獣は泣いたか (久知良)
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第一章 獣は爪を隠す
01 拳願号


 豪奢なシャンデリアが吹き抜けのホールを見下ろしている。天井や壁には煌びやかな装飾が施され、足元には上質かつ洗練された美しいカーペット。フロア中のテーブルにかけられた真っ白なクロスも最高級の光沢を放ち、その上には豪華な食事が並んでいる。グラスを片手に談笑する人々も、誰も彼もが仕立ての良いスーツやドレスを身に纏い、まるで競うかのように自らを誇示する、そんな豪華絢爛を極めた空間。

 ――息が詰まる。己の場違いさを自覚して、伏野(ふしの)ナツメは首もとのネクタイに手をやった。かくいう自身が着込むスーツもオーダーメイドの一着であり、ネクタイも靴もこの場に釣り合う高級品なのだが、それがこの息苦しさに拍車をかけていた。

 全長三百八十メートル、総重量二十五万トンを誇る世界最大級のクルーズ客船『拳願号(けんがんごう)』。そもそも船というもの自体にあまり馴染みもなかったが、目の前に広がる光景は本当に船内なのかと疑いたくなるほどだった。

 現在所属する組織に身を置いて三年近く。ほとんど住み込み状態である職場も、それまでの生活からは想像もできなかった大豪邸であるが、その場所にすら未だ違和感を拭い切れていない現状、この絢爛さにはいっそ目眩さえ覚えてしまう。同じ港から少し遅れて出港したもう一隻は『絶命号』の名に相応しいボロ船だったが、ナツメとしてはまだそちらの方が馴染めるというものだった。

 

「落ち着かないようだな」

 

 頭の上から降ってきた声に、ナツメははっとしてネクタイを触っていた手を下ろして隣を仰ぎ見た。

 女としては長身の部類に入るナツメだが、その男は更に大きく、ナツメの頭の先が男の肩に届くか届かないか。確かなほどは聞いたことがないので分からないが、身長は二メートルを超えているだろう。強面に口髭を生やした齢四十半ばの大男は、ナツメと揃いの黒いオーダースーツでその身を覆っているが、鍛え上げられた屈強な肉体は隠し切れるものではなく、どっしりとした威厳や貫禄がひしひしと伝わってきた。

 

「まだ慣れないか」男が少し目を細めた。「こういう場は初めてでもないだろう」

 

 どこか笑みを含んだ視線を受け、ナツメは煌びやかなホールに顔を向け直した。

 

「慣れる慣れないではなく、根本的に私の性には合わないのだと」

 

 ナツメは劣悪な環境で育った。政府ですら手に負えないとして事実上放棄された、法も秩序も存在しない不法集落である。東京近郊に位置し、練馬区と同等の土地面積に違法増築を繰り返してできあがった巨大要塞都市。現組織の総帥たる人物に拾われるまで、ナツメはそんな無法地帯にいた。

 暴力ですべてを奪い合うその場所で、弱者に待つのは死か、それ以上の堪えがたい苦痛や屈辱であるが、ナツメにはそのどちらも味わうことなく生き抜けるだけの強さがあった。それゆえにこの組織にスカウトされて今現在があるわけだが、殺すか殺されるかという環境に長年身を置いていた事実が消えるわけでもなく、その間に骨身にまで染みついた畜生根性は三年かそこらで払拭されるものではない。

 そんな当時から考えれば、この光景はまさに別世界だ。一生関わることのなかった世界。金持ち共の道楽。妬みはないが、理解はし難い。

 総帥の護衛が自分の任務であり、それを請け負ってから度々こういった豪勢なパーティーに随伴することもあったが、自分を場違いだと思わなかったことはない。今回も例に漏れず。

 

「歪んでるぞ」

 

 男の声にナツメは再びはっとした。無意識のうちにネクタイを弄っていたようだ。ああ、しまった。と思うも後の祭りで、ナツメは申し訳なさを表すように眉を下げて、隣に立つ男を見上げた。

 

王森(おうもり)さん」

 

 男――王森正道(まさみち)はやれやれと息を吐いた。

 

「まったく、しようのない奴だ」

 

 そう呆れつつも、大きな体躯を少し屈めて歪んだネクタイを締め直してくれる王森は何だかんだ面倒見がいい。ナツメにこの組織や仕事についてあれこれ指導してくれたのも王森である。無論、それは彼らが〝御前(ごぜん)〟と呼ぶ組織の総帥からの命であったわけだが、その御前が有する私兵の集団『護衛者』の中でも最高戦力の一人に当たる男を、礼儀も躾もなっていない無法者の教育係に任命すること自体が酔狂というものだった。

 

「大抵のことは何でも器用にこなすのに、これだけはいつまで経っても苦手なようだな」

「……すみません」

「謝る必要はない。――ほら、できたぞ」

「ありがとうございます」

 

 そうして再び姿勢を正し、ホールへと視線を戻してすぐ、王森は「だがまあ」とこぼすように口を開いた。

 

「俺もあまりこういう場は得意ではない。堅苦しくてな」

「王森さんは結構庶民的ですよね」

 

 千人を超える護衛者たちのほとんどが、元は身寄りのない子供である。幼少の頃から鍛え上げられ、その中でも才質のある者だけが『護衛者』として登用される。しかし、ナツメのようにその腕を買われて外部からスカウトされる者も少数だが存在した。王森もその一人であり、好物はカップラーメンという庶民派だ。

 互いの過去についてあれこれ詮索することは御法度という暗黙の了解があるため、以前にどんなことをしていたのか不明な点が多いスカウト組だが、中には元は御前の命を狙う暗殺者だったという者もいる。そんな輩さえ、腕が良ければ己の護衛者として抱き込んでしまうかの人は、度量が広いというべきか命知らずというべきか。

 ナツメも元は殺しを生業にしていた身である。そんな自分を何を思って護衛者にと誘ったのか。あの人の考えることは今でも良く分からない。

 

「この前教えていただいたカップ麺、美味しかったです。また教えてください」

 

 隣に立つ王森を上目に見る。王森はちらりとだけこちらを見ると、またすぐ視線を戻して「考えておこう」とだけ答えた。

 

 

 

 

 午前一時、拳願号船内で開催されているウェルカム・パーティーは未だ終わりを見せず、中央大ホールは人で溢れている。よくもまあ飽きないものだと思う。金持ち共の考えることはよく分からないし、興味もないというのが正直なところだが、現在自分に与えられている任務がホールの警備である以上、この場から離れるわけにもいかない。

 護衛者とは、と問いたくなるが、この催しの主催が我らが御前であり、その運営を護衛者が請け負っているのだから文句を言ってもしようがないというものだった。

 共にいた王森はつい先程、御前のもとに戻ってしまった。絶命号の方で行われていた〝予選〟が思いの外早く終わったらしく、こちらに移動してくる勝ち抜き組の歓迎に向かうのだという。

 そもそも、王森は護衛者の中でも『三羽烏』と称される三人のうちの一人であり、御前直属の護衛だ。本来ならばこんなところで油を売っていて良い立場ではないが、その御前自身が実に自由な人物であるため、そして王森がナツメの教育係兼直属の上司に当たるため、ああして共に行動することが多かった。

 同じく三羽烏の一人に鷹山(たかやま)ミノルという直属護衛の大男がいるが、王森が呼ばれたのなら彼も共に行っているだろう。ホールの警備より自分もそっちに行きたかったというのが本音であるが、今更あれこれ言ってもやはりしようがない。

 ナツメはホールの壁を背に、後ろ手を組んで佇んだ。

 

「こんばんは、お姉さん」

 

 護衛者は基本全員が男だ。その唯一の例外がナツメであるが、それゆえにこういった場では好奇の目に晒されてしまうのが実情だった。かといって、護衛者のトレードマークである黒スーツを着込んだ姿を見て絡んでくる輩はそうはいない。

 が、稀にこうして近寄ってくる手合いもいなくはないので、できるならば裏方に徹したいとナツメは思っているのだが、反して御前は何かと表へ引っ張り出そうとする。仮にも御前直属の護衛であるナツメがここにいるのもそれが理由だった。

 

「少しだけ話をさせてくれないかい」

 

 二十代半ば、褐色の肌をした男だった。涼しげな目元にすっと筋の通った鼻。バーテンダーを思わせる白いシャツに蝶ネクタイ姿のその男は、愛想の良い笑みを浮かべてナツメの前に立った。

 

「申し訳ございません、仕事中ですので」

 

 ナツメはにべもなく返した。これで退散してくれたら楽なのだが、男は相変わらず笑みを浮かべたまま「本当に少しだけさ」と更に距離を詰めてきた。

 同じくホールの警備に当たっていた護衛者が、その男の存在に気づいてこちらに向かって来ようとする。ナツメはそれを目配せで押し止めた。もう一度「仕事中ですので」と先程より低く、警告を兼ねた声色で発する。

 ぴたりと男の足が止まった。それからしげしげとこちらを見たあと、何かに納得したかのようにひとつ頷いてみせた。

 

「やっぱりそうだ、伏野ナツメさんでしょ。遠目にっすけど、一度だけ見かけたことがあったもんで。もう十年以上前の話さ」

 

 どこで、と告げないのは配慮か、それともこちらの出方をうかがっているのか。それでも、男が言外に仄めかした部分は明白に読み取ることができた。

 

「――『(なか)』の人間か」

「まあ、元っす。俺は『狼弎(ろうざ)』出身でね」

 

 久しく耳にしていなかった名称に、ナツメは思わず目を細めた。別段懐かしさを感じたというわけではないが、こんなところで『中』の話題に触れることになるとは思ってもおらず、しかも相手がまるで旧友と再会したかのような様相をみせるものだから、少々面食らったという方が正しい。

 ナツメが生まれ育った不法集落は、一般的には『不法占拠地区』と呼ばれている。広範囲に毒ガスが発生しているため、住民はごく僅かしかいないというのが国の公表だ。

 デタラメもいいところだが、最早そうして臭いものに蓋をするくらいしか、国にもできることがないのだろう。何せあそこでは、二十万近くの人間が無秩序に生きているのだから。

 そして、あの不法集落出身者やその内情を知る者たちは、あの場所を『不法占拠地区』ではなく『中』と呼ぶ。内部は十の区画に分けられ、そのうちのひとつが三番街の『狼弎』だ。その名を口にしたこの男が『中』出身の人間であることは疑いようもなかった。

 

「いやー、やっぱりそうか。ずっとそうじゃないかと思ってたんだ。ナツメさん有名だったし、あの頃は俺もガキだったからちょっと憧れみたいなとこもあって」

 

 意外に思うのは、こんなにも『中』にいた頃のことを明朗と話す者がいたという事実。

『中』から『(そと)』に出た人間の多くは『中』でのことを忘れたがり、仮に同郷と出会ったとしても互いに当たらず障らずが基本だ。

 ナツメは自分が『中』出身であることを隠してはいないし、その頃の記憶を忘れたいとも思ってはいないが、『中』を忘れたいという者たちの気持ちは理解できた。

 腐敗、などという言葉では到底言い表すことのできないあの場所は、この世の悪意と悪事のすべてが詰まっている。命が路傍の石よりも粗雑に扱われるそこでは〝人〟として生きることさえ難しいのだ。

 だから、ナツメには目の前に立つ男の態度が実に稀有(けう)なものに見えた。

 

「あ、俺『義伊國屋(ぎのくにや)書店』代表闘技者の氷室涼(ひむろりょう)っす」

 

 義伊國屋書店――日本書店業界のトップ企業である。書店のみでなく、バーなどにも出資しており、会長の大屋健(おおやけん)はなかなかのやり手であると聞く。

 ――氷室涼、か。ナツメは男をしかと目に留め、その名を胸中で反復した。

『中』は国が管理することを放棄した場所である。住人は国民として認識されていないどころか、存在自体ないものとされているため、当然戸籍やそれに付随する権利云々も存在しない。それゆえに『外』へ出る際には非合法な戸籍を用いる場合がほとんどだ。恐らく「氷室涼」もその類だろう。

 だから何というわけではないが、端整な顔立ちに似合いの響きだと感じたナツメは、しかし周囲から好奇の視線が集まっていることを感じ取り、取り繕うように「氷室様、申し訳ございませんが」と再三の言葉を口にした。

 ホール内に流れる音楽と人々のざわめきで、はたからは会話の内容までは聞き取れず、しつこい男に絡まれているようにしか見えないだろうが、これ以上の悪目立ちは遠慮したいところだった。

 

「ああ、すんません。つい、懐かしくてさ」

「いえ……」

「伏野」

 

 不意に名前を呼ばれ、ナツメは顔を横に向けた。護衛者の一人がこちらに歩み寄ってきて、まずは氷室を一瞥。それから一言「交代だ」と顎をしゃくってみせた。裏で休憩してこい、ということらしい。腕の時計で時刻を確認すると交代にはまだ早く、やはり会話が過ぎたようだと判断したナツメは、黙ってその指示に従うことにした。

 

「それでは氷室様、どうぞごゆっくり」

「ああ、どうも」

 

 一礼し、ナツメはホールを後にした。

 この豪華客船は防音もしっかりとしているようで、扉を閉めるとホール内の騒がしさが一気に遠退いた。一流ホテルと見紛うような通路を進む。業務用の通用口を潜ったところで、ナツメはようやく解放されたといった心持ちでひとつ息を吐いた。

 それとは別に、ふっとこぼれるような息遣いで空気を揺らした者がいた。通路の少し先、壁を背に後ろ手を組んで立ったその男は、視線が合うなり柔和な笑みを浮かべて「お疲れ様です」と労わりの言葉を投げて寄越した。

 

「しつこく絡まれていたようですね」

「絡まれたわけじゃない」

 

 ナツメは歩を進め、男もそれに並んで歩き出した。

 

「同郷だったから、少しね」

 

 男は一瞬だけ歩調を乱したが、すぐに何事もなかったかのように「そうでしたか」と切れ長の片目を細めてみせた。

 男は左目を眼帯で覆っていた。色素の薄い長髪、見慣れた黒のスーツ。その左腕には漢数字で「二」と記された腕章をつけている。

 護衛者は十一の部隊で構成されており、各隊の隊長には特に腕利きの者たちが任命されている。ナツメの隣を歩く男――吉岡(よしおか)は二番隊の隊長である。腕章はその証だ。スカウト組の元暗殺者という素性は己と通ずるところがあり、それが奇妙な縁となって今では護衛者の中でも一番気安い相手だった。

 

「あなたと同郷、ということは『中』出身の方でしたか。なるほど通りで」

「あいつのこと知ってるのか」

「義伊國屋書店代表闘技者の氷室様。闘技者としてのキャリアはまだ浅いながらも、その実力はすでに強豪闘技者たちと並び称されるほどです」

 

 吉岡は滔々と話し、そうして眼帯で隠れていない右目をこちらに向けて「我々はトーナメントの運営を任されているのですから、出場者の情報は頭に入れておいて損はありません」と笑った。

 暗に「あなたはもう少し勉強すべきだ」と言われたようだったが、ナツメはそれをあえて聞き流した。闘技者の情報を知っていようがいまいが己の本務にさしたる影響はなく、吉岡自身もそれを理解した上で冗談めかしているだけだろう。

 

「しかし、そうですか。それは邪魔をしてしまいましたね」

「邪魔?」

 

 吉岡は「ええ」と頷くと、おかしくてしょうがないといった様子で肩を揺らした。

 

「あなたが絡まれているのを見て、他の護衛者たちは割って入るべきかどうか随分と悩んでいたんですよ。普段のあなたならああいう手合いは一蹴してしまいますが、今回はどうにも様子が違ったようでしたから。しかも、相手が新進気鋭のイケメン闘技者となると、皆さん気が気でなかったようで」

「それは……、杞憂っていうやつだ」

「そのようですね。ですが、私は皆の気持ちも分かります。なんといってもあなたは、我々護衛者の紅一点なのですから」

 

 それもおかしな話であるとナツメは常々思っていた。スカウトされ、護衛者というものがどんな存在であるか説明を受け、その時から抱き続けている疑問――女の自分をなぜ護衛者にしたのか。それを命じた張本人である御前に理由を尋ねたところでのらりくらりと躱されるだけで、納得のいく答えを得られた例しはない。

 他の護衛者たちも同じ心持ちであったに違いなく、その疑念から当初は周囲の者たちからの当たりが強かった。しかしながら、その頃から吉岡はそういった偏見もなく、自分を同士として受け入れてくれていた。似た境遇からの仲間意識というものもあったのかもしれないが、こうして一番の戦友ともいうべき存在になったのは必然だったのだろう。

 

「闘技者にもなれない私を、みんなよく受け入れてくれたと思うよ」

「実力でねじ伏せて黙らせた、の間違いでは?」

 

 吉岡の笑みを含んだ視線を受け、ナツメは肩を竦めた。

 

「実力至上主義はいいもんだよ。私の性に合ってる」

 



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02 御前

「只今よりおよそ二十七時間後、この船は『決戦の地』に到着する」

 

 高らかな声が広いホールに響いている。五階層にわたる吹き抜けのその最上階から、我らが御前――片原滅堂(かたはらめつどう)が発する声は、枯木のように老いた姿からは想像もできないほどの活力に満ちていた。

 

「決戦の地に到着後、拳願会(けんがんかい)会員の諸君にはトーナメント出場闘技者の登録を行ってもらう。選手登録を以て『拳願絶命トーナメント』への正式エントリーとするでの」

 

 この豪華客船と同じ名前を冠したそのトーナメントは、『拳願会』の会長の座を賭けた大規模な裏格闘仕合である。

 拳願会の歴史は古く、発足は江戸時代。幕府〝御用達〟の地位を求めた商人たちの、血で血を洗う争いを収めるために、時の将軍の命で結成された。互いの利害が対立した場合、拳願会を通して勝負の場を設ける。その勝負こそが『拳願仕合』であり、商人たちの代理人として仕合に臨む者たちを『闘技者』と呼んだ。勝敗の結果は絶対であり、それ以外の争いは一切禁ずる。そうやって商人たちは秩序を得たのである。と、護衛者として迎え入れられた時に話を聞かされた。

 拳願会は今なお日本経済界の裏で連綿と続き、現在は四百以上の日本企業が加盟しているらしい。企業同士の面子と利益を賭けた拳願仕合は、闘技者一人につき年間平均八仕合。基本は一対一で、武器の使用は禁止されたステゴロ勝負。そして、女の闘技者は存在しない。ナツメが護衛者として異端であるのはそれが理由だった。

 御前片原滅堂は、日本の経済界を牛耳る『大日本銀行』の総裁であり、拳願会の現会長である。護衛者は彼の身を守ることが使命であるが、その中からたった一人、選びに選び抜かれた者が大日本銀行の代表闘技者となる。ゆえに、護衛者は全員男であり、闘技者になれないナツメの存在は異質でしかないのである。

 

「それともう一点」

 

 今後の流れについて説明を続ける滅堂の声を意識の隅に置き、ナツメは彼の背後からホールの客人たちを見下ろしていた。

 船は拳願絶命トーナメントの開催地である無人島に向かっている。乗客のすべてが拳願会の会員やその秘書及びボディーガード、そして闘技者といった関係者で、およそ三千人が乗船しているが、各企業の要人たる人物のほとんどが今この場に集まっている。それらに不審な動きは見られないか、御前に害を為そうとする輩はいないか。それを見張るのが現在ナツメに与えられている任務だった。

 闘技者になれようがなれまいが、自分が異端だろうが色物だろうが、護衛者としてここに立てといわれればそうするし、それを奇異の目で見られようが気にはしない。

 

「船内における闘技者同士の私闘は堅く禁じる。禁を破った者には護衛者から制裁があるでの」

 

 滅堂の言葉に聞き入る者。話などそっちのけで食事や酒に夢中な者。そういった者たちの動向を観察する者。ホールには様々な人間がいるが、今の滅堂の発言で顔色を変えた者が何人かいた。

 ナツメはその育ちゆえ、頭のできは良くないという自覚がある。学校なんて当然行ったことはない。必要最低限の読み書きはできたが、それ以上のことを学ぶ機会は滅堂に仕えるようになるまで得ることはなかった。

 相手の表情や仕草から心情を探ることは苦もなくできたが、言葉の端々からそこに隠された意味や情報を拾い上げることは不得手だ。言葉による駆け引きや情報戦などはナツメの性に合わない。そういったことを得手とする聡い人間というのは苦手な部類に入るわけだが、御前片原滅堂その人こそがそうやって言葉巧みに相手を振り回す人物であるから、あの人と話すと精神的に疲れてしまう。ナツメが御前との会話で困窮すると、大抵は王森や鷹山が助け船を出してくれるわけだが。

 たった今滅堂が公言した「闘技者同士の私闘禁止」というルールも、裏を返せば「闘技者以外ならば問題なし」という抜け穴がある。ナツメはそれを事前に教えられなければ文面そのままにしか捉えられなかったが、顔色を変えた者たちは即座に気づいたのだろう。

 滅堂が発言を終えてホールに背を向けると、早速と言わんばかりに動き出した彼らを視界に捉えながら、ナツメは後ろ手に組んでいた腕を解いた。

 

「さて、戻ろうかの」

 

 滅堂が持っていた杖が床に当たってこつんと鳴る。ナツメはそれに応えるように扉を開くと、彼と、二人の護衛が続いてホールを出るのを待った。王森と鷹山である。鷹山も王森に引けを取らない大男で、屈強な肉体に加えて口腔マスクを着用した姿は一見異様であるが、彼もまた面倒見が良く、ナツメの教育係の一人でもあった。

 鷹山はナツメや王森とは違い、幼少の頃からの生え抜き組であるが、それゆえか、こう見えて礼儀作法に関しては王森よりずっと厳しい。礼儀のれの字も知らなかったナツメがこれだけの立ち居振る舞いができるようになったのは、鷹山の教育の賜物といってもいいだろう。

 無作法の極みであった当初は、それが何の責苦かと思うほどに耐え難く、良く逃げ出しては吉岡に宥められ、王森にはたしなめられ、滅堂には笑われるといった毎日だった。今では当時の自分をただただ恥じ入るばかりである。

 

「おお、そういえば」

 

 部屋へと戻る道すがら、ふと思い出したかのように滅堂が口を開いた。

 

「ナツメや。お主、早速声をかけられたらしいのう」

 

 護衛者たちが言っておったぞい。と、そう言う彼の声はひどく楽しげに弾んでいた。御前はいつもそうである。ナツメが誰かに――特に男に声をかけられる度に、なぜか満足げに笑うのだ。

 お前のことを見せびらかしたくてしょうがないんだろ。というのは、御前の子息である片原烈堂(れつどう)の談であるが、ナツメにはまったく理解できない心理だった。

 ただでさえ女の護衛者というだけで好奇の目に晒されているのに、これ以上悪目立ちして何か問題が起きたら面倒だ。しかしながら、御前はそうなることすら期待していそうなので、自分を裏方に下げてくれと頼むのは随分前に諦めた。

 

「はて、相手は誰じゃと言っておったかのう」

「……義伊國屋書店代表闘技者の氷室様です」

 

 渋々答えると、御前は「おお、最近噂のいけめん闘技者じゃな」とまた笑った。

 

「お主もいつものようにはあしらわなかったと聞いたが?」

 

 御前の言葉を受けて、鷹山の視線がこちらを向く。ナツメは思わず眉を下げた。

 

「彼は『中』の出身らしく、それで少し」

「ほほう、お主と同郷とな。顔見知りじゃったか?」

「いえ、自分は……。彼は私を遠目に見たことがあると言っていましたが」

 

 もう十年以上前のことだとも言っていた。それで良く覚えていたなと今更ながら思う。

 氷室が言う十年以上というのが実際どの頃かは分からないが、良い意味での〝有名〟ではなかっただろう。『中』にいた頃は形振りなど構っていられなかったし、盗みも殺しもやった。どれほどの恨みを買っていたかなんて分からないし〝バケモノ〟と罵られもした。気にも留めなかったが、今思えば自分も結局『中』のクズ共と何ら変わりない存在だったに違いない。

 

「余程印象的だったんじゃろう」

 

 滅堂は杖をこつこつと鳴らしながら歩を進める。こちらを振り返りはしないのでどんな表情で話しているのかは分からないが、その軽やかな杖の音が彼が上機嫌であることを如実に表していた。

 

「まっ、当然といえば当然じゃな。こんな美人はなかなかおらんからのう。一度見れば忘れはせんし、男が放っておくわけもなかろうて」

 

 同意することもできず、ナツメは「はあ」と曖昧に相槌を打ってからちらりと鷹山の方を見た。彼はすでに正面を向き直り、御前の護衛としてその背後について歩いている。が、その大きな背から御前とは正反対の不機嫌な空気を感じ取れた。

 鷹山はナツメが表に立つことをあまり好ましくは思っていないようだった。というより、彼に限らず護衛者のほとんどはナツメがそうやって誰かに絡まれることに難色を示していた。面倒事や厄介事に発展するリスクを考えれば、やはり裏方にいるべきだという結論に至るのは自然な流れだ。それでも、言っても無駄であると分かっているので誰も御前に進言はしないのである。

 

「ワシがもう二十年若かったらのう」

 

 声を立てて笑う御前に、ナツメは相槌さえ返せなかった。

 御前はすでに百歳近い年齢に達しており、二十年前でも七十を超えている。それでも、御前の子息である烈堂、そして息女の片原鞘香(さやか)嬢がどちらもまだ二十代前半という年齢を鑑みると、その冗談はひどく生々しく聞こえてしまう。

 困ったナツメは王森へと視線を向けた。それに気づいたらしい彼は一瞬だけこちらと目を合わせたが、すぐに何事もなかったかのように正面へと顔を戻してしまった。どうやら助力は得られないようである。この人は時々意地悪だ。

 

「お主ももうそろそろ婿の一人や二人おっても良い年じゃからの」

 

 二人は良くないだろう。とつっこみたかったが、大の女好きである御前に愛人がいることは公然の秘密であり、その愛人との間に子までもうけている始末だ。それが鞘香であるわけだが、彼女が肩身の狭い思いをしているということはなかった。

 良くも悪くも〝自由〟を体現したかのような人物である御前に、一般的な道徳心など説くだけ無駄だろう。かくいう自分も、ほんの数年前までそんなものなど持ち合わせていなかったわけであるが。

 

「このトーナメント開催中に良い相手を見つけてしまっても構わんぞい」

「……自分は、御前の護衛者ですから」

 

 ぽつりとこぼすように言えば、滅堂は不意にその足を止めた。そうしてナツメに顔を向け、まるでこちらの真意を探るかのようにじっと見据えてくる。

 

「ワシの護衛だから、なんじゃ?」

「……御前の護衛ですから、御前の御身をお守りすること以外は考えておりません」

 

 三年前、ナツメは生まれ育った『中』を出て、同時に生きる理由を失った。

 あの街以外に居場所はなく、あの街以外で生きる方法も知らず、失った理由以外の生き方も分からない。そうして途方に暮れていた自分に手を差し伸べてくれたのが御前だった。

 その恩を返すことが、今のナツメにとって何よりも優先すべきことである。御前の護衛としてあることが、今のナツメの生きる理由になっている。

 

「固いのう、お主は。らしいといえばらしいが、もっと気楽に生きてええんじゃぞ」

 

 自由奔放に生きる御前らしい言葉だが、ナツメにとっては難しいものだった。生きるには理由が必要だ。だから、御前が『護衛者』という生き方を与えてくれたことに心から感謝している。

 だが、御前はそうやって他者を寄る辺とした生き方をする人間は好きではないだろう。だからナツメは、それを隠すように「御前がもう少し落ち着いて下さったらそうします」と返した。

 

「目を離したらすぐ、どこかへ行ってしまわれるでしょう? 王森さんと鷹山さんがお傍についているのは分かりますが、それでも私は心配なのです」

「殊勝な顔でもっともらしいことを言うようになりおって。まっ、そういうことにしておくかの」

 

 本心であることに違いないのだが、御前には冗談半分に取られてしまったようだった。だがしかし、機嫌を損ねた様子はないので良しとしよう。

 

「では、自分は船内の巡回に行きますので」

 

 ナツメが姿勢を正して言うと、滅堂は「てきとーで良いぞ」とぷらぷらと手を振った。

 

「ワシは休むでの。お主も仕事なんぞ程々にして、折角の船旅を楽しむんじゃぞい」

 

 そうして王森と鷹山を引き連れて離れていく背を見送り、ナツメは踵を返して船内巡回へと足を進めた。

 



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03 同郷者

 血の匂いがした。誘われるように通路を進むと、ひと気のないラウンジに辿り着いた。

 

「巡回か?」

 

 入り口で警備に立っていた護衛者と目が合い、ナツメは「ああ」と頷いてからラウンジの中を覗き込んだ。

 船の壁面に沿って湾曲した大窓は、昼間ならば空と海のパノラマを見渡せるのだが、今は黒い幕で覆われたようにひっそりとした闇を映している。

 窓から視線を動かせば、男が二人――いや、三人。そのうちの一人、武道袴を着た黒髪の男が、床に仰向けに倒れている男を執拗に踏みつけていた。力を込め、何度も何度も。足が勢いよく下ろされる度、肉が潰れるような音が響き、血が床に飛び散った。

 もう一人の小太りな男は、その光景を呆然と眺めている。

 

「あれは?」

「問題ない」

 

 警備の護衛者は、ラウンジ内で行われている暴力行為を止める気はないらしい。つまり「闘技者同士の私闘」ではないということだ。

 それならここに用はない。だが、何とはなしにその光景を眺めていたナツメは、気づけばラウンジの中に足を踏み入れていた。

 

「それ以上やると死ぬが、いいのか」

 

 別にそれを咎める気があったわけではない。『中』で生まれ育ったナツメにとって、人が死ぬことはただの日常だった。殺す者と殺される者がいて、誰もが後者にならないようにあらゆる手を使って他者を蹴落とす。そうやって弱い者が消えていくのはしかたがないことだった。

 死は特別なものではないし、命は道端に転がる空き缶よりも軽いのだから。

 ナツメは今でもその価値観を抱えたままでいるが、『外』ではそれは常識的ではないらしい。人の命は尊ばれるべきもので、人を殺すと罪に問われるのだ。だから、単純に疑問に思ったにすぎなかった。殺してもいいのか、と。

 

「え、あ……あなたは、片原会長の」

 

 武道袴の男は、その糸のように細い目を呆然とさせてこちらを見た。

 御前の名を出されてから、ナツメは己の口調が素になっていたことに気づいた。相手がどこからどう見ても凡庸な人間でしかなかったからか、少し気が抜けてしまったようだった。

 

「伏野と申します」

 

 取り繕うように一礼する。下げた視界に倒れた男が映り、それが誰かに気づいて少しばかり驚いた。

 

「……氷室涼」

 

 思わず呟くと、糸目の男ははっとした様子でその場から飛び退いた。そのまま数歩後退り、よろめくようにしながら座り込む。腰を抜かしたといった方が正しいかもしれない。

 彼も随分な怪我を負っているようだったが、床に仰向けに倒れたまま起きる気配のない氷室は、右腕があらぬ方向へと折れ曲がり、端整なその顔は見る影もないほどに潰れていた。

 ナツメは再度糸目の男を見た。身長は自分と変わらないくらい。武道袴を着込んだ体は、どう見積もっても平均的な一般男性程度だろう。王森や鷹山など、体格の良い面々に囲まれているナツメからすると酷く頼りない印象を受けてしまう。

 対し、氷室も王森たちと比べれば線は細いが、無駄なくしっかりと鍛えられた逞しい体つきをしていた。吉岡曰く、強豪闘技者たちと並び立つほどの実力者だ。『中』で生き抜いた過去があるのだからその強さを疑うつもりもないが、それがこんな凡庸そうな男に負けるのかとナツメは不思議でならなかった。

 

「……すみません」

 

 見つめる目に耐えきれなくなったのか、糸目は床に視線を落としながら呟いた。更なる疑問が頭に浮かび、ナツメは首を傾げた。

 

「何がでしょうか」

「え、と……氷室さんのこと……。パーティー会場で話されていたのをお見かけしたので。あなたのお知り合いを、その……」

 

 ああ、そういう謝罪か。得心がいって、ナツメは氷室を一瞥した。

 糸目は少し勘違いをしているのだろう。氷室は知り合いと呼べるほど知った相手ではない。同郷だからといって仲間意識や特別の感慨があるわけでもない。ただ、『中』の人間にしては変わっていると思うし、それはどちらかといえば好ましく思える異質さではあるが、変わり果てた彼の姿を見て何かしらの感情を抱いたかといえばそうでもない。

 現時点では、ナツメにとって氷室はその程度の存在だった。謝罪を受けるような関係ではない。

 仮に親密な関係であったとしても、糸目は己がしたことに負い目を感じる必要はないだろう。この男がどんな方法で氷室に勝ったのかは知らないが、どんな手を使おうが勝てばいいのだ。勝負は結果がすべてなのだから。きっと氷室もそう言うだろう。『中』はそういう場所だった。そして、

 

「闘技者であるなら怪我を負うのは当然のことですし、最悪死んだとしてもそれは覚悟の上のはず。私は、あなたが彼を殺してしまうのを結果としては止める形になりましたが、そのまま続けていたとしても別に咎めはしません。ルール違反ではありませんので」

 

 拳願仕合に限らず、裏格闘技の仕合で出場選手が死亡することは良くある、とは言わないが珍しいことではない。特に、拳願仕合には基本的に反則というものが存在しない。武器の使用は禁止されているが、審判による事前の身体検査を潜り抜けてしまえば、仕合中に武器を用いようと反則にはならないし、相手を殺してしまっても罰則すらない。すべて『リング禍』で済まされる話だ。

 氷室と糸目の勝負は拳願仕合として扱われることはない私闘だが、警備の護衛者曰く「闘技者同士の私闘」ではない。ナツメたちに課せられた「ルール違反者の制裁」という任務には該当しないのだから、彼を咎める理由もなかった。声をかけたのは本当に気紛れだったのだ。

 

「ころ……いえ、私は、そんなつもりは」

 

 糸目の顔は強張っていた。

 ――殺すつもりはなかった、か。まあ、そんなとこだろう。

 暴力は人を変える。普段は理性で抑えられていたものの(たが)が外れて、勢い余って殺してしまうということは、『外』の人間にも起こり得ることなのだろう。『中』の人間は初めから箍が吹き飛んでいるだけだ。

 ひとつ納得し、ナツメはこちらの様子をうかがっている警備の護衛者に目配せした。

 

「担架を用意しますので、どうぞ医務室で治療を」

「私は大丈夫ですから、氷室さんをどうかお願いします」

「義伊國屋書店の代表闘技者になられるのでは?」

 

 両手を振って遠慮を示す糸目から視線を外し、すぐ傍で呆然としたまま固まっている酒焼けた顔の男を見た。

 

「そうであれば治療はすべきかと思いますが、いかがなさいますか大屋様」

 

 ナツメは拳願会の会員や闘技者に興味がない。そのほとんどが御前にとって取るに足らない存在であるからだ。だが、拳願仕合の成績によって決められる『拳願会企業序列』上位の企業代表者の顔と名前くらいは把握している。

 義伊國屋書店は序列十九位。新人闘技者である氷室のことは知らなかったが、会長の大屋健は見れば分かる。

 

「お、おお、そりゃ治療するよ! 勿論二人ともだ。よろしく頼むよ!」

 

 企業主の中には敗北を喫した闘技者をゴミ同然に扱う奴もいる。思いつく限りの罵詈雑言を浴びせて、重傷を負った闘技者をその場で切り捨てるのだ。負けたのだからそれもしかたがないだろう。それでも、

 

「かしこまりました、すぐに手配致します」

 

 大屋のようないい人間の方が気分はいい。ナツメは恭しく頭を下げた。

 

 

 

 

 時刻は午前三時を回ろうとしている。今後の仔細について発表があってからおよそ一時間。パーティー会場にいた客人たちもぼつぼつと部屋へ戻っているようで、周囲から感じる人の気配はまばらだった。

 それでもナツメは辺りを警戒し、神経を張り巡らせながら通路を進んだ。血生臭く淀んだ空気が全身に絡みついているような気がして、それを振り払うように少し早足になる。

 通路の角を曲がると、その先にある部屋の前で後ろ手を組んだ鷹山がどっしりと佇んでいるのが見えた。相手もこちらに気づいたようで、体の向きは変えずに顔だけ動かして視線を寄越した。

 

「お疲れ様です。御前はもうお休みになられましたか」

 

 鷹山は顎を引くように「ああ」と頷いた。

 

「船内の巡回はどうした」

「御前の警護に戻ってくれと言われて」

 

 ナツメは鷹山の隣に立ち、背の高い彼を見上げながら少し声を潜めた。

 

淀江(よどえ)日吉津(ひえづ)の件は聞きましたか?」

 

 モニター監視室で船内の監視を行っていた護衛者二名が何者かに襲われた。そんな連絡を受けたのは、氷室たちを医務室へと送り出した直後のことだった。

 ナツメが監視室に駆けつけた時には二人はすでに担架に乗せられた状態だったが、一目見ただけでもかなりの重症であることは分かった。辛うじて生きている、そんなレベルだった。

 護衛者は一人ひとりが並の闘技者には引けを取らない実力の持ち主だ。それがこんな手酷いやられ方をしたとあっては警戒心が高まるのも当然で、下手人探しより御前の警護を強化するのが先決。そう判断され、ナツメがその要員に回されたのだった。そもそもナツメは御前直属の護衛なのだから、まったく当然の人選である。

 

「ああ、その報告はすでに受けている」

「そうですか。王森さんは、休憩ですか?」

「そうだ。だがすぐに戻ってくるだろうぜ」

「別に急ぐ必要はないと思いますが」

 

 御前が休んでいる部屋の前に立ち、鷹山に倣って後ろ手を組みながらナツメは呟いた。

 

「どういうことだ」

「あれはただの私怨です」

 

 答えながら、ナツメは正面の壁を見るともなく見つめ、監視室の惨状を脳内に蘇らせた。

 すでに現場へと駆けつけていた護衛者たちの動揺の先にあったのは、室内を赤く染め上げる夥しい鮮血と、凄惨を極めた淀江と日吉津の姿だった。足や腕があらぬ方向へと捩じ曲がり、顔面は原型をとどめないほどに潰されていた。

 だが、そんな二人の惨状に比べると、監視室内は不自然なほど物が壊されていなかった。椅子が倒れていたり、一部のモニターが割れていたりはしたが、その程度である。襲撃者と争った痕跡というには物足りない。恐らく二人は抵抗らしい抵抗もできず、一方的に嬲られたのだろう。

 御前の命を狙う上で、カメラが邪魔だから監視室を襲撃した。そうであれば、機材が壊されていなかったのはおかしな話だ。警備の二人を生かしておく理由もない。襲撃者は、あの二人を簡単に殺せたはずなのだから。

 

「犯人は淀江たちをあえて殺さなかったようです。殺さず、徹底的に痛めつけた。拷問して情報を吐かせるとかそういう目的でもなく、とにかく苦痛を味わわせる。そういう()()()でした」

 

 ずるずると絡みつくようないやな空気が、監視室に立ち込めていた。ナツメはあれを知っている。渦巻くような憎悪の念である。『中』にいた頃には良く見かけた。他者に向けられたものも、己に向けられたものも。

 ナツメはそれが酷く醜悪で大嫌いだった。

 

「あいつらへの因縁だから、御前に害は及ばないってことか?」

「ええ、まあ」

 

 鷹山の言葉に頷きながらも、ナツメは正面の壁を見つめたままだった。見つめたまま、意識はもっと遠く、深いところにあった。

 淀江と日吉津の壊され方を見てすぐに気がついた。まるで濡れた布を絞り上げたかのような異様な負傷部。触れた個所に衝撃を()()()()打撃の技を、ナツメは知っていた。

 実際にこの目で見たわけではない。そういう流派があると人から聞いただけだった。そして、その使い手によって知人を殺された過去がある。しかしそれもまた人づてに知らされたことで、その死に際がどんなものだったかは分からない。

 今回の件と、あの人を殺した犯人が同一人物である可能性は? ――勿論ある。だが、ナツメはそれをあえて考えないようにした。

 その上で、状況を判断する。淀江たちのやられ具合からして、下手人は箍が外れた人間だ。放置すれば何をしでかすか分からない。御前に害が及ぶ可能性は低いにしても、不測の事態を招きかねないものは排除しておくべきだろう。巡回に戻ったら――

 

「おい」

 

 声をかけられ、ナツメは正面の壁から視線を引き剥がして鷹山を見た。彼は少し怖い顔をしていた。

 

「なんでしょうか」

 

 明らかに機嫌が良くない鷹山の目を見る。怒っているというよりはどこか不満げな様子だった。

 

「余計なことは考えるなよ」

「余計なこと、ですか?」心当たりがなかった。「自分は特に、何も」

 

 鷹山の眉間の皺が一本増えた。

 

「お前の自覚のなさも大概だな」

 

 語気の強さにナツメは眉を下げた。

『中』育ちの自分が『外』に馴染めるように、何かと世話を焼いてくれた一人が鷹山だ。他の誰から何を言われようと気にも留めないが、鷹山や王森が相手だと途端に不安になってしまう。

 

「……すみません」

「それは何に対する謝罪だ」

「……自分の自覚が至らぬことに」

「何を自覚できてねえのか分かってもいねえだろうが」

 

 それはそうなのだが、他にどう返せばいいのか分からないし、自分の何が悪かったのかも分からない。

 ナツメが困りきって眉を寄せると、鷹山がマスクの奥で盛大なため息を吐いた。

 

「何を考えていたか言ってみろ」

「何、とは」

「犯人のことだ」

「……始末すべきだと」

 

 鷹山が黙った。その沈黙に、この考えが間違いなのだということを悟ったが、ナツメにはこれのどこが間違っているのかやはり理解できなかった。

 

「御前を害する可能性は低いにしても、野放しにはしない方がいいです。あれは『中』出身ですよ。分かるんです、自分と()()だから」

 

 纏う空気、とでもいえばいいのか。同郷の人間はなんとなく分かってしまうのだ。どんなに擬態しようとも、あの場所でこびりついた饐えたような空気と臭いを完全に消すことはできない。

 ――氷室はそんないやな感じはしなかったが。あれはきっと例外だ。

 

「同じじゃねえ」

 

 鷹山が目を吊り上げた。その声は鋭く、今度は本当に怒っているようだった。

 

「いつまで『中』にいた頃のことを引きずってやがる。いいか、今のお前の役目は御前をお守りすることで、人を殺すことじゃねえんだ。一人で勝手に判断して先走るな。組織立って行動するってことをいい加減覚えろ。お前は『護衛者』だろうが」

 

 ナツメはぱちりと瞬いた。

 ああ、そうだ、私は「護衛者」だ。いつも自分にそう言い聞かせているくせに、未だその自覚が足りていなかった。

 

「……すみません、気をつけます」

 

 謝罪を口にすると、鷹山はふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

 



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04 十鬼蛇王馬

「淀江と日吉津は重症ではあるものの、命に別状はないそうです」

 

 吉岡が告げると、ナツメは一言「そうか」と言ってまた前を向いて歩き出した。

 監視室襲撃から一夜明け、護衛者たちの間には幾ばくかの緊張感が漂っていたが、自分の前を歩く彼女が特別気を張っている様子はない。

 淀江たちの姿を見た彼女の様子が少しおかしかった。と現場にいた護衛者から聞いたが、こうして見る限りでは普段と変わりないように見える。すらりと締まった肢体を護衛者のトレードマークである黒いスーツで包み、背筋を伸ばして歩く姿はいつも通り。そして、その姿が周囲の視線を集めてしまっているのもいつも通りだ。

 片原滅堂の私兵の集団『護衛者』の紅一点。それだけでも注目を集めるには充分だが、彼女の優れた容姿がそれに拍車をかけている。そうやって悪目立ちすることを彼女自身は嫌っているが、御前の命だからと諦めているらしい。

 

「ナツメ、ちゃんと休憩は取りましたか?」

 

 吉岡は尋ねた。襲撃があってからすぐ、彼女は御前の警護についていたはずだ。その前は船内の巡回。更にその前はホールの警備。彼女の任務は御前をお守りすることは大前提として、他にも「ルール違反者の制裁」がある。常に乗員乗客の動向を注視している彼女は、ちゃんと休息を取っているのだろうか。

「心配ない」とナツメは言った。その声や後ろ姿から疲れは感じ取れないので、本人の言う通り心配ないのだと思う。だがそれは、休憩を取っているかどうかの答えにはなっていなかった。

 

「睡眠は取りましたか?」

「大丈夫」

「答えになっていませんよ」

「吉岡は心配性だな」

 

 彼女は足を止めて肩を竦めると、ちらりとこちらを振り向いて、

 

「ちゃんと寝たし、朝食も取ったよ。船のシェフには悪いけど、お前の飯の方がうまいな」

 

 なんてことを事も無げに口にする。

 

「そんなことはないでしょう。客人たちの肥えた舌を唸らせる一流のシェフですよ」

「私はお前の料理の方が好きだ」

 

 その言葉に他意などないことは分かっている。そしてそれが世辞なんかではない彼女の本心からの言葉であることも。

 ナツメは良くも悪くも正直だ。嘘や偽りを弄せないわけではなく、そうやって他者におもねることをしないだけである。

 自分がどう見られているか、どう思われているか。そういった周囲の目や評価を彼女は気にしない。向けられる視線にげんなりとした様子をみせることはあるが、だからといって真っ直ぐに伸びた背筋が曲がることはない。そんなものでは揺るがぬ確固たる軸がある。といえば聞こえはいいが、彼女は単純に他者への関心が薄いのだ。

 頼るものもない無秩序な世界で生きてきた彼女であるから、己以外の存在は敵か、或いは取るに足らない路傍の石か。そんなもののために自分を偽る必要などなかっただろうし、それらからどう思われようがどうでも良かったに違いない。

 ナツメが『中』の出身であること。そういった苛酷で孤独な世界で生きてきたこと。そのバックグラウンドを知らない者からしてみれば、彼女はひどく我が強くて身勝手な人間に見えるかもしれない。彼女の誰にも媚びず、真っ直ぐに貫くような言葉や態度は反感を買いやすい。実際、彼女が護衛者として皆に受け入れられるまでにも紆余曲折あった。そしてナツメも、大勢の他者と〝仲間〟になることに随分と苦労していたようだった。それまでとはまるで異なる環境に身を置くことになったのだから当然である。

 そうして三年の歳月が流れた現在。当初と比べると、彼女は角が取れて物腰も柔らかくなった。それでも相変わらず言動は真っ直ぐで、こうやって簡単に人の心情を揺り動かすのだ。

 

「ありがとうございます」

 

 吉岡は笑って返した。

 料理が好き。それ以上も以下もない言葉だと分かっているが、嬉しいことに変わりはない。事実、彼女が美味しそうに自分の手料理を食べている姿を見ていると満ち足りた気持ちにすらなる。彼女のこれまでの食生活がどんなものであったか。それを考えると、美味しいものを何でも作ってあげたくなるのだ。

 そのおかげで、この三年間で吉岡の料理の腕はめきめきと上達した。店でも出すつもりかと、他の護衛者たちから揶揄されるほどだった。無論、吉岡にそんなつもりはない。護衛者をやめる気はないし、料理はあくまで趣味であり、ナツメの喜ぶ顔が見られるのはその副産物に過ぎない。最近はそっちが目的になってしまっていることに吉岡自身も気づいてはいるが。

 まるで餌付けでもしているみたいだと指摘されたこともある。それを思い出し、吉岡は苦笑した。ナツメには申し訳ないが、強ち間違ってはいないのかもしれない。

 

「どうかしたか?」

 

 ナツメが首を傾けてこちらを見た。

 

「いえ、何でもありません」

 

 何を考えていたかなんて言えるはずもなく、吉岡は言葉を濁した。

 ナツメの大きな目がじっと刺さる。本人にそんなつもりはないのだろうが、猫のようにきゅっと目尻が吊り上がった彼女の目は、真っ直ぐに見つめられると気圧されそうになる。

 しかし、彼女はすぐに視線を正面へと戻した。何でもないなんて言い分を信じたわけではないだろうが、ナツメはそれを追求したりはしない。そういうことには執着しないタイプの人間だ。

 

「吉岡は今から巡回か?」

 

 言いたくないなら言わなくていいとばかりにナツメが話題を変えた。

 

「ええ」

 

 再び歩き出した彼女に倣って吉岡も歩を進める。

 

「あなたは今からどちらに?」

「特に指示は受けてない。まだ昼間だし、これといった動きはなさそうだから」

 

 ナツメが顎を持ち上げるようにして空を見たので、吉岡もつられて視線を上に向けた。目に痛いほど真っ青な夏の空だった。

 拳願号の屋上には船の上とは思えないような公園が広がっている。天然の芝生が植えられ、中央に屋外プール、外周にはプロムナードが設置され、カフェテリアで軽食やドリンクが無料で提供されている。

 点在するベンチで乗客たちが思い思いに寛ぐ中、黒いスーツをネクタイまできちっと締めた護衛者の姿は随分と場違いに見える。天頂近くの太陽はこの黒服を焼こうとしているかのようで、その眩しさと暑さに吉岡は隻眼を細めた。それに対し、ナツメは涼しい顔を崩さない。

 

「何かあるなら夜だろうな」

「では、今のうちにもう少し休まれてはいかがですか」

「本当に心配性だな」

 

 ナツメは眉を下げて笑った。結われた長い黒髪が揺れている。彼女の髪は豊かで艶があり、傷みとはまるで無縁のように美しい。手櫛で無造作に束ねただけのような結び方が、逆にこなれて見えるくらいさまになっている。

 そうやって、特別何かをしているわけでもなく、ただそこにいるだけで周囲の視線を集めてしまう。そしてそんなものなど歯牙にもかけず、ナツメはこちらを向いて笑っている。

 少しばかりの優越感くらい許されるだろう。

 

「そもそも私の出番があるかどうかも――」

 

 ナツメの言葉はそこで途切れた。

 吉岡があっと思って手を伸ばした時にはすでに遅く、彼女の背後から歩いてきた男がその背中にぶつかった。ナツメより少し背の低い、くたびれた印象の中年の男だった。どうやらよそ見をして歩いていたようだ。ぶつかった拍子に男が持っていたドリンクが落ち、ナツメの背中から足元までを濡らしていった。

 

「――すっ、すすすすみません!」

 

 男は眼鏡の奥の目を白黒とさせ、慌てて飛び退いて腰を直角に折り曲げた。背筋は伸びたままで、腕は体に沿うようにぴたりとつけられている。頭を下げ慣れている様子が見て取れた。

 

「ナツメ、大丈夫ですか」

「ああ、大丈夫」

 

 流石に驚いたようだが、体を捻ってドリンクがかかった腰や足に視線を落としている彼女に他に変わった様子はない。熱い飲み物でなかったのは幸いだった。

 吉岡は頭を下げたままの男に目を向けた。彼は確か、『山下商事』の山下一夫(やましたかずお)社長だ。起業から極々短期間で拳願会入りを果たし、このトーナメントへの参加権まで獲得した敏腕経営者――だと評されているが、吉岡の目にはとてもそんなふうには見えなかった。無論、そんな心情はおくびにも出さなかった。

 

「大変失礼しました! あの、お怪我はありませんか?」

 

 恐る恐るといった様子でこちらをうかがう山下を、ナツメがあの猫のような目でじっと見つめ返した。その視線を受け、あまり血色が良いとはいえない山下の顔が更に青くなる。彼の目には、ナツメが怒って睨んでいるように見えているのだろう。

 

「山下商事の社長、山下一夫様ですよ」吉岡は彼女にそっと耳打ちした。「トーナメント参加企業です」

 

 ナツメはぱちりと瞬いた。それだけですぐに頭が切り替わったらしい。

 

「顔をお上げください、山下様。自分は大丈夫ですので。山下様こそ、どこかお怪我はされませんでしたか」

 

 ナツメの口から礼儀正しい言葉が流暢に流れ出す。彼女が難なくそういう態度を取れるようになったことに、吉岡は感慨深い思いだった。

 三年前、初めて出会った頃の彼女は、警戒心まみれの野生動物のようだったのだから。

 

「いえ、私は全然! 本当に申し訳ありませんでした、前を見ていなくて……。あぁ、スーツがこんなに……。クリーニング代お支払いします!」

 

 山下はポケットから財布を取り出した。何年使い込んでいるのか、年季を感じさせる黒い革の財布だった。

 

「お気になさらず」

「いえ、悪いのは私なんですから」

「大した汚れではありません」

「シミになったら大変じゃないですか」

「大丈夫ですので」

 

 押し問答が続く。徐々にナツメの顔が険しくなってきた。なかなか引き下がらない相手にどうすればいいのか困惑しているようだった。段々と素気ない語気に変わっていくナツメに、吉岡はそろそろ助け船を出すべきかと考えた。

 しかし、吉岡が口を開く前に横から女の声が滑り込んできた。

 

「お言葉に甘えちゃえばいいじゃないッスか」

 

 肩の上で髪を切り揃えた小柄な女が、手にしたドリンクを飲みながら笑っている。

 

「相手が大丈夫だって言ってるんですから」

「それは、そうですけど」

「女性にあんまりしつこくするのも良くないッスよ、社長。ほら、彼女も困ってるじゃないッスか」

 

 女がナツメの方を見て言った。ナツメは顰めていた眉をほどいて、今度は背の低い女をその目に映している。

 その様子を吉岡は内心はらはらしながら見ていたが、ナツメは何を言うでもなく視線を逸らし、再び山下の方に顔を向けた。

 

「あの、本当に……」

 

 おずおずと聞く山下に、ナツメは「そのお気持ちだけで」ときっぱり答えた。山下は申し訳なさそうな、それでいてほっとしたような顔でもう一度頭を下げた。

 

「本当に、大変失礼しました」

 

 どこまでも腰の低い男である。拳願会に名を連ねる企業の社長とは思えないほど覇気がない。と、こちらを油断させるための擬態であるとも考えられなくはない。少なくとも、僅かな期間でこのトーナメントに参加するまで登り詰めた手腕があるのだから。

 

「顔をお上げください」

 

 ナツメは繰り返し、それから少し言葉を探すように口を閉ざして、

 

「私のことなどお気になさらず、折角の船旅をどうか存分に楽しんでください」

 

 そんな気の利いたことを言えるようになったのか。吉岡は驚き、そして誇らしくさえ思った。我が子の成長を目の当たりにした親は、きっとこんな心持ちになるのだろう。

 二十代後半の女性に対して抱くにはあまりに失礼な感情かもしれないが、吉岡にとってナツメはそういう存在であるのだ。それは異性への愛情というよりは、友愛や親愛の類いだろう。友人に対する、或いは兄妹の間で抱く情愛のようなものだ。「吉岡は心配性だ」と彼女は言うが、全くその通りである。吉岡は、ナツメのこととなるとつい過保護になってしまうのだった。しかし、それに関して言えば吉岡に限ったことではない。護衛者の大半は、いつだって彼女のことを気にかけている。

 ナツメは大切な存在だ。その〝大切〟の形は、友や仲間へ向けるものであったり、家族を思うようであったり、恋愛感情や憧憬の念であったりと様々だろう。だが、彼女のことが大事だ、心配だという気持ちに違いはない。だからこそ、監視室襲撃事件の現場にいた護衛者は彼女の変調に気づいたし、それとなく様子を見ておくよう吉岡に言い入れたのだ。

 

「なんだ、揉め事か?」

 

 だから、吉岡もすぐに気づいた。

 一人の男がゆったりとした足取りで近付いてきて、山下に声をかける。その姿を目にした瞬間、ナツメの呼吸が確かに止まった。喉を詰め、大きな目を更に大きく見開いて男を凝視する。驚愕の色がありありと浮かんだその顔は、今まで吉岡が見たこともないナツメの顔だった。

 その視線に気づいたのか、男がナツメの方を向く。男は遠いものを見るように一瞬だけ目を細め、それからすぐにナツメと同じようにその目を見開いた。だが、それも束の間だった。浮かんだ驚愕の表情はすぐさま歪み、噛みつくような形相に変わった。

 

「テメー!」

 

 男が発した声は獣の唸り声のようだった。半袖のシャツから伸びた腕は逞しく、男は無駄なく鍛え上げられたそれでナツメに掴みかかった。

 普段の彼女であればそんな腕など易々と避けるか、逆手に取って組み伏せてしまうかなのだが、今はその体を強張らせ、目を見開いたまま固まっている。そうしてあっさりと、その胸倉を掴むことを許してしまった。

 ネクタイごとシャツを掴み上げられ、ナツメは苦しそうに眉を寄せた。瞬間、男に対する怒りが頭の中で弾けた。吉岡は拳を握り、静かに一歩踏み出した。

 

「吉岡」

 

 ひどく平坦な声が耳朶を打ち、吉岡はぴたりと動きを止めた。ナツメに目を向けると、先程見せた苦しげな表情はすでになく、声と同じ落ち着き払った顔で真っ直ぐに男を見つめていた。

 

「大丈夫だ、手を出さないでくれ」

 

 ナツメは吉岡の方を見ずに言う。その大きな黒い瞳には、今は己の胸倉を掴む男しか映っていないようだった。そして男も、彼女の視線に負けじと目を吊り上げて睨み返している。

 男の背後で顔面蒼白になりながら慌てている山下のことも、その隣で一瞬鋭い目をしてみせた女のことも、二人には見えていないようだった。

 その間に入り込む隙間などないことに気づき、吉岡は握った拳を開いた。

 

「――王馬(おうま)

 

 ナツメが呼ぶ。男の肩が揺れ、驚いたように顔を強張らせたのも一瞬、

 

「手を離せ。でないと私は、お前を〝排除〟しなきゃいけなくなる」

 

 そんな彼女の言葉に、一転して激しい怒りの表情を浮かべた。

 

「排除? テメーが俺を? やれるもんならやってみろよ。俺がとっくにテメーより強ぇってことを教えてやる」

 

 胸倉を掴んだ腕をぐっと引き寄せ、男はナツメの眼前で凄んでみせた。それでもナツメの表情は変わらない。何も感じていないかのような、まるですべて諦めているかのような、そんな無表情だった。

 昔の彼女は、良くこういう顔をしていた。それを思い出し、胸がざわりと波立った。

 

「この十年間、俺がどれだけ――」

 

 吉岡はたまらずナツメの腕を掴んだ。それとほぼ同時に、男の体が何者かの手によってナツメから引き剥がされた。

 

「何してんだ、十鬼蛇(ときた)!」

 

 その何者かは男を羽交い絞めにしながら叫んだ。男よりひと回りほど大きな体格をしている。あの太い腕で羽交い絞めにされてはそう簡単には抜け出せないだろう。吉岡は二人から視線を外してナツメの方を見た。掴んだ腕を引き、男から更に遠ざける。

 

「ナツメ、いけません。あなたは護衛者でしょう」

 

 顔を覗き込みながら言えば、彼女は目を見開いて黒い瞳を揺らした。そうしてすぐに、苦味を噛み締めるような顔をして「ごめん」と小さく呟いた。

 

「……行きましょう。着替えが必要ですね」

 

 促せば、彼女は一度大きく息を吐いてから「あぁ」と頷いて歩き出した。

 

「待ちやがれ!」背後で男が叫んでいる。「テメーまた逃げる気か⁉」

 

 ナツメは振り返らなかった。集まった野次馬が彼女に無遠慮な視線を注いでいる。それでも、彼女の背筋はやはり伸びたままだった。

 その目が少しだけ下を向いたことに気づいたのは、おそらく吉岡だけだろう。

 

 

 

 

「十鬼蛇様とはお知り合いだったのですね」

 

 船内の通路を進みながら吉岡は言った。少し前を歩くナツメが今、どんな顔をしているのかは分からない。

 

「あいつのこと、知ってるのか」

 

 昨晩も同じようなやり取りをしたな、と吉岡は思った。彼女の声の調子はあの時よりも随分と重く沈んでいる。

 

「十鬼蛇王馬様、山下商事の代表闘技者です」

「……ああ、さっきの」

 

 ナツメは、己にぶつかって慌てふためていた山下のことを思い浮かべたのだろう。

 

「何者なんだ」

「私もあまり詳しくは。ですが、かなりの切れ者であるとの噂が……。あと、『乃木グループ』の傘下企業だと聞いています」

「乃木グループね」

 

 乃木グループは拳願会でも最古参の企業だ。企業序列は六位。優秀な闘技者を複数擁しており、あの男――十鬼蛇王馬もその一人だろう。会長の乃木英樹(のぎひでき)は、この拳願絶命トーナメントの開催を主導した人間でもあり、開催の決め手となったのは十鬼蛇王馬の仕合だった。

『株式会社ガンダイ』の代表闘技者である関林(せきばやし)ジュンとのその一戦は、護衛者たちの間でも話題になった。関林は闘技者の中でも五指に入るほどの実力者である。そんな男に無名の十鬼蛇が勝利し、トーナメントの開催が決定したのだ。話題にならないわけがない。

 しかしながら、ナツメはそういったものにまるで興味を示さない。だから「十鬼蛇王馬という闘技者」のことなど知らなかったはずだ。彼女はあの男のことをそれより前から――恐らくは護衛者になる以前、『中』にいた頃から知っているのだろう。

 

「ただの冴えない中年、ってわけじゃないのか」

 

 山下に対して抱く印象は同じのようだ。

 

「ぶつかってきたのも実はわざとだったりして」

 

 ナツメは吐息を漏らすように笑った。そんな筈はないと自分でも分かっている、自嘲の混じった笑い方だった。

 

「偶然でしょう」

「偶然なら出来すぎだ」

「あなたと十鬼蛇様を引き合わせるために一役買ったと?」

「もしそうならとんだタヌキだな」

 

 まったくその通りだ。あれが演技だったとしたら、彼は役者として生きていくべきである。

 

「吉岡」

 

 ナツメがふと足を止めて振り向いた。

 

()()()警戒してただろう? 大丈夫だって伝えておいてくれ。あいつは何も悪くない、原因は私だ。だから、あれはしかたないんだ」

 

 その顔には力のない笑みが浮かんでいた。

 しかたがない。その言葉から感じ取れるのは、甘んじて受け入れるというよりももっとネガティブな〝諦め〟だ。原因は自分にあると言いながら、それを取り除くことを諦め、放棄しているように吉岡には感じられた。

 

「お二人の間で何があったかは知りませんが、話し合う余地はないのですか?」

「……分からないな」

 

 ナツメは笑みを消し、踵を返して再び歩き出した。結い上げた髪が、垂れ下がった尻尾のように力なく揺れている。

 

「そういうこと、したことないから」

 

 そうでしょうね。吉岡は心の中で頷いた。その不器用さが、愛おしくも心配であるのだ。

 



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05 呉雷庵

 午後十時過ぎ。トーナメント開催地である無人島まで、あとおよそ七時間。拳願号は船上で過ごす最後の夜を迎えている。明日の今頃には、各企業の代表闘技者が出揃い、トーナメントの組み合わせも決定しているはずである。

 ゆえに、闘技者の座を争って何かが起きるとしたら今夜だ。ルール違反や、その他不測の事態が起きた場合には、監視室から連絡がくる手筈になっている。それまでナツメは監視カメラではカバーしきれない死角を見て回ることにした。

 すれ違う人々の表情や視線、僅かな仕草や息遣いまで観察し、周囲の気配を探りながら船内を歩く。

 今朝のことがあったせいか、いつも以上に衆目を集めている自覚があった。意識せずとも分かるほど、向けられる視線は無遠慮だ。このクルーズ船が世界最大級の広さを誇るとはいえ、所詮は海上の閉鎖空間。噂が広まるのは瞬く間だっただろう。

 迂闊と言うより他ない。まさかこんなところであいつと再会するなんて、夢にも思っていなかった。その動揺が繕う間もなく顔に、態度に出てしまった。胸倉を掴む手を避けられなかったのは、向けられた感情が「怒り」だけだったから。爪の先ほどでも「殺意」が混ざっていれば、きっと違っていた。

 そうならなくて良かった、とナツメは思った。そう思える程度には、自分はあいつのことが大切であるらしい。だがもしあいつを〝排除〟することになっていたとしても、自分はそれを遂行していただろう。

「お前は護衛者だろう」

「あなたは護衛者でしょう」

 鷹山と吉岡はそう言った。二人に対する申し訳なさと己の不甲斐なさに恥じ入って、ナツメは拳を握り締めた。

 吉岡が止めてくれて本当に良かったと思う。もし戦うことになっていたら、自分は「護衛者」として対処に当たれていたかどうか自信がない。『中』出身者同士の戦闘となれば、あの頃の荒んだ記憶に引きずられて、どうにか嵌め込んだ箍が再び外れてしまっていてもおかしくはなかった。

 だからナツメは、王馬の怒号が背中にぶつかっても振り返ることができなかった。

 また逃げるのか、と。そう思われてもしかたがない。自分はいつも、王馬に背を向けてばかりいたのだから。

 

 ナツメが王馬と出会ったのは十四年前、まだ『中』にいた頃の話である。当時ナツメは十四になったばかりだった。『中』の人間では珍しく、ナツメは自分の正しい年齢を把握していた。誕生日は分からなかったが、生まれは夏である。

 それは日差しも幾分か和らいだ夏の終わりで、ナツメは食料片手に寝床にしている廃屋へと向かっていた。そこは『一龍(いちりゅう)』『七王馬(しちおうば)』『十鬼蛇(ときた)』の三地区の境に当たる場所で、『中』の人間でも余程のことがない限りは近づかない危険地帯だった。だからこそあえて拠点にしていたのだが、その日は自分以外の誰かがそこにいた。

 そうと分かった瞬間、ナツメは躊躇いもなくナイフを抜いた。気配を殺し、一切の音も立てずに近づき、強襲する。

 奇襲や闇討ち、騙し討ちが卑怯だとは言うまい。女の身で――ましてや子供であるナツメが、この世界で生き延びるためには必要な(すべ)だった。

 相手が気づいて振り向いた時にはもう遅い。ナツメは相手の足を払い、喉を掴んでその体を固い床に叩きつけた。そのまま馬乗りになってナイフを振りかざす。しかし、相手が自分より小さな子供であることに気づいて動きを止めた。

 別に殺すことに躊躇いが生じたわけではなかった。自分自身のことは棚に上げ、こんな危険地帯に子供がいることに疑問を抱いたのだった。

 

「ここで何してる」

 

 ナツメは問うた。黒いくせ毛の少年は一瞬呆けた顔をして、しかしすぐに歯を剥いて顔を紅潮させた。

 

「どけよテメー!」

 

 首を抑え込んでいるナツメの腕に爪を立て、もう片方の手を振り回し、少年は吠える。ナツメは少年のまだあまり起伏のない喉仏の、少し上を親指で押し込んだ。舌を押し上げ、強制的に気道を塞ぐ。空気が漏れるような音を口から発しながら、少年が顔を歪めてもがいている。

 

「ここで何してる」

 

 ナツメは同じ言葉を同じ調子で尋ねたが、そもそも喉を絞められた少年がそれに答えられるはずもなかった。

 少年は血走った目を剥いて、まるでナツメを射殺さんとばかりに睨んでいる。

 あまりに暴れるものだから、ナツメはしかたがないとナイフを構え直した。

 耳の片方でも切り落とせばおとなしくなるだろう。当時のナツメはそんなことを事も無げに考えるような人間だったし、実際に何の躊躇いもなく実行しようとした。しかしながら、ナイフが少年の耳を削ぐことはなかった。

 

「それはちょっとやりすぎだぜ」

 

 頭の上から声が落ちてきた。ナイフを握った手は背後から掴まれて動かすこともできない。ナツメは首を巡らせて後ろを見た。

二虎(にこ)」と、ナツメの声とくぐもった少年の声が重なった。ナツメが少年に視線を戻すと、少年もナツメを驚いた表情で見上げていた。

 長い髪を緩く束ねた男は「おっ、息ぴったりだな」なんて呑気に笑った。そうしてナツメの手からナイフを引き抜き、

 

「これは没収だ。まったく、お前はどうしてそう手が早いかね」

 

 なんて呆れたように言いながら、それでも顔は変わらずに笑みを浮かべている。

 

「ほら、どいてやれ。王馬も暴れんなよ?」

 

 二虎に促され、ナツメは少年の首から手を離した。気を抜かず、少年がどんな行動に出てもすぐに対処できるように身構えたまま、ゆっくりと立ち上がる。

 少年は動けるようになると飛び跳ねるように起き上がってナツメから距離を取った。

 

「そんな警戒すんなって。といっても、初対面がこれじゃ無理もねえか」

 

 二虎は困ったように頭を掻いた。

 

「いいか、王馬。こいつはナツメだ。伏野ナツメ。二年くらい前から一緒に暮らしててな。といっても、こいつは野良猫みたいにふらっと現れてふらっと消えちまうから、こうしてお前に紹介するのが遅くなっちまったわけだが……。悪い奴じゃねえ。今回はちょっとタイミングが悪かっただけだ」

 

 それから二虎はナツメの方を向いた。

 

「ナツメ、わけあってこいつとも一緒に暮らすことにした。名前は十鬼蛇王馬だ。どうだ、いい名前だろ?」

 

 名前の良し悪しなどナツメには分からない。答えようもなく二虎を見返し、続いて王馬少年へ視線を移す。当然のように睨まれた。

 

「まぁ、今すぐ仲良くなれとは言わねえが、あんま喧嘩すんなよ? 折角の姉弟(きょうだい)弟子なんだからな!」

「弟子じゃない」

「弟子じゃねえ!」

 

 ナツメと王馬の声が重なった。

 

「なんだなんだ、やっぱり息ぴったりじゃねえか」

 

 二虎はひどく楽しそうだった。

 

「お前らなら、きっとうまくやっていけるさ」

 

 ――ああ、二虎、それは無理だ。私は王馬に嫌われている。昔も、今も……。

 原因はすべて自分にあるのだとナツメは分かっていた。

 出会った時から、ナツメは王馬を怒らせてばかりだった。顔を合わせるといつも目を吊り上げて食ってかかってくるから、なるべく距離を置くようにしたし、会っても余計なことを言わないように口を噤んだ。二虎は王馬の態度を「思春期ってやつだな」と笑っていたが、ナツメには理解できなかった。

 その二虎も十年前に死んでしまった。殺されたのだ。あまりに突然のことだったが、それでもナツメはその死を〝しかたがないこと〟だとして受け入れた。

 だって二虎は負けたのだ。『中』では負けることは即ち〝死〟を意味する。だから、しかたがない。すべての物事をそうやって割り切ることが、あの場所で生きるひとつのコツだったのだ。

 それに、憎悪を抱いた人間の醜さといったらない。暗い穴が開いたような目も、喉の奥から漏れる怨嗟の声も、思い出しただけでも吐き気がするほど悍ましい。ああはなりたくなかった。

 だからナツメは、知人の死を知らされた時、腹の底で唸り声を上げるそれに気づかない振りをした。しかたがないことと言い聞かせ、どうしようと死んだ者は生き返らないのだからと目を逸らし、諦めた。

 王馬との軋轢がどうしようもなくなったのは、きっとその瞬間だったのだろう。

 二虎を殺したのは『狐影流(こえいりゅう)』という古流柔術の使い手であると、その死を告げた相手から聞かされた。その流派の特徴は、衝撃を捩り込む打撃の技――昨夜の監視室襲撃犯のそれである。

 昨夜の犯人が二虎の仇と同一人物だとしたら。もしそうなら、王馬がこの船に乗っていることにも説明がつく。王馬は二虎の仇を取ることを諦めなかったのだ。おそらくこの十年間、一度だって。そうしてここまでやってきたのだ。

 ――二虎の仇が、この船に……。

 ざわりと、腹の底で何かが身動ぐ気配がした。ナツメは深く息を吸い、浮かび上がってこようとするそれを沈め直す。

 不意に正面から刺さるような気配がして、ナツメはゆっくりと顔を上げた。そこに男が立っていた。

 二十歳そこらの若い男で、金色の短い髪をしている。白目と黒目が反転したような異様な目がナツメを見据え、笑みをかたどって弓なりに細められた。そうして挑発するかのように殺気を飛ばしてくる。

 

雷庵(らいあん)

 

 相変わらずたちの悪い奴だ。会う度こうであるから最早慣れたものではあるが。

 

「こんなところで何してるんだ」

 

 ここはちょうどカメラの死角にあたる。

 

「俺がどこで何してようがお前にゃ関係ねえだろ」

「内容によるな」

 

 血の臭いはしなかった。誰かの声や物音も聞こえないし、人の気配もない。血を流さずに殺す術などいくらでもあるが、雷庵はそういう〝無駄のない殺し方〟をするタイプではない。

 

()()()()の手を煩わせるようなことはしてねえよ、まだな」

 

 ナツメが周囲の気配を探っていることに気づいたのだろう。雷庵は喉を鳴らして笑い、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま距離を詰めてくる。

 

「『闘技者同士の私闘禁止』なんてくだらねえルール作りやがって。まっ、俺は闘技者じゃねえから関係ねえけどな」

「……どうせお前が『(くれ)』の代表だろうに」

 

 雷庵は〝暴力〟を人の形に押し込めたような男だ。その実力は『呉一族』の中でも随一だろう。

 ありとあらゆる戦闘技術を取り入れながら、千年以上にわたって続けられてきた人体の品種改良。その末に生まれた戦闘特化の新人類――それが『呉一族』だ。その最高傑作とでもいうべき存在がこの、呉雷庵である。

 だが――いや、だからこそか。雷庵は誰の言うことも聞かないし、誰にも制することはできない。暴虐なこの男を、しかしナツメは存外嫌いではなかった。嫌いではないが、

 

「ホリスの方がありがたいんだけどな」

 

 闘技者としてトーナメントに参加されるのは少し面倒だと思った。

 

「あァ? あいつがお気に入りか?」

「ホリスはお前と違って礼儀正しいから。ルール違反なんてしないだろうし、審判のいうこともちゃんと聞いてくれる。面倒は少ない方がいい」

「クカカッ! 言ってくれるじゃねえか。だったらここで、俺が代表の座につかねえようにどうにかしてみるか?」

 

 目の前まできた雷庵が言う。暗闇に白銀の満月を埋め込んだような目が、こちらを見下ろして愉しそうに笑っていた。

 

「わざわざ面倒を起こす気はないよ」

「俺が起こしてやるよ」

「仕事を増やさないでほしいんだけど」

「こんな船の中をぐるぐる回ってるだけじゃ退屈だろ?」

「それが仕事だ、退屈で結構。何の異常も問題もないってことだからね」

「問題ないねえ? 今朝は揉め事があったらしいが、それは問題じゃねえのか?」

 

 呉一族は暗殺を生業としている家系だ。様々な情報にも精通し、耳聡い。昨夜の監視室の事件も今朝のことも、当然知っているだろう。そしてこの男がそれに触れないわけがないと思っていた。

 

「『中』にいた頃の因縁、ってとこか?」

 

 ナツメは答えずに雷庵の目を見つめ返した。

 こうやって人をからかっている時のこいつは本当に愉しそうな顔をする。相手の神経を逆撫でし、煽り立て、己に噛みついてくるように仕向けてから、食ってかかってきたところを叩き潰す。ナツメにはまったく理解できない趣味の悪さである。

 

「図星みてえだな。さっきもそいつのこと考えてたのか? 化けの皮が剥がれかけてたぜ?」

 

 見られていたか。タイミング的にそうだろうとは思っていたから、これといった動揺はない。寧ろ相手が雷庵で良かったくらいである。護衛者の誰かだったら、また心配をかけてしまうところだった。

 ――護衛者として、もっとしっかりしなければ。

 そのためには二虎のことも、王馬のことも、『中』にまつわるすべてのことを、忘れてしまった方がいいのだろう。だが、それができれば苦労はない。それどころか、たった一日の間に『中』出身の者が三人も現れたのだ。逆に思い出せと言っているかのように。

 ――そういえば、呉一族と……、雷庵と初めて会ったのも『中』だったな。

 あの時の雷庵はまだ十代前半だったろうか。確か自分と同じか、少し低いくらいの背丈だったと思うが、今では彼の方が背が高い。王馬も『中』で最後に会った時は自分と変わらないくらいだったはずだ。

 ナツメは雷庵をまじまじと見た。王馬と雷庵は体格はそう変わらないが、雷庵の方が少し上背がある。王馬は吉岡と同じくらいで、雷庵は四番隊の船岡(ふなおか)くらいか。

 同僚たちの姿を思い浮かべながら観察していると、雷庵の顔が見る見るうちにぶすりとした顰め面に変わっていった。

 

「んだよテメー、喧嘩売ってんのか」

「喧嘩? 売ってないけど」

「ガンたれてんだろうが」

 

 ナツメはぱちりと瞬いた。

 

「いや、大きくなったなと思って」

「あァ!?」

 

 雷庵が目を剥いた。

 

「俺をガキ扱いかよ、ぶっ殺すぞ」

 

 胸倉を掴まれて引き寄せられる。頭突きでもされるかと身構えたが、そんなことはなかった。

 雷庵は怒っているようだった。苛立っていると言った方が正しいかもしれない。何がそんなに気に入らなかったのだろう。ナツメは困惑して瞬いた。

 

「腑抜けたツラしやがって……。昔のテメーなら、とっくに俺を殺そうとしてる状況だろうが。()()()()()()()()()すっかりおとなしい飼い猫気取りか? テメーには似合わねえんだよこんなもん」

 

 胸倉を掴んだ雷庵の手がネクタイの結び目に引っかけられた。あ、と制止の声が出かけた時には遅く、ネクタイは乱暴に引き抜かれてそのまま床に投げ捨てられた。

 

「おい、雷庵」

 

 ナツメは非難を込めて雷庵の名を呼んだ。巡回前に王森さんに結んでもらったばかりなのに。

 

「ちったあ()る気になったかよ?」

「――なってない」

 

 ますます不機嫌そうに顔を歪めた雷庵に、ナツメは深く息を吐き出した。

 

「私は護衛者なんだ。もう『中』にいた頃みたいには」

「そう自分に言い聞かせてる時点で、テメーは何も変わってねえんだよ。そういう振りをしてるだけだ。だから簡単に化けの皮が剥がれそうになる」

 

 ナツメは言葉を飲み込んだ。まったくその通りだった。わざわざ指摘なんてされなくても、そんなことは自分が一番良く分かっている。

 

「楽しいかよ? ()()()()()()は」

「……私は人間だよ」

「バケモンだろ、テメーは」

 

 それも『中』にいた頃には良く言われた言葉だった。人間離れしている呉一族の中でも、特に規格外であるこいつに言われたくはないが。

 ――王馬には、どう見えていた?

 ナツメはふと考えた。

 自分に向けられていた王馬の目を思い出してみようとする。〝バケモノ〟と罵られる時、そこには大抵の場合は畏怖と嫌悪が混ざっていた。王馬の目に、それはあっただろうか。

 記憶を掘り起こしてみようとしたが、脳裏に浮かぶのは今朝見た怒りや驚きに染まった表情だけだった。

 そうして思い至る。あの頃自分は、ちゃんと王馬と向き合ったことなどなかった。名前を呼んだのも今日が初めてだった。

 その事実に気づき、ナツメの口から深い嘆息がこぼれた。どうりで、王馬があんな顔をしたわけだ。二虎のことも含め、自分は嫌われて当然の薄情者だ。

 押し黙ったナツメを、雷庵が怪訝そうに見下ろしていた。その目を一度見返してから、ナツメは雷庵の肩を押した。

 

「どいてくれ、仕事に戻る」

「おいおい、俺を無視する気かよ」

「充分構ってやっただろ。こっちは仕事中だ。ガキ扱いされたくないなら駄々をこねるな」

「ハッ、ご機嫌斜めだな? そんなに俺の言ったことが気に障ったかい?」

「いいや、気にしてない」

 

 ナツメは床に落とされたネクタイを拾い上げた。また王森さんに頼んだら、呆れられてしまうだろうか。

 

「人間の真似事でも、できているならそれでいい」

 

 振り返ると、雷庵はすっかり興ざめた顔をしていた。侮蔑すら宿っていそうな冷たい目をしている。

 

「拗ねるなよ」

「うるせえ黙れ殺すぞ」

 

 ナツメは何を答えるでもなく、肩を竦めるだけにとどめた。スラックスのポケットにネクタイをしまい、今度こそ巡回を再開するために踵を返せば、その背中に舌打ちがぶつかった。

 明らかに苛立った空気を撒き散らしながら、雷庵の気配が離れていく。

 あの男は、口では「殺す」だの何だの言いながら、結局ナツメを殺しはしないのだ。殺されかけたことはあるが。

 ――あいつ、ここで何をしてたんだ?

 ふと疑問に思ったが、ナツメはすぐに頭を切り替えた。

 とりあえず、ネクタイをどうにかしなければ。

 



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06 願流島

「ご苦労じゃったの。慣れぬ船旅でお主も疲れたじゃろう? 今日は一日ゆっくりしておって良いぞ」

 

 それだけ言い残し、御前は齢百歳近いとは思えぬきびきびとした足取りで行ってしまった。

 

「御前はああ仰ったが、羽目は外すなよ」

 

 呆気に取られて呼び止めることもできなかったナツメの頭上から、今度は鷹山の声が降ってきた。彼もまた、それだけ言って御前のあとを追っていった。残されたのは呆然としたままのナツメと、その横で二人を黙って見送った王森である。

 

「お前が羽目を外したところも見てみたくはあるな」

 

 何食わぬ顔で王森が言う。ナツメはどう返していいのか分からず眉を下げた。その様子に王森は少し笑ったようだったが、その表情はすぐもとに戻ってしまった。

 

「今日は任務のことは気にするな。気分転換でもしてこい」

「気分転換と言われましても……。自分は別に疲れてもいませんし」

「船に乗っている間、いろいろあったんだろう?」

「それは……。ですが、わざわざ休むほどの」

 

 言い終わる前に、王森の大きな手が頭の上に乗せられた。

 

「お前はもう少し力の抜き方を覚えた方がいいな。ちょうどいい機会だ。気晴らしついでにいろんな奴らと関わってこい。何事も経験だ。ただし――」

 

 王森はそこで一拍置き、突然のことにびっくりして動けずにいるナツメの目を覗き込んだ。

 

「知らない奴にはついて行くなよ」

「――自分、二十八ですが」

 

 辛うじて返した言葉に、王森はナツメの頭を軽くぽんと叩いた。

 

「お前は世間知らずだからな」

 

 

 

 

 そんなこんなで丸一日の休暇を与えられたわけであるが、ナツメは早速途方に暮れていた。視線の先には青い空と海、太陽の光が燦々と降りそそぐ白い砂浜がある。

 ここは拳願絶命トーナメントの開催地――願流島(がんりゅうじま)。定住者のいない無人島ではあるものの、古くから大規模な拳願仕合が開催されている場所でもあり、現在は御前の私有地となっている。

 レストランやスポーツジム、スパなど多様な付帯施設を有するホテルが建てられている他、島内のあちこちにロッジが点在している。自然豊かな景観はそのままに、滞在者が不自由しない程度に整備が施された高級リゾートだ。

 拳願号に乗ってここまでやってきた乗客たちは、今は思い思いに島でのバカンスを過ごしている。水着姿の彼らが楽しげにしている様子を、ナツメは遠い目で眺めた。

 一体どうしろというのだろう。こんなところで、自分にどう過ごせというのだろう。ナツメはバカンスの過ごし方など知らないのである。

 砂浜を前に立ち竦むナツメに、皆が興味津々といった様子の視線を投げて寄越してくる。それらと目を合わせようとは思わなかった。

 ――まるで〝見世物〟だ。

 好奇の視線を一身に浴びながら、ナツメは思った。

 王森は「いろんな奴らと関わってこい」と言ったが、とてもそんな気にはなれない。彼や、休暇を与えてくれた御前には申し訳ないことだが、これならホテルの部屋で一人で過ごす方がいい。

 

「ナツメさーん!」

 

 ナツメは踵を返そうとしたが、それより早く溌剌(はつらつ)とした声が耳に飛び込んできた。

 聞き覚えのある声に顔を動かすと、こちらに向かって大きく手を振りながら駆けくる青年がいた。まだあどけなさの残る、幼い印象の顔立ちをした青年だった。

 細い金色の髪が強い日差しを受けて輝いている。その輝きと同じくらいに、彼が浮かべている笑顔は無邪気で眩しくナツメの目には映った。

 

「ナツメさん久しぶり! 今日はいつものスーツじゃないんだね」

 

 青年は物珍しそうに視線を上下させた。

 

「お久しぶりです、コスモ様。今日は御前から休暇をいただいておりまして」

 

 いくら世間知らずだとはいえ、夏のバカンスの海辺に黒のスーツが不釣り合いであることくらいはナツメにも分かる。他の客人たちと同様に水着姿でいることが一番なのだろうが、ナツメが着ているのはTシャツに長袖のパーカー、ショートパンツの下にレギンスという肌を出さない完全防備である。

 海というより、スポーツジムにでも行くかのような格好だが、これにはわけがある。ナツメの体には古傷が多くあるのだ。

 二十数年間『中』で生きてきて、死にかけたことも一度や二度ではない。裂傷、刺傷、銃創――。大きなものから小さなものまで、体のあちこちに傷が残っている。ナツメは傷跡など今更気にもしないし、それを見られることにもこれといった抵抗はない。〝死〟の間近で生きてきた者にとっては当たり前にあるものなのだから。

 だが、周囲の目はそれを〝当然〟として見てはくれない。それが分かるから、ナツメは人前で肌を晒したりはしないのである。

 

「今日はオフ日ってことだね。予定は決まってるの?」

「いえ、特には」

 

 ナツメが答えると、コスモはぱっと顔を輝かせた。

 

「じゃあ、一緒にビーチバレーしようよ! 茂吉(もきち)たちと約束してるんだ。ほら、あそこ!」

 

 コスモが浜辺の方を指差した。ビーチバレー用のコートが設置されているその一角は、すでにちょっとした人だかりができていた。

 ナツメがその中から見知った顔を見つけたのと、相手がこちらに向けて軽く手を上げたのはほとんど同時だった。コスモが「茂吉」と呼んだ男である。

 コスモも茂吉も拳願会の闘技者だ。企業序列二十六位『西品治(にしほんじ)警備保障』所属の今井(いまい)コスモと、二十位『セントリー』所属の茂吉・ロビンソン。どちらも上位企業であることに加え、二人とも御前お気に入りの闘技者で、時折家に招くこともある。ナツメが彼らのことをいち早く覚えたのも自然なことだった。

 茂吉が隣に立っている少女に声をかけている。茂吉と同じ、緩いウェーブのかかった金色の髪をした少女である。彼の妹のエレナだ。エレナはすぐにこちらに顔を向けると、満面の笑みで大きく手を振った。

 

「行こうよナツメさん!」

 

 コスモが腕を引く。

 

「……バレー、したことないのですが」

「え、そうなの!?」

「ルールも知りません」

 

 コスモは「簡単だから大丈夫だよ!」と笑っている。ナツメは一度、じっとコスモの顔を見た。

 コスモは史上最年少の十四歳で闘技者になり、それから五年間無敗を貫いている。茂吉は確か、仕合戦績四十八戦全勝だ。二人とも間違いなく強豪闘技者と呼べる存在で、そんな彼らとビーチバレーなんて目立つに決まっている。

 逡巡するナツメの頭の中で、「何事も経験だ」と王森が言った。

 

「――分かりました」

「そうこなくっちゃ! あ、あとさ、その喋り方やめようよ。今日は護衛者のナツメさんじゃなくて、オフのナツメさんで!」

「その方がいいのなら」

 

 ナツメは頷いた。

 

 

 

 

 きめ細かな砂の感触を確かめるように、ナツメは裸足のつま先をぎゅっと丸めた。太陽に焼かれた砂は熱かったが、さらさらと肌を滑る感触は心地好い。

 

「ナツメさん、コスモさん、頑張って!」

 

 コートの外からエレナが手を振りながら声援を送っている。

 頑張れと言われても……。

 ナツメは相手コートに目をやった。そこにいるのは中年も過ぎようかという男二人――山下一夫と大屋健だ。どちらも日頃から運動をしているような体には見えず、先程までコスモと茂吉を相手にしていたせいもあってすでにふらふらとしている。どこにボールを打っても点が入りそうだった。

 ただでさえ砂の上での運動は体力を消耗する。早めに終わらせてしまった方が彼らの身のためだろう。

 ナツメは山下のサーブを難なく受けた。今回がバレー初体験であるものの、要はボールを地面に落とさず、三回以内で相手コートに返せばいいのだ。難しいことではない。

 

「ナツメさん!」

 

 コスモからの掛け声に、ナツメはボールを追って空を見上げた。青い空と太陽が眩しかった。

 両足を揃えて地面を踏み締め、飛び上がる。山下と大屋の位置を確認し、二人の間にボールを叩き落とした。

 ナツメが着地すると同時に、わっと歓声が上がった。

 

「ナイスアタック!」

 

 コスモが両手を上げながら言った。万歳をするほどのことだろうかとナツメが疑問に思っていると、コスモはその体勢のままきょとんとして、それからあっと声を上げた。

 

「もしかしてハイタッチ知らない?」

「ハイタッチ?」

「そう! ナツメさんもこうやって両手出してよ」

 

 言われた通り、コスモに向かって手のひらを見せるように両手を上げると、彼は自分の手をナツメの手にパチンとぶつけた。

 

「イエーイ!」

 

 今度はナツメがきょとんとする番だった。打ち合わされた手のひらに目を落とす。今の行動に一体何の意味があるのだろう。

 

「ただのコミュニケーションですよ」

 

 そう言ったのは茂吉だった。

 

「称賛や喜びを分かち合うのです」

 

 彼は透き通った海のような青い目を細め、穏やかに笑いながらナツメに両手を向けた。その隣で、エレナも同じ姿勢でにこにこと笑っている。

 何を求めているのかくらい、ナツメにも分かった。

 先程コスモがそうしたように、ナツメはまず、茂吉と両手を打ち鳴らした。それからエレナともハイタッチを交わす。

 良く分からないが、悪くないと思った。何事も経験である。

 

 

 

 

 試合はナツメたち『ヤングチーム』の勝利に終わり、今はまた、コスモと茂吉が違うチームと対戦している。

 

「山下様、大屋様、大丈夫ですか」

 

 ボールや歓声が飛び交う中、コートの外で息も絶え絶えといった様子で転がっている二人に、ナツメは声をかけた。

 

「ああ……、やあ、ナツメちゃん」

 

 先に反応が返ってきたのは大屋の方だった。酒焼けした赤ら顔を更に真っ赤に染め、全身で息をしながら彼は少しだけ手を上げた。

 

「び……ビーチバレーは楽しかったかい? 初めてだって、さっき、言ってたろ」

「ええ、それなりに」

「そりゃ、良かった。初めてでもあんな、うまいんだもんなあ。俺なんかもう、この通りだよ」

「手をお貸し致しましょうか」

「あー、いやいや! 大丈夫! 今日はオフなんだろう? 俺たちにそんな気を遣わなくていいよ。な、カズちゃん」

 

 大屋は笑って隣の山下を見た。彼は大屋とは逆に血の気が引いたような青白い顔をしていた。貧血でも起こしているのではないかと心配になる顔色だったが、山下も大屋に同意するように笑みを浮かべた。

 

「ええ、お気遣いなく。運動不足で、お恥ずかしい限りです」

 

 意識ははっきりしているようだった。目の焦点もしっかりしているし、おそらく問題はないだろう。ナツメはそう判断して頷いた。

 

「そもそもですが、闘技者を相手にしたのが間違いでは」

「いやあまったく、その通りで」

 

 山下は頭に手を当てながら情けない顔で笑った。

 

「でも実は、あなたが茂吉くんと交代した時、ちょっといけるんじゃないかって思ったんですよ」

「カズちゃん、そりゃ無理だって。ナツメちゃんは片原会長ご自慢の護衛者だよ。並の闘技者じゃ相手にすらならないんだからさ」

「そんなにお強いんですか!?」

 

 山下が眼鏡の奥で大きく目を見開いた。

 

「そりゃあバレーもうまいわけだ」

 

 強さとバレーのうまさは関係ないと思うが、いちいち指摘するのも面倒だったのでナツメは黙って山下を見た。

 こうして話してみればみるほど、ただの冴えない中年という印象ばかりが濃くなっていく。あの乃木会長の部下なのだからただの凡人ということはないと思うのだが、演技をしているようにも見えない。とても〝いい人〟のように見える。

 それはきっと事実なのだと思う。山下と共にいた(りん)の様子がそれを証明していた。乃木会長のもとに潜り込んでいると聞いていたが、今は山下商事で社長秘書をやっているらしい。ナツメは昨日彼女と遭遇するまでそれを知らなかった。だからといって〝仕事中〟の彼女の邪魔になるようなことはしない。吉岡は心配していたようだったが。

 あの時、凛はまるで自然体だった。自然にそれとなくナツメに助け船を出しながら、親しげに山下と接していた。そこに気負いも警戒心も見られなかった。山下はそれが必要のない相手だということだ。

 ――王馬にとっても、そうだろうか。

 そうだといい、とナツメは思った。

「あ!」と山下が唐突に声を上げた。

 

「そうだ、ええっと、ナツメさん」

「なんでしょうか」

「昨日はすみませんでした」

 

 山下が深々と頭を下げたのを見て、ナツメは眉を寄せてしまった。

 

「お気になさらず、と昨日も申し上げましたが」

「いえ、違うんです! ああいや、ぶつかってしまったことも本当に申し訳なかったんですが、そうではなく、その……王馬さんが、大変失礼を」

「――ああ、いえ」

 

 ナツメが曖昧に返すと、山下は気まずそうに視線をそらした。

 

「……俺は向こうで休んでくるよ」

 

 大屋が腰を上げ、疲れた体を引きずるように離れていく。気を遣われたらしい。昨日のことはもう皆が知っているのだろう。

 大屋を見送ってから、ナツメは視線を山下へと戻した。

 

「あれの原因は自分にあります。謝る必要はありません」

「……でも、いきなり掴みかかるのは流石に」

「私は気にしていませんので」

 

 山下はそれ以上下げようがないくらいに眉を下げ、心配そうな、不安そうな顔でこちらを見た。

 優しい人なのだろう。ナツメの周りにはいない、平穏な世界で生きてきた人間の優しさだ。「お人好し」というのはこういう人のことを指すのだろう。

 

「王馬さんとはお知り合い、なんですよね」

 

 山下は恐るおそるといった様子だった。こちらの顔色をうかがいながら、それでも好奇心なのか何のか、聞かずにはいられないらしい。ナツメも別に隠すつもりはなかった。

 

「はい」

「ずっと会っていなかったんですか?」

「もう十年ほど」

「十年! そんな久しぶりなのに、あんな再会の仕方はあんまりでは……」

「しかたないんです」

 

 ナツメは山下から視線を外した。コートではコスモが明るく爽やかな笑顔でバレーを楽しんでいる。

 ――彼はなぜ、闘技者なんてやっているのだろう。

 普段なら気にも留めないようなことが、ふと気になってしまった。理由なんて人それぞれで、他人がどうこういうことではないのは分かっている。それでも、わざわざこんな世界に足を踏み入れようとする気持ちが、ナツメには理解できなかった。

 王馬や自分が過ごせなかった〝普通の暮らし〟を、なぜ自ら手放してしまうのだろうか。

 

「――あいつ、笑ったりしますか」

「へ?」山下は間の抜けた声を漏らした。

「ええっと、王馬さんが、ですよね? そりゃ笑いますよ。仕合の時なんか楽しそうにしていることもあって」

 

 二虎といた時はどうだったか知らないが、少なくともナツメは王馬が笑っているところを見たことがなかった。その王馬が笑えているというのなら、自分といるよりマシな人生を送れているのだろう。

 

「そうですか、それならいいんです」

 

 ナツメは一人納得して立ち上がった。

 

「あ、あの!」

 

 それを呼び止めるように山下が声を上げた。

 

「お二人がどういう関係で、一体何があったのかは知りませんが、その、話し合ってどうにか和解とか、できないものですかね」

「……同僚にも同じことを言われました」

「だったら」

「そういうことをしたことがないので分かりません」

「た、試してみる価値はあるんじゃ」

「あると思いますか」

 

 ナツメは山下を見つめた。彼は何を思ってこんなことを言っているのだろう。心配からか、好奇心からか。

 山下は少し怖気づいたように視線を泳がせたが、すぐにナツメの目を見返して立ち上がった。

 

「王馬さんは確かに随分と怒っていましたが、あなたが立ち去ったあと、なんだか悔しそうというか寂しそうというか……。私にはそんなふうに見えたんです。あなたも王馬さんのことを気にされているようですし、試してみる価値はあると、私は思います」

 

 ナツメは瞬いた。腰が低くて気弱な印象の男だったが、意外にもはっきりと物を言う。思わずまじまじと見つめ返すと、彼ははっとしたように目を開いてから焦った様子で手を振った。

 

「あ、いや、すみません! 全然関係ない私が差し出がましいことを!」

 

 山下は百面相のように一人で表情を変えている。まったく妙な男だった。

 正直、山下の言っていることを信じる気にはならない。王馬が寂しそうだった? そんなことはないだろう。二虎のことがなくても最初から嫌われていたのだ、ありえない。

 だが、そうやって山下の言葉を真っ向から否定してしまうことはなぜだか躊躇われた。

 

「――考えてみます」

 

 気づいたらそう言っていた。別に期待などしていない。どうせ無駄なことだと知っている。

 



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07 願流島②

 ナツメは砂浜から離れ、海岸に沿って伸びる遊歩道を歩いた。

 そうやって当てもなくただ足を動かしていると、吉岡と山下から言われた言葉が頭の中でぐるぐると回り始める。

 ――王馬と話し合う。そんなことが可能なのだろうか。

 もしそんな機会があったとして、一体何を話せばいい? 今更何を話したところで、自分が二虎の死からも、王馬からも逃げたことに変わりはないのに。そもそも、王馬が笑えているというのなら、わざわざこっちから関わる必要はないんじゃないか? あいつの人生に、私の存在は邪魔なだけじゃ――

 

「ナツメ!」

 

 弾むような声が後ろから聞こえて、思考が途切れた。代わりに一人の少女の姿が頭に浮かぶ。振り返れば、予想通りの顔がそこにあった。

 

「やっぱりナツメだ!」

 

 嬉々とした笑顔で、長い黒髪をなびかせながら、水着姿の少女が駆け寄ってくる。少女が両腕を広げるのを見てナツメは身構えた。「抱きつく」というより「飛びつく」と表現した方が正しい勢いで、少女が胸に飛び込んできた。

 

「ナツメ! 久しぶりだ!」

「……ああ、久しぶり」

 

 ナツメは眉を下げた。相変わらずスキンシップが激しい。自分よりもひと回り年下のこの少女が、ナツメは少し苦手だった。

 

「カルラ、いきなり飛びついたら危ないだろう」

 

 少女の後ろから歩いてきた黒髪の男が呆れたように言った。

 

「すまん、落ち着きがなくて」

「いや、大丈夫だ」

 

 ナツメは首にぶら下がるように抱きついているカルラを支えながら答えた。

 

「ほらほら、離れろ」

「ああ、怜一(れいいち)、お前も来てたんだな」

 

 色素の薄い明るい髪をした大柄な男が、まるで子供を抱き上げるかのようにカルラを回収する。

 ナツメは三人の顔を改めて確認した。呉一族特有の、闇に沈んだような目が三対(さんつい)、自分に向けられている。

 雷庵と同じ色の目をしているのに、受ける印象は随分と違う。あいつの目は獲物を狙っていつでもギラギラとしているが、この三人にはそれがない。ナツメがその対象になっていない、というだけの話だが、そこが雷庵との違いだろう。というより、標的以外の人間すら見境なく手にかけようとする雷庵がおかしいのだ。

 だから、雷庵が闘技者になるのは面倒なのである。

 

「ホリス」ナツメは黒髪の男に声をかけた。「闘技者はもう決まったか」

「――雷庵だ」

「だろうな」

 

 予想通りだった。ホリスも怜一も、呉一族の中でも有数の実力者だが、雷庵はその上をいく。一番強い者が代表になるのは当然のことだった。

 

「何もなければいいんだけど」

「今はおとなしくしているが、どうなることか」

 

 ホリスがため息を吐いた。彼は雷庵に次ぐ傑物だが、その性質は正反対で、冷静で礼儀正しい。その分、何かと気苦労が絶えないようだった。

 

「雷庵のことはいいとして」

 

 怜一がカルラを地面に降ろしながら言った。

 

「ちょっと聞きたいんだが」

「なんだ?」

「十鬼蛇王馬とはどういう関係なんだ?」

 

 また随分と率直に聞いてくるもんだ。そう思った次の瞬間、離れたばかりのカルラが飛びついてきた。

 

「そうだ! ナツメは王馬とはどういう関係なんだ!?」

 

 詰め寄ってくる二人の圧に少し後退る。助けを求めてホリスに視線を向けると、彼はやれやれといった様子でまた息を吐いた。

 

「お前たち、少し落ち着かないか」

「ナツメ! どうなんだ!」

 

 カルラにはホリスの声など聞こえていないらしい。

 ぱっちりとした大きな目が、真っ直ぐにナツメを見つめている。今まで見たこともないような真剣な眼差しだった。どうやらただの好奇心で聞いているわけではないらしい。

 

「……昔の、知り合いだ」

「昔って?」

「私がまだお前くらいだった頃だ。いや、もう少し前か」

「どう知り合ったんだ?」

「共通の知人を介して」

「知人?」

「私に武術を教えてくれた人だ。あいつも同じ人に師事していた」

「姉弟弟子って感じか」怜一が口を挟んだ。

「……ああ、まあ、そうだな」

 

 ナツメは曖昧に頷いた。

 ナツメは確かに二虎から、彼の武術である『二虎流(にこりゅう)』の技の一部を教わったが、弟子と呼べる存在であったかは疑わしい。少なくとも、弟子として相応しくはなかっただろう。

 

「仲違いでもしたのか?」

「そんなところだ」

 

 怜一の言葉にナツメは再び曖昧に頷いた。自嘲がこぼれて、それが小さな笑みになった。

 

「もういいか?」

 

 カルラの目を見返しながら問う。

 

「――うん、分かった」

 

 カルラは素直に頷き、それからどこかほっとしたように笑った。

 

「どうした?」

「安心したんだ」

 

 カルラは頬を赤らめ、はにかむように俯いた。

 

「――私、王馬が好きなんだ」

 

 普段の底抜けな元気の良さが嘘のように、カルラはしおらしい声で呟いた。

 

「――そうか。ええと、頑張れ?」

 

 他に何と言えばいいのか思いつかず、ナツメはそう返す以外になかった。

 だが、カルラにはそれで充分だったらしい。彼女はぱっと顔を上げると、「応援してくれるのか!?」と声を上げた。喜びを顔どころか全身で表すように、カルラが再び抱きついてきた。

 それを受け止めながら、ナツメはホリスと怜一に視線を向けた。

 

恵利央(えりおう)様は泣いてないか」

「ブチ切れてはいたな」

 

 平然とした様子で怜一が言う横で、ホリスはどこか疲れたような顔で何度目か分からないため息をこぼしていた。

 呉一族の長であり、カルラの曽祖父である呉恵利央はカルラを溺愛している。そんな愛する曾孫に好きな人ができたとあっては、きっと気が気でないだろう。と、そうはいってもカルラも十六である。そういう相手の一人や二人――いや、二人は良くないか。

 ナツメはカルラがしがみついたままの首を軽く巡らせた。先程からずっと何者かの視線を感じていた。姿は見えないが、きっとカルラを見守る恵利央のものだろう。

 ――恵利央様と茂吉は気が合いそうだ。

 噂をすれば影、というやつか。ナツメがそんなことを考えていると、ホリスたちの後ろから茂吉とエレナが歩いてくるのが見えた。

 

「おや、ナツメさんと……、呉一族の方々ですね」

 

 茂吉が柔和な笑みを浮かべた。

 

「バレーはもうやめたのか?」

「コスモ君はまだやっていますよ。私はもう若くありませんから」

「まだ三十四だろう?」

「ハハハ、彼のような若い子にはかないません」

 

 茂吉は冗談めかして笑った。

 

「カルラちゃん!」

 

 声を上げたのはエレナだった。彼女は嬉しそうに顔を綻ばせながらこちらに駆け寄ってきた。

 

「カルラちゃん、ナツメさんと知り合いだったのね」

「うん! エレナもなんだな!」

「……お前たちもか?」

「昨日船で仲良くなったんだ!」

 

 ナツメが尋ねると、カルラは満面の笑みで答えた。

「ねえ、カルラちゃん、一緒に島を見て回らない?」とエレナがカルラを誘う。それを聞いてカルラはようやくナツメから離れると、笑顔で大きく頷いてエレナの手を握った。

 

「気をつけて行ってくるんだよ」

「あまり遠くへ行きすぎるなよ」

 

 茂吉とホリスが言う。まるで小さな子供に言い聞かせるような口振りだった。

 手を繋ぎ、楽しそうに話しながら彼女たちは歩いていく。

 普通の子供はああやって過ごすのか。『中』では絶対に見ることのできない光景にナツメは目を細めた。『中』の人間があの子たちくらいの年の頃、その手に握るのは友人の手ではなく血濡れたナイフなのだ。

 

「一度爺様の様子を見に行くか」

 

 ホリスと怜一もそう言ってこの場から離れていった。残ったのはナツメと茂吉である。

 

「ナツメさん、少し歩きませんか」

 

 茂吉に誘われ、別に断る理由もないのでナツメは頷いた。茂吉は「ありがとうございます」とにこやかに笑ったが、別に礼を言うほどのことでもないだろうに。

 砂浜は相変わらず水着姿の客人たちで溢れ返っている。表面上は楽しげなバカンスそのものだが、明日にはトーナメントが始まるのだ。それぞれの腹の中がどうであるかは定かではない。

 それでも確かに、ゆっくりとした時間を過ごせているのは事実だった。ゆっくりしているからこそ、余計なことまで考えてしまうのだろう。

 

「海に来るのは初めてですか?」

 

 不意に問われ、ナツメは茂吉に顔を向けた。

 

「いや、ここには前にも来たことがあるし。護衛者の慰安旅行、だったかな」

「ああ、ここは片原会長のプライベートビーチでしたね」

「……まあ、前に来た時は、こんなにゆっくり海を見てる余裕はなかったけど」

「それはあなたに、ですか」

「ああ」

 

 護衛者になってまだ日も浅かった頃の話だ。雷庵の言葉を借りるなら、まだ〝バケモノ〟だった頃。まだ〝人間の真似〟なんてまるでできていなかった頃のことだ。

 

「今はどうですか」

「バレーをするぐらいの余裕はある」

「ハハハ、それは良かった」

 

 茂吉は白い歯を見せて笑い、それからナツメを見て「安心しました」と目を細めた。

 ナツメは思わず足を止めて茂吉を見た。彼は静かに微笑んでいる。吉岡が時折見せるそれと似ているが、どこか違う。何が違うのかはうまく説明できないが、こんなにも柔らかな眼差しを誰かから向けられるのは初めてだった。

 

「……なんだ、安心って」

「初めて会った頃のあなたはもっとこう、荒々しいといいますか……。こんな言い方をしては気に障るかもしれませんが、まるで野生の獣のようだと感じる時があったものですから。それがずっと気がかりだったのです」

 

 野生の獣――まさしくそうであっただろう。人間性など何の役にも立たない世界で生きていたのだから。寧ろ、野生動物たちの世界の方が何倍もマシだったに違いない。

 

「少しは人間らしくなれてるといいんだけど」

「あなたはもともと人間ですよ」

 

 雷庵とは真逆なことを茂吉は言う。

 

「人であればこそ、心の在り方一つで変われるのです。かくいう私も荒れていた時期がありまして」

「ああ、分かる。エレナが絡むとその頃のお前が出てくるからな」

「ハハハ、お恥ずかしい」

 

 茂吉ははにかむように笑った。

 茂吉とエレナは二十近くも年の離れた兄妹である。それも要因の一つかもしれないが、茂吉はエレナを溺愛していた。エレナのこととなると、普段の温和な彼からは想像もできないような容赦のなさと形相を見せるのだ。

 恵利央のカルラに対するそれと、茂吉のそれは良く似ている。だから気が合いそうだとナツメは思ったのだった。

 

「お前たち兄妹は本当に仲がいいな」

「あの子のためなら私は何だってできますよ」

「あの子のためと言うなら、闘技者なんてやめた方がいいんじゃないのか」

 

 ナツメは茂吉の目を真っ直ぐに見て言った。茂吉もエレナも綺麗な青い目をしている。なんでわざわざ、血生臭く汚いものをその目に映そうとするのだろう。

 

「お前なら、こんな裏格闘技じゃなくても充分やっていける。なんで()()なんだ」

「――私は、世界一強い男になりたいのです」

 

 ナツメにはまるで理解できない理由だった。そんなものになってどうするというのか。そんなものに何の価値があるというのか。

 

「〝普通の生活〟を捨ててまで目指す価値があるとは思えない」

「価値、ですか」

 

 茂吉は相変わらず笑っている。穏やかに、そして少し困ったように。

 

「私の父は不器用な男でした」

 

 突然何を言い出すのか。ナツメは怪訝に眉を寄せたが、茂吉は特に気にする様子もなく話し続けた。

 

「本当にどうしようもなく不器用で、そんな父が唯一私に伝えようとしたものが『バリツ』です。父にとってもそれが唯一のものだったのでしょう。ですが、私は逃げてしまったんです。父の期待に応えられぬこと、失望されることが怖かった。それらから逃げたくて悪事に手を染め、自由になった振りをしました。そんな生き方に意味や価値などあるはずもありません。それを変えてくれたのがエレナです。エレナのおかげで私は立ち直れた。私は自分が父の子であることを恨んだこともありますが、父の子であったからこそエレナと出会えました。あの子のおかげで、この〝血〟の尊さを知ったのです」

 

 茂吉は自分の胸に手を当てた。そこにある心臓を確かめているかのように見える。

 ――〝血〟に尊さなんて、そんなもの。

 ナツメは自分の体に流れる血が嫌いだった。これはただの〝呪い〟でしかない。茂吉は尊いものだと言うが、彼だってその〝血〟に囚われているだけじゃないのか。ナツメはそう疑ってしまいたくなる。

 

「だから私は、私の人生が価値あるものだということを証明したいのです。父が私に唯一伝えてくれた『バリツ』でこそ、それができる。そして、エレナを護れる強い男になるために、私は闘います」

「――理解できない」

 

 闘技者に死のリスクはつきものである。その覚悟は茂吉もできているだろう。だが、そんな覚悟をしてまであえて死地に臨む意味が分からない。

 ここは『中』ではないのだ。『外』では命は尊いもののはずだ。それなのになぜ、自ら命が軽く扱われる方へ向かうのだろう。

 死んだらそれで終わりだ、人生の価値もくそもない。

 

「お前に何かあったらエレナは」

「私は負けません」

 

 はっきりとした力強い声だった。ナツメはそれ以上言葉を続けることができずに唇を結んだ。そんなこちらを見て、茂吉はまたすぐに穏やかに笑ってみせた。

 

「私は闘技者になったことを後悔はしていません。それどころか感謝したいほどです。闘技者であったからこそ、あなたに出会えたわけですから」

 

 青い目の柔らかさに、ナツメは視線をそらしてしまいたくなった。そんな自分を誤魔化すように、努めてゆっくりと息を吐き出す。

 

「物好きだな」

 

 かろうじて言葉を返したが、動揺が声に出ていなかったか不安だった。

 

 

 

【 第一章 獣は爪を隠す(完)】




今回で第一章は終了です。
次回から第二章、トーナメントの第一回戦へと入っていきます。
ここまでお読みくださりありがとうございました。引き続きご覧いただけたら幸いです。

感想や評価、お気に入り登録など。何か反応をいただけますと今後の意欲に繋がりますので、どうかよろしくお願い致します。



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第二章 獣は威嚇する
01 絶命トーナメント


 トーナメント参加企業は全部で三十二社あり、第一回戦では十六の仕合が行われる。我が大日本銀行の代表闘技者――通称〝滅堂の牙〟こと加納(かのう)アギトは、その最終仕合に登場する。ナツメはそのセコンドを任されていた。

 といっても、別に何をするわけでもない。彼の仕合中はその傍にいるようにと言われているだけで、そもそも闘いにおいて介添えを必要とする男でもない。手が必要な時があるとすれば仕合用のスーツを着る時くらいだが、それもナツメの役目ではなかった。かの男の仕合を、ただ見守っていればいいらしい。

 何にせよ、アギトの仕合は本日の最後である。それまではトーナメント会場での警備が主な仕事だ。何事もなくトーナメントが進行すればいいが、そうはならないことをナツメたち護衛者はすでに知っている。

 備えが必要だった。このトーナメントには拳願会の会員以外にも、世界各国の首脳陣までもが集結する。万が一など絶対にあってはならないのだ。と、ナツメは鷹山から良く言い含められていた。

 

「トーナメント表は確認しましたか?」

 

 吉岡に問われ、ナツメは首を横に振った。

 

「だと思いました。こちらを」

 

 ナツメは差し出された紙を受け取り、その上に目を落とした。昨夜のうちに決定したトーナメントの組み合わせ表である。

 ナツメはまず、一番右下の組み合わせを確認した。アギトの初戦の相手である。

 

「『ムジテレビ』の大久保直也(おおくぼなおや)……。知らない闘技者だ」

「拳願仕合初参戦の方です。総合格闘技の絶対王者だそうですよ」

「表の人間か」

 

 どうりで知らないわけである。だが、企業序列四位という地位に立つムジテレビが代表闘技者として引っ張ってきたのだから、その実力は本物なのだろう。

 表の王者だけでは飽き足らず、裏格闘技にも参戦。なんて、ナツメにはやはり理解できそうにない。しかも相手は、拳願仕合史上最強の闘技者と称され、一五七戦無敗という戦績を誇っているあの〝滅堂の牙〟なのだ。仕合を終えたあと、大久保直也は無事に表舞台へ戻れるだろうか。

 まあ、自分の知ったことではない。ナツメはその名前から視線を外し、トーナメント表全体を眺めた。そうして次に目についたのは「十鬼蛇王馬」の文字だった。

 ああ、こういう字だったな、と。『中』の地名からもじったそれを、そこを出てから目にすることはなかった。

 人生の大半を過ごした場所ではあるが、「故郷」と呼べるような場所ではない。いい記憶もまったくないというわけではないが、思い出すには時間がかかる。望郷の念もない。それでも妙な懐かしさがあって、ナツメは「十鬼蛇王馬」という文字を指でなぞった。

 ――その上に並んだ名前を見た瞬間、呼吸が止まった。

 

「どうかなさいましたか?」

 

 吉岡が尋ねてくる。こちらの異変にすぐさま気づいたらしい。

 

「……いや、何でもない」

 

 ナツメは手元から顔を上げて答えた。

 うかがうような隻眼と目が合ったが、吉岡はすぐに「そうですか」と目元を緩めてみせた。

 吉岡は人との距離の測り方がうまいのだと思う。心配性で、いつだってそうやって気にかけてくれているのに、決して無理に踏み込んできたりはしないのだ。だから、彼といるのは気が楽だった。

 

「では、私は配置につきますので」

 

 吉岡は踵を返した。その背中を見送ってから、ナツメはもう一度トーナメント表に目を落とした。

 王馬は一回戦の第四仕合に出場する。その一つ上、第三仕合の組み合わせに雷庵と茂吉の名前があった。

 

 

 

 

 会場である拳願ドームは、トーナメントの開始宣言に伴った大歓声で満たされていた。声と声とが重なり合い反響し、びりびりと空気を震わせている。ナツメはそれをアリーナの入場口近くで聞いていた。

 ナツメはこれほどの人数の集まりを見たことはないし、こんな音も聞いたことがなかった。普段行われている拳願仕合とは最早別物の熱気と雰囲気だ。いっそ狂気染みているとさえ思えるほどに。

 その異様な熱で満たされたアリーナの中央で、御前の御息女である片原鞘香がマイク片手に会場での注意事項を説明している。彼女はトーナメントの司会進行役だ。

 アリーナを照らす照明に、長い白金の髪が輝いていた。健康的な褐色の肌を大胆にさらした赤いドレスも目に眩しい。

 鞘香はああいう露出の高い服を好むし、人々に注目されることにも慣れている。明るく大らかで社交性もあるから、異性にすごく人気があるのだ、とそう言っていたのは護衛者の別働隊である『殲滅部隊』に属する三朝(みささ)という男だった。

 殲滅部隊は護衛者の中でも選りすぐりの者だけで構成された少数精鋭の特攻部隊で、今はたった四人の隊員しか所属していない。その部隊の隊長を務めているのは御前の御子息であり、鞘香の腹違いの弟である烈堂だ。

 鞘香と烈堂は仲の良い姉弟である。休日は良く二人で出かけたりしているらしい。特に烈堂は鞘香のこととなると途端に過保護になる。彼女が露出の高い服を着ていることも、そうして異性に注目されることも、本当は心配でしかたがないようだ。

 ナツメがこうしてアリーナの入場口から鞘香の様子を見守っているのも、その烈堂から頼まれてのことだった。

 鞘香の護衛を烈堂から頼まれることは良くある。唯一の女護衛者であるから、同性である鞘香のお供にするには都合がいいのだろう。自分は御前の護衛だが、そうやって鞘香に付き添ってどこかへ出かけたりすることを、御前はなぜかいつも楽しそうに快諾してくれるのだった。

 ふと、背後に伸びる長い通路の奥から足音が聞こえてきた。アリーナの明るさに慣れた目には通路はひどく暗く見えて、ナツメはじっと目を凝らした。

 現れたのはコスモだった。

「あれ?」とコスモが足を止めた。彼からはこちらは逆光になっていて見えづらいのだろう。目を細め、何度か瞬きをしてからようやく白い歯を覗かせて笑った。

 

「ナツメさんだ! こんなところで何してるの? あ! もしかして俺の応援にきてくれたとか?」

 

 コスモは肌にぴたりと張り付くような半袖の青いウェアと黒いハーフパンツを着用している。仕合用のユニフォームだとすぐに分かった。

 そうか、一回戦第一仕合は『西品治警備保障』と『ボスバーガー』だったか。

 

「いえ、さや――お嬢の護衛です」

「ええー、なんだあ」

 

 コスモはあからさまにがっかりと肩を落とした。

 

「ナツメさんが応援してくれたら、俺絶対優勝できるのになあ」

「私の応援にそんな効力はありませんが」

「……ナツメさんってそういうとこあるよね」

「そういう?」

 

 ナツメは首を捻った。コスモはどこか拗ねたような呆れたような顔で頬を膨らませている。もともと幼い顔立ちゆえに、そうしているとまるで十代半ばの少年のように見える。

 

「こういうのは気持ちの問題だよ。応援があればそれくらい頑張れるってこと!」

「そういうものですか?」

「そういうものなの!」

 

 力強く頷くコスモを見て、ナツメは昨日のことを思い出した。彼らとビーチバレーをした時のことだ。人から声援を受けたのはあれが人生で初めてのことだった。

 別に力が湧くなんてことはなかったし、そもそも目立つことが好きではないナツメにとってはあまり好ましい状況でもなかった。だが、悪い気がしたわけでもない。自分でそうなのだから、コスモのような人間にとっては良いものなのだろう。

 

「だから、俺のこと応援しててよね!」

 

 コスモは笑いながらナツメの横を通り過ぎた。

 入場口の際に立ち、アリーナの照明に照らされた後ろ姿を見た時、ナツメはほとんど無意識に口を開いていた。

 

「危ないと感じたらすぐに棄権した方がいい。取り返しのつかない事態になってからじゃ」

「ナツメさんって意外と心配性なんだ」

 

 振り返ったコスモは挑戦的な笑みを浮かべていた。大きな目がギラギラと光っている。

 ナツメはこの目を知っている。闘いを前にして精神が高ぶっている者の目だ。

 

「大丈夫だよ、俺は負けないから」

「さあさあ、それでは早速参りましょう!」

 

 鞘香の声が響き渡る。闘技者を呼び込む威勢の良い口上と共に、コスモがアリーナへと踏み出して行く。

 ナツメはその背を見送った。そうする以外にできることはない。

 余計なことを口走った自覚があった。そして、それを本当に伝えたい相手が別にいることも分かっていた。だが言えるはずもない。言ったところで返ってくるのはコスモと同じ言葉だろう。

 ――おかしい。ナツメは己の額に手を当てて目を閉じた。自分はこんなことを考えるような奴だっただろうか。

 

「ナツメさんお待たせ!」

 

 闘技者の呼び込みを終えた鞘香が戻ってきた。ナツメはすぐに顔を上げたが、少しばかり遅かったらしい。

 

「どうしたの? どこか具合悪い?」

 

 ハイヒールの踵が床を蹴る音が響く。心配そうな顔で駆け寄ってきた鞘香に、ナツメは小さく笑ってみせた。

 

「大丈夫、何でもない」

「でも……」

「ほら、実況席に行かないと」

 

 仕合中の実況も鞘香の仕事である。御前の娘なだけあって、彼女は器用に何でもこなす。そして、拳願仕合のような暴力的な光景にも物怖じしない。少なくとも、普段の仕合程度ならば。

 ――このトーナメントでは何人死ぬだろう。

 ふと考え、それが顔見知りでなければいいと思った。そう思った自分にナツメは驚いた。

 自分の中で何か変化が起きている。そのことに気づいたが、それが良いことなのか悪いことなのか分からない。

 なぜだか息苦しさを感じて、ナツメはネクタイを少し緩めた。だが、何も変わらない。

 気遣わしげな表情でこちらを見る鞘香に、もう一度「大丈夫だ」と告げる。仮に大丈夫ではないとしてもどうしようもないことだった。休んだところで治るものでもないし、

 

「さあ、行こう」

 

 トーナメントは止められない。

 

 

 

 

 結果を先に言えば、拳願絶命トーナメントの初戦を白星で飾ったのはコスモだった。

 対戦相手は企業序列十五位『ボスバーガー』の代表闘技者、アダム・ダッドリー。アメリカのストリートファイターらしい。

 二メートル近い身長に、日本人とは違う骨格と筋肉の付き方。闘技者の中でも小柄であるコスモとでは、大人と子供ほどの体格差があった。

 仕合も、どちらが勝ったとしてもおかしくはない内容だった。コスモがからくも勝利を手にしたが、決して軽くはない怪我を負い、今は医務室で治療を受けているはずだ。

 コスモがあれほどの怪我を負った姿を、ナツメは初めて見た。殴られ、地面に叩きつけられ、傷を負って血を流し、しかし会場の人間たちはそれに歓声を上げる。

 表の格闘技ならまだしも、これは拳願仕合だ。ルールなんてあってないようなものだし、仕合が始まってしまえば何をどうしようが反則もない。ともすればあっさりと人が死ぬことすらある。

 それを見て楽しむというのは『外』では異常なことなのだと思っていた。

 これでもし仕合中に死人が出たとしても、彼らはやはり歓声を上げるのだろうか。それとも、そんなことが起きるとは思ってもいないのだろうか。

 ――ありえない。このトーナメントに「殺し」を稼業にしている人間が何人参戦していると思っているのだろう。それ以外にも「殺人」の経験がある者だっている。そういう奴は()()で分かった。

 

 第二仕合に登場する『NENTENDO』所属の河野春男(こうのはるお)という闘技者をナツメは初めて見た。身長二メートルを優に超える、縦にも横にも巨大な男だった。とてもまともには動けそうにない肥満体形をしているが、大量の脂肪に覆われた体を支え動かすだけの筋肉がその奥にはあるのだろう。

 だが、ナツメが注視したのは彼ではない。河野の対戦相手である『若桜(わかさ)生命』の代表闘技者、阿古谷清秋(あこやせいしゅう)――

 警視庁の機動隊に勤める現役の警察官らしいが、まず間違いなく、阿古谷は人を殺している。それも一人や二人ではない。この男を見ていると皮膚がざわめくのだ。獣が毛を逆立てるのと同じように、本能が男を警戒しているのだろう。

 人が人を殺す理由なんてものをナツメは気にしたことがなかった。それを仕事にしている者、快楽目的の者もいるだろう。そういう連中を何人も見てきたし、ナツメも何人も殺してきた。それが常の世界だ、気にしていてもしかたがない。

 そんなナツメからしてみても、阿古谷清秋という男はひどく奇妙な人間だった。

 あの男が纏う空気は、殺し屋のそれとも、快楽殺人者のそれとも違う。ナツメが知らない〝人殺し〟の臭いがする。

 戦い方にも違和感があった。あの男は本気で戦っていなかった。手を抜いているという様子でもなかったが、自分の意思で戦っているようにも見えない。どうにも気味の悪い男だった。

 それでも、勝利を収めたのは阿古谷である。二回戦の第一仕合ではコスモと阿古谷が闘うことになるが、それはまだ二日後の話だ。

 そして次は一回戦第三仕合――雷庵と茂吉の仕合である。

 ナツメは自分の気がそぞろになっていることに気がついていたし、その理由も分かっていた。

 自分は、雷庵と茂吉に闘ってほしくないのだ。正確には、()()()()()()()()()()()()()がいやなのだろう。

 茂吉は確かに強い。だが、雷庵はもっとずっと格上で、そしてあの性質だ。茂吉はきっとただでは済まない。

 ――下手をすれば、茂吉は……。

 最悪の仕合結果が頭に浮かんだ時だった。「ナツメ」と誰かに呼ばれ、声がした方を振り返った。そこにいたのはホリスだった。

 彼は眉間に皺を寄せた顔で、こそりとナツメに耳打ちした。

 

「雷庵がいなくなった」

「……じきに仕合だぞ」

「分かっている。少し手を貸してもらえるか」

 

 自然とため息がこぼれた。

 

「カメラでも捜してもらおう」

「すまない」

「お前が謝ることじゃない」

 

 ナツメは無線で監視室と連絡を取った。それと同時に、アナウンスのためにすでにアリーナへと降りている鞘香に「少し離れる」と身振りで伝える。彼女は笑顔で小さく手を振ってくれた。

 

「どこまで捜したんだ?」

「控え室の階と一つ上は確認した。今、伯父貴と怜一がCホールの方を見に行っている」

 

 観客席から離れ、ナツメとホリスは足早に通路を進んだ。

 

「そう遠くには行ってないんじゃないか」

「おそらくは。放っておいても仕合には間に合うよう戻ってくるだろうが、何をしでかすか」

「仕事を増やさないでくれと船でも言ったんだけどな」

「船で会ったのか?」

「巡回中に。会う度に殺気飛ばして突っかかってくるのはどうにかならないのか」

「――無理だろうな」

 

 そうだろうとも。言ってどうにかなるならとっくの昔にそうしている。あの傍若無人な男を御せる奴など、きっとこの世には存在しない。

 

「あいつはあれでお前のことを気に入っているからな。だから無駄にちょっかいをかけたがる」

「……嫌われてるとは思ってないよ」

 

 もしそうであれば、自分は今頃生きてはいないだろう。

 雷庵は恐ろしく強い。自分が知る中でも、五本の指に入るほどに。凶暴さでは断トツだ。

 

「下の階に行ってみよう」

「なら一階には俺が行こう。お前は二階を頼む」

 

 頷き、二階の階段でホリスと別れた。

 そうして気配を探りながら歩いていると、不意に血の臭いが鼻を掠めた。ナツメの足はすぐに臭いを辿って動き出す。少し進むと、今度は大声で怒鳴り散らす声が聞こえてきた。男性用のトイレからだった。

 血の臭いと、叫ぶ男の声。ばしゃばしゃと弾ける水の音。警備に当たっている護衛者の姿はまだない。

 

「何の騒ぎですか」

 

 ナツメはトイレの出入り口に立っていた男に声をかけた。坊主頭で、屈強な体つきをした男だった。半袖のシャツから伸びる腕は太くて逞しい。闘技者だろうか。

 男は驚いた様子で振り返り、ナツメの姿を見てから更に大きく目を見開いた。

 

()()の別嬪さん!」

「え、ナツメさん?」

 

 坊主頭の声に、奥にいた人物が反応した。聞き覚えのある声だった。そちらに視線を伸ばすとまず、トイレの酷い有り様が視界に飛び込んできた。壁や天井は崩れ、壊れた便器から水が噴き出している。その光景の中に三人の男がいた。

 一人は氷室だ。先程の声は彼だろう。右腕を三角巾で吊っているが、折られたはずの鼻は綺麗に整っていた。その左腕は隣の男を押さえるように絡められている。

 その男は頭から血を流していた。服もところどころ破れている。見覚えのある顔だと思ってすぐ、船で王馬を羽交い絞めにしていた男だと気づいた。

 確か吉岡が「理人(りひと)」と言っていた。元は企業序列二十二位の『義武(よしたけ)不動産』所属の闘技者で、今は『SH冷凍』という新興企業の社長兼闘技者であるらしい。

 更にその隣、氷室と同じように理人を押さえているのはあの糸目だ。彼と氷室が共にいることがナツメには奇妙に思えた。

 だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 

「これはどういう状況ですか」

 

 聞かなくても察しはついていた。

 

「あー、それがなあ、俺らにもよう分からへんのや」

 

 坊主頭が答え、理人たちの方に視線を向けた。

 

「あいつがなかなか戻ってきいひんから様子見に来たら、この有り様や」

 

 理人は血走った目をしている。随分と気が立っているようだった。頭からは相変わらず血が流れ続けている。

 

「理人様、落ち着いてください」

 

 ナツメが声をかけると、理人は目を丸くした。

 

「一先ずこちらへ。傷の具合を診せてください」

 

 理人に外へ出るよう促し、先立って通路まで戻った。すぐあとを着いてきたのは坊主頭だ。それに続き、氷室、理人、糸目の順に通路まで出てきた。

 

「座っていただけますか」

 

 理人は先程までの形相が嘘のように、おとなしく言うことを聞いている。

 ナツメは腰を下ろした理人の前で膝立ちになり、ポケットからハンカチを取り出した。それで理人の血を拭きながら傷の具合を確認する。そう深いものではなかったが、頭部の外傷は派手に血が出る上になかなか止まらないものなのだ。

 

「このまま押さえていてください」

 

 傷口にハンカチを押し当て、理人自身の手で押さえさせる。それから改めて彼と視線を合わせると、その顔がだらしなく緩んでいることに気がついた。鼻の下を伸ばした顔というのはまさにこれなのだろう。こういう男には近づくなと王森と鷹山から言われている。

 ――大丈夫、まだ害はない。

 

「相手は誰ですか」

 

 聞いた途端、理人は苦いものを噛んだかのような顔で視線をそらした。

 

「教えていただかなければ困ります。こちらも仕事ですので」

「……呉一族のガキだ」

 

 ああ、やっぱりか。ナツメはため息をこぼした。

 これは闘技者同士の私闘に該当する。ルール違反者には制裁が必要だ。だが、相手が雷庵では下手に手を出せない。

 あいつが闘技者に選ばれることの、一番の懸念がこれだったのだが、早速初日から()()()()()()

 

「ナツメちゃん、だったよね?」

 

 理人に呼ばれ、ナツメは意識を引き戻した。理人はこちらを見ながらにこにこと笑っている。

 

「あんな野蛮な奴がいるところで一人でいたら危ないよ。俺が守ってあげるからさ、このあと一緒に」

「やられた奴が何言うてんねん!」

 

 坊主頭が理人の頭を小突いた。

 

「いってえな! 怪我人だぞ!?」

「怪我人なら怪我人らしくおとなしゅうしとけっちゅうねん。お姉さん、安心してや。このナオヤ・オオクボがきっちり守ってみせますさかい」

 

 ――ナオヤオオクボ? ナツメは坊主頭を見上げた。

 この男が大久保直也か。『ムジテレビ』の代表闘技者。アギトの一回戦の対戦相手。

 なるほど、確かに強い。少なくともこの四人の中では一番の実力者だろう。だが、彼ではアギトには勝てない。勝負は時の運にも左右されるので絶対とは言わないが、実力だけで言えば軍配はアギトに上がる。

 

「ナツメさん、こいつらの言うことなんか無視していいぜ」

 

 氷室が言った。彼は涼しげな笑顔を浮かべている。その隣には困ったような呆れたような表情を浮かべた糸目がいる。

 トーナメント表で確認した限り、義伊國屋書店の代表闘技者の名は「金田末吉(かねだすえきち)」となっていた。彼がその金田だろう。

 あんなことがあったあとでも、こうして普通に並んでいられるものなのか。

 

「無視も何も……。自分は護衛者です、護衛は必要ありません」

 

 ナツメは立ち上がって無線で連絡を取った。

 

「二階東の男性用トイレに人を送ってくれ。補修が必要だ。怪我人もいる」

『重傷か?』

「いや、大した怪我じゃないが止血が必要だ」

『了解。――ああ、あと、アンダーマウント社の闘技者は見つかったぞ。もう入場口にいる』

「……そうか、分かった」

 

 雷庵はすでに戻っているらしい。ここで理人を襲ったのはウォームアップのつもりだろうか。まったくはた迷惑な奴だ。

 

「理人様、ここでお待ちいただければ医療班の者が参ります。それか、この先に医務室がありますのでそちらまでお願いします。自分は会場に戻りますので」

「ええー、もう行っちゃうの? 仕事なんて他の黒服連中に任せとけばいいじゃん」

「せやでお姉さん。そんな生真面目に働かへんでも、一人二人抜けたくらいの穴、誰かがうまいこと埋めてくれるやろ」

「なんて無茶苦茶言ってるんですか」

 

 金田が苦笑いを浮かべている。

 

「お仕事の邪魔をしてしまって申し訳ありません」

「ほんと悪いね、ナツメさん。こいつらは気にしなくていいから。仕事が終わったら俺と食事にでも」

「失礼します」

 

 四人に背を向け、ナツメは会場への道を足早に戻った。背後ではまだ何やら騒いでいたが、今はそれどころではない。怪我人を放置していくというのもなんだが、あれだけ元気なら問題ないだろう。早く戻らなければ、雷庵と茂吉の仕合が始まってしまう。

 階段に差しかかった時、ちょうど下から上ってきたホリスと出くわした。

 

「雷庵はもう戻ってるって」

「ああ、そうらしい。無駄足を踏ませてしまったな」

「いや……。無事に仕合が始まるならそれで」

 

 ホリスが不意に足を止めた。ナツメも釣られて立ち止まる。振り向くと、階段の数段下から黒く染まった目がこちらを見つめていた。

 

「本当にそう思っているか?」

「……何が言いたい」

「茂吉、だったか。あいつの対戦相手は。親しいんだろう?」

「御前が気に入っている闘技者だから少し知ってるだけだ」

「それだけか?」

 

 ナツメは口を噤んだ。ホリスが言わんとしていることは分かっている。

 本当は、雷庵が仕合に遅れて茂吉の不戦勝にでもなるならその方がいい。そう思っていた。

 だが、そんなことは起こり得ない。雷庵が拳願仕合なんてイベントをみすみす逃がすはずはないし、あの男はあれでも仕事は忠実にこなす。アンダーマウント社から闘技者として雇い入れられたからには、仕合を放棄するなんてことはあり得ない。それは呉一族全体の信用にも関わることだ。雷庵はそんなことなど気にしないだろうが、どうにせよ仕合が行われることに変わりはない。

 ホリスだってそんなことは分かっているだろうに、なんでわざわざ――

 ナツメはホリスを見据えたが、彼は顔色一つ変えずにじっとこちらを見ているだけだった。

 

「――茂吉はいい奴だよ」

「そうだろうな。お前がそれだけ気を許しているのだから」

「あいつに何かあったら、エレナが悲しむ」

 

 ホリスなら不要な「殺し」はしない。だが雷庵は違う。あいつは寧ろ好んで人を殺すのだ。別にそれについてどうこう言うつもりはない。だが、エレナが悲しむ姿は見たくないと思うし、あの兄妹にはずっと仲睦まじくいてほしい。

 

「――お前が闘技者になれば良かったんだ」

 

 自分の口から吐き出された低い声に、ナツメは唇を噛み締めた。

 



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02 雷庵vs茂吉

 ナツメが実況席へと戻ってきた時、アリーナにはすでに武道袴姿の茂吉と、上半身を返り血で染めた雷庵が立ち合っていた。仕合はまだ始まっていないから、あの血は理人のものだろう。

 鞘香も実況席に着いていた。その隣になぜか、カルラとエレナが座っている。ナツメに一番に気づいたのはカルラだった。

 

「ナツメ!」

 

 彼女はぱっと笑顔を咲かせて飛びついてきた。

 

「もう仕合が始まるぞ。ナツメもここに座るといい!」

 

 カルラがぐいぐいと腕を引く。そうしてそのまま、ナツメは鞘香の隣の席へと押し込まれてしまった。

 

「離してくれカルラ。私はお嬢の護衛で」

「いいよいいよ、ナツメさんも座っちゃおー」

 

 鞘香は笑っている。彼女は第一仕合の時も、突然実況席に飛び込んできて勝手に仕合の解説を始めた黒人の男を「まあ、いっか」ですんなりと受け入れてしまった。

 そして今回はカルラとエレナ、そしてナツメまでも実況席に招き入れようとしている。この度量の広さは確かに父親譲りだ。

 

「ですがお嬢」

 

 言いかけたその先は、会場に響き渡ったレフェリーの「構え」の号令にかき消された。

 鞘香はすでにマイクを握って実況モードだ。カルラの目もアリーナに向いている。その奥では、エレナが祈るように両手を結んでいた。実際、兄である茂吉の無事を祈っているに違いない。

 茂吉は牧師だから、祈るなら神にだろうか。

 まったく無意味である。彼の安否は神ではなく、あの暴虐な〝魔人〟にかかっているのだから。

 ナツメもアリーナに目を向けた。一瞬、雷庵と目が合ったような気がしたが、確かめる間もなく仕合が始まった。

 雷庵も茂吉も「始め!」の声と同時に飛び出した。

 

「おおお! 序盤から激しい撃ち合いだ! 手数はやや雷庵選手がリード! このまま一気にペースを掴むか!?」

 

 鞘香の熱の入った声が響く。彼女の実況は的確だ。確かに仕合は打撃の応酬から始まり、手数は雷庵が上。しかし、茂吉もそれをすべて捌ききっている。

 両雄譲らず。会場はその光景に白熱した。

 

「……本気じゃない」

 

 隣でカルラが呟いた。ナツメは仕合中の二人に視線を向けたまま、その言葉に同意して頷いた。

 

「どっちもな」

「雷庵は遊んでるんだ」

「そういう奴だよ」

 

 カルラは不満そうだった。彼女は雷庵のことを嫌っている。雷庵のあの性格を考えればそれも当然のことで、寧ろあれに不快感を覚えない方がおかしいのだろう。

 つまりきっと、自分はおかしいのだ。あの性格の醜悪さは理解しているのに、それをたちが悪いとか厄介だとか思いはしても、嫌悪感は微塵もない。

 あいつが誰とどう戦い、誰をどう殺そうが、普段ならば気にも留めなかった。だが、今は――

 開始から一分、仕合は束の間の膠着状態を迎えていた。二人は組み合ったまま動かない。実況席からでは茂吉は背中しか見えず、しかし向き合っている雷庵はひどく愉しげに笑っていた。

 ――この膠着を破るのは雷庵だ。

 その瞬間を感じ取って、体が無意識にぴくりと動いた。

 雷庵が茂吉の道着を掴む。引き寄せる勢いのまま、茂吉の顔面目がけてのヘッドバット。雷庵らしい荒々しい戦法だ。

 しかし茂吉は冷静だった。頭突きを左のショートアッパーで潰し、たまらず離れた雷庵との間合いを間髪入れずに詰めていく。

 茂吉の流儀である『バリツ』は、日本武術とボクシングを掛け合わせたような格闘スタイルだ。ボクシングの素早いフットワークと拳打。柔術の投げと、手や腕に対する関節技など、茂吉が繰り出す技は多彩で、雷庵も対応しきれていない。

 はたから見れば明らかに茂吉が優勢の仕合展開。だが、ナツメの胸中では不安が渦を巻いていた。

 テーブルの上で拳を握り締めると、カルラの視線がそこに向いたのが分かった。

 

「ナツメは、どっちを応援してるんだ?」

「――どっちもしてない」

「……ナツメは嘘吐きだ」

「嘘じゃない。私は護衛者で、このトーナメントを運営する側だ。特定の企業や闘技者に肩入れはしない」

 

 してはいけない立場だし、実際どちらかの応援をしているわけでもなかった。ただ、気がかりなだけなのだ。

 ナツメはちらりとだけカルラの方へ視線を向けた。正確には、その奥にいるエレナに。彼女は相変わらず不安そうな顔で両手の指を結んでいる。

 アリーナに視線を戻す。茂吉が雷庵の右ストレートを掴んだ。その勢いを利用した一本背負いへと流れるように移行する。雷庵は受け身すら間に合わず、顔から地面へと叩きつけられた。

 ドームに大歓声が響いた。観客の誰もが茂吉の勝利を確信し、茂吉自身も雷庵に背を向けて十字を切っている。

 

「ああ、くそ」

 

 ナツメは思わず呟いた。声というより呻きに近かったかもしれない。

 

「ホリスたちは入場口の方か?」

 

 ナツメは雷庵から視線を外さずカルラに尋ねた。「うん、下にいる」との答えが返ってきた。

 

「――まさか、あいつ」

使()()だろ」

「爺様は許可してない!」

「あいつにはそんなの関係ないよ」

 

 雷庵は誰の言うことも聞かないし、誰にも制することはできない。たとえそれが一族の長の言葉だとしても。

 ――唐突に、殺気が弾けた。

 背筋が粟立つ感覚に、ナツメは少し腰を浮かせて体勢を変えた。いつでもアリーナに飛び込めるように。ホリスたちも備えているはずだ。

 完璧な背負い投げを受けて最早戦闘不能と思われた雷庵が、今まで受けたダメージなどまるでなかったかのように立ち上がった。

 その姿はすっかり変貌していた。赤黒く変色した肌。パンプアップした筋肉。その上を、浮き出た血管が這い回っている。

 最早〝人間〟とは言いがたい。だが、その姿こそが呉一族が呉たる所以である。

 人間が普段、意識的に発揮できる身体能力は三割程度。人の肉体というのは存外脆く、それ以上の力に耐えられる造りではない。故に、人の脳には安全装置(リミッター)がついている。「火事場の馬鹿力」と呼ばれるものは、その安全装置が何らかの弾みで外れた状態のことだ。当然意識的にできることではないし、その状態を持続させることも不可能である。

 しかし、それを可能としたのが呉一族の秘技である『(はず)し』だ。

 千年以上、綿々と続けられてきた品種改良によって、呉一族は人間を超越した肉体を手に入れている。だからこそ使える禁忌の技。

『外し』によって引き出せる潜在能力の〝解放率〟は個々の資質による。怜一もホリスも、そしてカルラも、数少ない解放率五十パーセントを越える実力者だ。しかし、雷庵は更にその上をいく。

 ――解放率百パーセント。千年以上の歴史の中でも、極僅かな者しか辿り着けなかった境地だと聞いている。

 雷庵は、バケモノの中のバケモノだ。

 仕合は最早〝闘い〟ではなくなった。圧倒的なパワーとスピードで、雷庵が茂吉を一方的に嬲るだけ。戦闘技術すら用いない単純な力業による蹂躙。

 雷庵は()()()()()()()。歴然とした実力差、己の強さを、この仕合を見ているすべての者に対して。

 

「お願い! もうやめて!」

 

 エレナが泣き叫んでいる。だが、その声が雷庵に届くことはない。

 ――だから、闘技者なんてやめた方がいいと言ったんだ。

 握り締めた手のひらに爪が食い込んだ。隣ではカルラが殺気を滾らせ、テーブルの縁を掴んでいた。天板がみしみしと音を立てている。

 

「外れかかってるぞ」

 

 ナツメが指摘すると、カルラははっとした顔をして、それからまたすぐに忌々しげな形相を浮かべた。

 

「もう勝敗は決まってるのにあいつ!」

「ああ、分かってる」

 

 だが、仕合は止められない。茂吉にまだ闘志があるからだ。闘技者のどちらかが「明らかな戦闘不能状態」或いは「明確な降参」を示さない限り、仕合を止めることはできない。

 或いは、雷庵の実力なら茂吉を一瞬で昏倒させるくらい簡単だ。しかし、あいつは絶対にそんなことなどしないだろう。

 最悪の仕合結果――。それが再びナツメの脳裏を過ぎった。

 

「負けないで兄様ーっ!!」

 

 悲鳴のようなエレナの声に、ナツメは驚いて肩を揺らした。今の今まで「もうやめて」と泣いていたのに、なぜここにきて応援なんて――

 エレナの声が聞こえたのか。茂吉は少し笑って、最後の力を振り絞るように技を繰り出した。否、繰り出そうとした。その前に雷庵が茂吉の顎を打ち抜き、崩れ落ちる体を片手で軽々と持ち上げた。茂吉の喉を鷲掴みにして、凶悪な笑みを浮かべて。

 ――ああ、()()()

 ナツメが腰を浮かせたのと、骨が折れる鈍い音が響いたのは同時だった。

 歓声が消えた。茂吉の首がぐにゃりと曲がり、支えを失った頭がぶら下がる。

 不意に、雷庵の視線がこちらを向いた。気のせいじゃない。今度こそ間違いなく、目が合った。

 

「――っ、止めろレフェリー!」

 

 気づいたらナツメは叫んでいた。

 レフェリーが手を振り上げ、口を開く。その喉から「それまで」の声が響くより先に、雷庵の腕が振り下ろされた。

 ぐちゃり、と。確かに何かが潰れる音がした。

 一瞬の間を置き、エレナの絶叫が響き渡った。その痛ましい叫び声以外、誰もが言葉を失って、会場は静まり返っている。

 

「どうしたテメーら! もっとはしゃげよ!」

 

 その静寂に、嘲り笑う雷庵の声がこだまする。

 

「見たかったんだろ? 〝絶命トーナメント〟がよォ!」

 

 唾を飲み込むと、喉がひりつくように痛んだ。

 そうして立ち尽くしたまま、茫々とする頭の隅で思った。こんな大声を出したのは初めてだ、と。

 考えるべきことは他にいくらでもあったはずなのに、なぜか最初に思ったのはそんなことだったのだ。

 

 

 

 

「さあ! 茂吉選手の容態も気になりますが、まもなく第四仕合開始です!」

 

 鞘香は努めて明るく声を上げた。

 第三仕合の衝撃から、次の仕合が始まるまで少し間を必要としたが、今では観客たちも落ち着きを取り戻し、トーナメント独特の熱気がまた戻ってきていた。

 拳願仕合で闘技者が命を落とすことは間々ある。だがそれは、両者の実力が拮抗し、闘いが白熱した結果そうなってしまったということがほとんどだ。その帰結には一定の理解が及ぶ。割り切り、受け入れることもできるだろう。

 しかし、第三仕合のそれはわけが違った。まだ茂吉選手の安否は不明だが、明らかな「殺意」を持って、愉悦に興じながら、それは故意に行われたのだった。

 観客たちの動揺は当然のこと。鞘香自身も、全身の血が凍りつくような思いだった。

 それでも人々は再び熱を上げる。

 喉元過ぎれば――なんて。結局のところ、他人の死なんてそんなものなのかもしれない。自分だって同じ穴の(むじな)だ。滞りなくトーナメントを進行し、観客たちを楽しませ、遊興させることが自分の仕事なのだから。

 鞘香はアリーナから実況席の方を見た。背筋を伸ばして、会場を隈なく見つめるナツメの姿がある。その表情はいつも通り落ち着き払っていた。

 ――彼女のあんな声を聞いたのは初めてだった。きっと自分だけではない。父も、王森さんも鷹山さんも、他の護衛者の誰も、叫ぶ彼女なんて見たことはなかったはず。その声を、鞘香は一番近くで聞いたのだ。もしかしたら、第三仕合の結末よりもそちらの方が衝撃だったかもしれない。

 彼女はいつだって冷静で、感情の起伏は緩やかだ。笑顔は見せても笑い声を上げることはないし、困惑や不服を抱いても、形の良い眉を少し寄せる程度。焦りは表情には出ない。怒ったところは――少なくとも鞘香は見たことがなかった。

 

「――しょ、勝負あり。雷庵選手の勝利です……」

 

 そう宣言しながらも、鞘香は隣で呆然と立ち尽くすナツメを横目でうかがっていた。その奥に座っていたエレナが泣きじゃくりながらアリーナに駆け下りていっても、カルラがそのあとを追っていっても。彼女はその場から動かず、見開いた大きな目をアリーナに注いでいた。

 何か声をかけなければ……。そう思ったが、言葉が出てこなかった。

 そうこうしているうちに茂吉が担架で運ばれて行き、一人残った雷庵が振り返った。彼は明らかに悦に入った表情で、挑発的な笑みを浮かべて、真っ直ぐにナツメを見たのだった。

 その視線を受けた彼女がどうするか。気が気でなかった。だって、鞘香は知っているのだ。茂吉とエレナに対して、ナツメが随分と心を開いていたことを。あの兄妹に向ける彼女の目の穏やかさを、知っていた。

 一瞬、きつく眉根を寄せた彼女が目を伏せ、深く、深く息を吐き出して。そうして再び目を開けた時、その顔から表情が抜け落ちたのを鞘香は見た。

 何事もなかったかのような顔で雷庵を一瞥したナツメを見て、彼女の中で感情が一つ殺されたのだと分かってしまった。

 三年前、初めて出会った頃の彼女は笑うこともなければ、自分から誰かと関わることもしない、無感動で冷淡な人だった。吊り気味の大きな目だけが、大型獣のそれのように鋭く光っていたのを覚えている。

 彼女がまた、あの頃のように笑わなくなってしまったらどうしよう。

 ふとそんなことを考え、鞘香はやるせない気持ちになった。

 このトーナメントで出会う人々が、彼女にとってプラスに働くことを願っていた。未だ拭えずにいる『中』の呪縛を、彼女がどうにか断ち切るための糧になれば。

 父はそのために、彼女を自身の護衛からわざと遠ざけている。より多くの人たちと関わり合うように。最早〝博打〟のようなものだけれど、どうか良い方向に転んでほしい。皆、そう願っているのだ。

 

「それでは! 闘技者入場!」

 

 第三仕合は、彼女にとって良い影響にはならなかったように思う。続く第四仕合はどうだろう。

 鞘香は選手の呼び込みをしながら「どうか」と願った。

 

「拳願仕合戦績三勝〇敗! 企業獲得資産一五四億一四〇〇万円っ! 山下商事、十鬼蛇王馬っ!!」

 

 ウェーブのかかった黒髪の男が姿を現すと、わっと歓声が上がった。

 聞いた話、彼はナツメが『中』にいた頃の知り合いだという。二人の関係がひどく険悪らしいことも耳に挟んだ。どんな事情があるのかは分からないが、彼女にとって「良い存在」であってほしい。

 実況席にちらりと目を向けたが、彼女の視線は観客席の方を向いて、こちらを見てはいなかった。

 

「続きまして、対戦闘技者入場!」

 

 鞘香は気を取り直して声を弾ませる。

 

「拳願仕合初参戦! ペナソニック、因幡良(いなばりょう)ーっ!!」

 

 入場口に向かって腕を広げ、選手を呼び込む。しかし、そこから現れるはずの闘技者の姿はなく、歓声も当然のように消え、囁くようなざわめきが会場を包んだ。

 

「あ、あれ? どうしたんでしょう?」

 

 鞘香は少しばかり焦って周囲を見回したが、やはり因幡選手の姿はない。

 

「あー……。十鬼蛇選手、もう少しお待ちくださいね。会場の皆様ももう暫しお待ちください!」

 

 司会進行役としては、こういう不測の事態が一番困る。仕合の開始が遅れて、対戦相手や観客たちの苛立ちが募ってしまうと、その対応にも労力を割かなければいけなくなる。

 そうなる前に来てくれるとありがたいのだけど。鞘香は小さくため息を漏らした。

 その時だ。視界の端で黒い影がぬるりと動いて、なんだろうかと横を向いたその眼前に――()()がいた。

 最初に認識したのは、その何かを覆った黒く長い髪の毛だ。それが地面の上に広がって、音もなく(うごめ)いていた。

 鞘香は悲鳴を上げた。昔見たホラー映画に出てきた幽霊のようだった。

 勿論そんなはずはなく、その正体が対戦闘技者の因幡選手だとはすぐに気づいたが、その時には驚きと恐怖で腰が抜けてしまっていた。

 

「み、皆様、お待たせ致しました。これより、一回戦第四仕合を開始致します!」

 

 地面にへたり込みながらも、鞘香はそうアナウンスしてマイクの電源を切った。

 大きな音を立てる心臓を落ち着かせるために一度深く息を吐き、それから視線を実況席の方へと向けた。目が合ったナツメは少し怪訝そうな顔をしていた。だがすぐにスタンドの壁に足をかけると、何の躊躇いもなくアリーナへと飛び降りてきた。

 結い上げた髪をなびかせ、音もなく着地するその姿は身軽でしなやかな猫のよう。

 観客たちがざわめいている。会場にいる誰もが今、アリーナへ降り立った彼女に目を向けているに違いない。こうして注目されることを彼女が好んでいないことは知っている。それでも、

 

「どうしたんだ?」

 

 迷いない足取りで真っ直ぐに向かってきてくれるから、鞘香はそれを嬉しく思ってしまうのだ。

 

「腰が抜けちゃって」

 

 座り込んだまま言えば、彼女は大きな目をぱちりと瞬いた。その視線が因幡の方を向き、それから得心がいったという様子で「ああ」と軽く首を傾けた。

 

「そんなに驚いたのか」

 

 ナツメはちょっと目を細めて笑った。その笑みを見て、鞘香は胸を撫で下ろした。

 ――ああ、良かった。ちゃんと笑ってくれている。

 

「もう実況席に戻っていいんだろう?」

「うん」

「じゃあ、抱き上げるぞ」

 

 彼女が膝を折って屈んだかと思えば、次の瞬間には鞘香の体は地面から離れていた。宣言通りに抱き上げられたのだ。

 ナツメは鞘香より背が高いものの、体格は細身で筋肉がある方ではない。それでもこうしてあっさりと鞘香を横抱きにできてしまうのだから、やはり鍛え方が違うのだろう。

 そういえば以前、彼女が鍛錬中の組手で相手を投げ飛ばしているところを見たことがある。確か、倍くらいの体重差がある相手だったはずだ。自分も含め、見学していた誰もが驚いていたのを良く覚えている。

 

「失礼致しました」

 

 ナツメが闘技者の二人に礼をして背を向けた。その視線が、ずっと下を向いていたのを鞘香は見ていた。いつも真っ直ぐに相手を見る彼女にしては珍しいと思ったが、そこにいるのが誰かを思い出して複雑な気持ちになった。

 入場口の方へ歩いていくナツメの肩口から、そっと後ろを覗き見る。王馬選手が確かにこちらを――ナツメを見ていた。

 その強い視線にどんな感情がこもっているのかは分からないが、彼女はその目を見ないようにしていたのだろう。

 アリーナの明るさと比べると、入場口から続く通路はひどく薄暗く感じた。見上げて目が合った彼女の黒い瞳がいつもより暗く沈んで見えるのは、もしかしたらそのせいだったのかもしれないが、鞘香には確かにそう見えたのだった。

 

「ナツメさん、大丈夫?」

 

 聞いたところでどうせはぐらかされるのは分かっていたが、聞かずにはいられなかった。

 

「それは私じゃなくてお前の方だろう?」

 

 予想通りの返答だ。

 

「歩けそうか?」

「――うん、もう大丈夫だと思う」

 

 その答えを聞いて、ナツメが膝を屈めた。彼女は慎重に、まるで壊れ物を扱うかのような丁寧さで鞘香の足を床に下ろした。

 膝の裏と、背中を支えていた腕が離れて、鞘香は改めてナツメを見た。

 

「大丈夫そうだな」

 

 彼女は口角を少し持ち上げて笑った。僅かに緩められたその目元を見て、思う。

 その奥にどんな感情を押し隠しているのかは分からないけど、できるなら、彼女が自分の感情を殺すことなくありのままでいられるようになってほしい。

 鞘香はそう願うのだった。

 



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03 黒使

 ――ああ、なんで……。

 その疑問に答えてくれる相手はいない。そんなことは勿論分かっていたが、それでも思わずにはいられなかった。なんでお前が()()を使えるんだ、と。

 一回戦第四仕合。その仕合展開は五分(ごぶ)だろうとナツメは予想していた。

 相手の強さは見れば大方推し量れるが、王馬と因幡良の力量にはそれほど差はないと見た。純粋な身体能力だけなら王馬が勝るが、『因幡』が暗殺者の家系であることをナツメは知っていた。「殺し」を生業にしていた時分にその名を聞いたことがあったのだ。

 その暗殺術を加味した上での五分である。

『呉一族』『因幡流』『雷心(らいしん)流』そして『怪腕(かいわん)流』――。これらが暗殺者としての有名どころで、今回のトーナメントには彼らが勢揃いしている。

 第三仕合の『呉一族』に次いで登場した『因幡流』は、その黒く長い髪の毛を武器とした。

 話には聞いたことがあったが、実際にその光景を見るのは初めてだったナツメは、鋼鉄の鎖かはたまたしなやかな鞭のように、変幻自在に操られる毛髪に素直に驚いた。彼ら『因幡流』の者にしかできない芸当だ。

 そうした武術や技があるから、闘いというのは身体能力だけでは決まらない。女の身であるナツメが今日まで生きてこられたのも、体格や体力面での不利を技術で補ってきたからだ。

 技は自分より強い相手を倒すために。脅威から身を守るために。二虎がそう言っていた。

 因幡の髪が腕や首に絡まり、それが幾重にも巻きついたピアノ線のように王馬を締め上げ皮膚を裂く。絶体絶命。だが、その窮地を覆す技を、王馬も確かに持っていた。

 それはあたかも第三仕合で雷庵が見せた『外し』のようだった。

 体表の血管が膨張し浮き上がり、肌が暗赤色に変化する。見開かれた血走った目。凶暴な笑み。

 驚異的なスピードで攻め立て、因幡を圧倒する王馬の姿に会場が熱狂する中、ナツメだけは血の気が引くような思いだった。

 ナツメは王馬のあの姿が何かを、あの技が何かを知っている。あれは『外し』ではない。『外し』は呉一族の肉体を以て初めてなせる技で、王馬のそれは似て非なるものだった。

 ――ああ、王馬……。なんでお前が()()を使えるんだ。二虎がお前に教えるはずはないのに!

 自分のものではない鼓動の音が、鼓膜を打ちつけるように響いている。心臓を叩き壊す激しさで脈打ち、血管を破裂させる勢いで血液が循環する音だ。比喩ではない。あれは本当にそういう技なのだ。使い方を誤れば死に至る技だ。二虎が教えるはずがない。

 二虎じゃないなら一体誰が?

 不意に、一人の男の姿が脳裏をよぎった。

 ――いや、そんなまさか。だって〝あの人〟から王馬の話なんて出たことがない。そりゃ、存在を知らなかったわけではないだろうが、二虎がいるのに〝あの人〟があれを王馬に教える理由がどこにある? けど、だったら他に誰が……。

 思考がぐるぐると回って、そこから何にも集中できなくなった。そうして気づけば、仕合は王馬の勝利で幕を閉じていた。

 一回戦は全部で十六仕合。四仕合毎にAからDの四ブロックに分けて進行していく手筈で、Aブロックが終わった今から一旦休憩に入る。

 それを告げるアナウンスを鞘香が行うまで、ナツメは王馬が立ち去った入場口を見続けていた。

 体をほぐすように伸びをした鞘香が振り向く。目が合った瞬間、彼女は驚いた顔をして、それからすぐに形の良い眉を寄せた。

 

「どうしたの、ナツメさん」

 

 椅子から立ち上がった彼女は慌てているようだった。その隣で、初めからそういう役回りであったかのように仕合の解説をしていた黒人の男――ジェリー・タイソンが、同じように振り向いてから目を丸くした。

 

「OH! ナツメSAN、BADな顔色してマス!」

 

 ()()()な顔色ってどんなだ。自分では分からなかったが、鞘香やジェリーの様子を見る限り、明らかに良くないと見て取れる状態なのだろう。

 

「心配いりません」

「NO、痩せ我慢は良くアリマセーン!」

「次の仕合まで時間あるから、少し休もう?」

「自分は大丈夫ですから」

「だめだよナツメさん。私のことなら気にしなくていいから」

 

 今日は鞘香に心配をかけてばかりいる。ナツメはそれを情けなく思った。守るべき対象を不安にさせて何が『護衛者』だろうか。

 集中しなくては。今は鞘香の護衛が自分に課された任務なのだから。余計なことは考えなくていい。

 余計なことってなんだ? 王馬のことか、茂吉のことか、雷庵のことか。それとも〝あの人〟の? 王馬は、あいつはずっとあんな闘い方をしてきたのか? あの技をあんなふうに使ってたら身が持たない。きっと死んでしまう。だってあいつは私とは違うんだから。ああ、茂吉はどうなっただろう。蘇生はうまくいったのか。エレナはどうしてる? カルラは一緒にいてやってるだろうか。どうして雷庵は……。

 まとまらない思考が渦を巻き、頭の中を乱雑に掻き回している。ナツメは当惑した。今まで何度も繰り返しやってきた思考や感情の切り捨てが、どうしてかうまくできない。

 鞘香の言う通り、少し休むべきだろうか。ふと考え、しかしすぐにそれを否定した。体を休めてしまうと、その分思考に意識を持っていかれてしまう。

 大丈夫、心配いらない。そう言った手前、そんな理由を口にするわけにもいかず、ナツメは他に返す言葉を探して視線を宙にさまよわせた。

 その目に、王森と鷹山を従えてこちらへ歩いてくる御前の姿が映り込み、なぜこんなところにと考えるよりも先に頭を下げていた。

 

「よいよい、楽にしてて構わんぞい」

「パパ!」と鞘香が御前に駆け寄った。「こんなところまでどうしたの?」

「なに、ただの退屈しのぎじゃよ」

「御前、あまり不用意に出歩かれては」

 

 どこに御前の命を狙う者が潜んでいるか分からない。王森と鷹山がそういった輩に遅れを取ることはないだろうが、それでも用心するに越したことはない。

 この仕合会場はボウルのようなスタンド形状で、観客席のどこからでも一定の視認性が確保されている。見通しが良いということは、即ち〝標的〟を狙いやすいということなのだ。

 そんなナツメの心配をよそに、御前はほっほと肩を揺らして笑った。

 

「お主も烈も、若いくせに固いことばかりじゃのう。年寄りには()()()()()が必要なんじゃよ」

 

 それでもしものことがあったらどうするのだろう。そう思ったが、その〝もしも〟を防ぐことが自分たち護衛者の仕事なのだと思い直し、ナツメは口を噤んだ。この人はどうせ言っても聞いてはくれないのだし。

 

「じゃが、お主には少しばかり刺激が強すぎたかの」

 

 顔を覗き込まれて、ナツメは思わず眉を寄せてしまった。鞘香やジェリーに指摘された顔色の悪さを、己の情けなさを、この人に見られたくなかったのだ。

 

「少し気晴らしにでも行ってきんしゃい」

「いえ、自分は」

「今し方、烈から連絡があってのう。どうやら招いておらぬ客が来ておるらしい。すまんがちょいと()()()()に行ってきてくれんか」

「……分かりました」

 

 そう答えるしかなかった。

 御前の背後をちらりと見やる。王森も鷹山も、じっとこちらを見ていた。その視線に込められた感情が何なのか。覗こうとして、やめた。それが自分に対する失望や幻滅であったらと思うと、その目を見返すことがどうしてもできなかった。

 

「場所は東の海岸線だそうじゃ」

「東海岸……。あそこからなら、移動するにも潜伏するにも『滅ビノ森』に行くかと思いますが」

「うむ、お主の判断に任せよう」

「ではすぐに」

「ああ、ナツメや」

 

 踵を返そうとして、しかし御前に呼び止められたナツメはもう一度彼の方を見た。

 

「殺してはならんぞ」

「――御意に」

 

 答えて、ナツメは今度こそ会場を飛び出した。

 

 

 

 

『滅ビノ森』は、拳願ドームから南東へおよそ五キロ下った場所にある。願流島の南部にそびえる高山の、その東の麓に広がる鬱蒼とした森だ。

 生い茂る樹木が日の光を遮り、昼間でも薄暗くて陰気な雰囲気に満ちた森。日陰で生きる者が身を潜めるのに相応しい。

 最短の道を辿って駆けるナツメの意識に、何者かの気配が引っかかった。集団だ。十人ほどだろうか。隠密行動を取っている様子はなく、ならば侵入者ではないだろう。おそらくは護衛者。滅ビノ森方面からやってきたようだが、あの辺りの警備はどこの隊の持ち場だったか。

 少し考えたが、どうせこのまま進めばかち合うのだから、見て確かめればいい。ナツメは駆ける速度も落とさずに前へ進んだ。

 そうしてすぐ、前方の木々の間から黒服の集団が現れた。その先頭にいたのは吉岡と、二番隊隊長の(ジェイ)だった。

 

「ナツメ! なぜここに?」

 

 驚いた様子で声を上げた吉岡に「御前の命だ」と返し、視線を周囲に走らせた。彼ら以外の気配はない。

 

「侵入者は?」

「殲滅部隊が対応しています。我々は『北の断崖』へ」

 

 吉岡の返答にナツメは眉を寄せた。

 この島の北側には、一ヶ所だけ陸地が海に突き出るようになっている場所がある。叩きつける波に削られてほとんど垂直に切り立った断崖絶壁であり、島内への侵入には最も不向きな場所であり、一番警備が手薄な場所である。

 

「烈――若の指示か?」

「そうだ。付近にいる者は全員急行するようにと。俺たちも向かうように指示を受けた」

 

 Jが言う。それだけの人員を動かすということは、烈堂には何らかの確信があるのだろう。自分もそちらに向かうべきだろうか。

 そんな僅かな逡巡を見透かしたように、Jが更に言葉を続けた。

 

「伏野、お前はこのまま殲滅部隊の加勢に向かってくれ」

「加勢が必要な相手か?」

 

 尋ね、ナツメはJの左腕に目をやった。微かに血の匂いがする。

 

「J、その腕は」

「擦っただけだ、気にするな。若たちなら問題ないだろうが、面倒な相手であることに変わりなくてな」

「覚えのある侵入者か?」

「『黒使(こくし)』です。あなたもご存知かと思いますが」

「――ああ、知ってる」

()()()()()?」

 

 ナツメは吉岡の目を見た。その隻眼に気遣わしげな(かげ)りがあることに気がついて、本当にどうしてこいつは、私の変化にすぐに気づいてしまうのだろう、と不思議でならなかった。

 

「問題ない。殲滅部隊はこの先だな?」

「……ええ、このまま南へ真っ直ぐ」

 

 聞くが早いか、ナツメは再び地を蹴った。

 今はとにかく、何でもいいから何かしていたかった。闘うことは別に好きではないが、御前の言う通り「気晴らし」にはなるだろう。敵を前にしていればそれだけに集中していられる。余計な思考に囚われずに済む。

 一度頭を空にして、平静を取り戻さなくてはいけない。

 日光を遮られた滅ビノ森は、真夏の昼間だというのに陰々として、冷たい湿気を帯びた空気で満ちていた。

 その空気を伝って届く殺気のもとまで辿り着くと、ナツメは躊躇することなくその場に飛び込んだ。

 自分と同じ黒いスーツに「SB」の文字が入った腕章をつけた男が四人、吉岡たちと同じように驚いた顔を見せた。

 

「なぜお前がここにいる」

 

 顔の左側にタトゥーを入れた赤毛の青年が言った。滅堂の実子である片原烈堂だ。二十歳そこそこという若さでありながら、殲滅部隊の隊長を務める男である。

 殲滅部隊の構成員は烈堂を含めてわずか四人。元一番隊隊長で剣の使い手である皆生(かいけ)。元五番隊隊長の三朝は烈堂の拳法の師であり、徒手格闘を得意とする。最後の一人、元八番隊隊長の羽合(はわい)は、トーナメントの第二仕合に登場した河野春男を凌ぐ巨体の持ち主だ。

 

「御前に客人をもてなしてくるように言われまして」

 

 ナツメは烈堂と一度目を合わせてから、彼らが対峙している相手に視線を向けた。

 黒いレザーのロングコートに身を包んだ男が五人、手に手に得物を持って立っている。

 

「あれが『黒使』ですか」

「ああ。知ってる顔がいるか?」

「いえ、噂に聞いたことがあるだけです。『六蠱(りくこ)』にはあまり行ったこともないので」

 

『六蠱』は不法占拠区の六番街であり、『中』でも屈指の無法地帯だ。『黒使』はその『六蠱』出身の、裏の世界では名の知れた殺し屋集団である。

 

「――伏野ナツメ」

 

 五人の黒使の中で、その先頭に立つ男が口を開いた。槍を手にした整った目鼻立ちの男で、目を合わせると、その槍使いは薄らに笑みを浮かべてみせた。

 

「君の噂は良く耳にしていたよ。同じ『中』出身の殺し屋として、勝手に親近感のようなものを抱いていたし、君に対する憧れや嫉妬もあった」

「有名人だな」

 

 烈堂の冷やかしに、ナツメは一つ瞬きをした。

 

「嬉しくはありません」

「そりゃそうでしょうよ」三朝が笑って言った。

「こんな森の中で、揃いも揃って長物なんか持ってる馬鹿に親近感持たれてもね、頼むから一緒にしないでくれってもんです」

 

 こうして相手を煽るのは三朝の悪い癖だが、確かな実力があってのことだから誰も強く咎めはしないし、ナツメも気にしたことはない。

 槍使いは「口が悪いね」とこぼすと、再びナツメの方を見た。相変わらず笑みを浮かべているが、その目はどこか仄暗い感情を湛え、じりじりと焼けているようだった。

 

「これが君の仲間か。君が護衛者になったと聞いた時も驚いたけど……。変わったね。丸くなった、いや、()()()()()()のかな。誰におもねることも頼ることもなく、不羈奔放(ふきほんぽう)と生きる君の強さに惹かれたこともあったけど、『外』に出てすっかり腑抜けたようだね」

「安い挑発だな」

「事実を言ってるだけだよ。昔の君なら相手に喋る隙なんて与えなかった。とっくに僕を殺そうとしていただろうさ。〝爪〟の立て方も忘れたのかな」

「お前たちを殺すわけにはいかないんだ」

「ああ、命令に素直に従ってるわけか。『中』では畏怖の対象だった君が、今じゃ『滅堂の飼い猫』がお似合いだ」

 

 その一言で空気が変わった。それまで静観していた殲滅部隊の面々が、明らかな敵意を滲ませたのだ。

 

「弱い犬ほど良く吠えやがる」

 

 スラックスのポケットに手を突っ込んだまま、三朝が一歩前に出た。

 

「若、やっぱりこいつら殺しちゃだめですかね」

「だめだな」

「三朝、私は気にしてない」

「あんたが気にしてなくても私が気に食わないんでね」

「御前の命は生け捕りだ」

「その御前のことも侮辱したようなもんです」

「三朝」

 

 不機嫌そうな猫背にもう一度声をかけた。三朝はたれ目にかかる重ための瞼を半開きにして、何か言いたげにナツメを見た。

 

「あんな口が叩けないようにすればいいだけだ」

「そういうことだ」

 

 ナツメに続いて烈堂が言った。

 

「それに、死ねない方がつらいからな」

 

 冷ややかな笑みを浮かべて付け加えた彼に、三朝は肩を竦めて「分かりましたよ」と頷いた。

 

「そういうわけだ。覚悟しろよ、疫病共」

 

 烈堂が言い放ち、全員が身構えた。

 ナツメはベルトに通したシースからナイフを取り出そうとして、だがすぐに生け捕りだったな、と考え直して徒手に構えた。

 ナツメは手加減が下手だ。三朝を押し止めておきながら()()()()があってはまずい。

 息を吐き、冷たい湿気と殺気が混ざり合った空気を鼻から吸い込む。頭の芯が冷えて、雑音も雑念も消えていく。

 ――そう、この感覚が欲しかった。

 



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04 殲滅部隊

 黒使の槍使いが飛び込んできた。鋭い穂先が眼前に迫る。しかし、ナツメが回避のために足を引くより早く、横にいた烈堂がそれを弾いた。

 

「デカい口叩いておいて、真っ先に狙うのは女か」

()()()()()()敬意を表したつもりだよ。いくら腑抜けたといっても、ただの女じゃないことは君たちも知ってるだろう?」

「若、こいつは自分が」

 

 言い終わる前に、烈堂がスーツの上着を脱いでこちらに投げて寄越した。

 

「持ってろ」

「若、あの」

「汚すなよ」

 

 烈堂はこちらに目もくれない。その背中に滲む不機嫌な気配に、ナツメはしかたなく口を閉じた。

 そうして受け取ったジャケットを持ち直し、同時に一歩足を引いた。瞬間、目の前に横から鋭い刃が突き出てきた。その刀身に映り込んだ自分と目が合う。良く磨かれた美しい刃だった。きっとよく斬れるに違いない。

 更にもう二歩下がって腰を落とすと、頭上を風切り音が通過した。その穂先を目で追う。得物は薙刀だ。その先には黒い髪を後ろに撫でつけた男がいた。

 

「いい反応だ」

 

 男は口の端を持ち上げて笑った。それを横目に、ナツメは周囲に視線を走らせた。

 黒使は五人。対するこちらも自分を含めて五人。五対五、一人一殺。――違う、殺しはなしだ。

 すでに全員相手が決まっているようで、ナツメも改めて薙刀使いを視界に入れた。

 長物の相手は面倒だ。リーチの差というのは、大抵の場合は長い方に有利に働く。相手の攻撃が届かない場所から一方的に攻め立てることができるのだから。

 間合いの外から攻撃されては近づくことも難しい。しかし、間合いを詰めなければこちらの攻撃は届かない。

 リーチ差で不利を強いられた側がそれを打開するもっとも単純な方法は、相手の攻撃を掻い潜り、懐に入り込んで間合いを潰すことだ。インファイトに持ち込めばリーチの差は関係ない。

 そもそも、長物相手といってもこの鬱蒼とした森の中である。武器の名前にもついているような薙ぎ払いの技を活かせる環境ではない。となれば、もっとも警戒すべきは刺突。だが、それは()()()()

 男は中段に構え、その穂先を真っ直ぐにナツメの体の中心に向けている。当然だが、簡単に踏み込ませる気はないらしい。

 

「武器を抜かないのか」

 

 男の問いに対し、ナツメはジャケットを持ち上げた。

 

「手が塞がってる」

 

 瞬間、鋭い切っ先が喉元目がけて突き込まれた。わずかに体を開いて回避するのと同時に、薙刀の柄に触れる。

 そう、()()()()()でいい。重要なのはタイミングである。相手の力の流れを見極め、そこにほんの少しだけこちらの力を加えてやるのだ。それだけで流れが乱れ、相手は自身の力を制御できなくなる。

 これが『二虎流』の技の一つ、操流ノ型(そうりゅうのかた)――〝(やなぎ)

 ナツメはこの技が好きだ。体格差も筋力の差も、技術一つで覆せる。それを証明するのに最適な技だと思っている。

 男は自身が放った突きの勢いに引き摺られてバランスを崩した。両腕が伸びて、胴体ががら空きになる。ナツメはそこを容赦なく左足で蹴り込んだ。肋骨が砕ける鈍い感触を感じながら、更に踏み込む。痛みと苦しみに悶え、(こうべ)を垂れるように体を折った男の顔を蹴り上げる。

 鼻が折れたか、歯が折れたか。男は血を撒き散らしながら吹っ飛ぶように倒れ込んだ。

 男はくぐもった呻き声を漏らし、ナツメは男にまだ意識があることに驚いた。

 手間をかけたくなかったから、さっさと決めるつもりで加減なしに蹴り込んだのだ。それこそ、頭蓋をかち割るくらいの勢いで。それで失神してないのだから、ナツメが思ったよりずっとタフなようだ。

 男はうつ伏せになり、起き上がろうと地面に腕をつく。下を向いた顔からはボタボタと血が滴っていた。

 男の手が取り落とした薙刀へと伸び、ナツメはその手を踵で踏みつけた。靴底からまた、骨が砕ける感触がした。

 男は獣が短く唸るような声を上げ、鼻と口から血を垂れ流し、それでも反対の手でナツメの足首を掴んだ。睨み上げる血走った目は、まだ戦意を喪失してはいない。

 普通なら()()()いてもいい状態だが……。男を見下ろし、ナツメは考えた。そうして不意に思い至る。

 ――ああ、そうか。普通じゃないんだな。こいつらは『中』の人間だから。

 抵抗をやめて降参すれば、捕虜として人道的に扱ってもらえる。なんて、そんな慈悲深い現実はない。この場で殺されずとも、その先で待っているのは拷問に次ぐ拷問だ。あらゆる手を使って情報を吐き出させ、それが終われば用済みとして〝処理〟される。

 自分たちが身を置いているのはそういう世界だと、こいつらは良く知っている。だから、簡単には折れない。折れるわけにはいかないのだ。その瞬間、己の〝死〟が確定するのだと分かっているから。

 ナツメもそれを知っている。

 足下に転がった薙刀が視界に入った。鋭い刀身の艶やかな輝きは、まるでナツメを誘っているかのようだった。

 

 ――殺せ。

 

 耳元で、頭の中で、囁く声がした。

 捕まって拷問を受けた挙句に殺されるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだろう。

 そんな考えが頭をよぎり、ナツメは薙刀から視線を引き剥がした。

 自分の仕事はこいつらを生きたまま捕らえること。それが御前の命であり、背くなんて選択肢はない。私は護衛者なのだから。だから、そのあとでこいつらがどうなろうと自分には関係ない。

 ナツメは足を引いて男の手を振りほどいた。それでもまたふと考えてしまう。実際のところ、御前はどうなさるのだろうか。

 こいつらを生け捕りにして情報を吐かせたあと、やはり始末するのだろうか。それとも、己の命を狙っていた暗殺者さえ護衛者として招き入れたように、こいつらにも機会を与えるのだろうか。

 ナツメは男と目を合わせた。地面に這いつくばったまま、こちらを睨み上げるその目には怒りと憎悪が浮かんでいる。震える唇が動き、そこから血反吐と共に怨嗟の声が吐き出された。

 

「バケモノめ」

 

 ナツメは黙ってその言葉を受け止め、返答の代わりに足を上げた。男の顎を蹴り抜いて、今度こそ黙らせるつもりだった。

 大きな影が自分と男の上に落ちて、それが羽合の影だと認識した時には、彼の大きな手が男の頭をわし掴みにしていた。羽合はその巨体に見合う怪力で、男を軽々と持ち上げた。

 宙吊りになった男は足をばたばたと動かして抵抗したが、それが煩わしいとでもいうように、羽合は男の体を近くの大木に叩きつけた。

 男の体が弛緩する。羽合が手を離すと、男は木の幹に沿ってずるずると崩れ落ちて動かなくなった。

 ナツメは目をしばたかせ、周囲を見回した。残りの黒使も全員地に伏している。どいつもこいつも、本当に生きているのかと疑いたくなるほどだった。

 

「やりすぎじゃないか?」

「いやいや、足りないくらいでしょう」

 

 三朝が猫背を丸め、木にもたれて失神している薙刀使いを足先で小突いた。

 

「鼬の最後っ屁ってやつですかね。気にすることはありませんぜ」

「……私よりお前たちの方が気にしてるように見える」

「さて、それこそ気のせいじゃないですかね」

 

 三朝はおどけるように肩を竦めた。

 

「伏野」

 

 呼ばれて振り向くと、皆生が手に持っていた刀を鞘に納めるところだった。

 

「若のスーツがしわになる」

 

 指摘され、ナツメは「あっ」と声を漏らした。いつの間にか、手に持ったジャケットを強く握り締めていた。急いで広げて、自分の体に押し付けるようにしながらしわを伸ばした。

 

「申し訳ありません、若」

「それくらい構わねえよ」

 

 烈堂はそう言ってから片手を差し出した。

 

「煙草は潰してねえだろうな」

 

 ナツメはジャケットをまさぐった。ポケットに手を入れ、取り出した煙草の箱が潰れていないことを確認し、それから烈堂に手渡す。続けて、反対のポケットからライターを発見した。烈堂はすでに煙草を咥えている。すぐに火をつけて差し出したが、烈堂はそんなナツメを一瞥して「そこまでしろとは言ってねえよ」とライターを奪い取って自分で火をつけた。

 日の当たらない湿った森の空気に、白い煙がすぐには霧散することなく辺りを漂い始める。

 そういえば、もうしばらく吸ってないな。

 ふとそんなことを思ったのは、その最後の記憶が『中』にいた頃だからだろう。別に愛煙家だったわけでも依存症になるほど吸っていたわけでもないから、吸わなければ落ち着かないということはないが。

 ナツメは滞留する煙を何気なく目で追った。そんなナツメの手から烈堂がジャケットを回収し、「こんなもんか」と紫煙を吐き出した。

 

「お前が存在を認識してるくらいだから、もう少し歯応えがあるかと思ったんだがな」

 

 その言葉を受けて、ナツメは黒使の槍使いを見下ろした。

 槍使いはもはや虫の息で、岩を背にして座り込んでいる。散々殴られ蹴られしたその顔は、もとの端正さなど見る影もないほどに腫れ上がり、流れる血が地面に黒い染みを作っていた。意識があるのかどうかも分からない。

 そうして戦闘から解放された頭に、じわりと染み出るように浮かんできた声があった。「変わったね」と。その声の主はまさしく変わり果てた姿で、ナツメの目の前で四肢を投げ出しているわけだが、この男が言った「変わった」がそういう外見的な話ではないことくらい分かっている。

 

「考えごとですかい?」

 

 いつの間にか隣に立っていた三朝に聞かれ、ナツメは槍使いから目を離した。

 

「さっきこいつが言ったことも、気にする必要ありませんよ」

「『滅堂の飼い猫』か? それなら本当に気にしてないよ」

「他で気にしてることはあると」

「……お前はすぐにそうやって揚げ足を取る」

「そりゃ失礼」

 

 三朝は悪びれる様子もない。

 

「それで? 何が気になってるんです?」

「別に」

「別に何も、以外の返答で頼みますよ」

 

 先回りをされてナツメは押し黙った。

 吉岡ならあえて触れずに一歩下がって静観してくれるところを、三朝は逆に一歩踏み込んでくる。だが決して踏み荒らしはしない。ナツメが返す言葉を探して口を噤むと、何でもないような顔で立ち止まり、まるで世間話でもするような気軽さで話しかけ、先を促すのだ。狡い男だと思う。

 

「ドームで何かあったんですかい?」

 

 三朝がその猫背を更に丸めながらナツメの顔を覗き込んだ。

 

「そんな分かりやすく顔に出てるか?」

「いやまったく? ですがまあ、御前があんたをこっちに寄越したってことは、あっちで何かあったんだろうなとは想像つきますぜ。気晴らしに体でも動かしてこいってとこでしょう?」

「……なんで分かるんだ」

「そりゃあ、あんたとの付き合いも三年になりますしね。多少なりとも理解はしてるつもりです」

 

 理解――。ああ、きっとそうなのだろう。三朝や吉岡の態度、御前の心配りがそれを証明している。嬉しいような気恥ずかしいようなくすぐったさがあるが、それ以上に「情けない」とナツメは思ってしまうのだ。

 

「第三仕合、もしくは第四仕合。或いは両方、ですかね?」

「……分かってて言ってるだろ」

「いやいやそんな。私らが知ってるのなんて仕合結果くらいなもんでさあ。その内容がどうであったかまでは詳しく知りません」

 

 ナツメは三朝の目を見た。彼はそれを真正面から受け止めて、それでもどこ吹く風と笑っている。これは大体のことは把握している顔だ。

 

「ですが、そうですねえ。第三仕合はあんたが親しくしてる相手同士の闘いで、第四仕合にはあんたの弟が出てたってことは知ってますぜ」

「弟?」

「おや、違いましたか? 『中』にいた頃の弟弟子だと小耳に挟んだんですがねえ」

「……私が喋ったことは全部筒抜けか」

「情報収集も仕事のうちなもんで。自分から呉の連中に話したってことは、別に知られて困るようなことじゃないんでしょ?」

「私は困らないけど、あいつの耳に入ったら大変なことになりそうだ」

「あちらさんはあんたが姉弟弟子なのが不満なんですかい?」

「……不満、どころじゃないだろうな。私はそもそも弟子には相応しくなかったし、あいつには嫌われてた。それに――」

 

 二虎の死を切り捨てた。悲しむことも怒ることもせず、しかたがないと諦めて背を向けた。そんな薄情な奴に弟子を名乗る資格はないし、王馬はそれを決して許さないだろう。

 

「それに、なんです?」

「いや……」

「そこまで言っておいてだんまりですか。そうやってすぐに自分の中に溜め込んじまうの、あんたの悪い癖ですぜ」

 

 三朝は軽く肩を竦め、それから諭すように言った。

 

「いいですか、ナツメ。何でもかんでも腹に押し込んだって消化不良起こすだけですぜ。特にあんたはこの二、三日でいろいろあったみたいですからねえ。まだ頭の整理もできてない感じでしょ? そういう時は誰かに話して、吐き出せるもんは吐き出しちまった方がいいんですよ。ほら、あんたの目の前にちょうどいい聞き役もいることですし」

 

 ナツメは三朝の顔をまじまじと見て、それから自分の背後にも目を向けた。耳に無線機を当てた烈堂と目が合ったが、彼はすぐにこちらに背を向けてしまった。皆生と羽合もそっぽを向いて素知らぬ顔をしている。

 ――気を遣われている。そうと分かって、ナツメは改めて三朝と目を合わせ、それから視線を宙にさまよわせた。

 自分の頭や心の中にある個人的なわだかまりを誰かに吐露した経験などないに等しく、何をどう話せばいいのか分からなかった。

 そうして行き場を失った視線は、特に何を意識したでもなく再び槍使いの方へと落ちていった。

 変わったね、と頭の中でまた声が響いた。

 

「――私は、この三年で何か変わっただろうか」

「……なに、と言いますと?」

「こいつは腑抜けたと言ったけど」

「その結果がこれじゃあ世話がねえ」

「雷庵にも、同じことを言われたんだ」

 

 だが、あいつは「何も変わってない」とも言った。人間の真似をしてるだけ。だから簡単に化けの皮が剥がれる、と。

 ナツメはあの時、その言葉を否定できなかった。むしろ確かにその通りだと認めたのだ。現に今だって、生け捕りという命があるにも関わらず、一瞬でも捕縛対象を殺すことを考えてしまった。

 そうやって簡単に人の生き死にを扱うくせに、王馬や茂吉のことはまるで割り切れずにいる。

 雷庵の言う通り自分が何も変わっていないというのなら、この感情は切り捨てられてなければおかしいのだ。そして、切り捨てられないせいで鞘香や御前に心配をかけてしまっている。

 

「あまり強く握ると怪我しますぜ」

 

 三朝に手を取られて、ナツメは知らぬ間に拳を強く握り締めていたことに気がついた。

 

「自分を傷つけるような真似は流石に感心しねえなあ」

「そういうつもりじゃ」

「ええ、そりゃ分かってますがね。それで? どうなんです?」

「どうって、何が」

「自分でも、腑抜けたと思ってるんで?」

 

 ナツメは開いた手に視線を落とした。手のひらには爪の跡がくっきりと残っている。それ以外にも、ナツメの手にはいくつもの傷跡がある。

 

「……私はもう、『中』にいた頃みたいに振る舞う気はないよ。それは、護衛者として相応しくないって分かってる。それが腑抜けたってことなら、それでいい。でも……」

 

 この手で一体何人殺したかは覚えていない。ナツメにとって他人の命なんてその程度のものだ。死んだらそれで終わりなのだから、覚えてたってしようがない。

 ずっとそうやって割り切ってきたはずだ。

 

「できてたはずのことまでできなくなってて、どうしたらいいのか分からない。お前の言う通り、いろいろ予想外のことがありすぎて、少し、混乱してる」

 

 自分でそう言ってから、そうか、私は混乱しているのか、と今更な自覚をした。それがあまりにも情けなくて、ナツメは己の額に手を当てて俯いた。

 

「どうしました?」

「いや」

 

 なんでもない、と言いかけてナツメは言葉を飲み込んだ。悪い癖だと指摘されたばかりだと思い直したのだ。

 

「ほんと、しょうがねえなあ」

 

 三朝の呆れたような笑い声が聞こえた。地面に落とした視界に自分と揃いの黒い靴先が入り込んだかと思うと、すぐに頬を挟まれて強制的に前を向かされた。

 

「ほら、顔上げてくださいや」

「……無理やり上げてから言うな」

 

 文句を言っても三朝は余裕の笑みを崩さない。

 

「さあ、続きをどうぞ」

 

 ナツメはため息を吐いた。

 

「情けなかっただけだ。自分で自分のことが分からないなんて」

「『いろいろありすぎて混乱してる』って、自分で言ったばかりですぜ」

「そもそもそれがおかしいんだ。昔の私なら、もっとちゃんと割り切ってた」

「そりゃあんたが変わったからでしょうよ」

 

 三朝がしれっとした顔で言うものだから、ナツメは目を丸くした。

 

「三年もありゃ人は変わります。特にあんたはそれまでとは大きく環境が変化したわけですし、それで変わらない方がおかしいってもんです。一体何があって、何を割り切ろうとしてんのかは知りませんが、割り切れないなら割り切らなくていいんじゃないですかね。そうできないくらい、今のあんたにとって重大な事態ってことでしょ」

 

 三朝は「違いますかね?」と付け足して、ナツメの頬から手を離した。ナツメはそれを追うように視線を落とし、少し考えてから「そうかもしれない」と言った。

 

「けど、このままじゃまた、御前に迷惑をおかけしてしまう」

「迷惑だなんて思うようなお方じゃないでしょう」

「私がいやなんだ。鞘香にも心配をかけてるし」

「あー、あんたらしいっちゃらしいですがね。だからって焦ってどうにかしようとしたって、そううまくはいかねえもんだぜ」

 

 三朝は少し眉を下げて、困ったような顔で笑った。それからスラックスのポケットに手を突っ込み、また背を丸めてナツメの顔を覗き込む。

 

「それにですよ。護衛者としてどうすべきか、ではなく、自分がどうしたいかを考えるべきだと思いますぜ」

「自分がどうしたいか?」

 

 ナツメは困惑して三朝の目を見返した。

 

「だって、私は『護衛者』だ」

「そりゃ勿論、あんたは大事な同僚ですぜ。ですが、まずは『一人の人間』だってことを尊重してやりましょうや。護衛者の一員としての立ち居振る舞いは当然大事ですがね、そのことをいったん抜きにして、自分自身がどうしたいのか。それを考えるだけなら、別に何も問題ありません。その結果を行動に移すかどうかは、そのあとでまた考えりゃいいんです。その頭は飾りじゃないでしょう?」

 

 そこまで言って、三朝はやれやれと肩を竦めておどけるようにまた笑った。

 

「いやはや、年を取ると説教臭くなっていけねえ」

「……私より若いだろ」

「一つ違いなんて誤差ですぜ。それに私は、護衛者としてならあんたよりうんと先輩なもんで。ああ、だからって別に先輩風吹かすつもりはありません。私はただの平隊員で、あんたは御前直属の護衛ですからねえ。上から物を言うなんてとてもとても」

 

 どこまでが本気でどこまでが冗談なのか。考えあぐねて眉間に皺を寄せたナツメに、三朝は「美人が台無しですぜ」と更にのたまう。

 そんな三朝の軽口に、ナツメはすっかり気が抜けてしまった。そうしていつの間にか、雑然としていた頭の中が静かになっていることに気づく。

 ああ、こういうことか。ナツメは納得した。三朝の言う通り、誰かに話して吐き出してしまうというのは有効な手段なのかもしれない。何が解決したわけでもないが、少なくとも冷静にはなれたのだから。

 

「ごめん、余計な気を遣わせた」

「そこは謝るところじゃありませんぜ。私が好きで世話焼いただけですしね。むしろこちらとしては、あんたがこうして話してくれて嬉しい限りです」

「嬉しい?」

「ええ、私らをそれだけ信頼してくれてるってことですからね。悩みごとも自分の弱ってる姿も、気を許した相手にしか見せられないもんでしょう?」

 

 確かにそうかもしれない。自分が特にそういう傾向にあることも、ナツメは自分自身で理解している。

 護衛者の中でナツメが一番気心の知れている相手は吉岡だが、三朝もまた気の置けない相手だ。物腰は柔らかくとも性質自体は随分と異なる二人だが、それでも気づけばどちらとも打ち解けていた。

 この二人がいなかったら、自分はここまで『護衛者』という集団の中に馴染むことはできなかっただろう。その自覚がナツメにはあった。

 

「ありがとう」

「いえいえ、これくらいいくらでも。私としちゃ役得なんでね」

 

 おどけるような三朝の言葉に、ナツメは曖昧に笑った。

 後ろを向くと、ちょうど連絡を終えたらしい烈堂が新しい煙草に火をつけていた。おそらく、こちらの話が終わるタイミングを見計らっていたのだろう。

 そんな様子などおくびにも出さず、烈堂は「北の岸壁に向かった奴らからの報告だ」と切り出した。

 

「タンカー一隻の接岸を確認したそうだ。中は既に無人。賊は島内に侵入済みだ」

「若、やはり黒使は」

 

 そう口を開いた皆生に、烈堂は「ああ、囮だ」と頷いて紫煙を吐く。

 その顔に焦りや苛立ちは見えなかったが、胡乱げに光る目が事の重大さを表していた。

 ナツメは道中で北の断崖に向かう吉岡とJに出くわしている。二人は烈堂の指示だと言っていたから、彼は侵入者の存在を予見していたに違いない。

 タンカーのような大きな船を接岸できる場所は限られている。乗船していた賊も十や二十ではないだろう。それだけの人数が、護衛者が駆けつける前に速やかに島内に侵入した。警備が一番手薄な『北の断崖』から。

 

()()()がいますね」

 

 ナツメが言うと烈堂はまた頷いた。

 

「捜しましょうか?」

「――いや、他の奴らに任せる。黒使の移送班がすぐに来るから、お前はそいつらと一緒にドームに戻って親父に報告してくれ」

「分かりました」

「それと、だ」

 

 烈堂はそこで間を置くと、深く煙を吸って吐き出した。

 

「十鬼蛇王馬、だったか」目を合わせることなく烈堂は言う。「何があったかは知らねえし聞きもしないが、一度ちゃんと話してみたらいいんじゃねえか。どうせお前のことだから、何も説明してねえんだろうしな。話した結果がどうなろうと、そうやってうじうじと悩んでるよりはマシだろ」

 

 吉岡も山下も烈堂も、みんな同じことを言う。

 

「……そうしてみます」

 

 烈堂はちらりとだけナツメを見て、またすぐに背を向けた。

 

「じゃ、ここは任せたぜ」

「ひとつ、いいですか」

 

 ナツメがその背に声をかけると、烈堂は首だけ動かしてこちらを見た。三朝も皆生も羽合も同じように振り向いた。

 

「『ふきほんぽう』ってどういう意味ですか?」

 



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05 決裂

 ナツメが拳願ドームへと戻ってきた時、大歓声が会場の外まで響いてきた。入り口の警備に立っていた護衛者が言うには、第八仕合の勝敗が決したのだろうとのことだった。

 つまりBブロックが終了したのだ。トーナメントはナツメが思っていたよりも速く進行しているようだった。

 Bブロックの仕合結果はあとで確認するとして、まずは御前への報告である。ナツメはVIPルームへと上がった。

 御前は、ナツメが戻ってきていることを既に知っていたらしい。部屋で出迎えてくれた彼は、ナツメの顔を見るなりひとつ満足そうに頷いた。

 

「ふむ、気分転換はうまくできたようじゃの」

「御前、大変ご迷惑を」

「あー、よいよい。誰も迷惑などとは思っておらん」

 

 ああ、三朝の言う通りだ。ナツメは少し考え、もう一度深々と頭を下げた。

 

「お気遣い、ありがとうございました」

「相変わらず堅いのう。お主はちと気負いすぎじゃな。もう少し肩の力を抜きんしゃい」

 

 昨日も同じようなことを言われたな、とナツメは御前の後ろに控えている王森に視線を向けた。今度はちゃんとその目を見た。わずかに細められた彫りの深い目には、失望も幻滅も見当たらない。隣に立つ鷹山も同じだった。

 

「そう肩肘張っておっては疲れるだけじゃぞ」

「気をつけます」

「うむ。まあ、いきなりはなかなか難しいじゃろうて。少しずつで良い。して、侵入者の方はどうじゃった?」

 

 ナツメは、東海岸からの侵入者が『黒使』であったこと、それらがどうやら囮であったこと、北の断崖から賊の上陸を許してしまったことなどを報告した。

 

「なるほどのう」

「どうなさいますか?」

 

 真っ白な顎髭を撫でる御前にナツメは尋ねた。

 

「若は『他の者に任せる』と仰いましたが、ネズミの駆除なら自分が」

「構わん。お主に任せるとすぐに終わってしまうからの。それでは面白くなかろうて」

「……泳がせるのですか?」

「言ったじゃろう? 年寄りには適度な刺激が必要じゃと。どうせ仕掛け人が誰かは見当がついておる。折角の催しは楽しまんと損じゃよ」

 

 御前は楽しそうに笑っている。王森と鷹山も素知らぬ顔をしているので、この対処については承知済みなのだろう。

 御前の考えは理解し難いが、異論や意見を挟むつもりもなく、ナツメも「承知しました」と首を縦に振った。

 

「うむ、わざわざご苦労じゃった。また何か起きたら動いてもらうでの。それまでは……そうじゃな。闘技者や他の客人たちと交流でも深めながら時間を潰しておればよい」

「……自分は、ドーム内の警備が」

「見回りをしながらでも立ち話くらいできるじゃろう? なんじゃったら、仕事なんぞ他の者たちに任せてしまっても構わんぞい」

「いえ、それは」

 

 さすがに、と言って鷹山の方を見ると、案の定険しい目をした彼と視線がぶつかった。

 

「少しぐらいサボってもバレはせんわい」

 

 御前には後ろの二人が見えていないのだろうか。

 

「お主も久しぶりに会う顔があるじゃろうて。おお、そうじゃそうじゃ。(はなふさ)先生が医務室におるらしいぞ。茂吉くんも無事に蘇生できたと聞いておる。折角じゃ、このあとにでも行ってみるとよい」

 

 

 

 

 そうしてVIPルームをあとにしたものの、ナツメは医務室に行くべきか否か悩んでいた。確かに茂吉の容態を確認したい気持ちはあるし、英に会うのも半年ぶりだ。彼のことだから何も変わりないと思うが、顔を見に行くくらいはしてもいいだろう。彼には随分と世話になっているのだから。

 ナツメはエレベーターは使わず、巡回がてら階段で階下へと向かった。人の多いところやカメラで監視ができている場所はルートから外し、ひと気の少ない通路を進む。

 見覚えのある後ろ姿を見つけたのはその途中だった。相手はまだこちらに気づいていないようで、通路の曲がり角に身を隠しながらその先をうかがっている。

 ナツメは周囲の気配を探り、誰にも見られていないことを確認するとその後ろ姿にそっと近づいた。

 

「何をしてるんだ?」

 

 声をかけると、相手はびくりと肩を跳ねさせた。慌てて振り向いた彼女は大きく目を見開いてナツメを見上げ、それからほっとしたような、むっとしたような顔をした。

 

「ああもう、びっくりした。気配消して近づくなんてひどいッス!」

「すまない、つい癖で」

 

 ナツメは素直に謝ってから改めて「何をしてるんだ、こんなところで」と尋ねた。

 

「仕事中か?」

「そう思うなら話しかけないでほしいッス。誰かに見られたら面倒じゃないッスか」

 

 彼女――串田凛(くしだりん)はそう言って拗ねたようにそっぽを向いた。

 

「周囲の確認はしたけど……。そうだな、悪かったよ」

 

 ナツメは再度謝って、仕事中ならば邪魔をしては悪いと踵を返した。その腕を掴んで引き留めたのは他でもない凛本人だった。

 

「もう、冗談ッスよー。ナツメさんは相変わらず真面目ッスねえ」

 

 彼女も御前と同じことを言う。自分はそんなに真面目がすぎるだろうか、とナツメは心の中で眉を寄せた。だが、だからといって御前や、目の前の彼女のようにのらくらと生きることは難しい。

 

「邪魔じゃないか?」

「大丈夫ッスよ。むしろナツメさんがいてくれた方が私としてはありがたいんスよね。ナツメさんは誰か来たらすぐに気づいてくれますから。周囲を警戒しなくていいんで気が楽ッス」

「それならいいんだけど……。今は山下商事にいるんだろう? ここで何を」

 

 ナツメはその続きを言うのやめた。血の匂いがしたのだ。それはナツメにとっては最早嗅ぎ慣れた異臭であり、その程度のことでは今更驚きもしなかったが、慣れ親しんだ匂いに体が自動的に反応した。

 神経を研ぎ澄まし、敵意や殺気の類がないか周囲を警戒し、匂いのもとを探る。

 急に口を閉ざしたナツメに凛は訝しげな顔をした。だがすぐに何か察したらしく、その顔を曲がり角の先へと戻した。

 

「……凛、ここで何をしていた?」

 

 凛は振り向かず、少し間を置いてから「ナツメさんには教えておくべきッスかねえ」と呟いた。どこか言いにくそうな声の調子だった。

 

「私に関係あることなのか?」

「ええ、まあ。……王馬さんのことなんスけど」

「王馬の?」

 

 凛は御前直属の諜報員である。少し前から乃木グループに潜入中だったが、今はその傘下企業である山下商事で社長秘書をやっていると聞いた。情報収集に手抜かりはないはずだから、同社の代表闘技者である王馬が「同郷」であることも、彼とナツメが同じ人間に師事していたことも、関係の険悪さも把握済みだろう。

 その上で、このタイミングで王馬の名前を出すとはどういうことか。

 ――血の匂いがする。近くに人の気配が、ひとつ。

 心臓が嫌な音を立てた。凛と目を合わせると、彼女は険しい顔で「正直、もうダメかもしれないッス」と言った。その言葉の意味を、ナツメはすぐ理解できてしまった。

 思わず角の先に目を向けると、男性用トイレから出てくる王馬の姿が見えた。ふらふらと覚束ない足取りで、壁に手をついて歩いている。

 気づいたら、ナツメはその後ろ姿に駆け寄っていた。足音に気づいた彼が立ち止まるより早く、その腕を掴んで無理やり振り向かせる。

 自分は、王馬のこととなると冷静ではいられないらしい。と、驚きに見開かれた彼の目を見てから理解した。

 

「お前……!?」

 

 王馬が声を上げたが、ナツメの耳はそれを聞いていなかった。彼が着ているシャツの首元から胸にかけてが、赤く汚れている。真新しい血の跡だった。どう見たって返り血ではない。

 

「離せよ!」

 

 王馬が大きく腕を振る。

 

「テメーいきなりなに」

「吐血したのか!?」

 

 言葉を遮って詰め寄ると、王馬の方がわずかにたじろいだ。

 

「そうなんだな? どれくらい吐いた? これが初めてか? それとも今までにも同じようなことが」

「……急になんなんだよ、テメー」

 

 王馬は困惑しているようだった。その表情と声にナツメははっとして、あまりに性急な自分の態度にバツが悪くなった。

 落ち着け、と自分に言い聞かせながら深呼吸する。途端、血の匂いが鼻腔を通り抜けて、心臓がまた奇妙な音を立てて軋んだ。

 

「医務室へ行こう、王馬」

 

 ナツメは王馬の腕をもう一度掴んだ。

 

「知り合いの医者がいるんだ。私がずっと世話になってる医者で、信頼できる。一度診てもらった方がいい」

 

 王馬の目を覗き込んで言う。彼の瞳が揺れ、それから強く睨み返された。

 

「ふざけんなよ! そりゃなんのつもりだ!? 今更になって、テメーは……!」

「何って……。お前の体の心配をしてるんだ。あんな闘い方をしてお前は……」

 

 因幡流との闘いでみせた王馬の姿と、激しく脈打つ鼓動の音が脳裏によみがえる。ナツメは唾を飲み込んだ。

 

「なんであの技を使えるんだ。どうして……、誰に教わった?」

「誰に? ……『前借(まえが)り』のことか?」

「まえがり?」

 

 ――なんだ、それは。まさか違う技なのか?

 一瞬そんな疑念を抱いたが、ナツメはすぐにそれを否定した。あれは間違いなく『憑神(つきがみ)』だ。ナツメも同じ技術を習得しているのだ、見紛うはずもない。

 

「おい、どういうことだ? あれは二虎の技じゃねえのかよ。お前は何を知ってやがる」

「あれは……。あれは危険な技なんだ。体にかかる負担が大きすぎる。自分でも分かってるだろ、あんな使い方をしてたら体がもつわけないって。一体誰から教わった? 二虎じゃないはずだ」

 

 二虎じゃないなら一体誰なのか。ナツメには思い当たる人物が一人いる。自分に『憑神』を教えてくれた人だ。だが、そうであってほしくないと思っている自分がいた。

 だってあの技は、呉一族の『外し』に対抗できるように、あの人が〝特別に〟と教えてくれたのだから。

 王馬は唇を結んだまま何も答えない。ナツメがじっとその目を覗き込むと、彼は決まり悪そうに視線をそらしてしまった。

 

「――まさか、覚えていないのか?」

 

 王馬はやはり答えなかった。

 技を教わった相手を覚えていないなんて、そんなことがあるのだろうか。まさか、憑神の使用で脳にダメージが? ああ、だとしたらやはり早く医務室に連れていかなければ。

 

「とにかく、英に診てもらおう。いいか王馬、あの技はもう使うな。二回戦も棄権しろ。次の相手は雷庵だから、どのみちお前じゃ勝てない」

 

 ナツメは王馬の腕を引いたが、彼は微動だにしなかった。それどころか荒々しく腕を振り払われ、驚いて彼の顔を見ると、そこには鬼のような形相が浮かんでいた。ナツメは呆気に取られた。そうしてまた動けずに、船の時と同じように胸倉を掴み上げられた。

 

「さっきから聞いてりゃ、一体何様のつもりだよ。俺じゃ勝てねえだと? 偉そうに好き勝手言ってんじゃねえ!」

 

 叫ぶ王馬は、唸り声を上げて威嚇する獣のようだった。驚いたが、ナツメもここで黙るわけにはいかなかった。

 

「第三仕合は見てただろ。雷庵はああいう奴なんだ。しかもあれでまったく本気じゃない。あいつは」

「そいつがどんな野郎だろうが関係ねえ! この十年、一度だって姿を見せなかったテメーが、一体俺の何を知ってるってんだ!」

「お前が強くなったのは分かる! けど雷庵相手じゃ無理だ!」

「決めつけてんじゃねえ! 心配するふりなんかして、結局俺を認めちゃいねえんだろ!」

「ふりじゃない! 私はお前に死んでほしくないだけだ!」

「二虎は良かったのかよ!?」

 

 両手で胸倉を掴まれ、壁に叩きつけられた。反射的に筋肉を締めて衝撃に耐えたが、それでも息が詰まった。背中を打ちつけたせいではない。王馬の言葉がナツメの胸を抉ったのだった。

 

「二虎が死んだ時、どこで何してやがった? そのあともだ! 俺がいくら探したってテメーは出てこなかったじゃねえか! あの時、お前がいりゃ二虎は!」

 

 王馬はそこで言葉を飲み込んで、代わりに苦々しい顔で舌打ちをこぼした。

 もしもあの時、なんて話は無意味だ。どうしたって過去は変えられないのだから。そんなことは王馬だって分かっているはずだ。それでも、口をついて出てしまったのだろう。

 怒りや憎しみ、悔しさ。そんなものが綯い交ぜになった王馬の目に射貫かれて、ナツメはそれを直視できずに視線をそらしてしまった。

 

「……何か言えよ」

 

 喉の奥から絞り出したような声だった。

 何かって、何を言えばいいんだ。言うべき言葉が思いつかない。それでもナツメは、とにかく何か言わなければと口を開いた。

 

「二虎が死んだ時、私は『中』にいなかったんだ。それを知った時には、あの人が死んでからもうひと月近く経ってて……。すぐに『中』に戻ったけど、お前はもう『外』に出たあとで」

 

 ひどい言い訳だった。

 

「……だからなんだよ。ならこの十年、テメーは何をしてやがった。二虎の(かたき)を討とうとしたことがあったのかよ」

「それは」

 

 ナツメは言い淀んだ。その先を口にすれは、王馬はより強い怒りと憎しみを向けてくるかもしれない。そう思うと、言葉がつかえて出てこなかった。

 

「だんまりかよ、俺に話す気はねえってか」

「……違う、そうじゃないんだ」

 

 ふと、烈堂の顔が頭に浮かんだ。次いで山下が、吉岡が。

 そうだ、話をしなければ。話して、その結果がどうなろうと今よりはマシに――なるとはナツメにはとても思えなかったが、黙したところで何も変わらないこともまた事実だった。

 ナツメはいつの間にか口内に溜まっていた唾を飲み込んだ。心臓が先程とは違う理由で大きな音を立てている。『憑神』を使っているわけでもないのに、心臓が普段の何倍もの速さで脈打っているようだった。

 

「――私は、二虎の敵討ちをする気はない」

 

 王馬の目が見開かれ、瞬く間に怒りに染まっていく。今までに見たそれらとは比べ物にならないほどの、激しい憤怒の表情だった。

 

「本気で言ってんのかよ」

「王馬、聞いてくれ。私は」

「うるせえ!」

 

 ナツメは口を噤んだ。胸倉を掴む王馬の手が震えている。

 その手を振り払うことは難しくない。だが、ナツメは動かなかった。もしこのまま殴られたとしても、それもしかたないことだと思ったのだ。

 

「ふざけんな! すぐ近くに二虎の敵がいるんだぞ! それでもテメーは見て見ぬふりするってのかよ!?」

 

 ――そうか。だとしたら、淀江と日吉津を襲った『狐影流』は、やはり二虎の敵と同一人物だったのか。

 

「お前はそいつを追って、このトーナメントに参加したんだな?」

 

 王馬の怒りを受け止めようと決めた瞬間、ナツメは頭の芯がすっと冷えたのが分かった。その寸前まで感じていた緊張や不安が、一瞬で溶けて消えてしまったのだ。

 覚悟が決まったといえば聞こえはいいが、これは恐らく『諦めた』だけだ。そう冷静に分析できる程度には、ナツメの心は凪いでいた。

 

「だったらなおさら、二回戦は棄権しろ。敵と闘う前に死ぬぞ」

 

 王馬の手に更に力がこもり、いよいよ殴られるかとナツメは心構えを決めたが、彼は歯軋りの音が聞こえそうなほど強く奥歯を噛み締めただけだった。

 

「――ああ、そうかよ。良く分かったぜ」

 

 低い声で、吐き捨てるように王馬は言った。胸倉を掴んでいた手が離される。

 

「二度と俺にそのツラ見せんじゃねえ。次俺の前に立ったら、テメーもぶっ殺す」

 

 そう言い残して王馬は去って行った。彼は一度も振り返ることなく、ナツメもその背中を引き止めることはできなかった。

 



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06 串田凛

「……大丈夫ッスか?」

 

 王馬の姿が見えなくなると、凛がそろりと近づいてきた。気遣わしげなその顔を見て、ナツメは深いため息をこぼした。

 

「大丈夫、じゃないかもしれない」

「あら、認めちゃうんスか」

「一部始終を見てたお前相手に、今更誤魔化してもしょうがないだろ」

「いつものナツメさんならそれでも『大丈夫だ』って言いそうなもんッスけど」

「すぐに自分の中に溜め込むのは良くない、と三朝に言われたばかりなんだ」

「あー、あの人ッスか。ということは、殲滅部隊と何か任務に出てたんスか?」

「ああ、気分転換がてら」

「じゃあ、折角の気分転換が台無しになっちゃいましたねえ」

「いいんだ、私が悪い」

 

 ナツメはもう一度息を吐いて、結び目の崩れたネクタイを解いた。

 

「烈堂にも、一度ちゃんと話してみろと言われて。うじうじ悩んでるよりマシだろうって……。とてもそうは思えない結果になったな」

「途中まではいい感じでしたけど。あれはナツメさんが悪いッス。あんな言い方したらそりゃ怒りますよ」

 

 あんなってどんなだ。ナツメは王馬の様子が一変した直前の会話を思い出してみた。

 確か――二回戦は棄権しろ、お前じゃ雷庵には勝てない。自分はそう言ったのだ。あれが王馬の怒りを買ってしまった。そこから先は最早目も当てられない。

 

「ナツメさんはストレートに物を言いすぎなんスよ」

「……そうか?」

「そこは自覚ないんスね。まあ、ナツメさん口下手ッスからねえ」

 

 凛は、まったくしょうがないなあ、とでも言いたげに肩を竦めて笑った。似た仕草と表情を、滅ビノ森で見たばかりだった。

 

「闘技者なんてのは、大体が『自分が最強だ』とかって思い込んでるようなタイプの人間ッス。そんな人に『お前じゃ勝てないから棄権しろ』なんて馬鹿正直に言ったら、そりゃ反発するに決まってるじゃないッスか」

「それが事実でもか?」

「事実だからこそッス。ある程度の実力の持ち主なら相手の力量だって測れます。王馬さんも第三仕合は見てましたから、雷庵選手の強さは分かってるはずッス。今の自分じゃ勝てないってことも、本当は分かってるんスよ。それでも絶対に諦めたりしないのが闘技者なんスよね。究極の負けず嫌いの集まりッス。あと、こう言っちゃうと元も子もないんスけど、そもそもこれ拳願仕合ッスから。一度決まった仕合を企業が棄権するなんて、余程のことがない限りはあり得ません。その瞬間に企業の面子は丸潰れ。信頼も利益も失っちゃいますからね。可能性があるとしたら仕合の途中で棄権するくらいッスよ」

「……あいつが途中で棄権するとは思えないな」

「まあ、しないでしょうね。その辺は山下社長の采配しだいッス」

「山下社長か」

 

 彼は自分と王馬の和解を望んでいるようだったが、結局この有様だ。王馬が寂しそうだったという彼の言葉の真偽も分からない。話したところでどうせ無駄だ。ナツメはあの時そう思ったが、本当に無駄に終わってしまった。

 

「あれは、いい人だな。あの人と王馬はうまくやってるのか? お前も」

「その辺は全然問題ないッス」

「そうか、ならいいんだ」

 

 そうならば、やはり自分は王馬にとって悪影響なだけだろう。

 ナツメは床に視線を落とした。その顔を凛が覗き込んでくる。

 

「なんだ?」

「いやー、こんなに落ち込んでるナツメさんってレアだなあと思いまして。王馬さんのこと、そんなに大切ッスか?」

「……そうらしい」

「らしいって。まさか今になって自覚したんスか?」

「今も何も、十年振りに会ったんだぞ」

「大切だから、巻き込みたくなくて会わなかったんでしょ?」

「――違う」

 

 ナツメは頭を振った。

 そんな献身的な理由だったなら、もっと早くに――三年前に王馬を探していただろう。

 

「聞いてただろ。あいつは敵討ちのために『中』を出たんだ。そんなあいつのことを、敵討ちをする気もない私がどうして追えるっていうんだ。和解なんて、はなから無理だったんだよ」

 

 そんなことは始めから分かっていた。分かっていたくせに、話をすれば何か変わるのではないかと微かな期待を抱いてしまった。

 

「うーん。そう決めつけるにはまだ早い気もしますけど」

 

 凛は顎に手を当てて首を捻った。

 

「確かにやっちまった感はありますけど。でも、まだ全部は話せてませんよね。敵討ちをしたくない理由とか、十年間何をしてたのか、とか」

「それは、そうだけど」

「今回はまあ、ナツメさんの言い方も悪かったですし、王馬さんもそれで頭に血が上っちゃってまともに話せる状態じゃなかったッスから。敵討ち云々は私には分かりませんけど、あの人、船以来ずっとナツメさんのこと気にしたんスよ。あなたの姿を見かける度、もろに目で追っちゃったりして。体ってのは正直なもんッスよねえ」

 

 その視線にはナツメも気づいていたが、だからといってどうしていいのかも分からず、『中』にいた頃と同じように気づかぬふりをしてしまった。

 

「……睨んでただろう?」

「あ、気づいてました? まあ、なかなかの熱視線でしたから」

「昔からなんだ。顔を合わせるといつも突っかかってきて……。原因は私なんだけど」

「何かやらかしちゃったんスか?」

「初めて会った時、組み伏せて耳を切り落とそうとした」

 

 その発言にさすがの凛も目を丸くして「それはまた、過激ッスね」とこぼした。

 今になって考えれば自分でも大概だと思うが、その当時ではむしろ「温情」だったとも思う。自分の縄張りに勝手に入られたのだから、それを排除しようとするのは当然のことだ。そうしなければ『中』では生きられないのだから。

 

「それ以来、私はあいつを怒らせたことしかない」

「うーん? でもそれって十年以上前の話なわけッスよね? てことは、王馬さんは十代前半から半ばくらい……。思春期真っ只中ッスね。その年頃は扱いが難しいんスよー。何に対しても反抗してみたりとかして」

 

 二虎も同じように言っていたことをナツメは思い出した。「お前のことが嫌いなんじゃなくて、ちょっと気に入らないだけだ」とも。ナツメにはその違いがさっぱり分からなかったし、今になってもやはり嫌われていたとしか思えないのである。

 

「あのキレっぷりはそのせいッスね。なるほどなるほど」

 

 何に納得したのか、凛は物知り顔でしきりに頷いている。ナツメはわけが分からず「何がだ」と尋ねたが、返ってきたのは「ナツメさんは男心が分かってないッスね」という余計にわけの分からない言葉だった。

 

「まあ、一回仕切り直した方がいいッス。お互い、もう少し落ち着いて話ができるようにしないと」

「……仕切り直したところで」

「あ、そのネクタイ、私が結びましょうか?」

 

 凛がわざとらしく明るい声で言った。意図的に言葉を遮られたことには気づいたが、その「意図」がナツメには分からず、かといって追及するほどのことでもない気がした。

 ナツメは手に持ったままだったネクタイに視線を落とし、逡巡した。

 できるならば、ネクタイなんて外したままがいい。まるで首を締められているようで、息苦しくて落ち着かないのだ。だが、護衛者である以上は身なりには気をつけなければならない。自分たちの姿は、そのまま御前の品位に繋がるのだから。

 

「ああ、頼む」

 

 ナツメはネクタイを差し出した。すると、凛はなぜかきょとんとして「え、いいんスか?」と言った。

 

「お前が言い出したんだろう?」

「それはそうなんスけど……。王森さんの特権だと思ってましたから」

「……別に、いつも王森さんにしてもらってるわけじゃない。あの人がいない時だってあるだろ」

 

 実のところを言えば、VIPルームに戻ろうかとも一瞬考えた。だが、御前や鷹山さんがいる前で頼めるのか? と考えたら、さすがにそれはと気が引けてしまったのだった。

 

「確かに、それもそうッスね」

 

 凛が笑ってネクタイを受け取った。ナツメはシャツの襟を立て、背の低い彼女がやりやすいように頭を少し下げた。ネクタイが首の後ろに回される。凛の手が首元へと移動してから姿勢を戻し、そのあとは目の前にある彼女のつむじを何気なしに眺めた。

 そうしていると、凛が顔を上げることなく「ナツメさん」と口を開いた。

 

「なんだ?」

「ここは『中』じゃないんで、簡単に諦める必要はないッスよ」

 

 彼女は手元に目を向けたまま、静かな声でそう言った。

 

「……それも私の悪い癖だな」

 

 だから、ナツメの傍には何も残らない。残すつもりもなかったのだ。三年前に死ぬはずだったから。

『中』にいた頃、ナツメの〝生き方〟に迷いはなかった。今のように思い悩むこともなかった。命の〝使い道〟が明確にあったから。他の何を失おうとも――それが二虎や王馬だとしても――すべて切り捨てて生きていけた。

 三年前までの話である。だからナツメは、なかったはずのその先の今を、うまく生きることができずにいる。

 命を救われ、生きることを望まれ、その機会と場所を与えてくれた人たちに申し訳ないという気持ちがある。そう思える程度には自分も変わったのだろうが、言動が伴っていないのだからまるで成長していないのと同じことだった。

 

「はい、できたッスよ」

 

 凜の言葉にナツメは思考を閉じた。

 

「ああ、ありがとう」

「いえいえ」

 

 そう笑ってから、凛は背筋を伸ばしてナツメを見上げた。

 

「それじゃあ、私もそろそろ戻りますんで。ナツメさんはこのあとのご予定は?」

「医務室に行こうかと思ってたんだ。英がいるらしくて」

「ああ、そうだったんスね。あの人がいるなら、茂吉選手も大丈夫ッスよ」

「そうだな」

 

 茂吉のこと。王馬のこと。雷庵、延いては呉一族のこと。色々考えて、整理しなければいけないことが多いが、まずは英に会って話をしよう。

 そうと決め、ナツメはネクタイをひと撫でした。

 

「王馬さんのこと、少し注意して見ておきますね」

「……ああ、お前の仕事に差し支えない程度でいいよ」

 

 そんなやり取りを最後に、ナツメは改めて医務室へ足を向けた。

 



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07 医務室

 医務室の扉を前に、ナツメは暫し立ち尽くした。室内は随分と賑やかなようで、扉越しにその様子をうかがいながら入るべきか否か悩んでいた。

 やはりやめておこうか。そう思って踵を返しかけたところで、扉が内側から勢いよく開かれた。そこから顔を覗かせたのはカルラである。彼女はナツメを見るなり破顔して「やっぱりナツメだ!」と飛びつき、ナツメも最早慣れた動作でそれを受け止めた。

 

「そうじゃないかと思ってたんだ! でもなかなか入ってこないから……」

 

 カルラはそこで言葉を止め、すんと鼻を鳴らした。

 

「ナツメ、血の匂いがする」

「……そうか」

 

 王馬のだろうか、黒使のだろうか。

 

「気になるか?」

「ううん、そこまでじゃないよ。何かあったのか?」

 

 ほんの少しだけ迷ってから、ナツメは「何でもないんだ」と返した。

 カルラは王馬のことが好きなのだと言っていた。そんな彼女に、王馬の体が今どのような状態にあるか。それを説明するべきなのかどうか、ナツメには分からなかった。

 カルラはそれ以上何も聞かずに素直に頷いた。それからころっと表情を変え、再び笑顔になりながらナツメの腕を掴む。

 

「ほら、早く入ろう! エレナもいるんだ! 茂吉ももう大丈夫だって英が言ってたから安心していいぞ!」

「お前、英と知り合いだったか?」

 

 されるがままに腕を引かれながらナツメは尋ねた。

 

「今日初めて会った! ナツメは知り合いなのか?」

「定期的に世話になってる」

「定期的に?」

「ああ、『主治医』なんだ」

「へえ、そうなんだ!」

 

 護衛者にもお抱えの医者はいるが、英はナツメが『中』にいた頃から世話になっている医者だった。

 彼はフリーランスの外科医で、おそろしいほどに腕が立ち、どんな患者に対しても平等だ。一般人は勿論、それが明らかに普通の怪我ではない刺傷や銃創であっても、例え患者が本名を名乗らず、保険も使えないような人間だとしても、これといった事情も聞かずに治療してくれる。ゆえに〝裏〟でも重宝されている男だった。

 

「エレナ、英! ナツメが来たぞ!」

「カルラ、もう少し静かに」

 

 ここは医務室で、当然患者がいる。あまり騒ぐのは良くないだろうとナツメは思ったのだが、そもそも入る前から騒がしかったことを思い出した。

 白い部屋に白いベッドが並んでいる。そのいくつかを埋めているのは、ここまでの八仕合で怪我を負って運び込まれた闘技者たちだろう。奥へと進むカルラに腕を引かれながら、ナツメはその顔ぶれを確認した。

 知っているのは因幡良くらいで、あとは大きなキノコのような奇抜な髪形をした男と、もう一つ膨らんだベッドの人物はまだ意識が戻っていないのか、横になったまま微動だにせず、ナツメからは顔も見えなかった。そして一番奥のベッドに、人工呼吸器をつけて眠る茂吉の姿があった。その横にエレナと英が立っている。彼女はもう泣いてはいなかったが、その目はまだ少し赤かった。

 

「エレナ」

 

 ナツメが声をかけると、彼女はひどく安心したような顔で頬を緩めた。

 

「少しは落ち着いたか?」

「はい、心配かけてごめんなさい。もう大丈夫です。兄様も、先生が助けてくれて」

 

 エレナが隣の英を見上げ、ナツメも彼と目を合わせた。身長はナツメと変わらないくらいで、細身だが痩せぎすということはなく、だが病的な白い肌をした男だ。

 

「やあ、ナツメくん。半年ぶりくらいかな? 体の調子はどうだい?」

「特に問題ない」

「そうか、それは残念」

 

 エレナが目を丸くした。近くにいた丈の短いナース服を着た女もぎょっとした顔をしているが、英にはそんな二人の反応を気にする素振りもなかった。

 

「四仕合目だったかな。モニターで見た時は少し顔色が悪いようだったからね。君の主治医として見過ごすわけにはいかないと思ったのだが、茂吉くんの施術で手が離せなくてね。君の方から来てくれて良かったよ。本当に問題ないかな?」

「まったく」

「うーん。君の体をいじくり回せるいい機会だと思ったのだが、実に残念だよ」

 

 エレナが大きな目をぱちくりとさせている。この人は何を言っているのだろう、聞き間違いかしら。そんな顔だった。看護師の女が「なんてこと言うんですか先生!」と叫び、ナツメに向かって頭を下げた。

 

「ごめんなさい。言葉はあれですけど、悪い人ではないんです」

「いや、気にしてない。英はいつもこうだろう?」

「いつも、って……」

 

 看護師は困惑した顔でナツメと英を交互に見た。その反応にナツメは首を捻る。

 

「英の助手、というわけじゃないのか?」

「あ、私吉沢心美(よしざわここみ)です。『帝都(ていと)大学』で秘書をしながら看護師としても働いています」

 

 帝都大学は確か企業序列十八位だったか。日本の超名門校らしいが、学校とは無縁のナツメにはそれがどれほど価値あるものなのかが分からなかった。

 

「英先生とは、先生が代表闘技者としてうちの病院に配属されてきてからの付き合いなので。べ、別にそんな深い仲とかってわけじゃなくて……」

 

 最後の方は声が小さくて聞き取れなかったが、どうやら彼女と英はトーナメントの開催が決まって以降の付き合いらしい。だとしたら、英の奇行との取れる言動に慌てるのも無理はない。英は医者としての腕は超一流だが、人間の解剖が趣味という異常性癖で、ナツメも彼の検診を受ける度に「解剖してもいいかい?」と尋ねられているのだった。

 

「ええと、ナツメさん?」

「ああ、なんだ?」

「ナツメさんと先生のお付き合いは長いんですか?」

 

 心美に聞かれ、ナツメと英は顔を見合わせた。

 

「――十年、になるな」

 

 ナツメが答えると、エレナと心美が「十年!」と声を上げた。

 

「ああ、もうそんなに経つのか。ふふ、時が経つのは早いものだね。あの時のことは今でも昨日のことのように思い出せるよ。初めて触れた君の体は本当に素晴らしくて」

 

 英は笑っている。その目が恍惚した光を宿して輝き、ナツメを真っ直ぐに射貫いた。ただならぬその様子にナツメはため息をこぼす。

 初めて英の治療を受けて以来、彼はずっとこんな調子だった。十年経った今でも何も変わらない。その態度も、見た目もだ。そう、この男はあの頃から外見がまるで変わっていない。ナツメより年上なのは間違いないが、まったくの年齢不詳なのである。本人曰く「肉体は改造済み」らしいのだが。

 そういった異常性はあれど、それによって英に対する医者としての信頼が揺らぐことはなかった。

「誤解を招く言い方はやめてください!」と怒る心美をしり目に、ナツメは横たわる茂吉に目を向けた。首を覆う分厚いコルセットが痛々しい。茂吉は太く逞しい首をしていた。雷庵はそれを片手でへし折ったのだ。その上で更に、まったく不要な駄目押しまで加えた。頸椎が折れた人間が必ずしも命を落とすというわけではないが、あの状態からの蘇生は不可能に近かったはず。おそらく、英がいなければ茂吉は死んでいただろう。

 あとはどこまで回復できるかである。麻痺などの後遺症が残る可能性もあるし、一生寝たきりだったり意識が戻らない場合もある。こればかりは運――或いは、本人の生命力次第か。

 

「心配しなくていい」

 

 ふと英が言った。

 

「闘技者の回復力には凄まじいものがあるからね。じきに目を覚ますだろうし、治らない怪我でもない。つらいリハビリにはなるだろうが」

「……お前がそう言うなら、そうなんだろう」

 

 ナツメは頷いて、もう一度だけ茂吉を見た。英の診断を疑う余地はない。ナツメはそれほどに彼の腕を信用していた。

「あの、ナツメさん」という控えめなエレナの声に振り向けば、彼女は胸の前で両手の指を結んで、なぜか申し訳なさそうに眉を下げていた。

 

「兄様の仕合のこと、なんですけど……」

 

 エレナは言いにくそうにして俯いた。

 あの仕合のことなど思い出したくはないだろうに、何か気がかりなことがあるのだろうか。少し考えてみたが、特に思い当たる節はなかった。

 柔らかそうなエレナの頬に、緩く波打つ金色の髪が影を落としている。ナツメは何気なしにその毛先を指で払った。大きな青い目がナツメを見上げる。その瞳が悲しみに沈むさまはやはり見たくはなかった、と改めて思った。

 

「あの仕合、すぐに止められなくてすまなかった」

 

 謝罪を口にした途端、エレナが大きく目を見開いた。その瞳はすぐに涙を湛えて揺れ始め、まさかの反応にナツメは柄にもなく狼狽えた。

 

「ナツメがエレナを泣かせた!」

 

 すぐにカルラが駆け寄ってきてエレナの肩を抱く。その光景に「違う、そんなつもりじゃ」と言い訳がましい言葉が口からこぼれた。

 

「女の子を泣かせるなんて最低ねえ」

 

 ナツメを非難する声が背後からも飛んできた。キノコ頭の男が、上体を起こした体勢でベッドの中から呆れたような視線を寄越している。因幡良も、ベッドの上で胡座を掻いてこちらに顔を向けていた。

 ――なんだこれは。私が悪いのか?

 ナツメはどうしたらいいのか分からず、この中では一番付き合いの長い英を見た。彼は「そんなに動揺している君は初めて見たよ」となぜか楽しそうに笑っていた。その横では心美が苦笑いを浮かべている。

 助けを求められる相手がいない。そうと気付き、ナツメは再びエレナへと視線を戻した。

 

「すまない、何か……気に障っただろうか」

「ち、違うんです」

 

 エレナがこぼれ落ちそうになる涙を拭って顔を上げた。

 

「ナツメさんは何も悪くありません」

「なら、どうして泣くんだ。お前に泣かれると、どうしたらいいか……」

 

 ナツメは泣いてる少女のなぐさめ方など知らないのだ。戸惑うまま、自分の肩ほどの高さにあるエレナの頭を撫でると、彼女の目から再び涙がこぼれ落ちそうになった。王森や――昔、二虎がこうしてくれたのを思い出してやってみたが、使い時が違ったのかもしれない。

 なぐさめるつもりが更に泣かせてしまったことに、ナツメはとうとうどうしようもなくなって、行き場を失った手を宙に彷徨わせた。

 

「呆れたわ」

 

 大きなため息交じりに、キノコ頭が言った。

 

「あんた、女心ってもんがまったく分かってないわね」

 

 男心の次は女心。自分には分からないことが多すぎる。ナツメはつくづくと思って息を吐いた。

 そもそもあれは誰なのだという疑問も頭に浮かんだが、今は兎にも角にもエレナである。しかしながら、ナツメはこれ以上身動きが取れなかった。

 自分の言動によって相手が深く傷つくかもしれないなんて、そんなことを考えたことは一度もなかった。考える余裕も、必要性も感じなかったと言うべきか。そんなことを気にしていたら動きが鈍る。一瞬の思考の隙が死を招き寄せる。

 そういう環境で生きてきたから。そんな言葉は最早言い訳にもならないと、ナツメは頭のどこかではちゃんと理解していた。船で鷹山が言った通り、いつまでも『中』にいた頃のことを引きずっていてもしかたがない。そんなことは分かっているのだ。だからこそナツメはいつも自分に言い聞かせるのだ。「自分は護衛者なのだから」と。

 普通の人間は、こういう時どうするのだろう。吉岡ならそもそも泣かせたりしないだろうか。三朝もうまくやりそうだ。王森さんはどうだろう。鷹山さんや烈堂は苦手そうだ。凛だったら、鞘香だったら……。

 考えれば考えるほどに思考が絡まって、ナツメはただただ立ち竦むことしかできなかった。

 

「ご、ごめんなさい」

 

 エレナが今度こそしっかりと涙を拭いて顔を上げた。

 

「ナツメさんがすごく優しくしてくれるから……。困らせちゃいましたよね。本当にごめんなさい。もう大丈夫です」

 

 赤い目のままはにかむように笑うエレナにナツメは困惑した。

 

「優しい? 私が? そんなことは……」

「優しいです、ナツメさんは。兄様も言ってましたから」

 

 エレナの手が、行き場を失ったままだったナツメの手を取った。包み込むように両手でしっかりと握られ、ナツメはますます困惑してエレナの顔と握られた手を交互に見やった。

 

「兄様の仕合を止めようとしてくれて、ありがとうございました。本当はああいうことしちゃいけないんですよね? ナツメさんはトーナメントを運営する立場だから、決まった闘技者に肩入れするようなことは良くないんだって、沢田(さわだ)さんと因幡さんが教えてくださって」

 

 ナツメは因幡の方を見た。目が合うと彼はひらりと手を振ってみせた。

 長い髪に覆われていた顔が、今は良く見える。第四仕合中にその素顔を晒した時、鞘香が「想像以上に愛くるしい顔」だと実況していたが、ナツメも確かにその通りだと思った。コスモとはまたタイプの違う幼い顔立ちをした、暗殺者というわりに随分と邪気のない男だった。

 ナツメは視線をエレナへ戻した。

 

「あのことは……大丈夫だ」

「怒られたりしませんでしたか?」

「してないよ。だから、気にしなくていい」

「本当ですか、良かった。あのあとナツメさん会場にいなかったみたいだから。その、裏で怒られてるんじゃないかって」

「……そんな心配してたのか」

 

 ナツメはついつい笑ってしまった。エレナが恥ずかしそうに「だって」と呟きながら俯く。その姿にナツメは改めて彼女の頭を撫でた。

 

「少し野暮用で外に出てただけだ」

「……なら、いいんです」

 

 エレナは今度は泣きはしなかったが、ナツメの手を離して両手で顔を隠してしまった。柔らかな金髪の隙間から、赤く染まった耳が見えたので、ナツメは何も言わなかった。

 

「何よ、とんだたらしじゃない」

「たらし?」

 

 ナツメは首を傾げてキノコ頭を見た。

 

「自覚なしってわけね。ますますいけ好かないわ」

「俺は嫌いじゃないけどなー。噂より全然いい奴じゃん」

 

 そう言ったのは因幡だ。彼の言う「噂」とやらは想像に難くないが、今の自分がそれより「いい奴」だと判断されたことは不思議だった。

 

「何よ、噂って」

「んー、秘密」

 

 二人のそんなやり取りを耳の端で聞きながら、ナツメはふとエレナに尋ねた。

 

「さっき言った『さわだ』というのは誰だ?」

「私よ!」

 

 そう怒鳴ったのはキノコ頭だった。

 

「信じらんないわ! 運営者なら出場闘技者の顔と名前くらい覚えておきなさいよ!」

 

 闘技者のさわだ……、沢田か。ナツメは騒ぐキノコ頭をしり目に自分の記憶を引っ張り出した。トーナメント本戦に出場する選手の名前は一応頭に入れてある。顔は別だが。

 沢田慶三郎(けいざぶろう)。『マーダーミュージック』の代表闘技者。Bブロック第五仕合に登場。対戦企業は、企業序列二位の『東洋(とうよう)電力』で、闘技者はユリウス・ラインホルト。

 頭の中でそう列挙したあと、ナツメは改めて沢田を見た。目立った外傷は左足のギプスくらいである。

 

「何よ?」

「いや……。いえ、仕合結果はどうだったのかと」

 

 言葉遣いを修正しながら尋ねた途端、沢田の表情が変化した。怒りや嫌悪感が混ざったようなそれに、ナツメは眉を寄せた。聞いたらまずいことだったのだろうか。

 

「第五仕合は『マーダーミュージック』の棄権負けだよ」

 

 答えたのは沢田ではなく英だった。

 

「棄権? 仕合途中でか?」

「いいや、開始直前さ。アリーナへの呼び込みまで済んでいたものだから、彼もひどく驚いていたよ」

 

 闘技者の呼び込みが済んだ上で、開始を待たずに棄権だなんて。普通に考えてありえないことだ。凛も言っていたではないか。そもそも一度決まった仕合を企業が棄権すること自体そうはない、と。

 ――東電か。御前は何も仰っていなかったけど……。

 考えても分からないことを考えてもしかたがない。ナツメは早々と頭を切り替えた。

 

「つまり、その怪我は仕合外で負ったということですね?」

「……だったら何よ」

 

 沢田はナツメを睨み、低い声で威嚇するように言った。

 

「相手は闘技者ですか?」

「それを聞いてどうするつもり?」

「船でルールは聞いたかと思いますが、闘技者同士の私闘は禁止されておりますので」

「制裁を下そうって? あんたが?」

「私か、他の者かは分かりません。今回はお咎めなし、と判断される場合もあります」

 

 現に雷庵と理人の一件は処分見送りとなっている。

 

「それはそれとして、要監視対象として把握しておく必要がありますので。沢田様もご自重ください。二度目はありません」

 

 沢田は足に怪我を負っているので、余程のことがない限りは闘ったりなどしないと思うが。念のためにと釘を刺したナツメに対して、彼は形相を浮かべて噛みついてきた。

 これもダメなのか。ナツメは頭を抱えたくなった。

 

「上等じゃない、やれるもんならやってみなさいよ」

「……ご無理はなさらない方が良いかと」

「いちいちムカつくわね!」

「沢田さん! 起きちゃダメですよ!」

 

 起き上がろうとする沢田を、心美が慌てて押さえた。だが、いくら怪我人といえど相手は男で、しかも闘技者だ。彼女では押さえ込むには無理がある。

 

「沢田様、医務室ですのでお静かに」

「誰のせいだと思ってんのよ!」

「……自分ですか?」

 

 ナツメが瞬くと、沢田はぴたりと動きを止めた。

 

「何よその顔……。あんたまさか、人に喧嘩売ってる自覚ないわけ?」

「……そもそも売ってませんが」

 

 答えると、沢田は目を丸くしてから「呆れたわ」と盛大に息を吐いた。

 

「じゃあ何? 今の発言全部、まったく悪気なしってこと? 嘘でしょ、逆にたちが悪すぎじゃない。あんたそんなんじゃあっちこっちで敵を作ることになるわよ。もう手遅れかも知れないけど。ちょっと顔がいいからってね、それだけでやっていけるほど世の中は甘くないの。悪いこと言わないからその性格直しなさい」

 

 耳が痛い、というのはこういうことか。ナツメは沢田の言葉に眉を下げた。離れていく王馬の後ろ姿が脳裏をよぎる。沢田の言う通り、まさに手遅れだった。

 ナツメが視線を落とすと、カルラが「今度は沢田がナツメを泣かせた!」と飛びついてきた。

 

「ひどいです沢田さん!」

「女の子を泣かせるなんて最低だでよ」

 

 エレナが言い、因幡が便乗する。「な、泣かせてないわよ!」と沢田が焦った声を上げた。

 

「ちょっと! あんたも否定しなさいよ!」

「そうやって言葉を強要するのは良くないと思います!」

 

 ナツメが口を開く前に今度は心美が声を上げた。

 ナツメは抱きついているカルラに揺さぶられながら、この事態に唯一参加していない英を見た。彼は相変わらず青白い顔に笑みを浮かべている。「確かに」と彼が口を開くと、皆が騒ぐのをやめて彼の方を見た。

 

「ナツメくんは歯に衣着せぬというか、直截的な物言いをするからね。誤解を受けやすいのだろう。当然悪気はないし、言っていることは概ね的を射ているから余計に反感を買ってしまうのさ。まあ、世間一般とはズレた発言も多々あるがね」

 

 英もそう思っていたのか。だが、最後のひと言を彼に言われるのはどうにも腑に落ちない。

 抗議しようと口を開きかけたところで、医務室に設置されている液晶モニターから歓声が響いた。アリーナに立つ鞘香と、プラカードを持ったラウンドガールたちの姿が映し出されている。Cブロックが始まったらしい。

 話の腰が折れ、医務室の空気は観戦モードへと切り替わった。

 皆の視線がモニターに注がれる中、ナツメは英に体を寄せて「少しいいか」と囁いた。

 

「ふむ、では向こうで話そうか」

 

 英は頷いて、奥の部屋に繋がるドアを開けた。

 



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08 英カウンセリング

 暗い室内に入ると、英が手探りで電気をつけた。薬品や医療品をしまった戸棚が並んだ、小さな倉庫のような部屋だった。

 

「座るかい?」

 

 英が奥から椅子を引っ張り出しながら言った。

 

「いや、いい」

「そう言わず、休める時には休んでおくべきではないかな」

 

 英はナツメの前に椅子を置き、更にもう一脚奥から持ってきてそれに腰を下ろした。

 

「顔色は確かに悪くないが、気疲れした顔をしている」

「……良く見てるな」

「私は君の主治医だからね。そして君は、私が受け持った患者の中でも特に興味深い存在だ。どんな変化も見逃したくはないのだよ。ああ、物のついでに少し解剖させてくれるとありがたいのだが」

 

 ()()()()が始まった。英のことは嫌いではないし信頼もしているが、この口癖のように吐き出される彼の「お願い」にはさすがにうんざりする。

 ナツメはため息を吐きながら、英と向き合う形で椅子に座った。

 

「お前はさっき、私が世間一般とズレていると言っただろ。それは分かっているし認めもするけど、お前も大概だな」

「勿論、私だって分かっているとも。自分が〝異常者〟だってことくらいはね。だが、君は私と違って精神的にはまったくの正常な人間だから安心していい」

「――正常だって?」

 

 ナツメは思わず声を上げた。世間とのズレを指摘してきたばかりのくせに、何を言ってるんだ。そんな思いを込めた目を向ける。だが、英はまったく意に介さない顔で言葉を続けた。

 

「君の世間との価値観のズレは生じるべくして生じたものだ。価値観というのは育った環境によって構築されるのだからね。この国は平和で豊かな国だが、世界には今なお戦争のただ中にある国も存在する。それぞれの国で育った人間のものの価値基準が同じだと思うかい? 勿論違う。教育や経済、生活の基盤がまったく異なるのだから同じであるはずがない。ならば、どちらかの国の人間は〝異常〟なのか。それも当然違う。どちらも至って正常なのだよ。君もそれと同じさ」

「……だとしても」 

「ああ。だとしても、そのままでは『外』では生きにくいだろうね。郷に入っては郷に従え、という諺もある。価値観や道徳観の矯正はやはり必要だよ。私は精神科医ではないから正確な診断はできないが、君はうまくやっていると思うよ。片原会長のところに身を寄せたのは君にとって正解だったのではないかな」

 

 そこでひと呼吸置き、英はふとドアの方に視線を向けた。

 

「昔の君なら、ああやって彼らに拘うこともなかっただろう」

 

 英の言う通りだった。以前のナツメは、自分にとって〝害〟となる存在以外にはどこまでも無関心になれた。あの頃はそうすることが生きる上での最善だったのだ。人との関わりは〝弱み〟になりかねないから。今なお他者への関心は薄い方だという自覚はあるが、それでもあの頃とは比べものにならないほど、ナツメは多くの他人と関わっている。

 英と同じようにドアの方に顔を向けると、不意に王森と御前に言われた言葉を思い出した。

 

「他人と関わることに何か意味はあるのか」

「また唐突だね。その質問の意図を教えてくれないかい」

「島に着いた初日、急に休暇を言い渡されて。王森さんに『いろんな奴と関わってみろ』と言われたんだ。ついさっきも御前が、闘技者や他の奴らと『交流を深めたらいい』と仰って」

 

 そのせいなのか分からないが、島に着いて以来、御前の護衛から遠ざけられているようにナツメは感じていた。もともと裏で立ち回ることの方が得手であるから、この方が身軽で性分に合っているのは確かだが。

 英は「ふむふむ、なるほど」と頷いた。

 

「こんなにも多くの種類の人間が集まることもそうはないからね。いい機会だと思われたのだろう」

「どういうことだ」

「価値観は環境に左右される、と言っただろう? その中でも特に大きな影響力を持つのが〝他人〟さ。まったく同じ価値観を持った人間は存在しない。そしてその違いが、己や他者の価値観に新たな刺激を与える。片原会長は、そうやって君に何か変化が訪れることを期待しているのではないかな」

「変化? どういう変化だ?」

「さて、それは私には分からないが。会長にそう言われたのがついさっきだというのなら、少なくとも君にとって悪い影響にはなっていないということではないかな」

 

 ――そうだろうか。正直ナツメは不安だった。

 先ほどの王馬とのやり取りも、第三仕合を止めようとしたことも、仕合に臨む直前のコスモに対して放った言葉も。すべて今までの自分ではありえない突飛な行動で、それらが自身の変化によって引き起こされたものであることは間違いない。

 それはつまり、自分が自分の予測を超えた行動を取りかねないということでもあった。たった一つのミスが命取りとなるような世界で生きてきたナツメにとって、先が読めないというのはひどく恐ろしいことだった。

 それでも、御前が変化を望んでいるというのであれば、自分はやはり今のままではいけないのだろう。その変化が今後にどう作用するか分からない漠然とした不安はあるが、そうやって立ち止まり、停滞することを御前は良しとしないだろう。刺激が欲しいと仰るあの人は、きっと〝不変〟がお嫌いだ。

 

「ところで」と英が言った。

「私に何か話があったのではないのかな?」

 

 ナツメはああ、そうだったと首を振って思考を閉じると、それを頭の隅に追いやってから『本題』を引っ張り出した。

 

「第四仕合のことだ。茂吉の蘇生で忙しかっただろうけど、まったく見ていなかったわけじゃないんだろう?」

「ふむ、第四仕合……」

 

 英は考えるような素振りを見せ、それからはたとして「ああ、十鬼蛇王馬くんのことかな?」とナツメを見た。随分と察しがいい。仕合を見ていて、彼にも思うところがあったのだろう。

 

「君と彼がただならぬ仲らしい、というのは小耳に挟んではいたが。彼の仕合を見ていて気づいたよ。君たちの動きには似通ったものがある」

「基礎が同じだからだろうな。私とあいつは、同じ人から武術を教わったことがあるから。型や体捌きが似るのも当然だ」

「姉弟弟子、というものかな? 君たちの師というのは――十年前、重傷の君を私のもとへ運び込んだ彼かい?」

「ああ」

 

 ナツメは膝の上で拳を握り締めた。そんなナツメとは対照的に、英は「なるほど、見えてきたよ」と笑っている。

 

「彼は君を私に預けて、そのすぐあとに亡くなったのだったね」

「――ああ」

 

 そしてナツメはそれを知らずに英のもとで療養を続け、怪我が完全に癒えた頃になってようやく二虎の死を知ったのだった。

 ――あの時、お前がいりゃ二虎は!

 王馬の声がよみがえる。ナツメだって考えなかったわけではない。もしもあの時、自分が怪我を負わなかったら。そのまま『中』にいたのなら。二虎は死なずに済んだのではないか。そうしたら、王馬とももう少しマシな関係を築けて……。

 ナツメは握った拳の中で手のひらに爪を立て、否、と自分の思考を否定した。たとえ二虎が生きていたとしても、自分は彼らと生きる道を選びはしなかっただろう。だから、これは不毛な話だ。

 そうして己の思考に無理やり蓋をして、ナツメは英の話を聞くことに意識を集中させた。

 

「師が亡くなったのち、二人の弟子は袂を分かち、十年後に偶然の再会を果たした――というわけだ。なかなかどうして、物語としては良く出来ているじゃないか」

 

 ナツメは目を眇めて英を見たが、彼は悪びれる様子もなく「これは失敬」と薄い笑みを崩しもせずに言った。

 

「話がそれてしまったね。本題に戻ろう。君が聞きたいのは彼の体のこと、で合っているかな?」

「合ってる」

「ふふふ、やはりそうか。私も気にはなっていたのだよ。彼のあれは『憑神』で間違いないかい? 君のそれとは少し違うようにも見えたのだが」

「同じだ。王馬はあれをまるでコントロールできてなかったから、力を抑えた私とは違って見えたんだろう」

「暴走状態、といったところかな」

「そうだ。あんな状態で体が無事なわけがない」

「いくら闘技者といえど、体の中身までは鍛えられないからね。私のように肉体改造を施したとしても、血管や内臓そのものを強くすることはできない。君のように生まれついての頑丈な体でない限り、あれを制限なしで使えば当然のことだ。いや、たとえ君でもか」

 

 そう、だからこそナツメは定期的に英に体の状態を診てもらっているのだった。

『憑神』は心拍数を意識的に上げて血液の循環速度を加速させ、それによって発生した熱量を運動能力へと変換させる技術である。当然、心臓には普段の何倍もの負荷がかかる。激しい血流で全身の血管が膨張し、次々に損傷していくのだ。脳内出血が意識や記憶を混濁させ、幻覚や幻聴を引き起こし、最終的には心臓が限界を迎えて死に至る。

 ナツメの体は生粋の呉一族ほどではないが、常人よりかはずっと頑丈だ。そんな体でも『憑神』を使う際には出力を調整する必要がある。ただの人間である王馬が制限なく使えばどうなるかなど、考えずとも分かることだった。

 

「第四仕合の様子からでいい。あいつは今、どんな状態だ?」

「モニター越しに片手間で見ただけだから正確な診断はできかねるが」

「それでいい」

「残念だが、もう長くはないだろう。もし二回戦も同じような闘い方をするのであれば、生きてトーナメントを終えることはできないかもしれないね」

 

 予想通りといえば予想通りの回答だった。

 

「……そうか」

「それほどショックは受けていないようだね。あの技の危険性は君が一番良く分かっているだろうし、大方の検討はついていたかな?」

 

 ナツメは英の顔から目をそらし、つい先程見た王馬の姿を頭に思い浮かべた。

 慣れ親しんだ血の色と匂いが真っ先に思い出され、次に怒りに満ちた顔が浮かぶ。赤く汚れたシャツに包まれた体は十年前とは見違えるほど逞しくなったが、その見た目とは裏腹に体の内側は――特に心臓は、既に限界近いのだろう。

 

「……血を吐いたようだったから」

「それはいつの話だい?」

「ついさっき、ここに来る前だ。どれくらいの量を吐いたのかは分からないけど」

「喀血か吐血か……。どちらにしろ、臓器に損傷を負っていることに違いはないだろう。一度精密検査を受けることをおすすめするよ」

「分かってる。だからお前に診てもらいたかったんだけど、連れてこれなくて……。私の話はもう聞いてくれないだろうな」

「その様子だと、また反感を買ってしまったのかな?」

 

 ナツメは頷く代わりにため息を吐き、額を押さえて項垂れた。

 どうすればいいのだろうか。凛は「少し気をつけて見ておくッス」と言ってくれたが、二回戦を棄権させることは無理だとも言っていた。拳願仕合における企業の利権云々もその理由だが、仮にあの山下社長が棄権を提案しても王馬がそれを受け入れることはないだろう。凛曰く「究極の負けず嫌い」らしいから。

 それを踏まえた上で自分の言動を省みれば、あれは火に油を注いだも同然だった。だが、そんな王馬の性質を先に理解していたとしても、結果は同じだったのではないかとも思う。いま冷静になって考えてみても、どうするのが正解だったのかまるで分からないのだから。

 

「随分と思い悩んでいるようだね」

 

 英の声にナツメはようやく顔を上げた。

 

「いろいろ考えはするんだけど、あれこれ頭で考えるのはどうにも性に合わないな。ひとつも答えが出てこない」

「君は直感型だからねえ。頭が痛むのなら薬を出そうか」

 

「いや、いい」とナツメが断ると、英は「それは残念」と笑った。ナツメがそう答えることは聞く前から分かっていたのだろう。

 

「薬嫌いは相変わらずかな?」

「『薬』と聞いていいイメージが湧かないんだ」

「それも『中』で育ったがゆえの価値観だね」

 

 まったくの無法地帯である『中』では、違法な薬物が当たり前のように売買されていた。法など存在しない場所だから、そもそも違法もクソもないのだが。それによって心身を破壊された人間の見るも無残な姿を、ナツメは数え切れないほど目にしてきた。『薬』と聞くと、どうしてもその光景が頭に浮かんでしまうのである。

 そういう価値観や道徳観も、『外』に合わせて変えていかなければいけないことは分かっている。そのためには、新たな刺激や経験が必要、か。

 

「……やっぱり、貰っていいか」

「おや、試してみるかい?」

「安全な薬なんだろう?」

「勿論。一般的に処方されている承認薬だよ。その〝普通〟の薬で君の体にどれほどの効果があるかは分からないが……。そうだ、私が開発した新薬があるのだけど試してみないかい? その場合、先にこの献体同意書にサインを」

 

 英は浮かれた様子で紙を一枚取り出したが、ナツメはそれに目を通すこともなく突き返した。

 

「『献体同意書』って前に鷹山さんの怒られたやつだろ。良く分からないものに安易にサインするなって説教されたんだぞ」

 

 それ以来、英の検診を受ける時には鷹山が同行するようになったのだった。

 英は残念そうな顔で紙をしまってから「彼もなかなか過保護だね。まあ、相手が君なら分からなくもない」とナツメを見て笑った。

 どういう意味かと問うとしたが、その前に隣の部屋が騒がしくなった。そしてすぐに扉が叩かれ、向こう側から心美の声がした。

 

「すみません先生! 急患です!」

「ふむ、仕合が終わったようだね」

「みたいだな」

 

 ナツメと英は同じタイミングで立ち上がった。

 

「君も仕事に戻るかい?」

「ああ」

「では、薬を渡しておこう」

 

 英は戸棚から迷うことなく薬を一つ取り出した。それをナツメに手渡しながら、言う。

 

「病気や怪我を治すのはあくまで人の自然治癒力であって、薬はその手助けをしているに過ぎない。そして、どんな良薬だって使用法を誤れば毒になる。要は使う人間次第ということだが――それは薬に限った話ではないはずだよ」

「ああ、分かってる」

 

〝技〟も同じだ。使い方次第で人を生かしも殺しもする。いま王馬の命を脅かしているあの技は、同時にナツメを生かしてきた技でもあるのだ。

 受け取った薬を口に放り込みながら、ナツメは思った。「使うな」ではなく、使い方を教えるべきだったのだろう、と。どちらにしろ、最早あとの祭りである。

 



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09 鎧塚サーパイン

 会場に足を踏み入れた瞬間、マイク越しに響く鞘香の声をかき消すほどの雄叫びが鼓膜に突き刺さった。覚えのある声だ、と思うより先に一人の男の顔がはっきりと脳裏に浮かんで、ナツメは無意識に眉を寄せていた。

 出入り口で足を止め、実況席の方へ目を向ける。マイクを握る鞘香の隣で、アロハシャツを着た浅黒い肌の男が叫んでいた。なんであいつが実況席にいるんだ、という疑問と共に少し頭が痛んだ気がした。英からもらった薬はまだ効いていないか、或いはこの体にはやはり効果がないようである。

 そんなことを考えていると、男が不意にこちらを振り向いた。目が合った。合ってしまった、という方がナツメの心情としては正しい。

 男が「ナツメ!」と声を上げた。マイクも使っていないのに会場中に響くような大声で、途端にナツメは踵を返してしまいたくなった。観客席を埋める何千何万という人々の目が、男とナツメの間を行き来する。

 

「そんなとこに突っ立ってないで早くこっち来いよ!! 仕合が始まっちまうぜえェ!!」

 

 会場中の視線など意にも介さず、男はなおも叫んでいる。頭痛がひどくなったような気がしたが、頭を抱え込むわけにもここから逃げ出すわけにいかず、ナツメは深く息を吐き出してから足を踏み出した。

 

「久しぶりだなナツメ!! 元気だったかッ!?」

 

 実況席に着くと男が再び叫んだ。こいつを基準にしたら、大抵の人間が「元気がない」方に分類されるだろう。ナツメは男と目を合わせ、それから彼の眉間と左目の上に貼られた白い絆創膏を見た。

 

「……お前は元気が過ぎるな、サーパイン」

 

 彼はつい先程終わったばかりの第九仕合に出場していた。

 鎧塚(よろいづか)サーパイン。企業序列二十七位『夜明けの村』に所属する、ミャンマー出身の闘技者だ。その対戦相手だった『あじろ水産』の賀露(かろ)吉成(よしなり)という五十がらみの大男は、意識不明の状態で医務室に運び込まれたわけだが、サーパインは仕合直後とは思えないほど元気が有り余っている。

 

「俺はいつでも絶好調だぜッ!!」

 

 だろうな、とナツメは心の中でため息を吐いた。この男の元気がない姿など見たことはないし、想像もできないのである。

 

「お帰りなさい、ナツメさん」

 

 鞘香が椅子に座ったままこちらを見上げて言った。

 

「殲滅部隊の方はもういいの?」

「ああ。私の加勢なんて必要なかったよ」

「そっかあ。気分転換にはなった?」

 

 その言葉で、彼女には随分と心配をかけてしまっていたことを思い出した。

 

「お嬢、心配をおかけして申し訳ありません」

 

 ナツメが深々と頭を下げると、鞘香はマイクを握っていない方の手を慌てて振った。

 

「そんな、別に謝るようなことじゃないよ。ナツメさんが大丈夫なら全然いいの。それよりほら、仕合始まるよ。座って座って!」

 

 鞘香が空いている席を指す。自分は護衛だからと断ろうとしたが、すでに一度座ってしまっていることも同時に思い出し、ナツメは一瞬返答に迷った。

 

「遠慮はいらないぜ!!」

 

 サーパインが椅子の座面をバンバンと叩きながら叫ぶ。座る前に壊れてしまいそうだった。

 

「……分かったから、耳元で叫ぶな」

 

 ナツメは諦め、おとなしく鞘香、サーパインと並んで座った。

 アリーナにはリーゼント頭の長身の男と、袖のない白い道着を着た男が立っている。どちらも初めて見る顔だったが、道着の男が何者なのかはすぐに分かった。同業の人間特有の臭気、とでも言えばいいのか。間違いなく、あれは『裏』の人間だ。

 第十仕合は、企業序列八位『栃木ディスティニーランド』代表闘技者の根津(ねづ)マサミと、序列二十五位の『ゴールドプレジャーグループ』の闘技者、御雷(みかづち)(れい)の対戦である。

 この『御雷』という名を知っている。暗殺拳『雷心流』を代々受け継いでいる一族の名だ。雷心流がどのような技を使うのかは知らないが、あの呉一族と並び立つほどの暗殺者だと聞く。ならば、その腕は疑いようもない。

 あの道着の男が『御雷』だ。ナツメは確信し、そしてこの仕合の勝敗もすでに悟っていた。

 

「さあ! 両者が構えを取る! 果たして勝ち残るのは――」

 

 鞘香の声が響く中、ナツメは隣に座るサーパインに耳打ちした。

 

「道着の男の方、良く見ておくといい」

 

 この仕合の勝者が、彼の二回戦の相手になる。ナツメはこの男が苦手だが、別に嫌いではなかった。鞘香の友人でもあり、この男にもしものことがあったら彼女が悲しむだろう。これくらいの助言は許されるはずだ。

 サーパインの目が一瞬こちらを見て、すぐにアリーナへと戻された。このタイミングで叫ぶほど馬鹿ではないらしい。

 アリーナに立つ女性レフェリーが右腕を上げた。拳願仕合唯一の女性レフェリーで、Cブロックを担当するアンナ・パウラだ。彼女の「始め!」の号令が響いた――刹那、勝負は決まっていた。

 二メートルを優に超える根津の体が、ずしんと大きな音を立てて倒れた。一体何が起こったのか。会場中が静まり、それからすぐにどよめき始めた。

 

「何が起こったああァ!?」

 

 鞘香がマイク片手に叫んでいる。レフェリーが倒れている根津に駆け寄り、すぐに両手を頭上で交差させて「続行不可能」の判定を出した。御雷の勝利だ。それはナツメには分かっていた結果だったが、これほど一瞬での決着になるとはさすがに思っていなかった。

 

「仕合開始直後、御雷選手の無慈悲な一閃により秒速決着! あまりの速さに、私には攻撃の瞬間を視認することが叶いませんでした!」

 

 会場の大型ビジョンにその一瞬が映し出されている。御雷は開始の声と共に地を蹴り、根津の顎を瞬きするほどの間に打ち抜いたのだ。鞘香の言う通り、一般人や並みの闘技者では目で追うこともできなかっただろう。それほどに速く、正確無比な一撃だった。

 雷心流――まさしく、雷の如くだ。

 

「……すごいね、御雷選手」

 

 マイク越しではない鞘香の声に、ナツメはビジョンから目を離した。彼女は少し不安げな顔でサーパインのことを見ていた。

 

「サーくん、二回戦も大変そうだね」

「……ああ、確かに強敵だ。だけどな鞘香」

 

 そこでサーパインが大きく息を吸ったのが分かり、ナツメは咄嗟に耳を塞いだ。

 

「俺は今!! 最高に燃えてるぜ!!」

 

 この男はなぜいちいち大声を出すのだろう。そんな必要がどこにあるのか、とナツメは常々疑問に思っていた。この無駄に良く通る大声で話して人の名前を叫ぶから、否が応でも周囲の目が集まってしまう。だからナツメはこの男が苦手なのだ。

 

「ナツメ! さっきはありがとな!」

 

 耳から手を離した瞬間にそう叫ばれ、ナツメは眉を寄せながら「いや、気にするな」と答えた。

 本当にうるさい男である。表裏のない気の良い奴だとは思っているが、人目のあるところで一緒にいたくはない。だが、鞘香が友人だと言ってわざわざ紹介してくれた相手であるから、そうぞんざいにあしらうのも躊躇われるのだった。

 それに、鞘香が言っていたのだ。「ナツメさんとサーくんが仲良くなってくれたら嬉しいな」と。なぜ、とも思いはしたが、彼女にそう言われてしまうと突っぱねることもできない。

「ナツメはお嬢に弱い」と指摘してきたのは三朝だったが、吉岡や他の護衛者たちもそれに同意していたし、ナツメ自身にもその自覚があった。同じように、ナツメはエレナにも弱かった。彼女らが相手だとどうにも調子が狂ってしまうのだ。鞘香だけであれば、彼女は御前の娘であり自分が護るべき対象であるから理由もつけやすいが、エレナもとなると事情が変わってくる。彼女らの何がそうさせるのだろうと考えてはみるものの、やはり答えは出てこないのだった。

 ナツメはちらりと鞘香の方を見た。目が合うと、彼女はにこにこと笑って「あのね、ナツメさん」と口を開いた。

 

「今日、トーナメントが始まる前にサーくんのお友達を紹介してもらったんだー」

 

 サーパインの友人。残念ながらあまりいいイメージは湧かなかった。

 

「男か?」

「うん、男の人だよー。闘技者の人でね、確かナツメさんと同い年じゃなかったかなあ」

 

 なるほど、とナツメはひとつ納得した。自分の任務にはなかった鞘香の護衛を、トーナメント開始直前になって烈堂が頼んできたのはそういう理由か。

 鞘香は誰に対してもフレンドリーで、ガードの甘いところがある。烈堂はそれが心配なのだ。彼女も子供ではないのだしとも思うが、烈堂の気持ちも分からなくはない。ただ、サーパインの友人ならば大丈夫だろうともナツメは思っていた。そういった心配は無用な男だ。

「そうだ!」と鞘香が手を叩いた。

 

「ねえ、サーくん。ナツメさんにもガオさんのこと紹介したいんだけどいいかなあ?」

「いや、私は」

「勿論だぜ!」

 

 ナツメの声は容易くかき消された。サーパインが椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がり、背後の観客席に体を向けた。ナツメはいやな予感がしてサーパインを制止しようとしたが、わずかに彼の咆哮の方が早かった。

 

「ガオラーーーンッ!!」

 

 第十仕合の結果に未だどよめいていた会場が、まるで水を打ったように静まり返る。またしても集まる何千何万の視線。しかしサーパインはやはり気にすることもなく、もう一度「ガオラン!」と叫んだ。

 

「俺のダチをもう一人――」

「サーパイン!」

 

 ナツメは少しばかり声を荒げた。不本意であるが、そうしなければサーパインの声にかき消されてしまうのだ。それから腰を浮かせて彼の腕を掴み、今度はその耳元で低く言った。

 

「やめてくれ、私は仕事中なんだぞ」

 

 途端、サーパインはころっと表情を変えて「おっ、そうか。じゃあまたあとにするか」と頷いた。この男、意外と聞き分けはいいのである。

 

「仕事は大事だもんな、うん。邪魔しちゃ悪いからな」

 

 なんて、物分かりの良い顔で呟いている。なんで普段からその声量で喋らないのだろうかという疑問を抱き、それを口に出す代わりにナツメはため息を吐いた。

 この男が相手だと、鞘香やエレナとは違う意味で調子が狂う。カルラが相手の時と似たこの感覚は――押しの強さが原因か。ナツメはそう分析してからサーパインの腕を離した。そのタイミングで鞘香が口を開いた。

 

「サーくん、解説ありがとー。仕合終わったばっかりだったのにごめんね」

「おう、いいってことよ!!」

 

 そう返したサーパインがまたこちらを振り返る。ナツメは体を引いて距離を取ろうとしたが無駄だった。

 

「ガオランには話しておくからな!! またあとで改めて紹介するぜ!!」

 

 鼓膜がビリビリと振動している。さすがに文句の一つでも言ってやりたかったが、サーパインは「じゃあな!」と手を上げてさっさと実況席を出て行ってしまった。そうしてまたすぐに「ガオランッ!!」と叫んで観客席へと駆けていく。ナツメはそれを目で追って、その先にいる男を確認した。サーパインと同じ、褐色の肌をした男だった。

 ――ガオラン・ウォンサワット、か。

八頭(はっとう)貿易』の代表闘技者で、タイ出身の現役プロボクサー。ムエタイからボクシングへと転向してからわずか四年で四大団体統一を果たした史上初のヘヴィー級四冠王者。通称『タイの闘神』。

 男に関する情報がすらすらと頭に浮かぶ。ナツメはこのガオランという男のことを島に来る以前から知っていた。

 トーナメントの開催が決まり、アギトのセコンドにつくよう言い渡され、普段以上に行動を共にするようになったこの二ヶ月弱。トーナメントの参加者がおおよそ出揃ったのは半月ほど前で――ナツメはそれを確認したりはしなかったが――その中に「ガオラン・ウォンサワット」の名前があったことをアギトから聞かされたのだった。

 当然、表格闘技の選手のことなどナツメが知っているはずもなく、そんな有名人なのかと尋ねたところ、彼は喜々として言ったのだ。「俺が認める、当代最高峰の拳闘士だ」と。

 以来、アギトは随分と熱心にボクシングに打ち込んでいた。彼がそれほどに執心する相手であるから、ナツメも少しばかり気になって試合の動画を見たことがある。だからガオランの顔は知っていた。まさかサーパインの友人だとは思わなかったが。

 ナツメは何の気なしにガオランを見ていたが、どうやら彼は表情が乏しいようだと気づいた。それでも、サーパインが叫ぶ度に少し迷惑そうな顔をするから、ナツメはそれを見ながら「やっぱりそうだよな」と彼の心中を察してみたりした。

 そうしていると、サーパインに何か言われたらしいガオランがこちらを見た。目が合ってしまい、ナツメは反応に困った。彼の傍に立つサーパインがぶんぶんと大きく手を振っている。鞘香が控え目に手を振り返して「ナツメさん、あの人がガオさんだよー」なんてにこにこしている。サーくんだとかガオさんだとか、鞘香は時々おかしな名前の呼び方をする。

 ナツメは少し悩んで、とりあえず会釈を返すことにした。そうして顔を上げると相手も軽く頭を下げたのが見えたので、これで体裁は保てただろうと視線を外した。

 立ち居振る舞いについてはこれでも気を使っている。下手をして御前の顔を汚すようなことなどあってはならないし、そんなことをしたら鷹山から説教をくらうだろう。ナツメはそれだけは回避したいのだった。

 

「私もそろそろ次の仕合のアナウンスしないと」

 

 鞘香が立ち上がった。その姿を見てナツメは跪き、少し折れた彼女のドレスの裾を伸ばしてやった。

 

「ありがとうナツメさん」

「いや。下までついて行こうか?」

「ううん、大丈夫だよー」

「なら、ここで控えてるよ」

「うん。ジェリーさんももう戻ってくるはずだから。あ、だけどいつでも好きなところに行っていいからね? 他の仕事もあるだろうし、ナツメさんの知り合いの人とかも来てるんでしょ?」

「ああ、まあ……」

 

 ナツメは少し視線を動かしてアリーナの入場口を見た。そこに選手の姿はまだないが、次の仕合が始まるまでそう時間を要することもないだろう。

 次は第十一仕合。このトーナメントに出場している暗殺者で、ナツメが知っている最後の一人が登場する。その名前を目にした時、まさかこんな大会にあの人が、と驚いたものだった。

 

「……あとで、顔を見せに行こうとは思ってる」

「うんうん、それがいいよー。あと二つ仕合終わったらまた休憩に入るし、ゆっくりお話できるといいね」

 

 鞘香はそう言って笑顔で手を振りながら、アリーナへ降りるために実況席を出ていった。

 残されたナツメは改めて背筋を伸ばしてから観客席に目を向けた。未だ数え切れないほどの視線を向けられているのが分かったが、そのどれとも目を合わせずに会場の端から端までを見渡す。

 そうしてふと、最上階のVIPルームからこちらを見下ろす人影があることに気づいて顔を上げた。御前だ。その背後に王森と鷹山の姿も見える。御前はひどく愉快そうに笑っていて、ナツメが自分の方を見たことに気づくとひらひらと手を振った。王森の表情にも心なしか笑みが含まれているように見える。

 サーパインたちとのやり取りを始終見られていたのだと分かって、ナツメは居心地悪く感じながら頭を下げた。それから鷹山の顔色をうかがって、相変わらず怖い顔をしているが怒っているわけではないことを確かめてから視線を外した。

 

「OH、ナツメSAN! もうオ戻りデスか!」

 

 カタコトの日本語が聞こえてナツメは振り向いた。ジェリーが白い歯を見せながら実況席へと入ってくる。闖入者だったくせにすっかり正規の解説役のような振る舞いだ。鞘香がそのように受け入れているのだからナツメから言うことは何もないが、先程までサーパインが座っていた席に腰を下ろすジェリーを見て気づいたことがある。

 こいつがいなかったから、代わりにサーパインがいたんだな。だとしたら、この男が解説席にいてくれた方がいい。

 そんなことを思ったせいなのか。「何か用でもあったのか?」なんて、普段ならば気にもしないようなことを無意識に尋ねていた。

 

「故郷のMOMとCALLINGしてマシタ!」

「――そうか。母親と、仲はいいのか」

 

 ジェリーは親指を立てて「YES!」と笑った。

 

「心配はしてないのか」

「何をデス?」

「母親が、あんたのことを。拳願仕合は死ぬことだってままあるだろう?」

 

 ジェリーがまじまじとナツメを見つめた。そんなおかしなことを聞いただろうか、とナツメは首を傾げたが、ジェリーはぱちりと瞬きをすると再び満面の笑みを浮かべたのだった。

 

「私の心配をシテくれてるのデスネ!」

「は? いや、そういうわけじゃ」

「THANKSデース! デスガ、NO WORRIES! MOMも確かに心配してくれてマスが、同じくらい応援してくれてマス!」

「応援……」

 

 そう聞いてまず頭に浮かんだのはエレナの姿だった。満身創痍で闘う茂吉に送られた声援。あの時、彼女は何を思って「負けないで」と言ったのだろう。考えて、次に思い出したのは「世界一強い男になりたい」と言った茂吉の真っ直ぐな眼差しと、コスモの「応援があれば頑張れる」という言葉だった。

 ――ああ、きっとそういうことなのだろう。

 

「あんたも『最強』とやらになりたいのか?」

「私も拳闘士の端くれデス。ヤルからにはナンバーワンになりたいというDREAMは、誰でも一度は見るモノだと思いマス!」

「……そういうものか」

「そういうものデス! 鞘香SANからアナタもGREAT FIGHTERだと聞きマシタ! ナンバーワンになりたいと思ったコトはないのデスカ?」

「私は――」

 

 ナツメは視線を宙に向けた。スタンド席より上、VIPルームと同じ階層にトーナメント関係者用の観覧エリアがある。そこに王馬の姿が見えた。近くには氷室涼と凛もいる。同時期に『中』にいただろう者たちがこうして『外』で居合わせているというのも、なんだか奇妙な心地だった。

 不意に、今にも崩れ落ちそうな古びた建物の群れが脳裏に浮かび上がってきた。蜃気楼のように揺らめくそれは、忘れもしない『中』の廃墟郡だ。ナツメは目を伏せた。すると今度は頭の中で声がする。「バケモノ」と泣き叫ぶ女の声だった。

 

「……なりたくてこうなったわけじゃない」

 

 呟くと同時に歓声が上がり、ナツメは目を開いた。アリーナに鞘香とラウンドガールたちが現れたのだ。女の声が歓声に飲まれて頭の奥に消えていく。

 

「WHAT? 今なんと言いやがりマシタか?」

 

 耳に手を当ててこちらの声を拾おうとするジェリーに、ナツメは「なんでもない」と答えてから自分の首を少し撫でた。

 ジェリーはじっとナツメを見て、それからすぐに視線を正面に戻した。彼はそれ以上、この話題には触れなかった。

 



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10 理人vs黒木

「第十一仕合はSH冷凍の理人SANと、モーターヘッドモータースのゲンサイ・クロキ選手のFIGHTデスネ」

 

 資料を捲りながらジェリーが言う。

 

「黒木選手は拳願仕合初参戦のFIGHTERデース。沖縄発祥の殺人拳法……。フーム、私は聞いたコトがNOTHING。ナツメSANは知っていマスか?」

「『怪腕流』か?」

 

 ナツメはジェリーから資料を受け取り、それに軽く目を通した。

 

「沖縄空手をベースに、琉球伝統武術や中国武術なんかも取り入れた流派だったはずだ。あんたが知らなくても当然だよ。そもそも暗殺者というのは人前に姿を晒さないものだし、特にあの人はこういう場に出てくるような人じゃなかったから」

 

 資料にはこれといってめぼしい情報もなく、ナツメはすぐに興味を失ってしまった。そもそも文字を読むのはあまり好きではない。

「黒木選手とお知り合いデスカ?」と、返された資料を受け取りながらジェリーが不思議そうな顔をした。

 

「ああ、私が護衛者になるより前に――」

 

 そこで言葉が詰まった。あの人と自分の関係を的確に表す言葉が思いつかなかったのだ。

 黒木と出会ったのはナツメがまだ十三の頃、二虎を介してのことである。黒木が住まう沖縄まで、半ば強引に連れて行かれて紹介されたのだ。あれは最早、拉致や誘拐の類と大差なかった、と今になって思う。そもそも二虎との出会いも、こちらの意思や意見をほぼ無視した上でほとんど強制的に弟子入りさせられたようなもので、二虎にはそういう少し強引で自分勝手なところが多々あった。だが、不思議と不快ではなかったのだ。

 沖縄でのその出会いから数えれば、黒木との付き合いは十五年になる。と言っても、二虎が生きている間に会ったのはそれが最初で最後だった。二度目の対面は、彼が二虎の訃報を携えて現れた時。ナツメはそれで二虎が殺されたことを知ったのだった。

 まさか二虎が……。そんな驚きはあったが、疑いはしなかった。黒木が誤った情報や嘘を口にするとは思えなかったからだ。

 仇に対する怒りや憎しみが沸かなかったといえば嘘になる。だが、ナツメはそれらを飲み下し、腹の底に沈めた。そうして平静を装った頭に王馬のことが過ぎり、『中』へと戻ったのだった。結局、その再会は十年後まで持ち越されたわけだが。

 

 仇討ちをするか否か。『中』へ戻ったナツメに、黒木はそう問いかけた。

 ナツメは頭の中で是と吠える声を無視して首を横に振った。ただ一つ、二虎を殺した相手の流派――『狐影流』のことだけを教えてもらい、それ以上、仇については何も聞かなかった。

 黒木も何も言わなかったが、あの時のあの人の目は、底の見えない深い翳りを宿していたように思う。だが、当時の自分はそれに気づくことができなかったし、黒木がどんな思いを抱えながら仇討ちについて尋ねたのか。その問いに対する答えをどう受け止めたのか。それらを推し量る余裕もなかったのだった。

『二虎流』の成り立ちには、黒木の『怪腕流』の師が深く関わっている。黒木の師と二虎の師は旧知の仲で、二人の手によって『二虎流』はナツメや王馬が知る今の型になった。初めて黒木と会ったあの沖縄からの帰路で、二虎から直接聞かされた話である。

 そのツテで、二虎と黒木も交流を持ったらしい。どれほどの付き合いだったのかは聞いていない。だが、わざわざナツメを沖縄まで連れ出して紹介するほどだから、充分な信頼関係を築いていたのだろう。もしかすると「友人」と呼んでもいいくらいだったのかもしれない。

 黒木はそんな相手を殺され、しかし、その忘れ形見とも言うべき弟子の一人は師の仇討ちを拒んだ。

 あの人は、どんな気持ちでその言葉を聞いたのか。その後、どんな気持ちで私を鍛えてくれたのか。

 今更考えてみたところで分かるはずもないことだった。ナツメは黒木のことも、二虎のことも、あまり良く知らないのだ。知ろうともしなかったのだから当然である。だが、黒木は厳格な人間ではあるが非情ではない。あの人がトーナメントに参加した理由は、もしかしたら王馬と同じなのかも……。

 ナツメはそのことをこれ以上考えないように思考を閉じた。

 

「ナツメSAN、やはりまだCONDITIONが良くナイのでは?」

 

 押し黙ったことで心配させてしまったようだった。気遣わしげなジェリーと目を合わせ、ナツメは「大丈夫だ」と答えてからアリーナに視線を落とした。

 

「黒木さんは、まあ、知り合いだよ」

 

 ジェリーは訝しそうにしていたが、ナツメはそれを黙殺した。

 入場口から理人が登場し、歓声が上がる。本名は中田(なかた)一郎(いちろう)というらしい。彼が雷庵に()()()()()をかけられて負傷してから時間はそう経っていないが、そんなことなどなかったかのように威勢が良かった。「闘技者の回復力は凄まじい」という英の言葉は本当だ。

 続いて、黒木がアリーナに姿を現した。筋骨隆々の体に黒い道着を着た壮年の男である。厳めしい顔を覆う黒い髪と髭が、まるで獅子のたてがみのように見える。ナツメはその姿に目を細めた。

 ひと目見ただけで全身が総毛立つようなこのプレッシャー。懐かしい感覚だった。ナツメが黒木と最後に会ったのはもう四年近くも前のことだ。しかし、その圧倒的な力量はわずかも衰えていないようだった。

 鞘香とラウンドガールたちが撤収していく。アリーナでは理人が黒木に食ってかかり、レフェリーであるアンナから注意を受けていた。

 

「ナツメSANはこの仕合どう予想シマスか?」

「黒木さんが勝つ」

 

 ナツメは断言した。理人の仕合を観戦したことはないが、こうして見ているだけでも力の差は歴然としている。勝負は実際に闘ってみなければ分からない部分もあるが、そうだとしてもナツメには黒木が負ける姿など微塵も想像できなかった。

 あの人に勝てる相手がいるとしたら――

 ナツメは考えてみた。トーナメント出場者全員の闘いぶりを見たわけではないから、あくまで自分の知っている範疇での推測だが、可能性があるとしたらアギトか雷庵くらいなものだろう。

 

「黒木選手はソレほどSTRONGなのデスネ?」

「見れば分かるよ」

 

 ジェリーとそんなやり取りをしている間に鞘香が実況席へと戻ってきた。彼女は「ただいま」と言って席に座り、それからジェリーとナツメを交互に見て「すっかり仲良しだねー」と笑った。

 ナツメが否定するより早く、ジェリーがまた「イエース!」と親指を立てた。

 

「私、ナツメSANを少し誤解してマシタ! ナツメSANはもっとハートレスな女性かと思っていたのデスガ、それはMISTAKEでシタ! 人を見た目でJUDGEスルのは良くアリマセンね!」

「そうなんですよー。ナツメさん美人だから、ちょっと近寄りがたいところはあるかもしれないけど、すごく優しくて頼りがいがあって、私こんなお姉ちゃん欲しかったんですよねー」

「OH! 私から見ればお二人はすでに姉妹のようデース!」

「わあ、ほんとですか? 嬉しいなー」

 

 ナツメは二人の会話に入っていくこともついていくこともできなかった。ただ、自分と姉妹のようだと言われて喜ぶ鞘香の笑顔が眩しかった。胸の内側を撫でられたようにこそばゆくて、だがそれと同時に自分では不適格だろうとも思い、彼女を直視できずに目をそらした。

 そうこうしているうちに、両者の準備が整ったようだ。

 

「〝超人〟VS〝魔槍(まそう)〟! 勝ち抜けるのはどちらだ!?」

 

 先程までののんびりとした様子から一転、鞘香は表情を引き締めてマイクを握る。

 勝つのはまず間違いなく黒木だろうが、王馬の知り合いである理人がどの程度のものか、少し興味があった。

「始め!」の声と共にレフェリーの腕が振り下ろされた。

 理人が勇んで飛び出していく。真正面からの右ストレート。迂闊だな、とナツメが思った次の瞬間には理人の体は一回転していた。ドシンと音を立てて尻もちをついた理人は、自分の身に何が起こったのかも分かっていないようだ。仕合中だというのに呆けた顔で固まっている。

 その背後に黒木が立つ。理人がはっとして立ち上がろうとしたが、その足を黒木が払った。まるで、足下の小石を蹴るかのような軽い足払い。だが、それだけで理人は体勢を整える間もなく再び地面に転がった。

 躍起になった理人が吠え、黒木に飛びかかっていく。だがいとも容易くいなされ、三度、四度と呆気なく倒された。黒木の挙動には一切の無駄もなく、ただただいなすだけで反撃する様子もない。そんな必要もないのだ、と見ている誰もが悟ってしまえるほどの、圧倒的な実力差だった。

 

「JESUS……!」

 

 ジェリーが呻いた。驚愕の色がありありと浮かんだ声に、ナツメは少し横目を向けた。

 

「アレは『KARATE』デスカ? 私が知ってイル『KARATE』とは大違いデス!」

「言っただろう、見れば分かるって」

 

 相変わらず――いや、さらにも増して凄まじい。齢五十を超えてなお、この人はまだ〝途上〟なのだ。すでに〝武〟の高みへと到達していながら、さらに上を目指している。一体どれだけの強さを手に入れれば、この人は満足するのだろう。

 どうにせよ、一回戦からこの人と当たってしまった理人は運がない。その強さを身をもって知っているからこそ、理人に対して同情めいた感情すら覚える。

 早々に棄権した方が身のため。そう思いながら理人の動向を見ていたが、彼は再び黒木に向かっていった。それも性懲りもなく真正面から。

 黒木が理人の顎を掌底で捉えた。そうしてまた地面に転がるはめになるかと思った理人だったが、彼は黒木の道着の襟を掴んでその体を支えてみせた。

 理人が右手を振り下ろした。途端、黒木の胸元が袈裟がけに斬られたかのように裂けて鮮血が舞った。

 

「伝家の宝刀『レイザーズ・エッジ』が炸裂だあああ!!」

 

 鞘香の声を聞きながら、ナツメはなるほどと思った。指の力で肉を削ぎ落としているのか。刃物で切り裂かれたような傷口を見る限り、その威力は並ではない。彼の我流だろうか。そうでなくても、他の誰にも真似できるとは思えない技術だった。

 その一撃を受け、この仕合で初めて黒木が構えを取った。理人の相手をする気になったらしい。

 ――理人が斬るか。黒木さんが〝貫く〟か、か。

『怪腕流』の技がどんなものかを知っているナツメからすれば、この仕合は徒手同士の闘いとは思えなかった。

 理人が猛攻に出る。黒木の攻撃を避け、重い蹴りを放ち、隙あらばレイザーズ・エッジで皮膚を裂く。その動きはがむしゃらで無駄が多く、洗練されたものではなかったが、その身体能力の高さはうかがえた。

 理人が再び大きく右手を振りかぶった。その懐に黒木が踏み込む。瞬間、血飛沫が上がった。流血したのは黒木ではなく理人の方だった。彼の右腕と左胸に、黒木の貫手がそれぞれ突き刺さっている。ふらり、と理人がよろけて後退ると、引き抜かれた黒木の両手が血に濡れてぬらぬらと光っていた。

 崩れ落ちる理人の腹に、今度は黒木の右の爪先が突き刺さった。地面に血の帯を敷きながら、理人の体が後方へと蹴り飛ばされる。転がり倒れた先で血溜まりが広がった。

『怪腕流』は、徹底的な部位鍛錬が特徴である。皮膚が裂けようが骨が折れようが関係なく続けられる苛烈な鍛錬が、四肢を〝凶器〟に変える。その四肢が繰り出す技こそが、黒木の異名にもなっている『魔槍』である。ただの貫手や前蹴りが、鉄板を穿つほどの威力を持っているのだ。人体が相手だとどうなるかは見ての通りだが、あれでも手を抜いているのだからまったくおそろしい。

 理人がどうにか立ち上がろうとしているが、膝をつくだけで精一杯のようだった。

 黒木はゆったりとした足取りで間合いを詰めていく。そうして立ち止まると右手を引き、正拳突きの構えを取った。魔槍ではなく、あえて純粋な空手の技で決めるらしい。

 雷庵は、周囲に己の強さを誇示するため、わざと純粋な力技だけの仕合をした。だが、黒木はそうではないだろう。歴然とした力量の差を示し、理人に身の程を分からせようとしている。そういう手厳しい人だ。

 黒木が地を蹴った。堅く握った拳が風を切る。瞬間、理人が弾かれたように動いた。カウンター狙いの一撃と共に理人が吠える。

 ――だが、黒木にその刃は届かなかった。

 肉を打つ重く鈍い音が響いて、理人の体が地に伏した。レフェリーが駆け寄り、すぐに手を上げて「勝負あり!」と叫んだ。

 

「ここで仕合終了! 勝者〝魔槍〟黒木玄斎! 理人選手を始終圧倒し、堂々の二回戦進出だァ!」

 

 響き渡る実況と大歓声の中、黒木は顔色一つ変えずにアリーナをあとにした。

 気を失った理人が担架で運ばれていく。関係者用の観戦エリアから、慌てた様子で離れていく凛や金田の姿があった。王馬は険しい表情でその場にとどまっている。

 その上空に鉛色の厚い雲が広がっているのが見えた。湿り気を帯びた冷たい風を感じて、ナツメは「雨が降るな」と胸中でこぼした。

 



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11 二階堂vs桐生

 アリーナの清掃には少し時間がかかった。その間に上空の厚い雲はどんどんと成長し、今すぐにでも雨と雷を落としてきそうなほどになっていた。

 そんな不穏な空模様とは裏腹に、ドームは女性客の黄色い声援で溢れている。

 アリーナに揃っているのは、第十二仕合に出場する選手二名。企業序列三位の『白夜(びゃくや)新聞』からは二階堂(にかいどう)(れん)。拳願仕合初参戦の選手である。対するは、企業序列十六位『皇桜(こうよう)学園グループ』。代表闘技者の桐生(きりゅう)刹那(せつな)は、仕合戦績一戦一勝。どちらも拳願仕合では無名に分類される闘技者だが、この熱狂ぶりはどうやら彼らの容姿に起因しているらしい。

 確かにどちらも端麗な顔立ちをしている。闘技者としては線も細く、こういう男は女受けするということはナツメも知っている。知っているが、その姿に歓声を上げる女性たちの心理は理解できそうになく、これまでにない異様な熱気には少しばかり気圧される思いだった。

 それでも、ナツメはあの桐生刹那という男から目をそらせなかった。初めて聞く名前であるし、当然顔に覚えもない。だが、分かる。あの男からは『中』の臭いがする。王馬や氷室とは違う、血生臭く淀んだ腐敗の臭いがするのだ。

 警戒心で胸の奥がざわめき、あれから目を離してはいけないと直感が告げていた。

 それに従って桐生を注視していると、耳に装着した無線に連絡が入った。

 

『聞こえるか』

 

 王森の声だ。ナツメは「聞こえます」と答えたが、その声が周囲の声援に掻き消されてはいないか心配だった。

 移動した方がいいだろうか。そんなナツメの心中を見透かしたように、王森が「そのまま聞け」と言った。その声色はどこか硬く、重要な伝達事項であることをナツメに知らせていた。

 

『先程、淀江が目を覚ました』

 

 ナツメの脳裏に、拳願号船内で見た監視室の惨状が浮かんだ。淀江だけか? 日吉津は?

 

『あいつの証言で襲撃者が判明したので伝達する』

 

 心臓が内側から殴られたように大きな音を立てた。その音がうるさくて、ナツメはイヤホンに指を当ててぐっと耳に押し込んだ。

 監視室の襲撃者――それはおそらく二虎の仇でもある。それを知ったところで仇討ちをする気はない。それでも、速まる鼓動を抑えられなかった。

 ナツメは深く息を吸った。冷静に、冷静にだ。自分に言い聞かせながら王森の次の言葉を待つ。

 

『襲撃者は皇桜学園の――』

 

 アリーナに落としていた視線の先で、桐生刹那がふっと顔を上げたのが見えた。そうして実況席の方を向くと、彼は笑顔で手を振った。

 背後で女性客たちが悲鳴を上げたが、ナツメの耳には届かなかった。王森の声も聞こえない。意識をすべて、桐生に持っていかれてしまったかのようだった。

 

『ナツメ!』

 

 鼓膜が震えて、ナツメは我に返った。周囲の音が一斉に戻ってくる。鼻腔を通り抜けた空気から雨の匂いがして、一瞬呼吸すら忘れていた自分に気づいた。アリーナを見ると、桐生はすでに対戦相手である二階堂の方を向いていた。

 

『ナツメ、どうした?』

 

 イヤホンから王森の声が聞こえる。ナツメは慌てて「大丈夫です」と答えた。

 

「なんでもありません」

 

 そう言ってからはっとする。また悪い癖が出てしまった。

 王森の返事はすぐにはこなかった。沈黙の向こう側から「どうかしたんですか」と鷹山の声が微かに聞こえ、ナツメは不安を覚えた。

 無意識にVIPルームの方を見ようとして、慌てて自分の行動を押しとどめる。どこで誰がどんな目的で自分を見ているか分からない。通信相手や内容を特定されかねない行動は避けるべきだった。

 王森の返答を身動きせずに待っていると、彼は少し重い声で、だが諭すように言った。

 

『いいかナツメ。何かあったのなら〝報告〟をしろ。組織で動く上で情報の伝達や共有がどれほど重要か……。分かるな?』

 

 ナツメはすぐに自分の言動を恥じた。船で鷹山に言われたことを思い出す。自覚を持て、組織立って行動しろ、と。それを受けてなお、何も変わっていない自分が情けなかった。

 

「申し訳ありません」

 

 ナツメは大きく息を吐いた。心を落ち着かせ、また自分に言い聞かせる。お前は護衛者だろう、しっかりしろ。

 それからアリーナを見据え、手で口元を隠しながらマイクに声を吹き込んだ。

 

「今、桐生刹那と目が合いました」

『……確かにか?』

「間違いなく。歓声に応えたように見せていましたが……。あれは私に向けてです。敵意や悪意は感じませんでしたが」

 

 むしろその逆である。ナツメは桐生の視線や表情から好意のようなものを感じ取った。こちらに対し、親しみすら抱いていそうなほどの。

 

『……襲撃があってすぐ、お前は犯人が『中』の人間だと言い切ったそうだな』

 

 鷹山から聞いたのだろう。

 

『知っている相手なのか?』

「顔も名前も今初めて知りました。ですが――」

 

 言葉に詰まった。

 桐生刹那が淀江たちを襲った犯人だと確定した今、奴が『狐影流』の使い手であることも同じく確定している。二虎を殺した相手が『狐影流』の人間であること。王馬がその人物を追って闘技者となり、トーナメントに参加したこと。それらを加味すると、あの男が仇であることもほぼ確定。顔も名前も知らなかったとはいえ、〝知らない〟と断じてしまえる相手ではない。

 それらを説明するための言葉が、喉の奥でつかえて出てこない。二虎が殺されてから、ナツメはその死や犯人について自ら誰かに語ったことがなかった。この十年間、一度もである。成り行きで二虎の死を知った英にだって詳しいことは何も話さなかった。

 それらを言葉にするために口を開けば、腹の底に沈めた醜悪な感情も一緒くたになって出てきてしまう。そんな気がしていたから。

 ナツメは唾を飲み、張りついた喉を動かそうとした。その前に、

 

『訳ありのようだな。分かった、詳しいことはお前が話せるようになったらでいい。今は桐生刹那の動向に注意を向けておいてくれ』

 

 王森がそんなことを言うものだから、今度は胸が詰まってすぐに返事ができなかった。

 

「……分かりました」

『ああ、任せたぞ』

 

 そう残して通信が切れた。

 ナツメは手を下ろし、肺に溜まった空気をすべて吐き出した。それから大きく息を吸う。雨の匂いがする湿った空気が体の中に入り込んでくる。

 ――大丈夫だ。ナツメは頭の中で呟いた。任された仕事をこなすだけだ、何も戸惑うことはない。

 大声援の中、仕合が始まった。

 先手を取ったのは二階堂である。一気に距離を詰め、その勢いのまま跳躍して跳び蹴りを見舞う。桐生はそれを難なく避けたが、着地した二階堂はすぐに体を捻って上段の回し蹴りを放った。その蹴りが桐生の頬を掠める。

 速度ではわずかに二階堂が上のようだが、身のこなしはどちらも悪くない。だからこそ、ナツメは思ってしまった。この程度に二虎が負けたのか、と。自分が「悪くない」と思う程度の相手に二虎が殺されたなんて、ナツメには受け入れがたいことだった。

 そもそも、桐生刹那は本当に二虎の仇なのだろうか。そんな疑問も頭に浮かんだ。見る限り、彼の年齢は自分とそう変わらない。十年前なら十代半ばから後半。そんな()()に二虎が不覚を取ったとは思えなかったのだ。

 二階堂が連打で追い打ちをかける。しかし、次の瞬間には桐生が二階堂の背後を取っていた。一瞬硬直したように動きを止めた二階堂だったが、すぐに反応してその場から飛び退いた。そんな彼の左肩を桐生の右手が掠め、その光景にナツメは目を凝らした。

 

「――き、貴様! 一体何をした!?」

 

 距離を取った二階堂が叫ぶ。震える声が、彼の動揺を如実に表していた。

 二階堂の左腕は力なく垂れ下がり、その付け根――左肩の筋肉が螺旋状に捩れていた。淀江と日吉津の傷創と同じである。

 あれが衝撃を捩り込む『狐影流』の技か……。形として掌底打ちだが、前腕を大きく捻っているのが見えた。背中から肩、上腕と伝わってきた力にそこで回転を加えて、衝撃を捩り込む。原理としてはそんなところだろう。特筆すべきはその威力。掠っただけであの損傷なら、まともに食らえばひとたまりもない。下手に受けるより躱した方がいい。腕を捻る予備動作があるからそう難しくはないように思える。だが、二階堂は避けきれなかった。なぜ?

 仕合を注視していると、桐生が再び二階堂の背後を取った。二階堂はかろうじて身を躱すとすぐさま桐生と距離を置く。その光景にナツメは違和感を覚えた。

 なぜああもあっさりと後ろを取られる? 見切れない速さではないし、桐生の動きに変わったところも見られないが、二階堂の反応は妙だった。こうして俯瞰しているだけでは分からない何かがあるのだとしたら、それを看破しなければ二階堂の二の舞になってしまう。

 そこまで考えて、桐生と闘うことを前提に仕合を分析している自分に気づいた。一人決まりの悪さを感じながら、しかし桐生は淀江たちを襲った犯人で、箍が外れた『中』の人間なのだから、万一に備えてシミュレーションしておくことは重要だ、などと誰ともなしに釈明した。

 二階堂の左肩は最早使いものにならないだろう。だらりと垂れ下がったまま上げることができず、かろうじて肘から下の前腕部だけは動かせるといった状態だった。距離を取ってそれを確認したらしい二階堂は、重心を落として左半身になると、左の手のひらを上に向け、その上に右の手のひらを重ね合わせて体の前で構えた。

 奇妙な構えだが、様になっている。重心の取り方からして攻め手ではないだろう。かといって完全な守勢とも思えない。カウンター狙いか?

 二階堂の構えからは次が読めず、迂闊には手が出せない状況である。悪くない。これで少しでも間を取れるのなら、そのあいだに呼吸を整え、自分のペースを取り戻す切っ掛けにもなる。二階堂にはもう少し頑張ってもらいたい。ナツメはそう思っていた。少しでも多く、桐生刹那の情報を引き出してもらいたかった。

 そんなナツメの期待を一蹴するように、桐生が地を蹴った。三度(みたび)、二階堂の死角を取る。しかし、その間合いに踏み込んだ瞬間、鼓膜を突き破るような破裂音が轟いた。

 ナツメは反射的に耳を押さえたが、アリーナからは決して目を離さなかった。二階堂が重ね合わせた手を離した瞬間に音が弾けたことも、その爆音を間近で受けた桐生の体が瞬間的に硬直したことも、しかと見ていた。

 二階堂が桐生の耳元で何か囁いた。唇の動きではその内容を読み取ることができなかった。日本語ではなかったかもしれない。

 硬直した桐生の腹に、二階堂が裂帛の気合い声と共に拳を叩き込んだ。右足を踏み込み、腰、肩、腕と綺麗に連動した見事な発勁だ。桐生の体が後方に吹き飛ばされ、地面にぶつかってバウンドする。歓声と悲鳴の両方が会場を揺らした。

 

「あの武術、知ってるのか」

 

 ナツメはジェリーに尋ねた。ジェリーは解説席から身を乗り出してアリーナを凝視している。彼は声をかけられたことで我に返ったらしく、深呼吸をしてから椅子に座り直した。

 

「アレは『天狼拳(てんろうけん)』に間違いアリマセン」

「てんろうけん? 聞いたことがないな」

「すでに失伝シタとされる日式中国武術デース。まだ継承者ガ残ってイタとは……。ソレモ、対練ですら再現不可能とイワレル技を実戦デ決めるほどの拳士ガ……」

 

 ジェリーの声は驚嘆で震えていた。

 中国拳法には数え切れないほどの流派が存在するが、二階堂の武術がその中でも異質な部類であることはナツメにも分かる。あの独特の構えからの一連の技は、予備動作も隙も大きく、はっきり言って実戦向きではない。それをこのトーナメントで、片腕が使えない状態で決めたのだから、ジェリーの反応にも納得がいくというものだった。

 あの破裂音……。どうやってあれほどの音を発生させたのだろうか。ナツメはその原理に少し興味が湧いた。ジェリーはなぜかこの武術に詳しいようだから、彼に聞けば何か分かるかもしれない。だが、今はそのタイミングではなかった。

 ぽつり、と水滴が顔に当たった。ナツメはすぐに鞘香の方へ体を寄せ、彼女の頭上に傘を差し出した。鞘香がこちらを見上げるのと同時に、大粒の雨が叩きつけるように降り始めた。鞘香とジェリーが慌ててレインコートを着込む。それを確認してから、ナツメは傘を閉じて再びアリーナに目を向けた。

 ナツメは傘が好きではない。手が塞がるし、視界を妨げるし、傘にぶつかる雨音がうるさくて、いざという時に反応が遅れてしまうから。

 アリーナでは、桐生がどうにかといった様子で立ち上がっていた。雨に濡れた長い黒髪が、項垂れた顔を覆い隠している。二階堂が構えを取った。その端正な顔には薄ら笑いが浮かんでいる。自身の勝利を確信したのだろうその表情が、次の瞬間、崩れた。笑みを湛えた口から唐突に血が溢れ、彼の笑みをかき消した。二階堂はそのまま膝から崩れ落ち、血を吐きながら激しく咳き込み出す。

 実況の鞘香が、解説のジェリーが、会場の観客たちが、何が起こったのかと騒然とする中、桐生の一挙手一投足から目を離さなかったナツメは確かに見ていた。二階堂が発勁を打ち込んだ瞬間、桐生も技を打っていたのだ。掠っただけで二階堂の左肩を壊したその技を、今度は胸に。それを受けた二階堂自身が気づかぬほど浅い当たりだったが、それでも吐血するほどの威力。もう少しでも深く当たっていたら致命打となっていただろう。

 不意に、桐生のまとう空気が変わった。桐生は両手を広げ、二階堂に向けて何か喋っている。雨音のせいで声は聞き取れず、角度が悪くて唇も読めない。だが、強く吹いた風に長い髪が舞い上がり、露わになったその顔には愉悦に満ちた笑みが浮かんでいた。

 触発された二階堂が地を蹴る。再び放たれた拳が桐生の胸部に叩き込まれた――かに見えた。しかし、桐生は拳が触れる瞬間に体を回して攻撃を受け流していた。中国武術に見られる『化勁(かけい)』の要領だろう。二虎流にも同じような技法がある。

 二階堂が高速のラッシュで攻め立てる。しかし、ことごとくを躱されていた。その光景にナツメは再び違和感を覚えた。速さでは二階堂がわずかに上回っていたはずだ。負傷してはいるが、速度自体は落ちていない。なのになぜ躱されるのか。桐生が速くなったわけでもないのに、だ。

 ――桐生の反応速度が上がっている?

 あのダウンの前後で、何かが変わった。まるでスイッチのオンオフを切り替えたように。そういう経験はナツメにもある。精神的、或いは肉体的に窮地へと追い詰められた時に、脳のリミッターが外れるのだ。それを意識的に扱える呉一族の『外し』をナツメは知っているし、運動能力を一時的に向上させる技術なら『憑神』もある。普通の人間が使用するにはどちらも命に関わる危険な技だが。

 二階堂が吠え、躍起になって放った一撃を桐生が捉えた。二階堂の腕に軽く手を添える。たったそれだけで二階堂の体は制御を失ったかのように前へつんのめって、そのまま一回転すると背中から地面に叩きつけられた。

 その光景にナツメは目を見張った。あの技は、力の流れをコントロールする『操流ノ型』。そういう技術は他の流派にも存在するが、あれは間違いなく……。

 ――〝柳〟だ。二虎の仇がなぜ『二虎流』を?

 ナツメは顔に貼り付く髪をかき上げた。

 降りしきる雨の幕の向こうで、仰向けに倒れた二階堂を桐生が踏みつけている。笑みを浮かべ、見下し、相手を痛めつけることに愉悦を感じているらしいそのさま。あれが奴の本性なら、ひと目見た時から「目を離してはいけない」と感じた自分の警戒心は正しかった。

 そして、そんな奴に好意を向けられる覚えはない。ましてや、ナツメは仮にも二虎の弟子という立場にあったのだ。殺した相手の身内に対して「親しみ」を抱くというのはおかしい。なら、桐生は何に対して――

 そこまで考え、ナツメは桐生がなぜ『二虎流』を使えるのかという疑問に立ち戻った。

 一体なぜ、どうやって、誰がこいつに『二虎流』を?

 そうして考え得る可能性を探っていると、思いがけず一人の男の姿が脳裏をよぎった。

 

「――まさか、あの人が……」

 

 ほとんど唇を動かすことなくこぼれた小さな呟きは、誰の耳に届くこともなく雨音にかき消された。

 ナツメが二虎の死からずっと目を背けてきたのは、腹の底に沈めた醜悪な感情を沈めたままにしておきたかったから。そして、気づきたくない事実に気づきたくなかったからだ。それをたった今、自覚してしまった。

 降りしきる雨の中、桐生が二階堂の背後から腕を回し、その左胸に技を打ち込むのが見えた。二階堂が両膝をつき、駆け寄ったレフェリーが彼の戦闘不能を告げる。

 第十二仕合は桐生刹那の勝利で幕を閉じた。

 



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12 因縁

 ナツメは拳願ドーム内の通路を足早に進んだ。Cブロックの仕合がすべて終了し、トーナメントは次のDブロック開始までの休憩に入っている。

 すれ違う人々は皆、ずぶ濡れのまま歩くナツメを不思議そうな顔で見ていた。中にはわざわざ振り向いてまで視線を寄越してくる者もいたが、ナツメはそれら一切を無視して歩き続けた。だが、自分が一体どこに向かっているのか分からない。

 第十二仕合が始まる前は、黒木に顔を見せに行くつもりでいた。タンカーで乗りつけた侵入者への対処がどうなっているのか、その確認も必要だろう。時間があればドーム内の見回りもしなければ。

 そう考えていたはずなのに、自分が今、そのどれをやろうとしているのか。或いはそれ以外の目的があって足を進めているのか。自分のことだというのに何も分からないまま、だがとてもじっとしていられる精神状態ではないということだけは理解していた。

 その原因は桐生刹那。彼本人というよりは、その背後に見つけてしまった一人の男の影である。つまりは、桐生に『二虎流』を教えた人物のこと。おそらくそれは、ナツメにとって〝最初の師〟と呼ぶべき人だ。ナツメに『二虎流』の基礎を教えてくれた人。『中』で、ナツメに初めて手を差し伸べてくれた人。『憑神』を与え、生き方を示してくれた人。ナツメはすでにそう確信していた。

 ナツメが「あの人」と最後に会ったのは十年前である。それより以前もそう頻繁に会っていたわけではない。「あの人」は気紛れで、放任主義だった。基本を叩き込まれたあとは、時折ふらりと現れて近況を尋ねてくる程度。「しっかり生きろよ」とか「強くなれよ」とか、そんなことを言い残して去っていく。特に、ナツメが二虎と出会ってからはその頻度も目に見えて減っていた。それが完全に途絶えたのが十年前。二虎が死んだ、あの時から。

 それが偶然だなんて、今更どうして言えるだろう。

 桐生刹那――あの男に会わなければ。会って確かめる必要がある。ナツメは確証が欲しかった。桐生に『二虎流』を教えたのが「あの人」であるという確証。二虎の死に「あの人」が関与しているという確証。そうでなければ、ナツメはそれを否定したいと思う自分を納得させられない。

 その一方で、今は桐生に会うべきではないと主張する自分もいた。この精神状態で桐生と対峙するのはまずい。そう分析する冷静さも頭の中にはあって、ナツメはどちらの感情に従うべきか迷い、それが動き続ける足の運びを止めさせた。

 そうして気づけば、周囲から人がいなくなっていた。無意識のうちにひと気のない方へと歩いてきていたのか。先ほどまで聞こえていた喧騒が消え、耳につくのは天井に設置された空調が発する低い唸りだけだった。吹き出す冷たい風が雨に濡れた肌を撫で、ナツメは身震いした。

 物理的に頭が冷えて、はたと自分の姿をかえりみる。濡れ鼠、という言葉が頭に浮かんだ。次いで、すれ違った人々の表情や視線が思い出され、この姿は護衛者として相応しくないなと今更な気づきを得た。

 向かうべき場所を決めかねて止まってしまった足を見下ろす。このままここに立っていても時間を無駄にするだけだった。

 暫し考え、ナツメは再び足を踏み出した。

 一度部屋に戻ろう。まずは着替えて、そうして少し時間を置いた方がいい。桐生刹那のことはそれから改めて考えるのだ。そもそも、このあとにはまだDブロックの仕合が控えている。つまりは加納アギトの仕合があり、ナツメはセコンドにつかなければならない。その前にやるべき仕事もある。よくよく考えれば、桐生に会っている時間などないのだった。この休憩の間で片がつくような話をしに行くわけではないのだから。

 ナツメは顔を上げた。その首筋に冷たい気配が触れ、ぞわりと全身が粟立った。空調の風ではない。凍った手で背後から首を掴まれたような。

 振り向くと、何の変哲もない通路が静かに伸びているだけだった。照明の白い光に照らされるものはなく、人影どころか何らかの気配のかけらすらない。だが、今、確かに――

 ナツメは弾かれたように駆け出した。走る自分の足音が、壁や天井にぶつかって反響する。他には、頭の中まで響く大きな拍動を感じられる以外、何も聞こえないし、誰もいない。しかしナツメは、確かに感じた視線の主を探して走った。

 追っては駄目だ、と警告する自分もいたが、焦燥に駆られた体を止めることができなかった。

 不意に何者かの気配が生じて、ナツメは腰のナイフに手を掛けながら通路の角に飛び込んだ。そうして睨み据えた視線の先には、怪訝そうに眇められた黒に染まった目があった。

 

「何してんだ、テメー」

 

 行く手を塞ぐように、雷庵が通路の真ん中に立っている。その目が、こちらの全身を確認するように素早く動き、ある一点で止まった。

 

「えらく殺気立ってんじゃねえか。殺ろうってんなら相手してやるぜ?」

 

 笑みを浮かべた雷庵に、ナツメははっとしてナイフから手を離した。心を落ち着かせるために、深く息を吸う。それから改めて黒い目と目を合わせた。

 

「誰か、こっちに来なかったか?」

「あァ? 誰かって誰だよ?」

 

 その反応で誰も来ていないのだと知れ、ナツメはこっちじゃないなら、と頭の中でドームの見取り図を広げた。体の向きを変える。だが、腕を掴まれて足を踏み出すことは叶わなかった。

 

「テメーから聞いておいて無視かよ」

「離してくれ。今お前に構ってる暇は」

「ねえってか? 着替える暇すらねえようだしなあ?」

「雷庵、頼むから」

「テメーの事情なんざ知るかよ。離してほしけりゃ力ずくでどうにかしてみたらいいじゃねえか?」

 

 雷庵が更に強く腕を握り締める。骨が軋むほどの力にナツメは顔をしかめた。

 下手に抵抗して刺激を与えれば、余計面倒なことになる。それが分かっているからこそ、普段はこの傍若無人ぶりにも目を瞑っていた。御前や、他の皆に心配や迷惑をかけたくはなかったから。そして何より、自分の身を守るために。しかし、今のナツメにはそんな気を回す余裕すらなかった。

 

「もう一度言うぞ、離せ」

「いやだね」

 

 聞くが早いか、ナツメは掴まれたままの腕を内側に捻った。操流で体勢を崩して拘束を解くことができれば上々。だが、雷庵の体は力の流れに引きずられて倒れかけはしたが、崩しきるには至らなかった。想定内。前のめりになった雷庵の頭部を迎え打つように、左足で蹴りを放つ。その一撃は、しかし寸前で間に差し込まれた腕に防がれた。

 緩んだ拘束を一気に引き剥がし、そのままバックステップで距離を取る。充分な間合いを確保して、ナツメは改めて雷庵を睨んだ。

 

「珍しくやる気だな?」

 

 非難を込めた視線を向けても、雷庵はひどく愉しそうな笑みを深めるばかりだ。

 

「クカカッ! 一昨日もそうやってやる気出してりゃ、イギリス野郎も死なずに済んだかもなあ?」

「茂吉は死んでない」

「ああ、そうかい。腕のいい医者がいて何よりだ。次は蘇生なんざできねえように念入りに殺してやるよ。誰のことかは分かるよな?」

 

 弓なりに細められた黒い目の中心で、白銀の虹彩が挑発的に光っていた。雷庵のいつものやり口だ。乗ってやる気などさらさらない。だが、この挑発が挑発で終わらないことを、ナツメは分かっている。

 トーナメントの一回戦、この男は本当に茂吉を殺そうとした。事実、英がいなければそうなっていただろう。あの時の、あの目……。己に向けられた雷庵の目を思い出し、飲み下した感情が腹の底で身動ぐ気配を感じて、ナツメは静かに息を吐いた。今、真っ直ぐに相対した雷庵は、あの時と同じ目をしている。その目がナツメに選択を迫っている。王馬を見捨てるか、否か。

 さあ、どうする? お膳立ては充分だろ。そんな声がはっきりと聞こえてくるようだった。

 千年以上途切れることなく続く歴史と血統を有する暗殺者の家系に生まれ、その長い歴史の中でも類稀な才能を持った雷庵は、しかしながらほとほと暗殺者らしくない男だった。

 呉一族の象徴ともいうべきあの黒い目は、感情の底を覗かせない冷たい暗闇だ。ホリスも、怜一も、あのカルラでさえ、時折そんな暗殺者の目をしてみせる。そういう血筋なのだから、それが当然の振る舞いとして身に染みついているのだ。だというのに、雷庵は感情を隠すどころか、逆にすべてをさらけ出してみせる。怒りも、苛立ちも、愉悦も、嘲りも、すべてをその目に乗せて真っ直ぐこちらに向けてくる。目は口ほどに、というがまさにだ。腹の探り合いが不要な点については気が楽ではある。だが、そうやって剥き出しの感情をぶつけられる度、それに引き摺られそうになる自分がいて、ナツメはそれが怖かった。

 ナツメにとって「感情」はさらけ出すものではない。飲み下し、腹の底に沈め、自分の内にとどめておかなければいけないものだ。特に、怒りや憎しみは。ある種の原動力ともなるその激情は、しかし同時に己の身を滅ぼすものだとナツメは知っている。母はそれで死んだのだから。

「あの人」は、母が弱かったからだと言った。感情を御せるだけの強さ、或いは、怒りや憎しみを他者に向ければ同等の敵意が返ってくることへの覚悟と、それを打ち払うだけの強さ。それらが足りなかったのだと。

 その通りだと思った。しかし今にして思えば、母がああなってしまったのも無理からぬことだったろうと、一定の理解も示せる。母は〝普通〟の人間だったのだから。

 普通の人間が生きていくには『中』はあまりに過酷だった。正常な価値観、正常な道徳心、正常な心身。『中』では糞の役にも立ちはしない。そんな普通の女がなぜ『中』になど来たのか。なぜあんな男と出会い、子を設けたのか。順序は逆で、あの男と出会ったからこそ『中』に来たのかもしれないが、どちらだろうと結果は同じなのだから些末なことである。そして、その結果に生まれたのがナツメだった。母にとって一番の不幸はこれだろう。腹を痛めて産んだ子が〝普通〟とは到底呼べぬものだったのだから、彼女が狂うのも無理はない。

 バケモノ――。泣き叫ぶ女の声が頭蓋の中で響いた。女の顔に穿たれた昏い穴のような目と、そこから流れ落ちる涙が己の頬を伝う感触。最早骨と皮だけのような手が、この首を締める感触。幻覚――否、過去の記憶である。思い出したくもない記憶がずるずると這い出してきて、ナツメは無意識のうちに己の首元に手をやった。

 バケモノか、違いない。いくらやせ衰えた骨とはいえ、大人の手首を握り壊す子供が〝バケモノ〟でなければ何なのか。あの時、必死になって掴んだ女の骨が両手の中で軋む感触も、女の口から迸った苦悶の叫びも、ナツメは良く覚えている。思い出さないようにしているだけだった。バケモノ。そう呼ばれたのは、あれが最初だったと記憶している。朧気ながらその自覚を持ったのも、おそらくはあの時だ。自分が〝普通〟ではないことに。自分の身の内に、凶暴な獣がいることに。或いは――鬼が。

 

「おいおい、いいのか?」

 

 雷庵の笑い声が、張り詰めた空気の中で弾けた。半ば遊離していた意識を一気に引き戻され、ナツメは瞠目して雷庵を見た。

 

()()()()()()()()?」

 

 愉快そうな笑みと共に指摘され、思わず息を飲んだ。手の中にあった女の痩せた手首の感触が消え失せ、気づけばネクタイごとスーツの胸元を鷲掴みにしていた。

「なんてな」と、雷庵の目が笑みを深める。

 

「いいんだよ、お前はそれで。言っただろうが。お前におとなしい飼い猫は似合わねえって。自分でも分かってんだろ? てめえの本性は〝こっち側〟だってことくらい」

 

 言われるまでもないことだった。だからこそ、こうして己を律しているんじゃないか。お前のように我を通して生きていけるほど、私は強くない。周囲に振り撒いた激情の数だけ、己に返ってくる敵意。そのすべてを相手にできるほど、強くはないのだ。

 そう反論したい気持ちを抑え、ナツメは努めてゆっくりと息を吸って吐き出した。

 それが癇に障ったのか。雷庵が一歩足を踏み出した。その顔から笑みが消え、鋭い視線がナツメを射貫く。

 

「来いよ。全力でかかって来い。テメーのことだ。どうせあの十鬼蛇王馬とかって三下が使ってた技も使えるんだろ? ()()()出し惜しみなんてするんじゃねえぞ。じゃねえとマジで殺すからな」

 

 ナツメはどこか冷めた気持ちでその声を聞いていた。殺すぞ、と。一体何度同じ言葉を聞いたことか。その脅しのすべてが、結局果たされずじまいだ。自分がこうして生きているのだから。雷庵がその気になればそう難しいことでもないだろうに、なぜ殺気は向けても殺意は向けてこないのか。こいつなりの理由が何かあるのかもしれないが、ナツメにとってはどうでもいいことだった。今はとにかく、こうしている時間が惜しい。そして、これ以上こいつに付き合って冷静さを欠くことは避けたかった。

 ナツメは胸元から手を離した。そうして雷庵の目を見据え、意識して肩から力を抜く。体の横にだらりと下げた両腕を見た途端、雷庵は怒ったように顔を歪めた。舌打ちと辛辣な(そし)り、それらが吐き出されるより先に口を開く。

 

「今まで何度も言っただろ、お前と本気でやり合う気はないって」

「またそれかよ。状況分かってんのか? お前に選択権なんて」

「〝呉〟雷庵」

 

 雷庵の言葉を遮る声を上げる。「呉」の一文字を殊更強調して発したその声に、雷庵は睨めつける目を向けた。

 

「お前は〝呉〟で、私は〝伏野〟だ。私がお前と闘わない理由の説明はそれで充分だろ」

「だから、テメーはいつまでそんな下らねえことに拘ってんだって言ってんだよ」

「お前にとっては下らないことでも、私にとってはそうじゃない。お前は『呉一族』だからそんなことが言えるんだ。私は」

「お前がどこの誰だろうがどうでもいいんだよ。そうやって家系だの血筋だのでひと括りにされるのがイヤでてめえの父親まで殺そうとしたくせに、何自分で型にはまってやがる」

 

 この男は、どうしてこうも神経を逆撫でる言葉ばかり吐くのだろう。ナツメは苛立ち、その感情ごと吐き捨てるように口を開いた。

 

「その死んだはずの男が生きてたから、お前に構ってる暇はないって言ってるんだ」

 

 分かったら邪魔をするな。据えた目に言葉を乗せて放つ。それを受けた雷庵が押し黙り、その黒い目がほんの少しだけ揺れたのをナツメは見た。

 意外な反応だったが、驚きより、雷庵の言葉に逆撫でされてささくれ立った神経に障った。

 

「知ってたんだろ、あいつが生きてるって。お前が知ってるなら当然怜一や堀雄(ほりお)も知ってるよな。『呉一族』が総出で隠蔽? 笑えない冗談だ。それとも、お前にとっては愉快だったか? この三年間、のうのうと生きてた私はそりゃ滑稽だっただろうな」

 

 卑屈としか言いようがない。胸の内を吐き出せるなら吐き出した方がいいという三朝の助言は、吐き出す内容にもよるようだ。口の中いっぱいに広がった苦々しさに、ナツメは眉を寄せた。あとで自己嫌悪に陥ることは明白だった。しかし、今更自分の発言をなかったことになどできない。

 雷庵は黙ったままだった。何を考えているのか分からない、底の見えない暗闇の目が二つ。ああ、こいつもやっぱり『呉一族』だ。当たり前のことだが、改めてそれを実感したナツメは、初めて見る雷庵の目から顔を背けた。

 反論がないならそれでいい。無言の雷庵など気味が悪いが、今は一刻も早くここから離れたかった。あの男を追うことは元より、これ以上の醜態をこいつの前で晒したくなかったのだ。

 ナツメは踵を返した。その耳に「知ってたのはテメーもだろ?」という冷たい声が突き刺さり、足がその場に縫いつけられた。

 

「ホリスから何をどう聞かされたのか知らねえが、てめえの目で死体を確認したわけでも、証拠を見せられたわけでもねえだろ。言葉だけの報告を、まさか鵜呑みにしたわけじゃねえよな? 死んだってことにしといた方がお前にとっても都合が良かったから、あいつの言い分を()()()()()したんだよなあ? 自分じゃあの野郎を殺せないって、自覚があったんだろ? 実際そうだったわけだしな。勝てもしない相手に執着して、他人の力まで利用して、その結果があのザマだ。そりゃ滑稽に決まってんだろ。お前が強情張ったからこうなったってのに、俺たちを責める言葉がよく吐けたもんだぜ。お前が出しゃばらなければ、三年前に片がついてたはずの――」

 

 それ以上は聞いていられなかった。

 

「あれはお前が!」

 

 そう叫び、ナツメは踵を蹴って振り返った。雷庵は笑っていなかった。さぞ愉快だと言わんばかりの表情を浮かべているだろうと思ったのに、こちらを見据える雷庵の目は鋭く、怒気を孕んでいるようにも見えた。予想外の姿に一瞬気圧されるようなものを感じたが、ナツメはすぐにその目を睨み返し、雷庵に噛みつく勢いで口を開いた。

 出しゃばって私の邪魔をしたのはお前だろ。そんなセリフが喉を焼く前に、あの氷のように冷たい気配が首筋に触れた。全身が総毛立ち、意識するより早くナイフの柄を掴んだ体が、弾かれたように動いた。

 振り向いた先には、やはり誰もいない通路があるだけだった。だが、間違えようもない。『中』にいた頃、幾度となく感じていた視線。自分を見張る、あの男の気配。あの頃も、そして今も、いつだって姿は見えないのに、ナツメは確かにその存在を感知していた。あの『呉一族』が見つけられなかったというのに。現に今も、雷庵は反応を見せていない。

 あの男は〝亡霊〟だと言ったのは「あの人」だったか。そんな相手の気配を感じ取れてしまうのは、やはり血の繋がりがあるからだろうか。それを認めたくはないが、どれだけ否定しようが事実は変わらない。

 ナツメは足に力を込めた。その瞬間に、背後で殺気が膨れ上がった。前方に飛び出すつもりでいたその足で、床を蹴って横に飛ぶと、雷庵の拳が眼前で風を切った。追撃の蹴りを腕でガードし、体の脱力で衝撃を受け流す。それでもなお、雷庵の蹴りは重く骨に響いた。『外し』こそ使っていないものの、ほとんど手加減のない蹴撃に、ナツメは顔をしかめて後方へと飛び退った。

 着地と同時に体勢を立て直す。だが、その時には雷庵はすでにこちらに背を向けていた。

 

「おい、待て!」

 

 その後ろ姿に声を荒げて呼び止める。雷庵が何をしようとしているのかは考えるまでもなかった。

 

「行くな! お前には関係ないだろ! あいつは私の――」

「テメーの事情なんざ知るかよ。同じことを何度も言わせんじゃねえ」

 

 苛立たしげに吐いて、雷庵が肩越しに振り向いた。

 

「おとなしく待ってな、護衛者様? お望み通り、あの野郎ぶっ殺して証拠に首でも持ってきてやるよ」

「お前にそんなこと頼んだ覚えは――」

 

 雷庵の視線が不意に逸れ、ナツメの背後に流れた。すぐ後ろに立つ何者かの気配に気づいたのはその瞬間だった。

 

()()()の尻拭いをしてやるって言ってんだ」

 

 その言葉で、自分の後ろに誰がいるのか分かってしまった。振り向けば案の定、ホリスがそこに立ってじっとこちらを見つめていた。いつもの落ち着き払った表情。だが、その頬が少し強張って見えるのは気のせいか。

 

「丁度いいじゃねえか」

 

 嘲るような声が響いた。

 

「そいつにも聞いてやれよ。なんで死んだはずのお前の父親が生きてんのか。そいつが一番良く知ってるはずだぜ? そうだろ? 教えてやれよ、ホリス」

 

 ホリスは何の感情も映さない目を据えたまま動かない。肯定も否定もせず、雷庵の言葉をただ黙って聞いている。それが面白くないとでも言うように、雷庵が鼻を鳴らした。

 

「今更言えねえよなあ? 呉一族(おれたち)とは極力関わらないようにしてきたこいつが、唯一信じて頼った相手がテメーだったってのに、その信頼につけ込んで今までずっと騙し続けてきたんだからな。こいつを手懐けられて、さぞ気分も良かったんじゃねえか?」

「雷庵!」

 

 振り返り、叫ぶ。雷庵はそれでようやく言葉を吐くことをやめたが、その顔には怒りと、侮蔑にも似た色が浮かんでいた。

 なぜそんな顔をするのか分からない。雷庵には関係のないことなのに――いや、雷庵が『呉一族』である以上、まったく関係ないとは言えない。だが、そんな因縁など鼻で笑って一蹴するのがこの男だ。だというのに、なぜこうも突っかかってくるのか。理解できず、再び気圧されそうになりながら拳を握った。そんなナツメを一瞥すると、雷庵は踵を返して背を向けてしまった。

 

「待て!」

 

 呼び止める声など意にも介さず、雷庵は床を蹴って飛び出した。

 あいつは本当に! そんな悪態の代わりに舌打ちがこぼれた。あいつは一度だって人の言うことを聞いてくれたことがない。そういう奴だと知ってはいるが、こっちがこれだけ必死になって言っているのに、せめて少しくらい聞く耳を持ってくれてもいいだろうに。そんな思いも、雷庵相手では詮無いことか。

 胸中で愚痴のようにこぼしながら、あっという間に見えなくなった背中を追って体全体を振り向ける。

 

「待つんだ、ナツメ!」

 

 まるで、数分前の自分と雷庵のやり取りをリプレイしたようだった。違うのは、相手が雷庵ではなくホリスであること。

 己の腕を掴む手を視界に入れ、それを辿ってホリスの顔を見たナツメは、反射的に「離せ」と怒鳴りかけた言葉を飲み込んだ。感情を隠すことに長けた黒い目が、その瞬間あまりにも真摯な眼差しをしていたからだった。いっそ請うような色さえ見せるその目に、ナツメは引き止める手を振り払うことができなくなってしまった。

 

「〝あの男〟がいたのか」

 

 すでに確信を持っている声色に、思わず目を逸らす。それを肯定と受け取ったのだろうホリスが、小さく息を吐いた。

 掴まれた腕は未だ離されない。雷庵とは違って大した力も入っていない、拘束とは呼べないようなものなのに、ナツメはその手を払えずにただじっと視線を注ぎ続けた。

 

「これは罠だ。この状況で、お前に気配を悟られると分かっていて、わざわざ現れたんだ。あの男はお前を誘き出そうとしている」

「……そんなこと」

「ああ、お前がそれくらい分かっていることは分かっている。それでも追わずにはいられないお前の気持ちも、分かっているつもりだ。こうなってしまったのは俺の責任だ。だからこそ、頼む。追わないでくれ。奴のことは俺たちに任せてほしい」

 

 最後の言葉を聞いた瞬間、腹の底から黒々とした感情が一気に迫り上がってきた。それは意識する間もなくナツメの喉を焼き、唇をこじ開けて飛び出ていった。

 

「お前に任せた結果がこれだろ!」

 

 ホリスの手を叩き払い、両手で目の前にある胸倉を掴んだ。真っ黒な目が驚きに見開かれ、白銀の虹彩が揺れたのも一瞬、その動揺はすぐさま暗い目の底に吸い込まれて消えてしまった。

 

「私はあいつを殺してくれと頼んだはずだ。確かに正式な依頼だったわけじゃないけど、お前が手伝わせてほしいって言うから……。お前が言うから私は……!」

 

 奥など見えない黒いガラス玉のような目に、自分の顔が映り込んでいた。悍ましく、醜悪だといって嫌った感情で歪んだ自分の顔。まして、それを向けている相手が『呉一族』だなんて。

 ――これじゃ、あの男と同じじゃないか。

 唐突に思い至り、ナツメは愕然とした。喉が詰まり、先の言葉が出てこない。ホリスの目に映る自分をそれ以上見ていられず、また、ホリスにこんな姿を見せてしまっていることが堪えられず、ナツメは掴んだままの胸倉に額を押しつけた。その頭に、ホリスの静かな声が落ちてくる。

 

「すまなかった。謝って済む問題でないのは分かっている。雷庵の言う通り、今更何を言ったところで言い訳にしかならないだろう。お前を騙していた事実に変わりはないのだから。お前の怒りはもっともなことだ。それを受ける覚悟もできている。もし少しでも気が晴れるのなら、俺のことをいくらでも殴ってくれて構わない。だから――」

「できないって知ってるくせに」

 

 ホリスが言葉の先を飲み込む気配を頭上に感じながら、ナツメはきつく目を閉じた。

 

「私が呉一族(おまえら)に危害を加えれば、その瞬間〝標的〟になって『呉一族』の報復を受けることになる。それくらい分かってるくせに、良くそんなことが言えるな」

「俺から言い出したことだ。お前が一族の〝標的〟になることは」

「ないって言い切れるか? お前や、たとえ恵利央様が何を言っても、一族の人間を襲った相手に報いを受けさせるといって強硬に出る奴はいるだろ。呉一族の中には、どんな犠牲を払ったって私を殺したいと思ってる奴がいる。私は〝伏野〟の……、あいつの娘だからな」

 

 言った瞬間、心臓が痛んだ。そこからこの体中に送り続けられる血が沸騰し、「怒れ、恨め」とナツメを煽り立てる。一体何度腹の底に沈めれば、この醜悪な感情は湧き上がってこなくなるのだろう。

 ナツメは深く息を吐いて、ゆっくりとホリスの胸から離れた。

 

「雷庵にもしものことがあったら、私はまた身に覚えのない恨みを買うことになる」

「……雷庵だぞ」

 

 ホリスが言わんとしていることは分かる。雷庵の実力は自分やホリスより上だ。あいつなら本当にあの男を殺せるかもしれないが、決して無事では済まないだろう。何より、万が一というのはあり得ることなのだ。

 

「どうだろうな。ああ、でも、あの男を見つけるのは難しいだろうから」

 

 だからこそ、あの男はこうして生きて、自分の前に現れたのだ。本当に、亡霊のような――

 ナツメはそれ以上考えることはやめた。

 

「……もう行くよ。取り乱して悪かった」

「ナツメ」

「大丈夫、仕事に戻るだけだ」

 

 ホリスの目を見ずに答えた。彼が今どんな顔をしているのか、こちらの言葉を信じてくれたのか。それを確かめることもなく、ナツメは踵を返した。

 

「そうか……、そうだな。お前は『護衛者』だからな。戻る前に着替えた方がいいぞ。そのままでは体調を崩すかもしれん」

「そんな柔な体じゃないって知ってるだろ」

 

 お前たちほど頑丈でもないけど。胸中で吐いた自嘲が腹に落ち、溜め込んだ感情に波紋を作って消えていった。

 ホリスがその場から動く気配はなかったが、ナツメは一度も振り返らなかった。

 



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13 坂東洋平

 腹の底がじりじりと焼けているようだった。濡れたスーツを着替えるついでに冷えた水をコップ一杯飲み干したが、焼けた石に水をかけたようなものだった。

 第十二仕合の最中で降り出した雨は、この休憩の間でほぼほぼ降り止み、アリーナではすでに第十三仕合――Dブロックの一仕合目に出場する選手の呼び込みが始まっている。

 企業序列六位の『乃木グループ』と、二十二位『義武不動産』の仕合である。順当にいけば、勝ち上がるのは乃木グループだろう。

 あの企業が今回代表闘技者として送り出してきた初見(はつみ)(せん)という男を、ナツメは詳しく知っているわけではなかった。だが、話には聞いている。十数年前、まだ王森が四代目〝牙〟の座にあった頃、次代の〝牙〟候補として護衛者にスカウトされたことがあるのだと。

 もしかしたら、五代目の座に就いていたのは加納アギトではなく、初見泉だったかもしれない。そんな未来もあり得た男が、一回戦で姿を消すというのも考えにくかった。

 しかし、今のナツメにはそんな勝敗などどうでもいいことだった。この一戦だけではなく、もはや絶命トーナメント自体がどうでもいい。寧ろ、トーナメントなどさっさと終わってしまえばいいのだ。

『護衛者』がその運営全般を任されている以上、そこに属する者として身勝手な行動は許されない。ナツメもそれは重々承知だが、先程は予想だにしていなかった事態に取り乱し、危うく任務を放棄してしまうところだった。その点では、雷庵とホリスに感謝しなければいけないだろう。あの二人が現れなければ、確実にあの男のあとを追っていただろうから。

 そして今も、すぐにでも飛び出したい衝動は消えていない。トーナメント中でなければ、任務さえなければ……。

 それは「護衛者でなければ」と言っているも同然だった。そんな己の思考を、大きな呼気と共に排出する。続けて鼻から深く息を吸い、それを丹田に溜め込んでから腹に力を込めてひと息ですべて吐き出した。

 二虎流・無ノ型(むのかた)――〝(くう)

 空手の息吹と似たようなもので、精神の統一や体内機能の調整を行うための呼吸法だ。最近はあまりやっていなかったが、昔は良くこうして自分の感情を抑えたものだった。

 また必要になるなんて……。再び波立つ感情に、ナツメはもう一度呼吸を繰り返した。

 ――そうだ、それでいい。

 ふと、頭の中で声がした。随分と懐かしい声だった。

 ――焦ることはねえ。奴がここにいるってんなら逆に好都合じゃねえか。探す手間が省けたってもんだ。今度こそ、確実に、奴の息の根をとめてやれ。そのための力を、お前にはくれてやったはずだ。

 ナツメは己の胸に手を当てた。

 

「――分かってるよ、〝二虎〟」

 

 そうだ、焦ることはない。ここは絶海の孤島。賊の侵入を許しはしたものの、それによって強化された警備の中、島から脱出することは困難を極める。

 何より、奴はわざと自身の存在を気取らせたのだ。その目的は、ホリスが指摘した通りだろう。ならば、わざわざこちらから探しに行かなくてもきっとまた現れる。自分はその時を待てばいい。そして今度こそ――

 手のひらに心臓の鼓動を感じて、ナツメは目を閉じた。この身に流れるあの男と同じ血が死ぬほど嫌いで、だが、この身体、この心臓が自分をここまで生かしてきた。

 ――皮肉なもんだな。

 耳元でそう囁いて、声は頭の奥に消えていった。

 

 

 

 

 幾分か落ち着いた激情を腹の底に隠し、ナツメは一人の男と対峙した。

 薄暗く陰鬱な空気を内包した地下の一室。会場の歓声すら届かないドームの底に、その男は拘束されていた。

 企業序列十二位の『十王(じゅうおう)通信』。その代表闘技者である坂東(ばんどう)洋平(ようへい)という男だ。坂東は第十四仕合に出場する。この地下からアリーナまで、この男が移動する間の監視役としてナツメはここにいた。

 なぜこの男にだけそんな監視が必要なのか。それは坂東洋平が「死刑囚」だからである。

 今から三十年前、坂東は〝素手〟で十六人を殺し、五人に重軽傷を負わせて死刑判決を受けた。坂東を確保するために駆けつけた警察官にも複数人の死傷者が出たという。日本中を震撼させた事件だったというが、随分大袈裟だなというのがナツメの正直な感想だった。

 自分と『外』で、物事の価値観や判断基準に依然大きな齟齬(そご)があることを再認識した以外、坂東洋平に関しては何かしらの感想もなく、寧ろそんな死刑囚より危険視すべき相手は他にいるだろうに、と疑問を抱いただけだった。

 しかし、『外』の人間たちにとっては「死刑囚」というレッテルを貼られた坂東は、一番分かりやすく危険で、一番簡単に嫌悪を向けられる相手なのだろう。

 当初は観客席で仕合を観戦していた坂東が、今はこうして地下に幽閉されている。その理由も、会場の一般客から複数の苦情が出たからである。わざわざ監視をつけるのも、そういうポーズを見せておかなければ何かと面倒があるかららしい。

 

「まさか君が来てくれるとは思わなかったよ」

 

 十王通信の高田(たかだ)清助(せいすけ)社長が柔和に笑いながら言う。小柄な老年の男で、顔には多くの笑い皺が刻まれていた。物腰も柔らかく丁寧だが、この男は〝普通〟の人間が恐れ、嫌悪を向ける死刑囚をわざわざ闘技者に選ぶような人間だ。見た目の印象など当てにならない。

 

「君も忙しい身だろうに、申し訳ないね」

「これも仕事ですので」

 

 高田と一度視線を交えてから、ナツメは改めて坂東洋平を見た。

 これといった感情も見えない、昏い洞穴のような目玉が二つ。じっと観察するようにナツメを見下ろしている。

 

「君が私を会場まで連れて行ってくれるのかな?」

 

 その目に良く似合う、低く平坦な声が降ってきた。

 年齢は五十前後。側部と後頭部にだけ髪が残った禿頭に、無精髭を生やした大柄で屈強な体つきの男だった。体躯だけでいえば王森にも引けを取らないだろう。

 

「護衛者、といったかな。君のような女性もいるというのは意外だな」

「坂東くん、彼女を侮ってはいけないよ。彼女は護衛者の中でも選りすぐりの、片原会長直属の護衛だ。あの方の背後にいつも控えているあの二人組……。立ち場だけでいえば彼らと同等でね」

 

 坂東は「へえ、凄いんだね」と、そんなこと思ってもいなさそうな抑揚のない声で言った。

 高田は愉快そうにホッホッホと笑い、そのまま一人で話し続ける。

 

「ただ一人の女性の護衛者というだけでも噂の的だというのに、それだけ片原会長と近い存在となると、変な勘繰りをする輩も少なくはなくてね。あの方の女好きは有名なところでもあるから余計に、といったところかな。まったく馬鹿らしい話だよ。ただのお飾りならわざわざ『護衛者』として傍に置く必要はない。それが分からない愚か者たちが、『滅堂の牙』をもじって『滅堂の猫』などと揶揄しているようだが――ああ、失礼。気を悪くさせてしまったかな」

「いいえ、気にしてません」

 

 実際どうでも良かった。高田が何を喋っているのかも、耳に届いてはいたがまともに聞いてはいなかった。その間、ナツメはずっと坂東の目を見ていた。坂東がそうやってこちらを見ていたからだ。

 坂東の目に敵意や警戒心の類いはなかった。ナツメが女だからと油断しているようでもない。目の前にいる何者かを、ただただ観察しているといった様子だった。こんなふうに、ただの物を眺めるように見られるのは初めてだったが、別に不快感もなかった。

 

「周囲の下世話な噂など、君にとってはただの雑音にすぎないようだね」

 

 高田はまたホッホッホと声を上げて笑った。坂東の無遠慮な目より、こちらの方がよほど不快だった。

 

「――そろそろ行きましょう。よろしいですか?」

「私はいつでも構わないよ」

 

 坂東の返答に頷いて、ナツメは高田に目を向けた。

 

「それでは高田様」

「ああ、よろしく頼むよ」

 

 高田がスーツのポケットから鍵の束を取り出した。坂東を拘束している枷の鍵だ。

 

「私は先に行かせていただくよ。坂東くん、君には期待しているからね。――ああ、それと。くれぐれも彼女の手を煩わせないように」

 

 そう言って高田は、ナツメと坂東を残して去っていった。最初から最後まで、その顔に貼り付いた笑みは何も変化がないままだった。この上なく胡散臭い男である。

 

「高田くんが行ってしまうということは」

 

 抑揚のない声に視線を戻す。坂東も同じようにこちらに顔を向けていた。

 

「君は信用してもいいということだね」

「私があなたに危害を加えることはありません。あなたが不審な行動を取らない限りは」

「うん、分かっているよ。私は約束を破るのは嫌いなんだ。それに、ここで死ぬのは本意ではない」

 

 刑を全うして死にたい、ということではないだろう。そうであれば、闘技者としてこの場にいるはずもない。

 それに坂東は、すでに()()()()()()()身である。初めて絞首刑を受けてから、法務大臣が替わる度に死刑台に送られ続けて計四十五回。坂東は今なお〝死刑執行中の死刑囚〟として生き続けている。

 

「君が一人で私の対応に当たっていること。高田くんがわざわざああ言って私に釘を刺したこと。そこから推測すると、君にはそれだけの実力があるということなんだろう?」

 

 ナツメは肯定も否定もせず、坂東を見つめた。

 絞首刑では殺せない人間。その絡繰りを考えてみたところで分かるはずもなかったが、自分と同じく〝普通の人間〟ではないということだけは確かである。

 

「大丈夫、おとなしくしているよ。だから、そう威嚇しないでもらいたいな」

「威嚇?」

「ずっと私を睨んでいるだろう?」

 

 ナツメは眉を寄せた。

 

「睨んではいません」

「それでかい?」

「……私の目つきが悪いと」

「悪いとは言わないけど、力強くはあるね。君はまるで目をそらそうとしないし」

「あなたもでしょう」

「私が目をそらさないから、君もそらさないと」

 

 坂東は何事か考え込むように口を閉ざし、それから「うん」と一つ頷いた。

 

「君、変わっていると良く言われるだろう」

 

 ナツメはまた何も答えなかった。

 

「知ってるかい? 猫の世界では、正面から目を合わせることは喧嘩を売る行為なんだ。それで、先に目をそらした方が相手に屈したことになる。猫に限らず、そういう生態の動物は他にもいるだろうけど。少なくとも君は『飼い猫』なんて愛玩動物ではなさそうだ」

 

 一体何が言いたいのか。ナツメはそこで初めて意識して坂東を睨んだ。坂東はそれを受けてもやはり顔色一つ変えなかったが、改めてナツメの目をじっと見返したあと、不意に視線をそらした。

 

「もう行かないといけないんだろう? 進みながら話そうか」

「……まだ喋るつもりなのか」

「知っているだろうけど、私は『死刑囚』なんだ。こうして人と話す機会というのはほとんどなくてね。駄目だというのなら黙っているけど」

「……勝手にしてくれ」

 

 ナツメはため息を吐いた。なぜだかひどく調子が狂う。

 

「君はあれだな、押しに弱いタイプだ」

 

 その自覚があり、ナツメは押し黙った。初対面の相手にずけずけと言い当てられたことを不服に思う気持ちもあったが、不思議と不快ではなかった。

 この男と話していると、なぜか英の顔が脳裏にちらつく。坂東の対戦相手が英だからか。或いは、両者にどこか似通った部分を感じ取っているからか。

 ――どうせ死ぬ男のことを、あれこれ考えてもしょうがない。

 ナツメは先立って薄暗い通路に足を踏み出した。その背中に、坂東の低い声がぶつかる。

 

「随分簡単に背中を向けるんだね」

「その状態から何かできるならしてみたらいい」

 

 ナツメは振り向かずに返した。

 坂東は、両腕を体の前で組むような形で拘束されている。両足も鎖で繋がれ、歩けるだけの歩幅しか確保されていなかった。その状態では逃げることなどできないし、ナツメに襲い掛かってくるにしても、動かせない腕でどうしようというのだろう。背を向けはしたが、十分な間合いは取ってある。そしてナツメは、油断など微塵もしてはいないのだ。

 

「こんなものは、私にとって拘束のうちに入らない」

 

 じゃらりと鎖の音がする。頑丈な拘束具を破壊できるほどの怪力なのか、何か違う手段を持っているのか。坂東にはあの拘束から抜け出せる算段と自信があるらしい。だとしても、だ。

 ナツメは腰のベルトに通した(シース)からナイフを引き抜いた。

 

「あんたがその拘束から抜け出す素振りを見せた瞬間、その喉を掻っ切る。首吊りじゃ死ななくても、首を切られれば死ぬだろ。()()()()()の人間がここで死んでも、それで困るのはあんたの雇い主だけだ」

 

 ナツメが『中』にいた頃から愛用しているカランビットナイフは、ハンドルのバックリングと、動物の鉤爪のように湾曲した刃が特徴だ。刺したり切ったりには不向きだが、引っかけて引き裂くように使う性質上、小型でも傷口が深く大きくなりやすい。つまりは、殺傷能力に優れたナイフである。ナツメが人を――あの男を殺すために選んだ得物だった。

 ナツメはリングに指をかけ、背後の坂東に見えるようにナイフをくるりと回した。

 

「ここで死ぬのは本意じゃないんだろ。だったら無駄に挑発するな。私は今、気が立ってるんだ」

「うん、そうだと思った」

 

 思ってたならやめろよ。と思ったが口には出さず、ナツメはナイフをシースに戻した。

 やはりどうにも調子が狂う。再び英の顔が脳裏に浮かんだ。そのせいか、気を紛らわすついでに少しくらい話をしてやってもいいか、なんて普段なら考えもしない思考に至った。

 

「……あんた、元医者なんだろ。やっぱり人体解剖が趣味だったりするのか」

 

 ナツメはそんなことはないだろうと思いつつも聞いてみた。「それ、ひどい偏見だと思うよ」と至極真っ当な返答があった。

 

「君が世話になっている医者はそんな人間ばかりなのかい?」

「私が世話になってる医者は一人だけだ」

「その一人が、人間の解剖が趣味な医者というわけか。他の医者を探した方がいいんじゃないかな」

「腕はいいし信頼してる」

「普通はそんな趣味があると知った時点で引くものだと思うけど」

「私も〝普通〟じゃない」

「なるほど。実は私も〝普通〟ではないんだよ」

「だろうな」

「ああ、それと。私は元〝医者〟ではなく、元〝医大生〟だよ」

 

 そんなやり取りをしながら通路を進む。

 階段とエレベーター、どちらを使うべきか。少しだけ迷い、坂東の足枷を考慮してエレベーターを選んだ。

 

「殺人鬼と共に狭い密室に入るのかい?」

「何かできると思うならしてみろって言ったばかりだぞ」

 

 ボタンを押すとエレベーターはすぐに下りてきた。扉が開き、照明を抑えた地下の通路にかごの中から光が差す。

 

「それに、殺人鬼と一緒に乗り込むのはあんたも同じだ」

 

 先に乗るように顎で示すと、坂東は一度こちらに視線を向けあと、何も言わずにエレベーターに乗り込んだ。ナツメもそのあとに続く。

 扉が閉まり、かごが音もなく動き出す。流石にこの狭い空間で背中を向けるわけにはいかず、ナツメは操作盤の前に立ち、奥で壁のように佇む坂東に顔を向けた。坂東は相変わらず、物を見る目でじっとこちらを見つめていた。

 エレベーターはすぐに目的の階に到着し、それを知らせるベルを鳴らして扉が開いた。ナツメはまた坂東を先に行かせ、それを追うように外へ出た。

 アリーナに響く歓声が微かに聞こえている。狂気にも似た観客たちの熱は、会場だけでは収まりきらないらしい。

 

「君は自分を〝普通じゃない〟と言ったけど」

 

 エレベーターの中では黙り込んでいた坂東が、ふと思い出したかのように口を開いた。

 

「それは精神的にかい? それとも、肉体的に?」

 

 そんなことを聞いてどうするんだか。

 ナツメは坂東を一瞥し、再び先立って歩き出した。促さずとも坂東はあとをついてくる。

 

「そういうあんたはどっちなんだ」

「私はどちらともだろうね」

 

 素手で二十人近くの人間を殺害して平然としている精神というのは、「人殺し」が日常ではない『外』では異常な状態なのだろう。最初の死刑執行から二十五年間、計四十五回もの絞首刑を生き延びた身体も、言うまでもなく異様だ。

 

「……そうか。じゃあ、()()だな」

 

 ナツメは自嘲しながら答えた。

 常人よりずっと頑丈な身体は、普通に考えれば異常な部類に入る。そして、人を殺しても平然としていられる精神が異常であるなら、やはりナツメの精神も異常なのだ。英は〝正常〟だと言ったが、ここは『外』なのだから精神状態の判断も『外』を基準にするべきだった。

 それにナツメは、己の本来の性質がひどく醜悪であることを知っている。

 

「同じ? とてもそうは見えないけど、君は何を隠しているのかな」

「わざわざ手の内を明かすわけないだろ」

「うん、まあ、そうだよね」

「分かってるなら聞くな」

「じゃあ、最後にもう一つ。君は今まで、一体何人殺してきたんだい?」

 

 ナツメは坂東の問いかけに初めて振り返った。その質問の意図を探ろうと目を見つめたが、そこから読み取れるものは何もない。呉一族とはまた違う、無感動なガラス玉がそこにはまっているだけだった。

 

「……それを聞いてどうするんだ」

「ただの興味本位だよ。けど、そうだな……。もしかしたら、今後の参考になるかもしれないから」

「今後?」

 

 ナツメは思わず口元を歪めて笑った。

 

「死刑囚のくせに」

「日本の死刑制度では私は死なないよ」

「死ぬよ、あんたは」

 

 何しろ相手は英なのだから。

 ナツメは踵を返した。通路を進むにつれて、歓声もだんだんと大きく聞こえてくる。次の仕合では死者が出る。それを知っている観客ははたして存在するのだろうか。

 こんなトーナメントなんて開かれなければ、この男はこの先も牢獄の中で生き続けただろうに。

 ナツメは一つの部屋の前で立ち止まった。

 

「選手用の控室だ。ここであんたの拘束を解く」

 

 扉を開くと、坂東は素直に中へ入った。問いに対する答えを得られなかったことは、特に気にしてもいないように見える。

 そして、最後にもう一つといった言葉通り、坂東はそれ以上何を聞いてくることもなく、ナツメが手足の拘束を解いてやっている間もただ黙ってされるがままでいた。

 

「ウォームアップは必要か」

「いいや、私は格闘家ではないからね」

 

 坂東は自由になった腕を伸ばし、筋肉を軽くほぐしながら答えた。

 格闘家ではないというが、仕合を前にして気負った様子はなく、どこか超然としたその態度は闘い慣れした人間のさまだった。或いは、そもそもそういったプレッシャーを微塵も感じない精神構造の持ち主か。

 坂東も箍が外れた人間に違いない。だが、そうであることを自覚し、自分自身を完全に制御している。己の狂気を理性で掌握している英と同じように。

 ――自分とは大違いだ。自分にも彼らのような理性と冷静さがあれば、もっと違った生き方ができていたかもしれない。

 

「……私が今まで何人殺したかって聞いただろ」

「ああ、うん。教えてくれるのかい?」

「あんたは、今まで殺した虫の数を覚えてるか?」

「虫?」

 

 坂東はそこで何かを察したように一呼吸置いた。

 

「君が殺してきた人間は、君にとっては虫と同じかい?」

「虫以下な奴もいる」

 

 ナツメは外した拘束具と鍵を床に投げ捨てた。

 

「私にとって『人を殺す』っていうのはその程度のことだったって話だ。私とあんたじゃ、生きてきた環境が違う。だから、私が何人殺したかなんて知ってもあんたの参考にはならないぞ」

 

 そもそも『殺し』はただの手段である。殺し屋が人を殺すのは、それを仕事にして報酬を得るためだ。快楽殺人者が人を殺すのは、己の欲望を満たすためだ。殺すことそのものに意味があるのではなく、そこから得られるもののためにそうしているにすぎない。

 ナツメにとっても同じである。ナツメが初めて人を殺したのは、自分が生きるためだった。暗殺者になったのは、人の『殺し方』を学びながら生計を立てられるからだった。

 それがひどく醜悪なことであると理解はしていた。その先にどんな目的があったのだとしても、やっていることは外道に変わりない。だから、ナツメはそれを誰かに話したことはなかった。勿論、この先も。

 ナツメは何度目か分からない自嘲と共に、自分を見下ろす坂東と目を合わせた。

 

「喋りすぎたな。聞かなかったことにできないか?」

「残念だけど」

「だよな」

 

 まあ、いい。どうせこの男が生きて島から出ることはないはずだ。

 

「じゃあ、そのままあの世まで持っていってくれ」

「あの世か。もしそんなものがあるのだとしたら、行き先は地獄だろうね。私も、君も」

「それは同意するよ」

 

 だとしても、ナツメには『中』よりも悪い場所があるとは思えなかった。

 



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14 英vs坂東

 英はじめはただの医者ではない。おそろしく腕がいいとか、趣味が異常だとか、理性的なサイコパスだとか、そういった意味ではなく。

 英はじめは、日本政府から派遣された『始末人(エージェント)』である。国家に仇なす、或いは不利益となる存在を秘密裏に抹殺する。それが彼の仕事だ。

 ナツメはその仕事に手を貸したことがある。『中』に逃げ込んだ標的を探し出すため、あの街を案内したことがあるのだ。その時に英本人から、彼が何者であるかを聞かされた。まるで世間話でもするかのような口振りだったから、最初は妄想癖まであるのかと疑ったものである。

 そんな英がなぜ拳願仕合に参戦したのか、ずっと疑問だった。だが、その相手が「死刑では殺せない死刑囚」であると知った時に合点がいった。

 英は、坂東を始末するためにここにいる。

 そうまでして殺したいならさっさと殺せばいいのに。『法律』というものは七面倒だ。それが『外』の秩序を保つために必要なものだと分かってはいるが、まったく回りくどいなとナツメは思ってしまうのである。

 第十四仕合はそんな、本来の拳願仕合の目的とはまったく別の思惑を孕んで始まった。

 

「がんばれ英!」

「がんばってくださーい!」

「お国のためです、先生!」

 

 カルラが、エレナが、心美が声援を送る。ナツメは彼女らに囲まれ、アリーナの入場口近くから仕合を観戦していた。

 坂東を控室からアリーナへと送り出したあと、ナツメはそのまま加納アギトのもとへ向かうつもりだった。それが、途中でカルラとエレナに捕まったのだ。そうしてそれぞれに腕を引かれ、あれよあれよという間にこうなった。

 二人に連行されてきた自分は、よほど情けない顔をしていたのだろう。先にここに来ていた心美の苦笑いと、帝都大学の総長である太宰(だざい)由紀夫(ゆきお)の憐れむような目に迎え入れられたのだった。

 なぜ自分はここにいるのだろう。アリーナを眺めながら、ナツメは独り言つ。経緯の話ではない。なぜ自分は、カルラとエレナに素直に従ってしまったのか、ということだ。

 次の仕事があるのだと説明すれば、二人とも分かってくれたはずだ。実際、ナツメはそう言おうとした。アギトの仕合が迫っているから、自分は行かなければいけないのだ、と。

 だが、言えなかった。

 ナツメはアリーナから視線を外した。隣にカルラが立っている。カルラは真っ直ぐにアリーナを見ていたが、その意識が別の方向に――こちらに向いていることに、ナツメは気づいていた。

 カルラに腕を掴まれたあの時、彼女の目を見たあの瞬間、ナツメは何も言えなくなってしまったのだ。

 前方に視線を戻す。アリーナの一番近くで、心美とエレナが英に声援を送っている。普段のカルラなら、きっとそこに並んでいただろう。

 アリーナの明るい照明の下、英と坂東は子供と大人ほどの体格差があった。英の身長はナツメと同じほどで線も細く、闘技者としては小柄だ。坂東とでは、おそらく五十キロほどの体重差があるだろう。これは致命的な差だった。

 しかし英は、その身軽さを十二分に活かし、坂東の攻撃を巧みにかわしながら一方的に攻め立てた。

 英の流儀は『霊枢擒拿術(れいすうきんなじゅつ)』。擒拿術にも様々な技法があるが、英は指先を鍼に見立てて人体の急所である経絡経穴を突く『点穴法』を主体としている。

 英が自分より体格で勝る相手と闘うには理にかなった手段であるが、そもそも彼が擒拿術を使用するのは、相手をなるべく無傷で仕留めたいという思惑があるからだった。理由は単純明快。あとで綺麗に解剖するためである。

 それらを恍惚とした様子で説明された時の、未知の生物から話を聞いているような奇妙な心持ちを、ナツメは今でもよく覚えている。

 

「まるで弁慶と牛若丸のようです!」

 

 鞘香の実況が飛ぶ。

 ベンケイとウシワカマルというのは誰だろう。名の知れた武術家か? どっちがベンケイで、どっちがウシワカマルなんだ?

 考えていると、カルラが小さな声でナツメを呼んだ。

 

「なんだ?」

「休憩中に何かあったのか?」

 

 ナツメは「何かって?」と、素知らぬ調子で聞き返した。勿論、カルラが言わんとしていることは分かっている。だが、しらを切れるなら切ってしまいたかった。

 

「さっき、Dブロックが始まる前に爺様たちに会ったんだ。けど、様子がおかしかったから」

「それで何があったのかを私に聞く意味が分からないな」

「爺様に聞いたら『何でもない』って言われた」

「なら、何でもないんだろ」

「違う」

 

 カルラははっきりとした口調で否定した。ナツメは相変わらずアリーナに顔を向けていたが、そんな自分の横顔にカルラの視線がそそがれているのが分かった。

 

「爺様たちは嘘を吐いてる。いつもそうなんだ。いつも――お前に関係することは、ああやって誤魔化される」

 

 英はもう随分と坂東の体のあちこちの経穴を突いているが、坂東は動きを止めるどころか痛がる素振りさえみせない。

 普通ならとっくに動けなくなっていておかしくないが――。ああ、〝普通〟じゃないんだったな。

 

「ナツメ、聞いてるのか?」

「聞いてるよ」

「じゃあ、なんで何も答えてくれないんだ」

「答えようがないからだ。恵利央様が何も仰っていないなら、私から話せることは何もない」

 

 呉一族にとって、当主である恵利央の言葉は絶対である。あの人がカルラに対して秘匿としたのなら、一族の誰に聞いてもカルラが求める答えは得られないだろう。雷庵ならそんなことなど意に介さないだろうが、カルラは雷庵を嫌っているから、あいつから聞き出そうとはしないに違いない。

 そうなると、あとは張本人に聞くしかない。という理屈は分かるが、ナツメもそれに応じるつもりはなかった。

 カルラは恵利央の曾孫で、呉一族の宗家直系である。さらには、まだ十六歳という若さでありながら『外し』の解放率八十五パーセントを誇る天才。いずれは呉一族の当主になることが確約されている。

 そんな彼女が『伏野』と『呉』の因縁について何も聞かされていない。それはつまり、何百年と続いてきたこの因縁を、カルラの代まで引き継がせる気はないという恵利央の意志だろう。

 ナツメもそのつもりでいたし、本来なら三年前に果たせていたはずのことだった。ホリスと手を組んだのもそのためだったのだから。

 呉一族との因縁を断つために、呉一族の手を借りる。利害が一致したとはいえ、随分と節操のない選択をしたものだった。

 視線の先では、英と坂東の仕合が続いている。相変わらず英が素早い身のこなしで坂東を翻弄し、圧倒的な手数を稼いでいるが、やはり坂東には点穴のダメージが通っていないようだった。このまま仕合が長引けば、先にスタミナ切れになるのは英だろう。

 さて、どうする? 英も、自分も。

 刺さる視線と目を合わせることなく、ナツメは考えた。

 カルラの追及をかわすのは簡単だ。このまま目を合わせず、口を開かず、ただ無視をすればいい。たったそれだけでいいのに、その「それだけ」ができなかったから、ナツメは今ここにいるのだった。

 

「私は、ナツメのことをもっと良く知りたい」

 

 ナツメはカルラを横目に見た。彼女は真剣な表情でじっとこちらを見つめている。

 

「知らない方がいいことは山ほどある。裏社会じゃ常識だろ」

「でも!」

「カルラ、いい加減に」

「ホリスも怜一も、雷庵だって知ってるのに! なんで私だけ!」

 

 カルラが怒ったように声を上げたのと同時に、悲鳴混じりの歓声が会場を揺らした。

 ナツメが視線をアリーナへ戻すと、英の右手から真っ赤な血が噴き出していた。人差し指と中指が、人体の構造上曲がってはいけない方向に折れ曲がり、骨が皮膚を突き破って体外に露出していた。

 開放骨折だ。負傷の瞬間を見ていなかったナツメには、一体何が起こったのか見当もつかなかった。だが、ナツメが一番に気にかけたのはそのことでも、英が負傷したことでもなく、彼の血がアリーナに飛び散ってしまったことだった。

 

「ナツメ!」

 

 カルラに袖を掴まれ、意識を引き戻された。

 ああ、今日は随分としつこいな。微かな苛立ちを感じて、ナツメは細く息を吐いた。

 

「知らない方がいいって言ってるだろ」

「そんなの聞かなきゃ分からない!」

「私がお前たち呉一族を恨んでるって話でもか?」

 

 吐き出された言葉に、ナツメ自身が驚いた。

 違う、こんなことを言うつもりじゃなかった。恨んでなんかない。ましてや、カルラを傷つけたかったわけでも、突き放したかったわけでも――

 本当に? 自問の囁きが耳の奥で響いた。腹の底に沈めたはずの醜悪な感情が、その声に応じて目を開き、浮かび上がってこようとする気配がした。

 

「――冗談だよ」

 

 ナツメは取り繕って、袖を掴むカルラの手を解いた。その目を見る勇気はない。

 観客たちがどよめいている。まるで怯えているような空気の震えに、ナツメは改めてアリーナに目を向けた。

 そこで奇怪なものを見た。坂東の首や腕が、関節の可動域を無視した方向まで捻れている。普通の人間ならば到底生きてはいない体勢で、坂東は顔色一つ変えずに喋っている。

 まるで軟体動物のような柔軟性である。なるほど、確かに〝普通〟じゃない。

 

「いるもんだな、バケモノってのは」

「……ナツメは違うよ」

 

 ナツメが『中』でそう呼ばれていたことを、カルラも知っているのだろう。

 

「お前たちからしてみたらそうだろうな。私はお前らの〝劣化品〟だ」

「劣化って……」

 

 カルラの困惑した声にはっとする。

 

「さっきから何を言ってるんだ?」

 

 本当に、自分は何を言ってるんだ。言葉の歯止めが利かなくなっていることに気づき、ナツメは額に手を当てた。

 

「なんでもない、忘れてくれ」

「……ナツメ」

 

 カルラがまた袖を引く。

 

「ナツメは私が嫌いか?」

 

 なんだ、急に。――いや、そう急でもないだろう。この会話の流れから、カルラがそう感じてしまったのも無理はない。

 

「……嫌いじゃないよ」

「本当に?」

「嫌いだったらこうして話したりしてない」

「ホリスは?」

「なんで」

 

 ホリスがここで出てくるんだ。ナツメは思わず顔を上げた。目が合ったカルラの真剣な眼差しに、次の言葉がすぐには出てこなかった。

 

「……嫌いじゃない」

「怜一は?」

「嫌いじゃない」

「堀雄叔父は?」

「嫌いじゃないって」

「爺様は?」

「あのな、カルラ」

「雷庵は?」

 

 ナツメは一瞬言い淀んだ。その様子に、カルラは大きな目を瞬いて「私は嫌いだ」と言い切った。

 

「あいつはいやな奴だ。いつもナツメが嫌がることばかりする」

「それは、まあ」

「あいつとも、何かあったんだろ?」

 

 ナツメはまたアリーナに視線を向けた。やはり、しらを切るのは無理なようだ。

 

「大したことじゃないんだ」

「ナツメ! なんであんな奴庇うんだ!」

「庇ってるわけじゃない。図星をつかれて、私が勝手に感情的になっただけなんだ」

 

 言ってからナツメははたとした。そうか、自分が王馬に対して放った言葉も、それと同じか。だとしたらなるほど、自分も相当にいやな奴に違いない。

 

「それは、ナツメがそんなに怒るようなことを言ったあいつが悪いんだ。だって、ナツメが怒るなんてよっぽどだから」

 

 カルラは分かりやすく不貞腐れたような声で言う。彼女の中で、自分はどれだけ我慢強い性格になっているのだろう。ナツメは確かに、人からそう思われるように振舞ってきたし、そうあれるように自分を律してきた。だが、

 

「そうでもない。私は結構、感情的になりやすいんだ」

 

 それは自分が一番良く分かっている。そして雷庵も、きっと分かっているのだ。

 

「そんなところ、見たことないぞ?」

「見せないようにしてる」

 

 おそらく雷庵はそれが気に入らないのだろう。だから、こちらの神経を煽り、逆撫で、本性を曝け出せと焚きつけてくるのだ。

 

「どうして?」

「嫌いだからだ」

「何が」

「自分が」

 

 視線の先で、また血飛沫が上がった。出血したのは坂東だった。観客たちがまたどよめている。

 

「か、刀です! 英選手の掌から、刀のような物が飛び出しています!」

 

 鞘香の実況が示す通り、英の両手から鋭い刃物が突き出ていた。刃渡り三十センチほどの両刃の剣である。

 

「私の大腿骨から切り出したお気に入りさ。ギミックの設計から骨の加工、手術まで私一人でやったんだ」

 

 楽しかったなあ、と英が自慢げに笑った。

 英が自身の肉体を改造し、様々なギミックを施していることは知っている。しかし、実際にそれらを目の当たりにしてみると、ナツメには理解の及ばない――というより、理解する気も起きないものばかりである。

 世間一般の常識など通用しない『中』で育ったナツメの感覚でもっても、正直イカれていると思うことはしばしばある。だが、その狂気に対する嫌悪や忌避感はないし、そういう英だからこそ、長く付き合えているのだと思う。お互い、「普通の人間」の枠組みから外れた存在だ。

 

「私は好きだぞ」

 

 カルラの声に、ナツメは横目を向けた。

 

「エレナも茂吉も、英も、ホリスも怜一も、きっとお前のことが好きだ」

 

 それは〝今〟の私を、だろう。そう思ったが、口には出さなかった。

 常に冷静で、何事にも動じず、感情の起伏は穏やか。周囲にそう評される度、ナツメは安堵と共に皮肉めいた思いを抱く。自分の性質が本来、その対極に位置していると良く知っているからだ。雷庵が言う〝あっち側〟に、本来の自分は存在する。

 人生の大半をかけて作り上げた〝今〟の自分。そうして被った〝化けの皮〟がなければ、カルラがこんなにも好意的であったはずがない。きっとホリスだって、手を貸してくれたりはしなかっただろう。

 ――ホリスが私の信頼につけ込んだ? 違う。ホリスを利用したのは私の方だ。

 硬い表情で佇んでいた男の姿を脳裏に蘇らせ、ナツメはカルラを視界の外にした。

 あの男を殺すために、協力を申し出てきたのはホリスの方だった。四年ほど前の話である。最初は突っぱねたが、最終的に受け入れたのは他でもない自分だ。

 ホリスはあの男に友人を殺された。あまりにも無残な殺され方だったと聞く。そんなホリスがあの男を憎んでいるだろうことは想像に難くなかったし、力量も充分だった。自分があの男を殺せなかった時の保険として、手を組むのも悪くないだろう。

 ナツメは、そんな打算でホリスの申し出を受けたのだ。無論、理由は他にもある。

 かの人物はナツメにとっても大きな存在だった。あの呉一族の黒い目を見て、信じてもいいかと初めて思った人だった。ただ、それがいけなかった。そのせいで殺されてしまったと言っても過言ではない。ホリスの提案を飲んだのは、それゆえの後ろめたさからだったのかもしれない。

 そんな歪な協力関係。端から見れば、実に滑稽なものだっただろう。本来ならば、互いに責めて、憎んで、殺意を向け合うくらいが丁度いい。それがナツメとホリスの――『伏野』と『呉一族』の関係なのだから。

 何百年と続く因縁。ナツメにとっては『呪い』としか言いようのない宿命。自分には関係ないと断じても、この身に流れる血が不干渉を許さない。

 ――理不尽だ。そもそも、手前勝手な理由で不要な血を混ぜたのは『呉一族』の方なのに。

 そう思ったことは一度や二度ではない。ナツメはその度に感情を噛み殺した。何度も何度も繰り返し嚙み砕き、腹の底に沈め続けた。そうする以外、生き残る術はなかったのだ。たった一人で『呉一族』を相手にして、勝てる見込みなどあるはずもなかったし、何よりあの男と同じにはなりたくなかったから。

 そうして溜め込んだものが父に――あの男に向かったのはある意味当然だった。あの男さえいなければ、自分がこうなることはなかったのだ。

 あの男が『呉一族』を手にかける度、そこから生まれた憎しみがナツメにも向かってきた。身に覚えのない恨みで体に傷が増える度、あの男を殺さなければ殺されるのは自分なのだと痛感した。

 だから、あれは殺さなければいけないのだ。そのために、ナツメは随分と多くのものを犠牲にした。二虎の死も、王馬のこともそこに含まれる。その結果が散々な今だとしても、あの男が生きている確信を得てしまった以上、引くことはできないのである。

 今度こそ、絶対に。もう誰の手も借りたりはしない。ホリスとは、あとでもう一度話さなければ。

 己の思考をそう帰結させ、ナツメはゆっくりと瞬きしてからカルラを見た。

 

「言っただろ、私もお前たちのことは嫌いじゃない。だからこそ、何も聞かないでほしいんだよ」

 

 何も知らないでいてくれれば、この関係を維持できる。何の打算も忖度もない純粋なカルラの好意を、壊してしまわずに済むのだ。

 結局、自分のことばかりか。ナツメは心の中で苦く笑った。

 カルラの大きな目が、じっとこちらを見つめている。目尻がきゅっと上がった猫のような目だ。

 自分とカルラは似ているらしい。ナツメにその自覚はなかったが、鞘香からそう言われたことがあった。まるで姉妹みたいだね、と。彼女に他意はなかっただろう。それでも、胸の奥深くまで刺さって抜けない棘のような言葉だった。

 

「――分かった」

 

 カルラが深く頷いた。それから目を伏せ、少し躊躇うように言い淀んでからもう一度ナツメの腕に触れた。

 

「その『嫌いじゃない』の中には、やっぱり雷庵も入ってるのか?」

「……入ってるよ」

「あんないやな奴なのに」

「いやな奴だとは思ってる」

「いやな奴だと思ってるのに嫌いじゃないのか? どうして?」

 

 ナツメは視線をそらし、「どうしてだろうな」と嘯いた。

 本当は分かっている。もしあいつの挑発に乗って本性を曝け出したとしても、あいつは侮蔑も嫌悪もなく、それでいいと笑うに違いない。ナツメが醜悪だと嫌悪するこの本性を、笑って受け入れるような奴は、きっと雷庵くらいなのだ。

 あいつとも一度ちゃんと話せれば。そう思うが、あの性格を考えるとなかなか難しいだろう。

 

「私は、ホリスの方がいいと思うぞ」

「――なんだって?」

 

 ナツメが思わず聞き返すと、カルラは妙に深刻そうな顔で一歩詰め寄ってきた。

 

「確かに雷庵は強い。ナツメとあいつならきっと強い子が生まれる。強い子孫を残すことは呉一族の将来のために大切なことだ。でも」

「カルラ、一体何の話を」

「でも、やっぱりダメだ! あいつはお前に相応しくない! ホリスじゃダメなのか? それか、怜一の方がまだ雷庵よりは!」

 

 その時、悲鳴が通路にこだました。音が反響して、その声が誰のものかは聞き分けられなかった。反射的に向けた視線の先には、アリーナを見つめて震える心美と、両手で顔を覆ったエレナの姿がある。更に視線を伸ばせば、顔や胸部から血を流しながらもどっしりと佇む坂東が見え、その足下に、糸の切れた人形のように崩れ落ちた英の姿が見えた。その英の首が、おかしな方向を向いている。

 

「――お、折った! 坂東選手、英選手の首を一瞬でへし折りましたッ!」

 

 鞘香の実況で状況を理解した。

 

「これは、英選手の生存が危ぶまれる事態となってしまいました!」

 

 茂吉と同じ状況。そうと分かった瞬間、ナツメはエレナに駆け寄っていた。

 

「エレナ」

「な、ナツメさん……、先生が……」

 

 顔を上げたエレナは、血の気の引いた顔で目に涙を滲ませていた。

 自分がちゃんと仕合を見ていれば、決着の瞬間にその目を塞いでやることもできたかもしれない。そんな後悔の念に眉を顰め、ナツメはエレナの肩に手を置いた。

 

「心配ない、英は()()()だ」

「え?」

 

 エレナの困惑は当然だったが、説明は後回しだ。ナツメはカルラを呼び、エレナの傍にいるよう頼むと、今度は心美に目を向けた。心美もエレナと同じくらい青い顔で、アリーナを見つめたまま震えている。この様子では「大丈夫だ」なんて言葉は届かないだろう。

 

「……すぐに担架が通る。ここにいたら邪魔になるから、全員奥に移動するんだ」

 

 声をかけた途端、心美は信じられないとでも言いたげな顔でナツメを見た。

 

「なんで……。なんで、そんなに冷静なんですか。ナツメさんと先生はご友人なんでしょう?」

 

 友人? ナツメは心の中で首を傾げた。英と自分の関係は、医者と患者だろう。冷静でいられるのは、英はこの程度では死なないと思っているからで、更に付け加えるなら、あの程度の死体は見飽きているからだ。()()を死体と呼んでいいのか分からないが。

 と、思いこそすれ、ナツメはそれらを口には出さなかった。涙で濡れた心美の目を少し見返して、すぐにアリーナへと視線を流す。英が担架に乗せられるところだった。

 その傍に立っていた坂東と、不意に目が合った。そこに感情らしい感情はやはり見られなかったが、不思議と仕合前より人間らしい何かがあるように感じたのも一瞬、坂東は何も言わずに踵を返してアリーナをあとにした。

 それと入れ替わるように、ナツメは入場口から踏み出した。今日だけでもう散々注目を浴びている。ざわめき出す観客の声も視線も、今更どうでも良かった。

 ナツメはまず、担架を運ぶ救護班の二人に声をかけた。

 

「医務室まで運ばなくていい」

「え……? し、しかし、すぐに治療しなければ」

 

 真っ当な反応だ。ナツメの発言は、聞きようによっては英を見殺しにしろと言っているようなものだった。

 

「いいんだ。適当なところで降ろしてくれ。あと、そいつの血には触れるな」

 

 ナツメは担架の上の英を見た。先程までは手足を痙攣させていたが、今は何の反応もない。まるで、本当に死んでいるように見える。いや、実際死んでいるのか。だが、英なら大丈夫なはずだ。……大丈夫、だよな?

 なぜだか少し不安になった。そんな自分に「英だから」と言い聞かせ、更に足を進めてアリーナの中央へと歩み出た。

 

「ど、どうかしたのか?」

 

 Dブロック担当のレフェリーであるチーター服部(はっとり)が、オロオロとして駆け寄ってきた。元闘技者で、引退して久しいと聞いたが、五十半ばにしては体格のいい男だ。

 ナツメは服部の全身にさっと目を通した。

 

「血を被ったりはしてないな」

「え?」

()()は消毒がいる」

 

 地面を赤黒く染める血に目を向ける。英が手から血を垂れ流しながら骨剣を振り回したせいで、随分広範囲に飛び散っている。

 

「服部、すぐに清掃を始めさせろ。一滴の血も残させるな。作業する奴らにも、素手で血に触れるなと伝えておけ」

「そ、それはどういう……」

「触れてもすぐに死ぬことはない」

 

 坂東が自分の足で歩いて出て行ったのだから、それは保証できる。そもそも、この血が毒である確証はない。それでも、英ならやりかねないのだ。彼の仕事を手伝った時、ナツメはそれで酷い目にあったのだから。すぐに英の処置があり、尚且つ毒にある程度の耐性を持ったナツメだったから大事には至らなかったが、苦しみ悶えながらのた打ち回って死んだ標的の姿には、確かにぞっとするものがあった。

 それを思い出せば、この対処は大げさではないと断言できる。たった一滴残った血が、これから仕合に臨む闘技者たちの生死を左右する、なんて事態は避けてしかるべきだろう。

 ナツメはトーナメントなんてどうでもいいと思っているが、だからといって闘技者たちが命を落とすことを望んでいるわけではないのだ。

 服部は目に見えて狼狽えている。ナツメが冗談でこんなことを言うはずがないと分かっているのだろう。自身の体を確認し、それから慌てて無線で連絡を取り始めた。

 もう任せておけばいいだろう、とナツメが踵を返せば、どこか不安そうにこちらを見下ろしている鞘香の姿が目に入った。

 ナツメは少し考えたあと、鞘香がいる実況席方向へ地を蹴った。助走をつけ、壁の直前で強く踏み込んで飛び上がる。アリーナの壁の高さは三メートルと少し。指をかける凹凸もない垂直の壁だが、ナツメにとっては大した障害ではなかった。

 壁を二歩で蹴り上がり、縁を掴んで一気に体を持ち上げる。そうして悠々と観客席へ上ったナツメを、目を丸くして固まった鞘香が出迎えた。その隣で、ジェリーが実況席から身を乗り出し、「Oh! 素晴らしいPHYSICALデスネ!」と白い歯を見せた。

 そんなジェリーの称賛を聞き流して、ナツメには鞘香を手招きした。

 

「ど、どうしたの?」

 

 途端、不安そうな顔つきに戻った鞘香に「大したことじゃない」と前置きして、彼女にだけ聞こえるように声を潜めた。

 

「ただ、下の清掃に時間がかかりそうなんだ」

 

 鞘香は「あー」と嘆息のような息を漏らして苦笑した。

 彼女のこの反応は予想していた。仕合と仕合の間隔が空くと、闘技者は勿論、観客たちの苛立ちも募ってくる。次の仕合はまだかと騒ぐだけならいい。だが、このあとに控えているのは、ボクシングのヘヴィー級四冠王者であるガオラン・ウォンサワットで、その次にはいよいよ〝滅堂の牙〟加納アギトが登場する。観客たちの熱気も一入(ひとしお)だ。そんな仕合の開始が遅れるとなれば、実況席に詰め寄って来る輩も出てくるかもしれない。

 鞘香の身に危険が及ぶ。そんなことはあってはならないし、その前に脅威を断つことが護衛者であるナツメの仕事だ。だが、ナツメには御前から直々に言い渡された「加納アギトのセコンド」という仕事もある。アギトの仕合まで残すところあと一戦。もういい加減、彼のもとに向かわなければ。だが、こんな懸念を残したまま鞘香から離れるのは……。

 そんなナツメの逡巡を察したのか。鞘香が「ナツメさん、私は大丈夫だから」と笑った。

 

「ここには他にもたくさん護衛者の人がいるし、ナツメさんにはナツメさんのお仕事があるんだから。私のことは気にしないで大丈夫だよ」

 

 確かに、会場の警備についている護衛者は他に何人もいる。鞘香の隣にはジェリーもいるし、サーパインもまだ観客席にいる。一般人が束になったところで相手にもならないだろう。

 ――烈堂の過保護が移ったかな。ナツメは苦笑して「ああ、分かった」と頷いた。そうして鞘香に背を向け、登ってきたばかりの壁を飛び降りた。

 着地とほぼ同じタイミングで、横手にあった入場口の奥から悲鳴が響いてきた。複数重なり合った女の叫び声だった。

 まったく、今度は何なんだ。ナツメはうんざりとしながら駆け出した。

 



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15 懸念

 駆けつけた先にあった光景にナツメは困惑した。

 英がすでに目を覚ましていた。床に座ってはいるが、平然とした様子でいつもと変わらぬ笑みを浮かべている。それについては別に驚きもなかった。英だから、で納得できる程度にナツメは彼の特殊性を知っているし、その能力の高さを信じていた。担架で運ばれる彼の姿に多少の不安を覚えたのも事実だったが、無事に蘇生を果たしたらしい現在の様子には、安堵より呆れの方が強かった。

 ナツメを困惑させたのは、そんな英の周りに集まった面々である。カルラ、エレナ、心美、そして太宰由紀夫。この四人はいい。そこになぜか凛が加わり、さらにもう二人。健康的な小麦色の肌に黒いショートヘアの女性と、長い金髪を高い位置で結んだ眼鏡の女性が増えている。

 眼鏡の女性の方は見覚えがあった。確か、乃木グループの会長秘書だ。秋山(あきやま)(かえで)、だったか。もう一人の黒髪の女性は誰か分からないが、拳願会の関係者であることは確かだろう。だがどのみち、彼女らがここにいる理由がナツメには分からなかった。

 遠目からその光景を目撃して立ち止まったナツメに、まずカルラが気がついた。彼女は不意に振り向くと、ぱっと顔を輝かせてナツメの名を呼んだ。結果、全員の視線を一身に浴びることになったナツメだったが、心美の姿を見た瞬間ぎょっとした。

 

「おい、英!」

 

 ナツメは大股で英に詰め寄った。

 

「やあ、ナツメくん」

「何を暢気な。お前、それは大丈夫なのか?」

「これは意外な反応だ。君が私の心配をしてくれるなんて」

「お前じゃない、心美のことだ」

「え、私?」

 

 心美がきょとんとして自分自身を指差した。その手やナース服の胸元が赤く汚れている。英の血に触れたのだろう。ナツメは眉を寄せ、スーツのポケットに手を突っ込んだ。しかし、そこに目当ての物が入っていない。そういえば、ハンカチは理人の止血に使ったのだった。スーツを着替えた時に、新しいものを持ってくれば良かった。

 そんなナツメの様子に、英は合点がいったらしい。

 

「ああ、なるほど。フフフ、心配いらないよ。感染力の低いウイルスを使ったからね。傷口や粘膜に入らない限り問題はない」

 

 そう言う英の両手からは、件の骨剣が飛び出したままである。坂東はこの剣で斬りつけられた。英の血がべったりと付着した、この刃で。

 

「……坂東は」

「明日の朝を迎えることなく死ぬだろうね。できる限り無傷のまま彼を解剖したかったのだが、まあ、しかたない」

「お前はまたそれか」

「彼の遺体は帝都大学に献体として提供される約束でね。今から待ち遠しくてたまらないよ」

 

 まったくいつも通りの英に、自然とため息がこぼれた。しかしふと、彼の手が小刻みに震えていることに気づき、ナツメはその傍らに膝をついた。

 

「後遺症か? 手が必要なら」

「少し痺れが残っているが、この程度なら支障はない」

 

 首をへし折られて間もないのに〝この程度〟で済ましてしまえるのか。改めて()()()()()()なと思いつつ、ナツメは英の掌から飛び出したままの剣を指先でコツンと叩いた。

 骨を折ったことなら――自分のものでも、他人のものでも――何度もあるが、骨そのものに直接触るのは初めてだった。

 

「フフフ、そそるだろう? どうだい、良ければ君も」

「やるわけないだろ」

 

 骨剣は手根の皮膚を突き破って飛び出している。普通ならこれだけでも相当な痛みだろう。自ら脳を弄って痛覚を断っている英だから、こんな芸当ができるのだ。

 

「それは残念」

 

 英が軽く手首を動かすと、骨剣が腕の中へと戻っていった。

 

「しかし、やはり意外だね。君がこうして私に手を貸そうとしてくれるなんて」

 

 ナツメは顔を上げて英と目を合わせた。

 

「以前、君との仕事でウイルスを使った時は、しばらく私に近づこうとはしなかったじゃないか」

「あの時、こっちは死ぬかと思ったんだぞ。そりゃ警戒くらいする」

「あの時のウイルスは今回使ったものより強力だったからねえ。君まで感染したのは予定外だったが、そのおかげで素晴らしいサンプルが手に入った」

 

 少しも悪いとは思っていないらしい英の言い草に、もはや怒る気力も湧かなかった。

 英はこういう奴だ。ナツメはそうだと分かっているが、ふと顔を上げたら凛や秋山楓たちが引きつった顔をしていた。

 

「……とにかく、感染力は低いといっても、もし感染すれば死ぬことに変わりないんだろ」

「勿論。全身の激痛にのたうち回って、およそ十二時間後に死亡するよ」

 

 心美の顔が目に見えて青褪めた。

 

「フフフ、そう心配しなくていい。ワクチンは準備してあるから」

「だったら早く処置してやれ。お前もその傷と服をどうにかしろ。そのまま動き回ったりするなよ」

 

 ナツメが立ち上がると、英も同じように腰を上げた。

 

「余計な死人は出したくないかな?」

「当たり前だ」

「〝当たり前〟か。他人に頓着のなかった君からそんな言葉が出てくるとは」

「お前には言われたくない」

 

 英が興味を持っているのはあくまで「人体」にである。

 彼が所有するウイルスの中には、この会場中の人間をまとめて殺せるだけの劇物も存在する。彼がそれを使用しないのは〝上〟から止められているからであって、その制約がなければおそらく躊躇うことはないだろう。どうせ英本人は抗体があって死なないのだし、解剖できる献体が増えるのはむしろ喜ばしいことだと考えていそうだ。

 本当にどうかしている。そんな男を好んで主治医としている自分も相当な自覚はあるが。

 つくづくと思い、ナツメはこぼれそうになったため息を飲み込んだ。

 

「死人を出したくないのなら、闘技場の清掃は徹底することをおすすめするよ」

「もう指示してある」

「ふむ、実に速やかだ。君は私が思う以上に私のことを良く理解しているね。私も君のことをもっと深く理解したいと常々思っているのだが、どうだろう? あとで少し解剖を」

「もうさっさと行け」

 

 ナツメは虫を払うように手を振った。それからエレナの方を向く。

 

「お前も医務室に戻るか?」

「はい、兄様の傍にいます」

「私もエレナと一緒にいる!」

 

 カルラがエレナの手を握りながら言った。二人は顔を見合わせて笑っている。

 ナツメは「分かった」と頷いて返し、英たちを医務室へと送り出した。

 そうしてこの場に残ったのは、ナツメの他に凛と秋山楓、それと名前の分からぬ黒髪の女性の四人である。

 ナツメは、彼女らもすぐにこの場を離れると思っていた。だがどうしたことか。彼女らはなかなか動かず、なぜかしげしげとナツメに視線を向けている。

 何なんだと凛に問いたかったが、彼女と自分に何か関わりがあることを知られるのはまずい。それならば、とナツメは秋山と目を合わせた。

 

「自分に何か?」

 

 秋山ははっとして瞬き、それから気まずそうな恥ずかしそうな様子で目をそらした。

 

「いえ、その……。すみません、少し驚いてしまって」

「――ああ」

 

 英のことか、無理もない。

 

「英はあの通り変わった奴ですが、医者としての腕は保証致しますので」

「あ、いえ、英先生のことではなくて」

 

 英のことじゃない? ナツメは首を捻った。

 

「では、他に何が?」

 

 尋ね、秋山に視線をそそぐ。彼女は眉を下げて困り果てた顔をしている。

 

「あんたのことだよ」

 

 黒髪の女性が言った。彼女は勝ち気そうな目をナツメに向け、笑みを浮かべて言葉を続ける。

 

「先生と話してるあんたが、想像とは全然違ったからさ。ちょっと意外でびっくりしたんだ」

「あー、分かるッス。伏野さんはもっとツンケンしててお高くとまってるタイプだと思ってました」

「と、戸川(とがわ)さん! 串田さんも! 失礼ですよ!」

 

 秋山は慌てた様子だったが、戸川と呼ばれた女性と凛は平然とした顔をしている。ナツメも、彼女らの発言を気にしてはいなかった。それよりも、自分の頭の中から「戸川」という名前を探し出すことに意識を傾けた。

 確か、『マーダーミュージック』の社長が戸川好子(よしこ)という二十代半ばの女性だったはずだ。おそらくこの女性がそうだろう。ということは、医務室にいた沢田選手の雇用主だ。不戦敗で一回戦敗退。マーダーミュージック側が仕合を棄権した理由は分からないが、十中八九、対戦相手だった『東洋電力』が絡んでいるだろう。

 東洋電力――通称〝東電〟は企業序列第二位。拳願会内部に存在する各派閥の中で、最大の勢力である『百人会(ひゃくにんかい)』の頂点企業だ。そのため、会長の速水(はやみ)勝正(かつまさ)が有する権力も相当なものである。加えてかなりの野心家で、目的のためならどんな汚い手も厭わない外道――と吐き捨てたのは鷹山だった。

 そんな速水が、拳願会会長の座を賭けたこのトーナメントでおとなしくしているはずもない。対戦企業への裏工作くらいは当たり前。黒使を囮にして北の断崖から賊を侵入させたのも速水だろう。御前はそれもすべて承知済みで「退屈しのぎ」にしているようだが、それについて口出しする気はない。

 ナツメの懸念は一つ。「あの男」をこの島に入れたのは速水なのではないか、ということである。もしそうだとしたら、速水の背後には『(むし)』がいる可能性がある。

 あくまで推測の範囲だが、御前に報告しておくべきだろう。そうは思うも、ナツメは躊躇していた。

『蟲』については伝えるべきだと分かっている。だが、あの男との因縁は完全に個人の問題だ。そんなものに、御前や他の護衛者たちを巻き込みたくない。彼らが良しとしても、ナツメ自身がそれを許せなかった。そうやって口を閉ざすことが、組織に属する者として間違った対応なのだとしても。

 ふと視線をずらすと凛と目が合った。彼女はどこか硬い表情でこちらを見ていた。何かしら感じ取ったものがあったのかもしれないが、ナツメは一瞬目を合わせただけですぐに凛から視線を外した。

 

「申し訳ありませんが、自分はそろそろ行かなければいけませんので」

 

 これ以上何か言われる前に、ここを離れるための言葉を吐く。すぐに秋山が「引き留めてしまって申し訳ありませんでした」と言い、続いて戸川が「私も医務室に戻るか」と言った。

 

「沢田がまたわがまま言って、先生や心美を困らせてたら悪いしな」

 

 戸川は呆れ顔で笑っている。心美はともかく、英が困っている姿など想像できなかった。

 

「私も山下社長のところに戻るッス。英先生のこと心配してたんで、大丈夫だってお伝えしないと」

 

 そう言った凛は、すでにいつもの調子に戻っていた。御前直属の諜報員なだけあって、そういう切り替えの早さは見事なものである。

 

「では、お先に失礼させていただきます」

 

 一礼し、ナツメは彼女たちの横をすり抜けた。

 結局、随分と時間を食ってしまった。自分の足を引き留めるものとこれ以上出くわさないよう、ナツメは足早に通路を進んだ。

 

 

 

 

 拳願仕合の帝王――加納アギトがそう称されるようになったのはいつからか。少なくとも、ナツメが護衛者になった三年前にはすでにそう呼ばれていた。彼の仕合戦績を見れば、当然の名声といったところだろう。

 デビュー戦以来、一五七仕合全戦全勝。拳願会の長い歴史においても前人未到の偉業を、アギトは未だ更新中だ。

 そんな誰もが認める「帝王」には、拳願ドームの最上階に専用の個室が設けられている。

 ナツメがその部屋に辿り着いた時には、アギトはすでに仕合用のボディスーツに着替え終わっていた。その手伝いに来ていたのだろう王森と鷹山もまだ残っていて、ナツメは身長二メートルの大男三人に囲まれることとなった。

 

「遅かったな」

 

 鷹山が言った。じっと見下ろす目にこちらを責める色はなかったが、何があったのかを明確に問いかけていた。

 

「すみません。英の様子を見に行っていて遅くなりました」

 

 鷹山の眉がぴくりと動き、眉間に皺が一つ刻まれた。

 鷹山は英のことをあまり快く思っていない。医者としての腕は認めているし、ナツメが信頼する相手であるから「医者を変えろ」と言ったりはしないが、内心では複雑なようだった。

 

「無事だったか?」

 

 今度は王森だ。

 

「はい、もう起きて医務室に戻ってます」

「……首を折られてただろうが」

 

 鷹山が言いたいことは良く分かる。だが、ナツメには「英なので」としか返しようがなかった。仕合を見ていたのなら、英の体が普通ではないことも分かっただろう。無理でも納得してもらうしかない。

 

「無事だったのなら、それに越したことはないだろう」

 

 そんな王森の言葉に、鷹山も渋々といった様子で口を噤んだ。

 

「他に報告はあるか?」

「……確証がある話ではないのですが」

「言ってみろ」

「東電の速水の後ろに『蟲』がいる可能性が」

 

 瞬間、室内の空気がぴんと張り詰めた。王森がわずかに目を細め、鷹山の視線が鋭さを増す。ことアギトに至っては、全身から殺気とも取れる気配を立ち上らせていた。

 仕合直前の彼に聞かせる話ではなかったかもしれない。アギトの剣呑な目と目を合わせ、ナツメは何か言うべき言葉を探したが、結局果たせず先に視線を逸らしてしまった。

 

「『蟲』か」

 

 王森が硬い表情で呟いた。

 

「だとしたら、あまり悠長には構えていられない事態だが。その情報はどこで手に入れた?」

「――勘です」

「勘だと?」

 

 と、険のある声で繰り返したのは鷹山だった。眉間の皺を深くし、一歩前に出ようとする。そんな鷹山を、王森が宥めるように名前を呼んで抑えた。たったそれだけで鷹山を引き下がらせることができるのは、おそらく御前と王森だけだろう。

 王森は感情があまり顔に出ない。いつも冷静で、どっしりと身構えているその姿は、先代〝滅堂の牙〟に相応しい貫禄だ。そんな王森に、鷹山は尊敬に近い念を抱いているようだった。そしてナツメも、王森のことを慕っている。

 

「ナツメ」

 

 そう呼ぶ王森の声は、いつだって優しい。鷹山の厳しさだって私を思ってのことだ。ナツメはそうと理解している。

 だからこそ、二人を煩わせたくはないし、余計な心配をかけたくないと思うのだ。

 

「本当にただの勘か?」

「そうです。だから、確証はないと言ったんです」

 

 王森は少し間を置いて、

 

「お前の勘は良く当たりそうだからな」

 

 と言った。

 

「この件は懸念事項として御前にお伝えしておく。お前たちは仕合の準備に入れ」

 

 王森の視線がナツメからアギトへと移った。

 

「〝牙〟の名に恥じぬように」

「無論だ」

 

 アギトの返答を聞いて、王森は踵を返した。鷹山はまだ何か言いたげな顔をしていたが、ナツメが真っ直ぐにその目を見返すと、眉間の皺をさらに深くしたあと、王森に続いて部屋を出て行った。

 二人を見送って、ナツメはアギトに向き直った。

 

「やりますか?」

 

 尋ねると、アギトは「ああ」と答えて隣の部屋へと続くドアに手をかけた。

 



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16 加納アギト

「随分な嘘を吐いたものだな」

 

 アギトが不意にそんなことを言うものだから、ナツメは飛んできた拳を危うく受け損ねてしまうところだった。

 顔に当たる直前で受け流し、「何のことだか」と嘯いてみたものの、それで追及をやめてくれるほどアギトは優しい男ではない。

 

「先程の『蟲』の件だ。〝勘〟などという出任せが通じるとは、お前自身思っていないだろう。王森は妙にお前に甘いところがあるな」

 

 アギトは顔色を変えることもなく、息切れの一つもさせず、淡々と拳を放ちながら言う。それらを受け流し、時には打ち返しながら、ナツメはどう答えるべきか考えた。

 アギトのセコンドに任命されてからの二ヶ月弱。ナツメはほぼ毎日、アギトと拳を交えてきた。無論、あくまで鍛錬の一環としてである。

 ナツメは闘う上で手段は選ばない。大抵の格闘技では禁じ手とされる金的や目潰しは常套手段であるし、武器は寧ろ率先して使うべきだと思っている。ナツメにとって「闘い」とは「命の奪い合い」だ。手加減が下手なのもそれが要因だろう。

 だから、多少力加減を間違えても大事には至らないアギトとの鍛錬は、ナツメにとっても有意義なものだった。アギトが相手なら、ライトスパーリング程度はこの通り難なくこなせるようになれたのだから。

 

「何があった?」

「……個人的なことです。御前や皆に迷惑はかけません」

「何かあったことは認めるわけだな」

 

 ナツメはアギトの右フックをスウェーバックでかわし、反撃のパンチを繰り出した。それを捌き、アギトがナツメと目を合わす。先を促す視線を受けてナツメは短く息を吐いた。

 

「誰にも関わらせたくないんです。私が一人で始末をつけます」

「お前一人で『蟲』を相手にする気か」

「まさか」

 

 攻守交代。再びアギトの攻めを受け流しながら、ナツメは自嘲の笑みを浮かべた。

 

「そんな無謀な奴に見えますか?」

「お前は存外無茶をする」

「無茶と無謀の違いくらいは分かりますし、『蟲』を相手にするわけではないのでその心配は不要です」

「ならば、何が相手だ」

「……強いて言えば〝亡霊〟ですかね」

「亡霊?」

 

 アギトは怪訝な顔をしてスパーリングの手を止めた。

 

「消したくても消せない、意識の底にこびりついて離れない悪夢のような。そういうの、あなたなら分かるんじゃないですか」

「――ああ」

 

 アギトの目に、一瞬昏く獰猛な光が見えた。

 自分たちは少し似ている、とナツメは思っている。アギトも他者に人生を狂わされ、命が潰えるその寸前で、御前に救われて今がある。それから様々な教育を受け、冷静沈着な頭脳と精神を身につけたがその実、身の内には未だ凶暴な獣が棲みついている。それがアギトの強さの一因でもあるのだから、まったく皮肉なものだった。

 しかし、そんなアギトにだからこそ、他の誰にも言えないことを話すことができた。それと同時に、アギトにだからこそ話せずにいることもある。

 

「もし、あなたを『蠱毒』に放り込んだ犯人があなたの前に現れたら……、どうしますか」

 

 アギトは一つ瞬き、獣のような鋭い目を握り締めた拳に落とした。

 

「必ず報いを受けさせる」

 

 少し俯いたアギトの顔を見つめ、ナツメは思った。その時、自分はどうするのだろう。どうすればいいのだろう、と。

 自分たちは少し似ていて、まるで違う。ある人物に対して、まったく正反対の感情を抱いているのだ。アギトが憎悪のような感情を向けるその人は、ナツメにとっては救いの手だった。

 あの人に対して色々と思うところはある。アギトのことは勿論、王馬が『憑神』を使えたことや、桐生刹那の『二虎流』について。そのすべてにあの人の影がある。だが、そのすべてに目を瞑ってしまいたくなるほど、ナツメにとっては大きな存在だ。

 だからこそ今は、その意識に蓋をする。どうせ考えたところで答えなど出やしない。「もしも」や「いつか」を考えるのは苦手だ。すでに起こったことは変えられないし、先のことは、それまで自分が生きている保証もないのだから。特に今は。

 もし、あの男を殺してまだ自分が生きていたら、その時に考えればいい。

 

「私も同じです。必ずこの手でケジメをつけます」

 

 ナツメの言葉にアギトが顔を上げた。獣ではない、冷静沈着な男の目がそこにあった。

 

「お前にとってそれほど因縁のある相手か。ならば、私からは何も言うまい。だが、王森や――特に鷹山は、黙っていないだろうな」

「だから言わなかったんです。あの人たちはきっと()()()()()()から」

 

 或いは、手を貸すと言ってくれるだろうか。もっと頼れと、俺たちに任せろと。

 三年前のホリスがそうだった。まず間違いなく、恵利央の助力もあっただろう。それに甘えて、現実から目をそらして過ごしたこの三年。その結果はどうだ。結局何一つ解決しなかったどころか、彼らに余計な責任や負い目を背負わせることになっただけだった。そんな彼らを責める言葉など、本当によく吐けたものだ。雷庵は、言葉に悪意はあるものの、言っていること自体は大抵の場合間違っていない。

 あいつの言葉は戒めだ。三年前と同じ轍は踏まない。王森さんも鷹山さんも、他の誰も、これ以上巻き込まない。

 再三の決意をして、ナツメは壁にかけられた液晶モニターに目をやった。

 モニターには現在の闘技場の様子が映し出されている。第十五仕合はすでに始まっており、アリーナでは『八頭貿易』のガオラン・ウォンサワットと、『義伊國屋書店』の金田末吉が拳を交えている。

 開始から二分ほど経っているだろうか。モニターに映像を流してはいたが、音を消してあったので正確なところは分からない。仕合前のコンディション確認とウォームアップに集中するためだったが、アギトがこの仕合に興味を示さなかったという理由もある。アギトはガオランとの対戦を心待ちにしていたが、この仕合は見る必要がないと言った。ナツメも同意見だった。

 金田末吉に、このトーナメントで通用するほどの力はない。氷室涼をどんな手で倒したのかは知らないが、あのガオラン・ウォンサワットに勝てるとは到底思えない。ガオランが本気を出すこともなく、勝敗はすぐに決するだろう。

 アギトもナツメも、そのつもりでウォームアップを始めたわけだったが、モニターの向こうではまだ仕合が続いている。金田が予想外の健闘を見せているのだろうか。

 意識して仕合を見てみると、どうにも様子がおかしい。金田がガオランに向かって何か叫んでいる。

 

「あれは何を言っているのだ」

 

 隣に並んだアギトが、モニターを見ながら腕を組む。

 

「……『弱者』が『最強』を目指して何が悪いのか、だそうです」

 

 ナツメはモニター越しに金田の唇を読んだ。鼻と口から血を流し、両目からは涙を流し、金田は心の底から叫んでいるようだった。

 

「己の弱さを自覚してなお、臆さず挑むか」

 

 アギトは体ごとモニターに向けて、すっかり観戦モードに入っている。

 

「音、入れますか」

「不要だ。どうせ長くはかからん」

 

 口ではそう言うが、その長くはかからないだろう最後の攻防を、アギトは見届けるつもりでいるらしい。金田の叫びには、それだけ感じ入るものがあったようだった。

 ナツメもアギトにならってモニターに視線を注いだ。

 両者が構えを取る。ガオランは左腕をだらりと下げたデトロイトスタイルだ。その腕から放たれる高速のフリッカージャブは、通称『フラッシュ』と呼ばれ、全ボクサーでも最速と言われている。

 対して金田は、左腕を振り上げ、握った右手を腰に据えた左半身。

 

「変わった構えだな」

「……〝陰陽交差構(おんみょうこうさのかまえ)〟です」

「知っているのか?」

 

 ナツメは頷いた。

 

「『紅人流(くじんりゅう)』という古流武術で、あれは――」

 

 ガオランも金田も同時に飛び出した。初手は金田が振り上げた左の肘打ち。ガオランがサイドステップでかわして右のフックを返す。金田はこれを回避すると、すかさずガオランの目を狙った。続けざまに二度繰り出した目潰しは、しかしどちらもかわされた。続いてガオランの連打が金田を襲う。金田は避けに徹し、最後の攻防が始まってから九手目。ガオランの右ストレートを、金田が後ろに倒れ込むようにかわした。

 十手目。地面に手をつき、低い姿勢から振り上げられた金田の蹴りに対し、ガオランの左のストレートがクロスカウンターのように金田の顔面に叩き込まれた。闘技場の地面がひび割れるほどの威力に、金田の足が力なく地に落ちた。

 

「――あれは、徒手での戦闘には不向きです」

 

『紅人流』は戦闘技術を体系化したものである。ここでいう「戦闘」とは、戦場で甲冑を身につけた状態での闘いのことだ。

 

「関節技や投げ技で相手を組み伏し、得物を使ってとどめを刺す。そういう、実戦での武器の使用を前提としています」

「ふむ、それで知っているわけか」

「ええ、()()()だったので」

 

 モニターの中で、金田が担架で運ばれていった。

 

「……正直、十手持つとは思いませんでした」

 

 限られた状況でしか当身が使われない『紅人流』で、武器も持たずに打撃特化の『ボクシング』を相手にするのは不利どころの話ではない。結果も予想通り、ガオランの圧勝だった。それでも、金田の身体能力を考慮すれば、最後の攻防で十手でも食い下がれたのは大健闘といったところだろう。

 

「金田にガオランの打撃は見えてなかったはずです」

「だろうな。見てから避けてはいなかった。ガオランが打つより前に動いていたようだ」

「〝(せん)(せん)〟ではないでしょう」

 

 相手の「気の起こり」を見極め、相手が動くより前に動く。武術における究極の形といえるその域に、金田が到達しているとは思えない。

 

「ガオランの試合映像は多く残っている。事前に動きや攻撃パターンを分析していたと考えるのが妥当だろう。だとしても、実戦ではそううまくはいくまい」

「それを成したのだから、金田末吉の技術は本物ではありますね」

 

 相手を見ればある程度の力量は測れるが、実際に戦ってみなければ分からない部分はやはりある。金田の「先読み」の技術もそうだが、ガオランにしても、グローブを着けていない状態での拳速や、関節技や投げ技への対処など、ボクシングの試合では見られない部分を見ることができた。

 かといって、ナツメの中で二人に対する評価はそれほど変わらない。どのみち金田はこのトーナメントでは力不足だし、ガオランは想定範囲内である。『ムエタイ』を使っていなかったのだから、あれで本気ということもあるまい。

 一切包み隠さぬ彼の実力は、明後日の第二回戦で見ることになるだろう。

 とまれ、まずは目の前の仕合である。ナツメは隣に目を向けた。

 頭一つ分上にあるアギトの顔を見上げる。いつもきっちりと後ろに撫でつけてある髪が、少し乱れていた。

 ナツメが腕を伸ばすと、アギトは少し不思議そうな顔をして見つめてくる。ただそうしているだけで、制止もしなければ避けもしない。いっそ無防備なくらいである。ナツメはアギトの髪を手で撫でつけてから「髪、乱れてました」と言った。

 

「……そうか、感謝する」

 

 大袈裟だ。ナツメも髪を結び直し、外していたネクタイを手に取った。すると、それをすぐにアギトの手が抜き取っていった。

 

「私がやろう」

「ですが」

「わざわざ王森のところまで行くつもりか?」

「……お願いします」

 

 意外とアギトも世話焼きだ。

 ナツメはアギトの手元を何気なしに眺め、大きくて武骨な手だなと思った。それに、よくよく見ると傷だらけだ。それもそうか。アギトだって何の努力もなしにここまで強くなったわけではない。

 アギトは「強さ」に妥協を許さない。それゆえに自分にも他人にも厳しいが、認めるべきところは認められる男だ。先の金田の気概を評価したように。女であるナツメを、その実力を一番に評価したのもアギトだった。

 

「できたぞ」

「ありがとうございます」

 

 きっちり結ばれたネクタイをひと撫でする。アギトは意外と手先も器用だ。ナツメはスーツのジャケットに腕を通した。時計もつけて時刻を確認し、そろそろ頃合いかと再びアギトに目を向けた。

 

「時間です、行きましょう」

「ああ」

 

 二人揃って部屋を出て、通路を進む。エレベーターに乗り込んだところで、ナツメはふと思い出した。

 

「そういえば、対戦相手の大久保直也ですが」

 

 視線を送ると、アギトが同じようにこちらを見下ろしていた。

 

「なんだ」

「偶然本人と会ったんです」

 

 あれは第二仕合が終わってすぐのことだ。まだ半日も経っていないのに、ナツメはなぜだか随分前のことのように感じていた。今日だけでいろいろありすぎたせいだろう。そして、その締めとなる仕合はもうまもなく。

 

「強い格闘家、といった印象でした。がたいもいいし、体幹も強そうだったので、私だと苦戦させられるかもしれません」

「お前が?」

「『仕合』の範疇での話です。〝殺さずに倒す〟のは不慣れなので。あなたなら問題なく――」

 

 ナツメはそこで言葉を止めた。地鳴りのような音が聞こえる。それに合わせて、足下や壁が振動していた。

 エレベーターが止まり、扉が開いた瞬間だった。圧縮された空気が弾けるように、大きな音の塊がエレベーターの中に飛び込んできた。狭いかごの中で反響し、さらに大きな音になってナツメとアギトを包み込む。

 ドーム全体を揺らすほどの大歓声――〝牙〟の登場を待つ、観客たちの熱狂の声だった。

 ナツメはアギトを見た。彼はこの歓声を聞いても顔色を変えることもなく、ただ黙ってエレベーターを降りていった。

 

「……問題なく、勝つだろうな」

 

 呟き、ナツメも足を踏み出した。そこで気づく。しまった、タオルを持ってくるのを忘れていた。

 セコンドといっても、仕合が始まってしまえばナツメにやれることはない。拳願仕合にはインターバルがないし、そもそも仕合中に助言や指示が必要な男でもないのだから。ナツメにできることは、仕合後にタオルを渡し、負傷の状態を確認することくらいである。

 上まで取りに戻るか? ……いや、控え室に備品がある。

 

「アギトさん、私は一度控え室に寄ってきます」

 

 先を行くアギトの背を追い、歓声に掻き消されないように大きめの声を出す。アギトはちらりとだけ目線を寄越し、すぐ正面に向き直った。それを了承の意だと解釈して、ナツメは早足でアギトから離れた。

 三部屋並んだ控え室の、一番手前のドアを見る。「使用中」の札がかかっていないことを確認してから中へと入った。備品のタオルを一枚掴んですぐさま部屋を出る。と、同じタイミングで一つ隣の控え室のドアが開かれた。顔を向けると、ガオラン・ウォンサワットが内側からドアを開けた状態で立っていた。目が合って、二人一緒に固まった。

 ガオランの長い黒髪が濡れている。仕合が終わって、シャワーでも浴びていたのだろう。

 何か声をかけるべきか。しかし適当な言葉が思いつかない。結局ナツメは会釈だけして、タオルを片手に入場口へ向かった。背後で、ガオランの気配もすぐに離れていった。

 あんな無口で無表情で落ち着き払った男が、あのサーパインの友人なのか。改めて疑問に思い、数歩進んだ頃にはそうやって疑問に思ったことも忘れた。

 入場口に近づくにつれて狂気染みた熱気が全身を包み込んだが、ナツメは逆に頭の芯が冷えていくようだった。やはり、この熱気には馴染めそうにない。

 



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17 大久保vsアギト

 ドームが震えるほどの大歓声。観客たちは足で地面を踏み鳴らし、声を張り上げ〝牙〟を呼ぶ。これまでの十五仕合など、まるで前座であったかのような雰囲気だ。事実、観客たちが見たいのは、五代目〝牙〟の不敗神話なのだろう。

 観客というより、もはや信者だな。若槻(わかつき)武士(たけし)は、観客たちの熱気に震えるドームを全身に感じながら通路を進んだ。後ろをついてくる顔馴染み――『禍谷園(まがたにえん)』の社長秘書、秋山桜は普段と変わらぬ様子だが、その妹である秋山楓は、この異常なほどの熱気に気圧されているようだった。

 それもしかたあるまい。ただでさえ、拳願仕合は表の格闘試合とは空気も質も異なる。それがトーナメントによってさらに膨れ上がり、一回戦最終仕合の今になって爆発した。若槻とて、これほどの歓声は聞いたことがなかった。

 それでも、若槻の精神は微塵も揺るがない。むしろ上等なくらいだった。このトーナメントのために、加納アギトとの再戦のために、若槻も〝牙〟を研ぎ続けてきたのだから。

 そんな相手の初戦を一番近くで観戦しようと、若槻は入場口を目指していた。しかし、目的の場所にはすでに先客がいた。

 黒いスーツに包まれた線の細い後ろ姿と、結い上げられた黒い髪。すぐに分かった。護衛者の紅一点、伏野ナツメだ。闘技者を除けば、おそらくこのトーナメントで最も注目を集めている人物である。

 

「加納の応援ですか?」

 

 若槻は華奢な背に投げかけた。ナツメが振り向き、若槻を見る。その手には真っ白なタオルが握られていた。しかし、なぜか返事がない。こちらの声を聞き取れなかった、ということはないだろう。黙ったままじっとこちらを見据える目に、若槻は妙な居心地の悪さを覚えた。

 この熱気の中にありながら、彼女の周囲だけはその熱が届いていないように静かだ。そう感じるのは、彼女がひどく無表情だからか。これといった感情の見えない目のせいか。それでいて、まるで品定めでもされているかのような。

 こういう目をする人間を、若槻は知っている。

古海(ふるみ)製薬』所属の闘技者となって二十数年。現役闘技者としては最古参に当たる若槻は、それだけ長く「裏社会」と関わってきたということになる。いろんな種類の人間を見て、いろんな種類の人間と闘った。その中には『表』では決して関わることのなかった人種もいる。『裏』で暗躍する者たちのことだ。この世界で、最も深くて暗い場所にいる者たち。彼女は、そいつらと同じ目をしている。

 こうして面と向かうのは初めてだが、薄々そうではないかと若槻は思っていた。そして、その勘が当たっていたことを確信した。

 暗がりからこちらを見つめる猫のような目。このまま視線を合わせ続けると飲まれてしまいそうだ、と感じた若槻は、気を取り直すために一つ息を吸った。

 

「驚かせてしまいましたか」

 

 先程より少し声を張り、努めて友好的な声を出す。猫の目がぱちりと瞬いた。

 

「先に名乗るべきでしたね。俺は」

「『古海製薬』所属の若槻武士様」

 

 若槻の声を遮り、ナツメが口を開いた。その視線が横に流れる。

 

「『乃木グループ』会長秘書の秋山楓様、『禍谷園』社長秘書の秋山桜様。存じております」

 

 文字に書かれた情報をそのまま読み上げたような、抑揚のない声だった。それは若槻がナツメに対して抱いていた印象通りの声ではあった。ただ、その印象も昨日今日で多少変化していたのだが。

 一緒にビーチバレーをしたのだと、嬉々として話していたのは今井だった。確か、茂吉・ロビンソンも一緒だったと言っていた。第三仕合で、レフェリーに対して声を荒げた彼女には驚かされたが、茂吉と親しかったというのならおかしな反応ではない。片原会長の娘やジェリー・タイソン、サーパインたちと話す姿も、若槻が思う「伏野ナツメ」という人物像からは想像できないものだったのだ。

 そのすべてが幻だったのではないかと思えてしまうほど、今目の前にいる彼女は冷ややかで無愛想だ。

 これが彼女の実体なのか、仕事モードなだけなのか。若槻には判別できなかった。

 

「……君に覚えてもらえているとは、光栄だ」

「光栄?」

 

 ナツメは少し怪訝な顔をした。それに対して、楓が一歩前に出た。

 

「あなたに顔と名前を覚えられることが、闘技者の間で一種のステータスになっているんです」

「そうですか。……悪くない判断基準だと思います。私が覚えているということは、御前が注目なさっている闘技者だということですから」

 

 彼女自身が興味を持って覚えているわけではない、ということか。今井や茂吉も?

 

「君が個人的に興味のある闘技者はいないのか?」

 

 若槻はまた尋ねてみた。これこそただの興味本位だった。そしてまたもや、問いかけに対する答えはなかった。彼女は一度じっと若槻を見つめると、静かに体を横にずらして「どうぞ」と場所を譲ってみせた。

 

「〝牙〟の仕合を見に来られたんですよね」

「……いいんですか、特等席で応援しなくて」

「応援のためにここにいるわけではありません。そんなものが必要な男ではありませんし、そもそも声援なら足りています」

「こういうのは気持ちの問題ですよ。他人からの声援と、身内からの応援はまた違うもんです」

 

 ナツメはふと口を閉ざし、まじまじと若槻を見た。

 

「何ですか?」

「いえ、コスモ様にも同じことを言われたので」

 

 そう答えた彼女の目元が、少し和らいで見えた。若槻がまじまじ見返すと、ナツメは一つ瞬きをした。先程見えた柔らかさが一瞬で消えて、そうして再び目が合った時、若槻はその黒い瞳の中に硬質な光を見た。

 

「気持ち程度のものなら、やはりアギトには必要ありません。〝滅堂の牙〟ですから」

 

 それは、信頼と言うには些か頑迷な目と声色だった。加納の勝利を信じて疑わない者の目。否、これはあの男の信奉者というより――

 いや、俺には関係ないことだ。若槻は詮索はしまいと己の思考を断ち切り、代わりに一歩踏み出した。

 

「そうですか。なら、遠慮なく見させてもらいます」

 

 隣に立ってアリーナに目を向けて言えば、彼女も同じように正面へ向き直った。

 加納アギトと大久保直也は、すでに準備万端の構えで開始の合図を待っている。

 

「大久保選手は『表』の格闘家だと聞きましたが」

 

 ナツメの声に若槻は視線を動かした。

 

「ご存知ですか」

「格闘技をやってる人間で、大久保を知らない奴はいないと思いますよ」

「そうですか」

「大久保に興味がありますか?」

 

 ナツメはアリーナに顔を向けたまま、相変わらずの無表情で口を閉じてしまった。何を考えているのか、まったく掴み所がない。『裏』の人間らしいといえばその通りだ。

 若槻もアリーナに視線を戻した。

 ()()()加納は、ガードを下げ、重心を低く前に置いた攻撃特化の構えをしている。あの男は特定の格闘技や武術に主軸を置いていない。だが、どんな格闘技や武術でも、その道の達人以上の技量を持ったオールラウンダーだ。

 対し、大久保直也はスタンスを広めに取ったオーソドックススタイル。大久保はレスリングとボクシングテクニックに特化した総合格闘家で、『表』の絶対王者の名に相応しい実力を持っている。

 だから、「表と裏の王者対決だ」と煽るアナウンスに異論を唱えるつもりはなかった。かといって、両者の実力が同等だとは思っていない。確かに大久保は強い。だが、あいつでは〝牙〟は倒せない。

 そう確信している若槻も、ある意味では〝牙〟の勝利を信じて疑わない信奉者だ。

 

「――興味、というほどではありません」

 

 淡々とした声が鼓膜を揺らした。彼女の声は静かなのに、この歓声の中でもなぜか良く聞き取れる。

 

「ただ、思ったより()()()になりそうなので」

「糧? それは」

 

 どういう意味だ、と続くはずだった言葉は、レフェリーの怒号のような「始め!」の声に打ち消された。

 飛び出したのは大久保だった。右のストレートと見せかけての高速タックル。大久保としては、打撃戦よりグラウンドでの勝負に持ち込みたいといったところか。だが、加納は瞬時に反応してタックルを潰すと、膝蹴りで大久保を引き剥がし、続けざまにローキックを放った。肉を打つ、重く鋭い音が響く。

 加納はそのまま攻勢に出た。連打から、今度は左のミドルハイ。大久保が苦悶の形相を浮かべた。右足と右腕、それぞれ蹴りを受けた箇所が赤く腫れ上がり、その威力が並ではないことを如実に表していた。

 それでも大久保は怯むことなく反撃に出る。しかし、加納がそれを許さない。

 

「アギト選手、首相撲からチャランボだーっ!」

 

 頭を抱え込まれた大久保はガードを固め、幾度も叩き込まれる膝蹴りに耐えている。加納が右足を大きく引くと同時に大久保の頭を更に深く押し下げた。一際強烈な膝蹴りを見舞うための予備動作だ。しかし、その一瞬の隙を大久保も見逃さなかった。

 加納の顔面に拳を叩き込み、浮いた足を抱え込んで一気にテイクダウンを奪うと、流れるようにヒールホールドへと移行した。

 大久保はレスリング経験者で、その組み技は他の総合格闘家とは一線を画する。闘技者の中でも最高峰と言って過言ではなく、グラウンドでの戦いなら大久保に分がある。

 と、本人も思っていたに違いない。ところがどうだ。加納の組み技の技術は大久保にまったく引けを取らず、仕合開始から三十四秒、今度はグラウンドで組んず解れつの攻防が始まった。

 

「止まらないっ、止まらないっ! 流れるような攻防が続く! 絡み合う二匹の蛇さながらの様相です!」

 

 白熱する仕合と実況に会場が沸く。どちらも崩れず、トーナメントの一回戦にしてはハイレベルな仕合内容だ。だが、若槻は平静としてその戦いを眺めた。そして隣に立つ伏野ナツメにも、やはりこの熱気は届いていないようだった。ちらりと盗み見た彼女の表情は、仕合開始前と何一つ変わらず、

 

「ああっと!? ついに大久保選手がマウントを取ったー!」

 

 加納がマウントを取られて、上から一方的に連打を浴びせられてようやく、ほんのわずかに息を吐いた。

 

「心配ですか?」

「心配? あの人を?」

 

 まさか、と言わんばかりの声色で、ナツメは若槻を一瞥した。そうしてすぐアリーナに視線を向け直す。

 

「呆れただけです。わざと不利な状況を作るなんて」

「……分かっていましたか」

「いつもそうですから。相手の土俵にあえて付き合う。あの人の悪い癖だ」

 

 そうなのだ。加納アギトは、不利と分かっていながらあえて相手の土俵で戦うような男だ。相手の得意分野で戦い、完膚なきまでに打ち負かし、自信やプライドを叩き潰す。加納と闘った者のほとんどは再起不能に追い込まれている。肉体的にではなく、精神的にだ。圧倒的な武力で相手に恐怖を植えつけ「闘争心」という名の〝牙〟を折る。それが〝滅堂の牙〟加納アギトだった。

 仕合の様子を見るに、大久保も数々の敗者たちと同じ末路を辿ることになるだろう。

 わざとマウントを取らせてから今も、加納は最低限のガードだけで大久保の攻撃を受け続けている。観察しているのだ。大久保の力量がどれほどか。仕合が始まってからずっと、加納はただ量っているだけなのだ。

 不意に、大久保の体が跳ね飛ばされた。MMA(Mixed Martial Arts(総合格闘技))の最高峰団体『アルティメット・ファイト』のヘビー級で戦う大久保の体重は一二〇キロ近い。それを加納は腰だけで跳ね除けたのだった。

 

「ここまでだな」

 

 若槻はそう確信した。

 

「大久保は俺が想定していた以上に強かった。だが、〝牙〟が本気になった今、もはや奴に打つ手はない」

 

 加納アギトは「巨大な暴力の災害」だ。あの男を「人間」だと思うな。若槻はこの仕合が始まる直前、大久保にそう忠告した。大久保は「怪獣退治」だと意気込んでいた。実際、ここまで良く闘った方だろう。だが、勝敗は始まる前から決まっていたのだ。

 

「大久保の力量は()()()()()()()()()()。人に怪物は倒せない」

「あなたなら倒せると?」

 

 顔を横に向けると、温もりを感じさせない流し目がそこにあった。あの奇妙な居心地の悪さを覚える目だ。その言葉と視線に剣呑なものを感じ取って、若槻は一瞬口を噤んでしまった。そんな若槻の返答を待たず、ナツメの目はすぐまたアリーナに向けられた。

 

「……まだいけますよ」

 

 そんな呟きに釣られて若槻もアリーナを見た。そうしてまた言葉を失った。大久保の強烈な一撃が、加納のこめかみを打ち抜く瞬間を見たのだった。

 加納の体がぐらりと揺れる。それを大久保が正面から抱え込んだ。派手な音を立ててフロントスープレックスが決まり、硬い床に叩き落とされた加納の口から血が飛び散った。

 大久保が再び馬乗りになり、硬く握った拳を打ち下ろす。その腕を加納が掴んだ。マウントポジションから素早く脱するが、そこからは大久保が一方的に攻め立てるという、おそらく誰もが予想していなかった展開になった。

 もはや大久保の攻撃は〝牙〟には届かない。そう思っていた若槻も、目の前で繰り広げられる光景にただただ驚いた。

 

「綺麗ですね」

 

 そういうわりに、これといった感慨もなさそうな声色でナツメが言った。

 

「打撃、投げ技、極め技、絞め技……。一つひとつを見れば、どれも基本に忠実で綺麗な動きです。けど、練度は並じゃない。技同士の継ぎ目がほとんどないくらい、全部を使いこなしてる。アギトさんが反応しきれてないのも無理ないな。あれだけ自在に技を切り替えられたら……。ああ、なるほど、あれが〝総合〟格闘技か」

 

 ほとんど独り言のようだった。アリーナを見つめる横顔は相変わらずの無表情で、淡々と大久保の動きを分析するその様はいっそ不気味なほどだった。目の前で、自身が所属する企業の代表闘技者が、あの〝滅堂の牙〟が窮地に追いやられているというのに、それを気にする素振りがまるでないのだから。

 いくら〝牙〟の勝利を信じて疑っていないのだとしても、あれほど押されている姿を見てここまで無反応でいられるものか。何か得体の知れないものを見ている気持ちになって、気づけば若槻は仕合よりナツメの方を凝視していた。

 

「〝牙〟の仕合を見に来られたのでは?」

 

 アリーナに向けた目を動かさず、ナツメが言った。見るべきものは私じゃなくて向こうだろ、と暗に指摘され、若槻ははっとした。そうして正面に向き直りながら、思う。やはり、この女は普通じゃない。今井には悪いが、あまり深入りするべきではないだろう。

 

「……君こそ、〝牙〟の心配をしなくていいのか?」

「先程も言いましたが、心配も応援も必要ありません」

「あれを見てもか」

「あなたの言う通り、確かに大久保選手は想定以上です。ですが、勝敗が覆るほどではありません。状況だけ見ればアギトが追い込まれているのは事実ですが」

 

 ナツメはそこで一度言葉を切り、言った。

 

「すぐに適応しますよ」

「――適応?」

 

 若槻が疑問の声を上げると、ナツメはそれまでの無表情を崩して、不思議そうな顔で若槻を見た。

 

()()()()加納アギトと闘ったことがあるのでは?」

 

 どういう意味だ、と問うことはまたしてもできなかった。若槻が口を開く前に、ナツメの視線が素早く動いたのだ。瞬間的に鋭くなったその目が再びアリーナに向けられたと同時に、身長二メートルを超える加納の体が弾き飛ばされた。大久保の、骨すら砕かんばかりの強烈な蹴りが、加納の顔面をとらえた瞬間だった。

 蹴り飛ばされた巨体が大きな音を立てて地面を転がる。そのまま動かなくなった加納の姿に、観客たちがどよめいた。

 

「……脱力で衝撃を散らしてる。見た目ほどのダメージはありません」

 

 頭蓋がかち割れていてもおかしくない一撃を目撃して、それでもなお、若槻の隣に立つ女は冷静だった。

 

「けど、今ので完全にスイッチが入ってしまったようです」

 

 その「スイッチ」の意味はすぐに分かった。

 加納がゆらりと立ち上がる。その佇まいから見るに、ナツメの言う通りさほどダメージは受けていないようだった。だが、その表情は様変わりしていた。笑っていたのである。とても正気とは思えない、凶暴で狂気に満ちた満面の笑みだった。

 観客が息を飲む。若槻は加納の異次元の強さを『怪物』と称したが、あの面貌は本当に『バケモノ』のようだった。

 

「あれを見るのは初めてですか」

 

 そう問うように口を開いておきながら、ナツメは若槻の返事を待ちもしない。

 

「だとしたら、当時のあなたは()()()()()()()ということですね」

 

 その表情と声色からは、欠片ほどの悪意も感じられなかった。おそらく、他意などまったくないのだろう。若槻の実力を貶めようとしたわけでも、嫌みでもなく、ただ事実を口にしただけ。紛うことなき事実をだ。

 だから、若槻もそれに関しては何も返さなかった。代わりに、疑問を一つ口にする。

 

「君は、加納アギトと闘ったことがあるのか?」

 

 彼女はさっき「あなたも」と言ったのだ。

 

「あります」

「本当ですか!?」

 

 声を上げたのは楓だった。

 

「そうおかしなことではないでしょう。〝滅堂の牙〟は『護衛者』の中から選ばれるんですから」

「そ、それはそうですが……。でも、あなたは」

「闘技者にはなれませんね、女ですので。だからといって妥協が許されるわけではありません。私のような存在は特に。周囲を黙らせるにはそれ相応の実力を示す必要がありますから」

 

 滅堂の猫。彼女をそう揶揄する声があることは若槻も知っている。男所帯に女が一人いれば、そういう下衆な噂の一つ二つは珍しくもないだろう。彼女はそういう見当違いな周囲の言動を気にするタイプではなさそうだが、『護衛者』という集団の中で、会長直属の護衛まで上り詰めるのは並大抵のことではないはずだ。

「それに」と、ナツメが若槻に視線を寄越した。

 

「人に怪物は倒せない、あなたはそう言いましたよね。私もその通りだと思います。バケモノを殺すには、自分も同等以上のバケモノにならないと」

 

 そう言って、彼女はアリーナに視線を戻した。

 加納が攻勢をかけ、大久保を押している。その攻撃は荒々しく暴力的で、先程までとはまるで別人のようだった。

 暴風のような攻撃の、ほんの一瞬の隙をついて大久保が仕掛ける。だが、組みつこうと体を沈めた大久保の、そのこめかみを加納が打ち抜いた。

 大久保の体がぐらりと揺れる。それを加納が正面から抱え込んだ。そこから繋がる技は、

 

「……フロントスープレックス。意趣返しか」

 

 若槻が呟けば、ナツメが同意するように「あの人らしい」とこぼした。

 加納がマウントを取り、硬く握った拳を振り上げる。そこで動きが止まった。会場がざわつく中、加納の腕がゆっくりと下ろされた。そのまま何事もなかったかのように立ち上がり、身動き一つしない大久保に背を向けた。

 

「服部、止めるタイミングが遅いぞ」

 

 レフェリーにそう告げた加納の表情は、いつもの寡黙で無愛想な男のそれだった。

 レフェリーが慌てて担架を要請する中、加納が若槻たちのいる入場口へと向かってくる。

 

「〝滅堂の牙〟になりたいわけではありませんが」

 

 大歓声の中、若槻にしか聞こえないほど小さな声でナツメが言った。

 

「あの強さがあればとは思います」

 

 その言葉で、彼女に会場の熱気が届かない理由が分かった気がした。彼女が大久保を指して「糧」と言った意味も、あの頑迷な目と声色も。

 彼女は自分と同じなのだろう。加納と闘い、敗北を喫して、それでも折れることなく逆に〝牙〟を研ぎ続ける。強さを求める理由は違うとしても、通ずるものはある。

 だとしても、やはりこれ以上近付くべきではない。こういう世界では、関わる相手は慎重に選ぶ必要がある。若槻は無言で視線をそらした。

 そうこうしているうちに、加納が目の前までやってきた。

 

「お疲れ様でした」

 

 ナツメがタオルを差し出す。加納がそれを受け取ってから若槻を見た。

 

「若槻か、久しいな」

 

 通路に低い声が響く。あれだけ大久保の攻撃を受けたというのに、その動きにも、目線にも、声の調子にも、ダメージの痕跡は見られない。

 

室淵(むろぶち)剛三(ごうぞう)との闘い、見させてもらったぞ。また腕を上げたな」

「なに、まだ奥の手は出しちゃいないさ」

「左ブロックを勝ち上がるのはお前かな? 少なくとも格上が二名いるようだが」

「他人の心配か? お前こそ、せいぜい足元に気をつけるんだな」

 

 自身の闘争心が昂るままに応じ、若槻は加納と真正面から視線を交えた。桜も楓も、伏野ナツメも、黙って二人の様子をうかがっている。

 

「へえ、盛り上がってるじゃねえか」

 

 通路に響いた声が、僅か数秒の睨み合いを終わらせた。最初に反応したのはナツメだった。弾かれたように顔を動かした彼女に釣られ、若槻も背後を振り返った。

 

「分かってねえな、ポマード野郎。左ブロックを勝ち抜くのは俺だよ」

 

 挑発的な言葉を吐きながら、十鬼蛇王馬がゆったりとした足取りで近づいてきた。

 

「お、王馬くん! 加納選手は仕合が終わったばかりなんですよ!? 挑発するのはやめなさい!」

 

 楓が慌てて叫んだ。そんな彼女を制したのは、挑発を受けた加納の方だった。

 

「君は確か、乃木グループの秋山さん、だったな? 気遣いは無用だ」

 

 紳士的な口調で言い、加納が十鬼蛇を見た。無感情な目をしている。おそらく、十鬼蛇など眼中ではないのだろう。

 

「彼では私に傷一つ負わせることもできない」

「……何だと?」

 

 十鬼蛇の表情が険しくなる。だが、加納は気にも留めず続けた。

 

「十鬼蛇王馬、お前は弱い。そして、あの呉は強い。どう足掻こうがお前に勝機はないだろう。ここにいる若槻も、お前の遙か高みにいる。お前の左ブロック突破は不可能だ」

 

 ふと、視界の端で黒い影が動いたのが見えて、若槻はそちらに目を向けた。ナツメだ。彼女は真っ直ぐに十鬼蛇を見据えている。その視線の刺すような鋭さに、思わず目を瞠った。

 彼女と十鬼蛇がどういう関係なのかは知らないが、どうにも険悪らしいというのは小耳に挟んだ。

 あの関林に勝利し、トーナメント開催の決め手となった十鬼蛇王馬はこの大会でも注目株で、伏野ナツメは言わずもがな。そんな二人が揃えば、噂の的になっても当然だった。痴情のもつれだ何だのと、好き勝手に噂を広げる輩の言葉を信じる気はないが、ナツメの殺気すら孕んでいそうな目を見て、若槻は「只事ではない」と確信した。

 止めるべきか。そう思い、体の向きを変えた若槻を、ナツメの鋭い目が一瞥した。無言の圧力に、若槻は黙って引き下がるしかなかった。

 

「口では何とでも言えるよなあ、ポマード野郎」

 

 加納とやり合おうというのか。十鬼蛇が拳を握り、顔の前で構えた。

 

「ここで証明してみるかい? 俺がアンタより――」

「下がれ」

 

 鋭い声が空気を揺らして、水を打ったように静まり返った。

 加納の前に音もなく歩み出た背中には、暗い影が張り付いている。照明のせいかもしれないが、少なくとも若槻にはそう見えたのだった。

 



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18 一蹴

「下がれ」

 

 鋭く冷たい声に、王馬の体は無意識にたじろいでいた。

 知っているはずなのに、聞いたことのない声だ。そう思って目を合わせたら、そこにあったのは王馬が見たこともないナツメの顔だった。『中』にいた頃、何度も見ていた無表情。記憶にあるのはその横顔ばかりだが、感情らしい感情を見たことはあまりない。だが今、その目は明らかな敵意を宿して王馬を貫こうとしている。

 驚いて言葉を飲み込んでしまった王馬を睨み据えて、ナツメが再び口を開いた。

 

「闘技者同士の私闘は禁止だ。力尽くで排除されたくなければ下がれ」

「……排除だと?」

 

 その言葉で思い出すのは、船で再会した時のことだ。あの時、振り返りもせずに立ち去った後ろ姿を思い出して、王馬はきつく拳を握り締めた。

 

「船じゃテメーから逃げといて、随分とデカい口叩くじゃねえか。あのジジイやそいつの腰にくっついて、テメーまで偉くなったつもりかよ」

 

 ナツメは何も答えなかったが、王馬から目をそらしもしなかった。

 ここから一歩でも踏み込めば、その瞬間に飛び掛かってきそうな、獰猛な影が見え隠れする目。そこに、こちらを心配する色は見えない。

 死んでほしくないと言ったあの言葉も声も表情も、すべて幻覚だったのか。王馬にはそうとしか思えなかった。

 

「……言ったはずだぜ、二度と俺の前に立つんじゃねえって!」

 

 王馬がじりっと足を動かすと、睨めつけるナツメの目がさらに鋭くなった。

 

「下がれと言ってるのが分からないのか」

「下がらなかったらどうするって? 排除できんのかよ? テメーが、俺を!」

 

 獲物を見据える獣の目が細まり、まるでため息のような声が王馬の鼓膜を揺らした。

 

「忠告はしたからな」

 

 王馬は床を蹴って飛び出した。

 瞬発力を活かし、一瞬で間合いを詰める『二虎流・火天ノ型(かてんのかた)烈火(れっか)〟』と、そのスピードに乗せて『金剛ノ型(こんごうのかた)』の技を繰り出す複合技――『金剛・火天ノ型〝瞬鉄(しゅんてつ)〟』。二虎流で一番速い攻撃である。

 握り固めた拳を全力で、真っ直ぐに放つ。王馬は手を抜いたりなどしなかった。だが、その拳がナツメに叩き込まれる直前で、()()()()。王馬は驚き、目を瞠った。そしてすぐ、怒りで頭が熱くなった。

 今の技は間違いなく、二虎の――

 

「テメーがその技を使うんじゃねえ!!」

 

 王馬は吠え、さらに拳を振るった。だが、再び同じ技で受け流された。

 電撃的に動いたナツメの腕が王馬の胸倉を掴む。そのまま投げに移行するかと思いきや、ナツメは至近距離で王馬の顔を覗き込んで、

 

「それは手加減してくれって意味か?」

 

 などとのたまった。見え透いた挑発だったが、それを流せるほどの余裕も冷静さも、今の王馬にはなかった。

 王馬はナツメの腕を掴んだ。操流ノ型で崩して、一発叩き込んで黙らせてやる。そのつもりだったのに、次の瞬間、王馬の視界はぐるりと一回転していた。

 背中から床に落とされ、咄嗟に跳ね起きようとしても、手首を掴む細い指がそれを許さない。そこからほんの僅かに伝わってきた力が、起き上がろうとする王馬の力をかき乱したのだった。

 

「驚くことじゃないだろ」

 

 天井を背負ったナツメが、冷めた目で見下ろしている。

 

「〝柳〟は私も使える。相殺することだって、逆手に取ることだってできるさ。タイミングさえ分かればな。お前は昔から操流に頼りすぎなんだ。やることがワンパターンで分かりやすい」

「っ、知ったような口を……!」

「……お前、さっきの仕合見てたか? 大久保直也の闘い方だ。お前はあれを見習った方がいい」

 

 ふ、とナツメの手が緩んだ。

 

「もう分かっただろ。本当に、これが最後の忠告だぞ」

 

 ――気に入らねえ。その目も、その表情も、その余裕も、その強さも。この女の何もかもが、気に入らない。まるで俺のことなんざ眼中にないみたいな、その態度が。

 王馬は跳ね起きた。そのまま強く床を蹴って、再び挑みかかろうとした。その瞬間、

 

「やめとけ、王馬。これ以上はマジで殺されるぞ」

 

 耳元で声が聞こえて、王馬は驚愕して固まった。そこに、横から衝撃が来た。構えた腕ごと吹き飛ばされて、気づいた時には冷たい床に這いつくばっていた。

 

「アギトさん!」

 

 ナツメの声がした。だが、全身ががくがくと震えて、王馬は起きることができなかった。

 一体、自分の身に何が起きたのか。どうにか顔を持ち上げると、こちらを見下ろす加納アギトと目が合った。ナツメは、そんな男の横で咎めるような声を上げている。

 

「何してるんです! 闘技者同士の私闘は禁止だって分かっていますよね?」

「私闘? 『路傍の石』を蹴っただけだ」

「屁理屈を言わないでください。私が()()しますから、あなたはもう下がって……」

「お前が下がっていろ」

 

 加納は片手でナツメを制し、改めて王馬を見た。その目はひどく冷たくて、侮蔑すら宿っているように見える。

 

「もう一度言ってやろう。十鬼蛇王馬、お前は弱い。こいつの足下にも及ばないほどに。身を以て分かったはずだ」

「ポマード野郎の言う通りだ。今のお前じゃ勝てねえよ」

 

 また声がした。肩を叩かれる感触が確かにあって、王馬は驚いて振り向いた。

 

「に、二虎……?」

 

 まさか、ありえない。自分を見下ろす二虎の姿に、王馬はますます混乱した。

 

「不思議か? 精神世界以外に俺が現れて。俺が生きていたと思ったかい? 残念、俺はお前が作り出した幻だ。他の奴らには見えちゃいねえよ。当然ナツメにもな」

 

 二虎の姿が陽炎のように揺れて、ふっとナツメの隣に現れた。ナツメは眉間に皺を寄せ、王馬を見下ろしている。すぐ隣に二虎がいるのに。その手が、肩に触れているのに。ただ険しい顔で王馬を見ていた。

 

「懐かしい光景だな? お前はこいつに何かと突っかかって、度々喧嘩売っちゃあ、返り討ちにあって転がされて……。結局いつも、こんなふうに見下ろされるハメになってたよなー。まっ、今お前が床に転がってんのはそっちのポマード野郎のせいだが、そのおかげで命拾いしたって気づいてるか? まったく、馬鹿な奴だ。折角救ってやった命を捨てちまうところだった」

 

 突然、王馬の脳裏に見覚えのない光景がよぎった。二虎が誰かと戦っている。だが、誰だか分らない。確かめようにも、二虎がその「誰か」の鳩尾辺りに拳を叩き込んだ瞬間、その光景は光が弾けるように消えてしまった。

 だが、まるで自分が殴られたかのような衝撃が、王馬の胸を貫いた。体が強張り、呼吸が苦しくなって冷や汗が止まらない。王馬はもはやパニック寸前だった。

 

「まだ思い出せねえか?」

 

 二虎の幻はまだ喋り続けている。

 

「まあいい。とにかく、今のお前は弱い。こっちの野郎二人にも、ナツメにも絶対に勝てねえ。元のお前に戻らねえ限り、な。だが、元のお前に戻れば、待っているのは確実な〝死〟だ」

 

 二虎が一体何を言っているのか理解できない。それがひどく不快だった。

 

「今のお前は、徐々に枷が外れつつある。ここから先は進むも地獄、留まるも地獄だぜ? ――ああ、ナツメは『死んでほしくない』って言ってたよなあ。だが、こいつに勝ちたきゃ進む以外に道はねえ」

「わけの分からねえことをごちゃごちゃと……」

 

 二虎を見上げた王馬の目に、自分を見下ろすナツメが映った。気に入らない。どいつもこいつも。

 

「消えちまえ、二虎!!」

 

 

 

 

 王馬の咆哮に、ナツメは顔を歪めた。

 アギトに一蹴されてから、王馬の目はずっと何もない空中を見ていた。そこに何が見えているのか。考えたくはなかったが、もはや認めざるを得ない。王馬は幻覚を見ているのだ。いるはずもない、二虎の幻を。

 そうだった、王馬の体は『憑神』の代償で壊れかけているのだった。あまりに普通の様子で現れたものだから、ナツメはすっかり失念していた。

 これはもう手遅れか。それとも、まだ打つ手はあるのか。どちらにせよ、やることは一つだった。

 掴みかかってくる王馬の手を、ナツメは待った。再三の忠告を聞かずに向かってくるのであれば、それを無力化する理由としては充分過ぎる。傍からは錯乱したようにしか見えない今の王馬相手なら、多少やり過ぎても「不可抗力」で通せるだろう。

 やるなら足だ。歩くことができなければ仕合にも出られまい。死なない程度に……。大丈夫だ、王馬相手なら難しくない。あとは医務室に放り込んで、英に言い含めておけば――

 しかし、ナツメのそんな計画は失敗に終わった。前へ出ようとした瞬間、アギトに腕を掴まれ止められてしまったのだ。そして王馬も、背後から現れた王森と鷹山に取り押さえられ、抵抗する間もなく一瞬で()()()()()しまった。

 

「ナツメ」

 

 床に転がされ、ぴくりとも動かない王馬を呆然と見ていたナツメは、不機嫌そのものといった声に呼ばれてはっとした。顔を上げれば、鷹山がひどく険しい表情でナツメを睨んでいた。船で咎められた時よりも、もっと、ずっとだ。

 

「勝手な真似はするなと言っただろうが。お前の()()は、『護衛者』として御前に恥じないものだと言えるのか」

 

 一瞬前に考えていた自分の思考の醜さは、自分が一番良く分かっていた。それを指摘されたようで、ナツメは思わず目をそらしてしまった。

 視線を置く場所を探して、再び下を向いたナツメの目に、床に落ちた白いタオルが見えた。

 

「御前より闘技者に伝令」

 

 王森の厳格な声が響く。

 

「『上がってこい』――以上」

 

 踵を返す王森の足が視界の端に見えた。腕を掴んでいたアギトの手が離れ、感情の読めない低い声が「行くぞ」とナツメを促した。

 その声に引きずられるように足を踏み出しかけ、思い直して後ろを振り向いた。

 

「お騒がせしました」

 

 若槻たち三人に向かって頭を下げ、その中で一番王馬と関わりがあるだろう秋山楓と目を合わせる。

 

()()()()はすぐに目を覚まされるかと思いますが、必要であれば担架と医師の手配をいたします」

「あ、それは……」

 

 楓はナツメと、倒れた王馬の間で視線を行き来させた。その表情は強張って見える。目の前で起きたこともそうだが、ナツメが立ち止まって話しかけたことで、加納、鷹山、王森の視線まで一身に受けることになり、気圧されてしまったのだろう。

 三人とも、大きくて強面だから。若槻も負けてないが。ナツメは視線を横へと動かした。目が合った若槻は、すぐに何かを察したようだった。

 

「大丈夫だ。君の言う通り、すぐに目を覚ますだろう。気にせず行ってくれ」

 

 若槻の言葉に、ナツメは改めて一礼した。踵を返し、今度こそ王森たちと歩き出す。

 倒れた王馬の姿には、一切目を向けなかった。もはやナツメには、その身を案じる資格がない。

 その場を離れ、四人はしばらく黙って通路を進んだ。ナツメは今まで、王森たち三人に囲まれても息苦しさや居心地の悪さを感じたことはなかった。今だって、彼らは歩幅の違うナツメに合わせて歩いてくれている。だというのに、こんなにも息が詰まる。

 エレベータの前までやってきた。王森と鷹山が降りてきた時のままだったのだろう。鷹山がボタンを押すと、エレベータの扉はすぐに開いた。

 王森が乗り込み、振り返る。鷹山がボタンを押したままナツメを見て、アギトは横で待っている。

 ナツメは尻込みした。この空気で、さらに狭い空間に入りたくないと思ってしまった。

 

「ナツメ」

 

 王森が呼ぶ。その声色は、普段と変わらないような気もしたし、やはりいつもより硬いような気もした。

 

「お前は部屋に戻っていろ。今後については追って通達する。それまで――」

 

 要は「謹慎」ということだろう。流石にそれくらいは理解できて、ナツメは床に目を落とした。失望させてしまった。そう思ったが、そんな思考は一瞬で頭の隅に追いやられて、ナツメはすぐに別のことを考えていた。

 このトーナメントが終わるまでの間、部屋から出られなくなるかもしれない、という危惧だった。

 もしそうなったら、あの男を殺しに行けなくなる。もし、自分が部屋で謹慎している間に、雷庵が、ホリスが、あの男を見つけてしまったら……。そんな危惧。

 ひどく自分本位な心配事ばかりが頭を埋め尽くして、続く王森の言葉を聞き逃した。

 そのまま三人と別れて、宛がわれた部屋に戻ってすぐ、ナツメはネクタイを少しだけ緩めてベッドに倒れ込んだ。何をしたわけでもないのに、ひどく疲れていた。

 少しだけ休もう。そう思って目を閉じた。

 遠くで部屋のドアを叩く音がして、ナツメは閉じた目を開いた。なのに、視界がやけに暗い。何度か瞬きをしたら、ようやく薄暗い天井が見えた。またノックの音がして、ナツメは慌てて飛び起きた。

 窓を見ると、もう日が沈んでいる。眠ってしまった? 私が? 信じ難いことだったが、疑いようもなかった。

 

「ナツメ? ……いないのか?」

 

 王森さんだ! ナツメはまた慌ててドアへと飛びついた。思った以上に勢いよく開けてしまったドアの向こうで、王森が目を丸くしていた。

 

「い、います。すみません、その」

 

 眠ってました、というのがなぜだか恥ずかしく思えて、ナツメはどう言い訳しようかと口ごもった。

 王森は「落ち着け」と言ってナツメを宥めると、それから電気も点けていない暗い室内へ目を向け、またナツメに視線を戻してこう言った。

 

「寝てたのか」

「……そうみたいです」

 

 なぜバレてしまったのだろう。ナツメが眉を下げると、王森は少し目を細めた。

 

「涎のあとがついているぞ」

 

 ナツメは顔を叩く勢いで口元を隠した。

 

「冗談だ」

 

 なんて意地悪な人だろうか。非難を込めた目を向けても、王森は愉快そうに口角を持ち上げただけだった。

 

「涎は冗談だが、髪がボサボサだぞ。結んだまま寝てたのか? ネクタイも外さずに?」

「……少しだけ横になるつもりだったんです」

 

 それがまさかの、である。今は何時だろう。一体どれくらい眠っていた? 一時間? 二時間?

 ナツメは腕時計に目を落とした。もう十九時を回っている。

 

「まだ休んでいろと言ってやりたいところだが、もう時間だ。すぐに準備しろ」

「準備?」

「忘れたのか? 一回戦の打ち上げパーティーだ。その頭で行くわけにはいかないだろう?」

「……自分も行くのですか?」

「ああいう場が苦手なのは分かるが、そう毛嫌いせずに参加してみろ。何事も経験だと言っただろう? お嬢もお前を待って」

「いえ、そうではなくて」

 

 ナツメは困惑して王森を見上げた。

 

「自分は、部屋で謹慎してなければいけなかったのでは?」

「謹慎?」

 

 王森が眉を上げた。

 

「誰がお前にそんな指示を出した?」

「誰って……。部屋にいろと、あなたが」

「部屋に戻って、連絡があるまで少し休んでいろ、と俺は言ったはずだが」

 

 言っていただろうか。いや、言っていたのかもしれない。ただ、ナツメは自分のことばかり考えていて、王森の言葉を聞き落としてしまったのだった。

 

「聞いていなかったようだな」

「……すみません」

「まったく、しようのない奴だ」

 

 呆れたような声が降ってきて、ナツメは少し俯いた。旋毛の辺りに王森の視線を感じる。だが、それもほんの数秒のことだった。

 

「そろそろ腹も減っただろう」

「はい?」

「今日の仕事は終わりだ。パーティーで好きなものを食べて羽を伸ばせ」

「……私だけ、そういうわけには」

「加納もだ。殲滅部隊も任務を切り上げてじきに合流する。それと、御前から大会の追加ルールの発表があるそうだ」

「追加ルールですか?」

 

 一体何だろうか。あまり難しいものでなければいいのだが。

 

「ああ。だから、少なくともそれまでは会場にいるように」

 

 王森の手が伸びてきて、ナツメの緩んだネクタイを整えた。何も言わず、表情も変えず、あまりに自然にそうするものだから、ナツメも当然のように受け入れてしまった。それからすぐにはっとして、申し訳なさに眉が寄った。

 いつも頼んでいることだとはいえ、この状況に慣れすぎるのは良くない。

 

「すみません」

「俺が勝手にしたことだ。謝る必要はない」

 

 数日前に、同じ言葉を聞いたばかりだ。

 

「それにお前は、こんなことでしか頼ってこないからな」

「え?」

 

 と、ナツメが顔を上げたら、王森の手が頭の上に乗せられた。

 

「準備ができたら降りてこい。俺と鷹山は御前の護衛で先に行くが、下でお嬢と加納が待っている」

 

 なるべく急げ、と残して王森は去って行った。

 その言葉に従い、ナツメは急いで部屋に戻り、顔を洗って髪を整えた。スーツに目立ったしわはない。全身を確認して、大丈夫だろうと判断してから早足で部屋を出た。

 ナツメはエレベーターが少し苦手だ。押し入られたら逃げ場がないな、とか。扉が開いた瞬間に銃を乱射されたら、とか。そんなことを考えて、扉の開閉の度に体が勝手に身構えてしまう。

 今、ナツメは一人だ。迷わず階段を選び、一足飛びに駆け下りた。

 エントランスホールの人影はまばらだった。すでにみんな、パーティー会場である『滅堂ホール』に移動しているのだろう。おかげで、鞘香とアギトをすぐに見つけることができた。

 

「遅かったな」

 

 ナツメが近づくと、アギトが先に口を開いた。

 

「お待たせして申しわけありません」

 

 素直に謝罪を口にすれば、ソファに座っていた鞘香が「全然大丈夫だよー」と笑った。そうしてすぐに立ち上がる仕草をみせたので、ナツメは彼女に手を差し出した。

 

「ありがとう」

「いや。ドレス、着替えたんだな」

「うん、どうかな? 似合ってる?」

「……ああ、似合ってる」

 

 鞘香は昼間の赤いドレスとは違い、今度はタイトな白いドレスを着ていた。胸元がへその辺りまでV字に深く開いていて、背中も足も大胆すぎるくらいに晒している。

 似合っているのは事実だが、烈堂が見たらなんて言うだろう。

 そんなことを考えながら、ナツメは鞘香をエスコートするようにエントランスへ向かった。

 

「会場に着いたら、改めてガオさんを紹介するね」

 

 ――ああ、そうだった。つまり、サーパインと会うことになるわけだ。

 ナツメは行く前から疲れた気分になって、部屋に戻りたいなと思いながら曖昧に頷いた。

 



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19 一回戦打ち上げパーティー

 食事とは、肉体を作り、生命活動を維持するために必要なもの。以前のナツメにとっては、それ以上も以下もなかった。

 必要な栄養さえ取れればそれでいい。だから、毎食同じ物を食べ続けることは何の苦でもなかったし、味や見た目を気にしたこともない。食事に時間をかけたりも当然しなかった。常以上に神経を尖らせ、周囲を警戒しながらなるべく短時間で済ませる。そういうもの。

 

「それ、美味しいですか?」

 

 ナツメは口の中の料理を飲み込んで、アギトの手元を覗き込んだ。

 皿の上にパスタが乗っている。何という名前の料理なのかは知らない。自分がたった今飲み込んだ肉料理の名前も分からない。牛肉で、味付けが濃いめで、美味しいと思った。それだけで充分だった。

 

「食べるか?」

 

 アギトはパスタを綺麗に巻いたフォークを持ち上げた。そのまま食いつこうとして、ナツメは思いとどまった。

「行儀が悪い」と鷹山に怒られる未来が見えた。まして、こんな人前だ。きっと小言では済まされない。

 

「いえ、自分で取ってきます」

 

 ナツメは空になった皿をテーブルに置いた。代わりにグラスを手に取り、残っていた中身を飲み干す。肉料理に合うと言って渡された、渋みの強い赤ワインだった。

 

「飲み過ぎるなよ」

「色のついた水ですよ。あなたも何か飲みますか? ついでに取ってきますよ」

「任せる」

 

 ナツメはアギトと離れ、パーティー会場にあふれる人の群れを縫うように進んだ。

 拳願号の時より、明らかに人数が増えている。一回戦に間に合わなかった人々が、続々と集まってきているのだろう。そして、それだけの人数が入れるこの『滅堂ホール』も、馬鹿みたいに広い。

 この中で、特定の人物を探すのは一苦労だ。だというのに、会場に着くなりサーパインはすぐに見つかった。姿は見えなかったが、人だかりの中からいつもの雄叫びが聞こえたのだった。

 鞘香は「サーくんと一緒にガオさん探してくるね」と笑って離れていき、それから未だ戻ってきていない。そのまま諦めてくれたらいいのに、というのがナツメの本音だった。

 料理が並んだテーブルの前に辿り着くと、そこにあった人だかりが割れた。先程アギトと料理を取りに来た時もそうだった。

 誰もが二人を遠巻きにして、そのくせ興味や好奇の視線は隠そうともしない。ひそひそと声を潜めたところで、ナツメにはその会話のほとんどが聞き取れる。どれも拾う価値もない話ばかりだったが、気分がいいものでもなかった。

 だとしても、絡んでこられるよりはマシである。こういうパーティーは、食事より周囲との交流がメインなのだと教えられはしたが、ナツメの知ったことではない。

 アギトが食べていた物と同じ物だと思われるパスタを皿に取り、他にもいくつか料理を見繕ってテーブルを離れた。

 さて、アギトさんの飲み物は何がいいだろう。

 

「ナツメさん、何飲むの?」

 

 ドリンクを吟味していると、後ろから声をかけられた。振り向くと、三角巾で右腕を吊った氷室が立っていた。

 

「何かご用ですか、氷室様」

「用ってわけじゃないけど、たまたま姿が見えたからさ」

 

 氷室はナツメが持っている皿にちらりと目を向けた。

 

「その料理には、こっちの白ワインが合うんじゃないかな」

「……お酒、詳しいのですか」

「義伊國屋はバーなんかにも出資してるって知ってるかい? 俺もそこでバーテンダーとして働いてるんだ」

「そうですか」

 

 だとしても、今選んでいるのはアギトのドリンクである。あの人は、ワインはあまり好みではないだろう。ナツメは様々なドリンクが並ぶテーブルに視線を戻した。

 

「腕がこんなじゃなけりゃ、ナツメさんにぴったりのカクテルを俺が作ったのにな」

「そういったお気遣いは結構です」

「気遣いとかじゃないって。俺はただ、ナツメさんにお礼がしたいんだ」

 

 お礼? ナツメは氷室を見た。だが、まるで思い当たる節がない。

 

「身に覚えがありません」

 

 すると氷室は、一瞬遠くを見るような目でナツメを見た。なんだ、と疑問を抱く前に「船でのことさ」と氷室が言った。

 

「金田を止めて、俺たちの手当てまでしてくれたんだろ? そのお礼だよ」

「……確かに私は金田様を止めましたが、あなたを助けるためだったわけではありません。手当てをしたのも医療班の者で、私は担架を手配しただけです」

 

 ナツメは再びテーブルの上を見た。

 

「ナツメさんにそのつもりがなかったんだとしても、俺が助けられたことに変わりないからさ。かっこ悪いとこ見られちまったってことでもあるけど」

 

 氷室の声は穏やかで、だからこそ、ナツメは自身の横顔を見つめる彼の目と目を合わせようとは思わなかった。

 ナツメはあの時、助ける意図がなかったどころか、それが氷室だと分かったあとでも、彼の身を案じることさえしなかったのだから。

 

「……勝手にしろ」

 

 ナツメは果実系のカクテルを一つ取ってテーブルを離れた。

 

「今の、素のナツメさんっぽくていいね。俺はそっちの方が好きだな。仕事中のナツメさんもカッコイイけど」

 

 歩き出したナツメに、氷室も軽い足取りでついてくる。

 

「トーナメント中は忙しいだろうから、島から戻って色々落ち着いたら俺の店に遊びに来てよ。もし良かったら、鞘香ちゃんも一緒に」

 

 ナツメはぴたりと足を止めた。

 

「なんでその名前が出てくる?」

 

 無意識に出した威嚇の声に、氷室がわずかに肩を揺らした。それでもすぐに、何事もなかったように「実は昨日、鞘香ちゃんたちと飲みに行ったんだ」と笑った。

 

「俺と金田と、英っていう医者と」

「英? なんであいつが」

 

 まったく予期していなかった人物の登場に、ナツメは思わず聞き返した。

 

「ホントたまたま偶然居合わせてさ。ナツメさんの主治医だって聞いたぜ。世間って狭いもんだよな」

 

 氷室は明朗な口調で話し続ける。左腕を動かし、手のひらを広げ、まるで「何も隠してません」とアピールするかのような手振りを交えながら。

 

「女の子は鞘香ちゃんと、英の助手で看護師やってるって子と、アンダーマウント社の社長秘書の女の子」

 

 英の助手で看護師、というのは心美のことだろう。アンダーマウント者の社長秘書は、本山(もとやま)ほたる、だったか。

 ナツメは自分の記憶を探る。

 アンダーマウント社は起業からわずか十年で急成長を遂げたIT関係の会社で、拳願会への加入も五年前という新参者。だがすでに、企業序列二十八位にまで食い込んでいる。そして、このトーナメントで『呉一族』を雇った企業だ。

 だからこそ頭に入れておいた知識が、まさかこんなところで活用されるとは思わなかった。

 それはそれとして、どういう繋がりで集まったのか良く分からない面子である。その中に英と鞘香がいることが、ナツメにはよけい不思議だった。

 英のことは良く知っている方だと思う。鞘香のことも。医者と患者、主人の娘とその護衛。それ以上でも以下でもないが、ナツメにとってはどちらも〝親しい〟に分類される相手だ。だが、だからといってナツメの中でこの二人が結びつくことはなかったのである。まして、

 

「あの医者先生も鞘香ちゃんも、ナツメさんと親しいんだろ? 二人でいろいろ話してたよ。特に鞘香ちゃんは、ナツメさんのこと話してるとずっと嬉しそうでさ」

 

 あの二人を繋ぐものが自分だなんて、なんだか妙な感じだ。

 

「ちょっと妬けるくらいだったよ」

 

 氷室は少し目を細めた。先ほど見た、どこか遠くを見るような目だった。

 

「俺の方が先にナツメさんのこと知ってんのに」

「……十年以上前、一度遠目に見ただけのくせにか」

 

 ナツメは氷室に一瞥をくれた。「ナツメさん、俺は」と何か言いかけた彼を無視して、再び歩き出す。

 氷室は、ナツメが知っている『中』の人間とは違う。その異質さを好ましいとも思う。だが、気を許すつもりもなかった。

『中』にいた頃、大半の人間はナツメを忌避していた。そうなって当然の振る舞いをしていたし、自らそれを望んでいた節もあった。

 それでもあえて寄ってくる人間に、ロクな奴などいなかった。仕事の依頼をする者。飼い慣らして手駒にしようとする者。そして、ナツメを殺そうとする者。

 氷室がそのどれかに当てはまると思っているわけではないが、過去の自分を知る『中』出身者に、そう易々と気を許せる道理もなかった。

 もう少しでアギトの元まで戻れる。そんな距離まできて、ナツメは周囲の視線がある一方に向けられていることに気づいた。ナツメの位置からでは、そこに何があるのかわからない。

 ざわざわとした喧噪に耳を傾け、情報を拾いながら歩を進める。「大久保だ」と囁く声があちこちから聞こえた。

 人垣をすり抜けて前へ出ると、そこだけぽっかりと空間が開けていた。その中心にアギトが立っている。彼の周りにだけ、見えない壁でもあるかのようだった。そしてそこへ続くように、人垣が割れて一本の道ができた。

 その道を、タキシード姿の大久保直也が歩いてくる。サングラスをかけていてその表情は判然としないが、頭には白い包帯が巻かれていた。

 足取りはしっかりしているので、怪我の方は大事なさそうに見えるが。はて、アギトに何の用だろう。

 ナツメは二人の様子がうかがえる場所で立ち止まった。氷室が隣に並ぶ。同じく見守る姿勢のようだった。

 そういえば氷室は、第十六仕合の時に反対側の入場口から大久保に声をかけていた。理人と雷庵の一件の時も一緒にいたから、きっと親しいのだろう。

 

「ようやっと見つけたで、アギトはん」

 

 大久保に声をかけられたアギトが振り向いた。

 

「食事中にすまんな。てか、アンタも飯食うんやな」

「当たり前だ。私も人間だからな」

 

 アギトが答え、体ごと大久保に向き直った。

 

「私に用か、大久保直也」

 

 早速本題へと切り込んだアギトに、大久保は口を閉ざした。おもむろに外されたサングラスの下から、硬く強張った表情が見える。

 五代目〝滅堂の牙〟と闘って、()()に済んだ人間はわずかだ。現役の闘技者でというのであれば、ナツメの知る限りではただ一人。古海製薬の若槻武士である。

 アギトの仕合が始まる直前、若槻はナツメにこう尋ねた。「個人的に興味のある闘技者はいないのか」と。

 ナツメは答えなかったが、別にいないわけではなかった。そのうちの一人が問うてきた本人だったから、なんと返せばいいかわからなかっただけだ。まさか「あなたですよ」とは言えなかった。

 加納アギトに敗北を喫して、今なお現役で闘技者を続けている男。拳願仕合の戦績でいえば、アギトの倍近くである三〇六勝をあげ、敗北数はわずか二回。それだけでも充分注目に値するが、何よりナツメの興味を引いたのはその異名だった。曰く、若槻武士は「生まれながらの怪物」である。

 ナツメは周囲に目を向けた。取り囲む群衆の中に若槻の姿は見えないが、どこかでこの状況を見ているかもしれない。大久保が自分たちのように乗り越えられるか否か。

 ふと、大久保が深く、長く息を吐いた。何かと葛藤していたその横顔から、緊張の色が消えた。

 

「今回は完敗や。正直、アンタに勝てるビジョンが浮かばへん」

「……今回は?」

 

 アギトが聞き返すと、大久保は大股で距離を詰めた。

 

「次は俺が勝つってことや。待っとれよワレ。ナオヤ・オオクボは更にパワーアップして帰ってくるで」

 

 大久保の顔には挑戦的な笑みが浮かんでいる。

 

「……そうか、お前も『克服』したか。いいだろう、いつでも挑んでこい。『頂点』で待っているぞ」

 

 アギトの表情は少し嬉しそうに見えた。大久保はここで潰れるには惜しい、とナツメも思っていた。なら、この結果は「最良」と評してもいいだろう。

 

「ところで、ゼットンとは何者だ?」

 

 アギトが大久保に尋ねている。そういえば仕合開始直前、大久保がアギトのことをそう呼んでいた。

 

「もしかして、ナツメさんも知らない?」

 

 氷室に顔を覗き込まれて、ナツメは一瞬だけ目を合わせた。そうしてすぐ、アギトたちの方へ視線を戻す。大久保が「まだ言うてんのかい!」と声を上げていた。

 

「……世情に疎い自覚はある」

 

 答え、ナツメはアギトたちの方へ向かった。会話に参加する気はなかったが、取ってきたドリンクをアギトに渡す必要があった。

「アギトさん」と声をかければ、彼はすぐに振り向いた。

 

「戻ったか。少し時間がかかったようだが?」

 

 氷室に絡まれたせいだ。とは言わず、ナツメは適当に「人が多くて」と返した。

 その横で、大久保が氷室に噛みついていた。「なんでお前がこの別嬪さんと一緒におんねん!」とかなんとか。氷室も氷室で、なぜか得意げな顔で「まあまあ」と応じている。

 ここに理人がいなくて良かった、とナツメは思った。昼間、三人が揃っていた時は正直相手をするのが面倒だったのだ。

 

「どうぞ」

 

 ナツメはアギトにグラスを差し出した。

 

「ああ。……これは何だ?」

 

 アギトは手にしたグラスに視線を落としている。

 

「果実系のカクテルです。炭酸は入っていませんから、大丈夫ですよ」

「え?」

 

 と、氷室が振り向いた。

 

「なんだ、アンタの分だったのか。つーか、炭酸飲めねえの?」

「む、誰だお前は?」

「闘技者の氷室だよ!」

 

 二人のやり取りを横目に、ナツメは皿の料理を口に運んだ。もうすっかり冷めてしまっていたが、味は悪くなかった。

 

「パスタ好きなん?」

 

 大久保は愛想の良い笑みを顔に貼り付けている。

 

「特別好きというわけではありません」

「せやったら、どんな食べもんが好きなん?」

 

 そんなもの聞いてどうするんだか。この手の輩は一切相手にしないに限る。が、

 

「そいつは肉料理が好物だ」

 

 ナツメが無視を決め込む前に、アギトが横から答えてしまった。

 

「自分には聞いてへんやろがい! なに横から親密アピールしとんねん!」

 

 アギトはきょとんとしている。なかなか貴重な姿だ。

 大久保はアギトに噛みついてすぐ、ころっと表情を変えてナツメに笑いかけた。

 

「ええやん、がっつりいっぱい食べる子って好きやわあ。俺な、これでも結構な業界人やねん。それで肉料理のめっちゃうまい店とかも知っとるんやけど」

 

 まったく、どいつもこいつも。ナツメはうんざりして、返事はせずに料理を口に押し込んだ。

 この手合いとサーパインなら、まだサーパインの方がマシだろう。そんなことを考えたのがいけなかった。

 

「ガオラーン! 金田末吉ぃー!!」

 

 突如響いた雄叫びに、ナツメは危うく噎せてしまうところだった。

 声のした方に顔を向けたら、思いの外近くにガオランと金田末吉の姿がある。その後ろから、サーパインが二人を抱え込むように肩に腕を回していた。

 

「いい仕合だったぜ! 感動したぜーっ!」

 

 金田は驚いた顔をしているし、ガオランは迷惑そうにしている。

 その後ろから、鞘香が歩いてくるのが見えた。しまった、とナツメが思った時には、すでに鞘香としっかり目が合っていた。

 笑顔でひらひらと手を振られては、さすがに無視などできない。ナツメは通りかかったウェイターからドリンクを受け取り、こぼれそうになった嘆息ごと一気に飲み干した。

 炭酸が入っている。スパークリングワイン、というのだったか。

 

「ナツメー!!」

 

 サーパインが呼んでいる。この距離で、そんな大声を出さなくたっていいだろ。

 

「ナツメさん、呼ばれてるぜ」

「なんやねん、俺が話しとる最中やっちゅうに」

 

 ナツメは皿とグラスをテーブルに置いた。

 

「アギトさん、ちょっと行ってきます」

「ああ、構わん」

「あと、さっきのウェイターが持ってたドリンクは飲んだらダメですよ。炭酸が入ってますから」

 

 母親かい、という大久保のツッコミを無視して、ナツメはサーパインたちのもとに向かった。

 

「ナツメ! 待たせて悪かったな! 改めて俺のダチを紹介するぜーっ!」

 

 別に待ってない、と胸中で呟いて、ナツメはガオランと目を合わせた。相変わらずのポーカーフェイスである。つくづく、この男とサーパインが友人だというのが不思議だった。

 

「ガオランと、金田末吉だ!」

「ええっ、私も!?」

 

 金田が声を上げた。二人に面識があったのかどうかは知らないが、少なくともサーパインの中では、金田はすでに〝ダチ〟であるらしい。

 

「ガオランッ、末吉! こっちはナツメだ! ナツメは護衛者で、俺のダチだぜっ!」

 

 サーパインにとって〝ダチ〟の基準は何なのだろう。一言でも言葉を交わせばもう〝ダチ〟なのだろうか。

 疑問を抱くものの、ナツメはそれを口に出したりはしなかった。サーパインの発言機会をわざわざ増やすつもりはない。

 それにしても、紹介の仕方が雑すぎやしないか、とナツメは思った。お互い、相手が何者であるかは分かっているので、これで充分と言えば充分なのだろうが。

 呆れと諦めでため息がこぼれた。そしてそれはガオランも同じだった。ほぼ同時に息を吐いたガオランと、ナツメはもう一度目を合わせた。途端、彼に対して何かシンパシーのようなものを感じた。ガオランもまた、そうだったのかもしれない。

 

「伏野ナツメです」

 

 と、ナツメが改めて自己紹介をすれば、

 

「ガオラン・ウォンサワットだ」

 

 と、彼もすぐに応じた。

 

「サーパインが騒がしくしてすまない。貴方(きほう)にも都合というものがあるだろうに」

「いえ、こうなることは分かっていましたので」

「だが、あちらを離れて良かったのか?」

 

 ガオランがちらりとアギトたちの方を見る。彼らは彼らで話が弾んでいるようだった。

 

「問題ありません」

「それならば良いのだが」

 

 ガオランは表情こそほとんど変わらないものの、まだ何か引っかかっている様子だ。

 

「あちらが気になりますか?」

「……彼らとの会話を邪魔してしまったようだったのでな」

「いえ、こちらとしてはむしろ助かったくらいです」

 

 ナツメはもう一度アギトたちの方を見た。どうやら「ゼットン」について話しているらしい。少し気になるが、あちらに戻るつもりはなかった。

 

「あの手合いの相手は面倒なので」

 

 ナツメがガオランの方に視線を戻せば、彼は少し怪訝そうな顔をしていた。その隣で金田が苦笑いを浮かべている。

 

「ああ、またですか。本当にあの人たちは……。重ね重ね申し訳ありません」

「あなたが謝ることではありません」

「それはそうかもしれませんが、私もあなたにご迷惑をおかけしてしまいましたし、それも含めて謝らせてください」

 

 なぜ、と疑問が頭に浮かんだ。そもそも金田に迷惑をかけられた覚えもない。

 

「貴殿らは面識が?」

「ええ、少しいろいろありまして」

 

 金田は笑っている。

 おかしな男だ、とナツメは思った。『外』の人間で、これといって際立つものもない。いい奴そうではあるが、それだけだ。氷室に勝ったことや、ガオランとの仕合を加味したとて、通常ならナツメの印象に残る存在ではない。

 だが、どうにも気になる。なぜか適当にあしらうことが躊躇われる。こうして彼の顔を見ていると……。

 

「えっと、なんでしょう?」

 

 金田が困惑気味に笑った。

 

「いや、別に――」

 

 そうだ、凛に似ているのだ。目元とかが特に。

 だから何だという話である。知人に似てるというだけで絆されているとでも? ナツメは自分自身に呆れてしまった。

 

「……いえ、何でもありません」

 

 金田は一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。

 

「私なんかにそんなかしこまった対応する必要はありませんよ。どうぞ楽にしてください。それに、その方が私も変に緊張せずに済みますから」

「そうだぜ、ナツメ! ダチ相手に他人行儀なんて水臭いぜ!!」

「サーパイン、お前はもう少し静かにできないのか」

 

 サーパインが吠え、ガオランが苦言を呈する。

 

「ダチになった覚えはない」という言葉を飲み込み、ナツメは代わりにため息を吐き出した。言ったところでサーパインは「今からダチだ!」とか何とか叫ぶに決まっている。

 そして、そんなサーパインの後ろで鞘香がニコニコと笑っているのを見て、ナツメはやはり何も言えずにこの状況を甘受するのである。

 ナツメはこれを「諦念」だと思っていた。実際そうなのだろうが、それだけではないということにも薄々気づいていた。自分は存外、この状況を悪くないと思っているのだろう、と。不満はあるが、不快さは微塵も感じていないのだから。

 ならばやはり、今はこのままでいい。この雰囲気をわざわざ壊す必要はない。

 ――ああ、変わったな、私は。

 ナツメは不意に実感した。同時に、「腑抜けた」という雷庵や黒使の言葉を思い出した。

 そうかもしれない。あの居眠りなんてひどいものだ。もしかすると、あの間に殺されていたかもしれないのに。『中』にいた頃なら到底ありえない失態だろう。

 人と関わるというのは、こんなにも疲れるものなのか。

 参ったな、とナツメは自嘲した。弱みになると知っていたのに。でも、こうしていられるのもこれが最後かもしれない。

 そんな思考が頭をもたげた瞬間、目の前で談笑している彼らがすっと遠くなったような気がして、ナツメはゆっくりと瞬いた。勿論、彼らは変わらず手を伸ばせば届く距離にいる。すべては自分の気の持ちよう。ナツメはもう一度、参ったなと胸中でこぼした。

 

「あっ、烈くん!」

 

 鞘香の声がナツメの意識を引き戻した。いつの間にか、白いワイシャツ姿の烈堂が鞘香の隣に立っていた。「SB」の腕章がついた彼のジャケットは、鞘香が肩に羽織っている。

 

「姉ちゃん、ちょっと肌出し過ぎじゃねー?」

 

 烈堂が言った。

 

「いや、姉ちゃんの自由だけどさ……。ほら、その……冷えると体に悪いからさ」

 

 言葉は鞘香に向けられているのに、その視線は外方を向いていた。

 

「烈堂ー!!」

 

 烈堂に気づいたサーパインが早速吠えている。この状況を受け入れたとはいえ、うるさいものはうるさい。ナツメは鞘香と烈堂から離れ、ガオランと金田の方に少し体を寄せた。

 ガオランがちらりと視線を寄越した。ガオランの瞳は小さく、三白眼で、お世辞にも良い目つきとは言えないが、その視線に不快なところはない。同情か共感か、心中察するとでもいうような目と目を合わせ、ナツメはほんの少し苦笑を刻んでみせた。

 ガオランは驚いたように目を丸くしたが、だからといって何か言ってくることはなかった。

 

「あの方は?」

 

 金田が烈堂を見た。

 

「片原烈堂。片原会長の子息だ。鞘香嬢の弟でもある。以前、サーパインに紹介された」

 

 気を取り直して答えるガオランの声を聞きながら、ナツメは改めて烈堂に目を向けた。彼はきっと、仕事を終えてから真っ直ぐここまで来たのだろう。殲滅部隊の隊長も、姉の前では形無しだ。

 ナツメは会場に設置されている大型スクリーンに目を向けた。

 

「……そろそろか?」

 

 烈堂の声に、ナツメは視線を動かさずに頷いた。

 

「お前たちが合流したのなら、おそらく」

「どうしたの? 何かあるの?」

 

 と、鞘香が疑問の声を上げた。

 

「いや、なんか親父が大会の『追加ルール』を発表するって」

 

 騒いでいたサーパインがぴたりと止まった。ガオランと金田も同様だ。彼らにとっては寝耳に水、というやつだろう。

 そしてタイミングを見計らったかのように、しゃがれた陽気な声が会場に響き、スクリーンに御前のバストアップが映し出された。

 

『はろー、皆の衆。楽しんどるかの?』

 

 会場中の視線がスクリーンに釘づけられる。ナツメは逆に視線を外して、棒立ちになる人の群れ群れに目を向けた。

 会場にいる他の護衛者たちも、耳では御前の声を聞きながら、視線は警戒のために周囲へと向けられている。

 

『大会初日お疲れさん。突然じゃが、ここで追加ルールを発表するぞい』

 

 会場が大きくざわめいた。不思議そうな顔、不安そうな顔、険しい顔。反応はさまざまだ。

 その中で、ナツメはふと何者かの視線を感じ取った。敵意や殺気は含んでいない、だが、明確な意思と目的を持って己を見つめる何者かの視線。

 

『なお、この放送は島内全域で放送しておるぞい。ぱーちーに参加してない連中と情報格差ができては〝あんふぇあ〟じゃからの』

 

 スクリーンを見上げる何重もの人垣の奥、わずかな隙間の向こう側に桐生刹那の姿が見えた。視線が交わったのはほんの一瞬で、桐生は闘技場でも見せたあの好意的な笑みを残してすぐにその場を離れた。

 

『それじゃあ発表するぞい』

 

 ――誘われている。罠か? いや……。

 

「追うなよ」

 

 耳元で烈堂が囁いた。ナツメは彼に横目を向けたが、視線は交わらなかった。人垣に向けられたその横顔は、前髪で目元が隠れて表情もよくわからない。

 

「……話をするだけだ。たぶん、向こうもそのつもりだ」

「今お前が抜けたら、姉貴が心配する」

 

 ナツメは鞘香に目を向けた。鞘香はスクリーンを見上げていて、こちらの会話や視線には気づいていない。

 

「それはいやだって言ってなかったか?」

「……言った。けど」

『二回戦以降、一度だけ闘技者の変更を認めるぞい。人選は、本人の合意さえあれば一切自由じゃ』

「私は、鞘香を最優先はしてやれない」

 

 そこでようやく、烈堂と目が合った。

 

「烈、お前が傍にいてやればいい」

『闘技者変更は仕合直前まで許可するから、よーく考えるとええぞい。発表は以上じゃ。じゃあのー』

 

 スクリーンの電源が落とされて黒一色に染まると、堰を切ったように会場中が騒がしくなった。

 

「これはまた、とんでもないルールを……」

 

 金田が言った。その顔には強張った笑みが浮かんでいる。ガオランは腕を組み、何か言おうと口を開いたが、サーパインの「相手が誰だろうと勝つ!」という大声に、言葉ではなくため息を吐き出した。

 鞘香もスクリーンから目を離して、くるりと後ろを振り向いた。それからナツメと烈堂を見て、

 

「二人とも、どうかしたの?」

 

 と、首を傾げた。

 

「いや」

「悪い、姉ちゃん」

 

 何でもないと誤魔化そうとしたナツメの声を遮り、烈堂が言った。

 

「ちょっとこいつと仕事の話があるの忘れてた」

 

 烈堂が目配せする。ナツメを内心で肩を竦めつつも、彼に合わせて会話を続けた。

 

「昼間の件か?」

「ああ、いくつか追加の報告がある。時間はそうかからないが、ここでする話でもねえからな」

 

 訝しげなガオランたちを視界に入れ、ナツメは頷いた。

 

「鞘香、悪いけど少し離れる」

「私は大丈夫だよー」

「姉ちゃん、終わったらすぐ戻ってくるから」

「うん、ここで待ってるね」

 

 烈堂がサーパインたちに威嚇の目を向け、それから踵を返して歩き出した。

 だから傍にいてやれと言ってるのに。ナツメは心の中でこぼして、烈堂の背を追った。

 

 



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20 吐露

 パーティー会場を出たナツメと烈堂は、お互い何も喋らずに足を進めた。

 通路には、そこかしこで顔を突き合せる人々がいる。談笑、という雰囲気ではない者たちも少なくなかったが、『拳願会』がどんな集まりなのかを考えれば、彼らの話題は推して知るべしというものだ。

 ナツメは軽く聞き耳を立てる程度にとどめ、視線を外へと伸ばした。滅堂ホールは全面ガラス張りの構造で、通路からは島の夜景が見渡せた。

 といっても、ここから見えるものの大半は、夜の闇に沈んだ森の木々だった。遠くにホテルの灯りが見えるが、絶景と呼べるものではない。上空に広がる満天の星は、東京ではなかなかお目にかかれないものだったが、ナツメの気を引くものでもなかった。

 あの男は、この森のどこかに潜んでいるのだろうか。そう考えれば、空なんて見上げている余裕はなかった。

 

「それで?」

 

 ひと気が消えた通路の隅で、ようやく烈堂が口を開いた。

 

「何があった?」

「何って?」

「とぼけるなよ」

 

 烈堂が煙草に火をつけた。

 

「わかりやすいんだよ、お前」

 

 煙と共に吐き出された言葉に、ナツメは苦笑した。

 今まで、そんな指摘を受けたことはない。自分でも「何でもないふり」は得意だと思っていた。だが、おそらく烈堂の言う通りなのだろう。ここ数日の周囲の反応を見る限り、ナツメはその指摘を否定できなかった。

 

「何でもないんだ」

「お前の『何でもない』以上に信用できないもんもねえな」

 

 ナツメはさらに眉を下げた。そんなナツメを一瞥して、烈堂はもう一度「何があった」と繰り返した。

 

「……思い出しただけだ」

 

 ナツメは観念して、烈堂の目を見返した。

 

「何を」

「明日も生きてる保障なんて、どこにも、誰にもないってこと」

 

 烈堂は無言のまま、真意を問うような目でナツメを見据えている。そうして正面から視線を合わせて数秒、先に目をそらしたのは烈堂だった。

 

「そんなこと、今更だろ」

「そうだな。なんで忘れてたのか、自分でも不思議なくらいだ」

「まあ、『中』に比べりゃ、ここでの生活はぬるいんだろうけどよ」

 

 烈堂は深く吸った煙を少し上に向けて吐き出した。

 

「で、それを思い出したきっかけは? あいつらのせいか?」

「あいつら?」

「十鬼蛇王馬、桐生刹那、あと……氷室涼、だったか。全員『中』出身らしいじゃねえか」

 

 燻る紫煙の向こうから、烈堂が視線を寄越す。

 

「同郷の連中と会って『中』が恋しくなったか?」

 

 ナツメは「まさか」と自嘲めいて笑った。

 

「何があっても恋しいと思えるような場所じゃない。あいつらと会って、いろいろ思い出したことはあるけど、それとこれとはまた別だ。あいつらは関係ない」

「桐生と話があるっていうのは?」

「確かめたいことがあるだけだ」

「十鬼蛇絡みじゃないのか」

 

 ナツメはわずかに口ごもった。それを動揺と見たのか、烈堂は「それくらいの調べはついてる」と言った。

 

「お前と十鬼蛇の間で何があったかなんて聞くつもりはなかったが、桐生が関わってるとなると話は別だ。あいつは淀江たちを襲ってる。野放しにする気はねえよ」

 

 至極当然の対応だ。ナツメは納得したと同時に後ろめたい感情を抱いた。

 桐生は野放しにすべきではない。ナツメもそう思っていた。だがそれは、桐生が『中』出身の箍が外れた人間だからであり、淀江と日吉津が襲われたこと自体は考慮に入っていなかった。

 護衛者の仲間があんな仕打ちを受けたというのに、憤りもなければ、襲撃の理由を桐生に問い質すという思考もなかった。そして、王馬のことも。

 

「王馬は関係なくはないけど、本題じゃない。あいつのことはもういいんだ」

「もういい?」

 

 烈堂は怪訝そうな顔をして、煙草の灰を落とした。

 

「話せたのか?」

「いいや、まともに話せなかった」

「だったらなぜ?」

 

 再三の問いに、ナツメは「別に」と返そうとしたが、

 

「すぐに黙るのはお前の悪い癖だって、三朝に言われてなかったか?」

 

 と、先手を取られてしまった。

 

「……話してどうにかなることじゃない」

「話すこと自体は問題ねえわけだな」

 

 そうやって揚げ足を取るところは三朝と同じだ。師弟関係にあると、性格もどこか似てくるのだろうか。

 ナツメは諦めと共に口を開いた。

 

「……あいつに関わらない方がいいってわかったんだ。私は――」

 

 そこで言葉が喉に詰まった。改めて大きく息を吸い、吐き出す。

 

「いつか、あいつを殺してしまうと思う」

 

 短くなった煙草を消そうとしていた烈堂が止まった。向けられた目と目を合わせず、ナツメはガラス越しの暗い森に視線を逃がした。

 

「私は、あいつを傷つけることに躊躇いがなさすぎる。今は実力の差がはっきりしてるからいいけど、この差が埋まってきて、それであいつと闘うことになったら……たぶん、間違えると思う。だから、あいつのことはもういいんだ。私にはどうにもできない」

 

 そう吐露したあと、ナツメと烈堂の間に沈黙が流れた。この空気に不釣り合いな緩やかな音楽が、どこからか聞こえている。

 おそらくは数秒だった短く長い沈黙を、ライターの着火音が終わらせた。視界の端で灯った火に、ナツメは視線を動かした。

 

「お前がそう思うなら、そうすりゃいいさ。お前が決めたことにあれこれ口を出すつもりはねえ」

 

 二本目の煙草に火をつけて、烈堂はひと呼吸置いた。

 

「ただ、俺が知ってるお前は、そんな間違いを起こすような奴じゃねえよ」

「……どうだろうな。お前は『中』にいた頃の私を知らないだろ」

「知る必要がねえな。俺は今のお前のことを話してる。『中』にいた頃のお前なんて関係ねえよ」

 

 ナツメは目を瞬かせた。烈堂が「そんな驚くことか」と煙草を咥えた口元に笑みをのせた。少し呆れたような、まったくしょうがねえなとでも言うような。

 だが、その口から煙が細く吐き出された時には、もういつもの精悍な表情に戻っていた。そうして、

 

「ナツメ」

 

 と改めて呼んだ声はいつになく重苦しかった。

 

「お前、『中』に未練でもあるんじゃねえのか」

 

 ――未練。胸中で反復して、ナツメは確かにそうだと思った。そんなふうに考えたことはなかったが、確かにこれは未練だろう。或いは遺恨。もしくは、執着。

 三年前に捨てたつもりだったが、実際は身のうちの奥深くにしまい込んでいただけだった。

 

「お前が『中』を出て三年だ。いくら生まれ育った場所とはいえ、お前は『中』にこだわり過ぎてる。そうなる理由があるんじゃねえのか? お前がなんで『中』を出たのか、俺は詳しく知ってるわけじゃねえが……。〝『蟲』に殺されかけたところを呉一族に助けられた〟んだとしても、そのまま保護を求めるようなたちじゃねえだろ」

 

 そういえば、そういうことにしたんだったか。別に嘘ではないが、事実はもっと複雑だ。

 そして、その〝事実〟を打ち明けるには、自分と、自分の一族と、呉一族の関係を説明する必要がある。そのことが、ナツメの口を重くさせた。

 

「『中』を出たのは、本当にお前の意思だったのか?」

 

 押し黙ったナツメを、烈堂が一瞥した。

 

「そのだんまりは、言いたくねえのか、それとも呉一族が絡んでるから言えねえのか。どっちだ?」

「……どっちも、だな」

 

 ナツメは深く、長く息を吐いた。

 

「でも、言いたくない、の方が本音だ」

 

 その言葉に、烈堂が目を丸くした。

 

「どうした。いつものお前なら、その本音は隠してただろ」

「そうかな? 私はいつもこんなもんだろう?」

「本気でそう思ってんなら、俺とお前で認識の差が随分あるようだな」

 

 ナツメは笑ってみせたが、烈堂は無表情で煙草の煙を燻らせるだけだった。

 

「どうにせよ、今回はさすがに静観してやれる状況じゃねえ。あんま姉貴を待たせたくもねえし、諦めてさっさと吐いちまえよ」

「……簡単に言ってくれるな。御前にも話したことがないんだぞ」

「そりゃ好都合だ」

 

 そう言って、烈堂は口元に微かな笑みを浮かべた。

 

「お前を殲滅部隊に引き抜くいいネタになりそうだ」

「……それ、まだ言ってるのか」

「お前が望んでる裏方仕事だ。こっちの方が存分にお前の能力を発揮できるだろうぜ。それに、親父の護衛より自由が利く。今のお前には、その方が都合がいいじゃねえのか?」

 

 烈堂はもう笑っていなかった。煙草の灰を落とし、鋭い目をナツメに向ける。真っ直ぐ見据えるその目の中に、ナツメは御前の影を見た。

 蛙の子は蛙……いや、これはいい意味ではないんだったか。なら、血は争えない、だろうか。

 ナツメはそんなことを考えた。そうして思い浮かんだ言葉が心臓に突き刺さって、少し息が詰まった。

 

「さっき、姉貴を最優先できねえって言ったな。あれは、親父の護衛だからって意味でもねえんだろ」

「……ああ」

 

 もはや誤魔化し一つ思いつかない。肯定と諦念と嘆息が綯い交ぜになって、ナツメの口からこぼれ落ちた。

 

「そうだ。どうしてもやらなきゃいけないことができた」

「お前が『中』を出た理由と関係があるのか?」

「ある。けど、ちょっと待ってくれ」

 

 ナツメは目を閉じて俯いた。

 

「言っただろ、誰にも話したことがないんだ。一体何から説明すればいいのか……」

「……詳しく話す必要はねえよ」

 

 と、烈堂が言った。

 

「お前が何をしようとしてて、何が相手なのか。お前の敵が何なのか。それだけでいい。理由なんて聞いてもしかたねえからな。それを聞いて俺たちがどう思ったところで、お前にとっては〝死ぬ覚悟〟してまで臨むほどのことなんだろうからよ」

 

 ナツメは驚いて顔を上げた。言葉も出ず、ただ目を見開いて凝視するしかなかったナツメに対して、烈堂は何食わぬ顔で、

 

「明日も生きてる保証はねえなんて急に言い出せば、そりゃわかるだろ」

 

 と言った。そう指摘されれば、確かにその通りだと納得するしかなかった。

 情けないのか、恥ずかしいのか。自分でも良くわからずにナツメは目をそらした。

 

「そこまで覚悟決まってんなら、俺たちが何言おうが聞きゃしねえだろ。だから、止めはしねえよ。俺はな。鷹山辺りは黙ってねえだろうから、殲滅部隊の支援って名目にしといてやる。ただし、何かあればすべて俺に報告しろ」

 

 烈堂はそこでひと呼吸置いてた。

 

「勝手に死なれちゃ困るからな。こっちはまだ、お前から教わるもんが残ってんだ」

「……三朝がいるだろ」

 

 三朝は『シラット』という武術の使い手だ。彼を師としている烈堂も当然の流れでシラットを流儀としている。ただ、徒手での闘い方を極めた三朝とは違い、烈堂はシラットにおける武器術を積極的に取り入れていた。

 ナツメが愛用しているカランビットナイフは、シラットでは主要武器の一つだった。ナツメ自身、カランビットナイフを扱う術としてシラットの動きを体得している。

 そんなナツメが烈堂の武器術の師として彼を指導することになったのは、何らおかしな流れではなかった。ただし、ナツメの心情を除いては。

 

「武器術に関しちゃお前以上はいねえよ」

 

 そう評されるのはやぶさかではなかった。だが、ナツメにとってあの得物は、ただ一人の男を殺すためだけに選んだ凶刃だった。それを人に教えるなんて、正気の沙汰ではない。武器も、それを扱う技術も、すべては使い方次第だと理解してはいるが。

 だから、最初に烈堂から話を持ちかけられた時、ナツメはすぐさま断った。烈堂は諦めなかったが、ナツメも折れなかった。それでも結局、彼の申し出を受けてしまったのは――

 

「私がお前に教えられることはもうないよ。お前なら〝滅堂の牙〟にだってなれる」

「俺には向いてねえよ。それになる気もねえ。お前には言ったはずだがな」

 

 そうだった。自分が最終的に折れてしまったわけ。ナツメはそれを思い出し、内心苦く笑った。

 烈堂の武術の才は本物だ。将来は加納アギトにも並ぶだろう、と思えるほどに。だから、大半の護衛者がそうであるように、烈堂も〝滅堂の牙〟を目指すものだとナツメは思っていた。

 

『お前の才能なら〝滅堂の牙〟にもなれるんだから、武器術より徒手を極めることを優先した方がいいんじゃないのか』

 

 ナツメが問えば、烈堂は逡巡してからこう言った。

 

『そういう〝強さ〟にはあまり興味がねえ。俺の目標は親父を超えることだからな』

 

 あの時、烈堂の目に宿っていた鋭く真っ直ぐな光に、ナツメは衝撃を受けたのだった。

 父と子という存在が、こんなにも自分とはかけ離れた関係性を築いていることに、心の底から驚いた。いっそ、妬ましさすら覚えるほどに、だ。

 以来、烈堂と鍛錬を行うようになったナツメだが、それがきっかけで三朝たち殲滅部隊の面々とも交流を持つようになった。部隊へ勧誘されるようになったのも、その頃からだったと記憶している。

 

「……覚えてるよ」

 

 ナツメが答えると、烈堂はちらりと横目を向けてから「まあ、いいさ」と言った。

 

「今その話は関係ねえしな」

 

 二本目の煙草をねじり消して、ポケットに手を入れながら烈堂が続ける。

 

「とにかく、報告は徹底しろ。お前がどこで何してんのか、それが把握できてねえとカバーのしようがねえからな。万が一に備えて、俺たちが」

「烈堂」

 

 煙草の箱を取り出した烈堂の手を、ナツメは掴んだ。烈堂の険を含んだ目がナツメを見る。その先を口にするな、とでも言うような目だったが、ナツメは構わなかった。

 

「必要ない。私一人でやる」

「……相手は『蟲』なんじゃねえのか? お前一人でどうにかなるとでも」

「父親」

「――は?」

 

 掴んだ手がぴくりと跳ね、烈堂の目が驚きに見開かれた。初めて見る表情だな。そんなことを考えながら、ナツメは言葉を続けた。

 

「相手は私の父親だ。ただの親子喧嘩だよ。お前らが首を突っ込むことじゃない」

 

 あの男を「父親」だと言うのはこの上なく不快だった。

 ナツメはあれを父だと思ったことはない。あれは、一度だってナツメの名前を呼んだことがないどころか、まともに目が合ったことすらなかった。三年前のあの時まで、二十五年間一度もだ。

 だが、烈堂を納得させるにはこう言うしかなかった。これくらい言わないと、烈堂は引き下がらない。

 

「……三年前、お前が殺されかけた相手ってのは」

 

 烈堂の声は問う、という感じではなかった。確認のために聞いてはいるが、すでに答えは分かっているのだろう。

 ナツメは「ああ」と頷いた。

 

「三年前、あいつと戦って……お互いに殺し損ねた」

 

 自分でそう口にして、再認識した事実がナツメの心臓を叩いた。そうだ、殺し損ねたのだ。本当なら、ホリスが奴を殺しているはずだったのに。

 私があいつを殺せなかった時には、お前が。そういう条件で、ナツメとホリスは手を組んだ。その条件が満たされた時には、ナツメはおそらく死んでいるだろうが、それはお互い承知済みだったし、ホリスにとっては寧ろ好都合だったはずだ。あの男とナツメが死ねば、何百年と続いた因縁も断ち切られるのだから。

 なのに、なぜかナツメは未だに生きていて、あの男も生きてこの島にいる。

 なぜ? なんて、白々しい。全部わかっていたくせに。わかっていて、知らないふりを続けていたくせに。あの男さえ現れなければ、このままホリスの嘘に気づかぬふりで、のうのうと生きていたくせに。

 今さら被害者面か? そんな雷庵の声が聞こえてきそうだった。

 ナツメは深く息を吐いた。そうやって感情を腹の底に沈めて、掴んだままだった烈堂の手を離した。

 

「それで、そこに居合わせたホリスに助けられたんだ」

 

 その時ナツメは意識がなかったから、ホリスとあの男の間で何があって、ホリスにどんな心境の変化が起きたのかは知る由もない。どうであっても、ナツメにとってホリスが命の恩人であることに違いなかった。今でも、ホリスは何かと気にかけてくれている。

 そんな相手に対して、随分と酷い態度を取ってしまった、という自覚があった。謝らなければ。そう思いはするが、果たしてそんなタイミングがあるだろうか。

 パーティー会場に、ホリスの姿はなかった。怜一も堀雄も、雷庵もいなかった。

 まさかあの男を探しに出ているなんてことは……。考えられなくはないが、ナツメにはそれを知る術がない。問い質したところで、正直に答えてはくれないだろう。ナツメがどれだけ「手を出すな」と言っても、あの男が呉一族にとっても排除すべき存在である以上、その訴えを聞き入れてもらえるとは思えなかった。

 あの男の方から姿を現すのを待てばいいと思ったが、やはりこちらから動くべきかもしれないな。

 そんなことを考えながら、ナツメは窓に目を向けた。その先の景色を見たつもりだったが、ガラスに反射した自分自身と目が合ってしまった。

 確かに、世辞にも良いとはいえない目付きをしている。これだけ据わった目をしていれば、睨んでいるように見えて当然か。

 

「お前が言ってることに嘘がないとすれば」

 

 ガラスに映った烈堂が、煙草をポケットに戻した。

 

「お前の父親は『蟲』だってことになるな。だとしたら、お前が奴らと敵対してたのも納得できるが、〝親子喧嘩〟で済ますには事が大きすぎるだろ。相手は『蟲』で、お前には『呉一族』がついてる。一歩間違えりゃ戦争だぞ」

 

 烈堂の鋭い視線を受け、ナツメは一つ瞬いた。

 

「そんなことにはならないよ」

 

 言いながら振り向き、烈堂と直接目を合わせる。

 

「『呉一族』は私の味方じゃないからな」

「あいつらとあれだけ良好な関係を築いておいてか? はたから見てても、お前はあいつらに随分と大事にされてる。お前に何かあったら、それこそ〝大事(おおごと)〟になりそうなくらいにな」

 

 ナツメは再び「まさか」と笑った。

 

「ありえないな。ほんの数人が友好的だからって『呉一族』自体がそうなわけじゃないんだ。個々の感情より、全体の利益や安全を優先する。組織ってのはそういうものだろう?」

「だが、仲間がやられたってのに何の報復もなしじゃ、不満が募るし面目も保てない。最悪の場合、内部分裂にもなりかねねえ」

「言っただろ、仲間じゃない。私は『呉一族』じゃないんだ」

 

 しかし、そうやって否定しておきながら、頭の隅では「自分があの男の手にかかって死んだら」とナツメは考えた。

 そうなったら、ホリスや怜一は怒ってくれるのだろう。カルラも悲しんでくれるはずだ。雷庵がどんな反応を示すかはわからないが。

 それを嬉しい、と思う自分は愚かだ。己に向けられた好意が、ある日突然奪われる衝撃と痛みと恐怖を、良く知っているはずなのに。

 

「もし私に何かあっても、それは勝手なことをした自分の責任だから、尻拭いも報復もいらない。『呉一族』がそのために動くことはないし、お前らもそうしてほしい。何があっても、手を出さないでくれ」

 

 ナツメにとって、それはもはや懇願だった。烈堂はスラックスのポケットに手を入れたまま、ナツメを睨むように見据えている。

 

「自分が何を言ってるのか、わかってるんだろうな?」

「ああ、私のことは捨ててくれ、と言ってる」

 

 結局皆まで言って、ナツメは烈堂の視線を受けたまま笑った。

 

「悪いな、烈。私は自分が大事なんだよ」

「自分が大事な奴は『見捨ててくれ』なんて言わねえよ」

 

 それもそうだ。しかし、ナツメは自分の身が大事なわけではない。それをどう説明したらいいか。

 正直に言ってしまえばいいのはわかっていたが、そのためには自分の傷を一度抉る必要がある。だからこそ言い淀むナツメを、烈堂はただじっと待っていた。

 

「……それは、自分の何を守りたいかによるだろう?」

 

 ナツメは目を伏せた。

 

「お前らにもしものことがあったら、私は自分を殺したくなる。心臓を抉り出したくなる感覚なんて、お前にはわからないだろうけど、あれは本当に酷いんだ。あんな思いは二度としたくない。だから、邪魔しないでくれ」

 

 心配してくれている相手に、邪魔をするな、か。つくづく最低だな。と、自分を詰る声がした。最初から『中』を出なければ良かったんだ。そんな誘いに乗るべきじゃなかった。三年前も、五年前も。すべてお前の選択が招いた結果じゃないか。

 ナツメはきつく目を閉じて、頭の中で罵倒を続ける声を無理矢理遮断した。

 顔を上げれば、烈堂は眉をひそめて黙っている。何か言いたげだが、それを口にすることを躊躇っているようにも見えた。

 

「なあ、そろそろ戻らないか?」

 

 ここぞとばかりに提案して、ナツメは烈堂と真っ直ぐに目を合わせた。

 

「鞘香が心配する。そうだろ?」

 

 烈堂は目を眇めた。文句の一つでも飛んでくるかと思ったが、その口から出てきたのは「戻る気があったのか」というため息混じりの言葉だった。

 

「このまま抜けるつもりでいると思ってたぜ」

 

 そう言って烈堂が背を向けた。ナツメもすぐにあとを追い、ここまで来た道を戻り始めた。

 

「ああいう場は嫌いだろ?」

「好きではないな。けど、鞘香に戻ると言った手前、逃げ出すわけにもいかないだろ」

「今は姉貴を優先してくれんのか、そりゃ助かるな」

 

 いくらナツメでも、これが皮肉だということはわかった。ただ、言われても当然だったので、

 

「最優先はできないけど、できる限りはする」

 

 と言うだけにとどめた。烈堂は一瞬押し黙り、それから再びため息を吐いた。

 

「姉貴にあんま心配かけんなよ」

「努力する」

「お前以外に姉貴の護衛を任せられる奴もいねえんだ」

「女の護衛者を増やしてみたらどうだ?」

「お前レベルがそうそういてたまるかよ」

 

 呉一族の中にはいそうだが。それこそカルラ辺りなら。ナツメは右手に視線を落とした。

 あの子の『外し』は八十五パーセントだったか。たった十六歳で八十五パーセント。ナツメは二十五年かけてもそこには至れなかった。仮に解放できたとしても、どうせ身体が保たない。身の程、というやつをナツメは充分理解していた。

 いくら『バケモノ』呼ばわりされようが、本当の『バケモノ』は他にいくらでもいる。なら、他で補うしかない。身体能力で勝てないのなら、より多くの経験と、より深い研鑽を。

 あらゆる武術、あらゆる武器の使い手と戦って、心身共に極限の状態まで追い込んで。『中』の利点といえば、そういった経験を積むことには事欠かない環境だったくらいか。

『中』が自分を育て、強くした。そう考えれば、少しくらいの愛着は――いや、ないな。

 ナツメは手を開いて体の横に下げた。その動きを、いつの間にか隣に並んだ烈堂が目だけで追っていた。

 

「なんだ?」

「いいや、なんでもねえ」

「わざわざ歩調まで合わせておいてか?」

「なら、何考えてたのか聞けば答えるのか?」

 

 責める、とまではいかないが、棘のある声と視線が返ってきた。そう言われてもしかたのない言動をしてきた自覚があり、ナツメはばつが悪くなって、

 

「『中』にいた頃のことをちょっと思い出しただけだ」

 

 と答えた。

 

「私の武術のほとんどは『中』で身につけたものだから。『中』を探せばいい人材が見つかるかもしれない」

「……めぼしい奴でも知ってるのか?」

 

 ほんの一瞬、烈堂が口を開くまで間があった。突然素直になるものだから、訝しく思ったのだろう。それでも、何事もなかったように会話を続けてくれることがありがたかった。

 

「私の知り合いにロクなのはいないよ。『中』じゃ、自分本位なくらいじゃないと生きてけないからな。他人なんか気にしてたら、すぐに足を掬われる。そういう、人がいい奴はみんな死んだよ」

 

 自分で言っておきながら、被害者ぶった心臓が痛みを訴え出すので、ナツメはその滑稽さに何度目かわからない自嘲の笑みをこぼした。

 

「他の奴も」

 

 と、痛みと笑みを誤魔化して言葉を続ける。

 

「どこで何してるか、まだ生きてるのかもわからないしな」

「意外だな。お前に知り合いがそんなにいるとは思わなかった」

「別に多くはないぞ。仕事の依頼以外で連絡を取るような奴がいたわけじゃないし、それ以外となると、私と関わってもいいことなんてないしな。結局、英みたいな頭のおかしな奴しか残らない」

 

 そんなことを話しているうちにホールまで戻ってきた。入り口で警備に立っていた護衛者が、烈堂の姿を見て扉を押し開いた。

 ナツメはその護衛者と一瞬だけ目を合わせたが、烈堂は悠然と扉を潜っていく。大日本銀行の若様には、これくらいのことは当然だ。

 ホールは相変わらず人で溢れていて、騒々しかった。

 

「それで?」

 

 と、烈堂が言った。

 

「あの医者と、呉一族以外にはいねえのか?」

「そうだな……」

 

 ナツメは少し頭を捻って考えた。

 

「ああ、頭のおかしな奴といえば。〝遠征〟だとか言って『外』から時々『中』に来て暴れてた奴がいる」

 

 烈堂が「そりゃ変わってるな」と笑った。

 

「たまにいるんだよ、腕試しで『中』に来る奴は。大半が死ぬか、逃げ帰って二度と来ないかなんだが、そいつは本当に強かったんだ。〝飼い犬〟をダメにされた連中から始末を頼まれたことがあったけど、割に合わなくてやめたんだ」

「お前が退くほどの実力者だったわけか」

「もしこのトーナメントに出てたら、優勝候補の一角だったろうけど……。いなくて良かったよ」

「どういう意味だ?」

「雷庵がもう一人、と考えてくれたらいい」

「そりゃ、面倒なんてもんじゃねえな」

「まあ、あいつよりはまだ大人というか、ちゃんと話は通じていたから。私は別に嫌いじゃなかった」

 

『中』に来る度、その男はナツメのもとを訪れた。ただの気紛れか、何か思うところがあったのか。ナツメの鍛錬に付き合うこともあった。

 今にして思えば、あれで結構世話焼きだったのかもしれない。

 

「ムエタイ使いで、技を教えてもらったこともある」

「お前の肘の使い方が独特なのはそれでか」

「私はいろいろ混ざってるから。それに、私と三朝じゃ流派が違うしな」

 

 二人で人の群れを縫って進む。サーパインの声が聞こえてきた。ある意味、いい目印だ。

 

「そいつとも、もう五年近く会ってないけど」

「『外』の人間なんだろ? 探してみりゃいいじゃねえか」

「いや、いいんだ。現れなくなった理由はわかってるから」

 

 また心臓が痛みを訴える前に、ナツメは話題を変えることにした。

 

「あいつ以上のムエタイ使いには会ったことがないから、ガオランの仕合が少し楽しみだったんだ」

 

 人垣の向こうに当人の姿が見えて、ナツメは目を細めた。

 

「見れるかわからないけど」

 

 そんな呟きは、ナツメと烈堂を呼ぶサーパインの大声に掻き消えた。

 

 

 

 

 鷹山が扉を開けると、張り詰めた空気が室内から流れ出てきた。一瞬、中に踏み込むことを躊躇うほどの重苦しさだったが、滅堂は気にもとめなかった。

 

「ほっほっほ、すまんのう。随分待たせてしまったようじゃ」

 

 気さくに笑った滅堂だったが、室内で待っていた二人は硬い表情を崩すどころか身動ぎすらしなかった。

 黒いガラス玉のような四つの目玉は、じっと滅堂を見据えて動かない。

 どうやら、余程のことのようだ。滅堂は心の中で一つ理解して、ソファに腰を下ろした。背後に王森と鷹山が並び立つ。

 滅堂は改めて、対面のソファに座る古くからの悪友と、背もたれの向こうに立つ青年に目を向けた。

 

「久しぶりじゃのう、ホリスくん」

 

 滅堂は笑って声をかけたが、ホリスはやはり硬い表情を崩さなかった。

 

「ご無沙汰しております」

 

 と答えた声も、低く平坦で、感情を読み取れない声をしていた。

 会話が広がる気配はなく、そういう空気でもないことを再確認し、滅堂は座ったまま杖をついた。

 

「して、話とは?」

 



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21 伏野と呉一族

 恵利央の背後に立ち、ホリスは正面から注がれる視線を身動ぎもせずに受け止めていた。片原会長直属の護衛、三羽烏と称される三人のうちの一人、鷹山ミノルからの警戒を含んだ視線だった。

 

「単刀直入に言おう」

 

 恵利央が口を開く。続く言葉を片原会長たちが聞いた時、一体どんな反応が返ってくるか。一蹴だけはされないことを、ホリスは願うばかりだった。

 

「あの子を呉の里へ連れて行きたい。今すぐ、誰にも気づかれぬよう極秘に」

 

 張り詰めた空気が揺れた。ホリスを睨み付けていた目が驚きに見開かれ、またすぐ険を宿して細められた。

 

「お言葉ですが、それはどういう」

 

 最初に口を開いたのは鷹山だった。その声には明らかな不信感が滲んでいる。そんな彼を、片原会長がすっと手を上げて制した。

 

「理由を聞こうかの」

「あの子を守るためじゃ」

「守る?」

「三年前、あの子がどんな状態だったかは覚えておるじゃろう? 死んでおってもおかしくなかったあの怪我のことじゃ」

 

 忘れるはずもない。少なくとも、ホリスは昨日のことのように思い出せる。本当に死んでいてもおかしくなかったのだ。少しでも処置が遅れていたら、おそらくは助からなかった。そのことは、ホリスが一番良くわかっている。

 大怪我を負った彼女に、最初に応急処置を施したのは他でもないホリスだった。それができるほど近くにいながら、彼女があんな状態になるまでずっと静観していたのだから。

 

「あの子にあれほどの怪我を負わせた男が、どうやらこの島に潜り込んでおるらしい」

 

 その一言で、室内の温度が下がった気がした。殺気すら漂い始めた空気の中で、片原会長は表情を動かさず「お主にしては」と言った。

 

「随分曖昧な物言いをしたもんじゃな。まだ確信があるわけではなさそうに見えるが?」

「ワシらの方ではまだ確認できておらん。じゃが、あの子が確信しておった。根拠はそれで充分じゃ」

「……ふむ、根拠のう」

 

 会長は小さく呟き、ちらりと背後に目を向けた。

 

「Dブロックの途中じゃったかのう? あの子が急に『蟲』がおる、と言い出したのは」

「十五仕合目が始まる前でした」

 

 と、応じたのは王森だった。

 

「東電の速水の後ろに『蟲』がいる可能性がある、と。確証はなく、ただの勘だと本人は言っておりましたが」

「何の根拠もなくそんなことを言う奴ではありません」

 

 強い語気で鷹山が続く。

 

「第十二仕合の時から様子がおかしかった。あのあとからDブロックが始まるまでの間に何かあったに違いありません。だから俺は、問い詰めてでも話を聞くべきだと」

「鷹山」

 

 王森が窘めるように名前を呼ぶ。

 鷹山は少々荒い気性の持ち主のようだ。良く怒られる、とナツメが言っていたことをホリスは思い出した。

 ホリスが聞いた話では、鷹山は王森と並んで彼女の教育係であるらしい。随分厳しいのだと彼女は言っていたが、そう話す表情に陰りはなく、寧ろこの男を慕っているらしい様子が見て取れた。

 そして、今の鷹山を見る限り、この男もナツメのことを余程気にかけているようだった。隣の王森も、表情にはあまり変化が見られないが、まとう空気は変わっている。

 

「こちらもこんな状況でのう。あれでなかなか頑固なところがある子じゃから、どうしたものかと悩んでおったんじゃが……。どうやら、お主らの話を聞けば解決しそうじゃな」

 

 片原会長はホリスたちの方へ向き直った。

 

「して、その男というのは? あの子は『蟲』と敵対した結果、あれほどまで追い込まれたのじゃと聞いておったが」

「それもまた事実。あの男は『蟲』と繋がっておるからの。そうやって奴らの手を借り、ずっと身を潜めておったが、この大会に乗じて現れよった」

 

 恵利央はそこで一つ息をついた。頭が少し下を向く。背後に立つホリスからは、爺様が今どんな表情をしているのかわからない。

 

「彼奴の名は、伏野胤朿(かずし)。我が一族の業が生んだ〝亡霊〟じゃ」

「――伏野じゃと?」

 

 さしもの片原会長も、眉を上げて驚きを露わにした。

 

「さよう。彼奴はあの子の、伏野ナツメの父親じゃ」

 

 鷹山も王森も、言葉を失っている。当然だ。驚くなという方が無理な話だろう。

 その中で、いち早く平静を取り戻したのはやはり片原会長だった。

 

「ならば、あの子は実の父親に命を狙われておる、ということか?」

「正確には、父娘(おやこ)で殺し合っておる、と言うべきじゃろうな。そして、そうなってしまった原因はワシらにある。我ら呉一族と伏野の、何百年と続く因縁がそうさせてしまった」

「……長い話になりそうじゃな」

「仔細を語れば夜が明けるじゃろう。しかし……」

 

 恵利央はそこでまた小さく息を吐いた。

 

「まさか、一族の者どころか、外部の者にこの話をすることになるとはの」

「爺様」

 

 思わず、ホリスは声をかけた。爺様の葛藤は理解しているつもりだった。

 呉一族と伏野の因縁について、ホリスも初めから詳しく知っていたわけではない。五年前に友を失い、それをきっかけにナツメと出会い、そうして初めて、両一族の因縁に深く触れた。その根深さを知り、呉一族の長たる爺様が、一族の者にさえ口外をはばかるわけを知ったのだ。

 

「良い。この者らは知る必要がある」

 

 爺様は振り向くことなく答え、滔々と話し始めた。

 

「すでに知っておろうが、我ら呉一族は千三百年もの間、優秀な才を持つ者と子を生すことで肉体そのものの品種改良を行ってきた。長い歴史の中で、そのことが原因で生じた軋轢や諍いも少なくなかったが、伏野との因縁もそこから始まっておる。室町時代の末期、戦国の頃に鬼神の如き強さを誇った荒武者がおった。名を胤勝(たねかつ)。どれほど過酷な戦場からも生きて帰ってきたことから〝死なずの胤勝〟と呼ばれておったそうじゃ。それをそのまま通称としていたそうでの。……そうじゃな、実際に見た方がわかりやすかろう。すまんが、何か書くものを貸してくれんか」

 

 爺様が言うと、片原会長はすぐに「鷹山や」と背後に声をかけた。鷹山は相変わらず険を宿した目をしていたが、すぐに紙と万年筆を持ってきた。それを受け取り、爺様がペンを走らせる。

 達筆な文字で『不死之胤勝』と書かれた紙を片原会長たちへ向け、

 

「これで『しなずのたねかつ』と読む」

 

 と言った。片原会長が真っ白な顎髭を撫でた。

 

「……なるほど。ふしの、とも読めるのう」

「さよう。この男こそが『伏野』の祖。どの頃に、どういった理由で『不死之』から『伏野』に変わったのかは定かではないが、それは些末なことじゃろう。重要なのは名ではなく、その系譜と共に続く我らとの因縁じゃ。もう想像に難くなかろう。呉一族は、胤勝の才を欲した。是が非でも、その種を一族に取り入れたかったんじゃ。胤勝は、今でいう『超人体質』の持ち主だったからの」

 

 医学的には『ミオスタチン関連筋肉肥大』という、筋肉の増加を抑制する遺伝子が正常に機能しない疾患だ。その結果、筋肉が異常発達して常人の数倍から数十倍もの筋力を持った『超人』が誕生する。

 世界でも極めて珍しい症例だが、古海製薬の闘技者、若槻武士がそれに当たる。あの男の筋繊維密度は常人の五十二倍にもなるらしい。筋力だけなら、呉一族すら凌駕するほどの怪力だ。

 ホリスは、この『超人体質』という特異な能力の存在は知っていたが、常人ならざる怪力という程度の認識で、詳しい知識は皆無だった。爺様から話を聞いたあとで、独自にこれらを調べたのである。あの男を殺すには、あの男を知る必要があると思ったからだった。

 

「そんな特異体質に、武の才まで併せ持った優秀な種を、みすみす逃す手はない。一族は宗家の中でも才のあった娘を充てがい、契りを結ばせた。そうして二人の間に無事、子が生まれ――直後、三人は姿をくらましたそうじゃ。過去にそういった例がなかったわけではない。産まれてきた子を暗殺者に仕立て上げる。それが恐ろしくなって逃げる者もおった。暗殺者の一族とはいえ、しょせんは人の子、人の親。胤勝らもそうであったのかは、今となっては知りようもないことじゃがな。しかし、理由など関係なかった。呉一族にとって重要なのは、かの者らが『出奔した』という事実のみ。一族の血や技を、外部に洩らすことなど許されん。そういう時代じゃ。連れ戻せぬなら始末するしかない。一族は刺客を放ったが、胤勝も、宗家の娘もやはり強かった。一族側は随分犠牲が出たと聞いておる。そしてあちらの犠牲は、宗家の娘ただ一人。胤勝とその子は逃げ果せたんじゃ。『蟲』の手を借りての」

 

『蟲』という言葉が出てくる度、室内の空気が冷えていく。

 古代中国から存在し続けている秘密結社『蟲』。「争いあるところに『蟲』あり」と言われ、何千年もの間、戦や政の陰で暗躍しているが、その実態は未だ謎に包まれている。

『蟲』の名の通り、その構成員はあらゆる場所に潜り込んでいるとされ、それは拳願会も例外ではない。

 幾度とない『蟲』の侵攻を、その度に歴代の会長と闘技者たちが一体となって退けてきたという過去がある以上、こうして強く警戒することは過剰な反応ではなかった。

 

「おそらくは『蟲』の方から接触があったんじゃと思うが、それも今となってはわからぬ。ただ、奴らの介入さえなければ、と思うのは、ワシが呉一族の人間だからじゃろう。兎角、そうして胤勝は復讐の鬼と化し、その子も、またその子もそれに準じた。『蟲』と手を結び、幾度となく我が一族と闘争を繰り返し、それが五百年経った今なお続いておる。その末裔が、伏野胤朿であり――」

「伏野ナツメ、ということか」

 

 恵利央のあとを引き継ぐように、片原会長が口を開いた。

 

「つまり、あの子には呉の血が流れておるんじゃな?」

「そうと知れば納得のいくことも多かろう。あの子の強靭な肉体や、驚異的な回復力。大人一人程度は投げ飛ばせる膂力も。無論、どれを取っても我らほどではないがの」

「『超人体質』の方はどうなんじゃ?」

「まったくない、とは言い切れん。あの子はほれ、あの細身でとにかく何でも良く食べるじゃろう?」

 

 それも『超人体質』の特徴である。筋肉が常人より発達している分、エネルギーの消費もそれだけ激しくなるのだ。

 

「じゃが、あってもせいぜい常人の一・五倍程度じゃろう」

 

 ナツメが女であることを考えれば、同性や一般の男相手になら力負けすることはまずない、程度だろう。闘技者のような屈強な者が相手ではアドバンテージにはならない。

 

「あの子は胤勝の血より、呉の血を色濃く継いだようでの。何せ、自力で『外し』まで習得しておる程じゃ」

「なんと、あの子が」

 

 片原会長が驚きの声を上げた。やはりナツメは、会長にも護衛者の面々にも『外し』を見せたことはなかったようだ。

 

「それだけではない。あの子は三年前の時点でおよそ五十五パーセントの解放率を誇っておる。もしかするともう少し外せるかもしれんが、あれ以上は体がもたんじゃろうからの。それでも、解放率五十パーセントを超える者は呉一族の中でもそう多くはない。あの子は確かに優秀な資質を持っておる」

 

『外し』の解放率五十パーセントといえば、この島に同行してきた面々の中では怜一がちょうどそのラインである。堀雄の伯父貴が六十五パーセント。ホリスは八十。カルラが八十五。そして、雷庵と爺様が百パーセント。

 もし、ナツメの体が自分たちと同じくらい丈夫で、生まれた時から一族の鍛錬を受けていたら。百パーセントとはいかなくても、自分と同等以上にはなっていただろう、とホリスは思っている。

 そうでなくても、もしもナツメが何の忖度もなく、何の手段も選ばず、本気で殺しにかかったら。自分の勝ち目は五分に満たない。三年前の、彼女とあの男の闘いをその目で見ていたホリスだからこそ、それが分かる。

 だが、そんな日は来ないのだろう。ナツメは、呉一族の者から何度も命を狙われたというのに、一度だって本気で応戦することはなかった。本当なら、いくらでも返り討ちにできただろうに。

 

「胤勝の『超人体質』は、父親の方が強く受け継いでおる。正確なところはわからぬが、おそらくは常人の十から十五倍。あれには一族の者がもう何人も殺されておる」

 

 静かな声だったが、そこに秘められた確かな怒りをホリスは知っている。爺様と同じ、否、それ以上の怒りと憎しみがホリスの中にはある。

 五年前、その憎悪を向ける相手をホリスは危うく間違えるところだった。

 

「ふむ。呉一族と伏野の因縁は理解した。しかし、それではあの子の今の状況は道理に合わんじゃろう。お主の話通りなら、あの子と殺し合うべきは父親ではなく、お主ら呉一族じゃ」

 

 片原会長の指摘はもっともだ。いっそそうであったなら、その方が自分たちも、彼女も楽だっただろう。互いを知ることも、深く考えることもなく、ただ殺し合っていれば良かったのだから。

「あの子は」と、恵利央が言った。いっそう重苦しいその声に、ホリスは少し目を伏せた。

 

「呉の血が濃かったがゆえに、父親から捨てられたようなんじゃ」

 

 室内が静まり返った。片原会長は何も言わず、王森と鷹山も、その顔を少し痛ましげに歪めただけだった。

 親が子を捨てる。非情な話だが、実際にはそう珍しいことでもない。それが『中』となれば、掃いて捨てるほどあることだろう。

 だとしても、自分の知っている相手がそんな境遇だったと知れば、言葉を失うのもまた当然の反応だった。

 

「ワシらがあの子の存在を知った時には、あの子はすでに『蟲』と敵対しておった。何が起きておるのか、ワシらには皆目見当もつかなくての。あの子がそんな境遇にあったと知ったのは、随分あとになってからじゃ。その時には、もう取り返しのつかぬ事態になっておった」

 

 爺様はまた息を吐いた。それが部屋の床に堆積して、空気を重くさせているようだった。

 

「あの男に身内を殺された恨みが、あの子に向かってしまったんじゃ。我が子を、兄弟を、友を殺された者が、同じ目に合わせてやると言うてな。あの子は何もしておらん。むしろ、あの子はずっとワシらを避けておった。我々に対して恨みがないわけではないじゃろう。じゃが、相対すれば状況はより悪化する。そうとわかっておったんじゃ」

 

 彼女に憎悪を向けるのはお門違い。だが、ホリスには報復を望む同胞の気持ちも充分すぎるほどに理解できた。

 己の大切なものを奪われたのだ。その恨みや憎しみは、正論ごときで消せるものではない。復讐は何も生まないなんて綺麗ごとは届かない。自分が受けた以上の苦痛を味わわせて、それでやっと少し溜飲が下がる。そういうものだ。

 まして、何百年と続いてきた因縁の相手である。しかも『伏野』の存在を知っている者の大半は、それが酷く悪辣な一族だと思っている。

 曰く、『伏野』は『蟲』と手を組み、我らを謀り、宗家の娘を拐かし、呉の血と技を盗んだ悪逆非道な一族である、と。

 五百年前の先祖たちはそう流布し、そのままが後世に伝えられた。真実を知っているのは、代々の長とごく僅かな宗家の者のみ。これが爺様が口外をはばかる理由だ。

 真実を知らない者たちからすれば、『伏野』は話に聞いた通りの連中で、情けも容赦も必要なし、と判断して当然の状況である。そしてそれは、『伏野』が『呉一族』に対して思うところと同じなのだ。

 今更、爺様が真実を打ち明けたところで、互いの恨みつらみが消えるはずもない。この因縁は、どちらかの一族が根絶するまで消えることはないだろう。

 そんな結末にならないよう、今、手を尽くしている。カルラたち若い世代には『伏野』について何も教えぬように、という爺様の命もその一つだ。

 雷庵に知られてしまったのは予期せぬことだったが、今にして思えば、それが雷庵であったことは悪くなかった。ホリスはそう思っている。あいつは、ナツメが何者であったとしても、あの態度を変えることはないだろうから。

 だからこそ、彼女もあの横暴ぶりを受け入れているのだろう。

 

「呉の血が濃いからと親に捨てられ、その呉一族からは目の敵にされておる、と」

 

 片原会長は床に突いた杖を指先でトンと叩いた。

 

「そんなあいつを、呉の里に連れて行くと仰るのですか?」

 

 次いで口を開いた鷹山は、怒りや不快感を隠そうともしていなかった。

 

「言いたいことは分かる。じゃが、あの男から遠ざけ近づけさせぬには、ワシらの里が最も適しておる」

「別の危険があるように思えますが。それに、事情が分かっていればこちらでも充分対応できます。第一、今の話を聞く限りでは、あいつは里には行きたがらないでしょう。それを無理やり連れて行くなど」

「そもそも」

 

 噛みつくような鷹山を、低く平坦な声が遮った。それまでずっと黙っていた王森である。

 

「恵利央様方は、なぜあいつにそこまで肩入れを?」

「ふむ、確かにそうじゃ」と、片原会長が同意する。

「その理由を聞いてから、どうすべきか判断するとしようかの。因みに言うておくが、現時点ではワシも鷹山と同意見じゃ」

 

 予想通り、というべきか。そう簡単に了承を得られるとは思っていなかった。

 恵利央が振り返る。ホリスは頷いた。ここから先の話をするために、こうして同行したのだから。

 改めて、片原会長たちと向き合う。ホリスが少し目線を上げると、もはや敵意さえ宿っていそうな鷹山の目と目が合った。

 

「贖罪と弔い。理由はそれだけじゃ」

「弔い?」

 

 片原会長は怪訝そうに眉を上げた。

 

「あの子について調べておる過程で、命を落とした同胞がおる。一族の中でも抜きん出た才能の持ち主で、優秀な暗殺者じゃったが、一方では情に厚い男での。あれ以上の適任者はいなかった。現にホムラは――ああ、その同胞の名じゃ。呉ホムラという男でな。あやつは、ナツメと信頼関係を築けておった」

 

 ホムラは本当に優秀だった。『中』を制限なく探索できる隠密能力と情報収集力。必要であれば〝対象〟と接触し、対話を図れる対人能力。結果如何によっては〝対象〟を無力化できる戦闘力。それらすべてを兼ね備えた傑物だ。

 爺様の人選は的確だった。的確だったがゆえに、最悪の結果になってしまった。

 

「調べてわかったことじゃが、伏野胤朿はあの子を捨てたが、『蟲』はそうではなかったようでの。あの子の実力は知っての通り。戦闘力はさることながら、暗殺者としての能力も我ら一族に引けを取らぬ。『蟲』としては簡単に手放すのは惜しかったんじゃろう。生かして捕らえることができれば重畳。それが困難であれば始末も止む無し。そんな扱いだったようじゃ」

 

 改めて聞いても、ナツメの境遇は悲惨なものだった。『伏野』の家系に生まれながら、親からは『呉一族』の血が濃いからと捨てられ、その『呉一族』からは『伏野』の者だからと命を狙われ。あまつさえ『蟲』からも付け狙われる。

 彼女の味方となる者はいなかった。彼女は『中』の有力組織を中心に仕事を請け負っていたが、『呉一族』や『蟲』と相対する上での後ろ盾にはなりえなかった。

 個々に交流のある人物もいたようだが、ナツメがその数少ない知人を頼ることもなかった。そもそも、個人の手を借りたくらいでどうにかなる状況でもなかったのだ。

 

「そんな境遇を知ったホムラは、どうにかあの子を救おうとしての。その結果、伏野胤朿の手にかかり、殺されてしまいおった。それが五年前の話じゃ。その後のことは、ワシよりホリスの方が良く知っておる」

 

 片原会長たち三人の視線を一斉に受け、ホリスは「最初は」と重い口を開いた。

 

「俺も、彼女を憎く思いました」

 

 途端に殺気立った視線に、ホリスは寧ろ安堵した。こうして彼らが怒るということは、ナツメは片原会長のもとでうまくやっていけているということだ。

 

「ホムラは俺にとって師であり、兄のような存在でした。それが、彼女と関わったがために殺された。そう思うと、彼女の置かれた境遇を聞いて頭では理解しても、納得はできませんでした」

「ふむ、それも当然と言えるのう」

 

 片原会長はそう理解を示したが、その目はホリスの深層を覗き込んでいるように見えた。

 

「ですが、彼女を殺せばホムラの意志を無下にすることになる。だから、まずは話をすべきだと思い、彼女との接触を図りました。彼女の態度と返答によっては、報復も辞さないつもりで。結局、彼女を見つけるのに半年を要しましたが」

 

 初めてナツメと会い、目が合った時のことをホリスは良く覚えている。彼女は、暗殺者の家に生まれ育ったホリスでさえ言葉を失うような、酷く陰惨な目をしていた。

 その目にホリスを映した瞬間、彼女が身を翻して逃げようとしたので、ホムラの名を使って呼び止めた。その時の、彼女の歪な表情。そこに宿っていた感情の数々を、言葉で言い表すのは難しい。目は口ほどにものを言うのだ、と痛感させられた瞬間だった。

 

「直接話したことで、ホムラがナツメを放っておけなかった理由がわかりました。あいつは、ひどい世話焼きだったので」

 

 ホムラは、呉一族の血を色濃く受け継いだ誰よりも優秀な暗殺者で、誰よりも優しい男だった。

 その優しさが原因で命を落としたとしても、笑って「しょうがない」と言いそうな男だったが、その命をかけて救おうとした相手が、自分の死によって『中』に囚われることになるとは、きっと思いもしなかっただろう。

 

「ホムラは最後、彼女を『中』から連れ出すつもりだったようです。だから俺も、何度か彼女と会ったあとに『中』を出たらどうかと言いました。ですが彼女は、あの男を殺さなければどこにも行けない、と。彼女は伏野胤朿を殺すことに偏執的なほどでした。ただ、奴への報復は俺の望みでもありました。なので俺は協力を申し出て……。始めは拒まれましたが、最終的には条件付きで手を組みました」

「その条件とは?」

 

 と片原会長が言った。

 

「条件は二つ。呉一族の者としてではなく、俺個人との契約であることが一つ。もう一つは、協力はするが共闘はしない、ということです」

「どういうことじゃ?」

「ナツメは、伏野胤朿を自身の手で斃すことにこだわっていました。自分とあの男の闘いが決着するまでは絶対に手を出すな、と。彼女があの男を殺せなかった場合にのみ、あとを俺が引き受ける。そういう条件でした」

 

 部屋の中に一瞬の静寂が落ちた。しかしすぐに「お主は」と片原会長が口を開いた。

 

「その条件を飲んだんじゃな?」

「飲みました」

「つまり、お前は三年前、あいつが殺されそうになってたのを黙って見てたってのか」

 

 鷹山の言葉にも、ホリスは頷いた。鷹山は今にも掴みかかってきそうなほどだったが、それを王森が片腕を伸ばして制した。

 

「落ち着け、鷹山。話はまだ終わっていない」

「さよう。ではなぜ、伏野胤朿はまだ生きておるのか。それを聞かねばのう」

 

 と片原会長が言って、改めてホリスを見た。視線で先を促され、ホリスは話を続けた。

 

「俺は条件に従いました。ナツメが倒れ、戦闘不能になってようやく、二人の間に割って入りました。彼女は重傷で意識もなく、伏野胤朿も軽くはない怪我を負っていました。俺が代わって戦闘を継続していれば、斃せたかもしれません。ですが、そうしていたらナツメはおそらく」

「死んでおったじゃろう」

 

 ほんの一瞬言い淀んだホリスに代わって、恵利央が言った。ホリスは短く息を吐いた。

 

「あいつはそれも覚悟の上でした。寧ろ、最初からそのつもりだったのかもしれません」

 

 覚悟が足りなかったのはホリスの方だった。友の仇か、友が救おうとした者か。選択を迫られ、ホリスは結局後者を選んだ。そのことに後悔はない。だが、その選択が正しかったのかは今もわからない。

 

「俺は戦闘を中断し、ナツメを連れ帰りました。そして、目を覚ましたあいつに言ったんです。伏野胤朿は始末した。『中』に戻る必要はない。これからは『外』で生きてみたらどうだ、と」

 

 ホリスには大した怪我もなく、伏野胤朿を殺した証拠も何一つ提示していない。ナツメが信じるはずもなかった。

 しかし、彼女は何も聞き返さなかった。ただ一言「疲れた」とだけ言って、遠くに目を向けただけだった。

 

「それでワシにあの子を紹介した、というわけか」

「あの子を『中』に戻らせたくはなかったんじゃ。せめて、ワシらが伏野胤朿を本当に始末するまでは」

 

 恵利央とホリスは話し合ってそう決めた。一族の中でも実力のある者たちまで巻き込んだが、結局果たせずに今日を迎えてしまったことは、本当に不甲斐ない結果である。

 

「なるほどのう。それであの子は……」

 

 片原会長は髭を撫で、独り言のように呟いた。それから床に突いた杖をコンと鳴らし「あいわかった」と頷いた。

 

「あの子が置かれとる状況も、お主らの言い分も理解した。その上で先程の申し出じゃが」

 

 会長はそこで勿体ぶるように少し間を置いて、

 

「却下じゃ」

 

 と言った。

 

「いやー、すまんのう。お主らがあの子のことを思ってくれとるのは良くわかったんじゃが、こちらにも都合というものがあってのう。実はここに来る直前、烈堂から連絡があったんじゃ。殲滅部隊の方に人手が欲しいからあの子を貸してくれ、とな。本人にもすでに話を通しておるようじゃったから、二つ返事で承諾してしもうたんじゃ。順番が逆じゃったら、お主らの提案を受けるのもやぶさかではなかったんじゃがのう」

 

 つまり、最初からこちらの申し出を受ける気などなかった、ということか。ホリスたちからすれば、情報をただ取られただけのようなものである。勿論、すべて話すつもりでここまできたのは事実だが。

 

「……妙だとは思わんかったのか」

 

 爺様が問うと、片原会長は「思ったとも」とあっさり頷いた。

 

「二人で結託して何をしようとしとるのかわからんが、暇潰しに良いかと思っての。主らの話を聞いて大方の予想はついた。じゃが、だからといってワシはあの子を止める気はないぞ」

「死ぬかもしれんのじゃぞ」

「そうならんよう手は回そう。じゃが、あの子の覚悟を邪魔する気はないわい。のう、ホリスくん」

 

 突然話を振られ、ホリスは些か驚いた。動揺を表に出してしまうような失態は犯さなかったが、会長はそれすら見抜いていそうな目をしている。

 

「君もあの子の覚悟を見て、割って入ることなどできなかったんじゃろう?」

 

 本当に、すべて見抜かれているらしい。ホリスは反論することも誤魔化すこともできず、素直に「その通りです」と頷いた。

 片原会長はホリスから恵利央へと視線を戻した。

 

「あの子の好きにさせてやってくれんか。あの子が納得できる形で終わらせてやらねば、あの子は一生、その因縁とやらに囚われたまま生きることになる」

 

 その通りだろう。恵利央もホリスも、返す言葉が何もなかった。

 

「ふむ、話はこれでしまいのようじゃな」

 

 そう言って片原会長が立ち上がった。同じように腰を上げた恵利央に続き、ホリスも鷹山が開けた扉を潜った。

 廊下へと出てすぐ、片原会長がふと思い出したように振り向いた。

 

「おお、そうじゃ。例の件はどうなっておるかの」

「心配いらん。いつでも動けるよう準備できておる」

「心配なんぞしとらんわい」

 

 片原会長は笑ってひらりと手を振った。

 

「くれぐれも、あの子の邪魔はせんように頼んだぞい」

 

 そう言い残して、大男二人を伴って去って行く背に、恵利央がぽつりと呟いた。

 

「あの子が闘っておるところに割って入れる者などそうおらんわい」

 

 そして、それが可能であり、爺様の命に背いて勝手な行動を取るような奴は一人しかいない。

 ホリスと恵利央は同時にため息をこぼした。

 

 

 

【 第二章 獣は威嚇する(完)】




これで第二章は終了です。ここまでお読みくださりありがとうございました。
第三章はトーナメント二日目の中日から。引き続きご覧いただけたら幸いです。

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第三章 獣は牙を剥く
01 桐生刹那


 目を覚ますと、ナツメは全身にべったりと汗を掻いていた。この夏の暑さのせいでないことはわかっていた。ひどく息が苦しくて、まだ夢が続いているのかと無意識に喉を撫でた。

 そう、夢を見たのだった。この喉を絞めながら泣き叫ぶ女の夢。ナツメが最後に見た、母親の記憶だった。

 ナツメは横になっていたソファから体を起こした。そのあとで、ああ、そういえばソファで寝たんだったか、と昨夜のことを思い出した。昨夜と言っても、パーティを満喫する鞘香に最後まで付き合うはめになったので、この部屋に戻ってきたのは明け方だった。

 精神的な疲労感が確かにあって、あの転た寝のことが頭をよぎった。だから、ベッドで休むのを避けたのだった。

 ナツメは部屋に備え付けの小さな冷蔵庫に手をかけた。水のペットボトルを取り出して、一息で半分ほど喉に流し込む。冷たい水が器官を流れ落ちていく感覚に、少しだけ生き返ったような心地になった。

 部屋の時計に目を向けると、針は五時を過ぎたところだった。カーテンの隙間から外を確認する。良く晴れた薄明の空が広がっていた。今日も暑くなりそうだ。

 ナツメは残りの水を飲み干してシャワールームへ向かった。そこで、青白い顔に長い髪を張り付けた女に出迎えられた。ナツメは一瞬息を飲んだが、なんてことはない。鏡に映った自分の姿だった。

 

 

 

 

「どうした、顔色が悪いぞ」

 

 今日は絶命トーナメントの二日目。仕合の予定はなく、昨日の一回戦と明日の二回戦の中日になる。

 今日から殲滅部隊の支援という形でその指揮下に入ったナツメは、これから島内の巡回に向かう。タンカーで乗りつけた侵入者たちの捜索、という名目だ。

 任務へ出る前に顔を合わせて開口一番、烈堂が眉間に皺を寄せながら言った。

 

「何かあったか?」

「大丈夫です」

「大丈夫そうに見えねえから聞いてんだ」

 

 ごもっとも、と心の中で頷きながら、ナツメは烈堂の背後に視線をやった。三朝、皆生、羽合が揃っている。こちらに目を向けてはいないが、それとなく様子を窺われているのはわかる。

 ナツメの視線の気づいた烈堂が、後ろを向いて「先に行ってろ」と顎をしゃくった。

 三朝がわざとらしく肩を竦める。そうして三人が部屋を出て行くと、烈堂は改めてナツメと向かい合った。煙草を取り出し、火をつける。無言である。ナツメが自分から話すのを待っているらしい。

 

「夢見が悪かっただけだ」

 

 答えても、烈堂はまだ黙っている。

 

「内容まで言えと?」

「昨日の話ができて、まだ言い渋るもんがあるのか?」

 

 そりゃいくらでも、とナツメは胸中で答えた。

 

「聞いて楽しい話じゃないぞ」

「お前から面白おかしい話が聞けるとは思ってねえよ」

 

 烈堂が煙を吐く。ナツメはその紫煙を目で追った。

 

「……母親の夢だ。それも、死に際の」

 

 烈堂は今、どんな顔をしているだろう。ナツメは確認することなく言葉を続けた。

 

「私が十歳かそこらの時に死んだ。その時のことは良く覚えてる。目の前で見てたからな。今でもたまに夢に見るんだよ。詳しく聞くか?」

 

 ナツメはあえて尋ねた。自分でも意地が悪いと思う。視線を戻せば、烈堂は気まずそうに目を伏せ、煙草を咥えた唇の隙間から「いや」とこぼした。

 

「だから言っただろ。楽しい話じゃないって」

「ああ、悪かった」

「なら、もういいか?」

 

 ナツメは手を差し出した。意図を察した烈堂が、渋々とインカムを手渡した。

 

「いつでも連絡を取れるようにしておけよ」

 

 本来なら殲滅部隊のメンバーと行動を共にすべきところだが、ナツメは単独行動を許可されていた。

 

「ああ、わかってる」

 

 ナツメは頷き、インカムを装着した。それを確認した烈堂が、不意に声を潜めた。口に咥えた煙草を指で挟む。そうやって手のひらで唇の動きを隠しながら、言う。

 

「父親とのことはお前の思うようにすりゃあいい。だが、お前も護衛者の一員だってことは忘れるな」

「……わかってる」

「定時連絡は三十分毎だ」

「三十分?」

 

 ナツメは思わず声を上げた。

 

「それは流石に頻度が高すぎる」

 

 そう抗議したが、烈堂は頑として聞き入れてくれなかった。烈堂にできる最大限の譲歩がこれ、ということなのだろう。ナツメは諦めて承諾するしかなかった。

 外に出て、そこで待っていた三朝たちと二、三言葉を交わす。そうして彼らと別れて巡回に出た。

 特にどの辺りの探索を命じられているわけでもない。ここからは自分の嗅覚頼りになる。

 森林の方へと続く道に立ち、ナツメは目を細めた。夏の強い日差しが、日向と日陰の境目を際立たせている。濃い影の中から、森の木々が自分を手招いているような気がして、ナツメは足を踏み出した。

 最初のうちは、森林浴をする人々の姿を横目に進んだ。途中から脇道に逸れて、ただ黙々と歩く。ひと気のない方へ、ひと気のない方へ。

 本日最初の定時連絡を行う頃には、周囲からすっかり人影が消え、陽を遮る木々だけがナツメを取り囲んでいた。

 また三十分後。やっぱり少し面倒だな。そんなことを思いながら通信を終える。それからナツメは、木立の陰にふと目を向けた。

 

「いつまでつけ回る気だ?」

 

 そう投げかけると、風も吹いていないのに空気が揺れた。

 

「やっぱり、気づいていたんだね」

 

 そんな言葉と共に、木々の間から姿を見せたのは桐生刹那だった。

 

「昨日は僕の誘いに乗ってくれなかったけど……。今日はこうして場を設けてくれた。そういうことでいいんだよね?」

 

 桐生は綺麗に微笑んだ。その物腰は好青年然としていて、やはり敵意も悪意も感じられなかった。

 ナツメが返事をせずにいると、桐生はその無言を肯定として受け取ったらしい。浮かべた笑みを少しも崩さず「嬉しいな」と続けて言った。

 

「僕はね、ナツメさん。ずっと君と話してみたかったんだ。けど、『中』にいた頃の君は、僕が何を言ってもきっと聞く耳なんて持ってくれなかっただろうから。君が護衛者になってからは、もうそんな機会もないだろうと諦めていたけど……。何が起きるかなんて、わからないものだね」

 

 桐生は笑っている。彼に声援を送っていた女性たちが見れば、黄色い悲鳴を上げるだろう綺麗な微笑み。こうやって笑顔を作ることに慣れている人間の、自然に見える不自然な笑みだった。

 

「ずっと私を監視してたって言いたいのか」

「監視? いや、そうじゃない」

 

 桐生が頭を振る。

 

「僕は確かにずっと君を見ていたけど、僕は君を見守っているつもりだった。ずっと、君のことが心配だったんだ」

「心配だと?」

「そう。君が不審に思うのも無理はないけど、これは僕の本心だよ。君は僕のことを知らないだろうけど、僕は君のことを知っている。ずっと前からね」

 

 桐生は綺麗に笑ったまま、どこか遠くを見るような目をナツメに向けた。

 ここ数日、こういう目を何度も見たような気がする。その度に、ナツメは居心地の悪さを感じていた。

 こいつも、『中』での私を知っている。それでなぜこんな態度でいられるのだろう。こいつも、氷室涼も。

 

「僕がなぜ君に友好的なのか、不思議かい?」

 

 ナツメの心を見透かしたように、桐生が言った。ナツメは目を細め、桐生を睨みながら「当然だ」と返した。

 

「『中』での自分の評価くらい知ってる」

「〝バケモノ〟と言われていたことかな?」

 

 ナツメが無言で肯定すると、桐生はふと目を伏せた。

 

「伏野ナツメは『言葉の通じない猛獣』だ。あれの縄張りに入れば問答無用で殺される。死にたくなければ『巣穴』には近づくな。――懐かしいね。僕は『五熊(ごゆう)』にいたことがあるんだけど、あそこは一龍区とは隣接した場所だったから、君のことを耳にする機会も多かったよ」

 

 桐生はそう言ってまた笑った。

 桐生は『五熊』、氷室は『狼弎』、王馬は『十蛇鬼』。ナツメが生まれた『一龍』は、そのどれとも隣接する『中』の中心街だったが、それゆえに、周辺区域との紛争が絶えることのない場所だった。

 そんなところで育ったせいか。ナツメも縄張り意識というものは強い方で、何の断りもなく立ち入った者には容赦しなかった。それを考えれば、『言葉の通じない猛獣』というのは間違っていない。

 そしてその結果が、王馬との最悪の出会いに繋がった。

 

「みんな、そうやって君を恐れていた。でも、それと同時に羨んでもいた。君の強さや生き方にね。傍目から見た君は、何者にも縛られず、自分の思うがまま自由に生きている存在だったから」

 

 そんな桐生の言葉で、ナツメは黒使の槍使いを思い出した。不羈奔放。ナツメを指してそう言ったあの男のことだ。

 その言葉の意味を知った時、ナツメは平静を装うことに苦労した。腹の底から沸き上がった嘲笑が、危うく口から飛び出してしまうところだった。

 あんな生き方に憧れたこともあっただって? お前には、一体何が見えていたっていうんだ? あの黒使を叩き起こして、そう詰ってやりたかった。

 

「僕も、最初はそう思っていたよ」

「……最初は?」

「そう。でも、それは違うって知ったんだ」

 

 桐生がまっすぐにナツメを見た。

 

「ナツメさん、僕はある人から、君のことを教えてもらった。その人から聞いたんだ。君の、境遇について」

 

 思い当たる人物が、一人いる。ああ、やっぱりそうなのか、とナツメは胸中で嘆息をこぼした。

 

「……()()だろ」

 

 喉の奥から声を絞り出す。

 

「お前に私のことを教えたのも……お前に、二虎流を教えたのも。〝あの人〟なんだな?」

 

 ナツメは桐生を睨み据えた。そうやって、今すぐにでもあの胸ぐらを掴んで問い質したい気持ちを制御する。

 

「二虎……そう、十鬼蛇二虎」

 

 桐生が目を伏せ、譫言のように呟いた。そうして再び顔を上げた時、桐生はやはり笑っていた。切れ長の双眸が喜色を孕んで細められ、弓なりのその目がナツメを見る。

 ナツメは自分の肌がざわめくのを感じた。恐怖ではない。目の前のものに対する、極めて強い警戒心だった。

 

「ああ、良かった。やっぱり君は、あの人が〝本物〟だって理解しているんだね。あの〝悪魔〟の呪縛から、ちゃんと解放されたんだ。そうだよね。そうでなくちゃ、あの人が命を懸けたことが無駄になってしまう。あとは王馬くんさえ目を覚ましてくれれば――」

「おい」

 

 ナツメは桐生の独り言を遮った。

 

「お前は、一体何を言ってるんだ」

 

 桐生ははっとした様子でナツメを見た。桐生が瞬き、深く息を吐いて、それからまたにこやかに笑ってみせた。だが、もうナツメの目には「好青年の皮を被った何か」にしか見えなかった。

 

「そうだったね。あの時一体何があったのか、君は知らないんだったね。でもそれはしかたないことだよ。だって君はあの時『中』にいなかったんだから。そうなるよう仕向けられていたんだ。君は卑劣な罠にはめられたんだよ」

 

 勿体ぶった言い方にナツメは苛立ちを感じた。だが、「『中』にいなかった」という言葉で、それが一体いつのことなのかはわかった。

 

「十年前の話だな? 私も、それをお前に聞きたかった」

 

 昨夜、ナツメは烈堂に「話をするだけだ」と言った。だが、本当に話だけで済むかどうか、わからない。すべては桐生刹那の言動にかかっている。

 

「十年前、二虎を殺したのはお前か?」

 

 不意に、桐生が笑みを消した。

 

「それは〝偽物〟の十鬼蛇二虎のことかい?」

「偽物?」

 

 ナツメは眉を寄せた。

 

「……お前、さっきも〝本物〟だの〝悪魔〟だの言っていたな。一体何なんだ? 私には、お前が何を言ってるのか」

「ナツメさん」

 

 桐生が語気を強めた。そうやってナツメの言葉を遮り、まるで出来の悪い子を諭すような口調で言う。

 

「惑わされちゃダメだよ。君がそんなふうじゃ、あの人が悲しむ。あの人は、君を救うために命を懸けたんだから」

 

 さっきも聞いた言葉だ。誰が、誰を救うために命を懸けたって?

 ナツメが疑問を口にする前に、桐生が「大丈夫」と言って薄く笑った。

 

「まだあの悪魔の呪いが完全に解けたわけじゃないみたいだけど、それは君があの時のことを知らないからだ。大丈夫、僕がちゃんと全部説明するから」

 

 一体何が大丈夫なのか。ナツメは逆に不安に思う。だが、いちいち口を挟んでいても話が進まない。とりあえずは、その「説明」とやらを聞くしかないだろう。

 そうと決め、ナツメは視線だけで桐生に先を促した。

 

「聞いてくれるんだね、ありがとう」

 

 桐生はまた好青年然とした物腰に戻っている。

 気味の悪い奴だ。情緒が不安定で、何を切っ掛けに豹変するかわからない。精神が破綻した者のそれ。だがまだ症状は軽いか。

 そこまで考え、ナツメははたと気づいた。自分は今、桐生と誰を比べているんだ?

 夢に見た女の、痩せこけた青白い顔が脳裏を過った。

 ――ああ、わずらわしい。ナツメはネクタイを少し緩めた。それを見ていた桐生が目を細める。

 

「息苦しかっただけだ。お前と争う気はない」

 

 ナツメは軽く手を振った。

 

「僕もだよ。僕と君が争う理由なんてないんだから」

 

 どうだかな。ナツメは胸中で呟いた。

 

「けど……そうだね。確かに少し顔色が良くない。昨日はちゃんと眠れたかい?」

 

 桐生の言葉にはどこか含みがある。さっきからずっとそうだ。いちいち思わせぶりで、回りくどい言い方ばかりして、ナツメの神経を逆撫でる。

 

「お前と無駄話をする気はない」

「そう邪険にしないでほしいな」

 

 桐生が肩を竦めた。三朝相手だと気にもならなかった何気ない所作が、なぜかひどく気障りだった。

 ナツメは小さく息を吐いた。とにかく、今は話の続きを聞かなくては。

 

「邪険にされたくないなら、さっさと続きを話せ」

「勿論、ちゃんと話すから焦らないで。けど、その前に一つ確認させてほしいんだ」

「何をだ」

「十年前、君の身に起きたことを。あれを君自身がどう認識しているのか」

「……全部説明してくれるんだろ? なら、知ってるはずだ」

「勿論、僕は真実を知っている。けど、君の認識と齟齬(そご)が合ったら話がややこしくなってしまうからね。先に確認しておきたいんだ」

 

 ナツメは唇を結んだ。それを見た桐生は、しょうがないな、とでも言いたげな顔で笑う。

 

「十年前、君は大怪我を負って『外』に運び出され、そこでしばらく療養することになった。そうして『中』に戻ってきた時には、もうすべてが終わったあとだった。そうだよね? そして、その大怪我を君に負わせたのは、君の父親――伏野胤朿で間違いないかな?」

「……ああ」

「君はあの男に殺されそうになった。けど、そこを十鬼蛇二虎に助けられた。君と王馬くんの師を名乗っていた、あの〝偽物〟に」

 

 桐生は、あの二虎が『十鬼蛇二虎』の〝偽物〟だと思っているらしい。その時点で、確かにナツメの認識とは齟齬がある。

 二虎は偽物ではない。王馬の師である二虎も、ナツメの最初の師であるあの人も、どちらも間違いなく『十鬼蛇二虎』なのだ。

 彼らが同じ名を名乗っていることについて、ナツメはあまり深く考えたことはなかった。『中』には名前を持たない人間が数多くいる。何かしら自分のルーツとなるものを、とりあえずの名とする者も少なくなかった。『十鬼蛇』も『二虎』も『中』の地名であるし、同じ『二虎流』の使い手なら、まあ、そういうこともあるか。その程度にしか思っていなかったのだ。

 ナツメが『十鬼蛇二虎』の真実を知ったのは、二虎が死んだあと、黒木から話を聞いてのことだった。

 しかし、その話を今の桐生にしたところで無駄だろう。話が拗れて余計に時間を費やすはめになるのは避けたい。ナツメは黙って頷くにとどめた。

 

「そう、君はそう思っているんだね。残念だけど、それは違うんだ」

 

 桐生は本当に残念そうに、まるで哀れむような表情でナツメを見た。

 

「ナツメさん、あの二人は最初から手を組んでいたんだよ」

「――は?」

 

 思わず、声が出た。こいつは一体何を言っている? ナツメには理解できなかった。

 

「信じられないのも無理はないよ。けれど、僕は実際にこの目で見たんだ。あの悪魔と、君の父親が一緒にいるところを。あの二人は結託してあの人から君を奪ったんだ。あの人はずっと君を取り戻そうとしていたけど、一人で奴らを相手にするのはいくらあの人でも難しかった。けど十年前、ようやくそのチャンスが巡ってきたんだ。あの悪魔が王馬くんを連れて『中』を離れたから。君を監視する目が減った。君を連れ戻して、洗脳を解くチャンスだったんだ。だけど、君の父親がその邪魔をした。あの男はあろうことか君を襲って重傷を負わせ、戻ってきた悪魔に引き渡した。そうやって、今度は君を『外』に連れ去ったんだ」

 

 桐生は淀みなく、滔々と話し続けている。ナツメの頭は話についていけていない。桐生の言葉を理解することを、頭が拒んでいるようだった。

 

「そのあとで、あの人は悪魔に闘いを挑んだ。凄まじい闘いだったよ。まさに死闘だった。そしてその結果、あの人は命を落としてしまったんだ。だけど」

「ちょっと待て」

 

 ナツメは自分で意識する前に、桐生の話を遮っていた。聞き流せない言葉があったのだ。

 

「死んだ? あの人が?」

 

 そんなまさか、あり得ない。出かけた言葉が喉に詰まる。あり得ないことなんてないのだと、ナツメは良く知っている。二虎の死は、まさにその「まさか」だったのだから。

 どんなに強い人間だって、ともすればあっさりと死んでしまう。この世はそういうふうに出来ている。

 

「……本当だよ。あの人は、君を救うために命を懸けて、そして死んだんだ」

 

 それこそあり得ない。あの人が私のために命を懸けるなんて、そんなことはあり得ないのだ。そもそも、救うってなんだ。洗脳? 誰が誰を? 二虎が、私を? あり得ない。

 

「ナツメさん、落ち着いて」

 

 桐生の声にはっとする。混乱している、と自分でもはっきり理解できるほど、ナツメは混乱していた。桐生を見る。桐生はやはり哀れむような顔で、ナツメに向けて手を差し出した。

 

「信じられない気持ちもわかるよ。けど、これが真実なんだ。目を背けず、受け入れないと」

 

 真実? 本当にそうか? この男は精神面での不安定さが目立つ。これがこいつにとっての真実だとしても、事実だとは限らない。どれが実際にあったことで、どれが嘘で、どれがこいつの妄想なのか、わかったもんじゃない。こいつの話は、信じるに値しない。

 ナツメは深呼吸した。そうだ、落ち着け。惑わされるな。癪ではあるが、それだけは桐生の言う通りだった。

 ナツメは差し伸べられた桐生の手を睨んだ。

 

「私はお前のことを知らないし、お前の話には何一つ証拠がない。それなのに『信じろ』は無理がある」

 

「ナツメさん」と諭す口を開いた桐生を見据え、ナツメは「けど」と続けた。

 

「お前の話すべてを否定する気もない。お前が二虎と関係あることも、私の父親を知ってることも事実だからな」

 

 冷静にならなければ。ナツメはもう一度自分に言い聞かせた。冷静に、情報を聞き出して、整理するんだ。

 

「だから、もう少し詳しく聞かせてくれ。わからないことが多すぎる」

 

 桐生は手を下ろし、一つ息をついた。

 

「何が聞きたいんだい?」

「まず、二虎が――王馬に二虎流を教えた二虎の方だ。お前が言う〝偽物〟の方。それが私の父親と一緒にいたというのは?」

 

 逆ならまだわからなくもないのだけど。

 

「本当だよ。さっきも言ったけど、僕は確かに見たんだ。彼らが何を話していたかまではわからないけど、少なくとも敵対している様子ではなかった。ナツメさん、僕は君に嘘なんて吐かない。信じてほしい」

 

 確かに、嘘を吐いているようには見えない。だが、事実を言っているのかどうかもナツメにはわからない。桐生が頭の中で作り上げた妄想、或いは幻覚を現実だと思い込んで話している可能性だってある。

 

「それについて、あの人はなんて?」

 

 ナツメは「信じてほしい」という桐生の言葉には返事をせず、質問を続けた。

 

「あの二人が結託してるって、あの人が言ったのか?」

「いや、あの人が言ったわけじゃない。けど、話を聞いていれば察しはついたよ。君の父親は、あの人が君を弟子としたことに不満を抱いていたそうだね? 君を『自分の後継者として相応しくない』と捨てておきながら、あの人のもとで君が強くなることを嫌悪していた」

 

 間違ってはいない。あの男は、ナツメが強くなることどころか、存在そのものを嫌悪していた。そんな父親との関係を、あの人が桐生に話したというのは本当のようだった。けど、どうして?

 ナツメの頭には疑問ばかりが増えていく。

 

「そしてあの悪魔さ。奴とあの人は、かつては同じ武術を極めんとする間柄だった。けど、悪魔は同胞たちを殺して、『二虎』の名と『奥義』を奪って逃げたんだ。その上で、奴はあの人の弟子である君まで奪った。そんな卑劣な奴らが一緒にいたんだよ? 手を組んでいたとしか考えられない」

 

 桐生は声を張り、力説する。自分自身が話す内容に興奮しているのか。身振り手振りが増え、より饒舌になっていく。

 

「あの悪魔はそれだけじゃ飽き足らず、君の次に王馬くんまでその毒牙にかけたんだ! 奴は君とあの人、そして僕と王馬くんの繋がりを破壊した。そうやって僕たちをあざ笑う下劣な存在だったんだ! だから僕とあの人は、悪魔を倒すために手を打った。あの人は僕に〝悪魔と闘う力〟をくれたんだ。それが『二虎流』と『狐影流』さ。ナツメさん、僕は奴を殺すための準備に三年を費やしたんだ。君が父親を殺すためにかけた年月には及ばないけど、僕もすごく苦心したんだよ。君なら僕の苦労もわかってくれるよね」

 

 ナツメは黙っていた。今の桐生には、同意も否定も意味がないと思った。桐生はもはや、自分の言い分をただ主張するだけで、ナツメの心情など気にもとめていないだろう。

 

「そうして十年前のことに繋がるんだ」

 

 桐生はそこで一度息をついた。

 

「あの人は、まずは君を救おうとしたんだよ。けど、さっきも言った通り、君を取り戻すことはできなかった。だからあの人は、元凶である悪魔に闘いを挑んだんだ。これも、結果はもう言ったけど……。あの人は自分の命と引き換えに、悪魔に致命傷を負わせた。君を自らの手で救い出すことができなくて、きっと不本意な結果だったと思うけど、あの人の犠牲があったからこそ、悪魔を倒すことができたんだ。僕の師匠が、悪魔にとどめを刺したんだよ」

「……『狐影流』の師匠か?」

 

 ナツメは尋ねた。桐生は「そう」と頷いた。やはり、二虎を殺したのは桐生ではなかったのだ。

 

平良(たいら)厳山(げんざん)。彼の存在も、あの人が僕に教えてくれたんだ」

 

 桐生の話が事実だとしたら、あの人は二虎を殺したかったのだろう。そのために桐生を利用した。否、利用したかったのは桐生ではなく、その師である平良厳山だろうか。二虎を殺し損ねた時の保険として?

 それはあまりに自分の行動と重ねすぎか。ナツメは自嘲した。とかく、ただ一つはっきりしたのは、桐生はただの駒として使われただけだということだ。そして自分も、彼らを利用するための出しにされた。

 

「……わかった、もういい」

 

 ナツメは桐生にそう告げた。王馬との関係についてなど、他にも知りたいことはあったが、聞いたところでそれが事実かどうかもわからないのだから聞くだけ無駄だろう。

 そして何より、桐生が二虎の仇でないのなら、ただ利用されただけの存在だというのなら、もうこれ以上関わる理由も――

 そこでふと、ナツメは思い出した。

 

「お前、船で護衛者を二人襲っただろ」

 

 急に話が飛んだせいか。桐生は一瞬きょとんとした顔をした。それから「ああ、あれか」と目を細めて、剣呑な笑みを浮かべた。

 

「あれはあいつが悪いんだよ。あいつが上げた血飛沫のせいで、王馬くんが穢れたんだ」

「は?」

「だから僕は当然の罰を与えただけ。〝神〟を穢すなんてあってはならないことだから」

 

 やっぱり、いかれてる。ナツメは改めて思った。

 

「怒っているかい?」

 

 桐生が言った。

 

「君の仲間を襲った僕のことを」

「……いや、怒ってはいない。事情はまるで理解できないけど、そもそもお前がしたことはルールに反してもいないし」

 

 答えてから、ナツメは「薄情者め」と頭の中で自分を罵った。やっぱり私は『護衛者』として相応しくない。

 

「うん、君のそういう割り切ったところ、僕は好きだよ。だからこそ、君に言っておかなくちゃいけないことがあるんだ」

 

 桐生の言葉に、ナツメは彼の目を見た。そこに不穏さを感じさせる笑みはなく、真摯な眼差しがナツメを射貫いた。

 

「父親のことは、諦めた方がいい」

 

 ナツメは驚いた。一瞬心臓が止まって、すぐに熱く煮えた血が全身を駆け巡った。

 

「なんだと?」

 

 喉の奥から低い声がこぼれた。桐生は両手を上げ、敵意がないことを示してみせる。

 

「ナツメさん、落ち着いて聞いて。僕は君のために言ってるんだ。あの男がこの島に来ていることは、君を見ていればわかるよ。昨日の僕の仕合のあとで見た君は、まるで昔の君のような目をしていたから。君にあんな目をさせられるのは、あの男しかいない。言っただろう? 僕はずっと君を見守ってたって。あの人の代わりにね」

「そんなこと頼んじゃいない」

 

 ナツメは威嚇するように声を発した。

 

「大体、私をずっと見てたならわかるだろ。私がどれだけあの男を」

「わかってるよ」

 

 言葉の先を遮られ、ナツメは不快感をあらわに桐生を睨んだ。

 

「君の気持ちはよくわかる。けど、君のことがわかるからこそ、僕は言ってるんだ。今の君じゃ、あの男を殺すことはできないよ。だって」

 

 ナツメは腰のナイフに手を伸ばした。その瞬間だ。桐生がナツメの視界から()()()

 ナツメは目を見開いた。一体何が――。そう考える間もなく、真横に殺気混じりの気配を感じた。体が反射的に動き、横から伸びてきた手をかわす。その腕を掴んで背中側に捻じり上げると、二人は同時に動きを止めた。

 

「何のつもりだ」

 

 ナツメは腕に力を込めた。極めた桐生の腕がぎしりと軋む。返答次第では、即座に壊すつもりだった。

 

「流石の反応だね」

 

 下を向いた桐生の表情は見えない。一切抵抗する様子もなかったが、声は余裕そうだった。

 

「けど、これが今の君ではあの男を殺せない理由さ」

 

 ナツメは怪訝に眉を寄せた。

 

「君はナイフを抜かなかった」

 

 桐生の指摘に息を呑む。そうだ、自分は今、ナイフを抜かなかった。手はその柄に伸びていたにも関わらず。

 

「昔の君なら確実に武器を取っていたし、きっと躊躇いなく僕を殺していた。だけど君は、僕を殺すんじゃなくて〝制圧〟することを選んだ。君は『護衛者』だから、正しい判断だと思うよ。けど、それじゃダメなんだ。君ならわかるよね?」

 

 わかる。ナツメは声に出さず答えた。あの男を前にすれば、自分は躊躇いなくナイフを抜く。その確信はあるが、桐生の言うことも確かにわかる。

 ――ああ、こいつも私が腑抜けたって言いたいんだな。

 ナツメは桐生の腕を離した。その体を突き放し、距離を取る。

 

「話は終わりだ」

 

 振り向いた桐生に告げる。彼は驚いた顔をした。

 

「ナツメさん、どうして」

「どうして?」

 

 ナツメは片眉を跳ね上げた。

 

「僕が言ったことは、君にとって到底受け入れがたいことのはずだ」

「ああ、確かに。まったくもって気に食わない」

「だったら」

「だったら、なんだ? お前に殴りかかりでもすればいいのか? それで何がどうなるって?」

 

 桐生が押し黙る。何かを訴えるような視線を、ナツメは背を向けることで切り捨てた。

 

「私のためだと言うのなら、あの男とのことは放っておいてくれ」

「……ナツメさん」

 

 桐生の声が後頭部にぶつかった。

 

「僕は君に死んでほしくないと思ってる。それはきっと僕だけじゃないはずだよ」

 

 ナツメは返事も振り返りもせずに歩き出した。

 しばらく木々の間を進み、桐生の気配も、他の誰の気配もないことを確認してから、ふと足を止めた。

 足元が揺れたような気がした。本当に気がしただけだ。地面はしっかりとナツメの足元を固めている。

 一人になった途端、懸命に押し留めていた桐生の言葉が、頭の中に溢れ出した。平静を装っていたが、冷静さなどとっくに失っていたのだ。

 あの人のこと。二虎のこと。あの男のこと。まったくわけがわからない。一体何を信じれば……。

 ナツメは額に手を当てた。熱い。頭の中がぐちゃぐちゃだ。どうにか整理をつけようと目を閉じる。

 瞬間、腕の時計が短く震えた。定時連絡の時間を報せるアラームが作動したのだった。

 もう三十分経ったのか。ナツメはため息をこぼした。ゆっくり考える時間もない。

 ――ああ、それならいっそ、考えることなどやめてしまえ。考えたところで、どうせ真実などわからないのだから。それに、何がどうであろうとナツメにとっての事実は変わらない。やるべきこともだ。

 ナツメは顔を上げ、背筋を伸ばした。

 

『何も問題ないか?』

「ああ、何も」

 

 烈堂と連絡を取りながら、ナツメは木々の隙間から覗く欠片のような空を見上げた。

 

『本当だな?』

「今更お前に嘘なんて吐かないよ」

 

 と、ナツメは嘘を吐いた。桐生とのことは、烈堂には報告しない。あれは個人的なことだから。そう決めた。

 それはつまり、桐生から聞き出した「淀江と日吉津を襲った理由」をも黙っておくということだ。烈堂に言われた「護衛者の一員であること」より「自分の都合を優先する」ということ。後ろめたさはある。だがナツメにとっては、何をおいても譲れぬ都合なのだ。

 

『どうだかな』

 

 インカムの向こう側で、烈堂が煙草の煙を吐く音がした。

 下手に何か言うとボロが出るかもしれない。烈堂が相手だと多弁になっている自覚はある。ナツメは話題を変えることにした。

 

「今のところこっちは何もないけど、そっちはどうだ?」

『こっちも特に収穫はない。まあ、本格的に動くのは、本部の作戦会議が終わってからだな』

 

 今頃、御前の別荘には護衛者の部隊長たちが集まっているはずだ。侵入者への対処と、今後のトーナメントの運営に関する諸々を議題とした作戦会議である。

 本来なら、烈堂もそこに顔を並べるべき立場だが、そうすると現場の指揮を執る者がいなくなるから、という理由で不参加だ。

 会議が終わりしだい報告が上がってくる予定で、本腰を入れて侵入者の対処に当たるのはそれからである。

 

『親父のことだから、これも暇潰しのイベントみたいなもんなんだろうけどよ』

 

 と、烈堂がぼやく。

 

『だから、お前ももう少し……』

 

 何か言いかけて、結局「なんでもねえ」と言葉を飲み込んだ烈堂に、ナツメも聞こえなかったふりをした。

 

『そういや、お前を訪ねてきた奴らがいたって報告がきてるぜ』

 

 烈堂が話題を変えた。ナツメは素直に話に乗って「私を?」と聞き返した。

 

「誰だ?」

『呉カルラとエレナ・ロビンソン。それとお前の主治医に、帝都大学の秘書も一緒だったそうだ』

 

 医務室で馴染みの四人組だった。彼らが揃って訪ねてくるなんて、一体何だろう。茂吉の容態に変化でもあったのだろうか。

 

「何の用だって?」

『お前を誘いに来たんだと』

「誘う?」

『お前と遊びたかったんだろ』

 

 烈堂は笑っているようだった。

 

『もう任務に出てるっつったら、随分と落ち込んでたらしいぜ』

「……そう言われてもな」

 

 トーナメント開催中、その運営を任されている護衛者に基本休みはない。一昨日は御前の気紛れで暇を出されたが、あれは特例である。

 

『折角だ。顔でも見せに行ってやれよ』

「仕事中だぞ」

『巡回中にたまたま知り合いと出くわしたとして、それのどこが問題なんだ?』

 

 そう言われてはナツメも何も言い返せない。

 それから一言二言交わし、最後に「また三十分後」と言って通信を終えた。

 ナツメは大きく息を吸った。再び森の中を歩き出す。どこに向かうかは決めていない。

 



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02 闖入者

 太陽は天高く、日中の一番暑い時間帯がそろそろやってくる。

 ナツメは暑さには強い方である。生まれが夏であることが関係しているのかどうかはわからない。それでも、この強い日差しにはうんざりするし、この炎天下でなんでこんなスーツを着ていなければいけないのか、とも思う。まして、水着になって川遊びをする知人たちの姿を目の当たりにすれば、羨む気持ちも湧くというものだ。

 誰にどう言われようが、ナツメも所詮人間である。だからといって、あの中に混ざるという選択肢もないのだった。

 結局、何の因果なのか。ナツメはカルラやエレナがいるこの場所に辿り着いてしまった。別にここを目指して歩き回っていたわけではない。そもそも、烈堂に「顔を見せに行ってやったらどうだ」と言われはしたが、彼女たちの所在は聞いていなかったのだ。どこにいるのかなんて知らなかった。なのに、なぜなのだろう。

 変な磁力でも働いているんじゃないだろうか。そんな突飛なことを考えながら、ナツメはカルラたちを遠目に見た。

 烈堂の話では、訪問者はカルラ、エレナ、心美、英の四人だった。しかし、視線の先には彼女らに加えて、凛と秋山楓、そして山下社長の姿がある。

 どうやら、カルラたちは山下商事の面々も誘っていたらしい。王馬の姿がないところを見ると、カルラにとっては残念な結果になったようだ。

 カルラとエレナの、明るい笑い声が響いている。蝉の声。川のせせらぎ。水飛沫。真っ青な空に、背の高い白い雲。

 平和な夏の一幕をしばらく眺めたあと、ナツメは踵を返した。

 

「不審者だー!」

 

 大きな水音と叫び声が同時に響いた。ナツメが驚いて振り返ると、山下が川から飛び出して慌てふためいている。

 

「ふ、不審者が! 川の中に不審者が!」

 

 ナツメは木陰にしゃがみ、目を凝らした。騒ぐ山下に皆が注目している。

 

「別に変な奴はいないぞ?」

 

 と、今度はカルラが水面から顔を出した。水中に不審な人物はいないらしい。

 しかし、ナツメは見た。皆の視線が山下に向いている隙に、川岸へと這い上がってきた男が二人。ダイビング用のタンクを背負い、手には銛を持っていた。

 例のタンカーによる侵入者、ではなさそうだったが、こそこそと逃げ出したところを見ると、正規のルートで島に入った者たちでもなさそうだった。

 

「おかしいなあ。見間違えかな?」

 

 山下が頭を掻く。

 

「一応、周辺を確認してもらえるように連絡しておきましょうか?」

 

 秋山楓が携帯を取り出した。ナツメは立ち上がり、足下に落ちていた小枝をわざと踏んで音を立てた。思惑通り、皆が一斉にこちらを見た。

 

「必要ありません」

 

 そう言いながら、ナツメは彼らの前に姿を見せた。

 

「ナツメ!」

 

 カルラが水飛沫を上げながら川縁まで泳いでくる。エレナも驚いた顔で近づいてきた。二人とも、心なしか嬉しそうに見えた。

 

「どうしてここに? 会いに来てくれたのか?」

「いや、たまたまこの辺りを巡回してて、叫び声が聞こえてきたから。まさかお前たちだったとは」

 

 カルラは「なんだ、そうなのか」と少ししょんぼりとした。

 

「不審な人物がいないか、自分が周辺を確認しておきますのでご安心ください」

「ふむ、君が見て回ってくれるのなら確かに安心だ」

 

 と言ったのは英だ。彼は浮き輪で川面に浮かび、ぷかぷかと楽しそうにしている。続いて凜が、

 

「片原会長直属護衛の伏野さんに警護してもらえるなんて。いやあ、贅沢ッスねえ」

 

 と笑った。そうして皆が声をかけてくる。

「よろしくお願いします」と楓が頭を下げ、「お仕事ご苦労様です」と心美が労いの言葉を寄越し、「気をつけてくださいね」とエレナが不安げに眉を下げる。

 

「ああ、大丈夫」

 

 ナツメはエレナと目を合わせた。昨日はこの子にとっても大変な一日だったはず。どうしているかと思ったが、もう元気を取り戻したようだった。こうして過ごしているということは、茂吉の容態も問題ないのだろう。

 

「では、失礼いたします」

 

 ナツメは川縁から離れた。男たちが消えていった森の方へと足を踏み出す。

 

「あ、あの!」

 

 少し進んだところで、山下の声が後ろから飛んできた。ナツメが立ち止まって振り返ると、彼は慌てた様子で駆け寄ってきた。

 川から上がってそのまま追ってきたらしく、水着姿で全身ずぶ濡れ。額には水中ゴーグルをつけたままだった。

 

「すみません、引き止めてしまって」

「いえ、どうかなさいましたか?」

 

 早く追いたいのに。という気持ちを隠し、ナツメは尋ねた。

 山下は背後を振り返り、他の皆が離れたところにいるのを確認してから「あの、王馬さんのことなんですが」と声を潜めた。

 

「私たち今、この近くのペンションに宿泊してるんです。ほらあの、追加ルールの件で、昨日から移動してきてまして」

 

 昨晩の打ち上げパーティーで御前が発表した「闘技者の変更を一度だけ認める」という追加ルール。本人の合意さえあれば、誰がどの企業の闘技者になろうと構わない。ということらしいが、要は「他企業の闘技者でも合意を得られれば引き抜いて良し」ということなのだそうだ。それがトーナメントですでに敗退した選手でも、一回戦を勝ち抜いた選手でも。

 その「引き抜き」を警戒して、宿泊先を変更している企業がある。とはナツメも聞いていたが、山下商事もその内の一社だったとは。

 王馬ならそんな心配ないだろうに。

 

「それで今、見ての通り王馬さんはここには来ていなくてですね。たぶん一人でいると思うんです」

「はあ」

 

 とナツメは相づちを打った。

 

「あ! いや、もしかしたら、私たちのお世話をしてくださっている護衛者の方も一緒にいらっしゃるかもしれません。ほら、船であなたと一緒にいた……」

「――吉岡ですか?」

 

 ナツメが驚いて問うと、山下は笑顔で「そうですそうです」と頷いた。

 なんで、とナツメは思った。なんで会議に参加しないでお世話係なんてやってるんだ、あいつは。

 

「その吉岡さんも一緒かもしれませんが、でも、今がチャンスだと思うんです」

「チャンス、ですか?」

「はい。王馬さんと話をするチャンス。差し出がましいことだとは重々承知ですが、あなたも『考えてみる』とおっしゃってくれていたので」

 

 確かに、言った覚えがある。だが、そのチャンスはすでにあったし、ナツメはそれを無駄にした。取り返しはもうつかない。

 山下は、昨日の最終仕合後の一件も知らないのだろう。だからこうしてナツメに提案している。王馬が一人でいるはずだから、今のうちに話し合ってみては、と。

 

「……申しわけありません。任務中ですので」

「あ、そ、そうですよね」

 

 山下はわかりやすく肩を落とした。本当に、ただ良かれと思ってのことなのだろう。いい人だ。申しわけない、とナツメは思った。けど、もうどうしようもないのだ。

 

「山下様」

「はい? なんでしょう?」

「私のことは、もう気になさらないでください」

「え?」

「自分はもう、あいつとは関わりません。このことはどうぞお忘れください」

「え、え? ちょっと、それはどういう」

「失礼いたします」

 

 困惑しておろおろとする山下に背を向け、ナツメは地面を蹴った。

 

「ナツメさん!」

 

 呼び止める声を無視して走る。木々の間を駆け抜け、余計な思考を振り落とし、頭を切り替える。

 仕事の時間だ。ナツメは耳のインカムに指を当てた。

 

「こちら伏野。若、聞こえますか?」

 

 

 

 

 鬱蒼とした木々の間から、見慣れたテントの幕が見えた。ほんの数日過ごしただけのテントだが、まるで我が家に帰ってきたかのような安心感がある。

 実際、蕪木(かぶらぎ)浩二(こうじ)は安堵していた。この数日内で最大と言っていい危機を、たった今乗り越えて帰ってきたところだった。

 

「まったくもう、さっきは本当に焦りましたよ」

 

 ため息と共にこぼすと、連れの男が歯を見せて笑った。

 

「無事に戻ってこれたのだから良いではないか」

 

 褐色の肌に白い歯が輝いている。

 

「この通り、晩飯も確保できた!」

「まったくもう」

 

 蕪木は繰り返した。

 

「しょうがない人ですねえ、ハサドさんは」

 

 しかし、彼はこれでも腕の立つ闘技者だ。『ベルシイ石油』に所属し、仕合戦績は十七勝無敗。ほんの昨日まで、拳願仕合最短決着記録の保持者でもあった。残念ながらトーナメント出場には至らなかったが、その実力は決して偽物ではない。

 蕪木もトーナメントには不参加である。そもそも自身の所属する企業『湖山マート』が不参加を表明しているのだから、蕪木にその機会があるはずもなかった。

 まあ、それはそれ、これはこれ。他者と強さを競うこと、仕合に「勝つ」ことは、蕪木が果たすべき本分ではない。そんなことより、もっと大事な仕事がある。

 この島に忍び込んで、こんな森の奥深くに潜んでいるのもその仕事のためだった。

 当初の予定では、蕪木は一人でそれをこなすはずだった。それがひょんなことから、ハサドが協力者として加わった。計画を話すことに不安と抵抗がなかったわけではないが、乗り掛かった舟、というやつだ。雇い主からも了承を得ている。

 そして、今のところはすべてが順調に進んでいる。つい今し方、潜入がバレそうな危機的状況に見舞われはしたが。

 ハサドが急に「魚が食べたい」と言い出したのが原因だった。もしもそんな理由で計画が頓挫していたら、なんて考えたくもない。しかしまあ、こうして無事に乗り越えたのだから、ハサドの言う通り良しとしよう。

 

「それで、どう料理するのだ?」

 

 ハサドが言った。もうすでに待ち遠しいと言わんばかりの表情だ。

 

「あなたさっきお昼食べたばかりでしょ」

「晩飯の献立を聞いているだけだ」

「はいはい、まったくもう」

 

 蕪木はクーラーボックスを開け、捕ってきたばかりの魚を見ながら考えた。

 

「ハサドさんはどうしたいですか?」

「お前に任せる」

「そういうのが一番困るんですよねえ」

 

 ハサドは中東の国出身で、イスラム教徒の人間だ。教義で飲み食いできない物がある。代表的な物でいえば「豚」と「アルコール」だが、ハサドは平気で酒を飲む。曰く、こんな東の島国まで神の目は届かない、とかなんとか。

 ハサドはまあ、そういう人間だ。良く言えば大らか、悪く言えば大雑把。

 

「ここはまあ、シンプルに焼き魚にでも」

 

 その時、不意に草木の揺れる音がした。明らかに不自然な揺れ方で、蕪木とハサドは同時に身構えた。野生の動物か、或いは。

 深く考える間もなく、横手の茂みから何かが飛び出してきた。俊敏な黒い影が一つ。それを追ってもう一つ。「あ!」と蕪木は声を上げた。

 最初に飛び出してきたのは女だった。黒いスーツを着て、一つに結んだ長い黒髪をなびかせた女。伏野ナツメだ。護衛者の中でも、片原会長直属の護衛である彼女がなぜここに。

 ナツメは蕪木たちには目もくれなかった。その鋭い瞳は、今まさに彼女に飛びかかろうとしている相手にそそがれている。男だった。袖のない功夫服を着ている。見るからに粗暴そうで、ナツメより二回りほど大きく体格がいい。蕪木はこの男にも見覚えがあった。

 

天狼衆(てんろうしゅう)の!」

(イェン)! 先走るでない!」

 

 男の声がした。振り向けば、禿頭に大きな十字傷を刻んだ、老年の大男が立っていた。さらに木々の間から、若い男と女が一人ずつ。全員『天狼衆』のメンバーだった。

 ナツメに殴りかかっているのが炎。身長二メートルを超える老爺が(ツァイ)。黒い功夫服に眼鏡をかけた若い男が(ファン)。そしてチャイナ服にお団子頭の女が(メイ)

 なんで彼らまでここに? なんで伏野ナツメと争って? 天狼衆がいるなら、二階堂さんもどこかに?

 状況がまるでわからず混乱する蕪木に、

 

「これは一体何が起きている?」

 

 とハサドが尋ねた。聞かれたところで答えられるわけがなかった。蕪木だって、何がどうなっているのか教えてほしい。

 天狼衆の長である二階堂とは、今日顔を合わせる予定だった。だが、それも夜になってからのこと。しかも、どうやらここに当人は来ていない。

 混乱する二人を置いてけぼりにして、闖入者たちの闘いは進んでいく。

 ナツメが炎の攻撃を捌いて前蹴りで距離を取ると、そこに背後から黄が襲いかかった。ナツメは振り向きもせず、まるでその攻撃を予測していたかのように身を沈めて躱した。そのまま体を捻って振り上げた踵が、黄の顎に叩き込まれる。さらに体を回転させ、ナツメが追撃を加えようとする。しかし、両側面から蔡と梅が迫った。

 流石は天狼衆、というべきか。息が合っている。四対一という人数差もあって、ナツメは凌ぐだけで精一杯のはず。

 蕪木はそう思ったが、彼女の表情に焦りや緊張、苛立ちといった焦燥感は見られない。感情の読めない冷めた顔で、四人がかりの攻撃を淡々といなしている。

 ナツメは蔡と梅の拳をそれぞれ掌で捌いた。背骨を軸に体を回して受け流し、その力の流れに引っ張られるように、蔡と梅の位置が入れ替える。

 ナツメに背を向ける形になった二人が、慌てて体勢を整えようとする。が、ナツメがそれを許さない。蔡へと一瞬で距離を詰め、その肩口の服を掴む。同時に膝裏を蹴って背後に引き倒すと、仰向けの巨体を容赦なく踏みつけた。

 ナツメが今度は梅を見た。相変わらず無表情で、鋭く、冷たい目をしている。美人の真顔は怖いというが、この状況であんなふうに睨まれたら、と蕪木は身震いした。梅も怯んだ表情を見せたが、

 

「どけ、梅!」

 

 そこに炎が怒鳴りながら飛び込んできた。

 その姿を確認して、ナツメが足を振り上げる。同時に蹴り上げられた足元の土くれが、迫る炎の顔に飛び散った。

 

「なんと卑怯な!」

「ちょ、ハサドさん!」

 

 蕪木は慌ててハサドを諫めた。こちらにまで火の粉が飛んではたまらない。

 

「くそ!」

 

 炎が左手で目を押さえて呻いた。視界を奪われ、右腕を振って牽制しながら後退る。それを追って、ナツメが前に出た。振り回される腕を取り、引き寄せると同時に大きく踏み込む。体重の乗った肘打ちが、炎の胸に叩き込まれた。

 ナツメの攻撃はそれだけでは終わらない。同じ肘で顎をかち上げ、屈強そうな体がぐらりと揺れると、掴んだままの腕を引いて、流れるように一本背負いの体勢に持ち込んだ。

 背後には再び黄が迫っていたが、今度もまた、ナツメはそれに気づいていたようだ。肩に担ぎ上げた炎の体を、放り捨てるように投げる。黄のぎょっとした顔が見えたのも一瞬、百キロはありそうな肉体が彼を押し潰した。

 そうして気づけば、立っているのはナツメと梅だけ。蕪木とハサドもいるが、二人は蚊帳の外だった。

 ナツメは息の一つも切らしていなかった。まさかここまで強いとは。蕪木も彼女のことは話に聞いていたし、昨日の黒使との一戦も()()()()。あれも赤子の手をひねるようなものだったが、四対一でもまるで相手にならないほどだとは。

 

「逃げてもいいぞ」

 

 ナツメがしれっとした顔で言った。梅は驚いて目を丸くしている。

 

「転がってる奴らも連れてさっさと……。ああ、いや、私が立ち去った方が早いか」

「え、ホントに見逃しちゃうんですか?」

 

 蕪木は思わず聞いてしまった。絶対、黒使の二の舞になると思っていたのに。

 

「なんだ、不満か? 別に私は、全員始末しても構わないんだぞ」

 

 ナツメがスーツについた汚れを払う。

 

「殺すなとは言われてるが、こちらに危害を加えようとする輩には容赦しなくていいとも言われてる」

「あなたに危害だなんて! 私たちはそんなつもりありませんよぉ」

 

 蕪木は慌てて否定した。ナツメが「そうか?」と首を傾げるようにして蕪木とハサドの方を見た。大きな目が、睨めつけるように細くなる。

 

「そっちの男は、そうは思ってなさそうだ」

 

 ナツメの目は蕪木を見てはいなかった。視線を辿って横を見る。瞬間、蕪木はぎょっとした。ハサドがナツメを睨んでいたのだ。その視線の鋭さと剣呑さは彼女に負けていない。

 

「その服装……お前も『護衛者』という者たちの一員だな?」

 

 ハサドが一歩前に出た。険しい目をして、一触即発の雰囲気を醸し出しているが、海パン一枚の姿のせいでどうにも締まらない。

 

「ちょっと、ハサドさん」

 

 蕪木はハサドを落ち着かせようとしたが、こちらの声など聞こえていないのか。その視線はナツメを見据えて動かない。

 

「お前に聞きたいことがある」

「私にはない。お前の質問に答える気もない」

 

 取りつく島もない、とはこういうことだ。ナツメは素気無く外方を向き、この場を立ち去ろうとする。

 

「待て!」

 

 ハサドが声を上げた。

 

「逃げるつもりか」

 

 ああもう、余計なこと言わないで! 蕪木は心の中で願った。

 

「……状況を理解していないようだな」

 

 ナツメはハサドを見ずに返した。彼女がどこを向いているのか、蕪木は再び視線を辿ってみた。そうして思わず狼狽えた。ナツメが見ていたのはクーラーボックスだった。突然のことに驚いて蓋を閉め忘れたそれの中には、先ほど川で捕ってきた魚が入っている。

 

「逃げ隠れしなきゃならないのは〝侵入者〟であるお前らの方だろう? こっちはそれを把握した上で『見逃してやる』って言ってるんだ」

 

 ナツメが蕪木とハサドを見た。蛇に睨まれた蛙、いや、猫の前の鼠にでもなった気分だ。窮鼠猫を噛む、なんてことわざは、蕪木の頭には思い浮かばなかった。

 

「お前らのことはすでに報告済みだ。その上で『放置で構わない』という指示が出てる。そっちの奴らが先走ったせいでこんなことになっただけだ」

 

 ナツメが背後に視線を流す。蔡が梅に助け起こされ、炎と黄も起き上がっていた。ひどく警戒している様子が見て取れる。特に炎は、敵意剝き出しの目でナツメを睨んでいる。

 

「天狼衆、とかって呼ばれてたな? 一応言っておくが、お前らも同じ扱いだ。今回は見逃すが、次はない。こっちに危害を加えるつもりなら容赦しないって、聞いてただろう? 実力の差もわかったはずだ」

 

 天狼衆の誰も、口を開くことも身動きすることもなかった。だが、蕪木の横でハサドが動いた。もう一歩、ナツメに向かって距離を詰める。

 

「やめておけ」

 

 ナツメが言った。冷たい口調だが、どこか呆れているような響きもあった。

 

「お前に危害を加えるつもりはない。私の問いに答えてくれさえすれば」

 

 ハサドの言い分に、ナツメは白けたような顔をした。

 

「まったく、淀江め」

 

 形の良い唇から、心底うんざりだと言わんばかりのため息がこぼれた。

 

「甘い処理の仕方をするからこういうことになる」

「……その物言い、驕りがすぎるぞ」

 

 ハサドが不快感を露わにした。

 確かに、ナツメの物の言い方は随分と相手を見下している節がある。そのせいで「忠告」というより「挑発」に近い発言に聞こえる。が、おそらく本人にそんなつもりはないだろう。蕪木はそう思う。そもそも、見逃してくれるというのなら大歓迎なのだ。

 プライド? 勿論ある。だが、蕪木のそれは相手から安く見られて傷がつく類いのものではない。そういうプライドは、ハサドのような闘技者たちが持っているものだ。そして、その類いの人間と彼女の性格は、どう考えても相性が悪い。

 これは一体、どうすれば……。蕪木としては、ハサドが引き下がってくれるのが一番なのだが、彼には彼の事情がある。

 ハサドは『絶命号』で行われていたトーナメント本戦出場をかけた予選会の勝ち抜き組だった。しかし、そこから『拳願号』に移動してすぐ、自分たちに予選が課されたことを不服とし、片原会長に詰め寄ったのだ。結果、護衛者の男に返り討ちにあって海に突き落とされた。そこを蕪木が救ってやって今に至る。

 ハサドはナツメに、その男の所在を聞き出そうとしているのだろう。気持ちはわからなくもないが、蕪木は勘弁してほしいと思った。

 あれやこれやと頭を悩ませていると、ナツメの視線がふと動いた。その目が何かを見据えるように細められ、柳眉が怪訝に寄せられる。

 なんだろうか、と蕪木はハサドを見た。するとハサドも、同じように蕪木を見ていた。どうやら彼女の視線は、二人を通り越してさらにその先を見ているようだった。

 蕪木たちの後ろは森だ。何もない、はずだ。

 

「あのぅ、伏野さん?」

 

 蕪木は恐る恐る声をかけた。すると、ナツメはおもむろに蕪木たちの背後を指さした。

 

「あれはなんだ?」

「あれって?」

 

 蕪木は言われるがままに振り向いた。ハサドも、天狼衆も。

 視線の先には、何もなかった。鬱蒼とした森の木々が、風に木の葉を揺らしているだけだった。

 

「あ!」

 

 突然、誰かが声を上げた。背後からだ。蕪木が慌てて声のした方を見ると、そこで驚くべき光景を目にした。

 

「え、あれ?」

 

 ナツメの姿がなかったのである。

 

「あの女!」

 

 炎が叫んだ。

 

「逃げやがった!」

 

 逃げたですって? 蕪木は唖然とした。だが確かに、彼女の姿はどこにもない。もう一度後ろを見る。そこにもやはり、不審な物など何も見当たらなかった。

 ああ、やられた。蕪木はそう思った。

 

「これはどうやら、まんまと騙されたみたいですねえ」

「なんだと!?」

 

 蕪木が呟くと、ハサドが目を剥いた。

 

「まさか、今のは演技だったのか?」

「ええ、そのようで。まさかこんな古典的な手に引っかかるなんて。というか、あんな人でも、こういう手を使うんですねえ」

 

 意外や意外。そう思ったのは、ハサドや天狼衆の面々も同じはずだ。だからこそ、こんなにも綺麗に騙されてしまった。

 

「なんと、卑怯な」

 

 ハサドは憤慨しているが、蕪木は逆に感心していた。そしてそれ以上に安堵していた。彼女と闘うはめにならなくて、本当に良かった。

 

「見た目と中身があれほど伴わぬ者がいるとは」

「まあまあ、ハサドさん」

 

 気が収まらない様子のハサドを宥め、蕪木は天狼衆の方を見た。

 梅以外は、まだダメージが抜けきっていないようだった。逃げたナツメを追うことも出来なかった事実が、それを証明している。

 

「それにしても」

 

 蕪木は四人に声をかけた。

 

「あなたたちは一体どうしてこちらに? 二階堂さんとの約束は夜のはずですよ? その上、あの伏野さんと争いまで起こして」

 

 四人は気まずそうな顔をした。『天狼衆』は旧日本軍の特殊部隊で、忍の末裔であるとも聞いている。それにしては、感情が顔に出すぎな気もする。

 蕪木はナツメの無表情を思い出した。彼女の過去についてはよく知らない。だが、呉一族と懇意である様子から、それに近しい裏稼業出身であることは間違いないだろう。

 それを考えると、本当によく見逃してもらえたものだと思った。まあ、彼女の判断ではなかったようだけど。

 

「殿との密会の前に、様子を探っておこうと思ったのだ」

 

 と、蔡が重い口を開いた。

 

「この談合が罠である可能性を否定できなかったのでな」

「ええ、確かに。あなた方がそう疑うのも無理ないことでしょうねえ」

 

 蕪木はうんうんと頷き、理解を示してみせた。

 

「そこで」

 

 と黄が続ける。

 

「あの護衛者の女が、お前たちを監視している現場を目撃した」

「なるほど」

 

 蕪木は相槌を打つ。

 

「我々が見つけてすぐ、女が立ち去る様子を見せたから、このまま逃がしていいものかどうか悩んだのだが」

 

 黄がちらりと炎を見た。蔡も梅も。蕪木は心の中でもう一度なるほど、と頷いた。

 

「炎さんが先走ってしまった、と」

「殿からもあれだけ気をつけるよう言われておったのに」

 

 蔡が小言をもらす。だが、炎は硬い表情を崩さず「目が合ったんだよ」と言った。

 

「あの女、俺たちに気づいてやがった。一瞬だったが確かに目が合って……。そしたら、体が勝手に動いちまった」

「ふむ、殺気にあてられでもしたか」

 

 と、ハサドが腕を組む。炎は否定も肯定もしなかった。苦々しい顔をして、己の衝動的な行動を悔いているように見える。

 だが、蕪木は不思議に思った。殺気にあてられたら、むしろ身が竦むものなんじゃ? 彼らと凡人の自分とでは、その辺の感覚も違うのだろうか。

 

「まあまあ、どうにせよ、彼女が見逃してくれたのだから全部良しとしましょ」

 

 蕪木は笑って手を叩いた。しかし、他の面々は納得いかない様子だ。

 

「そもそも」

 

 とハサドが疑問を口にする。

 

「彼女は我々を侵入者であると認識していたではないか。それでなぜ見逃すのだ?」

「ああ、それはおそらく片原会長の指示でしょうねえ」

 

 蕪木が答えると、全員の視線がこちらを向いた。どういうことだと問う視線に、蕪木は笑って、

 

「そういう方なんですよぉ、片原会長は。このトーナメントの不自然な日程も、あの方が出した追加ルールも。ぜーんぶ各企業が裏工作をしやすくするためのものになっています。あの方にとって、私たちのやることなんてただの余興なんですよぉ」

 

 そう説明した。まったく狂気の沙汰である。

 ハサドは甚だ遺憾だと言わんばかりの顔をした。その口から不満が吐き出される前に、蕪木はもう一度手を叩いた。

 

「はい、この話はこれでおしまい! 好きにさせてくれるというのなら、遠慮なく好きにさせていただきましょ。天狼衆の皆さんも、今はどうぞお帰りいただいて。また夜に来てくださいね」

 

 その前に晩飯の準備をしてしまわなければ。蕪木はクーラーボックスに手をかけた。

 そうして中の魚を見て、思う。きっと伏野ナツメは、あの時あの場所にいたのだろう。それでここまで自分たちをつけてきた。天狼衆と鉢合わせたのはただの偶然。

 自分たちも、彼女も、天狼衆も、みんなツイていなかった。この不運が明日に持ち越されなければいいのだけれど。

 



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03 師と弟子

 ナツメは再び森の中を進んだ。相変わらず、己の足が赴くままである。

 先程はそれでひと悶着起こしてしまったが、あんなことが二度も起きるとは考えにくい。だがもしまた、タンカー組とは違う侵入者を見つけたら、その時はもう()()()()にしてしまおうか。ナツメはそんなことを考えた。

 蕪木浩二たちに対する処置について、ナツメはまったく納得していない。御前の指示だというので見逃したが、本心では全員排除してしまえばいいのに、と思っている。

 暇潰しだとか余興だとか、そんなもののためにリスクを負うなんて、ナツメにはやはり理解できないことだった。もしものことがあったらどうするのだ。そう思ってしまう。何かあってからでは遅いのに、と。

 しかし、今のナツメにはそんな心配をする資格すらない。御前の護衛を自ら放棄し、こんな森の中を当てどなく歩き回っているのだから。

 こうして一人でいれば、あの男の方から出向いてくれるのではないか。そんな期待もあったが、今のところは気配の欠片も感じない。

 そのことに焦りはなかったが、苛立ちはあった。思い通りに事が進まない苛立ちだ。今までだって思い通りになったことの方が少ないが、いつになく不満を覚えるのは、桐生から聞いた話のせいか。それとも今朝見た夢のせいか。

 そしてその苛立ちを、あの『天狼衆』とかいう者たちにぶつけてしまった。相手が自分より〝弱い〟とわかった上でである。そのことで、ナツメはひどい自己嫌悪に陥っていた。

 こうならないように、ずっと感情を殺して己を律してきたはずなのに。何もかもが中途半端で儘ならない現状が、さらにナツメを不快な気分にさせる。

 そんなナツメの心情はさておいて。周囲に張り巡らせている意識のセンサーは正常に働いているようで、たった今、そのセンサーに何者かの気配が引っかかった。

 進行方向からだった。こんな深い森の中、一般人が一人でいることはないだろう。だが、周囲を警戒する素振りも、気配を隠す様子もなく、まったく無防備に歩いてくる。こちらには気づいてもいないようだった。

 このまま直接顔を合わせるか、隠れてやり過ごすか。面倒な事態を避けるなら後者だが、ナツメはあえて前者を選んだ。何故だろう、自分でも良くわからない。直感めいた何かがあったような気もする。しかし、木々の間から現れた相手を見た瞬間、ナツメは自身の選択を後悔した。

 

「あれ?」

 

 と、相手はきょとんと目を丸くしたかと思えば、瞬きを一つして満面の笑みになった。

 

「あー! ナツメちゃん!」

 

 森にこだまするような大きな声を出して、理人が嬉々として駆け寄ってくる。人懐っこい大型犬みたいだ、とナツメは思った。ただ、本物の犬の方がずっと扱いやすいし、ナツメはどちらかと言えば猫派である。

 

「こんなところで何してるの? あ! もしかして俺に会いに来てくれたとか!?」

 

 何故そう思えるのか、甚だ疑問だ。ナツメは「違います」とはっきりと否定した。

 

「自分は今、島内を巡回している最中です」

「え、ナツメちゃん一人で?」

「はい」

「そんなの危ないって! しかも、こんなひと気のない場所に一人なんて! 俺が一緒に」

 

 と、そこで理人ははっとした様子で言葉を止めた。「ああ、いや、でも俺いま……いや! けど女の子を一人には……」と一人で何かぶつぶつと言っている。どうやら、他に外せない用があるらしい。

 ナツメとしては理人の同行など一切不要であるが、彼がここで何をしていたのかは気になる。裏工作などとはまったく縁のなさそうな男だ。大したことではないだろうけど、念のため、である。

 

「理人様」

「うん、なあに?」

「理人様こそ、こんなひと気のないところで何を?」

 

 ナツメが尋ねると、理人は明らかに動揺して目を泳がせた。

 

「いや、俺は別に」

「理人様、自分は今、島内を巡回中だと言いました。不審な輩がいないか確認して回っているんです」

「……うん」

「今、ご自身がどういう目で見られているか、おわかりですか?」

「……うん」

 

 理人は肩を落とし、大きな体躯を丸めてナツメを見た。先程の元気の良さはどこへやら、だ。

 こちらの顔色をうかがうような目に、ナツメは自分が何か悪いことをしているような気分になった。そんな気分になったことに、驚いてしまう。

 他人から機嫌をうかがわれるのは、鬱陶しくて嫌いだった。そういうことをしてくる奴らは大抵、何かおこぼれに与ろうとしているか、こちらを利用しようとしているか、なのだ。

 だが、理人からはそれを感じない。相手から何かを掠め取ろうとする打算や邪心がない。こんな気分になるのはそのせいだ。

 ああ、この男は好きじゃない。ナツメはそう思った。カルラやサーパインにも似た純粋さのようなものを、この男は持っている。自分とは違う人間だ。一緒にいると、己の醜悪さを痛感させられていやになる。

 しかし、ここで追及をやめるわけにもいかなかった。

 

「何か良からぬことを企んでいるわけではないですよね?」

「そんなわけねえって!」

「なら、何をしていたのか説明してください」

 

 理人は喉を詰まらせたようにたじろいだ。視線が泳ぐ。ナツメはこれ以上言葉で詰めるのはやめ、黙ってその顔に見据えた。そこからは十秒もいらなかった。

 

「……実は」

 

 と、少し困ったような、拗ねたような顔で理人が口を開いた。

 

「ちょっと、トレーニングを」

「トレーニング?」

 

 聞き返すと、理人は神妙な顔で頷いた。目を覗き込んで探ってみたが、嘘をついている様子はない。一体何を隠しているのかと思ったら、とナツメは拍子抜けしてしまった。

 

「隠すようなことじゃないでしょう」

「いや、だってさ、ほら、なんつーか……」

 

 理人はもごもごとした。

 

「その、なんかだせぇじゃん」

「……修練を積むことが恥ずかしいことだとでも?」

「いや! いやいやいや! そういう意味じゃなくて!」

 

 つい棘のある言い方をしてしまったナツメに対して、理人は慌てて両手を振って弁解した。

 

「努力してるってのを自分からひけらかすってことがだよ! そんなの、人に自慢するようなもんじゃねえし」

「だからってわざわざ隠すものでもないのでは」

「そりゃあまあ、そうだけど。そこはほら、俺だってナツメちゃんみたいなかわいい子の前ではかっこつけたいし」

 

 背を丸めてはにかむ姿は、確かに「格好いい」とは程遠い。だからといって「ださい」ともナツメは思わなかった。

 ナツメがため息をこぼすと、理人のうかがうような視線が強くなった。大きな犬が耳を伏せてこちらを見てるようで、どうにも気が抜ける。

 

「ナツメちゃん、俺はその……」

「オーバーワークはおすすめしません」

「え?」

「昨日の仕合で負った傷も癒えてないでしょう? あの人の技をまともに受けたのですから」

 

 手加減はされていたが、それでも〝魔槍〟が突き刺さったのは事実である。あれだけ血を流すほどの深手だったわけだし、普通ならばまだ安静にしていなければいけない怪我だ。

 理人は目をぱちくりとさせ、それからだらしなく笑った。

 

「俺の心配してくれてるの? 優しいんだね、ナツメちゃん。けど、俺はマジで全然平気だから!」

 

 そう言って理人が胸を叩く。途端、顔を歪めて「いてて」とこぼした。魔槍で刺された傷の上だ、痛いに決まっている。こいつは何をやってるんだろう。ナツメは呆れてため息を吐いた。

 

「……あの人の技の威力は自分も良く知っています。強がりたい気持ちもわからなくはありませんが、無理をしては治る傷も治りません」

「え? ナツメちゃん、黒木のオッサンのこと知ってるの?」

「ええ、まあ」

 

 ナツメは頷いた。すると理人は、興味津々といった様子でナツメを見つめ、

 

「どういう関係?」

 

 と聞いてきた。

 

「昔、あの人に稽古をつけてもらっていました」

 

 別に隠すようなことでもないか、とナツメは素直に答えた。

 

「ナツメちゃんが!? あのオッサンに!?」

 

 理人が大袈裟に驚くので、ナツメは少しむっとして腰に手を当てた。

 

「自分があの人に教えを請うてはおかしいですか?」

「あ、いや! そういうわけじゃなくて!」

 

 理人はまた両手と首をぶんぶんと横に振った。

 

「別に変だなんて思ってないって! そりゃびっくりはしたけど! っていうのも、実は俺も昨日、黒木のオッサンに弟子入りしたところでさ!」

「弟子入り? お前が黒木さんに?」

 

 ナツメは声を上げた。

 

「昨日って……あの仕合のあとでか?」

 

 驚きのあまり、すっかり敬語が抜けてしまっていた。しかし、対する理人は気にした様子もなく、むしろニコニコと笑っている。

 ああもういいや、とナツメは取り繕うのはやめることにした。

 

「そう、昨日の夜に。そっかあ、ナツメちゃんも黒木のオッサンの弟子だったんだ」

「いや、私は弟子ってわけじゃ」

「てことは、俺とナツメちゃんは姉弟弟子ってやつになるわけか! ナツメちゃんが俺の姉弟子……」

 

と、そこまで言って、理人は不意に神妙な顔になった。

 

「ナツメちゃんが強いって話は、俺も聞いてる。その、いろいろ下衆な噂も聞いたけど、氷室や大久保はそんなことありえねえって言ってて。あいつらはナツメちゃんの実力をわかってるみたいでさ。けど、正直言って俺はよくわからねえんだ。だから、実際のとこを教えてほしい。ナツメちゃんがどれくらい強ぇのか」

 

 ナツメは少し目を細め、理人の視線を正面から受け止めた。

 

「強さの基準をどこに置くかによる」

「じゃあ、十鬼蛇となら?」

「……あいつと闘ったことが?」

 

 尋ねると、理人は硬い顔で頷いた。負けたのだろうな、と察しがついて、ナツメは小さく息を吐いた。

 

「私の方が強い」

 

 はっきりと事実を口にする。理人の表情がさらに真剣みを帯びた。

 

「絶対負けない自信があるくらい?」

「今のあいつになら、大して苦労せず勝てるだろうな」

「じゃあ、俺は?」

 

 その問いに、ナツメは一度口を閉じた。すると理人は、

 

「昨日の仕合を見て、どう思ったか。正直に言ってくれていいから」

 

 と付け加えた。揺るぎない覚悟のようなものが宿った目をしている。その視線を受けて、ナツメはやっぱり好きじゃないな、と思った。同時に()()()()、とも。

 完膚なきまでに打ち負かされて、それでも折れることなく、むしろ完敗した相手に教えを請える。そういう人間はあまり多くない。理人のその直向きで貪欲な姿勢を、ナツメは好ましいと感じたし、ただ純粋に〝強さ〟だけを追い求められる生き方を妬ましくも思う。

 ナツメは腕時計に目をやった。定時連絡の時間までまだもう少しある。それを確認してから理人へと視線を戻した。

 自分でもどういう風の吹き回しかと思うが、もう少し話を続ける気になっていた。

 

「お前は」

 

 ナツメは理人の目を見据えて言った。

 

「どう見積もっても、このトーナメントでは実力不足だ。私は一回戦の仕合をすべて見てたわけじゃないけど、出場選手の誰と当たっても、お前が二回戦に進める可能性は低かっただろうな」

 

 強いて言えば金田くらいだろうか。いや、粘られてあの「先読み」を使われたら危うい。理人の動きは大振りで読みやすいから、分析は比較的短時間で済むだろう。

 その前に仕合を終わらせられる決定力が必要だ。理人はそれを持っている。だが、ただ()()()()()()()だ。

 

「お前のその、レイザーズエッジとかいう技……。他の誰にも真似できない強力な技だとは思う。黒木さんの〝魔槍〟にも匹敵するくらいに。けど、どれだけ強力だろうと、使いこなせなきゃ宝の持ち腐れだ」

 

 理人の表情が険しくなる。体の横に下ろされた両手の拳が、強く握り締められて白くなっていた。ナツメをそれを見て見ぬふりで言葉を続けた。

 

「黒木さんは強かっただろ? あの人は、私の知る限りでも五本の指に入る。このトーナメントに出場してる選手の中で、あの人に勝てる可能性があるとすれば、たぶんアギトさんか雷庵くらいだ」

 

 理人は雷庵と因縁があるから、名前を聞くだけでも不愉快かもしれない。まして、その実力を評価する言葉であればなおのこと。

 

「あの二人の強さも、もうわかってるだろ? 私はどっちとも闘ったことがあるけど、どっちにも勝てなかったし、一つ違えば死んでいたかもしれない」

 

 理人は目を見開いて驚いていた。

 

「それって、いつの話?」

「どっちも三年は前のことだ。雷庵とは護衛者になる前。アギトさんとは……」

 

 ナツメはそこで少し考えた。そういえば、これを自分から誰かに話すのは初めてだな、と。そういう相手も、機会もなかっただけであるが。

 

「『護衛者』には、私以外に女がいないのは知ってるな?」

 

 理人は頷いて「紅一点ってなんかカッコいいよな!」と笑った。

 

「はたからどう見えてるのか知らないけど、正直言って面倒の方が多いぞ。私がなんて言われてるか知ってるなら、わかるだろ?」

「……ナツメちゃんでも、ああいうのはやっぱり気になる?」

「いいや、私は気にしてない。けど、周りが気にして気遣ってくれる。私はそれがいやなんだ」

 

 そこまで答えてから、ナツメはかぶりを振った。

 

「いや、今これは関係ない。聞かなかったことにしてくれ」

 

 理人はまた頷いた。神妙な顔をしている。こういう話を他言するタイプでもないだろう。ナツメは気を取り直して話を続けた。

 

「女が『護衛者』になるなんて前例のないことだったから、当初はいろいろあったんだ。諜報とかの裏方ならともかく、文字通りの御前の護衛ってなると話が変わってくる。実力主義の武闘派集団だからな。まあ、だからこそ、自分の実力を示せば黙らせられると思って」

「まさか、それで〝滅堂の牙〟に挑んだの!?」

「『護衛者』の頂点だ。手っ取り早いだろ?」

「早いかもしんねえけど……。ナツメちゃんって結構無茶苦茶するタイプだったんだ」

「良く言われる。で、負けはしたが実力は認められた」

「滅堂の牙に?」

「そう、アギトさんに。だから護衛者になれた」

「……マジか」

 

 理人は感心というより、いっそ放心している様子で呟いた。それからすぐにはっとして、

 

「あ! 別にナツメちゃんの実力を疑ってるわけじゃねえから!」

 

 と弁解する。

 

「ただ、素直にすげえなって思って」

「……お前と、私や彼らとでは、生きてきた環境が違う」

 

 ナツメがそう切り出せば、理人は再び真剣な目つきで話に耳を傾ける。

 

「強くなるには、何よりも実戦経験がものを言う。私たちは、それを得る機会が山ほどあった。それこそ、わざわざ自分から探さなくても向こうから来てくれるくらいに。それに、私たちには基礎がある」

「基礎?」

「そうだ。お前、今までに誰かに師事したことなんてないだろ?」

 

 理人は首を縦に振った。

 

「それが悪いってわけじゃない。けど、独学だけで強くなれるのは『天才』なんて呼ばれてる奴らだけだ。呉一族には呉一族独自の体系があるし、私もアギトさんも、武術の基礎を人に叩き込まれた。強くなりたいなら、お前も基礎は身につけておくべきだ。黒木さんに弟子入りしたんだろ? あの人は厳しいけど、なんだかんだ言って面倒見がいいから。お前が本気で強くなろうとしてるってわかれば、あの人はちゃんと鍛えてくれるよ。あとは」

 

 とそこで、腕時計が短く震えた。定時連絡の時間だ。ナツメは時計に視線を落とした。

 

「あとは、とにかく経験だ。トーナメントにはいろんな武術の使い手が出場してるし、観察するだけでもためになるから」

 

 ナツメは理人に向かって軽く手を振った。

 

「話しすぎたな。私はもう行くから」

「あ、ちょっと待って!」

 

 背を向けようとしたナツメを、理人が慌てて引きとめた。

 

「俺いま、黒木のオッサンのとこに行こうとしてたとこなんだ。あれだったら、ナツメちゃんも一緒に行かね?」

「……いや、やめておく」

「忙しい?」

「ああ、まあ、任務中だから。少し、間が悪いな」

 

 本当は、話したいことや聞きたいことがいろいろある。特に、桐生刹那に関することで。

 桐生の話を聞いて、ナツメは思った。黒木は、桐生の師である平良厳山という男のことを知っているのではないか、と。あの男が二虎を殺した犯人だと、知っていたのではないか。『狐影流』について詳しく知れるほどには、見知った相手だったのではないか。

 確かめたい、と思った。だが、今更それを知ったところで何がどうなるのだ、という自問がナツメに二の足を踏ませた。

 四年ぶりに顔を見せに行こう、なんて考えていたのはたった一日前である。そのたった一日で、心境が様変わりしてしまった。こんな状態で会っても、まともに話せる気がしない。

 

「黒木さんに会ったら、よろしく伝えといてくれ」

 

 ナツメは理人にそう頼んで、今度こそ背を向けた。「ナツメちゃん!」と、理人の明るい声が後頭部にぶつかる。

 

「昨日のハンカチのお礼したいから、時間がある時に付き合ってよ! トーナメントが終わったらでもいいからさ!」

 

 ナツメは答えなかった。その時に自分が生きているかわからないのだから、答えられるはずもなかった。

 

 

 

 

「ってことがあって、来るのが遅くなっちまったんだけど」

 

 と、理人が道中の経緯を話したが、そもそもここに来るよう言った覚えなど黒木にはない。

 しかし、この男の口から「伏野ナツメ」の名を聞くことになろうとは。あれに最後に会ったのは、もう四年も前だろうか。

 それでも、あまり久しい、という感覚がないのは、その四年の間にも彼女の名を何度も聞いていたからだろう。

 伏野ナツメは、裏社会ではちょっとした有名人である。殺し屋としての腕前。類い稀な容姿。『中』の人間であるというその出自。話題性、という点ではそれだけでも充分だったが、ナツメが裏で知られている一番の理由は、彼女が『殺し屋専門の殺し屋』だったからである。

 と、言うと少し語弊がある。後々のリスクを考えて同業者殺しを忌避する者が多い中、ナツメは依頼されれば相手が誰だろうと基本的には断らない。必然的に「どこそこの殺し屋を始末してくれ」という依頼が増え、結果、『殺し屋専門』なんて言われるようになったのだった。

 ゆえに、裏稼業の中でも特に「殺し」を生業にする者たちには悪名で知られている。そのせいで敵も多かったようだが、『中』で重宝されているという存在に手を出す命知らずはそう多くない。

 そして、ナツメが有名である理由がもう一つ。

 

「まさか、ナツメちゃんがあんたの弟子だったなんて。流石に驚いたぜ」

 

 どこからそんな噂が出てきたのか。黒木としてはまったく疑問であった。

 

「あいつは俺の弟子などではない」

 

 その事実を確かめようとする者に、黒木は過去にもはっきりと否定していた。しかし、伏野ナツメはあの黒木玄斎の直弟子である、という話題性の方が勝る形で話が広がったのだった。

 そんなこともあって、ナツメが黒木のもとを訪れなくなってからも、彼女に関する噂は耳に届いていた。

 ナツメが『中』を出て、『護衛者』になったと聞いたのは、二年と少し前くらいだったか。

 

「けど、ナツメちゃんが言ってたぜ?」

「俺の弟子だと?」

「おう!」

 

 理人は自信満々に頷いたが、すぐに「いや、待てよ?」と首を捻った。

 

「そういや、違うって言ってたような気も……。けど、あんたに稽古をつけてもらってたってことは間違いなく言ってた!」

「……稽古をつけた覚えもない」

「んだよそれ? ナツメちゃんが嘘ついてるってのか!?」

 

 理人は憤慨した様子だったが、そんな嘘をつくような人間でないことくらい、黒木もわかっている。

 

「手合わせをしたことは幾度もある。それをあいつがどう捉えていたのかは、あいつにしかわからぬことだ」

「闘いの基礎を叩き込まれたって言ってたけど」

「それは俺ではない。あいつには別の師がいた」

 

 黒木はそれが誰かまでは知らない。型としては『二虎流』のようであったが、黒木が知る〝十鬼蛇二虎〟は、教えたのは自分ではない、と言った。

 ナツメがその二虎に連れられて初めて黒木のもとを訪れた時、彼女は十二、三くらいだったろうか。その年ですっかり武術の基礎を身につけていたことに、些か驚いた記憶がある。

 お前が教えたのか。そう聞けば、二虎は違うと言った。その時の、陰を宿した硬い横顔を、黒木は良く覚えている。

 

「……なんか良くわからねえけど」

 

 と、理人が頭を掻いた。

 

「ナツメちゃんがあんたに鍛えてもらって強くなれたって思ってるのは間違いねえと思う。まずはあんたから基礎を学べって言われてさ。他にもいろいろ……」

「あいつが、か」

 

 黒木の記憶にあるナツメは、会話というものを知らないのではないかというような、無口で無愛想な人物だった。

 二虎の死以降、時折黒木のもとを訪れるようになった彼女は、礼儀知らずで、身勝手で、何の前触れもなくやってきたかと思えば、一言の断りもなく挑みかかってきては、会話らしい会話もせず去って行く、という無法者だった。

 奇襲や不意打ちも立派な戦術である。特に、実戦での命のやり取りや暗殺に主眼を置くのであれば、至極()()()だと言っていい。黒木もそう理解してはいた。

 そうやって好戦的な姿勢を見せる一方、ふらりと現れては黒木が鍛錬している姿をただ黙って見つめ、気づけばいなくなっている、なんていう時もあった。

 彼女には、それで充分だったのだ。黒木が何か指し示してやらなくとも、己の足りない部分や鍛えるべき箇所を見極められる。そういう眼と、〝強さ〟に対する愚直なまでの直向きさを持っていた。

 しかし、それゆえに〝強さ〟の糧とする以外で他者を顧みることはない。黒木が知る伏野ナツメは、そうだった。

 護衛者となって、彼女の心境にも確かな変化があったのだろう。

 

「なあ、オッサン」

 

 理人の声に、黒木はほんのわずかな物思いから戻ってきた。

 

「実際のところ、ナツメちゃんの強さってどんなもんなんだ? 俺とは、どれくらい差がある?」

「……今のお前では相手にもならん。お前とあいつでは、強さの階層も種類も違う」

「種類?」

「そうだ。あいつが仮にこのトーナメントに出場した場合、拳願仕合のルールに則った状態では優勝することはまず無理だろう。だが、その一切のルールを廃したならば、可能性はある」

 

 要は武器の使用。それによる相手の殺害が許される場合の話である。

 

「それは、つまり、オッサンも負けるかもしれねえってことか?」

「可能性の話だ」

「可能性があるくらい強えってことだろ!?」

 

 黒木は明確に答えることはしなかった。驚愕して見開かれた理人の目から視線を外し、少し遠くに目を向けた。

 

「あれの本当の実力は、この黒木にも測れん」

 

 ナツメとは幾度も手合わせをしたが、彼女の本気がどれ程かを、黒木は知らなかった。

 ナツメは強くなればなるほど、黒木に対してその実力を隠すようになった。否、実力を出せなくなった、と言った方が正しいのだろう。彼女は相手を「倒す術」を捨て、相手を「殺す術」に傾倒していたのだ。

 その弊害で、()()()()()()には実力を最大限に発揮することができなくなっていた。

 構わず来いと言っても、彼女は困ったように眉を寄せるばかりで、徐々に黒木のもとを訪れる回数も減っていった。

 そうしてその来訪がぱたりと途絶えたのが、四年前。彼女の成長速度は黒木も感心するほどであったから、今はあの頃よりさらに強くなっているだろう。

 

「負けるとは思わん。だが、容易く勝てる相手ではないのも確かだ。あれが全力で挑んでくるのであればな」

 

 理人へ視線を戻すと、その顔は硬く強張っていた。しかしその目には、揺るぎない覚悟のようなものが宿っている。

 ナツメもこの目を見たのだろうか。ふとそんなことを考え、黒木は理人に背を向けた。

 

「ナツメとお前の差は、並大抵の鍛錬では埋まらん。追いつきたいと思うのであれば、まずは実践することだ。どうすべきか、聞いたのだろう?」

「おう!」

 

 と、気合いの入った声が背中にぶつかった。

 ナツメは、存外面倒見がいいようだ。黒木は「殺す術」に執着していた頃の彼女しか知らない。それゆえに孤独であった彼女しか。

 あれにとって良い方に向かっているのであれば良し。己の思考をそう帰結させ、黒木は鍛錬を再開した。

 



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04 後悔

 夕暮れにひぐらしの鳴き声が響いている。島内の巡回を終えたナツメは、夕日に照らされた白亜の洋館を前にひっそりとため息をこぼした。

 広大な敷地に建てられたこの『珍風閣』は、明日の二回戦に向けた壮行会の会場になっている。比較的シンプルなデザインではあるものの、そこかしこに金のかかっていそうな装飾が施された大邸宅だ。

 会場に足を踏み入れて、天井にぶら下がるシャンデリアを見上げたナツメは、あれは一体いくらするのだろう、と意味もなく考えた。

 一階のメイン会場には、すでに結構な人数が集まっていた。今井コスモや若槻武士など、知っている顔もちらほら見られたが、ナツメはそれらを横目に上階へと続く階段を上った。

 烈堂から指定されたのは三階のとある一室。そこで、昼間の会議の報告と、今後についての指示を受けることになっていた。

 ドアの前に立ち、ノックする。返事はなかった。どうやらまだ来ていないらしい。ナツメは中で待つことにした。

 室内はそう広くはない会議室になっていた。中央には木製の長机があり、両側に椅子が二脚ずつ。正面は開口の大きなはめ殺しの窓になっていた。

 切り取られた夕暮れの空が、室内を赤く染めている。ナツメは足を進めた。カーテンを閉めようと窓に近づいて、ふと、吸い寄せられるように眼下の木々に目が行った。木立の先はすでに闇に沈んでいる。その中に、ナツメは見覚えのある人影を見つけてしまった。

 

「ホリス?」

 

 良く確認しようと窓に手を触れ、顔を寄せる。と、背後でドアの開く音がした。反射的に振り返ったナツメは、そこに立っていた相手を見て、

 

「なんで」

 

 と無意識に口走っていた。

 

「鷹山さん、どう、したんですか」

 

 動揺がそのまま声に出てしまい、ナツメは苦虫を噛み潰したような気分になった。

 

「今日の会議の報告にきたんだろうが」

 

 鷹山はいつものように眉間に皺を寄せている。

 

「あなたがですか?」

「俺じゃ悪いか?」

「いえ、そういうわけでは」

 

 ナツメが戸惑って眉を下げると、鷹山はマスクの奥で息を吐いた。

 

「若は今、御前と話をされている。まだ時間がかかるから、その間は俺が代役だ」

 

 そう事情を説明して、鷹山が椅子に座った。ナツメは納得したが、同時に何か嫌な予感もした。もう一度窓の外を見る。木立の暗がりに、ホリスらしき姿はもう見えなかった。

 

「どうした?」と鷹山が言った。

「何でもありません。カーテンを閉めようとしてたところだったので」

 

 ナツメはカーテンを閉め、鷹山に向き直った。

 

「会議の報告ですよね。どうなりましたか?」

 

 鷹山はすぐには答えず、ナツメに目を向けてひと言「座れ」と言った。

 ナツメはテーブルを挟み、鷹山の向かいに座った。クッションの効いた革張りの椅子は、ナツメには柔らかすぎて座り心地が悪かった。

 

「北の断崖で発見されたタンカーだが」

 

 向かい合ってようやく、鷹山が話し始めた。

 

「調査の結果、最低でも百人以上が乗船していた痕跡があったそうだ。それだけの人数が潜伏出来る場所は限られてる。侵入箇所から考えて、おそらくは北部の森林地帯。そこに護衛者の半数を投入して徹底的に捜索することになった」

 

 今回、島に帯同している護衛者の数は約五百人。その半数を侵入者への対応に充てるとなると、拳願ドームに配備できる人員は残り二百五十人。会場の規模と観客の数を考えると心許ない人数である。

 

「会場の警備が手薄になりますが」

「承知の上だ」

「敵の思惑通りでは?」

 

 敵は『黒使』を使い捨ての囮にして、百人以上の兵力を上陸させることに成功した。しかし、侵入の痕跡をまるで隠そうともしていない。タンカーという大胆な侵入方法からしても、寧ろ見つけてくれと言わんばかりだった。

 ナツメでも察せるほどの違和感なのだから、御前や鷹山たちが状況を理解していないはずがない。

 

「思惑がわかってんなら、逆に利用してやりゃいい」

「あえて会場を手薄にすると?」

「そうだ。昨日の会議はまず間違いなく傍受されてただろうからな。それを逆手に取る。どういうことか、わかるな?」

「……こちらも陽動をかけると」

 

 ナツメが答えれば、鷹山はまた「そうだ」と頷いた。

 あえて情報を流し、敵が動きやすい状況を作る。相手の動きをこちらで操作できれば対処も容易だ。しかし、そう簡単に乗ってくるだろうか?

 そんなナツメの懸念を察したのか、鷹山が続けて口を開いた。

 

「奴らも相当な準備と根回しをしてきたはずだ。この機を逃がして、次がある保証もねえ。何より、速水には『蟲』がついてる。お前がそう言ったはずだ。証拠はなくとも、確信はあるんだろ?」

「――あります」

「『蟲』の手まで借りたとなれば、そうそうのことでは引けねえはずだ。気もでかくなってるだろうからな。速水の性格を、御前はよくご存知だ。奴は間違いなく動く」

 

 御前がそう判断したのであればそうなのだろう。ナツメは納得して頷いた。それを確認した鷹山が、さらに言葉を続ける。

 

「この作戦に伴って、護衛者の部隊配置の見直しと、会場警備の再編を行っている」

 

 そこで一呼吸おいてから、鷹山はナツメの目を見据え、言った。

 

「ナツメ、お前は昨日と同じく会場の警備だ。東電の奴らが動くとすれば、おそらく二回戦終了のタイミングになる。それまではお前の判断で行動しろ。もし何かあればその都度指示を出す。それと、加納の仕合の時には引き続きあいつの世話役を任せる。いいな?」

 

 ナツメは返事をしなかった。自分を見据える鋭い目と目を合わせる。承諾の意を示さないことに鷹山は怒るかと思ったが、彼は至って冷静な様子で「不満か?」とナツメに問いかけた。

 

「何か言いたいことがあるなら聞いてやる」

「……どういった理由で自分はこの配置に?」

「単純に、お前はこの作戦に向いてねえからだ。島に潜伏する侵入者共を一人残らず包囲、鎮圧するには高い統率力と連携力が必要だが、お前にはそれが足りてねえ。違うか?」

 

 偵察や索敵ならナツメの得意とするところである。だが、集団で足並みを揃えて包囲、挟撃となると、確かに経験のないことだ。

 

「……いえ、その通りだと思います」

「お前個人の力量は疑っちゃいねえが、適材適所ってもんがある。お前は昨日一日、会場の警備に就いてて要領をわかってるし、拳願ドームの構造も把握してるだろ。殲滅部隊への支援要員としてもお前は確かに適任だが、今の状況を考えれば優先されるべき任務はどっちか。お前にも理解できるはずだ」

 

 正論だった。ナツメには反論の言葉もなく、ただ「わかりました」と頷くしかなかった。

 

「なら、こっちからの報告は終わりだ」

 

 と鷹山が言った。それからテーブルの上で両手を結び、改めてナツメの目を見据えた。

 

「お前から、何か報告はあるか?」

「いえ、特には」

「本当か?」

 

 ナツメは一度口を閉じた。自分を見つめる鷹山の視線に、先ほどのいやな予感がよみがえったのだった。

 

「蕪木浩二とハサド、それに『天狼衆』を名乗る四人組に関してはすでに報告済みです。それ以外には取り立てて言うべきことはありません」

 

 ナツメはきっぱりと答えた。だが、鷹山は依然納得していない様子だ。

 

「ナツメ、本当に俺たちに話すことはないか」

 

 再三の問い。予感はもはや確信に変わっていた。

 ナツメは窓の方へ視線を逃がした。ホリスがいたのは、きっと偶然ではない。もしかすると、鷹山さん――引いては御前も承知済みのことなのかも。ナツメはそう考えた。呉一族が、自分を監視している、と。

 

「どうした?」

 

 鷹山が問う。不審そうな声ではあったが、ナツメはなんと返せばいいのかわからなかった。

 鷹山が何をどこまで知っているのだとしても、自分の口からすべてを説明するには気持ちの整理と心構えが足りていなかった。烈堂相手とはわけが違うのだ。

 ナツメは、鷹山の目が苦手だった。いつも真っ直ぐに向けられた鋭い視線、厳しい言葉。不快なわけではなかった。ただ、こんなふうに厳しく指摘し、怒ってくれる人など今までいなかったから、どうしたらいいのかわからなくて、萎縮してしまう。

 

「なんでも、何もありません」

 

 ナツメは下を向いた。都合が悪くなると口を噤んでしまうのは、もう何度も指摘されたナツメの悪い癖だった。

 

「……そうか、わかった」

 

 鷹山が深々と息をつき、それと共に吐き出された言葉にナツメは驚いた。顔を上げると、鷹山は相変わらず真っ直ぐにナツメを見ていた。しかし、その目に不満や怒りはない。

 鷹山がテーブルに手をついて立ち上がった。そうして、

 

「お前がそう言うなら、そういうことにしといてやる」

 

 そんな言葉を残してドアへと向かった。

 

「そろそろ若も来られるはずだ。それまでここで待機していろ」

 

 振り返ることなく部屋を出て行った背を見送る。ドアが閉じ、室内が静まり返って、ナツメは額に手を当てて俯いた。

 申し訳ない、と思う気持ちも確かにあったが、ナツメはそれと同じくらいに今の状況を「煩わしい」と感じていた。

 すべてが自己責任の世界で生きてきたナツメにとって、組織に属するがゆえの行動の制限は抑圧に近かった。

 それでも『護衛者』の一員である以上しかたのないことであるし、『中』を出てからは『護衛者』として生きる以外に何もなかったから、この不自由さも甘受できていた。更には、三年近くもそんな生活を送っていれば多少なりとも慣れはする。雷庵の言葉を借りれば「飼い慣らされた」といったところだ。

 だが、実際はこのありさまである。結局のところ、自分は『護衛者』になれなかった。鷹山に指摘された「護衛者としての自覚」を持てずに今日まできた。おそらくは、いつかこうなることをわかっていたのだ。ナツメはそう思う。

 そうしてネガティブに支配された思考が行き着くのは、自分は『護衛者』になるべきではなかった。その一点に尽きる。『中』を出るべきではなかったのだ、と。

 いっそ今すぐすべてを放棄して『中』に戻れたら。ナツメはそんなことを考えて、また自嘲した。まったく現実的ではない。この島から誰にも知られずに出ていくことは不可能に等しいだろう。外にホリスがいたように、呉一族も、護衛者の皆も、ナツメを放っておいてはくれないのだ。

 彼らの意図するところが何であれ、行動を制限され、監視されている事実に変わりはない。もどかしい、と思う。ナツメはそう思ってしまう自分に嫌気が差していたが、だからといってどうすることもできないのだった。

 ふと部屋の外に人の気配を感じて、ナツメは顔を上げた。目を向けるのと同時にドアが開き、烈堂が室内に入ってきた。

 

「悪い、待たせた」

「いや、大丈夫だ」

 

 ナツメは首を横に振った。

 

「鷹山さんが来てくれてたから」

 

 烈堂はテーブルを挟んでナツメの向かい――先ほどまで鷹山が座っていた席に腰を下ろした。

 

「鷹山からどこまで聞いた?」

「今日の会議の報告と、明日の任務については」

「会場の警備に就けって話か?」

「ああ。島狩りは私には向いてないって言われたよ」

 

 ナツメが自嘲気味に言えば、烈堂は少しだけ笑った。

 

「まあ、否定はできねえな。索敵に関しちゃお前の領分ではあるんだが」

「私が集団での連携が下手なのは事実だ。この人員配置には納得してる」

「お前がそれでいいってんなら俺は何も言わねえけどよ」

 

 烈堂はスーツのポケットから煙草を取り出そうとしている。ナツメはその手の動きを目で追った。

 

「わざわざ手を回してくれたのに、無駄にして悪い」

 

 ナツメが言うと、烈堂はちらりとだけ視線を寄越して「別に構わねえよ」と答えた。

 

「鷹山は他に何か言ってたか?」

「いや、特には」

「本当か?」

 

 烈堂は煙草を一本、箱から取り出した。そうして真偽を探る目をナツメに向ける。思わず、ため息がこぼれた。

 

「本当に、何も言われなかったんだ。何か俺たちに話すことはないかって聞かれて、何もないって答えたら……そういうことにしといてやる、って」

 

 ナツメはテーブルの上に右手を置いた。少し体を前に出し、こちらを見つめる烈堂の目を覗き込む。

 

「烈、お前じゃないだろう? 鷹山さんたちに何か話したのは」

 

 煙草を口に咥えようとしていた烈堂の動きが止まった。見つめあったまま、お互い沈黙して数秒。先に視線を動かしたのは烈堂だった。

 目を伏せ、指に挟んだ煙草と、反対の手に持っていたライターをテーブルに置く。それからもう一度ナツメを見た。

 

「昨晩、呉の爺さんとホリスが、親父と会って話したらしい。呉一族と、お前の一族との関係について。そのことで俺も親父に呼ばれて、ここに来るのが遅くなった」

「そうか」

「驚かねえんだな」

 

 ナツメは椅子に座りなおして、背もたれに寄りかかりながら窓に目を向けた。

 

「外にホリスがいたんだ。私を監視してるらしい」

 

 ナツメが顔を正面に戻すと、烈堂は眉間にしわを寄せて難しい顔をしていた。

 

「御前は、何か仰ってなかったか?」

「いや、親父からは何も聞いてねえ。だが、呉の爺さんたちはお前の保護を申し出たらしい。親父は断ったそうだが、密かにお前の警護についててもおかしくはねえかもな」

「……余計なことを」

「お前に対する後ろめたさみたいなもんがあるんだろうぜ。お前らの因縁がどうやって始まったのかも聞いたが、そのしわ寄せがお前に集まっちまったことに多少なりとも責任を感じてる様子だったらしい」

 

 何を今更、とナツメは思った。罪悪感も、罪滅ぼしも、何もかもがもう遅い。それより何より気に入らないのは、自分を殺そうとしているのが実の父親で、救おうとしているのが一族の仇敵であることだった。

 ナツメはテーブルの下で密かに手を握った。自分を救うために犠牲になった者が呉一族にいる。その事実が、ナツメの感情をより複雑にしていた。

 

「私を見張っているのは、そうしていれば確実にあの男を見つけられるからだ。呉一族も、あいつを殺したくてしかたないだろうから」

 

 そうやって撒き餌のように扱われた方が、ナツメの心情としてはいくらかマシだった。そうであれば、ホリスたちに対する負い目もいくらか和らぐ。

 烈堂はナツメの言い分に対して否定も肯定もせず、改めて煙草を手に取った。

 

「お前や呉一族が、なぜそこまでお前の父親にこだわっているのかは、親父から話を聞いてある程度理解できた。正直言や、呉一族に関しちゃ因果応報だと思わなくもねえが」

 

 烈堂は手にした煙草に火を点けず、フィルターでテーブルを叩いている。こういう烈堂の姿はあまり見たことがない。

 

「……原因がどこにあったとしても、身内を殺されたことに変わりないから、どうあったって遺恨は残る。しかも、殺しに慣れた者同士の争いだ。報復への抵抗感はないし、手段と力もある。なら、復讐心は強まるだけだよ」

 

 この連鎖が止まることはない。どちらかが根絶やしになるまで。そしてそれは、呉一族ではなく伏野の方だろう。

 ナツメと、あの父親が死ねばこの因縁は終わる。呉一族にとっては、それが一番好ましい結末に違いない。

 

「だが、だったらなおさらわからねえことがある」

 

 烈堂はナツメの方を見ず、手元の煙草に目を落としたまま言った。

 

「お前の父親が、なぜ呉一族じゃなくてお前を狙っているかってことだ。お前がまだ『中』にいた頃ならともかく、そうじゃねえ今になってわざわざここまで追ってくるなんて、何か強い執着があるとしか思えねえ。……お前を捨てたわりにな」

 

 最後の言葉は、ひどく言いづらそうだった。煙草は未だ火が点けられず、烈堂の指先に収まっている。

 

「父親が私を捨てた理由は聞いたか?」

 

 ナツメも、その煙草に視線を向けたまま尋ねた。

 

「お前に、呉一族の血が濃く出たからだって聞いたが」

 

 なるほど。ナツメは心の中で呟いた。呉一族の認識ではそうなっているのだな。

 

「違うのか?」

 

 ナツメが返事をしなかったことに、烈堂は疑問を抱いたようだった。

 まったく違うというわけではないが、事実はもっと複雑で、醜悪だ。父親がナツメを殺そうとする理由もそこにある。

 呉一族すら把握できていない事件があったのだ。それを知っているのは、当事者であるナツメと、父親と、二虎の三人だけである。

 

「……それ、吸わないならくれないか」

 

 ナツメは烈堂の手元を指さした。

 

「吸うのか?」

「だめか?」

「いや、別に構わねえが。お前が煙草吸ってるとこなんて見たことねえから、少し驚いただけだ」

 

 烈堂が煙草の箱を手に取った。腰を浮かせて、ナツメに箱を向ける。取りやすいように、律儀に一本だけ引き出してあった。

 

「『外』に出てからは一度も吸ってなかったからな」

 

 ナツメも同じように身を乗り出して、煙草を摘まんで引き抜いた。

 

「すっぱりやめたわけか」

「そもそもたまにしか吸ってなかったから『やめた』って感じでもない」

 

 指先に挟んだ煙草に目を落とし、ナツメはほんの少しだけ口角を持ち上げた。

 

「私の師匠、って言っていいのかわからないけど、私に武術の基礎を教えてくれた人が、煙管とか酒とか嗜む人だったんだ。それで真似してみたけど、何がいいのか私には……」

 

 ナツメがそう言うと、烈堂は鼻で笑った。

 

「お前にもそんな時代があったんだな」

「昔の話だよ」

 

 ナツメは煙草を口に咥えた。ライターの着火音がして顔を上げると、烈堂が先に煙草に火を点けていた。そのまま、点火済みのライターを向けてくる。ナツメは顔を寄せた。煙草に火を点けて椅子に座りなおすと、烈堂が天井に向かって煙を吐いた。

 ナツメもゆっくり、深く、一口目を吸って、

 

「……父親が私を殺そうとする理由だけど」

 

 腹の底に沈めたものと一緒に吐き出した。

 

「私が母親を殺したからだ」

 

 ナツメは烈堂の反応を確認することなく、手元の煙草を見つめたまま続けた。

 

「まだ十歳かそこらの頃、殺されそうになったから殺した。やられる前にやるのが『中』での鉄則だから。けど、さっきも言ったけど、大事な人を殺された側からしたら、理由なんて関係ない。まして私は、憎き仇敵の血を濃く継いだ〝出来損ない〟で、情けで生かしておいた結果がそれだからな」

「……その呉一族の血は、父親にだって流れてるだろ」

「だからよけいに腹立たしいんだろうって、二虎が――師匠が言ってた。自分にも同じ血が流れてるってことを自覚させられるからって」

 

 ナツメは煙草を口にした。数年ぶりに吸った煙草は、記憶にあるよりずっと苦くて不味い。そもそもあの頃、ものの味なんて気にしたこともなかったが。

 

「目障りだったなら、情けなんてかけずにさっさと〝処分〟してれば良かったのに、そうしなかったのは母親の方が私を守ってくれてたかららしい」

「それなのに、お前を殺そうとしたのか?」

「母親も大概気が狂ってたから。もとは『外』の人間だったらしくて、平和に生きてきた人にとって『中』はそうなってしかたがないような場所だしな。いろいろ、耐えられかったんだろ」

 

 ナツメの母は、ずっと何かに怯えていた。部屋の外は危ないからとナツメを閉じ込め、少しでも出ようとすれば酷く怒って叩いたが、そのあとで泣きながら謝るのだ。「あなたを守るためなのよ」と。何から、とはナツメも聞かなかった。

 同時に、母はナツメのことを恐れてもいた。そう認識する決定的な何かがあったわけではなかったが、幼いながらにそう感じ取っていた。

 だからきっと、しかたなかったのだ。ある日突然、部屋に見知らぬ男が入ってきて、襲われた母を救うためにナツメがその男を殺してしまったことも、それを見た母が、ナツメに対して抱いていた恐怖心に耐えられなくなったことも、母がナツメを殺そうとしたことも、ナツメが母を殺してしまったことも。すべて、しかたなかったのだ。

 お前は何も悪くない。母親が死んだあと、二虎がナツメにそう言った。ナツメもそうだと思ったが、父親の認識だけが違っていて、何もかもが相容れないまま進んだ結果が今である。

 ――と、ここまでを烈堂に話す必要はないだろう。

 ナツメが束の間の回想から戻ってくると、テーブルの上に灰皿が置かれていた。

 

「だからまあ、あの男が私を殺そうとするのは正当だ」

 

 ナツメは煙草の灰を落とした。

 

「お前が母親を殺しちまったことも、正当防衛だろ」

「ああ、私もそう思ってる」

 

 ナツメは母親を殺したことを後悔していない。自分が間違ったことをしたとも思ってない。先に殺意を向けてきたのは母の方なのだから。だが、母が自分を殺そうとしたことに対する怒りや恨みもない。

 ちゃんと割り切れている。ナツメはそう思っている。時折夢に見てしまうのは、後悔や恨みなどではなく、ただの記憶の整理なのだ。そう言い聞かせて、蓋をする。割り切るというのはそういうことだ。

 

「復讐は、正しいとか間違ってるとかでするもんじゃないんだよ、たぶん。私も奪われた側の気持ちはわかってるから、あいつが私を殺そうとする気持ちも、呉一族の気持ちもわかる」

 

 ナツメはまたゆっくりと煙草を吸った。烈堂も指で挟んだ煙草を口元に運び、その指の隙間から感情を抑えた声を出した。

 

「だからって、みすみす殺されてやるつもりじゃねえだろうな?」

 

 ナツメは驚いた。

 

「当たり前だろ、なんでそんなこと」

「三年前、ホリスがいなきゃお前は死んでたそうじゃねえか」

 

 烈堂が煙草の灰を落とした。その手つきに機嫌の悪さが滲んでいた。

 

「お前がホリスと手を組む条件として提示した内容も聞いたが、はなから死ぬつもりだったとしか思えねえ内容だった」

 

 そこまで話したのか。ナツメは肺を煙で満たしながら考えた。その話をするためにホリスも同席していたのなら、きっと鷹山辺りからは詰られたことだろう。申し訳ないことをした。今回も、三年前も。

 

「ホリスはただの保険だよ。勝てる見込みはちゃんとあった。……失敗したけど」

 

 あの男に挑む前に、アクシデントが起きた。雷庵の横槍が入ったのだ。ナツメはそれで怪我を負ったが、ようやく訪れた機を逃すわけにもいかなかった。本調子ではないまま闘いに臨んで、その結果があの様なのだから目も当てられない。

 しかし、これもまた烈堂に話す必要はない。

 

「そりゃ死ぬ覚悟はしてたさ。でもそれは別にあの時に限ったことじゃない。死ぬ覚悟はいつだってできてる」

 

 ナツメは指先で煙草を叩いて灰を落とした。

 

「お前だって『殲滅部隊』の隊長なんてやってるんだから、それくらいできてるだろう?」

「……そりゃあな」

「だったら」

「だが、俺はお前とは違う。それだけの覚悟が必要な相手に一人で挑むほど、俺は勇猛でも無謀でもねえよ」

 

 そう言った烈堂の視線は少し下を向いている。目が合わない眼前の顔を眺め、ナツメは深く煙草を吸った。深く、深く、吸い切って、吐く。

 

「お前はそうだろうな」

 

 自分でも思った以上に冷ややかな声になった。顔を上げた烈堂は眉を寄せていて、驚いているようにも、訝しんでいるようにも見える。

 

「お前と私は確かに違うよ」

 

 短くなった煙草を灰皿に押し付けながら、ナツメは続けた。

 

「お前は恵まれてるからそう言えるんだ。こんな裏社会の只中にいるくせに、生まれが良くて、親や姉弟との関係も良好で、何不自由ない生活を送ってる。常に周囲からのサポートだってある。御前の息子だから、お前を蔑ろにする奴なんていなかっただろ? だから簡単に他人を当てに出来る。その結果そいつを失ったとしても、お前にはお前のために命を使ってくれる奴が他にも大勢いるからな。けど、考えてみろ。それがもし鞘香や御前だったら? お前、その結果に耐えられるか? それほどの相手を失って、それでもまだ、他人を巻き込めるか? 私は、もう無理だぞ」

 

 最後は声が震えそうだった。椅子の背もたれに寄りかかって、腕を組みながらそれを誤魔化した。

 烈堂は黙っている。咥えた煙草を吸いもせず、何か言いたそうにナツメを見つめている。しかし、言葉が見つからなかったのか。ついにはその目をそらしてしまった。そうして「わかった」と小さな声でこぼして、煙草を灰皿に押し付けた。

 

「俺はもう、お前のやることには口を出さねえよ。ただ、最後に一つだけ言っておく」

 

 そう言いながら立ち上がった烈堂は、煙草の箱をスーツのポケットに戻すと、その手をテーブルについてナツメを見た。

 

「俺にとっての親父や姉貴って存在が、誰かにとってはお前かもしれねえってことは頭に入れておけ」

「……そんなの」

「そんな奴いないなんて言うなよ? お前のために命かけた奴が、実際にいるんだからな」

 

 一体誰のことを言っているのか。一瞬、桐生から聞いた二虎のことが頭をよぎった。が、ナツメはそれをすぐに否定した。二虎は他人のために命をかけるようなタイプではない。そして、この話を烈堂が知っているはずもないのだ。

 だったら、当てはまるのは一人しかいない。ホリスたちは、彼のことまで話したのか。心臓を絞めつけられたような痛みがあって、ナツメは顔を顰めた。

 そんなナツメを一瞥して、烈堂がテーブルから離れた。

 

「今日の仕事は終わりだ。下で飯でも食って、あとは自由にしろ」

 

 ドアに向かって歩き出した烈堂を追って、ナツメも立ち上がった。そうしてふと、テーブルの上に置かれたままのライターが目についた。

 

「ライター忘れてるぞ」

「それはお前に預けておく。トーナメントが終わったら返せよ」

「おい、烈……」

 

 烈堂は聞く耳を持たず、軽く手を上げてそのまま部屋を出て行った。

 また部屋に一人残されたナツメは、手の中にあるライターに目を落とした。烈堂が愛用しているジッポライター。確か、鞘香が選んだ物ではなかったか。

 ナツメは再び椅子に座った。背もたれに体重を預け、天井を仰ぐ。目を閉じれば、途端に後悔の波が押し寄せてきた。

 烈堂にあんなことまで言うつもりじゃなかった。自分は本当に嫌な奴だ。それなのに、ここでは誰もこんな自分を見捨ててくれない。

 

「ああ、くそ」

 

 握りしめたライターの感触を確かめながら、ナツメは呻いた。

 やっぱり、護衛者になんてならなければ良かった。

 



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