A ferocious pure love (Bacon and Egg)
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第1話 果物売り
8月15日、夏真っ盛りのエジプトではうだるような暑さが毎日続いていた。今日も最高気温は36℃にまで上り、熱気のせいで景色が揺らいで見えるほどだ。そんな中でも7歳のマリア・ヘルシュラグはいつも通り果物屋の売り子を務めていた。
暑い中では水気の多い果物が飛ぶように売れる。抱えていた籠一杯に入っていたグレープフルーツやオレンジ、梨、ナツメヤシなどの果物はあっという間に無くなり、その分マリアの持つ巾着袋が小銭で重くなっていった。
本来であれば籠の中身が減ってきた時点で一度店に戻り、果物を補充して再び売りに出かけるのだが、何となく今日はそのままあちこちを見て回ろうと決める。薄紫の薄い布で出来たヒジャブを飛ばないよう気を付け、マリアは自分が住むハーン・ハリーリ市場から出てみることにしたのだった。
***
来た道を脳内で反復しながらどんどん歩みを進めていく。普段は来ないような閑静な住宅街にたどり着いたところで、マリアはようやく足を止めた。人通りが殆どないのが、暑すぎるせいなのか普段からそうなのかマリアは知らなかった。何しろあの市場からここまで離れるのは初めてなのだ。
好奇心旺盛な少女は躊躇うことなく目の前の角を曲がる。
「__!」
突然目の前に現れた大きな建物。家というより城だと言われたほうが納得のいく、そんな建築物の様相に少女は目を輝かせた。
改めて言っておくと、マリア・ヘルシュラグは好奇心旺盛で、かつ怖いもの知らずなのである。
入り口を見つけるべく、塀に沿って歩き出した。巨大すぎて敷地の一辺を辿るのに物凄く時間がかかる。マリアは途中から走り始めた。やっと入れそうな門を見つけた時には探し始めてから30分は経っていた。だが門は固く閉ざされており、塀にも入れそうな隙間はない。
マリアは諦めることなく更に進んで塀を辿って行った。そして、脆くなって隙間が空いた箇所を発見した。
籠を歪めて塀の向こうに入れ、その次に自分も潜り込む。小柄で華奢な身体は難なく通り抜けられた。ようやっと立ち上がったマリアは、塀と建物の間に生い茂る木々に思わず声を漏らした。やがて我にかえるとヒジャブをしっかりと巻き直して籠を抱えた。
静かすぎる場所にマリアのサンダルの軽い音だけが響く。怖いもの知らずな少女は怯むことなく突き進み、とうとう大きな扉の前までやって来た。後ろには先程見た門がある。
マリアは扉を右手で押した。ノックをしようか迷ったが、そもそも人が住んでいるかも分からないし、居たところで勝手に入るなと怒られるのが関の山だ。
鍵のかかった様子もなく、僅かに軋んで扉が開く。中には見たこともないような暗闇が広がっていて、マリアはそこで初めて逡巡した。が、窓があったことを思い出し、更に扉を開けて中に滑り込んだ。
やや大きめの音を立てて扉が閉まる。マリアは息を殺して暗闇の中で目が慣れるまでじっとしていたが、段々と見えるようになってくると移動を始めた。左側に階段があり、右側にはドア、まっすぐ通り抜けた先にもドアがある。マリアは左、真っ直ぐ、右、と順番に指で指し示していった。母が彼女に教えた、迷った時に決める方法である。
「どれにしようかな、天の神様の言うとおり…」
歌の終わりで手が止まったのは右側のドアだった。マリアはぺたぺたとサンダルの音を鳴らして近寄る。ドアの横には『
ドアノブを捻ると思ったよりも大きな音が響いてしまい、マリアは慌てて中に入った。そこは名前の通り朝食をとるための部屋らしくなっており、一面ガラスの張り出し窓の他にもテラスがあった。カーテンが閉められていて暗かったが、内装はかなり豪奢であることが分かる。
一通り見てしまうと、マリアは次へ進もうと先程のホールに戻り、細心の注意を払って静かにドアを閉めた。
「勝手に人の家に入って見て回るなんて悪い子だね」
「!」
突然後ろから聞こえた嗄れた声に、マリアは文字通り飛び上がった。振り返ると階段のそばに小柄な老女が立っていた。杖を持っており、ふさふさとした髪は真っ白だ。
「おばあさん、だれ?」
マリアはきょとんとして首を傾げた。
「人に名前を聞くときには自分から名乗るのが筋ってもんじゃろうが」
「わたしはマリアよ。マリア・ヘルシュラグ」
「マリアね…。わしはエンヤじゃ」
「ふうん。おばあさんはここに住んでるの?」
マリアは興味津々なのを隠さずに聞いた。怖がったり怯えたりする様子を少しも見せない少女に面食らいつつもエンヤは頷き、それからマリアを手招きをして呼び寄せる。
「わしはここに住んでいるが、ここの主は別にいるんじゃ」
「あるじって?」
「この館で一番偉い人のことじゃ。お前は勝手にここに来たからその人に殺されるかもしれん」
マリアは目を瞬いた。屋敷の主はまだ小さな侵入者には気付いておらず、エンヤは怖がらせるために言ったのだが、彼女には全く効果を示さなかった。
「入っただけなのにそんなに怒るの?そんなのひどい」
「あのお方は見知らぬ者を嫌うんじゃよ」
「じゃあわたし、殺される?あやまってもいいよって言ってくれないかな」
「どうじゃろうなあ。気ままな方じゃからのう」
「今日いっぱい果物が売れたんだけど、そのお金をまだコーヘンおじさんに渡せてないの。それまで待ってくれる?」
マリアは至って真面目だったのだが、エンヤはそれを聞いて大笑いをしてしまった。この少女は殺されるというのがどういうことかもわかっていないに違いない。
だから、館の主が気付く前に出してやろうと考えた__のだが。
「エンヤ婆…何の騒ぎだ?」
地を這うような低い声が階段の上から響く。マリアは思わず上を見ると、いつの間にか背の高い男が立っているのが見えた。
「お騒がせして申し訳ありませぬ。この小娘がいつのまにか館に入り込んでいたために捕らえた次第にございます」
男の顔が動き、エンヤの一歩後方に立つマリアに顔を向ける気配がする。階段から上が一階よりも更に深い暗闇に溶けているせいで、目を凝らしても首から上は見えなかった。
「其奴の目的は何だ?」
「ただの果物売りの小娘にございます。迷い込んだだけかと」
「ほう」
沈黙が落ち、エンヤの額に冷や汗が滲んだ。まさかDIOがここまで幼い少女の血を必要とするとも思えないが、自身の安寧を邪魔した者をただで置くとも思えなかった。
エンヤとて人の子である。
「あなた、ここで一番えらいの?」
場違いなほど明るい声音。エンヤは目を見張ってマリアを見た。彼女は純粋な好奇心で質問しているようだった。
「偉い?」
「このおばあさんがそう言ってたの」
「……」
「おにいさん、お名前は?わたしはマリア・ヘルシュラグ」
「DIOだ」
「ディオ?」
「二度は言わない」
「_DIO様」
不機嫌そうなDIOの声の後、エンヤが素早く口を挟んだ。DIOが僅かに身動ぐ気配がする。
「何だ?」
「この娘、いかがいたしましょうか」
「…フン、外に出せ。騒がしくて敵わん」
「畏まりました」
エンヤに背中を押され、外に出るよう促される。扉が開いた時に光が差し込んで中を照らした。マリアが振り返ったとき、既に階段の上には誰もいなかった。
***
「マリア!今日はずいぶん遅かったな」
果物屋の店主が戻ってきたマリアに声をかけてきた。彼の名前はアーミル・コーヘンと言い、40歳をとうに超えた市場の古株だった。
マリアは7歳だが父親の言い付けでここの売り子をしていて、本来通うべき小学校へは通っていない。本来義務教育であるため行かなければならないが、役所には“インターナショナル・スクールに通っていたが、病弱のため休学”ということになっていた。全ては碌に働かない父親のせいである。
「暑すぎて休んでたの。今日はいっぱい売れたよ」
空っぽの籠と重い巾着袋を示す。コーヘンがマリアの学校について何も聞かないのは、ひとえに彼女が他の売り子3人分を稼いでくるからだった。
「今日もすげえな。ほら、お前さんの給料だ」
「ありがとう」
沢山売れば沢山貰える。だがマリアの給金は、大抵父親の酒代か母親の化粧代に使われる。ささやかな反抗として少し給金をくすねることもあったが。
「そういやあお前の親父さん、ハシシュの運び屋やってんだよな?」
「うん」
ハシシュとは大麻の樹脂のことで、エジプトで広く普及している麻薬のことである。マリアの父親はその運び屋をしているのだ。
コーヘンは少し険しい顔になると声をひそめた。
「最近、途中で流通量が不自然に減ってるらしい。運び屋は真っ先に疑われるから気をつけろって言っといてくれ」
「…?」
「あー、つまりだな、親父さんに『疑われてるから気を付けろ』って伝えとけ」
「わかった」
コーヘンの言葉にマリアは頷き、帰路についた。
既に空は暮れかけていたが、暑さは依然として残っている。時刻は19時30分をまわっていた。
***
翌日、朝から市場に来たマリアは店主のコーヘンから商品の果物を受け取った後もその場に留まっていた。
「どうした?」
「私も果物が食べたいの。お金払うからちょうだい」
「もちろんさ。売る分とは別にしとくよ。帰りに持ってくか?」
「ううん、今がいい」
コーヘンは不思議そうにしながらも梨とオレンジを包んで渡した。マリアは左手に籠、右手に包みを持って市場を出た。
あっという間に果物は売り切れ、マリアは籠の中に包みと巾着袋を入れた。今いるのは昨日の館の前、穴の空いた塀のところである。目的はもちろん、昨日階段の上にいたDIOという男に会うためだ。
昨日摘まみだされたマリアだったが、当然興味本位からの行動ではなかった。
「あんな暗いところに一人なんて、きっと病気なんだわ」
盛大な勘違いのもと、彼女は再び塀の隙間に身体を押し込んだ。
今日も扉の鍵はかかっておらず、マリアは更に静かに扉を開けて滑り込む。エンヤが来る前に移動するべく、ヒジャブを外すと入って左側にある階段を急いで2階へと上がった。
上がったところは廊下になっているが、1階同様真っ暗だった。一番端の部屋の外には『
中を覗いたが誰もおらず、浴室の窓はもちろんカーテンが閉まっている。更にそこを通り過ぎると正面と右に扉があった。
右側の扉に近付く。
「“
プレートに彫られた文字をなぞって口に出す。ドアノブをひねってみると意外にも簡単に開いた。中に一歩踏み込んで覗き込む。
「誰だ?」
「!」
部屋の奥から圧を込めた声が聞こえてくる。突然声をかけられたマリアは驚いたが、目的地であることが分かったので引き返すことなく部屋に入った。
「誰だと聞いている」
「マリアよ」
「…ああ、昨日の小娘か。殺されにでも来たか?」
声の主_DIOは大きな天蓋付きベッドの上で寛いでいた。マリアはサンダルの音をペタペタ鳴らしながらそばまで行き、その顔をよく見ようと顔を近づける。だがそれをDIOが容易に許す筈もなく、マリアは壁を背に押し付けられた。首元をDIOの右手だけで押さえつけられており、およそ120cmしかない身体は地面から浮き上がっていた。
果物の包みが床に落ちて転がる。
「何をしに来た?もしや誰かの…ジョースターの手先か」
「ジョースター?」
マリアは怪訝そうな顔で聞き返す。喋らせるためかDIOの手そのものに力は込められておらず、マリアは容易に話すことができた。
「だあれ、それ?」
「ジョースターはジョースターだ」
「そんな風に言われてもわかんないわ」
「貴様、とぼけてるんじゃあないだろうな」
大男と少女の押し問答が続く。DIOのしつこいまでの質問に、マリアは遂に文句を言った。
「知らないって言ってるじゃあないの!」
DIOは真意を確かめるべく少女の瞳を見つめたが、そこには嘘も偽りも感じられなかった。
それでは目の前の小娘は、一体何の為に再びやって来たというのか。と言うかそもそも、
「貴様、このDIOが怖くないのか?」
「うん」
「変人だな。ジョースターの手先でないなら何をしに来た?」
「そこの包み」
マリアはDIOの足元を指さした。ここに来る前、コーヘンから買った果物が入ったものだ。
「あなたにあげる」
DIOはマリアから手を離すとそれを拾い上げた。大きな白い手が包み紙を開く。
「…なんだこれは」
「梨とオレンジ。私のお店で売ってるやつなの」
立ち上がったマリアは首をほとんど垂直に見上げた。薄暗い中で赤い双眸が少女を見下ろしている。
「俺が聞きたいのはそんなことじゃあない…なぜ貴様はこのDIOに梨とオレンジを持ってきたのだ?」
「嫌いなの?」
「質問を質問で返すな」
「…病気の人には果物をお見舞いに持っていくんだってお母さんが言ってた」
「このDIOが病気だとでも?」
「元気な人は真っ暗な家に住んだりしないわ」
「フハハハハハ!
「?」
マリアが首を傾げると、DIOは愉快そうに口の端を歪めて屈みこんだ。
目の前の少女の黒髪と同じ色の瞳をじっくり眺める。当のマリアはというと、自身の髪を摘まむDIOの指先を眺めていたが、やがて何かを思いついたように赤い瞳をのぞき込んできた。
「ねえ」
「なんだ」
DIOは髪を摘まんだまま、ちらりとその顔を見やった。
「わたしと友達になってくれる?」
エンヤ婆のキャラが湯婆婆みたいになりそう
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第2話 友達
DIOは暫く無言でマリアの顔を見ていた。が、やがてマリアの髪から手を離すと真顔のまま「断る」と言った。途端にマリアは不満そうな顔になる。
「なんで?」
「なんで、じゃあない。そもそも貴様、今いくつだ?」
「今は7歳だけど、次の12月で8歳よ」
「フン、まだまだガキではないか。このDIOの友達になろうなどとは100年早いわ」
「…DIOって
マリアがそっぽを向いて放った一言にDIOはピクリと反応した。眉間に皺を刻んだ険しい顔で振り返る。
「何だと?」
「その“ガキ”のお願いも聞いてくれないんでしょ」
「断じて言っておくが、俺はケチなどではない」
「じゃあわたしのお願いきいてくれる?」
「……」
DIOはここで初めて、目の前の子どもに上手いこと乗せられたのだと気が付いた。たった7歳でそこまで考えて発言しているとも思えないが、結果的にそうなったことに変わりはない。だがDIOとて、そう簡単にマリアの言うことを聞くつもりもなかった。
笑みを浮かべて口を開く。
「そうだな…貴様が2週間、一日も欠かさずこのDIOのもとに来ることができたら、友達として認めてやろう」
マリアは目を輝かせた。
「2週間でいいの?」
「一日も欠かさずだぞ」
「うん!」
DIOはマリアが先ほど入ってきた扉に向かって顎をしゃくった。
「今日はもう帰れ。エンヤに見つかるなよ」
「はーい」
マリアは軽い足取りで部屋を出て、静かに扉を閉めていった。
DIOがサイドテーブルに置いてあった果物の包みから梨を取り出して齧ると、甘い果汁が口内に広がった。素直に「美味いな」と呟く。吸血鬼だからと言って血以外の食べ物の味が分からなくなるわけではないのだ。
「DIO様、あの小娘は館から出て行きました」
扉の外からエンヤが声をかけてくる。DIOは梨を飲み込み「そうか」とだけ返した。
エンヤの気配は扉の外に留まっている。
「まだ何か用か?」
「…なぜ彼の者が来ている間、姿を隠すようお命じになったので?」
マリアが来る少し前、エンヤはDIOから姿を隠しているよう言われていたのである。
「あの娘は年の割に大人びている。お前の気配を察知すれば館には入って来なかった」
「なるほど…。さすがDIO様でございますな」
「用が済んだなら下がれ」
「畏まりました」
エンヤの気配が消える。DIOは今日言葉を交わした少女のことを回想した。
95年の眠りから覚めてから数か月が経ち、エンヤが連れてくる若い女の血を吸うだけの日々。昼間は日光のせいで外には出られないし、気まぐれに夜に出かけることはあっても興味を惹かれるものもさほどなかった。つまるところ、DIOは退屈していたのである。
そこに現れた変わり者の小娘に興味を抱かないはずがない。マリアがあと10歳年が上だったなら食糧として見ていたに違いないが、幼すぎるがゆえ、逆に彼女はその場で餌食とならずにすんだ。その興味はマリアがDIOに対して友人関係を望んだことで決定的なものとなり、2週間かけて彼女を観察しようと考えるに至ったのだ。
途中で飽きが来たらその時点で殺せば良い。DIOは心の中でそう呟いた。
あんな小娘一人が居なくなろうが、この近辺の治安の悪さを鑑みても大した問題にはならない。そもそもマリア自身が毎日館へ通う可能性が低いように思われた。
だがDIOの予想に反してマリアは毎日館へとやって来た。
日々違う果物を持ってきてはDIOに届け、30分ほど話して帰っていく。時にはDIOと共に果物を食べることもある。話の内容はほとんどが彼女の生活圏であるハーン・ハリーリ市場のことで、おかげでDIOは市場に詳しくなってしまった。
DIOが驚いたのは、マリアの警戒心の無さである。
生活面での常識が95年前のままなため何とも言えないが、現代の親が知らない男の家に上がり込むよう教育している筈がないことは確かである。
だがマリアは出会って2日のDIOに「友達になってくれる?」と聞くような変わり者なので、気にするだけ無駄だと思った。
今日は8月29日。DIOが提示した2週間までは今日を含めてあと2日だ。
「貴様は本当に変わり者だな」
「なにが?」
梨を一切れ頬張りながらマリアは聞き返した。ここ数日の手土産はDIOの要望で梨ばかりだ。
「友達になりたいからと、本当に2週間も来る奴は変人に決まっているだろう」
「でもそうすれば友達になれるんでしょ、それくらいへっちゃらよ」
あと一日だし、と呟いてマリアは再び梨に手を伸ばした。
その飄々とした顔をベッドに寝そべって見ていたDIOは、ふと新たな好奇心を抱いた。
“目の前の少女に自分の正体を教えたらどんな反応を見せるのか”ということである。
「もし明日も来れたら、貴様に良いものを見せてやろう」
「いいもの?」
「ああ」
少女の顔が恐怖に歪むのを想像して思わず笑みが漏れる。マリアは怪訝そうにDIOの顔を見た。黒い瞳が室内の蠟燭の灯に照らされてオニキスのように煌めく。
「なんでわらってるの?」
DIOはそれに答えることなく部屋の扉を指さした。
「そろそろ帰ったらどうだ?寄り道していることは店主には内緒なのだろう?」
「うん、そろそろ帰るね」
マリアが手を振って部屋を出て行く。その光景が日常となりつつあることに気付いたDIOは、自分自身に呆れ交じりの溜息をついた。
***
DIOの館を出てハーン・ハリーリ市場に戻ってきたマリアは、いつも通り真っ直ぐコーヘンの店まで戻った。
「おじさん」
「おお、お帰り」
「ただいま。これ、今日のぶんね」
膨らんだ巾着袋と空の籠を渡す。コーヘンはそれを受け取り、辺りに目を走らせて声を潜めた。
「マリア、お前今日家に帰んねえ方がいいぞ」
「どうして?」
「こないだ言ったろ、ハシシュのことで親父さんが疑われてるって」
マリアは頷いてコーヘンを見上げた。小難しいことは分からないが、自分の父親が危険なことに首を突っ込んでいるのは知っていた。
「今日もハシシュ売りの元締め…偉い人がお前の家に来てた。運ぶ途中で盗んだんじゃあねえかって疑ってんだよ」
思わずといった様子でマリアは家がある方向を振り返った。コーヘンは言葉を続ける。
「それにお前の親父さんは嫌なことがあるとぶつんだろ。帰ればひでえ目に遭う」
マリアの父親であるサービト・ヘルシュラグは重度の飲んだくれであり、しかも酔うと娘のマリアに手を上げるのである。最近はその過激さも鳴りを潜めているが、マリアはよくあちこちに痣をつくっていた。
それを知っているコーヘンはマリアを心配していた。
「最近はそんなことないもん。帰ったってへいきよ」
「…そうか。そんなら良いが、気いつけろよ」
「はーい。おじさん、また明日ね」
帰宅したマリアは家の戸をそっと引き、身体を滑り込ませた。耳を澄まして父親の居場所を探る。
話し声からリビングにいることを察知したマリアは静かに自室に向かった。父親は妻には手を上げることはない。大抵はマリアが格好の的なのだが、目に留まりさえしなければ暴力に晒されることは無かった。
今日の夕食は諦めることにしてマリアは眠りについた。
翌朝目覚めてダイニングに向かうと、そこには既に父親がいた。
「…おはよう、お父さん」
「チッ」
返事の代わりに舌打ちが返ってくるが、マリアは気にせず黙々とパンを齧った。
コーヘンの店に行こうと立ち上がる。
「おい」
父親の不機嫌そうな声に顔を上げた瞬間、左頬に衝撃を受け、気がつくと床に倒れていた。後から追って痛みが襲ってくる。もはや慣れたそれに、マリアは泣くことも声を上げることもしなかった。
「つまんねえな」
苛立ちを含んだ声が上から降ってくる。さらに殴られるかと身構えたが、父親はそのままシャワールームに向かった。妻がそこにいるからだろう。
マリアは急いで立ち上がり、家を出た。
***
「DIO様」
エンヤの声で、自室にいたDIOは入り口を振り返った。
今日の日付は8月30日、DIOがマリアに提示した“2週間”の最終日である。ところがマリアは日が沈んでも姿を見せなかった。今は午後7時30分を回ったところである。
普段のマリアであれば午後の暑さが収まってから館を訪れ、日没までには帰宅している。
「…何用だ」
「そろそろお食事にしてはいかがでしょう」
「気が乗らん。後でいい」
DIOは素っ気ない返事をしたまま黙り込む。エンヤは思わず、窓辺に佇んで外を眺めるDIOの背に声をかけた。
「私めが市場まで様子を見に行きましょうか?」
「何故だ」
「……」
DIOが振り返る。赤い双眸だけが輝いて浮かび上がった。
「必要ない」
「DIO様、しかし」
「必要ないと言っている。下がれ」
エンヤの抗議を一蹴し、DIOは話は終わりだと言わんばかりに背を向けた。
こうされるとエンヤには為す術がない。主に従って部屋を後にした。
それから30分ほど経ったとき、DIOは部屋の扉をノックする音を聞いてベッドから身を起こした。読んでいた本をテーブルに置き、自らの手で扉を開ける。
「今日は随分と遅かったな」
息を切らしたマリアがDIOを見上げていた。普段なら飛びつかんばかりの勢いで来る彼女だが、今日は何故かDIOを見ても黙ったままだ。その雰囲気に違和感を覚えたDIOは、何も聞かず部屋に入るよう促した。
***
「何があったかを聞かせてもらおうじゃあないか」
DIOは木製の円形テーブルとセットで置いてある椅子に腰掛けると、改めて声を発した。マリアは依然として何も言わない。
「オイ、聞いているのか?」
マリアはようやく顔を上げる。黒い瞳に緊張を湛えているその様は、昨日とはまるで違う人間のようにDIOの目に映った。
「…きょう、」
マリアの声は掠れていて聞き取りづらかった。彼女は唾を飲み込み、再び口を開いた。
「今日はね、コーヘンおじさんのお店がお休みの日だったの。…わたしのお父さんはあぶない薬を売る仕事をしているんだけどね、その仕事でえらい人
そのせいで日が暮れるまでコーヘンの家にいたのだと言う。DIOは「それで?」と言った。
「暗くなったから、わたし、家に帰るって言ったの。でも帰ってみたらわたしの家の前がすごく変な感じだった。…ええとね、玄関のところに知らない人が3人くらい立ってて、ドアがあきっぱなしだったの。見ちゃいけない気がして気にしないフリをしたんだけど、赤いのがいっぱいついてるのが見えた」
DIOは「なるほどなァ~~」と言った。
「その後この館に来たというわけだな?」
「うん」
マリアの話を聞く限り、彼女の両親は殺されたのは確実だった。“あぶない薬を売る仕事”とは麻薬の売人のことだろう。“えらい人”というのはその元締めのことに違いない。
少女は咄嗟に機転を利かせ、DIOの屋敷を頼ってきたのである。
そこまで思考を巡らせると、DIOは椅子から立ち上がり、マリアの肩に軽く手を置いた。見上げてくる視線を受け止める。
「マリア」
そういえば名前を呼ぶのは初めてだ、という思いが脳裏を掠める。
「…なに?」
「しばらくこの館にいると良い」
言い終えた後で、自分の行動もマリアのことを言えないくらい変人だと気付いたDIOは、堪らず笑いだしそうになった。
誤字等ありましたら教えてくれると有難いです
主人公が7歳に見えなくても許してください…私のことは嫌いでもジョジョのことは嫌いにならないでください……
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第3話 新しい生活
マリアをバスルームに行かせた後、DIOはエンヤを呼びつけた。彼に忠実な老婆はすぐさまやって来た。
「何か御用でございますか」
「先程、あの小娘が来た。しばらくこの館に留め置く」
「……承知致しました。してDIO様、彼女は今どこに?」
「風呂に入っている。新しい服を用意してやれ」
エンヤは思わずDIOを凝視した。ベッドの上で寛ぐ彼は全く意に介さない様子で、「昨日買ったやつだ」とだけ付け加えた。
「か、かしこまりました」
エンヤはなるべく驚きを表に出さないように気をつけながら部屋の扉まで後退した。出ようとしたところでDIOから待てがかかる。
「他に何か?……」
「
驚きで叫ばなかった自分を誰か褒めてほしい、とエンヤは切実に思った。
***
マリアはシャワーを浴び終えると、そこに用意されていた真新しいバスタオルで身体を拭った。
扉がコンコン、とノックされる。静かに開けられたそこにはエンヤが立っていた。
「おばあさん!」
「着替えを持って来ましたのじゃ」
今まで対面していたときよりも少し、いやかなり慇懃な口調と態度に、マリアは小首を傾げた。この老婆はこんなに自分に対して丁寧だっただろうかと。
「ありがとう…」
困惑しながらもお礼を言う。
渡された服は薄ピンク色のワンピースで、着てみるとサイズはぴったりだった。
「これ、おばあさんの服?」
「そんなわけないじゃろ、DIO様が昨晩に買っておいたものじゃ」
「DIOが?」
びっくりして目を見開くマリアを横目で見て、エンヤは思わず溜息をついた。
「DIO様は、今日お前さんが来たらその服をあげようとお考えだったのじゃよ。…着替えは済んだな?ではDIO様のもとに行きなさい」
バスルームから押し出される。昼間でさえ薄暗い廊下には、今は蝋燭が沢山灯っていた。
エンヤはマリアを連れてすぐ隣にあるDIOの部屋に向かい、扉をノックした。
「なんだ」
「DIO様、マリア様の入浴が終わりましたので…」
「いま“マリア様”って言った?」と大声で聞きそうになってマリアは思わず口を押さえた。うっかりそんなことを叫ぼうものなら館を追い出されかねない。
「マリアは部屋に入れ。エンヤは下がっていい」
エンヤは「はい」と返事をすると廊下を引き返し、困惑するマリアをよそに廊下の薄闇の中に溶けていった。
「…何をしている?早く入れ」
DIOの訝しむ声に、マリアは慌ててドアノブを捻って中に入った。
先程部屋に来た時よりも遥かに明るくなっていた。蝋燭の数を増やしたらしい。DIOはベッドの上で本を読んでいる。
「DIO」
マリアの呼び掛けに応えるように視線が上がる。
DIOは彼女の身につけるワンピースを見ると
「思った通りだ。このDIOの見立てに間違いは無かったな」
「やっぱりこれ、DIOが買ったの?」
「俺と友達になれて浮かれている小娘に何か贈るのも悪くなかろうと思ったのだ」
マリアはきょとんとした。
「わたしたち、友達なの?」
「これは失礼。嫌ならそうと言ってくれれば…」
「わー、うそうそ!嫌じゃない!」
慌ててベッドに駆け寄ってきて訴えるマリアに、DIOは思わず声をあげて笑いだした。あまりにも必死に声をあげる少女が愉快で堪らなかったのである。
「こんなに笑ったのは久々だ」
「…よかったね?」
「お前、思っていないだろう。というか、勝手にこのDIOのベッドに乗るんじゃあない」
いつの間にかベッドの上でDIOの隣を陣取るマリアに抗議の声をあげる。彼女は何食わぬ顔で澄ましていた。
「いいでしょ、このベッド広いもの。それにサンダルは脱いだよ」
「友達でも同衾はしないと思うが?」
「…どうきんって何?」
「1つの寝具で共に寝ることだ」
マリアはふうん、と言っただけでベッドからおりる気配はなかった。ので、言っても無駄だと感じたDIOは敢えて追い出すこともしなかった。
DIOが再び本を捲り始めてから10分ほど経ったとき、マリアは「わたし友達いないの」とつぶやいた。
「…そうか」
「DIOは?友達いる?」
「まともなやつは少ないな」と答えたあとで、DIOは疑問に思ったことをそのまま口に出した。
「だがお前、7歳だろう?この国のことはよく知らんが、学校に行っていれば多少は友人もできるんじゃあないのか」
「わたし、学校に行ったことないもの。お父さんがだめって言うから」
「…母親は何も言わないのか」
マリアはDIOの腕輪を何とはなしに弄りながら返事をかえした。
「あの人はわたしのこと気にしてないの。ほんとの娘じゃあないから」
碌な定職も持たず暴力を振るう実父と自分に無関心の継母。家の中は、幼い少女が朝から晩まで果物売りをしている方がマシだと思える状況だったのだろう、とDIOは推測する。
それから暫く沈黙が続き、DIOが本のページを捲る音だけが部屋に響いていた。
***
1階奥のキッチンコートにいたエンヤは、その入り口に姿を現したDIOを見ると驚いた顔になった。
「DIO様、いかがなさいましたのじゃ」
「食事にする。マリアが寝たのでな」
「かしこまりました。こちらでなさいますか?」
「ああ。黒髪で白い肌の者がいたろう、そいつを連れてこい」
「仰せのままに」
エンヤはキッチンコート横にある階段を使って地下に下りた。
常に何人かの女がストックされた状態の部屋がある。彼女らを連れてくるのもDIOに血を吸われるまでの世話も、全てエンヤが引き受けていた。この館にはDIOの他にエンヤしかいないのだから当然である。
「DIO様がお呼びじゃ」
その言葉を聞いた女は、目の前に立つエンヤにしたがって階段を上がった。彼女の中には“DIOに血を吸われる”ことへの悦びのみが存在している。
「DIO様、お待たせいたしました」
エンヤは、キッチンコートではなくその向かいにあるダイニングルームで待っていたDIOの元へ女を連れて行く。
振り向いたDIOからは一切の表情が消え去っており、赤い瞳も氷のように冷え切ったものだった。その視線に射抜かれれば、まさに蛇に睨まれた蛙の如く竦み上がってしまうに違いない。
もちろんそれは“正気であれば”の話で、DIOの目の前で彼の糧となることを待ち侘びる女には当てはまらないのであるが。
DIOに目線だけで退室を促されたエンヤが出て行く。それを見送ったあと、DIOは改めて目の前の女に目を移した。
陶酔した表情でDIOにしなだれかかってくる。それに口の端を持ち上げ、DIOは彼女の首筋に手を添えてから指を突き立てた。
DIOは
置き去りにされている吸いカスは全部で3人。DIOに命じられてエンヤが追加で連れてきたのである。
ダイニングルームを出て右手にある階段を上り、ベッドルームに入った。マリアは部屋を出る前同様、ベッドの上で寝息を立てている。
「DIO様、隣室の支度が整いましたのじゃ」
扉の外でエンヤの嗄れた声がする。DIOは「そうか」とだけ返事をし、ベッドに近寄った。
「おい」
マリアが薄らと目蓋を持ち上げる。しばらく視線を彷徨わせ、ようやく頭上にあるDIOの顔を見た。
「このDIOのベッドで眠るやつなどお前が初めてだ」
寝起きで頭が働いていないのだろう、マリアは目を瞬いてぼんやりとDIOの顔を見つめるばかりである。今は真夜中に近いから無理もない。
「寝室を用意した。お前の部屋はここじゃあない」
親指で背後を指差す。DIOの部屋と中で繋がっている、小ぶりのベッドルームだった。
DIOとしては移動しろと暗に示したつもりだったのだが、マリアは身体を起こして両腕を伸ばしてきた。
「…なんだ」
「つれてって」
DIOは思わず眉をひそめた。マリアが自分に要求していることを理解したからこその表情である。
「抱き上げて運べと?」
「だめ?」
「自分で歩けるだろう。すぐ隣なのだぞ」
マリアはしぶしぶといった様子でベッドをおりる。
DIOは自分の右手の指先に血が付いていることに気づき、マリアの視界に入る前に素早くシーツの端で拭った。
「右と左、どっち?」
「左だ」
マリアはベッド脇の床に並べてあったサンダルを突っかけ、そのまま扉で繋がる隣室に入った。
「気に入ったか?」
DIOの声にマリアは振り返り、こくりと頷いた。
「DIO、おやすみ」
そう言って少女は扉を閉める。静かになった自室で、DIOは暫く閉じられた扉を眺めていた。
***
翌朝、マリアが目を覚ますと日の出はとっくに過ぎているようだった。
DIOの部屋に通じる扉に手をかけ、しかし少し思案してすぐに反対側の扉から部屋の外に出た。学習室を通って廊下に出ると、少し進んだところに階段を見つけた。
「どこに続いてるんだろう、これ」
マリアの呟きが薄暗い空間に吸い込まれていく。日が登っているからか、あちこちの窓から日光が漏れて薄明るい。マリアは目を凝らしながら階下に向かった。
「ようやく起きたのじゃな」
階段を下りたところでいきなり声をかけられ、マリアは思わず飛び上がった。
もちろん声の主はエンヤである。
「おばあさんて、人をびっくりさせるのが好きなの?」
「そなたが勝手に驚いてるだけじゃろう」
呆れたような顔でエンヤが言う。
「いま何時?」
「もう9時をまわったところじゃ。朝食が出来ているからダイニングルームに行きなさい」
「はーい」
ダイニングルームのテーブルには、トースト半分と目玉焼き、グラスに入ったオレンジジュースが置かれていた。
「いただきます」と呟いてトーストを齧ったマリアは、部屋の中に微かに漂う鉄錆のような臭いに眉根を寄せて辺りを見回した。一瞬トーストからかと思ったがそうでも無いらしい。
「…!」
床に赤い液体が一滴落ちている。マリアは見なかったふりをして朝食を再開した。世の中、知らない方が良いこともあるのだ。
食べ終える頃になってエンヤが再びやってきた。
「食器はキッチンに置いておくのじゃぞ」
「わかった。…ねえ、DIOはまだ寝てるの?」
エンヤはマリアの顔をしばし見つめていたが、やがて口を開いた。
「DIO様には様々な事情がおありになる。あの方は昼間は寝室でお休みになり、日暮れと共に起きる生活をなさっているのじゃ」
「じゃあ昼間はずーっと寝てるの?」
「たまに起きてこられるが、部屋から出ることは少ないのう。万一のために館中は暗くしてある」
「…?暗くする必要があるの?」
エンヤは目を見開いて固まる。言ってはいけないことを零してしまったとでも言わんばかりの様子だ。
「あー、その、DIO様はじゃな。お身体…特に皮膚が弱いのじゃ。日の光を浴びるだけでも危険なほどにな」
吸血鬼であるがゆえ、日光を浴びればDIOは死に至る。その事実をだいぶ歪曲して伝えたのだが、幼いマリアを納得させるには十分だった。
「そうなの。大変ね」
「そうじゃろう。館ではあまり五月蝿くしてはならぬぞ。…そうじゃ、果物売りにも行かぬようにとDIO様からの言伝じゃ」
「どうして?」
「それは今夜、あの方に聞けば良い。1日くらい休んでも問題は無かろう?」
マリアは頷く。1日休んだところでコーヘンは何も言わないだろう。彼はなんだかんだでマリアには甘いのだ。
「それと『館の敷地からは出ないように。それであれば何をしても良い』とDIO様は仰せじゃった」
「わかった」
エンヤは素直なその返事に頷き、再びキッチンに消えて行く。マリアはひとまず庭を見てみようと思い立ち、廊下を抜けて玄関に向かった。扉を開けて外に出ようとしたところで誰かと鉢合わせる。
「…おや、君は誰かな?」
頭上から降ってくる声の方を振り仰ぐ。背の高い男が不思議そうにマリアを見下ろしていた。
両頬に奇妙な線の模様がある。真夏だと言うのに白い長袖シャツにベストを着て、ネクタイをきっちりと締めている黒髪の男だ。
変な人だな、というのがマリアの第一印象だった。
「おじさんこそ誰?」
マリアの問いに、男は片眉を上げたのだった。
DIO様の手下に関しては、情報があまりにも少ないので作者の解釈で進めさせていただきます。
お気に入り登録をしてくれた方、本当にありがとうございます!
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第4話 客人
「ようこそお越しくださいました」
マリアの背後からエンヤが出てくる。男は少女から老婆に視線を移した。
「
「ああ、どうも」
エンヤに案内され、男は玄関脇にある客間に通されて行く。マリアはようやくそこで、その男が正式な客人であることを理解したのであった。
庭をひと回り見て歩いたマリアは、退屈なので次は館の中を探検しようと思いつく。
エンヤから注意されてはいたが、要は騒がしくしなければいいだけの話である。そうと決まればマリアの行動は早い。玄関まで戻って薄暗い館に入った。
取り敢えずは1階を見てまわろうと、客人が居るらしき客間は避けて一部屋ずつ中を覗いていく。
廊下を通りぬけてミュージックホールに入り、その右隣の部屋に入る。扉の横には『
***
客間に通された男は案内されるままソファに腰掛けた。老婆が深々と腰を折ってお辞儀をする。
「ダービー様、本日はお越し頂き感謝いたしますのじゃ」
ダービーと呼ばれた男は人当たりの良さそうな笑みを浮かべた。
「賭け事をしたいと依頼されて出向かぬようではギャンブラーの名が廃るというもの。まして遠方まで行くことが叶わぬお方なら尚更です」
「さようでございますか。…それでは早速主人を呼んで参りますのじゃ。あの方もきっとお喜びになる」
老婆が出て行くのを見送り、ダービーはソファの肘掛けに腕を置いて息をついた。
普段はアメリカを拠点として活動し、無敗を誇る彼の評判を聞きつけたDIOという男から手紙を受け取って遠路遥々ここまで来たのである。
「__君が……ダニエル・J・ダービーかな?」
「ッ!」
いつの間にか向かい側のソファに座っている人影に気付いたダービーは息を呑んで身を起こした。
これだけの至近距離に座っているにも関わらず気配を全く感じない。まるで__有り得ないことだとダービーは言い聞かせたが__生きているのかと思わず疑いたくなるようなものがあった。
「今日はわざわざ呼び付けてすまなかったね。君の賭け事の腕前をぜひ見てみたいと思ったのだが……如何せん、私は館を離れられないんだ」
「……そうですか」
ダービーはなんとか声を絞り出した。向かいに座る男はふっと息だけで笑い、言葉を続ける。
「私がDIOだ」
「…承知しております」
「ああ、手紙を書いたのだったな」
穏やかな声音のDIOと言葉を交わしながらも、ダービーは全身が総毛立つような心地がしていた。奇妙な安らぎを覚える一方、常に氷を首筋に当てられているような気分でもある。
「では早速腕前を見せてもらおうじゃあないか」
「勿論でございます。どのゲームにいたしましょうか?」
「ふむ……ポーカーにしよう。私は賭け事にあまり詳しくなくてね」
「いいですよ。では準備を致しますので少しお待ちを」
それが自身の最も得意とするゲームであることには触れず、ダービーは鞄からセキュリティー・シール付きの箱に入ったトランプを一組取り出した。
「…賭け事ですから、始める前に賭けるものを決めて頂いても?」
「構わん。だが…こういう時は何を賭けるのが定番かな?君のやり方で行こう」
金はあまり持っていないが、と付け加えて困ったような笑みを浮かべるDIOに、ダービーは感じていた冷ややかな気配が溶けて無くなるような気がした。
よく見れば顔はまだ年若い青年の面立ちで、さっきまでの恐怖が馬鹿らしく思えてくる。
「金なんかじゃあなく、もっと別のもので構いませんよ。そうだな…“魂”なんかはどうです?」
「ほう、魂か…。いいだろう、
ダービーはその言葉にほくそ笑む。キーワードを相手から引き出せて喜ぶ彼は、目の前の男の瞳が妖しく煌めいた瞬間を見逃していた。
「チップを使うバージョンと使わないバージョンがありますが、どちらにしますか?」
「…君がいつもやっているやり方で良い」
「ではチップを使う方で。この赤いふちのチップ5枚分で貴方の魂と引き換えになります」
言いながら、ダービーは自分の分の青いチップも5枚取り出して並べた。DIOは無感動にそれを眺めている。
「賭けるチップは一回1枚、
DIOが微笑を浮かべて頷いたのを見てカードのシャッフルを始めた。
ダービーには『バレなければイカサマとは言わない』という考えがあり、それは相手が誰であろうと決して変わることはない。セカンド・ディールを駆使して自分の手札が有利になるようにすれば、ポーカーでの勝負は大抵勝てる。
ダービーの手札はキング3枚、6のカード2枚のフルハウスだ。手札を変えなくても良いと判断し、テーブルの真ん中にチップを1枚置いてから「ノーチェンジ」と言った。
DIOは手札を眺めると、少し考える素振りを見せてから「ノーチェンジ」と告げた。赤いチップがコロン、と音を立ててテーブルに出される。
「では手札を見せ合いましょう」
DIOの手札はストレート。9♡、10♠、ジャック♠、クイーン♡、キング♢の5枚連続カードである。
「私の負けだな」
DIOはカード達を一瞥して素気なく言う。その言葉にダービーは違和感を覚えた。
さっきの彼はダービーに向かって『私は賭け事にあまり詳しくなくてね』と言った。だが今、DIOは自分の手札とダービーのそれとを一度見ただけで自分の手札の方が弱いと判断したのだ。果たして素人にそんな芸当ができるものだろうか。
ダービーはその疑問を追求しようとしたが、DIOが彼自身の賭けた赤いチップを差し出してきたためにそれは叶わなかった。
「私の魂の、五分の一だ」
愉快そうな笑みを浮かべて事もなげに言うDIOに、ダービーは何かとんでもない者を相手にしているような気がしてきた。だが賭けを始めた以上、今更『降りる』と言うのはプライドが許さない。
「…では、ゲームを続行しましょうか」
そうして勝負を繰り返し、4回目の賭けが終わった。
DIOが持つチップは赤2枚と青1枚、対するダービーは青4枚と赤3枚だった。DIOの『賭け事に詳しくない』という発言が嘘である可能性がある以上危険を冒すべきではないと判断したダービーは、イカサマの回数を通常より減らして勝負したのである。
あと2回勝てばダービーの勝利だ。すると、DIOがおもむろに口を開いた。
「私はこの勝負で私自身の魂を賭けたな」
「…そうですね」
DIOは赤い瞳でダービーを見据える。次に何を言われるのかと、ダービーは内心で身構えた。
「君はこの勝負に何を賭けているのか…それを聞いていなかった」
静かな、静謐とすら言えるほどに落ち着いた声音でDIOが問う。ダービーは思わず呆気に取られた。
今まで自分と賭けをし、魂を取られた相手でそのようなことを聞いてきた者はいなかった。取られたものを取り返そうとし、更に深みに嵌った挙句魂を賭けるからだ。
「貴方様が賭けたものと同等のものを」
「ほう…?」
DIOの瞳が細められた。唇に冷ややかな笑いの影が見える。
「君は私の魂に見合ったものを差し出せるのか?」
ダービーは狼狽えているのを悟られないように薄く息を吸った。その様子を見たDIOは朗らかに笑って__少なくともダービーの目にはそう映った__「では次のゲームに行こう」と言った。
カードを5枚ずつ配り終えて青いチップ1枚をテーブルの真ん中に置く。その時、ダービーは既にそこに置かれていた2枚の赤いチップに初めて気付くと怪訝そうな視線を向けた。
「次のゲームでは私の残りの魂を賭ける」
DIOは悠然と足を組みながら言った。
「…私はチップ1枚しか賭けません」
「ああ。構わない」
「このゲームに勝っても負けても、トータルでは私のチップが多い。貴方様は負けが確実です」
「構わないと言っている」
DIOはそう言い捨てて5枚の手札を捲る。ダービーもそれに倣った。
ダービーの手札は4枚のエースにジャック1枚のフォーカードである。エースが全て自分に来るよう仕組んだのだ。そして、ダービーがDIOに配ったのは
勝利に対するギャンブラーの誇りというより、底知れない何かを抱えるこの男との賭けを一刻も早く終わらせたいという切実な願いゆえのイカサマである。
自身の手札を見たDIOは微かに眉を寄せた。それを見たダービーは密かに自分の相棒を呼び出す。半透明のそれは物音一つ立てずにダービーの斜め後ろに寄り添った。これは“
ダービーは自分の手札が見えるようにテーブルに置き、DIOに声をかけた。
「DIO様、チェンジなさいますか?」
DIOは無表情のままダービーの手札をちらりと見やり、自分の手札に視線を移す。赤い瞳が一瞬、ダービーの背後を見たように感じたのは気のせいに違いない。
「いや」
「え?」
戸惑う賭博師を尻目に、DIOの白く長い指が持っていたカードを裏返してテーブルに置く。ダービーは思わずその手札を覗き込んだ。
10♠、8♢、3♡、J♣、Q♡__間違いなくハイカード、何の役でもないブタの組み合わせ。
「私の魂はこれで君のもの、ということになるな」
DIOが長い足を組み替えて首を傾げた。大の男がやるような仕草ではないが、この男がやると何故か愛らしささえ感じさせるのだから不思議である。
「…DIO様。貴方様は魂を賭けられましたね」
「ああ」
「その賭けに対し、負けを認めると?」
「認めるも何も、私の手札が弱いのは一目瞭然であろう」
ダービーのスタンドがDIOの背後に回り込む。彼が賭けた魂を取り立てようとしているのだ。他でもないDIOが賭けでの敗北を認めたのであるから容易である筈だったが。
「……⁈」
「どうしたのだ、ダービーよ」
ダービーは唖然として、笑みを湛えるDIOを凝視した。
魂の取り立てが出来ない。
ギャンブラーになって以来、このような事態がダービーの身に起きたことは無い。動揺が隠し切れないその様を見て、今まで好青年の皮を被っていたDIOが牙を剝いた。
「
絶えず浮かべていた微笑は掻き消え、代わりに現れた絶対零度の視線にダービーは蛇に睨まれた蛙の気分になった。
「君のような男にこのDIOの魂を奪えるのか?」
__イカサマを使って勝利を得ようとする君に。
ダービーは自分の額から汗が吹き出るのを感じた。DIOの魂を取り立てられなかった理由を理解したからだ。
DIOは
カード上では敗北が目に見えていたにも関わらず、である。自分の勝利に繋げられるという確信が無ければそんなことは不可能だ。敵わない、とダービーは思った。
「DIO様」
ダービーは思わずDIOの前に跪いた。DIOは興味深げにその様子を見つめる。
「貴方様のお役に立ちたく存じます」
「ほう。それが君の“賭けたもの”ということか?」
「今後の私の人生をDIO様に」
DIOは満足げに笑うと立ち上がって、跪くダービーを見下ろした。
「ダービー」
「はい」
「この館は人手が足りなくてな。世話をするのは先ほど案内役を務めたエンヤ婆しかいないのだ。そこで、執事が務まるような男を探してほしい」
「畏まりました。いつまでに?」
DIOは顎に指を当てて考える素振りを見せた。
「1ヶ月だ。よく吟味してほしいからな…。無駄口を叩かず要領の良い、職務に真面目な男が欲しい」
「心得ました」
DIOは「帰っていい」とだけ言うとさっさと部屋を出ようとしたが振り向き、立ち上がったダービーと対峙した。
「活動拠点は自由だ。賭けが出来る場の方が君の力は発揮されるだろう。ただし、私に呼び出されたらすぐに館へ来ること」
「はい。……DIO様、一つお聞きしても?」
「何だ」
ダービーは少し躊躇った後、意を決したように口を開いた。
「ここへ到着した時、玄関で幼い少女と鉢合わせしました。DIO様は世話役はエンヤ婆しか居ないと仰っていましたが…彼女は誰です?」
「……お前に言う必要は無い。彼女のことは…そうだな、“お嬢様”とでも呼ぶと良い。くれぐれも無礼な対応はするなよ」
ダービーがそれに何か返す前にDIOは部屋から出て行く。彼が客間にいた気配はもう欠片も残っていなかった。
***
DIOはキッチンから出てきたエンヤにダービーを見送るよう言いつけ、彼女からマリアが図書室にいることを聞いてそこに足を踏み入れた。
マリアは奥の方で蝋燭の光を頼りに本を読んでいるようだった。
「目を悪くするぞ」
マリアの肩が跳ねる。DIOが笑いながら姿を現すと驚いたような顔で見上げた。
「灯りが蝋燭しか無いの。ここが一番明るいよ」
「カーテンを開ければ良いではないか」
「DIOは太陽をあびるのがダメなんだっておばあさんが言ってたわ。カーテンをあけてるときに入ってきたら危ないじゃない」
「…お前、本当に7歳か?」
「もっと大人にみえる?」
「阿呆。ガキのくせに生意気だという意味だ」
マリアは唇を尖らせて不服そうにしたが、DIOは呆れたような顔をしただけだった。
「さっきのおじさ…男の人はDIOの友達?」
「いや、今日初めて会った。…おじさんと言うほど老けていたか?」
「お兄さんって顔じゃあなかったもの。それならおじさんで良いでしょ」
「ハハハハハッ!そいつは傑作だ!」
大人びた発言をしたかと思うと年相応の言動をとるマリアが、DIOには愉快で堪らない。
床に座るマリアの目線に合わせるべくしゃがみ込み、DIOは右手で少女の頬を挟むように掴んだ。
「でぃお、いひゃい。はなひて」
「大して力は込めていないぞ。それよりも、だ」
「?」
黒く煌めく双眸を眺める。
「近いうちに新たな執事がこの館に来る」
「さっきの人?」
「いいや。あいつが探してここに連れて来るのだ」
へえ、とマリアは言った。続いて、ねえDIO、と袖を引かれる。
「お腹すいた」
「もうそんな時間か?」
壁際の置時計は13時を指していた。DIOはふむ、と思考を巡らせる。DIOは普段昼間に眠っているため、自室で睡眠を取りたいというのが正直なところである。
「エンヤに何か作らせよう。俺は夜まで眠る」
「夜…何時に起きるの?今日また会える?」
「今日は普段よりも長く昼間に起きていたからな、早くても19時半頃だ。日没を目安にしろ」
DIOはマリアと連れ立って図書室から出る。キッチンに続く扉をノックするとエンヤが出てきた。彼女はDIOとマリアを交互に見比べている。
「マリアに昼食を作ってやれ。私は寝る」
「畏まりました。さ、お嬢様、どうぞ」
“お嬢様”とエンヤから呼ばれて困惑するマリアを見て、DIOは笑いを噛み殺しながら自室へと向かった。そう呼ぶように命じたのは勿論、DIO自身に他ならないのであるが。
「実に面白い娘だ」
そう呟いた館の主人の呟きは、誰の耳にも届かず暗がりに溶けた。
ポーカーのシーンに時間がかかりすぎました(言い訳)
これから執筆状況はTwitterで呟くので、「おっせーなコイツ何してんねん」と思ったら覗いてやってください…
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第5話 執事
私の執筆ペースの見立てが大誤りでした。
9月10日、夜も更けてからテレンスはエジプトにある館を訪ねた。
テレンス・T・ダービーは現在16歳。本来ならばハイスクールに通っている年齢だが、つい先日同級生数名を
そんな彼に勤め先の話を持ってきたのは、お世辞にも仲が良いとは言えない兄だった。
エジプトの館に住む若い男が仕える執事を探しているという話で、条件は“無駄口を叩かず要領の良い、職務に真面目な男”とだけ言われたそうだ。館の主である男の身の回りの世話が職務内容とのことだった。
テレンスは一通りの家事はできるが、料理は得意とは言えなかった。
『あの方に仕えるのに料理は必要ない。それに老婆も居るようだから、どうしてもという時には彼女に頼めば良い』
料理が必要ないとはどういうことかと尋ねても、兄ははっきり答えず“会えばわかる”を繰り返すばかりだったので、とうとうテレンスも諦めてエジプトに行くことにした。プライドの高いギャンブラーである兄がその男を“あのお方”と呼んで敬愛している。彼をそうまでさせる館の主人を見てみたいと思ったのだ。
そういった経緯を経て、テレンスは兄が書いた紹介状を片手に玄関の扉を叩いたのである。程なくして中から顔を覗かせたのはダニエルが言っていた通りの老婆だった。
「ダニエル・J・ダービーからの紹介で…」
「テレンス殿でお間違いありませんかの?」
「はい」
「どうぞ中へ。DIO様がお待ちですのじゃ」
蝋燭が灯るだけの、薄暗い館の中を老婆に着いて歩いていく。2階の寝室と思しき部屋の前で老婆は歩みを止め、3回扉をノックした。
「通せ」
低く深みのある男の声がする。老婆は黙って扉を開け、テレンスに中へ入るよう促した。
廊下よりも一段濃い闇に足を踏み入れる。やがて目が慣れてくると、こちらに背を向けて立っている人影が見えた。
「君がダービーか」
「はい。テレンス・T・ダービーと申します」
男はテレンスに背を向けたまま蝋燭の灯りを増やし、くるりと振り返った。
艶やかな金髪に濃い琥珀色の瞳を持つ、恐ろしく整った顔立ちの男だった。まだ若く青年と言うに相応しいその容貌にテレンスは僅かに目を伏せた。
「私はDIOだ。これから館の主だったことは君に一任する」
椅子に腰かけたDIOは足を組み、気安い笑みを浮かべてテレンスを見上げた。
「そんなに気負わなくて良い。大体のことはエンヤ婆に聞けば分かるが…本格的な仕事は明日からだな。君の部屋はそこだ」
DIOが2つある扉の右側を示す。テレンスは礼を述べて一礼した。
DIOは笑みを浮かべたまま立ち上がり、テレンスの目の前に立った。眼前に迫るDIOにテレンスは圧倒され、思わず一歩後ろに下がる。テレンスだって同年代に比べれば大分背の高い方だが、それにしたってDIOの方が高い。身長によるものだけではない存在感の所為かもしれなかった。
「この館は3階まである。私の寝室はそちらにあるから把握しておいてくれ」
「…わかりました」
琥珀色の瞳が細められ、DIOの唇が妖しく微笑む。白い指先がテレンスの頬をゆったりとなぞった。
「では、おやすみ。
耳元で囁かれたファーストネーム。テレンスは思わず固まったが、DIOは全く意に介することなく、笑みを浮かべたまま部屋を出て行く。
兄が館の主人を敬愛する理由が、テレンスには分かった気がした。
***
テレンスがDIOと再びまみえたのは翌朝早くだった。
昨晩DIOが退室した後、テレンスを出迎えたエンヤという老婆が自室を訪れ、5時30分には起床するように言ったのである。そんなわけでテレンスはキッチリ5時30分に目を覚まし、6時前には老婆がいつも居るというキッチンコートに降りていった。
「おや、起きたかの」
「はい」
エンヤはテレンスを見た後、「では行くぞ」と言ってテレンスの横をすり抜けて階段を上がっていった。
仕事を言いつけられると思っていたテレンスは暫しぽかんとしていたが、慌ててその後を追った。
「どこへ行くんですか」
2階を過ぎて、エンヤはさらに上へと向かう。行き先が読めず困惑した声を出すテレンスを振り返りもせず、老婆は「DIO様のお部屋に決まっておろう」とぶっきらぼうに言った。
こんな早朝から主人の部屋に行っていいものなのだろうか。
困惑を深めるテレンスをよそにエンヤはDIOの部屋の扉を叩いた。
「入れ」
昨晩聞いた深みのある低い声が扉越しに聞こえる。エンヤは黙って中に入った。
「──…」
おもわず息を吞む。
薄暗い部屋に蝋燭を幾つか灯してベッドの上で優雅に本を読むDIOの、その人間離れした美しさにテレンスは見惚れた。本に注がれていた視線が不意にこちらに向いて細まり、口角が柔らかく持ち上げられる。
息が止まるような光景だった。
当のDIOはその様子を面白そうに見ていたが、ふっと視線をそらし、横に控えていたエンヤに声をかけた。
「マリアを呼んで来い」
「しかしDIO様、まだお休みになっているかと」
「私が呼んでいると言えば起きる。彼奴はそういう娘だ」
DIOの言葉にエンヤが一礼して部屋を出る。テレンスはその言葉から、どうやらこの館にはもう一人の住人、それも女が住んでいるらしいことを察した。
DIOの口振りからして恋人か、はたまた都合のいい女か。これだけ美丈夫なのだから女性が放っておくはずがないだろう、と下世話な思考になったところで、廊下からの足音がテレンスの耳に飛び込んできた。
「DIO!」
「こちらへ来い、マリア」
ぱたぱたと軽い音を響かせてDIOのもとに駆け寄ってきたのは、テレンスの予想を大きく裏切って、幼い少女だった。
マリアと呼ばれた少女はベッドの上で寛ぐDIOの傍らに近寄ると、興味津々の様子で手元に開かれたままの本を覗き込んだ。
「お前、この間執事が来ると話したのを覚えているか?」
「うん」
「それが彼だ」
マリアがくるりとテレンスを振り向いた。テレンスは一礼をした。
「テレンス・T・ダービーと申します。よろしくお願いいたします、マリア様」
「こちらこそ、」
「テレンス。彼女のことは“お嬢様”と呼べ」
有無を言わさぬ口調でDIOが口を挟む。
「承知しました」
DIOは頷き、読んでいた本を閉じてサイドテーブルに置いた。その白い手がマリアの髪を摘まむ。マリアはDIOに向き直ると「もう寝る?」と尋ねた。
「ああ。テレンスとエンヤは下がれ」
主人の命令に、テレンスはエンヤと共に部屋を出た。閉じられた扉を思い出し、あの二人がどのような関係なのかという疑問が胸に浮かんだ。
「あと2時間ほどしたらお嬢様は起きなさるじゃろ」
キッチンコートに入ってからエンヤは言った。
「そうしたらパンを焼いて、ミルクと果物も出せば良い。それがいつもの朝食じゃ。その前にDIO様の食事について説明するぞ」
テレンスは兄の言葉を思い出した。
「兄からは料理は必要ないと言われたのですが…」
「ああ、料理は必要としないのう。まあ
「はあ……」
どこか意味深な言い方にテレンスは首をひねる。エンヤはそれ以上何も言わずに地下へと下りていった。
階段を下りた先にあった地下室には6、7人ほどの女性がいた。
テレンスはその光景を見て眉をひそめる。
「これは何なんですか」
テレンスより二歩ほど先にいたエンヤは暗がりから見上げる。
「彼女達がDIO様の食事じゃ」
「……」
テレンスは驚いた。
DIOが若い女を食っていることにではなく、「あのお方ならおかしくはない」と抵抗なく受け入れた自分に対して、である。
地下室から上がってきた後、エンヤは口を開いた。
「DIO様は若い女の血を摂取して養分を摂っておられるのじゃ。その用意はこのエンヤに一任されておる。そなたの兄が料理は不要と言ったのはそういう訳なのじゃ。用意するのはお嬢様の食事だけでよい」
お嬢様、という言葉にテレンスの胸中に再び疑問が浮かんだ。今聞いてしまおうとテレンスは口を開く。
「お嬢様とDIO様の関係は?」
「わしにもよく分からぬ。実のところお嬢様がこの館に住むようになって2週間も経っておらぬのじゃ」
それでは親子や兄妹でも無いということだ。恋人にしては年齢が幼すぎるし、食糧の女達とは扱いがかけ離れている。
思考を巡らせるテレンスを見て、エンヤは「そういえば」と付け加えた。
「お嬢様は、DIO様と友達になったのだと言っておった」
「友達…」
「DIO様がどう思っているかは分からぬが、まあ憎からず思っておられるじゃろうな。自覚は無いじゃろうが」
「…何故分かるんですか」
「そなたもそのうち気付くと思うがな、」
DIO様はお嬢様の名を他の誰にも呼ばせないのじゃ。
エンヤの囁きがキッチンコートに響いた。
これからはもっと計画的に執筆を進めていきます。
本当にすみません…。
お気に入り12件に驚愕しております…ありがとうございます…!
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