【仮題】感情トランスポーター (Gensigert)
しおりを挟む

序章 逆鱗を撫ぜる
一 とある日の午前


 

 

 笑顔を浮かべたヴイーヴルの青年が廊下を歩いている。

 行き交うオペレーター達に快活な挨拶を振り撒いて、ロドスの朝をより一層活気付かせている。

 

「ドクターさん、調子はどうですか?」

 

「おはようアビス。調子なら絶好調さ」

 

「ああ、それは良かったです。ドクターの顔はいつも隠れているので、言葉にしてくれないと不安なんですよ。今日も書類仕事頑張ってください」

 

「うぐっ、思い出させないでくれよ……」

 

「あはは、すみません」

 

 ドクターと別れて、またアビスと呼ばれていた青年は進み始めた。欠伸をしている医療オペレーターの少年と少し世間話をしたり、口下手な同じ種族の女性と格闘術について軽く話し合ったり。

 少しその様子を切り取るだけでも、彼が好かれている様子は浮き彫りになる。

 

 アビスがどんな人なのかも知らずに。

 

 

 

 

 彼は少しタイミングを伺って、誰も見ていない時にある通路へと入り込んだ。その通路は不便で不必要なものであったため、オペレーターは基本的に利用しない。

 扉の絵が壁に描かれているのを抜きにすれば、その通路を使うのはアビスくらいのものだった。

 

 曲がり角を進んだ先で、アビスは足を止めた。どっかりと腰を下ろして、先程通ってきた方からは見えないように体を隠しながら、ポケットから何かを取り出した。

 

 それは何かの包装紙であり、それを小さな音と共に破くと、中にあった薄茶色の何かを摘んで引っこ抜いた。

 そう、それは機能性を最大限に重視して作られた圧縮ビスケットだ。優れた栄養バランスによって一袋を食べれば大凡一食分に相当する便利な食べ物だ。

 アビスは一枚目を少し齧り、黙々と独りきりの食事を始めた。

 

「いつもいつも飽きないわね。画餅を味わった方が何倍もマシじゃない」

 

 いつのまにか扉が開いていた。横穴に腰掛けて、シーはその携帯食糧に顔を顰める。

 

「外に何か用でもあったんですか?」

 

 無表情のまま、アビスはシーを見上げた。ドクターや他のオペレーターとの会話にあった愛想はカケラも残っておらず、だがシーにそれを気にする様子はない。

 

「用がなかったら顔すら出せないのかしら」

 

「そんなに活動的だったとは知りませんでした。宿舎を手配しておきましょうか?」

 

「要らないわよ」

 

「色々と不便でしょう? 遠慮なさらずに引きこもるのをやめたらどうですか?」

 

 とうとうシーは無反応を貫くようになった。視線はスケッチブックに集中している。待つ姿勢を見せていたアビスもそれ以上発言することはなく、またビスケットを齧った。

 

 しばらく、鉛筆と紙の擦れる音と、ビスケットの袋が出す音、そして少しの咀嚼音が通路を満たしていた。アビスにとって決して居心地が良いとは言えなかったが、ここ以外の食事場所は見当たらない。

 たとえば私室には日が昇ると何故かLancet-2が訪れ、その後も折を見てはいつのまにか配備されていた充電器を目的にアビスの部屋を訪問する。たとえばロドスには食堂があるが、そこに携帯食糧を持って行く訳にもいかない。

 食堂のメニューを食べることのできない理由がアビスにある以上は、このような人気のない通路や埃っぽい部屋しか残されていないのだ。

 

 やがてアビスは一袋を食べ終わり、腰を上げた。

 

「さようなら」

 

「ええ」

 

 短く交わして、アビスとシーは別れた。アビスには色々と仕事があり、シーがそれについていくこともない。結局意味のある会話をすることもなく、その日の二人の会話は終わったのだった。

 

「あれ? アビスじゃん」

 

 通路から顔を出した瞬間に、アビスの口角は自然な位置まで上げられた。視線の先からは、偶々ドクターの遣いとして朝から駆り出されていた紫髪のサルカズがこちらを見ていた。

 

「おはようございます、ラヴァさん。シーさんに何か用があるのでしょうか?」

 

「まあ、そんなとこかな。アビスは?」

 

「ボクも同じです。用は終わったので帰る途中ですけどね」

 

 人気の無い通路から出てきても変な勘繰りを避けられる分、シーの描いた扉はむしろアビスの助けとなっていた。ラヴァは適当な返事を返すと、アビスとすれ違って角の向こうへと消えた。

 少しだけ予想外だった登場に内心面食らったが、アビスはまた通路を戻り始めた。目指すは……

 

 

「嘘つき」

 

 

 小さな小さなシーの言葉はアビスどころかラヴァにさえ届かなかった。

 アビスは何も言わず去って行く。

 

 

 

 簡単な輸送任務を終えたアビスは午後の任務に備えて私室へと帰ってきた。

 部屋のドアはある日起きたらLancet-2が入ることのできるように改造されていて、扉に取り付けられている、入室時に点き、退出時に消えるランプが点灯していた。

 つまりは今もアビスの部屋にあのロボットが訪ねている訳だ。アビスはそれを確認すると、スムーズな動作で自分の部屋に背を向けた。

 

「お帰りなさいアビス様」

 

「ああ、うん」

 

 ドアの中から聞こえてきたLancet-2の声に動きを止めたアビスは、諦めたようにドアを開いた。アビスからしてもLancet-2は好ましいロボットであるし、気付かれているのなら別人を装うのも難しい。

 

「こんにちは、Lancet-2。ちなみに何の用かな」

 

「充電に参りました。アビス様は輸送任務でしたね。お疲れ様です」

 

「ありがとう」

 

 いつもならもっと摯実であるのに、サッと話を逸らしたLancet-2へとアビスは一抹の違和感を覚えたが、製作者の名前を思い出せば、すぐに気のせいかと思い直した。

 あのサルカズの奇行にはアビスはよく困らされていた。特にドクターが来る前は購入したグレネードの中に一つだけチョコレート細工のものが仕込まれていたり、アーツユニットとして檜製の棒を渡され魔王討伐を命じられたりした。

 敵を前にして何故かベタつく右手に、ぐちゃぐちゃになっているバッグの中。ケルシーに購買部の廃絶を勧めようかと思ったくらいだ。

 

「アビス様。先程耳に入れたのですが、どうやらケルシー様がまた検査を行う予定を立てていらっしゃるようです」

 

「へえ、ケルシー先生が。前回から日も空いてないのに。あの人にはちょっと過保護な嫌いがあるよね」

 

「それはしかし……」

 

「分かってるよ。でも過保護だ」

 

「そうでしょうか」

 

 Lancet-2の声にアビスは頷き、棚の中から細長い箱を取り出した。その箱を開けば、ケルシーから処方されている注射薬のストックが二桁ほど詰まっているのが顕になる。

 右端に置かれた注射器に薬を詰めて、右腕に刺す。慣れた手つきで注射するアビスの様子を捉えたレンズは、悲しむように下を向いた。

 

 Lancet-2の主人である『かわいいクロージャお姉さま』は物知りだった。行動が奇天烈な変人ではあるものの、持っている技術は狂いなく一線級。ロドスを動かすために必要不可欠な人員だった。

 しかし、そんな彼女がLancet-2に入れたデータファイルは、どうにも情報が不足しすぎていた。

 

 どうして彼が自分を隠すのか。

 どうして彼が今以上人と距離を近づけないのか。

 どうして彼が戦いに赴く時は、たった一人なのか。

 

 彼が何を考え、何を目指し、何をしたいのか。

 Lancet-2のレンズは、その主人であるクロージャと同じように、それを見つけられはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 筆が水彩紙に振るわれた。

 高速で動く筆によって高く聳える山々や流れの穏やかな河川が浮かび上がる。忙しなく動く筆はしかし寸分の狂いもなく構想を書き写し、その速さにも、質にも、比肩する者は居ないだろう。

 その流麗な筆捌きは見る者を魅了し、しかし数分後にはその動きも止まってしまう。水彩紙には既に荘厳かつ流麗な山紫水明の絵画が出来上がっていた。

 

「……何の用よ」

 

「なんでもいいだろ、別に」

 

 シーが筆を置き、通路に立っていたニェンを睨む。

 だがすぐに気を取り直して次の水彩紙へと筆をまた振い始めた。ニェンはその様子を苛立ったような目で眺めている。

 

「なあ、お前は」

 

 シーが手を止め、ニェンを見る。

 

「お前は、アビスに何も感じねーのかよ」

 

「なんのことかしら」

 

「惚けんなよ……アビスがもう長くねぇことはお前にだって分かってんだろ?もっと自分を残すべきなんだ、アイツは!自分がこの世界から失われる怖さをとんと分かっちゃいねえ!」

 

「それで、それを私に言えと?」

 

「何か悪いかよ」

 

「どうして私がそんなことに付き合うと思ったのか驚いてるだけよ。アビスが今みたいになった理由を懇切丁寧にロドスに教えてやる義理も、私がその苦節をアビスに強要する義理もないのに、どうして私がそんなことをしなきゃいけないのかしら?」

 

「義理なんか必要じゃない。伝える大切さは何にも劣らねぇ」

 

「……消えるものは消えるわ。それに誰しもが心のどこかで抱えていることなのよ。伝える必要もないでしょう」

 

「忘れてるから思い出させてやらねえといけねーんだろうが。思い出した野郎が真っ先に抱え込んじまったんだから私もそれに手を出してんだ」

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

「ああ!?」

 

 シーが今度こそしっかりと筆を置いて向き直った。

 

「アビスが何を感じどう生きてきたか、なんて無関係に、アビスは最後に秘匿を選んだ。その全てを、その半生の全てを、否定される謂れはないわ」

 

「だとしてもだ!」

 

「ならあなたが言いなさい。私は嫌よ」

 

 噛み締めた歯が不快な音を立てる。シーが真っ白な水彩紙と用具を抱えて横穴の中へと進んでいった。

 それを止める言葉をニェンは思いつかなかった。食い下がってなんとかなるような頭の柔らかい妹ではない。

 

 

 扉が閉まり、とうとうシーは完全に姿を消した。

 ニェンに止めることはできなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二 午後の職務 上

 

 

 アビスは充電中のLancet-2の居る私室から離れて、またあの通路へと向かって行った。引き出しから取り出した圧縮ビスケットにまた何か言いたそうなレンズをしていたような気がしたが、クロージャには知られている。

 Lancet-2ならばクロージャ以外にそう易々と触れ回らないだろうし、その問題の人物はまだ誰にも言っていないようだった。

 

 アビスがいつもの通路に入ると、そこには今さっきまで頭の中に描かれていたブラッドブルードに並ぶと名高い変人の訪問者が向こうから歩いてきていた。

 

「こんにちは。ニェンさん、ですよね?」

 

「……なんだよ、その目は」

 

 開幕一番、アビスはチンピラに目をつけられたことを悟った。ニェンの目が鋭くアビスを突き刺し、気圧されて二歩ほど後ずさる。

 彼女が自由人ではあるということは噂に聞いていたが、粗野だという声は届いてこなかった。シーの姉であるからして扱い辛い人物だとは分かっていたが、どうにも乖離している。

 

「何かお気に触ることでもありましたか?」

 

「ああん? てめーのしてることだろうが」

 

「理不尽じゃないですか!?」

 

 もはや何を言っているかすらよく分からない。アビスはこの場をどうにか穏便に済ませ、立ち去ることにした。

 ケルシーからは好きにさせろとは言われているし、知りもしないことを改善することはできない。特にこれまで付き合いもなかったニェンの言葉を真面目に取り合う必要はない。

 彼女と付き合いのあるオペレーターとは拗れるかもしれないが、その場合は時間を置くしかないだろう。

 

「えっと、すみません、お気を害してしまったようですね。すぐに捌けます」

 

「はあ? 今のはどう考えても私が悪いだろうが。何言ってんだお前舐めてんのか」

 

「えぇ!? こっちのセリフですけど!?」

 

「随分言うじゃねーか。常識人ぶりやがってよぉ」

 

 本気なのか冗談なのか分からないアビスは、当然ながら戸惑った。何しろニェンの言葉こそ冗談のようではあるが、未だに顔や口調は刺々しいのだ。側から見ても意味が分からない。

 

「まずは、アレだ。昼飯食いに行こーぜ。お前財布な」

 

「え、あ、はい。それくらいなら……」

 

 結局は何の目的があって自分に声をかけたのか分からなかったが、一食分であれば払えるくらいの額が財布には入っている。

 ニェンも財布だと呼んだのであれば自分と食事がしたくて声をかけたのではないだろう、とアビスは推測した。

 

 ……ニェンの名誉のために一応言っておくが、財布呼びは冗談である。目的はアビスとの食事による接近であり、本当にしたいことはアビスにアビス自身のことをもっと能く伝えろと言うことだった。

 

 

 数十分後、ガツガツとアビス作の激辛カレーを食べるニェンと、それをニコニコと見つめるコック帽を被ったアビスの姿が食堂で見られたと言う。

 補足だが、食べ終えたニェンは盛大に頭を捻っていた。味は中々良かったらしい。

 

 

 結局会話がほとんど噛み合うことのなかったニェンとの接触が終わり、ようやくアビスは一息ついていた。ポケットの中には依然として圧縮ビスケットの感触が残っているが、午後の任務に間に合わせるためには切り捨てなければいけない。

 

 午後の任務は要人の護衛任務だ。龍門近衛局よりは権力も小さいが、龍門市内ではそれなりに名の通った人物から護衛の依頼が入ったらしい。

 龍門には最悪夕方頃に着けば間に合うのでそこまで早く出立する必要はないが、だとしても出来る限り早く動くのは大事なことだ。

 間に合わなくなっては遅い。

 放っておいて、気づいた時にはもう何もできない。そんな状況にだけはしたくなかった。

 

「なに険しい顔してんの?」

 

「何でもありません。あなたが任務で協力するエイプリルさんで間違いありませんか?」

 

「うん、正解。話すのは初めてだよね」

 

 ドクターの指令によりロドスへの依頼を受けることになったアビスは、同行人であるエイプリルと合流した。彼女の背にはお洒落なデザインの短弓が見えていて、アビスの意見は確かにドクターへと届けられていたことが伺えた。

 

 アビスはこれまで、戦闘を主な手段に取る任務では、他のオペレーターを同伴することがなかった。それはアビスの力を十全に引き出す上で不必要であったし、更に言えば錘となる。

 だが護衛任務ではそうもいかないことをアビスは前回の任務にて強く思うこととなった。

 それまで受けていた護衛対象は接敵する前に逃走することが主だったが、その時の依頼主はその敵をしっかり処分するまで見届ける意思を示した。

 それだけならば然程問題ではなかったが、それをアビスに伝えていなかった。だからその後、アビスが殲滅を完遂した後に彼は精神病院へと送られたのだ。

 

 何はともあれアビスはエイプリルと簡単な擦り合わせを行い、問題がないことを確認して龍門へと向かった。

 

 

 アビスとエイプリルに回された護衛任務は、午後七時頃から開かれる会食の時間を護衛期間と定めている。会食が終わるのは遅くても午後十時頃になり、ロドスに戻るか龍門で宿やホテルに泊まるのかは各自の判断に委ねられていた。

 午後四時、依頼主との顔合わせを行い、会食の会場の見取り図を確認した。その際にアビスから依頼主とエイプリルへの注意事項を伝えた。

 依頼主であり尚且つ護衛対象であるのは、白い髭の目立つ老紳士だった。

 

 三時間弱経過し、時刻は午後七時を迎えた。

 会食はバイキング料理の形式となっており、アビスは他の護衛と同じように壁際に立って脳内でシミュレーションを重ねつつ襲撃を待っていた。

 エイプリルは別の壁際に立っている。流行りの服や着けていたカチューシャを取り外している彼女の姿や雰囲気はいつもとは大きく違っていて、格式張った近寄り難さを醸し出していた。

 

 依頼主は今のところ大きくは動いていない。事前に伝えた通り窓に近付き過ぎず、他者の目が最も集まっている中央で会話を済ませている。

 

『あー、あー。聞こえる?』

 

「聞こえます。何かありましたか?」

 

 インカムから聞こえるエイプリルの声からは全く緊張が感じられなかったが、一応の意味でそう言葉を返した。緊急用に渡したインカムの用途としては間違っているが、雑談に使うのも良いだろう……と、アビスは判断を下したが。

 

『うん、ヤバい。なんかアーツだと思うけど体動かない』

 

「どの程度ですか?」

 

『首とか腕が動かしにくい。精度は大丈夫だけど、射るのに時間がかかりすぎると思う』

 

「なるほど、分かりました」

 

 アビスはそう言うと、一目散に護衛対象目掛けて走り出した。インカムではエイプリルが騒いでいるが、今の最優先事項は説明ではない。

 

 何故、()()()()()()()()()()

 答えは簡単、アビスとエイプリルの護衛対象が狙われているからだろう。

 

 敵がアーツを掛けてきたということは、今から仕掛けると予告しているも同じことだ。距離を取っているため連携もしていないだろうとでも思ったのだろうか。

 そして、アビスとエイプリルの二択でエイプリルを狙ったのは恐らく遠距離攻撃の手段を減らすため。相手は対象への接近を終えているか、近接戦闘に自信があるかだ。

 果たして、アビスが走り出して五歩の時点で、一人のサングラスを掛けた男が壁から離れて護衛対象へと迫っていくのをアビスは中央に居る護衛対象越しに視認した。

 

 用心棒に扮した暗殺者──大々的に行動しすぎてそう呼ぶには些か抵抗があるが──だったのだろう。会食への入場は招待を受けた参加者からの身分の証明がなければできなかったはずだが、いつのまにか紛れ込んでいたのか。

 男は取り出したナイフを手に護衛対象の男へと駆けていく。他の参加者は自分がターゲットではないのをいいことに我先にと逃げ出して道を開けていた。

 

「邪魔しないでください!」

 

 参加者が一斉に男から逃げ出したせいで、アビスの道を塞いでしまった。邪魔だからと言って切り捨てる訳にもいかず、強引に押し退けては、転んで後から走ってくる参加者に踏まれる可能性がある。

 

「仕方ないので許してくださいね!」

 

 アビスは一旦後ろに飛び退ると、一気に跳躍してテーブルの上へと着地した。護衛対象は男から逃げようとしているため中央よりもややアビスの方に居る。

 男は広い会場の半分ほど、つまり先程まで護衛対象の立っていた場所まで既に距離を詰めていて、アビスは追いつくことが難しそうだ。

 

 アビスは皿の一つを拾うと、その上に乗っていた料理をテーブルへと全て落とした。そのまま後ろに振りかぶり、フリスビーを投げる時のように横にしてぶん投げた。

 風を切り、護衛対象の頭スレスレを通過してなお飛んでいく円盤は、暗殺者である男の手によって側面から容易く粉砕された。

 

「……っ!」

 

 だが後を追うように続いた二皿目は身を屈めて対処した。今度の皿は料理を装う皿ではなく、料理が積まれている大皿だ。二回り以上大きい円盤は咄嗟に回避してしまうほど圧迫感を与えたのだろう。

 

 だがそれでも、男の方が護衛対象に早く追いつく。アビスは大皿を投げた分だけ相手を遅らせたが、アビス自身の行動も遅らせてしまう。

 しかし、それでいい。

 これは男対アビスの戦いではない。

 男対アビスとエイプリルの戦いだ。

 

 男が突然ジグザグに体を傾けながら走り始めた。テーブルを跳ね上げて障害物にしようともしている。

 恐らくは男こそがエイプリルにアーツをかけた張本人なのだろう。身体の動きを阻害するのであれば、相手の動きを感知できたとしても意外ではない。エイプリルが矢を番たことを感知できているのだ。

 

 だがそれでも、エイプリルの矢は男の左肩に突き刺さった。突き刺さるだけではなく貫通していて、堪らず男は呻き声を上げた。感知できるだけで躱せるほど、ロドスの狙撃オペレーターの技量は低くない。

 

 男は左肩を押さえると、すぐにまたナイフを構えて駆け出した。だがもう遅い。もう時間は稼ぎ終わった。

 

 アビスがテーブルから跳躍して護衛対象の前に着地し、そのまま男の腹へと右足を叩きつける。

 

「ごふっ……!」

 

 アビスの体勢が整っていなかったため、男が床に膝をつくことはなかった。だが蹈鞴を踏んで脇腹を手で押さえて顔を顰めている。

 感触からして骨を折った訳ではない。すぐに男はナイフを振りかざして──そのナイフがエイプリルの矢によってアビスの方へと弾き飛ばされた。

 

「降伏してください」

 

 ナイフを拾い上げると、やはりそれはアーツユニットだったようで、グリップの部分にその界隈では有名な企業のロゴタイプが入っていた。

 これでエイプリルの動作を阻害されていたアーツは弱まり、それは即ち男が完全に勝ち目を失ったということだ。

 

 アビスはナイフを男の方に突きつけて降伏を迫る。目はサングラスに隠れて見えないが、口元からして悔しそうな表情が察せられる。

 両手を上げた男をエイプリルが弓を構えて牽制し、その隙にアビスは先程まで立っていたテーブルのテーブルクロスを引き裂いて縄を作り、男の手足を縛り上げた。

 

「これで、一件落着……とは、ならないんですよね」

 

「よくやってくれた。アビス殿、エイプリル殿」

 

 振り返れば護衛対象の男がほっとした顔で歩み寄ってきていた。周りに目を向ければ、他の参加者たちも壁まで退避していたところから戻ってきていた。

 迷わず彼は護衛対象をエイプリルの近くへと押し退けて、ナイフを構えた。

 

「そこの男を引き入れたのは誰ですか?」

 

 参加者たちは足を止め、一様に首を振った。

 だがその中の一人、ヴァルポの老人が一人の婦人を指差した。

 

「待て、私は見たぞ。男を連れていたのは貴女だろう」

 

「えっ!? そんな訳ないじゃない!」

 

「見たものは見たのだ」

 

「そういえば、私も見た記憶がありますね」

 

「ああ、言われてみれば彼女だった」

 

 アビスの記憶によると、ヴァルポの老人はこの会食の挨拶を行っていたようだ。恐らくはこの中で一番影響力のある老人なのだろう、同調して首を縦に振る者が次々と現れた。

 

「う、恨むわよ……!」

 

「話は近衛局に聞いてもらいなさい。アビス……で、あってますかの。さっさと捕縛していただきたい」

 

「ええ」

 

 残ったテーブルクロスで縄を用意しつつ、アビスはナイフで威嚇する。婦人は潔く両手を挙げて膝をつき、だがその目には諦めの色が欠片も混じってはいなかった。

 婦人を拘束するアビス。

 

「ちょっと、何してるの!?」

 

 エイプリルがそう言った。丁度アビスは婦人の腕を縛り終えたところで、ゆっくりと立ち上がった。

 

「エイプリルとやら、弓を下ろしなさい」

 

 アビスの背後から聞こえた老人の声に、未だ状況を掴めないまま仕方なく弓を下ろす。

 突きつけられた金属の冷ややかな感触がアビスの首筋に伝い、それは老人の持つ刃物と、確かな害意を示していた。

 

 

「さあ、アビス。降伏していただきましょうか」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三 午後の職務 下

 

 

「ああもう、後で何かしてもらいますからね」

 

「仕方ないでしょう。誰かが捕まる必要があったんですから」

 

 手をヒラヒラと振りながら、拘束を解かれた婦人が立ち上がる。側に立つアビスの首に添えられているのは老人の杖だったものであり、その中に仕込まれていた白刃だ。

 

 エイプリルの額から汗が滴り落ちた。

 状況がようやく飲み込めてきた。つまり捕縛していた男は護衛の力を測るための試金石兼囮であり、依頼主から護衛を剥ぎ取るために使われただけだということだ。

 

「シルヴェスター、お前は力を付け過ぎた」

 

「お、おい、待ってくれ。もしかして……ここに居る全員がそうなのか? 私はもうリターンよりリスクの方が大きいと? おい、そういうことなのか?」

 

「シルヴェスターさん、落ち着いて──」

 

「ふっ、ふざけるな! よりにもよって囃し立てた貴様らが私を裏切るなど、どう考えてもおかしいではないか!」

 

「もう話はついている。お前に儂らが譲ることなどもうありゃあせん」

 

「ご老公殿、私達はもう食事に戻らせていただいても?」

 

「ああ、好きにしなさい」

 

 老人の言葉を畏まって受け取り、荒らされていないテーブルへと近づいていく参加者たち。手に持つワイングラスを傾ける者、皿にフォークを突き立てる者、共通するのはシルヴェスターの様子を見て品のない笑みを浮かべていることだけだ。

 

「少し、交渉をしませんか?」

 

 アビスが老人にだけ聞き取れるような小さな声を発した。仕込み杖の刃が喉に食い込んで一筋の赤い線を描く。

 垂れる血に構わず、アビスはまた口を開いた。

 

「エイプリルはいつも着用している靴をアーツユニットとして強力なアーツを使います。彼女は仲間意識が強いのでまだ逃げていませんが、切り捨てる決断をすればシルヴェスター一人くらい逃してのけるでしょう」

 

「何が言いたい?」

 

「あなた方にとっての交渉する意味を一つ提示したに過ぎません」

 

 エイプリルがボソボソと喋っているアビスを見て目を細める。未だ憤激の渦中に居るシルヴェスターのせいで、コータスの耳でも大半の言葉が聞き取れない。

 

 アビスが老人に言った内容を噛み砕けば、護衛を一人拘束する程度ではシルヴェスターの首を取れない、ということだ。

 アーツユニットであるとされる靴を脱がせようとすれば逃げられるかもしれない。老人は武器が弓矢だという点で既に物量差で勝った気で居たが、それが崩れかねない。

 

「ボクは彼女のアーツを見慣れている。あなた方の護衛では難しいでしょうが、ボクならどうにかできます」

 

「それが本当か嘘かも分からんのにか?」

 

「……では、譲歩しましょう。ボクを彼女たちから離してください。ボクでは彼女の助力無しにあなた方を倒せませんし、彼女が簡単にボクを解放することもできなくなりますから」

 

「それが通ると思っているのか?」

 

「ボクにとって生き残る術は裏切るしかありません。それをあなたは分かっているのではないですか?」

 

 捨て駒になる気はありませんよ、とアビスは嘯いた。

 老人は元よりシルヴェスターのみが標的で、もしアビスの言っていることが本当ならば既に策は薄氷の上。逃してしまえばガードを固められてもうチャンスは巡ってこないだろう。

 エイプリルの厄介さに老人は歯軋りをする。

 そもそも、男との戦闘でアビスとエイプリルは無力化できると思ったから本性を現したのだ。計算違いにも程がある。

 

 目の中を覗き込む。

 アビスの瞳は冷えていた。まるで誰も味方などと思っていないような男の目だった。

 

 エイプリルとアビスの間にこうも温度差があるのならば、アビスの言う通りにすれば勝ち筋はある。

 それに我々の護衛がいる限り、無闇矢鱈と反旗を翻すこともないだろう。

 

「いいだろう。シルヴェスター共を壁際に追いやり、お前は儂らの護衛に包囲させてもらう」

 

「ええ、構いません」

 

 老人が杖を構え直して、声を張り上げた。

 

「おい、エイプリルとやら! そこのシルヴェスターを連れて壁まで下がっておれ!」

 

「アビスに何をする気なの?」

 

「なんでもいいじゃろう。それとも、お主がこの杖を引く原因となってしまうのかのう?」

 

「……はいはい。分かりました」

 

 無事に済ませるためには、これしかなかった。

 アビスのアーツでは、これしかシルヴェスターに傷をつけず済ませる策がなかった。

 

 扉から離れた壁際へと、エイプリルがシルヴェスターを引っ張っていく。参加者は老人とアビスの居る扉の方に寄ってきた。

 アビスは密かにポケットに手を入れると、中に入っていたナイフを取り出した。

 ナイフを真っ当に使うのではない。それは男が使っていたアーツユニットであることに意味があるのだ。

 

「使いたくなかったんですけどね」

 

 その言葉が紡がれた時、アビスの首筋へと当てられていた刃は既に床へと落ちていた。

 

 

 アビスを捕まえていた老人──ハオランは、龍門に根を広げる源石製品の流通を調整する重役の一人である。

 元々は移動都市でもない山村の地主の後継者であり、野山を駆け巡り野生の動物を仕留める狩人として活動する予定だった。

 

 ハオランの人生における最大の転機とは、立ち寄った旅人がハオランに一冊の本を売ったあの時だろう。

 山村では珍しい新たな本に興奮したハオランは昼夜問わずその内容を読み込んだ。いつもいつでもその本を持ち歩き、隙を見つけてはページを開く。そんな熱中具合だった。

 

 その本は、とある貴族の成り上がりを描いた小説だった。

 小さな小さな貴族が源石の持つ未知の可能性に気付き、それを元にして他の色々な分野でもその慧眼を発揮して、終いには最高位爵位を王から賜り、ハッピーエンドで締め括られた。

 それ自体のストーリーも大変良かったのだが、ハオランが何より読み込んだのは、詳しく書かれた源石の利用方法やその凄まじさだった。

 ハオランは田舎の山村で生活しているため、鉱石病に罹患するリスクは知っていても、源石製品というものをとんと見たことがない。ハオランは敵対した貴族との抗争ではなく、優美なヒロインでもなく、純正源石の挿絵に魅了され、貴族そっちのけで夢中になっていた。

 

 そして、見つけたのだ。

 自身の所有する山に露出している鉱脈の一部が、貴族が源石鉱脈を見つけるための重要な特徴として描写していたものと丸っ切り同じ様子だということを。

 

 代々溜め込んできた地主としての財を全て換金して、ハオランは源石坑を開設した。元採掘者であるレム・ビリトンからの逃れ者達を雇えたことも大きかった。

 小さな山村には元より鉱石病に罹患して差別から逃れてきた住民も多く、企業からの差別に苦しんで故郷を離れた彼らにとって、ハオランの源石坑は非常に都合の良い契約先だった。

 

 ハオランはその後源石坑の採掘から源石製品の生産業を一人で取りまとめ、とうとう移動都市の一角を占めるまでに至った。

 突然出現したハオランを追放しようと何人もの暗殺者が駆り出されたが、誰も山育ちのハオランを仕留め切れる者は居なかった。

 暗殺者の凶刃を掻い潜り、その依頼主であるライバルの喉を掻き切ってやった。ハオランに敵う者は誰も居なかった。

 

 何度も死戦を潜った。何度だって振り下ろされたナイフを寸前で回避して、カウンターの拳を叩き込んでやった。

 

 

 首に押し当てていた杖は震える手が取り落とした。突然感じた腹部への衝撃に吹っ飛ばされてへたり込んだ。ヴイーヴルの青年が尻尾を揺らしながら、離れたハオランへと足を進める。

 ハオランには周りへ助けを求める声を発することができなかったが、もし出せたとしても意味はない。

 

「それでは」

 

「ああっ——、あああっ——、うあああぁっ!」

 

 体に纏わりつく緊張に耐えきれず襲い掛かった護衛の一人にナイフを刺して突き飛ばし、アビスはハオランへと向き直った。

 見せしめの効果を狙っていたのであれば、それは大成功だった。アビスの道を塞ぐはずの護衛はもう誰一人として動くこと叶わず、ただ震えながらアビスの目が自分に向かないことを祈っていた。

 

「名も知らぬご老人」

 

 振り上げられたナイフ。

 今まで幾度と掻い潜ってきた血濡れのナイフ。

 

「さようなら」

 

 ナイフが人を裂く音がして、会場は騒音に包まれた。

 恐怖に耐えきれなかった参加者たちが滂沱の涙を流しながら今まで笑っていたことをアビスへと謝罪し、そのナイフの向きを逸らす努力を始めたのだ。

 それができない者は、ただ恐怖に耐えきれず死にたくないと泣き叫んだ。みっともなく喚いてガラクタのように呪詛を垂れ流した。

 

 エイプリルとシルヴェスターが耳を押さえてアビスの方へと歩み寄る。

 

 アビスが事前に伝えた注意事項は一つだけ。

 アビスがアーツを使うほど追い詰められた時は、敵よりもアビスと距離を取ること。

 エイプリルが文句を言ったのは、首にナイフを当てられた状態ではアーツ行使も儘ならないだろうと危惧してのことだ。

 杞憂ではあったが、それがハオランを欺く一助となったことを考えれば寧ろファインプレーだったと言えるだろう。

 

「シルヴェスターさん、危険に晒してしまい申し訳ありませんでした」

 

「いや、充分だったよ。この会食自体が罠だと知っていなかった身からすれば、命が拾えただけでも儲け物だ」

 

 シルヴェスターは清々しい微笑みを顔に描きながらアビスとエイプリルに握手を求めた。アビスは同じように微笑んでいたが、エイプリルは流石に騒ぎが気になるようで、浮かない顔をしていた。

 

 次いで、シルヴェスターも部屋に充満する阿鼻叫喚の騒ぎへと視線を移した。

 

「どんな手品を使ったので?」

 

「ただのアーツですよ」

 

「ふむ……」

 

 一言で簡潔に答えたアビスにシルヴェスターは髭を弄る。源石を運用する都合上アーツにも少しは触れているが、ここまで大規模で効果的なアーツは聞いたこともなかった。

 鋭い眼光がアビスを貫くが、それを遮るようにエイプリルが身を乗り出した。

 

「シルヴェスターさん、それよりもここを片付けましょう。ねえアビス、アーツはどれくらい掛けてられるの?」

 

「……それなんですけど」

 

 アビスは頭の後ろを指で掻いた。

 

「この事態は副作用のようなもので。不可逆なんです」

 

「はあ!?」

 

「ふむふむ……今なんと?」

 

 アビスはなんとも言えない顔をして、頭の後ろを掻いていた。 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四 ヴイーヴルとフェリーン

 

 

 護衛依頼の任務が終わり、アビスとエイプリルはロドスへと帰ってきた。まだ寝るには早い時間帯で、食堂もギリギリ開いている。

 

「アビスは夜ご飯どうするの?」

 

「報告を終えてからですね。なので再会はまた次の依頼の時になるかと思います」

 

「オッケー、じゃああたしはこっち」

 

「ええ、さようなら」

 

 エイプリルはロドスの食堂を小走りに目指していった。

 アビスはそれを見届けると、ドクターの居る執務室──ではなく、主に手術室や研究室など医療オペレーターが使用する区画へと足を運んだ。

 

 いつもなら挨拶をして歩いているアビスは、特に声を発さずに通路を進んでいく。だがこの付近ではそれがいつものアビスの姿だ。

 アビスがこの区画に顔を出す時は、決まって挨拶をしない。

 

 いや、しないという表現は的確でない。

 できないのだ。

 

 向かいから歩いてくるフェリーンの女性を視認すると、アビスは右手を上げた。左手は通路の壁についている。

 

「はぁ……またお前はアーツを使ったのか」

 

「少し、追い込まれて、しまったので」

 

「分かった、口を閉じていろ。肩を貸してやる」

 

 ケルシーはアビスを空いている診察室へと運び込んでベッドに寝かせた。肩を貸している途中幾人かのオペレーターに見られてしまったが、それを気にしている余裕はなかった。

 

「アビス、今回は何人に使ったんだ。以前十人と少しに使った時はまだ自力で歩けていただろう」

 

「ざっと、二十や三十ほど、でした」

 

「私の言葉を忘れたか」

 

「それしか、なかったので……」

 

 ケルシーはまたため息を吐いた。アビスの今抱えている事情を把握しているケルシーからすれば、アビスの思考回路は非合理的なものとしか映らない。

 だがその根源となった事象に対してケルシーはほとんど無知だった。ただ起こったことを知っているだけで、アビスがそれをどんな状態で受け止めたのか、それをどう受け止めたのか、そんな大事な部分がごっそり抜け落ちていた。

 

「予定は前倒しだな。今から検査を行うとしよう」

 

「休む、時間は……」

 

「自業自得でこうなっているんだ。アビス、少しは黙って検査されてはどうだ?」

 

 足を組んで書類を揃え始めたケルシーを止めることはできず、アビスは伸ばした左手をだらりと下ろした。

 

 夜も深まる時間に、ケルシーは検査器具のスイッチを入れた。入職時のように戦術機動やアーツ適性などを測る必要はないため、今回アビスが受けるのは源石融合値と血液中源石密度の検査である。

 

 アビスの腕に針を刺して、造影剤を流し込んでいく。造影剤とはX線検査の時に使用されるもので、簡単には器官をはっきり撮影するために血管に流す薬品のことだ。

 台に乗せられたアビスはもう慣れたもので、全く動かずに時間が経つのを待っている。もしかしたらぐったりしているだけなのかもしれないが、まあ同じことだろう。

 

 さて、検査の結果がケルシーの手によって記された。

 

「アビス、覚悟はいいか?」

 

「ええ、大丈夫です」

 

「源石融合率21%。ロドスの中では最高値だ。今も普通に活動できているのはゆっくりと鉱石病に慣れていったからで、急速にここまで上昇すれば致死は免れないだろう」

 

「……そう、ですか」

 

「血液中の源石密度はほとんど変わらず0.42だ。あまり上がっていないことを喜ぶべきか、それとも上がっていなくてもそれなりに高いことを嘆くべきか」

 

「……」

 

 アビスは俯く。

 膝の上に乗せた拳は強く握られていて、何かを耐えるかのように下唇を噛む。体を硬らせて、震えそうになる体をどうにか押し留めた。

 

「仕方のないことですね。明日からの任務に差し支えるので、もう部屋に戻ろうと思います」

 

 薄く笑ってアビスは席を立った。そもそも診察室がこんな夜遅くに稼働していること自体おかしいのだとアビスは思う。いくらケルシーが使用者とは言え、そのケルシーに使用させたのはアビスであり、それはおかしいことなのだと。

 

 診察室のドアを開けて外に出たところで、肩を掴まれた。言うまでもなく下手人はケルシーだった。

 

「ついてこい。夕食がまだだろう」

 

 アビスは源石融合率が高く、その中でも胃の付近は相当輪郭がぼやけている。普通の人の三分の一ほどしか実質的な容量がなく、更に消化能力も低いため、アビス用に製造した圧縮ビスケットや水以外は胃に入れることができない。

 当然それはケルシーも承知の上であるため、もし今の言葉が本当であるならば……

 

「胃の弱い感染者のサンプルとして、少し試食に付き合ってもらいたい」

 

「あ、ありがとうございます……!」

 

「いや、礼を言われることではない」

 

 本当ならば根本的な治療をしたいものだ。ケルシーはその言葉を飲み込んで、アビスの方へと目をやった。

 久しぶりに少しの塩気と仄かな甘味しか感じられないビスケットではない食事ができるのだ。いつもとは違う、年相応の笑顔で後をついてきていた。

 

 少しだけ胸が痛んだ。

 

 アビスはもう、半ば自身の鉱石病について諦めてしまっている。

 自分は鉱石病にかかっていて、特別胃が機能を阻害されている。だからビスケットだけで毎日の食事を済ませる。

 そんな普通の人が聞けば到底受け入れられない仕打ちをアビスはただ頷いてその通りに行動している。今まで一度たりとも、それを破ったことはない。あくまでも冷静に自分の現状を認めて出来る限りのことをしている。

 

「アビス」

 

「なんですか?」

 

「毎食、あのビスケットを食べているな?」

 

「はい!当たり前じゃないですか」

 

「そうか」

 

 今度は強く、胸が痛んだ。

 

 

 

 アビスが部屋へと向かい、恐らくは床に就いたと思われる頃。

 ドクターは誰も居ない部屋で、端末を立ち上げていた。それはオペレーターたちのプロファイリングされたデータが保存されている端末であり、ドクターは自身の権限を以てそれを解錠していた。

 

「アビスは……と、これか」

 

 ここに来た理由は、アビスのプロファイルを確認するためだった。今日の昼頃に、食堂でニェンにアビスが料理を振る舞っていたらしいと秘書だったハイビスカスから聞いたのだ。

 振る舞っただけならば特段気にはならなかったが、ロドスの料理にケチをつけていたニェンが文句を言うことはなかったとなれば話は別だ。

 もしかするとアビスはシデロカのような料理技能を持っていたのかもしれない。そう考えると、アビスの経歴がドクターには気になってきた。

 

 オペレーターのプロファイルは入職時に一旦確認することが多い。その後、ケルシーが折を見てドクターの権限を強化していくのだ。

 恐らく第二資料くらいまでは開示できるだろう。そんなことをドクターは考えながらアビスのデータを調べる。

 

 プロファイルから、まずは基礎情報を出した。

 

 

【コードネーム】アビス

【性別】男

【戦闘経験】六年

【出身地】リターニア

【誕生日】4月29日

【種族】ヴイーヴル

【身長】166cm

【鉱石病感染状況】

体表に源石結晶の分布を確認。メディカルチェックの結果、感染者に認定。

 

 

「戦闘経験が六年、か……」

 

 アビスは大凡青年と呼べる体躯をしているが、種族の寿命からしてどのくらいの年齢なのか特定は困難だろう。

 アビスがヴイーヴルなのは頭に生えているツノからも大凡把握していたし、感染者なのはドクターもケルシーとの会話から知っていた。既知でなく有益な情報は、戦闘経験くらいだろう。誕生日も覚えてはおくが。

 能力測定は特に知る意味がないので飛ばして、次に個人履歴を開示した。

 

 

[リターニア出身のヴイーヴルの青年。感染者として放浪していたところをロドスに保護された。短剣のアーツユニットを好んで使う以外は、特に武器の好みはない。多方面の任務で活躍している]

 

 

 ドクターは少しだけ眉を顰めた。他のオペレーターの個人情報と比べて、明らかに情報が浅すぎる。

 放浪していたところとは書かれているが、具体的にどこを放浪していたとか、道連れは居たのかとか、かなり曖昧だ。どんなアーツかも分からず、多方面の任務での活躍はドクターも報告書から知るところである。

 

 少しだけ考えたが、アビスに関してはまだ知らないことが多く、深く推理するのは気が早いだろうと結論付けた。そもそも知らないことを知るためにプロファイルを覗いているのだ。

 健康診断の結果を開示する。

 

 

造形検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

 

【源石融合率】──%

 

【血液中源石密度】──u/L

 

 

「なんだ、これ。データを入れていないのか? いや、下にまだ何か書き込まれているな」

 

 

[源石融合率と血液中源石密度は安定しているが、アーツの過度な行使による変動が頻発している。データとしての有用性が感じられず入力は控えることとする]

ーーケルシー

 

 

 ドクターは一瞬目を疑った。

 ドクターは以前、鉱石病の病状はロドスの最先端技術を用いてどうにか安定させている、と医療オペレーターから聞いたことがある。

 イフリータや彼女に準ずるような感染者であれば難しいとは聞いたが、余程のことでもなければ安定させることに成功していると。

 

 だがそこまで進歩したロドスの技術でも抑えきれないのであれば、アビスはロスモンティスのような重大なデメリットをアーツの使用に抱えていることになる。それも、危険度だけ見るならロスモンティスよりも上のものを、だ。

 

「これは少し嫌な予感がしてきたな……」

 

「ほう、奇遇だな」

 

「おわっ、ケルシー!?」

 

「ああ、私も嫌な予感とやらを感じてここに来たんだ。まさか本当にドクターが何かをしているとは」

 

 咄嗟に体で機器を隠したが、立っている場所からしてドクターの意図はケルシーに丸見えだった。ドクターもすぐに気付いて、バツが悪そうな動きで離れた。

 

「アビスのプロファイルか」

 

「少し昼の騒ぎで気になってね」

 

「……何かあったのか?」

 

「あのニェンに料理を作ったらしい。しかも全く文句を言われていなかったそうだ」

 

 ドクターの答えに、思わずケルシーは力を入れてしまった体を弛緩させた。どうやら今日行ったアビスの検査によって少々過敏になっていたようだ。

 

「その程度のことか。冷や冷やさせるな、紛らわしい」

 

「なんだと……」

 

 ドクターからすれば一大事である。なにせ今日も秘書を務めたハイビスカスから差し入れられた健康食によって胃の中が嵐の海のように荒れていたのだ。

 食物繊維が多すぎてトイレに篭る羽目になったし、美味しい食事の大切さをケルシーに反論しようと口を開きかけた。

 

 だがドクターはすぐに気付いた。

 ケルシーはアビスが昼に騒ぎを起こしたと思ったことを、その発言が意味していると。アビスは利発な好青年で、少なくとも騒ぎを起こすようには考えられない。ワルファリンより落ち着いている。

 

 いや、大抵のオペレーターがワルファリンよりは落ち着いているのだが。

 

 プロファイルを作成するのはドクターよりケルシーが主体となっている。資料を確認するよりもケルシーに聞いた方が早いだろう。

 ドクターはそう判断して、アビスについて聞きたい内容を頭の中で整理した。色々聞きたいことはあるのだが、やはりその中でも一番は……

 

「アビスのアーツって何なんだ?」

 

 ドクターの口をついて出た言葉が、ケルシーの動きを一瞬止めた。大きい代償があることは分かったが、それならばアビスのアーツはかなり強力であると推察される。

 サリアなどの使い手に依存したアーツもあるが、アビスがアーツ学の授業ではそこまで奮わなかったということを執務室で既に確認している。ならばロスモンティスやブレイズのように、観測できる事象は割合単純なアーツなのだろう。

 

「アビスの扱うアーツは、かなり特殊だ。多くのオペレーターのように物理現象を引き起こすものではない」

 

「だからこその反動ってことか?」

 

「いや、それが強力な訳ではない。ただ……」

 

 勿体振るようなケルシーの様子にドクターは首を傾げた。苦々しそうな顔からして、ドクターに伝えることというよりはアビスについて言及することを躊躇っているようだった。

 

「……いつかは分かることだ。どうしても知りたければアビスに聞くといい」

 

 ケルシーはドクターに背を向け、ドクターが声をかける間も無く足早に入り口のドアを開ける。

 

「答えが分かるとは、思わないがな」

 

 閉められたドアが音を立てた。

 

 一人、取り残されたドクターが端末に目を向ける。

 さっきまでと同じ一人きりの状況だが、ケルシーの言葉が嫌な予感を増幅させている。

 

 

[アーツの過度な行使による──]

 

 

 少し息を吐いて、端末の電源を切った。

 

 もう資料を漁る気にはなれなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五 【他者への配慮】欠落

 

 

「よし、揃ったか。それでは始めよう」

 

 最後に入室し椅子に座ったドクターを確認して、ツノの無いサルカズが壇上に立った。何が起こるのかと周りを見回してみたが、ドクターの他は医療オペレーターが多く、その誰しもが真剣な顔をして座っている。

 恐らくは鉱石病に関する何かなのだろう。そうドクターは結論付けて、椅子へと座り直した。

 だが直後に二度見した。何故かハイビスカスの隣にラヴァが座っていた。ラヴァからハイビスカスに近寄ることはあまり考えられないので、ラヴァ自身も呼ばれているのだろう。

 もう少し見渡してみれば、術師オペレーターの姿もどうやら多いのだと分かった。

 

「諸君。今回集まってもらったのは、実は医療に関することではない。もし気が乗らなければ席を立ってもらっても構わない」

 

 ドクターはワルファリンの方に思いっきり振り向いた。

 本当に医療じゃないのかよ、そんなツッコミをワルファリンに放とうとしたが、視界に入ってきた真剣な顔に思わず毒気を抜かれる。

 

「だが!研究者として、非常に興味深いテーマであることは保証しよう。ケルシー先生による罰則を容認できるほどのものであると!」

 

 罰則あるのかよ。ドクターがそう心中でまたツッコミを入れて、席を立つことを決意した。正直言って鉱石病に無関係な分野に顔を出してケルシーに怒られるなんて余裕は存在しない。

 今だってあの小さい最高責任者が書類の束を持ってドクターを探しているのかもしれないのだから、それもまた優先事項だ。付き合ってられない。

 

 だがそんなドクターが腰を上げようとした時、ラヴァの声が室内に響いた。

 

「待ってくれ、アタシはなんで呼ばれたんだ?そこもちゃんと説明してくれよ」

 

「ちょっとラヴァちゃん、ワルファリンさんはちゃんと意味があってラヴァちゃんを呼んでるの。ちょっとだけ、もう少しだけ静かにしていて」

 

「……ふんっ」

 

 ハイビスカスは大凡の見当がついているのだろう。

 ラヴァからしてもワルファリンが優秀な医師であることは知っているし、ロドスの医療オペレーターの中でも異色な存在である。聞いておく余地はある。

 でもなんか採血された後の血の行方が怖かったりするのでラヴァはワルファリンが苦手だった。奇行で中々有名なので、目をつけられたくないと思ったのだ。

 

「ふむ……確かにラヴァの発言は尤もであろう。妾たちは時間を無駄にはできない、鉱石病と毎日奮闘しておるのだからな。ならばやはりさっさと本題に入るとするか」

 

 ドクターは話を聞くか、それとも仕事に戻るか悩んだ。脳裏に書類の束とそれを机にどんどん追加するコータスの姿。

 迷いなく、ドクターは深く椅子に座り直した。もうワルファリンの馬鹿騒ぎを息抜きとして見物しよう。そう決めた。

 

 ワルファリンが壇上の机から何かを取り出して掲げる。

 それは仮面越しには少し見にくかったが、どうやらアーツロッドらしいことがドクターにも分かった。

 

「これが何かわからぬ者は居らぬな?」

 

 普段使っている輸血パックの付いたものでない以上、アーツユニットであることを示しているのだろう。後ろの席に座っているオペレーターに対して示すかのように、ワルファリンが軽くヒーリングアーツを自分にかけた。

 

「深刻な感染者は除くが、このアーツユニットを使用しなければ普通、大規模なアーツの行使が不可能となっておる。これは当然周知の事実であろう」

 

 アーツロッドを壇上の机に置き、次にワルファリンは天井に取り付けられていたプロジェクターの電源を入れて横に逸れる。

 白いスクリーンにパッと表示された人物は、ドクターも昨夜調べていた人物。つまりアビスに他ならなかった。

 

「知らない者はいるか? この男は、いや青年はコードネームをアビスとしている。中々どうして青年らしい名前だな」

 

「ワルファリン、もしかしてアビスのことが主題なのか?」

 

 ドクターの問いにワルファリンは首肯した。

 

 マズい。かなりマズい。

 一昨晩のケルシーの様子から察するに、アビスの個人情報に触れるのは恐らくタブーだ。ドクターは彼のアーツに関して無知であるが、無知であることが正しいのだと、あのケルシーの様子からそれを知った。

 やはりワルファリンを止めるべきだろう。アビスの情報が本人の許諾無しに流れるのは許されることではない。

 しかし続いたワルファリンの発言にドクターは呆然として、その制止せんと開かれた口からは声が出なかった。

 

「みな驚くだろうが、アビスの源石融合率は21%、血液中源石密度も0.42u/Lと高く、ロドスの中でもトップクラスに病状の進んだ感染者だ」

 

 ケルシーがプロファイルにデータを入力しなかったのは、まさかこれを秘匿するためなのか?ドクターの脳裏には、あのプロファイルに追記されていたケルシーの文言が映し出された。

 アーツ行使によって感染が進行するのであれば、アビスは中々病状の進んだ感染者だろう。

 そうは思っていたが、まさかイフリータよりも高い融合率を持つとは思わなかった。

 

 後ろで椅子の倒れる音が聞こえた。

 見れば、ラヴァが興奮した様子で立ち上がっている。

 

「おい、待てよ。そんな数値はありえない」

 

「そうか?」

 

「アビスは体のどこにも源石なんか出てない。どう考えてもどっかで間違えてるに決まってる」

 

「残念だが、これは一昨晩に行われたケルシー先生による検査の結果だ。偶然資料を見つけ、そこの記入者名を確認するまでは、妾も嘘だろうと思っていた」

 

「ケルシー先生が、って……いや、でも……」

 

「嘘ではない。そしてこれは秘匿されていた情報だ。そうだろう、諸君。アビスがこのような状態であることを知っていた者がいるのか?」

 

 誰も手を挙げられない。

 

「隠匿されていた事実こそが裏付ける証拠ではないか?」

 

 ワルファリンは返事を必要としない。

 これはまだワルファリンの主張であって、会議ではない。更に付け加えれば、主張の中でも前提とされる前知識として流布しているに過ぎない。

 プロジェクターと同期させているらしい端末をタップして、スクリーンに映っていたアビスの写真が消える。

 

 代わりに現れたのは、何かの表のようだった。一番上は5と0.19から始まっていて、下は21と0.42……つまりは、時系列順に並べられたアビスの検査結果だった。

 だがどうやら間の時間をかなり空けているらしく、所々の数値がかなり大きく変動している。

 

 ドクターがまた嫌な予感を感じ取った。

 もし、ドクターの懸念が真実となるならば、あれは……

 

「注目していただきたい点はここだ。12%から14%へと一気に上がっておるな?」

 

 嫌な予感がはっきりとドクターを襲い、今すぐに耳を塞いで席を立ちたくなった。だが、嫌な予感の実態を掴むことからずっと逃げることはできないだろう。いつかは追い詰められるはずだ。

 覚悟を決めたドクターを、ワルファリンの言葉が殴りつけた。

 

「この間には二日しか存在しない。任務先でアーツを行使した結果が、この2%もの増加というわけだ。恐らくはその時アーツロッドを偶然所持していなかったのだろうが、それを鑑みても、異常だな」

 

「んなバカな……」

 

 ラヴァの呟きが聞こえてきて、ドクターもそう言いたい衝動に駆られた。世迷言だろうと一蹴してしまいたかった。

 だが既にプロファイルからそのような情報を得てしまっている。ケルシーの様子を見てしまっている。ドクターには否定する要素は見つからず、肯定する記憶しか持っていなかった。

 

 なんとか、質問を絞り出す。

 

「なあ、ワルファリン。この検査結果はどうやって見つけたんだ?」

 

「一昨日の夜にケルシー先生が診察室からアビスと共に出てくるのを見かけて、そのログを遡っただけだ」

 

「どうしてそんなことを?」

 

「アビスとは、妾も昔からの付き合いである故な……ああ見えてもそれなりに古株であるのだぞ?」

 

 また新情報が増えた。ドクターは頭を抱えたくなるのを抑えてどうにかワルファリンに真偽を問いたが、どうやら設立してからすぐの拡充にて引き入れられたオペレーターらしい。

 

「それに彼奴の血は中々に甘露……っとと、概要は飲み込めたか?妾が言いたいのは、ここまで源石の進行を助長させるアーツはどれほどのものなのか、ということだ」

 

 ワルファリンがまた端末をタップした。

 

「妾が昨日行った聞き込みの結果、アビスと共闘し、更にはアーツを見たという狙撃オペレーターを見つけることができた。彼女の言では、『何が起きたか分からなかった』そうだ」

 

 何が起きたのか分からない、という言葉から連想されるのはニェンやシーの扱う不思議な術だった。だが彼女らとは違って、アビスが使ったのはオリジニウムアーツだろう。

 アビスがアーツを使ったことは一つ前に映っていた画像が雄弁に語っていて、それが嘘であればいいのにと願ってしまうのは、ドクター自身には止められそうになかった。

 

「だがその後探しても他にアビスのアーツを知るオペレーターは見つけられず、アビスのアーツは一度見た程度では理解することが難しい、ということしか判明していない」

 

「ハッ、そんなの調査が甘かっただけじゃねぇの?」

 

 詰る声が投げかけられて、ドクターはワルファリンと共に声のした方向へと顔を向けた。

 だがその顔は両者の間で大きく違って、ワルファリンは口をへの字に曲げて面倒そうで、ドクターは目玉が飛び出すほど驚いていた。

 

「なあドクター、お前は知ってんのか?」

 

 ありえない。

 ありえないはずだった。

 

「ガヴィル、静かにできるようになったのか……」

 

「お前アタシのコト何だと思ってんだよ!!」

 

 今まで気づかないほど静かにしていたガヴィルの存在をなんとか飲み込み、答えを捻り出す。

 

「いや、悪い……アーツに関しては俺も知らない。全く、なんのヒントも持ってないな」

 

 そしてドクターはガヴィルからドヤ顔のワルファリンへと目線を移した。

 

「あとワルファリン、丁度いいから忠告しておく」

 

「なんだ?」

 

「アビスはやめておいた方がいいかもしれない。ケルシーがデータを隠匿したなら、それに比してなお劣らない理由があったはずだ。俺もそれを少なからず感じたことがある」

 

 忠告するドクターに、ワルファリンが腕を組んで思案気にした。アーツロッドを指先で弄り、「ふむふむ……」と声を漏らしながら壇上を練り歩いている。

 真剣な面持ちでドクターは答えを待ち……遂にワルファリンが納得した様子で口を開いた。

 

「そなた、もしかしてチキっておるのか?」

 

 ドクターはプッツンした。必ず、かの浅薄な医療オペレーターに教えてやらねばならぬと決意した。ドクターには記憶がない。石棺から目覚め、CEOにこき使われてきた。けれども自身を侮る浅慮たる発言に対しては、人一倍敏感であった。

 

「はあ!? チキってねえし! おうおう上等じゃねえかよ、ケルシーの落とす雷なんて俺一人で十分だからなぁ! 戦術指揮官としては一応安全な道を用意したけど、俺からすれば茨の道こそがむしろ丁度いいっていうか!? 余裕すぎてマジつまんねぇっていうか!?」

 

「ああ、そうだな。ではチクるのか?」

 

「チクる訳ねえし!」

 

「ふむ。そなたはそうだと妾は分かっておったぞ」

 

 どうやらワルファリンは自身の過ちを認められたようだ。そう分かれば、ドクターがそれ以上舌鋒を発揮することはない。なぜならドクターは煽られても矛を抑えることのできる大人であるからだ。

 

「ドクター、お前マジかよ……」

 

 ガヴィルに引かれたが、ドクターは侮られることが許せないだけなのだ。ちょっと傷ついたが許容範囲であろう。

 

「ハイビス、アタシはそろそろロドスから抜けた方がいいじゃないかと思えてきたんだが」

 

「えっ、どうして?」

 

「今の見てたろ?」

 

「……?」

 

「よし、今度頭の医者に連れてってやるよ」

 

「本当? ラヴァちゃんありが──頭の医者?」

 

 ガヴィルとラヴァの猛攻によって、ロドスの戦術指揮官であるドクターの心はボロボロになった。

 ドクターの弁舌はワルファリンから侮られてしまう事態は避けられたが、他のオペレーターからの信頼度はかなり下がってしまったようだった。ドクターは仮面の下で泣いた。

 

 さて、そんなドクターを他所に、ワルファリンはその語りを更に熱くさせる。

 

「源石病に侵されながらも行使され、果てにはその命さえをも削る強大なアーツをほとんど漏らさず秘匿し続けたアビス! ドクターさえも把握できず、任務に一人で赴いてはほとんど無傷で帰ってくるその秘密を、そなたらは知りたくはないか!」

 

「だが、ワルファリン。どうやって……」

 

「経口睡眠薬を使用するつもりだったが」

 

「!?」

 

「アビスは料理に造詣が深いと聞く。粉末状のものを溶かしても最悪見抜かれるであろう」

 

「いやそこまでは化け物じゃないと思うんだが」

 

「注射麻酔薬か、物理的な拉致の二案でいこうと思う」

 

「マジでか」

 

 ドクターは少しだけ、止めなかったことを後悔した。

 

「麻酔は五人分程度のものを用意してある」

 

「もう、この子ほんとバカ……」

 

 ドクターは止めなかったことを深く後悔した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六 格闘術訓練

 

 

 突き出した右の拳が悠々と躱され、崩れたガードの隙間を縫うように蹴撃が顎目がけて放たれた。

 

 体を右に半回転させて左足にスピードを乗せ、その蹴撃を側面から叩いて弾いた。しかし相手はその弾かれた勢いに乗って回転し、撓る尻尾が襲い来る。

 尻尾の攻撃を始めた時点で相手の視界から自分は消えていたはずだが、その尾は正確に右腕のガードを巻き取って引き倒そうとした。

 

 踏ん張って耐えたアビスは逆に引っ張ろうとしたが、その力が伝わる前にはもう右腕の拘束は外れていた。

 

 相手が距離を詰めてくる。挨拶代わりに放たれたただのストレートがアビスの油断をガード上から吹っ飛ばして、訓練室の床を背中が擦る。すぐに起き上がって横に転がり追撃を回避し、立て直す。

 だがその追撃に隠れていたのか、いつのまにか巻き付いていた尻尾がアビスの左足を大きく揺らして体勢を崩させる。更なる追撃の拳をどうにか読み切って上半身だけで躱す。アビスの尻尾で相手の尻尾を打ち叩こうとするが、やはり後手に回れば回避される。相手は尻尾と共に大きく飛び退った。

 

 ダメージを碌に与えられないままのアビスと、着実に追い込みつつある相手。

 その相手は同じヴイーヴルの女性であるサリアだった。

 

 構えながら、アビスはそっと息をついた。深く観察してみてもサリアが疲れていたり、息切れしている様子は見受けられない。

 

「今の二つが尻尾で巻き取る場合の扱い易い使い方だろう。ヴイーヴルの利点を活かすにはこれぐらいの技巧は必要だな」

 

「二度目、タイミングすら分からないんですが……」

 

「経験で覚えろ」

 

「はい」

 

「行くぞ」

 

 開幕直後、アビスの顔を目掛けて尻尾が突き出された。回避は恐らく容易だが、避けた先でサリアの殴打を喰らうよりは耐えた方が合理的だ。アビスは左手のガードを尻尾の方向に翳して、右足でサリアの胴を狙う。

 当然の如く掴まれた中段の蹴りと左腕を打つ尻尾の衝撃が同時に襲いかかってくるが、なんとか歯を食いしばって冷静な思考を取り戻す。

 

 今までの行動からしてサリアの次の行動は、右足を捻ってアビスをひっくり返すか、距離を詰めて胸部を狙った掌底か拳骨。

 

 アビスは裏を掻くべく尻尾で床を打って横に回転し、足の拘束を強引に解除した。空中にて、その足を掴んでいた左手の手首を尻尾で巻き取った。

 着地してからは尻尾で掴んだまま大きく動いてサリアの左手を引っ張り──サリアの手に力が入って、アビスの足が床から離れた。

 

 胸部に掌底が突き出されて肺の中の空気が圧迫され、アビスの口から呻くような声が漏れた。上半身が後方に倒れ込み、アビスは地面と並行になる。

 容赦なく、次は床と垂直に繰り出された腹部への肘鉄。頭を下にして落下しつつあったアビスの体が強く床に打ちつけられ、そして跳ねた。胸、腹、背の三箇所に強いダメージを負ったアビスが胸と腹を押さえてのたうち回る──訳ではなく、床を蹴ってまた退避した。

 

 アビスの打ち付けられていた場所を踏みつけて空振りするサリア。だがその勢いが削がれることはなく、響き渡るような震動が床を伝播する。

 

「ごほっ、ごほっ……」

 

「かなりいい」

 

「ありがとう、ございます」

 

 ロドスの医療は高水準だ。

 たとえば艦内で起きた怪我ならば、即死でもなければ大抵を治してみせるのではないだろうか。

 

 サリアが動きの鈍っているアビスの後ろ側へと回り込み、尻尾を掴んで引っ張った。成す術なくアビスは後ろ側に重心が寄ってしまい、背中を思いっきり蹴り飛ばされた。

 だが吹き飛ばされることはできない。尻尾を強く引き戻されて、背中に掌底が打ち込まれた。

 

 その後すぐに尻尾が離されても、インパクトの瞬間に体を駆け巡った衝撃はどこへやらと既に消えていた。床へとへたり込み、更にはその場に蹲ってしまい──蹴り飛ばされて床へと転がった。すぐに立ち上がって、なんとかサリアと向かい合うことに成功する。

 

「尻尾を掴まれないように気をつけることだな」

 

 返事を言うことができず、アビスは首だけで頷いた。追撃の容赦がないことに色々と言いたくなったが、この訓練を願い出たのはアビスの方だ。

 

 回り込まれて尻尾を掴まれては敵わないので、アビスは自分から距離を詰めて攻めることにした。踏み込んだ足はガタがきていて、震えるのをなんとか押さえつける。

 握りしめた右拳を直線的に振る。サリアはそれを左手で払い除けようとしたが、アビスの伸ばした尻尾がその手を妨げる。

 サリアの右手がアビスの右腕を掴んで止め、その隙に戻した尻尾を再度中段に突き刺すようにして伸ばした。今度はサリアの尻尾がアビスの尻尾を寸前で止める。

 

 クロスして拘束された腕のせいで、サリアの左腕は対応が一歩遅れる。更に、サリアの思わぬところで尻尾を出させてみせたため、重心が後ろに寄っていて足が動かせないだろう。

 左足に全力を込めて、アビスはサリアの脇腹を振り抜いた。強引に回避しようにも、このように複雑に絡み合った状況ではサリアより幾分か小柄なアビスの蹴りの方がスピードが速く、最悪蹴りを食らった上で追撃される恐れがあった。

 

 サリアが顔を歪める。

 

 だが次の瞬間には掴まれていたアビスの左腕が握りつぶされて悲鳴を上げ、尻尾は絡め取られて距離を取れなくなっていた。脇腹への蹴りは強力だったが、あそこまで両者の行動が制限されているのであれば、次に攻撃が来る場所は簡単に推測できる。

 実戦でサリアに防御されないということは、完全な不意打ちでの攻撃や人質を取ってのものでない限り不可能である。物理的な拘束はアーツによって切り裂かれ、攻防によって生まれた隙はサリアが一番把握している。

 

 掴んでいたアビスの右手を、サリアは自身の右後方へと流す。尻尾の拘束も解いて、サリア自身はターンしながらアビスの左を抜けて──

 

 痛烈な回し蹴りがアビスの腹を正面から捉えて、数メートル先の訓練室の壁上方に衝突した。

 

「……無事か?」

 

 返事はなかった。

 

 

 

 わなわな、と震え始めた。

 ドクターは『それ』に対して関わりたくないと思いつつも、勇気を振り絞って肩を叩き、注意を向けさせようとした。

 

 トントン。

 

 わなわな、わなわな。震え続ける『それ』は、恐らく準備期間を取っているというよりは、溜めているのだろう。降って湧いた幸運に対して最大声量で歓喜の叫びを上げられるよう、自身の中で溜めを作っているのだ。

 ドクターはもう一度、今度は強めに肩を叩いた。

 

 パンパン。

 

「おい、何をしている?」

 

 『それ』の餌を持ってきてしまったオペレーターが怪訝そうに尋ねた。餌である彼はもうベッドに乗せられていて、後は『それ』がアーツをかけさえすればいい。

 

 ゴン、と拳が肩を叩いた。

 

 『それ』が再起動した。

 

「やりおったわあああああっ!!」

 

「喧しいな」

 

「すまん、耐えてくれ」

 

 ガン、と『それ』の側頭部に拳を振った。

 

「ぐおっ!? よ、よし! そなたは早く他のオペレーターを呼んでこい! 妾は今は歓喜に打ち震えるので忙しい……ああ、素晴らしい! ケルシー先生に見つかるのではと、ここ数日で何度思ったことか! 初めてだ! 初めてこんな気持ちになったぞ!」

 

「頼んだ手前言いたくはないが、何をしている」

 

「すまん、すぐ静かにさせるから」

 

 ドン、とドクターのゲンコツが頭頂部に下されて、『それ』は……ワルファリンは涙目になって振り返った。

 

「なんだそなたは! 人が折角勝ち取った成功を噛み締めているというのに、なぜそうも邪魔をする!」

 

 ジンジンしている頭を抑えてワルファリンはドクターに噛み付いた。サリアがまた煩いと言いたげに顔を顰めたので、ドクターがサッと腕を上げれば、ワルファリンもサッと身を翻して距離を取った。

 

「あっ! さてはそなた、アビスのアーツの情報を独り占めするつもりだな! 研究者としての風上にも置けぬ、暴力を振るうことしか脳のない畜生の所業よ!」

 

(かしがま)しいのが平常運転なのか?」

 

「ああ、普段から騒がしいぞ」

 

 ワルファリンが先ほどから文句をつけてくるサリアへと顔を向けて、そちらにも食ってかかる。

 

「うるさいうるさいとやかましいのはそなたの方だ! そなたこそ人の幸せを邪魔しておるだけではないか!」

 

 そして開いている扉の方へと視線を向けた。

 

「それに! 妾のことをロクに知らぬ他人に、そんなことを、言われ、たく、は……」

 

「ああ、すまないワルファリン。喜んでいたところを邪魔しては不味いと考えて全て扉の側で聞いていたんだが……さて、説明は不要だろう」

 

 とても綺麗な笑顔をしたケルシーがMon3trを召喚した。

 エネミーはワルファリンとドクターの二人。

 

「え、ちょっ、俺は聞いてただけ……」

 

「そう言えばラヴァが言っていたんだがな?」

 

 ビクッ、とドクターの体が震えた。

 

「私の怒り程度お前一人で十分らしいな。そうなのだろう? そう言ったのだろう? なあ、ドクター」

 

「いや、それは言葉の綾と言いますか──」

 

「少し眠れ」

 

 Mon3trが動き、二人の意識を刈り取った。

 

 

 

 ゆっくりと瞼が開いた。

 見える景色はやけにぼやけていて、何がどうなっているのか分からない。頭の奥から感じる鈍痛は、水の中で耳を澄ませた時のようで、どこか遠くの他人事だった。

 

 アビスはしばらくぼうっと中空を眺めていた。段々とピントが合ってからも、頭、背中、腹部、尻尾、それらから発される痛みと、それを上回る虚脱感に身を任せていた。

 

「サリアさん、近くに居ますか?」

 

「目が覚めたか」

 

 左側、椅子に座ったサリアがアビスの顔を見下ろしていた。

 

「少しやり過ぎてしまったな、すまない。背骨と肋骨、それと尾椎のあたりにヒビが入っているらしい」

 

「いえ、怪我は承知の上ですが、ご迷惑をおかけしました……そうなると、医療オペレーターの方はどうされているんですか? いえ、急かしている訳でも強要する訳でもないのですが……」

 

「あれを見ろ」

 

 アビスが顔を左に向けた。

 

「妾は諦めんぞ! アーツ学に進歩があるのかもしれんのだ、引ける訳がなかろう!」

 

「しゃあ! かかってこいやMon3tr!」

 

 ワルファリンとガヴィルの両名を中心としてロドスの医療オペレーターや術師オペレーターが部屋の入り口に集まっているのが見えた。会話の流れからするに、ケルシーと争っているようだ。

 アビスはサリアに従ってその様子を観察していたが、結局何も理解できなかった。

 

「えっと、すみません。まだ視界が僅かにぼやけてしまっていて、イマイチ細部が把握できないのですが」

 

「まあ、見ての通りだ。ワルファリンやガヴィルはお前のアーツに興味があるらしくてな、ケルシーを撃退し続けている」

 

「見ての通り……?」

 

 この状況に陥った理由の解説がなかったあたり、サリアもあまり詳しい訳ではないのかもしれない。もし彼女たちが一人のオペレーターのアーツに目をつけた途端この状況に自然と陥るのであれば納得はできるが、やはり理解はできない。

 まあ、きっと、たぶん、何かしらあったのだ。アビスはそう思うことにした。

 

「ぐわああああっ!!!」

 

「なっ、ガヴィルがやられた!? くっ、致し方ない! 抜けた穴を埋めるぞ! かかれぇーっ!」

 

 ワルファリンたちが次々とドアから飛び出ていった。

 

「アーツはどこへ……?」

 

「よお、アビス」

 

 腹部を抑えていたはずのガヴィルがすっくと立ち上がり、悪戯っぽい笑顔を湛えて手を上げた。

 

「お怪我は大丈夫なんですか?」

 

「それをお前が言うか? アタシはそんなにヤワじゃねえんだよ。アーツかけるまでもねえな」

 

「それなら良かったのですが」

 

「で、アビス」

 

 ガヴィルが何の気無しにアビスのベッドに腰掛けて、体を捻って覆い被さる。怪我人に気を使いつつ、逃げられない布陣を敷いたのだった。

 

 そしてアビスは悟った。

 

 

「お前のアーツって何だ?」

 

 

 平穏が崩れつつあることを。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七 頭の悪い内乱

 

 

「お前のアーツって何だ?」

 

 ガヴィルの問いかけに、アビスは答えない。微笑んでいた表情はそのままに、上から覗き込むガヴィルに視線を返している。

 物を言わずとも、アビスの様子からガヴィルは感じ取った。どれだけ頼み込んだとしても、どれだけ好いている人であろうとも、アビスは絶対に答えないであろうことを。

 しかしそれを悟ったからと言って、ガヴィルは試すこともなく諦めるような変に賢いオペレーターではなかった。

 

「聞いたぜ、お前がアーツを使った瞬間に敵さん方は全員戦う意志さえ維持できなかったそうじゃねぇか」

 

「それが何か?」

 

 サリアの目が細まった。アビスのことをそれなりに知っていて付き合いもある彼女からして、アビスの発言に含まれた棘は今までに類を見ないものだった。

 

「二十人以上、事によると三十人以上。有象無象が相手だとしても、たかがアーツ一つで完全に心を折るなんてことは普通無理だ」

 

 エイプリルから詳しく聞き出されている。

 アビスは観念して、口を開いた。

 

「ええ、たかがアーツ一つで心を折るなんて無理です。しかしアーツと何か薬品でも組み合わせれば、それは可能となります」

 

 アビスは観念して、嘘を吐いた。

 本当のことは絶対に話さない。嘘も吐きたくない。そんな二つを抱え込んで守り切れるなんて甘い思考はしていなかったアビスには、この状況も想定の範囲に収まってくれていた。

 

 ああ、相手がロドスのオペレーターでなければ、或いはそれで終わっていたのだろう。

 

「違う。違うんだよ、アビス。アタシはなぁ、お前のそんな見窄らしいハリボテの解答を聞きたくてこんなことをしてるんじゃない」

 

 部屋の外から怒号のようなものが聞こえた。ワルファリンたちを鎮圧しに来たオペレーターのものかもしれないし、そのオペレーターに向かって拳を振り上げた医療オペレーターのものかもしれない。

 だがそれはこの平和なロドスに齎された諍いを意味していて、それはアビスのアーツによって生み出されたもので、必然的にアビスの顔は曇ってしまう。

 

 ガヴィルやワルファリンには覚悟があった。それこそケルシーの操るMon3trを相手取っても後悔しないという覚悟が。

 たかが真実を隠そうと提示された虚実など意にも介さず真実を追求するだけの意志を持ち、それを審判するだけの慧眼は備わっていた。

 だからこそワルファリンは天井知らずの喜びを感じたし、サリアやドクターに逆ギレするほどその成功を価値あるものだと思っていたのだ。ガヴィルは流されるままケルシーと対立したが、アビスの目覚めを察知してアーツをいの一番に聞くだけの興味はあったのだ。

 

「お前のその、最高に最強で最悪に最恐なアーツを知りたくてアタシはここに居るんだ。それを阻むのは、アタシの覚悟を無意味にするのは、それだけの覚悟がお前にもあるんだろうな?」

 

 だが、それよりも。

 

「誰が何と言おうと変わりません。薬品を取り扱っている姿を見たことがなかったり、その薬品のことについてほとんど何も言えなかったとして──、ボクが貴方達に期待していた通りのことを話すとは思わないことです」

 

 アビスの覚悟はガヴィルのそれよりも固く、強い。ガヴィルの覚悟が弱いとかワルファリンは半分悪ふざけで動いているだとか、そういう訳ではない。

 年季の違いが一番にある。アビスは誰にも劣らないくらいの覚悟をして、それをずっと守り続けている。彼が今よりももっと子供だった頃からそれを誰かに漏らしたことはない。

 唯一フェリーンには見抜かれてしまっているが、アビスからそれを話したことや、そのフェリーン──ケルシーがその話題に触れたことは一度もなかった。

 もしケルシーがその決定的な言葉を口にしてしまっていたなら、今ロドスにアビスの名前はない。もしケルシーがそれを周囲に広めていたなら、それこそアーツの矛先を向けてでも彼は対抗する覚悟があった。

 

 医療オペレーターが、研究のために、人間関係をある程度守ろうと意識しつつも戦うのではない。

 

 アビスは全力で殺す。いつでも、どこでも、誰が相手だったとしても、アビスはそれを許さない。

 

「貴方に教えることはありません。ケルシー先生にも、ドクターさんにも、ボクのアーツは教えません。たとえ何があろうとも、ボクにとってそれは絶対です」

 

「ああ、そうだな。そんなら諦めるしかねぇな」

 

「そうですね」

 

 潔く椅子に座り直したガヴィルが、ポケットに手を突っ込む。

 

「それなら仕方ねえな」

 

 取り出したのは無線機だった。

 

『ワルファリン率いる医療オペレーター並びに術師オペレーター達に告ぐ。アビスはアーツに関して虚実で煙に巻こうとし、その答えを変えるつもりは無いと言う。早急に強力な自白剤、強力なヒーリングアーツを用意せよ、オーバー』

 

 ロドスの艦内放送に繋がれていたらしき無線機の入力スイッチを切って、ガヴィルはアビスに笑顔を向けた。

 自白剤とは、知っている者も多いだろうが、絶対に味方に使わない薬剤の一つだ。弱い自白剤ならば酒と同じような効果しか生まない代わりに副次的効果も付随しない。だがアビスの側から見ても強固な意志を崩すには、それ以上に強力な自白剤を用意する必要がある。であれば、そんなものはアビスの脳を壊し廃人とするばかりか、死に至る可能性すらある。

 

 しかし、まあ、ガヴィルは言動こそ荒々しいものの、実際のところソーンズよりはトゲがない。自白剤を打つ訳がない、とアビスには理解できている。

 

「ガヴィル」

 

 だがそれは、サリアの前で言うべきではなかった。

 サリアから離して置いていたはずのアーツロッドがいつのまにかサリアの手に渡り、次の瞬間にはガヴィルの肩があった場所に突き出されていた。

 それはもし当たっていれば骨が砕けるだけでは済まない程の威力がこもっていたことを、飛び退いて回避したガヴィルも理解し、そして額から汗を流した。

 

「秩序とは、一番に優先されるべきことだ。——灸を据えてやる。確かお前は頑丈なのだろう」

 

 サリアがアーツロッドを投げ捨てて、拳を構えた。

 

「言葉の責任を教えてやる」

 

 

 

 アビスが運び込まれた病室の前、そこでは開き直ったドクター率いる術師医療オペレーターチームと、ケルシー率いる常識人チームが争っていた。

 

「ウィスパーレイン、出過ぎるな! 痛覚抑制はクールタイムをしっかりと取れ!」

 

 ケルシーの額に血管が浮き出る。

 

「レッド、あの馬鹿をなんとしてもぶん殴れ。アンセルを除く行動予備隊A4、仲間の失態をどうにかしろ」

 

「分かった」

 

「あいあいさー!」

 

「カーディ、お願いだからもう少し申し訳ない様子を取り繕ってはくれないか?」

 

 生真面目な性格を考慮されてワルファリンに召集をかけられなかったスチュワードが懇願するようにカーディに手を合わせた。常識人だったはずのアンセルでさえも敵に回っていて、既に彼は疲れ果てている。

 

 ケルシーが眉間の皺を解しながらドクターの方を睨む。もうどうしようもないくらいに対立してはいるが、ケルシーにとって幸運なことに、これは勝ちしかあり得ない戦いだ。

 何しろ、ドクター達が目指しているのはあのアビスのアーツについての情報だ。ケルシーにはアビスが喋ることなど考えられなかったし、言わば起爆しない爆弾を解除しているようなものだろう。

 だがもしも爆弾に直接火が着いてしまおうものなら、その災禍は単に起爆した時の比ではない。そんなことが起こる訳なくとも、その可能性がある限りはケルシーが手を休めることはない。

 

 そして一方、半ば自棄になっているドクター。

 医療オペレーターや術師オペレーターを主戦力とすることは難しかったので、普段から仲の良い問題児……オペレーターに集まってもらっていた。

 

「ミッドナイト、消耗戦でいい! カシャ、流石にカメラを止めろ! これ身内同士の争いだから!」

 

 そしてその判断は賢明だった。

 

「いいぞいいぞ! 仕事ばっかじゃなくてよ、こういうのも必要なんだってようやく分かったか!」

 

 ニェンが喜色満面といった顔で大楯を振り回し、大剣をぶん回し、大槌をぶん投げた。ミッドナイトなどと共に牽制を繰り返し、なんとか戦線の維持ができている。

 

 ニェンの笑顔の理由には発言している内容以上に込み入った私情も介在しているのだが、それを理解しているのはこの場でたった二人だけだった。

 そう、本人たるニェンと、ケルシーの傍にいつのまにか立っていたシーである。

 

「本当に、最悪ね」

 

 彼女もまたスチュワードと同様に招集がかけられなかった術師オペレーターである。だがそれはワルファリンが無駄だと思っていたからで、もしかすると声をかける未来があったのかもしれなかった。

 まあ、少なくともそんなことになれば、ラヴァと共にケルシー側へと寝返っていたのだろうが。

 

 生み出された小自在が戦場を撹乱する。

 

 いよいよ規模がとんでもなく拡大してきている。

 ドクターの指揮があったとしても編成に偏りのあるオペレーター達を倒すのは戦力の充実しているケルシーにとって訳ないだろうと思われていたが、医療オペレーターの的確なアーツと術師オペレーターの嫌がらせのような戦法、それを支えるドクター。

 戦術指揮官としてこの上ない強みを発揮していた。

 

「私がなんとかしなきゃ……ほんとごめん!」

 

 とある狙撃オペレーターが矢を放ち、不恰好な姿勢でギリギリ躱したドクターの目前に突き刺さった。

 エイプリルはワルファリンに二つ三つ答えただけだった。それがほとんど他の人に見せたことがないアビスの奥の手だとは知らずに情報を提供し、あろうことかそれによってこの対立が後押しされたのだ。

 この世には、知らなかった、では済まされないこともあるのだ。会社がどれだけ腐っているのかなんて、自分がどれだけ後戻りのできない失敗をしてしまったのかなんて、知らなかった。しかしそれが免罪符となることはない。知らなかった自分が悪いとまでは思わないが、そういうものだと無理矢理納得することしか選択肢はなかった。

 そして、エイプリルは勝手にアビスのことを喋ってしまった。どう考えてもワルファリンは怪しかったのにアビスに許可を取らず、ということはエイプリルにも非はあったのだ。

 

 もう謝るしかなかった。たとえ自分が二割くらいしか悪くなかったとしても、これだけの大事を起こしてしまえば処罰は重い。何よりアビスに面目が立たない。

 

 ガッ、ガッ、ガッと小気味良いリズムでドクターの周囲に矢が突き刺さった。即死しないが戦闘不能にはするであろう部位を狙っている分、ドクターが派手に動けば回避されてしまうのが難点だった。

 

「エイプリル」

 

「はいっ!」

 

 ケルシーからお声がかかった。

 

「腹を狙え。肩や足ではなくていい。臓器に傷をつけろ。後遺症を残せ」

 

「えぇっ!?」

 

「もうこの際頭でも構わない!」

 

 流石に怖気付く。ロドスのトップであるケルシーの意向は汲むべきなのであろうが、ドクターもまた同様にロドスのトップなのである。

 だがここで、とある衝撃的なことが起きた。

 

『医療オペレーター各位に告ぐ。アビスはアーツに関して虚実で煙に巻こうとし、その答えを変えるつもりは無いと言う。早急に強力な自白剤、強力なヒーリングアーツを用意せよ、オーバー』

 

 あまり薬学に詳しくないエイプリルは、自白剤をそのままの意味で受け止めた。ただ、自白させるという効果を持つだけの薬剤である。

 だがそんな甘い考えは、隣のケルシーに掻き消された。

 

「ドクター、どこまで本気だ……!」

 

 歯を噛み締めて、ケルシーはMon3trを召喚した。

 

「マンティコア、居るな? レッドの補助をしろ」

 

 返事の代わりに、小さな音が鳴った。

 

「エイプリル、ドクターの口を閉ざせ」

 

「えっ、あ……自白剤ってヤバいんですか?」

 

「強力な自白剤は致死毒と同じだと思え」

 

 エイプリルが呆けた。

 口をぱくぱくと動かして、飲み込めていない。

 

「お前にも、責任があるんだったな」

 

 ケルシーが両目を左腕で隠して、空を仰いだ。

 その隙間からエイプリルを睨む目は、もはや害意が篭っていると言っていいほどに感情的だった。

 

 もう泣き喚いてやろうかと思いながらエイプリルは矢を番えた。その思考は追い詰められすぎたのか澄み渡っていて、一分の無駄もなく、ドクターに照準を合わせた。

 

 思考が一点に集中して、雑音が耳から抜けて、流れる音楽とターゲットだけの世界になる。

 ああ、この矢は当たる。そう思いながらエイプリルは矢を放ち、事実エイプリルの確信した通り、ドクターに当たった。

 

 仮面を貫いて、ドクターの頭部に突き刺さっていた。

 

「あっ」

 

 エイプリルは視界から排斥していたが、ガヴィルの情報伝達によって相手の指揮は乱れに乱れていた。誰もが研究に対して熱い向上心を持っていたが、それは知的好奇心などではなく、一秒でも早く感染者への差別を失くすための足掛かりとしてだ。

 それに対して犠牲を出すことなど誰も許していない。ドクターだって、昔のドクターは知らないが、今のドクターなら断っている。

 一人の犠牲で発展するよりも、百人の研究者が心血を注いで発展した方が非効率的だとしても健全だ。

 

 だがドクターはなまじ指揮官としての意識があったためかガヴィルの連絡にも他のオペレーターほどは動じず、すぐに混乱を収めようと檄を飛ばした。

 だがそれこそ、非情に見えてしまう。

 

「私はラヴァちゃんのところに行かせてもらいます」

 

「すみませんが、私は予備隊に帰らせていただきます」

 

 そして焦ったドクターは今まで飛んできていた矢に気付かず、回避することなど考えもせず。

 

 エイプリルの絶叫が廊下の喧騒を劈いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八 頭の悪い内乱 戦後処理

 

 

 絶叫が響いたのと、部屋のドアが吹っ飛んだのはほぼ同時だった。ガヴィルの体が宙を舞い、それを追いかけるように何かが部屋から飛び出した。

 跳躍と共に突き出された足は正確にガヴィルの顎を狙うが、それよりも先に天井へと伸ばされていたガヴィルの足がついて、辛うじて回避することに成功した。

 

 転がるように床に着地したガヴィルの姿は決して健常とは言い難かった。唇の端から血を流し、右腕には裂傷が目立ち、脚部には青あざがいくつもできている。

 そしてそれの下手人たるサリアは、少しのダメージこそあれど、戦闘には全く支障がない範囲だった。

 

 跳躍していたサリアは体を回転させてガヴィルのように天井を蹴り、まるで追尾するミサイルのように正確にガヴィルへと跳んでいった。

 迎え打とうとするガヴィルだが、サリアが手刀を構えているのを見た瞬間に体から力を抜き、スピードに緩急をつけて前へと屈みながら回避した。

 当然ながら、サリアの攻撃はそんなものでは終わらない。手をついてハンドスプリングのような動作で跳ねた後壁に到達し、また壁を蹴り、ピンボールのように天井を経由してガヴィルを狙う。

 

 大きく仰け反ったガヴィルの首元には少しだけ届かなかったように思われたが、サリアにはアーツがあった。指先から少しだけ伸ばされたカルシウム合金の刃は、首に一筋の赤い線を刻みつけた。

 

「止まれ、サリア」

 

 付けられた傷に怯んだ一瞬の隙をついて後ろ側に回り込んでいたサリアの尻尾が止まった。それはまるで蛇のようにガヴィルの手に巻き付こうと撓んでいて、反対側からは指先から出ていたカルシウムの薄刃が牽制するように突きつけられていた。

 

「許せることではない。何か違うか?」

 

「合っているが、取り返しもつくだろうが、だとしてもそれ以上は駄目だ」

 

「ほう、殺害予告をされておいて過剰だとは驚きだ」

 

「いいや、それでもだ。何故ならば全ての元凶は、そこに居るドクターとワルファリンなのだからな」

 

 サリアがワルファリンを睨む。まるで人外の戦闘を見せたサリアの構える手刀に震え上がった。

 次いでドクターを……

 

「コイツは生きてるのか?」

 

「ぴぃっ!?」

 

「この矢はお前か」

 

「ち、違うの!全然殺すつもりなんてなくて、ただアビスが死にそうだって聞いて正気じゃなかったっていうか……」

 

「ふむ……仮面を貫いてはいるが、顎下を掠めているだけのようだな」

 

「えっ?そうなの?」

 

「ああ、だから」

 

 サリアが矢を仮面から抜いて、狙いをつけるようにゆっくりと腕を上げていく。

 

「少し痛い目を見せてやろう」

 

 

 痛みに目を覚ましたドクターの絶叫が響いた。

 

 

 

 

 ほとんど何も悪くなかったが、ケルシーの手を煩わせてしまった為に起こった勘違いの悲劇だった。

 

 ドクターはちゃんと自分を悪役に考えて自分を納得させようとしたが、いかんせん突出した悪いところが見当たらなかった。だからここまで主犯格と見做されるのは些か遺憾である。

 首を捻りでもすればその十倍を軽く超える捻りをサリアから与えられるかもしれないので控えておいたが、ケルシーの前で平伏して謝罪した時でさえ割と疑問でいっぱいだった。

 

 悪いとは思っているのだ。ドクター自身、ケルシー率いるオペレーター達を押し返してやろうと全力で指揮した訳で、そこに手抜かりは一切なかった。ケルシーからすればいい迷惑だろう。

 そしてそれ以前に大声でケルシーを侮辱するような発言をしてしまっている。売り言葉に買い言葉で、出来もしないことを言って中傷した。

 

 でもそれはそんなに悪いことだろうか?少なくとも殺されそうになって、事実一歩間違えれば死んでいた恐怖を味わい気絶して、起きるのを待つことすらなく矢で顔を抉られた。感染症などを考慮すれば、いくら医療オペレーターの前とは言えとんでもない暴挙だった。

 恨みがましくサリアの方に顔を向けようとして、サリアと目が合った。誇張でもなんでもなく仮面越しに視線が交わり、ついでに「下手なことを言えばまた抉る」という意志も確認できた。

 

「ど、どうも」

 

「チッ」

 

 サリアが舌打ちしながら威嚇した。

 ドクターはもう言葉を発しないことを決めた。

 

 一方、ワルファリンは震えていた。視線を足下に固定して、未だ自身を襲っていない暴力に恐怖していた。

 チラッとベッドで体を起こしているアビスの方を見やった。サリアの方を見るのは勇気が必要だが、アビスの方は大丈夫だった。

 

「何か、聞きたいことでも?」

 

 ダメだった。アビスの目はコードネームを体現するかのように真っ黒に塗りつぶされていて、輝きというものが一切合切抜け落ちていた。

 前情報ではこんなことはずではなかったのだ。アビスはどんなオペレーターとも仲良くやれる好青年で、そのアーツが気になったからちょっかいをかけただけだったのだ。

 ガヴィルの暴走はワルファリンからしても完全に予想外であり、そもそも拘束とかしなくてもアーツくらい見せてもらえんじゃね?という想定が打ち砕かれたことすら予想外だった。

 

 アビスは体の中でも大事な骨ばかりを折られたばかりだ。しかし一般的なロドスのオペレーターのように鍛えているのであれば、アビスはワルファリンの首をきゅっと握るだけで、致命傷を与えられるのだ。

 

 ワルファリンのそんな想定は、当然ながら無意味だ。アビスがそれを可能なのか不可能なのかはともかく、しないということを信頼しなければいけない。

 銃を持った人間が銃口を自分に向けないだろうと思うように、同僚がアーツロッドでいきなり自分を殴る訳がないと思うように、アビスがその腕でワルファリンを殺さないだろうと思うことが大切なのだ。

 その点で言えば、ワルファリンは落第ものだった。ドクターの仮面の内側を真っ赤に染めたサリアならともかくとして、何もしていないアビスにまで警戒している。

 自分が害意を持たれるようなことをしたのだという自覚は尊いが、それを予見した上で主導したワルファリンはアビスにとってクソだ。間違いなく敵でしかない。

 

「な、なあ、アビス」

 

「なんですか」

 

「怒っておるか?」

 

「はい。とても、すごく、かなり」

 

 アビスは憤激して当然だった。なんとか押し留められてはいるようだが、自白剤を用いて自分の一番話したくないアーツのことを無理矢理に吐かされるかもしれなくて、更にそれは人命救助などとも関係なく単なる好奇心によるもので、更に更に廃人若しくは死人に行き着くのみだったアビスは正直言って骨折させる勢いで二、三発殴っても許された。

 それをしなかったのはアビスが殴りたくなかった訳ではなく、ただ状況説明を優先すべきだと感じたからだろう。何せアビスの視点ではガヴィルに詰め寄られて、サリアがキレて、それだけなのだから。

 

「チッ」

 

 サリアはまだキレているが、アビスはそれを黙認することにした。罪悪感なんて毛ほども感じなかった。

 

「それで」

 

 ワルファリンとドクターが肩を跳ねさせた。

 

「説明してくれますか?ケルシー先生」

 

「ああ、どれだけ二人が悪辣だったのかを二割増くらいで伝えてやろう」

 

「……嘘だろ?」

 

「勿論冗談だ」

 

「ほっ」

 

「変えなくても十分悪辣だからな」

 

 ワルファリンはまた床へと目を落とした。スカジの肉体強度に目をつけた時は本当に運が良かったのだ。情報が漏れて、計画段階で止められた。そこでブレーキをかけられたのだ。

 だが今回は計画を立てて、武器を振るって、殺害予告をして、負けたのだ。テロリストとほとんど変わりがない。

 

 そして更に目をつけた先は気のいいオペレーターの闇であり、触れないよう気を遣っていたケルシーのことなど全く知らずにその壁をぶち抜いた。

 ワルファリンに下される処罰は一月の減給程度で済む訳がない。

 

「まず、ワルファリンは私がアビスを検査した機器のログを遡り、その結果を盗んだ。プロファイルとしても開示されていない以上、それは個人情報の窃盗と変わらない」

 

 ワルファリンの一つ目の罪、窃盗。

 国によって個人情報は窃盗の対象にならないこともあるが、そんな言い訳をされたところでロドスはどの国にも所属しない自治組織である。そのトップが罪科を決めて何が悪いのか。しかもそれは罰されて当然の所業だった。

 

「次にワルファリンはアビスの検査結果から不自然な融合率の上昇を確認し、そこに添えられた私のメモを見てアーツが原因なのだと知った。これは私の不手際でもある。すまなかった」

 

「いえ、閲覧される訳がない資料に何かを書き込んだとして、誰も責めることはできません」

 

「ありがとう。そしてワルファリンは次にアビスのアーツについて嗅ぎ回り、結果としてエイプリルからその一端を聞き出すことに成功した。これは立派なストーカー行為だ」

 

 二つ目、ストーカー規制法違反。こちらも国によって存在の有無からしてまず違うが、ヴィクトリアの王都などでは公然に罰される行為である。常識的に考えてノーだ。

 

「あとエイプリルからはまた後で謝罪したいと言伝を預かっている。彼女としても、本意ではなかったんだ」

 

「ボクもそれについては言っておくべきでした。謝罪は受け取って、こちらからも歩み寄るつもりです」

 

 アビスのヘイトはほとんど二人に向いている。それをどう思うかは立場によって違うが、エイプリルに限ってみればそれは朗報だった。

 尚、この場には悲報となる者が二名存在する模様である。

 

「そして続いてワルファリンはアビスのアーツを研究することを決めて、それの有志に声をかけた。そこで登場するのがドクターだ。ワルファリンはその場で医療オペレーター及び術師オペレーターを煽り、ドクターはそれに同調する形で私への名誉毀損に相当する発言を行った」

 

 三つ目、民衆煽動罪。

 ドクターは一つ目、名誉毀損罪。

 

「次に、ワルファリンはケガをしているアビスを前にして不謹慎な発言を繰り返し、ヒーリングアーツをかけず、あろうことかサリアに怒鳴った、当然私にもだ。また、アーツの意図的な引き伸ばしはロドスとの契約違反とも取れるが……そこまでの思考能力がなかったことは私とサリアが保証しよう」

 

 四つ目、脅迫罪または恐喝罪。思考能力の低さを肯定されたワルファリンは肩を震わせて小さくなっていた。

 

「ちなみにドクターは過剰にワルファリンを制止しようとしたらしい。まあ、致し方なしと言えよう」

 

「よし!」

 

「ふん」

 

 ようやくサリアの怒りは収まってくれたようだ。

 

「そして、次。ガヴィルらの奮闘により部屋から押し出された私の前でドクターはオペレーターを集った。そしてそのままオペレーター達を指揮した訳だが、これは言うまでもなく教唆にあたる」

 

 二つ目の罪、犯罪教唆。

 

「ワルファリンは鎮圧しようとしたオペレーターにまずは拳で以って抵抗の意を示し、それから開戦した」

 

 五つ目の罪、暴行罪。もう少しだけ追求すれば、戦争犯罪を犯したとも言える。

 

「そして二人が主導した果てには、あのガヴィルの放送だ」

 

 三つ目、六つ目の罪、殺人未遂ないし強要罪。

 

「さて、何か弁明は?」

 

「わ、妾は、その……」

 

「そうか、弁明するのか。これまで醜態を重ねてきたのだから、もう一つ増えるくらいならどうでもいいのか?」

 

「う、うぇえ……」

 

 ドクターが過度なストレスにより吐き気を催していた。

 ワルファリンは完全に固まって、言い訳をするどころか満足に物も考えられないほどだった。

 

「しかし、ここまで言っても全てはロドスという組織内で完結したことだ。被害者や巻き込まれた者達が笑って許せば処罰すらなくとも見逃されるだろう。まあ、そんなことはないだろうが」

 

 ケルシーはアビスを見た。

 

「ボクは、またこんなことが起こらないことと、ケルシー先生から罰を受けてもらえれば言うことはありません」

 

 意外そうにドクターが顔を上げた。サリアが舌打ちした。ドクターは顔を下げた。

 

「ではワルファリンには適当な難題を幾つか押し付けた上で半年間の減給をしよう。それと研究用の機器はその間没収させてもらう」

 

「寛大だな、感謝するぞ……」

 

「ドクターは給料の九割カットと勤務時間の延長と指揮者の育成と研究と治験の手伝いをしてもらおう」

 

「それ死ぬやつ」

 

「チッ」

 

「分かりました」

 

「アーミヤにも説明しておく。これで話は終わりだ。迷惑をかけてすまなかった、アビス」

 

 ケルシーが頭を下げようとして、アビスはそれをやんわりと制止した。ケルシーに責任はないし、ガヴィルだって本当に危険な自白剤に手を出すとは思えなかった。

 ちなみに今は幼馴染のオペレーター(Lancet-2の妹)に制裁してもらっているので半ば解決したと言っていいだろう。

 

 もうほとんど解散ムードになった室内。

 そう、きっとあと一分も経たずに解散していたのだろう、それくらいの弛緩した雰囲気だった。

 

 だからこそ、壊されたのだが。

 

「これはただの興味なんだが、ケルシー先生はアビスのアーツを知っているのか?」

 

 アビスの視線が静かにケルシーを貫いた。

 ケルシーはワルファリンを完全な無表情で見つめた後に、全力でドクターの方に顔を逸らした。

 

「えっえっ、な、なんすか」

 

 ケルシーはドクターの神算鬼謀に期待していた。最悪の雰囲気を迎えることがほとんど内定したこの部屋を救ってくれるのはきっとドクターなのだと、そう思って見つめた。

 

「ドクター、ボクのアーツについて、なにか?」

 

「いや俺に聞くなよ、俺は嗅ぎ回ってた側なんだから。ケルシーの方が詳し──なんでMon3trを出してるんですか?」

 

「どうか打ち所悪く死んでくれ」

 

「ちょ、やめ──!」

 

 Mon3trの体当たりはドクターの体を最も容易く吹き飛ばし、強かに壁へと体を打ち付けたドクターは、そのままくたっと脱力した。

 

 アビスの視線は再びケルシーに向いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九 深淵の恐怖

 

 

 ひっくり返って動かなくなったドクターを、誰も心配していない。サリアはいつのまにか帰っていたから部屋の中には三人しか居なかったが、たった三人だとしても、その全員が何もしないというのは異常だろう。

 

 だがしかし、これが正常だった。

 アビスのアーツについて誰かが知っていて、その誰かとアビスが対面している。

 その状況では致し方なかった。

 

 さて、その当のアビスだが、視線をケルシーに向ける以外は何もしていなかった。

 その視線はケルシーどころか空気のように扱われているワルファリンの目を以てしても重いように感じられたが、その纏っている雰囲気はただ只管に対峙した者へと圧迫感を与えるものだったが、それだけだ。

 

 アーツを振るう準備はできている。

 

 ちなみに、ケルシーがアウトだと判断された場合にはそのアーツを行使することも吝かではないのだが、ワルファリンも間違いなく効果範囲に入っている。

 たぶん仕方ない。

 

「ロドスには感謝しているつもりです」

 

 アビスが口を開いた。

 

「勿論ケルシー先生にも感謝しています」

 

「ああ、分かっている」

 

 ケルシーの頬に冷や汗が流れた。

 

「しかし、回答次第によってはそれが反転する可能性があることを理解された上で、嘘偽り無く答えてください」

 

 アビスは更に重圧のギアを上げた。

 

「どこまでボクのアーツについて知っていますか?」

 

 それはただの度が過ぎた詰問であって、決して尋問の類ではないはずだった。アビスがケルシーに対して優位であるとは誰も思わないが、しかし容易く首を振ることができないまでにアビスの意志は強かった。

 

 アビスはロドスに加入して三年弱経つ。ケルシーとの付き合いもそれに準ずるように長く、また、ほぼかかりつけの医療オペレーターであるために他より幾分か親密である。

 アビスがこのテラでロドスのために活動した期間は、人生の六分の一。ロドスで過ごした時間はアビスにとって大切だったはずなのだ。

 ケルシーとの仲も、きっと。

 

 ワルファリンの心中では、アビスがただの愚か者になっている。

 それも当然だろう。アビスは自分のアーツを研究されるどころか、知られているというだけで、ロドスという文字通り国境を跨いで活動する大企業のトップに害意を向けている。

 それを愚かと言わずして何と呼ぶのか。

 

 だがこのテラには、そんな愚かな判断も存在し得るのだ。他者には理解されずとも、また悉くがそれを愚行だと謗ったとしても、それを通さずにはいられない。

 通すに足るほどの理由が、自分にしか理解できずとも、確かな熱を持って主張しているのだ。

 

 アビスにとってのそれがアーツだったに過ぎない。

 それはドクターが今のロドスを愛しているように、ケルシーが己の定めた価値観に則っているように、アビスにとって変えられない、変えてはいけないものだった。

 

 だからアビスはケルシーに問う。

 

 

 一切虚実を許すことはない。

 

 一切情に絆されることはない。

 

 一切手を緩めることはない。

 

 

 アビスはずっと前からそう決めて生きてきた。

 

 

 掠れた声がケルシーの口から出た。緊張がケルシーから声を奪ったのだろう、それをアビスが咎めることはしない。急かすこともない。

 最後に嘘偽りのない答えさえ返って来ればそれでいい。

 

「私が知っているのは、アビス、お前のアーツがコードを送り出し、そしてそれを強制的に相手に受信させることができる、くらいのものだ」

 

 ケルシーが膝の上で手を組む。

 どうしてか、震えが止まらなかった。

 

「送り出されたコードは相手の神経を通り、内包する信号を然るべきニューロンへと送り届ける」

 

 ケルシーは一度深呼吸をした。

 ワルファリンはただソファに座ってケルシーの言葉を聞いている。自分が愚かとしか言いようがない状態に身を置いていることの自覚はないらしい。

 

「その信号は、私の観測した限りでは、恐怖。お前のアーツ適性からしてコードの発信のみであれば可能であると私は判断した。純粋な恐怖で殴りつけ──」

 

「もういいですよ」

 

 ケルシーの簡潔な説明はもう終わっていた。これ以上話を続けても、アビスのアーツを用いた必勝の型は完璧に分析されていたことが分かるだけだろう。

 ケルシーの言ったアーツの説明に関しては、間違っている部分が見当たらないほどに簡潔で完璧だった。

 

 そしてアビスは。

 

「ケルシー先生がご存知である範囲は理解しました」

 

 息を吐いて、立ち上がった。

 

 

「その程度であれば、問題ありません」

 

 

 ケルシーが俯かせていた顔を上げた時には、既に退出した後だった。アビスの靴音も聞こえず、どうやら本当にもうケルシーには何も言うことがなかったらしい。

 

 カタカタと、手は未だ震えている。

 

 恐怖は未だ冷めやらず、ぼうっとする頭でケルシーは机に目を落とした。

 アビスのアーツについての解析は終わっていた。終わりにしていた。特筆すべきものはなく、ただハイリスクハイリターンなのだと思い込み、それで終わらせてしまっていた。

 

 アビスのアーツには、まだケルシーの知らない何かがある。

 

 それが判明した今、しかしケルシーはそれを知りたくない。

 長年の付き合いであるオペレーターに何故進んで命を狙われなければいけないのか。ケルシーは踏まなくても良い虎の尾を進んで踏む愚か者ではない。

 

 だが知らずにはいられない。責任者として、アビスにとってはほとんど掛かり付けである医者なのだから、ケルシーにはむしろ知らなければいけないことだった。

 常人より鉱石病と密接に関係しているあのアーツについて正確に把握するのは必要なことだった。

 

 根源的な生への執着と、アビス並びに死への恐怖。

 対するは理性的な医者の部分、上司としての情、医療従事者としての矜持、そして仄かな知的好奇心。

 

 鬩ぎ合い、葛藤し、ケルシーは頭を抱えた。

 隣に居るワルファリンのことすらも認識できなくなったまま、ケルシーはアビスについて答えの出ない問いを考え続けていた。

 

 その感情が自分らしくないものだと分かっていて、しかしその不自然性に気付くことはなかった。

 

 

 

 アビスが艦内を歩いていると、数日ぶりに見かけるコータスのオペレーターを発見した。後ろ姿に声をかけてみるが、その耳へと流れる音楽プレーヤーの音声が余程大きいのか反応はない。

 接近しても反応はない。声をかけても反応はない。少しだけ漏れ出て聞こえる音楽はアップテンポの激しいものだが、明らかに効果はない。

 

「エイプリルさん?」

 

「はぁ……」

 

 示し合わせたように、エイプリルの溜め息が返ってきた。廊下での移動中にまでそんなテンションだというのはどう考えてもよろしくない。

 トン、と肩を叩いた。

 

「ん? あっ、アビス。もう体は大丈夫なの?」

 

「はい。ご迷惑をおかけしてしまったようで、申し訳ありませんでした」

 

「ううん、元々はあたしのせいだから」

 

 憂いを帯びた顔で、エイプリルは目を細くして笑った。アビスの思っていたよりもエイプリルはダメージを受けていて、儚い笑顔が言い知れぬ不安を掻き立てた。

 

「提案なのですが、護衛任務の打ち上げでもしませんか? 今回の護衛はかなり難易度も高かったですから」

 

「うん、それも良いかもしれない」

 

 ただ、と言ってエイプリルは弓手で弓の背をなぞる。照明に照らされて黒く光る弓が、どことなく寂し気に見えた。

 

「今は少し自分を鍛えたくて。ごめんなさい」

 

 エイプリルはまた歩き出した。

 

 ロドスのオペレーターたるもの、余程の者でなければ人を殺した経験はある。エイプリルにも、その矢で敵の脳天を貫いたことはあるのだ。

 

 だが、味方を誤射した経験はない。最も留意すべき点であるからして、弓を使う者は十分な訓練を積んでからその武器を戦場に持っていく。

 エイプリルが今回殺めそうになったのは、その味方二人だ。一度きりであっても仲間として任務に赴いたアビスと、ロドスの戦術指揮官たるドクター。

 どれだけ自分を責めたのだろうか。どれだけ後悔したのだろうか。それをアビスは知ることができない。

 

 追いかけることは、しなかった。

 

 

 

 研究室の扉がノックされた。中で端末を弄っていたオペレーターがドアを方を向いて入室を促した。

 眼鏡に手をやり、そして入ってきたのは──自身の今最も身近な嫌悪している相手だった。

 

「何の用?」

 

 サイレンスの刺々しい声に、サリアの顔は変わらない。

 

「あの子には……」

 

 突き放そうとした言葉が、途切れた。

 黙り込んだサイレンスに、サリアが口を開く。

 

「少し、聞いてくれるか」

 

 サリアの胸襟を占めるそれは何なのだろうか。得体の知れないその感情はサリアを動かし、そのサリアを見たサイレンスから言葉を奪った。

 

 しかしその感情はサリアを動かしこそすれど、もしサリアの心中がそれのみに埋まっていたのであれば、口を開くことはなかっただろう。

 一つ分かっているのは、サリアはサイレンスのことを心から嫌っている訳ではないということだ。

 

 サリアの言葉を聞いて腰を上げたサイレンスは、しかし扉の方へと進むことはなく、コップを二つ机の上に置いた。

 インスタントコーヒーの粉末を開けて、電気ポットの中にある湯を注ぐ。少しだけ面食らったようなサリアの前に手で押しやった。

 

 サイレンスは何も言わずにコップへと口をつけた。

 サリアも取っ手に指をかけて、口に含み、飲み込んだ。

 

「先程の騒動の概要を知っているか」

 

「簡単には。ワルファリンがオペレーターを研究しようとしてケルシー先生の手を煩わせたと、それだけ」

 

 イフリータのことではないのか、とサイレンスは少し訝しんだ。なぜ自分のところに来てそんな話をするのか、と。

 

「そのオペレーターの話だ」

 

 益々分からない。

 だが最後まで聞き届けずに帰すのは何故だか気が引けた。イフリータのことは話さないのにそのオペレーターのことは話すサリアに何も感じない訳ではなかったが、それ以上にサリアの様子は変だった。

 

「そのオペレーター、アビスと言うのだが。彼はアーツによって源石融合率を2%以上も上げたらしい」

 

 おかしなことではない。

 感染者である術師がアーツユニットを使わずに出力を大きくした場合、融合率が上がるのは当たり前のことだ。馬鹿みたいな話だが、そのやり方に慣れてしまえば融合率の上昇は右肩上がりになる。

 

「だが。それはたった二日間の出来事だ」

 

 それより更にアホらしい話だった。単純に考えて、もしその上昇を維持させてしまえば、半月で重体にまで症状が進行する。馬鹿馬鹿しい世迷言、非感染者の囀る戯言に決まっている。

 そんな否定な言葉が出せたのであれば、むしろ救いだったのだが。

 

 サイレンスはコーヒーを飲んだ。

 飲み物を飲んでいる間は口を開けることはできない。それを言い訳のように頭の中で構えることで、冷静な思考をなんとか取り戻した。

 飲み物を飲んでいる間は否定の言葉を出せず、ありえないと叫ぶことはできず、ただ冷静に頭の中を巡らせることができる。

 

「彼はそのアーツに関して、頑なに喋ろうとしなかった。どんなアーツであるのか、効果くらいしか掴めてはいない」

 

 ようやくサイレンスがカップから口を離した。

 半分より下に見えるコーヒーの水面を見つめるサイレンスの目は混乱の色に染まっている。

 

「そんなことが、本当に?」

 

「ああ」

 

 ワルファリンがまた馬鹿をやったのだと思っていたが、それを間違いだったのかもしれない、とサイレンスは思う。

 

「ロドス所属、元鉱石臨床医のサイレンス。少し知恵を貸してほしい」

 

「何のために?」

 

「彼に纏わることが原因で、疎遠になることのないように」

 

「よく言う」

 

 サリアの発言を鼻先で笑うと、サイレンスは足を組んでコーヒーに口をつけた。

 

「まずどんな仲なのか話して」

 

「……それは」

 

 サリアとサイレンスの目が合う。

 

「つまり、そういうことか?」

 

「そう」

 

 サイレンスは苦々し気に、途轍もなく気の進まなさそうな顔を作ってサリアに向けて、こう言った。

 

「手を貸さない訳にはいかないから」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十 逃れられない変化

 

 

 硬いものが割れる音。

 いつもより大きく廊下に響いて、シーは筆を動かす手を止めた。視線の先にはいつもの携帯食糧を齧るアビスの姿がある。

 

「酷い顔してるわね」

 

 いつもの携帯食糧を食べ、しかしアビスの様子はどこから見てもいつも通りではなかった。

 髪の寝癖がそのままだとか、肌が荒れているとか、そういう目に見える特徴ではない。普段あまり人と話さないシーにもわかるくらいに暗い雰囲気を全方面に射出していた。

 

 シーの気遣うような視線を正面から見返すことはなく、アビスは黙々と口を動かして、飲み込んだ。

 

「酷い目に遭いましたから」

 

 視線どころか口以外の全てを微動だにさせずアビスはシーにそう返した。自分以外には上手くやっているのだろうが、それにしたって目が濁り過ぎではないか?シーは問いかけようと口を開いてみたが、アビスが素直に返すとも思えず沈黙した。

 また一つ、硬いビスケットが割れた。

 そしてその音に隠れるようにして──とはまた違うが、とある硬質な音がその割れる音と同時に鳴った。

 そしてそれは規則的に響き、またその大きさを増している。

 

「よぉ、アビス」

 

「おはようございます、ニェンさん。先日ぶりですね」

 

「そんなん『よぉ』でいいじゃねぇか。なあ、シー」

 

「えっ、あっ、うん。そうね」

 

 マジかコイツ、とアビスを凝視するシーにアビスは首を傾げる仕草を以て答えた。陰鬱な雰囲気は綺麗さっぱり消えてなくなり、(にこ)やかに笑いかける姿は本当の好青年宛らだった。

 シーの様子に内心疑問を覚えながらも、ニェンの目はアビスを捉えた。表情こそ闊達な笑顔だったが、その瞳の奥からはロドスのエンジニア達と話す時のような鋭さを感じられる。

 

「なぁ、アビス。とっとと本題に入ってもいいか?」

 

「ああ、そうですね。ボクが居てはシーさんと……」

 

「いいや、話すのは私とお前だ」

 

 ニェンが一歩前に出てつまらなさそうな顔をする。シーの方はと言うと画材を横に、筆をパレットの上に、そして膝の上に肘をつき、顎を手で支えて聞く気が津々といった様子だった。

 アビスは一瞬だけ胡乱気な目をして、すぐにまた元の笑みに戻してニェンを見た。

 

「何かありましたか? ああ、ボクのアーツについてですか?」

 

「いいや、私が話すのはそんな堅苦しいことじゃねぇ。ただのお前自身の話だよ」

 

「答えられることでしたら、なんなりと」

 

「じゃあ、そうだな……」

 

「──ニェン、待ちなさい」

 

「お前はどうしてアーツの根本を隠してんだ?なぁ、お前が必死に隠し通してるその『  』を、なんで他のせこせこ働いてるヤツらに言ってやらねえんだ?」

 

 アビスの目が見開かれたまま固まって、口元も震えるばかりで意味を成さない。掠れた声は意味ある言葉を紡ぐことなく掻き消えていく。

 シーは唇を噛んでニェンの方を向いた。

 

「何のつもりで、こんなことをしたの」

 

「お前には分かってんだろ?」

 

 短く切り返されて、シーは歯軋りをした。

 自分は理由をこそ聞いたが、それが本当に意味しているのはただの非難だ。ニェンに対してその行為の是非を問いているのではない、明瞭なその悪意を咎めているのだ。

 

 そしてそれを受けてのニェンの返礼は決して良いとは言えない。真面目に取り合おうとすらせず、視線は一遍もシーにやることなく、ただ笑みの消えた表情でアビスの表出するであろう感情を観察しようとしている。

 アビスに関してだけは真面目なことを、シーは喜ぶ気にもなれない。逆方向へと真面目に引っ張られているようなもので、それはアビスにとって最悪な行動だった。

 

「は、な……なん、で」

 

「おいおい、分かってねぇなぁ。そうだ、こういう台詞知らねえか?『質問を質問で返すなあーっ‼︎』ってんだけどよ」

 

「あなたねぇ……っ!」

 

「うるせぇ、黙ってろ。私が用あんのはアビスで、お前じゃない」

 

「だからって見過ごせるとでも思ってるのかしら?」

 

「思ってねぇよ。じゃあ私とアビスが場所を移せば満足か? そんでも突っかかって来るんだろ? それじゃあなんだ、私はアビスと話もできねぇのか」

 

「話してること自体がダメだなんて言ってないじゃない。ただ、アビスを追い詰めようとしてるから口を挟んでるの」

 

 未だ動揺の渦中から帰ってこないアビスが、膝の支えを失った。距離を詰めようとしたニェンをシーが睨みつけながら腕で制した。

 ニェンはそれを気にする素振りも見せず突っ切ろうとして、シーが無理矢理にでもニェンを押し返す。

 

「なぁ、お前の主張はいいからさ。私のことは邪魔しないで自分だけの世界に篭ってろよ」

 

「私の主張を認めるならさっさとアビスから手を引きなさい」

 

「なんでそんなことをしなきゃいけねぇ」

 

「……あぁ、ボクは」

 

 シーが振り返ると、アビスは顔を手で覆って天井を仰いでいた。

 

 風がシーやニェンの頬を撫でる。

 空気中の温度が下がって、次の瞬間には加熱されて膨張する。アビスの周りにノイズのようなものが走り、ニェンとシーはこれから起こることを理解した。

 

 

 アーツとは、アーツ学などという言葉があるように学問として広く扱われるほどに利便性が高い。アーツユニットさえあれば誰だって使えるようになり、それによってある程度までは加熱、冷却、そして果てには他の物理現象さえ引き起こせるのであれば誰だって一度は志すものだ。その大半が素質の無さに落胆する訳だが。

 そう、アーツはその素質や環境に強く影響される。アーツの素質と環境が噛み合ったものがアーツ術師であり──いや、ともかくとしてアーツは素質が無ければ強く使えないし、それを学ぶ環境が無くとも同様だ。

 

 そこでアビスに焦点を当ててみよう。まずアビスのアーツは感情をコード化して発信し、受信した相手はその感情をダイレクトに受け取ってしまう、というものだった。

 感情のコード化と言うとかなり難しく感じるが、しかし彼はそのコードを       作っているため、発信する時くらいしかアーツを使う必要がなく、また単純なものである。

 

 だからアビスが『【アーツ適性】欠落』であっても、そのアーツの行使には全く問題なかった。

 

 アビスから発信されたコードが通路の壁を跳ね回り、シーとニェンを囲み──抵抗させる間も無く侵入した。

 

「ひぁ……ク、ソッ! 私が、こんなモンに負けるかぁ!」

 

「……はぁ、面倒ね」

 

 だが、それはこの二人には効かなかった。

 

「嫌だ、あぁ、どうして。どうしてキミは……っ!」

 

 アビスの出力する感情が更に大きくなり、ニェンの脳を揺らす。握りしめた拳の中から血が滴り落ちて、それでもまだアビスへと手を伸ばし──震えていた足が力を失った。

 

「だから言ったじゃない」

 

 そんなニェンの姿を見ているシーはまるで絵の構想を思い描いている時のように普段通りだった。その身に降りかかる恐怖へと抵抗せず、全て諦めてしまったが故の平常だった。

 

 だがアビスのアーツは、何も恐怖だけではない。

 

 ニェンの足が震えることをやめ、しかし今度は体全体が震える。視界が歪み、抑えきれない嗚咽が出そうになって、ニェンは頭を強く壁に打ち付けて我慢した。

 シーの目からも、ニェンと同じように雫が落ちていく。儚く、それでいて綺麗な景色が伝えるような途方もなく大きい悲哀。

 

「絵が描きたいわ」

 

 シーが振り上げた腕には、いつのまにか筆が握られていた。

 

「そうね、今度は桃源なんてモノを描いてみるのがいいかもしれないわ。だって、ほら……」

 

 軽く筆の尻骨でアビスの肩を叩くと、アビスは一秒と耐えられず後ろに倒れた。シーは言葉の続きを、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟いた。

 

 襟首を引っ掴まれてアビスは運ばれていく。

 

 

 また、ニェンは扉の前に取り残されていた。

 

 

 

 ドクターが端末を立ち上げた。

 いつかの日と同じような、オペレーター達が寝静まった深夜に、ドクターはまたプロファイルの保存されている端末にアクセスしていた。

 ID認証、パスコード認証、指紋認証、声帯認証。厳重に保管されている個人情報を開示するためには仕方のないことと言えど、ドクターはその長い認証時間にやきもきしていた。

 

 ケルシーは妙に勘が鋭く、ドクターの考えていることを稀に当てることすらある。情報網も不思議なくらいに広く、国際情勢についての知見は見事なものだ。

 

 だからそんな長い認証の末にドクターは端末へと手を早々に伸ばし──硬い何かに手が触れた。

 

 黒くて、ツルツルで、黄緑色もあって……

 

「Mon3tr!?」

 

「全く、懲りないな」

 

 振り向けば眠そうに目を擦るケルシーが佇んでいた。恐らく運動したくなくてMon3trを使ったのだろう、そんなことのために脊髄から出すなとは思うが、ドクターはあくまで被告の側である。

 

「どうして分かったんだ?」

 

「アクセスを検知すれば私に連絡がいくようにしていた。閲覧を制限する訳にもいかないからな」

 

 ケルシーはMon3trを戻すと、ドクターを押し退けて端末を操作し始めた。

 

「え、ちょっと」

 

「問題ない。権限についてはドクターの物のままだからな。ただ私は自分の知らないところで知られることが嫌だっただけだ」

 

 ケルシーは操作を終えて、ドクターに端末の前を譲る。

 

「これが、第二記録までのアビスのプロファイルだ」

 

 

【基礎情報】

 

【コードネーム】アビス

【性別】男

【戦闘経験】六年

【出身地】リターニア

【誕生日】7月29日

【種族】ヴイーヴル

【身長】166cm

【鉱石病感染状況】

体表に源石結晶の分布を確認。メディカルチェックの結果、感染者に認定。

 

【能力測定】

 

【物理強度】優秀

【戦場機動】標準

【生理的耐性】普通

【戦術立案】優秀

【戦闘技術】標準

【アーツ適性】欠落

 

【個人履歴】

[リターニア出身のヴイーヴルの青年。感染者として放浪していたところをロドスに保護された。短剣のアーツユニットを好んで使う以外は、特に武器の好みはない。多方面の任務で活躍している]

 

【健康診断】

造形検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

 

【源石融合率】──%

 

【血液中源石密度】──u/L

 

[源石融合率と血液中源石密度は安定しているが、アーツの過度な行使による変動が頻発している。データとしての有用性が感じられず入力は控えることとする]

ーーケルシー

 

【第一資料】

精神的にかなり成熟している好青年。誰とでもある程度は上手くやれるようだが交友範囲はあまり広くなく、任務でも単独行動が多く社交的とは言えない。

しかし身嗜み、他者への態度や姿勢、カウンセリングなどにおいて問題は見つからず、アビスはそれに満足しているようだ。

 

【第二資料】

アビスの体を蝕む鉱石病の進行率は見る者の予想を遥かに超えている。体表に露出している源石結晶は普通服の下に隠れている上、アビスは自身のことをあまり多く語らないために知る人は少ないが、アビスは一般的な食事を消化できないほどに消化器官が源石に侵食されている。

そのため彼はいつも人通りの少ないとある路地で、とあるオペレーターと共に特別な食事を摂っている。そのとあるオペレーターとの仲は何故かあまり良くもないらしい。

 

彼を知っているが面と向かって話したことのないオペレーターは多い。過去そうだったエイプリルはこう語る。

「話してみると、思ってたより丁寧で、几帳面で、でももっと話してみると砕けていて、大雑把で……なんていうか、想像とは全然違った。一度話をする機会を取ってみる価値はあると思う」

彼がどのような人間であるかは、恐らく彼と関わった人間のみが適切に知ることができるのだろう。

 

 

「特別な食事?」

 

「これのことだな」

 

 ケルシーが取り出した圧縮ビスケットを見ると、ドクターは口とお腹を押さえて悶えた。

 

「栄養バランスがいいからって、砕いて混ぜてジュースにするかよ普通……」

 

 どうやらドクターに体に良い食材や料理を見せるのはNGのようだ。ハイビスカスの作る栄養食はドクターの精神を病ませつつある。

 ケルシーは端末にロックをかけようとして、そんなドクターの姿をもう一度見た。

 

「ドクター、もし閲覧したいのであれば第三資料を私の権限で開けよう。アビスの食事が質素に過ぎると知ることが、今のドクターに価値があったとは思えないからな」

 

「……本当なら俺は断りたい。でも俺がそのプロファイルを開けるほどの信頼を積み重ねる頃には、その資料の内容をもう知っているような気もする。そして、何故それを知らなかったのか未来で後悔するような確信みたいなものがある」

 

「では、どうする?」

 

「勿論、見るさ。見るしかない」

 

 伸ばした腕で小さく端末を操作する。

 

 そうしてドクターはアビスのアーツを知った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十一 仲間

 

 

 冷たい風が吹きつける。

 気遣うようにボクの袖を軽く引いた彼女に、ボクも同じようにして大丈夫だと返す。

 

 散乱するゴミ、腐乱する遺体、きっと同じようなものだ。

 ボクも彼女も、同じようなもので。

 

 かつて孤児院だったはずの建物に入って、ただ今日と明日を上手く生きるための準備をする。

 思い入れがあったはずの物を、生きるためと称して手から離してしまう。愛着が許されるのはどこにでもある物ばかりで、好きになった物は他の人の手に握らせて、代わりに明日には消えている食べ物を買う。

 そんな日々はもうずっと前に嫌になっていて、それでもボクは彼女と一緒だから耐えられてきた。ボロボロの建物の中でも安心して眠っていた。

 

 でもそれは間違いだった。

 その日の彼女には、もう明日なんて物はなかった。

 

 頬に露出した源石が黒く煌めいて、ボクの目から涙が滴り落ちた。彼女の白い左手からはボクの作った不恰好なブレスレットが外れかけて、それを必死にかけ直そうとして上手くいかない彼女の右手。

 光を失った右眼はボクのことを捉えず、掠れる言葉が彼女の残り時間をも伝えてしまう。

 

 消えかかっていた火が、とうとう消えて。

 

 ボクは──。

 

 

 

 

 目を開けた。

 隣に座っているのはワルファリンだった。垂れ下がってボクの顔に触れている白い髪が狂おしいほどに記憶と情動を刺激する。

 アビスが体を持ち上げて頭を振った。

 

「む、もう起きたのか。話は聞いておる──お、おい!?何処へ行く!」

 

「……関係ないでしょう」

 

 アビスの腕を掴んだワルファリンの手が強引に振り解かれる。ワルファリンの頭がついカッとなりそうなくらいにまでヒートアップして、しかしすぐに冷静な思考を取り戻した。

 自分がなぜ振り解かれたくらいでここまで怒っているのか分からない。自分のことであるはずなのに、それは何故か。

 

 どうしてだ?

 人に殺したいほど怒るなどと──。

 

「さようなら、また会いましょう。ああ、いや……」

 

 乱暴にドアを開けたアビスは憤激を露わにして吐き捨てた。

 

「会うことはない。もう、絶対に」

 

 扉が閉められた途端に、ワルファリンの熱が冷めていく。

 きっとワルファリンがアーツを知ろうと縋った直後のアビスは、そこまで怒っていなかったのだろう。アビスはアーツが知られたくなかったのではなく、アーツからその先を知られたくなかっただけなのだ。

 それは今さっき抱えていた感情が恐らく、()()()()()()であると理解できた故の思考だった。

 

 ワルファリンは秘密の一端を、理解した。

 

 

 廊下に割れた水晶のような物が落ちている。

 ロドスで日々向上する技術の粋を集めて作られたサーベイランスマシンは、その着用者の手によって次々と壊されて廊下に落ちていく。

 そして次に、やたらと静かなノックの音が通路へと響いた。

 

 激情を押し隠して、アビスは扉の絵画をノックする。柔らかな表情で、吊り上げた口角で、自然な動作でその感情を塗りつぶし、懐に忍ばせた短剣を刺す隙をずっと探している。

 そして扉が開いた瞬間に、アビスはその小さな隙間へと指を差し込み勢いよく開いた。

 

「うわっ!?あ、アビスじゃん……なんかあったか?」

 

 逸る感情を押し殺して、どうにかアビスは笑顔を維持した。

 

「こんにちは、ラヴァさん。シーさんに用があったのですが、中にはいらっしゃいますか?」

 

「あー、今はやめといた方がいいと思う。今中で姉妹喧嘩してて……あれ?アビスどこ行った?」

 

 

 まるでそうあれと作られたかのように緑豊かな森の中、ピリついた空気が支配する。

 そしてそれを劈くように二人の怒号が空に轟く。

 

「つまりそれはただの我儘でしょう!私やアビスにとってあなたの信念なんかこれっぽっちも関係ないのよ!」

 

「だったらそっちの考えも私には関係ねぇんじゃねぇか!私はそれでいいさ、アビスの意思なんか無視して最良だと思う選択をするんだよ!」

 

「その最良は誰にとっての最良よ!どこまでいっても勝手な自己満足で、あなたは独善主義の大馬鹿者!」

 

「だからそれで──ああ?」

 

 怒りが一つ限界を越える。

 不自然なほど、突然に。

 

「ボクには関係ない。ボクと彼女には関係ない」

 

 二言だけ聞こえた冷たいアビスの声色は、しかしその二人以上の昂りを見せているように思えた。

 

 ナイフがニェンに向かって飛んでいく。

 

「くはっはっはっは!こりゃあ最高じゃねぇか!」

 

 怒気と歓喜を振りまくニェンがナイフを盾で防いだ。続いて撃たれた石の弾丸が大盾を軋ませる。

 

「傑作だよ、なぁ、シー!」

 

「きゃあっ!」

 

 翳した画材が石の弾に触れて弾き飛ばされ、シーは尻餅をついた。何故シーまで狙われたのか分からずニェンが前を向けば、木々の隙間からアビスが姿を現した。

 

「……んー、わっかんねぇなぁ。どうしてお前はシーを狙ったんだ?」

 

 アビスが尻尾を振って、石を飛ばす。

 盾でそれらを弾いたニェンの視界からアビスは既に消えていて、顔を振ると──シーの前で短剣を振りかぶるアビスの姿を見つけた。

 

「知ってたんだね」

 

「へえ、バレちゃったの?」

 

 先とは打って変わった様子で、シーは薄く笑ってアビスを見上げた。余裕さえあるように見える笑みで、アビスの怒りを真正面から見据える。

 

「どうして、こうなったのかしらね」

 

 寸分違わずシーの首へと振られた短剣が、寸前で現れた盾に阻まれる。ニェンが大盾を消して、シーの首元へと手を翳していた。

 アビスがニェンを睨みながら向き直れば、ニェンは大剣を構えた。

 

「知ってるだけの、子供か」

 

「言ってくれんじゃねぇかよ……ッ!」

 

 振られた大剣を一歩ずつ確実に回避する。四回ほど振られたタイミングでアビスはその柄を握る腕に尻尾を絡ませることに成功し、ニェンの体を巻き取って浮かばせる。

 

「がぐぁっ!」

 

 地面に打ち付けられた振動が伝わり、ニェンの肺から空気が押し出される。振り上げられた短剣の輝きを視認し、間一髪で転がって逃れた。

 大地に突き刺した短剣を即座に引き抜きつつアビスは追撃の石を飛ばす。立ち上がったニェンが容赦のない攻撃を盾で防ぐが、一つだけ零して左足へと一撃もらう。

 

「て、めぇ……」

 

「口を閉じて欲しいな、ボクは秘密主義なんだ」

 

 アビスの尻尾が盾と衝突して大きな音を立てる。蹴り飛ばし、更には固めた拳で盾を陥没させる。僅かにできた隙を精密に突いて、しかし荒々しく短剣がニェンの肩を掠めた。

 

 傷を負い距離を取りつつ盾を構えたニェンは、今度こそ一分の隙もない防御を貫徹する。

 アビスは構えを変えると、攻撃を上に集中させ、出来上がった視界外から尻尾で掻き集めていた土を降らせて、注意が向いた瞬間にその大盾の縁を両手で掴み、地面へと勢いよく突き刺した。

 

 足でその盾を踏めば更に地面へとめり込んで、その盾の上に立ったアビスへと剣が振られた。小さく跳んで回避し、嘲笑うようにまた盾の上に着地する。

 ニェンが返す刀でアビスを捉えようとするが、今度はもっと大きく跳んで、ついでのようにニェンの背を蹴って地に手をつき、まるでガヴィルを相手取った時のサリアの動きを模したように跳ねてアビスは両の足で着地した。

 

 振り返りつつ大剣を振ろうとしたニェンだが、その足にいつのまにか巻き付いていた尻尾に引っ張られて大きく姿勢を崩す。

 大した速度もなく振られた大剣は横に流し、倒れ込むニェンの首筋に今度こそ短剣を振った。

 

 ガッ、と音を立てて、短剣の鋒は地面を突いていた。

 見れば、半ばほどから短剣は曲がっている。

 いつ曲がったのかは分からないが、そうであるならば殴って殺すしかない──という思考は、アビスが横合いから蹴り飛ばされることで吹き飛んだ。

 

「よ、よくやった!」

 

「黙っていろ」

 

「うわ、マジかよ」

 

 ワルファリン、サリア、ラヴァが森の中から次々と出てきた。大方、ワルファリンがサリアに状況を説明し、都合よくラヴァの耳へとそれが入ったのだろう。

 

 アビスにサリアを倒す技量はない。自分の戦い方を知らなかったニェンにはどうにか優位を保っていたが、それでも殺すことはできなかった。

 歯軋りをしたアビスから、怒りがアーツを介して周囲へと飛ぶ。

 カルシウムを含有して作られていたロドス特製のナイフが形を更に崩し、その下手人であるサリアはアビスをずっと警戒するように見つめている。

 

「今は逃げるしか、ないか」

 

「させないわよ?」

 

 アビスをいつのまにか取り囲んだ小自在が爪を光らせて威嚇する。振り向けばシーが未だ地面に座りながら、しかし抜いた剣を構えてアビスと目を合わせた。

 時間が経ってより厄介になるのはニェンよりシー。それを分かっていなかったアビスには当然の結果だった。

 

 アビスの手から短剣が落ちて、ニェンの頭の中で何度もかき乱すように渦を巻いた怒りが抜け落ちた。戦闘の最中もアーツのオンオフが切り替わって煩わしかったため、それもアビスの勝因の一つと言えるだろう。

 

「あーあ、いいとこだったのによ」

 

「ふっ、負け犬の遠吠えとかいうヤツか」

 

「お前もサリア呼んだだけじゃねぇか!はー、ったくよ、人が折角刃を通じて気持ちを通い合わせてたっつーのに」

 

「もう少しで喉を切られていなかったか?」

 

「うっせぇんだよお前ら!バーカバーカ!」

 

 助けられて照れているニェンの文句は終わり、五人もの視線がアビスに集中する。その中でも事情を知らないラヴァが問いかける。

 

「どうしてこんなことしてんだ?お前シーとは仲良かったろ?」

 

「そうでもないわ」

 

「聞いてねぇよ」

 

 恐らく、とワルファリンが口を開いた。

 

「アビスには秘密があるのだろう」

 

「その秘密が、アーツのことじゃないのか?」

 

「いいや、アーツについてのことはそれより先へ進ませないためのものだ。そしてその先にあった事実も、恐らくはまだ本当に隠したい秘密ではない」

 

「その先にあった事実って、なんだよ」

 

「アビスがアーツにして放てる感情は、アビスがその時感じている感情に限られる、ということだ」

 

 そして、問題なのは──。

 ぴんと指を立てる。

 

「アビスがアーツを用いて相手を恐慌状態にすることが得意だということ」

 

「それは──!」

 

 シーとニェンがアビスの方を見つめ、ラヴァは未だに納得のいかない顔をして、しかしすぐに理解して目を見開く。

 

「それって、アーツを使うときにアビスは錯乱するくらいの恐怖を感じてるってことか?」

 

「そうなる。もし自身が感じている感情を増幅させられたりするのであれば話は別であるのだが……」

 

「ねぇな」

 

 ワルファリンの懸念をニェンが斬って捨てる。

 

「そんなことができたなら、私やシーの頭はもっと怒りに染まってた。ロドス・アイランドを切り捨てるだけの怒りを増幅させてアレなら、どう考えても増加効率が小さいか──」

 

「ロドスのことが元来好きではなかったか」

 

「ってな訳だ」

 

「その可能性はないって言い切れんのか?」

 

「では好きでもない企業の任務で鉱石病を何パーセントも進ませる者が居るか?いや、居らんだろう」

 

 答えに窮したラヴァの代わりにサリアが口を開く。

 

「現在辞めようとしているこの時にそれは弱いだろう。ニェンとシーを狙うほど譲れない何かがあったとするならば、ロドスへどれだけ思い入れがあったとしても無意味だ」

 

 ここで、ラヴァ、サリア、ニェン、ワルファリンについて簡単に説明しよう。ラヴァから順に、努力家、研究者、技術者、研究者だ。

 ラヴァはアーツ学について強い興味を示し、ロドス直々に特別扱いを受けてアーツを勉強している。クールぶっている部分はあるが、その実、理論派の実力者であるのだ。

 サリアは元ライン生命警備課主任のオペレーターであり、サイレンスと共にとあるプロジェクトに参加したことがある。自身のカルシウムに関するアーツの素養を突出した知識で使いこなし、それを以て強靭な防御と強烈な攻撃を可能としているのだ。

 

「おいおい、そりゃマジで言ってるのか?本心から?心の底からか?冗談キツいぜサリアよぉ」

 

「妾からも言わせてもらおう。もしロドスのことが気に入ってなかったのであれば、先の騒動の時点でアビスはオペレーターを辞めておる。譲れない何かとロドスへの好感情が鬩ぎ合った結果、アビスはここに居たのだ」

 

 ニェンは一分野に秀でた専門家だ。金属の加工というサリアのアーツに近しいものでありながら性格はサリアの正反対であるのだが、それはまた置いておくとしよう。何はともあれ彼女の情熱、技術は本物だ。

 ワルファリンはやはり、なんというか、サルカズの研究者だ。ほんの少しくらいの箍なら外れてもいいだろうといういい加減さの下、研究にのめり込みすぎてしまう模範的に問題のある研究者と言えるだろう。

 

 さて、ここでアビスに焦点を当ててみよう。彼は現在ロドスの廊下を、ドクターの執務室に向かって足速に歩いていた。

 

「まあ、全部アビスに聞けば分かる……」

 

「話は終わったのかしら?」

 

 シーが剣を抜いた。

 

「じゃあ、時間を稼がせてもらうわね」

 

 いつのまにか議論にのめり込みアビスを放置していた四人へと、小自在が爪を光らせた。

 そこにアビスの姿はなく、舌を動かしていた隙を使って壁を作るように小自在が配置されていた。

 

「さあ、どうぞアビスの下へお行きなさい」

 

 言葉とは反対に、シーは威圧する。

 

 

「行けるものなら、押し通るがいいわ」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十二 恐怖の根源

 

 

 よくあることだった。

 

 彼女がスラムで生活していて、ボクがスラムに流れ着いて、そんな二人が出会うこと。

 

 彼女の体が源石に侵されていたこと、ボクが大人になりきれなかったこと。

 

 スラムにいた子供がいつのまにか死んでいること。仲間の死に対する悼み方を知らないスラムの子供が考え方を大きく変えること。

 

 運が良かったというだけで、命を繋ぐこと。

 

 よくあることだった。

 

 

 その『よくあること』が、どうして彼女には牙を剥いて自分には優しかったのか。

 

 そうして世を憎むこともまた、よくあることだ。

 

 

 

 アビスが契約破棄の嘆願をドクターに叩きつけた。嘆願というには些か入室時の礼儀がなっていなかったが、それを無視されるくらいにアビス自身の様子は変だった。

 

「辞める」

 

「いやいやいやいや」

 

「ドクターは書類にサインするだけで良い。オペレーターの嘆願を聞き入れるだけでいい。簡単なことだろう?」

 

「……あっ、ミックスサラダ取ってきますね」

 

 ドクターは、睨みつけてくるアビスにほとほと困り果てた。

 軽はずみに脱退するような人柄でないことを理解しているが、今この場でドクターから言質を取ろうとしている時点でアビスはかなり追い詰められていると分かる。

 まあ、アビスの不穏な部分を知らないハイビスカスのような人からすれば全く理解が追いつかず慌てるだけだろうが。

 

 今のハイビスカスも、一見我に返ってさっきまでしていた話の続きであるセリフを吐いたように見えるが、その実ダッシュで廊下を駆けて行った。

 

『ラヴァちゃ〜ん!!』

 

 ドアの向こう側に逃げたいと思ったドクターはアビスの目に牽制され、浮かせていた腰を再度椅子へと落ち着けた。

 

「あー、それで。建前は?」

 

「鉱石病治療のリターンと任務危険度のリスクに関してリスクがリターンを上回っていると判断した次第……とでも言っておけば良いんじゃないかな」

 

「本音は?」

 

「殺したいけど殺せないオペレーターが居る。ボクはそのオペレーターを殺す必要があるのに殺せない。返り討ちにされて死ぬ訳にもいかない」

 

「それで、どうして辞めるなんてことになったんだ」

 

 ドクターが当然の疑問をアビスにぶつける。

 

「許せないんだ。殺したいそのオペレーターが然も当たり前のように息をしていることが、それをボクに止める力がないことが、どうしても許せない」

 

 アビスは顔を歪め、忌々し気に吐き捨てる。

 

「だから──忘れるしか、ないんだ」

 

「……後方はどうだ」

 

「全く意識しないで生活できる?」

 

「無理だな。確かに、ロドスを辞めなければその殺したいオペレーターとやらを忘れることはないだろう」

 

 特に下調べもせずにピンポイントで地雷を踏みやがったな、とドクターはそのオペレーターを恨んだ。殺意を向けられたであろうオペレーターは不憫であるが、それ以上に面倒なことになった。

 

 

『さて、私の権限を使ってアビスの記録を見たということは、アビスの取り扱いに関しては、以降私の意見を仰ぐべきだ。そうだな?』

 

『あっ、はい』

 

 

 ケルシーを呼ぶ必要がある。呼ぶ義務を取り付けられてしまっている。そしてアビスがそれについてどう思うかは度外視するとしてもまず間違いなくケルシーはアビスの離職に異を唱えるだろう。

 本音の部分を聞くべきではなかった。アビスが建前を用意していた以上それの持つ問題も見越せただろうに、これではケルシーから問われた時にドクターは隠し立てのしようがない。

 ケルシーの動向を知らないアビスには仕方ないかもしれないが、どうせなら本音を隠して欲しかった。

 

 稟議書を提出してアビスを突き返すのはどうか。そんな対応でアビスが納得する訳がないか。

 理由が不十分だと時間を置かせるのはどうか。建前のことを言われればロドスは加害者とも取れる。あまり良い構図にはならないだろう。

 あのオペレーターを引き合いに出すのはどうだ?いや、それでも今のアビスを止めるには及ばないだろう。

 

 ケルシーに伝える時間が欲しい。

 アビスを待たせる理由が欲しい。

 

『ドクター、開けて!』

 

 どうやらハイビスカスが丁度良く助けを寄越してくれたらしい。

 

「どうぞ、入ってくれ」

 

「アビス!」

 

 入ってきたのは一人のオペレーター。いつもは白を基調とした服装と黒一色に染まった弓の対比が特徴的なそのオペレーターは、今に限って言えば黒一色(『遠望』コーデ)だった。

 顔に着けていた黒いマスクを外すことなく、そのオペレーター──エイプリルはアビスに詰め寄った。

 

 何かを言おうとして、エイプリルは何も言えなかった。

 

「気に止む必要はないとボクは思う」

 

 彼女から視線を外したアビスが呟くようにそう言った。ドクターが小さく驚き、エイプリルはその真意を探ってかじっと見つめている。

 

「ロドスでも、他でも、死はありふれている。自分の責で誰かが死のうとも、直接的でない限りは普通自分のせいだとすら考えない」

 

 だから。

 

「誰かの死を割り切れることこそ、上手く生きることの条件になると思ってる。寂しい考えかもしれないけど、そのために弔いなんて考えがあって、葬式なんて行事があるんだ」

 

「でもアビスは割り切れてないでしょ」

 

 余韻を無にして、エイプリルの目がギラつく。ケルシーへの連絡を終えたドクターはそろそろ退散しても良いのではないかと思い始めていた。撤退は時として作戦の肝となり得るのだ。ああいや、今回は出口戦略でもなんでもない、ただの遁走だが。

 

「その通り、ボクは生きるのが下手だった。だからエイプリルにはボクのようにはならないで欲しい」

 

「何言ってるのか分からないけど、人生はまだまだこれからだよ。自分のものがもし短かったら延ばす努力をして、できなかったら人を頼るの」

 

 アビスの襟元を引っ掴んで、エイプリルは熱の篭った声で言う。

 

「だから、簡単に諦めないで」

 

 ハイビスカスがどんな説明をしたのかドクターは強く興味を惹かれた。いや、恐らくでいいのならば推察はできる。ワルファリンから伝達された源石融合率の数字と、辞めようとしていることを伝えただけだろう。

 それが即ち死を意味するということも、早計でなければ過度な心配でもない。ロドスを出たアビスは近いうちに死ぬだろう、それも一年と経たないうちに。

 それを知っているエイプリルの手に力がこもってしまうのは、どうしようもないことだろう。どうしようもなく力がこもるくらいには、エイプリルはアビスを嫌っていないのだから。

 

 四つノックの音がして、執務室の扉が開いた。

 

 そしてその扉を開いたフェリーンの眼光が鋭いことを確認するや否やドクターは執務室の机に隠れた。Mon3trの爪がにゅっとドクターの横に生えてきた。ドクターは机からそっと離れた。

 

「状況を説明しろ」

 

「あっ、はい。現在アビスは誰かに地雷を踏み荒らされたと思われます。しかしそのオペレーターはアビスより強く、であるからして死ぬ訳にもいかないアビスはそのオペレーターを忘れるためにロドスから離れたいとの嘆願が上がっています」

 

「矛盾しているな」

 

「はい?」

 

「退出を許可する」

 

「よっしゃあ!!」

 

 

 

 アビスはエイプリルと数十秒ほど目を合わせ、伏せた。先と逆転したように、アビスは沈黙しエイプリルが言葉を待つ。

 そして先とは全く違う存在が一人、間に割って入った。

 

「ゴホン、少しいいか?」

 

「ケルシー先生。今は、その……」

 

「ああ、おかしい。なぜアビスはそうも矛盾したことを言っているのか」

 

「えっ?」

 

「とりあえず聞け」

 

 二人の視線がケルシーを射抜く。

 何が言いたいのか分からないエイプリルがアビスの襟から手を離して、話を聞く態勢ができた。

 

「私はドクターから、死ぬ訳にもいかないからロドスから脱退するのだと聞いた。自分が返り討ちにされたくないのだとな」

 

「……それが何か」

 

「おかしいだろう?」

 

 ケルシーが笑う。

 まるで嘲笑うかのように吊り上げた目で。

 

 一つ息をついて、ケルシーは顔を元に戻す。

 

「ロドスから抜ければすぐに死ぬ。アビス、お前の体は源石に蝕まれて朽ちるだろう。これは絶対だ」

 

 エイプリルが拳に力を入れた。

 まるで何かから耐えるように、強く。

 

「さて、お前のことだから一度は直々に殺そうとしたはずだ。そのオペレーターに刃を向け、冷え切った殺意で押し潰そうとしたはずだ。そしてそれは届かず、結局敗走することになった」

 

「だから、それが何?」

 

「お前は何故()()()()()()()()んだ?」

 

 エイプリルが勢いよくアビスの方に顔を向けた。

 返答はない。その表情はひどく困惑したもので、アビスですらケルシーの言葉が分かっていなかった。

 

「ずっと、だ。お前はずっと自分のアーツを使い続け、その鉱石病を進行させ続けた。態々一人で任務に赴いて、まるで鉱石病を進めさせるように」

 

 お前何やってんだ、と小さく脇腹を殴っているエイプリルに反応することなく、アビスはケルシーの発言に呆けている。

 

「私がビスケットを渡した時もそうだ。普通の食事ができなくなって、それをいやに早く受け入れていた」

 

「そんな、ことは……」

 

 ケルシーが分かりやすい嫌悪の顔を浮かべた。

 

「鉱石病が大好きで堪らないのか?アビス、お前は自分の体が源石結晶へと変えられていくのが好きなのか?」

 

 それとも、とケルシーがアビスを指で差す。

 

「鉱石病に罹患したきっかけ。それが特別だったのか?」

 

 特別。

 

「特別って、何ですか?」

 

「家族、親友、恋人、誰でもいいが、親密な相手を看取ってしまった場合。それだけならともかく、その亡骸から放出された粉塵に触れて感染した場合──」

 

 ケルシーは決定的に核心へと近づいた。

 

 

「面倒なことに、お前のような、死を恐怖しながらに鉱石病で死にたいと願う傍迷惑な存在が生まれてしまう」

 

 

 

 ボクが、鉱石病で死にたい、だって?

 

 意味が、意味が分からない。

 ケルシー先生は何を言っているんだ。

 

 ああ、確かにこの鉱石病は彼女から受け継いだものだ。崩壊する彼女の遺骸の側で、ボクは感染した。

 だから、なんだ?

 この鉱石病を気に入ってるって?

 

 そんな訳、そんな訳が……

 

 

 

 

 ひどく彼女に似ている。

 

 彼女はコータスじゃない。

 目の色もそうじゃない。

 彼女はボクより背が高かった。

 

 より似ている人を知っている。

 より近しい人を見つけている。

 

 今まで見かけることがあっても感じなかった。

 決してそんなことは思わなかった。

 

 でも、それでも……

 

 知れば知るほど、話せば話すほど。

 エイプリルは彼女に似ていると、感じる。

 

 

 

 

 流れ込む雑念は頭を振って排除した。

 今、反論するために必要なことはそれじゃない。

 

 ただボクは、耐えられないだけだ。

 ボクが彼女をかつて守れなかったように、彼女との思い出をまた守れなかったように感じることが嫌だったんだ。

 

「死を受け入れることは確かに難しいことだろう。Wのようになるケースも、私やアーミヤのようになるケースも、往々にして存在する」

 

 分かってる、分かってるんだって。

 ボクはケルシーよりずっと自分のことを分かってる。そのはずなんだ。

 

 それを口に出そうとする度に、エイプリルの目が視界に入ってノイズが走る。呼吸が荒くなる。

 

 どうにか言葉を絞り出す、よりも前に。

 執務室の扉が開いた。

 

「アビスは、ここに居るか」

 

 サリアがボクを見た。

 そのままボクの方に近づいて──来ない?

 

「相手を尊重することが大事らしいからな。まずはお前の用を済ませるといい。その後で、私は私の用を済ませる」

 

 そう言ってサリアはソファに座った。

 尊重するなら部屋の外で待つのが良いのではと思う。いや、ボクは待ってもらってる立場なんだけど。

 文句を言いたいけど言って良いのか分からない。

 

 しばらく口を動かして……結局ため息をついた。

 

「はあ、もういいか」

 

 なんだか、気が抜けてしまった。

 ケルシーにボクの無意識の内まで言い当てられて、エイプリルに昔の感情を思い出して、サリアに雰囲気を壊されてしまった。

 

 それに、ボクのこれはきっともう隠し通して良いものじゃない。言ったところでどうにもならないだろう、せいぜいボクが『彼女』との思い出を汚されたように感じるだけだ。

 隠してしまいたい。でもここまでロドスを巻き込んでおいて隠し続けるのは違うのだとも思う。逆に、それをどうでもいいと思える自分は確かに存在する。ボクにとって一番は『彼女』で──。

 

 エイプリルと目が合った。

 

 もう一度だけため息をついた。

 大きく、長く、これまで隠してきた何かを吐き出すかのように。

 

「ケルシーの言う通り、ボクは大切な人を鉱石病で亡くして、その時に感染した。それで……」

 

 それで。いや、だから、かな。

 

「彼女を失う恐怖。ボクも彼女のように死んでしまう恐怖。彼女とボクの思い出を侵害される恐怖。綯い交ぜになったボクの恐怖は、驚くぐらい効果的だった」

 

「えっと、何の話なの……?」

 

 あ、エイプリルに説明するの忘れてた。

 

 

 

 一頻り説明した後、ボクはソファに腰掛けた。

 これから、だ。これからボクは、ルールを破る。

 

「ボクはリターニアのある家庭に生まれた」




ドクターの脳内に出てきた「あのオペレーター」は第一章では登場しません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十三 愛しい日々

 

 

 ボクはリターニアのある家庭に生まれた。

 自分で言うのはなんだか変かもしれないけど、至って普通の男の子だった。至って普通の感性で、至って普通の性格だった。

 

 元からリターニアに居たのは母親だけで、ボクの父親はクルビア出身の旅人だった。根無草だった父は当然の如く周囲から浮いていて、それでもヴイーヴルの膂力が幸いして職に困ることはなかった。

 母方の家族とは疎遠になって、母も父と同じように働き始めた。ボクに高等教育を受けさせたくて、援助されるのは難しいと思ったからそうしたのだと思う。

 母が働き始めたのは確か、ボクを産んでから一年ほどのことだったと話していたように思う。まだボクがイジメられることもなく、黒いツノが果たしてどちらの種族のものなのか分からなかった頃のことだ。

 

 初等部に入学した頃は、ボクは周囲から浮いている訳じゃなかった。ボク以外にもキャプリニーでない人は割合多かったし、全体で見れば半分ずつくらいだった。

 

 だから、それが変わったのは初等部の五年生になってからだ。

 

 母の妹の子供、つまり従兄妹がボクに対して異邦人だと言って突っかかるようになった。初めはむしろボクの方が心配されていたけど、三ヶ月もしないうちにボクの父親に関しての噂が流れて、それは浸透してしまった。

 ボクの移動都市では観光があまり盛んではなく、西端にあるとは言っても実際もっと西を移動する都市はあるから訪問する人は少ない。地元愛溢れる、閉鎖的な考え方に染まった教師が露骨な態度でボクを杜撰に扱い、それに従ってクラスメートたちの様子は悪化した。

 

 ボクが六年生に上がる頃、父はボクと母を連れてクルビアへと引っ越すことを決めた。父の家族は鉱石病に侵されて死んでしまっていたけど、排他的でないクルビアでならボクたち家族は幸せに生活できるはずだから、と。

 母は少しだけ悩んで、すぐに同意した。どうして先生と母の間でこんなにも差があったのかは、今のボクにも分からない。

 

 

 そうして訪れたクルビアの都市で、父と母は紛争に巻き込まれて死んだ。

 

 

 呆気なかった。乾いた音が幾つか続いて、振り返ったボクの前で母が崩れ落ちた。腹を撃ち抜かれていた父が拳を振り上げて──下手人が少年兵だったことを知りその手から力を抜いて、母と同じように倒れ伏した。

 

 泣きながら遺骸に縋りついたボクを、どうして彼は撃たなかったのだろう。今思い出すとそんな疑問が湧いてくる。ボクを撃たないんだったら、ボクの親も撃たなければ良かったのに。そう思ってしまうのはワガママだろうか。

 

 

 次に、ボクの歩いていた通りの店が突然爆発した。窓ガラスが割れて、数メートル先からの歩道はキラキラと輝き始めた。

 そして燃え広がった。計画性のある襲撃だったようで、ボクの近くで燃えた店以外にも何軒か同じようなことになっていた建物があった。

 

 ぼーっとそれを見ていたボクは、軍の人らしい男の人に助けてもらった。父と母は炎に包まれて、ボクは何もかもを焼失した。

 

 ボクは戦争の被害に遭ったけれど、それよりもボクは何も持っていないクルビアにとっての異物だった。国から公的な支援は受けられず、ボクは拠り所を失った。仕事もなかった。

 

 選択肢はあった。

 ボクもあの少年と同じように武器を持てば、クルビアはきっとボクを歓迎した。少ない給料と汚い寝床を用意してくれただろう。

 でもボクはそれを選べなかった。

 

 たとえば、ボクが武器を取って立ち上がり、剣先を他の人に向けたとする。

 そうすればきっとボクは長く生きられる。他の人を犠牲にして、自分にはもっと長く生きるだけの権利があるのだと主張することができる。

 

 真っ平御免だった。

 

 両親を亡くした日から僅か三日後。ボクは街のスラムになっている部分で生活を始めた。ゴミ箱漁りはリターニアの学校にいた頃慣れた。

 汚水に塗れること、他人から蔑まれること、理不尽な暴力を受けること。

 慣れていたくはなかったけど、ボクはスラム暮らしをスムーズに受け入れられるくらいには慣れていた。

 

 でも、冬はボクを拒絶した。

 寒さが体力を奪い、ゴミ箱から食べ物が消えた。よく見かけていた白髪の男が路地裏で凍死していた。冬は野生の動物にとってひどく厳しいのだと聞いたことがある。

 ボクは人ですらないのか、なんて冗談みたいに考えながら、路地裏の少し空いていたスペース、生えていた木の下に男の亡骸を埋めた。

 ひどい空腹の中、悴んだ手で男を葬った。

 

『ねえ、どうして木の下なの?』

 

 手を合わせて冥福を祈っていたボクの耳にそんな声が聞こえた。振り返ると、白い髪色をしたペッローの少女がボクを見つめていた。

 木の成長を助けるから、とボクは答えた。彼女は興味があるのかないのかよく分からない返事をした。

 彼女はスラムの孤児院に住んでいるのだと語った。ボクも孤児であることを言うと、孤児院に一度訪れることになった。それが本題だったのだろうと今なら思う。

 ボクよりほんの少しだけ背が高い、なんて益体もないことを並んで歩きながら思ったことを覚えている。一挙手一投足が、初等部高学年になってから仲の良い同年代の子が居なかったボクには新鮮だった。

 腐る暇もなく生きていたボクは、リターニアでは錘にしかならなかった種族の特徴を孤児院のために振るってみたい、なんて思っていた。

 

 孤児院を経営していたヴァルポのお爺さんはボクを歓迎した。ボクや彼女と同じ年齢の子供は居なくて、毛布に包まる子供を守りたいなんて思った。

 

 

──その出来事の発端は、孤児院に手を出そうとしていたスラムの男たちをボクが徹底的に倒してしまったことだった。

 追い返すだけで良かったのに、リターニアで教わった格闘術でボクは圧倒してしまった。

 

 たった一度の勝利で、スラムの勢力図が変わってしまった。スラムに入ってきて以来一人でやってきたボクはとうとう危険人物としてマークされて、夜はよく客が来た。

 調子に乗っていた。彼女達に囃し立てられて、実際ボクはスラムの中で一番強くて、ボクは調子に乗っていた。

 

 ボクがいつもより多くて強い客の意識を全て刈り取って孤児院に帰った時、そこに居るのは下卑た顔をして笑う男たちと、血の池の真ん中で泣いている彼女だけだった。

 真っ赤に染まったボクの拳は我武者羅に振るわれて、それでも男たちを殺すには十分過ぎた。

 

 その前よりも随分と赤くなった孤児院に、立っているのはボク一人だけだった。人を殺す感触を覚えた拳を強く握って、ボクは彼女から離れようと思った。

 

 ボクと一緒に居るとまた同じようなことになるかもしれない、そう思ったから。でも、彼女はボクを引き止めた。

 それも当然だった。スラム育ちの彼女がいきなり表社会に出られる訳でなければ、スラムで今までのように生きることができる訳でもなかったのだから。

 

 ボクを頼るしか、彼女に道はなかった。

 

 だからボクは全力で彼女を支えなければいけないと思った。ボクには力があって、責任があって、負い目があった。彼女のために、というよりは彼女に許されるためにボクは奔走した。

 せめて彼女のこれからの生活が楽しくなるように、いや、彼女がボクを頼ったことを苦渋の選択ではなかったことにしてほしくて、ボクは努力した。今では反吐が出るような思考だけど、その頃はそれこそが正解だと思っていた。

 

 でも彼女は、ボクが思っていたよりもずっとずっと強かった。彼女はボク以外の人には一対一で負けないくらいに力があって、孤児院のことを乗り越えられるくらいに心も強かった。

 無理をして食べ物だとかを持ってきたボクに対して、彼女は優しい笑顔をして。

 

『もっと休もうよ。無理し過ぎだってば』

 

 父も母もボクのことを愛してくれていた。でもボクと遊んだりしてくれることは少なくて、ハグなんて片手の指で足りるくらいにしかしたことはなかった。

 

 涙が止まらなかった。暖かかった。

 ボクのことを恨んで当然のはずだったのに、彼女はそれを否定した。一緒に居たいから居るのだと、そしてそれを否定して欲しくはないと、そんなことを伝えられて、またボクは泣いた。

 

 冬の寒さはまだ残っていた。孤児院の中では隙間風がよく入ってきて、彼女はいつも毛布の中に包まっていた。

 ボクはヴイーヴルであることを盾にして彼女を説得し、スラムと都市との真ん中くらいの地域で日銭を稼いで温かい食べ物を買った。

 一緒に毛布の中で暖まろうと彼女が提案して、それを断られると頬を膨らませて彼女は怒った。一枚しかない毛布で、ボクがそれを使うのはむしろ罪悪感を感じるから、と付け足すと、彼女は無言で毛布から抜け出した。

 

 些細な会話が、どうしようもなく幸せだった。

 

 そしてそれから春を迎えて、彼女の態度があからさまにおかしくなった。右の頬にあった源石結晶は右目を跨いで点々と露出していて、問い詰めるともうその右目が見えないのだと言った。

 直ぐ様鉱石病を治療してくれるところを捜そうとして、彼女はボクを止めた。どうせ死ぬなら孤児院のあった場所で、ボクの傍で死にたいのだと言った。

 

 彼女はそれを言いながら泣いていた。ボクに自分の我儘を押し付けていることと、ボクを自分の死で縛り付けることが嫌なのだと言っていた。前者は論外だと切り捨てられたけど、残念ながら後者は唸ることしかできなかった。

 それでもどうにかボクは否定の言葉を捻り出した。ひどくツンデレめいた言葉になって、涙でぐしゃぐしゃになっていた彼女の顔が更に歪んだ。笑わせてどうすんの、なんて言ってたかな。

 

 右目の次は、彼女の左足が動かなくなっていた。何故か悪くないと満足気にしていた。ボクが甲斐甲斐しく世話を焼き過ぎてしまったのだと思う。

 少し距離を取ると、今度は謝ってきた。鉱石病に感染することをボクが危惧しているのだと思い込んでいた。初めてボクの方からハグをすると、彼女はまた泣いた。

 

 ボクは必死になってお金を掻き集めて、借金もして、市場の黒曜石を買った。黒曜石には鉱石病を癒す力がある、なんて下らない話に縋った。どうにか買えた黒曜石の大きな塊を幾つもの小さいカケラに割って、磨いて、専用の道具も買って穴を開けた。

 治癒力を高めるだとか言う胡散臭い紫色の糸を通して、彼女の手首につけた。無理しなくていいんだって、なんて言って彼女は呆れたように、でも嬉しそうに笑っていた。

 

 ボクは彼女のことが好きだった。罪悪感だとか、そんなものを抜きにして、彼女のことを心から愛していた。

 でもそれを彼女に告げたら、彼女は自分の死を申し訳なく思ってしまうのだと知っていた。彼女は彼女自身の死がボクに影響を与えないようにとまだ願っていることを、ボクは分かっていた。

 

 だからボクはそれまで以上に素気なく彼女に対応した。また色々失敗してよく笑われるようになったけど、彼女の笑顔が増えてくれてボクも嬉しかった。それを隠しきれなくてまた笑われたりしたけど。

 

 それで、ボクが十二歳になった夏、彼女はその息を引き取った。

 その直前に黒曜石のブレスレットが手遅れだと宣言するように彼女の手首から外れて、それを焦点の合っていない目で彼女は掛け直そうとした。

 ボクも彼女も泣いた。夏のよく晴れた日のスラム街に、二人の子供の号哭が響いた。

 ボクや彼女と仲の良かったスラムの住人はみんな何日か前にお別れを済ませていた。もう本当の本当に終わりなんだって理解させられて、胸が締め付けられた。

 そして彼女は動かなくなった。締め付けられていた胸が、今度は中身を失くしたようになった。途方もない喪失感だけがその消えた中身に取って代わっていた。

 ボクは彼女を埋葬しなかった。どうせ消えてしまうなら、一秒でも多く彼女を見ていたかったから。綺麗な源石の粉塵はボクも鉱石病にしてしまったけれど、それでも崩壊する彼女を見届けてボクは後悔していない。

 

 

 後はもう、ない。

 クルビアを発って、黒い噂のあるライン生命以外で治療できるところを探していたら、ロドスに拾われた。

 ロドスでアーツを学んで、自分の力を理解して、ロドスの役に立とうと思った。それだけ。

 彼女との思い出に誰かの足が踏み入れられるのは許せないけど、ロドスへの感謝を忘れたことはないよ。ケルシー先生にも感謝してる。

 

 

 

 

 

「これで、ボクの話は終わりだ。ケルシー先生がボクの過去を知らなかったのも無理はないと思う。だってボクに深く関わって死んでいないのは、あのボクのことが嫌いな従兄妹達くらいだから」

 

 自嘲するようにアビスは笑う。

 重苦しい雰囲気が執務室に充満していて、アビスの他は誰も声を出さない。

 

「それで、ボクはどうすればいいのかな、ケルシー先生。過去に執着してるボクは、一体どうすべきなんだろうね」

 

 覚悟を失くしたアビスからは覇気が消えていた。暗く濁り切った瞳からは生気が感じられない。

 良いように進ませるためにケルシーはアビスの心中を無理矢理に開いた。そしてその穴からは過去と同時に昔の誓いまでもが流出して、アビスから活力を奪ってしまった。

 

「きっとお前に次の彼女は見つからないだろう」

 

 ケルシーがいつもの調子で、無表情に言う。だがその声色には少なくない憐憫の感情が含まれていた。

 

「アビス、お前がここに来てからもう少しで三年になる。ロドスはお前の新しい居場所にはなれないか?私とドクターが可能な限りサポートしよう、だから……」

 

 アビスは口を開いて、すぐに閉じた。

 新しい居場所なんて言葉が許せなかった。いつもいつでも、アビスにとっての居場所は彼女の隣だけだった。

 それでも口を閉じたのは、もうその居場所が無くなってしまっていることを理性が嘆いたからだった。

 もしアビスがケルシーの言葉に真っ向から反論してしまえば、アビスの居場所がないことをアビス自身が認めてしまったことになる。

 

 

 それは、とても悲しいことだった。

 

 

「時間を……ください」

 

「ああ、分かっている。彼女の代替品としてのロドスを受け入れるために、次の居場所とすることに時間が必要なことくらい──」

 

「いえ、たとえロドスでも、彼女の代わりは務まらない。どうせどこかで彼女のことを思い出して狂いそうなほど寂しくなる」

 

 きゅ、とアビスが手を固く握った。

 

「彼女を過去のものにするための、時間をください」

 

 アビスの言葉は不確定に過ぎた。具体的にどの程度時間を与えればそれができるか分からず、そもそもそれが可能なのか不可能なのかすら分からない。

 だがそれを天秤にかけてなお、ケルシーは手を差し出した。

 

「それくらい、いくらでもな」

 

 

 ロドスは第二の『バベル』である。

 

 

 ケルシーはドクターとアーミヤを集めてそれを組織し、あのサルカズの真似事をしているに過ぎない。

 救われない誰かを自分の手で救い、それを彼女と同一化して自己陶酔に浸っているに過ぎない。根本にある信念をいくら主張しようとも、その自尊心は確かに介在している。

 

 だがそれで何の問題があるんだろうか。

 憐れみとナルシシズムから乞食にパンを与えた人をなぜ責められようか。自分こそが一番になるのだとスポーツに打ち込む若者を誰が咎められようか。

 

 ケルシーの手が善意によるものでなかったとして、その手が齎すのは紛れもなく救いである。

 

 思い返せば随分と唐突に変化したものだ、とアビスは思う。あの護衛任務を受けてからおよそ数日の間にどれだけ濃い時間を過ごしたのか。鉱石病のデータから始まり、アーツの詳細、自分の過去。

 ただ、自分の未来はまず間違いなく良い方向に向かっている。たとえあと数年しかない未来だったとしても、その数年間はきっと良いものになる。

 

 半ば確信のようなものを抱いて、アビスはケルシーの手を握った。

 まだぎこちないながらも、エイプリルは安心したような笑顔になる。自分の過去を吐露した直後のアビスは、陳腐な表現だが、すぐに消えてしまいそうな儚さがあった。

 

 

 一段落したと見て、サリアが口を開いた。

 

「アビス。一言いいか」

 

「はい、何なりと」

 

「私はお前の過去に踏み入るつもりはない」

 

 エイプリルが吹き出しそうになって、マスクを手で押さえた。場の雰囲気にそぐわない感情の発露を懸命に抑える。

 アビスは少し困惑した。

 

「それは、その、ボクが打ち明ける前に言うべきことなのではないでしょうか?いえ、違ったのですよね」

 

「そう言われてみればそうかもしれないな」

 

 エイプリルがソファに顔を埋めて震え出した。

 ドが付く程に真面目なサリアがジョークを言うとは珍しい。違和感を少し感じながらもアビスは笑顔を浮かべた。

 

「……なぜ笑う?」

 

 エイプリルのくぐもった笑い声と共に、アビスの喉にも何かが込み上げてくる。六年にも上る期間を空けてその感情を感じるが、それをアビスは無意識的に抑え込んだ。

 

 『彼女』は居ない。

 戻って来ない。

 

 しかし、アビスのそんな感情の機微を見抜くだけの目をサリアとケルシーは持っている。

 

「サリア、どうしてそれを最初に言わなかった?」

 

「尊重することが大事だと、サイレンスから教わったからな」

 

「教わってそれなのか」

 

 ケルシーがわざとらしく表情を変え、サリアも同様、わざとらしいドヤ顔を披露した。即興の漫才で、それをアビスは分かっていたが、それでもなお拭いきれないノンフィクションの香りが可笑しくて堪らない。

 

「ア、アビスっ!あはっ……あははっ、苦しい……」

 

 エイプリルが呼吸困難に陥ってアビスに助けを求めた。震える手でマスクを外したエイプリルはサリアを止めようとそちらを見遣るが、真顔で見つめていた二人の視線がまた可笑しくて、今度は声を失くして笑い始めた。

 自分の隣、ソファの上で蹲って震えているエイプリル。真顔で自分を見つめ続ける真面目一辺倒の二人。

 

「おいっ、大変だ!」

 

 カオスな状況下でラヴァが執務室に飛び込んできた。

 

「ワルファリンが怪鳥に連れ去られた!助けに来てくれ!」

 

「どういうことだ……?」

 

「あははははっ!!あははっ──ごほっ!ごっほ!」

 

「大丈夫か、エイプリル。応急処置なら任せろ」

 

「あはははははははっ!あははははっ!!」

 

「──ふふっ」

 

 つい、笑い声が漏れる。

 アビスの口の端が、上がった。

 

「笑ってる場合じゃないんだぞ!おい!」

 

「よし、私が行こう。ラヴァの嘆願も尊重すべきだ」

 

「ワルファリンも尊重してはどうだ?」

 

「ああ。そのつもりだ」

 

 サリアがキリッとキメ顔を作る。

 珍妙なものを見たと、ラヴァが端整な顔を歪ませる。

 

「あはははははははっ!あははははっ!!!」

 

「ふふ、ふ……あははははっ!」

 

 微妙な顔を作っているケルシー、ドヤ顔をキメているサリア、未だ状況が理解できずに眉を顰めるラヴァ。

 

 二人の笑いは、三人の尽力によって何度だって引き起こされた。エイプリルは涙目になるほど笑ってアビスを十回以上も叩き、アビスは久しぶりに味わう楽の感情を心の底から歓迎した。

 

 

 アビスは『彼女』を何度でも思い出す。

 強く、鮮明に、何度でも。

 

 恋愛と親愛が綯交ぜになった情愛を覚えるだろう。

 そして痛切で鮮烈な悔恨に涙を流すだろう。

 

 ただ、その度に笑えるのなら。

 笑い合い、涙の跡が残る顔を笑顔にできるのなら。

 

 きっとそれは悪くないのだと、アビスは知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「誰かあああっ!早く妾を助けてくれえぇっ!!」

 

 

 

 




これにて、第一章完結です!
ありがとうございました!

次章は、後日談とプロローグを兼ねた第一話を除いて、書き上がり次第投稿することになります。恐らく半月から一ヶ月弱くらい空くと思いますが、どうか気長に待っていてください。

エンジョイ炭治郎さん、Kutenさん、ヨピさん、おデブ軍曹さん、ぽんでりんぐさん、一般学生Cさん、評価ありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二章 傭兵の背信
十四 『彼女への想い』


 

 

 通路から話し声が聞こえる。

 決して怒号の類ではなく、むしろ楽し気な声だ。

 

 アビスがよく笑うようになって、もう幾らか経つ。

 残り少ない人生を意味の無い放浪などに費やすこともなく、アビスは今まで通りロドスに骨を埋めるつもりで働いていた。

 

 さて、現在の時刻は正に食事時──ではないが、アビスのいつも昼食を済ませる時間帯に差し掛かり、通路から声が聞こえ始めたのもすぐ先程のことだった。

 

「随分固いね、これ。味は薄味だけどまあまあイケる、かな?」

 

「病人食みたいなものですから、味が薄いのは仕方ないですよ」

 

 今日一緒に食事をしているのはエイプリルだった。シーの描く絵を観察しながら、アビスから一枚もらったビスケットを齧っている。

 

「アビス様、胃に何か異常はありませんか?」

 

「ないよ、心配しなくてもいいって」

 

 ちなみに最近あまりアビスに関わっていなかった(作者が忘れていた)Lancet-2もアビスの食事に随伴している。

 クロージャの計らいでLancet-2はアビスの部屋を拠点として確保することになり、つい先日ガヴィルに伴って謝罪に来たユーネクテスにアビスは少しだけ睨まれた。

 そのガヴィルのことだが、あの言葉があくまでポーズであったことは分かっているためすぐに許したが、実際のところ彼女との過去を人に打ち明ける切っ掛けとしてガヴィルは動いてくれたのだ。むしろ礼を言うべきなのだ。

 そう思ってアビスはガヴィルの関節を決めた。ユーネクテスをLancet-2に任せることで()()()()因縁はなくなった。

 

 先日の様子をアビスが脳内にて思い出していると、エイプリルがシーから目線を移し、アビスに問いかけた。

 

「ねえ、いつ聞こうか迷ってたんだけど、アビスとシーさんってどんな関係?」

 

「ただの同僚ですが……何か?」

 

「でもアビスは態々ここでご飯を食べてる。切っ掛けとか、そういうのはないの?」

 

「切っ掛け、ですか」

 

 アビスが頭の中を巡らせる。

 一巡した。

 

「ないですね」

 

「えぇ、本当に?」

 

「ある日突然扉が描かれていて、ある日突然絵のはずだった扉が開いて、それから特には」

 

「最初に顔を合わせた時はどうしたの」

 

「覚えていません」

 

 シーの方を見る。

 

「そうね、私が初めてアビスを見た時はこんな感じだったかしら。『ふっ、ボクのアーツに這いつくばって怯えるが──』」

 

「お願いですからやめてください」

 

「そういう訳だから話せないわ。ごめんなさいね」

 

 まさかアビスにもそんな時期があったとは。

 エイプリルはそんな驚きを湛えてアビスを見る。ジョークでもなんでもない真っ黒な歴史をバラされたアビスは照れた様子で笑っていた。

 そういえば、この二人はいつの間にか力関係の天秤が傾き始めている。そうエイプリルは思った。何故だろうかと(かぶ)けてみると、割と多くの答えが集まった。

 

 アビスはシーさんを殺そうとして、妨害したシーさんのお姉さんを殺そうとして、アビスが負けそうになったところをシーさんが助けて──

 

「もっと恥ずかしがるべき出来事あるでしょ」

 

「それは言って欲しくありませんでした」

 

 途端に二人の顔が表情を失った。スン、という擬音が似合いそうな静まり返りっぷりだった。

 一瞬の間を置いて、三人の笑い声が通路に響いた。もっとも、アビスだけは「笑えませんが」とでも言いたそうな不満気な顔をして、抑揚のない笑い声を発していたが。

 

 エイプリルは少しだけ安心した。

 数日前にアビスの過去を聞いた時、エイプリルは何と言えばいいのか分からなかった。それはアビスの過去がエイプリルにとってそれほどまでに重かったから、という理由だけではない。

 

 消えてしまいそうだった。繊細なものの喩えによくガラス細工が使われるが、それでさえ一定の硬度を持っている。

 アビスにはそれさえなかった。手を出してしまいたくなるほどにアンバランスで、しかし手を出してしまえば割れた破片がきっとその手に傷をつける。見ないフリをすればそれが割れるのは確実で、対処のしようがない。

 

 今思い出すと、アビスは悪性腫瘍のように厄介だった。

 そんなことを頭の中で呟いて、エイプリルはくすりと笑った。『悪性腫瘍』が一層強く不満を露わにして、慌てて弁解する。

 

 それにも一頻り笑ったシーは、目を画材の方へ向けた。そしてその顔は先とは打って変わって真剣だった。

 エイプリルは先程頭に浮かべた内容を思い返してアビスを睨むと、とても申し訳なさそうな顔でシーを見ていた。

 

 結果示し合わせることなく二人は頷き、通路から逃げて行く。

 

「……別に私は気にしないのに」

 

 二人が居なくなってすぐ、シーは扉の中に引きこもった。

 

 

 

 シーやLancet-2と別れて、アビスとエイプリルはロドスの通路を目的無く歩き出した。アビスに課されているのは一日数時間で終わるアーツの実験や鉱石病についてのレポートと、自由時間が多く確保できる任務だ。

 一方、エイプリルの予定はかなりの部分が埋まっている。それは狙撃の練習に費やすための予約を取ったからであり、エイプリルの事情を汲んで融通を効かせたケルシーの成果である。

 エイプリルはそのスケジュールを後悔していないが、他に時間があまり取れないのは少しだけ悩みどころだ。

 

「ボクもエイプリルさんのように鍛錬に時間を割きたいのですが、如何せん鉱石病のせいでケルシー先生からストップが入りまして……」

 

「あはは、あんまり無理しないでね」

 

 アビスの体を蝕む鉱石病は未だ猛威を奮っている。

 アビスの源石融合率はロドスの中でも高い順位に位置していて、更に病状が一番進行してしまいやすい患者である。ケルシーが止めるのは極めて常識的だし、もしアビスの発言が本音なのであればかなり頭がおかしい。

 そしてアビスは本気である。頭がおかしい。

 

「そもそも、アビスって訓練する意味あるの?」

 

 エイプリルの口を衝いて出た質問は、中々どうして真っ当な疑問だった。

 アビスの扱うアーツは電気信号。感情を表す不可視のコードを大気中に発信して、伝ったそれを受信してしまった相手はその感情によって心を揺さぶられる。そんな代物だ。

 アーツの難易度としてはほぼ不可能に近いが、アビスはその類稀な素質と、発信するコードを自分の神経を巡っているものから──つまり、自分のその時持っていた感情に限定することで実現可能な技術にまで落とし込んでいる。

 とはいえそれには反動も着いて回るが……それはアビスが耐えられればそれでいい話だ。

 

「訓練する意味はありますよ」

 

「たとえば?」

 

「例えば、ボクはエイプリルさんのような狙撃手に滅法弱いです。術師オペレーターや、そしてマドロックさんのように全身を装備で覆われてしまったら、どうすることもできません」

 

「んー、マドロックさんを引き合いに出すとほとんどのオペレーターさんが負けちゃうと思うけど」

 

 脳内で、あのくぐもった声が再生される。艦内では鎧を脱ぐことになっているそうだが、未だその中身であるとされる人を見たことはない。

 エイプリルは白い髪色をしたサルカズの女性と何やら関係があると思っているのだが、果たして本当にそうなのだろうか。真相は藪の中だ。いや、ワルファリンと違って聞き込みなぞしていないが。

 

「それに、ボクのアーツが効かない相手も居ますから」

 

「そんな人が居たの!?」

 

「ああ、今はロドスのオペレーターですね」

 

「嘘でしょ!? ──って、あぁ、もしかしてあの人?」

 

「そうですね、名前は言いませんが銃を持ったサルカズの女性……」

 

「そうねぇ、あたしのことかしら」

 

 アビスの足が止まる。

 気付けばエイプリルは少し後ろに止まっていて、更にその視線の向こうには件の人物がヒラヒラと手を振りながらアビスの方へと歩いていた。

 苦虫を噛み潰したような顔をWに向ける。

 

「久しぶり、W」

 

「えぇ、本当に久しぶりね。チェルノボーグ以来よ。おかしいわねぇ、その間にはたくさん機会があったはずなのに、あたしとあなたは久しぶり……どうしてかしら?」

 

「ど、どうしてだろうね……?」

 

「それに最近起こった騒動だって、あたしは任務で仲間はずれ……あはっ、あははははっ!」

 

「あはは……」

 

 乾いた笑いが通路に広がる。Wから刺すような視線が感じられるが、アビスはどこまでも視線と白を切り続ける。

 二人の関係がまた自分にはよく分からないものであり、それについてエイプリルは問おうとするが──時計を見れば、狙撃訓練の時間まであと少しだった。

 

「あっ、もう時間だ。私はもう行くから、じゃあねアビス!」

 

「えっ」

 

 エイプリルが駆け出していった。

 ゾクッと背筋が凍える。

 

「さぁて」

 

 肩に置かれた手に、脳が危険であると警告を発した。

 

「どうやらアビス、あなたってあたしよりも嫌われてるようね」

 

 仕切り直して、Wが薄笑いを浮かべる。

 

「ついてきなさい、外に悲鳴が漏れない部屋でたっぷりとお話をしなきゃいけないわ」

 

 アビスが苦虫を噛み潰したような顔になり、一瞬だけ震え出した体を自分の感情で押し潰した。アーツの応用だろうか、Wに対しての微かな苛立ちを増幅させ、激昂にまで持っていく。

 

 噛み潰していた苦虫を飲み込んで、アビスはその怒りを顔と態度で表現した。

 

「前も言ったけど。ボクは知らなかっただけであって、それを謝罪することはあっても罰される謂れはないよ」

 

 これ以上掘り返すなと遠回しに言い、早々にWから離れていくアビス。こんな時に限って人通りが全く無く、人の気配すらも感じられない。

 アビスの歩調は乱れず、しかして追いつこうとする誰かの足音が耳朶に響く。

 

 ──チャキ、と音がした。

 

 アビスが振り返ろうとした瞬間、冷たい金属の感触が後頭部にあるのを感じた。次いで、源石灯の光を反射する白刃が視界の隅に見えた。

 アビスは何も言わず両手を上に挙げる。

 

「自分のしたこと、分かってるの?」

 

 先程までのような軽い発言でないことは、Wの発している全てから感じ取れる。刺すような視線はいつのまにか重量感の錯覚を伴って殺意に変貌し、そしてそれを突きつける銃口と刃が証明している。

 

 銃を使うことはないだろう。こんな室内で使えば銃声がWを襲い、アビスを殺した後に逃げることが不可能となる。

 だがナイフは最悪だ。銃を突きつけたのは一瞬でもいいから思考の隙を作るためであり、ナイフこそがアビスを脅す本命の凶刃。

 冷静なアビスの思考を嘲笑うかのように、状況はアビスにとって最悪の様相を呈していた。

 

「ねぇ、これは脅しじゃいけないのよ」

 

 サプレッサーのついていないバレルがアビスを小突く。

 

「脅されたからそうしたんじゃなく、あんたから進んでそうしなきゃいけないことなの」

 

 ナイフがアビスを薄皮一枚だけ切り裂く。

 

「それを、何?」

 

 怒りがとうとう露骨なものになる。銃が何度もアビスの頭を突き、ナイフを握る手に力が──

 

 頭が急速に冷えていく。

 

「あんた、また使いやがったわね!?……チッ、もういいわ。あたしがまずやるべきことはそれじゃないもの」

 

 アビスのアーツは反則的だ。アビスが自分を落ち着かせることさえできれば、そしてそのコードのみをアーツとして取り出すことが出来れば、相手を強制的に落ち着かせることができる。

 それが幾ら相手の神経を逆立てようが、継続してしまえばすぐに落ち着く。アーツユニットなしで行使したためにまたケルシーから何か言われるだろうが……

 

「第三訓練室の鍵をパクって来たわ。あんたが戻しときなさいよ?」

 

 ケルシーから割と怒られるだろうが、アビスはもう諦めた。

 アビス自身でも、Wに共感する気持ちがないという訳でもないのだ。例え敵対していたとしても越えてはいけない一線というものが存在するし、それを無遠慮に踏み越えられればアビスは容赦なく殺意を向ける。

 クルビアのスラムで徒党を組んでいた男たちが良い例だ。アビスでもWでも、同じようなことをされればぶっ殺したくなるのが人の性というものなのだから。だからWの言を否定はしない。

 

 しかし、それが人に理解されることが難しいということもしばしば存在する。それは彼女というただの過去に縋り、何年も一緒に活動していた相手へと殺意を向けたアビスにはよく分かっていることだろう。

 他者の理解を求めるなら、まずは他者の無理解を受け入れなければならない。そこがWには欠落しているのだと、アビスは思う。

 

「結局、どうするつもりなんだ」

 

「んー、そうねぇ……」

 

 Wが訓練室のドアを開けてアビスを蹴り入れる。

 後ろ手に閉められたドアから施錠音が響き、真っ暗な訓練室の中でどうにかアビスは立ち上がった。

 

 灯りが点いた。

 広い訓練室の真ん中の灯りのみが部屋の中を照らし、扉の側にいるアビスの近くはまだ暗い。

 

 その中心部にサルカズが二つ椅子を置いた。

 向かい合わせにして、そのまま腰掛ける。

 

「まずは思い出話でもどう?あんたが何をしたか、どう思っていたか、あたしにはまだまだ分からないことばっかりなのよ」

 

 まあ、でも──と、Wが続ける。

 

「それを聞いたとして、許すとは思わないことね」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十五 明るい髪色をしたペッローの女の子

 

 

 起き上がる。

 

 今日は珍しくツノが枕に突き刺さっていた。随分前にはそれが毎日で、あの頃のボクはどこか不幸なきらいがあった。枕にツノが突き刺さるほど不幸だったのか、それとも不幸だったから枕にツノが突き刺さったのか。

 どちらかは分からないけど、もしかすると今日のボクは厄日だったりするのかもしれない。

 

「おはよう、Lancet-2」

 

「おはようございます、アビス様。今日の予定はアーミヤ様の手伝いです。大変ではありますが、頑張ってくださいね」

 

「うん、ありがとう」

 

 どうやら本物の厄日だったようだ。アーミヤさんのことは特段嫌いではないけど好きでもない。着任した当初のアーミヤさんのまま自分のイメージが固定されているからかもしれない。

 ともかく、アーミヤさんのことは好きでも嫌いでもない。そんな人と一緒にデスクワークをするんだから特段事務仕事は楽しくもない訳で、ボクくらいの年頃だとデスクワークは好きになれないのは当然──いや、たぶんみんな嫌いなんだろうけど。

 あと何故かボクが担当することが多くてケルシー先生に愚痴を言うといつも逃げられる。『ロドスでの勤務歴が長く、デスクワークに時間を割けるオペレーターは少ない。あとお前は中々事務能力が高い』だとか。それって関係ないよね?

 

 まあ、ただ嘆くのは無意味なことだ。建設的な意見だとか反論が浮かばない以上は──いや年齢は考えたほうがいいと思うんだけどな。

 どうしてボクが企業の根幹の一端を支えなきゃいけないんだ。

 

 

 といった思考も、やっぱりアーミヤさんの前では出せない訳で。いや、まずそんな思考をする暇もないくらい机の上には書類が分厚く積み上がってる。

 

「これとこれとこれが研究機器の経費で落としていいものです。あとこっちは優先度が低いですが、民間薬品のサンプル収集を拡大した規模で──」

 

「ああ、それはケルシー先生への仰裁を伺う必要のある束ですので、先にこちらの訓練室の補修経費について──」

 

「一段落しましたし、ボクはケルシー先生にこちらの書類を回してきます。帰ってくるまではティータイムでもしていてください。では失礼します」

 

 ああ、手が足りない。頭も足りない。

 というかボクがもう一人くらい欲しい。

 

 ロドスはとんでもないほどの大企業だ。移動都市とほぼ同レベルの艦体を持ち、それを一企業のみで動かせるように全ての分野での技術者が存在する。

 ロドスを動かすエンジニアとロドスのオペレーターに配布する機器を作るエンジニアは違う。武器を作る人も防具を作る人も、それを改良する人も修理する人も違う。

 日常生活に関わるものは他から取り寄せられるとは言え、それをロドス内に行き渡らせるための職員も居る。なんなら戦闘に出るオペレーターが手伝え、なんて指令すらよく下る。

 

 故に、それを管理するアーミヤさんは毎日膨大な書類を捌いている。本来なら三人くらいでも一昼夜必要な書類をアーミヤさん一人とその補佐一名で回している。

 正直、ここまで育つとはケルシー先生も思わなかったと思う。アーミヤさんの業務がまだ拙いからと三人くらいついていたあの頃のロドスはどこへ行ったのか。

 

 まあ、別にどうでもいいか。融合率とかからして、きっとボクは近いうちに死ぬんだろうから。

 

「今日はアビスの日だったか」

 

 書類の束を受け取ったケルシー先生が途轍もない早さで目を通していく。表に来ていた紙を只管後ろへと回して、十分と経たない内にケルシー先生の目が止まる。

 一通り見終わったのだろうとペンを差し出すと、しかしケルシー先生の手はそれを受け取らない。

 

 いつもならここですぐにペンを受け取るんだけど、今日は少しだけ眉根を寄せて一枚の紙を見つめている。

 

「どうかしましたか?」

 

 仕方なくペンを懐に戻すと、ケルシー先生はボクを押し退けて部屋から出て行った。研究室に居た他の医療オペレーター方は、またかとでも言いたそうな表情で職務に戻っている。

 

 はぁ、どうやら本当に厄日だったようだ。

 

 

 執務室の扉を開くと、アーミヤさんの机に手をついて何か言葉を交わしているケルシー先生の後ろ姿が見えた。

 

「──いことは確かだ。私たちは三年間努力を続け、行動予備隊を結成するにすら至った。だが私たちが見据えているのはもっと先の未来だろう」

 

「それでも!」

 

 議論は白熱しているようで、ボクが割って入る隙間は見たところ存在しない。ただ何について話しているのかは少しだけ理解できた。

 

 恐らく、『ドクター』と呼ばれる男のことだ。

 ケルシー先生とアーミヤさんが偶に口に出す以外では、エンカクさんの言及している部分も聞いたことがある。ボクは情勢に疎い部分があると自分でも理解できるほどだけど、それでも彼の情報はよく入ってくる。

 

 曰く、優秀な神経医である。

 

 曰く、大賢な戦術指揮官である。

 

 曰く、天災、鉱石病研究のスペシャリストである。

 

 アレほどケルシー先生やアーミヤさんが口に出していること、そしてロドスでもその存在を肯定するオペレーターが少数でも居るあたりから、オペレーターの中で一種の都市伝説となっている。

 件の人物が現在どこに居るかは定かではないけど、ボクとしては直ぐにでもロドスに来て欲しい。なぜって?

 

 書類業務を押し付けたいからだよ!

 

「あ、あの……」

 

 声を掛けられた。

 誰にだろう?誰にかな。

 

 この声は──カーディさんだ!

 

「カーディさん!どうかしましたか?何か困りごとですか?何でも言ってくださって構いませんよ!」

 

「ひぅ、ケ、ケルシー先生とアーミヤさんに、伝えたいことが……その、あって、です」

 

 おっと、カーディさんの邪魔をしてしまっていたのか。すぐにその扉を譲ると、カーディさんはほっとした様子で部屋の中へと入っていった。

 

 カーディさんの様子が変なのは何故だろうかと今一度考えてみる。ボク以外の人に対しては活発で社交的な少女だと聞くのに、ボクに対しては内気で吃りがちな少女になる。

 やっぱりボクの対応が怖いのだろうか。ボクは『彼女』とカーディさんを無意識に重ねてしまっているのだろうか。

 

 確かに、一度ケルシー先生にカーディさんのことが恋愛的に好きなのか聞かれたことがある。アンセルさんが同席していた。

 『カーディちゃんにだけ対応が眩しい』だとか『あからさま過ぎる差にカーディちゃんが怖がってる』だとか言っていたような気もするけど、まあ、無意識なのだから仕方ない。仕方ない。

 

 ……少し中の話が気になる。

 

 ああ、断っておくけど、カーディさんの告げる内容に興味があるだけだ。カーディさんを見ていたいなんて不純な理由じゃない。

 

「チェルノボーグに天災が、わーってなるそうです!」

 

「政府側は何をしている」

 

「えっと、期待できないそうです!」

 

「分かりました。行動隊並びに行動予備隊の方々は準備を──」

 

「待て」

 

「ケルシー先生っ!」

 

「分かっている、いや、分かった。だが、ウルサス政府に勘付かれないための準備が必要だ。具体的に言えば二日は取りたい。天災トランスポーターに事実確認する時間も必要だからな」

 

 チェルノボーグ……そういえば、最近暴動が散発してるって聞いたことがあるな。名前はあまりよく覚えてないけど、なんとかムーブメントって名前だったような気がする。

 いや、それ以前に、今ケルシー先生は何と言った?ウルサス政府に勘付かれないため?何をするつもりなんだ?

 

 ──って、ケルシー先生がこっちに来る!?

 

「待機していたか、よし。アビス、早くて二日、遅くとも一週間後には大規模な作戦を開始する。それまでに仕上げておけ」

 

「それは、ウルサス政府を相手取るということですか?」

 

「聞いていたのか」

 

「もし本当にそのつもりなら、ボクは反対です」

 

 ケルシー先生の目が細まって耳が微かにピンと立つ。開いたドアの向こうでアーミヤさんが椅子を立つのが見えた。

 

「ウルサス帝国、いえ、国を相手取る、なんて。今までロドスが一番取ってこなかった手段のはずでしょう。ボクはロドスの為に命を懸けていますが、だからこそ言いましょう」

 

 ふざけるな。

 

「──ボクはその作戦に命を賭けられません」

 

 そんな作戦に身を投じて死ぬなんて馬鹿げてる。もし無理矢理にでもボクを作戦に組み込むと言うのなら、それ相応の扱いをしてもらわなきゃ割に合わない。

 

「もしもの時の単独での面制圧能力に期待していたのだが、ふむ。そこまで言うのなら仕方がない──カーディ」

 

「は、はいっ!」

 

 呼び寄せたカーディさんに何かを耳打ちするケルシー先生。

 

 カーディさんに何をさせるつもりだ?

 もしかしてボクの代わりに行動予備隊を酷使すると?それともボクが居なければカーディさんに被害が及ぶとでも言いたいのか?

 ケルシー先生、あなたは何がしたいんだ。

 

「あ、あの……」

 

「なんですか?」

 

「ぃ、一緒に行ってくれませんか?」

 

「……」

 

「う、うぅ、ケルシー先生……」

 

 はぁ、本当に。

 

「ケルシー先生」

 

 掌を出した。

 

「なんだ?」

 

 分かっているのに分かっていないフリをするつもりだろうか?いや、まあ仕方がないのかな。

 

「訓練室の鍵を貸してください。作戦に出る気はありませんが、万が一に備えることだけはします」

 

「ほう、何が欲しいんだ?昇進か?」

 

「何も要りません。そんな物で命を賭けさせられるなんて思われるのは心外ですから」

 

 ボクはまだ、命を懸けるつもりなんてない。ロドスのために粉骨砕身はしても、自己犠牲なんて下らないことはしたくない。

 

「ぇ、でも私には……」

 

「何でしょう?何でも仰ってください」

 

「あっ、えっと、ちがっ……なんでもないです!」

 

「そうですか……」

 

 スパコン、と軽快な音でボクの後頭部が叩かれる。

 

「半端な練度ではそれ以前の問題だが、どうする?」

 

「カーディさん、それでは失礼します。訓練室の鍵を」

 

 ケルシー先生が真鍮のキーリングから一つ鍵を取り外した。それと重ねて、懐からカードキーも差し出される。

 

「ヴイーヴルやウルサス用に調整してある訓練室がこの前時代的な鍵だ。カードキーの方ではアーツの訓練でもしておけ、内側からロックも掛けられる」

 

 それは、ありがたい限りだ。

 

 ボクのアーツは電気信号。自分の感情をコード化して射出して、それを受信してしまった相手にその感情を強制する。

 放射された信号は物理的な障壁があればボクに返ってきて、際限なくボクの抱える感情を強くする。それは近距離で誰かにアーツを当てた時でさえも、ボクに少しは雪崩れ込む。だから訓練が必要だった。自分の感情を押し殺すための訓練が。

 

 ケルシー先生の顔は少しだけ曇っている。それは当然だ、だってボクがアーツを使えば、ボクの体を蝕んでいる源石病の進行を促すことになる。ボクのアーツは、つまりはボク自身を犠牲にした一種の必殺技なのだから。

 訓練中も、もしかすると小数点以下では収まりきらないくらいに融合率が上昇してしまうかもしれない。それが意味するのは間接的なボクの殺害で、それでも正規軍を見据えた訓練ならそれを覚悟する必要がある。

 

 勿論アーツに頼らない戦闘もある程度はできるけど、今さっき言ったように軍隊を相手取るならそれ相応の覚悟が必要だ。格闘技術だけでなんとかできるのは、一握りの者だけだ。

 ボクにはアーツしかない。ボクはロドスに所属している他のオペレーター達とは違って技術がない。武器の心得もないし、あるのは純粋な腕力だけだ。

 どうしてそれでアーツを使いたくないなどと宣えようか。

 

 ああ、いや、違うな。

 ボクは()()()()()で処刑台の階段を登ってる訳じゃない。

 

 怖いんだ、ただ純粋に。

 ケルシー先生やロドスに責任を押し付けたいんだ。

 ボクはボク自身の責任で死にたくない。ボクの今の生活は彼女なしには成り立たないもので、ボクはそれを大切に扱おうとしている。

 だからこそ、ボクはこの命を他人に預けたい。ボクの命を握らせて、言い訳塗れの逃げ道を作りたい。

 

 ロドスで働けば、ボクは真綿で首を絞められることになる。ただそれ以上にロドス以外の所で生きようとしてこの命を無駄にしてしまうことこそ、ボクの中では避けられるべき未来だった。

 もっとも、それに付随する責任こそをボクは恐れているんだろうけど。

 

 

 

「あんたって、やっぱりイカれてるわね」

 

「頭に浮かべるだけなら別段気にしないけど、口にするならそれは失敬だって分かってる?」

 

「はいはいそーね」

 

 非難を適当に流しながら、Wはアビスと視線を交わらせる。アビスはWの瞳の奥底にある冷え切った殺意を、Wはアビスの心中を大きく占める誰かへの狂愛を感じ取った。

 

 汚辱に塗れた傭兵がやることは決まって復讐だ。それはとてもありがたいことにテラの歴史が証明してくれている。

 だから、アビスが何を話そうがそれはWの持つ煮え滾る害意と凍り付くような殺意に終わることは分かりきっている。

 

 そして、それでも尚。

 

「あら、頭のネジが外れてるわ。捻じ込んであげましょうか?」

 

「いいや、ボクは健常者だ。もし君達からしてボクが異常者であると言うならば、君達が全員異常者だ」

 

「これって喧嘩売られてるのかしら。もし売ってるなら買うわよ?」

 

「じゃあ非売品だから手を出さないでくれるかな」

 

「ハッ。盗ってでも手に入れるわ」

 

 飄々と嘯くWを前に、アビスの態度は一貫して変わらない。Wの殺意を感じ取って尚ならば、それはきっと、Wの持つ感情が一時たりとも変わっていないことを知っているからこそだろう。

 ずっとずっと、アビスの危機感が疲弊するほどに深く強く、Wの殺意が肌を刺している。鋭く、それでいてねっとりと心臓を撫でるような殺意。目の奥に隠されても、表情からは一切感じ取れずとも、Wの持つ感情は常に憎悪で、向けられているのは殺意だ。

 

 それを理解して、納得して、受け入れているからこそ、アビスは態度を変えることがない。もしこの瞬間だけを切り取ってみたならば、Wの一番の理解者は、もしかするとアビスなのかもしれなかった。

 

「なんでチェルノボーグに来たのかは分かったわ。あんたがカーディとか言うペッローを可愛がってることも」

 

 銃口のあたりを下にして、人差し指でバランスを保つ。数秒後、指先で跳ねさせた銃が座っているWの両手にすっぽりと収まり、また口を開く。

 

「次はあんたが訓練を終えた頃の話でもしなさいよ」

 

「分かってるよ」

 

 はぁ、最近過去の話ばかりしているような気がする。

 アビスがそうボヤいてWに睨まれる。銃弾は勘弁とでも言うように手を振って、次を話し始めた。




あるオペレーター → カーディ
前書きは固く感じたりしますか?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十六 惑星『テラ』

重ね重ね非常に申し訳ないのですが、前話について、手違いで修正前の本文を投稿してしまいました。お詫びにもう一話どうぞ……これくらいしかお詫びの品が用意できないんです……


 指が資料の文字をなぞる。

 昨今では珍しい紙媒体のファイルに、誤字脱字等の確認を終えた紙を入れていく。

 

 十数枚積まれていたその紙の束をファイルに仕舞い終えると、その人物──ケルシーは席を立った。薄暗い部屋の中、近くの同じ色のファイルが並んで押し込められている棚に置いて、珍しいことに伸びをした。

 ケルシーが棚の横へと視線を移した。そこにあるのは、隅から隅まで同じ色のファイルが詰め込まれている、同規格の棚だ。

 更に横へと目を移しても、壁に突き当たるまでその景色が変わることはない。それだけ、彼女が今さっき棚に並べたファイルはずっと前から並べられているということだろう。

 

 ケルシーが現在居る場所は、機密情報保管書庫。ドクターやアーミヤに対してさえも出入りすることに制限を付けている特別区画で、源石機器に頼らない情報の保存場所となっている。

 ケルシーは視線を元の棚に戻すと、先ほど並べたファイルのすぐ隣のファイルに指を引っ掛けて抜き出した。

 

 ペラ、ペラ、とファイルを捲っていくケルシーの手に迷いはない。何と言ってもその記入されている情報を編纂したのはケルシー本人であるから、分厚いファイルから目当ての紙が数秒で見つかったことにも驚きはない。

 

 彼女の指がその動きを止めたのは、つまり探していたのは、とあるペッローの女性から定期的に報告される情報を整理した用紙だった。端的に言えばドーベルマンが教官を務めたオペレーターについての経過報告書だ。

 そしてケルシーの目が捉えた内容は、狙撃オペレーターであるエイプリルについてだった。

 腕時計を確認すると、丁度今くらいの時間帯に訓練を行なっているはずだったエイプリル。ケルシーからしてみればそこまで気にかける対象ではないように思われるが、その脳内に浮かぶのは本当にエイプリルなのか?

 

 答えは、懸念の通り否である。

 ケルシーが頭に浮かべているのは、最近エイプリルとよく関わるようになったヴイーヴルの青年だった。

 自分が受け持つ鉱石病患者であり、余命は数年あるかないかといったものであるから、気にかけるのは仕方がない──という訳でも、ない。

 

 ケルシーの胸中に蔓延るのは心配ではなく、ただの好奇心だった。それも学術的探究心などといった高尚な物ではなく、単純な野次馬根性による好奇心だ。

 

 ケルシーは先日、アビスの転機に立ち会った。それは決して今のような好奇心に駆られてのものではない、と断言できるほどではないが、九分九厘は真面目だった。

 そして、その中で観察できたアビスの目が、今回ケルシーの好奇心を唆ったものだった。

 

 何故アビスはエイプリルを見た時に複雑そうな顔をしたのだろうか、と。

 幸か不幸か、アビスのその複雑な心境は自分以外に漏れ出てはいなかった。恐らくはあの場限りの物だったのだろうから、感情的になっていたエイプリルや一度くらいしか見る機会のなかったサリアには感じ取れなかったのも仕方がない。

 

 そして、そうなると、残るのは自分だけが抱える疑問だった。アビスに聞くのは経験上少し怖いので最終手段に備えておくとして、しかしそうすると、こういった資料を眺めることくらいでしか推理する材料がない。

 少しの心当たりはある。しかしそれはアビスに聞いてみるにはあまりにも地雷の香りが強すぎる。

 

 文字を目で追った。残念ながら、いや当然のことではあるのだが、ケルシーにとって新しい発見につながるものは何一つとして存在しなかった。

 

 裏面を見るために一枚捲った。

 

「……ああ、忘れてしまっていた」

 

 裏面ではなく、次のページに挟まれていた作戦概要書。作戦に参加する予定だったオペレーターは、例のコータスだった。

 作戦の終了予定日は今日。つまり、アビスにとってほぼ一番厄介なあのオペレーターが今日中に、もしかすると既に帰ってアビスに接触している可能性すらある。

 

 まあ、いいか。ケルシーは割り切った。

 正直に言って、あのオペレーターがアビスに執着してもケルシーにとってはほぼ無害である。アビスは嘆きたいだろうが、知ったことではない。

 無視しよう。それが一番自分に害の及ばない未来を招くはずなのだから。

 

 パタンと音を立ててファイルを閉じ、ケルシーは考えないことにした。

 その日アビスがそのオペレーターらと問題を起こし、後々頭を抱えることも知らず、ケルシーはその棚に背を向けて残りの作業に取り掛かり始めた。

 

 まあ、警戒しようがほとんど意味はないのだから、それで正解ではあるのだが。

 

 

 

 

 時は遡り、ロドス艦内。遡った時を簡潔に説明すると、アビスがWに語っていた話の時間と丁度同じものだった。

 そして時刻は夜。アビスが『チェルノボーグ事変』に向けての訓練を開始した初日のことだった。

 

 

 源石灯が明滅を繰り返す。

 エンジニアへと連絡を入れておくか、と思いながらケルシーはアビスへと目を向けた。そこに居るのは、ビスケットを齧るアビスの姿。

 

「アビス、カードキーを渡せ」

 

「どうしてでしょうか」

 

「理由が必要か?」

 

「はい」

 

 通路の中、二人の声だけが響いている。年相応に子供らしく、と言い張るには些か歳を取り過ぎているアビスが我儘を言う。

 カードキー、とは当然のことながらアーツ用訓練室の鍵である薄べったい源石カードキーのことだろう。

 

 ケルシーが少しの間目を閉じて、すぐに開いた。

 

「アビス、理由などどうでもいいだろう。ただ、訓練の必要が消えただけだ。それが変わらない事実である以上、私がNeed-To-Knowの原則を持ち出せば私にそれを知ることが必要だと言わしめる根拠がない」

 

「ええ、そうですね。とても当然の発想です」

 

「ああ、そうだな」

 

 ケルシーが手を出した。アビスは立ち上がってケルシーと目を合わせる。何をしているのか、何がしたいのか。それらをケルシーが把握する術はなかった。

 だが、そのどちらもが、すぐ理解できることではあった。

 

「ボクの死を恐れているんですか?」

 

「───、──」

 

 ケルシーの口が言葉を紡げないままに開閉を繰り返す。それが告げるのは動揺、つまりは図星を突かれただけの分かりやすい反応だ。

 ケルシーがここまで動揺したのには訳がある。例えば、もしこれを言われたのがドクターであればケルシーは特に驚くこともなくそれを認めただろう。それがアーミヤであれば、すぐに次の嘘を吐いたはずだ。

 

「違う」

 

 掠れた、ひどく小さい声が響いた。

 アビスには分からないだろうと思っていた。いや違う、理解していたのだ。アビスはコミュニケーション能力はあれども経験は全くと言っていいほど無い。感情を操るが、実態はただ自分の感情を押し付けているだけだ。

 だから、謀を得意とする彼女自身の抱く感情をアビスが看破することはない。そう正確に理解していた。

 

 だが実際は、アビスはケルシーの持つ感情を言い当てた。そんな芸当が出来るはずもないのに、アビスはそれを言い当てることができた。それは何故か──?

 

 答えは、ただの当てずっぽうだ。

 

「いいえ、違いません」

 

 飄々と嘯くアビス。自分のアーツ訓練を止めていることから、他に使わせたい人がいるのか、若しくは自分の鉱石病をこれ以上進ませたく無いのか、と最初に要求された時点で考えていた。

 前者であるならば隠し立てする必要もない、だが後者ならば僅かな可能性だが秘匿もあり得ることだ。

 例えば、他のオペレーターにPOSやSOAP──要するに看護記録のこと──が割れてしまうことを恐れているのだろうか。それとも、言われてはいなかったが消化器官への源石侵食が危険域に達しているのだろうか。

 

 後者は十分にあり得るが、前者は特に問題ないように思える。まさか孤立している自分がそんな状態だったからと言ってどうかなる訳ではないだろう。

 他にも医療オペレーター達に情報が渡った所でどうと言うことではない。自分の死やそれへの接近がトリガーとなる出来事が何かあるのだろう。

 

 となれば後は簡単だ、曖昧な物言いで勘違いさせるだけでいい。

 

「……理由を説明すると、長くなる。いや、長くはならないだろうが、ここでする話ではない。ついてこい」

 

 ケルシーがアビスを先導していく。

 少しだけ踏み込みすぎただろうかとアビスは自責の念に駆られるが、今となっては後の祭りだ。ケルシーの抱えている過去だって、アビスのものと同じように尊重されるべきなのだから。

 とは言え、実際のところアビスは警戒が過剰な面もある。自分に踏み込まれたくない過去があるからこそそうなっているのだが、それを他人の立場になって考えるという行為を欠かさない。

 まあ、それを自分基準でやってしまうために孤立している部分もあったりするのだが、アビスからすればそれで過去が掘り起こされないのならむしろお釣りが来ると考えていた。そういうとこだぞ。

 

 

 いつもアビスを診察している部屋に案内すると、ケルシーは源石ポットで湯を沸かし始めた。アビスをソファに座らせて、ケルシーは机を挟んでアビスと向かい合った。

 

「少し他愛のない話をしよう。なに、まだ私の整理がつかないのでな……」

 

「構いません」

 

「では、一つ。お前は『外の世界』というものを信じるか?」

 

 突飛な話を始まり方をした。ケルシーからは特に何の反応も見られないが、少なくともアビスはそう思った。

 その話を始まり方は一旦置いておくとして、本題もよく分からなかった。ケルシーは『外の世界』と言ったが、具体的にはどこの──

 

『このテラは、箱庭だ。私は『ケルシー』という役柄を与えられたキャラクターで、それはアーミヤらも同じだろう』

 

 蘇るのは、以前の記憶。

 

『なあ、アビス。お前は一体誰なんだ──?』

 

 そうだ、昔も同じようなことを聞かれた。

 いつのことかは覚えていなくとも、それを聞かれたことはハッキリと思い出せる。

 

「──源石は、万能のエネルギー」

 

 ケルシーは淹れた紅茶を飲みながら耳を傾ける。

 

「源石は物を動かすことができる。源石は物を光らせることができる。源石は物を燃やすことができる。源石は万能のエネルギー源。そんな謳い文句を聞いたことがあります」

 

「間違っていないな」

 

 世界中の移動都市並びにこの巨大なロドスを動かしているのは源石だ。今室内を照らしているのは源石だ。先程沸かした湯は源石によるものだ。

 

「そして、代わりにボクのような感染者が生まれる。源石は万能でありながら、頼り切ることは死を意味する」

 

「それも、間違っていない」

 

「以前の、とある出来事があって悲嘆に暮れていた頃のボクはこう思いました。『ああ、なんて物語チックなんだろう』」

 

 ケルシーの返答はない。いつも通りの鋭い目でアビスを見つめている。それを咎めることもなく、アビスは次を口に出す。

 

「ボクの身に起こったことが悲劇。そう言ってしまいたかった子供の頃、けれどそんな悲劇はこのテラにありふれていることも知ってしまっていました」

 

 言葉や態度にこそ出さなかったが、ケルシーは胸中で同意した。このテラに生きる者の中で少なくない数の人々が悲劇のような過去を持っている。

 

 そしてそんな中で──ケルシーは詳細を知らないが──アビスは割合運が良かった。両親が殺された時に自分が生き延びたこと、スラムでの暮らし方を知っていたこと、拠り所ができたこと、そして力があったこと。

 それでも、アビスは自分がステージで悲劇を演じているのだと疑わなかった。当人にとっては、それ程までに辛かったことだった。

 

「だからボクは、考え方を変えたんです。いや、変えざるを得なかった。ボクが経験したことを悲劇のままに当て嵌めるため、言い訳を探しました。その結果辿り着いた答えは……」

 

 小さく、諦めた顔をした。

 

「ボクの人生が悲劇染みたものだったのはこのテラがそういう風にできてるからじゃないかな、って。そう思ってしまったんです」

 

 ケルシーは何も言わなかった。

 彼に話を促した時はまさかこれ程までの確固たる答えを持っているとは思っていなかった。精々が、あるかないか適当な根拠を述べて終わりだと思っていた。

 少しスケジュールが気になるところではあるが、もはやメンタルカウンセリングの様相を呈しているために早々切り上げる訳にいかない。

 それにケルシーとしても、独自に発展させたアビスの見解は少し興味をそそられるものだった。

 

「源石は、悲劇を作るための餌だと、最初は思っていました。ただ、源石の代替が存在しないのなら、それがもし悪魔の差し出す甘い蜜だとしても受け取らざるを得ない」

 

 アビスがようやく飲み物に口をつけた。

 

「電気というエネルギーがあるそうではないですか。ロドスでも発電所なるものを運営していると聞きました」

 

 ケルシーは首肯して返した。エネルギー資源として電気は源石に次ぐ消費量を誇っている。変換効率やエネルギー効率の面では源石に遠く及ばないが、その代わり遥かに安全だ。

 

「その電気、面白いことに物を動かし、辺りを照らし、そして燃やすことができるそうですね。確かヴィクトリアあたりの実験でしたか?アーツのようには扱えませんが、他の利用方法も見つけられているようです」

 

 ケルシーの目が捉えるのは、この世の全てを疑うようなアビスの疑念。まるで始まりからその存在を確信していたかのようにアビスは詰めていく。

 源石の、不自然さを。

 

「体が源石に蝕まれる鉱石病、或いは源石病。日の目を見ることのない、ノーリスクで源石に取って代わる可能性を持つエネルギー……さて、仰ったのは外の世界についてでしたよね?」

 

 ここまで聞けば、もう回答はわかっているが。

 

「あると思いますよ。恐らくは源石がこの世界に人為的に組み込まれた悲劇の製造機。馬鹿みたいな考えだとは自分でも理解していますが、それに対する回答はこうです」

 

 疑念、諦念、そしてその瞳に見えたのは憎悪だった。

 

「『そうとでも考えなければやっていけない』」

 

 アビスは『彼女』を殺した源石病によって殺されたい、と心のどこかで願っている。『彼女』への行き場を失った愛情が形を変えてアビスに働きかけたからだった。

 

 ただ、それが源石を許しているなどという訳ではない。鉱石病でなければ『彼女』はスラムに居なかったかもしれない。だがそれによって発生する幸せはきっと自分が看取ったあの時よりも大きいはずだとアビスは受け入れていた。

 だから『彼女』を苦しませた源石は、ふとした瞬間に砕いてしまいたくなるほどアビスの中での価値は暴落していたのだ。

 

「他愛ない話は、終わりにしてもよろしいですか?」

 

「ああ、本題に入ろう」

 

 ケルシーが一つ紅茶を口に含み、嚥下した。

 机の上に乗せた両手を組む。

 

「アビス、お前はチェルノボーグに誰が居るのか知っているか?」




さ、流石にもうミスはないはずですが……


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十七 人的資源

誤字報告ありがとうございます……!
前話ではキリが悪かったので、もう一話くらいいいかなと。
次に投稿するのは二章を書き終えた後です。


 組まれた手の指が落ち着きなく動く。

 

「そうだな……まず、ロドス・アイランドの前身とも言える組織のことを知っているか?」

 

 いいや、アビスは知らないだろう。ドクターについてロドスで出回ったとしても、『バベル』のことについての噂などは私の耳には入ってきていない。

 そんなケルシーの推測は果たして、アビスが首を振ることによって肯定された。

 

「数年前までカズデルで活動していた組織だ。名称は、『バベル』。エリートオペレーター達や、私とアーミヤ、クロージャに……件の男であるドクターの所属していた組織に当たる」

 

「ドクター、ですか」

 

 アビスの表情に怪訝そうな色が見える。ドクターの存在やその価値は知っていても、今その話をする必要性を疑問に思っているのだろう。

 だが、それこそが答えなのだ。

 

「現在ドクターはチェルノボーグに眠っている」

 

「それは……どういう意味ですか?」

 

「ドクターは数年前、生命活動に関わる甚大な被害に遭い、チェルノボーグにある『石棺』を利用した救命措置が取られた」

 

 この情報は、どうやら初耳だったようだ。驚きに身を固めるアビスから目を外して、紅茶を含む。

 

「まさかとは思いますが、その『石棺』はロドスが所持しているものではなかったり……」

 

 ケルシーは顔を背けた。

 視線の先には特筆することもない医療機器が並んでいるのみで、アビスが小さく呟いた「馬鹿ですか」という言葉は一言一句違わずケルシーの耳に入った。

 

「それはアーミヤさんの反応が正解でしょう、そんな場所にいつまでも置いておく訳にはいきませんし」

 

 ため息がアビスから漏れた。

 ケルシーの肩が少し震え出したので、アビスも一旦は責めることを止めようと思った。

 

「それで、まさか『石棺』がロドスでも実現不可能な程のものである訳ではないのでしょう?そんなものを隠れて利用するなんて、計画した人も実行した人も、そしてもし成功してしまったら関係者は軒並み頭が悪いことになってしまいます」

 

 ガン、と音が響いた。

 ケルシーが机に額をぶつけた音だった。

 

 勢いよく俯いたケルシーの頭や耳に刺々しい視線が──いや、違う。呆れているような、頓珍漢を見るような視線だった。

 

 しばらくそんな地獄のような状態が続くと、アビスのクスクス笑いが聞こえた。とても苦々しい複雑そうな顔でケルシーが頭を上げると、アビスは少しだけの困惑を浮かべながらも、微笑んでいた。

 

「ケルシー先生、ジョークは使い時が肝要ですよ」

 

 がんっ、がん!

 今度は二回音が響いた。

 

 ケルシーが勢いよく俯いて額を机にぶつけて、更にバウンドした音である。

 ケルシーにはありありと想像できた。アビスが信じられないとでも言いたげな表情でドン引いている様子が、想像できてしまった。

 

「流石にそれは大胆が過ぎると言いますか、少し阿保……勝算もあったのでしょうから、これ以上はもう責めませんが」

 

 これ以上責めなかったところでケルシーの負った傷は既に致命傷だった。赤くなった額に手をやりながら、けれど完全な復帰は出来ず、恨みがましくアビスを睨んだ。

 

「それで、どうしてそれがボクの訓練を中止することに繋がるんでしょうか?」

 

 そう言えばそんな話だった、とケルシーは思い出した。額は軽傷、精神へのダメージは致命傷、そしてどうやら頭の中身は重傷であるようだった。

 足を組み直して、なんとか威厳を取り戻す。確実に手遅れではあったが、気持ち的には随分と盛り返すことができたようだ。正直ケルシーの頭はもう手遅れだと思う。

 

「バベルでのリーダーは、このロドスのようにアーミヤではなかった。幼いアーミヤに代わって私でも、話に挙がっているドクターでもなかった」

 

 ケルシーが背凭れに寄りかかって天井を仰ぎ、右腕で両目を塞ぐ。まるで何か辛いことがあったように──そしてそのアビスの懸念通り、ケルシーにとってそれは眩しい日々で、辛い終わりだった。

 ただ、先ほどとの落差が激しすぎてアビスの感情が置いてけぼりになっている。まさか伝える側が遅れてしまうとは何たることか、戦場でそうなれば間違いなく傷を負う。

 

「バベルは当時、カズデルの長を決める内戦に深く関係していた。それも当然だ、リーダーであるサルカズの彼女こそが、その後継者候補であったのだから」

 

 ロドスの前身となった組織であるバベルは、既に国家規模の巨大な組織だった。ロドスの求人募集が絶えない理由は、恐らく巨大なバベルをモデルにしているからだろうか、とアビスは考えた。

 

「彼女の言葉には、こんなものがある。『大地は年齢を理由に慈しみを与えることはないが、子供が我々の希望であることは不変である』とな。アビス、お前は自分が大人だと思うか?」

 

「子供ですよ。少なくともアーミヤさんよりは、ボクは子供であると思います」

 

 具体的に言うと書類事務的な面で大人だった。一人で毎日熟す量は異次元の域で、世界広しと言えどもアーミヤが一番なのではないだろうか。

 

「話を流れから察するに、ボクという子供の首を真綿で締める行為はドクターという方にとって悪印象を与えるから控えたいということでしょうか」

 

「……まあ、そうでは、あるんだが」

 

「『だが』、なんですか?」

 

「もう少し言い方をだな」

 

 言い方、と指摘されるも、アビスには何が悪いのかよく分からなかった。自分が子供だと主張しすぎたことが悪かったのだろうか?それとも描写に喩えを出して生々しく言うべきではなかった?

 とりあえず、全て改善すればいいだろう。

 

「ロドスがボクを間接的に殺すことは」

 

「アビス。もしかして私で遊んでいるのか?」

 

「はい?」

 

 残念なことに、アビスは悪意など欠片も持たずに発言していた。

 

「そう、か。そうか……」

 

 実際、その通りではあった。オペレーターの人事異動では現在ケルシーの一存に多大な影響力があるため、もしアビスを戦闘から引き離すと決めれば、それは可能だ。

 アビスが普通の食品を食べられなくなったのはロドスに来て一年以上経ってからのことで、それが首を絞めていることを指すのだということは紛れもない事実だった。

 

「不満はありませんよ、ボクに出来ることは戦うことくらいですから」

 

「そうとは思わないが……」

 

 ケルシーが歯切れの悪い言葉を返すと、アビスが姿勢を正して雰囲気を一変させた。いきなりの転換にケルシーは戸惑ったが、しかしアビスが真面目に話をするのであれば、ケルシーは真面目に受け止めるべきだ。

 子供が何かに真剣になった時、それを大人はいつだって応援するべきなのだ。

 

「ボクには、もしかするとエンジニアの素質があるかもしれません」

 

「はっ?」

 

 いきなり素っ頓狂なことを言い始めたアビスに、思わず変な声が口から漏れた。一瞬思考に脳のリソースを全て割いてみたものの、答えは得られなかった。

 ただやはり真意は別にあったようで、アビスが慌てたように撤回する。

 

「ああいや、エンジニアである必要はないんです。鍛治師だとしても、芸術家でも構いません」

 

「何の話だ……?」

 

 ナチュラルに意味が分からなかったが、今度はアビスに慌てた様子は見られなかった。であるならば今の自分の困惑は当然のものであるのだろう。そうでなければケルシーはこれから話を通じない世界で生きることになってしまう。

 

「ボクには、もしかしたら戦闘オペレーターとして生きる以外の道があるのかもしれません。他の生き方を探るのは、ボクにとって間違いなくプラスになる」

 

 ケルシーからすれば、アビスは才ある若人だ。可能性を模索することは大凡メリットにしかなり得ないだろうと、その考えに同意する。

 だがアビスの本当に話したいことは別にあった。

 

「では、視点を移してみましょう」

 

 右の二の腕あたりにプリントされているロドス・アイランドのロゴタイプを、アビスが指でなぞって強調する。ケルシーの目は未だ言いたいことの核心が掴めてはいない。

 これから話すことは分かるが、そこから何を言いたいのか。ケルシーは数年来の付き合いであるが、アビスの思考はやはりずっとトレース出来ないままだった。

 

「ボクにはロドス・アイランドしかない。どんな生き方を選ぼうと、ロドスとの付き合いなくして将来はありません」

 

「だから、なんだ」

 

「ドクターの救出に同行したいと思います」

 

 どうしてそうなった?

 ケルシーの頭が目まぐるしく回転する。

 

 そして数秒で答えに辿り着いた。

 

「つまり、アビスの覚悟をドクターに見せたい訳か」

 

「ええ、その通りです。ケルシー先生はつまり、今のロドスに万が一でも幻滅されたくないのでしょう?ドクターさんは優れた戦術指揮官でいらっしゃるとも聞きますから、ボク達オペレーターの情報は閲覧されるはずでしょう。子供が未来を支える大切な資源であるならば──」

 

「資源、だと?」

 

 部屋の中の温度が、体感で五度程も冷え込んだように感じられた。ケルシーの眼光は未だかつて見たことのない鋭さと冷たさを持ってアビスを射抜いた。

 

「……すみません、失礼しました。子供が未来の希望そのものであるならば、たとえばポプカルさんのような存在は心象に良いでしょう。そしてそれが一人以上居れば、尚のこと良いはずです」

 

「却下だ、下がっていろ。鉄砲玉を作るつもりはない。ロドスは脆弱な組織であってはならないが、それは冷え切った組織であることを意味しない」

 

 まるで敵と刃を向けあった時のような緊張感が部屋を支配する。ケルシーの視線はアビスの目に固定されていて、アビスはそれから目を逸らすことができない。

 アビスがアーツで相手の恐怖を掻き立てて竦ませるのとは訳が違う。ケルシーの威圧はアビスの体を縛り付けて微動だにさせず、そしてそれはただの意思のみによって行われていた。

 

「アビス、お前は先程何と言った?」

 

 声も、空気も、視線も、全てが重い。

 アビスの額から冷や汗が垂れて落ちる。それがまるで見えていないかのようにケルシーはアビスの両目を見つめ続けている。

 

 恐怖が湧いた。

 アビスが扱っている恐怖は、本能的なものがメインだ。鉱石病が齎す死を恐れる本能、『彼女』という大切な人を失ってしまう恐怖、思い出という自分の一部分を侵害される恐怖。

 それが本能のみで構成されている訳ではないだろうが、しかし文明的で理知的と言うには足りないものが多すぎる。

 だからこそ人は逆らえないのだろうが……

 

 ケルシーが与える恐怖は、正反対のものだった。

 バベルに所属していた頃に受け継いだ信念や信条とも言うべき考え、それを蔑ろにした者には鉄槌を下す。

 

 そして今のその対象は、アビスだった。

 

「『子供が未来を支える大切な資源』と、言いました」

 

「ああ、そうだな。お前は子供を資源と言って私を説得しようとした訳だ。よりにもよって、私がそれを説いた直後のことだ。そうだな?」

 

「はい」

 

 ケルシーが立ち上がり、いつからか出ていたMon3trが机を横に吹き飛ばした。机の足が掠った膝の辺りが少し痛んだが、アビスはそれを顔には出さなかった。

 否、痛痒を顔に出すという生理的な反応すら許されないまでにケルシーがアビスを威圧していた。

 

 ケルシーがアビスの目を覗き込む。

 

「なぜ、そう言った?お前の行動には理由があったはずだ、少なくとも人を資源と呼ぶには理由が必要であるべきだ。なあ、何故お前はそう言った?軍の士官などでもない一般人のお前が、何故だ」

 

「ボク、は……」

 

 言葉に詰まる。アビスには自覚こそなかったが、自分のような存在を資源だと認識する機会が確かにあったことを、既に思い至っている。

 

 アビスはそれを言うべきか迷っていた。ケルシーの怒りには触れたが、理由はないと告げても、ケルシーがアビスに対して冷たくなる程度で済むだろう。

 もし理由について言ってしまえば、『彼女』にまで到達するかもしれない。ロドスの諜報能力は一個人に推し量れるものではないが、少なくとも侮るべきでないことだけは確かだった。

 

 だが逡巡の末に出した結論は、それに反していた。

 

「ボクには、一時期、少年兵になることを検討していた時期があります」

 

「なんだと?」

 

 ケルシーがアビスの頬に手を添える。緊張からか蒼白になっているアビスの頬に、いっそ不自然なまでに、そっと。

 目の奥を、アビスの中身を凝視する。

 

「言い訳に、聞こえるのでしょうけど……ボクはそのように、自分を資源にして、生きようと、そう踠いていた頃の記憶が、鮮烈に残っています。だから、なのかもしれません」

 

 アビスが途切れ途切れの弁明を行う。至近距離で交わる視線は、しかしそれ故にケルシーの感情を読み取らせなかった。

 

 アビスの目に灯る思いは、ケルシーの目で以ってしても完全には理解できなかった。両親を殺し、しかしその復讐をアビス自身が許せない、あの少年兵へと向けるそんな複雑な感情は。

 自分の感情を押し殺してその立場に成り代わる、それは憎悪と鬩ぎ合う程に魅力的で、スラムの劣悪な環境も作用してアビスの頭を占有した。それに悩まずスラムを過ごすことは、親を失くし、不安定な子供だったアビスには不可能だった。

 

 しばらくして、ケルシーが大きく息を吐いた。それと同時に弛緩した空気が伝播して、すぐに室内は入室時と概ね同じような状態になった。

 

「無遠慮に踏み込んで、すまなかったな。辛いことを聞いただろう」

 

「いえ、こちらこそ申し訳ありません。少なくとも声に出すべきではありませんでした」

 

 空気が、再度冷たくなる。

 しかしそれを示すケルシーの視線にアビスは気付かなかった。自分が地雷を踏んだことにすらアビスは気付かず、息を吐いて体を弛緩させていた。

 

 声に出すべきでない、というのは何だろうか。少なくともケルシーに対する尊重ではある。だが、それは同時に資源と見做すことを正しいと思っているように思える言葉だった。

 

「アビス、では正直に答えてくれるか?」

 

 紅茶を飲み、すっかり緊張から解き放たれたアビスは特に何の心構えもしていない。

 

「お前は、お前にとって何だ?」

 

「それは、正直に言えば、資源の一つでしょうか。ああいえ、大切だとは思っていますよ。それに、鉱石病が持ってくる死は怖くて仕方がありません」

 

 ただ、と紅茶を一口飲んで答えた。

 

「ロドスの中で一番客観的に見て価値がないのはボクでしょう。個人的には、当たり前ですけどボク自身が大切ですよ」

 

 そしてケルシーの方へとようやく顔をむけて、固まった。

 アビスのカップを持つ手が完全に動きを止め、底の方に少しだけ残っている紅茶は波紋一つ立てない。

 

 ケルシーの手が伸びる。

 

「ぁ、いや、ボクは──へっ?」

 

 ソファに座ったまま、抱きすくめられたアビスは身動ぎ一つ許されなかった。カップを持っているせいで右手が埋まり、片手では何か行動を起こすこともできず、ただされるがままになっていた。

 

「アビス、私はもしお前が突然鍛治を始めようが構わない。龍門を訪ねて知見を広めるのも良いだろう。それくらいに、尊重したいと思っている」

 

「いきなり、何を……」

 

「お前は、ロドスの大切なオペレーターだ。私にとって、私たちにとって、君は大切な存在だ」

 

 混乱の渦中から、アビスは一時的に抜け出した。

 ケルシーの言葉を受け止めたかったからだ。ケルシーの言葉を真剣に聞きたかったからだ。

 

「誰かが抜けては維持できなくなる組織、そうあるべきでないのは分かっている。だからもし君が脱退したくなった時には、説得こそすれど強制することはしない」

 

 少しだけ、腕に力が込められる。

 

「ただ、君は感染者だ。どう努めたって差別に会うのは免れない。だから、どうか君はロドスで、一人の『人』として生きてほしいと、私は切に願う」

 

 紡ぐ言葉はケルシーの(いつ)ろわざる本音だ。アビスの感じる暖かな体温は、普段外に出ない優しさをアビスへと伝えているかのようだった。

 

「そして、もし私たちが君を説得することができたなら、その時は今度こそ君の力になりたい。ロドスとして君の支柱になりたい」

 

 一瞬だけ、脳裏にフラッシュバックしたいつかの日の情景。視界に映るのは、同じ色をした『彼女』の髪だった。

 

 ああいや、違う。

 今ボクが見ているのはケルシー先生で……

 

 アビスの脳が過去と現在を混濁させ始める。

 目尻から零れ落ちた一筋の涙でさえも、アビスには気づくほどの余裕がなかった。

 

「分かりました」

 

 アビスの声は、ケルシーに感化されてか、聞いた者にはとても優しく思えた。

 

「もしそんなことになれば……」

 

 もし、説得されてしまったら。

 ロドスに絆されてしまったとしたら。

 

 

「その時にはきっと、昔の話をしましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「失礼する。ケルシー先……邪魔したな」

 

 扉が閉まった後、二人は無言で腕を解いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十八 購買部に居る変人

皆さん、お久しぶりですね(白目)。
二章書き上がったので投稿します。二十七話が最終話です。


 

 ボクが初めて見たエリートオペレーターは、誰だったか。Aceさんだったような気もするし、他の誰かだったかもしれない。でも時系列的にはLogosさんやWhitesmithさんでもおかしくない。

 

 ……Mechanistさんは、今どうしているだろう。今度、またアーツユニットについて話をするのも良いかも知れないな。

 

 

 最高のコンディションを保ち続けて、そろそろ四日経つ。それでもまだケルシー先生から呼び出しがかかることはない。

 ロドスの厳戒態勢はずっと続いている。

 

 ヴイーヴル用に調整されていると言われた訓練室の壁から腕を引っこ抜く。

 パラパラ音を立てて落ちていく破片を見て、ボクの口からは思わずため息が漏れた。

 

「どうした?」

 

「……いえ、少しロドスの規格外さを思い知っているだけです」

 

 もう少し言及すると、ロドスに所属するヴイーヴルの規格外さ、だけど。

 部屋の中を見渡せば、ドアと源石灯以外に無事である場所は残念ながら存在しないことがわかる。ケルシー先生が言ったからには、本当にヴイーヴルの身体能力には耐えられる設計だったのだろう。

 

「この部屋はヴイーヴルが運動しても傷がつかないように作られているそうですよ」

 

「ほう、そうなのか。確かに、想定よりも崩れにくいとは思っていたが」

 

「ステーキを食べてもお肉の違いに気付けない人みたいなコメントですね」

 

「私は料理の違いは分かる方だが」

 

 その返答は予想外だった。少し苦笑し話を流して、というか腕を構えて訓練を再開する。

 

 サリアさんの重心が僅かに前へと滑った。何度も見ていなければ気づけていなかった特徴的な足の運び出し。

 サリアさんの足が床を蹴り、一瞬にしてボクへと肉迫する。けれどそれは何一つとして構わない。

 

 ボクの足が追いつく。

 

 最良の角度で、最速を維持しつつギリギリまで視界外からサリアさんに当てることを重視した『後の先』を取る蹴撃。

 

 ──の、一つ目だ。

 

 完璧なタイミングで入れた横合いからの蹴りを、サリアさんは反則的なバックステップで掻い潜り、ボクの顎を狙って拳を振る。

 だけどそれはやはり回避したせいで反則的なほどのスピードではない。サリアさんの拳に乗せられているのは、ヴイーヴルの中でも精強なサリアさんの膂力と幾らかのスピード、それだけ。

 

 当てる気のなかった、ただ速いだけの蹴りを放った左足を素早く元に戻す。

 続いて繰り出す攻撃の選択肢は、サリアさんの攻撃よりも相手にダメージを負わせられる何かで真っ向から打ち据えるか、回避しつつ軽い攻撃を食らわせるか、の二つだ。

 

 そしてボクの選択はそのどちらでもない。

 

 サリアさんの豪腕を無理にでも両手で捉える。僅かにサリアさんの表情が変わる。

 『投げ』なんて攻撃は、ヴイーヴルである以上はそこまで頻繁に取る行動ではないのだろう。サリアさんからすれば盾で受けて殴れば良いだけなのだから、ボクの行動をシミュレートすればするほど除外してしまう。

 

 先程挙げた二つの選択肢は、恐らくサリアさんが脳裏に描いたであろうもの。そしてサリアさんならボクが二つ目の選択肢を取ると考える。

 だから、()()()()()()()()()()()()()。サリアさんが相手の回避を感じ取った時点でもうサリアさんの攻撃は回避なんて出来ない。

 少なくともボクなら何打目かで追い詰められて打ち据えられるのは分かりきっている。

 

「はあぁッ!」

 

 拳を内側に全力で捻る。

 人体の構造上、その方向には曲がらない。これさえ決まってくれればボクには勝利の二文字が待っている。

 

 そして、ボクの持っていた腕は曲がらなかった。

 捻ることはできず、軌道を変えることすらできない。人体の構造から曲がらないからサリアさんの姿勢が崩れる、なんて都合の良い考えだった。

 まるで、地面を下へと押し込もうとしているみたいだ。大地を押してテラの軌道を変えようとしているみたいに、サリアさんの腕は一切影響を受けなかった。

 

 ロドスのオペレーターは規格外。

 だとしてもこれは少し理不尽だと思う。

 

「ふんっ!」

 

 骨の砕ける音がした。

 

 

 

 瞼を押し上げる。

 視界が暗転する前に感じていた腹部の痛みは綺麗さっぱり無くなっていて、上半身を起こすのにも何ら問題はなかった。

 

「アビス」

 

「はい」

 

 名前が呼ばれたのでそちらを向くと、見覚えのあるフェリーンの女性がボクの頭に手刀を落とした。何故こうなったのか全く見当もつかない。

 本当に、どうして怒られてるんだろう?

 

「私はお前に訓練を促した。それは事実だろう」

 

「はい」

 

「何故一日に何度も私の世話を焼かせるような訓練をしているんだ。昨夜言ったことを忘れたか?」

 

「『怪我をしないトレーニングをしろ』と」

 

 二回目の手刀がまたボクの頭を捉えた。

 

「しかし、ケルシー先生。練度を高めなければ作戦で失敗する確率が高まってしまいます」

 

「サリアから既に褒められていたが」

 

「まだ勝てていません」

 

 三度目。

 

「阿保が。カーディに引かれてもいいのか」

 

「そろそろ体を休める必要がありますね」

 

 四度目は拳骨だった。

 ケルシー先生の意図があまり読めなかったけど、考えてみれば分かることはある。まず、訓練に集中することは悪くないはずだ。だから問題なのは怪我をしてケルシー先生の手を煩わせることと、カーディさんに引かれてしまうこと。

 よって最適なのは休憩と称してアーツの訓練をする時間を増やすこと。これで怪我の頻度は下がるし、カーディさんから見ても無茶なトレーニングではないはず。

 

 頻繁にそういうトレーニングをしておかないと、『通路等の閉鎖的状況』で『ついアーツを使ってしまうほど感情が昂っている状態』になれば、ボクは跳ね返ってきたコードによって情動をオーバーフローさせてしまうだろう。

 そうなれば、どうなるのだろう?

 

 まあいいか。

 それは今から分かることで──

 

「ではその間訓練室の鍵は預かっておく」

 

「いえ結構です」

 

「預かっておく」

 

 Mon3trに押さえつけられて強引に鍵を奪われてしまった。仕方がない、今度からは簡単には取り出せない場所に入れて持ち運ぶことにしよう。

 訓練はまた、時間が空いた時にすればいいか。

 

「それと、今日中に作戦会議を行いたい」

 

「目処が立ったんですか?」

 

「ああ。Scoutの隊が今から数時間以内には帰ってくる予定だ」

 

 なるほど、あの人たちが帰ってくるのであれば確かに話も進むだろう。ただの救出であればその戦力を出してまで首を突っ込む必要は感じられないけど、ドクターさんという有能な方が対象で、更に何と言ってもカーディさんが参加する以上戦力が多いに越したことはない。

 そうだ、戦力はまだまだ少ない。だから参加がほぼ決まっているオペレーターの実力は今のうちに伸ばしておきたい。

 

「ではボクはそれまで訓練を──」

 

「Mon3tr」

 

「休んでおきましょう」

 

 ケルシー先生は、やっぱり過保護だ。

 

 

 

 診療室を出て、ロドスの通路をしばらく歩く。

 現在ボクが目指しているのは、訓練室でも居住区でも食堂でも執務室でもない。

 

「へいらっしゃい!」

 

 クロージャ(変人)さんの運営する購買部だ。

 

「ちょっ、心の中(地の文)だからって許されると思うなよ!この中二病コードネーム!」

 

 また何か変なことを言ってる。ボクはただ購買部を運営するブラッドブルード(奇人)さんの名前を心の中で読んだだけなのに。

 

「また言った!」

 

 本当に何の話をしているんだろう、この人(頭おかしい)は。

 

「アレを一週間分お願いします」

 

「流石に言い過ぎじゃない!?あたし泣くよ!?」

 

「一週間分お願いします」

 

「キミ、本当はツッコミ役なんだからね?シリアス要員だからね?」

 

 そうは言っても、この人の前でツッコミに回るなんて殺人鬼にナイフを渡すようなものだと思う。ボケを誘発してどうするのか、ケルシー先生くらいになると抑え込めるんだろうけど。

 

「で、一週間分ね。他には?」

 

「修理を頼んでいたアーツユニットの受け取りを。あとは損耗しにくい武器を適当に見繕ってください」

 

「オッケー。鈍器でもいい?長く使えれば何でもいい感じ?」

 

「特に他の注文はありません。ヴイーヴルなので重くても構いません」

 

「それは知ってる。じゃあちょっと待ってて」

 

 クロージャさんの姿が購買部の奥へと消えていく。

 一応、心の中では謝辞を述べておく。武器のエンジニアさん方との仲介をしてもらえるクロージャさんには、本当に頭が下がる。

 あまり多くの人と関わりたくないボクにとってはとても心強い味方。それを面と向かって言うことは恐らく今後ないと思うけど。

 

「なんか褒めてるー?」

 

 奥の方から声が聞こえてきたので、思考を打ち切って購買部の中を見回していく。思春期の子供が親に直接感謝を伝えることと同じくらい、この人を褒めるのは癪だから。

 ボクは今まさに思春期で、クロージャさんは知り合いの中でも付き合いが長い。そういう意味ではある程度間違っていないのかもしれない。

 

 ところで、純正源石まで売っているこの購買部は一体どの層をターゲットにしているのだろう。

 源石をよく使う人は……イフリータさんとか?いや、イフリータさんの持つアーツユニットの燃料は液状源石だから、他で何か……

 

 ガチャ、と扉が開いた。

 

「クロージャ、これのメンテお願い……って、あれ?」

 

 声が聞こえた瞬間身を隠した。紺色の長髪が商品棚の向こう側で揺らいでいるのが見える。

 床に置かれたのは、垂れない程度に拭き取られただけのチェーンソー。勿論、それを汚しているのは屠ったであろう敵の血だ。

 要するに、エリートオペレーターのブレイズさんだった。

 

 また扉が開く音がした。彼女はよく色んなオペレーターと喋っているけど、今が見た通りの任務終わりと言うなら一人に限られる。

 

「ブレイズ、退いて。私の入るスペースが無い」

 

 すなわち、ブレイズさんの相棒であるグレースロートさんだ。

 

「よーよー戻ったよー、ってあれどこ行った」

 

「あっ、クロージャ。何その袋、誰の?」

 

「んー?まあまあ、ところでブレイズは何の用?」

 

「これのメンテよろしく、ってやつ」

 

「グレースロートは?」

 

「次の任務までに矢を調達しておきたい」

 

「オッケー、クロスボウの矢ね……」

 

 クロージャさんの持つペンがメモを走り書きした後、一瞬棚に隠れているボクと目が合った。

 きっとなんで隠れているのか聞きたいのだろう、正直ボクが隠れたのは半ば染みついた条件反射なので気にしないでもらいたい。

 

 ただ流石のエリートオペレーターか、クロージャさんの一瞬のアイコンタクトはがっしりと捉えられてしまった。

 

「そこに誰が居るの?──あっ、もしかしてアビス?」

 

「なっ、どうして分かったんですか」

 

「黒いツノが見えてたから」

 

 棚から顔を出しておいて、動揺に固まる。グレースロートさんの目から放たれる刺すように冷たい視線が辛い。まるで初等部にさえ入っていない子供のようにはしゃぐ大人を見ているかのようだ。

 苦々しい顔になっているのを自分でも自覚しながら、クロージャさんの持っていた袋を手早く受け取る。中身──特製の圧縮ビスケット──が見えたところでボクの鉱石病について正確に推察されることはないだろうけど、大事をとる。

 

 ブレイズさんに気付いた様子はない。

 グレースロートさんは少しだけ訝しむようにボクの持つ袋を見たけど、この人がピリピリしているのはいつものことだ。

 

「そういえば、御二方はチェルノボーグのことについて何か聞いていらっしゃいますか?」

 

「チェルノボーグ?なんか最近燻ってるウルサスの移動都市、のことだよね」

 

「その口ぶりですと、やはりまだ伝わっていないようですね」

 

 ケルシー先生から伝達されていることを簡潔に説明する。ボク自身のネットワークが狭いので、伝達されていること以上は話せない。

 だからそんな質問しないでくださいグレースロートさんの目つきがそろそろ詐欺師を見るものなんですが。

 

「ボクは知る必要のある部分しか知りませんから、詳しくはケルシー先生にお聞きになってください」

 

「あっ、じゃあ一緒に行こうよ!アビスも参加するんでしょ?」

 

「いえ、折角のお誘いなのですが」

 

「よーし、ケルシー先生はどこだ〜!」

 

「あの」

 

 あ、グレースロートさんがそっぽを向いた。もしかして少しは良心の呵責とかあったのかな。

 ブレイズさんの肩によって腹部が押し込められる。ボクが逃げようとしたとは言えこの体勢(お米さま抱っこ)は中々キツいものがある。

 

 ブレイズさん、逃げようとしないのでそろそろ下ろしていただいて……あっ、はい。ケルシー先生のところまではこのまま運搬、と。

 

 しかし流石に長時間このままなのは心窩にクると言いますか、口から出ると言いますか。あとグレースロートさんの目が冷ややかでそちらも心にクるのですが。

 

「はいはい、ずり落ちないの。よいしょ、っと」

 

 ぐはっ……

 

 

 

 

「えぇ……あんた、それ大丈夫なの?あんなイカれ女に目をつけられてるなんて首吊りものじゃない」

 

「目の前にも一人──ごほっ、ごほっ。大丈夫ですよ」

 

「今何て言いかけたのかしら?」

 

「大丈夫ですよ」

 

「決めたわ、あんた後で絶対殺す」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

十九 太陽と月

 

 

 ケルシー先生が端末をタップすると、今回の救助作戦に動員されるオペレーターの一部がプロジェクターによって映し出された。ホワイトボードに映るのは四隊と、一人。

 この場に居るのはそこから一隊を除いた三隊と一人だ。

 

「アーミヤを入れた医療オペレーターを軸とするアーミヤ隊が石棺を直接目指す救助隊として、行動予備隊A4、行動隊A2、そしてアビスがこの区画で、それぞれの範囲での警戒及び非常時の安全確保を担ってもらう。隣接する他区画の隊とは別紙の全体配置図から連携を取ることが望ましい。続いて撤退についてだが──」

 

「すみません」

 

 ボクが声のした方を見ると、ピンク髪のコータスが困惑した様子で手を挙げていた。

 

「あの、間違いであって欲しいのですが……アビスさんは一人で作戦に臨む、ということなんですか?」

 

「アビスが一番効率的に動くにはこれが最適だ──と、アビス自身から宣言されている。ああ、一応言っておくが私は反対したからな」

 

「よろしくお願いします」

 

 困惑が伝播していく。半ばそれは予想できていたことで、当然だと思う。

 ウルサス帝国の中で昨今起きている暴動や、それを政府が鎮圧する過程で巻き込まれたとしたら、ボクたち民間人に打つ手はない。隊を組み複数人で行動している時よりも闘争が困難な単独行動において、そのリスクは倍以上に跳ね上がる。

 いくら効率の話をされたってボクのアーツについて誰も知らないし、今までロクに関わりを持ってこなかった人がそんなことを言い出せば何を勝手に、と思う。

 

 ただ、それでも、足りないのだから仕方がない。

 

 ボクがドクターさんとやらに見せる姿は鉱石病を恐れている群衆の中の一人であってはいけない。鉱石病を抱えて尚尽力する一人の子供でなければいけない。

 そして、ドクターさんはロドスに入らなければならない。

 

 いや、実際は、ほぼ確実にロドスに所属することになると思う。だってロドスは人望溢れるリーダーの信念を受け継いだ組織で、ドクターを受け入れる姿勢ができていて、しかもそれを成し遂げたのはリーダーを共に支えた同僚だったんだから。

 だからこれはただの自己満足だ。自己満足でボクはロドスという企業に要らない心配を掛けさせている。ただ、それを分かっているであろうケルシー先生はそれを容認した。

 

「では撤退時だが、行動隊E1がアーミヤ隊とこの地点で合流する手筈として、また近辺にあるブレイズ隊のエアボーン地点が天災によって──」

 

 ドクターさんを、ロドスの手に。

 それはケルシー先生にとって重大な意味を持つことをボクは分かっている。

 

「E4偵察部隊はこのポイントから──」

 

 結果を最良にしてみせる。

 それはケルシー先生を手伝いたい、ボクの身勝手な我儘だった。

 

 

 

 長い会議が終わり、月が地平から顔を出した。作戦決行は明日の午前からで、それ以降は天災が降る可能性の高い期間に突入する。

 つまり明日を過ぎれば最悪ドクターさんは永逝されて、数年どころか果てのない眠りにつくことになる。

 

 

 ──もし、ボクが心変わりすることなくそれを伝えられたとして、果たして何か行動できただろうか。

 

 

 もしできなかったとして、それがどうなるという訳でもないのに思案する時間が勿体ない。そう思って、そう切り捨てて、それから逃げて、ボクは気晴らしに艦内を散策し始めた。

 

 

 

 甲板に吹き荒ぶのは冷たい風。

 ロドスの航路によると、そう遠くないうちに龍門という名前の都市と接近するらしい。

 

『直に、この真っ暗な景色も照らされる。しかしそれは始まりに過ぎないということを、私たちは覚えておく必要がある』

 

 訓練初日、あの別れ際にケルシー先生がそう言っていた。ドクターを手に入れる未来と重ねているのだろうか。それともただ単にそれが嚆矢となるのか。

 ──そうであるなら、何が始まるのか。

 

「貴女は知っているんですか?」

 

 宵闇に満たされていた屋上階の影。

 濡羽色の髪を靡かせて、隠れていたクロージャさんが姿を現した。

 

「どうだろうね、あたしには判別できない」

 

 気配に気付かれた動揺を押し殺してか、少しだけ強張った動作でクロージャさんはやれやれと肩を竦め首を振った。

 言動の全てが疑わしく思えて、ついクロージャさんを見つめる。

 

「本当だよ?自分が何も知らないことを知っているアビスくんとは違って、あたしにはもう何が本当なのかよく分からないんだ」

 

 トトン、と軽やかなステップを踏んで、クロージャさんは屋上の端に立った。そのまま腰を下ろし、足を揺らしてロドスの壁を叩く。

 何も知らないボクは、クロージャさんから数メートルの場所にある丁度いい突起に座った。

 

「アビスくんは、バベルって知ってる?」

 

「少しは、知っています」

 

「へえ。頑張ってるじゃん」

 

 どこからか出したドリンクをボクに投げ渡す。その顔はいつも通り何を考えているのか分からない。

 

「じゃあリーダーの名前は?」

 

「知りません。サルカズの女性だとは聞いています。カズデルの後継者候補だったということも」

 

「なるほどねぇ……」

 

 何がなるほどなのかとボクの視線が刺し貫いて、しかしクロージャさんは既に沈んだ太陽の方角を見つめて語らなかった。ドリンクに口をつけて、クロージャさんは一気に呷った。

 ボクに投げ渡されたのは長い缶のものであったけど、クロージャさんが持っていたのは短くて小さい。何秒かすれば、クロージャさんは口につけていた缶を緩慢な動作で下ろしていった。

 

 ボクには飲めない炭酸飲料を横に置いて、ボクはクロージャさんの見つめる先を追った。

 

 太陽は、地平線に隠れている。

 

 月と星々は、消えた太陽に代わってボク達の(しるべ)となる。

 太陽が沈んだ後に、それを惜しんで追いかける人はそう居ない。また明日も昇る太陽に固執する必要はない。無駄だと割り切って、星空でも堪能するのではないだろうか。

 

 もし、もしも太陽が墜ちてしまったら、人々はどうすればいいのだろう。代わりになってくれる月や星を探すのだろうか。それとも、自分たちの住む星を掘って、底が見えているエネルギーを更に消費させるのか。

 

 ボクには少しだけ分かることがある。きっと、人々が最初に唱える言葉は「ありえない」だということだ。それで次は太陽が本当に戻ってこないことを確認して、どうしたら自分の住む星がそうならないかを考える。

 ただ、もしその後で太陽に代わる何か()を見つけられなかったら、その時のことは分からない。

 

 『彼女』(太陽)を失ったボク(人々)ロドス()を求めて旅に出る。

 きっと、本質は変わらないのだと思う。

 

 ケルシー先生の偉大さが身に染みて理解できたような気がした。あの人は太陽を失くした後、他の天体に住むアーミヤと協力して月を作った。それはいつしか本物の輝きを得て、他の天体でさえも不思議な力で吸い寄せる。

 

 クロージャさんはどう思っているのだろう。

 太陽を欲してしまう時があるのだろうか。

 

 それとも、もしかして──。

 

「純正源石を買うのは、ドクターさんですか?」

 

 小さな反応が、けれど確かに確認できた。

 クロージャさんの星が選んだのは、消えた太陽を欲することでも、人工の太陽を作り上げることでも、況してやその偽物の太陽に吸い寄せられることでもない。

 

 ドクターさんを自分の中で太陽にしてしまえばいい。クロージャさんにとっての月は、最初からそこにあったのだから。一度眠りから覚めれば光り輝いて宇宙を照らすような、そんな都合の良い存在があったのだから。

 

 ──なんて、ボクらしくもないことを考えた。

 

「クロージャさんも、ケルシー先生も、同じなんでしょうか。クロージャさんにとっての月が、手を加えられて太陽になる。そしたらみんなハッピーですね」

 

 クロージャさんは何も言わない。

 感情を掻き立てようとしてみたけど、クロージャさんは何も言葉にしない。

 

「消えた太陽に見向きもしないのであれば、それで幸せになることができたんでしょうけどね」

 

 答えない。いつもはうざったいくらいのブラッドブルードは只管に沈黙を貫いていた。しかしそれは、むしろボクにとって上手くいっていることを示していた。

 湧いたバベルへの好奇心を満たすため、クロージャさんの感情を刺激する。珍しくボクは他者の事情に深入りするという、『不正解』の選択をしていた。ああ、この時のボクの思考は本当に良くなかった。

 

 静かな甲板で、時間だけが過ぎていく。

 

 

 月が昇る。

 

 

 黒い髪が風に揺られて月光の下へと躍り出る。しっとりと湿気を孕んだ髪は返って目を背けたくなるほどに優美な輝きを纏っていた。

 

 クロージャさんの放り捨てた缶が、ロドスの下の方で軽い音を立てた。小さな体の動きが発する微細な衣擦れまでもが耳へとこびりつく。

 

 

 風が鳴いた。

 

 

 ツノに巻きついた鬱陶しい髪を手櫛で梳いて、撫でつける。夜風の吹く甲板はとても静かで、吊り下げ式の源石灯の揺れる音がその静寂を切り裂いた。

 

 次第に風声も収まって、クロージャさんの声が突然響いた。

 

「アビスくんって、やっぱり人と接する経験が足りてないね」

 

 棘のある言葉。

 感情の発露。

 

「君にとって、ここが月でもないくせに」

 

 その毒舌は、ボクが思っていた以上にボクへと牙を突き立てた。取るに足らないマナー違反の好奇心は、ボクに虎の尾を踏ませた。それを、ボクはこの時遅れて理解した。

 反論したくて、反論できなくて、でもそれを認める訳にはいかなくて、脳に押し寄せる葛藤がエラーを生み出した。

 

 それでも、ボクはもう月を見つけたはずだったんだ。太陽の代わりとなり得るものを、ボクは見出したはずだったんだ。

 

「まだそうじゃなくたって、ボクは」

 

「君にとっての太陽は人なんでしょ?分かるよ、君ってそういう顔してる。誰かに頼らないと生きられない──って人の顔」

 

 ナイフのように尖った言葉遣いはボクの神経を逆撫でた。

 ああいや、ダメだ。先に挑発したのはボクの方なんだから、笑って受け流さないと。そんなことを考えた。

 笑えはしない、受け流せもしない、幼稚な精神で大人ぶって、そんなことを考えた。

 

「ロドスが月?あはは、笑える」

 

 クロージャさんの笑い方は、まるで本心から嘲笑しているようだった。いや、本当にそうなのかもしれない。ボクにはそこまで関係ないことだったけど。

 

「君一人に注がれた感情と、平等に降り注ぐ庇護。今の君は、ひょっとすると源石になって消えても思い込み続けるかもしれないから言っておくね?」

 

 クロージャさんが振り返り、ボクと目が合う。

 

「その二つに差が無い訳ないでしょ。少なくとも今のロドスは、君が満足できるようなものじゃないよ。決して、ね」

 

 風に髪が靡く。

 

「ドクターが起きて始まるのは、ただのドクターの物語だよ。二部構成なんて羨ましいよね、間違いなくあたしたちより制作費にお金がかかってる」

 

 顔を元に戻す。

 

「所詮、あたしたちはあたしたち。モブキャラは黙って背景に居るのが一番だよ、っと」

 

 揺らしていた足を戻してクロージャさんは立ち上がる。

 はためいた服の裾を押さえて、乱れた髪を直して、そしてそれだけだった。

 

 クロージャは空になど目を向けず、甲板から去っていった。

 

 

 

「それで、どうしてそんなに怒ってるのよ」

 

「関係ないでしょう」

 

「関係ない訳ないでしょう、ここに居るんだから」

 

 珍しく画材を持っていないシーさんがボクを見て目を細める。それは本当に珍しく、ボクとの会話と、それによるボクが抱える問題の解決を狙っての行動だった。

 

 意外性に少しだけボクの拒絶が剥がれ落ちて、その隙間からこじ開けるようにシーさんが距離を詰める。

 

「ほら、話しなさいよ」

 

 床に座って壁に寄りかかっているボクの両肩に手を置いて何度も揺さぶる。何度か勢いが強過ぎて後頭部を壁に打ち付けて、それなりの痛みが伝わってくる。

 

「分かりましたから、やめてくださ──ちょっと、シーさん!」

 

 ボクに──恐ろしくも文字通りの意味で──更なる揺さぶりをかけてきたシーさんの両腕を掴んで強引に止める。シーさんが痛みを感じるほど強くは握らず引き剥がすように力を込める。

 ギチ、と両肩への負荷が強くなった。少なくともボクが何か話すまでは手は離さないらしいと直感で理解した。

 

「……今から数十分前、甲板でのことです」

 

 

「つまり、何をどうしたいの?」

 

 恐らくだけどイマイチボクの行動原理が理解できず、シーさんは首を傾げた。そしてその問いかけに返せる言葉を、ボクは持っていなかった。

 どうしたいのかなんて、分からない。

 

「それが分かっていればこの通路には居ませんよ」

 

 食事も済ませているのだから、この通路に居る理由なんてない。ボクの言いたいことはそれだけじゃなかったけど、決してそれを否定する内容でもなかった。

 シーさんが口の端を僅かにひくつかせた。

 

「それはそれでムカつくわね」

 

「だからどうという訳でもありませんけどね」

 

「それを言うのは私なのよ」

 

 そうですねと返すと、無言のままに頭を掴まれて振られた。すぐに気持ち悪くなったので即座にそれはダメだと制止したけど、結局のところボクに拒否権はなかった。

 しばらく経ってようやくシーさんが満足して、気分の悪くなったボクは壁に凭れながら体力の回復を測っていた。

 

「貴方はもしかして、後悔してるのかしら」

 

「後悔ですか?」

 

「ええ、後悔。貴方って最近ケルシー先生に絆されていたじゃない?」

 

「自覚はありませんが」

 

 そんな風に見えていたのか。ただそれは兎も角として、あまり外に出ないシーさんがそうもボクのことを理解できるものだろうか?

 でも思い当たる節はあるし、的外れなことを言われた訳じゃない。何だったらそれに納得している自分すら居る。自覚はなかったけど、確かにそんな感じだった。

 

「貴方はケルシー先生に絆されていた。でもクロージャの言葉で、貴方はロドスのために働く意欲を削がれてしまった。生きる意味として見出していたオペレーターとしての仕事が自分にとってなんら意味のないものだと思えてしまったのね」

 

 まるでボクの心を読んだかのように、その言葉はぴったりとハマった。ボクの体も、それこそが正解だとでも言いたそうに硬直した。

 ただ、本当にそれが模範回答だったとしても、感情の面では反論したくもある語り口だった。

 

「とっても我儘ですね」

 

 自己嫌悪に顔を歪ませながら、ボクは毒を吐いた。正解を中傷することはつまり、今のボク自身を否定するということなのだから、当然だった。

 

 なんて我儘なんだろうか。ケルシー先生のことを応援しておきながら、一助になりたいと願いながら、その一方で自分が不快に思う相手が関係するとすぐに正反対のことを考える。

 ボクの方が悪いのにクロージャさんを責めたくなった時点で相当我儘だけど、ケルシー先生とのことにそれを関係させるのであれば、ボクの自己中心さ加減は輪をかけて酷い。

 

 けど。

 

「人なんてそんなモノじゃない」

 

 シーさんはボクの自己嫌悪を切って捨てた。あっけらかんと、それはまるで好きな食べ物を聞かれた時のように軽々と、シーさんは言い放った。

 それに論駁しようとしたボクの額に、シーさんは白い指を押し当てた。

 

「今から大事なことを聞くわ。いい?」

 

 返答を待たず、黙したボクの前で真剣な顔で口を開いた。

 

「ケルシー先生を助けたかったけど、クロージャが嫌いになったから手を貸さなかった自分と、嫌いな人まで助けてやれる自分、どっちがいいのかしら?」

 

「それは、後者ですが」

 

 その質問は二極化が過ぎるとボクは思う。

 

「ならそれでいいのよ。なりたい自分になりなさい。そのために努力できれば完璧よ。何も言うことはないわ」

 

 シーさんのマイペースはここから来てるのかな。何も言うことはないとか言ってるけど、もし憧れたのがテロリストとかだったらどうするんだ。

 いや、その辺にもこの人理解ありそうだな。だってシーさんだし。

 

「──とは言ってみたけれど、好き勝手やられても迷惑ね」

 

「シーさんが言うんですか!?」

 

「はあ?私が何したって言うのよ!?」

 

「数日前には訓練室を占領してオペレーターを大いに困らせたと聞きましたが、それは嘘なんですか?」

 

「……」

 

 やっばり本当なんじゃないですか。

 いや、実はそれは流石のシーさんでも嘘だろうと思って先鋒役に出したんですけど、まさかの本当なんですか。

 口に出すまでもなく表情に全部出ていたのだろう、ボクの顔を見たシーさんがぷるぷる震えている。

 

 シーさんが筆を一振りすると、小自在が現れた。

 彼我の距離、僅か1メートル弱。

 

「えっ」

 

「ひ、人なんてそんなモノじゃない!」

 

 小自在に吹っ飛ばされ、何かに当たった後、ボクの意識は闇の中に溶けていった。

 

 

 

 

 

 話を一旦区切ってアビスは顔を上げた。アビスの目には中は暗くて見通せない、小さな穴が見えた。それは黒く縁取られた穴で、Wの手にしている筒の中で、つまりはアビスに向けられた銃口だった。

 

「あんた、あたしに嘘をついてるでしょ」

 

「どうしてそんなことになったのか聞かせて欲しいな」

 

「だっておかしいじゃない、あたしはそのシーって女がどんなヤツなのかは知らないけど、ロドスにそんなオペレーターは居る訳がないってことくらいは分かるわ」

 

 どうやらシーが中傷されているらしかった。アビスはWに分からないくらい小さく怪訝そうな雰囲気を増して、Wが何故そんなことになったのか頭の中で精査する。たしかにシーはオペレーターではないのだが、それを言いたい訳でもないだろう。

 

「Wは知らないのかもしれないけど、ロドスのオペレーターは割とどこかおかしいんだよ」

 

「あんたねぇ……あたしには分からないとでも?」

 

 信じようとしないWに、アビスが手のひらを見せる。待たないわよ、と言おうとしたWの前で、一本指が折られた。

 

「とある医療オペレーターは病人に自白剤を処方しようとして、患者の隣に居た重装オペレーターに殴られ吹っ飛ばされた」

 

「えっ?」

 

「とある狙撃オペレーターはドクターを射る時に集中し過ぎて頭部の装備を撃ち抜いた」

 

「えっ」

 

「とある医療オペレーターは人を拉致する計画を立てて、他多数のオペレーターと共に実行しようとした」

 

 三本折られて、しかしWは懐疑的な目を向け続けていた。

 

「それが本当なんて保証はないわ」

 

「では一つ言っておきたいんだけど、もしボクが今までの話で嘘をついていたとして、何か問題ある?」

 

「大アリよ、あんたの話が信用できない」

 

「それは最初から分かっていたこと、そうじゃない?ボクが君に対して本当のことを洗いざらい話すなんてことは幻想だ。ボクにとって今のこの状況は日常の一コマと然して変わりはない」

 

 アビスの言っていることは本当だった。

 アビスはロドスにおいてほぼ一番鉱石病が進行している重篤な患者だ。それは例えばイフリータやスペクターなどと比べたとしても、アビスの脆弱な生理的耐性を鑑みればトップだと断ずることができる。

 そしてその中に含まれる諦念、少しの期待。それを覆い隠す程の恐怖。Wが末期の鉱石病患者とどれほど接したことがあるかは分からないが、もしそれが皆無だったとしてもそのアビスの莫大な感情を感じ取れないような愚鈍さは持ち合わせていなかった。

 

「安心して、少なくともチェルノボーグでのことを誤魔化すほどボクは命知らずじゃない。ボクは死にたくないんだ」

 

「……よく言うわ」

 

 アビスが姿勢を正す。ようやくWの本当に知りたいと望んだ情報へと差し掛かっているのだから、Wにアビスを撃つ道理はない。

 

「じゃあ、これで許してあげましょう」

 

 マズルフラッシュに目が眩む。

 Wの腕は反動を受けて少しだけ上を向いている。特に射撃の態勢にもならず撃てば体を傷つけそうなものだが、Wは経験と力で強引にそれを押しとどめていた。

 室内で撃ったために耳鳴りがひどい。だがWはそれに慣れているのか、飄々とした笑みを崩さなかった。

 

 アビスの耳から血が垂れた。

 

「さぁ、続きをどうぞ?」

 

「本当に、最悪だね」

 

 アビスは耳を抑えることもせず、その左肩へと真紅の液体を滴らせながら次を話し始めた。




しっとりクロージャ、良いと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十 アクシデント

書き上げたものに少しだけ手を加えていたら最終話が四話分以上の文字数になったので一話増やします。展開からしてこれ以上話数は増えないでしょうが、二章ではそういった文字数の乱高下がかなり起こります。どうぞご留意ください。


 

 

 時間は一気に飛んで、チェルノボーグ。指定されたポイント、とある広場にてボクは端末から吐き出される電子的な音声に頭を抱えていた。

 

「つまり、何ですか?」

 

『展開された電波妨害により、現在他部隊との通信が不可能です。ニューラルコネクタへの緊急接続申請が実行され、接続が可能なものはニューラルコネクタのみとなります』

 

「……その先を」

 

『電波を利用した通信が行えないため、ケルシー様とコンタクトを取ることは不可能です。また、この電波妨害はレユニオン・ムーブメントが関係している可能性が高いと思われます』

 

「ああ、レユニオンが行ったということは知っています、PRTS」

 

 ボクは耳を澄ませた。

 

「爆発音、銃撃音、悲鳴、怒号がボクにも確認できていますから」

 

 あはは、これどうしよう。

 

『了解しました。それではロドスからの指令を読み上げます』

 

「何ですか?」

 

『本来の任務遂行を期待する、と』

 

 あはは。

 

「とりあえず殴り込んできます。ロドスに」

 

『その意気です』

 

「ぶっ飛ばしますよ」

 

 

 

 とりあえず、広場は確実にレユニオンが攻め込んでくるだろうから、と近くの割合しっかりしていた銀行の中に隠れることにした。

 然しものウルサス帝国民もテロリストの放つ銃弾には抗うことができないのか、銀行の中は蛻の殻だった。広場には逃れる場所を失った人が雪崩込んできて、すぐに虐殺が始まった。

 

 ボクには見ていることしかできない。ボクのアーツを使えば両成敗くらいのことにはなるだろうけど、テロリストの総数が分らない時にそんなことをしてみれば確実にボクの体に穴が開く。それに、ボクのアーツは相手の体表の露出が条件の一つだ。テロリストも流石に頭は守るだろうし、アーツは通らない可能性がある。

 (よし)んばアーツが通ったとしても、源石結晶がボクの体に穴を開けてくれる。全くもって詰んでいた。

 

 資金は大事なのか、テロリストが銀行に押し入ることはあれど銀行に火を放つことや倒壊させたりはしなかった。あんまり考えてなかったけど、どうやらボクは銀行に入って正解だったらしい。

 

 血塗れの広場に火柱が立った。その薪となるのは物言わぬ骸となったウルサス人。ボクが着いた頃には活気に溢れていた広場が、今や悪趣味な火葬場と成り果てていた。

 

「どうしよう、これ」

 

 銀行は広場に直接面している訳ではないけど、馬鹿正直に扉から出て行くとまず間違いなく見つかるくらいの立地にある。

 裏口を探ろうと思っても、ここはウルサス帝国の銀行。一般的なウルサス人の力を持つ銀行強盗では歯が立たないくらいの強度に設計されている裏への扉は、鍛えられたヴイーヴルと言えど開けることができなかった。

 

 脳裏にサリアさんが浮かぶ。あの人ならたぶん扉を破壊することも、扉の隙間にカルシウムの刃を滑らせて開くことだってできると思う。

 短剣を差し込んで──無理だった。そりゃそうか。

 

「誰か居るのか?」

 

 あ。

 

 短剣を即座に握り直して、銀行員が使っていたであろう机の下に潜り込んだ。声を掛けてくる誰かがボクの方に少しずつ近づいているのが聞こえる声の大きさから分かる。

 ちょっとマズいかもしれない。

 

「おーい。いや、向こう側か?」

 

 能天気だな。

 本当にテロリスト?

 

 挙げられる可能性は四つ。

 一つ目はただ単純に間抜けなテロリストが仲間に呼びかけているというもの。それだったらボクはこのまま息を殺して接近を待って首に刃を押し当てるか、引き返すのを待てばいい。

 二つ目は、ボクの居場所を特定してはいないけど、テロリストではないだろうと思って誘い出そうと考えているパターン。最悪は仲間を呼ばれてボクは死ぬ。

 三つ目はボクの居場所を特定していて、油断を誘っている場合。ボクが姿を出した瞬間にグレネードよろしく破裂させられるか、ボクの居る場所を撃つために十分な位置まで接近した後に机ごと吹っ飛ばされる。

 四つ目、なんでか知らないけど広場のテロリストをどうにかして銀行に入ってきた民間人。普通に考えて可能性は限りなく低い。正直あり得ない。

 

 一番確率が高いのは二番目、そして次に三番目。ボクとしては間抜けなテロリストであって欲しいけど、これも限りなく低い可能性だと見て良い。

 

 まあ、三番目が来ることなんてほとんどない。実質二番目に決まっている。だってテロリストは間違っても軍人じゃない訳で、都市を襲撃するほど勢力を拡大したならば、幹部だとか余程上等な人じゃなければそこまで駆け引きのスキルだって戦闘技術だって高くないはず。

 

「おーい──うおっと!?」

 

 声のした方に机を蹴り上げると、とても丁度いい具合にそのテロリストにヒットした。ツノの形状から見て、サルカズだろうか。

 どうでもいいか。それに、武器を持っていないなんて、テロリスト達はそこまで財政的に困窮していたのかな?

 

 いや、そういえばロドスにも居た。

 

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 

 赤い旗が手を離れて床に倒れた。

 格闘術で勝負するなら、たぶんボクは負けない。ロドスでも相当な実力者であるサリアさんの拳を常日頃からいなしているボクが負ける訳──

 

 警報が鳴った。ボクの耳を劈くような爆音は、広場まで届いたと確信を持って言えるくらいの大きさだった。

 ボクの握り固められた拳はその数秒後にフードを捉えて、吹っ飛んだテロリストは脳が揺れたのか気を失った。

 

 銀行の入り口を見る。

 巨大な剣を持っている人が数名、頭に手をやりながらアーツの発動準備をしている人が十数名。

 

 赤黒いアーツがボクの体を捉えそうになって、ギリギリ回避した。なるほど、周囲の警戒をする役割は必要だし、その人は武器を持つ必要はないし、そしてその人は当然ながら他の人を呼べる訳だ。

 

「厄介限りない、なぁっ!」

 

 曲芸染みた挙動で机やらを飛び跳ねて意地でも回避してやる。自分の尻拭いはしないって決めてるんだ。嘘だけど。

 

「非感染者だ、殺せ!」

 

「ぶっ殺してやる!」

 

「どこからどう見てもボクは感染者だよ!」

 

 カウンターの内側に入ってきた一人目のお客様を丁重に突き返す。具体的に言うと回し蹴りを顔面にヒットさせて仮面を叩き割り、そのままカウンターのアクリル板に叩きつける。

 一丁上がり、右前方と左から飛んできたアーツを後方宙返りで避けて、着地ざまにパソコンの本体を投擲。

 

「流石に避けられちゃうか」

 

「クソッ、一気にかかれ!」

 

 アーツが立て続けに放たれて、避けようと横っ飛びした先には分厚い鉄の刃が三本。斬撃の向きはどれも違っていて、どんな軽業師でも回避できないような攻撃。

 でもこれくらいなら、ロドスにかかれば行動予備隊候補でも対処することができるレベルの連携だ。

 

 普段より込める力を強くして短剣を持ち、真正面から受け止める。一つ目の峰を二つ目の刃が叩き、三つ目ですらも同じように受け止められた。

 少し武器を知っている人なら分かっていることだけど、大剣は手元に重心がある。槍とは違って大剣は持ち手が偏っていて、よほどの腕力がなければ振ることが難しくなってしまうからだ。

 そして振られた勢いさえ最初に打ち消すことができてしまえば、ボクの方が力負けすることはあり得ない。結局ヴイーヴルに勝つほどの威力は出せていない。

 

 武器を持った素人が圧倒できるのは一般人だけだ。子供の頃でさえその武器を持った素人が圧倒できたボクには有象無象が連携したところで負ける訳がない。

 動揺したテロリストの腕を引いてアーツの盾にする。続いて撃たれていたアーツにも合わせようとして無理な挙動で振り回せば、当然ながら腕が脱臼した。

 

 ようやくボクが鍛えられたヴイーヴルであることを認識して、テロリスト達の構える大剣の刃先が少しだけ上にズレる。明らかに腰が引けた。

 

 腕は脱臼し背中はアーツで撃ち抜かれて散々なテロリストの体を別の方向に放り投げ、手の中で閃かせた短剣がテロリストの大剣を跳ね上げる。

 

「テメェ……ッ!」

 

 アーツを使うのは勿体無いかな。

 さあ、テロリスト。ドクターへのアピールに──ちょっ、増援は呼ばないで待って待ってああああああ!

 

 

 巨大な剣を使ってくるテロリストは粗方叩きのめすことができた。アーツ術師の方よりそっちの方が何故か気絶させやすかったから遠慮なく骨を折りつつ脳を揺らした。

 翻ってアーツを使ってくる人たちは、万全の状態であればとんでもなくぶっ飛んだ打たれ強さを持っていた。指揮している隊長が同じ術師のようだったけど、数回殴った程度じゃ揺れもしない耐久力だった。

 ただ、この人たちはアーツユニットを使っていない。どうしてか自分の体を燃料にして物理を捻じ曲げている。そんなことをすれば疲弊するのは当たり前で、時間が経つにつれてボクは粘り勝ちまで持っていくことができた。

 

 時間稼ぎの最中に来た増援は、あまり強くなかった。というか少しも強くなかった。暴徒はまだある程度吹っ切れていたように思えるけど、兵士はほぼ一般人と変わらなかったから当然。

 最初に警報で呼ばれてきた人は全員がサルカズ特有のツノを持っていたし、もしかするとテロリストの雇ったそういう傭兵なのかもしれない。

 

 何はともあれ、どうにか無事に終えることができた。

 終わってみれば割と圧勝だったようにも思えるけど、まさか雇った傭兵が今ので終わりって訳でもないはず。それに屋内で壁があって、更にカウンターっていう障害物があったからこその勝利だから、屋外で囲まれたら打つ手はない。

 

 まあ、見たところ広い通りは少ないようだけど、っと!

 

「傭兵に頼って起こすムーブメント……いや、まだ傭兵だって確定した訳じゃないけど」

 

 漏らした言葉は誰の耳にも届かなかった。

 ボクはチェルノボーグの中心部を目指して移動していて、その移動方法は足。そう、この広いチェルノボーグを二本の足だけで移動している。辛い。

 誰の耳にも届かないのは、ボクの移動ルートが普通ではあり得ないものだから。なんであり得ないのかって?

 

『アビス様、目標の方角から三十度以上逸れています』

 

「分かってます」

 

『ではナビゲーションを終了しますが』

 

「全然分かりませんでしたのでこれからもお願いします」

 

 PRTSってたぶん人が入ってると思う。ここまでの人間性はそれくらいじゃないと出せないはず。あとその中の人は絶対に性格が悪いと思う。

 という訳で答えは、ボクのナビゲーションを担当してくれるPRTSが直線的な行動以外を許してくれないから。

 

『何か?』

 

「なんでもありません」

 

 ため息を吐きながら真正面に跳んで民家の屋根に着地する。

 ドクターさんの眠っている場所の情報は端末にダウンロードされている。そしてそこからアーミヤさん達が撤退し、その時にボクがチェルノボーグに取り残されると食糧的な問題でほぼ死ぬと思って良い。

 レユニオンの行動は完全に予想外だし、戦力を補充してまた迎えにくる、なんて考えはアーミヤさんもすると思う。そしてそれをケルシー先生と通信できない状態でしてしまう。たぶん行動にまで移す。

 

 つまりはボクが死ぬ。それにニアールさんというカジミエーシュの誇る耀騎士が撤退の補助に回るから、撤退もスムーズに行くと思う。

 PRTSの出した答えは、可能な限り早く動かなければボクに未来はほぼないというもの。こんなに同意してほしくなかったのは久しぶりだよ。

 

 トタン屋根を進みながらチェルノボーグ全体を見通してみると、数えきれないほどの数、黒煙が空へと立ち上っているのが見えた。都市に渦を巻く災禍は家屋を真っ赤に染め、人々の叫喚がボクの耳にすら入ってくる。

 

 臍を噛む。大規模なテロ活動がボクの力不足を強く突きつけていて、それを見ないフリするつもりだったということが、ボクの心を強く握る。

 そして何よりボクに自己嫌悪を強いるのは、その判断をボクが後悔していないということだった。眼前で無辜の人々が何人殺されようと、その家々を愛着ごと灰燼にされてしまおうと、ボクの脳は後悔という行動の一切を認められなかった。

 

 自分が嫌になるのは、ずっと前に飽いてしまったはずだったのに。『彼女』がボクの前から消えてしまった時、ボクはそれを一生分終わらせてしまったはずだったのに。

 

 いいや、きっとこれで良いんだ。

 後悔しないボクのままで、自己嫌悪に苛まれるボクのままでいることが、きっとボクのままロドスに所属するために必要な唯一の資格であるはずなんだ。

 『彼女』の肯定を感じられないと、ボクはきっとボクのまま生きられない。自己嫌悪を感じないのなら、ボクはロドスに所属する資格なんてない。

 

 だから、これでいいんだ。

 

 これでいいはずなんだ。

 

「切り替えなきゃ、いけない」

 

 何の話をしていたっけ。ああそうだ、ナビゲーションのおかげでテロリストに遭遇しないのには感謝するべきなのか悩んでいたんだ。中々無視したくない大きな抵抗があるとか。

 

 区切りをつけるために思考を一新させようとして、しかしそのボクの行動は全くの徒労に終わった。ああいや、一新させようと思考することこそがこの事態に繋がったのか。

 

「うわっ!?」

 

 重心が上がる。

 頭が後ろ側に落ちていく。

 

 考え事をしていたせいか、ボクの足は無情にもボクを二階建ての家に着地することを許さなかった。瓦屋根のせいでボクの体は大きく体勢を崩し、ひっくり返って下に落ちる。

 空が青い、なんて思う前に気合で半回転を間に合わせて足で着地する。二階建てとは言え、足以外で着地するとケガするのは割と避けられない。頭から落ちたらツノが汚れるから絶対に避けたい。

 余裕はないけど、その中でもボクは自分の意思を通して華麗に着地することができた。

 

 そして目に入るのは、屋根から落ちてきたボクに注目している仮面を着けた兵士たち。

 

「なんだこいつ!?」

 

「空から降ってきたぞ!」

 

「こいつ回転してなかったか?」

 

 丁度ボクの着地した側にはテロリストたちが哨戒していたようだった。それも、小隊規模で。テロリストの逆方向は勿論家で、逃げ場所はない。

 現実逃避気味に確認を行っているボクを、テロリストが囲むように隊を展開する。

 

「とにかく、ぶっ殺せ!」

 

 本当に最悪だ!

 

 

 

 どうにか無傷で全員を戦闘不能にすることができた。踏んだ仮面の破片が音を立てて、その気持ちの良い音とは裏腹にボクの心はどんよりとしていた。

 それの原因は、家の側に落ちていた直方体と言うよりは長方形の平べったいもの。つまりは転落した時、ボクの持っていた端末は完全に壊れてしまったということだった。

 

 いや、大凡の方角が分かっているのだから、ボクはまだ取り返しのつく範囲なはず。

 

「へえ、君がそれをやったの?」

 

 そんな声がボクの耳朶を響かせた。見やれば、そこには仮面をつけていない少年がニヤニヤと笑顔を浮かべながらボクを見ていた。

 

「ありがとう、手間が省けたよ」

 

 手間、と言うと、この小隊を倒す手間のことかな。

 もしかするとこの少年はレユニオンじゃないのかもしれない。例えば同じ孤児院の子を守るために戦っていたり──

 

「やれ」

 

「だと思ったよ!」

 

 いつのまにかボクの背後に歩み寄っていた兵士を振り向きざまに蹴り抜いた。倒れ込んだ兵士の顔から仮面が剥がれ落ちて、しかし見えたのはどう良いように解釈しても死人にしか見えない源石に塗れた顔だった。

 口のような穴から、小さく呻き声のような何かが漏れている。ボクにはそれが本当に呻き声なのか、それとも悲鳴なのか判別することができなかった。

 

 突然の事態が続き過ぎて硬直している間にも、他の兵士がまたボクに武器を向ける。地面に横たわっていた兵士に躓いた隙をついて、頭に踵落とし。

 地面とサンドイッチされた頭から仮面の割れる音がして、それ以上にボクの神経を伝うのは肉を抉る嫌な感触。ロドスの用意してくれる合金板入りの靴がトマト色に染まる。

 なんだ、この人。頭の肉が柔らかすぎる。頭骨の硬い感触は確かにしたけど、それがなければ本当にトマトでも攻撃したのかと思った。

 

「やるね、君。ちょっと欲しいな」

 

 倒れていた死人のような兵士が立ち上がる。少年はいつのまにかボクから距離をとっていて、その間には兵士が何人も壁を作るように立っていた。

 ゆらり、ゆらりと兵士の体が揺れている。立ち上がった兵士も、まるでロドスの書庫にあった創作本に出てくる、『ゾンビ』のような挙動でボクに剣を向けた。

 

「これは、電気がマイナーになる訳だね。アーツってとんでもないや」

 

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 

 全然褒めては、ないんだけどなぁっ!

 顎を完全に捉えた。そう見えたのに、次の瞬間にはもうボクの方へ手を伸ばしていた。

 

 本当にゾンビなのかもしれない。死人を動かすアーツ?いや、少なくとも源石結晶がないと無理だろうから、感染者の死体を動かせるアーツかな。

 こんな時のために、ボクはクロージャさんに武器を頼んでおいたんだ。吊り下げていた金属製の杖を取り出した。ヴイーヴルのボクでさえそれなりに重く感じるこの杖は、耐久力と破壊力だけならピカイチだ。

 

「さて、いつまで耐えるかな」

 

「いつまでも、だよ!」

 

 

 

 吹っ飛ばした兵士の数が累計で三桁を超えて、異常なほど硬い杖が中々破損してきた頃、ボクはようやく動きを止めることができた。

 

「うわあ、すごいね君!まさか全員倒せるなんてさ!」

 

「烏合の衆だったからね」

 

 途中どんな妨害があるのかと思っていたけど、結局クロスボウの矢が数本飛んできただけで、もっと気を緩めてやるべきだったのかもしれない。

 いや、ボクも一応クロスボウには驚いたんだけど、やっぱり飛んできたか、って感想を塗り潰すにはそこまで強い驚きじゃなかった。

 隙を作って撃たせる、これを実践することができたから対応できただけで、クロスボウは強いんだろうけど。

 

「話を聞かせてもらいたいんだけど、いいかな」

 

「じゃあこういうのはどうかな?」

 

「あー、うん。話聞いて?」

 

「d1からf8、それとb5、やれ」

 

 少年との間に入ってくるのは赤いフードの小隊長、そして起き上がってくる先程倒したはずの兵士たち。兵士のオレンジ色の目が狂気を湛えてボクを睨みつけて、また赤いフードの奥からは何も感じられず、その対比がいやに恐怖を誘う。

 

「やるしかない、か」

 

 少年はいつのまにか姿が見えなくなっていた。

 分かってはいたけど、戦闘ばっかりだ。嫌になるよ。

 

 まあ、そう簡単にやられはしないけど。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十一 同行者

 

「それで、ボクはメフィストのアーツ下にあった兵士たちと戦闘することになった」

 

「ああ、だからあの時戦力の補充に来てた訳ね」

 

 アビスの話に、Wが納得したように頷いた。脳裏にはあの荒廃したチェルノボーグの景色が描かれていることだろう。何とも言えない苦い気持ちがアビスの胸中に生まれて、すぐにそれを押し殺した。

 アビスは一度大きく息を吐いて、懐から懐中時計を取り出した。手のひらよりもずっと小さく、腕時計と変わらないくらいの規格だ。

 

「へえ、良い趣味してるじゃない」

 

 Wの発言通り、アビスの持つ懐中時計は下品にならない程度の装飾をされた、落ち着きある上品なものだった。アンティーク調のものが好きな人であれば十中八九好感触を得られるだろう、そんな具合だった。

 

「ケルシー先生から頂いたものなんだ。というか、手配してくださったものだけど」

 

 それは虚実ではなかった。

 だが、それが全てではなかった。

 

 隠されていることは、アビスが懐中時計をケルシーから渡されるまでに至った経緯だ。アビスはそれを回答に不要だからという理由ではなく、秘匿するために言及していない。

 アビスがケルシーにそれを貰ったというものは確固たる真実だが、それはケルシーの誤魔化しによるものだった。アビスはあるものを見てしまい、ケルシーがそれを対処しただけだ。

 

 Wに気付いた様子はなく──気付いたとしても指摘することは確定していないが──アビスは心中でほっと胸を撫で下ろした。

 

 アビスが話の続きを話そうとした時、突然室内に大きな音が響いた。それは何かがぶつかった、戦場においては極ありふれた音だった。

 しかしここは戦場ではなく平和なはずのロドス艦内である。Wもアビスも何一つとして予想していなかった異音に、訝し気な顔で音のした方を見た。

 

 扉の方だった。

 というか、扉からだった。

 

 ガン、とまた音が鳴る。

 

「もしかして、ボクに……?」

 

「思い当たる節があるのかしら?」

 

 アビスはWの問いかけに答えず、上着を脱いではためかせた。何も落ちてくるものはないし、何かある訳でもない──というWの見込みは間違いだった。

 何度目かで床に落ちた、小指の爪ほどの大きさもない黒い何か。機械に特段詳しい訳でもないアビスだが、それでも分かることはある。

 

「これ、購買部で売られている発信機だ」

 

 ああ、まさか帰投するその日に発信機が仕込まれている服を選んでしまうなんて。アビスはどこかズレた嘆きを零して、椅子に座り直した。

 

「あんた何したのよ」

 

「何もしてない。あの子だって」

 

 ガン、とまた音が鳴った。

 仕方がない、アビスはそのまま話し始めることとした。懐中時計を取り出して時間を確認したのも、そろそろ彼女が任務から帰ってくる頃だと思ったからだ。

 

「えっ、放置するの!?」

 

「やめとく」

 

「……あんた、たぶんあたしより性格破綻してるわ」

 

「それはないと思うな」

 

「撃っていいかしら」

 

 

 

 

 レユニオンが武器を手に持ってから、既に数時間が経っていた。あの少年の襲撃後もボクは示されていた方向へと一直線に進んだはずなんだけど、やっぱり人が機械のような正確さを持って一点を目指せる訳がなかった。たぶん少しずつズレてる。合流できるかどうかはかなり難しい所だと思う。

 天災はどんなものが発生するのか分からないけど、できれば大地に変動が起きるタイプであって欲しい。それならちょっと揺れるくらいで済むだろうし。

 

「ただ、それも望みは薄いかな」

 

 空を仰ぐ。

 暗雲が立ち込める様は、異常気象だとかの前準備であることを知らせるに十分だった。少なくとも、チェルノボーグという都市は壊滅的な打撃を受けるだろうと思わせてくる。

 肌を指すピリピリとした空気感が異様に怖気を掻き立てる。

 

 落ちた時にエンカウントしたあの小隊は、ボクが死人のような兵士を相手取っている時に意識を取り戻した。数が多過ぎて流石に傷を許容しようかと思ったけど、その人たちはボクが戦っている相手を見て即座に逃走したから、なんとかボクは損害無く乗り切ることができた。

 死人のようになっていた人たちはもう手遅れだと判断して、反撃に注意しながら二つに切った。あの杖は最後には壊れてしまったので、彼らの武器を使わせてもらった。

 

 

「考えなきゃいけないことは、二つ」

 

 一つ目は、テロリストが脆弱過ぎるということ。

 

 ウルサス帝国の都市で武装蜂起するなんてのはそれだけでも大いにバカなんだけど、ボクの数回戦闘した印象から言わせてもらうと、レユニオンは傭兵たちを除いて頭がおかしいくらいに弱い。兵士なんてMon3trが出払ってる時のケルシー先生でも勝てるくらい弱い。

 けれど実際レユニオンはこうして長時間に渡って大規模テロリズムを実行できている。正規軍を相手にとって不足しないくらいの戦力が集まっていると見て間違いないはず。

 どれだけ自信過剰でも、ボクはボク自身がウルサスの軍の出してくるカードと張り合えるほどだとは思えない。況してやそれを抑え込めるレユニオンの幹部級とかボスなんて、どう見積もってもサリアさんに手が届くくらいの強さは有してるはず。

 そうじゃないとしても、レユニオンに軍部が寝返ったりでもしなければこうはならないんじゃないかな。

 

 他に考えられるのは、レユニオンを政府側の作った仮想敵として活動させるものなのかもしれないということ。チェルノボーグは現在龍門にかなり近付いているはずだから、レユニオンが龍門に逃げ込めばそこから戦争に発展させることだってウルサス帝国には訳ないこと。

 戦争するに足る戦力はウルサス帝国に存在する。まあそんなに迂遠なやり方をする必要性がないと思うけど、一応頭に留めておくくらいはした方がいいかな。

 

 考える必要があること、二つ目は食糧について。

 ボクは鉱石病の影響で胃が深刻なダメージを受けている。それは通常の食事が消化能力や胃の容量からして摂ることが難しいほど。

 だからボクはクロージャさんからロドス特製の圧縮ビスケットを受け取っている訳だけど、バッグの中には二日分程度しか存在しない。連絡が取れないこの状況では、ボクの寿命はそれとほとんど同じだということだ。置き去りにされる可能性を考慮すれば、前も言った通りかなりヤバい。

 一つ言っておくと、決してボクは普通の食事を摂れない訳じゃない。ただ日に数十回分割された食事の時間が必要になって、尚且つ体調が悪くなり、腹部がナイフで刺されたような痛みを発するだけ。

 敵が多過ぎる今、流石にその選択をする気にはなれない。

 

 色々と思いつくものはある。

 ボクが用心棒を務めつつ外へと離脱できることを条件に、アーミヤさんたちの方まで道案内を頼むだとか。正規軍に拾われるついでに道を聞くだとか。

 ただ、ボクが知っているのは『石棺』とか『中枢部分』だとかの曖昧な単語だけ。端末の地図も使えないのだから、もし超幸運にも『石棺』まで道案内されたとしてもロドスに合流するのは厳しい。

 そもそもこのタイミングでのテロリストの奮起なんてロドスの作戦概要書では想定されてなかったくらいな上に自分とほぼ無関係な合流地点の確認とかする訳ないので当然だった。

 

 隣とかに居る他の隊と合流するのは、ボクの単独行動癖が悪く出て、位置関係くらいしか覚えていないから難しいところだ。ボクの居た広場は火葬場になったからそこに留まる選択肢も無かった。

 

「どうすればいいと思う?」

 

「私に聞かないでよ、分かんないったら」

 

 ボクが話を振ると、ラーヤはそう言って顔を背けた。細動しているコータスの耳がアーミヤさんと重なって、早くロドスと合流しなきゃな、なんて思いにさせられる。

 

 ラーヤ──ラーヤは略称で本名はライサ──は種族こそコータスだけど、れっきとしたチェルノボーグ市民だ。チェルノボーグを亡骸と火で満たしたレユニオンに対して憎悪を高める一市民だ。

 ラーヤとボクの出会いはお互いにとってほぼ最悪だったと思う。瓦礫と化した家屋の側で足を押さえていたラーヤは声をかけてきたボクに対して刃を振るい、ついボクは反射的にラーヤを足で顎を蹴り上げて瓦礫の山に寝かせてしまった。めちゃくちゃビックリした。

 

 気絶から立ち直ったラーヤはボクに恐怖していたけど、アーツを使えばそれもすぐに健常者と変わらないものになった。ただ感情を強引に変えてしまったからか、ボクへの不信感はいよいよ拭えないものになってしまった。

 その後は、ボクが一応ロドスでの保護を言ってみたところ、意外なことにそれを望んでしまい、ボクについてくることになった。

 被災者だからと人に襲いかかったことを罰さない訳にはいかないだろうけど、被害者はボクだからきっとどうとでもなるはず。ロドスは進退窮まった人に追い打ちをかけるほど冷酷じゃない、とも思う。

 ちなみにラーヤの気絶していた時間は大体五分弱で、このイベントによる時間的な圧迫は無かったから心配しないでほしい。ラーヤも力はないけど中々速く走る。レユニオンが居なかったら余裕で間に合ったんだろうけどな。

 

「サリアさんが居たらなぁ」

 

「ちょっと、弱音吐かないでよ」

 

「あの人なら片っ端からレユニオンを殲滅して消化活動をして瓦礫の撤去をして負傷者の看護すらできるのになぁ」

 

「弱音じゃない……?あれ、弱音、なのかな?えっ、これってどっちなの?っていうか弱音って何?ん、あれ、そもそもサリアさんって人の話にツッコミを入れるべき?」

 

 ラーヤはパッと見では学生に見えるんだけど、どうして学校に居なかったのだろう。こうしてチェルノボーグを歩いているとどうしてか学生に出会わないから、ラーヤはきっとそれで正解だったんだろうけど。

 横の方を見る。他の家屋より抜きん出て背の高い学舎が黒々とした雲の下に見えた。あの中には果たしてどんな惨状があるのか、ボクには想像することもできない。

 

 だけど、ボクの目の前にも悲惨な光景は広がっていた。

 

「これ、きっつ……」

 

 空き家、と言うよりは廃屋と化している住宅。二階の高さにまで及ぶほどの血飛沫が外壁を彩り、頭のない死体が庭に転がっている。鼻の奥を刺激するばら撒かれた血の匂いは、ラーヤには少し刺激的過ぎるようだった。

 キャンプセットの中から、一般的なマスクを取り出してライサに手渡した。ボクは慣れてるから必要ない。

 

 足を前に出す。まだ乾いていない死体の血が、ボクの靴と地面に挟まれて水音を立てた。流れてくるのはさっき見た首無しの死体とは別で、道路の真ん中で両足を失っていた男の断面からだった。

 きっと爆弾だろう。黒く煤けた道路は爆心地となったことを示していて、それの威力をこの死体が示してくれている訳だった。

 

 死体を丁重に埋葬する時間はない。火葬なら少しは現実味もあるだろうけど、それが結局あの広場みたいになってしまうのなら意味がない。それは葬送じゃなくて、ただの冒涜なのだから。

 

「アビス、聞こえる」

 

「分かった」

 

 ラーヤの報告を受けて、ボクは短剣のカバーを取り外した。

 

 少しすると、路地から足音が響いてきた。

 姿を現したテロリストの頭を即座に蹴り抜いて、その後ろに続いていた兵士がボクへと切っ先を向けた。

 

「何しやがる!」

 

 それはテロリスト側のセリフではない気がする。

 まあボクがどれだけツッコミを入れても仕方がない。レユニオンも今日ここでテロリズムを行うって決めてたんだろうし、何よりボクが文句を言おうと今の現実は変わらない。

 

 兵士の双剣が光を反射して煌めいた。

 双剣という武器に関して、ボクはあまり知識がない。だからどういう攻撃をするのか確信を持って回避することは難しい。

 でも剣が二本あったって、体は一つ。

 

 ギャリ、と金属では普通出ないような音がして、相手の双剣のうち一つを強引に向こう側へと押し出した。自分の種族におけるアドバンテージを利用したゴリ押しは確かに効果的で、兵士の重心が向こうに寄った。

 剣の重さに任せてか、押さなかった方の剣が緩慢なスピードで落ちてくる。それと同時に他の兵士も武器をボクに向けていたので後ろに飛び退いて回避、割れている塀の破片を投擲。

 他兵士には流石に避けられるようだけど、重心が後ろ側で不安定な双剣の兵士はやっぱり避けられず、頭部に直撃してノックアウト。

 

 見たところ、他に双剣を構えている人は居ない。

 よし、イレギュラーこそあったけど、これから先はボクも対処が慣れている片手剣の兵士やらばっかりだ。

 

「──って、うわっ!?」

 

「あまり舐めるなよ……ッ!」

 

 他の兵士より軽装な人がいると思っていたら、剣と盾を持ったそこそこ強い人だった。自分から攻めることはせず、今みたいにボクから切り込まれるのを待っている。

 盾で自分の体を隠し、それによって隠される剣は宛ら蜂の一刺しと言ったところだろうか。いや、でも盾の練度はともかく他はそこまででもないかな。

 適当に軽く切りつけて離脱を繰り返す。よく訓練されていて、深追いしてくることはないみたいだ。良くも悪くも軍人に似ていて、マニュアルを徹底している印象が強い。

 

 けどまあ、ロドスのオペレーターがたかだか軍人一人に対して梃子摺る訳にはいかないから。

 

 さっきと同じように近付くと、その軽装兵も同じように盾を構えた。手に持っている刃は隙を晒した瞬間にボクの体を(わか)つだろう。

 後ろに置いた右足にかけていた重心を前の左足へと移動させる。拳を強く握り込み、左手を前に翳す。

 

「なっ!?ぐぁっ!!」

 

 右腕のストレート。盾ごと腕のガードをぶっ飛ばしてそのまま顔面にパンチを叩き込んだ。フードの下にある硬い感触からして、仮面だけは他の兵士と同じように被っているのか。

 だとすると、あの少年はどうなるのだろう。レユニオンも見た瞬間に逃げろと言っていたあたり、正規軍やテロリストの類ではないのだろうし、ラーヤと同じ立場ってことかな?

 

 塀に頭を打ちつけた兵士は倒れたけど、まだ油断はできない。他の襲いかかってきた兵士の足を引っ掴んでハンマーのように振り下ろした。

 数十キロの肉塊を振り下ろされれば、如何に頑強な重装兵でも姿勢を崩す。況してや寝転がって無抵抗なままに受けてしまえば戦線復帰はできないと思う。

 

 唸る尻尾が兵士のナイフを弾き飛ばす。もう一人くらい同じよう強い人が居るかと思って両手を使わず排除していたせいか、どうやら兵士の戦う意思は折れてしまったようだった。

 散っていく兵士を見送った後、退避していたラーヤの方へと手を振った。

 

「ナイスだったよ、ラーヤ」

 

「ねぇ、これ私要る?」

 

「必要だよ。先頭がいきなり倒された時、後ろに続いている人は内心すごいことになってるはずだからね」

 

「アビスが最初に蹴り倒した時、私の内心もすごいことになってたからそれは分かるけどさ」

 

 ああ、確かに一切確認せずに蹴り倒しちゃったからね。でもこんなテロ活動が盛んな中でなら仕方がないことだし、殺す気はなかったから許容範囲でしょ。

 

「じゃあ、出発しようか」

 

「……まあ、ついてくけどさ」




懐中時計
ヒント:潜在解放


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十二 頭のおかしい正解

同行者にはモデルがいます。
分からない人は『ケオベの茸狩迷界 コータスの少女』で調べよう。


 アビスの話が一区切りついたところで、Wは心の底から鬱陶しそうな顔をして立ち上がった。幽鬼のような足取りで、ストレスを積み上げ続ける扉の方へと近寄っていく。

 

「W、それは止めた方がいい」

 

「うるさい」

 

 端的に、アビスへの暴言とも理由を告げただけとも取れる一言を発して扉に手を伸ばした。電子ロックが快音と共に解錠され、Wは徐に扉を開く。

 そして外側からも扉に力がかかり──チェーンロックがそれを数センチに留めた。Wは心底鬱陶しそうな顔をして、ドアの外に居るコータスを見下ろす。

 

「アビス、こんな所に一人でどうしたの?」

 

「Wも居るから、二人だよ」

 

「そうなの?ごめんごめん」

 

 扉を開けて確かに見下ろしているW。それが見えていないのかのように振る舞うライサを見て──実際にはWに隠れて見えないのだが──アビスは肩を震わせた。

 

「あと、話さなくちゃいけないよね。ロドスを()()()抜けようとしてたってことについて」

 

 アビスはそっぽを向いた。特に意味はない。アビスの心の中で()そういうことになっていた。

 

 Wは扉を閉めようとした。一度でも話せばしばらくは静かになるだろうと思ったからだろう。いくらライサとアビスの仲が親密であろうと勝手にWの尋問に割り込むことを許される訳ではない。

 プライベートな付き合い、とは間違っても言いたくない関係だが、しかし確かにアビスとWはそのようなものだ。

 

「なんで閉めようとしてんの?」

 

 だがそんな理論はライサの中に存在しなかった。

 閉められかけた扉の隙間にライサの持っていた黒い鞘を差し込み、Wの力に軋んだ。無理に閉められそうになる中、ライサの持っていた抜き身の短剣が縦に一閃され、チェーンロックを形作る輪の一つが両断された。

 

 Wは飛び退って銃を構える。ロドスの設備をまさか壊すなどとは考えない、そんな甘い考えこそが自分を今焦らせているのだと自戒するように顔を歪める。

 

 ライサが短剣を鞘に番えて差し込もうとすると、歪に軋んだ鞘が刃の侵入を拒んだ。無表情でそれを何度か試した後、ライサは鞘を丁寧にジャケットの裏へと仕舞った。

 

「で、負け犬(W)は何の用?」

 

 ドアを押し開けてライサが部屋の中に侵入する。真剣をWに突きつけて険しい目を──ライサの目が見開かれた。

 

クソガキ(あんた)には関係ないわ」

 

 Wの言葉にも反応せず、ライサはアビスの方を見ている。表情の抜け落ちていた顔はいつのまにか欠落と激情が入り混じる混濁を露わにして、覚束ない足取りでアビスに近寄っていく。

 アビスがライサの視線の先を見ると、そこには赤黒く染まった自分の左肩があった。

 

「なに、そのケガ」

 

「ちょっと銃で撃たれちゃって」

 

 Wの方へと振り返り、感情の表し方を忘れてしまったかのような顔のライサが足を踏み出して──背後に傾いた。アビスの手がライサの腕を掴んで引っ張り、平均的な身長のライサは体勢を崩してアビスに寄りかかったのだった。

 何か奇妙なものを見る目でライサは掴まれている自分の腕を凝視し、状況を理解した瞬間、大きく震えて動かなくなった。

 

「ラーヤ、落ち着いて」

 

 アビスの手がライサの肩を撫で、強張っていたライサの体から力が抜けていく。Wが先程とは一転、ニヤニヤと趣味の悪い笑みで推移を見守っていた。

 

「大丈夫。ボクが守ってるから、大丈夫」

 

 自分を守ってくれる何かの存在は得てして平常心を齎してくれるものだ。アビスはそれを知っていて、それの効果もまた知っていて、チェルノボーグでの時と同じようにライサの感情を均そうとした。

 しかし、現実は普通、想像とは全く違う。期待していたものと正反対の結果になることも、このテラの大地では往々にしてあることだった。

 

「いや落ち着けるかぁ──ッ!」

 

「いっ、たいなぁ!?」

 

 ライサの頭が上を向いて、アビスの顎にクリーンヒットした。湯気を出せそうなほど熱を発している自分の顔を冷まそうと手を団扇(うちわ)にして扇ぐが、効果は全くと言っていいほど無かった。

 心臓は全力で走った後よりも強く速く打たれ、早鐘という言葉がぴたりと当てはまる。

 胸に手をやったとして落ち着く訳がないと分かっているし、何よりそうしている自分を見られたら流石のアビスも気付くだろう。と、ライサは求められている以上の業務をする自分の体を恨んだ。

 

 未だ鳴り響く拍動に聞こえないフリをして、自分の既に八割ほど満たされてしまった分かりやすい心を怒りでなんとか上書きしようとする。

 

「バカじゃないの!?顔近いし声近くてやばいし掴んでる手がガッシリしてた!あとイケメンムーブすんな!もう間に合ってるっていうかむしろ私が間に合ってないから!」

 

「何の話を……!?」

 

 上書きには失敗した。後にはWのニヤニヤ笑いだけが残るのみだった。顔には湯気が出そうなほどの熱気に加えて火が出そうなほどの羞恥という、ライサからしてみれば地獄のような状況だった。

 

「とにかく、止めて!」

 

 それは本心からの言葉だった。本当にライサは止めてほしいと思っていた。ただ、それは自分の処理能力が追いつかないから適度な塩梅にしてほしいという、肯定のニュアンスを大いに含むものだったが。

 

「わかった、分かったから落ち着いて」

 

「分かってない!」

 

 曖昧に頷くアビスが結構強めに殴られた。殴られた頬に手をやり、途方もなく大きな困惑を抱えながら、アビスはライサと目を合わせる。ぷいっ、と顔を逸らされてより一層理解ができない。

 

「アビスは、アビスは絶対分かってないから!」

 

「なんて答えればいいんだよ!」

 

「アハハハハ!あんたたちバカみたい!」

 

「うるさい負け犬!」

 

「あんたはタコじゃない!アハハハハハッ!」

 

 騒々しく、しかしそれ以上に和やかになった部屋の中で、三人分の声が響いていた。

 悪意に塗れた笑い声は殺意を持たず、困惑の声は距離の近いままで、愧死するかのような声は学業に励む子供のように噛み付いていた。

 

 

 そのどれもが、きっと長くは続かない。

 

 

 

 

 

 押し潰すように広がった暗雲はまるで人工的に生み出されているかのような紋様を空に描く。住宅街を抜けたアビスとライサはそんな雲の下、建物の裏、影の中を息すら殺して駆けていた。

 

「右一人、前二人」

 

「了解」

 

 アビスが路地裏を一人で歩いていた兵士の前を通り抜け、その際に頭を引っ掴んで走っている勢いのまま壁に叩きつける。支える力を失った体が地面に倒れ伏すと同時に、路地で話をしていた二人の兵士も汚い地面に寝かせられていた。

 

 アビスが前を駆け敵を排除し、ライサが追いながら耳を使って敵との接近を察知する。

 格闘術ではサリア直伝の筋力と技術のゴリ押しを学んでいるため、不意をついた場合のアビスは雑兵ならほぼ間違いなく一撃で相手を沈めることができた。

 

「ラーヤ、無理しないように」

 

「分かってる、でも大丈夫。悲鳴や泣き声を聞いてるよりはずっと楽だから。前一人」

 

「……分かった。ロドスと合流すれば、きっとこんなことをする必要もなくなるから」

 

 尻尾を足に絡みつかせて相手の体を浮かし、満足に防御できない姿勢にして腹部へと拳を突き刺した。まるで普通の食事ができない恨みを乗せたかのように凶悪な胃への襲撃だった。

 走りは止めず、横を通り抜けた先で尻尾を振るい、側頭部に重量をぶつける。気絶した兵士を踏みつけたコータスの少女が浮かべる表情は、そのアビスの強さにツッコミを入れることを諦めたようだった。

 

 アビスという存在は、自分の中で力関係の最上位に位置していたテロリストへと土をつけた。そしてそれが語る、アビスの完敗し続けているサリアという女性の話や、化け物を操る研究者の話、描いた絵を実現させる超常の力を持った自由人の話はもはや眉唾物だった。

 最後の話こそコメディめいたものだったが、前の二つはライサの張り詰めた雰囲気を解す作用を持っているとは言えない話だった。

 それが虚実であることのメリットは皆無に等しい。つまりはそういうことで、テロリズムによる破壊が自分の常識をひっくり返し、気晴らしに聞いたアビスの話はひっくり返された常識の裏側を覗いているような思いを抱かせる。

 

 

 ──────。

 

 

「……この音は、何?花火?」

 

 突如捉えた異音。何かが打ち上がるような、夏季に開催される祭りでしか聞いたことのないような音がコータスの耳に入ってきた。

 

「花火──信号弾!?ラーヤ、ここに残っていて!」

 

「何を、って、はあ!?」

 

 ライサが空を見上げる。路地の天井を暗い色彩で塗り潰す空の景色には黒い不純物が混じっていて、それは建物を身一つで登っていったアビスの影だった。

 

「あれより強いとか、サリアさんは絶対何かとんでもなく大きな短所を持ってるはず」

 

 正解だった。そして何なら、アビスもそうだった。

 

 花火が弾けた音を聞いてすぐ、三階か四階建ての屋上からアビスが飛び降りて、ライサの前に着地した。

 もう何も言うまい、と死んだ目をしたライサの隙をついて、アビスはライサを抱えた。

 

「えっ、何これ」

 

 お姫様抱っこの体勢になったライサが至極真っ当な質問をアビスに投げかける。まだそこまで長い付き合いではないが、アビスがこんなことをする人間だとは思っていなかったからだ。

 事実アビスはそんなことをする人間ではない。協力することになったオペレーターとは距離を取り、関わらざるを得ない人とも一定以上は踏み込まない、それがスタンスだ。

 しかし今の場合はそれが必要であり、尚且つライサ自身が()()()()()()()()()()()()()()ことが一因としてあった。

 

「ごめん。かなり揺れる」

 

「えっ」

 

 体にグン、と負荷がかかり、それに対抗するようにアビスの腕がよりしっかりとライサを抱えた。

 アビスの跳んだ衝撃で、室外機が二階の壁から落ちていった。そしてその音が響く頃にはアビスは三階の小さな窓枠を同じようにして歪めていた。目紛(めまぐる)しく変わる視界に、しかしハッキリと上昇していることだけは体への負荷から分かっていた。

 

 屋上へ着いたのは抱えられてから数秒のことだったが、ライサは創作物のゾンビが如くフラフラだった。それを分かって、アビスはライサをしばらく抱えていたが、明瞭な意識を取り戻したライサがアビスを非難して、致し方なしといった表情でライサを下ろした。

 アビスは奇行に出たが、何もデリカシーがない訳ではない。ライサにかなり怒られる可能性も考慮して今の行動に臨んだのだ。ところでアビスは確信犯という言葉を知っているだろうか。

 

「あの色のついた煙、見える?」

 

「見えるけど、あれがロドスって組織の?」

 

「恐らくは。よし、直線的に行こう。それがたぶん一番分かりやすい」

 

「えっ、いや」

 

「合流さえすれば──ん?でもあの色って危険な時のこと?うわあ、他のオペレーターと行動するの久しぶりすぎて信号弾の意味とか覚えてないよ」

 

「ちょっと、待って」

 

「とにかく、よし」

 

 アビスがライサに振り向いた。

 

「行こう!」

 

「ちょっと待てって言ってるでしょうが!!」

 

 ライサの痛烈な回し蹴りによって、アビスは声も出ないほどの驚きと共に屋根から落ちていった。

 

 

 つまり、とライサは締めくくる。

 

「屋根を跳び回るなんて私にはできないの!抱えても怖い!別の方法!分かった!?」

 

「うん、考慮してなかった。ごめん」

 

 アビスは散々ロドスのオペレーターである自負を持って兵士を倒していながらに、ロドスに所属していないライサに普通以上の能力を求めてしまっていた。身体能力もそうだが、普通異性に触れられるということは拒絶して然るべきなのだ。たとえば意味のないハイタッチとか。

 人をレッテルで見ないことは美徳と言えるが、それを判断材料に入れないのはただの考え無しだ。

 

「じゃあどうしようか。大通りを何度か横切ることになるから、無理矢理突破は流石に絶望的だ」

 

「うっ、それは……」

 

「えっ?ああいや、ごめん、責めた訳じゃなくて」

 

 ……ん?そもそも大通りを飛び越えるつもりだったのか?

 考え込むアビスを見ながら、ライサはそんなことを考えた。大通りを飛び越えるなんて馬鹿げた真似は、如何に手を使わず十数メートルの建物を登ったアビスでも、いや出来そうだなどうしよう。

 ロドスの規格外さは思考能力のぶっ飛び具合でも群を抜いているのかもしれない。然しものテロリストも、屋根に登ったり跳んだりしている輩は居ないはずだ。

 

 ──居ない、よね?

 

 ライサの表情に焦りが見えた。テロリストは確か、感染者を迫害するチェルノボーグに怒って奮起したはずだ。今だってそんな風の叫びが悲鳴と共に小さく聞こえてくる。

 こんな行動を起こしたのは許せないし罰を受けてほしいとは考えているが、その主張に対して僅かな理解くらいはしてもいる。もし自分が感染者になったらどうなるのか、ライサはそれを考えたことのない愚かな民では無かった。

 

 そう、少なくとも論理は通っている。イカれた集団がピエロマスクを被ってテロリズムを起こしたのではなく、確かに血の通った感染者たちが自分の身を守り、失われた仲間の命を弔うために武器を取ったのだから。

 そんな者たちが、屋根の上を飛び跳ねるだと?とうとう巻き起こった改革に酔うことなく、復讐心に身を委ねることもなく、屋根の上を?

 

 だが活動の一環である爆破などの破壊によって瓦礫と化した家々が道を塞ぐこともあり得ないことではない。瓦礫の山を越えるのは危険であるし、避けて通りにくい道も街には幾つかある。

 屋根の上を通るという行動は、テロリストとの戦闘を避ける上で理に適っている。そしてそれはテロリストからしても、ある程度の理は存在しているのでは?そもそもテロリストとの接触を避けようとする人を狙うにはそれしかないのでは?

 

 ライサの頭が、屋根の上での戦闘を可能性として捉える方向へとシフトチェンジした。ぶっ飛んだアビスの思考が少しずつトレースできているという信じたくない事実に、ライサはまだ気付いていない。

 ちなみにアビスは考えながら「ドローン」だとか「空挺兵」だとか溢しているが、ライサは気づいていない。

 

 先程信号弾の方向を見た限りでは居なかった、と思う。だがもしかすると居るのかもしれない。ライサはざっと見ただけの景色に隅々まで注意を飛ばすことはできないが、もし屋根に登っているテロリストが見えたなら、流石にそれを一番先に見つけているだろうが。

 

 いよいよライサの頭は変な方向に凝り固まり始めた。屋根に登っているテロリストというワードに全く抵抗のない辺り本当に重症だった。

 

 今、見てしまえば全て分かる。少なくとも自分の周りのテロリストが屋根を利用しているのか把握できる。それはこれからの行動において利益となるはずだ。

 

 ライサの頭はおかしくなった。屋根を利用など滅多に聞かない。テロリズムの現場に屋根を利用するテロリストが現れた時点でそれは夢だと分かるだろう。馬鹿なのか。

 

 少し怖いが、見るしかない。もしかしたら既にアビスが確認しているかもしれないが、コータスの自分が意識して屋根の上を警戒することにも意味はあるだろう。

 

 ライサは馬鹿だ。そういうことだった。

 

「見つけた!」

 

 捉えた。屋根の上を、自分たちの方向に駆けてくる何かを、ライサは自身の両目と両耳で理解した。

 

 嘘だろ。

 

「アビス!誰かがこっちに来る!」

 

「……えっ、マジだ。嘘でしょ」

 

 アビスは何故だか理解に少しの時間をかけたが、結果的に視認できたのだから問題はない。

 何をするために接近してくるのか、アビスは冷静に考えた。ライサを後ろに下がらせて、アビスはそれが何なのか推察しようとした。

 

 銃声。聞こえる頃には、アビスの体は射線から外れていた。半ば反射的に動いた超速のそれであっても、銃弾はアビスの鼻先数センチ先を飛んでいく。

 銃への知識が少ないらしきライサは何が起きたかイマイチ理解できていなかったので、後ろ側のバルコニーへと降りるように言って、自分は距離を詰めていく。

 

 間に一軒の家屋。

 それがアビスと、止まった女の位置関係だった。

 

 射線を切り続けたアビスには無駄だと感じたのか、その女は既に銃を下ろしてアビスの方を見ている。

 

「一応聞くけど、何のつもりかな」

 

「ここはテロの被災地よ?そんなこともあるわ、仕方ないでしょう?」

 

「君が撃ったはずなんだけど」

 

「ええ、そうよ。それがどうかしたの?」

 

 会話に応じる女に一抹の驚きを感じながら、それを隠して腹を探る。射程に入っていたから、というような軽薄な理由で撃ちそうだとは理解したが、それを避けた自分にどのような感慨を浮かべるのかはまだ分からない。それが仮面なのかも、まだ。

 だが、ほぼ間違いなくテロリスト──レユニオン・ムーブメントの一員だろうことは分かる。赤いツノや細く長い尻尾から判別するに、サルカズだろうか。

 仮面を付けていないことには何か理由があるのだろうか?あの少年と同じなのか?

 

 それを質問しても、答えは期待できないだろう。仄かでも微かでもない悪意と害意がその目から感じられた。

 

「ああ全く、話が通じないな」

 

 自然な動作で腰に手をやり、吊るしていたアーツユニットを準備する。少し彼我の距離は大きいが、フレンドリーファイアをしてしまう相手は居ない。存分に振るえるはずだ。

 

「コードネーム『アビス』」

 

「……はい?何と言いましたか?」

 

「白を切る必要はないわ、だってあたしはロドスのことも知っているんだから」

 

 その発言が意図していることは、チェルノボーグにロドスのオペレーターが訪れることを前もって知っていたということだった。

 自分の名前は方々の任務を熟していたから調べられたのなら知られていてもおかしくはないが、ロドスに注目していなければ容姿と名前が結びつくことはそうないだろう。

 

 スパイと内通、二つの可能性をアビスは思い浮かべて、即座に否定した。自分以外のオペレーターやエンジニア全てを信頼している訳ではなく、あのケルシーがそんな真似を許す訳がないと思ってのことだった。

 他にも可能性はある。たとえばロドスと提携している企業は多く、それらから脱落した者がテロリストになった可能性だ。しかしロドスを知った感染者が、果たしてその助けへと手を伸ばさずにいられるのだろうか?

 ロドスの手は、まだ小さい。掬い上げられる数には限りがあり、それは宛ら湖から少しの水を掬ったようなものだと言う。しかしながらその水を溢すことを、ロドスは決して許さない。

 

 もしそんなアビスの思考が合っているならば、選択肢は一つに決まって動かないだろう。

 

 チェルノボーグを訪問する情報が入らなくても、ロドスが訪問せざるを得ない理由について知っていたということなのだから。

 

「へえ、ドクターさんに用でもあるのかな?」

 

「……なんですって?」

 

「白を切る必要はないよ。だってボクはバベルのことも知っているんだから──、なんてね」

 

 背後に飛んだ。直後にグレネードが破片を飛び散らせながら破裂して、それをアビスは屋根の上を転がって回避する。

 あの不幸な事故の経験から、信号弾の方角は念入りにメモしている。恐らく戦闘は避けられなかったため、テロリストの一人にバベルのことを知っている人が居たということだけでもケルシーに報告できれば上々だろう。

 

 灰の舞う都市、通りから少し外れた屋根の上。

 アビスとWの戦闘が始まった。




前話の冒頭、アビスの語調がズレていたので修正しました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十三 全力疾走

ようやく最終話が止まってくれました。話数を増やしてなければ、40,000文字ギリギリいかないくらいです。39,500文字は超えてます。


 

 

 吹き飛んだ屋根が散弾のように地面へと降り注ぐ。

 それはまるで天災の予行演習でもしているかのように、瓦礫を路地へと積み上げた。

 

 アビスが舌打ちと共にまた次の屋根へと飛び移り、それから数秒もしないうちにもう一度、屋根が無数の破片へと変貌する。

 爆砕された建物には、当然ながら崩落の危険性が高すぎて飛び移ることができない。交戦してから僅か数分で、アビスの選択肢は開始時のそれよりずっと少なくなっていた。

 

「危なっ!?」

 

 両の手を屋根につけて着地した。なんとか寸前で回避したが、足元に転がったグレネードへと一瞬でも注意を奪われていれば、今の擲弾は躱せていなかった。顔を上げると、少し遠くに銃口が見えた。

 当然のようにアビスの顔へと精緻な狙いをつけるサルカズにもはや感心しながら接近する。

 もし今Wがアビスの顔を狙い撃ったとして、距離が離れすぎているために回避が可能であるため、接近の選択肢が一番マジだった。

 アビスの後ろ側には通りがあって、幾つかの建物が炎上していることから一旦の退避すら許されない。炎を無視して突っ切るとしても、それによる家屋へのダメージは無視できない。

 

「なんだか最近人を怒らせることが多い、ねっ!」

 

 単調な爆破だけであるならば、アビスは既に接近できていた。サルカズが思考を停止して近づくことだけに警戒するならば、アビスはとっくに逃走できていた。

 逃げ道となる建物の選択肢を優先的に塞ぎつつ、殺せそうな可能性は逃さず拾い、時に自分に接近させて罠を仕掛けることすら厭わない。徹底してアビスを追い詰めていくその行動パターンが、アビスの刃を逸らしていた。

 

 しかしアビスも翻弄されているだけには収まらない。Wはヴイーヴル(人外)の挙動で迫ってくるアビスから、何度も不意を突いた襲撃を受けている。

 辛うじて未だ同じ屋根の上に立つことがなく、しかしWの優勢はそれくらいの僅かなリードのみだった。

 

 

 リロードを終えた銃を構えて、黒煙の向こう側を射撃する。その銃撃とは別に、ドン、と砲撃のような音がして影が横へと真っ直ぐに飛び、Wの目はそれを追いかけようとしてすぐに見失ってしまう。

 ガッ。小さくそんな音がWの右方向下方面から聞こえて、グレネードのピンを抜いてその場に捨て置き逆方向の屋根へと飛び移る。

 グレネードが爆発する数瞬前に影が音のした方向から飛び出て、また砲撃のような音を出して高速で退避した。

 

 Wは音の正体が未だに分かっていない。恐らくは火薬や源石を用いた何らかの加速装置を使っているのだろうが、擲弾で穴を開けた地点が多すぎることと、自分から爆炎の壁を作っているせいでイマイチ痕跡や使用の瞬間を捉えられないのだ。

 

 グレネードの向こう側へと退避しているのを視認して射撃、しかしアビスは当然のようにそれを回避する。撃つ気がない構えには反応せず、撃とうと思って指に力を入れた瞬間にアビスは射線から消えていく。

 アビスは臆病なのだ、とWは理解した。カズデルで傭兵をしていたWよりも殺意に対して敏感で、そして反射的に対処できるほど死を恐れている。

 ただの臆病者であればそれで良かった。だがアビスは、臆病で居ることこそが自分を死神の下へ連れ去ってしまうのだと分かっていた。

 真に死を恐れた者は臆病で居ることができない。死に抗うためには力や知識が必要なのだと知り、それを糧として生きる能力を得るのだから。

 

 砲口初速の遅いグレネードランチャーを馬鹿正直に向けるだけでは仕留められないと判断して、先読みへと頭を集中させる。しかしそれを分かっているのか、アビスは計算を掻き乱すように加速して姿を眩ませた。

 

 

 アビスの額から玉のような汗が落ちる。猛炎の放つエネルギーは、そう、ロドスが誇る自爆ロボット(THERM-EX)の熱弁する内容と遜色ない心理的圧迫をアビスに与えていた。

 だがしかし、それ以上にアビスの精神へと負荷をかけるものがある。言わずもがな、あのサルカズが構えているグレネードランチャーだ。

 

 直前までアビスの居た空間、その少し前の屋根が破壊される。飛び散った屋根は疑似的な弾丸の豪雨となってばら撒かれ、ゾッとするような面制圧の射撃となった。

 

 飛び移っていくうちに、アビスの退避手段が限られていく。猛炎から離れていると言うのに、アビスの汗は止まらない。

 

 遂にアビスが足を止めた。左側は倒壊一歩手前の屋根、背後に飛び退っては先のように飛び散った破片に捉えられる危険があり、接近するには距離が近過ぎて弾丸の回避に自信がない。

 しかし右側の屋根を選択してしまえば、サルカズに撃ち抜かれる可能性が高い。右側を選択するしかないからこそ、それを選択することができないのだ。

 

 そしてもう一つ告げると、サルカズは今の読み合いでアビスを撃ち抜けるとは思っていないだろう、と推測できる。普通の手段で追い込まれているこの時、アビスは爆煙に隠れていたあの手段を取るしかない。

 何もかもがサルカズの思う壺で、アビスは歯軋りをした。サルカズの銃口はアビスより少しだけ右に逸れていて、その顔には嘲笑がある。

 

 仕方がない、とアビスは前に倒れた。

 両手を屋根について、左足を後ろへと出す。

 

 

 ドン、と音がした。

 サルカズの目が見開かれて、呆気に取られたまま口を馬鹿みたいに開いている。

 

 

 クラウチングスタートの体勢になったアビスは、特筆すべき機構を使わず、ただ純粋に足下の屋根を蹴り飛ばした。変わったものと言えば、靴に仕込まれている合金版の下に弾性を持つ素材でできたものがもう一つ重なっていることだろうか。

 アビスを送り出した屋根はアビスの脚が離れた瞬間から崩落を始めていて、サルカズの顔はありえないと全力で表現している。

 

 これはアビスにしか出来ない芸当だった。普段から格闘において蹴撃を多用するアビスだが、それの全力が、崩落と自身の射出を両立させるに丁度いい塩梅だったのだ。

 もちろん、他のオペレーターでも屋根を破壊することはできる。だが例えサリアのようなオペレーターでも、今のアビスのようにしてしまえば屋根を壊して終わりだった。

 

 半年後のアビスには出来ない、そんな奇跡のような噛み合いを土壇場で成功させ続け、アビスは屋根の上を鉛玉のように移動させている。ちなみに最初の発見は目の前に迫る擲弾への反射的な回避によるものだった。

 勢いをつけてしまえば後は簡単だ。出発した屋根の縁を蹴り飛ばし、より一層のスピードをつけて駆けていく。

 

「どんな化け物よ!?」

 

 Wとアビスの間には、もはや一つの屋根すら存在していない。アビスが出した法律違反確定のスピードに、Wは悲鳴のような声を上げながらグレネードランチャーを乱射した。

 放り投げた手榴弾は更にスピードを増したアビスの後ろで爆発し、その破片はアビスにぶつかっても、止まらない。

 

 アビスの頬に一本の線が走り、紅血が滴る。頬を離れた真っ赤な液体を置き去りにして、アビスは最高速度に突入した。踏み締める屋根は一瞬の間を置いて罅割れを作り、擲弾がトドメを刺す。

 

「あぁもう、さっさとこうすれば良かったわ!」

 

 アビスがWの立つ屋根へと跳ぼうとしたその時、Wはピンを抜いたグレネードを真上に放って屋根の向こうへと飛び降りた。

 アビスを仕留めるチャンスとは言え、今の状況に態々真正面からぶつかる必要はどこにもない。アビスのペースに乗せられたままで居るのは不利だし、何より癪だ。

 

 しかしそれはもはや見慣れた対処で、撹乱されたWのペースをアビスが手放すことはない。

 アビスが体を捻り、横に角度をつけて水平に跳んだ。Wの居た屋根の隅に手をついて調節、跳んだ勢いのままに人がすれ違うこともできないような幅の路地を落下していく。

 

 上半身が反っている体勢から、壁に爪先を擦って前傾姿勢を取り戻した。肉体の強度と速度によって壁に一本の線が刻まれ、激しい擦過音を出した爪先は燃えているかのように熱くなったが必要な対価だ。

 

 そして前傾姿勢になったからにはやることは一つ、地面に着地した瞬間にまた砲撃のような音を出して加速した。グレネードはとっくのとうに爆発していて、アビスが着地する頃には丁度、それによるホテルの鳴動も終わっていた。

 加速して、すぐに見えてくる壁の終着点。T字の路地を左に曲がればWが居るはずだ。

 ホテルの角に手をついて、横の壁を力の限り蹴り飛ばす。

 

 

 

 そして見えたのは──アビスに迫る擲弾だった。

 

 

 

「投降すれば助けてあげる、かもしれないわよ?」

 

 手遅れだと確信したWが挑発するようにそう告げたのをアビスの頭が認識して、その瞬間にはアビスへと擲弾が触れていた。

 それは誘われていたことなど全く気付けなかったアビスの失態だった。最大速度にまで加速したせいで調子に乗ったアビスの失策だった。

 

 擲弾が抉る。

 

「いっ──たいなぁ!」

 

「……はっ?」

 

 脳が指令を飛ばすよりも早く、それはもはや脊髄反射並みの速度で顔の向きを逸らしたアビスのツノを擲弾が削り取っていた。もし首や胴であれば撃ち抜かれていた。Wが完全無欠に額のど真ん中を狙っていなければ起こらない神業だった。

 自分のツノを押さえて痛苦の表情を浮かべるアビスと、呆気に取られているWの様子がひどく対照的だ。

 

「ふざけんじゃな──いったぁ!?」

 

 すぐに我を取り戻して銃口をアビスに向けた瞬間、Wの頭を激しい衝撃が襲った。ボロボロと何かが頭の上から落ちてきて、混乱のままにWは頭を振って路地の地面に落とした。

 

「アビス、今のうちに!」

 

 それはいつのまにか屋根の上へと登っていたライサの落とした植木鉢だった。Wがライサを狙い撃つが、頭へのダメージが抜けきっておらず、手のブレによってホテルの壁に着弾した。

 

 瓦礫がアビスとWの頭上に降り注ぎ、弾かれたように両名がその場から離れる。倒壊を始めたホテルの三階の壁が丸ごと剥がれ落ちそうになり、ギリギリで押し止まった。

 かなりの量の瓦礫が路地を塞ぐ。アビスよりも(うずたか)く積まれている。しかしアビスの退避した方向、つまりT字の路地には、更に多くの瓦礫が降ってきていた。

 

「はあ!?なんで、ああもうっ!」

 

 割れている窓から家屋の一室へと飛び込んだアビスは、先程グレネードが爆発した時以上の地面の揺れ──いや、チェルノボーグの揺れを感じた。

 瓦礫が積み上がった路地へと身を乗り出して上を見上げれば、路地裏の天井を彩る色は鮮烈なそれへと変わっていた。

 

 赤黒い雲が渦を巻き、雨のような隕石がそれを穿ちながらチェルノボーグを揺らし、瓦礫の山を積み上げる。

 

「天災が、どうしてこんなに早く!?」

 

 アビスの声を覆い尽くすような隕石の音が周囲を包む。

 

「今は、そんなこと考えてる場合じゃないか。ラーヤ!そっちは大丈夫!?」

 

「早く助けに来てー!」

 

「了解ー!」

 

 ちなみにアビスの疑問の答えは、あのゾンビ達との戦闘にある。端末を壊してしまったアビスに知る余地はなかったが、あの戦闘によってかなりの時間をアビスは消費してしまっていた。

 天災の予兆として集まった厚い雲は時間感覚を狂わせて、そして追い打ちをかけるように始まったWとの戦闘。アビスの身に降りかかった不幸の連鎖は天災までの時間をいとも容易く稼いでしまっていた。

 

 ライサを抱えたアビスが屋根の上を無音で駆ける。

 瓦礫と化した建物はそこら中に転がっていて、それと同じくらい、赤い液体に身を沈めたテロリストの死体が目につく。

 

 そしてそれ以上に、健在のテロリストが瓦礫の中から這い出ている光景が目を奪う。レストランらしき看板が落ちている近くから、数人のウルサス人がなんとか瓦礫を掻き分けて顔を出した。

 ライサの視界は天災の雲に染まっている。それが幸運に思えるほど残酷な惨劇が始まってしまった。

 

 ライサも気づかない訳がなかった。そこら中で再発した泣き叫ぶ声にテロリストたちの怒声が覆いかぶさっているのを、コータスのライサには分からないはずがなかった。

 だからこそ天災の方に目を向けて、今すぐ叫び出したい衝動を抑え込んでいるのだった。

 

 ライサにはそれくらいしか出来なかった。

 

 周囲一帯を破壊し尽くして、隕石の雨はいつのまにか止んでいた。そんな気紛れな破壊だからこそ、アビス達には恨むこともできない。

 

 何も言わず、アビスはただメモの方向へと接近する。これなら目印になる建物がなくなっても平気だ、と考えながら念入りにメモしていたが、本当にそんな事態になるなんて思っていなかった。

 そうだ、天災の猛威を想像できるのは経験した者か、それとも天災トランスポーターくらいだ。そして、アビスからすれば天災なんて他人事だった。

 天災が都市を打ち砕く前に離脱しようとしていたロドスのオペレーターには、ひょっとするとテロリストの武装蜂起よりも想定していなかったことなのかもしれない。

 

 もしかすると、自分はライサよりも想像できていなかったのかもしれない。

 自分の腕の中で生まれ故郷の喪失を実感しているライサに申し訳なく思う。他人を不幸をいつまでも他人事にしておけるほど、テラの大地は甘くない。

 

 陰鬱な空気を切り裂くような、大声が聞こえた。

 

 いつのまにやら、通りが騒がしくなっていた。叫び声や怒声とは違って統率の取れた声が響いている。

 そしてそれは、とても馴染みのある声だった。

 

 屋根を駆ける。

 

 最後に一際強くジャンプして、武器を振りかぶっていたサルカズを力の限り吹き飛ばした。仮面どころか頭骨すら割れたかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。

 

「カーディさん!無事でしたか!」

 

 行動予備隊A2及びA4に所属する隊員のほぼ全員が一斉にアビスの方を向いた。

 

 そして一人、向くまでもなく目の前に居た隊員が居る。

 

 泣いている少女を抱えた理解不能な狂人がどこかから跳んできて、全身煤けた服でテロリストの頭を蹴り飛ばしながら自分の前に着地した。

 

「きゃああああっ!!」

 

 叫ぶのも、無理はなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十四 熱源女

『原作改変』タグを付けました。


 

 

 空気が張り詰める。

 訓練室の中、銃口を向けるWと、その銃口を手のひらで覆うアビス。向けられているはずのライサは別段気にした様子もなくアビスの隣に立っていた。

 

「植木鉢は、ないわよ」

 

 アビスは下唇を噛んだ。Wの発言にも、立場上は擁護できないが、一理あると認めてしまっていた。

 

「あの後、土が服の間に入ってたのよ?」

 

 ライサはWに興味がない。何を言っているのか理解する努力を投げ捨てて、とりあえずアビスの袖を少し摘んでみた。

 

 アビスは自分の服の中に土が入っていることの不快感を知っていた。下水をかけられた後のことも、そしてレンガ製ではないが、プランターで頭を殴られたこともあった。

 リターニアでの経験がアビスに同情心を芽生えさせていた。もっとも、ライサのあの行動によってアビスは命を救われた訳であるから、口に出すことはないのだろうが。

 

「ねえ、聞いてるのかしら」

 

「……私に話しかけてるの?」

 

「はあ!?当たり前じゃない」

 

「ふーん、そう。それで?」

 

 Wは迷いなくトリガーを引いた。流石に撃ちはしないだろうと思っていたアビスが慌てつつもなんとか対応に成功し、寸前で銃の向きを逸らすことに成功した。

 指の隙間を弾丸が少し掠っていたようで、血が垂れる。

 

「あたしの邪魔をするなんて、もしかして撃ってほしいのかしら?あんたのツノを穿ったこの銃で、あんた自身に風穴を開けて差し上げましょうか、アビス?」

 

 今度はライサが拳を握り固めて、アビスに制された。だがその程度で止まるライサではなく、制されたまま声を張り上げた。

 

「負け犬のままじゃアビスに勝てないからって、私みたいな一般人に勝って自信でもつけるの?そんなちっちゃい器してるからアビスには勝てないって分からないの!?」

 

「大きい声で吠えるわね、金魚の後ろに纏わりつくフンにしてはよく声が出せるじゃない。すごいわよ、素直に誉めてあげる」

 

「ラーヤ、そこまで言わなくていいから。あとWもそこまで言わないでくれるかな」

 

「嫌だ」

 

「嫌よ」

 

「……そっか」

 

 アビスは現実に打ち拉がれた。何事も思い通りにいくことなんてない、それを改めて思い知った。

 

 干戈の交わりはいつだって避けられない。それはいつだったかニェンが言っていたことだが、アビスはその言葉の意味を本当の意味で今知ったのだった。

 ちなみにアビスが戦闘をして(第一章)以来、ニェンとアビスは顔を合わせていない。

 ニェンは軽々しく自分の妹を殺そうとした件について一言どころではなく何発か殴るつもりでアビスを訪れたりしているのだが、それを報告するサリアの手違いや勘違いや思い違い(大体サリアのせい)が発生して、アビスはニェンが自分を殺そうとしているらしいと思っているためだった。

 

 ちなみにサリアの報告だが。

 

『ニェンがお前を探していた。報復するために来ていたようだ』

 

『ニェンはお前を殺したいほど憎むだろう。きっと私ならばそうする。復讐はしたいからするのではなく、しなければいけないと思うからするんだ。抗えはしないだろう』

 

『あの自由人がここまで執着するのは珍しいと聞く。それ程までにお前が買ったニェンの感情は大きかったのだろう』

 

『大切な人を害されることを、自分を害されるよりも辛く感じることはある。お前が一体何をしたのか、自分でも良く考えてみると良い』

 

 全て正論である上に善意からアビスに言っていることがタチの悪い部分だろう。アビスは途中からただ忠告やら殺害予告(勘違い)をしてくるサリアに対して平謝りだった。

 それに対して、謝る相手が違うだろうと言ってのけるサリアは中々の鬼畜だった。正論ではあるのだが。

 

「まあ、いいわ。植木鉢くらいどうってことないのよ」

 

「……今何の話してんの?」

 

「ラーヤ一旦静かにしようか」

 

 額に青筋を浮かべるWの銃口を天井に向けて固定しつつ、アビスはライサを(たしな)めた。

 

 ニコニコ微笑んでいるアビスだが、内心はちゃんと頭を抱えている常識人だ。

 自分が責められているというのに人の話を聞かない狂人ではないし、銃口を向けられても側にいる人を信頼して煽りに煽る狂人ではないし、つまりはアビスはチェルノボーグ出身のコータスではなかった。──ん?

 

「そもそもアビスがWに付き合う理由ってないよね?」

 

「ないから銃を持ってるんじゃない」

 

「アビス、こいつ頭おかしいよ」

 

 それはそうなんだけどおまいう。

 アビスの胸中がそんなフィーリングの言葉によって埋め尽くされる。少なくとも一片たりとて納得はしていなかった。

 

「なによ、合理的な手段でしょう?普通なら聞かない頼みを押し通すには脅すのが一番良いのよ」

 

「うわあヤバい人だよ、アビス」

 

 説得力がないことを除けば、その主張は確かに的を得ている素晴らしいものだったのだが。正直アビスにとっては両者とも同じくらいに面倒くさく、害のない分ライサの方が少しマシなだけだ。

 

 それは、ライサの持つアビスへの情動が、本当は信頼や信用によるものではないとアビスが思っていることも少なからず作用しているだろう。

 

 ライサはアビスに依存している。

 少なくとも、それがケルシーを筆頭とするロドスの医療オペレーターが出した結論だ。チェルノボーグ事変を終えてからライサは精神的に非常に不安定な状態が続いていて、アビス以外のことを些事だと切り捨ててしまう今のライサはあまり良くない傾向にある。故に、通常ならば精緻な経過観察と共に距離を作っていくはずだった。

 しかしそれがあれだけのテロリズムに遭ってのことならば話は別だ。行動嗜癖(こうどうしへき)──物や行為に依存してしまうこと──としても最低限の常識は持っている上、薬物や酒のように過剰摂取を控えるべき物を飲用している訳でもない。言うなれば、吊り橋効果で懐いたようなものだ。

 

 そして更に、ライサはアビスに関わる事象であれば社交的な面すら見せている。

 何度もアビスの私室にLancet-2を引き連れて訪れるのも、クオーラと共にバットやボールを持って押しかけるのも、アビスからしてみれば勘弁して欲しいものだが、健全ではあるのだ。

 というかアビスとライサが部屋で二人きり、なんてことの方が不健全だ。社内でそういった関係になることを禁じてはいないが、年齢的にも常識的にも自重すべきだった。

 

 しかしそうは言っても、アビスへの好意や信頼がない訳ではない。というかアビスが勝手に全て依存によるものだと決めつけているだけで、純粋に頼っている部分は割合大きい。ライサの抱える依存は信頼を基とするものであると分かっていないアビスの勘違いだった。

 

「それで、ラーヤ。ボクはもうWに関してここで一区切り付けたいんだ。また後で野球でも何でもするから、あんまりケンカしないで欲しい」

 

「ふ、ふーん。分かった。仕方ないなぁ」

 

「あら、寂しいこと言うのね、アビス?」

 

 アビスの言葉によってようやく棘がなくなったライサの空気は、また針の如く鋭い緊張感を発生させた。

 自分の肩を抱いて微笑むWに、アビスは何してくれてんのお前と叫び出したくてしょうがなかった。何故か照れた様子で毛先を弄っていたライサが能面のようになってしまう所なんて見たくなかった。普通に怖かった。

 

「あたしとアビスの仲じゃないの」

 

「どんな仲だよ……」

 

「同じ感情を共有し合った仲よ?ねぇ、アビス?」

 

 Wの発した猫撫で声がアビスの肌を粟立てた。つい忘れてしまうほどに軽薄な態度こそ取っていたが、Wの抱く感情は殺意に他ならない。それを無理矢理にでも思い出させるような冷たい声だった。

 笑顔の向こう側で、果たしてどのようなことを今思っているのか。殺意はあっても手を出さないWの行動にはどのような意図があるのか。

 

「なに、それ。何したの?アビス。ねえ」

 

「ボクのアーツの話です、疚しいことはありません」

 

「なんで敬語になったの?」

 

「……」

 

 やっちまった。板についた敬語の口調がアビスの口から漏れて出た。それはWの言葉に恐怖したアビスの単なる言い間違いだったが、こんな状況下でそんな言い訳が通じる訳もない。

 

「ねえねえ、アビス?どうしたの?ねえ、ねえったら」

 

 ライサの目から光が消えた。最初に拒否していたあのWはどこへやら、冷や汗を流し続けるアビスを心底嬉しそうに眺め、アビスを責め立てるライサを確実に歓迎している。

 

「それはこれから話してくれるのよ。ねえ、アビス?」

 

 行動が読めない。Wの方針はアビスの話を聞き、尚且つ憎いアビスに害を与えるということだった。

 たしかに、その二つに当てはまってはいる。Wがライサを煽ったことでアビスは追い込まれたし、恐怖さえした。そして今のWは害を与えることよりも話を聞くことを優先した。

 だが余りにも行動がぐちゃぐちゃだ。話を優先するのなら最初からライサを部屋の外に叩き出して終わりだろうし、アビスに嫌がらせがしたいのなら話を聞くことよりもまた別の方法がある。

 

 一つ、アビスには思い当たることがあった。Wの気紛れである、という可能性より圧倒的に小さい可能性ではあれども、アビスはその理由こそが的中しているのだと、理由もなく確信していた。

 

 だが、まだ言えない。

 少なくともWがそれを自覚するまでは、言えない。

 

 

 

 

 家々は倒壊し、瓦礫の散乱する道をテロリストの壁が埋め尽くす。なんとも違和感のある表現だが、それが間違いではないことを一度見れば誰もが理解できるだろう。

 そしてその壁に穴が開く。耀騎士が弾き飛ばし、一人のコータスを始めとする術師オペレーターによる補助を受けながら、行動隊E1や E4、そしてアーミヤ隊の隊員が穴を埋めようとするテロリスト達を弾き飛ばした。

 

「キリがないな、クソッ!」

 

 そしてその中を行く医療班のメンバーによって更に護送されている存在こそが、ロドスにおける現在の最優先護衛対象であるドクターだった。

 まだチェルノボーグというテロリズムの被災地に慣れていないのか、聞こえる怒号に反応してはビクつき、キョロキョロと周りを見回している。

 

 そして、突如としてテロリスト達の動きが止まった。まるで統率された軍のように、その降り注いでいた鉄塊の群れは、振り上げられたまま降ろされることがなくなったのだ。

 

 まるで、どこかの絵画にでも切り取られた風景のようだった。テロリストの海が、たった一人の意思によって真っ二つに割れたのだ。

 

 神話の中の出来事ではない、しかしその一人はまるで神話に居る傑物の如き圧を纏ってこの場に現れた。

 

 

 炎熱の収斂が周囲を溶かす。驚異的なアーツの扱いによって自身は一つの火傷も負わずに高熱の空気を手の中に封じ込めていた。

 カジミエーシュの誇る耀騎士が前に出る。一条の光となって駆けるかの耀騎士は──膨大な熱量を以って打ち倒され、完膚なきまでにボロボロになる。

 

 次は耐えられない。彼らはそう明確に理解した。ドクターは打つ手がないことを悟って押し黙り、場の雰囲気は焦燥と少しの諦念に支配される。

 

 決意する男、未だ立ち向かう勇敢なる耀騎士、それを制する元軍人の女。

 

 そして覚悟をとうに決めていた、少女。

 

 

「滅せよ」

 

 

 全てを灰燼と帰するのみならず、その灰燼にすらも存在を許さない。

 火焔を象っただけの『死』そのものが放たれた。

 

 止めたのは、止めているのは、自己犠牲を厭わない男でも、死に体となった耀騎士でも、数多くの後進を育てる女でもなかった。

 それは覚悟を身に宿したただ一人のコータスだった。

 

 アーツによって生み出された人知を超える『死』と、アーツによって生み出された仲間を守る『盾』が拮抗する。

 

 『死』が『盾』を灼く。

 

 

「私が……みんなを……守らなきゃ!」

 

 

 焼け落ち、燃え尽き、尚掲げられた黒き『盾』。

 『死』を前にして一歩も引かず、ただそのコータスは仲間を守るために『盾』を支える。

 

「素晴らしい」

 

 傑物の口が弧を描いた。状況は圧倒的に優勢、周りにはいつでも襲わせることのできる部下が何百何千と存在する。

 しかし、()()()()()()()()を抜きにすれば、コータスは自身の最大火力を完全に防いでいた。コータスにかかる負荷などどうでもいい。

 なぜならあのコータスは仲間を守るために『盾』を取ったからだ。

 一つたりとて新たな火傷のない仲間たちを見れば、そのコータスの目的が完全に果たされていることが分かる。継続できないだとか、そんなことは関係がない。

 コータスは自分を相手取って尚、勝利している。

 

 これを賞賛せずに居られようか。いいや、それが出来ないのは情動を憎悪に染めた愚か者だけだ。

 

 しかし、限界が存在することもまた事実。

 

 コータスの体は崩れ落ち、支えを失った『盾』は『死』の猛炎に巻かれ、勢いこそ多少は弱まったものの、今度こそ『死』がコータス達に襲いかかった。

 

 

 

 ロドスで唯一絶対とされているルールはギブアンドテイクだろう、とどこかのヴイーヴルが言っていた。感染者はロドスへの奉仕無しに治療を受けられず、それこそがただ今日までに守られている規則だろうと。

 そしてAceは、たとえ一分にも満たない時間であろうとアーミヤによって『死』から救われた。それを返す義務があった。

 

 しかしその義務が意味を持つことはなかった。

 

 

 エリートオペレーターだった。その責任を果たすためには、命すらも擲つ覚悟があった。ロドスのための礎となることを受け入れていた。

 そして今がその時だった。エリートオペレーターとして、アーミヤを守る盾となるべき時だった。たとえ稼ぐ時間がただ一瞬のみであろうとも、前へと進み出るべきだった。

 

 そしてその覚悟も、今回においてはあったところで然程意味はなかった。

 

 

 たとえアーミヤが諦めてしまっていたとしても。たとえ自分がエリートオペレーターではなかったとしても。

 

 

 その男は盾を持ち、傑物の前へと進み出る。『死』を受け入れることなく、最後まで抗い、そして自分の守りたい仲間だけは生かしてみせると決意を見せた。

 

 数人のオペレーターが後を追う。それが本当の意味で後を追うことになろうが構わない、そう覚悟を決めて、彼らは彼に倣って己の武器を構えた。

 

 悲痛な叫びが、小さくアーミヤの口から漏れた。ドクターの腕の中、アーミヤが意識を失くす最後の時まで、Aceの背中はアーミヤの前にあった。

 

 

 

 ブレイズ、後は頼んだ。

 

 

 

 死ぬ覚悟を決めたからと言って、自殺してやるつもりはない。目標はたった数分でも、心意気だけは、寿命の尽きるその時まで生き延びてやるつもりだ。

 

 炎を押し退けた盾が焼け焦げる。それがどうした、ロドスに残っているブレイズの炎に比べれば熱くもなんともない。これが本気か、傑物よ。

 

 

 Aceが心の中で大言を叫ぶ。

 全てはロドスのため、いや、未来のために。

 

 

 そして──突然、炎の勢いが消えた。

 速度の乗ったダンプカーが突撃してくる衝撃から、ロドスに居る怪力のオペレーターが全力でぶん殴ってくるくらいの強さにまで勢いが落ちた。

 

 

 ああ、どうしてこうも、ヒーローは恰好がつくのか。

 

 

 Aceの視界には、何故だか目尻から涙を零すレユニオンの傑物──タルラと。

 

 熱さを全力で我慢して短剣を構えている、ロドス製の服に身を包んだヴイーヴルの青年が立っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十五 『死にたくない』

 

 

 ボクが広場に着いた時、そこには決死の表情で立ち向かうAceさん率いる行動隊E1が、押し潰すような死の恐怖をばら撒くドラコの女と戦っていた。

 

 広場の地面は女の足元を除いて円の形をした湿地帯のようにぬかるんでいて、ただ他の湿地と違うのは、その水分が融解し始めた石で代用されていて、更にはオレンジ色に発光していることだろうか。

 

 テロリストの居ない場所に降りる。何人かはボクに向かって武器を構えたけど、ボクの行き先があの熱源になっている女だと分かるとすぐにどこかへ散って行った。

 

 ボクの立ち位置は熱源女を挟んでAceさんの反対、つまりは完全な死角になっている場所だった。

 

 熱風が吹き荒ぶ。

 じわりと汗が浮かぶ──くらいを想像してたんだけど、かなり離れてる今でも滝のように汗が出てくる。これでもボクはAceさんより倍くらい距離取ってるんだけど、Aceさんはひょっとして人じゃない?

 

「冗談は、やめとこうか」

 

 熱源女は間違いなく強敵。あの鬼のように強い……この表現は誤解を招くからやめておこう、ボクを二、三回は軽く殺せるブレイズさんを子供のように(あし)らえるAceさんが苦戦する相手──ん?ボクが加勢する余地なんてある?

 

 いや大丈夫、あの熱源女は他のレユニオンとは違って肌が出てる。

 

 あ、あれ?ちょっと待って。

 

 今この人に真面に攻撃が効くのってボクくらいなんじゃないの?

 ボクのアーツは電気信号で、炎によって小さく軌道を変更されることはあっても熱されることによって焼失させられることはない。

 逆に、オーキッドさんやアーススピリットさんを筆頭とする緩速師の人や、アーミヤさんのようにアーツを球にして打ち出す中堅術師の場合は、燃え尽きることはなくても、真価は発揮できないはず。

 

 アーツ以外で斬り込むのは無謀が過ぎるから、必然的にラヴァさんやビーズワクスさんのような飛ばない攻撃や拡散術師に限られる訳で……Aceさんが今立っていられてるのは炎を盾で防いでいるだけだからで、それだけでもボクなら融けるくらいには勢いがある。

 Aceさんでも長くは保たない。E1部隊の術師オペレーターさんは──中堅術師。えっ、燃え尽きた。

 

 ポケットから取り出したアーツユニットの短剣を熱源女に向ける。熱源女がボクに気付いた様子はない。

 もし気付かれていたとしてもボクのアーツは最悪の初見殺し。不可視、無音、盾を持っていたとしても屈折して回り込むことすらあるのに、避けられるはずもない。

 

 あっ、と……まずはこっちだ。

 鞄から使い捨ての注射器を取り出した。中に入っているのはいつもの源石抑制薬──ではなく、ケルシー先生の過剰摂取を咎めて取り上げたらしいLancet-2から貰った理性回復剤。

 袖を捲って腕に打てば、スッと意識が冴えてきた。熱源女の放つアーツが煩いくらいに聞こえてくる。視界が広い。それなのに集中が高まっているのを感じられた。

 ケルシー先生がこれを多用するのも頷ける。そしてこんな目に見えるほどの効果があるなら、Lancet-2がそれを取り上げたのも当然だと思う。これで上級じゃないのだから、ロドスでも数本しか所有していないあの上級理性回復剤は……

 

 うん、あの熱源女を前にしてこれだけ深く考え事に没頭できるなら理性の方は大丈夫なはず。

 短剣の切っ先をまっすぐに。熱源女に気付いた様子はなく、E1部隊の人は数人ボクの方に気付いて、ハンドサインで撤退を促している。

 

 バカじゃないのか。ボクはイカれた作戦に命を賭けられない人間ではあるけど、目の前で殺されそうな上司を見かけて、全く何もせずに帰るような人間じゃない。ケルシー先生なら大丈夫だろうから帰るけど。

 

「すぅ、はぁ……」

 

 理性は十分。

 自分の感情を、整理しろ。

 

 助けたい。

 良い格好をしたい。

 自分にしか出来ないこと。

 自分だけが出来ること。

 エリートオペレーターを助けられる。

 熱源女に一泡吹かせられる。

 自分だけが助けられる。

 

 本当に、倒せるか?

 

 倒せない。

 負ける。

 無駄になる。

 『彼女』の源石が焼ける。

 勝てるはずがない。

 早く逃げたい。

 エリートオペレーターが勝てないのに、ボクが勝てるはずなんてない!

 早く死ねば良いのに。

 

 

 死にたくない。

 

 

 殺される!

 早く逃げなきゃいけない!

 暑い。

 どうしてボクがこんな役回りを!

 天災が降るかもしれない。

 みんなも逃げた癖に。

 ボクばっかり、いつもそうだ。

 『彼⬛︎』との思い出を汚すなよ!

 ボクと『⬛︎女』の命をこんな、こんなところで!

 

 胸を張って『⬛︎⬛︎』と向き合えるボクで居たい。

 命を賭けるボクって格好良くない?

 救ってやるボクに感謝しろよ。

 ボクだけが今、熱源女を倒せるんだよ!

 

 

 『⬛︎⬛︎』。『⬛︎⬛︎』、『⬛︎⬛︎』。

 

 『⬛︎⬛︎』、『⬛︎⬛︎』!

 

 『⬛︎⬛︎』、『⬛︎⬛︎』。『⬛︎⬛︎』。『⬛︎⬛︎』!

 

 

 なあ、『⬛︎⬛︎』!ボクって死にたくないんだよ!ボクはキミの持つ剣でしか死にたくないんだ。

 ボクはキミのために、命を張ってでも良い男で居たい。キミに釣り合うようなボクで居たい!

 

 

 死にたくない。

 

 倒さなきゃ。

 

 

 死にたくない。

 

 倒さな、きゃ。

 

 

 死にたくない、死にたくない。

 

 

 

 死にたくない。

 

 

 

 死にたくないよ、⬛︎⬛︎。

 

 

 死にたくないんだ。

 

 

 

 ねえ、死ななきゃいけないのかな。

 

 

 ボクは、死ぬべきなのかな、⬛︎⬛︎。

 

 

 死にたくない。

 

 

 

「増幅しろ」

 

 

 

 ああ、嫌だよ、消えたくない。

 殺されたくない!死にたくないッ!

 ⬛︎⬛︎が居ない世界で生きたくない!──ああでも、ボクは本当に死にたくない!

 死ぬなんてどうかしてる!馬鹿げてる!

 

 ボクはアビスだ!ボクは⬜︎⬜︎だ!ボクはボク以外の何かじゃないんだ!絶対に、源石の粉塵なんかじゃないんだッ!

 

 ボクは口を開かない骸なんかじゃない!

 ボクは言葉も話せない亡骸なんかじゃない!

 ボクはまだ生きていたい!

 

 美味しい食べ物を食べるなんてのはもう無理でも、料理くらいは楽しませてくれよ!

 キミの役に立つことはもうできなくても、人の役にくらい立ってみせたい!

 

 ボクの努力を認められたい!

 ボクの抱える感情をもっと知ってほしい!

 

 もっと尊敬してほしい!

 もっとボクは好かれたい!

 

 ボクの、ボクの命を終わらせたくない……ッ!!

 

 

「増幅しろ」

 

 

 あああああ、ああああああああッッッッ!!!

 死にたくない死にたくない死にたくない!キミになら殺されても良い!ああ、やっぱり嫌だ!自分から鉄の刃を喰らうなんて馬鹿のすることだ!

 ボクは、でも、どうせもうすぐ死んじゃうんだ!

 全部全部無くなるんだ!

 

 大事にしてきたキミとの思い出は!

 居心地の良かったシーさんの通路は!

 オペレーター『アビス』の全部は、もうすぐ終わるんだよ!

 

 死にたくない!

 ずっとそう言ってるだろ!なんで神様はボクに何にもしてくれないんだよッ!知ってるよ、どうせボクみたいな悲劇が好きなんだろ、クソ喰らえだ!死んじゃえよ、そんな神様はさぁ!

 どうしてキミが居ないんだよ!どうしてボクより先に死んじゃったんだよ!どうして⬛︎⬛︎は!約束だってまだ果たせてなかったのに、どうして粉になんかなって、源石なんかに侵されて死んじゃうんだよ!

 

 なあ、⬛︎ラ!どうして、どうしてボクにキミの死を見せつけたんだよ……ッ!キミがそうしなければ、ボクはとっくに消えてなくなってたのにさぁ!!

 

 

「増幅しろ」

 

 

 嫌だ、嫌だよ!なあ、リ⬛︎!

 

 キミに最後に教えてもらうことが、キミが最後にボクに教えてくれることが、どうして……ッ!

 

 

 

 

 

 どうして、死の恐怖(こんなこと)なんだよ、リラ。

 

 

 

 

 

「増幅しろ」

 

 

 

「増幅しろ」

 

 

「増幅しろ」

 

「増幅しろ」

「増幅しろ」

「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だよッ!」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「ああああああああッッ!!!」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「みんな死んじゃえよッ!」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「ぶっ殺してやる!」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「どうして居てくれないんだよ……」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「ボクの恐怖を分かってよ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「全員殺してやるッッ!!」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「増幅しろ」「死にたくない」「増幅しろ」「増幅しろ」

 

 

 

 

 

「ああああああああああッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 ボクの短剣からアーツを放射する。

 ボクがアーツの準備をしてから僅か一秒後のこと。

 

 努めて静かに、ボクのアーツは感情を伝達させた。荒れ狂う死への恐怖が心なしかボクの外へ流れ出たような気がして、少しだけ気分が楽になる。まあ、最悪にまで落としたのはボク自身なんだけど。

 

 

 ボクが自分のアーツを使っていて思いついた脳内反射は最初、ボクを絶叫させた。ロドスの艦内じゃなかったことが救いだったけど、ボクはその場に出ていた全ての敵を精神病棟送りにして、敵すら寄り付かなくなってとても楽なまま、希少原料の護送を終えた。

 

 それ以来ボクは完全防音の訓練室で増幅のさせ方を学んだ。

 

 まず第一に、理性が追いつかなきゃいけない。ボクが感情を押し込められているのはボクの理性がそれを制しているだけで、他には何の対策も講じることができない。

 だからこれをなんとかするために、ボクの増幅は理性がちゃんとある時に、言葉をトリガーにして使うようにした。ニアールさんが光になる時は詠唱するように、ボクも六文字のトリガーを決めた。

 

 次に、増幅させる感情は小さくも大きくもない、丁度いい大きさじゃないといけない。大き過ぎると、最悪一回の増幅でボクの意識がブラックアウトする。小さすぎると、大きくするまでに負担がかかりすぎて、やっぱりブラックアウトする。

 大きすぎる時の増幅では、過剰な興奮というよりは、いきなり鉱石病が進行し過ぎることの弊害、だと思う。誰にも話してないから全部推測になるけど。

 

 三番目に、増幅した感情は味方に伝わってはならない。当たり前だけどボクのアーツは、知られたくないっていうボクの心情を抜きにしても危険すぎる。

 増幅なんてさせなくても、昂ったボクの恐慌状態は少なくとも死の近くで慣れていなきゃ戦闘不能になるくらいなんだ。当然だった。

 それの対策としてボクは、ブレイズさんのアーツユニットも設計したとかいう元エリートオペレーターのMechanistさんに依頼をして、絶対に切っ先からしかアーツが射出できない短剣を作ってもらった。一人の時は他のアーツユニットを使って、若しくはアーツユニット無しで全方位に、誰かと居る時はこの短剣を使えばいい。

 

 そして、それが完全に決まった。

 

 

 そのはずだったんだけどな。

 

 

「お前、か」

 

 熱源女がボクの方に振り返った。今は炎のアーツを出していない上に涙を流していて、にも拘らず存在感は変わらない。

 アーツが効いていない訳じゃない。ただ、ボクの増幅された感情は、この熱源女──今はただのドラコか。ドラコの女によって完全に押し殺された。

 

 感情の扱いが上手すぎる。人外レベルだ。

 勝てない。絶対に勝つことはできない。

 

「あ、あぁっ……」

 

「お前が、今の感情を、私に」

 

 ああ、クソッ。

 死にたくないって──伝えただろッ!!!

 

「うらぁッ!!」

 

 上段蹴り、尻尾を地面に打ち付けて、反動を初速に変えて殴りつけ。どちらも手の甲で軽々と弾かれた。最初から分かってたことだけど、やっぱり身体能力も化け物か。

 

 中段蹴りを弾こうとした腕に尻尾を絡めて振り回す。ロスモンティスさんのような超重量を操る相手を見越して、H型鋼を用意してもらって訓練した経験がある。

 ちなみにそれをぶん投げてロドスの甲板を凹ませたこともあるし、ちゃんと効果はあるはず。

 

 ガクン、と体が揺れた。それだけだった。

 

「なん、でだよッ!」

 

 腕を振られた。それだけで数メートルボクは吹っ飛んで、広場にあった石像へと背中から叩きつけられた。

 まだ熱の篭っている石が熱い。さっさと立ち上がれ。早くしろ。

 

「があああああッ!ボクに、近寄るなッ!」

 

 形振り構わず、右ストレートを真正面から打ち込んだ。サリアさんの訓練の成果か咄嗟にしては上出来の打ち込みで、たぶんそこらへんの刑務所なら素手で脱獄できるレベルだった。

 

 ズズ、と押し込んだ。それで終わりだった。

 

 ボクの顔が、自分でも分かるくらいに恐怖で歪む。きっと嗜虐心でも誘うような風貌なんじゃないかな──ああもうっ、切り替えろ!

 死にたくないんだよ、ボクはぁっ!

 

 もう一度、今度はスピードを重視して、最低限のパワーでラッシュをし続ける。当たり前だけど、全部対応されて弾かれた。いや当たり前なら困るんだけど。

 連撃の切れ目に右から回し蹴り、を弾かれた瞬間に撓らせていた尻尾を入れる。ガードされるなら、その分ボクの手数を増やせば──尻尾が、尻尾で止められた。

 

 ヴイーヴルのボクは、太い尻尾を持つ。流石にトミミさんのようなオペレーターには敵わないけど、一般的なアダクリスや他の種族よりも太くて力の強い尻尾を持ってるつもりだった。

 それが、どうしてこんな細い尻尾で受け止められるんだ?ありえない、絶対にこんなことはありえないはずなのに、いや、このどう見てもボクより細い腕でボクを吹っ飛ばせている時点で分かることだったか。

 

 握った左の拳をドラコの女に向かって繰り出して、次の瞬間にはそれが掴まれていた。尻尾を捉えられて半端な重心のまま振るったから、掴まれてしまうまでに速度が落ちていた。

 

 

 殺される。

 

 

 ドラコの女は空いた左手で剣を抜き、ボクの首に当て、未だ流れ落ちる涙に一切構わずニヤリと笑った。

 怖い、恐い、だがそれ以上に、蠱惑的に女は笑った。まだ猶予があると思ってしまっていたから、恐怖を感じこそすれど、どこかで惑わされたボクが居た。

 

「少し強引だが──」

 

 首に鮮烈な痛みが走る。たった薄皮一枚押し入っただけで、ボクの脳はいつも以上の回転を始める。先までは頭の隅っこで思考を惑わせていた部分が押し潰されて、ボクの頭は恐怖一色に染まる。

 生への執着がボクの頭をより早く動かす。

 

「レユニオンに入らないか?」

 

 それでも、一瞬何を言っているのか分からなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十六 敵意のない否定

アンケートを締め切らせていただきました。
回答くださった方はご協力ありがとうございました。

あと一日二回に投票してくださった方は勘弁していただけるとありがたいです。ならどうしてその選択肢を用意してしまったのか。それは作者のユーモアセンスが歪んでいるからに他なりません。


 

 

 炎が再度広がって、熱源女と捕まえられたアビスを囲うように展開された。逸早く火傷の応急処置を終えた前衛オペレーターが焦りと共に剣を持って斬りかかるが、触れた瞬間生じた爆発によって吹き飛ばされただけだった。

 たった数度タルラの猛炎を防いだだけで、Aceの体はニアールよりも酷いものになっていた。特にその盾を構える左腕は所々が爛れている。

 

 焼灼(しょうしゃく)止血を終えた後のような身を捩るほどの激痛がAceを襲っているはずだが、それに悶える様子は一切見えない。しかし痛みに顔を歪ませてはいなくとも、決して表情は芳しいものではなかった。

 

「あの龍女、中で何をしているんだ!」

 

 吹き飛ばされたせいで増えたケガを処置しながら、前衛オペレーターがそう叫んだ。Aceの顔もより一層渋くなる。

 

 先程までタルラと戦っていた──正確には遊ばれていたと言うべきだろうが──オペレーターの青年はタルラと共に炎のドームの中だ。

 いつ割り込むべきかと機を見計らっていたAceは、タルラが青年の首に剣を当てた部分までは見えたのだが、直後として放出された猛火に阻まれて、それからどうなったのかは分からなかった。

 

「Aceさん、どうしますか?」

 

「なんとかする──と言いたいところだが、どうすればいいのか見当もつかない。消えるのを待つしかないだろう」

 

「そう、ですか……」

 

 無力感に苛まれる前衛オペレーターの肩を叩いて、炎のドームを再度見やる。ロドス特製のゴーグルは煌々と燃える炎を真っ直ぐに見据えることができている。

 だが、それだけだった。

 エリートオペレーターであるAceに出来るのは青年が閉じ込められた檻の中を見ていることだけ。タルラの前では、数度炎を防ぐことのできたAceも、前衛オペレーターとほぼ変わらないということか。

 

「いつ消えても良いように、警戒は続けていろ」

 

 全員の応急処置が終わり、Aceの率いるオペレーター達はまた戦闘時の隊形に戻った。無力感は作戦に不要なもので、もし青年が殺されていたとしても、それに涙することは許されない。

 隊の練度が高いとは言え応急処置は一分弱かかっている。タルラの狙いが何であるのか、それが分からない限りはいつまでも警戒を続けることになるだろう。

 

 

 そして、その警戒はすぐに異物を捉えた。

 

 

──捉えられたのは、ロドスの特製のゴーグルを着用していたAceただ一人だったが。

 

 

「炎の中からアーツ反応!総員、身を守れ!」

 

 炎ではない、直線上に突き進む見えないアーツがゴーグル越しに確認できた。それも全方位、全角度へと、球を中から押し広げるように進むアーツ反応の塊。

 Aceの頭の中で、今まで見てきたアーツには全く当てはまらない挙動だと弾き出され、更にタルラへの警戒を引き上げた。

 

 そしてそれだけには留まらない。壁や床に衝突したアーツ反応は消えることなく屈折し、Aceの視界いっぱいに埋め尽くされる。

 人体にのみ影響がある、もしくは生物のみ。ヒーリングアーツと同種のものかと思ってはみたが、まず確認されるアーツ反応の量からして桁違いだった。

 しかし物に衝突すれば跳ね返ると言うのなら話は早い。炎に向かって真っ直ぐ盾を構えてさえいれば、そのアーツの効果は──寸前で盾の向きを変えた。青年の生死が確認されていないのにタルラのアーツをその方向へ弾こうなどという考えは最悪そのものだった。

 

 Aceの伝えたアーツ反応の特徴により、隊員の被害は未だゼロだ。広場全域に広がるアーツ反応を確認して、捲っていた袖を下ろす。頭は剥き出しだが、盾を持っているのに頭を守れないと言うほど耄碌していない。

 

 盾を構えて、弾く。

 広場を囲んでいたレユニオン達から絶叫や悲鳴が聞こえてくる。恐らく広場の熱が伝わったせいでフードや仮面を外していたのだろう。いや、たとえ外したのが手袋だとしても、このアーツは作用するのかもしれない。

 

 隊員達の不安気な空気が伝わってくる。レユニオンの号哭が混乱を呼び、また、叫びながら同士討ちすら始めた者すら見えた。

 何が起こっているのか、仮面を外して見ようとしてアーツにかかる者も居るのだろう。

 

 タルラの扱う二種のアーツは、最悪の相乗効果がある。

 猛炎による範囲殲滅効果だけでも恐ろしいと言うのに、それによって一部分でも肌を見せてしまえば、その隙間からこのアーツで刺し、少なくとも正常な思考能力を掻き乱す。

 

 どのような反則技を使ったのか分からないが、炎のアーツにあれだけ熟達していながら、この反射するアーツも負けず劣らずの熟練が伺える。

 

 しかし、おかしい。

 少なくとも放射を始めて何十秒かは経っているはずだ。それにも拘らず、アーツが止むどころかアーツ反応は増加している。

 これを青年がまだ抗っているからだと捉えるべきか、それとも青年の安否を心配するべきか。

 

 レユニオンの絶叫は続いている。声が枯れるほど叫んでも、雨後の筍のように湧いて出るレユニオンが被害者を増やしているのだ。

 広場に近づく者は居ない。あれだけ憎悪を燃やしている兵士たちが思考能力を奪われているように見えているのに、一向にAceたちには近寄ってこない。

 

 おかしい、まだ何かがある。Aceの頭が回転する。

 思考能力を奪うのみならず、何か他にまだ効果がある。

 レユニオン同士で討ち合っているのに、自分達には近寄ってこない理由は何だ?

 

「アイツら……もしかして敵に見えてる、のか?」

 

 絶叫を上げていた兵士が、心配するように声をかけてきた無手の兵士には特に何もしなかったが、盾を持って近づいてくる兵士の喉元に剣を差し込んだのを捉えた。

 

 絶叫している意味は分からない。だが、どうやら武器を持って近づいてくる者は敵だと思い込むらしい。それが、それ程までに思考能力を奪われているのか、それともそういうアーツの効果なのかは分からない。

 しかし対策は講じることができる。

 

「もしアーツを受けた隊員が居た場合、すぐに離れて隊形を組み直す。いいな!」

 

「了解です!」

 

 誰もが自分の死を覚悟している。

 オペレーター達が炎のドームへと向き合い──消えた。

 

 炎が消えて、そこから見えたのは……

 

 

 

 まるで車にでも轢かれたかのように吹き飛んでいく青年の蹴りを喰らったタルラと、蹴り終えた姿勢からすぐに倒れた青年の姿だった。

 

 

 

 

 

「あの化け物を自力で吹っ飛ばしたの?本当に?」

 

 Wの表す感情は当然ながら猜疑心だった。いくらアビスがあのサリアに鍛えられているとは言え、タルラの拘束から逃れ、剰え吹き飛ばして距離を取ることなど不可能だろう。

 薄暗い部屋の中、疑念に染まったWの視線がアビスを貫く。アビスが普通にタルラと戦えば、一秒にも満たない時間で首が切り落とされて終わるだろうと分かっているが故の、半ば嘘だと確信しているような疑念だった。

 

「タルラさんが遊んでくれていて、それでもかなり頑張ったけどね。具体的に言うと十数分後にようやく目を覚ましたから」

 

「それっぽっちで立ち直るのは真性の化け物なのよ」

 

「タルラって人はそんなに強いの?」

 

「人じゃないわ」

 

「えっ」

 

 人じゃないんだ、と途轍もなく失礼な勘違いを植え付けたところで、Wは足を組み直した。ちなみにだが、ライサも椅子を用意して座っている。座り方はもちろん二対一だ。

 

「そういえば、今はどうなってるのかしら?」

 

「さあ?前に聞いた時は、ウルサス帝国に引き渡すことにはならないだろう、とはケルシー先生が言っていたけど」

 

「ふーん」

 

 アビスの目が少しだけ鋭さを増してWを見ているのを、傍に座っていたライサは感じ取った。Wの持つ、剣を突き刺すような鋭さではなく、まるで注射針のような、痛みを伴わない鋭さだった。

 

 ライサは少しだけ、嫉妬する。アビスがその目でライサを見たのは、ライサを気絶させた後の問答の時のみだった。自分の感情を見透かすようなアビスの眼差しに、少し怖くなったものだ。

 恐らくアビスがその眼差しでライサを観察することはもうない。ライサはWとは違って心と信念が違う方向を向くことはないだろうし、疑わしい行動をする予定もない。

 

「それじゃあ、次はもうあたしの話よね」

 

「W、準備はいい?」

 

「ええ、そもそもそれを聞くためにこうして──」

 

「それは違う」

 

 アビスの冷たい声が部屋に響く。

 凍りつくような声をアビスが発したことに少し驚き、そして次に意味が分からない、とでも言いたげに眉を顰めた。

 Wは、報復するためにアビスをこの部屋へと入らせた。それは本当の本当に真実で、Wがそれをしようと思わなければこうはならなかったはずだった。

 

「何を言ってるのよ」

 

 Wの頭の中を埋めるのは、自分勝手に推し量るアビスへの怒り。他人の感情が自分の思っている通りだと()かす愚かな子供に最上級の苛立ちを覚える。

 顔を染めているのはアビスへの怒りで、それはアビスとの会話によって削がれていた殺意でさえもまた表出させる。

 

 ライサが不快感を滲ませてWを睨んだが、それを意に介さずアビスを()め付ける鮮烈な赤に染まった二つの眼光。

 それを真っ直ぐ睨み返すアビスの目には僅かばかりの敵意さえも浮かばず、ただ只管にWを否定し続けていた。

 

 敵意なく、否定する瞳。

 

 否応なく認めてしまいそうになるほど鋭く真っ直ぐで、しかし相対するWも怯むことなくWに殺意を送り込む。

 仲間はずれになったライサが人知れず拳を握ったところで、その膠着は幕を閉じた。アビスの目が細くなり、それはただ純粋に笑っていた。

 狂人め、とWが座り直し、ライサは固めた拳を振り被る。それはアビスの制する腕がなければWに撃ち抜かれて終わりだっただろう。

 

「はあ、本当だ……言われてた通りだった」

 

「はあ?」

 

 本当に頭がイカれたのか、アビスは変なことを言う。

 『言われてた通り』?何のことだ?

 

 Wの思考を占める問いに答えは見つからず、再度発せられるであろうアビスの言葉を待つ。だがアビスの言った言葉は更に素っ頓狂なものだった。

 

「年の功ってあるんだね、ライサ」

 

「えっ?あっ、うん。あるんじゃない?」

 

「ふふっ、いや、本当にね」

 

「何の話を……!」

 

 唸るWが銃口を向けても、アビスはそのニヤニヤと笑う顔を止めなかった。まるでライサがこの部屋でアビスに宥められた時のWのように、アビスは笑っていた。

 

「いいよ、話そうか。準備も出来ただろうから」

 

「準備って、何よ」

 

「それはそのままだよ、W」

 

 得体の知れない発言はどこから来ているのか、それはアビスの話を聞けば分かるのだろうか。そんな自分の頭に湧いた疑問を切り捨てて、Wは銃口の向きをアビスから逸らした。

 

 Wはその話を聞くためにアビスをこの部屋へと案内したようなものなのだから、アビスが話さえすればいい。そして最後に頭を撃ち抜けば終わりだ。

 アビスがどんな風に自分と接しようが構わない。アビスの言葉はきっと死の恐怖から来るただの戯言に過ぎないのだろうから。アビスの言葉は全て自分を欺くためのもので、つまりは自己暗示のようなものだ。恐怖を紛らすための、それに違いない。

 

 Wが唇を噛む。アビスの言葉が戯言だと思い込むことでしか平静を保てない自分自身の弱さに憤る。そして同時に分かっているのだ、アビスの発言がそんなつまらない嘘ではないのだろうということくらい。

 そもそも年の功が誰のことを指しているか分からないWには当然アビスの胸の内も分からない。

 アビスが言及しているのはW自身のことだ。順序が逆になってしまうが、自分自身のことが分からないWに他人のことが分かる道理もない。

 

 アビスの思い浮かべる人物はライサにも分からなかった。だが、少なくとも、アビスがよく昼食を共にするシーではない。

 彼女はケルシーの言葉によればアビスとそこまで仲がいい訳でもないらしいし、自分の考えを人に伝えることはあっても、自分の『言う通り』になる、と強制するほど押しが強くない。だからアビスも安心して隣に置いておける。

 

 とすれば、誰だろうか。ライサには分からなかった。アビスが頻繁に会っている人物は勿論、任務や風呂、就寝以外での時間はずっとアビスと共にある。ない時はLancet-2が報告してくれる手筈だ。今回の任務中が終わってからはまだ報告を聞いていないので、そのためだろうか?

 

 と、考えては見たが、ライサにとってそんなことはどうでもいいのだ。年の功なんて表現をするからには、シーやケルシー以外ではきっと老人だろう。知らないオペレーターだったとしても、自分の敵にはならないはずだ。

 

 ライサは知らない。自分が任務に行っていた隙に何人ものオペレーターがアビスと関わり始めていたことを。アビスが他のオペレーターと積極的に接し始めていることを。

 

 ともかく、アビスの心中は分からないままに、恐らく最後になるだろうアビスの話が始まった。

 

 アビスの吐いた言葉が、空気を揺らした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十七 Wの忠信

 

 

 ボクの意識が浮上して一番に見えたのは、瓦礫の家だった。横向きになっていた顔を前にすると、そこには兵士を現在進行形で殴りつけるAceさんを先頭としたE1部隊の皆さんが肩越しに見えた。

 バキ、と音がして、仮面の割れる音がする。ガン、と音がして、金槌が頭部を振り抜いた音がする。

 

「目は覚めたか?それじゃ、立てるだろ?」

 

「あ、ああ……ありがとう、ございます」

 

「礼を言うのはこっちの方だ。確か、南の方を受け持った、アビスだよな?」

 

「はい。運悪く端末を壊してしまって、信号弾の方角を目指して移動中、あのドラコを見つけて参戦しました。お世話になってしまったようで、申し訳ありません」

 

「だからそれを言うのはこっちだって」

 

 フードの奥で、前衛オペレーターさんが苦笑した。ボクと彼の話し声は部隊全体に伝わったようで、後衛のオペレーターさん達はボクの方を振り返った。

 軽く会釈をすると、その方々にも返していただけた。

 

「それにしても、あの龍女をぶっ飛ばすなんてな。単独で任務を負う訳だ。俺はそろそろ戦闘に戻る、アビスはどうするんだ?」

 

「ボクは……そうですね、チェルノボーグの搭乗口がある場所さえ分かれば一人でも十分ですが」

 

 ボクにはチームワークの経験があまりない。勿論ドーベルマン教官に最低限は教えていただいたけど、ボクの戦闘スタイルは自由が過ぎる。

 一人で行動した方が、少なくとも今は良い。

 

「それなら、この道を真っ直ぐ行くだけだ。とは言っても瓦礫があるせいでいくらか遠回りをすることになるだろうが、出口は大通りの先にあるんだよ。たぶんその辺りでアーミヤさん達は待機してるんじゃないか?」

 

「了解しました。それでは、また危険のない場所で」

 

「そうか、じゃあな」

 

「はい」

 

 兵士たちが部隊の周りを囲んでいるけど、Aceさん達の突破を阻止するにはかなり不足した数であることは否めない。ドラコの女と戦闘した時はかなりの数、それも今見えている兵士の五、六倍は居たような気がするのに、どうしてこんなに減っているのだろう?

 とはいえ、その疑問はまたチェルノボーグを脱してからだ。部隊の左側で剣を振り回していた兵士の頭を蹴り抜いて建物に接近し、力の限り上に跳んだ。

 二階の窓枠に手がかかる。思いっきり振った指でガラスを砕き、掴んだ枠を全力で下へと押し込んだ。窓枠の上側を蹴って屋根に手をかける。

 上って振り返れば前衛オペレーターさんが小さく手を振っていたので、ボクも手を振って返す。

 

 彼らには余裕があった。

 実力があった。経験があった。

 

 確実にあの部隊はロドスに帰るだろう。ドラコの女が追いかけて来ることさえなければ、きっと帰ることができる。

 

 屋根の上を走りつつ、一度だけ振り返った。

 

 あのドラコの女は、ボクと同じだった。それはきっと、感じるものでさえボクと同じだった。

 でもそれだけだった。どれだけ彼女とボクが同じだったとしても、彼女はボク自身を意味しない。

 

 ああでも、確かに。もしボクがあの放浪の中で絶望してしまっていたら──ロドスを見つけることさえ出来ず、リラの源石に侵食されてしまっていたら、きっとボクは彼女と同じようになっていた。或いは、レユニオンに入っていた。

 

 今はそうじゃない。ボクはレユニオンに入っていない、ボクはロドスという月を見つけたんだ。

 

『君にとって、ここが月でもないくせに』

 

 ボクには、ロドスしかないんだ。

 

 

 

 

 

 無事に残っている建物が少なくなってきて、ボクは屋根から降りた。無事に残っている建物が少ないということは無事で済んだ兵士も少ないということで、荒れ果てたチェルノボーグには兵士の姿が疎らにしか見えなかった。

 

 しばらく兵士を尻尾で叩きつけたり締め付けたりしながら歩いていると、爆音が聞こえた。

 それはとても聞き覚えのある音で、少し前にとても近くで聞いていた音で──あのサルカズの女が使っていたグレネードの音だった。

 

 走る。体ごと回転して叩きつけた尻尾が、兵士の刃に少しだけ斬られた。傷は小さかったけど、決して少なくない血飛沫が上がる。

 頬にかかっていた血を手で拭って直走(ひたはし)る。

 

 銃撃音が耳朶に触れる。

 

 瓦礫が道を塞ぎ、幾人かの兵士がその前で話していた。

 音を殺して接近、腹に足の裏で蹴りを入れる。押し倒した兵士の剣を抜いて首を切り裂き、返す剣でもう二人の敵を切る──ことはできず、受け止められた。

 一度力を緩めた後、全力を出して強引に二つの胴へと一気に斬り込む。もう一人、二人の丁度後方に居た術師にはその二人を左右から押しつけ、奪った二つの剣を両手に持って、術師ごと二人の兵士を刺し貫いた。

 

「ボクの邪魔を、するな」

 

 瓦礫の上を進む。鉄骨がボクの足に裂傷を作り、姿勢を崩した先の礫塊が尻尾の傷口を抉る。

 自分自身の血で真っ赤になりながら、ボクは瓦礫の山を乗り越えた。向こう側に居た二人の兵士は着地するついでに頭を掴んで振り回し、背後に聳える瓦礫の山へとぶん投げた。

 

 生死の確認もせず、ただ走った。向こうに人集りと、爆煙と、黒いアーツが見える。そして、一番後ろにはライサも居た。

 

「やっぱりか──!」

 

 Aceさんの部隊を見つける前、ボクは行動予備隊A2、A4の方々と接触した。ボクよりも安定しているその部隊に、安全性を考慮してラーヤを預けることにした。

 そして、行動予備隊の方々は、ボクより先を行っていることは分かっていた。たとえAceさん達が優秀とは言え、二隊が合体した予備隊よりは歩みも遅れる。アーミヤさん達と合流するのは行動予備隊の方々の方が早かったはず。

 

 つまり、ラーヤを加えた行動予備隊A2、A4の方々は今、あのサルカズと戦っているかもしれない訳で──!

 

 

「大丈夫ですか、カーディさん!」

 

 

 兵士の頭を仮面ごと殴り抜いて振り返る。ボクの方をポカンと見ているのはカーディさんだけでなく、行動予備隊の方々だけでさえなかった。つまり、アーミヤさんやドーベルマン教官でさえボクの方を見て驚いていた。

 正直呼びかけるのに抵抗はあったけれど、呼びかけられて応える愚をカーディさんは犯さないだろう。

 

「無事だったんですね、アビスさん!」

 

「はい、なんとか!」

 

 アンセルさんが投げてくれたカプセルを手早く飲み込んで、後ろに居た兵士の骨を剣ごと尻尾で砕いた。

 カーディさんの近くに来るな、害虫が。

 

「少し、と言うには圧倒的な力を持った人も居ましたが、なんとか切り抜けられました」

 

「あ、ありがとな」

 

 ラヴァさんの前に居た兵士の腕を捻り上げて剣を奪い、足を尻尾で打って倒す。振った剣は装備のせいで止められてしまったので、刃の背を踏み意地でもダメージを通す。背骨を斬ることは出来ずとも、腹部の肉は抉れている。大方頭で動くこともできず失血死することだろう。

 

「あの、何か……怒ってませんか?」

 

 アドナキエルさんが恐る恐るといった様子でそう言った。

 

「いえ、怒っていませんよ。ただカーディさんに近づいていたので少し乱暴にお仕置きをしているだけです」

 

 ボクの方を向いた銃口に対して、同じくボクにアーツの弾を飛ばしてきていた術師を盾にして対応する。回避したらカーディさんに当たるかもしれないし。

 

「ニアールさんは……なるほど、周囲の敵を」

 

「あら、久しぶりね、アビス?」

 

「馴れ馴れしくしないでくれるかな、テロリスト」

 

 カーディさんの前で誤解を招くような物言いはやめて欲しいんだけど。ぶっ殺すぞクソアマ──っと、これはカーディさんに引かれてしまうから心の中で取っておくとして。

 

「それで、周りの兵士は貴女の指揮ですか?」

 

「そうだと言ったら?」

 

「許しません」

 

「へえ、怖いこと言うわね。あたしはただあんたが来た時のために用意してただけよ?」

 

 誰にでも分かる嘘を吐くって、つまりは殴られたいってことだよね?跪かせてカーディさんの前で土下座させてやる。あ、いや、カーディさんは心優しいからそれじゃダメか。首だけにしてゴミ箱に捨てよう。

 

「そうね、あたしは今から三つ数えるわ。三つのうちに投降すれば、そのカーディって子だけは助けてあげる」

 

「いえ、必要ありませんよ」

 

「どうしてかしら?」

 

「カーディさんの心を守るためには、誰も失わずに貴女を殺すことが必要ですから」

 

「ちょ、ちょっとアビスさん!?カーディちゃんが怖がってますから!」

 

 アンセルさん……!?

 

 何故それを示してしまったんですか?

 

 ドン、と音がして、ほぼ同時にボクの尻尾が鮮血をばら撒いた。口の端を吊り上げているサルカズの女がカーディさんを撃ち、それをボクの尻尾が間に入ったからだった。

 

「アンセルさん、カーディさんのことを敵に教えないで頂けますか?」

 

 アンセルさんの、カーディさんが怖がっているというのは嘘でなくとも、今言うのは明らかに最悪の行為だ。カーディさんだってそのことを理解して、努めて平静を装っていたと言うのに。

 何故庇うような動作をしてしまったのか。アレだけで明確にカーディさんがその人だと分かるように、どうして。

 

「カーディさんが、余りにも危険ではないですか」

 

「な、あっ……」

 

 敵対しているサルカズに自分の大切な人とその特徴を言うなんてありえない。もし本当に大切だと思っているのなら教える訳がない。だって、その人から殺されるに決まっているのだから。

 ロドスに所属しているサルカズなら、まだ良かった。だけど今ボク達の前に立ち塞がっているのはテロリストだ。許される訳がない。

 

「アンセルさん」

 

「は、はいっ!」

 

 確かにボクもカーディさんについて言及し過ぎた部分はあると思う。というかそもそもボクがあんなに言わなければこうもならなかった。

 でもこの尻尾を自業自得とするのは、些かではなく、かなり抵抗がある。ボクがそれを言わなければこうはならなかったけれど、アンセルさんが言わなかったとしても、こうはならなかったのだろうから。

 

「分かって、頂けましたか?」

 

「はい!」

 

「なら、良いんです」

 

 正論を抜きにして、本音を言おう。

 

 良い訳がないに決まってるだろ。

 カーディさんを撃って許されると思っているのか、腐れサルカズが。そんなことが頭の中で渦を巻くと同時に、カーディさんのことを何故教えたんだとアンセルさんを咎めたい気持ちが激しく昂ってくる。

 今すぐに吐露したくて仕方がない。でもそれはやってはいけないから、ボク自身でもそれが分かっているから、より多くのストレスが溜まる。

 

 ああもう、苛々する。

 

 カーディさんが近くに居て尚、ダメだと分かっているのにイライラするのが止まらない。恐怖や悲哀だけじゃなくて、怒りの制御に関しても訓練しておくべきだったか。

 

 仕方がない。さっさと次、だ。

 地面を蹴ってサルカズの女に接近する。カーディさんを撃たせないためには、カーディさんが見えないところまで追い込むか、カーディさんを撃つ暇がないくらいに攻めるしかない。

 クロスボウの矢がサルカズの女に向かって射たれた。アドナキエルさんか、クルースさんか。どちらにしろありがたい。

 尻尾の傷も、ヒーリングアーツのおかげか流血が治まってきた。アンセルさんのカプセルが効果を出しているのか、それともハイビスカスさんか。前者であって欲しい、そうでなければ簡単には許せそうにない。

 

 いや、大丈夫。きっとこのサルカズさえ倒すことができれば、結果論として何もなかったと言い訳することが出来る。

 自分自身に対して言い訳するのは、ボクの得意分野だろう?

 

 心の中で自嘲して、後ろに誰も居なくなるよう回り込みながらサルカズへと接近する。クロスボウを避けたとは思えないくらい安定した姿勢でボクに照準を付け、そして──撃った。

 

 認識した瞬間には、ボクの体は左へと回避していた。その先に構えられていた兵士の剣は尻尾が薙ぎ払い、再びボクは荒れたチェルノボーグの道路を駆ける。

 ラヴァさんの炎が(とど)めを刺せていなかった兵士の体を焼いたのを、背中に受ける輻射熱で感じる。

 

 連携というよりは、ワンマンプレーを補助しているだけ。きっとボクが居ない方が、行動予備隊の方々は苦労せずにこのサルカズを倒せていたのだろう。

 

 さっき、この集団の中に見慣れないバイザーを着用している人を発見した。きっとドクターで間違いないはず。そしてボクがこのチェルノボーグに参戦した理由は、ドクターに良い格好を見せるため。

 ボクはまだ戦術指揮官であるドクターに指示をもらっていない。対面もしていない。だからボクはまだ自由に動いてもマイナス評価は少ないはず。

 あのドラコの女を撃退したのはボクだ。でも被害者は居らず、結果としてボク一人での撃退に成功している。Aceさんの強さを知っていようとも、あのドラコの女に対して軽い評価で終わってしまう可能性は低くない。ドクターが対峙した訳でもあるまいし。

 

 これが最初で最後のチャンス。ボクがここで完膚なきまでにサルカズの女を倒すことで、ようやくドクターから高い評価を頂ける。

 

 そうして、ボクは短剣を構えた──。

 

 

 

「話は以上で、終わりだ」

 

「はあ?まだ終ってないわ」

 

「君の目的は達成できたはずだ。こんな経緯でボクはあの場所に辿り着き、ドクターから良い評価を貰いたくて刃を向けた。アーツも使って、撤退させた。それだけ」

 

 銃が構えられた。寸分の狂いもなくアビスを捉え、しかしそれをアビスが止める様子は一切ない。それどころか、不快だから殴ろうと立ち上がったライサの腕を掴んで止めている。

 Wの殺意が分かっていて、それでもだ。

 

 アビスが何を考えているのかWには分からない。そして撃つ気であるのに、殺意を持ってアビスを見ているのに、それに対して全く恐れを見せないアビスはもはや不気味だった。

 

 一人が銃器を持ち、それをもう一人に向けている。

 一方は余裕綽々で笑みさえ浮かべていて、もう一方は歯軋りしながら睨みつけている。

 

 本来なら逆であるはずの二人の状態は膠着する。Wのストレスが限界間近まで迫り上がり、それは見たアビスが嘲笑を濃くする。

 

「撃ちなよ、W」

 

「……何言ってんのよ」

 

 ライサは動かない。信頼しているからだ。

 Wは動けない。まだ目的が果たせていないからだ。

 

 アビスは動かない。その必要がないからだ。

 

「撃てばいい。ボクを撃てば、君の復讐は成功だ。後始末こそ難しいかもしれないけど、きっとロドスからも逃げ出してどこかへ消えることができるとボクは思う」

 

「だから、何を言って──」

 

「撃てよ、傭兵。本当にボクを撃って口の無い亡霊を一つ増やしたいのなら、早くそうするといい。ほら、早く!」

 

 銃声が響く。銃弾はアビスのすぐ横を通り抜けて壁に着弾した。訓練室の壁が壊れるほどの威力、しかしアビスがそれを恐れることは絶対にない。

 信じられないような顔で自分の手を見つめ、そのまま硬直するW。止まっている対象に対してたった数メートルの距離で外すなんて、少なくともWには考えられないことだった。

 

「W、君はおかしくなっていたんだ。君にとってはそれでも良いんだろうけど、救えないにも程がある、ってくらいに」

 

「……」

 

「さて、続きを話そうか──ボクはあの後、接近と回避を繰り返し、とうとう君の下まで辿り着くことができた。そこで使ったのは、ボクのアーツだ」

 

 取り出した短剣をヒラヒラと見せる。Wは何も言わないが、その視線から話は聞いているらしいことをアビスは確認できた。

 

「ボクのアーツは制御が難しくて、まあボク自身の問題もあるんだろうけど、無差別に拡散してしまう。だからボクのアーツはこの短剣の先にしか出せないよう、アーツユニットに制御機能を付けた」

 

 ヒラヒラ、揺らいでいた短剣が倒れて、アビスの手が握る。水平になったそれが指しているのは紛れもなくWだった。

 

「ボクのアーツは少し特殊で、感情を相手に伝えるもの。当たれば抗いようはなくて、これを使えばあのタルラさんにさえ効果は通る」

 

「……ああ、そういうこと」

 

 ライサが、Wの言っていた『同じ感情を共有した仲』という言葉を理解した。Wも、そこまでは分かっている。

 

「そしてその感情は、ボクの感じているものに限定される」

 

「分かってるわよ」

 

 ようやく立ち直ったのか、Wがそう言った。

 

「早く進めて頂戴」

 

 あくまで飄々と、自分のペースを崩すことなく。

 そんなWの態度は見せかけだけのハリボテだったが、それをアビスが言葉に出すことはなかった。

 

「W、一度確認しておこう」

 

 アビスが指を一本立てた。

 

「君の復讐は、『あってはならない感情をボクが伝えてしまった』から発生した。そうだよね?」

 

「そうね、間違ってないわ。あんたが鬱陶しかった、ってのも理由の一つに入るけど、そんなものね」

 

「じゃあ、どうしてあってはならなかったのか──ボクはもう知ってるけど、Wの口から聞かせてほしい」

 

「……あたしは、テレジアのために生きるって決めてたのよ。彼女こそがこのテラで一番上にあるべきで、あたしは彼女が殺されてから、その復讐のために生きようと思った。いいえ、誓ったのよ。それは彼女に、そして私自身に」

 

 狂気がWから滲み出す。

 Wの感情は、ライサのアビスに向ける感情をより濃くしたもの、と言えるだろう。同性間であったから恋愛的な感情には発展しにくかったものの、その尊敬は崇拝のレベルにまで達して狂気を獲得した。

 

 その狂気を糧にWは今こうしてテラに居る。ドクターの記憶を取り戻し、然るべき報いを受けさせるためにWはテレジアの居ない世界を生き延びていた。

 

 そしてその報復はしなければいけないことで、その道半ばで諦めること、失敗すること、それらを全て許さないのはWの定めているルールとさえ言える。

 

「だから──あんたの感情は、許されないのよ」

 

 アビスがWに対して伝えた感情は『恐怖』。

 何かを恐れて復讐への足を止めるだなんて、Wという狂信者が許す訳もなかった。テレジアを最上に掲げるWにとって恐怖や躊躇は、テレジアへの奉仕という行動を阻害する最悪の障害だった。

 

 アビスのアーツによって伝えられた感情はWの行動を一瞬だけ停止させた。そのコンマ一秒にすら満たない時間でさえ、Wにとっては許されざることだった。

 

 恐怖を感じなくて当然。

 恐怖を押し殺せて当然。

 恐怖を感じても動きを止めないのは当たり前。

 

 それをアビスは強引に打ち破った。Wが本来感じるはずのない感情をアーツによって無理矢理捩じ込んで、その強固な仮面ですら剥ぎ取って、硬直させた。

 アビスの感じる恐怖が並大抵のものではないことの証左であると同時に、Wの抱える感情がアビスのそれより一瞬だけでも遅れをとったことの証左だった。

 

「Wはボクに銃口を向けた。怒り狂った。激昂した。行動予備隊の方々を視界から除外するほどにボクを排除しようとした」

 

 結果的にそのせいで支援が行き届いて、Wは敗北を重ねることになった。だがもしそうなると知っていてもWはアビスのことしか見られなかっただろう。

 アビスの伝えた恐怖を塗り潰すほどに昂った怒りを誰が止められると言うのか。

 

 それがW()()()()()()()()復讐の全てだった。

 

 

 

 

『あんたって、やっぱりイカれてるわね』

 

 

『えぇ……あんた、それ大丈夫なの?』

 

 

『あたしに嘘をついてるでしょ』

 

 

『へえ、良い趣味してるじゃない』

 

 

『植木鉢は、ないわよ』

 

 

『そういえば、今はどうなってるのかしら?』

 

 

 いつだって、そうだった。

 アビスよりWだった。

 

『干戈の交わりは避けられない』

 

 それを言った彼女は他に何と言っていたか。

 シーから一つ、アビスは聞いたことがある。

 

 

 

 

 

「W、君はイカれてたんだよ、本当の意味で」

 

「はあ?」

 

 

 

 

 

「君は狂信者だ。本当に、そうだったんだ」

 

 

 

 

 

 アビスが椅子に座り直した。

 

「君の持つ彼女への忠信。それこそが君の頭をおかしくさせた元凶──いや、原因だとボクは思う」

 

「ケンカ売ってるなら、買うわよ」

 

 Wの冷たい殺意が迷いなく銃口をアビスへと向けさせた。アビスはそれに手のひらを翳して制する。冷や汗が垂れて、それはつまり、Wも今なら撃てるということだった。

 アビスの言っていることに興味は起きているが、それ以上に膨大な殺意が生まれ、ようやく上回ったのだ。そういう所を含めて、Wは正しく狂信者だった。

 

「ボクはアーツを使う時、ほぼ必ず混ぜているんだ」

 

「……」

 

「複数の『恐怖』をブレンドさせて、本当に純粋で暴力的なまでの感情を形作る。だからそれは似通った部分だけが表層に現れて、個々には識別できない。一等濃くしなければ、その感じる恐怖が何を恐れてのものなのか、誰にも感じ取れない」

 

 その恐怖を混ぜるという行為はケルシーの威圧に含まれるような恐怖が一種類も入っていないからこその芸当だった。アビスの恐怖はその悉くが本能的な意味を多く含み、しかしそれは複雑なそれでもある。

 故にアビスのアーツは本能的な恐怖を与えるのみに留まっている。

 

「君の一番知りたかったこと、ボクへの復讐よりも優先されてしまっていたことを告げよう」

 

 それはとてもシンプルな答えだった。

 

「ボクの扱う感情は三種類。そして君へと放ったのは、『死の恐怖』がメインのアーツだよ」

 

「……それが、何よ」

 

「そうだね、これじゃ分からないか」

 

 アビスが翳していた手を伸ばし、銃を構えるWの手に触れる。それはアビスの予想通り、震えていた。

 

「君は死を怖がっていたんだ、W。ボクのアーツは食らった相手にトラウマを刻みつける。ボクのアーツが切れたって、その傷は治らない」

 

 だから、Wは、そう。

 

「ずっとずっと、今この時まで、ボクに正体を告げられるその時まで、君は『得体の知れない膨大な恐怖』を抱え続けていたんだ!だからボクに話を強要した!自分に植え付けられた恐怖のことを知るために!知らなければ恐怖に押し潰されそうだったから、そうしなければいけなかった!」

 

 Wがトリガーに力を込めた──瞬間、脳裏に映し出されたのは自分に向けられたアビスの短剣。あの時の、自分を追い詰めたアビスの持っていた凶器。

 死の恐怖がWを刺す。それを感じるのはひどく久しぶりで、それでいてずっとそこにあったような気がした。

 

「君はボクを威嚇し終わった後も、銃を持つことで震えそうになる手を押し隠した」

 

 ずっとWは銃を持っていた。アビスが話している最中も、アビスとライサが話していた時でさえ、ずっと、いつだって、不安を押し殺すかのように武器を構えていた。

 

「君は話の合間、ずっとボクに話を振った。部屋に押し入ることなんて分かりきっていただろうに、ライサを招いた。全部、君が恐怖を知りたくないと思っていたからだ。知ってしまうことすら、恐れていたからだ」

 

『W、準備はいい?』

 

「もう思い出したくもなかった君は、トラウマを掘り起こしたくなかった君は、受け入れるための時間が欲しかった。時間稼ぎをした。だからボクは聞いたんだよ──準備はいいか、って」

 

 

「違う」

 

 

 そして、Wの仮面が剥がれた。

 笑みを浮かべたマスクが地面に落ちて四散する。素顔に浮かぶのはアビスへの怒りと、まだアビスを殺していない自分への怒りと、ほんの少しだけの恐怖。

 

「全部違う、そんな訳ない……っ!あたしはそんなものを感じてないっ、感じるはずがない──感じては、いけないのよっ!」

 

 射出されたカートリッジが数発部屋の天井を穿った。否定の言葉を自分自身に言い聞かせるように叫び、狙いもつけられていないWを見れば、誰がどう見たって錯乱していると答えられるだろう。

 

「ああ、君は否定するだろう。拒否するだろう。だって君はそれに反してずっと生きてきたんだから。それに反することは、生きる上で必要なことだったんだから」

 

 Wの心がどうなろうと、テレジアを絶対的に崇拝していることは変わらない。彼女が死んで永遠に不変のものとなったからこそ、アビスによって捻じ曲げられた彼女の心はそれに相反してしまったのだ。

 ──いや、違う。アビスによって、捻じ曲げられた訳ではない。

 

「君は、今の状態こそが正常なんだ。死の恐怖に震える今の君こそあるべき姿で、恐怖を無視して行動できていた君は本当にイカれていた」

 

 アビスのアーツはWを()()()()()()()。狂人から健常者へと、頭の中身をそのままに、心だけにショックを与えて、先に治してしまったのだ。

 だから致命的なジレンマを抱えた。恐怖を持っていながらに恐怖を否定しなければいけない、常人の情動を持つ狂人という歪な存在になってしまった。

 

 そういう意味では、確かにアビスのアーツは彼女を捻じ曲げたのかもしれない。Wを、頭と心の乖離した存在へと変えてしまったのだから。

 

「君の崇拝が間違ってるとは言わない。でもキミがもし死の恐怖を感じないと言うのなら──それは、絶対に間違っている」

 

「うるさい、うるさいうるさいっ!テレジアに会ったこともないあんたなんかに言われたくないわ!」

 

「その人が本当に優しい人なら、キミの心を治したいと思うだろうけど」

 

「あんたがっ、テレジアを語るなぁっ!」

 

 アビスに向けて何度もトリガーが引かれる。ライサが咄嗟に引っ張ったアビスの肩を一発の弾丸が掠って、しかしそれで終わりだった。

 何度も何度も自分の持つ武器の威力を見せつけていたWは、当然ながら弾丸を撃ち切っていた。

 

 Wが歯を食い縛る。その横を、その口の端を掠るように、涙が滴り落ちた。その後を追うようになぞる雫はWが追い込まれていることを示していた。

 だがそうして涙という形をとって感情が溢れ出しても、Wは恐怖を認めない。アビスに植え付けられた人のパーツを、Wは一心に否定していた。

 

「良いよ、わかった。もういい、強引にやろう。いい加減ボクも終わりにしたい。一区切りつけたいって言ったのは、本音なんだ」

 

「な、によ……っ!」

 

「君にボクのアーツの全力をぶつける。君に伝えた恐怖は、もうボクにとって辛くも何ともない。そのボクが今も尚克服できていないほどに辛く感じる恐怖を、純粋なまま君に刻みつける」

 

 アビスの鋭い目と言葉、そしてそれに乗る、最高に昂ったアビスの意思。空の銃を持つWが怯み、後退る。

 

「W、準備はいい?」

 

 短剣を取り出して、鞘をライサに預ける。その切っ先は寸分の狂いなくWを指していて、アビスの言が真実なのだと声高に主張していた。

 

 アビスが短剣をWに向けたまま、Wへと一歩踏み出した。Wの噛み締めていた力が無意識に少しだけ抜けて、それを掻き消し、奮い立たせるためにWは奥歯に力を込めた。

 嗚咽が漏れ出そうだった。絶叫が喉から飛び出しそうだった。経験したことのないほどの恐怖が頭をクラクラさせて、時々襲い掛かってくるフラッシュバックのせいで、もうどうにかなりそうだった。

 

 それでもまた、アビスは一歩近付く。

 

 短剣を見ているだけであの時の光景が蘇る。クロスボウの矢を避けた一瞬の隙を突いて、アビスは自分の喉元へと刃を当てた。

 脳髄を侵略されているかのような恐怖が自分の体を動かし、トリガーに力を込めることができた。復讐を果たすことなく死ぬなんて最悪の事態を回避できたのは、皮肉にもアビスの蘇らせた恐怖のおかげだった。

 

 壁がいつのまにか背後にあった。

 前には短剣を持ったアビスが居た。

 

 もう、どこにも逃げられなかった。

 

「うゔ、うぐぅっ……うゔぅ……っ!」

 

 復讐を決めた時から、ずっと流さずに居た涙。恐怖を失くし、自分の縋る彼女も過去へと置き去りにしたWが、流すことのできなかった涙。

 床に落とした銃が重い音を立てた。壁についた手を握りしめ、それでも纏わりつく死の恐怖。

 

 アビスの短剣がWの目の前に迫る。それを弾くような力も気力も、もう残っていない。壁に寄りかかってへたり込んだWの流す涙は止まらなかった。

 いや、Wに残っていないのは力だけだ。気力なんてものは、彼女を思いさえすればいつだって湧いてくる。

 

「やり、なさいよ……っ!あたしは、たとえ復讐ができなかったって、たとえ死んだって、絶対にこの気持ちだけは否定しないっ!」

 

 Wが流す涙もそのままに、滲む視界も厭わずに、その心に決めた矜持だけは守り抜いて、アビスへと高らかに宣言した。

 

「あたしは、この気持ちが否定されるべきなんて、絶対に思わないっ!」

 

 アビスの顔が、薄暗い部屋の更に影となり、Wには見えなくなった。

 

「そっか」

 

 アビスのアーツが、Wを捉えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二十八 追憶

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 苦しくなった。

 

 

 自分の首を絞めていた。

 

 

 喉を押さえて助けを求めた。

 

 

 こんな筈じゃなかったのに。

 

 

 自分の縋ってきた相手はもう居なかった。

 

 

 私には、縋る相手なんて居なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気付けば、Wはどこかの路地裏に立っていた。

 雪が深々と降っていて、少しだけ足元に積もっている。明らかに冬であるのに、不思議と寒さは感じない。気温も普通に思える。

 路地裏を進んでいくと、とある開けた場所へとWは行き着いた。汚い路地裏の一角で、葉のついていない木がそれなりの大きさで一本育っていた。

 

 その木の根元で、汚い子供が何か作業をしていた。漆黒に塗り潰されたようなツノがアビスと重なる。Wは、この子供のことが好きになれそうにないと思った。

 

 手元を覗き込むと、その子供は誰かを埋めているらしいことが分かった。その誰かは知らない。分からない。ピントでもズレているかのように不鮮明で、上手く認識ができなかった。

 

「良くやるわね。あんたの親?」

 

「名前だって知らない人」

 

 子供が少しの間手を止めて、Wの方を一瞥した。

 

「時々見かける人だったから、埋めてあげようって思ったんだ」

 

「そう、ご苦労なことね」

 

 何の興味も湧かなかった。段々と土が覆っていく男の顔は相変わらずブレて分からなかったが、それに対して特段不満もなかった。

 その子供の作業を側で観察する。

 

「どうしたの?埋葬なんか見てて楽しい?」

 

「退屈よ」

 

 そう言いつつもWは子供の側から離れなかった。いや、離れることができなかった。

 Wはピントのズレた顔を見て頭を巡らせ、自分が何故ここに居るのか分からないことを自覚した。どこまで覚えているのかすらも霞がかかったようになって思い出せない。

 自分が路地裏の奥を、つまりこの子供が居る場所を目指したのは何故か。来た方向を見ると、そこには二つの足跡が続いていた。

 その足跡はWのそれと、死体を埋葬している子供のそれだろう、もう一つの方には何か引き摺ったような跡がある。

 そうだ、自分は理由もなく足跡を追ってこの子供に辿り着いたはずだ。

 その頃から思考に鍵がかけられていた?いや、それならば何故今は外れている?あの不可思議にも視認できない顔のせいか?

 

 しかし一つだけ更に不可解なものがある。もし思考に鍵をかけることや記憶に干渉することを可能とするアーツが自分にかけられているとして、Wに対する明確な目的が見えなかったのだ。

 アーツではない可能性も浮上する。自分はもしかすると夢を見ているだけなのかもしれない。現実的に考えて後者の方があり得るように感じるが、だとしても今のこれは何だろうか。

 

「まだ足りない、わね」

 

「誰に言ってるの?変な人」

 

 作業を止めずそう言った子供の背中を蹴り飛ばした。ほとんど無関係な人間を丁寧に葬ってる方が変だとWは言いたかった。

 

 瞬きをした。

 

 特に何の構えもしていなかったのに、何かが劇的に変わったような気がした。子供の方に歩こうとして、気付く。

 自分の足はさっきと違って、雪を通り抜けて動いている。何だこれはとふためいているWには、その子供の関心はもう無いようだった。

 作業が終わり、子供は両手を合わせて目を瞑った。

 

「ねえ、どうして木の下なの?」

 

 そんな少女の声がした。Wが子供──少年と共に振り返ると、そこには寒そうな格好をしてこちらを見ている長髪の少女が居た。

 

「木の成長を助けるから」

 

 少年が答えた。

 

「ふーん」

 

 少年が立ち上がり、少女の方を見る。汚れた手の土を払い、何の用だろう、とでも言いたそうに首を傾げる。スラムの住人として、最低限の危機意識さえも持っていないようだ。

 

「ねえ、キミ何歳?」

 

 少女が駆け寄って、少年の手を取りそう問いかけた。

 

「十一、だけど」

 

 少年は少女の距離感に戸惑っている。受け答えは出来ているが、視線の挙動不審さがその戸惑いを如実に表している。

 しかしそんな少年の対応にも少女の目にある輝きは消えることなく、むしろ大きくなった。前のめりになった感情を上手く制御できなかったようで、少女はつい口を滑らせた。

 

「キミの親って……」

 

 言いかけてから気づいた少女がハッと口を押さえて少年の顔色を窺う。ジッと見つめるも少年の胸中は上手く見透かせず、少女がとても不安になったのが少年とWと少年には伝わった。顔に出やすいタイプだった。

 

「あ、えーっと、なんでここに?」

 

「どっちも同じだよ。親が居なくなったからここに来た」

 

 一瞬だけWの目が少年の心を透かした。親という存在への諦念と、Wも良く知っている憎悪の感情が少年の心を埋め尽くしていた。

 その親を殺した相手への裏側にある羨望や嫉妬までは、流石に見通せやしなかったが。

 

「あー、そっか、うん」

 

 返答に迷った少女の声が虚しく響く。

 用があるなら早くして。もし少女がそれ以上行動を起こさなければ、きっと少年はそう言って少女を突き放していただろう。

 

「じゃあさ、私のとこ来ない?」

 

 少女がそう言って笑った。

 

 くらり、Wが突然の眩暈にフラつく。

 そしてその視界を埋め尽くす砂嵐のようなノイズが消えると、そこはもう木や雪なんてない、どこかの室内だった。

 

 もう長いこと使われていないであろう暖炉の前に使い古されて色褪せた赤色のソファがあって、棚が一つだけ壁際に置いてあった。家具はそれだけだった。

 特段広くもないが、家具の少なさが影響してかなりの空間があるように感じられる。それが良いのか悪いのかは別として。

 

 ソファに掛けられていた一枚の毛布を摘んで持ち上げる。何度も修繕したような跡があって、ここは一体どこかと思案する。

 結局分からなかった。ここはどこなのだろう?少なくとも現実に居る訳ではないようだが。

 

「あ、えーと、初対面じゃないけど、誰?なんでここに?」

 

「人に会って、挨拶も無しにいきなり名前を尋ねる人がいるかしら」

 

 扉から入ってきた少年にそう答える。どうやらここは少年と少女の行き先だったようだ。

 何が起きているのかもう一度考えてみたが、ただの夢である可能性がやはり高い。だがアーツの線も完全には消えた訳ではない。

 

「だってボクは名前知らないし。それで、どうしてここに居るの?」

 

「あたしも知らないわ、気付いたらここに居たの」

 

「うそつきだ」

 

「嘘じゃないわよ。それとあたしの名前はW、覚える必要はないわね」

 

 ソファの肘掛けに腰掛けて、少年を観察する。

 

 少年の目に含まれているのは多くの当惑と、少しの好奇心。年齢にしては幼さが過ぎる言葉遣いだが、やはり精神は中々未成熟なようだ。少年は危機感も覚えずWと会話を続けている。

 もし自分がスラムに住んでいる凶暴な人殺しだったらどうするのか、と少年の質問に答えながら考える。だがどうせこの世界は架空のものだ。少年がどうなろうと自分には無関係と見ていいだろう。

 

 そうして数分が過ぎたところで少年がWの持っているものを見て、何かを思い出したようにハッとした。

 Wの方に近寄って手を伸ばした。

 

「それ、返して。カインとナインが使うから」

 

「はいはい、別に要らないわよ」

 

 そう言ってWが毛布を差し出し──次の瞬間にはその感触が綺麗さっぱり消え失せていた。あの少年を蹴り飛ばした後と全く同じ感覚がWを襲った。

 二度目ともなれば状況が概ね把握できる。きっと、感覚の前では自由に関わることができて、この変わる感覚があった後にはもう接触できないんだろう。不可思議なことだが、とするとアーツなのだろうか。夢と言うには些かルールに従い過ぎている。

 

 毛布はWが触る前と同じく、ソファに掛けられていた。

 部屋に入ってきた少年が手早くそれを畳んで、すぐに引き返し──部屋に入ってくる少女を捉えた。

 

「ねえ、⬜︎⬜︎。ちょっと話さない?」

 

 少女が少年に笑いかける。

 少しだけ躊躇った後、少年は毛布を持ったままソファに座った。隣の場所に少女が腰を下ろす。

 

「⬜︎⬜︎はもう慣れた?」

 

「集団生活なら、慣れたよ。けどあの二人の世話は慣れそうにないかな」

 

「ふふ、そっか」

 

 Wは壁に寄りかかってその会話を聞いていた。興味はカケラもないが、何故だかこの部屋から離れる気にはなれなかった。

 ただ、さっき少女と会った時からずっと困惑しているか無表情かだった少年が見せた笑顔は、何故だかひどく頭の浅い部分に残っていた。Wの胸に湧いた親近感のような思いは、頭を振ればすぐに消えていった。

 

 息を吐いた。話していた二人はいつのまにか自分達に毛布をかけて寝入ってしまっていた。窓から差し込んでいる光によって、毛布は心地よい温度にまで暖められていたのだろう。

 扉の開いた音がして、双子のように似ている小さな子供が二人忍び込んできた。

 

「なんか、夫婦みたいだね」

 

「分かる」

 

 まだ初等部にすら入れないような二人がそれぞれ同性の隣に潜り込む。たしかに、その四人は小さな家族のようだった。

 もしカメラを持っていたら撮ってしまいたくなるような光景だった。Wはメモリいっぱいになるまでテレジアを盗撮したが、あのカメラのデータは他に出力してあるので、メモリは空っぽだ。もしこの場にあったなら、一枚くらい撮っても良かっただろう。

 

 くらりと眩暈がWを襲う。

 

 

 そして場面が切り替わった。

 少年が少女と話をしていた。自分についてあることないこと吹聴していた少年を見つけた。Wはヘッドロックを決め、少女は大笑いしていた。

 

「ほらほら、悔しかったら抜け出してみなさい」

 

「これには深い訳があって……いたたたたたっ!!!」

 

 何かが変わった。

 少年が少女と話していた。少年は話の種に窮して変なことを口走り、少女に笑われていた。Wも恥ずかしくなるほどに見ていられない有様だった。仕方なかったのかもしれない、とWは反省した。

 

 

 そして場面が切り替わった。

 少年が老年のヴァルポと話していた。Wに目を留めた少年がそのヴァルポを紹介した。まるで孫と祖父のように仲が良かった。

 

「それで、お迎えはいつ来るのかしら?」

 

「少なくとも向こう十年は来ないよ!?」

 

 何かが変わった。

 少年が老年のヴァルポと話していた。話に割り込んできた少女は難しい話の気配を感じてすぐに逃げていった。二人とも苦笑していた。

 

 

 そして場面が切り替わった。

 少年が小さな子供の世話をしていた。珍しく雪の降っていない日で、孤児院の前を二人が元気に走り回っているのを見ていると、膝の後ろあたりに衝撃が来た。あの双子だった。後ろには少しだけ申し訳なさそうな顔をして少女が立っていた。

 

「拳骨まではいいのよね?」

 

「みんな逃げてー!」

 

 何かが変わった。

 少年が小さな子供の世話をしていた。それに双子が混ざり、少女が混ざり、最後には全員で笑っていた。Wも何故か()()()()()()()()楽しくなった。笑顔は、浮かばなかったが。

 

 

 そして場面が切り替わった。

 少女率いるちびっこの群れが少年に突撃していた。逃げていた少年がWに(なす)り付けようと一目散に走ってきて、しょうがないので簡単な障害物を作りつつ退避した。少年は捕まった。

 

「あははははっ!面白いくらい引っかかるわね!」

 

「な、なにこの意地悪なトラップ……」

 

 何かが変わった。

 少女率いるちびっこの群れが少年に突撃していた。逃げる少年に追い縋る少女と、その指示で道を塞ぐちびっこたち。追いながら指揮をする少女、追手を紙一重で躱す少年、そのどちらもがWから見ても高い戦闘のセンスを有していた。

 

 

 

 

 そして場面が切り替わった。

 

「リラ、今日はWが来てる!ねえ遊ぼう、W?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「洗濯物?あたしが干すの?嘘よね?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「Wの話を聞かせてよ。カズデルの話でもいいよ」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「『あたしはW……ただの傭兵よ』ってね!いたぃっ!?ちょっとW何すんの──ごめんなさいごめんなさい許して痛い痛い痛い痛い!」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「あんた傭兵だって信じてないわね!?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「Wって食事しないんだ。それにいつも眠気とか感じてなさそうだよね。えっ、勘違い?何が?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「Wの髪とツノってオシャレだよねー。私もそういうアクセント入れた方がいいかな……」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「リラとWって本当に仲良いよね」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「ねえ、もしかしてWって⬜︎⬜︎を狙う不審者──痛いっ!ごめん、ごめんってば!だって仕方ないじゃんいつも⬜︎⬜︎の側に居るもん!……ふっ、仕方ないって、私でももっと言い訳できる──いだだだだだだっ!!顔壊れる!面皮剥がれる!」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「ナインがまだちっちゃくて良かった、なんて思うことがあるんだ。ボクって一つや二つ年が下の女の子は苦手みたいでさ」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「あたしはどうしてここに居るのかしらね。えっ?ああ、ただの独り言よ。そんな真剣な雰囲気になる必要はないわ」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「私は、やらなきゃいけないことがあるの。もし話したらWはそれを応援してくれるかな。それともおかしいって言って止めるのかな」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「W、ボクって実は強いんだよ!Wのことも孤児院と一緒に守ってあげる!…… どうしてそんなに笑ってるの?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「こーらー、カイン!それはWのだってば!」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「リラ、あんたはあたしが男だって言ってたらしいじゃない?それで聞きたいことがあるのよ、ねえ。どうやって痛めつけられたいかしら?」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「さぁてと、ナイン。私がWをボコボコにした話の続きをしよっか──うわあ、今日来てる!?ちょっ、待って!いだだだだだだっ!許ひて!許ひてぇ!」

 

 そして場面が切り替わった。

 

「また、あの人達か。懲りないなぁ」

 

 

 そして場面が切り替わった。

 

 もはや見慣れた部屋は、血の色に染まっていた。

 まだ新鮮な血飛沫が灰色一色だった孤児院の壁を彩っている。芸術性は皆無と言っていいだろう。

 

「模様替えにしては、絶望的なセンスね」

 

 その心に生まれた動揺を押し隠して、Wはいつものように余裕のある笑みでソファの方を見遣(みや)った。

 

「……」

 

「あんたがこうしたの?」

 

「……そうだよ、バカ」

 

 少年がソファの上で蹲っているのを見て、Wは目を逸らした。ついにその笑みを動揺が上書きして、Wは真剣な顔で起こった惨劇を推察しようと試みる。ほんの短い付き合いだったが、少年とリラのことは何故だか他人事のように思えなかった。

 ちらりと少年の方を見る。

 自分から少年の傷を抉っておいてWは後悔していた。Wはひどく感情移入してしまっているようだった。まるで、そう、少年と()()()()()()()()()()()()()()かのように、Wは悲哀を感じていた。

 

 子供を押し潰す精神の負荷。少年の目から涙が零れ落ちて、それはその部屋に居るもう一人に伝わる。Wは少年から目を逸らした。

 唯一、孤児院の壁の向こうから物音が聞こえている。恐らくはあの少女だろう。もしそうでなければ、少年は恐らくこんなものでは済んでいないはずだろうから。

 

 何かが変わる、あの感覚がした。

 

「ねえ、リラ」

 

「なに?」

 

「ごめん」

 

 ソファの前に立つリラに、少年は謝った。ソファと毛布の間で丸まって、自分の顔も見せないまま、リラの顔も見ないまま、少年はリラに謝った。

 それがどれだけ礼を欠いているかは知っているが、だとしても今の顔をリラに見せたくなかった。

 

 リラがソファの空いている部分に浅く座った。毛布の中で全てを拒絶するようにしている少年の背中を毛布越しに撫でる。

 

「いいの。いいから」

 

 それだけでひどく安心した。ソファの中に居る少年の感情は分からなかったが、Wはきっとそうだろうと確信していた。

 寄りかかっていた壁から離れて、Wはその場に座り込んだ。自分の尊敬するあの人が恋しかった。もう会うことはないのだと知っていても、手を伸ばすことは止められなかった。

 

 

「私も謝れたらいいのに」

 

 

 

 そして、場面が切り替わった。

 窓からは朝日が差し込む。まだ日の早い、雪も積もっている冬の朝。

 

「リラ、どうしたの?」

 

「もう休んだ方が良いよ」

 

 ソファに座っているリラが少年の袖を掴んで引き止める。長く使っていなかった暖炉は綺麗になって使用されていて、袖を掴んでいないもう片方の手には屋台で売られている粉物の料理が入っているパックが握られていた。

 Wは状況も理解できないまま焦燥感に駆られた。だが長年の経験がそれに蓋をして押し留め、あくまで冷静になろうとした。

 

「Wからも、言ってよ」

 

「何をかしら」

 

「⬜︎⬜︎、もう五日も休んでないで働いてるの。私なんかのために、そんなことしなくていいのに──」

 

「「それは違う」わね、リラ」

 

 その発言に頭の中身が真っ赤に染まりそうだった。もし自分がそれをかつて経験したことがなかったら、その思考に体を委ねてしまいそうなほど大きく頭を占領していた。

 だから一度頭を振った。全く変わることはなかったが、気晴らしにはなった。

 

 こうなった事情は大体察している。少年が余りにも致命的な失敗をして、それのために孤児院の住人がたった二人にまで減少したということだろう。

 Wはあの双子やヴァルポの老人並びに他の子供らと付き合いがなかった訳でもなかったが、この二人と同じくらい深い関係だった訳でもない。然程の悲しみも感じない。

 それに、今は二人の問題が大きく立ちはだかっている。死者に対する哀悼はあって然るべきだと思うが、それは全ての問題が片付いてからだ。

 

 二人揃った否定の言葉がリラの手から力を奪う。

 少年が何かを失敗した。リラは失敗しなかった。つまりはそういうことで、Wは少年に擁護される権利があるとは思えなかった。

 

「リラ、あんたの言ってることはおかしいわよ。⬜︎⬜︎が悪いんでしょう?許すまではいいとして、償いすら許さないなんて鬼畜にも程があるわ」

 

「そうだよ。ボクが悪いんだ」

 

 軽薄に笑いながら肯定する少年。

  Wの心が、何故か刺されたように痛んだ。

 

「そんなこと……⬜︎⬜︎は悪くないの!だって、⬜︎⬜︎は私や孤児院のためにしてくれて、それが偶然悪い結果になっちゃったってだけで、だから!」

 

「悪いのよ、リラ。偶然も必然も関係ないわ。⬜︎⬜︎は毛布の中で蹲り、あんたはその背を撫でた。それが全て示しているでしょう?そう、⬜︎⬜︎さえ居なければ、あんたが、あたしが……」

 

 自己嫌悪。少年を苛む莫大なその思いはWにも伝播し、そしてそれはWの思考にすら多大な負荷をかけていた。少年は殺したいほどに自分を憎み、それがどうしてか伝わったWも、自分を責めたくなる。

 自己嫌悪にレベルの違いはあれど、Wの脳内は掻き混ぜられた。困惑と共に自己を蝕む嫌悪の念が心に居座って退かなかった。

 

 後半はひどく混濁した物言いだったが、Wの言いたいことはリラに伝わった。

 

「そんなこと言い出したら、私だって……」

 

 リラの顔が悲痛なものに変わる。そしてその苦しさと比例して、少年の袖を掴む力も強くなった。ただ、その力が強くなればなるほど、少年の抱える自責の念は同期したように強まってしまう。

 悪循環だった。少年とWは一層強く自身を憎み、リラの悲しみは際限なく高くなる。

 

 その場に張られた緊張の糸は強く強く引っ張られた。本来何とかできるはずだったリラはWという存在によって行動を否定され、少年を止めることができない。

 だがその世界では、それこそが正史だ。Wという存在によってリラは少年を説得できないまま部屋から出ることを許してしまう。

 リラの手を振り解いて、少年は歩き出した。

 

 

 また、何かが変わった。

 

「ねえ、⬜︎⬜︎」

 

「離して」

 

 腕を振ると、リラの手は簡単に袖から離れた。しかし代わりにその腕が少年の腰へと回されて、抱きつかれた少年は強引に解く訳にもいかず硬直する。

 

「行かせない」

 

「離してってば」

 

「嫌だ!」

 

 抱き留めたまま、リラは自分の右側に倒れ込むようにして少年を引っ張った。普段なら耐えられたそれも、痩せ衰えた少年にはリラの体重を乗せた振り回しに耐えることができなかった。

 Wの心の中にも生まれていた自己嫌悪と劣等感は未だ消えない。ただ、その隣に正体のわからない暖かいものがあることを感じた。

 リラに嫌われるべき自分にとって、火傷しそうなほどに暖かい。それを認めることは許されない。リラに赦しを請うことはあっても、孤児院からはもう離れようと思っていた少年に、それはあってはならないものだった。

 

「⬜︎⬜︎」

 

「なに。なんなの」

 

「もっと休もうよ。無理し過ぎだってば」

 

 そう言ったリラの顔はひどく辛そうで、それでも無理をして笑いかけていた。それが伝えるのはリラの優しさだけではない。そして少年はそれを分かっていたはずなのに、突き放そうとしていた頭は真っ白になった。

 

 一雫、落ちた。

 

 今のリラがどれだけ悲しんでいるのか知っていたはずだった。それが自分のせいであることを理解していて、だからこそ自分はリラに嫌われるべきだと、少年はそう思っていた。

 

 より強く、自分が嫌になる。

 

 早くリラから離れよう、と少年はソファから立ち上がった。悲しませるくらいなら、やはり自分は居ない方が良いのだから。こんな自分がリラの隣に座っていて良い訳もないだろうから。

 

 それにリラから離れなければ、自分に甘くなってしまうだろうと確信していた。少年は自分が嫌いだった。絶対に間違っている嫌いなヤツが甘やかされるのは耐え難かった。たとえそれで不幸になる人間が居なかったとしても許せなかった。

 現に今、融かされてしまいそうだった。涙を流しているのは、リラの言葉で少しでも少年が救われたことを意味していた。

 

 しかし、その逃走は阻まれた。立ち上がった少年の、今度は腰ではなく、胸の前で手が組まれたからだ。

 

「今から言うこと、理解できなくてもいいよ。正気じゃないなんて言っても許してあげる。でも疑われたくはないの。それが嘘だって言われることだけは嫌なの。ねえ、それでも聞いてくれる?」

 

 少年は何も言えなかった。少年がやっとの思いで心を氷の中に閉じ込めていたのが、正体の分からない何かのせいで暖められてしまっていたからだ。

 ただ、一線だけは引くべきだ。少年は、少年とリラの間に線がなければすぐにでも絆されてしまうと分かっていたから。

 

「私は、⬜︎⬜︎のことが大切なの。傷ついてほしくない。悲しい顔なんてしないでほしい。ずっと一緒に居たい。私も、⬜︎⬜︎と同じなんだよ」

 

 そうして一線を引こうとして、引かれる前にリラは易々と踏み越えて少年に抱きついた。自分がリラとの間に築いていた壁は、リラの言葉を拒絶するためのものではない。心を閉じ込めたのは、リラの体温を否定するためではない。

 自分の感情を内に押しとどめるためのものだった。

 

 子供でしかない少年は涙を流す。

 何故だか、Wの視界も滲む。少年の心にある暖かいものが理由は不明だがWの心にもあり、暖かさが胸の奥から際限なく湧いてくる。

 

 

 くらり、また場面が変わった。

 

 

「ねえ、どうすれば良かったんだと思う?」

 

 ソファの前にリラが立っている。少年はとっくのとうに出かけていった。リラのために仕事を探しに行った。体が壊れていく音がずっと聞こえている。

 リラにとってそれは、自分の手で少年の体を壊しているのとなんら変わりはなかった。

 

「……もう、やめてよ…………」

 

 押し殺した泣き声が部屋の中に響く。無理矢理にでも止めれば良かったと後悔する。だが少年を前にすればその痩せた体がどうしようもなく悲しく思えて、力が上手く入らなかった。他にどうすれば良かったのか。分からない。

 

 分からないから、Wに聞いていたのだ。

 二人の近くにいる、今やほぼ唯一の大人だった。

 

 ただそのWをして、答えは見つからなかった。

 

「あんたがどうにかするしかないわ」

 

 突き放すように言った。リラが目に涙を溜め込んで、精一杯流さないようにしながらに、Wの方を向いた。Wはため息を吐いて、ガシガシと頭の後ろを手で掻いた。

 

「あんたが説得できないのなら⬜︎⬜︎は外に行くだろうし、あんたが喜べば救われる。そしてあんたが泣けば自分を責める。そういうヤツよ、あいつは」

 

 ボス、とリラの体がソファに沈んだ。

 その顔もまた、自己嫌悪に歪んでいた。

 

「ほら、やっぱり、Wの方が⬜︎⬜︎のこと分かってる……私は何にも分かんない、もう分かんないよ」

 

 それは違う、と言うことができれば良かった。だが自分に起こっている奇妙な現象をどう言えばいい?原因は分からないが少年の感じていることを自分も感じられる?嘘か誇張か、そう受け取らなければ、やはり少年のことを分かっているということになる。

 感情がリンクしているなんて、与太話にも程がある。

 Wの居る世界は虚構で、しかしその虚構を証明するものはWの記憶以外に存在しない。Wの感覚を証明するものはない。それがひどくもどかしい。

 

 しかし今直面している問題を強引に解決することは、きっと出来る。

 

「まあ、⬜︎⬜︎だってあんたの話を聞いてない訳じゃないわ」

 

「そんなの、どうとだって言えるよ」

 

 まだ涙を流しているリラ。仕方がない、Wは部屋の扉を開いた。そうすれば、リラにもその扉のすぐ側で座り込んでいる少年の姿が見えた。

 リラの顔が驚きに染まって、泣き声は少しの間止まった。

 

「ほら」

 

「……バレてたんだ」

 

「あたしはあんたと一緒らしいからよ。うわ、自分で言ってて吐き気がしてきたわ」

 

 この世界が虚構だと気付いている。それも、少年の視点を追っているだけに過ぎないとはもう分かっている。しかしそれをWは、その虚構の住人のために利用した。

 この世界が虚構だと気付いている。しかしWの感じる心の熱はリアルに限りなく近かった。共感できる十分な理由もあった。だからWは今も真剣に干渉している。

 

「⬜︎⬜︎、どうしてそんなに無理をするの?」

 

「リラのために無理をしたいから。責める意図はないよ。ただ純粋に、リラのために動きたいからボクは動いてる」

 

「……そ、そんなこと急に言われたって、私は絆されないからね!」

 

 少年はリラのその反応が予想外だったのか僅かに驚き、そして首を傾げた。

 リラが紅潮した顔を冷まそうと深呼吸する。

 

「もしかして、W」

 

 少年はようやく合点がいったらしい。

 

「リラは、病気なのかな。鉱石病の進行よりもそっちの方が酷くて、もう保たないから──痛いっ!?」

 

「あんたねぇ、もう少し何とかならないの?」

 

「な、何が……?」

 

 バカが。Wは舌打ちする。

 

 なんだか張り詰めていたはずだった空気の糸は切れることなく弛緩してしまったように思えるが、決して問題は解決していない。少年はまだリラのために動きたいと思っているし、リラはそれを止めたいと思っている。

 

「リラ、良いんだよ。ボクのことは」

 

 少年は、良くも悪くも自分の感情に素直だった。嫌いな自分のことは痛めつけて、大好きなリラのことは大切にする。子供らしく、子供な少年はそうしてリラに向き合っていた。

 

 リラは感情に素直ではなかった。どれだけ自分に貢いでくれたとしても、それで嬉しくなって舞い上がりそうになったとしても、現実を見てそれはダメだと抑圧できる子供だった。少年の行動が嬉しくても、それに伴う痛みを分かってしまう子供だった。

 

 だから衝突する。少年は子供の視点のままでしか物を考えられず、自分がどれだけ犠牲になろうと嫌われるべき存在なのだからと厭わない。

 究極、リラのために何かしたいというのは少年自身の欲望で、少年はそういう自分勝手な子供だったのだから。

 

 

「ねえ、W。私はどうすれば良いのかな」

 

 

 リラはもう一度そう言った。

 

 Wは少年を引っ張り部屋の中に入れた。何をするのか、と訝しんでいる少年を自分の前に持ってきて、後ろから抱きしめるために手を伸ばす。

 

 リラの顔が少しの困惑に染まった。それを見ている少年の心は場面が切り替わったその時から荒れていて、Wの胸中も穏やかではなくなっていた。だがそれを押さえつけられるところが、Wの大人である所以だ。

 大人は年齢だけでなるものではない。考え方、経験、知識、感受性、肉体。大人になるには、複雑で煩雑な行程を踏み、また時間をかける必要があるのだ。

 

 両の手を組んだ。Wも少年と同じように、少年が嫌われるべきであるほどの行いをしたと思っていた。二人とは死生観が多少違っていたとしても、目的のために切り捨てられたとしても、そこらの命が紙屑同然だと思う極端さをWは持っていなかった。況してや、あの孤児たちを。

 だがしかし、少年を憎からず思う気持ちもあった。正解を選び続けられる者は居ない。それに、人のために身を削ることができる人もそう居ない。

 間違いは仕方のないことだと分かっていた。別個の感情を差し引けるほど人間は単純に作られていないが、それができたとして嫌悪やらが残ることはなかっただろう。だからこうして抱き締めても、Wの心に抵抗は生まれなかった。

 

 痩せた体が逃れようと踠く。雪の融けた水と僅かな食べ物だけで生活している少年は本領の一割すら発揮できず腕の中に収まっている。それは拘束している今に限れば良い知らせであったが、それでも尚憐憫を浮かべずにはいられない。

 

 リラの足が一歩踏み出た。その意思を汲み取った少年がWを引き剥がそうとより力を入れる。だがWはビクともしなかった。

 

「リラ。あんたが素直になるっていうのも、解決策の一つよ。あんたがもっと素直に引き留めれば、きっとすんなり終わっていたはずだわ」

 

 もっと素直になって、強引にでも全力で止めていたら、Wの存在がなかったとしても解決できていた。

 それは仮定の未来ではあれど、確約された未来でもあった。

 

「方法はきっと沢山あるわよ。けどね、さっきも言った通りあんたにしかどうにも出来ないのよ。あたしがこうしたってこのガキは何とも思わない。リラ、さっさと観念しなさい」

 

 Wが今こうして少年を抱きしめても、Wの居ない世界で少年が感じたような暖かさは少ししかない。精々がマッチ棒一本程度で、氷を融かすには不十分だった。

 

「あの、えっと」

 

「なによ?」

 

「……ちょっと、恥ずかしいって言うか」

 

 日和りやがった。火炎放射器を手に持ちながらマッチ棒で妥協しやがった。Wは端整な顔を最高に顰め、それを見たリラは「良いから早く来い」と実際言われたように錯覚するほど感情が表に出ていた。

 元より、追い詰められればリラはなんとかできるのだ。躊躇いを顔に出しつつも、Wへと向かう足は滞ることがない。

 

 マッチに抵抗しようと暴れていた少年を最後に一度だけ強く抱きしめて、Wは腕を解いた。リンクした感情は少しだけ暖かさが増して、少し気恥ずかしさを感じる。

 恨みがましく上目遣いで睨んでくる少年の頭をぽんぽんと叩いた後、肩を掴んでリラの方に勢いよく押した。

 

「さっさと、幸せになりなさい」

 

 奇妙な感覚がWを襲う。何かが変わった感覚がある。どちらかと言えばそれは不快な感覚だったが、あと一度や二度くらいは我慢してやっても良かった。

 気付けば、部屋の中には誰も居なかった。

 

 振り返ると丁度少年が扉を開いて部屋の中に入ってきていた。痩せていた体はまだあまり改善されていなかったが、久しく見ていなかった笑顔を湛えているあたり、ちゃんと幸せなのだろう。

 

 少女が少年の後から入ってきて、早足で追い越した。ソファにダイブして、毛布に包まれる。

 

「あぁ〜、暖かいよぅ……」

 

 少年はリラよりも子供だったが、今の一幕だけならリラの方が子供のように見える。リラの行動に苦笑している少年も含めて、親子のようにすら見えた。

 

「明日ボクが仕事に行っている間に色々とやってほしいことがあるんだけど、いい?」

 

「任せろ」

 

「……大丈夫だよね?」

 

「この私が信じられないと言うのか」

 

「なんかキャラ違くないかなぁ!?」

 

 蠢く毛布の切れ目からサムズアップのジェスチャーをしている右手が生えてきた。感じることのできないWにはどれだけ寒いのかが分からなかったが、窓の外では予想以上に雪が積もっていた。Wの腰くらいの高さだろうか。

 古い孤児院の中ではそこそこ風が吹いているから、きっとかなり寒いのだろう。

 

 ニョキッと首が生えた。

 

「寒い、よね」

 

「うん?そう、だね。えっ気温の話だよね?」

 

「うん」

 

 聞くまでもなくない?どこからどう見ても春や夏の服装をしている少年がそう言った。Wからすれば、自分だけ毛布に潜り込みながら少年に寒いかと聞いたリラも、寒そうな服装をして自然体で居ながらに寒いと答える少年も変わらなかった。

 毛布から数本の指が生えてきた。毛布と存在が融合しているようだった先程とは違って、リラは羽織るように毛布にくるまってソファに座り直した。

 

「……毛布、使う?」

 

「え?いや、寒いならいいよ。ボクはリラほど寒くないから」

 

「そっか」

 

 体育座りのようにして、リラは椅子に座っている。少年の肩に少しだけ寄りかかると、ただバランスを崩したのだと間違われて直された。

 

 不満だった。頬を膨らませた。少年は窓の外を眺めていて、そんな自分の様子には気付いていないのだと気付けば、リラの不満はより強くなった。

 実際はリラに毛布を使ってもらいたくて知らないフリをしているだけだったが。

 

「一緒に使おうよ、毛布」

 

「いいよ、気にしないで」

 

 そういうことではない。二人の様子を部屋の隅から眺めていたWがため息を吐いた。自分が居ない世界でも、頭の性能は大して変わらないようだった。

 

「二枚あるなら欲しいけど、二人で一枚を使うなら遠慮しとく。だってボクのせいでリラが寒いって思ったら嫌だし。言わせちゃった罪悪感みたいなのもあるだろうし」

 

 どうしてそこまで自分の感情を言葉にできているのにそれを相手に当てはめることができないのか。今正にリラがその嫌な感じだとか罪悪感だとかを感じている真っ最中だ。

 結局リラは毛布から抜け出した。ぼふっ、と音を立てて毛布が床に落ちる。

 

 不思議そうにそれを見つめている少年。自分を見ているリラに対して少しは何か思うこともあっただろうが、結局特に何もせずまた窓の外へと視線を移した。

 不満にまた頬を膨らませようとしたリラがとあるものに気づく。ソファの背凭れと少年の背、それらの大体中間地点。ゆらゆらと揺れているそれをリラは観察した。

 

「えいっ!」

 

「……ん?どうしたの?」

 

 ザラザラしているが、その尻尾はそれなりに暖かい。アダクリスやサヴラなどが持っている爬虫類の尻尾は変温性で尻尾の付け根くらいしか暖かい部分はないと言われているが、ヴイーヴルやドラコなどの尻尾は個人差が激しく一概に括れない。

 その点少年の尻尾は人肌並みに暖かかった。鱗のおかげかこの寒い日にも中々高い温度を保持している。

 

「リラ?」

 

 見かけほど重くない尻尾。

 

「……暖かい。抱き枕にして寝たい」

 

「じゃあ今度からそうしようか?」

 

 Wは大きい大きいため息を一つ吐いた。距離が近過ぎる。少年とリラがそういう仲でないことは知っているが──ん?もしかするとこの二人、実は恋人なのか?

 突如発生した疑問がWの思考を貫く。確かに、恋人の距離感としては正解だ。昨今の恋愛は低年齢化が激しいと聞くし、そういうことがあってもおかしくはないのかもしれない。

 

「んふふー、あったかい」

 

「それなら良かった。ちょっと窮屈だけど」

 

 なるほどそういうことか。Wは納得した。そして居た堪れなくなった。感情は少年と繋がり安心感のようなものが生まれているが、流石にそれだけでカップルの空間に居る疎外感を誤魔化せはしなかった。

 その瞬間、狙った訳ではないのだろうが、Wの頭を眩暈が襲う。瞑っていた目を開ければ、そこにはソファに座っている二人が居た。自分が居るのは後ろ側で、恐らく悟られてはいない。

 

 こてん、とリラの頭が少年の肩に当たる。

 

「リラ、しっかり座って」

 

「あ、はい」

 

 何言ってんだか、とWは肩を竦めた。

 

「ちょっと⬜︎⬜︎、恋人が甘えてるんだから応えるくらいしなさいよ」

 

 揶揄い混じりに投げかけた言葉に、二人は勢いよく振り返った。言い知れぬ圧を感じてWは引き気味に仰け反った。変にシンクロした動きがそこはかとなく怖かった。

 今まで噛み合っていなかった二人が噛み合うとこうなってしまうのか。数秒のアイコンタクトによって意思を伝達したらしき少年が立ち上がり、少女がファイト!とでも言うように腕を構えた。

 

 今度は何が繰り出されるんだと警戒していたWは、少女の方へと注意を回しすぎて伸ばされた腕に反応することができなかった。

 近づいていた距離はいつのまにか、ゼロだった。

 

「な、なによ、これ」

 

「⬜︎⬜︎がWをハグしてる、だよ」

 

 リラの声は届いていない。

 思考が追いつかず、引き剥がした方がいいのかそれとも背中にでも置くのがいいのかとWの腕が虚空を彷徨う。

 

「ありがとう、W」

 

 少し、いやかなり照れ臭そうに少年が言った。何に対して言っているのだとかそれ以前に、Wは自分の感情が理解できなかった。

 それは少年が持つ感情だったが、前に違う世界でリラに向けていたものと比べると、全く感情の毛色が違うことを除けば、その大きさは決して負けていなかった。

 

「え、いや、あんた……」

 

 まだ混乱の渦中にいるWを見て、リラが笑った。こんなに慌てふためくWが見れるのだったら、必死に練習して十種類くらいは使えるようになったアイコンタクトもその甲斐があった。

 Wが少年に対してそうしたように、Wのことを最後に一度だけ強く抱きしめて離れた。

 

「本当に、ありがとね。W」

 

 Wの情動は現在、少年のそれを『強制』されている。少年がリラを見て安心すればWもある程度安心するし、それがもし少年と同じようにリラを見て少しでも安心していたなら同じくらいのレベルにまで引き上げられる。

 Wに少年や自分のことを仄かにでも嫌う気持ちがあったからこそ、少年の自己嫌悪は完全なものとしてWと『共有』された。

 

 『強制』された感情は、少年のそれの半分以下だろうか。その判断は勘に頼っていたが、Wはそれを大凡掴んでいた。そして、『共有』された感情は少年のものと全く同じか、それに限りなく近いものだということも分かっていた。

 

 今感じているのは本当に後者だろうか。この少年に対する親愛の情は、『共有』されたものなのだろうか。

 いや、『強制』されている可能性を高く見積もっている訳ではない。Wは自分の感情がどのような相手に対してどのように働くのか知っている。僅かばかりの親愛すら抱いていないと言い張るには、少年とリラとは真っ当に親しくなり過ぎた。

 

 だからWが疑っているのは、これがもしかして自分自身の持つ感情なのではないかということだった。『強制』と『共有』の二通りがあることから分かる通り、自分自身の感情が全く存在しない訳でも無いのだ。

 だから自分自身の感情が少年の感情を上回れば、『共有』された感情ではなく自分の感情が心にあるだろう。

 

 と、そこまで考えておきながら、Wはそんな訳がないと一蹴した。照れによって赤らんだ顔は壁に叩きつけることで何とかした。

 心配そうにWの方を伺う少年。それをニコニコ見守っているリラ。くしゃくしゃっと少年の髪の毛を乱し、リラにデコピンをかました。

 

「いったぁい!何すんの!?そこは私にもなんか良い感じの対応するとこでしょ!」

 

「三年早いわ。出直してきなさい。そうね、⬜︎⬜︎を見習えば一年で許してやってもいいわよ」

 

「数字が生々しい……でも、ボクもそうだよ」

 

「えっ、私のこと嫌い……?」

 

「あっ、いや、ボクもWのこと好きだよ、ってこと」

 

 何言ってんだか、子供のくせに。上目遣いがあざといのよ。

 そんな感じの言葉を心中で吐いて、Wはもう一度少年の髪をくしゃくしゃにした。ついでに危険な上目遣いを中断させる。

 

「ねえ、私のことは嫌いなの、それとも好きなの……?」

 

 まだリラが何か言っていた。Wはため息を吐くと、やれやれといった表情で口を開いた。

 

「こいつがあんたのことを嫌いな訳ないじゃない」

 

「ちょっと黙ってて。私は⬜︎⬜︎の口から聞きたいの」

 

 ピキ、と音を出して何かがどこかに浮き出た。

 

「ん?なに、私の後ろがどうしたのW……って痛い痛い痛い痛い!ごめんなさい調子乗りました!許して!」

 

「……ほんっと、どうしようもないわね」

 

 はあ、とため息を吐いて腕を組んだ。

 

「Wって分かりやすい嘘吐くよね」

 

 少年にはWをぞんざいに扱ったリラの気持ちが理解できた。揶揄った後にこうも楽し気な表情をされてしまえば、やめる気になんてそうならないだろう。

 

 Wの視界で少年がまた口を開いた──瞬間に、言葉がノイズに邪魔をされて聞こえなくなった。

 

 一瞬だけWの景色が淡いオレンジ色に染まった。何の色だったか思い出せないが、Wはその色を知っていた。頭の中を探っても見つかるのは、それが不吉な色だということだけだ。

 

 頭を押さえて、Wはソファの背もたれに手をついた。

 何か嫌な予感がした。

 

 いつのまにか、いや、世界が変わった時からだろうが、少年はソファに座って扉の方を見ていた。Wはソファに手をついたまま、違う方の手で頭を押さえた。

 ズキズキと痛む頭の中、拍動の音がいやに大きい。

 

 少年が立ち上がった。

 見たくない。

 

 扉が閉まった音がした。

 聞きたくない。

 

「ねえ、リラ」

 

「なに?」

 

「ボクに隠してること、あるよね」

 

 リラが息を呑んだ。

 それが『強制』された感情なのかそうでないのかは分からなかったが、ひどく心を責め立てる何かがWを苛んでいる。立っていられなくなって、Wはソファに寄りかかりながら座り込んだ。

 少年は立っている。ようやく、Wはその苦悩が自分だけのものだと知った。だが恐らく、ただの悪い予感がここまで自分の首を絞める理由は、自分の中でリラの存在が大きくなったからではない、だろう。

 悪い予感とはつまり第六感だ。少年の心が食らってしまう悲しみや痛みを察知したのだろう。そしてリラのことを同じように憎からず思っていたWはそれを『共有』してしまうことも勘定に入れてしまった。

 

「リラ」

 

 少年の言葉が遠く聞こえた。その口を閉ざさなければならなかった。自分を襲っている苦しみから逃れるにはそうでもしなければいけないのだった。

 そして手を伸ばし、その手はすぐに止まって床へと落ちた。この世界にWが居ないことを思い出したからだった。

 

「やっぱり、バレちゃったか」

 

 耳を塞ぎたい。ソファの裏側に背を預けて、両手を耳に当てた。

 

「私さ、感染者でしょ?」

 

 ようやく、少年も嫌な予感がしたようだった。

 遅い、遅過ぎる。

 

 叫び散らしてしまいたかった。

 意味がなかったし、激しい頭痛がそれを妨げた。

 

「もうそろそろダメかな」

 

 リラの声が痛みを貫いて自分の脳髄に刻み込まれる。せめて自分がその痛みで気絶してしまえたらよかった。それ以外何も感じられなくなってしまえたら良かった。

 

「右目が見えなくなっちゃった」

 

 吐きそうなほど酷かった体調が回復すると共に、Wの目から涙が溢れ出した。嗚咽が喉の奥で乱反射したように口から無秩序に零れ落ちる。顎まで垂れて滴り落ちる涙は滂沱という表現が堪らなく似合っていた。

 

 いつしか、場面は変わっていた。二つの世界は近過ぎることをWは知った。リラの未来は閉ざされている。リラの命は鉱石病によって風前の灯となっている。

 

 嗚咽は未だ漏れ出ている。

 悲しみの大きさは、確かに先ほどより幾分かはマシだった。それでも涙は止まらなかった。

 いつの間にこんな絆されていたんだろう、なんて考えは浮かばない。ずっと前からきっと、少年とのリンクに気付いたその時からきっと、自分は引き込まれ始めていたのだと知っていたから。

 

「W、どうしたの?」

 

 リラの声が聞こえた。

 優しかった。いつもWと揶揄い混じりに交わす言葉はこんなに優しいはずではなかった。

 

「うゔぐっ、どうして、今優しいのよ……っ!」

 

「Wが泣いてるからに決まってるでしょ」

 

 心外だなぁ。その声はきっと遅効性の毒だった。

 その優しさを受け取ってしまえばしまうほどに、直視した事実が牙を剥く。今はただ甘いだけであっても、いつか終わりは訪れる。

 それを知っているから、知らされてしまったから、Wはリラを拒絶しようと押しやった。

 

「わわっ、と」

 

 たったそれだけの衝撃でリラは尻餅をついた。左足を引き摺るようにして、ぎこちない動きでバランスを取ろうとしていた。

 それだけでWには分かってしまう。きっと自分が知ったのは事実のたった一部分で、リラはもっと多くのことを隠しているのだと。

 

 扉が開いた。

 

「あ、えっ、W!」

 

「なによ……っ!笑いたければ、笑いなさい!」

 

 思ってもいないことを口に出した。それはそうでもしなければWの感情が抑えきれないからで、Wがそれほど弱っているということだった。

 しかしそれは失敗だった。それをするしかなかった訳ではあるが、どれを選んでもWの感情は限界を迎える。

 

「今のボクがあるのはWのおかげなんだから、笑う訳ないよ。ほら、落ち着いて」

 

 いつかカインやナインにしていたように、少年がWの背に手を回し、頭を胸に預けさせる。

 弱っている状態を自分から見せつけてしまえば優しくされない訳がない。ようやく引いてきた涙はまた流れ出して、今度はもう止まることが難しそうだった。

 

 

 ようやくその涙が止まって、Wは毛布に顔を埋めていた。

 とても微笑ましいものを見ているような顔で二人がWの側に立っている。

 あまり座らないソファの真ん中にWは座り、毛布で顔を隠していた。

 

「落ち着いた?」

 

 こくりと頷く。それは声を出すと恥ずかしさが限界突破しそうだったからというちゃんとした理由があるのだが、二人から見ればより子供らしい動作をしただけだ。

 視線の暖かさがどんどん上がっていき、返って居心地が悪い。リラが頭を撫でても反応しなかった。重症である。

 

 ゆっくりと毛布を膝の上に置く。時間をかけて落ち着いたためWの顔は、熟れたトマトだったのが熟したピーマンになっていた。おっと、アセロラだったかもしれない。まあどれも同じだが。

 

「それで、どうして泣いちゃったの?」

 

「リラ、のことよ」

 

「はぁ、もう……リラ。早く謝って」

 

「待って待って身に覚えがない」

 

「右目よ。あんたの右目の話」

 

「へっ?な、何の話かなぁ〜、W」

 

 隠す気があるのかどうかすらも怪しい誤魔化し方にWは手刀でツッコミを入れた。右側から側頭部を揺らす攻撃は、やはり完全に不意をついた衝撃となったようだった。

 

「ああ、確かに。それなら説明がつくね」

 

「いや全然話が見えないんだけど」

 

 世界は違えど、同じ少年。違和感の正体を突き止めてはいなかったが、その存在は確実に感じ取っていたようだ。

 

「それで、どのくらい見えなくなってるの?」

 

「あ、もう私の主張はないんですかそうですか。って、どのくらい?どういうこと?」

 

「見えないって言ったって、盲目にもいっぱいあるんだよ。弱視、準盲、盲、全盲。まあリラに分かるのは全盲かそうでないかだけだけど」

 

「……よく分かんないけど、見えないよ」

 

 リラが左目を手で覆った。

 

「もう何も見えてない。真っ暗」

 

 ぽかんと口を開けて、少年は動きを止めた。悲しみよりも困惑が上回っていることをWは『強制』的に理解した。

 

「よく聞きなさい、⬜︎⬜︎。リラの鉱石病は──もう、最悪のステージまで進んでるわ」

 

「鉱石、病が……?」

 

 Wも少年も、鉱石病には詳しくない。詳しくはないが、だとしてもその盲目という症状がどれだけ危ういのかは理解できる。

 盲目の中でも全盲、それは眼球近くの歪みではなく、視神経の損傷を表す。つまりリラの鉱石病は頭蓋の中を犯し始めているというのだ。

 

「な、んでそんなになるまで……」

 

「私だって、あんまり分かんなかったんだもん」

 

「あんまり?目が見えなくなるまで無症状な訳がないでしょう?リラ、あんまり隠してると首()し折るわよ」

 

「こわっ!?鉱石病関係なく死ぬよ!?⬜︎⬜︎もそんな『致し方無し』みたいな顔で見てないで助けてよ!」

 

「致し方無し」

 

 そんなぁ!?と悲鳴を上げるリラの前で、Wは優しく微笑みながら指を鳴らす。感情のリンクによるものか、リラは孤立することが多いような気がする。

 

「ほんとに分かんなかったの!ちょっとバランスが取りにくかったり、ピントが合わなかったりするだけで……」

 

「リラ、そういうこともちゃんと言ってよ。Wが泣いちゃうから」

 

「ごめん……」

 

「二人共殺される覚悟はいいかしら」

 

 首の後ろに手をやって、左右に傾ける。

 

 ポキ、ポキ。

 

 リラは無言で少年を盾にした。

 

「わっ、リラ、ちょっと──ぎゃああああっ!!」

 

 

 

「分かってたんだけどね」

 

 ソファに座ったリラが、人差し指で頬を掻きながらそう言った。窓の近く、壁に寄りかかってWは腕を組んでいる。

 

「何を、って。聞くまでもないか」

 

 少年はリラの隣に座っている。いつも天井に向かってゆらゆらと動いている尻尾はソファの背凭れに撓垂(しなだ)れている。

 リラの発言が意図するところはWにも理解できている。

 

 リラの鉱石病は脳を侵しつつある。そしてその源石は顔にすら露出していて、重篤とはいかないまでも重体であることは間違いない。

 そしてその感染者は普通、このクルビアでは疾病予防センターによって隔離処置が取られる。それがまさか後ろ暗い研究施設(ライン生命)に引き渡されることもあるとリラは知らないが、だとしても感染者はそういう存在だ。

 少年がどれだけ優しくったって、そこまで症状の進んだ鉱石病患者だと知られれば手のひらを返されるかもしれない。ありえないとは分かっているつもりでも、それを振り切る勇気は往々にして出難いものだ。

 

「こういう雰囲気嫌い」

 

「あんたのせいよ」

 

 間髪入れずそう言った。

 泣かされたWの恨みは大きい。

 

「そうだけどさ」

 

 ぶー垂れるリラ。右目を注視していると、確かに動かない。よくよく観察しているとリラはいつもより大きく首を動かしている。真っ直ぐ捉えて動かない右目の瞳孔が不自然なまでに雰囲気に溶ける。

 なんとなく許せなくて、その顔を両手で挟んだ。ぶに、と変な声を出してリラがWと目を合わせる。Wの左目と目を合わせるリラ。右目は動かない。動かす必要がないように視線を動かしている。

 

 ごん、ぶつけた額が大きな音を立てた。

 

「いだい」

 

「あんたがサイアクなことしてるからよ」

 

 恐らくは、少年にバレたくなくて必死に練習したのだろう。結果的にWによって暴かれてしまった訳だが、ほぼ完璧なほどにリラは右目の異常を隠していた。

 それでも勘付いていた少年は一体どんなストーカーなのか。どれだけリラのことを見ているのか。そういえば恋人だったか。

 

 今更になって、『共有』された悲しみが流れ込んできた。既に涙を流したWは耐えられているが、少年の目からは一雫の涙が出る。

 

「リラ、病院に──」

 

「行かない」

 

「どうして?」

 

「行かない。行きたくない」

 

「それがどうしてって……泣いてないで答えなさい」

 

「やだよ、とにかく嫌なの……っ!」

 

 珍しくリラが駄々を捏ねた。

 背を撫でていた少年の方を向いて、抱き着いた。どうしてこんなことになったのか訳も分からずあたふたしている少年をより強く抱き締める。

 

「リラ、別にすぐ引き渡される訳じゃないのよ?それにそうするのが一番なのはあんたも分かってるはずだわ」

 

「そうしなきゃ、リラは死んじゃうんだよ。治療しなきゃリラは……」

 

「絶対嫌だ」

 

「リラ、ダメだよ」

 

「やだ」

 

「リ「やだ」あたしにだけ被せるんじゃないわよ」

 

 ぶふっ。少年の肩の向こうで噴き出す音がした。どうしよう殺したい。Wが拳を握り固めて近づくのを、少年は困ったように見ていた。

 

 ごがぁん!

 

「いっだぁ!!?私泣いてるんだけど!ねえ、私泣いてるんだよっ!?Wちょっと……話を聞けぇ──っ!!」

 

「あんたが話してないんでしょうが。話すべきことを話さないあんたに聞く耳持っても意味がないわ」

 

「うぐっ……だ、だって、私は、私はっ!私はここに居たい!病院のベッドの上なんかで死にたくない!⬜︎⬜︎の隣で生きて、それで⬜︎⬜︎に看取ってもらうの!この、孤児院で!」

 

「それが通じるとでも思ってるのかしら」

 

「だから言わなかったんじゃん!Wのバカ!」

 

「大人って本当に卑怯だよね」

 

「あんたはこっち側でしょうが……っ!」

 

「いだだだだだだっ!」

 

 とんだコメディのようだった。もはや『強制』や『共有』によって引き上げられた感情は滅多になく、Wは自分の感情で物を言っている。

 

「リラの言ってることも、分かるんだよ。ボクだってそう思う。そうすべきじゃないなんてことは分かってるけど、その気持ちを拒否する訳にもいかないでしょ?」

 

「それは、そうよ」

 

「それに、ごめんね、W。リラがああ言ったの、ボクは嬉しかったんだ」

 

 リラが無言で抱きつく力を強くした。

 

「……分かったわよ」

 

 はあ、とため息を吐いた。

 

 そして世界がズレた。

 窓の向こうから柔らかい日が差し込んでいる。雪が積もっている様子はもうない。

 ソファにはリラが座っていた。辛いことを我慢していることが傍目から分かるような顔で自分の左足を摩っている。

 

 『共有』された感情が強い悲哀と焦燥を伝えた。

 

「リラ!朝ご飯、スープ作ったよ!」

 

 扉を慎重に開きつつも、少年は足速にリラへと近づいてスープを差し出した。具が点々と入っていて、湯気が出ている。リラはその豪勢なスープに呆れた顔で少年を見たが、それを意にも介さず、これまた上等なスプーンを突きつけた。

 

「大丈夫、もしもの時のために貯めてたお金だから!」

 

「全然大丈夫じゃなくない?まあ、頂くけど」

 

 その器を受け取ろうとして、少女の手が空振った。恐らく右目が見えないことと、少年の勢いに押されていたことが原因だろう。

 

「リラ……分かった。口開けて」

 

「えっ、あっ。わ、分かった」

 

 リラの顔が僅かに緩んだのをWは見逃さなかった。

 

「あーん。どう?」

 

「あ、味わかんないよぅ……」

 

「そんな、味覚まで……!?」

 

「あ、いや、違うの!ちょっと嬉しさに心が追いついてないだけだから!」

 

「意味分かんない言い訳しないの、そんな体で……やっぱり病院に行った方が」

 

「それはダメ。あと、もう大丈夫だから。でも『あーん』って言わないで。追いつかないから」

 

「わ、分かった。口開けて」

 

「それもやめて」

 

「え、うん、分かった。じゃあ、はい」

 

「あむ」

 

「どう?美味しい?」

 

「ごっふ……ご、ごほっ!ごっほ!そ、その、こてんって首を傾けるのもやめて……お願いだから私の心臓を労って……」

 

「分かった。もうリラの言う通りにする」

 

「んぅっ──!!だ、だからやめてって……」

 

「えぇ、どういうこと……?」

 

 Wはいよいよ空気になった。二人だけの空間に居るためにはそうなるしかなかったし、『共有』された親愛の感情や『強制』された少しの困惑以外では居た堪れないとしか感じられなかった。

 もう自分が居るとか居ないとかどうでもいいから早く終わってほしかった。そんなWの願いが通じたのかすぐに眩暈が起きて、ノイズが視界を埋めた。

 

「リラ、本当にこれって必要?」

 

「必要」

 

「いや何してんのよ」

 

 少年の膝にはリラの頭が乗っていた。

 Wを見て破顔し、しかしそんな少年の顔はすぐに曇る。

 

「……リラ、もう左足が動かないんだって」

 

「それで、これは何よ?」

 

 まあ大体答えは分かっていたが。

 

「こうすると痛みが和らぐってリラが──」

 

「もう痛み引いたから大丈夫!ありがと⬜︎⬜︎!」

 

「あ、うん」

 

 お前何してんだ。そんな思念を視線に乗せてリラを見ると、物凄く恥ずかしそうな顔をして窓の外を凝視していた。回り込んで目を合わせようとすると、リラは全力で顔を背けた。

 

「あ、あのさ、W。少しは悲しんでよ」

 

「あんたが馬鹿な真似してなければそうしたかもしれないわね。ええ、あんたがその立場を利用して最低な真似をしていなければ」

 

「最低じゃないよ!⬜︎⬜︎は私のこと好きだもん!」

 

「えっ、今何の話?」

 

 少年は無知だった。リラは一年というアドバンテージを存分に振るうべくそれを利用していた。

 

「……罪悪感とかないわけ?」

 

「あります、すごいあります。むしろそれがイイ──いだだだだだだだっ!!いったぁ……いだだだだだだっ!?なんで二回!?」

 

「W!?ちょっと、リラには優しくしてあげてよ!」

 

「その価値がないわ」

 

 アイアンクローにやられた顔を覆ってリラが少年の方に倒れた。ごく自然な動作で膝枕に移行したリラを極寒の視線で虐めてやれば、途轍もなく顔を渋らせながら身を起き上がらせた。

 

 『共有』された少年のリラを気遣う感情。『強制』でないことが大きさから判別できて、Wは口を結んだ。

 少しの時間変な空気になった後、Wは口を開いた。

 

「リラ」

 

 少しだけ燻っていた感情をWは掬って拾い上げた。今そうしなければきっと後悔する、それを今までのことから知っていた。

 

「死ぬ時は死ぬって言いなさい。そうしなければ、⬜︎⬜︎はいつまでもあんたに縛られるわ」

 

「W、ボクはそれでもいいよ」

 

「あんたは黙ってなさい。それと、あんたがそれを受け入れることでリラが苦しむことくらい分かってやりなさいよ」

 

 リラは少年にずっと自分のことを覚えていてほしいだろう。だがそれと同時に、死人になった自分が少年を縛る訳にもいかないだろうと理解している。そしてそれを考える時間は死期が近づくに連れて増えるだろう。

 リラは抑圧する。今まで見ていれば、Wにもそれくらいのことが分かるようになっていた。今は子供らしく少年と過ごしているリラが、大切な所で大人になってしまうことを知っていた。

 

「リラ、あんたがどうしようとあたしは何もしないわ。もしあんたが縛り付けて苦しめたって、仕方ないことだって割り切ってやるわよ」

 

 でも、と繋げる。

 

「あんたのやりたいことはそこの⬜︎⬜︎に幸せになってもらうことだって、あたしは勝手に思ってるのよ。何か違うかしら?」

 

「違わないけど、でもその言い方は……卑怯だよ」

 

「ええ、そうよ。あたしって卑怯なの」

 

 大人だからかしら?

 最後にそう言うと、二人は消えた。感覚からも告げられている、世界が変わったのだろう。

 

 少しだけ名残惜しい。

 少年に残されているリラとの時間は少ないが、Wのそれはもっと少ないのだ。一つ一つ大切にしているつもりではあったが、それにしたって絶対数が小さ過ぎる。

 

 それと同時に、また別の寂しさが胸の奥で痛みを発した。少年の視点を追うこれは、きっとリラの死によって終わってしまう。それを半ば確信してしまった故のことだった。

 Wに残されているリラとの時間は、少年との時間にほぼ直結する。

 

 残り時間は本当に少なかった。

 

「ふわぁ……」

 

 少年が欠伸をした。

 場所は大きく変わっていて、恐らく孤児院の外。周囲は薄暗く、月の光だけが唯一テーブルの前に座る少年の手元を照らしている。

 その手元にあるのは漆黒に輝く綺麗な石だった。拳くらいの大きさであるその石を、少年はノミのような何かで割っている。

 

「……ちょっと、大きいな」

 

 カケラを月に翳して、少年はそう言った。よく見れば周囲の地面には数多に(わか)たれた路端の石が転がっている。練習台にしたとしても、どうすればここまで細かく分割できるのかと思うほど小さくなっていた。

 ガッ。少年は石を手で固定している。

 親指の爪と同じくらいの大きさの黒曜石が転がった。少年は小さくガッツポーズをとって、ヤスリで軽く磨き、横に押しやった。

 

「喜んでくれると良いな」

 

 喜ばない訳がないだろうに。Wは少年の隣で作業を眺めながらそう(ひと)()ちた。横にあるのはその石に穴を開ける機械だろうか。それに加えて紫色の糸があるのだから、恐らくブレスレットやアンクレットにでもするつもりなのだろう。

 

 その作業は日の出まで続いた。少年の手元にはまだそこそこの大きさの石が残っている。素早くかき集めて袋にしまい、少年は恐らく孤児院の方へ立ち去っていった。

 

 少年の座っていた隣で、Wは腕を組んでテーブルに突っ伏した。自分の居ない世界が与える疎外感は、Wの思っていたよりもずっと大きかったのだ。

 

 

 肩を揺すられて目覚めると、そこには少年の顔があった。

 

「Wの寝顔なんて初めて見たよ」

 

「……ん、ああ。変わってたのね」

 

「何が?」

 

 世界が。

 

 Wは何も言わず、少年の持っている袋を見た。少年はその視線に気付いて、サッと後ろに隠した。

 

「手伝わせなさいよ、あたしにも」

 

「ななな何の話をしてるの?」

 

「ブレスレット作りかしら」

 

「なんでバレてるの!?」

 

 二択だった。

 

「そうね、あたしが穴を開けるからあんたは引き続き黒曜石を割りなさい」

 

「そこまで知ってるともはや怖いよ」

 

「ほら、早く」

 

 促されて少年はWの隣に座り、袋の中から丁寧に機械を取り出した。そして黒曜石をテーブルの上にばら撒く。先程見た違う世界の少年より少しだけ作業が進んでいない。

 

「あんた、割と考え事してたでしょ」

 

「うぇっ!?」

 

「見れば分かるわ」

 

「……そ、そうなの?」

 

 概ね間違ってはいなかった。あちらの世界でやれることと言えば見ることくらいだったし、この世界でも見ることでようやく判別したのだ。見たから分かる、その言葉に嘘はない。

 

「それじゃ、始めましょうか」

 

「なんか釈然としないなぁ」

 

 そうして曖昧に笑いつつ首を捻った少年だが、始まってからはやはり真剣に、丁寧に、集中して作業に臨んでいた。

 だがWの作業スピードはそれよりずっと早い。器用さ、作業への集中力、銃の狙いをつける時のような鋭い雰囲気で精密に穴を開けていた。

 

 暇を持て余したWは少年の手元をじっと見つめている。特に何か変だった訳ではないが、一つ一つのカケラを翳しているその一瞬、何か心の中に『強制』されているような感覚があった。

 だとすれば、少年はその黒曜石に対して祈りを込めているのだろう。リラの鉱石病の進行が少しでも遅れるように、少年は願っているのだ。

 

 Wは最初に穴を開けた黒曜石のカケラを手にとって月に翳した。そして目を瞑り、少ししてテーブルへと置く。

 

 それに気付いた少年は、目を瞑り月の光を受けるWの横顔に少しだけ目を奪われていた。

 

 

 

 朝日が昇った。祈りを終えて目を開けると、そこには何十ものカケラに糸を通して、最後のカケラを待つ少年の姿があった。

 差し出した黒曜石のカケラの穴に糸を通し、固く結んだ。決して千切れることのないように、決して込められた祈りが四散することのないように強く結んで、余った糸を切る。

 

「完成したよ、W!」

 

「そうね」

 

 素気ない返しに対して、しかし少年は満面の笑みを浮かべていた。Wがどれだけ真面目に作業をしていたか知っているし、その込めた祈りの大きさは少年と比べても決して小さくないと知っていたからだった。

 Wはテーブルに肘をついて、立ち上がった少年にヒラヒラと手を振る。

 

「何してるの、Wも行くんでしょ?」

 

「あたしが?いいわよ、遠慮しておくわ」

 

「バカ。行くよ」

 

 Wを手を取り少年が走る。表情こそ平静を装ってはいるが、恐らくはリラにブレスレットを渡したくてしょうがないのだろう。満更でもない様子で手を引かれていたWは、やがて少年の隣を走るようになった。

 そして見えてきた孤児院、その前にはリラが壁に手をついて立っている。

 

「あ!やっと帰って……朝帰り!?」

 

「はぁ、はぁ、た、ただいま、リラ……」

 

「ちょちょちょちょっと事情聞いていい!?」

 

「少しは落ち着きなさい」

 

 

 ていっ。あうっ。

 

 

「ふぅ。リラ、実は渡したい物があって」

 

「えっ、なに、婚姻届!?仲人!?」

 

「手を出して」

 

「なになに怖い怖いやめて!」

 

 少しだけ前のめりになり過ぎていた、と少年は自覚した。一先ずは落ち着かなければと思うが、そうして深呼吸を始めた少年にリラはまた後ずさる。

 

「や、やめて、待って!私を殺したいの!?」

 

 そして、少年は必死にやめてほしいと叫ぶリラにしょぼくれた。リラが何かしら勘違いしていることは知っていたが、だとしてもその言葉は思っていたより気勢を削いだ。

 

「リラ、そういうの良くないと思うわ」

 

「えっ、あ、はい」

 

 少年はもう一度落ち着くためにとりあえず、繋いでいたWの手を離した。その代わりにWの手が少年の頭に落ち着いた。頭を撫でられてようやく少年の気持ちが勢いを緩やかなものにして、もう一度リラに手を出すようお願いした。

 Wに気圧されていたリラがおずおずと手を伸ばす。まだ何かを手渡されると思っているのか、手のひらが上を向いていた。

 

「じゃあ、あたしが一旦目を塞ぐわね」

 

「えっ」

 

「分かった」

 

「えっ」

 

 まるでナタを持った血まみれの大男でも見るように怯えた目をするリラ。久しぶりにWは自分のペースを相手に強制している。

 

「ああ、そんなに怖いなら右目はやめておくわ」

 

「同じだよそれ!っていうか冗談が悪趣味!」

 

「リラ、いい?」

 

「……オーケー、もう分かった。私が覚悟すればいいだけの話だもんね」

 

 覚悟するような話ではないが、何はともあれリラの準備が整った。じゃら、と音を立てて少年が袋からブレスレットを取り出した。

 口が真一文字に結ばれながらも、Wにはリラの困惑した様子が手に取るように理解できた。片手で左眼を塞ぎつつ、空いた方の手でリラを支える。

 

 ごっ、がらがら。

 袋から落ちたノミの立てた音だった。

 

 困惑、恐怖。折角決めていた覚悟がボロボロと崩れ落ちていく。だが少しだけ引かれていた手を少年が握った途端に全てが塗り潰された。

 後ろから目を押さえているにも拘らずありありと脳裏に浮かぶにやけ顔。

 

「いいよ、目を開けて」

 

「いや私じゃなくて」

 

「本当に、覚悟はできているのよね?」

 

「ちょっ、怖いって」

 

 リラの手に通したブレスレットは、手首より少し、いやかなり大きかった。少年が注意して持っていれば手首にギリギリ当たらないくらい、黒曜石も噛み合って静止していた。

 

「じゃあ、好きなだけ見るといいわ」

 

「待って待っ──にゃ、なにこれ!?」

 

「どう、かな?」

 

 放心した様子で手首を見つめるリラ。

 

「……嬉しくない訳ないじゃん」

 

 まあ、そうでしょうね。Wは照れ隠しにそんな言葉を吐こうとした。ニッコニコの少年を見て、流石に良心が咎めたのでやめることにする。

 

「でも、こんな……無理しなくていいって言ってるのに」

 

「へえ、それじゃあたしが貰うわね」

 

「絶対に嫌だけど、殴るよ?Wでも殴るよ?」

 

「そ、そんなの分かってるわよ。冗談じゃない」

 

「いくら私でも冗談にならない冗談は嫌いだよ」

 

「……気をつけるわ」

 

 目がマジだった。

 確かに茶化そうとしたのはあまり良くないことだったし⬜︎⬜︎の気持ちを無下にするのは自分としても許されないとは思っていたけど──あれ?割とあたしが悪い?

 

 少年が改めてリラと向き合った。

 

「リラ」

 

「なに、⬜︎⬜︎?」

 

「大好きだよ」

 

 リラが地面に膝をついた。

 心臓の辺りを抑えて苦しそうにするリラを見て慌てる少年。

 

「まあ、そうでしょうね」

 

 今度こそWは口に出して、世界が変わる感覚を味わった。

 

 

 

 それは何でもない日常だった。

 それが終わりの日だなんて、もしWがその世界の住人であれば分からなかっただろう。

 そしてWはその世界の住人ではなく、植え付けられた感覚があった。

 

 その日はもう、リラの生きる最期の日だった。

 

「リラ」

 

 少女はソファに横たわっている。少年はそれを、肘掛けに座って見つめている。

 二人の前で、Wのことが見えていない二人の前で今日失くなってしまう大切な人の名前を零した。Wが関わったのはこの世界の二人ではない。だが、それでもやはり悲痛に顔が染まる。

 

「リラ」

 

 もう一度、噛み締めるようにリラの名前を呼んだ。

 少し前、視界いっぱいに浮かんだあのオレンジ色が何なのか、ようやく思い出した。それは鉱石病に殺された死体が放つ、粉塵の色だった。

 

「⬜︎⬜︎……リラ……ッ!」

 

 お願いだから終わってほしくなかった。『強制』的に関わることになってから、Wはもう絆され過ぎてしまっていた。

 好きになれなさそうだとは誰の言葉だったろうか。少年のことも、リラのことも、Wは好きになってしまっていた。あの世界が嘘だったとしてもそれを認められないくらいに、この世界の二人に違和感を感じてしまうくらいに、Wはあの二人が好きだった。

 

「ねえ、⬜︎⬜︎」

 

 リラの綺麗な声が鼓膜を揺らす。

 

「ねえってば、⬜︎⬜︎」

 

「聞こえてるよ」

 

「そっか」

 

 涙を我慢して、Wは二人を見た。

 リラの左目が歪な動きをしていた。

 

「……私、たぶんこれで良かったよ」

 

 リラは右手を少年の方に伸ばすと、少年はそれに自分の手を伸ばした。指を絡めて、リラの顔は彫像のように美しい笑顔になった。

 それが美しいのは彫像のように計算された美しさだからではない。それが残り時間の少ない、儚い笑顔であるからだ。

 

「笑えないよ、リラ」

 

「ごめんね。でも、ありがとう」

 

 心の底から嬉しそうにするリラの顔を直視することができず、少年は苦しそうに俯いた。

 

「あーあ、もうダメだ。私はたぶん、もうダメだよ」

 

 明るい声だった。自分の命を諦めてしまった重篤患者は、せめて未練を振り切ってしまおうと明るい声を出した。

 

「仕方ないよ。私は感染者だから」

 

 そして、その未練を振り切ることは決して出来ないと悟った。仕方ないと口にしておいて何も納得できていない自分を発見してしまった。何にもピントが合わない視界に押し潰されそうな恐怖を感じている自分が居ることを知ってしまった。

 

 リラの目から涙が落ちた。

 張っていた虚勢はどこへともなく消えてしまい、只管零れ落ちる涙を拭うこともせず──いや、拭えないのだった。

 

 正常に動けなくなったのは左目だけではなかった。左腕もそうだった。拭うためには少年と繋いだ右手を離すことが必要で、それがリラには出来なかった。

 少年との手を離せる訳がなかった。歪んで何も認識できない世界で熱を伝えてくれるのは、少年と繋いだ手と、そして胸の奥だけだった。その手を離してしまえば、残るのはきっと冷たい死だけだった。

 

 リラの涙は止まらない。

 

「死にたく、ないよ……まだ、手を繋いでいたい……っ!」

 

 少年の目から雫が垂れて落ちた。

 

「ねえ、⬜︎⬜︎……っ!」

 

「聞こえ、てるよ……大丈夫。ボクはここに居るよ」

 

 肘掛けから立ち上がり、少年はソファの前に片膝をついた。両手でリラの右手を包み込んで離さない。

 

「どこにも行ったら嫌だよ、⬜︎⬜︎」

 

「どこにも、行かないよ」

 

「私のこと最期まで見ててよ、⬜︎⬜︎」

 

「ずっと、見てるよ」

 

 リラの懇願が少年の顔を歪ませる。声には出さまいと、押し殺して泣いている。それでも少年は滲んだ視界でリラを見続けていた。

 最期まで見ていたかった。もう一秒だって無駄にしたくはなかった。

 

「ねえ、ハグしてよ。⬜︎⬜︎」

 

「……右手、離さないといけないよ?」

 

「右手だけじゃ、足りないんだもん」

 

 リラは溢れ出る涙をものともせず、解いた右手をソファについて起き上がった。ひどく勇気が必要な行為だったが、リラは起き上がることができた。

 瞬間、リラは激しく咳き込んだ。脳の神経を侵す源石とは別に、肺の近くで根を伸ばし始めた源石のせいだった。血液を介して源石は身体中に移転する。末期の患者はそれこそ全身が病巣となり、機能を停止した途端に全てを壊す。

 

 少年はリラの体を精一杯抱き締めた。リラの涙が少年に触れて、少年の涙がリラに触れた。お互いの感情が溶け込むように伝播した。

 

「ああ、もう……嫌だな。私、まだ⬜︎⬜︎のこと全然知らないのに」

 

「そうだよ、リラ。ボクはまだ約束を果たせてない」

 

 リラが自分の左手を引っ張って少年の背に回そうとした。無理矢理にそうしたせいで、少年の作ったぶかぶかのブレスレットは床に落ちた。

 

「あ、ああ……」

 

 拾い上げようと指を引っ掛ける。

 それを腕に通そうとして──ブレスレットが床に落ちた。

 

「やだ、やだよ……っ!」

 

 少年がリラの様子に気付いて、手を伸ばした。黒曜石のブレスレットがまた床に落ちて、少年の指は取り落としたリラの手に当たった。

 

「ごめん、ごめんね、⬜︎⬜︎……っ!」

 

「いいから、ボクに任せてよ、リラ」

 

 少年がブレスレットを手に取って、彼女の左手を彼女の膝の上に置く。分かりやすくその手を手首から上の部分だけ持ち上げてブレスレットを通せば、その重みが彼女に伝わった。

 

 口の端から叫びが漏れた。

 それが始まってしまえば、もう止まることはなかった。

 

 

 Wの頭をやっと眩暈が襲った。

 ずっと、違う世界の人とは言え、自分のよく知る人物の号哭を聞いていたWは、頭がイカれそうなほどの痛みを感じていた。

 それがただの、銃弾が心臓を貫いた痛みであれば、Wにはきっと耐えることもできた。それが胸の奥で存在を主張する、物理的にあるはずのない心が痛むのでなければ、Wはそこまで辛い思いをしないで済んだはずだった。

 

「やっと来た」

 

 Wの方を見て、少年がそう言った。ソファに寝ているリラが、それを聞いて頬を綻ばせた。

 

「リラ、あんた……っ!死ぬなら死ぬって言いなさいよ!」

 

「だって、最近はずっとWが来なかったから」

 

「口答えすんな!ぶっ殺すわよ!」

 

「それは、困るなぁ……」

 

「もっと怒りなさいよ!」

 

「W。もう、やめて」

 

 リラの右手を握っている少年が、今度は振り返らずにそう言った。

 少年の目からは涙がとめどなく溢れている。Wの目からも、同じように。リラはどうにか抵抗していた。少年には自分に縛られてほしくないからだった。

 

「ねえ、W。お願いがあるの」

 

「……⬜︎⬜︎のことなら、あたしは、無理よ」

 

「どう、して?」

 

 Wは両手を固く握った。

 

「あたしが、もうあんた達と会えないからよ……っ!」

 

「なんで、そんなこと──っ!」

 

「あたしだって、気付いていたら言っていたわ!あんた達との別れなんて嫌に決まってるから!でも違うのよ、あたしはきっと本来、居たらいけない存在で!」

 

「どうして、そんなことを言うの?」

 

 リラの目から涙が溢れ出た。自分の死を恐れてのものでも、少年との別れを惜しむものでもない。

 

「私と⬜︎⬜︎はWに救われたの。私しか⬜︎⬜︎をどうにかできないだとか関係なく、Wは救ったの。私の背中を押してくれたの」

 

「違うわ、私なんか居なくてもどうとでもなったの!私が出来たことなんて……っ!」

 

「ボクのブレスレット作りに付き合ってくれたのはWだよ。ボクが一番ありがとうって伝えたいのは、Wだよ」

 

 少年がWの手を取って引き寄せた。

 

「ボクはWのこと大好きだよ。居てくれてありがとうって、居てくれて良かったって、そう思ってるよ」

 

 少年の目から流れる涙は、きっとリラに対しての悲哀だけではなくなっている。Wの許せないほどに低い自己評価に対して、憤りすら感じる悲しみを覚えていた。

 

「W、ハグして?」

 

「……それは、⬜︎⬜︎がやるべきよ」

 

「ううん、私はWにやってほしいって今思ってるよ」

 

 少年がWとの腕を解いてリラの背中に腕を差し込む。起き上がったリラは両腕を開くことすら出来なかったが、Wに抱き締められるくらいは、なんとかやり遂げた。

 

「バカ、W。本当に価値がないのは、本来ならきっと私の方なんだよ」

 

「そんなことないわ……っ!」

 

「……話せなかったな、⬜︎⬜︎に」

 

 涙がこぼれていく。抱き締められていたリラの体はまだ熱を持っているが、源石に侵食されている左腕は冷たかった。

 リラの白い肌が、まるで本当に真っ白な白磁の陶器になってしまったかのようだった。

 

 Wの広げた腕が少年をも巻き込んで抱き締めた。

 

「W、ちょっと痛いよ」

 

「今くらい静かにしてなさいよ」

 

 彼女とは違う。

 リラは、テレジアとは違った。決してカリスマなんて持っていない、ただの一少女だった。王の器なんてものでも決してない。

 しかし、少年にとってのリラはきっとWにとってのテレジアと同じだった。少なくともその思いの丈を自分より劣っていると断じることは、少なくない日々を過ごし、小さくない感情を抱いたWには出来なかった。

 

「私、本当に、幸せだよ」

 

 もう途切れ途切れになっていた。

 リラの命は消えつつあった。

 

 ただそのブレスレットはリラの左手首にしっかりと着けられたままだった。

 

「ありがとう、W」

 

 頷くことしかできなかった。

 

「ごめんね、⬜︎⬜︎」

 

 首を振ることしかできなかった。

 

 本当の意味で、二人の間で『共有』されたリラを想う感情が、二人の心の中を満たしていた。

 

「ごめんね」

 

 リラの命が、消えた。

 

 

 

 

「私はリラ」

 

 

 

 

「ねえ、キミの名前って、なに?」

 

 

 

 

「私の名前はリラって言うの」

 

 

 

 

「知ってるよ、貴女はWって言うんでしょ?」

 

 

 

 

 ああ、リラ(テレジア)

 

 

 

 

いだだだだだっ!!……あは、あははっ!なんだか楽しくなってきちゃった」

 

 

 

 

「私、みんなのこと好きだよ」

 

 

 

 

「泣かないで、泣いてないで」

 

 

 

 

「もう、仕方ないなぁ」

 

 

 

 

「私なんかのために……」

 

 

 

 

「涙は悲しいって伝えるためのもので、それを流すことが贖罪になんてならないんだよ」

 

 

 

 

「全然来ないなぁ、W。私のことなんて忘れてたりして──そんな訳ないか。あの人、私のこと大好きだから」

 

 

 

 

「ごめんね」

 

 

 

 

「言えなくって、ごめんね」

 

 

 

 

 どうして。

 

 

 

 

「これで良かったよ」

 

 

 

 

「本当に、幸せだよ」

 

 

 

 

「未練はあるけど」

 

 

 

 

「笑えない、なぁ──」

 

 

 

 

「本当に、ごめんね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、どうかお願い」

 

 

 

 

「私を殺して」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうして、ボク(あたし)の前から居なくなったの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 床へと涙が落ちた。

 それは、アビスの涙だった。

 

「もしボクが言ったことの通りなら」

 

 アビスがアーツを放った後の姿勢のままで、Wに言った。

 

「もし死を恐れることだけが人間だと言うのなら、ボクの心も人間じゃない。間違っている。だって、ボクは死にたいって思ってるから」

 

 アビスの声は少年のそれと似ても似つかなかった。その、『ボク』という一人称を除いて、全て違っていた。

 しかしWは理解した。あの少年は紛れもなくアビスその人だったのだと理解した。それと同時に、アビスの言っていることを理解した。同じ経験をさせられたWにはそれがどういうことか分かっていた。

 

「ボクはこの哀惜を抱えたままじゃ上手く生きられないし、人と関わろうとする度に、ボクはあの恐怖を思い出してしまう。それくらいなら、死んだ方がマシだなんてことをいつも思う」

 

 リラを失った恐怖は、死の恐怖を真っ向から否定していたのだとアビス──少年は言う。失ったことの痛みは耐え難く、それをWもあの世界で知った。

 そしてその痛みは死の恐怖なんかよりもずっとコントロールが難しくて、他の恐怖と混ぜなければ、何度訓練しても乗り越えられなかった。

 

「死の恐怖に抗えないのはきっと人間らしい。突きつけられた銃の前で醜く命乞いをするのは、嫌になるけど、嫌になるほど、人間だ」

 

 少年が片膝をついて、Wを抱き締めた。少し前にケルシーがアビスにそうしたように、優しく。

 しかしそれはケルシーがした抱き締め方ではない。まるで子供でもあやすかのようにWの背に手を回し、頭を胸に預けさせている。まるで同じ孤児院に居る双子でも落ち着かせるように、暖かい体温がその触れた部分から伝わってきた。

 リラとWとアビスで過ごした時間はきっと、アビスの記憶には残っていない。あのWが過ごした時間はWの中で完結している。アビスが明言した訳ではないが、それをWは察することができた。

 

 しかしそうだとしても。

 あの違う世界の少年だったとしても、少年は少年だった。リラのことが大好きで、それさえ同じなら、リラを亡くしたWには受け入れられた。あの二人が居ないことを分かって涙がまた溢れたが、少なくともアビスはまだリラのことを愛していた。

 そもそもWこそ居てはいけない存在だったのだ。あの世界は本当の意味で存在しない世界だったのだ。それを分かることができたから、Wは少年が変わらないままで居るだけで良かった。

 

「でもさ、W。人間は死を恐れるだけじゃないんだよ」

 

 少年の言っていることを、Wは理解している。いや、Wも同じだった。アーツを掛けられる前はそんなことをカケラも考えたことなど無かったが、あの世界を経験して数十秒、Wは既に少年と同じことを考えていた。

 

「きっと、失う恐怖に抗えず、深く沈んでいく中で自ら命を絶つのも、その苦しさを忘れようと狂ってしまうのも、人間らしい──そうよね、アビス?」

 

 溢れる涙をそのままに、Wは笑った。自分を抱くアビスの背中に腕を回して耳元で囁くように言葉を発する。

 

「でもそれは、やっぱり間違ってるんじゃないかしら」

 

 自虐の意味を込めて、そう言った。アビスとWは間違えているのだとWは悟った。

 そしてそれはアビスも同じだった。悟った上で、Wとはまた違う考えをして、結果に行き着いていた。

 

「間違ってるよ。前を向くべきだ。でも、それを否定はしない。ボク達は過去に囚われず前を向くべきだった。それはボク達には無理だった。もう前を向けなかった」

 

「なによ、やっぱり間違ってるんじゃない」

 

「じゃあW。キミは正解を選べるの?」

 

 正解とはつまり、死を恐れることだ。死んでしまいたいなんて思わず、リラやテレジアの死を乗り越えること。同じような喪失感を経験する覚悟をすること。

 

 答えは明白だった。

 

「……離れて。もういいわよ。涙も止まったし」

 

「うん、良かった」

 

 アビスとWが立ち上がった。

 

「ボクは最初、キミなんてどうでも良かったし、本当なら増幅させた死の恐怖で壊そうかと思ってたんだけど、同じような経験をしたならどうにかしたいなって思ったんだ」

 

「良い雰囲気全部ぶち壊したわね」

 

「ボクは間違ってるから仕方ない」

 

「あーあ、まったく。あんた本当に最悪よ」

 

 相変わらず、空気が読めないヤツね。

 Wは口の中だけでそう言った。

 

 銃を拾い、アビスとWは小気味良い会話と共に部屋の真ん中にある椅子の方へと歩んで行った。

 Wはアビスを殺して片をつけるつもりだったし、アビスも同じようなもので、そういうところも似ていたのかも知れなかった。

 ただ、今のWには殺意は毛ほども無かった。どちらかと言えばその逆の感情が、Wの心を侵していた。アビスに言われた言葉も特段響いていなかった。その発言にむしろ安堵したくらいか。もしも変わらず接していたら、自分の感情がどうなるか分からなかったから。

 

「アビス、ちょっと扉の方に行ってもらってもいい?」

 

 椅子を片付けようとしたアビスを止めて、ライサが突然そんなことを言った。不思議そうな顔をしつつも、アビスは広い訓練室の端、扉に近付いた。

 

「Wは、逆」

 

「何よ、何があるの?」

 

「いいから」

 

 ライサの曖昧な返事に訝しみながら、言う通りにした。今はとても気分がよかった。得体の知れない本能的な恐怖から解放され、そして自分の大事なものが一つ増えた。それは今もなお輝いていた。

 

 Wが訓練室の壁に手をついてライサの方を振り返ると、ライサは何かをWの方へ投げようとしていた。綺麗な投球フォームで、振りかぶり──投げた。

 

 それは、ピンの抜かれた手榴弾だった。

 

 そう、ライサはWの椅子に一つだけ転がっていたものを発見していたのだ。残心、そしてガッツポーズ。少なくともこれでWは始末した。自分がどうなるかは分からないが、少なくとも扉の近くに居たアビスは逃げ切れるはず。

 Wとアビスが何やら良い感じになっているのを死んだ目で見つめていたライサはようやく、鬱憤を晴らすことができる。

 

 手榴弾がWの手前に落ちた。

 息を吸い込み、ライサはその怨恨を叫ぶ。

 

「死ねぇ──ッッ!!!」

 

「ちょっ、きゃああああああああっ!!!!」

 

「ライサ!?」

 

 アビスの突き付けた恐怖がなくなって、束の間。

 

 Wは最後にもう一度だけ、死の恐怖を感じた。




これにて二章完結です、読了ありがとうございました!
謎はまだまだ多いですが、違和感なく出せていけたら良いなと思っています。幕間を一話用意していますので、それを投稿してから三章の執筆に取り掛かろうかと思っています。

昨日の翌日さん、よくゑたる人さん、あぷっるさん、評価ありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間
二十九 ライサの恋愛事情


注意
この話は中盤にメタフィクション要素が存在します。幕間だからと許せる人や、メタフィクションについて寛容な方は気にせずお読みください。
また、特定のキャラの持つ特徴に対するアンチ・ヘイトがこの話以降も残るような形で存在します。作者としてはその部分も好きですので、決して貶める意図が存在しない、偏見や主観を多分に含んだ一意見であることをご理解ください。


 

 

「えぇと、つまりどういうことかしら?」

 

 ラナさんがそう言って首を傾げた。

 

「すみません、分かりにくかったですよね」

 

 私はそう言って笑顔を作った。色々と迂遠に伝えすぎたのかも知れない。まあ、伝わることがなければ何度だって言うつもりだから別に構わないけど。

 

「整理すると──ラナさんはアビスに近付かないで、ってことです」

 

「ああ、そういうこと」

 

 ラナさんは納得した様子で手を合わせた。

 私が今居るのはロドスの中でもかなり特殊な区画で、療養庭園だとか療養菜園だとか呼ばれる場所。アビスが一人で任務に行っている時とか、部屋で何かしていて入ることを拒否された時とかはよくここに来る。

 ラナさんの調香の話はとても興味深くて、最近は少し香水を使って匂いを付けてみたりもしてる。アビスが気付いてくれたことは、たぶんないけど。

 

「あなたの好きな人を取る気はないわ。だから、近付くくらいは良いと思うけれど……」

 

「じゃあ一つ質問です。アビスはどんな匂いですか?」

 

「そうね、少しだけ似てるのはクチナシかしら」

 

「ダメです」

 

「えぇっ!?」

 

 ダメに決まってる。クチナシの匂いなんてフローラル系男性用香水の材料としてはメジャーで、女性用香水としてもかなり良い香り。つまりはヴァルポの人にはアビスはもう近付けられない。しっしっ。

 

「あとクチナシの香水って貰えますか」

 

「いいけれど、でも似てるってだけで同じじゃないのよ?恋愛のテクニックとしてそういうものはあるけれど……」

 

「ミラーリング効果ですか?確か、相手が自分と同じだと好意を抱きやすいとかいう?」

 

「大体そんな感じね」

 

「だとすれば、アビスは私の匂いになんて興味がないので意味はないですよ」

 

「じゃあ、どうして?」

 

「ベッドに振り掛けて寝れば最強じゃないですか?」

 

「ハングリー精神ってこういうことなのかしら」

 

 当然少しは自分自身にも付ける。でも私の狙いはあくまでもそっち。だって今のように隙を見つけてはアビスのシーツを回収して、新しいシーツを用意して、なんて馬鹿らしいでしょ?

 まあオリジナルの匂いを至上主義とする考えに異論はないけどね。でも手間を省くためとして試行してみるのは価値あることだってドーベルマン教官が言ってたし。

 

「とにかく、ラナさんは近付かないでください。アビスの匂いを嗅ぐのもダメです。拒否します。やめてください」

 

「わ、分かったわ。そこまで言うなら仕方がないわね」

 

「ご協力ありがとうございます」

 

 さて、ラナさんはこれでいいとして、問題はあの人だ。

 

 庭園の向こう、ベンチに座って花の匂いを嗅いでいるあの人には柔軟な対応が求められる。一応プランは何個か用意してきたけど、これで制御しきれるかかなり不安。

 けどやるしかない。求人だとかも綿密な手回しが重要だとケルシー先生は言っていたし、こういう努力が実を結ぶためには必要。異論は認めない。

 

「こんにちは、ナイトメアさん」

 

「あら、こんにちは」

 

 この人はナイトメアさん。よく療養庭園に居るオペレーターの一人で、ロドスのオペレーターに恥じない美少女。

 いや、元大学生だったらしいからそれは美女が適当なんだろうけど、童顔だから美少女でいいや。ロドスに居るともう全員ライバルに見えてくるから本当に嫌になる。

 

 それで、この人の対処法は。

 

「一つ聞いてもらいたい頼みがあるんですけど、大丈夫ですか?」

 

「頼み?……当然だけど、それがどんなことかによるわよ」

 

「そうですよね、それが当たり前です。でも私はナイトメアさんがそれに興味を持って近づいてしまうことを何よりも恐れています」

 

「へえ?」

 

「ですので、取引です。私が一つ頼みを聞いてもらう代わりに、ナイトメアさんの頼みを一つ聞きます。つまりこの取引を受け入れて尚且つ私の頼みを聞いてもらえれば、ナイトメアさんは二つ、私に命令できます」

 

「その頼み事はあなたにとってそんなに手を出してほしくないほど大事なことかしら?例えば、そうね──アーミヤにとってのドクター、とか」

 

 鋭い視線。ほぼドンピシャの例え方をしているあたり、ナイトメアさんの勘は異常なくらいに冴えていると分かる。

 たぶんこの人は大学生時代も男の人たちを落としていたに違いない。何としてでもアビスから遠避けないと私のアビスが籠絡される。

 くっ、猫と兎のどっちが可愛いか、白黒ハッキリさせてやりますよ、ええ、やってやります……!

 

「やるじゃない、睨み返すなんて」

 

「取引はどうするんですか」

 

「そうね、取り敢えず受け入れるわ。じゃあ早速あなたの頼み事を聞いて……」

 

「いいえ、まずは私がナイトメアさんの頼み事を聞きます。取引を受け入れてくださったなら、それが普通ですよね?」

 

 一度受け入れたならもう逃がさない。私が頼み事を聞く義務を果たせば、ナイトメアさんには取引を遂行する義務が発生する。それが契約だから。

 ナイトメアさんがどう出るか。

 

「ふふふ、ちゃんと考えてるのね。でもダメよ、もし私がその約束事を守らなかったら、それに意味なんて全くないもの」

 

「いいえ、意味ならありますよ」

 

 思っていたより優しい人なのかもしれない。

 もしかすると私より、ずっと。

 

「その時はナイトメアさんを利用して私が目的に近づくだけですから」

 

 もしナイトメアさんがアビスの方に近寄ったら、私にはそれを断るための大義名分が存在する。そして近寄ったナイトメアさんにそれを宣言するということは、アビスにもそれが伝わるということ。

 私はそこまで際立って可愛くはないけど、決して不細工でもない。アビスが水面下で動いていた私に好感を持つ可能性は十分にある。アビスも男なんだから、絶対嬉しく思うはず。ほら、好きになれ。私を。

 

「いいわ、いいわね、本当に。あなたのその目的が何なのか分からないけれど、その全部を奪ってあげたい」

 

「お褒めに預かって光栄至極です。それで、その返答が取引への返事だと?」

 

「……いいえ?その取引受けてあげるわ。あなたは私の要望を二つ聞く。私はあなたの願いを一つ対等に聞いてあげる。それでいい?」

 

 何を考えてるんだろう、ナイトメアさんのこの顔は。鋭い視線そのままに、好戦的な笑み。少なくとも嗜虐心を満たす格好の獲物として私を見てるっていうのはあるんだろうけど。

 

「じゃあ、そうね。私の一つ目の頼み事は、明々後日(しあさって)から始まる資源の調達任務を肩代わりして頂戴。作戦期間は五日だったはずよ」

 

 なに、それ。私をロドスから離したいってこと?それともその調達任務自体が罠なの?ううん、きっと流石に後者ではない、はず。

 

 読めない。

 何を考えているの?いや、でも。私の取引は遂行されるはず。それさえあれば何の問題もない、そのはず。

 

「あなたの頼み事、聞かせてもらえるかしら」

 

 ああ、もう。こういうの考えるのは私の仕事じゃなかった。でも他に相談する人も居なかったから自分で何とか絞り出したつもりだったんだけど、ケルシー先生とか頼った方が良かったのかなぁ……

 でも、もう後には引けない。

 

「……分かりました。私の頼み事は単純で、とあるオペレーターに近付かないで欲しいんです」

 

「ふーん?もしかするともう接触してるかもしれないわよ?」

 

「いえ、それは下調べ済みですので」

 

「裁判でも起こす気なのかしら」

 

 あれ?あんまり勘が冴えてない。人に近づかないで欲しいだとか、その人周りの交友関係を調べてるだとか、そんなのほぼ恋愛に決まってるのに。

 

「オペレーターの名前はアビス。ご協力のほど、宜しくお願いしますね」

 

「一つ質問いいかしら」

 

「何ですか?」

 

「その人から私にコンタクトを取ろうとしたら、私はそれに応えてもいいのよね?」

 

「……それが意図的でないのなら、良いですよ。ナイトメアさんがそのような言葉を言っていないにも拘らずであれば、私も納得はしましょう」

 

「ああ、良かった。私の解釈通りだったわ。それで、どうしてそんなことを私に頼むのかしら?」

 

 これ、答えていいのかな。取引は終わってるけどナイトメアさんは油断できない怖さがある。アビスが療養庭園を訪れることだって、私が見てる限りではほとんどない。

 大丈夫、きっと。

 

「アビスが好きだからです」

 

「あら」

 

 態とらしく口の前に手をやるナイトメアさん。嫌な予感は猛烈にしているけど、きっと気のせいだと信じたい。

 

 

 

 

 任務、終了。新米とは言えアビス直々に鍛えてもらった私は、オペレーターの中では底辺でも、そこらの傭兵には負けない。それにアビスに教えてもらった単独での動き方は実践的で役に立つ。

 最近の自分は何故か協調意識が低くなっているし、たぶん余程のことがないと人と組むことはないんだろうな。アビスは別だけど。

 

 で。

 

「グロリアさん、こちらがライサです」

 

「あ、あの、グロリアです。コードネームはナイトメアなんですが……できれば、グロリアの方で呼んでもらえたら嬉しい、です」

 

「……何してんですかナイトメアさん」

 

「えっ」

 

 何してんの?本当に何してんの?いや確かにただの口約束だし破るかもなと思ってたけど、こんな大々的に破ることなんてある?鉄面皮過ぎない?

 私が任務から帰ってアビスを求めて歩いて、まだ五分だよ?この辺りは割と人目もあるからね?舐めてんの?

 

「ちょっと、ちょっとこっち来い」

 

「え、えぇっ!?」

 

「ラーヤ、何があったの?」

 

「何があったも何も、私とナイトメアさんには面識があるの」

 

「……ああ、なるほど」

 

 なるほど?何が?

 

「ラーヤ、グロリアさんは鉱石病の影響で、もう一つの人格が出てることがあるんだ」

 

 は?

 

「え、えっと、ライサちゃん。また私は、何かしてしまったんですか……?」

 

 そ、んなのってアリ……?あの女、自分の症状を私の契約をぶっ壊すためだけに使いやがった。

 ああ、そうか。見えてきた。発言からも推理できた。つまりはあの女、ナイトメアはグロリアさんの第二人格で、あの女が出てる間はグロリアさんの意識はない、と。

 それで、その隙に何か問題を起こしているかもしれない、っていうグロリアさんの不安を煽るような文章やメモと共にアビスの名前を書いた。たぶんそんな感じ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()で、私はまんまとナイトメアに穴を突かれたってこと。

 

「はあ……分かりました。すみません、グロリアさん」

 

「いえ、迷惑をかけてしまったようで……こちらこそ、本当にごめんなさい」

 

 まあ確かにちょっと殴りたくなったけど、それはナイトメアが出てる時にしよう。グロリアさんは別に悪くないんだ。どっちかって言うとその良心を利用されちゃっただけだから。

 

「ちなみに、アビスのことはどう思ってるんですか?」

 

「どう、というのは……」

 

「あっ、いやもう大丈夫です」

 

 うん、まあたぶん大丈夫でしょ。私の任務は暫く基地内のものだし、目を光らせておけば問題ないはず。それに今は五日ぶりのアビスを堪能する時のはずだから、他に(かかずら)っていられない。

 

「って、あれ?アビスは?」

 

「さあ、私も先程、歩いているアビスさんを見かけて声をかけただけなので……」

 

 どこに行ってたんだろう。今の時間帯でアビスが変な行動をしたのは、私の確認できた範囲ではたったの二回。中途半端な時間帯だから普段は訓練ばかりしてるし、どこかへ行くなんてのはほぼ考えられない。

 

「あの、もしかして療養庭園じゃ……」

 

「えっ、なんで?」

 

「ポデンコさんと話すのが、お好きなようですから」

 

 おっとこれはアビスを殴る必要があるのかな?

 

 

「……ねえ、アビス」

 

「何かな」

 

「もし私がペッローだったら好きになってた?」

 

「どうして?」

 

 どうして?どうしてって言ったの?

 

「だってアビス、ペッロー大好きじゃん!チェルノボーグの時からカーディさんカーディさんって五月蝿かったし!」

 

「そうでもないよ」

 

 アビスは私に一切目を向けることなくポデンコさんとやらから貰ったらしい押し花の栞を指で撫ぜている。カーディさんからは大いに引かれていたから全然問題なかったけど、こっちは酷過ぎる。

 いや、まさかあの状態のアビスを受け入れて話せる人が居るなんて思ってもみなかった。正直私でさえあのアビスには引いてるのに。笑顔になるのは、まあ、喜ばしいけど。

 

「これは恋愛感情じゃないんだよ、ラーヤ」

 

「この期に及んで言い訳?」

 

「違うって。ボクが恋愛的に好きになったのは一人だけで、たぶんこれからもずっとそうだと思う」

 

「でもそれペッローの人でしょ」

 

 あっ、目逸らした。

 

「あとアビスって実は尻尾が太い方が好きでしょ」

 

「え゛っ」

 

「ガヴィルさんのとかサリアさんのとか、割と見てるよね。鱗がある方が好きだよね」

 

「……」

 

 アビスは顔を真っ赤にして俯いた。ちょっと私には理解できないことだけど、アビスからすれば尻尾は重要な評価ポイントらしい。

 私の尻尾は、ごく平凡なコータスのそれ。ちょっと力込めたらぶちって取れないかな。それでヴイーヴルとかの尻尾が生えないかな。出来るだけ太くて鱗が付いてるやつ。

 

「私は知ってるからね。アビスが見つめ過ぎたせいでエステルさんが引っ込み思案になった説」

 

「その説まだ伝わってるんだ……」

 

 アビスは手で顔を覆った。少し前、思い出したようにワルファリンさんが食堂でその説を大声で喋っていたから概要は知ってる。本当にバカなんじゃないのかと思った。

 その後ワルファリンさんはケルシー先生のMon3trに連行されていった。あの人いっつも減給食らってない?

 

「アビス、もう少し考えよう?」

 

「ごめん、本当にごめん」

 

「あ、カーディさん居た」

 

「どこ?」

 

「おい」

 

 嘘だよ。まんまと引っ掛かったよアビス。全然反省してないよこいつ。

 居ないから。ここにカーディさんは。なんなの本当にそのペッロー推し。なんでコータスじゃないの?いやコータスだったらアーミヤさんに迷惑かけてる光景しか見えないか。

 

「あのさぁ、少しは私のこと見てくれない?」

 

「ごめんラーヤ。それでカーディさんはどこに?」

 

「だから居ないって言ってんじゃんか!何なの!?アレですか、私は本来作者が書いたプロット擬きの中に居なかった間に合わせの存在だからか!」

 

「ちょっと待ってラーヤ、やめた方がいい」

 

「信号弾と二章のオチだけ任せといてもうさよならですか!ざっけんなバカ!それに二章の最後とかほとんど意味分かんないから!なんで回想に入ったのか、アビスのセリフ覚えてて、その上アーツに関してもちゃんと覚えてた人しか分かんないじゃん!」

 

「ラーヤ、この小説に『メタフィクション』タグはないんだよ!?幕間だからって許される訳じゃないからね!?」

 

「知らない!作者が怒られようが私のセリフを書いてるのは作者だし!突然過ぎる回想シーンも作者のせいだし!責任はあるべき所に帰属してる!」

 

「そろそろやめよう、本当に」

 

 それに、なんで作者は私をコータスに作ったの?別に耳がいいペッローとかで良かったじゃん。いや分かるけどさ、分かりやすく主人公のことが好きなキャラはメインヒロインまでの繋ぎになるっていうのは。

 でもサブヒロインとすら設定されてないっていうのは酷くない?この幕間が終わったら最悪永久退場なんだよ私って。流石にそれは違和感があるからやらないだろうけど。

 

「よしラーヤもう止まろうか。一旦止まろう」

 

「でも、だって……」

 

「作者はラーヤが突然生まれるくらい杜撰なプロットを書いてるし、会話はどちらかと言うと作者の思い通りじゃなくてキャラクターのやり方を尊重してるってことは分かってるはずだよ。ほら、今だって止め時を見失って適当にメタいこと喋らせてる」

 

 ……そっか。そうだよね。頭空っぽの作者にそんなこと期待する方がダメだよね。所詮私の願いも叶えられない作者は、アビスを死から救わない役立たずな神様と一緒。

 

 だとすると仕方がない訳じゃないよね。

 

「アビスの言った通りだと、カーディさんに付き纏うのはアビスが暴走してるってことだよね。許さないよ?」

 

「……オリ主だから、こう、手綱があるんだよ」

 

「私もオリキャラだけど」

 

 アビスが私に背を向けた。

 

「逃げます」

 

「逃がしません」

 

 待ちなさい。

 

 

 

 日が変わって、今日はアビスが検査をする日。簡単な検査だけじゃ終わらなくて、胃についてだとかもやるから一日はそれで潰れるみたい。ケルシー先生主導の検査だから他の医療オペレーターも交えてやるみたい。検査結果が出るまでは一応研究区画内に居ることが必要だとか。

 ということで、ライバルを巡って危険度チェックをしていこうと思う。何が『ということで』なのかは分からないけど、幕間だから許してって作者が言ってた。許さなくていいよ。私をコータスに作った作者だし。

 

 

「こんにちは、ラーヤちゃん」

 

「こんにちは」

 

 エイプリルさんは、コータスの狙撃オペレーター。私が長期任務に行ってる間に任務でアビスと一緒になって、それからアビスが隠していたアーツについて恐らく最初に知った人。

 アビスとの仲は良好、特にシーさんというオペレーターを加えた三人で喋ることが多い。音楽を聴くことが好きで、ドクターや他オペレーターに勧めることもある。

 

「な、なんで睨んでるの?」

 

「……」

 

 警戒レベルは、オレンジ。要警戒である赤よりは低いけど、注意が必要な相手。偶にアビスとイヤホン半分こしてるのは絶対見逃しちゃいけない。本当に何なのあれ。

 

 

「こんにちは、シーさん」

 

「ええ」

 

 シーさんは年齢不詳、経歴不詳のヒキニート。

 

「今失礼なことを考えなかったかしら」

 

「何でもないです」

 

「……そう」

 

 何だっけ、昔聞いたことがある。

 そうだ、なんか、巨匠?シーさんは年齢不詳、経歴不詳、自称巨匠のヒキニート。ロドスのオペレーターとして偶に戦場に出ることはあっても、絶対に書類だとかの面倒なことはしない自由人。ニェンっていうオペレーターが連れてくるように言ったとか。

 アビスとの仲は良好だけど、他の人には何故かそこまででもないって言ってる。二人ともそうだから、正直仲の良いところを見せ付けてるようにしか見えない。

 

「アビスのことは嫌いよ」

 

「チッ」

 

 警戒レベルは黄緑。恋愛関係に発展することを警戒する必要はなくてシーさん単体なら緑でも良いけど、他のオペレーターとの横繋がりを鑑みると黄緑が妥当。頗る厄介。

 

 

「こんにちは、サリアさん」

 

「ああ」

 

 アビスと同じヴイーヴルの重装オペレーター、サリアさん。アビスの師匠みたいなポジションに収まってる人で、よく訓練室に二人きりになる人。

 オペレーターとしての強さは随一で、体術だけで言えばアビスの完全上位互換。ただ、コミュニケーション能力に難点アリ。アビスのことは特段好きでも嫌いでもないけど、一応目をかけてるってくらいなのかな。手に入った演習記録をアビスと見たりもしてるみたいだし。

 

「君も訓練に参加するか?」

 

「私はまだ死にたくないです」

 

 警戒レベルは緑。この人がアビスと恋愛関係になることは恐らくない。アビスがこの人繋がりで関係を持っているオペレーターも居ないから、警戒に値しない。むしろ二人で訓練室に居る時私はアビスの部屋を堪能できるから味方とさえ言えるかもしれない。

 

 

「ケルシー先生、お久しぶりです」

 

「ああ、ラーヤ。次にアビスが検査を受ける日には君のカウンセリングも並行して行う。それを心の中に留めておいてくれ」

 

「了解しました」

 

 ケルシー先生はロドスを創った人、らしい。ドクターやアーミヤさんと並んでかなりの重鎮で、人材が不足していた頃には戦場に立ってたなんて話も聞く、経験豊富な謎の人。

 アビスとの仲は良好、アビスの鉱石病を診てる人はこの人で、訓練室のことだったり色々とアビスとの接点がある。でも普段は忙しくてあまり時間が取れていなくて、私を通してアビスに連絡することも少なくない。

 

「近いうちにプロファイルを編集しなければ……」

 

 警戒レベルは黄。アビスとのやりとりを見てると少し不安になるくらい距離が近くて、なんていうか母子(ははこ)を見てるみたいな気分になる。危険だとは思うけど、忙しそうだから注意はその時その時で十分だと思う。

 

 

「こんにちは。カーディさん」

 

「うん、こんにちは!ラーヤちゃんはどうしたの?えっと、今日はあの人、居ないんだよね……?」

 

「発信機の位置からしてまだ医療区画に居ます」

 

「えっ?」

 

 カーディさんは行動予備隊A4の重装オペレーター。白と灰色がグラデーションのようになってる髪を持っているペッローで、アビスの大好物。出身地がアビスと同じだとか色々と油断できない属性を持ってる。

 いつも燥いでいて、同じ行動予備隊の隊員であるスチュワードさんやアンセルさんによく迷惑をかけている。でもアビスの前では一転萎らしい女の子になる。

 

「大丈夫です、絶対にカーディさんをアビスには会わせませんから」

 

「あっ、うん。お願い」

 

 警戒レベルはオレンジ。赤にしても良かったんだけど、カーディさんのアビスへの対応に関してはアビスが気の毒になる程拒否してるし、赤ではないかな、という判断。もし何かしらが起こってアビスを受け入れたら、その時こそ文句なしの真っ赤。今のうちに消しておくのも手かな。

 

 

「あら。奇遇じゃない、ラーヤ」

 

「チッ」

 

 サルカズの元傭兵、W。銃器や手榴弾など、火薬を扱う武器を得意とする変人。ドクターの命を狙ってるだとかいう噂があるけど、まあそれはどうでもいいや。

 アビスとの仲は、奇妙。珍しくアビスが交流を避けているオペレーターで、それはつい最近の出来事があった後も変わらない。ただWの感情は私から見ても判断不可。

 

「そういえば今日、アビスは検査の日だったかしら」

 

「とっととドクター殺して死ねばいいのに」

 

「あんたって割と広範囲にケンカ売るわね」

 

 警戒レベルは赤。勘だけど、Wのアビスに向ける感情は決して悪いものだけじゃない。以前はちゃんと嫌い合ってたけど、最近イチャイチャしてる。アビスは目的を測りかねてるみたいだけど、私には分かる。

 

 

「ワルファリンさん、アビスの話を」

 

「えっ、妾それのせいで今減給中なんだが」

 

「お願いしますね」

 

 ワルファリンさんはサルカズの医療オペレーター。サルカズの中でもツノを持たない特殊な種族で、ブラッドブルードと言うらしい。医療オペレーターとしての発言力は大きく、ロドスの創設に関係したっていうのは確からしい。

 でも変人。強いオペレーターを拉致する計画をしたり、そして実際アーツを隠していたアビスの身柄を拘束しようとしたらしい。ちょっと署まで来い。

 

「あまり話せることはないが」

 

「いえ、有益ですので」

 

 警戒レベルは青。オペレーターの中でもアビスから嫌われてる方で、ワルファリンさん自身もアビスのことを苦手になってる。その人に古参なだけあって、アビスの些細な行動を思い出した時はすごく参考になることがある。逮捕は勘弁してやる。

 

 

「よっ、ラーヤ」

 

「こんにちは、ガヴィルさん」

 

 ガヴィルさんはワルファリンさんと同じく医療オペレーター。だけどその身体能力は高くて、生半可に鍛えてるだけじゃ太刀打ちできない。普段の物言いは荒々しいけど、医療に関することは信頼できる人。

 アビスとの仲は険悪とまではいかないけど、互いに笑いながらナイフを突きつけ合ってるみたいな雰囲気を出す。ライバル関係みたいなものなのかもしれない。目が合うと二人で訓練室に入ってく。

 

 警戒レベルは黄緑。まだそこまでの警戒をする程じゃないけど、二人の仲がそういう感じに発展した瞬間、黄を飛び越えてオレンジや赤にまで手を届かせるかもしれないって思ってる。まだまだ先の話ではあるけど。

 

 

「はあ、こんなに警戒対象が居るなんて」

 

「あらラーヤ、そんな溜め息を吐いていたら幸せが逃げてしまうわよ?ほら、カモミールの匂いでも──」

 

「失せろ」

 

「きゃあ、怖いわ。私が居ない時も誰かに守ってもらわないと私の身が心配ね。メモしておかなくちゃ」

 

「死ね」

 

 このクソアマ、ナイトメアはフェリーンの術師オペレーター。二重人格の裏側風情でありながら表に出てくる最悪のオペレーター。若干私情は入ってるけど私の言に間違いはないはず。早よ消えろ。

 アビスとの仲は特段悪くない。どうして。グロリアさんとナイトメアがどんな状況に置かれているのか知って少しは複雑になってるみたいだけど、それを理由に拒否してない。私のことは避けるのに。

 

「アビスとの仲は上手くいってる?」

 

「お前に言う意味ってある?」

 

「ふふ、『怒りは感情の蓋』って知ってるかしら?人は悲しかったり寂しかったりすると、それを誤魔化すために怒ることがあるらしいのよ」

 

 警戒レベルは、忌々しいことに黄。優先順位を正確に付けると、この人が行動を起こすたびに私は注意を割かなきゃいけないくらい。ナイトメア自身がアビスに近づこうとしたことはまだないから、オレンジに上げて私から消した方が良いって程じゃない。

 ああ、本当にうざったい。療養庭園に手なんか出すんじゃなかった。

 

 

「あ、ラーヤちゃん……」

 

「は?って、グロリアさんですか」

 

 つい威圧しちゃったこの人はグロリアさん。ナイトメアの表側に当たる人で、術師なのによく人を癒すヒーリングアーツを使ってるらしい。ナイトメアの存在によって一番困ってる人だから、少しは同情する気になる。

 でも私は同情するだけ、譲る気なんてこれっぽっちも湧かない。今はまだ、アビスが療養庭園に来た時にグロリアさんが居れば少し話すだけの関係。でも二人の仲を阻む障害(ナイトメア)がある。恋に障害は付き物で、つまり仲のいい異性間に障害があれば恋になる条件はほぼ整っていると言っても過言じゃない。

 

「ナイトメアには負けないでください。でも出来れば一人で克服することが良いかと」

 

「ご、ごめんなさい……ロドスが無いと、私……」

 

「あっ、そういうことじゃなくてですね」

 

 警戒レベルは黄。アビスの療養庭園に足を運ぶことやグロリアさんがその時に居合わせることが無ければ関係は停滞するし、ナイトメアが打ち勝てば関係はなくなる。私がなんとか調整すれば、或いは大丈夫だと思われる。

 

 

「あの……」

 

『あっ、今はダメです。少し待っていてください』

 

 療養庭園の少し奥まった、今の季節では花のついていない植物が設置されている場所。そこにあるテーブルの前に居たこの人が、アビスの大好きなポデンコさん……だよね?

 

「ふぅ、何か用でもありますか?」

 

「少しクチナシの香水に興味が湧いたのでお話を聞かせてもらえればいいな、と……」

 

「そうだったんですか!では温室に行きましょう、クチナシの香りはとても良い匂いなんですよ」

 

 ガスマスクと小さい密閉袋を持ったポデンコさんが歩いていく。ポデンコさんは補助オペレーターの方で、ペッロー且つ、恐らく明るい髪色という条件を満たしたアビスの好きな人。

 アビスはポデンコさんの趣味に合わせて花の話を聞いたり、花を使ったアクセサリーを製作したり、とにかく手を尽くしてポデンコさんに近付いている。そしてポデンコさんはそれを歓迎してる。ううむ、まさかそこまで花が好きな人が居るなんて。

 

「どうですか?」

 

「好きな香りではあるんですけど、匂いが強いような」

 

 警戒レベルはまだ測定中。ポデンコさんは花が好きだと言うアビスに好感を持っているようだけど、もしアビスが自分目当てにそう言ってるとしたら絶対にがっかりするはず。今はオレンジに相当すると思うけど、すぐに黄緑や緑にまで落ちる可能性は無きにしも非ず。

 それにしてもクチナシって、こんなに良い匂いなんだ。匂いが丁度いい香水を取り寄せてもらおっと。

 

 

「アビス、しばらく私と二人で任務に出よう」

 

「旅行みたいなノリで言うね」

 

「だってWと任務行く約束してたし」

 

「ああ、うん。そういえばそれも、そっか……」

 

 アビスが額に手をついて天井を仰いだ。何を言ってるのかよく分からない。もしかしてケルシー先生に何か言われたのかな。

 

「ラーヤ。この話を聞いたらきっと君は怒るだろうけど、どうにか心穏やかに聞いて欲しいんだ」

 

「なにそれ、改まって」

 

「ボクの鉱石病が小康状態から抜け出した。原因はアーツで、暫くの間大事をとってボクは任務に出ないことになった」

 

 は?

 

「アビス。私何度か聞いてるけど、それの答えが返ってきたことないよね。今なら話してくれる?」

 

「……分かった」

 

 アビス。

 嘘だよね、アビス。

 

「アビスの鉱石病、具体的にどこまで進んでるの?」

 

 重苦しい。

 早く言ってよ。

 

 アビス。

 嘘だって、言ってよ。

 

 

「源石融合率23%から、緩やかに上昇中。血液中源石濃度は、0.43になってる。他は……必要ないから、省くよ」

 

 

 




ご安心ください、以降の展開でアビスがこれ以上幸せになることはほぼないと思います。恐らく四章が終わればWを許すほどの余裕なんてものもなくなっている予定です。

もし宜しければアンケートにご協力ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十 主人公紹介

 
現時点で開示されたプロファイルと、アークナイツ攻略wiki風に纏めたプロファイルです。こういうの妄想するの楽しいんですよね。
本当は三章の終わりに違う内容のものを出そうと思っていたんですが、二章終了時点のアビス、つまりプロファイルがまだ更新されていない現時点の情報と比較した方が面白いかと思いまして、纏めさせていただきました。


 

 

〈プロファイル〉

 

 

【基礎情報】

 

【コードネーム】アビス

【性別】男

【戦闘経験】六年

【出身地】リターニア

【誕生日】7月29日

【種族】ヴイーヴル

【身長】166cm

【鉱石病感染状況】

体表に源石結晶の分布を確認。メディカルチェックの結果、感染者に認定。

 

【能力測定】

 

【物理強度】優秀

【戦場機動】標準

【生理的耐性】普通

【戦術立案】優秀

【戦闘技術】標準

【アーツ適性】欠落

 

【個人履歴】

[クルビア出身のヴイーヴルの青年。感染者として放浪していたところをロドスに保護された。短剣のアーツユニットを好んで使う以外は、特に武器の好みはない。多方面の任務で活躍している]

 

【健康診断】

造形検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

 

【源石融合率】──% (21 → 23)

 

【血液中源石密度】──u/L (0.42 → 0.43)

 

[源石融合率と血液中源石密度は安定しているが、アーツの過度な行使による変動が頻発している。データとしての有用性が感じられず入力は控えることとする]

ーーケルシー

 

【第一資料】

精神的にかなり成熟している好青年。誰とでもある程度は上手くやれるようだが交友範囲はあまり広くなく、任務でも単独行動が多く社交的とは言えない。

しかし身嗜み、他者への態度や姿勢、カウンセリングなどにおいて問題は見つからず、アビスはそれに満足しているようだ。

 

【第二資料】

アビスの体を蝕む鉱石病の進行率は見る者の予想を遥かに超えている。体表に露出している源石結晶は普通服の下に隠れている上、アビスは自身のことをあまり多く語らないために知る人は少ないが、アビスは一般的な食事を消化できないほどに消化器官が源石に侵食されている。

そのため彼はいつも人通りの少ないとある路地で、とあるオペレーターと共に特別な食事を摂っている。そのとあるオペレーターとの仲は何故かあまり良くもない、ということが確認されている。

 

彼を知っているが面と向かって話したことのないオペレーターは多い。最近までそうだったエイプリルはこう語る。

「話してみると、思ってたより丁寧で、砕けていて、几帳面で、大雑把で……なんていうか、想像とは全然違った。一度話をする機会を取ってみる価値はあると思う」

彼がどのような人間であるかは、恐らく彼と関わった人間のみが適切に知ることができるのだろう。

 

【第三資料】

[信頼度150で解禁]

 

【第四資料】

[信頼度200で解禁]

 

 

 

 

〈wiki式プロファイル〉

 

コードネーム:アビス

レアリティ:☆4

陣営:ロドス・アイランド

性別:男

職業:補助

職分:呪詛師

募集タグ:遠距離/牽制/弱化

戦闘経験:六年

出身:リターニア

誕生日:7月29日

種族:ヴイーヴル

身長:166cm

専門:炊事/交渉

鉱石病:感染者

 

 

初期HP:1200

初期攻撃:140

初期防御:200

初期術耐性:10

再配置:遅い(70s)

コスト:20/22/22

ブロック:1 / 1 / 1

攻撃速度:やや遅い(1.6s)

初期攻撃範囲:⬛︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎

昇進後   :⬛︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎

 

特性:敵に術ダメージを与える

 

 

初期素質

反映:自身の受けている弱化を攻撃した相手に強制する

 

昇進後素質

増幅反映:自身の受けている弱化を1.5倍にし、攻撃した相手に強制する

 

二段階昇進後素質

思い出:スタンに耐性を持つ敵を攻撃時、スタン確率を上昇させる

 

 

初期基地スキル

アクセサリ製作:配置宿舎内、ランダムな家具の体力回復量を一つ倍加させる。

 

二段階昇進後基地スキル

前衛補助エキスパートα:訓練室で協力者として配置時、前衛又は補助の訓練速度+30%

 

 

スキル1:感情興起

自身の防御力を5秒間-20%し、更に次の通常攻撃時、攻撃した敵を40%の確率で8秒間スタンさせる。

 

スキル2:重篤患者の暴走

攻撃速度が延長し、自身の防御力を-15%。更に攻撃範囲内の敵全員に70%の確率で8秒間スタンさせる。スキル発動後自動的に撤退する。

 

 

ゲームにおいて

前衛並みのHPと防御力を持ち爆撃術師の攻撃範囲を持つ呪詛師の補助オペレーター。イフリータと同じ長射程に高いスタン確率を持つため、それを目的に運用することになるだろう。

 

素質

反映

他の☆4オペレーターとは違い、入手した時から持っているアビスの素質。自分にかけられた状態異常を攻撃した敵にもかけられるというもので、この素質なくしてアビスのスキルは成り立たない。

その性能は凶悪の一言だが、通常攻撃時はデバフがかからないと発動しないため配置順には注意したい。

攻撃した敵に反映するため、スタン効果を通常攻撃に付与させることはできない。よってコンビクションのS2を利用することもできない。

ちなみに反映させられるのは低下した割合ではなくアビスの最大値から低下した絶対値。

アビスの状態が変わっていれば何でも適用されるようで、対空エリアに配置した場合攻撃した相手の速度を低下させられる。

 

増幅反映

凶悪だった反映が更に鋭くなった素質。その名の通り状態異常を1.5倍に増幅して相手に返すことができる。しかしこの素質ではどのようなプロセスを踏んでいるのか、アビスの受けている状態異常も1.5倍になる。寒冷や灼熱の息吹などを受けた場合は注意しよう。

ちなみに単純に1.5倍とだけ記載されているが、それは効果の他に継続時間なども増加する。アビスの攻撃範囲などからしてやらないとは思うが、他の術師や補助オペレーターと入れ替える場合は十分に注意することだ。

 

思い出

ノスタルジックな名前とは裏腹に強力過ぎる素質。反映や増幅反映ではアビスの防御力ダウンの補助となる素質だったが、こちらはスタン効果をどの敵にも付与可能になるというもの。

一度に高められる可能性は2.5パーセントとやや低いが、例えば曲がり角に重装オペレーターを配置し、その背後にアビスが置けたとすると、十分スタンがボスにすら刺さりうるようになるだろう。また、その重装オペレーターがユーネクテスだった場合はスタンの可能性が飛躍的に高まる。

 

しかしあくまで耐性を持つ敵にもスタンが届き得るというだけで、アビス本来の運用にこの素質はほぼ関係しないだろう。

 

スキル

スキル1 感情興起

クセのないスタン付与攻撃。強化する前からかなり強いスキルだが、特化Iにするとスタン確率が70%に跳ね上がり、素質と絡めた防御力ダウンも30%と無視できない強さになる。

このスキルによってアビスは緩速師と呪詛師両方の役割を熟すが、手数は一人分。攻撃力はLancet-2を除くどのオペレーターよりも低いため、殲滅力は全く期待できない。

また、防御力ダウンは素質との連携によるものであるため、アビス自身も打たれ弱くなってしまう点に注意。素質を利用したいのかスキルを使いたいのかで配置順を考えるのが良いだろう。

 

ちなみに特化IIIまで上げると、スタン状態から立ち直った敵を直ぐ様スタンさせるというムーブが出来る。確率を引き続ければマドロックの巨像すら完封できるため、S2とどちらを選ぶかは真剣に悩みたい。

 

スキル2 重篤患者の暴走

こちらはS1とは違ってかなりクセが強いが、それ以上に強力なスキルでもある。

まずS2は攻撃範囲内の敵全員に確率でスタンさせると書かれているが、攻撃全てにスタン効果が乗るため実際のスキル発動中はほぼ確定で全ての敵をスタンさせ続ける。防御力を下げる点とスタンさせる点において物理攻撃でスタン中の敵に強いAshのS2やWの素質ととても相性が良い。本人はWのことが苦手なようだが

ちなみに、S2を選択した場合発動しない限りスタン効果を生まないため、スキルが必要になる時まではイフリータの射程を持つ中堅術師と同じようなものだと見ていい。本当に補助オペレーターか?

特化されたS2の効果は圧倒的で、11.5秒のスタン確率は90%を超え、だが防御力ダウンは25%と少し落ち着いている。しかしこれはアビス自身の防御力ダウンにも通じているため、S2の方がS1よりも打たれ強いという利点にもなる。

 

デメリットだが、自動発動で手軽且つほぼ絶え間のないS1と違い、S2の必要SPは50と相応に重い。また、発動後の自動撤退により複数回S2を運用したい場合はかなり高い配置コストを支払う必要がある。切り札としての運用をするにしても、リスカムに隣接させたり、チェンワルファリンブレミシャイン等を利用するか、しっかりとチャージする時間を取るべきだろう。

また、アビスのS2はスルトの素質などで起こる強制的な撤退とは違い、コストが返却されない。S2を使ったドクターなら分かると思うが、スキル発動後のアビスは急速にHPを減らし、膝をついて撤退する。つまりは敵に撃破されたものと扱いが同じになる。スキルの終了するタイミングを狙って撤退しようにも、スキル名の通り暴走しているのかS2発動中はアビスをタップしても反応しない。その上マドロックヘラグなどの特性と同様味方の治療対象に入っていないため、確実に撤退する。

スキル発動中に削りきれなかった敵が大挙して押し寄せる可能性があるため、コストに余裕がない場合はS2のタイミングを慎重に吟味する必要があるだろう。

 

総評

足止めと防御力ダウンに尖りきった補助オペレーター。範囲攻撃スキルを持っているのに全く殲滅に向いておらず、真に『補助』オペレーター然としている性能。

一人で運用するには間違いなく攻撃力が足りていないので、最低でも誰か一人はアビスの攻撃範囲をカバーできる配置にすることが望ましい。欲を言えば物理攻撃の狙撃オペレーターを配置したいが、スタン効果だけでも十分強力なため、誰とでもある程度は働かせることができる。

六章以降で登場する寒冷による攻撃速度低下とプラチナとアビスを組み合わせると良い感じのコンビネーションが出来たり出来なかったりする。

 

なお、しっかりと地形を確認すること。

 

 

基地スキル

アクセサリ製作

配置宿舎内にあるインテリアの快適度を一つ倍にする。上がるのは微々たる量なので、あまり役に立たない。

前衛補助エキスパートα

前衛オペレーターと補助オペレーターのスキル特化の訓練速度を30%加速させる訓練スキル。

前衛オペレーターの訓練速度を加速させるオペレーターとして他に、アカフユフリントシデロカが存在し、そちらの方が加速の度合いは高い。これらのオペレーターを持っていない、又は一人しか持っていないためローテーションが出来ない時はアビスのお世話になるのも良いだろう。

補助オペレーターではスズランプラマニクス濁心スカジが+30%を超えている。イースチナとは同じ効果なのでどちらを使っても良い。

 

前衛オペレーターと補助オペレーターの特化をどちらも加速させるという異例の基地スキルだが、その効果は控えめ。☆5や☆6のオペレーターが充実する頃には必要なくなってくるだろう。

 

 

《小ネタ》

何故かは分からないが、この真面目なオペレーターはカーディポデンコに関しては頭のネジが外れたように好意的になるようだ。ボイスから分かる通り、それはポデンコと話すために植物について調べ始めるほど。カーディに対してもそれは同じようで、メインストーリー第一章においてWからカーディを守るため尻尾に穴を開けてまで庇ったりと、印象に残っているドクター諸君は多いのではないだろうか。

アビスは珍しくロドスに着任した時期がプロファイルに記載されているオペレーターで、その前はテラの各地を放浪していたらしい。しかしそれ以上の情報は今のところ明かされていない。カーディポデンコに好意的な理由もアビスの過去にあるらしきことをボイスにて仄めかすが、しかしロドスの調査でもアビスの足跡すら見つけられなかったようだ。

 

ちなみにアビスはサリアと格闘訓練をしていたようで、前衛並みのステータスはそれが由来か。とあるオペレーターによるとアビスはサリアと同じく、アーツユニットである短剣を振らず格闘を始めた時が一番強いらしい。家屋の屋根をも蹴り砕くほどだとか。

 

放置ボイス、つまりドクターが寝ている隙に何かしらの注射を打っているようで、それは健康診断にある不穏な文言と何かしらの関係があるのだろうか。

 

 

以下、プロファイルのネタバレ有り。

 

 

 

スタン効果を付与するアーツは彼自身の抱えている感情を伝えることによって引き起こされる副次的効果からのものらしい。彼の抱えている感情は恐怖であり、それは自分の防御力を下げ、敵をスタンさせるほどに強いものであるようだ。

この強烈な鬱の気配から分かる通り、未来の世界線においてアビスは一切登場しない。それが行動予備隊所属ではないから省かれただけなのか、それとも……




死ぬことは決まっています。
決まっているだけですが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三章 生きるため
三十一 蛇の口


お久しぶりです。
実はこんなに続けられると思っていなかった作者です。三章が書き上がるとは思っていなかった作者でもあります。
三章ではアビスくんが著しく弱体化します。曇らせられているのかどうか分からないのでタグの追加はやめておきます。

アークナイツの曇らせ増えないかな……


 

 

 水筒を傾けて中の水を飲んだ。

 口元を手で拭い、アビスは一つ息を吐く。

 またいつかのように暗い顔をしたアビスが通路に凭れて座っている。

 

「何かあったなら言えばいいじゃない」

 

 シーが扉からじっとアビスの方を見る。アビスは一度シーの方を見たが、すぐに顔を戻して俯いた。

 

「少し……悪化したんです。ボクの鉱石病は、全体から見ればすごく小さく悪化したんです」

 

 アビスが飲んだ水は食道を通り胃を通り過ぎる。その胃は現在体内の源石による圧迫や損傷を受け、容量が本来よりもずっと少なくなっている。

 

 アビスの罹患している鉱石病はオペレーターの中でもトップクラスに進行している。そしてそれは、Wへと向けられたアーツによって更に上へと押し上げられた。

 現在のアビスの血液中源石密度は0.43μ/Lであり、更に源石融合率は今や23%にまで到達していて、それはアーミヤなどの症状がかなり進んだオペレーターを一回り以上超えた数値だ。

 

「ラーヤにそれを伝えました」

 

 検査の日、丁度いいと思った。チェルノボーグ事変が起こる前に一度、大規模な検査を受けていたアビスは、ライサと会ってからも小さな検査だけで済ませていた。

 大規模な検査というのは、鉱石病による源石の侵食が集中している部位だとか、そういう鉱石病関連のものをほぼ洗い出せるものだ。それによってアビスは体全体への転移の初期段階であることを伝えられた。

 

「そうしたらラーヤはその場で泣き出してしまって」

 

 何故言わなかった、と怒るライサを想像していた。だが現実ではライサは泣いてしまった。言ってくれなかったことへの憤りよりも、予想される死の悲しみが上回ってしまった。

 それはアビスの低い自己評価から来るものだった。自分のことなどどうでもいい思いと、そして自分の鉱石病がそこまで進行している訳ではないと思いたいアビスの心情からくる自己評価。

 

「ラーヤはそれから自分の部屋に篭りました。ボクの周りにはもう鬱陶しいコータスなんて居ない。ボクとオペレーターさん達の会話に割り込んでくる、あのラーヤは部屋の中に居る」

 

 煩かった。ボクに迷惑をかけてでもボクの近くに人を近づけようとしなかった。それはどこまで行っても依存に過ぎない、ただの幼稚な独占欲。

 ボクはそれに向き合わなかった。だって当然だ、ボクがその状態でラーヤに向き合ってしまえば、それはきっとラーヤの弱味につけ込んだ卑劣な行為だから。

 

 でも、いつからだろう。

 ボクにはそれが嬉しくなってしまったんだ。

 醜い醜いボクの自尊心が高らかに声を上げた。

 

 ……そして。

 

「ボクはひどく寂しく思えてしまった」

 

 アビスの痛む心は果たして、泣かせてしまった罪悪感だけだろうか?いいや、そんな訳がなかった。ライサの感じたショックはまるでアビスのアーツでも使ったかのように強く心に爪痕を刻んだ。

 

「それだけじゃない、きっとボクは自覚したんだ」

 

 アビスの心にあるのは悲哀だけでなく、そしてそれは複雑に絡まり合っていた。しかしその中にはもはや慣れ親しんだまでに付き合いの長い感情が関係している。

 

「鉱石病が引き起こす死はボクが思っているよりずっとボクに近い。ラーヤの反応は正常で、涙の一つも流さなかったボクはそれが既に異常なんです」

 

 アビスの鉱石病は真綿で首を絞めるようにアビスの命を蝕もうとしている。徐々に強まる苦しさはいつしか恐れを削いでいて、アビスはその閉塞感を当然のものだと認識してしまっている。

 

「ケルシー先生の言う通り、ボクは鉱石病で死にたいと願っているのかもしれない。でもそれが死を和らげる訳じゃない。だからボクは死を明確に認識していると錯覚してしまっていた」

 

 死というものを知った気になっていた。当事者として真っ直ぐ見据えて、正しく恐れていると思っていた。

 だがそれはどこまでも主観的なものだった。

 

 自分は死にたいと思っているが、だとしてもそれは死の恐怖から逃れる手段にはなり得ない。

 

 それを正確に認識してしまったからこそ、死をも正確に認識した気になっていた。それらの間には明確な違いがあったと言うのに。

 死にたいと願っていても恐怖は薄れない。だから今の自分が感じている恐怖は他の人と全く同じ大きさだ。生きたいと願っている人とも変わらない。

 死にたいと願うことが恐怖を無くすことに繋がらなくとも、他の何かが恐怖を弱めることもあるということを、アビスは知っていなかった。

 

 そしてそれこそ、毒のようにじわじわと蝕む鉱石病の罠だった。時間をかけるからこそ、対処させる時間を与えるからこそ、その死は近くまで迫ってしまうのだ。

 

 気付くための機会は山ほど用意されていた。アビスがアーツユニットを翳して行使するだけで一般人は泣いて許しを請うのだから、アビスが胸の内に秘めた恐怖は既にそれだけのものだったのだ。

 アビスの持つ恐怖への耐性は遥かに高い。

 

 口調が混ざっていく。シーに聞かせているのか、それとも自分自身へと語り聞かせているのか既に分からなくなっていた。

 

「ボクのアーツは電気信号。そしてボクはそれによって、死の恐怖、大切な人を失う恐怖、大切な人との時間を土足で踏み躙られる恐怖、という三種類の恐怖をある程度まで使えるようになりました」

 

 まだ涙を流すことはあるが、Wへと向けた時のようにそれのみに集中さえしなければなんとか扱えるようになった。それは立ちはだかる敵に使うのではなく、その恐怖に慣れなければいけないという半ば強迫観念めいた思いだったが。

 それはアビスの()()()恐怖の中では一等鋭く──しかしアビスの()()()恐怖はその三種類のみである訳もない。

 

「それでも、あの恐怖を操れるようになっても、ボクはこの恐怖を扱える気が全くしない。自分を確実に蝕んでいる毒があるはずなのに、それを認識できないなんて恐怖を。ボクはこの恐怖をもう感じたくありません。今すぐにでも手放してしまいたいくらい──それは叶わないのだろうけど」

 

「そうかしら」

 

 ただ一言呟いた。

 アビスの目がシーに向いて、ようやく固定された。

 

「だってあなた、電気信号を扱えるんでしょう?拒否することだって、それを他に逃すことだって出来るはずだわ」

 

「そんなことは……考えたことも、ありませんでしたが」

 

「それはそうでしょう、恐怖を感じなくなるなんてただの馬鹿よ。命の危機が分からない、大切なものを守れない、適切な対応さえすればメリットしかないのよ」

 

「あっ」

 

 一人、そんなことを言っていたサルカズが居ることをアビスは思い出した。ただ、彼女を真面(まとも)だと言うことができないのは元から分かっている。狂信者になってしまった時点で彼女は道を踏み外した。

 それを彼女は後悔していないのだから、きっとそれで良かったのだろう。その恐怖は正しい人のために用意されている道標で、草の根をかき分けてでも自分の道を進む彼女には本来必要のないものなのだから。

 

 しかしその道標も、それ以上の意味を持ってしまうことが稀にある。

 

「でも、もし恐怖が足枷になるなら話は別よ。その鎖を断ち切ることだけを考えて、何としてでも前に進むの。背後から迫る死へと引っ張られるのなんて御免でしょう?」

 

 本来なら、恐怖は眼前の崖に落ちる自分を引き止めるためのもの。牙を剥いたなら、それはシーの言った通り迫り来る死から逃げられないようその場に拘束してしまうのだろう。

 

「それは、そうかもしれません」

 

「あと、自分が押し潰されそうになった時、真っ先に利用しようと思うのはやめなさい」

 

「でも」

 

「あなたが今耐えられているのはただ慣れているからなのよ。もしあなたが毛色の違う恐怖に出会った時、それに抗うことは限りなく難しい。それこそ、そこらの子供と同じよ」

 

 アビスがどれだけ凄絶な経験を持っていたとしても変わらないことがある。もしアビスが世界中の誰より強かったとしても、もしアビスが世界中の誰より鉱石病が進んでいたとしても、アビスは齢二十にも満たない子供だということだ。

 その精神が如何に鍛えられたからと言って、子供であることを逸脱することなんてないだろう。子供の中では強い、アビスの精神はそんなものだ。

 

(くちなわ)の口が裂けるのは、自分の出来る範囲で物事を考えなかった時。あなたの口が裂けるのはいつなのか、それをしっかりと考えなさいな」

 

 シーはそれだけ言って筆を取り出した。

 顎に手をやって構想を練っていると、アビスの目が相変わらず自分に向いていることを感じた。アビスの方を見れば案の定視線が交わった。

 

「なによ、何か文句でも?」

 

「いえ、その……ありがとうございます」

 

 少し長く話したからか、アビスの喉がまた水を欲した。

 シーはそれを見て少しだけ顔を顰め、しかし何も言うことはなくすぐに筆を取った。

 

 

 蛇の口はきっともう裂けている。

 その口に詰め込まれたのは恐怖か、それとも──。

 

 

 

 

 頭が殴られている。

 いや、殴られたような音が響いている。

 

「うおぇ……ぁあ、最悪だ」

 

 廊下の壁に手をついた。胃の中身は何も無いのに、ボクの体は吐き気なんてものを訴えている。たった二パーセントの上昇なのに、ボクからすれば一息に鉱石病が進行したような気がしている。

 

「そろそろ、サリアさんが……」

 

 ボクが今目指しているのは訓練室だ。訓練をするにしたって中止するにしたって、サリアさんに会って話をしなければいけない。

 ケルシー先生は、訓練を中止しろって言ってたっけ?よく思い出せないけど、そんな気がする。じゃあ、今日は演習記録を見るだけになるのかな。

 

「それなら、許してくれる、かな」

 

「許す訳があるか」

 

 足が地面を離れた。

 ボクの体が宙に浮かんでいて──Mon3tr!?

 

「アビス、お前は一体何をしている」

 

「考え事です」

 

「嘘をつけ、大方訓練室だろう。サリアの方には既にお前の病状と共に連絡している」

 

「……そうですか」

 

「ああ」

 

 サリアさんにもボクの源石融合率だとかを伝えられたのか。もしかしたら次の訓練はかなり先になるかもしれない。源石融合率が20%を超えるっていうのは、つまりそういうことだから。

 

 嫌だな、本当に。

 

 ゆっくりと足が地面に下ろされた。ケルシー先生は相変わらず澄まし顔で説教を言い聞かせている。誰に言い聞かせているんだろう……って、ああそうか、ボクか。

 

「聞いているのか?」

 

「はい」

 

 なんだか、さっきから頭がぼーっとしているような気がする。もしかして風邪でも引いたのかな。種族柄か、ボクは小さい時からずっとそんな感じの病気を引いたことはないんだけど。あ、いやでも一度感染症になったことはあった。あれは酷かった。安宿のベッドから転げ落ちたし。

 

「アビス」

 

「はい」

 

「白い部屋とベッドを用意するか?」

 

「そんなお手間を掛けさせられません」

 

「病人扱いされたいのか、と言っているんだ」

 

 ケルシー先生が頭を押さえて呆れたように言った。Mon3trが服の間からまたケルシー先生の中に入っていった。

 きっとそれをするだけでも痛いのだろう。ケルシー先生はその痛痒をカケラも顔には出さないけど、出し入れする時には毎回背中を抉られるように痛いはずだ。

 

「検査で不審な結果も出ている。医療オペレーターの中にはお前をさっさと寝かせろと言っている者もいる。その状──おい、何をしている」

 

 可哀想、とは思わないけど。どのような事情があったとしてもMon3trを今現在操っているのはケルシー先生で、そのケルシー先生が痛みを受け入れているならボクはそう思うべきじゃない。

 ただ、ボクはあまり感じてほしくない。辛いことを我慢はできても、それが辛くない訳じゃないって、ボクはアーツのおかげで知っているから。

 

「アビス。おい」

 

 腕が叩かれた。

 ……えっ、ボクは今何してた?ケルシー先生の頭を撫でていたように一瞬感じられたんだけど。

 

「もう一度Mon3trを出す必要があるようだな」

 

「あっ、いや、その……すみません」

 

「全くだ。真剣な話をしている最中……」

 

 ケルシー先生の目が止まった。口を(つぐ)んで通路を向こう側を見ている。何があったんだろう、通路の向こうには誰も居ない。強いて言うなら横への通路が伸びている場所があるから、そのあたりで何かあったのかもしれない。

 

「何か?」

 

「いや、なんでもない。野生のブラッドブルードに覗かれていたということくらいだ。はは、何の問題もないな」

 

 ケルシー先生の目が死んだ。ブラッドブルードがどちらを指すのかは分からないけど、恐らくロクなことにはならないんじゃないかな。

 大変そうだ。

 

「その目をやめろ。もういい、お前はさっさと部屋に戻れ。明日もう一度検査を行う」

 

 ケルシー先生が何か喋っている。

 頭が痛い。少しお腹も痛いな。ぼうっとする。

 

「本当に、無症状なんだな?」

 

「はい、問題ありません」

 

 それもきっとすぐに治る。

 いや、治らなくたっていい。

 

 この痛みは、リラの源石がくれるものだから。

 まあでも死ぬのは、鉱石病がもう少し発展してからで良いけどなぁ。

 

「……次の検査で、私は併発した疾患が発見されると考えている。お前の体にある源石が更なる侵食を遂げ合併症を引き起こしているのだと、そう思っている」

 

「そうですか」

 

「子供染みた真似はやめろ。お前を害する鉱石病はどれだけ進んでも、『彼女』とやらが与えたものではない」

 

「そうかもしれませんね」

 

「何故そうも曖昧に頷く。お前が分かっているとでも?いいや、分かっていないはずだ。お前のその痛苦が実際どのようなものであれ、今のお前は受容することを止めはしないだろう」

 

 親の話を聞き流す反抗的な子供。ボクのことを客観的に見てみればきっとそうなのだろう。そして問題は、それによって左右される命があるということか。

 

「お前の欲している所は理解されるだろう。だがそれに甘えることがいつまでも許されていると思うな」

 

 もしボクの精神が子供であろうとすれば、恐らくボクが大人になる日は存在しない。できない。

 

 約二年。

 

 それがボクの二十歳を迎えるに必要なだけの寿命だ。ボクが今鉱石病以外に病を患っているのか、いないのか。誰もそれを正確に理解していないけど、だとしても判断くらいなら素人でもできる。

 このままでは保たない。ボクはきっと子供のままに死ぬ。

 きっとそれが相応しい。

 

「『彼女』とやらを過去にする、そう言ったな」

 

「……はい」

 

「出来なかった場合の処分を言っていなかったが。今言い渡そう」

 

 Mon3trを出さないままに、ケルシー先生はボクを威圧した。戦闘能力はボクより低く直接戦闘に関してはMon3trに頼ることが多いケルシー先生。対しているのは、何年もの実践経験と、サリアさんに鍛えられた実力を持っているボク。

 

「オペレーター契約を破棄。戦場に出ることを禁止し、後方支援の職員として新たに契約を結び直す」

 

 主導権はケルシー先生が持っていた。

 有無を言わさぬ雰囲気で、それを言った。

 

「そしてお前の持ち物、あの二品を没収とする」




(くちなわ)(くち)()け】
過ぎた欲のせいで身を滅ぼしてしまうこと。欲深い蛇が自分の口より大きなものを口にしようとして、その口が裂けてしまうことから。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十二 書類業務

すみません予約投稿で事故りました。
まだ四十一話までしか執筆できていませんが、恐らくそれを投稿するまでには書き上げられると思います。

投稿が止まった時は許してください。


 

 使い捨ての注射器を圧し折った。

 痛覚抑制剤の副作用が出る。いつもは普通にしている呼吸の数が自覚できるほどに少なくなり、明確に効果が出ているのだと理解できた。

 

 源石抑制剤。試供理性回復剤。

 希釈された液状源石。

 

 膨満感、と言うのだったか。お腹のあたりが引き攣ったような感覚がある。でもいつも感じる痛みや違和感と比べれば、この程度なんら問題はない。

 それに今のところ、痛いだけだ。頭がぼうっとするのは理性回復剤だとかで何とかできる。食欲なんて元から不要なもので、吐き気なんて抑え込めば割合何とかなるものだ。

 まあ本当に吐いた場合は対処が面倒だから、水筒を常備してる。喉が渇いたら水を飲んで、もし吐きそうだったら中に出す。それでどうにかなってる。

 

 キィ、と音がした。

 Lancet-2がボクの様子を覗いていた。後ろを向こうとして、折って床に落とした注射器をつい踏み砕いてしまった。

 

「アビス様、それ以上の服薬は規制せざるを得ません」

 

「分かってる。今日は特別だから」

 

「その特別な日はいつまで続くのですか」

 

 機械的なノイズの入っている特徴的な声。いつも穏やかで、みんなから親しまれている医療用ロボット。それがまさかここまで棘のある声を出せるなんて。

 

「大丈夫、ボクはヴイーヴルだから」

 

「ヴイーヴルだからと言って薬品が効かない訳ではありません。種族的特徴と言えば身体強度くらいのものでしょう」

 

 それは少しだけ違う。太い尻尾を持つ種族はその分だけ体積が増えるから、必要な薬物量も他の人より少し多い。まあそういうことを言っているんじゃないだろうけど。

 

「そうだね。気をつけるよ、ごめん」

 

「それが信じられれば良いのですが……」

 

「大丈夫だって。ドクターもこれくらい服用してるってケルシー先生から聞いたし」

 

「それは規定以上に服薬するドクター様を捕まえたという話だったはずですよ。アビス様もそうなるおつもりですか」

 

「だから、大丈夫だって。ケルシー先生が編成に組み込まないようにしたって話は聞いてない?」

 

「ええ、ですからこうして言っているんです」

 

「心配要らないよ。大丈夫。ありがとう、Lancet-2」

 

 これは本心だ。気にかけてくれてありがとう。

 でも別に要らないんだ。服薬量が度を越してるだとか、そんなのどうでもいい。きっと死にはしないだろうし。

 

 ボクにはロドスしか無いんだよ。それは絶対なんだ。ボクの寿命がいくら縮まろうと、直接死ぬ可能性が無いのならロドスの役に立たなければいけない。

 まあ、それは少し恰好を付けすぎたかもしれない。ただ単に、一度恐怖から逃げてしまえば、ボクはもう立ち向かうことができなくなってしまうだろうから。そんな程度の理由なんだ、きっと。

 

「注射器を片付けないと。掃除用具を取りに行きたいから、少し退いてくれるかな」

 

「……はい、分かりました」

 

 納得はしてない。でも行動に移すほどじゃない。

 今はそれでいいか。見える範囲で無茶をする気なんて始めからなかったし、そうすればきっとケルシー先生も出てきてしまう。

 

 まだ弱かったボクに戦う術を教えたのはロドスだ。ボクの命を繋いでいるのはロドスだ。

 

 ボクは死ぬまでロドスの下で働く。

 鉱石病に、源石に食い殺されるその日まで。

 

 

 どさ、と紙の束が木の板に置かれる。

 そして部屋の隅に置かれたデスク──つまりボクが今向かっている机の上にも、かなりの束が乗せられた。

 

 ボクの机に乗っかっている紙の束はドクターのそれより三倍くらいの厚みがある。スッと机の上に置かれたロドスの印章、朱肉、万年筆。

 ボクはそれを少しの間観察した後、自分でも分かるほどの強張った笑みで、アーミヤさんを見た。笑顔を形作っているはずなのに、何故だか光を無くした目だった。

 

「よろしくお願いしますね、アビスさん」

 

「……流石にこの量は」

 

 ずいっ、とアーミヤさんの顔が近づいた、ように感じた。実際にはアーミヤさんの纏っている圧が倍以上に増えただけで、そんなことはなかったけど。

 

「ドクターがロドスに来るまでは余裕で熟していましたよね?だから大丈夫ですよ」

 

「それはサインや押印だとかの手間がなかったからでして、これはボクでも骨が折れると……」

 

「はあ、そうなんですか?」

 

 アーミヤさんが顎に手をやって考えるような動作をする。態とらしいけど、ボクはこんな業務を回される程恨まれる覚えはない。ここに縛り付けるとしてももっと他にやり方があるはず。

 

「でも、アビスさん」

 

「はい」

 

「私が捌いていた時は、その量を強制していましたよね?」

 

「えっ」

 

 そういえばそんなこともあった、ような?

 いやでも、その時はアーミヤさんの事務能力を信頼していたし、それに自分としては分かりやすくファイリングして提示していたと思っていたんだけど……

 

「サインだとか押印の手間がある私に、次から次へと、まるで雨季に放置されたパンに湧くカビのように書類を差し出して苦しめたのは何処の誰なんでしょうか……!」

 

「あっ」

 

「ティータイムなんて必要ないのでただ只管にペースを落として欲しかったんですよ、あの時は」

 

 ……。

 

「で、では何故それを言わなかったんですか」

 

「なぁ──!?言いましたね!まさかアビスさんがそれを聞いてくるとは私でも予想していませんでしたが!」

 

 えっ、本当に心当たりがない。

 

「到着して直ぐに書類を手に取り!休憩時間など取らず各責任者へと連絡して回り!終わればさっさと話もせずに帰ったのはアビスさんでしょう!それに食堂には来ないし、一体どうやって言えば良かったんですか!」

 

「すみませんでした」

 

 そういえばボクってアーミヤさんに何の感情もないって言うくらい接触してなかった。書類業務をする機械のように見ていた節があったかもしれない。

 ドクターさんの視線が痛い。書類を一枚手に取ったままじっとボクの方を見てくるドクターさんが怖い。

 

「アビスさんは書類業務が嫌だったかもしれませんが、私もアビスさんとの書類業務は嫌でした!他のオペレーターさんは私と話をしてくれていたんです!そういう機会でもあったんです!」

 

「申し訳ありません」

 

 総責任者に近付かせる危険性を考えると、ケルシー先生はアーミヤさんと一緒の部屋で業務させることにも反対したんじゃないかな。でもそれをアーミヤさんはコミュニケーションが取りたかったから同じ部屋にした、と。

 いや、うん、まあ。ボクが人付き合い苦手だったということにすれば何とか理由もつく、かな。

 

「私が今より少し小さかった頃は話してくれていたじゃないですか!他のオペレーターさんと同じように!」

 

「あの頃は業務に慣れていなかったようでしたので」

 

 仕方なく。それにそこまで歓談していた訳でもない。他のオペレーターさんに会話を任せて適当な相槌を打ちつつ書類を捌いていた。

 ただ唯一困ったのはシーンさんと当番になった時か。レンズさんがまだ喋っていなかったのでボクがほぼ全ての会話を担当することになった。その記憶がまだ残っているのかもしれない。

 はあ、とアーミヤさんがため息を付いた。ボクの机の置いた書類の束からして、これ以上説教に時間を使うのもいけないと思ってくださったんだろう。

 

「それじゃあ今度、ご飯を一緒してくださいね」

 

「それはちょっと無理です」

 

「はい?」

 

 血管が浮き上がった。話は終わりだとばかりにボクに背を向けていたアーミヤさんは振り返っていて、その顔は笑顔だけど、吊り上がった口の端が小さく痙攣したように動いている。

 マジギレ一歩手前のアーミヤさんだ。マズい。ボクの首が飛ぶ。

 

「諸事情ありまして、その、ご飯を作る方でなら何も問題はないのですが」

 

「……そうですか」

 

 アーミヤさんの顔が徐々に冷静さを取り戻していく。良かった、もし説得できなければケルシー先生の力を借りなければいけなかった。今の雰囲気でそれをやるのはちょっと胃が保たない。

 

「あの、極東料理はやめてくださいね」

 

「どうしてですか?」

 

「いえ、極東料理の中の……『わんこ蕎麦』が書類と重なるので」

 

 もうそれはトラウマなのでは?

 

 

 

 ドクターの三倍もの厚さを持つ書類の束を抱え、それをアーミヤに抗議して打ち据えられたアビス。

 それを見ていたドクター。

 

『ああ、今日は早く上がってもいいのか』

 

 そんなことを当初は思っていた。

 しかしそれは甘い。

 非常に甘いと言わざるを得ない。

 

「ドクターさん、ボクがケルシー先生の仰裁に行っている間にこちらの書類について判断しておいてください。この付箋を使ってくださっても構いません」

 

 昼になる前には、アビスの抱えていた書類のほとんどが消えていた。机の上に残っているのはたったの十数枚、アビスでも判断ができる、十分ほどもあれば全て捌けてしまう量だ。

 幾らアビスと言えどもそれだけが残りではない。しかしそれ以外ではアビスの手にあるケルシーに回す書類、そしてドクターの目の前に置かれた書類の束くらいのものだ。

 

 三十分後。

 

「ドクターさん、書類は終わっていますか?ああ、それならケルシー先生に判断して頂いた分の書類のサインが残っているので、それまでに宜しくお願いします」

 

 四十五分後。

 

「ドクターさん、書類は」

 

 昼休憩など元から無かったかのようにアビスはドクターの方を見ている。ドクターはアビスの問いに答えず、じっと見返す。

 

「その、ドクターさん?終わってるんですか?」

 

「アビス、お前反省しような」

 

「はい?」

 

 稟議が終わっている書類の束をアビスに突き出した。ドクターの机に残っているのはあと十枚ちょっとの書類だけだ。

 

 この半日でアビスに対するドクターの評価は随分と変動した。

 まず、秘書業務の一つである書類を任されたというのは別段気にしなかった。アーミヤが書類業務を得手とするオペレーターの中にアビスの名前が入っていたからだ。

 だがアビスは二つの意味で『得手』らしいということをアーミヤの糾弾によってドクターは理解した。アーミヤの手が回らない速度で書類を突きつけるなど頭がおかしいし、そしてそのペースを相手に強いるなど得手勝手にも程がある。

 

 少しの羨ましさを胸に秘め、ドクターはしかし油断していた。その矛先が自分に向くことなどないと。

 それは間違いだった。

 

「普通は休憩するじゃん、でもまだしてないじゃん。しかももう一時前で、つまりお昼時過ぎてるだろ?」

 

「しかしドクターは普段から書類を担当しているんですよね?」

 

 頷いて、首を傾げた。

 

「……えっ、ごめんちょっと考えてみたけどどういうこと?普段からやってれば自然と早くなるだろ追いついてこいよってこと?」

 

「いえ、そこまでは」

 

「そう言ってる!絶対そこまで言ってるから!悪いね、俺の処理スピードは緩速師でも居るかのように遅いんだよ!」

 

「はい」

 

「そこは否定してくれよ」

 

「はい?」

 

「ほら、そこは否定するとこじゃん。そこまで遅くはないですよ、って」

 

「面倒臭い……何でもないです」

 

「全部言ってたぞ」

 

「もう帰っていいですか」

 

「殴るぞ☆」

 

「ボクは構いませんが、ドク──」

 

 殴った。

 

 

 

「ヴイーヴルを素手で殴打してはいけない(戒め)」

 

「だから言ったじゃないですか」

 

 

 

 午後三時。いつもなら分厚く積み上がっている書類を無視して遠い目になりながらコーヒーを啜り、秘書のハイビスカスが差し出してくる健康(殺人)的な菓子をどうにかこうにか回避している時間帯。

 もう机の上から書類は消えていた。今は決裁が終わった書類を持ったアビスが仕入れを担う後方職員や改築や改修を行う職員の下を訪ねていて、どうしようもなく暇になった。

 

「書類は片付きましたか?」

 

「ん?ああ、片付いたよ。アーミヤ」

 

「それは良かったです。明日は作戦指揮の予定が入っているので、早起きすることを忘れないでくださいね」

 

「分かってる」

 

 ドクターがアーミヤから手渡された缶コーヒーの蓋を開ける。少し強すぎるくらいに芳醇な香りが漂い、ドクターは一口飲んだ。

 

「そういえば、明日の任務は本来アビスが参戦する予定だったとか」

 

「はい。色々と考えたそうですが、ニェンさんによる説得に応じる形で参戦することが決まっていました。何かしら負い目があったようですが」

 

「ニェンが説得、ねぇ……前もニェン絡みで何かやってたな、アイツ。手料理を振る舞ったとか」

 

「料理が好きなんでしょうか」

 

「かもな。アビスは普通の食事ができないから、そういうのに傾倒する気持ちも分かる」

 

「普通の食事ができない、ですか?」

 

「ああ、鉱石病のせいらしい」

 

 コト、と缶が机と接触した。

 

「アーミヤはアビスのプロファイルを見てないのか」

 

「はい。ケルシー先生に権限を与えられても、許可を取るまでは見ないことにしています」

 

「アビスのは見ておいた方が良いと思う。少なくとも第二資料は接する上で必要なものだろうと思ってる」

 

「それが、つまりはその?」

 

「そう。症状としては中々珍しくて生死に関わるものじゃないらしいけどな。もう少しくらいなら広がっても問題ないとかケルシーは言ってたな」

 

「そう、なんですか」

 

 アーミヤが、いつもはハイビスカスの座っている椅子へと腰掛けた。手元にある未開封の缶ジュースへと視線をやっているが、ピントが合っていない。何やら考え事をしているようだ。

 

「何故ケルシー先生はアビスさんを作戦に出さないよう指示を出したのでしょうか」

 

「ああ、それな。最近は任務もなかったし、アーツを使う機会はない。あったのは精々が検査くらいだな。だから鉱石病が悪化したとは思えないし……今更何か見つかった、とか」

 

「今朝見た限りでは平生(へいぜい)の通りでしたから、そうなのでしょうか……」

 

「いいえ、いつも通りなんかじゃないわ」

 

 いつのまにか、部屋の人数は三人に増えていた。

 

「あんたの力を借りに来たわよ、ドクター?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十三 リラの遺品

実はこちらの話でも予約投稿をミスっています。
いっそのこと書き溜めをせず二、三日に一度投稿するスタイルにするかアンケートでも取るべきでしょうか……


 

 

 午前九時、執務室にて。

 飾り気のない鞄を引っ提げたドクターは、前日から引き続いて書類業務を任されたアビスと視線を合わせていた。

 

「どうしてボクなんですか」

 

 尻尾がゆらゆら揺れながら、しかし時々ピンと強張る。バイザーがあるのでアビスにはバレていないが、ドクターはその真剣な嘆願を真面目に受け止めていなかった。

 

「だって暇だろ?」

 

「暇じゃありませんよ。訓練とか鍛錬とか」

 

「ケルシーから禁止命令が入ってるんじゃないのか?」

 

「……まあ、それはそうですが」

 

 アビスが頬を掻くのを──実際には尻尾を見ているがアビスにはそう見えた──見ながら、ドクターは一度置いた鞄を再度持ち上げた。

 ドクターの言っていることはちゃんと裏が取れていて、アビスと近しいオペレーターがここ最近忙しいのだと知っていた。だからアビスに頼んでいるのだ。

 

「予定はありますよ、色々と」

 

「例えば?」

 

「修練だとか、あと修行だとかです」

 

「全部同じだし全部ダメだろそれ」

 

「否定はしません」

 

 一体何が言いたいのか。呆れたドクターは一つ大きなため息を吐くと、「書類よろしく」とだけ言って出て行った。

 残るのは昨日よりは心なしか薄いだろうかと思われる書類の束と、大きな権限を持つ三人のうち一人だけ艦内に残るということで稟議の対象を一時的に統括したケルシーのみだった。

 

 そう、アビスはケルシーと一緒に業務をすることになる。

 悪足掻きもケルシーと一緒の空間で仕事をしないため、そしてその意思をドクターは遂に汲み取らなかった。

 

「アビス」

 

「はい」

 

 ケルシーがドクターの椅子に座って足を組んだ。憮然とした表情のまま腕を組み──その右手の親指で秘書の席を指した。

 

「座れ。さっさと終わらせる」

 

「はい」

 

 ぎこちなくなりながらもアビスは腰を落ち着かせた。ペン、印章、朱肉の三点セットを引き出しから机に出すと、丁度ケルシーも準備を終えて、二人の間あたりへと壁を作るかのように書類の束が置かれた。

 両者共に上から取れるように、だろう。ケルシーは一先ず一番上に乗っていた医療関係の書類数枚をセットにして取った。

 

「アビス」

 

 朱肉に印章を押しつけ、ケルシーが言った。

 アビスは改築関係の書類を自分の方に置きつつ増築や改造を主とする書類をケルシー寄りにズラして束の上に置いた。

 

「はい」

 

 アビスが朱肉に印章を付けると同時に、ケルシーは一つ目の捺印を行った。

 

「私は本気だ」

 

 何を言っているのか、とは思わない。恐らくは一昨日(三十一話)にて言及していた、『二品』についてのことだろう。

 アビスがロドスへと持ち込んだ不必要な荷物。それは時々目敏いドクターによって宿舎に飾られそうになったりしていたが、未だアビスはそれを保持し続けていた。

 

「お前がどう思っているのかは知っている」

 

 アビスが一つ目の押印を。

 ケルシーがもう一度朱肉へと。

 

「だが私はお前の命を可能な限り引き伸ばすことが、お前の過去よりも大切だと思っている。『彼女』とやらに殉ずるとしても、ロドスの目と手が届かない場所でのみそれを許そう」

 

 ケルシーが二枚目の書類を横に流して三枚目を手に取った。

 しかしアビスの手は止まっている。アビスの印章は未だ手にあり、押印の済まされた書類が一枚アビスの前に置かれていた。

 ケルシーもそれを見て動きを止めた。

 

「ケルシー先生、やっぱり貴女は分かってない」

 

 アビスは軽薄にそう言った。

 ケルシーの発言は分かりにくかったが、つまり『没収はお前のためにやることだから、やめるつもりはない。どうしても止めたかったらさっさと過去を捨てろ』ということだ。

 セリフの後半部分に意味はない。アーミヤを筆頭とするロドスの救いの手は、哀れなアビスを捕らえて逃がさない。前半の補強として加味するとしても、『過去を捨てろ』の部分が強調されるくらいか。

 

 それを、アビスは鼻で笑った。

 

「ボクは子供なんです。ただただ『彼女』のことが好きで好きで堪らない子供。少なくともその中には生と死なんて介在しません」

 

「……どういうことだ?」

 

「ベースはきっとそれなんです。生への執着も、死への恐怖も。ボクを作っている土台は『彼女』への恋心。それに応えているだけなんですよ」

 

 アビスが生きたいと願うのは、死への本能的な恐怖があるからだけではない。アビスの生を願うリラの気持ちに応えることと、リラから貰った、遺品とさえ言える源石にのみ殺されたいからだ。

 例えばリラがアビスと一緒に死にたいと言っていればアビスは死んでいたかもしれない。そんなものだ。

 まあリラはそんなことを言えたはずもないだろうが。

 一番現実味があるのは、恐怖に押し潰されそうになったリラが嫉妬して怨嗟を吐くというものだろう。つい死に際に零してしまった羨望の言葉が少年の首にナイフを突き立て、少年は命を投げ捨てるのだろう。

 

 まあそれはあり得た可能性の一つに過ぎない。少なくともこの世界でのリラはアビスの生を願い、それを確かに受け取っているのだから。

 

 そしてそれと同様に、アビスが死にたいと願うのもリラありきのことだ。リラが死んだこの世に用などほとんど残っていない。万一リラに次ぐ存在を見つけたとしてもそれを失う悲しみが発生してしまう、現世では大切な人を失うこともあると知っているアビスには、きっと地獄よりも生き辛いのだろう。

 

 アビスの生を繋ぐのは、リラがそう願ったのと、アビス自身もそれを恐れているから。優先順位は今言った順番の通りだ。

 そしてあの出来事からもう六年近い。アビスはもう満足していた。リラの居ない世界で六年も過ごすということは、アビスにとって、ふとした瞬間に耐え難い程の喪失感を味わわせる拷問だった。

 

 ちなみに大切な人(リラ)を失う恐怖を戦場で使わない理由には、増幅させるには感情が大き過ぎる、利用する度にアビスも相応のダメージを負う、などがある。

 しかし一番大きい理由として、大切な人を失ったことのない相手がその悲しみを我が物顔で感受するのは、大切な人を失ったアビスにとって度し難かったからだ。

 同類でなければ共有することも拒否する。その悲しみに対して、アビスは歪な価値観を持っていた。それが意図せずリラに捻じ曲げられたものなのか、それともアビス自身の感情が捻じ曲げたのかは分からないが。

 

 とにかく、アビスはリラが大切で、人生観並びに死生観までもそれを土台とするほどだった。今も誰かを押し潰しているかもしれない死の恐怖は、アビスの殺されたい欲求より小さかったのだ。

 

「だが、そうだとしても……」

 

「ケルシー先生には理解されないかもしれませんが、一応言っておきましょう」

 

 そしてそんなアビスがロドスに居る理由は。

 

「好きな人に見合う人でありたい。ボクはリラのことが好きだから、格好良く有りたいと願って生きています。そしてそれが痛苦を押さえ込み、修練を弛まない人だとボクは思いました。強さは、その一つです」

 

「だから、お前はロドスにしたのか」

 

「はい。黒い噂がなかったとしても研究施設であるライン生命には恐らく入りませんでした。BSWは経歴が不足しています。不問としているのはこのロドスだけ──感染者と非感染者の両方を救うというのも良かった。とても、格好良かった」

 

「……」

 

 ロドスの医療分野でのトップとして、ケルシーにはなんだかむず痒く感じる言葉だった。だがそれ以上に、あのアビスがここまで幼稚な考えに突き動かされていたのだと知って驚愕している。

 

「ボクはケルシー先生が思っているより子供です。薄っぺらいでしょう?ボクの価値なんて所詮はそんなものです」

 

 アビスは印章を朱肉に押し付けた。

 凹む朱肉、赤く染まった前面の印。

 

 ケルシーの印章は、動かなかった。

 

「腑に落ちない。それならば何故あの時は、ニェンから逃げるためにロドスを抜けようとした?」

 

「子供ですから、そういうこともあるでしょう」

 

「いいや、お前はあくまで一貫性を持って生きている。それこそ、私にそれらしい嘘を吐いて誤魔化すことを辞さないほど真っ直ぐだ」

 

「……そう、ですか」

 

 ケルシーは断言する。もしアビスが子供だったとしても、それだけは騙されることもなかった。それもそうだ、アビスに初志を貫徹するだけの意思がなければとっくのとうに過去など忘れているだろう。今のアビスが居ることこそ、今のアビスがそうである証明となるのだ。

 時にはエリートオペレーターでさえ、アビスのことを対等に扱う。それは詳細こそ話さないがアビスに助けられたと言っているAceや、アビスのアーツユニットである短剣を手がけたMechanistなどがそうだ。時折書類の届け先になるOutcastも、アビスを軽くは見ていない。

 アビスは子供だが、真っ直ぐだ。

 

「お前の鉱石病が進行した原因。そうだ、確かお前はラーヤ、そしてWと共に騒ぎを起こしたな。──そこで何かあったか」

 

 アビスの目がケルシーの目と交わる。

 その一瞬だけで、ケルシーは肯定と判断した。

 

「ラーヤからではないだろう。恐らくはW、となれば持っている情報は二択、お前と関連がありそうなのはやはり、レユニオンか」

 

「決め付けるには論拠が足りないのではないですか?」

 

「私をそう簡単に騙せると思うのなら、それはお前の自信過剰ということになるだろう」

 

「……その通りでは、ありますが」

 

 迂遠過ぎるやりとりではあったが、つまりケルシーの言った通りのことだった。アビスはWに何かを伝えられ、それは今のアビスをロドスに縛り付ける何かだった。

 

 分かりやすく整理しよう。

 

 あの時(第一章)のアビスは思い出を汚される恐怖によってロドスから離れることも辞さなかった。つまりリラとの思い出は、格好良くありたいというアビスの理念に勝っていた。

 

 そして『子供ですから、そういうこともあるでしょう』というアビスの発言が蘇る。

 アビスのこの発言を噛み砕くと、格好の良いことが土台にあり、あの時だけ覆っていたということになるだろう。確かにそれで説明はつく。

 しかしその言葉はケルシーの『お前は一貫性を持っている』という言葉に否定され、その指摘が否定されることはなかった。つまり、この正当なはずの発言はどこかが間違っているのだ。

 

『子供だから、優先順位が簡単に変更される』

 

 一貫性を持たせつつ辻褄を合わせるためには、『優先順位の変更』は否定せず、『子供だから』という理由の部分が否定される訳だ。

 

 よって、現在のアビスとあの時(第一章)のアビスの考え方が()()()()()()()()によって正当に乖離させられたということをケルシーは発見した。そしてそれはつまり、現在のアビスが異常であることを意味する。

 その間にあるイベントなど訓練室爆破事件くらいのものだ。そこでいつもは接触していないWとの会話で何かが起きたのだと推測するのは正しいだろう。新情報の入手による優先順位の変更は正当であるだろうし、少なくともアビスの言う「魔が差した」だとか「気の迷い」だとかよりは信じられる。

 

「一体あの一瞬でどこまで考えているんですか」

 

「だから言っているだろう、私を騙そうと思わないことだと。まあこの程度ならばドクターやアーミヤも分かるだろう」

 

「信頼が重そうですね……いえ、厚いのは良いことですが」

 

 苦笑混じりに印章を置き、ペンを取った。

 

「何があった。何を伝えられた」

 

「今は、書類に集中しましょう。さっさと終わらせたいと仰っていましたよね」

 

「ラベルも見ず薬瓶を並べるバカは居ないだろう」

 

「ボク以外には関係のないことですから」

 

 アビスはケルシーの方を見ず否定の文句を繰り出した。尚も何か言おうとしていたケルシーは、しかし思いとどまり口を閉じた。アビスが無関係だと言うのなら、そしてそれが結果的にロドスに留まって延命措置を受けることに繋がるのなら、ケルシーはそれで良かった。

 そうだ、アビスが何も言わなかったとして、ケルシーの被る被害は無いに等しい。アビスをロドスに縛り、鉱石病を安定させる。その間で過去に一区切り付けたのであれば良し、付けられなくともやりようはある。

 聞いてしまう方が悪い結果になることは見えているのだ。ケルシーはここで聞かない方が良い。聞くべきではない。

 

 だが、アビスの未来をより良いものとするには、それで本当に正しいと言えるのだろうか。

 

 

『子供が我々の希望であることは不変である』

 

『君は大切な存在だ』

 

 

 アビスは約束を履行した。

 ただの口約束を守り、アビスにとって何よりも触れられたくなかった大切な過去をケルシーに話した。

 

 その相手を前に自家撞着などしたくない。相手が覚悟を決めて曖昧なルールを守ったというのに、そんな裏切るような真似をしたくはない。

 アビスのためには、聞くべきだ。だがアビスの命を守るためには口を閉じているのが正しいだろう。

 

 ならば、やはり口を閉じるべきなのだ。アビスの意思よりもアビスの命を優先すると言ったばかりなのだから、ケルシーはアビスの意思など聞かず、目的なども黙殺し、ただ強制的に延命させるだけでいい。

 

 命あっての物種、と言うだろう。死んでは何もかもお終いなのだから、命は何よりも優先されるべきもののはずだ。心が壊れても、生ある限り治る可能性はある。

 意思なんて重要ではない。命こそ、守られるべきだ。

 

「ケルシー先生」

 

「……なんだ」

 

「ボクのことで悩む必要はありませんよ」

 

 あと権限的にボクの処理できない書類が──。

 悩む必要はない、そう冷たく突き放したアビスによってケルシーの耳と尻尾が少しだけ傾いた。

 アビスは気づいていない。

 

「それに、ロドスの手はまだまだ小さいです。ハッキリ申し上げると、ボクみたいな患者(手遅れの感染者)に拘うのは時間の無駄です」

 

 アビスは格好良くありたい。自分の人生はリラが消えた時点で、既に見切りをつけた。ロドスの礎となるのは一番の死に方でなくとも、納得できるほどに諦観している。

 極論アビスは──Wから伝えられた()()()()さえなければだが──もう死んでも良いとすら思えている。ロドスのために三年近く働いたのだから、充分だった。

 

 カーディやポデンコは代わりになり得ない。結局のところリラはもう死んでいて、この世には居ない。それが覆されない限りアビスの生は、アビスにとってほぼ無価値なものだ。

 

 そろそろ限界は見えてきた。繰り返し押し寄せる吐き気や腹痛がそのタイムリミットを伝えている。

 ようやくケルシーは、アビスの笑った理由が分かった。殉ずる──後を追うなんて表現は、笑ってしまうほど不適格だ。アビスの行動は、リラを追ってのものではない。

 

 アビスはリラに会うため死ぬのではない。

 リラの居ない世界から逃げるために死ぬのだ。

 

 死ねばリラに会えるなど幻想と分かっている。今の世界を生き延びても意味などないと分かっている。だからせめて格好良くありたかった。所詮その程度のことだ。

 過去のために生きる?前を向く?アビスの脳内にそんな思考は一片たりとも存在しない。ただ只管に自己満足のために生き、そして死ぬのだろう。

 

「そう、無駄なんですよ。ケルシー先生は、感染者を救う格好の良い人でしょう。ボクに手間取られて他の人を救えないなんて目も当てられませんし、ボクが嫌です」

 

 自分のために、他人にそれを強要する。それをされた人がどんな風に受け止め、そしてどれだけの影響を受けるのかも分からないままにアビスは言葉を紡ぐ。

 

 それは、いつかアビスがリラにそうされたように。

 アビスを六年近くこの世に縛りつけたように。

 

「ロドスが格好良くなくては、ボクの三年が報われませんからね」

 

 ケルシーの心を縛り付ける。

 

「さぁ、さっさと終わらせましょう」

 

 アビスは気付かない。

 

「……そう、か」

 

 ケルシーの顔が曇っていることに、書類を手に取ったアビスはとうとう気付かなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十四 嫌悪

 

 

「今日行うのは、超音波(エコー)検査だ」

 

 いつも通りのケルシーが入室したアビスを迎え入れた。

 だがそれは細部まで全く同じという訳でもなく、少し多めに塗られた目元のコンシーラーが僅かな違和感となって現れる。エイプリルやオーキッドなどが見れば、隈が化粧品によって隠されていることなど一目瞭然だったろう。

 

「そこの診察台に寝そべってくれ」

 

 だがアビスはケルシーの変化に気付かない。そも、顔すら見ていない。この検査で引っかかるだろうことは予想できていて、隠していた分だけバツが悪いからだ。

 

「ああ、その前に胸と腹を出してくれ。露出している結晶が全て見えるくらいまででいい」

 

 気不味いとは言えども、指示には従う。いつも自分から恐怖の中に突っ込んでいるアビスは、きまりが悪いからと言ってその作業に澱みが出るほど胆力がない訳ではなかった。

 アビスが裾を捲れば、腹筋の少し上あたり、数えると六つほど源石結晶が現れていた。

 その露出している結晶は大小様々であるが、それは見た目通りの訳がない。今見えているのは慣用句的に氷山の一角と表せるが、浮いている体積から全体を推定するに必要な浮力なんてものが当然のことながら存在していないからだ。

 現にアビスの見せる結晶は他の感染者とほぼ変わらない。変わらないが、実際のところは臓器に影響を与えるまでに規模が拡大している。

 

 ケルシーが探触子(プローブ)を腹に当てた。源石結晶は硬いが、人の体内で生成された不純物を多く含む源石だ。骨よりも強度があるという訳ではなく、超音波検査においても差し当たり問題にはならない。

 モノクロの画面。古い型の液晶媒体が見せる砂嵐──スノーノイズのようなものが、辛うじて輪郭を形作っている。

 

 当て方を変え、探触子の形状を変え、何度も試行する。源石に邪魔されているのか、ノイズは僅かばかりの変化を見せるだけで、著しく読み取りにくい。

 

「……ああ、何故考えが至らなかったのか」

 

 ケルシーは感情の起伏を少しも感じさせない声でそう呟いた。鉱石病によって死の淵まで追い詰められているアビスよりも余っ程病人染みた声をしていた。

 

 ようやくアビスがケルシーの異変に気付くも、起き上がったアビスに服を手渡した後はすぐに端末を使って誰かと連絡を取り始めた。

 いつになく鈍かったアビスが次々と異常を見つけていく。ケルシーの動作、仕草、それらのほぼ全てが何か違うと指し示している。ちなみにコンシーラーには気付かなかった。

 

「宜しく頼む。──さて、アビス。超音波検査が失敗に終わったため、他の機器を使用して再検査を行う」

 

「分かりました」

 

「十分もすれば準備ができる。その時までには、ここの隣にある部屋で待機していてくれ」

 

「了解です」

 

「何をしていてもいいが、それ程時間がある訳でもない。それを念頭に入れて、時間までに来い」

 

 ケルシーはアビスが頷いたことを確認した後、部屋を出た。十五歩程度歩いた先の大型医療用機器が利用できる部屋の扉を開ける。小さく開けたからか、背後から伸びた手が閉まる扉の動きを阻止した。

 

「何故ついてくる」

 

「何かしたいことも思いつかなかったので」

 

 ケルシーの目が僅かに気力を取り戻すが、それは生気という訳ではなかった。ただアビスの言葉が不快で、鋭くなっただけだ。

 

「ならば部屋の外で待っていろ。まだ準備中だと言っただろう、今ここに居る必要はない」

 

 部屋の中ではワルファリンが平職員のようにちょこちょこ動き回っていた。デフォルメすれば口が正三角形になるだろう、そんな具合だ。

 確かに準備中ではあったが、それは設備の話だ。部屋に入れない訳でなく、現にスツールが幾つか空いたスペースに置いてあり、座っても邪魔にはならなさそうだ。

 

「ここで待っていても困ることなどないでしょう」

 

 だが実際、常識として考えるとアビスの方が間違っている。上司の言葉に逆らい、医者の言葉に反する。そんな者が居たならば即ち、待っているのは周囲の冷たい視線だろう。

 ケルシーがアビスに室外での待機を強要する必要はないが、アビスもまた、それを拒否する必要がない。

 

 唯一、ケルシーが異常だという点を除いて。

 

「何をしていてもいいんでしょう、この部屋で準備が終わるまで見学でもしています」

 

 だが距離を詰めるにしても言葉の選び方が悪かった。

 

「……お前が、見学だと?」

 

『ボクに手間取られて──』

 

 お前に未来
「それに意味
      
は無いだろう。必要もない。お前に手間を取られるなど許容できない、さっさと部屋から出て行け」

 

「ですが」

 

「Mon3tr」

 

「……分かりました」

 

 喉元に向けられたMon3trの爪。殺す訳がないと知っているのに、それにはどうしてか殺気が篭っていたように感じられた。

 

「失礼しました」

 

 アビスが部屋から退出したところで、ケルシーはようやくMon3trを元に戻した。その顔は先ほどまでアビスに見せていた怒りとは違い、何か後悔しているように見える。

 

 息を吐いて、スツールに腰を下ろした。ワルファリンの手伝いをすれば少しは早く終わらせられるだろうが、それをするにしては少し、自己嫌悪が強く残ってしまっていた。

 

「珍しいな」

 

 ワルファリンが作業の手を止めてそう言った。

 

「そなたがそこまで他者を嫌うなど珍しい。それも扱いやすくなった好意的な者に対して、とは」

 

 ワルファリンはアビスについて、ほとんどのことを知らない。そしてその中でよく記憶に残っているのは、ケルシーに対して殺気を撒き散らしながら尋問した場面のみだ。

 ワルファリンからすれば、上司に逆らう一匹狼気取りの青年をケルシーは手懐け、そしてそれにMon3trの爪を向けたということになっているのだ。

 

 反省こそすれど、アビスはワルファリンにとって減給処分の発端となったオペレーターで、そして更には大きな怪鳥に掴まれて空の旅へと連れていかれたのだ。悪印象が残るのは仕方がないことだろう。

 もしそれがなければ、ワルファリンがこうして準備に時間を割くこともなかっただろう。だからある意味必然ではあったのかもしれない。

 作業に戻り、されど口は止まらない。

 

「Mon3trまで差し向けるのならば、いっそ遠方の任務に派遣するのはどうだ?鉱石病が心配であるならば龍門に常駐させるという手もある」

 

 ケルシーの目がワルファリンを捉えた。その双眸は見開かれ、何を考えているのか全く読み取れない無表情でワルファリンを見つめている。

 少なくとも驚きでないことだけは確かだろう。

 

 数秒後、ゆっくりと声を発する。

 

「黙って手を動かせ」

 

「相分かった」

 

 幸福にもワルファリンは気付かなかった。ケルシーの目が青年に向けていたものより一層人を殺しそうなものになっていたことに気付かなかった。

 声は完全に通常のそれを装うことができたが、ワルファリンの方を見る目は見開かれたままになっている。

 

 ワルファリンの発言は仕方のないことだろう。任務を禁止したことがそこまで伝わっている方がおかしいし、況してや下働きで時間を圧迫され続けているワルファリンが聞いている訳もない。病状が不安定で、いつ倒れてもおかしくないことを伝えていない。

 だからそれについては納得している。ケルシーの焦点は別の所に当てられていた。

 

 

 

 

 

 私は今、何を考えた。

 

 

 

 私は今、もしかして──どうか目の届かぬ場所で勝手に死んでくれと思ってしまったのか。

 本来ならば切って捨てるべきワルファリンの提案が魅力的に聞こえてしまったのか。

 

 

 テレジアの言葉を気に入っていた

 

 つもりだった。

 

 

 子供のことは大切に、慎重に、丁寧に扱い、そしてそれがそうあるべきだと認識していた

 

 はずだった。

 

 

『ボクみたいな患者に拘うのは時間の無駄です』

 

 

 頭を殴られたようだった。

 アビスのことは理解している、もし救われることが出来るのならば救われたいと素直に願う性格だと知っている。だがアビスは差し伸べられたロドスの手を振り払った。

 

 アビスにとっての救いは、もうこの世に残っていなかったからだ。

 

 私では救いになり得ない。

 いや、『彼女』とやらが死んだ時点で、私のみならずこの世の全てがアビスを救うことのできない、アビスからすれば無力で無価値な存在と成り果てた。

 

 だから、なんだ?

 

 私はアビスを切り捨てるのか?

 

 アビスの言ったように、既に救いを見つけられなくなってしまった感染者は見殺しにするのか?

 

 違う。

 

 違うはずなんだ。

 

 違うはずだったんだ。

 

 私はアビスのような感染者も救おうとしていた。いや、それも違う。アビスのような感染者も救えると信じてきた。だが実際には、アビスの救いになど私たちは端からなり得なかったのだ。

 

 きっとアビスは鉱石病に大切な何かを奪われた人々の中でも一等拗れてしまった部類なのだろう。それは分かっていたが、だとしても救われようとしない人すら存在するというのは、殊の外ショックに感じられた。

 しかしだからと言って突き放す気は毛頭なかったのに、アビスの言った『見学』という言葉は何故だかどうしようもなく私の神経を逆撫でた。

 

 救われようとしなかった、未来を拒絶したアビスが後学のために何かするなどと全くおかしいではないか。

 

 私の手を取らなかったアビスが、見学など。

 

 いいや、分かってはいたのだが。アビスは救われようとしないのではなく、救われることができないのだと、分かってはいた。だが何故だか、抑えきれなかったのだ。

 

 私が悪いことは分かっている。例えアビスが私の手を拒絶しても、それに対して激昂するなどまるで子供のような行いだ。況してやアビスの死を望むなど以ての外だろう。

 しかし──

 

 思考の渦は、ワルファリンが作業の終了を告げるまで拡大を続けた。その殆どが都合の良い言い訳ばかりで、とても外に出せたものではないが。

 

『ボクみたいな患者に拘うのは時間の無駄です』

 

 何度もその言葉が脳内を反芻した。諦めたように笑っていたアビスのことが許せなくて、やるせなくて、そして救いたくて、救えないことに気づく。

 こんな私のことを、アビスは格好いいなんて言ったのか。お前を救えない私のことを。

 

「妾が入れと言っておいた方が良いか?」

 

「いや、必要ない」

 

 ああ、なるほど。そうか。

 私は、アビスに八つ当たりしていたのか。

 私を自己嫌悪させたアビスが嫌だった。ただそれだけの理由で私はアビスに殺意さえ向けたんだ。

 

 ワルファリンが部屋を出て行った。

 立ち上がれば、体がいやに重く感じた。自分で断った手前そう思うのは嫌だが、ワルファリンに頼んでいた方が良かったのかもしれない。

 だがしかしこうも思うのだ。八つ当たりをしてしまいそれを後悔したのであれば、私はそれ以上拒絶してはいけないだろうと。後悔は次に繋げてこそ意味があるのだと、それは昔から言われていることだ。

 

 ドアを開け、一歩外に踏み出した。

 廊下の壁に寄りかかっていたアビスが私の方に顔を向けている。

 

「準備が完了した。入れ」

 

「あの……いえ、なんでもありません」

 

 私の顔は今どうなっているんだろうか。

 自己嫌悪と、それを表に出したくない感情と、そしてその自己嫌悪を前面に出してアビスのことを勢いのままに突き放したい感情。それ以外にもあると言うのに、その三つだけで既に容量はギリギリだ。

 

 触れられなかったことに安堵しつつ、私はアビスを部屋の中に入れた。

 壁にある棚の中から一つ瓶を取り、アビスに手渡した。

 

「えっと、これは何ですか?」

 

「造影剤の一種だ。今回は経口投与を行う。飲め」

 

「あ、はい」

 

 アビスが瓶の蓋を開けて一息に飲み干した。いつもはこうして聞き分けも良いのだが、何故あのような大切な所で意固地になるのか。少し不思議だと思ったが、その答えは恐らく、それが格好良いからなのだろう。

 迷惑な生き方だ。せめてもう少し待っていてくれれば、大人になっていれば、私も今のように悩むことは無かったろうに。

 

「二十分待機時間を取る。今のうちに所持している金属製品をそのカゴの中にでも入れておけ」

 

「二十分、ですか」

 

 ああ、確かに先程渡しておけばよかった。

 だがそのことに思い至ったとしても、私はきっと渡せていない。段取りを悪くさせることになろうとも、私はそれ以上にアビスから離れたかったのだから。

 

「ケルシー先生、これもダメでしょうか」

 

 アビスが手に持っていたのは私が没収しようとしている『二品』のうちの一つ──つまりは黒く輝く石が繋がれたブレスレットだ。

 黒曜石は確か流紋岩の一種だったはずだ。まあ石だと名前からしても明言されている訳だが、今から行う検査に支障が出ないとも限らない、か。

 

「念のため外しておけ」

 

「……取らないでくださいね」

 

 

 どうせお前は居なくなるだろう。

 

 

「ああ。今はまだ、な」

 

「そう、ですか」

 

 心の中だけに押し留めたつもりが、少し外に出てしまっていたようだ。アビスから目を外し、関係のないどこかへと目を滑らせる。

 奇妙な沈黙が部屋の中に居座った。微かな揺れによって生じる衣擦れの音でさえも耳に残る。

 

 少しして、アビスはまたポケットに手を入れた。

 

「これも、ですか」

 

 そう言ったアビスへと目を向ければ、アビスは私の方を向いては居なかった。問いかけではなく、ただの独り言だったのだろう。つい口を衝いて出たのだろう。

 だが、何故それなんだ。何故それを持って寂しそうな表情を浮かべている。

 

 それは、私の贈った懐中時計だろう。

 

「あ、いや、独り言ですよ。すみません」

 

 照れた様子で、恥ずかしそうにその懐中時計をカゴの中に置いた。その動作だけでもそれを大切に扱っているということが分かってしまって、辛かった。

 自己嫌悪の八つ当たりをした相手が、それでも尚自分を気遣い自分の贈り物を大事に扱うなど、皮肉以外の何者でもない。

 

 ベルトを外したアビスはとうとう全ての確認が終わったようで、私の横のスツールに座った。

 

「……」

 

「……」

 

 今度は秒針の音が部屋を満たした。

 造影剤の待機時間は五分から三十分ほど取ればいいのだが、一度の検査で終わらせるには最低二十分は取りたい。アビスとそれ以上二人で待ちたくなかった私の判断だが、それでも長過ぎる。

 時計を見た。まだ十分しか経っていない。アビスの方は私に話しかける勇気が出ないようだが、だとしても期限が来るまでに口を開くだろう。それは分かっている。

 

「アビス」

 

「は、はい」

 

「検査について話しておく」

 

 すまないが、アビス。

 私はお前と話したくないんだ。

 

「今回は造影CT検査を行う。伴うリスク、発見されると思っている病名を幾つか挙げておく」

 

 

 だから、早くどこかへ行ってくれ。




 
ロドスを立ち上げたほぼ初期からのメンバーになる子供が最近ロドスを脱退しようとして重めの過去を暴露し、
しかもそれに重なってブラッドブルード騒動とか身元調査とかプロファイル編集とか訓練室爆破事件とか重なり、
加えてその子供を救おうとして浸っていた自己陶酔が治療の拒否によって打ち砕かれ命さえも救わなくて良いと言われ、
更に更にそれによって子供に過ぎないオペレーターを嫌悪しつつあるという自分に対しての自己嫌悪が芽生えてしまったケルシーは泣いていい。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十五 メディカルチェック

 

 

「先に言っておこう。鉱石病は合併症を併発していることが確定した」

 

 液晶に映し出されたのはCT検査による断層図。造影剤の投与により内臓がはっきり映し出されている。

 

「アビス、胃の辺りにはどのような臓器がある?」

 

「肝臓や腎臓、それと膵臓、脾臓……でしょうか?」

 

「概ねそれでいい。その中で問題となっているものは恐らく、肝臓の近くにあるだろう」

 

「恐らく、ですか?」

 

「ああ。非常に面倒なことに、鉱石病に併発したのは更に合併症を発症させる疾病だった。それの程度によって、範囲は肝臓に留まらない」

 

「ボクの抱える病気は鉱石病を含めて三種以上だと思われる、ということですか」

 

「そうだ」

 

 断層図に描写されている入り組んだ臓器。それらの間当たりには何やら明度の高い灰色の塊が存在している。

 

「これがお前の体内にある源石だ。体表のものが規模を拡大させた結果、臓器にまで届いたということだろう」

 

 灰色の塊は、臓器を丁度避けるような位置にあるが、薄く何かと重なっているようにも見えた。

 

「この肝臓から伸びている管のようなものは分かるか?途中で二つに分かれ、源石の方へと伸びているものだ」

 

「……見えました」

 

「これは胆管と呼ばれる。そしてその胆管が源石によって塞がれた状態。これは擬似胆石症と言うべきものだろう」

 

「胆石症ですか?」

 

「通常であれば胆石と呼ばれる結石の一種が胆嚢や、総胆管と呼ばれる部位に落ちて症状を引き起こす病気だ。しかし今回胆石ではなく、また胆嚢管を塞いだものとは中々珍しいケースだな」

 

 胆管とは、肝臓と十二指腸を繋ぐ管の名前だ。肝臓は分泌した消化液をその十二指腸へと送り込むのだが、絶えず垂れ流しにすると上手くいかない。

 それは膵臓などとも関係しているのだが──兎も角、そういう訳でそれを調整する役割を持っているのが、胆管から横に伸びた先にある胆嚢という器官だ。

 

「胆管を塞いだことで本来なら消化不良も起こるのだろうが、お前の食生活によりそのようなことはなかった訳だ」

 

「あ、はい」

 

「それで、お前は本当に無症状なんだな?腹部及び上腹部の痛みや吐き気がする訳でもないんだな?」

 

「……」

 

 発熱と頭痛を除けば、アビスの体を襲っているのは正にその通りだった。伸ばされたケルシーの手がアビスの右上腹部を少し押した瞬間、鋭い痛みが腹部を伝った。

 呼吸が乱れ、そんなアビスをケルシーはどこか無感情に見つめていた。

 

「胆石症には無症状のこともあるが、ここまで胆管が塞がれているとなれば急性胆嚢炎や急性胆管炎を引き起こしていないのは不自然極まりない。そしてそちらは先程言ったような症状を伴うのだが」

 

「……症状は、あります」

 

「分かっている」

 

「はい。すみません」

 

 しかしその言葉に反して、アビスの顔に申し訳なさというものは少しも見受けられなかった。もしやサリアから格闘術だけでなく鉄仮面をも受け継いだのだろうか。

 

「手術が必要だ。急性胆嚢炎の場合は胆嚢の摘出を、急性胆管炎の場合は全身麻酔を行い源石の融和が予見されるため、部分的な切除と縫合が必要だろう」

 

 ロドスはインフォームドコンセントをそこまで重視してはいないが、手術の概要程度なら伝える。重視していないとは言っても、それは感染者に対する手術が異常発達や体内に作られた源石などによってパターン化が難しくなっているからだ。一般性を保って定められた手術方法は意味を成さないことが多いため事前に伝えたプランは参考にしかならないこともあり、決して軽視している訳ではない。

 

「まずは重症度の測定からだ。後日手術を行うとして、お前はその覚悟だけしておけ」

 

「はい」

 

 伝えるべきことは全て伝えた。再度ワルファリンにメッセージを送り、必要な機材の準備をさせる。

 

 アビスの診療はいつも通りの淡白なやりとりに終始した。

 アビスを部屋に入れてから、ケルシーは失敗しなかった。無駄で無意味な感情を見事に押し留めてみせた。奥歯を噛み締めて我慢していたところを、必死に抑えた。歪みそうになる表情をピクリとも動かさず、只管耐えてみせた。

 

「ケルシー先生。次の検査まで時間があるのでしたら、少したわいない話でもしませんか」

 

 その言葉で、浮かそうとしていた腰を仕方なく戻した。アビスの探るような視線に返すのは普段の自分であり、アビスはそれを望んでいる。アビスの言うような『格好のいい人』であろうとする。

 

 アビスはリラに縛られることを望み、そしてそう生きているが、ケルシーはむしろ自分を縛ることの方が得意だった。

 見慣れたケルシーの無表情は、ケルシーの無感動さを表すものではない。その下にどのような感情が押さえつけられているのか、それが分かる二人は片方がとうに死んでいて、もう片方は記憶を失くしている。

 

 時間さえかければ、アビスがケルシーの心中に踏み込むこともなくなるだろう。少なくともケルシーはそう思っている。

 自分の感情がどうしてそこまで自分の中に居座り続けているのか、その理由を解ろうとしないままにケルシーは断じていた。

 

 そんなケルシーに対面しているアビス。

 彼もケルシーに訝しむような視線を見せつつ、普段通りに振る舞っている。まだ隠している症状があるにも拘らず、信頼できる人には何も話していない。

 

 結局のところ、似た者同士なのだろうか。どちらも本音を零さないようにいつも通りを装っている点で共通なのだろうか。

 ケルシーがそれにどう思うかは分からないが、もしアビスがそう言われたのであれば凄まじく顔を歪めた後にこう言うのだろう。『テラに生きるなら当然』だと。

 そんな酷く悲しい思い込みこそが、そのある種自分に向けてのものではない被害妄想こそが、アビスの心を支える一助となっている。

 

 何はともあれ二人の仮面は使い込まれていて、それは本物と見分けがつかないまでに磨き上げられているということだ。

 努めて自然な風を装い、アビスは話を始めた。

 

「ケルシー先生もWからお聞きになっていると思いますが、レユニオンには独立部隊が存在していたようですね」

 

「ああ、聞き及んでいる」

 

「名前は、確か……」

 

 レユニオンには八人の幹部がタルラの下に存在していた。パトリオット、フロストノヴァ、メフィスト、ファウスト、クラウンスレイヤー、W、スカルシュレッダー。

 そして、『亡灵(アンデッド)』。亡霊の名を冠する、未だロドスには一度たりとて姿を見せていない幹部の一人だった。

 

「ロドスと戦っていた時には不在でしたが、遊撃兼工作部隊としてかなりレユニオンの中でも存在が大きく、しかし指示を聞かなかったとか」

 

「あの時に居なかったのは扱いにくいという理由ただ一つだろう。かなりの脅威となるだろうと、タルラは言っていた。それで、その部隊がどうしたんだ」

 

「アンデッドを探すことの許可をください」

 

 ケルシーはアビスの顔を見た。書類でも裁いているかのように真剣な表情で自分を見据えていた。最悪なことに、それはジョークの類ではなかったようだった。

 ケルシーは額に手をついた。淀みない動作で寄っている皺を揉み解す。

 

「病状の安定、アーツの禁止、それに同伴者を付けても構いません。しかしこれはあくまでボク自身の嘆願ですから──うぁっ!?」

 

「それが通ると本気で思っているのか」

 

 胸ぐらを掴んでアビスを持ち上げる。アビスよりもケルシーの方が背も高いため、爪先でさえも床から離れた。

 だがアビスは変な声を出したきり特筆すべき行動をしていない。驚愕に顔を染めることもなく、ただケルシーの怒りを受け止めている。

 

「お前の脳味噌はまさか私の言うことを一日以上保存しておけないのか?それともお前は、私の言うことを聞く気がないのか。なあ、どちらが正解だ?」

 

 本来のケルシーはそのような怒り方を是としないはずだった。分かりきっている無駄な問いなど相手を追い詰めているだけで、それが叱っているのであれば正しくない。自身のストレスをただぶつけることは、相手を正したいならば逆効果になってしまう。

 だがそんなことすら頭から抜け落ちてしまうほど、アビスはケルシーの怒りを買った。

 

 ケルシーはアビスへの怒りをただ子供だからという理由だけで許していた節がある。だが何もかもを許せるわけではないし、それらが取るに足らないことの寄せ集めであっても容量は存在する。

 

 留意しろと言い含めているにも拘らず酷使するアーツ、注意しても全く頻度を下げない訓練による怪我、今回のように併発した合併症の症状を意図的に隠していることも医者として見過ごせず、重ねて言うならばLancet-2から渡した覚えすらない理性回復剤の摘発を受けている。

 上司であるはずなのに言うことを聞かず、それをなあなあにしておくのもそろそろ限界だったのだ。

 

「ロドスはお前の職場だ。オペレーターによっては弛緩した雰囲気を作ってもいるだろう」

 

 胸ぐらを掴む手に更なる力が込められる。

 

「だが間違ってもお前の家じゃない。私はお前の保護者になり得たとしても母親ではない……ッ!」

 

 アビスは子供だろう。それは分かっている。そしてそれをロドスが保護している以上、ケルシーも責任を持ってはいる。

 だがだとしてもそれが親を指すことにはならない。子供を見守り間違いを正す、そんな理想の親は居ないし、況してや本当の親ではないケルシーがそれをやる義理などない。

 

「ああ、お前は『ボクみたいな患者に拘うのは時間の無駄』だと言ったな。自分の言ったことくらいは覚えているだろう?」

 

 返答を待たず、アビスを突き飛ばすように手を離した。床に尻餅をついたアビスを見下ろし、怒りを宿した目で宣告する。

 

「中途半端にしてすまなかった、今ここでお前に対する私の方針を言い渡してやろう」

 

 逆立った尻尾がスツールを弾き飛ばし、大きな音を立てて倒れた。刺々しい言葉を吐くと共にしゃがみ、ケルシーはアビスと目線を合わせる。

 

「お前の病気はその捻じ曲がった考え方ごと私が治す。全力を賭して、お前の命はこの世に繋ぎ止めてやる」

 

 アビスが何が言いたそうな顔をして口を開き、その直後ケルシーの背から伸びてきたMon3trの爪に閉口させられる。ケルシーが幾ら理性的に振る舞おうとも、その憤激は理性を振り切ったからこそ発露しているのだ。

 乱暴にまたアビスの胸ぐらを引っ張り、至近距離で視線が交わる。

 

「お前は治す。だがそれは現在(いま)のお前だ」

 

 ケルシーが宣言する。

 

「救われたお前に、未来のお前に、過去などというものがカケラでも残ると思うなよ……ッ!!」

 

 ロドスはオペレーターの家ではない。

 だが職場だ。居場所になることはできる。

 

 ロドスは行き場のない感染者の居場所を打ち立てる。

 それはどんなに拗れた死生観を持ち女々しく過去に縋り付き未だ初恋に囚われているような面倒くさいオペレーターであっても同様だ。

 

 アビスはケルシーの手を振り払った。だからと言って諦めてやるのは癪だった。折角の救済を拒絶したアビスが嫌いになっても、救わない選択肢など元からなかった。

 

「いいか、アビス」

 

 幾分か落ち着いたケルシーが、未だ口を閉じたままのアビスに対して指を突きつけた。

 

「私はお前が嫌いだ。だからお前の言う、冷徹で無情な医療用ロボットになるつもりは毛頭ない」

 

「そんなことを言ったつもりはありません」

 

「事実そうだろう。出会ったばかりでもない、数年来の付き合いがある子供をただ病状が悪化して救えなくなったからと言って死へと突き放すような存在が、人であって堪るか!」

 

「その子供は治療を拒否しています」

 

 アビスが苛立つ。何故自分の言うことを理解してくれないのか。今までケルシーの注意も警告も全て聞き入れなかったアビスにその資格があるとは思えないが、アビス自身からすればそれは些細なことだった。

 アビスの中で、ケルシーはまだ『格好のいい人』だった。それはアビスからして嫉妬するほどに、格好のいい人だった。

 それも理解できない一因になっているのだろう。アビスは格好のいい人になりたいと思っていて、折角手に入れたそれを捨てることなど考えられないから。

 

 だから、裏切られたのだろう。

 

「言っただろう、私はお前が嫌いなんだ」

 

「……っ!」

 

 思うように行かず、立ち上がったアビスの頭に血が昇った。

 ケルシーの言った通りだったのだろう。そしてアビスの言葉はかなり本質が歪んでいる。

 何故なら、ロドスに来たばかりでは鉱石病を恐れて救われようとしていたはずなのに、救世主としての像を期待していたはずなのに、気付けば自分を見放してくれることを願っていたからだ。

 

 アビスの思う『格好のいい人』はいつしか変質していた。

 鉱石病が進み何もできなくなった自分に価値など絶対にない。そう思うようになっていたから、アビスは自分の考えが変わっていることに気付いていない。

 だから、ケルシーに対して怒りが爆発した。今まで通りのケルシーであれば黙殺しただろうと本気で思っているために、ケルシーのその行動は裏切りとしか思えなかった。

 

「嫌いなら……本当に嫌いなら、救わなければいいでしょう!相手が自ら死んでくれるのですから、それに任せることこそ最善ではないですか!」

 

「嫌いな相手が欲しいものを手に入れるのは邪魔したいだろう?」

 

「ふざけるな!貴女は命が意思より重いと言っていたはずだ!勘違いして死んでいく馬鹿を見て笑えばいい!それが貴女には出来るだろう!」

 

「それだとお前は幸福になってしまう。私たちから見て不幸なだけでは意味がない、お前が満足しているのは癪に触る」

 

「貴女は、どうして──ッ!」

 

「ああ、今のお前の表情は中々いい。お前が余裕をなくしていると、胸がすく思いだ」

 

 アビスは思わず絶句した。暗く笑うケルシーが今までのイメージとは乖離したものであることを強く認識させられ、次の言葉を探しても全く見つからない。

 

「どうした?お前は酷薄な私を求めていたのではなかったのか?お望み通りのそれだろう、泣いて喜ぶといい」

 

 両手を広げてそう言うケルシーが異常ではないのだとどうにか飲み込むアビス。

 

「お前は死に場所をロドスと決めた。ならば私はお前を懇切丁寧に扱ってやるだけだ。お前を絶対に死なせてやるものか」

 

 アビスが後退る。

 それをケルシーは心底おかしそうに笑って、二歩詰めた。

 

「もしお前が死ぬのならば、私自身が直接手を下そう。世界で一番を誇ることが出来るくらいには惨いやり方を心得ているつもりだからな。安心して殺されてくれ」

 

 まるでどこかの漫画のキャラクターだった。薄く笑ったケルシーの指がアビスの顔をなぞり、アビスの肌が泡立つ。

 先程怒りをぶつけていたとは思えない程に余裕ぶっているケルシーはアビスにとって酷く不自然に思えるが、その歪さはアビスが持つケルシー(格好のいい人)に対しての偏見によるものだろう。

 

 アビスの身長は166cm、ケルシーは169cm。

 たった3cmの差が途方もない大きさに思えるほど、ケルシーはアビスを圧倒していた。

 

「安心しろ、アビス」

 

 花が咲いたようにケルシーは笑った。

 

「お前の命は絶対に、私が助けてやるからな」

 

 アビスが更に怖気(おぞけ)立つ。

 形容できない程の違和感と、圧倒的な強者からの恐怖と、そして今まで見誤っていた自分がどれだけ危険な綱渡りをしていたのか知ったからだ。

 

 

 ちなみにケルシーのそれは半分ほど演技だ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十六 利己的思想

 

 

 そーっと扉から顔を出し、通路に誰もいないことを確認した。音を出さないように細心の注意をしつつ、夜中の館内を疾走する。

 食堂の前を通ろうとして、扉の横にピッタリと体をつける。中には夜食でも作っているオペレーターが居るのだろうか、まだガチャガチャと騒がしい。

 

 気付かれることはないだろうと思っているが、だとしても今自分の敵側に立つ相手は強大だ。少しの違和感からも全てを推理するに違いない。

 食堂を離れて、人通りの少ない通路へと忍び込んだ。あまり地理に詳しくはないが、確か食堂を迂回できたはずだ。

 

「何してるのよ」

 

 抜き足差し足で通路を進んでいたアビスをシーが呼び止めた。アビスはすぐに表情を取り繕ったが、自分を見た瞬間に面倒臭いと顔に出したのをシーは見逃していなかった。

 

「……こんばんは」

 

「ええ、こんばんは。今夜もそれなりに良い月ね、絵の題材には──ちょっと、待ちなさいよ!?」

 

「まだ何か?」

 

「話の途中、っていうか始まりじゃない!なに自然な動作で私に背を向けてるのよ!斬るわよ!?」

 

「静かにしてください、今何時だと思ってるんですか」

 

 シーが背後に手を回した。

 扉の奥から取り出したのは小自在だった。アビスを威嚇するように爪を照明に反射させ、シーはその傍で剣の柄に手をかけていた。

 アビスは当然のように待機していた小自在にツッコミたかったが、シーに睨まれて口を噤んだ。

 

「それで、こんな時間に何処へ向かってるのよ」

 

「甲板にでも、と」

 

「ここを通る意味が分からないわ」

 

「元から気晴らしが目的でしたから」

 

「じゃあその手に持っているタオルと水筒は何よ」

 

「……」

 

「確かあなた、最近鉱石病が進んでるって言ってたわね。こんな夜中に外を出歩くのなんて、何か禁止されていることでも……」

 

「さようなら」

 

「待ちなさい、『格子』!」

 

 墨のような何かが浮き上がり、シーの振った剣と同期したように、アビスの行手を阻む格子が通路に現れた。

 

「規律を破るなんて感心しないわね」

 

「シーさんが言えることではないでしょう」

 

「あらそう、それで?それがどうしてあなたのルール違反を見逃す理由になるのかしら?」

 

 この自由人め。そんな視線に込められた思考をシーは多少受け取れていたが、全く気にした様子もなくアビスを見ている。

 

「シーさん、確かにボクは今から言いつけを破るつもりです。しかしそれはしておいた方がいいと判断したからであって、決してボクがそれをしたいからするのではありません」

 

「ならそれをケルシー先生に言いなさいな」

 

「ケルシー先生はボクのことが嫌いなので」

 

「……拗ねてるの?」

 

「違いますよ、そのままの意味です」

 

「へえ、それで言っても無駄だって考えた訳ね。──いつからそんな馬鹿になったのよ」

 

 オペレーターの中には事務能力が著しく低かったり、一芸に秀でている代わりに基礎的な考え方が欠如している者もいる。だがその中でアビスは、協調性や社交性こそあまり見られないものの、社会人として及第点レベルに弁えていた、はずだった。

 実際には子供のような考えで秘匿していた過去こそあったが、それでも夜中にケルシーの目を盗んで何かをするような人物ではなかった。

 

 ルールを守ることは大切だ。ほぼ形骸化しているものや、時代錯誤の理不尽なものは兎も角として、ケルシーの定める理性的なルールは守られるべきだ。

 アビスの鉱石病が進み予断の出来ない今、ルールの枠内でより一層慎重になるべきだと誰もがそう思う。

 

 正しくアビスは馬鹿で、そして。

 

「子供ですから」

 

「まあそうね。私から見ればあなたは子供、それこそこんなくらいの子供よ」

 

「ボクはオリジムシか何かですか」

 

「……ゴホン、それはいいとして、よ。結局何をしようとしていたの?それを言えば通してあげなくもないけど」

 

「訓練室に少々」

 

「誤魔化すまでもなく訓練じゃないの」

 

「そう言っても間違いではありませんね」

 

 小さくシーの筆が揺れて、アビスの額がデコピン程度の力で弾かれた。そのボケが意図的なのかそうでないのかは分からなかったが、アビスの脳内が異常事態であることは分かった。

 

 そしてシーが再度筆を構え、アビスの方に向けた。

 だがその筆はゆらゆらと空を彷徨うばかりで一向に振られることがなかった。それを躊躇っているのか、それとも何かを待っているのか。源石灯が突如明滅し、アビスからはシーの表情がよく見えなくなった。

 

 そうして少しの間見つめあった後、シーは筆を下ろしてため息混じりに呟いた。

 

「月日に関守なし」

 

「関守?」

 

「本当、早過ぎないかしら」

 

 シーが筆を横に振ると、同期しているかのように墨色の格子は壁に溶けていった。シーはそれきりアビスの方を見ることなく、俯いたように画仙紙を睨むシーの顔はより一層観察することが難しくなった。

 アビスが小さく別れの挨拶を言うと、それにまた小さく別れの声が返された。以前は返されることのなかったそれにアビスは片眉を上げて、しかしシーと同様彼女の方を見ることはなかった。

 

 何かが変わったのだろうとは分かっても、それが具体的に何なのかアビスには分からなかった。アビスにはまだ優先するべきことがあって、そのために訓練は必要で、シーに思考を割くのはその後でも出来ることだった。

 だから少し立ち止まりはしても、アビスが振り返ることはなかった。シーの視線がアビスの元にないことが分かっていて、もう一つ言うのならシーが繊細だと全く思っていなかったことも起因していたのだろう。

 

 

 アビスの背が向こうに消える。

 

 一つ息をついて、シーは筆を置いた。画仙紙には未だ筆をつけておらず、そも筆に墨をつけてすらいない。何故真剣そうな顔を作っていたかと言えば、それはただ単にアビスをやり過ごすためだった。

 手慰みに懐中時計を小さく描いた。少しだけくすんだ金色に塗られているそれを手に取って、思いっきり向かいの壁へと叩きつけた。

 ニセモノはある種本物よりも忠実にその役割を熟す。叩きつけられた衝撃によって捻じ曲がった針が動き出した。規則正しい音を通路に響かせて、それがより一層不快に思えた。

 月日に関守は居ない。今アビスにもし関守が居たのなら、それはきっと自分だった。止められるのは自分だけだった。それを分かっていて、自分は何もしなかった。

 

 アビスは酷く利己的な存在だった。自分本位にしか物を考えられない、言うなればレユニオンにでも居るようなオペレーターだった。

 シーの長い髪がその目を覆い隠す。髪の隙間から覗いている口元は醜く歪められていて、横穴の壁についている手は固く握り締められて震えていた。

 

 シーが扉の内に普段から引きこもっているのは、どうしてなのか。それがもし自分を守るためなのであれば、その意味がとうに消えてしまっていた。

 目に見えないものは描くことも出来ない。例えば心なんて不確かなものがどんな形をしているのか実際に見えないし、それを描いたところで発する熱まで再現することなどシーにすら叶わないだろう。

 況してや、目に見えず、知ることすら出来ないものはより一層描くことが出来ない。心の傷を癒す何かだなんて、胸の奥に出来た穴を埋める何かだなんて、シーには描けない。

 

 だがそんなことは考えるのはきっと無駄だ。

 描いたそれが目に見える確かな存在だったとしても、それが自分の心を癒せる何かだったとしても、きっと虚しくなるだけなのだから。そうまで独り善がりになれるのは、きっとアビスだけだ。

 

 アビスは自分勝手だ。優先順位なんて自分だけにしか分からないものを勝手に作って、本来あったはずの笑顔を残すことなく、いつのまにか消えしまうのだろうから。

 

 

 笑ってくれていたじゃないか。

 歪な格好良さを追求することもなく、たった一人で大勢の敵を相手にする訳でもなく、自分の中に苦悩を覆い隠すのではなく、アビスは自分とエイプリルと、笑えていたじゃないか。

 

 

 懐中時計が時を一定に刻んでいる。だがそんなものはまやかしだ。科学なんてものが時の流れを証明していたとしても、生物が時間の速さを錯覚する以上、それは間違っている。

 時間の速さは一定じゃない。時計が針を動かすのは一定でも、時間の流れは一定じゃない。誰だってそれを知っている。誰だってそれを思っている。

 ただ、アビスはどうだろうか。そんな益体もない思考は切り捨てて、優先すべき事柄に向かって一直線に進むのではないだろうか。それは酷くつまらない、褪せた人生だ。シーにはそう思えた。

 

 シーが頭を掻きむしる。

 こんなはずではなかった。その後悔は今さっきのことに限らず、アビスと関わりを持った自分の行動全てに向けられたものだった。

 

 アビスに現前している鉱石病の死は、アビスだけに影響を与えるものではない。アビスの感じる死の恐怖が押し潰すのはアビスだけでない。

 

 人が死んでいくのを、シーは見ていたことがある。それは数え切れないほどの回数で、それは救えないくらいの重量でシーの心にのしかかった。

 アビスがどうなるのか知らなかった訳ではなかった。淡い光の群れとなった人だって知っているのに、それが想像できないようなシーではなかった。

 アビスだけではなく、エイプリルもいつかは死ぬ。ロドスもいつかは滅びる。

 

 ずっと分かっていた。覚悟していた。只人と関係を持つことが何を意味するのか知っていたから、何度だってアビスを突き放すように拒絶した。

 それでもアビスはいつも苦々しく笑うだけだった。ロドスでここが一番落ち着くのかもしれない、なんて。まだビスケットも食べていない頃にアビスはそう言っていた。

 強引に突っ撥ねることが出来ない訳ではなかった。まだもっと子供らしかったアビス程度、口先で丸め込んでその場から離れさせることすら造作もなかった。

 だがシーがそれを出来なかった時点で、もう後戻りなんて出来ない。一度絆された時から、アビスの死まで見届けるかもしれないと覚悟を決めていた。

 

 アビスの死にショックを受けるのはシーだけではない。エイプリルだって、きっと少なくない時間アビスの死を悼むだろう。あのコータスに至っては後を追うことすらあるかもしれない。

 今になって接する相手を増やすだなんて彼は何を考えているのか。まるで冥土の土産に楽しい時間を過ごそうとしているようで辛かった。巻き込んでやろうとでも思っているのか。だとしたらそれは成功だ、これ以上もないくらいの成功だ。

 

 訓練に行くアビスを引き留めなかったのは、諦めからではない。格子を消したのは、間違ってもアビスの死を欲しているからではない。

 

 それは、シーが自己中心的だったからだ。

 彼に死んでほしくない、その行動を今すぐに止めたい。そうは思っていても、それのせいでいつか吐かれるかもしれない彼の怨嗟がシーの口を閉ざした。

 救った相手が自分への怨恨に染まる光景。どうして止めてくれたんだと詰め寄られたなら。罵声を口の中で押しとどめ、堪えきれない怒りを秘めながら自分から離れていくアビスをいつか見ることになってしまうのなら。

 

 そんなことを想像しただけで、そんな未来を想定しただけで、言う気は残らず失せてしまった。

 

 

「別れを恨んでは、鳥にも心を驚かす」

 

 

 そんな詩をシーは思い出した。

 彼にとってその『別れ』とは、家族との惜別だったのだろう。

 

 自分にとってその別れはきっと、少しだけ違う。

 ニェンとの別離を悲しく思うことはあっても、それを惜しむことはない。使い古された表現技法が捨てられるのは、民衆の心が動かされる絵が変わってしまうのは仕方のないことで、その変化を否定するようなことはしない。

 だからニェンや自分が御役御免になったとしても、それを惜しむべきではない。残念ではあっても、失われるには失われるだけの理由が存在するのだから。

 

 だからシーにとっての『別れ』は、理解者の喪失ではないか。

 

 生きるために足掻けばいい。

 その姿が一番好きで、応援したくて。

 

 

 

「どうか、彼が救われますように」

 

 

 

 その言葉はきっと、何よりも利己的なものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 握り固めた拳から血が垂れた。

 訓練室の中、転がっていた瓦礫に叩きつけた結果だった。

 

「体が鈍っている……いや、違うはず」

 

 少しだけ意味ありげな態度を見せたシーに後ろ髪を引かれる思いで訓練室に来たアビスは、久しぶりに体を動かした。ここのところ検査が多く、数日前に入れていたサリアとの訓練もケルシーによって取り消された。

 あの時に比べれば幾分か和らいでいる腹痛や頭の熱を誤魔化しつつ、アビスは軽い運動から始めた。

 

 準備運動のサーキットトレーニングを終えたアビスが本格的な筋力トレーニングやアーツ練習を行う前に軽い気持ちで始めた感覚の擦り合わせ。

 尻尾で掬い取った瓦礫を叩き割り、どの程度上手く自分のイメージ通りに出来ているのかを少し見ようとしただけだった。

 

 瓦礫は割れた。自分のイメージ通り、そこまでの乖離も見せず粉砕することが出来た。しかしそれにぶつけた左手の甲から血が流れた。

 血を拭い取ればもう流れ出ることもなくなったが、明らかに異常だ。以前より鈍って攻撃の威力が低くなることならまだしも、あの特に硬くもない*1訓練室の素材を割ろうとして自分を傷つけるなんてありえない。

 そも、アビスの物理強度は種族由来のものだ。それを最大限伸ばそうと努力していたのだから、一ヶ月にも満たない時間でそれが低下するなど前代未聞だろう。

 

 しかしその答えは既に判明していた。

 

「お前の鉱石病が進んだからだ」

 

 訓練室の扉が開いていた。

 姿を見せたのは数時間前までアビスの検査をしていたフェリーンの女性──つまりはケルシーだった。

 カツカツとヒールから音を鳴らしながら、ケルシーは訓練室に足を踏み入れる。

 

「どうして、ここに」

 

「知る必要はない。一つ言うとするならば、ロドスはオペレーターが好き勝手できるほど艦内の設備に手を抜いていない」

 

 アビスの問いへの答えはケルシーのポケットに入れられた端末にある。ケルシーの端末はクラッキング対策及び冷静な思考時間を与えるために厳重なロックが何層にもなって掛けられているが、その代わりに機能はロドス随一を誇る。

 PRTSとリンクさせることによって全端末の位置情報を取得することは疎か、艦内に取り付けられた監視カメラのログまでサルベージすることで、現在地をパーセンテージ表記で表すことすらできる。

 

 ケルシーがアビスの手を掴むと、緑色の光がその手を包んだ。ケルシーの至って普通そうな振る舞いや行動にアビスが困惑を深めていく。

 

 しかしまあ、怒っていない訳もなく。

 

「さて、説教の時間だ」

 

「あ、あのケルシー先生、もしボクの体が弱くなったと仰るのでしたら少し加減して掴んでいただいても──あの、かなり痛いんですが。指が千切られそうなのですが」

 

「いっそ千切るか」

*1
[注]あくまで個人の感想です



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十七 ツノ

タイトルを決めなければと思いながらも仮題よりいいものが思いつかない頭の弱い作者をどうか許してください。


 

 

 ケルシー先生が端末を操作した。軽快な効果音と共に天井からも音がして、ボクにだけスプリンクラーがかかった。

 ケルシー先生は機能の一端を見せたかったんだろうけど、もっと違うものの方が良かったと思う。少なくともこの局地的ゲリラスプリンクラーなんて機能は絶対に要らないはず。ボクは今何のために濡れ鼠にされてるんだ。訴えたら勝てるかな。

 ……ケルシー先生。ボクが悪かったのでそろそろやめていただいても宜しいですか。

 

「ああ。このタオルを使え」

 

「ボクが持ってきたものですよ、それ」

 

「細かいことは気にするな」

 

 残念ながらボクのよく知るケルシー先生は何処かへ行ってしまったようだ。今のケルシー先生は全然格好良くな……格好……ちょっと待って、今も割と格好良く感じるのはどうして?ケルシー先生ってそういう何かしらの補正を持ってるのかな。ボクも欲しいんだけど。

 えっと、ダークヒーローだったかな。以前気まぐれに読んだよく知らない雑誌にそんな感じのことが書いてあったような気がする。

 そう考えればMon3trもそれらしい存在に思えてくる。別人格(ペ◯ソナ)みたいな、こう、幽波紋(スタ◯ド)みたいな。あ、でもそうなるとケルシー先生とMon3trがニアリーイコールの関係に……?

 

「何か失礼なことを考えていないか」

 

「全く心当たりがありません」

 

 ケルシー先生の視線が何故だか重量を伴っているように感じる。Mon3trと同列に並べられるのは、ケルシー先生からして失礼なことなのだろうか。いや、きっと違うはず。だってケルシー先生は服に緑と黒の配色してるし。

 ところであの服って何着同じものがあるんだろう。気に入ってることは確かなんだろうけど。

 

「さて、遊ぶのはここまでだ。検査によって判明したことをお前に伝えることが先……いや、その手が何故傷ついたかを説明するか」

 

 なんとか説教は回避できないかな。

 

「まず前知識として、何故ヴイーヴルが耐久力の高い種族と言われているのか知っているか」

 

 首を振って否定する。

 

「耐久力は概ね『物理強度』と『回復速度』の二つによって構成されている。物理強度は動的強度を主軸とした材料強度学についての視点から評価されたもので、回復速度は主にそれらによる破壊が発生し損傷を獲得した場合での──」

 

「差し支えなければ噛み砕いていただけると」

 

「その実験での耐久力の定義を話しているだけだ。そしてその定義は、どれだけ傷つけられやすいか、そしてどれだけその傷が癒えやすいかを評価したものとする」

 

 それだけなら材料強度学なんて複雑なものに言及する必要はなかったのでは?ケルシー先生、そういうところありますよ。

 

「種族別にした耐久力の実験概要だが」

 

「それも割愛してください」

 

「……その実験においてヴイーヴルは非常に優秀な値を叩き出した。まず物理強度としては動的強度に優れていて、それに少しは劣るものの静的強度においても平均値より一回り以上高い数値を観測することができた。動的強度は外部損傷に関わるもの、静的強度は内部損傷に関わるものだと思っておけ」

 

 外部損傷ってことは、例えばナイフで切りつけられた時のこととか、かな。内部損傷は……骨や筋肉にかかる負荷のことだから、高所からの落下に対する強度とか、そういうものかな?

 

「この実験結果を受けて、その損傷に強いということがどういった理由によるものかを追求して更なる実験が重ねられていった。クルビア、リターニア、ヴィクトリア。主にこの三国に居る科学者たちが実験を重ねていった」

 

 ダメだ、全然興味が湧かない。ケルシー先生は整理して話をしてくれるからきっと分かりやすいんだろうけど、そもそも結論以外聞く気がないボクにとってこの時間は拷問だ。

 

「さて、ここで一つお前にクイズを出すとしよう」

 

 やめてください。

 

「お前のツノはシカに近いか、それともサイに近いか」

 

 やめてください……っ!そういう知識マウントを取るかのようなクイズは人に嫌われますよ!

 ボクの頭の中にそんな知識は全く──あっ。

 

 シカは毎年生え変わって、サイは欠損するまで生え変わりがないって聞いたことがあったような……?

 

「サイ、でしょうか」

 

「正解だ。お前のツノはサイのそれに近い。共通点としては成分が挙げられるだろう。サイのツノは私たちの爪や髪と同じ成分でできていて、お前のツノも同じようなものだ」

 

 なる、ほど?そういえばWに撃ち抜かれた時も、ボクが痛みを感じたのは削られた部分じゃなくてツノの根元あたりだった。ツノ自体に痛覚はなくて、正に髪の毛を引っ張られた時みたいな痛みだった。

 あんまり考えたことはなかったけど、ツノにも違いってあるんだ。正直そこまで知りたいことでもないけど。

 

「そしてお前たちヴイーヴルは、皮膚にそれが混じっている」

 

「えっ」

 

「格落ちではあるものの、全身がツノのようになっている訳だ」

 

「えっ」

 

 えっ、えっ。

 

「ツノのようにそれが主体となって出来ている訳ではないから、人体の弾性をむしろ補強しつつその動的強度を高めることができる」

 

「そ、それってドラコやオニなどもそうなんですか?」

 

「オニの方はまた違ったと思うが……ドラコに関しては判明していない。あのヴィクトリア王国に伝わる血筋がそのような実験に参加する訳もないからな」

 

「タルラさんに協力していただくのはどうでしょうか」

 

「専用の器具を態々購入するのか?それとも製造するのか?ロドスという企業がそのような不必要な実験に投資する義理はない」

 

「まあ、そうですよね……」

 

 いきなり質問を始めたボクを不審に思ってか、ケルシー先生が眉を寄せた。

 

「どうしてそこまで知りたいんだ?」

 

「一緒に死んだ目をしてくれる仲間が欲しいんです」

 

 ボクはツノで、それは科学的に証明が済んでいるらしい。こんなのショックどころじゃないんだけど、どうしよう。ツノがない人にとってはイマイチ分からないかもしれないけど、つまり『貴方は親指と同じです』とかそういうことだよ?

 はぁ。それで耐久力が上がってるならきっと歓迎すべきなんだろうけど、ちょっと複雑過ぎる。

 

「……それで、何の話でしたっけ」

 

「お前の物理強度が低下した理由について、だ」

 

 ああ、そう言えばそんな話題だった。

 

「先日行った検査において、全身への転移が見受けられつつあると伝えただろう?」

 

 ああ、なるほど。

 

「その移転して散らばった源石が、先程口にしたツノの成分を弱めているということですか」

 

「厳密には違う。だが、概ねその通りだ。お前の細胞間を補強していたそれは本来の半分も役に立たず、ヴイーヴルとしての高い耐久力を失っている」

 

 それは、少し困る。

 

「改善する方法はありますか」

 

「ない」

 

 まだやるべきことが残ってる。

 

「本来の機能を全損していないのであれば、再度強化することも可能なのではないですか」

 

「いいや、無理だ」

 

 今から武器を取るのは間に合わない。

 ボクは亡灵(アンデッド)に用があるんだ。

 

「ボクの尻尾はどうなっていますか」

 

「源石の転移しない鱗に影響はないだろう。だがその内部は恐らく同じようなことになっているはずだ。ツノは根本を除き固いだろうが、根本から折れる可能性はある」

 

 そんなの、どうしろって言うんだ。

 

「お前の手から血から流れ出したのは、お前の筋肉に何の変化もないからだろう。お前の手が痛まない最大限の力と、今の耐久力が噛み合っていなかった」

 

 そうだ、ボクの手は弱くなっても瓦礫を粉々にすることは出来た。ボクの筋肉までは衰えてなんかいなくて、だからまだ希望はある。

 

「だがそれも直になくなる。数週間、事によれば数ヶ月かかるだろうが、今の耐久力を超過しない程度に調節できるだろう」

 

 そんな……いや、最低数週間なら余裕がある。過激派として残ってしまったレユニオンの掃討には龍門近衛局だって力をかけるはずだろうから、きっとそれまでに。

 

 握った手に力が篭る。痛いのは嫌だけど、それよりやるべきことがある。どこまで切り捨てるかはちゃんと考えて行動しなきゃ、最後には何も残らない。残ってくれない。

 

「その顔は、やはり諦めていないのだな」

 

「やるべきことは、体が弱くなった程度で変わりません。ボクの体がどれだけ鉱石病に侵されてしまっても、それは絶対です」

 

「なればこそ、私はお前の意思を全て踏み躙って笑おう」

 

 ケルシー先生がボクを睨む。今度はボクもどうにか怯まずに居られた。ケルシー先生がどういう人だったのか、そしてその権限を振り翳せる範囲がそこまで広くないって、今なら分かってるから。

 

 さて、ケルシー先生の話は終わったようだし、スプリンクラーで少し冷え始めているのをどうにかしないと。

 

「どこへ行く」

 

「……」

 

「まだ説教が残っているだろう」

 

 逃げます。

 

「逃がすか」

 

 

 

 

 ケルシー先生から油を搾られたその翌日、ボクはロドスの図書室に足を運んでいた。図書室内にある蔵書の数は分からないけど、新書から専門書まで幅広く、それでいてかなり広い分野を網羅していることだけは確かだ。

 図書室を利用する人は割と多い。アーツ関係の本を読みにラヴァさんが来ていたり、ポデンコさんが来ていることもある。

 今日も探せば一人くらい、知り合いが居るはず──と、やっぱり直ぐに見つかった。

 

 向かいから一冊の本を片手にこちらへ歩いてきた、水色の髪をしたウルサスの少女。イースチナさんだ。

 

「こんにちは」

 

「あぁ、はい。こんにちは」

 

 なんか睨まれてる?

 

「えっと、お元気ですか?」

 

「どのような本をお探しですか?」

 

 えっ。

 

「植物について、です」

 

「ではこちらに」

 

 あれ、ボクの声って3%くらいの確率で相手の耳に届かなかったりするのかな。もしかすると鉱石病の影響?

 首を捻りながらイースチナさんの後をついていくと、本棚の置いてあるエリアを抜けてしまった。そのままイースチナさんはとある扉を開き、ボクに手招きする。

 イースチナさん、そこは読書用の個室ですが。中に入れば、椅子に座ったイースチナさんが腕を組んで不機嫌そうにしていた。

 

「アビスさん」

 

「はい」

 

 この状況は一体……?

 

「心当たりはありますか」

 

 えっ、ボク何かしました?

 イースチナさんということで咄嗟に思いつくのは二つ。イースチナさん自身のことと、もう一つは自治団。

 だけどボクはどちらにも深入りしてないし地雷を踏んだ覚えもない。強いて言うなら同じチェルノボーグ出身であるラーヤと引き合わせたくらい……あっ。

 

「ラーヤのことですか」

 

「おめでとうございます、あと四秒遅かったら衣服を乱して泣き叫びながら個室を飛び出していた所です」

 

「もしかしてボクは今追い詰められているんですか?」

 

「はい」

 

 いや『はい』じゃなくて。

 そんなことしたら本当にラーヤがボクを殺しかねないんですよ?これはボクの自惚れとかではなく実際既に何度かキレられてるから、あの、本当にやめてください。

 

 今のラーヤがそれをするのかは、正直なところ分からないけど。

 

「最後にラーヤと会ったのはいつですか」

 

 最後?最後に会ったっていうのはつまりラーヤが部屋に鍵をかけたあの日だから、つまりは検査の日か。

 

「確か一週間ほど前かと」

 

有罪(ギルティ)ですね」

 

「いったぁ!?」

 

 ちょっと、アーツはやめて!?ヴイーヴルに対して術攻撃は理に適ってるけどさ、味方に対する攻撃じゃないから!

 

「ああ、質問を間違えていました。あなたが最後にコンタクトを取ろうとしたのはいつですか」

 

「三日前ですね」

 

有罪(ギルティ)

 

「いたたたたったぁ!?」

 

 あれ、君ってそんなに連射の利く人だった?今の本気を出したアンジェリーナさんのマシンガン(スキル2)くらいあったよ?

 あのですね、ボクって一応イースチナさんの味方側なんですよ。驚きましたか?本当に痛いのでもうやめてくださいね?

 

「その時は何を?」

 

「部屋の外からノックと声掛けを」

 

「最低ですね」

 

「痛っ!」

 

 ど、どうして……?

 

「部屋に閉じこもった人が居て、その人を大っぴらになんとかしようとするなんて愚の骨頂です。況してやドアの前で声をかけるなんて、隣室の人や近くの人に広まってしまう最低な手段ですよ」

 

「そう、ですね」

 

()()()()()()()()()んです」

 

 ……っ!

 

「廊下を通るのは親しい人だけじゃない……アビスさん?」

 

「あっ、いや、大丈夫です。すみません」

 

 ケルシー先生の言葉と、イースチナさんの言葉が重なった。ボクが思っているよりもずっと、ロドスのことを自分の家だなんて認識がボクの中に根付いてる。

 少しだけ嫌な気分だ。心なしか頭の芯に響く痛みがその強さを増したように思える。

 

「アビスさん、ラーヤが部屋に閉じこもった理由をあなたは知っているのでしょう?」

 

「知っています」

 

「それをお聞かせ願えませんか」

 

 そんなの、ボクが知っているとするなら答えは一つですよ。イースチナさんが分からないなら、それこそ一つだけなんだ。

 

「ボクですよ。ボクのせいです」

 

「何を、言ったんですか」

 

 イースチナさんの声に力が篭る。

 

「これ以上は言えません」

 

 申し訳ないけど、ボクの口からは言わない。ボクがアンデッドを探す時の邪魔になる可能性は、出来る限り潰しておきたいから。

 今のところイースチナさんがボクのために進んで何かをするとは思えないけど、それも命が関われば危うい。ボクにとってはゴミみたいな命も、他の人から見れば価値があるらしいから。

 

 頭が痛い。

 

「何故隠すのですか」

 

「隠すことに利があるからでしょう」

 

「そんなことは、分かっています……!」

 

 イースチナさんのアーツが暴発しそうなほどに高まっている。少し前(第一章で)、ニェンさんに隠していたことを言い当てられた時のボクと同じようなものだと思う。あの時のことはアーツのおかげであまりよく覚えてないけど。

 

「私はラーヤの友人です。ラーヤを遠ざけていたあなたより余程ラーヤのことを知っています……っ!」

 

「分かっています」

 

「私にはあなたがラーヤの感情を弄んでいるようにしか見えません!それなのにまだ話さないと言うつもりですか!」

 

 イースチナさんの掛けていた片眼鏡に亀裂が入る。

 ボクの知らないうちにラーヤとイースチナさんはここまで仲良くなっていたのか。

 イースチナさんの言っていることを受け止めるより先に、そんな感想が頭に浮かんだ。

 

 でもそんなことは関係ない。ラーヤとイースチナさんの仲が良くなっていたからって、ボクが自分から不利になる情報を提供しようとは思えない。

 

 けど、まあ。

 

「……分かりましたよ」

 

 イースチナさんがボクを止めるなんてことはきっとない。ボクが鉱石病で死にたいなんて知ってる人は少なくて、その上で鉱石病が悪化してることは知ってるのはケルシー先生と、サリアさんくらいだ。

 だから心配は要らない。それなら、イースチナさんがラーヤの依存先になってくれたら、その方が絶対に良いんだ。

 ボクはどうせ死ぬんだから、今のうちに。

 

「改めて聞きます。何を言ったんですか」

 

「ボクの、病状についての話です」

 

「病状……病状、ですか?」

 

 イースチナさんが首を傾げる。

 

「ボクは感染者なんですよ。外見からは分かりませんが、武器を振っているオペレーターの中では、かなり進んでいる方なんです」

 

「すみません、何の話ですか?」

 

「えっ?」

 

「ラーヤに酷いことを言ったのではないのですか?」

 

「いや、違います。ボクの鉱石病について話したら泣き出してしまって……落ち着いてきたと思ったら今度は自分の部屋に走って行ってしまって、そのまま今に至ります」

 

「つまりラーヤはアビスさんの鉱石病が思っていたよりも重症で、それにショックを受けて閉じこもっている、ということですか?」

 

「えっと、はい。その時まで具体的な数字を言っていなかったので、一足跳びになってしまったのも原因かと思います」

 

「………………はあ、そうですか」

 

 イースチナさんは浮かせていた腰をすとんと椅子に下ろし、割れて危ないモノクルを外した。さっきまでの怒気が綺麗さっぱり消えて、線が細くなった印象を覚える。

 

 ラーヤはまだロドスに来てからそんなに経ってない。

 だから局所的ではあるものの、ラーヤのおかげでボクは周りからクズだと思われているかもしれない。恐らくラーヤを都合良く扱っている、みたいな。

 

 イースチナさんは途轍もなく複雑そうな顔をして、割とショックを受けているボクに頭を下げた。

 

「すみません、私の勘違いでした」

 

「いえ……普段からボクもぞんざいに扱っていましたし、仕方のないことですよ」

 

「そう言ってもらえると助かります」

 

 疲れた顔をするイースチナさんに、ボクは苦笑するしかなかった。

 

 話が終わったのなら、もうこの個室にこれ以上居る必要もない。イースチナさんには仕事だってあるかもしれないし、さっさと出てしまおう。

 そうして、扉のノブに手をかけた時だった。

 

 

「ねえ、アビス。そこに居る?」

 

 

 他ならぬラーヤの声が、個室に響いた。




 
最近『独自設定』タグを免罪符に好き勝手する作者が居るらしいですよ。怖いですね。
正直当初はヴイーヴルをこんな人外にするつもりなんてありませんでした。ただ、タルラとかサリアの人外っぷりを見ると種族の特徴で済ませるのも味気ないかと思いまして。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十八 闖入者

 

 

「ねえ、アビス。そこに居る?」

 

 ボクがまず一番に行ったのは、個室の鍵がかかっているかどうかの確認だった。けど生憎と鍵自体がない。かなりヤバい。

 何がヤバいって、こんな狭い個室の中でボクとイースチナさんの二人が利用しているって状況が既にアウト。ラーヤは確実に誤った答えを導き出すだろうし、そうなればラーヤがいよいよをもってヤバい。

 

 どうしますか?そうイースチナさんに目で聞いた。ラーヤの偏愛はイースチナさんも知っていて、だからボクの答えにノータイムで『私は息を殺しています』と返してくれた。

 えっ、今のどうやって答えたんですか?

 

「……アビス?中で寝てるの?」

 

「ぁ、いや、起きてるよ。ラーヤ」

 

「そっか!」

 

 急に声が調子付いた。そんな事態じゃないのに、イースチナさんはボクを冷やかすように肘で脇腹の辺りを(つつ)いた。くすぐったいです。

 ここ最近ケルシー先生と話してばっかりだったから、分かりやすいラーヤの声に少し安心する。

 

「あの、さ。アビス。入ってもいい?」

 

「ごめん、ちょっと無理かな」

 

「……そっか」

 

 分かりやすいのは良いことだけじゃないって思い知らされた。

 分かりやすく気落ちしたラーヤの声は少なからずボクを悲しい気持ちにさせた。あとイースチナさんはラーヤの声に申し訳そうな顔をしながらボクの脇腹を肘で強く突きのけた。心と体の両方が痛いです。

 

「ごめんねアビス。迷惑だよね、こんなとこまで押しかけて。発信機なんてものまでつけて追い回して、目の前で泣いて部屋に閉じこもってさ」

 

「それは特段迷惑じゃないよ。ただボクが他の人と話している時は、痛っ……!?」

 

「何を言おうとしているんですか」

 

「……兎に角、気にしないでいいよ」

 

 アーツが直撃した額を摩る。

 頭痛と相俟って中々のダメージ。

 

 あ、ヤバい吐き気もしてきた。

 

「ラーヤ、答えは出た?」

 

「いきなり何を聞いているんですか!」

 

「聞かなきゃ不自然ですよ!」

 

 イースチナさんの言い分も分かるけど、ボクだって気にはなってるんだから。一刻も早く聞きたくて、顔を合わせて話したいのはイースチナさんもボクもラーヤも同じことなんだ。

 

「……もう何日になるのか分からないけど。アビスと会えないのは、私やっぱり辛かったんだ。何にもやる気が起きなくて、もうアビスに手伝ってもらうしかないくらいレポートが溜まってる」

 

「じゃあ仕方ない、手を貸すよ」

 

 そう言ったボクに返ってきたのは、とても嬉しそうなラーヤの声だった。

 突き放すような、面倒臭がるような声色になってしまったのを少し後悔する。

 

「これが世に言うツンデレですか……」

 

 違います。

 

「話が逸れちゃったけど、私が言いたいことは変わらない。私はアビスと一緒に居たいから、答えなんて決まりきってる」

 

 居た堪れなくなったのか、イースチナさんは本の装丁に指を這わせ始めた。たぶん盗み聞きしてるような罪悪感が凄いんだろうな。

 

 ラーヤは結局、死ぬと決まってるボクの近くに居ることを選んだらしい。あのラーヤでさえ一週間くらい悩んだと考えるのか、それとも何か言われることもなくショックから立ち直ったラーヤが凄いと考えるのか。

 

「本当にそれでいい?」

 

「当然!」

 

「じゃあボクが死んだら、どうするつもりなの?」

 

「……えっ?」

 

「ラーヤはボクの隣で、ボクが死ぬまで見ているんだよね?じゃあその後はどうする?ロドスに居続ける?それともロドスを辞めて他に行く?非感染者のラーヤはどちらも選べるよ」

 

「じゃあ、ロドスに居るよ」

 

 ラーヤ。

 『じゃあ』なんて考えは、許されないよ。

 

「ボクの持っていたような秘密がないラーヤは、必然的にドクターの演習に参加することになる。ボクじゃない人との付き合いを考えなければならない。W……への態度はいいとしても、ナイトメアさんに対してあんな態度を取るのはダメだ」

 

 友人を作った。それはいい。

 でもね、ロドスは家でもなければ学校でもない。ケルシー先生の言う通り、ここはロドスアイランドと言う名の企業なんだ。

 仲の悪い同僚が居てもいい。けれど、それを表に出すようではダメだ。ボクが言えることでもないんだけど、言っておく必要があるんだから言うしかない。

 

「元来戦うって行為はハードルが高い。生き残るためだとか、それが仕事だからと割り切れるならともかく、ラーヤが目標もなく戦い続けられるとは思えない」

 

 辛辣かもしれないけど、もう一度部屋に篭るかもしれないけど、こんな言葉でそうなるのならそれの方がいい。そこまで考えられて、初めて人の死を見送る決意をしたと言えるんだから。

 ボクは、その決意をできていなかったのだろうけど。

 

「目標、は……」

 

「いっ!?あ、いや、なんでもないよ!」

 

 痛む脇腹を両手で押さえて振り返った。

 そこにはボクの脇腹を全力で抓ったイースチナさんが、誰にでも分かりやすいようなお手本の顰め顔をしていた。ま、まあボクも言いたいことは分かる。

 

「それは今言うべきことですか?」

 

「言った方がいいかなって思いまして」

 

「本当に?本当に〝今〟言った方が良かった、と?」

 

「はい」

 

「過失なので有罪(ギルティ)です」

 

()っつぅ!?」

 

 威力が抑えられてるとは言っても、このままだと戦闘も何もしてないのにアザができるよ?ケルシー先生にあらぬ誤解をかけられそうで怖いんだけど……

 

「なんでイースチナの声がするの?」

 

 あっ。

 

「アビス。扉開けるから」

 

「待って待って待って待って!!」

 

 ああヤバい、ボクがヴイーヴルの力で抑えてるのに扉がガタガタ言ってる!ラーヤはもしかしてこの一週間ずっと腕とか鍛えていたりしたのかなぁ!?

 

「ちっ、違うんだよラーヤ!ちょっと端末が誤動作を起こして通話状態になっただけなんだ!」

 

「じゃあ入れてよ」

 

「諸事情あって無理、ごめん!!」

 

 なんで図書室の個室に鍵がないんだ!どうしてケルシー先生は鍵をつけなかったんだ!さてはボクをこうやって追い詰めるのが目的なんだなそうなんだな!

 くっ、追い詰められ過ぎて思考が変な方向に……!

 

「どうしますか、イースチナさん」

 

「別段隠す仲でもないのではありませんか」

 

「それならどうしてさっきは声を潜めていたんですか!?」

 

「……やっぱり、二人で同じ個室に入ってたんだ」

 

 ラーヤの声が低くなる。イースチナさんの暴挙によって更に力が引き出されたのか、ボクの力でもあと数分保たないくらいの力で引っ張られてる。

 これ、もう本当に無理……っ!

 

「分かったラーヤ、話をしよう!一先ずこのドアから手を離して欲しいんだ!」

 

「嫌だ!!アビスとイースチナが二人きりなんて、そんなの放っておける訳ないっ!さっさと開けて!」

 

「私は本でも読んで待っていますね」

 

 はあ!?

 

「あっ、そうだ。イースチナ開けてくれない?」

 

 えっ、ちょっと!

 

「イースチナさん、ラーヤに惑わされないでください!」

 

 イースチナさんは、たぶんラーヤのことを勘違いしてる。

 ラーヤがボクに向けているのは恋愛じゃなくて、依存感情だ。それも故郷を滅ぼすような規模のテロリストから守ってくれた対象に向けている。

 ボクから言うのは嫌だけど、ラーヤの感情は友愛を超えてなお大きい。庇護対象に取って代わられるとなれば、それはきっととんでもないことになる。

 それを、やっぱり正確には理解していなかった。

 

「ラーヤに何故そこまで意地悪をしているのか分かりませんが、私はラーヤに付きます」

 

 やめて、痛いっ!

 本の角で殴らないで、もっと大事にしよう!?

 

「イースチナ、もう開けちゃってよ」

 

「そうですね」

 

「やっ、やめた方がいいって──!」

 

 イースチナさんがボクを押し退けて、扉を開けようとした。

 ラーヤの腕がドアの隙間に入って、イースチナさんの腕を傍目から分かるぐらいに強く掴む。ああもう言わんこっちゃない。

 

「……ラーヤ?」

 

「アビスに近寄るな」

 

 腕を強く握られたイースチナさんの顔が痛みに歪む。

 ラーヤの握力って今どうなってるの?コータスにしてはとんでもない身体能力じゃない?

 って、そんなことを考えてる場合じゃない。

 

「ラーヤ、落ち着いて」

 

「黙ってろ」

 

「はい」

 

 ぐりんと首をボクの方に回したラーヤの目は、全開まで見開かれていた。恐怖とか驚きだとかを感じる前に条件反射で「はい」が出た。

 もしかしてなんだけど、ラーヤはボクより強かったりする?なんか強者の圧みたいに感じたんだけど。(プレッシャー)って読むヤツだよねそれ。

 

「イースチナ、私言ったよね。『アビスに近付かないで』って。それに対して頷いてたよね」

 

 ラーヤの腕に震えるほど力が篭る。

 

「なんでそれを守らなかったの?」

 

「それ、は……あなたが部屋に閉じ籠った原因だと、考えたからです」

 

 全然悪くないんだよ、ラーヤ。イースチナさんは全然悪くないんだよ。

 援護射撃したい気持ちとラーヤの(プレッシャー)がボクの頭の中で鎬を削ってる。結局心の中で援護射撃をすることにした。(プレッシャー)に負けたとも言う。

 

「え、なに?私が居ないことを口実にしてるの?」

 

 あっ、ヤバい。

 

「私が居ない隙に、丁度いい口実があったから、だからこんな個室にまでアビスを連れ込んだってことね」

 

「ラーヤ、そろそろやめた方が……」

 

「黙ってて」

 

「でも」

 

「黙ってろッ!」

 

「はいっ!」

 

 だから怖いって。緩急つけてボクを静かにさせるのやめよう?イースチナさんがちょっと笑いそうになっちゃってるから。あ、これボクに対して笑ってるのか。

 

「……チッ。次やったら許さないから」

 

 そう言ってラーヤはイースチナさんを解放した。

 でもねラーヤ、それはチンピラのセリフなんだよ。ニェンさんに返してあげなさい。あ、口が滑った。

 

「で、アビス」

 

「ボクは何もしてない」

 

 そう、個室に入った経緯にボクの非は一切存在しない。イースチナさんには悪いけど、でもそれが全て事実なんだから仕方がない。

 

「ボクはイースチナさんに連れられるがままにこの個室へと案内されたから、本当に何もしてない。ボクにも少し抵抗はあったんだけど……」

 

「じゃあなんで図書室に来たの?」

 

「えっ、あっ」

 

「ねえねえなんでここに来たの?アビスに読書の趣味はないよね、任務も鉱石病のおかげでないんでしょ?部屋の中で聞いてたよ?じゃあ、なんで?」

 

 えっと、ここで馬鹿正直に答えるのは愚策だよね、分かってる。それなら他にはどんな選択肢がある?別の本を探しに来たのだとしても説得力のある言い訳を思いつかないし、そうでなければ別の用事でここに来たのだと言わなきゃいけない。

 あっ、そうだ。

 

「ケルシー先生から、司書業務の手伝いを頼まれていまして。演習記録も没収されているので仕方なく足を運んだんですよ」

 

 ケルシー先生は図書室にそうそう足を運ばない。今さえ収められればきっとラーヤの怒りも一段階下がるだろうし、イースチナさんの前ではやりたくない宥め方も手段の一つになる。

 これぞ完璧な回答!

 

「で、どうなのイースチナ」

 

「植物に関する蔵書を探していたようでした」

 

 ここで盛大なしっぺ返し!?もしかしなくてもボクがイースチナさんに罪を(なす)りつけるような発言をしたからですか!?

 

「アビスって、ポデンコさんのことそんなに好きなんだね」

 

 ラーヤが優しい声でそう言った。だけどその顔は感情なんて一つも見えない無表情。どうやって今の声出したんだろ。

 

「それに、敬語になってたよ?」

 

「あっ」

 

「分かりやすく嘘吐くよね、アビス。余りにも分かりやすくって、私は思わず煽られてるのかなって思っちゃったよ」

 

 ラーヤがボクに一歩近づく。

 ボクはその一歩のうちに個室の壁まで下がって、覚悟を決める。

 何故かラーヤはポデンコさんやカーディさんのことになると途端に沸点が下がる。今脱しておかないと、数時間この狭い部屋で説教されることになるかもしれない。

 ふざけるな、本当ならボクは今頃ポデンコさんとの話の種を作れていたのかもしれないんだぞ!そんな時間の無駄は許さない!

 

 ラーヤがもう一歩近づいたのを契機に、ボクは床を蹴った。狭い個室の中、当然ながらラーヤの手は目の前に伸びてくる。

 

 だからこそ、ボクの方から手を繋ぐ。

 速さは殺さず繊細に、ラーヤとボクの指を組む。

 

「ひょえっ!?」

 

 素っ頓狂な声を出したラーヤと入れ替わるように前へと出て、ボクはドアに辿り着いた。ノブを回して勢いよく部屋の外へと、出た!

 そして見えたのは、黒と白と緑で構成された景色。

 

 

「図書室や資料室の中には、ルールがある」

 

 

 ケルシー先生がMon3trを従えて立っていた。

 向こうの方で、中指を立ててボクを睨んでいるラヴァさんが見えた。たぶんラヴァさんが通報したんだと思う。あの、もう少し早く来るのって無理だったんですか?

 ケルシー先生が一歩ボクの方に近づいた。ケルシー先生がさっきのラーヤと同じくらいの(プレッシャー)を出す。これはラーヤが凄いのか、ケルシー先生が抑えきれないくらい何度も問題を起こすボクが凄いのか。

 

「お前は、私に怒られたいのか?」

 

 震え上がるボクの背中の方で服が掴まれた。

 恐る恐る振り返ってみれば、満面の笑みでラーヤがボクを捕まえていた。声を出さずに口を動かしている。

 

『あ、と、で、せっ、きょ、う、ね』

 

 乙女の純情を弄んだ罪は重いって、こういうことなのかな。

 あはは。どうしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

「──って感じかな」

 

 そう区切って、ボクは深くため息を吐いた。

 

「いつもそんなにコメディめいた日常を送っているのか」

 

 ベンチに座っているボクに、隣からペットボトルが差し出された。蓋の開いているそれをぐいっと呷る。

 快適なくらいに暖かいこの庭園の中で、その中に入っている水は冷たくて美味しかった。甘い匂いが香るこの場所では、特に何の味もしないことがむしろ良く働いてるのかもしれない。

 口元を拭って、謝辞と共に返す。

 

 それにしてもコメディなんて表現をされるとは。

 

「そんな面白いものじゃないよ。ボクより他の人の方が、きっと面白い人生を送っていると思うし」

 

「私にとっては中々面白かったが」

 

「希代な人だね」

 

「そうか?」

 

 首を傾げた彼女の髪が垂れる。

 そのカーテンの向こう側にある真っ赤な瞳が、某ブラッドブルードのやり過ぎ研究者と重なってしまう。謝った方がいいかな。あの人と同じだなんてちょっと可哀想だし。名誉毀損。

 

「話す機会はなかったが、こうしてその機会を取ってみれば……中々どうして飽きさせない人だな」

 

「それは光栄。ボクも気にはなっていたんだ、君のことが」

 

「ほう、それはいつからの話だ?」

 

「君が()()()()()()()()()()って聞いた時から。君が入職して一ヶ月経つか経たないかくらいの時かな」

 

 本当に、話してみたかったんだよね。

 まあ理由はそれだけじゃないよ。

 

「それに……」

 

「それに?」

 

 

「君は戦場に執着していたというのに、少し離れてみただけでこの世に新しい価値を見出したって聞いたんだ」

 

 

 もしかしたら、ボクと君は赤い糸で結ばれているのかも。

 血に浸された真っ赤な糸で。なんてね。




 
アビスが暴走して結果的に作者の鳥肌が立つという珍事。これだからプロットも作れない作者はダメなんだ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三十九 過去の重さ

そろそろちゃんと続きを書かないとマズいですね……一応時間がかかってる言い訳もあるにはあるんですが。


 

 

 形容しがたい感覚に身を包まれる。緑に囲まれた部屋の中で感じるこれはつまり、空気が美味しいってやつなのかな。

 まあでも、この感覚は何度も経験している。だってボクが今足を踏み入れたここ、療養庭園に居ればいつだって感じられるものだから。

 

 暖色の照明に照らされた石畳がくねくねと道を作っている。その両脇や道に囲まれた空間全てに緑はある。島のようになっているそこそこ大きい木が生えているようなものもあれば、胸の高さくらいしかない植物が数種類並んでいるだけの空間もある。

 温室や倉庫などを除けば、療養庭園はそれに終始する。当てはまらないものは精々が所々にあるベンチや、片隅に置かれた自動販売機くらい。

 

 ボクがここを訪れた理由は、演習の予定が入ったから他の管理人さん方の手伝いをしてほしいとパフューマーさんに頼まれたからだ。ポデンコさんやグロリアさんまで駆り出されているらしく、あまり面識のある人は見つからない。

 だとしてもボクは完璧な仕事を全うしなければならない。ポデンコさんが帰ってきた時に数株枯れていたりしたら申し訳が立たない。

 

 そんな感じの意気込みで臨んだ手伝いは、びっくりするほど簡単なことばかりを任された。ただ肥料と水を蒔いて回るだけのお仕事で、範囲こそ広くてもやる気さえあれば数時間で終わってしまう。

 結局ボクは他の職員さんたちより先に作業を終了して、御役御免になってしまった。

 

 

 庭園の壁沿い、自販機の隣にはゴミ箱がある。

 そのゴミ箱の向かいに当たるベンチにボクは座っていた。大きい施設になるとこういうの必ずあるよね、みたいなスペースの一角だ。ベンチは全部で三個、自販機の数は二個。もう少しで夏を迎えるし、そうなればここも盛況になるのかな。

 ふわりと鼻腔をくすぐる甘い匂い。ボク個人の意見としては、花の香りを直接嗅ぐよりも、こうして風に乗って運ばれてきた匂いの方が良いと思う。なんていうか、適度に薄くて混ざっているんだ。

 

 洋風のベンチ、その背凭れが背中に少しだけど痛い当たり方をしている。座り方が定まらない。なんだかお腹の方も痛くなってきた。発熱の方は朝からずっとで、もう諦めることにした。

 

 結局ボクはベンチに寝そべった。

 庭園の上にある天井と、それを突くように聳えている特別背丈の大きい植物たち。とてもミスマッチで、天井があることに違和感を覚える。太陽でもある方がきっと自然に感じる。

 

 腕を頭の下で組んで、少し痛いけど枕にする。そうしてみれば次は目を閉じるんだ。日向ぼっこにはならないけど、こうして昼寝も悪くない。

 

 目を瞑れば、照明の光が瞼越しに明るかった。

 でも生憎ボクは明るい場所でも寝ることが出来る人種。少しずつ夢のある方へと手繰り寄せられているのを感じる。

 

 

 ──突如、暗くなった。

 

 瞼を上げてみれば、そこにはボクの顔を覗き込むヴァルポの少女が居た。鮮やかな赤に染まった双眸はボクの目の奥を覗き込んでいるようだった。そこに何があるのか、ボク自身もあまり分からないけど。

 目を開けたボクに対して何か反応を返すこともなく、今度はボクの足に視線を移した。ベンチを占領してる二本の足だ。

 座りたいのかな?眠気がさっきまで脳を占有していたせいで、ボクの頭は上手く働かなかった。だから話しかけることもなく、ごく自然な動作で上体を起こし、足を地面に下ろした。

 

 彼女の髪は綺麗なピンク色だった。それは瞳孔の緋色と比べても遜色ないほどボクの目を奪う。

 毛先が暗い灰色に染まっているから、どちらかは染料の色なのかもしれない。

 

 そして何を言うでもなく、ボクの隣に座った。

 

 

 ……えっ、これどんな状況?

 

 

 ガン、と音がした。ボクの背丈より大きなハルバードの石突(いしづき)が床を突いた音で、一層考えてることが分からなくなった。ここに戦闘をしにきた訳でもないだろうし、ボクと彼女の間に何かある訳でもない。

 あるとしても、ボクが一方的に彼女を気にしていたくらい。彼女の方からのアプローチがあるとは思ってもみなかった。

 

「初めまして、だな」

 

「はい」

 

 沈黙がベンチに腰を下ろした。

 ボクも横に座る彼女──フロストリーフさんも、自販機の方を向いたまま黙っている。

 

「療養庭園にはよく来るのか?」

 

「そうですね、ほぼ毎日来ています」

 

「そうか」

 

 沈黙がベンチから腰を上げたかと思えば、すぐにまた座り直した。忙しないヤツだけど、今この場を支配しているのはそいつで間違いなかった。

 フロストリーフさんには見えない、反対側の手を少し動かす。特に意味もなくベンチを指で掻くように撫でて、沈黙のことを気にしないようにする。

 

 さっきまで最高のはずだった居心地は、たった一人の闖入者によって最低にまで落とされていた。エイプリルさんとかなら沈黙も心地いいんだろうけどな。

 

「その……いや、なんでもない」

 

 フロストリーフさんが声を発して、すぐに撤回した。そういうのはボクも反応しにくいから本当にやめてほしい。

 っていうかまず先に、何か用でもあったんじゃないんですか?ないとしたらボクの隣に座った意味は何ですか……?

 

 フロストリーフさんが立ち上がった。療養庭園は広いから、違う場所でゆっくりするつもりになったんだろう。

 そう思っているボクの隣に、すとんとまた腰を下ろした。手には自販機で売っている格安の飲料水があって、どうやらそのためだけに立ったらしい。

 

 どうして戻ってきちゃったんですか?

 

「少し、話がしたい。構わないか?」

 

「はい」

 

 胆力凄いな。コミュニケーション能力って言うんだっけ?シーさんとは比べ物にならない。たぶん。

 

「歳も近いし、まずは敬語をやめないか?」

 

「……うん、分かった」

 

 これはシーさん勝てない。絶対に勝てない。たぶん、なんて言葉はフロストリーフさん……じゃなくて、フロストリーフへの侮りだった。

 

「私の名前は、知っているか?」

 

「一応知ってる。フロストリーフ、で合ってるよね?」

 

「ああ、私はフロストリーフ。お前はアビスだろ?」

 

「知ってたんだ」

 

「まあな」

 

 フロストリーフはペットボトルの蓋を開けて一口飲んだ。

 

「声が図書室全体に響いていたからな」

 

「うわ、よく話しかけようと思ったね」

 

「……まあ、な」

 

 歯切れ悪くそう言うと、また変な沈黙がベンチに居座った。本来なら追求すべきじゃないのかもしれないけど、ここまであからさまだと流石にその選択肢も見えてくる。

 だけど、ただ単に図書室のことを思い出して今この会話を後悔しているのならボクはそれを露わにしたくない。もしそうだとすればボクは金輪際女の子と二人きりになんてならない。風評被害が大きすぎて泣きそうだ。

 

「そういえば、あの騒動は一体何が起こっていたんだ?私は前後が分からなかったからよく分からなかったが……」

 

「それ言わせるの?」

 

「私の中ではアビスが二股男なのか、ラーヤと呼ばれていたオペレーターが執念深い元カノなのかで議論の真っ最中だ。そのどちらかでいいと言うのなら──」

 

「オーケー、分かった。潔白を証明しよう」

 

 もう絶対女の子と二人きりになんてならないから。

 ん、あれ?今のこの状況……やめよう、もう考えたくない。

 

 

 

「──って感じかな」

 

 そう区切って、ボクは深くため息を吐いた。

 

「いつもそんなにコメディめいた日常を送っているのか」

 

 ベンチに座っているボクに、隣からペットボトルが差し出された。蓋の開いているそれをぐいっと呷る。

 快適なくらいに暖かいこの庭園の中で、その中に入っている水は冷たくて美味しかった。甘い匂いが香るこの場所では、特に何の味もしないことがむしろ良く働いてるのかもしれない。

 口元を拭って、謝辞と共に返す。

 

 それにしてもコメディなんて表現をされるとは。

 

「そんな面白いものじゃないよ。ボクより他の人の方が、きっと面白い人生を送っていると思うし」

 

「私にとっては中々面白かったが」

 

「希代な人だね」

 

「そうか?」

 

 首を傾げた彼女の髪が垂れる。

 そのカーテンの向こう側にある真っ赤な瞳が、某ブラッドブルードのやり過ぎ研究者と重なってしまう。謝った方がいいかな。あの人と同じだなんてちょっと可哀想だし。名誉毀損。

 

「話す機会はなかったが、こうしてその機会を取ってみれば……中々どうして飽きさせない人だな」

 

「それは光栄。ボクも気にはなっていたんだ、君のことが」

 

「ほう、それはいつからの話だ?」

 

「君が()()()()()()()()()()って聞いた時から。君が入職して一ヶ月経つか経たないかくらいの時かな」

 

 本当に、話してみたかったんだよね。

 まあ理由はそれだけじゃないよ。

 

「それに……」

 

「それに?」

 

 

 

「君は戦場に執着していたというのに、少し離れてみただけでこの世に新しい価値を見出したって聞いたんだ」

 

 

 

 ボクからすれば皮肉を込めて、だけどフロストリーフにはその皮肉も隠れて見えなかったみたいだ。

 

「もう半年以上前になるのか」

 

 何故だか酷く腹立たしく思う。

 無理解を咎める言葉がつい口から出そうになる。

 

 とは言えボクの方から地雷に誘導して爆破するなんて理不尽だ。ボクの皮肉だってフロストリーフからすれば理解しにくいことだろうから、それを言う権利や資格は残念ながら存在しない。

 

 でもそれを思うくらいは認めてくれ。

 過去に縋り付くボクが、過去を振り切った君のことを邪魔に思うのは仕方がないことだろう?

 

「過去の私には、現在の自分を予想できなかっただろうな。凍える寒さに付き纏われていたあの日々の中では、戦うことしか出来なかったのだから」

 

 フロストリーフが天井を仰ぐ。

 ボクもつられて上を向き、何も無いことを知る。

 

 そんな程度の差だったのかもしれない。

 ボクとフロストリーフの差っていうのは。

 

「勿体ないだろう」

 

「えっ?」

 

「いいや、なんでもない。それはそうと私の話だったな」

 

 フロストリーフが誤魔化した今の一言は、何に向けての言葉だったんだろう。その答えを見つけるには発言が不可解過ぎていて、その無表情の下には何も見えない。

 ……なんかボクの周りって基本無表情な人多くない?サリアさんとか、シーさんもあんまり笑わないし。

 代わりと言ってはアレだけど表情豊かなサルカズは居たなぁ。確か今はラーヤと一緒に龍門郊外で任務だったかな。

 

 ボクも早く外に出たいけど、フロストリーフの話も一度くらいは聞いておきたい。たとえそれがボクにとって全くの無駄だと分かるだけでも満足できる。

 

「概要くらいは知ってるよ。君は昔クルビアの少年兵として戦場に居て、けれど移ろう情勢の中そのままで居ることは許されなかった。所属していた軍が壊滅した時、君はまだ傭兵として戦斧を降り続けることを選んだ」

 

「間違ってはいない。その後傭兵として長い期間生きて、そしてロドスに出会った。契約を結んだのにも拘らず、ロドスは私を戦場に出さなかった」

 

 戦場がフロストリーフに付けた枷は本来の人格を歪めるほどだった。ケルシー先生から聞いただけの情報だけど、フロストリーフは戦場を当たり前だと認識していたらしい。

 それはきっと、ボクがリラを当たり前と思うことよりも数段ありえないことのはずだ。大切な人が近くに居ることを当然と認識することは自然でも、自分にとって害のある嫌なものを受け入れるのは相当な抵抗があるはずだから。

 

 それなのにフロストリーフは戦場と自分を結び付けていて、だからこそケルシー先生はフロストリーフを戦場から隔離した。それは恐らくケルシー先生としても、長い治療の一ステップ目だったんじゃないかな。

 戦場と共にあることを当たり前だと理解していたフロストリーフの思考を解きほぐす、それはほんの少し武器を振らなかったくらいで実現するほど易いことじゃない。

 

 でも事実そうなった。ボクが知りたいのはそこだ。フロストリーフの話にはまだ先があるはずで、どうやって戦場と自分を剥離させたのか聞きたい。

 どうやって、過去と決別するに至ったのか知りたい。

 

 

 どうして過去を捨ててしまえたのか、聞きたい。

 

 

「クルビアの少年兵。お前はこの言葉を聞いて何を思う?」

 

 えぇ、初っ端から嫌な話題。

 

「それ言う必要ある?」

 

「いや、無理にとは言わない」

 

 まあ別にいいか、その程度なら。

 

「銃口と親の死体」

 

「……それは、言わなくても良かったと思うが」

 

「いいよ。それがなかったらボクは一番大切な人に会えなかったから」

 

「ケルシー先生のことか?」

 

 えっ、ちょっ、そんな風に見えてるの!?

 

「嘘でしょ?」

 

「あ、いや、あー……冗談だったかもしれないな

 

「聞こえてるからね!?それってつまり冗談じゃない可能性の存在を肯定してるよね!?ケルシー先生とボクはどっちかって言えば仲悪い方だよ!!」

 

「ケンカするほど何とやら、と言うだろう」

 

「あの人はそういうのじゃないって!ボクのことが心底嫌いで、ボクのやることなすこと願うこと、全部最悪に持って行くんだ!」

 

「そうか?」

 

「そうだよ!」

 

 ケルシー先生はボクことが大っ嫌いなんだよ!?フロストリーフの考えがもしケルシー先生の耳に入ったらたぶん何の躊躇いもなくドクター並みの書類仕事とか押しつけてくるよ、あの人は!

 

「……後が大変になりそうだ」

 

「後って……今そんな話してなかったよね?」

 

「歳の差なんて私は関係ないと思う派だ」

 

 だ、か、ら!

 

「サムズアップしてもらって悪いんだけど全部間違ってるんだよねっ!!あとそれ文脈無いし、もっと言うといい加減元の話に戻ってくれないか!」

 

「それもそうだな」

 

「そうだよっ!」

 

 はぁー、はぁー……まさかリラのことを言ってケルシー先生と間違えられるなんて思いもしなかった。あぁ、ちょっと疲れた。

 

「水でも飲むか?」

 

「飲むけど」

 

「?」

 

 あの日より前だったら仕方ないと思えたのかな。ケルシー先生がボクへの嫌悪を表明したあの日以前なら、もしかして。

 いやないな。それでもリラには代わらない。

 

「それで、少年兵がどうしたの?」

 

 ペットボトルを手渡す。

 ちょっと飲み過ぎたかな。

 

「他の国では知らないが、私の居たクルビアでの少年兵の扱いは酷いものだった。平然と使い捨てられる私たちの命は正に、人的資源という表現が相応しかった」

 

 人的資源、か。あんまり好きじゃないけど、その考え方自体はとても効果的だと思う。人を数としか見られない上層部が、もし自分のことを『1』としか見られない奴隷を使役し始めたら、それこそ最高にマッチする。

 きっとその奴隷っていうのは、感染者だ。感染者を非人道的に軍事雇用することで、人的資源という考え方は人道に従ったまま実現することが出来る。

 レユニオンみたいな組織の成立さえ止められれば実現可能性は高い。まあそんな感染者たちよりも、強大なアーツを操る術師一人の方が手強かったりするけど。タルラさんとか。

 

 こんな感じの思考は珍しくないと思う。だからどの国でも少年兵ってそんなものじゃないかな。厚遇するより他にやるべきこともあるだろうし。

 ああでも、ウルサス帝国なんかは兵力があるから、余程追い詰められないと少年兵そのものが存在しないかもしれない。

 

「今でこそ平然と戦場に出ることが出来るが、少年兵になった直後は戦場が怖くて仕方なかった。アビスも分かるんじゃないか、そのあたりは」

 

「ボクは学校で戦い方まで教わってたから、そこまででも無かったかな。それにボクは人に大切な人を殺されたショックで、殺意だけは有り余っていたから」

 

 ボクが最初に人を殺したのは、リラに出会う少し前。スラムへと不用意に足を踏み入れた子供に目をつけた痩せぎすの男だった。

 男は持っていた雨樋のようなパイプをボクに振り下ろして、それをボクは真正面から殴って砕いた。とにかく憂さ晴らしがしたくて、もう一度振りかぶった男の腹にタックルして汚い地面に押し倒し、何度も顔面を殴った。

 

 ボクの体は頑丈で、男の頭蓋骨を全力で殴りつけてもボクのダメージの方が小さいくらいだった。だから遠慮なく全力で力を振るった。

 男はもしかすると、最初の数発で死んでいたかもしれない。少なくとも意識はなかったと思う。それでもボクは何十もの回数殴りつけた。

 それをやめたのだって、自分が死体を殴っている、と思ったからだ。やりすぎだとか満足したとかではなく、汚いものに触れたくなくて中断した。

 

 ボクとフロストリーフは抜本的な所で違っているのかもしれない。ボクは本能的で自己中心的な感情に支配されていて、彼女は論理を基にする感情に支配された。言うなればケルシー先生タイプかな。

 

「紅血が死と共にばら撒かれる戦場は、私以外のみならず私自身の命でさえも容易く奪ってのける。それを認識できないほど愚かな子供では居られなかった。……それを認識できず初陣に臨む仲間や、それを忘れてしまう先達は沢山居たが」

 

 へえ、フロストリーフには生き残るための考え方が最初から備わっていたんだ。

 自分以外と自分を同一視できない馬鹿から、戦場では死んでいくんだろう。自分は死なないなんて高を括っている向こう見ずな死にたがりは運を味方につけなければ生き残れない。

 

 フロストリーフ以外の少年兵は、どれだけの数がそれを認識できていたのだろうか。本当の意味で怯えていた子だけを数えればきっと、両の指で事足りる。

 

「軽々に命が消えていく。首は頭を繋ぎ止める役割を全う出来ず、体は易々と貫かれ鮮血を溢してしまう。そんな場面を、私はみんなより少し後ろからずっと見ていた」

 

 暖かい庭園の温度が少しずつ下がっていく。

 フロストリーフは手で弄っていたペットボトルをベンチに置いて、一つ溜め息を吐いた。それだけで冷たい空気は霧散していったけど、きっと今のアーツは無意識のものなんだろう。意識してボクをアーツで包むような人柄ではないようだから。

 

 だとすれば、どうしてそこまでのデメリットを容認して、ボクにその話をしているのだろう。出会って間もないボクに対してその話をする意味はどこにもない。それが自分の中でもまだ熱を持った過去であるのなら、ボクに話す意味が分からない。

 

「殺す勇気は出なかった。たとえ自分の味方が何人死んだとしても復讐しようとは思えなかった。それ以上に自分を守ることの方が大切だった。自分以外の存在を庇える強さなど夢物語で、自分以外から伸びる凶刃を躱すことも出来ないのだから当然だろう。私は戦闘の機会を出来る限り減らし、助けてもらえる位置でしか戦わなかった」

 

「それはそれは、お手本みたいな生き残り方だね。それで、少年兵としては最悪な戦い方だ」

 

「鉄砲玉を欲されていることなど、分からなかったさ。言葉にしてもらえなければ分からなかったんだ」

 

 そう感傷的に呟く彼女の姿は、とても小さく見えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十 囚人

 

 

 少年兵は軍においてどのような立ち位置を有するか。

 

「例えば、練兵という言葉は少年兵という言葉の対極にある。少年兵の配置は相手の主戦力を削る意図を持たない。つまりは戦略的観点から見た【執行者】とでも言うべき存在だ」

 

 言い得て妙だ。子供は筋力も体力も無いから、短時間の練兵で見込める戦力の押し上げに旨味が少ない。それよりは物量に任せて時間稼ぎの要員として扱った方がやりやすい。それはグラベルさんやレッドさんといった【執行者】のオペレーターに求められる役割と概ね同じになる。

 尤も、備えている能力は【執行者】と比べて随分劣っているんだろうけど。相手に補給物資を費わせたという意味で頭数は有効で、でもそれ以上を求められることはないんだろうな。

 

「だが私は死にたくなかった。交戦している敵の動きを観察し、荒廃した戦場の跡地から使えそうな武器を探し、自分自身を鍛えた。天賦の才でもあったのか、私はなんとか大人の扱う武器を振り回すことが出来るようになった」

 

 これから成り上がりでもしそうな雰囲気だけど、そうじゃないんだよね、きっと。

 

「〝督戦隊〟というものを知っているか?」

 

「あぁ……そうなっちゃったのか」

 

 督戦隊は、徴兵された一般人を使い潰すため強制的に背水の陣──死兵へと変貌させるパワーアップアイテム。味方の背に刃を突きつけて、『死ぬ気で戦え』と命じるためだけの部隊。

 

「戦っていなかった所を見られた私は戦意無しとされて、督戦隊へと呼ばれた。そこで待っていたのは……言いたくもないが、言わなくては伝わらないか?」

 

「いや、いいよ」

 

 何だろう、一方的に気まずい。

 

「その……大変だったね」

 

 戦意のない少女兵が戦場でどうなるか、それを直接教えられた訳ではないけど察することは出来る。男の持っている欲──これだとボクまで巻き込まれるか。下卑た男の汚い欲望、つまりはそういうことなんだろう。ちょっと対象が犯罪的に幼いけど。

 

「ああ、いや。私はその通告を受けて、迷わず前線を志願したからな。いくら彼らが私より上の兵士だったとしても、督戦隊である以上戦線に行く私を止められはしない」

 

 それは良かった。

 

「まあ些細な嫌がらせはあったが、そのどれもが持っている武器で叩き斬れるものばかりだった。……愚鈍なあの男たちが私より上の兵士だったことに、今思い出しても腹が立つ」

 

「あ、うん」

 

 叩き斬ることが出来る嫌がらせってそれセクハラのことだよね……?本当に斬ってよかったの?物理的には可能でもそれは常識的に駄目じゃない?いや、まあ、その方が良かったんだろうけど。

 強かだなぁ、フロストリーフって。

 

「前線に復帰した私は他の誰よりも武器の振り方を心得ていたと思う。少なくとも、私が一番武器を上手く扱えていた」

 

 戦いながら武器の使い方を学べる少年兵なんて現実に居たら怖すぎるから、観察のみを集中して行ったフロストリーフが抜け駆けできたのは必然か。

 それにフロストリーフは天性のセンスも持ち合わせていたみたいだし。そうでもなければ、七年も戦いの中に身を置けない。

 

「だが私には次の壁があった。死にたくないと震える体を押さえつけた後に迫り来るのは……人を殺すことへの忌避だった」

 

 順当だ。順当なんだろう。

 生憎とボクには分からないことだけど。

 

「手にした剣は首を刎ねるだけの鋭さを持っていた。手にした勝利は相手の命を奪う権利までも保証していた。だがそれは私にとって余りにも恐ろしいことだった」

 

 分からない。勝つためには殺すことが一番だ。無力化なんてものはアーツを使えば簡単に出来ることだけど、処理も過程も面倒くさい。

 たとえ相手が民間人で家族を持っていたとしても、戦争なら復讐されることがない。残しておく方が後々面倒なことになる。残しておく方が自分の死ぬ可能性が高くなる。

 

「……そうもいかないのか」

 

「ん?」

 

「いや、なんでもないよ。死なないための手段として殺すことを割り切れなかった、そういうことなんだよね?」

 

「ああ。私は死にたくないと願いつつ、殺したくもないと望んでいた。どちらの方が上かは分かっていたつもりだったが、容易に切り捨てられる望みではなかった」

 

 ああ……そのあたりなのかな。

 ボクとフロストリーフが決定的に違っている部分は、そこなのかな。フロストリーフは盲目になれなくて、ボクはその逆だった。

 生き延びるという観点から見ればボクの方が正しい選択をしているんだろうけど、人として正しいのはきっとフロストリーフの方だ。

 

「だが私は散々悩んだ挙句、首を刎ねた」

 

「……!」

 

「そう驚くことか?……いや、そうだな。私自身何故あの選択を取る勇気があったのかは分からない。思い出せない。だがそれを契機として、私は持っている刃からその迷いを取り払えるようになった」

 

 そう、なんだ。そこじゃないのか。

 

「しかし良い方向だけに向かったとも言えない。私の持っていた剣は纏わりつく血と肉片で赤く染まり、そしてその重量は斬れば斬るほど重くなっていくように感じられた」

 

 一体何人を殺したのだろう。数人、数十人、事によると数百人。それだけ斬れば剣も替えなければいけない。いや、そもそも折れているかもしれない。なら剣を替えたはずだ。それでも重く感じられるのは、偏にフロストリーフが殺したくないと思っていたからだろう。

 

 少年兵は【執行者】のような使い方をされる。けど、それはロドスで言えばオペレーターが撤退させられた時に臨時で救援に行くような時のみで、相手をするのは既に疲弊した兵力だ。

 だからフロストリーフには殺しやすかったはずだ。考えられる頭を持って、死にたくないと思えていたフロストリーフには、正しく強さが備わっていたのだろうから。

 

 だからこそ逃げられなかったのかな。

 剣を振らない訳にはいかないけれど、そうなれば殺さなくてはいけない。それが分かってしまったからこそフロストリーフは剣を放り投げられなかった。

 

「物理的に重くなっている訳ではない。だから振るうことに支障はなかった。私が逃げることさえなければ、私は順調に死体の山を築くことができる。──その未来こそが、その時私の選んだ選択肢だった」

 

「気に触ったら謝るけど、辛くはなかったの?」

 

「辛かったさ。途方もなく重い剣を振るうことだって、相手の死を見届けることだって、味方が死んでいくのを知ることだって辛かった。督戦隊にやっぱりダメだった、などと伝えることすら考えた」

 

 あ、はい……反応しにくい。

 

「救いはその少し後だった。板挟みになった私はとうとう武器の重みを感じなくなっていた。死を現前に捉えた敵兵の絶叫を雑音としか感じられなくなっていた」

 

 ああ、それはボクにも覚えがある。自分以外の、若しくは敵対している人の命に価値がないように思えてしまうのは記憶に新しい。

 少し傲慢な考えだけど、人を殺すっていうのは極論自分のために他の命を蔑ろにできるってことになんだ。

 それに、ボクのアーツはより相手のことを軽んじている。自分の感じている死への恐怖を相手にも感じさせてその上で殺すなんて、残虐が過ぎる。

 残念だけど、戦いにおいて共感しないことは大切だ。情なんてものをかけるから手傷をより多く蓄積させ、自分の価値を落とす。戦場で相手に慈悲をかけるなんて馬鹿のすることだ。

 

 とは言っても、そんなことを十歳前後の子供がやるのは不適当ってものだ。ボクだってこれを知ったのは……ん?あれ、ボクもそれを知ったのは十三歳くらい……?

 じゃあ普通なのか。

 

「良かったね」

 

「……何の話だ?」

 

「だって、救いがあったんでしょ?」

 

「はっ?」

 

 えっ?

 

「えっと、自分のために他人を切り落とすことができるようになった、ってことだよね……?」

 

「ああ、そうだ」

 

「だから、良かったね」

 

「……」

 

 えっ、無反応!?フロストリーフも救いだったって言ってたよね?こんな梯子の外し方ってある!?

 

「アビス、お前……」

 

 ガンッ。

 

 その音に、ボクとフロストリーフの顔が一斉に同じ方向を向いた。何か金属製のものを叩いたような音が……って、自販機か。

 でも今のって自販機が出す音じゃなかったような気がする。『ガコン』とかならなんとなく分かるんだけど、いや、まあロドスにある自販機なら普通じゃない方が納得できるか。

 

「……気を取り直して、話の続きをしよう」

 

「あ、うん」

 

 フロストリーフは一口水を飲んで、言った。

 

「私が精神的に追い詰められ……ああいや、救いを得てから、何度かまた武器を手に取った。一度一度の戦いが大きな戦略的価値を生む、それなりに重要で、そしてそれなりに規模もある戦いだった」

 

 戦略的価値、か。

 ボクには大した知識もないけど、その度に圧力がかかったのだろうとは分かる。絶対に逃してはいけない勝利を掴もうとしてる時に、部隊が戦うことすらなく瓦解するなんてことは最悪だ。

 だからきっと、少年兵を筆頭とする強制徴兵された部隊は督戦隊からお声がかかる。その度にフロストリーフがそういう目で見られたりだとかがあったかもしれない。全てはボクの想像だけど。

 

 それに、規模が大きいなら正規の軍人も多かったはずだ。肩を並べて戦争した時、少年兵は危険度が高く数が大事な撤退戦の殿だとかを任されることになる。

 どうすればいいとかじゃなく、地獄だ。運の良し悪しが明日の命を握ってるような最低の地位になる。

 

「私は生き残ったが、私以外の少年兵はみんなすぐに斃れるか、督戦隊に殺された。泣き喚いていたところを敵兵にやられた者も存在した。それはいつも、味方の数が減っていると分かった時だった。私たちは勝利よりも、平和を欲していた」

 

「勝利して、それで平和にするとかではなく?」

 

「ああ。どうしてか分かるか?」

 

「……勝利が遠かったから」

 

「少し違う。いや、大きく違っている中で当たっていることもある、と言ったところか」

 

 なにそれ。勝利が遠い、って言っただけなんだけど。

 

 いや、一旦整理して考えよう。

 まず、少年兵に区分される子供が勝利と平和を明確に違って考えられるのだろうか。まあそれが成立しないと問題にもならないか。

 夢物語を見ていた?武器を手に取っていた両者が唐突になんらかの要因で手を取り合うと?

 馬鹿を言うな、そんなことを戦場に立つ者が考える訳ない。況してや強制的に武器を持たされた少年兵がそんなありえない希望に縋るだろうか?

 精神的に不安定だったのかな?でもそれにしては一般性を持っているような口ぶりだった。みんなそう考えていた、ならもしかして──『そうとでも考えなければやっていけない』のか?

 

 だとしても勝利と平和がそう乖離するだろうか。

 

「……いや、分からない」

 

「そうか。なら教えてやろう」

 

 フロストリーフが頭をノックした。

 

「知らなかったからだ」

 

 知らなかった?何を?

 

「戦争の目的を知らなかったんだ」

 

「それは、どこまで?」

 

「全てだ」

 

「そんな訳が……」

 

「戦争がいつから始まったのか。どこの相手と戦争しているのか。どうなれば勝利となり、どうなれば敗北するのか。自分が行動している場所、自分の立場、自分が斬らなければいけない理由。それら全てを誰一人として知らなかった」

 

「ありえない」

 

「だが事実そうだった。知識を持っていそうな子供は居たが、それを聞き出す前に死んでいる。全員そのことについて口に出す機会を得ることがなかった」

 

 勝利が平和を齎すとは思えなかった理由が、そもそもその戦争が平和を目指しているのか何なのかすら分からなかったから、なのか。

 侵略戦争だとか自衛戦争だとか、それとも革命戦争やクーデターなのか。そんなことすら分からないままに戦っていた……!?更に言えば勝利条件すら知らされないままに……!?

 

 ありえない、ありえないとしか言いようがない。少年兵にはそんな情報すら入ってこなかったなんて酷過ぎる。

 いや、でもフロストリーフが戦争孤児やその類だったらまだ納得の仕方はある、か。聞けるほど親しい間柄ではないけど。

 

「私は生きたかった。この戦争を生き抜いて命を脅かされない地で生きたかった。そのために必要だと思ったのは、皮肉にも今まで見殺しにしてきた仲間の存在だった」

 

「長期的に生き延びるため、ってこと?」

 

「そうだ。私には力や器用さこそあれど、考える頭や知識が今ひとつだった。補給物資は敵から強奪してなんとかしていたが、剣の整備や服の修繕などは何一つとして分からなかった」

 

 生きるために奪う、何だか犯罪者みたいだ。とはいえ戦争ってもの自体が大規模な犯罪行為な訳だから仕方がないか。

 

「私は生き残りに声をかけて、色々あったがなんとか団結することに成功した。時勢が時勢だったからな、今は亡き軍人の親から武器の整備方法を教えてもらっていた者がいた。それを教えてもらう代わりに稽古だの何だのを付けてやった訳だ」

 

 それは、本当に良かったのだろうか。

 

「だがそれは失敗した。私という軍の中でも強い個体は、少年兵という林の中に紛れていたからこそ目をつけられずに済んでいたのだ。部隊全体が同じ数の敵兵を相手にできるくらい強くなれば、そんなもの注目されるに決まっていた」

 

 やっぱりそうなった。一気に勢いを増して団結した少年兵は目をつけられ、成長しきる前に倒される。予想できない未来でもないのに、フロストリーフの自己評価は正解な様だった。

 

「賞金でもかけられていたのかもしれない。私たちは壊走したが、私への追手が特段多いように感じられた」

 

「敵討ちとか、そういうのもあったのかな」

 

「さあな、今となっては分からない。唯一分かっているのは、幸運にも私が五体満足で生き延びたという点のみだろう……しかしそれは、私だけだったんだ」

 

「壊走の結果ってこと?」

 

「そうだ。私たちの部隊は山林を走り抜けるようにして逃走したが、生き残ったのは四人。そして私以外の三人全てがもはや戦える状態ではなくなっていた」

 

 そっか。それはまた、幸運というか、何と言うか。

 言ってしまえば、それで良かったっていう側面がある。フロストリーフが仲間に求めていたものを肉壁となって見事に成し遂げた、そう捉えることは可能だ。

 でもそれをフロストリーフがどう感じたのか。自分は生き残ることができて嬉しい、なんて思えたのだろうか。

 

「既存の別部隊に私は再編された。三人の行方は分からなかったが、情を入れるだけ無駄なのだと知ったから、知ろうとする気にもなれなかった。行軍の合間に武器を振り、私が新しい部隊の仲間と連むことはなかった」

 

 フロストリーフの隣に絶対死なない強い人が居てくれたら、それだけで終わっていたんだろうけど。

 

「その頃だ、私はアーツを発現させた。仲間が敵のクロスボウによって剣山を模しても、私の斬り裂いた敵兵が怨嗟を撒き散らしても、私の心が熱を持つことはなく。そしてその刃は塗られた血糊を凝固させた」

 

「鉱石病にはいつから罹ってたの?」

 

「ずっと前だ。正確には覚えていない。アーツを自覚した時期すら曖昧で、それがどうでもいいことだと割り切れていた。いや、割り切ってしまっていた、とでも言うべきか」

 

 フロストリーフは本当に強いな。

 フロストリーフは、自分が感染者になったこととか、自分がアーツを使えるようになっていたこととか、そういうのよりずっと命を大切に考えていた。でもその命を、その他人の命を切り捨てる判断ができていた。

 

 ボクとはずっと違う。

 

「それからの展開は早い。私がどれだけ敵を屠っても部隊は撤退戦を強いられ、そして遂に戦争は敗北の形で終結した」

 

「それから、傭兵になったんだよね」

 

「ああ。それで……」

 

 フロストリーフはボクの方を見て言った。

 

 

「どうして私が過去を過去として見られたと思う?」

 

 

 どうして、だろう。

 ボクが今の話で知ったフロストリーフとの違いは、心が強いかどうかってことくらいだ。

 

「戦場が嫌いだったから」

 

「それなら私は今武器を持っていないだろう。好きでもないが、戦場は私の居場所でもあったんだ」

 

 そんなものなのか。

 過去と上手い付き合いをするにはどうすればいい?少しの間直結する要素を生活から取り除いたくらいで、どうして?

 

「ケルシー先生が正した、とか」

 

「そんなことで変わることのできるほど簡単ではない。それくらい、アビスなら分かっているんじゃないか?」

 

 そう、か。そうだけど。

 

「……」

 

 悩むボクを見ていたフロストリーフが背をベンチに凭れさせて上を向いた。目がすうっと細くなる。

 何故この人は過去を過去だと割り切ることができたのだろう。

 

「答えが知りたいか?」

 

 ──答え。

 

 本当に、そんなものがあるのだろうか。

 無理矢理考えようにも思考が行き詰まって、ついそんなことを考えた。

 

 答えなんて言い方は嫌いだ。だってそれがフロストリーフの回答で、ボクの解答にも当てはまるとすれば、ボクはそれをするべきなんて結論になる。

 正解なんて必要じゃない。ケルシー先生には過去を過去にするなんて言ってしまったけど、本質ボクはリラを忘れられない。

 

「過去を割り切ることは、そんなに悪いことか?」

 

「それは、だって……割り切れない過去だってあると思うから」

 

「言い方が悪かったな。()()()()()()()()のは悪いか?」

 

「それの何が違う?」

 

「全く違うさ。過去に納得する、過去に覚える後悔をすっぱり失くすことが割り切るということ。そして過去にするというのは──自論だが、現在に意味を見出すことだと思っている」

 

 現在に意味を見出す?

 

 なんだ、その程度のことなんだ。

 

 ボクにとってリラは意味ある過去で、フロストリーフにとって戦争は無意味な過去だった。だからフロストリーフはその無意味なものから離れただけで、人生とはこれほど滋味豊かなものだったのか、とでも思えたんだ。

 

「結論、ボクには無理ってことじゃないか……」

 

「本当にそうか?」

 

「無理だよ。ボクにとって過去より価値のあるものは存在しない。ボクにとって何よりも大事な存在はもう、ない」

 

「ふむ、正しく伝わっていないようだ。私は()()()()なんてことを言ったつもりはない。現実が一番でなければいけないのなら、老人は生涯をみな過去として見られないだろう」

 

 じゃあ過去は関係ないってこと?

 

「──だから、もう一度聞く。お前は今生きていることに意味があると思うか?」

 

「ない」

 

 フロストリーフが何を言いたいのか分からない。何故そうも易々と過去を話してくれたのか、察しの悪いボクにはとても分かれない。

 だけど、返答は決まってる。過去をただの色褪せた記憶として扱うには、眩し過ぎるんだから。リラが一番大切なんだから。

 

「今を無価値だとは思わない。だけどボクの過去に比べれば、今の方が圧倒的に色褪せて見える。それは確かなことなんだ」

 

「大切な人も居ないと?」

 

「居たら良かったけどね。本当に」

 

 リラが居てくれたら、良かった。

 

「なら、お前を気にかける医療オペレーターなど不要な存在でしかないと」

 

 面倒な聞き方をする。

 でもボクの答えは変わらない。ケルシー先生は嫌いなボクを気にかけるくらい優しい人だし崇高な理念も持っているけど、だからと言ってボクの人生を押し上げるとは言えない。

 

「お前に格闘を教える師はお前の人生にカケラも意味を与えなかったと」

 

 ああ、そうだよ。サリアさんはボクの尊敬するオペレーターだ。その人がボクに教えてくれるなんてことになったのはボクの人生に見合わない幸運だった。

 それでも、幸運程度が意味になるって思うのは流石に馬鹿馬鹿しい。あって良かったものだけど、なくてはならないものじゃない。

 

「あの仲の良さそうなコータスはお前にとって鬱陶しい存在に過ぎないと」

 

「フロストリーフ、どこまで知ってるんだ」

 

「さあな。質問に答えてもらおう」

 

「答えろ。何故ボクに声を──」

 

「答えてもらうのは、こちらの方だ。お前に大切な人なんて居ないんだろう?」

 

「とっくに答えは言ったはずだ!」

 

「なら簡単だな、早く答えろ」

 

 フロストリーフ、君は……!

 

「ただの鬱陶しいストーカーだと思っているのか、それとも自分に熱を上げる愚か者だと心の中で謗ってるのか」

 

「そんな訳が……っ!」

 

「だってそうだろう、なぜならお前に大切な人なんて居ないのだから」

 

「君に……君にそんなことは言われる筋合いはない」

 

 ボクが何をどう考えていようが、ボクの勝手だ。

 分かってるだろ、君だって。

 

「ボクの人生の意味なんて、もうなくなった。大切な人が居たとしてもそれが変わることもない。もしボクが君の思う通りだっとしても、それに意味なんてないんだ」

 

 無意味だ、全ては蛇足だ。

 ボクはあの時死ぬべきだった。

 リラと一緒に死ぬべきだった。

 

 それを、何故か今の今まで生きている。

 全部ボクの人生には必要ない。

 

「大切な人が居たとしても人生は無意味なまま、か。どうやらお前に大切な人なんてものは事実居なかったらしいな」

 

「何か違ってるとでも?」

 

「何もかもだ。何もかもが誤っている。お前には大切な人など居ない。自分のことを満足に語れないヤツが、分かり合える相手を見つけるなど不可能だったな」

 

「勝手に言い出して、勝手に否定するのか」

 

「お前に少しでも心を開いた私が馬鹿だった。お前のその目はお前自身にしか向いていない。お前のその耳はロクに仕事をしていない。お前は何も見ず、聞くこともしない阿保だ」

 

 酷く攻撃的な物言いは、けれどボクの心に傷なんてつけなかった。それはボクが耳を塞いだ訳じゃなくて、フロストリーフのせいだった。

 フロストリーフがただただ悲しそうにそれを言うから、ボクはそれに傷つくことができなかった。

 

 頭が冷えてくる。

 

「何とでも言えばいいけど、撤回くらいはさせてもらうよ。ボクにも大切だと思う人は出来た。それでもボクの人生に意味なんて生まれてない。それだけなんだ」

 

「……ああ、クソ。ここまで言うつもりじゃなかったが、この際だから全部言わせてもらおう」

 

「何を?」

 

「まず第一に、私とお前は似ているが、その実全く違っている。状況だとか生い立ちだとかじゃない何かが、私とお前で180度逆なんだ」

 

 なんだよ、それ?

 

「お前は逃げられなかったんだ。お前の表情から分かった、お前は心を閉ざすより先に壊されたんだ。本当に、見ているだけで滅入りそうな面構えだ」

 

「ひ、酷いこと言うね……」

 

「第二に、お前は早く真正面から向き合え」

 

「それは、何に対して?」

 

「お前の大切な人に対してだ。お前の目や耳が腐り落ちているのは、お前がそれを放っておいたからだ。今私の言葉がどれくらい聞こえているのかは分からないが、私のことを忘れたらぶった斬ってやるから心配するな」

 

 ちゃんと聞いてるよ。フロストリーフの言葉は確かに聞いてる。

 そう言いきることが出来るほど、ボクにも自信はないんだけどね。っていうかボクに怒ってたんじゃなかったの?

 

「第三、中等部二年生みたいなコードネームしているお前。そんなに子供で居たいなら価値だけで動くんじゃない」

 

「一応ボクもこのコードネームはどうかと思ったけどさ」

 

「最後。私はお前のことが嫌いだ。二度と話しかけてくるなよ」

 

「あ、うん」

 

「ちなみに話しておくが、お前の嫌いなところは自分の人生を無意味だと思っているところだ。そこを改善したのなら、もう一度くらい話をしてやってもいい」

 

「あー、うん。努力するよ」

 

 本当に、良い人なんだろうな。

 

「あと、もう一つだけ」

 

「何か?」

 

「答えはほぼ決まっている当たり前の質問をするが、どうか素直に答えてくれ。──ライサのことは、大切か?」

 

 

「大切だよ。決まってる」

 

 

 

 ようやくアビスの口から、その言葉を出すことができた。

 アビスをほぼ睨むように見つめていたフロストリーフは深く息を吐いて、腰を上げた。

 

「それならそうと、最初からそう言え」

 

「ぅ、はい……」

 

 フロストリーフはさも面倒くさそうな顔でツンと前の方を向いているが、そもそも話した時点でお人好し、アビスのために怒鳴った時点で度を超えたお人好しだ。

 ふぅ、と吐いたため息はアビスの面倒臭さによるものか。

 

「……それじゃあ、私はもう行く。もし改善できたのなら、酒にでも何でも付き合ってやる。精々努力することだ」

 

「実現が難しそうだし、無駄なことだとは思うけど……まあ、一応は言っておくよ。ありがとう」

 

「ふん」

 

 歩き出した。アビスの耳には自分の声が本当に聞こえているのか不安ではあるが、元より関わる予定なんて無かったのだ。とっとと頭の中から追い出して、この不完全燃焼なイライラを抑えるべきだ。

 ああ、しかし、やるべきことがあと一つだけ残っていた。

 

 

『これで良かったか、ケルシー先生』

 

 

 自動販売機の裏。

 端末に表示された通知を、ケルシーは無感動に見つめていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十一 二人の会話

 

 

 数日間に渡る任務が終了し、ロドスに数十の影が搭乗していく。

 多くのオペレーターが航空輸送で帰投してきたものの、その中にはロドスの地上にある搭乗口を利用して乗り込んでくるオペレーターも存在する。

 

 その搭乗口付近にて、アビスは角からそっと顔を出した。

 

「やっと着いたわね。あんたはこれからどうすんの?」

 

「これメンテに出して、あとは色々」

 

 ぞろぞろと艦内に乗り込んでくる作戦を終えたオペレーターたちの中、ライサとWは二人で話しながらその波に流されていた。アビスの居る場所には声こそ届かないものの、あの刺々しかったライサの態度が改善されていることは理解できた。

 

「あんたの色々って何?」

 

「まあ、こう、音声の確認とか画質の確認とか」

 

「……程々にしときなさいよ」

 

「大丈夫。アビスなら許してくれる」

 

「そういう問題じゃないのよね」

 

 Wはライサより良識がある。少なくともWの心酔していた彼女さえ関わらなければ、それは正解だった。

 ライサとWの様子を覗いていたアビスが顔を元に戻した。

 

「それなら、今はいいか」

 

「何がいいんだって?」

 

 ひょい、とドクターがアビスが覗いていた角から顔を出した。特段驚いた様子もないアビスの隣に回り込み、向こう側から見えない方の隣に凭れて立った。

 

「執務室に向かわなくていいんですか?」

 

「オペレーターとのコミュニケーションも仕事のうちだからな。今度遊びにでも行かないか?経費で落ちるぞ?」

 

「遠慮しておきます」

 

「けっ、真面目くんめ」

 

「ワルファリンと共謀した件は忘れていませんからね。サリアさんでも呼びましょうか」

 

「マジすんません勘弁してください……って、ワルファリンはさん付けじゃないのか?」

 

「付けるだけ無駄でしょう」

 

「あっ、はい」

 

 思っていたよりもアビスが辛辣だった。ドクターは自分の評価がどうなっているのか気になったが、ワルファリンのような扱いをされたら立ち直れないかもしれないのでやめておいた。

 だがアビスにそれを聞いたとしてもそこまでショックを受ける内容が返ってくることはないだろう。戦術指揮官としてのドクターが優秀であることはアビスも認めている。

 

 ケルシーの評価は、聞けば立ち直れないだろう。

 

「それで、こんなところで何してたんだ?」

 

「何でもありませんよ」

 

「ラーヤちゃんの方を見てたような気がするけど?」

 

「……あの、その呼び方は?」

 

「ラーヤちゃんのことか?」

 

「気持ち悪いって言われませんでしたか?」

 

「言われたけど何か???」

 

 ドクターは両手を広げて戯けてみせた。一筋の涙はバイザーに隠れて見えず、アビスの目にダメージを受けつつやり過ごしてみせた。

 理由もなくそう呼んだ訳ではない。全てどうでも良さそうに振る舞うライサの態度を軟化させようとどうにか繰り出した呼び名だった。消費した素材は勇気と評価だ。

 

「で、ラーヤちゃんを見てたろ?何か用があったんじゃないのか?」

 

「いえ、用がある訳では。ただ少し話す時間を取ろうと思っていたので、また後でコンタクトを取ることにします」

 

「告白でもするのか?」

 

「似たようなことをします」

 

「えっ」

 

 アビスから視線を外していたドクターが勢いよくアビスの方を向いた。悠然としているアビスを見ると、それが本気なのか嘘なのか一層分からなくなる。

 

「告白、とは少し違いますが」

 

「そ、そりゃそうだよな」

 

「はい」

 

 あはは、あはは。未だ動揺の渦中に居るドクターの声が虚しく響く。少し話していただけだが、オペレーターたちはもう搭乗口付近から居なくなっていたようだ。響いたドクターの声に反応はなかった。

 

「……さて、アビス。用事がある訳じゃないんだろ?執務室に着くまで話し相手になってくれよ」

 

「構いませんが、態々口に出すようなことでしょうか?」

 

「そりゃ確認は大事だからな」

 

 ドクターが先導するように前を歩き、アビスはそれについていく。搭乗口は暫く使われないのか、付近の施設からも音が聞こえることはなかった。

 

「最近どうだ、アビス」

 

「最近ですか……」

 

 

『私はお前が嫌いだ』

 

 

『あ、と、で、せっ、きょ、う、ね』

 

 

『何もかもが誤っている。お前には大切な人など居ない』

 

 

「……」

 

「えっ、なにその顔。どしたん話聞くよ?」

 

 特段傷つくような言葉ではない。フロストリーフの言葉に至っては感謝すらすべき状況での言葉だろう。だが思わず渋い顔をしてしまう程度には、客観的に見たその状況は酷いと言わざるを得ない。

 それもそうだろう、医者に嫌われ、感情が重い後輩に威圧され、初対面の同僚に怒鳴られたのだから。

 

「何でもありません。ただ、考えることが多くて参りそうなんですよ」

 

「考えることって、鉱石病か?」

 

「それはどうでもいいんです」

 

「でもドクターストップされたんだろ?」

 

「ケルシー先生の過保護は今に始まった事ではありません。今回も、事態は重いと思ってらっしゃるようですが、そこまででもないんですよ」

 

「そこまででもない、ねぇ……」

 

 ドクターの脳裏に過るのはとあるサルカズ。執務室にまで押しかけてきた彼女は、アビスのように事態を軽く見ていただろうか?

 執務室へと徐々に近づき、ちらほらとオペレーターや職員の姿が見えてくる。中には通路を小走りで移動している忙しない者も居る。確かロドスが保護した感染者の対応を担当している職員だったか。

 

 ドクターの目が、再度アビスの方を向いた。小さく笑顔を浮かべながら通路を行く職員に挨拶している。愛想笑いができるくらいには余裕を持っている。

 だがそのアビスこそ、ロドスの手厚い治療を受けているにも拘らず未だ悪化の一途を辿っている感染者の一人だ。そこまでは知らないにしても、ドクターは感染状況を現在下働き中のブラッドブルードから聞いている。それがどれほど危険であるのかも、知っているつもりだった。

 

「アビスって戦場で死にたいとか思っちゃう系?」

 

「何ですかそれ」

 

「いや、この前サルカズの傭兵と話す機会があってさ」

 

「Wはそんなことを宣う人ですか?」

 

「宣うってお前……Wじゃない。男」

 

「存じ上げませんね」

 

 最近開国したばかりのアビスの情報網は無いに等しい。すれ違った人に挨拶はしても、その相手の名前を覚えていないことの方が多い。医療オペレーターの方では最近になってようやく挨拶が馴染んできたようだ。

 

「その人がどんなことを考えていらっしゃるのかは知りませんが、ボクにそんなつもりはありませんよ」

 

「じゃあなんで訓練ばっかりやってるんだ?」

 

「力が必要だからです。自分の意思を貫くには力が必要で、ボクの目的はその例に漏れず強さを要求しています」

 

「目的」

 

「えぇ、まあ。どうしても気になることがありまして」

 

「それって、レユニオンのことか?」

 

 アビスの足が止まった。ニコニコと、アビスの顔は不自然なほどその表情を変化させない。ドクターがそれをなぜ知っているのかと全力で頭を回している訳だが、当然そのソースは一つに限られている。

 

「Wですか」

 

「ああ。確か亡灵(アンデッド)とか言ったか」

 

「……そこまで話したんですね、あの人(イカれサルカズ)は」

 

 控えめに言っても薔薇の棘より鋭かった。アビスの背後に赤黒いオーラが見えそうなくらいにはWに対して怒っていたが、今ここでそうしても仕方がない。

 一つため息を吐いたアビスは眉間を揉み、それが終わる頃には怒気もすっかり消えていた。

 

「少なくとも直接確認する必要があって、それはとても大事なことなんです。ボクの人生はそれほど長くもありませんが、だからこそ一つ一つがボクを構成する大きな要素となっています」

 

「本当にやらなきゃいけないのか」

 

「はい。それが終わるまでは、ボクもそう易々と鉱石病にやられる訳にいきません」

 

 見えないはずのドクターと目があったような気がした。アビスの数歩先に立つドクターが何を考えているか全く分からない。

 もしドクターがアンデッドに関してのことを知っていなければ、アビスは何も言うつもりなどなかった。だがWから情報を入手されているとなれば、邪魔されない可能性が一番高いのはこうして自分の口から説明することだった。

 Wには後で釘を刺しておくつもりだ。

 

「なるほどな」

 

 ドクターはまた執務室の方へと歩き始めた。頭の後ろで手を組み、いつもと変わらない態度でアビスの言葉を受け止めた。

 アビスはそのドクターをじっと見つめている。ドクターが軽薄なのは知っているし、そしてその一方で真面目に事を考えられる人だということも知っているからだ。

 

「ケルシーは?」

 

「反対されました」

 

「だろうな」

 

 足音が止んだ。ドクターはアビスの方に振り向き、何でもないような仕草で言い放った。

 

「よし、俺は協力することにしよう。お前にとってそんなに大事だって言うなら、反対できる立場じゃない」

 

「いいんですか?」

 

「ケルシーのことなら、まあな。医者の立場なら反対しなきゃいけないこともあるんだろ。だけどそのケルシーと違って俺はお前の医者じゃないんだ。そんな責任はないんだから、応援してもいいだろ?」

 

「それは、ありがとうございます」

 

「礼なんていいって。ケルシーも頭固いよな」

 

「正直そう思うことはよくあります」

 

「やっぱりそうか。そういえばあの時も──」

 

「この間のことなんですが──」

 

 アビスとドクターは、足並みを揃えて執務室へと向かって行った。それは果たしてドクターが協力する姿勢を見せたことが理由なのか、それともケルシーの悪口で盛り上がったことが原因か。

 

 真相は二人の秘密ということだろう。

 

 

 

 

 

 ドクターを送った後、アビスは庭園へと足を運んでいた。搭乗口にまで足を運んだ当初の目的を果たすため、つまりはライサの影を探してフロストリーフと話をした場所まで戻っていた。

 庭園に入れば、いつものように暖かく、また微かに花の香りが漂ってくる。入口から見渡してみれば、近くのベンチに座っている人を見つけることができた。

 

「こんにちは、えっと……」

 

「今はナイトメアよ」

 

「ナイトメアさんでしたか。それではナイトメアさん、寛いでいる所を申し訳ありませんが、ラーヤの姿を見ませんでしたか?」

 

「見たかもしれないし、見てないかもしれないわ」

 

「分かりました、見ていないということで」

 

「ちょっと待ちなさい」

 

 一瞬の躊躇いもなく背を向けたアビスの襟を、ベンチに膝立ちになって掴む。アビスは実のところライサ以上にナイトメアの扱いを心得ていた。

 何しろアビスにはこれといった弱点を不用意に晒すことがなく、頓着しない性格であるためナイトメアのような掌握したい人種からすれば非常に接しにくいタイプの人間であるからだ。

 

「私は否定してないはずよね?」

 

「ですが肯定もしていません。もし本当に見かけていたのでしたらそれとなく餌を提示するのではないですか?」

 

「たった一回の問答で餌を提示するなんて無茶じゃない」

 

「ではもう一度聞きましょう」

 

 アビスの襟から離した手をベンチの背凭れにつく。

 

「ラーヤを見かけましたか?」

 

「少し前にコータスの娘を見かけたかもしれないわね」

 

 どうにかこうにか取り戻した余裕をふんだんに用いて、ナイトメアはどこか不安にさせる怪しげな笑みを浮かべてそう言った。

 胡散臭い。アビスが感じたのはその一点だった。

 

「ご協力感謝します。それでは」

 

「ちょっと待ちなさいっ!ああもう、まさかついた手を五秒で離さなきゃいけないなんて考えもしなかったわよ……」

 

「まだ何かあるんですか」

 

「まだ何も言ってないじゃない!」

 

「見たんですか、見てないんですか」

 

「そんなの見──た、かもしれない、わね……?」

 

「見てないでしょう」

 

「うっ」

 

 見てないのに思わせぶりな態度を取ろうとするからですよ。アビスにそう言われたナイトメアがぷいっとあらぬ方向に顔を向ける。

 目的の見えないナイトメアの嘘をアビスは訝しんだが、内実ライサのことを手玉に取って遊んでいる。恐らくはその対象に自分もなってしまったのだろう、と納得した。

 

「はぁ……それじゃあボクはラーヤを探しに行きますので、見つけたら声を──いや、何もしなくて結構です」

 

「そんなに信用ないのかしら、私って」

 

「いいえ。ただ、そういうことをする人ではないでしょう?術師としては信用していますよ、ラヴァさん並に」

 

「予備隊の子じゃない……」

 

「いえ、そういう意図では」

 

「はいはいそうね。分かったわ、もう行っていいわよ」

 

「そうですね。また会いましょう」

 

「ええ、また」

 

 アビスが去って行く。ライサの行きそうな場所と言えば後はどこかと思案しながら歩いているため、もう気付くことはないだろう。

 近くの木に隠れていたライサが出てきても、もう気づきはしないだろう。ナイトメアが声をかけると、複雑そうな顔をしながらライサはベンチに座った。

 

「私の演技はどうだったかしら?」

 

 自信たっぷりにナイトメアがそう言うと、ライサはまるで見栄っ張りな子供でも見るような目をして疑わしいと口に出す。

 

「あれ演技だったの?」

 

「あら、まさか私がそう簡単にペースを崩されるような人だと思ってるのかしら?心外ねぇ、こんなに頑張ってるのに」

 

「……ありがと」

 

「ええ、どういたしまして」

 

 アビスの言う通り、情報を持っている場合はその断片で釣ることなどナイトメアには容易いだろう。だが情報を持っていない場合でも、ある程度上手くやることは出来る。少なくともアビスを騙くらかす程度は難なくやり遂げられる。

 実際ナイトメアが見ていないと嘘を吐いたとしても、アビスがすぐに帰る可能性はかなり低かった。ナイトメアのリアリティを出す手腕をライサやアビスは真似できないだろう。

 

 ナイトメアが隣に座るライサとの距離を詰める。

 

「それで、何があったのかしら?私に全部教えて頂戴」

 

「いや、別に何でもないから」

 

「本当?」

 

「ノーコメント」

 

 適当な返答をするライサに、しかしナイトメアの余裕は崩れない。

 

「何も無いのよね?」

 

「だからそう言ってるじゃん」

 

「それならアビスは何故あなたを探してたんでしょうね」

 

「ぎくっ」

 

「ぎくっ……?」

 

 ナイトメアは素で首を傾げた。冷や汗を滝のように流しながら視線を外すライサにはミスリードの可能性さえ浮かぶが、しかしながら今はライサがアビスから隠れるという非常事態であり、それに比べれば自然と言えた。

 

「もしかして汗の匂いでも気にしてるのかしら?」

 

「いや、全然」

 

「そうよね、あなたの体臭もここでは花の香りに掻き消されるもの」

 

「ちょっと待ってそんなに臭いの?」

 

「さあ、どうかしら」

 

「もし嘘だったらその指噛みちぎるから」

 

「えっ?」

 

 ライサは懐から取り出した香水を一吹きさせると、端末を弄り始めた。「冗談よね?」と問いかけるナイトメアに一言も返さず、特に何の表情も浮かべないまま操作している。

 勿論ライサの言葉は冗談だ。ああ、ナイトメアの言葉が真実であったなら冗談で済んでいただろう。それに指を噛みちぎっては後処理が色々と面倒だし、口の中が汚くなる。ライサがナイトメアの指を噛みちぎること()ないだろう。

 

「血抜き……処理……へえ、人の体って簡単に溶けるんだ」

 

「ラーヤ、私が悪かったわ。だから私の殺害計画を立てるのはやめなさい。アビスも悲しむわよ」

 

「アビスはきっと分かってくれる」

 

 ぐるん、とライサの頭が回転して視線が合う。少しばかり方向性や種類は違うものの、Wと同じ括りに入れても問題ないのではないだろうか。狂信者という括りに。

 中々ライサの感情は振れ幅が大きいようだ。真顔で噛みちぎるなどという冗談を言ったり殺害計画を立てたり。いや、感情の振れ幅が大きいというよりただ危ない人ではなかろうか。

 

「それで、本当はどうして避けてるのよ?」

 

「えっ、いや、何でもないから」

 

「そんな訳がないでしょう。別に私はあなたを匿っている必要なんてないのよ?ただ、突き出して理由が聞けなかったら面白くないからって理由だけ、あとは暇潰しね」

 

「悪趣味フェリーン、グロリアさんの付属品」

 

「何とでも言うがいいわ」

 

「いつか殺す」

 

「フフフ、そんなに睨んでも何も出ないわよ?」

 

「……どうしても話さなきゃダメ?」

 

「ダメ」

 

「だよねー」

 

 ライサがカラカラと笑う。その笑顔は自分の感情をどうにか紛らわせるための虚しい努力だった。ナイトメアはそれに気付いていたが、それを指摘するほど畜生ではなかった。

 

「あのさ、あの……いやでも……」

 

 暗転している端末の画面に自分の顔が映っている。気恥ずかしくて口元がもにょもにょと動いている。

 横を見た。ナイトメアは凄く良い顔でライサを見ていた。

 

「アビスが、私に告白するって、聞いたの……」

 

「………………へえ?」

 

「いや本当に盗み聞きするつもりはなかったんだけど、ほら私ってコータスじゃん?だからこう、どうしても気になっちゃって」

 

「ええ、そうね」

 

「だってアビスとドクターが私のことを話してたんだよ?っていうかアビスが私のことを見てたって言うんだよ?そんなの聞くしかなくない?」

 

「そうかもしれないわ」

 

「それに最近引きこもってたし迷惑かけちゃったしなんかイースチナとのこととかもあるしで不安だったの。アビスに嫌われてなくても悪口とか言われてたら八つ当たりで庭園を燃やしてたかもしれない」

 

「そうよね──ちょっと待って今何て言ったのかしら」

 

「Wには冷やかされるし、ちょっと汗臭いかなっていうのは私でも気になってて……」

 

「それは謝っておくわ。だから庭園に手を出す必要はないじゃない。ねえ、聞いてるのかしら?流石に私もここは気に入ってるのよ?ねえ?」

 

「ねえナイトメア、私はどうすればいいの?」

 

「話を聞きなさい」

 

「分かってる、アビスの言葉はちゃんと受け止めるつもり」

 

「……庭園じゃない場所で話しなさい」

 

「それに何の意味があるの?」

 

「心の安寧が保証されるわ」

 

「分かった」

 

「あとは言うことなんて何も無いわ。あなたがアビスをどう思ってるかぶつけるだけよ。だから、早く庭園を出て会いに行くべきよ」

 

「……そっか。そうだよね」

 

「ええ。ほら、さっさと行きなさい」

 

「でも、あの、この気恥ずかしさってどうすればなくなるの?それだけ教えてもらったら行けそうな気がする」

 

「そんなのどうでもいいわよ!アビスのことでも考えれば解決するんじゃないかしら!!早く庭園から出て行きなさい!」

 

「オッケー、行ってくる。ありがと!」

 

 

「はあ……ラナに話して出入り禁止にするべきかしら」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十二 友達の友達?

 

 

 庭園を離れたボクはいきなり途方に暮れていた。ラーヤに会って早く伝えるべきなのに、ボクの前には大きな壁が聳え立っていた。

 

「ラーヤって普段何してるんだ……?」

 

 庭園に行く前ボクはラーヤの部屋を訪ねているし、イースチナさんの部屋も訪ねている。あまり使っていなかった端末のメッセージアプリも使ってコンタクトを取ろうとした。どれも空振った。

 そも、いつものラーヤならボクが探すより先に隣に居る。ラーヤはどこだろうと思った瞬間に背をつつかれて声をかけられるのだから、ラーヤの私生活を意識したことはなかった。っていうかボクに付き纏うかイースチナさんのような方達と居るかの二択だと思ってたのに。

 

「私もあまり思い当たることはありませんね」

 

「そっか……ってなんでここに居るんですか」

 

「友人を探すことが不思議ですか?」

 

 それは別にしてもらっても構わないけど。

 

「またラーヤに怒られますよ」

 

「心配要りません、備えはあります」

 

「備え、ですか?」

 

「はい、肉壁が一枚」

 

「ボクはイースチナさんよりも先に逃げますからね」

 

「逃すとお思いですか」

 

「何が何でもの精神です」

 

「首輪でも用意していたほうがよかったですね。何故用意していなかったんですか」

 

「えぇ……」

 

 それはちょっと理不尽ってものだと思う。ちょっとだけでもいいからボクに人権を与えてくれないかな。

 頭の後ろをガシガシと掻く。イースチナさんはさも不思議そうにボクの方を見ている。

 最近思うようになったのが、ボクとイースチナさんの会話に敬語って本当に必要なのかってこと。ボクからはともかくとして、イースチナさんからの敬意は毛ほども感じられないし、ラーヤと同じように同年代だし。毎回噛みついてくるよね。

 実際のところどのくらい嫌われているんだろう。通路を並んで歩きながら言葉を交わしていると、不意にそんなことが気になった。

 いや、そもそも嫌われるようなことをした覚えがない。

 

「そんなに悪いことしたかな」

 

「ラーヤを誑かしているでしょう」

 

「それについては勘違いだった、ってことになりましたよね?」

 

「琴にそんな種類があるものですか」

 

 辛辣って言うより、ぶっ飛んでるねこの人。ついでに本来備えるべき敬意とかその他諸々も吹っ飛ばしちゃったのかな。あの個室でのやりとりも一緒に吹っ飛んでるみたいだ。

 あの個室、という単語で思い出したけど、イースチナさんはボクの感染状況について、あの後ケルシー先生から口止めがあったらしい。これは安心。

 でもラーヤとのことに関しては当然ながら口止めなんてない。いつのまにか周囲からの評価が下がってそうで怖い。少なくともこの人の中では最底辺のあたりを既に彷徨ってる可能性が高い。

 

「言っておきますが、本当に誑かしたりなんてしてませんから」

 

「知ってますよそれくらい。ジョークの範囲に収まらない冗談を言ってみただけです」

 

「そうなんですか?それなら──いや収まってないじゃないですか。それは冗談じゃないって言ってるじゃないですか」

 

 危ない危ない、範囲に収まってないジョークは冗談にならない。ってことはこの人分かってて言ってるじゃん。もしかしなくても単純明快にボクのことが嫌いなのかな?

 

「今更ですか」

 

「流石にそんなすぐには思い至りたくないですから」

 

「他称クズですし」

 

「サンプルが自分一人の場合はデータとして認められませんよ」

 

「セリフ長くないですか?」

 

「君のセリフが短いだけです」

 

「二人称が君の人って実在したんですね」

 

「ロドスには割と居ますよ」

 

 本当に特別な意味もなくイースチナさんはボクを責めるような発言ばかりしている。それでもこうして一緒にラーヤを探して歩いてるんだから、一応そこまで嫌われてる訳じゃないと思うけど。

 

「なんということでしょう、大衆に流されるがあまり個としての自分を失ってしまうとは。だから誑かしたんですか」

 

「どちらにも異議を申し立てたいんですが」

 

「却下します。権限レベルを上げて出直してください」

 

「どうやって上げるんですか」

 

「まず私に跪きます」

 

「嫌です」

 

 そんなやりとりをしてる間にオペレーターの居住区画を一周してしまった。ラーヤはこのあたりには居なさそうだ。医療関係の区画に居るとは思いにくいし、基地内の施設でも使ってるのかな。もしかして武器の調整だったり?

 

「「次はエンジニアの……」」

 

 被った。

 

「何ですか被せないでください不快です」

 

「いや、はい。ごめんなさい」

 

「なんで謝ってるんですか?」

 

「ボクもそれ不思議でした」

 

()って言わないでください不快です」

 

「あ、はい。すみません」

 

「なんで謝ってるんですか?」

 

「どうやら無限ループにハマってしまったようです」

 

「早く抜け出してきてください」

 

 いや無限ループにハマったのはボクだけではなく君もでしょう。

 

「どうしてハマったのはボク一人だけなんですか?」

 

「逆に聞きますが何故私があなたと同じような状況に陥らなければならないのですか?」

 

「逆に聞きますが何故君だけが陥らないとお思いなんですか?」

 

「あなたは肉壁ですから、私は守られて当然でしょう」

 

「なるほど」

 

 これは一本取られた。

 ん?本当に取られたか?

 

「それで、次はエンジニアの方々が居る方へ行きましょう。分かっているようですが、そこで武器の整備でもしている可能性が高いので」

 

「了解です」

 

「しかしラーヤは何事も人任せにしてしまう傾向が見られますから、居ない可能性もありますね。しかしそうなれば一体どこに居るのでしょうか……」

 

「イースチナさん」

 

「何ですか」

 

「セリフ長いですね」

 

「あなたのセリフが短いだけです」

 

 一拍置いて顔を見合わせる。

 

「真似しないでください」

 

「そちらこそ」

 

「あなたから始めたことでしょう」

 

「しかし君()真似して返したんですよ?」

 

「……はあ。行きますよ」

 

「はい、勿論」

 

 イースチナさんと並んで歩く。さっきまでと同じように、ボクとイースチナさんの間には拳骨が三つ入るくらいの距離が空いている。

 

「肉壁って使いまわせますよね?」

 

「オペレーターですから再配置は可能です」

 

「なるほど」

 

 けれど確かにさっきよりは近くなった距離で、ボクとイースチナさんは通路の向こうへと歩き始めた。最初はボクがラーヤとイースチナさんを引き合わせたのに、何故だか今はラーヤが引き合わせている。

 

 因果なもの、とでも言えばイースチナさんも同意するかな。いや、そうして茶化せばきっと、イースチナさんの冷たい目が待っている。照れ隠しだとかツンデレだとか言われるのは嫌だし。

 

 

「因果なものですね」

 

 

 おっと。

 

 

 

 

 

 

 

 水筒の蓋が閉められる。

 あれからアビスとイースチナは割と長い時間ライサを探した。事務職員らが異口同音に知らない、分からないと言っていた所を見るに、ライサがそこを訪れていないということは確かだろう。

 

 エレベーター前通路にて、手詰まりになった二人は足を休ませつつ頭の中をひっくり返して手がかりを探していた。だがライサの私生活など、やはり記憶の片隅にすらなかった。

 

「困ったな……」

 

「困りましたね……」

 

 顎に手をやっていたイースチナがアビスの方を向き、一方で水筒を肩に掛けている鞄の中へと仕舞っていたアビスもイースチナの方を向いた。

 どこぞの冬将軍でも見たことがないくらいに顔を顰めたイースチナ。アビスの心は494の術ダメージを負った。

 

「居住区画、職員区画、職人区画、療養庭園。イースチナさんはこれら以外にどこか思い当たることってありますか?」

 

「いえ、特には。自治団の本部にも居ないでしょうし」

 

 同年代同士で顔を合わせ、結局ライサと仲良くなれたのはイースチナだけだった。当初のアビスとしては自治団のメンバーなど知ろうともしていなかったので特段意外には感じられなかったが、今こうして接していると、中々予想できないことだったと知った。

 イースチナとライサには共通点がない。恋は盲目を地で行くライサに対し理知的であろうとするイースチナでは、アビスの頭ではどうやっても仲の深まる展開が見えなかった。

 

「イースチナさんはラーヤとどのように過ごしていたんですか?」

 

 気付けばそんな言葉が漏れていた。まだそこまで近しい間柄でもないために、少し不躾だったかと一瞬後悔を覚える。だがそんな予想に反して拒否の言葉は聞こえず、代わりにイースチナはより一層考え込んだ。

 

「特段二人で何かをしていた記憶は……ラーヤと居る空間は、それだけでどこかリラックスできるような気がするんです」

 

「その時のラーヤは何を?」

 

「これといった何かは思い当たりません。私の部屋に置いてある本を読んでいる日もあれば、端末を操作していたり、映画を見ている日もありました」

 

 多趣味と言うよりは、無趣味なのだろうか。熱を上げているジャンルが無いというのはどこか人間性を欠いているような気さえするが、別方面でなら供給過多な程に人間らしさを持っている。むしろ吸われているのだろうか。

 アビスは一つ頷いて、何に納得したのかは知らないが、そんな風な顔でまた水筒を手に取った。だが次は、イースチナのターンだ。

 

「あなたは何故ラーヤを探しているんですか?」

 

「それは……」

 

 答えようとしたアビスだったが、脳がそれに待ったをかける。本当にそれを今この場所でこの相手に言っていいのか、それを深く吟味すべきだと無意識下で考えていたのだった。

 そんなアビスの見せた少しの躊躇いに、イースチナは少しの不信感を抱く。饒舌だったさっきまでのアビスがそうなったことにかなりの疑念を抱き始めた。

 

 ──しかしながらアビスの脳が制したように、今この状況は決して二人きりを保証してなどいなかった。

 エレベーターの扉が開き、低い声が部屋に響いた。

 

「おっと、こんな所で告白かな?中々先鋭的なセンスだけど、流石に控えた方がいいんじゃないかな」

 

 桃色のメッシュを入れた艶のある黒髪に、大きく開かれた胸元。右手だけに着けている黒い手袋が室内灯の光を反射して煌めいている。

 

「ミッドナイトさん、ですか。お久しぶりですね」

 

「ああ、久しぶり。最近は偶にしかカーディの訓練に顔を出していないそうじゃないか。何かあったのか──いや、あったんだな」

 

「初対面で申し上げるには些か無礼とは思いますが……そういった邪推は死ぬほど面倒で不快なのでやめてください」

 

 アビスがギョッとしてイースチナの方を見る。思った通りの言葉ではあったが、まさか本当にそれを口にするとは考えられなかったため、完全に不意打ちだった。

 

「いいね、アビスにはそれくらいの方が丁度良いのかもしれない。さて、これ以上は嫌われそうだからもうやめておくことにしよう」

 

「もう嫌いですが」

 

「ああ、まあそうだね……そういうことにしておいてくれて構わない。それじゃアビス、俺は用事があるからもう行くよ」

 

「ええ、また話しましょう」

 

「後は任せてくれ」

 

「はい?」

 

 去り際にウインクをして、ミッドナイトは去って行った。アビスにそれ以上の答えを言うこともなく、平然とドアから出て行った。

 

「……取り敢えず、場所を変えませんか?」

 

「異論はありません」

 

 エレベーターに乗り込む二人。ミッドナイトの言葉が何を意味しているのか皆目見当もつかないままではあったが、それ以上にイースチナの機嫌が傾いていて危険だ。

 

 閉まっていくエレベーターの扉。それが何故だか、外界への拒絶を抽象しているように思えてならなかった。

 

 

 

 エレベーター室を出て、人が疎らな通路へと足を踏み出した。結局目的地は決まっていなかったが、とにかく人の少ない場所を目指していた。

 アビスの目的は胸を張って言うべきではあるが、それと同時に誤解されやすいために言うだけでもリスクが生じる。ロドスには早合点しそうなオペレーターも幾人か居る。最悪の事態を招く可能性とは、そういう時に限って不思議なほど(ご都合主義的な力で)高くなるものだ。警戒して損はない。

 

 しかしそんな警戒によって可能性が高まる(フラグが立つ)こともある。

 

「こんな所に何の用かしら、アビス?」

 

「そっちこそ、どうしてここに?」

 

「へえ、なんだか楽しそうね」

 

「とうとう文脈まで無視するんだね……」

 

 どことなく疲れたようなアビスをケタケタと笑いながら、そのサルカズは舐るように二人を観察する。そんなWの目がイースチナの目を見たところで動きを止め、そしてWは首を傾げた。

 

「そんなにあたしって怖いかしら」

 

「……っ!」

 

「自分のことが怖いなんて、中等部に在籍してる学生くらいしか思わないからWが自覚できないのも無理はないよ。……いや、その理屈でいくとギリギリ自覚できるかもしれない」

 

「誰の情緒が子供並みに不安定ですって……?」

 

「そこまでは言ってないけどね!?」

 

 そう、言ってないからセーフだ。情緒だけではなく性格だとか気の長さだとかもそうなってしまうとアビスは考えたが、自重してそのツッコミを入れなかったのだからセーフだ。

 それにしても怖いと言われたのはいいのだろうか。

 

「あなたが、元レユニオンの……」

 

「ああ、そうね。自己紹介しておくわ。あたしは元レユニオン所属、サルカズ傭兵部隊の……何だったかしら?まあそのあたりを務めていたわ」

 

 イースチナの顔が戸惑いと少しの驚愕で染まる。

 

「縁あってロドスに来たの、よろしくどうぞ?なんてね」

 

 言わなければいけない何かがあった。しなければいけない何かがあった。けれどその機は、まるであの日のように唐突にイースチナの前に現れた。

 何もできない。アビスがイースチナの手から離れた本を拾い上げる。だがそれなりに厚い本を落としたというのに、イースチナの視線は相変わらずWの方に向いていた。

 

「これは何?」

 

「イースチナさん。ラーヤの友人」

 

「へえ、それはそれは……ふふっ、本当に面白いことになってるじゃないの」

 

「……ぁ、あぁ……」

 

 ピキピキと、何だか嫌な音がした。突如として無風の通路に暴風が吹き、それがイースチナの手あたりに収束していく。

 俯いたイースチナの顔を覗き込もうとしたアビスの眼前を、ゾッとするほど綺麗な水色の雫が通り過ぎた。

 

「────っ!?」

 

 雫が床に落ちたと同時に、冷気の爆風が通路に充塞する。反射的に本を持っていない方の手で顔を覆い、全力で爆煙の勢いに乗ってアビスは後ろへ飛んだ。

 

「きゃっ!?」

 

「あ、ごめんなさいぶつかりましたか!?」

 

「えっ、いや、大丈夫です……!」

 

 後ろに居たらしき職員が駆けていく足音を聞いて、アビスは一息つく。冷気に固められていたのを無理に動かしたせいで、唇が出血する。迅速な対応のおかげか、唇以外では髪や睫毛が変に固まっているくらいの被害で済んだ。

 腕も足も動かしにくい。そして何より目を瞑ったまま冷気に当てられたせいで瞼が動かない。よって目が見えない。だがそれも時間が経てばなくなるだろう。今は時間稼ぎこそ優先すべきだ。

 

「イースチナさん!」

 

 直後、ピキ、とまた音が聞こえた。アビスは咄嗟にアーツユニットを出し、制御の効かない炎のアーツをばら撒いた。熱くて痛くて動かしにくい、しかしそのおかげで二度目の冷気はスラム時代に経験があるくらいの温度で済んだ。

 

「あ、あんたねぇ!艦内でアーツぶっ放すとか何考えてるのよ!」

 

 通路の向こうから、そんなWの声が聞こえた。アビスとは逆方向に跳んだようで、相も変わらず元気な様子だ。

 

「なんだ、Wは生きてるのか……」

 

「聞こえてるわよアビス!」

 

「うわっ!?」

 

 轟音と共に飛んできた銃弾がアビスの近くの壁に当たって音を立てる。艦内で銃をぶっ放したWに、アーツをぶっ放したイースチナを非難する資格はあるのだろうか。

 視界を遮る白煙が徐々に薄らいでいく。爆音に耳鳴りでもしているのか、Wは銃を持っていない手で片方の耳を抑えていた。

 そしてその手前に居るイースチナの姿も露わになる。足元に広がっていた白雪のような氷にヒビが入って大気に溶け、イースチナは俯いていた顔に手をやった。

 

「……すみません、取り乱しました」

 

 頭を振って、イースチナはどうにか落ち着いた。奪われ続けていた熱がゆっくり戻ってくるに連れて、収束していた先程の風とは反対にアビスやWに向かい風となっている。

 

 それは、誰も近づけたくないという意思を示しているのだろうか。あの日々を思い出してしまったイースチナはアビスやWを遠ざけないとでも思っているのだろうか。

 考え事の範疇を逸脱し始めた思考を無理矢理止めて、アビスはイースチナに本を差し出した。

 

「次から気を付けなよ、W」

 

「えっ、あたし!?」

 

「Wが不用意に話しかけたからでしょ」

 

「否定はしません」

 

「いや、えぇ、本当に……?」

 

「それじゃW、ボクらはもう行くから」

 

 イースチナの太々しさが戻ったところで、アビスがWの横を通り抜けた。イースチナのそれはまだまだ外側しか繕えていない見かけ倒しの振る舞いだったが、まだそれを見抜けるほど親しくなかった。

 

「……それでは、さようなら」

 

「ああ、ちょっと待ちなさい」

 

 通り抜けた先で、掴まれた左手。反射的に大きく肩を跳ねさせたイースチナの耳に口を寄せ、Wは小さく何かを囁いた。

 イースチナは大きく飛び退ると、いつでも肉壁に出来るようアビスの腕を必死になって掴んだ。

 

「別にアーツのことは怒ってなんかいないわよ?アビスのあれが親密な相手に対する照れ隠しだなんて分かりきってるもの」

 

 アビスの腕と本を抱くようにして体を強張らせるイースチナを見て、Wが笑う。

 

「ただ、知らない顔して笑ってるのなら、どうにも壊してやらないと気が済まなさそうだったの。それだけよ」

 

 見かけと乖離した仄暗い感情。楽しそうな(殺意に塗れた)顔が、ヒラヒラと動く(凶器を握りしめる)手が、腰に提げている(自分の方を向く)銃口が、明確にイースチナを糾弾しているようだった。

 

「W」

 

「分かってるわ。でも別にあたしは変なことを言った訳じゃない。誰かに言われるべきことをあたしが言ってやっただけよ」

 

「本当にデリカシーってものがないね、Wには」

 

「張っ倒すわよ」

 

 アビスの腕が少し冷えてきた。

 

「それに最近忙しいのよね……はあ、断言することばっかり求められて嫌になるわ」

 

「何言ってるのか分からないからどっか行って」

 

「ひどっ!?慰めなさいよ!」

 

「何言ってるのか分かるけどどっか行って」

 

「分かったわアビス、あんたを殺して私は生きる」

 

「そんなのただの人殺し──あっ、Wって人殺しだったね、そういえば」

 

 イースチナのアーツが徐々に肩まで伸びてくる。少しの焦燥が冷や汗となってアビスの頬を伝い、話を切り上げるタイミングを見計らう。

 しかしそれは必要のない努力だった。

 

「今更そんなこと……あんたってあたしのこと軽く見過ぎよ。前も傭兵だってこと信じてなかったし、もう一度名乗った方がいいかしら?」

 

「うん?待って、本当に何言ってるのか分からない。ボクがWをサルカズの傭兵だって疑ったことはないよ?」

 

「はあ?あんたね、あたしは──」

 

 Wが気付く。困惑しているアビスは、Wの知っている少年とは近くとも遠い存在だったことを。

 

「いや、そうね。そうだったわ……ごめんなさい」

 

「えっ」

 

 Wの謝罪にアビスが目を丸くさせる。謝罪するような性格ではなかったし、今の話題なら誰だって真剣な謝罪などしないだろうに、その二つが覆ったのだから驚くのも当然だ。

 だとしても、その疑念が答えに行き着くことはない。アビスは自分のアーツについて余りにも知らないことが多すぎる。少なくともWの抱える感情を分からないままに彼が答えを知ることなんてないだろう。

 

「それで、イースチナ。あんたも少しは考える頭を持つことね」

 

 それきり、Wは通路の向こうへと歩いて行った。

 アビスから体温を奪っていたアーツもいつのまにか解除されていて、残るのは疑問ただ一つだった。

 

「何を言われたのですか?」

 

 イースチナはアビスを一瞥すると、口を閉じたまま手を離した。その目が揺れて、Wに言われた〝何か〟を理解した。

 

「うわっ!?」

 

 イースチナはアビスを勢いよく突き飛ばすと、Wとは反対の方向に走り出した。

 

「ああもう、本当にWは……っ!」

 

 アビスがイースチナを追いかける。

 そうしてまた、誤解が深まるのだろう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十三 Frost and Blast

 

 

 通路に響く荒い息遣い。

 膝についた手がずり落ちそうになって、それを直すついでに額の汗を拭った。

 

「はぁ、はぁ……流石にここまで来れば……」

 

「こちらに居ましたか」

 

「きゃああああああっ!!」

 

 イースチナは咄嗟にアーツを発動させた。隙間なく張り巡らされた氷の粒がそれぞれ結合し、それが一枚の分厚い壁を作り上げ、アビスの姿を視界から消し去ることに成功する。

 だがそれも数瞬経てば崩れる音が向こう側から聞こえてくる。アビスが丁寧に剥がし、壊し、抉っていく音がイースチナの居る通路にも響いてくる。

 

 本を抱き、帽子が落ちないよう手で押さえながら疾走する。後ろからすぐに聞こえてきた大きな破砕音は、即ち作り出した障壁が耐久を全て削り切られたということだろう。

 後ろにまた同じような壁を何度も作る。一応数分もすれば消えるような、無理矢理に作り出した氷の壁だが、それだけあればアビスに壊される方が先だろう。

 

 友人の恋した相手は化け物だった。鉱石病が重症だろうが関係ないと言わんばかりに、素手でアーツを打ち砕いてくるヴイーヴルだった。もうアレは身体能力に長けたウルサスの域にすらも収まるか怪しい。有鱗目とは斯くも恐ろしいのか。

 イースチナはとっ散らかった思考を振り払うと、突然に立ち立ち止まり振り返った。

 

 思考の隙間に僅かな違和感が入り込んでいた。

 

「おかしい、ですね。何故音が……」

 

 聞こえないのか。そう言おうとしたその時、イースチナは力の限り前に、走ってきた通路の方に飛んだ。

 そしてそのおかげで、イースチナの右手を狙っていたアビスの手が空振った。

 

「壁を壊されてもそこから来るとは限らないですよ」

 

「普通はそこから来ますからっ!」

 

 右手を突き出して放った氷の旋風がアビスの体を吹き飛ば──さない。アビスを巻き込んだ旋風は、竜巻のような形で氷結する。所々突き出ている氷柱は通路の壁や床、天井にへばりついて固定され、中に捕らえられた者は普通なら凍死を免れないだろう。

 

 びきっ。ばきばきっ。

 

 通路と接していた部分から嫌な音がした。もう終わりにしなければ、何かの弾みに殺されるかもしれない。イースチナは半ば本気でそう恐怖して、本を持っていない右手を前に突き出した。

 アーツユニットを兼任している重厚なボリシェヴィキの本が淡い光を帯び、今までのものよりずっと綺麗な氷の礫が空に散らばっていく。その中には全体が透き通っているものと水色に固まっているものの二つが混在していた。

 それぞれが一つ一つ規則性を持って運動し、そしてぶつかることなく端から次々と氷の竜巻に向かっていく。

 

「これで、終わってくださいねっ!」

 

 透き通るような氷が着弾した瞬間に急激な温度の低下が引き起こされ、その暴風に脆くなっていた竜巻の氷像が完全な崩壊を遂げる。だがそれも一瞬のみで、次いで飛び込んでいった水色の氷が冷やされた空気から更に熱を奪い、空気が固体を象った。

 

 氷点下200℃を下回る空気は更なる強風を生み出し、それはアーツで冷気を自分に近づけまいとしていたイースチナに対しても平等だった。

 地面に常識的な温度の氷の柵を作り、それに掴まって(しの)ごうとする。だが、その程度で止まるような空気の凝固ではない。真空が突風を以てイースチナの体を浮かせる。イースチナの制御を離れた氷の礫は次々と空気を固め、風が勢いを増していく。

 

 恐怖に思考を絡め取られていた。

 このままだと自滅する。

 

 炎のアーツを準備し、力を込めた。氷のアーツほど素養はなくとも、同じ熱を扱うアーツだ。それを制御する自信はあった。

 そしてそれを手の中で作り出し──不発に終わった。

 

「どう、して……あっ!」

 

 馬鹿なことをした。自分が一番得意なアーツで限界まで冷やした空気だ。少し熱を与えたくらいで炎を生み出せる訳がなかった。射程がないことも相俟って、焼け石に水だ。真逆の喩えではあるが。

 

 柵の根元にヒビが入る。それを補強しようと焦ったせいでアーツユニットの本を取り落とした。その本にぶつかった、最後から三番目ほどの礫が暴発し、連鎖的に全てが爆発する。

 自分を冷気から守っていたのはアーツだ。本を失くした今、イースチナにそれを行使する術など無い。足先から急激に冷えていくのを感じる。本当に液体にすらなっていないただの空気なのかと疑うほど、自分を死へと誘う風は冷たかった。実際そのあたりでも氷点下20℃は確実に下回っている。イースチナの体は既に凍傷が出来そうなくらいに冷やされていた。

 

「くっ、うぅ……」

 

 両手で柵に掴まっても、柵の強度が変わらなければ結局意味がない。そして柵を補強できるアーツは、アーツユニット無しでは使えない。

 

 そんな絶体絶命のイースチナに、一つ幻が見えた。

 

「こんなものをボクに撃っていたんですか……?」

 

 壁に手をついて自分の方に歩いてくるアビスの幻覚だった。幻聴も併発しているあたり、自分が死の淵まで追い詰められているということを自覚した。

 あの化け物も、自滅するほどのアーツを使えば殺すことができたということだろうか。先んじて死んだアビスが自分を迎えに来たのだろう。だとすればアビスも地獄行きなのか。そんな失礼なことをイースチナは考え、そこで柵が耐えきれなくなった。

 

「な、にして、るんです、かぁっ!」

 

「きゃあっ!?」

 

 アビスが突然床に伏せたかと思えば、四足歩行を始めた。歩行と言うには些か跳躍の面が強かったが、サバンナに生息する動物のような動きでアビスは通路を駆け、イースチナの手を取った。

 

「な、えっ、何を……!?」

 

「指を床に刺してるんです!ケルシー先生に怒られる時はイースチナさんも一緒ですからね!」

 

「化け物……」

 

「こんなアーツを使う方が化け物でしょう!馬鹿みたいに痛いし寒いですよ、ボクはアーツが使えませんから!」

 

 いつになく刺々しく、イースチナの手を引いてアビスが固体の空気から離れていく。イースチナもアーツが使えないためにアビスと同じかそれ以上に寒いのだが、それを指摘する余裕はイースチナにはなかった。

 

「しっかり掴まっててくださいね!」

 

「……分かってます」

 

 繋いでいた手を離し、胴の前に手を回す。

 アビスの体は驚くくらい冷たくなっていて、イースチナは心の中で一言、ごめんなさいと謝った。

 

 

 

 

 固体から液体となった空気が、更に少しずつ大気に溶け戻っていく。それを壁際に座って遠目に見ていたアビスが隣に座るイースチナへと視線を移した。

 

「それで、どうしてボクを殺そうと思ったんですか」

 

「いえ、その……怖かったので」

 

「怖かった?どこがですか?」

 

「追われていましたし……」

 

 ビキッ。アビスの額に血管が浮き出た。逃げ出したのはイースチナで、それを追うのはあの状況では当たり前だろう。そう思ったからだった。

 

「あの、世間的にダメだとは思いますが、実際問題一発くらいは殴っても許されますか?許されますよね?」

 

「他ならできますが、その、流石にそれは死にます」

 

「それさっきも言ってましたけど、ボクは化け物なんかじゃありませんよ!?サリアさんやエリートオペレーターさん各位の方が余程強いですから!」

 

「ではあなたが私を全力で殴った場合、私が生き残る確率はどのくらいあるのでしょうか」

 

「……五はあると思います」

 

「殺さないでください」

 

「全力では殴りませんよ。それに頭も殴りません」

 

「……全力なら頭を殴っていたのですか?」

 

「だって全力なんでしょう?」

 

「えっ」

 

「えっ」

 

 アーツで作り出される理外の現象には、大抵の場合防御が意味を成さない。だから避けられやすい頭部や脚部を狙わず、胴を狙うのが一番だ。ゴースト兵などもそうでなければ撃ち抜けない。

 遠距離の中でも狙撃オペレーターならまた違ったのかもしれないが、生憎とイースチナは補助オペレーター。アビスの言っていることをよく理解できなかった。

 

「手加減にも色々ありますよ。全力ならしっかり構えて頭を狙いますが、適当ならその場でスピード重視の蹴りでも入れて済ませます」

 

「その蹴りを頭に入れた場合、私が死なない確率はどのくらいでしょうか」

 

「三十はあると思いますよ」

 

「……殺さないでください」

 

「いや、流石にそれはやりませんよ。生き残っても後遺症が残るでしょうし、少なくとも五十を下回るような一撃はしません」

 

「殺さないでください」

 

「少なくとも、ですよ!?大丈夫です、やるとしたら確実に死なない攻撃ですから!ギャグ的描写無しだと三ヶ月くらいベッドで過ごせば寛解しますから!」

 

「全治三ヶ月、ですか」

 

「あと、冗談ですからね?それくらい怒ってることを伝えたかっただけですからね?」

 

「こ、殺さないでください」

 

「振り出しに戻った!?」

 

 ウルサスと言うとかなり身体的に優れた種族だが、それにも個人差が存在する。しかしながら、だとしても、かつてこれまで怯えたウルサスの戦闘員が居ただろうか。

 

「……ふぅ、落ち着きました。殺す気はないんですね?」

 

「当然です」

 

「でしたら、まずは一つ」

 

 イースチナが深く頭を下げた。

 

「すみませんでした。謝って許されるようなことではありませんでしたが、しかし謝るべきことではありますので、ここに謝罪させていただきます」

 

「はい、全くその通りですね」

 

「ですが実際アビスさんなら生き残るとも思っていましたので、こう、信頼させたあなたにも少しの責任が……」

 

「はあ?」

 

「すみませんでした、ジョークです」

 

「ああ、そうですか」

 

 眉一つ動かさずジョークと言ってのけるイースチナに顔を顰める。アビスが認めていればそのまま進めたのではないだろうかと思える肝の太さだった。

 ちなみに本当は、テンパって変なことを言ってしまい内心震え上がっている子熊の発言だった。そのポーカーフェイスも顔面の表現許容量を超えてしまったからである。

 

「さて、今後の処分ですが。まずアビスさんが私を全治三ヶ月にした後、ズィマーと戦闘になるということでよろしいですか」

 

「全部間違ってますしズィマーさんは誰なんですか」

 

「私の仲間です」

 

「友情を見せる場面ならもっと選んだほうがいいですよ」

 

「それもそうですね」

 

 イースチナは軌道修正できたことに心の中でほっとする。アビスからすればそんな二つの意味でクールな無表情オペレーターは不気味でしかなかったのだが。

 ついさっきまで怯えていた姿は何だったのか。アビスがじっとイースチナの目を見つめ続けると、それに気づいた向こうは不機嫌そうな顔で睨んできた。

 

「……もういいや。なんかそっちの方が前のイースチナさんっぽくていいと思うよ、ボクは」

 

 実際のところは感情表現許容量をオーバーした後も膨らみ続けた感情が歪な形で現れただけだった。アビスの言っていることもよく分からない。よく分からないが、なんとなく弛緩した雰囲気から悪くなっていることはないように思えた。

 

「それで、どうしてボクから逃げたんですか」

 

「どうしてだと思いますか?」

 

「……Wに何か言われたから、ですか?」

 

「正解です。しかし、それに含まれたニュアンスは違いますね」

 

「はっ?」

 

「私はアビスさんのことを言われて、アビスさんから逃げたのではありません。もっと別のことです」

 

「何ですか、それ」

 

「私も言われるまでは気付きませんでした。しかしそれは今までの行動が証明していたことでもあるんです」

 

「だからそれは何だって聞いてるんですよ」

 

「分かりませんか?」

 

 イースチナは今度こそ、本当の無表情でアビスと目を合わせた。

 

「仕方ありませんか」

 

 イースチナは本を開き、集中する。

 

 イースチナの手に小さく作られた複数の氷の粒。小指の爪ほどの大きさもないそれらが通路の向こうへと飛んでいき、しばらくすると聞き慣れた悲鳴が聞こえてきた。

 それはよく聞いていたもので、しかしここ最近聞いていなかった声でもあった。

 

「ラーヤ?」

 

「おや、よくお分かりで」

 

「いだっ、いだだだだっ!何すんじゃこらー!!」

 

「……ラーヤ?」

 

 こんなことを言う人だったろうか。アビスの周りでは多くの場合怒ることをしないかマジギレなのかの二択であるため、少しふざけたようなライサの文句はどこか新鮮に思えた。

 横道から声が近づいてきて、最終的に氷の粒に追い立てられたライサはアビスの目に捉えられた。

 

「ラーヤ、久しぶり」

 

「……あー、うん。おひさ」

 

 ライサは一度だけ目を合わせたきり、視線を他へやった。それはそれはアビスがWとイチャついていた(ライサ視点)時のような低いテンションで、アビスは首を傾げた。

 

「ラーヤ?どうかした?」

 

「いやなんでもないけど……痛っ!?イースチナ!」

 

「はあ、何ですか」

 

「いやこの粒が……ぐはぁっ!」

 

「何ですか」

 

「えっ、ほんとなんで怒ってんの……?」

 

「……何でもありませんよ。自己嫌悪です」

 

「何でもないって言った後に答え言ってんじゃん。っていうか自己嫌悪に私を巻き込まないでくれる!?」

 

 へえ、とアビスは意外そうに二人を見ていた。イースチナに個室へと連れ込まれた時から、イースチナがラーヤに懐いたのだろうと無意識に考えてしまっていたが、どうやらそういう訳ではなかったらしい。

 

「それで、ラーヤはどうしてこんな所に……」

 

「それアビスに関係ある?」

 

「えっ、と」

 

「それにこんな所に居るのはアビスたちも一緒じゃん。なんで私だけ居ちゃいけないの?」

 

「そこまでは言ってないけど」

 

「そう言ってたでしょ」

 

「ストップです、ラーヤ」

 

「……りょーかい」

 

 ぷいっ、と向こうを向いて、ライサは腰を下ろした。アビスの隣の隣、つまり一番離れた場所だった。

 何が起こっているのか、そして何が起こったのか。色々と気にはなったが、どうやら今のアビスは距離を置かれているようだった。イースチナにアイコンタクトしてライサのことを聞くよう合図する。

 

 しかしそれに対してイースチナは盛大に眉を顰め、何言ってんだコイツとでも言いそうな顔を向けた。

 

「イースチナ」

 

「はい?」

 

「あの氷は一体全体何だったの」

 

「羊飼いの気分になれました」

 

「あたしは(コータス)で、(キャプリニー)じゃない」

 

「そういうことを言った訳ではありませんが」

 

「私も、そういうことを言った訳じゃない」

 

「……ふふふ」

 

「な、何がおかしい」

 

「いいえ、ただ、少し」

 

 イースチナの頭に少し前の記憶が蘇る。

 

「アビスさんとの会話を思い出しまして」

 

 芝居染みた動作で慄いていたライサの体が一瞬だけ固まり、すぐに力が抜けた。構えられていた腕は無気力さを示すように横の床についている。

 

「そう。私もWとそんな会話をした覚えがあるかな」

 

 ライサは笑った。口角を上げることが笑うということなら、紛れもなくライサは笑っていた。

 だがそれは見ている人に喜びを伝播させるようなものではなく、その真逆の効果しか持っていなさそうなものだったが。

 

「そうだ、ラーヤ。任務お疲れ様。Wとの任務だったようだけど、上手くいった?」

 

「別に、普通」

 

 とうとう視線すら寄越さなくなったライサ。思春期の高等部女子学生が父親に投げつけるような言葉をアビスに言い放つと、先程まで自分の頭を小突いていた氷を指で弾いた。

 それが照れ隠しなのか、手慰みなのか、それとも物に当たっているだけなのか。たった三つの選択肢も、今のアビスには正解が分からなかった。

 

 今までアビスはライサから目を逸らしてきた。

 自分の大切な存在は過去にしか居ないなどと妄言を宣い、いっそ盲目的なまでに自分を慕うライサを遠ざけてきた。

 

 だから分からない。

 何も分かってやることができない。

 

 

 一方、二人に挟まれたイースチナは酷くげんなりした表情で本を開いた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十四 名前と証

作者が作ったキャラなのに全然コントロールできなくて泣きました。
三章最終話です。

……そういえば予約投稿する時になってようやく、章のタイトルが四章になっていることに気が付きました。恥ずかしいので言って欲しかったのですが、それを言うには感想を書くしかなかったようです。

作者も活動報告とか始めてみましょうか。
誰も見ないとは思うんですが。


 

 

 ナイトメアに激励されてアビス探しに出立した私は、早々にその目的を果たすことができた。っていうか服に発信機がついてる日だったからそれは簡単だった。

 でも一つだけ不完全な点があった。それはアビスが私の友達のイースチナと一緒に、仲良さげに話しながら歩いてたことだ。親しそうに、楽しそうに、歩いていたことだ。

 

 どうしてそこに居るのは私じゃないんだろう。

 

 イースチナにはとっくのとうに警告を終えていて、余程のことがない限り近づくことなんてないと思ってた。アビスは私を探してて、それはアビス一人でやるものだって勘違いしてた。

 もし庭園で私が見つかってたら、アビスの隣には私が居たはずなのに。

 裏切られたことが嫉妬と憎悪に火をつけて私の心を燃やしていった。でもそれも一過性のもの。アビスやイースチナはそう暇じゃないし、暇だったとしてもそう長い間一緒にいる訳がない。

 そんな私の期待は、泡になって消えたんだけど。

 

 

 しばらく私を探していた二人は、通路に腰を下ろした。小さく隙間を開けたドアの向こう、壁に寄りかかっているアビスは水筒に口をつけていて、その横ではイースチナが顎に手をやって考え込んでいた。

 絵になる二人だ。柄にもなくそんなことを考えた。ロドスのオペレーターの顔面偏差値はテラの中ではかなり高くて、アビスはそれに見劣りしない程度。それで私は、精々一般人の中なら可愛いくらいの容姿。イースチナなんかとは比べ物にならないかもしれない。

 もしイースチナがアビスのことを好きだったら、私はすぐに負けてる。冷静に考えれば考えるほどその答えは正しくて、嫌になった。

 

『あなたは何故ラーヤを探しているんですか?』

 

 けど、私にだって信じられることはあった。アビスが私に少しは情をかけてくれてる、そんな夢物語に馬鹿みたいに縋ってた。

 

『それは……』

 

 言い渋るアビスに、その夢は切り裂かれた。舞い上がってた私は突然背中の羽を失って、硬い地面に叩きつけられた。

 アビスが特別に思ってるのは、少なくとも私じゃない。そう分かってるからこそ、精一杯アピールしてきたつもりだった。後から思い出して恥ずかしくなることだって言ったし、かっとなって手を出すことだってあった。それは全部アビスが好きだからで、でもそのほとんどはアビスに拒絶されてた。

 

 アビスが何も言おうとしているのか、それは分からなかった。エレベーターの扉が開いて、なんか無駄にキラキラしたオペレーターが出てきて会話をぶった切ったから。

 私は仕方なくドアの横で息を殺した。アビスのことは見えなくなったけど、見ていても今は辛いだけだったから、それでいいと思えた。

 

『諦めるのかい?』

 

 ドアを潜って、ミッドナイトはそう私に言った。

 

『諦められると思う?』

 

 私はミッドナイトにそう返した。私は自分のこの気持ちがそう簡単に冷めないと知ってたし、それは周りにもそうだと受け取られてると思ってたから。

 

『俺は甘い言葉を囁くのが仕事だったんだが──それももう過去の話だ。ハッキリ言うとライサ、君は諦めることになる』

 

『は?殺すぞ』

 

『俺が吐く嘘は甘いものだけさ』

 

 そう言うミッドナイトの目は真剣だった。

 

『じゃあそうだな、こんなことは知ってるか?』

 

 そうして、私は現実に気付いた。

 

『アビスは君に好かれていると思ってない。あくまで精神疾患の一種で依存状態になってる、としか思ってないんだ』

 

『私がどうしてそんな与太話を信じると思った?』

 

『真実はいつもほろ苦いものだからな』

 

『答えになってない』

 

 ミッドナイトを押し退けて、私はエレベーターの方に歩いて行った。心の中に生まれた猜疑心の種が僅かに蠢いて、芽が出る日を今か今かと待っている。

 

『君を幸せにすることは、きっとアビスにしか出来ない。だからどうか君の恋路が実ることを、俺は切に願っているよ』

 

 分かりきっていたはずのことが、何故だか心の深い所にまで手を伸ばした。私を幸せに出来るのはアビスだけ……どうして、アビスはそれを分かってくれないんだろう。

 鉄の箱の中に一人きり。

 

 私は一つ、弱音を吐いた。

 

 

 

 

 

 まだ少し残っていた肌寒い空気が通路を流れていく。

 ようやくライサの状況が飲み込めてきたのか、アビスは不思議そうな顔をしつつも口を閉じている。当のライサは言わずもがな、アビスを突き放していたその態度を貫いている。

 

 ロクに集中できない環境に嫌気が差し、イースチナはアーツで温度を常温まで引き上げると共に本をしまった。

 どうしてライサはそう捻くれたのか。原因が自分にあるとは知っていても、たった二度の接近程度で折れるような心じゃないということもイースチナは知っていた。

 

 沸々と、イースチナの心には怒りが湧き上がってきた。そうだ、そんな風ではなかったのだ。そうなってはいけないのだ。

 自分の友人であるライサに、自分が今まで見てきたライサに、悄気(しょげ)るなんてのは似合わない。

 

「ラーヤ。何をいじけているのですか」

 

「何が?」

 

 ライサは相変わらず下手な愛想笑いを続けている。

 それがまた、イースチナの神経を逆撫でた。

 

「その程度で誤魔化せるなんて思っているのですか?」

 

「私が誤魔化す?何の話してんの、イースチナ」

 

 ライサはへらへらと笑いながら、揶揄うように首を傾げてみせた。偽る能力がないくせに必死で隠そうと努力する姿は、イースチナからして煩わしいもの以外の何でもなかった。

 アビスは空気を読んで黙っている。今のライサに関してはイースチナに任せるのが吉だとようやく分かったのだろう。

 

「何をどう感じたのか、言ってみせてください」

 

「……何もないよ」

 

 ようやくライサは下手な笑顔で取り繕うことをやめた。そして覆いが取られたその顔にあるのは怒りでも悲しみでも、況してや喜びでもない。

 

 悲しみさえ追いつかないような喪失感と、怒りに例えることすら躊躇う醜い嫉妬心だ。

 

「何もなかった」

 

「だから、ですか?」

 

「そう言うのじゃないって」

 

 ドン、と壁を本が叩いた。

 

「何もなかった。それなのに私にはあったからですか」

 

「別にそうじゃない。それだけだったらイースチナが居なくなれば解決する簡単な問題でしょ?」

 

 少し調子が戻った。だが、それはイースチナの求めている像とは少し違う。もっと笑っていなくてはいけないのだ。もっと、アビスを追いかけている時のように楽しそうでなくてはならないのだ。

 アビスを好きだとかいう感情はこの際どうでもいい。ライサは幸せでなくてはならない。

 

 どうして自分がそう考えているのかも分からないまま、あるべき形に戻すため、イースチナは発言する。

 

「何故そんな態度を取っているのですか」

 

「……勝手に勘違いして期待して、それで空回っただけ。イースチナには関係ないでしょ」

 

「勘違いさせて期待させた被告人、発言を」

 

「えっ、あ、ごめん……?」

 

 全く心当たりがなかったアビスは展開について行けず、イースチナによる本の鉄槌が下された。

 

「痛いっ!?」

 

「……イースチナ」

 

 ライサの声にイースチナの挙動が止まる。

 

「勝手に空回ったって言ったでしょ」

 

「ふむ……そう言われるとそうかもしれませんね。しかし被害者が居るのですからこのくらいは当然でしょう」

 

「ちょっと、待っ、アーツはやめて!?」

 

 射出されたアーツがアビスの額を執拗に追いかけ、アビスは結局撃ち抜かれた。追い討ちの連打によってアビスの体が次第に仰け反っていく。

 

「イースチナ」

 

 口を衝いた言葉は、苛立ちを多量に含んだものだった。

 

「何ですか?」

 

「…………………………なんでもない」

 

「そうですか」

 

 ライサはイースチナの思惑に気付いている。自分を元に戻すためアビスを撃っているのだと気付いている。だからそれを我慢したのは意地だった。

 そもそもライサは、自分がそう長く同じ態度を取れると思っていない。何しろアビスとならレポート作成でさえも楽しく感じられるほど好きで、その感情は決して冷めてなどいないのだから。

 しかしながら、告白されるらしいと思い込んでアビスを探した結果イースチナと並んでいるのを発見するなんてことはライサにとって地獄だった。イースチナには嫉妬して、アビスには独善的な怒りを覚えた。

 自分は面倒な女だった。それをハッキリと自覚して、ライサは少しの間くらい自分の感情に逆らいたくなった。そこにアビスから好かれるかもしれないという醜い考えが存在しない訳ではなかったが、それ以上に、自分のことが嫌いだった。

 

 自分のことは変えられない。

 

 アビスへの恋情はライサの生き方を制限する。自分の中で生まれたに過ぎない感情はしかし、ライサ自身の目的を邪魔する障害になっていた。

 

「もう、いいです。私にできることも限りがありますし、私の言葉程度ではラーヤを変えることなんて出来ないでしょう」

 

「そんなことありませんよ」

 

「あなたは黙ってろください」

 

 ライサとは関係なく割と本気で手が出そうになった。命令口調と敬語が不適当に混じっている言葉は、だからこそイラッときたイースチナの感情を余すことなく表現できる。

 アビスはきゅっと口を結んだ。叱られた後のテンニンカと同じような雰囲気を持っている。イースチナは鬱陶しく思いながら目線を元に戻し、チラチラと窺っている友人の顔が目に入った。

 自分はなんて無益な行為をしているのか。

 

「ラーヤ、あなたには無理なんですよ」

 

「何が?」

 

「アビスさんを嫌うことが、です。あなたには絶対に無理です。……それはあなたも分かっているのでしょう?」

 

 答えは決まっていた。それが判然としていたからこそ、イースチナもアビスにイライラさせられたのだ。幸せにならなくてはいけない友人を幸せにできる男は、その友人を冷たくあしらっていたのだから当然だ。

 それでも、理由なく好きでいられる訳はない。アビスが少なくとも友人としては付き合いやすい性分であることを理解して、イースチナはより一層ため息を吐きたくなった。いっそ最低な人であれば私刑するだけで済んだ。

 

 だがそれを、ライサは不思議そうにして答えた。

 

「まだ勘違いしてるみたいだけど、私はアビスを嫌いになろうとしてこうしてる訳じゃない。嫌ってるフリでもない」

 

 イースチナとライサの目が揺れることはない。

 

「最初に言ったことが全部なの。空回って、馬鹿みたいなことして、自己嫌悪してる。本当にそれだけなの」

 

「それが簡単に晴れるものなら良かったのですが」

 

 ため息を吐いたイースチナを、怪訝そうな顔のライサが見つめている。

 

「何ですか?」

 

「どうしてそんなに踏み込んでくるのかなって」

 

「駄目ですか」

 

「ダメじゃないけど、理由なんて……」

 

 一つしか思い当たらなかった。

 

 

「イースチナのそれが私のためじゃないから?」

 

 

 あっけらかんと言い放たれたライサの言葉は、疑問符を浮かばせるに十分な唐突さを持っていた。無論浮かべたのはアビスのみならず、イースチナも同様である。

 

「何を言っているのでしょう?」

 

「見えてるんだよ。イースチナの目の中に、私に対しての感情がはっきりくっきり見えてるの。それはついこの間まで知らなかったけど、ようやく分かったんだ」

 

「何だったの?」

 

「違う自分を憐れんでた。違う自分っていうのは、自分みたいな境遇で自分のようにはならなかった人のことね」

 

 ライサが気づく切っ掛けとなったのは、あのWとの邂逅だった。Wを見るアビスの目がイースチナと似た何かを持っていると気付いて、そしてそれが同情心を発端とする歪な自己愛だと知った。

 

「イースチナはさ、私に幸せになってほしいんだよね。今日じゃないけど、前からそれは聞いてたよ」

 

「それが憐憫だと言いたいのですか?」

 

「違う、そっちじゃない。まあここからは私の勝手な推測だけどさ、たぶん私はイースチナにとって幸せでなければいけない存在で、それを肯定することはイースチナ自身のためでしかない」

 

 なんで私がそんな存在なのか、って?

 ライサが続ける。

 

「私があのチェルノボーグを辛い経験なんてせず生き残った、最高に幸運なオペレーターだったから。そうでしょ?」

 

「私が幸せになってくれないと、イースチナたちに幸せが訪れるのはもっと先になる。だって助けられた私よりずっと不幸なんだから、それは当然だ、なんて考えてる」

 

「幸せな自分と、不幸な自分。私っていう幸せなイースチナがもし幸せじゃなくなったのなら、あれからずっと苦しんでる自分が馬鹿みたい」

「だってそれは、どれだけ不幸な目に遭わされたかなんて関係なく、このテラが等しく人を不幸にさせるものだと言ってるのと同じだから」

 

 

 イースチナはアビスと真逆の位置に立っている。

 

 境遇や性格はこの際考慮しないとして、テラに対する考えが抜本的に正反対だ。

 

 テラは不幸を生み出すように作られている。

 

 テラが不幸を作り出している訳がない。

 

 源石を呪ったアビスに、テロリストを呪ったイースチナ。二人にとっての価値基準はそれぞれによって等しく歪められていて、それは死生観などが筆頭として挙げられる。

 好きな人の源石で死にたいなどと宣う狂人が生まれついてのものだったなら、種族はきっとサルカズだ。

 

 話が逸れた。

 イースチナにとって重要なのは、テラではない。

 

 救いだ。

 

 イースチナは自分の人生にいつか現れるだろう救いを夢見ている。それは思春期の少年少女をして、自然なことだろう。アビスに影響されて少しは現実的に物を考えられるライサにもそのような考えは存在する。アビスは知らん。

 ライサの言っていた通り、イースチナはアビスに救われたライサの存在に救いを見た。どんな状況にも救いの手はあるのだと信じた。自分の人生に小さな小さな希望が灯った。

 

 ライサにとっての〝救い〟だったアビスには〝救い〟など存在していないのだが、そのあたりは知らないし、知っても意味などないだろう。

 イースチナは一種の代償行為をしているに過ぎない。そしてそれの対象はライサでなくてはならないのだ。

 

 ライサが、幸せにならなくてはならない。

 その他は目に入っていない。何故か?──ライサ以外はイースチナ自身の〝救い〟と何も関係がないからだ。

 

「ラーヤ、私は……」

 

「そんなつもりじゃなかった?それは知ってる、だから私だって別に気付いても怒らなかった。それで良いと思えるなら、それでいいんだからさ。……でもね?」

 

 ライサの手が壁を叩いた。

 イースチナの体が大きく跳ねる。

 

「そろそろウザいかな」

 

 ライサはイースチナを友人だと思っていたが。

 イースチナはライサを友人だと思っていただろうか。

 

「ねえ、イースチナ」

 

 ライサの表情が消える。

 

 

「自分のことにしか興味がないんだったら、さっさと部屋に帰って本でも読んでればいいんじゃない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「良かったの?」

 

「何が?」

 

「イースチナさんのこと」

 

 一人分の空白を間に入れて、二人は話している。

 

「良くないよ。でもあそこで全部受け入れてたら、それはそれで間違ってた。ちゃんと生きるなら、友達が誰でも良くはないでしょ?」

 

 アビスが死ぬことを隣で見届けると、ライサは言った。そしてアビスに言われてその後のことを考え始めた。

 

 今までならきっと、そのままにしておいたのだろう。

 

「ラーヤ」

 

「なに?」

 

「言っておきたいことがあるんだ」

 

 いつになく深刻なアビスの言葉に、ライサが姿勢を正した。鉱石病のことだろうか、それともまだ知らない他の何かなのだろうか。

 

「ラーヤ……いや、ラユーシャ」

 

「えっ」

 

 ところで話は変わるが、ウルサス帝国人の名前には三種類の呼び方がある。

 一つは本名、つまりライサの場合はそのままРаиса(ライサ)。これは初対面の人やそこまで接触のない人に使われる呼び方だ。

 一つは略称。もしくは愛称と呼ばれることの方が多いかもしれない。友人や同僚など、幅広い相手から呼ばれることがある。ライサの場合はРая(ラーヤ)の他にもРаша(ラーシャ)など、通常数通りの呼び方が存在している。

 最後の一つが、愛称。略称を愛称と呼んでいる場合は親称と呼ばれる。これは家族などの親しい間柄でのみ使われる特別な呼び方で、ライサの場合はРаюля(ラユーリャ)Раюшка(ラユーシュカ)Раисочка(ライーソチカ)……そして、Раюся(ラユーシャ)などがこれにあたる。

 

 ライサの親称をアビスが知っていたのには訳がある。

 なんてことはない、ライサがロドスに来てから少し経った後にその名前で呼んでほしいと言われたからだ。

 通りがかっていたウルサス出身の職員の表情から何かを察し、呼称に関して少しの知識を仕入れたアビスは、一つ下の愛称でライサを呼ぶことにした。

 そんな顛末で、アビスは『ラユーシャ』という親称のことを知っていた。

 

 だがアビスは少ししか知らない。

 親称で呼ぶのが家族くらいの特別親しい相手のみであることを知らない。

 その頃はまだ問題行動もなかったため、その呼称も親しい相手がそう呼ぶのだろうくらいにしか認識していなかった。

 

 ライサの頭に疑問符が浮かび、そしてそれが一瞬全て停止した。

 今から言われる内容が徐々に見えてくる。アビスが何を言おうとしているのか察してしまう。

 

「ボクは」

 

「待って」

 

「えっ」

 

「待って。ちょっと待ってて」

 

 アビスとは反対の方向を向いて深呼吸する。

 新たな燃料を投下された体はより一層ヒートアップし、心臓の拍動がペースを上げる。

 

「何を聞けばいいのか分からないけど……どう?」

 

「ダメだった」

 

「そっか」

 

 何が何だか分からないが、今はダメらしい。

 

「いつなら良くなりそう?」

 

「無理」

 

「そっか」

 

 何が何だか分からないが、無理だったようだ。

 

「それなら、また今度にする?」

 

「今日がいい」

 

「……そっか。でもこのまま待ち続けると埒が明かないし、もう言うことにするよ」

 

「えっ、いや待って──」

 

「ラユーシャ」

 

 いつのまにかアビスは一人分の距離を詰めていた。

 振り返ったライサが硬直し、アビスの顔の目と鼻の先に、赤くなった顔が強張って静止している。

 

「君はボクの大切な人だよ」

 

「ほ、ほんとに……?」

 

「本当だよ、ラユーシャ。って言っても信じられないか」

 

 アビスが苦笑する。

 

「つい最近までボクは、君がそばに居て当たり前だと思ってたんだ。君を遠ざけようとしたのも上辺だけで、でもそれに気付いたのは本当に最近のことなんだ」

 

「だっ、大丈夫!全然気にしてないから!うん!」

 

「そんな簡単に許さなくてもいいんだよ?」

 

「私が許さなかったら殴っていいよ」

 

「落ち着こうか、ラユーシャ」

 

「何だったら今殴っていいよ」

 

「落ち着こうか」

 

「本当だよ?」

 

「本当じゃなくていいよ」

 

「そうかな」

 

 少しだけ緊張していたライサの顔がほころんだ。

 

 それは今まで何度か見たことのある笑みだったが、何故だかアビスには全く違うもののように感じられた。

 

 だかそんな訳はない。ライサの笑顔はアビスが以前見たものとほとんど同じなのだから。

 違うものと言えば、ライサの心だけ。

 

 

 ライサの意思だけだ。

 

 

「ねえ、アビス」

 

「なに?」

 

「私、決めた」

 

 ライサは笑う。

 アビスはその笑みの中に、偏愛と慈悲を見た。

 いつぞやアビスがリラに向けたものと遜色ない程の大きさでアビスを想い、そしてその愛はアビスの幸せを願っている。

 

 ライサの手がアビスの頬に伸ばされて、強張ったのはアビスの方だった。

 

 その暖かい手は優しくアビスを撫ぜる。

 

 

「絶対死なせない」

 

 

 愛があるから。

 

 アビスのことを好きだから。

 

 そう思って、一度は受け入れたことだった。

 

 だがそれは間違っていた。

 アビスのことを本当に好きでいるなら、アビスのことを幸せにしたいのなら、そんな選択はありえない。

 

 アビスの最期を看取るなんて拷問だ。

 アビスに最期を許すなんて怠慢だ。

 

 本当に好きでいるのなら、アビスに迫る死など全力で押し退けて然るべきなのだ。

 

「アビスが死ぬなんて許さない」

 

「絶対?」

 

「うん、絶対に許さない」

 

「……それは困る」

 

「アビスが折れてくれるまで、私は精一杯抵抗する。忘れられない記憶は全部私が塗り替える」

 

 そんなことはありえない。

 アビスにとって、リラは絶対的な存在だ。

 

「私を見てくれるまで離さないから」

 

 だからこそその座を奪い取る。

 相手が強ければ強いほど、勝った時に得られるものは大きいのだ。

 リラの代わりになれたのなら、正しくそれはアビスにとって新しい生きる理由になる。

 

 好きな相手を自分に惚れさせる。

 好きな相手を死なせない。

 

 一石二鳥だ。

 

 

 

 ライサは笑う。

 恋情と嫉妬の火を灯して、好戦的な笑みが浮かぶ。

 

 

 

「覚悟してよ、アビス(リラ)

 

 

 

 




はい、これにて盛り上がりに欠ける三章は終了しました。
kykyさん、柊の木さん、評価ありがとうございます!

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。
作者は旅に出ます。嘘です。
後書きで感想や評価をねだるのはどうだろうと思い悩む一方、効果があるなら試してみるのもどうかと考えています、作者です。
三章は盛り上がりに欠けていますので後書きだけでも盛り上げていきたい所存の作者です。

さて、三章の後についてくる幕間ですが、恐らく二話投稿されます。恐らくというのはまだ二つ目が完成していないからです。ちなみに幕間をちょこちょこ進めていたせいでこの一話はギリギリでした。
もし余裕があったら四章の一話目も投稿しますが、多分ありません。作者にもリアルの都合があります。冗談です。そこまで深刻じゃありません。
仮題もそろそろ片付けたいなとは思っているんですけどね。おっと、誤字ではありませんよ。本当に【仮題】の話です。

さてさて。

それでは、これにて三章を締めさせていただきます。
読了ありがとうございました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間
四十五 ライサの胸襟


アンケート結果を見て作者は思いました。
これがハーメルンか、と。


「アビスを好きになった理由、ですか?」

 

 そう聞き返すと、エイプリルさんは待ちきれないとばかりに期待で顔を彩って頷いた。

 恋に理由なんて要らない──なんてよく言うけど、そんなのフィクションに登場する情熱的な一目惚れくらい。大体の人はちゃんと好きな部分を見つけてる。一目惚れっていうのも実は遺伝子が何とかみたいな話を聞いたことあるし。

 でも、私がアビスを好きになった理由ってそこまでのものじゃないんだよね。

 

「申し訳ないですけど、ご期待には沿えませんよ?」

 

「それでもいいから!あ、でも言いたくなかったら良いんだよ?ただ聞きたいなってだけだから」

 

「うーん……なら、一応話しておきます」

 

 エイプリルさんの顔が更に輝いた。お昼時を少し過ぎて人も疎らな食堂に、なんだか花が添えられたみたいだった。

 そういえば、ここ最近は前みたいに振り返ることが少なくなってたっけ。アビスについて、まだブレーキが効いてた時は割とよく家族のこととかで泣いてたんだけどね。

 

「私とアビスが出会ったのは、知っての通りテロの被災地でした。私は一人で明日の食糧さえなくて、瓦礫になって家族を押し潰した家の前で蹲っていました」

 

「ごめんちょっとだけ待って」

 

 えっ?何があったんだろ、エイプリルさんが『やらかしちゃった』みたいな表情をして──手で顔を覆った。

 もしかして私に同情したのかな。いや、不躾だったって自省してるのかもしれない。

 エイプリルさんは許可を取って、それで私の方から話したのに自責するなんて本当に真面目で律儀。そんなこと気にする必要なんてないのに。

 

「その、ごめんなさい」

 

「気にしないでください、それにたぶんエイプリルさんが思ってるような展開にはならないので」

 

「……うん、分かった。でも話しにくかったらやめていいからね?」

 

「はい。それでえっと、アビスが通りがかったんです。テロリズムの現場で平然そうに、汚れ一つもない服を着て歩いていたから、私にはテロリストに見えました」

 

 ふんふん、と頷くエイプリルさん。

 今思えばあのアビスって相当余裕なかったんだなって思う。コータスとは言え私の方が早く近づいてくるのを気づいたし。

 

「それで、隙をついて殺してやろうと思いました」

 

「えっ」

 

「怪我した風を装って足を押さえて、のこのこと近づいて声をかけてきたアビスを手頃な瓦礫で殴りつけようとしました。そうしたらアビスは咄嗟に私の顎を蹴り上げて、そのままノックアウトされちゃいました」

 

「えっえっ」

 

 今思い出すと、あのアビスは可愛くて格好良かった。私が瓦礫を振ったことにすごく驚いてたし、その状況からもキレッキレの攻撃を繰り出せるあたり本当に半端ない。マジヤバい。語彙が足りない。

 

「アビスって余裕がない時ほど判断が輝くんです。普段は割とポンコツで、支え甲斐がある人なんですけどね」

 

「ラーヤちゃんはそれのせいで蹴られたんだよ?」

 

「役得でした」

 

 アビスの強みの一つはきっと、その天性の判断力だと私は思ってる。繰り返しの訓練で体に染み込ませた動作を最適な位置に最適化して繰り出す。

 そこに一切土壇場であることを感じさせるような淀みはなくて、しかもその戦法で只管アドバンテージを守るから怖すぎ。あんまり近付かれると私の血圧が上がり過ぎて死ぬのでやめてください。

 あとその中でも注意が散漫になるアレ可愛すぎない?キョロキョロしながら努めて冷静で居ようとするなんて、なんていうか職務に忠実な殺戮ロボットみたいな可愛さがある。

 ちょっとサンプル間違えたかもしれない。

 

「それで起きたらアビスが私のことを睨むみたいにして探ってて、とても怖く感じたのを覚えています。私のこと全部見透かされてるみたいで……はぁ、もっと堪能しておけばよかった」

 

「えっ、あ、うん」

 

 まあ仕方ないか。切り替えていこうっと。

 

「それで私は、アビスの居るロドスの話を聞いて、救助を受けるかと問われて、一も二もなく頷きました」

 

 そうしたのは、たぶんきっと。

 

「私の後ろにあった瓦礫の中に家族が居ました。潰れる音を聞いていました。悲鳴が耳にこびりついていました。私が弱い力で瓦礫を押している間に掠れていく兄の絶叫を覚えていました」

 

「それ、は……」

 

「私はそれで、迫り来る死を明瞭に認識しました。端的に言うと、死にたくなかったんです。今出来ることは何か頭を働かせても答えなんて出なくて、だからアビスの提案は私にとっての希望でした」

 

 だから精一杯役に立とうと必死だった。私が生き残るためにはアビスが必要で、そのためならある程度の傷を私が庇うことすら考えてた。

 

「それからアビスに私はついていって、その凄い戦いっぷりを後ろから見ていたんです。その時はたぶん、憧れてたんだと思います。強いアビスが羨ましくて、中途半端な役割しか熟せない自分に劣等感を感じるほどでした」

 

「そういえばあたし、アビスがちゃんと戦ってるのを見たことない。今度アビスが演習に参加したら、その演習記録見ようかな」

 

 いや渡しませんよ?

 

「あの爆弾魔との戦いも凄かったですよ。アビスは簡単に銃弾を回避してましたから」

 

「化け物じゃん」

 

「まあ結局罠にかけられちゃって、それを私が助けたんですけどね。こう、煉瓦の鉢植えを屋上からポイッと」

 

「え、えげつないね……」

 

 そんなに褒めないでくださいよ、私が欲しいのはアビスからの賛辞だけなので。頭撫でられたら死ねる自信ある。まあ死なないし堪能するけど。

 

「初めて意識したのは、アビスが私を予備隊の方々に任せた時でした」

 

「えっ、アビスと一緒の時じゃなくて?」

 

「はい。なんていうか、アビスと比べちゃったんです。アビスが一撃で仮面を叩き割っていた兵士も、盾を使って受け止めて、剣とアーツで撃退してて。それは負担を集中させない意図もあったんでしょうけど、アビスが際立って強いんだと感じちゃいました」

 

 種族柄なのか、アビスは耐えることに関して人一倍凄いように感じる。サリアさんとの訓練とかも、よく耐えられるなぁって思う。

 耐えて、耐えて、それで機を見つける。そこで判断力も生きてくるのかな。まあ木端なら一撃粉砕できる力もあるんだけど。

 

「それで一番意識したのがその後、Wと二度目の戦闘が起こった時です。──息もつかせない攻防でした。射線だけを見て銃弾を躱したかと思えばその先で手榴弾が爆発して、その爆炎の中からアビスが飛び出して」

 

 私はアビスを目で追うことが出来なかった。

 

「ラヴァさんは射程外だって愚痴を言いながら、クルースさんは弧を描く口の端をひくつかせながら……ドクターの指揮で予備隊の人はみんなアビスを補助していました」

 

「格好良かったんだ?」

 

「はい、勿論。Wが撤退した後でドーベルマン教官やニアールさんに怒られてましたけど、それでも目に焼き付いて離れなかったんです」

 

 私の耳に銃弾を発射する音と、それを上回るほど大きいお腹に響くような金属音が聞こえた。

 一つ目はそのまんま銃撃音で、二つ目はその銃弾を短剣で弾いた音だった。

 

 それをすぐに理解できるほど異常じゃなかった私だけど、それでもアビスが何かすごいことをしたんだろうなっていうのは分かった。

 撤退するWから早々に目を離したアビスは振り返って、疲れた様子を何一つ見せずにカーディさんを気遣ってみせた。上機嫌に揺れている尻尾から一気にどばっと血液が出てきて台無しになったしカーディさんが泣きそうになってたけど。

 

「初恋?」

 

「そうですね、正直家族以外の男の人は嫌いでしたから」

 

「そっか。いいなぁ」

 

「何がですか?」

 

「今を生きてるって感じ。あたしはロドスに来てからちゃんと生きてる実感はするんだけど、ときめくような体験は残念ながらなくてさ」

 

 ふーん。エイプリルさんってもっと、良い意味で遊んでる人だと思ってたんだけどな。なんていうか、健全な大学生みたいな感じ。いかがわしいサークルには入ってなくて、自由を謳歌してる、みたいな。

 でもそっか、そうなんだ。オペレーターに限らず職員を含めれば、ロドスは相当出会いの数があると思うんだけど。

 

「レンジャーさんとか良い人ですよ」

 

「……着眼点が違うね」

 

「ぶっちゃけ全員同じに見えてるんですけどね」

 

「アビス以外?」

 

「アビス以外です」

 

「そっか。でも年齢くらいは見ておいた方がいいよ?」

 

「そんなものですか?」

 

「そんなものだよ、うん。少なくともレンジャーさんは間に合ってると思うし」

 

 よく分かんない。クオーラは私の考えに同調してくれたんだけどなぁ。年齢は関係ないって考えることはいけないのかな。

 まあでも、エイプリルさんが言うならそうなのかな。

 

「今日は時間取っちゃってごめんね、ラーヤちゃん」

 

「え?ああ、構いませんよ。アビスも今はロドスに居ませんし」

 

「えっ?さっき廊下で見かけたよ?」

 

 は?

 

「アビスは今日任務があって、居るはずなんて……嘘?作戦の失敗?いやアビスが作戦に失敗するなんてありえない、嘘吐いたんだ」

 

「あっ」

 

「…………エイプリルさん、急用が出来ました」

 

「程々にね?」

 

「約束はできません」

 

 早くカーディさんの所に行かなきゃ。

 

 

 

 

「……後でアビスに謝っとこ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カーテンまで閉め切られた、静かな部屋の中。

 ライサはゆっくりと体を起こした。

 

 少し前の日の夢だった。

 Wと出会ってから少し後の、食堂での会話だ。

 エイプリルの持つ感情を見極めるという意味でも設けたその時間は思いの外自分の脳に居座り続けているらしい。どうせ夢なら彼との時間を過ごしたいものだが。

 

 もう、そんな些細なことも叶わない。それはもう何日にも跨って閉ざされている自室のドアが原因だ。ライサの体はあの日からずっと外に出ていない。

 

 ライサはアビスの前で泣いてしまった。

 その原因はアビスの鉱石病にある。思っていたよりもずっと命が消えかかっていたアビスを見ただけで、沸々と悲しみが湧き上がってきた。

 延々と泣き喚くそれがアビスにとって迷惑だと分かってはいたが、だからといって自制することも不可能だった。

 

 泣いた後のライサは一言も発しないまま、逃げるように自分の部屋へと駆け込んだ。いや、()()()ではなく、実際に逃げたのだ。アビスの死を拒絶したいライサは、現実から逃げたのだ。

 そんなことを自覚できないほど耗弱していた精神も、今ではかなり回復した。それによって自分を嫌ってしまい、また外に出る勇気を失うのだ。

 

 頭を振る。

 どうやら暗い部屋が心に錘を乗せているらしい。

 

 布団にくるまっていたライサは、取り敢えず抜け出してみた。そこにはロドスに支給された端末が置いてあり、数日ぶりに起動してみるとかなりの数通知が来ていた。

 武器のメンテナンスが終わっただとか、香水がもう取り寄せられているだとか。大方購買部の倉庫にはかなりの数放置されているのだろう。クロージャには悪いが、まだそこまで外出する勇気は出なかった。スワイプすると、友人からのメッセージも届いていた。

 

「……香水、か」

 

 そんなものに感けている暇があるのか。気になっている人が全く振り向いてくれないのに、そんな余裕が自分にはあるのか。その答えは決まっていた。

 せめて気付いてくれたのなら、まだ良かった。少しでも興味を持ってくれたのなら、例え嫌いな匂いだとか言われても少しショックを受けるだけで済んだ。

 

 しかし気付いてもらえなかった。彼は自分がどんなにお洒落な服装をしてもどんなに近付いて香りを匂わせてみても、それに言及することは(つい)ぞ無かった。

 彼が自分を見ていないことは知っていた。それでも少しくらいは気を引きたかった。振り向いてくれなかったとしても、自分の努力は認めてほしかった。

 

 自分は思っているよりもずっと滅入っているらしい。こんな思考をするなんて、学校に通っていた時もなかった。いや、それは当たり前か。こんなに人を盲目的に好きになったことなんてなかったのだから。

 だからより一層自分が滅入っていることが分かって、ライサは自嘲するように顔を歪めた。

 

 こんなに気分が下を向いているのは、暗い部屋の中で一人きりだからだろうか。いや、違うだろう。

 自分の近くに彼がいてくれないからだ。暗い部屋だとか一人だとかはそこまで関係ない。部屋を明るくしたって、他の人と一緒に居たって、胸にある空虚を埋められることはない。

 

「あー、もう嫌だ。演習記録でも見よう」

 

 どこまでも俯く顔を無理矢理押し上げた。

 

 新米オペレーターであるライサは他のオペレーターよりも任務の難易度が低く頻度も少ないが、代わりに演習記録の閲覧ノルマがある。レポートを作って提出するまでが課題なので、中々面倒なものだった。

 座椅子に座って、テーブルの下に置いてある箱の中から演習記録を取り出した。

 もし彼が手伝ってくれるのならきっとすぐに終わる。少し前、明日が検査で暇だからと手伝ってくれた時は頼りになった。ロドスに加入する以前はまだ体が小さかったために計画を練って行動することが多かったらしく、ライサに色々と教えてくれた。

 

 セットし終えて再生しようとする。しかし演習記録は画面に映らなかった。ライサの指が止まっていた。力を込めることができなかった。

 結局ライサはリモコンをテーブルに戻して、背凭れに寄りかかった。

 ボタンを押さなかったのは、再生しなかったのは、一人で見たくなかったからだ。彼が隣に居ないことを浮き彫りにしたくなくて、ライサはそれを見たくなかった。

 

 しかしそれもまた意識しているということだ。隣に居ないことを遠ざけようとして、返って頭の中をぐるぐる巡らせてしまう。対処の仕方は分からなかった。

 

 ライサは感傷的な気分になった。だが何故かそれが他人事のように思えた。少しだけ遠くから誰かのことを見つめているような気分になった。

 しかしだからと言って、それがどうしたというのか。ライサは自分の思考を一蹴し、行き詰まった現実を再び嘆いた。今は客観的になれていたって、彼を目の前にすれば主観以外で居られなくなる。

 目の前にしなくても、あのことを聞くまではそうなっていた。暴走していた。それはやめられない。だとしたら意味がない。アビスの隣に居る時こそ一番大事で、その時以外の時間は……友人との時間を除けば、全て些事だろう。

 

「これが物語だったら、連絡の一つでも入るのにな」

 

 端末に入っているメッセージ機能。

 彼からの連絡はない。遡れるほど履歴もない。彼と可能な限り直接会っていたライサには、いっそ宿舎にでも飾ってやろうかと思うくらいに無用の長物と化していた。雰囲気が良くなるならばきっとそれの方が良い。

 それの犠牲となるのは、好きな人にこれっぽっちも振り向いてもらえない自分ただ一人なのだから。

 

 結局端末はベッドに投げた。動力の補給はしない。それが必要なほど端末の動力は減っていなかったし、縦しんばそれが切れたとしても彼から通知は来ない。虚しいことに、今の自分にとっては本当に役立たずなものになってしまっているのだ。

 

 さて、と気分を切り替える。

 起き出した以上はいつまでも寝巻きでいる訳にもいかないし、食事もしなければいけない。泣いた後に散々寝ていたせいかお腹は盛大な音を立てて主張を始めている。

 本来寝巻きではないが伸縮性が高いというだけで寝巻きに採用している服を脱ぎ捨て、適当なシャツとショートパンツを着た。見せる相手がいないというのに色合いを気にしてしまうあたり、自分は変わったものだとしみじみ思う。

 

 料理も一応出来るようにはしようとした。実際簡単なものなら手際よく作れるくらいにはなった。だがそれ以上はダメだった。好かれる努力だとしても、レシピという、然して興味のない複雑なものを覚えられるほど利口ではなかった。

 それに彼は料理が得意だ。一度だけ強請ったのが成功して食べさせてもらえたが、レストランも斯くやと思わされる出来だった。それ故かアビスはロドスの食堂に行くこともなく、他のオペレーターより料理の下手な自分が振る舞うのは無理だろう。

 

 そんなことを考えながらも料理は進み、適当に炒めた野菜と目玉焼き、レンジで温めただけのパンが皿の上に乗った。黒胡椒と、とある前衛オペレーターから勧められた醤油というものを目玉焼きに掛けた。

 

 フォークで目玉焼きを持ち上げる。黒とも茶色ともつかないような曖昧な色で、本当に美味しいのだろうかと不安になる。しかしあのオペレーターに周りの人も賛同していた。恐らくは、きっと大丈夫。

 

「ちょっと塩辛い」

 

 美味しい、確かに美味しいのだが味が濃すぎる。少し掛けすぎたのだろうか。いやしかしこの入れ物から出る時は相当なスピードだ。少量しかかけないものをこんな勢いの強い容器に入れるのか?

 今度は炒めた野菜の方を、皿に溜まっている醤油に浸けて食べてみた。

 

「あっ、いいかもしれない」

 

 今度は塩辛く感じなかった。いや、適度な塩辛さがしっかりと美味しく感じられた。

 

「アビスにも……あ、いや」

 

 寂しさが一層胸の奥を突く。口に入れた目玉焼きの味すら感じ取らないままに深い感情が脳を支配する。その一口を最後にナイフとフォークを皿に置いて、暫く考え込んだ。

 しかし、たった十数秒の熟考で答えは出た。

 

「アビスに、会わなきゃ」

 

 正確には会いたいだけだが、それを口に出すことは恥ずかしいのでしない。そも、半ばからほぼ彼目当てでロドスに加入したのに自分から離れるなんて勿体無い。好きな人から距離を置くのは、手の込んだ自罰行為としかならない。

 彼が告げた鉱石病の数値にショックは受けた。だがそれだけだ。彼は今すぐ死ぬ訳じゃない。身の振り方を考えることはしても、関係を絶つなんてものは、彼の死が決定して、それの恐怖に耐えきれなくなった自分が決定的な瞬間から逃れるために取る手段だ。

 少なくとも、離れるのは今じゃない。

 

 ちなみに今の思考の後半は蛇足だ。このライサ、端から彼に会いたくて只管言い訳を心の中で叫んでいる。ただ気恥ずかしてそれを認めることは未来永劫無いのではあろうが。

 

 端末を起動して、とあるアプリを開いた。

 ロドス艦内であればどこでも使用可能な発信機の信号を受信できるアプリだ。何故かアビスの部屋を訪れてLancet-2と会話しているユーネクテスに作ってもらったものだ。クロージャはちょっと遠慮しておいた。

 分野はかなり違ったらしいが、源石機器に強いことは変わらない。結局他の職員も巻き込みはしたが、どうにか作り上げられたのだった。

 

「アビスは……って、まずは支度か」

 

 腰を上げる。さっきまでは重かったはずなのに、随分と軽く感じられた。どうしようもなく会いたいのだと自覚して赤面しそうになるが、別段恥じ入ることでもない。

 ライサは服と化粧品を広げて、吟味を始めた。

 

 

 一方その頃、アビスは療養庭園に行くか図書室に行くかで迷っていた。ライサは泣いていい。




執筆ペースが落ちてます。
明日の更新は中々難しそうです。
四章は五月中に書き上がればいいのですが。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十六 主人公紹介2

日間ランキングに乗るという夢を見ました。
ぶっちゃけこれから休載なので乗っても困りますけど。

wiki風のものを携帯で見るなら横にした方がいいですよ。


 

プロファイル

 

【基礎情報】

 

【コードネーム】アビス

【性別】男

【戦闘経験】六年

【出身地】リターニア

【誕生日】7月29日

【種族】ヴイーヴル

【身長】167cm

【鉱石病感染状況】

体表に源石結晶の分布を確認。メディカルチェックの結果、感染者に認定。

 

【能力測定】

 

【物理強度】標準

【戦場機動】優秀

【生理的耐性】普通

【戦術立案】優秀

【戦闘技術】優秀

【アーツ適性】欠落

 

【個人履歴】

クルビア出身のヴイーヴルの青年。感染者として放浪していたところをロドスに保護された。短剣のアーツユニットを好んで使う以外は、特に武器の好みはない。多方面の任務で活躍している

 

【健康診断】

造形検査の結果、臓器の輪郭は不明瞭で異常陰影も認められる。循環器系源石顆粒検査の結果においても、同じく鉱石病の兆候が認められる。以上の結果から、鉱石病感染者と判定。

 

【源石融合率】──% (23)

 

【血液中源石密度】──u/L (0.44)

 

源石融合率と血液中源石密度は安定しているが、アーツの過度な行使による変動が頻発している。データとしての有用性が感じられず入力は控えることとする

──ケルシー

 

【第一資料】

ロドスが行った第一回目の組織拡充にて正式に採用された感染者の子供。ヴイーヴルの持つ肉体の強度を十全に発揮する、重装オペレーターであるサリアの弟子。放つ拳は鉄塊宛らであり、放つアーツは感情の暴風そのものである。

単身で任務に赴き無事解決する手腕こそ、その鍛えられた戦闘能力を如実に物語っている。

 

【第二資料】

アビスの鉱石病は他のオペレーターに比べて随分と異質な発展を遂げた。上腹部にて発展した源石結晶はアビスの消化器を圧迫或いは傷つけ、それを原因として幾つかの疾病を発症させた。また消化器官の衰弱によりアビスは普通の食事を摂ることが出来ず、特別消化に良い圧縮ビスケットを一年以上食べ続けている。

だがアビスはそんな病状よりも、自分の目的を優先している。療養や安静を言い付けられたとしても訓練室に忍び込み、目的を達成するための鍛錬を欠かすことがない。ケルシーの評価に度々見られる「子供」という単語は、アビスのそういった部分に向けられているものなのだろう。

鉱石病によって齎される自身の『死』をアーツに利用しているだけあって、アビスの死生観や人生観はかなり独特だ。恐怖を感じてはいるが、それは感じているだけであって、アビスの行動を阻止する一助とはなり得ないと言う。

生あることが最上であると説くケルシー並びに他多数のオペレーターに対して、彼は挑戦でもするかのような発言を繰り返しているという報告も存在する。

 

【第三資料】

アビスは入職してからの三年間、自分についての一切をその口から語らなかった。だがとある騒動を経てアビスはその決意を一新し、それによって判明した事実が幾つかある。

アビスはリターニア出身だとあるが、初等部を卒業する前にクルビアへと旅立ち、そして戦争孤児となっている。親を殺された憎悪こそ今では癒えているものの、それの反動か、将又もう一つの要因によってか、アビスは一人で居ようとする嫌いがある。

アビスのアーツは感情そのものであり、そしてその感情は当然ながらアビスのものだ。アビスの抱える恐怖は常人ならば易々と膝を折る程のものであり、そのアーツを使い熟すアビスがどれだけの恐怖に曝されてきたのか想像すら出来ないだろう。

アビスが好意を寄せている人物として、カーディとポデンコの二人が存在する。彼と近しい関係にあるオペレーター曰く、アビスは明るい髪色のペッローに対して異常な程肯定的だと言う。

その理由として挙げられるのは、アビスの一人で居ようとするもう一つの要因と同じ存在である。即ちアビスが戦争孤児になった後所属していたスラムの孤児院に居た、孤児仲間だ。アビスはその『彼女』との思い出を穢されたくないがための一心でとある重装オペレーターに喧嘩を売った。細心の注意を払いたい。

 

【第四資料】

アビスに関しての扱いは私が最も心得たと言えるだろう。少なくともこのプロファイルを見ている君よりは私の方がアビスを知っている。

もしも君がアビスの手綱を握る時が来たのなら、唯一気をつけるべきはアビスに対して分かった風な口を利かない方がいいということだ。過去の話や鉱石病についての話には答えが返ってこないだろうが、アビスに対して生半可な覚悟で理解を示せば、それは膨れ上がった恐怖が君の精神を打ち据えるだろう。

アビスを上手く扱うコツ、か。やはり何と言っても白に近い髪色のペッローを用意することだろう。それが出来ないのであれば諦めろ。アレは言われて聞くようなヤツではない。

だが押されれば素直に引くところもある。いつもアビスに隣に居るオペレーターはつまり押し切ったということだ。我の強い手合いはやはり、それ以上の我で対抗するのが一番分かりやすい解決法だということだ。

私か?私は上司の権限に物を効かせているだけだ。それくらい強引な方がこちらとしてもストレスが少ない。

パワハラではない。断じてだ。

 

──ケルシー医師

 

 

 

 

アークナイツ非公式wiki風プロファイル

 

 

基本情報

 

画像プロファイル
⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎コードネーム アビス
レアリティ ☆4
陣営 ロドスアイランド
性別
職業 前衛
職分 領主
募集タグ 近距離/牽制/弱化
戦闘経験 六年
出身 リターニア
誕生日 7月29日
種族 ヴイーヴル
身長 167cm
専門 炊事/交渉
鉱石病 感染者
SD
SDSD

SDSD

SDSD

SDSD

SDSD

特性募集方法
80%の攻撃力で遠距離攻撃も行える公開求人/人材募集
個人履歴
クルビア出身のヴイーヴルの青年。

感染者として放浪していたところをロドスに保護された。

短剣のアーツユニットを好んで使う以外は、特に武器の好みはない。

多方面の任務で活躍している

初期未昇進(45)昇進1(60)昇進2(70))信頼度
HP1500200025003100再配置遅い(70s)
攻撃250375500600COST17/19/19
防御200250300350+55ブロック2 / 2 / 2
術耐性551010攻撃速度やや遅い(1.3s)
攻撃範囲
初期昇進1昇進2

 

⬛︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎

 

 

⬛︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎

 

 

⬛︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎

 

潜在能力
2段階3段階4段階5段階6段階
コスト-1再配置時間-4秒防御+27素質強化コスト-1

 

素質

名称段階効果
反映昇進1自身の受けている弱化を100% (+2%)攻撃した相手に強制する
昇進2自身の受けている弱化を攻撃した相手と、10%の確率で近くの敵に強制する
重症化昇進2配置時に最大HP、攻撃力、防御力が-50%

 

基地スキル

名称解放条件効果
我慢 初期体力がなくなってもしばらくの間集中力低下状態にならない
未来のない子供昇進2配置した施設の効率または訓練速度+15%、副産物の入手確率+50%、配置宿舎内の体力回復速度+1.0

医療オペレーターと同じ施設内に配置できない

 

スキル

 スキル1 耐久超過

Rank初期SP必要SP持続効果
1025-次の通常攻撃時、50%の確率で攻撃した敵を5秒間スタンさせる
224次の通常攻撃時、50%の確率で攻撃した敵を5.5秒間スタンさせる
323次の通常攻撃時、55%の確率で攻撃した敵を6秒間スタンさせる
4322次の通常攻撃時、55%の確率で攻撃した敵を6.5秒間スタンさせる
521次の通常攻撃時、60%の確率で攻撃した敵を7秒間スタンさせる
620次の通常攻撃時、60%の確率で攻撃した敵を7.5秒間スタンさせる
7719次の通常攻撃時、65%の確率で攻撃した敵を8秒間スタンさせる
特化I818次の通常攻撃時、70%の確率で攻撃した敵を9秒間スタンさせ、5%の脆弱属性を付与する
特化II917次の通常攻撃時、75%の確率で攻撃した敵を10秒間スタンさせ、10%の脆弱属性を付与する
特化III1015-次の通常攻撃時、80%の確率で攻撃した敵を11秒間スタンさせ、15%の脆弱属性を付与する

 

 スキル2 スラム育ちの八つ当たり

Rank初期SP必要SP持続効果
1010020素質を30%強化する。

攻撃が範囲攻撃になり、攻撃範囲内の対象を70%の確率で8秒間スタンさせる。

スキル発動後敵に狙われやすくなる

効果時間終了後20秒間攻撃停止

2素質を30%強化する。

攻撃が範囲攻撃になり、攻撃範囲内の対象を75%の確率で8秒間スタンさせる。

スキル発動後敵に狙われやすくなる

効果時間終了後20秒間攻撃停止

3素質を30%強化する。

攻撃が範囲攻撃になり、攻撃範囲内の対象を80%の確率で8.5秒間スタンさせる。

スキル発動後敵に狙われやすくなる

効果時間終了後20秒間攻撃停止

43素質を30%強化する。

攻撃が範囲攻撃になり、攻撃範囲内の対象を85%の確率で8.5秒間スタンさせる。

スキル発動後敵に狙われやすくなる

効果時間終了後20秒間攻撃停止

5素質を30%強化する。

攻撃が範囲攻撃になり、攻撃範囲内の対象を90%の確率で9秒間スタンさせる。

スキル発動後敵に狙われやすくなる

効果時間終了後20秒間攻撃停止

6素質を30%強化する。

攻撃が範囲攻撃になり、攻撃範囲内の対象を95%の確率で9秒間スタンさせる。

スキル発動後敵に狙われやすくなる

効果時間終了後20秒間攻撃停止

7795素質を30%強化する。

攻撃が範囲攻撃になり、攻撃範囲内の対象を9.5秒間スタンさせる。

スキル発動後敵に狙われやすくなる

効果時間終了後20秒間攻撃停止

特化I89025素質を35%強化する。

攻撃が範囲攻撃になり、攻撃範囲内の対象を11秒間スタンさせる。

スキル発動後敵に狙われやすくなる

効果時間終了後20秒間攻撃停止

特化II985素質を40%強化する。

攻撃が範囲攻撃になり、攻撃範囲内の対象を12.5秒間スタンさせる。

スキル発動後敵に狙われやすくなる

効果時間終了後20秒間攻撃停止

特化III108030素質を49%強化する。

攻撃が範囲攻撃になり、攻撃範囲内の対象を14秒間スタンさせる。

スキル発動後敵に狙われやすくなる

効果時間終了後20秒間攻撃停止

 

コーデ

+
 昇進画像

 

プロファイル

+
 ネタバレの危険性あり!気をつけて。

 

ボイス

+
 クリックでセリフ一覧を開く

 

ゲームにおいて

強力なデバフを長射程で繰り出す、補助性能に突出した特殊な前衛。

牽制と弱化タグの併用で特定することができるが、レアタグなためにあまり見ることの少ない☆4オペレーターの一人。二段階目の昇進をする前後では別人のように性能が変わることからアビスについての情報が錯綜しやすく、またそのような情報を見ずプレイし、アビスを気に入って軽々しく昇進2をしてしまったドクターは地獄を見ることになる。

 

素質

 反映

アビスのぶっ壊れその1。自分の受けている弱化を攻撃した相手にも強制する、つまり道連れ系のスキルではない。

後述する最後の素質についてはとっておくとして、アビスが持つぶっ壊れの一つ目はその職分、延いてはその特性にある。

領主が持つ、遠距離攻撃を80%の攻撃で行うという特性。領主は遠距離用の攻撃モーションと近距離用の攻撃モーションがそれぞれ存在し、そしてその20%という大幅な攻撃力ダウンはモーション中継続している。

つまりアビスが敵をブロックしていない場合、全ての攻撃に攻撃力ダウンが乗る。重装の後ろにアビスを置けば、何もせずとも相手に攻撃力ダウンをかけ続けられる。

 

二つ目の昇進を終えたアビスの素質はアンセルの素質と似た効果を持ち、攻撃した相手へのデバフが半径0.9マスの中に居る一番近い敵にも10%の確率でかかるという代物だ。

たった10%ではあるが、後述する二つ目の素質を交えると馬鹿にならない程ランダム要素が強く絡んでくるので、自動指揮目当ての場合はアビスを使用しないことを推奨する。

 

 重症化

アビスの厄介さを一番引き上げたとされるのはこの素質だろう。説明文にもある通り、この素質はアビスを弱体化させるためだけのものだ。

先述した反映と利用することになるのだが、これによると昇進2の時点で1250のダメージと、攻撃力に-300、防御力に175のデバフをかけることができる。更にその継続時間は配置している間ずっと、つまりアビスがそのエリアに居る限り無限に効果が続く。

アビス自身のステータスはレベルを最大まで上げても未昇進の状態にまで低下してしまうが、その有用性は高い。昇進2をさせるかさせないかはドクターに委ねられているが、一考の余地はあるだろう。

 

余談だがアビスの打たれ弱さに加えて10%という確率が最大限噛み合うと、最悪戦線が崩壊する。周回を見据えて攻略するならば編成を見直すべきだろう。

ステージギミックで起こる毒ガスや火山の噴火などにはそれなりのスピードで溶けて消える。最大HPが大幅に削られるというものにヘイズのS2などが存在するが、あちらとは違ってタイミングを測ることができない。最大限注意した運用をするべきだろう。

 

スキル

 スキル1 耐久超過

クセのないスタン付与攻撃。通常攻撃に乗るスタン効果としては効果時間がかなり長いため、それに目をつけたドクターも多いのではないだろうか。

しかしこのスキルではスタンが確定でなく、またアビスが求人募集では出にくく先にテキサスのS2を知ってしまっていることが多いため、スキルレベルが低いうちはあまり利用しにくいだろう。

だがこのスキル、特化してからは強い。スタンを確定させることは相変わらずないが、付随する脆弱属性は素質を介さない正統派のデバフだ。

 

 スキル2 スラム育ちの八つ当たり

アビスのぶっ壊れその2。

このスキルはS1とは違ってかなりクセが強いが、それ以上に強力なスキルであり、また、雑に使ってもある程度は効果を期待できるスキルになっている。

このスキルを端的に言い表すと、使い捨ての殲滅だ。

まず攻撃面で言うと、アビスは範囲内の敵の動きを高確率で止め、防御力を最大で-565し、更に範囲内の敵全員への同時攻撃が可能となる。もちろんアビス自身の攻撃力は素質によって6にまで下がっているため援護は必須だろう。

ちなみに攻撃力を最大で-784するというとんでもない効果だが、それに頼って少人数で脇道などを潰すのは控えたい。これに関しては理由を後述する。

 

さて、攻撃面の次は防御面だ。スキル発動中のアビスは最大HPが20%、特化させると1%にまで落ちる。つまりアビスの攻撃力は6、防御力は4、HPは31が最大だ。

オリジムシより弱いが、しかしこれについて特に問題はないように思えるかもしれない。なぜならスタンでスキルの効果時間中は耐え凌げるため、遠距離攻撃にさえ気を付ければ1%にまで落ちたHPを削られることなどないと思われるからだ。

しかしそれは間違いだ。理由は二つある。

まず最初にこのスキル効果が永続であり、アビスのスキルによって減ったステータスはスキル終了後も直らないからだ。

つまり敵をブロックし一度でも攻撃をもらえば、アビスは死ぬ。

ゼロになった防御力など関係なく、最低保証ダメージによってすら確実に死ぬ。

二つ目に、アビスのスキル2の効果対象は味方にも及ぶからだ。

文面に『攻撃した敵』ではなく『攻撃範囲内の対象』とされていることから察せるだろうが、アビスの攻撃は敵にのみされるがスキルは味方にも効果がある。

これによって、アビスの前に出された全てのオペレーターは意味がなくなる。攻撃範囲が直線であることの唯一の利点と言えるだろう。

これらは代わりに対象へのデバフが永続するという点を鑑みれば当然の措置だろうが、やはり強い分欠点は大きい。ドクター諸君の知恵を期待する。

 

ちなみに攻撃停止は、アビスの援護さえしっかり出来ていれば問題になりにくい。

それを利用して流すなどの利用方法もあるため、柔軟に指揮していくことか大切だ。

 

総評

扱いやすい昇進1までのアビスと、扱いにくい昇進2のアビス。

どちらを選ぶかはドクター次第だが、どちらを選んでもそれぞれの強みを活かすことさえできれば、心強い支えとなるだろう。

 

基地スキル

我慢

説明の通り、体力がなくなってもしばらくの間集中力低下状態にならない汎用的なスキル。

もう一つの基地スキルを覚えるのは昇進2であるため、少なくともそれまでは出番がないスキル。

 

未来のない子供

施設の効率を+15%高め、全ての副産物の入手確率を+50%し、配置宿舎内の体力回復速度を+0.5するという器用貧乏スキル。

医療オペレーターと同じ施設に配置できないというデメリットがなくとも使い所が少なく、活躍は期待できない。

 

小ネタ

中国語名:深渊 英語名:Abyss

メインストーリーの一章に登場するオペレーター。

レアリティが☆4であるにも拘らずWを追い詰め撤退させるという凄まじい実力を持っていて、シルエットから察するに、タルラからAceを救ったのも彼だと思われる。

そんな実力を何故持っているのかと言えば、それはサリアの弟子だからだとか。

どんな訓練をしているのかと思えば、それはよく訓練場を破壊し、またケルシーの手を煩わせるほどだとか。むしろ生き延びたWが凄いのか?

 

白や明るい色をした髪を持つペッローが大の好物らしく、カーディポデンコに対してかなり積極的に接触していることが両名及びアビスが愛称で読んでいるとあるコータスのオペレーターによって明らかにされている。

それは理由を過去に持つものだと弁明しているが、断片を集めて考察する限り犯罪スレスレだ。件のオペレーターによる制裁が望まれる。

 

昇進2で獲得する素質は強力で、しかし名前や説明はかなり嫌な雰囲気を匂わせているが……

 

プロファイルのネタバレ有り

-
スタン効果を付与するアーツは彼自身の抱えている感情を伝えることによって引き起こされる副次的効果からのものらしい。
彼の抱えている感情は恐怖であり、それは自分の防御力を下げ、敵をスタンさせるほどに強いものであるようだ。
鉱石病による体内の侵食はかなりのものらしく、数年後の世界線ではアビスが登場しないためどうなったのかは分からないが、ひょっとすると、という可能性すら仄めかしている。

 

コードネームに関しても、何か事情があるようだが……?

 

アビスの印 一銭の価値もない、拙い黒曜石のブレスレット。

約束を忘れないことがどれほど大事なのか、いつも教えてくれている。

採用契約ロドス前衛オペレーター、アビス。彼の意思は命よりも固く、重い。
知っていることも、知らないことも、たくさんある。




 
白状すると、これが三章手間取ってた理由の一つです。もう少し再現できるような気もしましたけど作者的にはこれが限界です。色すらまともに再現できてませんが、限界です。
誰か完璧な感じで作ってください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四章 龍門事件
四十七 火種


もう後から一息に投稿してもよかったのですが、アンケートの経過報告が出来るということで一日空いての投稿です。

今のままだとロリになります。
ロリ > 女装ショタ >> 男装ロリ > ショタですね。
男の娘がロリに追い縋っていると見るべきでしょうか、それともロリが男の娘に打ち勝ったと見るべきでしょうか。他なら前者かもしれませんが、ここはハーメルンですからね。


 

 

 

 

 

 カツ、カツ、カツ。

 ヒールが床を叩き、それに相応しい音が通路に響いている。小脇に抱えるクリップボードには数枚の紙が挟まれていて、颯爽と踏み出した足と同期して紙の角が捲り上がる。

 

 ふと、窓際に立っていたあるオペレーターに目が留まる。開いていた窓から風が吹いて、ダークブラウンの髪が(そよ)いでいる。背負っている鉄黒の弓が斜光に照らされて輝く。

 

 何も言わず、ケルシーはエイプリルの隣に立った。ロドスの窓から望むテラの大地は壮麗な景色を作り出していて、筆舌に尽くしがたい爽やかな風が心にまで吹き込むようだった。

 

 遥か向こうの大地に咲いた源石の華。

 遠く離れた空を紅に塗り潰す天災の雲。

 

 普段は忌むべきその対象にも今だけは、ただ綺麗だと言う他なかった。それ程までに、その景色は遠望する二人を魅了していた。

 

 だが、どうにも胸騒ぎがする。ケルシーの胸中で嫌な予感が膨らみつつあった。どこか自分の与り知らぬ所で火種が猛炎となりつつあるような、そんな静かで不確かな感覚だった。

 

 横を見れば、エイプリルはただ心で感じるままにその景色を堪能していた。穏やかで壮大な音楽でも流しているのだろうかと思惟するも、その答えに大した意味はないだろう。

 

 ケルシーが口を開く。

 だが何も言うことなく口を閉じた。

 

 まだ炎がエイプリルを巻き込むと決まっている訳ではない。その炎の存在すらも不確かな今、口を出すべきなのは間違ってもエイプリルに向けてではない。

 エイプリルを見るアビスが怪しかったのは本当だが、だとしてもアビスとの関係はそこまで深くない。もしアビスの近くで想定外の事態が起きたとしても、それにエイプリルが関わっている可能性はどう見積もっても低いままだ。

 

 エイプリルはアビスにとって特別なのか?

 

 窓枠という額縁の中に描かれた絵画から目を外し、ケルシーは自分の手のひらを見た。何の変哲もないただの手ではあるが、その手が救った命の数は、アビスが殺めた数よりも、ひょっとすると多いかもしれない。

 だがその手をアビスは拒絶した。親しくなっていたつもりだったケルシーは、今やアビスにとって邪魔者だ。

 

 何が違うのだろうか。アビスの言う『彼女』とエイプリルが丸っ切り違うことは、種族から見ても、身長から見ても、髪色から見ても分かってしまう。

 何故エイプリルの方が特別なのか。たった数日の、それも少しだけの付き合いでアビスの心を刺激したというのはどうしてなのか。

 

 分からない。分からないことばかりだ。

 だがそんな中でも少しずつ情報は集まってくる。鉱石病に関係した情報を取り扱う上でロドスの諜報能力はかなり長けている。アビスの出身地などはまだ不明だが、それより先に気になることや疑念は留まるところを知らない。

 

 カツ、カツ、カツ。

 ヒールの音が響いた。

 

 

 ケルシーはただ、為すべきことを為すのみだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「失礼します」

 

 執務室に足を踏み入れる。床に敷かれているカーペットがいつも通りの柔らかい感触を靴越しに伝えてくれた。

 

 時刻は十一時半を少し過ぎたところ。

 

「こんにちは、ドクター。書類仕事は順調ですか?」

 

「まあまあ終わってる。もう半分なくなってるからな」

 

「半……分…………?」

 

「文句があるなら言っていいぞ。殴るけどな」

 

 ドクターが手を休めてボクの方を向く。

 確かに思っていたより全然終わってなかったけど、そんなことを言いに来たんじゃないから言わない。それに殴られたらもしかすると痛いかもしれないし。

 でも本当に終わってないな。指揮官としての能力は高いのに、どうしてこの程度の書類に手間取るんだろう。

 

「大切なのは志ですよ。恐らくですけど」

 

「殴っていいか?」

 

「断らせていただきます」

 

 さっさと仕事をしてください。

 

「ところで、用向きは何なんだ?」

 

「えっ?」

 

「えっ、なに」

 

「ボクは呼ばれたのでこの執務室に来たのですが……これです、これが今朝端末に来ていたメールです」

 

 起動した端末の画面をドクターに見せる。間違いじゃない、この時間に執務室を訪れるようにと確かに書いてある。

 

「いや、こんなメール俺は送ってないぞ」

 

「えっ」

 

「それは私の送ったメールですよ」

 

 後ろを振り返ると、いつのまにかドアを開いてボクとドクターの方を見るアーミヤさんが居た。

 

「アーミヤさんでしたか」

 

「はい、アーミヤです。それではまずアビスさん、廊下に置いてある荷物を運び込んでもらえますか。ちょうどそこに置くような感じでお願いします」

 

「雑用ならボクでなくとも良かったと思いますが」

 

 単純な疑問が頭に浮かぶ。そんな仕事のために呼ばれたのならボクじゃなくていいだろうし、他に何かやらせたいことがあるとしても、ボクの得意なことだとかをアーミヤさんは知らないだろうし。

 

「……さっさと運んでもらえますか」

 

 アーミヤさんは笑顔を浮かべながら黒いオーラを出し始めた。

 いや、アレはオーラじゃなくてアーツだ。アーミヤさんはボクに向けて放つアーツを準備している。

 

「どうして怒っているんですか」

 

「やりたくはありませんか」

 

 いえ、そういうことではなく。

 

「別に帰っていただいても構いませんが、その場合は分かっていますよね?」

 

「……あの、話が見えないのですが」

 

「おいアビス、やめとけ。そして思い出せ」

 

「何かありましたか?」

 

「ドクター。少し散らかりますが、掃除は私が行うので心配は要りません。退避してください」

 

「少し思い出すための時間をください」

 

「そんなに欲しいのでしたらあげましょう……」

 

 アーミヤさんの周囲に、所々に金色の混じった赤色のアーツ反応が映像作品のように湧き出した。

 

 

「『ソウルブースト』」

 

 

 七発の弾丸(スキル2)はボクの体を掠り、窓を割った。

 

「………………」

 

「それではアビスさん、運んでいただけますか?」

 

「……了解しました」

 

 

 

 山積みになっていた段ボールを運び込むと、アーミヤさんは次に開けるよう指示した。ボクの体を優に超える大きさの段ボールが二つと、他は標準的な大きさのものが沢山。

 

「どれから手をつけましょうか」

 

「どうでもいいので早くしてください」

 

「はい」

 

 えっと、じゃあこの小さい段ボールは……野菜?

 

「アーミヤさん、これは……」

 

「早くしてください」

 

「あっ、はい」

 

 野菜はどうしようもないから後回しにするとして、この大きい段ボールを開けよう。短剣を使いたくはないけど、生憎とそれ以外の刃物を持ってない。

 ドクターに頼むのはアーミヤさんが怖い。どうしてあんなに怒ってるのかも分からないんだから下手に物を言えない。

 

 ぶぶぶ、とポケットの中で端末が震えた。アーミヤさんの方を見ると、仕方がないとでも言いたそうに大きく息を吐いて、ドクターと向こうの机に向かって行った。

 好きにやっていいからさっさと終わらせろ、って言いたいんだろう。ありがたく端末を起動した。

 

『怒ってる理由→料理の約束』

 

「あっ」

 

 思わず横を見る。どうしてこの場所が指定されたのか分からなかったけど、この使ってない執務室の調理設備と鑑みると納得だ。ボクとの約束を皮切りに、もっと設備を使っていこうと思ってるんじゃないかな。

 ってことはこの段ボール……思った通り冷蔵庫だった。

 

 他の段ボールには何があるかな。

 

 野菜が幾つか、源石レンジ、冷凍されてる肉類のパックに加えて調味料もある程度揃ってる。

 そう言えばもう一つ大きな段ボールがあった。

 開けてみよう。

 

 えーっと、これってもしかしなくても組み立て式の棚…………えっ、ボクがやるの?執務室の家具をボクが組み立てるの!?

 

「すみませんアーミヤさん、あちらの棚なんですが……」

 

「お願いしますね」

 

「あっ、はい。いやでも配置とかは」

 

「料理する人にとって使いやすいことが第一です」

 

「分かりました。ドライバーはありますか?」

 

「ほい、これ」

 

「ありがとうございます」

 

 さて、じゃあさっさとやってしまおう。

 

 

 

 

 十二時を少し過ぎた頃。

 ボクは機器の設置を終えた後、早々に料理を始めた。アーミヤさんが食べるのだから少しヘルシーに、ドクターさんが食べるのだから満足感はあるように。

 

 久しぶりだったから少し量が多くなったけど、ドクターなら食べられるような気もする。

 大きめに切ったベーコンの数々が花弁のように配置されたレタスの中に置かれていて、それに手作りしたシーザードレッシングをかける。

 今回は材料が冷えてなかったから盛った器ごと、まだまだ空きスペースの多い冷蔵庫の中に入れておく。

 

 今回シーザーサラダと一緒に作るのはボロネーゼ。けどタリアテッレはなかったのでスパゲティで代用することになった。

 

 この時点で半分ボロネーゼではなくなっていたんだけど、今確認したところトマトペーストが調味料の中に見つからなかった。だからトマトケチャップで代用する訳で、もうボロネーゼではなくミートソースパスタになってしまった。

 トマトペーストくらいはあると思ったんだけどなぁ。そう思いながらみじん切りにした玉ねぎを炒めて、良い加減になったら挽肉を投入する。色が変わったところで他の用意していたソースや砂糖以外の材料を入れて沸騰させる。

 沸騰したら砂糖とソースを加えて、しばらく煮る。

 

 ちょっと暇になった。

 アーミヤさんに火を頼んで購買部に走る。たぶんあそこなら何でも置いてるだろうし、クロージャが面倒だけどそこは目を瞑ろう。

 

 帰ってきたら次にパスタを茹で始める。塩はこのくらい……かな?茹でるにはそこまで時間がかかる訳じゃないので、火から離れない。

 

 蓋をして茹でると臭くなるし、弱火で茹でたり塩を忘れるとアルデンテにはならない。パスタは茹でるだけに見えて割と覚えておくことが多い。

 ボクが食べるんだったら手抜きしてもいいんだろうけど、生憎とそんな機会は一生やってこない。ケルシー先生に食べることのできる料理のレシピを教えてもらうのも視野に入れておこう。あんまり頼りたくないけど。

 

 ということで完成、完全手作りのミートソースパスタとシーザードレッシング。うん、まあまあ手際よく出来たかな。

 

「アーミヤさん、出来ましたよ……ってあれ、ラユーシャ?」

 

「おはよっ、アビス!なんかエプロンして走ってたから追いかけて来ちゃった。私の分って作れる?」

 

「全然問題ないよ。サラダもソースも多めだったから、麺を一人分茹でるだけで済むだろうし。あと五分くらいで出来るから待ってて」

 

「はーい!」

 

 ラユーシャは今日も元気だね。

 なんだか子供の面倒を見てるみたいだ。

 

「アーミヤ、あの二人はそろそろ付き合ったか?」

 

「どうでしょうか。見てるだけだと判別は難しいですね」

 

「あっ、お皿以外の食器洗っておくの忘れてた」

 

「じゃあ私それやるよ。食べさせてもらって何もしないのはダメでしょ?」

 

「ボクは気にしないけど、やってくれるなら嬉しいよ」

 

「……付き合ってる臭くね?」

 

「恐らく、と言うのが限界です。言い切るのはあの二人からしてかなり難しいかと」

 

「あと、やりとりが親子なんだよな。母親と娘のだけど」

 

 さーて、もう一仕事だ。

 

「水洗いで済むからすぐ終わっちゃったなぁ。あ、ドクター。おはようございます」

 

「えっ、今気付いたの?」

 

「まあ、居ても居なくても私には関係ありませんし」

 

 麺はこのくらいだけど……

 塩ちょっと入れ過ぎたかな?

 

「ラーヤさん、最近アビスさんと何かありましたか?」

 

「どうしてですか?」

 

「呼び方が、変わっているじゃないですか」

 

 アーミヤさんってどれくらい食べるのかな。

 割と食べそうだけど。

 

「まあ、あったと言えばありましたけど」

 

「へえ、俺もラーヤちゃんのことその呼び方で──」

 

「調子乗ってんじゃねぇよクソ野郎」

 

「ドクター、謝るべきですよ」

 

「あ、はい。調子乗ってすみませんでした」

 

 よし、サラダはちゃんと冷えてる。

 

「まずサラダがこちらに……どんな状況ですか?」

 

「ドクターにセクハラされた」

 

「えっ」

 

「アビスに頭撫でられるまでトラウマかもしれない」

 

 なんだ、やっぱり冗談か。

 

「はいはい、ご飯食べたらね」

 

「えー」

 

「オカンだ」

 

「入ってくんなよお前」

 

「うぃっす」

 

 何言ってるんだ、ラユーシャ。

 ドクターもどうしてそんな簡単に謝ってるんだよ。

 

「ラユーシャ」

 

「……ごめんなさい」

 

 それでよし。

 

「じゃあ、ちょっとお皿運ぶの手伝ってくれる?」

 

「任せて!」

 

「……アビスって歳離れてたっけ?」

 

「確か今年で十八歳だったと思います」

 

「…………なんなのアイツ」

 

「分かりません」

 

「あ、そうだラユーシャ。ワイングラスも持って行って。クロージャの所から赤ワインを買ってきたから」

 

「えっ、なんなのアイツ」

 

「何なんですかね」

 

 

 

 

 巻いたスパゲティをドクターが食べる横で、アーミヤさんが一度フォークをお皿に置いて口元を拭き、ボクの方を見た。

 

「アビスさん、ここに来た目的をお忘れではありませんか?」

 

 目的?

 

「ああ、忘れていませんよ。会話でしたよね」

 

「は?何それ」

 

「職務上アーミヤさんはオペレーターと仲良くする必要があるんだよ」

 

「必要って言わないでください」

 

「このぐらいがアビスだよな。うまっ」

 

 ボクをそんな毒舌みたいに扱わないでください。ただ隠す必要がない場所では隠そうとしていないだけですから。

 ラユーシャがアーミヤさんをまだ睨みつけていたので、ラユーシャのフォークを取って口の前にスパゲティを巻きつけて差し出した。

 

 うん、いい食べっぷりだ。食事に集中させてればアーミヤさんに噛み付くことも多分なくなるよね。

 

「それで、アビスさん。近況はいかがですか」

 

「つい先日に手術を受けました。問題視されていた胆石症という病気は快癒に向かっているので、そう遠くないうちにまた任務を受けることになるかと思います。……少し制限はかかりそうですが」

 

 ケルシー先生は相変わらず過保護で、それを意識的に演じている節がある。あの人はどれだけボクのことが嫌いなのだろう。

 ボクってそんなに悪いことをしたかな?

 

「それは良かったです。鉱石病の方は安定していますか?」

 

「いえ、予断はできません。ですがまだ死ぬつもりはありませんから、どうにか安定させますよ」

 

「そうですか。まだレユニオンの残党はどこかに潜み、そしてその影響も色濃く残っています。闘琤(とうじょう)を望みはしませんが、アビスさんの参入が待ち遠しいですね」

 

「──残党、ですか。噂に聞くところによれば、まだ幹部が一人残っていたという話でしたよね?」

 

 あ、ドクターが固まった。

 目で知らないフリをするように合図すると、ドクターは努めて自然体を装った。ラユーシャはその些細な違和感を感じ取ったのだろう、ドクターを睨むように見つめてる。

 はい、サラダ食べて。

 

「レユニオンの幹部、『亡灵(アンデッド)』。忽然と消息を絶ってからかなり経ちますが、最近になって気になることもありました」

 

「気になること、ですか?」

 

「はい。龍門の郊外での殲滅作戦において、幹部を匂わせる報告が頻出していたというデータがつい先日明らかになりました。数日前までは、敵影の誤認や異常な規模の行軍を確認する声が頻繁に報告されていたんです」

 

「前者は分かりませんが、後者はほぼ間違いなく幹部が関係している……そう見ても?」

 

「はい、恐らくはその見方で宜しいかと──って、何の話をしているんですかっ!!」

 

 アーミヤさんがバン、と机を叩いて立ち上がった。面倒だとでも思ったのかな、レタスを咀嚼していたドクターは視線すら向けず食事を続けてる。

 

「この会話は業務連絡じゃありません!もっと趣味だとか、習慣だとか、そういうことを教えてもらいたいんです!」

 

「趣味は料理、習慣は朝の筋力トレーニングでしょうか」

 

「へえ、アビスって朝にそんなのやってるんだ。今度私もそれ見てていい?あと朝から歩くの面倒くさいからアビスの部屋に泊まってもいいよね?」

 

「見るのはいいけど、泊まるのはダメ」

 

「ほんとにダメ?」

 

「ラユーシャ、風紀を乱すようなことはするべきじゃないよ。ここは企業で……家じゃ、ないんだから…………」

 

 ケルシーとイースチナの姿が脳裏に描かれる。

 

 

『ロドスは家じゃない』

 

 

 どうしてボクはこんな簡単に言えてしまったんだろう。みんなより余っ程それを弁えることのできていないボクがそれを言うなんて、厚顔無恥にも程がある。

 それがリラのことなら周りなんてどうでもいいけど、ボクがロドスを自分の家みたいに扱うだなんてこれっぽっちも関係のないことだ。

 それを弁えられないなんて──格好の悪い人だ。

 

「アビス?」

 

「ん?あー、いや、なんでもないよ。ちょっと考え事」

 

「それを話してくださっても構いませんよ」

 

「いえ、これに関してはボクが恥ずかしいので控えさせていただきます。代わりと言っては何ですが、ボクがカーディさんやポデンコさんに固執する訳でも話しましょう」

 

「そんなものがあったのか!?」

 

「理由なんてあったの!?」

 

「ようやく一歩距離を詰められそうですね。聞かせてください」

 

「えぇ、事の発端はボクの両親の話にまで遡ります」

 

「まさかの因縁!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「リラ、と。彼女はそう名乗りました」

 

 

 

 どうしてだろう。

 

 この三人にリラのことを話すのは、何故だか抵抗がなかった。

 もしかしてフロストリーフさんが言っていたようになってしまったのかな。ボクは過去を切り捨ててしまったのかな。

 

『お前は今生きていることに意味があると思うか?』

 

 生きている意味……本当に、ラユーシャがそうなのかな。大切な人だとは思っても、それが意味を持つとはどうしても思えない。

 ボクにとって生きる理由だったリラの代わりになるなんて、それだけは絶対に思えない。

 

 だとすれば、ボクは一つ武器を失くしたのかもしれない。

 その可能性がないなら、きっとボクは克服することが出来てしまったんだ。

 

 あの、過去を土足で踏み躙られる恐怖を。

 

 この人たちなら大丈夫だと少しは思えているんだと思う。それどころか、リラのことをもっと知ってほしいとすら思える。ボクが今まで生きていられた理由の、大好きなリラのことを。

 

 話せば話すほど不満そうな顔になるラユーシャの髪を撫でつけて、ボクはリラの好きなところを沢山語った。

 最初のうちは笑顔でも、感染者としての最期が近づいて悲しそうな色を混じらせるアーミヤさん。終始静かに、時折相槌を打ってボクの話に耳を傾けたドクター。

 ボクの手の下で破顔してる、まともに話を聞いてないラユーシャ。

 

 三人目はどうだか知らないけど、ドクターとアーミヤさんはボクのリラを傷つけるような人じゃない。

 もしそんな人だったら、ボクはとっくのとうにこの執務室から部屋に帰ってる。

 

 じゃあ、ここなのかな?

 ボクの大切な生きる理由って……

 

 

『君にとって、ここが月でもないくせに』

 

 

 ……そっか。

 

 

 ねえ、リラ。もしここに君が居たのなら、今頃はどんな生活になっていたのかな。

 きっと楽しかったよね。もし鉱石病に罹っていなくてもリラは差別なんて許さなかっただろうから、もし一つだけ違っていれば、ボクとリラはロドスで笑えていたんじゃないかな。

 

 ラユーシャを助ける時も二人で、あの時だってリラが居ればボクはもっと出来たはずだから。

 

 

 でも、ボクはボクの罪を、本当に許していいのかな。

 ボクが間違えてしまった選択はそんな簡単に許してもいいのかな。もしボクの疑念が正解なら、リラの優しさはボクに向くべきじゃないかもしれないって、少しだけそう思っているんだ。

 

 

 

 

 亡灵(アンデッド)

 

 

 君がもしボクの思っている通りなら……

 

 

 君はボクを殺したいのかな。

 

 

 ボクは君のそれを、受け入れるべきなのかな。

 

 

 よく、分からないや。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰よりも近くに居た。

 

 

 

 

 そこに居ることが当たり前だった。

 

 

 

 

 自分の半身だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それはあの日、潰えてしまった。

 

 

 

 

 




 
アンケートにご協力ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十八 彼の意図

 

 

「ドクター」

 

 呼ばれて振り返る。そこには見慣れたフェリーンが私の方を見ながら佇んでいた。平常を装ってはいるが、顔に僅かな強張りが見て取れる。何か隠したいことがあるのだろう。

 いつものことだ。

 

「ケルシー、何か用か?」

 

「いや、そういう訳ではない。だが私には君のことを最大限気にかける義務がある。最近の調子でも、と思っただけだ」

 

「調子か。まあ、ぼちぼちだな。体調に問題はないし、それに嬉しいこともあった」

 

 表情が変わった。

 

「問題がないならそれでいい。ではな」

 

 ケルシーの顔から強張りが解れたところで、私に背を向けた。私に気取られない範囲で最大限聞くことができた、ということだろう。

 

 恐らく次に訪れるのはライサかアーミヤだろう。オペレーターまで動員させてアビスの保護を進めてるケルシーのことだ、私の言っている〝嬉しいこと〟がアビスの話を含んでいると推測したんだろう。

 

「ほんっと淡白だな。それじゃ」

 

 思ってもいないことを口に出して、また足を動かす。

 私にはまだ仕事がある、足を止めてはいられない。

 

 とはいえ思考も止められない。ケルシーは亡灵(アンデッド)の動向を認知しているだろうから、アビスにまた何か仕掛けるだろう。

 だとすれば私もまた早く行動すべきだ。ロドスに閉じ込められて仕舞えば、今の私ではアビスの意志を尊重するなど夢のまた夢だろう。いや、抜け道はいくらでもあるだろうが……

 それにアンデッドの居場所がある程度判明してるのは今だけだ。欲を言えば他のオペレーターを連れて行かせたいが、そうなればケルシーに見つかりやすくなってしまう。

 

 執務室に着いた。ドアを開けば何かを調理──いや、加熱しているハイビスカスの姿が目に入った。絶対に調理ではない。

 匂いは……うっ!?何を入れたのか見当もつかない。毎度毎度どんな実験をしているのか気になるのだが、経過を辿っていくうちに原料が分からなくなる。あれはもはや才能の域だ。

 

「なあ、ハイビス?もしかして、料理しているのか?」

 

「あ、おかえりなさいドクター!今は究極の健康食を作る実験中です!まだ試作ですから、あまり期待しないでくださいね」

 

「分かった、俺は成功を願っとく」

 

 出来れば味の方も重要視して欲しいものだが。

 

「そういえばドクター、さっき郵便物が届いてましたよ」

 

「郵便物?そういうのは個人の部屋に届いてるはずだろ?」

 

「トランスポーターさんから送られたもので、宛先が炎国語になっていて読めなかったそうです。言伝もなかったから読める人が対処してくれ、と言ってました。私も炎国語はからっきしで……あっ、コゲてる!?」

 

 それは元から消し炭だろうに。

 

「炎国から郵便って言うとホシグマか?」

 

 ふむ、これか。

 中々洒落た封筒だ。あのホシグマが送るような趣向ではないが……

 

「それ、なんて書いてあるんですか?」

 

「……これだ」

 

「えっ?」

 

 む、少し声に漏れたか。

 誤魔化すように掲げて、ハイビスに告げる。

 

「これは深渊(シェンユァン)四月(スーユエ)──つまり、アビスとエイプリルのことだ」

 

 

 

 

 

 

 アビスの目が覚めた。

 横向きに寝転がったまま額に手をついて前髪をかき上げると、何かが手の甲に当たった。

 鬱陶しいものが一つ、ツノに引っ掛かっている。

 

「何してんの、アビス」

 

「割とよく枕って刺さるんだよ。ボクって寝相があんまり良くないからさ」

 

「うん、それは昨日の夜から知ってる」

 

「……うん?」

 

 ツノを抜いた枕から綿が落ちた。

 アビスは自分の腕の中に、赤らんだ顔ではにかむ少女が居ることを確認した。

 

「うわっ、ごめん!?」

 

「むしろありがとう」

 

「えっ!?あ、いや、そっか。ラユーシャとは添い寝してる訳じゃなかったね」

 

「そうだよ、アビス……ん?今なんて?」

 

「〝添い寝してる訳じゃなかったね〟?」

 

「違う、もうちょっと前から」

 

「〝ラユーシャとは添い寝してる訳じゃなかったね〟」

 

()()って何?添い寝してる人が居るってこと?」

 

 アビスの口が止まった。

 誤魔化そうか悩みながら後ろ頭を掻くアビスを見て、胴を抱くライサの力が一気に三段階ほど強くなった。

 

「あー、いや、リラとはしてた。それだけだよ」

 

「チッ。またその人?」

 

「毛布が一枚だけだったからね。身体を寄せ合ってた方が暖かかったんだよ」

 

「それアビスが提案したの?」

 

「いや、リラだけど」

 

 クソが。ライサはアビスの前だったから口に出さなかったが、恐らく今度思い出す時にその言葉を心の底から叫ぶだろう。

 そしてアビスに引っ付き、リラへの憎悪を高める。

 そういう妖怪だった。

 

「なに、付き合ってたの?」

 

「そ、そんなの……ボクじゃ釣り合わなかったよ。リラにはもっと良い人と付き合ってもらいたかったし、それに恋人だからって何か変わる訳でもなかったし」

 

「イラついたからキスしていい?」

 

「はいはい、もう起きようか」

 

「やだ」

 

 ぐい、と引っ張るもライサの体は離れなかった。

 

「ほら、離して」

 

「やだ」

 

 アビスの左足がライサの両足で挟まれる。

 

「ラユーシャ」

 

「やだ」

 

「ラーヤ」

 

「分かった離れる許して」

 

 しゅばっ、とでも表現できそうな速さでライサは布団を抜け出した。親称が愛称に変えられるというのはつまりそれほどライサにとって耐えがたく、しかしアビスはそれをイマイチ理解していない。

 だがそれを知る必要はないだろう、今の状況はアビスにとって都合が良いため変える必要もないからだ。

 

「分かった、許す。それじゃボクは着替えるから少し出ていてくれるかな」

 

「やだ」

 

「ラ「分かった出てる」……うん、最初からそうして」

 

「やだ」

 

 パタン、とドアが閉じた。

 そのまま胡乱気に注視していると、ほんの少しだけ、ドアに顔をぴったりつければ覗くことができるくらい少しだけ開かれた。都合の悪いことに、そのドアは外開きのドアだった。よって少しの隙間から得られる視界も決して狭くない。

 

 アビスは無言でドアを開けた。

 

「ラーヤ」

 

「もうしない」

 

「……なら、いいけど」

 

「うん、やらないよ」

 

「…………音聞くとか、嫌だからね」

 

「……」

 

 真顔に戻って見つめ合う。

 アビスはため息をついて、妥協点を探した。

 

「今度服を買いに行く。それでちゃんと待ってて」

 

「一緒に?」

 

「一緒に」

 

「分かった。貯金全部下ろしてくる」

 

「それはやめて」

 

「……ちなみに、どうやって待ってればいいの?音聞こえちゃったらナシ?ドアに近付いてたらダメ?椅子に座って待ってるのは失礼かな。不安だからダメになる基準を教えて」

 

「ボクがダメって言ったらダメ」

 

「分かった服脱いで土下座しとく」

 

「土下座が何なのかは知らないけどやらないで。服も脱がないで。……じゃあ、ソファに座って端末でも使っているのはどう?」

 

「わ、分かった。私に、それが出来るかな」

 

「……応援しとく」

 

 不安に脳が埋まっているライサを前にしてアビスは思考を放棄し、少し頭を撫でた後ドアを閉めた。

 

 ふらふらとビーズソファに近寄り腰掛けた後、ライサはしばらくの間端末を取り出すこともなく頭に手を当てていた。

 

 

 

 

 その少し後。まだ朝と言って差し支えのない時間帯に、アビスはドクターによって呼びつけられて執務室を訪れていた。

 

「ドクター、用とは何ですか?」

 

 ライサと計画している途中に極秘だと称されたドクターからの呼び出しで席を離れることになったアビスは、もしかして自分との買い物を有耶無耶にするつもりなのかと縋り付くライサを丁寧に引っ剥がしたためにとても疲れていた。

 早く終わらせたいと思いながら書類に埋もれているドクターに指令の理由を尋ねる。極秘だとしても、そこまですぐ行動することもないだろう。計画の日程くらいは詰められるはずだ。

 

「ん?お、もう来たのか。もうちょい待っててな、話はそれからだ」

 

「では少しばかり仕事を手伝いましょう」

 

「助かる」

 

「……任務が終わったら、ドクターを言い訳にしても良いですよね」

 

「えっ?」

 

「ラユーシャが面倒な事態になってしまいまして」

 

「じゃあ嫌だけど」

 

 アビスの持った印章がドクターの押そうとしていた部分に打ち込まれた。

 その書類は赤くなっている凹の部分とその他の凸の部分に分かれていた。ハッキリと、破れていないことが不思議なくらいにハッキリと印章の形が浮き上がっている。

 ドクターは震え上がりながら書類を処理済みの棟に積み重ねると、またある異常を発見した。

 

 机もまた、凹んでいた。

 

「どうぞお使いください」

 

「ありがとうございます」

 

 和かに言い放つと、アビスはドクターの数倍ほど早いスピードで書類を捌き始めた。武力では負けてもプライドで負ける訳にはいかない、そう意気込んで書類に臨んだドクターをアビスは視界の端で眺めた。

 

 おお、とアビスの顔が驚きに彩られる。

 

「この程度の書類なら、ドクターの書類処理能力でも昼前には終わりますね。以前より少し上達しているようですから」

 

「本当ですか先生」

 

「はい、ずっと集中して最高のパフォーマンスを出し続ければ可能です。休憩を入れるのは厳しいでしょうけど、頑張れば出来ますよ」

 

「やっぱ言い訳はナシで」

 

「えぇ!?この流れで、ですか!?」

 

「お前一回痛い目見た方がいいよ」

 

 ドクターの目はマジだった。

 その内側はともかくとして、『ドクター』の目は明確に暗黒面へと堕ちかかっていた。

 アビスはそれと視線が交わったので、極々自然体な風を装ってサッと目を逸らした。

 

 アビスの手伝える範囲の書類にサインをする。

 少しして、隣からも同じような音が聞こえてきた。ギリギリ踏み留まったのだろうか、気にはなるものの確認することができない。

 

 

 そうして幾分か経った後、執務室の中にノックの音が響いた。次いでかけられた声は聞き覚えのある、しかし最近はよく聞くことがなくなっていたコータスのものだった。

 

「入ってくれ」

 

 やっとアビスがドクターの顔へと目を向ける。そこにはいつも通りのバイザーがあった。

 そういえば何故自分はドクターの目を見ることなくその濁りを感知できていたのか。背筋に冷たいものが走る。ドクターはそんなアビスを珍妙なものでも見るかのように観察していた。

 

「えっと、書類を手伝えば良いの?」

 

「あ、いや違う違う。アビスももう手伝わなくて良いぞ」

 

「了解しました」

 

 アビスが手慣れた様子でペンや朱肉を仕舞い、ドクターが向かっている両袖机の前に立つエイプリルの隣、半歩後ろに控える。

 

「アビス、どうしたの?……もしかしてだけど、あたしに任務押し付けようとしてない?」

 

「よし、じゃあ早速話を始めるけど……」

 

「そんなことはありません。ですがエイプリルさんは最近訓練に精を出していましたから、それを任務にて発揮なされてはどうでしょうか」

 

「はいはい、ちゃんと──あれ?アビスって戦闘任務の禁止令が出てなかった?」

 

「ごほん。さて、アビス……」

 

「手術も終わりましたし、一段落ついたということではないでしょうか?任務の指令が出たのであれば、ボクはそれに従うのみですから」

 

「ふーん。あの時(第一章で)はロドスを抜けるなんて言ってたたのに、そんなこと言えるんだ」

 

「まあ、色々と変わりましたから」

 

「ごっほんごほん!んっんー!」

 

「そういえば訓練も禁止されてるって言ってなかった?今から任務だーってなったら本当に戦える?」

 

「心配は要りません。訓練室を使わない程度のトレーニングは禁止できませんから、少し強度が下がっているだけで、荷物にはならないと思います」

 

「じゃあ前衛は任せたからね?っていうか囮になっちゃうかもだけど」

 

「囮、ですか?」

 

「だってあたしの戦い方は──」

 

 

「ン゛ン゛ン゛ン゛ン゛ン゛ッ!!」

 

 

「わっ、びっくりした」

 

「……失礼しました、ドクター。どうぞ話を」

 

「そうだった!ごめんねドクター」

 

「分かったなら良し。話を始めよう」

 

 執務室の雰囲気がようやく引き締まった。

 ドクターは引き出しから一通の封筒を取り出し、エイプリルに手渡すを

 

「これって……炎国語?」

 

「中は(あらた)めてないが、恐らく前回護衛任務をした相手からのものじゃないか?」

 

「シルヴェスターさんですか。この時勢に手紙とはまた、趣向を凝らされたものですね」

 

「えっと、なになに……

『こんにちは、アビス殿、エイプリル殿。私の居る龍門では暑さがいよいよ強くなっておりますが、そちらロドスでは如何でしょうか。

さて、こうして手紙を送らせていただいた理由は他でもない、お二方に私の会社を見ていただきたく思ったのです。理由に関しては会うまでの秘密と致しますが、その時はきっと驚く顔が見られるかと思っています。

どうしても、特にアビス殿には私の作り上げたものを見ていただきたい。ありのままを見ていただきたいので、手紙をお返になる必要はありません。お忙しいと知ってはおりますが、少しばかりお時間を頂戴したいと存じます。

お二人のご健勝をとご多幸をお祈り申し上げます』だってさ」

 

 手紙を読み終えたエイプリルが顔を上げると、アビスとドクターが何かについて目で会話をしていた。

 

「何かあった?アビスはロドスから離れられないとか、そういうこと?」

 

「いや、それについてはなんでもない。戦闘が予見されないならたぶん大丈夫だ。問題はそれに任務をつけるかどうかってとこだな」

 

「任務?」

 

「ああ。最近龍門付近でレユニオンの残党が騒いでるってのを聞いたんだ。近衛局と直接情報共有なんてことも可能ならしておきたい。龍門に常駐とまではいかないが、暫くは滞在させるのも悪くない」

 

「へえ……って、あたしとアビスの二人?もっと大人数の方が良いんじゃないの?」

 

「あくまで噂だし、龍門には近衛局の検問もある。そこまで警戒する必要もないだろうし、今回の任務に必要なのは情報の伝達それだけだ。──もし何もなかったら、『何も()()()()』と報告するだけでいい」

 

「それならあたしとアビスだけでも……うん?あれ、なんで過去形なの?それだと、まるで何かが終わった時みたいになってるよ?」

 

「ではドクター、色々と詰めていきましょうか。もしかするとレユニオンが通信妨害を行っていて、()()()()()()()()()()()()()()()()かもしれませんからね。その時の対処を今のうちに決めておきましょう」

 

「それもいいけど、でも折角複数人で居るならどっちかが連絡を取るために龍門を離れるのはどう?」

 

「いえ、情勢が不安定ですからドクターやケルシー先生の選択も遅れてしまいます。ただ通信が妨害されている、それだけでは動けませんよ」

 

「そんなにドクターのフットワークが重いようには思えないけど……別にいっか。情報伝達は最悪トランスポーターの人に依頼すれば良いだけだもんね」

 

「その通りだ。龍門にはロドスの事務所もある。何もなければ訪ねる必要はないが、何かあれば連携すると良い」

 

 とりあえず一つ目の関門は抜けた。ドクターと話しているエイプリルの目を盗んで、アビスは大きく息を吐いた。

 だがそれの生んだ音を聞き逃せないエイプリルではない。

 

「アビス、何かあるの?」

 

「……ええ、まあ。業務は優先すべきですから、お気になさらなくて結構ですよ」

 

「何かあるんだ、大変だね」

 

 エイプリルは苦笑混じりにそう言って、またドクターに顔を向けた。いつぞやに比べれば随分とアビスの事情を尊重しているが、元来の距離感と言えばこれの通りだった。今のアビスは確固たる意思を持ち、だから心配など要らないと分かっているのだろう。

 

 だから下手な勘繰りは控えている。

 

 決意するように握られたアビスの手も、少しの罪悪感を感じつつ自分に隠し事をしたことも、全て把握できている。

 だがそれを表には出さず、エイプリルはただ二人が動かそうとしている方向に流れていく。

 

「龍門で空き時間が出来たら何しよっかなぁ……ウィンドウショッピングとか、ペンギン急便の人に頼んで観光とか、やれることはいーっぱいあるよね!」

 

 アビスのためではある。

 だが、自分のためでもある。

 

 波風を立てないためにどうすればいいのかは知っていた。アビスから適切な距離を取ることのできる方法を知っていた。

 

 

 それは尊重だった。

  ──それは冷淡だった。

 

 

 それは配慮だった。

  ──それは障壁だった。

 

 

 それは良心だった。

  ──それは後悔だった。

 

 

 それは理解だった。

  ──それは拒絶だった。

 

 

 ロドスに来る前と同じだ。

 

 日を追って強くなる周囲からの圧力、支給されたということにされただけの、実態などない補助金。

 

 薄々分かっていた。

 自分の親がどうなったのか、それはロドスが丁寧に調べる必要すらなく勘づいていた。

 

 

 訓練で弓の腕と同じように鍛えた聴力が知らないままで居ることを許さなかった。それはどこまでも、アイアンロボットシティに居た頃の自分と重なっていた。

 

 誰かの隠し事など何度も黙殺してきた。

 緘黙とは遠く離れているように見えるエイプリルは、その実寡黙な性質を備えている。気になること、持ってしまった疑念、それを詳らかにする意欲は自分の足を引っ張るものだと知っているからだ。

 

 

「えっ、今すぐ!?分かった、準備してくるね!」

 

 

 全て自分のために行動していた。

 全て自分勝手な感情に基づいていた。

 

 『エイプリル』がプレイヤーから流れ始めた。

 エイプリルは迷うことなくその曲を飛ばした。

 

 その曲は今の感情に、そして何より今の自分に、他のどんな曲よりも似合っていないのだと思えたからだった。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四十九 黒フード

はい、予約投稿また事故りました。
まだ五十七話までしか書けていません。平均文字を引き上げたことと息抜きに投稿した短編のお気に入り登録数がこの作品のそれを超えたことの二つが調和してやる気が下がってました。
毎回章の始まりがこんな感じになって本当に申し訳ありません。



 

 

 

 

 生い茂る木々の枝葉が光を遮る鬱蒼とした森を抜け、一台の車が瓦礫の散乱している荒野に到達した。緑の迷彩模様になっている軍用車は遠くから見ればかなり浮いた存在だろうが、しかし今に限れば目を奪うのはそれではない。

 軍用車の向かう先、巨大な建造物。取り付けられたキャタピラは何列にも及び、しかしそのキャタピラでさえもが人よりずっと大きいという規格外のスケール。

 

 移動都市『龍門』を前にすると、その軍用車は虫けらのような大きさだ。皮肉にも荒野の中で目を奪っていたはずの迷彩は特段意味をなすこともなく、車は荒野に紛れていた。

 

 軍用車であるためか他の自動車より幾分か大きい駆動音は何もない荒野によく響く。風が穏やかな今、それはより一層耳朶に残る。

 

「おい、そろそろエイプリルさんを起こしてやれ」

 

 フォルテの男がハンドルを握ったままにそう言った。その声がかけられたのは、後部座席に座る黒と青のジャケットを着た青年だ。上腕のあたりに描かれたルークのロゴタイプが表すのは、そのジャケットがとある会社に支給された制服であるということだろう。

 

 青年は左の席を見る。エイプリルと呼ばれたコータスは代わり映えのしない景色に飽きて少し前から夢の中へ旅立っている。

 すやすやと眠りこけている様子を見ると、起こすに忍びない念が胸の中に湧いてきた。

 

「今は起こさないにしても、検問までには起こしておいてくれよ?龍門の警備員ってのはどいつもこいつもピリピリしてやがんだ」

 

「督察隊の元トップがそんな感じでしたからね」

 

「へえ、会ったことがあるのか?流石ロドスだな」

 

「ええ、まあ」

 

 会ったことはないが、時々食堂や通路で見ることがある。そんな風の言葉は飲み込んで、フォルテの男──ゼルが言う内容を曖昧に肯定した。

 窓の外に目を向ける。

 

「……」

 

「どうした?今更乗り物酔いか?」

 

「何でもありません。慣れていますから……」

 

 水筒の蓋を開け、中身を口へと流し込む。運転席に座るゼルが言った通り青年の顔色はかなり悪かった。それが何によるものか、そのとある会社がどのようなものであるかを知っていれば大凡(おおよそ)推察できよう。

 

「ロドスも万能じゃないってことか」

 

「ボクのような感染者はそう居ませんよ。先生に従っておけば、ボクだってこうはなりませんでしたから」

 

 青年の目が細まり、自嘲からか口が弧を描く。

 

 いや、自嘲ではない。青年が笑ったのは、自分の言い方がおかしくて堪らなかったからだ。

 一瞬たりとて、それこそ一度だって悔悟したことのない自分の生き方を後悔している風に言うことが途方もなく笑みを誘った。全く、なんて滑稽極まりないことだろうか。

 

 駆動音が響く。

 

「──もっと速く走らせてください、ゼルさん」

 

「あ?」

 

「スピードを上げてください。居ます。確実に」

 

「だから何が居るって……」

 

 コツ、と音がした。

 

 

 車の屋根に何かの瓶が当たった音だった。

 

 

 ゼルはまだ把握できていない。

 エイプリルはまだ夢の中だ。瓶の出す音からして青年──アビスの方からエイプリルの方へと投げられていたらしい。当然運転席も左側にあり、瓶に細工でもあれば最悪二人が焼け死ぬだろう。

 

「ああ、なんかもう……っ!」

 

 丁寧に脱ぎ捨てる時間はない。耐熱加工がされているジャケットを力任せに引き千切り、布切れで腕を埋めたためツノを使ってエイプリルが眠っている側の窓を叩き割る。火炎瓶らしき瓶は今にも爆発しそうに火を噴きながら窓の外に落ちていた。

 

「無性にッ!」

 

 割れ残っているガラスを腕で破りながら爆発しそうな瓶の口をジャケットで素早く包み、ありったけの力とスピードで向こうに押し出した。

 瓶を中に入れたジャケットが地面に落ち、爆発は起こさず車との距離は開いていく。

 

「叫び散らしたい気分ですッ!──レユニオンが仕掛けてきます!包囲される前に全力で走り抜けてください!」

 

「お、おう!了解!」

 

「……んー?まだ龍門には着いてないの?」

 

「エイプリルさん、非常事態です。武器の準備をお願いします」

 

「まあまあ、落ち着いて寝よう?」

 

 まだ眠いのか、エイプリルの目が開いていない。

 アビスは一度顔を手で覆った後、何かを諦めたかのように短剣をエイプリルに向けた。

 

「すやぁ……あ、あぁ……あああぁああぁぁぁああ!!!──ってうわっ!?アビス!?えっ、ここどこ!?」

 

「レユニオンと交戦中です。武器の準備をお願いします」

 

「えっ、あ、うん」

 

 エイプリルの目に溜まっていた涙が頬を伝って落ちる。それを指で拭ったエイプリルは、またもクエスチョンマークを浮かべていた。

 

 絶叫して飛び起きるまでは膨大な悲しみと怒りをアーツで伝え、十分だと判断したところで少しの怒りと少しの心地良さ、そしてまた少しの楽しさという適度な感情を使いエイプリルを落ち着かせた。

 アーツユニットを使っていれば、そしてそれが不特定多数に向けた長期的で長射程を想定するアーツ行使でもなければ、アビスの鉱石病もそう進みはしない。今はどうなのか不明だが、安定していた頃は少なくともそれで良かったのだ。

 

 混乱の渦に叩き落とされた挙句猛スピードで引っ張り上げられたエイプリルはまだ頭が良く回っていない様子ではあるが、そんな状態でも弓を構えられるように訓練を終えている。

 いつのまにか割れている窓にギョッとしながらも車外を窺う。アビスも同じように窓から外の景色に目を走らせる。

 

「アビス、結構居るね。十四……違う、十五人居る」

 

 弓に矢を番える。可能なら話し合いをしてみるのも選択肢の内だが、アビスに伝えられた『交戦中』という言葉で既に除外されている。

 それに、レユニオンの残党というのは基本的にその名前を盾にしていた者たちだけだ。タルラの思想に影響されたのではなく、安全に鬱憤晴らしが出来るからとレユニオンの傘下に入っていただけなのだ。

 そんな連中と講和をして得られる物など何もない。唯一懸念すべき点は、残党の中に本物のレユニオン──つまり、『亡灵(アンデッド)』率いる遊撃部隊の隊が居るかもしれないことだ。

 タルラではなく亡灵(アンデッド)に付き従っていると考えられるが、しかしそれだけでも十分厄介になる。隊としての形があるのもそうだが、求心力のあるリーダーはそれだけで能力を何倍にも引き上げるものだ。丁度、ロドスに居るドクターのように。

 

「そっちはどう?」

 

「……ああ、はい。これはヤバいですね」

 

 アビスの力を込めた短剣の柄がみしりと音を立てる。強引に窓を割ったせいで血が垂れているものの、それらを気にする余裕などレユニオンに奪われてしまっていた。

 

「数十人居ます。もしこの車が停まったなら、何一つとして抵抗を許されず殺されるでしょう」

 

「クソッ、レユニオンは壊滅したんじゃなかったのかよ!」

 

「残党はまだまだ居ますし、龍門の停泊している周辺の地下はまだまだ全貌が明らかになっていないそうです。……だとしても、この規模は少々近衛局を怠慢だと評したくなりますが」

 

 カン、と音がする。三人には分からなかったが、車の装甲がレユニオンの粗末な矢を弾いた音だった。

 

「少々で済むかよバカが!」

 

「運が悪かったですね」

 

「うっせえ!……そんで俺はどうしたらいいんだ」

 

「とにかく走らせて、少しでも龍門との距離を詰めてください。包囲されたら終わりです──が、包囲されなければやりようはあります。まあ、ただの源石術(オリジニウムアーツ)ですが」

 

 ちら、とアビスがエイプリルの方を伺う。

 既に何人かを窓から射っていたエイプリルはアビスに視線で応え、場の指揮がアビスに委ねられた。

 

「それにしても、不幸中の幸いと言うべきでしょうか」

 

「……何がだ?」

 

「実は、ですが」

 

 アビスが窓を開けると、レユニオンに飼育されている猟犬が大口を開けて飛びかかってくる。その口にアビスは円柱状の何かを押し込み、外に叩き落とした。

 窓を狙って放たれた矢を掴み、左腕に取り付けられたクロスボウに押し込み返礼する。

 

「今日のボクは、完全武装なんです」

 

 その放たれた矢は猟犬の胴に刺さり、そして貫いた。未だ衰えた様子を見せないアビスは、常人には到底引けない程固いクロスボウを易々と扱ってみせた。

 押し込んでいた円柱状の何か──攻撃型手榴弾が車の後方で爆炎を上げる。

 

「どれもまだ付け焼き刃ですが、負ける気はしませんね」

 

「けっ、やられんじゃねえぞ」

 

「承知しています」

 

 

 

 

 

 

 怒号が荒野を劈く。

 

「ちっがーーーう!!それじゃ照準がつけられないでしょ!もっとしゃんと腕を伸ばして!」

 

「は、はい。すみません」

 

 ゼルが車に寄りかかり、二人の様子をぼーっと見ている。車は所々穴が開いていたり煤で汚れていたりと散々な有様だが、ゼルは掃除に取り掛かる気力もなく眺めている。

 

「ほら、撃ってみて」

 

「はい」

 

 クロスボウから矢が撃ち出され、標的の役割を果たしている手榴弾のピンを掠る。それなりに距離が開いているため、それくらいの精度が妥当だろうとゼルは結論を出した、が。

 

「違うって言ってるでしょ!?さっきと同じとこまた間違えてる、最後までブレないように構えるの!」

 

「わ、分かりました」

 

 コータスの娘がヴイーヴルの青年を叱りつけ、青年が何度か試行した後に改善を完了する。撃ち抜かれた手榴弾は信管の損傷を免れたのか、爆発することなく転がっていた。

 

「どうでしょうか」

 

「次は速射」

 

「ええっ!?」

 

「そんな時間がかかってるやり方は実戦で通用しないの!左腕に錘をつけて戦うんだったら元を取らなきゃ」

 

 見本としてエイプリルが弓を何度か打つ。一秒につき一発のペース、それは速射手として最低限求められるスキルだ。それに付加価値として何発かに一発くらいは精密な射撃をするだとか、敵が多い時は射撃速度を無理してでも上げるだとかがついてくるのだ。

 斯く言うエイプリルは敵から気付かれず一方的に射続けることを得意としている。ハンターとして生きていた頃の経験がエイプリルに気配というものの扱い方を教えたのだろう。

 

「こ、こうですか!?」

 

「はいブレてる!集中して!」

 

「はいっ!」

 

「もっと集中!」

 

「はいっ!!」

 

 鉱石病に罹ることがあったのなら、ロドスの門は叩けど、オペレーター契約はしないようにしよう。ゼルは欠伸をしながらそう思った。

 

 

 

 車を挟んだ向こう側には、数十人もの死体が散乱している。屍山血河、死屍累々、数多の死体が形作る惨憺たる景色を表す言葉は幾つかあるが、それに全く当てはまっていた。

 だがその車が走り去った少し後には、その半数以上もの死体が綺麗さっぱりなくなっていた。武器は疎か、流血でさえ何もなかったかのように消えている。

 

 まるで、それは端から作り物だったかのように。

 

 

 一方、その死体の群れから少し離れた場所では、黒フードの集団がぞろぞろと歩いていた。同じレユニオンだからと仲間意識でも持ったのか、一般兵士の姿をしたレユニオンの男が気さくな様子でそれに話しかけるが──次の瞬間には斬って捨てられた。

 先頭に居た黒フードは部下のそんな様子を一才意に介することなく道に落ちていた布切れを拾い上げる。

 

「……くはっ」

 

 それは強引に破られたジャケットだった。中に包まれていたのはどこにでもあるような酒瓶──ではなく、ゴツゴツとした粗雑な作りの杖だった。

 

「くははははっ!!」

 

 声高らかに笑う。

 身を捩り、腹を抱えて笑い声を上げ続ける。

 

 晴れ晴れとしていた天気がいつのまにか雲を集めている。兵士たちは斬られた仲間を連れてそこらにある地下への入り口を厳重に閉めて下って行った。

 発された怨嗟の声は、しかし聞こえることなく霧散した。黒フード達にとってレユニオンを名乗る意味などもうなく、聞く必要もなかった。

 

「……さぁ、これからだ」

 

 空が泣いた。

 

「これから、そうだ、ようやくだッ!」

 

 風が凪いだ。

 

「ようやく、オレは……っ!」

 

 大粒の雨が地と人を叩く。

 それはいつしか浴びた血や肉と同じように、心に染み込んでもう乾くことなどない。

 

 冷たい雨の中、歩き出した。

 泥濘を越えなければ充足はない。

 

 

 

 

 全ては『半身』のために。

 

 

 

 

 

「ここが龍門……すっごい都会って感じ!しかも綺麗!」

 

 夜の帳が下りた龍門。レユニオンと交戦した件でつい先刻まで拘束されていたアビスら一行は気力を大いに削がれ、げっそりしていた、はずだった。

 事情聴取に連れて行かれた先は検問所の本部であり、それは当然ながら一等大きい搭乗口に設けられている。して、その搭乗口が龍門の玄関であることは言うまでもなく、であればその景色は素晴らしいに決まっていた。

 

 エイプリルの居た席からは窓に装甲板の補強をしたせいで景色が見えなくなっていたので、態々助手席に移動してフロントガラスから龍門の夜景を満喫していた。

 アビスも一応窓から外を見ているが、そのテンションは雲泥の差だ。

 

「どうしよ〜、もう夜なのにすごく買い物がしたい!」

 

「そうなんですか」

 

「へえ、そうなのか」

 

 一ミリも自分の感情を理解できていないにも拘らずなんとなくで相槌を打った男二人を睨みつける。一応アビスは身嗜みに気をつけているし流行に鈍い訳でもないのだが、いかんせんそれをする目的がないのであまり積極的ではなかった。

 鈍いのと同じだろという指摘は甘んじて受け入れるだろう。

 

「なあ、お二人さん」

 

「なんですか?」

 

「俺は日が昇る前に龍門を出ようと思う」

 

「えっ!?」

 

 エイプリルとアビスの両方がゼルに視線を移す。

 

「何もなければ龍門でまた別の依頼を探そうと思ってたんだが、明日になれば近衛局の取り調べが本格的に行われるかもしれねえだろ?そうなりゃ滞在費諸々で大損だ。ホテルも取りたくねえから、補給だけして別の都市に行きたいんだ」

 

「なるほど、それでは仕方がありませんね」

 

 近衛局の取り調べがあるとも限らない、だがないとも限らない。トランスポーターは命を優先こそするが、商売人である以上は損得にも敏感だ。

 それが今の状況を続ければ損になると判断した、ならばアビスやエイプリルに止められる道理はない。

 

「これの修理はいいんですか?」

 

「整備くらいなら俺でも出来るから、また今度にしとけばいい」

 

「分かりました。ではどこで解散としましょうか」

 

「良いホテルを知ってるからそれの近くに停めてやろう。お前さん方なら気に入るだろ、知らんけど」

 

「不安になる言い方ですね」

 

「……まあ、な」

 

「?」

 

「十分と少しで着く。降りる準備はしておけよ?」

 

「了解しました、ゼルさん」

 

 突然の別れにはアビスの方が慣れている。エイプリルは別れの挨拶だけ済ませると、後ろに流れていく夜景に目を移した。

 

 

 

「アビス、戻ろう。戻ってゼルを叩きのめすしかないと思う」

 

 車から降りてゼルの言葉に従い、二人は入り組んだ路地を抜けた先にあるホテルの前に並んで立っていた。ホテルに付いているネオンの看板は赤やピンク色に街路を照らし、横を見れどまともなホテルは見つからない。

 今すぐに引き返そうとしているエイプリルを見て、アビスは首を傾げながら言った。

 

「ここはホテルではないんですか?」

 

「えっ?……えっ、あっ」

 

「交通の便は悪いですが、しかし確かにホテルだと書いてあります。知る人ぞ知る施設なのではないでしょうか」

 

「えーっと、アビス。違うの。ここはホテルなんだけど、でも一般的なホテルとは違うの」

 

「はあ」

 

「いや『はあ』じゃなくて、とにかくここはダメ。本当にやめた方がいいから」

 

「そこまで仰るのでしたら一泊ということにしましょう。夜も遅いですし、今夜だけこの宿に泊まれば良いのではないでしょうか」

 

「そういう問題じゃないんだよ、アビス」

 

 アビスの言っていることは、アビスの視点で言えば正しいことだ。それが世界を正しく捉えられていないことに言及し懇切丁寧に説明すれば、アビスはすぐにでもこの場を離れるだろう。

 しかし生憎とエイプリルにその勇気は出なかった。成人済みの女性が未成年の青年に連れ込み宿について説明するなど極めてハードルが高いため仕方がないだろう。

 

「あー、えっとね。このホテルはカップル専用なんだよ」

 

「カップル専用、ですか?」

 

「そう、恋人じゃないと入れないんだ。親子とかでもダメだし、同僚なんかもっとダメだから」

 

「そうなんですか。そんな施設があるなんて、炎国は意外とメルヘンチックな国なのかもしれませんね」

 

「…………うん、そうだね」

 

 エイプリルは後でケルシーに説明を頼もうと誓った。強力なアーツを操り人の死に慣れたところで、アビスはただの子供に過ぎない。今のところは大人スマイルで誤魔化すことにした。

 

「では、他のホテルを探しますか」

 

 

 

 少し経ち、アビスとエイプリルは無事普通のホテルに辿り着くことができた。それもアビスが連れ込み宿の従業員に対して剛毅果断にも他のホテルの場所を聞き、それの答えがしっかり返ってきた幸運によるものだろう。

 エイプリルはいつ嘘がバレるかと終始ヒヤヒヤしていたが、アビスのナイーブさはどうにか守られたのだった。

 

「ところでアビス、この住所ってどこなの?」

 

 チェックインを終えてそれぞれの部屋に荷物を下ろし、明日からの行動について詰めていくための会話、それの第一声。

 アビスはその問いに答えることができなかった。

 

 エイプリルが問題としているのは、手紙の本文に付け加えられた住所のことだ。捕捉されている単語から察するに恐らくはシルヴェスターの会社がある住所なのだろうが、二人は炎国語が堪能とは言えない。

 住所についても、単位は疎か書き方さえ違っている。

 

「分かりません。ですからそこらの通りでタクシーを拾うことが一番簡単でしょう。土地勘がありませんから多少運賃を上乗せされても気付けませんが、必要経費でしょう」

 

「明日早速行くんだよね?」

 

「はい。何か問題が?」

 

「ううん、ただの確認。じゃあ明日のことだけど……」

 

 アビスとエイプリルが計画を立てていく。

 それがすぐ水泡に帰すとも知らず、それ以上に優先されるべき事項が現れるとも知らず、二人は予定を明日から順に詰めていった。

 

 

 

 

 

 大きな音がした。

 

 それは動力として利用されることのある液状源石が外部からの干渉によって一斉に反応を起こし──平たく言えば、源石が爆発した音だった。

 

 煙が立ち上る。

 炎は荒野を赤々と照らし、しかしそれ以上延焼することもないまま小火に終わる。

 

 だから誰も分からない。

 

 その小さな火の中にはフォルテのトランスポーターが一人巻き込まれていたことを誰も分かれない。そのトランスポーターが殺されたことを誰も分かってやれない。

 

 しかし、もし誰かが顛末を見ていたとしても、その殺意は表に出ることなどなかっただろう。

 何故なら、その黒フードはどんな服装よりも闇夜に紛れていたからだ。何故なら、その車はどう見ても()()()()()()()()()()()()()()()からだ。

 

「くはっ、くはははっ!!」

 

 笑い声が夜空に広がる。

 

 決戦の場は龍門。

 トランスポーターなど余興に過ぎない。

 

「呑気に待っているがいい」

 

 

 日付が変わる。

 

 

 小さな火と事故に拉げた車を残して、黒フードの姿はもはやどこにも見当たらなかった。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十 退廃地区


信じられますか、もう五十話目ですよ。
体感では早かったです。かなり。
しかし五十話まで書いても百話は厳しそうですね。そもそも百話までストーリーが続くかどうか、そしてそれを書き上げられるかどうか……まあ、本編終わったらおまけに何か書くのも楽しそうだと思ってはいるんですが。
それでは、まあ、記念すべき五十話目、何の変哲もありませんがお楽しみください。



 

 

 

『現在臨時休業中につき、メール対応のみを行っております。それが出来ない場合、下記の日程且つ本社でのみ受付を開放しております。ご理解とご協力をお願いいたします』

 

 

「臨時休業、かぁ……」

 

 エイプリルさんが何とも言えない顔で唸る。きっとボクも同じような顔をしてるんだろう、現に今ボクだって何とも言えない気分になっているから。

 

 ホテルを出てタクシーを停め、ボクとエイプリルさんはシルヴェスターさんの会社を訪れた。住所を言っただけで、運転手の方がそこはシルヴェスターグループの本部事業所だって言ってて結構期待してただけに、出鼻を挫かれた気分って言うのかな。

 エイプリルさんと顔を見合わせる。ビルの自動ドアは作動せずに張り紙だけが貼り付けられている。二度手間だけど業務再開する日を今度聞きに行って、それでまた来るとしよう。

 

「出直すしかないよね。アビスはどうする?」

 

「レユニオンについて少し調べてみようかと。エイプリルさんはどうしますか?」

 

「普通にショッピングでもしようかと思ってたんだけど、あたしもちょっと気になるからついていこうかな。昨日危なかったし」

 

「もっと危ないかもしれませんよ?」

 

「えっ、それだったら尚更ついて行った方が良くない?」

 

「……そう、ですね。仰る通りでした」

 

 疑問符を頭の上に浮かべるエイプリルさんより一足先に、ボクは道路の方に振り返って足を踏み出した。

 

 全く、ボクは何を言っているんだろう。

 これから向かう場所がそうだから、少しだけ昔を思い出してしまったのかな。

 

 

 

 どこか都市部よりも乾いているような気がするのはどうしてだろう。吹く風を遮るものが少ないからか、それとも潤いという言葉から離れた場所に存在する概念だからかな。

 ボクが訪れたのはつまりそんな場所で、名前はスラム。クルビアのそれより幾分か空気も軽いそれは、少しの新鮮さと懐旧の念を思い起こさせた。

 他の人とは違ってボクはそれに良い思い出しか持っていない訳で、どことなく嬉しくなりながら歩くボクの方をエイプリルさんが訝しむように見ていた。

 

「アビス、どうしてこんなところに?」

 

「どうしてって、決まっていますよ。レユニオンについての情報を仕入れるためです」

 

 本当に聞きたいことは別にあるんだろう、エイプリルさんは口の中で何かを言いながら不服そうな顔をする。けれど不躾に触れることはせず、エイプリルさんは周りを観察することで口を閉ざしていた。

 

 ボクやエイプリルさんが着ているような上等な服はスラムの中に浮いていて、気配を読み取れる訳でもないボクですら感じ取れるほど注意が集中してる。

 エイプリルさんが見回したのは手持ち無沙汰になっただけじゃなくて、警戒する意味もちゃんとあったんだろう。

 

「うわっ、と」

 

 子供が一人角から飛び出してきた。そのままボクにぶつかって向こうに駆けていく。

 

「ちょっとアビス、何も盗られてない?大丈夫?」

 

「大丈夫ですよ。あの子はスリのためにぶつかった訳ではないですから」

 

 エイプリルさんはスラムについてあまり知らないみたいだ。

 

「ボクやエイプリルさんのように目立つ人を狙って成功すれば、他に搾取されて終わりです。足もそこまで速くないようですから、刹那的な思考で生き延びられるほどではないでしょう。十中八九、上の差金です」

 

「上?」

 

「スラムにも『社会』は存在します。孤児院やそれに等しいものがなければ、子供は社会(ヒエラルキー)の最下層に位置します。端的に言えば、力のある大人に言われてやったことでしょう」

 

「へえ、そんなことまで分かるんだ」

 

「まあそれ以上に、これだけボクがあからさまに短剣を持っているのに仕掛けるような命知らずは居ませんよ」

 

「……えっ、それずっと持ってたの?」

 

「はい」

 

 ボクのような余所者は舐められたら終わりだ。スラムに入ったのがただの馬鹿なら、スリも誘拐も山ほど仕掛けられる。それを防ぐには武器の常備くらいしておかないと。

 エイプリルさんも分かっているだろうけど、何人かの男がずっとこっちを伺ってる。話が早いことで、連携も何もない代わりに執拗(しつこ)さだけはひしひしと伝わってくる。

 

「詳しいね」

 

「まあ、それなりには。たとえばそこらで無気力に座っていたりする人は大抵が演技か新入りです。スラムでは都市と違ってやることが多すぎますから、休む時間なんて普通は取れません」

 

「演技っていうのは恵んでもらうため?」

 

「そうですね、スラムを訪れた人に情をかけてもらうためにそうしています。言ってしまえばそれが仕事ですよ。彼らはそれで稼いでいますから」

 

「ふんふん」

 

 エイプリルさんは興味深そうにボクの話を聞いている。別段そこまで面白いことは話してないと思うけどな。

 

「奥に行くに連れて殆ど見かけなくなると思います。新しく仲間入りした人はその殆どが奥に行くことを躊躇いますし、旅人も近寄りませんから演技をしても旨味がありません」

 

「でも中には全部諦めてる人とか居ないの?」

 

「死を待つくらいなら人を殺します。全て吹っ切れているとは言いませんが、暴力は身近にあります。諦めた人の多くは、座るのではなく立ち上がります。拳を握り人を殴って、そしてもう振り返ることはありません」

 

 エイプリルさんは神妙な面持ちでそれを聞いていた。

 

「レユニオンも同じようなものですよ」

 

「えっ?」

 

「被差別民として、社会の最底辺に落とされた。周りから虐げられ、全てを失くして、そして諦めた。──だからこそ、彼らはもう止まれないんです。振り返ることが、出来ないんです」

 

「そう、だね。言われてみればそうかも」

 

 エイプリルさんの顔に少しだけ影が差す。レユニオンとの戦闘はエイプリルさんにとって正当な鎮圧行為でしかなかったんだろう。ロドスが正義なのだとあまり疑ってはいなかったのだろう。

 生きるために殺すこととお金のために殺すことの何が違うのかはよく分からないけど、一般的に前者は仕方なくて後者は汚いことだと思われてるらしい。

 でもレユニオンはそれ以下だ。

 

「ここで商売でもして真っ当に生きている人だって居ますよ。今のボクやエイプリルさんは面倒臭い爆弾なので店なんて見つかりませんが、多少地味な風体で今のように訪れると話しかけられたりもします」

 

「そうなの?スラムってよく知らなかったけど、色々あるんだね」

 

「はい、色々な道があります。レユニオンの彼らにだって色々な道があって、その中で人を害する手段を取ったんです。今まで射殺したレユニオンの中に、一人でも自分の正義を疑っていた人は居ましたか?」

 

 レユニオンは、辞めようと思えばいつだって辞められる。襲撃した先に残って被害者を装ってしまえば、そして自分のつけていた仮面を壊してしまえば、後は武器を持っていたその腕で大工仕事でもすればいい。

 そしてそれをせずにロドスと戦争を始めたのは何故か。その活動がいつからか復讐でも報復でもなく八つ当たりになっていたからだ。

 

 だから、そう。

 

「彼らにかける慈悲はない。自分のためだけに殺戮の限りを尽くした彼らは、お金のために殺されたって文句も言えません」

 

「……うん、分かってる。分かってるよ、それくらいなら。気にかけてくれてありがとね、アビス」

 

 エイプリルさんはそう言って笑った。

 何故だかその目がボクを突き放しているように見えて、つい足が止まる。

 

「ちょっとそこのお二方、一つ話を聞いて行かないか?」

 

 来るとは思ってたけど、実際に来ると鬱陶しいな。とは言え来ない場合でもそれならそれで文句を言う訳だから良いんだけどさ。

 

 振り返ると、エイプリルさんの肩を一人の男が掴んでいた。スラムには馴染まないくらいに身綺麗な男だ、まるでボクたちのように。

 

「何の用?」

 

 手を払い退けて、エイプリルさんが(まなじり)を吊り上げる。男は退けられた手をひらひらと振りながら狐のような細い目をより一層細くさせながら笑った。

 

「五分もせずに終わる話さ。なあ嬢ちゃん、慈善事業に興味はないか?」

 

「ないよ。残念だけどあたしとアビスにはそういうの間に合ってるから」

 

「そう言わずに、このスラムに援助してくれよ。テロリストも来て大変だったんだぜ?」

 

「そんな言葉で……」

 

「そういうことでしたか」

 

「えっ、アビス?」

 

「ウルサス帝国で旗を上げたテロリストに逃げ込まれたとなれば、相当な被害だったのでしょう!心ばかりのお金ですが、どうぞ受け取ってください」

 

 内ポケットから財布を出して、龍門幣を取り出す。五万もあれば大方足りるんじゃないかな。スラムに居着く訳じゃないんだし。

 

「確かに受け取った。助かったぜ、兄弟」

 

「いえいえ、構いませんよ。ところでボクたちはこのスラムに疎いのですが、少しばかり案内を頼めませんか?」

 

「ああ、そうだな。お前さんの誠意を見せてもらったからには案内くらいいくらでもしてやらねえと」

 

「ありがとうございます」

 

「で、どこに行きたい?」

 

「物知りな人と会える場所、ですね」

 

「了解だ、ついて来な」

 

 男が先導する。不躾な視線はなくなっているところから察するに、やっぱりストーキングしてた人たちはこの男と関係があるみたいだ。予想通りだけど。

 

 

 

 男に案内された先には、一軒の寂れた建物があった。スラムにある家にしては平凡な大きさだけど、壁や扉に見える腐食はそこらの家を軽く上回ってる。

 

「それじゃまたな。嬢ちゃんはもう少し礼儀を弁えた方がいいが」

 

「Mind your own business!」

 

「参ったな、炎国語以外知らないんだが」

 

「公用語で、大きなお世話、だそうです」

 

「やっぱり俺の言う通りじゃねえか!」

 

 ケッケッケ、と笑いながら男はどこかへと歩いて行った。

 五万もの龍門幣、スラムの中では都市部での五十万と等しい。命のレートもそれと同じくらいな訳で、奪われる可能性を考えてとっとと上司に届けに行ったんだろう。

 

「ねえアビス、本当にお金を払っても良かったの?」

 

「ええ、まあ。あの時は払うべきでした」

 

「案内のために?」

 

「違いますよ、スラムの上に目をつけられるのが面倒だっただけです。案内なんて千も渡せば足りますし、もし断られたとしても他の人に頼むつもりでした」

 

「別に払う必要はないんじゃないの?いざとなったらスラムから逃げられるし、アビスなら無双できると思うんだけどな」

 

「そこまで簡単でもないと思いますよ。それに、パワーバランスを無闇に壊してはいけません。ボクがあの場で断れば何かしらの厄介ごとがついて回り、それに対処すればするほどボクたちの立場が悪くなります。舐められたら終わりなのは、余所者だけではないんです」

 

「でも、あんなに渡す必要あった?」

 

「昔の負債ですよ。それを清算しただけです」

 

「昔って……あっ」

 

 ボクにはスラムの勢力図を掻き回して逃げた前科がある。その結果は今でも鮮明に覚えていて、ボクはあの頃の愚かな選択を繰り返す訳にはいかないんだ。

 これでボクの罪が清算されるとは思えない。ただお金を払って面倒事を回避しただけなんだから。

 

 それに、今のボクにはロドスのオペレーターという肩書きがある。国家間の示威に使われる危機契約という制度で輝かしい戦績を残すロドスなら、名誉を汚しても相手が追跡を断つ可能性は高い。

 それに近衛局とも懇意にしてるから、スラムの秩序維持のためだとでも言って協力させることができる。ボクのアーツならトラウマも植えつけられるだろうし。

 

 だから今のボクは昔と違っている。言ってしまえば、ラユーシャの言った『違う自分』なんだ。

 昔のボクは行き場がなくて、逃げることができない状態で掻き乱した。それを余裕のある今のボクが正したところで意味なんてない。

 貧乏な人の募金と富豪の募金が同額だったなら、貧乏な人の募金がより尊い。

 

 罪は消えない。どうやったって、間違いなく。

 

 小屋の扉を開いた。いけないな、スラムに足を踏み入れることになってから、ずっと感情が制御を離れてる。訓練で少しは鍛えてるはずなんだけど、面目次第もない──いや、リラのことを考えれば当然か。

 

 でも、切り替えよう。

 

 小屋の中は外観と同じくらい汚くて、地面が剥き出しの床に半ば隠れるようにマットが敷いてある。使い古された感じはあっても、最近利用された様子や生活感は徹底して感じられない。

 

「へえ、ここが目的地?」

 

「まあ、間違った場所に案内しても何かある訳ではありませんから。しかしこうも変哲がなければ疑いたくもなりますが……」

 

「アビス、上見て」

 

 上?至って普通の屋根だけど。

 

「至って普通の屋根。でもそれってあたしたちから見ての普通なんだよ?スラムに入ってから見てきた中で言えばかなりしっかりした造りだと思う」

 

 なるほど、確かにこんな見窄らしい小屋には似合わないのかもしれない。梁だとかもスラムとは思えないくらい綺麗、かな?

 

「それに四隅の柱もそう。壁に使われた建材よりずっとずっと良い素材が使われてる。これってつまり、小屋はどうでもいいけど倒壊だけは防ぎたいからだと思うんだよね」

 

「見て分かるものですか?」

 

「触れば分かると思うよ。それで、今度は床のマットなんだけど、土の汚れが不自然なんだよね。前はもっと土に汚れてたんじゃないかなって思うんだけど、どう?」

 

 どう、と聞かれましても。

 

「でもそれだって不自然なんだよね」

 

「えっ、と……?」

 

「だって何かを被せて隠したい時って、そっちに注意がいくよね?でもマットは昔の汚れも放置で適当に覆っただけ。つまり床に何かあるけど、それはマットの下じゃなくて、それ以外」

 

「す、凄いですね……」

 

「これでもベテランのハンターだったからねー」

 

 エイプリルさんが特に悩む様子もなくある部分の土を足で掘る。大して掘ることもなくマンホールにあるような金属製の蓋のようなものが見えてきた。

 

「ハンターに求められるのは弓の技量だけじゃないんだよ?……よいしょ、っと」

 

「世知辛いですね」

 

「そういうものでしょ、人生って」

 

 エイプリルさんはそう言って手の土を払った。

 人生は世知辛いもの、か。そうかもしれない。このテラで生きるしかない以上ボクたちには源石がついて回り、そしてそうなれば自然と生きにくく感じる。

 じゃあ、もし源石が無くなったなら全部解決なのかと言えばそうでもない。あくまで源石は、不治の病という悲劇をもたらすものでしかない。その存在が与える影響は計り知れないけど、だとしても人生はそう簡単なものじゃない、はず。

 

 若造が何を言ってるのか、と自分でも思って苦笑する。

 

 

 もし源石がなかったら、リラは笑えていたのかな。

 あの孤児院じゃなくても、ボクとリラが笑える未来はないのかな。

 

 

 今は考える時じゃないだろ、しっかりしろ。

 

 開かれた穴を覗き込めば、穴は地下数階分くらいの深さだった。掛けられている梯子の段数もそれなりに多くて、下の方は明るくても中のあたりは暗くて梯子もよく見えない。

 

 移動都市の内部にこんな施設を作ったのか?いや、元からあった施設の中で使われなくなった区画を再利用してるのかな?

 どちらにせよ、龍門のスラムは割と力を持っているのかもしれない。少なくともボクが居たクルビアのスラムとは違う。

 

 梯子を降りると、上では臭っていた発生源の分からない臭気がスッと消えた。向こうに目をやれば、すれ違うことがギリギリ出来るくらいに狭く、薄暗い通路が続いている。

 

「アビス、降りて大丈夫?」

 

「問題はありません。もうすぐですよ」

 

「あれ?これって……アビス。先に行ってて良いよ」

 

「いえ、まだ罠ではないと決まった訳ではありませんよ?」

 

「分かってる。分かってるけど、先行ってて」

 

 穴の上でエイプリルさんが頬を掻く。

 よく分からないけど、まあいいや。

 

 薄暗い通路を進む。給気口を通り過ぎて、更に向こうへ。足元には途中から途切れたコードの束だとか、赤錆に塗れた鉄パイプだとかが転がっていた。

 ここは通路じゃなくて、点検用に設けられた通路なのかもしれない。それなら外部から簡単に侵入出来るのにも少しは頷けるから。

 

「アビス、ちょっと先に行き過ぎじゃない!?」

 

「一本道ですから、そう急ぐ必要もありませんよ」

 

 そう言ったのにエイプリルさんは早足になってボクの方に近づいて来た。薄暗い地下って言う閉塞的な空間が不安になったのかもしれない。

 

「でも、だってこんなの──きゃっ!?」

 

「わっ──と。だから言ったんじゃないですか。足元に気をつけてください」

 

「ご、ごめん……」

 

「さあ、行きましょう」

 

「うん。ごめんね、アビス」

 

 ああ、もう。なんでかな。

 どうして言う通りに動いてくれないんだ。

 

『⬜︎⬜︎!』

 

 ボクの名前を呼びながら飛びついてきたリラのことを思い出す。ボクより身長が高いくせにボクに寄りかかるものだから、バランスを崩して倒れてしまったこともあった。

 

 要らない仕事をしないでくれ。

 

 エイプリルさんの姿はリラと似ても似つかないはずで、今みたいに足を取られるようなミスをするのはリラよりボクだった。

 

 リラとは違うって言ってるだろ、心臓。

 

 すぐにエイプリルさんから顔を逸らしたせいか、ボクが怒っているように感じているみたいだ。エイプリルさんは少し後からついてきている。リラは、リラなら──って、違うんだよ、ボク。リラとは違うんだ。

 

 

 そんなに脈打つ必要なんか、ないんだ。

 

 

 

 

 しばらく歩けば、道が分かれていた。交差する地点に一際明るい源石灯が置いてあって、それは梯子の下に置いてあったものと同じだった。

 つまり、交差点と出入り口は遠くからでも分かるようになっている、ということなんだろう。

 

 向こうに見える梯子との間に明るい光源はない。つまり目的地はこっちか。

 

 脳内で地図をどうにか作っていく。傭兵を連れて遺跡を攻略しにかかる考古学者がクルビアやサルゴンには多くて、以前傭兵業を齧っていたボクからすればここのマッピングは然程難しくない。

 

「アビス、向こうじゃないの?」

 

「えっ?……あっ、そうですね」

 

 難しくないはずだけど、うん。最近は全然そういうのをやってなかったから腕が鈍ってるのかな──あれ?

 

「エイプリルさん、アレって……」

 

「うん、扉だね。分かりやす過ぎない?」

 

 なんてあからさまなんだろう。こんな作りにした店主には後で一つお礼を言っておこう。まあここではその言葉が持つ価値なんてゴミに等しいけど。

 

 ひょい、と通路の床から突き出ているベントを避ける。補強されてるところとかを見ると、このスラムはかなり龍門に食い込んだ存在なんだと思わされる。少なくともあのスラムにはこんな施設に手を出せる人なんていなかった。

 いや、本当は居たのかな。ボクが倒した人の中に居たのかもしれない。それはもう分からないけど。

 

「もうすぐ着きますが、注意事項として。ロドスのことは絶対に喋らないでくださいね?それを匂わせるような行為も謹んでください」

 

「分かった。すぐバレちゃいそうだから、あたしは喋らないことにするよ」

 

「分かりました。では」

 

 ドアを四回ノックする。別に声が掛かっても掛からなくてもいい、これにはただ訪問を告げるって意味しかない。

 

『はーい』

 

 は?どうして、その声が。

 

 なんで、いや、ありえない。

 

 そんなこと、あるわけがない。

 

「アビス?」

 

 扉が開いた。

 

「入ってどうぞー。って、キミ大丈夫?」

 

「な、んで……」

 

 嘘だ。

 

「どうして、君がここに」

 

 彼女が首を傾げる。

 

 白い長髪でペッロー、それはいい。

 もうそんなことはどうでもいい。

 

 

 

 

 リラが、立っていた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十一 限界化

 

 

 

 

 太陽の光が燦々とスラムを照らす。

 どんなに取り繕っても掘建小屋と表現するので精一杯な家々と廃墟としか思えないボロボロの家屋が広がる中、とある一角を豪勢な三階建ての邸第が占有していた。

 権威を示すかのようにその高塀には汚れ一つつかず、それはスラム全体に広がる悪臭でさえも近寄れば感じられないという徹底ぶりだ。

 

 その屋敷の最上階、中央に位置する部屋。壁一面に華美な装飾が並べられ、如何にも屋敷の主人が出迎えるような場所にて。

 

「手回しは済んだのか?」

 

 厳めしい顔つきをしたサルカズの大男がそう言った。その目線は男の前で笑みを浮かべるアスランの男に向けられている。

 威圧する眼光にアスランの男は全く怯むことなく、そのかなりライオンに寄った顔についている大口を開く。

 

「そりゃあもうバッチリ終わってますよ!アレがバレちゃあ絶対にいけねえって部下にもキツく言ってますからね!」

 

「それならいい。決定的な証拠さえなければこちらで対処できる。何かあれば伝達を選べ、重罰は課さん」

 

 男が持つ黄色の左目が窓からの光を反射する。右目は額から始まる裂傷に巻き込まれていて、光を反射する素振りは見せない。

 

「さて……俺たちを嗅ぎ回る鼠がどこに居るとも分からん。俺はここらで帰らせてもらうとしよう」

 

「ええ、全力で援助させてもらいますよ。なんてったってあの人が……いや、これは全て終わらせた後にしますか」

 

「ああ、それがいい。ではな」

 

 隻眼のサルカズが部屋を出ていく。

 アスランの男は暫くして豪奢な椅子に腰をつけて、盛大なため息を吐いた。アスランの中でも獣の色が強い男の表情は読み取りにくく、そのため息が何を示しているのかまるで分からない。

 やがて男は堅く、その太い手を握りしめた。

 

「絶対に掴ませてやるものか」

 

 数時間後、五万龍門幣という大手柄を挙げた下っ端はボスからの指令に奔走されることになったと言う。

 

 

 

 

「お客さんだよね?おーい、どしたの?」

 

「おい、お前も客だろうが」

 

「え?あはは、ごめんごめん」

 

 なんで、ここに……

 

「ちょっと、アビス?」

 

 エイプリルさんがボクの脇を(つつ)いた。

 ようやく思考が戻ってくる。そうだ、ボクはリラに会いに来た訳じゃなくて、だからえっと……どうしてここに来たのか、リラの衝撃で全部吹っ飛んだ。どうしよう。

 そうだ、まずは名前を聞こう。聞かなきゃいけない気がする。具体的に言うと死ぬまで聞いておけば良かったって後悔する未来しか見えない。

 

「お名前を伺っても宜しいですか」

 

「え、私?」

 

 仕草が重なった。

 頭にノイズが走る。

 

「私はリラ」

 

 ボクの記憶そのままに、リラは笑う。

 

「キミの名前は?」

 

「ボクは、ボクは──」

 

 思考回路が焼き切れそうだ。目前のリラが本物のリラにしか見えない。そんなことある訳ないのに、その全てがあの出会いと重なって、視界が潤む。

 

「アビス!」

 

 ──でも、ダメだ。

 ボクと関わることはマイナスにしかならない。たとえ今のボクが昔のボクと違ったって、結局リラを不幸にしてしまうかもしれないから。

 

「ボクは、アビスと申します。よろしくお願いします、リラさん」

 

「うん、よろしくね。あなたは?」

 

「あたしはアビスの、ただの付き添いだよ」

 

「なるほどなるほど」

 

 距離を取ってみると、リラさんはいつのまにか大きくなっていた。いや、なんていうか、大きいリラさんをようやく認識した。

 ずっとあの小さかった頃のリラと見紛う程に、リラさんはリラの仕草をなぞっていた。今の外見だって怖いくらい予想通り、もし生きていたらこんな風に成長するだろうな、って描いた像と全く同じだ。

 

 うぅ、尊い。あるロドスのオペレーターがエンペラーさんに仰っていた言葉と感情が理解できる。リラさんが本当に尊くて困る。

 

「それで、アビスは何の用なの?」

 

「あの、申し訳ありませんが呼び捨ては少し……」

 

「ダメ?」

 

「万事問題ありません」

 

 リラさんっ!!自重してくださいよ、ボクの心臓と血管を破裂させるおつもりですかっ!!!?

 敬語じゃないとヤバい。どのくらいヤバいって、本当に鼻血とかが出てきそうなくらいヤバい。前にラユーシャが言ってたことが全部分かるようになってきた。

 

 ラユーシャって凄いな、いつもこんなものを押しとどめて……いや、ラユーシャは負けてたね、うん。

 

「あなたがマスターですか?」

 

「ああ、そうだ。似合わないか?」

 

 茶髪をオールバックにしたマスターが言う。バーテンダーの服装はどこか窮屈そうに見えるのは図体が大きいからだろうか。ボクは身長が低いから、それとも相俟って大きく見える。

 

「そうですね、あまり似合っていません。傭兵業でもやっていそうな顔立ちです」

 

「ふん、まあいい。それで、何が聞きたい?」

 

「急く必要はありませんよ。何か軽いものを一つ」

 

「分かった。待ってろ」

 

 マスターが店の奥に消えて行った。よく見れば棚に並べられている上等なお酒はアクリル板の中に開けられないように作られていて、客に出すものではないのだと分かる。

 カウンター席に座る。

 

「こういうところにも慣れてるんだね」

 

「どの移動都市にもありますから、よく扉を叩いていたんです」

 

「ふうん。未成年のくせに」

 

「そこは見逃していただけると助かります」

 

 エイプリルさんがボクの隣に座る。

 いつのまにかリラさんも隣に座って、ボクとエイプリルさんの会話を聞いていた。

 

「二人は上司と部下なの?」

 

「えっ?ううん、違うけど」

 

「でも敬語じゃん」

 

「それはあたしが会った時からだから、あたしも分かんないんだよね。何が基準なんだろ」

 

 ボクを挟んでの会話の後に、二人の視線がボクに集中した。

 

「敬語の理由、ですか?」

 

「そうそう、それに私にももっとフランクに接してよ。一期一会って言葉知ってる?」

 

「それは、少し恐れ多いと言いますか」

 

「なんでそこで恐れ多くなっちゃうの……?」

 

 エイプリルさんと揃って苦笑する。たぶんエイプリルさんも名前だとか容姿だとかからボクがどうしてそうなってるのか分かったんだろう。全く同じとまでは思ってないだろうけど。

 そんなにボクってカーディさんとかポデンコさんに執着してたかなぁ。自分ではあまり分からないけど。

 

「リラでいいんだよ、アビス」

 

「ごふっ──!!」

 

「えっ、だ、大丈夫!?どうしたの、なんかごめん!?」

 

 うああ、距離近いよぉ……

 

「えーと、リラ。距離近いってさ」

 

「ただの呼び捨てだよ!?」

 

 あ、マスターが帰ってきた。

 

「俺の店でそう喧しくするな。何を話してるのかは知らないが、揉めるようなら追い出すぞ」

 

「えー、ケチ」

 

 マスターがシェーカーを振りながらリラさんと話す。

 よかった、矛先が逸れた。

 

「そう思うならさっさとお前も用向きを教えろ」

 

「私はアビスと会うためにここにいたんだよ」

 

「ぐぅ──ッ!?」

 

「冗談だけど、えっ、そんな嫌だった?」

 

「いえ、大丈夫です。……ボクの問題、ですから」

 

「アビス、そこ恰好つけるとこじゃないよ」

 

 ラユーシャもボクのことをこんな強大な存在のように感じてたのかな。だとしたらちょっと申し訳ないけど。

 差し出された透き通るような青のカクテルを一口飲む。名前は……チャイナブルーだったかな?

 

「それで、何が聞きたいんだ?」

 

「では、まずシルヴェスターの会社が休業になっている訳を教えていただきたいのですが」

 

「対価は?」

 

「ボクの身分を」

 

「ふむ、まあそれでいい。お前がスラムの住人だったなら俺の目が腐ってただけのことだ」

 

「それで、何があったんですか」

 

「シルヴェスターが死んだのさ」

 

 おっと。ただの挨拶代わりに聞いただけなのに、そんな答えが返ってくるなんて。エイプリルさんがボクの方を信じられないとばかりに見てくるけど、別にボクは何の推測もしていません。隠しては居ますが、エイプリルさんと同じ気持ちですよ。

 だけど分からないな。どうしてそれを張り出した情報の中に入れなかったんだろう?

 

「アイツは中々恨まれてたらしくてな、死んだ事実を残った重役が握り潰そうとしているらしい。つけこまれたが最後、あの会社は終わりだろう」

 

 ああ、そういうこと。

 

「それでは対価に、これを」

 

 ロドスから支給された携帯機器の電源を入れてプロファイルを見せる。ボクの基礎情報をまじまじと見つめるマスターから目を逸らして、口の中をグレープフルーツの酸味で埋める。

 エイプリルさんに喋らないでほしいと頼んだのはこれのため。対価の節約って言うのかな。

 

「こいつはお前、あのロドスのオペレーターか。嘘じゃないだろうな?」

 

「嘘をつくほど暇じゃありません。それにこういうところを敵に回す恐ろしさは知っていますから」

 

 まあ、昔は強引に解決できたんだけど。

 それにしてもシルヴェスターさんが逝去されたとは、もう龍門に残る口実がなくなってしまった。これはどうしようか。任務のために龍門に残るとしても、最悪近衛局がロドスを厄介に思う可能性がなきにしもあらずだし。

 

「これじゃあ対価と釣り合わないな。俺の名義で紹介状を書くとしよう。葬式会場の位置や日時もセットで付けてやる」

 

「ありがとうございます」

 

 葬式に出て、それですぐに帰ることになるかもしれない。その場合は亡灵(アンデッド)の取っ掛かりだけでも掴んで、ロドスまで引っ張ろうか。いや、それではボクの決着がつけられない。

 

「弔事かぁ。私好きじゃないんだよね」

 

「うん、そんな感じする」

 

「でも慶事もね、恋人居ないからあんまり素直に喜べないんだよね」

 

「へえ、居ないんだ?そんなに可愛いのに。っていうかメイクとかはしてないの?」

 

 恋人は居ないのか。良かった。

 

 いや良くはないけど!!別に良くはないけど!!でも悪い男に引っかかる可能性を考えてみるとリラさんには慎重になってもらいたいなと思っちゃうんだよ……っ!

 あとは、誰かのものになって欲しくないっていうボクの汚い欲なんだけど。

 

「それで、他にはあるか?」

 

「そうですね。レユニオンの残党について、だとかはどうでしょうか」

 

「レユニオン?ああ、ロドスだからか。対価はどんなものを用意してるんだ?」

 

「レユニオンの幹部である『W』の行方です」

 

「ほう?確かに、信憑性は高いな。だが──」

 

「重ねて、各幹部の生死について」

 

「……分かった、良いだろう」

 

 ちょっと払い過ぎたかもしれない。クラウンスレイヤーには申し訳ないけど、でもこれからは別の名前で活動するだろうから心配はない、よね?

 近衛局はレユニオンの幹部についてどれほどの情報を公表しているのだろう。大きな組織に幹部が居るのは必然で、だから存在ごと隠す訳にはいかないと思う。

 そうなった場合、ウルサス帝国ほどの情報操作はしなくても、幹部の生死についてはかなり誤魔化しているはずだ。

 少なくとも生き残っているとするにはレユニオンによる被害が大きすぎる。市民の反感を買うくらいなら嘘をついた方が賢明だ。

 

 くい、とグラスを傾ける。

 

 そんな訳で、生死の確定っていうのはかなりの情報になる。情報屋としても買っておきたいカードのはず、Wについての情報は要らなかったかも。

 

 洗い終えたシェーカーを置くと、マスターは口を開いた。

 

「残党について、か。まず龍門近くに潜伏してるレユニオンの数は千を下らないと聞いてる。専門家を自称するコメンテーターはもう居ないだとか宣うが、龍門を出入りするトランスポーター達は割と広範囲で遭遇してるって声を聞いた」

 

「ああ、それならボクも遭遇しましたよ」

 

「それなら話は早い。だがな、逆にこういう声もあるんだ。多すぎる、輸送車両を襲うことで賄える人数を超えてる、ってな」

 

「都市に潜伏するレユニオンが居るとしても、ということですか」

 

「ああ。確かに、輸送中襲撃されることはある。だが逃げ切ることに成功してるヤツも居るんだ。食糧を乗せた車だけ狙って襲える訳でもない、不自然すぎる」

 

 確かに、ボクを襲ったレユニオンも不自然だった。食糧を乗せてる可能性が低い軍用車なんてものを襲撃するにしては大掛かりだし、撤退しないで遅って来る人も居た。

 まるで、メフィストのアーツだ。回復能力はないようだったけど、それぐらい退()かなかった。唯一違うのは理性的な動きを見せたこと。でもそれを逃走には使わなかった。

 

「あとは、不審死もある。昨夜から今朝にかけてのことだが、龍門近くでとあるトランスポーターが瓦礫に突っ込んで爆死したらしい」

 

「夜で道が見えなかったのでしょうか」

 

「だとしてもおかしいんだ。そいつの乗っている車は軍用車で、それと瓦礫が正面衝突して爆発が起こったらしいんだが、軍用車は本来そんなもので爆発する訳がないんだ」

 

「──軍用車?」

 

「ああ。それもかなりのスピードで突っ込んで行ったらしい。瓦礫の方も車の衝突で動かない程度には大きく、夜道でもハッキリ見えるはずなんだ」

 

「ねえアビス、そのトランスポーターの人って……」

 

「なんだ、知り合いか?車の焼け残った中から出てきたトランスポーターの資格証には、『ゼル』とあったらしいが」

 

「ああ、はい。運送してくださったトランスポーターの方で間違いありません」

 

 まさか、ゼルさんが殺されているなんて。

 

「そいつの葬式は挙げられない。だから紹介状を書くのも不可能だ。すまんな」

 

「いえ、謝罪の必要はありませんよ。運が悪かっただけなのですから」

 

 本当に、テラって惑星はボクたちに苛酷だ。エイプリルさんも悲しそうに目を伏せている。

 

「ホテルまで勧めてくださったんですけどね」

 

「すごい、アビス。全然悲しくなくなった」

 

 そんなにカップルだと勘違いされるの嫌だったんですか。仕方ないのかもしれませんし悲しいってほどではありませんが割とショックですよ、ボク。

 

「っていうか、なんか周りの人死にが多くない?」

 

「えっ、私とか死んじゃう?」

 

 リラさん、あの、それだけは本当にやめてください。

 

「もしそうなったら絶対に守りますから、連絡してくださいね」

 

「分かった。ありがと、アビス」

 

「いえ、当然のことなんです。ボクがリラさんを守るのは、言わば使命と言ってもいい。リラがボクにとっては一番大切で、それで……」

 

「え、えっ、えぇっ!?」

 

「アビス、ストップ」

 

 あっ。

 

「すみません、リラさんには何のことか分かりませんよね」

 

「えっ、うん。なんか落ち着きすぎじゃない?」

 

「誤魔化すことでもありませんから」

 

「そっ、そうなの!?今の極東で言う『告白』だったよ!?」

 

「告白ならば尚更誤魔化すことではありません。まあ告白という訳でもありませんが」

 

「いや、でもそんな、えぇ……?」

 

「ほら、もう混乱しちゃってるから」

 

 困らせる意図はなかったんだけど、本当に申し訳が立たない。お金だけは割と持ってるから、後で何か贈り物でもしようか。

 宝石とかどうだろう。あ、いや、宝石がついてる指輪とかアクセサリーを贈ろう。予算は三百万龍門幣かな。

 

「俺の情報は終わりだ、対価を払え」

 

「ああ、はい。まず幹部陣ですが、クラウンスレイヤーとフロストノヴァにW、そしてアンデッドが存命です。アンデッドを除いた三人はレユニオンを脱退しましたが」

 

「実質的にはあと一人ってことか」

 

「そうですね。それで『W』のことですが……ロドスにて雇っています」

 

「はあ!?」

 

「ロドスはカズデルにて創設された組織であり、明確にどの国に所属しているだとかはありません。どこの国の法にも服する義務なんてありませんよ」

 

「そんなことが、いや、確かにそうかもしれないが」

 

 よし、対価は払った。

 カクテル代をカウンターに置く。

 

 撤収だ。

 

「これ以上は対価を払われなければ言えませんね。それでは行きましょうか、付添人さん」

 

「はいよ〜。それじゃまたね、リラ」

 

「うん、またね」

 

 帰ろうかなんて言ったのはボクだけど、寂しげに手を振るリラを見ると撤回したくて堪らない。

 もうちょっと、いや言葉は濁したくない。もっと、もっともっとリラさんと話していたかった。どうしてボクは話を切り上げたんだろう。

 リラさんと話すためだったらロドスのことなんて包み隠さず言うのが筋だって分かってるのに。マスターがロングカクテルを用意したのはそういう意図だって分かってるのに。

 

「あ、待って。アビス」

 

「はい」

 

 ドアの前、ノブに手をかけたところでリラさんからお声がかかった。今すぐにでもリラさんの隣に戻りたいけど、それをしたらリラさんは確実に引くだろうから出来ない。もっと考えなしに動いていた子供の頃に戻りたい。

 

「またね」

 

 リラさんが笑った。

 ごめんなさい、その言葉が嬉しいやら別れがたいやらで泣きそうです。

 

「はい、また会いましょう。リラさん」

 

 ドアを開いて、エイプリルさんに出るよう促す。なんでこんなことをしたかって言うと、単純にリラさんが見えるこの素晴らしい時間を少しでも増やしたかったから。

 名残惜しいけど、リラさんに執着するのは良くない。扉を閉めてすぐ、通路を出口の方に進んでいく。

 

「連絡先は聞かなくて良かったの?」

 

「ええ、まあ。ボクが会いに行けるようになれば、迷惑行為に走ってしまいそうで怖いので」

 

 冗談ですけどね。

 

「ああ、確かに」

 

「えっ」

 

 いや冗談ですよ?リラさんを不幸にさせたくないからって理由ですよ、待ってください別にボクはリラさんの迷惑になる行為なんて全然やっていませんでしたよ?

 

「名前とか種族とか髪とかは同じだったけど、そんなに似てたの?」

 

「はい。正に生き写しと表現するのが相応しいほどにリラの姿そっくりでした。右腕と右足首あたりにある黒子(ほくろ)の位置も同じでしたね」

 

「……」

 

「もっと観察できればまた別の類似点が見つかったかもしれません。ドッペルゲンガーというものでしょうか」

 

「うん、アビスちょっと気持ち悪いね」

 

「えっ」

 

「黒子の位置を覚えてるのも把握するのも気持ち悪いよ」

 

 エイプリルさんの顔を見る。本音らしかった。

 

「そうですか?リラは昔ボクの鱗にある傷さえ把握していましたが」

 

「こっちのリラにはそんな特技無いと良いんだけど」

 

「ボクも当時は少し引きましたね」

 

「その頃の純粋さを取り戻してよ。……いや、今でも純粋なのは所々残ってるんだけどね」

 

「そうですか?」

 

「初恋にいつまでも執着してるところとか」

 

 エイプリルさんが揶揄い混じりにそう言った。

 ボクは初恋の人と死別したなら当然だと思うけどな。それに一般的には初恋ってだけでも記憶に残りやすいのに、ボクの場合は約半年の同棲期間があったり、色々な感情が渦を巻いてたりもしたから。

 

「エイプリルさんは、初恋の思い出とかありますか?」

 

「あたし?あたしは、そもそも恋愛経験がないかな。レムビリトンでは生活のためにやらなきゃいけないことが多かったし、ロドスに入ってからも仕事が恋人って感じ」

 

「そうだったんですか」

 

 ボクの勝手な偏見だけど、エイプリルさんは恋人をほぼ絶え間なく作れて、それで恋人に世話を焼くタイプだと思ってた。偏見だけど、なんていうか、尽くすタイプって言うのかな。

 ともかく、恋愛経験がないのは意外だ。

 

「それに、恋人を作るより音楽を聴く方が都合もついたし楽しかったから。……そういえば、アビスには『エイプリル』のこと言ってなかったよね。あたしのコードネームの由来、ホテルに戻ったら聴かせてあげようか?」

 

「いいんですか?」

 

「アビスももう少し趣味を増やした方がいいんじゃないかなって思ったからね。いくら鉱石病が進んでたって、余生がどうでもよくなる訳じゃないでしょ?」

 

 あは、あはは。

 

「えーっと、ボクは、その、別に……いえ、否定する訳ではないんですが、あの……」

 

「……アビスはあたしとケルシー先生とサリアさんの三人に何を話たのか覚えてる?」

 

「昔の話を、しましたが」

 

「じゃあその後に何を誓ったか思い出せる?」

 

 エイプリルさんが一歩後退ったボクの腕を掴んで笑顔になる。少し力を入れるとビクともしないどころか掴む力が強くなった。ちょっと痛いです、はい。

 

「リラを、ただの過去にすると」

 

「言ったよね?忘れてない、大丈夫?」

 

「大丈夫、です」

 

「ならなんでどうでもいいとか思えちゃうの?この前ケルシー先生に図書室で怒られたって話も聞いてるんだよ?」

 

「あ、はい」

 

 なんで怒られてるんだろう。

 

「今アビスは『なんで怒られてるんだろう』って思ったでしょ。顔に出てるよ」

 

 あっ。

 

「いやあたしにはアビスの人生に口出しする権利なんてないよ?ないけどさ、それは流石にダメだよね。人との約束反故にして怒られないと思ってるアビスは人としてどうかと思うよ」

 

「はい、すみません」

 

「で、今なんで怒られてるか分かる?」

 

「約束を破っておいて悪びれないから、です」

 

「うん、違う」

 

 えっ。

 

「今はさ、アビスがこの先の人生どうでもいいとか思ってるから怒ってるの。今のそれってあたしが最初に言ったことは全部もう頭からなくなってるってことでいいの?」

 

「そういう訳では」

 

「そういう訳だよね。誰がどう聞いてもそうだと思うよ。それと口答えしないで。今のこれってあたしはただ単に怒ってるんじゃなくて説教だから」

 

「は、はい。すみません」

 

「で、アビス。どうしてこの先の人生どうでもいいとか思ちゃうのかな?」

 

「えっと、その……」

 

 エイプリルさんの顔を窺う。

 

「ハッキリ言いなよ」

 

「その、あまり意味がない、と思いまして」

 

「へえ、()()()()()んだ。それがどうしてどうでもよくなるの?」

 

 えっ、と。

 

「無意味なことに力を割いても、疲れるだけですから」

 

「何その省エネ人生。疲れる代わりに楽しくもないけど、それでいいんだ?」

 

「それで当然なのかな、と」

 

「ふーん、そうなんだ」

 

 エイプリルさんが掴んでいた手を離して、通路の先を歩き始めた。張り詰めた雰囲気はそのまま続いていて、ボクの追う足が止まりそうになる。

 

「アビス」

 

「はい」

 

「アビスは、生きる意味なんてもうないんだって本当に思ったんだよね」

 

「はい。いつ死のうとも、心残りと言えるほどの未練はありません」

 

「そっか。ニヒリズムって言うんだったかな、そういうの」

 

 声音から感情が読み取れない。

 

「でも源石に殺されたいんだよね?」

 

「……まあ、はい。自分でも驚いてます」

 

「そっかそっか」

 

 エイプリルさんが振り向いた。

 悲しそうに目を伏せて、それで。

 

 

「やっぱり、あたしじゃ力になれないんだね」

 

 

 胸の奥が強く握られたようだった。

 握った手のひらに爪が食い込む。

 

 少しだけ、ほんの一瞬だけ。

 

 ボクは自分の選択を後悔した。

 

 

 

 

 





鬱が足りません。
誰かください。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十二 結ばれた約束

 

 

 

 

 『エイプリル』を聴く。

 

 

 近くのコンビニエンスストアで買ったお酒の蓋を開けて喉に流し込む。ロドスに居る時は到底出来ない逃げ方だった。自分を卑怯だと罵る気持ちと、困惑する気持ちが渾然一体となってボクの心に騒めいている。

 エイプリルさんはどうしてボクのためにあそこまで思い詰めたのだろうと、ずっと考えている。

 簡単だ、友人だからだろう。そう思っても、何故だかその裏があるように感じてしまう。それはただの勘だったけれど、ボクからすれば半分以上事実に思えてしまうものだ。

 そうであってほしい、なんて。そんなことを思う時期はとっくの昔に過ぎていたはずなんだけどな。

 

 ボクがエイプリルさんに抱くこの感情は何なのだろう。リラに対して抱く感情とはまた別で、だからきっと恋や愛ではないのだと思う。

 生を受けて十八年弱、成人もしていないこの身ではあるけれど、知らない感情があるとはそれこそ知らなかった。どうしてエイプリルさんにしか感じないのかもよく分からない。理解できない。

 

 

 『エイプリル』を聴く。

 

 

 窓から見える空がいつのまにか朱く染まっていた。食欲も出ないままにロドスから持ってきた特製携帯食糧を一袋開ける。

 夕食の時間は七時頃だったか。今の時刻は日の入前だから六時強、エイプリルさんは隣の部屋に居るのか。

 

 別にどうってことない。考えることが少ないから考えているだけだ。いや、考えることはリラさんって存在が大幅に増やしてくれたけど。

 リラさんは本物なのか。そんな訳はないだろうけど、ロドスに仕掛けられた悪趣味なドッキリの可能性が一番高く感じる。それでも口調だとかは再現できないだろうし、リラさんは本当にリラさんなのだろうけど。

 

 リラさんのことを考えると、もどかしい思いがとめどなく湧き出てくる。やっぱり連絡先の一つでも貰えば良かった。でも迷惑になるからと抑え込んだボクの判断は間違ってなくて──。

 

 そっか。

 

 未練が大きくなるから、じゃないんだ。ボクがリラさんから距離を置いたのはどこまでもリラさんのためで、ボクが前を向くためじゃない。

 叱られる訳だ、全然出来てない。ボクはエイプリルさんを怒らせて当然の思考をさも当たり前のように実行していた。

 

 

 『エイプリル』を聞く。

 

 

 空が藍色に塗り潰された。龍門のネオンが煌びやかに装飾して、真っ黒な空は照らされてしまっている。星は見えない。

 以前、ボクは運命を天体に喩えていた。リラは太陽で、ロドスは月だと、そう思っていた。そして、それはクロージャによって引き裂かれた。

 

 あの言葉は質量を持ったみたいに重く感じられたんだ。軽々にボクがロドスのことを月だなんて言ったから、クロージャの何かに触れて怒らせてしまった。

 

 何も変わらない。軽々に無意味だなんて言ってしまったから、エイプリルさんにあんな表情をさせてしまった。

 何も成長していない。それはまるで頭の中に居るリラのようで、死んでるみたいなんだ。

 

 リラさんは、変わっていなかった。ボクの思い出にあるリラそのものだった。完璧なリラではあったけど、もしかするとそれは完璧なリラさんではなかったのかもしれない。

 リラさんには裏があるのかもしれない。勝手なボクのこの予想は間違っていると思う。そんなものあるはずない、そうボクは思ってる。

 

 だからこそ、あるんじゃないかな。

 ボクは、間違ってるから。

 

 夕食に出かけていると思われるエイプリルさんの部屋の方を見る。汚れのない壁があるだけだった。

 それに少しだけ安心する自分が居た。

 

 

 『エイプリル』を聴く。

 

 

 夕食の時間は過ぎた。炎国の習慣で言うところの宵夜が始まった。夕食の後にもう一度食事を摂るのだったか。このホテルでは日が変わるまでレストランが開いているらしい。

 エイプリルさんは行くのだろうか。炎国に慣れていないのだったらもしかすると存在自体を知らないかもしれない。伝えた方がいいかな。

 

 まだ二日目だ。色々あったけど今日はまだ滞在二日目なんだ。そんなに飛ばす必要なんてない、ボクはまだ動く必要なんてない。

 

 そんな風にする言い訳が尽きたなら、ボクはようやく腰を上げられるのかな。それとも、このまま見えない星をどうにか見ようとして肝心なものから目を逸らし続けるのかな。

 エイプリルさんの声を思い出しても、ボクは動けそうにない。そもそも、動いたって無駄なのかもしれない。本来星はどこでだって見られるもので、太陽はボクたちを満遍なく照らす恒星だから。

 

 そんな言い訳を捻り出したボクの顔は今どうなっているんだろう。きっと感情がそのままで、取り繕えてないんだろう。訓練の成果はどこへ行ったんだ。

 

 もう何も考えたくなかったボクは逃げるようにベッドへ倒れ込むと、『エイプリル』を流しながら眠りに落ちてしまった。

 

 

 

 

 

 

「ねえ⬜︎⬜︎、約束しない?」

 

 窓の外、走り回るナインとカインを見ながらリラが言った。約束って何のことだろう。

 

「約束するようなことって何かあった?」

 

「ううん、ない。でも⬜︎⬜︎は私に約束してくれたでしょ?だから私も⬜︎⬜︎に約束しようかなって」

 

 リラの言っていることがよく分からない。いつものことだった。

 リラはボクが譲った分だけ返さないと気が済まない性格だから、言いたいことは分かるけど。別にいいのにな、ボクはいつもリラから貰ってるんだから。

 それに約束するのは約束するべき時に限るんじゃないかな、とも思う。自分が約束したいと思った時にすればいいもので、進んで約束事を増やすのは違う気がする。

 

「そういうものじゃないよ、約束って」

 

「いいのいいの。どうせ口約束なんだし、誰も困らないでしょ?」

 

 そうやってリラが笑えば、ボクにはもう断ることなんてできなかった。そもそもボクの約束はそれなりの重量を伴っていて、だからリラのそれをどうにか止めるべきだったとは思ったんだけど……ボクには、止められないなぁ。

 リラがボクの手を取った。それだけでどこか安心してしまえるくらいボクはリラに惹かれていて、口出しする気にはなれなかったんだ。

 

「それで、何を約束するの?」

 

「それはもう決めた」

 

「えっ、早いね。どんな約束?」

 

 リラがボクの手をぎゅっと握る。

 ここまで真剣な顔のリラは珍しい。

 

 ボクが呆気に取られていると、リラは容赦なくその言葉を紡いだ。

 

「私は私を許さない。⬜︎⬜︎が私を、本当の意味で許してくれるまで」

 

 リラの目を見る。

 澄んだ琥珀色の瞳がボクを見ていた。

 

「分かった。リラがそう言うなら」

 

 ボクの言葉を聞いたリラは何度か瞬きした後、ボクを抱き締めた。リラの体は震えているようで、ボクが抱き締め返すとそれはより一層酷くなった。

 

 リラの目は本気だった。だからボクは何のことか分からなくたってその約束を受け入れる。リラはちゃんと考えてその言葉を出したんだって分かってるなら、ボクにできるのはそれを受け入れることだけなんだから。

 リラにも、ボクより少し長いくらいの過去がある。ボクを含めてこの世の全ては、今に至るまでの過去を持っている。ナインだってカインだって、それは変わらない。

 

「リラ。いつか話してくれればそれでいいよ」

 

 ここは孤児院だから、みんな親を亡くしてるんだ。リラが許さないでって言うなら過去には相応の顛末があったはずで、ボクはそれを受け止めてあげたい。

 それでまた、リラに許してって言われて、ボクは笑顔で言ってのけるんだ。

 

 最初から、ってさ。

 

 

 

「──て。起きて、アビス」

 

 目を開ける。すぐ前にエイプリルさんの顔があった。

 

「えっ、あ、おはようございます……?」

 

「うん、おはよう」

 

 エイプリルさんの顔が離れて、ボクも上体を起こす。耳に入れていたイヤホンが一つ落ちて、聞こえる音楽が片耳からだけになる。

 寝ぼけていた頭が覚醒する。

 

「流石にそろそろプレーヤー返してもらおうと思ったんだけど……気に入ったみたいだし、それはアビスにあげるよ」

 

「いいんですか?」

 

「うん、いいよ。でも代わりのプレーヤーくらいは一緒に選んでくれる?」

 

「選ぶだけですか?ボクがこれをいただけるのなら、ボクもエイプリルさんにプレゼントするのが筋ですよ」

 

「じゃあ、そうしよっかな」

 

 何事もないように振る舞う。

 ボクも、エイプリルさんも、昨日を無かったことにした方が良いって分かってるからだ。

 

「それじゃあアビス、また後で」

 

 エイプリルさんがそう言った。

 作り物の笑顔をボクに向けて、言った。

 

 

「エイプリルさんのことも大切ですよ」

 

 

 それは全くの無意識だった。ボクは自分の部屋に戻ろうとしたエイプリルさんの袖をいつのまにか掴んで、無意識のうちにそう言っていた。

 

 後から弁解する気にはなれなかった。ボクは昨日の夜に色々と考えてみたけれど、でも結局エイプリルさんのことが大切だという所は変わらなかった。

 ラユーシャみたいなもの、それこそ親愛って気持ちだと思う。

 

「えっ、えぇ……それリラにも言ってなかった?」

 

「ボクが大切に思ってるのは二人ですね。過去を合わせれば三人ですが」

 

「二人!?」

 

 リラさんは勘定に入れてない。出会ったばかりのボクが一方的に大切だって言うのはあんまり気分が良くないことだろうから。

 

「あたしってリラと同等なの……!?」

 

 エイプリルさんが何やらわなわなと震えている。まあ、ただの同僚にこんなこと言われても普通は困るだけだよね。

 

「冗談ではありませんが、特に気にしないでいただいて良いですよ。もっと話して行かれるなら、その、お茶でも淹れますが」

 

「えっ、いや、大丈夫!うん、あたしは朝ご飯でも食べてくるから!じゃあね!」

 

「あ、はい。お茶……」

 

 中国では上等なホテルだと、この部屋みたいに茶杯が六つ置いてあるところがある。茶杯とはコップのこと。理由は割愛するとして、その茶杯は何人で飲もうと六つ使わなくちゃいけない。三人で飲むとしても一人あたり二杯分飲むことが多い。

 っていうことで一人で六杯飲むのは流石にキツいから誘ったんだけど、あの逃げ方からもしかするとエイプリルさんはこの文化を知ってたのかもしれない。朝ご飯前に三杯も飲むのは嫌だろうし、仕方ないか。

 

 一昨日から飲みたいと思ってたんだけどな。

 

 

 

 暇になってしまった。

 

 昨日はボクが働いたから、とエイプリルさんが一人で近衛局に出向き、そして結局やることなんてないボクだけがホテルに残った。

 アーツユニットは整備するほど使った訳じゃないし、物資を買い込むにも型が違えば使い方なんて全く分からない。ボクが使っていた攻撃型手榴弾はあんまり流通してないみたいだし。

 

 Wに頼むのは嫌なんだけどな。ボクのことで何か企んでいそうだし、偶にボクの後ろに回り込んで何かをしようとしてる時がある。一応いつも武器を持ってはいないけど、何をするつもりなのか分かったものじゃない。

 

 でもそうなると、することが本当になくなってしまった。シルヴェスターさんの葬式はもう少し後で、エイプリルさんのプレーヤーを買おうにも好みを聞かなきゃ決められないだろうし。

 あ、それなら地理だけでも覚えておくのはどうだろう。

 街でプレーヤーを売ってる店とか大通りとか案内出来て、それでもかけた迷惑の百分の一を返せるかどうかだと思う。今この時間を有効に活用するには、それがいい。

 

 財布は持った。ホテルに置いておけない大切なものもポケットの中に入れた。

 

「よし、出掛けよう」

 

 

 

 どうしよう、迷った。

 大通りだとかメジャーな部分は一通り通って、そこから欲を出して一つ裏側の通りを探索し始めたのが悪かった。初日に少しだけ通って変な自信を持っていたのも最悪な方向に転がった。

 また同じ道だ。近衛局は近くに見えるのに、何故だか辿り着けない。路肩に停められたモーターバイクが変わってるせいで違う印象を受けることとか、下ろされているシャッターの汚れがさっき見たものと同じって気付かないと永遠にループしそうだ。

 疎らだけど行き交う人が居るっていうことも上手いこと撹乱になってる。

 

 ちなみに奥まった場所で幾つか武器の露天商にも出会ったけど、ロドスの取り扱うような品質は流石になかった。昔練習した投げナイフなんてものがあったからつい買わされちゃったけど。

 うーん、久しぶりに屋根の上を使おうかな。

 

「へい、そこのお兄さん!」

 

 この声は。

 

「リラさん、昨日ぶりですね」

 

「だからリラでいいって言ってるのに。今日はエイプリルさんと別なの?」

 

「ええ、そうです。それにしてもどうしてこんなところに?お一人で歩くには少し危険ですよ」

 

「このあたりに友達が居るの。今も会ってきたし、これから帰るとこだったんだけど……アビスについていこうかな。予定あるけど」

 

 友達、か。龍門から帰る前にその友達が信用に値するのかボクの方で確かめておこう。身元の特定さえ出来れば探偵を雇えばいい。

 そうまですることはないと昨日のボクなら思っていたかもしれないけど、でもリラさんがそんなことを言うなら話は別だ。そう、ボクについていくなんて言うのなら友達の方も精査せざるを得ない。

 

「リラさん、知り合って一日の男についていくなんて絶対にダメです。少なくともその人が後ろ暗いところのない会社に通っていて、出自がしっかりしていて、年収六百万龍門幣以上で、顔も整っていないと認めません」

 

「年収六百万の人は私と知り合うことすらないよ」

 

「なら認めません、ちゃんと身分がしっかりしていて邪な気持ちを持っていない人とじっくり親交を深めてください」

 

「じゃあアビスは?」

 

 そう言ったリラさんに、物陰から視線が当てられていた。ボクも今気付いたばかりでいつから居たのか見当もつかない。リラさんの容姿は控えめに言って最強だから仕方のないことだけど、もし気付いていなかったらと思うと怖過ぎる。

 リラさんの手を引いて人の流れに溶ける。

 

「前者では会社と年収以外当てはまっていません。後者だとしてもじっくり深められていませんよ」

 

「私はアビスの顔好きだよ?」

 

「ボクはリラさんのことが好きです」

 

「そう?……ちょっと待って今なんて?」

 

「ボクはリラさんのことが好きです」

 

 何度だって言いますが?

 

「わ、私も、アビスのこと好きだよ?」

 

 くっ!恥ずかしがる仕草がドストライクなので少しの間こっちを見ないでください……ッ!

 

「リラさん、恥ずかしいならやり返す必要はありませんよ」

 

 それにそんなことをされなくてもボクの心はいつもリラさんに掻き乱されてますから。好きです。

 

「急に塩になるじゃん……だってアビスに転がされてるだけじゃつまんないもん。いや、楽しいけど。楽しいけどさ、プライドの問題があるから」

 

 リラさんが立ち止まる。ボクの手をぐいっと引いて、リラさんの顔が目と鼻の先に来て、どうしよう浄化されそうなんだけど。

 

「あんまり舐めてると、痛い目見るよ?」

 

「ボクだって、好き好き言ってるだけじゃないんですよ?」

 

「やり返されたー!?」

 

「冗談です」

 

 でもあんまり距離が近いと冗談で済まなくなってしまいます。──おっと、当然こちらも冗談ですよ?

 

「アビス強いー、もっと接待して」

 

「リラさんが世界一可愛いと思います」

 

「ふふふっ、そう?」

 

「ええ。……本当ですよ?」

 

「わあもう勝てなーい!」

 

 リラさんが上品な笑みを放り出した。うん、やっぱりリラさんは無邪気に笑ったりしている方がずっと魅力的だ。

 

「コツがあるんです。全て心の底から言えばいいんですよ」

 

「なんで照れないの!?」

 

「恥ずかしいことなんて何もしていません。ボクはリラさんが好きで、大切で、守りたいだけですから。あ、『告白』ではありませんからね」

 

「いやそこまで言ってて告白じゃない訳ある?プロポーズの言葉として採点しても及第点あげられるレベルだよ?」

 

 合格ギリギリなのか。

 

「いやプライベートからプロポーズの言葉を所構わずぶっ放してる人は流石に引くけど」

 

「リラさんにだけです」

 

「ねえアビスってホストだったりする?」

 

「知り合いに元ホストは居ますが、ボクにはそんな経験ありません。彼らと比べてはいけませんよ、ボクは彼らと違って言いたい言葉しか言っていませんから」

 

「プロポーズとかじゃないとしたら、私って口説かれてるよね」

 

「いえ、そういう訳でもありません」

 

「……私のこと好き?」

 

「はい、もちろん」

 

 海よりも深く、山よりも高く。テラに定められた運命や外の世界にまで届くほどボクはリラさんのことが大好きですよ。

 

「……な、なら高い服とか買ってもらおうかなー」

 

「いいですよ」

 

「……えっと、高級レストランに行きたいなー」

 

「そんな所に行かずとも、料理の腕はそこらのシェフに負けないと自負していますよ」

 

 レストランをそんな所だなんて言うつもりはなかったけど、リラさんはマナーを気にしたくない人だろうっていうボクの勝手な偏見から今だけはそう言わせてもらおう。

 

「宝石とか、欲しいなー」

 

「予算は三百万龍門幣で宜しいですか」

 

「ん?えっ、今なんて」

 

「ああ、すみません。五百万龍門幣の間違いでした」

 

「やめて、待って。アビス、私を止めなよ」

 

「えっ?」

 

「えっ?じゃなくて。貢がされてるんだよ?分かってるでしょ、それくらいは」

 

「分かっていますよ、貢ぐことを許されたんですよね?」

 

「えっ」

 

「手始めに仰られていた店を回りましょうか」

 

「ちょっと待ってアビス、どうして貢ぐの?恋人になりたい訳じゃないんでしょ?」

 

「好きな人を助けたいと思うのは自然な感情ですよ」

 

「え、なに、私は前世でアビスのこと救ったの?」

 

「そうですね、似たようなものです」

 

「もう訳わかんないじゃん」

 

「ボクはリラさんが好きで、しかし恋人になるつもりはありません。それだけ覚えていただければ結構ですよ」

 

「……アビスは、それでいいの?」

 

「はい」

 

「ふーん。そうなんだ」

 

 微かな違和感を捉える。

 

 少しだけ棘のある感情が、ボクにしか分からないくらい巧妙に隠されている。それも、ボクにしか分からない理由は、相手がリラだからじゃない。

 

 それが慣れ親しんだ悪感情だからだった。

 

 リラさんの顔や仕草には全く浮かんでいないけど、感情をいつも扱っているボクだから分かる感情の()()とでも言うような代物がその表情の下に隠れていたからだ。

 楽しいだとか嬉しいだとかはあまり感じ取れないけど、今リラさんが抱え込んだ()()()()()()()()()()だとかは鋭敏に感じ取ることができる。

 

 ボクの知ってるリラとリラさんは違うんだ。あのリラとは違う過去を持っていて、だから何が地雷なのか分からない。

 

 でも本当にリラそのままなんだ。その容貌や恰好から始まって、その声色も、果てには語調だって変わらない。多少は成長してるけど、ボクからしてリラだと断定せしめるほどなんだ。

 

「どうかした?」

 

「いえ、何でもありません」

 

 だからボクは、これ以上踏み込むべきじゃないんだ。

 

「……リラに会いたいな」

 

 誰にも聞かれないくらい小さく呟いた。

 それは隣に居るリラさんに聞こえないくらい、コータスだって聞き取れないようなか細い声だった。

 

「へえ、なるほどね」

 

「どうかしましたか?」

 

「ううん、何でもないよ」

 

 リラさんが笑った。

 

 ずっと笑っていてほしい。

 それを願うくらいは、許してほしいな。

 




 
最近Twitterを始めていましたが、進捗を呟く気がさらさらないので連携していません。よろしくお願いしません。
#石3000配れテンニンカ


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十三 艦内記録

ミスが多発しています。
現在五十八話までの執筆が完了しています。章が終わるのは六十あたりになるかと思われます。



 

 

 

 

 椅子に深く座り直し、ため息を一つ。

 

 壁にかけられた時計の短針は円盤の中で二つ目に小さいアラビア数字を指していて、それはかなりの好記録だった。アビスでも驚くだろうそれは、確かなドクターの成長を表していた。

 

 ドクターの腹が鳴る。消化する音だろう。しかしドクターはそれを食事の契機とすることにした。

 昼食は摂った。しかし簡単なものを短時間で作って食べただけだ。まだ間食の時間に達してこそいないが、食堂には誰かしら料理のできるオペレーターが居るだろう。そこに行けば何かしら摘まめるものがあるはずだ。

 

 ドクターが立ち上がった。

 仕事は書類のみならず、オペレーターとの接触もそれに当てはまる。ドクターの望みはその先にこそあり、そして──いや、それは今関係のないことか。

 

 とにかくドクターはそんな風の理由で食堂を目的地に設定し、腰を浮かせて、また椅子に着けた。

 

 携帯機器を起動、ニューラルコネクタに接続し、PRTSの言葉を軽く受け流す。

 インストールされているアプリケーションソフトウェアを起動し、とあるオペレーターとコンタクトを取った。普段なら素気(すげ)無く断られていただろうが、今に限っては窮鼠と等しいまでに弱っているはずだ。

 逃げ道を用意すればそこへ飛びつくはず。あまり相手からの印象は良くないだろうが、だがドクターの標的は相手ではなく、その先だ。

 

 秒速で返ってきたメッセージにまた一言二言返したところで、ドクターは端末をポケットに入れて立ち上がった。

 順調に事が動いている。ドクターの思い通りに局面は動き、例のフェリーンが気付かないうちは対策も必要ない。

 

 己の目的へと一歩ずつ近づいていく、そんな足音がドクターには聞こえていた。

 

 

 と、いうことでドクターと窮鼠が二人、食堂のテーブルに向き合って座った。ドクターの手が皿に伸びて、一つ掴んで口の中に放り入れる。

 

「美味いな、これ」

 

 テーブルの上にあるフィッシュアンドチップスはヴィクトリアの食文化を代表するほどに有名なファストフードだ。ムースあたりが厨房に立っているのだろうか、とドクターは思索する。

 

「食べないのか?」

 

「アビスはどこに居ますか」

 

 窮鼠──ライサは眼光鋭くそう言った。

 

「まず一つ。アビスは艦内に居ない」

 

「それは分かってます」

 

「本当にそうか?俺の予想では、アビスを探してもう何周もロドスの全域を駆け回ってるものだと思ってたが──つうっ!?」

 

 ライサがテーブルの下でドクターの脛を蹴った。相当な威力だったようで、ドクターはテーブルに突っ伏し両手で足を摩っている。

 

「それと、敬語じゃ、なくて、いいぞ」

 

 途切れ途切れになったのは痛みによるものか。ライサは滑稽且つフレンドリーという見るに耐えないドクターに対して、更なる追い討ちである冷視線を浴びせ続けた。

 あくまでドクターとの会話はアビスの消息を明らかにするためだけのもので、それ以上の意味を持たない。ライサにとってドクターは友人ではなく上司だ。もしかするとビーンストークが飼っているハガネガニよりドクターのことが嫌いかもしれない。

 

 ちなみにハガネガニの好感度は、ドクターがヴェンデッタやゴースト隊長に抱くものとほぼ同じだ。ライサは普通にあの生物が苦手だった。

 

「本当にアビスは外に居るの?」

 

「確実に外」

 

「いつ戻ってくる?」

 

「分からん。最低でも一週間くらいは来ないんじゃないかとは思ってる」

 

「はぁ?マジか。で、どこ行ったの?」

 

「それは言えない」

 

「チッ。やっぱ極秘任務ってドクターの?」

 

「そうだ。ラーヤちゃんも漏らしてくれるなよ?責任は俺とアビスの分配だからな」

 

「……それ、卑怯じゃない?」

 

 ドクターは笑って誤魔化した。

 皿をライサの方に押しやれば、ようやくライサはそれに手をつけた。思っていた以上に美味しかったらしく、ライサの食べるスピードがドクターのそれを上回る。

 

「ところで、ラーヤちゃん。アビスとの向き合い方は決めてるのか?」

 

ふぁむのこふぉ(何のこと)?」

 

「色々アビスに言われてたんじゃないのか?」

 

「あー、それね」

 

 ライサが肘をテーブルにつけて三角形状に手を組み、それに額を乗せる。どんよりとした雰囲気が際限なく垂れ流され、ドクターは首を捻った。

 

「いや、うん、まあ……私はなんていうか、死んでほしくないんだよね。流石にドクターでも分かるでしょ?私はアビスにどんな理由でも死んでほしくない」

 

「『流石に』って何だよ。分かるから」

 

「で、それアビスに言ったのね。私はアビスを死なせないって」

 

「おう」

 

「その時はただ困るねって苦笑してただけなのに、次の日からアビスは私のこと避け始めて」

 

「おう?」

 

「なんでって聞いたらアビスの方こそ不思議そうにして『ボクは生き延びたい訳じゃないから』って。だとしてもそう簡単に距離置く!?ラユーシャって呼ばれて嬉しいのと避けられて悲しいのがごった煮になったんだけど!?」

 

「すんません誰か鎮静剤持ってませんかー」

 

「でも近づいてみると距離おかしいんだよアビスは!なんかくっついても拒否しないしスキンシップ応えてくれるし私一体どうしたらいいんですか!!??」

 

「落ち着け」

 

「無理ィ!!MU()W()RY()Y()Y()Y()Y()Y()Y()Y()Y()Y()Y()!!!」

 

「やめろ迷惑になるぞ」

 

 ライサの咆哮が食堂中に響き渡る。つい浮かせてしまった腰を下ろす時には食堂の中にいるほぼ全員がライサとドクターに注目していた。

 

「……ごめん、ちょっと取り乱した」

 

「俺はいいから他に謝っとけ」

 

 観衆にライサがぺこんと頭を下げる。

 ドクターはフィッシュアンドチップスを摘まむ手を見ながら、バイザーの下でまた思案に耽る。

 

 ドクターはアビス側に立つと決めた。それはケルシーと対立することになる道だ。それによる少しのデメリットも存在してはいるが、結果的に目的へと近づくことにはなるはずだとドクターは確信している。

 そして対立する以上は最低限ケルシーに抵抗するだけの仲間を作らなければいけない。そうでなければアビスはケルシーの手でロドスに監禁され、ドクターの目的も中途半端に終わってしまうだろう。

 

 それを防ぐための筆頭としてアビスに盲目的なライサを狙っていたのだが……

 

「ラーヤちゃんは、もしアビスが特攻任務に抜擢されたらどうするんだ?」

 

「責任者殺してアビスと逃げる。アビスがやる気だったら殴ってでも連れてく」

 

 予想通りの回答だった。しかし発言内容は予想通りでも、それを言ったライサの状態は丸っ切り反対だった。

 その濁っていたはずの目はいつのまにか透き通って、どこかへ行っていたハイライトは瞳の中に居を構えている。ゾンビのように汚泥に塗れて立ち上がるのではなく、騎士のように凛として一歩も引かない覚悟を持っている。

 好きという感情はまだ上手く調節することが難しいようだが、しかし正しい方向に定まってしまっていた。この分ではどれだけ感情が出力されようとも、アビスに好きな人でも出来なければ──いや、居なければ捻じ曲がりはしないだろう。

 期待外れだ。そう、ため息を吐いた。

 

「んっ……なんか今猛烈に嫌な予感がした」

 

 耳を押さえて、あらぬ方向を見る。

 

「気のせいだ。アビスは死なないだろ、たぶん」

 

「いやそっちじゃない」

 

「?」

 

 ドクターは第六感に関してあまり敏感ではない。第六感とはつまり経験から来る無意識の警告であり、ドクターは理論立てて物事を捉えられるために、第六感が必要ではないのだ。

 という風にドクターは考えているため、遠く龍門で起きたとある邂逅をライサが感じ取ることのできるはずがないと思っている。話半分にフィッシュアンドチップスを食べるドクターの姿からは想像も出来ないが、本来のドクターは理知的な戦術家であり、才ある神経科医に間違いないのだ。

 

 ライサが立ち上がった。

 

「それじゃドクター、情報ありがと。嫌な感じが消えないからちょっと体動かしてくる」

 

「おう行ってらっしゃい」

 

「それはアビスに言われたいセリフだからドクターは言わないでもらっていい?」

 

「……まあ、頑張れ」

 

「ん」

 

 

 

 

 

 

 

 描いた鳥が壁を抜け出して翔んでいく。いつのまにやら厚みを持っていた文鳥が床の少し上を滑空し、羽撃いた先に居るサルカズの肩に止まった。

 

「ごきげんよう、一人ぼっちのオペレーターさん?」

 

 鳥を叩き落とし、サルカズの女は手についた墨を壁に(なす)りつける。鳥を生み出した親であるシーはその様子を、横穴に座りながらひどく不愉快そうに見ていた。

 

「何の用、って顔してるわね。でもあたしがあんたに会うなんてあの子関連に決まってるじゃない?」

 

「……あの〝子〟?」

 

「間違えたのよ忘れなさい」

 

「ふふっ、別に隠す必要はないわよ。あなたがアビスに母性を刺激されていようが、今はどちらかと言うと口調が被ってることに問題があるわ」

 

「母性じゃなくて親愛よ」

 

 画仙紙を筆先が横断した。会話中にも止めていなかった筆がサルカズの女──Wが放った一言によって完全な暴走と停止を余儀なくされた。

 少し引いた様子のシーがWの顔を注視しても、ふざけている様子はなかった。

 

「あなたがそれでいいなら私もそれで構わないけど……色々と拗れてるのね」

 

 心から、といった感じでシーが呟く。普段はセリフに入っている嫌味や嫌がらせが全く見えないところを見ると、恐らく本音だったのだろう。誰だってそうなる。

 

「煩いわね、あたしの事情にあんまり文句を言わないでくれるかしら」

 

「せざるを得ない状況にしたのはあなたよ」

 

 今度はWが不機嫌そうな顔をして肩を竦めた。その顔は一切自分の非を認めていないが、一般的に見ればシーの言い分が正しいだろう。狂信者と自由人では狂信者の灰汁が競り勝つようだ。

 

「さて、本題に入りましょう。単刀直入に言うわ、あんたはアビスの方につきなさい」

 

「……何の話よ?」

 

「あら、そういえばあんたって世間知らずの引きこもりだったわね。これは失礼、知ってる訳がなかったわ」

 

「あなたって将来、墨に溺れて死んだどうしようもなく間抜けなサルカズになるかもしれないわ。気をつけた方がいいんじゃないかしら?」

 

「あんたに出来る訳がないわ」

 

「知ってるかしら、絵画(この世)に不可能はないのよ」

 

「でも死なない生物だけは居ないのよね」

 

 空気が張り詰める。小自在なら竦み上がり、自在さえも怯んでしまうような雰囲気の中で二人が各々の武器に手をかける。

 

「……とまあ、冗談はこれくらいにして。親切なサルカズのあたしが今どうなってるのか教えてあげようじゃない」

 

 その発言で龍虎が相搏つ未来はなんとか回避された。Wもシーも特に戦闘を回避する理由は見当たらなかったのだが、Wは話をするために来たのだ。()()()それを終えるべきだろう。

 

「初めにあんたは、アビスが今ケルシーと対立していることは知ってるのかしら?」

 

「まあ、それは察してたわよ。直接的な対立はまだないみたいだけど、規則に違反するアビスなんて初めて見たもの」

 

「アビスはああ見えてそこまで真面目くんでもないわ。もしそう見えたのなら、それはあんたの目が節穴だからよ」

 

「あら、あなたは頭の中身が空っぽみたいね。私は見たことがないと言っただけで、アビスのことについて一言も触れていないのだけど」

 

 ピン、と緊張の糸が張る。

 十数秒の後、向き合うことに早くもうんざりしたWがその糸を緩めた。

 

「それで、そのアビスにドクターは協力するそうよ。そしてラーヤは対立。つまりアビスとドクター対ケルシーとラーヤの構図になってるってワケね」

 

「それは……マズいわね」

 

「ええ、ドクターとケルシーが勢力に数えられて、それも対立状態。まだどちらもお互いのことを明確に敵だと思っていないからいいけど、もしそれが発覚した場合は……」

 

「いつぞやのワルファリンが起こした騒動に重なる、ということかしら。確かあの時もアビスの命がベットされていたのよね」

 

 ワルファリンが暴走することで組まれてしまったドクターとケルシーの対立。それは結果的に無事鎮圧されたが、ドクターを筆頭とする怪我人は割と多かったのだ。

 適度な対立は競争意識を煽るが、しかし規模が過ぎればコントロールを失い被害が生まれる。

 

 Wだけが行動している今、有利なのは圧倒的にドクター陣営だろう。そもそも、団結していないライサとケルシーならアビス一人でもなんとか躱せるくらいの戦力だ。

 しかし留意しなければいけないことがある。それはケルシー陣営の方に医療オペレーターが流れるだろうということだ。今回の対立は性質からして武力衝突が起こりにくく、その点でロドスの一番大事な活動を支える医療オペレーターはかなり影響が大きく厄介だった。

 

「それであたしはどちらかと言えば──いえ、曖昧な表現は避けるべきね。あたしはアビスの方に立つわ。アビスの考えはあのままでいいのよ、だってアイツは間違ってるんだから」

 

「あなた、何言ってるか分からないわよ」

 

「それで結構。で、どうするの?」

 

「どうって……どうもしないわ」

 

「ただ絵を描いてるだけ?それじゃつまんないわよ、それにもったいないわ」

 

 薄く笑いながら胡散臭い文句を並べ連ねるWにシーの口がへの字になる。まるでコミックブックの主人公が引きこもりのヒロインでも引き摺り出しているようで、それは確かに今のこの状況にマッチしていたが、しかしそぐわないものでもあった。

 気色の悪い笑顔を浮かべていたWは、やはりと言うべきかすぐにその笑みを消してつまらなさそうな顔に変わる。

 

「もう一つ付け加えると、あんたがケルシー側に転がりそうで嫌なのよ」

 

「最初の二つは完全にただの嫌がらせで挙げたでしょう」

 

「だってあんたがつまんなくっても関係ないもの」

 

「それはそうね」

 

 シーが筆をまた構える。一度のミス程度、一段下の作品にこそなるかもしれないが、ある程度の挽回は効くだろう。ど真ん中に濃く太い一本の線があるくらい、シーを以てすれば負債足りえない。

 

「それで、答えはどうなのかしら?」

 

「……私は、どうでもいいわね。誰かのために何かするっていうことが本質的に向いてないのよ。別にあなたたちと対立する訳じゃないんだから、これでもいいでしょう?」

 

「『本質的に向いてない』、ですって?ただの臆病者が一体何をほざいているのかしら」

 

 口の端が吊り上がる。Wはいつものペースで酷薄そうな嘲笑を顔に貼り付けた。シーは筆を走らせたままに、嫌悪感を露わにしてWから遠い位置に座り直した。

 

「臆病者、ねぇ。あなたみたいな狂人が勇気あるものだなんて言われるのなら、私はそれでいいわよ」

 

「アビスに嫌われたくないだけのくせに、恰好をつけるわね。最初から分かってるのよ、あんたがただ嫌われたくないからってケルシーの方につかないなんてことは」

 

「誰が言ってたのよ、そんなこと」

 

「はあ?」

 

「あなたにそこまで読み取られるほど気を抜いた覚えはないわ。誰から聞いたのよ」

 

「あら、そこまで分かっているのなら答えなんて一つじゃないのかしら?」

 

「チッ。……そうね。それで、それが何なのよ」

 

「実はそれを全部ひっくるめて解決する方法があるのよ。そう、あんたには名前だけ貰うことにすればいいの」

 

「……ああ、そう。分かったわ。好きになさい」

 

「あら、本当に?もしかすると頼られるかもしれないわよ?」

 

「そのくらいなら自分で何とかするわ」

 

 Wが口笛を吹いて囃し立てる。

 名前だけ貰う、とはどのようなことか。それはつまり、シーをアビスの仲間に形だけでも入れることで、実質的な戦力の増強になるということだ。先述した通り、主に武力衝突ではなく影響力での勝負となるこの戦いでは、傘下にどれだけのオペレーターを抱き込むことが出来るのかが重要なポイントとなる。

 もちろんそれらが積極的に活動する必要だってあるが、名前を貸すだけでも大きな意味を持たせることができる。

 

 シーからすれば手を汚さずアビスの仲間アピールが出来る唯一の逃げ道だろう。

 シーがアビスの味方についたことでケルシー側の牽制が成功しやすくなり、よってアビスの命は失われやすくなる。だが直接手を下すことにはならない。

 

 シーは自己中心的で、それでいて逃げたのだ。

 アビスの死は望まないと言いながら、死へ向かう手助けをして小さな恩を売る、そんな罪悪感が少ない愛想だけの選択をした。

 

「ふふっ、安心したわ」

 

 Wが嘲笑する。

 

「あんたは臆病者、それってこんな時まで変わらないのね。──いえ、変われないのかしら?」

 

 シーは筆を画仙紙に滑らせる。

 何も言い返すことができないままに。

 

 

 

 

 ドクターがオペレーターと仲を深め、ライサは流れ落ちる額の汗をタオルで拭い去る。

 

 Wが悪い予感を振りまきながら誰しもを嘲笑い、シーは横穴の中、扉の内側に凭れながら真っ暗な世界を筆に任せる。

 

 

 それぞれが思い思いの活動をし、職務から離れた束の間の休息を平等に消費している中、とある二人の医者が施錠された診察室の中で向き合っていた。

 

「融合率は23%を超え、血液中濃度は0.44に迫っている。身体中への移転が始まり、臓器の損傷もある。それがオペレーター『アビス』の現状だ」

 

「鉱石病は、安定しているのですか……?」

 

「ああ、概ね不安定な状態を脱してはいる。だがまだアーツの使った戦闘や源石との接触は避けるべきだ」

 

「そうですか……」

 

 僅かに見える肌とその白い髪以外のほぼ全身を黒に染めたサルカズがそう言った。小脇に抱える剣のような形をしたアーツロッドとその吸い込まれそうな眼は、黒装束の中でも一際の異彩を放っている。

 

「慢性の特徴を持っているが、アーツを使うと途端に急性の反応を見せる。アビスの体が人並みに頑強だったから良かったものの、たとえばドゥリンのようなオペレーターであればそれだけの変化でも耐えられないはずだ」

 

「生理的耐性が、あまり高くないのは痛いですね……」

 

「そういった事情も鑑みて、多少強引にはなったが任務には行かせないようにしている」

 

 対するはドクターやアビスに散々悪口を言われていたフェリーンだ。向かいのサルカズ──シャイニングの服装に黄緑を足したような色彩で、つまりその名はケルシーだった。

 診察室の机や源石機器に映されているデータは件のオペレーター、アビスのものだ。窓はなく、無機的な光を放つ源石灯が天井から二人を照らしている。

 

 今の時間は太陽がまだ沈んでいないのだが、その室内の雰囲気は深夜の静かな研究室に似ていた。たとえばどこかの研究施設から子供を連れてやってきたリーベリの研究員は、ちょうどこんな風の部屋で仕事をしていた。

 ケルシーが横にある機器の液晶を黒く変える。アビスのパーソナルデータは掻き消えて、真っ暗な何もない空間だけを映し出す。

 

 暗闇を捉え続けていたシャイニングの目がゆっくりとケルシーに向けば、珍しく少しだけ躊躇っているような顔が見えた。

 

「シャイニング、実は真に私が聞きたいことは別にある。アビスに関係こそしているが、アビスとは違うとある感染者の話だ」

 

 そう前置きして、問いかけた。

 

「右目の失明、左足の麻痺。これが鉱石病によって齎された症状だとして、死までの残り時間は大凡何ヶ月だ?」

 

 右目の失明、加えて左足の麻痺。

 シャイニングは回答する前に、一瞬だけ自然な疑問が胸中に湧いた。それは本当に一瞬だけの問いで、答えを得ることはなかったが。

 

 

 

 果たしてそんな患者はロドスに居ただろうか?

 

 

 

 さて、誰のことだったか。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十四 複雑化する事情

 
フロストノヴァは生きていますが、原作に沿って書くことは恐らくありません。
チェルノボーグはともかく、龍門のストーリーを追うのはかなり難しそうなので。


 

 

 

 

 

「リラに会ったって……どうやったの?法は犯してないよね?」

 

「全くの偶然ですよ。それにどうやったら法律を無視した程度で探し出せるんですか」

 

「じゃあ他のことを無視したら探せるの?」

 

「知らなくても良いのではないですか?」

 

 迷惑とか後腐れとかを考えなければやり方は幾らでもある。たとえばミーシャさんの件で昔近衛局がそうしたように、ボクがオペレーターの肩書きを悪用すれば捕まえられる。感染者じゃないから、丁重に扱うことだって出来る。

 他にも情報屋にリークしてもらうとか、龍門のネットでリラさんの目撃情報に賞金をかけるだとか。探偵を雇ってもいいし、お金をかけないなら情報屋のバーに只管入り浸ることでも解決できると思う。

 

「ごめん、聞いたのナシにして」

 

「そこまで犯罪でもありませんよ。付き纏ってることにはなりますが、リラは暗殺対象ではなく、どちらかと言えば護衛対象ですから」

 

「リラ?()()は?距離が縮まったってこと?」

 

「ああ、いえ。今のはリラの方です」

 

「文脈からじゃ読み取れなかったけど、つまりそれくらい似てるってこと?」

 

「瓜二つ、合わせ鏡、そういった表現で差し支えがない程です。リラを知っていれば知っているほど、リラさんのことをリラだと思うでしょう」

 

 くどいようだけど、何度だって言う。リラさんはリラと寸分違わず一致している。だからリラを見る目がリラさんにまで及んでしまう。

 そんなことある訳がないって思うのが自然でも、ボクからすればリラさんの存在はむしろ嬉しかった。否定したくなかった。

 もしリラさんがロドスに来たなら、その時はあの思い出を話したい。きっと迷惑になるだろうから、精一杯頭を下げてお願いしよう。

 

「……()()、かぁ」

 

 エイプリルさんがボクの方を向いた。

 

「もしかしたらこれを言うのは初めてかな。あたしのことはエイプリルでいいよ、それに敬語も要らないから」

 

「そうですね、前向きに検討させていただきます」

 

「絶対ダメじゃん」

 

 まあ、今のところ敬語を使っていないのはWを除外するとラユーシャとフロストリーフだけですからね。さん付けに限ればワルファリンも──あれ?ドクターもそうだ。いつからだったか覚えてないけど、まあこの二人も入る。

 エイプリルさんをラユーシャと同列に扱うのは……いや、でも距離感としてはまだ足りないと思う。あってもドクターと同列のところかな。フロストリーフは、打ち解けた結果って訳じゃないんだよね。

 

「で、どこでそんな卑怯な言い方を覚えてきたの?」

 

「ドクターがアーミヤさんからの契約履行命令に対して返した言葉ですよ」

 

「契約履行命令……『働いてください』ってこと?」

 

「まあ、そんな感じです」

 

 

 ドクターが指示してようやく作り上げた基地の見回りから帰ってきて、椅子に座りドクターが一息つく。するとアーミヤさんが入室して、腕いっぱいに抱えた書類の山を机の上に置いたんだ。

 

『ドクター、そろそろ基地の運営にも慣れてきたと思うので、そろそろ書類に取り掛かりましょうか』

 

 ドクターは助け舟を求めるようにボクと他数人のオペレーターに視線を移した。ボク以外のみんなが視線を逸らして、少し不思議だったのを覚えている。

 そうしてドクターの口から出たのが、あのセリフだった。

 

 

「あの頃のアーミヤさんは、まだそこまで鬼でもなかったのですが」

 

 今ではあの数倍を持ってきて朝から缶詰状態だし、ドクターにはドクター自身の執務能力と合わせて憐れまざるを得ない。

 うん、今度ドクターの執務能力を底上げする訓練でもしてみようかな。まずは速読から。

 

「アビスの方が鬼って聞くけど」

 

「誰が言っていましたか、そんな戯言を」

 

「貿易所で、執務室に居たはずのドクター」

 

「またあの人は……」

 

 サボるのか陰口を言うのか、せめてどっちかにしてください。最近は薄まっていた頭痛がまたぶり返してきたように鈍痛を響かせる。

 

「ボクは少し協調性がないだけですよ、エイプリル」

 

「そういう問題じゃ──うん?」

 

「どうかしましたか?」

 

「あれ、聞き間違いかな。呼び捨てで呼んでくれたと思ったんだけど」

 

「はい、緩い言葉で話すのはまだ少し気が引けますが、呼び捨てならいいかなと思いまして」

 

「ふうん、なんでそう思ったの?」

 

「ドクターを呼び捨てで呼んでいたことに気が付いたんです」

 

「あ、うん。……えっとごめん、アビスの中であたしってどこに位置してるの?」

 

 エイプリルさん──じゃなくて、エイプリルが口をへの字に曲げてそう言った。確かに、この前ボクはラユーシャと同列に語ったからドクターと比べるのはおかしいと思ったんだろう。

 じゃあもう一度よく考えてみよう。エイプリルはボクにとってどんな人なのか。

 まずは、割と親密で、それでどこかリラと重なるところのあるってところかな。これだけでもかなりエイプリルは特別なのかもしれないって思う。

 第一印象だとかはそこまでない。アーミヤさんと同じようなもので、最初はただの『狙撃オペレーター』としか認識してなかった。

 一緒に任務へ行った(よし)みで慰めに行って拒絶されて、脱退騒ぎでハイビスカスさんに呼ばれて……あと爆笑してた。それは覚えてる。

 

 それでシーさんと三人でよく話すようになった。そのくらいからかな、ただの同僚から友人だとかそのあたりにボクの中で認識が変わったのは。

 いや、でもリラと重なったあの時はかなり動揺した。同僚って括りからは割合早く抜け出していたのかもしれない。

 

 今は、どうなんだろう。

 エイプリルについて、実はよく知らない。

 たとえばボクの過去は話したけど、エイプリルの過去をボクは知らない。ただ前から弓をやっていたことをちらっと聞いたくらいか。ハンター?って言葉も耳に挟んだ。でもそれだけだ。

 知識として見るならただの同僚程度、付き合いで見るなら友人程度、ボクの中では一応ラユーシャと同じくらい注目してる人。

 

「エイプリルは……どこ、でしょうか……」

 

「オッケー、戻ってきて。別に正確な回答は求めてなかったから。ただの知り合いって言われたら凹んでたけど」

 

 深く沈んでいた思考を引っ張り上げると、エイプリルは苦笑しながら手をひらひらと振った。

 

「それで、アビス。今日はどうするの?」

 

「いえ、まずは近衛局とどうなったかを聞いておきたいのですが」

 

「あー、えっとね。昨日は割と進んだよ。ホシグマさんって知ってる?レユニオンとのことでロドスと顔を合わせる機会もあったそうだけど」

 

「存じ上げています」

 

 確か青緑色の髪をした鬼族の方だったはず。ボクが龍門にロドス陣営として乗り込んだ時はほぼ誰とも話さなかったから相手の記憶には全く残ってないだろうけど、一応は直接見たことがある。

 

「それで、その人が主軸になってやってくれたんだ。今のところは警戒中、幹部の情報が入り次第あたしたちに連絡する、って言ってたよ」

 

「他には何かありませんでしたか?」

 

「他は……あ、そういえば」

 

 エイプリルがポンと手を打った。

 

「近衛局はレユニオンの規模を疑ってるみたい。以前行われた近衛局主導の殲滅作戦では、細々とした敵は出てきても目撃されていた大勢のレユニオンは出てこなかったから。ホシグマさんは言及してなかったけど、重盾衛士の人がそう言ってるの聞いちゃって」

 

 そう言ってエイプリルが自分の耳に手を当てる。盗み聞きなら本来はあまり誉められた行為じゃないけど、でもそんな重要な情報を聞いたなら大手柄だ。

 

「ホシグマさんではどうにもならない上からの指令で、レユニオンに割ける局員の数が減るかもしれませんね。面子を立てるためにはそう選ばない手段だとは思いますが……最悪ボクたちだけで事に対処する運びとなるやもしれません」

 

 まあボクにとっては最悪と言うより理想的な状況なんですが。近衛局が手を引くなら、その分影響力も低下する。つまりボクやエイプリルが手速く調査してその情報を纏めていれば、その分だけ亡灵(アンデッド)を横取りされる可能性は低くなる。

 アンデッドの手柄はロドスが貰い受ける。そのついでにボクはボク自身の目的も果たす。

 

 唯一気がかりなのは、近衛局に疎まれる可能性。余計な軋轢がかかるとなればドクターの方針が変わる可能性もあるし、そうなればボクとエイプリルは問答無用で引き戻される。

 時間だけが勝負。

 

「アンデッドは確かに居ます。さっさと、決着をつけるべきでしょう」

 

 これがボクに残った、最後の負債だ。

 

「ねえ、アビスって……」

 

「何ですか?」

 

「……ううん、何でもない。頑張ろうね」

 

「ええ、もちろん」

 

 これで、近衛局についてはもういいかな。積極的に動かないなら情報屋と密にしていた方が関係性とか考える必要もないし、連携を取る旨味だってない。

 

 さて、話を戻そう。

 

「今日の予定ですが、新しいプレーヤーを買いに行きましょう」

 

「うん。……うん?予定に入れてるの?」

 

「ドクターはこう仰せられました。『オペレーターとのコミュニケーションも仕事のうちだからな。今度遊びにでも行かないか?経費で落ちるぞ?』」

 

「ドクターの威厳のために最初の一文で終わらせてあげなよ、絶対その方がいいって」

 

「最初の一文だけでは本当にドクターが言ったものか分かりはしないでしょう」

 

「まあ、うん。それはそうだけど」

 

 どちらかと言えばアーミヤさんのセリフになるような気がする。ドクターは仕事で人付き合いをしているようには思えないから。その点アーミヤさんは、全部が全部本気ではないだろうけど、ボクとの付き合いは仕事だって仰っていた。

 まあ、好かれる覚えもないから当然だけど。

 

「いつ出発しようか?」

 

「準備が出来たら訪ねてきてください。ボクの方は時間がかかりませんから、何か適当なことをして待っていることにしますよ」

 

「分かった、それじゃあたしはそろそろ朝ご飯食べてくるね」

 

「はい、それではまた後で」

 

 エイプリルさんがドアから出て行く。

 適当なこととは言ったけど、何をして待とうかな。

 

 

 

 

『ってな訳でラユーシャは抑えた。そっちの首尾はどうだ?』

 

 ドクターの声が室内に響く。エイプリルは今頃朝から出される濃い味付けの料理に少し食欲を削がれているだろう。

 アビスは椅子に腰掛け、スピーカーから流れるドクターの声に答える。

 

「レユニオンと一度交戦しましたが、アンデッドの姿は確認できませんでした。しかし異常な点も多く、その存在は確定していると言って良いかと思われます」

 

『そうか、それは順調で喜ばしい限りだ。だけどな、アビス。今回の任務が終わればお前の身柄はケルシーが何としてでも確保しに動くだろう』

 

「分かっています」

 

『決着をつける。ああ、それもいい。だがそれだけじゃなくてだな、観光だってしておいた方がいいんだ。ロドスの窓から見える景色だけじゃ、物足りないだろ?』

 

「ええ、そうかもしれません。今日のところは満喫させていただきますよ」

 

『ああ、そうしとけ。……ところで話は変わるんだが、アビス』

 

「何ですか?」

 

『この流れてる曲って、名前とか分かるか?』

 

「ええ、存じています」

 

『教えてくれないか?』

 

「ああ、それなら……」

 

 アビスの声が事務的なそれに変わる。

 

「嫌です。ご自分でお探しください」

 

 アビスの返答に、ドクターが向こう側で一瞬言葉に詰まった。アビスの茶目くらいなら笑って流すことも出来そうなものだが、どうしたことだろうか。

 アビスは気づかず、音楽に耳を傾けている。感情の発露はなく、ただドクターの仮面が一瞬だけ剥がれそうになっただけのことだ。

 

『なんだよ、なんでダメなんだ?』

 

 顔を合わせていれば、もしかするとバレていたかもしれない。だが相対しているのは通話越しという情報に制限のかかる状況だったことが幸いした。

 

「いずれ、自然な形でドクターも知ることになりますよ。その時を楽しみに待ってみてはいかがでしょう?」

 

 その返答にドクターは胸を撫で下ろした。

 小さな悪戯はあったが、アビスとエイプリルの距離はそこまで近づいている訳でもないと知ったからだ。

 

 ドクターはその曲名が『エイプリル』だということを察している。だがそれを敢えて聞いたのは、アビスが現在エイプリルと過ごしたことで変化が見られるかどうかを観察するためのものだった。

 ドクターの計画は進行中だ。もしエイプリルが想定以上にアビスとの距離を縮めていたのであれば、その抜本的見直しが必要となる。

 

「そういえば、エイプリルとの仲はどうなんだ?」

 

 まあ大丈夫だろう、と送り出した質問だった。

 

「エイプリルとは、まあ上手くやれているのではないでしょうか。少なくとも険悪ではありませんし、任務に支障はありません」

 

『へえ。呼び方、変わったんだな』

 

「エイプリルに頼まれて、ボクもそれくらいならと思いまして」

 

『へえ、そうなのか』

 

 ドクターの生返事にアビスが首を傾げる。

 ドクターはまさか二度も仮面を剥がされそうになるとは思ってもみなかったために執務室の中を静かに駆けずり回っている。焦り過ぎだった。声に出さないところは一流だが。

 

「報告は以上になります。書類業務から逃げずに頑張ってくださいね」

 

『はいはい、じゃあな』

 

 プツ、と通話が切れた。

 顔を合わせていなくて本当によかった。アビスの方にドクターの動揺や焦燥が伝わることはなく、至って普通の風を装うことが出来た。

 

 

「……っはぁ!!はぁ、はぁ……ぐぅっ……!」

 

 

 そして、それはドクターのみに終わらない。痛苦を抑えつけていたアビスもまた、その制限に助けられていた。

 激痛がアビスの腹部、そして背部をも貫いて響き続ける。

 声色を無理矢理いつも通りにするのは慣れていた。オーバーフローした感情が頭を苛んでいるのと、腹痛に身悶えしているのと、どちらがより辛いかと問われればやはり前者が圧倒的で、その程度アビスには児戯に等しい。

 

 しかし今回の症状はそれに留まらなかった。

 

 脂汗が額に浮かび、アビスはサイドテーブルの上に放られた手拭いとバッグを手繰り寄せる。

 額をタオルで撫でた後、バッグから出した中身のない水筒を口元にあてがえば、源石に傷ついた胃から酸が逆流する。

 

「ぅおえぇ……ぐっ、がぁ……!」

 

 内臓が抉剔(けってき)されたような痛みが一層強い信号となってアビスの脳に送られる。警鐘が打ち鳴らされ、視界内の光量が目まぐるしく変動し、黒と白に塗りつぶされた世界がアビスの前に映し出される。

 

「ああ、ぁ、これは……ダメかもしれないな」

 

 アビスがアーツを使うまでもなく痛覚が遮断された。感じ取った信号は今まで経験したことのない動きを示している。

 神経が焼き切れそうだとは思わない。焼き切れるのは神経ではなく自分の意識の方だと理解したからだ。

 

 正常な反応を返さなくなっていく部分が増える。アビスが理解できる神経の反応は全体の僅か一部分でしかないのだが、そうして今思考できているのは無理矢理信号を巡らせているためであり、それは一時の処置に過ぎない。

 

 やりたくはなかったが、やるしかない。

 

 奥歯を噛み締めてアビスが覚悟を決める。

 本腰を入れてアーツを使うことにするが、それは鉱石病が進む最悪の選択肢で、もしかするとそちらの原因で意識を失う可能性すらある、良くて痛み分けの馬鹿らしい行為だ。

 

 どれだけ負担が減るのかは分からなかったが、アビスは内ポケットにある短剣をどうにか抜き取って、それに力を込める。

 射出することはなくあくまで自分の体の中で完結させるため本当にただの気休めでしかなかったが、アーツの安定した発動には役立つだろう。

 

 そうして信号を乗っ取ったアビスの脳には、オーバーフローしていた信号がアーツの力を乗せてより強く叩き込まれた。

 処理を終えたと認識したそばからその信号だけを消してアーツで再度送り込む。視界が明滅し、ロクな信号を受け取れなくなった左手がだらりと垂れて痙攣し始めた。

 

「がぁっ!ぐぅ、がああああ───ッ!!」

 

 痛みがようやく感じ取れるようになった。休みなく働いてきた脳は本来の仕事を再開し、復旧した部分はアビスのアーツによる補助を受けてどうにか業務を執り行うことに成功する。

 実際のところアビスがしたことは知覚神経を乱暴に出社させたくらいで、他が復帰したのはアーツによる反動で引き起こされた局所的な麻痺が偶然良い方向に転がったというだけのことだ。

 

 アーツの出力を弱めて、痛覚の大きさを調節する。脳の感じていた余りにも大きい信号はそれでようやくそれで堪えきれる範囲に収まった。

 いつのまにかアビスの体は床に転がっていて、倒れている椅子や床に落ちて中身をばら撒いているバッグがようやくアビスの目に捉えられる。それをかき集める余裕はない。椅子だけを元に戻して、アビスは倒れるように腰を下ろした。

 

 エイプリルが来るまでには回復していなければならない。

 アビスは痛む体を放置して、その瞼を下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「らっしゃい、初めて見る顔だな」

 

「ああ、そうだろう。長い間スラムに住んではいるが、ここの利用は今日が初めてだからな」

 

 痩せていてまるで生気の感じられない襤褸(ぼろ)切れのような男が、閑古鳥の鳴くバーのカウンター席に腰を下ろした。

 

「頼みたいことがある」

 

 マスターは目を細くしてカウンターに置かれたものを見る。どこから盗んできたのか、それとも奪ってきたのか。くしゃくしゃになっている汚れた紙幣がそれなりの量置かれていた。

 

「金で売る商品は棚に並んでる。ここは店で、対価は俺が決めたものを支払え」

 

「何か情報を売ってほしい訳じゃない。言っただろう、頼みたいことがあるんだ」

 

 そう言う男の目は真剣で、それを見てしまうと少しは手伝ってやろうかという気持ちが──そんな気持ちはなかったものの、マスターの興味は確かに引かれた。

 元より客も他にいない、がらんどうの店内だ。早々に追い出すくらいなら暇潰し代わりに話を聞いてやってもいい。マスターはそう考えて、男に氷水を出してやる。

 

「用件だけは聞こう。この龍門幣を受け取るかはその後で判断する。いいな?」

 

「勿論だ」

 

 普段なら相談料として多少預かるのもいいが、今は別だ。初顔の客は丁寧に扱った方がいいだろうし、更にこの男はそこそこの龍門幣を無闇矢鱈と使わず、恐らく貯めてすらいる。

 果たしてスラムに同じことを出来る人間が何人居るのか。

 

「まずは、この写真を見てくれ」

 

「これは……近衛局前か?」

 

「そうだ。それで、このコータスに見覚えはないか?」

 

 男が指差した先に居るのは、アビスの『付添人』として顔を見せたエイプリルだった。

 その写真は昨日エイプリルが近衛局を訪問した際に撮影されたのだろう、その横顔からは何かしら考え事をしているように見える。

 だからこそ、写真を撮られてしまっても気付かなかったのだろうが。

 

「俺がここを訪ねたのは他でもない、シルヴェスター周りを嗅ぎ回ってるらしいこのコータスが()()()()()で近衛局に入っていったからだ」

 

「……なるほどな。お前も、ああ、そうか」

 

「使い方は指定しない。だが、俺たちにとって最良の結果にしてほしい」

 

「まあ、な。俺も他人事じゃない。最善は尽くすさ」

 

 マスターが龍門幣を何枚か摘み上げ、残りは要らないと押しやった。男は『付添人』から何かを察知し動いたが、しかしマスターはそれに勘付くことなく情報を提供してしまっていて、それはつまり少しばかりの贖罪だった。

 

「朗報を期待している」

 

 男はニヤリと笑った後、押しやられた龍門幣を回収することなく席を立った。

 

「はぁ、クソッ。料金分の働きはしてやる」

 

「……精々、上手くやれ」

 

 その客は笑った。

 だがマスターは、その顔を見て笑顔だと認識してはいなかっただろう。

 

 自分のためだけに動く。それは誰にでも平等にはたらく、この世界のルールとも言えるものだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十五 重責の行方

 
えっ、一話あたりの文字数多すぎですか……?
それか、やっぱり更新頻度が遅いってことですか。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうして、テメェは笑ってる?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エイプリルがボクの手を引いて進んでいく。

 ボクは既にかなりぐったりしていて、それをエイプリルは全く意識することなく楽しそうな笑顔でこっちを見る。

 

 その雰囲気に水を差すような真似は出来なくて、ボクも無理矢理口角を上げる。するとエイプリルはより一層笑みを深めて(はしゃ)いだ。

 

 ああ、もう。本当にもう。

 

 痛みは今のところ大して主張してこない。体力の面でぐったりしてる訳じゃない。

 エイプリルが一つ服を手に取った。店内に備え付けられた姿見に向かい、自分の体に当てながら何かを考えている。

 

 はぁ。

 

 柔らかい照明が陳列された服や台の上に立つマネキンに当てられていて、ゆったりした音楽が店内に響く。ボクとエイプリルの居る場所っていうのはつまり、龍門にあるブティックだった。

 

 どうして、服選びはこんなに時間がかかるんだろう。

 いや、それが普通でそうしたいって言うのは分かるんだ。女の子が自分を着飾って良い風に見せたいって思うのは当然だろうから。っていうか男もそうだから。

 

 でも、だとしても、すっごく長いんだよ。たった三軒しか見てないのに、もう長い方の針が二周するよ?ボクだったらとっくに帰りの輸送車両にでも乗り込んでる時間帯だ。

 

 龍門は国境に近いこともあってかなりトランスポーターに利用されて、観光客も多い。

 都市の発展はテラの中でも有数で、各国のブランド企業は炎国における企業展開において龍門支店のことを第一に考えるとまで言われている。

 

 最近はレユニオンのせいで失速したように思われたけど、それを早い段階から巻き返そうとしたことが功を奏して龍門は変わらず人気の大都市だった。

 

 だから、うん。適当に服屋の一つでも見て回ってから買いに行こうかと誘ったボクは、エイプリルの勢いに飲まれてその龍門の凄さを叩き込まれた。

 っていうか、叩き込まれてる。

 

「アビス、こんなのどう?」

 

「良いと思う」

 

 ドクターが偶にする脊髄反射って言葉の誤用を咎めたことのあるボクだけど、今だけはドクターの気持ちが理解できる。こんな気持ちだったんだ。

 でも、反射的に答えるのはどうしてか悪いことをしてる気分になる。ボクはほぼ考えなしに返して、それでエイプリルが上機嫌になるのは、なんか違う。

 

 ……真面目に考えてみようか。

 

「……ただ、エイプリルはそこまで低身長って訳でもないから、これとかの方が似合うかもしれない。もちろんその服も似合ってるけど」

 

「そう?」

 

「それとあのスカートとか合わせてみたらどうかな」

 

「ふんふん、ちょっと採用」

 

 エイプリルがボクの指差した黒いスカートを持って試着室の方に向かって行った。都合何回になるか分からない試着。たぶん十まではいってないだろうけど。

 

 ちなみに口調に関しては、オフの日に四角四面な会話をしていては楽しめない、ってエイプリルに言われたから今日だけってことで変えてる。

 ()し崩しに距離が近くなっていってる気がする。どうしよう。どうにかする必要は特段ないけど。

 

「……」

 

 でもそれは無駄って言ってる訳じゃない。必要はないけど、そうすることで生まれる利点──いや、そうしないことで生まれる欠点が存在している。

 ボクは近いうちに死ぬ。もちろんそれはボクの選択次第でどうとでもなるけど、でもボクに逃げる気はない。ラユーシャやエイプリルのことを人として好いては居るけれど、リラの穴を埋めるには至らない。

 だから、その時きっと周りには迷惑をかける。エイプリルとの距離を置く必要はなくても、置いた方がいいかもしれないとは思う。

 

 ボクが死んだら、フロストリーフはボクのことをどう嘲るだろうか。皮肉たっぷりに、可哀想とでも言ってのけるのかな。いや、ボクも自分のことを可哀想だとは思うから皮肉にはならないか。

 全部テラのせいだ。ドクターにロケットの開発を頼んでおこう。ロドスのみんなが乗り込めて、それで他の星まで飛んでいけるような脱出装置だ。

 

 思考が逸れるにしても、ちょっとぶっ飛びすぎじゃないかな。

 

 それに、理由はそれだけじゃなくて──。

 

 試着室のカーテンが開いた。

 

「どうかな、これ」

 

「……ちょっと間違えた。ミディよりミモレ丈の方が印象的に合ってる」

 

 膝までしか隠れないこの服だと、少し大人っぽさを出そうと選んだ上の服とマッチしてない。ふくらはぎの中ほどまでのミモレ丈だったらその点は解消できるし、エイプリルが普段から履いてるスニーカーとも合わせやすい。

 でも、今店内を見渡してみても良い色合いのものがない。

 

 あ。だからエイプリルもこんなに服屋を回ってるのか。

 

 それにしても悩む。パンツを選ぼうにもコータス用のものがあるとは限らないし、エイプリルにパンツコーデのイメージがないボクはそう上手く選べない。そも、ボクには圧倒的に知識が不足してる。

 

「じゃあ今度は上を選んでみたら?」

 

「えっ、と……」

 

 エイプリルが悪戯っぽい笑顔を浮かべる。もしかしなくても試されてる?

 そこまでセンスに自信はないよ……?

 

 考える。お洒落は理論だって聞いたことがあるから、理屈で詰めていけば大丈夫なはず。

 

 今下の服としては黒ですっきりしたスカートを選んでいる訳だから、上はもっとごちゃごちゃしたコーデでもいい。エイプリルの着けている耳飾りは赤色で、それをアクセントにするか、赤を主軸に添えたコーデにするかの二択。

 そうやって見ればシンプルな刺繍の入った白系のブラウスとかでもいいけど、それだと折角出そうと思っていた大人っぽさが中途半端になる。

 じゃあどうしようか。

 

 無地で白のブラウスと、もう一つ。ベージュのブルゾンを合わせてみる。ごちゃごちゃはブルゾンのポケットだとかで解決する。

 白、黒、ベージュ、ワンポイントアクセントに赤い耳飾り。プレーヤーはブルゾンのポケットに入れるとして、そうなればコードや短弓が良い具合に雑な感じを出してくれる、と思う。

 

「うん、いいんじゃない?」

 

 受け取ったエイプリルがそう評価した通り、そこそこちゃんとしたコーデが出来上がった。ただ、エイプリルの容姿が優れているからそう思えるだけで、服選びがありきたりなのは否めない、とも思う。

 やっぱりミモレスカートの方を試してみたい。もっと似合うコーデがあるはず。今回は割合すっきりしてるけど、エイプリルが普段着ているようなコーデみたいに一つ一つが凝ったデザインの服を纏めたい。無理だろうけど。

 

「買ってくるね」

 

「えっ、買うの?」

 

 反射でそう声に出せば、レジスターに向かおうとしていたエイプリルは不思議そうに足を止めた。

 

「だって、そのために選んだんでしょ?」

 

「それはそうだけど……でもエイプリルにはもっと似合う服があると思うよ」

 

「もしかして似合ってない?」

 

「そんなことはない、と思うけど」

 

「なんで自信無くなってるのかは分かんないけど、あたしはいいと思うよ」

 

 エイプリルがにかっと笑う。

 

「それに、考えてる時間は楽しかったでしょ?」

 

「そう、だね」

 

 見抜かれていた。っていうか、そこまで盲目的に楽しめる訳もないか。ボクがそろそろ疲れてきてたってことくらいお見通しだったんだ。

 だったら休憩時間の一つでも取ってくれれば良かったのに。

 

「……カフェ入っとく?」

 

「うん、お願いしたいかな。それに、良さそうな雰囲気のカフェを知ってる。ここからすぐ近くだし、そこに寄っていかない?」

 

「いいね、行こう。あっ、もしかしてそこでリラと会ったの?」

 

 レジに向かいながらエイプリルがそう言った。

 まあ、間違ってはないけど。

 

「リラさんとそこで時間を過ごしはしたけど、合ったのは街中。ボクが散策してたのは下見をするためであって、リラさんにも他の用事があるみたいだったからすぐに別れたよ」

 

「ふーん、そうなんだ。連絡先は?」

 

「聞かなかった。何度も言ってるけど、ボクはリラさんとこれ以上仲良くなる気なんてないから」

 

「そっか」

 

 会話をしつつ会計を済ませる。質の良いものを選んだだけあってそれ相応の値段がついてる。一応お金はけっこう持ってきたし、もう一度同じような買い物をしてもプレーヤーを買えるくらいは出来そうだ。

 

「あたしの服だよ?払わなくたって良かったのに」

 

「おまけのプレゼントだから気にしないで」

 

 色々迷惑かけちゃったし。

 

「そういえば、下見って何?」

 

「?」

 

「え、だって龍門の地理を知ってる必要があることなんてないよね?」

 

「それは今日のためだけど。買い物に行くんだったら少しくらい知ってた方が良いかなって」

 

「あっ、だからそんなに服屋の場所を知ってたんだ」

 

 エイプリルが紙袋を手に納得した様子で店外へ出る。

 振り返って、ふざけたように笑った。

 

「もしかして、デートだって思ってた?」

 

 そんなつもりはなかったけど。

 

「エイプリルがそういうつもりで受け取ったなら、ボクもそれでいいよ」

 

「へえ?」

 

「今日の目的は、あくまでエイプリルのプレーヤーを選ぶためだけどね」

 

「流石に冗談だよ。アビス」

 

「知ってる」

 

「なんだ、じゃあ言わないでおけば良かった」

 

「それはまた後で面倒なことになるかもしれないよ?ボク相手なら心配は要らないと思うけどさ」

 

 ミッドナイトさんあたりは本気かどうか分かるだろうけど、ドクターなら勘違いしそう。あの人って指揮では抜け目ないのに、どうして私生活ではちょっと抜けたところがあるんだろう。反動かな。

 大通りを歩いていく。大きなデパートの壁に見える立体映像は昨日と何も変わってない。

 

「アビスは、恋愛とかする気ないの?」

 

「ボクにはリラだけでいいから。……なんか違う」

 

 ええっと、何だったかな。

 

「リラより好きになれる人を見つけられないだろうから、ボクには出来ない。うん、これが一番適当かな」

 

「それって、あたしの知ってるリラでもダメなの?」

 

「リラさんのことは好きだよ。だからリラさんには幸せになってほしい。リラさんにリラを重ねてるボクは、幸せを願って、それで終わりにするべきだ」

 

 昔の女の影、みたいな?それを追いかけてる当人にとっては好きと思う気持ちに虚しさが湧いて悲しくなるだろうし、その相手だって迷惑に思うはずだ。

 ボクだってもしリラさんから昔の恋人に似てるって言われたら……嬉しいな。嬉しいや、どうしよう。

 

 カーディさんやポデンコさんのことは、好きな訳じゃないんだ。ただ傷ついてほしくないし出来るだけ笑顔で過ごしていてほしいし、その笑顔を見ていたいだけで。

 カーディさんが怯える理由は分からないけど、それでいいとも思う。ボクが好きなのはカーディさんじゃなくリラで、そんな訳のわからない男とはちゃんと距離を取るべきなんだ。

 でも笑顔は見せてほしい。アンセルさんやスチュワードさんは振り回されることになるだろうけど、カーディさんたちがボクに怯えているよりは余程良いはずだ。

 

「リラのため、ね。アビスの幸せはいいんだ?」

 

「それは──」

 

 立ち止まる。洒落た喫茶店はもう視界に入っていて、あと三十秒もせずに入れるくらいの距離にまで近づいていた。

 そんな徒歩三十秒の時間距離を前にして、足が竦む。

 

 これから続く問答が持つ影響は、ボクの許容量を超過している。往来だって関係ない。ボクの勘違いじゃないなら、エイプリルはボクのことで何か出来ないかと悩んでくれていたんだから。

 

「エイプリル」

 

「なに?」

 

「敢えて言わせてもらうけど」

 

 エイプリルが顔を顰める。

 

「ボクの人生はもう終わってるんだよ」

 

「どういう意味?」

 

「ボクの人生は六年前の、リラを亡くした時に全部終わったんだ。今こうして生きているのはリラがそれを望んだのと、ボクが異常に死ぬことを恐れていたから」

 

 今考えてみれば本当に異常だ。

 ボクがリラを看取って後に後を追わなかったのはそれが無駄だと思ったから。でもきっとそれは言い訳に過ぎないんだ。

 死ぬことが怖かったから、自分の生きたい意思を正当化するためにそんな言い訳を立てた。

 

 だってそうだ。それが無駄だったからって、これからの人生は有意義かと問われれば首を横に振っている。

 

 リラが生きてほしいって思ってただろうことは、疑いようもない真実だけど。たとえ地獄に落とされたからって他の人もそうなれとは思わない、それがリラだ。悪く言う人は全員殺す。あとこれは例え話だから。リラが地獄に落ちるなんてことはありえない。

 

「あたしはアビスの言ってることが間違いだとは思わないよ。あの時あたしに話してくれたアビスの雰囲気は、目が離せないくらいに弱々しかったから」

 

 そんな風だったかな。自分では分からない。

 

「アビスはリラの源石に殺されたくて、生き続けるのも嫌で、だから死んでもいいって思ってるんだよね」

 

「そういうことに、なるね」

 

「じゃあ、どうして笑ったのか言ってみなよ」

 

「何を?」

 

「あたしと話してる時、アビスはちゃんと笑ってたよ。愛想笑いじゃなかった、それくらい分かるから」

 

「そうかな」

 

「そうだよ」

 

 そっか。

 

「一人の時が一番多いけど、ラユーシャと居る時でも一定の頻度で起こることがあるんだ。そういう時は決まって、ひどくラユーシャのことがどうでもよく思えてしまうんだ」

 

「……何の話?」

 

「リラが居ないことを、よく痛感してるって話。ボクが笑ったこと、怒ったこと、悲しんだこと、浮かれたこと。気まぐれに何かしたことも、日課でやっていることだって。全部全部どうでもよくて、堪らなく死んでしまいたい時があるんだ」

 

「……」

 

 エイプリルは黙ってボクの話を聞いている。こんなこと、ラユーシャにもケルシー先生にも話したことなんてなかったのに。

 シーさんはきっと薄々分かってる。ボクがあの通路でそうなった時は、いつも筆を止めてまでボクの方を見てくれているから。Wはどうだろう、もしかしたら同じようなことが起こってて、理解があるかもしれない。

 

「リラとの思い出がフラッシュバックして、アーツが勝手にあの時の信号を再現する。それが終わればボクは懐に()いている短剣を自分に向けたくてしょうがないんだ」

 

 ならどうしてまだ生きているのか。エイプリルの顔にはそんな言葉が露骨に書いてあった。

 

「リラが『生きて』って言うんだ。ボクが脳裏に次々と思い描くリラの姿は、まだ元気だった頃の笑顔で終わるんだ。それに、生きていればまたアーツがリラの姿を再現してくれる。最後に残った一欠片の希望はボクの絶望に小さな穴を開けたんだ」

 

「それを、希望なんて言わないで」

 

 エイプリルは怒った顔でそう言った。ボクだってそれを希望とは言いたくなかったけど、でもボクが亡灵(アンデッド)のことを解決しようと動くためにはその希望が必要不可欠なんだ。

 リラが居ない世界に希望があるとするなら、それが天国の存在を確定させることくらい分かってる。

 

 ボクにとっての新しい希望なんてものはどれだけ探しても見つからないって決まってる。だから使っても問題はないんだ、本来の意味で使われないんだから。

 

「ボクの人生はとうに終わった。時折自殺してしまいたい衝動に駆られるのは、それが本来あるべき姿だから。リラが居なくなったなら、ボクも消えるのが筋だから」

 

「じゃあアビスは、その衝動がなかったら生きたいと思うの?それとも、死にたくなるの?」

 

「さあ、どうだろう。でも分からなくて良いんだ、それを考える意味はないんだから。ボクがそれを手放して生きる道なんてなくて、それにもう遅いんだ」

 

 嘘じゃない。ボクにリラへの執着心を捨てる方法はない。エイプリルに説得されて捨てるほど小さくなくって、どれだけラユーシャが迫ろうと切り離せるほど遠くにない。

 

 リラのことなら、ボクは薄情者じゃないんだよ。

 

「……ねえ、アビス」

 

 エイプリルが笑った。

 とんでもなく黒い笑顔で。

 

「リラって子、最低だね」

 

 

 殺す。

 

 

「アビスもそう思わない?」

 

 エイプリルが横に飛んだ。

 目で追った先に、エイプリルは居なかった。

 

 殺す。殺せない。

 

「殺す」

 

「どう、図星だった?」

 

「殺す」

 

 見えない。掻っ捌いたつもりの短剣は空を切っていた。だが、それがなんだ、こんな近くから聞こえる声にも反応できないとでも言うつもりなのか。

 反応する必要なんてない。

 

 ボクの怒りを放つ、出てきたところを殺す。

 

 短剣は要らない。普通のアーツユニットでいい。どれだけ被害が出ようとリラには何の関係もない、だから塵芥と同じことだ。

 亡灵(アンデッド)のことは後回しだ。ロドスのことはもういっそどうでもいい。やりたいことだけやって死んでやる。

 

『あ、それとアビス。こっち向いて』

 

 突き刺す。何もなかった。

 代わりに側に置かれていたのは、小さな機械。

 

「……スピーカー?」

 

『アーツはダメだよってこと。それじゃあたしはカフェで待ってるから、頭冷やした後に来てね』

 

 悠長に話し合いでもして済ませる気か?

 何を話す?何も話すことなんてない、殺す。

 

『あ、ちゃんとそのスピーカーも持ってきてよ?』

 

 壊してやりたい。拾い上げるだけで軋むくらいに力を入れてみれば、思ってたよりずっと頑丈なことを知った。

 

『ちなみにそのスピーカーはロドス製で、防水性も耐久性も凄いんだってさ』

 

 クロージャさんはどうしてこう人の評価を掻き混ぜるんだろう。そういう星の下に生まれたとしか思えない。

 

『おーい、アビス。なんで止まってるの。早くこっち来てよ、窓際の席に居るからさ』

 

 ……ああ、もう。そりゃ分かってるよ、エイプリルは本心からそう言ったんじゃないって。何か言いたいことがあったんだろうって。

 でもあの言い方は怒るしかないだろ。一度も会ったことのないリラに対してあんな評価をされて、それで怒らないボクなんてボクじゃない。

 

『そうそう、こっちこっち。……なんか疲れてない?』

 

「誰のせいだと思ってるんだ」

 

 窓の向こう、エイプリルはコーヒー片手に手招きしていた。服屋のことだって、今だって、ボクを疲れさせたのはエイプリル以外にないよ。

 

 扉を開いて、近づいてきた店員さんに待ち合わせだと告げる。待ち合わせって言うほど待たせてはいないし約束なんかしてないけど。

 

「まだ怒ってる?」

 

「怒ってる。場合によってはボクより先にシルヴェスターさんと再会できるかもしれないね」

 

「えっぐいブラックジョーク言うじゃん」

 

 それくらい怒ってるんだよ。

 

「じゃあ、早速話そっか」

 

「うん。まずはどうしてあんなことを言ったのかボクが納得できるだけの適切な理由をしっかりと順序立てて説明してほしい」

 

「怒ってるね」

 

「怒ってるよ。殺したいくらいに」

 

 そう言ったボクをエイプリルが笑い飛ばした。なんだ、そんなにシルヴェスターさんに会いたいのなら早く言ってくれれば良かったのに。

 

「ごめん、あたしが悪かったんだよね。でもお願いだから溶けないレベルの角砂糖をコーヒーに入れないで」

 

 糖尿病で死んでしまえ。

 

「うぅ、甘いよぉ……太っちゃう……」

 

「それで、理由は?」

 

 ボクの言葉に、ちびちびと口をつけていたコーヒーが机に置かれる。静かではないが、落ち着いた雰囲気の店内が背景に溶けた。

 特段勿体ぶるようなこともなく、エイプリルはその言句を口にする。

 

「リラがアビスを殺してるから、だよ」

 

 リラが、ボクを?

 ああ、言いたいことは分かる。リラが居ないこの世界で絶望することになったのは、間違いなくリラが原因だ。

 だからって、それで責める道理なんてない。

 リラの隣は居心地が良すぎたから困ってる、だなんて。

 

「ちょっと色褪せてるくらいならいいの。つまらなさそうに生きてたって口を挟むことなんてないと思う。でもそのせいで死ぬんだったら、あたしは止める」

 

「余計なお世話だよ」

 

「でもアビスのせいでリラの株は下がってるよ」

 

「は?」

 

「アビスはずっと、ボクが死ぬのはリラのせいです、って言ってるんだから」

 

 は、いや、なんでそんな風になるんだ。

 

「そんな訳がない。ボクが一方的にこれからの人生を見限っただけだ」

 

「本当にそこまで理解されると思う?っていうかあたしから見ても、アビスはリラになすりつけようとしてるみたいにしか見えないよ」

 

「そんなつもりじゃ、なくて」

 

「分かってるよ。分かってるけど、でも実際どうなんだろうね。アビスが死ぬのは本当にリラのせいなんだから」

 

 リラの、せい?

 

 それじゃ、なんだよ。

 ボクはリラのことを人殺しにしようとしてたってことなのか?ラユーシャがあんなにリラを嫌っていたのも、そのせいなのか?

 

「アビスの伝え方も良くなかったよね。リラが関係してるなら死んだっていいなんて、医療オペレーターのヘイトが集まるのはリラって子なんだよ?」

 

 ケルシー先生も、そう思っていたってことか。

 ケルシー先生があれだけ嫌悪感を溜め込んでいたのは、ボクと、ボクを死へと引っ張るリラに対してのことなのか?

 

「ラーヤちゃんも言ってたよ。アビスを救うにはあの人を超えるしかない、あの人さえ居なければ──ってさ」

 

 リラさえ居なければ、なんだよ。

 リラが居なかったならラユーシャとだって会ってない、ボクはクルビアのスラムでくたばってるに決まってるのに。

 

 どうして、なんでリラがそんなに言われなくちゃいけない。本当にボクのせいなのか?ボクがリラのことを口に出すたびに、そんなことが?

 

 じゃあなんて言えばよかったんだよ。

 リラのことなんて何とも思ってないって?そんなことを言えばその瞬間ボクは自分の首に刃を突き立ててやれる自信があるんだけど。

 

「人が死ぬ責任って、重いんだよ。それは一人にかかる罪悪感だとか後悔だけじゃなくて、その範囲だって同じことなの。みんなに責任があって、みんな等しくそれを負う」

 

 エイプリルがコーヒーを口元に運んだ。沢山の角砂糖が溶けたコーヒーはきっと甘いんだろうけど、それで中和できないくらい、その話は重くて苦い。

 

「しかも、アビスが死ぬ責任は違うんだよ。その重責を負うことになるのは……」

 

 音が消える。

 ボクの耳には店内に流れている音楽も、他の席から聞こえる話し声も入らなくなった。

 

「アビスとリラしか、居ないの」

 

 ただただ、認めたくなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十六 そこには何がある?

 

 

 

 

 とある建物の出入り口から二人のオペレーターが顔を出す。一方は服装を白で統一したコータスの弓使い、一方は塗り潰されたような黒のツノを持つヴイーヴルの青年だ。

 

「疲れた」

 

「水でも飲みますか?」

 

「うん、貰っとく……」

 

 エイプリルがペットボトルを受け取り、中のお茶を喉に流し込んだ。アビスが一度斎場を振り返る。

 

 何の変哲もない公共施設である会館、それこそがシルヴェスターの葬式が執り行われた場所だった。出てきたことから分かる通り、アビスとエイプリルは丁度その葬式に出席した後だった。

 

「はあ、どうしてあんなに見られたんだろ。他の人と面識がなかったからなのかな」

 

「そうかもしれませんね」

 

 会場に入った二人は、多くの参列者から熱視線を浴びせられた。見知った顔でない、武器を持って出席、色々と考えられる要因はある。だから二人は特に気にしていなかった。

 ちなみに、エイプリルの着ている白の服は特段場違いという訳でもない。炎国の葬式では基本的に、白か黒であればマナーに反しない。アビスが着ているような、所々蛍光色の水色が入っている黒のジャケットも咎められることはないのだ。

 

「アビスは葬式に出たことってあるの?」

 

「どうしてですか?」

 

「なんか慣れてた気がしたから」

 

「人の死に慣れてこそいますが、葬式に出席したことはありませんよ。それにシルヴェスターさんとは、たった一度の付き合いですから」

 

 とは言えまさか、ボクより先に死ぬとは思わなかったけど。

 アビスは口の中でそう呟くと、水筒を受け取ってすぐ歩き始めた。龍門に居座るための言い訳はほぼなくなってしまったため、他の何かを探さねばならない。

 時間を無駄には出来ない。

 

 だがそんなことを考えるより先に、二人を龍門に縫い付ける厄介事は迫ってきていたらしい。

 

「あの!すみません」

 

 かけられた声に振り返れば、そこにはメガネをかけたザラックの少年──男がアビスたちの方を見ていた。消防局のショウと言い、この男と言い、龍門に居るザラックは総じて身長が低いのだろうか。

 アビスは一度頭の中を探る。そうだ、確かこのザラックは威圧感を会場中に振り撒く大男の後ろに控えていた男だ。シルヴェスター社の職員だとか、その類だろう。

 

「何かボクたちに御用ですか?それともロドスに?」

 

「それを話す前に一つだけ確認させてください」

 

 確認。何を話すと言うのだろうか。

 

「あなた方は、アビスさんとエイプリルさん、ということで間違いないでしょうか」

 

「はい。ボクはアビス、こちらがエイプリルと申します」

 

「やはりそうでしたか」

 

 ザラックの男はほっと胸を撫で下ろした。

 そう言えば、アビスとエイプリルは斎場で名乗っていなかった。どうしてこの男は知っているのかと、アビスの顔に少しだけ警戒心が浮かぶ。

 

 だがそんな警戒なぞ意味はなかった。

 ザラックの男は、徐にその頭を下げる。

 

 

「お願いです。どうか、真実を白日の下に晒してはいただけませんか」

 

 

 アビスは隠れてガッツポーズを取った。

 

 

 

 

 

 コップの中をストローでかき混ぜると、氷がぶつかって音が出る。やけに乗り気なアビスを目の端で捉えながら、エイプリルはミルクの溶けたコーヒーを一口飲んだ。

 

「どこからお話しすればいいのか分かりませんが……社長は誰かに殺されたのだと、私は思っています」

 

「それはまた、物騒ですね」

 

「死因は心臓麻痺と正式にはされているのですが、そんなものは嘘に決まっています。あの人が健康志向だってことを知らない社員は居ません。何せあの人は、私たち社員にさえそれを説いているのですから」

 

「心臓麻痺、ですか」

 

 どうやらザラックの男は知らないらしいが、心臓麻痺は健康であっても引き起こされるケースがある。脱水症状や外部からの刺激がその例だ。

 しかしそれだけではないだろう。疑念を持つとして、大して調べてもいない不確実な矛盾を理由として挙げるのは些か強引過ぎる。

 

「私が疑っているのは、副社長のガヅィアという男です。覚えていますか、私のすぐ前に立っていた……」

 

「ああ、あのサルカズの方ですか」

 

 斎場を出て少し経って、しかしガヅィアの姿は未だはっきりと思い出せる。二メートルもあろうかというかなりの体躯に、右の目を跨ぐ痛々しい裂傷の痕。まさかあれが副社長だったとは。

 

「彼は普段から不自然なほど社長のことを持ち上げていました。私たちのような部下には厳しく、所謂イエスマンだったんです」

 

「サルカズの男が、ですか」

 

 ロドスに居るサルカズを思い浮かべる。W、ワルファリン、クロージャ、ラヴァやハイビスカス、ミッドナイト。

 いずれもクセの強いオペレーターばかりだ。一般常識と合わせて見れば、そのイエスマンだったと言われているガヅィアがどれだけ不自然だったのか分かるというものだろう。

 

「彼は、社長の死に全く動じませんでした。訃報を伝えた社員の話によれば『遂に来たか』と言っていたそうで、私にはあの男が社長を殺したとしか思えないんです」

 

「つまり、それまでの態度は演技だったと?」

 

「あの男は至って冷静に社長の死を隠蔽して、小さく仲間内だけの葬式を開くことになりました。……つけ込まれないためとは言っても、あの心酔が嘘でもない限り、そんなにすぐ冷静になれる訳がない。そう言い切れるほど、普段のガヅィアは社長と親密でした」

 

 ザラックの発言は情報屋と取引した内容とも合致する。もし先程話していた内容が真実なのであれば、ガヅィアは確かに疑わしい存在だ。

 まだ話して間もない三人だったが、アビスはザラックの男が嘘をついているようには見えなかった。無論見抜けられないだけの可能性もありはするが、そのザラックがアビスたちを騙す意味などない。

 

 しかし、一つ疑問が浮かぶ。

 

「ところで、どうしてボクたちの名前を?」

 

「社長から聞いていたんです。会社に呼んで、そして今まで作り上げたものを見てもらいたいと仰られていました。ガヅィアは周到な男で、その点あなた方は安心なんです」

 

 龍門一帯は息がかかっている可能性がある、ということか。そこまでではなくとも、影響や顔の広さで言えばかなりの力を持っているのだろう。

 

「なるほど、事情は理解しました。そういうことなら力にならせていただきますよ」

 

「本当ですか!?」

 

「ええ、他ならぬシルヴェスターさんのことですから」

 

 嘘っぱちの笑顔を浮かべてアビスが手を差し出すと、ザラックの男は感動した様子で握手を交わす。

 シルヴェスターの死の真相を探る約束とは、随分と都合のいい体裁だった。別段特別な何かがあると決まっている訳ではなく、いざとなれば近衛局を巻き込むことが可能で、更に言えば口約束程度破る選択肢だってあるのだ。

 友人の死が不審だったと言えば、軽い処罰はあれどもケルシーが言っていたようなオペレーター契約の一方的な書き換えは出来ないだろう。完璧とまでは言えないが、しかし次善であることは確かだ。

 

 ザラックの男はそんなアビスの思考も知らずに顔を輝かせている。アビスの頭の中には『リー探偵事務所』だとか『亡灵(アンデッド)』だとか色々なワードが飛び交っていたが、それが口から出ることはなかった。

 握手に満足したザラックの男が立ち上がる。

 

「これ以上抜けていれば、ガヅィアに勘付かれてしまうかもしれません。社長のことは、よろしくお願いします」

 

 ザラックの男は最後にそれだけ言うと、時計を気にしながら店を出て行った。名乗ることもしなかったあたり、目先の感情に従ってしまう性格のようだ。向こう見ずと言うのか、それとも刹那的思考とでも言えばいいのか。

 

 氷が融け始めている。思っていたより上手くいっている龍門滞在に気を良くしたアビスは、まだ一口も飲んでいなかったグラスの中身を半分ほど、ストローで一気に吸い上げた。

 鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気で音楽を流す。アップテンポの曲が堪らなく今の気分にマッチしていた。

 

 そんなアビスの隣で、エイプリルの飲んでいたアイスコーヒーは底をつき、それを無視して吸い込んだストローが音を立てる。薄く開かれた目はアビスへの不満を明確に主張している。

 

「……」

 

 アビスは気付かない。人差し指で机を連打しているエイプリルのアピールに全く気づいていなかった。

 

「アビス」

 

「……」

 

「アビス」

 

「あっ、はい。ボクですか?」

 

 アビスがプレーヤーのボタンを押して音楽を止める。イヤホンは外さず再生ボタンに手を添えているあたり気に入っているのだろうが、しかし今に限って言えばそれは、単純に喜べることではなかった。

 

 イヤホンを傷つけないように耳に着けている部分を持って、エイプリルはカナル式のイヤホンを豪快に引っこ抜いた。

 

「痛っ、えっ……!?」

 

「イヤホンは取ろうか、アビス」

 

「は、はい。すみません」

 

 何故そんなに怒っているのか分からなかったが、アビスは仕方なくもう片方のイヤホンも耳から外した。

 

「アビスってロドスのオペレーターで、龍門には一時的に来てるんだよね?」

 

「はあ」

 

 何を言ってるんだ、当たり前のことだろう。そんな顔で怪訝そうにしたアビスのことはエイプリルが割と強めに蹴ったので安心していただきたい。

 エイプリルの機嫌が傾く。

 

「一緒にロドスから来てずっと同行してる人って居るよね。その人に意見聞かなきゃって思わなかったの?」

 

 ようやくアビスはエイプリルが怒っている理由を心得た。なるほど納得と手のひらをポンと打った後、それが何かと言わんばかりにコーヒーを一飲み。

 

「反対でしたか?」

 

「いや、まあいいんだけど、いいんだけど……」

 

「ああ、この前の埋め合わせを誤魔化すつもりもありませんよ。いざとなれば、ロドスにも商業区画はあります。まあクロージャ(要らないもの)も付いてきますけど」

 

「でもラーヤちゃんとのそれは結局放り出してきたんでしょ?良くないよ、そういうの」

 

「それは致し方なかったんです。帰ったら償う……と思います」

 

「そこは誓ってよ。あたしはラーヤちゃんじゃないけどさ」

 

「なら誓いますよ」

 

 カラン、と融けた氷が崩れて音を立てた。

 

「また買い物に行きましょう、エイプリル」

 

「……うん、なんだろう。なんて言えばいいのかな。正解したらダメな問題だってあるんだよ?」

 

 そう言ってエイプリルがストローに口をつける。

 そこでようやくそのグラスが空だったことを再確認して、エイプリルは顔を赤らめながら店員を呼んだ。

 

 

 

 間違えなければいけない時がある。

 目を背けなければいけない時がある。

 間違っている人が未だ生きているように、淘汰されるのは必ずしも間違っているものでない。

 

 アビスは間違っている。

 正解を選び、それこそが間違いだったのだ。

 

 淘汰されたのはアビスでなかった。

 しかしその手は緩んでなどいなかった。

 

 過去を過去のままにしていないが。

 その過去が、本当に過去でなくなったとしたら。

 

 間違えなければいけない時がある。

 目を背けなければいけない時がある。

 それを分からないからこそアビスは子供だと呼ばれ、それが分かっているエイプリルは大人なのだろう。

 

 

「さて。まずは経緯を聞いて回りますか」

 

「異議なし!」

 

 

 

 

 少し前にアビスたちの話題に出ていた、ロドスに残っているあるオペレーターだが。

 

「ケルシー先生、マスターキーってあります?」

 

 アビスたちが斎場を後にした頃に、そんなことを言いながらケルシーの目の前で震えていた。

 自分を抱くようにしているが、それは寒さから身を守っているだとか、緊張に強張っているといったことではない。ただ、ちょっとした禁断症状が発症しているだけだった。

 

「オペレーターにマスターキーの貸借は認められない。それは君のような一般オペレーターには疎か、エリートオペレーターにも徹底していることだ」

 

 ケルシーは少し引き気味にそう言った。自身を見つめる灰色の双眸は限界まで見開かれていて、身長の低さを物ともしない絶大な圧迫感をケルシーに与えていた。

 今更になってアビスの気持ちを理解した。なるほど確かにこんな目で一日中見られていれば厭う気持ちも分かるというものだ。

 

 今までライサに付けていた、依存傾向にあるという評価。それはもしかすると本質に掠りさえもしていない随分と的外れなことだったのではないか。アビスの苦労が偲ばれる。

 

「どうしてですか」

 

「言われずとも分かるだろう。権限は上層に限ってこそ意味があり、またロドスの内部監査も無欠ではない。クロージャの使用を私が管理するという現在の体制で充分だ」

 

「充分ではありません。私が困ります」

 

「……」

 

 ケルシーはライサの危険度に関しての評価をやり直すことに決めた。そしてそれに応じてアビスの評価も上げることにした。確かにアビスの労働環境にはロドスの目が行き届いていない欠点があったようだった。

 

 ライサの震えがぴたりと止まった。

 コータスの特徴的な耳がぴくぴくと動く。

 

「嫌な予感。アビス。何かした。龍門。カフェ?アビス。氷。グラスの音。嫌な予感。四月。厄介事。アビス。何をした?アビス。嫌な予感。……あ、すみません。失礼しました」

 

 ケルシーの顔が引き攣った。

 耳が感じとった謎に高精度な情報群は脳の処理限界に挑戦していて、単語を羅列している間の黒目は左右バラバラに動き回っていた。

 

 何かアーツを使ったのだろう、とケルシーは思うことにした。そう思わなければやっていけない。コータスの医療オペレーターと会うたびにライサのことを思い出してしまうかもしれない。

 ケルシーに軽いトラウマを植え付けたライサは恥ずかしそうにしている。何を恥じる部分があっただろうか。

 乙女的にノーとか言っているならこちらも生理的にノーと言わざるを得ないのだが。

 

「そういえばロドスには清掃部門があるようですが」

 

 ケルシーの耳が反応する。清掃に関係している職員も確かに存在するが、だがしかしライサの言いたいことがそれではないということくらい誰にでも分かる。

 つまり、ケルシーが管理している『S.W.E.E.P』という部隊のことだろう。

 

 公然の秘密という言葉がある。ロドスではほぼ大多数のオペレーターが知っているのだが、『S.W.E.E.P』に関しての話題を出すことは少ない。精々所属しているオペレーターと会話する時くらいしか意識することもないだろう。

 『S.W.E.E.P』の存在は正に公然の秘密ということだった。

 

 易々と口に出したライサをケルシーが睨むような目つきで観察する。

 

「あったとしたら、なんだ」

 

 感情が排斥された、業務連絡でもしているかのような声。まさかこれを見てライサとケルシーが雑談しているなどと思うオペレーターは居まい。いや、もしかすると……ケルシーに対する評価がかなり落ちているあのオペレーターなら或いは、といったところか。

 ライサの顔は変わらない。

 

「ピッキングのやり方って教えていただけますか。出来ればロドスの艦内で通用する技術をお願いします」

 

 そしてそのズレ具合も変わらなかった。

 

「……却下だ」

 

「どうしてですか」

 

「その技術を艦内で使うだろう」

 

「それ以外に使い所がありますか?」

 

 平然と犯罪予告をするライサの頭はまたクリップボードで叩くとして、どうにも処理が面倒だった。餅は餅屋だ、アビスかドクターに押し付けてしまおうか。

 

 ケルシーが顎に手を当てた。

 

 しかし、妙なことだ。ここ最近のアビスはライサと親しそうにしていたのだが、どうやら鍵をかけて閉じこもっているらしい。出て行かれるよりはマシだが、何をしているのか気になるところでもある。

 

「ラーヤ、アビスは今何をしているんだ?」

 

 ライサの耳が一つ震えて、止まった。

 

「──気になってるんですか?」

 

 灰色の目が明度を落として黒く濁る。

 アーツ反応がライサの周囲で巻き起こり、その一瞬後にはケルシーの視界が捻じ曲がって意味を失くした。

 

 何も見えていない訳ではなく、むしろ本来見えていない場所まで視野が広がっている。だがそれはカメラのレンズが写し取るような整然とした景色ではなく、それぞれの角度が混在した歪みきっているものだった。

 

「アビスのことが、気になりますか?」

 

「……無闇矢鱈とアーツを使わない、それは講習で必ず言われていたことのはずだが」

 

「アビスのことが気になりますか?」

 

 ケルシーが目を閉じる。呆れのあまり瞑目したのではなく、乱雑な光しか入ってこないのであれば、暗闇の方がまだマシだと思ったからだ。

 しかし、まるで明かりに直接目を向けているように、瞼を透過した光が暗闇を色彩豊かに染め上げる。

 

「気にかけてはいる。だが、そう邪推されるようなものではない」

 

 視界が黒くなる。光が重なっているのか──そう考えた瞬間、その黒には少しの灰が混じっていることをケルシーは理解した。理解してしまった。

 

 超至近距離からケルシーの瞼の奥を見つめるライサ。身長差からして少し上を向くだけでケルシーはライサの目から逃れることが出来るのだろうが、それを断行するのは状況から見てかなり不味い。

 

 少しずつ、瞼の外の黒は灰へと戻っていく。

 

「信じていますからね」

 

 ゆっくり目を開けると、そこにはいつも通りの目をしたライサが立っていた。〝信じている〟ではなく〝信じる〟だろう、そうケルシーは思ったが、口は塞いでおいた。

 

 それにしても、ライサが自身のアーツをここまで使えるようになっていたのは驚きだった。入職した当初はアビスに追い縋ろうとかなりの時間を訓練に注ぎ込んでいたようだが、近頃はそうでもない。

 そういえば、他の遠距離オペレーターと仲良くしていたような気がする。もしかすると勘違いかもしれないが、そのおかげだろうか。

 

「じゃあ、私はまた別の人に当たります」

 

「マスターキーは諦めた方が賢明だ」

 

「絶対に嫌です」

 

「……そうか」

 

 アビスはいつもこんな豪傑と過ごしていたのか。ケルシーは少しだけアビスを尊敬し始めた。もっとも、そんな尊敬をされるくらいなら負担を分けてほしいというのがアビスの実情──もとい、少し前までのアビスの実情だ。

 

 これ以上の会話は無用だと判断し、ライサがケルシーの元から離れていく。クリップボードで叩き忘れてしまったが、ライサは犯罪予告をやめるだろうか。やめないだろう、そういう妖怪だ。叩いても叩かなくても結局は同じことだ。

 若干押され気味で支離滅裂な内容になってしまったが、ケルシーはそれを以て思考を断ち切った。ケルシーにはドクターと同等かそれ以上の仕事が入っている。早く次に移らねばなるまい。

 それは、分かっているのだ。

 

「アビスは今、何を……いや、関係のないことだ」

 

 頭を振って、今度こそ残滓まで排することが出来た。

 雑務に気を取られて疎かには出来ない。本質的に、ケルシーがロドスに居る意味はアーミヤと、そしてドクターにしかない。

 医者として今は振る舞っていても、都合が悪くなれば脱ぎ去ることすらも考えている仮初の衣だ。眼前に発露した問題に邪魔をされて本懐を見失うようではいけない。

 

 だから、アビスのことは気にしない。

 

 そうケルシーは内心で断言し、歩き出した。

 それが即ち意識しているというのだと自覚するためには、一体どれほどの時間がかかることだろう。

 

 少なくとも、アビスの不在に気付くよりもっと先のことなのではなかろうか。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十七 二人、部屋の中で

 

 

 

 

 ホテルの一室。小さく纏められた荷物は一時的にベッドの上へと追いやられ、何も置かれていないテーブルを挟んで二人が向かい合っていた。

 

「一度整理しましょうか」

 

「お願い」

 

 窓の外は既に暗い。アビスとエイプリルの関係性を知らない者からすれば誤解を招きそうなものだが、果たして二人はどう考えているのか。少なくともアビスの頭の中にそのような考えがなかったことだけは確かだろう。

 龍門に来てからの二人の行動は総合してその誤解を補強しているように思える。そんな甘い関係では断じてないが、時として真実が影の中に隠れることはありうるものだ。いや、決まってるというほどでもない訳ではあるのだが。

 

 傍らに置かれた四つの茶杯から一つを取って飲む。青茶と呼ばれる赤褐色のお茶が小さく甘味を主張する。既に中身がなくなっている茶杯は二つ、二人が一つずつ飲んだ結果であった。

 三つ目の茶杯が空になったところで、アビスは聞いた情報の整理を終えた。所々穴が空いてはいるが、十分な情報は集まっているだろう。茶杯のように、一切のヒビもない推理をするには、色々と欠けるものが多かった。

 

「先日の午前中、業務の合間を縫ってシルヴェスターさんは本社から出かけていきました。特筆すべき荷物は持っておらず、交通手段が徒歩だったのはその健康志向が関係しているかと思われます」

 

「特筆すべき荷物は持ってない……荷物はなかった、もしくはごく小さいものだった。そういう認識でいいんだよね?」

 

「はい。そしてその荷物ですが、直前にあのザラックの男──シュエンに話している内容から、ボクたちへの手紙だったと推測できます」

 

 言いながら、件の手紙を机の上に置く。シュエンはまだ入社から一年も経っていない社員だったようで、社長自ら気にかけていたようだ。

 バリバリの経営家であるシルヴェスターから業務について教わることはなかっただろうが、シュエンは心からその配慮を嬉しく思っていたらしい。

 確かに、シュエンはかなり庇護欲を唆られる見た目をしていた。ロドスに在留するショウもそうだが、何故動作があれほどまでせかせかしているのか。見上げていると首が痛くはならないのか。あと、ちゃんと食べているのだろうか。不安になる。

 

「また、シルヴェスターさんはスラムに入っていったとされています。手紙の配達をトランスポーターに依頼した後のことでしょう」

 

「そのスラムで、心臓麻痺を起こして倒れたんだよね」

 

「はい」

 

 彼がスラム街に入っていった理由は分からないが、慈善事業でもしていたのではないだろうか。護衛任務中こそかなり乱心していたが、事前の打ち合わせでは物腰穏やかな老紳士に間違いなかった。

 慈善事業の下見にスラムまで足を運ぶというのはかなりの行動力を必要とするだろうが、でなければ経営者として大成することもないのではなかろうか。もしそれが無関係だったとしても、シルヴェスターがそういう性分だったのだろうと納得出来る理由であることに変わりはない。

 ここまで収集した情報の中に、特段引っかかりを覚えるようなものはアビスには見つけられなかった。

 

 一つを除いて。

 

「心臓麻痺、それが目下一番に不審な点でしょう」

 

「本当に健康だったならなるわけがないもんね」

 

「それも、ただ歩いているだけで死ぬようでは理不尽が過ぎるというものでしょう。……何か他の要因があったと考える方が自然です」

 

 そう言ったアビスの顔は、まるで龍門中に張り巡らされた立体道路のように複雑だった。

 元より、アビスはそこまで頭が良い方ではない。ロドスで最低限の教養は身につけているが、それでも中等部を卒業する程度のレベルだ。戦闘に関する知識や諸国の言語には慣れ親しんでいるが、それもほぼ独学だ。

 だからこのような腕っ節でなんとか出来ない厄介事は領分にない。感情に直結していない分、感覚的な推量も不可能だ。むしろエイプリルの方が長けているだろう。顰められた顔からもそれは窺えるというものだ。

 

「まずは、それが本当に疑わしいものなのかってことを証言してもらうのが良いよね。明日はシュエン以外の職員から話を聞きたいかな」

 

「他に客観的な立場からの証言としましては……葬儀屋でしょうか。ご遺体を見る機会があったはずですから、それについて伺いましょう」

 

 特段異論はないという風にエイプリルが頷いた。

 

 龍門滞在におけるアビスの狙いは『亡灵(アンデッド)』だ。シルヴェスターの会社を来訪すること並びに、その死に隠された真実を解明することなど口実に過ぎない。

 エイプリルはアビスの裏が存在することに勘付いてこそいるが、この件に関してはドクターとアビスに巻き込まれただけだ。アンデッドのことは名前くらいしか知らない。

 

 アビスが今シルヴェスターの真実解明について介入を始めたのは、その騒動が長引くと思っているからだ。余りにもアンデッドについての情報が不足している今、アビスに出来ることは受け手側に回ることしか出来ない。

 だからアビスの目指す理想は、アンデッドの引き起こした事件にロドスのオペレーターとして解決に当たる、という構図だ。事件が起こる可能性は今のところ分からないが、報告に挙がってから何日も経つ。そろそろ何か行動してもいい頃合いだろう、もしかすると既に行動しているかもしれない。

 

 そんな訳で、アビスはシルヴェスターの死について全力で事に当たったとしても、アンデッドが事件を起こすまでの時間は稼ぐことが出来ると考えていた。だから、こうしてエイプリルと同じ様に真剣な態度で解明に臨んでいる。

 くどくど並べ連ねたが、言いたいところはつまり、アビスが真相の追求に手を抜くことはない、ということだけだ。

 エイプリルが二つ目の茶杯──アビスのものを含めると四つ目──を手に取り、口に流し込んだ。

 

「……やっぱりこれ、美味しいね。何て言うお茶なの?」

 

青茶(チンチャ)というお茶です。有名なものでは烏龍茶が分類される区分になります。これは鉄観音茶ですから烏龍茶とは別物ですが」

 

 そう言って、アビスもまた新しい茶杯を口に当てて傾ける。鉄観音茶も広い分類で言うと烏龍茶に属しているが、アビスの発言も一概に間違っているとは言えない。

 たとえばはさみ将棋は将棋から派生して生まれた遊びではあるものの、将棋とは言えない。青茶の分類はそれでさえ将棋の一部だと位置付けるような広い区分である、つまりはそういうことだ。

 

「もしかしなくても、アビスって炎国に詳しい?」

 

「以前に何度か訪れたことがあるというだけのことです。昔の話ですよ」

 

「昔の話って……アビスが?」

 

 エイプリルが目前の子供を胡散臭そうに見る。18くらいの若造が使う昔という言葉は少なからず違和感を覚えさせるものだった。

 

「ロドスに加入する前のことです。そして、リラと別れた後の話です」

 

「へえ、その頃は何をやってたの?」

 

「特には何もしていませんでしたよ。リラを亡くしてから、そんなすぐに立ち直ることができたと思いますか?」

 

 エイプリルは、過去について話した後のアビスを思い出した。希薄な存在感と、異様なまでに線が細く感じたあのアビスは、現在向かいに座っているヴイーヴルと似ても似つかない。

 

「無理」

 

「そういうことです」

 

 約三年間の放浪。初めの頃は、もはや何をしていたか思い出せないほど精神が擦り切れていた。自分の行動故にある程度までは何を考えていたか理解出来るのだが、決定付ける何かは持っていない。

 

 そういえば、と思い出す。放浪中、アビスには世話になった傭兵が居た。料理知識の下地があったのもその傭兵が居たからこそのことだ。

 今はどこで何をしているのだろう。また面倒臭いことを成し遂げようと努力しているのだろうか。ケルシーに依頼でもすればすぐ分かるのだろうが、そこまでする必要もないことだし、何よりアビスが嫌だ。

 八方塞がりという訳でもない。恐らくまだクルビアのあたりをフラついているだろうから、訪ねて情報を集めればすぐに洗い出せる。良くも悪くも、あの人は傭兵としてかなり目立っていた。

 

「……」

 

 エイプリルが青茶を啜る。

 

「ねえ、アビス」

 

「はい、何か?」

 

 同じく青茶を啜っていたアビスが反応する。和やかな雰囲気の中提示される話題はどのようなものだろうか。

 

「なんか面白い話してよ」

 

 とんでもないキラーパスだった。雰囲気がどうだとかはもはや関係なく、どんな状況であっても出してはいけない無茶振り筆頭第一位だった。

 流石にこんな問いにはアビスも困惑して──いなかった。

 

「例えば、何ですか?」

 

「例えば!?た、例えば……あっ、そうだ。この前すっごく良い景色がロドスから見れて、その時の写真撮ってあるんだよね。見る?」

 

「興味はあります」

 

 面白い、のカテゴリでいいのだろうか。エイプリルは液晶をタップしながら回り込み、アビスと自分の前に端末が来るよう差し出した。

 

「ほら、こんな感じ」

 

「これは……いつの写真ですか?」

 

「ロドスを出発するちょっと前だったかな。風もそれなりにあって、気持ちよかったんだ」

 

 テラを覆い、テラに咲く、源石(オリジニウム)

 映し出されたそれは今もなお人々を悩ませている天変地異に間違いなく、もしそれを綺麗などと言えば不謹慎なのかもしれないが──。

 

「どうせなら……いえ、なんでもありません」

 

 アビスの言葉は、それよりももっと斜め上を行く答えだった。思わずといった風に発されたそれは確かにエイプリルの耳まで届き、首を傾げる。明確に何と言ったか分かるからこそ、発言の理由がより一層分からないというものだ。

 

「カメラとかのこと?シーンちゃんでも呼んできて撮ってもらえば良かったかな」

 

「撮影技術の話ではありません」

 

「じゃあ、どういうこと?」

 

 ずずい、とエイプリルが顔を近付ける。ヘアフレグランスの香りが漂い、アビスは何か言いたそうに、しかし何も言わずに身を引いた。

 

「なに、どうしたの?」

 

 それはエイプリルの方でしょう。アビスの口から出そうになった言葉はギリギリでストップがかかる。だが実際問題状況が好転した訳ではなく、アビスの脈が少しだけ早まっただけに終わる。

 

「……アレですよ、アレ。ボクがその時艦内にいたのに見ていなかったから、貴重な機会をふいにしたという意味でそう言ったんです」

 

「本当に?言い方が即興で嘘をつく時のそれなんだけど」

 

「本当です」

 

 アビスがそう言いながら茶杯の方へと手を伸ばし──その手がエイプリルに掴まれた。ぎょっとしつつも強引に振り解くことは出来ず、何やら手首の辺りを探るように何度も掴み直すエイプリルのされるがままになっていた。

 ようやく、エイプリルが動きを止めた。

 

「アビス、脈早すぎ。ダウト」

 

「……バレましたか」

 

「これくらいならあたしでも分かるんだよ」

 

 何も分かっていないエイプリルの言葉に、アビスは苦笑いを浮かべて曖昧に流すことしか出来なかった。

 続いて、アビスは本来目指していた茶杯を手に取った。口まで持ってきて、一口飲み込んだ。

 

「……」

 

 何故かまだ手首を掴んでいる白い手をじっと見る。

 

「全然脈落ち着かないね。測られるの慣れてない?」

 

「ロドスでは医療機器で全て測られますからね」

 

 色々と誤魔化した。脈を測られる程度で緊張はしないし、ケルシーによって昔行われたとある簡単な検査では機器など少ししか使わなかった。いや、アレは検査と言うには少々簡素極まりないものだったが。

 そんな訳で、アビスはやんわりとエイプリルの手を引き剥がした。そんな訳で、とは言ったものの事実アビスがどう思ったのかは分からないが。ただ一つ言うならば、拍動はしばらく落ち着くことがなかったということくらいか。

 

 何が目的なのか。

 この一連の行動からエイプリルは何を得ようとしたのか。

 

 アビスは人の悪感情に慣れてこそいたが、人と接する経験が余りにも不足している。ドクターの内面を見抜くことが出来ていないことと同様に、エイプリルの心情は全く見えてくることがなかった。

 退室する気配がなく、エイプリルは一体何をするためにこの部屋に残っているのか。

 

「アビス、最近ちゃんと寝てる?」

 

「休息はそれなりに取っていますよ」

 

「それなりじゃダメだよ、ちゃんと寝なきゃ」

 

「そうかもしれませんね」

 

 実際アビスは睡眠のために八時間もの時間を取っている。そのどれもが死体のような寝姿で、尚且つ疲れが取れていないことを除けば健康的だろう。

 

「アビス、さては聞く気ないでしょ」

 

「ちゃんと寝ていますから心配要りません」

 

「そんなに顔色悪いのに?」

 

「顔色の悪さは……そういう日もあるでしょう」

 

「それ体調が悪い日ってことじゃないの?あたしはそれについて今日三回聞いたんだけど」

 

 ようやく、アビスはどうしてエイプリルが距離を詰めていたのか分かった。近付いたのは観察のためで、顔色が悪いアビスのことを心配していたのだろう。

 症状が悪化の一途を辿っている今、アビスが日常的に服用している鎮痛剤では誤魔化しきれない痛みがある。痛みに慣れてはいるが、不快感がそれによって消えるなんてことはないのだ。

 

 業務に支障はない。突然倒れるほど容体が悪い訳でも無し、シュエンの依頼遂行にあたってこれは障害足り得ない。

 だが反対に、少し体調が悪いことを我慢するほど依頼が重要という訳でもない。アビスの目的もそこにはない。

 

 どちらに転んでもいいと思っている分、アビスはエイプリルにしっかりとした返答が出来なかった。

 

「今日はもういいから、明日までに考えておいて。それが源石病の関係なら、ロドスに戻る必要だってあるんだから──なんてね。アビスは違うんだよね」

 

 自然に出た心配りの言葉と、それに付け足された諦念が滲む後悔の言葉。エイプリルの中で形作られた心象は配慮さえも憚からせ、そしてそれの原因であるのは紛うことなくアビスだった。

 ただ事実をまた一つ眼前で露わにされ、しかしアビスの中ではそれだけに終わらなかった。何度も感じているにも拘らず名前の分からないあの感情が、アビスの胸の内を占拠する。

 

 それに気付いたエイプリルが苦笑した。

 

「あはは、ごめんごめん。別にアビスのことを責めようとは思ってなかったから、許して?」

 

 エイプリルは、自身の発言がアビスに不快感を与えたのだと思ったのだろう。初めと終わりだけを切り取ればそのような解釈も出来るが、物事はそう簡単に出来ていない。

 アビスが口を結んだまま首を横に振って、エイプリルは首を傾げる。許さないと言っているのではないということだけがエイプリルに伝わった。まさか、アビスもそれの全容を把握出来ていないなどとは思わないだろう。

 

「話、変えよっか」

 

「そうしていただけるとありがたいです」

 

「敬語やめない?」

 

 アビスは少し考えた後、ロドス艦内の廊下を歩く時のような笑顔を顔に貼り付けてこう言った。

 

「さて、何を話しましょうか」

 

 無視(スルー)だった。

 

「別に距離を詰めたいって訳じゃないんだけどね」

 

 そのまま話題を転換するつもりだったアビスの口が止まる。エイプリルのセリフは言外に、アビスが作る心理的なバリアの存在を示唆していた。

 

「ボクも、距離を置きたい訳ではありませんが」

 

「じゃあどうして?」

 

「……どうしてなんでしょうか。エイプリルに対して親密な言葉遣いをしたいと思う反面、どこかで抵抗があるんです。どこなのか、それは分かりませんが」

 

「あたしとアビスって、そんなに複雑な仲でもなくない?」

 

「……」

 

「えっ、なんで目逸らしたの」

 

 一方通行(そういうところ)を含めて、正しく複雑な仲だった。

 アビスがエイプリルに対して抱く感慨はリラに対するものと違っている。しかしながら、アビスはエイプリルの中にリラの影を錯覚しつつある。

 これは誰にも言っていないことだ。脊髄に化け物を飼っている研究者なら勘付いているかもしれないが、生憎とそんな存在はテラの地でも一人居るかどうかくらいだろう。

 

「そもそも、タメ口でお試しって違くない?」

 

「買い物の日のことですか?」

 

「そうそう、デートの日の」

 

「……」

 

「そんな反応することないじゃん!」

 

 顰めている顔を元に戻すことなく、アビスはお茶を飲んだ。本当にやめてほしいと思いながらの行動だったのだが、果たしてそれはどんな意味が込められているのか。

 

「それに、そんな反応するんだったら、別に敬語なんて要らないでしょ?敬語って敬ってるポーズを示すために使う言葉遣いなんだよ?」

 

「エイプリルのことは尊敬していますよ」

 

「リスペクトは大事だけど、そういうことじゃなくて……」

 

 分かっている。当然のことだが、アビスはエイプリルが主張せんとしている内容を知っている。エイプリルとはもっと砕けた態度で接するべきだと思ってすらいる。

 だがアビスの心の中では、蟠りによく似た抵抗感が激しく実存を主張している。仲がどうだとか、任務遂行にあたってどうだとか、そういうことは全く関係がない。エイプリルと親しく話すことが、何故だか恐ろしいことのように思えてならなかった。

 

「まだ信頼度が足りないのかもしれませんね」

 

「今どのくらい?」

 

「140くらいではないでしょうか」

 

「上限はどこなの」

 

 さあ、と肩を竦めるアビス。適当に言っただけの数字だが、どこかの企業が製作した少しストーリーがダークなタワーディフェンス型ゲームに慣れ親しんでいる者からすれば、その信頼度の値はなるほど的を射ていると言えるだろう。

 

 話が一段落して、しばらくお茶を啜る音だけが続く。弛緩した空気が部屋の中に充満し、アビスが徐にプレイヤーを取り出した。

 落ち着いた炎国風の音楽がイヤホンに伝う。シーが普段閉じこもっている世界のような情景が想起され、目を閉じて深く味わった。

 

 鬱蒼と空を覆う木々の隙間から見えるのは、悠々と蒼天を横断する自在の姿。木漏れ日が照らす大地の香りが心の緊張を解きほぐす。

 次いで映し出されたのは、穏やかな流れの河川。両脇に聳え天を衝く岩山はしかし圧迫感など与えず、むしろ安堵さえ覚えるような美しさを持っていた。川の流れには舟を任せ、心地よい揺れには体を任せ、アビスは幻想を一身に感じていた。

 

 花鳥風月が相次いで浮かんでは消えていく。名残惜しい別れの数と素晴らしい出会いの数は全く同じであり、そしてそれは浮かぶ情景の数とも等しかった。

 

 そんなアビスの肩が何かに叩かれた。

 目を開いて片耳のイヤホンを外してみれば、エイプリルが手のひらを差し出していた。

 いつのまにかエイプリルが座っていた椅子もアビスの方に寄せられている。

 

「……聴きますか?」

 

「それ以外にある?」

 

「ありませんね」

 

「それならそういうことだよ」

 

 外していたイヤホンをエイプリルが取る。アビスは小さく笑うと、外していなかった方のイヤホンを耳から取った。

 

「エイプリル、付けるイヤホンは──」

 

「へえ、こんな曲聴いてるんだ」

 

 エイプリルの肩がアビスの方に触れる。それぞれ外側の耳にイヤホンを付けているのだから、距離が縮まるのは当たり前だ。

 

「ん?アビス、どうかした?」

 

「……はあ。何でもありません」

 

「そう?」

 

 アホらしい。

 

 自身の当惑をそう結論付けて、アビスは流れる音楽に耳を傾けた。エイプリルがそうしているように、またアビスが先程までそうしていたように、瞼の裏に絵画の如き山紫水明を思い描く。

 

 落ち着いた雰囲気はより一層の心地良さを作り出し、それは話していた時の雰囲気よりずっとゆったりとした空気感を感じさせる。

 

 

 

 二人、夜が更けていった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十八 調査は足で稼ぐ

 

 

 

 

 太陽が燦々と道路を照らしていた。敷かれたアスファルトは熱を溜め込むばかりで外に出さない。周りのみんなは迷惑してるのに、自分だけ平気そうに熱くなってる。まるでボクみたいだ。

 

 らしくもない冗談は口から出すことなく、ボクは視線を上に逸らした。上とは言ったって、アスファルトはボクが居るベランダから直下のところにある。だからそう、至って普通にビル街を見渡したんだ。

 丹塗りの手摺はまだそう熱くない。日が昇ってからあまり時間が経っていないのだから、それも当然だった。ここでタバコでも吸っていれば映えるんだろうけど、生憎とボクは持ってないし、禁止されてる。仕方なくコーヒーで我慢する。

 少しくらいお酒を飲んだっていいかな、なんて考える。でもこの前ホテルで飲んでたことを知ったエイプリルが結構怒ってたし、やめておいた方が賢明かもしれない。

 結局ボクはコーヒーに口をつけた。

 

 

 

 圧縮ビスケットを食べた後、鎮痛剤を打った。腰掛けにして体重もかけると、ベッドに体が沈む。源石抑制剤も打っておくけど、ここまで来たならもう打たなくたっていいような気がしてくる。実際アンデッドの件が済んだならもう用なんてない訳だし。

 少し外に出て、ビニール袋片手にまた戻ってきた。受付を通り過ぎる時に気がついたけど、明日にはホテルのチェックインをまた更新する必要がある。貴重品はいつも持ち歩いてるから最悪処分されても構わないけど、それはボクに限っての話だ。エイプリルには話しておく必要がある。

 

 テーブルの上に買ってきた食べ物を置く。青茶ばかりだと飽きるかもしれないから、飲料も買ってきた。中々久しぶりにこんな買い物をしたものだから、かなり変な感じだ。

 

 ビニール袋がガサガサと音を立てて、ようやくエイプリルは起きたようだった。

 

「んむ……んぅ?アビス……?」

 

「おはようございます」

 

「うん、おはよ。目がしょぼしょぼする」

 

「そうですか」

 

 エイプリルは寝惚けていた。ゼルさんの車の中でもそうだったし、あまり寝起きがいい訳ではないんだろう。

 それとなくペットボトルのお茶を勧めてみれば、エイプリルは特に何も考えていないような様子でそれを手に取った。蓋を開けようと力を込める。開かない。もう一度力を込める。開かない。

 

「開けましょうか?」

 

「お願い」

 

 まるで子供の世話をしてるみたいだった。蓋を開いてエイプリルに渡せば、両手で持って飲んでいる。昨日までは気にならなかったけど、なんだかハムスターの食事風景のようだった。

 

「……なんでアビスが居るの?」

 

「ここがボクの部屋──ボクがチェックインをしたホテルの部屋だからです」

 

 ようやく頭が回り始めたのか、エイプリルは部屋の中を見回した。それで椅子を配置を見て、ようやく納得したようだった。

 

「あー、えーっと、寝ちゃってた感じ?」

 

「はい」

 

 簡潔にそう答えると、エイプリルは気不味さを誤魔化すように笑った。まさかあのまま二人とも寝入るなんて、ボクと同じようにエイプリルも思っていなかったんだろう。

 一頻り苦笑した後、エイプリルの視線は再度テーブルの上に向いた。

 

「これ、あたしが食べてもいい、んだよね?」

 

「そのために買ってきたものですよ」

 

「レシートはある?」

 

「ボクが勝手に用意したものですから、代金なんて気になさらないで結構ですよ」

 

「そういう訳にも……」

 

「いいんですよ」

 

 エイプリルが飲んだペットボトルのお茶を飲む。

 

「ボクもちょうど、飲み物が欲しかったんですから」

 

 少し気障ったらしい気もしたけど、エイプリルは笑って流してくれた。次いで、サンドイッチの包装を破る。このホテルにもしキッチンがあって、そして最低限の食材があればボクが作っても良かったんだけど。

 現在時刻は午前九時を過ぎたところ。ベランダの手摺はきっともう触っていられないくらい熱くなってるはず。そろそろ動き出してもいい頃合いだ。でもエイプリルの準備だとかを考えれば、午後からの活動が望ましいかなとも思う。

 

「それでは、十二時半くらいには調査を始めるつもりで準備をよろしくお願いします」

 

「分かった、十二時半ね。でももっと早くていいよ?」

 

「そうですか?……いっそエイプリルの準備が出来次第ということにしておきましょうか。急ぐ必要はありませんからね」

 

「分かってる」

 

 充電を終えたプレーヤーにイヤホンジャックを差し込んだ。昨日とはまた別の曲を聴こう。『エイプリル』を聴くのもいいし、偶には『Ready?』から聴くのも良いな。

 

「ねえ、アビス」

 

「何ですか?」

 

 吟味していると、エイプリルから声がかかる。少しだけ照れた様子でテーブルの上にあるもう一つのサンドイッチを指差していた。

 

「食べないんだったら、これ貰ってもいい?」

 

「ええ、勿論。そのつもりですよ」

 

 そういえば、症状について話したことはなかった。きっと死ぬまで話すこともないはずだ。エイプリルの興味が余程向いたのなら、話したって良いけど。

 

「ん、ほうひたの?」

 

「何でもありません」

 

「ほふ」

 

 鉱石病が悪化したら、どこか遠いところに行って……そのままふらりと消えてしまっても、それはそれでいいかな。

 エイプリルが今のように過ごせないなら、そしてラユーシャがショックを受けるくらいなら、誰もボクのことを知らない場所で死んだ方が、ずっとマシかもしれないな。

 

 少し迷って、ボクは『End Like This』を再生した。『エイプリル』や『Ready?』も良い曲だけど、今の気分にはそれがきっと似合っていたから。

 

 誰よりも気高かったサルカズの戦士。

 その結末は誇りと共に。

 

 

Yeah(ああ、),I think I've always known(ボクはずっと前から思ってたんだ),     

      It would end like this!(こんな風に終わるんだろうってさ)

 

 

 少しだけ、手に力が入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「呼んだのは君達か」

 

 壮年のループスがそう言いながら腰掛けた。丸眼鏡のレンズが小さく煌めき、その顔からは何の感情も読み取れない。

 彼が入店してからは立っていたボクやエイプリルも向かいの椅子に腰を落ち着ける。

 

「ご足労いただきありがとうございます」

 

「ふん、職場から歩いて五分もかからない場所だ。足労と言われる程ではない。まさか食事時に呼ばれて出向いた先がただの喫茶店だとは思わなかったがね」

 

 偏屈。失礼だけど、そんな二文字が頭に浮かんだ。

 たぶん責められているんだろうけど、ただ否定することが癖になってるだけのような気もする。

 

「場所を変えましょうか?」

 

「そんな面倒な事をするわけがないだろう」

 

「失礼しました。それでは、こちらのメニューをどうぞ。この喫茶店はランチに力を入れているようでして、中々選択肢も豊富なようですよ」

 

 リラさん曰く、スイーツだけじゃない、だとか。下見をしていた時のことがこんなところでも活かされるなんて、やっぱりリラは凄い。もしまた今度リラさんと会ったなら、全力で貢がせてもらおう。迷惑にならない範囲で。

 

「要らん。注文は決まっている」

 

「差し出がましい真似でした。申し訳ありません」

 

 どうしよう、どうすれば失礼に当たらないか分からない。食事の時間にお邪魔させていただいてる訳だから食事を優先するのは適当?話が話だから、食事が終わった後に切り出すべきかな。

 まあ、最悪この人──葬儀屋からの情報がなくたって調査は出来るんだけど。

 

 店員の方を呼んで、注文をする。エイプリルは朝ご飯が遅かったから、ボクは食べられないから遠慮しておいた。

 注文の品が来るまで、沈黙が続く。

 

「シルヴェスターのことで呼んだんだろう」

 

「はい。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」

 

「時間をやった覚えはない。ただ君達は同席しているだけの他人だ。そこを間違えるんじゃない」

 

「すみません、勝手な思い違いを致しました」

 

 この人、もしかして怒ってる?それともいつもこんな感じ?どっちも同じか、初対面の人に怒る人と初対面の人に対しても人当たりがあまり良くない人なら。

 呼び出したのはボクの方だから、まあそういう態度でも仕方ない。もしここで怒ったりすれば、礼を欠いているのはボクの方だ。

 

「食前やお食事中に話す内容ではありませんから、食後にという形になりますが……」

 

「そんな気遣いは無用だ。君との通話で何のために昼食の時間を選んだと思っているんだ。勘違いしているようなら言わせてもらうが、それは君達との会話に割くような時間がないからだ」

 

「理解が及ばず申し訳ありません」

 

 謝罪のレパートリーがもうないのですが。

 

「そして君の言葉に応じたとしても、君の要求に応じるとは限らないだろう。君は談笑したかったのではないはずだ、礼を尽くしたい訳ではなかったはずだ。下手な敬いが癪に障る」

 

 そこまで否定せずともよくありませんか。

 

「さっさと用を済ませて帰れ。それが両者の最大利益を生むことになるだろう」

 

 そう言って、彼は言葉を区切った。恐らくそこまで悪い人ではないのだと思う。そこまで悪い人ではないのだろうけど、変な人だ。

 

「それなら早速本題に入らせてもらうけど」

 

「断る」

 

 えっ?

 

「断ると言った。聞こえなかったのか」

 

 ……えっ、と?敬語を外すのはアウト?

 

「用件は分かっている。君も、彼と同じことで同席しているんだろう?」

 

「そうだけど」

 

「それならば、話すことなど何もない」

 

 エイプリルと顔を見合わせる。

 予想は出来ていたことだけど、なんて言うか、こういう感じで言われるとは想定してなかった。まあいいけど。言われ方で何か変わる訳じゃないし。

 

「プライバシーの話は分かる。秘匿する義務があるということは理解しているつもりだから」

 

「プライバシー、だと?」

 

 不快そうに顔を顰めた。

 

「それだけの話だと思っているのか?あのシルヴェスターに関してそれだけの話だと?」

 

「何か違う?」

 

「ああ、違うな。そもそもの話だ、シルヴェスターが死んだことについて知っている君達がどうして──」

 

 急に彼が喋るのをやめて、口に手を当てた。

 

「いや、まさか……」

 

 何故だかエイプリルの方を睨む。その目の中にあるのは驚愕と敵意で、咄嗟に取り出したナイフをテーブルの下で構える。

 彼に戦闘の経験は見た感じないし、エイプリルのようなオペレーターなら最低限近接も出来るだろうけど、警戒にやり過ぎるなんてことはない。

 

「話は終わりだ」

 

 彼が席を立つ。何故そんなに焦っているのか分からないボクに、彼を止めることは出来ない。それを何とか出来る可能性はあったかもしれないけど、でも無理してまで彼から話を聞きたい訳じゃない。

 

「もし本当に聞きたいなら、君と二人の時だけだ」

 

「ボクと二人で?」

 

「そう言っている」

 

 ボクと二人きりでっていうのは、つまりエイプリルに席を外してもらいたいってこと?なら、何故エイプリルに聞かれたくないんだ?特に話さず同席しているだけだし、それ以外の条件はボクと同じだったはず。

 

「出来ないのなら、諦めることだ」

 

「理由は?エイプリルを疎う理由が分からない」

 

「アビス、あたしが聞いていなければいいんじゃないの?」

 

「ええ、そうですね」

 

 でもそれで丸く収まるのは今の事態だけ、もし何かあったならそれを根本から改善するべきだ。

 あとエイプリルを悪く言われたみたいで不快だから、ちゃんと事情聴取はしておかなきゃいけない。

 

「理由を言う訳にはいかない。少なくとも話を聞く前の君に対して言うことはない」

 

 なんだ、何を気にしてるんだ?

 何の意図がある?何の目的がある?

 

 ──分からない。

 

 理解できない。理由なんてあるわけがない。見当たるわけがない。なんてったって初対面の相手にそんなことを言う必要なんてどこにもないんだから。

 

「分かった、それでいい」

 

 もう、いい。

 

「呼んで悪かったよ、ボクは次を当たることにする」

 

 強引な結論だけど、体裁として使ったってことにしよう。ボクやエイプリルを追いやる都合のいい体裁。そうじゃなきゃ、どうしてそう言っているのか全く理解できない。そんなことをされる謂れなんて絶対にありはしない。

 

 彼は少しだけ躊躇った後、店を出て行った。

 

「アビス、本当に良かったの?」

 

「説明は不要でしょう」

 

「でもそんなに怒るなんて、意外だったからさ」

 

「先日のことをお忘れですか?」

 

「先日?」

 

 

『エイプリルさんのことも大切ですよ』

 

 

「…………あー、うん。忘れちゃった」

 

 その反応でそれは無理があると思います。

 

「その様子では心配など要らないかと思いますが、ご不快に思われませんでしたか?」

 

「なんでそんなこと言うんだろうとは思ったけど、不快ってほどじゃないよ。あと、それは不快にさせた人が言うセリフだから」

 

 それなら、いいか。

 

 シルヴェスターの調査を始めたのはボクだ。調査対象に葬儀屋を入れたのはボクだ。あの人を呼んでほしいと言ったのも全部ボクで、何ならロドスから連れ出したのもボクのせいだったかもしれない。

 きっとボクがアンデッドに会いたいと思っていなければシルヴェスターの葬式に参列することはなくて、それでこんなことにはならなかった。

 

 全ての責任はボクにあって、エイプリルが不快になったならボクはそれを気にするべきだ。

 

「ほら、アビス。さっさと次に行こうよ」

 

「そうですね」

 

 腕を引かれて、ボクはエイプリルと喫茶店を出た。待っている間に注文した代金の仔細が分からなかったから適当に2000龍門幣をレジに置いておく。

 

「別に必要ってわけじゃないんだから、切り替えてこ?」

 

「分かっていますよ」

 

「本当に?」

 

 エイプリルを見る。

 その顔は至って真面目だった。

 

「そんな怒っているように見えますか?」

 

「うん」

 

 そんなつもりはないのにな。

 

「あの人が出てくまではそこまで露骨でもなかったけど」

 

 それなら良かった。隠さず伝えてしまいたい気持ちもなくはないけど、最低限の格好は普通気にしておかなければいけない。

 

「お気遣いありがとうございます」

 

「いーえ。どうせなら堅苦しくない言葉で欲しかったけど」

 

「信頼度が足りません」

 

「またそれ?」

 

 呆れたようにエイプリルがボクを見る。ボクだって本気な訳じゃない、信頼度が足りてないなんてのも嘘なんだから。そもそも話す口調と信頼度が関係あるはずないよ。

 

「……今度買い物に行く時も、敬語外してもらおうかな」

 

「謹んでご遠慮したく存じます」

 

「わ、珍し。アビスが煽るなんて」

 

 いや煽ってなんかないですけど。

 

「本心からの言葉ですよ」

 

「結構煽るじゃん。このこのっ」

 

 ちょっと、あの、普通にそこそこ痛いんですが!?

 

「てぇいっ!」

 

「いったぁっ!?」

 

 あー、もう!

 絶対タメ口なんか利きませんからね!

 

 

 

 

 

 さて、ということで到着したのはシルヴェスター社。他の社員から話を聞きたいということで、あのザラック──シュエンは今もデスクワーク中。

 

 受付にシルヴェスターさんからの手紙を見せると、少しゴタゴタがあった後『見学』と書かれた、オフィスで首から提げているのをよく見るあのネームホルダーを渡された。鍵がかかっている場所は出入りできないけど、それ以外なら問題を起こさない範囲で自由に動けるらしい。

 一応大きすぎる武器は他の社員の迷惑になるかもしれないとのことで、エイプリルの短弓は没収されていた。一応短剣を手渡しておくと受付嬢の方が『趣旨分かってる?』という顔をされたので、仕方なくエイプリルは非武装で動き回ることになった。

 

「なんていうか、暗いね」

 

 オフィスを見ての感想、それの第一声はそんな言葉だった。ボクもエイプリルに同意する。陰鬱な雰囲気がほぼ全域に漂っていて、業務に励む社員でさえその節々に影があるように見えた。

 

「シルヴェスターさんの訃音がそれだけの影響を持っていたということでしょう。少し不謹慎かもしれませんが、素晴らしいことです」

 

 人が死んだことで、どれだけの人が悲しむのか。創作物の中では、それを物差しにして人生の価値を測るような登場人物さえ居るらしい。所詮は創作物だけど、でもその主張に少しの正当性があることは否めない。

 

 死に際に人生の価値を少しでも高めようと奔走する青年。ボクはそんな風になりたくない。悲しまれたかったとしても、悲しませたくはないって思うから。それは何もなかったことにしなければいけない、誰も救われない欲だ。

 

 シルヴェスターさんの死はボクよりかなり遠いところにある。少なくとも、葬式で涙を流すほど近くにはなかった。そこまで胸中は荒れなかった。

 だけど、『死』という事象をこうも見せつけられると考えずには居られなくなる。ボクとシルヴェスターさんが近い存在であるように思えてくる。実際はボクの方がずっと価値のないものなんだろうけど。

 

「アビスも、あたしに悲しんでほしい?」

 

「いいえ、そんなことはありません」

 

「ダウト」

 

 そう言われたって、真実そうだったとしても認められないよ。近しい人が悲しんでいるのを見たい人なんて居るのなら、人の心が仕事をしてないと思う。親しい人を、大事な人を──リラを泣かせたいなんて、言っていいはずがない。

 仮にもしそう思う人が正常な人たちの中に居たとしても、ボクはその括りに入らない。ずっと心から笑っていてほしい。

 

 だから悲しんでほしくたって、言えない。

 死者は生者に弁えるべきだ。価値があるのは紛れもなく後者の方で、だからボクはお墓の下に埋まるまで、惜しまれたいなんて言葉は封印するべきだ。

 

「あたしはたぶん、アビスが死んだら泣くよ」

 

「ボクはエイプリルが死んだら友人代表で弔辞を書きますよ」

 

「そういう話じゃないけど!?」

 

 そもそもボクがエイプリルの友人代表に選ばれることなんてあるのかな。ボクと違ってエイプリルは社交的な人だし。

 

 談笑しながら歩いていく。ガラスのパーテーションで区切られた向こうはコールセンターらしく、社員の方々は忙しなく響く電話の応対に手一杯みたいだ。

 

「ねえ、アビス。あれって……」

 

 エイプリルが指を差した先。

 どう見てもこのオフィスはまだ早いだろう子供が廊下を歩いている。ネームホルダーは提げていない。

 

「こんにちは」

 

 エイプリルが声をかける。

 

「どうしたの、こんなところで」

 

「うるさい。話しかけるな」

 

 背格好からして、十歳くらいかな。子供は好きだ。大事にしなきゃいけない。絶対に守らなきゃいけない。そんな存在で、でもそれは義務じゃダメなんだ。

 ──なんて、まだ子供のボクが謳う文句じゃないけど。

 

「黒っぽい茶髪に、コータス?」

 

「ね、もしかしてお父さんだとかが働いてるの?」

 

「……ああ。そうだ。何か悪いか」

 

 何故か少しだけ威勢が弱くなった。ボクが眼中にないくらいエイプリルに注目している。もはや睚眥(がいさい)と言っていいくらいの目つきで、少年はエイプリルを睨んでいた。

 

「ううん、良かった」

 

 エイプリルが笑顔で言う。

 

「お父さんがどこに居るのか分かる?」

 

「──────ッ!!」

 

 少年が顔を顰めた。

 怒りと、憎しみと、少しの殺気すら漂わせて。

 

 少年は何も武器を持っていないから、戦えばエイプリルは無傷で勝利する。だけど少年がその手を握り固めたのはエイプリルが膝をついてしゃがみ込んでいる今だった。

 

 どうしてそう怒ったのかは分からないけど、やろうと思えば手を上げることが出来るタイミングで、発された殺気。

 

 割って入るしかない。

 

 ボクがそう思ってエイプリルの前に出ようとした、その瞬間のことだった。

 

 

「これはこれは、何をしていらっしゃるんですか」

 

 

 ガヅィアがそう言って、少年の肩に手を置いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五十九 黒幕との対話

 

 

 

 

 

「それは災難でしたね」

 

 シュエンがそんな言葉と一緒に二つカップを差し出した。冷房がよく効いている休憩室では、外とは違ってホットコーヒーを美味しく感じることが出来そうだ。

 ボクは一つお礼を言って、一口飲んだ。

 

「まさか初めて訪問してガヅィアとスティーヴンに鉢合わせるだなんて、運が悪いとしか言えないですよ」

 

「少年の名前はスティーヴンと言うのですか」

 

 ガヅィアたちから読み取れた情報は余りにも少ない。そもそも途中でスティーヴンが走り去ってしまったから、探り合いだって出来ていない。

 

「彼は、スティーヴン゠シルヴェスター。数年もすればこの社長の跡取りとなる人です」

 

「それは……!」

 

「まあ、子供居てもおかしくない人だったよね。むしろまだあんなに小さいっていうことの方にびっくりしたよ」

 

「確かシルヴェスターさんの方は五十歳と少しでしたよね?」

 

「そうです、行年五十二歳です」

 

 五十二歳と、十歳か。きっとシルヴェスターさんは働き詰めの生活を送ってきたんじゃないかな。業務に熱心でなければ、こうしてシュエンのような新入りに偲ばれることもなかっただろうから。

 

「彼は何故会社に?」

 

「後を継ぐ者として研鑽するため──と言えば聞こえの良い言葉ですが、実際はガヅィアらに接待されているだけです」

 

「一体どうしてそんなことに?」

 

「シルヴェスターさんが持つ唯一の欠点を、ガヅィアが突いたまでのことです」

 

 ……その欠点ってまさか。

 

「親バカだったんです」

 

 本当に、馬鹿みたいな話だ。

 

「シルヴェスターさんはスティーヴンを、それはそれは甘やかしてきました。遂には、次期社長に指定してしまうほどでした」

 

「なんとか出来なかったんですか?」

 

「それだけで終わったのなら我々で諌めることも出来たんですが……ガヅィアがそれに賛同してしまったんです。ツートップがそれをさも名案のように言うものですから、彼らに気に入られるため幹部達は同調せざるを得ませんでした」

 

 最悪じゃないか、シルヴェスターのワンマン経営でもなかったはずなのに。……いや、違うか。

 

「シルヴェスターさんからスティーヴンへ、扱いやすい方に乗り換えたと見るのが妥当でしょうか。社内でのスティーヴンの立ち位置はどうなんですか?」

 

「シルヴェスターさんの息子ですから、少なからず期待している社員は居ます」

 

「となれば、確定的ですね」

 

「王位争いみたいな話?」

 

「言ってしまえば、そうです。王子を傀儡として宰相が王を暗殺する。演劇の筋書きとしては及第点でしょう」

 

 現実にそれが起こったなんて考えたくもない。けどガヅィアが何を考えているかなんて全く分からないのだから、最悪を想定して動くべきだ。

 

『──────ッ!!』

 

 スティーヴンの様子が脳裏に映し出される。

 エイプリルの掛けた言葉は間違いだった。父親を亡くしてすぐの子供にその場所を尋ねるなんて、絶対にしてはいけないことだった。

 彼は父親のことを聞かれて、他社に死んだという事実が漏れることがないよう取り繕おうとすることが出来ていた。それは偏に父親への尊敬があったからだと、ボクは思う。

 

「親と子供って、そんなに特別なモノなのかな」

 

 エイプリルがふと、呟いた。

 コーヒーメーカーでお代わりをドリップしているシュエンの耳には入らなかっただろうけど、隣に座るボクはちゃんと聞き取れてしまう訳で。

 

 ボクは血縁関係にある親を、実はリラに会うための踏み台としてしか見ていない。父も母も優しかった、けどそれだけだ。

 虐められたボクを気にしてはくれたけど、共働きで遅くまで帰ってこない二人が気づいたのはボクが虐められてるって言ったから。我儘かもしれないけど、言わなくても気づいて欲しかった。

 

 親を亡くして喪失感はあった。悲しくなった。でもその全ては全部リラが塗り潰してくれた。今もそうだ、拠り所を失くしたボクはリラに縋って生き延びている。

 ロドスが新しい拠り所になる──そう思っていたことがかなり昔のように思える。ボクにとっては親もロドスも同じことだ。リラだけがボクの救いなんだ。

 

「特別ですよ」

 

 それでも、そう言った。

 そう言わなきゃいけない気がした。

 

 ボクにはリラだけでいい、そう思っていたのに、ボクはその言葉をいつのまにか紡いでいた。

 

「そういうものなの?」

 

「そういうものです。とは言え、特別であることそれ自体は、そう特別なことじゃありません」

 

「特別なものはいっぱいあるってこと?」

 

「はい。でもその特別の中で、家族という関係は必ず一生続きます。生まれた時から、死ぬその時まで。もしエイプリルにそれを認識したことがなかったとしても、家族という特別がなくなることなんてありません」

 

「……そういうものなの?」

 

 エイプリルがそう言いながら、少し遠くの方を見るような目をする。

 

「恐らくそんな感じです」

 

 エイプリルがボクの方を見る。

 

「ふわっとしてるね」

 

「どんなテーマにも確固たる考えを示せるほど出来た人間ではありませんから。家族が居なかったなら、そう細かく考えなくてもいいとボクは思います」

 

「そういうものなのかな」

 

「恐らくそんな感じです」

 

「……そっか。そうかもしれないね」

 

 エイプリルがボクにつられたように笑う。

 

 分かっていることより分からないことの方が多い。生きていく中で、理解できるものと出会う数より理解できないものにぶつかる数の方がずっと多い。

 それなら、多少考えなくたって同じことだ。答えのない問いすらあって、それでも解答を求めるのは傲慢だ。

 

「それに、家族のつながりが必ずしも良いことを運んでくるとも限らないのです」

 

「従兄妹の子の話?」

 

「ええ、まあ。ラグと言います。叔母(しゅくぼ)の娘で、そこまで悪い子でもなかったように思います。ですが、間違った選択をしてしまうほどには愚かな子でした」

 

 話せることは少ない。

 何やらコーヒーメーカーを弄っていたシュエンが戻ってきて、ラグの話は終わりになった。

 

「真実を白日の下に、と仰っていましたよね」

 

「はい。熱っ……」

 

 ああ、何を……大丈夫ですか?本当に?

 猫舌ならちゃんとコーヒーを冷ましてから口をつけてください。っていうかそんな白っぽい茶色になるほどミルクを入れているなら、もう冷めてはいませんか?

 

「それで、何か?」

 

「真実を公にすることは構いません。しかし、その後のことは考えていますか?ガヅィアの殺人を公にすることは、シルヴェスターさんの死を言いふらすことと同義ですよ」

 

「それについては、手を考えています。公には出来ないかもしれませんが、国の力は借りようかと思っています」

 

 公ではない国の力?

 何を考えているのか分からないけど、分からないってことはたぶんそれでいいんだと思う。シュエンが濁したのなら、ボクたちは知らないでいるべきだ。

 ボクたちはシュエンの手伝いをするだけ。それだけやって、黙っていればいい。

 

「休憩がそろそろ終わります。アビスさん達はどうされますか?」

 

「目を付けられたでしょうし、今日のところは帰りますよ。タイムリミットがある訳でもないのですから」

 

「そうですか、分かりました」

 

 シュエンがコーヒーをぐいっと飲んで、シンクに置いた。エイプリルのコップを受け取り、ボクもシュエンに倣ってシンクに置いた。

 休憩室を出る。

 

 シュエンは端的に別れの言葉を言って、向こうのオフィスに歩いていった。そこかしこからシュエンに注目が集まるあたり、印象から受けるイメージの通りだ。

 

「では、行きましょうか」

 

「そうだね。次はどこに行こう?」

 

「そうですね……」

 

 少し考える。行っておきたい場所は何個か浮かぶけど、でも昼下がりから活動するには少し面倒だとも思う。暗くなってから歩き回るのは、たとえ近衛局の近辺であっても危険過ぎる。

 そうして踏み出した先、曲がり角から大きな影がぬっと出てきた。それはボクとぶつかって、小さくない衝撃が間に生まれた。

 

「申し訳ありません、ぶつかってしまいました。見たところお怪我はないようですが、大丈夫ですか?」

 

「ええ、心配は無用です」

 

 ボクの方を慮る男の様子がわざとらしくてイライラする。あと、口調が被ってるんですよ。

 そんな風の言葉を胸の内に浮かべながら薄っぺらな笑顔を貼り付ける。話をしたことはほぼないと言っていいくらいだけど、シュエンから聞いた限りではこの程度の対応が丁度良い。

 ぶつかった相手の目がボクの心を覗き込もうとする。光を失っているはずの右目すら、ボクの方を見透かすようにしている。

 

「先程は失礼を。私はガヅィア、至らぬ身ではございますが、ここの社長補佐を務めています」

 

 差し出された手を握る。ボクもガヅィアも、顔にあるのは紙っぺら一枚よりも薄い笑顔で、友好的なその態度は見せかけばかり。

 

 ──ん?

 

 なんだろう、これは。専門外とは違うけど、あまり触れてこなかった感情。精度が甘いかもしれないけど……怒ってる?ボクたちの存在が厄介だから、そのせいかな。

 いやそんなことはどうだっていいんだ。ボクたちが調査するべきものは他にあるんだから、ガヅィアに手間取っては居られない。

 

「気を付けた方がいいですよ」

 

 エイプリルがそう言った。

 ボクじゃなくてガヅィアに……何を?

 

「軽々しく手を握っては、危ないかもしれません」

 

 そう言って、エイプリルはボクの手を掴んで引いた。意図としては、ボクの軽挙を咎めているのかな。

 

「ほら、噂では偉い人がスラムで殺されたって話も聞きますから」

 

「……ほう、そうなのですか」

 

 違った。ガヅィアを殴っただけだった。

 

「それは部下の謀略に嵌められて殺された──なんてことも言われています。テロリスト以外にも気を配ってみてはいかがでしょう?」

 

「…………ああ、そうですか」

 

 ボクが思ってたよりも言葉切れ味鋭いね!?エイプリルってそんなに言うタイプだった……!?

 ガヅィアは相当頭に血が上ったようで、丁寧な物腰が崩れかけている。加えて額には青筋を浮立たせていて、その状態でよく抑え込めるなぁ、と他人事みたいに思う。

 

「これでも、私は忙しいのです。そろそろお暇させていただきますね」

 

 ピキピキ聞こえてくる。

 

「ええ、どうぞ。元から引き止めるつもりもありませんでしたから」

 

 たぶんエイプリルも怒ってるんだろうな。笑顔がボクと負けず劣らずに薄っぺらい。

 

 ガヅィアがボクたちに背を向ける。

 

「一つだけ、申し上げておきます」

 

 威圧感が増した。

 通路に充満する怒気の発生源は、勿論ガヅィアだ。

 

 

「俺達に手を出せば……」

 

 

 アーツ反応が足元から噴き出すように発現する。

 溶岩のように煌々と昇る赤色の光。

 

 

「容易に逃れられるとは、思うなよ?」

 

 

 黄色が光を得て、金色を獲得する。

 金の双眸はアーツ反応の最中(さなか)にあっても紛れることなく、ボクとエイプリルを射抜く。

 

「ねえ、アビス」

 

 エイプリルが笑って、言った。

 

「先に仕掛けたのは誰だったか覚えてる?」

 

 うわあ、ガヅィアの威圧感に殺気が混じり始めた。なんで今の状況で煽れるんですか、メンタルどうなってるんですか。

 いや、確かに父親を殺しておいて、そのせいで精神的に追い詰められた子供を利用して自分の地位を上げようとしてるクズだけど。

 こうして言葉にすると相当酷いな。しかも今さっき逆ギレして威圧してきたし。

 

「責任は、お前達にもあるだろうが……っ!」

 

「えっ?」

 

 ガヅィアはそう吐き捨てると、向こうに歩いて行った。

 

 何を言ってるのかさっぱり分からない。けど間違いなく言えることは、ボクやエイプリルが悪くないってことだけ。さしものエイプリルも怒りを忘れて不思議そうな顔をして、その次に眉根を寄せた。

 最後まで自己中心的な発言ばかりの人だった。

 

「しかし、どうしてガヅィアは『責任』なんて言葉を選んだんでしょう」

 

「別に言葉なんてどうでも良かったんじゃない?ただ、あたしのことを否定したかっただけで」

 

 ああ、そういう人居ますよね。

 

 ……でもガヅィアは、自分に責任があることを認めているような言葉遣いだった。それに加えて、怒ってるにしては殺意の混じりが遅すぎる。こういう手合いは往々にして最初のうちから殺意があるものだけど、ガヅィアはそうじゃなかった。

 

 何か、ガヅィアにはまだ何かがある。

 

 そう思えてならないまま、ボクはエイプリルと共にシルヴェスターさんの会社を出た。

 

 

 

 

 

 

 マネキン人形がショーウィンドウの中からこちらを見ている。低反射ガラスの檻に囲われて、まるで助け出してほしいなんて言ってるみたいに。

 

「アビス、これ見て!」

 

 燥ぐエイプリルのテンションについていけない。マネキン人形には悪いけど、ボクの方が助け出されたいくらいだ。

 

 ちょっと待って。マネキン人形に意思があることを前提で話すって、思ってるより疲れてない?ほら、ショーウィンドウの中からも同情するような視線が……だから意思なんてないんだって!

 はあ。今日はなんだか上手くいかないことばかりだ。音楽を聴きながら寝てしまっていたのもそうだし、葬儀屋のこともそうだし、ガヅィアの件もある。そして終いにはこんな仕打ちがあるなんて。

 

「おーい、聞いてるー?」

 

「聞いてますよ。マネキンの意思について……って、これは違いますか」

 

「聞いてなかったことよりもマネキンの意思ってワードに引っ張られてるんだけど」

 

「ほら、あれを見てください」

 

「え、うん。……これがなに?」

 

「ボクを見て泣いてくれています」

 

「怖いよっ!?それにどうして!?」

 

 それは自明でしょう。

 ボクがマネキン人形と心を通わせていると、図らずもエイプリルがウィンドウショッピングから離れることになった。

 へえ、あなたの立ち位置はディスプレイデザイナーの方が決めたんですか。中々どうして決まっているではありませんか。

 

「服が少し窮屈、ですか?そうは見えませんが」

 

「怖いって、アビス。やめよう?謝るから。辛いことがあったんだったら話聞くから」

 

「あー、それ分かります。ボクもそうですよ?」

 

「何の話してるの、怖いよ……?」

 

 エイプリルがロスモンティスさんのようになりつつあったので、マネキン人形との会話を中断する。途中からはエイプリルの反応が面白くて適当に喋っていただけだし。

 えっ、途中まで?あはは、あはははは。どうなんだろうね。ボクは知らない。ほら、彼も知らないって言ってるよ。

 

 エイプリルが何故だか怯えた目をしていたので、二人で言葉をかけて宥める。どうしてもっと怖がっているんだろう。

 

「ふ、ふふふ……分かった。そんなにマネキンが好きなら、服屋の中に入ってもらうね。また服も選んでもらおうかな」

 

「あっ、いや、座って見ています」

 

「もう遅い!」

 

 エイプリルがボクの手を引っ張る。

 

「待ってください、せめて一度喫茶店にでも入って休憩を取りましょう!」

 

「ダーメ、それは二、三軒回ってから!」

 

 ボクが女性服のコーナーから感じている居心地の悪さをもっと理解してください!あと人の服選びなんて興味を持てる男は居ませんよ、たぶん!個人の見解ですけど!

 

 ぐぐぐぐ、と力が拮抗する。服屋の前でこんなことしてるのは迷惑になるだろうけど、そんなことは言ってられない。ウィンドウショッピングで削られた体力を喫茶店で回復して、それで初めてスタートラインだ。譲歩は出来ない。

 

 ぐい、と引っ張られた。

 

 ぐい、と引っ張り返した。

 

「エイプリル、いい加減に……」

 

 いい加減にしてください。そう言おうとしたところで、ボクの背中にナイフが突き立てられた。

 

「──っ!?」

 

 違う、本当に突き立てられた訳じゃない。

 ナイフが心臓のすぐ前に構えられた時と、同じくらいの鋭さを持つ殺意がボクに向けられたんだ。

 莫大な殺意はすぐに萎んでいく。まるで荒れ狂う感情を押さえつけた時のようで、それはボクがアーツを使った後の片付け方に酷似していた。

 

 エイプリルの方に引っ張られて、蹈鞴を踏む。突然背後の方を警戒し始めたボクをエイプリルが訝しんでいる。

 ……ちょっと、距離が近いですね。

 

「あっ、ちょっと。観念しなよ、アビス」

 

「今の状況で腕を取るのだけは勘弁してください」

 

「今の状況って、何が……」

 

 人混みの向こう。

 殺意のあった方角で、群衆に紛れて手が挙げられた。白い綺麗な手が割と高い位置まで上げられている。

 

 

「やっほー、二人とも。調子はどう?」

 

 

 そうして顔を出したのは、リラさんだった。

 

「最高ですよ。リラさんが居ましたから」

 

 まだ腕を掴んでいたエイプリルの手を引き剥がした。割と強い力で掴まれていたけど、今はそういう場面じゃない。リラさんの対応に障害なんてあってはならない。

 

「言うじゃん、エイプリルとよろしくやってるくせに」

 

「いくら仲の良い人が隣に居たとしても、リラさんの尊さが掻き消えることなどありえませんよ」

 

「アビスって非常識なの?それともピュアなだけ?」

 

「どっちもだと思うよ。久しぶり、って言うほど日数空いてないか。ご機嫌よう、リラ」

 

「何そのお上品な挨拶。私も使いたいんだけど」

 

 上品なリラさん見てみたい。

 

「ご機嫌よう、アビス」

 

「好きです」

 

「へぅっ!?」

 

 好きです。

 

「アビスって、確かリラと同じくらいあたしが大切だって言ってなかった……?あれが嘘なの、それともいつもは押し隠してるだけなの?」

 

「エイプリル、どうかしましたか?」

 

「な、何も!?」

 

 絶対何か言ってたと思うけど。あ、もしかして上品なリラさんにノックアウトされてたのかな。やっぱり可愛かったですよね、尊かったですよね、分かりますよその気持ち。

 

()()()()()?」

 

 リラさんが不思議そうにエイプリルの名前を口に出した。視線はエイプリルじゃなくてボクの方を向いていて、何か考え事でもしているような雰囲気。

 何を考えているんだろう?

 

「アレってリラと会った後だった?」

 

 アレ?

 

「ほら、あたしの呼び方」

 

 あ、えっと──ああ、そのこと。

 

「そうですね、リラさんに会ったことを話した後でした」

 

 ようやく合点がいった。リラさんの疑問はボクがエイプリルのことをさん付けで呼ばなかったからだ。以前敬語のことにも触れていたし、リラさんの記憶に残っていたんだろう。

 

「やっぱり呼び方変わってるよね、気のせいじゃなかった。……私の想像以上によろしくやってたんだ、ふーん」

 

 ボクはどうして呼び方についてすぐ思い至らなかったと言うと、もう呼び捨てが自然すぎて全然気付かなかったから。敬語もそのうち崩されそうだ。

 それはそうと、拗ねてるリラさん可愛くない?

 

「リラさん、機嫌を直してください。何をすればいいですか?いえ、何をしていいのですか?」

 

「なんで積極的に貢ごうとしてるのかな?」

 

 それはもちろん、ボクがリラさんに心から感謝しているからですよ。リラさんが心から欲していれば──いや、リラさんのためになるならば、どんな人の首だって捧げますよ。今はアンデッドのことがありますから、少し後のことにはなりますが。

 

「ねえ、リラはどうしてここに?」

 

「んー、ショッピングかな」

 

 オーキッドさんって呼んだら龍門まで来てくださるかな。あの人ならリラさんをより高みに押し上げてくれる。エイプリルも居るし、三人合わされば確実にボクがキャパオーバーで死ぬ。間違いない。

 

「でも、財布は持ってなさそうだよね。荷物もないし」

 

「へっ!?……あー、うん。ウィンドウショッピングってやつだよ」

 

 そちらですか。いいと思います。きっと、リラさんに見られたマネキン人形も嬉しいって言いますよ。

 

「アビスがニッコニコなの、ちょっと不安なんだけど。ねえアビス、今は何考えてるの?」

 

「リラさん、ボクは口に出すとリラさんに引かれるかもしれないと思って口を閉ざしているんです。あまり無警戒だと困ってしまいますよ」

 

「ご、ごめん」

 

「ちなみに今はマネキン人形もリラさんに見られて嬉しいだろうなって思ってました」

 

「想像の斜め下を穿ってきたぁ!ってか結局言うじゃん!マネキン人形に自我芽生えてる!?なんで言ったの!?待って、二つのインパクトが同時に襲ってきたせいでツッコミが交互に出てる!」

 

 流石リラさん、器用ですね。

 

「私が凄いってことではないよ!?」

 

「リラ、今アビスは口に出してなかったよ」

 

「でも顔に書いてあるから思わず!!」

 

「リラ、一旦落ち着いて。アビスって割といつもこんな感じの時あるから」

 

「えぇ……」

 

 ボクそんなにいつも暴走してますか?

 

「あっ、そうそう。アビスとエイプリルには忠告しておくことがあったんだ」

 

「忠告、ですか?」

 

「そう。忠告。まあ、大丈夫だと思うけど、一応ね」

 

 リラさんはそう言って、真面目な顔をした。

 

「もしスラムでサルカズの大男を見かけたら、その場からすぐに離れた方がいいよ」

 

 スラムって……ああ、そういえばリラさんと初めて会ったのはスラムの情報屋が居る場所だった。リラさんとスラムがマッチしなくて、すぐに思い出せなかった。

 

「それで、その人がどうかされたんですか?」

 

「なんか偉い人らしいんだけど、何を思ったのかスラムによく出入りしてるの。最近来たばかりの二人は、それ知らないでしょ?」

 

 偉い人で、サルカズの大男?

 

「その人って……」

 

 

 

「隻眼で、ガヅィアっていう人なんだけど」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六十 前日の話

 

 

 

 

 

『隻眼で、ガヅィアっていう人なんだけど』

 

『その話詳しくお聞かせ願えますか?』

 

 

 

 

 リラに別れを告げた後、アビスとエイプリルは宿に戻ってきていた。スラムで調査を行うなら、数時間で日が落ちる今の時間帯では少々伴う危険性が高すぎると見てのことだった。

 元よりアビスが想定していた情報収集の場にスラムも入ってはいた。だがその中で優先度はほぼ最低だ。殺害現場は計画殺人において一番力を入れる場所だろうし、だからこそ葬儀屋などという回り道をしていた。

 

 だがスラムと何かしらの繋がりがあるならば話は別だ。

 ガヅィアがスラムを訪ねた理由は下見に終わるはずもなく、であるからには何かしらの組織とコンタクトを取っているはずだ。少なくともアビスならそうしている。

 組織である以上、文書も存在しなければおかしい。殺人の隠蔽に関して口約束程度で済ませられる訳がない。源石機器の履歴であったにしろ、調査すれば何かしらの粗は出てくるはずだ。

 

「一気に目標へと近付きましたね」

 

「うん、あそこでリラと偶然会えたのは大きかったね。スラムには明日行くってことでいい?」

 

「それでいいでしょう。どれだけスラムに食い込んだ組織なのかは分かりませんが、小さければ情報屋を、大きければその組織の解れを当たればいいだけですから」

 

「もし完璧だったら?」

 

「会社を巻き込んで糾弾します。シュエンを矢面に立たせるのは悪いですが、致し方ないことでしょう」

 

 ホテルのフロントを抜けて階段を上がっていく。それなりに綺麗ではあったが、いかんせん狭いため声がよく響く。響いたからと言って何かあるわけでもないのだが、どこか会話が憚られるのは事実だ。

 階段を登り、廊下を歩き、鍵を開いて部屋に入る──直前、アビスはその足を止めた。

 

「わっ、と。突然止まらないでよ」

 

「えっと、すみません……?」

 

「ほら、早く入って入って」

 

 背を押されて、アビスは仕方なく部屋に入る。自分より階段側にある部屋の前で何故か止まらなかったので不審に思ったのだが、どうやらエイプリルはアビスの部屋に足を踏み入れることを自然なことだと思っているらしい。

 ロドスのオペレーターは親しみやすいと思っていたが、自分で感じてみれば中々どうして強い衝撃となっていた。プレーヤーを接続したままになっていたイヤホンを外してテーブルの上に置けば、流れるような動作でエイプリルがスピーカーを接続させた。

 

「何聞くー?」

 

「エイプリルがお好きなもので構いません」

 

「それじゃ『Lily of the Valley』ね。入ってる?」

 

「追加してはいますが、消していませんよ。順番が何番目かは分かりませんが『Renegade』より少し前だったような気がします」

 

「オッケー」

 

 何度か曲を飛ばすと、目当ての音楽が流れ始めた。

 

「『Lily of the Valley』……スズランちゃんと同じ曲名なんだよね」

 

「何がですか?」

 

「『Lily of the Valley』は極東の言葉でスズランって言うの」

 

「へえ、中々洒落たコードネームですね。女性ですか?」

 

「……アビス、知らないの?」

 

「はい?」

 

「いや、別に知らないならそれでもいいけど」

 

 件のヴァルポを思い描く。エイプリルよりも20cmほど低い身長、そしてその背丈と比して劣らない長さのアーツロッド、主張が強すぎる種族特徴──そして何より、愛くるしい容姿とマッチした真っ直ぐすぎる性格。

 職員の間では崇拝対象にすらなっているそうで、聞くところによればそれのせいでプロファイル作成が難航したとか。傾城傾国とは少し違うものの、恐らくそれに近いまでの影響力を持っていることは確かだ。

 

 それを知らないと宣う眼前のオペレーターは何という情報弱者か。

 閉鎖的なアビスの態度は未だ改善されることなく、しかし最近では食堂の職員やMechanistの同僚などとも交流を始めている。

 

 アビスが短剣を机上に置いた。

 

 使われなくなった短剣を見て、Meckanistは何を思うことになるのだろうか。ドクターに話して、宿舎の壁にでも飾るのかもしれない。もっとも、その前にライサやシーが回収しそうなものではあるが。

 アビスが交流の輪を広げることで、予見される被害は間違いなく肥大化している。

 アビスが突然そうなった理由も、アビスが死にゆく理由も、リラにある。

 リラのせいだと、エイプリルが言ったその言葉にアビスはどこまで思索を広げたのか。

 

「さて」

 

 自身の苦悩を忘れて、今だけは能天気に缶チューハイを取り出し快音と共にプルタブを開く。トクトクトク、独特に波打つような衝撃と共にグラスへと淡い桃色の液体が注がれていく。

 入れていた氷が水位と連動して浮き上がり、少し揺らすだけで綺麗な音が鳴った。

 

「はい、没収ね」

 

 当然ながら、それはエイプリルに咎められた。

 

「何するんですか」

 

「それはこっちのセリフ。未成年が何してんの」

 

「少しくらいいいでしょう、もう予定なんてないんですから」

 

「だーかーらー、未成年が飲むのはダメだって言ってるの。予定がどうとか、全っ然関係ないから!」

 

「本当にそうですか?」

 

「えっ?」

 

「何故未成年が飲んではいけないのか考えれば、その理論は通じませんよ」

 

「はあ?」

 

「まず成長の阻害なんてすぐ死ぬボクには関係ありません。依存症だって気にするまでもない。急性アルコール中毒になるほど高い度数のものをハイペースに飲むこともありませんし、安全な飲み方は理解しています」

 

 アビスが言っている内容は事実だ。そしてそれが禁止される理由であるというのも間違っていない。

 だが、それだけで規制されているわけではない。

 

「アビスが飲んだら、ラーヤちゃんとかが真似するかもしれないでしょ」

 

「ロドスでは飲めませんよ」

 

「ロドスに所属してる未成年のオペレーターが艦外では飲んでるのも問題」

 

「オペレーターであることをそう喧伝する気はありません」

 

「だとしてもダメ!リラに言えないでしょ、お酒飲んでるだなんて!」

 

「ぐっ……リラさんは関係、ない……いやすごくありますけど、でも……っ!」

 

 思っていた通り効果は抜群だった。

 エイプリルは少し考えた後、アビスの顔の前にグラスを突き出した。

 

「リラとお酒、どっちを取るの?」

 

「そういう話では……」

 

「どっち?」

 

「リラさんに決まっています。ですが、その二つは両立できてしかるべきです」

 

 言葉に詰まる。遵法精神はカケラも持っていないが、法律が制定された意義を理解して喋っている。アビスの理論は周りを考えない、協調性がないと自覚していることに納得のそれだが、言っていること自体はそこまでズレた言葉ではないのだ。

 

 だが、アビスが飲酒すべきでない明確な理由は他にもまだまだある。

 

「それなら、レユニオンのことは?龍門に居る以上は素早く動けるようにするべきなんじゃないの?」

 

「……」

 

 アビスは無言で缶に手を伸ばし、しかしエイプリルの手がアビスのそれよりも早かった。

 

「……酔わない程度なら、いいんですよ」

 

「諦め悪いよ」

 

「別にいいじゃないですか、お酒くらい!」

 

 本気ではないのだろうが、アビスが奪われた缶を取り返そうと腕を伸ばす。ひょいひょいと手を動かして、溢れないよう注意しながら器用にアビスの手を避ける。

 

「なんでだろ」

 

「なんですか?」

 

 ひょい。

 

「アビスが年相応に見える」

 

「いつもこんな感じですよ」

 

 ひょい、すかっ。

 

「お酒って部分はダメだけど、そういうの良いと思うよ」

 

「……よく、分かりません」

 

「そうだろうと思った」

 

 ひょい。

 

 ひょい、ひょい。

 

 ひょい、がしっ。

 

 アビスの手がようやくグラスを捉えた。グラスの中で桃色が波打って音を出す。氷とグラスがぶつかって澄んだ音を出す。

 グラスを掴むことで手がエイプリルの手を覆うように触れて、つい意識して手を離す──なんてこともなく、アビスは不敵に笑う。彼は割と本気でこのゲームに臨んでいた。

 

「楽しそうだね、アビス」

 

「まあ、楽しいですけど。発端はエイプリルにあるんですからね?嫌々とは言いませんが」

 

「……未成年がお酒飲むなんて、普通なら絶対ダメなんだからね?」

 

「分かっています。エイプリルも秘密にしてくださいね?」

 

「はいはい。あたしも何か買ってこようかな」

 

 返還されたグラスに口をつける。キンキンに冷えているアルコールが体内に侵入していくのを感じて、アビスは目を細める。

 用意しておいたコースターにグラスを置く。既にその水位は三分の一ほど減っていた。

 

「チューハイで良ければ何種類か買ってありますが」

 

「怒るよ?」

 

「隠しても意味なんてありませんから」

 

「うわ、本当にあるじゃん」

 

 開けた冷蔵庫のドアポケットに並ぶのは五種類ほどの缶。いずれもアルコールを含むもので、それ以外の飲み物はミネラルウォーターくらいしか見当たらなかった。

 それ以外の飲み物とは言っても、飲み物以外で入っているものは一つくらいだったが。

 冷蔵庫の扉が閉まる。

 

「ねえ、アビス。あの箱って何?」

 

 一缶片手にテーブルまで戻ってきたエイプリルが、バッグの近くに置かれていた深緑の箱を指差す。A4サイズの装飾がされていない地味な箱は、明るい色調で整えられた部屋の中に少しだけ浮いていた。

 少し前から部屋にはあったような気がする。そして龍門に到着する前にはなかったような気がする。正確には覚えていなかったが、果たしてそれは正解だった。

 

「龍門に来てから買ったものです」

 

「何が入ってるの?見ていい?」

 

「いいですよ」

 

 少しだけ面倒な留め金こそあるものの、鍵が必要なものではない。アビスの予想通り、器用なエイプリルの前では数秒小さな音を立てただけで箱の蓋が押し上げられた。

 

「思ってた以上に面白みがなかった」

 

「ボクに面白い部分なんてありませんよ」

 

「うん、それはそう」

 

「……」

 

 自分から言ったことではあるが──、というような感慨をアビスは浮かべて苦笑した。自分の仕事はそれではない、人を笑わせるのはエンターテイナーに任せてしまうのがいい。

 路上でパフォーマンスをしている人を、龍門ではよく見かける。また今度改めてプレーヤーを買いに行く時は、その日の気分で観覧するのはどうだろう。

 

 取り止めのない思考、それこそプライベートな空間で自由に飲む利点の一つだろう。自由に飲み、自由に考え、自由に騒ぐことが出来る。後処理は自分でやることになるが。

 

「んくっ、んくっ、ぷはっ。久しぶりにお酒飲んだ気がする。お酒って言うほど度数は強くないけど」

 

「低めのものを見繕いましたから」

 

「……低かったらいいって訳じゃないんだからね」

 

「分かってますよ」

 

「ほんとに?」

 

「本当です」

 

「ならいいけど」

 

 示し合わせてはいなかったが、二人同時にグラスへと口をつける。

 

「そういえば、このグラスってどこから?」

 

「ホテルに言えば貸してくださいましたよ」

 

「ああ、そうなの」

 

 現在時刻はまだ六時。なんとはなしに思考を掠めたホテルの夕食については、あと一時間も余裕がある。

 

「アビス、リラって子について聞かせてよ」

 

「……どうして、ですか?」

 

 殺意を思い出したのか、少し警戒気味にアビスが問う。

 

「ちゃんとリラって子のことを分かれたなら、その子の責任はないかもしれないから」

 

 真剣な顔のアビスとは対照的に、エイプリルはさも楽しそうに笑っていた。

 

「リラが悪くないって証明してみせてよ」

 

 大多数は、それがからかい混じりの不真面目な笑みだと言うだろう。その話を酒のつまみとしてしか見ていないと思うだろう。にへら、と酔いが回ってきたのか脱力して笑うエイプリルは無神経だと思わされるだろう。

 

 しかし、アビスの手がテーブルの上にある短剣を取ることはなかった。

 

「……分かりましたよ。仕方がありませんね、孤児院での話を少し語るとしましょうか」

 

「やった。なんかエピソードない?良い感じの盛り上がれるやつ」

 

「酔ってますか?」

 

「酔ってませーん」

 

 エイプリルの持つグラスは既に空だった。もしかして、と思い缶の方を持ってみると、あったはずの重みが綺麗さっぱり消えている。

 

「ねえ、この缶まだ残ってる?飲んでいい?」

 

「構いませんが、大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だよ。あっ、グラス借りるね」

 

 エイプリルが飲み終えた缶の中を洗面台で洗い、濡れた外側の水気を拭き取る。炎国の現在のリサイクル事情は知らないが、洗っておいて損はないだろう。夕食前ということもあるし、エイプリルは一缶程度で抑えておくべきだ。洗い終わったらもう冷蔵庫に近付けないようにしよう。

 そうアビスは考えたが、無駄だった。

 

「ほらアビス、早く話してよ〜」

 

 新たに開けた缶の中身をグラスに注いでいるエイプリル。それを見て、アビスは小さくないため息をついた。

 

「夜ご飯のことも考えてくださいよ」

 

「いいのいいの、こっちのが大事だから」

 

 まだ中身の残っている缶を引き寄せながら腰を椅子に落ち着ける。エイプリルは少し不満そうな顔をしたが、満杯のグラスがある。口をつけて、不平は心の中に留めた。

 

「ではそうですね、不思議な話を一つ」

 

 アビスは過去に思いを馳せる。

 郷愁がいつのまにか堅苦しい口調を奪い、緩んだ顔と相俟って本来の親しみやすさを発現させる。

 

 その姿を見て、少しだけ安心した。

 

 以前フロストリーフは、アビスについて『心を閉ざすより先に壊された』と評していたが、それが全てではない。もちろん間違いではないものの、アビスにはまだ正常な部分が残っている。

 先程のグラスを奪い合うやり取りだって、アビスは年相応にムキになっていた。

 

 今、笑えている。

 柔和な笑顔で楽しそうに話している。

 

 ──もしも、このまま生きられたなら。

 

 もしアビスが死を望まず、過去を懐かしみながらも生き延びることを選んでくれたなら。

 今を生きてほしいなどと高望みはしない。

 ただ、生きてくれたなら。

 

 

 それだけで、いいと思えた。

 

 

 

 

 

 

 酔った二人の歓談は夜遅くまで続き、結局エイプリルはアビスの部屋で二度目の目覚めを経験することになった。

 

 支度を終えて、二人が街へ出る。

 

「今日の予定は?」

 

「まずは情報屋を訪ねます。分かれば重畳、分からなければまた別で探ることになります」

 

「候補は?」

 

「今のところ、案内役の彼くらいですね」

 

「えぇ、あの人かぁ」

 

「苦手なんですか?」

 

「あんまり好きじゃないタイプ」

 

 それを苦手と言うのでは?アビスが視線を向けるが、長年一緒にいるわけでもないエイプリルにその意図は伝わらなかった。

 代わりに返された曖昧な微笑みから、つい顔を逸らす。

 

「なんかあった?」

 

「何でもありません」

 

「そう?」

 

 何故気付かないのか。今のエイプリルは宛ら、ライサから向けられる好意に全く取り合わなかったアビスのようだった。とは言えアビスは普段それを奥底の方へと押しやっているのだから、鈍感の具合としてはアビスが勝るだろう。

 

「……それ、持ってきたんだ?」

 

「備えはいくらあっても足りませんから」

 

 アビスの手には深緑の箱が提げられていた。代わりに普段から持ち歩いている水筒がその荷物にない。いつもより快調なようだ、その顔色はさして悪いものではない。

 

 ただ一つ気掛かりがあるとすれば──。

 

「上手く、行き過ぎてる」

 

「え、そう?」

 

「いえ……こちらの話です」

 

「どっち?あたしたち側じゃないの?」

 

「私事です」

 

「ふうん、ならいいけど」

 

 アビスの目的は専ら『亡灵(アンデッド)』にある。それだけのために龍門を訪れたと言っても過言とはならないだろう。

 したがって順調に解決の糸を手繰り寄せられている今、アンデッドの登場を待たずしてロドスに帰らされることを憂えるのは当然だろう。

 

 しかしながら、アビスの発言はそれのみを指していない。

 好調なのは嬉しいことなのだが、果たしてこの程度の調査でガヅィアが追い詰められるだろうか。疑問はつまりそのようなアビスの思惟だった。

 実際ガヅィアは見事な手腕だった。計画そのものは側から見ても不審なものだが、その()()()()()()()()()()()という事実が評価できる。

 成功していることが問題だ。どんなに周到な計略も倒れてしまえば机上の空論と全く等しいものだ。だがガヅィアは粗末な計画を成功させた。

 

 最悪の場合、粗末な計画だからこそ通った可能性もある。いずれにせよ、ガヅィアの立ち回りは非常に優れたものであったはずなのだ。

 だがしかし、現在アビスはその計画の解れを握っている。スラムに少なからず詳しいことがそれほどイレギュラーとも思えず、何故ロクに警戒されていないのか不思議でならない。

 

 スラムの情報統制に絶対に自信を持っているのか。

 それとも何か、秘密が暴露されない秘策でも用意されているのか。

 

 

 もしくは、致命的な間違いを自分が犯したのか。

 

 

 頭を振って思考を止める。アビスのその考えは全く根拠のない仮説の空論。何事にも最悪を想定して立ち回ることは理想だが、そのせいで利を逃しては本末転倒だ。

 ただの直感に身を預けてみるのも悪くない、そう思えるような気性ではない。アビスは絡みつく不安を振り切って、歩を進めた。

 

「私事、ねぇ……」

 

 龍門に派遣される上で付け加えられたレユニオンについての任務。それを取り付けられた時、アビスはほっと胸を撫で下ろしていた。

 龍門を訪れてからも、言葉の節々から、会話の所々から、レユニオンへの決して小さくない感情を読み取っていた。

 

 ドクターが何を思ったかは分からないが、アビスが考えていることは、一番重要な部分を除いて察することが出来た。

 レユニオンとの戦闘もしくは殲滅。中でも、幹部であるアンデッドに対する執着。ロドスが出会(でくわ)したデータはないはずだが、何故だかアビスはアンデッドに執着している。

 

 そうだ、そこが分からない。最も重要な動機というパーツが未だ暗闇の中、照らされることなく存在を薄めている。

 

「……」

 

 そこまで考えたところで、エイプリルはかぶりを振った。依然として考えは変わらない。アビスが隠した事象を暴く気など更々ない。大して関わる気などない。

 アビスがロドスを脱退する──死を意味してしまうその選択だけは許せなかったが。

 

 アビスが死をもはや恐れていないことは理解した。リラという存在を軛にしようと少し手を出してみたが、アビスはそれを一旦横に置くことが出来ている。

 根本的にアビスはリラとだけの世界で満足している。他者からの評価を気にしないとまではいかないが、それが取り巻く絶望を取り払うだけの価値を持ってはいなかった。

 

「ね、アビス」

 

「何ですか?」

 

「死なないでね」

 

「保証はできません」

 

 アビスはエイプリルに視線をやることすらなく、そう言い切った。

 

「そう言うと思った」

 

「……ただ、そうですね」

 

「?」

 

 少し悩むような仕草をした後、アビスは決心した様子でエイプリルの方を見やる。

 

「まだ死にません。それだけは約束します」

 

「言うじゃんか」

 

 脇腹を肘でつつく。

 けれど、アビスの目は変わらなかった。

 

 

 〝約束〟がどれだけ大事なのか分かっている。

 

 

 守れないことがどれだけ罪なのか、それを分かっていて声に出した。

 エイプリルが手のひらを返して茶化したとしても、アビスが言った限りその〝約束〟を決して違えることはないだろう。

 

「さて、そろそろ着きます」

 

「分かってる」

 

 二人は既に大通りを離れ、静かな路地裏を歩いていた。吹く風が段々と強くなっているように感じる。空気が重くなっているように感じる。

 

 向こうに、光が差している。

 

 その光は希望を象徴しない。掃き溜めに住む彼らは光が与える熱によって体力を奪われ、最悪命を落とす。

 燦々と降り注ぐそれを仰いでありがたく思えるのは、大通りを歩くような上層市民だけだ。

 

 その光へと近付いていく。

 武器を持つ手は油断なく構えられている。

 

 

 

 スラムへと、二人は足を踏み入れた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六十一 見えないモノ

ストーリーが現在予想外の粘りを見せています。
六十三話で終わるとは思いますが、確定ではありません。毎日投稿怪しいんですが、更新されていなかったら危機契約して一日待ってください。

ちなみに今回戦闘シーン多めになってますのでどうぞお楽しみください。本部からは以上です。
 


 

 

 

 

 

 

 スラムは閑散としていた。

 二人が以前立ち入った時よりもずっと静かだった。

 

 立ち並ぶ窓ガラスのないビル群に、それらの隙間を埋めるよう作られた露店のようなハリボテ。

 その悉くが、人の気配を感じさせない。

 

 分かりやすく異常だ。短剣を体の前で構えつつ、アビスは歩き出した。尻込みしていたエイプリルもその後ろからついてくる。

 放り出された店の主人は一体どこへ消えたのか。廃ビルだって、一切使っていなかった訳でもないだろう。

 

 歩みを止めず、周囲を警戒しながら開けた通りを真っ直ぐ進む。

 汚い布切れが風に飛ばされてきた。風は向かいから吹いている。

 

 

 考えられる理由はいくつかある。

 

 

 たとえば、スラム内で抗争が起こった場合。戦場になる危険性があるとすれば、フットワークの軽い貧民などすぐに逃げ出すだろう。彼らは暴力の近くで暮らしているが、暴力を恐れてはいる。

 精魂込めた店だったとしても、命には代えられない。誰しもがそれを理解している。

 

 たとえば、区画整理にあたって行われる近衛局の露払い。貧民が邪魔になれば無理矢理退かす必要があるため、大移動を強いられたとしても不審ではない。

 しかしそれにしては徹底的すぎる。近衛局も万能ではない、ビルの中にまで立ち入って無理矢理に移動させられるだろうか?

 

 

 どの想定も不自然だ。この状況を説明できるような整合性の取れたものは見つからない。

 理由が分からない。何故このような状態になったのか、結末だけ切り取っては何も分からない。

 

 そんな何も分からないアビスとエイプリルに、声をかける存在が居た。

 

「何か用かい、嬢ちゃん」

 

 訂正。何も分からない()()()()()に、声をかける存在が居た。確かに気配はなかったはずだが、どうしてか男は二人の警戒を潜り抜け、すぐ近くの壁に凭れていた。

 

 男が組んでいた丸太のような腕を解き、口元だけの笑顔を浮かべて近寄ってくる。毛むくじゃらな顔からはそれ以外の情報を読み取ることが出来なかった。

 

 逡巡の末、アビスは話を聞くことにした。どう考えても怪しいが、それ以上に今のスラムがどうなっているのかを知る方が重要だろうと考えたからだ。

 男との距離が縮まると、その身長──もはや体高とさえ言いたくなるが──は二メートルほどもあるように感じられた。何分アビスやエイプリルの背は低い。男が二メートルあろうがなかろうが、それを正確に判断することは不可能だった。

 

 だがそれに気圧されるオペレーターではない。アビスは何度も図体ばかり大きい傭兵達を恐怖で押し潰しているのだから、それに怯えるのはひどく今更なことだった。

 

「少し質問をしても宜しいですか?」

 

「ああ、構わねえな。だってよ、これを見て質問するなって方が無理あんだろ?」

 

「まさしくその通りです。つきましては、この有様についてご説明を賜りたいと存じます」

 

「あー、随分畏まった口調じゃねえか。ここじゃ伝わらねえヤツだって居るかもしれねえぜ?」

 

「ご忠告痛み入ります。しかし伝わる方にはこのまま対応させていただきたいので、この場での言葉遣いは変えないままで話したく思います」

 

「そんならいいけどよ。まあ何事も使い分けってのが大事なんだ、領分じゃねえモンをやるのは無駄なんだよ」

 

 アビスの肩をポンポン叩きながら、アスランの男は豪快に笑った。親しみやすい男などスラムでは稀覯(きこう)の人物だが、男は確かにその性質を備えていた。

 しかしアビスの警戒は全く解かれていなかった。礼節など口調に表れるものが全てであり、その目は睨め付けるようなものだった。

 

「それで、何が起こったのかお聞かせ願えますか」

 

「まあ、そうだな。そうなるよな」

 

 男は申し訳なさそうな表情をしてポリポリと頬を掻く。

 乾燥した風が二人の間を通り抜けて、エイプリルはアビスに任せていればいいかと周りを見渡した。

 

「すまねえな」

 

 男がアビスの肩にもう一度手を置こうとして、それを紙一重で回避した。目に殺意や敵意こそまだ浮かんではいないが、その手に込められていた力を見逃すほどアビスの目は衰えていなかった。

 

 だが、ここで身長差が最悪の結果をアビスに齎した。

 

 空振った手が落ちきる前に、男の膝がアビスの腹に()り込んだ。どんな動作も見逃すまいと見上げていたアビスは、予備動作を捨てた男の膝蹴りに対応することが出来なかった。

 腕と同じく、丸太に見紛うような足がアビスの腹に入ったのだ。鳩尾あたり、寸分の違いもなく──とは些かの誇張が入っているが、概ね人体の弱点を捉えていた。

 

「お前さんに恨みはねえんだよ、本当にな」

 

 アビスが地面に膝をつく。

 上手く呼吸が出来ず、腹を両手で押さえていた。

 冷や汗が一瞬の間にびっしりと浮かび上がっている。持っていた短剣はアビスのすぐ横に落ちたが、恐らくアビスはそれを認識することすら出来ていないだろう。

 

 エイプリルが振り返った時には、アビスは背中を丸めて蹲っていて、男は表情を切り替えていた。

 アビスに向けていた申し訳ないという感情は偽ってなどいないが、それを今引きずるわけにはいかないからだった。

 

「なんで……」

 

「手ェ出すなって忠告は、聞かなかったか?」

 

 エイプリルが突然の出来事に絶句して、それを受けた男の敵意がようやく場を覆った。それに入り混じるは激しい憤激の感情。

 荒れ狂うほどの感情を抱えてなお、男は咎めるように言葉を発するだけだった。粗野な言葉を使ってこそいるが、実際は紳士なのだろう。嵐の波に似た感情のうねりに蓋をするのは、それだけで相当の精神性が求められる。

 

 対峙するエイプリルも、閉口するにはまだ早い。

 即座に切り替えて男の言葉を咀嚼する。

 

「こっちこそ、初めに仕掛けたのはそっちでしょって言ったんだけど?」

 

「だとしてもあれは俺達の領分だ。テメェが、テメェらが口出すようなことじゃねえんだよ」

 

「それを判断するのがキミらだけって、その時点でちょっとおかしくない?」

 

「何もおかしくなんてねえよ。おかしいのはテメェの頭だ」

 

 エイプリルの『「なんであたしがそんなこと言われなきゃいけないの」ゲージ』が上がっていく。ガヅィアと話していたあたりは三ほどだったが、今の会話を経て倍の六にまで到達してしまった。

 最大の十にまで至ると☆5が確定するらしい。

 

 エイプリルが短弓を素早く手に取った。練習され尽くした流麗な動作で、ごく自然な風に手へと渡っていた。

 

 しかしこのままでは、エイプリルの強みが発揮できない。

 エイプリルが持つ最大のスキルは潜伏──もっと言えば、迷彩技術を活用しての一方的な狙い撃ちだ。その根幹を支える迷彩も、真正面から自分を見つめてくる敵を誤魔化せるほど万能ではない。

 

 アビスから短剣の一つでも貸してもらっていれば良かった、そう後悔しても後の祭りだ。現在エイプリルの手元にある武器は弓矢、それだけだった。

 

 

「もう、いいよな?」

 

 

 男が腕を振るう。

 咄嗟に身を翻して回避したが、男の攻撃がその程度で終わるはずもなかった。

 

 突き出された足をしゃがんで避けると、ギリギリで掠った耳が痛みを伝える。教えられている格闘術で伸び切った足を狙ったが、力が足りず振り払うのみとなった。

 ダメージソースとして肉体は役に立たない。だが弓を引くほど距離も時間も与えてくれない。

 

 後ろに飛び退いてみても、その分男は勢いをつけて腕を構える。それは本能に任せた理論も何もない攻撃だったが、手の先から伸びる鋭利な爪を見れば大袈裟に避けるべきだと思ってしまう。

 

 勢い任せに爪を振るい、避けた先をもう一方の爪が突く。

 切り裂いたのは空気だけで、エイプリルはそれを掻い潜って退避していた。

 

 掠ったのは耳へ一度だけだったが、エイプリルの顔つきはかなり厳しかった。持久力が特別高くもなければ、近接戦闘に慣れてもいない。

 高台とは緊張や疲労の積もり方がまるで違っていた。それを分かっていなかったから、エイプリルは既に玉の汗を額に浮かべている。

 

「避けんなよ、殺せないだろ」

 

 殺気が一際強くなって、エイプリルは跳んだ。

 どこへ跳ぶ、だとかは全く考えていなかった。とにかく今跳ばなければ何もかもが終わってしまうような気がした。

 

 エイプリルが全力で横に跳んだところを、一瞬遅れて何かが過ぎ去る。背後にあったビルの壁へとそれは突っ込んでいって、大きな破砕音を上げた。

 

 ビルの壁を壊したのは何による攻撃か。

 

 エイプリルが焦燥と共に男の方を確認すれば、男の手からボロボロと何かが崩れ落ちて行った。

 そしてその向こう、エイプリルが避けた時に崩れたものと同じように、男の側にあるビルの壁も破壊されていた。

 

 拾い上げた大きめの瓦礫を、男が振りかぶる。

 

 完全に直感だけで、エイプリルは転がるように避けた。寸前まで頭があった場所を視認できない速さで礫が通り過ぎていった。

 

 投擲の間隔を活かして矢をつがえる。エイプリルが立っているのは紛れもなく死の淵だった。何が何でもの思いで抵抗しなければ待っているのは悲惨な最後だけだ。

 

 エイプリルの矢が空を翔る。

 それは寸分違わず男の顔面を撃ち抜かんとしたが、構えられた男の腕がその行く手を阻んだ。

 

 痛苦を感じてはいるだろう。いくら鍛えていたとしても、ただの肉体ではどうしても抑えきれないダメージがあるはずだ。それが誰かの拳でもなく勢いよく射られた一矢なのだから当然だろう。

 しかし、それは些細なものだった。その程度のダメージをいくら食らったところで、少なくともエイプリルが先に力尽きるということだけは確かだった。

 

 エイプリルが臍を噛む。

 今のままではどうやっても倒せない。

 

 男がより一層大きな瓦礫を軽々と持ち上げ、エイプリルに向かって投げつけた。

 多少図体のでかい人くらいなら易々と覆ってしまえるほど大きな塊が迫ってくる。エイプリルは準備していた矢を矢筒に戻すと、力の限り横に跳んだ。

 

 だがこの程度躱されることなど相手も分かっているはずだ。そう思ってまた回避の体勢を取ろうとしたその時──眼前に四つほど光るものが迫ってきていた。

 

 否。それだけではない。

 

 光るものの向こう側に、大きな影がある。逆光で見えない何かがあって、そこから四本もの光る何かが伸ばされていた。

 

「────ッ!!」

 

 理解、そして恐怖。

 

 それが男の爪だと理解した瞬間、エイプリルの頭に凄まじいまでの信号が打ち込まれる。

 

 『危険』、『回避』、そして『恐怖』。

 

 エイプリルの体が最終的に選択したのは『恐怖』であり、『回避』だった。

 

 竦んだ足から力が抜けて、膝が折れる。

 容赦なく顔を狙って繰り出された爪撃は目の前スレスレ、顔のすぐ上を通って流れていった。

 

 回避の成功を確信。エイプリルは仰向けに倒れ込む体を無理矢理捻って横へと転がり、結果二撃目の爪は地面に刺さるだけとなった。

 

 すぐに立ち上がり、エイプリルが取った行動は──当然ながら攻撃だ。

 逃げたとしてもここは相手のホームグラウンドであり、遠距離の攻撃手段は心許なく、であれば隙を晒した瞬間を近距離で狙い撃つのみだ。

 

 引き絞った弦から手を離し、矢が放たれた。

 両手は防御が間に合わず、男の右眼を貫くかに思えたその弓撃は男の回避によって僅かなダメージすら与えられることなく向こうへと飛んでいった。

 だがしかし、男の回避にも余裕は見られない。本来ならば体力や腕力からして決着がついているだろうに、戦闘経験の差から男は十全にダメージを与えられずにいた。

 エイプリルからして男は強大だったが、男からしてのエイプリルもほぼ全ての攻撃を回避する強力な敵。

 

 少しの膠着状態が生まれた。

 

 睨み合い、つがえた矢と振りかぶった拳が威圧を重ねる。未だ怒りの形相で構える男、冷静なエイプリル、どちらも退かなかった。

 

 

 そして、エイプリルは笑った。

 

 

 瞬間、男の毛が一斉に逆立った。

 濃密な殺気が男の背後から這い寄り、それは首を絞められ、更に心臓を鷲掴みにされているような恐怖を伴っていた。

 

 そして男のエイプリルに対する警戒が緩んだ瞬間を狙って、つがえていた弓から矢が再度放たれた。

 

 背後から忍び寄っていた殺気の塊。前から迫り来るエイプリルの矢。どちらも男を殺せるだけの鋭さを持っていた。

 

 そして矢が男へと到達する少し前、アビスの短剣は男の首へと至った。

 跳んでいたアビスはそのまま男の頭を掴み、首を水平に切り払おうと力を込める。

 

 

 しかし、男は咄嗟に前へと出ることが出来た。

 矢から恐怖を感じなかった訳ではないが、前へと踏み出さなければ、前へと踏み出す勇気がなければ首を切り裂かれるのだ。

 男は全力で前へ飛び出し、死力を尽くして迫る矢を潜り抜け、頭を掴んでいるアビスの腕を自分から掴み、エイプリルの元へと叩きつけ──られなかった。

 

 矢は一本だけではない。

 

 アビスは男の腕に掴まれるより先に離脱を終えていた。置き土産代わりに、アビスは男の背中を勢いよく蹴り抜いていた。

 それと同時にエイプリルは二本目の矢を放ち終えていた。

 

 男の左眼に矢が突き刺さる。

 

「があああああッ!クソ野郎、やりやがったな!!」

 

 突き刺さっている矢をそのままに、男は右の拳を握り固めてエイプリルへと放つ。

 

 だがそれを前に、エイプリルは一歩も動かなかった。

 

「力が強い、ですか」

 

 懐に飛び込んだアビスが男の右腕を掴み、自分の体ごと捻って引き寄せる。

 元から前のめりになっていた男の体勢が更に崩れて、地面へと落ちる──前に、アビスの肘が男の首を勢いよく突いた。

 

「────ッッ!!!」

 

 声を出せなくなった男が喉を押さえて後退る。人体の弱点は誰にでもあるもので、首と鳩尾はその中でも一等有名だ。

 

 男は未だ膝をついていない。鳩尾に膝蹴りをされたアビスの怒りもまだ収まっていない。

 体をくの字に曲げ声にならない声で呻いている男を前に、アビスは握り拳を作った。

 

 危険だ。

 そう認識した男がなんとかアビスへと腕を振るったが、手応えはない。アビスは大振りの攻撃が生んだ隙を利用して、懐へと入っていた。

 

「サリアさんよりは弱かったですよ」

 

 ノーガードの鳩尾を殴り抜かれた男が二、三メートル吹っ飛んで動かなくなる。死んではいないだろうが、動くこともないだろう。

 鳩尾を狙ったのは、ほぼ不意打ちで腹に蹴りを入れられたせめてもの意趣返しだった。

 

 二人顔を見合わせて、息を一つ吐く。

 

 余談だが、アビスが男を殺していないのは、男にアビスを殺す気がなかったからだ。エイプリルの方にはガンガン殺気を飛ばしていたが、どうしてかアビスにはそれがなかった。

 故にアビスは殺していない。エイプリルが始末すると決めたのなら別段加減せず息の根が止まるまで殴っただろうが、エイプリルからしてみれば疑問が絶えないはずだ。少なくともまだ、殺す気はないだろう。

 

「良いパンチだったね」

 

「ありがとうございます。エイプリルも、よく耐えられていましたね」

 

「本当だよ。何回死んだと思ったと思ってるの?ずっとアビス待ちだったんだからね?」

 

「申し訳ありません。しかし、初撃からああも回避に対応されてはどうにも出来ませんよ」

 

「アビスって最低限の動きで避けようとするもんね」

 

「大きく避けるとサリアさんにやられます。あの人の前で隙を作るなんて自殺行為ですから」

 

「あー、あの人って不意打ちあんまりしなさそう」

 

「必要ないんですよ、きっと」

 

 談笑しつつ、二人は男の状態を念入りに確認した。縛り上げることが可能ならそうしたかったが、生憎と丈夫な紐や縄がない。

 男の衣服を使おうにも、脱力した大男の服を脱がせるにはかなりの労力が必要だ。それに縛り上げることが必ずしも必要な訳ではない。これだけ痛めつけられているのであれば、エイプリルもアビスも一対一で勝てるだろう。

 

 慈悲として、左眼の応急処置をしておいた。とは言え刺さっている部分を抜いては恐らくトドメになってしまうため、露出している部分を根本の方で折るくらいしかしていないが。

 

「それで、どうして最後避けなかったんですか?」

 

 一段落して、アビスとエイプリルは男が起きるのを待つことにした。外した矢も回収して、廃ビルのそばに腰を下ろす。

 話題となるのはやはり先程の戦いのことで、アビスが気にしていたのはエイプリルが避けようとしなかった理由のようだ。

 確かに、あの瞬間エイプリルはアビスのことが見えていないはずだった。アビスが横から入った時も、エイプリルは矢を放った後の体勢のまま男を見ていた。

 

「アビスはどうしてだと思う?」

 

 にやにやと笑いながらエイプリルが聞く。揶揄うような笑みだったが故に、何も言わず従う気にはなれなかった。

 

「分からないから聞いてるんですよ」

 

 それを聞いて、エイプリルがより一層笑みを濃くした。アビスの子供っぽい面を見るのは一体何度目だろうか。そう多くはなかったはずだ。

 それに、答えは少し考えれば分かることだ。

 

「自分で考えてほしいからクイズで出してるの」

 

「そうは言っても……」

 

 アビスが真剣な顔をして考え始めた。そう難しい問いでもないはずだったが、アビスはまるで難問にでも挑んでいるかのようにうんうん唸っていた。

 

「分かりません。あの場で避けない理由なんて本当にあったんですか?」

 

「あ、うん。アビスの認識は大分間違ってるね」

 

 『避けない理由がある』ではなく『避ける必要がない』シチュエーションだった。恐らくアビスはもうダメだ。その部分を正したとしても答えに辿り着くことはないだろう。

 

 エイプリルが苦笑いしたのも当然だった。

 

 二人で少し話していれば、段々と戦闘に昂っていた体が落ち着いてくる。澄ましていた感覚は次第に鋭さを失っていく。

 アビスが答えを出すことはなかったが、別段構わなかった。その答えに何か特別な意味がある訳でもない。

 

 ただ、アビスのことを信頼している。

 それが答えなのだから。

 

 

 

 そして、そんな時間が終わりを告げる。

 

 

 

 

 

 

 

「な、こっち見ろよ」

 

 

 

 

 

 

 すぐさま立ち上がり武器を構えて、しかし二人の顔には困惑が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

「なあ。……くっ、見えねえよな。ってるぜ

 

 

 

 

 

 

 声のした方を見ても、何の姿も捉えられない。ステルスか、迷彩か、それともアーツを使っているのか。

 若い男の声だ。少年とも青年とも取りにくい中途半端な声ではあったが、男だということは分かった。

 

 アビスの手がグリップをより強く握りしめる。

 

 

 

 

て、名乗っおくか。俺は〝カイ〟」

 

 

 

 

 戦いが始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「通亡灵(アンデッド)』。こんなナリで一応ニオンの幹部さ、つって見えねえんろうけどな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六十二 鬨の声

 

 

 

 

 

 

 パチン、と誰かが指を鳴らした。

 

 

 次の瞬間二人を半円状に囲む黒いフードを目深に被った集団が現れていた。指を鳴らす前と後で世界が変わったと言われても納得してしまいそうな手品だった。

 だがこうまであからさまにされては、それがアーツによるものだと分かってしまう。下手なCGが映画への熱を冷めさせるようなもので、アビスとエイプリルは返って冷静に不審者達を観察していた。

 

 音を鳴らした時のまま、文字通り指一本も動かさずカインは立っていた。背丈はボクと同じくらい。

 

 

「……なんだ、来ねえのか?」

 

 

 カインが頭を傾ける。どうやらすぐに戦いが始まるものと思っていたらしい。至って不思議そうな声をしていた。

 

 そして徐にひょい、と何かを掴むような動作をした。

 

 その直後、見えていなかったものがすうっと現れてきた。

 一メートル半ほどもある煤色の持ち手が掴まれた部分を起点として発現し、その中ほどから伸びる両刃はいっそ恐ろしいまでに綺麗な白で染められていた。

 

 紅い布が巻かれた持ち手とその白刃は、殺傷するための武器でありながら美をも兼ね備えている。蠱惑的なまでに鋭く光る刀身など、もし戦場以外で見ることがあったのなら息を飲むことになるだろう。

 しかしその代わりと言うわけではないが、その全長は三メートル以上、重量は見たところ五キロを下らないだろう。武器として、リーチに対してかなり重い。

 

 そんな長巻──刃と柄が同じ長さの刀──をカインは片手で易々と操っている。

 

 

「ああ、そうだ。周りのコイツらは気にしなくていいぜ。戦いってのは意味があるからこそ映えんだ、初対面で殴り合ったって楽しくねえだろ?」

 

 

 そう言って、カインが笑う。

 アビスの瞳が揺れて、息を飲んだせいで僅かに呼吸が乱れた。エイプリルがアビスの方を気遣うように見る。

 どんな関係があるのかは知らない。エイプリルはアビスに巻き込まれただけで、もしかするとここから逃げることが可能かもしれない。

 

 

 だから。

 

 でも。

 

 

 二つの相反する感情が渦を巻いて、言葉は音にならなかった。もしアビスがもう少し安心させてくれるのならば、この戦いに確実な勝機があると言うのならば、エイプリルは迷いなくその矢を弓につがえていた。

 

 だが、アビスの様子から見るにそれは期待出来ない。男に対して突きつけた殺気などとっくに雲散霧消し、短剣を握る手さえ頼りない。

 

「アビス、どうするの?逃げる?」

 

「逃がしてくれる雰囲気ではありません。……戦うしか、道はないのでしょう」

 

「勝てるの?」

 

 アビスが押し黙る。まだカインの実力を一端でさえも見ていないが、そのアーツはアビスと致命的なほどに相性が悪い。

 武器を隠されてしまえば対応できる気など全くしないし、そも姿を現していなければ、声をかけられていなければ、アビスとエイプリルは何もわからないままに殺されていた可能性すらあったのだ。

 

 ブン、と刃が空を切り裂いた。

 暇を持て余したカインが長巻を振っていた。

 

 

「んな悠長に話してても良かったのか?」

 

 

 親切に、カインはそう言った。

 

 何のことだ?

 

 疑問符を頭に浮かべた二人。エイプリルが突然何かに気づいたように表情を変え、数瞬遅れてアビスも怪訝そうな色を失くした。

 

 ようやく二人は、現れた代わりにいつのまにか消えていたものを認識した。

 そしてカインの言っていることが何を意味しているのかを理解する。

 

 

 全てはもはや手遅れだった。

 

 

 カインが一つ指を鳴らせば、そこにはアーツロッドを持った黒いフードの人物が一人と、そしてとうとう治療を終えたアスランの男が立っていた。

 男が目の辺りに当てていた手を外してみるも、その左眼は全く変わりない様子で動いていた。

 

「ありがとよ、レユニオンに助けられたってのはどうにも腹が立って仕方がねえけどな」

 

「精々役に立ってくれれば構わねえよ」

 

「はっ、そうかよ」

 

 数的有利は覆された。個人の強さに関しても恐らくは劣っている。もう一つ付け加えるならば、十人を超えるカイン──アンデッドの部下が周りを取り囲んでいる。

 

 勝算はどこを探しても見当たらない。

 

 

「どうして、エイプリルを殺したいんですか」

 

 

 アスランの男に向けてアビスは問いかけた。それは男が起きてから聞こうとしていた問いで、それさえどうにか出来れば男の参戦を免れることが出来る。聞かない理由はない。

 

 大方スラムがこんな風になっていたのもこの二人のせいだろう。エイプリルを狙う男、アビスとの戦いに意味があると宣うカイン。

 龍門のスラムに関わりがあるのは消去法的にアスランの男だろうが、だがそうなるとやはりエイプリルを狙う理由だけが分からない。

 

「胸糞悪い話だ。龍門の犬が」

 

 男はそれだけ言って、全身の毛を逆立てた。

 何故ここで龍門の犬などというワードが出てくるのか、何か行き違いが起きているのではないか。

 アビスのそんな言葉も、男の強烈な敵意の前には意味をなさなかった。

 

 

 

 男の足が地面を蹴り飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 斬り結ぶ。

 衝撃が殺しきれず、男の爪はボクの短剣を押し込んだ。次に繰り出されたのは牙、ボクの頭に突き立てようとした男をエイプリルの矢が僅かに怯ませて、その隙にどうにか横へと抜ける。

 

 でもそのままにすれば次に男が狙うのはエイプリルの方だ。男の体に組み付いて喉を狙い、けれどすぐさま振り解かれて地面に落とされた。

 至近距離から射られたエイプリルの矢が男の行動を制限して、すかさず脇腹を力の限り蹴る。

 少しだけ男の体が動いた。このまま二人で相手出来れば無力化もそう遠くない……けど。

 

 

 刹那、首筋に冷たい気配。

 

 

 半ば反射的に動いた手が短剣で何かを受け止めた。それは恐らくカインが持っていた長巻だ。

 うなじを狙っていた不可視の刃は重く、けど今倒れたら男の爪撃が容赦なくボクの体を抉るはず。両足で地面を踏み締めて押し返す。

 

 生まれた隙を男の爪が狙い、下手な刃物よりも余程鋭いそれをなんとかもう一方の手に持った短剣で受ける。男の体重がかかった攻撃をそれだけで受け切ることなんて出来ないから、背後に飛んで衝撃を流す。

 腕の負担が酷い。ビリビリと左腕が痺れ始めてる。

 

 そうして少しでも油断を見せてしまえば、見えない攻撃がボクを貫かんと繰り出される。小さな劈く音だけを頼りに二本の短剣を十字に構え、気配と合わせて位置を捉える。

 

 少しでも感触が伝わった瞬間に、短剣を振って上へと弾く。男はボクじゃなくてエイプリルの方に向いていて、邪魔が入ることはない。

 前に踏み込んで、カインが居るだろう場所に蹴りを入れる。

 

 手応えがない。前に出した足を踏み込みに使って、今度は広範囲を回し蹴り。それでも何かを捉えた感覚はなかった。

 

「痛っ……」

 

 それどころか、振った左足の脛あたりが小さく切り裂かれていた。受け流された長巻を即座に持ち替えて対応したんだろう。ボクとしては間髪入れず攻撃に転じたつもりだったんだけど、それでさえカインにとって十分な時間を与えていたみたいだ。

 

 エイプリルの方から途轍もなく大きな音がした。きっと廃ビルの中にエイプリルが撤退したんだろう、今まさにそれを追って男がビルへと入っていった。

 エイプリルならきっと大丈夫だ。

 

 ボクは、カインに集中しよう。

 

 

「まだ、死ぬねえぞ?」

 

 

 そんな声が聞こえて、ハッキリとした殺意が視えた。

 

 空を裂く重い音が聞こえて、ボクは迷いなく後ろに飛び退いた。あんな音が出てる攻撃を短剣で受けようものなら確実に折れる。さっきまでとは比較にならないくらい強い攻撃。

 

 殺意が刺すように肩口から逆側の脇腹までなぞる。

 二本の短剣を斜めに構えて、何かが触れた瞬間に回転させる。ズラすように、持って行くように。

 受け流すことなんて今までなかったから、体の動きが粗過ぎる。技だけじゃ限界があるところを力でカバーしないと斬られる。

 慎重に、力は適切に強く、そして受け流す。

 どうにかダメージもなくやりすごした。となれば次はカウンター、受け流すことに成功した今、カインの体はかなり崩れているはず。

 

 

 ──強く地面を踏み締めた音。

 

 

 咄嗟に飛び退いて、けれど完全な回避には至らなかった。肩先から胸の辺りまで鋭い痛みが走り、着地の衝撃で血が地面に垂れた。

 全く同じ攻撃をカインは繰り出していた。初撃が流されてから間隔は一瞬しかなかったというのに、その絶対に生じる油断をどうやってか突いてきた。

 

 見えないことだけがアドバンテージだと思っていた。リーチが長くて見えない、それは確かにボクに対する優位性を確立していた。

 だけどカインはそれだけじゃなかった。

 

 

 今の一瞬、前へ踏み出していたら死んでいた。

 

 

 冷や汗が頬を伝う。

 正直、普通に戦っていれば勝てる相手ではあるんだ。ボクに何の制限もなかったなら、きっと勝てる戦いだ。もしかしたら負けるかもしれないけど、それは本当に『もしかしたら』の可能性。

 でも、ボクが今目指しているのは無力化だ。謝らなければいけないことがあって、話さなければいけないことがあって、だからボクはカインと話がしたい。

 

 これはエゴだ。ボクが感じた罪悪感を消して楽になりたいってだけのエゴイズムだ。そして現実的に考えればそんな無謀、冒すべきじゃない。

 

 今はボクだけじゃなくてエイプリルだって危険に晒されている。普通なら多少の傷を容認してでもさっさと倒して応援に行くべきだ。

 

 カインの攻撃を察知して、短剣を構える。

 突きを受け流そうとして失敗して、滑り込んだ二撃目を胴に受けて吹っ飛ばされた。

 咄嗟にお腹をガードしようと当てた短剣の刀身が大きく歪んでいる。受け流すくらいは出来るだろうか、いや、出来ないと見た方がいいかもしれない。

 

 カインは攻撃に躊躇いがなくて、隙を見せるとどんな時でも突き崩してくる。

 普通ならそんな緊張は続かなくて、次第に動きがコンパクトになっていく。

 でもカインは違う。いつだって空気を唸らせながらボクに武器を振るう。ボクがどんなに上手く受け流しても、緊張の糸が緩んだなら二撃目を叩き込む。

 

 剣戟を交わす。

 

 腕や脚だけじゃなく、頬や脇腹からも血が垂れる。たった十数回のやりとりが、ボクの身体に幾つもの傷をつけた。対してボクがカインを捉えたのは一度だけ。それも、カインの二撃目をどうにか払い除けただけ。

 相手のミスを満足に拾えない。それはカインのアーツが持つ特性だけじゃなくて、ボクに少しの躊躇いがあるからだ。

 

 

「甘えな、おい」

 

 

 突然、カインが声を出した。

 

 ──は?

 

 前からの攻撃を受け流したはずなのに、背後からその声がした。

 意味が分からないだろうけど、それを言いたいのはボクの方だ。受け流した直後その気配が消えて、その声がしたんだから。

 振り返った先には、確かにカインが立っている。

 

 高速移動?どうやって?可能なのか?

 

 疑問が頭を埋めて、思考が加速する。

 そういえばさっきまでずっと二撃目ばかりがボクの身体に傷をつけていた。二人目が居る可能性すらある……?いや、いくら気配を押し隠しても一度捉えたそれが消えるように感じるわけがない。

 

 そこまで考えて、ボクはそれらを切って捨てた。

 

 ボクは勝利を拾いたいんじゃなくて、ボクはカインに勝ちたいんじゃなくて、カインと話すためにアンデッドのことを探していたんだから。

 今はカインの話を聞きたい。

 その怨嗟を、ボクは聞くべきだから。

 

「甘えんだよ。なあ、もしかして感動してんのか?『生き別れの孤児院メンバーが遥か遠い場所で偶然再会!』ってか?くはっ、俺も感動するよ、最高だなァ!」

 

 嘲笑に似た笑みを浮かべるカインに怒りが混じる。

 

「ああ、最高だ。──そのメンバーが二人しか居ねえってことを除けばな。その壊滅の原因がのうのうと生きてるっつーことを除けばなァ!」

 

 そうだ。だからボクは謝りたかった。

 Wに、『何故だか頭に浮かんだ双子の片割れはレユニオンの幹部を務めている』なんてことを聞いた日から、ずっと謝りたかった。

 

 カインやナインが生き永らえている可能性は、ずっと考えていたことでもあるんだ。みんなが殺されたあの時、顔が確認できなかった遺体が一つあって、そして更に遺体の数が足りなかった。

 あの男たちに原形が残らないほどぐちゃぐちゃに弄ばれたんだと思っていた。他のみんなの顔は残っていたから、カインかナインのどちらかが、もしかすると挑発したのかもしれない。そう思っていた。

 

 実際は違ったんだ。きっと、カインはナインのおかげで逃げ延びることが出来て。その代わりにナインが男たちの怒りを受けることになった。

 

 屈辱だったはずだ。みんなを守るため拳を握っていた愚かなボクを見て、カインは目を輝かせていたから。カインにナインを守ってやれって、そう何度も言っていたから。

 ナインを犠牲にして自分一人が生き残るだなんて、耐えられないくらいの屈辱だったはずなんだ。

 

「本当に、ごめん」

 

「謝って済むなんて、思ってねえだろうな」

 

「それでもごめん。謝らせてほしい」

 

「嫌に決まってんだろ、どうしてお前がやりたいようにやらせてやらなきゃいけねえんだよ」

 

 笑みを怒りが塗りつぶしたことの、逆が起きた。

 カインの怒りを更なる笑みが覆い隠した。

 

「ああ、けどお前がこれから見せる顔を想像すれば、んな怒りも全部消えちまうかもしれねえんだけどな」

 

 何を言っているのか分からない。

 

「俺のパフォーマンス、気に入ると思うぜ?」

 

 獰猛に笑うカインの姿が見えなくなった。とは言ってもさっきみたいに溶け込んだわけじゃなくて、カインの周りに青い光が満ちて向こう側が見えなくなったんだ。

 

 何をしているのか。

 

 ボクの疑問はすぐ晴れることになった。

 その光が掻き消えて、アーツで()()したカインの姿がボクの前に躍り出る。

 

 

「ねえ、謝って許されると思った?」

 

 

 理解不能。

 

 理解不能、理解不能、理解不能。

 

 頭が追いつかない。

 

 いや、理解を拒んでいる。

 

 本当にアレはカインなのか?

 

 何がどうして、どうなって、どうやって。

 

 

 

「私の姿で殺してあげる。さあ、土下座しなよ」

 

 

 

 リラさんが立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し時は遡り、廃ビルの中。

 

 エイプリルはとっととあの場から逃げなかったことを少しだけ後悔し始めていた。

 

 ライザーと呼ばれる持ち手の部分をより強く握れば、じわりと浮き出る手汗が気持ち悪い。

 

 

 廃ビルに逃げ込んだエイプリルは迷彩を利用して男を死角から何度も撃ち抜こうとした。

 だがその全ては途方に終わり、悉くが振られただけの腕に弾き飛ばされた。

 

 初めのうちは焦ることもなかった。

 

 十数回射って、何故、と思った。

 

 数十回、余裕がなくなった。

 

 男を翻弄する立ち回り方は今のところ出来ている。

 だが矢を回収しているところが見られてしまったのか、男は途中から僅かな勝機すらも潰すために、射られた矢をすぐ折るようになった。

 

 矢筒に残った本数はたったの三本。普段のような補助物資がないにも拘らず無闇な射撃を繰り返したからだ。

 

 

 四階建てのビル、その二階にエイプリルは潜んでいる。迷彩機能はオーバーヒートして放熱中、よってエイプリルを男の目から隠しているのは廃ビルの汚れた壁や床、それだけだ。

 

 三階への階段はほとんど崩壊していて、エイプリルが自由に移動できるのは一階と二階のフロアのみ。

 一部の区画は鍵がかかっていたり床が崩落していたり瓦礫で埋まっていたりして、ビル内には行動範囲を著しく制限するものが多すぎた。

 

 階段があるのは中央奥の部分で、二階から一階へと降りるだけなら左奥の崩落している部分も選択肢に入る。

 エイプリルが居るのは右手前の部分で、男は必ず通らなければいけない真ん中の部分に居る。焦燥に駆られて出て行けば間違いなくやられる。

 

 その、はずだ。

 

 

 轟音と共に、廃ビルが揺れる。

 

 

 一体何が起きているのか、それをエイプリルに知る(すべ)はない。

 ただ一つ言えることは、男の豪腕が最終的に狙っているのは廃ビルへの損傷などではなく、エイプリルの殺傷だということだ。

 

「……ああもう、どうしてこうなったかなぁ」

 

 コンパウンドボウの弦を軽く引いて、エイプリルはそう言った。スタビライザーに少し付着していた汚れを手で払うと、覚悟を決めて、エイプリルは立ち上がった。

 矢筒はまた後で取りにくるとしよう。たった三本なら手で持っていた方が早い。

 勝てるかどうかは分からない。だが、まだやれることはある。度肝を抜くとまではいかないが、予想外を作ることくらいなら可能だ。

 

 その方法を手に入れるために乗り越えなければいけない壁はかなり分厚いのだろうが、仕方がない。

 

 

 扉を蹴破って、その部屋には予想通り男が居た。

 走り出す。弓を構えたまま、最初からトップスピードで。

 

 つがえている矢はまだ放さない。

 コンパウンドボウの特徴である滑車はレットオフと呼ばれる機能を作っていて、つがえたまま保持することが他の弓と比べて楽になっている。

 

 だからと言って力が要らないというわけでもないが、何度も連続で射ることが出来るくらいに熟達しているエイプリルからすれば、保持したまま動き回ることを可能とする重要な機能だ。

 

 男が投げた廃材の鉄パイプは余裕を持って避ける。エイプリルが少しだけ減速して、それを狙ってか男の投擲は止まらなかった。

 横へと跳び、前へと跳び、しかし決して後ろには下がらない。

 

 集中。

 

 『田』の形をした何かの枠がフリスビーのように飛んできて、しゃがみつつ前へと跳ぶ。

 顔のすぐ前まで迫っている二投目は、一投目との間を抜けるように跳ぶ。

 

 壁に取り付けられていたパイプを外して、男が横回転にして投げつける。次いで、その逃げ道を潰すように汚れたトタン板や金属片がパイプに追いつくほどのスピードで投げられた。

 だがそれで止まることはない。エイプリルの目がトタンの回転を見極め、その面を蹴り倒すようにして前へと進んだ。スカートはしっかり押さえつけてある。

 

 

 いつのまにやら、エイプリルは加速だけを続けていた。先程までは回避に手一杯で減速を免れていなかったのに、今では相当な速さで男の方へと向かっている。

 

 だがそこに余裕はない。しかし張り詰めたような緊張もない。エイプリルの集中は際限なく高まっていて、そこに余計な感情は介在しない。

 

 男がようやく廃材から離れエイプリルを見据えた。鋭利な爪に殺気が迸り、エイプリルを睨む目は敵意と怒りで染まっている。

 

 突っ込んできたエイプリルが、男と同じように殺気を纏う。普段は隠しているそれを男に向かって解き放った。

 対する男も負けじと威圧を重ねる。エイプリルの行手を正確にシミュレートし、その足を踏み出した。

 

 

 刹那、エイプリルは身を翻しクロスするよう振り下ろされた男の爪撃を完全に避け切った。

 

 

 殺気を振り撒いたのは突撃すると思わせるためのブラフであり、エイプリルの目には殺意も敵意も映っていない。

 

 男の横を抜けてドアの方へと走り出す。

 向かうは階段、男の予想外を完璧な形で突くには一階にあるアレが必要だったからだ。

 

 逃げるつもりか、そう男が焦る。アビスと合流されれば、逃げなかったとしても男の劣勢が確定する。

 

 だから男は焦り、よく考えることもなく振り返り、エイプリルに追いつこうとしてしまうのだ。

 

 

 エイプリルがつがえていた矢はブラフではない。

 全てはここで男の意表を突き、一階への到達を確実なものにさせて、更に種を蒔くためのものだ。

 

 振り返った男の視界に入るのは、小さな狂いすら許さず男の眼を狙っているエイプリルの征矢(そや)

 

 

「視界良好〜!」

 

 

 二重の罠にまんまと囚われた男に、エイプリルが無邪気な笑顔を見せる。まるで悪戯が成功した子供のようにはしゃいで、しかしその狙いがブレることなど万に一つもあり得ない。

 

 

 エイプリルの矢が男の眼を射抜く。

 

 

 

 

 男の体は反射的に仰け反り、エイプリルを逃してしまいそうになる。自分がまともに戦うこともないままエイプリルに逃げられる。それは絶対に許されない未来だった。

 

 だから、男は決断を下した。

 

 もしこれで二人とも死んだとして、それはそれで仕方がないことだと割り切った。

 

 エイプリルが階段の方を目指してバックステップする、その瞬間に男の足は脆くなっていた二階の床を()()()()()

 

「はあ!?わ、きゃあっ!」

 

 素っ頓狂な声を上げてエイプリルが落下する。ロドスの空挺降下に慣れていることもあって、なんとか着地に成功する。履いている靴がスニーカーでなければ危うかった。

 一瞬だけ周りに目を走らせる。今の崩落で廃ビル全体が倒壊する可能性だってありえたのだから、内心で男を非難しつつ確認する。どうやら心配は杞憂のようだ。

 そして、殺気がエイプリルを貫く。

 

 大きく飛び退る。

 

 二階の床──一階の天井が落ちてきたことで瓦礫まみれになっていた場所では回避しにくいと思ったため、そして今ちょうど自分に向けて打ち込まれたものを回避するためだった。

 

 何を回避するのか?

 

 そんなものは決まっている。

 

 

「第二ラウンド、いや第一ラウンドだ」

 

 

 男が突き出していた拳をゆっくりと戻す。

 

 エイプリルの顔が、また厳しいものに変わる。

 

 

「かかってこい、殺されるためにな」

 

 

 依然、男の気勢は削がれてなどいない。

 

 

 

 

 ゴングの鳴る音がした。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六十三 カインとナイン

 

 

 

 

 

 目から滴る血をものともせず、男の殺気がフロア中に満ちていく。

 エイプリルが踏鞴を踏み、その迷いを見抜いた男が瓦礫をばら撒いた。

 

 作戦を考えず男の間合いに入るのは危険だが、だとしてもどうにかするしかないだろう。

 横に転がった先でエイプリルは走り出した。

 

 目的のものには近付いている。だが男との距離を開けることが出来ていない今、それが使い物になるかは別だろう。

 まあそれを活用することが難しくなっていっているだけで、効果そのものはあるはずだ。矢の本数が危険域にある今、少しのダメージソースも逃せない。

 

 だが、問題はその前にもある。

 エイプリルが咄嗟に足を止め、後ろに跳んだ。

 

 

 ガガガァン!!

 

 

 まるで散弾射手が鉄板を撃ち抜いた時のような音。男が全力で投げた礫の雨は床にぶち当たって更にバラバラな破片になっていた。

 エイプリルがもし強行を選択していたなら、その身体に穴が開くとは言わずとも、めりこむくらいはしていただろう。

 当然、頭や胴に直撃すれば死ぬ。四肢に当たってもその後殺されるだけだ。

 

 そして足を止めてしまえば、男の爪が届くわけで。

 

 天井を一度経由してアクロバティックに男が爪を振り下ろす。回避に数瞬遅れたエイプリルの左腕が薄く裂かれた。

 

「ライオンって空飛べたんだね!」

 

 代わりにエイプリルの拳が男の顎を打ち抜いた。

 

 今まで回避に専念していたことから油断していたのだろう、男がぐらりと姿勢を崩す。望外の成果、エイプリルは追撃としてその左眼に刺さった矢を掴み全力で押し込んだ。

 

「がああああッ!!」

 

 男は叫びつつ、その爪を振るう。

 追撃に力を割いたせいで重心が前に寄りすぎていた。瞬時に男の胴を蹴り飛ばして距離を取って、回避に成功。しかしそれだけで反撃が終わるはずもない。

 

 振った腕の裏拳がエイプリルを捉える。

 

 戦闘開始から初めての有効打だった。

 エイプリルが吹っ飛ばされて、そのまま何メートルも転がっていく。瓦礫の上を転がった訳ではないためそれ以上のダメージが重なることはなかったが、エイプリルからすれば既にかなりのダメージだ。

 

 ふらふらな状態で立ち上がると、ぺっと血を吐き出した。

 口の中が切れたのだろう。口の端から垂れた血を拭い、エイプリルの黒い手袋がべっとりと赤く汚れる。

 

「ぐぉお、がああああッ!!」

 

 だが男にはそれ以上の置き土産をしておいた。蹴り飛ばして回避した時、眼に刺さっていた矢を強引に引き抜いてきたのだ。

 垂れる血が廃ビルの床を更に汚している。

 引き抜いた矢には血以外の何かも纏わりついている。使い物にならないだろう、そう判断してエイプリルは残りの二本を握りしめ、その一本を投げ捨てた。

 

 小さく息をついた。

 エイプリルが男を大きく避けたルートで入り口に近づいていく。体力の消耗が激しく、全力疾走出来ないことが辛い。

 

 やはりと言うべきか、男は左眼から血を流しながらもエイプリルを阻んだ。お互いに小さくない負傷を抱え、しかしその瞳にある意志は全く変わらない。気勢なんて削がれる方がおかしいのだとでも言うように威圧しあっている。

 

 振るわれたライオンの爪。

 踊るように回避するウサギの足。

 

 牽制の爪撃が煌めき、しかし本命の爪撃はエイプリルの手に制動され、掻い潜られる。

 アビスのようにとはいかないが、多少の格闘術を使って男の攻撃を後ろへと流す。だがそれだけではエイプリルの足も前に進めない。

 

 男が体勢を崩した瞬間に抜け出そうとして、爪に制される。死角から爪で切り裂こうとして、エイプリルの耳がそれを感じ取り綺麗な回避をされる。

 

 先に音を上げたのは──エイプリルだ。

 

「はあっ、はあっ、はあっ……!」

 

 大きく距離を取ると、男がそれをすぐに詰める。

 肩で息をするエイプリル、小さく息が乱れているだけの男。今この瞬間にどう努力しようが乗り越えられない体力の差があった。

 

 向こう側へと辿り着ける気がしない。作戦もなしに突っ込んだ結果、こうして分かりやすく敗北の気配が漂っている。フェイントにも引っかからず、何か案が出る訳でもない。

 状況は刻々(こくこく)と悪化していく。

 

 何の技術もなく、ただ後ろへと回避した。

 

 体力が限界を迎えている。思わず膝を床について、エイプリルが唇を噛み締める。

 

「諦めろ」

 

 男が爪を光らせながら、エイプリルの前に立つ。

 

「……諦めて、助かるの?」

 

「いいや、殺す。メンツは大事だからな」

 

「ふふっ、知ってた」

 

 笑った。笑い飛ばした。

 自分がどうして殺されそうなのか分からない現状がどうしようもなくおかしくて、笑みがこぼれた。

 

 男がエイプリルから一瞬だけ目を離して、手に持っていた分厚い瓦礫を入り口の方へと投げた。

 それは扉があった場所の上あたりに着弾し、二階の床まで巻き込んで入り口を塞ぐ。見える場所にある窓は全てひび割れたガラスに塞がれていて、エイプリルの逃げ場はなくなった。

 

 エイプリルが俯く。

 

「どうして、逃げなかったんだろうね」

 

 もう終わりにしよう。

 

 男はそう判断して、その爪を構える。

 

「恨むなら、お前の上を恨め」

 

 ロドスが龍門のスラムに手を出したなんて話は聞いたことがない。やはり何を言っているのか全く理解できない。

 

 中でも一番に理解できないのは……

 

 

「どうして、抵抗しないと思ったの?」

 

 

 エイプリルが、隠してつがえていた矢を放った。

 咄嗟のことで照準もまともにつけられなかったが、それは既に損傷の度合いが激しい左眼へと突き刺さった。

 痺れるような激痛と頭の奥に響く鈍痛。ダメージが重なり思考の邪魔が増えた。だがそんなモノ、男にとってなんら意味などなかった。

 

「テメェ、何度も射ちやがって……ッ!」

 

「はいはい、ブーメランブーメラン」

 

「このクソアマ──ッ!」

 

 本能のままに爪を振るい、エイプリルがそれを小さな動作で回避する。だが相変わらず息は上がったままだ。男の方が優位に立っていることは間違いない。

 

 袈裟懸けに振り下ろす爪撃をエイプリルが避ける。いい加減にちょこまかと煩わしい。決定力に欠けていてあまり好きではなかったが、拳の裏で素早く叩こうとする。

 だが振ったその裏拳も、エイプリルは余裕のある笑みを浮かべながらしゃがんで回避し、そのまま横を抜けられた。

 

 その顔がまるでその攻撃はもう知っているとでも言うかのようで、男の神経は逆撫でられた。

 こうなったのも全てエイプリル達が無駄なことをしようとしたからで、責任は一つ残らずエイプリルにあった。そのはずだった。真実がどうであれ、男からはそう見えていた。

 流血で血が足りなくなり、痛みが思考を掻き乱し、更に血が頭に上っている男には正常な思考など出来なかった。

 

 血に濡れたたてがみを揺らし、男は駆け出したエイプリルの背を追いかける。瓦礫の山が鬱陶しい、全て破壊して追い縋る。

 

 少し向こう、エイプリルが何かを構えていた。

 

 それは見覚えのある姿勢だった。

 黒の弓に灰色の矢が構えられて、それは今まで戦闘をしてきた男への『痛み』だった。それが真正面から目に映る時、いつも男の眼は射抜かれていた。

 

 男が健常であれば、何も考えず腕でも前に掲げて突っ込んでいただろう。だが男の著しく下がった知能は、偏った経験からくる危険信号を拒む方法など持っていなかった。

 

 本能のままに彼は後ろへと飛び退いた。

 エイプリルの矢はそれほど狙いもつけられておらず、男の顔の横を通り過ぎて終わった。等閑(なおざり)に放たれた矢はしかし、労力以上の効果を発揮していた。

 

 腹立たしい。

 

 苛々が抑えられない。

 

 男が投げた瓦礫をエイプリルが前に飛んで回避し、それで両者の距離はより一層遠のいた。入口というゴールはもう既にエイプリルのすぐそばまで近づいていた。

 

 

 何故入り口を目指していた?

 

 

 瓦礫に塞がれた入り口を見て、安堵と共にそんな疑問を浮かべる。まさかあの積み重なっている瓦礫を乗り越えられる訳でもあるまい。飛び越えられる訳でも、況してやどかすことなど以ての外だろう。

 

 ならば、何故?

 

 そこまで考えたところで、男はあるものを発見した。エイプリルが目指す先、入り口から少しだけ離れた所に何かがある。

 

 それは濃い緑色をした箱だった。

 

 男の思考が全て繋がる。エイプリルが未だ抵抗するのは、入り口の瓦礫をどうにかする方法があるためだ。

 特製の爆弾でも入っているのだろう、自分に使わなかったのはサイズの問題だとか、重量の問題だとか、そういう何かしらの欠点があったからだ。

 

 だが瓦礫の山にその欠点は関係ない。

 男を吹き飛ばすことは出来なくとも、瓦礫を吹き飛ばすには十分だということだ。

 

 

「今からでも、遅くは、ない……ッ!」

 

 

 男の筋肉が隆起する。足で蹴り飛ばした床が弾け飛び、男は一歩で何メートルも前へと進んだ。

 

 爆薬を使うのなら、セットして離れるはずだ。そこを狙いさえすればエイプリルを葬るなどそう難しいことではない。

 後ろに設置した爆弾によって逃げられず膝をつく未来が男の目にはしっかりと見えていた。

 

 

「間に合え───ッ!!」

 

 

 男が爪を構えながらエイプリルに飛びかかった。

 絶対に逃さない、確実性を求めた男はエイプリルの様子を細かく観察しながら構えた腕の使い所を探る。

 

 エイプリルが最後の抵抗でもしたかったのか、矢を放った。当然男の腕がそれを払う。それなりに強い力で引かれていたようで、重心が少しだけズレた。

 エイプリルはもう矢を放った。残る矢の本数がどのくらいなのかは知らないが、次をつがえる時間などもうどこにも残っていない。

 

 確実に爪を突き立てる。

 エイプリルの目の前に男が着地した。

 

 確実に殺す。

 

 絶対に殺す。

 

 何が何でも殺す。

 

 男はその目的が達成されようとしていることがひどく嬉しかった。

 自分の尊敬するあの人を侮辱しようと付け狙い、何も知らない善良な組織の青年を利用し、自分の左眼を穿った嫌悪すべき敵だ。

 

 そしてその笑顔に、ナイフが突き刺さった。

 

「がっ、あ──ぐおおおおおおっ!!!?」

 

 エイプリルの背後、開かれた深緑色の箱には二本セットの片割れが入っている。もちろんその箱にない一本とは、今エイプリルが男に突き刺した投げナイフのことだ。

 下見に出かけた時買ったものだと聞いていた。一度開けたのだから、今度はスムーズに開けることが出来た。

 

「まさか使うことになるとは思わなかったけど、ビルの中に入れといて良かった」

 

 顔面を切り裂かれ、男がのたうちまわる。

 使ったナイフは丁寧に拭いてまた箱の中へと戻した。アビスは使ったことに関して何も言わないだろうが、使わせてもらった手間元通りにするべきだろう。

 

 さて、とエイプリルが向き直る。

 

「ぐああああ……!決めたぜ、クソアマッ!テメェは絶対に許さねぇッ!!」

 

 自分の流血で前が見えなくなっても、足が震えてまともに動かなくても、男は気合だけで立ち上がっていた。自分を殺したいと願う気持ちがまさかここまでとは思わず、少し驚く。

 

 爪は依然として鋭いまま。

 男の爪撃がエイプリルの居た場所を通り、床を切り裂いた。男が血だらけの口を開けエイプリルに噛みつこうとして、その顎が下から打ち上げられる。

 

 死力を尽くし、ボロボロの体で何度も爪を振るう。エイプリルは何度かそれを躱した後、大きく飛び退って弓を構えた。

 

 

「終わらせよう」

 

 

 最後の一本。アビスの投げナイフさえ使って取っておいた最後の一矢に決着を任せる。まさか使わされることになるとは思ってもいなかったが、運命の悪戯でも起こったのか。

 

 相手は勘違いして自分を襲ってきて、そのためならレユニオンとすら手を組んで、しかしそれは決して性根の捻じ曲がった行いではなかった。

 

 だから礼儀を見せる。

 死力を尽くした相手に対しては、エイプリルも全力での対処を選ぶべきだ。決闘でも何でもないただの戦闘行為だったが、死にゆく男の中に見えた忠義や誠意のようなものに、ほんの少しだけ尊敬の念を抱いたからだった。

 

 

 構えて。

 

 

 引き絞って。

 

 

 男は死に体を酷使して、視界から消えたエイプリルを探していた。血に濡れた片目ではもう数メートル先のエイプリルさえ見えていないのだ。

 

 最後の慈悲を矢に込める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、射る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 男が倒れる。糸が切れた人形のように。

 

 そして、立ち上がることはもう二度となかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リラさん。

 

 

「あははっ、何その顔!」

 

 

 リラさんだ。

 

 絶対に本物のリラさんだ。

 

 そうとしか、ボクには感じられない。

 

 偽物の根拠なんて一つも見つけられない。

 

「ねえ、どんな気持ち?私に会えて幸せ?それとも、私なんてリラじゃない?」

 

「……君が、リラさんを?」

 

「そうそう、どうだった?私、リラとは違うって思った?」

 

 そんなわけない。

 

「そんなわけない、よね」

 

「……っ!?」

 

「だってこのリラは、キミのリラだから」

 

「ボクの、リラ?」

 

 何を言って……

 

「私のアーツは()()()()。出来るのは感覚や信号の模倣で、だから今のこれは、キミの頭が浮かべたリラの姿をキミの視界に映し出してるだけ」

 

「えっ、本当に?電気信号?」

 

「えへへ、凄いでしょ」

 

 リラさん、いやカイン……いや、リラが自慢気に胸を張る。だからボクの覚えていたホクロが再現されていたんだ。

 どうやって最初からボクの思い描く姿を写しとれていたのかは分からないけど、大方レユニオンと交戦した時だろう。

 

 まさか、カインのアーツがボクとほぼ同じものだったなんて。

 

「だから、さ」

 

 リラさんの姿が消えて、その一瞬後に全てがブラックアウトした。視神経のところで電気信号が途絶されているんだろう。アーツを軽く使えば、そんな感じがした。

 

 ボクのアーツは自分の信号を放射状に出すことが出来るけど、カインのアーツは他人の信号を弄ることが得意なんだ。だから本質的にリラはそこに居ない。ただボクがそう見させられているだけ。

 でも、声質や些細な仕草すら再現するなんて……あ、それはボクがそれだけ覚えてるってだけのことか。

 

 カインが何かを話せばそれをリラの声で、言葉で、その内容を伝えられる。その言葉が持つ感情すらも。

 まるで、翻訳機に通したみたいだ。

 

 さて、それでカインはボクに何を見せようとしているんだろう。

 

 

 暗い景色がパッと晴れる。

 

 

 どこかに横たわってる。

 これは……誰かの視界?恐らくはカインの視界かな。立ち上がった時の高さもそれなりに低くて、周囲を見るとあの孤児院の一室みたいだ。暗いのは夜だからかな。

 

「待ってたんだよ」

 

 起き上がったカインは隣で寝ている子、ナインを揺さぶった。けどナインは向こうの方を向いたまま起きない。

 

 今少し見えたけど、リラの隣が空いてる。だからボクが夜に抜け出してるってことで、恐らくはあの夜のこと。

 

 仕方がなく、カインは一人だけで暗い孤児院の中を進んでいく。進行方向にあるのは……たしか、汲んである水かな。

 

 奥へと進んだところで、大きな音がした。

 ドアが蹴破られたような、そんな音。

 

 続いて聞こえたのは滅多に聞くことなんてなかったお爺ちゃんの怒声。金属音が鳴り響いて、カインがビクッと体を竦めた。

 

「早く、来てほしかった」

 

 とてとて、そんな風にカインが歩いていく。暗闇の中、金属音に続いて、男たちの楽しそうに笑う声が聞こえてきた。

 

 見覚えのある赤いソファが視界に映る。暗闇の中だから分かりにくいけど、同じくらいの身長の子が一人、大きい誰かが一人、カインより小さい子が四人。お爺ちゃん以外の全員がここに集まってるってことだ。

 

『⬜︎⬜︎は、どこ……?』

 

 カインが言った。

 

『⬜︎⬜︎もたぶん戦ってる。実は⬜︎⬜︎って、よく真夜中に抜け出してるんだ。困っちゃうよね、⬜︎⬜︎は私の抱き枕なのに』

 

 リラ、本物だ。一言一句忘れないようにしよう。

 っていうかボクが夜に抜け出して戦ってたの知ってたんだ。なんだか恥ずかしいな。

 

 少しだけ時間が経って、誰かが部屋に入ってきた。

 

『逃げ、るんだ……裏口から、みんなで……!』

 

 そう言って、お爺ちゃんは倒れた。背中の辺りに突き刺さっている剣が、窓から差し込む光に照らされて煌めいた。

 

 

 叫喚。

 

 

 お爺ちゃんによく懐いていた四人が泣き喚く。

 もうこうなったら、手をつけられない。

 

 リラ以外には。

 

『──ダメ、静かに』

 

 泣いていた四人が一斉に落ち着いた。

 本当に、まるでアーツみたいな特技だ。ボクの場合はいくら言っても泣き止まないし悪戯をやめないのに、リラの言うことには従うんだから。

 

『出よう。それで、生き延びるの。大丈夫、⬜︎⬜︎は絶対に死んでない。それだけは保証するから』

 

 リラ格好いい。惚れ直した。好きだ。

 

 リラは四人を先導して裏口へと向かっていく。カインもナインに連れられて、一度だけお爺ちゃんの方を振り返ったけど、それきりナインの横を一緒に走り出した。

 

 裏口から外に出ると、月明かりがあたりを照らしていた。

 

 そして、そこには気持ちの悪い笑みを浮かべた男たちの姿があった。

 ナインがカインを守るように立つ。どうしてだろう、さっきから立場が逆だ。もっとカインが守らなきゃ。

 

 ボクのようには、ならないでほしいから。

 

 過去の映像に何を言っても無駄だってことは分かってる。でも、そう思わずにはいられなかった。守れなかったボクのようには、どうしてもなってほしくなかった。

 

 リラが前に出た。

 

『……⬜︎⬜︎が来るまで、孤児院の中に居よう』

 

 けれど、それはダメだった。今さっき出てきた裏口から男が出てきたからだ。その男は手に剣を持っていて、半ばから血を滴らせている。

 お爺ちゃんを殺した男だ。

 

 リラがカインやナイン含めて六人を集めようとして、殴られた。

 

 ──殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

 

 すりつぶして砕いて叩いて捩じ切って殺して痛めつけて死ぬほど後悔させてやる。リラのことを殴るなんてあってはならないんだって刻みつけて殺してやる。

 

 

「ちゃんと、見て」

 

 

 すうっと怒りが冷えた。

 そうだった、これは過去の話だった。怒りに囚われず、ちゃんと見ておかなきゃいけない。

 

 これは、ボクの罪でもあるんだから。

 

 リラの頭が押さえつけられて、抵抗しようとしたリラの顔に血がかかった。

 それは一番歳の小さな、アルという名前の子だった。お腹の辺りが抉るように叩き斬られていて、その臓物が地面に落ちた。

 

『やだ、なんで、なんで……!』

 

『こいつはいいな、将来性もある』

 

『い、いやっ!触らないで!』

 

『……はっ、まあいい。あのガキの死を確認するまでは油断すんなって言われてるしな』

 

 どうして、ボクは気づけなかったのか。

 どうしてリラがこんな酷い目に遭わされているのか。

 

 なんで、リラが。

 ボクのせいか。ボクのせいなのか?

 

 孤児院を誰にも言わず離れたボクのせいか?

 たぶん、違う。不安にするのは良くないから。

 

 相手の策略に気づけなかったボクのせいか?

 それもある。でも本当は違う。

 

 

 こんなクズどもを、生かしておいたボクのせいだ。

 

 

 スラムの犯罪者集団なんて殲滅してリラにとって住みやすい家を作ればよかったんだ。

 リラに危害を加えようとする可能性があるなら全員その首捩じ切って家族の元にプレゼントしてやればいいんだ。

 

「ねえ、私の言ったこと聞いてた?」

 

 あっ。

 

 

 カインはいつのまにか男たちの包囲を紙一重で逃れていた。その手はしっかりナインと繋がれていて、けどその位置関係はまるで逆だった。

 

 カインはナインに手を引かれて、スラムの複雑な地形を抜けていく。でも相手だってここの住人だ、投げつけられるものは全部ギリギリで避けることしかできない。

 

 そこで、カインが転んだ。

 ナインは繋いでいた手を解くと、カインにゆっくりと語りかけた。迫る追手のことなんて気にせず、ナインが口を開く。

 

『ずっと、この日のために生きてきたんだ』

 

 なんだ、これ。

 ちょっと待って、いや、そんな訳が。

 

『転んだくらいで泣かないで。()()()

 

 やっぱり、そうなのか。

 

『でも、だって……!』

 

『ナインを、守りたいんだ』

 

 ボクがナインだと思っていた子の顔が月に照らされる。中世的だけど、やや男寄り。

 やっぱりそうだ、ボクがカインだと思っていたのはナインで、ナインだと思っていたのはカインだ。

 

 カインが、覚悟を決めたカインがナインを薄暗くて細い路地に押し込んだ。

 

『来なよ、ブサイク!』

 

『んだとコラァ!』

 

 前だけを向いて、ナインは路地を抜けていった。やっぱり、顔をぐちゃぐちゃにされていたのは挑発したからで、リラがナインの生死をしらなかったのはボクが戻ってくる前まで男に押さえつけられていたから。

 

 

 視界が晴れる。

 

 ナインは初めてボクの前で、アーツを全て解いた。

 

 おかしいと思ってた。初頭部高学年にしてはカインの身長が高すぎる。ボクが今まで戦っていたのはきっと、カインの気配だけを動かした幻影だ。

 ボクが受け流していたあの一撃目は、電気信号によって感じさせられた、言わば触覚の幻。二撃目だけは実体で、だからあんなに戦いにくかったんだ。

 

 少し褪せたような黒い髪に、緋色の目。ボサボサのまま放置されてる、腰くらいまである長い髪。服装はカインの幻と同じ黒尽くめで、光沢のあるベルトがクールな雰囲気を出している。

 150センチもないような体躯で、ナインはニヒルに笑っていた。

 

「全部、オレがやったんだ」

 

「どれのこと?」

 

「軍用車の襲撃を二回。リラの仕込みは当然として、とある会社の新入社員に変な噂を聞かせたり、とあるスラムの情報屋にコータスの女が龍門繋がりだって言ったこと」

 

「……ああ、だからか。だからエイプリルはあんなに目の敵にされてて、それで今日スラムがそんな感じなのは……昨日リラとしてボクたちと会った後に、今日来るだろうって予測をスラムに流したんだ」

 

 ボクがスラムに来たのは、昨日リラさんに情報を貰ったから。ガヅィアやあのアスランとの食い違いはナインによって意図的に生み出されたものだった。

 

「なあ、知ってるか?シルヴェスターの部下は上司のことが大層好きでよぉ。シルヴェスターが感染者だってことを龍門にバレないようそれはそれは頑張ったらしいぜ?」

 

「それを知ってて、エイプリルに」

 

「ああ、ぶつけた。当たり前だろ。クッソ面白かったぜ、お互い自分が悪いことをしていないなんて思ってるヤツらが衝突してんのを見るのはよ」

 

 ナインが笑う。

 叱る気にはなれなかった。そうまで歪んでしまった一因には、ボクの名前も挙がるはずだから。

 

「こんなことも、知ってるか?」

 

 より獰猛に、十歳と少し程度の少女が笑う。

 

「シルヴェスターは元々スラム出身だった。ガヅィアもスラム出身だ。シルヴェスター社はスラム出身のヤツらを雇い上げて融和させていくって目標も持っていたらしいぜ」

 

 シルヴェスターやガヅィアについては、確かに気になっていた。龍門を本拠地として起業したのに、その名前が炎国のそれじゃなかったから。

 他国からやってきて立ち上げたんだと思ってたけど、どうやらスラム出身で国籍が入り混じっていたからみたいだ。

 

「アスランのアイツはスラムのボス。スラムの真ん中で鉱石病に倒れたシルヴェスターの隠蔽を一番頑張ってた野郎だな。一段落した矢先に、()()()()が嗅ぎつけてきたらしいぜ?」

 

 つまりこういうことだ。

 

 シルヴェスターは手紙の投函後、スラムに立ち寄る。けれどその道すがら鉱石病が悪化して倒れて、手を尽くす前に死んでしまった。

 感染者であることを隠して活動していた彼らは尊厳だけでも守ろうと龍門に情報を隠蔽し、そして粉塵になったせいで中身のない棺桶を葬儀屋に用意してもらった。

 

 葬儀屋の男はきっと、エイプリルの情報を聞いていたんだ。だからあれほどまでにエイプリルのことを避けようとしていた。

 

 葬式を開いて、するとやってきたのはよく知らない二人組。既にナインの唆していたシュエンがボクたちに声をかけた。

 葬式の前後あたりで、エイプリルについての噂を流したんだろう。噂の拡大した範囲的に、葬式より少し前くらいが流れ始めた時期かな。

 

 それで、嗅ぎ回るボクたちに対してガヅィアは怒ったんだ。お前らだけの責任じゃないって言葉は、近衛局の異常に厳しい感染者対策を皮肉ったんだろう。

 近衛局がそうしていなければ、シルヴェスターが感染者だったって公に出来るんだから。

 

 そして最後に、リラの姿でボクたちを唆してスラムに向かわせて、姿を現した。これがナインの描いたシナリオだ。

 

「オレがリラ姉の姿を借りたのは、お前が過去を忘れていないかどうか確かめるためだ。まあ、想像以上にガンガン来やがった訳だけどな」

 

「リラのことは今も好きだよ。ずっと、そうなんだ」

 

「ああ、分かってる。嫌ってほどな」

 

 初めてナインが苦笑した。

 そんなに、かな。ボクとしてはリラに対しての愛も普通だと思ってるんだけど。

 

「でも、本当にそうなのかってのは分からねえが。昨日オレがお前らを見つけた時、思わず殺したくなるくらい幸せそうに連んでたしよ」

 

「やっぱりあの殺気ってナインだったんだ」

 

「まあ、な」

 

 このまま、穏便に終わればいいのに。

 そう思ったボクを、ナインの視線が鋭く貫いた。

 

「そろそろ、潮時だ」

 

 アーツロッドをナインが構える。

 説得はもう意味がないだろう。そう思えるくらいに覚悟の決まっている目だったけど、一応言うだけ言ってみよう。

 

「ナイン。矛を収めてほしい」

 

「ああ?」

 

「ボクは君に殺されたくない、けど殺したくもない。まず戦いたくないんだ。だからどうか──ぐぅっ!?」

 

 全身が切り刻まれたような()()を覚える。

 

「どうでもいいんだよ、お前の感情なんて」

 

 冷たい目がボクを見据える。

 

 

「殺されたくねえなら、殺されなければいい。殺したくねえなら、殺さなければいい。戦いたくねえなら戦わなければいい。──全部お前の自由だ」

 

 

 ナインが剣を柄から抜いた。

 

「まあ、死にたくねえなら抵抗しろよ」

 

 ああもう、仕方ないかぁ。

 構えた短剣、向けられたナインの剣。

 

 

 どうにかするしかない、か。

 

 




終わらなかったです。すみません。
既に冗長ですし、次こそは終わらせます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六十四 閉幕

 

 

 

 

 ナインの姿が二重、三重にブレる。

 自分の体に傷がつくまで、質量ではなく『感覚』を与えてくる幻影がどれなのか全く分からない。

 

 一斉に左右と上から剣が迫る。

 もしこれを避けなきゃいけないなら、確かに少しは手間がかかるかもしれない。

 

 だけどボクはこれを弾いてもいいことになってる。カインの時に感じていた思い感触は幻影で、今のナインは体重と剣含めて50キロもあるか怪しいくらい。

 

 下から、アーチを描くように短剣を振るう。

 

 左から一つ目と二つ目の幻影はあからさまに重く感じたけど、それでも実際の動きに支障は出ない。一番右に居たナインだけが後ろに弾き飛ばされて、残りはふっと掻き消えた。

 タネが分かれば簡単なことだ。力で勝っていることは明らかなんだから、それを──

 

 

 巧妙に隠れた殺気が背を狙う。

 

 

 反射的に体が動いて、背後を水平に蹴る。

 腿のあたりが切り裂かれた。手応えはない、感触を消されているわけでもないことがアーツで分かる。完全に回避された。

 

 ブレた時の三人は全て囮、本命は透明化しての一突き。

 しかも、たぶんそれら全部が本気じゃない。ナインはリラの姿で殺すって明言していて、恐らくはまだそのつもりだ。

 

 今の攻撃はただボクをおちょくるためだけのもの。

 

「随分と余裕だね、ナイン」

 

 返答はない。ただ、代わりに一瞬だけリラが男に押さえつけられてる視界が送り付けられてきた。挑発のつもりか、それとも怒ったのか。

 

「あんまりそれ、映さないでほしいな」

 

 殺したくなるから。

 

 ナインのアーツで遮断させられていた感覚を強引に脳へと押し込んだ。何もなかったはずの空間に剣を構えるナインの姿がぼやけて見えてくる。

 

 至って普通に、接近して蹴り上げた。

 普通とは言えサリアさんと訓練中の時の普通。

 

「が、あぁっ!?」

 

 いきなり自分のアーツが手応えを失って、更に見えていなかったはずの相手から視認されて腹を蹴り上げられる気持ちなんて分からないけど、きっと良い気分ではないはずだ。

 

 でも、うん。

 挑発したのは、ナインの方だよね?

 

 浮き上がってる体を引っ掴んで膝蹴りを入れる。

 ナインが苦し紛れに痛覚を同期させてきたけれど、これぐらいの痛みならどうってことない。遮断するまでもない。

 

「げぶっ!?」

 

 地面に転がるナインが素早く立ち上がり、ボクの方を見る。けど既にボクはもうそこに居ない。

 まだダメージが抜けきっていないのか前屈みになっていたナインの頭がちょうど蹴りやすい位置にあったので、後頭部を思いっきり蹴り抜いた。

 

「ぐぅっ、クソが……!」

 

 頭がジンジン痛んでるけど、それ以上に二度も蹴られたお腹が一番ダメージも残ってるみたいだ。

 ダメだなぁ、ナイン。人と痛覚を同期させるなんて、そんなの弱点を教えてるようなものだよ?

 

 あ、ナインの姿が消えた。信号を止める力が強まっている。かなりアーツに力を割いたんだろう、負担にならない程度でアーツを扱ってるボクより余程出力が高い。

 

 でもそのせいで気配を殺す方が等閑になってる。

 

 アーツが似てることもあって、今どの感覚がどの程度弄られているのか分かる。視覚と聴覚がダメで、触覚は特になし。

 

 それなら、手応えがあれば本体。触覚が遮断されたなら、手応えを誤魔化されたってことでいいんだよね。

 

 距離を詰めれば、それだけでナインの動揺したような気配が感じ取れる。姿が見えなくて音もなくなった、()()()()で勝てるなんて思ってるの?タネさえ分かれば対処なんて誰でもできる。

 

 

「ボクのこと舐めてる?」

 

 

 強く、視線に殺意を込めた。

 

 アーツが解けて、飛び退ったナインの姿が見えている。さっきまでは肩で息なんてしていなかったと思うけど、今は必死に肺へと空気を送り込んでいる。

 

 リラを映した視界で煽られたことを思い出して、つい隠していた方の殺意も漏れてしまった。いけないな、本来ボクの方がナインに頭を下げるべきなのに。

 

 どうしようもなく怒りが湧く。

 

 ナインのことが許せなくなる。

 抑えてた分の力が、いつのまにか抑制されていたボクの力が制御を離れていくのを感じる。

 

「……オレのこと分からなかったクセに」

 

 うっ、バレてる。

 

「しゃーねぇか。こっからお前に手加減はナシだ」

 

 ナインが目を閉じて肩を竦め、やれやれとでもいった風の仕草をする。振った手の動きと合わせて剣がゆらゆらと揺れて、しかしそれはすぐにボクへと狙いが定まった。

 

 剣先がボクの方を向いて、ナインはゆっくりと目を開けた。弧を描く口元、まるで揺れていた剣のように掴み所のない雰囲気。

 

 

「さっさと来なよ、アンデッド」

 

 

「殺してやるよ」

 

 

 ナインの姿がパッとリラの姿に切り替わる。リラさんじゃなくて、ナインとそれほど背丈が変わらないリラの姿。

 今まで目の中にしか感じられなかった殺意は奔流となってボクの肌をピリピリと刺す。

 

 ナインが地面を蹴る。

 

 そしてその気配が、気配だけが四つに分裂した。

 相変わらず突っ込んでくるナインから分かれて、包囲するように殺意が動く。

 

「────ッ!」

 

 一つ目の気配は妙なブレがあった。短剣で突き刺してみれば、やっぱりその気配はすぐに消えていく。

 

 二つ目の気配を対処しようとすれば、残っていた三つの殺意が一斉に膨張した。即座に反撃を後退に転じたところで、見えているナインの刃がボクの腕を浅く斬った。

 それなら、と見えているナインの腕を掴み──勢い良く掴んだせいでボクの指は幻の中に沈み、そのまま見えていたナインは消えてしまった。

 

「はあ!?」

 

 代わりにボクのことを挟むように二つの気配がまた主張を強める。動揺で上手く狙いが汲み取れない、どこへ剣が振られているのか分からない。

 

 仕方なくボクは殺意に混ぜて、少しだけアーツを使った。ナインのアーツは強すぎて跳ね除けられないけど、今まで使っていたように放射するだけだったら自由だから。

 

 死の恐怖はもう薄れて消えた。

 三つ目は決まっている。

 

 

 一つ。リラのことを考えるだけで痛くなる胸の内と、そしてそれに伴って現れる『喪う恐怖』。

 

 

 二つ。リラのことが大切で、ボクが作り上げたリラとの思い出はボクだけのもの──『他人に知られる恐怖』。

 

 

 三つ。分かれない。分かっているのに、本当にそれが分かっているのか把握できない、『未知の恐怖』。

 

 

 少しは訓練できていた。

 アーツを使わないまま、声を殺してホテルの部屋でその恐怖を経験していた。

 けれど、それでも抑えの効かない部分が噛み締めた歯の隙間を通って漏れてしまう。

 

「────ッ!」

 

 しかしナインは一瞬怯んだだけでその殺意を曇らせることなく、むしろより一層の威圧と戦意を昂らせていた。

 そうだ、同じアーツを使っている者同士なんだ。ボクがナインのアーツを遮断出来るんだから、ナインがボクのアーツを遮断することも出来て然るべきだ。

 

 とは言え、その一瞬だけで事足りた。

 

 怯まなかった方の気配に突っ込めば予想通り消えてなくなり、もはや無駄だと理解したナインがアーツを解いてボクの方に剣を振るう。

 それなりに熟達した剣裁きをどうにか避ける。普段ならそこまで集中して避ける必要もないけど、アーツの反動で起こった頭痛がボクの思考を滞らせていた。我慢できないほどじゃないけど、それなりに痛い。

 

 距離を取った。

 リラ……違う、ナインが今度はアーツを使わずに接近戦を仕掛けてきた。

 

 斬り下ろされた剣を弾こうと短剣を振り上げて、嫌な予感が脳を伝う。感覚を弄られている状況で第六感に従うのはどうかとも思ったけど、それ以上に攻撃が不透明だ。

 一旦退避しようと手を引いて、しかしボクの指はもう既に深く抉られていた。ナインの剣はまだ振っている途中、しかし気配に変わりはない。とすれば──腕と剣だけ幻か。

 

「どう、痛い?」

 

 骨がギリギリ見えていないくらいまで抉剔(けってき)されたのだから痛いに決まってる。それでもボクの経験してきた以上の痛みを発する訳じゃなくて、だから反応するまでもない。

 

 精々が、動かす時に不快だって感じるくらいか。その程度の違和感なら無視できる、最悪この戦いさえ動いてくれればそれでいいんだから。

 

 ナインの剣がボクの首を素早く突く。

 アーツはさっきからずっと発動されっぱなしだけど、それで幻を作っているのかどうかは分からない。ナインが幻を実体に重ねている可能性があるからだ。

 

 ああ、考えるのが面倒臭くなってきた。

 

 こういう頭を使ったやり方は嫌いなんだ。格闘術はパターンの組み合わせだから別として、駆け引きは苦手だ。チェルノボーグでWと戦った時も罠に嵌められた訳だし。

 

 

 だから、こうしよう。

 

 

 剣がボクの首に刺さったくらいを見計らって、それに遅れて突き出してきた剣を払い除ける。

 大体の感覚で手首の辺りを掴んで引き寄せ、お腹に肘鉄を打ち入れた。

 

「がっ、あぁ!?」

 

 ボクのカウンターは予想外だったようで、ナインのアーツが解除される。

 手首じゃなくて腕だったけど、掴んでそのままにしていたそれと、もう一つ胸ぐらを掴んで地面に叩きつけた。軽すぎる。

 

「がぁっ……この、クソッ……!」

 

 背中から打ち付けられたナインが弱々しい動作で立ち上がる。その目の中に見える熱は鎮まりつつあって、剣を握る手にも力がない。

 

 ──と、幻に引き付けられていたボクの背へと突き立てられた剣をギリギリで躱す。

 

「なぁっ……!?」

 

 かなり危なかった。たぶん投げられたところまではアーツなしで、立ち上がった部分はもう幻だったんだろう。いやあ、全然気付けなかったな。

 

「なんで避けられんだ、クソ野郎!」

 

 ボクもそう思う。

 

「勘だよ、ナイン」

 

「はぁ?」

 

「勘で避けた。首元の剣も、背後からの不意打ちも、嫌な予感がしたから避けた」

 

「……あぁ!?ふざけてんのか!?」

 

「ふざけてないよ。ただ、ボクは死の気配に人一倍敏感なんだ。恐怖がなくなればそれもどこかへ行くかと思ってたけど、どうやらまだ精度も高いみたいで安心した」

 

「何言ってんだ、お前。オレのアーツがかかってたはずだろ……?」

 

「何言ってんの、ナイン。それを含めて死の気配だよ?」

 

「ふざけやがって」

 

「ふざけてないよ」

 

「分かってるから口に出すなイラつく」

 

 あ、ごめん。

 

 会話をしているナインを見ながら、背後にある気配を感じ取った。その気配はナインのものじゃなくて、ボクに迫る死の気配。

 リラの姿を捨てて斬りかかってきてるのは、それだけナインが余裕を失くしてるってことでいいのかな。まだ無力化はかなり難しそうだけど、頑張ろう。

 

 ナインの気配や殺気を捉えてるわけじゃないから、どこを狙われているのかは分からない。そもそも死の気配なんてないし。少しだけ毛色の違う嫌な予感をそう表現してるだけなんだから。

 

 そう心の中で呟きながら振り向けば、そこにはリラの笑顔があった。

 

 

 つい、手が止まる。

 

 

 死の気配が全身を貫く。硬直していたボクの腕が反射的に振り上げられて、それをリラの持つ剣が半ばまで斬り裂いた。

 骨のところで当たって、どうにか斬り落とされることはなかった。でもそんなことはどうでもよかった。

 

「リラ」

 

 ボクの顔が綻んでいくのが分かる。

 ああ、ダメだ。幻だって分かってるんだけどな。どうにもボクの体は止まってくれないらしい。

 

 たぶん、何度もリラの姿を見過ぎたせいだ。ボクの中でリラを求める声が強くなりすぎている。動かなくなった右腕は放っておくとして、残った左腕をリラの背中に回す。

 

「リラ」

 

 リラの顔が引き攣った気がした。それでも、別段構わない。抱き寄せて、そうするとボクの胸あたりにリラの頭がつく。

 戦ってる最中だったのに、ボクはどうしてこんなにも幸せなんだろう。

 

「は、離して……っ!」

 

 リラが剣を振り上げて、そのまま振り下ろす。

 リラを抱き寄せる腕を離すなんてとんでもない、ボクは咄嗟に口で剣を受け止めた。

 

「え、いや……はっ?」

 

 口の端が切れる。

 強く強く噛み締めて、引く。リラには悪いけど強引に手から離させて、地面に落とす。

 

「いやいや、待って、ちょっと」

 

 ああ、右腕からの出血が酷いのかな。

 頭がくらっとした。でもこんなもの、鉱石病に付き合っていれば嫌でもなれることだ。今はリラ優先。

 

「リラ、リラっ!」

 

「離して、気持ち悪いから……っ!」

 

 そ、その言葉は流石にクるものがあるよ。

 けどごめん、離せない。ずっと頭の中にしか居なかったリラと紛い物とは言え出逢えて、どうしようもなく感情が振り切れてるんだ。

 綺麗な髪。リラは手入れをサボるから、ボクがよく梳いたんだよね。本当に懐かしい、大切な思い出だ。

 

 

「いい加減に、──離せっつってんだろうが!」

 

 

 リラは消えて、ナインが現れた。

 そっか、そうだった。うん、偽物だった。

 

 紛い物だとは分かってたんだけど、それでも記憶と全く変わらないリラを装われるとつい変な期待をしてしまう。そうは言っても本物なんじゃないの、って。そう思ってしまった。

 

 ナインに突き飛ばされて、二、三歩後退る。

 

 リラが恋しくて堪らない。一度本物に限りなく近い幻覚を見てしまった分、ボクの中でリラと会いたい欲求が高まっていく。

 

 

 ナインが何かを言っている。

 もう耳に入ってこない。

 

 

 ナインが何かをしている。

 もう何も見えない。

 

 

 ナインが、スラムが、土が、ビルが。

 

 

 

 

 今や全てがどうでもいい。

 

 

 

 

 リラを思い出す。

 

 リラで脳内が埋まっていく。

 

 けれど、それで全てを塗り潰すことは出来なかった。

 

 考えなければいけない、ロドスのことだとか、ナインのことだとか、そういうものが一斉に抵抗を始めるからだ。

 

 リラが消えていく。

 

 

 ナインの剣がボクの肩を斬る。

 不快だ、払おうとして右腕が動かなかった。

 

 なら左腕でいいか。ナインの剣を握って、指の腹が切れる。まあ、掴めたのならそれでいい。ナインの腹を蹴り飛ばして、強引に剣を奪い取る。

 

 さて、ボクはどうして生きているんだろう。

 

 何かやらなければいけないことを追い求めて、生き延びてきたような気がする。

 それが何かはもう思い出せないけど。

 

 まあ、どうでもいいか。

 リラが居ない世界なんだ、何があろうとボクの知ったことじゃない。どうでもいいんだ、何もかも。

 

 剣の柄を握る。肩が斬られているせいか、流血がひどいせいか、構えた剣先は震えていた。

 まあ、どの道すぐに動かなくなるし。ボクの体がどうであろうとボクには関係ないんだ。それがリラと無関係なんだから。

 

 あーあ、本当にどうして生きていたんだろう。

 早く終わればよかったのに。

 

 無意味な人生なんて、早く終えてしまえば良かったのに。どうしてボクはここまで生きてきたんだろう。純粋な疑問とすら言えるかもしれない。

 

 狙いをつける。首に刺せば死ぬだろう。

 ボクの体はヴイーヴルだけど、脆くなってるから簡単に斬り裂けるはずだ。

 

 あれ、なんで脆くなったんだろう。

 どうでもいいか。

 

 

 リラの後ろ姿が脳裏に映る。

 

 

 どうして、居なくなってしまったんだろう。

 ずっとボクの隣に居てくれればよかったのに。

 

 

 リラがボクに気付いて、振り返る。

 

 

 リラの右手は子供の頭に置かれたまま。

 名前は、何だったかな。たしかナインと双子の子だったように思うけど、まあリラに直接は関係のないことだし、どうでもいいや。

 

 

 リラがボクを呼ぶ。

 ボクはリラの方に歩いていく。

 

 

 ヴァルポの老人が見えてくる。

 どこで会った人だろう。リラと関係のある場所で会った人だと思うけど。スラムの中に居た人、だったかな?

 

 

 リラがボクの胸に手を置いた。

 

 

「まだ来たらダメだよ。あんまり私ばっかり見てないでさ、もっと周りを見たらどう?」

 

 

 リラがボクの体を押した。

 後ろの地面はどこかへ消えていて、足を踏み外す。

 

 

 落ちていく。

 

 リラの姿が小さくなって、消えていく。

 

 

 また見られると思ったのにな。

 ボクが思い出したんじゃない、リラの笑顔を。

 

 

「もう、私が笑う必要なくなっちゃったね」

 

 

 違うよ、そんな苦しそうな声が聞きたいわけじゃなかったんだ。ボクが見たかったのはそんな暗い声じゃないんだ。

 

 

 ボクの『希望』が、見たかったんだ。

 

 

 手に力を込める。

 今度は、剣先も震えなかった。

 

 リラの笑顔が見られないなんて、生きてる価値なんかない。ただでさえ無意味でどうでもいい人生に残る、たった一つの『希望』だったのに。

 

 死んでしまえばいい。

 

 『希望』がなくなったのなら、残るは絶望だけだ。ボクの人生にリラの笑顔以外で『希望』なんてどこにもないんだから。

 

 どうして笑ってくれなかったんだろう。

 理由なんて分からない。

 でも確かに分かっていることは、リラの笑顔は、ボクの『希望』は、もう二度と見ることができないってことだけだ。

 

 どうなったって、リラは帰ってこない。

 

 ボクの『希望』も帰ってこない。

 

 

 剣をボクの首に……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「約束、したよね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこからか飛んできた矢が剣の腹を叩いた。

 肩の傷が影響してか、ボクの腕はいともたやすくその剣を手放してしまった。

 

 矢を放った邪魔者は近くの廃ビルの二階から飛び降りてきた。どうして入り口の辺りがあんなにも破壊されているんだろう、流石に少し気になる。

 

 

「ねえ、アビス。まだ死なないって言ったよね」

 

 

 エイプリルがボクの方を見る。

 半ばまで切り込みが入っている右腕も、指の腹や肩のあたりが斬られている左腕も、傷がある他の部位なんて目もくれていない。

 

 ただ、ボクの目を見て怒っていた。

 

 とうしてだろう、少し怖い。怒っているエイプリルが怖いんじゃなくて、もっと先のことが気になって仕方ない。

 分からない。何を感じているのか、自分自身でも分からない。またか、またよく分からない感情だ。

 

「聞いてる?おーい、アビス」

 

「どうして、邪魔したんだ」

 

 そう言うと、エイプリルがボクの頬を叩いた。

 

「ごめん、まず聞くべきことあったよね、忘れてたよ。──で、それ本気で言ってるの?」

 

「もし本気だったとしたら?」

 

「殴る」

 

 そっか、殴るのか。

 腕を広げた。

 

「いいよ」

 

 エイプリルの拳がボクの腹に入る。思っていたより踏ん張りが効かなくて、つい尻餅をついた。その姿勢でも上手くバランスが取れなくて、上半身まで地面についた。

 

「ねえ、アビス。約束覚えてないの?」

 

「……さっきまで忘れてた」

 

 無言で、エイプリルがボクの脇腹を蹴った。

 だって仕方ないよ。リラのことで文字通り頭がいっぱいだったんだからさ。うん、仕方ない。

 

「それで、なんで死のうとしたの?」

 

「簡単だよ、『希望』がなかったんだ。リラが笑ってくれなかった。悲しそうだった。それはもう、ずっとそうなんだって分かった」

 

 エイプリルはよく分からないとでも言いたそうな顔をした。抽象的な話をしてる訳じゃないんだから、すぐ分かると思ってたんだけど。

 

「えーと、どうして『希望』はなくなったの?」

 

「分からない。リラが言うには、必要なくなったんだってさ。ボクが生きるためにはどうしても必要なものなんだけどね」

 

「……必要がなくなった、か」

 

「何か心当たりでも?」

 

「あー、うーん、いや……別に、ないけど」

 

 ありそう。

 

「それで、あの子は?」

 

 あの子?

 

「さっきからあっちで震えながらこっち見てる黒尽くめの子」

 

「ああ、あの子がアンデッドだよ」

 

「はあ!?」

 

 だいぶ回復してきた。

 なんとか立ち上がって、ナインに近づく。

 

「……な、なんだよ」

 

「そんなに怯えないでよ、ナイン。っていうかどうして怯えてるの?」

 

「戦ってる相手がいきなり腕を犠牲にしながら抱きしめてきたり、剣を口で受け止めたり、ノーガードで剣を受け入れたり自殺しようとすれば誰でも怯えるに決まってんだろ!?」

 

 あ、うん。ごめん。

 

「しかもお前、オレより引きずってんじゃねえの?情緒不安定だしよ、お前本当に大丈夫なのか……?」

 

 良い子だ。

 

「頭は撫でるなよ、孤児院から連鎖的にカインのこと思い出して泣いちまうだろうが」

 

 ごめん。

 

「……まあ、いいけどよ。別にオレだってお前を本当に殺したかった訳じゃねえんだ。ただ、そう思わなきゃやってらんなかったんだ」

 

「そっか。分かるよ」

 

「いや、おう……お前見てるとオレはまだマシだったんじゃねえかと思ったりしてんだけどな」

 

「大切な人を亡くした人が感じる悲しみに、優劣や大小はないよ。ナインの感情はナインのもので、ボクの感情はボクのものだから。……頑張ったね」

 

 膝をついて、ナインのことを抱きしめる。片手しか使えないし、身体中傷だらけで血とかついてるけど、抱きしめたいと思った。抱きしめてあげなきゃいけないと思った。

 

「お前、よくもそんな恥ずかしいこと言えるよな。何かあったのか?それとも、中二病か?」

 

 あはは。

 

「いや、違うか」

 

 ナインが少しだけボクを押して、目を合わせた。

 

「変わんねえな、お前」

 

 そう言ってナインが笑う。

 まあ、ずっとリラのこと好きだし。

 

「ナインも変わらないね」

 

「はっ、そんな訳ねえだろ」

 

「だってカインのこと好きだし」

 

「当たり前だ、バーカ」

 

 言いながら、抱きしめていた腕を解いた。

 ナインの笑顔は戦う前みたいな嘲笑じゃなくて、年相応に輝くような笑みだった。

 

「身内なの?」

 

 エイプリルが言った。

 同じ孤児院の出身って、身内でいいのかな。

 

「まあ、そうなります」

 

「あ、敬語ついた」

 

 うっ。

 

「別に構わないでしょう、敬語なんて」

 

「あたしは構うんだけど?」

 

 勘弁してください。

 

「で、こいつ誰だ?」

 

「この人はエイプリル。ボクの同僚っていうか、友人。よくボクの自殺を止めるんだ」

 

「苦労してんだな」

 

「苦労とは思ってないよ。直してほしいとは何度も何度も思ってるけど」

 

 言いながらこっち見ないでください。

 

 波長があったのか、ナインとエイプリルはそれから特段蟠りもなく話し始めた。

 ナインがアスランの男を差し向けたと知れば少しは思うところもあるだろうけど、まあエイプリルのことだから、たぶん許す。

 

 

 ほっと息を吐く。

 

 

 なんとかなった。ずっと心に残っていたアンデッドのことを、どうにかすることが出来た。これでボクをこの世に縛る羈絆(きはん)がなくなった。

 

 死ぬだろうと思っていた。

 アンデッドを探して、その過程で。アンデッドを見つけて、交戦した結果。アンデッドと和解して、その後に。

 でも何故だか、ボクの心が主張するのはナインとの和解を喜ぶ感情ばかり。死にたいなんて思ってない。生きたいとも別に思ってないけど。

 

 まあ、結局ボクはリラの源石に殺されたいと思ってるってことなんだろう。

 好きな人が居るなら誰でも殺されたいって思うだろうけど、既にいなくなった人に殺されたいなんて思うのはボクだけなんじゃないかな。

 

「それでも、ボクはリラに──」

 

 

 

 ビキ、と頭の中に音が響いた。

 

 

 

 繰り返し使ってきたボクには分かる、これは体がアーツの使用に耐えきれなくなった時に響く音だ。

 

 頭が割れそうなくらいの痛みが伝う。

 

 どうしようもない。アーツを使えば、それこそボクの頭が意識障害を超えて機能しなくなるだろう。反対にアーツを使わなければこのまま意識を失くすだろう。

 折角いい感じで終わると思ったのに。

 

 

 頭痛が許容量の限界を越える。

 

 

 まるで、リラに押し出された時みたいだ。

 奇妙な浮遊感と共に、ボクの体が落ちていく。

 

 

 

 

 

 ──意識が、そこで途切れた。

 

 

 

 

 




四章完結です。
五章はしばらく時間が空くと思います。
今回は本当にギリギリなので五章の第一話も投稿しません。

危機契約して待っていてください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

閑話 ロクでもない彼女の話
六十五 if√ コクヨウ


 

 

 

 

 

 起き上がる。着替える。

 顔を洗い、髪を整える。

 

 目を覚ましてから、私がその四つを終えるまで五分もかからない。元々は朝とか全然起きられなくて、⬜︎⬜︎に──アビスに起こされてたんだけど。

 

 アビスが望んだ通りになったなあ、なんて。取るに足らないことを考えながら最後のチェックを済ませた。

 

 うん、ばっちり。超可愛い。

 

 廊下の冷たい空気を感じながら、私は自室を出てすぐ、隣の部屋に入る。

 

 この時間ならまだ起きてないはず。

 電気をつけて朝餉を作る。冷蔵庫の中身は把握してるからすぐに取り掛かる。

 備え付けの調理器具だとあんまり大層なものは作れないけど、態々食堂のものを借りるって言うのも、ね。

 

 

 二十分くらいして、寝室の方からアラームの音が聞こえてくる。それはアビスからしたらちょっと不快なくらいなのかもだけど、私からすれば待望の音色!

 

「おはよう、アビス!」

 

「おはよう」

 

「朝ごはんはもう少しで出来るから待っててね」

 

「うん、ありがとう」

 

 蒸し焼きにして、と。片付けもしながら料理しなきゃいけないくらいスペースが少ないから、簡単なものしか作ってないのに忙しい。

 

「あのさ」

 

「んー?」

 

「なんでボクの朝食を君が作ってるんだっけ。それに、毎朝二人で食べてるのも」

 

 そう言われて、思わずアビスを凝視する。

 どういうこと? 鉱石病で記憶でも失くしたの? 一緒に食べるのはずっと前から、それこそ孤児院にまだ居た頃から変わってないのに。

 

「君が言いたいことは大体分かるけど。でもこれだと、相部屋をやめた意味がまるでないよ」

 

「相部屋をやめるまではアビスが作ってた。部屋を分けたのは私が生活能力を持つためで、それは今見てるように達成された。意味なんてこれで充分でしょ?」

 

 椅子に座ってこっちを見てたアビスの後ろに回る。前のめりになって覗き込めば、上を向いたアビスと目があった。

 

「それはそうだけど、でも実際には君がボクに依存するのをやめさせるためのことだったよね」

 

「依存なんてしてないよ?」

 

「…………うん。そうだね」

 

 微妙な顔で私から目を逸らす。

 

 アビスはもうずっとこんな感じ。何かにつけては私から離れようとする。仕方のないことだけど、それでもやっぱり、ちょびっとだけ、傷つく。

 

 もう慣れてしまった胸の痛みを押し隠すように、ぎゅっと背もたれを掴む。

 アビスには伝わってる。何も言葉は返ってこないし、何の反応ももたらされることはないけど。

 傷つく。傷つくけど、慣れた。

 

 拒絶されるのにはもう、慣れた。

 

 それでも孤児院の頃に戻りたくて。⬜︎⬜︎って呼びたくて。近づいて。精一杯のアピールをして。

 

 そうして、また傷つく。

 

「ねえ、アビス。私のこと───。」

 

 その言葉は半ば無意識に口から出そうになっていた。何の意味もない言葉。ただアビスを悲しませて、私が傷ついて、それだけの言葉。

 

 だからその声が掻き消されたのは、幸運だった。

 

 

「おっはよー! アビス!」

 

 

 さっきアラームが鳴っていた部屋からそのウサギはやってきた。短くも長くもない黒髪を靡かせて元気いっぱいの笑顔を見せて。

 

「寝心地、よか、ったよ……」

 

「おはよう、ライサ。よく眠れたんだ?」

 

 ライサ。ラーヤ。ラユーシャ。呼び名はこの三通りで、私に許されたのはライサだけ。

 ドクター救出作戦。彼女はチェルノボーグにて行われたそれの最中アビスに助けられた民間人。

 

 私よりずっと可愛くて真面目で。

 そして、ずっと真っ直ぐな子。

 

「また来てたんだ。アビスの召使なんだっけ?」

 

「嫌だな、恋人だよ」

 

「嘘つかないでくんない?」

 

「分かんないフリも同じだと思うけど……?」

 

 アビスの隣で寝てるのはいつも私だった。ロドスに来てからもずっと、部屋を分けるまではそうだった。

 布団に残ったアビスの匂いも、ザラザラした尻尾の抱き心地も、寝顔も、寝息だって、全部私だけのものだった。

 

 仄暗い感情が湧き上がってくる。怒りとはまた別の、もっとドロドロとした泥濘みたいな形をした感情が込み上げる気配がある。

 

 それを力任せに押さえつけて、私は笑う。

 ぶつける権利はとうの昔に失くしてるから。

 

「ラユーシャ」

 

「なに?」

 

「一緒に寝たかったなら事前にそう言って。何も言わないで入ってくるのはやめて」

 

「む。分かってるよ」

 

「だったらちゃんと言って」

 

「はーい」

 

 可哀想だなぁ、アビス。あんなに言うこと聞いてくれない人に好かれてるなんて。

 ライサだって、好きな人の言葉くらいちょっとは従えばいいのに。

 

「君も、僕が起きるより先に来て支度してるのはやめて」

 

「嫌」

 

「じゃあラユーシャと喧嘩しないで」

 

「私から仕掛けたことない」

 

 今だってライサの方がつっかかってきた。私からは何もしてないし、悪口なんて言ってない。

 私は何一つとして間違ってない。だってずっと前から私とアビスはそうしてきたんだから。今日だってそうあるはずなの。

 

 邪魔に思うのは、私じゃなくて、ライサであるべきなんだよ。私がライサを嫌うんじゃなくて、ライサが私を疎むの。

 隣に居るのは私。ずっとそう。だから私はライサを邪魔だなんて思わない。今のままでいい。だって私は一番(ライサより)近い場所にいるんだから。

 

「ねえ」

 

 だから、困らないでよ。当然だったはずなんだよ。

 私は⬜︎⬜︎の特別だったはずなんだよ。

 

 大切な人だって。

 大好きだって。

 

 そう言ってくれた。

 そう言ってくれた、はずだった。

 

 

 

 

 アビスの口が開く。

 

 でも、優しいアビスはきっと。

 

 

 

 

 十秒経った。

 やっぱり声は続かなかった。

 

「なんでもないや。ごめんね」

 

 それだけ言ってアビスは顔を逸らした。

 

 今アビスは、私の顔に何を見たんだろう。

 何を飲み込んだんだろう。

 どうして、私に謝ったのだろう。

 

 思考を強引に押し流す。

 鬱屈した考えは一人の時にでも詰めればいい。アビスとせっかく一緒の場所にいるんだから、これじゃもったいない。

 

「はい、朝ごはん」

 

「え。私の分もあるの?」

 

「来た時寝てるとこ覗いたからね」

 

「はぁ!?」

 

「ごめん嘘」

 

 はあぁ!? と更に声を響かせる。寝起きで出せる声量じゃないでしょこれ。どうなってんの声帯。あと生態。

 

「ありがとう」

 

「えへへ。どういたしまして、アビス」

 

 それとなくアビスの近くに座る。ライサは反対側。

 

「ドレッシングはこれが一番合うと思うから、使ってね」

 

「分かった。それじゃ、いただくね」

 

「……ありがと」

 

「ん。どういたしまして」

 

 かわいいな、ライサ。やっぱり私よりずっとかわいい。愛嬌があって、慕ってくれて、アビスからしたら私より余程魅力的に映るんだろう。

 それでも私はアビスの隣に居座る。これは魅力とかそういうのじゃなくて、ずっとそうだったから。それは覆しようのない事実。

 

 想いよりずっと確実な、事実。

 

「えへ」

 

 アビスが私の料理を食べる。

 頬張って、咀嚼して、嚥下する。

 

「えへへ」

 

 満たされる。アビスと視線が交わったって抑えない。抑えられない。この快感は私のもの。誰にも邪魔なんてさせない。

 

「どう? 美味しい?」

 

「美味しいよ。ありがとう」

 

「ふふーん、愛情がいい味出してるのかな」

 

 隠し味でも何でもないそれを伝えられて、けれどさっきとは一転して気不味そうな顔でフォークを動かすアビス。別に気にすることないんだけどね。

 私が勝手に想ってるだけ。返礼なんて元から期待してない。もちろん、いつかはそうありたいと思うけど。

 

 

 いつかは、また。

 

 

 

 あの頃と同じように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────ばちっ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 振るった槌矛(メイス)が構えられた盾を紙切れのように破壊する。もう一度そうすれば、今度は金属片ではなく血肉が飛び散った。

 

 頬に伝った生暖かい液体を拭う。

 

 戦場はいつもの通りだった。私たちの勝利が確定した、まるで消化試合のような殺し合い。

 演習でも何でもないのに、敵の命はどれも恐ろしいまでに容易く潰えていく。

 

「──ははっ」

 

 思わず笑い声が漏れた。

 ああ、可笑しくて堪らない。

 

 必死に生きていたはずの彼らが、私なんかの攻撃で悉く血の花を咲かせていることが。

 本当に、可笑しい。

 

 わん、つー、さん、し。

 

 リズムに合わせて死体を作る。見逃してアビスの負担を増やすわけにはいかないから、さっさと処分する。

 

 ほいさ。はいさ。

 槌矛(メイス)が唸りを上げて衝突すれば、硬い何かを突き破る感触が私の手に伝わる。力任せに振り切って、首から上をぐちゃぐちゃにした目前の敵は(くずお)れた。

 

 さあ、次。

 

「リラ、前に出過ぎだってさ」

 

「へっ?」

 

 若干引き気味のライサに言われてようやく気付いた。

 鮮血のレッドカーペットは何十メートルも伸びていて、破裂したようにぐちゃぐちゃな頭を持つ死体がそこかしこに落ちていた。

 

「よ、っと」

 

 弾丸のようなアーツを跳ね返して術師の胴を撃ち抜いた。狙われていたライサが遅れて反応する。

 私のアーツは副作用として反応速度が高まる。だからある程度はフォローできるけどそれを考えても危なかったし、ライサはもっと注意するべき。

 

「じゃあ帰ろうか」

 

「ん」

 

「あ、そう思ったらなんかすごく帰りたくなってきた」

 

「作戦中はそういうこと言わないでくれる?」

 

「そういう意味じゃないよ」

 

 退路を断つように回り込んだ敵を吹き飛ばす。

 

「私にとって帰るべき場所はアビスだから」

 

「……イラつくなあ」

 

 そう言いつつ、ライサが浮かべた表情は苦笑いだった。

 私の言動にも多少は慣れてきたみたい。

 

「ねぇ、ライサ」

 

 もっと仲良くなりたいな。アビスと仲がいいライサとは、ずっと良い関係を続けたい。

 そう考えてのことだったけど、杞憂だったみたい。

 

「ラーヤでいいよ」

 

 ライサが、もといラーヤがそう言った。

 思わず口元が弧を描く。

 

「それで、何だったの?」

 

「なんでもないよ。ラーヤ」

 

「話しかけたくせに?」

 

「だって必要なくなっちゃったし」

 

「なにそれ」

 

 表情は不機嫌そうに、でもその動きには不機嫌な時特有の乱暴さがない。

 ラーヤも、私が同じこと考えてたって分かったんだ。

 

 少しだけ嬉しくなる。

 早くアビスに会いたいな。

 

 

 

───ばちっ。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 もし私が、踏み出せなかったのなら。

 

 

 風を全身に受けながら私は考えを巡らせた。

 もしあの時躊躇ってしまったのなら、私はきっと近いうちに死んでいたと思う。鉱石病が私を殺していたと思う。

 

 そしてアビスは──幼い⬜︎⬜︎は、私の死を心に刻む。順当に行ったとするなら、一生を私の幻影に囚われて過ごす未来だってあったのかもしれない。

 

「私は間違ってたかな」

 

「一つだけ、ね。でもその過ちを認めて取り戻そうとしてるのなら、君が今言った妄想の世界なんかよりずっと今の君は素敵だよ」

 

 一歩前に踏み出す。

 見渡す限りの荒野に巨大なキャタピラの跡がついている。ロドス・アイランドの足跡だ。

 

 もし私の足跡があるとしたら、それはきっとアビスだ。

 私の人生はずっと、初めて出会うずっとずっと前からアビスと共にあったから。

 

「アビスはさ、どうにもならなくなった時にアーツを使うよね。不安と恐怖の塊が心を押し潰してくるような、そんなアーツを」

 

 まるで受けたことがあるみたいな私の言葉にアビスは眉を顰めた。これはきっとアビスが大事にしてるものだったから、知ったかで言われることが不快なんだろう。

 でもアビスが気づいてないだけで、私はアーツを受けたことあるんだよ。

 

 掻き立てられた。掻き混ぜられた。掻き毟られた。

 けれど私の足は竦むことすらなく、表情は変わらず、いつも通りに行動できた。

 

 だって、()()()()()()()()

 

「アビスに嫌われたくない。アビスに突き放されたくない。アビスに、もう二度と拒絶されたくない」

 

 だから私は抱えている。

 

「加害者の私がどうこう言えることじゃない。でも、私は……耐え切れないくらい、悲しいんだよ」

 

 微妙な距離感に警戒を顕にした態度。

 根を張った不信感が私の心に穴を開ける。

 

「そんなに暗い顔しないでよ。私は笑ってるアビスの方が好き」

 

 おかしくなりそうだ。

 こんなにも近いのに触れることができないなんて、二人きりで名前すらも呼べないなんて。

 私の名前を呼んでほしいだなんて我儘は言えない。

 

 

 少しだけでいいから、触れたい。

 

 

 伸ばした手を避けるようにアビスは一歩後ろに下がった。

 触れるつもりなんてなかったし距離からしても触れられないだろうことは分かってるはずなのに、アビスは逃げた。

 

 思わず胸を押さえてしまいたくなるくらいに強く心臓を握られた。

 片時だって離れたくない相手は私から離れたいだなんて。

 ああもう、笑えないなあ。

 

「──終わりにしたい、なんて馬鹿なことは言わないよ」

 

 脅しみたいになっちゃうじゃん?

 けらけら笑ってそう言ったら、アビスは私をまじまじと見つめ始めた。やん、照れちゃう。なんてね。

 

「楽しそうに見える?」

 

「……少しね。意外だよ」

 

「だと思う。だってそれが正解だから」

 

 普段の私からかけ離れた言動だなんて私が一番よくわかってる。それでもそうしなきゃ、足が震えてしょうがない。

 

「ねえ、アビス」

 

「何かな」

 

「愛してるよ」

 

 あまりにも淡白な愛の言葉。

 

「好きで好きで堪らなくて、だから私はアビスに好かれることが嬉しくて、苦痛だった」

 

「勝手だ」

 

「そうだね。とっても自分勝手だった」

 

 仄かな慚愧(ざんき)すら私は感じない。

 手に入れたあの日々はかけがえのないものだから。

 

「一つだけ、聞くね」

 

 

 

──ばちっ。

 

 

 

 静電気みたいな音が聞こえた。

 

「私のこと好き?」

 

 異音に戸惑いながら、アビスは答える。

 

「分からないよ。ボクは君のことが好きじゃないけど、でも嫌いでもないんだ」

 

「そっか」

 

 

ばちっ。

 

 

「それ、が。聞けて、良かったよ」

 

 ああ、私嫌われてないんだ。

 だったらもうそれでいい、妥協しよう。

 

 

ばちっ。

 

 

 私は好かれようなんて思ってない。

 ただ嫌われたくないだけだ。

 

 だったら、今、固定してしまえば良い。

 

 ばちばちと電流が流れる。

 抑えつけられていたアーツが吹き荒れる。

 

「それ、は……」

 

「大丈夫、安心して。アビスには、向けないから」

 

 サーベイランスマシンが青から赤に変わった。

 吐き気と頭痛に眩暈のトリプルパンチ。慢性の鉱石病が急性に変わった時の症状。原因は、アーツの使い過ぎ。

 

ばちっ。

 

 一つ一つに膨大な量の電気信号が打ち込まれた電流の群れ。アーツ学に則って空気中すらも容易く進むそれは、私の大事な、それでいて忌々しいアーツの奔流。

 

 ブレーキの壊れる音がした。

 

「私のこと、忘れないでね」

 

ばちっ。

 

「君は、死ぬつもりなんだね。ボクに何もさせず、それでいて一直線に自殺へと進んでる」

 

「私のアーツを、怖がってるのは、アビスの、アーツが、教えてくれた、からね」

 

「性悪め」

 

「返す言葉も、ないよ」

 

ばちっ。

 

「ラーヤと、上手くやりなよ。朝ご飯は、大丈夫だと思うけど、ちゃんと、食べるんだよ」

 

「はぁ……こんなことなら、さっさと仲直りしておくんだった。今晩の夢見は最悪になりそうだ」

 

「そっか。あんまり、嫌いに、ならないでね。泣いちゃう、からさ」

 

ばちっ。

ばちばちっ。

 

 

「じゃあね。私、ずっと、好きだったよ」

 

「ああ。ボクも嫌いじゃないよ、リラ」

 

 

ばちっ。

 

 私の意識はどこかに飛んで。

 私の体はバランスを崩して。

 

 私はきっと、笑えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年は、船の向こう側に落ち行く少女を見送った。

 サーベイランスマシンの反応が医療部に把握されているのかは分からなかったが、少年は猫医者に少女のことを話そうと決めた。

 

 嫌いではなかったんだ。

 少女自身を除けば、誰も彼女のことを嫌いなどではなかったんだ。

 

 少女が落とした結晶のカケラを拾った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その黒さはまるで、黒曜石のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

一周年記念です。何も書けなくなってから半年ほど、ひたすら逃げてました。これからは章ごとなどとは言わず、出来次第の投稿にしたいと思います。整合性なんて結局取れないので。

改めまして、誠にすみませんでした。
読んでいただけた方々、本当にありがとうございます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五章 諫言の効
六十六 郷愁につられて


 

 

 

 

 

 誰も意識のない状態で物事を考えることはない。当然だ、だって意識がないんだから。夢の中ならまた違うのかもしれないけど、気絶という事象に関してこれは正解だと思う。

 

 そんなわけでボクは困惑している。

 

 意識が断絶された感覚があって、それでボクは次に起き上がるべきなんだ。もしくは謎めいた場所でリアリティのない行動をしているべきなんだ。

 

 間違っても、こうして直立している状態だなんてものはありえない。意識が妙にハッキリしてる。そう、理路整然と現実のような思考が出来るのなら、これは夢じゃない、はず。

 

 でも、第一候補は夢だ。現実感のある夢。

 結局今はそう思うしかない。

 

 それにしても、と見回して息を吐く。この路地裏はなんだかほっとする不思議な感覚を覚えさせる。

 起きていた頃に居た龍門のスラムよりずっとずっと道が狭くて、そしてなんとなく懐かしいんだ。

 ボクとリラが過ごした孤児院の近くにもこういう場所があった。すぐそこを抜けると空き地があって、そこには木が植わっているんだ。ここはあの路地裏より少しだけ狭いけど。

 

 ほんの少し胸が痛くなる。

 リラのことを思い出してしまったからだ。ボクのお腹で今もなお存在を主張する源石はいつまでもボクの記憶を鮮やかなままに保ってくれていて、そのおかげでボクはまたリラに会えた。

 

 満足するべきだったんだ。

 ナインがリラのことを再現してくれた時点で、ボクは満足して死ぬべきだった。リラはもうボクに笑いかけてくれないんだから。

 

 まあ、それはまた起きた後に考えよう。

 

「あ、あっつ……っ!?」

 

 そう考えた次の瞬間、ボクの身体全体が熱を発し始めた。困惑に頭が染まったボクへと追い打ちをかけるように、その熱は赤い光となって溢れ出す。

 

「……っ、なに、これ!?」

 

 鮮やかな光が纏わりつく。アーツだとは分かっていても、いつも以上に制御が効かない。アーツ適性が欠落しているボクにこれはちょっと無理だ。

 

 それでもなんとか手繰り寄せる。制御権は全く奪えそうにないけど、脳に出力される不快感がキツい。

 頭の中をかき乱されているようだなんてよく言うけど、全身がまるごとそんな感じ。集中もまともに出来ない。

 

 ただ、不思議と痛みはない。夢の中だからか、アーツを使う時にいつも感じている反動みたいなものはない。その代わりに熱くて気持ち悪いんだけど。

 

「大丈夫?」

 

 声が聞こえた。とても懐かしくて、それでいてつい最近聞いた覚えがあるような声。

 今のボクには、その声が誰のものなのか分からなかった。ただ集中しているこの時に声をかけた邪魔者、そう思った。

 

「……見て、分かってよ! 大丈夫じゃない!」

 

「そっか」

 

 背後からの声はそこで途切れて、代わりに素足が土を踏む小さな音がボクに近づいてくる。

 当然のことだけど、ボクはそんな音になんて反応できない。言ってしまえば戦闘中と同じくらいの注意をアーツの制御に向けているんだから。

 

 そんなボクの背中を、誰かがつついた。

 光はそれを契機に出現を止めて、ボクの体にくっついていたものは離散していった。

 

「あんなこと言った手前会いにくかったけど」

 

 邪魔だった不快感が消えて、ようやくボクはその声の主を知った。ボクのアーツはまだ制御が効かないから分からないけど、きっとこの声はアーツによるものじゃない。

 そもそもここは夢なんだから、夢みたいな体験くらいしていいはずなんだ。

 

 だから、だから。

 

「会えて嬉しいよ、⬜︎⬜︎。元気してた?」

 

「リラ……っ!」

 

「わぷっ!?」

 

 振り向いて、リラを抱き寄せた。

 びっくりしてるのか、リラの体が強張る。

 だけどそれもすぐに解けて、リラはボクをあやすように抱きしめ返してくれた。ああ、どうしよう。ずっとこのままでいたい。

 

「大好きだ」

 

「う、うん」

 

「愛してる」

 

「……どうも」

 

「ずっと好きだよ」

 

「……」

 

「いつも想ってるから」

 

「ごめんちょっと一旦でいいからやめて。このままだと本当にキャパオーバーがすぐだから」

 

 少し離れてみれば、リラの顔は真っ赤だった。

 ナインとの時はあんまりよく見られなかったけど、大人びたリラの顔はやっぱりとてもいい。

 

「可愛いね」

 

「ふぐっ……ね、ねえ、もしかして⬜︎⬜︎ってもう彼女さんとか居たりするの? いや居ないのは分かってるけど、妙に女慣れしてない?」

 

「女慣れなんてしてない。リラのことが好きだから好きって言ってるだけ。大好きだから」

 

「う、うぅ……私も大好き……」

 

 どんな感情なのかは分からないけれど、半泣きになりながらリラは抱きしめ返してくれた。

 

「っと。待って」

 

「えっ」

 

 当たり前のように近づけてきた顔を寸前で止める。

 

「い、今はそういう感じじゃなかっ、た……?」

 

 不安そうにボクの反応を探りながら問う。

 ボクのことを女慣れしてるだなんて言ってたけど、リラの方は全然そんなことないみたいだね……

 

「リラ、今は何か用があったんじゃないの?」

 

「待って待って。そっちはしたいとか、そういうのないの?」

 

「ないよ」

 

「……ないの!?」

 

「うん」

 

「ど、どう、して……?」

 

 ボクが頷くと、リラが震えながらボクに言う。

 困ったな。こんな反応されるとは思ってなかったんだけど。

 

「ボクの欲を押し付けたくない。ハグならあの頃から何度もしてたけど、キスは……ボクの我儘みたいで嫌なんだ」

 

「つまりしたいってことじゃん!」

 

「でもしたくない。あの頃のままでいたいんだよ」

 

 ここは夢だ。自分勝手にリラを捻じ曲げることなんて出来っこない。それにラユーシャが怒りそうだ。

 

「私がしたいって思ってても、ダメなの?」

 

「……こんなことを、心の底では思ってたのかな。ごめんね。そんなことを言わせて」

 

「心の底? ん? えっ?」

 

「……ここ、夢でしょ?」

 

「待って、夢じゃないよ?」

 

「いやいや、だってリラが」

 

「待って待って、私のことなんだと思ってたの?」

 

「深層心理が生み出した妄想」

 

「言いたいことは色々あるけど、妄想相手ならもっと欲望吐き出しなよ」

 

「その発言によってボクの言いたいことが増えたかな」

 

 距離を詰めて煽ってくるリラをやんわりと制しつつ後ずさる。まあ、リラだって本当にそう思ってるわけじゃない。

 ボクがそういうことをしないって分かって信じてくれてるからこそ、の冗談だ。

 

「なんか変な誤解生んだ気がする」

 

「そう?」

 

「まあ、いいけど。ここが夢じゃないってことだけまずは分かって。私は妄想の産物とかじゃないの」

 

「うん、分かった」

 

 それを確かめることなんて出来ないし、それならリラが教えてくれたことを信じたい。

 

 ボクが頷くと、リラは一つ咳払いをした。

 

「……」

 

 そのまま、ボクの方をじっと見つめる。

 

「……」

 

「……」

 

「……ねえ、⬜︎⬜︎」

 

「うん、なに?」

 

「一回くらいならキスしてもよくない?」

 

「さっさと本題に入って」

 

「あ、はい。それで、うん。まず、ここはどこかって知りたいよね?」

 

「リラは知ってるの?」

 

「うん、知ってる。ここはね、⬜︎⬜︎のアーツが作り出した紛い物の世界……これはちょっと違うか。時間軸がほんの少しだけズレた並行世界、かな」

 

「ボクのアーツが?」

 

 リラが手を大きく振ると、体が宙に浮いたような感覚を覚える。そしてボクの視界に一瞬だけノイズが現れて、周りの景色が切り替わった。

 

 あの懐かしい孤児院の前に立っていた。

 

 ボクのアーツが脳に感覚を出力している。それの原理は分かるけど、そんなことがボク程度のアーツで出来るのか分からない。

 もしこれが本物の世界だったとして、リラが言ってることはタルラさんやアーミヤさんに匹敵する能力だ。アーツ適性がないボクに扱えるとは思えない。

 でも、少しくらいなら夢だって見たい。

 

「ねえ。これって、アーツを使えばいつでもリラに会えるってこと?」

 

「んー、無理。あってないような条件が一つと、限界も一つ──じゃなくて、二つ。でもそれ以前に⬜︎⬜︎の体が耐えられるか分かんない」

 

 体が、耐えられない。

 そう聞いて一番最初に思い浮かんだのは、それで死んだら最後に見るものがリラになるかもしれない、なんてちょっと前向きな考えだった。自制しなきゃ。

 

「ロドスに入った頃の体なら、四六時中私が出てても問題なかったと思うけど」

 

 ふと、違和感を覚える。

 こんな空間があって、リラに会えて、それと比べたら断然小さな違和感だったけど、その質問はボクの口をついて出た。

 

「リラはどうしてそんなに知ってるの?」

 

 ボクのことについて、詳しすぎる。ここが夢じゃないって前提で話すなら、リラがどうしてそんなことを知っているのか疑問でしかない。

 

「えー、聞いちゃう?」

 

「答えたくないことだったら良いけど」

 

「いや、うん。まあ……」

 

 照れた様子で、リラがボクから視線を外す。頬を掻きながらあらぬ方向に顔を向けて、言った。

 

「ずっと見てたから。いつだって私は近くに居たよ」

 

 どうしよう、すごく好きだ。

 

「ライサちゃんと寝てるところとかも見てたよ」

 

「もしかして、寝てるボクのベッドにラユーシャが潜り込んだことについて言ってる?」

 

「うん」

 

「不可抗力じゃない?」

 

「誑かしたのは⬜︎⬜︎でしょ?」

 

「そんなことないよ!?」

 

 テロに巻き込まれてる人を助けることがそんなことに繋がるなんて、どうして分かるんだ。

 

「それに、部屋の鍵もかけてないし」

 

「必要ないからね」

 

「そんなこと言って。私みたいな人が夜に忍び込んで襲うかもしれないんだよ?」

 

「ありえないと思う」

 

「まあ、それはそっか。私より⬜︎⬜︎のこと好きな人は絶対居ないし。ライサちゃんもウブな子だし」

 

「ボクもリラのこと大好きだよ」

 

「にゃっ……ナインのアーツって精度高いよね」

 

 龍門で偶然出会ったあの日の焼き増し、ボクもそんな風に感じる。ナインのアーツはボクの記憶から抽出されたわけだから、それも納得がいくことではあるんだけど。

 照れてるリラなんて崇め奉るべき。

 

「        」

 

 リラが小さく呟いた。どこか影が差しているようなその顔や声が、どうしてかリラのもののようには見えなかった。

 

 夕立の後、湿ったままの道路。

 

 すぐにどこかへ消えた異物感はそんな情景を思い浮かばせた。普段はどこか褪せていて、濡れた時だけ妙に生々しく、そして鮮やかなんだ。

 それが果たして何を意味するのか。どんな感慨だったのか。複雑すぎて、ボクには分からない。

 

「ねえ、リラ……リラ?」

 

 別物のような雰囲気はとうに消え去っていた。

 ボクがかけた声はそこそこ大きいと思ったけど、どうやらリラには聞こえていないみたいだった。

 

「Wは隠してたみたいだけどさ」

 

「?」

 

「あの人、この世界に来たことあるんだよ。アーツを使った時に、一回だけ」

 

「えっ、本当に?」

 

「うん。めちゃくちゃ泣いてた」

 

「え、えぇ……」

 

 衝撃の事実だった。何を見て泣いたのかは分からないけど、もしかしたらWも孤児だった時代があったのかもしれない。ボクに同情でもしたから優しくなったのかな。

 

 

 リラがパン、と手を叩く。

 

 リラ以外の景色が全てが捻れて黒く混ざる。瞬きするより短い一瞬を過ぎれば、真っ黒な世界の中でボクとリラだけが浮かんでいた。

 

「これ、ナイショだからね?」

 

 リラが人差し指を口元に、はにかんだ。

 心が暖まるっていうか、安心するっていうか……夢だったら覚めなければいいのに。現実ならずっとここに居る。……無理?

 

 黒い世界は数秒も経たずに裂けた。

 

 断裂は次第に広がり、ボクとリラを囲んでいた暗幕は消えてなくなる。世界が塗り変わっていく。ボクが見ていた角度や孤児院はそのままに、日が少しだけ東に戻った。

 

 そしてそんな特段変わった部分のない孤児院の前、つまりボクやリラの前に、いつのまにか幼い少年が立っていた。

 

 その少年は指を絡ませて上に大きく伸びをすると、深く息を吐いて目を瞑った。黒に塗り固められたようなほど真っ黒な色のツノは、その少年がボクであることを如実に表していた。

 

『何してんのよ』

 

「うわっ!?」

 

 突然、誰も居なかったはずの空間からWが出てきた。少年のちょうど後ろだ、全容を見ているボクからすればホラーでしかない演出だった。

 

『W、今日は早いんだね』

 

『何してるかって聞かれた答えがそれかしら?あらあら、随分と生意気なガキに育ったものね』

 

『まだそんなこと言うほど一緒じゃないでしょ。それに、生意気に育ったならそれはWのせいだよ?』

 

『言うじゃない』

 

 Wが少年の頭を乱暴に撫でる。

 

「この人って本当にボクが知ってるW?」

 

「そのはずだけど」

 

 リラが苦笑する。

 

「……⬜︎⬜︎はこのこと知らなかったし、仕方ないとは思うけど。Wともっと仲良くしたら?」

 

「機会があったら」

 

「そんな機会永遠に来ないじゃん」

 

 リラの方に顔を向ける。

 

 何故だろう……それは分からない。

 けれど、ボクは。

 

「来るよ。たぶん近いうちに」

 

 なんとなく、そんな気がした。

 

 リラはボクの言葉に少しだけ驚いたような顔をして一言だけ、「ふーん」と呟いた。

 何を考えているのか分からない。

 

 リラに聞きたいことはいっぱいある。

 どうしてここに居てくれてるのか、どうしてそんなに悲しそうなのか、どうしてこんなに可愛いのか。

 でもそれをしてしまえばこの素敵な魔法が解けてしまいそうで、声が出せない。リラの幻影が消えてしまうくらいなら、ボクは何も言わずに幸せを享受していたい。

 

「見てほしいのは、Wのことだけじゃないんだ」

 

「何かあるの?」

 

「この世界に来てるのは──あっ、早くしないと」

 

 リラがボクの手をとって駆け出した。

 

「わっ、リラ!?どこ行くの!?」

 

「裏口の方!」

 

「分かった!」

 

 リラを抱き上げて小脇に抱える。

 

「あ、あれ……なんか見たことある」

 

「リラ、口閉じて」

 

「なにそれちょっとエロ──わああああああっ!?」

 

 ジャンプして、孤児院の向かいにある建物の窓枠を蹴り飛ばして垂直に上へと向かう。何故かいつも少なからず感じてる頭痛や体の不調がなくなっているから体力的に出来るはず。

 

 十分高くなるまで左手と足だけで壁を駆け上がった後、思いっきり蹴り飛ばした。暴れるリラは、仕方ないから強く抱き寄せさせてもらう。

 

 伸ばした右足がギリギリ孤児院の屋根について、そのまま駆ける。

 

「リラ、ちょっと大人しくして」

 

 口を閉じているリラは頭をぶんぶん横に振った。

 

「……まあ、もういいけど」

 

 一つ跳んで、そのまま裏口からすぐのところに着地する。咄嗟にリラが手を前に出すと、あの真っ暗なところで見たような裂け目が広がった。

 

「入ればいいの?」

 

「そう、早く!」

 

 リラが指差して、ボクはまた地面を蹴った。

 そうして飛び込むと同時に、ボクの顔へと何か液体がかかった。

 どろりとした、温かい液体。

 

「それでね……ってうわ、やっばぁ……」

 

 ボクの手から解放されたリラが手を口にやる。

 かかった液体が何であるのかは、目前の光景をして確認するまでもなく明らかだ。

 

「テメェが、居なければ──ッ!!」

 

 同じくらいの年齢の少年少女が三人。少し褪せた黒い髪色の少女──ナインが血に濡れたナイフを振っていて、黒いツノの少年──つまりは幼いボクが()()()()()()()()()()()

 白髪の少女が孤児院の入り口近くで目を丸くして見ている。

 

 つまりこれは。

 

「ナインも来てて、まあその……爆発しちゃったんだね」

 

 少女の悲鳴が響き渡る。

 

 少年の左肩から血が溢れて、痛みに呻いている。

 

 

「面倒なことになっちゃったね」

 

 

 号哭のように、ナインは怒声を張り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 




次回から一話あたりの文字数減ります


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六十七 萌芽

 

 

 

 

 

 どさ、と音がした。

 それを契機にナインの体が支えを失くし、ふらりと倒れる。ちょうどその先にはエイプリルが居て、咄嗟に支えることができた。

 

「え、ちょっ、えっ!?」

 

 ナインは見かけよりずっと軽く、動揺しながらも受け止めることに成功する。

 

 ナインはテロリスト集団であるレユニオン・ムーブメントの幹部、亡灵(アンデッド)だ。強力な幻影を手足のように操りいくつもの都市で好き勝手に暴れ回っていた。

 その敵意は留まることを知らず、活動を把握する者はその誰もがナインのことを、非感染者に対して強い恨みを持っていると推測するだろう。

 それはエイプリルに対しても同様だ。第一に頼る相手を自己に見せかけて殺し、次にシルヴェスターの周りを嗅ぎ回る近衛局員に仕立て上げて潰そうとした。

 

 だがそれでも少女は少女。実際殺されたわけでもないので、エイプリルは一旦諸問題を棚上げして丁重に寝かせる。

 

「ねえ、少しくらい手伝ってくれても……いやアビスもなの!? え、なんなの、もしかしてアーツ!?」

 

 遅ればせながら周囲を警戒するが、何もない。

 

「となれば緊張の糸が切れたのと、こっちは完全に鉱石病かな。はぁ。もう、こんなになるまで戦っちゃってさ」

 

 ぺちぺちと頬を叩く。アビスは苦しそうな顔を浮かべているが、そんなものは無視だ。

 

「救急車の呼び方なんて知らないし、歩くしかないか」

 

「大丈夫だ、救急車ならもう呼んである」

 

「あ、ほんとに? お金ってかかる?」

 

「かかるにはかかるが、手持ちでなんとかできるような額だ。ロドスのオペレーターなんだろう、払えないこともあるまい」

 

「それなら良かった……えっ、誰!?」

 

 ようやく気付いたエイプリルが勢いよく振り向いた。

 

「本名はもうない。ヤンと呼んでくれ」

 

 黒フードを被っている、中性的な声色の誰か。性別を判断することすらできなかったがしかし、黒フードには心当たりがある。

 

「レユニオンだよね?」

 

「安心してくれ、レユニオンとは言っても名前だけだ。『カインの部下』以外に肩書は必要ない」

 

「カイン、ね」

 

 そう呟くと、言いたいことはわかっている、とでも言うかのようにヤンは頷いた。

 

「彼が彼女だったとて変わるものなど何もない。彼は君たちにそう言ったのであって、それを我々は関知しない」

 

「分かりにくいけど、直接言ってもらえるまではそのままでいるってことね?」

 

「……分かりにくかったか」

 

 しゅん、とした雰囲気を纏う不審者。

 

「だ、大丈夫だよ! 説明が分かりにくいどころか何も言わないアビスの方がずっとダメダメだからさ!」

 

 異様な光景が形成されながらもエイプリルは己を見失わなかった。足でげしげしと脇腹を突かれたアビスが呻く。

 

「頃合いだな」

 

 サイレンの音が届いた。

 ヤンは少しずつ離れて行く。

 

 気付けば離れたところに黒いフードを被った不審者たちが並んでいた。

 僅かに見える彼らの口元からは悲しみが顔を覗かせている。まるで別れを惜しむかのように。

 

「彼に伝言を頼みたい」

 

「アビスに?」

 

「ああ。『ありがとう』と」

 

 何を言っているのかは、なんとなく理解できた。敬愛しているらしきナインが抱えていた(わだかま)りをアビスが解きほぐしたからだろう。

 

「私としては断りたいな」

 

 不意を突かれ、ヤンが足を止める。

 

「大事なことは直接言うべきだよ。きっと、ナインちゃんはあなたたちにとってそのくらい大切な人だっただろうからね」

 

「我々も直接礼を言いたいと思っている。だが、我々が枷となるわけには……」

 

 心苦しさをまるで隠さず、伝わった声が苦渋を告げる。

 

「分かった、伝えとくよ。断りたいっていうのはただの一所感に過ぎないんだし」

 

「そうか。助かる」

 

 ヤンは一度深く頭を下げると、集団の中に混ざり、そしてその影法師はいつのまにか消えていた。

 

 

 不思議な体験だった。

 どことなく、しかし強烈に感じた非日常感。体がぷかぷかと浮いているようにすら感じたそれが、今はもう大人しくなっている。

 

 あの黒いフードには何か仕掛けがあったのかもしれない。

 次に会えた時にでも聞いてみようか。

 きっともう二度と会うことはないのだろうが。

 

 

 そうして搬送されたアビスとナイン。

 

 すぐ目を覚ますだろうと言われてから(はや)五日、彼らには一向に目を覚ます気配がない。

 それどころか、意識障害のうち最も重いとされている昏睡に分類された。鉱石病感染者且つ重体であるアビスはそれもまだ理解はできるが、ナインの方は医者もお手上げだと言う。

 

『もし君が言うように同じタイミングでこの二人がこうなったとしたなら、それはもはやオカルトの領域だ。お祓いでも受けてみるか?』

 

 諦念が滲む彼らの声。必死になってくれていただろうに、エイプリルは礼の一つさえ言えなかった。

 

 近衛局からロドスに引き渡すよう取り計らいが出るまでそう時間はかからなかった。それが誰のためなのかはもはやわからなかったが。

 

 

 手を尽くしても救えない病を持ち、手を尽くしても理解すらできない症状を抱えた彼が、帰艦する。

 

 だが彼を待ち構えていたのは最先端の治療、などではなく。

 

 

 

 

「お疲れ様、エイプリル」

 

 物陰から一人のコータスが姿を現した。

 突然のことに面食らいながらも、あたしはその人影を確認する。

 

「ラーヤちゃん?」

 

 それはライサだった。チェルノボーグ事変が生み出した被害者であり、そのテロリズムからアビスに助けられて以来、彼に想いを寄せている少女。

 その想いは通常のものよりも幾許か粘着質で嫉妬心が強い──平たく言えばメンヘラ──ものなのだが、そのストーキング行為も最近になって合意と見做され始めている。

 

 あたしとは友人で、既に砕けた口調で話すくらいには親密だけど……あたしは、そんな友人のことをすぐにハッキリと断定することは出来なかった。

 

「アビスと秘密の作戦に出てたのって、本当?」

 

「作戦ってほどじゃないよ。ただのお使いって言うか、個人的なあれだったし……」

 

「そっか。じゃあ、アビスはケガなんてしてないよね」

 

「それは、あはは……」

 

「アビスはどこにいるの?」

 

 灰色の目が濁っていた。

 ライサの雰囲気は少し前までの吹っ切れたようなものとは大きく違っていて、痕跡を残しつつも明らかに重苦しい。

 

 何より、不安定だった。

 だからアビスを隠すことに決めた。

 いつものライサでさえ、傷だらけで死んだように眠っているアビスを見れば危ういだろうに、況してや今の彼女を会わせるなんてどうなってしまうのか見当もつかない。

 

「龍門帰りで疲れてるだろうし、今日のところはそっとしておいてあげない?」

 

「分かった。だから少しだけなら会わせてくれるよね?」

 

 思っていたより押しが強い。

 ラーヤちゃんの雰囲気が更に重圧を増す。

 

「アビスはどこにいるの?」

 

「一旦落ち着いて、ラーヤちゃん」

 

「落ち着く? 一週間以上も会ってないのに? どうして? どうやって?」

 

 笑顔だった。まるでひび割れた仮面でも被っているかのように、冷たい笑顔だった。

 

「嫌な予感が止まらないんだよね。さっきからさ。誰かにアビスを奪われてるみたいな感覚がずっとあるんだよ」

 

「あたしはそんなことしてない、よ? 本当にアビスとは何もなかったし、別に……」

 

 龍門に到着してからの日々を思い出す。

 同じ部屋で寝泊まりをして、服屋巡り(デート)に赴いた。ナインのことが終わってからは──他にやることがなかったこともあるが──毎日見舞いに訪れている。

 

 冷や汗が浮き出てきた。

 

「それにさ、他に誰が居るって言うの?」

 

「……」

 

 理論武装が済んでいないあたしはノーガードで殴られ続ける。なんだかんだ、アビスやナインが目を覚まさない状況に追い詰められつつあったのかもしれない。

 ロドスに帰りさえすれば治るだろうと気が緩んだところを、ラーヤちゃんに狙われた。

 

「百歩譲って奪うのはまだいいんだよ。でも、ずっと私が片思いしてたこと知ってるエイプリルがそれをやって、それで更に会わせないようにしてるのはさ」

 

 

 

 殺したくなるよね。

 

 

 

 刃先が照明を反射してきらりと光る。

 

「ら、ラーヤちゃん? 流石にそれは、不味いんじゃないかな……?」

 

「エイプリルが悪いんだよ。本当に。殺したくなるくらい腹立たしい、エイプリルがっ!」

 

 そうして、刃を突き出そうとした瞬間。

 ライサの目によく見知った青年が映り込んだ。

 

「おはよう、エイ……間違えた。おはようございます、エイプリルさん」

 

「アビス!? ちょっと、動いて大丈夫なの!?」

 

「六日も寝ていましたから」

 

 ジャケットが大凡の傷を隠してはいるが、裾の下には包帯が少しだけ見え隠れしている。本当に大丈夫なのだろうか、いや、大丈夫だから自由に動いているのだろうが。

 

「それで……ただいま、ラユーシャ」

 

「おか、えり?」

 

 表情が埋没したような無表情で、ライサは首を傾げつつそう言った。友達だけどごめん、ちょっと怖い。

 

「心配させてごめん。デートには支障ないから、問題がなければ明日以降にでも行こうか」

 

「わ、分かった。その、ケガは大丈夫なの?」

 

「まだちょっと痛むけど、普通に動く分なら心配ないよ」

 

「そっか! 良かったぁ……」

 

「ってことで、ボクは執務室に行ってくるから。またね、エイプリルさん」

 

「あたしもついてくよ」

 

「報告くらい一人で行けます」

 

「今のアビスを放っておけるわけないでしょ、ケガは本当に酷かったんだから」

 

 毎日見ていたあたしは分かる。あんなケガ、たとえヴイーヴルだったとしてもそう簡単に回復するものじゃないって。

 

「分かりましたよ、ついてきてください。実際問題、ボクが眠っていた六日間の話をどうしようか迷っていたところなんです」

 

 ついていきたそうにしていたラーヤちゃんが、それを聞いてしょぼくれた。なんか、ごめん。

 

「それじゃあ、またね。ラーヤちゃん。さっきのことは気にしてないから」

 

「……ごめん」

 

「大丈夫だって。ほらアビス、さっさと行こう!」

 

「分かってますよ、エイプリルさん。あと背中叩くならもっと弱くしてください、死にます」

 

「あ、うん。ごめん」

 

「まったく、もう……」

 

 早足で歩き出したアビスに追いつきつつ、あたしは久しぶりのロドスにちょっとした安心感を覚えていた。騒がしい龍門とは違って、ロドスは静か。エンジニア部とかから遠いうのもあるだろうけど。

 

 アビスは私と逆で、挙動不審。

 まるで慣れないところに迷い込んだ野良犬の警戒みたいだった。

 

「ねえ、あの子はまだ起きてないの?」

 

「はい、ナインはまだ……ですがきっと大丈夫ですよ。ボクがこうして何もなかったんですから、ナインもすぐ目を覚ましてくれるはずです」

 

「信じて待つしか、ないか」

 

「ですね」

 

 アビスはナインのことを本当に気にしてないみたいだった。それは無事だと確信しているようで、少しだけ安心できた。

 そうだよね。アビスが起きたんだから、きっと。

 

 執務室についた。

 ドクターはどうせ缶詰だ。

 さっさと入る。

 

「ん? ああ、エイプリル。任務は終わったか?」

 

「うん、終わったよ。だからアビスと一緒に報告しようかと思って」

 

 声がなんとなく疲れてるようなドクター。あたしたちが居ない間に大きな作戦でもあったのかな?

 

「なるほどな。それで、横の人は──誰だ?」

 

「「えっ」」

 

「ん? あ、うん? 報告、に来たんだな……?」

 

 缶詰だとは思ってたけど、まさかこんなになるまで働き詰めとは思わなかったよ……

 何か大きな作戦があって、それの後処理に追われてるのかもしれない。だとしてももっとドクターの体調を管理してほしいとこだけど。

 

「ドクター、休みましょう。今何徹目ですか」

 

「休憩したって誰も咎めないと思うよ?」

 

「い、いや、大丈夫だ。何でもない」

 

 広げていた書類を束ねてドクターが言う。

 うん、なんか手が震えてるせいで書類がどんどん滑り落ちてるけど──これ大丈夫じゃないよね!?

 

「や、休もう!? ドクターが心配だよ!」

 

「大丈夫、本当に大丈夫だから」

 

「声が震えてるよ!?」

 

 明らかに大丈夫じゃない。

 それでもドクターは休みたくないらしくて、あたしたちの方に話を向ける。

 

「それで、報告してくれるんだろ?」

 

「……ええ。とは言ってもボクに出来るのは前半の六日くらいですが」

 

「ふむ。つまり龍門からの報告は本当だったんだな。オペレーターを一人と身柄の特定ができない浮浪児が昏睡状態にあるから送る、と」

 

「ふ、浮浪児……まあ仕方ないですね。彼女は亡灵(アンデッド)です」

 

「なんて?」

 

「彼女が亡灵(アンデッド)です」

 

「なんて?????」

 

 繰り返しアビスの言葉を聞くドクター。理解を放棄したような声で「仕事が増えるの……?」と言ったきり震え始めた。

 

「それじゃ、ナインのことはドクターに任せることにして、と。他は後から報告書に連ねておきますね」

 

「任せて大丈夫なのかな……!?」

 

「死にはしませんよ、たぶん」

 

 基準がおかしいよ。

 

 そうして、適当な調子でドクターを見捨てたアビスが扉に手をかけた時だった。

 

「なあ」

 

 ドクターが声をかける。

 アビスの手が止まる。振り返ることはせず、ただそのまま聞いている。

 

「信用してもいいんだな?」

 

「ええ。借りたままには出来ませんよ」

 

 えっ、なにこの会話。

 

「……そうか。なら、隠せよ」

 

「言われなくても」

 

 またあたしだけ蚊帳の外かぁ。

 執務室を出て、またアビスと二人きりになった。

 

「恨むよ、アビス」

 

「それはまた今度にしてください、今は都合が悪いので」

 

 都合が悪い、ね。

 

「都合の良い女になれって?」

 

「……そんなこと言ってません」

 

「はいはい。どうせあたしはアビスにとって、最初から都合が良い女なんだよね」

 

「そんなこと思ってませんよ!?」

 

 分かってるよ、全部。

 でも仲間外れは寂しいじゃんか。

 

「あたしのこと、もっと頼ってね」

 

「……はぁ。分かってますよ」

 

 ため息なんかついちゃって。

 いつも通りの漫才をして、歩いてく。

 

 どうして疲れたドクターがアビス()()認識できなかったのか、その理由を知らないままに。

 

 あたしは、いつも通りを描いていった。




じ、次回から文字数もっとちゃんと減らします……


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六十八 調停者

 

 

 

 

 

 彼の顔が痛苦に歪む。

 切断された左腕が元に戻ることは決してない。

 今のところは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる少女が横にいるため心配は要らないのだろうが、それは逆説的に少女がいなくなった途端生活が瓦解するということでもある。

 ヴイーヴルの種族特性を以てして、しかし予断は許されない状況にあった。

 

「⬜︎⬜︎……ぐすっ、どうして⬜︎⬜︎がぁ……」

 

「リラ、くすぐったいよ」

 

「私ってこんな純情な時代あったんだね」

 

「今も割とそうだと思うけど」

 

 ナインと幼いボクたちの間に入ってから、三時間ほど経った。感情を爆発させていたナインはボクやリラの方を見てすぐに逃げていて、行方もわからない。叱られるとか、そういうことを気にしたのではきっとないのだろう。

 

「さて、リラ。ボクはここで何をすればいい?」

 

「私とイチャつけばいいんじゃないかな」

 

 そういう答えは今求めてない。

 

「ごめん、そんな苦虫を噛み潰したような顔されるとは思ってなかった」

 

「そこまでじゃないけど」

 

 やるべきことがあるならやっておきたいんだよ。その後帰るかどうかは別として、って話で。

 

 リラが何の意味もなくボクを呼ぶわけがないんだ。ボクがただリラに囚われることを、きっとリラは拒むだろうから。

 

「何をして欲しいか、だよね。端的に言うとナインの治療かな」

 

「治療?」

 

「メンタルの方ね。今のナインは長年抱え続けた恨みで心が擦り切れちゃってるの。その上であんな不完全燃焼だったわけだから、仕方ないよね」

 

「……何の(わだかま)りもなくなるなんて夢物語は見てなかったけど。それにしても、見事に最悪な方向へ転がったのか」

 

「だからこそ、ここを用意したの。──じゃなくて、いや、えっと、違くて。こんなお誂え向きの場所があるんだから、治したいなーって、そう、そんな感じ」

 

 リラが慌てたように訂正する。

 別にそんな些細な嘘吐かなくていいのに。リラがナインのために頑張れる人だってことくらいずっと前から分かってたよ。

 

 ほっこりしながら見つめていると、訂正が何の意味もなかったことを理解したのか、悔しそうになる。

 

「うぐっ、うぐぐぐぐ……話はもう終わりっ! さっさとナインをどうにかするよ!」

 

「ところで説得の目処は?」

 

「……」

 

 ばってんを指で小さく作る。

 一々かわいいなこの人。

 

「とりあえず全力でぶつかるしかないか」

 

 正直、成功する気は全くしないけど。

 

 

 ちら、と向こうを見る。泣き止んだリラとボクが仲良さそうに何かを話していた。

 既にこの孤児院にはナインやカイン、アルやお爺ちゃんたちは居ない。

 

 ボクの思い出、宝物。

 

 ナインからすれば、許し難い罪科。

 

 大切に思うこの感情をナインとは共有できないんだと強く思わされて、ボクは堪らずため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 

 空き瓶が好きで、よく集めていた。

 

 空っぽの中身を見るたびに安心できるからだ。

 閉じる蓋もない孤独さを感じられるからだ。

 

 失ったことを共有した気になれるからだ。

 

 

 私はずっと弱かった。

 体とかアーツとかの話じゃなくて、心の話。

 

 親に捨てられたあの日、涙の(せき)がどこかへ行ってしまったみたいだった。

 とめどなく溢れて、零れ落ちて、私という存在が減っていく。

 

 世界は涙で薄まって、感じていたはずの悲哀が小さくなる。

 だから泣くのが嫌だった。

 お母さんとお父さんの記憶が、泣くたびに、胸の痛みが小さくなるたびに、遠くへ行っているようだった。

 

 

 

「……寝ることも、出来たんだな」

 

 心底意外な風の声が出た。

 地面についていた髪がガサガサで気持ち悪い。

 敷かれた雪は、何故だか髪も体も濡らすことがない。

 

 立ち上がって、少し歩いて。

 立ち止まって、しゃがみ込んだ。

 

 スラムの喧騒がいやに耳障りだった。

 元気いっぱいに怒鳴りあっている馬鹿がほんの少しだけ羨ましくなった。

 

 幸せなんだ、きっと。

 スラムの外で精一杯に生きるより、諦めてここで生活した方が幸せなんだ。

 だって私たちは──オレたちはそうして生きてきたんだから。

 

 

 オレにはそれができなかった。

 壊したのは、⬜︎⬜︎だ。

 

 

「チッ」

 

 舌打ちを一つして、オレは壁を叩いた。

 ⬜︎⬜︎が居るってことを認識すると、途端に感情が抑えられなくなる。今すぐ孤児院に殴り込んで、胸ぐら引っ掴んで怒鳴ってやりたい。

 

「ああクソッ、イライラしやがる……!」

 

 頭を掻きむしる。こんな非現実的な世界で暴れたってカインは帰って来ないんだ。分かってんだよ。

 

 ⬜︎⬜︎は腐っても家族なんだ。

 オレにとっては、孤児院が家なんだ。

 

 カインは帰ってこない。

 絶対の絶対に。

 

 だから、これだけは。

 何も出来なかったオレは、ただ逃げるだけで何も守れず、あまつさえその責任をなすりつけてるオレは。

 

「大人になれよ……」

 

 格好だけでも、付けたいんだ。

 

 

 

 

 

 グルグル回る頭が痛い。

 頭脳労働なんてしたことがないんだ。仕方がない。

 

 何をすればいいか分からないままにこの世界の針は進んでいく。

 いつになればタイムリミットなのかわからないが、いつかは必ず、夢から覚めるみたいに吐き出される時が来るはずだ。

 だからオレはその時まで耐え凌ぐ。

 この感情を抑え込んで、いつか来るその時まで。

 

「見つけたよ、ナイン」

 

「リラ姉か」

 

「⬜︎⬜︎じゃなくてがっかりした? ごめんね、あの人私のこと大好きだから」

 

「なんで今オレ惚気られてるんだ?」

 

 リラ姉が苦笑する。

 全く、冗談のギアが最初からトップなのか?

 

「冗談……?」

 

「えっ」

 

「えっ?」

 

 リラ姉が首を傾げる。

 

「……気を取り直して、だ。何の用だよ」

 

「警告」

 

「はぁ?」

 

 澄まし顔で言ってのけるリラ姉。

 警告するなら普通オレじゃないだろ。リラ姉が好きで好きで堪らない⬜︎⬜︎にでもしていればいいはずだ。

 

「戻って来ないと、ナインが死ぬかも」

 

「それはどういう冗談だ?」

 

「この世界は源石術(オリジニウムアーツ)で作られた世界。迷い込んだ被術者( アウトサイダー)は、登場人物( キャラクター)に殺され得る」

 

 初耳の情報がてんこ盛りだった。

 だが、それでも足りない。

 

「片腕のガキに何ができる」

 

 子供のアイツは大して強くなんかない。況してや片腕で、オレなら不意打ちされたって対応できる自信がある。

 

「そっちはもう死にかけてるよ。幻肢痛とかいきなり現れたナインへのストレスだとか、冬の寒さだとかで低下した免疫につけ込まれて、死にそうになってる」

 

「それで?」

 

「私は殺せるよ。あの私は既に、ナインを殺せる」

 

 思わず目を合わせた。リラ姉が殺しに来る理由はわかる。⬜︎⬜︎が死ぬからだろう。十分な動機だ。

 自暴自棄になってオレを探して見つけるかもしれねえ。

 

 だが、アイツよりも弱かったリラがオレを殺す?

 出来ねえな、絶対に。

 

 勘定を終えて視線を寄越してやれば、琥珀色の目は強い意志を宿していた。

 本当にそれが起こると確信しているようで、オレ自身が舐められたようで、イラつく。

 

「大体、お前は何なんだ?」

 

 目前のリラをもう一度見る。

 170くらいの身長。本来あり得るはずがない、仮定を重ねた未来の姿。

 

「この世界が⬜︎⬜︎のアーツだってことは分かった。それで、どうしてお前がここにいる? アイツが自分で作ったってのか?」

 

 そんなわけがない、と笑う。

 

「アーツの制御をアーツロッドに任せきりだってのはすぐ分かった。出来るはずもねえな」

 

 ついでに言うならこいつは意思を持ってる。会話が一人芝居だってなら引くだけだが、それじゃ説明がつかないほど自然だった。

 

 まあ、とにかく、色々な理由を踏まえて。

 

「まず話してみろよ。お前は何なんだ?」

 

 リラ姉は口を開かない。

 

登場人物(キャラクター)か? それとも、本来の意味で部外者(アウトサイダー)か?」

 

「……どれでもないよ。全く、ナインは頭が良くて困っちゃうな。⬜︎⬜︎には追及されなかったのにさ」

 

「アイツは妄信的すぎるんだよ」

 

「恋は盲目ってやつだね」

 

「さあてな、誰かのアーツかもしれねえ」

 

 軽口を叩きながらも最大限の警戒を。

 術中にハマっておいて遅いかもしれないが、警戒はしておいて損がない。

 

調停者(フィクサー)、かな」

 

「へえ、黒幕か」

 

「待って待って武器構えないで! ちょーてーしゃ! 調停者の方だから! 仲介人とかもそう!」

 

 なんだよ、気が抜ける。

 

「んで、正体は?」

 

「リラですけど!?」

 

「ほら、真面目に答えろや」

 

「本当の本当なんだってば! 私はリラ! これ以上疑うならナインの恥ずかしい過去を暴露してやる……!」

 

「……」

 

 本当の本当、ねぇ。

 疑わしいものは疑わしい。

 

「抱きつける大きくて柔らかいものがなかったから、たまに⬜︎⬜︎を抱き枕にして昼寝を──」

 

「オーケー、分かった。もういい」

 

 クソッ、リラ姉に見られてたのかよ。

 

「拗ねたカインが、今度は私の方を抱き枕にしようとしてさ」

 

「あ?」

 

「もちろんお断りさせていただきましたよ! はい!」

 

「それならいい」

 

 カインはオレのだ。

 誰にも渡さねえ。

 

「うわー、愛重すぎ」

 

「リラ姉に言われたくねえよ!? 死んでも出てきやがって!」

 

「死んだ後からが本()みたいなところある」

 

「暴論のはずなのに、なんだこの説得力!?」

 

「それが私の能力(アーツ)ッ!」

 

「堂々と嘘ついてんじゃねえよ」

 

「あいたっ!? ぶぅ、叩くことないじゃん」

 

「言ってろ、バーカ」

 

 少しだけ、心のうちが軽くなる。

 止められなかった思考がようやく速度を落とす。

 

「バカとはなにさー! どうせナインもまともに勉強とかしてないくせに!」

 

 リラ姉が持ってる魅力の一つだ。

 話していると不思議なほど落ち着く。

 

「さて、行くか」

 

「え、どこに?」

 

 能力(アーツ)だなんて大層なものじゃないが。

 リラ姉が持つ、立派な素質だな。

 

「どこって孤児院だよ。手遅れになる前に行こうぜ」

 

「……うんっ!」

 

 あ、おい頭撫でるのはやめろ!

 泣くって言ってんだろうが!バカ!

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六十九 フィクサーズ

 

 

 

 

 

 

 執務室を出た二人の行き先は、ロドス・アイランドの医療区画だった。

 全く見向きもされないアビスとは違って、エイプリルは知り合いの医療オペレーターたちと何度か挨拶を交わしている。

 

 そうして歩いていれば、向こうからちょうどよく目的の人物が歩いてきているところが見えた。

 

「おはようございます。ワルファリン、ケル──いったぁ!?」

 

「随分と久しぶりだな、アビス」

 

「いたたたたた……襟首掴まないでくださいよ、ケルシー先生」

 

「黙って連行されておけ、今のケルシー先生はめちゃめちゃ怖いぞ」

 

「ほう」

 

「もちろん冗談だ」

 

 硬く握られた手を振り解けず、半ば引きずられるような形で引っ張られていく。

 声をかけても足すら止めてもらえない。

 

「その包帯、やはり交戦してきたか」

 

「ケルシー先生には関係ないでしょう」

 

「そこ、噛みつかないの。ついさっきまで、一週間くらいずっと寝てたんだからね?」

 

「ちょっ、それケルシー先生の前では──」

 

「エイプリル、色々話してもらいたいことがあるのだが」

 

「もちろんです。私もなので」

 

 味方だと思っていたのに。絶望に半ばまで染まった瞳でエイプリルを見る。

 

「裏切るんですか……!」

 

「あたしとの約束破ったこと、忘れた?」

 

 今度はエイプリルが見つめる番だった。アビスの目はいつのまにか明後日の方向を向いていて、苦い顔をしながら責任から逃れる方法を探しているようだった。

 

「絶対許さないから」

 

 目を逸らしたまま、びくっ、と震える。

 

「どうやら面白そうなことになっているようではないか」

 

「黙っててください」

 

 鬱陶しそうにワルファリンを見る。

 

「今の状況を分かって言っているのか……?」

 

「誘拐犯がよく言いますね」

 

「もしやそなた、根に持つタイプだな?」

 

 このタイミングでカウンターを喰らうとは思ってもみなかった。ワルファリンはぶつくさ文句を言いながら大人しくなった。

 

「アビス」

 

「何ですか、ケルシー先生」

 

 今度は何だと辟易したように応える。

 

「反応がワンテンポ遅い、か」

 

「何の話です?」

 

「発話のパターンもそうだろうな」

 

 アビスのみならず、後ろからついてきていた二人も首を傾げる。ケルシーが今何を考えているのか、リアルタイムで追従できる者はそう居ない。

 

「ドクターにはもう会ったのか?」

 

「帰ってきてからのことなら、会いましたよ」

 

「であれば気付かれただろう?」

 

「何のことか分かりませんね」

 

 惚け方があからさまになる。

 どうやらケルシーには隠す気もなくなったらしい。

 

「いいだろう。それで、どうするんだ?」

 

「この後ですか? お好きなように」

 

「それは何とも私に都合がいい話だな」

 

「ボクにとっては悪いんでしょうね」

 

「違いない」

 

 くつくつと笑い出すケルシー。自分より背が低いオペレーターを引き回しながら浮かべたその顔は、悪役(ヒール)を演出するに充分なものだった。

 

「……さっきからそれ、何の話なの?」

 

 ケルシーの顔に引きつつ、痺れを切らしたエイプリルがアビスに問う。

 

「あなたが知る必要はありません」

 

「はぁ?」

 

「ごめんなさい間違えたんですそんな威圧しないでください」

 

「……それで、なに? 何を隠してるの?」

 

 引きずられながらアビスが答える。

 

「今のボクはアーツで動いています。電気信号をどうにか流すことで動いています。声帯の動作はいつも違いますし、些細な行動の節々にもそれは発露していたのでしょう」

 

「アーツで動いてる? どうして? 反動は大丈夫なの?」

 

「正にその反動のせいなんですよ、これは。体内で動かす上元から神経というレールが敷かれていますから、負荷もほぼありません」

 

「そっか。それならいいや」

 

 だから引きずられたままなんだ。エイプリルが納得して手をポンと打つ。ワルファリンは研究者気質故か、未知のアーツに目を輝かせている。

 そんな中でケルシーだけは苦言を呈する。

 

「君の選択は間違っているかもしれない」

 

「さあ、どうでしょう? 後遺症さえなければそれで良いんですよ、ボクは」

 

「後遺症か。爪痕もその括りに入るのか?」

 

「ケルシー先生ならそれすら残さないことも可能なのではありませんか?」

 

「何かしら理由が必要だろう、私にそうする義理もない」

 

「おや、それは失言ですよ」

 

「む? これは一本取られてしまったな」

 

 仲が良いのか、小気味良い会話が続いた。

 だが何故だろうか。両者の間には妙な緊張が居を構えていた。それは(さなが)ら知将らが腹の探り合いをしているような、お互いを食い物にしようという思考が浮かんでくるような緊張だった。

 

「貸しという形にしても、君は返さないだろう?」

 

「失礼ですね。返せるなら返しますよ。それに取引をしてもいい」

 

「何を差し出す?」

 

「ボクの病を」

 

「なるほどな。君はやはりこちら側か」

 

「気持ちは嬉しいんですけど、ね」

 

 言葉の裏側で話す彼ら。

 エイプリルは不満を隠さず、頬を膨らませた。

 

「ねえ、やっぱりまだ隠してるでしょ」

 

「隠す? 何をですか?」

 

「色々。あたしのことそんなに信じられないの?」

 

「さあ、どうなんでしょうね?」

 

 むっ。

 

「あーあ、あたしのこと呼び捨てにしたり一緒の部屋で寝泊まりしたアビスはどこに行っちゃったのかなー」

 

 恐らくライサに勘繰りされることを避けたのだろう、目を覚ましてからのアビスはずっとエイプリルのことを()()付けで呼んでいた。

 意図的に距離を作られている感覚。それはいっそ完璧なまでに自然なものだったが、気づいてしまえばこれほど不快なものはない。

 

 そうしたエイプリルの煽りは、しかし、効いていなかった。

 

「別に、関係ありませんから」

 

 どこか怒ったように言うアビス。

 

 それに言及する間もなくドアが開く。気付けば診察室の前まで来ていたようだった。

 

「エイプリル、君も来るだろう?」

 

「はい、許可さえあれば」

 

「それならボクが言いましょう、ダメです。ケルシー先生、早く診察を始めましょう」

 

「え、ちょっと待っ」

 

 ばたむ。エイプリルが言葉を言い終わるより先に、立ち上がったアビスが扉を閉じた。

 

「怒られるんじゃないのか?」

 

「エイプリルは怒るでしょうね。あの人は怒れませんよ」

 

「〝あの人〟か。君は私が思う人ではないのかもしれないな?」

 

「さあ、どうでしょう」

 

 怪しげに笑う二人。

 ついてきていたワルファリンは疎外感を感じずにはいられなかった。

 

「さて。それでは診察を始めよう。ワルファリン」

 

「あ、ああ。そなた達の関係は中々に複雑なんだな」

 

 カルテやその他書類を受け取って、ワルファリンが言う。

 

「そうでもありませんよ?」

 

「そうでもないだろう」

 

「少し前までは殺気が飛び交っていただろうに」

 

「それは今もですよ。この場ではありませんが、続いています」

 

「そなたは何を言ってるんだ?」

 

「本当のことです」

 

 理解不能な言動だった。しかしケルシーは頷くばかりで否定しない。

 ワルファリンは、疲れた、とでも言いたそうに項垂れた。

 

「……機材の準備をしてくる」

 

「頑張れお婆ちゃん」

 

「お婆ちゃん言うな! ……そなたが言ったのか!? 今!? そういうキャラじゃなかっただろう!?」

 

「ワルファリンをからかうのは止しておけ。後々面倒なことになる」

 

「さ、最近は大人しくしていたつもりなんだが……」

 

「忘れたんですか? 三日前に騒ぎを起こしたばかりでしょう、お婆ちゃん」

 

「起こしてなどいない、お婆ちゃん扱いはやめろ! そしてそなたどうした!? さっきから本当にどうしたんだ!?」

 

「いつも通りですよ」

 

「そんなわけあるか!」

 

「普段と違う、という言葉に肯定はできないな」

 

「嘘だろう!?」

 

「お婆ちゃんなのに元気ですね」

 

「こ、の……いい加減にしろっ!」

 

「いっ、づうぅ〜〜っ!!?」

 

 クリップボードによる軽快な音が響き、ヴイーヴルの青年が頭を押さえた。

 

「ハァ、ハァ……今度こそ機材の準備をする。邪魔をするでないぞ、アビス」

 

「分かりましたよ、うぅ……」

 

 ダメージをしっかりもらったようで、叩かれた頭のてっぺんをさするアビス。普段の彼よりもずっと子供らしい振る舞いだった。

 ケルシーはそれを興味深そうに眺めている。

 

「それで君の用は何だったか」

 

「決まっていますよ。鉱石病を除いた病の治療をお願いしたいんです」

 

「ああ、そうだったな」

 

 この人ボケてんのかな。

 そんな風の視線を感じたケルシーが何も言わず目で抗議する。

 

「何かボクの顔についてます?」

 

 ……はぁ、と息を吐いた。

 条件が色々と変わっていても、自分はこのバカに頭を悩ませる運命にあるようだ。

 

「さて、それでは診察を始めるか。──ああ、一つ伝え忘れていたことがある」

 

「何ですか?」

 

()()()()()()()()

 

「……へえ? ケルシー先生はボクを治そうとしていたように思いましたが?」

 

 眉を顰めて問いかける。

 だが、回答はない。

 

 ケルシーが席を立ち、そのまま向こうへ歩いていく。

 その先にあるのは厳重に閉められた幾つかの棚と、小さくも大きくもない微妙なサイズの籠だった。

 

「私はな、性格が悪いんだ」

 

 ケルシーはカゴの縁に手を添える。

 

「知ってますよ」

 

「逆らったアビスには腹が立った。その性根を一から十まで屈服させて、全て私の思い通りにさせないと気が済まない」

 

 僅かに殺気立つ青年。

 すぐに隠したものの、ケルシーは鋭敏にその向けられた感情を感じ取っていた。

 

「だから、私が治療するのはアビスだ。搦手(からめて)など、アビスの意思を諦めているようなものだろう」

 

「はあ。つまり?」

 

「私が治療すべきは君じゃない。いつから()()()()になったのかは知らないが、それを隠れ蓑にすることは許さない」

 

 何もない。何も入ってなどいない。

 だが記憶は残っているのだ。青年が懐中時計を大切そうに扱っていたことは、ケルシーの頭から離れなかった。

 

 理解できない類の考えだった。その信念はケルシーの正義と真正面からぶつかり、火花を散らし、いつかそれを制してみせるのだと両者は息巻いていた。

 

 だが、それでも互いを思う気持ちは真実だった。

 

 自分の押し付けがましい救済がアビスを思う故のことだと彼は理解していたし、向けられた感情に嫌悪以外の何かが混じっていたことなど明白だった。

 それが戸惑いだけでなく、恐怖だけでなく、もっと暖かな何かであることなどとうに分かっていた。

 

 

 だから、許せなかった。

 

 

 そんなアビスの信念を真っ向から受け止めることなく、卑怯にも眠っている最中を狙うなど。

 結果だけを求めるのならば、死を望むアビスに何も言い返せやしない。生の結果は死なのだから。

 

「紛い物の君に理解してくれなどとは言わない。この選択が病を助長させようが、死に近づけようが構わない。──私は、彼を生きるだけの死者にするつもりはない」

 

 信念は折る。今のアビスは殺してみせる。

 その上で更生させる。

 

 ケルシーはとんだ理想主義者だった。

 

 まるで理解になかったことを教えられて、鳩が豆鉄砲でも食らったかのような顔を見せる偽者。

 

 一度気づいて仕舞えばいくら取り繕おうと分かってしまう。それがケルシーやドクターが持つ観察眼──尤も、ドクターの方は違和感が多すぎて別人だとすら認識していたが。

 

 それにケルシーはヒントを貰っていた。

 それは暗殺者のように、練り固められ覆い隠された殺気。泥のように粘りつく悪感情が込められた視線など気取られないわけがない。

 

「予想してなかったな。ドクターはともかく、あなたが得体の知れない私を刺激するなんてさ」

 

「舐められたものだ」

 

 普段とは似ても似つかぬフランクな言葉遣い。

 ケルシーはそれを本性と断じた。

 

 告げられたのは慮外千万な評価だったが、鉄仮面は揺らがない。

 

「本当の本当にアビスのことが嫌いなんじゃないかなーって、私も割と思ってたし」

 

「そうか……」

 

 揺ら、揺らが……揺らがない。少々危なかったがなんとか体裁を取り繕うことに成功した。

 

 警戒を(あらわ)にしながら目を合わせ、それにしても、と一息つく。

 

「どうも安定しているようだな。症状の段階を幾つか飛び越えているようだ。アーツを使い過ぎたな、馬鹿者め」

 

 ここには居ない彼の悪態をついた。それで何かが改善されるわけでもないが、愚痴の一つでも吐かなければやっていられない。

 

「反則はダメ、かぁ。じゃあ今日は診察の前に、一つだけ話したいことがあるんだけど、いい?」

 

「話したいこと、か」

 

「うん。お願いがあるの」

 

 アビスの雰囲気ががらりと変わった。

 まるで氷柱のような、冷たく尖った雰囲気へ。

 

 多重人格というのは普通、第一人格だけでは耐えきれない要素による自己同一性を著しく損なった結果に起きる精神障害である。

 だが鉱石病(オリパシー)によって引き起こされたものは全く違う。性質からして違いが存在し──しかし、存在すること以外何もわかっていない。

 

 それにしても、だ。

 それにしても、だろう。

 

 

「『約束守ってよ、ばか』」

 

 

 不思議なほど綺麗なそれは、どうしてか、口調だけでなく声までも少女らしいもののように聞こえた。

 そんなもの、如何に鉱石病だろうともあるはずがないことだろうに。

 

「リラがそう言ってたって伝えて。ねっ、いいでしょ?」

 

「……ああ。伝えておく」

 

 伝えるか伝えないかはケルシーの自由。ただの口約束で義務など何もないのだから、受けておくだけ得だろう。

 

 更に言うのであれば、ケルシーは警戒していた。

 何故ならばリラには伝言の必要性がない。紙にでも書いて自室に貼っておけばそれでいいのだから、だとすれば──リラという名前や伝言の内容がアビスにとっては触れられたくないもので、それを利用してケルシーを罠に嵌めてしまおうとしている、と見ることもできる。

 オペレーター『ナイトメア』のように、生まれた人格が悪人である可能性も低くはないのだから。

 

「それじゃ、次は……えへへ、お医者さんに診てもらうなんて初めてなんだよね。あ、実は初めてじゃないかもだけど、憶えてないから初めてってことでいいよね!」

 

 その無邪気な言動が演技であるのか否か。

 アビスが戻ってくるまで、ケルシーは観察することに決めた。どうせいつ人格が切り替わるのかは外部から干渉できないのだから、有意義に使ってしまった方が得だろう。

 

 

 そんな消極的な思考の裏側で。

 彼女(フィクサー)は小さく笑みを浮かべていた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七十 苦労人確定枠


着地点決めて書いたら長くなりすぎてしまった
 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬が嫌いだ。必ず後悔に襲われるからだ。

 

 春が嫌いだ。いつも自分が嫌になるからだ。

 

 夏が嫌いだ。彼の手が恋しくなるからだ。

 

 秋が嫌いだ。彼の言葉を思い出すからだ。

 

 

 四季が嫌いだ。彼を置いて、私だけを未来に連れていってしまうからだ。

 

 

「『来年になったらお爺ちゃんにさ、──って、思ってるんだ』」

 

 紡がれた言葉、結ばれた約定。

 人の命が泡沫であるならばきっと、人と人が作るそれらも泡沫に違いないのだろう。

 

「それ、カインの言葉?」

 

「ああ。一度たりとも忘れたことはない」

 

「そっか」

 

 リラはそれですぐに納得したようだった。そこまで分かりやすかっただろうかとペタペタ顔を触ってみたが、やはりわからない。

 

「ほら、何止まってんの。行くよ」

 

 走るリラ姉についていく。

 向かう先はオレたちの孤児院。そこで、オレはオレの感情と決着をつけなければならない。正直無理だって思ってるけどな。

 

「少しは待ってくれよ」

 

「ヤダ。早く帰らないと小さい私に寝取られる」

 

「……付き合ってねえくせに」

 

「は?」

 

「ごめんなさい」

 

 つい本気の謝罪が口から溢れ出た。こんなプレッシャーを感じたのは、あのリラ姉狂いに抱きしめるように拘束された時以来だろう。刃が口で止められた時は正直化け物に見えた。

 そのことを話せば、リラ姉はどんなことを思うだろうか。──確実に喜ぶだろう。二人はそういうバカだ。

 

「寝取られると言えば、私の容姿を借りてハグしてもらってた不届者が居たよね」

 

「……悪いかよ」

 

「うん。でも私もここにアビスが来た時抱きしめられたし、いっぱい好きって言ってくれたから怒らないであげる」

 

 うへぇ、と舌を出す。甘すぎる惚気にはもう嫉妬する気すら起きない。いや、まあ、もしカインが生きてたらオレもそうなってたと思うが、それとは話が別だろう。たぶん。

 

「どこが良いんだか」

 

「え、もし良いところ知ったら好きになっちゃうだろうから教えないよ?」

 

「どこから湧いて出てるんだよ、その自信は……」

 

「⬜︎⬜︎から、かな」

 

「確実にアイツは自分のこと好きじゃねえだろ、オレたちと同じで」

 

 リラ姉は少し考えて、納得したように頷いた。

 パルクールじみた動きで乱雑に入り組んだスラム街を駆けながらも、相当な余裕があるようだった。

 

 調停者(フィクサー)と名乗っていた。

 それはつまり、あのリラ姉狂いが誰かと問題を起こすたびにこの世界に連れ込んでどうにかするってなわけだろう。

 

 その対象が、今はオレだ。

 

「なあ、リラ姉」

 

「何? あいたぁっ!!」

 

「……大丈夫かよ」

 

「だいじょーぶ、ちょっと足引っ掛けただけ」

 

 毒気を抜かれる。

 オレを懐柔しようとしているはずなのに、今さっきは嫌悪を覚えていたはずなのに、リラはそんなオレの悪感情を嘲笑うように溶かしてしまう。

 

 変に落ち着くんだ、リラと居ると。

 イライラだとか混乱だとかが自然に抑えられているような感覚。もちろん小さな頃は全く思いもしなかったが、今だからこそわかる。

 

「何を言おうとしてたの?」

 

 少しだけ、その裏が見たくなった。

 ふざけた怒りなんかじゃなくて、もっと真っ直ぐな裏の顔。その好奇心は抑制されることもなく肥大化していく。

 

 地雷は既に見えている。

 あとは一歩だけ踏み出せば、それが本気であると思わせてしまえば、きっとリラはオレを本気で排除しようとするだろう。

 分かりきっている愚かな選択。

 

 

 選ぶ間もなく、どうやらオレは目的地に着いてしまっていたようだった。どのみちリラ姉に喧嘩なんて売らなかったとは思うが、時間切れで処理されるのは歯切れが悪い。

 

「さて、と」

 

 オレが一人であれこれ考えていると、リラ姉が足を止めた。急いでここへ来たと言うのに裏口前で何を話すのか。中に入ってからでは遅いのか。

 

 そんな考えが丸ごと引っ込むほど、リラ姉の雰囲気は恐ろしく攻撃的になっていた。

 まるでナイフでも突きつけられているかのような強すぎる威圧に総毛立つ。

 

 急展開が過ぎる。

 なんだ、この化け物は。

 

 そう毒でも吐いてしまえればずっと楽だったのだが。リラ姉が発する存在感は鮮烈で、オレには発言すら許されていないようだった。

 

「これからナインにはトラウマを克服してもらうね。確執なんて全部、天災に襲われた街みたいに綺麗さっぱり消え失せる」

 

 敢えて使われている、オレの(かん)に障る言葉遣い。トラウマなんかじゃない、といつもなら噛みついていただろう。ただ、話し始めたリラ姉は相変わらずその威圧的な雰囲気を存分に振り翳している。

 どうしようもない。どうにもならない。

 

「だから、ね。ナインはもう用なんてなくなるんだよ」

 

 誰に、とは聞くまでもないか。

 

「これが終わったらもう近付くなよって言ってんのか」

 

「あ、偉いねナイン。大正解だよ。また昔みたいに頭でも撫でてあげようか?」

 

 どうして、と疑問が頭の中を占領する。

 オレが知ってるリラ姉にも確かに独占欲はあったが、それにしたってここまで酷いものではなかった。

 アーツで作り出したと言うのなら、オレがやったような精度でトレースできたって不自然じゃない。いや、できない方がおかしい。だとしたらこの違和感しかないリラ姉はなんなんだ?

 まるで、そう。オレみたいに誰かが中に入って、その発言をリラ姉の言葉に翻訳しているようだ。

 だがこのリラ姉はアイツの頭の中で逐次回答を作られているはずだ。無意識下だろうそれは本人だって手を出せないし、他からの介入なんてありえない。

 こんなエラーの発生はおかしい。

 

 

 ──結論。何も分からない。

 

 

 だから、オレが出す答えは安心安全のものだ。ここで変に煽って意味不明な存在を刺激する必要なんてない。

 

 なんて、言うと思ったか?

 

「おいリラ姉。覚えとけ」

 

「え、なになに?」

 

「オレは、この孤児院が大嫌いだ。カインを殺したこの孤児院が心の底から大っ嫌いだ」

 

「……」

 

 リラ姉が相槌を打たない。それはきっと真剣に話を聞いているからだ。そういうクセがあったような気がする。

 

「でもここがなけりゃカインに会うことはなかった。オレはとっくに野垂れ死んでいた。それに、ここの思い出は何も血と怒号だけじゃない。リラ姉とのものだって、アイツとのものだってある」

 

 別に恥ずかしいことを話しているわけじゃないが、なんだか背中の方がむず痒くなる。

 

「オレは結局嫌いになんてなれなかった。一人で生きていく強さなんてなかったから体のいい理由を作ってレユニオンに入って、その理由が気付けばオレの生きる理由になった。アイツを殺すだなんて理由を掲げた。嫌いじゃなかったのに、止まれなくなったんだ」

 

 別に後悔はしてない。こうする他なかったと思う。オレがこうすればよかったなんて話の前に、アイツがちゃんとオレたちを守ってくれていれば、敵なんて作らなければ良かった、って話もあるしな。

 

「そっか」

 

 リラ姉がしみじみと頷いた。

 

「生きるためには目標が必要で、その理由が次第に本当のものになる。──分かるよ、私も知ってる」

 

 リラ姉は攻撃的な部分を除けば本人そのものだ。余りにも強い威圧にイメージが一新されていたせいで目が曇っていたのか、それを忘れていた。

 儚くて透明な、線が細い少女。周りを振り回すパワフルさはあっても根幹がそうだった。

 

 今オレの言葉に同調したリラ姉はそんな性格を惜しみなく見せていた。触ってしまえば根本からぽっきりと折れてしまいそうな、そんな雰囲気だった。

 

 思わぬ反応だったが、これは重畳だ。

 

「オレはアイツが好きだ。用なんてあったってなくたって関係ない。オレは⬜︎⬜︎と一緒にいるつもりだ。アイツが死ぬか、次の生きる理由を見つけるまでくらいは、な」

 

 オレが真っ向から本音をぶつけるのにちょうどいい。さっきまでは言える雰囲気じゃなかった。マジで。

 

「だから人に言われた程度で離れるつもりはない。況してやとっくに死んだ幻影に言われたって、改める気なんて起きねえよ」

 

 オレは、アイツを大切な人だと思っている。勿論他意はないし他の孤児院のヤツらだって同じくらい大切な人だ。またあのメンバーで過ごしたいと思うくらいには大切だ。

 カインのことに関しては、割り切りはしても許すつもりなんてないけど。

 

 胸襟を吐露したオレ。リラ姉が納得するとは思ってねえけど、それでも少しは受け止めてくれると思っていた。

 

「私が幻影なんて。おかしなことを言うね、ナインは」

 

 失笑が漏れた。

 

「もしかして、私が⬜︎⬜︎のアーツで作り出されたとでも思ってるのかな? そんなはずないじゃん、こんなに自由に動いてる私が⬜︎⬜︎の思い通りに行動してるだなんて」

 

「別に意識的とまでは思ってねえけど」

 

「無意識的にでも、私のことをこんな底意地が悪い人だと思ってるとでも?」

 

 言葉が詰まる。確かに、あの信頼は気持ち悪いくらいのものだ。手放しの、それこそ溺愛とまで言える感情がある。リラ姉の言葉を否定できるだけの根拠は見当たらない。

 じゃあ、それなら本当に、こいつは誰だ?

 

「私はリラ。ナインが思ってるよりずっと、そして()()()()()()()()()()()()()のリラ」

 

「ありえねえだろ。死んでるヤツが、しかも他人のアーツに巻き込まれる形で現れるなんてことは……」

 

「ああ、それもだよね」

 

()()?」

 

「うん、それ。この世界は⬜︎⬜︎じゃなくて私が作ったってこと。部外者(アウトサイダー)を招いたのは(フィクサー)だよ」

 

「リラ姉が、作った……?」

 

 オカルトじみた説明だ。もし全てが本当だとしたら、死人がアーツを使って生きた他の人間を殺すことだって可能だということになる。

 それでも今の説明が嘘だと切り捨てることはできない。リラ姉の存在がそもそもイレギュラーであるからだ。

 

 明らかになった数々の事実。ただでさえ意味のわからない世界に引き摺り込まれたと言うのにこの仕打ちで、オレは一周回ってどうでもよくなりつつあった。脳内容量はとっくにパンクしてる。

 本当ならきっとあのガキを殺すことだけを考えていたはずなんだ。それなのにここまで悩ませられているんだから、この異次元的な情報群がどれだけ衝撃なのか分かろうものだと思う。

 間違ってもオレみたいに幼気(いたいけ)な少女に積み込まれていいものじゃない。何百年も生き続け、化け物を使役するような、そんなバカみたいなフェリーンだとかが対処すべきだ。

 

 つってもそれが無理だなんてことは分かりきってる。オレは思考を巡らせてどうにか脱出する手段を探るしかない。

 

「とは言えここがリラ姉が作った世界、つまりは術中であるなら、無事生還なんてクソみたいな難易度なんだけどな」

 

「えへへ、そうかも」

 

 照れた様子で頬をかく。

 正直先に言ってほしかった。それを聞いた後なら、リラ姉に脅迫される形で敵対を避けられただろうに。

 オレの後悔は半ば八つ当たりじみていたけど、今の状況が無理ゲー過ぎるから許してほしい。

 

 今からでも撤回してアイツから離れると約束することも頭を(よぎ)ったが、一度拒否したオレが信じられるかは甚だ疑問だ。

 今は良くとも、現実に戻った際どうなるかわからない。リラ姉の立場から見ればオレはそんな立ち位置になる。亡灵(アンデッド)の時のオレだったらそんな不確定存在は消す。

 

「私は一応ナインのことを思って動いてるんだよ? 別にナインのトラウマなんて放っておいて、直接殺したっていいんだからさ。でも今ナインのトラウマを消してあげようとしてる。殺されそうになったら軌道修正してあげてる。だからそんな私からのお願い一つくらい、聞いてくれてもいいんじゃない?」

 

「───、────」

 

 余りにも上から目線で語られる恩着せがましい言葉の群れ。まるで全てにおいてオレより上だとでも思っているような、オレの命なんて路傍の石とでも思っているかのような発言に閉口する。

 

 ……聞くだけならそれこそ石でもできる。でもオレは人だ。対話で、折衝で、何とか逃げ道を探るしかない。

 

 そう言えば、気になることが一つ。

 

「どうして、オレに近づいて欲しくないんだ? アイツがオレをそういう目で見てないのは流石に分かるだろ」

 

「決まってるじゃん、ナインが気にかけてもらえてるからだよ」

 

「別にオレだけじゃない」

 

「うん、それはそうだね。でも昔同じ孤児院に居たことと、自分に復讐心を持ってるってことでナインはそれなりに強く心配してもらえてるんだよ」

 

「だからオレにその復讐と向き合わせたわけか」

 

「うん」

 

 オレのトラウマを消そうとしてるのはただ利益に繋がるからということだ。人間性と倫理観の大部分をかなぐり捨てたのか、リラ姉は。

 

「⬜︎⬜︎は私のことをずっと見てなきゃダメなの。過去を割り切るなんて絶対にさせない。前なんて向かせない」

 

「アイツのためを考えるとか、ないのかよ」

 

「好きな人のことを考えて、自分のことを忘れてもらう? こっちの自我が残ってる状態で? 一度は両思いだった好きな人が他に好きな人を作って幸せな家庭を築いてくのをずっと、ずーっと指咥えて見てろって? ねえ、それどんな拷問?」

 

 六年。袂を分かった二人が積み上げた年月は、人生を三等分したうちの一つだ。その中でリラ姉がどれだけ悩んだのかは、想像の範疇にすらない。

 

「まあ冗談だけど」

 

「えっ」

 

「そりゃ納得はできないけど、何かできるわけでもないし。本当の本当に嫌で嫌で仕方がないんだけど、仕方のないことだから」

 

 思っていたよりずっと理性的だった。

 それなら、何故あんなことを口走ったのか。

 

「他にも理由があって私は頭の中に居座んなきゃいけないの。こればっかりは説明できないけど、そういうものだって思って」

 

「大義名分を得てブレーキがぶっ壊れた、ってとこか」

 

「ひどっ!? あ、でも理由があるって分かってくれてありがと!」

 

 理解はしても納得はしてないけどな。

 吐き捨てるようにそう言えばリラ姉がぶー垂れた。

 

 ──疑問が一つ浮かんだ。何の脈絡もない小さな疑問だったが、解消しようとするたびに頭の中でより強く存在を主張する。

 

「どうして、オレはまだ死んでない?」

 

「えっ」

 

 術中にハマっている。そのはずだ。もう抗いようのないくらいにこのアーツはオレを支配している。

 オレは、正直もう死んだ方がリラ姉にとって得なんだ。簡単に殺せるのなら、頑固なオレの説得なんてせずに殺してしまった方が早い。

 今のリラ姉はたぶんオレに興味がカケラもない。執着もない。なのにオレは生きてる。

 

 考えられることは──。

 

「リラ姉が使ってるアーツは恐らく⬜︎⬜︎のアーツ。殺すなら感覚神経だけじゃなく運動神経にも信号を伝えなきゃいけない。その場合、オレに勘付かれてレジストされ、この世界に閉じ込めることすら出来なくなる可能性が高い」

 

「待って待って待ってなんで分かっちゃうの」

 

「リラ姉よりずっと、オレはアーツに理解があるからな」

 

「ペアルックのアーツいいなぁ……」

 

「魂レベルで運命かもな。──いっってぇぇ!! なんっだコレ!! クソ痛え!!?」

 

「痛覚だけなら私の思うがままだし。気づかれた以上はもう秘密にする意味もないし、いいかなって」

 

 オレの方から茶々を入れておいてアレだけど本当に容赦ねえのな。リラ姉のこと嫌いになりそうだ。

 

 我ながらかなり酷い八つ当たりをしている、と思いつつ、オレの痛覚への干渉をやめた、もしくはやりきったリラ姉に目を向ける。

 

「なあ、リラ姉。妥協点を見つけないか?」

 

「……」

 

「オレはこの後ガキに会って、何とかする。アイツが心配しないように自立する。その代わりにオレがアイツと一緒にいることを許してくれ」

 

 なんか、アレだ。オレがしたことはないけど、なんとなく実家の挨拶みたいだった。リラ姉が頑固親父でアイツが娘。

 

「ぐぬぬ……」

 

 テンプレめいた呻き声をあげるリラ姉(頑固親父)。こうして考えると、アイツを守ってるように捉えられなくもない。随分と短気で攻撃的だが、もしかすると守護霊的な存在なのかもしれない、と今更ながら思い当たる。

 お化けなんて居ないのは分かってるけどな。うん。お化けなんて存在しない。そもそも非科学的だし。実証がないのに信じられるわけないし。

 

 変な方向に脱線したオレを置いて、リラ姉は決断を下そうとしていた。自分の選択に不安を持ちつつも、どこか割り切ったような顔で。

 

「私はナインを信じるよ。そういうことにはならないって信じる。私から奪わないって信じる。──ナイン、応えてくれる?」

 

「ああ、最初からそのつもりだ」

 

 差し出された手を握る。気恥ずかしそうに照れてるリラ姉はどうにも綺麗で、もし奪おうとしたって、オレには敵いそうもない。

 オレはずっとリラ姉や⬜︎⬜︎に憧れてたんだ。カインと二人で大好きだったんだ。

 

 

 それから少しして、リラ姉がアイツを呼びに行った。オレはあのガキを見ると頭に血が上って周りが見えなくなるから、どう向き合うにしろストッパー役のアイツが必要だって結論になったからだ。

 あのガキのことを考えれば考えるだけイライラするオレの相手をリラ姉一人がするってのも気が引ける。自分で言うなって話なんだけどな。

 

「こっちこっち! 早く!」

 

「あっちのリラと話してたんだけど……って、ナイン!?」

 

「よう」

 

 アビスはオレを見つけるとすぐに駆け寄ってきた。おい、先導してたリラ姉を追い越したせいで不機嫌になってるぞ。オレのことはいいから機嫌を取れ。

 

「大丈夫みたいで安心したよ。強いのは知ってるけどスラムでは何が起こるか分かったものじゃないんだから、単独行動は控えること。いいね?」

 

「……オレを心配する必要なんてねえよ」

 

「ボクたちは家族なんだから当たり前。何か間違ってること言った?」

 

 何も間違ってないから早く離れろ。肩に手を置いたあたりからリラ姉の目がマジになってる。気付け、バカ。

 

「もういいだろ。さっさと話に入るぞ」

 

「うん、私もそれがいいと思う」

 

 間髪入れない同意。ずずい、とリラ姉がオレたちの方に近づいてきてる。

 

「分かった。……本当に心配したからね」

 

 戦った時のそれとは違って、それはオレを拘束するような強いものじゃなかった。ただ腕の中の存在を慈しむためだけの暖かい抱擁だった。──リラ姉が向けてくる絶対零度の視線を除けば、な。意味分かんねえくらい無機質な目がオレを貫く。

 

「三度目の正直。仏の顔も三度まで」

 

 次はない。リラ姉の口がそう動いた。

 

 

 ……オレ、ちゃんと無事に帰れるかなぁ。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七十一 やりたい放題

 

 

 

 

 

 

 

「どうもケルシー先生。先日はありがとうございました」

 

 そうにこやかに笑うアビスの顔には誠実な感謝などひとかけらだって浮かんでいなかった。

 おかしい。ケルシーは先日、自分の力で説得したいので手を出すことはないと治療を断ったのだから、今のリラを名乗る中身がこちらと親しくする必要などない。

 何が目的だろうか。少しの間考えるが、やはり情報が足りない。この異常な第二人格について少しも調査出来ていないのだからそれも当然だ。

 

 ケルシーはリラと名乗る人格について明らかにする努力をしていない。それは、後々アビス自身に伝えるかどうかをギリギリで選択できるよう、リラという人格の公表を後回しにしているせいだ。

 あのケルシーと言えど苦手なものはある。コミュニケーションがその代表だ。分かりやすさはあってもとっつきやすさが明確に足りない。それはもう致命的なまでに足りない。

 

 多重人格──解離性同一性障害の対症療法はメンタルヘルスケア。効果があるのならリラに試すのも吝かではないが、あれほど人格が確立されているのであれば無いに等しいのではないか、といった考えが頭について離れない。

 

 どんな人間だろうと苦手なものには手が出ない。ケルシーもその例に漏れていなかったというわけだ。

 

「ああ、おはようアビス。体の調子をよく確かめて過ごすと良い」

 

「釈迦に説法ではありますが、ケルシー先生はいかがですか? 特に睡眠不足やストレスだとか」

 

「お前に心配されるほどではない、と言っておこうか」

 

 ロドス職員の睡眠時間は上役になるほど削られていく、というものがある。たとえば購買部にほぼ常駐している変人などは「毎日4時間寝とけば大丈夫じゃない?」とか言っていたりする。

 ちなみにその4時間という数字すら怪しい。午前4時ちょうどに行くと机に突っ伏して寝ているが、それ以外は基本いつ訪れても起きているからだ。

 

 世間話が一段落ついたところで、ケルシーのそばにいる変人その2が口を開いた。

 

「ナチュラルに妾のことを無視しおってからに……」

 

「ああ、すみません。今のボクって減給されてる分だけ人が透明に見える特殊な病気に罹ってるんですよ」

 

「うがあああっ!!!」

 

 躊躇なく小バカにするアビスにノリ良く襲いかかっていく吸血鬼(ブラッドブルード)一名。隣の上司によって抑えられていなければ飛びかかって噛み付くこと必至だったろう。

 ケルシーが不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 

「……好き勝手するようであれば、病床に縛り付けるのも手段の一つだが?」

 

「嫌ですね、ちょっとした冗談じゃないですか」

 

「ほう。手続きを済ませておこう」

 

「え、いやあの本気にされると本当に困ると言いますか、その、やめていただければ幸いなんですが──ってうわぁっ!?」

 

「……ふん。始業時間には遅れるなよ」

 

「分かっているっ!」

 

 これがアビスであれば緊張感のある終わり方が出来ていたのだろう。だが実際の中身はリラ。シリアスの皮を被ったコメディ要員である。

 ワルファリンにマウントポジションを取られ、ぷるぷる震えるのが関の山と言ったところだろう。

 

「ふ、ふふふ……思えば散々舐められたものだ。あのコータスのオペレーターと言い、そなたと言い、妾に敬意というものが足りていないではないか……」

 

「ストップ、ワルファリン。話せばわかる」

 

「分かっていたら苦労していない!」

 

「わっ、あはははっ、あはははははっ!! やめっ、て、あはははははははっ!!!」

 

 

 

 

 久しぶりに反撃ができて満面の笑みになったワルファリンがついさっき早足で医療区画の方に向かった。

 

 それを確認して、笑い疲れた体をどうにか起こす。疲れたとは言っても動きが少し鈍っただけで、アーツで動かしてるこの体に支障は出ない。ちなみに笑ったのも仕方なく演技しただけ。

 アーツで支配してるこの体に反射の反応はない。だから私がわざわざ表情筋とか声とか色々調節しなきゃ笑わない。……もう大体慣れたけど、それでもかなーり難しいから、ワルファリンお婆ちゃんの困らせようって目論見は割と成功してる。

 

「好きだよ、リラ」

 

 はぁ……でも、そんなのどうでもいいや。もう最高だよね、この体。いつだってこの声の告白が聞けるんだよ? まじやべー。もうほんと、まじやべー。一人につき一つは欲しい。私はどうせなら三つくらいほしい。

 

 

 

 私がアビスの体を借りて(乗っ取って)から数日が過ぎた。ケルシー……先生? とかドクターとか、そういう鋭い人にはバレたけど、他は今のところ何とかなってる。バレないようにずっと気を張ってるのは疲れるけど、慣れてるからね。

 とは言えいつまでもこんなんだったら流石にバレる。たとえばシーとかニェンって人に一度でも見つかったらヤバい。絶対大変なことになるって確信がある。

 

 一刻も早くあの世界から帰ってきてほしい。ナインがこれ以上長引かなければたぶん大丈夫だとは思うけど……とにかく、ヤバい二人のことを警戒しつつ、他の人からも怪しまれないようにしないと。

 

 よし。ってことで、私が成り変わってることをバレないようにしつつ、アビスと距離が近い人とは短期間だけでいいから接触を避ける。これで行こう。

 

 

 ──なんて言ったのに、私は現在矛盾した行動を取っていた。それは他オペレーターとの必要以上の接触で、詳しいことを言えば、ライサちゃんとのデートに赴いていた。

 だって⬜︎⬜︎……アビスに他の娘とデートなんてしてほしくないし。心の底から嫌だったんだからしょうがない。

 そう言えば龍門でエイプリルさんにまたデートしようねとか言ってた。アレも私が借りてる間に何とかしちゃって、ついでに出来ることなら突き放したい。

 

「それじゃ行こうか」

 

「ちょ、ちょっと待って。心の準備がまだ出来てなくて」

 

「はいはい。ほら、さっさと行くよ」

 

 ……突き放すとか何とか言ったけど、そもそも嫌われればいいってことに気付いた。強引に手を取って反応を見る。

 

「ひゅっ──」

 

 発音が上手くできなくなって口から掠れた息だけが漏れる。目をまんまるにして、って驚きすぎじゃない?

 

 アビスが言ってたことを参考にすると、ライサちゃんはアビスに依存してるらしい。正直ベタ惚れにしか見えないけど、アビスが言うならそうなんだと思う。

 だから、実際はそこまで好きじゃないらしくて。ってことは嫌われるのだって簡単なんじゃないの? っていう見解。間違ってたら間違ってたで好感度を下げるのは良いことだし、とにかくやってみないとね。

 

 そんなことを考える(アビス)の手を硬く握りながら、ライサは声を張り上げた。

 

「だっ、だだ誰に誑かされたの!? アビスがこんなことするなんておかしい! 絶対おかしい! 神様ありがとう!」

 

「……本音は?」

 

「神様ありがとう!」

 

 こわっ。いや、もうこれ崇拝じゃん。嫌われるっていうのは完全に無理っぽいね。アビスが常日頃から苦労してる暴走列車は伊達じゃないってことか。

 じゃあ、やっぱり私に出来ることは高い好感度を削るくらいかな。

 

「約束があるからこんなことしてるけど、こういう扱いは今日限りだよ」

 

「分かった。一生の思い出にするね」

 

 分かってたことだけどこの子ヤバいね。何がヤバいって、さっきまでの赤面具合が完全に抜け切ってることがヤバい。さも当然のことみたいに言ってる。

 この発言、私が言うなら全く問題ないけど、ライサちゃんを含めて他の人が言うのは流石にヤバい。それを分かってすらいないのはもう、なんかもうキモい。流石に引く。

 

「……うん。そうして」

 

 内心では釈然としなかったけど、長々しく考えていたってしょうがない。私は特段その話を広げることもなく、ライサちゃんの手を引いて行った。

 

 そうして到着したのは商業区画。あのクロージャさんが運営する購買部の他にも、オペレーターからエンジニアまで、全ての職員やロドス乗船者が利用できる生活用品店がたくさんある。

 月に2回くらいは消耗品を目当てにアビスも訪れてた。ついでに購買部に寄って自分用の食料を補充したり。医療区画だとかエンジニア部がある区画よりずっとオペレーターたちと密接に関わってる。それが、この商業区画。

 

 千を優に超える乗船者数を誇るロドス・アイランドでは、艦内でも経済が回ってる。ちょっと高級な日用雑貨に加えて娯楽品や嗜好品の類も売ってるから、まあまあ繁盛はしてるらしい。アビスに入ってくる情報が少なすぎてそれ以上はよく分かんない。

 

 色々と脱線した。私が言いたいのはとにかく商業区画は賑わってるってこと。量はそこらの移動都市に劣るけど、一定以上の品質が保証されてるってことで、質はかなり上等な部類。

 ちなみに量が劣ってるとは言っても、私とライサちゃんが搭乗してるこのロドスはさっき言った通り千人以上が生活してる。私服の需要はそれだけあるってことで、一店舗で賄いきれるほどじゃない。

 

 つまり、服屋巡りはそれだけ長くなるってこと。

 

 

 

 

「アビス、やっぱり袋は私が持つよ?」

 

「いいって。部屋まで送るよ」

 

「部屋まで……うっ、うん! わかった!」

 

 ほんのり頬を赤くして答えるライサ。

 ……今なんか変な妄想したでしょ、こいつ。

 

 静かなロドスの廊下に靴音を響かせるのは私とライサとの二人だけ。引っ提げた紙袋が歩くたびにばっさばっさと音を立てる。

 

「本当に送るだけだよ?」

 

「わ、わかってるよ。でも今日はもう夜も遅いし泊まってくとか、どう? ほら、なんか、こう、一人で歩くには危ない時間帯だから」

 

「ロドスの治安を舐めない方がいいと思う」

 

 絵に描いたようなピンク色の回答に辟易する。ライサを着せ替え人形にして遊ぶのは楽しかったけど、時々入ってくる露骨なアピールは終始イライラした。

 私のアビスに粉をかけないでほしい。いやアビスが寡男(やもお)って考えると気持ちはすごくよくわかるんだけどね?

 

 今日一日を使って、ライサの評価をどうにかつけた。

 一言で言うなら、初心でむっつりな恋愛弱者。

 可愛いからグイグイ来てもあんまり不快にならなくて、誘い方が下手だからこそ拒絶するより先に笑っちゃう。そういった意味で距離を詰めるのは得意でも、恋人とか一歩進んだ関係になることは難しい。そんな感じかな。

 

 毎日アビスを抱いてた──添い寝的な意味で──私の敵じゃない。距離を取ることがベストではあるけど、放置しておいても大丈夫そう。

 信頼を笠に着て勝手なことをする必要はない。私はまだアビスから実在を疑われてる存在で、昔の私と本当に同じなのか猜疑してる段階。焦って拒絶されるなんて考えたくもない。

 

 ふふん、これぞ頭脳プレー。こちとら六年以上もアビスを見てる熟練の女。恋愛弱者のライサとは年季が違うんだよ、年季が。

 

「着いたよ、アビス」

 

「ここがラユーシャの部屋なんだ」

 

「うん。それで、その……上がってく? 荷物もあるし、それにロドスの中なら帰りがちょっとくらい遅くなっても関係ないし、デートのことだって強引に決めちゃったからその謝罪っていうかお礼っていうかそういうのがしたくて。それにそれにいつもありがとうって感じでお茶くらい出さないと失礼だと思うし荷物運んで疲れてるんだったら、休んで行った方がいいと思うの!」

 

 必死かっ! 長ったらしい以外の感想が浮かんでこない誘い文句に心の中でツッコミを入れる。どうせ手なんて出せないくせして背伸びしちゃってさ。

 

「そう言うなら、少しだけ」

 

 ぐぬぬ。可哀想だからちょっとだけお邪魔しようかな、とか、そんなことは全然思ってなかったのにライサの誘いを受け入れてしまった。

 流石に目をうるうるさせながら上目遣いされたら断れないって。中身私でごめんね。

 

「お邪魔します」

 

「どうぞどうぞ。……あ、アビス。ただいま」

 

 えっ。

 

「あっ」

 

 流れるように、部屋の壁に貼り付けられていたアビスの写真にただいまと告げたライサ。それを見てる暫定アビスの私。

 

 なんでアビスの写真があるのかなとか言う前に自分からボロ出してきたよこの子。もうこの雰囲気どうすんの。渾身の一発芸で誤魔化すとかしないと地獄はいつまでも続くよ?

 

「ま、間違えちゃった。今のは、アビスに言ったことだから」

 

「あ、うん」

 

 その方向転換は強引過ぎない!? 一緒に帰ってきた人に向かってただいまって言わないじゃん普通は!

 油を差さず何十年も動かした機械みたいな動きでライサは奥に歩いていく。真っ赤に染まった顔を隠そうとしながら必死にソファを指さしたので、大人しくそれに座っておく。可愛いより先に怖いって。

 

 記録媒体のプレイヤー。両脇にある写真。シャビーシックな壁掛け時計。隣には写真。サングラスをかけたリーベリの人が写っているライブのポスター。隣にはまたまた写真。

 どこを見てもアビスの写真ばっかり。私の記憶ではアビスがライサに写真を撮られたことなんてないはずのに、それが当然みたいに何枚も貼られてる。

 

 どうしよう。ヤバい。さっきまで舐めてた。

 

「粗茶ですが、どうぞ」

 

「ありがとう」

 

 これ飲んでいいやつ? ねえこれ本当に安全? ライサが怖すぎて疑心暗鬼になる。睡眠薬とか入ってないよね?

 

「……」

 

「……」

 

 恐る恐る口をつけたら割と好きな味の紅茶だった。けどほっと息をつくことはできなかった。

 静寂。ライサは立ったままガチガチに緊張していらっしゃっていて、部屋の雰囲気がとんでもなく張り詰めていた。流石の私もふざけられないレベル。

 

「あの、あのさ……隣座ってもいい?」

 

 かわいいなこいつ。

 経験ないってことが手に取るようにわかる。子供の頃の私でも、もっと自然に距離詰めてたよ、たぶん。

 

 頷く。ちょこんと座る。終わり。

 

「……」

 

「……」

 

 それで終わりかぁ。

 隣座ってからが本番なのになぁ。

 

「……」

 

「……」

 

 でもなんか、懐かしいな。こうやってソファに座って何をするでもなく一緒にいるって体験。昔はここから揺れる尻尾に抱きついたり座ってる彼に抱きついたりとにかく抱きついたりしてたなあ。

 

「……ん」

 

 ライサがどんどん私の方に寄ってきて、遂には腕と腕が触れ合うくらいの距離まで詰めた。えらいぞライサ。がんばれライサ。

 心の中から発信した応援も虚しく、ライサは俯いたままそれ以上何も言わなくなった。

 

 どうしようかな。ライサがヘタレじゃなかったらきっぱり断って関係悪化させようと思ってたんだけど、手すら繋げないようだし。もう帰ろうかな。

 

 ……もういいか。本当に何も出来ないみたいだし。

 立ち上がってにっこり笑う。

 

「お茶ありがとね、ラユーシャ」

 

「えっ、あ……うん」

 

「今日は楽しかったよ。またね」

 

「……うん。なんだか女友達と来たみたいだったけど、私も楽しかったよ。また明日」

 

 ばいばい、と手を振るライサに応えながら部屋を出た。最後の最後であんなセリフが飛び出てくるとは思わなかった。アーツのおかげで顔に出なくてよかった。

 

 

 

 最低限、体を返す前にしておきたいことは終わった。ケルシー先生が何もしてくれなかったのは想定外だったけど、鉱石病はどうせ治せないだろうから問題ない。できるならやっておきたい程度のことだったし。

 

 歩きながら考える。もうすぐアビスが帰ってくるだろうから、それまでにやっておかなきゃいけないこととか。ライサのこれからとか。

 

 ──だから、気付けなかった。

 アビスがよく通っている通路を、特に何も考えないまま使ってしまった。ライサに注意が向いてしまっていた。

 

 懸案事項を忘れていた。

 

「ねえ、そこの。見ない顔ね」

 

 凛とした声色。似合わないと思ってしまったのは、今までのものぐさな態度を見てきた私には、自然なことだと思う。

 ある意味こっちが本当の彼女なのかもしれないけど。

 

 いつもいつも斜めに傾いてる機嫌はもはや壁になってるんじゃないかって思うくらい角度を増していた。

 

 

「誰の許可を得てその体に入っているのかしら?」

 

 

 沸々と湧き上がる怒り。

 シーはそれを隠そうともせず、私の方を睨んでいた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七十二 執着の主人

 

 

 

 

 

 とある建物の裏手で、かつての仲間、いや家族が三人顔を突き合わせてうんうんと唸る。

 日は既にとっぷりと沈んでいて、いかにもボロそうなその建物を直上から月が照らしていた。

 

 三人の中で唯一の男である青年が口を開く。

 

「もう一度整理して考えてみたんだけど、ナインのそれを治すにはやっぱり対症療法じゃダメだと思う。具体的に言うとあのボクを利用するのはあまり効果がないんじゃないかな」

 

 それを受けて幼い少女が問う。

 

「対症療法だ何だってのはどういうことだ?」

 

「ナインの怒りにはプロセスがあるってことだよ。一つ目がカインに纏わるトラウマの段階。思い出す切っ掛けは今のところ幼いボクだけ。そして二つ目。トラウマによって感じる不快感だとかを掻き消すほどの憎しみや怒りを副次的に感じる段階。対症療法って言ったのは二つ目の対策で、根本的な解決に繋がらないとボクは思う」

 

 なるほどな、と幼い少女が頷く。

 それを見た青年は話を続けた。

 

「ナインが今まで向き合ってきたのは二つ目のこと。だから、ボクたちはトラウマ本来のことについてとんと知らない」

 

「普段は怒って本質が見えてないって言ってるのか」

 

 (やや)もすれば攻撃的と取られるセリフだったが、少女の顔は至って普通そのものだった。荒い口調によってそう聞こえるだけらしい。

 

 横で、今まで口を結んでいた、青年と同じくらいの歳に見える少女が眉を寄せた。

 

「ねえ、それって割と辛くない? ナインは大丈夫なの?」

 

「別に気にすんなよ。少なくともガキに向く感情よりは小さいはずだからな」

 

「引き合いに出すべきものじゃないからね、それ」

 

「じゃあ何か代案はあるのかよ」

 

「あったらもう言ってる。……せっかく心配してあげたのに」

 

 心配があったかどうかは置いておくとして、会話から()(もの)にされているのが嫌だったことは確実に理由の一つだったのだろう。拗ねた物言いから青年と幼い少女がそう判断し、顔を見合わせて笑った。

 

「うぅ〜……もういいっ! 私寝るから!」

 

「わっ」

 

 少女は胡座をかいていた青年の足を借りて本当に目を瞑ってしまった。仕方がないかと苦笑し、髪を手櫛で丁寧に梳く。

 少女の口元が僅かに緩む。

 

「問題に向き合う時が訪れた。やることはわかった。後はオレが実行に移すだけ、か」

 

 来た、見た、勝った。いつかレユニオンで動いていた頃、少女が耳にしたどこかの偉人の言葉だ。簡潔に述べられた言葉の意図はナインの発言と全く違う。──が、問題を解決する上で必要な工程をこの三つに分けるというやり方を少女は好んでいた。

 だからと言ってどうという話でもない。ただ、少女の腹が決まったということだけだった。

 

「明日には帰るぞ」

 

「……そっか。そうなるのか」

 

 思いも寄らなかった。青年の顔にはそう書いてあった。

 俯くようにして寝転がっている少女の顔を見つめている。

 

「離れたくないとか()かすなよ」

 

「分かってるよ」

 

「本当か?」

 

 二度目の答えは返ってこなかった。残念で堪らないとでも言う風に青年は顔を歪めていた。それが答えだった。

 

 涼風が二人の間を通り抜ける。

 

 幼い少女は少しの間不満そうな顔をしていたが、分からない話でもないからだろう、渋面を浮かべてそっぽを向いた。

 

「言われたんだ」

 

 青年がぽつりと言葉を漏らした。

 その視線はもう少女から離れていた。

 

「リラの笑顔がボクにはもう必要ないものなんだって、言われたんだ」

 

「そいつがか?」

 

 不思議そうな顔で幼い少女が聞いた。死者でありながら傲慢に物を言っていたそこの少女と発言が重ならなかったからだろう。

 

「たぶんだけど、違う。ボクの中のリラ」

 

「……」

 

 ドン引きだった。

 

「ずっと残っていたんだ。まるでリラが隣にいる時みたいな落ち着いた雰囲気が今までずっと感じられたんだ。それが、あの時を境に消えた。……その存在に気付いたのは、消えた後だったんだけどね」

 

 どうやら空想的(イマジナリー)非常識(インセーン)狂気的(ルナティック)な話ではなかったらしい。いや、今も電波なことを口走ってはいるが、先ほどの発言より、そしてそこの居眠りしている少女よりはまだ理解の範疇にある話だった。

 

「残っていたものが払底したのか、漏出したのか、それとも他に何かあるのか。どれであるのかはもうこの際関係ない。すっかり繋がりが断ち切られた、その事実だけが重要だったんだ」

 

 如何なる時であってもその存在を感じていたと言うのなら、青年が感じていた愛着も一入(ひとしお)だろう。それが忽然と消えた。嘸かし動揺したはずだろう、そう幼い少女は心の中で呟いた。

 

「リラは分かってるんだ、ボクに近付くことがいけないことだって。だからその踏ん切りを付ける手伝いのためにも、ボクはリラから離れるよ。リラの枷になりたくないなら、離れないとだから」

 

 そう言って哀しそうに笑った。

 何を差し置いても少女のことを幸せにするために、青年は束の間の幸福をも投げ捨てる。幼い少女は何か言いたそうな顔をしたが、結局口を噤んだ。

 

「……リラのためだなんて言って、本当はそうしたいだけ、なんて。大切な人を自分の感情の隠れ蓑にすることほど、格好のつかないことはないだろう?」

 

 小さな呟きが闇夜に溶けた。

 幼い少女はその言葉に何やら考えさせられるものがあったのか、口を閉ざした青年を放って思索に耽り始めた。

 

 月明かりがぼうっと二人を照らしている。

 

 現実のようで現実ではない、過去のようで過去ではない。そんな世界の中で二人は大好きな少女と再会した。

 執着へと変貌を遂げつつあった愛情は本来の形を取り戻し、埃かぶっていた激情は太陽の下にまで掻き出された。

 

 異物を迎えた過去が本来のものとは大きく変質するように、彼らの想念も異物によって強くその性質を変える。その異物が何を考えているのかすら知らないままに。

 

 

 月が二人を照らしている。

 阻もうとした雲は掻き消えた。

 

 

 

 今この瞬間、月は太陽だった。

 この世界において、二人が目視できないものは存在しない。今テラの人々を導いているのは月以外にありえないのだ。

 

 少年にとって、少女は太陽だった。

 それがもし、本当は(ニセモノ)でしかなかったとすれば、どうだろうか。

 

 

 月が二人を照らしている。

 太陽を地平の下へと追いやって。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 

 

「静止した時の中を動けるのはたったひとりでなくてはならない……」

 

 睡眠という行為は部外者(アウトサイダー)にとって必要がない。と言うよりは、その行為を認識できないために存在しないも同然、と言った方が確かだろう。

 

 その理由は今、悪のカリスマっぽいポーズを決めた少女の目前にある。

 

 完成度が高い彫像と言われてしまえば納得できるほど完全に静止した二人。少女がいくら触って頬擦りしても服すら動かないそれらには、意識がなかった。

 

 それは、青年の表に出ている少女が睡眠を行ったのを感じ取って、少女が青年と幼い少女の意識を電気信号ごと保存したためだ。

 止めた時と同様、いつでも少女の意思で世界を再開できる。

 

「思うに自動車という機械は便利なものだが、誰も彼もが乗るから道路が混雑してしまう」

 

 サルカズの傭兵、Wに関しては──無意識のうちにではあるが──アビスが主導で行ったため、強い反動と引き換えに所要時間の短縮が可能だった。だが今回は違う。少女の意思によって引き起こされたこの世界は、作り出すことが精一杯でそれ以上の機能を付けられなかった。

 まあ、特定の機能──例えば感情のリンクなどであれば可能だが、特に要らなかったので見送った。

 

「止まった時の中はひとり……このリラだけだ」

 

 格好付けてポーズを決め、返ってきたのは静寂と羞恥。赤面した顔を手で覆う様は、良く言えば微笑ましく、悪く言えばいかにもなアホだった。

 

 

 

「──うだね。それに賛成するよ」

 

 時は動き出す。つい先程まで青年の背中に抱きついて「当ててんのよ」とか言って好き勝手していた少女は元通りにすやすや寝転がっている。停止した時の中を全力でエンジョイしているようで何よりだ。

 

「んぅ……」

 

「あ、リラ。起きた?」

 

 眠そうに目を擦りながら起き上がってあくびを一つ。ぼす、とまた元の通りに寝てしまった。

 少女のことを誰よりも知っている青年が彼女の異変に気づけない理由は、恐らくこの世界がアーツで出来ているからだろう。

 青年が見る世界は電気信号が見せる幻であり、それを偽装されてしまえば誰だろうと気付く術はない。無意識下で生じる癖は、当然だが意識下では生じないのだ。

 

「リラ、寝ちゃったね。もう少し後にしようか?」

 

「今すぐ起こせ、バカ。流石に甘すぎる」

 

「……そうかな。リラ。起きて」

 

「やだぁ……おはようのキスがないと起きられない……」

 

「叩き起こせ」

 

 幼い少女はとてつもなく嫌そうな顔でそう言った。

 年頃のカップルがイチャついてる様を見て羨望でも湧き起こったのだろうか。もちろんそれだけではないのだろうが。

 

「ねえリラ、もう朝だから──ちょっと、しないってば……顔掴む力強くない!? もう起きてるよね!?」

 

「……ふふふ、いいじゃん、もう」

 

 キリッ。

 

「──私の物になりなよ」

 

 何に影響されたのだろうか。それは悲しいほど似合わないセリフだった。とある闊達なエリートオペレーターなどが見れば、真面目な少女の顔を見て失笑してしまうこと必至だろう。

 

「……っ!」

 

 ただし青年(全肯定bot)を除いて。少女に見つめられた彼は顔を真っ赤にさせる。自然、力が弱まってしまう。

 

 そうして緩んだ手の抑えをすり抜けて少女が接近し、──しかしそれは横から殴り飛ばされることで失敗に終わってしまった。

 

「いっだぁ!? ナイン、何すんのさ!」

 

 ぶたれた額を手で押さえて妨害した少女の方を見るが、直後少女の顔色が真っ青になった。

 

「……あの、ごめんなさい」

 

「チッ」

 

「…………怒ってますか?」

 

「チッ」

 

「……静電気! バ?」

 

「殺すぞ」

 

「ごめんごめ痛い痛い痛い」

 

 ぺいっ。掴まれていた頬がいきなり放されて、少女が尻餅をつく。青年はそんな二人のやりとりをニコニコしながら見守っていた。

 落ち着いたあたりを見計らって、そろそろだろうと口を開く。

 

「元気は有り余ってるみたいで何より。リラも起きたことだし始めようか」

 

「おう」

 

「それじゃあまずは、ナイン」

 

「……何だよ?」

 

「答えがわかったって顔してる。だからまずはそれが聞きたい」

 

 幼い少女が頬をかく。

 そう言えば少し前にも同じように看破された。

 

「そんなに分かりやすいか?」

 

「私と⬜︎⬜︎はね、大好きなナインのことくらいちゃんと見てるんだよ。……あっ、ごめんやっぱナシ。私しか見てない」

 

「リラ姉は何がしたいんだよ」

 

 全く隠せていないが照れ隠しなのだろう。愛い奴め、と言いながら少女が髪をくしゃくしゃにする。

 

 少女がようやく落ち着いて、場は整った。

 

「……んで、まあ、オレの所感を話そう」

 

 幼い少女の表白が始まる。

 

 

 

 

 

 嫌悪。それは人の行動原理であった。

 

 とある哲学者はこう考えた。高次な生物を自称する我々は結局のところ、欲求に従って生きているだけに過ぎない、と。

 複雑化しているだけだ。発展の理由を突き詰めれば、それらは全てが「なりたい」と「なりたくない」で作られている。

 

 その「なりたくない」こそが嫌悪である。

 自分を醜く思えば自己嫌悪が発露し、醜い他人は蛇蝎のように見える。

 

 ブレーキ機構はもちろんある。醜い自分を許せてしまう歪な自己愛に加えて、単純接触効果などのストレスを低減させる心理効果。

 しかしそれらを上回ってしまえば残るのは強く堅い嫌悪のみだ。生物として矛盾するほどの強い嫌悪の塊は容易にその人格を歪ませる。

 

 

「──結局のところ、オレが抱えていたのはきっと自己嫌悪だ。それをアイツに責任転嫁したんだ」

 

 

 半生を費やした鬼ごっこ。逃げていたのは青年か、それとも幼い少女の方だったか。

 ロドスに守られていた──青年の意図ではない──青年に逃げていた自覚は疎か追われている自覚もなかっただろう。

 

 滑稽なことだ。

 外見以上に成熟し、己を見つめてしまった彼女は心中で自嘲する。今となっては逃げることしかできなかった自分の方が、青年よりも余程許せないと言うのに。

 

「確かにお前にだって責任はあるさ。でもオレが全面的に正しいってわけじゃないんだ」

 

 否定しようとした青年を目で牽制する。

 

「この責任はオレのものだ。わかんだろ、お前だって」

 

 青年は口を閉ざした。

 

 青年には痛いほどよく分かった。その責任、罪悪感、怒り、嫌悪こそが、今ではカインが残した数少ない遺品なのだろう、と。

 その身に抱える鉱石病を少女の形見だとすら思っている青年にとって、幼い少女は写し鏡のようだった。

 

「オレだって格好くらい付けたいんだよ。放っておいてくれ」

 

 大切な人を隠れ蓑にして──と。青年の言葉は幼い少女の心に強く染み入った。それは深く、もはや取り返しのつかないところまで。

 

「……ちょっと、待ってよ。そんなんで終われるわけないでしょ」

 

 青年の反応を観察していた少女が動く。

 確かに提示した条件──トラウマをどうにかするということはクリアしているが、この結果は彼女の目的と一致しないだろう。証拠に青年の視線はずっと幼い少女の方を向いている。

 

「終われない? いいや、これで終わりだ。全部終わりだ。リラ姉には悪いけど、オレはもう帰らせてもらうさ」

 

 束ねられたアーツが世界に罅を入れる。

 

「許すと思ってるの?」

 

「許されずとも押し通ればいい」

 

 グリッジノイズが幼い少女を包む。罅は放射場に広がって小さな世界を剥がしていく。

 少女は借り物のアーツということもあってか出力が劣っているようだ。どれだけ力を込めても噴出する崩壊の信号を抑えられない。

 

 罅割れから覗くのは真っ暗な世界の裏側。アーツで規定された世界の管理外であり、外と繋がっている裏口(バックドア)

 

 もうダメだ。耐え切れないことを悟った少女の手が青年の手を取った。混乱と困惑の渦中にありながら、青年はやはり全幅の信頼を少女に向けていた。

 

「せめて──」

 

 青年のことだけでも。そう思って隔離しようとした少女の腕が突如地面に落ちた。

 何によって落とされたのかは、その空間に突如現れたものを見れば自明だろう。

 

「この剣は……」

 

 罅ではなく、真っ直ぐな切れ目が走っていた。その切れ目を生んだ剣がそのまま少女の腕を切り落としたのだ。

 その線はすぐに広がって、水色に染まった特徴的な腕がにゅっと生えてきた。

 

「それじゃ、返してもらうわね?」

 

「えっ、ちょっと待っ」

 

 引っ張られた青年の体は容易く世界から消える。どうにか捕まえようとアーツを伸ばしてもあの剣によって全て断ち切られてしまった。

 

 両腕を落とした少女は、その傷を気にすることもなく呆然と穴が閉じていくのを見ていた。見ていることしか、できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「上手くいかない。上手くいかなかった。どうして? 私の理解が足りないの?」

 

 体の内側から源石結晶が顔を出す。

 顔だけではなく、四肢や胴を含めて全ての部位から結晶が伸びていく。

 

「こんなに求めてるのに。こんなに私は頑張ってるのに。どうして受け取ってくれないの?」

 

 バキ、と自重に耐えかねた足が折れた。

 結晶の体がごとりと音を立てて地面に転がる。

 

「私を受け入れてくれたあの日から、私は何にも変わってないのに。⬜︎⬜︎ばっかり変わるんだね」

 

 首が割れて頭が落ちた。

 

「絶対に逃さないから」

 

 

 少女の頭に、亀裂が走った。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七十三 目覚めて

 

 

 

 

 長く続いた浮遊感が途絶えると、いつのまにか見覚えのある光景が戻っていた。壁に描かれた扉がその帰還を保証する。

 そして目の前にいる──いや、それどころかボクを抱き留めているシー。きっと必要だったんだろうけど、距離が近すぎて少し戸惑う。

 

「……まだ、死ぬには早いわよ」

 

 そう言うと、腕により一層力が込められた。

 

 なんだかお母さんに怒られた時みたいで何も言えなくなった。それにこんなに悲しそうなシーは初めてだから、どうすればいいのかわからなかった。言ってることの意味もよくわからなかった。

 

 シーの顔は見えない。ボクより少しだけ背が低いことと、近過ぎるせいだ。

 きっと少し動けば見えるはず。今、シーがどんな顔をしているか。

 けれど、見てしまったらきっとそれだけでシーの何かを壊してしまう。何故だかそれを確信していた。

 

 シーの考えはずっと前から分からない。

 あまり言葉を話す方ではないし、ボクがシーを訪ねる時はだいたい一人になりたかったから話しかけることも少なかった。

 

 ずっと嫌われてると思ってたけど。

 今度からはもっと話しかけてみようかな。

 

「アビス」

 

「……ん、はい。何ですか?」

 

「貴方は生きなさい」

 

「こんな体じゃ無理ですよ」

 

「生きなさい」

 

 駄々っ子のように言う。

 不思議だ。こんな人だっただろうか。

 

「……はぁ。もういいわ」

 

 腕が解かれて少し押された。

 少し悲しそうな顔を見て後悔する。

 ボクは何を言えば良かったのかな。

 そんなことを考えていると、シーは呆れたように言った。

 

「自分のことしか考えられない貴方が人の考えを理解できるわけないじゃない、諦めたらどうかしら」

 

「急に毒舌が戻りましたね」

 

「貴方がそれだけ馬鹿なのよ」

 

 シーがツンと言い放つ。

 悪くないと思ってしまうのは慣れ過ぎかな。

 

「……ふふ。ええ、そうね。それがいいわ」

 

「何ですか、何も言ってませんよ」

 

「別に何でもないわ。──少しだけ腹が決まったのよ、それだけ」

 

「はあ」

 

 よくわからない。

 いきなり笑い出すから、とうとう気でも触れたのかと思った。

 芸術家とか職人ってみんなこんな感じなのかな。

 

 ロドスに変人が多いだけかも?

 うん、ちょっとありえる。

 トップの人があんな感じだし。

 

「ああ、それと私にもう敬語は必要ないわ。むしろ今までどうして付けてたのよ?」

 

「……急にどうしたんですか? まさか本当に頭がおかしくなったとか」

 

「そんなことあるわけ──待ちなさい、今どうして『本当に』って付けたのよ」

 

「言葉の綾ですね」

 

「へえ。そのツノ圧し折るわよ」

 

「ごめんなさい」

 

 うん、絶対おかしい。

 ボクと話してる時はいつも絵を描いているって言うのに、まだ筆すら取り出してない。おかしい。

 

 ボクがあの世界で何かしている間に何かが起きたとか?

 ……って、ちょっと待ってよ。

 

「あの、ちょっと聞きたいんですが──」

 

「敬語をやめたら答えてあげなくもないかもしれないわね」

 

 そんなに言うならもういいか。

 敬ってるわけじゃないんだから。

 

「聞きたいんだけど、どうしてボクはここに? そもそも何が起こったの?」

 

「黙秘するわ」

 

 答えないのかよ。

 まあ、もう、それはいいや。

 もっと大事なことがある。

 

「じゃあ、これだけは答えてくれると嬉しいんだけどさ。どうしてリラを斬ったんだ?」

 

 別に怒ってないよ。

 別に怒ってなんかないんだ。

 返答次第で殺すけど。

 

「貴方を連れ戻す必要があったのよ。別にそれ以上の意味なんてないわ。それで……それ以上は言わない。私以外の思惑もきっとあるはずでしょうから」

 

「ああ、そう」

 

 シーが自分以外の人のことを考えて動く?

 限りなく胡散臭い。

 

「何よ。少なくとも貴方よりマシだと自覚してるわ」

 

「……さっきから頭の中見透かしてくるのやめてくれないかな。それとその自覚間違ってるから」

 

「私が態々覗いてるんじゃないわよ。貴方が漏らしてるだけなのに私が悪いみたいに言わないでちょうだい」

 

 ボクってそんなに分かりやすいのかな。

 

「……さ、そろそろ行きなさい。そうね、貴方が喧嘩してる相手とでも会えば良いんじゃないかしら」

 

「喧嘩? ああ、ケルシー先生のことね。嫌だよ」

 

「必要なことよ。顔だけでもいいから出しておきなさい。もしかすると置き土産を貰えるかもしれないわ」

 

 置き土産って、誰の?

 そう言おうとしたけど、シーは強引にボクの背中を押して通路から出してしまった。

 

 仕方がないな、ナインの様子を見た後にでも寄っていくとしようか。気が乗らないけど。

 絶対怒られるだろうなぁ。

 

 

 

 ボクと時を同じくして目が覚めたらしいナインの様子を少し伺った後、重い足取りでケルシー先生のところに向かう。

 ナインやドクターを巻き込もうとしたけど、お菓子でナインを釣ったドクターに追い出されてしまった。裏切り者のナインにはあとで何らかの報復が必要かもしれない。

 

 そんなことを考えながら歩いていると、不意に手を掴まれた。

 

「捕まえた。もう逃げないでよ?」

 

「別に逃げたりしませんよ。どうかしましたか、エイプリル」

 

「……あれ?」

 

 こてんと首を傾げた。

 それをしたいのはボクの方なんだけど。

 

「あ、もしかして白を切るつもり?」

 

「一体全体何の話ですか。あと手を放してください」

 

「あたしの名前、昨日まで他人行儀に呼んでたでしょ。距離も取ろうとするし、それについてはむしろこっちが聞きたいんだけど」

 

 怒った顔になったエイプリルが言う。

 その内容はやっぱりどこかおかしかった。

 

「昨日まで……? 昨日っていつですか?」

 

「はぁ?」

 

「あー、えっと、ちょっと待ってください」

 

 今のは言い方が悪かった。

 あの世界のことはどうにも説明が難しいし、別の角度から切り込んだ方がいいかもしれない。

 

「まず、ボクは龍門でナインと戦った後からずっと意識がなくて、起きたのはついさっきのことです」

 

「ふーん」

 

「だからエイプリルが言う昨日についてボクは何も知りません。何も分からないんです。ここは一つ、エイプリルの話をもう少し詳しく聞かせてください。あと手を放してください」

 

 そこまで言えば、エイプリルは胡散臭そうな目をしながらもようやく話を聞き入れてくれた。手は放してくれなかった。逃げませんって。

 

 

 そうして会話のテーブルに着いてもらって、それからが長かった。

 話せば話すほど出てくる食い違いに顔を顰めて唸るエイプリルをひたすら宥める。手を繋いでいるせいで、廊下で話していると変な目で見られるからとカフェテリアに移動。新作の飲料を奢って機嫌を取り、ようやく落ち着いた雰囲気で話ができた。

 

 エイプリルの話によると、ボクは少し前から既に活動を始めていて、何度も話したとのこと。ただ、いつのまにか呼び方や距離感が変わっていて、何かしら理由をつけて遠ざけられていたらしい。

 

 ボクの脳裏に浮かぶのはまずナインのアーツを用いた入れ替わり。けどこれはさっきまでナインが眠っていたことを確認しているからまずないと見ていい。

 次に鉱石病の影響。いつのまにか精神にまで源石の影響が出ていて、記憶だけ共有できていない二つ目の人格があるとか、記憶喪失だとか。正直これが一番ありえる。

 最後にその他。アーツの効果だとかエイプリルの鉱石病の症状だとかドッペルゲンガーだとか。

 

「もしアビスが本当のことしか言ってないなら、あたしも二つ目だと思う。でも鉱石病だからってそんな突然にそうなるのかってことも思う」

 

「まだイタズラだと思ってますか?」

 

「だって鉱石病の悪化とか信じたくないから」

 

 ぎゅ、と手が少し強く握られる。

 苦虫を噛み潰したようなエイプリルの顔に、出かかっていた言葉を飲み込んだ。

 

 ボクは鉱石病で死にたいんだから気にしないでほしい、だなんて。今だけは口が裂けても言えなかった。

 

「……気に病む必要はありませんよ。別にエイプリルを助けたくて龍門でアーツを使ったわけじゃありませんから」

 

 あくまでボクがはナインを無力化するためだけにアーツを使った。たしかに早く片付けられればエイプリルの助けになれたかもしれないけど、結局エイプリルはボクがそうするよりも早くアスランの男を倒していたわけだし。

 そんなことを言うと、エイプリルは突然噴き出した。

 

「ぷっ、あはははは! なにそれ! そんな言い方だとあたしを助けたかったようにしか聞こえないよ!」

 

「丸っきり正反対ですが!? ボクが今それを否定したばかりじゃないですか!」

 

「あはははははっ! もうダメ、テンプレートみたいなツンデレじゃん……っ!」

 

 エイプリルは腹を抱えて笑っている。

 声量は迷惑になるほどじゃないからそれは良いけど、真剣に選んだ言葉がこうも爆笑されると面白くない。

 

「……お手洗いに行ってきます」

 

「あー、ちょっと、ごめん笑いすぎたよね。ふふっ」

 

「手、放してください」

 

「それは嫌だ」

 

 捕まえられてからずっとこのままだ。ボクを捕まえていたなければもっと有意義にその手が使えると思うんだけどな。それに手を繋いでいると、なんだか変な感じだし。

 別に嫌ではないけど、片手が埋まっているのはどうも不便だ。

 

「それじゃ、そろそろ場所変えよっか」

 

「ああ、はい。どこに行くんですか?」

 

「そんなの決まってるでしょ? アビスが目を覚ました場所だよ。シーならきっと何か知ってる」

 

「そう言えばそうですね。……シーはきっとはぐらかしますよ?」

 

「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。行くだけ価値があると思わない?」

 

 うーん、それはどうだろう。あの人偏屈だし。

 ただ、普段のシーからは丁寧に教えてくれる気配なんて微塵もないけど、さっきのシーは少し様子が変だった。

 

 わかった、とボクが頷くと、意気揚々とエイプリルはいつもの通路に向かって歩き始めた。

 

 この手、いつになったら放してくれるんだろう。

 

 いつもは感じない何かが胸中を埋める。名前を知らない感情がボクの心の中で何度も弾けては存在を主張する。

 それに意識を向けていて、その小さな呟きがボクには聞こえなかった。

 

 

 

 

「シーのことは、簡単に呼び捨てで呼ぶんだね」

 

 

 

 

 きっと聞こえていても、本当の意味は(わか)れなかっただろうけど。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七十四 三人の答え

 

 

 

 

 

 

 

 

「言ったでしょう、私は言わない。元々私とあなたとの問題でもないのに、どうして私が横からそれを攫わなきゃいけないのよ」

 

 存在しないはずだった『昨日』のボクを巡って、ボクとエイプリルはいつもの通路に訪れていた。

 

 シーはいつのまにか元に戻っていた。会話中もせっせと黒で世界を塗っている。ボクにとってそれ自体はどうでもいいことなんだけど、今回に限っては残念だった。

 あの甘そうなシーであれば、喋ってくれることを少しは期待できたんだけど。

 

 ケルシー先生のところに行けば答えのようなものがあるってわかったのは良かったけど、あの人に会うくらいだったらシーの口から聞きたい。

 

「いくら言っても答えが変わらないことくらい分かりなさいよ。それに、私がどういう人間かってことはよく知っているでしょう?」

 

「引きこもりの天邪鬼ってこと?」

 

「うぐっ……ええ、そうよ。私は引きこもりの天邪鬼なの。分かってるならさっさとどこかへ行きなさい!」

 

「ただの冗談だよ。別に拗らせた面倒臭い引きこもりとか思ってないから」

 

「……それは思ってる時の台詞よね?」

 

「さあ、どうだろう」

 

 ロドスのオペレーターは往々にして精神の桎梏を抱えている。だから仕方がない、なんて言うつもりはないけど、シーのそれをボクはある程度受け入れてる。

 

 拗らせた面倒臭い引きこもりだけど、良いところなんて他に沢山あるんだからそう気にすることはない。

 別にボクはシーのこと好きじゃないけど、むしろ嫌いだけど、頑固で突慳貪(つっけんどん)なシーのことを、少しは近くで見ていたから知ってるよ。

 

「アビスとシーってこんなに仲良かった?」

 

 突然エイプリルが口を開いた。

 

「仲が良いってどういうことよ」

「仲が良いってどういうことですか」

 

「……うん。自明じゃない?」

 

 シーと思わず顔を見合わせ、余りにもその顔が豆鉄砲で撃たれた鳩と似ていたから噴き出してしまった。きっとボクも同じような顔をしてたんだろう、シーが笑ってる。

 

「多少はそうなのかもしれませんね。ボクとシーが似ているだなんて考えたこともありませんが」

 

「ふうん、今日はなんか素直だね」

 

「ボクはいつでも素直ですよ。シーと似てるなんて言われた手前説得力がありませんけど」

 

 抗議するような視線を無視して言う。

 シーとボクは似てるかもしれないけど、決定的なところでは違っている。そう思ってるからだ。

 

「まあ、間違ってないと思うわよ。あなたの考え方はむしろニェンの方に似ているもの」

 

「え、あれ、あたしの耳が悪いのかな。アビス今何か言ってた?」

 

「この人が頭の中を読んでるだけです」

 

「以心伝心!?」

 

 シンパシー極まりすぎじゃない!?

 そう言って喚いているエイプリルの方をシーが一瞥し、ようやく()()に気づいた。

 言及しようか迷ったが、その視線に気づいたアビスが誤解されてはたまらないと弁解する。

 

「これはエイプリルが離してくれないだけだよ」

 

「ちょっ!?」

 

 アビスが見せつけるように上げた、繋がれている手を急いで元のように下ろす。どうやら他に見られるのは憚られるようだ。

 皮肉にもその行動こそが誤解を助長させてしまうのだが。

 

「あたしは別に逃げられたくなかっただけ!」

 

「言い訳になってないわよ」

 

「えっ!? あ、いや、えっと……シーは昨日までのこと分かってる、よね?」

 

「ええ、分かってるわ。それで?」

 

「それで避けられてたから、何とかしようと思って……」

 

「それならどうして今も繋いでいるのかしら」

 

「目を離したらまた逃げそうだったし、この方が確実かなって……」

 

 何を聞いても尻すぼみになるエイプリルの言葉。

 流石にこれ以上追求するのは酷かと、シーは質問を切り上げる。

 

「納得しておいてあげるわ」

 

 アビスは首を傾げた。

 エイプリルの主張に何かおかしいところでもあったのだろうか、手を繋ぐなど離れ離れにならないようにという意味以外にありはしないだろうに。

 

 シーは改めて二人を見て、大げさにため息をついた。

 

「逃げませんから。手、放してくれませんか?」

 

「あ、はい」

 

 妙な関係になっているものだ。

 シーはそれがどのような形であれ落ち着いてくれることを望んでいた。

 色恋で終わろうが友人で終わろうがどうでもいい、仲さえ良ければ。

 

 ようやく自由になった手を握っては開いているアビスを見るに、色恋とつながる可能性はどうにも低そうだ。

 

 まあ、いい。

 シーは止めどない思考を切り捨てた。

 放置していた場合の想定は関係がないのだ、どうせ自分がテコ入れを行うのだから。

 

 シーは心底疎んでいる存在からアビスを取り戻した時に決意した。

 アビスにここまで情が移ったのだから、どうせならその最期を出来る限り延ばしてやろうと覚悟した。

 

 それはつまりケルシーの方針に同調することとなる。

 もしそれが知られればアビスはそれなりに驚くだろうし、もしかすると疎み嫌うかもしれない。

 だがそれはシーにとってどうでもよくなっていた。

 

 見返りなど期待しない。

 余計なお世話を焼いてやる。

 

 嫌われることと、あの存在に連れていかれることと、比べてしまえば取るべき選択肢は最初から一つだったことに気がついた。

 

 これは相手がどうなるか、という問題ではない。

 これは自分がどうしたいか、どんな自分で在りたいかという問題だ。

 

 そうした単純化の結果シーの食指は驚くほど簡単に片一方を指し、今に至る。

 シーの覚悟は不動のものとなった。

 

 そんなシーをジト目で見る兎が一名。

 

「今度は何よ」

 

「別に。なんでこんなに対応の差があるんだろうなーってだけ」

 

「アビスに聞きなさいよ」

 

「え、ボクが何だって?」

 

 先ほどからずっと解放された手を見つめていたアビス。

 やはりと言うべきか、話を聞いていなかったようだ。

 

「なんであたしには敬語外してくれないのかな、って。シーにはどうせすぐ折れたんでしょ?」

 

「どうせって何ですか、どうせって。シーが譲らなかったんです」

 

「じゃあ、あたしも譲らない」

 

「はあ、そうですか」

 

「あれれ〜、話が違うよ〜?」

 

「笑顔のまま手首捻りあげるのやめてくださ──いたたたたたたっ」

 

 ドーベルマン教官直伝の締め上げがアビスを襲う。

 いくつか対抗策も教えられているが、それを共有している者同士の戦いは、先に抜けられない状態にまで持ち込んだ方の勝ちだ。

 

 つまりは先手を取って技を完成させたエイプリルに分がある。

 

「ぐぇっ……流石にやりすぎじゃないですか!?」

 

「アビスだって流石に拒み過ぎじゃない?」

 

「それとこれとは、話が、違います……!」

 

 背中に乗られて腕は拘束され、動くものは足だけ。

 蹴って強引にどかすことはできないので、アビスはもうじたばたともがくことしか許されていなかった。

 

「私は関係ない立場だからそう言えないけれど、無駄な抵抗は自分の首を絞めるだけよ?」

 

「うるさい、なぁ……!」

 

 タメ口かよ。

 関節が軋みを上げる。

 

「ぐぅっ……分かった、分かったから! 放して!」

 

「最初からこうしておけば良かったかな」

 

「ボクに恨みでもあるの!?」

 

「散々断られた恨みならあるよ」

 

「逆ギレって言うんだよ、それ」

 

 いててて、と零しながら立ち上がる。

 なんとなくずっと抵抗があったのだが、いざ話してみれば驚くほど自然に会話することができた。

 

 何故あんなブレーキがあったんだろう?

 彼は考えを巡らせるが、生憎と答えは見つからなかった。

 唯一考えられたのは、後輩の女の子が怒り狂いそうだからというものだったが──まあ、ないだろう。

 

「ふふ、いいね。やっぱり」

 

「何が? って、分かるけどさ。分かるけど、そんなものかな」

 

「あたしにとってはそんなものなの。分かってよ」

 

「だから分かってるってば」

 

「……ふふっ。いいね」

 

 理解は出来るけど納得は出来ない。

 微笑むエイプリルのことをアビスはそう評した。

 きっとそもそもの性根が問題なのだろう、アビスは早々に理解以上の共感を諦めた。

 

 微笑ましいやりとりを静観していたシーが口を開いた。

 

「彼女のところにはもう行ったのかしら?」

 

「ん? ああ、まだ行ってないよ。向かっていたらエイプリルに捕まったからね」

 

「逃したらしばらくチャンスなさそうだったから行くしかなかったの。だからあたし悪くない」

 

「別に責めてないわよ」

 

「シーって基本発言にトゲあるよね。あと雰囲気とかも怖いし」

 

「どうやらツノが惜しくはないみたいね」

 

 今朝言っていた脅しは本当だったようだ。

 アビスの真っ黒なツノをシーの両手が掴む。

 

「待って待って本当に圧し折れるから」

 

「流石に素手じゃ折れないわよ!? ……折れないわよね?」

 

「試さないで、ちょっ、軋む! 鉱石病のせいで脆くなってるから付け根あたりが軋んじゃってる!」

 

「尻尾はどうなんだろ」

 

「やめて、尻尾を触られてる時は傷つけないように集中しないと──そろそろツノ痛いよねえ分かってるよねシー流石にそれ以上は曲がんないし限界がいたたたたたたた」

 

「……このくらいにしておこうかしら」

 

「割とあったかいんだね」

 

「この自由人共めっ!」

 

 吐き捨てるようにアビスが言う。

 言葉とは裏腹におとなしい尻尾を触る彼女や定位置に座り直している彼女には全くと言っていいほど効果がなかったようで、彼は軽く絶望した。

 

 そんな中、ポケットの中の端末が震えた。

 

「あ、ドクターからだ」

 

「何かあったの?」

 

「呼ぶことになるって話は聞いてたよ。いつかは知らなかったけど、今日のことだったみたいだね」

 

「あら、そう。ならエイプリルを責めることにするわ」

 

「なんで!? あと何を!?」

 

「シーはどうして呼び出されるのか知ってるの?」

 

「ドクターに聞きなさいな」

 

 また人任せか。

 アビスはそう思ったが、シーはそれを分かっているのか分かっていないのか、無視して話を続けた。

 

「たとえ一本であろうと線を人に委ねてしまえば、一人だけの絵ではなくなってしまうのよ」

 

 よく理解できなかったが、とりあえず頷いておいた。

 

「あなたの考えに余計な線を書き出したくないの。それだけよ」

 

「尊重してくれてありがとう、かな?」

 

「理解できていないのならお礼なんて要らないわよ。助言なんて役に立たなければただの無駄口だもの」

 

「シーってアビスと同じくらい照れ隠しが下手だよね」

 

「……」

 

「メイクが崩れちゃうから髪と顔だけはやめて! あと服も!」

 

 墨に浸けられていた筆がしばらく虚空を彷徨った後、シーはエイプリルへの罰をデコピンで済ませた。

 恨みが二つもあったのでそれなりに強く弾いたため、エイプリルは額をさすりながら目に涙を浮かべている。

 

「……二人に比べれば、ボクとシーが仲良くなる速度なんて気にならないと思うんだけどな」

 

 どうして今回だけエイプリルは過剰に反応したんだろう?

 アビスは少しの間頭を悩ませていたが、答えが出なかったので忘れることにした。

 

 

 三人は相変わらず仲が良い。

 きっとそれが長くは保たないと知っていても、彼らはその関係を続けるのだろう。それが彼らの、彼らなりの答えだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七十五 自己嫌悪

 

 

 

 

 

 

 彼は自分を望まない。

 幻影がその目を濁らせる限り。

 

 彼は自分を罰さない。

 彼が孤立した存在である限り。

 

 彼は自分を殺さない。

 絡まる思考が阻んでいる限り。

 

 

 彼は希望を欲さない。

 それが偽物だと知っているからだ。

 

 

 夢の残滓を追いかけて、彼はいくつもの国を巡った。

 彼女のルーツを知りたかったのだ。

 

 彼だけではクルビアから脱することすら成し得なかっただろう。

 彼女の手助けがなければ、きっと。

 

 霧の中を進んで数年が経った。

 諦めかけていたその矢先、彼は私に拾われた。

 彼からはただ入ったという認識だけなのだろうが、実際には違う。

 表面ばかりを取り繕ったボロボロな彼は当時の状況から受け入れることが難しかった。

 反対意見そのものは出ていなかったが、確かにそういった雰囲気が蔓延していた。

 これ以上の受け入れは無理だと。

 

 それでも私は引き入れた。

 アーミヤが理想論者であったことも強く作用した。

 無理を通す私たちの姿は結果的に士気を上げて、ロドスの安定に貢献した。

 離れる者の姿も見られたが。

 

 私が彼を担当している理由もそれだ。

 医療関係が滞っていて、私もいくらか受け持つ必要があった。

 彼以外の患者はとっくに病状が安定し、ロドスから離れて生活している。

 

 今はきっと他の者に彼を任せるべきだろう。

 そして数ある問題を解決することに心血を注ぐべきだ。

 そう考えたことは一度や二度ではない。

 メリットも十二分に理解している。

 

 それでも私は面倒を見たかった。

 彼から目が離せなかった。

 少しでも放っておけば勝手に死んでしまいそうな彼に頭を悩ませられることが好きだったのだろう。

 

 きっとその時から私は何も変わってなどいない。

 私は私だ。

 きっと変わらない。

 

 そして、彼も彼なのだろう。

 分かっている。

 

 

 

 

 分かっているから、それでいいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静かな会議室。

 彼はドクターと共に入室する。

 二人が席についたところで時計の針が定刻を指した。

 彼はどうやらこれが何の会議か知らされていないらしい。

 

 さて。

 始めようか。

 

「お前に通告がある」

 

 声を出すと彼が警戒する。

 相変わらず私のことを疎んでいるようだ。

 随分と嫌っていることは以前から知っているし、それはそう誘導した結果でもある。

 だからどうと言うこともない。

 

「お前は現在療養中のはずだった。艦内のみでの活動を許していたが、外に出ることは一歩たりとも許されてなどいなかった」

 

「ええ、そうですね」

 

 平気そうに言い放つ。

 よくもまあ、言えるものだ。

 本気だと言うのだから傑物だろう。

 それに私の──いや、これは私情か。

 

「それを無視した結果、お前は龍門から昏睡状態で移送された。この会議はその処分を巡ってのものだ」

 

 彼は何も答えない。

 私の回答が予想通りで、言い訳が無駄だと知っているからだろう。

 

「端的に言おう。医療オペレーターの間では無理矢理にでも入院させるべきだという意見が主流だ。自室に帰すこともないだろう」

 

「言うことを聞かなければ軟禁ですか?」

 

「そういう契約だ」

 

「待て、ケルシー。俺たちにオペレーターの行動範囲を規定することはできないだろ。ルール上は艦外から通勤したっていいことになってるんだ」

 

「オペレーターには保護を受ける権利があり、そしてロドスには保護する義務が生じている。義務の履行のためであれば多少の不自由を強制することも仕方がないだろう?」

 

 ロドスは合法的な組織ではない。

 と言うのも、ロドスが創立された国であるカズデルはとっくに崩壊の一途を辿っている以上、もはや所属している国があやふやになってしまっているからだ。

 ロドスで問題が起きたとしても、それは内々で解決されてしまう。

 

 ロドスは言わば都市国家なのだ。

 艦の中に成立している移動都市国家。

 法の名は採用契約。

 

 ただの住人(オペレーター)である彼には、私が下す措置を受け入れる他ない。

 ドクターの手助けさえなければ。

 

「義務は必ずしも他のルールに優越しない」

 

「しかし、奨励されるべき義務を果たさなければ上役として示しがつかないな」

 

「デメリットを度外視しているように感じられるが?」

 

「いいや、鑑みてもメリットの方が大きいだろう」

 

 ドクターは尚も食い下がる。

 君は彼を殺したいのか?

 そんな言葉が頭の中に浮かび、しかしそれは飛躍が過ぎると思い止まった。

 鉱石病を扱う組織はロドスに限らない。

 規模や理念の一貫性でロドスに比肩するものはまだ存在しないが、ロドスから離れたとて少しの間くらいは生きながらえることができるだろう。

 無論、彼がそれを選ぶことなどありえないが。

 

 何故理解しない?

 何故彼は死のうとしている?

 

 理解はできる。

 私にも彼らの感情は理解できている。

 だが彼は余りにも──そう、余りにも無責任だ。

 彼は私たちのことを全く考慮に入れようとしない。

 きっと『彼女』と呼んでいた存在に比べれば虫と同程度なのだろう。

 

 私は彼の目に入らない。

 私は彼の世界に存在しない。

 三年もの間近くにいた私ですらそうだ。

 

 

 悲し過ぎるだろう、そんな生き方は。

 

 

「ドクター」

 

「何だよ?」

 

 君は分かっているだろう、私のことなど。

 分かっている上で、君は君の目的のためだけに動いている。

 私の思いは切り捨てて、いや、利用して、君は君の目的を果たそうとしている。

 

「……分かってくれ」

 

 ドクターが息を呑んだ。

 君はやはり、私がどんな思いで彼と接しているか分かっているんだな。

 薄情者、と罵ることはできないか。

 君は余裕がないのだから。

 他人のことなど二の次だろう、理解できるさ。

 

 だとしても、どうか。

 

「分かるわけないでしょう。分かってやれるわけないでしょう、ケルシー先生」

 

 含ませた言葉の意味をどう受け取ったのか、彼は怒りを滲ませながら言った。

 

「この話し合いは対等であるべきです。ボクとドクター、ケルシー先生はそれぞれ対等であるべきなんです」

 

 素っ頓狂なことを言う。

 対等でないのならば私は元より頭ごなしに入院の命令を出している。

 私にはそれをやれるだけの権限があり、ドクターの駄々は半分以上越権行為だ。

 話し合いの場を設けた以上は対等な交渉にしたいと思っている。

 

 その上で、叩き潰す。

 彼を救ってやる。

 それが私の目的で。

 

「だから、その目をやめろって言ってるんだよ」

 

「……おい、アビス?」

 

「聞こえてないのか、ケルシー。ボクやドクターを憐れむなって言ってるんだよっ!」

 

 ドクターが慌てて彼の肩を掴む。

 落ち着かせようと宥めているが、聴いていないな。

 

「もう限界だ、ボクのことをずっと下に見ているあんたの話を聞くのはもう限界だ!」

 

 実際、同情するしかないだろう。

 客観的に考えてみるといい。

 言ったところで火に油を注ぐことは目に見えているので、黙って聴いておく。

 

「ボクは世界一幸せだ! リラと出会えて世界一幸せなヤツなんだ! それをあんたなんかに可哀想だなんて思われてたまるか!」

 

 部屋から一旦出ようとドクターが彼を精一杯引っ張っているが、鍛えられた彼が動くことはなかった。

 それにしても、リラ、か。

 もしその名が『彼女』を指すのであれば、あの人格は記憶の中の理想像なのだろう。

 消す手段はありそうだな。

 現実的ではないが。

 

「……クソッ!」

 

 ドクターを押しのけて彼が私のすぐ前にまで近づく。

 一度落ち着けばどうにかなるだろうか?

 アーツを使えば不可能ではない。

 

「どうしてだ、どうしてなんだよ!」

 

 何のことだ?

 心中で首を傾ける。

 

「どうして、そんなにボクのことを想ってくれているのに、敵になろうとするんだよ……っ!」

 

「味方になったとして、お前は聞き入れたか?」

 

「違う、そうじゃない!」

 

 ふむ。

 

「アビス。お前が言う味方とは、何もかも自分に同意してくれる都合のいい存在のことか?」

 

 彼が絶句する。

 しかしそうだろう、彼が話す敵とは自分の事情を理解しながら自殺を止める存在のことだ。

 それは少し前のラーヤに対する接し方からも分かっている。

 

「黙って頷いてもらえると思っているのか? 自分の意思が何でも通ると本気で思っているのか?」

 

 だから。

 

「だからお前は子供なんだ、アビス。だからお前を導く存在が必要なんだ」

 

「……それが、ケルシーだって?」

 

「ああ。お前はただ自分の主張を通したいだけの存在に過ぎない。お前からすれば私も同じようものに映るのだろうがな」

 

 一呼吸置いて、思考がクリアになるのを待ってやる。

 

「私がお前の思い出を憐れんだように思ったのなら謝罪しよう。だが、私はあくまでお前がその思い出から離れられていないことを憐れんでいただけだ」

 

 話し方一つで印象は変わる。

 視野は狭いが馬鹿ではない彼のことだ、ここで間でも置いてしまえばすぐに謝罪するだろう。

 

 そんなこと、許しはしない。

 

「アビス。ロドスはお前の味方だ。お前を思っての指示だ。素直に従ってくれると、こちらとしては嬉しい」

 

 彼を抱きしめてやる。

 反応が良いことは以前知った。

 

 謝罪など許さない。

 お前には罪悪感を背負ってもらう。

 勘違いして自分勝手に怒鳴り散らしたんだ、それなりに揺れるだろう。

 

 自分から、「ボクが間違っていました」と言わせてやる。

 お前のことはどうなろうと徹底的に叩き潰す。

 別に嘘をついているわけではない。

 お前を叩き潰すことだって、お前のための行為なのだから。

 

「ああ、そうだ。話し方はそのままで構わない。私とお前は対等だ、そうだろう?」

 

 距離を積める。

 耳触りのいい言葉を並べる。

 彼の頭を胸に寄せる。

 

「謝罪は要らない。ただ、もう一度考えて欲しい」

 

 ドクターは静かにこちらを見ている。

 してやられた、とでも思っているだろうか?

 

「約束、しただろう?」

 

 彼が過去を私に話した日。

 それを振り切ると約束した。

 忘れたとは言わせない。

 

 

 私の話が終わって、彼はすぐに離れようとしたが、強引に抱きしめておく。

 長ければ長いほど好意を抱きやすくなる上、彼のような青年であれば余裕を失わせることができるからだ。

 ペースも乱れる。

 

「ドクター。今日の会議は中止だ。業務に戻るといい」

 

「……わかった」

 

 ドクターが出て行った。

 もがいても無駄だと知った彼はすっかり大人しくなっている。

 腕力はどうやら私程度の力で抑え込めるほど弱くなっているようだ。

 やはり、今までのような戦い方はもう難しいだろう。

 

「ロドスは家ではない。私はお前の家族ではない」

 

 言い聞かせる。

 優しい声を無理に出しても疑われるだろうから、いつも通りの声だ。

 

「だが、私はお前の保護者だ。少しくらいは親代わりになってやる」

 

 ああ、反吐が出る。

 私の擦り切れた感情が大いに抵抗する。

 だがそれは理性を決して上回らない。

 私の理性はこれが最善で裁量だと答えを出している。

 私は彼を懐柔して、捻じ曲げて、そして私が求める答えが出るように作り上げる。

 

 ああ、反吐が出る。

 実行しておいて嘆くなど。

 こうなることが分かっていながらに行動して、その上で愚痴を吐くなど。

 

 

 

 

 ああ、全く。

 最悪の気分だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七十六 マイペース師匠

 

 

 

 

 ドクターに連れられて会議に参加したアビス。

 会場となっていた小会議室の扉に彼は寄りかかっていた。

 

「…………」

 

 彼は感情が読み取れない思案顔。

 俯くその目が床を捉えていないことは確かだ。

 

 彼が見つめているのは何だろうか。

 ケルシーとの関係か?

 それともロドスとの付き合い方か?

 

 いいや、違う。

 そんな具体的なものではない。

 彼にはただぼうっとする時間が必要だっただけだ。

 ケルシーの変化に動揺していては弱味を見せるだけだと、そう思い、整理する時間を必要としただけだ。

 

 アビスは少しだけ前を向いた。

 

 何も考えず、行き交うオペレーターを眺めている。

 何度か見たことがあるようなオペレーターが居れば、その一方で全く記憶にないオペレーターも歩いていた。

 

 エーギルの医療オペレーター、リーベリの前衛オペレーター。アヌーラの狙撃オペレーターにウルサスの……商売人?

 

 こんなに人が居たのか。

 小会議室はアビスの行動範囲外にあり、見慣れないオペレーターたちを前に驚嘆する。

 

 仕事に励む彼らはとても精力的に見えて、一人貯蓄に頼って仕事の一切を行わない彼に罪悪感が浮かぶ。

 このままでいいのか。

 どんな意味でそれを自問したのか彼自身でもわからないまに、その問いはゴミ箱へと投げ捨てられた。

 何も変わる必要などない。

 自分はずっと変わらない。

 それでいい。

 

「──暇か?」

 

 そんな思考を切り裂いて、怜悧な声が耳を刺す。

 それと同時に、冷たい何かが首の後ろに押し当てられた。

 

「うわぁっ! サ、サリアさん!?」

 

「今は暇か?」

 

「……まあ、暇ですね」

 

 首の後ろに当てられたていペットボトルの水を受け取る。

 自販機で買ってすぐなのか、キンキンにひえている。

 中身が水であるのは病状を知っている故の気遣いか、それとも特に考えていなかったか。

 

「ついてこい」

 

 サリアが早足で歩き出した。

 当然ながら拒否する選択肢はないので素直に後ろを歩く。

 

 サリアはオペレーターの中でも有名で、アーツ学や格闘術について尋ねてくる人も多い。

 医療の方面にも顔は広く、各方面から師事されている。

 そんなサリアが廊下を歩いているのだから、話しかけられずとも目線がこちらを向くことは多い。

 アビスは彼らの怪訝そうな視線に居心地の悪さを感じながら、サリアの一歩後ろを付き従った。

 

 そうして連れて行かれた先はサリアの私室だった。

 何故と思いながら足を踏み入れる。

 内装は、トレーニング用品の他に学術書が並んでいたり、コーヒーメーカーが置いてあったり、サリアらしいものだった。

 

 静謐な空間に足音が響く。

 奥から客人用らしき椅子を引っ張り出してきて、サリアとアビスは対面に座った。

 挟まれたテーブルの上には経済雑誌や学術雑誌がいくつか置かれていて、サリアらしいと心中で呟く。

 

「さて。何を話そうか」

 

「……()? ()()ではなく?」

 

「?」

 

 サリアが首を傾げる。

 ややあって、発言の意図に思い至った。

 

「特段用があって誘ったわけではない。空いた時間ができたからトレーニングでもするかと考えていたらお前が目についたからな」

 

 暇か、と聞いたのは他に用があればそれを優先するべきだと思ってのことだとサリアは言う。

 相変わらずだ。

 彼はずっと何を言われるか戦々恐々としていたと言うのに。

 まあ、自分が色々とやらかしている自覚があるからこその思考回路だったので、サリアに非は一切ないのだが。

 

 二人が顔を合わせるのは実に何日ぶりだろうか。

 訓練室が爆破されて少し後からずっと会っていなかったので、それなりの日数離れていたことになる。

 

「雑談か。何を話すべきだろうか」

 

 まず()()という言い方からしておかしいのだが、彼は指摘しなかった。

 

「ああ、鉱石病の様子はどうだ?」

 

 初っ端の話題にしては重すぎないだろうか、と。

 そんな配慮ができるものなら、きっとサリアは同僚とああまで拗れていない。

 しかしまあ、アビスにとってその話題は重くも何ともないのだから、結果的には無難な話題だったが。

 

「どうにも、体全体が脆くなっているようです。お腹周りを除く他の器官はまだ不全にまで至ってはいませんが、影響は出ているようです。今後それがどうなることか、といった具合ですね」

 

 種族柄なのだろうか、アビスは傷の治りがいくらか早い。

 だが龍門でナインから受けた傷は未だ痛痒を生み出し続けている。

 治療は受けられていたはずなのだが、ナインの攻撃を無防備に受けた両腕は完治に程遠い。

 以前であればもっと和らいでいただろうに。

 それが鉱石病の影響によるものとすることは、断言こそできないが、可能性は高いだろう。

 

「それでいいのかもしれません。もう、必要もありませんから」

 

 ナインと戦い話を聞いた。

 まだすっきり片付いたとまでは言えなくとも、力が必要な段階にはもうないだろう。

 

 頭の中では、そうだった。

 

「そうか」

 

「はい」

 

「訓練はやめるのか?」

 

 言葉に詰まる。

 返す文言に悩んでしまう。

 

 理性では、意味のない訓練などやめてしまえばいいと考えている。もう死んでしまうのだから。

 しかし感情面ではそうもいかないこともある。訓練の時間が好きだった、サリアが頼りになる存在だった、他にも色々な感情を彼は持っていた。

 軽率に捨てることなど出来なかった。

 

 そんな彼を見て、彼女は思う。

 やはりケルシーが言っていた通りではないのかもしれない、と。

 

 少し前にケルシーが持ちかけてきた話をサリアは疑っていた。

 サリアが受けていた印象とは節々が違っていたのだ。

 だがそれだけなら、自身の人間関係に関する能力が低いのだと納得できていただろう。

 それが今話したことで、些細な疑念は確信に変わった。

 

「都合が良ければ来ると良い」

 

「……サリアさんが、そう仰るなら」

 

 彼は彼の意思で死を選んでいない。

 口先だけの妄言だ。

 しかし彼は実行するだろうし、意地を張って下らない嘘を突き通すような類ではない。

 

 サリアが下した結論は──「誰かに唆されている」というものだった。

 

 もちろんそれの現実性はほぼない。

 人が適当に唆されてはい死にますとなるわけがない。

 最低でもロドス内に居ることが必要条件で、となれば実現は不可能だ。

 不可能であるはずだ。

 

 彼を縛るものは呪いのようだった。

 だがその呪いをかけた術者が見当たらない。

 まるで冥府から死人が手招きしているかのような状況だ。

 サリアはそこに薄気味悪さ──ではなく、強い憤りを感じていた。

 

 とは言え、それを表に出すことはしない。

 何故ならそれは彼のプライベートを無遠慮に侵犯する行為だからだ。

 以前シーを殺そうとしていた場面に立ち会ったことがあるサリアは、何に気をつけるべきか大凡把握できていた。

 少なくとも手遅れになる危険性が低いうちは胸の中だ。

 そう決めていた。

 

 さて、と他の話題を探す。

 数秒の思索の後、思い当たる。

 

「ところで、アビス。これは小耳に挟んだ程度の噂だから気にするものでもないのだが……」

 

「何でしょうか?」

 

「ロドスに幽閉されているレユニオンの首魁が、どうやら面会を求めているらしい」

 

「面会ですか? ……ああ、近衛局督察隊の隊長ですか?」

 

 作戦行動中に少しは事情を知った。

 面会を求めるとするならばあの人だろう。

 

 そんなアビスの推察は、しかし間違っていた。

 

「いいや、お前だ」

 

「……マジですか?」

 

 サリアは答えない。

 答えるまでもない問いだからだ。

 

「確度は高いのでしょうか?」

 

「言っただろう、噂程度だ。心当たりがないのなら杞憂に終わる程度のな」

 

 心当たり。

 

 

──レユニオンに入らないか?

 

 

 とてもあった。

 すごくあった。

 

 堪らず頭を抱える。

 サリアは本当だったようだと心中で呟きながらコーヒーを口に含んだ。

 

 

 面倒ごとの予感が胸を埋め尽くした。

 アビスは突っ伏して、ため息をついた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七十七 コンフリクト

 

 

 

 

 

 

 放った空き缶がゴミ箱にストンと入る。

 

 療養庭園に備え付けられたベンチに座って、私は一つ伸びをした。

 立てかけてあるハルバードが上手い具合に直射光を遮っている。

 

 業務の合間、清涼な空気を味わう。

 それが最近のマイブームだ。

 

 自分好みの服を着て、自分好みの音楽を聴き、自分好みの空間で過ごすことがどれだけ癒しになるのか。

 鬱陶しく粘り着いた憎悪の叫声は届かない。

 手に染み付いて離れなかった血糊が消えていく。

 心が洗われる、とはこのことだろう。

 

 だから。

 

「邪魔をするなよ、アビス。せっかくの雰囲気が台無しだ。それとも破壊行為に興奮する変態趣味でも持っているのか?」

 

「……随分な物言いだね。ただ通りがかっただけなのに」

 

「それなら私の向かいに座る必要もないだろう」

 

「嫌われたなぁ」

 

 にこにこと笑いながらそれを言うのか。

 

「気色が悪いな」

 

「ごめんごめん、新鮮なんだよ。ここ最近距離を詰められることばっかりで突き放されることがなかったんだ。どんな気の迷いかは知らないけどね」

 

 少し気がかりなことを言う。

 私から積極的に関わろうとは思えないが、中途半端に知っているというのも据わりが悪い。

 

「……不快だったか?」

 

「まさか。嫌われてて安心したくらいだよ」

 

「そっちじゃない。気持ち悪いことを言うな」

 

 そう言うと、アビスは首を傾げた。

 言葉が足りなかったか。

 

「距離を詰められて不快だったか、と。私はそれを聞いている」

 

「ああ、そういうこと」

 

「それ以外にないだろう」

 

 言い過ぎた、自分でもそう感じた。

 だがアビスはからからと笑っていた。

 本当に気持ち悪いな。

 

「不快だなんて感じなかったよ。不自然さが気持ち悪いなと思ったりはしたけど」

 

 それくらいがちょうどいい塩梅だ。

 私がこいつに近づいた時もかなり強引だった。

 とは言ってもケルシー先生にせっつかれて御膳立てされてのことだったんだが。

 この場合、強引なのはケルシー先生だろう。

 

 私が繊細などと世迷言を言うつもりはないが。

 

「それで、何が蟠っているんだ?」

 

 そう聞くと、驚いた顔になる。

 

「話を聞いてくれるんだね」

 

「いつまでも辛気臭い顔を見ていたくないからな」

 

「それもそうか」

 

 アビスが笑う。

 乾いた笑いだった。

 きっと限界が近いんだろう、とだけわかった。

 鉱石病か人間関係か、将又(はたまた)他の何かなのか──私の与り知るところではないが、それは同情を誘う笑い方だった。

 

 飲みかけの飲料水を投げて渡す。

 

「飲め。少しは気も晴れる」

 

「いいの? それじゃあ君に貰うのは二度目だね。何か返した方がいいかもしれないな」

 

「いつか私に酒でも奢ってみせろ」

 

「そんな時が来るといいね」

 

 本心から望んでいることがわかる。

 けれど、きっとそれを自分が選べないだろうことも分かっているのだろう。

 諦念がその目に浮かんでいた。

 

「……分からないんだ。分かれないんだと思う。人に近づきたいって気持ちが欠落してしまったのかもしれない」

 

「大切だと思っていても、か?」

 

「そう、大切な人。大切な人なんだ。ボクが大切だと思えた人。それなのにボクから仲を深めようと話しかけたことは、きっと両手の指で数えてしまえるくらいなんだ」

 

 どこか遠くを見ながら、話は続く。

 

「ボクには分からないんだ。好意を持っている人にだって、ボクから近付くことは珍しいなんてものじゃない。以前はそれに何かしらの理由を付けて正当化していたけど、今のボクにとってそれは誤魔化しようのない違和感なんだ」

 

「つまり、なんだ?」

 

「ボクはどこかおかしいんだ。ボクすら分からないどこかに、ボクが許容した覚えのない意図が絡まっているように思えて仕方がない。まるで呪いのようにボクの行動を遮っているみたいに感じるんだ」

 

「それがなければケルシー先生にもっと近づいている、と?」

 

「──なんでここでケルシー先生が出てくるんだよ! 言っただろう、ボクはあの人のことが嫌いだ! 何もなくたって離れてる!」

 

「そうか」

 

 余計なことを聞くんじゃなかったな。

 神経を逆撫でするだけだった。

 

「第一、あの人は本当に何を考えているのか分からないんだ! 大切だとか、それ以前の問題だよ!」

 

 やけに噛みついてくる。

 もしかすれば、もしかすると。

 

「それなら、あの懐中時計を大切にしている理由を教えてもらいたいものだが」

 

「なっ、なんで知って……」

 

「さあな」

 

 正直ずっと気になっていた部分だ。

 口では嫌いだ嫌いだと喚いているが、本当のところどうなのか見えてこない。

 少なくとも根っこから嫌いなわけではないのだろうが。

 

「そりゃ、ボクにとって……いや、その……」

 

 趣味が悪いように思われるだろうが、外から眺める他人の色々は中々退屈しないな。

 

「……ケルシー先生は、ボクがこの世で一番大切な人を亡くしてから、優しくしてくれた二番目の人なんだ。色々気を遣ってもらって、世話してもらって、ロドスに置いてもらって……本当は嫌いたくないんだ」

 

 なるほど、それで?

 

「だけどケルシー先生はボクの一番大事なものを否定してる。いや、否定じゃないのかもしれない。でもそれはボクにとってどうしても受け入れられないことなんだ」

 

「つまり、本当は好きだが素直になれない理由がある、と」

 

「要約しすぎだって!」

 

「間違ったことを言ったか?」

 

「それは……けど……」

 

 アビスが口篭る。

 ようやく素直になったか。

 

「結局、どうなりたいんだ。きっとお前はもうケルシー先生を説得しようと考えてはいないんだろう?」

 

「どうなりたいって、それは」

 

「『死にたい』はなしだ」

 

 何も言えなくなったところを見ると、私に対してそう言おうとしていたってことか。

 気分が悪い。

 

「もしそんなふざけたことを言おうものなら、お前の血を一滴残らず凍らせてやろう」

 

「……あはは」

 

「足先から少しずつ、壊死したそばから切り落としてやる」

 

「あの、謝るから武器は置いてくれない? いや本当に、今のボクって割と脆いらしいから──うわっ!? 今掠った! 掠ったよ!?」

 

「チッ」

 

 とは言え半分以上ノリだが。

 私がもし本気で言うとしたら、それはアビスが本気で死にたいと私に言った時だろう。

 その時が来たら、ケルシー先生と二人でパーティーだな。

 楽に死ねると思うなよ。

 

「ああ、でも本当に……君と話せてよかった。ボクが君との約束を果たせたら、その時はよろしくね」

 

「約束? 何のことだ?」

 

「……ボクのことを嫌いじゃなくなってくれたら、その時はよろしく」

 

「ああ、そうだな。その日が来ることを祈っておこう」

 

 満足そうな顔をして、彼が席を立った。

 消えゆくその背はここに来た時よりずっとしっかりしているように見えた。

 

 

 残された私は伏せていた端末を裏返す。

 通話中の三文字が浮かんでいる。

 

『アビスは行ったか』

 

 少し驚いた。

 多忙なケルシー先生のことだから、咄嗟にかけた電話はダメ元で、きっと繋がっていないと思っていた。

 それほどまでにアビスを優先しているということだろうか。

 

『本当は好き、か。成果が出てくれて何よりだ』

 

 自嘲するような声色。

 それがどうしてなのか、私には分からない。

 

『フロストリーフ。私は君が羨ましい』

 

 本当に孤独なのはケルシー先生じゃないのか?

 ふとそんな問いが心中に浮かぶ。

 最近ドクターとケルシー先生の仲が悪いという噂が高頻度で広がっている。

 真偽はどうあれ、火のないところに煙は立たない。

 何かしら問題が起きているのだろう。

 

『失言だったな。……これでも私は忙しい。それではな。感謝している』

 

 プツ、と切れて何も聞こえなくなった。

 

 アビスのことを少し考える。

 私に対して悪意を求める彼の姿はどうにも歪だった。

 あまり人の機微に聡くもないのだが、敢えて言うなら、背中を押してもらいたいとでも思っているように感じた。

 躊躇いに引き戻されているのか──いや、推測に過ぎないか。

 

 顔見知りに死なれるのは後味が悪い。

 多少は私も考えてみようか。

 

 考えることをやめた人間が何かを為せるほど、この世界は甘くも何ともないのだからな。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七十八 渡る世間で鬼ごっこ

 
ちょっと長いです。
 


 

 

 

 

 

 

「おいアビス! 早くこいつを何とかしろ!」

 

「逃げないでよ、クソフィディア」

 

「今度のデートのことなんだけど」

 

 アビスは考える。

 どうしてこんなことになっているのか、と。

 

 エイプリルはまだわかる。

 約束していたことが残ってるからだ。

 ライサの前でそれを言い、更に「デート」と最悪の言葉遣いを恐らく意識的に行なっている部分に関しては悲鳴をあげたいところだが、それは無理というものだ。

 

 次にナイン。

 まあ、分からなくはない。

 ライサに追いかけ回され、唯一頼ることができる相手に縋ったのは正しい判断だろう。

 物理的にも縋り付いていることに関してはやめてくれと強く願ってしまうものだが。

 

 最後にライサ。

 なんなんだ、お前は。

 どうしてナインに殺気を向けているんだ。

 女の子が目を血走らせるものじゃない。

 

 そんな風の感慨がアビスの胸に浮かんでは消えていった。

 

「ねえ、アビス。また新しい女連れてどうするつもり?」

 

「ナインはまだ女の子だよ」

 

「……こいつ、アビスのことでマウント取ってきたけど」

 

「ナイン、何か言ったの?」

 

「何も言ってねえよ! 精々が昨日お前と話したってことぐらいだ」

 

「私は昨日話してないんだっての!」

 

「知らねえよ!!?」

 

「行きたいカフェもあるし、でもこっちの方が店舗数自体は少ないんだよね〜。アビスはどう思う?」

 

「後で付き合うから、今はやめてほしい」

 

「ふふん。やだ」

 

「ねえ、距離近くなってるよね。二人で外にも行ってたしさぁ! いつのまにか、けっ、結婚してたら……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」

 

 見ているだけなら面白い挙動なのだが、当事者であるアビスからすれば爆弾が跳ね回っているように思えて仕方なかった。

 

「ボクは結婚なんてしないよ。こんな中途半端が過ぎる状況じゃ出来るわけない」

 

「それは分かってるけど……」

 

 不満そうに頬を膨らませて睨む。

 ナインはアビスに隠れながら鼻を鳴らした。

 

「リラ姉に敵うもんかよ。馬鹿にしやがって」

 

「レユニオンは殺していいんだよね」

 

「ラユーシャ、止まろうか。ナインも要らないこと言わないで」

 

 抗議の声を上げる両者をアーツで穏便に黙らせつつ、アビスはため息をひとつ。

 本当ならこれからのことについて考えるつもりだったのだが、どうやらそんな余裕はないようだ。

 ケルシーが予定にねじ込んだ健康診断や買い物の付き添い(エイプリルとのデート)、龍門出張用に買い込んだ糧食が尽きれば購買部にも顔を出さなければならない。

 

 憂鬱に脳を支配される。

 エイプリルとのあれこれはまだ息抜きとして扱えるが、他の二つは無理だ。

 ケルシーは何を考えているのか分からないし、クロージャはドクター救出作戦の前に怒らせたことがあるため敷居が高い。

 

 クロージャに効果的なアイテムは何だろうか。

 アビスは知らない。

 全くクロージャに興味を持っていなかったアビスは、炭酸水を好んでいるなどの情報が致命的に欠けている。

 精々が、知ったかで相手のことを語れば冷たく怒るといった情報だが、それはどのような相手にも言えることだ。

 

 結局のところ、対策は浮かばない。

 

「チッ。面白そうな引きこもりに会えるかと思ったのによ、ストーカーだけじゃねえか」

 

「一応は、ストーカーじゃないよ。もう盗聴器もGPSも忍ばせてないし」

 

「よく通報してねえな」

 

「あは、ははは」

 

 アビス以外の全員が忘れがちだが、ライサはテロリズムのトラウマからアビスに依存しているだけなのだ。

 ケルシーが聞けば数秒ほど首を傾げて「そんなことも言ったな」と答えること間違いなし、信憑性は約0%の情報だが、アビスは決してそれを忘れない。

 

 

 そう、ただの依存なのだ。

 

 朝起きたらベッドに潜り込んでいること。

 他のオペレーターと仲良くしていたり、療養庭園に足を向けると途端に不機嫌になること。

 リラに激しく敵愾心を燃やし、比較されることに強い抵抗を示すこと。

 

 それらはただの依存によるものだ。

 

 馬鹿じゃないのか?

 

 アビスは馬鹿だった。

 鈍感ではなく、ただ恋というものを知らないのだ。

 大切な人を想う愛しか知らない彼からしてみれば、不定形な恋などというものは到底理解できるものでない。

 ロドスによる教育を受けていた頃、テストは毎回ズタボロだったが、その中でも特に酷かったのは国語や理科だ。

 

 読解や要約などは、難こそあれど可能だった。

 ただ、推察や考察に関しては致命的なまでにヘタクソ。

 それはもう、同じ文章や実験結果を読んでいるのかわからないほど壊滅的だった。

 

 アビスは頭が悪い。

 共感性が低く、幼稚で、間違いを犯す。

 唯一誇れるものは運だろう。

 

 本来ならどこかで躓いて転げ落ちていたものが、今の今まで命を繋ぎ、幸福ではないが不幸でもない人生を送っている。

 善意のヴェールを被った悪意も、ヴェールを取らなければ善意のままだ。

 

 彼の柱は折れていない。

 まだ、折れていない。

 

 

 注意がアビスに向いた時を狙って、ライサはナインを引き剥がそうと組み付いた。

 

「な、にすんだよこの発情ウサギ……ッ!」

 

「うるさいクソガキ」

 

「はっ倒すぞ」

 

「……ナイン、しがみつくならもっとちゃんとそうして。さっきから指が食い込んでお腹がすごく痛い」

 

 スラムに居たアスランもそうだったが、どうしてこうウィークポイントばかり刺激するのか。

 ぐるぐると吐き気が渦を巻く。

 

「しがみつけったって、ウサギが邪魔すんだよ!」

 

「……ラユーシャ」

 

「絶対ヤダ」

 

 背後から聞こえる声には固い意志が乗っている。

 我慢するしかないのだろう。

 もはや言及はしまい。

 

「ねえ、アビス」

 

「今は口を閉じていて欲しい」

 

「コーヒーおかわり」

 

「……」

 

 アビスは顔を顰めた。

 嫌々空のコップを受け取ると、インスタントのコーヒーを淹れ始めた。

 

 それはかなり長い間この部屋で放置されていたものだ。

 まだコーヒーを飲んでも怒られなかった時期に格好つけて買って、そのまま。

 こうして自室にまで押しかけてくる人も居なかったので、ほぼ未開封の状態だった。

 

 別にコーヒーが嫌いなわけではない。

 ただ、用意する手間やケルシーに怒られる可能性を考えると激しく面倒なのだ。

 白湯程度ならコップは割と使い回せるが、コーヒーは一々洗わなければいけないのも辛い。

 

 後ろに引っ付いてギャーギャー喚く二人が邪魔で仕方ない。

 一応エイプリルは客人なので従ったが、正直もうこの場から逃げ出したかった。

 

 

 アビスにとってのエイプリルはずっと変わらない。

 

 縁があっただけの狙撃オペレーター。

 

 主に一人で任務に赴くアビスであったが、ドクター救出作戦のように誰かと組んだこともそれなりにある。

 顔見知りやそれ未満。

 ペッローや白髪ならば少しの間くらいは覚えているだろうが、ただの凡百なオペレーターには興味などカケラもない。

 

 そんな中で交流が続いたということは縁があったのだろう。

 彼はそう認識している。

 

 実際その見方は間違っていない。

 「縁」の有無を言うならば間違いなく有だった。

 しかし今のような関係になる要因が縁だけなのかと問われれば、それは否である。

 

 彼女は特別な存在となっているが、それは立場に対するラベルではない。

 特別な立ち位置に立っているから特別なのではない。

 特別な何かを感じているから特別なのだ。

 

 

「そういえば、一つ聞きたいんだけど」

 

「……まだ何かあるの?」

 

「ラーヤちゃんはコードネーム決まったのかなって」

 

「……」

 

「付けてって言われたんでしょ?」

 

 アビスは押し黙った。

 いつでもいいと言って本名で仮登録をしてくれているのだが、そろそろ決めなければとずっと思っていたのだ。

 

 案はある。

 どうかしている案が。

 

「トラッカー」

 

「……トラッカーって、あのTracker(追跡者)?」

 

「それしか浮かばなくて。流石にダメだと思うんだけど、これ以上のものが見つからなくってさ」

 

「この上ないくらいハマってるけど、コードネームがそれはね〜。せっかくだしもっとお洒落な名前にしようよ!」

 

 二人は頭を捻った。

 ぐいぐいと力を込めてナインを引き剥がそうとしている当人のことは努めて視界に入れないまま考えた。

 

 やがて、エイプリルが一つ提案する。

 

「デフラグレート、なんてどうかな」

 

「何ですかそれ?」

 

爆燃(Deflagrate)。燃え上がるって表現すら追いつかないくらいに強く恋してるラーヤちゃんには似合うと思わない?」

 

 爆燃。

 燃焼、爆燃、爆発、爆轟と続く中での一つ。

 つまり燃焼の一つ上だ。

 

「それに、アーツもそれ関係だったでしょ?」

 

「小難しくてよく覚えてない」

 

「ラーヤちゃんに今度教えて貰えば?」

 

「進んで勉強なんかするつもりはないよ。ボクにそこまで関係もないし──うぐっ!?」

 

 突然腹の負荷が大きくなり、激痛に思わず声をあげる。

 振り返ればライサがぶすっとした顔でそっぽを向いた。

 

 仕方ない。

 もう仕方がない。

 アビスはナインに組み付くラユーシャの肩を掴んだ。

 

「ナイン、どいて」

 

「言われるまでもねえよ」

 

 ナインはフィディア──蛇のような尻尾を持つ種族──らしくするりとライサの手から抜けていく。

 

「……怒ってる?」

 

「怒ってるかもしれないね」

 

「あの、えっと、ごめんなさい」

 

 謝ってもアビスの目はそのままだ。

 

 ライサは怖くなった。

 今日の行動は度が過ぎていたかもしれない、と少しだけ思う。

 第三者のナインを目に見える形で巻き込んだことやアビスを傷つけたこと、それらは今まで踏み越えてこなかったボーダーラインだからだ。

 いつも大抵のことは許してくれるアビスだが、今日ばかりはどうか。

 そんな不安が胸を埋めた。

 

「言いたいことは分かる?」

 

 言いたいこと。

 焦っているせいで頭の周りは悪かったかもしれないが、大筋は捉えているはずだ。

 であれば、言うべき言葉は一つ。

 

「うん、分かってる。もうやらない」

 

「そっか」

 

 アビスは小さく頷いた。

 そしてそのままライサを抱き寄せる。

 

 ライサを、抱き寄せた。

 

「んんッ!?!!?」

 

「ボクもごめん。不安になったからあんなことしたんだよね。不安にさせなければいいだけのことだったんだよね」

 

 顔どころか体中が熱くなって、縮こまる。

 目を開けているとすぐ上にアビスの顔があって、鼻からはクチナシに似たアビスの匂いが香ってきて、口は意味のある音を出せなくなっていた。

 

 一方アビスは内心で首を傾げていた。

 依存感情があったので、ナインに取られるかもしれないと考えたのだろうとアビスは推測していた。

 故にいつも求めてくるスキンシップを多少行って、落ち着くための言葉をかけたはずだ。

 どうして震えるだけで何も言わず、何の反応も寄越さないのだろうか。

 瞬きすらしないライサは正直に言って怖かった。

 

「大丈夫だよ、ラユーシャ。ボクは君を忘れないから。それに、大切な人だって言ったよね。ボクのことを信じてくれないのかな?」

 

「そ、そんなことないッ!!!」

 

 思っていたより力強い言葉が返ってきた。

 

「ラユーシャ。ボクも君のことを信じるよ。もうしないんだよね?」

 

「絶対しない、絶対に。好きです」

 

「うん」

 

 なにか変なものがついてきたが、どうやら納得してくれたようだった。

 よかったよかった。

 

 アビスはそろそろ意識が飛びそうなライサをべりべりと剥がし、一つ息を吐いた。

 

 

 

 

 そんな彼ら二人を見ているコータスとフィディア。

 ナインは無感動に、エイプリルは呆れた様子でコーヒーを一飲みした。

 

「アビスって元からあんな感じなの?」

 

「まあな。オレは嫌いじゃない」

 

「……あたしだって別に嫌いって言いたくていったわけじゃないけど」

 

 エイプリルの物言いに眉を顰める。

 

「なんで怒ってんだ?」

 

「へっ? 怒ってなんかないよ?」

 

「あー……そうかよ。悪かったな」

 

 そう言えばそんな風だった。

 ナインは一人納得して辟易とする。

 

 

 この四人の状況を最もよく理解しているのは恐らくナインだろう。

 ライサのように充実した教育を受けたわけでもないが、持ち前の優れた共感性と客観性、そして小隊を率いていた中で密かに培われた恋愛脳(あの子のこと好きなんじゃね?)が作用し限りなく正解に近い答えを叩き出していた。

 

 ナインと遜色ない観察力をライサは持っていたはずなのだが、一体どこで差がついたのか。

 古諺では「恋は盲目」とも言うが、その言葉を作った劇作家もまさかここまで体現されるとは思ってもみなかっただろう。

 

 

「ナインと仲良くね」

 

「どうしても?」

 

「どうしても。ナイン、こっち来て」

 

 おいでと手をこまねかれても、その奥には微動だにせず闇のような瞳をこちらに向けてくる首狩兎(ヴォーパルバニー)が居る。

 害意や敵意は鳴りを潜めたが、その結果何も残らなかったらしい。

 虚無がこちらを見つめている。

 

 たとえ歴戦のテロリストと言えども嫌なものは嫌だった。

 

「……オレの意思も汲んでくれ」

 

「案外悪くないかもしれないよ? ラユーシャにはもう他の友人だって居るしさ」

 

「まずオレはお前の家族だ。それがストーキングされてんだ、少しは思うところだってある。次に、そこの(コータス)がオレに向ける興味は道端の蟻と同レベルだ。どうやって仲良くなんか──」

 

「いいからいいから。いつのまにそんな理屈っぽくなったんだよ、ナイン。昔は毛布よりもボクやリラの体温ばっかり欲しがってたくせに」

 

「それはお前の尻尾がちょうどいい暖になってたからって以上の理由はねえよ! 第一、昔と今は違う!」

 

 反論するナイン。

 ライサの目からどんどん生物の暖かみが消えている事実に気付いていれば、その発言がもう少し迂遠なものになっていただろう。

 

「……昔と今は違う、ね。ナインは割り切れてるの?」

 

「答えんのも馬鹿らしいな」

 

「そっか。やっぱり変わってないじゃないか」

 

 小さく安堵を見せながらナインの頭を撫でる。

 口を尖らせながらも抵抗しないあたり、随分と気を許してもらえたものだとアビスは思う。

 

 そして、背後から感じるとにかく大きな感情をどう処理しようか、と思案する。

 残念ながら効果的な方法は見当たらなかった。

 

「カゾクってなんだっけ。昔の思い出でからかったり、頭を撫でたり、望み通りの返答に嬉しくなるものだったっけ。それさぁ、家族は家族でも、夫婦じゃないの?」

 

 大切な人、と呼ばれたライサ。

 色々あったが少しは充足感に包まれていた中で、突然生えてきたのはずっと前から親愛の情を受けているフィディア。

 

 まだ刺していないことがライサの成長を如実に表しているだろう。尤も、この様子では時間の問題だろうが。

 

「ナイン」

 

「オレにどうしろってんだよ」

 

 まだ何も言っていないのに断られた。

 それも仕方のないことだ、ラスボス並みのプレッシャーを纏うライサを前にすれば。

 

「エイプリル」

 

「散々放っておいてピンチの時だけ頼りにするって、ズルじゃない?」

 

「お願いだから」

 

「……じゃあ、あたしのお願いもあとで聞いてくれるってことでいい? アビスの厄介なお願いを聞くんだから、大抵のことは許してくれるよね?」

 

 アビスは否応無しに頷いた。

 エイプリルは満足そうな顔で椅子から立ち上がる。

 

「ねえ、ラーヤちゃん。ちょっとだけ耳貸して?」

 

「……」

 

「そんなに睨まないでよ。ね、ちょっとだけだから」

 

 何か秘策でもあるのだろうか?

 そう思って見ていると、渋々といった様子でライサが耳を傾けて──何かを囁かれた直後、顔を真っ赤にしてぐりんとエイプリルの方に顔を向けた。

 続いて、わなわなと震え始め……部屋の外へ駆け出して行った。

 

「おいエイプリル、何言ったんだよ、今の……」

 

「あたしがアビスに取り付けたお願いをラーヤちゃんの希望に沿って言ってあげるから、この場は逃げて、って言ったの。……それでさ、アビス」

 

「なんとかしてくれてありがとう。それで、なに?」

 

「お願いを利用してどうにかしたけど、まさかその一回がカウントされるなんてことはないよね? あたしはあたしで、お願い聞いてくれるよね?」

 

 アビスは少し咀嚼した後、意図を解した。

 

「……ああ、うん。あくまでお願いを融通したのは方便ってことね。畢竟ボクはラユーシャとエイプリル、二人のお願いを聞けばいい……あってる?」

 

「あってる! それじゃ、あたしからのお願いは今日の夜にでも聞いてもらおうかな」

 

 随分と早い。

 普通こういったお願い事は貸しとして温めておくものではないのだろうか?

 ナインはそうやって威厳ある上司──実際どう思われていたかは置いておくとして──の振る舞いを作り上げたのだが。

 

 いつかヤンを含め亡灵(アンデッド)小隊の隊員らにその貸しを取り立てに行くとしよう。

 ついでに近況でも聞いて、苦しいようだったらロドスに受け入れてもらえるよう打診するか。

 それがいい。

 

 アビスについていった結果行き当たった面倒ごとから逃避するように、ナインは部下のことを考える。

 

 

 逃げてばかりだ。

 

 

 愛する人を失った現実から。

 暴力と混沌が生み出した恐怖から。

 裏を隠していた会社から。

 

 そして──未だこの身に燻る憎悪から。

 

 

 

 

 

 感染者の未来は暗い。

 

 

 自身の輪郭さえ朧にしてしまう闇の中、重圧だけがその身に感じられる灯火なのだろうか。

 

 

 それとも、やはり。

 

 

 アビスの選択は間違っていない、ということなのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 どこかの研究室でフェリーンの女が一人、深く重いため息をついていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七十九 俺と私と、ボクとあたし。

 

 

 

 

 

 

 一杯食わされた。

 頭の中身がそれで一杯になってからしばらくの間、私はかつてない虚脱感に襲われていた。

 ケルシーがそれなり以上のやり手だと認識していなかった──というよりは、見積もっていたよりずっと早く吹っ切れた行動を仕掛けてきたことが要因か。

 

 さて。

 

 終わったことは仕方がない。

 ケルシーの転換に合わせて今は柔軟に対応していくべきだろう。

 それに、私とケルシーの空気感が伝播しつつある。

 まだ対立にこそ至ってはいないがそれを察知するオペレーターは必ず存在する。

 それまでにケリを付けなければ。

 

「ってことで、アビスを呼んだんだけど」

 

「何も言っていないのに『ってことで』なんて接続はおかしくないですか……?」

 

「心の耳で聞けよ」

 

「面倒だからって適当言わないでください」

 

「最近尻に敷かれつつあるくせに」

 

「ああ、死にたいってご相談でしたか」

 

「やめて!? 本当のことじゃん!」

 

 執務室に呼ばれた緊張はこのくらいで解すことができたか?

 それなら他愛のない話はこれぐらいにして……

 

 待て、どうして私に関節技をかけて──

 

「あっ、あーっ! 腕が! 腕がちぎれる!」

 

 締め上げられている右腕が尋常ではないほどに痛む。

 解剖学にそれなりの知識がある私にはわかる、これは痛痒を与えるためだけに特化した技だ。

 

 ほとんど本気の叫び声をあげながら懇願すると、アビスはようやく解放してくれた。

 尻に敷かれる、はNGか。

 彼女たちとの関係は満更でもないのだろうが、揶揄われることとはまた別か。

 

「さて、それじゃあそろそろ本題に入ろうか。聞く準備は出来ているかな?」

 

 アビスが不機嫌そうに頷く。

 

「君には二つの選択肢がある。とても簡単な二者択一だ。それこそ答えを求めることが侮辱的であるほどに、ね」

 

「それなら帰らせていただきます、と言いたいところですが。それにもかかわらず聞いているのであれば恐らく重要な事柄なのでしょう。さっさと聞かせてください」

 

「ああ、そうだね。単刀直入に聞くとしようか」

 

 覚悟なら既に出来上がっている。

 アビスに限って言えば今がルビコン川のほとりなのだろうが、大局を見れば、とっくにそれは越えているのだ。

 

「未来と過去、どちらを大切にしたい?」

 

 アビスが小さく息を呑む。

 それもそのはずだ、私はアビスとナインを合わせる協力こそしたが、()()()()()()()()()()()()()

 アビスは恐らくケルシーに伝えられたのだと思うだろう。

 本当は訓練室爆破事件の後Wに教えてもらったのだが、アビスはWについての理解が浅すぎる。

 

 ケルシーの株を下げられるのならば下げておくべきだ。

 ただでさえしてやられたのだから、これくらいがフェアだろう。

 

「未来を手に取りたいのであればケルシーを、過去を大切にしたいのであれば俺を頼るといい。断っておくが、俺はただアビスの意思を尊重したいだけで、前者を選んでも問題はない。その場合ケルシーに睨まれて俺は何も出来ないだろうけどな」

 

「……ドクターは、どこまで?」

 

「それは言えない、きっと彼女は名前を出されると困るだろうから。ただ、アビスを慮ったからこそのことだってことは理解してほしい」

 

 嘘ではない。

 Wは自身がバラしたと知られることを嫌がるだろうし、捻くれた物言いでコーティングしていたが、アビスの助けになろうと動いていた。

 この言葉に嘘はない。

 誤解を招いてはいるがそれに何の意味があるだろうか?

 恐らくはアビスがケルシーに問い糺すこともないのだし、そして何より──私がアビスを頷かせればいいだけのことだ。

 

 そういえば最近Wを見ていないが、ケルシーが任務を口実にロドスから追い出したのだろうか。

 アビスのことでかなり手広く動いていたから目についたのだろう。

 大方アビスのことで不安定になっている隙を突いたつもりだったのだろうが……運が悪かったな。

 

 脇道に逸れた。

 今はアビスの話だ。

 

「返事は……」

 

「時間がかかるのであればいくらでも待つさ。ただ、悩む必要があるのか? 俺の目にはとてもそうは見えないけどな」

 

「それは、いや、それを、ドクターが……?」

 

 いつもの仮面で覆い隠しても胡散臭い違和感が残る。

 それならば、と私は限りなく「私」に近い意見を言わせてもらった。

 この程度ならば「俺」の一面として処理してくれることだろう。

 

「俺が言ったらダメなのか?」

 

「いえ、ただ驚いただけですよ。ドクターが自分の意思を──自分だけの意思を示すのは珍しいですから。正直チキンだと思ってました」

 

 

 へえ、と感心した。

 私が思っていたよりもずっと、アビスは周囲に気を配っているようだ。

 仮面の意図をそこまで的確に言ってのけたのはアビスが初めてだな。

 

 少しだけむず痒い。

 

 

「おっ? 喧嘩か? 売るのはいいけど責任持てよ? 俺が一時間休んだらロドスには何百万もの損害が発生するぞ?」

 

「残業すればいい話ですね」

 

「やめてください死んでしまいます」

 

「大丈夫、人はそう簡単に死にませんよ」

 

 

 「俺」が仮面であることを知られるのは私にとって一番怖いことだった。

 

 ケルシーやアーミヤは知っているが、その意味や意図までをも正確に理解しているとは言いがたい。

 

 「俺」を使って信頼を築いたオペレーターに本当の私が露呈することは、ケルシーがにこにこ笑っているのを見た時と同程度の恐怖を私に与えるだろう。

 

 だがアビスだけはその限りじゃない。

 この男はたとえ私がシリアルキラーだったとしても、ケルシーに報告して終わりだ。

 「俺」に対して一切の興味を持っていない、それがアビスだった。

 

 

 だから私は少しだけ、見せてしまった。

 

 

 

「──過去は大事にするものだよ、アビス」

 

 

 

 飄々とした仮面がズレて四角四面な私が露になる。

 

 この言葉にだけは私の本当の感情を込めて、アビスがそれを受け取ってくれるのならばそれ以上のことはないと思えた。

 

 目的のための「俺」と。

 

 誰にも見せられない「私」という本質。

 

 がらりと雰囲気が変わっていると思う。

 何気ない動作からでさえ仮面との差異が零れ落ちているだろう。

 

 

 しかし、それも一瞬。

 私は「俺」の皮をかぶる。

 私が顔を出しているのは、後から思い返した時には勘違いだったのだと思うような、そんな数瞬の出来事。

 

 今は仄めかすくらいがちょうどいい。

 アビスを理想の状態まで持っていくことと、その向こうに見据えた目的まで見据えれば、今はこれくらいでいいんだ。

 

 

「今日はこれくらいにしておこうか。アビスにはどうやら考える時間が必要だったみたいだからな。悩めるだけ悩んでくれ、俺はそれを尊重するよ」

 

「……分かりました。とてもよく、理解しました。また暇そうな時にでも訪れることにしますよ」

 

「ああ、それがいいさ」

 

 アビスが過去を──私の手を取ってくれると信じている。

 何故なら、過去はとても大切なものだから。

 たとえ未来を向いたとして、人を形作っているのはやはり過去の蓄積なのだから。

 

 

 その過去は、私が取り落とした、私が失ってしまった、とても大事なものだったのだから。

 

 

 

 アビスはきっと大事にしてくれると信じているよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 プルルルルル、と小さく鳴る。

 発生源はアビスの手にある携帯端末。

 

 しばらく経って音が止まり、通話中の三文字が現れる。

 通話の先にいるのは──エイプリルだ。

 

『はーい、あたしだけど』

 

「あぁ、良かった。今は任務中?」

 

『ううん、約束してた夜に向けて準備中』

 

 ガチャガチャとガラスを擦るような音、何かを閉じたような音が向こうから聞こえてくる。

 エイプリルの声は弾んでいて、楽しみにしていたらしいことがよくわかった。

 

 それだけに心苦しく思う。

 

「そっか。参ったな……」

 

『どうかしたの? 検査でも入っちゃったとか?』

 

「いや、そうじゃないよ。予定は空いてる」

 

 もしこれがロドスから下された指令や任務であったのなら、ここまで躊躇うこともなかっただろう。

 

「あのさ」

 

『うん』

 

「……明日でもいい?」

 

 少しの沈黙。

 重苦しい空気。

 それを破ったのは、その空気を吹き飛ばすように明るい声だった。

 

『いいよ、明日でも。別に今日じゃなきゃいけないことでもないからね。予定ズラせばいいだけだし』

 

「ありがとう。良かったよ、頷いてくれて」

 

『いいよいいよ、これくらい』

 

 小さく笑うエイプリル。

 なんだ、こんなに簡単なことだったのかとアビスは思う。

 

「それじゃあ、そろそろ」

 

『まだ理由聞いてないよ?』

 

「…………」

 

『まだ理由言ってないよね?』

 

「…………個人的な、その、やらなきゃいけないことがありまして」

 

 全然逃げられていなかった。

 いや、なんとなくこうなる気はしていた。

 エイプリルが大人しく頷いているだけで済むはずがないと分かっていた。

 

 だとしてもいざ目の当たりにすれば、覚悟などなんと脆いものかと思わずにはいられない。

 

『敬語になってるよ。誤魔化すつもりなの?』

 

「誤魔化すなんて、そんなことない、とは言い切れないけど……」

 

 エイプリルの声に怒りだけじゃなく悲しさが乗っていることをアビスは分かれてしまった。

 理屈には疎いが、慣れ親しんだ感情にだけは強力なセンサーを持つアビスだ。

 喉に言葉がつっかかる。

 

 けれど、それでも優先すべきことがある。

 

「詳細は言えない。けど、やることができたんだ」

 

『どうしても?』

 

「うん。どうしても」

 

『そっか』

 

 それでも優先すべきことがある、はず。

 緊急性があるわけじゃないけど、一刻も早くどうにかしないといけない。

 ナインのこととか、ボクも色々と迷惑をかけてしまったから。

 

 けれどエイプリルの声を聞いていると、どうにも、その決心が揺らいでしまう。

 

 伝わってくる悲しみは龍門のスラムで怒られてしまった時ほどじゃない。

 だからって、蔑ろには出来ない。

 したくない。

 

 知らない人との予定だったなら別にどうでもいい。

 シーとかWならぞんざいにも扱える。

 

 事情の説明が出来れば良かったんだけど、きっとそれはあの人に不利益を招くだろうから。

 

「ごめん、今日だけなんだ」

 

『本当に何も言えないの?』

 

「申し訳ないけど……また明日にでも……」

 

『じゃあそれなら明日じゃなくていいかな? そんなことでキャンセルするような予定じゃないから。いつも暇なアビスとは違ってさ』

 

「……ごめん」

 

『…………今のは、あたしもごめん。頭冷やすね』

 

「エイプリルは悪く──」

 

『じゃあ、またかけるから』

 

 プツ、と通話が切れた。

 

 エイプリルの声は聞こえない。

 ボクの声はもう届かない。

 きっと明後日か、それくらいまでエイプリルから連絡が来ることはない。

 

 それが結果だった。

 

 力を失った手が下がる。

 分かりきっていたわけではなくとも、こうなる可能性があることくらいは分かってた。

 

 分かってた──はずなんだけどなぁ。

 

 

 少し前くらいから、エイプリルがボクを見て寂しそうにしていることは分かってた。

 どうしてそうなっていたのかは今でも分からない。

 だから考えるのもなあなあにして、それきりだった。

 

 やり場のない感情が積み重なればどうなるのか、それを知らないわけでもないのに。

 エイプリルは子供(ボク)じゃないって、そう思って放置していた。

 

 

 端末をポケットの中に入れる。

 硬質で冷たい感触が、本当にそれでいいのかとボクに問いかけているようだった。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八十 『ドクター』

 

 

 

 

 

 ノックの音が響く。

 

 ドクターは執務室のドアを見つめた。

 来客予定がなかったために、誰がそこに居るのか分からなかったからだ。

 

 今日の秘書当番はイーサンだ。

 午前中は少しは手伝ってくれたが、飯時に消えてからずっと姿が見えない。

 合図を出さない限りは常に護衛しているマンティコアとあまり相性が良くないらしく、居心地が悪そうにしていたのをドクターは見ていた。

 だから彼は帰ってこないだろう。

 

 このノックの主は恐らくイーサンではない。

 

 

 そこまで思考を展開したところでドアが開いた。

 見えたのは小柄な青年。

 

 どうして執務室を訪ねたのだろう?

 

 目的が見えない。

 どこか顔色が悪い理由も読めない。

 もう窓の外は暗い、こんな時間帯に来て何をしようと言うのか?

 アビスが話すとすればあの返事なのだろうが、明日でも良かったのでは?

 

 ドクターは首を傾げた。

 

「お疲れさまです、ドクター。進捗のほどは?」

 

「まあ、そこそこってとこだな」

 

「それなら終わるまで手伝いますよ」

 

「結構です」

 

「そう言わずに」

 

「いや本当に結構です」

 

 コイツに書類業務を手伝わせてはいけない。

 何かしら悪いことが起きる。

 多少仕事が早く終わろうとも、そのメリットと釣り合わないほどの屈辱が刻まれる。

 

 ドクターはそう認識していた。

 故の絶対拒否バリアだった。

 

「困りましたね、腰を据えて話したかったのですが」

 

「……時間を取ろうか?」

 

「いいえ。ドクターを待っています」

 

「おおぅ……そうか……」

 

 いつになくトゲが少ないアビスの様子に面食らう。

 普段よりもずっと、なんというか殊勝だった。

 

「茶でも淹れるか」

 

「ボクが淹れますよ」

 

「気分転換だ。邪魔しないでくれよ」

 

 そう言ってドクターは笑う。

 内心で、「なんでこいつこんなに真面目なの?」と盛大にハテナマークを浮かべていることは露ほども出さない。

 

「なあ、アビス」

 

「なんですか?」

 

「火急なんじゃないのか? そうじゃないなら明日でもいいんだろう?」

 

「火急と言えば火急ですね」

 

「……なんだそりゃ」

 

「不発弾の処理、とだけ言っておきましょうか」

 

 本格的に何を言っているのだろうか?

 ドクターは性能の良い頭で可能性を片っ端から列挙していくが、ほとんど全てにバツ印がついた。

 

 アビスに茶を勧めて、ドクターは業務に戻った。

 

 時折向けられる視線はどこか興味深げで、子供が顔だけ出してこちらを覗き込んでいるような、そんな様子だった。

 端的に言おう、落ち着かない。

 

 すごく落ち着かない。

 

 それでもなんとかペンを走らせる。

 抵抗があるせいでむしろいつもより早く業務は進んだ。

 歯応えがあるものの方が噛み続けられる──というのはまた別の話だが、まあそのようなものだ。

 

 さて、そうして業務が終わったわけだが。

 

「ドクター、ちょっと毎日ボクのために紅茶を淹れてくれませんか?」

 

「〝ちょっと〟で済ませられる範囲を超えてるんだよな、それな」

 

「大丈夫ですよ、すぐ死ぬので」

 

「唐突なブラックジョークに思わず微笑みが消えてしまいそうだったよ」

 

「さながら生命の灯火のごとく?」

 

「しぶとく生きろよ」

 

 急に元気を取り戻したアビス。

 どうやらドクターの紅茶がよほどお気に召したようだ。

 

「……そんなに美味しかったのか?」

 

「ええ、それはもう。ボクに許された嗜好品は飲料に限られますから、こういったものは本当にありがたいんですよ」

 

「いつもいつも前提が重いなぁ」

 

「伊達に満身創痍じゃありませんからね、ははっ」

 

「笑えねえよ」

 

「失敬、失敬。いつになくテンションが上がっているんですよ。悪いことばっかりで下がることしかないですからね。鉱石病とか」

 

 ユーモアはないが、ブラックユーモアにかけてはなかなか天才的だった。

 特に評価できるのは躊躇いなく言えてしまうところだろうか。

 

 もう少し自重しろ。

 ライサが聞けばキレるぞ。

 

「……それで?」

 

 いくら待てども出てこない本題の二文字。

 ドクターは遂に自分から切り出した。

 

「ここに来た目的を聞かせてもらおうか。紅茶くらい後でも淹れてやるさ」

 

「ふむ、随分と気が早いですね。ドクターらしくもありませんが」

 

「そうか? 多くのオペレーターが言うように、俺も速戦即決が好きなんだよ。アビスだってたまに言う……言わないか。言わないな。なんか言えよ」

 

「ボクが速戦即決したら鉱石病がどんどん体を侵食しますけど、本当にそれで良いんですね?」

 

「下手なこと言って申し訳ありませんでした!」

 

 ドクターの頭が机にぶつかって鈍い音を立てた。

 人間、大事な時で頭を下げられなくなったら終わりである、とドクターは考えていた。

 ちなみに今がその大事な時であるのかどうかは怪しいところだ。

 

「……では、そろそろ始めましょうか。ドクターのメンタルカウンセリングを」

 

「メンタルカウンセリング?」

 

「別に何もないなら良いんですけどね」

 

「アビスがやることじゃなくないか?」

 

「その通りですね。でもケルシー先生はどうせドクターのことほったらかしにしてるんでしょう? あの人、割と感情で動きますから」

 

「定期検診くらいは受けてるけどな」

 

「それだけでは足りませんよ」

 

「どうして断言できる?」

 

「ボクは感情のスペシャリストですから。ドクターも知っていますよね?」

 

「いや、知らんけど」

 

「……あれ?」

 

 ドクターがアビスについて知っていることは、ただ自分の感情を発信できるということ。

 アビスが他人の情動に鋭いのはあくまで副産物であり、知られているわけがない。

 

 そんな些細な失念は置いておくとして。

 

「それで、カウンセリングの動機は? まさかなんとなくってこともないはずだろ?」

 

「ええ、まあ。ですが、言ってもいいものかと」

 

「ちゃっちゃと言えよ」

 

 アビスは躊躇っているようだった。

 しかしその理由がドクターには分からない。

 分かっていれば、いや、きっと分かっていてももはや手遅れだったか。

 

 (なまじ)観察力に優れていたために、ドクターはアビスのアーツを想像すら出来なかったのだ。

 どこまで理解されているのかを分かれなかった。

 

 だから。

 

 

「ドクターがいつも抱えている際限のない恐怖を、取り除くべきだろうと思いまして」

 

 

 それがもし、歓喜であったのなら。

 もしくは憤怒であったのなら。

 アビスは気づくことすらなかっただろう。

 

 しかし、それは恐怖だった。

 肌を刺すような凄まじい恐怖。

 毎夜悪夢が訪れ、そして去っていくような、アビスにとっては慣れ親しんだ感情。

 

 だからこそドクターは看破された。

 

「……恐怖? 俺が、何に?」

 

「未知と死。ボクに分かったのはそれだけです」

 

「占いにでも手を出したのか?」

 

「いいえ、確信です。事実でもある。──これは答え合わせの時間なんですよ、ドクター」

 

 誤魔化すドクターに反駁し、紅茶を啜る。

 幾度となく触れた感情の名前を間違えることなどアビスにとってはありえないことだ。

 

「余りにも乖離している。アーツで探ってみれば面白いほどによく分かりましたよ。あなたの表層に表れるそれと、内心浮かべているそれとの決定的な違いに」

 

 ドクターは口を閉じた。

 

「ほんのわずかな情動を除いて、あなたの心はいつも恐怖に苛まれている。疑心に満ち溢れ、媚び諂っている。いえ、それが悪いこととは言っていません」

 

 恐れることも疑うことも、大事だろう。

 媚びることだって処世術だ。

 

「ですがあなたの心はもはや爆発寸前だ。いつ壊れてしまってもおかしくない。だからボクは来たんです」

 

 心を押しつぶすような恐怖を知っている。

 それにドクターが耐え続けていると知った時、目を疑ったほどにはありえないことだった。

 何せドクターが抱えていた恐怖は、アーツで増幅させた恐怖と遜色ないものだったのだから。

 

「……爆発寸前、か」

 

「ええ」

 

「間違っていない、いや、それこそが正解だったんだろう」

 

 ドクターは椅子に深く座り直してため息をついた。

 

「仮面を外してしまったのも、きっとそのせいだ。逃げたいって思ってしまったんだ」

 

「仮面ですか」

 

「ああ、仮面だ。誰にでも好かれるための、ただの虚像さ」

 

「……それは、俗に言う一側面なのでは?」

 

「意識的に行うこれが、か? 私からすればそんな見方は妄言に過ぎない。詐欺師が見せる優しさを本質のうちだと言っている者が何処に居る」

 

 吐き捨てるようにそう口にした。

 

「自分のことが嫌いですか?」

 

「自分のことが好きな者には上役など務まらないさ。精々が部下をこき使うクソ上司だね。『どうしてこんなこともできないのか』なんて、何もできない私にはとても言えない」

 

「そう斜に構えずとも……」

 

「腐るしかないだろう。ある日目が覚めてみればこんな世紀末だ。致死の感染病や超人的な力を持つ人々、そして用意されていた厄介事ばかりの方舟に、一切身に覚えのない過去。どれだけ面倒だと思ってる」

 

 次々と出てくる愚痴に、堪らず口を噤んだ。

 何か言及することそれ自体が危なそうだったからだ。

 元より、拾ってもらった組織に悪口を言うほど性根が曲がってはいない。

 

 ケルシーは別だ。

 

「……私は、アビスにならバレたって構わないと思ってたんだ。どうせ私に興味なんてないだろうから」

 

「ええ、まあ。全くありませんね」

 

「でも少し不安になったからな。聞かせてくれないか?」

 

「何をですか?」

 

「私のことをこうして気にかけた理由だよ」

 

 手を組み椅子に背を預ける。

 色々と吹っ切れてしまったらしい。

 

「君に利益はないはずだ。アンデッドを探し終えた君には。ケルシーに対抗するため私の力を欲しているのだとするならば、私の誘いに即答しなかった理由が分からない」

 

「理屈立てればそうなりますね」

 

「つまりだ。私をどうにかする理由なんてなかったんだよ。だから知りたいんだ、今ここにいる理由を」

 

「……ドクターは、()()だから()()なってるんですよ」

 

「指示語では分からない。簡潔に言ってくれないか」

 

 アビスはため息をついた。

 そして、何言ってんだコイツとでも言いたげに向こうを見やる。

 

 何も反応しないドクターに少し、苛立った。

 

「まずドクターはナイン探しに付き合ってくれましたね」

 

「そうだな」

 

「色々と苦労をかけましたし、ラユーシャのことでもそれなりに負担をかけていたと思います」

 

「ああ、あの子は確かに疲れたな。勘弁してもらいたいよ」

 

「まだ分かりませんか?」

 

「恩があるという話なら、以前君を殺しかけた事件の分で無しだろう」

 

「……はぁ…………」

 

「何か不満でもあるのか?」

 

 やれやれ、とアビスは首を振った。

 まさかここまでだとは。

 

「ドクター。恩とかそういうものは関係なく、ボクはこれまでよく協力してもらったりしたわけじゃないですか」

 

「ああ」

 

「ええと、まだ分かりませんか」

 

「……分からないな」

 

 うむ。アビスは頷いた。

 言うしかないだろう。

 面と向かってドクターに言うのは気恥ずかしいが、もう仕方がないことだ。

 

「ボクにとって大切な人なんですよ。それこそ心を壊してしまったら他人事で済まないくらいに、あなたはボクにとって近しい人なんです」

 

「……大切、か。確かにそれなら頷ける。ロドスは大切な居場所だろうし、私が倒れては不都合だろう」

 

「そういう立場とかないんですよ。ボクはドクターだから助けたんです、さっさとその良質な頭で理解してください」

 

「私が君にとって? 馬鹿を言うなよ、それこそ妄言だ。第一、君は知っていたんだろう」

 

 まだ言うか。

 アビスは面倒くさそうに目を細めて聞き返す。

 

「何のことですか」

 

「私が仮面を被っていることに、だよ。まさかあれだけあからさまに雰囲気が変わって、ああこういう人なんだなとは思わないだろう?」

 

「ドクター、これ以上ため息を吐かせないでください」

 

「何か間違っているのか?」

 

「全てですね」

 

 アビスは紅茶を一啜り。

 ソーサーに空のカップを置く。

 

 そして、鋭い気配をドクターに突きつける。

 

「どうでもいいんですよ、仮面とかそういうの。相手がボクを騙していたって、隠れて殺そうとしていたって正直どうでもいいです」

 

「……」

 

「ボクはドクターに倒れられたら後味が悪いから心配しているだけなんです。情はそう簡単に理性じゃ動かないんですよ」

 

「それが答えだと?」

 

「ええ。仮面があったくらいでボクに何か影響を与えようとしていたのなら、ご愁傷様です。その程度でボクを転がそうなんて、()()()()()()()()()、ドクター?」

 

「仮面があったくらい、か」

 

「ええ。興味なんてカケラもないと言ったでしょう。ボクは勝手に親しくなった気になってお節介を焼いているだけ。ただのエゴですよ、こんなものは」

 

 どうでもいい、興味がない。

 お前の中身なんて関係もない。

 

 人間関係を最初から放棄しているアビスだからこそ言える言葉だった。

 アビスだからこそ、そんな言葉でドクターを納得させてしまえた。

 

「そうかそうか……私になんて興味がないか、アビス」

 

「全く」

 

「私を好きでもないか」

 

「カケラも」

 

「私を嫌ってはいないか」

 

「これっぽっちも」

 

 どうやらドクターの目は間違っていなかった。

 アビスになら、ドクターは己を見せることができる。

 

 素気無く否定の言葉を積み重ねるアビスに、ドクターは期待した。

 その期待は、疑念を信頼が上回った故に初めて生まれたものだった。

 

 

 ドクターは全ての人から好かれようとしていた。

 全ての人から好かれることで、殺される恐怖から逃れようとしていた。

 何せ誰が相手であろうと簡単に殺されてしまえるドクターだ、全ての人から好かれなければ意味がない。

 

 だから仮面を作った。

 フランクで少し粗野な、しかし深いところで理知的な「俺」という仮面。

 誰にでも好かれるための作り上げられた虚像。

 

 しかしそれをして、恐怖から逃れられることはなかった。

 信じることさえできれば解決していたのかもしれないが、無駄に柔らかい頭が万一の可能性を考えて動きを止めてしまう。

 

 

 アーミヤに、ケルシー。

 彼女たちは過去のドクターを見ている。

 彼女たちが信頼しているのは過去の自分であって、今の自分でないことをドクターは深く理解していた。

 

 だから求めていたのだ。

 今の自分を認めてくれる存在を。

 何の気兼ねもない友人を。

 それならばきっと信じられるだろうと思って。

 信じられるのならば、きっとこの恐怖も薄まるだろうと思って。

 

 しかしそれは途轍もなく高いハードルだった。

 何故ならドクターは背後に積まれている過去の自分を超えられない。

 今の自分では、過去の自分に勝てない。

 この「私」だけを認めてくれる存在は決して見つからない。

 

 故に初めて期待することができたのは、矛盾しているようにも思える条件を突破した者だ。

 自分に興味がない者。

 過去の自分など知ろうともしない人。

 

 それは、アビスだった。

 

 

 

 聞いてもいいだろうか。

 

 

 

 ドクターの脳裏に問いが浮かぶ。

 ずっと言いたくて、誰にも言えなかった言葉。

 

 相手を信じるための第一歩。

 アビスだけになら、その弱音を吐き出せる。

 

 震える口が言葉を紡いだ。

 

 

 

「私を、殺そうと思ってはいないか」

 

 

 

 ドクターは唾を飲み込んだ。

 ごくりと喉が鳴る。

 汗が頬を伝って流れ落ちていく。

 

 アビスの返答はまたもや端的なものだった。

 

 

「いいえ」

 

 

 何の気負いもなく。

 答えることが面倒くさいとさえ思っていそうな顔をして。

 アビスは理想の返答をドクターに返した。

 

「そうか。そう、だよな」

 

「意味もなく人を殺す趣味はありません。況してやドクターを殺したいなどと思ったことはありませんよ」

 

「ああ、分かっているよ。──いや、違うな。ようやく分かることができたんだ。ようやく分かれたんだ。ようやく、君のことを信じることができたんだ」

 

「……もう、恐怖はありませんね」

 

「ああ、当然だ。本当は当たり前なんだ、目の前の相手が私を殺さないことなんて。それでも信じられなくて、疑念ばかりの毎日だったんだ」

 

「好かれるための仮面、と言っていましたが」

 

「好かれていると実感できればその疑いも晴れようかと思っていたんだ。結局は無駄だったが」

 

 晴々とした口調でドクターが言う。

 心底嬉しいといった様子で椅子から跳ねるように立ち上がり、やはりぴょんぴょんと跳ねている。

 

「しかし、君が居たんだ!」

 

 その高いテンションをそのままに、ドクターはアビスの手を取った。

 

「本当に嬉しいよアビス、私の友になってはくれないか!?」

 

「紅茶を淹れてくれるのなら、是非」

 

「それくらいならいつだって応えてやる! 夢みたいだよ、友人なんてものができるなんて! この私に友人が出来るだなんて!」

 

 本当に嬉しいのだろう、ドクターは跳ねながら繰り返した。

 そうして跳ねているうちに、ドクターは一つ、また秘密を曝け出すことになる。

 

「……えっ」

 

「何だよ、アビス! どうしたんだ!?」

 

「……い、いえ、その…………」

 

 アビスは恐る恐るドクターを指差した。

 

 それが見えていた。

 ありえないそれが見えていた。

 

「えっ、と。あぁ、これか」

 

 ドクターの声質が変わった。

 低音のそれから、高音のそれに。

 

 ドクターのフードが取れて、銀色の長髪が外に出ていた。

 手入れがされているのかどうかはともかくとして、アビスはそれを綺麗だと思った。

 

「まあ、私のことに興味なんてないだろう?」

 

「興味はなくとも、驚きそのものはあるんですよ」

 

「そうか?」

 

 ドクターは首を傾げたが、すぐになんてことはないという風に頭を振った。

 

「そんなことはどうでもいいんだ」

 

 ドクターは端整な顔を笑顔で飾る。

 それはまさに、大輪の華が咲いたように。

 

「これからよろしく頼むよ、私の友人!」

 

「……よろしく、ドクター」

 

「うん!」

 

 

 ドクターは女性だった。

 

 

 アビスは一頻り驚いた後、まあいいかと思考を放棄して紅茶を強請る。

 ドクターは嬉しそうに笑ってコップを受け取り鼻歌混じりに準備を始めた。

 

 

 どこかで誰かの後輩のコータスが、胸中を駆け巡る不吉な予感に身を震わせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大好きだよ、私の友人」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八十一 『私』

 

 

 

 

 

 

 

 ロドス本艦、執務室。

 AM 10:42。

 

「……面倒くさいな、本当に」

 

「すまないな、アビス。付き合わせてしまって」

 

 机の上にいつも通り積まれているのは変わり映えしない書類の山。

 

 アビスがこれ見よがしにため息をつくと、ドクターは太陽のような笑顔で、さも嬉しそうにそう言った。

 それを糾弾する気力もなくげんなりと顔を顰めた。

 

「今日で秘書当番三日目だよ。毎日同じ顔見て飽きないの?」

 

「唯一の友人の顔なんだ。飽きるなんてことはありえないさ」

 

 ドクターの心配をして、それから三日。

 アビスは三日連続で秘書に指名されていた。

 その中で当然のように名前呼びや料理を強請ってくるので、アビスは「放っておけば良かったな」と思う毎日だった。

 

 こんな面倒なことになるのならドクターなんて恐怖で死んでしまえば良かったんだと、半ば本気で考える。

 

 今からでも甲板から投げ捨てようか。

 本気で実行に移そうとすればやめてくれるだろうか?

 そう思ったが、そんなところが気に入られてしまったらしいので、もうどうしようもなかった。

 

「アビスが秘書だと処理能力をセーブする必要もないし殺される心配だって要らない。護衛を断った時にマンティコアが泣きそうになってたけど、まあ仕方ないな!」

 

「うわ、鬼畜外道。見損なったよ」

 

「元より私に期待もしていないんだろう?」

 

「とっても期待してるよ」

 

「嘘だな」

 

 ドクターは印鑑をアビスに投げつける。

 ノールックで受け止めてみせたアビスを口笛で囃し立てると、高速で返却されたそれに額を打たれた。

 

「自分に心底興味のない相手とする会話……やはりこれはいいものだ。不安や重圧なんてどこにもない、楽で堪らないよ」

 

「なるほど。ドクターにキョウミがアリマス」

 

「それなら業務の後も少し話そうか。嬉しいよ、私に興味を持ってもらえるなんて」

 

 ドクターがアビスの手を取る。

 即座にするりと抜けて業務に戻った。

 

 何を言っても無駄だ。

 アビスは最初の一日でそれを悟り、しかし諦め悪く抗っていた。

 ドクターはそんなアビスの様子をにこにこと眺めていたが。

 

「……ねえ、せめて仕事の手伝いはボク以外の人に頼んでもらえないかな。苦ではないけど飽きるんだよ」

 

「私にまた地獄を見せるつもりか?」

 

「だって仕方ないだろう。今朝方、大剣を持ったアビサルハンターにめちゃくちゃ威嚇されたし。ボクだって別にやりたくてやってるわけじゃないのにさ」

 

「それは申し訳ないが、目を瞑ってくれないか。私は君にとって大切な人なんだろう?」

 

「そういう意味で言ったんじゃない」

 

「えっ」

 

「……えっ?」

 

 手が止まる。

 ドクターは目を見開いている。

 

 窓から入った風が吹き抜けていって、けれど室内の雰囲気は全く変わらなかった。

 

「た、大切な人なんだろう? 私は、君にとって……」

 

 泣きそうな顔で肩を掴む。

 子供が親に縋るような様で、ドクターはみっともなく寄る辺に頼む。

 

「一旦落ち着こうか」

 

「私が居なくなったら嫌なんだろう? なあ、そう言ってくれたはずだ。私を君は害さないと、そう言ってくれていたんじゃないのか? 何が違う?」

 

 肩を掴む手に力が入る。

 いくら脆くなっているとは言えヴイーヴルであるアビスに痛痒を与えるほどではなかったが、しかし脆弱なドクターにしては驚くほどの力が篭っていた。

 

「分かった分かった、落ち着いて」

 

「その言葉に嘘はなかったから、君だけは信頼してもいいと私は思えたんだ。私の目が濁っていたのか? 本当は私を騙していたのか? 違うと言ってくれよ、なあ」

 

「面倒くさいなこの人」

 

「私が悪かったのか? ようやく拠り所が出来て、それに頼ったのはそれほどまでに悪いことだったのか?」

 

「聞かないし。ボクの言葉聞いてないし」

 

「寝る時や食事の時は離れただろう? それだけでも私の心は精一杯だったんだ、これ以上どうすればよかったんだ」

 

 ぽろぽろと目から涙が溢れ出す。

 一度居心地の良い空間を知ってしまえば、全身を刺すような恐怖などとても耐えられたものではない。

 アビスもそれは分かっている。

 

 だがそんなこと、知ったことではなかった。

 ドクターが死ねば後味が悪いのは確かだ。

 ドクターが苦しむのもまあ、片手間でどうにかなるのなら手を出すのも吝かではない。

 

 しかし、元々あった苦しみが耐えられないなどと言われても協力したくなかった。

 同情はできるが、しない。

 それは甘えだと一刀両断する。

 それがアビスのドクターに対するスタンスだった。

 

「はぁ……」

 

 吐いた深い息にドクターが身を震わせた。

 

「分かった、君は大切な人だ。ボクから首を突っ込んだことだし付き合ってあげるよ」

 

 首を突っ込んだ云々は全くの嘘であり方便だったが、それはドクターも理解していた。

 そう、ドクターはアビスが自分の()()()に折れたということを理解したのだ。

 

 ──いける。

 

 内心で高笑いしつつのしかかる。

 ドクターはアビスに流されやすい性質があることを知っている。

 それがケルシーなどの比較的情がある相手にしか発揮されないことも知っていたが、今なら自分でも行けるだろうとドクターは見積もった。

 

「目を覚まして、幼い少女の権限に私の命がかかっていることを理解してから、ずっと怖かったんだ! よくわからない女に因縁をつけられる上、龍門の上役共の辞書には友好なんて言葉がどこにもない! ふざけるなよ、私は進んでこんなところまで来たわけじゃないんだ!」

 

「ボクにどうしろと」

 

「打算塗れでいいから、いや、むしろ私が安心するために打算で結婚してくれ……」

 

「ふん」

 

「いっだぁっ!? な、何するんだ!」

 

「流石に騙されないよ」

 

「それなら、添い寝くらいは……ダメか?」

 

譲歩的要請法(ドア イン ザ フェイス)も無駄」

 

 むぅ、と頬を膨らませる。

 それでアビスが釣れるとはカケラも思っていなかったが、こういうことは雰囲気が大事なのだ。

 これを疎かにしてはいけない。

 

「はぁ、分かったさ。それにしても、勉強は嫌いなくせに心理学については多少知っているんだな」

 

「一時期お世話になっていた傭兵の人が教えてくれたんだよ。旅をする上で色々とあるだろうからって」

 

「名前は?」

 

「……それ必要?」

 

「呪いに名前は重要らしいからな」

 

「呪うなよボクの恩人を」

 

「ははは」

 

 恩人とか関係ないのである。

 アビスにドクターの事情が全く関係ないように、ドクターにもアビスの事情は関係ない。

 ドクターはただ恨めしい相手がいたから呪うだけだ。

 誰の横槍だって入れることはできない。

 

 騙すことの責任が騙した側にあるという理論に従えば、騙されなかった責任は騙されなかった側にあるはずだ。

 故にこの怒りは至極真っ当なものなのである。

 

 そんなことを考えていると、アビスがいきなり立ち上がった。

 

「さて。ボクに割り当てられた書類は全て終わった、ってことでもう帰るから」

 

「待て待て待て待て私を一人にするつもりか。昼を食堂で済ませるのも辛いんだ、それに仕事が終わったら話す予定だったろう、あ、あと秘書業務はやるべきことを終わらせたら帰るってものでもないだろう、それに……」

 

 心底困る。

 この世界には自分の姿を消すことができる人や技術がそれなりにあるのだ。

 一人で居る時間は数少ない癒しではあるのだが、それでも不安が残ることは否めない。

 それに先行きが見えない不安などは往々にして一人の時に襲いかかってくる。

 

 そんなあれこれを頭の中に並べ連ねて、けれど上手く口から出ていかなくて、更なる焦りに支配される。

 

 アビスはそれを見て、困ったように笑った。

 

「ドクター、今のはただの意趣返しだよ。そこまで焦らなくたっていい」

 

「……良かったぁ…………」

 

「まあ昼時には食堂に行ってもらうし仕事が終わってから話すこともないけど」

 

「…………」

 

「おっと。裾なんて掴ませないよ」

 

 猛ダッシュでアビスに襲いかかる。

 しかし運動不足で理性をいつも溶かしているようなドクターが身体能力でアビスに敵うはずもなく、ひらりひらりと躱されてしまう。

 

 書類などどうでもいい。

 CEOの怒りなど、いつも感じていたあの恐怖に比べれば瑣末事だ。

 捕まえたくらいで説得できるとは思えないが、だとしても第一段階には妥当なものだ。

 それが如何に難しかったとしても成し遂げなければいけない。

 

 ドクターが集中に集中を重ね、徐々に動きのキレが良くなっていく。

 アビスは小さな驚きと共に執務室を駆け回ってドクターを翻弄する。

 

 

 

 

 

「ぜはぁっ! ぐっ……はぁっ! ひはぁっ!」

 

 先に音を上げたのは──もとい、体が動かなくなったのはドクターだった。

 生活習慣、性別、種族。

 色々な理由が組み合わさって綺麗な惨敗を見せていた。

 

「うん、良い運動になったよ」

 

「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ」

 

 大の字になって寝転がったドクターにペットボトルの水を差し出す。

 訓練室の出入りが制限されていたアビスにとって、それなりに広い部屋で運動する機会は貴重だった。

 本心からの感謝と共に笑顔を向ける。

 瀕死のドクターにはそれを認識する余裕すらなかったが。

 

「……落ち着いた?」

 

「………疲れた……アビス、膝枕してくれ……」

 

「嫌だけど」

 

「それならソファに運んで、横で座っていてくれ」

 

「嫌だよ、退屈そうだし」

 

「寝ついたら帰っていい。ただ、安心して眠ってみたいんだ」

 

 泥のように纏わりつく疲労。

 鎌首を(もた)げている眠気が心地よい。

 何より、すぐ横でアビスが自分を見ているという事実がドクターを安心させてやまなかった。

 

 ひょいと担ぎ上げられる。

 

「……お姫様抱っこか」

 

「ファイヤーマンズキャリーの方がいい?」

 

「いや、私はこっちの方が好きだ。守られている感覚が強いからだろう」

 

 推論を述べるドクター。

 その真面目腐った言い方にアビスは小さく笑みをこぼした。

 

「今更だけど。ドクターのその顔でその口調って、なんか違和感あるよね。もっとかわいい口調の方がしっくり来そうだ」

 

「……私の顔はかわいいか?」

 

「リラほどじゃないけどね」

 

「魅力的か?」

 

「魅力は毛ほども感じないかな」

 

「整っていたところで魅力がなければ意味がないだろう。求めるものが靡かないようでは、な」

 

「ボクはリラ以外の人に靡かないよ。リラに似てる人が居たって、過去と重ねることがどれだけ失礼なことか知ってる。もしボクに寿命が沢山あったとしても、誰かと結婚なんてことは出来ないね」

 

「……そうでなくては、私の安心だってここにはなかった、か。君が()()だったからこそ、私は君を信じることが出来たのだから。何と面倒なことだろうか」

 

 理屈っぽい言葉の連立。

 アビスは辟易としながらドクターを下ろした。

 

 いつのまにかソファに辿り着いていたらしい。

 疲労と眠気が綯い交ぜになって夢へと駆り立てる。

 

 ドクターの手が伸びて、けれどアビスはそれをゆらりと躱した。

 その顔が小さく不安に彩られる。

 しかしそれもすぐに消えてなくなった。

 

 アビスはドクターの手を握っていた。

 ごつごつと骨ばった手が華奢なドクターの手を包む。

 

「子供みたいだね、ドクター。いつでも掻き消されてしまえる微かな命、脆弱な身体に、不安と恐怖で染められた心。本当に子供みたいだよ」

 

 そう言ったアビスの顔に嘲りの色はなかった。

 ドクターの手を握る彼の手はただただ暖かく、大きくて、まるで親のようだった。

 記憶の遥か彼方、消え去った記録の中で小さく微笑む親という存在。

 

 ドクターの胸の中で暖かい何かが増えた。

 安心とは違う、温もりを求める子供の感情。

 アビスにはもう頭が上がらないだろうな、と小さく心中で呟いた。

 

 誰か一人に寄りかかることがどれだけ愚かしいことなのか、ドクターは知っていた。

 新たに増えたその感情──依存の危険性をドクターは知っていた。

 アビスの状況を知っていて、殊更に危険な行為だという自覚がドクターにはあった。

 

 それでもやめられなかった。

 逃げたくて仕方がなかったのだ。

 一炊の夢に違いないと分かっていて、ドクターはそれを選ぶことしかできなかった。

 

「……なあ。私のことは、好きか?」

 

「全然好きじゃないね」

 

「そうか」

 

 ドクターは自嘲するように笑った。

 自分に対して何とも思っていない存在を探しておいて、次に浮かんだ欲求は何とも矛盾したものだった。

 

 好かれたい、などと。

 アビスをここまで付き合わせておいて、それを求めるのは甘すぎる。

 嫌われていない今が既に奇跡的だと言うのに。

 

「一つ、頼みがあるんだ」

 

「死に際みたいなこと言うね。聞いてあげるよ」

 

「……起きるまで私のことを守ってくれるって、嘘でもいいから言って欲しいんだ」

 

「へえ?」

 

 アビスはからかい混じりに笑った。

 

「本当に嘘でもいいんだ? 守らなくたっていいって?」

 

「……頼めるわけないだろう、私が君にそんなこと。図々しいにも程がある」

 

 目を瞑ったドクターが答える。

 今すぐにでも微睡がドクターを招こうとしていた。

 けれどそれだけでは不十分だ。

 暗闇に閉ざされた視界の中、アビスがどれだけ近くに居ようとも眠ることへの恐れが苛んでいた。

 優しい嘘をよすがにして、今日こそは。

 

 最初から小さいハードルを選んで譲らないドクターに小さく鼻を鳴らした。

 何が不機嫌にさせたのかと頭の中を巡らせようとしたが、既にドクターの思考は半分ほど埋没していた。

 故に期待を抱くこともなかった。

 あるのは重く積み重なった諦観のみ。

 

「本当は返す気なんてなかったけど、この際だから返してあげるよ。これはナイン探しに付き合ってもらった分の借りだ」

 

 薄れゆく意識の底で、それを聞いた。

 アビスの声は幼子に語りかけているような優しさを持ってドクターの耳朶を揺らす。

 

 

 

 

 

「命に代えてもボクが守るよ、ドクター」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 敵意と黒煙。

 チェルノボーグはそれらに埋め尽くされていた。

 幾度となく危機に晒された。

 爆炎の先に未来があると信じていた。

 

 

 私は目覚めてすぐに戦場の指揮を取った。

 冷静な頭が最適解を導いてくれた。

 私は、本当は混乱でいっぱいだった。

 

 私に信頼を寄せる少女の本意が分からなかった。

 追い込まれている苛烈な状況で、私を助けに来たと口にする彼女たちの狙いがわからなかった。

 

 私はどこまでも普通の人だった。

 ただ、昔の積み重ねを背負っているだけ。

 性能の良い頭、寄せられる信頼、それら全てが借り物のように感じられた。

 

 私は『ドクター』であって、私ではないのだ。

 私の能力など誰にも期待されていない。

 私が持つドクターさんとやらの能力を欲しがっているだけ。

 

 

 怖かった。

 恐ろしかった。

 

 すぐそばに落ちてくる火炎瓶、そこらを行き交う矢の群れにアーツの奔流、そして怒号と悪意。

 

 そして何より「私」を一欠片でも見せてしまえば拒絶されるのではないかという考えが、私を恐怖の坩堝に叩き落とした。

 

 

 そんな中で彼と出会った。

 いや、出会ったという言葉は不適切だ。

 

 ただ私の前に立ってWと戦っていた。

 それは私──いや、『ドクター』を守るための行動ではなかった。

 ただ自身の損得勘定に基づいて私を守っていた。

 

 『ドクター』の指揮能力なんて関係ない。

 『ドクター』の過去なんて関係ない。

 

 私のために一切『ドクター』を考えず戦う彼は、私の存在を肯定してくれたように思えた。

 

 『ドクター』に関心がなかった彼は、もちろん私にも関心なんてなかった。

 それでもよかった。

 居てくれるだけで良かった。

 

 ロドスを辞めると言い出した時も、私個人としては止める気なんてなかった。

 ロドスにいなくたって、彼が居たという事実だけで良かったから。

 彼にそれ以上を期待していなかったから。

 

 

 けれど、もう違う。

 

 

 

 

「……あ、起きたんだ。ドクター」

 

 

 三人分のL字型ソファ、私が占領した残りの場所にアビスは座っていた。

 どうせなら膝枕をしてくれれば良かったのだが。

 

 

「ねえ、アビス」

 

 

 格好つけて紅茶を嗜んでいるアビスに頭から突撃する。

 落ちたカップが甲高い音を立てて割れた。

 

 

「私を受け入れてくれてありがとう」

 

 

 染み付いているいつもの口調が消えていた。

 普通の少女である、私らしい口調で。

 

 

「大好き」

 

 

 

 君の横が私の居場所。

 どうか、一緒に居させて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 

これで五章は終了となります。
評価をあまり気にしなくなったので本当にマイペースな更新頻度になると思います。
読んでくださる方々はありがとうございます。
……大体予定の半分が終わりました。
早く殺したいです。

 


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間
八十二 ないんさんぽ


 
誤字報告感謝ァ……!

 


 

 

 

 

 

 

 目覚めは唐突に訪れるものだ。

 他の者にとってはどうであれ、ナインにとっての目覚めはそういうものだった。

 

 ぱち、と目が覚めた。

 ベッドから跳ね起きて転げ落ちながらに得物を構える。

 それは疲労が蓄積した果てに崩れ落ちる、そんな眠り方を何度も行っていた彼女の習慣に似たものだった。

 

「おはよ、ナイン。悪夢でも見たの?」

 

 そう声をかけてきたのはこの部屋の主人であるアビスだ。

 ナインは現在オペレーター契約を保留しており、アビスの部屋に居候状態で過ごしている。

 あるコータスのオペレーターは最後まで猛反対していたが、結局押し切られる形で同居が決定した。

 

「何でもねえよ。お前こそ最近秘書ばっかりじゃねえか、疲れてんじゃねえのか?」

 

「あー、うん。確かに疲れてるかもね……押しが強くて……」

 

 朝から晩まで付きっきりで秘書業務、部屋に帰ってきてからは携帯端末をずっと見つめている。

 その忙しさが悪いとは思わないが、大変そうだとはいつも感じている。

 いつか倒れてしまいそう、と思えるほどではないことが救いだろうか。

 

「朝ご飯できてるよ」

 

「オレは要らねえって」

 

「成長期にちゃんと食べないと伸びないよ?」

 

 ナインは押し黙った。

 身長が欲しいから静かになったわけではない。

 どれだけ反論を並べようと、今のアビスが引き下がることはないだろうと分かっているからだった。

 

「それじゃ、ボクは仕事に行ってくるから。ちゃんと食べておいてね」

 

 それに、アビスは余程のことでもなければ強制しない。

 家族であっても親ではなく、最後にはナインの意思を尊重する。

 そのせいでナインはやりにくさを感じることもあるのだが、基本的にはありがたい配慮だった。

 

 アビスが行った後で朝食は食べておく。

 用意されている二食分のうちどちらかが残っていると、帰ってきた時に悲しそうな顔をするからだ。

 食堂の料理と引けを取らない出来なので不満はそこまであるわけでもないが、自主性に任せてくれてもいいだろうと思うことはよくあった。

 

 

 腹拵えを済ませて早々に部屋を出た。

 

 いつもならアビスも受けていたらしいロドス塾があるのだが、今日は休日だった。

 なのでナインはロドスを見て回ることにした。

 

 搭乗してから日が浅いナインにはまだまだ知らない場所ばかりだ。

 執務室周りとあの通路、食堂に宿舎は覚えた。

 ついでに図書室や多少の娯楽施設にも顔を出した。

 そこから立ち入り禁止区画を除いたとしても、把握できているのは一割に満たないほど。

 好奇心も動こうというものだろう。

 

 

 

 最初に回るのは既に見たことのある執務室周り。

 事務作業に励む職員が廊下を行き交っていて、医療区画やエンジニア部など、色々な場所から集まっているため人が多い。

 ナインは人混みが好きでも嫌いでもないが、思っているように動けないのは退屈だ。

 

「最近、秘書が変わってないらしい」

 

「ん? ああ、仕事ができるんだとよ。確か最近事情があって前線から下げられたオペレーターだったか」

 

「最近は忙しいからな。CEOが愚痴ってたぜ、もっと頼ってくれても良いのにってよ」

 

 壁際で話をしている二人組の男。

 件の男がアビスということはすぐに分かった。

 

 どうやらアビスはデキる男だったらしい。

 ナインは少し、いやかなり驚いた。

 あの意外とポンコツで頭も決して良くはないアビスが仕事は得意だと言われても、そう簡単に飲み込めない。

 

 少し覗いてみよう、とナインは執務室を目指すことにした。

 

 

 キィ、と小さく音が鳴る。

 ナインは細い隙間から執務室の中を覗いた。

 

「─────────。」

 

「──、────。」

 

 何か喋っている。

 隣り合って仕事をしているあたり決して悪い仲でもないようだ。

 

 そして、書類が裁かれるスピードは人外だった。

 

 ドクターがぺら、ぺら、と捲る音。

 ちゃんと読めているのか心配になるくらいにペンをつけるまでが早い。

 その割には時々手を止めて考え込んでいるようで、きっと内容の理解はしているのだろう、と窺える。

 

 アビスは、もう、ギャグだった。

 すすすすす、と5センチ以上積まれている書類が薄くなっていく。

 それがゼロになった途端に目にも止まらぬ速さでまた積まれている。

 傍に積まれている書類の山が少しずつ減っていることを見れば、そこから補充しているのだろうと分かる。

 

 それにしたって規格外だった。

 仕事が出来るとかそういうレベルではない。

 それに特化して生まれた生き物と言われても理解できるレベルで化け物だった。

 

 ちなみにケルシーは同じかそれ以上のスピードが出せるらしい。

 

 一区切りついたのか、アビスが伸びをする。

 ドクターがそんなアビスに後ろから抱きつくようにして、また話をしている。

 男同士とは言え距離が近くはないだろうか、と思うところはあったが、それよりも先ほどの人外じみた動きがまだ強烈に残っていた。

 

 ナインはひっそりと扉を閉めた。

 これ以上見ていてもSAN値が削れるだけだろうと思った賢明なナインは、執務室を離れ別の場所に向かおうと考えたのだ。

 

 

 次に訪れたのは療養庭園。

 いくらか話を聞いたことがある場所だ。

 

 そしてそこは噂に違わず、清涼な空気としつこくない花の香りに包まれた陽気な場所だった。

 モルフォチョウなど綺麗な蝶も生息しているらしい。

 別段虫が苦手ではないが、好きと言えるわけでもない。

 ただ綺麗な花々に囲まれた場所に漂う蝶々は幻想的だろうと、ナインはそう思っていた。

 

「綺麗でしょう?」

 

 気が付けば、隣にはいつのまにかふんわりとした雰囲気のヴァルポがこちらを見ていた。

 

「初めまして、私はパフューマーのラナ。ここは初めてよね。案内が必要かしら?」

 

「一人で平気だ」

 

「あら、そう? それなら注意事項だけ伝えるわね。もしかして、それも既に把握済みかしら?」

 

「いや、聞いたこともない。教えてくれ」

 

「ふふ、いい子ね」

 

 余計なことを言わないで相手が望んでいる言葉を返すことが対人関係でのコツだ。

 子供扱いされていると強く感じていたが、ナインは大人しくラナの教えを受けることにした。

 

 一頻りそれが終わると、ラナは奥へと歩いて行った。

 覗きに来ただけだったのだが、ここまで雰囲気が良いと興味を唆られる。

 あの孤児院ほど居心地が良い場所にはならないだろうが、さて。

 ナインは庭園の中に足を踏み入れた。

 

 植木鉢の中に育つ青々とした苗木。

 そのすぐ後ろには、同じ種類の育ち切った老木が聳えている。

 

 花壇の中に見たことのある花がいくつかあると思えば、蔓草が支柱に絡まって上を目指している。

 

 数々の植物が生を謳歌している中で、小一時間ほど歩き回ったナインは少し疲れてベンチに寄りかかっていた。

 なるほど療養に使えるわけだ、時間だけが有り余っている病人でも回りきれないほど端から端まで詰まった大ボリュームだった。

 施設自体の大きさは規格外と言えるほど巨大ではないのだが、その密度は凄まじかった。

 どれだけの労力が使われているのかは知らないがロドスの組織力をまざまざと見せつけられた気分だ。

 

 甘すぎない花の香りがどこからか運ばれてきて顔を顰めた。

 

 良い空間すぎて居心地が悪い。

 もっとゴミが少なからず散らかっていて、植物は緑か紫ばかりで、引き抜くと臭いものが生えている、そんな場所が望ましい。

 

 ナインはスラムの住人であり、故郷がそんな具合なのだ。

 療養庭園の良すぎる居心地は返って毒だった。

 

「こんにちは」

 

 横合いから声をかけられた。

 その人物を見て、想起されることがあった。

 

 ペッローの特徴。

 少し濃い乳白色の髪。

 

 思い出す人物は一人だけ、姉と呼んで慕ったリラのことだ。

 リラの髪は卯の花色で黄色がかった髪の彼女とは少し印象が違うものの、キッカケには十分だった。

 

「どうかされましたか? ご気分が優れないとか……?」

 

「知り合いに似てただけだ。何ともない」

 

 療養庭園のスタッフなのだろうかとナインはポデンコを眺めた。

 リラは花を愛でるより外で遊ぶことに価値を見出すタイプで、ポデンコから受ける印象はその反対だった。

 

「オレに何か用か?」

 

「かわいらしいお客さんがいらっしゃったと聞いたので。それに疲れていらっしゃるようですから、これを」

 

「……香水?」

 

「アロマです。こちらがペパーミント、こちらはプチグレインです。どちらも疲労に効果があるんですよ」

 

 ナインにはアロマと香水の違いがわからなかったが、訂正されたからには何かしらが違うのだろう。

 差し出された瓶の装飾はとても簡素で商品とは思えない。

 

「オレには似合わないと思うけど」

 

「では、一度試してみませんか?」

 

 謎の圧を感じる。

 ずずいとポデンコが差し出した二つの瓶の違いはやはり分からなかったので適当に選んだ。

 

 シュッ、と音がして香りが広がる。

 柑橘系の匂いが脳に伝う。

 

「……落ち着く」

 

「ふふ、良い香りですよね?」

 

 にこにこと笑顔を浮かべるポデンコ。

 

 特に理由はない、特に理由はないのだが──ナインはポデンコに勝てるビジョンが全く浮かばなかった。

 

 

 療養庭園を出たナインのポケットに入っていたのはプチグレインのエッセンシャルオイル。

 どうやらポデンコの押しには勝てなかったようだ。

 

 次に向かうはロドスの甲板。

 まだ仄かに香っている爽やかな匂いが鼻の奥をついて、ナインは悪くないと思えた。

 

 階段を上っていく。

 ロドスにはエレベーターもあるが、他の利用者と居合わせるのが嫌だったためナインは大人しく足を酷使することに決めた。

 いくら体を鍛えていても年齢が年齢だ。

 ナインは少し息を荒げながら天辺に着いた。

 

 甲板には何もない。

 何もないからこそ、先が見える。

 その在り方はまるでナインのようだった。

 

 吹く風はかなり強く、落とした紙はきっともう二度と戻ってこないだろう。

 その代わりにと描かれた景色は壮観で、けれどそれだけだった。

 

 無意味だった。

 自然が綺麗であることなど何の意味もなく、心を揺らすわけでもない。

 馬鹿と煙は高所を好むらしいが、生憎とナインはその両方に当てはまらない。

 

 ナインは甲板に意味を見出せなかった。

 風はうざったく髪を流して、腰ほどまである長髪に引っ張られそうだ。

 

 アビスが居たとしてもきっと同じ感想を抱いただろう。

 無意味で無意義で、さっさと帰りたい。

 

「ナイン」

 

 ふと、鈴の音が耳に届いた。

 

 足が一人でに動き出して甲板の中央に躍り出る。

 肌に露出していた源石結晶が熱を放ってぼうっとする。

 

 あつくてあつくてあつくてあつい。

 脳のど真ん中に焼けた石が投げられた。

 大きな音を立てて弾けて消えて散り散りになった自分が、きっと今の意識だった。

 

「ナイン」

 

 誰かが呼んでいる。

 誰かが自分の名前を呼んでいる。

 熱にかき混ぜられたような意識の中でそれだけを認識した。

 海の中に浮かぶ流木のような一欠片だけの思考が回路を通って信号が伝わる。

 

「ナイン」

 

 嗅覚が酸っぱい香りに支配される。

 視覚が無意味なもので埋め尽くされる。

 聴覚が風の吹き付ける雑音で消えていく。

 

 音もなくアーツが発動して源石の結晶が肥大の結果ひび割れる。

 増え続ける負荷がナインの脳を更に熱くする。

 

「ナイン」

 

 オレの名を呼んでいた。

 オレの名を呼んでいたのは。

 

 オレの声で、オレの名前を呼んでいたのは、きっと、いや、紛れもなく──

 

 ナインは思わず口を塞いだ。

 熱でまともに考えられないまま、それ以上を許してしまうことがあってはならないと感じていた。

 それは冒涜で、大悪で、背徳だった。

 

「ぐぅっ……けほっ、……けほっ、けほっ!!」

 

 抑えられない咳が出る。

 篭っていた熱が頭蓋から抜けていくのを感じる。

 

 膝に力が入らず崩れ落ちた。

 階段を上った時よりもずっと体力が持って行かれていて、両手を床について這いつくばる。

 

 そして、気がついた。

 ナインの手は血で朱く染まっていた。

 

 目を見開いて仰反ろうとする。

 けれど出来なかった。

 

 口内の異物。

 咳と共に肺から押し出された何か。

 堪らず吐き出す。

 

 血と共に転がり出たその固形物。

 

 

 源石が、遮蔽のない甲板できらりと輝いた。

 

 

 

 

 今夜は上手く眠れそうにないな。

 小さく笑って、理性が発する拒絶反応に従い胃の中身を全てぶちまけた。

 

 黒い結晶は見当たらなかった。

 ナインは何度も嘔吐した。

 

 

 しばらく経って。

 ハサミが糸を切ったように、ナインの意識はぷっつりと途切れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 




 
ほのぼので終わらせて堪るか。
 


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八十三 当小説におけるキャラクター紹介

 
まだ増えますが、一旦このくらいで纏めておきます。
 


 

 

 

 

[ロドス・アイランド]

 

ドクター

 

「俺はドクター。一応、戦術指揮官だ」

「私はドクター。用がないのなら消えてくれ」

 

原作「アークナイツ」の主人公。

天才的な指揮能力や頭脳を持つ『ドクター』という人物を過去に持つだけの一般人。

優秀な頭が現在の立ち位置を冷静すぎるほど正確に分析してしまったせいで死ぬほど不安になった。

更に『ドクター』目当てに利用されることを軽く流しつつも嫌っているため、指揮能力を褒められると不快。

『ドクター』の能力を借りているので、人身掌握や戦術指揮などで失敗した経験がない。

深層意識で驕っている。

 

アビスは石棺から出てきたのが戦場指揮モンスターだろうがニートだろうがどうでもよかったので+5ポイント。

集団での任務が少なく指揮について触れることもなかったので+5ポイント。

少なからず注目していた理由が打算だったことで+5ポイント。

『ドクター』に全く興味がなかったので+100ポイント。

アビスに向けているのは、一応、恋愛感情ではない。

 

 

アーミヤ

 

「ロドスの最高経営責任者をしています、アーミヤです。よろしくお願いしますね?」

「ふわぁ……いけない、ドクターがまだ頑張ってるのに、私だけ……」

 

ロドスのCEO。

原作「アークナイツ」のメインヒロイン。

救出作戦後、ドクターが抱えている不安や懊悩を理解しつつも上手く処理することができなかった。

微妙な距離感ではあるが組織の維持に関しては上手く行っている。

性別を偽って業務を続けるドクターのことを心配している。

書類業務モンスターとは二度と一緒に仕事したくないらしい。

アビスの選択に関しては本人の意思を尊重する姿勢を見せつつも、ハッキリとは言及していない。

 

 

ケルシー

 

「スケジュールが逼迫している。一分一秒の価値を正しく理解することだ」

「……私は、悪でもいい」

 

医療分野でロドスのトップに立つ医者。

前身組織「バベル」を率いていた彼女の理念を引き継いでいて、ロドスをこれまで発展させた功労者の一人。

非常に理知的且つ冷静で、一部では表情筋がマニュアル操作なのではないかという疑念が浮上している。

話し方が単刀直入の反対。

当小説の主人公を務めるアビスに対して複雑すぎる感情を向けている。

手段を選ばずアビスの意思を折ることにしたが、最近ドクターが独り占めしているせいで全く手が出せないで居る。

かなり焦っているようだが、果たして。

 

 

ワルファリン

 

「妾はワルファリン。ブラッドブルードのワルファリンだ」

「手が足りない、ぼさっとするな! 流れる血は少しでも減らすんだ!」

 

ロドス所属、地位の高い医療オペレーター。

ロドスが成立した時点から所属していて、その分だけ事件を起こしている問題児。

アビスのアーツに興味が湧いたため軽率に手を出したが、そのせいで色々な割を食っている。自業自得。

ケルシーの地雷もよく踏む。

 

 

ガヴィル

 

「じっとしてんのは性に合わねぇ。こんなモンさっさと終わらせるぞ」

「あぁ? イジメだぁ? 別に嫌いあってるわけじゃねぇよ。アレしかねぇんだ、アタシとアイツには」

 

故郷をアカフラとする元傭兵。

普段は医療術師として戦場に立つが、指令が下りた時には斧を手に取り軽々と障害を跳ね飛ばす。

アビスとは時折突発的な訓練を行なっている。

目が合えばいつも訓練室に向かうため誤解されがちだが、喧嘩──格闘訓練は彼らの言語であり、決して仲が悪いわけではない。

尻尾への視線は分かっていて無視しているらしい。

 

 

ポデンコ

 

「適切に扱わなければ、咲く花も咲きませんよ?」

「温室の仕事で一番に救われているのは、もしかすると私かもしれませんね」

 

療養庭園と呼ばれる温室の管理人。

園芸の知識はパフューマーに一歩劣るが、愛や努力は引けを取らない。

とある二つの要素からストーカーに狙われているが気付いていない。

 

 

クロージャ

 

「いらっしゃい! せっかく来たんだから何か買って行きなよ!」

「目的のためには犠牲も許容すべきだ、なんてね」

 

ロドスの商業区画、購買部に常駐するシステムエンジニア。

ワルファリンと同じくブラッドブルードで、ワルファリンと同じく変人で、ワルファリンと同じく問題を起こす。

ドクターの変化に勘付いてはいたが手を出さなかった。

昔のドクターと今のドクターでは深い部分の何かが決定的に違うと気付いている。

耳に入るアビスの諸々に関しては『子供らしい悩み』として徹底した傍観を決めている。

 

 

[行動予備隊A4]

 

カーディ

 

「れっつごー! スピーディーに行くよっ!」

「……っ!? い、今何か視線を感じた気が……」

 

アーツを使えない田舎者。

それがリアーニアの都市部で受けた評価であり、しかしそれだけではないことをカーディはロドスのテストによって認められた。

異様に過保護なアビスのことを初対面では悪く思っていなかったが、覚悟を見せつけられてから意味不明すぎて怯え始めた。

アビスによるn番目の被害者。

 

 

アンセル

 

「嫌いだから言っているわけではありません、しっかりと聞いてください」

「はぁ……不審者(いつもの人)ですか」

 

行動予備隊A4に所属する医療オペレーター。

種族柄夜の活動に向いていて、夜勤に励む姿をよく見ることができる。

カーディのストーカーに頭を悩まされていた、n+1番目の被害者。

害意や敵意はなく最近では会話などの直接的な接触もほとんどなくなったのでもう気にかけていない。

 

 

[エリートオペレーター]

 

ブレイズ

 

「ウサギちゃんはまた根を詰めてるみたいね。何か言ってやらなきゃ!」

「信頼は、時に命よりも重いんだよ」

 

エリートオペレーターのブレイズ。

彼女を紹介する時はこれだけでいい。

レユニオンとの攻防中、アビスとは何度も顔を合わせている。

Aceから聞いた前評判をその目で確かめる機会は結局なかったのだが、その分為人(ひととなり)は理解した。

流れている噂に思うところはあるが、エリートオペレーターとしての責任から言及は一切ない。

 

 

[レム・ビリトン]

 

エイプリル

 

「あたしのオススメ、聞く?」

「怒ってないよ。そんなことで怒らない。本当に、ただ理由が気になっただけなの」

 

ハンターを生業としていた狙撃オペレーター。

音楽や流行に敏感で身嗜みにはかなり気をつけている。

怒ることは滅多になく、大抵の不運や悪意は音に乗せて流してしまう。

最近は何も言わず故郷に残してきた友人達のことをよく思い出している。

彼女の幸せには妥協が付き物だ。

ロドスでもそれは変わらないらしい。

 

 

[炎-歳]

 

シー

 

「用があるなら手短にしてちょうだい」

「ええ、まあ。この方舟もそう悪くはないんじゃないかしら?」

 

泰山北斗の偉大なるヒキニート。

普段から謎の力で生み出した異空間に閉じこもっていて、特別仲の良いオペレーターと交流する時以外は一切出てこない。

死は決して免れることが不可能であり、そんな事実を筆頭とするこれまでの経験から他人を突き放す傾向にある。

それを掻い潜ったアビスに対してずっと複雑な心持ちであり、Wの言葉にも言い返せなかった。

しかしアビスが最も疎ましい存在に引っ張られそうだったところを見つけて腹を決める。

考え方はケルシーのそれに寄ったが、立ち位置を改める気は無いらしい。

最近何も予定が無いのに話していないので拗ね始めている。

 

 

[ライン生命]

 

サリア

 

「技術だけでは土塊の盾も同義だ。私たちの意思がそれを堅固にする」

「拳が破壊できるものには限りがある。盾が守り、壊せるものは……それよりもずっと多い」

 

とあることがキッカケで離反したライン生命の元主任。

盾を持って戦場に立てば全ての味方を守り、盾を捨てて戦場に立てば全ての敵を屠る。

責任、秩序、そういったものを断固として守る。

その寡黙さは時に厄介な事態を招くが、彼女ならば易々と解決してしまえるだろう。

アビスについて思うことは少ない。

しかし、第三者が関わっていたとするならば……

 

 

[バベル]

 

W

 

「あっはは、あなたって本当馬鹿みたいね!」

「ただ大事なものを守ってるだけ。知ったかで語られることも泥を塗ることも許さない。それがあなたたちの言う狂人かしら?」

 

バベル所属のサルカズ傭兵。

不幸と笑顔を常に振り撒く悪意と敵意の塊。

実際はどこかズレているだけのファッション狂人という噂もあるが、本人は顔を顰めている。

アビスとリラの過去を共有した。

現在アビスが取っているスタンスについて最もよく理解している人物。

元レユニオンであるが、訓練室爆破事件の後に廊下で正座させられていたりとあるコータスのオペレーターから罵詈雑言を浴びせられていたりケルシーに任務の無茶振りを受けているためあまり憎まれていない。

 

 

[リントヴルム孤児院]

 

⬜︎⬜︎

 

「共感性。ボクがある意味で一番大っ嫌いな言葉だよ」

「機嫌が良い? あぁ、うん。今日はこれから療養庭園に行こうかと思っててね」

 

コードネーム「アビス」

生まれと育ちはリターニアだが、本人にとって一番大切な記憶は孤児院での生活とのこと。

ロドスに所属してからしばらくの間は学に励んでいたくらいには知識がなく、旅もある傭兵と過ごした期間以外は一人だったため常識に穴が多い。

テラを渡り歩いた経験上、簡単な日常会話であればどの国でも可能。

矛盾した思い人の言動やようやく耳に入るようになった周囲の声を聞いて、少しずつ揺らいでいる。

身体能力が低下の一途を辿っているが気にしていない。

最近ドクターがうざい。

リラを愛している。

エイプリルとの関係に頭を悩ませている。

 

 

繝ェ繝ゥ

 

縲檎ァ√□縺代r隕九※繧医?√?縺医?

縲檎ァ√r谿コ縺励※縲

 

髮「繧碁屬繧後↓縺ェ縺」縺滉ク牙ァ牙シ溘?髟キ螂ウ縲

縺昴?蠢?↓蛻サ縺セ繧後※縺?k縺ョ縺ッ鄂ェ謔ェ諢溘→辟ヲ辯・縺ァ縺ゅj縲∵°蠢?↑縺ゥ縺ァ縺ッ縺ェ縺九▲縺溘?

蠖シ縺ィ莉イ繧呈キア繧√k縺セ縺ァ縺ッ縲

莠コ縺ョ謔ェ諢滓ュ繧貞ク瑚埋蛹悶&縺帙k繧「繝シ繝?r謾セ縺、縲

螳牙ソ?&縺帙i繧後k縺薙→縺?縺代′蠖シ螂ウ縺ョ蜿悶j譟?□縺」縺溘?

 

 

ナイン

 

「ロドスはガキ扱いさえなければ満点なんだけどな……」

「時折カインが脳裏にゆらめく。与えられた一生の使い方なんて、これでいいんだ」

 

元レユニオンの幹部。

アビスと同じく電気信号に関するアーツを使い、相手の視覚や聴覚のみならず触覚までも乗っ取る。

対策できる弱点は遮蔽に隠れていると専用の補助具を用いなければ無効化されることと同種類の術者間では無効化ができることの二点のみ。

アビスも同様だが、負担の大きさから鉱石病の進行が著しい。

ロドスではアビスの部屋に居候している。

オペレーター契約を結んでいるわけではなく、普段は図書室や娯楽施設、食堂などで興味深そうに何かを眺めている。

倉庫整理などの手伝いを自分から言い出すこともある。

ライサと仲が悪い。

 

 

デイヴィッド

 

「さて、腕は鈍っていないかな……?」

「大切な人がいなくなるのは、いつだって突然なんだ」

 

リントヴルム孤児院の管理者。

顔には何本ものシワがあり、しかしその背はピンとまっすぐだった。

幸せな生活を送っていたが、大切な人を守ることができなかったらしい。

彼はアビスの前であまり過去を話したがらず、よく聞かせていたのは家族の話だった。

 

 

[ウルサス]

 

ライサ

 

「善人とか悪人とかテロリストとかロドスとか。正直もうどうでもいいんだよね」

「職権濫用しやがってぇ……っ! ドクターの野郎ぶっ潰してやるッ!!」

 

コードネーム「デフラグレート」

チェルノボーグにて拾われた被災孤児。

オペレーター「アビス」によって手続きを済ませて正式にロドスのオペレーターになった。

今まではストーカー活動に精を出していたが、最近は鳴りを潜めている。

ナインを目の敵にしているが、今本当にアプローチをかけている者の嘘には気付いていない。

たぶんWよりドクターを殺す確率が高い。

グイグイ行くタイプだが、アビスから来られると困る。

以前の友人とはまだ仲直りを済ませていない模様。

 

 

[ウルサス学生自治団]

 

イースチナ

 

「書物の翻訳は時に真実を捻じ曲げてしまうことがあります。これが現実で行われない保証がどこに?」

「生きることを足蹴にした彼を、私が許すことはできません」

 

ライサと同じくチェルノボーグにて救出された少女。

数多の絶望を見た彼女の目がライサを捉えた時、嫉妬に濁ることはなかったが、別の感情が曇らせてしまった。

アビスの在り方だけは認められない。

彼女の命がここに在るが故に。

 

 

[????]

 

????

 

「私は傭兵。けど、何でもやるってわけじゃないよ」

「…………あ、私また寝てた?」

 

どこかで傭兵業を営んでいる。

精神が最も不安定だった頃のアビスを拾った。

当時はまだ傭兵になってはいなかったが、年が近いアビスに見栄を張りたくて嘘をついた。

少し前からケルシーに捕捉されている。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六章 残り香の導き
八十四 猫医者抵抗作戦-フェイズ1


 

 

 

 

 

 

 

 

 ことり、と音を立てた。

 揺れる水面に歪んだ底が見える。

 

「報復は果たして悪か?」

 

 彼女は言った。

 答えはなかった。

 答える者は居なかった。

 

 檻の中で一人の彼女は呟いた。

 

「復讐は悪か?」

 

 今一度噛み締めるように呟いた。

 感情を込めようとは思っていなかった。

 堪えられなかったのだ。

 

 悲しみはいい。

 胸が痛み、それだけで済む。

 それにその痛みは証明だ。

 存在を肯定するための証明だ。

 

 怒りはダメだ。

 特に純粋な怒りは。

 痛いだけでは済まされない。

 命に終われば儲け物だ。

 

「君はどう考える?」

 

 社会が決めた善悪の規定。

 倫理観という規格化された思考。

 

 それに刃向ってもよいものか。

 この考えは異端なのか。

 あくまでこちらが異常なのか。

 

 同じ境遇にあったのなら、どう考える?

 全て同じとは言えなくとも。

 同調するだろうか。

 

 二つに分けるべきか。

 経験で区分すべきだと考えるか。

 その上で扱いでも変えるか?

 現実的ではないだろう。

 しかし頭の中でならどうだ?

 

「……早く聞かせてくれ、アビス」

 

 彼女は檻の中に居る。

 彼のことはもう呼んでいる。

 

 あの都市で交戦した青年。

 一点の曇りもない悲しみを貰った。

 

 それには感謝している。

 ああ、だから当然のことだろう。

 

「私はいつでも待っている」

 

 彼にはとびきりの楔を打ち込んでやる。

 その悲しみが決して癒えないように。

 強く、深く、太く、打ち込む。

 

 

 その痛みこそが君を支えているのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 執務室に入ってくるなり、ケルシーは言った。

 

「ドクター、何をしている」

 

 ドクターは顎に指を当てて考える仕草を見せた後、それに答えた。

 その言葉は単純明快だった。

 

「ツイスターゲームだよ。給湯室……今はキッチンか? そこにあるのを見つけてな、ケルシーもやるか?」

 

 アビスがひっくり返った姿勢のまま眉を顰めた。

 対外向けの口調と声色に戻っていると気付いたからだろう。

 

「出資者たちへの支援については」

 

「予算案から十分に出せる程度の物資と人員を算出して許諾しておいた」

 

「龍門支部からの報告書は」

 

「近衛局に回すようにしては、とアビスが稟議したのを俺が認めた。レートは現地で融通を利かせられるようにある程度の権限を支部長に持たせておいた」

 

 仕事は終わっている。

 終わっているからと言って業務時間に遊んでいいわけでもないのだが、そこまで辛口になることでもないだろう。

 ドクターという立場はオペレーターを知ることも職務のうちなのだから。

 

 ドクターはゆっくりと起き上がった。

 

「ところで秘書についてだが」

 

「業務効率の改善、空いた人員の利用、そして指揮することが少ないオペレーター。秘書にすることの正当性を並べる必要はないだろ、自明だからな」

 

「閉鎖的な空間。遥かに大きい権限を持つ上司と二人。このような労働条件の中で当人の受諾もなく膨大な量の仕事を押し付けられることについて、人事部からの警告が入っている」

 

「人事部からの警告? おいおい、ケルシーは一体いつから人事部のトップを兼任するようになったんだ? ……気に食わないなら自分でそう言えよ」

 

 ゾッとするほど冷淡な声で告げる。

 どうやらドクターとケルシーは仲が悪いらしい、とアビスは他人事のようにそう思った。

 自分がその間に挟まっていることも知らず、呑気に二人の様子を眺めている。

 

「それこそ本人の意思ってものだろ、そんな決定は。アビスが何か言ったならそれを検討すれば万々歳じゃないのか? どうしてそう複雑にしたがるんだ? それで俺やアビスが諦めるとでも思ってるのなら、勘違いも甚だしい」

 

「この話の濫觴について話そうか。いや、話すまでもなく理解しているだろう? 全ては君が権限を行使してスケジューリングに多大な負荷をかけたことに端を発している。個々人との親密性を上げることと戦闘オペレーター全体に満遍なく関わりを持っておくことは同等に重要だ」

 

「揚げ足を取るようで悪いが、個々人とのそれが同等未満だからこうして声をかけたんだろ? それともなんだ、私情でも混じったのか?」

 

「…………簡単に決着がつくような話でもない。これ以上は後で話すことにしよう」

 

「異論はない」

 

 ふぅ、と息を吐くドクター。

 どうやら頭に血が上っていたようだ、と反省する。

 

「ドクターって怒ることあるんですね」

 

「俺も人間だぞ、怒ってばっかだよ」

 

 ほへー、とアビスが相槌を打った。

 その疑問はドクターと親しくなっている以上当然のものだっただろう。

 ドクターはうざったいが一線を越えることはなく、そして言われる分にはどれだけ理不尽に責められようとも泣くか慌てるか、そして泣いて慌てるかの三択だった。

 

 それが自分に限ってのことだとなぜ気づかない。

 

「ケルシーは、まあ、よく怒ってるけど」

 

「失礼だな、普段は怒ってなどいないさ。ずっと面倒を見てきたお前に何かあるかもしれないと思えば、気が立つのも仕方ないだろう?」

 

「思ってもないこと言うのやめない?」

 

「全て本心だ」

 

 真顔で言ってのけるケルシーに、ドクターがため息をついた。

 やれやれと肩をすくめて挑発的に視線を寄越す。

 

「戯言はこれくらいにして、さっさと本題を言うのはどうだ?」

 

 ドクターの悪意に顔を顰める。

 とは言え本題に入るべきだとはわかっている、わかっているからケルシーはアビスの手を取った。

 

「大事な話がある。来てくれ」

 

「おいケルシー、俺の許可なしに秘書を別の業務に参加させるのは流石に越権行為じゃないか?」

 

 目を白黒させつつ二人の喧嘩を見守るアビス。

 ドクターの口調が口調なので、これがかの有名な夫婦喧嘩なのだろうかと考えてみる。

 

「ただの話だ。仕事ではない」

 

「それなら就業規定外の時間に誘えよ。已むを得ない事情でもないんだろ?」

 

「……ドクターとしての特権があるからと言って、これ以上当初の意向にそぐわない行動を取るようであれば、それも危ういと忘れるな」

 

「そうした集権化はそれ以上の問題を招くとわかってるだろ? 実効性のない警告や罰則は無意味だ、俺に正当性を求めるならそれ相応の姿勢を示してくれよ」

 

 二つ目の手がアビスを掴む。

 夫婦喧嘩の出汁にされるとは運がない、とアビスは内心で嘆く。

 最初から全て自分を巡ってのことだとは考えてすらいない。

 

 アビスにはドクターが口調を元に戻した意図はわからない。

 ケルシーにはまだ素を出していないという可能性は高いが、それ以外の理由も考えられる。

 何せあのドクターだ。

 妙なことを考えていたり、もしかするともっと大掛かりな何かが裏で進んでいたりするのかもしれない。

 

 そこまで考えたところで、面倒になった。

 

 自分を挟んで喧嘩なんてするなよ。

 別にどうでもいいだろそんなことは。

 

 二人の口喧嘩に辟易とする。

 重箱の隅をつつくような言い合いは正直聞いていて嫌気が差してくる。

 

「ドクター、ケルシー。もう充分でしょう」

 

 二人の手を振り払った。

 ついで、ケルシーと目を合わせる。

 

「話があるなら聞くよ。どこに行けばいい?」

 

「いつもの診察室だ」

 

「わかった。本当に話だけなんだよね?」

 

「ああ、約束しよう」

 

「よし。それで、ドクター」

 

 びくっ、とドクターが震えた。

 何を言われるか、それが想像できてしまったからだ。

 

 アビスの秘書として執務室に置き続けることのメリットはドクターからして高いものだったが、それ自体の難易度も高い。

 だからドクターは考えた。

 培われたシミュレーション能力で何度も考えた。

 

 そうして何度も想像すると、危機感が麻痺してくる。

 それは本来一度しか経験することのない恐怖を繰り返し脳に刻むからこそ起こってしまう避けられない結果だ。

 

 しかしその結果が目前に迫れば、その恐怖はぶり返す。

 危機感なく近寄って、本当にそうなってしまうかもしれないと思った時、恐怖はピークを迎える。

 

 瞳孔が広がり、足がすくむ。

 歯が震えてがちがちと音を立てようとする。

 涙が出そうだった。

 

「……はぁ。すぐに帰ってくるから(ボクのことはいいですから)不安にならなくていいよ(少しぐらい仲良くしてください)

 

 アビスはそう言って出て行った。

 その背を追うケルシーはこちらを振り返ることもなく、つまり違和感など感じていないようだった。

 

 けれどドクターには聞こえたのだ。

 呆れた顔の奥にあった少しの配慮が。

 

 恐らくは本気で恐れていたからそれが伝わったのだろう。

 多少なりとも恩を感じていて、ドクターの状況に理解があって、だから仕方なく許してくれたのだろう。

 

 ぞくり、と。

 

 ドクターの背が震えた。

 それはアビスの目に射竦められた時よりもずっと小さくて、注視していても分からないくらいの動きだった。

 

 自業自得だ。

 元を辿れば自分が招いた結果だ。

 だからこれを言うのは間違っている。

 

 けれど、あの恐怖と安心の落差はまるで。

 一度その目で睨みつけ、恐れさせて、どうしようもなく心が救いを希って、そんな時に呆れてこちらを許す、などという所業は、まるで。

 

「……DV彼氏」

 

 依存レベルが、一つ上がった。

 そんな気がした。

 

 

 アビスは泣いていい。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八十五 猫の逃げ道

 
前話から五章でした。
 


 

 

 

 

 

 

 

 口火を切ったのはボクだった。

 

「それで、ケルシーがボクに何の用かな? ドクターにああは言ったけど、正直ボクも思ってるんだ。仕事中に呼びつけるほどじゃないだろう、って」

 

 偏に、興味があった。

 ケルシーが業務を邪魔してまで伝えたい話がどんなものなのか。

 これまでケルシーはボクに対してそれなりに影響を与えてきたから、余計に期待があった。

 

 この状況を、いつまでも目的なく生きているこの日々を終わらせてくれるんじゃないか、って。

 

「残念だがその期待には応えられない」

 

 ケルシーが言った。

 

「私がわざわざ勤務時間に業務を妨げてまで訪れた理由はドクターのペースを乱すためだ。実際の重要度はそう高いものでもない」

 

「ああ、そうだったんだ」

 

 途端にテンションが下がる。

 それはただ期待してたものが幻だったってことに対してだけで、嘘をつかれたことに関しては何も思ってない。

 嘘なんて慣れてるし、直接言ってもらえるだけ嬉しい。

 

 そういえば、ケルシーが素直にこういうことを言うのは珍しいな。

 

「隠される方が好みか?」

 

「そんなことはないけど、意外だなって。……待って今ボクの心読んだ?」

 

「顔にそっくりそのまま出ていたからな」

 

 なんかシーみたいなことするね。

 あの人は絶対悪用しないって変な信頼があるけど、ケルシーはなんか信用できない。

 

「悪いな、私は隠し事が苦手なんだ」

 

「よく言うよ」

 

 何でもかんでも隠したがって裏で動いてるくせに、分からないとでも思ってる?

 きっと全部分かった上でそうしてるんだろうけど。

 本当、よく言う口だ。

 

「さて。秘書の仕事はどうだ、アビス」

 

「悪くないよ。仕事が終われば執務室の中でなら何をしていても咎められないし。けど良くもないかな。部屋を出られないのは面倒だから。体動かせないとストレスだって溜まる」

 

「ふむ、そうか。それならば、今度私の仕事を手伝ってもらうよう──」

 

「絶対にイヤ」

 

「秘書業務より好条件な労働環境を整えるが」

 

「絶対に断る。ケルシーと肩を並べて働くなんて狭苦しくて敵わないよ。それくらいなら下水道管理の方が1000倍マシだから」

 

「……そうか」

 

 本当に無理、そう思う。

 今でさえ体を動かしたいって思ってるのに、ケルシーと働くなんてことになったら仕事終わりに訓練室で暴れでもしないと窮屈さが取れなさそうだ。

 

「別にこうして話すとか一緒にいるなら何も問題はないけど、仕事が一緒は本当にキツいと思う」

 

「…………そう、か。期待はしていなかったが、こうまで酷評されるとはな。仕事のパートナーとして私は汚物に劣っているのか」

 

「部屋にサンドバッグがあったなら話は別だけど」

 

「誰が診察室に打撃練習用の的を置くんだ」

 

 ケルシーが呆れてため息をついた。

 それくらい取っ付きにくいんだって自覚を持った方がいいと思うけどな。

 噂では化け物を従えてるらしいし。

 体高10メートル弱の不思議生物なんてものを飼ってるなら普通は見つかるだろうけど、ケルシーだったら隠し通せてしまいそうだとも思える。

 そういえば以前、見たような。

 見なかったような。

 

 ……今って何の話してた?

 そうだ、サンドバッグがないって話だ。

 

「そう思ったから断った。それだけ。まあ、ボク以外に頼んでよ。きっと他の人なら喜んで頷いてくれるだろうからさ」

 

「それでは意味がないだろう」

 

「え?」

 

「私はお前と時間を作りたかったから誘ったんだ。深刻に手が足りないようであれば人員整理を急ぐだろう?」

 

「あぁ、そう。口説いてる?」

 

「好きに勘繰るといい」

 

 冗談混じりの言葉に対して大真面目な返答を投げつけるケルシー。

 もし本当に口説いてる──恋愛的な意味はない──んだったら、距離を取りたい所存だけど。

 そうして疑るボクに、ケルシーが極めてイメージからかけ離れたことを言った。

 

「なあ、アビス。私の物にならないか?」

 

「えっ。……ああ、ケルシーも冗談とか言うんだね」

 

「……」

 

 ケルシーが眉を顰めてそっぽを向いた。

 ちょっと申し訳なかったかもしれないな。

 そういう言い回しをドクターがよくふざけて言ってくるからつい流したけど、珍しいケルシーの冗談だし、どうせなら乗ってみたかった。

 

「……元より不必要な問答、か。アビスの直接的な上司は私でドクターではない。全権が私にある。つまりオペレーターとしてのお前は既に私の物というわけだ」

 

 そういえば、昔そんなことを言われた気がする。

 結局医者と患者としての付き合いしかしてないボクとケルシーには似合わない関係だった。

 今では、外せないくらいにぴったり背後について回ってるんだけどね。

 

 ケルシーが続ける。

 

「作戦参加の是非から始まり、給料のことに関しても私に権利がある。以前外出禁止を言い付けられたのはそういった事情が上手く作用したからだ」

 

「それならドクターにその権利が少しでも渡ればそういうことは出来なくなるんだね」

 

「ああ。だから私はこれを手放さない」

 

 知ってるよ、ケルシー。

 だからボクはそれが嫌なんだ。

 

「そう睨むな、これはお前のためだ」

 

 その言葉に息を呑む。

 

 僅かに滲んだ罪悪感の色。

 ケルシーの目元だけが別人のように見えてしまって、ボクは思わず視線を逸らした。

 そんな感情も持ってたんだ。

 少しだけ、いや、かなり驚いた。

 とうに擦り切れてなくなっているんだとばかり思ってたのに。

 

「さて、もう世間話は十分だろう。本題だ」

 

 今までのやり取りを世間話でまとめるのはちょっと難しいんじゃないかな。

 そう思いつつ言葉を待つ。

 少なくとも今まで出していた話題よりずっと大事なことなんだから、しっかり聞かないと。

 

「アビス、お前の知り合いが入職した。ロドス・アイランド本艦には慣れないだろうから、到着次第お前には案内役をしてもらう」

 

「知り合い? ボクの?」

 

「ああ、そうだ」

 

 ふむ、と考えてみる。

 ロドスの外にいる知り合い筆頭は親類縁者。

 どの人も若くはないし普通の仕事に就いていたはず。

 術師としてどれくらいデキるのかは分からないけど、実践経験は誰にもなかったはず。

 感染者ももちろん居ない。

 

 唯一可能性があるのはラグか。

 ボクの従兄妹で、色々と複雑な関係。

 

 あまり考えたくないからラグじゃないとして、あと思いつく人は誰だろう。

 分からない。

 ラグばかり思い浮かんできて思い出せない。

 

「彼女はクルビアの傭兵だ。支部に鉱石病の治療を求めてきたため、少し手順を踏み、オペレーター契約を結んだ」

 

「まさか」

 

「そのまさかだ。私もお前と関わりのある者がロドスを訪れることなど予想だにしていなかった」

 

 ケルシーが指に挟んでボクに見せつけた写真には、確かに彼女の面影が残る傭兵姿の女性が写っていた。

 見える限りでは源石結晶は露出していない。

 病状は軽いのかもしれない。

 そうだったらいいな。

 

「ああ、それと。実は仕事中に押しかけた理由はもう一つある」

 

「それはいったい?」

 

 ケルシーはボクの言葉に答えなかった。

 答えられなかったとか、答えたくなかったんじゃない。

 答える必要がなかったんだ。

 

「入ってくれ」

 

 凛としたその声はドアの向こうに届くほど大きかったらしい。

 突然で状況が掴めないボクを他所に、診察室のドアが開いた。

 

「失礼します」

 

 馴染み深かった声。

 ボクがリラを亡くして、一番ショックを受けていた頃に、ずっとかけられていた優しい声。

 独特な形状の刀剣を腰に携えて、彼女は現れた。

 

「久しぶり、また会ったね」

 

「……うん、久しぶり。カッター」

 

 ヴァルポの傭兵が笑う。

 一方でボクは再会を喜びながらも、背中を冷や汗でじっとりと濡らしていた。

 アレだけは避けなくてはならない。

 出来れば会いたくなかった──って言い方はちょっと良くないけど。

 アレだけは。

 絶対にアレだけは。

 

 アレだけは──!

 

「約束通り、今度料理を振る舞ってあげるね」

 

 無理だった。

 カッターは約束を覚えていた。

 あーあ、どうしようか。

 どうやって被害を減らそうか。

 

 久方ぶりの邂逅に頭を巡らせていく。

 面倒なことだとか、考えたくないことだとか、そういう一切合切から目を背けて。

 

 それが必要だからそうしていた。

 そんなハリボテの言い訳で武装して。

 

 心のどこかで、安心していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 診察室には一人しかいない。

 残されたケルシーは一人の時間が続くことを確認して、奥にある源石機器のスイッチを入れた。

 

 重厚な音が鳴る。

 液晶には光が灯る。

 

 手早くサインインを済ませてデータが保管されているファイルを開示した。

 そのファイル名は『診察記録_アビス_517』。

 つまりオペレーターであるアビスの診察結果、その517番目なのだろう。

 それより大きな数字がないためそれが最新なのだとわかる。

 

「何事も、上手くいかないものだ」

 

 諦めと呆れが混ざった声で呟いた。

 悲しむ時期などはとうに過ぎている。

 それが事実であり、受け入れなければいけない現実だ。

 必要である以上はさっさとケリをつけるべきで、大人であるケルシーには容易いことだった。

 

 緩やかに上昇していく致死率のグラフ。

 患者たちに提供してもらった膨大なデータから作られたそれは、鉱石病の影響が突発的或いはゆっくりと著しくなる──つまりは病死する確率を並べたものだ。

 アビスが現在位置するのは30%ほど。

 急性で運び込まれた患者もデータとして複合されているので実際はそれよりも低いだろうが、だとしても二割を超える。

 

 その原因はやはりロドスを抜け出してレユニオンと交戦していたからだろう。

 アーツを使ったのだろう、ロドスに帰ってからの検査では融合率が跳ね上がっている。

 

 それどころか小康状態ですらない。

 何故か、アビスの鉱石病はもはや完全に止めることができていない。

 侵食のスピードからして投薬が効いていないわけではないのだろう。

 

 だが、それでは足りない。

 アビスは次の誕生日すら迎えることなく死ぬ。

 その可能性が高い。

 

 

 それは、間違っている。

 

「いや、違う。間違っていることなどとうに分かっている。だから、これは。私は……」

 

 ケルシーが小さく呟いた。

 

 それは誰にも届かない。

 誰にも打ち明けられない。

 

「……予定が詰まっている。ドクターとの話が余りにも長かったせいか。切り替えなければな」

 

 自分に言い聞かせると、ようやくケルシーの足は動き出した。

 次に何すべきかは分かっている。

 どこへ行けばいいのかを知っている。

 

 足は淀みなく動く。

 手がドアの取手を掴む。

 

 

(かかずら)っては、居られないんだ」

 

 

 足が動く。

 

 手が動く。

 

 頭も動いている。

 

 

 

 ただ、顔だけが。

 

 いつまでも俯いたままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八十六 ある男の生涯

  

 

 

 

 

 

 

 希望は未来にあった。

 屈辱と塗炭こそが過去だった。

 

 

 俺が生まれたヴィクトリアの地はきっと恵まれていたんだと思う。

 都市の位置は中央から少し離れていたが、外郭ではない。

 煌びやかな富裕区に慎ましくも活気あふれる市民居住区。

 それなりの景気を保つ商業区や笑顔ばかりの農業区。

 他よりずっとスラムは小さくて、市長の有能さが表れていたと思う。

 

 他の都市であればスラムが小さいことは大きな問題だ。

 一勢力として台頭できなければスラムの住人は抜け出すチャンスすら掴めず、そうなれば窮鼠が溢れて治安が悪くなる。

 貧民街に多少の権利、つまり余裕を与えることで動向を制御する。

 都市とパイプを持つスラム上りを操り人形にして、表向きは関知しない姿勢を保ちながらも統制するんだ。

 

 それがその都市では違った。

 スラムの縮小に伴って各区の代表が共同で維持することになり、結果スラムは比較的低賃金で働く労働者の区という位置付けに上手くハマった。

 幅を利かせ始めたスラムの住民を良く思わない労働者も居たが、三分割されて働きに出ているためだろう、そこまで不満が表に出ることはなかった。

 

 そんな都市に俺は生まれた。

 大元である統治者の血統からはかなり離れたアスランの血を引いて、穏やかな母と苛烈な父の子として。

 

 家庭は円満なものだった。

 亭主関白の気はあったが、母がそれに従順であったこと、俺がそれを当たり前だと思っていたこと。

 それらは本来歪だったかもしれない家庭をこの上なく安定させた。

 

 変化が始まった切っ掛けは、市長の急死だ。

 スラムの融和政策はまだ完全ではなかったし、景気も少し傾いていた。

 それでも次の市長が上手くやれば何とでもなる範囲にあった。

 急進派に位置する前市長の遺志を継ぐために立ち上がった者は多く、保守派の富裕区民はそれを静観していた。

 かく言う俺の父親も様子見を決め込んでいた。

 

 順当に行けば、前市長の下で働いていた若い副市長が後を継いでいただろう。

 

 それがひっくり返ったのは、スラム出身の立候補者が次々と勢力を取り込んで支持を増やしていったためだ。

 スラムの住人は富裕区出身の副市長が前市長の遺志を継ぐかどうかを測りかねていて、富裕区以外の地区に食い込んだスラムの人脈を利用して成り上がっていた。

 最悪なのは、その副市長が富裕区民であったためにスラムの動向に目を向けていなかったからだろう。

 更に、スラムは自分の味方をするだろうといった先入観があった。

 

 どちらもより良い都市を求めて立候補し、そして健全な方法で全力を尽くしていた。

 多少の賄賂には目を瞑ろう。

 それは混乱を招いてなどいなかったのだから。

 

 そして迫り来る選挙の期間、その直前。

 

 副市長の家族が不審死を遂げた。

 そして同時に、スラムの一部で不審火が起こった。

 両者はそれを即座に相手の仕業だと断じた。

 どちらも同じ未来を夢見ていたが、二つの勢力が鎬を削っていた以上は多少の悪感情が生まれていたのだ。

 もちろんそれだけではないのだろうが。

 

 両者はそれからエスカレートした妨害活動を行うようになった。

 裏社会での武力衝突などは当たり前として、各区長や富裕層を巻き込み資金を湯水の如く使った。

 

 そこで更なる混沌を巻き起こしたのが、自警団だ。

 これ以上治安の悪化を見過ごすことはできない、と市民自警団の総監が選挙に出馬する意思を見せた。

 それは一見無駄な行為だと両陣営からは見られていたが、度重なる衝突に疲弊していた市民は同じ視点を持っていた自警団の総監に多大な期待を見せた。

 

 三つ巴の選挙戦。

 選挙期間に入ってからの都市は地獄だった。

 三勢力がどこで聞き耳を立てているか分からず、常に治安維持の名目で自警団員が市内を闊歩し、裏では武力と財力と権力がぶつかり合っている。

 

 市議会に送られてくる嘆願はあっという間に許容量を超え、しかし議員たちは介入を良しとしなかった。

 それがこの都市の状況をより悪化させる一石だと分かっていたからだ。

 そしてその判断は貫かれた。

 選挙管理委員会と市議会は最後まで中立の姿勢を見せ、投票は不正なく執り行われた。

 

 結果は副市長の当選。

 中立だった富裕層からの支持をもぎ取った彼は見事自警団とスラムのリーダーを抑えて市長となった。

 

 だが今になればそれは間違いだと分かる。

 候補者の中で誰よりも復讐の炎を燃やしていた彼を当選させるべきではなかったのだ。

 逆行するような、前市長とはそれこそ正反対のスラムに害意さえ見られる政策。

 真っ向から反対した議員は、市議会どころかこの世からも退席させられた。

 自警団は法律に縛られて手を出すことができず、スラムはその政策に追い詰められていく。

 

 市長の悪意は止まることを知らなかった。

 抗争とすら言える三勢力の衝突を乗り越えた先に待っていたのは市長による市議会の私物化と悪政。

 悪意を向けているスラムのみならず一般市民や自警団が彼に隔意を持った。

 しかし市長は前市長の行政による政策を悪用し、合法的に弾劾されることのない立場を作っていた。

 

 

 クーデターは起こるべくして起こった。

 

 市長が独自に保持していた、市民に圧力をかけるための私設部隊が自警団らとぶつかった。

 クーデターが起こることを予見していたような正規軍の人員援助、富裕層のスポンサーが供給する資金力はそれらの全面的なサポートに回っていた。

 

 火の手は富裕区に回っていた。

 資金援助の元を断ち切るために回された市民自警団部隊と富裕区を管理していた高等市民自警団が衝突。

 

 市民居住区、商業区、農業区の治安を維持する市民自警団と犯罪が元々少ない富裕区のみの管理を目的とする高等市民自警団では、旗色など火を見るより明らかだ。

 

 富裕区は陥落し、資金を断ち切られた行政区の市長も捕縛された。

 残っているのは正規軍のみであり、形勢を見れば撤退すると思われていた。

 何しろ彼らには戦う理由がない。

 クーデターが成功してしまったのなら必ず退くだろうと誰もが思っていた。

 

 しかし実際には違っていたのだ。

 正規軍はどこからか軍の正装を纏ったサルカズたちを連れてきて、更なる戦闘行為に励んだ。

 名目は国家の転覆を目論み叛逆行為を行った市民団体の拘束。

 それはきっとカズデルからヴィクトリアを眺めていたあの王が関係していたのだろう、容赦のない元傭兵たちによる制圧が始まった。

 

 勢いに乗っていた前市長の死。

 スラムの不審火、副市長家族の不審死。

 まるで予見されていたような援軍。

 

 どの勢力にも彼らのスパイが存在していて、戦力でも上回られて、勝ち目などどこにもなかった。

 

 制圧の後、頭は国から派遣された誰だか知らないフェリーンに差し代わり、議会もスパイだったらしい市民で一新された。

 最初からそれだけが目的だったわけだ。

 

 国に狙われなかった富裕区は他の区民から多くの反感を買うことになった。

 資金のほぼ全てを吐き出し、家々の稼ぎ頭だった市議会員たちは職を失っていて、俺たちに出来ることなど都市を出ることだけだった。

 

 待っていたのは地獄だ。

 大した金も力もない俺たちは路頭に迷い、手伝いやら乞食の真似事でどうにかして食い繋いでいた。

 一緒に行動していた元富裕層の誰かが鉱石病を発症して、それに俺たちは一切反応しなかった。

 ただ、日銭を稼ぐことが多少難しくなる。

 そのくらいの認識だった。

 

 一人、二人と倒れていった。

 俺たちの行動範囲は専らスラムになっていた。

 出身市のスラムとは違って──いや、今はもう同じか。

 他の市民から風当たりが強く、理由のない暴力が横行するスラムを生きていた。

 

 汚れ仕事に鉄砲玉。

 俺たちはなんでもやった。

 そしてマヌケなヤツから死んでいった。

 逃げ損ねて殺されたヤツ、報酬が支払われず飢え死にしたヤツ、金に目が眩んで怪しすぎる仕事を請けて帰ってこなかったヤツ。

 

 中でも一番マヌケだったのは家族に裏切られて死んだヤツだ。

 威張ることしか脳がない男に、何も自分で判断できない弱い女。

 

 俺は反吐が出るほど嫌いだった。

 だから騙して殺してやった。

 目から溢れている涙の意味を理解できずに、俺は死体から僅かな金と衣服を剥ぎ取った。

 

 

 あの都市から逃げて生き残っているのは、いつのまにか俺一人だけになっていた。

 弱かったからだ。

 頭が足りなかったからだ。

 運が悪かったからだ。

 自尊心を捨てられなかったからだ。

 

 大事なものを持っていたからだ。

 

 

 爺さんと出会った。

 俺は善意を利用して食い物にしてやろうと考えた。

 それは当然のように失敗した。

 何もかも見透かされて、全ての手札が封じられた。

 

 経験が足りなかった。

 最後にまた自分に足りないものを見つけた。

 足りないものばかりだった。

 足りない俺が生き残るべきではなかった。

 

 埋めるために切り捨てたものの名を呼んでいた。

 俺が少しの間生きながらえるためだけに死んだ、愛しい家族の名前を呼んだ。

 

 シルヴェスターは俺を殺さなかった。

 あの爺さんが何もかも足りていない俺を見て何を思ったのかは知らないが、俺にとって爺さんは足りないものを埋めてくれるかもしれない存在だった。

 ずっと見ていた。

 次第に尊敬が生まれた。

 この爺さんは俺とは何もかもが違う、優れた人だと思った。

 

 シルヴェスターの爺さんはとんでもない人格者だった。

 時には裏切られることだってあるが、それは爺さんの長所と言える。

 人を信頼し、使ってやれる。

 

 俺もその信頼に与った。

 龍門のスラムでトップになった。

 富裕区で怠惰に過ごしていた俺が見れば失笑ものなんだろうが、その時の俺からすれば王の座にも替えられない価値があった。

 

 シルヴェスターの爺さんはその後商売相手に裏切られて死にそうになることもあったが、無事に切り抜けたらしい。

 俺と同じように爺さんを尊敬しているガヅィアの野郎とも連携を密にして、何一つとして失敗を許さないよう立ち回った。

 

 

 そんな折、爺さんが死んだ。

 

 

 呆気のない最期だった。

 俺に会おうとスラムを訪れて、鉱石病の発作が起きて、そしてそのままポックリ死んだ。

 ガヅィアに伝えた時、壮絶な顔をして、そうかと一言だけ言った。

 俺も同じような顔をしていたはずだ。

 

 咄嗟のことで十分ではなかったが、隠蔽工作は完了した。

 シルヴェスターをよく思っていなかった商業組合の重役が軒並み精神病棟にぶち込まれていたことが幸いした。

 

 それも、長くは続かなかった。

 とある筋から近衛局の犬であるコータスが爺さんについて嗅ぎ回っているという情報が入った。

 真正面から俺のところまで来て聞いていたなら、きっと殺す気は起きなかった。

 それが仕事だからだ。

 

 だが情報によれば、その女は近衛局と共にレユニオンを追っ払ったロドスとかいう組織の構成員を騙くらかしていたと言う。

 そのやり口がどうにも気に入らなかった。

 昔の俺と似ていたからだろう。

 ただの八つ当たりだったが、その怒りはガヅィアからの連絡でいよいよ形になった。

 

 スラムを訪れた時を狙って俺は仕掛けた。

 親愛なるシルヴェスターの爺さんを、名誉と共に葬送してやるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なんだ、今の夢は」

 

 ベッドの上でアビスは困惑した。

 それは言うまでもなく、見ていた夢が理由だ。

 

 スラムで対峙したアスランの大男、その人生をどういうわけか追体験した。

 存在しない男の記憶が今なお脳裏に刻まれている。

 自分の記憶ならともかく、他人の記憶を覗き見ることなど絶対に不可能なことのはずだ。

 であれば今の夢はただの妄想だったのだろうか?

 

 鮮烈に焼き付けられた惨状。

 倒れていく彼の仲間と、骨の髄まで利用して殺した彼の家族が発した怨嗟の声。

 擦り減っていく正気と擦り切れていく感情に何の感慨も抱かない彼の考え方。

 

 明らかにただの夢ではなかった。

 況してや、妄想などでもない。

 

 

 

 ──俺もお前も、全てが足りねえな。

 

 

 

 声が聞こえた気がした。

 いやにハッキリしている空耳だ。

 

 喉が渇いている。

 端末で確認した時刻は、いつも起きている時刻より幾分か遅い。

 特製ビスケットを口にしながら着替えを済ませる。

 もはやこの味には慣れてしまったのだが、何故だか今日はとても美味しいように感じる。

 それはきっと、昨日ロドスの調理設備に多大なダメージを与えつつも完成した、してしまったあの料理のせいだろう。

 やはりカッターに料理は向いていない。

 

 変化が次々と起きている。

 あの日からまともに話せていないエイプリルやシーのこと、近くに置きたがるドクターやオペレーターになったカッター。

 この世界が絶えず変わっていく。

 

 それはナインもそうだろう。

 

「ナイン、起きて」

 

 原因不明の病状悪化。

 まるで訓練室爆破事件の時のボクみたいに、融合率がとんでもなく上がっていたらしい。

 そのせいでナインの呼吸器は傷つけられた。

 もっと言うなら、肺だ。

 

 発見された時、ナインは甲板で溺れていたらしい。

 内側まで傷つけられた肺の中に血が溜まっていき、呼吸が上手くいかず、当然ながら緊急治療室に運び込まれた。

 

「……嫌な夢を、見た」

 

「ナイン?」

 

 上半身を起こして、ナインがアビスの腕を掴む。

 目の奥が揺れていた。

 

「お前まで死んだら、どうすればいいんだ。(よすが)はお前以外、全部消えてなくなった。オレはどうすればよかったんだよ、どうしてこんなことになったんだよ。なあ……」

 

 子供には──人には、二種類ある。

 いつまでも幻影に縋っていられる者と、現実が目に入ってしまう者だ。

 アビスは前者でナインが後者。

 消化しきれない憎悪と親愛の狭間で、ナインはどうしようもない現実に突き放される。

 先駆者(アビス)は無責任にも死ぬらしい。

 全ての発端でありながら、共に残った仲間でありながら、仇という楔でありながら、ナインを見捨てて逃げ出してしまう。

 それが許せないようでありながら同時に仕方がないと思ってしまえる自分の客観性が、今だけは嫌いだった。

 

 盲目な馬鹿になって前だけを見られたらいいのに。

 ナインはため息をついて、血の匂いにむせた。

 

「かはっ……あぁ、クソ。まただ」

 

 気泡を含む、痰混じりの液体。

 肺から吐き出された血液が手に広がる。

 

 肺の中にはきっと幾つもの壊れた組織片が溜まっているのだろう。

 何度も手術を繰り返さなければ完治しない。

 だがそれまでの辛抱だ。

 これまでの我慢と比べればなんてことはない。

 そんなナインを何とも形容し難い顔で見守るアビス。

 

「ナインは、生きたい?」

 

 自然と口から出ていた。

 夢の影響だろうか。

 

 ナインは面倒そうに答える。

 

「死ぬまでは生きてやるさ。カインにもらった命を簡単に投げ捨てられるほど、オレは強くない」

 

 アビスは何も言わなかった。

 ただその言葉を肯定するように、丸まったナインの背を撫でていた。

 

 肺の奥に違和感を覚えて、咳を予感する。

 真っ赤に染まった手で受け止めた。

 

 背を撫ぜる手の優しさで、少しだけ、ナインは泣きそうになった。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八十七 ドクターとライサの仁義なき戦い

 

 

 

 お手洗いから帰ってくると執務室のドアに数名のオペレーターが集まっていた。

 その中にはナインや、カッターの姿まであった。

 何があったんだろう。

 思い当たることはない。

 

 近づくとカッターがボクに気付いた。

 

「何かあったの?」

 

「やっと来た。早く止めた方がいいよ」

 

「止める? えっと、ボクが?」

 

「とにかく見て。すぐに分かるから」

 

 本当に何があるんだろう。

 ドクターが必死に筋力トレーニングでもしてるのかな。

 最近意地悪が過ぎた気がする。

 今度からは控えておこう。

 

 隙間から覗くために近づくと声が聞こえてきた。

 何やら聞き覚えのある二人分の声。

 

 それなり以上に広い執務室の中からここまで響いてくるってことはかなり大きな声で話してる。

 喧嘩でもしてるみたいだ。

 

 嫌な予感がする。

 

 なんだかすごく嫌な予感がする。

 特にこれは、そう。

 最近学習したドクターが先に袖を掴んで泣いて縋り付く時みたいな。

 

 面倒事の予感。

 

 振り返る。

 さっきまでドアに張り付いていた人たち全員の顔に「早く行けよ」と書いてあった。

 ナインに背中を小突かれた。

 逃げ道がどこにもない。

 

 仕方がないかぁ、もう。

 

 

「ただいま、ドクター。それでラユーシャはどうしてここにいるの?」

 

「おう、おかえりアビス。すぐに摘み出すから待っていてくれよ」

 

「余裕ぶってんじゃねえよカス」

 

「足掻いても無駄だストーカー」

 

 ドクターが失うものは何もない。

 オペレーターの御機嫌取りが不要になった彼女はラユーシャと真っ向から喧嘩していた。

 その光景が目新しく映らないのは、つい先日ケルシーと繰り広げたばかりだから。

 

 元の口調が端々で滲んでいるから、本当に怒ってるのかもしれない。

 

「ねえアビス、嘘だよね」

 

「何が?」

 

「ドクターにプロポーズしたって」

 

「一体何がどうしてそんなことになってるんだ!?」

 

「ほら嘘じゃん! バーカ!」

 

 本当にどういう話だよ!

 プロポーズなんてリラにだってしたことない!

 っていうかドクターは僕がプロポーズしたら真っ先に受けてるだろ!

 

「思い出せよ、アビス。『ボクのために毎日紅茶を淹れてほしい』って言っただろ?」

 

「はぁ!?」

 

 言ってるわけがないだろう、そんなこと!

 ドクターの紅茶は確かに美味しいから最初に飲んだ時は衝撃だったけど……

 

「あっ」

 

「えっえっ」

 

 言った。

 言ってた。

 初めて飲んだ時に言った。

 

「い、いやいや、プロポーズなんて、そんな……」

 

 そんなつもりで言ったわけじゃない。

 断じてプロポーズじゃない。

 だってあの時はドクターが男だと思ってたから言っただけで、そんな意図はない。

 

 そう否定するボクを見るラユーシャの目から光が失われていく。

 ぐるりと機械的な動作でドクターの方を向いて、「殺せば解決するよね」なんてことを言ったのが聞こえる。

 

 そ、そんなことより、本当にそういうつもりじゃなかったんだ。

 リラに誓ってそんなことはない。

 

「……な、なあ。一旦落ち着こうぜ? まだやり直せるだろ? それとアビスは迅速に帰ってこい。俺が今超ピンチだから。あ、ちょ、やばいって、やばいってやばいやばいやばいやばい死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!」

 

「死ねェッ!」

 

 白刃が空を切り裂く。

 鋒が描いた扇の斬撃がフードを掠った。

 

 ドクターの体が竦み上がった──瞬間に落ち着きを取り戻して構えを取る。

 

「どっ、ドクター神拳!」

 

「猪口才なァ!!」

 

「猪口才なんて言葉を使っていいのはケルシーみたいな老人だけだッ!!」

 

 繰り出されたドクターの手は緩慢であっても正確だ。

 基礎体力だとかそういうものは不足していても、技術に関してドクターはある程度まで観察して模倣できる。

 

 一歩下がって長物を往なし、もう一方の手から閃いた短剣の腹を手で打つ。

 どうやらボクのサポートがなくても戦えるみたいだ。

 

「なあもう立ち直ってるよな!? 黙って見てないで助けてくれよ!!」

 

「ドクターなら大丈夫、もう少し頑張れるよ」

 

「おいいぃぃぃ!!」

 

 ボクの目から見ても及第点をあげられる足捌きと適切な間合いの管理で攻撃を躱していく。

 攻めているラユーシャはまだ新人だけど、それを避けられているのは素直に上手いと思う。

 

「小細工ばかり弄しやがってぇッ!」

 

「だからそれは──うおおぉッ!!?」

 

 ラユーシャの目が真っ黒に染まる。

 ドクターの冷静な観察力やギリギリまで引きつけられる豪胆さから、これ以上の剣戟を無駄だと思ったんだろう。

 

 アーツが体を引き寄せ、ドクターは即座に重心を倒して踏み止まった。

 うーん、対応が冷静かつ効果的。

 初見殺しでさえドクターには効かない可能性がある。

 

 とは言えそんな体勢でラユーシャの凶刃から逃れ得るわけもない。

 今回に限ってはドクターの負けだ。

 

「はいはい、終わりだよ。ラユーシャ」

 

「あ、アビス……」

 

 ドクターの前に割り込んで刃を止める。

 ラユーシャ程度の力ならまだまだ無傷で止めることができる。

 ドクターよりはずっと力も強いけど、総合力で言えばラユーシャの戦闘能力はそう高くない。

 剣筋も荒削りだ。

 

「どうして止めるの? ドクターなんだし片目くらいならいいでしょ? アビスもそう思ってるよね?」

 

「一旦武器を仕舞おうか。人を話す時はそんな物騒な物を持つべきではないよ。あと、片目くらいならいいけど、完全に殺すつもりだったからね」

 

「よくないが? お前らの判断基準どうなってんの?」

 

 ボクに庇われたままドクターが抗議する。

 今、ボクがドクターを差し出せば、ラユーシャはどうするんだろう。

 

「離れないからな」

 

「あはは、離さないよ」

 

 頭の中を透かしたドクターがボクの服を掴む。

 それくらいやってのけるだろうって思ってたから心を読まれたくらいでは驚かないけど、それは煽ってるの?

 

「煽ってるって、何を……」

 

 ガッ、と音がするくらいに強く。

 ドクターの肩にラユーシャの手が食い込んだ。

 

 ボクに対する殺意だったら反応できていたかもしれない。

 でも素の状態では、今の瞬時に移動したラユーシャを捉えることが出来なかった。

 

 

◯◯◯◯(ピーーーーー)

 

 

 ラユーシャは普段怒らない。

 不機嫌な時とか、ボクに関することで起こってるように見えることはあるけど、あくまで言うだけ。

 ボク以外に実害を与えるようなことはしない。

 今さっきの攻撃だって戯れだ。

 ボクがいて、止められるって分かってたからこそ本気で殺しにかかった。

 

 それで、これがキレてる時。

 

「ぎゃあああああああ!!!!」

 

[自主規制](ピーーーーーー)[自主規制](ピーーーーーーー)!!」

 

 リラには聞かせられないくらいの汚い言葉遣いと共にドクターの体が吹っ飛んだ。

 寸前でボクが体を引いてなかったら今ので意識が飛んでいてもおかしくない。

 

 部屋のそこかしこに力場が発生して、あらゆるものがそれぞれの一点に吸い寄せられる。

 

 ラユーシャのアーツは特殊だ。

 特定の物質を集める力場を作ることができる。

 それはたとえば服に使われる高分子有機化合物だったり、空気中の酸素分子であったり、カルボキシ基であったり。

 

 本当にキレた時はなりふり構ってないだろうし、今のキレ度は十段階中で六ぐらいかな。

 

「ドクター、動ける?」

 

「……無理」

 

 服と体が別方向に引っ張られて、ドクターの体が変な体勢になっている。

 これはラユーシャの攻撃を避けることなんてできない。

 かく言うボクだって体の自由はあっても、アーツの影響がないラユーシャより動くことはできない。

 

 対処法は二つだけ。

 一つはボクがアーツを使うこと。

 これはドクターが背後に居るからできない。

 

 もう一つは、やりたくないけど。

 やるしかないか。

 

「ラユーシャ」

 

 怒りに我を忘れてドクターへと突進する。

 それになんとか割り込んで腕を広げる。

 

「おいで」

 

「……ふ、ふわぁ」

 

 頭から突っ込んできたラユーシャを力の限り抱きしめる。

 ここで少しでも力を抜くと簡単に抜けられるから注意が必要。

 

「大丈夫、ボクが居る」

 

「にゃっ!?」

 

 ラユーシャの怒りは基本的に、その依存感情が高まってしまった場合にしか生まれない。

 だからそれを鎮めてあげればちゃんと落ち着く。

 

「安心して。ボクを信じて」

 

「はうぁ」

 

 よし、戦意はなくなった。

 小さく抵抗を感じながらも引き剥がす。

 

「どうだろう、冷静になったかな。しっかり頭は働いてる? ボクのことはもう見えてるね。落ち着けて偉いよ、ラユーシャ」

 

「は、はい」

 

「今回はドクターも悪い。でも手を出すのはダメだよ、分かったね? 大丈夫、ボクはここにいる」

 

「……はい」

 

「君はちゃんと、ボクの大切な人だ」

 

「……」

 

 ここまで言えば大丈夫だと思う。

 部屋中に散らばっていた力場が霧散しているし、耳も垂れている。

 

 ラユーシャの顔色を伺う。

 どうして無言のままなんだろう。

 言いすぎて胡散臭かったかな。

 

「お、お……お邪魔しましたぁぁぁ!!!」

 

「うわっ!?」

 

 執務室を爆速で飛び出して行くのを見送った。

 ドアの向こうで待機していたオペレーターたちが目を真ん丸にしている。

 とんでもない速さだった。

 どうして逃げたのかは疑問だけど、今は倒れているドクターが心配だ。

 

「ドクター、怪我はない?」

 

「私も言われたかった」

 

「はいはい大切大切」

 

 手を貸して起き上がらせながら雑に対応する。

 起き上がってすぐ、ドクターは大の字に寝転がった。

 プラスチック製のボールペンだとか髪の毛だとかが床に散らばっているから、それを早くどうにかしないと。

 

「どうしてそう意地悪なんだ。君が与える幸せは、一歩踏み外せば同じだけの絶望を私に与える。それならもう、何も言ってくれるなよ……」

 

 面倒な状態のドクターにはもう慣れた。

 適当にあしらっておけばいいんだ。

 未だに中へ入ってこないあの人たちが動き出せば、どのみち以前のドクターに戻るだろうし。

 

「アビス、これはどこに仕舞えばいいんだ」

 

「それならたしかそこのペン立てに……って、ナイン。いつのまに入ってきてたの? 手伝ってくれるのは嬉しいけど」

 

「今さっきだ。おいドクター、起きろ。起きろって。声小さくて何言ってんのか分かんねえよ。情けないって思わねえのか? おい。聞いてんだろ?」

 

「容赦ないなぁ」

 

 ドクターが手刀でバシバシ叩かれてる。

 ナインの言葉は相変わらず辛辣だ。

 上司に言っていいフレーズじゃ絶対にない。

 

 一応容態が安定したってことで歩き回ることは許可されているけど、発作の原因が解明されてない以上はいつ再発してもおかしくない。

 ドクターはそのあたり把握してそうだから、というかボクよりずっと顔色を伺うことに──二つの意味で──長けてるから、丸ごと投げておこうか。

 

「用があんだよ。さっさと片付けんぞ」

 

「アビスに言ってくれ、俺はもう無理だ……」

 

「何発殴れば起きるか試してやるよ」

 

「暴力反対!」

 

「うるせえ!!」

 

 中に入っていたボールペンが暴れたようで、吹っ飛んでいた引き出しを元通りに直した。

 そうしているうちも喧嘩を続ける二人。

 

「やめなさい、二人とも。ナインは三下みたいな喋り方をやめて、ドクターはさっさと自分で起きなよ」

 

「さっさと起き上がらせたいなら起こせば解決するだろ。指咥えて見てるだけが正解じゃないんだぞ」

 

「もうお前がどうにかしろよ」

 

「ボクがどうしてドクターの世話を焼かなきゃいけないんだよ」

 

「なんだとー!? そんなに拒絶してると大の大人が泣き喚くぞ! それが見たいのかよ!」

 

「常日頃から泣いてるドクターがそんなこと言っても効力なんて無いんだよ!」

 

「うわ、マジかよ……引くわ……」

 

「は? 泣きそう」

 

 勝手に泣いてなよ、バーカ。

 ドクターのことなんてどうでもいいんだ。

 ボクと同じように諦めたらしいナインと二人で部屋の片付けを進める。

 

 ボクはドクターにとって都合がいいんだろう、それは知ってる。

 それだったら別にラユーシャと同じだ。

 だけどドクターはやり方が酷い。

 手段を選ばないっていうか、何もかもを利用しそうなかんじがする。

 

 ──けど。

 

「ああ、もう。分かったよ」

 

 本当に泣き出したドクターの手を取って起こす。

 

 ボクを思い通りにしようとするのは正直気に入らないけど、その感情を出されたら、見せつけられたら、ボクだって動かないわけにはいかないんだ。

 それを知ってるのはボクだけじゃなくたって、理解してあげられるのはきっとボクだけだから。

 

「私を、見捨てないでくれ……」

 

「見捨てないから引っ付かないで」

 

 べりべり引き剥がせばすぐいつもの声に戻った。

 やっぱり嘘泣きか。

 ドクターは涙を自然に流すことなんてあるのかな。

 少なくともボクに関してのそれは全部偽物なんだから。

 

 ……そう分かっていて助けてしまうのは、もう、仕方がないと割り切るしかないか。

 

 切り替えるために、そういえば、とドアの方を見る。

 あれほど居た観衆はどこかへ消えていた。

 カッターの姿どころかドアの隙間が閉じられている。

 ドクターが「私」口調にしたのも、どうせそれを冷静に確認したからだろう。

 

 それで、ナインはどうするのか。

 

「オレは何も見てない。それにオレは男が男を好きになってもいいと思う。オレは何も見てない」

 

「私は女だ」

 

「……マジかよ」

 

 素直に自白するドクター。

 ああ、そうだ、昨日あたりに言ってた。

 ボクという居場所を見つけたことで、もう好かれるために騙すなんてことはしなくてもいいらしい。

 ただ、それを言うってことは当然ながら今まで騙していたことも自白することと同じ。

 だから慎重にならないといけない。

 

 ドクターはその足掛かりとしてナインを選んだのだろう。

 ナインはロドスに来てまだ日が浅いから、オペレーターの方々よりはショックも小さいだろうし。

 

「意図は何だ?」

 

「舐められないためだとか、騙していた理由はその方面だな。明かした意図は、地盤が完成したことでそれが不必要になったからだ」

 

 ……恐怖は隠すのか。

 

「それで、コイツとはどんな関係だ」

 

「誤解を恐れずに言うのであれば、惚れているようなものだ。私は出来得る限りの時間をアビスと二人で過ごしたい。それこそ、寝食すら共にしたいと思っているのだが……」

 

「ボクにはリラが居るから……」

 

「無理だろ」

 

 ナインの目が呆れたように細められる。

 何だよ、別にボクがどうしようもないヤツってわけじゃないだろ。

 ただリラが愛おしすぎるだけなんだ。

 

「ちなみに、リラはこんな感じの子ね」

 

 リラ──違う、ナインか。

 アーツがあの頃のリラを再現する。

 鉱石病の進行に関係があるかもしれないアーツだからボクが頼むことは出来ないけど、こうして見ると、ずっとリラを見ていたい気持ちでいっぱいになる。

 

「ちょ、ちょっと、撫でないでってば」

 

「……ごめん」

 

 抱きしめて、強く抱きしめて、目を瞑る。

 リラが帰ってきたと強く叫び出す感覚に、ただの幻覚だと言ってそれを押しとどめる理性。

 体が震えるほどに情動が乱高下する。

 

「もう、仕方ないなあ。ちょっとだけだよ?」

 

 そう言ってリラ(ナイン)は背中を摩ってくれた。

 鮮烈なまでに根付いたリラの思い出が五感の全てを圧倒して、目から涙が溢れそうだ。

 

 絶対に守るって。

 そう誓ったはずなのになぁ。

 

「はい、終わりっ!」

 

 リラ(ナイン)がボクの腕を押し除けた。

 

「あれ、ナイン。いや、ああ、そっか。そうだった。ごめんね、付き合わせちゃってさ」

 

「構わねえよ。オレだって痛いほど分かってるつもりだ。別段好きでもねえがな」

 

 ナインは小さく笑った。

 少し前に、ボクの執着を確認できることはナインにとって嬉しいんだってことを聞いた。

 孤児院の日々を忘れられない仲間。

 そう感じてくれているのかもしれない。

 

 ナインの言葉を振り返っていると、今まで黙っていたドクターが突然ナインの肩を掴んだ。

 

「なあ、ナイン!」

 

「……んだよ」

 

「そのアーツを私にかけることは出来ないか!? お願いだ、どうか私をリラに変えてくれ!」

 

「嫌に決まってんだろうがカス」

 

「当然対価は払う」

 

「嫌に決まってんだろうがクズ」

 

 ナインがドクターの手を振り払って睨む。

 それは当然のことだ、ボクだって邪な目的で自分のアーツを使いたくなんかない。

 ドクターは変な風に思い切りがいいから良識を信じることも出来ないし、バッサリ言ってしまえば、何を仕出かすかわからない。

 

 それに。

 

「ドクター、ナインのアーツは負荷が大きいんだ。一つ一つが微々たるものだったとしても、油断を許さない今の状況からして、ナインにアーツを使わせることはできないよ」

 

「リラの姿を見たくないのか?」

 

「いつかの夢を見るくらいには見たいって思ってるよ。それでも我慢してるんだ。ナインはボクに残った最後の家族だから」

 

 忌々しい祖母や従兄妹のことは知らない。

 ナインだけがボクの家族なんだ。

 

 だからボクはナインのことを大切にしたい。

 優先順位は一番上ってほどでもないけど、大抵のことより、たとえばボクの醜い執着よりは上の方だ。

 

「ナインの鉱石病が治療できて、アーツでリラの幻を作ってもらって。そうやって過ごせるならきっと悪くないんだろうけど……」

 

 ドクターを見る。

 

「それよりずっと先にボクが死ぬから」

 

 紛い物とは言え、ナインが映し出すのはボクの記憶。

 独りよがりで自己完結ばかりしているボクにはお似合いだ。

 だけどそれまでこの生は続かない。

 

「諦められるのか?」

 

「ドクター、ボクがこの人生でどれだけ諦めてきたと思ってる? 答えは性根に諦観が染み付くくらいだよ。届かないものを眺める趣味も、手を伸ばしてみるほどの意欲だってもうないんだ」

 

 諦めきれないことがあって、それを諦めなければいけないことなんて誰もが経験することだ。

 それならまだ諦めもつく。

 そういう世界に生まれてるんだ、仕方ない。

 

「それによくあることだろう、最後の最後で掴んだ希望がとっくのとうに手遅れだったことなんてさ」

 

 陳腐極まりない結末だ。

 いつまでも変われないテラでは、きっとそれ以上のハッピーエンドなんて用意されていない。

 だから諦めるんだ。

 これが普通で、最悪ではないんだって。

 

「リラが居ないこの世界に執念深く縋る必要もない。ボクはずっと前から……ああ、いや、ドクターには話してなかったね。とにかく、そういうことなんだ」

 

 ドクターは何も言わない。

 じっとボクの方を見つめているだけだ。

 

 ナインは複雑そうな顔だった。

 ボクはナインにとっても唯一の家族で、その繋がりを大事にしていると同時に先立とうとしているからだろう。

 でも、ボクに止まる気はない。

 ナインはロドスで働けばいいと思う。

 それより先のことを保証なんてできないけど。

 

「さあ、さっさと片付けよう」

 

 ラユーシャが散らかしたこの惨状をケルシー先生だとかに見られるのは面倒くさい。

 

 それに今は顔を見たくない。

 勘違いじゃなかったら、あの人ってボクのことを監視してるから。

 毎日廊下ですれ違ってはあの人の方から声をかけてくる。

 気付いたのは一昨日だけど、どれだけルートを変えても当たり前のように居たから回避不可能なイベントだって思うことにした。

 

 多忙とは思えないあの人のことを考えながら書類を束ねて拾い上げると、ドクターがこちらを見ていることに気付いた。

 

「ドクター?」

 

 何も答えない。

 何の反応も見せなければ当然感情だって読み取れない。

 ボクのこれはアーツじゃなくて、ただの勘に近いものだから。

 

「私は大丈夫だ。すまない、手を止めてしまって。少しだけぼうっとしていただけなんだ」

 

「フォリニックさんでも呼ぼうか?」

 

「そう笑いながら揶揄わないでくれ。勘違いしてしまうだろう、私が」

 

「……控えるよ」

 

 ドクターは小さく笑って執務室に併設された休憩室の方に向かった。

 冷蔵庫の中身が暴れ回っていただろうから、それはボクが後で手伝おう。

 

 ドクターはボクに背を向けた。

 小さくため息をついて、儘ならないものだと愚痴をこぼす。

 

 ボクにその声は聞こえなかったけど。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八十八 反・哲学的ゾンビ

 

 

 

 

 

 その世界には空間がなかった。

 あるのはたった一つの意識と時間。

 彼女は彼女の姿を(かたど)ることなく、多数の同調させた感覚と感情から外の様子を眺めていた。

 

「ナインはまあまあ弱ってるかな。私との約束破ったんだから、あれくらい当然だよね」

 

 青年から渡されたタオルで口を覆い、喀血(かっけつ)する少女を見て、聞いて、感じて、笑う。

 

「でも看病されてるんだね。……さっさと殺そうかなぁ?」

 

 起爆剤のスイッチは持っている。

 いつでも背中を押すことができる。

 一度しか干渉していないのは、今この状態で青年が深く悲しむようなことがあれば、あの猫医者がすぐにつけ込むだろうと分かっているからだ。

 

 粘りつくような殺意が滲む。

 アーツで作り上げた世界を破壊されたのは別にいい。

 苦労したが、苦労したところで、作り上げたものに愛着など湧かない。

 失って怒るのは価値があるものだけだ。

 

 自分にとって価値があるのはあの青年のみ。

 それ以外の全ては塵芥に等しい。

 

「それにしても困るよ。猫医者は元からだけど、超常生物と不審者まで反対の立場に立つなんてさ」

 

 意中の彼は魅力的が過ぎるようだ。

 中立だった超常生物が、彼女の世界を斬り裂いてまで助けに動いた。

 彼を応援していたはずの不審者は彼を唯一安心できる場所として色々動き始めている。

 このままでは不味い。

 彼が前を向いてしまう。

 

 既に一石は投じている。

 その波紋を皮切りに、今度からはもっと大きく干渉していくつもりだ。

 

「絶対振り切らせないから……」

 

「容赦ねえなあ、姐さん」

 

 ふと、割り込んでくる存在があった。

 意識の中で生まれたもう一つの意識。

 

「あ、トラ」

 

「ライオンだ」

 

 もっと言うならアスランだ。

 彼は不機嫌そうにする。

 あくまで模倣品だが品質はそう悪くない。

 記憶までコピーされているのだから、その労力に見合ってもらわなくては困るのだが。

 

「ライオンね、ごめんごめん。それで? 私のやり方に不満でもあるの?」

 

「不満なんて言ったら消すだろうが。まあ消されたところでって話だが、ともかくそんなつもりはねえよ」

 

 一番槍は彼に任せた。

 それは自分の死に対して一番納得していなかったからだ。

 誰かの陰謀に巻き込まれて故郷を追われ、逃げた先でも尊敬する人を失い、良いように利用されて幕を閉じた。

 

 その強い悔恨は青年の脳に刻みつけられるはずだ。

 過去を見せるに十分な熱量を持っているだろう。

 

「あーあ、二人きりなら⬜︎⬜︎とが良かったな」

 

 男の意識が少しの間沈黙する。

 やがて口を開いた。

 

「リラ、愛して──」

 

「不快。その猿真似は二度としないで。私の、私だけの⬜︎⬜︎を二度と騙るな」

 

「すんません」

 

 意識だけの世界なので声──正確には伝達された思念に付属するイメージ──はそのまま同じものを模倣できる。

 それでも一欠片さえ喜色を見せなかったのは、彼に言われたという事実が大切だからか。

 

『大好きだ』

 

「うぐっ……」

 

『愛してる』

 

「う、ううぅ……」

 

 この世界に招いた時、彼が言っていた言葉。

 試しにと模倣ではなく再現してみたが上手くいったようだ。

 彼に言われたことで動揺したのではなく、彼に言われたことを思い出して動揺しているのだろうが。

 

「私も愛してるよ……っ!」

 

 少女は録音された音声に返事をしてしまう重い女だった。

 それもかなりガチの返事である。

 片思いを拗らせた者の末路だろう。

 

「無理矢理にでもキスしとけばよかったな、前回」

 

 あの世界は本懐すら遂げることなく壊されてしまったが、青年だけは終始想定通りに動いていた。

 こちらからの理解度で言えば青年も少女も超常生物も変わらない中で、だ。

 彼以外を抑えてしまえば、全ては想定通りに上手くいく。

 

「……出てきたのは、あの傭兵か」

 

 男のイメージしているものが少女に伝わる。

 それは最近ロドスに入ってきた狐の傭兵だ。

 

「んー? ああ、その人ね。まあ、どっちに立つかで私の出方も変わるかな。龍女は上手く動けないし爆弾魔も牽制されてるし」

 

 干渉の前提を満たしていない以上は様子見だ。

 狐の傭兵は以前青年と話していた頃からかなり時間が経っているので、考え方が変化している可能性も高い。

 

「まあ、でも大丈夫じゃない?」

 

 しかしそれを含めて無駄だと断じる。

 その思念には仄かな安堵と優越感に満ちている。

 

「……過去に向き合おうとすらしてない人が私の⬜︎⬜︎を奪おうだなんて、絶対に無理だから」

 

 アスランはそれに何も返さない。

 迂闊に踏み込めば危険だと知っているからだ。

 自分の意識がいつ掻き消えようとも構わないが、八つ当たりで彼らに被害が出るのは看過できない。

 

「だから本当に警戒すべきはこの兎」

 

『捕まえた。もう逃げないでよ?』

 

「あー、本当にイライラする。なんなの、私より気配ってもらってさ、馬鹿じゃないの? ……自分との約束蔑ろにされたくらいで、何もわかってなんかないくせにっ! 何も知らないくせに!」

 

「落ち着けよ、姐さん」

 

「私を差し置いてデートとか、ふざ、ふざけないでよ!? 私だってしたことないのにどうして兎ばっかり……っ!」

 

「腕輪のプレゼントは姐さんだけだ」

 

「そんなの分かんないじゃん! 今度仲直りした時にはもう分かんないよ、そんなの!」

 

 激しい感情と共に何かが弾ける。

 保管されていた兎のデータをどこかへ飛ばして、彼女は焦りと怒りに支配されていた。

 暴走状態になりつつあったアーツが落ち着いてもそれが止むことはない。

 

 男の意識が虚空を捉える。

 

「何もかも無駄なんだ、俺たちは。さっさと諦めた方が周りのためだぜ……?」

 

 取り乱す少女の思念はいよいよ抑えきれない。

 全ての制限を取り払ってしまえば、青年が身を置く環境は一瞬にして地獄と化すだろう。

 理性を持っていても、人ではない。

 それが彼女なのだから。

 だからいつかケリを付けるべきだ。

 それが、彼女に個を与えてしまった青年が唯一背負うことのできる責任なのだから。

 

「殺してやる殺してやる殺してやる……でも今ここで手を出すのは反則しないと勝てないって認めるみたいで嫌ぁ……!」

 

 思念が響く。

 彼女が全てを投げ出すまでの時間は、そう長くない。

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 

 ロドスから調理設備への不干渉を言い渡されたらしく、カッターは不貞腐れた様子で腕を組んでいた。

 

「練習したかったんだけどな」

 

「あはは、仕方ないよ。それに一度作ってもらったから約束は果たされたわけだし」

 

 先日のことを思い出す。

 まな板どころか調理設備すら傷つけながら切られた不恰好な野菜と、その場の思いつきで投げ入れられた正体不明の調味料。

 例によって味見はしていなかったらしく、粘りつくような触感と料理の枠に収まらない鋭過ぎる刺激が舌の上で転がり回った。

 食後に襲いかかったのは鉱石病由来の腹痛や吐き気だったが、それを料理のせいだと勘違いされるのも申し訳ない。

 なんとか耐え抜いた矢先にケルシーからの呼び出しがあり、滔々と繰り出される説教の羅列。

 

 不可侵の協定を結ぶに至った職員たちには盛大な拍手を送りたいほどにアビスは参っていた。

 こうして話しているだけでもじっとりと背中に冷や汗が浮かんでくる。

 

「そういえば。ロドスにいるってことはそういうことなんだね?」

 

「何の話か分からないな」

 

「惚けないで。私と話したことは覚えてるでしょ?」

 

「……別に、誤魔化したいわけじゃない。まだ決められてないだけだよ。きっとすぐに忘れることはできないから」

 

「そう言って六年も経ったけど」

 

「六年しか経ってない。何十年もの未来を切り捨てる判断がそう簡単にひっくり返されると思う?」

 

 カッターが押し黙った。

 六年もの時を遡った頃に、アビスは言っていた。

 

 アビスはそれを見てからからと笑う。

 

「ごめん、ちょっと性格悪いこと言ったね」

 

「少しは変わってると思ったのに、期待外れだ」

 

 カッターの嘆息。

 アビスは更に笑った。

 

「残念。期待の通りになんて生きてやらないよ」

 

 妙に偏屈なままだ。

 ずっと昔だとさえ思える六年の前から変わっていない。

 変わっている部分もありはするが。

 

「笑うようになったんだね」

 

「まあ、ね」

 

「友人でもできた?」

 

「……ああ、そうだね。あの人たちのせいだ」

 

 少しの驚きに呑まれる。

 良い方向への変化だってどうやら小さくはないらしい。

 あの人たち、と他人行儀な言い方をしていても、その言葉にどんな感情がこもっているのかは見ていて明らかだ。

 

 死んでいないかすら心配だったと言うのに、どうやらそれは杞憂だったらしい。

 少し頬が緩む。

 

「ロドスには慣れた?」

 

「うん、慣れたよ。とても良いところだと思う。特にロドスの理念が私には合ってる。現場の雰囲気はまだ見てないけど、分かるよ。きっと私はここを気に入る、って」

 

「そう言ってもらえて嬉しいよ。ボクも一オペレーターとして鼻が高いね。けど気をつけた方がいい、ロドスのトップはちゃんと性格悪いから」

 

「……ケルシー先生と何かあったの?」

 

 ロドスのトップという言葉が指すのは三人。

 ノータイムで思い浮かべて、少しだけ躊躇いながらもカッターはその名前を口にした。

 ケルシーは特に第一印象が悪い人間ではないが、ドクターやアーミヤと並べて見れば軋轢を生みやすい性質なのだろうということはすぐに分かる。

 

 しかしカッターは何やら他に理由を見つけていたようだった。

 

「私がロドスに入るまでに作為的なものを感じたから。理由が分からなかったけど、今なら分かる。アビスに案内されるまでが異様に早かったし、採用契約の手続きも……」

 

「なるほどね。あの人のそういうところは嫌いだ」

 

 凄まじく大きな氷山の一角を見て、アビスは本心からそう思った。

 それは裏から回された手を汚いと思う故ではない。

 ただ、()()()意のままにしようという魂胆が透けているからだ。

 

 ケルシーの感情が長い時間によって複雑化していったように、アビスの感情もその道を辿っている。

 無関心なアビスはケルシーを嫌い疎んでいる。

 可能な限り避けようとしている。

 

 それでもドクターと同じだ。

 根底でケルシーのことがどれほど嫌いでも、その行動を評価する基準はあくまで自分に害があるかどうか。

 三年もの年月は何の影響も与えず、特別扱いなどひとかけらだって見られない。

 どんなことをしていてもアビスには関係がない。

 

 だからこそ、ああまで捻じ曲がったのだろう。

 

「ところで、なんだけど」

 

「うん」

 

「その子は?」

 

「ああ、うん。後輩のオペレーターで、コードネームはデフラグレート。非感染者だから気をつけてね」

 

 腰にひっついていたライサが顔を上げる。

 不思議そうな様子のカッターと目が合った。

 

「私は、ライサ。よろしく」

 

 すぐにまた顔を埋めた。

 ライサが言うには、ドクターの秘書業務ばかりで話せていなかった分の補給をしているらしい。

 

 今日はカッターの案内が午後に入っていて、午前中は例の如く缶詰状態だった。

 一時的にではあるがドクターの独占から解放できた理由であるカッターに対しては多少感謝しているようだ。

 

「見れば分かると思うけど、感染者に対する差別意識はないよ。だから仲良くしてくれると嬉しい」

 

 自分が死んだ後に向けて。

 

 ライサは含められた意味を正しく感じ取った。

 だから抱きつく腕に一層の力を込める。

 まだ聞きたくないと、子どもらしく抵抗するために。

 

「分かってる、すぐに死ぬことはないよ。まだそれが見えてるだけだからさ」

 

 ぐっ、と力がより強くなった。

 疑問符を頭の上に置きながらライサを宥めるアビスに、心の底からため息をつく。

 

「あんたは昔から変わらないね。いつもちょっとだけ抜けてるところとか」

 

「そう? カッターほどじゃないと思うけどな。聞いたよ、入職する時の挨拶で思いっきり刀をドアにぶつけたって」

 

「……それは言わないで。恥ずかしいから」

 

 ドクターはそれを笑うことなく竦み上がってたらしいけど。

 あの人らしいね。

 でもそういうのに託けて引っ付くのはやめてほしい。

 最近調子に乗ってるから、今度会った時に少し脅かしてみようかな。

 

「じゃあ、私はこれから任務だから」

 

「ってことは輸送? それならラユーシャも連れて行ってよ。もうすぐだって言うのに離れてくれないんだ」

 

「……っ!」

 

 ライサが力の限り、締め上げていると思われても仕方がないほど強くしがみついた。

 

 べりべりべりべり。

 

「これは必要なことだよ、ラユーシャ」

 

「……わかった」

 

 ライサはそれ以上の抵抗が難しいとわかったのだろう、物分かりよく頷いた。

 

「療養庭園と執務室だけには近付かないでね。ドクターを見たらすぐ逃げて」

 

「分かってる、せっかくの休みなんだから働こうなんて思ってないって」

 

「それなら、うん。行ってきます」

 

「行ってらっしゃい。気を付けるんだよ」

 

 ライサとカッターが去っていく。

 一方は何度も名残惜しそうに振り返ったが、足は止まることなく進められていった。

 

 そうして二人が見えなくなったところで、アビスは懐から端末を取り出した。

 二、三回の操作を終えて、アビスは端末を耳に当てる。

 

「もしもし、今どうしてる?」

 

 任務の割り当てを見て知っている。

 午後は彼女に仕事の予定がないことを。

 

「うん。早速だけどさ、今日は暇? ……今日って言うか、今夜。どうかな、大丈夫そう?」

 

 ケルシーとドクターの間に何の違いもないように、アビスは友人と言える二人の優先順位をそう上には置いていない。

 しかしだからと言って低いわけでもない。

 ドクターの件は同情や恩を感じていたからこそ優先したのであって、他の無関係なオペレーターであれば次の機会へと先送りにしていただろう。

 

「そうだよ。約束を、守りたくて」

 

 噛み締めるようにそう言った。

 

 約束は守られるべきだ。

 それを覆してしまえば、いつかの日、少女と交わした約束の意味さえも掠れてしまうだろうから。

 

「分かった。それじゃあ、また夜に」

 

 アビスは通話を切った。

 ポケットの中に端末を突っ込む。

 

 どこか上機嫌な様子で、彼は予定までぽっかりと空いた時間を過ごすのだった。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

八十九 傭兵の視点

 

 

 

 

 耳に装着したインカムからあの鬱陶しい男の声が流れてくる。

 

『改めて概説する。殲滅目標は凶悪犯罪者であるブッチャーや伐採者を主軸とする敵兵凡そ四十人。一本道故にアクシデントは起こりにくいため、気にすべきは乱戦時の誤射等を無くすことだ』

 

「はいはい、それで?」

 

『特殊オペレーターであるデフラグレートにはアーツを生かした適性ユニットの足止め、捕縛(バインド)気絶(スタン)を狙ってもらう』

 

「上手くいかないと気絶(スタン)は取れないんだけど」

 

『理解している。今回は試験的な実践運用だ、これからの任務に備えての肩慣らしとでも思えばいい』

 

 耳触りのいい言葉。

 それが何かを保証することなんてない。

 日常が崩壊するのはいつだって突然で、それまで築いたすべてのものが簡単に奪われる。

 

 とは言え、そんなことが今回のつまらない任務で起こるなんてことは考えてないけど。

 

『準備はいいな?』

 

 ゴウン、と重い音を立てて扉が開く。

 すぐに隙間から凄まじいまでの風が流れ込んできた。

 

 高高度からの空挺落下。

 天災によって作られた複雑な地形は装甲車での兵員輸送を難しくさせている。

 だからロドスはエアボーンを基本戦術に組み込んだ。

 今回のこれはヘリボーンだけど。

 

 空挺落下の訓練は好きだった。

 少しでもミスをすれば私は血溜まりになって、そうしたらアビスは少しくらい泣いてくれるのかなって。

 そんなくだらない妄想をするのが好きだった。

 

 空に漂う空気を切り裂いて一直線に地上を目指していく。

 着地点よりずっとずっと離れた地点で飛び降りたけど、それは織り込み済み。

 

 勢いを保ったまま、ある一定高度で私の体が緩いカーブを描く。

 空に力場を作って、私の体がブランコのように円を描く。

 

 信じられない、といった風の顔で急接近した私の方を見るブッチャーが面白い。

 もしかすると今日の作戦に限っては私がテロリスト側なのかもしれない。

 

 地面と平行になるくらいのタイミングで私が両手で持っていた二メートルくらいの杭を突き出して、貫く。

 

「さあ、日常を壊される覚悟はできてる?」

 

 私の暴力を見せてあげるよ。

 土手っ腹にでっかい風穴開けてあげる。

 

 

 任務は滞りなく終わった。

 私が刺したのはたったの四人。

 別にもっと殺したいわけじゃなくて、ただ戦果がもう少しくらい欲しかったなあって。

 

 まあ、今回の輸送任務は三日くらい続く予定だから、あと二回くらい戦闘があってもおかしくない。

 だから初日からそこまで気張る必要もない。

 

『デフラグレート、調子はどうだ?』

 

「最悪。気軽に通信しないで欲しいんだけど。用があるなら手短に済ませて、それでさっさとご飯食べて寝なよ。アビスに近寄るな」

 

『泣きそう』

 

 ドクターが涙声になる。

 正直言って本気でやめてほしい。

 嫌われてるって分からないのかな。

 

『空挺落下を利用した奇襲。アレ、割と負担大きいだろ? 少なくとも明日以降それが出来るかどうかを判断したい』

 

「別にそんなに負担じゃない。寝惚けたアビスに本気で抱きしめられた時の方が痛かったし」

 

『……そうか。それならいい。それと極めて個人的なことだが一つ言っておこう』

 

 ドクターの声が心なしか冷淡になる。

 

『俺は、君のことが嫌いだ』

 

 へえ。

 

「用は終わり? 通信切っていい?」

 

 そんなことを言うためだけにこんな通信をしてるんだったら、ドクターって相当な暇人だったんだね。

 そう笑えそうだったけど、ドクターが言った次の言葉は何も笑えなかった。

 

『アビスは俺の物だ。君はただ依存対象を探しているだけなのだろう、だったら俺に譲ってくれ』

 

「……は?」

 

『というのは冗談にしても、アビスの死をただ認めないと繰り返すだけで実際には何もしていない木偶の坊。それが今の君だ』

 

 言葉は頭に入ってくる。

 けど意味を理解する一歩手前で止まっている。

 

『邪魔なんだよ。ロドスとして、ケルシーはアビスを救うことに決めた。しかし君が邪魔をするせいでまともにコンタクトが取れない。分かるだろ?』

 

「いきなり何言ってんの?」

 

『アビスがいない任務期間中に今後の身の振り方を考えてくれ。時間はたっぷり取ってある、自分で決めることだ』

 

「はぁ? ちょっと、待っ──」

 

 聞こえていた雑音が綺麗さっぱり途絶えた。

 偵察ではない戦闘だけのオペレーターに配られるインカムは通信に応えることしかできない子機。

 ドクターはロドスの中から通信設備を使って指令を飛ばしてるはずだから、この作戦の隊長に許可を取らなきゃ接触できない。

 

 端末の連絡先はつい先日、腹が立って仕方がなくて消去した。

 ……ドクターの方からは私に連絡が取れるから、その時はそれでいいと思ってたの。

 まさか私から話をしないといけない日が来るなんて思わないし、それも直接会って話せばいいことだったから。

 

 でも。

 

 本当にそれでいいのかな。

 ドクターが言っていた通り、私がアビスに生きてくれるよう働きかけたのは数えるほどしかない。

 ケルシー先生がどうやってアビスに影響を与えようとしてるのかは知らないけど、きっと私よりずっと効果的な方法を取ってるんだと思う。

 

 私が木偶の坊だって話は否定できない。

 私はアビスの時間を無駄にしてる。

 

 あれだけ啖呵を切ってたのに、私は。

 

 

 

 航空機に揺られながら考えていた。

 離れていた方が生き残ってくれるのかもしれないって。

 

 それでも、もしそれが失敗して、遠巻きに終わりを見ることになったなら、私はどうすればいいか分からない。

 

 離れることがいくら賢明な判断だと分かっていても、その絶望(もしかして)を、ただ遠くから死んでいくのを見ていく未来を、ずっと想像していなきゃいけないのは。

 

 ……堪らなく、怖い。

 

 私はオペレーターだけどロドスを知らない。

 アビスしか見てこなかったから、信用できるのか全然分からない。

 でも、信じられなくても、私に時間を割くよりは有意義なものになるんだと分かってる。

 

「あら。溜め息なんて吐いて、どうしたのかしら? もしかしてようやく眼中にないことが分かって絶望でもしてる?」

 

「あー、面倒なのが来た」

 

「〝面倒なの〟って何よ。人のことそう言えるほどあんたの聞き分けは良くないわよ」

 

「Wって人なの?」

 

「逆にどこが人以外に見えるって言うのよ! あと話す時は相手の顔を見て話しなさい、常識よ?」

 

「私に常識を説教できるほどWは常識人じゃないでしょ」

 

「……それは、そうね」

 

「Wが常識()とか本当にありえないから」

 

「どうしてかしら、銃口が勝手にあんたの方を向くのよね。撃っても私のせいじゃないわよ?」

 

 Wが相変わらずバカ言ってる。

 敵ばっかり作って虚勢ばかり張って、何故か知らないけど接近してるアビスは拒絶一辺倒。

 芯だとか知らないけど、もしその大事なものを守ってこうなってるんだとしたら、バカみたい。本当にバカ。

 

 そう言う私はもっとバカだけど。

 

 あーあ、もういっそ撃ってくれないかなあ。

 それで怪我してロドスに帰って、アビスに心配してもらって……

 

「折角あんたに答えをあげられる私が来たって言うのに、こうまで邪険にされるなんて思いもしなかったわ」

 

「W、相変わらず頭悪いね」

 

「はぁ!!?」

 

「答えなんてものをWが持ってるわけないでしょ。そんなもの、絶対存在しないんだからさ」

 

 現実ではいくら努力したって正解が存在しない問いに何回だってぶつかる。

 陳腐な言葉だけど、間違ってるとは思わない。

 だって今まさにそれを実感してるから。

 

 けど、Wは違ってるみたいだった。

 

「視点が変われば見えてくるものなんて、幾らでもあるのよ? 答えを出すことが出来なくたって、答えが存在しないとは限らないわ」

 

「あるって言うの?」

 

「ええ、そうね。たとえばドクターがケルシーやあんたを追い払って、アビスを生き延びさせることすらないようにしてるってことは、知ってるのかしら?」

 

 

 

「……は?」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九十 ざらざらしっぽ

 

 

 

 

 彼が私と目を合わせる。

 昔からそうだった。

 彼はいつだって、目を合わせて話してくれる。

 

 彼女が幸せそうに笑っていた。

 少しだけ、恥ずかしそうだったけど。

 目が合うことが堪らなく嬉しいみたいだった。

 

 ああ、そうだ。

 

 彼が居る日々は幸せだった。

 今では眩しいとさえ思えるくらいに。

 

 食べられるものの量が増えた。

 私たちの仕事が減った。

 

 些細な積み重ねも私たちは見逃さなかった。

 彼がいてくれて良かったんだって。

 小さい私たちは素直にそう思った。

 

 

 

 あの日のことは思い出したくない。

 

 

 

 それでもずっと脳裏に刻まれている。

 冬の只中、真夜中の襲撃。

 雪が音を吸って静かだった。

 

 私たちは蠍や蜥蜴の自切みたいにして生き残った。

 一生懸命に逃げて、逃げて、逃げて。

 飢えと寒さから身を隠して、必死に逃げた。

 

 詳しくは覚えていないけど、いつの日か。

 私には声が聞こえるようになった。

 親愛なる片割れの声が。

 助言をくれた。

 警告をくれた。

 私の手を取って、いつだって。

 

 次第にそれが形を変えた。

 耳だけではなく、目に映るものとして。

 目だけではなく、手で触れられるものとして。

 私だけではなく、みんなに。

 

 彼は私を止めようとした。

 私はそれを振り切って。

 

 目が覚めた時には彼が居なかった。

 今までずっとそばに居たのに。

 

 それで、私は。

 

 ああ、彼は死んじゃったんだなあ、って。

 

 悲しくなって、絶望した。

 せっかく生き延びてきたのに、私は容易くそれを放り投げようとした。

 怒りが湧き上がって、最後まで私の元に来てくれなかった彼のことを思い出した。

 

 八つ当たりする気力すらなかった。

 全部零れて空になった缶をどれだけ傾けても一滴だって落ちてこないように。

 

 私はずっと逃げていた。

 生きるために、離れるために。

 あの土地が呪縛のようにすら思えていた。

 

 導かれるように北上して、力尽きた。

 雪原で倒れた私を拾ったのは、誰だったか。

 それからの記憶が随分と曖昧だ。

 

 覚えているのは、あの孤児院を思い出させるような、暖かい毛布の感触だけだ。

 

 いつのまにか私は刃を手にしていた。

 煮えたぎる激情が心の中で燃えていた。

 

 口からは一度だって口にしたことがなかったような罵声が次々と飛び出していって戻らなかった。

 私の言葉が心の形を変えていった。

 すっとして、ぎゅってなって、帰らない。

 

 地べたに這いつくばって何も言わなくなっていた心臓が驚くほど簡単に彼の幻影を刺した。

 何もなくなったはずの缶を振ると少しだけ残りが飛び出して、大きな大きな染みを作った。

 

 私の動力はそれだけだった。

 それから、私は倒れるまで何度だって生きた。

 刃を研ぐ私は果たして狼だったのか、それとも使われるだけのナイフに過ぎなかったのか。

 何れにしても関係ない。

 あの動力が与えた惰性は私を一度も止めなかった。

 

 いつしか、私と幻から境界が消えていた。

 私の手に付着した闇色の怨嗟が彼と重なって、彼の手に導かれた私がナイフを振り下ろした。

 

 私たちは罪と罰を共にしていた。

 醜い逃避だって言われても構わない。

 私たちのことは私たちが一番わかってる。

 

 私はずっと前から2人だった。

 それ以外に正解なんてものはない。

 

 彼を前にして、片割れは何度も手を止めた。

 ずっと私に聞いてくるんだ。

 これでいいのかって。

 

 振り下ろされたナイフがブレた。

 普段なら避けている戦い方を選んだ。

 

 だって当たり前だ。

 私の半分が反対してるんだから。

 残り少ない戦意が半分になって、それで私がおかしくならないはずなんてなかったんだ。

 

 

 カインは、彼が好きだった。リラ姉が好きだった。孤児院が好きだった。あの木が好きだった。あの日々が好きだった。私のことが好きだった。

 

 そんなカインが好きだった。

 そんなカインを象徴する彼のことを傷つけることなんてしたくなかった。

 

 

 でも耐えられなかった。

 許せなくって仕方がなかった。

 

 私の体を動かしていたあの感情なんてどうでもいい。

 カインがそれを否定するなら、私はいつだってそれを放り投げられるから。

 

 私が、耐えられなかったのは。

 

 

「──なぁ、幸せか?」

 

 

 寝ている彼の首に手を添える。

 寝苦しそうに身を捩っていて、いつ起きるかわからない。

 それでも私の未成熟な心は止められない。

 

 古い傷跡が走る首元を、両の親指で押した。

 ぽすん、と彼の胸元に腰を下ろす。

 

「……ナイン?」

 

 彼がとうとう目を覚ました。

 

「まだ朝じゃないよね。お腹でも空いた?」

 

 ぐっと力を込める。

 彼は少しだけ不思議そうな顔をした後、何も言わず私の手に任せている。

 首を絞めているはずだった。

 日常の一コマを切り取ったみたいに、彼の顔は変わらなかった。

 

「心配、させんなよ」

 

 彼がいつも通りなのは、私が彼を殺そうとしたことが一度や二度の話じゃないからだった。

 そのたびに彼は私の手を、ナイフを、全てを受け入れてどうでもよさそうに笑っている。

 

 手から力が抜けていく。

 

「……また不安になったんだ?」

 

 小さく頷いた。

 

「大丈夫だよ、ナイン。ボクは幸せなんかじゃない」

 

 そう言った彼の尻尾が頬を撫でた。

 変わらないそのざらざらとした感触が心の糸を切って、体が前に倒れ込んだ。

 

「ボクはずっとリラのことを覚えてる。ボクはずっと、幸せなんかになれないままだよ」

 

 彼が世界に溶け込んだ時、私はきっと本当の意味で1人になってしまう。

 カインすらをも失って何も出来ない。

 ただ思い出で脳を侵して悦に浸るだけだ。

 

 カインはそうならないことを望んだ。

 それに、本能に近い何かが訴えてくるから。

 私はそうなりたくなかった。

 

 彼が背をさすってくれる。

 泣き出した私を宥めてくれる。

 私は2人だけじゃないんだって、彼と再会してからようやく知ることができた。

 

「お前が死ぬ時はオレも連れていってくれよ」

 

 彼がいない世界になんて居られない。

 

「……それは無理だ」

 

 彼は私のことをわかってくれている。

 

()()じゃない、()でないと、無理だよ」

 

 彼は私と同じなんだから。

 何にだって気付いてくれている。

 

 心地良くって、それまでが救われた気がして、選んだ道は間違ってなんかないよって言ってくれるような気がして、安堵が心を包むんだ。

 

 私が改めた一人称の意味を理解してくれている。

 本当の私を、知っている。

 

 

 ライサが嫌いだ。

 ドクターが嫌いだ。

 エイプリルが嫌いだ。

 

 彼は彼だけでいい。

 私と同じように孤独でいい。

 そうでなければ、私が要らないから。

 

 ロドスが嫌いだ。

 

 彼と私だけであるべきなんだ。

 私の世界に居るのは3人だけでいい。

 彼は私たちだけを見ていれば、それでいい。

 

 彼のことが嫌いだ。

 

 私が彼のことをまだ恨んでるだなんて勝手な勘違いをして、私に殺されてもいいだなんて、そう思ってる。

 私が殺したいくらいに嫌ってるのは、彼以外なのに。

 

 私は心が弱い。

 だから彼のようにはなれない。

 彼のようには生きられない。

 それなのに私は私たち以外を受け入れられなかった。

 カインに私が縋っている限り、私は彼しか頼れない。

 

 だから私は彼の手を取った。

 憎悪と敵意が繋いだバトンは信頼の手にある。

 彼やカインを、世界を捨てて、選んだ。

 

 

 ……ねえ、カイン。

 私はそれでいいんだよね?

 

『ナインがそう決めたならそれでいい。⬜︎⬜︎兄が居れば、きっと悪いことにはならねえからな』

 

 カインの声が脳髄に痺れる。

 そうだよね、私はこのままでいいんだ。

 

 

 頭の中でようやく整理がついた。

 彼の上から体を離す。

 見方を変えれば押し倒していたようだった。

 私や彼がそんな気を起こすことは絶対ないけど。

 

「……偉いね、ナイン」

 

 彼が私の頭を撫でる。

 泣きそうになるって言ってるのに。

 

 そう思って我慢しようとした目からは、涙の気配が少しも感じられなかった。

 どうしてだろう、普段なら。

 普段なら涙がこぼれ落ちていくはずなのに。

 

「本当に偉いよ」

 

 懐かしい撫で方だった。

 いつもの彼とは違う懐かしさがあった。

 だから私は泣かなかったんだと思う。

 

 その手つきは、──とても落ち着くから。

 

 どこかの何かが引っかかった。

 小さな小さな、魚の小骨のように。

 

「でも、さ」

 

 手が頭の上から滑り落ちる。

 まるで立場が入れ替わったみたいに、今度は彼の手が私の首を弱い力で掴んでる。

 

 どうして?

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 目の色が変わった。

 慣用句じゃなくてそのままの意味で。

 

 琥珀色の目。

 敵意と害意と嫌悪と憎悪。

 私の首を絞める両手。

 

 ああ、なんだ。

 

「こっちに来てたんだな、リラ姉」

 

 鉱石病の影響か、彼の力は弱い。

 それでも一応は私より強いはずだけど。

 

 体勢が悪い。

 

 寝転がったままの、それも胸の上に私という重石がある状態では全力が出せないでいる。

 苦しさがオレの喉を焼いて、どうにかそれを振り払う。

 

「死んでいいよ」

 

 彼が、もといリラ姉がオレの腕を掴んで引き倒す。

 オレの戦闘はアーツに頼ったものだ。

 地力で勝負すれば勝てるわけがない。

 

 体勢を立て直し、距離を取ろうにも掴んだ腕がそれを許さない。

 ゆっくりとリラ姉が立ち上がった。

 

 正直言って、この状態からやり合うのは無謀だ。

 オレはこいつに勝てない。

 リラ姉の技量でも正面からぶっ潰される。

 それだけの力の差が存在する。

 

 だからオレはアーツを使う。

 

 リラ姉が引き寄せようとした瞬間、手が不自然に外れて、オレはリラ姉から逃れた。

 いつのまにか外れていた手を少しの間不思議そうに見つめて、言った。

 

「とうとう体まで操れるようになったってことね」

 

 オレのアーツは電気信号。

 今までは脳や脊髄へと向かう感覚神経──つまり目や耳や皮膚に伝えられた情報を頭に運ぶ神経──を乗っ取ることで、五感の掌握を行っていた。

 だがそれはアビスが真っ向から破った。

 より強いアーツで、正常な信号のみを運ばせた。

 

 これはその対抗策への対抗策だ。

 脳から下された命令を筋肉に伝える運動神経、これを乗っ取ることで相手に気取られることなく体を操ることができる。

 いくらアーツで対抗出来るとは言え、感じ取れない攻撃に対処することはできない。

 

 難易度は以前の数百倍。

 伝えることと伝えないことがある、ということは同じだが、送られてきた信号に対して適切な信号を送り返す必要がある。

 つまりは、相手が手を握ろうとしたのなら、「手を握ろうとする信号」を途絶させ、「オレが通したい信号」を運動神経に、「手を握ったことで起きる信号」を感覚神経に流さなければいけない。

 

 一工程増えることでオレの負担は跳ね上がる。

 その代わりにオレは超接近戦においてはほぼ負けなくなった。

 相手を操れるなんて負けようがない。

 

 レユニオンのボスとかは例外だ。

 たぶん完全にレジストされる。

 アレはアレで人の皮被った化け物だろ。

 

 同様に、オレがどんな原理で動いてるのか分からないヤツは操れない。

 神経が通っていなければ論外だ。

 

「まぁ、それでも強いけどな」

 

 リラ姉を組み伏せて床に叩きつける。

 苦し紛れの特攻が刺さることはない。

 

 少しの間もがいていたが、オレの拘束から抜けられないと悟って大人しくなった。

 リラ姉にはまだまだオレを狙える機会がある。

 何も今夜仕留めなければいけないってわけじゃねえからな。

 今日のところは帰ってくれるはずだ。

 

「……ちっ、仕方ないな。次は絶対に殺してあげるから今のうちに遺書でも書いておきなよ」

 

「うっせえ、天国からもう降りてくんな」

 

 アビスには悪いが、もうこっちくんな。

 リラ姉は最後に一つオレを睨んで、消えていく。

 

 棘のある雰囲気が鳴りを顰めると同時に目の色が琥珀から元に戻る。

 何がどうなって色が変わってんだろうな。

 目の色が変わると言えばライサだが、ライサの方は理論があるらしい。

 なんとなくそれとは別だと思う。

 死人に理論を求めるのは、なんか違うだろ。

 

 特に興味のないことを考察する。

 それなりの知識でそれなりの深さを。

 

 それはオレにとってクセみたいなものだ。

 亡灵(アンデッド)時代に生まれて治らなかったクセ。

 興味がないことってのは自分の視野の外にあるってことで、それに注意することはオレの生存率を上げたからな。

 ロドスに来てからも色々なものに目を向けた。

 それなりに興味もあったけどな。

 

 こうして鎮圧を終えてからもしばらくの間は押さえつけているのもクセだ。

 負けたって事実が受け入れられないバカは意外とたくさんいる。

 

 

 

 

「……えっと、ナイン」

 

 押し倒されて拘束されたままの状態。

 僅かに上がっている息と少しだけ乱れた衣服。

 

 アビスは最悪の想像を口にする。

 

「夜這い?」

 

 瞬時に目が琥珀色に変わったのを見て、オレは自分のクセを強く恨むことになった。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九十一 猫医者抵抗作戦-フェイズ2

 

 

 

 

 

 

 

 

 これで今日の業務は終わり。

 ボクはとっとと帰らせてもらおう。

 

「急く必要はないだろう」

 

 席を立ったボクをドクターが捕まえる。

 まるでそうなると分かってたみたいに。

 

「今日ばかりは譲れないよ」

 

「駄目だ。嫌だ。行かないでくれ」

 

「予定があるんだ」

 

「その予定より私を優先してはくれないのか?」

 

「しない」

 

 ぶんぶん振ってもドクターは手を離さない。

 どれだけ捻っても最適な躱し方で掴み直される。

 

 

 今日はエイプリルと約束をした日だ。

 待ちに待った──とは言わないけど、それでも楽しみにしてた自分がいるのは確かだ。

 それに一度ボクの都合で延期してもらった手前、ドクターを優先することはありえない。

 自殺しそうな雰囲気はもうなくなってるし。

 

 

 そう思ったのも束の間、とんでもない量の感情がバイザーの奥から伝わってきた。

 

「アビス、どうかお願いだ。今日だけでいい。今日だけでいいから私のそばに居てくれ。明日は秘書を休んだとしても構わない、今日だけは私の隣に座っていてくれないか」

 

 握る手に力が籠る。

 

 その目に映るは莫大な恐怖。

 捉えているのは、全てを考えずにはいられない優秀()()()()()()()頭が作り出した可能性の一つ。

 ドクターの静かな震駭に共感を覚えるボクもまた、その感情の所有者だった。

 

 そんな視線に思わず手が止まった瞬間、ドクターがボクの方へと飛び込んでくる。

 溢れんばかりの、その華奢な体が潰れてしまいそうなほどの感情を乗せて、ボクにしがみついて離れない。

 

「どうして今日なんだよ」

 

「分かっていたら、苦労などしていない。私にはどうしても君が必要なんだ、抑えられないんだ。何もかもが危険なようにさえ見えている。どうかこのまま、ここにいて欲しい」

 

 ドクターが俯いて寄りかかる。

 淡々と吐き出された言葉は、けれど相当な熱を持っていた。

 きっといつもと同じだ。

 ボクを縛りつけるために泣いて縋ってる。

 自分からトラウマのスイッチをつけて追い込むんだ。

 それが唯一ボクを止められる方法だから。

 

 毎度毎度嫌になる。

 本当ならさっさと振り解いて離れたいんだ。

 

 それでもボクの心はNOを言えない。

 どろりとした重いものが肺に溜まって、同情が募っていく。

 きっとそれは、ドクターの感情が意図的に生み出されたとは言っても、偽物だったことは一度もないからだ。

 

 でも。

 

「今日は無理。それより優先するべきものがあるんだ。泣くなら一人で泣けばいい」

 

 二度も約束を蔑ろにするわけにはいかない。

 分かってるだろう、ドクター。

 

「ああ、分かっている、分かっているが、退けないんだ。きっとこれから先、私より他の何かを優先しているこの事実が、楔のように心へと打ち立てられるのだろうと分かっている」

 

「しつこい」

 

 ドクターは「うぐっ」とだけ声に出した。

 本当に刺さってるのかな、この言葉の刃は。

 

「あ、ああ、そうだ。それなら、私を連れて行ってくれよ。ロドスで何をしているか、素行調査のような名目で……」

 

 今まさに思いついたとでも言わんばかりの言い方だ。

 どうせエイプリルより自分を優先させることが出来なかったからその次善策に切り替えただけなのだろうに。

 

 そういうところが絶妙に胡散臭い。

 その全部がボクをこの場に留めるためのものだと分かっていても、どちらかと言うと気持ち悪い。

 

「──約束は、破れないのか。私より、優先するものなのか。私などより、ずっと大事なのだと、そう言うのか」

 

 分かりきったことを聞く。

 ドクターはそんなボクを理解して、離れた。

 

「もう行っていいかな」

 

 ボクの問いかけにドクターは弱々しく頷いた。

 

 案外あっさり離れてくれた。

 少しだけそれが引っかかった。

 

 

「これ以上は、私を嫌いになるだろう?」

 

 

 小さく、ぽつりと呟いた。

 弱々しい声だった。

 

 どうせ計算して出しているはずだ。

 意識的でないことの方がおかしいだろう。

 そう分かっていて、なのにそれは普段の演技とは全く違った本心のように思えた。

 

 ボクはドアを開けて振り返る。

 ドクターにギリギリ聞こえるような声量で。

 

「嫌いになんかなれないよ。また明日」

 

 さあ、エイプリルの部屋に行こう。

 約束が待ってる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あー、この人のこと忘れてた。

 

「業務は終わったのか?」

 

 無視して横を通ろうとすれば、それがまるで分かっていたかのように塞がれる。

 

「業務は終わったのか、と聞いている」

 

「終わったよ。終わったからこうして自分の使いたいように時間を使ってる。それに何か文句でもある?」

 

「いいや。大いに結構だ」

 

「それなら通して欲しいんだけど」

 

 喧嘩腰で口を開いてる自覚はある。

 それでも、だって、しょうがないだろう。

 ただでさえドクターに時間を持っていかれたんだから、まだ約束した時間より早いとは言え、ボクの予定を乱されてるんだ。

 

「定期検診を受けてくれ。治療の準備は整っているんだ。ようやく空いた時間だろうが、それを私に預けては──」

 

「無理。予定あるから」

 

「私の方から説明をしておく。それでいいな」

 

 掴まれて、すぐに振り解く。

 どうしてこう人の話を聞かないのか。

 いや、聞いてるんだろうけど、その上で自分本位に動くのはやめてほしい。

 

 ボクが言えることじゃないけど。

 ボクが言えることじゃないけど!

 

「お前の生に意味などないと言ったのはお前自身だ。その予定は例外なのか? お前にとって無意味でないと切り捨てられるほど特別なものなのか?」

 

「ボクの気分だよ、優先させたいだけ」

 

「私に文句を言われることよりも、明確な理由なく選んだ選択肢を貫けないことの方が嫌か?」

 

「そう思うなら、そうなんじゃない? 一貫性の原理とか、ケルシー先生への反抗心とか。黙って受け入れる方がおかしいかもしれないね」

 

「口論を望みはしない。……ただ、君の理解を欲する所ではある。ドクターの束縛を離れた貴重な機会だ。逃すわけにはいかない。──どうか私の手を取ってはくれないか。準備は既に整っている」

 

 ケルシー先生が真っ直ぐにこちらを見つめる。

 

 ボクのため、なんて解釈はしてやらない。

 ケルシー先生の行動はどこまで行ってもケルシー先生がやりたいだけのこと。

 ボクのためを思うならさっさと葬送の準備をして欲しいし、それ以外に出来ることはない。

 

 だから当然、答えはNOで──。

 

「リラと言葉を交わした」

 

 開いた口が固まる。

 今、なんて言った?

 

「お前の体を治して欲しいと、そう頼まれた」

 

 話す。語る。

 ケルシー先生の口が開く。

 理解できない言語が耳に入ってくる。

 

 誰もいない廊下。

 静かな言葉が脳を侵す。

 

 話す。語る。

 ケルシー先生が説得する。

 理解したくない言葉が耳障りだ。

 

 誰の影も見えない廊下。

 

 話す。騙る。

 ケルシー先生は、ボクを騙している。

 

 そうとしか、考えられない。

 

「Mon3tr」

 

 放った蹴りは背から伸びる何かで防がれた。

 即座に体勢を戻そうとして──足が掴まれて振り回される。

 

 すっぽ抜けて放物線を描いた。

 龍門でナインに斬られた部分がまだ完治していなくて、痛む節々に顔を顰める。

 体勢を立て直してなんとか着地。

 

 ──足に違和感。

 

 掴まれた時に捻ったのかもしれない。

 五体満足でも負けそうなのに、運が悪い。

 

「疑っているようだが本当の話だ」

 

 そう嘯く。

 リラの名前は龍門に行っていたことを咎められた時につい漏らしてしまった。

 だから嘘じゃないことが証明できない。

 ……っていうか、嘘に決まってる。

 

 死人が蘇るのは夢の中だけだ。

 龍門での出会いは、リラさんがボクのことを知らない様子だったからまだ納得しただけで。

 ボクのことを知ってるリラなんてどこにも居ないんだよ。

 

 それを何年も何年も繰り返し頭に刻みつけてようやく受け入れられたボクに言うのってさ。

 デリカシーないと思わない?

 

「いつにも増して短絡的だな。そのように挑発したことは確かだが、まさか突然危害を加えようとするとは思ってもいなかった」

 

「それ、ジョークにしてもタチが悪いね。あ、いや、冗談のつもりじゃないんだよね? だとしたらケルシー先生がタチ悪いんだ。当たり屋かな?」

 

 思い通りにいかない。

 それはずっと分かっていたことだけど。

 揶揄うまでいくとは思わなかったよ。

 

 ボクが一つため息をつくと、ケルシー先生と動作がシンクロした。

 

「どうせ、来ることはない、か」

 

 重い息を吐き切ったケルシー先生の顔は全然すっきりなんかしてなかったけど、それでも区切りが一つ付いたようだった。

 

「君にとって今から大事な予定が入っていることは理解した。しかし私の立場からして、一刻も早く君の体を治したいと思うことは仕方がないことだと理解してくれ」

 

「分かってるよ。それで?」

 

「これから私はドクターと話を付ける。その時は必ず私の治療に付き合うと約束してくれ。今この場は、君に譲ろう」

 

 ケルシー先生にしては随分と理性的だ。

 ボクを理解したってわけじゃないことだけは確かだろうけど。

 

 それに、この様子だとドクターのことも分かってないな。あの人は多少下手に出られたところでボクを手放さない。

 

「いいよ、約束しよう。ただ一つだけ、ドクターがケルシー先生の言葉を何から何まで突っぱねたなら、ボクはケルシー先生に協力なんてしない。それでいいよね?」

 

「ああ、それでいい」

 

 道が開いた。

 それ以上の言葉は要らなかった。

 だから何も言わなかった。

 

 一人分の足音が響く。

 

 白髪が後ろに流れて消える。

 振り払って前へと進んだ。

 

「アビス」

 

 立ち止まる。

 かつ、かつ、と足音がした。

 ケルシー先生の視線がボクの背にぶつかる。

 

「──絶対に、死なせはしない」

 

 確固たる意思が込められた声。

 ボクの心を真っ向から押さえつけるような。

 

 けれど。

 その声は、どこか。

 勘違いかもしれないけど。

 

 自分自身に言い聞かせているようだった。

 

 

 

 

 

 執務室の扉が開いた。

 少しの驚きに心が染まる。

 まさかノックもせずに入ってくるとは。

 

 私は書類を捌く手を止めずに聞いた。

 

「さて。気分はどうだ?」

 

 聞くまでもないだろう。

 何年も寄り添ってきたはずの彼への理解で私に負けているなどと、到底認められるものではないだろう。

 避けていた相手から手を差し伸べられるなど屈辱でしかないだろう。

 愚かな私に見下されるなど堪え難いだろう。

 

 それを分かっていて聞いた。

 ただの嫌がらせだ。

 私から彼を奪う忌々しい猫への嫌がらせだ。

 どうして私が彼から離れる策謀を巡らせなければいけないのか、理解はしていても虫唾が走る。

 

 そんな私の抵抗が効いているのかいないのか。

 ケルシーは何も言葉を発さなかった。

 

「嘸かし良い気分だろう。踏ん反りかえっているだけで私のような他人に問題を解決してもらえるのだからな。ああ、積年の努力が報われているんじゃないか。重役らしく人任せに、して……」

 

 嘲りの言葉が途切れた。

 無意識にすら動いていたはずの手が止まった。

 

「そんな顔ができたのか」

 

 ケルシーは逡巡していた。

 何が、とは聞くまでもないだろう。

 彼のことに決まっている。

 

 初めてだ。

 

 彼女が懊悩を押し隠すことなく私に見せるのは。

 私より、とは言えないが……ケルシーは溜め込みやすい性質だったはずだ。

 それをこうして見せるとは余程堪えたのか。

 

 

 気に入らない。

 

 

 私から彼を奪っておきながらその顔か。

 ただ意思を見せるだけで何も出来やしないお前が、私から彼を奪って、尚煩悶しているのか。

 

 その苦しみは私のものだ。

 お前が持っていて良いものではない。

 何もかもを任せたお前に、苦しむ権利などない。

 楽な道を選んだのだろう。

 苦労を背負う権利を放棄したのだろう。

 

「笑うといい、ケルシー。全ては君の思い通りだ。彼を存分に直してやるといい。どうやら都合のいい現実が転がり込んできたようだからな」

 

 この感情の一割、いや三割、もしかすると半分以上は八つ当たりなのかもしれない。

 だがそれはどんな意味を持つだろうか?

 

 私の主張には正当性がある。

 ケルシーがそれを認めている限り私の正しさは保証されている。

 私の行動には動機がある。

 ケルシーが不自然だと思わないほど筋の通った判然たる理由がある。

 

 ならば私の感情などどうでもいいだろう。

 ()()()()()()()()()とは言え、私に不利益がもたらされたことには決して間違いないのだから。

 

 ……ふん。

 辛気臭い顔だ。

 

 床を蹴るようにして席を立つ。

 休憩室の冷蔵庫から一つ取り出してきて、ラップを取った。

 

 山吹色の上に張ったカラメルの層。

 実食すれば口の中に広がる程良い甘味が私のストレスを和らげてくれる。

 彼が私のために作ってくれたという事実だけで満足してしまいそうなほどだったが、信頼できる人が作った食べ物は中々どうしてこんなにも美味しいのか。

 食堂で同じものを食べたとして、胸の内に湧く感慨は毒が入っていないことへの安堵が大半だろう。

 

 彼が料理に凝っていることは知っていた。

 そしてそれが、自分には食べられないものだから、せめて作る側に立って楽しみたいからだとも。

 それが理由なら料理だけでなくお菓子だって作れるだろうと思い頼んでみたのだが、どうやら正解だったらしい。

 

 何でもするから、一緒に居てくれないだろうか。

 紅茶だけが私の価値ではないはずだから。

 

 そう考えて──肩を落とす。

 

「……私程度が繋ぎ止められるのであれば、ああまで無関心なこともなかった、か」

 

 小さく、小さく、呟いた。

 

 何度辿ってもその結論に落ち着く。

 私を好きになるような人なら要らないんだ。

 私を好きにならない人だからこそ、好きになって欲しいと願わずにはいられない。

 矛盾しているようでもそれが本音だった。

 抗いがたい私の渇望。

 

「ドクター」

 

 私を呼ぶ声がする。

 気付かないふりをしてフードを被った。

 

「君はアビスに何を見出している?」

 

 彼の話題か。

 いや、違うな。

 

 これは彼の話題に()()()()()()()話だ。

 

「内在する理由とは限らない、とだけ言っておこうか」

 

 ケルシーの眉が微かに動いた。

 

 ケルシーは私とアビスのことを知らない。

 兼ねてから彼に注目していたこと、彼が救いとなりうること、そして『私』が彼に露見していること。

 

 だから私が彼を特別視する理由が分かっていない。

 私に何らかの異変が起きているのか、それともケルシーに対する嫌がらせなのか。

 恐らく彼に依存しているなどという考えには思い至らないだろう。

 

 つまりこの「何を見出しているのか」という問いは可能性を潰すためのものだろう。

 もしくは、そうであってはいけない、と考えた故のことか。

 恐れることはない。

 今の心理的に耗弱しているケルシーが真実に辿り着く可能性などゼロに等しい。

 

「元よりプライベートなことまで話して君に協力する義務なんてどれだけ探しても見つからないだろう? それを理解出したならばさっさと診察の準備なりすればいい」

 

「そうか」

 

 何故か、生気を取り戻した様子だった。

 

「それでは一つ聞かせてもらおうか」

 

「……拒否する」

 

「〝次〟はいつを予定している?」

 

 あぁ、ケルシー。

 君がそんな人間だとは思わなかった。

 

 ため息をついた。

 恐らく理解してはいないのだろう。

 その上で、この切り替えだ。

 

「診察結果次第だが二週間後程度だ」

 

「最低ラインは十日だ。それでいいな?」

 

 

 

 本当に、大嫌いだ。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九十二 二人の約束

 

 

 部屋の扉を開くと花の香りが漂っていた。

 療養庭園とはまた違った爽やかな匂いがスッと鼻を抜けて、ノブを押す手が止まった。

 

 近未来チックな宿舎のドアが視界の中で唯一場違いなものだった。

 

 小物でそこかしこを飾られていて、けれども統一感を失わない彩りやグラデーション。

 殺風景なボクの部屋とは全く違って華やかな雰囲気だ。

 こういったセンスがあるのは知っていたけど、ここまで圧倒されるほどだとは思わなかった。

 

 世界が違う。

 そんな気さえした。

 

 一方そんな異世界の住人は椅子に腰掛けて、ヘッドフォンを押さえて左右に揺れていた。

 

 普段とは違って落ち着いた服装だ。

 そう思ってよく見ると、それはボクが龍門でエイプリルのために選んだ服だった。

 

 白いブラウスに黒いスカート。

 赤いイヤリングは強過ぎない主張を。

 ……ヘッドフォンが何か違うと思ったら、カバーが付いてるんだ。

 イヤリングが直接挟まれると痛いからかな。

 別に、外せばいいのに。

 

「邪魔するよ、エイプリル」

 

 声をかけて異世界に踏み出す。

 ドアの裏側さえ飾られているせいで、ボクだけがこの部屋で浮いているみたいだ。

 支給品のジャケットを脱げば少しくらいはインフォーマルになるかな。

 いや、ならないか。

 

「聞こえてる?」

 

「─── ♪ 」

 

 ノックの音が聞こえないくらいだった。

 ボクの声だって届くはずないか。

 

 端末のメッセージ機能を使ってみる。

 少し離れた場所からバイブレーションの音が聞こえてきた。

 そうだった、プレイヤーで流してるから端末は使ってないんだ。

 

 ああ、これが理由だったんだ。

 休日は返信が遅いのは、これのせいだ。

 職務中とか移動中は早くチェックしてくれるし意図的に遅らせるような人でもないからおかしいとは思ってたんだ。

 

 なんとなく胸の支えが一つ取れたような気分で肩を叩いた。

 緩慢な動作で振り向いた彼女の目が見開かれる。

 

「邪魔してるよ」

 

「……び、びっくりした。ちゃんとノックは──してるよね。それなら私が悪いか、ごめん」

 

「謝る必要なんてないよ。エイプリルが気付くまでボクは待たなかったから」

 

 予定があったとは言え、反応がないなら待つべきだった。

 彼女は少しの間迷ってから同意した。

 ボクにはデリカシーってやつが欠けているんだろう。

 

「ん? あれ、まだ時間じゃないよね? どうしたの、もしかして予定より早くあたしに会いたくなっちゃった?」

 

 すぐに切り替えてイタズラっぽく笑う。

 随分と久しぶりな気がして、ああ、こんな風だったなって納得した。

 

「そうだね、会いたかったよ」

 

「……適当に返してる?」

 

「あはは」

 

 曖昧に笑うボクを怪しそうに見る。

 苦笑しながら目を合わせていると、少し経って、ふいとそっぽを向いた。

 

「前のことはごめん。どうしても外せない用事が入ってさ、蔑ろにしてるつもりじゃなかったんだよ」

 

「別に怒ってないよ」

 

「そう?」

 

 それならどうしてこっちを見ないんだろう。

 やっぱり怒ってるんじゃないの?

 

「出直そうか」

 

「だから怒ってないってば! 飲み物出すから待ってて!」

 

 エイプリルはぷんすこしながら奥へと歩いて行った。

 取り残されたのは浮いているボク一人。

 

「やっぱり怒ってる……」

 

 

 

 出してくれたアイスコーヒーは美味しかった。

 少し苦味が強かったけど。

 

 隣で同じくブラックのコーヒーを淹れたらしきエイプリルが舌で少しずつ飲んでいる。

 しかめっ面だ、それは怒ってるからなのか、それともコーヒーが苦いからなのか。

 ボクにはわからない。

 

「ねえ、あたしの顔に何かついてる?」

 

「綺麗な顔って返しておくよ」

 

 しまった、少し眺めすぎた。

 

「……もう。怒ってないんだって。別にあたしのこと(おだ)てる必要なんてないから」

 

「それにしては棘があるように思うけど」

 

「そう思うからそう見えるの」

 

「そうかな」

 

「そうだよ」

 

 絶対怒ってると思うんだけどな。

 全く目が合わないし。

 

 そんなことを考えていると、エイプリルがふいに窓の向こうを覗いた。

 空には薄い雲が広がっている。

 世界の隅に斜陽がかかって、今にもボクたちの世界を侵食しようとしているみたいだ。

 

「ちょっと早いかな」

 

「定刻まであと一時間くらい、だよね。やっぱり出直そうか?」

 

「いいから。どうせご飯食べるくらいしかやらなきゃいけないことなんてなかったし。何だったらアビスの分も作ってあげるよ」

 

 鉱石病の詳細を話したことはない。

 融合率あたりは知ってる、みたいなことを言っていた記憶はあるけど、それだけだ。

 普通の食事を摂ることができないだとか、普段から発熱や吐き気を感じていることは話してない。

 

 だって無駄だから。

 

 ボクがそれを話したところでエイプリルに出来ることはない。

 それだったら話さずに隠したままでいた方が、変にセンチメンタルな雰囲気を生むこともない。

 

 また怒られてしまうだろう。

 もしかすると泣いてくれるかもしれない。

 だから、絶対に話さない。

 

 そんなものは見たくないから。

 

「ボクは食堂で食べて来たよ。だから気なんて使わなくて大丈夫」

 

「えっ、アビスって食堂で済ませることあるの……? いつ誘っても断るのに一人の時は行くの? ふーん、そう。そんな人だったんだ」

 

 今日は気が立ってるように感じる。

 普段は誇張と本音が半分ずつなんだけど、今日は誇張が3で本音が7みたいな、そんな感覚。

 やっぱり怒ってる。

 

「ボクのことはどうでもいいから、今はエイプリルの夕飯についての話をしよう。たとえばボクが振る舞ってもいいよ」

 

 少し強引過ぎる転換。

 エイプリルの耳がぴくっと反応して、次に半信半疑と書かれた顔がボクに向いた。

 

「料理出来るの?」

 

「これでもラユーシャから勝てる気がしないって言われたくらいにはハマってるんだよ、料理。節約とか気にせず作るから趣味の領域かもしれないけどね」

 

 実用的価値は全くない。

 そういう意味で、ボクの料理は趣味だ。

 ただ心を潤すためだけの──いや、乾くことを防ぐためだけの趣味。

 ボクがかつてリラに振る舞ったスープを、カッターと食べた小さなパンケーキを忘れないためだけのもの。

 

「思ったんだけどアビスってラーヤちゃんのことかなり好きだよね。基本怒らないし」

 

「拒むなんて出来ないよ。ラユーシャはテロリズムの被災者で精神的に弱ってるんだ。ボクが多少なりとも責任を持って支えてやらないと」

 

「……その割には死のうとしてなかった?」

 

「嫌だな、死んだらやらなきゃいけないことなんて全部なくなるはずだよ。何も出来なくなるんだから」

 

 エイプリルの動きが冷えた。

 もっと適切な言い方があるとは思うけど、冷えたとしか言いようがない。

 見えていた感情の色が塗りつぶされていく。

 それは猜疑や疎意を怒りが埋め尽くしていく光景で、燃えるような感情があるはずなのに、どうしてか冷えているように感じた。

 

 口が固まった。

 

「無責任にも程があるよね」

 

 トゲが刺さっている。ボクの体に。

 エイプリルの視線に絡みついたトゲ、鼓膜を揺らすトゲ、脳内を伝わるトゲ。

 

 ボクの口は動き方を忘れたみたいだ。

 声が掠れて喉を飛び出す。

 

「ねえ、龍門で話したことと同じ内容の説教をしなきゃいけないの? まだ分からないの?」

 

 エイプリルの機嫌がハッキリと傾いたところで、ようやく硬直が消えた。

 

「──分かってる! 分かってるよ! あの時はそう思ってたってだけで、今はそうじゃない。だからここにいるんだ」

 

「……それならいいけどさ」

 

 猜疑心は消えない。

 反論が遅れたせいで行き場を失った勢いが惰性で残っている、というのもその原因の一つだと思う。

 

 どうして口が開かなかった?

 何か、いや、誰かに乗っ取られたみたいに口だけがボクの意思に逆らっていた。

 躊躇うような発言でもないはずだ。

 

 いやいや、ちょっと待って。

 誰かに乗っ取られていた、なんて。

 

 ボクは何を言ってるんだろう。

 疲れてるのかな。

 

 きっとそうだ。

 ドクターやケルシーに気力を奪われた。

 だからこんな風に考えてしまった。

 そうに違いない。

 

 

 ──微かに感じる雰囲気の残り香。

 

 

 引っかかって、抜け落ちて。

 頭が惑っているとよくわかる。

 

 ただの金縛りに『彼女』を感じるなんて。

 

 憤ってしまいそうなほどの侮辱だ。

 ボクのこの感覚が憎らしい。

 

 第一、分かるはずがないんだ。

 雰囲気は実体を持たないんだから。

 そんなの間違っているに決まってる。

 

「どうかしたの?」

 

 思考を引き戻す。

 埋没していた意識が前に向く。

 

 ……近くないかな。

 

「なんでもないよ」

 

「本当に?」

 

 ぴと、と額に手が当てられる。

 目と鼻の先に、エイプリルの目と鼻がある。

 

「あの時と同じだったよ。リラのことを話してくれた時と同じ、透き通ってるみたいな存在感だった」

 

「……そんなこと、ない」

 

 ありえないんだよ。

 死人は絶対に帰らないんだ。

 

「何を抱えてるのかは知らない。アビスが言ってくれないから、あたしは何も知らない。だから何もできない。何もしない」

 

 僕がこれを言う必要なんてない。

 世迷言以外の何でもないんだから。

 

 そうしてボクは壁を築く。

 エイプリルから近づかれることを拒む。

 

 だから。

 

「だからあたしは信じて待ってる。約束守ってくれるって信じてるから。勝手にいなくなったりせずに、いつかは話してくれることを信じてる」

 

 エイプリルの目は真っ直ぐだった。

 ひたむきにボクのことを信頼している、ある意味で澱んでいて、ある意味で透き通っている目。

 

 約束は守りたいと思ってるよ。

 信頼だって当然裏切りたくない。

 

 ああ、もう。

 頭がぐちゃぐちゃだ。

 こんな煩雑なこと考えたくない。

 

 ボクのことを信じてる。

 エイプリルはそう言った。

 頭の中をかき混ぜて、けれど心はそれを無抵抗に受け入れた。

 それが全てなんだ。

 ボクはただ複雑に考えて心臓を無視してるだけの馬鹿なんだ。

 

 分かったよ、本当は分かってるんだよ。

 でも頭が受け入れられないんだ。

 

 だから答えてほしい。

 

「一つだけ、聞いてもいいかな」

 

「うん、いいよ」

 

 エイプリルは笑みを浮かべる。

 それは普段浮かべている爛漫のような笑顔ではなく、また、少しだけ意地の悪いものでもなかった。

 

「無理に延期したこと怒ってる?」

 

「うん。すっごく」

 

 怒られるのは苦手だけど。

 怒られることは嫌で仕方ないけど。

 約束を守れなかったボクが怒られないままでいるっていうのは、ちょっと違うなって思うから。

 

 だからようやくエイプリルが頷いてくれて、ボクはほんの少しだけ、これがいいなって思ったんだ。

 ほんの少しだけ、受け入れられたんだ。

 

 

 

 エイプリルの食事が済んだ。

 思っていたより少食で、残った分をボクが食べてしまったけど──まあ、少しくらいなら構わないと思う。思いたい。既にちょっと痛い。

 それで、ここからが本題なんだけど。

 

「これってイケナイことじゃないの?」

 

「大丈夫だから、心配しないで」

 

 エイプリルの言葉は投げやりだった。

 これからボクはエイプリルとの仲を深める。

 エイプリルが言うには、少しだけボーダーラインに触れるとか言ってたけど、ボクには思いっきり踏み越えてるように見える。

 もし人に知られたら、と考えて体を縮める。

 

「本当にやるの? エイプリルってそんな人じゃなかったよね?」

 

「はいはい、何回同じこと言ったって変わんないよ。……って、ごたごた言ってる割には乗り気じゃん」

 

 期待する自分は、そりゃ居るけど。

 だからと言って何も言わないで、抵抗しないでいるっていうのは、義理が立たない。

 ボクはお願いを聞かなきゃいけない、って、そのスタンスじゃないと。

 だから、これは仕方ないことなんだ。

 それでいいだろ。

 

 ふふ、とエイプリルが蠱惑的に笑う。

 

「準備万端だね」

 

「……そうだね」

 

「それじゃあ、しよっか」

 

 エイプリルの手が伸びて、掴んだ。

 ああもう、分かったよ。

 後のことなんて考えないでいよう。

 

 

 ──かちん、とグラスが響いた。

 

 

「「乾杯」」

 

 喉を通るアルコールの感覚。

 ボクとエイプリルは低い度数の酒に酔う。

 少しでも長く語らえるように、少しでも多くを覚えていられるように、スローペースで、ゆっくりと飲む。

 

 早速エイプリルはソーセージに手をつけた。

 焼いたばかりで、パリッと割れるソーセージはさぞ美味しいことだろう。

 それにお酒がついてくるんだから尚更だ。

 

 これは龍門の夜の再現だ。

 あれはボクの部屋で、今はエイプリルの部屋だけど。

 お酒を飲んで話をするっていうことは何も変わらない。

 

 ああ、ケルシーにバレてしまったら。

 たぶんボクは死ぬまでケルシーの管理から離れられなくなるんだろう。

 自由に使えるお金もなく、ただ寿命だけが伸びていく。

 

 考えるのはやめにしよう。

 バレなければいい、それで終わり。

 失敗した時のことは考えないでおけばいい。

 

「ねえ、記憶がないって言ってたけどさ」

 

 頬を心なしか赤くしたエイプリルが言った。

 

「それってラーヤちゃんとのデートを忘れてるってことでいいの?」

 

「ラユーシャとのデート?」

 

 あー、えっと、うん。

 少しの間考えてようやく思い当たった。

 

「デートの記憶はないし、今この瞬間までその約束すら忘れてたよ」

 

「クズじゃない?」

 

 ぐさっと心に突き刺さる。

 リラとのことがあって、記憶のことがあって、ケルシーのことがあって、ドクターのことがあって──これは言い訳だけど、本当にそれを思い出すだけの余裕がなかったんだ。

 ラユーシャには本当に申し訳ないな。

 

「ああ、でも。エイプリルとデートするって約束は忘れてないけどね?」

 

「……今、思い出したんじゃないの?」

 

「心外だよ」

 

 まあその通りなんだけど。

 エイプリルにもそれが分かっているんだろう、胡散臭そうな視線を感じる。

 どう思っていたかなんて確かめようがない。

 認めなければ疑念は疑念のままだ。

 

「ほら、こっちも食べてみなよ」

 

 ウインナーにチーズを巻きつけたもの。

 正直言って美味しくないはずがない。

 

「そんなにハイペースで食べないから。あと誤魔化すならもっとちゃんとやった方がいいと思うよ」

 

 あはは、バレてる。

 

 バレたことは別にいいんだけどちょっと困る。

 フォークに刺したこのウインナー、ちょっと今のボクには食べられない。

 チーズ自体の消化は良いんだけどさっき食べたものの反動で吐き気が酷い。

 だから差し出した。

 

「えっ、だから食べないってば」

 

「あーん」

 

「ちょっと、アビス?」

 

 ボクとフォークで視線を行ったり来たりさせて見るからに戸惑っているエイプリル。

 うん、もう一押しかな。

 

「あーん」

 

「……あ、あーん」

 

 一口で全部持っていくことはなく、半分くらいのところで噛み切っていた。

 それはちょっと困るんだよ。

 

「うん、美味しいね」

 

「あーん」

 

「待ってまだ続くの!?」

 

「ほら、口開けて」

 

「いや自分で食べなよ」

 

「ほら」

 

 ずい、と更にフォークを差し出せば不承不承と言った様子で頷いた。

 食べ物を粗末にする気はないよ。

 

 もきゅもきゅと食べるエイプリル。

 

 リラとの思い出が想起される。

 リラの身体が着実に動かなくなっていって、食事すら満足に一人では摂れなくなって。

 

 それが視界と重なった。

 

 どうしてか満足そうにしているリラに真剣さを取り戻して欲しくて距離を置いてみれば、変な勘違いして謝ってきた。

 あの日々は辛くて苦しかったけど、同時に幸せだったんだ。

 リラと居ることが出来たから。

 

 コン、と机にグラスを置いた音。

 

「今くらい忘れればいいのに」

 

 アルコールが言葉を声にしてしまったのか。

 囁くような一言は、静かな室内ではかえって目立ってしまっていた。

 

「忘れたくないから忘れてないだけ。本当に忘れたくなったら忘れるんじゃないかな、きっと」

 

「今のは聞こえなかったことにするのが正解。さもないと怒らせるかもしれないよ」

 

 まだ随分と中身の残っているグラスが、荒々しく大きな音と共に立てられた。

 今日は少し失言が多いな。

 気が緩み過ぎている。

 

 

「信じてるから。ね?」

 

 

 エイプリルの言葉には抗いがたいほど強い圧が乗っていて、堪らずボクはぶんぶんと頭を振った。

 アルコールのほどよい酩酊感が頭に回る。

 

 今日もまた夜が更けていく。

 




危機契約楽しい


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九十三 信頼性エンジニア

 

 

 酔いが熱になって顔を暖める。

 それが少し鬱陶しくて冷やしたかった。

 そんな理由でボクは久しぶりの甲板に顔を出して月夜を眺めていた。

 

 エイプリルと飲むお酒は美味しかった。

 お腹の痛みはクラクラするほどのアルコールにかき消されてほとんど感じなかった。

 良い思い出になった。

 

 そんな折にこの人が来るとはツイてない。

 

「何か用ですか、クロージャ。今のボクはお金どころか財布すら持っていませんよ」

 

「あたしは別に守銭奴じゃないよ。何なら格安でサービスを提供してるくらいなんだから、人聞き悪いことはやめてほしいな?」

 

「はあ。そうですか」

 

 それなら何がしたいんだ。

 ドクター救出作戦の前からずっと、ボクが気不味そうに振る舞っていたのを分かってたから無駄な会話をせずに今までビスケットを渡してくれたんじゃないのか。

 

「月は見える?」

 

「ご自分で見上げてみたらいかがですか」

 

「塩だね。何か嫌なことでもあった?」

 

 揶揄い混じりに笑っている。

 その様子からは悪意が読み取れない。

 話すべきこともないのだから、その目的がどこにあるのかが分からない。

 

 感情の色は見えない。

 ボクが知っている悪感情ではないのか、それとも感情を持ち合わせていないのか。

 どちらでもいいか。

 ボクはため息を吐いた。

 

「帰るには早いんじゃない? 用件だって聞いてな……いや、それは聞いてたけど。答えてないじゃん」

 

「答えてないからそんなものはないって判断したんです。ないですよね、ないのでしょう。ですから帰らせていただきます」

 

「待った待った! ちょ〜大事な用件があるんだよ!それこそあたしが暇を見つけて購買部を離れるくらいには!」

 

 クロージャが何か喚いている。

 聞かなかったことにして屋上階のドアに手を伸ばせば、その腕が堅く掴まれた。

 決して痛みを与えるような強さではないのに不思議と動かない。

 

「ねえ。大事な話だからさ」

 

 視線は交わらない。

 それなのに異様なほど冷たい視線が、実態を伴って僕の体を縛り上げていた。

 

 怯えてしまいそうなほどだった。

 コーティングされていた感情は膨大且つ強烈だった。

 

 キレているだとか、怒っていると形容することは間違いだ。

 ただ素を見せただけ。

 被っている仮面を外しただけだった。

 顕になった顔が余りにも見せていた感情と乖離していて、それが本能的に恐ろしくなったんだ。

 

 冷視線はノブから手を離すまで続いた。

 ゆっくりと振り返れば普段と同じ笑みがそこにある。

 

 異質なものを感じ取ってしまったボクには、その笑みがどうにも深い意味を持つように思えてならなかった。

 

「そう急ぐつもりはなかったんだけど、そこまであたしと話すことが嫌ならさっさと済ませることにするよ」

 

 あの夜と同じようだった。

 トトン、と靴を弾ませてクロージャが離れる。

 濡羽色の髪が冷たい風に揺られて光る。

 反射した月光は目が眩むほどではないけれど、その黒を全く異なる色に見せた。

 

 不安が心に立ち込める。

 クロージャは完全なる未知だった。

 ロドスの過去を知る彼女とはかれこれ三年弱の付き合いになるだろうに、ボクは彼女を何も知らない。

 

「ドクターを……」

 

 口を止めて、首を振って。

 

「彼女を壊さないで」

 

 想定外ではなかった。

 彼女が未知だからこそ次に何を言おうと驚かないつもりで待っていたからだ。

 何人も人を殺している、なんて言われたって──ボクにそれを告げたこと自体には驚くだろうけど──動揺しないつもりだった。

 

 想定の範囲内にあった言葉で得心していたボクは、次の言葉でその余裕を打ち砕かれなければいけなかった。

 

「彼女は失敗する。彼女は醜態を晒して──着けている数多くの仮面を全て外してアビスくんに縋り付く」

 

 ボクの顔には、どうして、と文字が浮かんでいるはずだ。

 ドクターの能力に興味なんてカケラもなかったけど、信頼はしていたから、偽装が完璧でなかったことに驚いた。

 ありえるとしたらケルシーだと思っていた。

 接触する機会の少ない彼女が知っているのは本来ありえない状況のはずだった。

 

「どれだけ可能性が低かろうと、振り続けれてしまえばいつかは一の目が出る。それを彼女は分かってない。それに、彼女は自分自身の無知を知らない。驕り切ってる」

 

「待て。待って、ください。何を言ってるんですか、貴女は」

 

「一つ投げて一の目が出る確率は、十一投げてその全てで一の目が出ない確率と同じ。確率は収束するよ、きっとね」

 

 待ってくれよ、本当に。

 未だにドクターのことが露見していると知って混乱してるんだ。

 抽象的な話を畳み掛けてこないでくれ。

 

「具体的に、詳細に──何が起こると言うんですか? ドクターが失敗して、それが何を引き起こすと貴女は考えていますか?」

 

「最初に言った通りだよ。彼女は壊れる。失敗しないという失敗を積み重ねてしまった彼女に逃げる方法はないよ。同じように、あたしが彼女を救う方法だってどこを探したって見つからない」

 

 それらのどこが同じように、なんだよ。

 噛み砕いて説明することはいいけど、分かりにくくなってしまうまで細かく砕く必要なんてないだろう!

 

 まるでミキサーにかけられたスムージーみたいだ。

 どこを掬って飲んでも同じ味をしているけど、入れられた材料が多過ぎて、複雑過ぎて、そしてボクにとって未知過ぎていて、それが何の味と言えばいいのかわからない。

 ボクは研究所で働いた経験がないんだ。

 何を目指せと言う前に何をすればいいかしっかり指示してくれよ!

 

 それにこれは不得意分野だ。

 ボクは人を思いやることなんて出来ない。

 エイプリルと出会って分かったよ。

 ボクは言葉を選ぶ事ができなくって、人のために意見を曲げることが大嫌いで、つまりは頑固で偏屈で面倒臭いやつなんだって分かったんだ。

 

「ドクターやケルシーなら分かるけど、どうしてボクなんだよ。ドクターが壊れるなら、それがどんな形であってもケルシーに任せればいいはずだろう。ボクには到底不可能なんだよ」

 

「そうだね、ケルシーなら治せるかも! 追い詰められた彼女の心すら読めない、物知りで賢くて視野狭窄なケルシーなら治せるかもしれないね! 何回連続で六の目を出せばいいのかは全く想像も付かないけど!」

 

 クロージャがおどけてそう言った。

 ああ、どうしてボクがこの人の地雷を踏み抜いてしまったのか、今理解した。

 

 この人は感情を隠すことに長けている。

 

 それは商人の性なのか、それとも彼女自身の特徴なのかは知らない。

 そして押さえつけているのか、もしくはただ彼女の感情そのものが薄弱なのかも分からない。

 兎角、彼女の感情は見えないんだ。

 

 

「ところでさ。責任って言葉は知ってる?」

 

 

 薄く開かれた瞼の隙間から漏れている。

 昂ってどうしようもない怒りが知ってか知らずか薄く漏れてしまっている。

 恐怖ほどではないにしろ、怒りはボクにとって親友と呼べるほどに慣れたものだった。

 ボクが常日頃から抱えていた怒りはクロージャと同じくボク自身に向けられたもの。

 

 だから、分かったんだ。

 ボクに向けられた際限なき怒りを。

 

「責任、信頼。あたしは大事だと思うんだ、こういう言葉って。なんて言ったってあたしはロドスの信頼性エンジニアだからね!」

 

 否、だった。

 それは漏れてなんていなかった。

 ボクが気付くようにと促していたんだ。

 

 口にすることすら馬鹿馬鹿しい説教の言葉は、やはり笑えてしまって言えたものじゃない。

 だから直接的に告げることはしない。

 余りにも馬鹿馬鹿しくって、そんな現実に嫌気が刺して、ボクを害してしまいそうになる。

 そうなるのは嫌だったんだろう。

 

 何故なら、彼女の立場はロドスの『信頼』性エンジニアであり、それを背負っているから。

 

 ただ、それでも。

 

「ボクは望んで依存させたわけじゃない。今の状況を鬱陶しいとすら思ってるよ。そんなボクが責任なんて──」

 

「無関係な話で流さないでよ」

 

 ピリっと空気が弾けた。

 嫌だなー、あはは、なんて笑いながら言っている彼女の目にはとても楽しさなんて浮かんでない。

 

 ああ、やっぱり間違えた。

 今のは頷くべきだったんだ。

 「それでも」なんて言葉を返すことは許されていなかった。

 頑固で蒙昧な頭が嫌になってくる。

 

「可能な限りの配慮。ボクに責任があるとして、責任遂行能力は別の話だ、そうだろう? だからボクに出来ることはこれだけだと提示させてもらうよ」

 

 クロージャは目を瞑った。

 ボクはまた何かを間違えてしまっただろうか。

 胸中を埋め尽くす不安は遂に、遥か彼方、イベリアの南で広がる大海のように他の感情を駆逐する。

 

 しかし、ボクの不安とは裏腹に事態は好転した。

 彼女が再び開いた目の奥には、どれだけ分け入っても怒りなど見つけられそうになかった。

 

「それでいいよ。どうせならドクターの体に関する研究データが欲しいけど、そこまで求めるのは高望みってものだよね」

 

 笑っていい冗談なのかは分からなかった。

 一人分の笑い声だけが甲板を流れていった。

 

「おっと! 夜勤で眠くなる人があたしの購買部を尋ねる時間だ。それじゃあまたね、良い結果を期待してるよ」

 

 終始一貫して態度を崩さなかったクロージャがドアに手をかける。

 緊迫感が未だに残っている中、ボクにはどうしても聞かなければいけないことがあった。

 

「少しいいかな」

 

「ん〜? どうかしたの?」

 

「可能な限りと言ったけど、それは強請られてしまった場合、全ての要求を飲まなければいけないってこと?」

 

 首を傾げるクロージャ。

 ハテナマークが少しの間浮かんでいた。

 

 ようやく咀嚼を終えたクロージャの反応は劇的で、初めてボクは心からの笑いを見ることが出来た。

 

「あっははは! いいね、聞いてあげなよ! 可能な限りでね!」

 

 そう言ってクロージャは去っていった。

 どうやら明日からの業務は、随分と疲れることになるらしい。

 

 ボクは空を仰いだ。

 月が借り物の光で輝いていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九十四 脆弱で強靭で不安定

 

 

 

「本当にいいのか……?」

 

 予想のど真ん中だ。

 的中だとかそういう次元にない。

 生きているものは全て死ぬといった法則のようなものと似通った何かだ。

 

 ドクターは小さく袖を引いた。

 どう見ても乗り気じゃないボクが引っ張られて、休憩室のベッドに倒れる。

 

 責任を取るってことが何を指しているのか分からなかったわけじゃない。

 だからこれはただの自罰だ。

 今までほっぽり出していた罰を受けようという気になっただけ。

 そうでないと、ボクはエイプリルに顔向けできないような気がしたから。

 ただの自罰でただのエゴだ。

 

「な、なあ。何が狙いなんだ? お金ではないんだろう? 休暇を求めているのか?」

 

「何でもないよ。何度も応える気がないってことだけはあってるけど」

 

 ドクターの綺麗な髪を梳く。

 リラの髪が綺麗でよく触っていたから分かるんだ、どうすれば不快じゃないのかって。

 

 昔を思い出して微笑むボクを見て、ドクターは思考を放り出して目を閉じた。

 

 

 

 事の発端は業務中にまで遡る。

 ああいや、誰もが予想する未来と全く同一の軌跡を辿っていたから、遡る必要なんてないのかもしれない。

 

「疲れた。結婚してくれ」

 

「ひょっとしてバカなのかな」

 

「朝から晩まで私の生活に付き添ってくれ。そして私の伴侶として愛してほしい。私は君を愛さないが、それ以外ならば何でも贈ることを約束しよう」

 

「ひょっとしなくてもバカなんだね」

 

 ほとほと呆れる。

 けど同時に、このまま実現不可能なことばかり言っているならどれだけ良いかと考える自分がいる。

 クロージャの言葉は半ばふざけていただろうけど、責任を無視した自分への罰として捉えるなら、一度くらいは、と思ってしまった。

 ボクだってエイプリルに散々言われて罪悪感くらい感じてるんだよ。

 

「それなら一緒に寝てくれよ」

 

「ああ、それならいいよ」

 

 とは言えやりたくないのはやりたくないのでそのままぶっ飛んだことを言ってくれていれば良かったんだけど。

 

 そうはいかないか、と思いつつ返す。

 ドクターは一瞬手を止めた後、何でもないような様子を取り繕って、そして震えた声で言った。

 

「アビス、すまないが上手く聞き取れなかったみたいだ。もう一度言ってもらえるか?」

 

「それならいいよ」

 

『それならいいよ』

 

「録音しないでほしいんだけど」

 

「認識の入れ替え、もしくは聴覚を乗っ取るアーツか? 源石機器を用いていない以上は声そのものにかかっているとは言いがたい、となれば私かアビスが──いや、アビスだろう。アビスが既に何らかの術中にあり、それならば私を狙った内部犯か? アビスが受動的であれ私を害するわけがない、それならば命令だけを──それともナインが揶揄っている?」

 

 どうやらボクが操られていると考えたらしい。

 クロージャが裏で手を引いているから、その考えは九分九厘当たってる。

 残りの一厘がボクの意思に当たる。

 

「ボクがただ受け入れたって可能性はないの?」

 

「今まで受け入れなかったアビスが突然対応を変えるならばそれに足る理由が必然的に生じているはずだ。そしてこの関係を知るのはナインだけで、ナインに頼まれたとて断るだろう。ならば別の人物が君を操っていると考えた方が合理的だ」

 

「じゃあ添い寝はナシでいいね」

 

「そうは言っていないだろう!? もし君が自身の考えでああ言ったのだとしても、証明は必要なんだ。安心してくれ、この音声データは四肢を捥がれようが決して手放さない、それくらいには重く捉えている」

 

「……もう面倒そうだからナシでいいよ。あとアーツで操られていた人を、操られていた時の言葉で脅すのはどうかしてると思う」

 

 流石にその人の意思がないのに言質として扱うなんてことはしないだろうけど。

 うぐっと呻いたこのドクターならほんの少しだけやりそうな気がしたから、一応ね。

 

「私自身の安全と君への信頼を天秤に取れと? そんな二者択一など私がどちらを選ぶかなど分かりきっていることだろう?」

 

 そう思うならこの手を離してくれ。

 ボクがナシって言い始めたあたりからずっと袖を引っ張ってるの自分で気付いてないのかな。

 

「あと、本当に操られてると思ってるならボクは秘書を明日以降辞めるけど」

 

「休憩室に行こうか」

 

 その即断即決に苦笑する。

 引っ張られて、椅子を立ち上がった。

 

 ああ、今の発言は無責任じゃないよ。

 ドクターならボクを取るって信頼があったから言えた、ただの冗談だから。

 

 

 とまあそんなわけで。

 現在ドクターは寝顔を晒している。

 

 改めて眺めてみれば随分と整った顔だ。

 可愛いと褒めるには些か綺麗に寄っていて、儚げといった風の感想が相応しいかもしれない。

 愛嬌のあるラユーシャとは反対だ。

 

 泣き顔がよく似合ってしまっていることは自覚した上でボクに縋っているんだろうか。

 いや、絶対に自覚している事だろう。

 どうせ計算通りのはずだ。

 この人はそれでしか動けない人だから。

 

「……あびすぅ…………」

 

 寝ているかどうかは喉を観察すれば分かる。

 

 ボクの予想とは反対に、ドクターはしっかりと睡眠に入っているようだった。

 リラが寝言でボクの名前を呼ぶ時は大抵寝ていなかったんだけどな。

 無警戒に近付くと引き倒されて抱き枕にされてしまうんだ。

 かわいかったな、リラは。

 

 華奢な指がボクの服を引っ張る。

 それはただ引っかかっていただけらしいけど、ボクは急かされたような気がした。

 ドクターが望むことって何だろう。

 頭でも撫でようかと手を伸ばして、ボクはそこで止まってしまった。

 

 彼女は結局ボクに守ってもらいたいだけで好かれるというのはただのステップに過ぎない。

 彼女を守れば喜ばれるんだろうけど、生憎ここは執務室に併設された休憩室という、指折りの安全地帯だ。

 

 頭を抱えて唸った。

 存外ボクは要求されていたことが少なかったらしい。

 それなら、彼女が寝ている隙に仕事でも終わらせておけばいいのかもしれないけど、それでも機密書類はいかに秘書と言えど処理できない。

 

「ドクター。君は何を求めてる?」

 

 小声で聞いた。

 返事は当然ながらない。

 

「──壊れる、か」

 

 思い出したのは昨夜のこと。

 迂闊に触れると割れてしまいそうな感覚はあっても、彼女自身が壊れるという事態は想像できない。

 彼女は『ドクター』の脳を持つ。

 軽挙妄動を慎むだけの自制心がある。

 ストレス耐性だって相当なものだ。

 

 物理的な観点で見たとして、安全区画で生活するロドスの重役であり特別な日でなければ不可視の護衛が付いている。

 第三者が害する可能性は低いと見ていい。

 

 それならばあの発言か。

 

『彼女は失敗する』

『失敗しないという失敗を積み重ねて』

 

 確かに、今までストレスこそ受けていても失敗の経験はないと見ていいと思う。

 作戦はいつも大成功でケアレスミスなんて起こしたことがない。

 彼女は戦術指揮官として何者にも劣らないだけの能力を持っている。

 彼女は誰とでも打ち解けることができる仮面を作ることができる。

 彼女は人身掌握術に長けていて、観察力やその他知略にかけてはかなりのものだ。

 

 失敗しない失敗という発言は頷ける。

 誰もが失敗して、それを糧に成長しているのだ。

 逆説的に失敗しない者は成長せず、既に完成されているのだと見ることができる。

 事実彼女の指揮は半ば完全だ。

 そして彼女は自身の指揮を反省しない。

 各オペレーターの能力を正確に把握し、作戦記録を適切に振り分けていて、頭打ちになった者には昇進という飴を与えるか、限界だと見限るか。

 ミスが発生しない故に彼女は指揮を反省しない。

 その必要がない。

 ──とにかく。

 失敗しないことがその人の成長機会を奪い、慢心を形作るということには賛成だ。

 

 ただ、問題がある。

 彼女が失敗するビジョンが浮かばないんだ。

 彼女が積み重ねてきた成功は目を疑うほどの難易度で、それに相応しいだけの砕心があったはずだ。

 目覚めてからずっと続けてきた偽装は完璧。

 

 彼女は失敗の経験がない。

 いざ失敗した時に壊れてしまいそうだ。

 

 その意見はごもっともだろう。

 だけどそれは彼女が大事な場面で一つ以上のミスをすると確信しているからこそリスクに繋がっているものだ。

 今現在一番彼女に近いボクをして、彼女が失敗をするとは──やはり全く思えなかった。

 

「クロージャには何が見えてるんだ……」

 

 あの変人の言うことは適当に流せばいい。

 

 そう思う自分は確かに存在する。

 ただ、彼女は変人だけど天才だ。

 

 もしかするとその変人性は天才的頭脳から生まれたものかもしれない。

 そんな考えすら顔を出しているが、ボクはそれを否定することが出来ない。

 ドクターに悟られないままにこの関係を看破してしまえるクロージャを低く見積もる気にはなれなかった。

 

 クロージャが頭の中で笑っている。

 クロージャは何を笑っているんだろうか。

 

 ぐるぐると思考が渦を巻いて溶けていく。

 答え合わせが出来ない問いについてあまり考え込んでも仕方がないとは分かっているけど。

 

 そんな中で意識すら希薄になっていく。

 気持ちの良い風が窓から入ってきた。

 

 涼やかな気温とちょうどいい抱き枕を見つけたボクは、うっすら見えていた視界をとうとう闇に閉ざした。

 

 

 

 

 暖かな海の上に浮いているような感覚が、少し経ってから変化した。

 私の体が海の中に沈んでいったのだ。

 普段ならば身の危険を察して一刻も早く陸地へ帰ろうと泳ぎ出していたことだろう。

 

 しかし、そうしなかった。

 私に恐怖はなかったからだ。

 

 その海が伝える、噂に聞く家族のような暖かさは私にとってはむしろ歓迎したい類のものであった。

 この安堵を迎えられるのなら私は何を放り出したっていい。

 吸血鬼に魂を売り渡したとて構わない。

 危険と共に生きなければ生を実感出来やしないほどの鈍感さを生憎と持ち合わせていないのだ。

 

 何も考えずに暖かい海を揺らめいていることが私の本当に求めていたことであって──。

 

 

 何かが違う。

 

 

 水温が下がっていた。

 海の暖かさはとうに姿を消していた。

 燦然と輝いていた太陽が蜃気楼に揺られてかき消えた。

 

 何故だ、どうしてなんだ。

 安堵の代わりに不安が生まれる。

 そうなれば一直線に下がり落ちてしまう。

 

 この世界は夢の中に存在していた。

 だから私は本来ありえない選択肢すら目の前に浮かばせることができる。

 立ち込めて前が見えなくなるほどの不安を晴らしたのは、焼き尽くす炎で視界の全てを赤に変えてしまうような憤怒。

 

 私から彼を奪ったのは一体誰だ。

 居心地が良かったはずの世界は一瞬にして文字通りの冷遇を見せ、私はそれを認められやしなかった。

 

 意識を無理矢理に離脱させる。

 

 切り離した意識が浮上していくと、自分を剥離させていく感覚に似た何かが私の胸中を埋めた。

 

 「許さない」と。

 

 そう心に刻み込んだ私は瞼を開いた。

 目に入ってくるのは──彼のような顔をした別人だった。

 彼ではない誰かが私の目を覗き込んでいた。

 

「ああ、起きたんだ」

 

 細かなイントネーションの違いが私の感覚を正しいと言ってのけた。

 

「私と彼の邪魔をしないでもらえるか」

 

「分かるんだね。それで邪魔、か」

 

 ふうん、と彼女は言った。

 水を飲んでいたらしい、コップをテーブルに置いて私が居るベッドに近付く。

 見るからに不機嫌そうで何をやらかすか見当もつかない。

 普段ならば胡麻を擂ってでも落ち着かせようとしていたが、今日に限っては違う。

 

 私は怒りに燃えていた。

 夢と現実が地続きのように思えていたからだ。

 確定ではないのだが、事実として彼がそうなったから私の安眠が妨害されたのだ。

 それに前回顔を合わせた時、彼女が私のことを害さなかったために調子に乗っていた。

 

 だからそれを咎められたのだ。

 

「邪魔してるのはそっちでしょ」

 

 いつのまにか吸った息が口より先に進めなくなっていた。

 弱体化しているとは言え鍛えられたヴイーヴルの青年であるからして、脆弱で華奢な私程度片手一本で空中に吊り上げることができた。

 

「アビスに何度も求婚してバカじゃないの? 権力で縛り付けることしかアビスと接する手段がないなんて可哀想だと思うけどさ。それでも、こういうことするのは違うよね?」

 

「ぁ……な、せ……っ」

 

「今までならまだ許せたよ。仕事に付き合わせるとか、縋りついて泣き喚くとか、滑稽なくらいだった。子供みたいに、そばにいてくれって言うのは不快だったけど許せないほどじゃなかった」

 

 息が出来ないことはどうでもいい。

 この存在はアビスのことを決して軽視なんてしていないから、私に手を挙げる可能性は低い。

 アビスが多少なりとも愛着を持っている私という存在を害することはない。

 私は殺されない。

 

 私を人を縛ることが得意だ。

 そして人を縛ることで一時の安全を確保することができる。

 

 だが私は人を縛り付けることは好まない。

 その縛りが解けてしまった時、私の首が容易く落ちてしまうだろうと理解出来るからだ。

 飼い犬に手を噛まれた時、その飼い犬が虎であったのなら。

 そう思うと私は一時の安全などどのような意味があるのだろうかと思わずにはいられなかった。

 

 とは言えこのような状況下では有効だ。

 明確な敵意、もしかすると殺意さえ持たれていると言うのに私は殺されることがない。

 

 首を締め上げられながらも睨み続ける私の顔を眺めて彼女はため息をついた。

 

「何言っても無駄か」

 

 予想の通りに彼──彼女か?──は動いた。

 舌打ちと共に投げ捨てられた体が床に打ち付けられ、小さな痛みを発している。

 

 単純な行動原理は短絡的なバカでない限りはずっと読みやすい。

 原理を覆い隠すために行動を複雑化して意図を読ませない──彼にはそのような頭が足りていない。

 

 身体的な優位は意味を成さない。

 言うなれば、彼女は私の遥か格下だ。

 

「私が、羨ましいか。彼と長い時間を共にして、それが許されている私のことが」

 

 私の問いに動きが止まる。

 ふむ、この反応はどのパターンだ?

 

 瞬きや呼吸に関してはずっと不自然な挙動をしているために参考にならないのだが、それ以外から読み取れる情報はそれなりに多い。

 視線の動きからして──嘲りか?

 

「面白いこと言うよね、()()()()って。やっぱりその頭が良いからなのかな?」

 

「……」

 

()()()()は幸運だったよね。記憶を失くしたって言うのに、こんなに大きな会社の重役になれたんだから! それもこれも明晰なその頭脳のおかげ。ああ、本当に羨ましいなぁ。……不満そうだね、どうかしたの? 私は何か間違ったこと言ってる?」

 

 皮肉と分かっていても不愉快だった。

 先ほどから余裕だった私のペースを崩したことが余程嬉しかったのか、声が喜悦に塗れている。

 

 ああ、不快だ。

 

「そうだな、私は幸運そのものだろう。私がこうでなかったとしたら、いや、こうであったとしても──彼の隣に居たいなどと思える未来は、無数にある可能性のうちほんの僅かしかなかっただろうから」

 

「偶然だけで手にした今をそんなにありがたがってるだなんてね。少しは借り物じゃない自分の力で頑張ってみなよ」

 

「偶然だろうとそうでなかろうとどうでもいい。彼の隣を絶対的な安息の地だと思えている今がどれほどまでにありがたいものか、私は分かっているつもりだ」

 

 彼が私にどれだけ興味がなかったとしても。

 どんなに過去が彼を縛っていたとしても。

 

 私は彼を見捨てない。

 彼のことを絶対に諦めない。

 

 私が()()()()である限り、彼のような人間は二度と現れないだろう。

 利用価値の高い立場に就いた有能な人間を見る目に色眼鏡がない人間などこの世にはいない。

 居たとして、食い物にされるだけだろう。

 そもそもそんな人間は奇妙過ぎて心の底から信じることが出来ない。

 

 『ドクター』という存在に興味がないほど内向的で、人を救っても見返りを欲さない傲慢さ、更には私の仮面を剥がして奥底を読み取るだけの観察眼。

 最低条件がこれだ。

 二人目など到底無理な話だろう。

 

 私の彼に対する姿勢は背水だ。

 彼を失ってしまった私はもはや『ドクター』という人物に押しつぶされてしまうだろう。

 性別などを含めた私の真実は、どれだけ鍵をかけてもいつかは人に見られてしまうのだ。

 まだ見ぬ未来に怯えて生きるのは御免だ。

 

 

 私が込めた感情をどれだけ正確に感じ取ったのかはわからないが、彼女は極めて不機嫌な様子だった。

 

「私を殺せないのだろう? 私を害せないのだろう? それならば私は遠慮なく彼の隣に居座ることにしよう。私は断言する──過去が現在より優先される道理などどこにもない」

 

 彼女が目を見開いて手を振り上げた。

 しかしそれが私の方へと下されることはない。

 

「お前にだけは渡さない」

 

 平坦な声だった。

 外見通りの中身であったのなら泣いて縋り付く必要が生じるくらいには起伏のない声だった。

 

 彼の体が倒れ込んだ。

 

 咄嗟に私が下敷きになる。

 啖呵を切りはしたが、アレの存在を早期に彼が自覚することは私から見ても避けたい。

 アレが何か問題を起こした時がベストなタイミングで、それは断じて今ではない。

 だからこの状況で彼が起きて疑念を持つようなことは回避しておきたい。

 

 どうにかして彼をベッドに寝かせた。

 すやすやと眠りこけている彼の顔は幸せそうだ。

 

 ……疑念を持たせたくないのは、そうだ。

 だがそれだけが目的ではない。

 

 

 彼との昼寝をもう少し堪能していたいというのも、偽らざる本音であることは確かなのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九十五 猫医者抵抗作戦-フェイズ3

 

 

 凶器になりそうなほど硬いビスケットを噛み砕いて暖かな紅茶で流し込んだ。

 芳醇な香りに頬を緩める。

 

 紅茶は誰が淹れるかで全くの別物となる。

 たとえばドクターが技術の粋を集めて淹れたこの紅茶はボクが淹れたものより何千倍も香り高くて、体の奥へと染み渡っていくような素晴らしいものだ。

 

「上等だとは思うけどよ」

 

 ナインは妙な顔でそう言った。

 何か変なことでもあったのかな。

 

「どうして褒められてるドクターが地面に頭を擦りつけてんだ。ひょっとするとオレのせいか?」

 

「あはは、ナインは気にしなくていいよ。調子に乗って距離が近くなったから『金輪際触るな』って言ったらこうなっただけだから」

 

「……許してやれよ」

 

「ナインがそう言うなら。ドクター、顔上げてよ。うざったくて鬱陶しくてストレスだったけど、別に怒ってないから」

 

「許してやれって」

 

 突っ伏して震えているドクターはそれでも顔を上げなかった。

 床を舐める趣味でもあるのかな。

 

「それで、ナインはどうしてここに?」

 

 昼下がりの執務室。

 特段用もなく訪れてはドクターと話をするオペレーターは多いけど、ナインがそうした目的で足を運んだ記憶はない。

 まだ秘書になって一週間だからサンプルは少ないけど。

 

「オレはドクターに呼ばれて来たんだよ。そうじゃねえなら恨みを買うようなことをする気はねえからな」

 

「恨みを買う?」

 

「そこのドクターが恨むだろうが。女のそういう逆恨みはどんな場所でも面倒極まりねえからな……」

 

 レユニオン時代に何かあったんだろう、ナインはいやに擦り切れた表情で苦々しそうに言った。

 

 だけど恨みを買うという表現は不適切だ。

 ドクターは自分の状況の理不尽さを嘆いて、また他人に怯えているだけであって、オペレーターに怒っているわけではないからだ。

 この人の仮面は分厚くて、どんなに楽しそうな雰囲気であっても恐怖以外の感情を覚えている場面なんてそう見たことがない。

 

 余りにも恐怖が強すぎると感じた時にはどうにか話を遮ったりしているけど、そんな時でさえ仮面には一つのヒビすら入っていないんだ。

 彼女は恨みから程遠いし、万一持ったとして漏らすことはきっとないだろう。

 人に恨みをぶつけることはドクターの不利益になる可能性が高いから。

 

 そんなことを話しているうちにドクターが起き上がった。

 

「なあ、私に失望したか?」

 

「期待してないんだから失望だってあるわけないだろう。分かってて言ってるよね、ドクター?」

 

「それでこそだよ。私のアビス」

 

 ドクターが伸ばした手を払う。

 軽率に触ってくるのは不愉快だよ。

 許したとしても変わらない。

 

「受け入れては否定して、怯えては試して。なんつーか面倒なヤツらだな。オレもだけどよ」

 

「人は大体そんなものだと思うよ。あのエイプリルだってよく分からない部分に怒ってることがあるから。最近なんてシーが化粧しないことに怒ってたよ」

 

「あぁ、それもまた面倒そうだな……」

 

「明日足を運んでみようかな。シーの顔にはどんなに風光明媚な山川草木が顔に描かれていることだろう! 感動の嵐が口から吹き出しそうだよ」

 

 ナインは想像してぶるりと体を震わせた。

 どれだけテロリストの身に堕ちて人を殺していても、まだまだ化け物を怖がる年齢だ。 

 

「本題に入っていいか」

 

 ナインがドクターに顔を向ける。

 ボクにスキンシップを拒まれて意気消沈しているドクターにとってそれは救いとなったのか、気を取り直して姿勢を正した。

 

「ナイン、君にはいくつもの選択肢がある。それを変える権利は私たちが持っているはずもなく、これはただの提案だ。それを踏まえて──オペレーターにならないか?」

 

「その話か」

 

「まあ待ってくれ。君のアーツは潜入、政治、作戦、全ての対外活動において著しく強力だ。更にはその存在すら気取られていない上に、亡灵(アンデッド)という肩書きがいざという時の影武者となる」

 

「分かってる、オレとドクターが組めば相当な利益になるだろうってことはよ。そんで、それを考えるのはまだ先の話だって言ってんだろうが」

 

「話は最後まで聞くんだ。私は何としてでも君をオペレーターにしたいと思っている。いや、未来の私は確実に君をオペレーターにするだろう。だからその事前研修を終えておきたい」

 

 ドクターがここまで人を買うとは。

 ああ、いや、ドクターはオペレーターの強さに、怯えると同時に認めていたような。

 それでも、この文句は相当な価値をナインの中に見出しているみたいだ。

 

「そうか、そんなにか……」

 

 照れくさそうなナインのはにかみ顔はとてもかわいい。

 煽てられて、ということでもないだろうけどナインはようやく拒絶一辺倒をやめたみたいだった。

 

「事前研修の内容は? 演習でもやんのか?」

 

「いいや、秘書を体験してもらうだけだ。君のアーツはジョーカーとなるからな。ロドスの中においてすら、君のアーツが知られるのは避けたい」

 

 デスクを見ると処理を終えていない紙束がそれなりの高さで積み上がっていた。

 今朝言っていたのはそういうことだったのか。

 気の置けない会話がしたいと言っていたから、仕事の時間を引き伸ばしたいわけじゃないだろうと思っていたけどまさかナインに手伝わせるつもりだったとは。

 

「受けてくれるか?」

 

「そりゃ構わねえよ。オレはロドスに乗せてもらってる立場なんだから、研修なんて銘打つまでもなく手伝う。ただ、一つだけ言っておくがオレにそこの化け物みてえな仕事の速さを求めるのは馬鹿だからな」

 

「分かっている。こんな化け物が三人も居るなんて考えたくないさ」

 

 化け物化け物と連呼しながら二人の視線がボクを貫く。

 百歩譲ってナインはいいとしてもドクターは同類のはずだろう、どうしてそっち側なんだ。

 

「二人とも明日のご飯はパンだけだよ」

 

「別に要らねえって言ってんだろ」

 

「手早く済ませられるのであれば特には」

 

 ……味には自信あったんだけどな。

 

「ああ、それと。午後からアビスには別の仕事が入っている。詳しくは聞いていないが人事の方で何か問題が起きたらしいから、上手いことまとめて、終わり次第帰って来てくれ」

 

「分かったよ」

 

 あちこち行って回ることはそう珍しくない。

 特に何の感慨も抱かず指示に頷けば、ドクターはナインと話の続きに戻っていった。

 

 その覆面の下にどんな顔があったのか。

 軋んだ歯の音はその一切が漏れることなく、ボクはドクターの感情を読み取ることができなかった。

 

 

 事務室へと向かう道の途中。

 立ちはだかる影を見て、ボクは鬱屈した感情を心の奥底から追いやろうと精一杯大きくため息をついた。

 

 果たしてそれは無駄だった。

 それどころか、そんなことをしているうちにその影がボクの方へと近づいてきた。

 

「一般性という言葉は利便性に富んでいる。国家は一般的な国民を善良かつ正義であるものと規定して、悪感情の統制が効かない者を未熟者、もしくは悪人として規定している。ロドスの全職員に適用されている採用契約という法律もまた、その例に倣っている」

 

「それが何?」

 

 苛立ちは隠さなかった。

 この人は意図して長話にしているのか、それとも要約をするだけの能力がないのか。

 絶対に前者だ。

 ただの嫌がらせに決まってる。

 

「しかしながらその裏面にはいくつかのデメリットが存在している。国家は第一に善性ある国民を優遇することになるのだろうが、それ故に天秤の下へと落ちてしまうことが最たる例だ。国家は最善で最良の選択肢を選んだばかりに、過去を否定し、未来を狭めてしまう」

 

 何が言いたいのか理解ができない。

 

「嘘も方便ということだ」

 

 気取った雰囲気で適当なことを吐かすケルシーに腹が立つ。

 今この状況でそれを言うってことは、ボクがこうして執務室に外に出たことが目的であって、人事の問題なんて最初からなかったってことだろう。

 

 一歩背後に下がって睨みつける。

 ケルシーを前にして警戒を絶やすことはない。

 

 それなのにボクは一瞬の虚を突かれて腕を掴まれてしまった。

 全く、ふざけた技量だよ。

 

「離して。人事の話が嘘ならボクは今すぐに執務室に戻ってナインの助けになりたいんだ」

 

「許可は下りている。自分の発言をまさか忘れたのではないだろう、その嘘はあくまで執務室からお前を出すための嘘だ」

 

「……あの人が許可を?」

 

 不意を突かれて呆然としてしまう。

 引っ張られるままに足が医療区画の方を向く。

 

 許可というのは先日ボクがケルシーに提示した、ドクターと話をつけたら診察に付き合ってやってもいい、という話のことだろう。

 その許可が下りた、だって?

 

 ボクが心の底から拒否していたことにドクターが許可を出すなんてことはありえない。

 あの人はボクに嫌われることを一番に避ける。

 どれだけ頼まれたって断っているはずだ。

 生半可な圧では従わせられないだろう。

 

 それが、どうしてこんなことに。

 あの人の感情を読み違えたはずはない。

 ボクに気を許していたあの姿が演技だとするのは、不可能ではないが、不自然だ。

 演じるならばもっと他のやり方だった方がボクの好感度は稼げるだろうから。

 それともボクはすぐに死ぬだろうと見切りをつけていて、ナインを抱き込むために仮面を外しやすい下地を作ったのか?

 だったらどうしてボクを売るような真似を?

 

「Wが何をしているか知っているか?」

 

 突然、ケルシーがそう言った。

 

「残念だけどボクはWのことなんか何も知らないよ。あの人の考えていることは、よく分からないから」

 

「私が彼に話を通すことが出来たのは彼女によるものが大きい。彼女がラーヤに何やら吹き込んでいるようだったのを確認した彼は、私がその輪に入ることを警戒していたようだった」

 

 へえ、あのWがラユーシャに。

 何を吹き込んだのかは分からないけど、どうせロクなことではないだろう。

 負け犬やらクソガキやら呼び合っていた仲が何の意図もなく修復されるとは思わない。

 

 ケルシーのことは嫌いだ。

 だけど、ケルシーだけに責任があるわけでもないみたいだ。

 ラユーシャはボクの大切な人だから手を出されるとちょっとだけじゃなく腹が立つ。

 

 何がしたいのか、少なくともこれだけは絶対に問い詰めてやらないと気が済まない。

 

「懐疑は氷解したか」

 

「ああ、うん。一応はありがとうって言っておくよ。Wとは一度話す必要がありそうだ」

 

「そうか。それなら、いい」

 

 ケルシーは顔を歪めてそう言った。

 感情の色はよく見えなかった。

 

 

「ありがとう、か」

 

 

 

 

 

 

 

 今頃は上手くやっているだろうか。

 未来のオペレーターの作業を眺めながら私はそんなことを考えていた。

 

 ナインが拙いながらもロドスのデータベースから支出データの一部をサルベージして照らし合わせている。

 ハンコを押すだけの書類もいくつかあるのだが、それでは研修にならないだろう。

 厄介な事案にこそ当たってみての研修だ。

 

 それはそうと、アビスの話だ。

 ケルシーには使いやすいだろう方便を教えておいた。

 デフラグレートとWが接触しているのは確かな事実で、Wから接近したということも事実。

 嘘であるのは私が警戒したという一点のみ。

 

 Wのことは大体把握している。

 私はアビスと違って感覚的でない観察を主に据えて人を見ているのだから、アビスのことを話すその目に悪感情が写っていないことなどすぐに分かった。

 そしてWはそれを告げる気がない。

 

 それならば嫌われ役は押し付けてしまおう。

 短期的に見ればケルシーだけでも良かったんだが、あまり負荷をかけすぎてケルシーが壊れてしまえば私にとって大きな損失が出る。

 

 忙殺されて現状に窮しているWならデフラグレートに声をかけてくれるだろうと思っていた。

 念の為に勘違いさせるようなことを言った。

 アビスをそれなりの頻度で診察室に通わせられるようになったケルシーが爆発することもないだろう。

 

 全ては私の思い通りだ。

 筋書きに従って物語は進んでいる。

 

 しかし、何故だろうか。

 胸の奥に黒い靄が満ちているような気がする。

 何かを見落としているような──そんなことがあるはずもないのに、どうしてか私の頭はその可能性を隅の方に追いやることが出来なかった。

 

 

「……気のせい、だろう」

 

 

 ドクターは小さく呟いた。

 それが窮地への第一歩であることも知らずに。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九十六 抵抗作戦対応指針-フェイズ0

 

 

 

 精神を研ぎ澄ませてまっすぐに見据える。

 

 いつか対峙した時は僅かな勝機すら見えなかったけど、今では違う。

 私は訓練と実践で経験を積んだ。

 彼は病状が悪化して弱体化した。

 それなら私が勝てない道理はない。

 そう考えて息を吐いた。

 

 次の瞬間には斬っていた。

 

 筋力のない私でも扱えるくらいには刃渡りが短いナイフだから、必然的に大振りでもなければ当たらない。

 大きく振ってしまえば彼は悠々と避ける。

 

 だから追い詰めるように牽制する。

 彼が攻勢に出ることが難しくなるように避けさせて逃げられないような攻撃を作る。

 

 三つ立て続けに甲高い音が響いた。

 

 一つ目は胴を薙ぎ払おうと踏み込んだ私を退かせるため振るわれたナイフと打ち合った音。

 二つ目は力に任せて押し切った私が勢いそのままに一回転して逆袈裟を狙って、防がれた音。

 三つ目は鍔迫り合いを受け流されて力が浮いた彼のナイフを私の二本目のナイフが斬り払った音。

 

 彼が小さくにやりと笑う。

 

 私の成長に笑ってくれているのだろうか。

 そう思った私には一瞬の隙が生まれていて、それを自覚した瞬間に大きく背後に跳んだ。

 

 空中に残る一本の白い軌跡。

 それは彼の靴先から出ている短い刃がそこを通過したことを示している。

 受け流されて体勢が崩れていたことを確認したはずなのに、その数瞬後には足を振り回してる。

 これは才能じゃなくて努力の類。

 

 考えてた手が一つ消えた。

 だけどそれだけには終わらない。

 

 彼の武器はまだ向こうに転がってる。

 対して私は二本とも手の中にあるんだから恐るるに足らない──は言い過ぎだけど、攻めない手はない。

 

 前に踏み出して突きを繰り出す。

 このまま振り回してもただ避けられるだけだから、少しの搦手を混ぜる必要がある。

 踏み出して突いて、を何度か織り交ぜた後に、踏み出して、突きの姿勢を崩さずに横をすり抜けていく。

 ターンを決めて精一杯足を振り回す。

 体を捉えたけど、威力が低い。

 

 掴まれることはなかった。

 代わりに尻尾が足に巻き付いた。

 

 流石に反則じゃないの?

 私の腕よりずっと太くて力のある、更には可動域が広い五つ目の肢体なんてバカでしょ。

 とは言え頭に入れてなかったのは私。

 

 日頃の訓練の成果か、私はその予想外に対して冷静に対処することができていた。

 初見の攻撃に対しては性質を理解し最も有効である対策を立てて実行することが大切。

 

 たとえば尻尾だったら機敏かつ正確に動けるという性質が長所であり、短所にもなりうる。

 だってその性質は体の一部であるということを理由とするもので、だからナイフを突き立てて仕舞えばダメージが入る。

 カウンターのチャンスでもあるってこと。

 そうして突き立てようとすれば彼の尻尾が一瞬揺らめいたあとに強く撓って私を投げ飛ばした。

 私が対策を分かっていると理解したからだと思う。

 

 着地。そしてすぐ横へと転がって間髪入れずに迫り来る追撃を紙一重で回避する。

 

 ドン、と震える訓練室の床。

 容赦のない彼に口が弧を描いた。

 

 彼の本気が自分ただ一人だけに向いていることが、私にとってはこの上なく嬉しかった。

 追撃のために姿勢を崩してくれた彼に走り寄って左から中段蹴り──を受け止められる一歩手前で、足を引き戻す。

 体を回転させて、地面についた左足で踏み切って右の下段蹴り。

 

 彼の姿勢からして掴むのは難しいタイミング、ここから更に繋げることができれば、或いは。

 

 そう考えた私は注意が疎かになっていた。

 彼の体は頭の胴と四肢だけではなかったのに。

 

 

 尻尾が私の右足に絡みついた。

 そのまま持ち上げられて私の体が逆さまになる。

 あっ──と、良かった、ズボン履いてた。

 スカートだったら流石に危なかった。

 

「巧くなったね。尻尾を使う気はなかったんだけど、一発入ってたから解禁かなって」

 

 へへん、使わせられるくらいにはなったってことね。

 そういう見方をするなら、私のここ最近の努力は報われたってこと。

 

 ……ん? 待って?

 

「使う気はなかった? 一発入ったから? つまり蹴られてから使おうって判断したの?」

 

 彼は意図が分かってないみたいだった。

 

 一撃目を振り返ろう。

 私が彼の背面を蹴っ飛ばしてから尻尾に捉えられるまで、一度の瞬きすら許されないくらい早かった。

 それを彼は尻尾で対応した。

 それなのにそれは反射じゃなくてしっかり頭で考えてから動いてたって何?

 頭の中どうなってんの?

 

「ボクは多少アドリブに強い方ではあるけどそこまで得意ってわけじゃないよ。オペレーターの方なら大体は普通にこなせるだろうからね」

 

「そんな風に言えるほど知らないくせに」

 

「言葉の鋭さまで磨かなくてもいいと思う」

 

 頭に血が下りてきた。

 流石にこれをずっとはしんどい。

 ダブルタップすると一旦彼はお姫様抱っこの体勢を取って──私は絶対に離れなかった。

 恥や外聞は自分からゴミ箱に移り住んだ。

 私は絶対ここを動かない。

 

「……まあ、いいか」

 

 任務帰りで一回きりの手合わせ。

 片付けの必要もなく訓練室を出ると、退屈そうに爪をいじっているWが居た。

 

 ぴっ、がこん。

 

 ロックの音でWがこっちを見た。

 少しだけ驚いて──不快そうな目をしてる。

 

「あんたはいつからリーベリに生まれ変わったのかしら? それともリニューアルは頭だけ? まあどっちでもいいことだけど」

 

「はいこれカードキー。ケルシーに渡しておいて」

 

「……はぁ?」

 

「世間話をする気はない。だから本題があるならさっさとそれを話したらいいと思うよ」

 

「へえ、ああそう。見ないうちに随分とロドスのオペレーターらしくなってるじゃない」

 

「そっちはどうにも被弾が多いみたいだね。銃に撃たれたような節穴が顔面に二つも空いてるよ」

 

「どこが的外れだってんのよ?」

 

 ピリピリしてる二人。

 Wは情緒が人間のそれじゃないからまだ分かるけど、彼がこんなに敵意剥き出しなのは珍しい。

 もしかして私のためだったりして。

 そんなわけないか。

 

「以前見た時は平気だと思っていたんだけど、どうやらそう思ってしまったのは過失に過ぎなかったみたいだ」

 

「まさかドクターにでも何か吹き込まれたのかしら? あっはは、笑えるわね! あの臆病者が目を血走らせて保身に尽くす姿も、そんな臆病者に騙くらかされたあんたのことも!」

 

「騙されたって? ボクが? そんな勘違いが出来る君の頭はどうやら相当に優しいみたいだ。そのせいで現実が辛く見えるかもしれないな」

 

「へえ、あのドクターだってやればできるじゃない。純粋無垢で世間知らずな男の子を騙してしまうだなんて、このあたしですら到底難しくって出来ないわ」

 

 両方とも武器に手をかけてる。

 一触即発の雰囲気か。

 それはちょっと嫌だな。

 

「ねえ、W。喧嘩は後にしてくれない? 私が万一ここから下ろされたらどう責任取ってくれるの? 私の裁量でいいなら肥溜めに突っ込んで沈めるよ?」

 

 Wの額に血管が浮き出る。

 彼の顔は普段と同じように目の保養になる。

 

 Wの顔なんて見なくていいか。

 

「あたしはラーヤの言葉遣いをもう少し直した方がいいと思うわ。甘やかすだけが躾じゃないのよ」

 

「それはごめん」

 

 あ、なんか弛緩した感じ?

 じゃあ私はもうしばらくこのままだね。

 

 ほっと一息。

 

「私、一生このままでいたい」

 

 私がそうしみじみと呟くと、彼は少しだけ迷った後こう言った。

 

「ボクが先に死ぬからそれは無理だね」

 

 油断してたせいで涙が溢れ出た。

 そんなこと言わないでよ。

 

「そこまで言えとは言ってないわ」

 

「ここまでとは思ってなかったんだ」

 

 彼の顔が潤んで見えなくなった。

 ああ、こんなことしてる場合じゃないのにな。

 

 私は、彼を。

 

 

 

 

 三人で話しながら歩いて──私は歩いてないけど──いると、執務室はすぐに見えてきた。

 そうなると扉の前でウロウロしている女の子の姿だって見えてくる。

 

「あれ、ナイン。待たなくたっていいのに」

 

「別に待ってねえよ」

 

 ナインは執務室をノックした。

 

「返事がねえしドアノブがなくなってる。かと言って警備課によれば誰かが侵入したわけじゃないらしい。以前もこんなことがあったらしいが、とにかく入れねえんだ。オレよりずっと通ってるんだろ、何か分かるか?」

 

 見てみると確かにノブがない。

 ドクターに何かあったのかもしれない。

 このまま消えていたらいいんだけど。

 

「ドアノブがないってなんのこと?」

 

「そのままの意味でしかねえだろうが。それ以外にどんな意味があるんだよ」

 

「いや、だから」

 

 彼が私を下ろそうとした。

 鍛えた力と体幹でどうにか抵抗しようとしたけど、残念ながら私の手は水を掴むようにするりと抜けた。

 

 そのまま彼はドアに近付いていって、本来あるであろう場所に手をかける。

 どんな種があったのかドアが開いた。

 何かしらのアーツで偽装されてたのかな。

 

 でも、誰が、どうして?

 私と女の子がそんな風の表情をした。

 Wだけは何か得心がいったような顔で。

 

 

 次の瞬間、青に染まった腕が彼を掴んだ。

 

 

 弾かれたように動いた私の手はやっぱり水を掴むようにからぶってしまって、彼が引き摺り込まれた執務室のドアは相変わらずノブが見えない。

 彼が掴んでいた場所に手を伸ばしても触っている感覚なんてないし、どう見ても通り抜けてる。

 

 ドアをぶっ飛ばそうと振りかぶって──私の手はWに掴まれた。

 

「時間の無駄。こうなったらどうにもならないわ」

 

「だからってあの年中絵を描いてる駄目人間と二人きりにさせる気なの?」

 

「そうするしかないんだからそうするしかないじゃない。頭の中身を落としたのなら一緒に探してあげるわよ?」

 

 Wの言葉でようやく冷静になった。

 お姫様抱っこで浮かれてはいたけど本来なら彼についていく気だってなかったんだから。

 お礼に一発、受け止められるだろうけど殴っておいて、私はこれからあの人に会いに行こう。

 きっとWもそう考えてるだろうから。

 

「危ないわね」

 

 一発入れて。

 踏み出したのに。

 

「ついてこないの?」

 

「色々あるのよ。あたしはこのままアイツを待つから、存分に動いてみればいいじゃない。──今まで動けなかったこと、後悔しているんでしょう?」

 

 Wの言葉は正直言って信用ならない。

 だけど言ってる内容は正論だから今のところは思惑通り動いてあげるとしよう。

 

 別に私は利用されたっていい。

 どれだけ馬鹿にされたっていい。

 

 だから、彼だけは。

 

 

 

 ピンと張った雰囲気が身を包む。

 

「まずは研修ご苦労様と労っておこうか。だがそれ以上私が実地任務に関して言えることはない。指揮官たるドクターと他ならぬ君が、一番にその結果を見ているだろうからな」

 

 静かな研究室の中には私と彼の担当医を務めているケルシー先生の二人だけ。

 噂ではとんでもない年齢とか言われていたけど容姿から無理して繕ってる様子は見えない。

 私もこれくらい綺麗な顔になれたらいいのに。

 

 そうなったら、いや、そうなったとしてもきっと靡いてはくれないんだろうけど。

 

「ケルシー先生。お話があります」

 

 下を向くにはまだ少し早い。

 私のことを見てくれる可能性だってゼロじゃないし、振り向いてくれなくたって生きていて欲しいから。

 

「お願いではなく、か?」

 

「ええ、まあ。そうとも言います。ですがお願いするまでもなく動いてくださると思ったので」

 

「内容次第だ。話してみるといい」

 

 ケルシー先生は特段感情を動かさなかった。

 Wから聞いていたドクターの様子を打ち明けてみても、まるで最初から分かっていたみたい。

 

 ただ一度だけ眉を動かした時があった。

 

 話が終わるとケルシー先生は顎に手を当てて何かを考え始めた。

 言葉を選んでいるとか、何かを測りかねているとか、そういった様子じゃなくて──もっと純粋に思考をずっと先まで伸ばしているような顔だった。

 

「まさか彼女は……」

 

 とうとう、小さな言葉が漏れる。

 自分の口から溢れたそれに気付いた様子すらなく、それきりケルシー先生はまた目を細めて何かを考えてるみたいだった。

 

 そうして少しの時間が経つ。

 ふと顔を上げたケルシー先生は、まるで何かあってほしくない可能性を見つけてしまって、それを否定したいと思ってるような顔でこう言った。

 

「つい先ほどナインについて言っていたな。執務室に関して彼女が慣れ親しんでいるかのように感じたが──それは本当か? 何度も来ていたようだったか?」

 

「厳密には分かりませんけど、何度も来ていたことは確かだと思います。アビスと一緒に行動してますし」

 

 あんまりあの子は好きじゃない。

 詳細は知らないけどアビスが少し前から巻いている包帯はあの子のせいだって言うし、何より彼から大切にされてるから。

 

「そう、か。やはりか」

 

 ケルシー先生は大きな大きなため息をついた。

 

 

「ドクターからアビスを引き離す。これは私からの要請だ。デフラグレート、協力してくれるか?」

 

 

 貼り付いた無表情からは何も読み取れない。

 でもそんなことはどうでもよかった。

 

 

 私が、彼を、救うんだ。

 

 

 それだけなんだ。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九十七 抵抗作戦対応指針-フェイズ1

 

 

 アビスが目を開く。

 アラームの音が遅れて鳴り出して、気怠い心情を隠そうともしない動作でに起き上がった。

 欠伸をしながら寝床に侵入者(ライサ)が居ないことを確かめるとキッチンへと向かう。

 作るのはまだ眠っているナインの朝食だ。

 

 少し経てばナインは起きてくる。

 いつもいつもベッドから転がり落ちるように起床するのはどうかと思うのだが、アビスがその理由を探ったことはない。

 

 過去はその人だけのものだ。

 レユニオンに所属していたその過去をアビスは知らないし、知るべきではないと思っている。

 どんなに辛い過去であったとしても、本当の意味で共有出来ない限り、話すことはそれ以上の価値を持たない。

 誰かに話すことで楽になるとは言うが──そうであったとして、果たしてナインは楽になりたいと思っているのだろうか?

 

 

 彼は人の感情が分からない。

 彼にとって両親以外で初めて出会った好意的な他者はリラであり、彼女は感情をそのままに伝えるタイプだった。

 彼が好いてくれていると確信しているのはその三人と僅か二人の友人、そしてカッターだけだろう。

 

 他者からの好意を素直に受け取ることができない性質はドクターに限って言えば正解なのだろう。

 彼女は好意など抱いていない。

 敢えて悪く言うのなら、彼女は利用価値でしか人を判断出来ない人間だった。

 その中で価値が高いと思われているだけで好意などとは全く違う感情を覚えていることだろう。

 

 ライサに限ってしまえば節穴だ。

 馬鹿にも程がある。

 

 それがナインならどうだろうか?

 彼やリラと同じリンドヴルム孤児院に生まれ育った彼女の感情を読み取ることは可能だろうか。

 答えは否であり是であろう。

 その観察眼は壊滅的としか言えないが、しかし根底からその思考回路が捻じ曲がっているのではない。

 故に彼自身の経験と重なる部分は──言い換えれば彼とナインの共通点が作る思考は不気味なほどに同一だ。

 

 ナインはアビスと同様に過去を現在より重んじている。

 リンドヴルム孤児院に大切な人を残し、また遺され、このロドスという船に辿り着いた。

 些細な違いがあるにせよ二人は同郷の徒であり、同悲の徒であり、その点に限って言えば彼は他の誰よりも理解していると言えるだろう。

 

 

 着替えを済ませて端末を操作する。

 肺の傷がまだ深いナインに気を配りながら画面をスクロールして──アビスは怪訝な顔をした。

 

「何かあったのか?」

 

「ああ、うん。今日から秘書をやらなくてもいいんだってさ。ナインは前と同じように教育プログラムを受けてきて」

 

「へぇ。まさかアイツが失敗(しくじ)るとはな」

 

「何か意図があるものかもしれないけど、いややっぱり考えにくいか。どうなんだろう」

 

 ドクターはアビスを第一に考えて行動している。

 そしてアビスの価値は隣に居なければ無いと同じことであり、一時的でさえ隔離されることを嫌がっていた。

 

 ドクターが何か間違える可能性があるのは、と頭を巡らせると、引っかかったのは黒髪のサルカズと白髪のフェリーンだった。

 予定がなくなったついでにビスケットのストックを補充しようかと考える。

 

 だがその時面倒なものが彼の視界に入った。

 

「ああ、ごめん。ナイン、やっぱり教官の下には行かなくていいみたいだよ。その代わりに面倒で仕方ない人の相手をする必要があるみたいだけど」

 

「オレはあの人嫌いじゃねえよ」

 

「やめた方がいい」

 

「即答してやるなよ……」

 

「絶対にやめた方がいい」

 

「おう、わかった。分かったから一旦座っとけ」

 

 ナインは彼の頭がそれほど優れているわけでもないと知っていた。

 頑固で内向的で、身内に対してはキッチンカーで販売されているクレープのように吐くほど甘いのだが、対立者には容赦なく敵意を向けると知っていた。

 

 彼のそういうところが好きだった。

 『オレ』だって『私』だって好きだった。

 

 心根が弱いナインに彼の人生を左右することは恐らく出来ないのだろう。

 それでも、彼が自らを救って自分と共に歩いてくれることを願うことだけは止められなかった。

 彼女は最も彼と近い存在ながら、致命的な部分で彼とは違ってしまっているのだ。

 

 そこまでわかっていても特段何かを起こせるわけでもない彼女はやはり弱いのだろう。

 

 

 

 重い重いため息が出てしまった。

 いけないなと自戒して、アビスは気を使うような顔で窺ってきたナインの髪をくしゃくしゃにする。

 

 診察室の静寂が破られる。

 

「来たか。そこの椅子にかけてくれ」

 

 面倒くささがぶり返したようで、苦虫を噛み潰したような顔でケルシーと相対する。

 往生際の悪いアビスを小突きながらナインがそれに倣ってスツールへと腰掛ける。

 

「さて、調子はどうだ?」

 

「ボクは特に。ああいや、昨日包丁で指が切れたんだ。強度が他の人と同じくらいにまで落ちてるんだと思う。今まではなかったことだから」

 

「オレは少し辛い。息切れするような運動を控えてはいるが、それでもふとした瞬間に刺すような痛みがある」

 

「アビスの方は特段想定外でもないが、君は中々予測がつかない症状のようだな。新しい薬の用意はできている。少々高価だが使ってみるか?」

 

 ナインはアビスに目で聞いた。

 彼は何も言わず頭をポンポン叩く。

 

 嬉しくなってしまう自分が少し嫌だった。

 

「頼む」

 

 ケルシーはそれが分かっていたかのように、用意されていた薬袋をナインに手渡して用法などの説明を行う。

 

 一方アビスはしっかり者のナインにケルシーを任せて部屋の中に目を走らせていた。

 きっちり整頓されたファイルや布がかけられている機材、インスタントコーヒーの粉末が入っている瓶などなど。

 仕事以外の物品が排斥された正にケルシーの診察室だった。

 

「珍しい物は見つけたか?」

 

 ケルシーが尋ねる。

 

「そんなもの置いてないくせに。分かりきったこと聞くのは相変わらず得意だね」

 

「会話を拒絶する癖のあるお前のことだ、貴重な会話の種を拾わずにはいられないだろう。なあ、ナイン。君もそう思わないか?」

 

「癖とは、別に思わねえけど。ケルシー先生くらいじゃねえか?」

 

「そう、なのか?」

 

 少しショックを受けたようにケルシーが言う。

 アビスは交友関係こそ狭いがコミュニケーションを拒むのはケルシーくらいだ。少し前に怒られていたアーミヤに関しても拒んでいる意識はなかったのだ。

 

「用は何?」

 

 集中する視線に悪いことをしているような気分になったアビスが話を正しい流れに乗せる。

 気を取り直して、ケルシーは指を四つ立てた。

 

「まずは今渡した薬に関して一つ。次に秘書当番に関して一つ。そしてカッターのことで一つ。最後にナイン、君の所属について一つだ」

 

「多いね。外の空気吸ってきていい?」

 

「この部屋を出たところで室内であることに変わりないだろう。大人しく聞いてくれ」

 

「ああ、分かってるよ。言ってみただけ」

 

 アビスは心の底から長話にうんざりしていた。いや、この言い方は語弊を招くだろう。彼は()()()()()長話にうんざりしていた。

 それを分かっていながらケルシーは無視している。そういうところだろう。

 

「それではまず一つ目だ。アビス、お前には今後秘書としての業務を免除する。元々ドクターの裁量が介在していたものから完全なローテーション制とすることになり、そのローテーションにお前は含まれない」

 

 アビスは驚いた。ドクターのことだからそのあたりには根回しや印象の管理が済んでいると思っていたばかりに、予測の外だった。

 ケルシーを読み違えたか。ドクターのことは可哀想だと思うが、助けてやろうなどとは思わない。助けるための手を差し出せば一生離さないだろうことは十分に分からされていた。

 

 それともこの動きまで含めてドクターの策略か何かなのだろうか。それはないだろうと思いつつ、あの天才的なドクターなら、と可能性を捨てきれない自分がいた。

 

「ドクターが何言っても断っていい?」

 

「ああ。一刀両断してくれて構わない。それほどの執着を見せるとも思えないが」

 

「……ドクターが、だよ?」

 

「勿論その話だろう。彼はお前にいくらかの打診こそすれどそれきりだろう。特段深い仲でもない上に利用価値がお前自身にあるわけでもないのだからな」

 

「あはは、まあそんなものだよね」

 

 どうやらこの状況はドクターの思い通りらしい。自分をまさか遠ざけるとは思っていなかったが、ケルシーの大きすぎる見落としを思えば失敗しているのがどちらかなど明らかなことだ。

 そう言えばと、以前ケルシーが執務室を訪れた時にドクターは仮面を付けているように装っていたことを思い出した。あの時のままわざわざ伝えていないのだから作戦通りのはずだ。

 

「次はカッターのことだな。お前が使っていた宿舎は四人が上限であるにもかからず現在お前とナインしか使用していない。カッターの許可が取れたからには居住をそこに移させるつもりだ。異論はあるか?」

 

「調理設備が壊れてないから無理」

 

「……異論はないようで安心した。これは完全に独り言だが、味覚に異常を来してしまった場合には倉庫の積み下ろしという長期任務を用意することも可能だ。何かあれば私に連絡するといい」

 

「はいはい、分かったよ。正直一次予防に力割いて欲しかったけど、なんとかボクの方で手綱を持ってみる」

 

「何ならお前が振る舞ってもいいのだろう? 私は口にしたことなどないが、お前が料理を得意としていることは音に聞いている」

 

 アビスは一つ苦い顔をした。

 

「遠回しな催促のつもりならお断りだよ。ボクは人に食べさせるため腕を磨いてるわけじゃない」

 

「残念だな」

 

「作らなくていいって言ってんのにいつも朝飯作ってんのはどこの誰だよ」

 

「そう言いながら綺麗に食べてくれるのはどこの誰かな」

 

 ナインがぷいっと顔を背ける。トゲトゲしい態度が即ち照れ隠しであることにアビスは気付いていた。

 それはケルシーに対するアビスの態度にも言えることではあるのだが、生憎とそれは彼自身の自覚すらなかった。

 

「最後にナイン、君のことだ。回りくどい言い方を取り払うのであれば『S.W.E.E.P.』への加入を推奨する。観察と諜報などを務める裏方の部門だ」

 

「そんな部門があるなら確かにオレは適任だろうな。けどよ、オレはまだオペレーターになるなんて言った覚えはない。ケルシー先生が何考えてるのかは知らねえが従う義務もねえだろ」

 

 ナインは毅然とした態度を崩さなかった。

 それが予想通りであったのかはともかくとして、ケルシーは表情をピクリとも変えず口を開く。

 

「ナイン、君には価値がある。いや、訂正しよう。君のアーツには価値があり、それを手元に置くことができるならば多大なるアドバンテージになる。だがこれは裏を返せば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということでもある」

 

「分かってる。それがどうした」

 

「君はドクターから勧誘を受けなかったか?」

 

 頭の中で言いたいことの像が結ばれる。

 他の者を警戒しているから手に入れたいんだという発言と、ドクターが狙っているのではないかという発言。

 

 アビスへの態度からうんざりするほどイメージを壊されていたナインにはその言葉も納得がいくものだった。

 あのドクターならばやりかねないと。

 

「ドクターがそのようなことを考える輩に見えないのは分かっている。しかし君が見ている彼はただの一面に過ぎず、事態はそう易々と彼を信じさせてはくれないのだ」

 

 分かっている。分かっていた──が、ナインは口を噤んだ。ドクターの計画を狂わせてしまえばどんな報復が下されるのか全く予想がつかなかったからだ。

 勿論ナインという存在は貴重だが、アビスに優越するほどの価値は残念ながら持っていない。ドクターは平然と焼刃を向けるかもしれない。

 

 そう考えればケルシーの言葉に反駁する選択肢など存在していなかった。

 

「要するにオレがドクターの勧誘を断っておけばいいんだな? それなら安心しろよ、オレが自分から縛られに行くのはありえないからな」

 

「それを容易く信じることができるほど君のことを軽々には扱えない。しかしながら、不本意な流れに身を任せることが不安を掻き立てることは理解している」

 

 ケルシーは数枚の書類を取り出した。

 

「神経内科専門源石術医見習いとして有期雇用契約を結びたい。一ヶ月毎に契約の更新を行い、また君には解除権があるものとする。給料は歩合制とするが、多少の投資として一定の固定給を──」

 

「長い。ボクが読むよ」

 

 目を白黒させていたナインから労働条件通知書を受け取って目を通す。

 

「投資とか言ってたけど完全歩合制にして、出勤せずとも就業時間内は艦内に居るっていうこれもダメ。定期検診は原則として受ける権利であって、あと解除権に付随する全ての拘束を消して」

 

 アビスの言葉にケルシーがふむ、と顎に手を当てて考えるような素振りを見せる。再度引き出しから書類を手に取ってアビスの方に差し出した。

 

「全てを改善した採用契約書がこれだ」

 

「最初からそれを出してくれないかなぁ!?」

 

「秘書として高い能力を持つというお前の目を試してみたかっただけだ。他意はないから安心するといい」

 

「無理だよバカ」

 

 口ではそう言っていても新たに出された契約書に不備や改善点を見つけられず、アビスは不満そうな顔でナインへと渡した。

 

「最低限ナインが契約してもいい内容にはなってるよ。だけど無理に契約する必要なんてないからちゃんと考えて欲しい」

 

 ナインは迷いなくペンを紙に走らせる。

 

「これでいいか?」

 

「ああ、受け取った。君は今から──正しくは来月の頭から見習いの医療オペレーターだ。君の世界が広がることを願い、歓迎することを約束しよう」

 

「本当に良かったの?」

 

「信じてんだよ。悪いことにはならないって思ったからこの契約書をオレに渡した、そうだろ? 小難しい文字を追うのは苦手だしよ」

 

 全幅の信頼を置くナイン。

 彼は小さく笑って席を立つ。

 

「さあ、帰ろう。これで用は終わりなんだよね?」

 

「待て、今丁度ケトルで湯が沸いたところだ。一杯くらい飲んで行ったらどうだ」

 

「コーヒーなら待ってあげるよ」

 

 病状からしてコーヒーはよろしくない。

 そんなことは分かりきっていて、だからそれはただの拒否に他ならなかった。

 

「アビス、次の検診を忘れないように。来ないようであれば部屋を訪ねるからそのつもりで考えておけ」

 

「はいはい、分かってるよ」

 

「それとナインのことで連絡を取ることになるだろう、端末の通知を見逃さないよう──」

 

「分かってるって。またね」

 

 アビスがひらひらと手を振った。

 

「ああ。またな」

 

 その挨拶が、ケルシーは少しだけ嬉しかった。

 また会おうと言うアビスの姿が嬉しくて。

 

「随分と、都合の良い頭だな」

 

 嬉しくて、嬉しくて、胸の奥が締め付けられた。

 彼を叩き潰すために、彼の性根を捻じ曲げるために、ケルシーは彼を騙している。

 

 何も感じないとばかり思っていた。

 所詮はただの担当医、3年ばかりの付き合い、ケルシーにとってアビスは極めて小さな人物だった。

 だから感じないと思っていたんだ。

 

「ふふ。ふは、ははは」

 

 ケルシーは天井を仰ぎ、腕で眼を隠した。

 塞がれなかった口から笑いが漏れる。

 

「はは、ははははは」

 

 乾いた笑いが暫くの間収まりそうになかった。

 ケルシーの固く握られた拳は何かを傷つけることなく、況してや何かを動かすこともなく、ただ無為にぶら下がっていた。




ドクター(ケルシー視点)
人を避けておきながら何故かアビスを連日秘書にする
→裏工作員として優秀なナインと懇意にしている
→S.W.E.E.P.とは別の場所を作りケルシーに対抗することが本当の目的?

ケルシー(ドクター視点)
アビスへのアプローチに困っていた
→担当する患者であり強く執着しているアビスとの時間を提供する
→アビスの取り分けの妥協点に落ち着いていた
→満足して動かなくなる ×
→秘書のアビスを横取りする ○


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九十八 抵抗作戦対応指針-フェイズ2

 

 

 どうして私ばかりがこんな目に遭わなくてはいけない? 放り出され、傷つけられ、打ちのめされながら必死に生きてきた。その私がどうして更に下へと落ちなければいけないんだ?

 

 万年筆が軋む。

 

 ドクターは荒々しく席を立ち、冷蔵庫から彼手製の洋菓子を取り出してすぐさま掻き込んだ。

 ドクターの隣で手を動かしていたアーミヤはその様子をただ静かに見守っていた。

 

「アーミヤ。進捗は?」

 

「追加の仕事さえなければ日が暮れる前に終わります。既に各部署の責任者がチェックを終えている書類ばかりですから」

 

 執務室に回される書類は基本的な責任者の認証を得た上で提出されている。それは膨大な書類を捌くドクターに対する最大限の配慮だろう。

 チェックする書類のデータは最高権限所有者に共有されており、その一人であるドクターは執務室へと辿り着く前に突っ返す書類と通してよい書類を仕分けして、その後共有されているデータと食い違いがないか精査しつつ書類にサインする、というものが例外や追加の書類を除いた書類業務の流れだ。

 追加された書類はそのようなデータ共有に間に合わなかったものであり、秘書は処理することができない。

 

 教養のないアビスが有能である理由は、その作業が単純な答え合わせであるからだ。速読と速記が人外であれば大体同じような挙動が可能である。

 

 しかし、アーミヤは人だった。

 

 慣れているとは言え優秀程度であり、ドクターほどのペースで捌くことは出来ない。一刻も早く業務を終えてしまいたいドクターには枷のようにすら思える。実際、ケルシーの意図では監視という枷なのだろうが。

 

「余りにもあんまりな采配だ。ケルシーは私のことを敵対視でもしているのか? ……はは、ありえないな。彼が打ち明けるとも思えない。なんだ、どこで間違えたんだ」

 

 ケルシーがアビスに思い入れがあるというのは確かなことだ。しかしドクターはアビスに高すぎる評価を付けてしまっていた。

 今までの成功はフラットな考え方を元としている。主観が全て恐怖に囚われていたからこそ、彼女が見積もりを誤ることはなかった。

 

 彼女にとって唯一大切な存在。彼を無意識のうちに特別扱いしてしまうのも無理はないことだった。

 

 そんな彼女を見るアーミヤの目には、当然ながら心配の色がくっきりと映っていた。

 

「ドクター、私ではお力になれませんか? どうかアビスさんと何があったのか聞かせてください」

 

 説得には冷視線が返された。

 

「時間の無駄だ。それに私は君にこの胸襟を理解されたくない。私が親しかったドクターじゃないことは君が一番に知っているだろう」

 

「それでも今のドクターは……」

 

「私を放っておくことが出来ないのは知っている。しかし、私は君のせいで強い恐怖を抱えることになる。私は君に助けられることなどないと知っていて、それならば私がそれを受け入れる道理なんてどこにもない」

 

 早口で捲し立てるように言い放ってからドクターは気が付いた。

 今のドクターはまるでケルシーのようではないかと。彼女が心底疎んでいる、そして今なお彼女を苦しめているケルシーのようではないかと。

 

「ドクター」

 

 アーミヤが彼女の名前を呼ぶ。しかし彼女にとってそれは自分の名前などではなかったのだ。

 

「分かりました。私は何もしません。ですがこれ以上事態が悪化するようであれば、私は介入せざるを得ません」

 

「今更風見鶏が一羽現れた程度で揺らぐこともない。君がそうなりたいのであれば自由にしてくれて結構だ」

 

「ありがとうございます」

 

 言葉のトゲなど気にせず謝辞を述べた。

 その態度がドクターにとって気に食わなかったのだろう、また万年筆が軋んでいた。

 

 一つの失敗に躓いたドクターは受け身すら取れなかった。差し出されたアーミヤの手は振り払われた。

 頭の中がグツグツと煮えたぎっている。

 想定外がどれだけ重なっても冷静だったその思考が、未だかつてないほど大きな見落としで崩されていく。

 

「くそ、くそっ、くそぉっ……!」

 

 小さな小さな泣き声が漏れる。

 アーミヤはそれに気付けないままで。

 

「許さない、絶対許さないからなっ……!」

 

 屈辱と恐怖で彩られた感情が溶ける。

 執務室に入ってから一番に強烈な感情を感知して、アーミヤはドクターを気遣った。

 

 どうすることも出来ないまま時間が過ぎていく。

 それ以上の会話が交わされないままに、ドクターとアーミヤの一日は終わりを迎える。

 

 アビスに絆されてから初めて、ドクターは彼が居ない一日の苦痛を味わった。

 

 

 

 

 

「どうして私は立ち入り禁止なの?」

 

 ぷく、と頬を膨らませたカッターが言った。

 

「まな板を切り刻んで鍋に放り込みそうな人を入れたくないから。あと調理設備を爆破しそうだから」

 

「そんなことしない。それに料理の経験くらいあるから心配しなくたっていい」

 

「一応聞くけど、それはレトルト?」

 

「そうだよ」

 

 はぁ、とアビスが大きな溜息を吐く。

 

「何年か前にも言ったけどレトルトは料理じゃないから。食材を切ったり焼いたり煮込んだりして食べられるものを作ってから言って」

 

「わかった。それじゃあキッチン借りるね」

 

 ずかずかと歩いていくカッターをなんとか押し留めて、アビスはより大きな溜息を吐いた。

 

 ケルシーとの会話を終えて帰れば、既にカッターは部屋の中で待っていた。それどころかエプロン姿で二人を出迎えた。

 その時点でアビスは深呼吸──主に息を吐く方の意味で──しそうになったのだが、既に完成しているらしき何かとまな板の残骸を見て引っ込んだ。

 もはや溜息で片付けられる次元ではなく、ナインに被験体を押し付けて部屋で休んだ。

 

 休んだおかげでアビスはなんとか元気を取り戻し、ぐったりしたナインの横でカッターに説得を重ねている。

 

「まず、えーっと、この鍋。何を煮込んでるの?」

 

「野菜」

 

「どうして青菜を纏めて煮込んで、それをスープにして出したの?」

 

「あんたも知ってると思うけど、スープは傭兵の基本料理。ヘルシーな野菜と合わせて作ってみたかった」

 

「調味料は?」

 

「辛いと体が暖まるから赤い粉と、あとはお腹が膨れるように甘い砂糖」

 

 砂糖と呼びながら指差したのはバニラパウダー。

 色々と言いたいことはあったがその全てを口の中に押し留めてキッチンに入っていく。

 

「スープに泡が浮かんでるね」

 

「うん。野菜から旨味? が出てるんだと思う」

 

「灰汁だよ」

 

「悪!?」

 

 もうダメだった。アビスはカッターをキッチンから外に連行し、共用スペースの椅子にぐったりと倒れているナインの前に立つ。

 

「灰汁は野菜が持つ苦味とかエグ味で、カッターが指差した砂糖はバニラパウダーの瓶で、あと青菜はスープの出汁にならない。だからこんな犠牲者が生まれた」

 

「犠牲者……」

 

「考え方は別に間違ってないから、カッターは知識と経験が足りてない。それはもう致命的に」

 

「致命的……」

 

 カッターはナインを見つめながら譫言のように呟いている。料理に対して意欲があるのなら、親身になって教える人さえ居ればどうにかなるのではないかというアビスの楽観だった。

 実際にそれが的を射ているのかはやってみなければ分からないことだが。

 

「基本から少しずつ教えていくから、カッターはどうか自分一人で作ろうとしないで」

 

「分かった。そういえばあんたって結構料理できたんだったね。コツでもあるの?」

 

「隣に劇物を作る人が居れば自然とそうなるんじゃないかなあ」

 

 カッターは「劇物?」と首を傾げている。アビスとカッターが同じ物を食べていたのはそれなりの期間で、何度死の境に連れて行かれたことか。

 

 そういうわけでカッターによる攻撃を回避したアビスは人知れずガッツポーズを取った。

 

 

 暫く経ってもぐったりとして動かないナインの容体を心配して、アビスは部屋の寝台に運んで様子を見ていた。

 消化器ではなく循環器が傷ついているため、有害なスープを飲み込んだところで影響は無いと思っていたのだが。

 

「なあ」

 

 ナインの手がするりと伸びる。

 

「カッターはただの傭兵で、それで何なんだよ。ただ少しくらい縁があるだけの他人じゃないのか?」

 

 頬に手が添えられる。

 目を瞑ったままナインが問いかける。

 

「まさかリラ姉を重ねてるわけじゃないだろうな」

 

 アビスはナインの小さな手を包む。随分と脆くなった、大きいだけの手が覆っている。

 

「カッターはただの知り合いだよ。それ以上の人じゃない。それに、もしボクがカッターにリラを重ねてるとしたらきっと仲良くなれなかっただろうね。カッターはそういうの分かると思うからさ」

 

「……そうかよ」

 

「今思えば、リラを亡くしたボクが勢いで死ななかったのは、カッターの料理で死ぬのが嫌だったからかもしれないな。馬鹿みたいな話だけど」

 

 そう笑い飛ばそうとして、アビスはナインに抱き付かれた。

 

「なあ、アイツはリラ姉との思い出より大切なのかよ。なあ、そんなこと、言わないでくれよ」

 

「誤解だよ」

 

「それでも聞きたくなかったんだ。オレはそんなセリフを聞きたくなかったんだよ」

 

 アビスは震えるナインの背を摩った。

 顔が見えなくとも、流れる雫があることを彼は分かっていた。

 

「ナイン、大丈夫だよ。ボクは君を見捨てない。リラのお迎えが来たら別だけど、そうでもない限り君を尊重する」

 

 あやすように頭を撫でると、ナインの震えは徐々に落ち着いていく。

 

「もう少しだけ、このままでいていいか?」

 

 アビスは小さく笑って頷いた。

 涙のせいでナインの紅い瞳がより赤くなっているかもしれないなとくだらないことを考えて苦笑する。

 

 残念ながらアビスの予想は的外れだ。

 

 ナインの瞳は()()()

 まるで恋した相手に何年もの間執着するような、そんな危ない気配を宿した琥珀色に染まっていたのだから。

 

 

「すぅ、はぁ……えへへ……」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

九十九 抵抗作戦対応指針-フェイズ3

 

 

「どうやら警告は無意味だったみたいだね」

 

 購買部のカウンター奥でそう呟いた。

 彼女は回した手が全く結果を生まなかった事実を淡々と受け入れて諦めていた。

 

「まあ、今のタイミングならまだマシか。突然自殺されたり出張中に暴れられたら被害が大きいからね。ドクターだけが傷付くんだったら歓迎だよ。最良の結果ではないけどさ」

 

 出会いは別れを持ってくる。

 生は死を連れてくる。

 

 幸福には不幸が付いて回る。

 浅ましくも不幸を封じようとしたドクターが墓穴を掘る様は、実際に見ていたわけでもないのだが興味深かった。

 まさか警告からそう日が経たずに失敗するとは夢にも思わなかったが、まぐれの成功なら喜ぶべきことだ。今のドクターのように空回って失敗することの方が余程恐ろしい。

 

「さて、ドクターとケルシー先生の間に生まれた溝はどうやって解決するのかな。アーミヤちゃんか、それともアビスくん?」

 

 映像作品を観ているかのような言葉ばかりが飛び出してくる。無責任で、無関係で、観客のような軽々しさ。

 

「なんてね。ケルシー先生が本気になって探してる子が見つかったらアビスくんがまた揺らぐだろうし、あの人ならざる者だって動くかもしれない。これ以上予測するのは無理」

 

 六面揃ったルービックキューブを手に取ると、無作為に回して放り投げた。バラバラに散らばった六色のタイルは多様な人々が織りなす方舟の航路に似ていた。

 

「さあ、彼等はどう動くかな?」

 

 カランと鈴が鳴った。

 

「いらっしゃい、購買部にようこそ!」

 

 クロージャは人好きのする笑みを浮かべる。

 腹の内が理解できるのは、きっと彼女自身だけなのだろう。

 

 

 

 アーミヤからのメールが届いていた。

 珍しいこともあるものだと思いながら内容を覗けば、彼女らしからぬ強い口調で出頭命令が書いてあった。

 アビスは未読のままゴミ箱ファイルへと転送すれば良かったと心底後悔する。

 

「それじゃ行ってくるよ、ナイン」

 

「ああ。労わってやれよ」

 

「あはは、まるでボクが加害者みたいに言うね。分かってるよ。話を聞かないまま拒絶するようなことはしない。相手はアーミヤさんだからね」

 

「だから気にしてんだけどな」

 

 心配性だな、と彼が呆れた顔をする。

 ナインは釈然としない面持ちで頭を掻いていた。

 

「発作が起きて助けが呼べない状況なら遠慮なくブザーを鳴らすこと。カッターが付いてくれるから遠慮なく頼るんだよ。あまり気が進まないかもしれないけどさ」

 

「分かってる。そんなことにはならねえよ」

 

「それなら安心したよ」

 

 アビスが廊下へと出て行った。

 少し寂しいが、今ならそれを紛らわせることが可能だ。新薬の効果で鉱石病の症状が安定したため、多少のアーツを使う許可が降りたためだ。

 ナインの並外れた素質であれば一日中幻影を横に置いておくことが出来る。他人に見せることは負荷の面でも危険度の面でも少々目立つためアビスの視界にずっとリラを映すことは出来ないが、ナイン自信だけなら可能だ。

 

 だからカインと話している予定だったのだが。

 

「リラ姉、居るだろ。出てこいよ」

 

 ナインが自分の胸に手を当てた。

 発展途上の硬い感触が返ってくる。

 

「そうかよ」

 

 特段気にも留めていないような声色で端末を取り出す。

 

「それじゃ、アビスにリラ姉のことを知らせねえとな」

 

 直後口と手の制御が奪われた。

 二つの意思がぶつかり合っている証拠だろう、開いた口、端末を取り落とした手は震えるだけで意味をなさない。

 

 少しずつ震えが収まって行く。

 

「何を話したいの?」

 

 口に集中することで解決したらしい。

 制御が戻った手を握っては開きながらリラの問いに答える。

 

「交渉だ。オレの体を使って多少はアイツと触れ合っていい。その代わり、オレの意識を残せ」

 

「は? 嫌だけど」

 

「体を使われてるオレの方が嫌に決まってんだろ。それに分かってんのかよ、リラ姉。薬が効いてオレの体を十分に乗っ取れなくなってんだろ? 一つの部位しか動かせねえのにどうやってアイツと接するんだ」

 

「それでも、私以外が抱きついていいわけないじゃん」

 

「アイツはオレのそれを受け入れたけどな。……おい、手を奪おうとすんな。やめろ、疲れるんだよ!」

 

 暴れる手をもう片方の手で抑えるという、見るものが見れば胸に手を当てて「いててててて」と苦しみ出しそうな光景だったが、ナインは至って真剣だった。

 

「オレだってな、少しくらいのスキンシップなら許されてんだよ。アイツにキスでもしてやろうか?」

 

 ついに手が刃物を欲して腰へと向かい始めた。

 

「オレの体で甘い汁が吸いてえんだったら、オレに従え。それが出来ないならオレはリラ姉を否定してやる。消えたくなるくらいの嫌がらせをしてやる」

 

 滔々と、淡々と、言葉が口から零れ落ちる。

 しかしその声色が浮かべる感情は怒りなどではない。

 

「だから。もう、やめてくれ」

 

 少しの間迷うような素振りを見せ、沈黙した。

 それから何秒経ったのか、何分か経ったのか。

 

 口が奪われた。

 

「六年で……変わったんだね、ナインは。真ん中にある芯だけはそのままで、それ以外はもう残ってない」

 

「当然だろ」

 

「そう言われたらそうだけど。ずっと変わらない人を見続けて感覚が狂ったのかもしれないや」

 

「そうだな。アイツはそういうヤツだった」

 

 リラはナインの変化に良い感情を抱いていない。そんなことは分かった上で気を緩めていた。それこそが月日に促された変化の表れと言えるだろう。

 

 そしてリラもまた変わりつつある。

 ナインの変化に理解を示した。以前ならばそうあるべきでないなどと言っていただろうに、そう頭ごなしにナインを否定することはなかった。

 

「でもキスは許さないから」

 

 油断していたナインの顎を思いきり打ち上げた。

 

 どれだけ変わろうと芯は動かず、ナインに理解を示しこそすれど譲歩できる境界線を踏み越えたなら容赦なく断罪する心持ちのようだ。

 

「ってぇな。分かってるよ、冗談だろ」

 

「自分の手で殺されても冗談で済めば良いね」

 

「……悪かったよ」

 

「あはは。冗談に決まってるじゃん」

 

 絶対に嘘だった。

 何とかなりそうだと思っていた数分前の自分を一発殴りたいと思い、ああそういえばその制裁は今さっき受けたなぁと現実逃避に暮れた。

 

 ズキズキと痛みが残る顎を摩りながら、ナインはこれからの展望に頭を痛めた。

 

 

 

 

 

 

 それは一週間ほど前のこと。

 

「あのさ、W。この機械は何?」

 

 早朝、とある一室。

 ライサの目は猜疑で染まっていた。

 

 空挺輸送機(バッドガイ号)の中で結ばれたWとの協力関係はあくまで一時的で一面的なものだ。助力を請うつもりも道連れにするつもりもなく、ライサはWを利用し利用される関係を望んでいた。

 

「見て分からないなら黙ってなさい、すぐ分かることになるから」

 

「盗聴器ってことくらいは分かる。触ったことあるし。だから問題はWが何のためにこれを持ってきたのかってこと。結構大型だからアビスの部屋まで届くよね、それ」

 

 ライサは既に武器へと手を伸ばしていた。

 Wは余裕綽々を装いながらも、極めて自然に過去の自分を棚に上げてみせたライサに戦慄する。おまいうである。

 

「確かに子機を忍ばせたのはアビスのジャケット──確かにって言ってるんだから少しは聞きなさいよ!」

 

「死ね」

 

 余りにも直接的な言葉。

 作戦中に見ていたが、ライサは既に死を恐れる時期を過ぎていた。テロリストに襲われたことがどう転んだのか、ライサは殺傷を全く気にしない。

 帰りの輸送機で戦果が云々言っていた時は「こいつやっべーな」で済んでいたのだが、それが自分にまで向くとなるとWは少し引いた。

 

「はぁ。それで、盗聴するの? この時間帯だとアビスはまだ起きてないか部屋で出来るトレーニングか……なに、なんか文句ある?」

 

「気色悪いわね」

 

 感想はその一言に尽きる。

 ライサは「はぁ?」と詰め寄ろうとして、少しの間逡巡して、終いには武器から手を離した。

 

「いや、その……辞めるつもりだったんだけど、あのフィディアがどうしても気になって、だから……」

 

 頬を赤くしてそっぽを向くライサ。盗撮や盗聴、ストーキング行為の類はアビスからプロポーズめいた言葉を受け取った時に辞めたはずだったのだ。

 それがどうしてナインが居着いてからの生活スタイルを把握しているのか──つまりはそういうことだった。

 

 ライサが何を基準にして生きているのか全くの不思議だったが、気色悪いこと以外は静かで都合が良かったのでWは無視を決め込む。

 

 調整が終わり、Wはスイッチを押した。

 

『ふわぁ……』

 

 開幕早々、ライサはWを弾き飛ばしてスピーカーに耳をくっつけた。コータスの耳が激しく振動し、目は全開で口がわなわなと震えている。

 

『あれ、盗聴器付いてる。まあいいか』

 

 しっかりと壁に頭を打ちつけたWがゆっくりと戻り、ライサの頭を引っ叩いた。しかしライサは盗聴に集中していて全く反応しない。

 

『ナイン、おはよう。寝癖ついてるよ』

 

 ドン、と重い音が響いた。

 ライサが床を叩いた音だった。

 

『朝ごはん出来てるから食べて。ボクはあの人を起こしに行ってくるから』

 

 二人の眉が寄せられた。

 アビスとナインが共用スペースと四つの私室からなる部屋で生活していることは知っていた。アビスが一人なのは、それ以外の入居者が各支部で常駐することになったり、入院していたり、エンジニア部になったりして移籍しているからだと聞いている。

 新しい入居者が増えるのは何らおかしいことではない。これまでも何度かあったとアビスから聞いている。

 

 だがタイミングが妙だった。

 もしかして、とライサが一つの予想を立てる。

 

 嫌な予感はやはり現実となった。

 

『カッター。カッター、起きてってば』

 

『……もう朝か』

 

 随分と声が明瞭に聞こえるものだ。

 ライサが盗聴器の本体を殴りつけようとして、寸前でWに止められた。今更感はあるが、マジで危ないヤツだった。

 

「殺してやる」

 

「あんただって起こされたことくらいあるんじゃないの?」

 

「ない。アビスが近付いたら気配で起きる」

 

 それは本当に愛と呼んでいいものだろうか。

 Wは苦言を呈そうとして、面倒になった。アビスの負担を少しくらいは削いでやりたかったが、まあ何とかするだろう。どうせこの兎は彼に危害を加えないのだから。

 

『んっ……ふぅ。ロドスのベッドは寝心地いいね。体が痛くない』

 

『ああ、分かるよ。それよく思ってた。野宿とか安宿とかと比べること自体が間違いだとは知ってるけどね』

 

『アビスが起こしてくれるなら寝過ごす心配だってない。安心してぐっすり眠れるなんて、何年振りかな』

 

『別に毎日起こせるわけじゃないし、自力で起きてくれた方が助かるんだけど』

 

 ゆっくりと動いたライサの腕をWが掴んで止める。気のせいでなければ、今アーツを使おうとしていなかっただろうか。

 

「あんただって同じ部屋に住めばいいじゃない」

 

「心臓が耐えられない」

 

 めんどくせー。Wの顰められた顔は全力でそう表現していた。羨ましく思うクセにどうして一歩引いてしまうのか。暴走機関車っぷりはどこに行ったのか。

 

 アビスはカッターを連れて共用スペースに戻ったようだった。ナインと三人の会話が続く。朝餉が終わり、カッターが自室に戻って行った。

 そしてアビスが今日の予定をナインに聞かせて──ぷつりと通信が切れた。ライサは音が聞こえなくなってようやく、スイッチに手を伸ばしているWのことを認識した。

 

「なんで?」

 

「あくまで動向を探るためだけのものだからよ。これからは三十分くらい後にして良さそうね、無駄な時間を浪費する趣味なんてあたしにはないもの」

 

 まるでそのような趣味がライサにあるような言い方だったのだが、それは真実となるだろうか。

 小難しい顔して盗聴器を睨むライサがどう転ぶのか。スイッチを入れ直すのであれば正しくそうであろうし、Wが言う通りに解散するなら嘘となる。

 

「私は、私から動くって決めた」

 

 ライサの顔はきりりとしていた。

 無知で蒙昧で頑固者、しかし主体的。

 

 Wは何も言わずにその場を去った。準備していた言葉は全て不必要なものに成り下がってしまったからだ。

 ライサがその後に続いて部屋を出た。

 目指すは彼の部屋だろう。

 

 Wは彼の意思を尊重するつもりだ。

 ライサは彼の意向を無視して助けるつもりだ。

 

 Wは、何を考えているのか分からない、これからどう転んでいくのか不透明なドクターから彼を引き剥がすために駒の一つとしてライサを使った。

 ケルシーに疎まれていたWとドクターに疎まれていたライサ。ライサを通してケルシーの動向に介入可能となり、結果としてWはドクターがアビスかナインを求めていること、ケルシーがそれを強引に対処するだろうことが予測できた。

 

 二人の対立は恐らく表面化する。

 それはアビスを巻き込むもので、仲介人となる者が現れるならそれはアーミヤだろうと見当が付いている。

 

 アーミヤとドクター、そしてアーミヤとケルシーの関係はかなり近い。それならばアーミヤは一定期間(けん)に入るだろう。

 行動を起こすなら朝一で連絡が飛ぶはずだ。そうでないにしても、アビスの行動がおかしければライサからの連絡が入るはずだ。たぶん。

 

 Wの見立ては全て正しかった。

 一週間後、アーミヤはアビスを呼び出す。どういった話し合いが行われるにしても、アビスの今後を決める重要な岐路となるはずだ。

 それがどう転ぶのか。

 

「最悪は、あたしが殺してやるわよ」

 

 サルカズは同胞を尊ぶ。

 印章を持っていたのなら彼に烙印を押していたくらいには、Wは彼を同類だと思っていた。

 だからこそ、正気のままに、親愛なる同類をどうやって殺そうか考えているのだ。

 

 彼女なりの愛と呼ぶには希釈された迂遠な感情だったが、それに類する何かだということは否定できないだろう。

 

 いつかきっと、果てるその時を祈って。

 

 

 

 

 

 

 アーミヤは測っていた。

 彼女にはドクターとケルシーの諍いを止めなければならず、そのためには二人の感情が誰に向いている故か、そしてそれはどれほどの大きさかを知らなくてはいけなかった。

 

「ドクター、こちらを」

 

「動くな。それ以上こちらに身を寄せるな。机に置けばそれで済むことだろう、何を企んでいる」

 

 さりげなく触れようとして拒絶された。彼女の警戒心は並外れたもので、唯一綻びが見えるのはアビスに守られていた時だけだった。

 今のドクターは全方位に絶えず意識を飛ばしている。よくその集中が続いているものだ、と人々は言うだろうが、彼女からすればこれは当たり前のことだ。無警戒に前だけを見ていられることの方が彼女にとって信じがたい。

 

 具体的な方向性を知ることは出来なかったが、ドクターの態度を観察すれば分かることが幾つもある。アーツを使うまでもなくアーミヤはドクターの感情を考察していた。

 

「ケルシー先生。今はお忙しいですか?」

 

「ああ、かなりな。皺寄せが来ているから仕方のないことだろう。業務連絡ならメールを使うよう勧めるが、それ以外ならば私以外の者に頼む」

 

 ドクターを追い詰めたのはケルシーで、パフォーマンスが落ちたドクターの尻拭いで彼女は奔走していた。ドクターに比べて精神は安定しているようだし、アーミヤは直接聞き出すことにした。

 

「一つ伺いたいことがあります。ケルシー先生はアビスさんのことをどう思いますか?」

 

「重篤患者だ」

 

 ケルシーはそれきり書類と睨めっこを再開した。まさかたったの四文字で終わらせるとは思っておらず、続きの言葉を待つアーミヤをケルシーは追い払うように閉め出した。

 取り付く島もない。どうやらアビスだけが地雷だったらしく、彼の名前を出した途端に強い感情が感知出来た。

 

 それに加えて、ただ四文字を捻り出すために相当な労力を使ったらしかった。重苦しい意味を持ってはいるが、それと別な重圧が感じられた。

 少なくとも生半可な大きさの矢印ではなかったようだ。

 

 

 アーミヤは頭を抱えた。

 二人共、見たことがないほど限界だった。

 

 アビス以外のことであれば何でも上手く躱せるような二人なのだから、アビスが何かおかしいのだろう。アーミヤはそう結論付けた。

 ドクターが限界だったのは知っているが、同時にそれ以上悪化する余地がないと思っていた。その先などないと思っていた。心底見たくなかったが見せられてしまった。

 ケルシーに限っては何がどうしてああなったのか分からない。アビスは古株なので時間をかけてああなったのだろうか。しかし時間をかけた程度であのケルシーがどうにかなるのだろうか?

 

 アーミヤもまた、限界だった。

 こんな下らないことで煩わしいことになっていると知って堪忍袋の緒が限界だった。

 

「強引な手を使うしかありませんね」

 

 アーミヤは修羅場への招待状を三人に送る。

 ドクターは久方ぶりに会えるのかと歓喜に心が支配され、ケルシーは面倒なことだと顔を顰め、アビスは何が待っているのかと首を傾げた。

 

 そして当日。

 

「──どうして、私だけが……ッ!」

 

 感情の波が強く打ちつけた。

 その答えは、どこにもなかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

百 絶縁

 

 

 

 

 部屋に入った。死角から飛び出てきた。

 そういうわけで、アビスは現在ドクターに押し倒されのしかかられていた。CEOが部屋の奥にいて注意を向けてしまったのが敗因だろう。

 

「あびすぅ……!」

 

 どうしてかアビスは発情期の鳴き声という言葉を想起した。首筋に顔を埋められ執拗なまでに匂いを嗅がれているなど断じて良い気分などではなかった。

 

「私は君がいないと生きていけない」

 

 ライサより面倒だった。

 

「もう嫌だ、絶対に嫌なんだ。私から離れないで欲しい。私も君から離れない。ずっと二人で居よう。そのためなら私は何だってするから」

 

「君がいないと生きていけないとか、そうやって自分の命を人質にするようなこと言ってる人嫌いなんだよね」

 

「分かった、二度と言わない。他にはどこを直して欲しい?どこを直せば私は君の隣に居られる? ずっと離れないためには何をすればいい」

 

「一旦離れてくれる?」

 

「それはイヤだ」

 

 扉の近くで押し倒されている青年と押し倒しながら現在進行形で体を擦り付けているフードの女──体躯としては少女か?──に、それを眺める無感情な顔をしたアーミヤ。

 

 メールを送ってから、すぐさまアーミヤの私室に押しかけてきて手を握ってきたドクターを見ることで大体理解した。

 案ずるより産むが易しということなのだろうか、とアーミヤは今までの心労を思って死んだ目をしている。

 

「すぅぅぅぅ、はぁぁぁぁぁぁ」

 

「キモい」

 

 ぺいっ、と横に放り投げる。

 

「アビス、アビス、アビス。絶対に逃さない。絶対私から離れさせない」

 

 次の瞬間にはアビスの体に絡みついていた。

 起き上がる時間さえ稼げないのは想定外だった。

 寝返りを打って敷布団のようにしてみたが、ドクターは恍惚とした笑みで気色の悪いことばかりを言っていた。つまり平常運転のままだったということだ。

 

「アーミヤさん」

 

「私に何か出来ると思いますか?」

 

「なんとかしてもらわなければ困ります」

 

「申し訳ありませんが、私に出来ることはありません。定刻になればケルシー先生が来ますからそちらに頼んだ方が良いと思いますよ」

 

 アビスの顔がより顰められた。

 

「あの人も来るのか……」

 

「アビスの体は硬くて、少し細くて。ああ、私の大切な友人。どうしてこんな腕が私を安心させてくれるのだろう。どうしてこの体が、高きまで聳える大樹のように感ぜられるのだろう」

 

 アビスはドクターを本気の力で引き剥がした。

 あの猫医者に頼むことよりこちらの方が早いからだ。

 鉤爪のように食い込んでいた指がじわじわと滑り、気持ちの悪いことを口にする余裕はどこにもなくなった。

 

「鬱陶しい」

 

 アビスにはドクターが犬のように思えてきた。飼い主のことが大好きで堪らない犬であればこのようにしつこいのだろう。

 飼い主になったのは間違いだった。なるべきではなかった。と、本気でそう思うには余りにも避けようがなかった。あのドクターを何も知らない自分が見れば十あるうちの九は助けていただろう。

 どう転ぼうがどうでもいい、興味ない。ただ悪戯に目の前の相手を自分がしたいようにしただけ。

 

 そのツケはいつか払われるべきだった。

 だから今こうなっている。

 

「ドクター。いくらボクだって限度があるよ」

 

 目と目を合わせてそう言えば、ドクターは金縛りにあったかのように動かなくなった。

 

「私、は……」

 

 出会い頭に押し倒され好き勝手されたにしては言葉を選んだ方である。本調子のアビスならば「もう限界だからどいてくれる?」と言って号泣させたこと請け合いだろう。

 だがアビスは混乱していた。アーミヤに呼ばれてドクターが居たことに関してはまあいいとして、トップの三人が集まる中に自分が放り込まれるなど予想だにしていなかった。アビスは未だ呼ばれた意味を知らずにいた。

 

 突き飛ばすように押してドクターを椅子へと座らせる。

 アーミヤは乱暴なその様子を見て苦笑していたが、視線を向けられ真剣な顔に戻った。

 

「アビスさんを呼んだ理由は全員揃ってから説明します。この状況を招いたのは恐らく、幾つかの齟齬が理由だと思いますから」

 

「ケルシー先生で打ち止め?」

 

「はい。そして……」

 

 時計がカタン、と音を立てた。

 分針が一つ進んだ音に違いないだろう。

 

「時間です」

 

 扉が開かれた。

 

 カツ、カツ、と部屋に響かせるヒールの跫音。

 肩に露出した源石結晶。

 理知を感じさせる無機質な瞳に真白の髪。

 

 ケルシーは入り口近くの椅子に座るドクターへと視線は向けず、その傍でこちらを睨んでいる青年と視線を交わした。

 本人に睨んでいるつもりはないのだが、知らず知らずのうちに内心が鋭利さを持って表出していた。

 

「アビス。体はどうだ」

 

「普通。あと話すなら後にして。アーミヤさんに今から何するつもりなのか説明してもらうから」

 

 ケルシーはアーミヤに目を向けた。

 

「私から話そう。アーミヤ、君は傍観者であり仲介人だと自覚しているだろうが、ことこの召集に至っては私が一番に無関係だ。岡目八目を論ずるなら私が適任だろう」

 

「いいえ、出来ません。ケルシー先生が何を思っていたのかは分かりませんが、ドクターは精神的に追い詰められていました。二度、それを見過ごすわけにはいきません」

 

 強い語気で否定するアーミヤ。

 瞠目して驚くケルシーだったが、浮かぶのはやはり否定の言葉だ。何故ならアビスは自身の担当する患者であり今まで築いてきた密接な関係が……関係が……

 

「アビス。お前はどう思う?」

 

「今さっき言った。割り込むほどのことじゃないだろ、ケルシー」

 

 それが現実だった。ケルシーはアーミヤに及ばなかった。好感度0に好感度マイナスが勝とうなどと無理な相談だった。

 

「私はドクターとケルシー先生にも経緯を説明していただくつもりでしたから、そう焦らないでください」

 

 くくっ、と小さくアビスが笑う。

 

 不本意だが、不本意ではあるが──ケルシーは席に着いた。自分のことで笑顔になった彼に毒気を抜かれただとか、ほんの少し満足してしまったとか、そういうわけではなかった。

 部屋の入り口と奥に一席、両サイドに二席ずつ。そこそこ広い会議室の中央に最大六人の席が用意されている光景が、いつぞやのサルカズ爆弾魔に呼ばれた時と重なった。

 

 ケルシーがじっとアビスを見つめていた。隣の席という至近距離では視線だけで穴が開けられそうなほど見つめられていた。

 結局ケルシーの斜め前、ドクターの左側に座った。いざとなれば盾に出来そうな人がいるだけで安心感は段違いだ。

 

「ケルシー先生がご多忙ですから手早く進めます。私がアビスさんを読んだのはドクターの精神状態が危険で、それが改善されそうになかったからです」

 

 ケルシーの眉が僅かに動く。対してアビスは特に何の感慨も持たない。ケルシーがどう動くのかドクターには把握出来ず読み違えて無様な姿を晒したのだろう。

 ドクターは失敗した。

 それだけのことだった。

 

「アーミヤ。私には彼女……彼が危険なようには見えない。口数こそ少ないがそれだけだ。君の言葉はそれで正しいのか?」

 

「はい。一週間以上、ドクターは私のアーツが反応するくらいに強い感情を抱え続けています」

 

 ケルシーの目がドクターを貫く。

 そして何の反応も見せないことを不審に思ったのか、肩を掴もうとして振り払われた。

 

「私に触るな」

 

 男の声ではなく、一人称もまた違う。

 思わずアビスの方を窺い見たが、当然の如く無感情に二人を見ていた。彼にとって一連のやり取りは全て予想できるものだった。

 

 ケルシーは理解した。ドクターの正体が知られている、もしくは明かされているという事実を初めて理解した。

 そしてその重大さは勿論知るところだった。と言うより、重大だからこそありえないと思っていたものが否定されたのだった。

 

「どうして、君が」

 

 ドクターは恐れていたはずだ。自身の正体を知る輩だと知るや否や地につきそうなほど頭を下げていたはずだ。それから一度も外部には漏れていない秘密だった。

 当初全く理解を示さなかったケルシーに何度懇願したか数えることすら出来ない。今なら分かるが、恐らくドクターは何でもいいから仮面を作りたかったのだろう。素の自分が好かれることなど微塵も信用出来なかったのだ。

 

 そうだ、そういうことだった。

 それならば答えは一つだ。

 

「アビスには嫌われてもいい、ということか」

 

 ドクターが初めて顔の向きを変えた。

 そして言葉を紡ぐ。

 

「お前は、何を言っているんだ?」

 

 口を開こうとしたケルシーにアーミヤが飛びつき口を塞いだ。巧妙に隠されていたがアーミヤだけにはアーツで分かっていた。ドクターの感情が一生分の憎悪と呼ぶにも生温いほどの殺意で埋め尽くされていることを理解していた。

 

 業務中に感じていたのは明確な怨念とそれを上回る悲嘆、そして強い無力感だった。ドクターはそれらの感情を一秒だに欠くことをせず、ずっと耐え忍んでいた。

 本当なら、アーミヤは八つ当たりで多少殴られるかもしれないと思っていた。それを覚悟していた。だがドクターは己と向き合い続けていた。素直に尊敬した。

 

 ケルシーが部屋に入った途端、ドクターの心は整理がついていないようだった。アビスに拒絶されてから悲哀と、恐らくは自身への怒りに渦巻いていた感情が混ざり合って溶け込んでいた。

 

 そして、それら全ては殺意に転じた。

 

 口に蓋をされたケルシーは観察を行った。だがドクターは一見して無感情のようだった。ただ意図がわからなかったから問いを返したのではないのだろうか。

 

 手がピリついた。

 静電気のような痛みこそなかったが、ピリピリとした感覚が指から這い上がってきた。それは肩を通り胸へと届き、更には全身へと広がっていく。

 それが殺意だと分かるまで、数秒。

 

「────ッ!?」

 

 椅子から飛び退いた。

 アーミヤが巻き込まれて尻餅をついていたが、この際そんなことに(かかずら)ってはいられなかった。

 

 ドクターが徐に立ち上がった。

 冷えた感情と呼ぶには熱が込められすぎている殺意が部屋の中に充満する。今のドクターを見て、直接その手で人を殺めたことがないとは、誰一人として思えないだろう。

 

 そこの一人を除いては。

 

「ドクター。今アーミヤさんから話聞いてるんだけど」

 

 ケルシーの方にゆらりと歩き出したドクターの袖を掴んだ。手繰り寄せて手首を引っ張ると、ドクターは椅子に倒れるように座った。

 

「はいはい、えらいえらい」

 

 フードの上から押さえつけるように撫でる。立ち上がって威嚇することがないようそこそこ強く力を込めていたが、ドクターはされるがままになっていた。

 

「分かりましたか、ケルシー先生」

 

「……何を」

 

「ドクターはアビスさんに嫌われてもいいから仮面を外したんじゃありません。嫌われないと信じることが出来たから外せたんです。そうですよね、ドクター?」

 

 こくり、と頷いた。

 頷きながら椅子ごと彼の方に寄って、そして押し返された。アビスが鬱陶しい応酬を始めたくなかったからだ。

 

「そん、な、わけがないだろう」

 

 小さく漏れていた。

 

「アビスが君を嫌わない? ありえない、どうして。分かるはずだ、だって、そうだろう」

 

 理解出来なかった。

 

「いや、いや、違う。当たり前だ、分かっている。分かっているんだ」

 

 理解したくなかった。

 

「だが、それでも」

 

 アーミヤだけに聞こえていた。

 

「──どうして、私だけが……ッ!」

 

 あーあー、聞きたくない。そう言って耳を塞げたならどんなに楽だっただろうか。アーミヤに逃げることが許されていたなら、コータスらしく脱兎のように逃げたかった。

 泣いてしまいそうなケルシーの姿など見たくなかった。涙を堪えて唇を噛み締め、弱音を吐くケルシーなど。

 

 

 誰だって嫌われたくないに決まっている。

 

 

 ケルシーはそれを隠していただけだ。その容量が人より大きく、まるで感じていないかのように振る舞うことが得意だっただけだ。

 

 嫌われたくなった。拒まれたくなかった。捻じ曲げたくなかった。睨まれたくなかった。考えたくなかった。騙したくなかった。

 

 全て、必要なことだった。

 

 嫌われた。拒まれた。捻じ曲げた。睨まれた。考えた。騙した。そうしなくてはいけないと主張する一方で、そうしたくないと叫んでいた。

 

 彼は人に興味がない。だから嫌われることを避けようと思えば簡単だ。ただ過去を尊重してやれば、すぐ友人にさえなれるのではないかと思った。

 それでも嫌われるしかなかった。彼を救うためにはそれしかなかった。嫌っていたはずの私を受け入れた彼を見て、最悪の気分だと思う理性とは裏腹に心が軽くなった。

 

 アビスに自覚があるかは分からないのだが、最近ではトゲが随分と鋭さを失っているようだった。初めてのことだった。計画通りに進んで希死念慮を感じたことは。計画通りに進んでここまで心が躍ったことは。

 

 それが。

 

 ドクターはアビスに寄り添った。だから嫌われていない。それは理解出来る。理解出来てしまう。

 それを選ぶことだけは論外だと、どれほど苦しくても彼に生きていてほしいなら彼を否定するべきなのだとケルシーは思っていた。だから、それは、受け入れられなかった。

 

 好かれるために、彼を死に誘うなど。

 

「あ、あああ……ああ……」

 

 ドクターと小競り合いを続けていたアビスが気付く。ケルシーが両手で顔を覆っていた。飛び退って、膝立ちのまま。

 何があったのか、そう問いかけようとした。

 視線はケルシーではなくアーミヤに向いていた。

 寸前に真横から大きな音が聞こえた。

 

 椅子が倒れていた。

 

「放せ」

 

「どうやら殺意だけは一人前のようだな」

 

 両者、共に感情が閾値を突き抜けていた。

 ドクターは塗り潰されたような殺意を抱え、ケルシーは鬱屈した嫌悪を向けていた。

 

 ケルシーの下敷きになっていたドクターが腕を振るう。容易く受け止めたケルシーが一秒にも満たない時間で脱臼させた。

 普通に戦えばケルシーの辛勝が見える戦力差。派手な先手を打たれたドクターには、万に一つの勝利すら存在しない。

 

 そのケルシーが振り上げた拳を止める者が居なければ、という話だったが。

 

「今、アーミヤさんが話してるんだって。これで二度目。二度目なんだよ。わかるかな。あのさぁ、ボクの声が聞こえてないなら、頭冷やせよバカ!」

 

 ごちん、と拳骨が二つ。

 

 喧嘩両成敗。脱臼していた肩はアビスが無理矢理嵌めた。流石にちょっと可哀想だったので椅子まで丁寧に運んでやった。

 ケルシーは理由がわからなかったので放置。恐らくはそれなりにきちんとした理由あってのことだろう、だが話の途中に突然襲いかかるのは許せなかった。

 

「凄いですね、アビスさん」

 

「こんな子供より子供らしい大人二人に囲まれて頑張ってるアーミヤさんの方が凄いですよ」

 

「えぇっと……」

 

 アーミヤは言葉に迷う。

 彼が絡まなければ二人はアーミヤより何倍も大人らしいのだと、どう伝えればいいだろうか。精一杯手を尽くしてもアビスは怒る気がした。この世の理不尽に。

 

 幸いにもアビスは早々に話の続きを望んだ。

 

「ドクターが限界だったのはこれで分かったと思います。そしてそれはアビスさんを秘書から外したことでそうなりました」

 

 ドクターから異論はない。

 それをしっかりと確認して次に進む。

 

「ケルシー先生がそうなることを理解していなかったことは分かりました。だから次に、理由をお聞きしたいです。まさか秘書が変わらないことにそれほど不満があったはずはありませんよね?」

 

 話を聞いているのかいないのか、ケルシーは机の一点を凝視していた。まるで先ほどの反省を一人で行なっているかのように。

 アーミヤがもう一度聞こうかと思ったタイミングで、ケルシーは「それが理由ではない」と言った。

 小さな細い声だった。

 

 心の中でミニアーミヤが「んーーーーーー」とそれはそれは長く続けていた。理解が一瞬止まったエリジウムなども使う「んー、なるほどね?」の極めて長いバージョンだった。

 しかし精神的にショックを受けたケルシーに不平を言うことなど出来ない。小さな声も少々困りはするがそれだけなので、倫理的に──

 

「もう少し大きな声で話してくれる?」

 

 ミニミヤが再度同じ台詞を吐いた。今度はより長かった。その意味を率直に言うなら「何しとんねんお前」であった。ただ理解出来ない指摘でもなかった。ミニミヤは疲れて不貞寝を決め込んだ。

 どうしてケルシーは小声で呟いたのだろう。どうして私だけそんな扱いなんだと詰め寄って仕舞えば良かったのに。そうすれば私がここまで疲れることもなかったのに。アーミヤは八つ当たり気味にケルシーを責める。

 

 そんな状況にも限らずドクターはアビスの服に顔を寄せて何やら匂いを嗅いでいるようだった。なるほど殺意が薄まるならこれ以上ないことだ。だがイライラするのでやめていただけるだろうか。

 アーツが拾うずっしりとした愛情も中々に堪えた。意味が分からないくらい大きい。恋愛の色が少ないのでまだ耐えられてはいるが、親愛だけでここまで重くなるのは考えものだろう。

 

「……すまない。私がアビスをドクターから引き剥がしたのは、ドクターが内部抗争の準備を進めているのではないかと疑っていたからだ」

 

 ケルシーはとても可哀想だった。それが自業自得であるかどうかは、これからの話の次第によるのだからしっかりと理解せねば。

 アーミヤは気合を入れ直した。

 どうやらアビスは気遣いの一つすらも出来ないようなので私が主導しなければ。

 

「現在ロドスに居る元亡灵(アンデッド)のナイン。彼女が……」

 

「ごめんなさい。少し待ってください」

 

 アーミヤの気合いがどこかへ散った。

 

亡灵(アンデッド)が居るんですか?」

 

「ああ、秘匿していたからアーミヤは知らないだろうが、一ヶ月ほど前からな」

 

「それは、まさか」

 

「アビスが連れ帰ってきた少女のことだ」

 

 アーミヤの背に黒い菱形の線が浮かぶ。面倒そうな顔で被害者然として無関係者ですとか主張してるクセしてアビスが発端だった。ちょっと嫌になってきた。

 しかしアーミヤが目を瞑ってから少し経つと、菱形の線は消えていった。怒るだけではどうにもならない。前を向き、どうすべきか検討することが肝要だ。それはどんな場合においてもそうだろう。

 忘れてはならない。

 怒りに突き動かされた短気や短慮がレユニオンのようなテロリストたちを生み出した。暴力とは、武力とは、歯止めが効かない毒となるのだ。

 

「話を続けてください」

 

 冷静な声だった。

 ケルシーはアーミヤの姿を見てバツが悪くなったのか顔を背ける。冷静でない、平生を装うことすら出来ていない自分を理解したのだろう。

 

「そのナインにドクターが接触していた。短いスパンで何度も執務室に呼んでいたようだった。秘書がアビスであることを利用したのだと考えた」

 

「まあ、事実だよ。ナインは執務室を何度も訪れていたし、オペレーターになるよう勧められていたのもそう」

 

 アーミヤの視線にアビスが答えた。

 事実確認は取れた。次の言葉を促す。

 

「ドクターは強い不満を持っているようだった。それが真実なのか偽物なのか、それはどうでもいいことだ。たとえ偽物であったとして、欺いているその事実が刃を幻視させるのだから」

 

「強い不満、ですか」

 

「ああ。アビスが他のオペレーターを訪ねたり定期検診のために執務室を出ることになれば、ドクターは強い不満を表していた。私を傷つけることが心やりになるようだった」

 

「性格悪いね」

 

 びくっ、とドクターの体が震えた。

 アビスは冷めた目でそれを見ると、特に何も言わず視線を戻した。ドクターは泣きそうになった。

 

「アビスに目をつけたのは内在する理由でない、と言っていた。それは嘘だったのだろう? ……だがどちらにせよ詮無きことだ。嘘をついていたことが今更何だという話だろう」

 

 ケルシーの言葉とは反対に、アビスの目がどんどん冷えていく。何か企んでいた計画があって、偶然ケルシーによってそれが消えただけの可能性が見えたからだろう。

 

「ドクター。どうして嘘を?」

 

「私は、ただケルシーの注意を逸らしたかっただけだ! 検診を餌にして妥協させ、ダメ押しにそう言えばケルシーの目が他に向くと思っていた、それだけなんだ!」

 

 アビスは心底興味がなかった。

 彼のような策謀に優れているわけでもない者にとって、弁の立つドクターがどれだけ言い訳を連ねたところで意味などない。可能性があるならば、やりかねないならば、否定する証拠は全て嘘くさい。

 ドクターからすればとんでもない論理だったが、その考えは賢いと言える。怪しい人を見つけたら撃っておく。そうでなければいつか殺されるかもしれないのだから。

 

「信じてくれ、私が君を害したことなんてなかっただろう!? 私は君を隣に置いておきたかっただけで、それで安心したかっただけだ。それならば──」

 

「ドクター、それ以上はよせ。醜い」

 

「……はぁ?」

 

 椅子がドクターの背後でうるさく音を立てた。

 倒れたそれを意にも介さずドクターはケルシーに詰め寄った。アーミヤが制止しようとする間もなく、回る思考がドクターの感情を押し上げる。

 

「お前が、お前たちが私をッ!」

 

 ただの気迫がアーミヤの足を竦ませた。バイザーの奥に見える瞳は闇のように暗く、しかし強い存在感と与える威圧感は燃える炎のようだった。

 

 ケルシーに殴りかかるドクター。

 人と直接争うことが全くない彼女にとってそれは会心の一撃と呼べるものだろう。十分に拳は固く、十二分の勢いを乗せて振り抜かれた。

 

 そして気が付けば床に転がっていた。

 ケルシーの並外れた技術によって毛ほどの力もかけずドクターはうつ伏せでひんやりとした感触を味わっていた。

 

「人は誰しも醜い側面を持っているだろう。それを否定する気はない。態々その一面を暴いて嘲るほど暇ではない」

 

 ドクターの背をヒールが貫く。

 実際に出血するほど鋭いものではなかったが、ドクターが抜け出せず踠くことしか出来ないくらいの力がかかっていた。

 

「君の幼稚で自己中心的な(さが)はいい。問題はそれを隠すことなく押し付けている点だ。『隣に置いておく』だの『安心したかった』だけなどと宣い、まるで物のように扱っているようだな」

 

「ケルシー先生」

 

「……どうして君は動かず、君の隣に彼を置く? 君が彼の隣に腰を下ろすこともなく、それがどうして咎められないなどと思っていた。その傲慢さは時に害となるだろう。今までそうでなかったとして、これからそうなる可能性は大いに高い」

 

 爪先で転がした。痛みに呻くこともなく、ドクターはケルシーをずっと睨んでいる。間に入ったアーミヤもまた毅然としてケルシーに向かっていた。

 

 唯一無干渉で眺めるアビスは虫ケラを見るような目をしていた。こちらの出来事に全く興味がない目だった。

 ケルシーはそれを見て少し安心した。大抵の人間であれば自身に擦り寄ってきた相手に好感情を抱き、それを叩きのめす相手には当然反抗する。

 アビスはあくまでケルシーとドクターの関係として捉えている。彼の目には彼と他人の間に関係など無いようなものだった。

 

「それ、なら……それなら、お前はどうなんだ、ケルシー! 彼を思い通りにしているのはお前の方だろう、お前こそ傲慢で仕方ない悪辣な権力者だろうが!」

 

「思い通りにして何が悪い。私はその権力に見合う立場を持ち、責任があり、より良い方向へと導く義務がある。それを傲慢とは呼ばない。そして君は対話の前に暴力を選んだ。この世で最も愚かな選択と言える」

 

 激情に駆られて返り討ちに遭い、その上言葉のナイフで滅多切りにされる。相変わらず性格が悪いのだなとアビスは思った。それだけだった。

 ケルシーは倒れた椅子を指差す。

 

「床で寝ると腰や背が痛くなるだろう、座ってはどうだ。なに、そのままがお好みなら無理強いはしないと誓おう」

 

 ドクターはフラフラと立ち上がり、腰を下ろした。心配そうな顔で見守っていたアーミヤは一言「やりすぎですよ」とだけ告げて席に戻った。

 これで元通りだ。

 

 喧嘩に口を挟まなかったアビスが纏める。

 

「全部分かったよ。ケルシーはナインを取り込まれたくなかったからボクを引き剥がして、そこに悪意はなかった。ドクターはただボクと居たかっただけ。はい、話終わり」

 

 二人は訂正しなかった。

 これ幸いと面倒なやりとりから逃げようとして、立ち上がったアビスの視線の先でドアが開いた。見えたのはダークグレーの髪。その傍には不幸を振り撒く悪魔。

 

「終わってないよ、アビス」

 

「まだ話すべきことがあるのよ、間違いなくね」

 

「うんうん、とりあえずさ」

 

 ライサがドクターの肩を掴む。

 

「こいつ殺していい? いいよね? 迷惑だよね? 分かってるよ絶対跡形も残してやらないから」

 

「……誰かと思えば役立たずか」

 

「あぁ?」

 

 ライサを落ち着かせようと手を伸ばしたアビスの視点がガクッと下がった。Wがアビスを引っ張って椅子に座らせたのだ。

 しれっとアビスの隣の席を奪われたことにライサは気付いていたが、それより今はドクターのことらしい。羽交締めにして盗聴器を壊されないよう全力だったWはもう止める気などないようだ。

 ケルシーやアーミヤが止めるだろうと高を括っているのだろうが。

 

 隣の席から肩を抱く。

 

「ドクターが劣勢。ケルシーが優勢。それって、あんたが無駄に生かされるってことじゃない?」

 

 悪魔(サルカズ)はそう囁いてニィと笑った。

 乗ってくるだろうと分かっているから返事は待たない。軽く突き飛ばしてケルシーに微笑みかける。

 

「さぁて、ケルシー。あたしは一体何から話せばいいのかしら? 妥協案で話した過去を嗅ぎ回っていたこと? オペレーターに裏から手を回していること? それとも、あたしから聞き出したリラのことかしら」

 

 アビスがWの胸倉を掴んだ。

 

「……全部話せ。最後の話からだ」

 

「そう飛びつかなくたっていいじゃない。メインディッシュの前に前菜がないなんて寂しいでしょう?」

 

 チャキ、と銃口がアビスの腹に当てられる。

 

「それとも源石結晶ごと体に風穴開けられたいのかしら。あたしは嫌よ、あんたの命だけは背負いたくないもの」

 

 殺気はない。しかし怯えがない。

 殺すと決めれば確かに撃鉄を倒すだろう。

 

「一つ目。聞いたわよ、BSWからの研修生がまた訪れるみたいじゃない。それも名指しでオペレーターを指名したそうね、『アビス』なんて名前のオペレーターを」

 

「……それが、どうした」

 

 ケルシーの顔に動揺はない。

 

「聞いてみれば多少知っていたわ。リターニア出身。高等部に入ったばかりで学生と二足の草鞋で大変な生活をしているようね」

 

「それがどうした」

 

「種族はフォルテ」

 

 アビスの目が大きく見開かれて、瞳が揺れる。

 どうやら大当たりを引いたらしい、とWは心の中で呟いた。ケルシーの徹底した調査は裏目に出た。名指しだったという点は恐らく隠すつもりだったのだろうが、BSW側に連絡を取ればすぐに分かった。

 

「あんたの従兄妹、種族は何?」

 

「……フォルテ」

 

「あんたのコードネームの由来は?」

 

「母方の実家がペッローの一族で、部族名がアビスだったんだ。だから、母の妹の子であるラグがコードネームを付けるとするなら、ボクと同じものになる」

 

「ええ、それで。あんたを故郷から追い出した彼女をロドスに呼び寄せたらしいわよ。ケルシーはあんたのこと、嫌いで嫌いで仕方ないのかしら?」

 

 嗜虐的な笑みを浮かべるWに、ケルシーが口を挟む余地などない。アビスは恐らく確信していて、それは猜疑させるに充分な内容だったはずだ。

 

「二つ目。カッターだとか二人目のアビスだとか、どうやら間接的にあんたを変えようとしているらしいわね。思い当たる節がないわけではないでしょう?」

 

「フロスト、リーフ」

 

 くすくす笑っているWの性格は最悪だろう。何も言えないケルシー、掌の上で転がるアビス、意気消沈したドクターに、何も出来ることがない、何も知らないアーミヤ。

 

 付け入る隙を与えてしまった時点でケルシーたちはWに笑われる未来しか存在しなかった。

 

「三つ目。これはケルシーの口から聞きなさい」

 

 一つ目、二つ目。それらは三つ目の信憑性を上げるためだけの布石に過ぎない。ここでケルシーに水を向ければWの口から荒唐無稽な話が飛び出ることもなく、ケルシーの信用だけを落とせる。

 

「ケルシー」

 

「……リラ、と言ったか。君の話を聞いた限りでは、彼女の鉱石病は冬のうちに悪化を極めたらしいな。右目を、そして左足を壊した」

 

「ああ。それで?」

 

「余りにも早い。源石に長時間触れることすらしていないのだろう。健康状態こそ悪いがその他は理想的な状態だったはずだ。それが、たった一つの季節を跨ぐことすら出来なかった」

 

「だから?」

 

「不自然極まりない。私には──」

 

「そうじゃない。そんなことはどうでもいい。その程度の理由で、何をした? 覚えてるよ。『リラと話をした』ってケルシーが言ってるの」

 

 ケルシーが口を噤んだ。

 当然ながらケルシーは何もしていない。全てはアビスの早とちりだった。だが、それを証明できない。ケルシーは何も否定できない。そして嘘をつくことも出来ない。

 Wは思ってもみなかった展開に抱腹絶倒しそうだった。気を抜けば口から笑い声が漏れてしまいそうだ。

 

「それとも、あなたが?」

 

 ドクターの闇と炎を印象付けるような目ではない。ただただ強い意志が感じられるアビスの目に、アーミヤは首を振った。

 どうやらケルシーが一人で何か小細工をしたらしい。

 

「答えろ」

 

 剣呑な雰囲気はまだ殺気と呼べる段階ではない。だが敵意と害意は確かに存在していた。ケルシーに向けられた鋭すぎる視線が瞳を貫く。

 

「答えろよッ!」

 

 机に叩きつけられた手が大きな音を立てた。

 ヴイーヴルとしての特徴を失った握り拳から血が垂れている。医者であるケルシーは、しかし何も言えないままでいた。

 

「どうせ何も言わないわよ。それくらいにしたらどう?」

 

「黙っていてくれ」

 

「あらあら、まだ感謝の言葉すら聞いてないわよ。それにどうでもいいじゃないの。ケルシーはあんたの大事なものに手を出した。嫌って疎めばそれで終わりよ」

 

 息を荒くしたままWと目を合わせる。

 心底これ以上の問答が無意味だと思っているようだった。ライサを見れば、何がどうなったのか、素手でドクターと取っ組み合いを繰り広げている。

 

「……はぁ。分かった。第一ボクは巻き込まれただけなんだ。こんな部屋に居るべきじゃない。ラユーシャ、行くよ」

 

 こちらの声が聞こえていないライサの首根っこを掴んでズルズルと引きずっていく。Wはもうおかしくて仕方がなく、腹を抱えて震えながら歩いている。

 

 最後に部屋の中を見渡した。

 

 今にも駆け寄ってきそうな、捨てられた子犬のような雰囲気を漂わせるドクター。ただ俯いて目を合わせようともしないケルシー。探るようにWやライサを見つめるアーミヤ。

 

 誰にも魅力は感じない。

 このまま関係が途絶えようと一切の未練もないだろうとアビスには思える。

 

「ドクター」

 

「え、あっ。なんだ?」

 

 期待が薄らと塗られた言葉。

 

「これ以上ボクに迷惑をかけないでくれ。救われたんだったら仇で返さないで欲しい」

 

 暗くて見えない顔。

 扉を閉めるその瞬間に一粒の雫が垂れたように見えたのは、きっと目の錯覚なのだろう。

 

 

 




百話。百話です。六章完結です。実は六章完結を九十九話にしようと思っていましたが二万字弱になったので分割しました。
ケルシーとドクターはかわいいですね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間
百一 貴方は如何にして愛を謳う


 

 

 冷たい海の中。私は何度も夢の水底に沈められていた。それは恐怖を煽るようでありながら、もがくことを諦めさせるように私へと纏わりついていた。

 ああ、体の芯まで冷えるようだ。

 そう思っても私の体は動かず、永遠に思えるような時間をそのままで過ごしている。

 

 今日は目が覚めないのかもしれない。

 毎朝のことだが、しかし未だに慣れない。私が既に冥土を目指しているのではないかと疑ってしまう。

 私が一切死を知覚しないままに殺されていたとしたらどんなに素晴らしいことだろう。

 

 現時点では裏切られている期待が、いつの日か成就してくれたならと。そう望んでやまない。

 

 見慣れた真白の天井を眺む。

 鬱々とした感情を抱えながら目覚めると、そこは夢の続きを思い起こさせるような静謐。まるで部屋全体が水で満たされているかのような、それでいて乾いた空間。

 

 入っていた連絡とリマインダーに目を通しつつ飲料水が喉を通る。

 珈琲は要らない。起きた時点で私の心は死を恐れ、眠気などとうに消えている。そして独特の匂いと塗り潰すような黒は、異物を隠してしまえるから。

 朝のルーティンはこれでも改善した方だ。灯りを消して眠ることは未だに出来ていないが、自分から目を瞑ることも出来やしないが、睡眠は取れているのだから。

 

 彼が居たら全て解決するのだろう。

 

 手を滑らせて床に落ちた端末。厳重なロックの最奥には彼の写真が入っている。データ紛失が起こらないようバックアップは他の端末に幾つも置いていた。

 彼を失いたくなかったからだ。

 

「それに、何の意味がある?」

 

 再び端末が床に落ちる。拾おうとする手が震えて上手く持てなかった。彼の姿が頭に浮かべば、恐怖を覆い隠すほどの哀絶が痛みと共に胸を占拠していた。

 会えないのなら居なくたって同じだ。

 彼以外の者が相手だったならそう言えていただろう。

 その実際的で現実的な考え方は私が壁の向こう側に居たからだ。まるで第四の壁のようなその境界線を隔てて私が世界を眺めていたからだ。

 

 私が恐怖を抱えていた一番の理由がそれだったのだろうか。現実感のない世界から除け者にされているような感覚が、私の心を傷付けたのだろうか。

 そんな問いはどうでもいいことだ。私の心に優しく触れてくれたのは彼だけで、そして彼はもう私の世界から消えてしまったのだから。解決出来ないと決まったのに蒸し返す必要なんてないだろう。

 

 もう決まったことなんだ。

 彼が私を救って、私は彼を利用しようとして、それに腹を立てた彼が私の隣から居なくなった。

 私の自業自得だ。

 諦める以外に選択肢はない。

 諦めることしか私には出来ない。

 

 それなのに。

 

「何故、私は彼を忘れられない……」

 

 端末を拾おうと何度試してもダメだった。

 彼のことを思う限り何も出来なくなってしまうようだった。

 昨日のことなのだから引きずっていて仕方がない、そう思いはしても心のどこかで首を傾げている。今まで積み重ねていた成功が私の能力不足を易々と認めてくれない。

 ただ甘えているだけではないのかと、そう言って私を責める。

 

『命に代えても──』

 

 耳に残る彼の声が寂しくて堪らない。脳裏に浮かぶ彼の姿が苦しくて堪らない。私は本当の意味で彼が居なければ生きていけないんだ。

 もう忘れるしかないだろう。彼と出会う前の私に戻るしかないのだろう。そう分かっているのに、期待なんて抱きたくないのに、頭から離れてくれない。

 

 雫が垂れる。

 がくんと頽れて端末に近付いた。

 

 目に見えない何かを掻き抱くようにして、しかし私の手は空気を攪拌するだけに終わった。

 垂れる髪に涙が伝い、数本が一束となってくっついた。

 

 締め付けるような胸の痛みを、劈くような心の悲鳴を、私はどうすれば無視できるのだろう。蹲って胸を押さえたって何も誤魔化されてくれない。

 ただ人に怯えていた頃よりずっと痛くて耐えられないんだ。どれだけ殴られようが斬られようが、涙なんて出ることはない。殺されかけたとしても、自然に泣いてしまうことはない。

 

 今までの苦しみは、見えない心を引き裂かれることには到底及ばない。

 

「もう嫌なんだよ、アビス……なあ……」

 

 涙が床に積もりゆく。

 

 仕事に行かなければならないのに。

 彼に見捨てられた私は安全を確保するためドクターの仮面をしっかりと被り直す必要があると言うのに。

 私の体は緩慢にさえ動かない。

 

「私の隣に居てくれよ……」

 

 それは意図せず漏れ出た本音だった。

 心の内を整理するためだとか、そういった何の理由をも持たない、私の発言では珍しい言葉だった。

 

 だからこそ私は己の罪を自覚する。

 

「仕方、ないだろう。だって私はドクターなんだ、そう軽々しくは言えない。ロドスに囚われた私が言えるのは『隣にいてくれ』って名前を呼ぶことだけ、そのはずだ」

 

『君が彼の隣に腰を下ろすこともなく、それがどうして咎められないなどと思っていた』

 

 私を見下すケルシーの目がフラッシュバックする。私を足蹴にして彼女は言っていた、隣に居させてくれと頼むのが筋だろうと。

 私には出来なかった。ドクターというシガラミが行動を制限しては憚らなかった。どうしたって隣になんて行けなかった。だから秘書にして招いたんだ。

 

 ……本当は分かっている。

 そんなの言い訳でしかないのだと。

 

 彼を隣に置いておくことは怖くなかった。行動を縛っているなら断られたって仕方のないことだから。断られたとしてもダメージは最小限で済む。

 私が隣に居座ることは怖かった。もしも断られたなら、それは私を疎んでいることに他ならない。彼にとって居てもいい存在なのか、それとも嫌な存在なのか、それを明らかにしたくなかった。

 

 強引に付き合わせているから拒絶されているだけ。そんな逃げ道が用意されていなければアプローチの一つだって出来ない人間、それが私だった。

 

 嘆くだけの資格は持っていない。

 彼を望む権利などない。

 

 この涙がまるで意味のない空虚な行為だと思いたくはない。しかしドクターの思考が無駄だと断じている。

 彼に拘うことが愚か者の行いだと分かってる。だが私の心はそれに逆らい、何度でも記憶を呼び起こす。

 

 ドクターからかけ離れた、凡愚で情ばかり優先する頭があったのならと考える。すぐに答えは出る。きっと彼は私の大切にならなかっただろう。

 私がこうしてこの世に居る時点で、こうなることは決定していたのかもしれない。宿命論を振りかざすつもりはないが、一つ一つ要素を拾えばこうなってしまうのは必然だった。

 

 彼の特別を目指すことすらしなかった私には、お似合いの結末だろうか。

 

 

 

 

 

 あの日以来ドクターは執務室を訪れていない。

 強いショックを受けていたらしい彼女は鬱病と診断された。あの日までその兆候がなかったわけでもないが、摩耗していた精神が最後の砦を明け渡してしまったのは、やはりヴイーヴルの彼によるところが大きい。

 そうは言っても彼が責められることはない。貧困に喘ぐ人々をレストランに連れていったところで騒ぎ立てる者はいない。結果、彼らが生活水準に耐えられず罪を犯してしまったとして、それは彼のせいではない。

 事前に予防すべきだった者がいる以上、彼らの怠慢を指摘せずにどうして彼を責められるだろうか。

 

 

 ──それに。

 

 

 コンコン、とノックの音が響いた。

 入ってきたのは激務に忙殺されているはずのアーミヤだった。ドクターが機能しない今、ロドスは救出作戦より前の業務形態に戻ろうとしていたが、想定内ながらもキャパシティオーバーの一歩手前だったはずだ。

 勿論ケルシーはそれに協力していたのだが、元より過重労働を重ねていた身。このような忙しさは慣れっこでアーミヤより比較的ダメージが少ない。

 

「お仕事は如何ですか」

 

 よいしょ、とアーミヤが声を出す。ケルシーは早速積み上がった報告書やらに目を通し始めた。

 

「君が見通した現在は正に閾値の手前と言えば語弊もないだろう。極小単位が一つでも加えられたなら多くの要因を伴い瓦解が始まる。最も警戒すべきでありながら、無駄に終わる可能性もまた最も高い」

 

「分かっています。ドクターがそうしていたように、今の私たちには成功を積み重ね続ける必要がある。解決するための準備は未だ進みませんが、そう遠くないうちには……」

 

 ばさ、と紙束が放り出されたように机の上へと落ちる。

 

「アーミヤ、君の助力は不要だ。私が彼をその気にさせて見せよう。不幸こそ積み重なったが、これは元より私が撒いた種なのだから」

 

「私は反対です。ケルシー先生のことは信頼していますが、実績から見て彼とのより良い関係を期待することは出来ません。ロドス全体を揺らがす判断として私は許容できません」

 

 当然の反応だった。ケルシーはアビスを約三年間担当した医師であるが、今の彼にケルシーへの信頼はない。事実上はドクターと同様、絶縁を望まれていると言っても過言ではないだろう。

 しかしケルシーはそんな反論を真正面から否定してみせる。

 

「冷静になるといい。君は彼の熱に当てられ、その印象を過剰に深めて考えている。彼のことを知った気で接する者など私より余程度し難いということは、君自身もまた知る所だろう?」

 

「勿論ケルシー先生は不可欠です。しかし、実際に説得すべき人がケルシー先生であるという言葉には反対です。拘る理由は分かりますが、アビスさんがただの一患者である時期は過ぎてしまいました」

 

 食い下がろうと口を開く。

 しかし毅然とした若きCEOの目に、とうとう何も話さず口を閉じた。

 

「つきましては、ケルシー先生。ドクターの看護をお願いします」

 

「幾つかプランは用意している。しかし彼女の精神は既に月並みな療法が効果を及ぼす域を脱してしまった。そして耗弱とは別の問題もまた引き起こされている」

 

 アーミヤは大きく頷いた。

 

「例え彼女の精神を保護できたとして、身体的な衰弱を避けられない可能性があることは理解しています。全てはケルシー先生ではなく、私の手に委ねられている」

 

 決意などとうに定まっている。まだ幼いウサギが持つ覚悟は誰にも引けを取らないだろう。

 

「どうにかしてみせます。これがドクターやアビスさんを救うための、最後の機会かもしれませんから」

 

 ロドスは全ての人を救えはしない。

 それならば、掬い取った命は最後まで守りたい。

 アーミヤの目には手遅れの感染者など映っていない。その目にはただそこにある現実と、それを変えるための意思だけだ。

 

「手始めに近しい人から色々と伺いたいので、スケジュールに少し手を入れておきました。後でご確認くださいね」

 

「ああ、目を通しておく」

 

 ケルシーの返答に満足したアーミヤは時計を確認して、その針の位置に声をあげて驚いた。どうやら多忙の身であることをすっかり忘れていたらしい。

 勢いよく飛び出して行ったアーミヤの背中を頭の中に留めながらケルシーはカップに手を伸ばす。

 

「む」

 

 円を描くように少量のコーヒーが溜まっていて、傾けても幾つか滴が垂れるだけに終わるだろう。

 カフェインの過剰摂取は毒となる。

 ケルシーはポットから白湯を注いでちびちびと飲み始めた。

 

 脳内に描かれているのはアーミヤとドクター、そして件の彼だ。

 彼はアーミヤがどうにかするだろう、あの青年は自己中心的且つ排他的で頑固者だが、それ故に一度引き出された好感情を素直に抱え込む癖がある。

 好感度が全くのニュートラルである存在を上手く使えば付け込むこと自体は容易い。

 

 そしてケルシーの管轄であるドクターであるが、手配は抜かりない。

 そしてそれを行ったケルシーの感情はまるで凪いだ水面のようだった。

 

 彼から好感を得るために殺そうとした──ことそれに関して、ケルシーがドクターを許すことはないだろう。

 

 だがその制裁は降った。

 

「良い気味だ。胸が()くような心地だ」

 

 背もたれにより一層の体重をかける。目が天井を真っ直ぐに見遣り、突き出した右腕が視界に映る。

 部屋を照らす色褪せた青の源石灯。

 

 『それに』の先を彼女は吐き出した。

 

 あの会議中に爆発したのはストレスの管理がなっていなかったせいだ。極めて個人的な理由で相手の余地を許さず追い込むように憤怒した、それは自身の過失と言って相違ない。

 どれだけ正当性のある怒りだろうと個人的なものだ。虐められていたり下に見られていたり過去の確執があったり、そういったことをあの場で言うべきではなかった。

 

 だから、いっそのこと耐えられない言葉は独白してしまおう。そうした結論に落とし込んだ。それがケルシーなりの結論だった。

 

『お前が、お前たちが私をッ!』

 

 くすりと笑いかけてしまった。

 ああ、どうにも滑稽ではないか。態々叩き起こされたと思えば災禍の中で命の危険を潜らされ、ようやく見つけた信頼できる相手は重篤患者で更には嫌われている。

 

 喜劇だろう。

 

 彼女の生涯を言葉にするだけで込み上げてくる。噴き出しそうになる。そうしてケルシーは己の不満を消し去った。

 

 腰を上げて、愚かな少女の心をケアするため、ケルシーは足を踏み出す。その顔がどのような感情で染まっているのか、ケルシー自身すら把握できていないままに。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七章 巧言令色鮮し仁
百二 先即制人(先んずれば即ち人を制す)


 

 

 丹青(たんせい)とは即ち丹砂(たんしゃ)青雘(せいわく)。赤と青の顔料を示し、絵の基本であるその二色は豊かな色彩へと転じて、更には絵具や絵画までも意味に含む。

 そんなことを教養のない若者が知るはずもなく。

 

「ああ、今忙しいから後でもいいかな」

 

 ケルシーの指示により、秘書業務を中断されてからしばらくのこと。ライサとの訓練を終え、Wを連れ立って執務室を訪れたあの日のことだ。

 これは執務室を占拠していたシーに引っ張り込まれて、これから丹青に招くのだと言われたアビスの言葉だった。彼の顔には分かりやすく面倒くさいと書かれている。

 ドクターやらケルシーやらのことがあって忙しくなることは真実だったが、決してそれを意図して言ったわけではない。アビスは有耶無耶になるだろうと期待していただけだ。

 

 そうなるだろうと半ば理解していたシーは土を剣先でつつきながら「分かったわよ」と拗ねた。掘り起こされた土が小指の先ほどの高さにまで積もる。

 それにしてもいつから執務室の中はこんなにも自然溢れる解放的な空間になっていたのか。見渡す限り広がる森林、ちょうど執務室ほどの大きさであるギャップ。休憩室の扉と廊下の扉が場違いだ。

 

「一段落したら行くよ、きっと」

 

 何だったら既に丹青の中なのだが。

 帰さないように細工することは余りにも簡単だ。数十年だって過ごさせることが可能だ。とっくに手中なのだから。

 だがそんな監禁に何の意味があるのか、とシーは空に投げかける。ただ生きていることだけを願うならケルシーがとっくに実行しているだろう。それが可能なだけの力が彼女にはあるのだから。

 

 曖昧に誤魔化したアビスへと怒りが湧くことはない。想定されていた答えで、それに納得していた。彼が一番に大切を感じるのは自分ではないのだと理解していたからだ。

 二人は親しい。浮ついた関係こそないが、友人と呼べる関係にあった。

 

「だから嫌なのよ」

 

 筆から落ちた墨が溶けるように土へ染み込んで、すぐにドアが開いた。緋色の目が隙間から覗いて見えている。

 

「だから嫌だったのよ」

 

 シーは落ち着き払った様子で外に向かう。

 代わりに入ってきたナインもまた彼女を訝しむように見えていたが、アビスは心の色を理解していた。

 

 ドアが閉じると、瞬きのうちに執務室は元の姿を取り戻した。そして待っていたと言わんばかりのドクターが休憩室を転がり出て猛スピードで突進した。シーに目を向けていた彼はいつになく鈍い反応で巴投げを決め、矮躯が宙を舞った。

 

 

 それが最後だった。

 それを最後にシーはあの通路から消えた。

 

 

 ただ一つ、風変わりした扉を残して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロドスに着任してから暫くして、ケルシー(づて)にとある無職の話を聞いた。それから更に暫くして、アビスが気に入っていた通路の中に扉が描かれた。

 

「誰だよ、お前」

 

「誰だっていいでしょう?」

 

 今より幾分か子どもらしかった──まだ敬語を使えなかった──彼は刺々しい雰囲気だった。手の中でクルクルと回るナイフが鈍色に輝いている。

 対するは今より幾許か人間嫌いな様子のシーだ。興味どころか視線すらくれてやることもなく、()慳貪(けんどん)な彼より余程無愛想な態度だった。

 

 何故だろうか、彼はそれが少し心地良かった。

 突き刺さるような剣呑さに溢れていた。しかし目を凝らしてみれば、それが自分に向けられた針ではないことをよく理解できた。

 孤独であろうとする恣意的な無関心は、自身を守ろうと四苦八苦する彼にとって甘美なものに思えたのだろう。

 

 それから彼専用の場所だった通路が共用スペースとなり、扉が開く頻度は徐々に増えていった。

 追い払いたがるシーの言葉をそよと受け流してはトゲで返していた。アビスの態度が見かけだけではないことをシーが悟る頃には、通路が静寂を取り戻していた。

 

 

 それからは互いが互いの日々に入り込んでいた。

 アビスはシーを毎日のように見かけては、こちらに話しかけず、また話しかけられたいと思ってもいないシーの存在を許容していた。

 シーはアビスを——画の中で過ごした時間を含めて——一週間に一度くらいは見ていたし、少しずつ余所余所しい雰囲気の外郭を纏わせていく彼に月日を感じた。

 

 時折、助言をするようになった。

 余りにも稚拙なアーツを見咎め、シーは仕方なく口を開いた。馬鹿にするような言葉が出てしまってすぐに後悔したのだが、アビスは然して気にしていなかった。

 彼が練習していたのは熱を操作するものだった。しかしその身に残る源石の痕跡は、彼が持つ特大の素養を高々と示していた。

 アーツ反応を繰り返し検知していたPRTSから注意が入るまでの時間は、シーが彼のアーツを理解するに十分なものだった。

 

 彼が敬語が使えるようになってすぐ、シーは三日ほど姿が見えなかった。それで毒を抜いたつもりだった。心を侵す劇毒の汚れを落としたつもりになっていた。

 どうやら手遅れだったらしい。

 毒に気付いたのは初期症状があってこそのこと。一抹の寂しさを覚えたことで、シーはようやく彼の存在が毒になりつつあることを知った。

 

 静寂が戻る。シーはそれ以上彼に肩入れすることを選べなかった。だからと言って姿を消してしまえば、毒の存在をハッキリと認めてしまうようで嫌だった。

 彼が居なくなったところで、まだ、大丈夫だ。そう言い聞かせて、そのまま動かさないことを選んだのだった。

 

 第一章(少し前のこと)。アビスから向けられた殺意は心地よかった。彼にとって自分がそう大きな存在ではないと突き放してくれたから、シーは彼の味方になることができた。彼が引いたからこそ踏み出すことができた。

 アーツが繋いだ悲しみや恐怖をシーは恐れた。彼のアーツは卑怯だ。自分から歩み寄ろうとせず、しかし他者に歩み寄ることを強制する。それがシーにとってどれだけ鋭利な刃だったかは推して知るべきだろう。

 だが、それを理由に拒絶することはもはや出来なかった。とっくに答えは出ていたのだろう、毒は既に回りきっているのだと。

 

 嫌い合う。それは変わらなかった。

 アビスが望んでいたのは己の過去を共有出来るような友人ではなく、己以外のどこかを向いている存在だと理解していたからだ。興味や関心などは要らない。

 そのうち、シーは新しい立ち位置に足を進めた。アビスから近寄ることがないと分かっていたから、シーは利己的な考えを基にスタンスを変えた。彼のことを知りたいかではなく、彼を自分がどう扱いたいかで向き合い方を決めたのだ。

 例えるならば、「ありがとう」を告げる理由が、何かをしてくれたからではなく、感謝する気持ちがあるからというものに変わった、というような話だ。

 相手は関係ない。それは傲慢で身勝手で、更には強く利己的でありながら、ある種の清廉とした潔さがあった。

 

 

 

 ——絆されてしまった後悔はある。

 

 

 

 白の世界に黒を描けば色が追いついてゆく。

 振り翳した筆の流れに水が埋まり、振り抜いた筆先の輪郭に地が従う。天に垂らした墨は広がり天蓋となる。色付く森羅万象は無限の額縁に飾られている。

 

 風の(そよ)ぎを感じたところで、どこかの扉が開いたような気がした。

 思わず手を止め振り返る。

 もしや鬱陶しいまでに面倒見のいい兄が訪れたのだろうか、それともオペレーターとして駆り出すために誰かが遣わされたのか。

 

 若しくは、彼が来たか。

 

 涼風は止まっていた。どうやら気のせいに過ぎなかったらしい。集中できていないのだろう、彼がそう早くにこの世界を訪れることなどないと分かっているのに、僅かな期待を寄せている。

 面倒くさいやり方を選んだと自覚している。だが、彼はそのようなことを気にするほど大人ではない。受動的と言えば正しいだろうか、彼は与えられた利益や害を勘定し、それ以外の部分はどうでもいいと思っている。

 面倒だと言いつつドクターの秘書として収まっていたのはそのせいだ。今頃どうなっているかは分からないが、ケルシーに引き離されればそれを受容するだろう。

 

 彼の行動原理に最も強く根付いているのは、変わりたくないという考え方なのだろう。変わりたくないから他者の干渉を拒絶していたのが最近までの彼であり、過去を暴かれたことで守るべきものが根幹の部分だけになった。

 

「——だから。——が理由だった。……人を食ったような押し付けは嫌いなのよ」

 

 論理。合理。辻褄。

 一概には正しいのだろうと理解している。ただ、それだけで何もかもが決定付けられるといった考え方は酷く傲慢だろう。

 因果という概念は正しさを証明できない。それ以外の全てを排除するに足るほどの根拠がない。何故ならばそれが一見して自明のことであり、そして大前提であるからだ。それがあると仮定して推し進めた考えがそれを否定するわけもないだろう。

 

 彼の来訪はいつになるだろうか。

 

 天蓋から墨が垂れてくる。虚空にぶつかるような挙動で青雲や大山が描かれた。扉のようなものが現れて、しかしすぐに溶けて消えた。

 筆の運びを誤った。どうせ彼がすぐに訪れることもないだろうから作るのは後でいい。そう思って中空のドアに上塗りを重ねたのだが、少しだけ、思い直して空を仰ぐ。

 

「来るかもしれない、わね。もしかしたら。どうせ来ないでしょうけど、念のために……」

 

 筆を動かす。入口はこんなものでいいだろう。いや、こんなものだからこそいいのだろう。

 いつもより数段豪華な扉から離れ、森の奥へと足を踏み出す。彼が来たならすぐ分かるようになっている。それまでの膨大な時間を八方全てに同じ風景が映る森の中で過ごすのは余りに忍びない。

 

 それに、一度捕まえたならそうそう離すつもりはない。酩酊に似た毒が回っているのなら、良い気分を味わわなければむしろ損だろう。

 

 

 シーは豊かな世界を眺めて深く息をつく。

 墨などよりもっと黒く深い何かがその世界を塗りつぶすまで、あと少しということも知らずに。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

百三 不和不同(和せず同ぜず)蟷螂之斧(蟷螂の斧)

 

 

 騒がしい会議を経て仕事から解放されたアビス。それはそれは素晴らしい毎日が待っているものとばかり思っていたが、大きな問題が一つ立ちはだかっていた。

 

 退屈である。

 

 同居者や仲の良い友人は任務や勉強に励んでおり、時たま訪れるLancet-2は小言こそ言うものの友人のような関係ではない。そして何より彼女もまた任務に引っ張りだこだ。

 庭園を訪れようにもフロストリーフと会ってしまうかもしれないと気が進まない。ケルシーの差金ではないかという疑念が半ば確信となって彼の頭に巣食っていた。

 

 そうした熟考の下訪れたあの通路は風変わりしていた。

 閉じられた扉は普段よりどこか豪奢な装飾が施されており、その作者はどこにも見当たらない。

 何故だろうかと更なる考えを巡らせると、あの閉じられた執務室での会話が思い起こされた。丹青に招くなどと言っていた。

 

 さてはて、どうしたことだろうか。

 アビスはシーの面倒さと退屈を天秤にかけた。ここ最近の彼女はよく分からない挙動をすることが多く少し気がかりだと思い、僅かな錘が退屈さに加えられた。

 その日は面倒な思いの勝利だったが、翌日に訪れても彼女の姿が確認できなかったため、彼は扉を開くことに決めた。

 

「それで、どうしてここに居るんですか」

 

 アビスは傍の存在に問いかけた。特に何かしているわけでもないのに強い圧を纏っている彼女は、彼が師と慕うサリアだった。

 

「用がある」

 

「シーに、ですか?」

 

「ああ」

 

 アビスは特段興味もなく相槌を打った。任務か何かで外に引き出すとか、そういった具合のことだろうと推察できる。サリアの動向に関してそれ以上の疑問はない。

 

「……そっちは?」

 

「別に理由なんてどうでもいいでしょう?」

 

「Wがシーに近付くのは不安でしかないんだけど。どうせ空気悪くなるだけなんだから引っ込んでれば?」

 

「辛辣ね。酷いじゃないの」

 

 Wが肩を組もうとしてサリアに制される。睨みを効かせる——実際はただじっと見つめているだけ——サリアに怯むことはなかったが、舌打ちをして肩を竦めた。

 

「保護者でもないのに出しゃばりね。尊敬しちゃうわ、アホらしくって」

 

「アビス」

 

「ボクから近付いたことはありません」

 

「あらあら、過保護が過ぎれば子供の考えは歪むばかりよ?」

 

 サリアは不快そうに眉を顰めたが、最後には鼻を鳴らすだけに終わった。その様子の何が面白いのか、Wはケラケラと笑っている。

 

「ラユーシャはまあいいか」

 

 相変わらず引っ付いているライサは無視されるようだ。一言たりとも話さず、そして一秒たりとて離れない心意気がアビスに打ち勝ったのだろう。

 

「あんたはどうして会いに行くわけ? 風向きがどう変わったらあんなのに会いに行こうなんて思えるのかしら?」

 

「あんなのって……」

 

「まさか鉱石病から逃げるために頼る、だなんて自家撞着は言わないわよねぇ? あの利口を気取った臆病者に会う目的はどこにあるのよ」

 

 Wの思惑は分からないが、シーを馬鹿にしていることだけは理解した。それが諍いにならなかったのは単にシーの人柄だろう。「まあだいたい合ってるか」と思われてしまった時点でシーの負けだ。完膚なきまでに。

 率直に友人だから絡みに来たと言っても拗れるだけだろう。それが分かっているアビスは適当な言葉で濁しながらWを追い払った。

 

 さて、とアビスが向き直る。

 

「全く気味が悪い力ね」

 

「否定出来ないな」

 

 薄っぺらな扉は容易く開いた。奥へと続く暗闇がどこまで広がっているのか、見ることはできない。

 あの世界を訪れるに当たって、アビスとサリアの二人はこれで二度目になる。姉妹喧嘩を繰り広げていたあの日にしか訪れたことはなかったのだ。一応は勝手を理解していて、シーに一番近いアビスが先に行く。

 

 がっちりと掴んでいた手を外されたライサだが、全く意にも介していないような素振りで暗闇へと身を投じた。

 

「わっ、ちょっ、ラユーシャ!?」

 

 どうやら第三の目でも持っていたらしい。そして拘束は継続して行われるようだ。Wはそれに僅かながら不機嫌な顔を浮かべた後、隣に視線をやる。

 

「先に行け」

 

「何よ、ビビってるのかしら?」

 

「アビスに興味があると言うのならさっさと行け」

 

「いいえ、興味なんかじゃないわ。これ以上知るのはむしろ蛇足ってモノよ。野暮なこと言うのね、カタブツさん?」

 

「……」

 

「アビスの世話を焼きに来たなら御愁傷サマねぇ、だってあんたに出来ることなんて一つも残ってないわ。その凝り固まった脳味噌に人との関わり方を詰め込んでから出直すのはどうかしら?」

 

 仕方なく、サリアはWの背中を蹴り飛ばしてドアにシュートした。壁の穴に上半身が埋まっている様子はどことなく卑猥な絵面だったが、続くサリアの足がパァン!と快音を響かせ、完全に暗闇へと押し込んだ。

 肉弾戦においてサリアを超えられる存在は居るのだろうか。アビスはその暫定的な答えを知っている。何故なら訓練のたびにそれを思い知っていたからだ。

 

 横穴のように見えていた暗闇の輪郭は、しかしそうではなかったらしい。進むにつれて空間は広がっていった。頭をぶつけることもなく、狭苦しく感じることもない。全くの暗がりは伸ばされた手を無言で受け入れていた。

 

 そう経たないうちに認識が捩れる。

 意識だけが取り残され、何の感覚も得られないままに一瞬の時が過ぎていく。

 水面から顔を出す時の感覚に似ている。向こう側をハッキリとは映さない水面で視界がいっぱいになり、次の瞬間には青々とした鮮やかな世界に帰ってくる。

 

 ライサは照りつける陽光に目が眩んだ。

 全てが消失したような世界から突然に光を感じたのだから、それも仕方がないだろう。僅かに水の流れる音さえ聞こえてくるような景色は余りにも彩度が高い。

 

 次にライサが起こした行動は掴んでいたはずの彼を探すことだった。

 

 

 

 ——断裂。

 

 

 

 閃光がライサの脳に直撃する。黒とオレンジがスノーノイズのように入り混じっては光っていた。キラキラと迸る奔流は何秒か経ってもしつこく滞留していた。

 

 ライサは頭を振って追い出した。

 それよりも彼だろうと前を向く。

 

「……アビス?」

 

 口以外の全機能が停止したようだった。譫言のように彼の名前を呼んだきり、ライサは瞬きすら忘れて呆然とした。

 

 アビスとWの二人が土の上で横たわっていた。

 くたっと倒れた様子がまるで命を失った人形のようで、最悪の可能性すら浮かんでいた。冗談のようで全く冗談になっていない景色を前に動けなくなった。

 

「アビス。聞こえるか」

 

 サリアが肩を叩いて呼びかける。

 呼吸と拍動を順に確認し、小さく安堵した。

 

「外傷はない。鉱石病(オリパシー)の急性症状か、或いは他の発作か……」

 

 Wの方を確認する。全く同じように、心臓や肺は動きを止めていなかった。ただ眠っているだけのように見えるのは奇妙な話だが、同時に二人となれば確実に原因があることを推察できる。

 

「恐らくはこの世界が原因だろう。以前にはそのようなことを確認できなかったのだが」

 

 いつかと同じく自然溢れる森の中。

 体感では外の世界と変わった部分はない。

 

「ああそう、そっか、そういうことしちゃうんだ」

 

 まだ故意と決まったわけではない。しかし断定を遅らせるには、二人はシーに関して無知だった。シーとアビスの関係もまた正確に理解できているとは言いがたい。

 この場にエイプリルが居たのならまた別の結果を招いていたのだろうが、生憎と彼女は仕事中だ。最も近しいアビスはそこで寝ている。

 

 アビスを回復体位にしていたサリアが気付く。近くの木の北側、地面に途切れてこそいるが靴裏の模様が象られている。

 

「……これ、足跡?」

 

 サリアの視線に気付いたライサもまた、それを認識する。注視してようやく、足跡のような何かが薄らと浮かび上がってくるような気がする、といった具合の微かな痕跡だった。

 しかしサリアにとってそうではない。

 

「爪先にかけて不自然な途切れ方をしている」

 

 知識とは武器である。

 明晰な頭脳に蓄えられた知識は正しくその道を支えるものだった。サリアは幾重にも掛けられた英明のレンズを使いこなしていた。

 

「炎国の伝統的なブーツが作る足跡と似ている。晴天続きだとしたなら……」

 

「これを辿っていって先に居たヤツを殺せばいいってことね。簡単じゃん」

 

 結論を急ぐライサに否定が唱えられることはなかった。僅かに目を細めたものの、その結論は正しく導き出されるべきものだったため異議はない。勿論暫定的な結論ではあるが。

 アビスをここに置いておくわけにはいかないだろう。少し鍛えられているとは言えライサが背負うのは無理だろう。意識のない人体を背負うことは意識がある時より非常に難しいため、今のライサには不可能だった。

 

 サリアが二人を担ぎ上げた。

 

「……軽いな」

 

 身長は確かに低い。それにしても軽いのは間違いなく鉱石病が原因だ。彼の食事は圧倒的に糖分や脂肪分が削ぎ落とされていて、カロリーが最小限だ。

 あくまで缶詰などの補助食糧として考案されたものだったそれを改造してあるのだから、必要最低限のエネルギーしか摂取できない。

 自ずと彼の体は軽くなった。

 

 ライサでは持つことが出来るだろうか。サリアは少しの間考えたが、どちらにせよ二人とも担いでいた方が体力の消費が抑えられるだろうと思い直した。

 

 この世界に訪れた理由を果たす。

 

 それは彼が抱える精神の桎梏を外すこと。彼を死に追いやる何かの正体を突き止めること。彼の首を絞める何者かを成敗すること。

 

 歩いていると傾斜が大きくなっていった。

 森の範疇を超え、山に登っているようだった。この程度なら何度も訓練したことがある二人はスイスイと足跡を辿っていく。

 途中から足跡は鉤爪を持った未知のモノに変わっていた。以前小自在を見ていたこともあって、サリアは惑うことなく歩を進めた。

 

 急勾配を抜ければがらりと変わった。

 平野に近い水平な地面に少し遠くで流れている小川。更に遠くには小さな古屋の屋根が見えていた。

 

 足跡は雑草に紛れていた。

 視線は真っ直ぐに向いていた。

 

 ざく、ざく、と繰り返される音。

 小屋の近くは砂利が敷いてあるらしい。

 人を意識しているのだとすれば、中々に珍しい配慮だと言えるだろう。シーを知らない二人にとっては事実以上のことではないのだが。

 

「珍しい来客ね」

 

 シーは近くの木陰から姿を現した。

 何をしていたのかは想像に難くない。それは抱えられた筆と巻物がその全てを表しているからだ。

 

 「取り敢えず斬るか」と考えて飛び出そうとしたライサは手で制される。タイミングを考えたならシーが最も疑わしい位置にいることは確かなのだが、それを絶対とするほど蒙昧ではない。

 

「一つ聞きたいことがある。アビスから意識を奪ったのはお前か?」

 

「さあ、記憶にないわ。寝かせたいなら中のベッドを使いなさい。でもそっちの間抜けなサルカズはお断りよ」

 

「ここに来てすぐ、ってか入ったと同時にアビスは倒れたんだけど。お前と無関係だって証拠はないの?」

 

「荒唐無稽とでも反駁すればあなたの気が済むのかしら? 自分のご機嫌取りくらい自分でやりなさいな。巻き込まれるのは御免よ」

 

 それがシーによるものでないと証明することは不可能だ。その反対もまた然り。それならば議論は時間の無駄だろう、ということだろう。

 

 サリアは決断を先送りにしたようだ。

 小屋に入っていく彼女の背にライサは続き、力なく垂れたアビスに小さく手を伸ばした。裾のあたりを掠めて、重苦しい何かが胸を埋めて、それだけに終わっていた。

 

 何も言い返すことはできないだろう。

 ライサが自分勝手に動いている、というのは斜に構えた見方だ。しかし結果としてライサの働きはそう上手く行ったことがない。

 根本的な何かが間違っているのだろうと、変わらなくてはいけないのだろうと、曖昧な焦燥だけが心に棲みついていた。

 

「ねえ、シー」

 

「……何よ?」

 

「アビスの鉱石病は何とかできないの?」

 

 描いたモノを現実にする力。

 

 シーが持つその力は眉唾物だった。アビスから話を聞くことはなかった、もとい話を拒んでいたせいで本当のモノだとは思っていなかった。

 それを目前にして、更には体験した今。

 考えれば分かるような問いすら確認しなければ落ち着けなかった。超常の力が及ぶ高さを確かめたくなってしまった。

 

 それは最も大きな地雷だった。

 

一将功成万骨枯(一将功成りて万骨枯る)。技術、それは偉大なるモノ。多くの研鑽が成し得た叡智の産物。青、取之於藍(これを藍より取りて)而青於藍(藍より青し)。氷、水為之(これを水より取りて)而寒於水(水より寒し)。理性の探究による通過点でありながら到達点の一つとして数えられるモノ」

 

 シーは筆を一つ動かした。

 瞬く間に完成した絵は時間を費やしたそれに及ぶべくもないが、しかしその洗練された技術はまるで実体を感じさせるようだった。

 

「私は確かに超常の力を持っているのでしょうね。でも、そんなものは画用紙に線を引くよりずっと浅い力よ」

 

 シーは自身の力を誇らない。

 

 何も出来やしないその力は、多くの人々を虜にしたその技術と比べてしまえばまるで月と鼈の関係だろう。

 

「……あっそ」

 

 ライサはそれだけ言って俯いた。

 シーがもっと自分勝手なことを言って誤魔化していたなら、その方がずっと良かった。そうだったなら、この役立たずと全く変わらないからだ。

 

 何も出来やしない力を持つと言う。

 何も出来やしない頭と体と心を持ってしまったなら、それはどうすればいいのだろうか。聞いてしまいたいくらいだった。聞けなかった。

 

 それは自分に出来ることが何もないと断言してしまうことになるからだ。

 

 微かなアビスの吐息。

 その熱が、どこか冷たいような気がした。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

百四 画脂鏤氷(脂に画き氷に鏤む)

 
(ちりば)む——刻みつけること、宝石などを嵌め込むこと。転じて、文章に美しい言葉などを挟み込むこと。現代では後者の意味が「散りばめる」として使われている。
 


 

 

 

 春の陽気に包まれていたはずの世界に雪が降っていた。不思議と家屋の中に居ると寒さは感じられず、雪の重量に軋む天井の音さえ聞こえなければ快適な空間だった。

 

「カミサマが居るのなら、私は嫌いよ」

 

 独り言ではないのだろう。

 シーは眠りこける彼に語りかけていた。

 

「ずっと同じ展開ばかりでとうに飽きたわ。道半ばから引き摺り下ろすしか能がないなら、ニェンに任せた方がまだマシね」

 

 窓の隙間から雪が少し降り込んできた。

 それを愛おしげに眺めるシーの瞳は、先ほどまで横たわる彼に向けていたものと変わらない。

 

 床に触れて、消えた。

 雪は雪である。しかし雪である前に描かれた絵なのだから、それは画餅に変わらない。絵は見ることでしか味わえない。床板に染みるほどの力は持ち得ない。

 

 彼の生涯もそうなのだろうか。全くの無駄で、無意味で、ただの自己満足に終わる人生なのだろうか。恐らく誰かの記憶に残るだろう、色鮮やかな黒薔薇を咲かせるだろう、そしてそれきり枯れ落ちるのだろうか。

 

「ねえ、アビス」

 

 シーが手を伸ばす。

 そこにいる体へと届きはしても、本当の意味ではその手が何の効力も持たないと知っていながらに、シーは手を伸ばしていた。

 

「私はきっと……」

 

「ヘイコミュ障何やってんのー?」

 

 盛大な音を立てて引き戸を開き、そして雰囲気を粉砕するセリフと共にシーの頭を すぱこーん! と叩いた。

 

「ねえ何やってんのー?」

 

 ライサは笑顔だった。それはそれは非常にかわいらしく引き攣った満面の笑みだった。不思議な力で追い出され、アビスの身を案じて雪山を全力で走り回った執着の到達点だった。

 

「寒いわよ。戸を閉めてちょうだい」

 

「はいはいごめんねそれで何やってんのかなって聞いてるんだけどさー!」

 

 ダァン! と大きな音が出る。

 シーは呆れ返った顔でライサを宥めた。

 

「私が何をしていたか、なんて見れば分かるでしょう? ただの看病よ」

 

「そんなわけないでしょ」

 

 すんとした様子で冷淡に否定した。シーはちょっぴりライサのことが苦手になっていた。分かりやすく真っ直ぐで微笑ましいとさえ思っていたのだが、どうやら敵視した相手には屈折した感情を抱くらしい。

 というかこれは屈折でいいのだろうか。捻じ曲がっただけでこんなモンスターが出来上がるのだろうか。精神に何らかの疾患を抱えていそうだ。

 

「看病だったとして、なに? 人を追い出してまでやりたかった看病ってなに? なんなの? えっちなやつ? 殺すよ?」

 

「そんなわけないでしょう」

 

 どうやら思春期のようだった。一般論として、原因不明に眠っている相手でそのようなことをするとは考えにくいだろう。

 そのような理論を掲げた場合、ライサは普通から多少外れることになるのだが。

 

「アビスを看病してる自分に酔ってるのを格好つけてるだけならいいんだけどさ、本当にそれだけ?」

 

「私の否定に意味はあるのかしら?」

 

「あるよ。私には関係ないけど」

 

「あなたしか聞いてないんだから結局意味ないじゃないの」

 

「そうとも言うかも」

 

「そうとしか言わないわよ」

 

 シーはこのぶっ飛んだ会話のできない存在をどうすればいいのか考えた。色々考えたが対抗策は思いつかなかった。

 とは言え、この場において話題は逸れている。問答の意味を問うことで、結局何をしていたのか追求されてなくなっていた。それならば適当に返事をして取り繕えば場は収まるだろう。

 

「それで、何してたの?」

 

 訂正。逸れていたとしてもレールに戻されてしまえば打つ手ナシだ。余りにも面倒くさい事態に、シーは端整な顔を思いきり顰めた。

 

 差し当たり対応策を決める。

 

「看病したいなら好きになさい。ただし、部屋の物に触れたら承知しないわよ」

 

 それは席を立つことだった。

 

「逃げる気?」

 

 勿論それをライサは咎めるだろう。アビスがこうなった第一容疑者である事実は未だ覆らず、剰え二人だけの時間を作っていたのだから問い詰める以外の手はない。

 

「私をどうしたいのかハッキリさせてちょうだい。アビスから離れさせたいのなら、今のあなたは相当に間抜けな見落としをしているわ」

 

 ライサが言葉に詰まったのを見て、シーはどこからか筆を持ち上げた。

 

「ここは私の領域よ。好き勝手するのなら、せめてどれだけ絶望的な不利があるのか知ってみてはどうかしら?」

 

 先刻の再現は何度でも起こせる。この世界に居る限りは一部の例外を除いて全てがシーの支配下に置かれている。

 だからこそ疑いの目は集中するのだが、意に介さないのなら微風(そよかぜ)と相違ないだろう。つまりシーのような引きこもりにはノーダメージだ。

 

「……今、何だかとても不躾な評価をされたような気がするけど。(そも)、私の領域に軽々しく入ってきたあなたたちが悪いのよ」

 

「へえ、そう。それなら私がお前を斬ったって、この世界が害を与えるから悪いんだって納得するんだよね?」

 

「あら。元気で微笑ましい鳴き声だけど、もう夜なのよ。吠えるなら外で吠えてちょうだい」

 

「その壊れた頭、地面に叩きつけたら治る?」

 

「私にペットを飼う趣味はないのよね」

 

 墨汁の飛沫がシーの頬に飛んだ。

 瞬時に展開された分厚い黒の防壁は刃を通したが、鼠色に染まることでそれ以上の破損を避けた。一つ蹴りを入れてその硬さを確認していると、壁から刀身が擦り抜けるように突き出てきた。

 どうやらシーの動きを阻害することはないようで、障害物としては実際の壁より使い勝手がいいのだろう。ライサは舌打ちを抑えられなかった。

 

 アーツを用いて石に含まれるであろうアルミニウムだけを引っ張ろうとして、それが無効化されていることに気付いた。石の質感ではあるが、どこまで行っても絵は描かれただけの物だ。

 墨液は煤とゼラチンで作られ、ゼラチンを理解していればやりようはあったが、残念ながらライサにそこまでの知識はない。

 

 しかしそれなら別の使い方をするまでだ。

 ライサはフィクションに登場する蜘蛛男のような挙動で天井に張り付いた。タンパク質に作用するアーツによりシーの姿勢が崩れて蹈鞴を踏む。

 その隙を狙って飛び掛かれば、シーは咄嗟に黒光する壁を作り出した。

 

 黒一色の層に突き立てたナイフ。勢い任せに抉り抜き、再生する隙すら与えずに蹴破った。液体のアーツ等が相手なら切り裂かず切り抜ける選択肢が正解だと、彼は言っていた。

 迫り来るシーの剣と打ち合って火花が散った。膂力はそこまででもないようだ。刃毀れが気になるところではあるが、頑丈なロドス製ナイフは恐らく折れることもないだろう。

 

 壁から墨の触手が伸びてくる。

 視線を前に向けたままサイドアームを追加して二つの軌跡で斬り落とした。前に飛び込むことで足に巻きつこうとした触手からの回避と攻撃を両立させる。

 

 貫くように突き出した短剣が剣の腹で弾かれた。もう片方は触手の処理に回すため追撃が出来ない。もう一手で首にでも突きつけられたのなら捨て身で振り抜いたのだが、その隙は見つからなかった。

 シーの大振りな攻撃を大きく回避する。剣から迸るように飛び散った墨が檻を形作るが、ライサは余裕を持って対処する。積み重ねた経験が第六感となってライサをサポートしていた。

 

 床がグズグズに溶けてライサの足を捕らえようと蠢く。こんなこともあろうかと彼仕込みの立体機動で壁を駆け回った。

 ばしゃりと音を立てて壁が液体に変わったものの、ライサは既に壁を強く蹴りつけ、宙へと身を投げ出していた。

 

 ナイフを大きく振り下ろしてシーの剣と鍔迫り合うが、そこでライサはより強く下に押し込み、その反動を利用してシーの頭上を一回転して飛び越えた。

 振り向きざまに振るったナイフは剣に受け止められてしまったが、余裕のない防御によりシーの胸元はガラ空きだった。

 

「はぁっ、はぁっ……クソッ……」

 

 突き立てた部分から黒ずんでいって、最終的にシーの身体は墨となって弾けた。どうやら物の見事に騙されていたらしい。

 

「これで満足したかしら? 勝ち目なんて万に一つもないのよ」

 

 死角からかけられた声。

 冷たい感触が首筋に当たっている。

 

 足元は液状化していたはずの墨が拘束具へと変わり、壁から伸びた鎖はライサのナイフにつながっていた。

 

「チッ」

 

 手放したナイフが床に沈む。

 彼女にとって今の戦闘は命のやり取りではなかったのだろう。最初から勝利を確信していた余裕が感じられた。ライサの癪に触るが、敗者が何を思ったところで意味などない。

 

「彼に危害は加えないから部屋の外で寝てなさい。明日も明後日も、彼が生きてることを保証するわよ」

 

「アビスを殺したら、今度こそ必ずお前の息の根を止めてやる」

 

「殺さないって言ってるじゃない。話を聞かないわね」

 

「ヘンなことしたらぶっ殺す」

 

 目が据わったライサを無理矢理閉め出した。

 

 ベッドの上で彼は静かな寝息を立てている。

 十分気を付けていたしライサが巻き込むこともなかったので、彼の服や顔に墨は飛んでいなかった。小さく息を吐いて安堵する。

 

 子供らしさを残した顔を撫ぜると、首元に源石が露出していることに気がついた。顔を顰め、胸の辺りを指でつつく。

 全く何をしているのか。どうしてそう死に急ぐのか。多くの不満がシーの胸中を巡っては消えていった。そんな彼のことが嫌いではなかった。

 

「ヘンなこと、ね……」

 

 アビスの服を丁寧に脱がしていく。別段そういった趣向はないのだが、引き締まった身体に指を這わせた。筋肉質な胸板をトントンと叩いてはくすりと笑った。特に意味はない。

 耳を胸元に当てる。一定のリズムで聞こえる拍動の音は妙に官能的だった。

 

 さて、とシーは筆を手に取った。

 

点睛即飛去(睛を点ぜば即ち飛び去らむ)、而我画睛即封之(我睛を画けば即ち之を封ぜむ)

 

 体の上を筆が踊る。

 墨汁が力強く線を描いては、染み込むようにして消えていく。

 

「……目を覚さないから悪いのよ」

 

 彼が意識を失い、ライサを押さえつけ、この上なく好き勝手に出来る理想的な状況が整っていた。シーの目論見は恐らく成功してしまえるのだろう。

 そう分かっていたから、シーはその顔を歪めていた。流麗に筆を走らせるその姿はどこか小さく見えるようだった。

 

 アビスが悪い。

 

 八つ当たりのようにそう愚痴を零して、シーはせっせと腕を動かしていた。これでいいのだと、何度も独り言を呟きながら。

 

 

 夜明けは遥か遠い出来事のようだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。