マブラヴ トータルイクリプス ~桜舞う帝都より~【R-15版】 (ろっくLWK)
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prologue
明けきらぬ玄冬


 

   ZAP.YUI

 

「袖ひちて、(むす)びし水の凍れるを、春立つけふの風やとくらむ」

 

 呟き、そして唯依(ゆい)は空を見上げる。風に舞い上げられた桜の花びらは、一筋の帯となって雲間を彩っていた。

 

 

 時は二〇〇三年四月。過日行われた甲二〇号作戦、通称『錬鉄作戦』において、自らが開発主任として関わっていた『XFJ計画』の成果たる不知火(しらぬい)・弐型は遂に実戦運用試験の場へ投入された。

 その戦果は当初の予想を大きく上回るものであったらしい。理想的な戦闘証明(コンバットプルーフ)を得られ、制式採用される日もそう遠くない……そうした周囲の囃し立てもしかし、当の唯依にとっては喜び半分、というのが偽らざる心境だ。

 

「結局、あの男の望んだ不知火・弐型(フェイズ3)を通すことは出来なかったな……」

 

 春の陽気に似つかわしくない溜め息を吐き、唯依は再び視線を落とす。

 運用試験機として帝国陸軍の富士教導隊に卸されたのは「フェイズ2」仕様の不知火・弐型。そして肝心の次期主力機選定においても、不知火・弐型はF-15SE(サイレントイーグル)J・月虹(げっこう)との熾烈な争いを繰り広げている真っ最中でもある。

 これがフェイズ3だったなら。そう思ってみたところで、今更どうしようもないという事実は覆らない。

 

「あの日から私は、何を成せたというのだろうか?」

 

 あの日、フェイズ3・一番機を失ったXFJ計画はほどなく解体されることとなった。

 直後、人類の総力を挙げ喀什(カシュガル)のオリジナルハイヴ攻略に臨んだ『桜花作戦』では件のプロジェクトに参加していたメンバーも母国原隊へと復帰し、各々の戦地にて奮戦したという報も届けられている。

 それは唯依とて同じ。例えほんの一端であれ、人類勝利への筋道に貢献出来たことを喜ばしく思う気持ちが無い訳ではない。だがそれはあくまで斯衛として、帝国軍人として当然の務め。(たかむら)の本懐たる『武具拵え』の御役目、その成果では無いのだ。

 XFJ計画を通じて醸成された不知火・弐型は「例の残骸」ごと、その開発権限を本来の持ち主である帝国陸軍・巌谷(いわや)中佐の手元へと戻された。そうである以上、先の運用試験における華々しい業績はむしろ中佐の誉れとすべきだろう。

 私自身は未だ何も成しえていない。そういう思いに、ここのところ唯依はずっと燻っている。

 

「袖ひちて、掬びし水の凍れるを……」

 

 先程の呟きを唯依は再び諳んじる。この和歌は平安期の貴族にして歌人・紀貫之が詠み、古今和歌集にも編まれたものだ。

 昨夏、袖を濡らして掬った水は冬の間には凍てついていたが、立春を迎えた今は風に融かされていることであろう――そんな内容の歌。それは時節に合っているというだけでなく、何故か不思議と自分の境遇に重なるものがある。

 ただし己の心境としては春のそれには程遠く、従って凍っていた水が融けたか否かも判然としない。そして濡らした袖は今も尚、この腕にまとわりついたままでいる。――それを捨て去れぬのもまた己の不甲斐なさ、ということなのだろうか。

 

「こういう時、父様は……いやあの男ならば、どうするのだろうか」

 

 他人に頼ることなど出来ない。甘えは許されない。かつてBETAの侵攻に崩れ去る京都防衛線から生き延びた折、唯依はそう心に誓った。

 あの頃の頑なさに比べ、今は随分柔らかくなったものだと自分では思っている。だがそう思っているのは自分だけで、根底は何も変わっていないのかも知れない。

 

「――いい加減、私も変わるべきなのだろうな」

 

 その気も無いのに呟いて、それから唯依は手元の腕時計へと目を落とした。十三時五〇分。そろそろ列車が着く頃だ。せめて出迎えの時ぐらい弱気な私を見せぬようにせねば。そう腹を括り、唯依は新東京駅の改札口へと向かう。

 ここは戦前から帝国の公共交通における要衝であり、その鉄道網は関東一円にまで延びている。先頃発表された国土復興計画によれば北は青森、南は九州博多にまで高速鉄道が整備される計画もあるらしい。そうなれば人も物資も戦前同様、この東京を基点としてますます行き交いが活発になってゆくことだろう。

 待ち合わせ場所はここ、丸の内中央口の改札前。大正期に建てられたこの駅舎は当時の外観をそのままに近年復元されたものである。一九九八年のBETA横浜占拠時、この辺りへの被害も少なくなかったという。あれから四年の歳月が経ったとはいえ、その傷痕も今ではほとんど癒えてしまったと言って良い。どこまでボロボロにされたとしても決して屈せず、幾度でも立ち上がる。これが人の意志の強さなのか……いつぞやアラスカでも抱いた思いが再び唯依の中に蘇ってくる。

 美しく彫られた天井ドームのレリーフをしげしげと眺めていたその時、改札の向こう側にその男が姿を現した。向こうも気付いたのか、真っすぐこちらに歩いてくる。改札を通り抜け、そして目の前までやって来て――男は唯依に向け片手を挙げた。

 

「よお。久しぶりだな」

 

「ああ。――元気そうで何よりだ、ユウヤ」

 

 その男、ユウヤ=ブリッジスを出迎えるべく、唯依はこの東京駅へとやって来たのだった。

 

 

 

 



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episode 1
未知なる郷愁


 

  ZAP.YUYA

 

 車窓に映る風景はどこもかしこも一面ビルで埋め尽くされた都市群。それは現在の居住地である横浜の近傍にはまるで存在しないものであり、米国(アメリカ)でも基地を転々としていたユウヤにはおよそ馴染みの無い光景でもあった。

 

「どうした、物珍しそうな顔をして。帝都は初めてか?」

 

 何が可笑しかったのか、隣に座る唯依が口元に手を当てくつくつと喉を震わせている。まあな、と応え、ユウヤは視線を窓辺から唯依へと向けた。

 

「日本に着いてからこっち、国連軍基地以外の場所に行く機会なんて無かったからな。こないだの『甲二〇号作戦』が終わって、オレにもようやく外出許可が下りたってワケさ」

 

「そうか。そう言えば貴様は、“正規の方法ではない手段”で入国したのだったな」

 

「そういうことだ」

 

 苦笑いし、そしてユウヤはかつての記憶を振り返る。

 二〇〇二年一月一日。その日行われた『桜花作戦』中の世界的な混乱に乗じ、ソ連からカムチャツカを経由して日本に亡命する――その計画は甲二六号・エヴェンスクハイヴ付近に突如として出現した超重光線(レーザー)級BETA、俗称『Г(ゲー)標的』の脅威的な戦闘力を前にあわや頓挫しかけたのだった。

 

「国連から城内省経由で報せが入った時は驚いたぞ。大破寸前の不知火・弐型が国連軍基地の滑走路に強行着陸、国籍不明のパイロット二名が日本への亡命を申請している――というのだからな」

 

「あの後、国際問題になったってのも聞いた。不知火・弐型(94セカンド)は日米共同のプロジェクトだったからな。それがテロリストに鹵獲されて主席開発衛士(メインテストパイロット)ごと行方不明、しばらくしてソ連経由で亡命したとあっちゃ日米ソの三つ巴になって揉めるだろう――とは予測してたが」

 

 その後ユウヤはしばらく国連軍に身柄を確保されていたのだが、ほどなくして釈放されるに至った。

 

『ユウヤ=ブリッジス。貴様はXFJ計画に従事中テロリストによって機体ごと拉致され数ヵ月間の軟禁状態にあったが、自力で機体を奪還し脱出。その際、現場付近にて機体事故により負傷していたソ連軍衛士・イーニァ=シェスチナ元少尉を人道救助。身の安全を図るため少尉と共にカムチャツカ経由での国外脱出を企図し逃亡中、エヴェンスクハイヴのBETA群に遭遇、これと交戦。その際乗機を損傷するも、超重光線級撃破に成功し戦域を離脱。国連軍函館基地へ強行着陸の後、シェスチナ元少尉と共に日本へ亡命を申請した――この事実に相違無いな?』

 

 拘禁が解かれたその日、「事情聴取」と称して尋問官が述べた内容は明らかに、ユウヤたちの身辺を保全すべく何者かによって用意されたカバーストーリーだった。ぼろぼろの残骸と成り果てた不知火・弐型は一時国連軍に接収され、その後正式な手続きを経て帝国軍へ返還されたと聞き及んでいる。かくして亡命を認められたユウヤは開発衛士としての腕を買われ国連軍所属の衛士となり、『お偉いさんの希望によって』イーニァともども国連太平洋方面第十一軍・横浜基地へと配属されたのである。

 

「ところでどうだ、国連軍は? 貴様の部隊は確か先般の錬鉄作戦にも参加したと聞いているが」

 

「米国より人使いが荒いのは確かだな。よっぽど人手不足だったんだろ、オレみたいな素性の知れない人間ですら入っていきなり中隊長なんかに抜擢されるぐらいだし」

 

「貴様の技量ならばさもありなん、と言ったところだと思うが。して、戦術機の手応えは?」

 

「悪くない。さすがに不知火・弐型(フェイズ3)とは比べるべくも無いが、不知火に搭載されてるXM3(エクセムスリー)の使い勝手は、ありゃあ目からウロコって奴だったな。あれを動かしたときは、初めてフェイズ2に乗った時の高揚と感動を思い出しちまったぜ」

 

 その評判を前もって聞いていたとは言え、実際に動かしてみた時の衝撃は今でも忘れがたい。

 着地硬直の解消。挙動の間隙を縫う入力受付。

 生身の肉体であれば当然出来るであろう動作が戦術機でも容易に再現できた時、戦術機に対する己の観念が「こうあるべき」と凝り固まっていた事を、ユウヤ自身もまた嫌というほど思い知らされたものだ。

 

「横浜で開発されたという例の新型OSだな。先ごろ斯衛にも正式配備されたが、私もあれには驚嘆させられた。一度あの制御感覚を味わってしまえば、もう旧型OS機(ロートル)には乗れる気がしない」

 

「お前でもそう思うか。あれと武御雷(タイプ・ゼロ)を組み合わせりゃ、まさに鬼に金棒ってヤツだろうよ。失速機動時のあの先読みに近い鋭敏な応答性と、武御雷の全身刃物みたいな武装との取り合わせは相性が良過ぎる」

 

「……成る程」

 

 小さく含み笑いを洩らした唯依を、どうした? とユウヤは訝しむ。

 

「鬼に金棒、か。そのような諺を習得している辺り、日本での生活にもだいぶ馴染んだようだな」

 

「笑いのツボはそこかよ。馴染んだかどうかはともかく、日本に関する知識は色々と増えたな。――ま、合成食の不味さには未だに辟易としてるが」

 

 それももうすぐ解消される、という話は先日のニュースでも大々的に報道されたばかりだ。

 過日甲二〇号・鉄原(チョルウォン)ハイヴを制圧したことにより、日本は本土2,000km圏内にハイヴの存在しない、言わば暫定的安全を確立するに至った。それに伴い国土復興に向けた動きも官民問わず活性化しつつある。

 だからと言って、BETA侵攻の脅威が日本から完全に取り払われたという訳ではない。最寄りのハイヴから大規模遠征を仕掛けて来ないとも限らないし、人類側の隙を突いて新たなハイヴが建設される可能性だってある。そもそもBETAの行動は徹頭徹尾、予測不能。ふとした折にある日突然地下から湧き出たとしても何一つとして不思議は無い……それが連中の恐ろしさなのだ。

 こうした訳でどこを取っても油断出来ない状況であることに変わりは無いのだがしかし、『桜花作戦』以降も世界各地のハイヴ制圧作戦が順調に推移する中にあって、諸外国に先駆けて日本国民が勝利と復興に向けての活力を得始めたのもまた事実である。

 

「今度日米共同で、那須と長野にドデカい食品養殖プラントを建てるんだってな。あれが出来りゃあ日本でも合成じゃない肉や野菜が食えるようになるんだろ?」

 

「それだけでなく、非汚染地域の一部では既に国家主導で農業の再開も進められているぞ。既に絶滅してしまった家畜や植物などの品種を再生することは難しいかも知れないが、プラント建造と併せて交通網の復旧も進むことで、数年内には米国と遜色ない程度の食品流通が期待できる見通しだ」

 

「その日が待ち遠しいぜ! 合成ビーフに合成ポーク、どれもこれも毎日食うにゃキツ過ぎる。基地内のPXにはまあそこそこイケる所もあるが、それでもさすがに本物の肉と比べりゃ天と地の差ってヤツだ」

 

「さっきから随分と贅沢を言っているが、そんな環境の国に自ら望んで亡命した男の発言とは思えないな」

 

「カタいこと言うなよ。ここにいるのはお前と運転手さんだけだし、聞かれたからってどうなるモンでもないさ。それに、これでもソ連で食わされたメシよりはまだマトモだと思ってんだぜ」

 

「全く。……ユウヤは相変わらずだ」

 

 唯依は呆れ返るようにせせら笑いをしながら、その束ねられた横髪を手で掬う。艶のあるさらさらな黒髪の一部を結わえる白い布。それは唯依のトレードマークであり、彼女の日本人らしさを感じさせる要素の一つでもある。

 

「その分、今日は楽しみにしてたんだ。今回の休暇だってわざわざこのために取ったようなもんだからな」

 

「それは畏れ多いことだ。『ブリッジス中尉』のご期待を裏切らないよう、せいぜい奮闘するとしよう」

 

「良く言うぜ。料理と言い剣術と言いお前の腕は信頼してるよ、『篁大尉』」

 

 互いに顔を見合わせくすくすと笑い合い、それからユウヤは親指を立てる。

 

「頼んだぜ、最高のニクジャガをよ!」

 

 

 せっかく日本に居るのだから、久々に肉じゃがを食べに来ないか。

 そうしたためられた手紙がユウヤの元に届けられたのは今から一週間ほど前、甲二〇号作戦の成功に基地中が沸き立つさなかのことだ。

 基地の人員が順次休暇を取り帰郷する中、亡命者という立場もあって帰る場所の無いユウヤは余暇を基地内で過ごすつもりで居たのだが、唯依からのその誘いには少なからず心を動かされた。

 

『ユイにあえるの、うれしいんだね。いってらっしゃいユウヤ』

 

 基地を出る際、見送ってくれたイーニァは終始笑顔だった。横浜基地に来てようやくイーニァにも『友達』と呼べる存在が出来たらしく、きっと今頃も二人は基地であやとりやら何やらに興じていることだろう。だからこそユウヤは安心して基地を留守にすることが出来たのだった。

 イーニァとその友達。付き合いの良い間柄というだけでなく、本質的な意味での相互理解者。あの二人が仲睦まじくしているところを見る度、それを微笑ましく思いつつも、ユウヤはどうしても思い出してしまう。

 かつて常にイーニァの傍らにあった存在――そう、彼女のことを。

 あの日抱き留めたぬくもりは、あの涼やかな笑みは、今はもう思い出の中にしか存在していない。

 

「そろそろ着くぞ」

 

 その一声に、ユウヤの思考は断ち切られた。駅を発ってからおよそ三十分。車が角を曲がったところで、あれだ、と唯依が目の前の建物を指差す。

 真っ白な漆喰の塀。瓦を重ねた黒い屋根の門。書籍でしか見たことの無かった、日本独自の建築様式だ。

 

「へえ……随分でかいな。さすがは譜代武家のお屋敷、ってところか」

 

「茶化すな。これでも別邸だし、武家の邸宅にしては小さい方なんだ」

 

 車はそのまま直進し正門の前へと停まった。車を降りて木造りの大門を真下から見上げてみると、かなりの威圧感がある。これを毎度開け閉めするのは骨が折れそうだ。そう考えていた折、大門のすぐ隣にある『潜戸』と呼ばれる小さな通用口が「ぎい」と開き、和装に身を包んだ初老の女性が姿を現した。

 

「おかえりなさいませ」

 

「ただいまばあや。こちらが本日の来客であるユウヤ=ブリッジス中尉だ。滞在中くれぐれも失礼の無いよう、もてなしを頼む」

 

「畏まりましてございます。さあさブリッジス様、どうぞお荷物を」

 

 『ばあや』と呼ばれた女性がこちらに手を伸ばしてきた。それにユウヤはどうにも躊躇いを覚えてしまう。

 

「え、いや。荷物ったって手持ちのバッグ一つだし、別に良いですって」

 

「そういう訳には参りません。これも私ども侍従の務めですゆえ」

 

「いや、ホント大丈夫ですから。どうかお構いなく」

 

「そうは申されましても……」

 

 そんな二人のちぐはぐなやり取りを見かねたように、唯依がクツリと吐息を零した。

 

「遠慮はするなユウヤ。ばあやはな、篁家に久々の来客が訪れたことを喜んでいるんだ」

 

「え……そうなのか?」

 

「昨夜も随分と張り切ってな。やれ布団を干すだの、屋敷の掃除をせねばだの……あんなに生き生きとしているばあやを見たのも久しぶりだったな」

 

「お恥ずかしゅうございます。年寄りの冷や水とは重々承知しておるのですが、年甲斐もなく舞い上がってしまいまして」

 

「はあ」

 

「ばあやは昔から客人の世話をするのが好きなんだ。だから貴様がばあやに配慮するというなら、ばあやのしたいようにさせてやってくれ」

 

 そうは言われてもな。困惑しつつ、ユウヤは唯依とばあやの顔を交互に見比べる。

 嘘を言っている感じは確かにしない。純粋に歓迎されているのも間違いでは無いようだが、かと言って歳の行った女性に荷物を持たせるというのもいかんせん気が引ける。――いや、『郷に入っては郷に従え』なんて言葉もあるぐらいだし、これも日本流ってことか。かぶりを振って考え直したユウヤは「じゃあ、お世話になります」とバッグをばあやへ引き渡した。

 

「お荷物はご寝所にお運びしておきます。後ほどご案内致しますので、まずは母屋へどうぞ」

 

「あぁ、ありがとうございます」

 

 ぺこり、とお辞儀をしたその時、「フフフ」と唯依がくすぐったそうな声を上げた。

 

「何だよ?」

 

「いや別に。ユウヤが不慣れなお辞儀をしているのがどうにもこう、可笑しくてな」

 

「――んだとぅ」

 

「それそれ、やはりユウヤはそうでなくては。いらん気遣いは無用だ。実家……いや、自室にいるつもりで存分に寛いでくれ」

 

 今の唯依の訂正はこちらの事情を知る彼女なりの配慮だ。そうと直感して、分かった、とユウヤは快い返事をする。

 

「では行こうか」

 

 唯依の後を追い、ユウヤも通用口を抜けて敷地内に足を踏み入れる。石畳を敷かれた歩道。そのおよそ五十メートルほど先に篁邸の母屋はあった。

 木造の建物は真新しさも見受けられるが、華美な装飾や無用な派手さは一切無い。ほとんど平屋建ての母屋は記憶にあるユウヤの生家をひと回り大きくしたほどで、名家の屋敷にしては小ぢんまりとしたものだった。

 

「何つーか、落ち着く佇まいだな」

 

「亡くなった父が清貧や瀟洒を好んだというのもあるのだが、あまり広いと却って過ごしづらいという事もあってな。先のBETA関東侵攻により一部は壊れてしまったが、建て直しの際にそれまでよりも小さくし、代わりに緑を増やしたんだ」

 

「成る程」

 

 唯依の説明通り、母屋の周辺は都心の一等地とは思えないほど多くの草木に囲まれていた。手入れの行き届いた庭木は勿論のこと、向こうには整備された日本庭園も見えるし、廊下で繋がった離れの周りにも植え込みや小さな池があったりする。自分の家でもないのに妙に心が凪ぐのは、自分が日本人の血を引いているからというだけでなく、この自然の多さに起因するところがあるのかも知れない。

 

「さあ、上がってくれ」

 

「お、お邪魔します」

 

 母屋の玄関は外から見るよりもかなり広い作りになっていた。日本で暮らすこと早ニ年目、とは言え大半を基地内や前線で過ごしてきたユウヤには、日本の風習にまだまだ馴染みが無い。確か家に上がる時は靴を脱ぐんだっけ? などと考えていたところに奥から着物姿の女性がしずしずと歩いてきて、ユウヤの目前に折り目正しく座した。

 

「お初にお目に掛かります。篁唯依の母、栴納(せんな)にございます。以後お見知りおきを」

 

「あ、ど、どうも。あ、いや、国連太平洋方面第十一軍所属、ユウヤ=ブリッジス中尉であります。ほ、本日はお招きいただきまして、その……」

 

「だから、いらん気遣いは無用だと言ってるだろう」

 

 横から唯依にちょっかいを出され、うるせえ、とユウヤは唇を尖らせる。

 

「唯依の申す通りです、私どものこれはお客人を迎える上での篁の礼でございます。お気になさらず」

 

 そう言って恭しく顔を上げた栴納は、女性を外見の良し悪しで区別しないユウヤですら息を呑むほどの美人だった。その面立ちはさすが親子と言うべきか、娘によく似て凛としている。――唯依がもう少し歳を取ったらこんな風になるのかも。そんな考えが一瞬でも頭をよぎったことに、ユウヤは軽く自己嫌悪してしまう。

 

「ブリッジス中尉のご勇名はかねがね伺っております。不慣れな土地でこのようにしゃちほこ張った待遇、さぞや息苦しいこととは存じますが、何卒ご寛恕下さいませ」

 

「あ、いやえっと……ご、ゴカンジョ?」

 

「『大目に見てください』という意味だ」

 

 唯依に耳打ちされ、顔がかあっと熱くなる。――くそっ。そんな難しい日本語、知る訳ねえっての。そんなユウヤの心の声を見透かしたかのように、栴納はくすくすと上品な笑いをこぼした。

 

「本当に面白いお方ですね、ブリッジス中尉は。堅苦しさを好まれぬご気性のようですので、不躾ながら以後『ユウヤ殿』とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

 

「あ、ああ。構いませんよ。オレもその方が気が楽ですし」

 

「言葉遣いもなるべく平易であるよう、侍従ともども配慮させていただきます。その方がユウヤ殿もご滞在中、気兼ねなくお過ごしいただけましょう。では会食の席までしばしごゆるりと」

 

 三つ指をついて再び丁寧に座礼をし、それから栴納はしずしずと奥へ戻っていった。そのあまりに悠然たる身のこなしに、しばし呆気に取られたユウヤは「なあ唯依、」と尋ねる。

 

「さっきのアレって、土下座ってやつじゃないのか?」

 

「うん? いや、似てはいるが、いわゆる土下座とは意味合いが少々異なるな。あれは日本式の――そうだな、言わば最敬礼のようなものだ」

 

「そうなのか……」

 

 そうと言われたところで全然区別が付かない。未だ微かな動揺を引きずりながらも、とりあえず唯依の勧めに従ってユウヤは靴を脱ぐ。

 存分に寛いでくれ。それはありがたい言葉には違いなかったがしかし、勝手も分からぬ日本武家の仕来りや礼儀作法を目の当たりにして、そんな事は到底出来そうも無い。これは滞在中窮屈な思いを我慢する事が多くなりそうだ。

 ……これが篁家に対するユウヤの、率直な第一印象だった。

 

 

 

 



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歓待、そして思惑

 

  ZAP.YUI

 

 肉じゃがを作る時には幾つかコツがある。

 まずは下煮をした後、具材を取り分けて煮汁だけをゆっくり詰め、胡椒を汁全体に良く馴染ませる。こうすることで胡椒の風味が満遍なく煮汁に乗り、具材の旨味を一段と引き立てる。かと言って煮詰めすぎてもいけない。風味を活かすには適度なところで具材を戻し、味が均一になるようお玉で煮汁を掛け回し、火の通り具合と味の染み渡りの加減を計る必要があるのだ。

 以上が母から教わった肉じゃがの作り方であり、その母にレシピを教えたのは篁家の料理番。さらに系譜を辿ればレシピの由来は父・祐唯(まさただ)へと行き着く。

 だがそもそも日本の料理に胡椒を用いる風習など無い。それはある意味では父オリジナルの味付けと言えるのだがしかし、このレシピの本当の発案者は――

 

「……ふう」

 

 鍋の火を止め、そして唯依は一息をつく。後は自然に冷ましながら味が沁み込むのを待つだけ。食べる時にはもう一度加熱し、ほど良い温かさとなったところで皿に盛り付ければ篁家秘伝の肉じゃがは完成だ。

 

「唯依」

 

 鍋に蓋をしたちょうどその時、調理場に栴納が姿を現した。いかがしました? と唯依はエプロン姿のままで栴納の元へ向かう。

 

「料理の支度もあらかた落ち着いた頃合いでしょう。ここは私が見ておきますから、あなたは離れへ行ってユウヤ殿のおもてなしをなさい」

 

「え? しかし、他の料理がまだ……」

 

「お客人を手持ち無沙汰にさせるものではありませんよ。それにユウヤ殿は屋敷の者がお相手をするより、あなたと過ごす方がお気を楽にされる筈。それを察して振る舞うのも当主たる者の……いいえ、あなたの務めです」

 

「は、はい」

 

 相も変わらず、母には有無を言わさぬ凄みがある。おずおずと脱いだエプロンを傍の椅子に掛け、ユウヤの居る離れへ向かおうとした自分を「唯依」と、栴納が再び呼び止めた。

 

「何でしょうか、母様」

 

「あの話、もうユウヤ殿には……?」

 

 その問いに、唯依の表情は凍った。さすがは母だ。自分の肚積もりも何もかも、全てを見通している。

 

「……いえ」

 

「では今宵、伝えるつもりなのですね」

 

「そうです」

 

「あなたがそうと決めたのなら、母は何も言いません」

 

 でもね、と栴納が距離を詰めてくる。ひそひそと耳を打つように、栴納はこう述べた。

 

「忘れないで。私はあなたとユウヤ殿が決めた事を尊重し、二人を陰日向に支えるつもりです。これまで篁の家に、祐唯様に、ずっとそうして来たように」

 

 ぎゅう、と胸が締め付けられる。初めて母に真実を告げた時、母は何も言わず、ただ黙って全てを受け入れてくれた。恐らくはその時に覚悟したのだろう。ユウヤの存在を。そして、娘の選択を。それが篁に生きる女の――いや、「篁栴納」という一個の人間の愛によるものだということを、今の唯依はこれ以上なく痛感している。

 

「ありがとうございます、母様」

 

 ある意味において、自分の往かんとする道は奇しくも母のそれと酷似している。果たして自分はこの人ほど気高く揺らがぬ精神を持ってその道を歩めるだろうか。

 そんな思いを胸の奥へとしまい込み、唯依は調理場を後にした。

 

 

 

「ユウヤ、居るか?」

 

 離れの襖の前に立ち、中に向かって呼び掛ける。返事は無い。厠にでも出かけたのだろうか。そう思いつつ、今一度「ユウヤ?」と名を呼んでみる。……やはり返事は無い。しかし襖の向こうから人の動くような気配はする。

 気になってそっと襖を開けてみると、そこではユウヤが文字通り大の字になって、畳敷きの和室のど真ん中に寝転がっていた。

 

「ユウヤ……?」

 

 足音を忍ばせ近づくと、微かな寝息の音が聞こえてきた。どうやらここで待ちぼうけを喰らっているうちに、暇を持て余した彼はそのまま寝こけてしまったらしい。

 無理もないか。

 そっと傍に座り、そして唯依は弛緩し切ったユウヤの寝顔に目を凝らす。

 

「きっとあの日から貴様には、こうして安らげるいとまなどひと時たりとて無かったのだろうな……」

 

 ユウヤが大口を開け気持ち良さそうに眠っている。この篁家でユウヤがそうしてくれている事を、唯依は無性に嬉しく思ってしまう。

 普段はそうとは感じさせないのに、こうして間近に見ていると確かにあの人の面影があるような気もする。こと顔立ちに関して言えば、ユウヤは父方の血を色濃く受け継いでいると言えそうだ。

 

「ん……」

 

 果たして今、ユウヤはどんな夢を見ているのだろう。それは少々気になった。夢は唯依にとって必ずしも安寧の象徴では無い。時に忌まわしい記憶を呼び覚まし、時に苦痛に悶え苦しみ、時に罪悪感に責め苛まれる。それでもこのところはそうした夢を見ることも大分減ってしまった。

 それは年月を経たことであの日の傷が癒えつつあるからか。

 それとも、己に科した戒めを忘れ掛かっていることの証左であろうか。

 

「……Mom(マム)……」

 

 ふとこぼれたユウヤの寝言で、唯依ははたと我に返った。彼が見ていたのはどうやら母親の夢だったらしい。ふ、と口元を綻ばせた唯依は、彼に掛け布団でも掛けてやろうかと立ち上がった。

 

「……ん、んぁ……。……唯、依……?」

 

 振り返ると、ユウヤが目をしぱしぱさせながらこっちを覗き込んでいた。物音を立てぬようにと極力注意を払ったつもりだったのだが、どうやらユウヤの鋭敏な知覚に察知されてしまったらしい。

 

「ユウヤ。済まん、起こしてしまったか」

 

「あぁ、いや……そっか、オレ寝ちまってたのか」

 

「客人に退屈をさせてしまった。申し訳ない」

 

「いいって。退屈とかじゃなくてのんびりしてただけだし。にしてもホント落ち着くな~ここは。日に当たりながら水音を聞いてたら、ついウトウトしちまった」

 

 ユウヤが目を向けた縁側の先を唯依も眺める。ちょぼちょぼ、と音を立てているのは、離れを囲む日本庭園の一角に置かれた手水鉢の流水。少し日差しも傾きかけた晴天。時折吹く穏やかな春風が運ぶ陽気と花の香。これではユウヤならずとも眠たくなるのも道理というものだ。

 

「ところで、唯依こそどうしたんだ?」

 

「私か? いや、調理の段取りがあらかた着いたのでな。貴様の接待をするためにこうしてここへ来たというワケだ」

 

「何だよ。仮にも篁の当主が、わざわざオレなんかのために時間を割いてくれたのか?」

 

「今日のユウヤは篁の客人。であればこれも当主の務めというものだ。それに貴様は侍従の者に甲斐甲斐しく世話を焼かれるよりも、私と居た方が気楽だろう?」

 

「違いない」

 

 よっ、と弾みをつけてユウヤは身を起こした。やはり母様のお見積り通りか。そう思いつつ、唯依も彼の膝元にぺたんと腰を下ろす。

 

「もう一時間もすれば夕餉の支度が整う。それまでの間、私を話し相手に過ごすが良い」

 

「そうだな。じゃあ折角だし、来る途中にも話題に上がった戦術機とXM3の話でもするか」

 

 戦術機。そう、それは自分とユウヤを繋ぐもの。

 あの半年余りの中で二人が絆を育む懸け橋となったものであり、また二人にとって数少ない共通項の一つでもある。

 ――尤も、それはあくまで『ユウヤの知り得る範囲においては』という話なのだが。

 

「まずはXM3の機動制御関連についてだが、特筆すべきはだな……」

 

 

 

* * *

 

 

 

「――ふうっ、食った食ったぁ」

 

 ユウヤが満足げに腹を撫でている。篁家秘伝の肉じゃがは今回も十分お気に召して貰えたらしい。他にも料理番や栴納の手料理などを全てきれいに平らげた彼の食べっぷりが、唯依には微笑ましくもあった。

 

「どうだった、今宵の料理は?」

 

「すげー美味かった。味付けに拘ってるってのもあんだろうけど、ニクジャガなんかアラスカで食った天然モノの時と寸分違わず同じ味だったぜ。ありゃあどんなマジックだ?」

 

「家の敷地内に菜園を設けてあってな。肉じゃがだけでなく、今宵振る舞った料理は全てそこで採れた野菜類を用いたんだ。肉や魚などの食材については、さすがに合成のものを使う他は無かったが」

 

「いやいや、全然そうとは感じなかったぞ。とにかくメチャクチャ美味かった。お袋さんにも『ホントに美味かった』って、後でお前から伝えといてくれ」

 

「ふふ。ユウヤの口から直接伝えた方が、母様は喜ぶだろうがな」

 

 唯依の手掛けた料理は肉じゃがのみならず、他にも焼き物に汁物と複数あった。その全てにユウヤが舌鼓を打ってくれたことは純粋に嬉しかった。――今も尚そう思うことは、未練では無い。そう自分に言い聞かせつつ、ところで、と唯依は話を切り出す。

 

「腹が落ち着いたら湯浴みをしてはどうだ。篁の湯殿はかつて、当時の崇宰(たかつかさ)家のご当主から直々にお褒めを頂戴したほどの名湯だぞ」

 

「おお! 良く分かんねえけど、そいつぁ凄えな」

 

「支度が出来次第ばあやに案内させる。それまでは離れに戻ってゆっくり過ごしてくれ」

 

「分かった。――しかし、何だな」

 

 何かを言い淀んだユウヤに、どうした? と唯依は尋ねる。

 

「こうまで至れり尽くせりだと何つうか、申し訳ねえ気分になっちまうな。これが日本流のホスピタリティ(おもてなし)だ、ってのは解っちゃいるつもりなんだが」

 

「何を言う、今日の貴様は我が篁家の大切な客人だ。保養にでも来たつもりで大きく構えていれば良い」

 

「まあ、な。ほらオレってさ、今までどこ行ってもこんな風に扱われたことが無かったもんで、つい……な」

 

 そうか、そう言えばそうだった、と唯依は一つの事に思い至る。

 ユウヤはその出自ゆえ、生家だった祖父の家でも軍に籍を置いて以降も、こうした手厚い待遇を受けたことなど無かったに違いない。

 慣れないから落ち着かない、と言うよりもむしろ、自分にはそうされるだけの資格なんて無い――そうとまで考えていたとしてもおかしくは無いのだ。

 

「……深く考えるなユウヤ。先の錬鉄作戦や聞きしに及ぶГ(ゲー)標的掃討戦において、貴様の挙げた武勲はこの日本帝国や世界各国、ひいては全人類に多大なる恩恵と安寧をもたらしてくれたんだ。これはその礼……いや、私なりの恩返しだとでも思ってくれればそれで良い」

 

「恩返し……って、なんか大袈裟だな」

 

「これでも足りないと思っているくらいだぞ? 謙遜せず、素直に受け取れ」

 

「そういうことならまあ、ありがたく頂戴しておくぜ」

 

「うむ。湯殿の支度も程なく出来よう。食い過ぎたからといって、そのままさっきのように大いびきをかくなよ」

 

「そこまで寝ぼすけじゃねーよ。まあ腹ごなしに、軽くトレーニングでもしてるさ」

 

「夜になればまだまだ冷え込む時期だ、くれぐれも油断はするな。ではな」

 

「ああ。おやすみ、唯依」

 

 離れへと向かうユウヤの後ろ姿を見送って、唯依はほつりと吐息を落とした。

 恩返し、か。口を突いて出た言葉を胸の奥で反芻したその時、ふと思い出に残るあの人の優しい声が唯依の耳を震わせる。

 

『……どなたからか恩を受けたら、別の方にお返しするの。そうすると、大切な方からいただいた恩が大きく広がっていくでしょう? ……人の絆はね、そうやって紡がれるのよ』

 

 ――恭子様。私は貴女から、沢山の方々から受けた恩を今、お返し出来ているのでしょうか。

 あの日お教え頂いたことを、少しでも実践出来ているでしょうか。

 叶うのならば今ここで、それを貴女から教えていただきたかった。私の往くべき道をもっとご教示願いたかった。

 けれど、それは、もう叶わぬ事。

 だから私は……そうあるように努めます。貴女から教わった事を私なりに考え、噛み砕き、これからも実践して参ります。

 そしていつか、貴女のお言葉を体現できる私になりたいと、そう思います。

 恭子様もそれを九段で願って下さっているのだと、そう信じて。

 ……そんな誓いを心に秘めつつ、踵を返した唯依は自室へと向かう。

 既に夜の帳も落ち、母屋に響くは侍従たちの後片付けの喧騒と吹き込む夜風の涼やかな音色だけ。家のもてなしとしてはこれにて一区切り。だがユウヤをこの家へと招いた真の目的は、ここからだ。

 

 

 

 

 自室で仕事関連の書類整理をすること数十分。「失礼いたします」という小さな声と共に、障子戸にぼんやりと小柄な人影が浮かび上がる。

 

「ばあやか。して、仕儀は」

 

「はい。手筈通り、ブリッジス様を湯殿へご案内致しました。他の侍従もみな片付けを終え、詰所に戻りましてございます」

 

「分かった。ばあやも今宵はもう休んでくれ。――手配ありがとう」

 

「勿体無きお言葉です。それでは……」

 

 障子戸の影がふつと失せる。よし。引き出しを開け、中のものをそっと懐に忍ばせて、唯依は静かに立ち上がった。

 

 

 

 



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episode 2
藤花の香り


 

  ZAP.YUYA

 

 想像していたよりずっと広い。風呂場に入って最初に出てきた感想がそれだった。

 

「『日本人は風呂好き』とは聞いてたが、さすがにこいつはカルチャーショックだな……」

 

 檜造りの半露天風呂。浴槽はどう見積もっても大の大人が四~五人はゆったり入れるだけのサイズがある。そこには満々と湛えられたお湯が張られていて、潜るどころか泳ぐことすら出来そうだ。

 床のタイルも天然ものから切り出したらしき岩石があしらわれ、湯舟と洗い場を囲う竹垣はかなり高いところまでしっかりと張り巡らされている。

 おまけに何かは分からないが風呂場全体にはふわりと良い香りが漂っていて、それに身を浸すだけでも大いに気分が安らぐほどだ。

 ひょっとしてこれ、風呂っていうより温泉なんじゃないのか? そう勘繰りたくなるぐらい、ユウヤにとってそれは異質な光景だった。

 

「日本の風呂がどこもこうってワケじゃないとは分かってるが、それにしても落ち着かんぜ。え~と、まず最初に洗い場で体を流すんで良かったよな?」

 

 順番を間違えると折角の湯を汚してしまいかねない。これだけ広ければ後から入る者もさして気にすることは無いのだろうが、それでも客には客なりの礼儀というものがある。

 こんなことなら事前に日本式の入浴マナーをさらっておくんだった。はらりと後悔の念を抱きつつ、ユウヤは洗い場へ向かう。と、

 

「ユウヤ」

 

「おあ!? ……何だ、唯依か」

 

 急に戸の向こうから声がしたもので、驚きのあまり心臓が飛び出そうになってしまった。ユウヤはなるべく平静を保ち、受け答えに不自然さを覗かせないよう腐心する。

 

「湯加減はどうだ?」

 

「いや、まだ解らん。これから体洗うとこだし」

 

「そうか」

 

 当主自ら湯加減の心配までしてくれるなんて、これも日本流のもてなしって奴か? 微かな疑問と困惑を抱きつつも、ひとまず体を洗うべく目の前のノブを捻る。シャワーヘッドから噴き出すお湯は実に丁度良い温度だった。一日の疲れと垢が一気に流れ落ちていく心地だ。続けて備えられたシャンプーで髪をわしわしと泡立てると、普段使っているものとは全然違う芳香がユウヤを包み込んだ。

 

「では、貴様の背中を流してやるとしよう」

 

「ああ頼む――って、えっ!?」

 

 ユウヤは素っ頓狂な声を上げてしまう。遥か背後でカラリと戸の開く音。状況を確認しようにも、既にシャンプーまみれになっているせいで目が開けられない。いや、開けずに済んで良かったと言うべきなのか? その判断すら付かぬ間にも、ひたひたと素足が石畳を擦る音が近付いてきた。

 

「まっ待て唯依! いくら何でもお前、そこまでする事はッ!!」

 

「何を遠慮している? 言っただろう、これは貴様に対する恩返しのようなものなんだ。人の厚意は素直に受けておけ」

 

「厚意ってレベルの話じゃ無いだろっ! 一緒に風呂入るなんて、何考えて……っ」

 

「案ずるな。その、ちゃんとタオルは巻いている」

 

「……へ?」

 

 そんなことを言われても聴覚だけでは判断がつかない。だが唯依がそう言っているからには、こちらが過度に気にしなくてもいいということなのだろうか?

 なまじ視界が塞がれているせいで、背後から近づいてくるタオル姿の唯依、その様子をついつい想像してしまう。それを振り払おうとするのに必死過ぎて、もはやユウヤには正常な思考を保つことさえ難しい。

 

「いいな、まず背中から流すぞ。――えっと、石鹸は……」

 

 すぐ耳元から聞こえる唯依の声。背中に感じる他者の濃い気配。その時辛うじて出来た事と言えばせめてもの紳士的対応として、両手で己の股間を覆い隠すことだけだった。

 落ち着け。落ち着け。戦場では男女が一緒のシャワールームに入るなんて日常茶飯事だろ。何も焦ることなんてない、平常心で居さえすりゃあそれで良いんだ。

 ――そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、それはあたかも自己暗示を掛けているかの如く、己の意識を後方の唯依へと集中させることに繋がってしまった。

 

「では、行くぞ」

 

「お、おう……」

 

 泡まみれのスポンジが背中を擦り始める。唯依の手つきはどこかぎこちなく、恐る恐る触れるかのように背中の全面を這ってゆく。

 

「どこか痒いところはあるか?」

 

「いや、特には……」

 

「ならば、続けて腕を洗う」

 

 唯依の手にあるスポンジが、今度はユウヤの肩から肘へと滑る。その動きに合わせて「ふう、ふう、」とこぼれ出る呼吸音。石鹸のそれとは明らかに異なる唯依特有のフローラルな香りのせいで、ユウヤの脳裏は一面真っ白に埋め尽くされてしまう。

 

「よし。後は……前の方か」

 

「はっ!! 前ッ!!?」

 

 それはまずい。そう叫ぶよりも早く、唯依の腕がユウヤの胸元を巡った。同時に「ふよん」と大きくて柔らかいものが背中に密着し、その感触一つでユウヤの喉は声を失う。

 

「……思っていたよりも、ユウヤの身体は大きいな。なかなか洗いにくい……しょっ、と」

 

 唯依の声がうなじをくすぐる。腕の動きに合わせて背中のふよふよが上下左右にたわみ、重厚な弾力でもってユウヤの身体を押し返してくる。後ろから漂う甘い匂い。艶めかしい吐息。風呂場の湿気と汗でじっとり濡れたタオル地の感触。それら全てを、ユウヤはただただ硬直したまま受け止める事しか出来ない。

 

「――きゃ、」

 

「な、ど、どうした唯依!?」

 

「何でもない。その――タオルがちょっと、はだけただけだ」

 

 ハダケタ? その光景をうっかり想像した途端、物凄い勢いで体の一ヵ所に血流が集まってしまう。こればかりは健康な男子の生理的反応として仕方の無いことだった。

 

「……よし、もう大丈夫だ。では続きをするぞ」

 

「あ、あ、ああ……」

 

 再び背中に柔らかい感触。んしょ、んしょ、という鼓膜をくすぐる声色。たどたどしい手つきでユウヤの身体を擦り上げるスポンジが、ついにおへその下辺りにまで到達した。

 

「も、もういいぞ!! もう全部洗い終わったッ!」

 

「え? いやしかし、まだここより下が――」

 

「お前が見えてなかっただけだ! さっき洗ってたぞ。ああ確かに洗ったとも!!」

 

「そ……そうか。では後は流すだけだな」

 

「大丈夫だオレがやる。湯が掛からないよう、唯依は少し離れててくれッ!」

 

「あ、ああ」

 

 手探りでシャワーヘッドを手に取り、ノブを全開にして勢いよく全身をすすぐ。そうでもしないともう、色々暴発してしまいそうだった。

 

「――よし、終わった」

 

「そのようだな。では済まないが、湯船に入ったら少しの間だけあっちを見ていてもらえるか」

 

「あっち?」

 

 直視が憚られる中、薄目で視界の端に捉えた唯依の腕は完全にあさっての方向を指差していた。そこにあるのはせいぜい竹垣のみ。あんなものを見てどうしろと? ユウヤはしばし訝しむ。

 

「私も、体を洗う」

 

「ハァッ!?」

 

「だから、見ないで……くれ」

 

「ばばばばばばばバカ言うんじゃねえよお前ッ! だったらオレはもう上がるから――」

 

「駄目だ。まだ湯舟に浸かっていないのだろう? 貴様には篁家自慢の湯をたっぷりと堪能して欲しいんだ」

 

「だからそれ、お前が上がってからでもいいだろッ!?」

 

「二度湯など手間だろう。それに……その、こうしていると、私も体が冷えてだな。早く温まらないと……」

 

「――ああああああっ! 分かったよチクショウ!!」

 

 なりふり構わずユウヤは湯舟目掛けて跳躍する。ドボン、という大きな音と共に、周囲には水柱ならぬ湯柱が立った。

 

「熱っちいッッ!!?」

 

「大丈夫かユウヤ?! ――日本の湯は海外のものより幾分温度が高めだと言うからな、火傷などはしていないか?」

 

「あ、いや……、思ってたより熱かったからビックリしたってだけだ。何ともない」

 

「……それなら良い」

 

 冷静になってみると己の慌てっぷりが恥ずかしい。その後ろで「しゅる、」とタオルの取り去られる音。あっちを見ていろ。それは『こっちを見るな』というのと同義だ。

 無論その言いつけを紳士らしく守る気が無いでは無かったし、見たい、などと考えていたわけでも無い。だが悲しいかな、ユウヤにだって男の性というものがある。この状況下、理性のみでそれを抑え切ることは、出来なかった。なるべく直視しないように。そう思いつつもそっと薄目を開けた先には、石鹸の泡に包まれた唯依の裸身があった。

 瑞々しく張りのある肌。思いのほか細やかな肩と背。引き絞られた腰から美麗な曲線を描いて広がるヒップラインに乗る極上の色香。そして極めつけは、洗い上げた腕の向こうに見え隠れする、ふるふる揺れる豊満な丘。

 ――ダメだ。これ以上見たらあらゆる意味でアウトになっちまう。強く自分を戒めて、ユウヤは当初示された方角へと己の視線を戻した。

 

「よし。では私が良いと言ったら、後は自由にしてくれ」

 

「……あ、ああ。分かった」

 

 ややあって、ちゃぷ、と湯船に足を付ける音。自分と唯依が今、同じ一つの湯に入っている。それはユウヤにとって完全に想定外の事態であり、ある意味においては半ば拷問のようなものだった。

 

「……もう、良いぞ」

 

「おう――」

 

 恐る恐る視線を向ける。そこには洗い上げた髪をタオルでまとめ、湯船に身を浸す唯依の上気した姿があった。僅かに白く濁った湯にはバスソルトか何かが入れられているのか、湯面より下のものはおぼろげな影しか映ってはいない。そのことにほんの少しユウヤは安堵を覚える。

 

「ど、どうだ、篁の湯殿は……?」

 

「ああ。き、気持ち良いぞ、すんごく」

 

「香りはどうだ?」

 

「……そう言や何か、ふんわり香ってるな。花の匂いか?」

 

「藤の花だ。ちょっとした伝手から篁家に卸して貰っているもので、花弁から抽出したエキスを岩塩などと混ぜ合わせ入浴剤にしているんだ」

 

「へえ……」

 

 こうして会話をしていても、その内容がまるで頭に入ってこない。ユウヤとて男だ。いかに戦友でありかつての上官であるとは言えど、女と一緒の湯に浸かってもなお平常心でなど居られない。

 ……そうと意識せずにはおれぬほど篁唯依は客観的見解として美人であり、その精神も肉体も極めて魅力的な女だった。そんな思考を彼女に悟られぬよう、ユウヤは無理くりに会話のタネを頭の中から捻り出す。

 

「んに、にしてもお前、毎日こんなゴージャスな風呂に入ってんのか?」

 

「毎日と言えばそうだが、入浴剤についてはその限りではない。良いことがあった日や大事な客人を迎え入れる時にだけ特別に使っているんだ。それなりに貴重品で量も限られているからな」

 

「そうか。まあこんだけデカい風呂に入れるってだけで、オレからしてみりゃ充分ゴージャスだ」

 

「米国の文化では、こういう湯殿をしつらえたりはしないのか?」

 

「一部の金持ちの家にならあるかも知れないが、大抵はシャワーだけだよ。ユニットバスだってある方が珍しいぐらいだ。オレの……そう、オレの実家にしたって、こんなもんは無かったな」

 

「ふむ……そういうものなのか」

 

「祖父さんの住んでた本宅にならもしかして、温水プールみたいなのはあったかも知れないけどな。近寄ることすら出来なかったオレにはそんなモン、確認のしようも無かった」

 

 そこまで言って口をつぐむと、唯依も何も言わずに湯舟へ肩を沈めた。ぴちょん、と天井から垂れた水滴の撥ねる音だけが、沈黙のひと時に感情の波紋を描き出す。それに堪えかねたユウヤは意を決し、口を開いた。

 

「あのさ、唯依」

 

「……何だ」

 

「どうしてお前、オレにここまでしてくれるんだ?」

 

 その問いに、唯依はすぐには答えなかった。

 

「米国生まれのオレにだって、この扱いが並大抵じゃないってことぐらいは解る。それは正直ありがたいし悪い気はしていない。けどそれと同じぐらい、お前に対する申し訳なさだってあるにはある」

 

「申し訳なさ、とは?」

 

「日本の女ってのは奥ゆかしさを大事にするもんなんだろ? 普段の唯依だってそうだしな。そんなお前がここまで体を張ってくれてんのは、恩返しだとか篁の礼だとか、そういうモンだけとは思えない」

 

 それは憚らぬユウヤの本音だった。

 客人を屋敷に招き入れて、ご馳走を振る舞って、風呂にも入れて。ここまでならまだ分かる。だがこうして風呂にまで来て、しかも異性の身体を手ずから洗う。これはさすがにやり過ぎだ。いくら日本人がもてなしを大事にする文化なのだと言われたって、度を越しているとしか思えない。

 

「もちろん裏があるだなんて勘繰ってるワケじゃないぞ。だけど何かがある筈だ。お前がオレにそうまでしてくれる、何かが。それが分からないほどオレだってバカじゃないし、日本のことを何一つ理解してないつもりも無い」

 

 唯依は黙したまま、けれど強い視線をこちらに注いでいた。それに負けじと、ユウヤもまた真正面に唯依を見据える。

 

「正直、それが何なのかまではサッパリ解らない。だが唯依ほど高貴な奴にここまでしてもらえるほどの価値が、オレなんかにあるとも思えないんだ。それは何も篁の家柄がどうのって話だけじゃない。オレにとってのお前はいつだってタフで、クールで、尊敬に値する存在なんだよ」

 

「――尊敬、か」

 

 唯依は少しだけ寂しそうに湯の底へと視線を落とした。その仕草が何を意味するものだったのか、この時のユウヤには解らなかった。

 

「陳腐に聞こえたかも知れないが、今のは全てオレの偽らざる本心だ。だから……何か理由があるのなら、きちんと教えてくれ」

 

「……そうだな。一方的なお仕着せに終始したのでは、貴様も混乱を深めるばかりだろうし、な。理由と呼べるかまでは解らんが、動機の一端に関してはここで話しておこう」

 

 ふう、と唯依は何かを観念するかのように目を瞑り、そして語り始めた。

 

「始めに言っておくが、ユウヤへの恩返しだと言った事に関しては一切のウソ偽りは無い。ユウヤのお陰で私たち日本の民は、こうして平穏無事に一日を過ごせるだけの余力を取り戻すことが出来たんだ。国や人類などといった括りではなく、私個人としても感謝の念に堪えない。これが一つ目の動機だ。過度な対応ゆえ疑いたくもなっただろうが、このことだけは信じて欲しい」

 

「それは……まあ、分かった」

 

「その上で二つ目の動機だが、これは……贖罪、と言うべきなのだろうな。私からユウヤへの、というだけでは無く篁の当主として」

 

「贖罪? どういう事だ?」

 

 言っている事の意味が分からず、ユウヤは懐疑の目を向ける。贖罪。それは少なくとも、唯依が自分に対して何らかの負い目を感じている事を意味している筈だ。だがそれが何であるかなど皆目見当がつかない。そのむず痒さが苛々とユウヤの喉元を掠める。

 

「そして三つ目は篁のそれとも関係の無い、私の個人的な感情によるものだ」

 

「感情、って、どういう……。一つ目はいいとして、後の二つは全然意味分かんねえぞ」

 

「だろうな。――さて、ずいぶん長湯をしてしまった。続きは夜風に涼みながらするとしよう。これ以上浸かっていては、互いにのぼせてしまう」

 

「あ? ちょっと待て――ってオイ!!」

 

 ざばあ、と先んじて湯船から上がった唯依からユウヤはとっさに視線を逸らす。それでも脳裏にはしっかりとその瞬間が焼き付けられてしまった。

 

「先に着替える。……湯を満喫したら上がってきてくれ。離れで待っている」

 

 どぎまぎするこちらになど目もくれず、唯依は確かな足取りで脱衣所へと立ち去ってゆく。そのしなやかな後ろ姿を半ば呆然と見送ってから、はたとユウヤは我に返った。

 

「……くそっ。ご無沙汰だからって節操なくサカってんじゃねえ! 鎮まれ!」

 

 本能に忠実な己の体がこの上なく恨めしい。

 むらむらと高まる欲求にどうにか収拾を付けたユウヤがようやっと湯船を出たのは、それから五分ほど経って後のことだった。

 

 

 

 

 



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真実と告白

 

  ZAP.YUYA

 

「悪い、待たせた」

 

 離れの縁側、ちょうど池を真正面に捉える角度。そこに唯依は純白の浴衣姿で腰を下ろして待っていた。

 部屋のど真ん中には一式の布団。恐らくは侍従か誰かが敷いてくれたのだろう。あつらえ向きなシチュエーションだ……などとは考えなかった。それを横目に見つつ、脱衣所に用意されていた浴衣にそれらしく袖を通したユウヤもまた彼女の隣に座る。唯依はこちらにふわりと笑みを向けた後、再び視線を前へ戻してその口を開いた。

 

「今宵は夜風が心地良いな。湯浴みで火照った体が、芯まで梳かれるようだ」

 

「ああ、確かにな」

 

 唯依に同意しつつ、ユウヤは大きく伸びをした。草木を撫でる風の音がさわさわと身に沁み、身体に籠った熱を冷ましてゆく。緩やかに流れる水が漆黒の空に浮かぶ星を映し、ほのかな煌めきを放っていた。

 ここで過ごす時間はひどくゆったりとしている。つい先日まで身を置いていたあの戦場の殺伐さとは、まさしく雲泥の差だ。

 

「お、それ……」

 

 唯依の髪に留まっているもの。それはアラスカに居た折、雑貨店(ネオアサクサ)でたまたま見かけた一本の櫛。大して高級品でも無かったのだが母の持っていたものに似ていたこともあり、ユウヤはニクジャガの返礼としてその品を唯依に贈ったのだった。

 

「ああ。普段は大切に仕舞ってあるんだが、今日は付けたい気分になってな」

 

「なんでだよ、勿体ねえ。せっかくお前のために買ったんだ、いつも持ち歩けばいいじゃねえか」

 

「万一失くしでもしたら、その方が勿体無い。これは私がアラスカに居たことの証。そして、ユウヤと過ごした思い出の証なんだ」

 

「そんなもんかよ。……まあそこまで言ってもらえりゃ、贈った甲斐もあったってもんだけどな」

 

 くす、と吐息を震わせながら、唯依が櫛をそっと撫でる。その愛おしそうな手つきからは、彼女がその櫛を本当に大事にしてくれているのが感じられた。

 

「じゃあ、続きを聞かせてくれるか。さっきの話」

 

「全く、せっかちだな。――まあいい。貴様を待つ間に、私も心の準備が出来たしな」

 

 揺らめく水面の光を捉え、唯依の瞳も淡く輝いている。それを素直に綺麗だとユウヤは思った。

 

「ユウヤ。以前貴様に、母君のことを尋ねたのを覚えているか?」

 

「お袋の? ……ああ、オレがアラスカを出るちょっと前のことか。確かあん時もお前にニクジャガ食わせてもらったんだっけ」

 

「あの時私はユウヤの母君がどういう人物であったか、何を思ってユウヤを産み、育て上げたのか――その想いを、父君とユウヤをいかに強く愛していたのかを教えてもらった」

 

「まあ、本当にそうだったのかは分からないけどな」

 

 母はもう何年も前に亡くなった。従って彼女の本心など、今となっては誰にも質しようが無い。唯依に語り聞かせたのはユウヤなりの思惟と考察が導き出した推論であり、それを裏付けるものが何一つとして無い以上、ひとえに仮説の域を出るものでは無いのだ。

 

「私は思う。ユウヤの母君は立派な方であったと。例え貴様の解釈と事実が異なっていたとしても、母君が大変な苦労を負って貴様を育て上げ、周囲のあらゆるものと戦いながら我が子を守り抜こうとしたことに違いは無い。そうまでしてご自身の意志を貫き、生涯を懸けて信念を通した母君のことを、私は心より尊敬する」

 

「――唯依にそう言って貰えると、オレもお袋もちょっとは救われる思いがするよ」

 

「だがそれ故に私は、篁は、ユウヤと母君に対して強い贖罪の念を抱かずにはおれないのだ」

 

「さっきもそう言ってたが、その『贖罪』って何なんだ? オレやお袋と篁の家に何の関係があるってんだ」

 

「……私が今からする話を、どうか最後まで落ち着いて聞いてくれ」

 

 射抜くような唯依の瞳がユウヤを鋭く捉える。

 後から思えば、その時から既に予感はしていた。ごくりと唾を呑み、そしてユウヤは頷いた。

 

 

 

「…………タカムラ……マサタダ」

 

「そうだ。それがずっと行方知れずだった貴様の父親であり――篁の先代当主であった、私の父様の名だ」

 

 愕然とするユウヤに、唯依は重ねてその事実を告げる。全てを理路整然と語られても尚、予想だにしなかった衝撃に襲われたせいもあって、まだ半分以上をうまく呑み込めなかった。

 

「……じ、じゃあ、オレとお前は――腹違いの兄妹、なのか?」

 

「……そういうことになる」

 

 足元の基盤ががらがらと崩れ落ちるような感覚。宙に浮かされたユウヤは、完全なる思考停止に陥っていた。

 もはや天涯孤独だと思っていたところに突如として亡父の正体が明らかとなり、腹違いではあっても血の繋がった妹がいることも判った。だがその妹は、事実を知るよりずっと以前から『XFJ計画』の主任として、自分と関わっていたのだ。

 これを運命の悪戯と呼ばずして何と呼ぶべきかを、ユウヤは知らない。

 

「父様とミラ女史、そしてユウヤ。これらの関係を知っていたのはハイネマンさんと巌谷中佐のお二人だけだった。私はXFJ計画に携わる中で、ハイネマンさんから全てを知らされ――」

 

「……ハイネマンは、分かってたんだな……。全部分かってて、それでオレを不知火・弐型の首席開発衛士に……」

 

「だと思う。ただ、そこにどんな意図があったのかまでは私には解らない」

 

 ハイネマンの意図など、元よりユウヤには理解出来よう筈もない。それらしい当て推量をぶら下げることも決して不可能では無いが、今はそんなことをするだけの精神的余力など少しも残されてはいなかった。

 

「これは貴様にとっては、ただの言い訳としか取られないだろうが……父・祐唯は失踪したミラ女史を八方手を尽くして捜したのだそうだ。だが結局は見つかることなく、やがて本国からの帰国命令により苦渋の思いを抱えながらも父は日本へ戻る事を余儀なくされた。その後は国内の政争に巻き込まれ……――いや、やめよう。事実だけを見れば父が非情にも婚外の妻子を棄てたと非難されるのも道理。ユウヤと母君が味わわされた艱難辛苦を思えば、こんなことは弁明どころか謝罪にもならない」

 

 そう語る唯依の顔が苦痛を堪えるように大きく歪む。

 

「後は貴様も知っての通り。崇宰を主家とする鳳家から母様がこの篁へ嫁ぎ、そして私が産まれた。その是非について、今の私はユウヤに語る資格を持たない。まして許せなどと言うことすら……」

 

「――だからさっき、贖罪がどうのと言ってたってわけか」

 

 ああ、と言葉少なに首肯した唯依の態度が、ようやっと腑に落ちる心地だった。

 正直ユウヤ自身、その可能性を一度も考えなかったという訳では無い。

 母に日本人形を贈った父。サムライと呼ばれた父。

 その名も立場も母を含めた誰からも聞いたことなど無かったが、ひょっとして斯衛かそれに近しい続柄の人間なのでは、とアタリを付けたこともある。

 だからそれほど驚いていない……などという気休めを言えるような心境では到底無かったのもまた事実ではあるのだが。

 

「貴様の混乱、察するに余りある。私とてこの話をハイネマンさんから聞かされた当初は大いに狼狽したし、貴様にも真実を告げるべきか否か相当迷った」

 

「……だろうな」

 

 それでも、一旦は腹に納めたとは言っても、唯依はこうして『教える』という選択を取ってくれた。事ここに至るまでの間、唯依には唯依なりの様々な逡巡や苦悩があったであろう事は想像に難くない。

 さっき唯依は「心の準備が出来た」と言っていた。だがそれはあくまで言葉のあやであって、本当はそれよりもずっと前から腹を括り、いつかは自分に話すつもりでいてくれたのだろう。彼女のそんな覚悟を無碍には出来ない。そう思える程度には、顔も知らぬ父親に対するユウヤの感情もまた幾らか整理されつつあった。

 

「ユウヤ。アラスカで貴様に預けた刀、今でも持っているか?」

 

「……ああ。亡命の時に一時没収はされたが、ちゃんと返してもらった。今は基地のオレの部屋に保管してある」

 

 唯依から譲り受けたあの刀はユウヤにとっても大切な宝だ。ユーコンを出奔する際、身の回りの品を持ち出す余裕など一切無かった状況にあってさえ、あれだけは管制ユニットに貼り付けてまで持って来たほどだ。

 あれを手放すのは自分が死ぬ時か、本来の持ち主である唯依に返上する時。ユウヤはそう心に決めていた。

 

「あれをユウヤに託した際、私が言ったこと……覚えているか?」

 

「確か――受け継ぐべき者がそれを授かる。それが自然であり、正しい……とか」

 

「あの刀……『緋焔(ひえん)白霊(びゃくれい)』はな、単に私の魂や、免許皆伝の証というだけでは無いんだ」

 

「どういうことだ?」

 

「緋焔白霊は篁家に先祖代々伝わる当主の証。即ちあの刀を有する者こそが、篁の名を継ぐに相応しい……そういうことだ」

 

 当主の証。篁の名。その言葉を聞いて、ユウヤは一つのことに思い至る。

 

「じゃあお前はもしかして、あの時から、」

 

「ハイネマンさんから事の全てを聞かされたのは、あの数日前だった。初めのうちは戸惑ったしどうすべきか考えあぐねもした。だが世が世であれば篁の家は私ではなくユウヤ、篁の長子たる貴様が継ぐ筈だったんだ。ならばその証たる刀も、そうあるべき者の手にあった方が自然であろう」

 

「で、でもオレはそんなこと、何も知らないままでッ!」

 

「……許せユウヤ。本来許しを乞える立場ですらないことは重々承知している。全てを知ってしまったからこそ私は、篁は、ユウヤと母君にどれだけ贖っても贖い切れぬ罪の意識を抱いているんだ。そう、知らなかったでは済まされぬほどの……」

 

「だからって、あれはオレが受け取っていいものじゃないだろ。過去がどうあれ、オレが何者であれ……今の篁の当主は唯依、お前以外に居ないんだ」

 

 それはユウヤなりの、心からの本音だった。

 例え自分の中に篁の血が流れているのだとしても、実質的には篁家の長兄なのだとしても、『だったら自分が当主になるべき』などという発想を抱くことなんて出来やしない。そもそもそんな発想自体が烏滸がましいことだ。

 篁を体現し篁の家を継承するなら、それにはもっと相応しい人物が目の前に居る。であるならば当然、継承者の証たる刀もその人物が授かることこそが自然であり、正しい。その筈だ。

 

「そうだな。私は篁の矜持に生きているし、家名を背負う者としてその道に殉ずる覚悟もある。元より投げ出すつもりも無い。だがそれでもあの刀……篁の魂、その象徴たる緋焔白霊は、ユウヤにこそ持っていて欲しいと思っている」

 

「……それも、お前の言う贖罪、なのか……?」

 

 引き絞るようなユウヤの声に対し、唯依は自嘲とも取れる含み笑いを一つ落とす。

 

「さてな……。正直、自分でも良く分からない。だが他の誰が何と言おうと、私はユウヤのことを篁の血を引く人間として認めている――そういう想いを込めたつもりではいる。もしどうしても要らないと言うのであれば、返してもらっても構わないが」

 

 そこで迷わなかったと言えば嘘になる。まして唯依のことを思えば、緋焔白霊を手にする事こそが彼女の矜持を裏打ちするものであり、唯依を名実共に篁の当主としてくれるに違いないのだから。

 だがそれは少なくとも唯依の望みではない。何より唯依は自分なんかよりもずっと以前に真実を知り、悩みに悩んだ末に覚悟して、緋焔白霊を譲ってくれたのだ。

 ならば、その想いに応え得るユウヤの選択は。

 

「……唯依」

 

 ユウヤは正面から唯依と向き合う。今にも消え入りそうな唯依の長い黒髪が夜風になびき、虚空に波を打っていた。

 

「正直、色んな事がいっぺんに解ってビックリしてるし、心の整理も付いてない。けどな、少なくとも許すとか許さないとか、そういうのはもう考えても仕方ねえって思ってんだ。過去がどうであれ、その積み重ねの上に今のオレがいる。それを否定するのは自分の何もかもを否定しちまうのと同じだって、ユーコンでお前らと過ごした日々がオレに教えてくれた。それに親父も親父で色々あったんだってことも分かったし……今はそれで十分だよ」

 

 ユウヤは唯依の手を取り、両の手で固く握り締める。細く小さな彼女の手は雪のように白く透き通っていて、精巧な銀細工のように隅々まで整っていた。

 

「最初にこの事実を知って、お前も辛かったと思う。苦しんだと思う。だからオレも真正面からこの事実を受け止める。そのシンボルとして、あの刀はもうしばらくオレの手に預からせておいてくれ」

 

「ユウヤ……」

 

「そしていつか、オレが本当の意味で自分の道を歩めるようになった時……そう、オレが篁の血に心から誇りを持てるようになった時には、オレがこの手でお前に返す。当主の証なんだろ? だったら誰が持つべきかなんて、答えは明白だ。だからその日が来るまでもう少しだけ、待っていてくれ」

 

「……何を言うかと思えば」

 

 ふ、と唯依が浮かべた笑みは、あたかも諦観を形相に変えたかの如き淡さだった。

 

「それで貴様の気が済むというのであれば、私に否やは無い。――あの日言った通り、ユウヤの剣術は既に篁示現流を離れ独自の道を歩んでいる。その道を極めるのには一生涯を費やすことになるだろうが……それを真に悟った時にはユウヤもまた緋焔白霊を手放し、己の道を体現する一刀を手にすべきなのかも知れんな」

 

「そう、なのかな。まああの頃よりは多少マシになったとは思っちゃいるが、それでもまだまだお前の足元にも及ばねえって気がする」

 

「当然だろう、私とて日々鍛錬を積んでいるのだからな。……まあ返す返さないは、この後の話次第でもあるんだが……」

 

「この後?」

 

 そう言えば、とユウヤは思い出す。先ほどの入浴中、唯依はもてなしの理由を三つ挙げた。

 

「恩返し。贖罪。それと……唯依の個人的な感情、って言ってたな」

 

「……ああ」

 

「さっきまでの話の流れからすれば、それってやっぱ『血を分けた肉親への親愛』とかか? それとも『戦友同士の友情』とかそういうヤツか?」

 

「いや、そういうのもあるにはあるんだが、そうではなくて、だな……――その……」

 

 唯依の口調が急にたどたどしくなった。何だよ、と追って尋ねようとするのはしかし、唯依の何かを逡巡するような気配に憚られる。

 

「……ユウヤはその、過日発表された日本復興計画の詳細について、どこまで聞き及んでいる?」

 

「あ? どうしたよ急に」

 

 復興計画。いかにも軍人ならば知り得て当然……と思われそうな話だが、ユウヤとて所詮は現場のいち士官に過ぎない身。公共メディアの報道から得られる以上の情報など入っては来ない。そんなもの、巷の井戸端でとっくに出涸らした語り種の筈だ。

 その程度の話でも良いのか? 訝りつつも、ユウヤは己の知り得る限りを列挙してみる。

 

「ええと――まず、ここに来る時にも話してた食品養殖プラントの建設計画だろ。それと並んで、本州を縦横に結ぶ専用道路と高速鉄道網の整備計画、なんてのもあったな」

 

「他には?」

 

「うろ覚えだが、確か……海外に移転させてた一部産業の生産拠点呼び戻し補助。BETA再侵攻を警戒しての新潟・北九州防衛都市化構想。後は、既に自主帰還している一部住民の居住と治安確立を目的とした大阪および京都の復興五ヵ年計画。……まあ、この程度だな」

 

 これら計画の一部は昨年、桜花作戦の成功直後からその構想が練られ、幾つかは議会の決定を待たず発布された政威大将軍令により既に着手されている。衣・食・住を含めBETAによってズタズタにされたありとあらゆるインフラを早急に整えることは、日本の国際的立ち位置を確保する意味でも喫緊かつ最重要の課題である……というところまでが先般の報道から得ていた知識だ。

 

「施策としては概ねそうだな。では、法整備の面についてはどこまで知っている?」

 

「いや……それほど詳しくは」

 

「『桜花作戦』成功の報を受け、元枢府および帝国政府は昨春『国家体制回復のための特別措置法』を制定した。これは短期間での国体復旧や国民の生活基盤再構築を目的とした二十ヵ年の時限立法であり、先に挙げた施策もこれらの法の下に進められている。国一丸となって取り組むべき諸問題に迅速かつ円滑に対処する為に、この法制は必要な措置であったと言える」

 

「まあ、そうだろうな」

 

「で、だな。その……婚姻に関する民法も一部改正されたことは、知っているか?」

 

「……全然」

 

 何となくばつの悪い思いを感じつつも、ユウヤは素直に首を振る。他の衛士たちが何やら話題に挙げていたような気もするが、ユウヤ自身はさして関心を抱かなかったが故に、法改正の細かいところまでは知らぬままでいた。

 

「日本では度重なるBETA戦役において段階的に男子の徴兵年齢が引き下げられた為に、戦死した男子の割合が過度に高いんだ。とりわけ結婚適齢期における現在人口の男女比は、平均で一対六。軍関係者に限れば一対八とも言われている」

 

「BETA支配地域やハイヴに接してる国はどこもそんなもんだからな。日本みたく、一度でも被支配地域にされちまってたんなら尚更だろ」

 

「そう。そして今後数十年における迅速な人口回復を課題とした際、最大の障害とされたのもこの点だった。女性ばかりの力では出生率の改善は成し得ない。これを解決するために法の改正点として出されたのが『日本国籍を持つ男性の重婚認可』、『医療補助と助成金交付による出産育児の推進施策』――そして、」

 

 そして……? 唯依はそこでやけに長い間を置き、たっぷり溜めた息と共に、最後の項を吐き出した。

 

「『異父母兄妹間での婚姻、及び出産の認可』……だ」

 

「…………は?」

 

 唯依が顔を真っ赤にしている。頭での理解が及ばずとも、彼女の言葉と仕草は、ユウヤを大いに動揺させた。

 

「だから、『異父母兄妹間での婚姻、及び出産の認可』だ」

 

「いや、二回言わなくても分かる。聞きそびれた訳じゃねえし」

 

「そ、そうか。済まない」

 

「つか、何で今、そんな話してんだよ……?」

 

 途端に唯依との距離感を意識してしまい、ユウヤは手持ち無沙汰に自分の膝頭を引っ掻く。浴衣という日本の装いはついさっきまでは風流で涼やかなものだった筈なのに、今は妙に通気性が悪いと感じる。そう思ってしまうくらい、緊張と動揺のせいで全身がカアッと熱くなっていた。

 

「この三番目の改正点は、これも時限法ではあるのだが――遍く日本国民の為と言うよりもむしろ、斯衛を始めとした武家や上流家庭への配慮が根底にあるらしい。篁に限らず今次戦争において継嗣を喪い継承者が女ばかりとなった家も少なくない上、武家というのは家格に応じた婚儀に重きを置く側面もあるからな。『男子であれば誰でも良い』という訳には行かぬが故の、やむを得ぬ特別措置なのだろう」

 

「け、けどよ、実際そんな例なんてどんだけあるんだ?」

 

「日本では古来より御家存続の為、分家筋などから養子を取る慣習があるんだ。以前にも話した通り、女が家督を継ぐことには未だ否定的な声も多くてな。――尤もこの世情のせいで、他家においても五摂家を始めとして婦女子が当主に据えられる例も増えつつあるが」

 

 ふむ、とユウヤは心の中で相槌を打つ。そう言われれば確か、この日本を統べる現在の政威大将軍も唯依とそう歳の変わらない女の子、と知って驚かされた記憶があった。トップがそうであるならば下に付く者もまたその範に倣う。それが武家社会における暗黙の了解と、そういうことなのだろう。

 

「だが熾烈を極めるBETAとの戦は、そうした武家にも多大な犠牲をもたらした。女子も含め世継ぎが断たれてしまった家も珍しくは無い。そこで、例えば他家へ養子に出された妾腹の者や婚外子同士が婚儀を結び、生まれた子を本家の養子に据えて跡目を継がせる事で各々の御家を存続させる――そうした意図がこの法には少なからずある」

 

「け、けどよ。異母兄妹同士ってアレだろ、その、こ、子供とかが」

 

「異父母レベルに離れた近親者同士の交配による遺伝的な諸問題も、一世代に限れば妊娠期からの医科学的処置で解決可能らしい。図らずも、BETA戦役のお陰で医療の水準はここ数十年で飛躍的に高まっているからな。つまり……その、異母兄妹同士が結ばれることは少なくともこの国の現行法や社会観念上、何ら問題は無い、ということだ」

 

 こちらを見る唯依の目が少し熱っぽい。それに胃の腑をずぐりと抉られ、ユウヤは言葉に窮してしまう。

 

「……わ、私が何を言いたいか、ユウヤにももう解っているのだろう……?」

 

 解らない、とはとても言えなかった。

 篁家の血を引くのは今やユウヤと唯依、この二人きり。そのうちユウヤは婚外子の身であり、唯依は女であるが故に、いつ家が取り潰しになるかも分かったものではない。

 だがもしもその二人が結ばれ後継ぎを儲けたならば? 唯依の言っているのはつまり、そういうことだった。

 篁の家を守るため。篁の血と意志を後代に継ぐため。そのためとあらばこういう決断をすら厭わない、それが篁唯依という女だ。それはこの話を切り出されるよりも前から、いやアラスカにいた時分からとっくに分かっていた事である。だがユウヤが口をつぐんでしまったのは何も、唯依が半分とは言え血の繋がった肉親だから、というだけではない。

 

「ど、どうなんだ。――あ、いや、急な話だという事は充分承知している。ユウヤが驚くあまり言葉も無いのは無理からぬ話だぞ。私はただ、返答を迫っているのではなく、そういうことを念頭に置いてもらってだな……」

 

「……悪い、唯依」

 

 殊に、唯依には本人も述べていた通り、自分への贖罪意識というものもある。こうすることで八方全てが丸く収まる。そう考えてのことなのだとしたら、しかし、それを受け入れる資格は自分には無い。

 ――それはユウヤなりに可能な限り唯依のことを慮っての発言をした、そのつもりだった。

 

「お前がそうやってオレのことを気に掛けてくれるのは嬉しいし、ありがたいとも思うよ。けどな、それと一生に関わる大事を一緒くたに考えちゃいけない」

 

「――え、」

 

「武家の風習だとか斯衛の仕来りだとか、そういうのは正直オレもほとんど解っちゃいねえ。だが国を問わず名士の家ってのは、どこもかしこも似たような性質を帯びるモンだ。特に日本ってのはガッチガチの保守国家だろ? そんな社会で重責を背負ってるお前がオレみたいな異分子を家系に加えたとなれば……当主である唯依がどれだけ辛い思いをすることになるか、お前にだって薄々分かってる筈だ」

 

 その時果たして唯依は何を思っていただろう。淡い桜色の唇が微かに震えているのが判る。胸元で握り締めた両手の指が甲に食い込んでいるのが見て取れる。それでも尚、ユウヤは言わないわけにはいかない。

 

「オレのお袋もそうだったし、お前のお袋さん……栴納さんだって篁より上流の家柄から嫁いできたってんなら、家のことで色々苦労した筈だ。それがオレ自身のことだったら、オレは耐えられる。誰に何を言われようがオレはオレのすべきことをやるだけだ、って覚悟もできる。だがそれと同じかそれ以上の苦労を今生きる人間、特にお前にさせてしまうのは、オレには我慢がならない」

 

 そこまでを語ったところでユウヤはふと異変に気付く。あまりの剣幕に気圧され呆気に取られたかのように、それでいて話の半分も聞いていないみたいな虚ろさで、黙した唯依がただじっとこちらを覗き込んでいた。

 

「おい? 大丈夫か、急にボーっとして」

 

「――……ああ、成る程。……こういうことだったのか」

 

「……唯依?」

 

「ハイネマンさんがあの時言っていたことの意味が――今、とても良く分かった……」

 

 ひとりごちた唯依の表情は、空疎と悲嘆、そのどちらでも無い。

 ハイネマンが何だって? 何を言うべきかを迷ったユウヤは固唾を呑んで口を結び、しばし唯依を見つめ続ける。

 

「済まないユウヤ、私の言い方が悪かった。あのような物言いでは私の真意など貴様に伝わる筈も無い。――ましてや、そんなものでユウヤを動かそうなどと……」

 

「いや……そんなことは無い。オレだってちゃんと分かってるさ、お前がどれだけオレの身を案じてくれてるのかってことは、」

 

「そうじゃない。そうじゃ……ないんだ……ッ」

 

 ひときわ強く体を震わせ、そしてやにわに、唯依が懐へ飛び込んできた。一瞬驚きはしたものの、ユウヤは彼女の細くしなやかな肩をおずおずと受け止める。

 

「ゆ、唯依? どうしたんだ、さっきから」

 

「……ユウヤ……私……私は……」

 

 唯依の切ない吐息が、苦しげな声が、胸の内をくすぐる。湯上がりの甘いシャンプーの香りが嗅覚を痺れさせる。顔を上げた唯依の今にも涙をこぼしそうな瞳が、ユウヤの視界をいっぱいに埋め尽くす。

 

「私は、ユウヤが――ユウヤのことが、好きなんだ……!!」

 

 

 

 



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episode 3
情愛の返報


 

  ZAP.YUI

 

『会社の意向だ何だと言うが、やりたくもないことをそうは言わない。むしろ逆でね、会社を利用しているんだよ。――そんな人間に建前を語って、響くと思うかな?』

 

 

 いつからだったのだろう。正確には覚えていない。

 初めのうちはぶつかってばかり。この重要な計画を左右しうる主席開発衛士がよもやこんな男とは。そんな風に辟易としていたことは、今でも良く覚えている。

 (たけ)(みか)(づち)を駆って刃を交え、これでも解らぬのなら見込み無し、と切り捨てるつもりだったことさえもある。互いの印象は恐らく最悪と言えた筈だ。

 なのに、いつからだったのだろう。契機と呼べる何かは自分でも知らぬ間に訪れていた。

 共に幾度も死線を潜り、高邁な目標を掲げ、それに向かって遮二無二取り組んでいるうちに、いつしか二人の見る景色が一つになっていた――心からそう思えたとき、私は嬉しかった。

 他人に、ましてや異性にこんな想いを抱いたことなど、それまでには一度も無かったことで……それに気付くまでには少なからず時間を要した。後から振り返ってみたとき、いつからそうだったのか分からなくなっていたほどに。

 それでも、やっと手に入れたこの感情だけは手放したくない。私は心からそう思っていた。

 

 

 けれどハイネマンさんから真実を、その身に宿る血の因縁を知らされた時、私は絶望し悲嘆に暮れた。

 何故運命は斯くも私を翻弄するのだろう。

 どうして私だけが茨の上で血反吐を吐くような思いをしなければならないのだろう。

 ……その全てを恨まなかった訳が無い。だがそれでも、弁えたつもりだった。けじめを付け、篁の志を託し、それを己が峻別としたつもりでいた。

 元より己の歩む道が地獄なら、そして選んだ結果が元の道に戻るだけでしかないのなら、自分は甘んじてそれを受け容れようと。

 

 

 そしてあの男は全てを棄て……愛する者と共に生きる道を択んだ。

 あの時私には、口を噤んでそれを見送るより他は無かった。

 

 

 諦める……? それは少し、違う。

 私の中で想いの尺度は何ら変わっていない。ただ質が変わっただけ。

 そうであるならば、私があの男を想い続けることに何らの罪深さも無い。誰に赦しを乞う必要も無い。

 ただ父様を母様を愛し、そして恭子様をお慕いしたように……あるがままの想いをあの男へ、そう、『血の繋がった肉親として』向けるだけ。

 だから、私は私の尺度であの男を想い続けていられれば、それで良い。

 

 

 そうやって私はいつの間にか――いや、またしても――自分を、誤魔化していたんだ。

 

 

 

* * *

 

 

 

「私は、ユウヤが――ユウヤのことが、好きなんだ……!!」

 

 言ってしまった。

 とうとう、この想いを。自分の口から本人に、告げてしまった。

 あまりの高揚と羞恥に、唯依の思考はうまく回らない。目の前のユウヤにとってもこれは完全に想定外の事態だった事だろう。震える唯依の肩を優しく抱き留めながらも、彼の相貌は緊張に固く引き攣り、息を呑んでいるさまが窺えた。

 

「こんな私を貴様は気持ち悪いと思うかも知れない。突然何を言っているのかと混乱しているかも知れない。だがそれでも私は……貴様が血を分けた兄妹であったという事実を知るよりもずっと前から、ユウヤ=ブリッジスという男を、好いていたんだ」

 

 これ以上、当人の顔を見ることは出来なかった。かぶりつくようにユウヤの肩へと顔をうずめ、嗚咽を必死に殺しつつも、唯依は包み隠さぬ己の心を止めどもなく吐露してゆく。

 

「私はユウヤを愛したいと思った。ユウヤに愛されたいと願った。だがユウヤが父様の子だと、兄妹だという事実を知って、一度は断腸の思いで決心した。この想いを終生誰にも告げず、墓場まで持っていこうと――」

 

 けれど、言ってしまった。

 それは斯衛の仕来りや篁の家、己の決断、世情の変化や法律……そういったありとあらゆるものが今、真に伝えたいことを伝える上ではただの(しがらみ)にしかなり得ないから。

 そしてそれは奇しくもあの日ハイネマンに言われたことと、形は違えど全く同じ事だった。

 

『やりたくもないことをそうは言わない。――そんな人間に建前を語って、響くと思うかな?』

 

 そう。無意識のうちに自分は、建前でユウヤと話をしようとしていた。だからユウヤも建前で自分を諭そうとした。互いに胸の内を曝け出せていない。だから互いに響かない。それではダメだとあの日あの時、身をもって思い知った筈だったのに。

 

「……それなのに、こうして貴様に告げてしまった。ユウヤを困らせるばかりだと知りながら……それでも私は、もう自分に嘘はつきたくなかった」

 

 思いの丈を吐き出し切り、唯依はおずおずと顔を上げる。やはりと言うべきか、ユウヤの表情にも苦渋が滲んでいた。

 けれどそれはきっと嫌悪や拒絶の意志ではない。何の根拠もなくそう思えたのは、これまで歩んだ道のお陰で、自分がユウヤという人間のことを幾らかでも理解できるようになったからだ。

 

「――済まなかった唯依。お前がそういう気持ちでいてくれたこと……今の今まで、これっぽっちも気付いてなかった」

 

「……良いんだ。元より私も、ユウヤには伝えるつもりなど無かったのだからな……」

 

 ユウヤの体温があったかい。ユウヤの匂いが優しい。許されるならもう少しだけ、この心地良さに包まれていたい。そんな想いに身を委ねるように、唯依はユウヤの胸へ頭を預ける。

 

「正直を言えば、オレだって兄妹だ何だというより先に、お前のことを女として見てる部分はある。血の繋がりなんて今まで思いもよらないことだったし、それに――男からそういう目で見られるのも当然なぐらい、唯依は魅力的な女だ。お前の気持ちだって、本音を言えば嬉しくも思ってる」

 

「……ユ、ウヤ……」

 

 その言葉は、何よりも嬉しくて、泣きたい気持ちでいっぱいだった。

 ユウヤが自分をそういう目で見てくれている。仲間としてでなく、一人の女として。それなら良かった。勇気を振り絞った甲斐があった。

 先ほど湯殿でユウヤの前に己が裸体を晒したこと。恥ずかしさを堪えつつも、身を挺して彼の身体を洗い上げたこと。それらは当然『篁流のもてなし』でも『自分なりの恩返し』でも何でも無かった。女として意中の男の気を惹かんとする、色恋沙汰に不器用な唯依なりの精いっぱいの行動だった。

 

「けどだからこそ、お前の気持ちに応えるためにも、オレは言わなきゃならない。聞いてくれ唯依。あのな、オレ……」

 

「言うな」

 

 開きかけたユウヤの唇に、唯依は人差し指で封をする。

 

「言わなくても解っている。ユウヤのことなら」

 

 ユウヤの息遣いを頬に感じる。ユウヤの体温を胸に感じる。ユウヤの瞬きを眼に感じる。それが、狂おしくて、せつない。

 

「貴様の心にあるもの。未だ忘れ得ぬもの。……それはビャーチェノワ少尉――いや、クリスカのことだろう?」

 

 その名を口にしたとき、ユウヤは明らかに目を瞠った。

 クリスカ=ビャーチェノワ。彼女はソ連軍の開発衛士であり、戦術機開発において自分たちと雌雄を争った好敵手であり、同じ戦場で命を懸けた戦友であり、そしてもっと個人的には……

 

「……知ってたのか」

 

「帝国の情報収集力を甘く見るな。貴様とシェスチナ少尉の安否が確認されたのと、ほぼ同時に……な」

 

 ソ連から飛来したと思しき戦術機一機、国連軍北海道基地に強行着陸を敢行。我が国に亡命を申請する国籍不明の搭乗者()()

 その報せを聞いた時から、予感はしていた。

 持ちうる伝手を辿って詳報に行き着いた時、唯依は自分のこと以上にユウヤとクリスカに待ち受けていた運命を、その過酷さを呪いもした。

 何故だ。何故なんだ。愛する者同士がやっと手を取り合える時が来たというのに、どうしてほんの僅かなひと時しか、それは許されなかったのか――

 

「それまでユウヤが必死の思いで積み上げてきた開発衛士としての実績も、米国民としての地位も何もかも、全てをかなぐり捨ててまで彼女を選び取ったんだ。それがどれほどに重い選択であったことか……。彼女をどれほど大切に思っていたか、別たれる二人の苦しみや悲しみが如何ばかりであったか、私には想像を絶する。お世辞にもユウヤの気持ちが分かるなどと言えたものではない」

 

「何だよ……そこは嘘でも慰めてくれるところじゃないのか?」

 

「そんなことは出来ない。何故なら、私とクリスカは……恋敵(こいがたき)、だからだ」

 

 そう。その一点で今も、自分とクリスカは繋がっている。どんなに歪であっても、他人から理解されがたくとも、それは二人にとって確かに『絆』と呼ぶに相応しいものだ。

 

「こい……がたき……」

 

 何かを思い返すように、ユウヤがおぼろげな口調でその語句を復唱する。

 

「だからこそユウヤがクリスカを択び、私の元から去った時……私は祝福したんだ。クリスカがしあわせであって欲しいと。……その幸せがどれほど長く続いたかは解らない。私の願いなど何の意味も無かったのかも知れない。それでも私は願ったんだ、恋敵の幸せを。何故だか分かるか?」

 

「――いや」

 

「クリスカの幸せが、ユウヤの幸せ――私自身が、心の底からそう信じていたから」

 

 ユウヤが択んだクリスカが、クリスカが択んだユウヤが、互いが幸せであったのならば。そうして結ばれた二人ならば、例え死によって別たれたとしても、残された方はその存在を胸に宿し生き続けられる筈だと、そう信じているから。

 

「だから……いいんだ。ユウヤの中には今もクリスカがいて、ユウヤは今でもクリスカを愛している。それでもいいんだ。私はそれすらも含めて、丸ごと全部のユウヤを愛している。兄妹としてではなく、一人の……女として」

 

「唯依……」

 

「もし私という存在が、ユウヤを少しでも幸せに出来るのなら……私は迷いなくこの身をユウヤに捧ぐ。それをきっと、クリスカも望んでいる。もし立場が逆だったなら、私もきっと、クリスカにそうして欲しいと願った筈だから」

 

 ユウヤが無言でこちらを見つめている。抱き留められた肩が少しずつ、ユウヤの胸元へと引き寄せられていく。

 

「今すぐに答えを決めなくても良い。……だが、もしもこんな私を、ほんの少しでも想ってくれるなら、」

 

 ユウヤの唇がすぐ目の前にある。一度弾けた想いの波濤は、もう止めることなど出来そうも無かった。

 

「せめて今宵だけでいい。――……私の想いを、受け止めてくれ……」

 

 蒼の夜空に滲んだ欠け月。初めて重ねた接吻は、冷たい泪の味がした。

 

 

 

 

 

 

 

 その夢のようなひと時を、何と例えれば良いのだろう。

 熱くて、苦しくて、もどかしくて、切なくて。

 けれどそれ以上に、何もかもが満たされて。

 それは唯依にとっては初めての事だった。こんな事がこの世にあるだなんて、人生にあるだなんて知らなかった。そういう言葉ですらも言い表し切れない。だが全てが終わって後、唯依が感じていたかったのはたった一つの存在、それだけだった。

 

 

 

 

「そのままだと気持ち悪いだろ? ほら、今拭いてやるから」

 

 気遣いから枕元のティッシュを手に取ろうとしたユウヤを、しかし唯依は「いい」と制した。

 

「もうしばらく、このままで居させてくれ。――今はこうして、ユウヤを……ユウヤが注いでくれたものを、感じていたい」

 

「そうか……?」

 

「それに情事の後というのは、二人寝そべって余韻に浸るものなんだろう……?」

 

「まあ、な。――それじゃあ定番だし、ほら、こっち来いよ」

 

 隣に寝そべったユウヤがその腕をこちらへ伸ばした。そこに頭を付け、腕枕の体勢を取った唯依はユウヤの厚い胸板へと顔を寄せる。ユウヤはしばらく唯依の背中や乳房をゆっくりとまさぐり、絶頂に昂り切った唯依の心身を落ち着かせてくれた。

 

「――……ふふ、ユウヤはあったかいな。……不思議なものだ。こうしていると、一人でいるより何倍も心が安らぐ」

 

「人ってのはそういうもんだからな。お互いに無い部分を求め合うし、心や体で埋め合い補い合う……その繋がりがどんどん大きくなって、色んな人同士が固く強く、繋がっていくんだろうな」

 

「似た話を、ずっと昔にも聞かされたことがある……とてもお世話になった、私の尊敬する方から……」

 

「そうなのか?」

 

「ああ……もう亡くなられたが、その方もユウヤと同じくらい暖かくて、お優しい方だった」

 

 きっと恭子の言葉とユウヤのそれは、本質の部分で同じだ。人は誰もが周囲から何かを受け取って育ち、そして何かを明け渡して育ててゆく。そうして紡がれた営みの中に誰もが身を置いて生きている。

 だからこそ、受け取ったものは返さなければならない。そして与えてくれた本人にそれを返せるのは、本当に幸せなことだ。

 今の唯依にはそのことが身をもって理解できる。この体に注がれたユウヤの愛と一緒に。

 

「……なあ、ユウヤ。私はお前に……沢山のものを、与えてもらった。本当に、沢山のものを、だ」

 

 夢見心地のひと時。唯依の視界は徐々に輪郭を失い、ぼわぼわとたわみ始める。

 

「それを、私は……ほんの少しでも、お前に、返せて、いるだろうか……?」

 

「唯依、眠いのか? 疲れちまったか……?」

 

 いま感じるのは、ユウヤの温もりだけ。瞼を閉じ、唯依はその揺り篭に身を、心を委ねる。

 

「いいや、『返したい』じゃないな……。ほんとうは『与えたい』……与えられるように、なりたい。そう思わせてくれたのは、ユウヤなんだ……だから……」

 

 

 

 

 

 ――ありがとう、ユウヤ――

 

 意識がふつと閉じる寸前。ユウヤの唇が額に触れた、ような気がした。

 それだけで、唯依はしあわせだった。

 

 

 

 

 



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芽吹きのとき

 

  ZAP.YUYA

 

 

 あれから何度目かの春。

 縁側で空を眺めながら、ユウヤは雲一つない晴れ間の向こうに、これまでのことを思い描いていた。

 

「なんだ、まだ支度をしていなかったのか」

 

 ぼうっとしていたユウヤの背中に、そう声をかけてきたのは唯依だ。「悪い悪い、」と答えながらユウヤは部屋に戻り、クローゼットからスーツを取り出す。

 

「どうした? 柄にもなく空など眺めて」

 

「ああ……いや、初めてこの家に来た日のことを、ちょっと思い出してさ」

 

「ふふ、らしくないぞ。感傷に浸るほど老けたわけでもないだろう?」

 

 したり顔で唯依が皮肉めいたことを言う。そういうのもすっかり慣れっこになってしまったユウヤは、「相変わらずだぜ」と微笑を交えて独り言ちる。

 

「何か言ったか?」

 

「いーや、何にも。――ところで、そっちこそ支度出来てないみたいだが?」

 

「私自身はとうに出来ている。ただ()()()は小腹が空いたみたいでな。――こればかりは仕方が無い」

 

「まあそうだな。おーよしよし、たっぷり飲んで早く大きくなれよ~」

 

「全く、飲みっぷりの良さは誰に似たのやら。親の顔が見たいものだな」

 

「鏡ならそこにあるぜ?」

 

「……今のはユウヤに言ったつもりだったんだが」

 

「解ってるっての。――まあ無理もないって。あんな美味いモン、そりゃあ幾ら飲んでも飲み飽きないさ」

 

「ば……バカなこと言ってないでさっさと荷作りを済ませろッ! 今日の式典、遅れるわけには行かないんだからな!」

 

 はいはい。思い出に残るまろやかさをそっと反芻しつつも手早く着替えを済ませ、ユウヤは必要なものを詰め込んだブリーフケースの蓋を閉じた。

 

「よし準備オーケー。じゃあ後は……ってまだお食事中か、コイツは」

 

「うん、もう少し待ってくれ。――さあ、たんとお飲み。祐伍(ゆうご)

 

 唯依が腕に抱くその赤子……祐伍のふくふくとした頬をつつくと、唯依のおっぱいから口を離した祐伍は口から乳をこぼしながら「きゃあきゃあ」とご機嫌な声を上げた。

 それは今のユウヤにとって、何よりも幸せな時間の過ごし方だった。

 

 

 

 

「しっかし、祐伍も大きくなったよな。ちょっと出張で三沢行ってる間に」

 

「ふふ、無理もない。毎日見ている私ですらそうなのだ。二週間も離れていたユウヤならば尚更のことだろう」

 

 西へと向かう高速鉄道の車中、気持ち良さそうにすやすやと眠る祐伍の寝顔を眺めながら、ユウヤと唯依は語らいのひと時を過ごしていた。

 結婚を機に国連軍から斯衛軍に移籍したユウヤは今、斯衛が手掛ける次世代戦術機の開発衛士であると共に、日本各地の本土防衛を担う主力部隊養成のための仮想敵部隊(アグレッサー)としてその敏腕を振るっている。

 他の武家とは異なり特殊な立場であるため、行動の制約が少なく済んでいるのは掛け値なしにありがたい。ただその代償として事あるごとに出張出張の連続となってしまい、愛する唯依や祐伍と過ごす時間が減りがちなのが目下悩みの種である。

 

「祐伍ももう六ヵ月か。懐妊(オメデタ)から出産まで随分長く感じたけど、いざ生まれてからは時間の流れがやたら早く感じるぜ」

 

「確かにな。子の成長を見守る親の立場になってみて実感した、『私も歳を取るはずだ』と」

 

「なんだよ急に? さっきの話じゃ無いが、オレたちまだまだ若いだろ?」

 

「そういう意味じゃない。とある方の物言いを真似てみただけだ」

 

 クツリと微笑した唯依の醸す雰囲気は最近、ますます栴納に似てきている。出産を経て日々母性を深める我が妻の面立ちを眺めながら、ユウヤはその思いを新たにしていた。

 

 

 

 ユウヤが正式に篁家の婿養子となったのは、今からおよそ二年前のこと。

『亡命米国人と武家の女当主、前代未聞の婚儀』ということで当時の世間、とりわけマスコミやらの風当たりは想像以上に厳しいものだったが、次第にユウヤの華々しい戦歴が報じられるに連れそうした声も潮が引くように減っていった。

 やがて入籍する頃には各社こぞって手のひらを返し、『極東BETA戦線の英雄と日本の戦術機開発に多大なる貢献を果たした篁家当主の、めでたきご成婚!』……と祝福ムードに転じたのは今でも身内でのちょっとした笑い種となっている。

 

「出張先やら何やらでいろんな奴らに会う度、未だに言われるぜ。『あのタカムラ殿でありますか!』ってよ。ったく、マスコミってのもホント碌なコトしねえよなあ」

 

「そう言ってやるな、彼らとてそれで食い扶持を稼いでいる身。近年は些かゴシップめいたきらいもあるが、それも戦時下における情報統制からの反動と考えれば同情の余地もある。――尤も、それのせいで私たちの婚儀が余計な注目を集めてしまったのは確かだが」

 

 ユウヤと唯依の入籍。それに際して、二人はユウヤが父・祐唯の婚外子である事実を公にした。もちろん前年の時限法制定や既にいくつもの類似例があったことから、それ自体に世間がさほどの関心を向けなかったのは二人にとって救いと言えただろう。代わって槍玉に挙げられたのが前述の問題であり――そして今に至る、というワケである。

 

「そういや結婚式以来、チョビたちとも会ってねえなあ。今頃元気にしてんのかな」

 

「……ユウヤ。よもやとは思うが、ゆうべのうちに手紙を読まなかったのか?」

 

「は? 手紙?」

 

「やれやれ。この様子では目を通すどころか、話自体を覚えていないらしいな」

 

 呆れたように深々と、唯依が嘆息を漏らす。

 一体何を覚えていないというのか。昨日と言えば、二週間に渡る出張を終えて夜遅く家に帰り着いて、その後は風呂に入って軽食を取って、唯依と二人で祐伍の寝顔を眺めて……

 駄目だ。それ以上の記憶が何も無い。

 

「済まん、疲れてたもんで……。手紙って何の話だ?」

 

「マナンダル中尉から送られてきた近況報告の手紙だ。書斎の机に置いておいたぞ、と昨晩ユウヤに伝えたのだが」

 

「うわっ。そうだったのか!?」

 

 いつになくハードな出張だったせいで、昨晩は手紙に目を掛けることすら無いままに寝落ち、そのまますっかり忘れ去ってしまっていた。『なんで返事寄越さないんだよー!』というタリサの鬼気迫る声が聞こえた気がして、ユウヤの背筋に寒気が走る。それを見て唯依は「ハア」と大仰な溜め息を吐いた。

 

「宛名が連名だったゆえ先に読ませてもらったが、『甲一四号・敦煌(ドゥンファン)ハイヴの漸減作戦、順調に推移中』だそうだ。近々大規模な作戦があるらしく、完遂の暁には部隊の面々を引き連れて日本へ観光旅行に来る……とも綴られてあったぞ。マナンダル中尉の堪忍袋の緒が切れぬうちに、早いところ返信しておくんだな」

 

「分かった、帰ったらすぐに速達で出しておく。にしても相変わらず元気そうだな、チョビ(タリサ)も」

 

「ジアコーザ中尉とブレーメル大尉も、直接ではないが関係筋からの報告が先日あってな。二人とも欧州共同防衛線の一員として、ソ連領ハイヴ付近での防衛任務に日々奮闘しているらしい。ドーゥル少佐からはこのところ連絡をいただいてないが……まああの方の場合、『便りの無いのが良い報せ』と言うべきだろうな」

 

「同感だ。あの人は殺したって死ぬようなタマじゃねえよ」

 

 タリサ=マナンダル。ヴァレリオ=ジアコーザ。ステラ=ブレーメル。そしてイブラヒム=ドーゥル。XFJ計画の開発メンバーとして関わっていた面々はいずれも解散に伴って故国原隊へ復帰し、『桜花作戦』を始めとした様々な対BETA攻略・防衛作戦において、今もなお主力として多大な戦果を挙げ続けている。

 ほんの数ヵ月とはいえあのメンバーと共に過ごせたことはユウヤにとっての誇りであり、人生の宝と評すべき大切な思い出だ。

 

「聞くところによれば、統一中華戦線の(ツイ)中尉率いる暴風(バオフェン)中隊も最前線にて獅子奮迅の活躍ぶりらしいな。先般の甲一六号攻略戦では同隊が主要部隊となってハイヴに突入し、反応路破壊および全域制圧を成したとの報だった」

 

「さっすが暴力ケルプ。亦菲(イ―フェイ)もあの勢いで、とっとと良い男取っ捕まえられりゃいいんだけどな」

 

「さてどうだろう? 何しろ私たちの婚儀の席で堂々と略奪予告をした上に、『ユウヤの百倍イイ男を見つけるまでは絶対結婚などしない』とまで宣ったんだ。よしんば地球上のBETA全てを駆逐してから婿探しにじっくり腰を据えたとて、そんな好条件の相手など見つかるかどうか」

 

「お、お前な~。オレが微妙に痒くなるような話はやめろって」

 

 この口ぶりから察するに、唯依はあの時のことをまだ根に持っているらしい。国際問題にこそ発展しなかったものの、まさしく『暴風』の名に違わぬ狂騒ぶりで宴席を荒らし回った亦菲とタリサの激突も、今では遠い昔のことのような気さえする。

 

「BETAを駆逐して、ハイヴを制圧して。世界中の人類も少しずつ、元の歩みを取り戻してんだな」

 

「ああ。――だが、失われてしまったものもある。それは容易に復旧など出来ない」

 

「……だな」

 

 BETAがもたらした災厄。それは都市や生活圏の破壊のみに留まらない。

 ハイヴの拡大に伴って平らに均されてしまったユーラシアの大地。それにより激変してしまった世界中の気象。戦争を通じて撒かれた数多の放射能や重金属による深刻な環境汚染。これらはいずれも十年二十年では回復しえないものばかりだ。そして五十億という途方も無い数の人命も、何をどうしたって戻ってくることは無い。

 もっとミクロな視点で見れば、BETA侵攻によって生まれ育った街を破壊され、大事な人の命を目の前で奪われた――そういう爪痕を負いながら生きる人間だって沢山いる。その喪失感はきっと、生涯残り続けるのだろう。唯依がそうであるように。

 それでも、足掻きながらでも踏み出すその一歩一歩には、人類全体を確実に前へと進めてゆくだけの力がある。どんなに苦しかろうとも一心不乱に進み続けることで、いつかは古傷を己の原動力へと昇華することが出来る、その筈だ。

 ……そう信じて歩みを止めないことこそが今の自分にできる『分』の弁え方なのだと、ユウヤはそう思っている。

 

「だからこそ、今回の式典があるんだろ」

 

「そうだ。我々日本人は、今日を境に未来への新たなる一歩を踏み出す。そうすることで初めてあの時犠牲になった多くの人々への報い……いや、ご恩返しが出来る。そう思えばこそ、私も今回の話を引き受けたんだ」

 

 強い眼差しで唯依が手元の紙を見つめる。そこにしたためられた長文を、込められた想いを噛み締めるように。

 

「今日は会場で祐伍と一緒に見てるからな。がんばれよ唯依」

 

「ああ。ユウヤとこの子が居てくれれば、怖いものなど何も無い」

 

 トンネルを抜け、車窓の視界が一気に開ける。

 悠々と裾野を広げる富士山。かつてBETA侵攻の脅威に晒されながらも原形を留めた日本の象徴たる霊峰は今日も、その勇壮な姿を遍く覗かせていた。

 

 

 

 

 

 

 ……一九九八年七月、九州上陸から始まったBETAの本土侵攻は、我が日本帝国に極めて甚大な被害をもたらしました。

 その渦中、帝都防衛のため、人命保護のため命を賭してBETAと戦い、そして散っていった数多くの将兵、犠牲となってしまわれた国民の皆様のご無念を思うと、今なお痛惜の念に堪えません。

 我々斯衛軍および帝国軍はその痛みを負って一丸となり、国連を初め様々な国際協力の元、BETA本土駆逐を無上の悲願として日々邁進して参りました。

 

 私は決して忘れません。

 あの夜、炎に包まれBETAに蹂躙されたこの地の、禍々しい光景を。

 BETAと果敢に戦い、そして敗れた戦友を。

 より多くを生かすべく自ら戦火に身を投じ、還らぬ人となった恩師を。

 日本のため国民のため、命を賭し最期まで勇戦なされた先達を。

 そしてこの命ある限り、BETAによって奪われたものを取り戻すその日まで終わりなき戦いを続けることを、戦火から生き延びたあの日、私は心に誓いました。

 

 あれから幾星霜。二つのハイヴを攻略したことによるBETAからの本土奪還、続く桜花作戦における敵本拠制圧を成し遂げた我々は反撃の狼煙を上げ、現在では人類総力の結集により地球全土からのBETA掃討という四半世紀来の宿願を遂げる、まさにその一歩手前まで差し掛かっております。

 しかし敵を殲滅することは、必ずしも人類の勝利を意味しません。

 喪失の痛手から立ち上がり、復興の灯を焚べ、犠牲となられた全ての方に弔いの祷りを捧げる。これらは終わりではなく未だ戦いの過程であると言えます。この惨禍の時代を生き抜いた全ての人々が何者にも脅かされることの無い恒久の平和を手にしてようやく、人類は本当の意味で勝利に浴する日を迎えられるのです。

 

 私たち日本国民のBETAとの戦いは今日この時をもって、勝利に向けた次なる段階への大いなる一歩を踏み出しました。

 その行く末がいかなるものであるかは、貴賤に依らず軍民を問わず、全ての人々が手を取り合い立ち上がろうとする姿勢と活力をどこまで継続することが出来るかに掛かっています。

 しかしながらそれこそが人類の持ち得る本質的な強かさであり、BETA襲来のみならず歴史上数多の国難・厄災を振り払い弛むことなく前進し続けた、祖霊英霊より賜りし数多の恩義に報いる唯一の手段でもあります。

 相次ぐ苦難を手に手を取って耐え忍び乗り越えて来た日本国民の皆様ならば、必ずやこの長き戦いの果てに勝利を収めるであろう事を、私は確信しております。

 

 この人類普遍の営みがここ京都を起点とし、とこしえに続くことを心より祈念いたしまして、本日の京都復興記念式典に寄せる祝辞と代えさせて頂きたく存じます。

 

 二〇〇七年四月一四日、日本帝国斯衛軍、元・嵐山守備中隊第二小隊所属。

 現・第十三機甲連隊第八戦術機大隊第二開発部隊長、篁唯依。

 

 

 

 

「やあ唯依ちゃん。演説、しっかり聞かせてもらったよ」

 

「巌谷のおじさま!」

 

 式典終了後、そぞろに解散……という流れの中で唯依に声を掛けてきた「巌谷」なる人物に、ユウヤは以前にも会った事がある。

 帝国陸軍の大佐で、婚儀の席ではユウヤと唯依の媒酌人を務めてくれた人物。それだけでなく、篁家とはかねて先代の頃より付き合いのある人らしい。軍人然としていない彼の気さくであけすけな人柄に、ユウヤは当初から少なからず好感を抱いていた。

 

「おじさまがこの式典にお出でとは存ぜず失礼致しました。未熟者ゆえの拙文、恥じ入るばかりです」

 

「ふはははは。公の席とは言え、相変わらず堅っ苦しいなあ唯依ちゃんは。旦那も愛息子も元気そうで何よりじゃないか、ん?」

 

 急に巌谷がこちらへ話を振ってきたもので、虚を突かれたユウヤは一瞬慌ててしまう。

 

「――は。常日頃大佐より篤くご高配を賜り、唯依ともども心より感謝しております!」

 

「何だ何だ、旦那まで唯依ちゃんの生真面目さが感染しちまって。それとも斯衛に軍籍を移したせいか? 俺は唯依ちゃんの後見人、言ってみれば君たちの父親代わりみたいなもんだ。もっと気楽に接してくれてもいいんだぞ、祐弥(ユウヤ)君」

 

「は、はあ」

 

「しかしあの唯依ちゃんが大観衆を前に、あれほど立派な演説を打つ日が来るとはなあ。いや本当に逞しく成長したもんだ。こーんな小っちゃい頃からずっと面倒見てきてる俺としちゃあ、感慨深いものがあったよ」

 

「もう。おじさまったら、いつまでも子供扱いして」

 

「いやいや、褒めてるのさ。ひと頃の固さもすっかり取れて、人間としての深みが幾重にも増したと見える。これも数々の経験のお陰か、はたまた子を持つ一人の親になったが故ということか」

 

 腕を組んで感心するように唸り、それから巌谷はユウヤの腕で朗らかに笑う祐伍を「ベロベロバ~」とあやし始めた。

 巌谷の顔に刻まれた大きな傷や深い皴、鋭い眼光などはいかにも歴戦の勇士といった貫禄に満ち溢れている。だがそんな彼もこうして幼な子にひょうきんな顔を覗かせていれば、まさしく好々爺といった按配だ。

 

「この子にしたってそうだ。誕生の報せが入ったのはついこないだとばかり思っていたんだが、もうこんなに大きくなったとは。年寄りには辛い現実だなあ、ふはははは!」

 

「何言ってるんですか。巌谷大佐だって、まだまだ十分若いですよ」

 

「そう言ってくれるのは祐弥君だけだよ。こんな良い旦那を持って、唯依ちゃんは本当に果報者だなあ。この子の名も確か、祐弥君の名にあやかったんだよな?」

 

「そうです」

 

 巌谷に返事をして、それから唯依とユウヤは頷き合う。

 

「『まじわり』『たすく』。友と、仲間と手を取り合い、人を助ける存在となれ。そういう願いを込めてユウヤから一字を取り、二人で『祐伍』と名付けました」

 

「うん――うん、実に良い名だ。新しい時代を生きる希望と信念に満ち溢れている」

 

 満足そうに唸り、巌谷は顔を綻ばせる。

 祐弥。自分のその名も元を正せば、父・祐唯から一字を授かって母が名付けてくれたものだ。その想いを継ぐことこそユウヤと唯依、二人の本懐とするところでもある。

 きっと巌谷もそれを察してくれたに違いなかった。

 

「ところで、唯依ちゃんの方から名前を取る案は無かったのかい?」

 

「いえ。私の名は、その」

 

「二人目の時にしようって、実は唯依と相談してまして」

 

「何だって? もうそんな目処があるのか! 全く、若さって奴には敵わんな。わっはっはっは」

 

 豪快な笑いと共にバシバシと、巌谷が遠慮なくユウヤの背を叩く。痛いことは痛いが、この悪気の無さがどうにも憎めない。

 

「と言っても、まずは祐伍の子育てがひと段落ついてからですけどね。この分だといつになるやら」

 

「なあに、子の成長は早いもんだ。二人と言わず産めるだけ産むが良いさ。若くして優秀な当主、立派な旦那に子沢山と、篁家の未来は安泰だなあ」

 

「おじさま~~、その辺にして下さい」

 

 巌谷にからかわれ、唯依はすっかり顔を真っ赤にしている。ユウヤとしてもここまで褒めちぎられると、どうにもむず痒いような心地だ。

 

「いやはや、安心したよ。……実は少々気掛かりだったんだ。今日の式典で唯依ちゃんが演説するって話を聞いて、斯衛の連中が無理難題を押し付けたんじゃないか、とな」

 

 それを聞いた唯依は一度こちらに視線を合わせ、そして柔らかく微笑んだ。

 

「いいえ。今回のお話、喜んで引き受けさせて頂きました。私は帝都防衛戦の数少ない生き残り。あの時汲んだ想いを次なる時代の為、一人でも多くの人に語り伝える責務があると思っています。――それに、」

 

「それに?」

 

「私の言葉を聞いて欲しい人たちが、この地には居ましたので」

 

「……そうか」

 

 唯依の迷い無き笑顔。それを見た巌谷は、喜びと哀しみのちょうど中間にあるような表情を湛えていた。

 

「本当に強くなったな唯依ちゃん。――きっと祐唯(アイツ)も、草葉の陰で喜んでるだろうよ」

 

 

 

 



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epilogue
融けゆく心


 

  ZAP.YUI

 

 

 新京都駅。

 復興の象徴とされた新しい駅舎に、もうあの日の爪痕は何一つ残ってはいない。

 人々が行き交い活気に溢れるこの通りを、かつて私は友人たちと連れ立って、なにげ無いことのように歩いていた。

 今、ここにはたくさんの桜が植樹されている。

 復興のシンボル。平和の礎。そして――戦没者たちの供養の為。

 ちょうど盛りを迎えた(みやこ)の桜は満開に咲き誇っていた。その中の一画、荘厳な慰霊碑が建てられたこの場所へ、私は今回どうしても己の足で来なければならなかった。

 

 

 

「オレはここで祐伍を見ておくから。唯依はこっちに気兼ねなく、きっちり報告して来いよ」

 

「解った。……ユウヤ」

 

「何だ?」

 

「いつもありがとう。傍に居てくれて」

 

「……何言ってんだよ。それはオレの台詞だ。でもそういうのは、宿に帰ってからにしようぜ」

 

「ああ。済まないが少しの間、頼む」

 

「急がなくていいからな。さーて祐伍ぉ、ママの用事が済むまでパパと一緒にお留守番してような~」

 

 嬉々として祐伍をあやすユウヤを背にし、私は白亜の碑に向かって歩き出す。

 

「やれやれ……日米最高峰の開発衛士も、我が子の前では形無しだな」

 

 初めはあんなにも威勢の良い啖呵を切っていた男が、今やこれほどまでに子煩悩になろうとは。……いや、それは私も同じか。

 ユウヤの前では妻。祐伍の前では母。そんな自分になる日が来ようなどと、あの頃は想像だにしていなかった。

 そして、今、この時は。

 

「……遅くなってごめん」

 

 手にした花束を慰霊碑のふもとへ置き、線香を立て、手を合わせる。

 分かっている。ここに彼女たちは居ない。

 遺体も遺品も何もかも、あの惨劇の中でどこへ行ったかも知れぬまま。だからここは墓とも呼べない。生きる者が死せる者の御霊を祀り、一方的に祈りを捧げるだけの場。それでも、だからこそ、私はこの場で彼女たちに伝えずにはおれない。

 

「あの日から、気の遠くなるほど長い時間がかかってしまった。私自身もずっときっかけが掴めないまま足を運べずにいた。――けどね。みんなのこと、ただの一度だって、忘れた事なんて無かったよ」

 

 志摩子(しまこ)

 安芸(あき)

 和泉(いずみ)

 そして――

 

「あれから私、BETAを倒すためにずっとがんばってた。ううん、がんばらなくちゃって思ってた。だけど……独りって、やっぱり弱いね。何度も折れそうになったし、挫けそうにもなった。その度に立ち上がって、がんばらなくちゃいけない、がんばることだけが私に出来る贖罪なんだって、そう自分に言い聞かせ続けてた」

 

 それが強さだと思っていた。けれど、それこそが本当の弱さだった。

 あの頃から何一つ成長していなかった、私の弱さ。

 一人でがんばる。がんばらなければならない。そんな自分の頑なさが、みんなに心を許せなかった私の脆さが、みんなの命を奪ってしまった。

 ずっと、そう思っていた。

 

「でもね、やっと私も解った気がする。人は弱いからこそみんなで支え合うことが出来るんだって。支え合おうとするからこそ、相手に本当の自分を曝け出すこともあるし、曝け出してくれた相手からも目を背けちゃいけないんだって。――もっと早く、気付けていたら良かったのにね」

 

 そうだ。

 あの時、率先して心を曝け出してくれた人が居た。

 自分の恐れを笑い飛ばしてくれた人が居た。

 受け入れ合おうとしてくれた人が居た。

 分かり合いたいと思ってくれた人が居た。

 そのことを私はみんなに教えてもらった。それを糧に今、私は生きている。未だ何も成せていない私がそれでもみんなに会いに来ようと思えたのは、やっと私自身も前に向かって一歩を踏み出せる、心からそう思える自分の姿を見つけられたから。

 

「だから、みんなにはこれからもずっと、私のことを見守っていて欲しい。また私が挫けたり昔に逆戻りしそうになった時、『何やってるんだ』って叱って欲しいから」

 

 ごめんね。疲れてゆっくり寝ていたいだろうに、そんなの私の我が侭だよね。

 でも私はそうあって欲しいって思う。

 そうしてみんなに見守られる限り、みんなは私の中に、いつまでも生き続けているのだから。

 

「――みんなから貰ったご恩、少しずつだけど返していくよ。色んな人たちに、色んな形で。返し尽くせないかも知れないけど、私にできる限りのこと、やってみる」

 

 あの日からずっと凍てついていた自分の心。

 それを融かしたものは、迷い悩みながらも重ねた年月。新しい環境での新しい出会い。絶望の果てに得た一握りの安らぎ。そして今、この手で守るべき拠り所。

 その全てがあって今ようやく、私はここに立つことを許されたのだ。他の誰でもない、私自身によって。

 

「袖ひちて、(むす)びし水の凍れるを、春立つけふの風やとくらむ」

 

 呟き、そして唯依は空を見上げる。風に舞い上げられた桜の花びらは、一筋の帯となって雲間を彩っていた。

 

 

 

 

上総(かずさ)。私、ほんの少しだけ、あなたに近付けたかな――」

 

 

 

 

 

 

 

 



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