B.A.D. Beyond Another Darkness -Another Story- (Veruhu)
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Story 1
Prologue


――――まただ。

 

 

 また俺は真夜中に目が覚めた。

 

 だが目覚めた直後だというのに、意識ははっきりしている。それがこれの( ・ ・ ・)特徴であり、可笑しな点だ。

 

 俺は体を起こそうと力を入れた。だが途端に見えない強力な力によって、布団に押し返されてしまう。諦めず、何度も何度も体を起こそうと力を入れるが、体は言うことを聞かなかった。

 

 

――――なんで動けないんだッ! くそっ、動けッ! 動けよッ! 動けええええええええええええええええええええええええええええッ!!!!

 

 

 そう叫ぶよう脳から口に命じたが、口さえも思うように動かす事が出来ない。ただ言葉にならない不規則な呻き声が少し、口から漏れるだけだった。

 

 俺は腕も動かそうとした。しかしそれさえも叶わない。"いつもいつも"なんだというのだ! これは!

 

 もうこうなった以上、俺の身体の眼球以外、全ての部位を動かすことが出来ないのではないだろうか。

 

 恐怖のあまり、俺は必要以上に周りをぎょろぎょろと見渡した。激しく目を左右上下に動かす。その姿はまるで、処刑を前にした死刑囚の姿を思わせた。

 

 やがて天井から二つの白い手が迫ってきた。その二つの白い手はゆっくりと、まるでふわふわとした軽い雪が降りかかってくるかのように、落ちてきた。

 

 

 

 "俺はこの次に起こる事を知っている"

 

 

 

――――やめろッ! 来るなッ! 近づくなッ! 触るなぁッ! 掴むなああああああああああああああああああッ!

 

 

「うっ、ううっ、ぐっ、うっ、うううううううッ!」

 

 またしても俺の口はうまく動かなかった。ただただ虚しい呻き声が漏れる。

 

 二つの白い手は、やがて俺の首を掴んだ。その手はまるで死人のように冷たく、また"細かった"。

 

 

――――止めろっ! 止めろっ! 止めろよッ! 止めろッ! 止めてくれ! 止めてくれよおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!

 

 

 しかし無常にも、その二つの白い手には強力な力が込められた。俺の首はまるで鶏の首を絞めるかのように、意図も容易く締められる。

 

「うぐぅぅぅぅぅううううううううううッ!」

 

 虚しい呻き声が口から漏れた。だが今はそんな事などどうでもいい。このままでは"また"俺は殺されてしまう! 逃れなくては!

 

 

――――逃れろッ! 逃れろッ! 逃れたいッ! 逃れたいッ!

 

 

 だが何時までたっても体は言うことを聞かなかった。何度も何度も動くよう脳から各部位の筋肉に対し、神経を通して命令を下したが、筋肉が大きく動くことは無かった。

 

 最早俺の体は見えない強力な力によって、完全に拘束されてしまっていた。だがこんなところで死にたくない俺は、ただただ懸命に抗った。

 

 だがその抵抗も呼吸困難の所為か、だんだんと出来なくなってくる。体からは力が失われて行き、最早動くのも面倒になった。息が出来なくなった俺は、ついに意識が遠のいて行く。何度も何度も懸命に新鮮な空気を求めるが、それが出来ない。

 

 

――――苦しい……苦しい……苦しいよぉ……

 

 

 やがて視界が暗くなってきた。俺の視界から光が失われていく。

 

 その暗くなる視界のなかで俺は思った。

 

 

――――あぁ…………今日もやっぱり…………

 

 

 

 

…………俺は死ぬのか。

 

 

 

 

 そして俺はもう"何百回目にもなる死(’ ’ ’ ’ ’ ’ ’ ’ ’)"を迎えた。

 

 

Prologue 了

 

 



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Section 1

 繭墨霊能探偵事務所には、今日もチョコレートを(かじる)る音が響いていた。部屋はチョコレートの甘い香りに満たされている。空調も完全に適切な温度と湿度に維持されており、冬も夏も特に関係の無いようだった。

 

 だが僕はそんな状況下であったとしても、よほどのことが無い限り、吐き気を催すことは無かった。

 

 体が慣れてしまっているのだ。

 

 そんな自分自身に軽く嫌気が指したが、寧ろそんな状況が戻ってきて良かったと、心から安堵する自分も居た。

 

 なんといってもこの繭墨霊能探偵事務所に、僕の上司である繭墨あざかが戻ってきたのだ。僕は彼女の事が嫌いだが、この事実を嬉しく思えない筈がないだろう。

 

 繭墨は僕の机を挟んで前にあるソファーに寝転んでいる。そのソファーは実に豪華絢爛で、見える部位の骨格には金のような美しい金属が使われていた。

 

 繭墨は包み紙に包まれたチョコレートをゆっくりと取り出し、それを取り外して周りに捨てては、規則的に口に運んでいく。ある時は歯で噛み砕き、ある時はそれを舐めとって、胃に下していった。

 

 肝心のチョコレートが箱から無くなると、また机に置いてある新しいチョコレートの箱の蓋を開け、またその中にあるチョコレートを食べる。

 

 僕の給料では到底買えないだろう、いかにも高そうなチョコレートが次々と繭墨の口の中に消えていった。しかしチョコレートの包装紙だけは無くならない。繭墨の捨てたチョコレートの包装紙はだんだんと、しかし確実に繭墨の周りを埋め尽くしていく。

 

 それはまるで、チョコレートが繭墨に食べられる前に現世に残していった、形見のようにも思えた。都合のいい解釈だが、チョコレートの包装紙の掃除に疲れた僕は、そう思わざる負えなかった。いっそのことチョコレートの包装紙ごと、食べてしまってくれればいいのに。

 

 着々とチョコレートの包装紙が繭墨の周りを埋めていく。これは放っておくと、いずれ部屋中が包装紙まみれになってしまうだろう。以前もそんなことがあった。あの時の掃除には苦労をしたものだ。

 

 しかし繭墨の胃の中はどういう仕組みになっているのだろうか。彼女は人ではあるが、鬼の血の持ち主だ。小さいように見えて、実は強力な耐性を持っている胃を持っているのか。あるいは胃自体が異界へと繋がっているのか。

 

 …………一理あると思った。もしかしたら彼女の胃は異界へと繋がっている、最後の門なのかもしれない。これで僕もまた異界へと

 

「行けるはずがないじゃないか小田桐君。僕は確かに鬼の血の持ち主だけど、体の仕組みは君等の言う人と同じさ」

 

 僕の心を読んだのか、繭墨は怪訝な目をする。だから毎回僕の心を読むのは止めてほしい。このチョコレート魔人が。

 

「む、失礼だねぇ、小田桐君。僕は確かに魔人に近い存在ではあるけれど、チョコレートの魔人ではないよ」

 

 いやチョコレートを食うだけで生きていられるのだけでも、最早チョコレートの魔人そのものだと思うのだが。

 

 僕がそう思うと、繭墨は少し眉根を寄せた。しかし何も言い返さず、またその手に持っていたチョコレートを口に運んだ。

 

「…………………………今更ですけど、やっぱり繭さんが帰って来て良かったですよ。僕は貴方のいろいろな所が嫌いでしたけど、きっと好きなるところも何処かあったのだと思います」

 

 僕がこの可笑しな会話で初めて口を開くと、繭墨はピクッと眉を動かした。

 

「まあ僕もあんな世界から出ることが出来て、清々したよ。あの世界には本当に何もない。あるのはあの紅い女と、不味いチョコレートだけさ」

 

 繭墨は唇を歪めた。



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Section 2

 紅い女……。

 

 雨香は今頃どうしているだろうか。雨香は最後には自分の身を顧みず、僕と繭墨を助けてくれた。雨香の事を僕は怖かったが、それでも自分の娘として愛していた。雨香は今でもあの世界で幸せな日々を暮しているのだろうか。僕の娘で居続けることを望んだ彼女は、本当に、本当にあの選択を正しいものだと思っているだろうか。

 

 

――――否だろう。

 

 

 僕と雨香は絶対的に閉じられた異界と現世との壁にて、再開することが絶望的となってしまっていた。そんな状況下であるのにも関わらず、僕の娘であり続けることは決して好ましいことではない筈だ。

 

 雨香が本当に今幸せなのか。本当に悔いはないのか。それを確かめるまで、僕は絶対に諦めない。繭墨の言う"異界への指針"を見つけるまで、僕は模索し続けるだろう。

 

 僕は例え他人から何と言われようとも絶対に諦めない、曲がらない、そんな一方通行な人間だった。

 

「…………と、ところで小田桐君。君は……僕のどこを好きになるっていうんだい?」

 

「えっ?」

 

 僕は一瞬、繭墨から言われた言葉の意味が分からずに聞き返した。繭墨は何故か震えながら体を起こし、ソファーに座った。そしていかにも平然を取り繕うかのようにチョコレートの包み紙を震えながら取り、中身を口に含んだ。

 

「い、いや、だからだね、小田桐君。君は僕の、どういう所を好いてくれるのかなって、そう聞いてるんだよ」

 

「どういう所と言われましても…………」

 

 繭墨の好きなところ……か。適当に言ってみたのだが、実際考えようとするとどういう所だろうか。

 

 

 

 ………………考えても考えても嫌いな所しか思いつかない。繭墨さんの好きなところを上げる事ほど、難しいことはあるのだろうか。

 

 僕は繭墨さんが嫌いだ。だが好いているところが少なからずある筈だ。それは…………

 

「美しい所、ですかね?」

 

「美しい所?」

 

 繭墨は首を傾げる。

 

「はい。まあ繭さんの唯一の取り柄というか、なんというか。まあ、つまりそういうことですよ」

 

「唯一の取り柄、ねぇ……」

 

「ははははは…………」

 

 繭墨は僕を睨んだ。僕は思わず視線を逸らすと、笑って誤魔化した。

 

「ふん、僕と君とが分かり合うのは難しそうだ。"僕はそれを望む"が、君はそれを望まないようだ。まあ勝手にするといいよ」

 

「…………えっ?」

 

 今繭墨は何と言った? 今、"分かりあうのを望む"などと言わなかったか?

 

「繭さん、今なんて……」

 

 

――ピンポーン

 

 

 僕は繭墨にその意味を問うとしたが、()しくも玄関のベルが鳴った。

 

 僕は一瞬、また陰惨な事件の解決を望む、依頼者が来たのではないかと危惧したが、今の繭墨には異界絡みの異能の力はない。

 

 よって繭墨の関係者はもう、必死になって繭墨を頼ろうとはしないだろうし、それを知らない一般の人間であったとしても、何かしら適当な理由を基に断れば良いだけの話だろう。

 

 僕は立ち上がった。もしかしたら雄介かもしれないし、白雪さんかもしれない。いや、定下の可能性もあるだろう。

 

 玄関に足早に歩いて行くと僕は何の疑いもなく、玄関のドアノブに触れる。しかしやはり警戒心が抜けきっていないのだろうか、一応僕はのぞき窓から外を覗いた。

 



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Section 3

 ドアの外には見知らぬ男が立っていた。スーツを着込み、髪はある程度整えられている。一般的な、サラリーマンや会社員を思わせた。

 

 僕は遂にこの事務所に、何かしらの販売業者でも訪ねてきたのかと怪訝に思いながら、扉を開けた。

 

「はい、お待たせしました。繭墨霊能探偵事務所に、何かご用でしょうか?」

 

 男は目を見開くと、僕を見た。男の様子に特におかしな点はない。

 

「はい。霊に関する相談をしていらっしゃると聞き及びまして、こちらに参りました」

 

 男はなかなかに礼儀正しい人間のようだ。僕はその姿を新鮮に思いながら、やはり来てしまったかと思った。

 

「なるほど。しかし今は……」

 

「小田桐君」

 

 僕は突然後ろのソファーに座る繭墨から呼ばれ、振り向いた。

 

 

「――――お通しするんだ(’ ’ ’ ’ ’ ’ ’)

 

 

 繭墨はそういうと唇を歪めた。

 

「しかし繭さん、貴方は……」

 

「僕を舐めて貰っては困るよ、小田桐君。僕は確かに、異界絡みの異能を失った。だけど、それだけじゃないか(’ ’ ’ ’ ’ ’ ’ ’ ’)。僕の血は鬼の血だ。その力は失っていないよ」

 

 繭墨は的確にしかし清々しくそう言った。

 

 確かに繭墨には鬼の血が流れている。そのお蔭で彼女は鬼の血に関係する異能を扱うことが出来るし、いわば不死身の体も持っていた。

 

 それこそ、"チョコレートしか食べなくても"生きていける体を。

 

 しかし僕はもうこれ以上、ここの平穏を脅かしては欲しくなかった。やっと皆で苦労して手に入れた平穏だ。

 

 僕は異界で死ぬつもりだったが、情けなくも自分の娘に助けられ、そして結局ここに戻ってきてしまっていた。それには沢山の仲間の尽力、協力、そして犠牲があった。

 

 戻ってきてしまった以上、僕はもうこれ以上、ここの平穏を壊したくはない。これ以上犠牲を出すのは懲り懲りだった。

 

 それにこの繭墨にもそろそろ少女らしく、綺麗に生きて行ってもらいたい。せっかく雨香が助けてくれた命だ。もうこれ以上汚して欲しくはない。

 

「……小田桐君。君の気持はうれしいよ。でも、"お通しするんだ"。……僕は君が言ったように非道な人間でしかないんだよ」

 

 繭墨はそう僕に重苦しく告げた。

 

 僕は絶望すると再度、男に向き直った。男が不思議そうな顔をする中、僕はため息をついた。

 

 最近はある程度我慢をしていたが、またたばこを吸いたいという気持ちに襲われる。だが僕はそれに耐えながら再度ため息を付く。そして覚悟を決めた僕は、掴んでいたドアをより一層大きく開いた。

 

 

「――――繭墨霊能探偵事務所にようこそ」

 

 

 男はうれしそうに笑みを浮かべる。そして僕の案内の下、事務所に入って行った。

 



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Section 4

✽       ✽       ✽

 

 

「毎晩寝るたびに首を絞められる……ですか?」

 

「はい……」

 

 男は頷いた。その男の視線は真剣そのもので、お遊び半分で依頼に来たようには見えない。

 

「毎晩毎晩、必ず真夜中に目が覚めるんです。しかし目は覚めていても、体中が金縛り状態で、動くことが出来ません。金縛りから抜け出そうと藻掻いているとやがて、天井に白い二つの手が現れます。その白い二つの手はゆっくりと降りてくると、僕の首を掴みます。それはやがて、信じられないほどの力で私の首を絞め、私は抗うことも出来ず…………毎回、死にます」

 

 男は恐怖に顔を歪め、項垂れた。

 

 この男の名前は有馬 俊彦(ありま よしひこ)。会社員だという。

 

 この事務所に珍しく訪れた依頼人だが、依頼人がまた新たに来てしまったこと自体、僕には歪に思えてならない。

 

 繭墨は有馬の話を面白そうに聞いている。久しぶりの娯楽に、彼女の暇も解消できるのだろうか。

 

「助けて下さい……。もう私一人ではどうすることも出来ないんです。ここ以外にも沢山の霊能にかかわる店を廻っては来ましたが、どれもこれも効果は無くて」

 

 有馬は再度繭墨に対して頭を下げた。繭墨はその姿を面白そうに見ながらチョコレートを齧る。

 

 

――――カッ、パキン

 

 

「――――いいだろう。その依頼、受けようじゃないか。最近依頼が無くて暇をしていたんだ。多少の暇は潰れるだろう」

 

 

 繭墨は嫌な笑みを浮かべた。僕が嫌いでも好きでもないあの表情だ。彼女はもう僕の嫌いな慈愛に満ちた微笑みは作らない。異界のあの出来事移行、繭墨はもう僕の為に僕の嫌いな(` ` ` ` ` ` ` ` `)微笑みを浮かべることはなかった。

 

「本当ですかッ? ありがとうございます! 本当にありがとうございます! いやぁ、例の繭墨さん(` ` ` ` ` `)に受けて頂けるなら、もう問題は解決したも同然です! ありがとうございます!」

 

 有馬の顔に笑みが咲いた。お礼を言うたびに頭を下げる。その有馬の姿は最早、もう異変は解決したのだと、言わんばかりだった。

 

 だが僕は有馬の姿よりも、もっと別の事を気にしていた。今、有馬は、例の繭墨さん(` ` ` ` ` `)と言葉を発した。

 

 繭墨は確かに裏では有名だが、表では特段有名でもない筈の人間だ。昔、この事務所がネットの掲示板で晒されるようなこともあった気がするが、大したものではなかった筈だ。

 

 しかし有馬は繭墨を例の(` `)と表現した。その心は一体何だ?

 

「有馬さ……」

 

「では今回はこれまでだ。悪いが僕たちには準備がある。君の家の住所を書き置いて行きたまえ。準備が終わり次第、そちらの家に直接伺うとするよ」

 

 繭墨は僕の話を遮ると、そう告げた。僕は繭墨を軽く睨みつけるが、彼女は何も反応を示さない。

 

「分かりました。そう言われるだろうと言われて(` ` ` `)おりまして、もう既に準備してあります」

 

 有馬はそういうと、ポケットから紙切れを取り出した。そしてそれを繭墨に、まるで名刺を渡すように丁寧に両手で差し出した。しかし繭墨は、それを受け取るのが面倒だというように、僕に目で合図した。

 

 僕はそれくらい自分で受け取れと、心の中で毒づく。

 

「すみません有馬さん、頂きます」

 

「あ、はい」

 

 有馬は貴方ですかというような表情をしながら、軽く会釈しつつ、僕に手渡した。



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Section 5

 

「お客人がお帰りだ。小田桐君、お見送りを頼むよ」

 

 繭墨は僕を見て、そう告げる。

 

 僕はまた溜息を付ながらその場に立った。

 

「では有馬さん、今日のところは」

 

「はい」

 

 有馬は立つと、繭墨に対して尊敬礼をした。その後、有馬は僕の誘導に従い、玄関の外に退出する。

 

 僕が玄関を閉めると、有馬は口を開いた。

 

「本日はありがとうございました。…………急かせるようで申し訳ありませんが、期日は大体、何時ごろになるでしょうか」

 

 僕は考えた。だがその答えはあっさりと出てくる。

 

「期日に関しては所長の準備次第ですが、恐らく夜に尋ねることになるかと思います」

 

「夜ですか?」

 

「はい」

 

 繭墨は恐らく有馬が夜襲われる所を、見たがっている(` ` ` ` ` ` `)だろう。でなければ彼女のやり方ではない。どうせ嵯峨 雄二郎(さが ゆうじろう)の時のように、苦しむ姿を見てはチョコレートを食べ、嫌な笑みを浮かべるのだろう。

 

「有馬さん、一応連絡先を教えて頂けますか?」

 

「あ、はい、分かりました」

 

 有馬は右ポケットから携帯電話を取り出した。僕も携帯を取り出すと赤外線機能を呼び出した。

 

 そして互いに赤外線機能を使って連絡先を記録しあう。連絡先の共有が出来ると、有馬は口を開いた。

 

「では、私の自宅に来られる際はご連絡をお願いします」

 

「はい。今日はありがとうございましたー」

 

 有馬は微笑みを浮かべながら踵を返し、事務所から去って行った。僕は有馬の背中が見えなくなるまで見送ると、携帯に新たに登録された連絡先を茫然と見る。

 

 本当にまた新たな依頼者が来てしまったのだという実感が湧いた。繭墨はもう契約を交わしている。今更後戻りはできない。だが僕の心の中には後悔と不安が渦巻いていた。

 

 本当にこのままで大丈夫なのだろうか。無理やりにでも契約を破棄するべきではないのだろうか。

 

 もうここに狐はいない。狐は猫と一緒に旅に出てしまった。紅い女も同じだ。女は異界を固く閉じてしまった。今、現世と異界は繋がっていない。

 

 異界にかかわる陰惨な事件はもう閉幕したと思っている。しかし今まで繭墨に関わってきた事件の中で、危険ではない事件は一つもなかった。安心など全くできない。

 

 僕は夢中で右ポケットを探った。そしてタバコの箱を取り出すと、中身を一本取り出そうとする。だが止めた。僕はそろそろこんな癖を治して、早くタバコから離れなければならない。もうタバコに依存するのはこりごりだ。

 

 イライラを無理やり抑えると、僕は踵を返し事務所の玄関の扉を開け、中に入った。

 

「繭さん、準備ってのは一体……」

 

 靴を脱ぎ、奥に行くとソファーの上に繭墨の姿は無かった。よく見渡すと繭墨の私室の扉が開いている。中に入ったのだろうか?

 

 この繭墨の私室は昔、繭墨の用途不明の様々な私物が、所狭しと詰め込まれていた。しかし先日、僕があさとに協力を求めた際、僕は雨香を使って繭墨本家を完璧なまでに破壊してしまった。

 

 その際、本家に移動させてあった繭墨の私物は大半が壊れ、ゴミと化してしまっている。

 

 だから今の繭墨の私室は、比較的片付いている。僕は鬱蒼(うっそう)とした部屋が片付いた事に安堵を覚えたが、当の繭墨は遠まわしに鬱積(うっせき)を漏らしてきた。だがまあ、その命と引き換えと思えば、安い筈だ。

 

 僕は私室の前まで行った。扉の前まで来ると中を覗いた。

 

「んーっ、んーっ!」

 

 繭墨がタンスの中に右手を入れ、懸命に何かを取り出そうとしている。だがその小さな身長が災いしてか、届かないようだ。

 

「はぁ…………成長しない体っていうのはやはり不便だね。…………ところで小田桐君。そんな所で笑ってないで、早く手伝ったらどうなんだい?」

 

「えっ、あぁ、はいっ!」

 

 思わず顔に出てしまっていたのだろうか。繭墨は明らかに不機嫌そうな顔をする。僕はその顔をなるべく見ないように配慮しながら、繭墨の隣に立ってタンスの中を覗いた。

 

「あの奥の黒いチョッキを取ってくれるかい?」

 

「分かりました」

 

 僕はタンスの中に右手を差し込むと、そのチョッキを掴んだ。そしてそれをハンガーから外す為、持ち上げようとする。しかしやけに重たかった。

 

「な、なんなんですかこれ。チョッキの癖になにかすごく重たいんですけど」

 

 繭墨は何時の間に取り出したのか、右手に持ったチョコレートを齧る。ナイフの形をしたそれは、刃の部分から齧られていく。そして彼女は隣に立つ僕を見上げると、口を開いた。

 

「決まっているだろう?」

――――防弾チョッキだよ



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Section 6

「チョッキのチャックを下ろしたまえ。中に防弾用のプレートが入っているから、それを抜くといい。残るのは防刃プレートさ。軽く出来るし、便利だろう?」

 

 繭墨に言われた通り、僕は防弾チョッキのチャックに手を掛けた。勢いよくそれを下ろすとチョッキの中が見えた。中には確かに防弾用と思われる厚いプレートが入っている。僕はそれを右手で掴み、引き抜いた。分厚いプレートは非常にずっしりとしていて重たかった。

 

「この国で銃に撃たれることはそうそうないから、安心していいよ。……と、言っても君は昔一度、銃に撃たれたことがあるみたいだけど、たまたまさ。それに分厚いプレートを付けたままの人間と、人前を一緒に並んで歩くのは御免さ。僕はあまり目立ちたくないんだよ」

 

 街中でゴスロリを着込み、さらに唐傘も持ち歩いて毎回毎回注目の的となる繭墨にだけは、言われたくない。

 

 しかし街中で分厚い防弾チョッキを着込んだ人間とすれ違うなど、一般人にとってみれば稀有だ。異常な人間と思われても仕方がない。

 

 僕はため息を尽き、口を開いた。

 

「…………これは、繭さんが着て下さいよ。僕は……いりません(` ` ` ` ` )

 

 繭墨は驚いたようにチョコレートを食べる手を止めた。僕を見つめると彼女は目を伏せ、軽く溜息を付く。

 

「何度も言うようだけれどね、小田桐君。僕たちにはもう昔のような強さはないだよ? 僕には鬼の血があるからまだ大丈夫さ。…………でも君はどうなんだい? 小田桐君。君はもう一度腹を刺されたとき、本当に生き残ることが出来るのかい?」

――――本当に僕が助けてくれると、そう信じているのかい?

 

 繭墨は唇を歪めながら、そう告げた。

 

「それは…………」

 

 確かにその通りだった。もう僕は繭墨の助けを大して受けられない。彼女が僕の腹を塞げていたのは、僕の子宮が異界と通じていたからだ。でも僕の腹にはもう子宮が無い。子宮は雨香と一緒に異界に取り込まれてしまった。

 

 つまりこの腹をもう一度刺されれば、適切な治療を早急に行わない限り、僕は死ぬ。それが普通の人間にはあたり前なのだが、僕にとっては異常だった。僕にはもう雨香の強力な助力を得ることも、繭墨に腹を塞いでもらうことも出来なくなってしまっていた。

 

 僕は僕自身の無力さに腹が立ち、なにかしらの物を殴りたいという気持ちに駆られる。しかしその気持ちをぐっと抑え、震える右手を左手で掴み、怒る気持ちを落ち着かせた。

 

 何故かこういう時、この左手を使うと気持ちが妙に和らいだ。やはり綾のお蔭だろうか。

 

 僕が最後に異界に入ったとき、はっきりと綾の声を聴いた。綾の姿は何処にも確認できなかったが、恐らく今もこの左手で僕の事を見守ってくれている。その思いが、恐らく僕の心を落ち着かせてくれるのだろう。

 

 繭墨はその僕の姿を見て、肩を竦める。

 

「まあいいさ。決心は君に任せるよ。僕は君に強制はしない」

――――だけど僕はただ…………君の事が心配なだけだよ。

 

 繭墨はそう言葉にした。

 

 何が心配だ。からかうのも大概にしろ。

 

 僕はそう心の中で悪態を付くと、最早防弾ではなく防刃チョッキと化したチョッキを机の上に置いた。

 

 今の繭墨でも、恐らく僕の腹が裂ければ嗤うのだろう。彼女はいつもいつも人の醜態を観覧しては嫌な笑みを浮かべ、狂気的な食欲に掻き立てられたかのように、チョコレートを齧った。

 

 繭墨あざかというのはそういう女だ。体に流れる己の血を、チョコレートの甘い味に変えてしまっている。彼女の腹を裂けば、恐らく甘い香りがするのだろう。

 

 繭墨あざかは、いつまでも人でなしだ。彼女が普通の少女のようになることは、恐らくないのだろう。



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Section 7

「君の腹にはもう子宮が無い。子宮は雨香君と一緒に、異界に取り込まれてしまった。………………僕が君の腹を塞げていたのは、君の子宮が異界と繋がっていたからだよ」

――――そう…………まるで扉のようにね。

 

 繭墨は笑みを浮かべると、再びチョコレートを齧った。

 

 僕は顔を伏せる。全身に冷や汗が流れたのが分かった。

 

 依頼なんか受けなければ良かった。無理やり有馬を追い返せばよかったと、今更後悔が頭をよぎる。

 

 だがもう後には引き返せなかった。今、有馬の依頼を拒否すると言えば、有馬は納得しないだろうし、何より繭墨が不機嫌になるだろう。

 

 俺は思いっきり息を吸い込むと、吐き出した。久しぶりに大きなため息をついた僕は、再度繭墨の顔を見る。

 

「分かりました。着ますよ、これ」

 

 繭墨は頷く。

 

「あぁ、そうするといい。実に良い判断だと、僕は思うよ」

 

 僕は再度軽い溜息をつく。

 

「さぁ、ならば早めに支度に取り掛かり給え。さっき繭墨本家の迎えの車を呼んでおいたから、もうそろそろでこちらに着く頃だよ」

 

 繭墨は右手でシッシと合図した。

 

「はい、分かりましたよ繭さん。……………ところで……何処に行く心算なんですか?」

 

 僕がそう聞くと、繭墨は猫のような笑みを浮かべる。

 

「繭墨本家の車を呼んだのだから…………場所は一つしかないだろう?」

――――繭墨本家そのものだよ。

 

 

 

 

 僕たちは繭墨本家から迎えに来た、車の車上で揺られていた。隣を見ると繭墨が頬杖を付き、外を面白くなさそうに見ている。

 

 繭墨の手は今、虚空を掴んでいた。繭墨の手には、もう紅い唐傘は無い。必要の無くなった紅い唐傘は、今や事務所の壁に立てかけられている。もうそろそろ埃も纏い始める頃だろう。

 

 その繭墨の様子は、独特の和と洋に染まっていた彼女が、やっと洋のみに固まって落ち着いてくれた、そんな感情を抱かせた。

 

 車は見たことのある経路を辿り、ゆっくりと着実に、繭墨本家へと向かっていた。しかし繭墨は本家に、何の用があるというのだろうか。

 

 

 しばらくすると車は、繭墨本家の前で止まった。と言っても、前に来たことのある繭墨本家ではない。本来の繭墨本家は、僕が雨香にとことん破壊させた。今、その本来の繭墨本家は修復工事中だ。

 

 つまり今来ている繭墨本家は、一時的に代替の本家として使用されている、別の家だ。此処を拠点に、現在の繭墨家を統括しているのだという。

 

 しかし、異界が閉ざされてしまった今、新しく紅い女の生贄となる繭墨あざかを育てる必要があるのか。僕にはそれが疑問だった。

 

 僕と繭墨は車から降りる。彼女は迷わず、本家にずかずかと上がりに行った。その出迎えに定下(さだした)と女中が出て来る。

 

「お久しぶりで御座います、あざか様。お元気そうで、何よりに御座います」

 

 定下と女中は頭を垂れた。しかし繭墨は興味が無いのか、適当に受け答えを済ませる。

 

「用件は電話で告げた通りだよ。準備が終わっているのなら、そこまで案内してもらえると有り難い」

 

「畏まりました。準備は既に終えております。さ、あざか様をご案内差し上げろ」

 

「はい、畏まりました。あざか様、こちらに御座います」

 

 女中は頭を垂れつつ、行く先を手で表した。繭墨はその女中に案内されながら、歩き始める。僕はその二人に続いた。

 

 後ろから見る繭墨の姿は、僕にとってひどく珍妙だ。繭墨あざかが肩に紅い唐傘を掲げていないというだけで、彼女のイメージはこうにも変わる物なのか。

 

 紅い唐傘を掲げた繭墨の方が様になっていたと、そう考える自分に嫌気が差すなか、繭墨は変わらず歩みを進めた。何を彼女は急いでいるというのだろうか。

 



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Section 8

 やがて僕たちはその屋敷の奥の、ある一角の和室の前に立たされた。女中が古い木の引き戸を礼儀正しく両手で開けると、繭墨は迷いもせず中に入る。僕も彼女の後に続いた。

 

 部屋に入りまず目に入ったのは、畳に置かれた三方(さんぼう)の上に綺麗に置かれている、小さな刀や鎌、祭祀の道具などだ。またその他にもなにか不気味な道具が、ずらりと並べられていた。その中には、小さな刀や鎌があり、鋭い刃を光らせている。

 

 しかもこの部屋はなにか異様に生臭い。この生臭い匂いは恐らく、血の匂いだ(` ` ` ` `)

 

「…………なんなんですか? 繭さん、これ」

 

 僕は不気味な道具等を見ながら尋ねた。繭墨は振り返ると僕を見て、唇を歪める。

 

 

呪いの道具(` ` ` ` `)だよ? 小田桐君」

 

 

 繭墨はニヤリと嗤い、そう僕に告げた。

 

「呪いの…………道具?」

 

 僕は眉を顰める。

 

「そう……呪いの道具さ。…………人に災厄(さいやく)や不幸をもたらし、時にはその(しゅ)(もっ)て人を死へと(いざな)う。呪いのね」

 

 僕は繭墨の言う、呪いの道具等を睨んだ。人を呪う為の道具だったのかと怒りが湧くが、同時に疑問を覚えた。

 

 今匂うこの血の匂いは一体何なんだ。この道具自体に染みついた匂いなのか? それともこの部屋全体に染みついた匂いなのか? どうしてここまで強い匂いが染み付いているんだ? 昔この部屋で一体、何をやったんだ?

 

 僕は繭墨に視線を戻した。彼女は特別疑問を持った様子も無く、ただ嗤っている。 

 

こんなこと(` ` ` ` `)をする為に、ここに来たんですか? 繭さん」

 

こんなこと(` ` ` ` `)をする為に、ここに来たんだよ? 小田桐君」

 

 僕たちは互いににらみ合った。だが実際、睨んでいるのは僕だけで、繭墨は小首(こくび)を傾げ、上目使いで僕を見ていた。彼女の嫌に微笑んだその顔は、異様に魅力を増している。

 

「やめて下さい、繭さん。人を呪わば穴二つです。何か別の方法を探しましょう」

 

「別の方法? …………小田桐君、君は何か勘違いをしていないかい?」

 

「え?」

 

 繭墨は眉を顰めると口を開いた。

 

「ボクがいつ他人を呪うと言ったんだい。そんな野暮な真似……ボクにはできないよ」

 

「じゃあ…………」

 

「いいかい? 小田桐君。よく聞き給え。………………この呪いの道具で、ボクが呪おうとしている人はね……」

――――この、繭墨あざか。…………自分自身なんだよ。

 

 

 

 ✽       ✽       ✽

 

 

 

 何を考えているんだ、繭墨は。

 

 あの後、僕は繭墨に部屋を追い出され、行く宛てもないまま屋敷の縁側に座り込んでいた。部屋の方を振り返って見てみると、その部屋の古い引き戸は固く閉め切られており、中の様子を窺い知ることは出来ない。

 

 自分を呪うだと? ふざけるな。

 

 僕は無性にタバコが吸いたくなり、右ポケットを(まさぐ)った。目当ての物を取り出すと箱を指で乱暴に叩き、中のタバコを叩き出した。

 

 ライターが必要だ。

 

 僕は他のポケットも弄ってライターを探した。しかし何処にも見つからない。口にタバコを咥え、両手で体中を弄ってライターを探している姿は、傍から見ればさぞ滑稽だろう。僕は吸うに吸えないタバコを咥えながら、ため息をついた。

 

「火をお探しですか?」

 

「いや…………」

 

 唐突に後ろから声を掛けられ、僕はそれを怪訝に思いながら振り向いた。振り向くと同時に、カチンというライターの蓋をあける、特有の音が響いた。そしてフリント・ホイールが回され、素早く火が点けられ、目の前に差し出される。

 

「どうぞ」

 

「…………ありがとう」

 

 定下はライターの蓋を閉じると、丁寧にポケットに仕舞った。俺はタバコの火を安定させると、煙を少しずつ肺に入れて行き、そして吐き出した。吸った煙は肺を満たし、肺を汚して血液を濁し、そして吐き出され、静かな風の流れる外界へと流れて行った。僕はその煙を眺めながら、もう一度煙を肺に入れた。



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Section 9

「本当はあざか様に、屋敷での喫煙は固く禁止されているのですが、繭墨家にとっての恩人である、小田桐殿の望まれる事です。多少の事は目を瞑りましょう」

 

 定下と話したのは、案外久しぶりかもしれない。僕はそう思いながら、口を開いた。

 

「そうか……ありがとう。だけど僕は、繭墨家の実家を破壊してるんだから、あまり気にしないで欲しい」

 

「確かに……それもそうでしたね」

 

 定下は背後で軽く笑った。僕は何故かそれも嫌に感じ、煙をまた肺に入れた。

 

「…………繭さんが今何をしようとしてるか、分かるか?」

 

 肺の中の煙を吐き出すと、僕はそう聞いた。

 

「さぁ? 分かりかねますねぇ」

 

 振り向くと定下は、屋敷の外の世界を遠くを見つめながらそう答えていた。

 

 僕はまた溜息をつくと、根本まで吸い切ったタバコを携帯灰皿の中に捨てる。タバコの煙で血が濁ったおかげか、少し苛立ちも収まった。

 

 僕は息を吐くと、再度口を開いた。

 

「…………繭さんはもう二度と、こんなことには手を染めないと思っていたんだ。だけどまたおかしな依頼者の依頼を、繭さんは受けてしまった」

 

「…………そうで御座いましたか。それは心中お察し致します。しかしながらあざか様にとっては、退屈は死に値する程の物だったのでしょう」

 

「そうだったな…………」

 

 彼女は事あるごとに、退屈だ、退屈だ、退屈で死にそうだとぼやいていた。それは時に、僕の腹が裂ければ面白いのにと呟く程の物であったが、とにかく彼女は退屈が天敵だった。

 

 彼女は暇つぶしの為ならば、恐らく自身の死さえも厭わないように思う。大体彼女は、自分が死ぬかもしれないことが分かって居ながら、暇つぶしの為に依頼を受けていた。猫のような瞳を輝かせ、嫌いな微笑みを作り、人の死を鑑賞して、チョコを齧る。それが彼女にとっての娯楽であり、暇つぶしだった。

 

 そんな彼女は明らかに異常であり、狂っている。恐らく彼女の下に居続ければ、僕は傷つき続けるのだろう。正直に言えば、もう巻き込まれるのは御免だった。

 

 それでも僕は今、此処にいる。僕は、彼女の許からは離れられなかった。

 

 理由はよく分からない。だけどそれでも僕は、彼女の隣で歩き続けていたいと、そう思うようになっていた。例え腹の中の鬼という足枷が無くなった今であっても、何故かその思いだけは変わらなかった。

 

「…………僕はもう既に、繭さんに呪われているのかもしれないな」

 

「何か言われましたか?」

 

「いや……、なんでもない」

 

 僕は首を横に振った。溜息を吐いて身体を後ろに倒し、両腕を床に付けて身体を支える。我ながら無様だと思う姿だ。

 

「そういえば、用事を思い出しました。申し訳ながら、私はこれで失礼させて頂きます」

 

「あぁ……」

 

「タバコはあざか様が出てこられるまで、ご自由にお呑みになられて構いませんので。灰皿とライターはここにおいて置きます」

 

 定下はそう言うとライターと、何時の間に持ってきていたのか灰皿を、僕の隣に丁寧に置いた。

 

「ありがとう」

 

「いえ……」

 

 定下は僕に軽い礼をすると、そのまま背を向け歩き始めた。僕は去っていく定下から目を逸らすと、まだ青く輝いている天を仰いだ。

 

 繭墨はいつになったら出てくるのか。繭墨は何を考えているのか。繭墨は今部屋で何をしているのか。僕はそのことばかりが脳内を循環し、憤怒を覚えさせて眉間に皺を寄せた。

 

 僕は新たなタバコに火を点け、煙をゆっくりと肺に入れた。汚い煙とニコチンが、肺とその血液を満たし、脳を無理やり落ち着かせる。

 

 繭さん。僕がタバコを吸うのも、元々は貴方の所為なんですよ。人が禁煙しようと努力し始めたところに、新たな問題を引き起こさないでください。

 

 僕はそう脳内で繭墨に言い付けた。

 

 青空はゆっくりと次々に雲が流れ、そして少しづつ太陽が下って行く。

 

 僕はその様をタバコを吸いながら眺め、しかし脳内では繭墨に毒づいて暇を持て余した。

 

 

 

 ✽       ✽       ✽



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Section 10

 日が暮れ辺りは暗闇に包まれた。一面闇の空には、いくつかの星々と、白く明るく光る月が昇っている。

 

 あれから繭墨は、まだ一度も部屋の外には出て来ていない。部屋と廊下とを隔てる古い木の扉は、生者を遠ざけるかのように、今も固く閉ざされたままだ。

 

 

――――タバコが吸いたい。

 

 

 僕はそう強く思った。だが、僕が喫煙している所を繭墨が目撃すれば、定下達に何かしらの罰を与えるかもしれない。だから灰皿とライターは、早めに返上しておいた。この屋敷の人たちに迷惑を掛ける事だけは避けたい。

 

 時刻は20時を回った。このまま今日中、繭墨は部屋から出てこないのではないかと不安になる。だがその不安を払拭するかのように、後ろから声を掛けられた。

 

「失礼します。小田桐様、お夕飯の支度が整いました。どうぞこちらへ……」

 

 僕に声を掛けた女中は、丁寧に方向を手で指し示す。

 

「いえ、そこまでお世話になる訳には……」

 

 僕は手で制しつつ、そう断った。

 

「申し訳ながら、これはあざか様のご指示に御座います。どうか、お召し上がりください」

 

 女中は頭を垂れる。

 

「すみません…………。では頂きます」

 

 礼も過ぎれば無礼となる。僕は縁側から立つと、女中の後に続いた。五歩ほど歩くと振り返り、繭墨の(こも)った部屋の引き戸を見る。僕がこの場から去ろうとしているこの時も、結局その引き戸が動くことは無かった。

 

 

 

 

 ✽       ✽       ✽

 

 

 

 

 座敷に置かれた机の上には、様々な酒肴が用意されていた。その酒肴はどれも豪勢で、まるで旅館に泊まっているかのように感じる。だが、その中でも特に異彩を放つ、料理とも言い難いチョコレート達が、僕を現実へと引き戻した。

 

 その中には、しっかりと火で温められる準備の整えられたチョコレートフォンデュや、名も良く分からない高級そうなチョコレート達が、可愛く綺麗に盛り付けされた皿まである。僕はそれを見ると、過去のトラウマとも言える記憶が甦り、吐き気を覚えた。自分が今現在、どのような状況に置かれているかを思い起こさせる。

 

 

 繭墨家で出される料理をいつも快く食べられないのは、繭さんの所為だ。チョコレートが出されるだけで食欲が無くなるようじゃ、僕はただのパブロフの犬じゃないか。

 

 

 僕はそう頭の中で毒づきながら、目を瞑って頭をくしゃくしゃと掻き、出来る限りは食べようと箸を伸ばした。

 

 

 

 

 ✽       ✽       ✽

 

 

 

 

 結局料理は半分も食べられなかった。僕は酒にも手は付けず、それらの事を女中に謝罪すると、元居た縁側に戻る。その戻る途中、僕は繭墨の籠った部屋の引き戸を見やった。

 

 僕が一度縁側から離れるまで、固く閉じられていたその部屋の引き戸は

 

 

 

――――――開かれていた。

 

 

 

「――――繭さんッ!」

 

 僕は咄嗟にそう叫ぶと、歩調を速めその部屋に飛び込もうとする。だがその部屋の放つ異様な空気に、思わずたじろいでしまった。

 

 僕は眉を顰めつつ、慎重に、開かれた引き戸まで近づき中を見た。ひんやりとした冷たい空気が、体を包む。

 

 中には、気味の悪い様々な儀式の道具らしきものがずらりと置かれていた。その道具等は、最初といくつか位置が置き換えられている。また一部の道具には、まだ新しいらしい血糊が薄く付いていた。僅かな鉄錆の匂いが鼻を突く。

 

 僕はそれらを見て、強烈な憂惧(ゆうぐ)を覚えた。

 

 

――――――繭墨が居ない

 

 

「――――繭っ……」

「あざか様であれば」

 

 僕は振り向きざま、定下に声を掛けられた。僕は声のした方向に向き直る。

 

 定下は不動の姿勢で綺麗に立って居た。彼は落ち着いた口調で話し始める。

 

「あざか様であれば…………(みそぎ)に行かれました」

 

「禊?」

 

 僕は眉を顰め、訝しげに定下を見る。

 

「はい。…………じきにお戻りになられるかと思いますので、小田桐殿はどうぞ今よりご案内する部屋にて、お待ちください」

 

 定下はそう言うと、丁寧に腰を折った。僕は低い声で尋ねる。

 

「繭さんは此処で何をしていたんだ。貴方は本当は分かっているんだろう?」

 

 僕がそう問うと、定下は顔を上げた。定下はしばし間を置いたかと思うと、口を開く。

 

「――――――繭墨家…………最大の禁忌(’ ’ ’ ’ ’)。とでも言うのでしょうか」

 

「――――繭墨家、最大の禁忌(きんき)?」

 

 僕は怒りで、思わず額に血管が浮き上がるのを感じた。危険な繭墨家の秘め事が、まだ此処にもあったのだ。



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Section 11

 

 僕は定下を睨めつけた。定下は軽く萎縮したのか、頭を垂らす。

 

「……………………私からこれ以上申し上げることは出来ません。あざか様はいずれ寝室にお戻りになられるでしょうから、小田桐殿もそちらでお待ちください。私がご案内致します」

 

 定下はそう言うと丁寧に、手で行く方向を軽く指し示した。僕は悩んだが、定下の口は堅い方だろう。無理に問いただすのは止めにして、素直に従うことにする。

 

 僕は定下に連れられて歩き始めた。廊下に二人の足音が這うように鳴る。冷たく静謐な繭墨家の屋敷に、ただ一点として足音は響いていた。

 

 今回の件で、繭墨家に対する疑念がさらに増したことになる。ただ紅い女の生きる(にえ)として育てられ、現世では神として扱われたてきた、歴代の繭墨あざか。彼女らは全て最後は不審死を遂げ、紅い女の慰撫となるべく異界に入った。

 

 結局、繭墨あざかの存在意義はそこにあり、その為だけに育てられると言っても過言ではないだろう。

 

 これまでにも繭墨や定下は、繭墨家に存在する数々の秘事を語ってくれた。その秘事の存在は、常に僕を悩ませ続けてきたが、ここに来てまた新たな疑念が噴出したことになる。

 

 繭墨家、最大の禁忌。僕の繭墨家に対する信用は、ただただ薄れていくばかりだった。

 

 

 定下は僕をある部屋に案内した。と言っても、その部屋が特別異常という訳でもなく、普通に畳と障子で隔てられた和室だった。しかし強いて異常と言うならば

 

「――――――――何故(なぜ)こうなった…………」

 

 そこには綺麗に敷かれた布団が二枚、川の字に密着させられて置かれていた。まるで夫婦の布団とでも言うかのように。

 

「それでは、あざか様は後何時間か後に此処に来られると思いますので、それまでここにてお待ち頂きますよう、お願い致します」

 

「え? …………あ、ちょっと!」

 

 僕はそう呼び止め後を追うが、定下はそそくさと戻っていく。僕は定下と布団とを交互に見比べた後、溜息を吐き部屋に入った。僕の目の前には横に密着させられた布団が二枚、川の字に置かれている。繭墨に僕がやったと思われたら面倒だ。

 

「はぁ……………………」

 

 僕はため息を吐くと移動して、右側に置かれた布団の端を両手で掴んだ。そして横に引っ張り、もう一方の布団から引き離す。二つの布団の間に、しっかりと間が出来上がった。

 

 これで繭墨に余計な想像をされずに済むだろう。僕は安堵すると、右側の布団の上に座り込んだ。まるで先ほどまで日向に干されていたのではないか、というような柔らかい布団が、僕の身体を包む。

 

 僕はその状態で腕を組み、目を瞑ると思いに(ふけ)った。脳裏に、繭墨に対する(いきどお)りが、映画のワンシーンのように流れ始める。

 

 だが僕は不毛だと思い、その憤りを振り払った。繭墨がいつも勝手なのは今更考えるまでもなく、さらに、結局繭墨と共に歩こうという道を選んだのは僕自身だ。ならば責任は僕にもある。

 

 僕はそう考えるとそのまま布団に寝転んだ。一時そうしていると、外から入って来た涼しい風が、僕の体に当たり始める。

 

 もう懊悩(おうのう)するのは止めにしよう。今はただ、楽しい事だけを考えたい。

 

 繭墨が多量のチョコレートを食べるのを止めてくれたら。繭墨が普通の料理を食べてくれるようになってくれたら。繭墨が普通の少女のようになってくれたら。繭墨が普通の娯楽を楽しめるようになってくれたら。

 

 望みを数えればきりがないが、僕はそんな空想を脳内で描いているうちに、いつのまにか意識を睡魔に奪われてしまっていた。



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Section 12

「………桐…………、小田………、小………君……」

 

 僕を揺り起こす、小さな女の声が聞こえた。僕は暗闇の中から少しずつ意識を取り戻す。視界にぼやけた女の顔が映った。女は無関心な表情で、僕の顔を覗き込んでいる。

 

 視界が少しずつ晴れていく。寝起きでピントが合わずぼやけていた僕の視界が、少しずつ鮮明さを取り戻し、東雲(しののめ)を迎えたように光を取り入れて行く。

 

 

 視界の晴れた僕の視線の先に、繭墨の恐ろしいほどに整った顔が映った。

 

 

 

―――――――繭墨……!?

 

 

 

「繭さんっ!!」

 

 僕は声を上げ飛び起きた。

 

 

――――ゴンッ!

 

 

「痛っ!」

「あぐぅっ…………」

 

 

 しかし突然頭に鈍痛が走り、鈍い音が骨を通じて鼓膜に響いた。

 

 勢いがありすぎて、僕の頭と繭墨の頭が衝突したのだ。僕は右腕で頭を抑え、繭墨は両腕で頭を抱えた。

 

 

「うーっ! 何をするんだい小田桐君!」

 

「す、すみません繭さんっ。大丈夫ですか……?」

 

「君はこの状態のボクが大丈夫そうに見えるのかいっ? だとしたら君の目はハエの目よりも酷いよ! ボクが一体何人に見えているのかなっ!」

 

「そこまで言わなくてもいいじゃないですか…………。それよりも繭さん、あなた今まで何をやってたんですかっ」

 

 

 僕がそう問いかけると、繭墨は面倒そうに首を振った。

 

 

「それは初めにも言っただろう? 呪いを掛けていたんだよ…………。自分自身にね」

 

「どうしてそんなことを…………」

 

「そのうち分かるよ。でもね? 小田桐君。これは繭墨家にとって、禁忌( ・ ・)でもあるのさ。異能者にとってこれほど不名誉なことはないけれどね。今のボクには、まったく仕方が無いことなんだよ」

 

 

 結局、禁忌……か。繭墨はここに至って、何をするつもりなんだ。いや、考えるだけでも無駄だろうか。

 

 

「ところで…………この二枚の布団を離したのは君かい?」

 

「あぁ………はい、そうですけど」

 

「まったく…………君は無粋な男だね。せっかくボクが頼んで引いてもらったというのに」

 

 

 繭墨は首を傾げ、猫のようにニヤリと笑った。

 

 

「繭さんの仕業だったんですか…………。僕は嫌ですよ。貴方と布団をくっつけて寝るなんて」

 

「そうかい? それは残念だよ」

 

 

 繭墨は肩をすくめた。彼女の身を包む紫の衣と、頭についたシュシュが軽やかに揺れる。そんな彼女の姿に僕は苛立ちを覚えたが、同時に何故か可憐さを感じていた。

 

 

「じゃあもう寝るとしようか。もうそろそろいい時間だろう?」

 

「えぇ、そうですね。早く眠って、今日のアホみたいな疲れを癒したいものです」

 

 

 僕は溜息をつくと、膝をつきながら背を伸ばし、部屋の明かりを消した。機械的な軽い音と共に、部屋は暗闇へと包みこまれ、外の僅かな月明かりが部屋の中を薄く照らした。

 

 

「それじゃ、おやすみ。小田桐君」

 

「えぇ、お休みなさい。繭さん」

 

 

 僕は繭墨とは反対の布団の中に潜ると、そう返した。その際、彼女が一瞬不敵に笑ったような気がしたが、彼女はすぐ反対に寝返りをうつ。僕は眉を顰め首を傾げつつ、床に就いた。



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Section 13

 瞼を閉じ、暗闇に包まれた世界の中で、僕は考える。僕は異界の件が終わった今であったとしても、繭墨に付いていくことを決意した。だが僕は彼女と一体いつまで、このようなことを繰り返していかなければならないのだろうか。

 

 

 彼女が大人になるまでか? 彼女が偏食を止められるまでか? 彼女が誰かと結婚するまでか? 彼女が醜悪な趣味を止められるまでか?

 

 

 よく分からない。イメージがよく湧いてこないのだ。

 

 しかしそれならば僕はいつまで、彼女と共に居るつもりなのだろうか。

 

 

「考えたくないな…………」

 

 

 何か、深く考えてはいけない気がする。この先の考えは、何か今までの自分を破壊( ・ ・)する気がするのだ。 

 

 どうして僕は、今になっても彼女に付いて行っているのか。その理由が分かるのは、まだまだ先になりそうだ。

 

 

 

 

      

     ✽       ✽       ✽

 

 

 

 

 

 どこか窮屈だ。

 

 狭い、苦しい、暑苦しい。

 

 触るな、近づくな、微笑むな。

 

 

 どうしてそんなにも嬉しそうな顔をしているんだ。

 

 どうして僕はこんなにも嬉しいんだ。

 

 

 分からない。考えたくない。見たくない。知りたくない。

 

 

 あなたはどうしてそんな選択を。

 

 どうして僕はこんな選択を。

 

 

 

 どうして僕はここまでも……………

 

 

 

――――――醜悪なんだ。

 

 

 

 

 

 

 

「どうして……………っ!」

 

 

 僕はゆっくりと瞼を開いた。視界が晴れ、僅かな眩しさを感じると共に、小鳥の囀りさも僅かに聞き取れた。

 

 

しかしその時僕の視界には、信じられないおかしなもの( ・ ・ ・ ・ ・ ・)が飛び込んで来ていた。

 

 

「繭、さん?」

 

「やぁ…………おはよう? 小田桐君」

 

 

 僕の上司、繭墨あざかは、何故か僕の隣に( ・ ・ ・ ・)横向きで寝ていた。

 

 

「うわぁっ!」

 

 

 僕は飛び起きた。僕と繭墨を包んでいた毛布が勢いよく跳ね上がり、繭墨の上半身までもが露になる。

 

 

「どうしたんだい? 何か(うな)されていたみたいだけれど、どんな夢を見ていたのかな?」

 

「そんなのはもう忘れましたよ! というよりも貴方、一体ここで何をやっていたんですか!」

 

 

 繭墨は胸の前で軽く合わせていた両手をゆっくりと解くと、左腕を使って起き上がった。彼女の体が動くたび、頭の帽子についたシュシュが軽く揺れる。

 

 

「そんなこと、見れば分かることだろう?  添い寝( ・ ・ ・)をしていたんだよ」

 

「それをおかしいと言っているんです! どうしてそんなことを......」

 

 

 僕は繭墨を軽く睨み付けた。それを彼女は軽く笑って受け流す。

 

 

「別にいいじゃないか。こんなのはただの遊興だよ?」

 

「勘弁してください」

 

 

 僕はがっくりと項垂れた。対して繭墨は、どこか遊びを楽しむ猫を思わせるような微笑みを見せた。それは僕が嫌いな表情のひとつだったが、最近の彼女はなぜか、自然な笑みを見せているような気がする。これは僕の曲解だろうか。

 

 

「ともかく小田桐君。今日からまた、依頼の解決を行って行くんだ。心して掛かることだね」

 

「依頼ってまさか……昨日のですか?」

 

「そうさ。それ以外に何があると言うんだい?」

 

 

 繭墨はあっけらかんとして答えた。ならば昨日のうちに有馬にそう言っておけばよかったじゃないか。どうしてあんな曖昧な返し方をしたんだ。そんな抗議が喉まで出かける。

 

 

「あの時は仕方が無かったのさ。昨日のことは僕自身も初めての事でね。こんなにも早く終わるものだとは、思っても見なかったんだよ」

 

 

「さいですか……」

 

 

 出来れば人の心を読みながら、会話をしないで欲しいんですがね。今更そんな事を言ってみても、彼女は変わりやしないだろうが。

 

 



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Section 14

 ともかく僕たちはその後、軽い朝食を取り、有馬の家へと向かった。どうも有馬は今日が休暇であったらしい。これは朝食の前、ダメ元で有馬に連絡をしてみて分かったことだ。

 

 有馬の家は、とても大きな洋風の屋敷であった。敷地内にはとても広い庭園があり、白い薔薇( ・ ・ ・ ・)を中心とする、百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の花々が咲き乱れていた。

 

 この屋敷は、とある山の麓にあった。決して僻地(へきち)ではないのだが、なぜか人が近寄りづらい雰囲気を醸し出しているように感じた。

 

 僕らが門の前に車を止めると、屋敷から一人の男と、メイド服を着た家政婦らしい女性が現れた。二人はやがて豪奢な門に掛けられた鍵を開錠すると、車から降りた僕たちを迎え入れる。

 

 

「ようこそ、繭墨様、小田桐様。車での長旅、誠にお疲れ様でございました」

「お疲れ様でございました」

 

 

 有馬とメイドは深々と頭を下げた。それに招かれ、僕たちは豪華すぎる屋敷の敷地の中に、足を踏み入れた。僕たちが入り終え、メイドが音を立てて門を閉じた時、僕たちをここまで送ってくれた車が、帰路につくため走り出す。

 

 やがて、周りを軽く見渡していた繭墨が口を開いた。

 

 

「ここは広すぎるね。だけど、それでいてむさ苦しい。花が多すぎるんだよ、ここは」

 

 

 繭墨の視線の先では、規則的だが所狭しと花々が咲き乱れていた。その花々は、屋敷の広い敷地の一部を全て覆っている。

 

 

「生前の父の趣味だったんです。花の世話は彼女が」

 

 

 

 有馬はそういうと、後ろに立つメイドを手で軽く指した。メイドは礼儀正しく、僕らに低頭し続けている。

 

 

「ご説明が遅れましたが、この洋館は私の父のものです。父は生前、不動産や証券会社を営んでいました」

 

 

 道理でここまで大きな屋敷が造れたのだ。一般的なサラリーマンに、ここまで大きな屋敷を作るほどの資産が得られるとは、到底思えない。

 

 

「失礼ながら、お父上はいつ…………」

 

「一年ほど前です。車に跳ねられてしまいまして」

 

「そうでしたか………」

 

 

 有馬は、多少口惜しい表情を見せた。僕はその表情を軽く一瞥する。これは、有馬が父の死を悔やむ人間であるのか、無いのかを判断するためだ。少なくとも、悔やむ表情を見せる程度の思考はあるらしい。

 

 僕はそう考えつつ、前を歩く繭墨を見た。華奢な体を包む黒いゴシックロリータに、趣味の悪い目玉の髪飾りが、歩くたび小さく縦に揺れている。これはいつもの繭墨の姿であったが、そんな彼女にも今一つの異変が生じていた。

 

 

 

――――――彼女の手には、もう紅い唐傘は無い。

 

 

 

 いつも優雅に掲げていた紅い唐傘は、今や事務所の隅で白い埃を被っていた。これは、紅い唐傘によって異界の力を操っていた繭墨が、異界の力を完全に失ったためである。紅い女によって異界が完全に閉ざされてしまった今、最早繭墨にもあさとにも異界の力を使うことは出来ないのだ。

 

 しかし彼女には、変わってしまった点がある。彼女の腕にこそ、今はチョコレート以外何も持ってはいないのだが、彼女の肩にはゴシックロリータ風のハンドバック( ・ ・ ・ ・ ・ ・ )が掛けられていたのだ。

 

 しかしそのハンドバックに何が入っているのか、彼女は教えようとはしなかった。また僕も、そこまで中身を知りたいとは思わなかった。なぜならどうせ入っているのは、チョコレートをはじめとする、僕にとってろくでも無いものばかりなのだから。

 

 僕は、繭墨は変わってしまったのだという喪失感を味わいながらも、結局彼女の本質は何も変わってはいないのだという点に、改めて憂鬱を覚えた。

 



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Section 15

 しかしそのとき一瞬であるが、僕の鼻に妙な異臭を感じた。その匂いはどこか生ゴミのような、それでいて何処か刺激的な匂いだ。僕はこれとよく似た匂いを、どこかで嗅いだことがあるような気がした。

 

 

「繭さん。今何か異臭を感じませんでしたか?」

 

 

 僕は前を歩く繭墨に、そう聞いた。だが彼女は僕の質問に答えようとはせず、ただ猫のような嫌な笑みを浮かべつつ歩いて行く。

 

 やがて僕たちは、洋館の大きな茶色の扉の前に辿り着く。その扉には、細部に渡って豪華絢爛な彫刻が彫られており、まるで御伽噺の世界に入るかのような錯覚を感じさせた。

 

 メイドがその絢爛な扉に手を掛けた。軽く体重を掛け扉を押すと、やがて少しずつ音を立てながら扉が開いていく。

 

 洋館への入口は開いた。それと同時に、扉の外から中へ向けて僅かな風が吹く。僕たちは、まるでその風に背中を押されるかのように、洋館の中へ足を踏み入れた。

 

 初めてこの洋館の床を踏む。2階まで長く続く赤い絨毯が、僕達を招くかのように、手前まで伸びてきている。その他の床は、黒や白のタイル張りで出来ていた。

 

 僕達の後ろで、洋館の内と外とをつなぐ、一門の重い扉が閉められた。大きな音がすると共に、吹き付けていた風は止み、辺りは一瞬で静寂に包まれる。外界からの光を失った室内は、一瞬暗闇に包まれたが、直ぐに目は慣れ照明の明るさを感じた。

 

 僕は天井を見上げる。天井には、いくつかのシャンデリアが付けられており、煌々と光を散りばめていた。僕が視線を元に戻したとき、有馬がほんの少し保たれていた静寂を破る。

 

 

「それでは、この(やかた)の簡単なご説明をさせて頂きたいと思います。この館は」

 

「いや結構だよ、それについては。それよりもまずは、君の寝室を見せて貰いたいものだね」

 

 

 繭墨は、有馬の言葉を断ち切った上でそう言った。有馬は初め驚いた顔をしていたが、すぐに表情を改めると口を開いた。

 

 

「畏まりました。では私の寝室からご案内致しましょう。こちらです」

 

 

 有馬は歩き始めた。僕たちはそれに続いて歩き始める。洋館に僕達4人の足音が響き渡った。その音は洋館の奥の方まで響き渡ると、反響してやがて消えていく。

 

 案内された場所は、二階左奥の部屋であった。有馬が部屋の扉を開けると、洋室らしい寝室が見えた。多少豪華なベッドにデスク、テレビなど必要最低限の家具を揃えてあるようだ。僕は繭墨に続いて、その部屋に入った。

 

 

「ここが私の寝室です。またここは同時にあの両腕に、毎晩苦しめられている部屋でもあります」



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Section 16

長らく投稿せず、誠に申し訳ございませんでした。忙しさとモチベーションの低下から、ほとんどの小説を投稿しないようになってしまいました。

しかし未だにこの作品に感想を下さる方の存在に気づき、嬉しさが込み上げ、またB.A.D.のSSを上げる人が私以外ゼロに等しいことからも、私はこの作品を継続し、読者さまの期待に応える責任があるのではと感じた次第です。

また、B.A.D.という作品は、私がこれまでに読んだライトノベルの中で、一番感銘を受けた作品です。現実を忘れ、非現実的な世界に誘ってくれるという点において、B.A.D.より優れたライトノベルはなかなかなか無いなと思う次第です。小説は創作する物語です。創作の世界で現実の世界を描いても、その面白さには限りがあります。なぜなら現実は我々がいつも体験していることであるからです。(もちろん体験していない現実もあるのですが)ですから創作の世界では、その現実では味わうことのできない新鮮味が面白さの秘訣ではないかと考えています。だから私は、現実では味わうことの出来ない、新鮮味のある物語をよく好んで読んでいました。その中でやはりB.A.D.は、現実では味わうことのできない非現実的で新鮮な事象を描いてくれる作品だったので、本当に面白かったのです。シリアスものが好きという点も、それを助長したのでしょう。
ともかく、この作品を継続したいという思い。そして繭墨さんを、しかも原作ではあまり描かれなかったもっとかわいい繭墨さんを描きたいという思いから、作品を継続してみようと思った次第です。ただやはり忙しさは変わりませんので、不定期になりいきなり作品の更新も停止してしまうかもしれません。結構な気分屋なので……。ただこの作品、少なくともStory 1のプロットは頭の中にずっと描き続けておりました。あとは文書化するだけですので、頑張って行きたいと思います。これからも、よろしくお願い致します。


 僕は部屋を見渡した。窓は白いレースが閉められ、雰囲気の良いオレンジのライトが僅かに部屋を彩っている。一件、大変良さそうな部屋なのだが、僅かに異様さを感じる。

 

 

「どうだい、小田桐君? 君も…………見れる(` ` `)ようになったんだろう?」

 

 

 繭墨は、嫌な笑みを浮かべながら、横目で僕を見てそう言った。

 

 確かにその通りだ。僕は、あまりに異界の影響を受けすぎた所為か、あれからいろいろなものが見えるようになっていた。もちろんそれは、繭墨が唐傘で見せるような明瞭なものではない。しかし確実に僕は繭墨が見せたような異常な物が、微かだが見えるようになっていたのである。

 

 しかしこの部屋は、僅かに異様さを感じさせるのみで、特段大きなものは感じないし、見えない。もしもこの事件が怨霊の仕業ならば、その霊の痕跡が残っているだけという感覚だろうか。いまいちはっきりとしない感覚だ。

 

 

「何か異様さは感じますが、何も見えませんね。本当に微かに感じるだけで、ここが現場とは思えません」

 

「そうかい。まあボクもそんなところだろうとは感じていたよ――――――ここで人を殺すのは、あまりにも無粋過ぎる。もしそれだけの怨念があるのだとすれば、それだけの舞台(` `)で殺すはずさ」

 

「はい? あなた方は、この呪いは殺しの結果だと言われるのですか? しかしそれはあまりにも的外れです。私は人を殺したことなどありません」

 

 

 有馬は、横からそうきっぱりと断言した。その言い様には自信があり、嘘を付いているようには見えない。

 

 

「ふーん? 確かに、――――――君は(` `)、殺していないのかもしれないね」

 

 

 繭墨は、有馬を横目で見ながらそう言った。有馬には、繭墨の自然に出る嫌な笑みが、嘲笑しているように見えているかもしれない。

 

 

「何をバカな。失礼にも程がある。……………私は失礼させて頂きますよ。後のことはメイドに言って下さい。では」

 

 

 有馬は声を荒げ、そのまま踵を返した。憤慨しているためか、その足取りは早く足音は重い。

 

 

「おっと、待ってくれるかい? ボクたちもいろいろ調べたいことがあってね。他の部屋も回らせてもらうけど、いいかい?」

 

「どうぞご勝手に。持ち物を持ち出さない限り、好きにして頂いて構いません」

 

「では、メイドにも退散願えるかな? 後はボクたちが勝手に調べたいからね」

 

 

 繭墨がそう言うと、有馬は軽くため息を付き、メイドの方を見て口を開いた。

 

 

「じゃあ行こう」

 

「畏まりました…………繭墨様、小田桐様、失礼致します」

 

 メイドは僕たちにそう言い、軽く礼をするとそのまま踵を返した。有馬は部屋の外に出て行き、メイドは部屋の外に出るとその扉を閉めた。二人の足音が遠ざかっていくのが聞こえる。やはり有馬は少し怒っているような足音だ。

 

 僕は軽く睨みながら繭墨を見て、口を開いた。

 

 

「流石にあれは言い過ぎではないんですか。僕もまだこれが殺しだとは思っていませんよ。現場とは言いましたがね、別に殺しの現場という意味ではなく、呪われている現場とは思えないという意味です」

 

 

 繭墨はボクを見ると面白くなさそうな顔をした。そしていつも通りチョコレートを取り出すと、口に食む。

 

 

「君も鈍くなったものだね。初心にでも戻ったつもりかい? ………………まあいいさ。忘れたとでも言うのなら、いずれボクが無理やりにでも思い出させてあげるよ」

 

 

 僕が鈍くなった? そうだろうか。確かに繭墨が関わる事件は、人死にばかりであったが、今回の件が人死にに関係するという証拠は、まだ出ていないと思う。確かに怨念は強力なのかもしれないが、人が本当に死んだ結果なのかはまだ分からないはずだ。

 

 

「さて、露払いも終わったし、いよいよこれ(` `)を使う時が来たようだね」

 

 

 繭墨はそういうと、ゴシックロリータのハンドバッグに手を伸ばした。

 



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