佐倉双葉と行くデート (裏方)
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佐倉双葉と釣り堀

「……つらい……つらすぎる」

 

 

 正午。

 その日一番高く上がった太陽は、残暑では済まされない程の恵みを余すことなく降り注がせていた。この時期では観測史上最高気温などと近頃では聞き慣れた言葉が、贅沢にもパラソルの庇護を受けているラジオから流れてくる。

 

 釣り堀から漂う独特の臭いは朝よりもさらに強く、加えて、加速する生簀の水の蒸発速度が追い打ちをかけ不快指数は右肩上がりだった。

 

 そんな状況下、年間平均二十三度、平均湿度四十パーセントの空間で過ごし続けた佐倉双葉が弱音を吐くのは至極当然と言えた。

 普段使いしているジャケットは今や頭から被るテントへと用途を変貌しており、釣り竿を握る白かった肌は容赦なく日に焼かれ今やかなり赤い。

 

 

「……でも、約束ノート……書いたし……ここでやめたらかっこ悪いし……」

 

 

 ブツブツと呟いているのは折れかけの心を補修するためであり、それはなんとか目標を達するための儚い努力だった。

 しかし、常日頃から運動もほぼせず部屋に籠っていた体のキャパシティは余りにも少なかった。既に精神面では補えないほど肉体は限界に近づいており、目はややくらみ、汗は一向に引かず、軽い頭痛が心臓の鼓動と同じリズムで襲い来る。俗に言う熱中症だった。

 

 佐倉双葉は極めて優秀なハッカーであり電脳世界では世界的にも右に出るものはいないが、脳内に収められた他分野の知識と質もおおよそ一般人を遥かに上回っている。

 その内の医学に関しても母の仕事柄造詣が深い。そんな彼女が熱中症というものを知らないはずも無く、自らの肉体的強度もよく把握している。

 

 それにも関わらずなんの対策もせず炎天下に繰り出してしまったのは「熱中症対策」なるものに心を割く余裕がなかったためである。熱中症対策などすることを忘れてしまうほど、彼女の思い人が心の内のすべてを占領してしまっていたのだ。

 

 それはもう、約束をした前日の夜十一時から動悸が止まらず、寝たのは一時半ごろで三時と五時に目を覚ますほどだった。

 そして寝ぼけ眼をこすりながら服を着替え、喫茶店で待つ彼の前に立った時から釣り堀につくまで一瞬過ぎてほとんど記憶がない。

 そのため、双葉は無防備に灼熱の空のもとへ繰り出すこととなったのだ。

 

 

 双葉は茹だった頭で冷静に現状を分析をする。全く釣れない魚。熱中症気味の体。一切弱まる気配のない日差し。

 

 歴戦のナビが導きだした現状の最適解は「一時撤退」の四文字だった。

 

 戦略が決待ったのだから後はそれを実行すればすべては解決する。と、やや自己暗示気味に双葉は自らへそう告げる。

 

 約束ノートに記入した目標も達せず、自ら誘った手前非常に声をかけづらかったが、現状を鑑みた最も適切な戦略を実行するためとりあえず彼氏へと目線を送る。いや、正確には、送った結果彼氏がいると思っていた場所に無為に視線を送ることになった。

 

 ついぞ先ほどまで肩が触れ合うような距離に確かにいたというのに、まさに蜃気楼のように、その姿は掻き消えてしまっていた。

 

 本来想定した位置へ合わせていた目の焦点はやや間を置いて、七メートルほど先の見知らぬ釣り人へ合わせられた。

 

 

 常人の幾倍も回転の速い頭脳をもってして五秒ほどを現状の処理に時間を費やし、状況を理解したとき、双葉は二十秒近く沈黙した。

 三十度近い灼熱の中、到底感じるはずのない寒気が背筋を駆け上る。つい先ほどまでここはただの釣り堀だったはずだが、今の双葉にはまるで砂漠の墓碑に一人置いて行かれたように感じられた。

 

 

「……か……かれし……?」 

 

 

 懸命に絞り出した声は、涙声でかすんでいて、季節外れのセミの合唱にかき消された。今この場に自分を支えてくれる人間はいないのだと理解したとき、精神的な支柱を失った肉体は一気に限界を超え、釣り竿すら支えられない体はそのまま前方へ大きく揺れた。

 意識が朦朧としている人間が水中に落ちるということがどれほど危険なのかは想像に難くない。

 

 

 耳障りな蝉の声がリフレインする中、ボチャンと水に落ちる音はどこか間抜けだった。

 

 

 

 

「……わたし、浮いてる……?」

 

 危なかったな

➤落ちるところだった

 超能力で浮かせてる

 

「うん……ありがとう……?……!?」

「ふぉおお!?!?もう、もう大丈夫だから!離して大丈夫だから!」

 

 水中へ落ちてしまう前に、双葉の細身の体はアキラに強く抱きとめられていた。

 

 元々赤かった顔を更に赤く染めながら双葉はアキラの腕の中でわたわたと力なく暴れる。ここで力を緩めるとまた生け簀に落ちかけるかもしれないと、アキラが更に強く抱きしめると、双葉は観念したかのようにキュッと身を縮めた。

 

 その状態のまま至極ゆっくりと生け簀のフチから離れる。落ちてしまった釣り竿は後で回収する算段を立て、アキラの胸中で大人しくなった双葉は何かをぶつぶつと言っていた。

 

「……ぬ…………」

 

 

 ぬま?

 ぬぬ?

➤? 

 

「は、恥ずか死ぬ……」

「もう心臓が耐えられない……どうにでもしてくれ……ひゃっ!?」

 

 首元にキンキンに冷えた缶を当てられ、双葉は思わず情けない悲鳴を上げた。なっ、なに!?と言いながら双葉が目を向けるそこには缶のスポーツドリンクがあった。顔一杯に驚きを表現しながら、一も二もなく奪い取ると勢いよくプルタブに指をかける。しかし力が入らず、指をかけては表面を滑らせている。

 一分ほど格闘を続け、やや気まずそうに双葉はずいっと缶を差し出した。

 

「……アキラ、開けて欲しい。ぜんぜん、力入らない……」

「うぅー……不覚だ。まさかこんなに体力がないなんて思わなかった。というかこんなお昼から釣りをするのが間違ってた気がする」

「……でもまだ全然釣れてない……アキラは結構釣れてるのに……」

「とにかく、せめて一度は釣りあげないと」

 

 無理しすぎてもいいことはない

➤手伝おうか?

 がんばれ

 

「ありがとう」

「でもこういうのは自分で釣ってこそ意味があると思う」

「だから大丈夫……あっでももし危なそうだったらまた支えてくれな?」

 

 コクリと頷くと、瓶ビールケースをひっくり返しただけの無骨な椅子の位置を調整し、もう一度釣りの準備をし始めた。生簀の中に落ちてしまった釣り竿は店員が回収していてくれたらしく、ドギマギしながらそれを受け取ると足早に椅子の元へ戻った。

 

 

 炎天下。

 ほとんど肩が触れ合う……というより、常に肩が触れている距離で双葉は力なく釣り竿を振った。ポチャンと音がしたのを聞いて、しばらくする事が無くなったと、今日一日の経験から予測した双葉は声をかけた。

 

「あのね、飲み物を買ってきたのは嬉しいんだけど、どっか行く前に声掛けて欲しかった……」

「わたしてっきり置いていかれたのかと思って、すごく不安になった……」

「……行く前に声掛けてた?」

「全然覚えてない……そんなに意識朦朧としてたか。ヒートアイランド現象恐るべし、だな」

「…………」

「……自分で声をかけておいてなんだけど、釣りって結構暇なんだな。ネットだと釣り堀なら竿を垂らせば入れ食い状態って言ってたんだけど──」

 

 ウキが沈んでいる!魚がかかった!

 これは大きいアタリだ……!

 タイミングを見極めリールを巻いていく。

 ……

 オタカラマスを釣り上げた!(Size50cm七匹目)

 

「……なんでわたしの所には来ないんだ!?なにが違うかがぜんぜん解らない!」

「さてはアキラ、何かズルをしているな!?何をしているかは分からないが何かズルをしている!」

 

➤普通に釣りをしているだけ

 ……

 やれやれ、バレてしまったか

 

「う……」

「……」

「……ごめん……冷静じゃなかった」

「そうだよな、魚の気分次第だもんな。そもそも釣りって待つものだし」

「もしかしたら焦りが魚に伝わってるのかもぉお!?」

「アキラ!アキラぁ!!来てる!魚がいる!どうすればいい!?どうすればいい!?」

 

 その場で立ち上がってあたふたする双葉の腕は、釣り竿に引っ張られ真っ直ぐに伸びている。竿のしなり具合からしてかなりの大物だ。

 

 とりあえずリールを巻けばいいと伝えようとしたが、どうやら冷静に話を聞ける状態ではない。

 アキラはすぐさま背後に周り釣り双葉の手を上から包み込むように、竿を握った。

 双葉は一瞬赤面するがもはやそれどころではなく、とにかくガムシャラにリールを巻いている。二人は店員が眉を潜めているような気配をひしひしと感じていたがとにかくリールを巻き続けた。

 ついに水面が大きく暴れだした。もはや釣れる一歩手前の状況でもアキラは気を緩めず、ベストなタイミングで釣り竿の押し引きを繰り返す。

 

 そして──

 

「!!!!おおおぉ!来た!見えるぞ!!太陽浴びてキラキラしてる!!!あっでも触れない!!アキラとって!針とって!」

 

 ビチビチと空中で身をよじる魚をそのまま素手で掴むと、慣れた手つきで針を外し生け簀へ返した。

 

 釣り竿に魚がかかってから釣り上げるまで実に一分足らず。あまりに濃密だったその時間は、未だに双葉の両手を震わせている。

 釣り上げた当の本人は顔は驚きと喜びを同時に表現したような表情でフリーズしていたが、アキラと目を合わせた途端満面の笑みとなった。

 

 

「おいー!!見たか!でっかかったぞ!!今まででアキラが釣り上げた奴と比べても遜色ないんじゃないか!?すごいビチビチって!!わたしと比べてあんなに小さいのにめちゃ力強かったし生命力すげー!!」

 

 興奮しているのか早口でまくし立てる双葉を柔らかな笑みでアキラは見つめていた。慈愛に満ちた眼差しはどこまでも優しく、全てを包容してしまうよう深さをその瞳から感じ取れる。

 興奮がまだ冷めないのか、握りこぶしを作って両腕を体の前でぶんぶんと振りながら双葉は目を輝かせている。

 

 とても高校生とは思えないその純朴な喜びぶりに、思わずアキラの手が頭に伸びる。

 

 手の触れる寸前一瞬身をこわばらせたが、髪の毛に触れると、花の蕾がほどけるように双葉の緊張が解けていく。

 双葉の義父に当たる佐倉惣治郎のようなごつごつとした手ではないが、共に数多の死線を潜り抜けたその華奢な掌はこの世界で一番双葉を安心させるものだった。

 緩み切った表情を隠しもせず、双葉は顔を軽く揺らす。その意味をすぐに理解したアキラは手のひらを頬にあてがうと、双葉は嬉しそうに、軽く頬ずりをした。

 

 

「ふへへ……本当はこのあと貰おうと思ってたごほうび、先にもらっちゃった」

「今日釣りに来てよかった!約束ノートの目標達成だ!」

「このあとどうする?私は釣りを続けてもいいぞ!ふふん、コツはつかんだからな、次から入れ食いだ!」

 

 しばらく釣りをしよう

➤銭湯に行こう

 もう帰ろう

 

「了解だ!銭湯に……銭湯!?」

「あっルブランの近くの奴か」

「お昼からお風呂か……くふふ、悪くないな!ちょうど汗もかいたしさっぱりしたい気分だ!」

「よし!いくぞー!」

 

 双葉は嬉しそうにアキラの手を引いて、釣り堀を後にした。




 普通に釣りをしているだけ
 ……
➤やれやれ、バレてしまったか

「ほっ、本当にずるしてたのか!?こっ、このナビの目をもってしても見抜けなかった」
「一旦どんなズルをしたんだ!」

➤サードアイ

「……」
「……」
「……そのズルは、お前にしかできないな……」
「はぁ……」ポチャン

「全然釣れない……」


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佐倉双葉と銭湯

「実はな、あそこの銭湯行ったことないんだ」

「昔惣治郎に一度だけ誘われたんだけど、怖くて部屋から出られなかった」

「結局それからずっと家のお風呂で済ませてた」

 

「でもやっぱり結構気になって、時々ルブランに行くとき銭湯のまで歩いて行ったりしてた。結局怖くて駄目だったんだけど」

「まさか一番初めに、か、かかカレシと行くことになるとはなっ!」

「自分でもびっくりだ!」

 

 言っておきながら恥ずかしいのか、双葉は顔を赤くしながら手でパタパタと顔を扇いでいる。

 

 

 二十数分乗ることになる電車内。二人はこれからの訪れる僅かな別れの時間に備えるかのように、寄り添うように座っていた。

 

 アキラの肩にややよりかかるような体勢の双葉は柔らかな笑みを浮かべ満足気だ。少し前の双葉自身がこの様子を見れば間違いなく「爆発しろ」と言うだろう。

 

 

 くどいほどに甘い空気を振りまきながら、二人の体感ではほとんど瞬く間に間に着いてしまった四軒茶屋駅で下車する。駅から銭湯へ移動する間も、どう考えても暑いにも関わらず二人の距離はほとんどゼロだった。

 いっそ手を繋げば良いとも思うが、二人は手をつながず双葉の肩とアキラの腕をくっつけた状態で歩いていた。

 

 歩いて五分もしないうちに二人はルブランに到着し、通りすぎて富士の湯の看板前にたどり着く。錆すぎてところどころ文字が見えないところもあるが、これもレトロというものなのだろうかとアキラはぼんやり考えた。

 

 その時ふと、アキラは時々教師の川上に依頼してコインランドリーの見張りをして貰っていたことを思い出し、今は誰も座っていない丸椅子へ視線を向けた。

 

 瞬間、何かを感じ取ったかのように、にわかに双葉の目の色が変わり丸椅子を睨みつけていたが、アキラが双葉の顔を見る頃には表情は元に戻っていた。

 

 

 

 やや違和感を覚えながら、アキラはこれまた錆の目立つ自動販売機に硬貨を投入し天然水を購入する。アキラはキャップを開けた上でそっとペットボトルを差し出した。

 

「うおぉ……心配してくれるのは嬉しいけど、お腹もうたぽたぽだ。これ以上は入らないとこまで来てるぞ」

「つーかこれ以上飲んだ方が危険まである!指でつついたら破裂する気がするぞ!」

「だからそのプラセンなウォーターは風呂上がりにな!」

 

 双葉は明るい口調でそう言いながらも目線は銭湯の入口から決して切らない。まるで今から戦場に赴く兵士のような表情であった。

 

「ふぅー……よ、よし、行くぞ……財布はあるな……今日は暑くて汗もかいてるしスッキリしたい気持ちもある……銭湯に挑む準備はバッチリだ……」

「行くぞ!しばしの別れ!サラダバー!!」

 

 双葉は女湯の暖簾に勢いよく顔から突っ込み、すぐさま「コレが、リアル銭湯……!?」というやや興奮気味の声が中から漏れ聞こえる。直後に番頭さんに優しくたしなめられてから何も聞こえなくなった。

 

 不安な感覚が拭えないのかアキラはしばらく女湯の暖簾を眺めていたが、客観的に考えた時女湯の暖簾を見つめ続ける男とはいかがなものだろうと思い当たる。後ろ髪引かれる思いはあったが、アキラはプラセンウォーター片手に暖簾をくぐった。

 

 

 

 

 髪の毛を丸くお団子状にまとめて双葉は肩まで浸かり、とりあえず百数えるまではこのままでいようと決意をした。

 

 日曜日ではあるものの十四時という時間が絶妙なのか、人一人いない浴場は双葉の貸切だった。もし誰かいたら確実に緊張してしまうので、初めての銭湯を心から楽しむのにこんなにいい日はないと双葉は思った。

 

 

 くるりと背中側に姿勢を変えて、ほとんど真上を向くような姿勢で双葉は「うおお……」と息を漏らす。

 

 脱衣所からもハッキリと見えた富士山は、近くから見ると更に迫力が増した。当然双葉は知識として、アニメなどでも「壁面に描かれた富士山」を見知ってはいるが、立ち上る湯気の中、朧気な富士山を見るとため息のひとつも吐きたくなった。加えて、天井付近の壁窓から差す光からは、何故か神聖な印象すら受けた。

 

 全面タイル張りな所もシャワーヘッドが随分古めかしいのも、双葉にはかえって新鮮に感じた。

 

 

 

 新しいものを見たからか、自分の彼氏に触れた余韻が残っているのか双葉には分からなかったが、普段より早く脈拍を刻む胸に触れながら、銭湯の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。

 

「ぐふふ……」

 

 一人で頑張って目当てのゲームを買えた訳でもめずらしいジャンク品を手に入れた訳でもないのに、自然と笑みが溢れる事に双葉は少し驚いたが、段々とおかしさが込み上げてくる。

 

 

「くっふふふ……」

 

 ここ一二ヶ月の出来事は、他のものよりもずっと鮮明に記憶に残り続けることを双葉は確信していた。電子と無機物が全てだった世界に雪崩込んできた情報は余りにも多く、当人でさえ未だに処理しきれていないもの散見される。

 例えば歪んだ認知の世界パレスと、ルブランの屋根裏に潜む男などはその最たるものであり、どちらも双葉の心の多くを占めている。

 

 

 不明確で答えの出ないものがあるという事も、双葉にとっては新鮮な出来事だった。

 

 双葉にとって、以前まで世界そのものだった電脳空間上のことで知りたくて知れないことはほぼない。

 しかし現実世界では知りたくても他人の心など分かるはずがないため、パレスにも居候の男に対しても興味が尽きない。

 

 

「ふはぁ……」

 

 双葉は、居候の男──アキラに関して、思うところしかないほどに思うところがある。

 

 つい今さっき体験した事と思うほどに、アキラと交わした言葉が光景と一緒にフラッシュバックする。

 

 

 ──こ、ここに一つの可能性があるのだが……

 

 ──え!?

 

 

「わぼぼぼ」

 

 思い出している途中で羞恥に耐えきれなくなったのか、双葉は顔を水中に沈め思い切り叫んでいる。暫くしてから水面から顔をあげたが、次はバタ足を始めた。

 

「ふぅー……はぁー……落ち着けわたし、わたしはもはや以前の私じゃない。カレシも居るんだぞ。言うなればスーパーフタバ……。これしきでこんなに恥ずかしがってたんじゃ、この先が思いやられる」

「……この先?」

「……」

「うぼぼぼぼぼ」

 

 ネットに入り浸っているため当然そういった知識の備えも万全な双葉は、「この先」を明瞭に想像しすぎてしまい自らに大ダメージを与えることとなった。

 

 水中でひとしきり暴れたあと、息を整えてから目を細めて浴場のデジタル時計を見つめると時刻は午後二時四十分、既に入浴を開始してから二十分が経過していた。

 

 

 サッと浴びるだけで済ませがちな双葉にしては、普段ならばとても耐えられないほど長時間の入浴だ。ただ今回は初めての銭湯という事と様々な考えごとのせいで、思っていたよりも時間が過ぎていたようだ。

 

 

 一度大きく伸びをしてから、周囲を一度二度と確認しそそくさとシャワーを浴び始めた。

 

 頭の上でにまとめていた髪を解くと、それは傾きかけた太陽の光を受けて瞬いた。

 

 以前は髪や肌の手入れにかなり無頓着な双葉だったが、ここ一二ヶ月アキラとそういった間柄になってから髪の毛の手入れは完璧に習得していた。枝毛の一つもない毛髪は、確かに普段の努力が見て取れる。

 確かに手つきは慣れたもので、情報ソースがネットであるとしてもそれは間違いなく双葉に貢献していた。

 

 頭頂部から綺麗に泡を洗い流すと、また周囲を一度二度と確認してからやや小走りで脱衣所へ向かう。脱衣所からの扉が開く音が一度もしていないにも関わらず警戒を怠らないのは、ひとえに裸で一人という状況からのものだった。

 

 

 

 脱衣所に無事到着した双葉は、急かされている訳でもないのに忙しなく体だけを拭くと、ほとんど髪の毛には触れず濡れたまま服を着て出口へと向かう。

 土砂降りの雨の中しばらく立っていた、と言われても不自然ではない程の水を含んでおり、番頭さんの目線を釘付けにしている。

 

 しかしこれは双葉の拭き忘れなどではない。某ネット掲示板上で見つけた「彼女がやってたらドキッとすることベスト10」の内一つを完璧に再現しているに過ぎなかった。

 当該スレッド内では風呂上がりの異性に強烈な魅力を感じるという事がそもそも前提として話されており、更に、髪の毛がつやつやしていると色っぽいという意見には大多数の人間が賛同していた。

 

 それを元とした双葉の思考の到達点は現在の通りだった。濡れに濡れた髪で、そして風呂上がりからほとんど時間をかけずに服を着替えたならば魅力はもちろん増しているはず、という結論だ。

 

 

 

 水分が乾燥してしまわない内にと暖簾をくぐると、すぐそこに双葉の想い人は立っていた。

 一目、風呂上がりのアキラを見た瞬間双葉の胸が早鐘のように打ち始める。

 

 まるで何かを期待するかのように濡れた瞳と、風呂上がりのため微かに薄紅色の指した頬は女性の身である双葉にも"来る"ものがあった。

 

 

 

 すげー!風呂上がり効果は間違いなく存在するぞ……!

 

 確信した双葉が小さくガッツポーズをした頃、携帯に目を向けていたアキラはようやく双葉の存在に気づいた。

 アキラは一瞬柔和な笑みを浮かべたが、現在進行形で水の滴る双葉の髪を見た途端身を翻して男湯の暖簾をくぐった。

 

 唖然とした表情で立っていた双葉の目の前につい今しがた姿を消したアキラが、今度は片手にタオルを持って現れた。

 

 

➤拭かせてくれ

 拭いた方がいい

 

「拭く?良いけど……え?!あれ、おかしいぞ。アキラ、見て何か感じないか?」

「普段とは明らかに違うところがあぷっ!」

 

 話も半ばに、アキラの手と布が双葉の髪の毛に触れた。余りの勢いから力任せに髪を拭かれるかと思い双葉は身を固くしたが、実際は想像に反したものだった。

 ぎこちないアキラの手つきは、双葉自身に母が髪を拭いた時のことを想起させた。決して傷つけないように、慈しむように。髪の毛の先端に至るまで愛に満ちた所作は、余りにも似ていた。

 

 双葉の眼鏡にポツポツと雫が落ちると、表情が見えていないはずのアキラは手を止めた。 

 双葉が顔を上げると、アキラと目線が合った。

 いつも冷静沈着なアキラらしくもなく、双葉の瞳に映る彼の表情は心配そうで、泣き出してしまいそうだった。その表情が自分ためにしているのだと双葉は知っている、知っているからこそ、胸の中を愛おしさが埋めつくした。

 

 今すぐ抱きしめてしまい気持ちが溢れてくるが、ここが銭湯の入口であることを加味し心を抑え込む。

 

「だ、大丈夫……よく分かんないけど、涙出てきただけ……すごく嬉しいのに、なんでだろ」

「……」

「あのな、アキラと居ると毎日色んな発見がありすぎて、胸がいっぱいなんだ」

「だから、もしかしたら嬉しさが限界突破してるのかもな!」

「へへへ、拭いてくれてサンキューな!」

 

 何故かイタズラっぽく笑う双葉を見て、アキラは最後にわしゃわしゃと乱暴に撫で付けた。やめろー!と口では言っている双葉も嬉しそうな笑みを浮かべていて、有り体に言えば二人はじゃれていた。

 

「凄いさっぱりした!宿屋に入って一休みした気分だ、MPもHPも全快だぞ」

「ここからどうする?まだ時間はあるよな?」

 

 双葉の部屋に行きたい

➤部屋に来て欲しい

 帰ろう

 

「!!」

「ふっふっふ、こんな炎天下だもんな!自分のお部屋が最強だ!わたしも丁度アキラとやりたいことがあってな……」

「じゃじゃーん!見よ!スナブラ!まさかこんな掘り出しものが近所のリサイクルショップで見つかるとはな、侮りがたし」

「って訳で!いざゆかんアキラの部屋!わたしのコントローラー捌きを見せてやる!」

 

 満面の笑みで駆けていく双葉の後ろを、アキラは小走りで追いかけた。

 




思うこと……

△アキラのこと
○アキラと来週行く場所のこと



(来週はどこに行こう……)
(正直どこに行っても楽しいけどな……)
(……)

「ぐふふふ」


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佐倉双葉と帰る場所

 純喫茶ルブランは、佐倉双葉の義父に当たる佐倉総治郎の営む喫茶店である。

 

 豊富な種類のコーヒーと店自慢の特製カレーは絶品であり、一部常連客が足繁く通っている。

 

 店主である佐倉総治郎は行く宛てのない前科持ちのアキラを引き取り、店内の屋根裏に住まわせているかなりのお人好しである。時に厳しい言い方をすることもあるが根本部分は相手を慮っている場合が多いことをアキラはよく理解していた。

 

 そのためアキラはルブランの前に立つと、まるで家に着いたかのような安心感があった。

 

 先に店内に入った双葉は二階へ駆け上がったのか、アキラが扉窓から覗き込める範囲に姿はない。

 

 古めかしい取っ手を掴み扉を開けると、クーラーの効いた、コーヒーの香り混じりの清涼な空気がアキラの背後へ抜けた。カラランと鳴る鈴の音で、総治郎は扉を一瞥すると手元に新聞へ目線を戻した。顎で階段の方を指し示している所を見ると、アキラの想定通り双葉は屋根裏へ向かったらしい。

 

 珈琲二杯で粘る二人組に軽く会釈しながら横を通り抜けると、何度も通った古びた階段に足をかけた。

 軽く軋む音は最初アキラ自身の行く末を不安にさせたが、今ではどこか心地よく感じていた。

 

 

 階段を登りきると、そこにあるのは埃まみれの自室だった。殺風景な部屋は、壁面に沿うようにいくつかの棚と机、ベッドらしき物が配されていた。

 まだ整頓しきれていない荷物が乱雑に置かれた棚が入口に最も近く、そこから反時計回りに古いブラウン管テレビとゲーム機、ソファ、作業机、ビールケースの上に置かれたベッド。双葉からのプレゼントの飾られた棚と、昨日高級栄養剤を刺したばかりの観葉植物。

 

 と、部屋を一週見渡したところで、室内に双葉の姿がないことにアキラは気づく。頭の上に疑問符を浮かべながらつぶさに部屋を観察すると、よく見ればベッドの上の掛け布団が膨らんでいた。

 

 驚かせようとしているのかと考えたが、それにしてずさんな隠れ方だとアキラは感じた。極力音を立てないようにゆっくり近づく。この時ばかりは日頃の経験へ感謝した。

 

 本来ならうるさい程に軋む床の上を滑るように無音で近づき、ベッドの上で丸まっている双葉をじっと見つめる。

 一定間隔で上下する掛け布団と間延びした呼吸音が示しているのは、双葉の安眠だった。

 

 

 冷静に振り返ると、双葉にしてはかなり早い時間帯に出かけ炎天下で釣りをし、その後二十分前後湯船に浸かっていた。銭湯にはたしかにリラックス効果もあるが、体力の消耗も少なくはない。出不精の双葉にしては相当な疲労だったことは想像に難くない。

 

 

 イタズラしてしまおうか

➤静かに立ち去ろう

 ……

 

「……」

 

 ずれている掛け布団を静かに掛け直すと、アキラはベッドから離れた。階段を登ってすぐ右手にある白い長机にカバンを置いて、ハンガーに上着をかけると梁へ引っ掛かけた。

 腰にエプロンを器用に巻きながら無音で階段を下ると、やや驚いた顔つきの総治郎とアキラの目が合った。

 

「お前、いいのか。双葉は……」

「ん?……あぁ、なるほど、寝たか。アイツにしちゃ今日は早起きだったからな。昨日も随分遅くまで寝れてなかったみてぇだし……」

「今日は特に客が多いわけでもねぇから、仕事の合間にコーヒーの入れ方ぐらい教えてやるよ」

 

 一度だけ小さく頷くと、アキラはカウンター裏へ回り込んだ。

 

 

 

 

 肌寒さを感じて、佐倉双葉は目を覚ました。

 初めは暗闇の中何も見えなかったが、目が慣れると部屋の中が薄赤いことに気づく。それがどうやら夕暮れ時の赤い日差しによるものだと、ぼんやり窓を眺めながら双葉は思った。

 

(……アキラの匂いがする。)

(確か……)

(わたしあいつのベッドで寝ちゃったんだな。くそー、せっかくスナブラやる予定だったのに)

(アキラは総治郎の手伝いしてるだろうな……手伝いが終わるまで待とうかな。どうしよっかな〜)

 

 頭をポリポリとかきながら立ち上がると、自分で枕元に置いたヘッドフォンと眼鏡を見つめて双葉は動きを止めた。

 ベッドを上から下へ、下から上へと眺めてから、背後の階段を一瞥する。下の階からは人が来ることは当分なさそうだと双葉は感じ、一つ大きな決心をした。

 

「……」

「……とう!!」

 

 両腕を掲げるようにして勢いよくベッドへ飛び込むと、ベッドの中にあるスプリングはその弾力を遺憾無く発揮し、双葉は少しだけ浮かび上がった。

 

「ふぎゃっ」

 

 一度バウンドしてからベッドへ落下た双葉は小さく悲鳴を上げた。

 

 大の字に身体を開いたまま動きを止めていたが、しばらくすると大きな呼吸音が枕の辺りから響き始める。

 それは文字に起こすとまさに「スーハースーハー」というものだった。

 

「くふふ……フフ……」

 

 枕に埋められている双葉の表情はだらしなく弛緩していたが、幸いそれを目撃するものは誰もいない。

 

 段々とテンションの高まってきた双葉はアキラの使っている枕を抱え込み、ベッドの上をゴロゴロと転げ回ることにした。胸の前で抱くと丁度膝で挟める程度のサイズのため、まるで本当にアキラに抱きついているように双葉は感じた。

 

(ふぉおおおおお)

 

 先程より更にだらしなく満ち足りた表情をしながらベッドの上を四回ほど往復すると、体力的な限界により五往復目の途中で止まった。

 

 抱きついたまましばらく動きを止めていたが、大きく息を吐きながら上体を起こしてベッドに座ると、至って爽やかな表情で双葉は深呼吸をした。

 メガネを掛けヘッドフォンを装着すると、双葉は屋根裏部屋の電気を点けた。

 

 相も変わらず殺風景ではあったが、棚の各所に双葉の送ったプレゼントなどが配されており、それを見るとつい双葉はニヤニヤとしてしまう。

 

 

「へへへ……いい気分だ」

「さてと。アキラが来るまで何しようかな」

「パソコン持ってきてないしモルも居ないし」

「アキラの持ってるカセットで遊ぶのも良いけど、どうせなら一緒にやりたいな」

「んー……」

「!!」

(もしかして……わたしも下で手伝いすればいいんじゃね!?前は散々だったけどアキラのおかげで大分レベルアップしたし、お皿洗うくらいなら余裕だろ!)

(いや……いや!?今のわたしならもしかしたら更なる上級クエストの仮面無しでの客への給仕も出来てしまうんじゃないか……!いや、できる!できる気がする)

 

 ふんふんと鼻息を荒くする双葉はアキラのカバンを覆うようにジャケットを放り投げる。

 

 嬉しさのあまり、いつもより大きく軋む階段の音に最初に気づいたのはアキラで、唐突に目を向けたため、それに追随するように惣治郎も階段へ目を向けた。

 屋根裏に居た人間が一人である以上、当然降りてくるのは双葉以外の誰でもないが、それでも惣治郎は驚きを隠せなかった。

 

「ふ、双葉!?大丈夫なのかよ、その、降りてきちまって」

 

「ふっふっふ……総治郎はこの頃のわたしのレベルアップぶりを知らないだろう」

「今や一人で秋葉原に出かけ掘り出し物を漁るまでになり、今日なんて釣りしたんだぞ!恐れるものなどなーい!」

 

「釣りはあんまり関係ねぇ気がするが……」

 

 惣治郎が困ったような顔でアキラの顔を見ると、双葉の顔を見つめたままにこやかな笑みを浮かべている。何か言いたげに総治郎は口を開いたが、諦めるように口を閉じた。

 

「分かった。そういうつもりなら手伝って貰うか」

「つっても、今日はそんなに客足が多いわけじゃないからな、そんなに仕事もねぇ」

「とりあえず皿洗い頼めるか?」

 

「ラジャー!」

 

 カウンター裏への入口付近に立つアキラの背後を通り抜けると、ふと甘い香りが彼の鼻をくすぐった。銭湯でのシャンプーの匂いと双葉自体の香りが混じったそれは儚く香ると、アキラの中を通り抜けた。

 

 思わず双葉の方を見るが、既に皿洗いの作業に注力している姿を見ると罪悪感が湧き上がってきたため、頭を二三度振ってコーヒー豆を挽く作業へと取り掛かる。

 ミルの取っ手を握る力が自然と強くなるが、隣に惣治郎がいることを思い出して心を落ち着けた。ガリガリと快音を響かせて粉砕している様を惣治郎はじっと見つめている。

 

「……いいぞ、ゆっくりすぎても早くてもいいわけじゃねぇからな。ちょうど良い速度ってもんがあんだよ」

「豆を挽くのはそれなりに出来るようになってきたな。ただ、お前は毎度煮立たせる時間が微妙に長いからな。そこさえ直せば特に言うことはねぇ」

 

 説明がひと段落したのを見計らったかのように、入口横のドアベルが鳴る。スーツを着た二人組。壮年の男と、上司であろう男に連れられてきたであろう若者だった。

 

「いらっしゃい」

「はいこんばんわ。カレー二つとブレンド二つよろしく」

「はいよ」

 

 総治郎が目配せをするよりも前に、アキラは豆の入った瓶を棚から下ろし分量を計り始めていた。

 既に出来上がっているカレーに対して、コーヒーはオーダーを受けてから作り始めるため、余り悠長にしている時間はない。

 座席への案内を終えてすぐさまカウンター裏へ回り込むと、総治郎はサイフォンに水を注ぎ火にかける。二人の呼吸はピッタリと一致しており、その姿はまるで長年背中を預け戦ってきた同志かのように見えた。

 

「……二人一緒にマジメに作業してるとこ初めて見たけど超カッコイイな。わたしもなんか手伝いたいんだけど何かないか?」

「あ、いや、とくには……」「お冷か?お冷運べばいいか?」「え、まぁ、まだ暑いしな……お冷運んで困るこたねぇよな……?」

 

 お湯がいい

 手伝いをして欲しい

➤冷えた水で問題ない

 

「分かった!普通に水入れて氷ぶち込んだものを運べばいいんだな?任せろ!」

 

 忙しなく戸棚と冷蔵庫を開閉する様子を横目に眺める惣治郎は、控えめに言っても不安そうな表情だった。

 

 それもそのはずで、つい一二ヶ月前まで部屋に籠りきりで出てくる様子など微塵もなかったというのに、今や進んで見知らぬ人間の給仕を行うというのだから不安にならない訳がなかい。

 

 

「へいお待ち!」

 

 居酒屋で生ビールを飲んだ人間がジョッキを机に置く音、と言われても疑いようのないほどの勢いで双葉はグラスに入ったお冷を置いた。

 慣性の法則によって一瞬浮かんでからグラスに叩きつけられた冷や水たちは、多少の仲間を外に置き去りにしつつグラス内で揺れた。

 

「!?お、おぉ……元気だな……あれ?マスターまたバイト雇った?」

「あぁバイトっつーか……まぁバイトか、そうだな」

「随分歯切れが悪いけど。あぁ、いや、余計な詮索か。ありがとう」

「へい」

 

 緊張からかやけにぶっきらぼうに返事をすると、そそくさとカウンター裏へ回り込みアキラの背後に隠れた。

 しばらくしても背後から動かないので後ろを向くと、小さく震えながらも嬉しそうな笑顔でアキラを見上げていた。

 

「ふ、ふふ……見たかアキラ、私もできたぞ。接客の真髄を掴んだ気がする」

 

 アキラの心中にとてつもない程の愛おしい気持ちが込み上げたが、当然惣治郎の手前何かをする訳にも行かない。アキラはとりあえずサムズアップだけをしておいた。震える指のサムズアップを受け取った双葉は、満面の笑みでサムズアップを返した。

 

「なぁ惣治郎、次はカレーか?」

「カレー皿は割れやすいしそれなりに重たいからな、アキラに任せろ。双葉は……」

「……今なんとなく思ったんだが、お前ならすぐにコーヒーの容れ方をマスターできるんじゃないか?」

 

「おお、確かに手順は覚えてるぞ!アキラがコーヒー容れるのを何回も見てるしな。やったことはないけど……やってみたい!」

 

「じゃあ後で俺とアキラに作ってみてくれや」

「……へっ、まさか双葉がコーヒーをいれてくれる日が来るとはな、分かんねぇもんだ」

 

 一瞬目が潤んでいるように見えたが、目元を指で擦るとアキラに向けて何かを要求するように手を差し出した。流れるように惣治郎にコーヒー豆の粉末を渡すと、手早くミルを分解しシンクへ運ぶ。

 

 週末だけに行うミルの手入れは最早アキラの体に染み付いており、一切の無駄のない体運びをしていたが今回はシンクへ向かう途中で双葉に遮られた。

 

「分解するとそんなんなってるのか。ちょっとかっこいいな……これは洗うのか?わたしが洗っておこうか?」

 

➤自分で手入れをするから置いておけば大丈夫

 後で一緒に手入れしよう

 水洗いでよろしく

 

「お〜プロフェッショナルだ。分かった!」

 

「おいアキラ、ちょっと来い。今からサイフォン沸騰させた後の混ぜ方をもう一度教えてやるから。お前は時々雑だからな、ひと混ぜごとに丁寧にだな……」

 

 ルブランでのコーヒーの容れ方はいくつかあるが、基本的にはサイフォン使って客へとコーヒーを提供する。

 

 大体のサイフォンは水を入れるビーカーと、コーヒー成分を抽出するロートの二つの部品に分かれている。

 激しく沸騰するフラスコ内の水が重力に逆らってロートの内側に到達すると、そこでコーヒー粉と混ざることになる。当然放っておくだけでは均一に混ざらないため専用のヘラで攪拌する必要があるが、確かにアキラはこの作業が苦手だった。

 

「これも確かに難しいんだがな……均一すぎてもいいって訳じゃねぇ。コーヒーだけで出すんなら均一に越したことはねぇんだが、ウチのカレーと合わせるんなら一口ごとに若干の差があった方がいい……見て覚えてくれとしか言いようがねぇな」

 

 アキラは素直に頷くと、双葉と共に惣治郎の手元をじっと見つめた。

 チョコレートのテンパリングを思わせる軽やかな手つきで攪拌して行き、みるみる内に水の色が黒く染まっていく。

 と、唐突に惣治郎は手を止めると轟々と燃えるランプに蓋をし火を消した。

 

「こんぐらいが丁度いい塩梅だ。湿度とか豆の具合にもよるがこれを目安にしてくれ。あとはフラスコの中にコーヒーが戻るのを待って、それを提供すればいい。双葉、ライスとカレーよそってくれ」

「任された!」

 

 二つの大きな平皿にライスを盛ってからカレー鍋の蓋を開けると、鮮烈なスパイスの香りがカウンター内に広がった。

 そして双葉のお腹からきゅるると音が鳴る。朝食以外お腹にものを入れていないため極自然なことなのだが、双葉は顔が急速に赤くなっていくのを感じる。

 

 なぜ顔が赤くなるのか自分自身でも理解出来ずキョロキョロと周囲を見渡すと、すぐに原因は見つかった。そこには少し気まずそうな表情のアキラが立っており、先程の音が聞かれていたことを理解すると双葉の顔はさらに赤く染まった。

 

「こっ……!!」

「……しっ、信じられん……!も、もうお嫁に行けないんだが!あ、いや、お嫁にはなれるのか……?お婿……?お婿に来てもらえばいいのか……?」

 

「何言ってんだ双葉……まぁいいか。アキラ、カレー運んでってくれ。コーヒーは俺が」「あっそれは私が持ってく!!任せてくれ!」「……あぁ、うん。気をつけろよ」

 

 依然顔は赤いままだが、それでも惣治郎から強奪気味にコーヒーを受け取ると、カレーを持つアキラの横に並んだ。

 

「さ、さっきのは忘れるんだぞ!凄い恥ずかしかった……」

 

 コソコソと一言二言話すだけで、狭い店内ではすぐに客席に辿り着いててしまう。先程よりかなり丁寧に置かれたコーヒーとカレーを前に、嬉しそうに男は手を打った。

 

「おーこれだよこれ。これをお前に食わせたくてな」

「コーヒーとカレーですか?あんまり見ない組み合わせですけど」

「でも先輩がオススメするぐらいですから美味しいんでしょうね」

「ったり前よ、間違いなく絶品だ。な!お嬢ちゃん」

「えっ!?お、おう!惣治郎のカレーは最高だぞ!」

「な?」

「いや店員に聞いたら美味しいって言うに決まってるじゃないですか」

 

 談笑をする二人のサラリーマンの元から離れると、先程と同じくカウンター裏のアキラの背中にて双葉は大きく息をついた。

 

「あぶ、危なかった……アキラが傍にいなかったら間違いなく即死してた……助かったぞ!まさかあんな奇襲があるとは……」

 

➤確かに危なかった

 奇襲?

 

「そうだよな!あんな急に声をかけられたら誰でもびっくりする」

「世の飲食業店員はあんな不意打ちに日々耐えてるのか?チャレンジってレベルの難易度じゃないぞ」

 

「随分頑張ったじゃねぇか。ほれ」

「おお!?いいのか?まだ居るぞ」

「今日は特別ってことでな。お前も食え」

 

 勢いよくカウンター席に腰掛けると、目を輝かせながら双葉はスプーンを片手にとった。アキラが隣に座るのを待ちながらも目はずっとカレーに向けられていて、いかに空腹だったかが伺える。

 

「いただきます!」

 

 勢いよくスプーンを口元に運びながら、双葉は時折嬉しそうに小さく唸る。額には小さく汗が浮かんでいるが依然として速度は衰えず、双葉の人生の中で最も早く盛られたカレーを平らげてしまった。

 

 一息にかき込んだからなのか、いつもなら自主的に食事済みの皿をシンクへ運ぶ双葉が今日に限って動かない。

 何を迷っているのか、キッチンの左から右を往復する視線の意味を惣治郎は分からず、しばらく道具の片づけに終始していた。

 

「……惣治郎」

「ん?」

「お代わりしていい?」

 

 お代わりの四文字が双葉から出た言葉だと一瞬分からず惣治郎はアキラに目を向けてしまう。しかしやはりアキラの発言ではないとわかると、惣治郎は恐る恐る確認した。

 

「お代わり?お前が?」

「……ふむ。今日、一つ分かったことがある」

 

 椅子の上で器用に両膝を抱えながら、双葉は人差し指を立てた。

 

「早めに起きて釣りと銭湯に行くと、凄くお腹がすく」

「はは、そりゃ貴重な経験だ。あいよ」

「!!やたっ!」

 

 再びよそわれたカレーライスにスプーンを突き立てると、先ほどよりは随分劣るがしかし勢いよくカレーを食べ進める。惣治郎の気遣いか、さすがによそわれたのは同じ量ではなくやや控えめではあったが、それでもやはり普段の双葉から考えると二食分の量はあった。

 

「マスターお勘定!」

「はいよ」

 

 作業の手を止めて惣治郎はレジの前に立つ。手早くレジを打って出てきた釣り銭を客に渡すと、かるく会釈をした。

 

「ごちそうさん」

「またどうも」

 

 ドアベルを鳴らしながら笑顔で退店する二組の背中を見送って、惣治郎は店外にかかる看板をひっくり返した。

 店内に戻るとアキラはすでに食事を終え皿を洗い始めていた。一方、双葉のスプーンは動きを止め、皿と口の間で止まっている。八割ほどまでは奮闘していたようだが、その表情からはもうカレーの入るゆとりはないように見える。

 余りにも予想通りな姿に、惣治郎は思わず笑みを浮かべてしまう。

 

「双葉大丈夫か?無理なら全部食う必要はねぇんだ。別に残したって……」

「……今、カレーと、戦って、るから……待ってて……」

「そんなになってまで食う必要はねぇと思うが……」

 

 若干困ったような表情で頬をかいて、惣治郎はアキラと同様に片付けを始めた。

 そしてしばらくしてから、双葉から絞り出すような声が漏れた。

 

「そ、そうじろ……あきら……」

「こ、こんなの、初めてだ……うご……動け……うぷっ」

「そうなるような気はしてたけどよ……ここから家までは厳しそうだしな……アキラ、悪いがベッドを貸してくれねぇか」

 

 手を拭きながら頷くと、アキラは一瞬にして双葉の背後に立った。石像のように姿勢を固める双葉の脇下に両腕を運ぶと、そのまま持ち上げた。

 その様子に思わず惣治郎は目を丸くする。

 いくら双葉が小柄とは言え、人一人を、それも真っ直ぐに伸ばした腕だけで持ち上げるのは相当な筋力を要することを惣治郎は知っているからだ。

 

 普段なら顔を赤らめて大声を上げそうな状況だが、全神経を腹部に集中させている双葉にそんな余裕はない。真顔のまま、そして座った姿勢のまま双葉が階段上まで運ばれていく。

 

「ぁ、アキラ、おも、重く、おも……うっ」

 

 運ばれている途中で何かを言おうとしていたが、押し寄せる吐き気を前に双葉は口を閉ざす。結局椅子に座った時と全く一緒同じ姿勢のまま、双葉はベッドの上へゆっくりと「設置」された。

 

「……」

 

 もはや発言をする度抑えきれない衝動が発生することを学習した双葉は、いまいち焦点の合わない目のままとりあえず親指を一本立てた。アキラも力強く親指を立てると、声は出さないままに双葉はにやりと笑みを浮かべた。

 

 階段を下りて階下に戻ると、心配そうではあるが、どこか呆れたような表情の惣治郎と目が合う。やれやれと言いたげな表情で肩を竦めると、惣治郎は後片付けへ戻った。

 

 

 

 粗方の片付けを終えて惣治郎が掛け時計を見ると、時刻は九時を回っていた。アキラも既に作業を終え店内のモップがけを行っている。

 

「双葉は……まだしばらくは動けねぇだろうな。お前が傍に居るなら心配することもねぇとは思うが、何かあったら電話してくれ。俺は先に上がらせてもらわ」

「……あいつの作るコーヒーはまた別の日だな」

 

 後ろ手に手を振りながら、哀愁を漂わせる背中をアキラへ向けて惣治郎は店を後にした。

 

 しばらく熱心にモップがけをした後、アキラは店内の隅から隅を確認するように歩き始めた。火の元はもちろん、掃除が漏れている箇所はないか、客の残したものはないか、戸締りは問題ないかを確認するためだ。

 惣治郎から鍵を預かった日からアキラが習慣づけていることだった。

 

 とくに問題がないことを確認すると、アキラはカウンター裏へ向かいサイフォンを火にかけると同時に、洗ったばかりのコーヒーミルを組み直した。店じまいをした後に自分で自分にコーヒーを容れるのも、今のアキラの習慣だった。

 

 中挽きがルブランで出すコーヒーの基本だが、アキラは少しだけ細かく挽いたものが好きだった。そしてサイフォンでの抽出も本来は長すぎてはいけないのだが、アキラは比較的長い時間をかけて抽出するのが好きだった。

 

 つまるところアキラは苦くて濃い口のコーヒーが好みなのだ。

 

 普段より長く沸騰し続けるビーカーの前で、撹拌する手を止めないままアキラは静かに目を閉じる。ボコボコと沸騰する音をゆっくり楽しむためだ。やがて充分な香りを感じて火を消すと、挽いた粉と満遍なく混ざりきった、コーヒーと呼ぶに相応しい黒々とした液体がビーカーの中に満ちていく。

 

 

「うぅ……アキラ」

 

 確かにそれは、窓際のベッドの上で横になっている双葉のうめき声だった。到底一階にいながら聞こえるような声量では無いはずだが、しかしアキラは第六感でもあるかのような聴覚の冴えを見せると、音もなく、黒くたなびく残像を残しながら階段をかけ上った。

 

 屋根裏に着いてアキラが目にしたのは眉根にシワを寄せながら横たわる双葉の姿だった。

 アキラはすぐさま駆け寄って双葉の背中をさする。アキラは特に誰かに教わった訳でもないが、昔誰かがこんなことをしてくれたような覚えがあった。

 

 背中をさすられてから、ようやく背中をさすっているのがアキラであることを認識したらしく頬を染める。

 花も恥じらう乙女が自身の彼氏の前で、それも食べすぎて横になっているとあれば確かに恥ずかしくもなりそうだった。

 

 静かな部屋の中で双葉の背中をさする音だけがする。

 

 どれほどそのまま時間が過ぎたかは分からないが、ともかくしばらくすると双葉は体を起こし、アキラの胸中に体を預けるようにして寄りかかった。

 大分回復したのか、上体を起こしても問題はなさそうだった。

 

 双葉は寄りかかった姿勢のまま、猫が膝の間で最も心地よい位置を探すように、二度三度身じろぎしてから動きを止めた。

 

 双葉とアキラは鼓動が早くなっていくのを感じながら、どちらからともなく目を瞑る。一層分厚さを増した静寂のベールに包まれながら、二人は互いの存在だけを感じあっていた。

 

 普段ならば、このままベッドに倒れ込んで一緒に眠ってしまう事もあるのだが、今日は双葉がそっと体を離した。途端に寒くなったような錯覚を感じつつ、アキラが目を開くと、ベッドの上でいつものよう膝を抱える双葉の姿があった。

 神妙な面持ちで、人差し指を宙に遊ばせている。

 

「一つ頼みたいことがあるんだが」

「アキラってコーヒー作れるだろ?」

「で、惣治郎が私の作ったコーヒー多分楽しみにしてるだろ?」

「だからな、出来れば美味しいコーヒーを出せるように特訓をして欲しいんだ」

「いいか?」

 

 もちろん

➤当然だ

 

「へへへ、やった」

「……でも、わたしからアキラに何もお礼できてない気がする」

「あ、というかさっき背中さすってくれてありがとな。大分楽になった」

「……あれ?これも貰いっぱなしになってる!」

「アキラも背中さすろうか?何かして欲しいことあるか?これじゃまるで姫プだ!」

 

➤抱きしめたい

 そばに居てくれるだけでいい

 双葉は姫で間違ってない

 

「抱きっ!?い、ぃいぞ!!実は今日釣り堀にいた時から……ううん、昨日の夜、お前と分かれた後からずっと抱きしめて欲しかった」

「へへ……」

 

 薄暗い部屋の中、はにかむ双葉の笑顔は窓から入った月明かりに照らされて。アキラの目にそれは洗練された一つの絵画にすら見えた。

 

 アキラは込み上げる衝動を堪えながら、極めて優しい手つきのまま双葉のメガネとヘッドフォンを取ると枕元へ置く。奇しくも寝る前に自分が置いた位置と全く一緒の場所置いたため、双葉は何故だか嬉しくてまた笑みを浮かべた。

 

「あ……」

 

 アキラは片方の手で体重をかけると、双葉をベッドに優しく押し倒した。そのすぐ横で身を横たえると、まるでいつぞやの双葉が枕にしたように、全身を使って抱きしめる。

 いくら夜とはいえ、それでも暑さの残る時期に二人が抱き合えば汗をかく程にはなるが、それでも双葉は離れようとせず、そしてアキラも離れる素振りを見せない。

 

「ふふ……」

「……なんか、楽しいな」

「くふふふ……」

 

 双葉は唐突に笑うと、アキラを抱きしめる力を強めた。双葉の胸とアキラの胸が触れ合い、互いの鼓動の音が混ざり合う。

 

 どの音がどちらの物か分からなくなった頃、アキラは眠りに落ちていた。一定のリズムで頭頂部に触れる吐息で、双葉もアキラが眠りに落ちたことを把握した。

 十二分に睡眠を取っていた双葉は生じき寝直すことが難しいことを自覚していたが、しばらく色々と考えてから、やはりアキラの胸中に留まることにした。

 

 枕よりもずっと濃いアキラの匂いの中で、正直大分汗ばんできていたが、それでもそのまま双葉は目を瞑り、静かに夢の中へ落ちた。




▶双葉は姫で間違ってない

「なっ、何言って……」
「……いや」
「そういうことなのか……?」
「……良いんだな?」
「そういうことで良いんだな?もう取り消せないからな?」
「アキラ、携帯出して。あと明日朝から市役所に行って一緒に書類を出しに行こう。大丈夫、お前の分はもう書いておいた」
「そんで今惣治郎午後は店を閉めるように伝えたから……な?」
「頼りにしてるぞ!カレシィ♡」

True end


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佐倉双葉の過ごし方

 平日午前八時から午後五時までの時間は、双葉にとってかなり退屈な時間に分類される。

 そのため双葉は夜遅く、いや、朝早くに寝て午前の時間を睡眠で消耗しきってしまう事が多い。

 

 

 しかし昨日、アキラと一緒に十分すぎるほど眠ってしまった結果、双葉は午前十時に目を覚ましてしまった。一度時計を見たあと布団の上で目を瞑って、三十分は経ったかと時計を見たら五分も経っていなかったため、双葉は渋々身体を起こして歯磨きと洗顔へ向かった。

 

 

 家の中には誰の気配もない。

 今日も今日とて純喫茶ルブランは営業していて、惣次郎はいつものようにコーヒーを容れているに決まっている。

 特に多くの人が来るわけではないが、それでも足しげく通う人のためにルブランは年中無休となっている。

 もしかしたら一定の常連客がいれば存外喫茶店とはやっていけるのかもしれない。

 

 

 何となしに、取り留めのないことを考えながら双葉は口をゆすいで吐き出した。

 双葉は幾分かスッキリした心持ちでリビングへ向かうと、おもむろにテレビをつける。以前なら即座に二階へ上がってパソコンを立ち上げヘッドフォンを装着していたが、この頃の双葉は少し違う。

 

 双葉はこの二三か月のうちに二つも大事な物ができた。その大事なもののために一応世間話の一つや二つ覚えていても損はないだろうと考えている。しかし世間話のタネをネットで仕入れるとどうも内容の偏りが多いことに気づいた双葉は、とりあえず一般的な情報収集ツールであるテレビを見ることにしているのだ。

 

「うげ……」

 

 嫌そうな顔をした双葉の視線の先には、巷では探偵王子だとかもてはやされている男が画面一杯にアップされていた。正直双葉はこの男が好きではない、というか生理的に受け付けない。理由はよくわからないが、ともかくそのきざったらしい笑みを見るだけで鳥肌が立つ。

 

 チャンネルとぱちぱちと変えると、途中でバラエティ番組を放映しているチャンネルへ当たった。

 あまりにもバカバカしい内容だと視界に入るだけで辟易としてしまうが、たまたまこの放送では「必見!20代カップル大人のデート!東京編」特集が放映していたため、ボタンを押す寸前で双葉は指を止めた。

 

 

 ソファに身を預けてだらけていた姿勢から打って変わって、今は前傾の姿勢でテレビ画面を見つめている。

 

『見てください田中さん!これ凄いですよ!』

『うわっ!!昼間とは思えない星空!!これが天変地異ですか!?』

『いやプラネタリウム!』

 

「プラネタリウム……」

 

『デートと言えば最近お家デートっていうのが流行ってますよね?』

『そんな皆様におすすめするのが、こちら、お家デートを盛り上げること間違いなし!神保町古書店街にある古本達!』

『たった一冊の本でも、今まで持っていた人のことに思いを馳せるだけで無限に広がる物語がありますよぉ!』

 

「古書店街……」

「どっちのスポットも駅から近いな……ふんふん……覚えたぞ!」

 

 双葉は「銀座」へ行けるようになった!

 双葉は「神保町」へ行けるようになった!

 

(プラネタリウムは事前に色々覚えて行っても面白いような気がするけど、その場で一緒に覚えたりした方がもっと楽しいかもしれないな)

(あぁいう所はちゃんと星座の由来とか説明してるだろうし、予備知識なしで行くのが吉と見た)

 

(古本屋も中々いいな。たまにはpcパーツの雑誌じゃなくて普通の小説を読むのもありかもしれない。アキラと回し読みして感想とか言い合えたら絶対楽しい……)

(コテコテのSF本とか置いてあったらいいな。手始めに地底旅行とか読ませたい)

 

「ふふふ……」

 

 双葉はその後もしばらくスポット紹介を見ていたが、段々と紹介されていくスポットの対象年齢が上がっていき、健康ランドが紹介されたところでそっとチャンネルを変えた。

 

 

 ニュース、昼ドラ、バラエティ、国営放送をぐるぐると回ったが、しばらく探しても面白そうなものはなかったので双葉はとりあえずニュースを流すことにした。

 

 今日の天気や各地の情報、世界情勢までもが小分けにされて放映されている。

 世間で起きている情報を余さず取り込んだ上で無駄を省き、本当に必要だと判断されたものだけがこの電波に乗っているのだろうと、なんとなく双葉は思った。

 

 

 どこかの動物園で赤ちゃんが生まれたとかどこかの企業が新店舗を開店したとか。以前の双葉だったら耳に入れても覚えない、というよりそもそも耳に入れることもない情報ばかりだったが、それでも興味深げに双葉はテレビ画面を見つめている。

 

 

 気づけば十五分程のニュースはあっという間に終わり、どこかの掃除機のcmが放映されている。

 

 双葉がそろそろ二階に上がってゲームをしようかと思った時、そういえば今日のニュースでは怪盗団が取り上げられていないことに何となく気づいた。

 

 

 怪盗団。

 心を盗むと言われる正体不明の怪盗たちは、その実学生の集まりであることを知っている人間はほぼいない。

 電子世界を裏から牛耳っているとも噂されるメジエドから宣戦布告を受けながらも、完全に沈黙させた事件は世間の記憶にも新しい。その影響からか連日特番が組まれ、近頃ではグッズも売り出されていたりする。

 

 

 その怪盗団の話題が取り上げられないことに対し何故双葉が反応するのか?

 

 

 前述の通り双葉は世相に疎く、決して流行りものを追うのが好きでもミーハーな性格という訳でもない。だと言うのに怪盗団に意識が向く理由としては、やはり自分自身がその団員の一人であるからに他ならなかった。

 

(うーん。世間の手のひらグルグルする速度はすげーからなー、もう飽きててもおかしくないか)

(竜司のやつは謎に目立ちたがりだから残念がるかもしれないけど、普通目立ち過ぎない方がいいんだよな怪盗だし)

(それに)

(……)

 

 

 クッションを抱きしめたまま双葉は動きを止める。脳裏に浮かんでいたのは、未だ姿の分からない、母親の仇の事だった。

 

 

 認知訶学に携わる双葉の母は研究を世間に公表する前に自殺した。正確には自殺したように見せかけて殺された、と双葉は考えている。

 パレスという心の世界の中で暗躍する敵の存在を知った時、それこそが自らの母親を手にかけた相手ではないかと双葉は直感したのだ。

 

 

 

 急激に部屋が暑くなったように感じ、双葉は自分が猛烈に怒りを覚えていることに気づいた。頭部に血液が集まり、思考を加速させようとするが理性でそれを抑える。

 現状ある情報では、その何者かに対して取れる行動など何もないことを理解している以上、何を考えてもただ消耗するだけのことも理解しているからだ。

 

 

「ふーっ……」

「やめだやめ!一人で考えすぎてもいいことないなんて分かりまくってるし!」

「アキラだって色々考えてくれてるんだ、わたし一人でむやみに考えるのはやめよう、うん」

 

 

 半ば無理やり自分を納得させると、双葉はテレビを消して二階へと駆け上がる。

 

 テープの貼られた痕の残る扉を開けると、そこには双葉の最も安心する空間が広がっていた。

 

 絶え間なく文字が上下へ流れるモニター前に座り双葉は深呼吸をする。それと同時にアキラと行った事のある場所や声を思い出すと、心拍数は正常値へと戻って行った。

 以前の双葉なら想像だけが先行し、一人で袋小路に嵌っていた可能性もあったが、心底頼れる人がいるというだけで双葉は何倍も強くなれた。

 

「……よし」

 

 数分ほどすると双葉は徐に立ち上がった。

 メインデスク右裏、壁との隙間に大量に積まれたダンボールからインスタント焼きそばを二つ取り出すと一階へ降りた。

 

 

 キッチンにて、電気ケトルに水を注ぎながらカップ焼きそばを準備する手際は熟練の域に達しており、もはや手元をほとんど見ていない。

 

 双葉はタイマーの鳴る二十秒ほど前にストップさせると急いで湯を切り、そして二階の自室へ向かった。

 席に着いてから時間を確認するとデジタル時計は十二時十六分二十秒を示しており、アキラがそろそろ食事を始める頃だろうか、と双葉はぼんやり考えた。

 

「……」

 

 いつもとは違う室内専用のヘッドフォンを装着しキーボードの上で指を走らせると、画面一杯の文字が消え代わりに別のものが現れる。

 

 

 寂れたコインランドリー。どこかの喫茶店の店内。埃まみれの屋根裏。どこかの学校の教室。それらのリアルタイムの映像が映し出され、そして双葉のヘッドフォンからは教室内の雑音と、話し声が流れた。

 

「今日は竜司とご飯か……」 

 

 かやくとソースを十分に混ぜた麺をすすりながら、双葉はその景色をじっと見つめる。

 

 取り付け位置の関係で視界は決して広くないが、この景色が見えるだけで双葉は非常に満足だった。何しろアキラが見ているものがほとんどそのまま見えるのだ。

 

 

 二人の食事場所は場所は教室内、窓際の席。

 竜司は他教室にも関わらず堂々とアキラの隣に座っている。

 鴨志田の一件以来アキラに向けられる恐怖と好奇の視線は少なくなったが、それでも完全に消えた訳ではない。当然そこに現不良が加われば意見を言う者は居なかった。

 

「……んでよ〜?また行ったら今度は味が薄くなってんだぜ?めちゃくちゃ安くて近かったのに、立て続けにこうだと行く気失せるよなぁ?」

 

 

 こくこくと頷いているのか二三度上下に揺れる画面。以前はこれで酔うことがあったが、双葉はすっかり慣れており二つ目のカップ焼きそばに手をつけている。

 

 どうやら近所のラーメン屋の出すラーメンの味が頻繁に変わることについて語っているようだ。

 

 

「ふふふ……ラーメン屋か……そういえば竜司とアキラの行きつけの店があるんだっけ。わたしも行きたいな」

 

 

「ラーメンもいいけどさ、寿司行かないか?最悪回転するやつでいいから!ワガハイ皆が高級寿司を食べる時ずっと食いっぱぐれてるんだぞ!」

「……前から思ってたんだけどよ、猫って人間並の味覚あんのか?」

「なっ!?オマエなんてことを!言っとくけどな、ワガハイカレーに入ってる隠し味のチョコのメーカーまで分かるからな!?あと猫じゃねぇから!」

「ホントかよ……あ、そういえば今家に高めのハムがあんだけどさ、今日の放課後市販の奴と見分けられるか試さねぇ?」

「やってやろうじゃねぇか!!」

 

 一連のやり取りを見聞きしてくつくつと双葉は笑っていたが、ふと画面が細かく揺れていることに気づく。どうやらアキラが声は出さないままにこっそりと笑っているようだ。

 

「ぶふっ……アキラも同じところで笑ってる……!これがシンクロか?いやむしろ距離ある分シンクロ率百パーセント超えちゃった的な?」

「ふふふ……」

 

「それにしても相変わらず完璧だなこのカップ焼きそば。いつ何時も美味すぎるぞ」

 

 空になった円形の器を見つめながら双葉はしみじみと呟く。かなり多くのメーカーを試したが、行き着いたのはこの某未確認飛行物体に近しい形状のカップ焼きそばだった。

 

「誰に言う訳でもないけどごちそーさん!」

 

 空になった焼きそばの容器をまとめてゴミ箱に捨てると、双葉はしばらくモニター越しの教室の様子を眺めていた。

 このカメラから見えるのはただの景色ではなく、アキラ見ている景色とほとんど同一であるという事が、双葉に様々なことを発見させた。

 

 例えばアキラは人と会話を行う時基本的に真っ直ぐに目を見つめている。

 それは双葉自身が身をもって分かっている事だったが、アキラの視点で一歩遠い位置から見ていると、人の目を見ながら話すことがいかにコミュニケーションをとる上で重要なのかが理解出来る。

 

 また、アキラは食事をする時良く自分の食べた物の様子を見ている。例を挙げるとするならばパンを食べる時、一口齧る度に断面を見ている。

 アキラは授業中暇になるとペン回しをよく披露している。どこかで技を覚えているのか日に日に巧みになっているようだった。

 アキラは良く購買のパンを買うが、特にコロッケパンの割合が高く、お菓子系の甘いパンの購入率は低い。

 アキラが授業中に窓の外を見ている場合は、大抵空を眺めている。

 アキラは授業中時々服に付着したモルガナの毛を丁寧に払いつつ、机の下のモルガナを撫で回していることがある。

 アキラは教師から良く指されるが時折意識が飛んだように動きを止めていることがあり、その後決まって正解を答えている。

 アキラは──

  

「……おっと、ぼーっとしてた」

 

 我に返った双葉が画面を見ると、そろそろ昼食は終わる頃だった。一言二言言い残してから教室から竜司が出ていくと、アキラは手早く次の授業の道具を机に並べ始めていた。

 

「ずっと見れるって訳でもないしなー。今日はもう切っとくか」

(……こうなると放課後まで暇なんだよな。久しぶりにSF映画でも見るかゲームをするか)

(……いや違う。そんなことよりも何かをしないといけないことがあったはずだ)

(そう、惣治郎の手伝いだ!)

 

「ゲームやってる場合じゃない!」

 

 双葉はいつもの画面に切り替えると急いで身支度をして階段を駆け下りた。




Tips:アキラの身につけているもの持ち物

制服上下
カメラ入りメガネ
学校指定鞄
盗聴器付きモルガナ
遠隔起動型GPSアプリ入り携帯


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佐倉双葉と惣治郎(上)

「おぉ!アキラ〜!」

「いいところに帰って来たじゃねぇか、まぁ座れよ」

 

 アキラが扉を開けると喜色満面の惣治郎と双葉が待っていた。

 店内に客の姿はないもののカウンターには無造作に、五つ空のカップが置いてある。先ほどまで団体で客がいたのだろうか?しかしルブランに団体で客が来るとはとても思えないが……と思案を巡らせる間も与えず、双葉はアキラの腕を引いた。

 

「ほらほら来てくれアキラ!めっちゃ頑張ったからお客さんとしてお前に最初に味わって欲しかったんだ」

「自分の身内にこんな事言うのもなんだが……天才はいるもんだぜ、本当に」

 

 何やら興奮気味な双葉と何やら自慢げに煙草を吹かす惣治郎の様子は、やはり普段の様子とは大きく違っている。

 とりあえずカウンター前の椅子に腰を下ろすと、隣の椅子に置いた鞄から上半身を出しながらモルガナがアキラに話かけた。

 

「な、なんか妙な感じだな……なんでゴシュジンと双葉はこんなご機嫌なんだ?」

「ふっふっふ、気になるか?語るより飲むが易し、こちらをどうぞ」

「いやテンションが意味不明だぞ……」

 

 したり顔の双葉がアキラの前に出したのはソーサーに乗った変哲のないコーヒーだった。どこからどう見て普通のコーヒーに見えるそれは、アキラのサードアイを以てしてもやはり普通のコーヒーに見える。

 

 アキラがコーヒーカップから視線を外すと相変わらず満ち足りた表情の二人がそこに立っていて、今はなぜか背中合わせになりながらお互い腕を組んでいた。

 

「一時期テレビでこういうラーメン屋取り上げられてたよな……」

「うーん、よくわかんねぇけどとりあえずコーヒー飲むか?見た感じなにか仕掛けがあるって感じじゃねぇし」

 

 アキラは頷いて、コーヒーカップから立ち上る湯気を一吸いした。

 

「!」

「おぉ……!?」

 

 アキラはルブランに来てからほぼ毎日淹れたてのコーヒーを朝晩飲んでいる。初めの頃惣治郎に「コーヒーを飲む前に香りを楽しむもんだ」と教わって以来、飲む直前に匂いを嗅ぐことは今や一連のルーティンとなっていた。

 そして今日に至るまでに優に百回は繰り返したルーティーンの中、アキラは初めてコーヒーカップを運ぶ手を止めた。

 

 鼻腔内に広がる香りの一つ一つが鮮烈なまでの色どりを持っていて、それでいて過去体験した香りの中で飛びぬけて濃い。

 

 アキラは恐る恐る、黒みがかった琥珀色の液体を口の中に流し込む。

 舌の先端部に触れたとき最初に感じたのは柔らかい酸味だった。直後口腔内に広がる香ばしいフレーバーはまさにブルーマウンテンであることの証左だった。舌全体に広がる苦味は、しかし通常のそれと比較してやや苦く、濃い。喉奥へと飲み込んだあとの余韻はすっきりと爽やかで、かすかさな酸味の残響のみを残して消えた。

 

 

➤美味い!!

 

「そうだろそうだろ!なんせめっっっちゃ頑張ったからな!お腹タポタポだぞ!」

 

「俺もコーヒーで腹いっぱいになっちまったが、それでこの味が生まれるってんなら安いもんだ」

「双葉の奴今日コーヒーを淹れ始めたばっかだってのにもうこんな腕前だ。信じらんねぇだろ?」

「お前もかなり勘はいい方だが双葉には敵わねぇかもな」

「ふっふっふっ……褒めろ!」

 

➤確かに信じられないほどおいしい

 勝負するか?

 ゲームだったら……

 

「お、おぉ?……自分で言わせてなんだけど真正面から言われると照れるな」

「ま、まぁともかく!これでわたしもちゃんと店の手伝いが出来る訳だな?」

 

「え?あぁ、そういうつもりで練習してたのか?いや俺はてっきりコイツに飲ませてぇからかと……」

「いやー、ほら、なんていうかアレだ……お、親孝行?」

「双葉……」

 

 言葉を聞いた直後、惣治郎は眼鏡を外して目頭に指を当てた。

 

「……長く生きてりゃいいことがあるもんだな。これからも頼んだぜ双葉」

「うむ、ガッテンショウチ!」

「おっと、もちろんお前にもいろいろ頼むからな。」

 

 アキラは頷くと、またコーヒーを口元へと運んだ。口の中に含むと思わずため息が出てしまうような味わいに、アキラはやや放心した表情でカウンターを眺めている。

 

「なぁ、双葉のコーヒーそんなに美味いのか?ワガハイコーヒーはそんなに得意じゃないからわかんねぇんだけど」

 

➤好みの味だ

 香り高いブルーマウンテンの豆を損なわない完璧なドリップが……

 

「へぇー、確かにアレだな、いつもオマエが作ってるコーヒーに似てる気がしなくもないぜ?」

「……」

 

 そう言われて、アキラは何かに気づいたようにまじまじと黒い液体を眺めた。確かにこのコーヒーはアキラの好みを完璧に網羅している。

 しかしアキラの好みの味は惣治郎の指導する味とはやや違う。勿論惣治郎のコーヒーは絶品でありその味の完成度に疑いようはないが、惣治郎の動作をトレースしただけではこのような味わいにならない。

 

 そうすると、残った可能性としては偶然この味になったか、もしくはアキラの味覚に合わせて濃さを調整したかの二択となる。

 

 アキラの記憶の中でコーヒーの濃さに関して双葉に語った記憶はなかったが、とりあえず悩むようなことでもないので今聞いてしまうことにした。

 

➤濃いめだ

 いつもと味が違う気がする

 毎日このコーヒーを飲みたい

 

「……お!?マジかスゲー!!分かるもんなのな!」

「おいおい。この短時間でアレンジまでできるようになったのか?」

「へへ、そんな大層なもんじゃないけど、ちょっとだけな。最後の一杯だけほんの少し濃くした。アキラの好きな味だからな」

 

 基本的に惣治郎の帰った後にコーヒを淹れている上に誰かに好みの味を話事もないため、一体どこでその情報を知ったかにはやや疑問が残ったがはにかむ双葉の笑顔が可愛いのでアキラは考えるのをやめた。

 

 照れる双葉とにこやかにコーヒーを飲むアキラの姿を交互に見ながら、惣治郎は口元の煙草を吸い切った。吸殻を灰皿に放り込んで、少し考えるように顎に手を当ててから惣治郎机の上の食器類の片付けを始めた。

 

「これからは双葉にコーヒーを作ってもらうのもありかも知んねぇな。接客と料理はコイツにやってもらって、俺は……盆栽でもやるか?」

「ぶふっ!?盆栽!?あははははそうじろうスゲージジ臭いぞ!」

「へっ、こう見えて十分ジジイなんだよ俺は。ほら、飲み終わっただろ?片付け手伝ってくれ」

 

 垂直になったコップのフチから滴った最後の一滴を舌で受け止めると、アキラは名残惜しそうに空の容器を眺めた。

 悲しげに眉根を下げた表情を見つめていると、双葉の心中に愛おしい感情がふつふつと湧き上がってくる。

 

「くふふ、そんな物欲しそうな顔するな!後でいくらでも淹れてやるぞ?だから一緒に片付けしような!」

 

 渋々といった緩慢さで二つほどのソーサーを持つと、カウンター裏のシンクに置いた。六つものコーヒーカップがまとめてシンクに置いてある光景は、否が応でも双葉の努力の跡を感じさせた。

 

 アキラはルブランで調合した専用の洗剤をスポンジに染み込ませると二度三度揉んで泡立たせた。コーヒーカップのフチを滑るように、流れるように手早く汚れを落としていく。

 あっという間に全てのカップを洗浄すると、アキラはタオルで手を拭いて一息ついた。

 

「よっしゃー!片付け完了!ミッションコンプリートだ

ー!」

 

「……なんつーか、今日一日終わったような充足感があるが六時にもなってねぇのか……流石にこんな早く店じまいって訳にはいかねぇからな」

「お前らなんか用事でもあんのか?」

 

「んー、家に戻ってネットしてゲームして……あ!そういえばアキラ今日暇か?一緒に見たいSF映画があるんだった!わたしの超好きな監督の新作がついに発表されてネットの前評判みるとかなり好評で期待がやばい!」

 

 目をキラキラとさせながら早口気味に双葉が捲し立ててる。よほど好きな映画なのか、前作がどんな映画だったかどのあたりが見どころなのか、果ては出演した俳優の演技についてまで語っている。

 浮足立った様子で双葉はルブランのドアベルを鳴らし残暑の空の下へ繰り出すと、アキラは惣治郎に一度会釈をしてから双葉を追うようにルブランを後にした。

 

 

 店内に、壁掛け時計が時を刻む音とエアコンの稼働する低い音だけが満ちていく。惣治郎は二人の出ていった扉を数秒眺めると、カウンターの端、古めかしい黄色い電話器のそばの新聞紙を手に取ってカウンター前の椅子へ腰を下ろした。

 

 新聞紙には政党批判だとか昨今の世界情勢だとか、当然ながら大衆の注視している内容が多分の面積を占めている。惣治郎は見出しをざっと確認してやや興味を惹かれるものを読み始めるが、しばらくしても読む箇所が全く変わっていない。一度読み終わったはずのところへ戻ったり、別の欄で行きつ戻りつを繰り返している。 

 

「……」

 

 ポリポリと頬を掻いて新聞紙を置くと、惣治郎は煙草を口にくわえた。カウンター上の折りたたんだ新聞紙を一瞥するが現在の惣治郎の心理状態ではとてもまともに読めそうにない。

 

 常日頃惣治郎の心中を占めるのは双葉か夕飯の献立(大体カレー)か厄介な居候の内のどれかだが、今は双葉と一緒に居候のことばかりが浮かんだ。

 この二人を合わせてで思い浮かべるようになってからそう日は経っていない。

 

 

 初めて惣治郎が気づいたのは、店の手伝いをするアキラに双葉が一言声をかけた時だった。

 

「おっすアキラ~」

 

 声をかけられたアキラは軽く微笑むと、また手元に目を落とした。双葉も一言声をかけただけで特に会話はせず、出入り口に一番近いテーブル席に腰を下ろしノートパソコンをいじり始めた。

 

 しばらく作業をしているとアキラの口元が緩み柔らかい笑みを浮かべていることに気づいた。口元を軽く緩め、目を細めたような控えめな笑みだ。しかし何故コーヒーミルを分解しながらそんな表情を浮かべているのかが惣治郎には全く分からない。

 思わず声をかけようとしたが、ふと視界の端に映った双葉の笑みを見て惣治郎は動きを止めた。それは、惣治郎が見たことのない類の笑みだった。充足して、ついこぼれてしまったかのように、いたずら気に口元を隠しながら双葉は笑っていた。

 

 その瞬間、決して鈍い方ではない惣治郎の脳内に一筋の閃電が奔り、そして脳裏にそり立った極大サイズの「アベック」の四文字を煌々と照らし出した。

 

 

「はぁ……」

 

 昨日と今日のやり取りを見て、九割九分九厘だった疑念が純度百パーセントの事実となった。

 どこの誰がどう見ても、アキラと双葉は恋人同士だった。

 

「はぁ~~~……」

 

 店内をそのまま埋めてしまうのではないかと思うほどの紫煙が、ため息と共に惣治郎の口元から吐き出される。

 

 惣治郎は双葉に対し一般の親子と比べてもなんら遜色のない愛情を持っている。不器用ではあるが何ら嘘偽りのない愛を双葉に対し注いでいた。

 そしてそれは、今や屋根裏の居候に対してもだった。当初は前科者と聞いて警戒はしていたが、一か月もしないうちにそれは事実でないことを惣治郎は理解した。惣治郎本人は決して人を見る目に万全の自信があるわけではない。しかし数か月という時間と双葉に纏わる多くの体験を経て、今や惣治郎のアキラに対する信頼はゆるぎないものとなっていた。

 

 双葉とアキラ。惣治郎が世界で最も気に掛ける二人が恋仲になってしまったのだ。

 

 驚きこそすれ、惣治郎に二人の恋路を阻む気はない。この世で自分を除けば一番信頼出来る男と愛娘が恋仲になったのだから、他の馬の骨とそうなるよりは遥かに受け入れやすい。

 

 しかしそれでも、やはり双葉の保護者として、父親としてはいそうですかと受け入れる訳にはいかない。さしあたって一体将来の展望をどこまで見通しているのかをアキラに問いたださねばならないと惣治郎は思った。

 

「……一応話だけ聞いてみるか。一応な」

 

 一本吸殻の増えた吸殻入れにまた煙草を押し付け、惣治郎は最後の煙を口から吐き出した。 




 確かに信じられないほどおいしい
➤勝負するか?
 ゲームだったら……

「ほほーう?面白そうだ!その勝負受けて立つぞ!」
「じゃあ早速豆を砕いてくれ」
「あれ?もうコーヒー淹れたのか?一体いつの間に……」
「じゃあ飲むぞー」
「……」
「……うん、そうじろうと同じ味がする!」
「……へへ、確かにわたしにとってはこれが世界で一番美味しい味だ。これを出されたら勝てないな〜」
「今回はお前の勝ちだな。だが油断するんじゃねぇぞ。いずれ第二、第三の双葉が漆黒の雫を以て世界を制する時が来るだろう……」
「何言ってんだゴシュジン……」


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