろう。

「とにかく、裕ちゃんはお兄ちゃんの正式な彼女なんだからね。・・・・・・もちろんお兄ちゃんのことを手伝ってくれてるのは感謝してるけど。・・・じゃあ私は会社に行くので。」

 さんざん文句は言ったものの、兄の手伝いをしてくれていることはすまないと思っているのだろう。最後はややトーンダウンするとそのまま研究室から出て行った。

「なんだよ。急に変なこと言い出して。」

 聡美さんが出て行ったことを確認すると、僕は裕ちゃんをなじった。

「変なことって?」

「色仕掛けとか。」

「ハハハ。まあいいじゃないの。・・・ねえ、啓ちゃんは聡美のことホントはどう思ってるの?」

「どうって?」

「タイプでしょ?」

「何おバカなこと言ってるの。」

「またまた、図星でしょ?あたし、啓ちゃんの女の子の趣味とかちゃんと知ってるよ。」

「まあ、容姿は文句のつけようがないけど。」

「何か不満?」

「僕には不釣合いすぎるよ。」

「それ言うならあたしでも不釣合いじゃない?」

「自分から言うなよ。まあその通りだから言い返せないけど。」

「性格はどう?」

「性格って?」

「聡美のだよ。」

「まあ、真面目すぎるかな。」

「じゃあちょうどいいじゃない。だって啓ちゃんだって真面目でしょ?結構、お似合いかも。」

「だからダメなんじゃない。真面目プラス真面目だとバランスがとれないでしょ?」

「ああ、そういうことか。じゃあ、やっぱりあたしみたいなのがいいんだ?」

 裕ちゃんはおどけた調子でそう言った。返す言葉がなかった。僕は話題を変えた。

「ところで裕ちゃんスケジュールは大丈夫なの?」

「スケジュールって?」

「裕ちゃんのスケジュールだよ。僕は学生だから講義を欠席するくらいたかがしれてるけど、裕ちゃんは相手のある仕事とかがあるんじゃないの?」

「へえ、心配してくれるんだ。さすがは婚約者だけのことはあるね。」

 裕ちゃんは相変わらずおどけた口調だ。

「ねえ、僕は真面目なんだけど。」

「ごめんなさい。でもそれなら大丈夫だよ。昨日、というかもう今日の未明かな?マネージャーさんにメールしといたから。過労のため、二十二日までのスケジュールは全部キャンセルしますって一方的に宣言した。」

「へ~、そんなことできるんだ。まあ、まだデビュー前だし、スケジュールに余裕あるんだね。」

「余裕なんてあるわけないじゃない。分刻みだよ。だから東大病院に救急搬送されて入院したことにしたの。一時的な過労だけど少し休養が必要だと主治医に言われたってことにしといたから。」

「ええっ!またそんな嘘ついて。関係者が見舞いに来たらどうするの?」

「関係者なら見舞いに来るよ。今日、これからマネージャーが見舞いに来るの。まああたり前だよね。あたしはこれでも事務所にとっては大切な商品なんだから。」

「『見舞いに来る』って、どうするつもりなの?こんなところにいたんじゃ仮病だってのがバレバレでしょ?」

「大丈夫だよ。アイデアはあるから。」

「アイデア?」

「そこに啓ちゃんの白衣があるよね?」

「まあ僕の白衣じゃないけど。僕がいつも着てる白衣ね。」

「それと黒田ドクターのネームプレートもある。」

「うん。」

「黒田ドクターは東大病院の正真正銘のお医者さん。だから啓ちゃんが白衣着て、博士のネームプレートつけて医者らしく振舞ってもらえればいいよ。」

「何言ってんだよ。病棟にいるならともかく、救急搬送された患者がこんな汚い研究室の中にいるのは誰が見てもおかしいよ。」

「そうかなあ。啓ちゃんが白衣を着て『ただ寝ているだけでは疲れは取れないので、音楽とは別のことを少しやった方がいいと思って僕の論文を手伝ってもらっています』ってもっともらしく言えば案外ごまかせると思うけど。」

「・・・・・・そんなにうまくいくかなあ?」

「うまくいくよ。大切なのは白衣だよ。医者の権威と言った方がいいかな。お医者さんに言われたら普通の人はそんなもんかと思うよ。」

「う~ん。」

 僕はうなったが論文チェックを進めなければならず、あまり考えている暇もなかったのでともかく裕ちゃんの言う通りにした。

 

 それから三時間ほどして携帯メールに誘導された裕ちゃんのマネージャーが研究室にやってきた。ドアがノックされたので、白衣を着てドクター黒田のネームプレートをつけた僕はドアを開けマネージャーを招き入れた。

「失礼しま~す。白石裕子のマネージャーで~す。」

 マネージャーは自分の名前は名乗らず、明るい声で僕にペコリとあいさつをした。歳は僕と同じくらいだろうか、随分若い女の子だ。背は低く、べっ甲のメガネをかけている。秋葉原にいるアニメ系のキャラのようだ。机に向かい、論文とにらめっこしていた裕ちゃんは顔を上げた。

「すみません。こんなところまでわざわざお越しいただきまして。主治医の黒田と申します。」

 僕はそう言ってわざとらしくネームプレートをマネージャーに向けた。マネージャーはもう一度ペコリと頭を下げ、裕ちゃんの傍まで行き、僕に椅子を勧められて裕ちゃんの隣に座った。

「も~、ビックリしましたよ。急に入院だなんて。」

「ゴメンゴメン。さすがに疲れたんだね。」

 裕ちゃんはやや疲れた表情で言った。

「それでどんな感じですか?」

「うん。少し休んで随分楽になったよ。後、二、三日で退院できると思う。」

「なんで病室にいないんですか?」

 マネージャーが核心を突いてきた。裕ちゃんはそれには答えず、白衣のポケットに手を入れて立っている僕の方を見た。

「それは疲労回復の治療の一環ですよ。白石さん、音楽にかかりっきりで疲れてしまったようですので、音楽とはまったく別のことをやることで逆に疲労を回復させようとしているんです。疲労回復というとベッドに寝たきりというイメージがあるかもしれませんがあれは却っていけません。むしろ疲労蓄積の原因となったことと別のことを積極的にやることによって疲労を早期に回復できるという効果が期待できるんです。」

 僕は医者のように言った。

「へ~、そういうもんなんですか~。」

 マネージャーは半信半疑だ。僕の語りが自信なさ気なのかもしれない。

「ええ。例えば山登りなんかむしろ身体を疲れさせますよね。でも疲労の原因がデスクワークにあったりすると身体を動かす方が疲労回復にはいいんです。白石さん、聞けば東大の卒業生で英語が堪能だとおっしゃるじゃありませんか。それで僕の論文をちょっと手伝ってもらっているんです。」

「そう。机に向っての勉強なんてホントに久し振りなんでなんか却って新鮮。」

「ええっ、裕子さんって東大なんですか?」

 マネージャーが驚いたように言った。

「うん。知らなかった?」

「てか、裕子さんの私生活なんて全然知りませんよ。社長も教えてくれないし。」

「まあ社長もあんまり知らないかもね。それで社長はどんな感じ?」

「そりゃ、心配してますよ。今日も『一緒に行こうか』って言ってたんですけど、『裕子さんのお父さんがいるみたいだ』って言ったら急にトーンダウンして。」

「ハハハ、そうだったんだ。でも見ての通りあたしは大丈夫だから社長にもそう伝えてね。」

「はい。裕子さん元気そうなんで少し安心しました。これ、お見舞いです。」

 マネージャーはそう言って大きなレジ袋を机の上に置いた。レジ袋は白く、中身は見えない。

「お嬢さん、申し訳ありませんが病人の見舞いに長居は禁物ですよ。」

 僕は打ち合わせどおり、マネージャーに早期退席を勧告した。

「ああ、スミマセン。もう失礼します。じゃあ、裕子さん、退院するときは連絡くださいね。お迎えに上がりますから。」

「多分、退院したら自分の足で事務所に行かれると思うけど、まあ、連絡は入れるね。今日はありがとう。みんなによろしくね。」

「はい。失礼します。」

 マネージャーはそう言うと僕に目礼し、ドアのところでもう一度「失礼します」と言って研究室から出て行った。僕は「ふうっ」とため息をついた。裕ちゃんはマネージャー女史が持ってきたお見舞いのレジ袋から何かを取り出している。

「あっ、うなぎだ。うれしー!ろくなもの食べてなかったもんね。でも残念。一つしかないや。」

 レジ袋の中には色々な物が入っているようだったが、裕ちゃんはうなぎ弁当のような容器だけを取り出した。裕ちゃんがケロッとしているので僕はもう一度ため息をついた。

「ねえ、裕ちゃん。」

「ん?」

「さっきのマネージャーさん。」

「ああ、遠藤マネージャーね。」

「随分、若いね。」

「おお、ああいう子が好みかな?」

「またそういうこと言う。」

「まだ二十歳だよ。まあ、なりそこないのアイドルだね。」

「へ~、そういうもんなんだ。」

「芸能界は競争が厳しいからね。」

「権蔵先生がいるとか言ってたけど。」

「ああ言わないと社長が来ちゃうからさ。社長はお父さんが苦手なの。」

「権蔵先生が苦手でない人はいないよ」と言おうとしたがその言葉は飲み込んだ。

「なにはともあれありがとう。上手くごまかせたね。さあ、とにかく早く論文チェックして博士に送ろう。」

 裕ちゃんがそう言ったので僕は白衣を脱ぎ、裕ちゃんの隣に座って作業を再開させた。すると裕ちゃんがうなぎ弁当のふたを開け、さんしょうを振り掛けると割り箸を割り「さあ、どうぞ」と言って僕に差し出した。

「いいよ。裕ちゃんが食べなよ。裕ちゃんのお見舞いなんだろ。」

「あそう。悪いね~。じゃあいただきま~す。」

 裕ちゃんはいつものおどけた口調でそう言うと、ちっとも悪びれた表情は見せず、うなぎ弁当にパクついた。

 

 それから二日が経過し、論文の最終稿は二十一日の深夜に完成し、札幌の病院にいる博士の下にメール送信した。これから博士が最終チェックする。とにかく博士がチェックしている間に眠って二十二日、締切日ギリギリの手直しに備えようということになって裕ちゃんと僕は同じソファに並んで腰掛けて眠った。腰に来るがもう数時間の辛抱だ。ここ三日間、キチンと眠っていないのでさすがに眠い。僕はあっという間に眠りについてしまった。

 それから僕は再び夢とうつつの間を行き来し、窓の外が明るくなっているような気配を感じて目を覚ました。机の方を見ると裕ちゃんは既に起きていてパソコンに向かっている。何時間眠ってしまったのか、自分でもよく分からない。

「おはよう。博士から返信は来たのかな?」

 僕がそう言うと裕ちゃんは回転椅子を九十度回転させソファで目を覚ましたばかりの僕の方を向いた。

「おはよう。よく眠れたかな?結構、いびきかいてて気持ちよさそうだったよ。博士からは自ら手直しした最終版が来て、今、アメリカの雑誌社に送ったところ。間に合ったね。ありがとう。」

 裕ちゃんが満面の笑顔でそう言ったので僕にも笑顔が出た。とりあえずホッとした。

「そうか。良かった。博士、自分で手直しできたんだ。」

「うん。もっとも手直しっていっても一ヶ所だけだったけどね。手術も無事成功したみたい。明日、東京に戻るって。」

「まだ朝かな?」

「七時くらいだよ。あたしは一服したら事務所に向うね。」

「ここから直接行くの?」

「そう。退院して直接ね。ここきてからお風呂入ってないから臭いまんま。妙にリアリティあるでしょ?」

「そういや僕もお風呂入ってないや。なんか久し振りだな。こんなに一つのことで熱くなったの。」

「そう?あたしはなんか久し振りに啓ちゃんと共同作業ができて楽しかったかな。」

「『久し振りに共同作業』って、裕ちゃんと僕で一緒に何かやったことなんかあったっけ?」

「まあ啓ちゃんにとってはどうでもいい記憶かもしれないけど、あたしが柏崎市民音楽祭に出たことがあったじゃない?」

「市民音楽祭?いつだろう?」

「あたしが中学三年のときだから啓ちゃんは中一のときだね。」

「そんなのあったっけ?」

「素人のど自慢みたいなお祭りだよ。啓ちゃんと一緒に曲作ったりしたんだけど。」

「ああ。なんかあったね。裕ちゃん何か賞もらったんだ。」

「うん。優勝はできなかったけどあたしは本選に進んだ出場者の中では最年少だったから。」

「何、歌ったんだっけ?」

「忘れちゃったの?『天使の翼』だよ。」

「『天使の翼』?どんな歌だっけ?」

「信じられない。忘れちゃうなんて。二人で作ったのに。」

「ゴメン。歌ってみてよ。思い出せると思うから。」

「ここじゃダメだよ。今度、ピアノがあるときに歌ってあげるよ。」

「サビの部分だけでいいから。」

「ダメダメ。ここには楽譜もないしね。そっか~、啓ちゃんは忘れちゃってるんだ。あたしにとっては大切な青春の一ページなんだけどね。」

「青春の一ページねえ。」

「そりゃそうだよ。あの時、審査員奨励賞もらってから今年、ポップスコンクールで優勝するまで無冠だったんだから。」

「ああ、そうだったんだ。」

「オーディションも百回くらい受けたよ。でもダメだった。」

「それでも諦めなかったんだ。」

「そう。だから今回のこのチャンスは絶対に逃したくないの。幸い、啓ちゃんと再会できて啓ちゃんのお陰でチャンスは逃さずに済みそうだけど。市民音楽祭のときもそうだったけど、啓ちゃんといるといいことあるね。だからこれからもよろしくね。」

 裕ちゃんはいたずらっぽく笑った。疲れていはいるようだが充実感を感じているようだ。

「僕は裕ちゃんといると何か面倒なことに巻き込まれるような気がするんだけど。」

 僕は本音をポロッと漏らした。

「ごめんなさい。そう言われればそうかもしれない。いっつもあたしが啓ちゃんの生き血を吸ってるようなもんだもんね。」

「そこまでは言ってないけど。」

「いや、そうだよ。啓ちゃんにはいっつもしてもらうばっかりであたしが啓ちゃんのために何かしてあげたってことってあんまりないんじゃないかなあ。じゃあ、やっぱり彼女でもあっせんしますよ。こないだ遠藤マネージャーに興味示してたよね。アイドルのなりそこない。聡美は不釣合いとか言って敬遠してたけど彼女なら釣り合い取れるんじゃない?いい子だよ。なんてったってこのわがままなあたしのマネージャーが務まるくらいなんだから。」

 僕はため息をついた。話題を変えた。

「ところで博士が論文を一ヶ所だけ手直ししたって言ってたけど、どこ直したの?」

「ああ、手直しっていっても一行追加されただけだよ。」

 裕ちゃんはそう言うと目の前のパソコンの画面を論文の末尾までスクロールし、「ほら、ここ」と言って論文のお尻を指差し、僕は液晶を覗き込んだ。論文の末尾には英文で「この論文は有能な助手、ミスターケイイチ・イシミズの助力によるところが大きい」と書かれていた。

 



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六 年末

 十二月二十四日、大学生になって二度目のクリスマスイブの夜、いつもの学ランを身にまとった僕は銀座の高級フレンチレストランの円形テーブルを前に裕ちゃんの到着を待っていた。午後六時の約束なので夜といってもまだ早い時間だ。今朝、急に裕ちゃんから電話があり、ここに呼び出されたのだ。てっきり裕ちゃんは博士とイブの夜を過ごすものと思っていたので少し意外だった。もっとも博士は無神論者のようだからイブの夜には興味はないのかもしれない。あるいは婚約していることのアリバイ作りのためなのかもしれない。いずれにせよ婚約者と一緒にイブの夜を過ごそうということ自体は理に適っている。

 クリスマスイブといえば一年前のこの日もクラスの女の子から「今夜会えないか?」と電話があり、出かけていったことがある。もちろん下心もあったのだろう。なけなしのお金をはたいてプレゼントも準備した。しかし、もてない男が突然もてるのには何か訳があるのだ。待ち合わせの場所には僕以外にももてない男が何人か来ていて唖然としているうちにくだんの彼女が登場、マルチ商法の説明が始まった。だから僕にはクリスマスイブに良い思い出はない。最初から期待はしていなかったが、それでもご馳走にはなるのだろうからプレゼントは用意して行った。

 裕ちゃんの到着を待っていると約束の時間に十分くらい遅れて裕ちゃんが現れた。それだけなら良かったのだが、連れの男がいたので僕はビックリして立ち上がった。

「権蔵先生!」

 僕がそう叫ぶと連れの巨漢は左手をサッと上げた。

「いや、君達の邪魔をするつもりはなかったんだが・・・・・・。この前はすまなかったな。せっかくの結納の席も欠席してしまって。まあかけたまえ。」

 巨漢は豪快にそう言うと豪快に座った。結果論だが僕はこの予期せぬゲストの登場を予想できなくはなかったのだ。最初から円テーブルに椅子が三つ用意してあった。

「いいえ。僕の方こそすっかりご無沙汰してしまいまして申し訳ありません。」

 僕はそういいながら着席し、裕ちゃんも座った。

「選挙はまだ先になりそうだがどうかな?相変わらず勉強していると聞いているが。」

「はあ。」

 僕は力なく相槌を打ち、裕ちゃんの方をチラッと見た。裕ちゃんは「すまない」といった表情をしていたので巨漢の登場は裕ちゃんにとっても予期せぬ展開なのだろう。ここは合わすしかないと思った。

「もっと君にも会って、政治の話とかもしたいのだけどな。いかんせん忙しくてなかなか裕子の相手もしてやれないのだよ。まあ分かってくれ。」

 巨漢がそう言うとソムリエがワインを持って現れ、フランス語を交えてワインうんちくを披露した。そして目の前でコルクを抜き、巨漢にテイスティングをさせるとテーブルの上のワイングラスに注いでまわった。

「じゃあまずは乾杯だ。メリークリスマス。」

 巨漢の音頭で裕ちゃんと僕もグラスを合わせ、恐らく最高級に区分されるであろう赤い液体を体の中に流し込んだ。巨漢はワインを一気に飲み干し、豪快に笑った。ソムリエがすぐに二杯目を注ぐ。

「こんな格好で申し訳ありません。権蔵先生がおいでになるのでしたらもう少しまともな格好をするべきでした。あいにくこれしか着るものがありませんので。」

「随分、苦学していると聞いているよ。」

「僕の家は裕福な方ではありませんので。裕子さんにもふさわしくないのかもしれません。」

「それは逆だな。むしろ若いうちは苦労した方がいいのかもしれない。・・・それで、今日はクリスマスイブだけど裕子には何かプレゼントを準備しているのかな?」

「あっ、はい。」

 急に話題をプレゼントに振ったのでビックリしたが幸い、用意はしてある。

「私にも見せてもらっていいかな?悪趣味かな?」

 そう言われて僕は裕ちゃんと顔を合わせた。裕ちゃんは引きつっている。裕ちゃんは僕がプレゼントの用意などしていないと思っているのだろう。

「別に構いませんが。」

 僕はそう言って上着の左側の外ポケットに入れていたプレゼントを取り出し、「つまらないものだけど、メリークリスマス」と言って裕ちゃんに渡した。

「あっ、ありがとう・・・・・・開けてもいいのかな?」

 裕ちゃんは相変わらず動揺しているようだ。

「もちろんだよ。」

 僕がそう言うと裕ちゃんは黙ったままプレゼントの包装を丁寧に開けた。中から白い小箱が現れ、それを開けると「まあ!」と裕ちゃんはニッコリ笑い、巨漢が横から覗き込んだ。

「かわいい~!ありがと~。ほら、お父さん見て。」

 裕ちゃんが小箱を巨漢に渡した。巨漢は小箱を受け取りしげしげと見つめる。中にはパステルピンクのハートのイヤリングが入っている。

「ありがとう。こういうの欲しかったんだ。よく分かったね。」

「欲しいかどうかは分からなかったけど裕ちゃんに似合いそうなんで選んでみた。」

 僕はそう言って巨漢の方を見た。巨漢はしばらくそのイヤリングを見つめていた。

「安物で申し訳ありません。」

 巨漢があまりにもしげしげとイヤリングを見つめていたので僕の方から声をかけた。

「ブランド物ではないのだな?」

 巨漢がやや苦笑した声で言った。ブランド物ではないのは当たり前だ。僕にそんな余裕などあるわけないし、裕ちゃんはただの幼なじみに過ぎないのだ。

「スミマセン。僕はその~、貧乏学生ですので。」

「立派だよ。背伸びしないんだな。それに実力もないのにブランド物をプレゼントする奴にはろくな奴がいない。」

 巨漢はかって知ったるように言った。そういう経験をしているのかもしれない。

「別に裕子さんを軽視しているわけではありません。」

「分かっているよ。大切なのはハートだ。・・・・・・今日はお邪魔してすまなかったな。その、・・・・・・色々とおせっかいというか、意見するものがいてな。君達が上手くいってないんじゃないかと言う輩がいたんだ。それで心配になってしまったんだ。まあ親心だと思って笑って許してくれ。すべて私のとりこし苦労だった。でも来て良かった。君達のことは君達にまかせておいて大丈夫だということが分かって安心したよ。じゃあ私はこれで失礼する。」

 巨漢はそう言うとワイングラスを手に取り、二杯目のワインを一気に飲み干して席を立ったので裕ちゃんと僕も席を立った。

「啓一君。よく勉強していると聞いているよ。君には期待している。これからも裕子のことをよろしく頼むよ。じゃあ。」

 巨漢はやはり忙しいのだろう、ちょうどギャルソンがスープを持ってきたところだったがそれには目もくれず颯爽と個室から出て行った。裕ちゃんがその後を追いかけ、僕は着席し、ワインを少し口に含んで喉の渇きを癒した。しばらくすると「やれやれやれ」と言いながら裕ちゃんが戻ってきてもとの席に座り、水を一口飲み、深呼吸した。

「ごめんなさいね。お父さんが昨日、『クリスマスイブは啓一君と会うんだろう?』って突然言ったもんだから。」

 裕ちゃんはスプーンを取り、スープに手をつける。

「それで?」

「あたし達、婚約はしてるけど普段、ほとんど会わないじゃない。まああたしが音楽の方で忙しいということにしてるんだけどね。それでも会わなさ過ぎるもんだからお父さんも怪しいと感じ始めてるの。それで本当に婚約してるならさすがにクリスマスイブには会うだろうって考えたようで、会うなら久し振りに自分も啓ちゃんに会いたいって言い出したの。それで、急遽、こういうセッティングをさせていただきました。」

「そっか。やっぱりアリバイ作りのためだったんだね?」

「そう。ゴメンね。急に呼び出して。でもよくプレゼント準備してくれてたね。あれにはビックリ。しかもハートのイヤリングなんて。博士だってプレゼントなんかくれたことないのに。」

「博士は無神論者だからクリスマスには興味ないんじゃないの?まあイブの夜に会うのに手ぶらじゃ気が利かないかなあと思って。一応、婚約者ではあるんだし。」

「ありがとう。父がプレゼントの話をしたときは心臓が止まるかと思ったよ。もしプレゼントがなかったらホントに怪しいもんね。でもプレゼントくれたのはすごくうれしかった。博士から啓ちゃんに鞍替えしちゃおうかなって思ったくらい。」

 裕ちゃんは冗談ぽく言った。事実、冗談だったのだろう。

「どうせ安物だよ。」

「気持ちの問題だよ。」

「それにしても権蔵先生が来たのはビックリしたなあ。あらかじめ言ってくれれば良かったのに。」

「言ったら啓ちゃん、逃げちゃうかもしれないでしょ。」

「確かにその通りだけど。・・・・・・権蔵先生、選挙とか言ってたけど本気なの?僕はまだ学生だよ。」

「それは時間が解決する問題でしょ。」

「僕がよく勉強してるみたいなこと言ってたけど、僕の話なんかするの?」

「時々はね。でもあたしの話よりもお父さん、探偵を雇って啓ちゃんのこと調べたみたいだよ。」

「探偵?」

「今までもそういうことしてたみたい。柏崎の議席を狙ってる男は多いからね。」

「なるほど、素行調査ってことだね。」

「そう。でも啓ちゃんは百点満点だった。啓ちゃん、大学の授業、全部出てるんだってね。しかも一番前の席に座るんだって?」

「ああ。まあ僕は勉強が好きだからね。好きでやってることだから。裕ちゃんの音楽と同じだよ。そんなことまで調べたんだ。」

「そう。だから啓ちゃんはすっかりお父さんのお気に入りになったよ。変な遊びもしないみたいだし。あたしも助かってます。」

「そっか。」

 僕がそう言ってため息をつくとギャルソンがオードブルを運んできた。

「・・・・・・でっ、啓ちゃんは今晩、何か予定は入ってなかったの?」

 僕が運ばれてきたオードブルを眺めていると裕ちゃんが少しモジモジしながら申し訳なさそうに聞いた。

「入ってるわけないじゃないか。僕は裕ちゃんと婚約してるんだぞ。イブの夜は恋人と過ごす、それがまっとうなイブの過ごし方だと思うけど。」

「そうでした。・・・・・・ゴメンね。あたしは・・・・・・次があるからこれで失礼しますけど。」

 まだオードブルが出てきたばかりだというのに裕ちゃんはしれっとそう言ったが、さすがにまずいと思っているのだろう。

「次って・・・・・・そうか・・・・・・博士だね。東京に帰ってきたんだ。」

 そうなることは分かっていたのだがなんとなく寂しい。声のトーンにも出ていたかもしれない。僕は昨日、今日は研究室に顔を出していないので博士の帰京は知らない。

「ホント、ゴメンねえ。いつもいつも啓ちゃんのこと踏み台にしちゃってるみたいで。」

 裕ちゃんはそう言いながらハンドバックからタブレッドを取り出した。

「いいよ。そんなことは百も承知で僕は引き受けたんだから。で、デビューの方はどうなの?」

「お蔭様で順調だよ。来年の二月一日にデビューアルバムが発売される。」

「いきなりアルバムなの?」

 僕は業界のことは良く知らないがいきなりアルバムでデビューということはめったにないはずだ。裕ちゃんは口に含んだタブレットを水で流し込みながら

「そう。演歌みたいにスロースタートにはなるかもしれないけど、じっくりやるよ。じゃあ、あたし急ぐんで。啓ちゃんはゆっくりしていってね。あたしとお父さんが食べる分はお持ち帰り用に包んでもらうよう頼んどくからお土産に持って帰ってね。・・・・・・この埋め合わせはいつか必ずするから。啓ちゃん、年末年始はこっちにいるんでしょ?」

「そうだね。僕には盆も正月もないからね。」

「たまには柏崎に帰って親孝行もしてね。」

 裕ちゃんはニッコリ笑ってそう言うとプレゼントのハートのイヤリングをバッグにしまい、「じゃあ」と手を振って僕の視界から消えて行った。寂しいという思いと最初からこうなることは分かっていたという思いが僕の中で交錯した。僕はギャルソンを呼び、連れは急用ができて帰ってしまったので早めに料理を出すようリクエストし、一人だけの気を使わないディナーを楽しんだ。そして午後八時前には仙川のおんぼろアパートに帰宅し、机に向い、簿記の問題集を広げた。寒いクリスマスイブの夜だった。

 

 それから一週間ほどが経過し、この年も大晦日を迎えた。冬休みもレギュラーのバイトが入っているので僕は柏崎には帰らず、仙川の安アパートとバイト先を行き来する日々を送っている。裕ちゃんとはクリスマスイブに会ったのを最後にそれきりになっている。きっと、博士と楽しい年末年始を迎えていることだろう。僕はホッとするような、それでいて寂しいような、なんだか不思議な気分だ。

 午後五時頃、おんぼろアパートの一室で簿記の勉強をしているとドアが不意にノックされた。僕は一瞬、裕ちゃんの気配を感じた。辺りはもう暗い。

(「大晦日の夜、カウントダウンを婚約者の僕と過ごすために裕ちゃんが尋ねてきてくれたんだ。」)

 そんな都合のいい予感がして僕は急いでドアを開けた。しかしドアの向こうには意外な人物が立っていた。

「やあ、石水君。話には聞いていたけど、随分、おんぼろなアパートだな。」

「博士!どうされたんですか?」

「裕子から聞いてないのか?」

「ええ、何も。」

「そうか。これ持ってここに来るように裕子に言われたんだ。」

 博士の両手にはクーラーボックスとスーパーのレジ袋、それに十八インチくらいのテレビが握られていた。

「まあ、上がってください。」

 僕がそう言うと「じゃあ、お邪魔するよ」と言って博士が上がりこんだ。

「コタツは押入れかな?」

「はい、そうですけど。出しますか?」

「ああ。裕子に宴会の準備をしておくように言われているんだ。」

「宴会・・・・・・ですか?」

「忘年会でもやるんじゃないか。まあ、君にも随分と世話になったから慰労会というところかな。」

 慰労会はいいが、慰労される者の部屋に無予告で上がりこんでくるのもいかがなものだろうか。まあ裕ちゃんらしいといえばそれまでだが。僕がコタツをセットすると、博士はスーパーのレジ袋から乾き物を取り出し、コタツの上に並べた。

「乾き物ばかりだけど、腹に溜まるものは後で裕子が持ってくるんじゃないかな。」

 博士はそう言うと今度はクーラーボックスから缶ビールを取り出し、自分と僕の前に一つずつ置いた。

「これは?」

 僕は博士が持ってきたテレビを指差して尋ねた。

「これも裕子に持ってくるように言われたんだ。テレビもない殺風景な部屋だって言われてね。でも俺が君の年齢だったときに比べればはるかに恵まれてるよ。・・・・・・じゃあ先にいただこうか。」

 博士はそう言って缶ビールのプルタブをあけ、僕にもあけるよう促した。

「裕ちゃんも来るんじゃないんですか?」

「いいよ。『先に始めといてくれ』って言われているから。」

 僕もプルタブをあけた。

「じゃあとりあえずカンパ~イ。」

 博士は自分の缶を僕の缶に合わせるとゴクゴクとビールを喉に流し込んだ。

「プハ~ッ。なんだか一年間の疲れが取れるような気がするよ。」

「お酒飲むんですね。博士は研究にしか興味がないのかと思いましたよ。」

 僕は冷めた表情で言った。博士は乾きものの袋を適当に開け始める。

「大きな山を越えたからな。まあ俺にも息抜きが必要だってことだ。」

「これからどうなるんですか?」

「これからか。まあ、年が明けてからの話になるけどな。アメリカで俺の論文が発表される。その論文を世界の学会がどう評価するかだ。いい評価を受けることができればどこかの研究機関が雇ってくれるだろう。」

「日本を離れるんですか?」

「そうありたいね。でもまだまだダメだろうな。本当は今すぐにでもアメリカに留学したいところだが金もないしね。もっと研究を重ねて論文を書いて、まだしばらくは下積みだよ。」

 博士は自分のセリフを自分で噛み締めるようにもう一度ビールをグイっと飲んだ。

「なあ、石水君。」

「はい?」

「俺と一緒にアメリカに行かないか?」

「はあ?なにをおっしゃるんですか?」

「君と一緒なら案外、うまくやれそうな気がするんだ。」

「うまくって、僕は何もできませんよ。医学のことなんか分からないですし。」

「ああ。医学のことはいいんだ。金の計算をしてくれればなと。」

「お金の計算、ですか?」

「俺は金の計算には興味はない。医業に専念できればそれでいいんだ。しかし、社会というのは厄介なところで、金の計算もできないと面倒くさいものなんだよ。税金とか保険とか、余計なものがたくさんあるからな。だから君は俺が医業に専念できるように俺をマネジメントしてくれればいい。」

「マネージャーになれってことですか?」

「簡単に言うとそういうことかな。でも悪い話じゃないと思うぞ。俺は天才だ。俺を利用すれば存分に金儲けできると思うよ。」

「はあ、まあ・・・・・・考えてみます。・・・・・・せっかくですからテレビをセットしますね。」

 博士があまりにも突拍子もないことを言ったので僕の方から話題を変えた。

「ああ。準備ができてないと裕子がうるさいかもしれないな。」

 博士がリラックスした表情でそう言った。僕は簿記のテキストをどかし、机の上にテレビを置き、アンテナをつなげた。

「なあ、石水君。」

 テレビの設定をしていると博士が不意に声をかけた。

「はい?」

「裕子と婚約してるんだってな。」

 博士は表情を変えずにポツリとそう言った。僕は一瞬固まったが、冷静に作業を続けた。

「ご存知だったんですか?」

「二週間くらい前かな。ヤマザキとかいう裕子の親父の秘書を名乗る男が来てそんなことを言っていたよ。」

「研究室に来たんですか?」

「ああ。俺と裕子のことは知っているようだった。まあ、俺は裕子の親父にも会ってるしな。」

 二週間前といえばまだ論文の締め切り前でバタバタしていた頃だ。

「何か言われたんですか?」

「『裕子にはつきまとうな。婚約してるんだ』ってなことを言ってたよ。」

「婚約のこと、裕ちゃんには聞いたんですか?」

「便宜上、婚約していることになっているだけだって言ってた。」

「そうですか・・・・・・」

「実際のところはどうなんだ?裕子にはそれ以上聞かなかったが。」

「興味あるんですか?」

「興味というか好奇心だよ。」

「本当に好奇心だけですか?」

 僕はちょっと意地悪く尋ねた。

「・・・・・・いや、・・・・・・本当は興味大ありだというのが正直なところかもしれない。」

「どうしてそんなにまどろっこしいんですか?もっとストレートに自分の気持ちに正直になったらいいじゃないですか。」

「まったくだな。でも、俺はろくな人生を歩んでこなかったんだ。俺に素直さを求めるのは無理だよ。」

「本当は裕ちゃんのことが大好きなんですよね?」

「・・・・・・ああ。その通りだよ。くやしいがその通りだ。柄じゃないんだけどな。」

 博士はそう言うと手にしている缶ビールをぐいっと飲んだ。

「ならどうしてもっと自分の気持ちを素直に裕ちゃんに伝えないんですか?・・・・・・僕が裕ちゃんと婚約しているのは事実です。でも婚約は解消するつもりです。その・・・・・・、妹さん、聡美さんに『裕ちゃんを返して』って言われまして。・・・・・・ですから、今すぐは無理ですけど将来的には婚約は解消する予定です。裕ちゃんもそのつもりです。それは博士もご存知のはずです。」

「ああ。裕子から聞いている。でも、君はそれでいいのか?」

「いいのかとおっしゃいますと?」

「随分無理して裕子と婚約したって聞いてるけど。」

 別に無理などはしていない。所詮は作り話なのだ。しかしここは演技をして裕ちゃんに話をあわせておかなければならないのかもしれない。

「確かに無理はしたかもしれません。でも、所詮は幼なじみが婚約者に昇格しただけのことですから。昔の幼なじみに戻るだけです。」

「そうか。・・・・・・俺は正直、君には勝てないんじゃないのかなって思ってもいるんだ。」

「何をおっしゃいますか。裕ちゃんはあなたのために・・・・・・」

「俺より君の方がよっぽど裕子のことを理解しているよ。裕子のことを受け止める度量もある。」

 博士がそう言うとまた不意にドアがノックされた。鍵はかかっていないのでそのままドアノブが回転し、「こんばんは~」という声と同時に裕ちゃんが入ってきた。

「お待たせ。お腹空いちゃったかな?」

 裕ちゃんは恐らく寿司なのだろう、テイクアウトの料理が入っていると思われる丸い大型の容器を抱えて部屋に入ってきた。後ろに人影がある。

「こんばんは~。お邪魔しま~す。」

 聡美さんが裕ちゃんに続いて入ってきたので僕は少しビックリしたが、聡美さんが現われたことよりも見覚えのあるイヤリングが聡美さんの両耳で揺れていたことの方が衝撃だった。聡美さんはケーキが入っていると思われる箱をぶら下げている。

「聡美さんも来たの?」

「いいでしょ。今日はまあ、啓ちゃんに日頃の感謝を込めての忘年会だよ。」

 裕ちゃんは外套を脱ぎ、寿司一台とオードブルの入った皿をそれぞれコタツの上においた。聡美さんも外套を脱ぎ、小皿や割り箸を置いていく。いつも三人でこういうことをやっているのかもしれない。なかなか手際がいい。

「来るなら来るで連絡くれればよかったのに。」

「ゴメン、ゴメン。色々とバタバタしててつい連絡入れそびれちゃった。それに啓ちゃん年末は帰らないって言ってたし、確実にここにいるだろうなあと思って。まあサプライズパーティーだと思ってよ。迷惑だったかな?」

「まあ、いいけど・・・・・・。」

 僕はそもそも断れない性格だ。ここまでセットされたら今さら出て行けとは言えない。

「じゃあ早速始めましょうか。博士と啓ちゃんはもう始まっちゃってるんだろうけど。」

 僕の気持ちをよそに裕ちゃんはそう言いながらクーラーボックスから缶ビールを二缶取り出し、一つを聡美さんの前に置き、プルタブを開けた。聡美さんもプルタブを開け、博士と僕は缶を握った。

「それでは皆さん、準備はよろしいでしょうか?一年間、ホントにお疲れ様でした。では何はともあれカンパ~イ!」

 裕ちゃんが音頭をとり、黒田兄妹と裕ちゃんそして僕の忘年会は始まった。

 

「ねえ、聡美。」

 コタツでゴロゴロ横になっていた裕ちゃんが不意に聡美さんを呼んだ。博士は一時間ほど前から既にコタツの中で熟睡状態に入っている。テレビには年末恒例の大型歌謡番組が映し出されていて、今年ももう後二時間くらいで終了する。コタツの上にはご馳走と缶ビールが無造作に置かれていた。

「何?」

「クリスマスイブはどうしてたの?」

「どうって、仕事だよ。」

「そっか、仕事が入っちゃったんだ。」

「休みたい人多いからね。私みたいに何もなくて、田舎にも帰らない人は仕事だよ。」

「でも、『一緒にクリスマスを過ごしませんか?』みたいなお誘いはあったんじゃない?」

「それはあったけど・・・・・・」

「聡美、モテモテだからね。・・・・・・啓ちゃんは?」

 裕ちゃんが今度は僕に振った。

「えっ?」

「クリスマスイブだよ。誰かと一緒に過ごしたの?」

 僕は一瞬、聡美さんと顔を合わせた。目が合った。

「いや、僕も一人だったけど。」

「イブの夜だよ?」

「ああ。一人でこの部屋にいたよ。」

 厳密に言えば嘘かもしれない。でもイブの夜、裕ちゃんは博士と一緒だったはずで、解釈の問題とも言える。裕ちゃんは少し沈黙した。

「・・・・・・何やってたの?」

「勉強だよ。」

「相変わらず簿記?」

「ああ。」

「そう。せめてバイトにでも行けば良かったのに。」

 裕ちゃんは目をつぶったまま寝言のように語り掛ける。随分、眠そうだ。

「何が言いたいの?」

 僕は裕ちゃんに聞いたが、裕ちゃんはそれには答えず

「ねえ、聡美は今、付き合ってる人とかいるの?」

「いや、別にいないけど。」

「そうだよね。もしいたらあたしには報告するよね。」

「うん。」

「じゃあ、啓ちゃんと付き合っちゃえばいいじゃない。」

「ええっ。」

 裕ちゃんがそういったので聡美さんはビックリした表情を見せ、聡美さんと僕はまた顔を合わせ、すぐにそらした。

「いいじゃない。啓ちゃんも今はフリーなんだから。啓ちゃんはどう?」

「どうって、急に言われても・・・・・・」

「いいじゃん。ミス東大の美人アナが彼女だなんてうらやましいけどなあ~。それにもしもよ、あたしが博士と結婚して、聡美と啓ちゃんが結婚したとしたらあたしと啓ちゃんは義理の姉と弟ってことになるんでしょ?今までも姉と弟みたいなもんだったけど、正式に縁ができるんだよ。そしたらちょっと縁は遠いけど、権蔵の娘の連れ合いの妹の連れ合いってことで選挙にも出られるかもしれないじゃない。お父さん、啓ちゃんのこと気に入ってるし、ちょうどいいかも。」

 裕ちゃんが眠そうにそう言うと、テレビでは今年、一番売れたグループが登場し、三人の視線がそちらに向かった。裕ちゃんがあまりにも唐突なことを言ったので聡美さんも僕も突っ込みたくなかったというのが本当のところかもしれない。裕ちゃんが腕枕のまま「あたしも来年はこのステージに立てるかなあ~」とつぶやいた。

 

 グループのパフォーマンスが終了すると聡美さんが「裕ちゃん、寝ちゃったね」とつぶやいた。裕ちゃんを見ると腕枕で目をつぶり、スヤスヤと眠ってしまっていた。博士も当分起きる気配がない。この四畳半の空間に聡美さんと僕だけが取り残された。さっき裕ちゃんが変なことを言ったので少し気まずい。

「あの~っ・・・・・・」

 二人の声は偶然、重なった。

「あっ、お先にどうぞ。」

 右手の手のひらを返して僕が言うと、聡美さんは「石水君こそお先に」と言って、お互いに譲り合った。少し沈黙した。

「…・・・じゃあ、僕から言うね。今日はありがとう。来てくれて。お蔭様で楽しい年末を迎えられたよ。」

 僕がそう言うと聡美さんはしんみりうつむいた。

「私の方こそありがとう。」

「ありがとうって、僕は何もしてないけど。」

 僕がそう言うと聡美さんはコタツから出て、僕の前で正座した。ハートのイヤリングがちょっぴり眩しい。

「裕ちゃんを返してくれてありがとう。それから兄のことも手伝ってくれて・・・・・・」

「いや、それは、その~・・・・・・」

 所詮、裕ちゃんと僕のことはお芝居だったので言葉が続かない。

「私、裕ちゃんと石水君のことが本当になくなったかどうかは半信半疑だったんだけど、今の裕ちゃんが言ったことでなんとなく分かった。本当に結婚は止めにしたんだね?」

「あっ、まあそういうことだね。」

 僕は裕ちゃんをチラッと見た。

「今日は裕ちゃんから誘われたんだけど、裕ちゃん、石水君がとても落ち込んでるって言ってた。ゴメンなさい。私のせいだよね。私が裕ちゃんと石水君の仲をぶち壊したんだから。」

「ぶち壊すって、そんなことないよ。ただ、裕ちゃんと僕は元のただの幼なじみに戻っただけだよ。」

「ありがとう。そんなこと言ってくれて。・・・・・・それで、私に何かできることあるかな?」

「できることって?」

「約束したでしょ?私にできることならなんでもやるって。」

 本当に裕ちゃんの代わりを務めるつもりなのだろうか。もし本気だとしたら本物の兄妹愛だ。

「そのイヤリング・・・・・・」

 僕は聡美さんの質問には答えずポツリと言った。

「えっ?」

「そのイヤリング、どうしたの?」

「あっ、これ?これは、・・・・・・さっき裕ちゃんにもらったんだけど。・・・・・・もらいものだけど自分じゃ使わないからって・・・・・・」

 そこまで言って聡美さんはハッとした。言ってはいけないことを言ってしまったと思ったようだ。

「そう・・・・・・」

 僕は別に演技をしたわけではなかったのだがなんとなくしんみりそう言った。お芝居とは分かっていても実は寂しいというのが僕の本音だったのかもしれない。きっとそうだったのだろう。

「ねえ、石水君。裕ちゃんって前にもこの部屋に来たことあるの?」

「まあ、あるけど・・・・・・」

 モンブラン持って急襲されたことはあるので「あるの?」と聞かれれば答えは「イエス」だ。

「そうだよね。二人は婚約してるんだもんね。・・・・・・石水君、ごめんなさい。私、・・・・・・石水君のこととっても傷つけたよね?」

「そんなことないよ。僕の人生はこんなものさ。僕は大器ではないけど晩成ではあるんだ。いつかきっと取り返すよ。」

「私にできることならなんでもするよ。・・・なんでも言って。」

「・・・・・・ありがとう。でも、今はいいや・・・・・・」

「そうだよね。・・・・・・私は裕ちゃんにはなれないもんね。」

 聡美さんもしんみりした口調でそう言った。

 それからカウントダウンが過ぎても博士と裕ちゃんは起きることはなく、カレンダーが新しくなった。

 



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七 留学

 年が新しくなってからも僕は暇を見つけては博士の研究室に通い、研究機材を洗い、調べものをし、原稿をチェックした。博士は年が明けてからもさらに勤勉で実直で、寝る暇も惜しんで研究に没頭している。案外、こういう人と知り合えただけでも裕ちゃんと再会した価値があったのかもしれない。

 そんな生活の中で時間は流れ、二月一日、ついに裕ちゃんのデビューアルバムが発売された。いきなりアルバムでデビューというのもすごいと思ったが、ポップスコンクール優勝という割にはマスコミの扱いは小さく、とても地味なデビューだった。それから僕は音楽雑誌やインターネットなどで少し情報を集めたが、なかなか裕ちゃんの情報は得られない。博士にも聞いてみたが博士自身、裕ちゃんの音楽活動にはあまり興味はないようだった。本人とは大晦日から新年にかけてかなり近い距離にはいたがそれっきりで、裕ちゃんと僕は相変わらず婚約者ではあったものの、婚約者よりも婚約者の彼氏と過ごす時間の方が長いというありえない生活をしていた。

 裕ちゃんの滑り出しは堅調という表現が正確なのだろう。ポップスコンクール優勝者という肩書きは生きているようでアルバム売上は桜の季節まで八週連続でベスト五十から落ちることはなかった。むしろ上昇傾向にあるくらいだった。

 そしてキャンパスの卒業シーズンも一段落し新しい季節を迎えようとしていた三月の下旬、博士のいる東大の研究室に行くと珍しく博士は上機嫌でニコニコしながら雑誌の記事を「ほら」っと僕に見せてくれた。英文なのでチンプンカンプンだが博士の名前が横文字で書かれていることは分かった。

「なんですか、これは?」

「そういうレベルだよなあ、君は。」

 相変わらず博士は人をバカにした口調だが僕もいい加減なれている。

「スミマセン。」

「まあ、謝られても仕方ないけどな。・・・この雑誌、アメリカでは比較的権威のある医学雑誌なんだ。」

「なるほど論文が評価されたんですね?」

「そういうことだ。」

「おめでとうございます。よかったじゃないですか。」

「まあ、君にはこのすごさは分からないだろうけどな。」

 僕としては最大の賛辞を送ったつもりだったが本人は不満なようだ。それでも普段の博士に比べればはるかに上機嫌だ。

「それで、・・・・・・向こうの研究機関からお誘いはあったんですか?」

「あったはあったんだが、大したところからは来なかったよ。まあ日本人の実力なんてそんな程度にしか評価されていないのが現実なんだけどな。一つだけ満足できるレベルの研究所から誘いがきたけど、残念ながら研究者としてではなく、留学生として来ないかというオファーだったよ。」

「どういうことです?」

「つまり向こうでフルタイムの仕事はおろかパートタイムの仕事すらないということさ。ただ勉強しに来ないか?ということだ。それだけじゃない。留学というからにはそれなりの資金もいる。」

「どれくらい必要なんですか?」

「君がすぐには準備できないくらいだよ。」

「そうですか・・・・・・」

「せめて留学でもできれば少しは道も開けるんだろうけどな。まあ、また仕切りなおしだ。ともかく科学雑誌で評価されるくらいまでは来たということだ。後、一押しだよ。」

 博士はそう言って微笑んだがどこか力強さはなかった。やはり残念なのだろう。

 季節も良くなってきたので僕は博士をお花見に誘ったが、博士にはやんわりと断られた。論文が、本人が思うほどには評価されなかったという残念な気持ちもあったのかもしれない。僕は博士をそっとすることにしてその日は少し早めに研究室を後にした。

 

 桜があちこちに咲き始めている本郷の街を御茶ノ水駅方面に歩いていると不意に携帯のバイブレーションが震えた。ディスプレイを見ると「裕ちゃん❤」と出ている。携帯の住所録に愛称で登録し、その愛称にハートマークまで付けるのは僕の柄ではないのだが、「苗字と名前じゃあまりにも他人行儀だ」と裕ちゃんに勝手に設定されてしまったのだ。

「もしもし。」

「あっ、啓ちゃん?今いいかな?」

「うん。」

「今、どこ?」

「本郷だけど。東大に来てたから。」

「ああ、博士のところね。」

「博士の方は終わって、これから仙川に帰るところだよ。今、駅に向かって歩いてる。」

「そっか。ねえ、今から新橋まで来てくれないかなあ。」

「新橋?」

「聡美に呼ばれてるの。あたしと、啓ちゃんにも話があるんだって。」

「聡美さんが。なんだろう。」

「まあ大体予想はつくけどね。」

「何?」

「留学の件だと思うよ。」

「留学?」

「とにかく詳しいことは会ってから話すよ。新橋に向かって。どこで会うかはまた連絡するから。」

「はい。」

 そう言って電話は切れ、僕は新橋に向かった。新橋に着いた頃のタイミングで再び、携帯に電話があり、僕はその電話の指示で駅の近くの喫茶店に入った。随分、高級そうな喫茶店で、高級ビジネスマンおあつらえ向きなのだろう。学生服の僕にはとても不釣合いだ。

 店内を見回すと先に聡美さんが僕に気付き、手を振った。裕ちゃんはもちろん僕より先に来ていて、僕は裕ちゃんの隣に座り、裕ちゃんと二人で聡美さんと向き合った。

「石水君、お久し振り。」

「ああ、こんにちは。お久しぶりです。」

 聡美さんは満面の笑みだ。こんな機嫌のいい聡美さんと会うのは出会って結構、初めてかもしれない。

「今、裕ちゃんとも話してたんだけど、お蔭様でお兄ちゃんの論文、アメリカの学会で高い評価を受けることができました。ありがとうございました。」

 聡美さんはそう言ってしおらしく、裕ちゃんと僕に頭を下げた。

「ああ、良かったね。今、東大に行ってきたんだけど、博士に論文を絶賛する記事を見せてもらったよ。まあ僕にはなんのことかチンプンカンプンで博士には嫌味を言われたけど。何はともあれおめでとうございます。留学の話も来てるみたいだね。」

 僕がそう言うと聡美さんの表情が硬くなった。

「そう。それで二人にお願いがあるの。」

「お願い?」

「お兄ちゃん、実は留学を希望してるの。口には出さないけど私には分かる。アメリカに行けばきっと道を切り開いていけると思うから。」

「うん。」

「でも今はやめて欲しいの。」

「なんで?いい話じゃない。」

 僕が聞いた。裕ちゃんはさっきから黙っている。

「確かにお兄ちゃんにとってはいい話に違いないと思う。でもお兄ちゃんがアメリカに行っちゃうと私は本当に独りぼっちになっちゃうの。分かるでしょ?」

「それは分かるけど、博士の成功は聡美さんの願いでもあるんじゃないの?」

「それはそうなんだけど・・・・・・」

「どうかしたの?」

「実はね、裕ちゃんはもう知ってるんだけど、お兄ちゃんと私は血が半分しかつながってないの。腹違いの兄妹なの。そしてお兄ちゃんは私の母親のことが大嫌い。」

「聡美さん・・・・・・」

 なるほど、兄妹なのに似ていないわけだ。

「だから、アメリカに行っちゃったらもう帰ってこないんじゃないかと思って。私にももう会ってくれないんじゃないかと思って。」

「そんなことはないでしょ。今まで二人で苦労してきたんだから。」

「私にはなんとなく分かるの。私ももう社会人。一人で生きていかれるから。でも私も苦しいの。独りぼっちにはなりなくない。もう少し時間が欲しい。ようやく貧乏からも脱出できたんだし。・・・それに研究は別に今、アメリカに行かなくても日本でもできるじゃない。留学資金だってまだないんだしさ。」

「留学資金ってどのくらい必要なの?博士は教えてくれなかったけど。」

「三百万円。だからどうかお兄ちゃんにお金を貸したりしないで欲しいの。裕ちゃんもお兄ちゃんに日本にいてもらいたいでしょ?」

 聡美さんが今度は裕ちゃんに振った。

「そりゃそうだよ。あたしもデビューしたばっかりで心の支えが欲しいからね。アメリカに行くならあたしも一緒だよ。あたしも将来の夢は世界制覇なんだから。」

「そう言ってくれると安心ではあるんだけど・・・・・・」

 聡美さんのトーンが落ちる。

「何かあったの?」

 僕が聞いた。

「十二月にお兄ちゃんのところに裕ちゃんのお父さんの秘書の人が来たの。」

「それは知ってる。山崎さんでしょ?」

 裕ちゃんが冷静に答えた。僕もそのことは博士から大晦日に聞かされて知っている。

「なんの話をされたのかは知ってるのね?」

「うん。あたしにまとわりにつくなって言われたんでしょ?ホントはまとわりついてるのは、あたしの方なんだけどね。」

 裕ちゃんがそう言うと聡美さんは僕の方をチラッと見て続けた。

「まだ正式に婚約解消はしてないんでしょ?」

「それは仕方ないよ。あたしデビューしたばっかりなんだよ。ここでお父さんの機嫌を損ねたらお父さんはあらゆる手を使ってあたしをつぶしにかかるよ。それは分かってよ。」

「石水君はどうなの?」

 聡美さんは僕に振った。

「どうって?」

「裕ちゃんより心配なのは石水君の方。お兄ちゃんにお金を渡せばお兄ちゃんをアメリカに追いやれるもんね。」

「何言ってるんだよ。右に同じだよ。・・・・・・そもそも博士とは大晦日の日に二人でその話もしているんだ。博士、裕ちゃんのことは渡さないって言ってて僕もそれに同意したよ。博士から聞いてないのかな?」

 僕は大晦日の出来事を少し誇張して伝えた。

「あっ、そんな話してたんだ。私がお邪魔する前だね。な~んだ。お兄ちゃんそんな話全然してなかった。」

「まあ、博士がそんなこと聡美さんに言うはずもないんだろうけど。照れ屋さんだからね。」

 僕が冗談っぽい口調でそういうと聡美さんにも少し笑顔が出た。

「それ聞いて少し安心した。とにかくお兄ちゃんにお金は貸さないでね。絶対だからね。」

「それは大丈夫だよ。そんなお金ないもん。」

 裕ちゃんがそう言うと聡美さんが

「何言ってんの。裕ちゃんは大金持ちでしょ?」

「お金持ちなのはあたしの父親。そしてお父さんは博士のことが大嫌い。お父さんが大嫌いな男のために気前よくお金出すわけないでしょ。」

「うん。」

「啓ちゃんのことは心配ないでしょ。こないだ下宿を覗いたから分かると思うけど、正真正銘の貧乏学生だよ。奨学金がもらいたいくらいだよね。ね?」

 裕ちゃんが僕に振ったので僕は黙ってうなずいた。

「ああ、まあ、それは理解してるつもりだけど。」

「それに博士が留学しちゃったらあたしは博士と離れ離れになっちゃうんでしょ?そんなことあたしが望むと思う?」

「う~ん、裕ちゃんの腹の底って今一よく分からないから。」

「ハハハ。まああたしもデビューしたばっかりで博士のことはあまり構ってあげられないよ。だからむしろ聡美は安心かもね。」

 裕ちゃんがそう言うと聡美さんは腕の時計をチラッと見た。忙しいようだ。

「とにかく私が二人に言いたいのは一つだけ。お兄ちゃんの留学が実現するようなことは絶対に阻止して欲しいの。お兄ちゃん、あまり人に頼る人じゃないけど、頼りにするとしたら裕ちゃんと石水君くらいのものだから。じゃあよろしくね。今日はお時間いただきましてありがとうございました。」

 聡美さんはそう言ってペコリと頭を下げるとテーブルの上の伝票を手に取り、裕ちゃんと僕の視界から消えて行った。

 聡美さんの後姿を見送って視線を正面に戻すと隣に座っていたはずの裕ちゃんがさっきまで聡美さんが座っていた席に移動して僕をビックリさせた。

「啓ちゃんどうしたの?聡美の後姿なんて見つめちゃって。」

「別に見つめてなんかいないよ。」

「少しは聡美に興味持ったかな?」

「そんなんじゃないよ。」

 裕ちゃんが変なことを言い出すので僕は少し怒った口調で言った。

「相変わらず硬いね。で、啓ちゃん、ちょっといいかな。」

「あっ、うん。」

「さっきの話なんだけど。」

「さっきの話って?」

「博士の留学の話。」

「うん。」

「なんとかならないかなあ。」

「なんとかって?」

「留学資金だよ。留学資金。」

「はあ?なんのこと?」

「鈍感だなあ。つまりね、三百万円、なんとかならないかなあってこと。」

「なに寝言言ってるの。そんなお金あったらあんなぼろアパートに住んでるわけないでしょ?」

「そっか。そうだよね。・・・・・・ホントはあたしが稼いだお金を留学資金にしようと思ってたんだけど間に合いそうもなくてね。ゴメンね、どだい無理な話だよね。・・・・・・ただ、・・・・・・啓ちゃん、倹約家だし、金銭感覚もあるからいざっていうときのためのお金があるんじゃないかなって思っただけ。」

「それに留学しちゃったら博士とは離れ離れになっちゃうんじゃないの?さっきも聡美さんにそう言ってたじゃない。」

「あれはお芝居だよ。ホントは博士にはアメリカに行ってもらいたい。だって・・・・・・夢が実現するかもしれないんだよ。」

「うん。」

「ごめんなさい。また、無理言ったね。こればっかりは啓ちゃんでもどうしようもないよね。まあ、あたしの独り言だと思ってあんまり気にしないでね。じゃあ、あたし次があるから。」

 裕ちゃんはそう言うと手を振って僕の視界から消えて行った。婚約者と三ヶ月ぶりの再会だというのに相変わらずそっけなかった。

 

 次の日から僕は毎日、銀行に通った。お金を毎日五十万円ずつ引き出すためだ。柏崎で小料理屋を営んでいた僕の家は決して裕福な方ではなかったが、およそ一年前に帰天した僕の親父は趣味が仕事と貯金という真面目な人で、コツコツと貯めたお金があったのだ。そして僕のおふくろはお金の管理も計算もできないという人で必然的に親父の遺産は僕が管理するということになった。だから昨日、裕ちゃんに博士の留学資金を用立てる相談を受けたとき、僕に資金の心当たりがないわけではなかったのだ。本当は解約してしまえばいいのだがおふくろに気付かれてしまうかもしれない。気の小さい僕は五十万円ずつ引き出した。振り込め詐欺対策のためか、銀行預金は一日五十万円までしか引き下ろすことができない。なんで僕がここまでやるのか、博士のためなのか、裕ちゃんのためなのか自分でも分からなかった。

 月が替わり、四月になると僕は現ナマ三百万円を持って本郷の博士の研究室を訪れた。博士は研究室の中央に置かれた机の上のパソコンに向かっている。博士は僕に気付くと「やあ」と言ったが僕はそれには応えず、机の上に三百万円の入っている封筒を静かに置いた。

「なんだこれは?」

 博士は不思議そうに聞いた。三百万円の入っている封筒を今までに見たことがないのだろう。封筒は厚く、立てることもできるくらいだ。

「留学資金です。三百万円あります。使ってください。」

 僕がそう言うと博士は露骨に不機嫌になり僕をにらみつけた。予想はしていた。僕の出すお金を素直に受け取ってはくれないだろうと思ってはいた。

「なんのつもりだ。」

「アメリカに行ってください。」

 博士は大きく深呼吸した。そして僕を睨みつけたまま

「裕子に言われたのか?」

「確かに裕ちゃんには言われました。でも、これは僕の意思です。」

「なんでそんことができるんだ?所詮、俺と君は他人じゃないか。」

「夢が実現しようとしているんじゃないですか。」

「君もおせっかいだな。」

「世話好きと言っていただけますか。」

「確かに夢ではあるよ。でも俺は日本人の同情なんか受けたくないんだ。俺は・・・・・・自分の力でアメリカに行く。」

「なんとしてでもこのお金は受け取ってもらいます。」

「乞食扱いするな。君に金をめぐんでもらう理由はない。」

「誤解しないでください。・・・これはあげるんじゃない。僕は・・・あなたに投資するんだ。・・・・・・あなたの才能に。」

「投資するだと?」

「言ったじゃないですか。僕はお金の計算ばかり勉強している人間です。こんなおいしい投資案件はありませんよ。僕は博士の天才に惚れこんだんです。このお金は・・・いずれ何十倍にもして返してもらいます。」

 そう言って今度は僕が博士をにらみつけた。しばらくにらめっこが続いた。そのうち博士の方が視線をずらした。

「分かったよ。それほどまで言うのなら受け取ってやるよ。」

 そう言って博士は机の上の封筒を手に取り、自分の方に寄せた。

「用が済んだんだったらさっさと帰りたまえ。」

 博士はパソコンに視線を戻し、僕のことはあまり意識しないかのように冷たくそう言った。僕は一瞬ムカッとしたが、すぐにそれでいいと思いなおした。所詮、礼など期待する方がおかしいのだ。僕はため息のような息づかいをして「失礼します」と言い研究室を出て行こうとして、ドアを開けると「石水君!」と後ろから博士の声がした。声が震えている。僕は振り返った。

「ありがとう。」

 涙声だった。目には涙が浮かんでいる。僕はビックリした。この人にも涙が残っていたのだ。衝撃を受けた僕はただ目礼だけしてその場を離れた。

 

 安アパートに戻ってきてから、僕は裕ちゃんに電話した。僕の方から裕ちゃんに電話をかけるのは再会してから初めてのことだ。三コールくらいで裕ちゃんが出た。

「もしもし、啓ちゃん?」

 ディスプレイに僕の名が表示されるのだろう。

「今いいかな?」

「どうしたの?てか、啓ちゃんがあたしの携帯に電話してくるなんて初めてだよね。」

「そうだね。初めてだね。」

「あたしの声が聞きたくなっちゃったんだ?」

「そう。聞きたくなっちゃったんだよ。」

 裕ちゃんの笑えない冗談に冗談で答えた。

「何かあったの?」

「今日、てか今さっき、博士に三百万円渡してきたよ。」

「ええっ!ホント?どうしたのそんなお金?」

「裕ちゃんの言ったとおりだよ。僕は倹約家で金銭感覚もある。裕ちゃんとは違うよ。いざとなったら三百万くらいの用立てはできるんだ。」

「そっか。無理させちゃったね。ありがとう。・・・・・・で、博士は。」

「『ありがとう』って言ってくれたよ。」

「ひぇ~、あたしにもそんなこと言ってくれたことないのに。」

「涙声だったよ。僕もビックリした。」

「そっか。結構人間ぽいとこあるんだ。」

「人ごとみたいに言うなよ。裕ちゃんの彼氏なんだろ?」

「そうなんだけどね。とにかくありがとう。それ聞いて安心した。やっぱり・・・啓ちゃんはすごいね。結局、あたしは偉そうなこと言ってるけど自分では何もできない。・・・・・・啓ちゃん、この埋め合わせはいつかするからね。」

「ああ。期待してるよ。」

 僕は冗談ぽく言った。

「電話、ありがとう。」

「ほい。じゃあね。」

 そう言って僕は電話を切った。三百万円は返ってこないかもしれない。返ってくるとしたら裕ちゃんからだろう。それもいつのことになるのか分からない。でも、なぜかその夜はとてもいいことをしたような気がしていて自己満足に浸っていた。貧乏学生に奨学金を拠出する資産家になったような気分だった。

 

 その二日後の午前十時頃、僕は安アパートの僕の部屋で勉強をしていた。バイトは基本的に夜のシフトなので午前中は時間がある。というより能率が上がる午前中を勉強の時間にし、午後から夜にかけてバイトのシフトを入れているといった方が正しい。大学は長い春休みが終わろうとしている。来週には新学期が始まる。

 公認会計士試験の簿記の過去問を解いていると机の上の携帯のバイブレーションが震えた。ディスプレイには「非通知設定」と表示されている。僕は基本的にというか非通知の電話には絶対に出ないことにしている。ロクでもない電話であることは百も承知なのだ。三十秒くらいするとディスプレイの表示は「留守録メッセージ応答中」に切り替わり、さらに「録音中」に切り替わった。やがてディスプレイは消え、「着信あり」と「録音あり」のマークが表示された。しばらくそのままでも良かったのだが、ちょうど、連結会計の勉強で行き詰っていたところで、気分転換に留守録を聞いてみることにした。

 携帯を操作し、再生ボタンを押すと聞きなれた男性の声が聞こえてきた。

「石水君。俺だ。今日の午後の便で成田を発つことにした。色々ありがとう。感謝してる。達者でな。」

 僕は自分の耳を疑った。博士に三百万円を渡したのは二日前だ。こんなに早く行動するなんてありえない。非通知設定だから折り返しの電話もできない。そもそも僕は博士の自宅も携帯も研究室の電話番号もまったく知らないのだ。僕はそのまま裕ちゃんに電話した。数コールあって裕ちゃんが出た。

「もしもし。啓ちゃん?」

「ああ、僕だ。」

「どうしたの、急に。またあたしの声聞きたくなっちゃった?」

 裕ちゃんは相変わらずノー天気だ。ということは博士が今日、発つことを知らないのだろう。

「博士から今、電話があった。今日、アメリカに出発するようだ。裕ちゃんには連絡なかったの?」

「ああ、一昨日かな。連絡は来たよ。『お前のバカな幼なじみが金くれたんで準備ができ次第、アメリカに出発する』って言ってた。さすが博士。やることが早いね。もう出発するんだ。」

「感心してる場合じゃないよ。裕ちゃんはそれでいいの?」

「啓ちゃんもそれを承知でお金渡したんでしょ?」

「それはそうだけど。」

「イッツ・マイ・プレジャーだよ。私の望み通り。啓ちゃん、ホントにありがとう。」

「見送りには行かないの?」

「いいよ、もう。心の準備ってか、覚悟はできてる。お金さえ渡せばさっさとアメリカに行くと思ってたから。啓ちゃん、無理させちゃったね。ゴメンね。」

「僕のことはどうでもいいよ。それより見送りに行こう。」

「いいよ。泣いちゃうから。・・・・・・聡美には連絡した?」

「聡美さんの連絡先なんか知らないよ。博士の電話番号だって知らないんだから。」

「じゃあ、聡美にはあたしから連絡しとくね。間に合えばいいけど。で、啓ちゃんは見送りに行くのかな?」

「ああ、そうだね。裕ちゃんと一緒に行こうと思ったんだけど。」

「じゃあさ、見送りに行くんだったらせっかくだからこっちに寄ってもらえるかな?渡して欲しいものがあるの。」

「いいけど、こっちって今、どこにいるの?」

「ああ、六本木だよ。スタジオLっていうレコーディングスタジオにいる。今日は一日ここでレコーディングしてるから。Roiビルの近くだけど、分からなければ交差点の交番で聞けばすぐに分かると思う。割と有名なスタジオだから。」

「分かった。じゃあ今すぐに行くよ。」

 僕はそう言って電話を切り、学ランに着替え、京王線と大江戸線を乗り継いで六本木に向かった。

 六本木に着くと裕ちゃんの指示通り、交差点の交番で場所を聞いた。僕は、方向感覚はある方なので場所はすぐに分かり、歩いて五分ほどで目指す「スタジオL」に到着した。結構立派な建物で、レコード会社の本社が入っているビルのようだ。建物の中に入るとロビーがあって、会社の受付のようなものがあり、制服を着た受付嬢が二人、来客の対応をしていた。僕はそのうちの一人に声をかけた。

「スミマセン。石水啓一と申しますが、白石裕子にお取次ぎいただきたいんですが。」

「ああ、石水啓一さんですね。白石裕子さんからこれを渡すよう言われています。」

 受付の女性はそう言って三つ折にしたA四が入る事務用の茶封筒を僕に渡した。少し厚みがある。封筒の表には「よろしくお願いします。博士は日本が大嫌いだから日本のエアラインは絶対に使わない。きっとアジアの安いやつだよ❤」という裕ちゃんの決して上手いとはいえない字で書かれた付箋が貼ってあり、さらに封筒には慶応義塾の創始者、福沢諭吉先生のブロマイドが二枚、クリップではさんであった。そのブロマイドには「お車代です」と書いてある別の付箋が貼り付けてある。

「スミマセン。裕ちゃん、・・・・・・白石裕子には会えないんでしょうか?」

 受付嬢に聞いた。

「今はレコーディングの真っ最中ですから。会えるとしても随分、お待ちいただくことになると思いますが。」

僕はロビーに貼り付けてある時計を見た。正午を過ぎようとしている。時間がない。

「分かりました。これは確かにお預かりしました。ありがとうございました。失礼します。」

 僕は受付嬢に一礼すると急いで日比谷線に乗り、上野に出て、スカイアクセスで成田に向かった。

 

 成田空港は広い。待ち合わせもせずに二人の人間が会うことはかなりの幸運に恵まれない限り難しい。空港ロビーに到着した僕は裕ちゃんから与えられたヒントを頼りに博士を探した。四十分くらい探してようやく、出国ゲートに向かう大きなトランクを転がしている見たことのある後姿を見つけた。少しホッとした。

「博士!」

 僕は後姿に駆け寄り声をかけた。猿顔の男が振り向いた。

「石水君!ビックリしたなあ。よくここが分かったな。」

「探しましたよ。」

「そうか、見送りにきてくれたんだ。君も律儀だな。」

「水臭いじゃないですか。あんな留守電のメッセージだけでお別れだなんて。」

「その通りだ。俺は水臭い。」

 そう言って博士は立ち止まった。僕としてはどこかに腰掛けて少し話をしたいくらいだったが、立ち止まることがこの人にとってせめてもの僕に対する誠意だったのかもしれない。

「裕ちゃんからこれを預かってきました。」

 僕はそう言って預かった封筒を博士に渡した。

「裕子は来ないんだ。」

「泣いちゃうからと言ってました。」

「そうか。まあ、彼女も忙しくなったからな。立場が逆なら俺も見送りには来ないだろう。」

 そう言って博士は裕ちゃんの封筒を受け取ると事務的にトランクの外ポケットに入れた。

「あまりにも急なんでビックリしました。」

「そうだ。俺らしいだろう?」

「裕ちゃんを置いていってしまっていいんですか?」

 僕はあせっていたのだろう。かなりの早口で言った。

「何言ってるんだ。君もそれを承知で俺に金を渡したんだろ?いいんだよ、これで。」

「きっと後悔すると思いますよ。」

「石水君。後悔っていうのは二つあるんだ。一つはやれば良かったっていう後悔。もう一つはやらなければ良かったっていう後悔。」

「はい。」

「どんな人生を歩んでも絶対に後悔はするんだ。俺はあの時やっておけば良かったっていう後悔だけは絶対にしたくないんだ。」

「裕ちゃんを置いていってしまうんですね?」

「俺も裕子も、色恋のために自分の夢の実現を犠牲にする輩ではないよ。」

 もっともだ。裕ちゃんも、そしてこの僕も博士のその真っ直ぐなところにひかれたのだろう。

「その通りです。・・・・・・どうぞお元気でいらしてください。」

「石水君。」

「はい。」

「君に一つ大切なことを教えてやろう。」

「はあ。」

「裕子は病気だ。」

「はあ?」

「体調が悪いんだ。」

 そう言われて思い当たる節はある。タブレットを飲んでいるのを見たことはある。

「はあ。クスリを飲んでいるのを見たことはありますが、そんなに悪いんですか?」

「婚約者なのに承知してないんだな?」

「はい。」

 婚約者といってもそれは形だけのものなのだ。

「そうか。・・・専門医に診てもらえと言ったが聞いてはもらえなかった。」

「お腹は時々痛そうにしていますが、胃潰瘍でもできてるんですか?」

「医者は個人情報を漏洩することはできないんだよ。」

「僕はどうすればいいんですか?」

「何もしなくていい。俺も余計なことはしていない。ただ、患者の言う通りに処方箋を書く医者を一人、紹介しているだけだ。裕子のことは君に託すよ。その方が彼女も幸せかもしれない。」

「博士!」

 僕が少し大きな声で言うと博士は僕の方を振り向き視線を合わせた。もう登場ゲートが見えている。

「最後に一つ柄にもないことを言ってやろう。俺は裕子のことを愛しているよ。だから俺は、・・・俺なりに彼女の夢の実現には手を貸したつもりだ。」

「それは本人にも直接伝えたんですか?。」

「いいや。それは後悔している。俺が絶対にしたくないはずのやればよかったっていう後悔だ。だから柄じゃないんだ。」

「博士・・・・・・」

「石水君。君とは色々あったけど、君だけが唯一、友達と呼べる存在だった。」

 博士が泣きそうなのを必死にこらえようとしているのが僕にも分かった。僕の涙腺も緩んできている。

「ありがとうございます。最後にお会いできて良かったです。」

「もう会うこともないかもしれないな。」

「それは困ります。お金を返してもらわなければなりませんので。」

「そうだったな。じゃあ、もう一回会うことだけは約束しよう。達者でな。」

「はい。博士もお元気で。」

 涙を僕に見られるのが嫌なのか、博士はすぐに回れ右して登場口に向かって歩いていった。僕はその後姿を見送った。途中で博士は後ろ向きのまま右手を上げ、大きく手を振ってみせた。そしてそのままゲートを通過し、見えなくなった。

 

 博士の後姿を見送ると、僕は空港駅へ引き返した。空港駅に向かって歩いていると一人の女性がこっちに向かって走ってくるのが見えた。女性は僕に気が付くと減速し、僕の五メートルくらい手前のところで止まった。

「石水君・・・・・・」

 聡美さんは目を大きく開けて僕を見た。悪役を見つめる目だ。そうだ、僕はこの瞬間、間違いなく彼女にとってヒールだったのだ。博士と裕ちゃんは愛し合っていた。幸せそうな兄を見て聡美さんも幸せだった。しかしその幸せを僕は破壊したのだ。裕ちゃんの父親を騙し、裕ちゃんと無理矢理婚約し、失意の兄に金を渡し、ご丁寧にもアメリカへと追いやったのだ。もちろん真実は違う。でもこの妹に真実を伝えることはできない。僕はこの兄と妹の幸せな時間を完全に破壊したのだ。

「行っちゃったよ・・・・・・間に合わなかったね。」

 五メートルくらいの距離を置いて僕はポツリと言った。でも聡美さんは良く聞き取れたはずだ。聡美さんは一瞬、固まり、僕の方に向かって数歩進むとその勢いで右手を上げ、僕の左頬を思い切り叩いた。「パチン」という乾いた音がした。音の大きさほど痛みは感じなかったが、周りの人々が一斉に僕たち二人を見た。

「どうしてあなたはそうやって私の大切なものばかり奪っていくの!」

 聡美さんは僕に背中を向け、来た道を小走りに戻っていった。僕はしばらくそこに立ち尽くした。

 

 それから僕は来たときと同じスカイアクセスに乗り、上野で日比谷線に乗り換えて再び六本木に向かった。裕ちゃんに報告するためだ。

 スタジオLの受付に行くとさっきと同じ案内の女性が座っていた。僕の顔を覚えていてくれたようで、すぐに裕ちゃんのスタジオにつないでくれた。僕は「お掛けになってお待ちください」と言われ、エントランスに並べてある長椅子の一つに座って裕ちゃんを待った。エントランスで待っていると二十分くらいして裕ちゃんがやってきた。

「やあ、お待たせ、お待たせ。」

 僕の気持ちをよそに裕ちゃんはニコニコだ。

「忙しいところゴメンね。」

 裕ちゃんは本当に忙しそうだったので僕の方が恐縮した。

「ううん。あたしの方こそいつも無理ばっかり言ってごめんなさい。」

 裕ちゃんはそう言って僕が腰掛けている長椅子の僕の隣に座った。

「手紙、ちゃんと渡したよ。」

「ありがとう。・・・・・・それで読んでもらえたかな?」

「いや、大事そうに鞄にしまってたよ。」

「ありがとう。そんな無理言ってもらって。本当はもっとそっけなかったんじゃない?」

「・・・・・・そうだね。そっけなかった。」

「無理もないよね~。研究命の人で自分の夢がかなうんだから。」

「聡美さんにも会ったよ。」

「間に合わなかったんだってね。」

「連絡あったの?」

「メールが来た。」

「それだけ?」

「あたしとは絶交だって。」

「裕ちゃんはそれでいいの?」

「いいよ。この前も言ったでしょ?大切なことは真実が何かってこと。あたしと啓ちゃんはお芝居。そして博士の夢を実現させたのは啓ちゃん。ちゃんと話せば聡美も分かってくれるよ。友情を復活させるのはそんなに難しい作業じゃないと思うけど。」

 裕ちゃんがニッコリそう言ったので僕も少しは気が楽になった。

「ありがとう。裕ちゃんの顔見たら少し安心した。」

「そう。良かった。・・・・・・良かったらこれから一緒にご飯でもと思ったんだけど、今、レコーディングの真っ最中で外せないの。この埋め合わせはいつかするからね。」

「いいよ。埋め合わせなんて。裕ちゃんも忙しいんでしょ?・・・それより裕ちゃん?」

「ん?」

「その・・・体調はどう?」

「体調って?」

「身体の調子だよ・・・このところ忙しいんだろうし。この前、クスリ飲んでたから。」

「へ~、心配してくれるんだ。・・・ありがとう。でも大丈夫だよ。」

 裕ちゃんは元気にニッコリ笑った。

「それならいいんだけど。・・・裕ちゃんが今、どういう状況なのかよく分からないけど、とにかく、まあ頑張ってね。」

「ありがとう。今のところ何もかも上手くいってる。相変わらず胃は痛いけど。じゃあ。」

 裕ちゃんは余程急がしいのだろう、そう言うとそそくさとエレベーターホールの方に向った。僕はそんな裕ちゃんの後姿を見送り、建物を出て行こうとすると「啓ちゃん!」と裕ちゃんの声が背後から聞こえたので僕は振り返った。

「博士のこと本当にありがとう。今は無理だけど、いつかきっとお礼をさせていただきますので。じゃあね。」

 裕ちゃんは右手を振りながらニッコリ笑ってそう言うとエレベーターのかごの中に消えて行った。

 



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八 二度目の年末

 年度が新しくなった頃から白石裕子の名前が音楽界を越えて騒がれ始めてきた。デビューアルバムは二月一日の発売から半年かけてようやくベストテンのトップにランクされ、さらにミリオンも達成した。夏頃からは化粧品のCMソングやドラマの主題歌にも登場してきた。しかし相変わらず裕ちゃん本人のプライベートは謎に包まれたままで、謎のシンガーとしてかえってマスコミをにぎわせていた。秋になっても勢いは衰えず、病気とは言われても気付けないくらいの大活躍で、この年の音楽界は白石裕子の一人勝ちだった。

 裕ちゃんは余程忙しくなったのだろう、この年、僕とはほとんど会わなくなっていた。最後に会ったのは博士を成田で見送った四月の初めだからもう八ヶ月くらい会っていない。電話もメールも手紙もなく、それでも二人は相変わらず婚約者のままだった。

 そしてカレンダーも最後の一枚となった十二月初旬のある平日の夜、安アパートで勉強をしていると不意に携帯が鳴った。登録されていない番号だったが、非通知ではなかったので電話には出た。

「はい。」

「お忙しいところスミマセン。石水啓一さんのお電話はそちらでよろしいでしょうか?」

 セールス電話のような女性の声だった。聞き覚えがあるような気もする。

「はいそうですが。」

「私、白石裕子のマネージャーの遠藤と申します。はじめまして。」

「ああ、マネージャーさんでいらっしゃいますか。はじめまして石水です。いつも裕ちゃんがお世話になっています。」

 本当は初めてではない。東大の黒田研究室で一度会っている。しかし先方はそんなことは気付きもしていないだろう。一応、婚約しているので婚約者のように受け答えした。

「今、お時間よろしいでしょうか?」

「はい。」

「白石裕子が石水さんに会いたがっているのですが、本人も大変忙しくなってしまいましたもので、スケジュールを調整させていただきたいと思いましてお電話させていただきました。」

 なるほど、もう、本人が自分のスケジュールを管理できないほどの成功をおさめたのだろう。まあグッドニュースではある。

「そうですか。まあ調整というほどの必要もないと思います。僕はバイトとかありますけど基本的にはどうにでもなりますから。学生ですし、裕ちゃんに合わせますよ。」

 僕は相変わらず大学とバイト先とおんぼろアパートを行き来する毎日だ。

「ありがとうございます。では、急なお話で恐縮なのですが、明後日、木曜日の夜はいかがでしょうか?」

「はい。僕はいつでも大丈夫ですよ。」

 バイトが入っていたかもしれないが二日前であれば融通はきく。

「では木曜日の午後六時頃からということで予定を入れさせていただきます。場所は渋谷の道玄坂ですが、後ほどメールでご連絡差し上げます。お忙しいところ急に申し訳ありません。どうぞよろしくお願い致します。失礼します。」

「はい、失礼します。」

 そう言って電話は切れた。裕ちゃんからの連絡ということでまた難題を突きつけられるのかもしれない。しかし僕は以前のような嫌な気持ちにはならなかった。今年一番成功したシンガーに会えるということにも興味があったし、とても懐かしい気もしていた。博士とのことも気がかりだった。聡美さんとも成田空港で平手打ちされたきりなのだ。まだ一年もたっていないけれども、僕にはもう遠い過去のような気がしていた。

 

 二日後、約束された日の夜、僕はいつもの学ランを着て渋谷の指定されたレストランに向かった。レストランはアングラにあり、暗いエントランスを入ると既に手配ができているのだろう、名前を確認することもなく「お待ちしておりました。こちらです」と従業員にさらに暗い奥の部屋に案内された。かなり高級な店だ。でも僕にとっては秘密結社のアジトのような雰囲気だった。

 一番奥の個室の扉が開くと既に裕ちゃんが待っていて僕をビックリさせた。まだ約束の二十分前のはずだ。

「裕ちゃん!早くない?」

「啓ちゃんだって。」

「僕は元々こういう人間だよ。」

 僕はそう言ってギャルソンのエスコートで奥の方の上座の椅子に座った。裕ちゃんが僕に上座を譲るのは珍しい。

「僕が上座なんて珍しいね?」

「今日は日頃の感謝を込めてのことですから。」

 裕ちゃんが殊勝なので不気味だ。何かまたたくらんでいるのだろう。

「博士が行ってしまって以来だね。」

「そうか。もうそんなに経つんだ。桜の季節だったのにね。」

「博士とはその後どうなの?」

「何もないよ。まあ、便りがないのは元気な証拠ってとこかな。」

「そう。電話とかメールもないんだ。」

「そうだね。最初からこうなるとは思ってたけど、博士は博士で頑張ってるんじゃないのかな。あたしも忙しくなっちゃったからあまり博士のことを考えてもいられなくなっちゃったけどね。」

「聡美さんとは?」

「相変わらずの絶交状態。・・・・・・この前、たまたまテレビ局で会ったんだけど無視されちゃった。」

「そうか。・・・・・・裕ちゃん、売れてるみたいだね。」

「お蔭様でね。これも啓ちゃんのお陰だよ。」

「僕はただ名前を貸してるだけだよ。」

「ううん。そんなことない。啓ちゃんがいなければあたしは音楽のことを諦めていたかもしれない。博士を送り出せたのも啓ちゃんのお陰。」

「そんなことないってば。」

「だから一度キチンとお礼を言わせて欲しいの。・・・・・・啓ちゃん。本当に、本当にありがとうございました。」

 裕ちゃんはそう言って座ったまま僕に頭を下げた。今まで見たことのない表情だった。まだ時間前なのだろう、料理も飲み物も運ばれてこない。裕ちゃんと僕だけの静かな二人だけの時間だ。

「いいよもう。・・・…で、今日こうやって呼び出すってことはまた何か僕がやることがあるんだね?」

「あっ、分かっちゃった?」

「今までもそうだったじゃない。」

「そう言われればそうだね。啓ちゃんからデートに誘ってくれたことは一度もなかったね。まあ、啓ちゃんはそういう奥ゆかしい人だけど。」

「誘って欲しいの?忙しくてそれどころじゃないでしょ?」

「それはそうだけど誘われたらうれしいかな。」

「僕みたいなダミーの彼氏でも?」

「もちろん。女ってそういうもんだよ。」

 確かに僕から裕ちゃんに積極的に関わったことはない。面倒なことに巻き込まれるのがオチだと思っているからだろう。

「それで、なんなの?今度は。」

「年末年始の予定は入ってる?」

「いや。去年と同じだよ。」

「柏崎には帰らないんだ。」

「うん。」

「お母さん、可哀想だと思わない?」

「お金はないし、勉強もしたいしね。」

「相変わらず、頑張ってるんだ。」

「今年受けた試験は全部落ちちゃったけどね。簿記なんて合格点七十点のところ六十八点で落ちちゃったよ。」

「そっか。」

「勉強しないで研究室でビーカーとか洗ってたしね。」

「ごめんね。あたしのせいだね。」

 裕ちゃんはちょっと悲しい表情を見せた。

「今のは冗談。裕ちゃんにちょっと恩を着せようと思っただけだよ。博士とのことは後悔してないんだ。ああいう人と出会えただけでも裕ちゃんには感謝したいくらいだよ。」

「ありがとう。そんなこと言ってくれて。」

「で、年末年始にどうするの?」

「一緒に柏崎に帰って欲しいの。」

「柏崎に?でも裕ちゃん忙しいんでしょ?年末恒例の大型歌謡番組にも出るんだろうし。」

「うん。去年は啓ちゃんちのコタツで見てたんだよね。懐かしい。それで、その後カウントダウンコンサートがあるけどそれが終わったら時間あるから。今年の正月は柏崎で過ごそうかなと。」

「僕も一緒じゃないとダメなの?」

「来年、選挙があるかもしれないの。そろそろ解散かなと。衆議院が任期満了を迎えたのは一度しかないからね。」

「一つ聞いていい?」

「何?」

「マスコミとかで裕ちゃんの私生活とか全然出てこないけどどうして?」

「出てきて欲しいの?私はこの人と婚約してますとかいって。」

「いや、それはそれで助かってるけど。でもこれだけプライベートが出てこないシンガーも珍しいんじゃない?生年月日も出身も、趣味や特技まですべて不詳。普通ないよね?」

「まあ圧力がかかってるってことだよ。」

「権蔵先生?」

「察してよ。」

「まあ、言いたくないなら別に聞かないよ。それで、僕に選挙に出ろって言うの?」

「啓ちゃんはまだダメじゃない。まだ被選挙権がないでしょ?」

「うん。」

「啓ちゃんが出るのは次の次。今度の選挙はお父さんが自分の秘書を出すよ。」

「僕は選挙に出るなんて言ってないけど。」

「それはいいの。遠い未来のお話だから。問題は今現在、お父さんが啓ちゃんを次の次の選挙に出そうと企んでいるということ。だからその企みに乗るようなお芝居をして欲しいの。」

「また芝居か。まあ、そんなことだろうとは思っていたけど・・・・・・。ホントに僕は選挙に出なくていいんだね?」

「出たくなったら出てもいいよ。でもその頃はあたしも落ち着いてきてあたしが選挙に出られるようになってるかもしれない。」

「裕ちゃんが?」

「今が売れすぎてるだけだと思うし、まだやりたいことの半分もできてないけど、次の次の選挙の頃には八割くらいはできてると思うから。謎の歌姫が立候補しますといえば選挙も圧勝だろうしね。最後の二割は議員バッチつけた後の楽しみとしてとっておくでもいいし。」

 なるほど僕は完全なダミーで最初からそういう作戦だったのだ。寂しいようなホッとするような不思議な気持ちだ。

「それで柏崎でどうするのかな?」

「今度、立候補予定の秘書さんと一緒にあいさつ回りだよ。」

「僕が?」

「大丈夫だよ。あたしも一緒に行くからさ。」

「もう裕ちゃんも成功したんだし、ばらしてもいいんじゃないの?」

「まだダメだよ。てか、お芝居のことは最後までばらさないで欲しい。」

「どうしたの?」

「もしばらしちゃったらお父さんがすごく怒ると思うの。怒らせたら怖いからね。啓ちゃんも無傷ではすまないよ。それに別にばらさくてもいいじゃない。選挙にはあたしが出てもいいような状況になってきたんだし、啓ちゃんには迷惑かけないよ。」

「まあ、確かに僕も嘘をついていたことにするのは心苦しいなあ。」

「でしょ?だからまあここはあたしに任せてよ。」

 裕ちゃんがそこまで言うとソムリエがシャンパンを持って登場した。ソムリエはフランス語を交えながらワインうんちくを述べていたが僕にはまったく理解できなかった。目の前に置かれたグラスにシャンパンが注がれ、二人は乾杯した。

「おいし~。」

 裕ちゃんがうれしそうにニコニコしながら言った。

「今日はクルマの運転ないの?外で飲むなんて珍しいね。」

「今日はアッシー君を準備してるから大丈夫だよ。さあ、じゃんじゃん飲もう!」

「飲むのはいいけど、またこの前、この前っていってももう一年前になるけど、寝ちゃわないでね。」

「ああ、あの時は失礼しました。」

 それからスープが運ばれてきて二人の晩餐会は静かに始まった。

 

 料理が終盤に近付くと、裕ちゃんは携帯をカチャカチャといじった。どこかにメールを打っているようだった。そして最後のデザートとコーヒーが終わると裕ちゃんは次の予定を話し始めた。

「啓ちゃん、この後、予定ないよね?」

「ああ。お泊りだってできるよ。」

 僕はわざとらしく言った。

「ええっ?啓ちゃん、随分成長したね。昔はそんなんじゃなかったのに。」

「誰かさんに鍛えられたからね。」

「でもお泊りはまた今度ね。あした、朝早いから。」

「で、どうするの?」

「あたしの家にご招待します。」

「権蔵先生に会うの?」

「ううん。あたし個人の家。おうち買ったの。それを披露したいと思ってね。」

「ひぇ~、もう買ったんだ。」

「お蔭様で売れたからね。キャッシュで買っちゃった。」

「どこ?」

「それは着いてのお楽しみ。もう、表にクルマが待ってると思う。」

 裕ちゃんはそう言って席を立ち、僕は後に続いた。

 店の前にはセダンあるいはサルーンというのかもしれないが、ドアが四つついたドイツの高級車が止まっていて、その前に白いスーツに赤いブラウスを来たキザな男がくわえタバコで待っていた。

「お待たせしました~」

 裕ちゃんがキザ男に声をかけた。キザ男は慌てて携帯灰皿を取り出し、くわえタバコを始末した。

「紹介しま~す。こちらがあたしの世界で一番大切な人、婚約者の啓ちゃんで~す。啓ちゃん、こちらがあたしの所属している事務所の野島慎一社長。」

 裕ちゃんはいたずらっぽく二人を紹介した。

「ああ、はじめまして。白石裕子の婚約者の石水啓一です。」

 僕はそう言ってキザ男に頭を下げたがキザ男はぽか~んとしていた。年恰好は四十代後半といったところだろうか。

「ゴメンゴメン。想像していたのとあまりにも開きがあったんでビックリしていたんだ。」

 キザ男は裕ちゃんの旦那になる男ということでもっとイケている男を想像していたようだ。まさか頭がボサボサの学ラン男が出てくるとは思わなかったのだろう。

「あまりにも学生なんでビックリしたでしょ。でもあたしは啓ちゃんの中身に惚れてるんだから外見は関係ないよ。」

 裕ちゃんは誉め言葉にならないフォローをした。

「はじめまして。プロデューサーの野島です。」

 そう言ってキザ男は「株式会社野島音楽事務所 代表取締役 音楽プロデューサー」という肩書きの入っている名刺を僕に渡した。僕はしばらく名刺を見つめ、野島氏の顔と照らし合わせた。僕自身が真面目なせいもあるのだろうがチャラチャラしている印象を受ける。実際にそうなのだろうし、音楽業界というのはそういうものなのかもしれない。

「じゃあ、乗って。」

 野島氏はそう言って、右手の親指で背後にあるクルマを指差し、裕ちゃんと僕はドイツ製の高級セダンに乗り込んだ。

 

 クルマは東横線沿いを横浜方面に向かった。僕は、クルマはおろか免許も持っていないので東京の道路事情には詳しくない。でも方向感覚はあるので今、どちらの方面に向っているのかは分かる。自宅に到着するまでの間、裕ちゃんは饒舌で、僕がどれだけ素晴らしい人物で、しばらく会えなかったことがどれだけ寂しかったかを野島氏に語って聞かせていた。野島氏は適当に相槌を打っていた。

 三十分くらい走ると目的地に到着したようだ。電柱には「目黒区碑文谷」と書いてある。碑文谷は閑静な住宅街で、「高級住宅街」といってもあながち間違いではないだろう。

 裕ちゃんが「これで~す!」と自慢気に紹介した物件は、目黒区にしては庭の広さもまずまずで中々の物件だった。裕ちゃんはキザ男と僕を玄関から一階のダイニング、リビング、風呂場、トイレと案内し、さらに階段を上って二階へと案内した。二階は洋間が三部屋あり、そのうちの一部屋が裕ちゃんの寝室で、残りの二部屋は空き部屋となっていた。それから再び一階に戻り、一番奥の部屋に案内された。奥の部屋は広く、部屋の真ん中が大きなガラスで仕切られていた。スタジオと書斎がガラスで仕切られているようだ。ガラスの中にはマイクとグランドピアノが設置してあり、書斎側には音響機器が設置されている。

「すごい設備だね。レコーディングもできるんじゃないか?」

 キザ男が感心したように言った。

「そう。レコーディングもできるように作ったからね。あたし、やっぱり音楽が大好きなんだね。四六時中音楽と一緒にいたいなあと思って自宅にスタジオを作っちゃったの。」

 裕ちゃんはそう言ってガラス扉を開け、スタジオへと案内した。真ん中に大きなグランドピアノが置かれている。そのピアノには僕も見覚えがある。

「このピアノ・・・・・・」

 僕は思わず声を出した。

「懐かしいかな?そう。実家にあったピアノだよ。啓ちゃんと一緒に曲作りをした思い出のピアノ。」

 裕ちゃんはそう言ったけれども僕ははっきり思い出せない。遠い少年の頃の記憶だ。

「そんなことあったかなあ~。」

「そっか~。覚えてるわけないか。あたしにとっては大切な思い出だけど。・・・・・・どう、このスタジオ?」

 裕ちゃんが今度はキザ男に振った。

「素晴らしい。これだけの設備があるならわざわざ六本木まで出てこなくてもここでレコーディングすればいいんじゃないかな。」

「啓ちゃんは?」

「ああ。久し振りにピアノ見たんでなんか懐かしかったよ。大事にしてるんだ。」

「まあね。このピアノはあたしにとって本当に財産だからね。」

 裕ちゃんはそう言うと今度はキザ男と僕をダイニングキッチンに案内し、テーブルに向かい合って座らせた。裕ちゃんはコーヒーを入れるようだ。

「ねえ、啓ちゃん。」

 キザ男が僕になれなれしく話しかける。

「啓ちゃんは柏崎の裕ちゃんの実家も知ってるよね?」

「ええ。まあ中学を卒業すると裕ちゃんは東京に出てきてしまいましたからそれ以降はあまりお邪魔していませんけど。」

「大きいの?」

「はい。使用人部屋もある大邸宅です。」

「へえ、お城みたいなんだ。」

「そうですね。庭も広いし、お城という表現も案外、的を射ているかもしれません。」

「そっか~、さすがは裕ちゃん。お嬢様なんだ。・・・ゴメン、ちょっとトイレ借りるね。」

 キザ男がそう言い、「はいは~い。廊下出て奥ね~」という裕ちゃんの声がしてキザ男は部屋から出て行った。裕ちゃんと僕がダイニングに取り残された。

「ねえ、社長さん僕のことは全然知らないの?」

 コーヒーを入れている裕ちゃんに聞いた。

「うん。全然、てかあたしはプライベートなことはなんにも話してないよ。まあそれがあたしの売りだからね。私生活が謎に包まれた謎の歌姫ってことでね。」

「それはさっき聞いたけど、社長さんも知らないの?」

「まあ、色々事情があるってこと。だから野島さんからは色々突っ込まれるかもしれないけど、話、合わせといてね。あたしと啓ちゃんはラブラブの婚約者ってことでね。」

 そう言いながら裕ちゃんはキッチンのカウンターの上に置いてあるタブレットを口に含み、水で流し込んだ。胃薬のようだ。それを見て僕は八ヶ月前、成田空港で博士に言われたことを思い出した。

「相変わらず胃が痛いの?」

「まあね。」

「身体、大丈夫?」

「大丈夫だよ。好きでやってることだから。」

「お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないの?」

「おお、心配してくれるんだ。ありがとう。でも今は無理だよ。落ち着いたらゆっくり診てもらうからさ。」

 裕ちゃんがニッコリ笑ってそう言うとキザ男が戻ってきた。

「いや~、トイレも立派だね。僕が今までに見た芸能人の家のトイレの中で一番立派かもしれない。・・・・・・じゃあ、僕はそろそろ失礼するよ。・・・啓ちゃんはゆっくりしていくのかな?」

 キザ男が僕を見た。

「いや、裕ちゃん、明日も早いようなので僕もこれで失礼します。」

「せっかくなんだから泊まればいいのに。裕ちゃんに会うのも久し振りなんだろ?」

 キザ男がおせっかいに言った。

「そうだけど、そうすると結局、徹夜になってあしたに響くでしょ?残念だけど、お泊りはまた今度ね。野島さん、啓ちゃんを下宿まで送っていってもらっていいかな?」

 コーヒーをキザ男と僕の前に置きながら裕ちゃんが言った。

「ああ、もちろん構わないよ。」

「いいよ。電車で帰るから。駅、近いんでしょ?」

 僕は遠慮した。

「まあ、学芸大学の駅まで歩いて十分くらいだから近いけど・・・」

「いいよ。送っていくよ。どうせ帰る方向一緒だし、それに啓ちゃんにも色々と聞きたいことがあるからね。」

 キザ男は相変わらずフレンドリーに答えた。

 それからコーヒーを飲みながら少し談笑し、キザ男と僕は席を立ち、外に出た。裕ちゃんも見送りに出て、僕はキザ男のクルマの後部座席に乗った。

「じゃあ、野島さん、啓ちゃんをお願いします。啓ちゃん、今日は来てくれてありがとう。今度はお泊りしてね。」

 裕ちゃんはそう言って僕に投げキッスした。あくまでも婚約者であることを野島氏にわざわざ印象づけるかのようだった。「じゃあ、行くよ」と野島氏が言って高級セダンは走り出した。

 

「ねえ、啓ちゃん。」

 クルマが大通りに出て、二人だけの空間ができるとハンドルを握るキザ男がなれなれしく僕に声をかけた。

「はい?」

「君達、本当に婚約してるの?」

 野島氏はドキリとするようなことを聞いてきた。

「何言ってるんですか?当たり前じゃないですか。柏崎で結納もしてるんです。もっとも実際にいつ結婚するかは未定ですけど。」

「まあ、裕ちゃんも忙しくなっちゃったからね。でもよく分かんないんだよなあ。フツー、婚約者に内緒で家買ったりしないと思うけど。いずれは二人で住むんでしょ?」

 確かにその通りだ。僕は少し沈黙した。

「・・・・・・おっしゃる通りです。端から見れば異常ですよね。でも裕ちゃんって昔からそういう人なんです。びっくりさせるのが好きっていうのか。子どもの頃から変わってませんよ。」

「そう言われれば確かにそうだ。それを理解してあげられるようでないと裕ちゃんのパートナーは務まらないってことかな。」

「そうかもしれません。」

「まあ何はともあれ、啓ちゃんが普通の人だったんで安心したよ。」

「普通の人と言いますと?」

「実はね、裕ちゃん、自分のプライベートなこと、一切、話さなかったんだよ。僕は事務所の社長だから最低限、知っておくべきことがあると思ったんだけど、出身も、家族構成もなんにも話してくれないんだ。『それはプライベートなことですから』とか言って。それでいい加減に怒ったら『じゃあ父に会ってください』って言われたんだよな。」

「権蔵先生にお会いになったんですか?」

「ああ。失敗したと思ったよ。」

「何か言われたんですか?」

「その話はやめよう。僕が消し去りたい記憶なんだ。」

「そうですか。」

「君はあのでかい親父のお気に入りだって裕ちゃん言ってたけど、よくあの親父に気に入られたなあ。」

「はあ。」

「それでもう裕ちゃんのプライベートを詮索するのは止めにしたんだ。逆に私生活が謎に包まれたミステリアスな歌手っていうのも面白いと思ってね。やらせじゃなくてホントに謎に包まれてる歌手だよね。事務所の社長だって知らないんだから。そしたら当たっちゃってさ。やっぱり情報がありすぎるのもつまらないのかもしれないね。街には情報があふれてる。インターネットで検索すれば知らなくてもいいような情報まで手に入るからね。だから逆に裕ちゃんは受けたんだと思う。それからは方針転換だよ。ネットに出てくる裕ちゃんの情報はつぶしたり。アナウンサー時代の話とかね。それとか逆に全然関係ない作り話をでっち上げたりしてさ。」

「そうだったんですか。」

「そう。だから裕ちゃんが婚約してるなんて全然、聞かされてなくてさ。ビックリしたよ。でも啓ちゃん、いい人そうでよかった。君は真面目な学生のようだから芸能界は別世界かもしれないけど、まあよろしくね。」

「はあ、こちらこそ。・・・・・・ところで野島さん。」

「ん?」

「お願いがあるんですけど。」

「お願いって啓ちゃんが僕に?」

 僕の他人行儀をよそに野島氏は相変わらずフレンドリーだ。

「裕ちゃんの体調のことなんですけど。」

「体調?」

「僕は久し振りに会ったんですけど、調子悪過ぎるようなんですけど。」

「ああ、そうか。僕はほとんど毎日会ってるんで気が付かなかったよ。どう悪いのかな?」

「うまく説明できないんですけど、お腹が痛いようなんです。胃薬を飲んでいるようで。前も同じようなことがありましたから。」

「そうか。ストレスが溜まって胃潰瘍でもできたのかなあ。」

「一度、精密検査を受けた方がいいと思います。」

「そんなこと啓ちゃんが直接、本人に言うべきなんじゃないの?」

「ご理解いただけると思いますけど、裕ちゃん、僕の言うことを聞くような人じゃありません。それに今は音楽のことで頭が一杯ですから。」

「そりゃそうだけど、僕の言うことなんてなおさら聞かないんじゃない?。」

「ですから『アメリカ進出のためにメディカルチェックが必要だ』とか言っていただいて。野島さんも今、裕ちゃんに倒れられたら困るんじゃないんですか?」

「もっともだ。分かったよ。確かに僕も裕ちゃんの身体のことは無関心だった。なんとかうまくごまかして医者には連れて行くね。ありがとう。さすがだね。やっぱり婚約者だけのことはある。僕なんかよりよっぽど裕ちゃんのことを心配しているよ。」

 野島氏は感心したようにそう言った。僕は下宿よりもはるかに手前の甲州街道で降ろしてもらい、一人で師走の道を少し歩いた。北風が頬をひんやりさせた。

 



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九 告知

 裕ちゃんと再会してから二度目の年が明け、上野駅で待ち合わせをした裕ちゃんと僕は、元旦の新幹線で柏崎に帰省した。柏崎でのスケジュールはギチギチではあったが、次期衆議院議員選挙の候補者となる権蔵先生の秘書と裕ちゃんの後をついて支援者をまわりご飯を食べればいいだけだったのでそれほど大変ではなかった。むしろ退屈ですらあったかもしれない。

 候補者は権蔵先生の地元担当の総括秘書で年齢はアラフィフといったところのベテランだった。きっとあの気性の荒い権蔵先生の下で何年も泥水をすすってきたのだろう。行く先々で「私はワンポイントですから」と言っているのが痛々しかった。この婚約はお芝居で僕には最初から野心などないのに、なんだかかわいそうだった。

 年が明けてから一週間ほどして、裕ちゃんは「メディカルチェックを受ける」と言って僕よりも早く東京に戻った。こんなにも早く野島氏が約束を果たすとは意外だった。きっと野島氏も裕ちゃんの身体が心配なのだろう。僕は裕ちゃんより少し遅れて東京に戻り、大学の後期試験に臨んだ。僕は自分でいうのもおこがましいが、本当に勉強する学生だったので一、二年では一単位も落としていない。三年生も無事、全科目履修できると三年次で僕は百三十四単位獲得することになる。これは最初から作戦通りで、卒業に必要な単位は百三十八単位だから四年生はゼミと外国書購読だけで済むことになり、就職活動に専念できるという段取りだ。裕ちゃんも安定してきているようで、僕としては久し振りに静かな生活を取り戻しつつあった。

 後期試験も無事に終了し、カレンダーがまた一枚めくられた、二月一日。裕ちゃんのデビュー一周年だ。しかし、裕ちゃんからは特に連絡もなく、僕はいつも通り、朝は勉強し、夜はアルバイトを入れるという退屈な日常を過ごした。

 アルバイトから帰宅するとちょうどいいタイミングで携帯のバイブレーションが震えた。ディスプレイには「白石権蔵事務所」と出ている。権蔵先生の議員会館の電話番号は一応、登録しているのだが、直接電話がかかってくるのは初めてだ。僕は緊張して電話に出た。

「もしもし。」

「もしもし、石水啓一さんでいらっしゃいますか?」

 中年紳士の声が僕の名前を呼んだ。権蔵先生本人でなかったので少しホッとした。

「はい。」

「白石権蔵の秘書の山崎と申します。お忙しいところおそれいりますが今、少しお時間よろしいでしょうか?」

「はあ。」

 山崎という名前は聞いたことがある。一昨年の十二月、博士の前に現われた秘書のはずだ。

「実は裕子お嬢様の件で先生が病院に呼ばれておりまして。」

「病院に?」

「裕子お嬢様が病院にお掛かりになっていらっしゃることはご存知ですよね?」

「ああ、はい。メディカルチェックを受けるとは聞いています。でも、申し訳ありません。あまり詳しくは存じません。裕ちゃんも僕にあまり話したがりませんので。僕も、その~、あまり根掘り葉掘り聞くようなことはしていませんので。」

「分かります。裕子お嬢様はお優しい方ですので石水さんに心配をかけないようにしていらっしゃるのだと思います。」

「はあ。」

「それで、先生の代わりに病院に行ってお話を聞いてきていただきたいのですがよろしいでしょうか?家族に話したいことがあるそうですので。」

「はあ。でも、僕は家族ではありませんけど、大丈夫ですか?」

「はい。家族ではなくても婚約者であればいいそうです。本当は先生が行って差し上げられればいいのですが、ご存知かと思いますが通常国会が始まったばかりで先生は大変お忙しいのです。奥様にも既に別件が入っておりまして。」

「そうですか・・・・・・、分かりました。お引き受けしましょう。」

「ありがとうございます。」

 ここでごねて婚約に疑問を感じられるとそっちの方が厄介だろう。僕は軽い気持ちで引き受けることにし、山崎秘書に病院の名前と場所、約束の時間を聞いた。裕ちゃんの様態については特に気に留めなかった。

 

 山崎氏に指示されたとおり、僕は約束の日の午後、いつもの学ランを着て、都内の大学病院に出かけていった。外来は午前中で終わっているようで院内は閑散としている。婦人科の外来受付で来意を告げ、長椅子でしばらく待たされた。十分くらい待たされて名前を呼ばれた。

「失礼します。」

 僕は引き戸を開け、そう言って診察室に入った。中には白衣を着た女医が看護婦と共に僕を待っていた。年は三十半ばといったところだろうか。事務的に「どうぞお掛けください」と言われたので僕はもう一度「失礼します」と言って着席した。

「失礼ですがご家族の方ですか?」

 女医がもう一度事務的に語りかけた。事務的なのでとても冷たく感じる。

「いえ、まだ家族ではありません。婚約者です。裕子の父の権蔵から『婚約者なら大丈夫だ』と言われたものですから。」

「お名前は?」

「石水啓一と言います。」

「学生さん?」

 学生服を着ているのだから学生でなければおかしいだろう。

「ええ。大学三年生です。」

「随分、早くに婚約されたんですね。」

「まあ、政略結婚です。裕子の父の白石権蔵はご存知ですね?」

「存じています。・・・・・・それで、失礼ですがご結婚のご予定はいつ頃ですか?」

「いや、まだ正式に結婚するのは未定です。政治的な理由でとりあえず婚約しただけですので。」

 随分、不躾とも思ったが、答えない理由もないので素直に答えた。

「そうですか・・・・・・」

 そう言って女医は黙り、机の上のパソコンに目を向けた。しばらく間があった。

「どうかしたんですか?スミマセン。実は僕は急にここに来るように言われたので・・・・・・、その~、彼女がどういう状況か承知していないんです。」

 僕がそう言うと女医は僕に分かるように大きく深呼吸し、僕に視線を戻した。

「白石さん、もうそう長くはないんです。」

 女医が冷静にそう言った。僕はなんのことか分からなかった。

「はあ?・・・どういうことですか?」

「病気のことについて白石さんからは本当に何も聞いていらっしゃらないのですね?」

「はい。今日も、本当は本人の父が来るべきだったのですが、父親は、ご存知の通り、参議院議員で、多忙なものですから。」

「白石さん、子宮に大きな腫瘍ができているんです。できたのはもう随分前のことだと思います。本人も相当痛かったのではないでしょうか?」

「はあ。お腹が痛いという話は聞いていましたが。」

「なぜ、もっと早く検査を受けなかったのですか?」

「そう言われましても。」

「もう、腫瘍があちこちに転移を始めています。残念ながらもう手遅れです。遅すぎます。」

 白衣の女性は僕をなじるように言った。全責任が僕にあるかのような言い方だった。僕は言い訳すらできなかった。晴天の霹靂という言葉はこういう気持ちを表すためにある言葉なのかもしれない。僕は呆然とした。それは裕ちゃんを失ってしまうという失望感とは違う。何かまったく身に覚えのない無実の罪を突然、官憲に追及されたような、そんな気持ちだった。

「・・・・・・とにかく今日は結果だけをご報告します。ご本人には告知されますか?」

 僕が黙っていると女医は事務的に言った。

「そんなこと・・・・・・僕、一人で決められる問題ではありません。」

 決められるはずがない。僕にはまったく関係のないことなのだ。

「おっしゃる通りです。ではご家族でよく話し合ってください。結論が出ましたらご連絡ください。それから今後の治療方針を決めましょう。治療といってもどれだけ苦痛を与えず、延命するかということになりますけど。ただ、できるだけ早く入院されることをお勧めします。一日でも長く生きていただきたいですから。・・・・・・今日はもう結構です。」

「はい・・・・・・」

 僕は力なく返事をしたが自分の力で立ち上がることはできなかった。僕は看護婦に促され、ようやく立ち上がり、待ち合いのベンチにドカッと崩れ落ちた。

 僕はもう一度自分の気持ちを整理しようとしたができなかった。裕ちゃんと僕はお芝居のはずだ。それなのにこの悲しい気持ちは一体なんなのだろう。共演した女優の余命が宣告されたとき、相手役を務めた男優はこんなに悲しい気持ちに襲われるのだろうか?僕は何度も自問した。

 それから僕は山崎秘書に電話をして権蔵先生に会う機会の調整をお願いした。電話で済むレベルの話ではない。本人に直接会って話すべき問題だ。しかし、通常国会が始まったばかりだということでアポイントメントを取ることはできなかった。

 僕は途方にくれた。裕ちゃんと僕はすべてお芝居のはずだった。それなのに夢が悪夢となり、それが突然、現実に変わろうとしているのだ。仕方がないので僕は下宿に戻り、権蔵先生あてに長い手紙を書いた。病気のこと、婚約は解消すること、白石家の人とはもうお目にかかりたくないことを書いた。裕ちゃんとのことがお芝居だったことも書いたが、清書にはその一文を入れなかった。もしその事実を伝えたら権蔵先生と裕ちゃんの関係はめちゃめちゃになってしまうだろう。そうしたら病気の裕ちゃんには耐えられないかもしれない。何度も推敲し、清書し、封筒に入れ、封緘し、次の日の朝一番、仙川の郵便局から速達の配達証明郵便で議員会館の白石権蔵事務所宛に郵送した。

 

 速達を出した次の日の夜八時頃、それは突然やってきた。安アパートのドアが突然ノックされ、僕はよく考えもせずにドアを開けてしまったのだ。ドアの向こうには僕が今、一番会いたくない人物が立っていた。

「権蔵先生!」

 僕は思わず大声で叫んだ。

「啓一君。」

 目の前の巨漢は鬼の権蔵の眼光で僕を睨みつけると靴を脱ぎ、僕を押しのけて下宿に上がりこみ、上着を脱いだ。

(「殴られる!」)

 速達がこの巨漢を大いに憤慨させたのだろう。それはそうだ。僕はこの巨漢があれほど楽しみしていた娘の結婚を一方的に破棄したのだ。ただではすまないとは最初から思っていた。ノックアウトを覚悟し、僕は防御の姿勢をとった。しかし巨漢は突然、畳の上に膝を折り、両手を付いて僕に頭を下げた。

「啓一君!この通りだ。どうか娘が生きている間は婚約者であってくれないだろうか。どうか娘を見捨てないでくれ。」

 僕は言葉を失った。あの不遜な参議院の大物が一学生に過ぎない僕に土下座をしているのだ。

「・・・・・・先生、どうか顔を上げていただけませんか。」

 僕は十秒くらいしてようやく我に返った。僕は巨漢の傍に寄り、膝を折った。

「君に合わせる顔なんかない。どうかこの通りだ・・・・・・」

 巨漢はなおも顔を上げようとしない。愛する娘のためなら親はこんなことまでできるのだ。僕は親の愛情にジンときた。

「・・・・・・先生、・・・どうやら僕が悪かったようです。申し訳ありませんでした。」

 冷静になって僕がポツリとそう言うと巨漢はようやく顔を上げた。

「啓一君。」

「昨日、お送りした手紙のことはなかったことにして下さい。ご心配をお掛けしました。」

「じゃあ、・・・今まで通り、婚約者でいてくれるんだね。」

「はい。・・・お約束します。・・・・・・それと、先生に一つご相談したいことがあるんですがよろしいでしょうか?」

「ああ、なんでも言ってくれ。できるかぎりのことはする。」

「この下宿を引き払って裕ちゃんと碑文谷の家で一緒に暮らそうと思っています。そして看病や身の回りの世話もしたいと思っているのですが、よろしいでしょうか?」

「そうか。ありがとう。是非そうしてくれ。君が裕子の傍にいてくれるなら私も安心だ。」

 そう言う巨漢に僕はようやく微笑みかけることができた。

 

 それから僕は裕ちゃんの遠藤マネージャーに電話をした。去年の暮れに一度電話をもらっているので電話番号は分かる。そして裕ちゃんの日程を詳細に聞いた。一週間後にオフがあり、その日は一日、碑文谷の自宅にいるという。その日に合わせ、僕は下宿の賃貸借契約を解除し、引越しの準備をした。

 そして宣告を受けてから一週間後、僕は住み慣れた下宿を後にし、すぐに使うものだけを詰めたボストンバックを片手に電車を乗り継ぎ、学芸大学の駅で東急を降りた。駅から碑文谷の街をしばらく歩くと「白石」という表札のある家の前に着いた。僕はインターフォンのボタンを押した。「ピンポ~ン」というインターフォンの音が響き、しばらくすると「啓ちゃん?どうしたの?」と裕ちゃんの声がした。モニターで僕の顔を確認できるのだろう。

「お邪魔してもいいかな?」

「待って。今行くから。」

 モニターから玄関に移動するタイミングがあって「カチャッ」っと玄関のロックが解除される音がし、ドアが半分開いて裕ちゃんが顔を覗かせた。僕は門から玄関まで移動した。

「やあ、裕ちゃん。今いいかな?」

「どうしたの急に?来るなら来るで連絡くれれば良かったのに。」

 裕ちゃんはビックリした表情でそう言った。

「連絡すると居留守を使われるかもしれないと思ったから。それに奇襲攻撃は無予告が原則でしょ。」

「・・・・・・」

 裕ちゃんは唖然としている。いつもと立場が入れ替わったようだ。

「上がってもいいかな?」

「まあ、いいけど。」

「じゃあお邪魔します。」

 裕ちゃんは僕をリビングに案内し、僕はソファに腰掛け、裕ちゃんは僕の対面に座った。

「どうしたの急に。何かあったの?」

 裕ちゃんは部屋着ですっぴんのままだ。こんな裕ちゃんを見るのは柏崎のとき以来かもしれない。それでも裕ちゃんにとって僕は柏崎のときから家族同然で気を使わない存在なのだろう。

「あったよ。」

「何?」

 裕ちゃんはいつもの自信満々と違って不安そうだ。僕はゆっくり深呼吸した。ためらっている場面ではない。

「病院に行ってきたよ。」

「病院?」

「裕ちゃんの病院だよ。検査受けたでしょ?」

「ええっ!なんで啓ちゃんが?」

「本当は権蔵先生が呼ばれたんだよ。でも通常国会が始まったばかりで権蔵先生もそれどころじゃないみたいで婚約者である僕が代わりに指名されたんだ。」

「お父さんから?」

「うん。まあ、直接の連絡をくれたのは秘書の山崎さんだったけど。」

「それで?」

「本人よりも先に家族が呼ばれたんだよ。状況は分かるよね?」

 僕がそういうと裕ちゃんはしばらく沈黙し、そしてニッコリ微笑んだ。

「・・・・・・そうなんだ。すごく悪いんだ。」

「そう。とっても悪い。」

「余命を宣告されたんだね?」

「うん。」

「後、どのくらいなの?」

「・・・・・・そこまではまだ聞いてない。」

「そっか~。まあ仕方ないね。そうじゃないかと思ってた。だって半端じゃないくらい体調悪かったもん。それ聞いてなんかスッキリした。」

「裕ちゃん。」

 僕は裕ちゃんの笑顔にビックリした。僕は裕ちゃんが耐えられないくらい落ち込むと思っていたのだ。

「よく告知してくれたね。ありがとう。」

「まあ、・・・裕ちゃんには音楽家として残したいものがあると思ったから。」

「そうだね。残りの人生、短いけど全力で生きてみます。啓ちゃん、今まで色々ありがとう。啓ちゃんのお陰でここまで来られたよ。」

「僕は別に何もしてないよ。ただ名前を貸しただけだ。」

「それだけでもあたしにとってはお礼のしようがないくらい。でも、啓ちゃんとのお芝居もこれでおしまいだね。今となってはちょっと寂しいけど。お芝居のラストは裕子が啓一との婚約を一方的に解消。啓一に慰謝料を払うということでいいよ。一億でも二億でも言い値で払うから。五億くらいあればお母さんと柏崎で悠々自適に暮らせるかな?」

「そんなものは受け取れないし、受け取るつもりもないよ。」

「ごめんなさい。そんなんじゃ啓ちゃんの気が済まないよね?でも今のあたしにできることはこれくらいしかないから。まあ退職金だと思ってよ。」

「おしまいじゃないよ。二人はこれから始まるんだ。」

「ええっ?」

「『ええっ?』じゃないよ。僕達はこれからここでお芝居の続きをやるんだ。」

「何言ってるの?」

「下宿を引き払ってきたんだ。今日から僕はここの家の人間になる。いいだろ?僕達は婚約してるんだ。」

「ちょっと待ってよ、そんな話聞いてない。」

「僕が決めたんだ。裕ちゃんがなんと言おうと僕はここで裕ちゃんと一緒に暮らす。」

「勝手に決めないで。」

「いや、勝手に決めさせてもらう。今まで僕は裕ちゃんのことは受け身だった。でも今度は僕の方から積極的に裕ちゃんに関わりたい。僕はここで裕ちゃんの面倒を見る。権蔵先生も『是非、そうしてくれ』って言ってる。」

「何言ってるのよ。・・・・・・あたしみたいな女のために大学四年生を棒に振るの?就職活動もあるんでしょ。そんなことしたらきっと後悔するよ。」

「どんな人生を歩んでも絶対に後悔はするんだ。それなら今、自分が信じた道を進みたい。将来、今を振り返って、『白石裕子は僕の青春だった』っていうような道をね。」

「どうしてそんなことが言えるの?あたし達、お芝居だったんでしょ?啓ちゃんだってあんなに嫌がってたじゃない?」

「それは僕にも分からない。でも、余命を宣告されたときものすごいショックを受けたんだ。とても悲しい気持ちだった。家族を失ってしまうようなそんな気持ちだった。なぜだかは分からない。とにかく下宿を引き払って、ここで裕ちゃんと一緒に暮らした方がいいんじゃないかと僕に思わせるような衝撃だったんだ。」

「そんなこと急に言われても、あたしは啓ちゃんのこと受け止められないよ。」

「別に受け止めてくれなくてもいい。でも執事は卒業だ。もちろん身の回りの世話はするし、看病もするけど、音楽も一緒にやりたい。僕は音楽家白石裕子のお世話をさせていただくことにする。」

「・・・・・・あたしのマネージャーにでもなるっていうの?」

「マネージャーでもないよ。あえていうならプロデューサーだ。僕は音楽家白石裕子をプロデュースしたいんだ。僕は誰も知らない裕ちゃんを知っている。僕にしかプロデュースできない裕ちゃんがあるはずだ。」

「ダメだ。気持ちの整理がつかない。」

「すぐには無理だよ。そのうち気持ちの整理はついてくるよ。僕が裕ちゃんからお芝居を持ちかけられたときもそうだったから。・・・・・・二階に空いてる部屋があったよね。そこを一つ僕の部屋として使わせてもらうよ。」

 僕はそう言うと唖然としている裕ちゃんを無視して、リビングを出て二階に向った。

 

 僕の突然の押しかけに裕ちゃんは大きく抵抗はしなかった。最初の三日間くらいは確かにブツブツ文句を言っていたかもしれない。しかし、しばらくすると文句は出なくなり、代わりに色々と要求をするようになってきた。「寒い」、「コーヒーが飲みたい」、「おやつがない」、「布団をかけて」、そういう要求に僕は一々応えた。僕は裕ちゃんの恋人でもなんでもないはずだ。なぜ、なんでもない人のためにこんなにできるのか自分でも分からなかった。ただ一つ分かっていることは裕ちゃんがもうすぐ、僕の前から永遠にいなくなってしまうということだ。だから少しでも思い出を残しておきたい、そう感じていたのかもしれない。

 押しかけてきてから一週間ほどすると、スケジュールの調整もでき、また病院の都合もついてようやく裕ちゃんを病院に連れて行けるようになった。裕ちゃんと僕は遠藤マネージャーの運転するクルマで病院に向った。遠藤マネージャーは博士の論文のときに東大の研究室で会っているので初対面ではない。しかし、白衣を着ていた当時の僕と、学ランを身にまとった僕が同一人物であるとは気付かないようだった。

 病院に着き、受付を済ませ、外来の待合室で三十分ほど待たされると、順番が来て裕ちゃんと僕だけが診察室に入った。遠藤マネージャーは外で待っている。

 診察室に入ると約二週間前に僕に余命を宣告した女医が座っていて、裕ちゃんに席を勧めた。僕は裕ちゃんの右やや斜め後ろに立った。

「話は全部お聞きになられたそうですね?」

 女医のそんな問いかけから始まった。今回の予約の際に本人に告知をしたことは既に連絡してある。

「はい。全部聞きました。もう覚悟はできています。」

 裕ちゃんはしっかりした口調で答えた。いつもの堂々とした表情で僕の方がしっかりしなくてはならないと思ったくらいだった。

「では、治療方針について説明しますね。とにかくすぐに入院して下さい。そして抗がん剤治療と放射線治療を並行して行う予定です。かなり持久戦になるかと思いますけど、頑張っていきましょう。」

 女医が一気にそう言うと、裕ちゃんは少し間を置いた。

「・・・・・・すみません。せっかく方針を立ててくださった後で申し訳ないのですが、入院するつもりはありません。在宅治療でお願いしたいんですがなんとかなりませんか?」

 それを聞いて女医の眉がピクリと動いた。

「何をおっしゃるんです。そんなこと無理に決まってます。もう手遅れなのですよ。後はどれくらい延命できるかです。それはご理解いただきたいのですが・・・」

「それは十分に理解しています。十分理解しているからそう言ってるんです。・・・・・・私、音楽をやっているんです。これまでとってもたくさんの歌を歌ってきました。でもそれはまだほんの一部なんです。まだまだ歌いたい歌が一杯あるんです。それを命の限り、歌って行きたいんです。」

「お気持ちは分かりますが目を覚ましてください。そんなことをしたら命を縮めることになってしまいますよ。」

「それでも構いません。私はこれまで好きなことはなんでもやりたいようにやってきました。だから最後もどうか好きなようにさせていただきたいんです。」

「白石さん、・・・音楽をやっていらっしゃるんですか?」

「はい。自分で言うのも変ですけど、これでも結構、売れてるんですよ。まあ先生が聴くような曲ではありませんけど・・・・・・。だから、どうか好きにさせてもらえないでしょうか?幸い、自宅にはレコーディングできるスタジオもありますので自宅で療養しながら活動できればと思っています。」

 裕ちゃんが力強くそう言い、女医はため息をついた。一呼吸おいて、女医が、今度は僕の方を向いた。

「石水さんとおっしゃいましたね?」

「はい。」

「石水さん。婚約者としてはどう思われますか?」

 女医が不意に僕に振った、が僕にもよく分からない。本当は裕ちゃんと僕は恋人でもなんでもないのだ。もちろんそんなことを目の前の白衣の女性は知る由もない。

「・・・その・・・・・・彼女の意思を尊重したいと思っていますが・・・」

 僕は曖昧に返事をした。

「白石さんに一日でも長生きをしてほしいとは思わないんですか?」

 女医は問い詰めるように言った。「一日でも長生きしてほしいか?」と聞かれれば答えは「イエス」に決まっている。しかし裕ちゃんの音楽家として人生を全うしたいという気持ちも痛いほど理解できる。

「・・・・・・もちろん長生きはしてほしいに決まってます。・・・・・・しかし・・・運命がどうしてもそれを許さないというのであれば、僕は彼女には、彼女らしく生きてほしいと思います。」

「本当にそれでいいんですか?」

「はい・・・・・・僕は・・・」

 そこまで言って僕は裕ちゃんと顔を合わせ、「彼女には音楽家として燃え尽きてほしいと思っています。今の僕にできることは音楽家、白石裕子が燃え尽きるのを見届けることだけです」と言って女医に視線を戻した。

 女医はしばらく黙った。考え事をしているようだった。

「・・・・・・分かりました。・・・では自宅療養ということにしましょう。治療プランは作り直します。但し、命を確実に縮めてしまうことだけはどうかご承知おきください。大体、後、一年くらいだと思っていてください。」

 女医がやれやれという表情で言うと裕ちゃんが「入院しなくてもいいんですか?」といつもの明るい声でそれに応えた。

「もちろん主治医としてはそんなことは認められませんし、もし私が家族だったら大反対するところです。」

 女医はそう言うと机の上のマウスを動かして目の前のパソコンを操作した。するとパソコンに内蔵されたスピーカーから微かに、歌声が聞こえてきた。その歌声には確かに聞き覚えがあった。裕ちゃんの声だ。

「先生・・・・・・」

 僕が声をかけると女医はパソコンの画面から二人に向き直り、裕ちゃんと僕を交互に見て微かに微笑んだ。

「実は私、白石裕子さんの大ファンなんです。私だけじゃありません。ここの医局の者はみんな白石さんの歌が大好きです。命の燃え尽きるまで音楽活動に身を捧げたいとおっしゃるのなら私も微力ながらお手伝いさせていただきます。私も最後の最後まで白石裕子さんの歌声を聴きたいですから。・・・入院はしていただかなくて結構です。私が碑文谷のご自宅まで往診に伺わせていただきます。」

「先生・・・・・・よろしいんですか?お忙しいんじゃ・・・・・・」

 僕の方が心配になって聞いた。大学病院の勤務医であれば忙しさは尋常ではないだろう。

「もちろん、そんなこと普通はしませんし、できません。ですからこれは本当に特別です。病院にも内緒でお伺いしますのでこのことはここだけの秘密にしておいてくださいね。」

 女医が若干の笑みを浮かべて言い、裕ちゃんが笑顔で「はい」と返事をした。僕にとってはただの幼なじみに過ぎなかった裕ちゃんが本物の「歌姫」に見えた瞬間だった。

 



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十 選挙

 僕がこの碑文谷の家に来るとき、僕は裕ちゃんに「もう執事は卒業だ」と言った。でも僕はまだ若かったというか、認識が甘かった。執事は卒業しなかった、というより僕はこの碑文谷の家に来てようやく正式に執事に就任したといった方が正しかったのだ。裕ちゃんと出会ってからこれまで、僕は裕ちゃんの執事みたいな役回りを演じてきたと思っていたが、今思えば本当にそれは執事「みたいなもの」に過ぎなかった。

 裕ちゃんの告知から早、四ヶ月が経過している。この間、僕は間違いなく裕ちゃんの忠実な執事だった。裕ちゃんは色々な要求をし、僕はそれに全て応えてきた。そんな僕の経験から一つはっきりいえることがあるとすればそれは「この世の中には二種類の人しか存在しない」ということである。「尽くされる人」と「尽くす人」である。

 そんなことを考えながらダイニングで書き物をしていると不意にダイニングの扉が開き、裕ちゃんが顔を覗かせて「えっ!」だか「げっ!」だかとにかく一言、大きな声を出した。とにかく大きな声だったので一瞬、身震いした。

「ああ、おはよう。今朝は随分早いね。」

 僕はすぐに気を取り直し、裕ちゃんに朝のあいさつをした。時計は午前七時頃を指している。このところ裕ちゃんはこの碑文谷の自宅に留まってレコーディングに明け暮れる毎日を送っている。完全に昼夜逆転でこの時間に起きてくることは普通ない。

「どーしたの?その格好!」

 裕ちゃんがもう一度ビックリした声で言った。今日は大学のある日なので僕は外出着に着替えている。大学は四年生に進級したが、ゼミと外国書購読だけなので大学に行くのは週に一日だけ、それも出席さえしていれば単位はくれるだろうからただ座っているだけだ。

「『どうしたの?』って出かけるんだよ。今日は大学のある日なんだ。」

 僕は少し手を休めてそう答えた。

「学ランは?」

「ああ、そういうことね。今日から六月で衣替えだよ。今日から夏服なんだ。」

 僕は、下はホワイトジーンズ、上は白のサファリジャケットに黒のTシャツを着ていて、胸のポケットにはサングラスがレンズを外側に向けて刺さっている。

「そんな格好するんだ。夏服って制服の夏服じゃないの?」

「ああ。高校生じゃないからね。」

「いや~、学ランとあまりにも落差があったんで泥棒かと思ったよ。初めてだよね。啓ちゃんがそんな格好するの見るの。」

 確かに去年も一昨年も僕は夏場、この格好をしている。裕ちゃんに見られなかったのは、夏の間、裕ちゃんと会っていないからだ。

「そう言われれば、夏場に裕ちゃんと過ごすのは柏崎以来だね。」

「じゃああたしもビキニとか披露しないといけないね。・・・・・・ところで話、変わるんだけど、言い忘れてたんだけど、こないだヤマザキさんから電話あってね、柏崎に行く日程を調整して欲しいんだって。」

「ヤマザキさん?」

「お父さんの秘書のね。」

「ああ、山崎さんか。・・・・・・柏崎でまたなんかやるの?」

「そろそろ解散なんだって。衆議院のね。で、選挙の準備のために啓ちゃんには早めに柏崎に帰って欲しいんだって。もちろんあたしのことがあるからなかなか厳しいけど、それでも解散してからじゃ遅いので早めにねってこと。」

「はあ。・・・それで、僕はどうすればいいのかな?」

「今まで通りでいいよ。柏崎行きの話は断っといたから。啓ちゃん、あたしの世話でそれどころじゃないって。」

 裕ちゃんはそう言ってニッコリ微笑んだ。お芝居の世界での話だが、僕は次の次の衆議院議員選挙に柏崎から立候補することになっているようだ。次の選挙は被選挙権がまだないので間に合わない。柏崎に行くとなると次の次の衆議院議員候補予定者として次の立候補予定者と一緒に支援者をまわらなければならず、それはそれでやっかいだ。

「ありがとう。その方が僕としてもありがたいや。」

「でもここでの生活も柏崎とそんなに変わらないと思うよ。」

 裕ちゃんがそう言ったので「その通り!」と言ってやりたかったが、その言葉は飲み込んだ。

「ねえ、何、書いてるの?」

 裕ちゃんの注意がようやく僕の書き物に移った。

「ああ。裕ちゃんに頼まれてたやつだよ?」

「あたしが頼んだもの?」

「うん。作詞しろって言ってたじゃない。」

 僕はこの碑文谷の裕ちゃんの自宅で裕ちゃんの音楽にも付き合っている。裕ちゃんからは最後の思い出に僕と一緒に曲作りもしたいというのだ。僕は柏崎にいた頃、裕ちゃんと一緒にピアノ教室に通っていたから音符くらいは読めるがもう何年もピアノからは遠ざかっているし、作曲は無理だ。幸い、作詞くらいなら日本語をつなぐだけなので真似事くらいはできる。それで作詞を引き受けたのだ。でもそんな才能もないので本当に日本語をつなぐだけだ。

「ああ、あれか。ねえ、見せてもらってもいい?」

「まあ、いいけど。・・・はい。」

 僕はそう言って書きかけの韻文を裕ちゃんに渡した。裕ちゃんはしばらく読んでいたがすぐにゲラゲラと笑い出した。

「何がおかしいんだよ?」

 僕は怒った口調で言った。事実、温和な僕にしては珍しく怒っていた。

「ごめんなさい・・・啓ちゃん、こんなの書くんだ。」

「別に、そんなに笑わなくったっていいじゃないか。僕は結構、真面目に書いてるつもりなんだけど。」

「それは分かってるんだけど、・・・なんていうか・・・、う~ん、誉め言葉が見つからないなあ。」

 裕ちゃんは相変わらず人をバカにした口調だ。

「もういいよ。バカにされるくらいなら作詞なんかやらないよ。」

「ごめんなさい。別にバカにしてるつもりはないの。ただ啓ちゃんとのギャップがあまりにも激しいもんだから。これ、女の子の心情を歌った詞だよね?」

「だって裕ちゃんが歌うんだろ?男の歌じゃそっちの方がおかしいんじゃない?」

「それはそうだけどこれって何かモデルでもあるの。」

「まあ、裕ちゃんが柏崎を出て行ったときの風景だよ。」

「それってあたしが中学を卒業したとき?」

「そう。長岡の新幹線ホームで見送る僕を見ながら裕ちゃんはこんなこと考えてたんじゃないかなって勝手に想像した詞だよ。」

「そっか~。中々の想像力だね。」

「茶化さないでよ。僕は結構真面目に取り組んだつもりなんだけど。」

「それは分かってる。いつもありがとう。あたしの我がままを聞いてくれて。これは預ってもいいかな?」

「いいけど、まだ途中だよ。」

「これで十分だよ。じゃあ、あたしは二度寝しますので。大学、頑張ってね。」

 裕ちゃんはそう言うと僕が渡した紙を持ってそのままダイニングを出て行った。裕ちゃんはそのまま二度寝したようで、僕はそれから大学に向かった。

 

 週一回の大学を終えると、僕は真っ直ぐに碑文谷の裕ちゃんの自宅に帰宅した。この碑文谷での生活が始まってからというものの僕はほとんど外出することはない。外に出かけるといったら大学と買い物くらいのものだ。

 家の外には黒塗りの高級車が止まっていて嫌な予感がした。「ただいま~」と言って玄関のドアを開けるとリビングのドアが開き、裕ちゃんが現われた。玄関に見慣れない男物の靴が置いてあったので客が来ていることがそれとなく分かった。

「お帰りなさい。お疲れ様でした。」

 裕ちゃんがややよそ行きの顔で言った。

「お客さん?」

「そう招かれざる客よ。」

「誰?」と僕は裕ちゃんに聞いたが、裕ちゃんはそれには答えず、リビングに向かい、僕もその後を追った。リビングに入ると、巨漢の男がソファに座っていて「やあ!」と大声で声をかけた。

「ああ、先生。お久し振りです。ご用があれば僕の方から永田町の方にお伺いしましたのに。」

 僕は招かれざる客、裕ちゃんの父親、巨漢の白石権蔵参議院議員にあいさつをした。この巨漢の政治家に会うのも僕の安アパートで土下座されて以来だ。

「裕子にも話したいことがあったからな。今日は学ランじゃないのか?そんな格好をしている君を見るのは初めてだが。」

「はい。六月に入りましたので衣替えです。」

「そうか。君も今どきの若者のような格好をするんだな。まあ、かけたまえ。」

 巨漢はそう言って右手を動かし、僕に席を勧めた。僕は「失礼します」と言って巨漢の参議院議員の対面やや右側に座り、裕ちゃんが僕の左に座った。

「なあ、啓一君。」

 気を使っているのだろう。形相は険しいが言葉遣いは穏やかだ。

「はい。」

「まずは、裕子のこと、いつもありがとう。本当に君には感謝しているし、すまないと思っているよ。」

「いいえ、そんな。僕はただ、できることをしているだけです。」

「いや、そんなことはない。裕子は本当にいい伴侶に恵まれたと思っている。」

「ありがとうございます。そんなにおっしゃっていただいて。」

「裕子のことは本当に感謝している。だがな、選挙のことも考えて欲しいんだ。」

「はあ、選挙ですか?」

 やはり僕がいずれは衆議院議員選挙に出馬するシナリオになっているのだ。僕にはその気がまったくないので芝居とはいえ、本気になれない。演技にも臨場感が出ない。

「もうすぐ総選挙が始まる。君は被選挙権がないから今度の選挙に出るのは無理だが、選挙の応援には行って欲しいんだ。」

 巨漢がそう言うと「だからそれは無理だってこの前、山崎さんに言ったけど」と裕ちゃんが横から突っ込んだ。

「だから私が今日、こうやってここまで出向いてきたんじゃないか。啓一君。君が裕子のことを思ってくれている気持ちは痛いほど分かるよ。とても選挙と天秤にかけられる問題じゃない。それは分かっている。でも選挙は選挙だ。どうか考えて欲しい。」

 巨漢が懇願の眼差しで僕を見つめるとまた裕ちゃんが口を開いた。

「説得しても無駄だよ。選挙はお父さんで勝手にやって欲しい。お父さんには悪いけど、啓ちゃんは柏崎には帰らないよ。選挙期間中も啓ちゃんはあたしとここで音楽をやるの。」

「何バカなことを言ってるんだ。そんなことで選挙に勝てると思ってるのか?まだ時間があると思っているかもしれないが、次の次の選挙なんてあっという間だぞ。」

「お言葉を返すようですが、あたし予言するよ。今度の選挙、白石陣営は惜敗かもしれないけど、その次の選挙は啓ちゃんが圧勝するよ。賭けてもいい。」

 裕ちゃんが自信たっぷりにそう言うと巨漢の参議院議員は大きくため息をついた。

「あのなあ、裕子。この私ですら落選してるんだぞ。」

「それはお父さんだったからでしょ。お父さんと啓ちゃんは全然違うよ。言っちゃ悪いけど、啓ちゃんはお父さんよりもはるかに優秀。」

「なんだと!」

「だからあたしは啓ちゃんを選んだんだよ。」

 裕ちゃんがまた自信たっぷりに言うと巨漢はまたため息をついた。

「分かった。啓一君が優秀であることは認めよう。しかしだな、いかんせん経験が足りないじゃないか。選挙は経験もモノを言うぞ。それと年齢だ。啓一君は若すぎる。まあそれも武器にはなるが地元でもまだ名前は売れてないじゃないか。まあ、私の娘婿ということを前面に出せばそこそこ票は入るかもしれないが、それも決定打にはならない。」

「お父さんの顔で当選できるくらいだったら別に啓ちゃんじゃなくてもいいんじゃないの?・・・・・・ごめんね。別にあたしはお父さんとケンカをするつもりはないの。ただお父さんに啓ちゃんのことを理解してもらいたいだけなの。啓ちゃんに任せておけば大丈夫だって。」

「どう理解しろって言うんだ?所詮は政治の素人じゃないか。」

「じゃあ聞くけど、お父さんは啓ちゃんに何を期待してるの?」

「そりゃ、柏崎の議席奪還に決まってるだろう。」

「それだけ?」

「とりあえず当選だ。それから先のことは当選してから考えていくことだ。まだ若いし、当選を重ねていけば大臣にだってなれるだろう。」

「そんなんだから落選するんだよ。」

「何!」

「まあ、そんなに興奮しないで。啓ちゃんはね、もっと大きなこと考えてるの。この白石家から総理大臣を出そうとしているの。」

 裕ちゃんがそう言うとまた巨漢は大きくため息をついた。僕が巨漢でも同じことをしただろう。学生の分際で総理大臣なんて子どもの考えることだ。

「私は子どもを相手にしている暇はないんだよ。とにかく柏崎行きの日程は組ませてもらうからな。啓一君がいない間、裕子の身の回りの世話をする人は誰か探しておくよ。」

 巨漢が幕引きをはかろうとするが裕ちゃんは応じない。

「じゃあ話変えるけどお父さんは政治ってなんだと思う?」

「何って?」

「政治を一言で表すと?」

「そりゃ、力だろう。」

「そうだね。じゃあ力って何?」

「数だ。」

「数は?」

「金だよ。そんなことは私でなくても誰でも分かっていることじゃないか。まあ、表にははっきり出さないかもしれないが。」

「そうだね。それでお父さん。政治資金は潤沢かな?」

「なわけないだろう。『政治資金は潤沢です』なんて政治家、この世にはいないよ。政治には無限にお金がかかるんだ。」

「あたし、今、すごく稼いでるの。それはお父さんも知ってるでしょ?」

「ああ。随分、売れているようだな。」

「随分なんてもんじゃない。お父さんより二桁くらい多いと思うよ。」

「・・・そうか。」

「それを全部、政治資金に使えるとしたらどう思う?」

「・・・・・・」

 巨漢は固まった。巨漢と裕ちゃんの立場が逆転したようだった。

「すごい話になるでしょ?それこそ総理大臣の一人くらい出せるよ。」

「・・・・・・そうかもしれないな。」

「これからもうしばらく、もうしばらくっていっても後、半年くらいの話だけど、とにかくあたしは稼げるだけ稼いで啓ちゃんに完全にバトンタッチするつもり。今は二人三脚だけどね。もう時間がないの。確かにここで柏崎の応援に行けば次の次の当選は確実かもしれない。しかしその先の話がないでしょ。啓ちゃんはもっと先のことを考えているの。政治資金が潤沢にあれば、白石家のためにも、柏崎のためにもなるってね。」

「そうか。まあ啓一君が優秀で随分先のことまで考えているのは分かった。でも、別にここを仕切るのは啓一君じゃなくてもいいんじゃないのか?代わりは効かないのか?」

「効かないね。世間はあたしがメインで啓ちゃんは黒子の一人と思ってるかもしれないけど本当は逆だよ。あたしをプロデュースしたのは啓ちゃん。啓ちゃんがいなければあたしはとてもここまでは来られなかった。逆に歌うのはあたしでなくても良かったのかもしれない。あたしくらいの実力の歌手はいくらでもいるよ。啓ちゃんほどの実力者なら誰をプロデュースしてもこれくらいはできたってこと。」

 裕ちゃんはそう言いながら視線を僕に向け、ニッコリ微笑んだ。

「啓一君はどうなんだ?」

 巨漢が鬼の形相で僕に発言を求めた。

「はあ・・・・・・」と僕は何か言おうとしたが裕ちゃんがそれを遮った。

「啓ちゃんは何も言わないよ。啓ちゃんは身内にも決して手の内を明かさないの。」

 しばらく間があった。重い空気がリビングにただよった。

「・・・・・・次の次の選挙には絶対に当選できるんだな?」

 巨漢がより一層、低い声で言った。

「あたしが保証するよ。次点に法定得票数も与えないと思うよ。たとえあたしが天国からその次点候補を応援したとしてもね。」

 裕ちゃんが毅然とそう言うと、再び父子はにらみ合った。そのうち、にらめっこに負けた巨漢の父がやれやれという表情になった。

「分かったよ。地元には啓一君は裕子のことがあって来られないと言っておくよ。・・・・・・とんだ無駄足だったようだな。私はこれで失礼する。」

 巨漢は振り上げたこぶしを打ち下ろす場所を失ったのか、やや早口でそう言うと席を立った。僕も「クルマまでお送りします」と言って席を立ち、リビングのドアを開けた。巨漢がリビングから出て行こうとすると「お父さん!」と裕ちゃんが巨漢を呼び止める声が聞こえ、巨漢と僕が裕ちゃんの方を振り返った。

「ありがとう。」

 裕ちゃんはそう言ったが巨漢はそれには応えず、黙ったまま、リビングを出て行き、僕は後を追った。

「スミマセン。何か僕のせいでご面倒をお掛けしているようで。」

 僕はそう声をかけたが巨漢は黙ったまま外に出た。外には黒塗りのクルマが置いてあり、助手席に座っていた秘書と思われる男が慌てて外に出て、後ろのドアを開けた。巨漢はドアの前で一度立ち止まり、僕の方に振り向いた。

「啓一君。本当は間違っているのは私で君達の方が正しいのかもしれない。」

「はあ?」

「私も本当は裕子の傍にいてやりたいんだ。娘のことを思わない親なんかいないよ。そのことはどうか理解して欲しい。」

 そう言って遠くを見ていた視線が僕の視線を捉えた。

「もちろんです。」

 僕がそう言うと巨漢は後ろの座席に乗り込み、秘書がドアを閉めた。秘書が助手席に回りこむと巨漢はパワーウインドウを開けた。

「残念だが、今度の選挙でも柏崎の議席は奪還できないだろうな。」

 巨漢が遠くを見つめるようにポツリと言った。

「苦戦されているんですか?」

「ああ。秘書のうち二人が脱落して相手陣営に渡ってしまったよ。政治とはそういう血も涙もない世界だ。」

「はい。」

「次の次の選挙には期待しているよ。君ならなんとかしてくれそうだ。」

「いえいえ、僕なんかとても・・・」

 そもそも僕には政治的な野心はないし、立候補するつもりもないのだ。

「啓一君。あの我がままな娘が父親の私に向って『ありがとう』と言ったのは初めてかもしれない。裕子のことどうかよろしく頼むよ。」

 巨漢はパワーウインドウを閉め、黒塗りは走り出した。僕はそのクルマが見えなくなるまで最敬礼を続けた。

 

 クルマが見えなくなったことを確認し、リビングに戻ると裕ちゃんはまだソファに座ったままだった。

「お疲れ様でした。なんとか撃退できたね。」

 裕ちゃんはまるで他人事のようにしれっと言ったので僕は大きなため息をつき、さっきまで巨漢が座っていた対面のソファにドカッと座った。

「あのねえ、裕ちゃん。あのままじゃ本当に僕が柏崎から立候補しなきゃいけなくなっちゃうんじゃないの?」

「それもいいんじゃない?議員バッチなんて誰だって簡単につけられるもんじゃないよ。」

「僕はそんなもの欲しくないし、そもそも力量もないよ。」

「あたしは啓ちゃんの力量で十分だと思うけどなあ~。権蔵より啓ちゃんの方が、実力が上だというのは嘘ではないよ。」

「裕ちゃん。僕の気持ち、あんまり考えてないよね?」

 僕が怒った口調で言うと裕ちゃんは下を向いた。

「そうかもしれないね。ごめんなさいね。いつも我がままばかり言って。」

 裕ちゃんが急にトーンダウンしたので僕もトーンダウンした。裕ちゃんは重い病気にかかっているのだ。

「ごめん。別に問い詰めるつもりはないんだ。ただ、このままだと僕が本当に政治家にさせられちゃうんじゃないかなって、・・・ちょっと心配になってるだけだよ。次の次の総選挙のときには裕ちゃんは僕の傍にいてはくれないんだろうし、あの権蔵先生のパワーを僕一人でしのぐのは無理だよ。」

「そうだね。まあ用心棒は誰か考えておくよ。それともいっそのこと海外にでも逃亡したら?あたしの版権収入で食べられるようにしておくから。」

「年老いていくおふくろを一人残して逃亡はできないよ。まあ~、・・・・・・」

「どうしたの?」

「うん。」

「何?」

「実は、・・・その~・・・博士のことを思い出したんだ。博士にもそんなことを言われたことがあるなあと思って。」

「おお、博士か。懐かしいねえ。」

「何、元カレみたいなこと言ってるんだよ。博士とは・・・その後、どうなんだよ。ここにきてからそのことには触れないできたけど。」

「もう遠い思い出だよ。」

「連絡は取れてないの?」

「そう。アメリカで行方不明。」

「裕ちゃんはそれでいいの?」

「いいよ。それもかっこいいじゃない。博士は天才。きっと世界が認める日が来るよ。それに今はこんな近くに啓ちゃんがいてくれるし。案外、博士といた頃より幸せかもしれない。あたしは博士のことが大好きだと思ってたけど、あたしが愛していたのは博士自身じゃなくて、博士の抱いていた大きな夢の方だったのかもしれない。」

 裕ちゃんがニッコリ笑ってそう言ったので僕は言葉に詰まった。なんと言い返そうかと思っているとちょうどいいタイミングで「ピンポ~ン」と玄関のチャイムが鳴り僕はそのままリビングにあるインターフォンに出た。この家はダイニング、リビング、書斎、寝室の各部屋にインターフォンが付いているので少し豪華だ。僕が出るとモニターには若者のグループが映っていて帽子にひげ面の青年が「おはようございます。野島事務所です」と言ったので「は~い」ともう一度返事をして玄関に向かった。玄関を開けると機材を持った四、五人のクルーが「お邪魔しま~す」と言ってぞろぞろと家の中に入ってきた。最後尾には野島社長ご自身の姿も見える。裕ちゃんの病気が発覚してからレコーディングはすべてこの碑文谷の書斎兼スタジオで行われている。午後には野島事務所のクルーがやってきてレコーディングをするのが日課になっていた。

 

 レコーディングがスタジオで始まると野島プロデューサーが僕のところに寄ってきた。

「啓ちゃん、ちょっといいかな?」

 野島氏は相変わらずキザな格好で、フレンドリーだ。

「はい。」

「二人だけで話したいことがあるんだけど。」

「はあ。じゃあ、こちらへどうぞ。」

 僕はそう言ってスタジオ兼書斎を出て、野島氏をリビングに案内し、ソファに座らせた。僕は野島氏の対面に座った。

「なんでしょう?」

 僕が先に声を掛けた。

「さっき、裕ちゃんにこれを渡されたんだけど、これなんだ?」

 そう言ってキザ男は一枚の紙をテーブルの上に置いた。楽譜だ。一番上には「卒業」と書いてあり、右やや下には作詞石水啓一、作曲白石裕子と書いてある。詞を見ると今朝、僕が裕ちゃんに渡した韻文が書かれていた。

「これは、・・・ああ。今朝、僕が裕ちゃんに渡した詞ですね。・・・裕ちゃん、もう曲をつけたんだ。何時間もたってないのに。」

「裕ちゃん、次のシングルはこれで行くって言ってるんだ。どういうことだ?」

「さあ、僕も承知していません。裕ちゃんにはただ作詞してくれって言われていただけですから。その、・・・最後に僕と思い出作りをしたいと。」

「そういうことか。まあ、思い出作りの邪魔をするつもりはないけど、残念ながらこれはボツだ。」

「はあ。」

「こんなダッサダサの詞じゃダメだということだ。裕ちゃんのイメージにも合わない。」

 僕は別にヒットを狙ってやっているわけではないので、そう言われてカチンと来るものはあったのだが怒っても仕方ないので大人の対応をした。

「スミマセン。まだ作詞は下書きの段階で、途中で裕ちゃんに取り上げられただけですから。」

「分かっているんだったらいいよ。・・・今日話したいことはそんなことじゃない。親父が来てたんだな?」

「ああ、権蔵先生ですね?ご存知でしたか?」

「ああ。門の前に黒塗りのクルマが止まってたんで、あのでかい親父が来てるんじゃないかと思って出て行くまで外で待機してたんだ。」

「そうだったんですか。ごあいさつされればよかったのに。」

「何言ってるんだ。あの親父の顔なんか二度と見たくないよ。」

「そうですか。」

「・・・啓ちゃん。・・・何をもたもたしているんだ。本当にもう時間がないんだぞ。」

 キザ男がイライラした口調でそう言った。

「はあ?なんの話でしょう?」

「その~、裕ちゃんがいなくなってしまった後の話だよ。」

「はい?」

「結婚はしないのかな?」

「結婚・・・・・・ですか?」

「何、他人事みたいに言ってるんだ。君達は婚約しているんだろ?」

「ああ、そうですね。・・・でも、それは裕ちゃんと僕のとてもプライベートなことですから。もちろん野島さんは裕ちゃんの使用者の立場の方ですからまるで無関係ではないかもしれませんけど。」

「僕じゃないよ。裕ちゃんのまだ世に出ていない作品は膨大にあるんだ。それは君が一番良く知ってるだろう?」

「それは理解しているつもりです。」

「もし今のまま裕ちゃんが死んでしまったら裕ちゃんの作品は全部あのでかい親父が相続するんだぞ。あのバカ親父に裕ちゃんの才能が理解できると思うか?」

「それは・・・・・・」

「だろ?残された方法は一つだけだ。君が裕ちゃんと結婚する。そして裕ちゃんの残していくものを整理するんだ。もちろん僕も手伝えることがあれば全力で手伝うよ。」

 なるほど、このキザ男が言いたかったことはそういうことなのだ。裕ちゃんの楽曲はまだ発表されていないものも膨大にある。それが自分の手の届かないところに行ってしまうのが惜しいのだろう。実はこのキザ男は僕の最も苦手とするタイプなのかもしれない。僕は言葉を選んだ。

「申し訳ありませんが、今はとてもそんな気分にはなれません。裕ちゃんとの思い出作りに精一杯ですので・・・・・・」

 そう言って僕は席を立ち、リビングを出て行こうとした。

「まあ、君も辛い立場だろうから僕も強くは言えないけど、裕ちゃんには僕の口からも言っておくよ。啓ちゃんが裕ちゃんの版権を管理することには裕ちゃんも異論はないはずだからね。少なくともバカ親父よりははるかにいい。」

 野島プロデューサーがそう言うのを背中で聞いて僕はその場を離れた。

 



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十一 表彰

 結局、その年の通常国会閉会を待って行われた衆議院の解散、総選挙で白石陣営は予想通り惜敗し、失地回復は今回も達成実現できなかった。しかし、それでも娘の見舞い方々、選挙結果の報告に来た巨漢の参議院議員の表情は明るかった。「今回負けはしたが、白石の娘婿が出る次は絶対に勝てる」と地元の士気は上がっているというのだ。僕にとっては迷惑な話だが、今さらそれは違うとも言えないまま、巨漢は帰っていった。

 一方、僕が作詞し、裕ちゃんが作曲し、キザ男に散々罵倒された曲は結局、「卒業」というタイトルでその年の九月に裕ちゃんの言った通りリリースされ、あっという間にミリオンを達成した。そして僕の下にも印税が入るようになり、僕は裕ちゃんだけではなく、自分自身の財産管理もしなければならない破目に陥っていた。しかし、公認会計士の勉強をしていた僕にとってお金の計算は比較的得意分野であり、煩わしくはあったものの政治の話をしているよりは余程良かった。

 季節はまた早く過ぎ去り、裕ちゃんの音楽人生も残り半年を切った十一月下旬の昼下がり、ダイニングテーブルの上でコーヒーを飲みながらお金の計算をしていると、ダイニングのドアが開き裕ちゃんが顔を覗かせた。

「おはよう。」

 病気は確実に進行しているはずなのだが、裕ちゃんはいつも血色が良く、元気一杯だ。ここ碑文谷の自宅兼スタジオで大好きな音楽を誰にも気兼ねせずに好きなだけ打ち込んでいられるからなのかもしれない。病気でいることなど僕の方が忘れてしまう。

「おはよう。よく眠れたかな。」

「まあね。何してんの?」

 裕ちゃんはそう言うとダイニングの僕の対面に座り、僕の飲みかけのコーヒーを一すすりした。

「ああ、お金の計算だよ。時々整理しないとわかんなくなっちゃうからね。整理していないと確定申告のときが大変だから。」

「そっか。あたし今どれくらい稼いでるんだろう。」

「興味あるの?」

「ない。お金なんてそれほどのものでもなかったね。今思うと。それだけ達観したってことかな。」

「僕が言うのもおこがましいかもしれないけど、裕ちゃん、もう自分では管理しきれないくらい稼いでいるよ。とてもじゃないけど、音楽と片手間にできる規模じゃない。専門の財務コンサルタントが必要なくらいだ。下手な、いや立派な中小企業よりも稼いでるよ。」

「そうか。よく政治家が秘書に任せていて分からないとか言って、それが何千万だったりすることがあるけどあんな感じだね。庶民感覚からは外れてるっていうのはこういうこと言うんだろうね。ありがとう。これも啓一様のお陰ですよ。」

「僕は何もしてないよ。」

「今日はレコーディングない日だよね?」

「そうだね。今日はお休みだね。まあ、野島事務所の皆さんもたまには休みが欲しいだろうしね。その代わり、今日は僕が野島社長に呼ばれてて、一段落したら六本木の野島事務所に行くことになってる。」

「啓ちゃんももう業界の人なんだからギロッポンって言って欲しいね。」

 それを聞いて僕はため息をついた。

「あのねえ、僕は業界の人間なんかじゃないんですけど。」

「あそう。こんなにあたしのことプロデュースしてるのに?じゃあ、なんなの?」

「ただの書生かな。婚約者の看病をしながら日米ダブル公認会計士を夢みてコツコツ勉強している。」

「なんか殊勝だね。まあ啓ちゃんらしいと言えばそれまでだけど、啓ちゃんの実力はそんなもんじゃないと思うけど。まあ書生でもいいけど、啓ちゃんさえ望めば四年後の今頃は左の胸に菊のバッチが光輝いていて『センセイ』って呼ばれてるんだよ。」

 それを聞いて僕はもう一度大きくため息をついた。

「だからそんなことも僕は望んでないんだってば。大体僕は政治家なんて輩ではないよ。人前で話すことだって苦手なんだから。」

「政治は啓ちゃんが考えているほど難しくないよ。政治家なんて芸能人と大差ないのかもしれない。人を幸せにするという文脈においてはね。」

「そんなもんかなあ。」

「そんなもんだよ。権蔵が参議院のドンになれたのも『神輿は軽くてパーがいい』からでしょ?まあ啓ちゃんは権蔵よりはるかに実力者だから同列には扱えないけど、神輿に乗りさえすれば後は難しく考える必要はないと思う。面倒なことは秘書や地方議員に任せればいいんだし。」

「・・・・・・」

 僕は黙った。あまり裕ちゃんのペースに乗せられてしまうと本当に政治家にさせられてしまいそうだ。裕ちゃんもなんだかんだいって本当は僕を衆議院選挙に立候補させようとしているような気がしてならない。

「で、野島さん、啓ちゃんになんの用なの?」

「さあ。会って話すって言われているんだけど・・・。まあ見当はつくけどね。」

「何?」

「裕ちゃんがいなくなってしまった後の話だよ。」

「ああ、そういうことか。」

「前にもそんなこと言われたことがあったからね。」

「なるほど。野島さんとしては版権の行方が気になるわけだ。」

「そりゃそうでしょ?裕ちゃんドル箱なんだし。」

「ねえ、啓ちゃんはどうしたいの?」

「そんなこと分からないよ。裕ちゃんはまだ健在なんだし。」

「そりゃそうだね。まあ野島さんはあたしをダシにしてのらりくらりとかわせばいいよ。」

 裕ちゃんはそう言ってもう一度僕のコーヒーカップをすすり、ニッコリ笑った。

 

 それから僕は一張羅の学ランに着替え、左ハンドルから僕の希望で買い換えた国産のハイブリッドを一人で運転し、ギロッポンならぬ六本木をめざした。ハイブリッドの前後には若葉マークが付いている。クスリを常時服用している裕ちゃんはもうハンドルを握ることができない。結局、僕が運転免許を取得して、僕は裕ちゃんの執事からさらにお抱え運転手の役回りも担うことになった。運転するのは僕だけなのでクルマについては我がままを言い、左ハンドルから右ハンドルに買い換えたのだ。

 夕方、六本木の野島事務所が入っているビルに到着し、受付で来意を告げるとそのまま最上階の社長室に案内された。事務所は借り物のようだが広く、内装にもそれなりに手が加えられている。社長室の前には美人秘書が座っていて、僕が来意を告げるとインターフォンで中のボスに取り次ぎ、ボスの「ああ、入ってもらってくれ」という声が僕にも聞こえて、美人秘書が社長室のドアを開けた。この美人秘書も裕ちゃんの遠藤マネージャー同様、なりそこないのアイドルなのだろう。

 部屋の中に入ると「やあ、いらっしゃい。この事務所に来るのは初めてだよね?」とキザ男が豪快に僕を出迎えた。赤いブラウスにブルーのサスペンダーが鮮やかで眼がチカチカする。キザ男は不敵に笑い握手を求め、僕は作り笑顔でキザ男の右手を握った。

「一度、裕ちゃんに呼ばれて、この下のロビーには来たことがありますよ。まだデビュー前でしたけど。」

「そうだったか。まあ、かけてくれ。」

 キザ男は相変わらず高飛車に席を勧め、僕はソファに座り、キザ男は僕の対面に座った。なりそこないのアイドルがお茶を持ってきて二人の前に置いた。

「こんなところまでお呼び立ていただいて、何か御用でしょうか?」

 僕はキザ男の高飛車に低姿勢で応えた。所詮は学生、背伸びしても仕方がない。

「こんなところに来るのも学ランなんだ?」

「えっ、ああ。まあ、これしか着る物がありませんから。」

「そんなことはないだろ?夏はもっとましな格好してたじゃないか。」

「まあ、この服が好きなんです。学生でいられるのも、もう半年もないですから。」

「そうか。まあ、君らしさといったところかな。なんか君を見ていると実力があるのかないのかよく分からなくなるよ。」

「実力なんかあるわけないじゃないですか。僕はそこら辺にいるただの学生ですよ。」

「そこが分からないんだ。僕が学生のときはもっと虚勢を張ったもんだけど、君はなんかわざと隙を見せているようなそんな気がするんだ。」

「何をおっしゃいます。」

「だってあのでかい親父が君の実力を認めたのは事実なんだろ?」

「ああ、まあそれはそうかもしれませんが。」

「だからなんて言うか、君と話すときは実は僕も少し緊張するんだ。下手なこと言うと火傷させられるかもしれないからな。」

「大袈裟ですよ。」

「でも、もう少し着る物には気をつけて欲しいな。裕ちゃんの婚約者なんだし。」

「でもそれは誰も知らない話なんじゃないんですか?」

「そうだ。マネージャーの遠藤も知らない。遠藤も、君のことはただの幼なじみ程度にしか考えていないよ。だから君もマスコミに追い掛け回されなくて済んでるんだろうけどな。」

「それは感謝してます。」

 僕はそう言って目の前に置かれた湯飲みを取り、お茶を一すすりした。

「まあ、前置きはそのくらいで本題に入ろう。啓ちゃん。君にとって朗報だ。君が今年の作詞大賞を受賞することが正式に決まったよ。」

「はあ?」

「なんだよ、その反応は。もっと喜べよ。みんな、何十年もコツコツやって、苦労して、報われなくて、それでも文句を言わず歯を食いしばっているのに、君は学生の分際でありながらあっという間に成功をつかんだんだぞ。」

「そうですか。ありがとうございます。スミマセン。急な話ですぐには飲み込めないもので。」

 僕は少し改まってお辞儀をした。

「まあ、僕が決めたわけじゃないからお礼は協会のお偉いさんに言ってくれよ。ともかくおめでとう。あんな状況でよく頑張ったよ。」

「僕はそんなに頑張ってもいませんけど・・・」

「分かってるならいいんだ。その通りだよ。あの作品はハッキリ言って駄作だ。裕ちゃんの作品だったからこれだけ売れたんだ。それはどうか忘れないことだな。思い上がらない方がいい。」

「はい。」

「それで、これからどうするつもりなんだ?」

「どうする?とおっしゃいますと?」

「裕ちゃんがいなくなってしまってからの話だよ。」

「ああ、そのことですね?」

「結婚はしないのか?」

「それは裕ちゃん次第です。」

「この前も言ったけど、このままだと裕ちゃんの作品は全部あのでかい親父のものになるんだぞ。」

「それは承知していますが僕の力ではどうにもなりません。」

「裕ちゃんの残していく楽譜をあの親父から切り離すことはできないのかなあ?もちろん君達がさっさと結婚するのがベストではあるんだけど。」

「そんなに裕ちゃんの楽譜が欲しいんですか?」

「あたり前じゃないか。彼女は天才なんだ。その天才が膨大な楽譜を残していくんだ。音楽プロデューサーとしてそれを望まないわけないじゃないか。君は知っているだろうけど、僕は碑文谷の彼女のスタジオに出入りしているから彼女の楽譜は全部見ている。」

「そんなに欲しいなら碑文谷のスタジオから盗み出せばいいじゃないですか?野島さんなら不可能ではないでしょう?野島さん、碑文谷のスタジオは出入り自由なんですから。」

 僕がそう言うとキザ男は大きくため息をついた。

「できることならそうしたいよ。でもそうさせないだけの良心はギリギリのところで残っているんだ。・・・いいか、啓ちゃん。今のままだとあの楽譜群はあのでかい親父が相続する。しかしあの親父に管理できるわけがない。管理は必然的に啓ちゃんってことになるんじゃないのかなあ?」

「さあ、どうでしょう。権蔵先生は僕も最近、ご無沙汰なんです。」

「一緒に手を組まないか?君が裕ちゃんの楽譜を管理する。僕が世に出す。どうだろう?悪い話じゃないと思うけど。」

「はあ。でも僕一人では決められません。裕ちゃんにも相談しないと。」

「そうか。やっぱり裕ちゃんか。」

「裕ちゃんにはその話はしないんですか?」

「裕ちゃんにはできるわけないよ。裕ちゃんがいなくなった後の話だから。」

「まあ、それはそうですけど。」

「とにかくもう時間はないからよく考えといてね。それと、これが作詞大賞受賞の案内状だ。おめかししてきてくれよ。」

 キザ男はそう言って応接のテーブルの上に案内状を置いた。

「裕ちゃんは『卒業』がミリオンを達成したけど、事情が事情だから今年の歌謡祭は全部辞退することにしている。まあ病気のことはまだ伏せてあるから、謎が一つ付け加わっただけだけどね。そんな事情で裕ちゃんの作品で今年、表彰されるのはこの作品だけだ。去年は総なめだったけどな。まあ、売れてはくれたからそれはそれでありがたいけど。」

 キザ男がそう言っている間に僕は案内状を開き、表彰式の式次第を確認した。そこで僕は軽い衝撃を受けたのだが、キザ男には悟られぬよう平静を装い、簡単に礼を言って、その場を辞した。

 

 僕は来た通りにハイブリッドを運転し、帰路に着いた。もう日は短くなっている。夜行性の裕ちゃんも活動を再開している頃だろう。今はまだ裕ちゃんがいるからなんとかなっているが、野島社長の言うとおり、裕ちゃんなき後、裕ちゃんの残していく楽譜群は僕が管理することになるのかもしれない。そうしたら野島社長は僕に一層強い興味を示すに違いないだろう。僕にそれをかわすだけの力量があるだろうか?重いハンドルを握りながら僕はそんなことを考えていた。

「ただいま~」

 ダイニングのドアを開けると裕ちゃんは僕が作っておいたハンバーグ定食を一人で食べているところだった。

「おかえり~。お疲れ様でした。ご飯、先にいただいてますよ。啓ちゃんも食べるでしょ?」

「そうだね。僕もいただこうかな。」

 僕はそう言ってキッチンに回り、汁物の入っている鍋がのっているガス台をつけ、ご飯をよそい、ダイニングの裕ちゃんの対面に座った。

「野島さんどうだった?」

「概ね、さっき言った通りだよ。裕ちゃんに言われた通り、適当にかわしといた。」

「あたしがいなくなった後の話をしたんだ。」

「まあね。」

「話はそれだけだったの?」

「いや、実はそれは本題じゃなかったんだ。呼び出された本当の理由はこれだった。」

 僕はそう言って学ランの内ポケットからさっき野島社長に渡された歌謡祭の案内状を取り出し、裕ちゃんの前に広げた。

「僕が作詞大賞を受賞することになったんだって。それでその内示というか、案内状を渡すために呼ばれたのさ。」

「ああ、そうなんだ。おめでとう。でも啓ちゃんならそれだけの価値あると思うけどなあ。あんなに売れてるんだし。」

 裕ちゃんは案内状をしげしげと見つめながらニコニコして言った。本当に嬉しそうだった。

「でもそれは裕ちゃんの実力でしょ?」

「あたしは啓ちゃんの実力だと思うけど。」

「僕に実力なんかないよ。野島さんにも散々バカにされたよ。『思い上がるな』って言われてね。」

「そんなの言わせておけばいいじゃない。啓ちゃんの実力はあたしが一番良く知ってるからね。だから浮かない顔なんだね?」

「いや、浮かないのは別に理由があるんだ。」

 僕はそう言って案内状に同封されている式次第の「司会」の部分を指差した。「司会」の欄には二人の名前がつらねてあるのだが、そのうちの一人には「黒田聡美」と記されていた。

「ええっ!聡美が来るの?」

「まあ、確認したわけじゃないけど、司会というからにはそういうことなんだろうね。彼女のいるテレビ局の公開放送になるみたいだし。」

「啓ちゃん、聡美と再会するんだ?」

「まあ、再会と言われれば再会になるのかな。最後に会ったのは成田で平手打ちされたときだからもう二年ぶりくらいにはなるけど。」

「そっか~。ねえ、啓ちゃん、モノは相談なんだけど、表彰式、あたしも行っていいかなあ?」

「裕ちゃんも?もちろん僕は拒否する権限なんかないし、『歌姫』と呼ばれている裕ちゃんはもはや音楽界の重鎮なんだから裕ちゃんが望めば協会の方が招待してくれるんじゃないの?でも身体は大丈夫?」

「大丈夫ではないけど、近場の外出くらいなんとかなるよ。まあ招待は大袈裟だからお忍びでね。ともかくあたしも聡美とはあれっきりだから結着は付けておきたいしね。」

「結着?」

「そう。誤解を解いておきたいの。啓ちゃんは、本当は素晴らしい人なんだってことを聡美には分かってもらいたい。」

「いいよ、そんなこと今さら。僕はヒールでいいよ。兄の恋人を奪い、兄を奪い、親友を奪った悪い奴ってことでさ。」

「啓ちゃんはそれでいいかもしれないけど、それじゃあ聡美が可哀想過ぎる。あたしは啓ちゃんを聡美に譲ってもいいくらいに思ってるんだから。」

「はあ?何言ってるの?」

「ゴメン。今のはいい過ぎだけど、う~ん。あまりにも急に恵まれたチャンスなんで適当な言葉が思い浮かばないぞ。」

「なんかすごく興奮してるみたいなんだけど。」

「そうだね。少し冷静になろう。・・・で、啓ちゃんの聡美に対する気持ちはどうなのかな?」

「どうなのって、別にどうも思ってないけど。」

「ああいう美人と結婚できたらいいと思わない?」

「そりゃ、僕にはもったいないくらいだよ。」

「聡美のことは好き?」

「別に好きっていうわけでもないけど。」

「じゃあ嫌い?」

「嫌う理由はないよ。てか、どうして二者択一なのかなあ?」

「じゃあ、啓ちゃんと聡美をくっつけるけど異論はないね?」

 それを聞いて僕は大きくため息をついた。

「ねえ裕ちゃん。今さら驚かないけど、あまりにも展開が急じゃない?」

「そりゃあたり前でしょ?チャンスが突然降って湧いてきたんだから。」

「聡美さんと僕でうまく行くと思うの?」

「まあ、そう嫌がらないで、とりあえずお付き合いしてみれば。啓ちゃんはともかく、聡美にとってはこんなにいい話はないんだから。」

「僕はそんなにいい男でもないんだけどなあ。少なくとも聡美さんとバランスは取れないよ。」

「端から見ればそうかもしれないけどね。まあ二人が納得すればそれでいいじゃない。まああたしからのプレゼントだよ。」

「プレゼントっていってもモノじゃないんですけど。」

「ゴメンゴメン。まあいいでないの。あたしと啓ちゃんの仲なんだからさ。」

 裕ちゃんは自分のアイデアが余程、気に入ったのかこの夜、ずっと上機嫌だった。

 

 それから一ヶ月が経過し、暮れも押し迫った十二月三十日、裕ちゃんと僕は作詞大賞を受けるために僕の運転で都心の会場に向かった。僕が冬場に学ラン以外の服装で外出するのは裕ちゃんと再会して案外初めてかもしれない。僕はまるで似合わないタキシード姿でハンドルを握っていた。助手席には裕ちゃんが座り、裕ちゃんは聡美さんにプレゼントするための大きな花束を抱えている。

 会場に到着すると裕ちゃんと大きな花束を預かった荷物持ちの僕は関係者以外立ち入り禁止の札を裕ちゃんの顔パスで次々に突破し、聡美さんの楽屋を探した。裕ちゃんは、私生活は謎に包まれてはいるものの顔は知れている。業界関係者で裕ちゃんの顔を知らない者はいない。裕ちゃんが「おはよ~ございま~す」と軽くあいさつするとどこでもストップがかかることはなかった。現場のスタッフにも少し道を尋ねながら「黒田聡美様」の貼り紙のある楽屋の前に到着した。

 部屋の前に来ると裕ちゃんがやや緊張した面持ちで「ここだね」と言った。裕ちゃんはドアをノックして「失礼しま~す」と大きな声で言い、中から「は~い」という女性の声がして、ドアが開き、同年代くらいの女性が顔を覗かせた。

「おはよ~ございま~す。白石裕子です。黒田聡美さんはいらっしゃいますか?」

 裕ちゃんが中の女性に声をかけた。

「ああ、白石さん。おはようございます。前に一度、お話させていただいたことがあると思いますけど、アナウンサーの名取です。」

 中から出てきた女性は顔だけをドアから覗かせて裕ちゃんの問いかけに答えた。着替えの最中のようだ。さすがに「歌姫」裕ちゃんのことは知っているようだ。

「お顔は何度か拝見させていただいたことがあります。その~、あたしも昔はアナウンサーの真似事のようなことをやっていた時期がありましたので。」

「そうだったんですか。黒田のことはご存知なんですか?」

「ええ。大学で同級生だったんです。」

「ええっ、白石さんって東大のご出身だったんですか?」

「ええ、まあ。で、聡美は?」

「ああ、ごめんなさい。黒田は実は今日、喉を痛めまして、私が代役を仰せつかったんです。だから・・・今日、黒田はここには来ていません。」

「ああ、そうだったんですか。」

 裕ちゃんは拍子抜けした顔で僕と顔を合わせ、すぐに代役の女子アナの方に向き直った。

「そうですか。それは残念です。聡美はあたしの親友で、でもこのところずっとご無沙汰で、久し振りに会えると楽しみにしてたんです。」

「そうでしたか。黒田にはよろしく伝えておきます。」

「ではこれを、聡美へお見舞いです。」

 裕ちゃんはそう言って僕から花束を奪い取り、代役の女子アナに渡した。

「では失礼します。」

 そう言うと裕ちゃんは僕を促し、足早に僕の楽屋へと移動した。裕ちゃんは元気なさそうだった。

 

「残念だったね。」

 僕の楽屋に入ると、僕は裕ちゃんに静かに声をかけた。

「まあ仕方ないね。友情を復活させられるかと思ったけど。まあそれは啓ちゃんに引継ぎかな。」

「僕に?」

「いつになるかは分からないけど、いつの日か、啓ちゃんは聡美と握手するときが来ると思う。そのときは聡美のことをよろしくね・・・・・・。」

「僕にできるかな?」

「まあ二人は、最終的に結ばれはしないかもしれないけどお互いに助け合う関係にはなるとは思うよ。」

「裕ちゃんの期待には応えられなかったかな?なんなら聡美さんとコンタクトをとって、別に三人で会う機会を作ってもいいんだよ。もう時間もないんだし、事情を話せば聡美さんも分かってくれると思うけど。」

「無理だよ。聡美、今日は案外確信犯だったと思うよ。」

「確信犯?」

「そう。歌謡祭の司会なんてチャンス、まだ若手の聡美にはそうそう来るもんじゃないよ。それなのに、アナウンサーにとって命の声が出ないとかでつぶしちゃうなんてプロとしてどうかと思わない?」

「よく分かんないけど。」

「つまり聡美は今日の出席者をみてわざとキャンセルしたんだよ。啓ちゃんが来るっていうんでね。」

「じゃあまだほとぼりは冷めてないってことだね。」

「そうだね。やっぱり啓ちゃんのことは殺したいほど憎んでるのかもね。」

「そっか。まあ仕方ないけど。恨まれることをしたのは事実なんだから。」

「でも残念だなあ、友情復活のお祝いに啓ちゃんをプレゼントできたら良かったんだけどなあ。」

 裕ちゃんがそこまで語るのを聞いて、僕は何か大きな誤解をしていることに気がついた。

「ねえ裕ちゃん?一つ確認していいかなあ。」

「何?」

「こないだからプレゼントするって言ってたと思うけど、誰に何をプレゼントするつもりだったの?僕は裕ちゃんが聡美さんのことを僕にプレゼントするような文脈で捉えていたんだけど。」

 僕がそう言うと裕ちゃんはゲラゲラと笑い出した。

「そうか。そういう解釈も可能だったんだね。でもあたしは啓ちゃんを聡美にプレゼントしたかっただけ。だってこんな、なんでもしてくれる素敵な人、あたしが墓場まで持って行っちゃったらもったいないでしょ?」

 裕ちゃんがニッコリ笑ってそう言うと、開演のベルが鳴り、僕は裕ちゃんに促され会場に移動した。

 



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十二 別離

 年が明け、大学は後期試験の季節を迎えた。この一年間、ほとんど大学には行っていなかったけれども三年までに卒業に必要な単位はほとんど取ってしまっていたので受ける試験は外国書購読一科目だけだ。僕は、そこそこ英語力はあるし、米国公認会計士の受験勉強もしていたので、まるで勉強していなかったものの合格点くらいは取れる。一時間の試験を三十分で切り上げ、僕は早々に大学を後にした。卒業式には来ないだろうから大学生活もこれでお仕舞いだ。最後の一年は本当にあっけなかったが、僕は後悔していなかった。級友や公認会計士の受験仲間は不意に遠くなっていったものの、彼らも僕にそれほど強い関心を示していたわけではない。裕ちゃんのことがあるのでもちろん僕は就職活動もしていない。裕ちゃんは「謎の歌姫」で私生活は完全に遮断されていたから僕がマスコミ関係者に追い回されることもなかった。ただ、病気の婚約者を看病する一学生に過ぎなかった。

 裕ちゃんは年末恒例の大型歌謡番組には出演したが、公の前に出たのはそれが最後だった。年が明けてからは余程、体調が悪くなったのだろう、外に出ることはなく、レコーディングをすることもなくなった。もうプロとしては歌えないというのだ。それでも入院することはなく、碑文谷の自宅で一日中パジャマ姿のままゆっくりと静養しながら、作詞と作曲に全生命をつぎ込んでいた。

 そんな状況だったので僕が大学から碑文谷の家に帰宅したとき、リビングの電気がついていて、さらに裕ちゃんが外出着を着てソファに座っているのを見たときには少し驚いた。裕ちゃんはイエローのスーツをパリッと着こなしている。

「お帰りなさい。試験どうだった?うまくいった?」

 イエローのスーツ姿の裕ちゃんはニッコリ笑って僕を迎えた。そのスーツ姿には少し見覚えがあった。銀座の和光の前で七年ぶりの再会を果たしたときに着ていたのと同じスーツだった。

「裕ちゃん!どうしたのそんな格好して。」

「あんまり気分がいいもんだから・・・・・・ねえ、啓ちゃん。座ってもらえる?」

 裕ちゃんは応接に座ったままニッコリ笑って僕に話しかけた。

「うん。」

 僕はそう言って裕ちゃんの対面のソファに座った。

「話があるの。・・・・・・あたしの遺言だと思って聞いて欲しい。」

 僕はハッとしたが裕ちゃんはニコニコしたままだ。笑顔がかえって悲壮感を漂わせる。

「遺言だなんて・・・・・・」

「でも、もうどうなるか分からないし、あたしの気持ちをちゃんと伝えておきたいから。」

 僕は黙って頷いた。

「あたしがいなくなったら啓ちゃんはどうしたい?」

「まだそんな先のこと考えてないよ。」

「今はあたしと婚約しているけど、あたしがいなくなったら啓ちゃんはフリーだよね?」

「それはそうだけど。」

「特に付き合ってる彼女とかもいないし、結婚の予定もないよね?」

「当たり前じゃないか。僕は裕ちゃんと婚約してるんだよ。婚約中にもう別の結婚が決まってるなんておかしいじゃないか。」

「好きな人もいないよね?」

「うん。」

「あたしがいなくなったら・・・・・・どうか啓ちゃんにはお父さんの勧める人と結婚して欲しいの。」

「選挙に出ろってこと?」

「そこまでは言ってない。もちろんあたしの代わりに選挙には出て欲しいけど、それは啓ちゃんが判断すること。でもこれだけはどうか聞いて欲しいの。啓ちゃんはお父さんの勧める人と結婚する。」

「それって、結局、選挙に出ろってこととイコールなんじゃないの?」

「そうかもしれないけど、本当は選挙なんてあたしにはどうでもいいことなの。それは啓ちゃんも分かってくれてるでしょ?」

「うん。」

「啓ちゃんはお父さんと繋がっていて欲しいの。いつまでも。」

「どうしてそこまで。」

「理由は二つあるの。まず一つ目は、親孝行がしたいということ。・・・・・・あたし、本当に親不孝な娘なの。姉の幸子が家出して、あたしは、お姉ちゃんは親不孝な娘だってずっと思ってたんだけど、でも本当はあたしの方がずっと親不孝だった。・・・・・・あたしは親よりも先に死んでしまうの。これ以上の親不孝はない。」

「裕ちゃん・・・・・・」

「だからあたしはせめてお父さんの喜ぶことをしてから旅立ちたいの。それが啓ちゃん。」

「それは僕を過大評価しすぎだよ。本当の僕は裕ちゃんが一番良く知っているはずだ。」

「そう。一番良く知ってる。お父さんも啓ちゃんのことを良く知ってる。この一年、あたしと一緒に暮らしてくれたことをお父さんは誰よりも、あたし自身よりも啓ちゃんに感謝してる。お父さんは啓ちゃんのことを本当に信頼してるの。姉が家出してしまってからお父さんは本当にあたし頼みだった。あたしだけがお父さんにとって希望の星だった。お父さんはそのあたしも失ってしまうの。だからお父さんにはどうしてもあたしの代わりになる人が必要なの。お願い。どうかこれをあたしの最後の最後の、本当に最後の我がままだと思って聞いて欲しい。・・・・・・その代わり、啓ちゃんには全財産譲るから。」

「ええっ?」

「ここの土地も家も、版権も、これまでの印税収入も、全部、啓ちゃんに譲る。お父さんもそれがいいって言ってる。」

「そんなの、僕には荷が重過ぎるよ。」

「こんなんじゃすまないとは思ってる。啓ちゃんは本当にあたしのために色々してくれた。でもあたしにできることはこのくらい。せめて、啓ちゃんの子どもでも産んであげられれば良かったけどね・・・・・・」

 裕ちゃんはニッコリ笑ったままそう言った。

「ねえ、裕ちゃん?」

「何?」

「僕は、結婚してもいいんだよ。」

「・・・・・・ありがとう。それってプロポーズかな?」

「何言ってるんだよ。僕達は元々婚約してるんじゃないか。」

「ああ、そうか。籍を入れるってことね?」

「うん。」

「ありがとう。でもそれはいいや。啓ちゃんの籍は今度、正式に結婚するまで、大切な人のためにとっておいてあげてね。」

「裕ちゃんはそれでいいの?」

「うん。もう死んでしまう人間よりもこれから生きていく人を大切にして欲しいから。」

「選挙には出ないかもしれないよ。」

「それでもいい。でもどうか結婚だけは。」

「分かったよ。これからの人生、何が起こるかは分からないから約束はできないけど、裕ちゃんがそういう希望を持っているということは覚えておくよ。」

「ありがとう。これであたしはいつでも旅立てる。」

 裕ちゃんはそう言ってニッコリ微笑んだ。裕ちゃんは重い病気にかかっているが僕が碑文谷のこの家に来てから僕に涙を見せたことは一度もない。どこかで涙を流しているのかもしれないが僕の前ではいつも笑顔だった。だから僕は変に落ち込まずに済んでいるのだ。

「ねえ啓ちゃん。」

「ん?」

「一つお願いがあるんだけど。」

「いいよ。なんでも言ってごらん。」

「久し振りに外の空気が吸いたいんだけどいいかな?」

「いいけど、・・・寒いよ。」

「近場でいいから。日差しも浴びてみたいし。」

「分かった。じゃあ、碑文谷公園でも行こうか。」

「わ~い。啓ちゃんとデートなんて久し振りだね。」

 裕ちゃんはまるで少女のように喜んだ。僕は裕ちゃんを車椅子に乗せ、携帯用のキーボードを持って外に出た。

 

 天気は良かったが、大寒の頃だ。いかんせん寒く、季節風が容赦なく二人を襲う。僕は何度となく裕ちゃんをかばおうとしたが、裕ちゃんは平然とキーボートに向かい、曲作りの続きに夢中だった。もうすぐ消えてしまう命、そのことが裕ちゃんを一層、光り輝かせていた。僕はそんな裕ちゃんと池に反射する日光を交互に見ていたが、そのうち妙な気配を感じて慌てて裕ちゃんを振り返ると裕ちゃんが動かなくなっている。

「裕ちゃん!」

 呼びかけたが気を失っているようで、反応がない。僕は携帯を操作してすぐに救急車を呼んだ。

 

 裕ちゃんはそのまま主治医のいる大学病院に入院した。主治医からは「もう家に帰ることはできないだろう」と言われている。入院した大学病院は完全看護なので付き添いはできない。僕は二月に入ってからこの大学病院に通う毎日をスタートさせ、裕ちゃんのデビュー二周年は病室で迎えることになった。さすがにもうレコーディングはできなくなってしまったが、才能の方は健在で、最上級の個室に入院した裕ちゃんは携帯用のキーボードをそのまま持ち込み、最後の最後まで曲作りに取り組んでいた。

 そんな碑文谷の裕ちゃんの自宅と病院を往復する毎日にも慣れてきた三月のある日、病室のドアを開けるとベッドで横になっている裕ちゃんの前に見慣れたキザな男が座っているのが見えた。

「あっ、こんにちは。お見舞いにいらしてくれたんですね。」

 僕は裕ちゃんの所属事務所の社長、野島慎一プロデューサーにあいさつした。野島プロデューサーが自らお見舞いに来るのは珍しい。忙しいのだろうし、苦手な裕ちゃんの父親、白石権蔵参議院議員と鉢合わせするのが嫌なのかもしれない。

「やあ、啓ちゃん。久し振りに来てみたけど、思ったよりも元気そうだったんで少し安心したよ。本当に最後の最後まで音楽をやってるんだね。」

「これが本当にあたしの人生だからね。」

 裕ちゃんは、本当は辛いのだろうがニッコリして言った。

「そうだね。僕は裕ちゃんのような歌手をプロデュースできたことが誇りだよ。僕の音楽人生の金字塔だ。じゃあ僕はこれで失礼するよ。」

 キザ男はそう言うと僕の方を向き「啓ちゃん、ちょっと二人だけで話したいことがあるんだけどいいかな?」と言ったので僕は「はい」と答え、キザ男は「じゃあまた来るよ」と裕ちゃんに向って軽く右手を挙げてから病室を出て行き、僕はその後を追った。

「ねえ啓ちゃん、つかぬこと聞くけど、大学は卒業できるの?」

 病院の長い廊下を歩きながらキザ男が言った。

「ええ、卒業式は二十六日ですけど、卒業通知はもうもらいましたので。」

「そっか。こんな状況でよく頑張ったね。」

「別に頑張ってませんよ。必要な単位はほとんど三年までに取りましたから。四年はゼミと外書購読だけでしたからほとんど勉強していません。」

「それにしてもすごいよ。」

 僕の作詞大賞受賞をさんざんバカにしていたこの人が僕をこんなに持ち上げるとは何か裏があるような気がした。

「いいえ、ゼミにもあまり顔を出しませんでしたから。」

「それで就職はするの?」

「それは無理ですよ。就職活動なんてまるでしていなかったんですから。」

「でも留年はしないんでしょ?」

「ええ、卒業はします。その後は、引き続き裕ちゃんの傍にいますよ。」

「裕ちゃんが逝ってしまったら?」

「・・・・・・そんな先のことは考えていません。」

「そうか。それなら一つ考えて欲しいことがあるんだけど。」

 そう言うとキザ男は不意に立ち止まり僕の方に身体を向けた。

「なんでしょう?」

「僕の事務所に入らないか?」

「野島事務所・・・・・・にですか?」

「そうだ。啓ちゃんならいいプロデューサーになれると思うよ。いや、もう立派なプロデューサーだ。裕ちゃんをここまで育てたんだから。」

「僕は何もしてませんよ。ただ裕ちゃんの傍にいただけです。」

「さっき、裕ちゃんに聞いたんだけど、裕ちゃんの版権は全部、君が相続するそうじゃないか。」

「・・・・・・」

「それを聞いてちょっと安心したよ。相続するのがあのでかい親父だったらどうしようと思っていたんだ。なあ、啓ちゃん。裕ちゃんの残していくものを世に出したいと思うだろ?」

「それはそうですけど。」

「一緒にやろうよ。啓ちゃんとなら上手くやれそうな気がするんだ。」

 なるほど、このキザ男はこれが言いたかったのだ。何か寂しいような、疲れがどっと出るようなそんな気分だ。

「今はそんな気分にはとてもなれません。」

「それはそうだろう。すぐでなくてもちろんいいよ。考えてくれるね?僕にできることならなんでもするから。」

「じゃあ一つお願いしてもいいですか?」

 僕はやや疲れた表情で言った。

「もちろんだよ。」

「僕をしばらくそっとしておいてください。」

 僕はそう静かに言うと、それ以上は野島氏と目を合わせず、背中を向けてそのままカツカツとその場を離れた。

 病室に戻るとベッドに横になっていた裕ちゃんがニッコリ笑って僕を迎えた。僕は少し険しい表情だったと思う。

「野島さんなんだって?」

 裕ちゃんがいつもの笑顔で聞いた。

「・・・就職先が決まってないなら野島事務所に入らないかって。」

「そう。で、啓ちゃんは?」

「しばらく僕をそっとしておいて欲しいって言ったよ。」

「そっか。そんな気分じゃないか。」

「そりゃそうだよ。野島さん、僕じゃなくて裕ちゃんが残していくものが欲しいだけだもん。」

「啓ちゃんはどうしたいの?」

「そんなのまだ分からないよ。分かるわけないじゃないか。」

「でも、あたしはもうすぐ旅立ってしまうんだよ。これだけは確実にやってくることだから。もうすぐね。」

「それは分かってる。多分、僕の人生も完全にリセットされるんだろうね。」

「野島さんは苦手かな?」

「そうだね。ハッキリ言って苦手だよ。権蔵先生や博士も苦手なタイプだけど、野島さんよりはいいかな。」

「まあ、そんな感じだね。グイグイくるもんね。・・・分かった。野島さんの方はあたしがなんとかするよ。」

「なんとかするって?」

「あたしがいなくなった後、啓ちゃんにはおいそれとは近付けないように魔法をかけるね。まあここはあたしに任せてよ。」

 裕ちゃんはそう言ってニタッとした。何かをたくらんでいるときの表情だ。僕が裕ちゃんと一緒に暮らし始めてもう一年になる。僕も裕ちゃんの腹の中が少しは読めるようになってきた。

 

 次の日も野島プロデューサーは病院にやってきた。もう時間がないと思っているのだろう。夕方遅く、僕が裕ちゃんの食事の後片付けをしていると不意にドアがノックされ、キザ男が現われた。今日は手に果物を持ってきている。

「で、昨日の話の続きなんだけど。」

 キザ男はあいさつを済ませるとベットの脇に座り、早速、裕ちゃんに本題を切り出した。あせっているようだ。

「昨日の話って?」

「裕ちゃんの残していくものの管理だよ。昨日は啓ちゃんが全部相続するって話を聞いたけど。」

「ああ、あれね。」

「実はね、昨日、啓ちゃんにはちょろっと話したんだけど、啓ちゃんに僕の事務所に入ってもらったらどうかと思うんだ。どうだろうか?」

「野島事務所に?」

「ああ。啓ちゃんは、もちろん作詞大賞受賞者だからもう既に重鎮かもしれないけど、まだ若いし、業界のことはよく知らないだろうから僕の事務所に入れば色々と都合がいいんじゃないかと思ってね。」

 裕ちゃんを説得しようとしているのだろう。野島氏は少し早口でしゃべった。裕ちゃんは一瞬、僕と顔を合わせるとニコッとし、一呼吸置いて話を続けた。

「その話なんだけど、実はね、あたしの版権を管理する会社を作る話が出てきてるの。」

 そんな話は僕には初耳だ。

「あっ、そうなんだ。そんなことちっとも聞いてなかったけど。」

 キザ男も初耳だったようだ。

「うん。昨日、降って湧いて出てきた話だからね。でも悪い話じゃないでしょ?」

「もちろんだよ。で、啓ちゃんが経営するんだね?」

 キザ男は僕の方をチラッと見て言った。

「もちろん啓ちゃんには役員になってもらう予定だけど。」

「じゃあさ、僕にも出資させてよ。なんなら非常勤でもいいから僕も役員に入れてもらえないかなあ?啓ちゃんの実力は百も承知だけど、業界のツテはまだそんなにないだろうから僕のツテを使ってもらっていいよ。」

「そうだね。野島さんが入ってくれるとあたしも安心かな。」

 裕ちゃんが昨日言ったことと真逆のことを言ったので僕は裕ちゃんを不機嫌そうに見た。そんな僕と目を合わせ裕ちゃんはニコッとした。

「それで、僕はどうすればいいかな?」

 喜色満面の野島氏が裕ちゃんに聞いた。

「父と話をしていただけます?色々なしがらみがあって、本社は柏崎に置くことになってるの。そして代表者は白石権蔵。」

「ええっ?啓ちゃんが社長になるんじゃないの?」

「まあ政治的な事情があると思って下さいよ。」

「なんで柏崎なの?」

「啓ちゃん、次の衆議院議員選挙に出るんだし、地元で顔を売っておかないと。地元の商工会議所や法人会のメンバーにもならないと駄目だからね。こればっかりは東京じゃできないから。」

「そうなんだ・・・・・・」

 キザ男は一気にトーンダウンした。裕ちゃんはしたり顔だ。

「野島さんが管理会社の経営に参加してくださるのは大歓迎です。ただ父も忙しいので早めにアポイントメントとって下さいね。啓ちゃんは私を見送ったら柏崎に帰ってしまうのでもうそんなに時間もないから。」

「啓ちゃん、柏崎に帰っちゃうの?」

 キザ男が今度は僕に聞いた。でも僕に答えられる質問ではない。

「だから選挙に出るんだってば。地元にいないとダメでしょ。新人なんだし。」

 僕が黙っていると裕ちゃんが代わりに答えた。

「・・・・・・分かった。・・・お父さんとのことは考えておくよ。・・・・・・じゃあ僕はこれで失礼する。」

 そう言うとキザ男は僕に軽く会釈し、裕ちゃんと僕の視界から消えて行ったが、その後姿には英気がまるで感じられなかった。

「裕ちゃん。」

 僕は裕ちゃんに声をかけた。

「うまくいったね。ああ言っとけば野島さん、もう啓ちゃんには近付けないと思うよ。」

「柏崎に版権の管理会社を作るって言ってたけど。」

「う~ん。ハッタリだったんだけど、言ってみたらそれもいいかなって思っちゃった。権蔵が社長なら番犬代わりに使えるし、啓ちゃんが好きなようにやれるかもしれない。」

「裕ちゃんはそんなんでいいの?」

「それがいいよ。こないだ『全財産を啓ちゃんに譲る』って言ったけど、それは今までのお礼なんかじゃなくて、本当はあたしが残していくものを啓ちゃんに管理して欲しいから。啓ちゃんならあたしが残していくものを本当に大切に守ってくれると思うから。」

「そんなこと僕にできるかな。なんだか荷が重いんだけど。」

「啓ちゃんにしかできないよ。ホントのこと言うとそれは最初から分かってたんだ。」

「最初から?」

「そう。一番最初から。」

「どういうこと?」

「この前、『お父さんの勧める人と結婚して』ってお願いしたとき、『理由は二つある』って言ったよね?」

「ああ。二つ目は聞きはぐったけど。」

「二つ目の理由はそれだよ。あたしが啓ちゃんのことを離したくないの。啓ちゃんにはあたしの残していくものをずっと大切に守って欲しいから。」

「守るって。」

「ホントはね、あたし、分かってたの。自分の命がそう長くないってこと。啓ちゃんと銀座の和光の前で待ち合わせをする前から。博士にそう言われてたの。」

「博士に?」

「そう。さすがは天才医師だね。博士のところで血液検査とかもやった。で、博士には早急に専門的な治療をするように勧められたんだけど、あたしは断ったの。今まで自分が夢見てきたことがまさに実現しようとしているところだったからね。あたしは本当に命を賭けてもいいと思ってた。ヘタに長生きするよりずっといいとね。博士は『病気を治してからでもいいんじゃないのか』って言ってくれたけど、あたしにはそれは受け入れられなかった。こんなチャンス、本当に一生に一度来るか来ないか。来ない可能性の方がはるかに大きい。でもあたしのところには来た。これは逃せなかった。博士も最初はあたしを説得しようとしてくれてたけど、あたしの熱意に負けたのか、最後はあたしに協力してくれるようになった。」

「そうだったんだ。」

「博士からはいざというときのための準備をしておくように言われてた。いつ旅立ってもいいようにって。それであたしが残していく愛する楽譜たちを管理してくれる人がどうしても必要になったの。事務所の野島社長は、もちろん音楽プロデューサーだから才能もツテもあるけど啓ちゃん知っての通り自分の利益優先。とても残していくものを託すことはできない。お父さんは実の父親だから信頼はできるけど音楽の素養がまるでないし、そもそもあたしの音楽活動に理解がない。博士はあたしの音楽活動は理解してくれるけど、音楽の素養はないし、そもそも自分の管理もろくにできない人だからあたしの大切なものが管理できるはずがない。どうしようかなと思ってたら、ちょうどその頃『天使の翼』の楽譜が出てきて、柏崎市民音楽祭の思い出が甦って、啓ちゃんのことが頭に浮かんだの。」

「市民音楽祭の思い出?」

 そう言われて紫色のドレスを来た少女がピアノを弾く姿が微かに脳裏に浮かんだ。

「お父さんに政界進出断念の言い訳もしないといけないと思ってた頃だったから一石二鳥にもなると思ったしね。あたしの記憶では啓ちゃんは堅物で、几帳面で、財布の中身を円単位まで合わせられる少年だった。それに何より柏崎市民音楽祭のときもそうだったけど、あたしの音楽活動を一番理解してくれていた人だった。それで柏崎のお母さんに電話したら経営学部の学生で真面目に勉強してるっていうじゃない。じゃあ、残していくものの管理もお願いできるかなあとか考えて銀座に呼び出したら学ランは着てくるわ、約束の時間よりも前に来るわ、床屋さんの領収証は持ってくるわ、やることなすことことごとく大当たり。挙句の果てにはお父さんの面接にまで合格しちゃったもんね。たった一日で。ホントにビックリした。」

「あれは全部テストだったんだ。」

「まあね。ゴメンね。黙ってて。」

「僕のアパートにモンブラン持って来たのもテストの続きだったのかな?」

「そうだね。啓ちゃん、堅物だから大丈夫だとは思ったけど、万一、女の人と一緒に暮らしてたりしたらやっかいなことになると思ったからね。だから無予告で急襲したの。でもそれは本当に取り越し苦労で、部屋の中は綺麗に整理整頓されていた。あたしが人生を託すのはこの人しかいないと確信したのはあの時かな。」

「クリスマスイブの夜もシナリオ通りだったんだね?」

「お父さんが二人の仲を怪しみ始めたのは事実だよ。それで、『そんなに心配ならクリスマスイブの夜には会うから直接会って、プレゼントの中身でも確認したら?』っ言ってお父さんをけしかけたのはあたし。」

「僕がプレゼントを準備してこなかったらどうするつもりだったの?」

「啓ちゃんはそんな人じゃないよ。だってその前の年は彼女でもなんでもないマルチの女の子のためにプレゼントを準備したんでしょ?騙し取られたって言ってたじゃない。」

「それはそうだけど。まさか、僕が三百万円用立てしたのも計算通りって訳じゃないよね?」

「実はね、結納の時に啓ちゃんのお母さんとちょっと内緒話したの。」

「内緒話?」

「お母さん、『うちは貧乏だけど、お父さんがコツコツ貯めたお金が一千万くらいある』って言ってた。」

「そんな話したんだ。」

「お母さん、『白石家に比べればちっぽけなものだけど、啓一が管理してるから、もし、何か緊急な物入りがあったら使ってもらっても構わない』って言ってた。だから申し訳なかったけど、緊急な物入りだったんで使わせていただきました。本当はあたしが売れてから、あたしが稼いだお金にこれまでの感謝の気持ちを込めて、それと愛情も少し込めて、博士に渡して、それで博士とは永遠にバイバイするつもりだったの。だから博士を送り出すためになんとしても売れなきゃって思って頑張ってたんだけど、中々デビューできなくて、デビューしたらしたで中々売れなくて。あのときは正直、あせったなあ。せっかく博士の論文が認められたのに時機を逸しちゃうって。」

「計算ずくだったってことだね?」

「それから啓ちゃんの快進撃はすごかったね。あたしの体調不良を見破って、野島さんにメディカルチェックを進言したのは啓ちゃんでしょ?」

「そうだけど・・・分かってたの?」

「分かるよ。野島さんが啓ちゃんをクルマで送っていった次の日にいきなり言われたんだもん。それまであたしの健康なんかちっとも関心のなかった人にだよ。で、啓ちゃんに気付かれたなと思って、これ以上、啓ちゃんはごまかせないと思ったし、一応の成功は納めたし、正確なタイムリミットをそろそろ知らなきゃいけないなと思ってね。それでメディカルチェックは受けたの。余命を宣告されることは分かってたから、それを啓ちゃんに聞きに行ってもらうように仕向けたのもあたし。お父さん、国会で忙しいし、『何かあったら婚約者である啓ちゃんに』ってことは病院にも秘書の山崎さんにも伝えておいた。それから啓ちゃんは碑文谷のおうちに押しかけてきてくれた。」

「碑文谷の家でレコーディングするのも計画通りだったんだ?」

「そう。だからスタジオもあの家の中に作ったんだよ。入院しないで音楽活動に余命をつぎ込めるようにね。啓ちゃんは絶対に来てくれると思ってたから啓ちゃんの部屋も準備しておいた。啓ちゃんは頼みもしないのにあたしのマネージャー、いや失礼、プロデューサーとして音楽家白石裕子を思う存分、機能させてくれたよ。」

「聡美さんと僕をくっつけるって言ってたのも嘘だったんだね。」

「聡美と啓ちゃんがくっつかないことは最初から分かってた。二人とも生真面目だからね。まあ、あたしと聡美の友情復活のために啓ちゃんに一肌脱いでもらおうと思っただけ。でも聡美と啓ちゃんが将来助け合う関係になると思っているのは嘘ではないよ。近いうちにね。啓ちゃんには申し訳ないけど、そのとき誤解は解いて欲しいからよろしくね。」

「権蔵先生とのことも計算づくだったのか?」

「そうだね。なんと言ってもお父さんとの防波堤になってくれたのが一番だった。私立探偵を雇って啓ちゃんの素行調査をするようにお父さんにけしかけたのもあたしだったんだけど、あれでお父さんの啓ちゃんに対する印象が俄然良くなったよ。市民音楽祭のときもそうだったけど、啓ちゃんはいつもあたしの味方だった。まあ、自分で言うのもおこがましいけど、あたしは人を見る目があったね。啓ちゃんに白羽の矢を立てて正解だったよ。短かったけど、本当に素晴らしい音楽ライフでしたよ。あたしの音楽人生、もう悔いはない。やりたいことは全部やった。残していくものはたくさんあるけど、あたしの愛する楽譜たちは啓ちゃんがきっと最高のプロデュースをしてくれるはず。これからあたしの残していくものをどうやって世に出していくのか、天国から楽しみに見てますからね。」

「・・・・・・僕は裕ちゃんの手のひらで泳いでいただけだったのかな?」

「最初はそのつもりだったけど結果は逆だった。あたしが啓ちゃんの大きな手の中でクルクル遊んでただけだったよ。啓ちゃんはあたしのことをこの世で一番理解してくれている名プロデューサー。啓ちゃんにだったらあたしは全てを託すことができる。お金も、音楽も、人生も。だから、啓ちゃんにお父さんの勧める人と結婚して欲しいのはあたしが啓ちゃんのことを離したくないからなの。いつまでもあたしのことを大切に守って欲しいから。だから・・・・・・」

 裕ちゃんはそう言って布団の中から左手を出し、僕の前に差し出した。僕は黙ってその左手を両手でしっかり握り締めた。

「ありがとう。すごく安心する。」

 裕ちゃんはそう言って瞳を閉じた。満足そうな笑顔だった。

 

 あらかじめ分かっていたとしても本当の別れの瞬間は突然に訪れる。裕ちゃんとのそんなやりとりのあった二週間後の三月十九日、裕ちゃんの心拍数や呼吸はにわかに弱くなり、血圧が下がり始めた。医師や看護師が多数ベッドを取り囲み、蘇生を試みるが反応は鈍い。僕はただ裕ちゃんの左手をしっかりと握り締めることしかできなかった。

 そして裕ちゃんは僕の手を握ったまま、静かに、安らかに、眠るように天国への階段を昇っていった。

 




 エピローグ

 それから一年がたち、裕ちゃんの一周忌も終わった。裕ちゃんが逝ってしまった後、僕は柏崎に帰ることなく、そのまま裕ちゃんの碑文谷の家に留まることになった。大学は卒業できたが就職活動をまるでしていない僕は就職できるわけもなく、今は権蔵先生の助けもあり、裕ちゃんの版権を管理する会社を設立して、裕ちゃんの残してきたものを整理する毎日を送っている。そしていつの日か、裕ちゃんの残した膨大な楽曲を、裕ちゃんと同等あるいはそれ以上の実力を持った歌手の歌声で世に送り出すことを夢見ている。
 博士は相変わらず行方不明で何をしているのか分からない。裕ちゃんが逝ってしまったことを知っているのだろうか。今度会ったらネチネチ文句を言ってやろうと思っている。
 聡美さんとも音信不通だが、ご本人はテレビでよく見かけるようになった。ミス東大の看板を背負っているためか、バラエティーへの出演がほとんど全部だ。もっともバラエティーは苦手なようで、出演者からはいじられまくっている。本人の生真面目な性格が災いしている結果でもあるのだが。
 権蔵先生は相変わらず忙しい身なものの、時々は僕と会うようになり、会うたびに選挙の話をされる。結局、結婚はできなかったけれども、婚約は解消されていないので今でも裕ちゃんと僕は婚約しているといえるのかもしれない。先生はそんな僕を娘の婚約者として選挙に出すつもりなのだろうか。・・・・・・でも残念ながら僕にはそんな野心はない。

 裕ちゃんが逝ってしまってから一年がたち、また新しい季節がやってきた。裕ちゃんと過ごした日々は僕の中ではもう遠い日の思い出となっている。
 天気の良い春の日の午後、庭の草花に水をやりながらそんなことを考えていると、ふと玄関先で「ごめんください」という声が聞こえたような気がした。

(『JK妻』に続く)







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