六色の竜王が作った世界の端っこで (水野酒魚。)
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第一章 少年時代
第1話 山の村の赤子


 

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 春も間近、今年初めての南風が吹いた日。

 空はどこまでも白く淀んで、暖かな風さえ旅人の心を沸き立たせはしなかった。

 裾の擦り切れたマントを着て、堅い杖をついた旅人は、薄汚れた雪の残る道を登って行く。

 冬の間、鬱蒼(うっそう)とした森の中を貫いた細い道を、通う者は少ない。

 春を間近にした今でも、耳に遠く聞こえるのは気の早い春鳥の羽ばたきだけ。

 旅人は新芽の兆す梢の先を見上げて、雨か(みぞれ)が降らないようにと、水の王に祈った。

 この峠を越えれば、目指す村まではもうすぐ。今日中にはたどり着けるはずだ。

 そうすれば、この厄介な荷物ともおさらば出来る。

 旅人は抱えていた籠を覗き込む。

 その中には小さな赤子が、継ぎだらけの布にくるまって、静かに寝息を立てていた。

 あんまり静かにしているので、旅人は時々赤子が死んでいるのでは無いかと思う。

 死んでいてくれたとて構わないのだ。

 旅人が頼まれたのは、ただこの赤子を遠く、遠く、彼の両親が知るはずもない土地の、知るはずのない誰かの元に捨ててくること。

 それも、(わず)かばかりの養育費を添えて。

 

 それは、気味の悪い赤子で。生まれたての癖に、髪も(はだ)もやけに白い。腫れぼったい(まぶた)の奥には、茶とも赤ともつかない潤んだ(ひとみ)が隠れていた。

 一日の大半を眠ってばかりで、声を上げて泣いたとしても、他の赤子のように騒々しくはない。

 そういえば、生まれて直ぐに死んでしまった一番小さい弟も、泣き声は弱々しかったな。

 こいつ、長生きは出来ないだろう。旅人は思う。

 道の向こうに深い藪を見かける度、いっそこのまま捨ててしまおうか、と、そんな考えが脳裏によぎった。

 だが赤子はとても小さくて、そのまま野の獣に喰わせてしまうのは、あまりにも不憫で。

 旅人はぶつくさ文句を言いながら、それでも赤子を捨てずに、山奥の小さな村まで運んできたのだった。

 

 その村には名が無い。

『山奥の行き止まりの村』だとか『山の村』だとか呼ばれていて、村人たちも近隣の住人もそれで困りはしなかった。

 公の地図上で、この辺りはグラナート国のテルム山地と名が付いていた。

 だが、ぐるりを山に囲まれたこの村の人々にとって、山はただ『山』だった。

 北の山には水源がある。遠く霞にけぶる山々から清水が降りてきて、水は村を半分に分ける細い川になった。

 川は村の南、丁度谷になった辺りから、さらに南を目指して下ってゆく。

 海に行き着くまでに、さまざまな名で呼ばれるその川もまた、此処ではただ『川』と呼ばれている。

『川』の上を何かが飛んでいく。あれは背中に羽を持つ人々。鳥人。アーラ=ペンナだ。

 

 アーラ=ペンナは、古代語で「鳥の羽根」を意味する。彼らは体に鳥類の特徴を備えた亜人種で、人間たちからは「鳥人(ちょうじん)」と呼ばれていた。主に、グラナートに多く住んでいる。

 なかでも、ここ『山の村』に住む者は全てが鳥人であった。

 鳥人は信心深く、特に鳥人を生み出したとされる赤竜王(せきりゅうおう)を熱心に崇める。

 それ故に、水を象徴する黒い色は、炎を司る赤竜王を崇める鳥人にとって、もっとも忌むべき色だ。

 良い面を見れば信心深く、もう一面では迷信に陥りやすい。それが彼ら(鳥人)だった。

 

 旅人に背負われてきた赤子は、『川』の西側にある家の夫婦に貰われた。

 僅かな養育費に目がくらんで、赤子を養子に貰うと言った、ペールという夫婦に子はない。二人の年の頃を見れば、これから生まれる可能性も低かった。

 旅人は、厄介な荷物をおろせて清々したと言った顔で、ペール家を後にする。

「……こんなの貰っちまってどうするんだ? 気味の悪いガキだぜ」

 夫が呟くと、妻はにぃっと歯をむき出して笑った。

「決まってるだろ。ちょいと育てて仕事をさせるのさ。育ててやった恩を返させるんだよ。おーよしよし」

 見知らぬ場所でも、大きく泣くこともない赤子を持ち上げて、彼の背にある羽を見た妻は自然に呪い除けの印をきる。

 赤子もまた、背中に羽を負った鳥人で。

 ただ、彼の羽は月のない夜と同じくらい黒かった。

 

 

 赤子はペール夫妻によってレーキと名付けられる。特徴のない、鳥人にはよく有る名だった。

 三歳になる前から、レーキは家の中の用事を言いつけられるようになり、五歳になる前に、畑仕事を手伝うように言われた。

 ペール夫妻は飲んだくれの農民で、作物を売って作った金を、直ぐに酒と替えてしまう。

 次第にレーキの仕事は増えていき、ペール夫妻は働かなくなっていく。

 赤子は旅人の予想を裏切って、十一年生き延びた。

 

「薪小屋をいっぱいにするまでは飯抜きだからね、レーキ」

 初秋のある日、養母に命じられた。この村の冬は寒い。冬の備えは欠かせない。

 秋になって、薪小屋いっぱい薪を用意しても、春を迎える頃にはそれがほとんど空になってしまう。

「さっさとお行き。愚図(グズ)っ」

 目の前で、家の戸が大きな音を立てて閉められた。

 否も応もないのだ。言いつけに背けば飯も食わせてもらえず、最後は養父に殴られる事になるのだから。

 レーキは黙って、斧を載せた重い荷そりを納屋から引っ張り出した。村の周りを取り囲む森に入って、薪に出来る木を探すために。

 ペール夫妻の家から森に入るためには、畑のそばを通る細い道を行かなければならない。

 時刻は丁度、昼を過ぎた頃で、村人の多くが畑に出ていた。

 近所に住む村人達は、背を覆うほど大きくなってきたレーキの羽の色を見る度、眉をひそめて嫌悪の混じった視線を向ける。

 黒い羽。それとは対照的な白い膚。髪も肌も、色素を全て漆黒の羽に奪い取られてしまったかのように、レーキの顔は白かった。

 それが一層、彼を不吉に見せているのかもしれなかった。

 彼が通りかかると、村人たちはみな目をそらし、ささやきあう。『呪われた子が来たよ』と。

「……」

 冬を前にして、収穫の終わった畑で遊んでいた子供たちも、レーキが通りかかると口を(つぐ)む。

 子供たちは、大人たちの態度に簡単に感化されている。

 かつて、彼らはこぞってレーキをいじめの的にしていた。

 父親の代わりに畑に出ているとよく石を投げつけられたものだ。

 一度、口汚く罵る甲高い声と、あざ笑う視線に酷く腹を立てて、犯人をしたたか殴った事がある。その後で、しばらく立ち上がれなくなるほど養父に殴られたが、後悔はしていない。

 だが。その時を境に、子供たちは誰も彼を表立って(あざけ)らなくなった。(ののし)らなくなった。奇妙なものを見る目付きで、遠巻きにするようになった。

 (いじ)められて過ごすのと、恐れられ、そこにないもののように扱われるのと、どちらが苦しいだろう。

 どちらも苦痛には代わりなかった。

「……」

 強くかみ締めていた唇が緩んで、微かに溜め息が吐き出される。

 レーキは子供たちが楽しげに遊ぶ声を背中に聞いて、黙々とそりを引き続けた。

 

 

 秋の森はとても穏やかで、ほんのりと湿った空気を吸い込むと、枯れた葉っぱの匂いがした。

 この辺りは、赤く色づいて葉を落とす木ばかりが生えている。ちらりちらりと木漏れ日が、葉を落とした寂しげな梢の向こうで踊っていた。

 地を這うツル草に、紫と赤が入り混じった小さな実が成っているのを見つけて、レーキはそれを拾っては口に運んだ。味はない。(うつ)ろでも()んでいるような感触だった。

 腹いっぱいになるほどの量はない。ただひもじくて、何でもいいから食べたかった。

 もう少し山の奥に分け入れば、甘い実をつける灌木(かんぼく)があるはずだ。そこまで行こう。

 薪にしやすい枯れた倒木を探しながら、レーキはそりを引いて山道を登って行った。

 

 薪で一杯のそりは重い。力には自信があるといってもレーキは子供だ。歯を食いしばり、汗だくになって薪を運んだ。

 灌木になる実は、あらかた誰かに取り尽くされた後で。残っていたのは、まだ小さくてすっぱい若い実だけだった。えぐみのあるすっぱい実を、それでもいいから摘んで食べた。こんなんじゃ、腹の足しにもならない。でも食べないよりはましだ。

 ぐるぐると空腹を訴えて鳴く腹を抱えて、薪に出来そうな木を探す。倒木は見つからなかった。

 仕方なく、あまり大きくは無い裸の木を切り倒した。

 そり一杯に薪を積んでも、一度では薪小屋の半分にも満たない。

 二度、三度、終いには足取りをふらつかせながら薪を運ぶ。

 今日はまだ何も食べていない。腹の虫が鳴く度、気力が萎えた。

 レーキは同じ歳の子供に比べると、ずっと小柄だ。ろくろくものを食べさせてもらえないせいで、伸び盛りに入っても、体重はおろか身長も中々増えてゆかない。

 家から森へと向かって空のそりを引きながら、レーキは細い溜め息をつく。

 ──夜は食わせてもらえるといいな……。

 昨日は昼から飯抜きだった。目が気にくわないとといって、養父が腹を立てたせいだ。

『捨て子の癖に感謝をしらねぇ。かわいげのないガキだ。そんなだから実の親にも捨てられるんだ』

 罵声と一緒に、拳が飛んでくる。

『お前は薄汚い捨て子なんだ』

 幼い頃から、幾度と無く言われた言葉。その後は決まって、恩着せがましい台詞が続く。

『育ててもらって感謝しろ』と。

 養父に殴られた頬は酷く痛んだが、もう泣く事はない。顔も心も、固く石になってしまえばいいと思った。傷つかぬように。

 

 森に戻る途中で、小耳に挟む。近くの村に盗賊団が出たと。

 数人の大人たちが集まって、深刻そうな顔で話し合っていた。隣を通りすぎた時、聞くとは無しに耳にした。

「……半分くらいは殺されたとさ。一切合切もっていかれたと」

「何ともおそろしいじゃないか……嫌だねぇ」

「この村も危ないかもしれん……何せアレが……」

「しっ……噂をすればだよ……」

 立ち止まって、聞き耳を立てているレーキに気づいた一人が、鋭く合図する。

 大人たちは顔をしかめて、呪い除けの手をすると、こそこそと散っていった。

 ──ふん。みんな盗賊にでもやられちまえばいい。

 レーキは唇を噛んで空を仰ぐ。時刻は早夕刻に近い。急いで、養母の言いつけを済ませてしまわなければ。

 



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第2話 村の火

 薪小屋が一杯になる前に、日がすっかり傾いた。

 森の中ではもう物が見えない。

 鳥人の中には、夜も完璧な視力を維持する係累も居たが、レーキは違った。むしろ著しく視力が落ちる。

 さいわいなことに、今夜、夜道は月に照らされていた。双子の兄弟月が、どちらも天に昇っている。

 空腹で、もつれそうになる脚を(だま)し騙し家路を急いだ。

 丘を越えて。もう直村が見えてくる。一休みしようと、レーキは足を止めた。

 手に出来たまめが何度も潰れて、今ではすっかり固くなった掌をじっと見つめる。

 ──逃げ出してしまおうか。

 近頃レーキは、良くそんなことを考える。逃げ出して流民になって、どこか遠い国へ逃れてゆくんだ。

 そうだ。船乗りになろう。話に聞いた海に行って、こっそり船に忍び込み、船乗りに混じって働くのだ。

 船に乗るうちに、(はだ)はいつしか赤銅色に焼け、真っ黒く薄汚い色をしていた羽も赤く焼けて、誰もがうらやむような色になって。

 みんなが俺を罵らなくなる。優しく迎えてくれる。

 養父母も、立派になって帰ってきた俺を見てうれしそうに微笑んで、俺を捨てた本当の両親ですら、俺を見て感激の涙を流す……

 昔、よく夢見ていた御伽噺(おとぎばなし)。最後にどうしても本当の両親の顔を思い出せずに、空想は終わってしまう。

 馬鹿馬鹿しい。おろかな夢想を打ち払って、レーキは顔を上げた。

 村の空が不思議と明るい。否、むしろあれは赤だ。夕焼けの赤色。

 すっかり日も暮れたと言うのに、残照よりも明るく村が照らされている。

 綺麗な色。胸がどきどきする。祭りの時みたいな気分だ。

 ぼんやりと村を見つめて、レーキはそっと笑った。

 

 

 祭りの最後はきまって夜。

 村人は皆、広場に集まって、村祭りの飾りに使った木製の像を火にくべる。

 広場にうずたかく詰まれた竜人の像。美しい文様の記された像に藁をかぶせて、火をつける。

 像を燃やすのは、祭りのために村へ降りてきてくれた竜人達を、月におわします竜王様の所に返すためだ。

 藁はぱちぱちと音を立て、火の粉を沢山飛ばしながらやがて燃えつき、それから竜人の像が燃え上がる。

 それも夜半には火の気つきて、その一瞬前にひときわ大きく華々しい色で、巨大な炎が上がる。

 養父母は広場に出かけていて、レーキは家の辺りからその火を見ていた。

 彼にはご馳走も、お楽しみも何もなかった。

 それでも、レーキは祭りが好きだった。

 天空を舐めるように上がる炎柱、人々が歌い踊る音。旅の楽隊が祭りの音楽を奏でる。

 村中が何だかうきうきとして、まるで一時夢の国に迷い込んだみたいな。

 誰もが皆浮かれ騒ぎ、誰もが皆優しくて、レーキの存在を()む事よりも、祭りを楽しむ事を優先させる。

 一人取り残されている寂しさはある。

 だが、意地の悪い仕打ちにさらされることの無いこの日は、レーキにとって一年で一番楽しい日だった。

 大きな篝火(かがりび)が、燃えつきて輝くその瞬間、クライマックスを迎える祭り。広場で歓声が上がる。

 鳥人の大半は、彼らを創造したとされる赤竜王が象徴する火を祭り崇めている。

 レーキも火は大切な、尊いものなのだと教えられてきた。

 だからなのだろうか。こんなにも、あの赤い炎に引き付けられるのは。

 

 

 村が近づいてくるにつれて、一層赤みが増す。直にそれが、炎の赤であるとレーキにも分かった。今は祭りの季節ではない。昼間聞いた嫌な噂が頭をよぎる。

 レーキは一目散(いちもくさん)に駆け出した。

 

 村が燃えている!

 

 そりは打ち捨てた。身軽になった足が、飛ぶように走る。

 微かな眩暈(めまい)。足がもつれて何度も転びそうになる。

 村の入り口に建てられた物見櫓(ものみやぐら)にも、火がかけられていた。

 市場の立つ広場を駆け抜ける。

 熱い。呼吸が速くなる。吸い込む度に、煙と熱の混じったきな臭い味がする。

 祭りの時と少し似ている臭い。でも、人々の楽しそうな声は聞こえない。

 広場には、大勢の見知った顔が倒れていた。誰もかも皆、血を流し(うつ)ろな目をして。

 昼間、広場でこちらを見て逃げていった村人が、周りの者と同じような目をしてレーキを見上げていた。今度は逃げられないだろう。彼には片足がなかった。

 立ち(すく)みそうになる。生きている人の気配はない。嗚咽(おえつ)がこみ上げる。泣き出したのは、煙のせいばかりではない。

 家まではもう少しかかる。泣きながらレーキは走った。

 どうしていいか、何をするべきなのか。解らない。ただ走った。

「……ああっ!」

 家は、すっかり炎に包まれていた。辺りに養父と養母の姿はない。二人とも無事に逃げたのだろうか。家の中に、捜しに入ろうかとも思った。だが、戸口からは赤い炎の舌が(のぞ)いている。

 だめだ……燃え上がる家を前にして、茫然(ぼうぜん)と立ちつくす。

 こんな事になってしまえばいいと、願った訳じゃない。ただ、ここから逃げ出したかっただけ。

 自分を(ののし)る人々から、養父母の仕打ちから、ただ逃れたかっただけ。

 ばちんっと燃え尽きて、(もろ)くなった柱が()ぜる音がする。ごうごうと燃え盛る炎の熱が、この場所へ近づくなと警告する。

 なす術も無く後ずさった背に何かが当たって、レーキはそれを振り返った。

「……見つけたぞ」

 見上げたその顔は、三軒先に住む大工だった。赤い炎に照らされて、恐怖と憎しみが入り混じったその顔には、血に飢えた者の狂気が爛々(らんらん)と宿っている。レーキは息を飲んで、一歩身を引いた。

「見つけたぞぉぉぉぉ!!」

 大工が不意に雄たけびを上げる。その声に弾かれるように、レーキは(きびす)を返して走り出す。振り返れば、一瞬遅れて手にした山刀を振り上げた大工の後ろから、叫びを聞きつけた生き残りの村人たちが、手に手に棒や農具を手に駆けつけている。

「見つけた! あいつだ! あいつだ!」

 口から泡を飛ばして大工が叫ぶ。言葉にもならない呪詛(じゅそ)の声を上げて、村人たちは少年を追う。

 その背に不吉な黒羽を負った少年。慎ましく暮らす山里に盗賊という大きな災厄(さいやく)を運んだ少年。

 それが本当に彼が成した事なのか、そんな事はどうでもよかった。やり場の無い怒りと憎しみに、ただ形を与えたいだけ。

「……はぁっ……あっ……はっ……!」

 レーキは必死で逃げた。捕まればどうなるか。

 今の村人たちには何を言っても通じない。どんなに言葉を尽くして、自分のせいでは無いと訴えても、彼らは許してなどくれない。

 怒り狂った養父と同じだ。彼にはよく解っていた。

「……っ!?」

 何かが顔の横を過ぎって行った。大人の拳ほどもある(つぶて)だった。まともに当たっていたらと思うと、ぞっと背筋を冷たい物が撫でて行く。

「……げほっ……ひっ……!」

 必死で走れば走るほど、煙を吸い込んでしまう。

 苦しくて苦しくて。とめどなく両の目から涙がこぼれる。

「……っ?!」

 不意に、何かに足をとられた。瓦礫(がれき)だったのか死体だったのか。

 レーキはそのまま道に倒れこんだ。立ち上がろうともがく間に、追いついた大工の顔が、炎の赤い色を受けて少年を見下ろしていた。

 大工は山刀(やまがたな)を振りかざした。

 一撃でこの忌まわしい子供を(ほふ)ろうとした彼の顔は、一瞬喜びに(ひど)(ゆが)んだ。

 

 いやだ。嫌だ。死にたくない。こんな風に死にたくない。こんな所で死にたくない。死にたくない! 死にたくない! 死にたくない!

「……止めろぉぉぉぉぉぉっ!!」

 山刀が振り下ろされようと言う瞬間。

 世界から音が消えた。

 ただ自分の心臓が脈打つ音だけを感じて、鈍い切っ先が迫ってくるのを、不思議な心地で見つめていた。

 不意に。右眼の奥で何かが弾けた。

 大きく見開かれていた(ひとみ)が膨れ上がり、それを食い破るようにして、自分の中で生まれた何かが飛び出していく。

 燃え盛る炎が一瞬で大工を焼き尽くし、鳥が羽ばたくようにゆらと震えて、そのまま辺りの火事場に紛れた。

「……!?」

 恐怖に叫びだす(いとま)も無く。次の瞬間、とうとう屋根を支えきれなくなった柱が崩れて、大工のなれの果ては倒れこんだ壁の下敷きになっていた。

「……っ」

 熱い。体中が熱い。心拍があんまり早くて息をする事すらままならない。

 痛い。右眼では何も見えない。痛くて熱くて泣き出したいのに、何も感じない。

 ばちっ! 家が爆ぜる音がレーキを正気づかせた。

 ここにいちゃだめだ。逃げなくちゃ。逃げなくちゃ。

 レーキはよろよろと立ち上がる。奇跡的な事に、腕にも足にも傷は無い。ただ体中が熱くて、内側から燃え上がっているように熱くて、呼吸をする事さえ苦しい。

 倒れてもなお燃え盛る家の残骸(ざんがい)(はば)まれて、残りの村人は立ち往生している。

 今を逃せば、直に空を飛べる若者が瓦礫を越えてこちらに来るだろう。

 レーキは、村を囲む山に向かって走り出した。

 追っ手を確かめるために振り返りもせず、何度も転びながら。

 それでも、ただひたすら森の中を走り続けた。

 

 走って走って。そのうち鳥目のレーキには、今、自分が何処にいるのか見当もつかなくなる。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 冬も近くなった夜の森は冷たく、月明かりに揺れる木々の枝でさえ恐怖を誘う。

 空腹と疲労で、走り続けることの出来なくなったレーキは、それでも手探りで森を進む。

 村から離れるにつれて、右眼が痛みだした。そっと頬に触れてみると、(ただ)れた皮膚に触れて鋭い痛みが湧き上がる。

 闇雲に(やぶ)を掻き分けたせいか、むき出しの手や顔にいくつも擦り傷が出来ていた。それもひりひりと痛みだす。

 それでも、立ち止まることが恐ろしかった。立ち止まれば──追いつかれれば、村人たちにどんな目に合わされるかわからない。

「……俺が……何したって……言うんだ……っ」

 ただ薪を取りに行っただけなのに。ただ養母の言いつけを守っただけなのに。

「……」

 ──ああ。あいつら、きっと死んだんだな……

 轟々(ごうごう)と音を立てて燃え盛る家。十一年間暮らしてきた家。

 決して楽しいとは言えなかった場所。優しいとは、口が裂けても言えなかった養父母。苦しくて逃げ出したくて、一刻も早くその時が来ることを願っていたのに。こんな形で願いが叶うなんて。

「……俺のせい、なの、かな……?」

 村人たちの言うように、俺が不吉な黒羽だから?

 俺が災いを呼び込んだから?

 俺が、やられちまえなんてちらりとでも思ってしまったから?

 今も、耳の奥に大工の断末魔(だんまつま)がこびりついて離れない。

 あれはなんだったんだ。あの炎は。まるで俺から生まれたみたいだった。

 ──俺が殺したのか。あの大工を。

 親しくはなかった。他の村人と同じように、レーキを()()として扱っていた連中の一人だった。それでも心は痛んで、重い感情が湧いてくる。

「……ッ痛ッ」

 何かに(つまづ)いた。派手に転んで、レーキは地面にうずくまる。疲労と空腹、それに(ひど)い罪悪感。起ち上がる気力もない。ああ。酷く右眼が痛む。

 ……もう、いいや。

 枯れ葉の積もった秋の森は柔らかく、静かで。ふっと何もかもがどうでも良くなって、レーキはそのまま眼を閉じた。



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第3話 盗賊の砦で

 目覚めたのは、(わら)ぶとんの上だった。

 薄暗い室内は心地好い暖かさで、レーキはふんわりと良い匂いのする藁に寝かされている。頭が、というよりも眼が痛い。

 手で触れてみると、布のようなものが触れた。手当してある。

「……ここは、どこ?」

 声に出していってみる。喉が(かす)れる。長いこと、まともに声を出していなかった証しだ。

「おう、起きたかい」

 年寄りの声がした。部屋の(すみ)、暖炉の前にうずくまって、鍋をかき回していたじいさんが振り返る。

 枯れ木のようにやせ細ったじいさん。じいさんの右眼は白濁(はくだく)して、薄気味悪く開かれたまま。だが、左眼は人なつっこく細められ、前歯がほとんど抜け落ちた口が笑っていた。

「ここは(とりで)だよぉ……腹、減ってねぇか。坊主」

 じいさんは鍋をかき回した(さじ)で、スープをすくって味見する。スープをすすって歯をしゃくる音がいかにも旨そうで、レーキは生唾を飲み込んだ。

「……減った」

「ほうほうほう。それじゃあ、じいさん自慢の鶏スープを飲ましてやろうかね」

 じいさんは体を揺すって笑った。底の深い(はち)にたっぷりとスープをよそって、ゆっくりゆっくりマイペースに寝床まで運んできてくれる。

 レーキは鉢を受け取ると、礼も言わずにがっついた。いったい幾日の間眠っていたのだろう。

 腹が減って、腹が減って、もう辛抱できない。慌てて食べたせいで口に火傷(やけど)を作った。

 でも構うものか。温かいスープは胃の()に染み渡る。腹の底から元気がわいてくる。レーキは瞬く間に二杯を平らげた。

 三杯目をお代わりすると、じいさんは嬉しそうに笑った。

「まだまだたんとあるが、そのくらいにしとくんじゃ。いっぺんに食べると吐いちまうぞ」

 まだひもじかったが胃は温かい。ぼんやりとじいさんの姿を(なが)める。

 じいさんの腕は古傷だらけで、指は何本か欠けていた。

 じいさんはだれ? (たず)ねようとする前に、急に眠気が襲ってきた。

 落ちようとする(まぶた)をこする。じいさんが、腹が減るならもう大丈夫だと言ってくれた。

「後はよーくお眠り。早く傷を治すんじゃよ」

 うん。レーキはうなずいて、毛布を肩まで引っ張り上げる。

 ──助かったのか? 俺は。

 ……わからない。分からないが、今はただただ眠りたい。

 レーキはそのまま眼を閉じると、深い眠りに落ちた。夢は一度も見なかった。

 

 次に目が覚めたのは朝のことだった。

 鎧戸(よろいど)が閉まっていた窓から明るい陽の光が差し込んでいる。

 まぶしい。レーキは(ひとみ)をすがめた。その瞬間鋭い痛みが右の眼に走る。

 じいさんは、また鶏スープを食わせてくれた。たっぷり食って、また眠る。

 一度小用に起き上がる。歩を運ぶ度に傷が痛んで、足もとがふらつく。

「もう少し寝とらんとだめだな」

 包帯を取り替えながらじいさんが言う。

 三日ほどそんな状態が続いた。一週間ほどして、すっかり起き上がれるようになると、レーキは(かしら)と呼ばれる男の前に引き出された。

 

 頭の年の頃は、丁度青年と壮年の半ば。頬を走る傷さえなければ、色男といっても良い。

 唇の左端が微かに釣り上がって、いつでも笑っているように見えるのも傷のせいだ。

「さすがに子供だ。治りが早い」

 頭はそういって笑った。笑顔は彼に一種の凄みを与える。

 レーキはおびえて息を飲んだ。頭はそれをおかしむように歯を見せる。

「まだ痛むか?」

 ふとした拍子に、顔面が引きつれるような痛みを感じるが、足はふらつかなくなった。と、レーキは答える。

「お前は砦の近くで行き倒れていた。それを見張りが見つけた。俺は始末しろと命じたが……飯炊きのじいさんが可哀想だとゴネてな。それでお前を助けた」

「……ありがとう……ございます」

 始末しろ。頭の言葉に背筋が(こお)る。じいさんのお陰で助かった、のか。感謝してもしきれない。レーキは慌てて深く頭を下げた。

「さて。傷がすっかり癒えたらどこへなりと行け。お前は自由だ」

 頭の言葉の意味がうまく飲み込めなくて、レーキは立ちつくした。

「ここは盗賊団の砦だ。ガキは必要ない。どこへなりと行ってしまえ。……ただし、この砦のことをどこかで話してみろ。どこに逃げてもお前を見つけだして首を()ねてやるからな?」

 ──自由。

 ずっと待ち望んでいた。解き放たれる日を。あの村から、家から、養父母から。

 したいことは山ほどあったはずだった。行きたい所も。でも。

 しばらくの間考え込んで、レーキが出した答えは。

「……俺……自由なら、ここにいたい。ちゃんと仕事するから、ここにおいて欲しい」

 たった十一才の子供が、一人で生きて行けるほど世の中は甘くない。ましてや不吉な黒羽の子供なぞ。レーキはそれを知っている。彼にはまだ、庇護(ひご)が必要だった。

 たとえ何処かの村に戻ったとしても、前と同じ、いや、養父母がいない分だけ前よりも、もっとひどい扱いを受けることだろう。それなら。盗賊たちと一緒のほうが、まだ良いような気がした。

「……お前は何ができるんだ?」

 頭の声音には、揶揄(から)かうような風がある。彼は頬杖(ほおづえ)をついてレーキを見ている。

(まき)割りとか、畑仕事とかいろいろ。教えてもらえれば何だって出来るようになる」

「飯炊きはどうだ?」

「できる。……出来ます。あんまり()った料理はしらねえけど……覚えます」

 必死の表情で、(すが)り付いてくるちびすけ。ついつい情にほだされたというのではないのだろうが。

「……いいだろう」

 頭は(うなず)いてくれた。

 

 動けるようになると、早速仕事を命じられた。

「働かざるもの食うべからず、だ」

 芋の詰まった(たる)を運んできた、ひげさえなければまだ幼げな顔立ちの男はそういった。

「俺はテッドだ」

 レーキの頭を撫でた男は、歯をむき出して笑う。ぎこちなさは残るものの、レーキも微笑み返した。そんな二人を、じいさんが嬉しそうな顔をして眺めている。

 テッドはたまに台所にやってきた。どうやらレーキが来るまでは、彼とじいさんが台所の係だったようだ。

 レーキはじいさんを手伝って、台所仕事をすることになった。

 じいさんと一緒に仕事をすることは、とても楽しい。じいさんは物知りで、旨い飯の作り方を沢山知っていた。

 何より、いつでも食事を腹一杯食えることが嬉しかった。

  男ばかりの所帯。飯時はそれこそ戦争のようで、目が回るほどの忙しさで。

 だが、それ以外の時間はそこそこ余裕がある。

「暇ならその辺をぶらぶらしておいで。夕飯時になる前に帰ってくればええ」

 じいさんがそう言ってくれた。レーキはずっと(こも)りっきりだった台所を出て、盗賊がアジトにしている古い砦の中をあちこち歩き回る。

 打ち捨てられて、管理する者もいなかった砦に盗賊が住み着いたのは、もう随分昔の事だ。

 砦は切り立った崖の上に建てられ、守るに易いが攻めるは固い。欠点といえば砦の場所は山の中で、補給の術がなく篭城戦(ろうじょうせん)には向かないという事だろう。

 円く作られた歩廊(ほろう)を巡って、レーキはあちらこちらを(のぞ)きこんで見る。

 かつては王の兵士達が詰めていた部屋には、むさくるしい盗賊たちがたむろして、レーキに鋭い一瞥(いちべつ)をくれる。

 盗賊たちは全部で二十人程度の集団で、皆この砦に寝起きしていた。

「なんだこのガキは」

「お前が見つけてやったガキだ。おかしな色の羽の鳥人だと言ってたろ」

「おう。ガキぃ。その羽良く見せてみろよ」

 揶揄(からか)ってくる声に、どうしてよいかわからずレーキが戸惑っていると、背後から気配がした。

「おいおい。羽が黒けりゃ、見張りの時便利だろ?」

 テッドだった。顔見知りを見つけた安堵にレーキがほっと息をつくと、頭をくしゃくしゃと撫でられた。

「探検か? ぼうず。……コイツはレーキだ。今はじいさんの助手をしてる。俺達の仲間になった」

 鼻で笑うもの、面白がるもの、挨拶代わりに笑うもの。反応はさまざまだったが、あからさまに拒絶を示すものはいない。

「……よ、よろしくお願いしますっ」

 レーキが慌てて頭を下げると、どっと笑い声が上がった。

 

 直に、顔見知りが増えた。改まって紹介してもらったわけではない。

 けれど、盗賊たちはレーキが居るということに慣れて、それを受け入れたようだった。

 台所仕事の合間に、あちらこちらを探検して回るレーキを、男たちは黙認する。

 盗賊たちは男所帯で、女っけがない。前の頭が女はいさかいの種になると言って、この盗賊団を女人禁制にしたらしい。

 おかげで家事の全てを自分たちでやることになったが、慣れてしまえば気楽なもんだ。そう教えてくれた鍛治(かじ)のタイクは使いやすい短剣をレーキに作ってくれた。

 前のお頭は名をヴァーミリオンと言った。豪胆な人柄で、仲間たちの尊敬を一身に集めていた。年を取って、今はもうこの世にはいない。だが、彼の残した掟は今でもかたくなに守られている。

 ヴァーミリオンの後を継いだ今の頭は、彼を(しの)んで盗賊団に名をつけた。「ヴァーミリオン・サンズ」と。

「俺たちは皆、ヴァーミリオンを名乗る。自分たちを家族のようなものだと考えているんだ」

 そんなことを言いながら、剣士のカイは短剣の使い方を教えてくれる。

 癒えてもなお無残な、レーキの右眼の傷口を隠すため、眼帯をくれたのも彼だった。

「男前が上がったじゃないか」

そう言って褒めてくれた、馬丁役(ばていやく)のサランは、馬の乗り方を教えてくれた。

「いいか。怖がったら、馬も不安になる。いつでも堂々として居ろ。よく言うことを聞いたら褒めてやる。しくじったり命令を聞かないようならちゃんと叱ってやるんだ」

 盗賊たちの中で、レーキはのびのびと生きる。

 今までの暮らしと比べると、ここでの暮らしはずっと人らしい。

 皆のために汗を流して働き、たらふく飯を食う。疲れたら眠る。

 ガキだから、出来ることに限りはあったし、揶揄かわれることもあったが、黒羽だからと、遠慮されたり馬鹿にされたりすることはない。さいわいなことに、盗賊団に鳥人はいなかった。

 冬を目の前にした略奪の季節が終わり、普段よりもずっと暖かい冬が来た。

 春が来て、季節は巡り巡って、いつの間にやらレーキは十三才になっていた。

 



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第4話 レーキ・ヴァーミリオンの誕生

「とうとう明日だな」

 テッドが皿を洗いながら言う。彼は盗賊団の中では小柄なほうだった。この何年かで急に背たけの伸び出したレーキは、彼よりも頭半分ほど背が高くなっている。

 相変わらず、レーキと一番親しいのはテッドだった。一番年齢が近い、というのもあるかもしれない。

 レーキはうなずき返す。明日はとうとう初陣だ。近隣の村を(おそ)いに行く。

 今までも、略奪を行う仲間たちの後ろに人足としてついていったことはあった。

 だが、明日は初めて馬を与えられ、武器を取って近隣の村々を襲撃する。

 不安と、いくばくかの期待。そして小さな誇り。ようやく、本当に盗賊団のみんなの仲間になれる。足手まといの小さなガキじゃなく。

 

 夕食の後片付けを終えて。レーキは星の明るい空の下へと出た。

 今日の月は兄の月だけ。半月だった。おかげで星のまたたきが見える。

 レーキの鳥目は、滋味(じみ)のある食事を続けていくうちに改善されていった。この明るさならどうにか物が見える。

 思い切り羽を伸ばした。

 文字通り漆黒の羽を目一杯広げて、大きく伸びをするように、肩の筋肉を緊張させる。

 一打ち羽をふるえば、わずかに土ぼこりが舞う。思い切って羽ばたく。翼の下で風が生まれて、ふわりと体が軽くなって行く。完全に浮き上がる瞬間つま先が大地を蹴ると、レーキは空に浮かんでいた。

 

 鳥人(アーラ=ペンナ)は空を飛ぶ。それは必ずしも正解ではない。鳥人の中でも人との混血が進んだものは、羽が退化して飛べなくなる。混血の世代を重ねるごとに、鳥人は人へと近づいて、骨格もすっかり重くなってしまう。

 レーキの羽はしっかりと大きくて、骨格は軽く、空を(かけ)るための力を十分に備えていた。

 年頃になって骨格が固まって来ると、鳥人の子供たちは飛行訓練を始める。

 その時、本来なら親や年長者たちが先生役になってくれる。だが、レーキにはそんな人々はいない。盗賊団で暮らすうち、自己流でどうにか風を掴んだ。

 鳥人の癖に飛べないのかと言われたことが悔しくて。やけになって飛ぶことを覚えた。

 風は、空は、彼の味方だ。ミスを犯せば、そのまま墜落することもありえると、頭の何処かで理解していた。だが、空を飛んでいて恐ろしいと思ったことはほとんどなかった。

 上っていく風の渦を捕まえて、羽を広げて浮き上がる。上ってしまった後は風に身を委ねて、旋回しながら降りてくる。

 ──俺は薄情なのだろうか。

 夜空を緩やかに舞いながら、レーキは思う。

 盗賊たちとの暮らしは快適だ。それは養い親と、片眼を代償に手に入れた生活だった。

 養父と養母を憎んでいた。殺したいとまで思っていたかは今となっては分からない。

 でも、彼らは死んでしまった。

 レーキを助けようとはしなかった村人たち、石礫(いしつぶて)で彼を追った子供たち。

 みんな大嫌いだった。

 今は、彼らを殺したかもしれない盗賊たちと一緒に暮らしている。

 そんな生活を楽しいと感じている。

 ──いいきみだ。竜王様の罰が下ったんだ。レーキは嘲笑する。

 今のこの生活は、大勢の犠牲の上に成り立っている。汗水垂らして働いて全うに生きている人々の蓄えを、かすめとって俺たちは生きている。

 それで構わないと思う。力ずくで奪われたくないのなら、武装すればいい。それが無理なら逃げ出せばいい。弱いものが強いものに食べられる。それはとても当たり前のルールだ。

 でも、あの日あの時。村の広場で見た光景を忘れられない。死んでしまった大勢の村人たち。真っ赤に燃え盛る家々。死体には子供達もまじっていた。

 俺は盗賊なんだ。心の片隅にこびりついた光景を吹き飛ばそうと、一層速く風を切って飛ぶ。

 明日は初めて略奪を行う。これで一人前になれる。みんなと一緒になれる。

「……俺は、ヴァーミリオンの息子。レーキ・ヴァーミリオンなんだ!」

 天空高い所でびゅうびゅうと猛る風の中、レーキは思い切り叫んだ。

 自分に、仲間に、そして死の王の国に逝ってしまった村人達に向かって、言い聞かせるように。

 

 中天に月がかかる。少し大きめの、あれは兄の半月。双子の兄弟月の片割れだ。

 興奮を抑えきれない馬の鼻息、黒く塗り潰した馬具が立てる密やかな音。収穫を予想して笑いあう声。

 ヴァーミリオン・サンズはすっかり出発の準備を整えて、後は(かしら)の命令を待つばかり。

 皮鎧(かわよろい)をつけ、馬にまたがったレーキは出撃の(とき)を待っている。

 大人びた横顔は、とても(よわい)十三の子供には見えないほど落ち着き払っているように見えた。だが、本音を言えば緊張のあまり、無駄口たたく余裕もないのだ。

「緊張しすぎだ」

 テッドが小突いてくる。思わず照れ笑いが漏れると、レーキの表情にいくぶん少年らしさが戻る。

「いいか、野郎共。よく聞け。サンキニは小さい村だが、近くに金の取れる川がある。村人は金を隠しもっている可能性がある。徹底的に捜せ。はむかうなら殺せ」

「女は犯してもいいんですかい?」

「お前は止めたって()っちまうだろうが」

「へへへへ」

 誰かの軽口に、ぱらぱらと笑いが起こる。頭は唇の端を吊り上げて笑った。

「今日はいつもと違うことがある。今日からレーキが加わる」

 視線が、馬上の少年に向けられる。レーキは胸を張った。誇らしげに。

「お前もそこそこ腕が立つようになってきた。しっかり働けよ」

 はい。レーキは大きく応じる。頭はわずかに目を細めてうなずいた。

「いくぜっ!」

 号令に応える喊声(かんせい)が、アジトの空に大きく木霊して、消えた。

 



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第5話 出会い

 サンキニの村は静かだった。

 斥候(せつこう)として、村に向かったテッドが帰ってきてそう告げた。雄叫びを上げ、本隊が雪崩(なだれ)を打って村に迫る。

 確かに、村は静かだった。窓という窓の鎧戸は閉められ、戸口からは明かりも見えない。

 砂金によって財を築いた村の家は、近隣の村々と比べてしっかりした作りになっている。収穫も期待できそうだ。

 村の中心、市場が立つ広場を横切り、手始めにその奥の村長宅を目指す。

 怒濤(どとう)のように盗賊たちが迫る。大通りのどん詰まりに位置する村長宅は、他の家々よりもひときわ立派な造りだ。

 近づくにつれて。その家の玄関に、ぽつんと誰かが(たたず)んでいるのが見えた。

 暗い灰色のフード付きマント。フードを目深にかぶっているその人影は、シルエットからすれば女性だ。

「おんなだぁっ!」

 お調子者が飛び出した。次の瞬間。彼は何か見えない壁のようなものに阻まれる。それが彼の体をからめ取り、馬ごと静止させる。

「……愚かなこと」

 小さな呟き。それは、盗賊たちの驚きにかき消される。

「法士だっ!」

「法士を雇いやがったんだっ!」

 

 地上の国には王がいる。王がいて大臣がいて将軍がいて、彼らが国を動かしている。

 天には天の王がいる。天の理を司る数々の王が。

 かつては人の間にあって有徳の士であった者が、遠い昔天に召し上げられて王になったと伝説はいう。地上の人々はそれを神王(しんおう)、もしくは天王(てんおう)と呼ぶ。

 法士は正式名称を天法士(てんほうし)と言い、一時、天王の法を操ることを許されて、奇跡を起こす。

 火炎を操り、水流を操り、木気を操り、雷鳴を操り、金器を操り、地脈を操る。

 特別に選ばれた人々で、人々の畏怖(いふ)と尊敬を集めた。

 法士はフードを脱いだ。そこから現れたのは小柄な顔。白い雪のような髪。かつては涼しげに流れていたであろう目許。皺の寄った唇はわずかに薄く、意志の強さを感じさせる形。

 頬はこけ、目許にも口もとにも年輪を重ねて、ただその瞳の鋭い輝きだけは往年といささかの変わりもなく。老法士はかつての美貌を忍ばせる、艶然(えんぜん)とした笑みを浮かべる。

「……法士といえども相手はばばあ一人だっ! びびるんじゃねえっ!」

 (かしら)の一喝で、手下は我に返る。雄叫びをあげて、盗賊たちが老法士に殺到する。

 彼女は涼しげな表情でそれを見ている。

 さっと、か細い枝のような腕が振られる。

 それを合図に。今まで明かりも見えなかった民家の屋根に、法士の術で隠されていた大勢の人々が現れた。それぞれに(つぶて)を、農具を、油壺を、弓を手にして。

「放てっ!」

 (りん)と一号。老法士の声が響き渡る。村人は一斉に、得物(えもの)を盗賊に向かって投げつけた。口々に盗賊たちを呪う雄叫びをあげて。

 同時に、老法士はもう一方の腕をふるって、大きな火球を次々と放つ。

 弓に貫かれて、どっと倒れ込むもの。火球に巻き込まれて、火だるまになるもの。

 盗賊たちの阿鼻叫喚(あびきょうかん)。ヴァーミリオン・サンズは、すっかり浮き足立った。

 盗賊団の襲撃は予期されていた。罠にかかったのだ。

 三分の一ほどは餌食になった。反撃しようにも弓の用意は少なく、屋根の上の村人たちには届かない。その上守護の術がかけられているらしき村人たちには、矢もろくろく当たらなかった。

 一番はじめに敗走したのは誰だったか。一人が逃げ出せば後は芋づる式だ。

 先を争って逃げ出す盗賊たち。それを、地上に隠れていた村人の中でも、若く活きのいい連中が追撃する。

 

 どうしてこんなことになったのか。解らない。

 気がついたときには縄目(なわめ)を受け、村人たちの前に引き出されていた。

 大勢の人々の罵声(ばせい)。足が腕が飛んできて、散々に打ち据える。

 痛みと、混乱。どうして。

「ぐぅっ……!」

 背中への一撃で息が詰まる。

 どうして。

 ヴァーミリオン・サンズは、散り散りになって敗走した。

 運の悪かったものは、村人によって捕らえられた。レーキもその一人だ。

 

 レーキは隊の中程にいた。飛んでくる礫や矢羽根を辛くも打ち払い、炎におびえ暴れ出そうとする馬を必死になだめる。いっそ飛んでしまおうかと思った。飛んで逃げようかと。でも、それは裏切りだ。そんなこと出来ない。

 耐えるしかない。

 覚悟を決めたレーキの脇を、誰かがすり抜けた。振り向く間もなく次の誰かが。一度逃げると決めてしまえば、盗賊たちの動きは速い。

 レーキは慌てて馬を返そうとしたが、逃げ出す仲間たちの勢いにそれもままならない。川の中州に取り残された子供のように、おろおろとするうち、村の若者たちが押し寄せてくる。

 怖い。剣を抜く間もない。恐慌をきたして逃げ出した。本能で馬から飛び上がり、羽ばたく。飛び去ろうとした背に何かが引っかかる。鈎状(かぎじょう)の農具だ。それが皮鎧(かわよろい)に付き刺さり、レーキを引きずり下ろす。

 知らぬうちに叫んでいた。恐怖に喉は悲鳴をあげ続けた。

 地に押さえつけられ、誰かが縄をもってきた。手足をばたつかせ、必死に抵抗する。羽が巻き上げた砂が、もうもうと埃になる。視界には人々の足ばかりが見える。興奮でうわずった勝利の声が聞こえた。

 ああまた。同じだあの時と。レーキはひどい眩暈(めまい)に歪む視界の中に、かつて見た風景を思い出していた。

 祭りの日みたいな明かり。燃え盛る家々。沢山の死体。赤い痛みと嘲弄(ちょうろう)

 盗賊が村を襲った日。片目をなくして拾われたあの日。

 あの時と同じ……

 

「おやめなさい」

 捕虜たちに憎しみの矛先を向けて、蹴りつけていた村人たちに言ったのは老法士だった。

「彼らはもう動けない。処分が決まるまでは手出ししないでやりなさい」

 しぶしぶ、村人たちは捕虜から身を引く。レーキは半ば朦朧(もうろう)として、老法士を見上げた。

 口の中が鉄臭い。それが気持ち悪くて唾を吐き出すと、それはすっかり血の色だった。

「こいつっ!」

 無礼に当たる行為に、足が飛んでくる。

「おやめ」

 老法士の制止よりも一瞬早く、足はみぞおちの辺りを蹴りつけて、レーキは息を詰まらせた。

「よく見なさい! まだ子供だ!」

 ガキだって賊には違いねえ。屑だ。村人の反駁(はんばく)に老法士は首を振る。

「子供は子供よ」

「……だから、何だっていうんだよ……」

 乾いてひび割れかけた唇が言う。きつい一撃に返って意識がはっきりとした。

「ガキだから助けてくれなんて誰が言ったっ! 俺はもうガキじゃないっ!! 誰の勝手にもさせないっ!!」

 早く、大人になりたかった。誰かの都合で、やりたくもないことをさせられるのはもうご免だった。自分で選んだのだと胸を張りたかった。ただそうしなければ、飯が食えない。寝る場所も着るものも与えられない。だから、ではなく。

 人を殺したかった訳じゃない。誰かを虐げたかった訳じゃない。でも、誰かに認めてもらいたかった。一人前だと。お前は自由なのだと。

 ようやく、ヴァーミリオン・サンズの一員になれるところだったのに。初めて認められるところだったのに。理不尽な憤りが湧いてくる。

「お前らは金でしこたま儲けてるんだろうがっ! だから狙われるんだっ! それが嫌なら慎ましく暮らしやがれっ!」

 わめきちらし、レーキは懸命に縄から抜け出そうとする。村人がそれを押さえつける。

 みんなみんな、許せない。俺の邪魔をする奴等はみんな。

「放せぇっ!! 放せよっ!! 畜生っっ!! お前らみんな呪われればいい! 魔獣に食われちまえばいいんだっ!!」

 救いがたいガキだと、村人から怒りに満ちた声が上がる。

 老法士はそれを制した。全ては執行官の裁きに委ねましょうと。

 七人の捕虜は、別々に民家の納屋に引っ立てられる。

 縛られたまま手荒く床に転がされて、レーキは自分が涙を流していることに、ようやく気がついた。



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第6話 王珠の煌めき

 いつの間にやら眠っていた。納屋の戸が開く音に驚いて、レーキは身を固くする。

 老法士が立っていた。ランタンと籠を手に、彼女は近づいてくる。

「怪我をしているだろう? 薬と包帯をもってきたわ。手当させて頂戴」

 レーキは黙ったまま、手負いの獣のように身構えて、彼女の身のこなしに不審がないかと睨みつけた。

「放っておくと化膿するよ」

 レーキは答えない。やれやれ。老法士は鼻を鳴らして、何やら呪文を唱えた。

「!?」

 体が動かない。自分の意志ではちょっとも身を動かせなくなった。金縛りだ。

 老法士はレーキの縄を解いた。暴れかたの激しさを物語るように、手首にも足首にもすり傷ができている。水をかけて血を洗い流し、薬をつけて包帯を巻く。鎧を脱がせて、背中の傷にも薬を付けた。

「……ぐっ!?」

 薬がしみる。口だけは動くようだ。このくらいで悲鳴を上げてなるものか、と、レーキは歯を食いしばる。

 老法士は手際よく手当を済ますと、再びレーキの手と足に縄をかけた。(あざ)だらけの顔を濡れた布で拭い、髪を軽く()く。

 はい。おしまい。彼女が手のひらを払って言った途端に金縛りが解けた。

「……くそばばあっ! ()ってやるっ」

 噛みつくように半身を乗り出して、レーキは吠える。一つ残った紅玉色の(ひとみ)を、ぎらぎらと暗い炎に輝かせて。

「暴れると傷口が開くよ」

 レーキを見下ろす老法士。彼女の眸は蒼と翠が入り交じって、不思議な色。それがどこか面白がっているように微笑む。

「あたしの名はくそばばあじゃない。アカンサス・マーロンだ。マーロンとお呼び」

「うるせぇっ! くそばばあっ!」

 口の悪いガキだね。マーロンは細い喉元を鳴らして笑う。

 馬鹿にされているんだ。かっと頭に血が上る。せめて噛みつこうと、レーキは肩で床を這いずった。後ろ手にくくられた腕は自由にならない。我がことながら情けない格好。芋虫のようだと思った。

 あと少し。マーロンの足に噛みつこうとした瞬間、突然、見えない壁にぶち当たった。動けない。壁は柔らかな何かで出来ているようで。めり込んだまま、行くも戻るもできなくなってしまった。

「くそっ! なんだよっ!?」

「……あんたが一番元気だね。それに、一番骨があるようだ」

 無駄なあがきを鼻で笑われる。見えない壁は、もがけばもがくほど身に絡みついて(ほど)けない。

「はなせよっ! ばばあっ!!」

「おや。くそがとれたね。……あんた名前は?」

 マーロンの口調はあくまでものんびりとしていて、圧倒的な優位を匂わせる。

 不意をつく質問にレーキは老法士を仰いだ。はあ? いぶかしげな声とともに。

「あたしはちゃんと名乗ったよ。くそがき。あんたも名乗るのが礼儀さ」

 名乗るまでは、くそがきと呼び続けるよ。こちらを見下ろして笑う老法士の顔に、そう書いてある気がする。

「……レーキ……ヴァーミリオン」

 マーロンを睨みつけることをやめずに、レーキは(うめ)くように答えた。

「そう。よい名だね。レーキ。大昔の法院長代理と同じ名だ」

 法院長代理? 尋ね返す前にマーロンはにっこりと笑って(きびす)を返した。

「飯時にまた来るよ」

「おいっ! まてっ!」

 追いすがる。それも見えない壁に阻まれた。マーロンは振り返りもせずに、物置小屋を出ていった。

 扉が閉まる。途端に見えない壁の気配が消えて、レーキは床へとつんのめった。

「……ってっ!」

 窓のない物置小屋は、いっぺんに暗闇に覆われた。戸口の隙間からさす、微かな光だけが頼りだ。

 ぶつけた顎をさすることもできず、レーキは細い明かりの線が示す戸口のほうに向かって悪態をついた。

 

 

 戸口が開いた音で目を覚ます。反射的に身構えた。

 暗闇の中で転がっていると、眠るより他にすることもない。何より体は傷ついて、休息を必要としている。

「飯をもってきてやったよ。レーキ」

 マーロンだ。レーキは吠えかかる前の犬のように、表情を険しくした。

 もう、辺りはすっかり夜になっているようだ。マーロンは、昼間は包帯を入れていた籠とランタンを(たずさ)えて、小屋へと入ってきた。

「腹が減ったろう?」

 籠には布がかけられていたけれど。その下から、何とも食欲をそそるシチューの匂いがした。

 ぐうーっ。匂いが鼻に届いたとたんに、盛大に腹の虫が空腹を訴える。

「おやおや。遅れてすまなかったね」

 マーロンは笑って、レーキの側にしゃがみこんだ。正直すぎる腹の虫のせいで恥をかいた。レーキはぷいと顔を背ける。

「恥じることもないさ。食べ盛りなんだからね」

 孫、子にでもするように、マーロンはレーキの頭を撫でた。その仕種があんまり自然で、レーキは一瞬自分が何をされたのかわからなかった。

「……さ、さわんなっ! ばばあっ……!」

 顔が真っ赤になっているのが、自分でもわかった。

 馬鹿にしやがってっ! 照れ臭さを憤りの表情に変えて、きっ、とマーロンを睨みつける。

「ほほほほ」

 体ごと揺すってマーロンが笑う。口もとに笑みを残したまま、マーロンは腕の縄を()いてくれた。

「……いいのかよ。外して。あんたを人質に取るかもしれねえぞ」

「犬みたいに這いつくばって飯を食いたくはないだろう? それともあたしに食べさせてもらいたかったのかい?」

 どちらも嫌だ。むっとした表情のまま、シチューの入った皿と、この地方特有の薄くて固いパンを手渡される。

 無言で食った。腹が減っていた。空腹は最高のスパイス。それでなくても、そのシチューは旨かった。

 片手にスプーン、片手にパンを掴んだまま、猛烈な勢いで飯を食うレーキを、マーロンは微笑んで見守っている。

「たんとおたべ」

 微笑みはやさしい。レーキは、じいさんのことを思い出した。じいさんの濁っていないほうの目は、今のマーロンと同じような表情をしていた。

「……」

 止まってしまった手元に、どうしたのと声がする。

「……何でも、ねえ……」

 不器用に答えて、レーキはシチューをすすった。

 

「あんたたち盗賊はあした州城に送られる。そこで裁きを受けるんだ」

 飯の時間も終わり、再び腕に縄をかけられたレーキを前にして、マーロンが言う。

 ──州城に送られれば、終わりだ。

 レーキの隻眼(せきがん)に警戒の色が浮かぶ。マーロンは(ひとみ)を細めて、こちらを吟味するように見つめてくる。

「……あんたをね。貰い受ける事にしたよ」

 初めて、レーキの顔に動揺が浮かんだ。きゅうっと音を立てそうなほど、瞳孔が縮む。

「俺を、奴隷にすんのか……?」

「似たようなもんだね」

 内心の動揺を押し殺して、レーキは唇を噛み締める。罪を犯したものが奴隷にされることは、この国ではそう珍しい事ではない。

 だが、里親の元にいたあの苦しい日々の記憶が、奴隷と言う単語に喚起(かんき)される。仄紅(ほのあか)い眸に、激しい憎しみの色が宿った。

「あたしの言いつけは守ってもらうことになるし、あんたがやる事はそれこそ山のようにある。嫌だって言うならあんたは州城(しゅうじょう)に送られて、哀れ一巻の終わりさ」

「……好きにしろよ」

 どうせ負けたのだ。口惜しいが生きてさえいれば、逃げ出すチャンスも巡ってくるかもしれない。内心に湧き起こる怒りを静かに眸にたぎらせて、レーキは唇を強く噛んだ。

「ならあんたは今日からあたしの弟子だ。レーキ・ヴァーミリオン」

 驚いて見上げた、マーロンの唇が悪戯っぽく微笑んでいる。きれいに澄んだ碧眼に、慈愛深い色をたたえて、マーロンは笑っていた。

「……なっ!」

「あたしはね、弟子を捜しに来たんだ。この国に。天の王の託宣を受けたんだよ。南で最後の弟子が見つかるってね。それでグラナートを一巡りした」

 言葉に冗談を言っている調子はない。あっけにとられて、言葉も出ない。レーキはぽかんと老天法士の顔を見つめた。

「あんたを初めて見た時、悟ったよ。ああ、この子だってね」

「……」

 酷く混乱する。弟子? 天法士の弟子になると言う事。それはつまり……

「これを持ってごらん」

 押し黙ってしまったレーキの、縄でくくられた手のひらに円いものが落とされた。

 それは、見事な装飾枠に収められた珠だ。青い色をたたえた滑らかに美しい珠。それが、レーキの手に触れたとたんに赤いまばゆい光を放って、深紅の宝珠に変わる。

「なんだ?……これ……」

 溜め息に語尾が消える。きれい。まるで、まるで──そう。お祭りのときの焚き火みたいな色だ。見ているうちに深く吸い込まれて行きそうな。珠の中心、もっとも色の深い部分で時折小さな光の粒が閃く。

 それは本当に炎のように揺らめいた。レーキの鼓動に反応して光量が変わる。不思議な(きら)めきだった。

「やっぱり、ね。見込んだ通りだ」

 マーロンはとても満足げに呟いた。口もとが笑っている。

「……それは。王珠(おうじゅ)。天法士の証し。その者がもっとも()くする法の色で輝く宝珠」

 訳が分からなかった。言われてみれば、王珠の事は聞いたことがある。天法士が持つ不思議な珠で、天法士が死ぬとその珠も主人と運命を共にするという。

「その石は人が持つ天分に反応する。人はみんな天分を持っている。生まれるときに竜王様が授けてくださる力。それはレーキも知っているね?」

 お前は悪い天分を持って生まれてきたんだ。いじわるい笑みを浮かべた養母が、レーキに言った言葉。でなきゃそんなに嫌らしい色の羽を持って生まれてくるはずがない。

 レーキの顔から、表情が消えた。唇を結んで気もそぞろに頷く。

「本当はね、簡単な天法を使うことなら、どんな人にもできる。どんな人でも多かれ少なかれ天分を持っているから。でも、天法士になるためには才能と強い天分が必要だ。王珠はその強い天分に惹かれて光を放つ」

 強い天分。レーキの手の上で、王珠は確かに光を放つ。それを見て、マーロンは笑っている。嬉しそうに。

 俺が? 養母に悪いと言われた。俺の天分が?

「……俺……の……天分が強いから、俺を弟子に、する?」

「ああ。そうさ。あんたは天法士になるために修行をするのさ」

 天法士は不思議な術を使う。大勢の人の尊敬を集める。頼りにされる。本当に偉い天法士には、王様だって頭を下げる。みんなに法師様と呼ばれる。

 俺が? 夢想することすらなかったこと。黒い羽の嫌われ者。厄介者。捨てられっ子の俺が。

 天法士になる。大勢の人に尊敬されて、頼りにされて、法師様と呼ばれて……

「俺が……?」

「あんたがね」

 ぎゅっと王珠を握りしめた。いまやすっかり鼓動に同調していた煌めきが、早くなった。

「でも……俺の天分は……悪い天分なんだろ? だから、そんな……」

 無理だ。なれっこない。自嘲気味の笑いで、自ら希望を砕く。期待しなければ裏切られることもない。唇が自然と、皮肉く歪んでいた。

「天分に良いも悪いもないよ。ただ強いか弱いか。それだけさ」

 指先が白くなるほど、王珠を握りしめた。氷の塊を飲み込んだときのように冷たくしこっていた鳩尾の辺りに、小さな暖かさが宿る。王珠の光が自分を励ましてくれているような気がした。

「……俺が、天法士に?」

「ああ」

 マーロンの言葉は、はっきりと自信に満ちていて。かえって、レーキは不安になる。

「……でも俺、盗賊だよ?」

「でも、子供だ。これから何にだってなれる」

「俺、本とか読めない……字だって知らない」

「これから覚えれば良い」

「……でも、俺、こんな黒い羽だよ?」

 黒い羽を持って生まれてきたことが、こんなに恨めしいことはなかった。

 羽の所為でひどい目にあってきた。だから、また、希望を抱いたってこの羽に奪われてしまうのだと。そう思った。

「だから?  ヴァローナ天法院の制服は真っ黒さ。その羽みたいにね」

「……なん、で……?」

 信じられない。たった一言で、全部片付けられてしまった。なんでも無いことのように。マーロンは続ける。

「ヴァローナでは黒は一番尊い色で、学問を表す色だからさ。だから学生も教師もみんな黒を着る」

 違う。そうじゃない。どうして、そんなになんでも無いことのように言えるんだろう。

 それは、マーロンが鳥人でないからなんだろうか。

「……鳥人の黒い羽は不吉なんだっ……だから、だから……」

「だから? 羽が黒かろうが白かろうがあんたは強い天分を持っている。天法士に本当に必要なのは才能と強い天分さ」

 聞き訳のない子供を見るような目で、マーロンはくりかえす。だから? と。

 訳が分からない。自分が固く信じてきた現実に、ひびが入った。固い石の土台に開けられた小さなひび。何もかもが変わってしまう。そんな予感がする。

「……俺、天法士になれる?」

「なれるさ」

 初めて、レーキの顔に明るい色が指す。マーロンはしっかりと頷いて、そして微笑んだ。

 

 盗賊たちが捕らえられた翌日。サンキニ村の人々の、嫌悪と好奇心の入り交じった視線に送られて、元盗賊の少年と老法士は村を出た。

 マーロンは盗賊退治の報酬のかわりに、州城に送られるはずだったレーキをもらい受けた。それで、レーキの罪が償われた訳ではないが、彼は盗賊では無くなったのだった。

 本当に、そんな報酬で良いのかと訊ねた村長に、マーロンは笑って言う。

「ああ。彼がこの旅一番の報酬さ」

 マーロンは村人に、馬車を用意させた。一頭立ての、屋根もついていない荷馬車に、普段は鍛冶屋をしている御者が一人。

 背負い袋一つ携えて、それに揺られること半日。

 街道沿いで、十人ほどをいっぺんに乗せることのできる街道馬車に乗り換えた。

「正直、半分あきらめていたんだ。弟子が見つからないんじゃないか。ってね」

 マーロンは、グラナート国をあてどなく彷徨(さまよ)って探したが、これと言った弟子は見つからなかったという。諦めかけたところで、マーロンはサンキニ村から招聘(しょうへい)を受けて、盗賊退治に手を貸したのだと。

「運命だったんだろうね。あたしはあんたの強い天分に引き寄せられたんだ。綺麗な羽だ。レーキ。天分の強い者はね、良かれ悪しかれ他人と違う、印象的な外見をしてるんだよ」

 確かに、人目は引くだろうとレーキは思う。真っ黒い羽と対照な白い髪。紅い隻眼に眼帯。

 現に今だって。乗り合わせた人々は(いぶか)しげな目で、少年と老法士を見る。

 身にまとったマントのおかげで、マーロンの王珠が見えない今はなおさらだ。

「あたしの家はアスールにあるんだよ。深い森の中の村のそのまた奥にある小さな家さ」

 アスール。森の国だとマーロンは言う。国土のほとんどが深い森で覆われ、獣人が木の上の家に住んでいると。

「家の近所の村は、森を切り開いて出来た村だ。獣人はあまりいない。アラルガントの一族だけだ。彼らも木の上には住んでない。山羊を飼っていてね。うまいチーズを作る」

 マーロンは、アスールにあるという名もない小さな村の話を聞かせてくれた。

 これから、レーキが暮らすことになる村。マーロンの元で、修行することになる村。

 レーキは異国に行ったことがない。養父母が生きていた頃は、村を出ることすらめったに無かった。

 初めての旅。不思議と不安は少ない。強力な力を持った天法士と一緒にいるから? その天法士の目が優しいから? どちらでもあるのだろう。

 レーキは、見たこともない遠い国へ思いを()せる。そこで待っているのは、果たして希望なのだろうか。

 

 



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第二章 修行時代
第7話 森の中の国で


 最後の山羊を囲いに追い立てて、レーキは満足げに息を吐く。

 家ではマーロン師匠が、夕飯の支度をして待っていてくれるはずだ。

 既に夕刻も終わりかけている。残照は梢の先に、薄紫色を残してやがて消えていく。

 森の中、人が住むことをやめたなら、簡単に木々に覆われてしまうような、小さな土地。そこにぽつんと建つ家。

 アスール国の西、辺境の、名もないほど小さな村にその家はある。

 

「ありがとう。レーキ。おかげで助かったわ」

 囲いの戸を閉めながら、ラエティアが微笑んだ。まだ幼さの面影を残す顔。この地方特有の厚い生地の衣装に隠された肢体は、少女と女性のちょうど中間。十五才。花ならば今はまだ青い蕾だ。

 ラエティアの、柔らかなにこ毛に覆われた耳がぴんと立っている。喜んでくれている。レーキはそれが嬉しい。

 ラエティアは獣人(ベースティア)。体に獣の特徴をもった亜人だ。

 マーロン師匠の家からそう遠くない村に住んでいる、アラルガント家の娘だった。

 

 レーキがこの村にやってきてから、早三年。

 少年はこの三年の間にすっかり声変わりを済ませて、顔つきも次第に大人の形に変わりつつある。

「いつもとびきり旨いチーズご馳走になってるからな。このくらい手伝わなきゃ罰が当たる」

 当然だと微笑んだレーキに、ラエティアはありがとうと微笑み返す。

「世辞抜きで、お前のとこのチーズはすごく旨いよ。師匠もそう言ってる」

 ラエティアの耳が後ろに倒れる。素直に照れているのだ。

 既に陽は陰りはじめて、顔色こそはっきりとは見えなかったが、おそらく頬は薔薇の色に染まっているだろう。

「嬉しい。おいしいって言ってもらえると。また、持っていくね?」

 期待してる。そう言って笑ったきり、タイミングを失って、レーキは口をつぐんだ。

 ラエティアもまた。言葉の継ぎ穂を失って、じっとレーキを見上げる。

 いつからだろう。こんな風に黙って一緒にいると、胸が苦しい。

 たくさんの言葉が胸につかえる。その癖、二人でいることがとても自然なように感じて。

「……し、師匠が待ってるんだ。もうすぐ夕飯だから……」

 視線をそらして、レーキがつぶやく。ラエティアの眉が一瞬曇る。

 行かないで。もう少しここにいて。そう、言いたかった。でも口をついて出るのは別の言葉で。

「……う、うん。ありがとう……」

 じゃあ、な。うん、またね。

 後ろ髪引かれる想いの正体を、まだ二人は知らない。

 レーキは慌てて駆け出す。早鐘のような、胸の鼓動が聞かれることを恐れて。

「またねっ! ……チーズ、持っていくからっ!」

 地面を蹴って飛び上がる瞬間に、レーキは振り返った。小さな細い手を振るラエティアが、薄暗い地面を背にして、(ほの)かに明るく見えるような気がした。

「またなっ!」

 やがてレーキの姿が梢の狭間に消えるまで、ラエティアは手を振り続けた。

 

「おかえり。山羊は見つかったかい?」

 背後の扉が開いた気配に、マーロン師匠はスープを皿によそいながら聞く。

 外出用の上着を壁にかけ、テーブルに着いたレーキは大丈夫とだけ答えた。

「そうかい。それはよかった」

 ラエティアに、逃げ出した山羊を一緒に探して欲しいと頼まれたのは、まだ夕陽が沈む前の事だった。

 辺りを駆けずり回って、遠い餌場でのんびりと野の花を食んでいた山羊を、つい先ほど囲いに戻してきた。

 その山羊から取れたチーズは、マーロン師匠とレーキの師弟にとってご馳走だ。今日はわずかばかり残っていたものを、スープに入れてある。レーキにも匂いでわかった。

「それで、ラエティアがまたチーズを持ってきてくれるって」

 ありがたいねえ。心底嬉しそうな呟きと共に、マーロン師匠はスープをテーブルに運んだ。

 不思議な力を使う天法士であるからと言うばかりでなく、マーロン師匠は近くの村人達から尊敬を集めている。

 年老いてこの地に隠遁した彼女は、有望な弟子を育てるかたわら、病にかかった者や傷ついた者を癒やしたり、魔獣から村を守ったり、何かと村人のために親身になって来た。

 自分も村人の一員であるのだから、当然の事をしたまでだと彼女は言っていたが、助けられた村人は恩を忘れず、時たま自分たちの家で取れた野菜や乳製品などを持参してくれる。

 小さいながらマーロン師匠の家にも畑があり、年老いた山羊と鶏を飼っていて、そう生活に困っていると言う訳ではなかったが、肉類や塩、小麦などは(あがな)わねばならず、村人からの差し入れは有り難かった。

 慎ましいながらも美味しい夕餉(ゆうげ)。チーズ入りの野菜スープと手作りのパン。それから森で取れた果物から造った果実水を少々。

 盗賊団にいたときの食事も旨いとは思っていたけれど、こうやって師匠と二人で囲む食卓も嬉しい。食事はレーキの楽しみの一つだ。

 食事が終わると日課が始まる。語彙を深めるために、夕食の後にいろいろな本を朗読することになっている。

 

 マーロン師匠の元に来てから三年の間、レーキは幸福だった。

 十三にもなるというのに、ろくろく読み書きも出来ない少年を、マーロン師匠は忍耐強く導いてくれた。マーロン師匠は声を荒らげない。出来るようになるまで、嫌な顔をせずに何度でも手本を見せてくれる。

 初めのうちこそ、レーキはつまずきをくり返して歯噛みしていた。そのうちに、文字を覚えて、単語を少しずつ理解できるようになると、知識が増えて行くことの楽しさを覚えた。

 本が読めるようになって、それからは読書のために部屋に籠もることも多くなった。

 遠い異国の本、昔の事柄を書いた本、マーロン師匠の蔵書を片っ端から読んだ。

 長い年月の間にマーロン師匠が蓄えた本は、台所兼居間の棚ひとつと、ベッドを置くだけでやっとの寝室二部屋に一棚ずつ。

 物置の半分、屋根裏部屋の大半と広い範囲に分布していた。

 レーキはまだその三分の一も読破していなかったが、彼のお気に入りは、古の偉大な天法士について書かれた本だった。

 その中にはいつかマーロン師匠が言っていた、『レーキ』という名の法師について書かれた一節があった。

 今から三百年前に、権威あるヴァローナ国立王法院で院長代理を務めた法士。

 ヴァローナ王法院の院長は、その時の国王が兼任する決まりであるから、院長代理は実質上の院長だ。

 いつかこんな風になりたい。それが、はかない望みだとしても。夢見ることが出来るだけ、今までとは違うとレーキは思う。

 マーロン師匠は学問に対してだけでなく、さまざまなことに関して優れた教師だった。

 レーキの疑問に、大抵は答えをくれた。分からない事は分からないときっぱり言うことも含めて。知識を出し惜しみしたりすることはなかった。

 山葡萄の見つけ方、子山羊の抱き方、魚の釣り方。今まで知らなかったこと、知ってはいたけれど、理由までは分からなかった事柄、本当に様々なことを教わった。

 マーロン師匠自身も、レーキに答えることを楽しんでいるようで。いつも楽しそうに笑っていた。

 

 マーロン師匠は(かまど)の前の温かい席に陣取った。その隣で敷物の上に胡座(あぐら)をかいて座り込み、レーキは読みさしの本を開く。所々あやしげな単語は残るが、着実に文章を読み上げて行く。

「……げ、幻魔(げんま)の中には『呪われた島』の結界に捕らわれることのなかった者がおり、彼らは未だに大陸の何処かに潜み、人を(から)めとっては食らうという。あるいは言葉巧みに取り引きを持ちかけ、弄んだ挙げ句に(なぶ)り殺す非道な者も中にはいるらしいが、この場合の対処方は不用意に誘いに乗らないことだろう。どちらの場合も幻魔は、おおむね人跡未踏の奥地に隠れ住んでおり、人里で姿を見かけることは(まれ)である。ただし、幻魔の取り引きに応じて堕ちた人間、幻魔の虜とされその下僕となるようにされた魔人(まじん)を目撃したという例は多い。魔人は大抵人としての生気を感じられず、闇に隠れるようにして過ごすという。ただしその姿は、生前と変わらず人に酷似しているため見分けづらい。したがって、魔人退治には注意が必要である。魔人の多くは年を経ても姿を変えず、そのことからその者が魔人であることが発覚することがある」

『魔物大全』と名づけられたその本から顔を上げて、レーキは尋ねた。

「……師匠。本当に幻魔とか魔人って居るのかな?」

 半分目を閉じて、弟子の成長を喜ばしいとばかりに微笑んでいたマーロン師匠は、レーキを見下ろした。

「……ああ。いるさね。魔獣は確かにいるだろう? この森にも隠れ住んでいる」

 確かに、魔獣はアスールの森にも住んでいる。だが、魔獣は奇っ怪だが獣の姿をしているし、人に化けるということもない。人の赤子の声を真似る者はいるけれど。

 レーキとて見かけたことはある。盗賊団にいたころや、アスールの森に来てからも。小者を仕留めて素材として売ったこともあった。

 でも、魔人や幻魔などは見たこともないし、見たことがあるという者にも出会ったことはない。

「……いたとしてもさ。そんなに人間そっくりなのかな?」

 マーロン師匠は読書用の眼鏡を外した。何かを脳みその中から引っ張り出すように、目頭を押さえて揉みほぐした。

 指先が、無意識に胸元に下げていた王珠を掴んだ。(すが)りつくように。

「魔人は……人から生まれるものだ。人が魔に心を売り渡すと、その者は魔人になる。だから姿こそ人とは変わらない。私にもわからなかった。はじめは」

 マーロン師匠の眉間に深い苦悩が刻まれている。遠く、中空を見つめる(ひとみ)は険しくて、レーキは戸惑う。

「師匠は……魔人を見たことがあるの?」

 あるね。話そうか話すまいか。まだ迷っているようで。マーロン師匠は唇を噛んだ。

 押し黙ってしまった師匠を見上げて、困惑しているレーキに向かって、マーロン師匠は重い口を開く。

「……あれはまだ、あたしが二十代の頃だね。あたしは天法士になりたてで、仲間と一緒にあちらこちらを旅して回っていた」

 



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第8話 師匠の思い出

 あたしはその頃コッパーとヘリウス、それからメッドという三人と一緒に旅をしていた。

 それぞれが、天法士と剣士と戦士だった。

 あたしには特別に目的もなくてね。ただ、世の中を見て回りたいと思ってた。

 コッパーは天法の技を磨きたいと思ってたみたいだったし、ヘリウスは剣の修行中だって言ってた。メッドはよくわからない奴だった。あまり自分のことは話したがらないタイプでね。

 でも四人はなぜだか気があってね。出会ったその日に一緒に旅をすることになってた。

 良い仲間だったよ。

 あたしたちは旅の途中で厄介ごとを解決したり、遺跡に潜ったりして日銭を稼いでた。

 ちょうどメギンス侯爵領ってところを通りかかったときだった。

 あたしたちはギルドで──そうやってあちこち旅をして回る者たちのために、組合があるのさ。自分たちがただのならず者じゃないってことを証明してもらうために、旅人はみんなギルドに入るんだよ──近くの街で殺人事件があったって耳にした。

 もう何人もやられてて、犯人の首には懸賞金がかかってた。

 法を犯したものを捕まえるのは、当然執行官のお役目さ。でも、犯人が執行官の手に余るような奴だったり、人手が足りないときには旅の者を雇う。

 ギルドはそういう仕事の斡旋(あっせん)もしてくれるんだ。人は選ぶがね。

 あたしたちは、その仕事をうけることにした。賞金はまあよかったし、手に余るようなヤマじゃないだろうと踏んでいた。田舎だったしね。

 五件目の殺人が起こったとき、あたしたちはとうとう犯人のねぐらを突き止めた。

 

 そいつは、町外れの古い屋敷に住み着いていてね。住むものも居なくなって久しいような、荒れ果てた屋敷だった。後で聞いたら、昔は富豪の家だったんだってね。

 迷わずに踏み込んだよ。そこで待っているものが何だかちっとも知らずに。

 あたしたちが想像してたのは、血に狂った魔獣か、血に飢えた獣のような人間だった。どっちにせよ、この面子ならどうにか出来るって、そう思ってた。

 でも違った。食い殺したばかりの犠牲者の腕を(くわ)えて、屋敷のエントランスに(うずくま)っていたのは、血色に染まったエプロンドレスを着た女の子だった。ちょうど十になるか、ならないかくらいの。

 驚いて立ち(すく)んでるあたしたちに、そいつは言った。血だらけの唇が笑ったよ。

『愚かなりしや、人共。汝ら我らが(にえ)なるに』

 とても少女の声じゃなかった。地面の下から響いてくるみたいな、陰気な音。

 なりはちっちゃいのに、物凄い威圧感があった。あたしは教科書で習ったこと思い出してた。

 人型で、人を食らう、魔物。

「……魔人だ」

 あたしとコッパーは、ほとんど同時に(つぶや)いてた。メッドは斧を構えた。ヘリウスは剣を抜いた。

『……ほほう。我を魔人と見破るか。ならば冥土の土産に聞け。我は、ガーネット。汝らを喰らう者!』

 女の子が、魔人が飛び上がった。恐ろしいジャンプ力だった。二階の手すりくらいまで軽々飛んでね。そいつのスカートの裾から、ありえないものが飛び出した。

 足。触ったら掌に穴が開きそうな刺のみっしり生えた足。人間とか獣の足じゃない。例えて言ったらそう、虫だね。節のある虫みたいな足が、十本以上生えて、女の子の部分を支えてた。その間からは、緑と紫が入り交じった気持ちの悪い色の触手が、それこそ沢山生えてきて。その先端から、ぐじゅぐじゅした嫌な色の汁が滴っていた。

 女の子の部分は、それはそれはかわいらしくて、血のついた服さえ着てなかったら、ほんとにお人形さんみたいだったのに。

 あたしは眩暈(めまい)がして、そのまま倒れ込みそうだった。こっちを(ひる)ませようとして、そんな姿をするんだって頭で分かっても、体がついてかないんだ。

 その後は正直あんまり覚えてない。

 必死で戦ったってことはわかる。あんなおぞましいモノの、餌になんかなりたくなかったからね。気がついたら、あいつは床に倒れて動かなくなってた。

 メッドが止めを刺すと悲鳴を上げたよ。頭に直接ナイフを突き立てられるような、そんな鋭い悲鳴を。

 魔人の死体は一瞬で、ミイラになった。あれは多分、死んだ瞬間に、今まで止まっていた時が動きだしたんだろう。それも一気に。

 あたしはもうぼろぼろで傷だらけだった。でも、四人の中じゃ一番ましなほうさ。

 コッパーは足をやられて杖なしじゃ歩けないようになったし、メッドは耳をちぎられた。

 ヘリウスは……だめだった。呼び戻せなかった。かわいそうに。

 頑張ったけど、あたしもコッパーもへとへとだったし、その辺りに『呼び戻し』が出来るような高位の天法士はいなかったのさ。

 ああ、呼び戻しって言うのはね、魂をこの世に繋ぎ止めて肉体に戻す法さ。

 当然肉体を再生しなきゃ、戻ってきても死の王様の国に逆もどり。でも、魂が抜けた体はどんどん腐っていっちまう。時間が経てば経つほど困難になる。本当に力のある天法士が束になってやっても、なかなか成功しない、至難の法さ。

 あたしたちは分かれたよ。ヘリウスのお墓を作って、その晩にね。

 メッドは、魔人を捜して退治するって言ってた。肩が震えてた。そのために修行するって。

 コッパーは、天法院に戻って研究員になるって。今でも天法院に居るよ。

 あたしは、放浪を続けた。もっと強くなりたいって、思ってた。もう、二度とあんなおぞましい思いも、苦しい思いもしなくて済むようにって。

 

 

 語り終えて、顔から冷や汗を拭ったマーロン師匠は、五才も十才も一気に年を取ったように見えた。

 普段は七十近い年齢を感じさせないほど、矍鑠(かくしゃく)として居るだけに、レーキは不安にかられる。

 見上げた案じ顔の弟子に、マーロン師匠は苦笑して見せた。

「昔々の話さ。墓場まで持っていこうと思ってた古い古い昔話。……ほら、今日の読書はおしまいかい? それなら寝るとしようかね」

 マーロン師匠はゆっくりと立ち上がる。軽く膝を払った手が微かに震えていたことに、レーキは気づかなかった。

 

「今日からこれを読んでもらうよ」

 次の日の夕食の後、マーロン師匠が言った。昨日の続きを読もうと、『魔物大全』を用意していたレーキは、きょとんとした表情で師匠を見上げる。

 差し出されたのは、『法術』とだけ表紙にかかれた黒い革張りの本。サイズは手のひらより少し大きい。

 年代物らしくページは黄ばみ、表紙の端っこもすり切れて、修繕(しゅうぜん)の跡がある。

 長い間、大切に扱われてきた物だということは分かって。レーキはそれを受け取るとそっとページをめくった。

「『天法は天分を以て全てと成す。口訣(こうけつ)はただそれを助く物なり』」

 はじめに(かか)げられていたのは、その一文。レーキは声に出して読んでみた。

「これは……天法の本……?」

 そうだ。マーロン師匠は黙ってうなずく。

「そろそろ始めてもいいかと思ってね。あたしが使った教科書だよ。古い本だけど、基礎は変わりはしないからね。今でもちゃんと使える」

 これが、天法士になるための本。レーキは何度も読み返されて、黒ずんでしまったページをそっとめくる。そもそも法術とは、に始まって、天法士に必要な心構え、法の種類と口訣の唱え方、禁忌、偉大な先達……ぱらぱらとめくっただけでも、天法術について必要な事が記されているのが分かった。

「そうだ。お前に上げるよ。もうあたしには必要ない本だ」

「俺に?」

 いいの? 大事な物じゃないの?

 良い事を思いついたとばかり手を叩くマーロン師匠に、レーキは躊躇(ためら)う。修繕してまで大切に取ってある本を貰うほど、俺に価値があるのだろうか。

「遠慮せずに貰っときな。あたしが持って腐らせてるよりお前の役に立ったほうが、その本も喜ぶよ」

 師匠の思い出が詰まった本。じっと、本と微笑を浮かべたマーロン師匠の顔を見比べて。

「……ありがとう! 大事にします」

 レーキは勢いよく頭を下げた。感謝と決意が、心にみなぎる。

「俺、天法士になります。夢とか希望じゃなくて。そう決めた。だから、頑張ります」

 法術の本を胸に抱いて、(ひとみ)を輝かせる弟子。

 マーロン師匠は孫の成長を喜ぶ祖母と、生徒の成長を見守る教師の、二つが入り混じった視線で見つめる。その顔は、誇らしげで、嬉しくて、ほんの少し案じているようなそんな表情だった。

 

 



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第9話 別れ

 マーロン師匠の、天法に関する授業が始まった。

 真剣な面持ちで、一字一句を聞き漏らすまいと姿勢を正すレーキが居る。

「いいかい。法術を使うためには精神を集中させて呪文を唱えるというのが基本だ。まずは身の(うち)から湧き出してくる力を意識する事から始めるよ」

 自分の中から外へ流れ出している天分(てんぶん)の気配を感じて、それに意識を集中させる。

 言葉にするのは簡単だが、実践するのは難しい。始めの三ヶ月は天分を感じて、精神集中する練習に明け暮れた。

 

 天分の流れを感じられるようになると、そのまま呪文を唱えてその流れを収束させる練習が始まる。呪文によって圧縮された天分は、力となって発現する。

 無から炎が生まれ、水が生まれ、人の治癒力を高め、限界を超えた能力を引き出す。

 簡単な呪文を使えば簡単な天法を使うことが出来る。だが、天法はそれだけではない。

「天法の事だけじゃない。いろんな事をちゃんと学ばなくっちゃ駄目だ。いくらいろんな呪文を一杯知っていても、知識に裏打ちされない術は弱い。なぜ、そうなるのか。どうしたらそうなるのか。現象の性質を捉え、それを生かすんだ。学び続けることが天法の研鑽(けんさん)にもつながるんだよ」

 天法の学習と平行して、マーロン師匠はこれまでにも増してレーキに学問を教えた。

 乾いていた大地が雨を飲むように、レーキは沢山の事を学んで行った。

 不思議と暖かい冬を迎えて。アスールに遅い春が来て。レーキは一七歳になっていた。

 

 

 マーロン師匠が体調を崩し始めたのは、レーキが一七歳になった冬だった。

 風邪をひいて寝込んだマーロン師匠は、激しい咳をするようになり、そのまま度々床につくようになった。

 それまで美しい輝きを湛えていた五つの王珠(おうじゅ)が、日一日と曇りがちになる。もともとそう大柄ではない師匠の体は、すっかり細く痩せてしまった。七十の坂を越えてなお、健康そうな色を保っていた頬は、病み疲れた土気色になった。

 原因は分からない。ただマーロン師匠は笑って言った。

「寿命さ」

 その苦しげな笑みが、レーキにとって恐怖だった。(こく)一刻(いっこく)と近づいている。その時を予感させるから。

 大勢の村人が、見舞いに訪れた。みな、何らかの形でマーロン師匠に世話になった者たちだった。

 家事と看病、その合間に見舞客の対応に追われた。

 空いた時間を見つけて勉強しようかと努力はしたが、本を読んでもマーロン師匠の容態が気になってろくろく頭に入ってこない。

 病魔に冒され、すっかり軽くなった体をベッドに横たえたまま、マーロン師匠は多くの時間を眠って過ごすようになった。

 眠りの間に、マーロン師匠は喜び、怒り、そして涙した。

 沢山の思い出。その一つ一つが彼女の老いた体を通り抜けて行く。着実にマーロン師匠は死へと足を進める。レーキにはどうすることもできなかった。

 いや、どんなに偉大な天法士でも時の流れには抗い切れない。自分の体が変調をきたして、マーロン師匠は初めて思い知ったのか、彼女は諦めているようだった。

 

 もう直、春の芽吹きが訪れようとする頃。レーキをベッドの傍らに呼ぶと、マーロン師匠は彼の手を弱々しく握りしめた。

「明日、ラエティアがチーズを持ってくるってさ。それで、粥を作る。沢山食べて……早くよくなって……」

 自らを鼓舞して明るく笑う。湿っぽくなったりしたら、弱気になったりしたら、だめだ。

 師匠は大丈夫。きっと大丈夫。何度も何度も、眠る前にベッドの中で呟いた言葉。明日こそ、明日こそ。きっと元気になる。

「……すまないね……レーキ。もう少し……お前の側にいてやれるかと……思っていたんだが……」

 深い(しわ)の刻まれた口許が、引き釣れる。それが微笑みだと分かるまでに一刹那(ひとせつな)。レーキは愕然(がくぜん)とする。師匠の顔には、既にはっきりと死相が()かれている。

「何言ってるんだよ! 大丈夫だよ! きっと良くなるよ!」

 レーキはマーロン師匠の手を強く握った。泣きじゃくってすがり付きたかった。行かないでと。

 (はかな)い望みがそうさせてくれない。

 両親に(うと)まれ、里親に虐げられてきた彼にとって、マーロン師匠は人生の中で愛をくれた数少ない人の一人だった。死んでほしくなんかない。いつまでも側にいてほしい。初めて心からそう思った。

 マーロン師匠は咳き込んだ。細く枯れ枝のようになった首が、ゆっくりと振られる。

「……あたしはもうだめだ。体中が死んでいくのが分かる……よおくお聞き。最後の授業だよ……あたしが死ぬことを悲しんでいい。おもいっきり……泣いていいから……その後は前を見て……歩くんだよ……」

 思いがけず力強い反応が、手のひらに返ってくる。最後の、命の(きら)めき。マーロン師匠はレーキの手を強く強く握りしめる。

「師匠! だめだ! 死なないで! 置いていかないでっ!」

 レーキは叫んでいた。一つ残った左目は潤み出していた。自分に呼び戻しの術が使えたなら。自分がたった今天法士でないことが、心底悔しかった。恨めしかった。

「……お前の……行く道を……よい炎が……照らして……くれます……よう……に……」

 最後の一息が、マーロン師匠の唇から抜けて行く。彼女は目を閉じた。今まで痛みと痺れで重く彼女を縛りつけていた肉体から、魂が抜け出て。浮き上がる。

 

『なんて、良い気もちなんだろうね』

 

 その一言はもうレーキには届かない。

「師匠ぉぉぉっ!!!」

 マーロン師匠のか細い指先は、急速に暖かさを失っていった。それに呼応して、マーロン師匠が身に着けていた王珠(おうじゅ)が輝きを失ってゆく。微かな温もりにすがって、レーキは幾度も最愛の師匠を呼んだ。

 答えが返ってくることは、決してない。それすらも、今のレーキには分からなかった。

 分かりたくはなかった。マーロン師匠は微笑んでいた。その年老いた唇が、もう二度と自分の名を呼んではくれないことなど。信じたくはなかった。

 ──嘘だろ……?

 無くしたくなかった。レーキの幸福は、惜しみない愛情と知識を注いでくれる、マーロン師匠の側にいることだった。やっと見つけた自分を愛してくれる人を、失いたくなかった。

 レーキはマーロン師匠の細い手を両手で包み込むように握った。少しずつ、その指先からあたたかな温もりが失われてゆく。

 何とかしなくっちゃ。このままこのぬくもりが全て失われる前に。師匠が、完全に死者の王の国へ行ってしまう前に。

 レーキは涙の(にじ)んだ左目をぬぐった。マーロン師匠の蔵書の中には禁忌とされる法術や、高度な知識が必要とされる法術について書かれた本があったはずだ。まだちゃんと読んだことは無かったが、何処にあるのかは知っている。赤い皮の表紙だ。

 無理だと心の何処かで思っていた。やって見なければわからない、と、何度も自分に言い聞かせた。ページをめくる指がすべる。目当ての項目を見つけるまで、いやに長い時間がかかった。

 

『呼び戻しの法』

 

 これだ。レーキは息を呑む。本を開いたままベッドにのせて、マーロン師匠の手を取って跪いた。祈るように。目を閉じた。

 赤竜王様。全ての命を生み出した五色の竜王様。天王(てんおう)様。天の法の天王様。俺に力を貸して下さい。師匠を返して下さい。連れて行かないで下さい。

 養父、養母と住んでいた村にも、竜王と天王を祭る小さな拝殿があったが、レーキはまともに(もう)でたことは無かった。正式な祈りの言葉は知らない。ただ必死にすがった。心から。

 マーロン師匠の教えのとおりに、乱れた心を落ち着けようと何度も深呼吸した。ゆっくりと(まぶた)を開ける。呼吸は整った。 

 表面上は落ち着いて見える。もう一度深く息を吸い込んで、レーキは唇を開く。

「『地の母、地の父、全ての生きとし生ける者を統べる定めの王、すべての死せる者を束ねる死人の王。この者は未だ死すべき定めにあらずして……』」

 長い詠唱(えいしょう)が続く。古の言葉と今の言葉が入り混じった、不可解な呪文。読み進めるにつれて、レーキの額に汗が浮かび始める。

 言葉に力が宿ってゆくのを感じる。それは小さな炎を指先に現す時にも感じていた。体から何かが抜けて、口からあふれた声に()けてゆくような感覚。ただ、いま身の(うち)から抜け出ている力は小さな炎の場合の比ではない。終いには骨も肉もまとめて持って行かれそうなほど、大きな力が体から抜け出てゆく。それでもレーキは詠唱をやめなかった。

 ──行かないで……師匠!!!

 思いのたけを呪文に()める。既に冷え始めている師匠の手を、ぎゅっと握り締めた。一瞬で、この四年間の思い出がよぎった。

 時には厳しく、そして優しい、長い年月を経て勝ち得た自信と平穏が同居する眼差し。皺だらけの、よく働く指先。師であり、母であり、祖母、祖父でもあった、大切な人。

「『……戻り着たれっ!』」

 声を限りに最後の一句を叫ぶ。しんと静まり返った部屋に木霊(こだま)が残る。

 だめだったかと思った。何も起きないのかと。しかし、最後の木霊が消え去る瞬間、マーロン師匠の遺骸(いがい)がまばゆい光を帯びだした。

「……っ!?」

 驚きのあまり声も出ない。やがて光は奔流(ほんりゅう)となって立ち昇る。

 それは次第に人のような形を、明かりも無かった室内に映し出す。長い髪。光があんまり(まぶ)しくて、顔はよく分からない。広い肩の輪郭は男のようであるが、はっきりとはしない。

 激しい風が部屋中に渦巻いている。レーキの背の羽も、伸ばし始めた白色の髪も、ばたばたとはためいた。

『……の者は……もう……肉を……欲し……いない……』

 どこか遠く。風の中から聞こえてくるような、切れ切れに揺らめく言葉が耳に届いた。男でも女でもない、低くて高い声。

「……!? ……どうしてっ!」

 問いかけも風にかき消えそうだ。レーキは精一杯大きな声で叫ぶ。

『……生きた者……必ず……滅びる……それが……法……』

「……嫌だっ! 俺は師匠と一緒に居たいんだっ! ……返せよっ! 返してくれよぉぉぉっ!!」

 いつの間にやら泣き出していた。しっかりと師匠の手を握り締めて、幼子のように泣きながら、誰とも知れない光の形に必死に訴える。

「……師匠は俺に全てをくれたっ! 俺にしあわせをくれたっ! 俺はまだ天法士にもなってないっ! 師匠に恩返しもしてないっ! 嫌だっ! まだ此処にいてよっ!!」

 レーキの叫びに押されるように、風向きが変わる。光に浮かぶ人影が大きく揺らいだ。

 たじろいだ気配が、伝わってくる。

『……汝は……法を……侵してい……る……定めは……変えら……ぬ……』

 光が輝度を増した。人影が大きく膨らむ。光が弾けた。一瞬、突風が(ほとばし)り、レーキは思わず師匠の手を離した。

 その瞬間。何もかもが白い光に融けて、レーキの体はそのまま壁に叩きつけられた。

「……ぐっ!?」

 鋭い痛みが背中から全身に走る。

 意識を失う瞬間、レーキははっきりとその声を聞いた。

『汝は我が領域を(おか)した。汝は呪いを受けねばならぬ。汝が愛した者は必ず汝よりも先に我が領土の住人となるであろう』

 我が領土。それでは貴方は幼い頃、脅し文句の中に聞いた、死者が行く(くら)い国の王だと言うのか。言葉の意味を反芻する前に、レーキは意識を失った。

 



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第10話 チェストの中の手紙

 気がついた時には、もう夜が明けていた。

 レーキはマーロン師匠の寝室の床で、震えながら目を覚ました。

 寒かった。ひどく疲れていて、体の芯から寒くて、凍えそうだった。

 心の中にぽっかりと穴が開いていて、そこから大切なものが流れ出しているような気がした。

 部屋の中は、嵐が飛び込んできた後のように、さまざまな物が散乱していた。それが、昨晩の出来事が夢ではなかったのだと、無言のうちに物語る。

 顔の直ぐ隣に、不思議に滑らかな石が落ちていた。美しい飾り板に縁取られた、灰色の石。

 それはかつてマーロン師匠の王珠(おうじゅ)だったもの。

 それを掴んでレーキはのろのろと、身を起こした。背に羽に鈍い痛みが走る。

「……痛っ……!」

 痛みに萎えそうになる気力を振り絞って、ベッドまでどうにか近寄る。そこには、息を引き取ったままの姿でマーロン師匠が横たわっていた。

 その姿を見ても心の中はやけに静かで。いつまでたっても、悲しいという感情が胸の中に沸き上がってくる気配はなかった。

 信じたくないという想いが、心の中をただ真っ白に染めていた。

「師匠……」

 枯れ木のような手は、ひどく冷たい。まるで氷のようだ。

 痩せても弾力を持っていた指先も強張って、握りしめても反応はない。

 だめだった。師匠は帰ってこなかった。()ってしまった。永久に。

 レーキは初めてマーロン師匠の『死』を認識した。

 

 もう、師匠は目を覚まさない。笑わない。俺を呼んではくれない。

 

 張り詰めていたものが、遂にレーキの中で弾け飛んだ。涙が、視界をぼやけさせて行くのを、他人事のように感じていた。

 レーキは唇をかみ締めて、声を上げて泣いた。泣いても泣いても、胸の辺りに開いた穴を埋めるには、まだ足りないような気がした。

 ──俺は取り残されたのだ。世界にたった一人。無くなってしまった。大切なもの。全部。

 その上、呪いまでかけられた。俺はもう二度と人を愛することは出来ない。俺が愛した人は俺より先に死んでしまうのだから。俺はただ師匠に生きていて欲しかっただけなのに。

「死の王よ! 俺は貴方を恨むっ! 心の底からっ!」

 (まぶた)は直ぐに腫れ上がった。いっそこのまま消えて無くなってしまえたらと思った。いつまでも涙が止まらなかった。

 深く深く、絶望していた。マーロン師匠と一緒に。()こうか。そんな考えが頭の中をよぎる。

 それが良いのかもしれない。最愛の人を失う、こんな苦しみを繰り返すくらいなら、たった今死んでしまった方がずっとしあわせかもしれない。

 どうやって死のうか。逡巡(しゅんじゅん)を繰り返すうちに、いつの間にやら昼近くなって。

 レーキは家を出た。飛び出したという方が正しいのかもしれない。また風が冷たい季節だというのに上着も持たず、節々の痛みに(あえ)ぐ体を引きずって。

 最後に飛ぼうと思った。空を飛んで、そのまま地に叩きつけられるのも良いかと。

 何度か羽ばたいた。骨は折れていないみたいだ。傷みはあるけれど飛ぶことに支障はない。

 思いっきり大地をけって飛び上がり、気がついた。

 小さな人影が、こちらへ向かっていた。レーキと、そしてマーロン師匠が暮らしていたこの小屋へと。レーキに鷹類の目はないけれど。シルエットに見覚えがある。暖かなフェルトのコートを着たその人影は、紛れもなくラエティアのもの。

『汝は我が領域を侵した。汝は呪いを受けねばならぬ。汝が愛した者は必ず汝よりも先に我が領土の住人となるであろう』

 あの声が耳の奥によみがえる。だめだ。だめだ。まだ死んではならない。

 今俺が死んだら。彼女は、ラエティアは、たった十六年で生涯を終えることになる。

 レーキは愕然(がくぜん)とする。

 今になって悟ってしまった。彼女の微笑が、彼女の仕草が、愛しい。とても大切なものであるという事を。

 ラエティアが歩を止めた。レーキが迎えに出てきたのだと勘違いしたか、こちらを見上げて手を振っているのが分かった。

 絶望に打ちひしがれて、レーキはラエティアの(かたわ)らに降り立つ。彼女の微笑みを見ていて、こんな心苦しさに襲われたのは初めてだった。

「おはよう。レーキ。今ならまだ昼ごはんに間に合うかと思って……」

 (たずさ)えたバスケットには、チーズと、果実酒の(びん)が入っている。紙のようなレーキの顔色に、ただならぬものを感じ取ってラエティアは口ごもった。

 レーキはゆっくりと首を横に振る。

「だめなんだ……もう。昨日、夜中に……師匠は……」

 ごとん。ラエティアの手からバスケットが落ちた。驚きに見開かれた目。小さな、桜貝のような唇が震える。

「……ああ……なんて……マーロン様……っ」

 ラエティアはがっくりと泣き崩れた。彼女は、あわてて腕を差し出したレーキにすがり付いて、泣く。彼女にとって、マーロン師匠は尊敬すべき天法士であるとともに、名付け親でもあった。

 温かいラエティアを抱き寄せて、レーキは泣き出さずにいられなかった。

 

 葬儀は、盛大に行われた。

 大きな街や都市での盛大さと比べたら大層慎ましやかなものではあったが、こんな辺鄙(へんぴ)な村では他に例がないくらい沢山の人々が老法士の死を(いた)んで参列した。

 

 レーキが泣き出してしまうと、ラエティアは驚き、かえって冷静さを取り戻したようで、彼を小屋まで連れて行って湯を沸かし、香草から煮出したお茶を()れた。

 言われるままにそれを飲むレーキは、涙を拭おうともせず呆然とあらぬ方を見つめて放心している。

 ラエティアは訃報(ふほう)を村人に知らせに走り、それからずっとレーキのそばに付き添った。

 葬儀の段取りをつけたのは、(ひげ)を生やした高齢の村長で、墓の場所を決めたのはその妻だった。

 村のすぐ近く、共同墓地の一段高くなった辺り。春になると美しい花が多く咲いているそこがいいと。レーキはこの家の(そば)が良いと思ってはいたが、口に出す機会は無かった。

 提案は受け入れられ、葬送の儀式の日取りが決まり、棺桶が運ばれて、何もかもがレーキの上を素通りしていく。

 お悔やみを言う者があった。励まそうとする者もあった。レーキは黙って頷いて、かつては王珠(おうじゅ)であった灰色の石を握り締める。

 早く一人になりたかった。静かにそっとしておいて欲しかった。マーロン師匠とレーキの物だった家には、入れ替わり立ち代わり村人達が出入りする。レーキには居場所が無い。

 

 マーロン師匠の葬儀から二週間、ようやく、小屋の中が静かになった。

 毎日のようにやってきて、何かれと無く世話を焼いてくれたラェティアも、昨日家に帰って行った。

 やっと一人になった。レーキはため息をついた。ラエティアの優しさには感謝している。

 だが、彼女を見る度に湧き上がってくる不安はどうしても心に深く根を張って、離れては行ってくれない。

 村の人たちの尽力はありがたかった。励ましてくれようとする気持ちも。でも、今は一人になれてほっとしている。

 小屋の中にある物は、みな、師匠との思い出を彷彿(ほうふつ)させる。

 小さな傷や染みにも、よぎる思い出があった。レーキはふらふらと家の中を彷徨(さまよ)う。

 もう、涙は出てこない。でも。胸の奥にこみ上げて来る物のせいで苦しかった。

 レーキは何気なく、居間にある小さなチェストをあける。そこは、書類などを入れていた引き出しだった。そこに、見覚えの無い手紙が入っていた。

 まだ新しい表書きのインク。二通あったその手紙の、一通には『レーキへ』と、マーロン師匠の細い筆跡で書かれていた。

 慌てて封を切る。そこにはこう記されていた。

 

『レーキへ。お前がこの手紙を読む頃、私はこの世に居ないでしょう。

そこでこの手紙を残します。一緒に引き出しに入っていた手紙がありますね? それをヴァローナ学究(がっきゅう)(やかた)・国立天法院(てんぽういん)在、ストラト・コッパーに届けなさい。そのための旅費はこのチェストの下の引き出しに入っています。お前の行く道をいつでも良い炎が照らしてくれますように。 アカンサス・マーロン』

 

 引き出しに入っていたもう一通の手紙には、『ストラト・コッパー様へ』と表書きがしたためてあった。

 コッパー。覚えのある名だ。いつか師匠が話してくれた、旅の仲間達。魔人を退治してから、研究のために天法院に行ったと言う法士。

 一体、何の手紙なのだろう。日に透かしてみても中身は見えない。

 師匠の遺言なら、届けるしかない。どん底へと沈んでいた心に、一筋明るい光が投げかけられる。悲しみに打ちひしがれてただうずくまっているより、見知らぬ土地へとおもむくほうが何倍もましだ。何かしていれば、生きる気力を取り戻すことが出来る。

 昼食を作って持ってきてくれたラエティアに相談すると、驚きながらも賛成してくれた。

「……久しぶりにね、とっても良い顔してる。このままレーキがずっと立ち直れなかったらどうしようって、思ってた」

 嬉しそうに笑って涙ぐむラエティアを見て、少しだけ心が痛んだ。旅に出たいと心を決めたのは、このまま彼女のそばにいる事に苦痛を感じ始めていたせいもある。

 彼女が悪い訳じゃない。ただ、彼女を愛しいと思う度、同時に彼女の寿命を縮めているような気がしてならないのだ。少しだけ離れよう。旅をして、自分を見つめなおす。

 そのためにもヴァローナへと向かおう。レーキはそう決心した。



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第11話 旅の途中で

 早速次の日から、ヴァローナ天法院に向かうための準備を始めた。

 旅をするための装備を調えるために、村へ向かう。

 マーロン師匠が遺してくれた現金はそう多くは無い。交通費と宿代でやっと。仕度のために必要な分は、鶏を売って(まかな)った。

 肉屋の店主は、相場よりも高い値段で鶏を買い取ってくれた。

 干し肉や保存食を少し、旅先で必要になりそうな薬と、ブーツ。防寒用のマントも新調したかったが、金がない。思案していると、雑貨屋の女将さんが余っていた在庫を安く譲ってくれた。少し野暮ったいデザインであるが、軽くて温かい質の良い品だ。

 旅の間に必要になる身分証明書は、村長が書いてくれた。そこには確かにレーキがこの村に住んでいること、マーロン師匠の弟子であること、一七歳であることが書かれていた。

 護身用のショートソードはラエティアの父である、アラルガント氏が譲っても良いと申し出てくれた。

 有り難く受け取りに良くと、アラルガントの末息子、五歳のラグエスがどこに行くのかと舌足らずにレーキに尋ねた。

「ヴァローナに行ってくるよ」

「それどこ? となりまち?」

「ううん。ずっと遠い。森を抜けて街道を通ってずっとずっと遠い、よその国だ」

 よその国、という概念がまだ理解できないのだろう。ラグエスは、じゃあこんだけくらい寝たら戻ってくる? と、小さくて短い指を十本立てて聞いた。

「うーん。十日じゃ無理かな。一ヶ月か、もっとかかるかもしれない」

「……そしたら帰ってくる? 兄ちゃんがいないと姉ちゃん寂しがるよ」

 お姉ちゃん思いなんだな。ちびすけの頭を優しく撫でて、レーキは頷いた。

「うん。なるべく早く帰ってくる。立派なお土産は無理かもしれないけど、ヴァローナがどんなとこだったか話してやるよ」

「うんっ!」

 盛大に頷いたちびすけに、レーキは微笑んだ。

 

 一週間かけて、小屋の中の掃除や装備の準備を整え、レーキはついに旅立った。

 すっかり陽がぬるんで、街の周囲の森では春の草が花を咲かせ始めている。

 一年を通じて雨の多いこの国の街道は、馬車や人の足が泥に(すく)われぬ為に、堅く、青く硬い岩から切り出した板で舗装されていた。そのため街道は別名を『青い道』とも呼ばれ、アスールの主要都市は全てこの青い道沿いに発展している。

 古代から変わらぬ姿を保ち、未だ知られていない危険な生物も潜むアスールの深い森林は、街道と言えども危険が多い。

 徒歩で青い道を行く旅人は皆無。人々は大抵、二十人から三十人、多い時では五十人単位の隊列を組み、乗合馬車で移動する。

 その馬車の運行を担っているのが、森での生活に長けた獣人で、かれらは『森先案内』もしくは『森の民』と呼ばれる。

 レーキの村は、アスールの東西南北を貫く幹街道から、徒歩で二日ほど離れた場所にあった。

 幹街道に出るためには、近隣の村々が共同で管理している支道に出なければならない。支道には乗合馬車の定期便がある。その駅がある隣町までは徒歩で半日ほど。

 隣町に行く時は、危険に備えて用のある者何人かで連れ立って向かう。レーキと一緒に隣町まで行っても良いと名乗り出たのは、アラルガント氏と、その息子と甥っ子の三人だった。

 

 旅立ちのその日。レーキは慣らしておいたブーツを履いて、形見の石と法術の本を懐に入れた。譲って貰ったショートソードは背嚢(はいのう)に入れて、それを背負う。

 マーロン師匠と暮らした思い出深いこの家とも、しばしのお別れだ。

「……行ってきます。師匠」

 師匠が健在であった頃のように、レーキはその言葉を口にした。だが、家の中はがらんと広く答えは無い。

 それが、ひどく悲しかった。

 一足先に、村のはずれでアラルガント家の三人を待つ。まだ朝靄(あさもや)が立つような早い時刻であるにもかかわらず、大勢の村人が見送りに来ていた。

 村の恩人である、マーロン師匠の最後の弟子であるばかりではない。この四年間、この村で暮らしてきた少年が、遠い見知らぬ異国へ向けて旅立つのだ。

「道中気をつけてな」

「悪いもの食ったときはこれ飲みな」

「どんな時でもあたし達が応援してるからね。負けるんじゃないよ」

 握手を求める者、自家製の下痢止めを渡してくれる者、目頭に涙を浮かべて手をふる者。四年前、サンキニの町を出たときとは大違いだ。

「レーキっレーキっ!」

 大勢の村人を掻き分けるようにして、ラエティアが近づいて来た。

 もみくちゃにされて、髪はぼさぼさ、呼吸も少し速い。手には何やら紙包みを抱えている。

「これ……っ! 持って行ってっ」

 手に取るとほんのりと温かい。ちょうど手のひら二つ分くらいの大きさの丸い包み。

「お弁当。堅パンだから日持ちすると思う」

「……ありがとう」

 焼き立てなんだ。こんなに朝早いのに。俺のために。抱き寄せた包みは温かい。胸にこみ上げてくる愛しさと罪悪感。

 俺はなんて事をしてしまったのだろうか。どうしてマーロン師匠を呼び戻そうとしたんだろう。師匠は前を向いて歩きなさいと、言ってくれたのに。

 こんなにも自分を想ってれる人がいて、こんなにも自分を案じてくれる人たちがいて、どうして全てを無くしてしまったと思ったのだろう。

「……ありがとうっ!」

 心から悔やんだ。そして祈った。

 ──どうか、どうか。死の王様。この人たちを生かして上げて下さい。

 この人たちの寿命を刈り取らないで下さい。みんなをしかるべき時まで生き長らえさせて下さい。俺なぞは八つ裂きにされても野たれ死んでもかまいませんからっ!

「……行ってきますっ!」

 遠ざかる村の入り口を、振り返り、振り返り、レーキは旅立つ。大勢の人々が手を振っている。鼻の奥がつんと涙の気配に痛んだ。泣き出したいのをこらえ、レーキは大きく手を振り返して、前を向いた。

 

 駅馬車の出る隣町で、アラルガント一家と別れた。アラルガント氏は、レーキを抱擁して、「しっかりな」と一言だけ言って離す。寡黙な男らしい、静かで心のこもった一言だった。

 レーキは大きく頷いて馬車に乗り込んだ。

「さっさと帰ってきてティアを安心させてやってくれ」

「あいつは泣き虫だからさ」

 二人の従兄弟たちはラエティアと耳の形がそっくりで、どちらも可愛らしい妹を案じている。レーキは黙って頷いた。

「ラエティアに本当にありがとうって伝えてください……行ってきます!」

 

 馬車に乗るのは初めてではなかったし、旅に出る事も初めてではなかった。

 ただ、一人旅というのは生まれて初めてで。馬車が走り出してすぐは体ががちがちにこわばるほど緊張した。途中で魔獣(まじゅう)に襲われるかもしれない。盗賊に襲われるかもしれない。

 悪い妄想ばかりが(たくま)しくなって青くなったレーキの顔色を、酔ったのだと勘違いした隣席の女性は、水気の多い果物をくれた。甘酸っぱい赤い実。それを食べているうちに気分が落ち着いてくる。

 俺は死ねない。使命がある。何より呪いが消えない限り、俺は長く生きなければならないんだ。村の皆が十分に生きられるほど。

 手紙とラエティアのパンが入った背嚢を、レーキはしっかりと胸に抱いた。

 

 途中で一泊して、幹街道沿いの街に付いたのは次の日の早朝だった。

 そこから、ヴァローナ行きの街道馬車を探すと、それに乗り込む。

 青い道を抜けてしまえば、魔獣に襲われる危険性は低くなる。路銀節約のために野宿することも出来る。しかし、森の中にいる間は確実に宿に泊まらざるを得ない。

 空を飛ぼうかとも思った。だが長距離の飛行にレーキの羽は向いていない。ちょうどいい風を捕まえられなければ、あっという間にへたばってしまうだろう。

 仕方なしに馬車を使い、なるだけランクの低い宿を選んで泊まった。

 それでも、往きの路銀の半分がアスールで消えた。

 一週間かけて青い道を抜けた。

 突然森が開けると、その先には肥沃(ひよく)な平野が広がっている。

 水豊かなる国ヴァローナ。湖沼と川と学問の国だ。

 

 ヴァローナに入って初めての街は、ぐるりと城壁に囲まれていた。

 城壁の入り口には、アスールからヴァローナに入国するための関門がある。

 アスールとヴァローナ、両国の関係は現在良好で、人も物も往来は盛んだった。そのため、関門の街は大勢の人で賑わって、入国審査を待つ馬車は列をなしていた。

 関門には数人の役人が立っていて。乗合馬車はここで一度止められ、乗客と荷物が改められる。

 レーキも身分証明書を求められ、どこへ行って何をするつもりかと尋ねられた。

「『学究の館』に。届け物をするためにきました」

『学究の館』に辿り着くまでは、ここから二週間ほどかかる。徒歩ならその倍だな。と、役人が教えてくれる。

 目立ったトラブルもなく、順調に旅は続く。

 魔獣に襲われることも、盗賊に行く手を阻まれることもなかった。何かが起きることを期待していた訳ではないけれど。何事もなく過ぎてゆく日々は退屈だ。

 始めは物珍しかった異国の風俗も、慣れてしまえば日常。

 一週間分の距離を、乗合馬車で稼ぐことにした。残りは徒歩だ。

 一週間かけてこの街と、『学究の館』の中間まで向かう。それから徒歩で二週間かけて、目的地にたどり着く。

 期日を決められた旅じゃない。のんびり行くさ。

 既に春も盛りを過ぎて、そろそろ日差しも(まぶ)しくなってくる。レーキは防寒用マントをたたんで背嚢にしまった。

 

 ヴァローナには四季がある。

 アスールにも四季はあったが、一年を通じて雨が多く、鬱蒼(うっそう)とした木々に覆われた国土は気温の変化も(とぼ)しい。

『王都、ロス・ラ・ミュールの犬は太陽を見て吠える』とは、よく言ったものだ。アスールの空はめったに快晴になる事は無い。

 反対に、ヴァローナの空は穏やかで、めったに掻き曇ることが無い。かと言って苛烈な日差しに(さら)されることも無い。

 天候までもが穏やかで優しいヴァローナ人の気風を表しているようだった。むしろ、その気候こそがヴァローナ人の気性を作るのか。

 ヴァローナの人々は隻眼(せきがん)に白髪、黒い羽というレーキの印象的な外見を見ても、彼を避けるでもなかった。むしろ、異国の話を聞かせてくれと寄ってくる者さえいた。

 アスールでは、アーラ=ペンナ(鳥人)をあまり見かけなかった。ヴァローナの人々は、亜人である事にすらこだわらなかった。だから忘れていた。この羽に、この黒い色にどんな意味があるのかという事を。

 

 



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第12話 『学究の館』

 途中野宿をしながら、ようやく、『学究の館』まで後半日という地点にある都市に着いた。

 城壁で囲まれた街の門をくぐったのは、既に日も暮れて、一番星と弟月が空に昇ろうかという時刻で。

 今日ここで一泊して、明日になれば『学究の館』に辿り着く。

 一日中歩き通して疲れた足を引きずって、早速いつものように安宿に泊まろうと宿を探した。

 だが、今日はちょうどこの街で催し物があるらしい。手ごろな値段の宿から、少し奮発する事になるランクの宿までどこも埋まっていた。

 ただ一室、普段なら泊まろうとは思わないほど高い値段の宿で、相部屋でよければと申し出てくれた所があった。

 此処でこの宿に泊まると帰りの路銀に少し食い込んでしまう事になる。

 だが、明日は目的地に辿(たど)り着けるという高揚感に財布の紐も緩んだ。

 それに疲れ果てていた。今日こそはベッドで眠りたい。レーキは宿の申し出を受ける事にした。

 早速部屋へと向かう。二階の一番奥まった部屋。ボーイに扉を開けてもらうと、そこは中々上等な部屋だった。

 部屋の壁には暖炉があった。壁紙は、萌黄色を基調にしたつる草の模様。見るからに高価そうだ。

 家具はどれもしっかりとした造りで、おまけに、ベッドのリネンは清潔で洗いたて。レーキが泊まった事のある宿の中でも、上位に位置する良い部屋だった。

 部屋の中に人の気配はない。おそらく飯でも食いに行ったのだろう。相部屋になった客は今、部屋にいない。

「お客様はこちらをお使いください」

 レーキは、メインの客室より一回り小さい部屋に通される。本来は客の伴っている従者ための部屋なのであろう。大き目の部屋より質素な印象の部屋だ。この部屋にも暖炉があり、燭台が乗っている。こちらは少々小さめのベッドと暖炉の他には、目立った家具はない。

 こちらの部屋でも十分に上等だ。レーキは早速ベッドに寝転がる。寝台は柔らかく、(のり)の利いたリネンはいい香りがした。

 それだけでも、少々奮発した事の後悔はなくなった。どうにかなるさ。いざとなれば、道中で金を稼ぐ事だって出来るだろう。もともと体は丈夫で、腕力にも自信がある。路銀を稼ぎ出すための仕事も、苦もなく見つかるだろう。

 軽く目を閉じる。靴、脱がないと……。でも少しだけ。どっと全身に広がる安堵感。レーキはそのまま眠り込んだ。

 

 ほんの一瞬目を閉じた。と思っていた。部屋の戸をノックする音で、レーキは目を覚ます。

 部屋に入った時よりも、蝋燭の長さが半分ほどに減っていた。既に二刻(約二時間)ほどが過ぎているようだった。

 眠い目をこすって扉に向かう。誰だと問うと、答えが返ってきた。若い男の声だった。

「相部屋の者だ。シアン・カーマインと言う。挨拶をしておこうかと思ってな」

 尊大な口調ではあるが、マナーはわきまえているようだ。こちらが許可するまで、扉を開けようとしない。でなければ、ドアは他人に開けてもらう物だと思っているのか。育ちがいいのかもしれない。

「どうぞ」

 レーキはドアを開けた。挨拶されたなら、挨拶を返すのが礼儀だ。

 内開きの扉の向こうに立っていたのは、グラナート風の布の多い衣装を着たレーキと同じ年頃の少年だった。

 一番に目が行ったのは、燃え盛る炎のように赤い髪。

 無造作に垂らされた赤い髪は、背中に折り畳まれている同色の羽まで届いて交じり合っていた。シナモン色の肌、オレンジがかって見える大きな(ひとみ)は驚愕にさらに大きく見開かれている。厚めの唇は笑顔を作りかけてかたまり、戸惑いの色が隠しきれない。

 アーラ=ペンナ(鳥人)に生まれるなら、こうありたいと多くの人々が望む完璧な羽色。

 こんなに間近で、同族と顔をあわせたのは久しぶりだ。レーキも、一体どんな対応をしていいのかわからなかった。

 先に我に返ったのは、シアンと名乗った少年の方だった。

 形のいい眉が不快げに歪んだ。レーキの羽を見つめていた(ひとみ)に、嫌悪の色が宿る。

 唇が引き結ばれた。シアンは黙って(きびす)を返し、足早に部屋を出てゆく。

 あっけに取られて、レーキはその後ろ姿を見送った。程なく部屋の外でなにやら怒鳴り声がする。

「……の、黒……らわしいっ……!」

 はっきりとは聞き取れなかったが、自分の事を言っているのだと、レーキには判った。

 宿の者が部屋を移ってくれないかと言ってきたのは、それから間も無くの事で。

 他の部屋に空きはないが、物置に予備のベッドがあるので、そちらに移ってはもらえないかと。宿代を半分にしても良いと言うので、レーキは承知した。正直その申し出にほっとしてもいた。あんなに激しい拒否反応を示されるとは、思っていなかった。

 でも、『山の村』にいた頃はずっとそうだったのだ。嫌悪と侮蔑。それが日常だった。

 薄暗い倉庫に移って、レーキは壁を見つめる。この忌ま忌ましい黒い羽。これさえなかったら。俺の羽があいつのような美しい色であったなら。どんなにか人生は喜びに満ちていただろうかと。

 口惜しくて苦しくて。結局眠りに()いたのは夜が白み始める頃だった。

 

 睡眠不足の眠い目をこすりながら、レーキは街の門を出た。

 いっそ乗合馬車に乗ろうかとも考えたが、朝のすがすがしい大気に身を(さら)しているうちに、徒歩でも構わないかという気分になってくる。

 目的地まではもう一息。長かった旅もようやく半分が終わりだ。

 昨晩の少年とは、あれきり顔を合わせずに済んだ。口惜しくもあり、哀しくもあったが、つとめて思い出さないようにした。自分を(おとし)めるような、そんな気分になるのは避けたかった。惨めな気分で『学究の館』を訪れなくても済むように。マーロン師匠の弟子として、品格をもって立派に勤めを果たしてきたと、胸を張って村のみんなに言えるように。

 

『学究の館』。『館』という言葉の響きからすると、建物が一つ二つぽつんと建っているような印象を受けるかもしれない。だが、言葉とは裏腹に『学究の館』は一つの大きな都市だ。

 研究機関である『館』を中心に放射線状に作られたこの都市には、国外からの留学生を受け入れる寮や、学生のための雑貨屋、本屋、寮に入らない学生のための下宿屋、勉強の息抜きにはもってこいの盛り場、等々、学生と研究者のための様々な施設がある。

 一番賑やかな都市の中心部から十分ほど離れると、ヴァローナ国立天法院を初めとする、各専門院が点在する。国内、いや、大陸最大級の蔵書数を誇る図書館、『探求の館』もこの都市にあった。

 学びを求める者に、広く開かれた国際学園都市、それが『学究の館』だった。

 

 正午を少し過ぎた頃、レーキは『学究の館』に到着した。

 こんな大都市を訪れたのは、初めてのことで。往来にある様々な物や店。レーキにとっては何もかもが珍しく、好奇心をそそるものばかりで。

 黒い服を着た人々と大勢すれ違った。形は少しずつ違う。だが基調になっている色は決まって黒だった。

 黒は学問の色なのだと、マーロン師匠が言っていたことを思い出した。ヴァローナで学問に(たずさ)わる人々はみな黒を着ると。

 街の中心は、ぐるりと壁で取り囲まれている。いくつかの門があり、そこに門番がいるのが見えて、レーキはとりあえず道を聞いてみるために声をかけた。

「あの、すみません。天法院と言うのはどこですか?」

 門番が教えてくれた目印を頼りに、大通りを抜け、大きな建物を左に見ながら曲がった。途中で少し迷ったかとうろたえながら、半刻(約三十分)。

 レーキはとうとう、天法院の前に立っていた。

 天法院の建物自体は石造りで、広い敷地を囲う壁には、レーキの背丈の倍以上もある、大きな門が付いている。その門には『ヴァローナ国立天法院』の文字が書かれたプレートがかかっていた。

 歴史の重みを感じさせる、古い建物。ところどころ蔦の絡まった校舎はどこか陰気で、年老いて気難しい爺さんのような印象を見る者に与える。ある意味でそれは正しいのだ。

 ヴァローナ天法院の出口は狭き門だ。入るは易く、出るは難い。

 毎年百人前後の新入生を迎えて、立派に天法士となって卒業できるものはその半分もいまい。

 歴代のヴァローナ国王が、院長を兼任するこの天法院は、世界でも屈指の天法士養成機関だ。

 教師の大半が三ツ組以上、つまり高位の天法士で、一流の天法士を数多く排出してきた。

「……」

 長年風雪に耐えてきたと思われる門の威厳に打たれ、レーキは固唾をのんだ。

「ここが、天法院……」

 マーロン師匠も此処で学んだ。いや、多くの偉大な法士たちが此処で学び、世に巣立って行ったのだ。

 この石畳を師匠も踏んだのだろうか。

 門番に来意を告げて、入り口へと続くいささか磨り減った石畳をたどり、レーキは感慨にふける。

 まだ少女であった頃の師匠が、この石畳を駆けてゆく。幻影の後ろ姿を追うように、レーキは校舎へ入って行った。

 入り口近くに学生らしき青年が立っている。黒いローブを着て、胸には古い書物を抱えていた。

「あの……ストラト・コッパー様にお会いしたいのです。手紙をお渡しするように言い付かってきました」

 青年は小首をかしげ、ようやくその名前に心当たったようで、(うなず)いてくれる。

「こちらへどうぞ? 案内します」

 青年は先にたって歩き出した。その柔和そうな顔に幾許かの安心を感じながら、レーキは後に続いた。ようやく師匠の遺言を果たせる。その安堵感も手伝って、不思議と緊張はしなかった。

 窓が少ないせいで、昼だというのに薄暗い室内を、上へ向かって上ってゆく。一階、二階。

 五階分階段を上って。途中で何人か、黒いローブ姿の人物とすれ違った。大抵はレーキより年上のようで、知性的な目をして、穏やかな表情をしていた。

 最上階の一室の前で、青年は足を止めた。鈍い光を放つ、金でレリーフが施された両開きの扉をノックして、青年は来客を告げる。

「あの、ここは……」

 通りがけに見かけた扉と比べると、ずいぶん立派な扉を前にして、レーキは戸惑う。

 コッパーという人は一体どんな人なんだろう。天法院にいるというのだから、教師か研究者であるとは思っていたのだが、どうやらただの教師などではないようだ。

「入りたまえ」

 年老いて枯れてはいるが、深い包容力を感じさせる声が室内から聞こえてきた。

「失礼します」

 軽く一礼しながら、青年が戸を開ける。そこには大きな物書き机があり、その向こうには老人が一人座っていた。豊かな白髯(はくぜん)を蓄えたその老人は、にっこりと目を細めて立ち上がる。

 少し曲がり気味の背中。分厚いレンズの小さな眼鏡をかけて、足が悪いのか杖にすがって片足を引きずりながらこちらへやってくる。

「ようこそヴァローナ国立天法院へ。儂が院長代理ストラト・コッパーじゃ。何の御用かね?」

「院長代理……」

 ヴァローナ国立天法院の院長はヴァローナ国王本人。これは名誉称号のような物で、国王は実務に(たずさわ)わらない。したがって、今レーキの目の前にいる人物こそが、国立天法院を取りまとめる責任者。最も権威ある者。

「……ッ! はじめましてっ……あの、俺、レーキ・ヴァーミリオンと言います。マーロン師匠……アカンサス・マーロン師の手紙を届けに参りました!」

 ストラト院長代理を前にして、レーキは今更ながら上がってしまった。掌にじっとりと汗が(にじ)む。

 院長代理の眼差しは優しい。でも、どこかに教育者として、人の上に立つ者としての威厳が感じられる。

 マーロン師匠が時折見せた、天法士としての一面に似ている気がする。

 だが彼の場合は、何十人、否、何百人もの天法士の頂点付近に立っていると言う事実が、彼を非凡なる者にしているようだった。

「ほほほっ。まあまあ、そう固くならんで。もっと楽にしなさい」

「はっはいっ……」

 気分は簡単に切り替えられない。まずは使命を果たしてしまおう。レーキは慌てて背嚢(はいのう)から、油紙を二重に巻いたマーロン師匠の手紙を取り出した。それを(うやうや)しく差し出す。

 院長代理は手紙を取り出して、封を切った。

「……アカンサス殿……懐かしい名だ。君はあの方の弟子なのかね? あの方は息災かね?」

「はい。俺がマーロン師匠の最後の弟子です。……残念ながら師匠は先日亡くなりました。一ヶ月ほど前の事です」

「なんと……」

 コッパーは(あえ)いで、杖にすがった。強いショックに、顔面から血の気が引いているのが解る。レーキは老人がくず折れないように、手を差し出して支えた。

 老人特有のしみが浮いた細い指が、レーキの腕にすがる。枯れ木のように細く骨ばってはいたが、優雅だったマーロン師匠の指先を思い出して、レーキは軽く唇を噛んだ。

「……すまんの」

 そう呟いた声も(うつ)ろだった。コッパーは崩れ落ちるように椅子に腰掛けた。老いても威厳を湛えていた(ひとみ)が、微かに濡れて見える。

 コッパーは眼鏡をはずして、目頭を揉み解すように滲んだ涙をぬぐった。

「わしとアカンサス殿は学生だった頃からの知り合いでの。一時は一緒に旅をしていた事もある。……そうか、亡くなられた、か……」

 コッパーは深く息を吐き出して、目を閉じた。レーキにとっても、マーロン師匠の死は大きな痛手であったけれども。年若い頃から彼女を知っていたこの老人にとって、それはどんな意味を持つのだろう。

 なんにせよ、大きな悲しみを含んでいる事は確かだった。

 レーキは何を言って良いのか判らずに、机の傍らに立ち尽くす。慰めの言葉が心に届かない時もあると、先日身をもって知ったばかりだ。

 コッパーは大きなため息とともに、(まぶた)を持ち上げる。その奥に垣間見える淡いブルーの瞳は、思わぬ衝撃に濁って見えた。

「……よく知らせてくれたのう」

「師匠の遺言でした。その手紙をコッパー様にお届けするようにと」

 思わず力が入ってしまったのだろう。コッパーはわずかに(しわ)のよった手紙を見下ろして、深く息を継いだ。わずかな躊躇(ためら)いの後に意を決して、紙面を開く。レンズ越しに、見覚えのある筆跡。

 かつて、この学び舎で共に過ごした日々の中、交換し合ったノートで、共謀して遊びに出かけようと誘うメモで、何度も見かけた細く流麗な筆跡。

 視線が文字を追ってゆくにつれ、コッパーは嗚咽(おえつ)をこらえるように何度も咳払いする。

 二度読み返して、彼は訃報(ふほう)を運んできた親友の弟子を見上げた。

「……レーキ君。君は天法士になりたいのかね?」

 突然の質問にレーキは戸惑い、隻眼が瞬いた。直ぐに唇がまっすぐに結ばれる。彼の表情が真摯(しんし)な色合いを帯びて、「はい」と、一言だけ正直に告げた。

「では、君がヴァローナ天法院への入学試験を受けることを正式に許可しよう」

「え……?」

 唐突な宣言にあっけに取られる他ない。院長代理は正式にと言った。冗談であるはずがない。

「それがマーロン殿の遺言だ。『最後の弟子を頼む』と」

 差し出されたマーロン師匠の手紙を見れば、そこにはただ三行だけ。

 

 さようなら。

 最後の弟子をよろしく頼むわ。

 

 アカンサス・マーロン

 

 死んでまであの人らしい。コッパーは力なく笑った。

 

「まずは旅の疲れを癒やすといい。全てはそれからじゃ」

 あっけにとられて混乱するレーキに、コッパーは優しく言ってくれる。学生用の寮に泊まれる様に便宜を図ってもらって、レーキは半ば呆然としたまま、案内役の青年に付いて行った。

 

 



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第13話 天法院の食堂で

 学生寮は天法院の敷地内にある。校舎から、歩いて五分も掛からない場所だ。

 こちらも古い建物らしく、煤けた色の石の外壁と窓の少ない薄暗い廊下は、校舎と共通している。ただ、若い学生が多いせいか、こちらの方が少々騒がしい。

今は丁度試験期間中で、試験勉強のために宿舎に篭もっている学生も多いのだと、青年が教えてくれた。

「申し訳ないけど、ここ以外に空いているベッドがないんだ。相部屋という事になるけど、構わないかい?」

 相部屋。ここへくる途中の、苦い記憶が脳裏によぎる。しかしコッパーの好意を無碍(むげ)にする訳にも行かず、勿論余分な滞在費などないレーキは「はい」と言わざるをえなかった。

「ちょっといいかい?」

 青年が軽く扉を叩くと、室内から「開いてるよー」と間延びした声が返ってきた。

 声だけでは若いのか年を食っているのか判別できないタイプだ。

 扉を開くと、寮の部屋は全ての家具が左右対称に設えられていた。二つのベッドと、二つの物入れ、それから二つの机が部屋の端それぞれに配置されている。正面の壁には明かり取りの窓が一つ。窓は西向きなのか、今は陽の光が差し込んでいて、(まぶ)しいくらいだった。

 向かって左側の机。そこには先ほどの声の主らしき学生が、黒いローブを肩に羽織って、机にかじりついていた。人が入ってきた気配を感じているだろうに、振り向こうともしない。

「アルマン君。とりあえず、今日一晩この部屋に泊まる事になったレーキ・ヴァーミリオン君だ。……レーキ君。こちらはアガート・アルマン君」

「よろしくお願いします」

「はいはいー」

 遠慮がちに頭を下げてみる。気のない言葉を返して、アガート言う学生は相変わらず机に向かったまま、なにやら熱心に書き物を続けている。

「……ちょっと変わった奴だけど、悪い奴じゃないから……何か困った事があったら一階の監督生室まで来てください」

 やれやれ。肩をすくめた青年は、そう耳打ちして自分の部屋に引き上げていった。

「……」

 うかつに話しかけたりしては、いけないのではないか。静かな背中が無言のまま圧力をかけてきているように感じて、レーキはなるべく音を立てないように、空いているベッドの端に腰掛ける。その上には十数冊ほど分厚い本が投げ出されたままになっていて、ルームメイトがいない間、そこがアガートの物置になっていた事は一目瞭然(いちもくりょうぜん)だった。

 手持ち無沙汰(ぶさた)としか言いようがない。アガートがペンを動かす音だけが室内に響いている。

 旅の疲れも手伝って、レーキはじきにうとうと船をこぎ始めた。

 ふっと眠り込んでしまうと思った次の瞬間。

「おりゃーっと! 終わりだこん畜生!」

 奇妙な雄たけびと共に、盛大に本を閉じる音がした。レーキは慌てて目を覚まして、辺りを見回す。

 机に向かっていたアガートが、立ち上がって大きく伸びをしている。

 文字通り、大きい。レーキとて決して小柄な方ではないのだが、アガートは彼の頭一つ分以上背が高く、伸びをしている今は、もう少しで大振りな手のひらが天井に手が届きそうな程だ。

 高さに対して横幅はそうないので、威圧感はない。むしろ、ひょろ長く見える分いかにも肉体労働には向かなそうだ。

 肩口まで届く黒髪は、散髪したまま何ヶ月も放っておきましたと言う風情でだらしなく伸び、丸いレンズの眼鏡の下はうっすらとくまが出来かかっている。

 人懐っこそうにわずかに微笑んで見える口元には、転々と無精ひげが生えていて、何日も洗顔もしていないのではないかとレーキは思った。

「はい。お待たせ。レーキ・ヴァルミルオン?」

「……ヴァーミリオンです」

 名前の間違いを訂正しながら、レーキはついつい半分寝ぼけているような、アガートの顔を見つめてしまう。

 声と同じく、顔も若いのか年を食っているのか、一見しただけではどちらとも言えない。

「オレはアガート・アルマン。よろしくー」

「よろしくお願いします。アルマンさん」

 丁重に頭を下げたレーキを、遠慮のない視線でしげしげと眺め、アガートはがりがりと髪をかき回した。

「改まらなくていいよー。オレのことはアガートで良い。堅苦しいのは苦手だ。……今片付けるよ、それ」

 本が乗っかったままのベッドを(あご)でしゃくって、アガートは別段慌てた様子もなく本を拾い上げていく。

 とりあえず、ベッドの下に押し込めるだけ押し込むと、端に腰掛けるだけで精一杯だったスペースが、どうにか人一人休める程度になった。

「……ふう。これでここで眠れるだろ? リーキ……ヴァ……?」

「レーキです。俺も堅苦しいのは苦手だから。レーキと呼んでください」

 どうやらこの青年、人の名前を覚えることが苦手らしい。一応年上だろうと目星をつけて、言葉は丁重に申し出る。

「レーキ。レーキね。覚えた……多分。所で君、もう飯は食った?」

「いいえ。ついさっき天法院についたばかりなので」

「よし。それじゃあまず腹ごしらえと行こうか。オレは腹が減った」

 どこまでもマイペースな男だ。今まで自分の周りには居なかったタイプの人間に出会って、レーキは面食らってしまった。

「ほいほい。食堂まで案内するからついといでー」

 客人を置いて、さっさと部屋を出てゆくアガートを追いかけて、レーキは慌てて部屋を出る。

「もう直試験だからさ。ヤマを張ってその範囲を頭に詰め込んでたわけ」

「……えーと、話には聞いたことが有ります」

 試験。そう言われてもいまいちピンとこない。マーロン師匠のもとで勉学に励んでいた時は、いつも師匠がつきっきりで課題を出してくれて、それに応えると言うやり方だった。

「試験は……ペーパーテストとか実技とかを試験官の前で行うって聞きました」

「聞きました、かー。じゃあ君は実際の試験受けたこと無いわけだ」

「はい。今までは師匠と一対一でしたから」

「そいつは羨ましいね」

「そう、ですか?」

「だって贅沢なことじゃないか。つきっきりの授業ってのは。今どき大金持ちの子弟でも難しいぜ。まあ、だからこそこの天法院があるんだけどさ」

 そういうものなのか。改めて言われてみると、レーキはマーロン師匠の優しさと温かさに感謝の念が湧いてくる。やはり師匠と出会えたことはレーキにとって真の幸福だった。

「ん? それじゃあ君はどうして天法院に?」

「……師匠は亡くなって……ここへは師匠の遺言で」

「それは……ごめん。辛いことを聞いちゃったね」

「いえ……」

 アガートはマイペースだが、悪い人間ではないらしい。ごめんと言った、その茫洋(ぼうよう)とした顔には、確かに人の死を(いた)む色があった。

「いい師匠だったんだろー? 君、すごく悲しそうな顔したもんなあ」

「……はい。とても素晴らしい師匠でした」

 それだけは胸を張って言える。力強いレーキの言葉から師への尊敬や愛情、様々な感情を読み取る事ができる。アガートはなぜか苦笑した。

「まだ王珠(おうじゅ)を授かってないんだろ? 修行の続きはここでするのかい?」

「……まだ、わかりません。師匠の遺言にはそう書いてあったみたいですけど、突然のことで驚いてしまって」

「ここは学ぶにはいいトコだよー教師はまあ、だいたい優秀だし、衣食住は保証されるし、いい図書館は有るしね」

 自分の母校だというのに、何処か他人事のようにアガートは笑う。

「……はい」

「さあついた。食堂だよ」

『食堂』と書かれた額の掲げられた扉をくぐると、そこは巨大な空間だった。

 生徒、教師、職員とこの天法院に集う全ての人々、数百人を一度に収容できるように作られた食堂には、今も大勢の人々が集まっていた。

 その空間には、数人のグループで座れるように作られた長机と、長椅子が何十と並んでいる。

 向かって左側には、厨房と料理を受け渡すためのカウンター。右側には中庭に面した大きな窓があり、陽が傾きかけた時間の穏やかな光が差し込んでいる。

 レーキは言葉を失った。なんて大勢の人間たち、亜人たち!

 皆が思い思いに何かを話しているせいで、ここに立っていると、大きな蜂の巣をつついたみたいにうるさい音がする。

 天法院は大きな建物だと思っていたが、廊下を歩いている人影はまばらだった。だから、こんなにも大勢の人間が、天法院にいるとは思っても見なかった。

 試験期間中、午後の講義は中止になる。それを利用して生徒達はある者は食堂、ある者は図書館、自室、研究室とそれぞれに試験勉強に入っていたのだった。

 中でも、自由にお喋りができる食堂は人気の自習場所だった。

 あっけに取られて固まっているレーキに、アガートは悪戯っぽく笑いかける。

「どうしたー? こんなにやかましい所は初めてかい?」

「……あ、はい……!」

 ここに来る道中でも人の多さに驚いたが、かしましさはこの場所の方がずっと上だ。

「……君の故郷は何処だい?」

「……え?」

「飯の話! 五大国風の料理はいつでも用意されてるから。君の故郷の味に近いものもあるかもしれないよー」

 それだけ言うと、アガートはさっさと食事を受け取るためのカウンターに向かってしまう。レーキは慌てて後を追った。

「ああ、忘れてた。これ使って」

 急に振り向いたアガートにすんでの所でぶつからずに済んだレーキは、目の前に差し出された丸いコイン状の何かを受け取った。

「飯用のトークンだ。それ一つで一つのメニューと交換できる。今日のおすすめはグラナート風煮込み定食」

「……あ、ありがとうございます!」

「そのうち返してくれればいいから。人に(おご)れるほど余裕はないんだ。ごめん」

 片目をつぶって笑うと、アガートは本格的にカウンターに並んでしまう。レーキはあたりをキョロキョロと見回した。

 カウンターの上には、手書きの共通語(コモン)で『グラナート風煮込み定食』やら、『ヴァローナ風鶏肉のソテー定食』だの、様々なメニューが並んでいる。

──これは……困ったな……

 一人ぽつんと取り残され、レーキは戸惑った。

 無難に『アスール風野菜スープ定食』の列に並ぶと、すぐに威勢の良い食堂の職員が対応してくれる。

「はい! 野菜スープ定食ね!」

 レーキより少し年上に見えるその女性は、頭には布をかぶり、口元を布で覆った獣人だった。柔らかな毛に覆われた耳、キラキラとした(ひとみ)。彼女を見ていると、不意にラエティアのことを思い出す。その瞬間胸の奥がちりりと甘く傷んだ。

 礼もそこそこに定食を受け取って、レーキはカウンターを離れた。

 空いている長机を探して、端の席に腰掛ける。食堂の喧騒にも、少し耳が慣れてきた。

 溜め息を一つ吐くと、気持ちも落ち着いてきた。緊張の連続で忘れていたが、腹が減っている。レーキはさっそく定食を食べ始めた。

 スープは、何処がアスール風なのだろうと首を傾げたくなる味付けだったが、美味かった。

 一緒についてきたパンはヴァローナ流の柔らかさで、スープに浸さなくても口の中で解けて旨味を残して消えていく。

 アスールのパンは、もっと硬くて日持ちがするように作られている。気候風土が違えばパンまでも違ってくる。旅を通してレーキは様々なことを学んでいた。

「……ああ、なんだ。こんな端っこにいたのか」

 不意に降ってきた声に顔を上げると、アガートが食べかけの定食が乗ったトレイを手にして立っていた。

「……あ……」

「ごめんごめん。君一人じゃ部屋まで帰れないだろ?」

「……あ、その……誰かに聞けばわかるかと、思って……でも、わざわざありがとうございます」

「いやいや、腹が減ってたからそっち優先しちゃったけど……思い返すとしまったなあって思ってさー」

 そう言いながら、レーキの真向かいに座ったアガートは、そう薄情な奴でもないらしい。

「君はまだここに入学するか決めてないんだろ? なら、お客さんだ。お客さんをほっぽりだして迷わせたなんて酷い話、教師に知られたら大目玉だ」

 冗談めかしてくすくすと笑うアガートは、人懐っこい優しげな男に見えた。初対面の人間にこんな話をしたいいものか。だけれど誰かに聞いてもらわずにはいられない。レーキは少し戸惑いながら切り出した。

「……俺、どうしていいのか、迷ってるんです」

「うん?」

 スプーンを口元に運びかけたアガートが、その手を止めた。

「……ここで修行を続けようか、師匠と一緒だった家に帰ろうかって……」

「なぜ?」

「……え?」

「なぜ迷っているのか?って」

 小首を傾げて尋ねてくるアガートは、好奇心を含んだ表情でレーキを見つめてくる。

「……えっとその……すぐ帰るって約束したんです。村の人たちと」

「うーん。約束は大事だよね。……でも君、天法士になりたいんだろ?」

「なりたいです! ……いや、ならなきゃいけないんです……!」

「なら君の選べる道はひとつだ」

 手にしたスプーンをレーキに突きつけて、アガートはきっぱりと言い切った。

「君の師匠がご健在だったとしても、天法士の証しである王珠を授けて貰うには結局何処か天法院に行かなけりゃならないからね。いずれは村、だっけ? 故郷をでなきゃならないと思うよ? 一応、ここは五大国で一番と言われてる天法院だ。不足はないと思うけどね」

「……そう、ですか……」

 考えるまでもない。路銀はわずかで、一度村に帰ったら、再びこの『学究の館』に来るためにはただ暮らしてゆく以上の努力が必要だ。師匠は自分が死んだ後の事を考えて、手紙を自分に託した。ならなにも迷うことはないじゃないか。

 僅かな沈黙の後、レーキは顔を上げた。

「……手紙を書きます。村の皆に。『しばらく帰れそうにない』って」

「そっか。じゃあ君は今日からオレの後輩だ。よろしくねー」

 アガートは、改めてというように両手を差し出した。その手と握手しようとすると、アガートは「違う違う」と笑った。

「これはね、ヴァローナ風の挨拶。空の両手を見せ合って、『あなたに敵意はありませんよ』って示すんだ」

「なるほど。こう、ですか?」

 レーキはアガートに両掌を見せた。そうして挨拶を交わすと、なんだか気持ちがすっきり整理されたような気がする。

「……んー。やっぱりトークン返さなくていいや。今日は先輩のおごりだ。味わって食べろよー?」

 茫洋とだが、嬉しそうに笑って、アガートは片目をつぶってみせた。



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天法院の一学年生
第14話 天法院にて


 結局、レーキは天法院(てんほういん)の一学年生として入学を許された。

 入学試験を受けた結果も、悪くはなかったらしい。特待生となる事も決定する。金銭的に余裕のないレーキには、有り難い事だった。

 その事を、村の皆に向けて送る手紙にしたためた。ラエティアには『すぐに帰れなくてごめん』と書き添える。

 不安が全く無いわけではない。

 師匠に教わったことがどこまでこの学院で通じるのか。自分は本当に天法士(てんほうし)になれるのか?

 それでも初めての学院生活を、新しい環境をどこか楽しみに感じている自分がいる。

 

 天法院は天法を修めるための三年制の学院で、最終学年の卒業式に王珠(おうじゅ)を授かることが出来た者は、晴れて天法士として世に出ることができる。

 一学年生は、基本的な天法の仕組みと用法を学ぶ。二学年生からは自分の得意とする分野に分かれて学を深め、三学年生は更にそれを発展させる。

 天法士には、その実力に応じて組がある。授かった王珠の数がそれを表していて、ようやく天法士と呼べる一ツ組(ひとつくみ)から、最高位の五ツ組(いつくみ)までに分かれていた。

 ちなみに、学院の教師となるには三ツ組(みつくみ)以上の王珠が必要であるとされる。

 レーキの師匠であったマーロンは五ツ組、最高位の天法士であったことを、この学院に来てレーキは初めて知った。

「あの方は(わし)らの代の首席だった方じゃよ。大きな天分を持っておられたが、修練も怠らない……『天才』と言うのはあの方のことを指すのじゃろうなあ」

 入学が決まった休日、夏の(きざ)しを知らせる暖かい日差しの午後。

 共に思い出話を語りたいと、院長室に招いてくれた、コッパー院長代理は懐かしそうにそう語って聞かせてくれた。

「卒業後は各国の天法士団(てんほうしだん)から引く手あまたでのう。だがあの方はそれを全部蹴っ飛ばして流浪の道を選びなさった」

「院長代理、どうして師匠は……マーロン師はそのような道をお選びになったのでしょう?」

「……儂も問うた、なぜ?とな。そうしたらあの方はなんと言ったと思う? 『あら、私は誰にも頭を下げるつもりはないの。宮仕えなんてつまんないことまっぴらだよ!』」

 その言い方があまりにも師匠にそっくりで、レーキは吹き出してしまうのをこらえるので精一杯だった。きっぱりと言い放った年若い頃の師匠が、目の前に現れるようだ。それほどに、院長代理の記憶に鮮明に友の姿が残っているのだろう。

 レーキにも、懐かしいと思い出せる友がいた。だが、彼は盗賊で、この先生きて再び会えるかどうかもわからない。この学院で腹心の友と呼べる友が出来たら……そう、願うことが許されるなら。

「……さて、レーキ君。君は大切な友人の最後の弟子じゃ。だがこの学院に入学するからは他の生徒達と何も変わらぬ。特別扱いは今日が最後じゃ。これからはよく学び、よく遊び、よく語らいなさい。君の行く道をよい炎が照らして下さいますように」

「はい! ありがとうございます! あ、あの、マーロン師もそうおっしゃっていました、『よい炎が照らしてくれますように』と。それはどんな意味がある言葉なんでしょうか?」

「『学究の館』に伝わる古い祝福の言い回しじゃよ。近頃は滅多に聴かぬ。……混沌からこの世界に初めて生まれ出でたのは赤竜王(せきりゅうおう)で、赤竜王が『火』をお作りになったと言う神話を君も知っているね?」

「はい。五色すべての竜王様に先んじるのが赤竜王様で……鳥人(アーラ=ペンナ)をお作りになったのも赤竜王様で……だから速さを求めるアーラ=ペンナは赤竜王様を信仰するのだと、幼い頃にもそう聞かされて育ちました」

「物事を始めようとする者、生まれ出でようとする者、旅立つ者を守護してくださるのが、赤竜王様の眷属である『炎の王』であらせられるのだよ。そのご加護を祈って贈るのが先程の言葉じゃ」

 ああ、そうか。やっと解った。あの、言葉の意味。自分が死ねばレーキは学院へと旅立つ。その行く先を(ことほ)ぐ言葉。それなのに。

「……お、俺、俺……とんでもない事をしてしまいました……!」

 ポロポロと涙をこぼして、レーキは死の王の呪いを受けたことの経緯を語った。院長代理は戸惑いつつも、最後まで静かに耳を傾けてくれた。

 深い沈黙の後、院長代理はゆっくりと頭を否定の方向に振った。

「……残酷なことを言わねばならぬ。死の王様の呪いを跳ね除けるだけの力は儂にも無い」

「……!」

 レーキの隻眼が、絶望の色を帯びて見開かれる。その表情を院長代理は怪我をしたばかりの孫でも見るような眼差しで見つめ、だが……と、そっと言葉を重ねた。

「だが……死の王様、ご自身が呪いを解いてくださると言う可能性も残されていないとは言えない。天法の中には力を借り受ける天地の神王様(しんおうさま)に直接お会いするための術もあるのじゃ……それは複雑な儀式と労力を伴うものじゃ」

「……そ、その術を習得できたら……もしかして、俺の呪い、も……?」

「学びなさい。レーキ君。他の誰よりもよく見聞きし、よく学び、いずれ死の王様の御前に到達するのじゃ。呪いに負けてしまわぬようによく生きなさい」

 院長代理は、はっきりと呪いが解けるとは言ってくれない。否、院長代理にも言えないのだ。

 その代わりに、院長代理は優しくレーキの頭を撫でてくれた。師匠がよくそうしてくれたように。静かに微笑んで。

「……ありがとう、ありがとうございますっ!」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭って、レーキは勢いよく頭を下げる。

 希望が見える。その炎はずっと自分の道を照らしてくれていた。そんな気がして。

 呪いのために諦めかけていた事、人を愛し(いつく)しむということの意味はまだよくわからないけれど。自分の歩く道が暗く険しいだけの道でないとレーキは初めて心の底から思えた。

 

 五大国、すなわち商の国・グラナート、学の国・ヴァローナ、森の国・アスール、武の国・ニクス、農の国・黄成にはそれぞれ天法院が設立されている。

 中でもヴァローナの天法院はトップクラスと言われ、各国の法院で教師を務めるような優秀な人材を多く輩出していた。

 アガートは自分の勉強の合間に、簡単にそれらの事を説明してくれる。

「ま、また授業で教わることになると思うけどねー。一応基礎知識」

 結局、正式にレーキはアガートと相部屋になる事となった。

 アガートはヴァローナの商家の生まれだったが、家業よりも天法の習得にのめり込んで家を飛び出したらしい。そのため実家の援助を得られずに、苦労しているようだった。

「一応座学の成績は良いからね。オレも特待生ってことになって授業料免除とか寮費とか食費とかは支給されてるんだけどさー……生きてくためには何かと物入りでね。今はノート貸したり、テストの山はったり色々小銭稼いでるよ」

 とほほーと笑うアガートは、そんな苦労も楽しんでいるようだった。

 そんな先輩の姿を見てレーキは安堵する。

 

 入学して一週間は、学院の基本機能や各施設の説明を受けた。

 天法院は『学究の館』の北東の隅に位置しており、数ある専門院の中では一、二を争う古い建物だ。

 座学を行う教室の並ぶ教室棟、天法の実習を行う実習棟、講堂を兼ねた大きな食堂、学生寮、天法に関する書物が収められた図書館が主な構成になる。敷地面積は専門院の中では一、二を争う広さだった。

『学究の館』にはその他に基本教育を受けた子息たちが通う様々な『専門院』があった。

 天法を学ぶ『天法院』の他に、学問全般を研究する『学究院(がっきゅういん)』、騎士や武官を育成する『剣統院(けんとういん)』、商いに関する学問を修める『商究院(しょうきゅういん)』、音楽に携わるものを育成する『音楽院』などだ。

 レーキにはどれも馴染みのないものであったが、生徒たちの中にはまれに他の専門院に講義を受けに行く者もいるようだった。

「君たちも余裕があれば好きな『院』に講義を聞きに行っても構わないんだよ」

 オリエンテーションを担当した教師はそう言っていたが、授業が始まってしまうと、そんな余裕などどこかに飛んでいってしまう。

 天法の基本は師匠に習っていた事と同じで、レーキが授業について行けない事はなかった。その事だけでも感謝の念が湧いてくる。

 だが、次第に師匠に習っていなかった事柄も増えていく。

 何につけ、新しい事に出会うという経験は、レーキにとって楽しい出来事だった。

 胸に空いた大きな穴に少しずつ、少しずつだが知識が溜まって、その穴を埋めてくれているような気がした。

 

 無我夢中で、一ヶ月が過ぎる。レーキが天法院に入学したのはちょうど春と初夏の境の季節で、その季節に入学してくる新入生は多かった。

 その中に、見覚えのある赤い羽根の鳥人を見かけた。偶然というものは恐ろしい。それは学院にやってくる途中の街でレーキをひどく拒絶したシアン・カーマインと名乗った少年だった。

 彼もまた天法院の新入生なのだろう。黒いローブを着て同じ教室で鉢合う事もあったが、あちらはレーキを視界に入れないようにしているようだった。鳥人の取り巻きたちといつも一緒で、話しかけてくる事もない。

 レーキは元々社交的な性格という訳ではない。同じ位の年頃の少年少女たちと、一緒に何かをしたという経験も無いに等しい。同じ教室で学ぶ生徒たちと、どんな話をすれば良いのかも解らなかった。

 話しかけられれば答える事も出来るし、相手に敬意を払って接することも出来る。だが、他愛のない話題で冗談を言い合ったり、ふざけ合ったりと言う事に夢中になれるほどレーキに幼さは残されていなかった。

 加えて、レーキには『死の王の呪い』という懸念がある。積極的に友人を作ることは、その友人を死の危険にさらすことになるのかと思うと、交友を躊躇(ためら)わずには居られなかった。

 自然とレーキは独りでいる事を選んでいたが、寂しいとか、悲しいと感じた事はなかった。学院にはいつでも誰かが居て騒がしく、寮の部屋に戻ればアガートもいる。今よりずっと幼かった頃、盗賊たちと一緒だった頃、静かに慎ましく師匠と一緒に居た頃、そのどれよりも多くの人々が一つの場所にいる。寂しいと感じる(いとま)もなかった。

 

 村に手紙を出してから二ヶ月後に、待ちに待った返事が来る。

 村長が代筆してくれたのだろう。男性的な文字で手紙は書かれていた。

 レーキがすぐに村に戻れない事を憂うよりも、天法院に入学できた事を誇らしく喜ばしいと、立派な天法士になって村に戻っておいで、マーロン師の家は村の者が見回るから、こちらは心配しなくてもいい、と。そんな内容の手紙の最後に本文とは違うたどたどしい文字で一言『がっばってね、レーキ』と添えてあった。

 ラエティアだ。直感でわかった。ラエティアはたった一言のために懸命(けんめい)に文字を習ったのだ。

「……ありがとう」

 うん。俺、頑張るよ。頑張って必ず天法士になる。そしてこの呪いを死の王様に解いてもらって……君に会いに行く。待ってて、ラエティア、皆、師匠……!

 涙と共に。愛しい人々の笑顔と温かい決意が、改めて胸に満ちていくのをレーキは感じた。

 

 



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第15話 『学究祭』のはじまり

 穏やかな夏が来て、短い夏の休暇をはさみ、実りの秋が来た。レーキが天法院に入学して早七ヶ月が過ぎようとしている。

 その間に二度、村の皆と手紙の遣り取りをした。手紙を送るための費用も馬鹿にならない。学業を優先させた結果、何か手伝い仕事という事も出来ず、レーキはいつも金欠だった。

 同じ教室で学ぶ仲間に、数人顔見知りが出来る。腹心の友、と、呼ぶには素っ気のない関係だったが、友と呼べる存在が出来た事自体がレーキには嬉しいような、苦しいような複雑な心地だった。

「レーキ! 『学究祭(がっきゅうさい)』の発表は何やるか決めたか?」

 定期試験の後に、レーキは新しく出来た友の一人、クランという二つ歳下の少年に呼び止められた。

「『学究祭』の発表?」

 耳慣れない言葉に、レーキは首を傾げた。

「あ、その様子だと知らないな? 『学究の館』ではさ、秋になると街を挙げて年に一度のお祭りをするんだよ。それが『学究祭』」

「ああ、二週間後に『学究祭』をやるというのは聞いてた。でも発表ってなんだ?」

「各専門院がそれぞれ一年研究してきたりした事を発表したりするんだよ! 『剣統院』は演武とか……『音楽院』は演奏とか芝居とか、『商究院』は屋台とかさ。それがすげー楽しいんだよ! まあ、おれたち一年はまだ専門も分かれてないし発表できることもないから、賑やかしにちょっとした出店とか芝居とかやったりする程度なんだけどな」

「なるほど。それでクランは何をやるんだ?」

「おれは一年の有志を集めて飲み物と軽食を出す店をやろうかと思ってる。『学究祭』には国内外からいっぱい人が来るし、そういう店なら繁盛(はんじょう)しそうだろ? 一儲けのチャンスだぜ!」

「それは楽しそうだな。頑張れよ。クラン」

「なに他人事みたいに言ってるんだよ! お前確か料理できるって言ってたよな……?」

「……ああ、簡単なものなら……?」

「頼む! おれたちの店に参加してくれ! 無愛想なお前に接客をやらすとは言わんから! なにか軽食を作ってくれ!」

「……な?!」

 まさか、自分も計画の頭数に数えられていたとは。驚愕(きょうがく)して絶句したレーキに向かって、クランは頭を下げてさらに頼み込んでくる。

「なあ~! 頼むよ! おれを助けると思って!」

「……」

「な、な、な?」

 クランは指を胸の前で組み、鬱陶(うっとう)しいほどキラキラした目でこちらを見つめてきた。

「……はぁ……それで? 俺はなにを作ればいいんだ?」

「イエーイ! おれ、レーキのそう言うとこ好・き」

 結局押し負けてしまった。実のところ、『祭』というものに参加してみたいと言う欲も有る。

 幼い頃は置き去りにされるだけだった祭。楽しげに人々が笑い、語らい飲み食い、幸福に包まれる日。自分もその輪の中に入ってみたい。

「……所で調理をするのは構わないが、料理の材料や出店の場所はどうするんだ?」

「その辺は抜かり無いぜ! 材料は商究院に通ってる知り合いの実家から安く仕入れることになってるし、場所は天法院の空き教室を借りる許可はとってある。調理器具は食堂で借りられるようになってるし」

「驚いた。もう随分話が進んでいたんだな。……もし俺が断ったらどうするつもりだったんだ?」

「んー。そんときは軽食なしで飲み物だけ出す店にしたかな……まあ、レーキは断らないって思ってたけどー」

 自分を見透かされていたようで、不思議と少し腹立たしい。ふう。レーキは溜め息をついて、至極(しごく)真面目な顔で告げた。

「……クラン、お前、商究院に行ったほうが良かったんじゃないか?」

「竜王様はおれに天分と商才の二物を与えてくださったんだよ!」

 

 二週間の準備期間は、またたく間に過ぎた。

 その間、授業は午前中だけで午後は『学究祭』の準備に当てられる。空き教室の装飾、食器の準備、宣伝用のチラシ、メニュー表、用意しなければならないものは山ほどあって、時間はいくらあっても足りない。

 学院中の空気が、『祭』を楽しむためのどこか浮かれたものになっている。教師たちも「勉学を優先しなさい」と口では言うものの、『祭』を心待ちにしている気持ちは隠しきれないようだった。

 

「今日も『祭り』の準備かい?」

 授業を終えて教科書を置きに寮へ戻ったレーキに、アガートは振り返りながらどこか面白そうに聞いた。

 彼は相変わらず机に向かっていて、何かを書いている途中のようだった。

「ええ。今日は昨日考えたメニューを飲み物担当にも教えます。調理が俺一人だと休憩もできないし……」

「楽しそうだねー君。いい顔してるよ」

「え……あ、そうですか?」

 そう言われて、レーキは無意識に頬に手をやった。アガートは椅子を引き、ペンを指の先で弄びながら、反対向きに座り直して背もたれに(あご)を乗せた。

「君もすっかりここに馴染んだなぁ。後輩よ」

「……そう、ですね。馴染んで見えますか?」

「うんうん。『よく学び、よく遊び、よく語らいなさい』って、コッパー院長代理の口癖。あれを実践してるみたいじゃないか」

「実践できているなら……嬉しいです」

 アガートの言葉が褒め言葉のように感じて、レーキは誇らしいようなくすぐったいようなそんな心地でふと尋ねた。

「あ、そういえば、アガートは『祭』の発表は何をやるんですか?」

「んー。二学年生はねー専門分野の研究発表かなー。同じクラスには天法で作った治癒水(ちゆすい)の出店とかやる奴らもいるみたいだけど……オレは『水浄化の天法の発展型とその比較研究』ね。発表の出来、不出来も一応成績に関係有るから。結構必死だよ」

「二学年生は大変なんですね……」

「そ。だから楽しめる時に目一杯楽しんどくといいよ。レーキ」

 そんなアガートも、一学年生の時は目一杯楽しんだのだろうか?

 そんなことが気になってわずかに表情を曇らせた後輩に、先輩はいつもどおりの茫洋(ぼうよう)とした笑顔を向けた。

「……ささ、オレはレポート作成に戻るから。君は準備に行っといで」

「あ、はい!」

 クランとの約束に遅れてしまう。慌てて部屋を出ていくレーキを見送って、アガートは袖をまくり「さて。もうひと頑張りしますかー」と一人(つぶや)いて机に向かった。

 

『学究祭』一日目の朝。

「……」

 気がつけば目が覚めていた。朝が明ける間近の時刻のようで、部屋は暗かったが、カーテン越しの窓は薄っすらと明るい。

 時計などという贅沢品は、この部屋にはない。だが、早く目が覚めすぎたことはレーキにもわかった。

 ベッドに身を起こす。この半年ですっかり慣れたアガートの寝息が、部屋の反対側に有るベッドから聞こえてくる。

 ──そんなに楽しみにしてたのかな……?

 声に出さずに自問する。確かに鼓動はわくわくと喜ぶように高鳴っていて、自分が思っていた以上にこの『祭り』を待ち望んでいたことを理解した。

 レーキはルームメイトを起こさぬように息を殺してベッドを出ると、真っ先に、眠る間外していた眼帯をつける。

 ──コレもだいぶくたびれてきたな……

 丈夫な皮で作って貰った眼帯は、一度師匠が直してくれた。その時、師匠は傷ができた経緯もなにも聞かないでいてくれた。

 でも。今になっても傷痕を他人の目に(さら)すことが怖かった。(みにく)いと(さげす)まれることよりも、どうして傷ついたのかと問われることの方が怖かった。

 寝間着から普段着に着替える。そっと鳥人用に背に切り込みの有るローブを羽織って、部屋を出た。

 寮の中はまだしんと静まり返って、普段なら騒がしい廊下を歩いている者も、誰ひとりいない。

 物音を立てぬよう階段を下り、静かに寮の中庭に出る。そこでレーキは幾度か羽ばたき、空に向かって飛び上がった。羽音さえうるさいほどあたりは静寂に満ちていて、レーキは慌てて寮の屋根に降り立つ。そのまま、まばゆい朝日が古めかしい教室棟の屋根をなめて、早起きの小鳥を照らし、学生寮の屋根に到達するまで立ち尽くした。

 朝焼けの色は紫。次第に赤く、明るく、涙を誘うほど美しく空を染め変えて、青い空へ。雲ひとつ無い快晴だ。

「……!」

 天に向かって喜びを叫び出したいような、そんな高揚感。火照り気味の頬に、朝の清冽(せいれつ)な空気は冷たく心地よい。

『祭』がなければ、このままどこまでも飛んで行きたいような素晴らしい朝。

「……さあ、『祭』だ」

 叫ぶ代わりに満足気に小さく呟いて、レーキは両手でぱんっと自分の頬を叩いた。気力が満ちてくる。

 今日はきっといい一日になる。そんな予感がした。

 



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第16話 『学究祭』の朝

「『祭』の間、食堂は朝しか出さないからね! 食いっぱぐれるんじゃないよ!」

 すっかり顔なじみなった食堂の配膳係、獣人のアニル姉さんが開口一番そう叫んだ。

 朝食時間が始まった食堂は今日もいつにも増して騒がしく、アニル姉さんが叫んでいるのも無理もない。

「姉さん、アスール風スープ定食!」

「あいよ!」

 レーキも負けじと声を張り上げる。すっかりここの味付けにも慣れた。トークンと引き換えに食事を受け取り、空いた席を見つけると慌ててスープとパンをかきこんだ。

 通学生であるクランが食材を仕入れて学院にやってくるのは、もうじき。朝一時限の鐘が鳴る前の予定だ。

 それまでに寮生のメンバーで、店の最後のチェックをする。

 店の装飾よし、調理器具よし、宣伝用の看板とチラシよし、メニュー表もみんなで書いた。準備は万端だ。

「みんなー! おはよー! 遅れてごめんー!!」

 クランたち通学生数人は、朝一時限の鐘がなってしばらくしてから食材を山のように抱えて元気よくやってきた。途端にレーキたち調理担当は忙しくなる。

『学究祭』が始まるのは、二時限の始まりの鐘から。それまでに下ごしらえを終えなければならない。時間がない。

「……まずは時間がかかるジャムづくりから!」

 てきぱきと軽食を準備しながら、レーキは盗賊団の砦、食事時間の猛烈な忙しさを思い出した。

 あの時よりは、背丈も伸びて手際も良くなった。今ならもっとうまくやれる。どんなに忙しくても美味いものが作れる。そんな小さな自信とともに。湧き上がってくるのは。

 ……じいさんは、元気だろか。生きているんだろうか?

 そんな、郷愁(きょうしゅう)に似た感情だった。

 

「レーキ! 四番テーブル、ナランハ(オレンジ)果実水(ジュース)一つとハムサンド一つ!」

「わかった!」

「レーキ! 七番テーブルのモラドベリー(ムラサキイチゴ)のジャム付きパンまだ?!」

「もう出来てる!」

 クランの軽食店は、思っていた以上に繁盛した。食堂が閉まっている今、天法院に通う生徒や、『祭』を楽しみにして来たその家族、研究発表を見にやってきた天法士たち、他の専門院の生徒など、客にできる層は多岐にわたっていた。昼食時はそれこそ忙しさに振り回されて感傷に浸る間も、息つく暇もなかった。

 ローブを脱ぎ、ヴァローナ風の黒を基調とした普段着に白いエプロン姿のレーキは、長い白髪を束ねて頭に巻いた布に隠し、簡易厨房に立つのに少々邪魔な黒い羽を紐でくくって手際よく調理をこなしていく。

「自分で誘っといてアレだけど、お前料理人の修行でもしてたの?」

「……似たようなことは。ほら、四番テーブル上がったぞ!」

「……お前を誘って良かったよ! ホント!」

 接客係を進んで引き受けたクランは、ホクホク顔で料理をテーブルに運んでいく。七つ有るテーブルは今も満席で、客は教室の前まで並んでいる。確かに売り上げは期待できそうだ。

 そのまま昼を三刻(約三時間)ほど過ぎた時点で、今日の分の材料が尽きた。

「ふーっ。今日は店じまいだなー」

 最後の客が教室を出ていって、忙しさから開放されたクランが、やれやれと両肩を回して宣言する。

「みんなお疲れ様ー! それじゃ今日は後片付けして解散なー! 明日も今日と同じ時間で営業始めるから、よろしく!」

 クランの軽食店に参加したのは、総勢で十二人。今店内にいるのは宣伝と休憩に回っていない七人で、それぞれが口々に「お疲れ様ー!」と自分たちの健闘を称える。

 心地よい疲労感。『祭』はまだ後二日ある。気を抜く訳には行かないが、一時の達成感を味わうくらいは許されるだろう。

「レーキもお疲れ様」

「お疲れ様、クラン。……あ、そうだ。俺は明日の仕込みを少しやってから寮に戻ろうと思う。今日はジャム作りがぎりぎりだったからな」

「それならお前に鍵を預ける。火の始末してから戸締まりして担任に鍵返しといてくれ」

「わかった」

「あ、私は食器洗ってから帰るね」

「僕は掃除してから帰るよ」

 仲間たちはそれぞれに自分のやるべきことをわきまえていて、誰に言われるでもなく仕事をこなしている。

 自分も自分のやるべきことを、やれることをしよう。レーキは鍋に向かってコトコトとベリーのジャムを作り出した。

 

「それじゃあ、私先に帰るね。お疲れ様!」

 最後まで残っていた、食器洗い係だった女生徒が帰ろうと戸口に立つ。その時、その戸の向こうから、聞き覚えのある声がしたような気がした。

「……レーキ! レーキ! お客さんよ!」

「え……もう出せるものなんか……え?」

「よ!」

「アガート!」

 戸口に立っていたのは長身の青年、年齢不詳のルームメイト、アガートだった。

「お客さんはレーキの知り合いですか? 上級生ですよね?」

「そそ。寮で同室なんだよー。ルームメイトが店をやるっていうからさー折角だから見に来ちゃった。……けど、あちゃー。遅かったみたいだなーもう終わりだよね?」

「すみません。もう今日の分の材料がなくて……」

 申し訳無さそうに謝るレーキに、女生徒はふふっと微笑んで、「あら」と小首をかしげてみせた。

「あら、ジャムなら出来たてのが有るよね? パンとナランハの実ならちょっとだけ残り有るし」

「でも、それは……」

「ちゃんと売り上げになれば、クランも何も言わないと思うよ? せっかく来てくれたんだから、ね?」

「……ありがとう。それなら、果実水とジャムパンで良ければ、有ります」

「ありがたーい! 昼飯食いそびれてさー! 腹減ってたんだー!」

 アガートは、女生徒に向かってぱちんと片目をつぶって見せた。女生徒も、満更でもないような様子で嬉しそうに微笑む。

「……私、果実水作るね! レーキはパンお願い!」

「あ、果実水は俺が作るよ。あれ絞るの結構力いるだろ?」

「ありがと。じゃあ、私がジャム付きパンを作りまーす」

 クラスメイトと和気藹々(わきあいあい)と軽食を作るレーキを、アガートはいつもどおりの笑顔で見守った。

 

 アガートはジャム付きパンと果実水を平らげた。

 彼が「やっぱりお金は払うんだねぇ……」としょんぼり硬貨を払ったのを見届けて、女生徒は手を振って「またねー!」と言い置いて帰っていく。

 火の元を確認して、しまい忘れていた看板を教室に入れて。戸締まりを済まして鍵を返すまで、アガートは付き合ってくれた。すでに太陽は陰り始めて、学院内には一日目の展示を終えてぶらぶらと彷徨(さまよ)っている生徒たちも多い。

 レーキの目当てだった二学年生の展示もすでに終わっていて、がっかりと寮へと戻る道すがら、アガートは組んだ指に後頭部を預けながら隣を歩くルームメイトに聞いた。

「……で、どうだった? 初めての『学究祭』は」

「今日は……忙しくて忙しくて……あまり余裕がなくて。気がついたら終わっていた感じで。明日は展示とか見に行けるといいんですけど……二学年生の展示とかすごく興味がありますし」

「いいねーいいねー青春だねー」

「……そう言う『先輩』も青春って年頃じゃないんですか?」

「んー。そうかなー? そうかもね!」

 指摘されて、ようやくアガートは自分が青年であることを思い出したように、にかーっと笑ってみせた。

「……ま、君が楽しそうで何よりだよ」

「……ありがとう、ございます」

 この先輩は、何かと自分の心配をしてくれる。いつしかそれが当たり前のようになっていたけれども。

 この出会いも、また何物にも代えがたい貴重で大切なモノ。レーキは胸の奥がほっと温かくなっていくのを感じた。

「あの、そういえばアガートは一学年の頃『祭』で何をしたんですか?」

「え、オレ? オレはねー祭とかそう言うの興味なかったからなー図書館にこもって勉強してた。実技がいまいちだったからさー座学だけでも取り返そうって焦って必死になってさ。後から思うともっと楽しんでおけばよかったかなー? とか思う訳。だから君には言うんだよ。『楽しめる時に楽しんで』ってさ」

「そう、だったたんですか……」

「あ、今はね、そこそこ余裕もできたし、オレもいろんな事楽しもうって思ってるよ。青春の時期ってやつは短いって言うぜ。だからその時その時を精一杯楽しまないと!」

 そういえば、初めて会ったときもアガートは机に向かっていたっけ。普段飄々(ひょうひょう)と課題をこなしているように見える先輩も、必死になった時期は合ったのだ。

 互いに、過去のことはあまり自分から話したがらないルームメイト同士だった。

 



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第17話 新たな出会い

学究祭(がっきゅうさい)』の二日目。

 昨日よりはいくばくか買い出しを早く済ませてくれたクランたち通学生組のお陰で、軽食店の準備は素早く終わった。

 今日も張り切って厨房に立とうと、万端用意していたレーキに、クランは告げる。

「あ、お前今日は遅番な。昼過ぎまで休憩」

「……え、いいのか?」

「結局昨日は休み無しだったろ? ……おれもだけど。お前だって行きたいトコとか有るだろうし。……おれもだけど。だから昼過ぎまで『祭』を見て回っていいぞ」

「……要するにお前、昼まで休みたいんだな?」

「まあな! せっかく『祭』だっていうのにさー! まだ何も見てないし何も食ってないし!」

「……わかった。それなら俺も休ませてもらう。昼の(かね)が鳴ったら戻ってくればいいか?」

「おう! ゆっくりでいいからな!」

 急に、ぽっかり空白の時間ができた。レーキはエプロンを片付けると、自分の代わりに調理担当になった生徒に一言「頼む」と伝えて教室を出た。

 まずは見てみたいと思っていた二学年生の展示を見に教室棟へ向かおう。そう決めて、一人教室棟の二階への階段を上りだした途端。

「……おーい! レーキ! まずどこ行く?」

 クランのやかましい声が、背中を追って来た。

 

 二学年生の展示。そう言ったレーキの提案は即座に「つまんない」と却下された。

「まずは『剣統院(けんとういん)』で剣士の模擬戦見てーそれから『商究院(しょうきゅういん)』の屋台冷やかしてー……『音楽院』に行く時間はあるかな?」

「……無いだろうな。それより二学年生の……」

「レーキ、レーキ、レーキ・ヴァーミリオンくん? 勉強はいつでもできる! 明日も展示はやってるし。でも楽しみは一度逃したら取り返しなんてつかないんだよぉー!」

「……はぁ……」

 まるで、駄々をこねる子供のようだ。厄介な相手に捕まってしまった。溜め息をつくしか無い。今日のクランは、なぜか自分と『祭』を堪能する気で満々のようだ。

 仕方ない。二学年生の展示は明日見に行くことにしよう。諦めの表情を浮かべて、レーキは先立って歩き出したクランを追いかける。

 『剣統院』への道すがら、クランの知り合いらしい『商究院』の生徒一人と合流した。

「あ、こいつはレーキね。一学年生の特待生」

「こんちわーオウロっス! へー特待生か~すごいっスね~よろしくっス~」

「レーキ、こいつはオウロ。『商究院』の一年。今回の店に協力してくれたのはこいつの実家ね」

「……レーキ、です。よろしく」

 初対面の二人は、互いに空の両手を差し出して見せる。ヴァローナ流の挨拶だった。

 クランとオウロは幼馴染(おさななじみ)で、ともに実家は『学究の館』にある商家と宿屋だという。

初等校(しょとうこう)』、つまり子供たちが初めて学びを得る学校時代からいつでも一緒で、二人揃って同じ商売の道に進むと思っていたと。

「……おれがさ、有り余るほどの天分があるっぽいってわかっちゃってさ……せっかく竜王様が授けてくれた才能を無駄にするのは惜しいからさーそれで『天法院(てんほういん)』に進んじゃったわ・け」

「……と言っても適性試験でちょーと成績が良かった程度なんスけどね~まあ親御さんもノリノリみたいっスから」

 幼馴染らしい気のおけないやり取りに挟まれて、レーキは部外者の苦い笑みを浮かべる他ない。

「あ、剣統院にも幼馴染がいてさー! そいつ結構いいとこの商店の息子なんだけど、なんでか剣術とか格闘とかそう言うのにのめり込んじゃってさーそれでとうとう剣統院にまで行っちゃった変わったやつなんだよ」

「そいつグラーヴォって言って、この界隈じゃ『喧嘩で負けたこと無い』ってヤツなんスよ。ガタイも恵まれてるし……でも魔獣が……ぜんぜんダメなんスよね~ちっちゃくて可愛くてふわふわのレプスって魔獣ですらコワイって……」

「そーそー。いかつい顔してるくせに『魔獣コワイー』って……」

「レプスは前歯が鋭いから……噛まれたら大怪我になることもある。怖いと思うのは仕方ないと思うが」

「……レーキ。真顔で言うな。真顔で。ここは笑って受け流しとくトコだぞ」

「……あ。そう、か。……すまん」

「まったく。ま、お前はそう言うヤツだった。まあ、とにかくグラーヴォは人間相手なら負けなしだから」

「後でグラーヴォも紹介するっスよ。今日は一年代表で二年と試合するらしいっスから~……その後で~」

「おっと。あいつの試合に間に合わなくなっちゃう! 急ごうぜ!」

 軽口でからかっているようで、幼馴染のことを純粋に信頼している。三人の関係性がレーキには少し(まぶ)しい。

 急ぎ足で三人は『祭』を楽しむ人々でごった返す通りを抜けて、街の北西にある『剣統院』へと向かった。

 門の前に立ってみれば、なるほど『剣統院』の建物は質実剛健な作りで。まるで(きび)しい騎士や戦士の横顔のようだった。

 天法院と大きく違うのは、実習に使うのであろう円形の剣闘場と広い練兵場が付属している所だろうか。

 その他の建物も城か砦のような作りで、この『剣統院』全体が一個の演習場なのだ。それは、学問の街にあっては異質な存在であった。

 それは当然のことだった。万が一この街が何者かの侵略を受けたとき、騎士たち、兵士たちの砦となるのもまたこの『剣統院』である。

 

「……まだ始まってない! 間に合った!」

 ぐるりを木製で階段状の観覧席に取り囲まれた、小型の円形剣闘場の一角に、一般の観客が試合を見学できる席があった。

 レーキたち三人は、滑り込みでその席についた。そこそこ注目される試合なのだろう。観客席は八割がた埋まっている。

 剣闘場の盤面に登っているのは二人。

 体格もよく、鋼鉄のプレート鎧を着て刃を潰した大剣を両手で構えた選手が一人。

 いかつい顔に緊張をみなぎらせて、大剣を固く握りしめているように見えた。

 こちらが、グラーヴォだろうか?

 もう一人はグラーヴォらしい選手より若干背も低く、黒髪をそのまま晒し鎧も胸当てだけ。

 緊張している様子もなく、両手に幾分細身の両刃の剣を持っていて、右手の剣は左手のそれより少し長い。これも歯を潰してあるのだろうが、両手で剣を扱うには相当の膂力(りょりょく)が必要だろう。それをその選手は軽々と扱っていた。

「……どっちがそうなんだ?」

「大剣持ってる大きいほう!」

「相手は軽装っスね……あんなんで重剣士と勝負になるんスかね~?」

「グラーヴォー! やっちまえー!!!」

 クランが叫んだその瞬間。試合開始を告げるラッパが鳴った。

 それを合図に。グラーヴォが雄叫びを上げて対戦相手に迫る。左半身に身を捻って切っ先を下ろし、それから力任せに大剣を右上に振り上げた。

 対戦相手はそれを予期していたように左に半歩、身を(かわ)す。

 グラーヴォは振り上げた大剣の軌道(きどう)を無理やりに変えてそのまま左へ振り下ろす。あの大剣で切られれば、きっとひとたまりもない。グラーヴォの一撃一撃は、とてつもなく重い。

 それを。対戦相手の二年生は左手に持った短い方の両刃剣だけで、受け流す。敵の勢いを使って剣を滑らせるように。気勢を殺して受け止めてしまう。

「……ああ、くそっ! 惜しい!」

 隣でクランが悪態をつく。

 違う。惜しくなんか無い。グラーヴォが戦っているのは、何枚も上手の相手だ。遊ばれている。

 レーキにはそれが直感でわかった。

 少年の頃、盗賊の砦で戦闘訓練をする仲間たちを見てきた。彼らは所詮は盗賊だったが、それでも命をかけて戦いに望む者が持つ鬼気(きき)を持っていた。どうすれば相手は倒れ、死に、『カタがつく』のか。戦う者は皆それを知ろうと、必死になって剣を振っていた。

 二年生の対戦相手はたしかにそれを知っていて、だがそれを上手に抑え込んでいる。本物の手練だけが持つ鬼気を。

 グラーヴォは何度も大剣を振り上げ切り上げ、果敢に攻め立てる。対戦相手は防戦に回っているように見せて、(たく)みに貰ってはいけない一撃を殺してしまっている。

 一合(いちごう)二合(にごう)、仕掛けるほどに、打ち合うほどに。大剣に、プレート鎧の重さに耐えかねたのか、グラーヴォの動きが次第、精彩(せいさい)を欠き出した。

 それを待っていたように。二年生は両手に持った双剣で容赦のない連撃を加える。

 グラーヴォはそれを大剣で受け止めようとするが、全ては受け止めきれないのだろう。プレート鎧を叩く鋭い高音が辺りに響きだした。

 刃を潰した剣だ。鎧も着ている。大きなダメージは無いだろうが、鉄の塊で何度も殴られれば相当痛いだろう。

「……グラ……!!!」

「ああ……そんなっス……!!!」

 心配でたまらない。そんな表情で、二人の幼馴染は試合の決着を見守っている。

 とうとう、グラーヴォが片膝をついた。その喉元に素早く右手の長剣を突きつけて、二年生は黙って審判である教師を見やる。

『勝者、二年生代表ウィリディス・レスタベリ!』

 剣統院には、声の大きさを拡大する天法のかかった法具(ほうぐ)が有るのだろう。大音量で勝者が告げられる。

 ゴクリと息を呑む一拍。次の瞬間、『剣統院』の剣闘場は勝者を(たた)える割れんばかりの歓声に包まれた。

 

「……グラーヴォ!!」

 敗者となった幼馴染を心配して、クランとオウロの二人は、剣士用控え室の天幕に駆け込んだ。

 レーキもようやく二人を追いかける。剣闘場のそばに作られた天幕は医務所も兼ねているようで、三人が到着する頃には、グラーヴォはプレート鎧を脱がされ、数多く負った傷の手当を受けているようだった。

「……良かった……生きてる……!」

「人を勝手に殺すな! ……()ぅ……っ!」

「……傷、痛むっスか?」

「ああ、少しな……」

「……もーっ! なんで?! 最初は勝ってるっぽかったのに! なんでお前が負けちゃうんだよぉー!」

「ホントに信じられないっス~!」

 幼馴染たちの言葉に、グラーヴォは(うつむ)いて唇を噛んだ。

「……違う。完敗だ……先輩が強いのはわかってたけど……どっか『自分の方が体格も上だ。負けるはずねぇ』って思っちまった……! そんなんで勝てるわけがねぇ……!」

 初対面のレーキには掛ける言葉がない。黙って成り行きを見守っていたその背後で、声がした。

「……ふうん。傷は大した事なさそうじゃねぇか。一年坊主」

 そこにいたのは、ウィリディスと呼ばれていた二年生代表だった。

 ウィリディスは、碧色に見える(ひとみ)を細めて、にいっと笑った。それから手にしていた『治癒水(ちゆすい)』用の薬壜(くすりびん)を後輩に放り投げる。グラーヴォは(あわ)てて、それを受け取った。

「……先、輩!?」

「お前、どうして自分が負けたか解るか? お前には『理解』が足りない。自分のこと、相手のこと、剣闘場という場所、秋という季節、今という時刻。なんに対しても圧倒的に『理解』が足りてねぇんだ」

「……っ」

「お前は確かに体格が恵まれてる。だからかもしれねぇが、『技術』ってものを軽んじてる。剣ってものはただ闇雲に振り回せば当たるってモンでもないんだぜ? 技術を身につければお前のデッカイって長所が必ず生きてくる。それから相手を知れ。どうしてオレがお前相手に軽装で戦ったのか。そのことの意味をよぉく考えろ。そして……己の限界ってやつを知れ」

「……先輩……!」

 己に足りないもの。それを教えるウィリディスの言葉に、先ほどまで悔しさに唇を噛んでいたグラーヴォは素直に感じ入っているようだった。

 今度は決意を固めるために、唇を噛んでグラーヴォはまっすぐに先輩を見上げた。

「はい! ……『理解』して……今度はぜってー負けねぇ、ですっ!」

「んー。意気は買うがなー。まずは言葉遣いからどうにかしろ」

「はいっす!」

 警戒心満々の幼馴染たちを尻目に、勝者と敗者の剣士二人は意気投合しているようだ。お互いの健闘を称え合って、自分の肩に拳を当てる略式の敬礼を交わしている。

 どうもこのウィリディスという二年生、そう悪い人間ではないようだ。あの時の、鬼気だと思ったものは気のせいだったのか?

 レーキは、笑い合う先輩、後輩二人の横顔を代わる代わるに見つめる。

 その視線に気づいたのか、ウィリディスは(いぶか)しげに部外者三人をぐるっと見回した。

「……所でさ。お前らは何モンだ?」

「あ! 先輩! コイツらは自分の幼馴染っす! ……ってアンタ誰だ?」

 グラーヴォは(おどろ)いた様子で、全くの部外者であるレーキを(にら)みつける。その視線の鋭さに、レーキはわずかにたじろいだ。

「あー! こいつは今日紹介するって言ってたおれのクラスメイト!」

「ああ! 『天法院』の特待生か!」

 あらかじめ聞かされていたのだろう。グラーヴォは得心(とくしん)がいったようで厳しい表情を崩し、はにかんだような笑みを浮かべて頭を()いた。笑うとグラーヴォのいかつい顔に、少年らしさがにじみ出る。『剣統院』の一年生ということは、クランと同い年なのであろうか。

「……初めて会うってのに、なんだかかっこ悪いとこ見せちまったな……」

「いや。君は(すご)かった。あの一撃を(もら)ったら……俺はそのまま死の王様に会いに行くハメになりそうだ」

「うんうん。そうだよな! こいつは凄いやつなんだよ! 騎士の生まれでもないのに一年代表になるような凄腕(すごうで)なんだからさ!」

「……って、なんでクランが得意げなんスか~?」

「そうだぞ。代表になったのはお前じゃなくて自分なんだからな!」

「てへへへっ」

 冗談のような幼馴染たちのやり取りに囲まれて、レーキも思わず笑ってしまう。その場が静まるのを待って、グラーヴォは真面目な顔で自己紹介する。

「……こほん。自分はグラーヴォ。剣統院の一年生で……十六っす」

「……俺はレーキ。天法院の一学年生で、今年、十八になった」

「え! レーキってばそんなに年上だったけ……? やべぇ……今度から敬語のほうが良いデ、スカ……?」

「なんだか落ち着かないから……『絶対』やめてくれ、クラン」

 レーキがため息をつく。クランとオウロが笑い、グラーヴォは先輩がくれた治癒水を飲みだした。

 和みだした雰囲気の中で。いつの間に天幕を出ていったのやら、ウィリディスの姿は消えていた。

 

 『天法院』のローブを着たレーキとクラン、ヴァローナ商人風私服姿のオウロ、そして『剣統院』の制服を着たグラーヴォ。

 四人は背丈もバラバラで、小太りのクラン、痩せ気味のオウロ、中肉中背のレーキ、ガッチリとしたグラーヴォと、体格もバラバラだった。

 凸凹(でこぼこ)四人組は、『商法院』の屋台を巡る。

 クランとグラーヴォは美味そうな匂いを漂わせている食べ物の屋台を見つけて突撃していった。

 焼いた肉を挟んだパン、串に刺した果物の飴がけ、揚げたてでかりかりになった芋料理、薄焼きクレープに甘味を挟んだもの、果実水……目に映ったものを片っ端から持ちきれないほど手にしてせわしなく飲み、食べている。

 オウロは幼馴染二人を尻目に、装飾品や衣料品の屋台を見ては冷やかして、装飾品の質の善し悪しなどをレーキに教えてくれた。

「オレっちは将来『宝石』を商う商人になりたいんっス。まあ、実家は野菜と果物の問屋なんで……なかなか言い出せないんスけどね~」

 三人の幼馴染で、一番しっかり自分の将来を見据えているのはオウロのようだ。

「……ここだけの話っスよ~。レーキさん、は口が堅そうだから言ったっス。言葉にするとなんだかホントになるような気がするっスから~」

 オウロはそう言って笑った。

「レーキ、でいい。その……『自分がいつかこうなりたい』と思えることがあるのは、とても素晴らしいことだと思う」

 他人から押し付けられたものでも、ただ置かれた場所から逃げ出したいと思うことでも無い。しっかりと前を見据えて憧れを語れる者の強さと(まぶ)しさ。

 かつて、祭の喧騒の外でただ殴られぬことを喜んでいた頃。夢想だにしなかった未来にいま、自分は立っている。

「……そうっスね~。オレっちもそう思うっスよ……レーキ! オレっちたちもなんか食おうっス~!」

「ああ!」

 記憶の中の蚊帳の外の祭、空想していた祭より、実際に参加した祭はもっとずっと──楽しい!

 レーキは笑った。今日一番の笑顔で。嬉しくて楽しくて、泣き出しそうになるのを(こら)えながら。

 

 



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第18話 学究祭の夜

 二日目の昼過ぎ、結局レーキとクランは少々遅れて『天法院(てんほういん)』に戻った。

 仲間たちに「遅い!」と叱られつつ持ち場に入り、その後は小さなトラブルこそ合ったものの、どれもうまく切り抜けることができた。

 三日目もクランの軽食店は繁盛し、昼を二刻(二時間ほど)すぎる頃には売り切れ御免で無事終了した。

 経費を差し引いた売り上げは、全員で等分する。分けてしまえば、苦労に見合うほどとは思えないほど些細(ささい)な額だった。だが、『楽しかった』という事実には代えがたい価値がある。

 最終的に、レーキは念願の二学年生の研究展示を見に行った。

 成績に関係があると言われているお陰か、展示は力作揃いだった。

 特にアガートの展示は、表題こそ地味で基本に忠実であったが、かと思えば新しい視点も多数盛り込まれて、流石としか言いようのないもので。

 自分は、こんなにしっかりとした研究展示が出来るだろうか?

 いつの間にか、来年の今頃のことを考えている自分。

 この日々が、まだ来年も続いていると確信している自分。

 それを発見して、レーキは驚き安堵(あんど)した。

「来年は、君が苦労する番だからねー」

 アガートがかけてくるゆるいプレッシャーもなんだか嬉しいくらいだ。

「……はい。がんばります」

「うん。がんばれー」

 ひらひらと手を振って、アガートは気の抜けた激励(げきれい)を送る。それを苦笑まじりに受け取って、レーキは『天法院』を後にした。クランたち幼馴染三人組と合流するためだ。

「……レーキ! 後は『夜の鐘』を残すのみだぜ!」

「おっと、その顔は知らないって顔っスね~!」

「鐘が凄いんだ。『夜の鐘』は」

「グラーヴォ、それじゃ何が何だかわかんねーよ!」

 三人が代わる代わるに説明してくれた所によると、『学究祭』の最後の夜は必ず『初等校』『中等校(ちゅうとうこう)』『各専門院』……学究の館にある学校という学校が鐘という鐘を打ち鳴らし、『祭』の開催を喜び祝うとともに、終了を知らせる伝統だという。

「天法院はさ。鐘に合わせて火球飛ばすやつとか治癒水降らすやつとか居てとにかく派手なんだよ。普段は地味だからさーその反動?って感じでさ」

「学生は普段から天法院の外で天法使っちゃいけない決まりだからかもっスね~」

「剣統院だって、院外での戦闘は禁止されてるぞ?」

「それは当然っス!」

「怪我人とか出たら危ないだろ!」

 幼馴染たちから同時にツッコまれて、グラーヴォはしゅんと大人しくなる。

「……とりあえず『夜の鐘』までは暇だからさ、商究院の屋台でも行く?」

「また買い食いならオレっちはパスっス~。ちゃんとした物が食いて~っス」

「うーん。音楽院の公演はもう終わってるだろうしなー『芸術院』の展示はすげーけど入場料高いしなー」

「……はい! 自分は武器とか見に行きたい!」

 グラーヴォの提案は、速やかに黙殺(もくさつ)された。

「……うーん。レーキはどこか行きたいトコないか?」

「俺は屋台でも構わない。早めに夕飯を済ませてしまいたいし」

「なら屋台より街の飯屋とか行ってみないっスか~? 美味いものも食えるし、酒も飲めるっス~」

 十八で成年と認められるこの国では、未成年は飲酒をなるべく行わないほうがよいとされていた。特例が祭など祝いの席で、それでも浴びるように酒を飲んで泥酔することが、社会通念上許されている訳ではない。

「クランは酒は程々にしておいた方がいいと思うっス~」

「なぜだ?」

 レーキが問うとオウロは渋い顔で声を潜めた。

「……酒癖が悪いんっスよ~。絡むしおまけにすぐ寝るしっス~」

「ああ、なるほど……」

 砦の盗賊たちにも、酒癖の悪い者は何人かいた。中には始末に負えない者も。

 レーキはこの国ではすでに成年に達する年齢で、酒を飲むことも許されていた。

 だが今まで酒を(たしな)む機会はなかった。忌避(きひ)していた訳ではないが酒というと盗賊たちの泥酔した姿が脳裏(のうり)にちらついて、ああはなりたくないような気がした。それで、なんとなく先送りにしていたのだ。

「自分は明日もあるから……酒はいらない」

 体が資本の『剣統院生』としては、二日酔いなどもっての外なのだろう。グラーヴォはきっぱりと言った。

「じゃあいつもどおりグラーヴォは飯だけっスね~」

「レーキも飯屋でいいか?」

「ああ。なんだか腹も減ってきた」

 話がまとまって、四人はオウロおすすめの旨い飯屋、『(うみ)燕亭(つばめてい)』に駆け込んだ。

「おじちゃん! 麦エール酒三つ! ……とナランハ(オレンジ)の果実水一つっス!」

「あいよ! お、オウロじゃねーか。坊主共、よく来たな!」

『海の燕亭』の主人は壮年の男で、看板娘で歳下の嫁と店を切り盛りしているらしかった。

 忙しそうに働く看板娘が、木製のジョッキになみなみと麦エール酒と果実水を注いで持ってくる。

 それを凸凹四人組が手にして掲げた。

「『学究祭』に乾杯!」

「乾杯っス~」

「乾杯!」

「……乾杯」

 クランの掛け声で、四人は手にしたジョッキを傾けて、ごくごくと喉を鳴らした。

 レーキが初めて飲んだ酒は緩やかに発泡していて、後味は苦いがふくよかな麦の香りがした。喉を通っていく時は爽快感があって、香りが鼻に抜けると香ばしい。これは肉料理と合わせたら(うま)いだろうな。とレーキはそう思う。

 じっと手にしたジョッキを見つめるレーキに気づいたオウロは「どうしたっスか~?」と気遣(きづか)わしげに聞いてくる。

「ああ、いや……初めて酒を飲んだな、と思って」

「え、あ、そうっスか~レーキも酒はやらないってくちっスか?」

「いや……ただ飲む機会がなかっただけだ。苦いが悪くない。腹が減る味だ」

「おお、いけそうっスね~じゃあ、旨い飯も頼むっス~」

 看板娘に聞いた、今日のおすすめ料理は鶏のぱりぱり揚げ。名物料理、海の魚介のバター焼きと、酒のあてになりそうなものを数品、ヴァローナ風の白いパンもついでに頼んで。

 四人は『夜の鐘』間近までささやかな宴会を続けた。

 

「おーれーのー酒が飲めないっていうのかよぉぉおお……!」

 二杯目の果実酒を飲み干して早々に酔ってしまったクランが、グラーヴォの背中で寝言めいたクダを巻く。

 それを、レーキもどこかふわりと空に飛び立つ前のような心地で追いかける。

 初めて飲んだ酒は心地よい暖かさを全身にもたらして、ここが街中の雑踏でなければ今にも飛び立って空を飛び回りたいような。そんな開放感がある。

 ──これは、もっと沢山の酒を飲んだら自制心が効かなくなるような気がする。この先も酒は飲みすぎないほうがいいだろう。レーキはそう肝に銘じる。

 四人は祭の喧騒(けんそう)の中を『天法院』を目指して歩く。もう祭は終盤(しゅうばん)で、家路につくもの、宿に向かうもの、『夜の鐘』を待ってそぞろ歩くもの、通りを歩く人々はみなそれぞれに満ち足りた顔をして。

「祭も、もう終わりなんだな……」

 レーキの呟きに、一番酒を飲んでいたはずなのに一番正気に見えるオウロが振り返った。

「そうっスね~なんだか寂しいっス~」

 けど。とオウロは言葉を継いで。

「この時間が祭で一番好きかもっス~みんな楽しそうで、みんなしあわせそうで。ああ、今年も元気でこの時間を迎えられたな~ってそう思うっス~」

「……そうだな。俺も、『こんな時間がずっと続けばいいのに』と思う」

 それは偽りのないレーキの本心だった。誰も苦しむ者のない素晴らしい瞬間。

 ()えと暴力でなく、略奪(りゃくだつ)嘲笑(ちょうしょう)でなく、ただ平和で穏やかな時間だけが満ちる日々。レーキにとってその象徴が『祭』であった。

「まあ毎日が祭だとそれはそれで大変そうっスけどね~」

「そうだな」

 のんびりと後ろ向きに歩を進めていたオウロがおどけて笑う。レーキも微笑み返した。

 

 四人が揃って『天法院』にたどり着いて間もなく。遠く、街のどこかで。鐘が聞こえだした。あれは時を告げる鐘。今日に限っては『夜の鐘』の先触れだった。

「……さあ~そろそろ始まるっスよ~」

 オウロは耳を手で(おお)う。グラーヴォはクランをそのあたりに放置してやはり耳を手で隠した。レーキも慌ててそれに(なら)う。

 ごぉおおおおんっ。『天法院』の鐘が鳴り出した。聞き慣れた鐘が今日はやけに重々しく腹に響く。

 同時に、どこからともなく。鐘の音は近く遠く。『学究の館』中の大小たくさんの鐘が響きだす。

 鐘は軽やかなものも重く響くものも、すべてがちょうど二十五(たび)打ち鳴らされる。

 その音は大音量と言う言葉だけでは言い表せない凄まじさで、耳を震わし内蔵を波打たせ、まともに聞いていると耳がおかしくなりそうだ。音の威力は強力だった。

「……うあっ?!」

 その音で道に放り出され、半分眠っていたクランが奇声を上げて飛び起きた。そのまま反射的に耳を(ふさ)いでいる。

 鐘の音とともに。『天法院』のどこかから火球が上がった。続いて光球、また火球。

 夜空を彩る綺羅星(きらぼし)のように、打ち上げられた火球と光球は尾を引いて流れ、咲いて散り、辺りを明るく照らし出した。そのさまは無秩序であったが、たしかに美しく。見物に集まった人々が感嘆のため息を漏らすのに、十分な迫力を持っていた。

 もう鐘が鳴り終わってしまう。『天法院』の周囲に集まっていた人々から口々に歓声が上がった。誰からともなく、拍手をし始める者が現れて。その辺りは、割れんばかりの歓声と拍手に包まれた。

 かくして。『学究祭』はつつがなく全日程を終了した。



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第19話 選定試験

学究祭(がっきゅうさい)』が終わって、秋の季節も終わった。

 木々はすっかり色を染め、やがて北から吹く風が枯れ葉を一枚、二枚と落とし始めた。

 ヴァローナの冬は比較的温かった。雪が降っても長く積もることはなく、何日か陽の光に照らされれば、たやすく溶け消えてしまう。

 『学究祭』での出会いの後、レーキはクランの幼馴染(おさななじみ)三人組とたまに街に出るようになった。

 三人とは不思議と馬が合った。学習の合間の貴重な息抜きの時間がいつしか、レーキのささやかな楽しみになって行った。

 枯れ葉がすっかり木々の枝から消えて、月が変わる。

 それから、秋の月、『灰色の月』が終わって。一年の終わりの月である『黒の月』が巡ってきた。

 黒の月の半ばに『天法院(てんほういん)』は、冬と春の間の休暇にはいり、一ヶ月以上、授業も実習も何もなくなってしまう。

 遠方から来ている寮生は寮にとどまることも出来たが、大半の寮生は一年の終わりと始まりを家族と祝うために実家へと帰っていった。

 残っているのはレーキのように故郷へ帰る余裕のない者と、アガートのような特殊な事情のある者だけだった。

 

「食堂も随分静かだね」

 数少ない寮生のために食堂は開いていたが、普段よりもずっとメニューの数は少ない。レーキは朝食をとるために一人で食堂に赴いていた。

「そうねー。ちょっと寂しいけどアタシは楽できて手当も出るから得した感じ」

 獣人のアニル姉さんはそう言って、ヴァローナ風で品の良い味付けの煮込み料理を器に盛ってくれた。

 アニル姉さんも、普段の威勢の良さが足りないようだ。

「はい。ちょっとばかしオマケしといてやったよ。これ食って温まりな!」

「……ありがとう!」

 天法院に人が少ない今は、暖房用の(まき)も節約されてしまう。天法を使えば火を使わずに暖を取る事も出来る。だが、そのために体力や精神力を大きく削られてしまう。現実的ではなかった。

 食堂は煮炊きの火があるためか少しは暖かかったが、暖房の貧弱な学生寮や、もとより火の気を嫌う図書館などは、何枚衣を着込んでも底冷えするようだった。

 温かい煮込み料理は腹に入るとじんわりと体を温めてくれる。体が温まってくると気力が湧いてくる。今日はこれから街に出なければならない。

 休暇の間。ひょんなことから、レーキは週に三日オウロの実家を手伝うことになった。

 貴重な現金収入の機会だ。有り難く働かせて貰うこととする。

 物覚えは早いが、愛想が足りず外見も目立つレーキは、主に品出しと倉庫での力仕事を頼まれた。黙々と正確に仕事をこなしていくレーキをオウロの両親はいたく()めてくれた。

「お前さん力持ちだし覚えも早いし文句も言わないし、いいコだねぇ。オウロ、あんたどこでこんないいコと知り合ったんだい?」

 オウロの母親は、包容力を感じさせる愛嬌(あいきょう)のある女性で、接客の一切を取り仕切っていた。

「クランの紹介っス~そのいいコ、実は天法院の特待生っスよ」

「おやまあ! お前様、法士様になりなさるのね? そんなお方にこんな裏方仕事させて……バチが当たらないかね?」

「接客仕事は苦手ですから……でも力仕事ならお役にてると思います。こき使ってやってください」

「まあまあ! ちっとも偉ぶらない法士様の見習いさんだこと! ますます気に入った!」

「いい友達だな……オウロ」

「へへへ~っス」

 オウロの父親は寡黙だがよく働く男性で、倉庫仕事の合間に、ぽつりぽつりと呟くようにレーキに様々な青果の種類を教えてくれた。

 よく働く、善良な人たちだ。もし自分養い親がこんな人達だったなら。今頃自分の運命は大きく変わっていただろう。レーキは思う。

 一緒に懸命に働いて、日々の糧に感謝し、平凡で慎ましく、しあわせな日々をグラナートの山奥の小さな村でおくる。それは素晴らしいことだ。

 でも。何よりも大切な師匠に出会うことも、こんなにも楽しい日々を味あわせてくれる天法院に入学することもなかった。ラエティアやアガートやクランやオウロ、グラーヴォに出会うこともなかった。

 だから。これで良い。俺はこれで良かったのだ。

 優しい両親が羨ましくないと言ったら、嘘になる。それでも、レーキは運命というものに感謝した。

 

 自習に仕事の手伝いに。忙しく追われている間に『黒の月』は過ぎた。

『黒の月』最後の夜。つまり今年最後の夜。

 レーキはアガートと共に静かに寮の自室で過ごすことにした。

 クランを始め友人たちは皆、家族と今年最後の夜を過ごす。それがヴァローナの習わしだった。邪魔は出来ない。

 レーキには、もう家族と呼べる人は居ない。アガートは家族から勘当されている。

 二人とも、将来家族になろうと約束した恋人も居なかった。

「お互い寂しい身の上だし? 丁度いいかもねー」

 苦い笑い交じりのアガートの言葉に、レーキも力なく(うなず)いた。

「……でも、去年の今頃は師匠の具合が悪くて……ずっと心配で新年のお祝いなんて考える事も出来なかったな……」

 感慨深(かんがいぶか)く、レーキが(つぶ)く。アガートは笑って片目をつぶった。

「……その時はまさか次の年こんな場所で、こんなむさ苦しいのと新年を迎えるとは思ってなかったろ?」

「むさ苦しいかどうかは置いといて……考えても見なかったですね」

「オレも。まさかルームメイトが出来るとは思っても見なかったなー。ちょっとね。『ルームメイトなんて邪魔(じゃま)になるなー』って思ってたんだよ。君が来るまでは」

「……それは……すみません」

 しゅんと落ち込んだレーキに、アガートはひらひらと手を振って言った。

「謝らない、謝らない。今は楽しいからねー本心君が来てくれてよかったと思ってるよ」

「それなら良かった。……ホッとしました」

 アガートに、邪魔だと言われたくない。残された時間はほんの一年。アガートは三学年生になって、来年の今頃、『混沌の月』の休暇が終われば王珠(おうじゅ)()て卒業してしまう。

 彼の(かたわ)らにいる短い間、時間を知識を共有出来るほどに成長したい。レーキは心底からそう思った。

 遠く、街の中心の尖塔(せんとう)で。時を知らせる(かね)がなり始めた。長かった今年が、十八歳になったこの年が終わる。

「……ああ、もう今年も終わりだね。あの鐘が鳴り終わったら新しい年だよ」

「……はい」

 今年はいろいろな事があった。師匠を喪って呪いを受けて。ヴァローナに旅をして、天法院に入学し、様々な経験をした。

 学識が深まった、簡単な天法を使えるようになった、幾人も友が出来た。

 いつか歳をとって、この日々を懐かしく思い出す日がくるのか。

 そんな日が訪れるように。生きなければ。長く長く、この呪いが解ける日まで。それが叶わないなら、せめて愛しい人々がみな天寿(てんじゅ)を全うできるまで。

 それが、今のレーキの切なる望みだった。

 

 

 『黒の月』が過ぎて、始まりの月『混沌の月』が巡ってくる。『混沌の月』は一ヶ月がまるまる休暇の月だった。

 休暇の間中、レーキはオウロの実家の手伝い仕事を続ける。

 お陰で少し貯金もできた。思い切って新年の挨拶をしたためた手紙をアスールの森の中の村に出した。

 休暇が終わると、思い思いに新年を迎えた生徒たちが学院に戻ってくる。寮、食堂、教室……生徒たちがいる場所はどこもいつも通りの活気を取り戻していく。いつしかレーキにはその喧騒(けんそう)が心地よいように感じられた。

 

「レーキ! 担任がすぐ訓練室に来いってさ!」

 相変わらず(さわ)がしいクランが教室に駆け込んできて叫んだ。クランは休暇で旨いものを食いすぎたのか、小太りの体型が更に丸くなっているようだった。

「ほら、あれだよ! 二学年目からの専門分野を決めるっていう……」

「ああ、『選定試験(せんていしけん)』か?」

「そうそう! 知ってるか? 『選定試験』で成績の悪かった奴は退学になるって言うぜ……?」

 声を潜め、怪談でも語るように言ったクランに、レーキは(いぶか)しげに答える。

「それは(うわさ)だろう? ……でも試験って何をするんだろうな?」

「うーん。先輩たちは『超簡単だった』とか言ってたけど……具体的な内容を教えてくんないんだよなー!」

「そうか……教えてくれないんじゃ対策立てようがないな」

「おれはお前の次の番だから……どんなだったかこっそり教えてくれよ。……じゃ、また後でな! 頑張れ!」

 友人の激励(げきれい)を受けてレーキは訓練室と呼ばれる教室に向かった。

 

 中年の坂を越えつつある禿頭(とくとう)の男性教師は、教室に現れた数人の生徒を見回して、

「期末試験は皆さん良い成績でした。よく頑張りました」

 と告げた。生徒達から安堵の歓声が上がる。それが静まるのを待って教師は続けた。

「これから二学年から皆さんがどんな道に進むべきなのか、それを判定します」

 まずこれを見てください。と、教師は自分の王珠を差し出した。

「王珠は持ち主の最も得意とする天分(てんぶん)系統の色で光ることは皆さんも知っていますね? 今、この王珠は私の系統色『白色』で光っています。原則的に王珠は持ち主以外の天分系統の色では光りませんが、例外として持ち主が許可した者の天分系統を知らせるという性質も持っています」

 ああ、そうか。あの時、初めてマーロン師匠と出会ったあの時に、師匠が持たせてくれた王珠が師匠の色の水色でなく光ったのはそう言う事だったのか。

 天法院に入学した今なら解る。王珠は天法士(てんほうし)にとって最も大切な物。肌身離さず身につけて、滅多(めった)に他人に渡したりはしない。

 それを、弟子にしようと思っていたとはいえ、素性も解らぬ盗賊の小僧に一時預けてくれた。そんな思い出を師匠は沢山残してくれた。かき消えてなお心を暖かく照らしてくれる、小さな炎のような。そんな思い出。

 過去の記憶に浸っていたレーキを、教師が現実に引き戻した。

「その例外を使って、今から皆さんの天分系統を明確にします。名を呼ばれた人から一人ずつ私の前に来なさい」

 それを合図に、一人目の同級生が教師の前に立つ。彼の系統は水を表す黒。教師の王珠は彼が手にした途端しっとりと美しい黒色に染まった。

「……君の天分系統は『水』の『黒色』だね。二学年生からは『黒の教室・(いち)』に進みなさい」

「ありがとうございます!」

 次々と同級生達の系統が確定していく。なるほど、これでは先輩たちも簡単としか言わないわけだ。ただ王珠を手に持つだけなのだから。対策の立てようがない。

 ある者は『植物』と『(いかずち)』の『青色』、ある者は『鉱物』の『白色』、そしてある者は『土壌(どじょう)』の『黄色』。

 皆がそれぞれの色で王珠を光らせる。(まぶ)しいほどの光を放つ者もいれば(ほの)明るく光る者もいた。系統が重なる者も二人居たが、王珠の示した色は微妙に違っていた。例えて言うならば色濃いブルーと淡色のブルーの違いか。

「全く同じ色で王珠が光る事は()(まれ)です。親子で天分の系統が似る事はあっても同じ色になることはまず有りません。……さて、次はレーキ・ヴァーミリオンくん。最後は君の番です」

「……はい」

 教師に呼ばれて、レーキは僅かに重い足取りで前に進み出る。

 今更、緊張を感じてきた。俺はどんな系統で王珠を光らすことが出来るのだろう?

 もし昔と天分が変わらないなら、それは赤い色であるはず。そもそも、王珠を光らせること事自体が出来るのだろうか?

 この試験で、一定の天分が有る事を示せなければ、次の学年に進む事もおぼつかないという噂。才能のない生徒の足切りだと。

 ──ええい。今更気に病んでも仕方のないことだ。

 あの時、マーロン師匠の王珠は確かに光った。今だって出来るさ。自分を信じるしかない。

 レーキは、担任が差し出す王珠をそっと両手で受け取る。

 ──頼む、輝け、王珠……!

 その瞬間。

「……!!」

 目を焼くのではないかと思うほどの光量で、王珠が(あか)く光りだした。あのときと同じ色。でも光はずっと強い……!

「……やった! 俺、やりました……!?」

「……レーキ、レーキ・ヴァーミリオンくん! 落ち着きなさい! 気持ちを静めて王珠に命じなさい! もっとおとなしく光るようにと!」

 喜びを爆発させて叫ぶレーキに、担任教師は(あわ)てて命じた。

 確かにこのままでは眩しすぎる。静かに、静かに……王珠を(なだ)めるようにそっと息を吐く。次第に、ギラギラと輝いていた王珠が優しく明るい紅色(あかいろ)で光りだす。

 このまま命じていったら、どこまで光量が変わるのだろう?

 ふと、そんな好奇心に駆られてレーキは王珠に命じた。

 もっと暗く、もっと……ゆっくりと明るく……もっと……

 レーキが命じる通りに王珠は自在に光量を変える。それを見届けた担任教師はやれやれと溜め息を()いて、王珠を取り上げた。

「君の天分の扱いは見事なものだが……人の王珠で遊んではいけません。君は『炎』の『紅色』。二学年から『赤の教室・()』に進みなさい」

「……はい。ありがとうございました」

 興奮から一転落ち着きを取り戻したレーキは、たしなめられてしょんぼりと頷いて感謝の言葉を()べた。

 



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天法院の二学年生
第20話 赤の教室・Ⅴ


「おかえりー。で、どうだった?『選定試験』」

 結局クランとは再会出来ずに、レーキはとりあえず寮の部屋へ戻った。

 そこでは、ニヤニヤと笑みを浮かべたアガートが待っていた。

「確かに『簡単』でしたよ。すること自体は」

「ここの天法院にはなぜか、一学年生最後の選定試験の内容を『下級生には内緒にする』って伝統があってさ。いつ頃から始まったのか知らないけど、オレも受けるまでは選定試験がどんな物か知らなかったよ」

「それで何も教えてくれなかったのか……あ、そういえばアガートの系統は何色なんですか?」

「オレ? オレはねー黒。四分の一鮫人(レビ=イクテュース)の血を引いてるからかなー? やっぱりって感じだけど」

「鮫人? ……って、体に魚類の特徴を持つ亜人、でしたっけ?」

「そそ。オレのおばあちゃん鮫人だったの。おじいちゃんに一目惚れして陸に上がったんだと。亜人は系統が固定されやすいって授業でやったろ?」

「やりましたね。鳥人は『赤』、鮫人(こうじん)は『黒』、獣人が『青』で蟲人(ちゅうじん)が『白』……」

「よく覚えてるねー。えらいえらい!」

「……茶化さないでください。でもアガートは魚類の特徴、ありませんよね?」

「あるよ。オレ、背中に鱗あるし。……亜人は人間との混血が進むと種族の特徴を失っていくんだよ。オレは鮫人の混血の父ちゃんと人間の母ちゃんの間の子だから。少しの鱗くらいしか特徴がない。あ、後はこの美貌かなー? 鮫人の女性は美人揃いで有名なんだ」

「はいはい」

 茫洋(ぼうよう)として掴み所がないというあたりは、確かに魚類らしいかもしれない。

 自分も含めて、意外な所に亜人は居るものだ。亜人も人間も五色の竜王がそれぞれ作り出したものだと言うが、それが天分の系統が固定されやすいことと、なにか関係があるのだろうか?

 思わず深く考察しそうになったレーキは話題を切り替えた。

「……所で『赤の教室・Ⅴ』ってどんな教室か、噂でもいいから聞いてます?」

「……うーん。『赤のⅤ』は今年はなんとか・コルなんとかの教室かなー(きび)しい教師らしいけど赤の二学年生以上しか受け持ってないから、黒のオレはあたったことないなー」

 相変わらずアガートは人の名前を覚えることは苦手らしい。

「厳しい……か」

 そんな教室で上手くやっていくことが出来るだろうか?

 幾ばくか不安を覚えながら、一学年生最後の日々を過ごす。

 その内に、今年の三学年生達は卒業式を迎え巣立っていった。卒業式に参加するのは卒業生とその家族くらいで。レーキ達、下級生は親しい卒業生がいなければ関わりのない行事だ。

 新たな始まりの春。冬の間に葉を落としていた木々の枝先に新芽が吹いた。

 水は(ぬる)み、暖かな南の風が人々の衣を軽くする頃。学院が新しい入学生たちを迎える前に。

 新二学年生が『赤の教室・Ⅴ』に向かうその日がやってきてしまった。

 

 

『赤の教室・Ⅴ』。

 そう書かれた赤い扉を開けると、すでに五人の生徒が思い思いに席に着いていた。

 レーキは慌てて、教室の一番前の手近な席に腰掛ける。同時に教室のドアが開かれた。

「……ぁ」

 それは見覚えのある、素晴らしい赤い羽の色。鳥人のシアン・カーマインだった。

 シアンはレーキの姿を認めると、あからさまに不服そうな表情を作った。

 教室に鳥人はレーキとシアンの二人きり。レーキは内心でかつて手酷く拒絶された出会いの時を思い返して、動揺(どうよう)した。

 外見は努めて平静を保ち、誰がいようとどう思ってもいない、自分は正式な天法院の生徒で、すでに二学年生となったのだからと自分に言い聞かせた。

 レーキは、何気なく見えるようにと願いながら黙って法術の本を広げる。

「……貴様が最後だな、鳥人の新二学年。突っ立ってないでさっさと席につけ」

 突然の再会に気を取られて立ち尽くしていたシアンの後ろから、低く脅すような声がした。

 現れたのは黒いローブを(まと)い、四つの赤い王珠を身に着けた長身の男。

 年の頃は、四十を少し超えたくらいだろうか。神経質そうな眼差しと酷薄そうな唇。細身ではあったが動作は(するど)く、アガートのようにひょろひょろとした印象はない。

「私がこの教室の担任である、フォス・レクト・セクールス・コルニクスである」

 一学年生の時に授業で習った。フォスは天法士の正式な敬称。レクトは教師を意味する敬称だと。公の場で名乗る時、天法士は名前に敬称をつけることになると。

 ではこの威圧感の塊のような男が、正式な赤の教室・Ⅴの担任であるのか。

「……新二学年は担任に挨拶もできんのか?」

 セクールスの迫力に圧倒されていた生徒たちは、その一言で弾かれたようにそれぞれに「おはようございます……!」と声を出した。

「ふん。……まずはそれぞれ自己紹介をしろ。私が覚えるに足る名かどうかはまだ解らんがな、聞くだけは聞いてやろう。その端の奴。そうだ、お前だ」

 指をさされて端に居た、人間らしき新二学年生の女の子が慌てて立ち上がる。

「わ、わたしは……エカルラート・リュミエール、です。よろしくおねがいします!」

「ふん。つまらん、個性のない自己紹介だ。次」

「ぼくはグーミエ・カルディナルです。ヴァローナの出身です。よろしく……」

 次々にクラスメイトが名乗っていく間に、シアンはレーキから離れた場所に座った。

 ホッとしたのも束の間、すぐに自己紹介の順番が回ってきてしまう。

「俺はレーキ・ヴァーミリオンと言います。グラナートの出身で……見ての通り鳥人です。……以上です」

「貴様が特待生の……ふん。面白味のない奴だ。もういい。次」

 (うなが)されて最後の生徒が立ち上がる。やけに自信に満ちた表情のその青年は、シアンだった。

「私はシアン・カーマインと申します。グラナートの名門カーマイン家の出身で次期当主であり、座学では一学年生で二位でした。特技は……」

「どんな家柄だろうと私の教室に来たからにはただのつまらん生徒だ。加えて一学年生の時の成績なぞ当てにならん。次」

 自己紹介を遮られたシアンは、一瞬ムッとした表情を浮かべて腰を下ろした。

 おずおずと、グーミエと名乗った生徒が手を挙げる。

「……セクールス先生、シアン君で最後です」

「ふんっ。本当に今年の新二学年生はつまらんな! ……では授業を始める」

「先生。その前にどうして私達がこの教室に(はい)されたのか理由を教えていただけますか?」

 色々と不服を訴えたいのだろう。シアンが厳しい表情で手を上げた。

「……ああ? それはお前たちが選定試験で火の系統と判別され、そこそこの天分量を見せて私の教室に相応(ふさわ)しいと試験を担当した教師が判断したからだ。全く忌ま忌ましいことにな」

 吐き捨てるようにセクールスは言った。それは腹の底、本心からクラスを受け持つことを嫌がっているような声音で。

「私は本来なら生徒を見ることなぞしたくない。研究のためにこの天法院にいるのだ。だが院長代理の命令で全ての教授は三年に一度は必ず生徒どもの面倒を見なければならん。くだらん命令だが仕方がない」

 命令に従ってこうして出向いてきている辺り、根は真面目な人物なのかもしれない。だが、セクールスが生徒たちを見る眼差しは、お世辞にも慈しみや優しさとは縁遠かった。

「なにか不満があるなら教室から出ていって(かま)わんぞ? くだらん生徒が減れば私の研究の時間が増えるというものだ」

 くつくつと低く笑って、セクールスは持参した本を開く。

 シアンは抑えきれない怒りに拳を握って、押し黙った。

「……では基本中の基本だ。掌大の『火球』を作って授業の時間中途切れることなく維持せよ。……初め!」

 それだけでいいのか。『火球』は火の天法では基本の技で、一学年生の間に習得する法だ。厳しいと聞いていたから拍子抜けだ。

 そう難しいものではない。簡単だ。ただ『火球(ファイロ)』と唱えて掌に力の流れに意識を集中させるだけでいい。

 火の色や大きさにははそれぞれ個性があったが、七人の生徒たちはそれぞれ容易く『火球』を掌に出現させた。

 レーキも掌から少し離れた空中に『火球』を浮かべた。『火球』は小さくても燃える火だ。うっかり扱いを間違えば火傷してしまうこともある。注意は必要だが……

 簡単だったのはそこまで。

 慎重に『火球』に力を送り大きさを変えずに保つことは、一瞬大きな『火球』を作ることよりずっと集中力と精神力を必要として、至難(しなん)の業だった。

 それを授業の時間、一刻(いっこく)(約一時間)の間続けろというのだ。

 次第にセクールスが自分たちに求めている事の高度さを、教室に居た全員が思い知ることとなった。

 ──これは、とんでもない先生の教室に来てしまったのではないか?

 レーキがそれを自覚し始めて、戦々恐々(せんせんきょうきょう)としていると。

 半刻(はんこく)(約三十分)で最初の脱落者(だつらくしゃ)が出始めた。エカルラートと名乗った女生徒だ。

「……はぁ、はぁっ……先生……もう、無理、です……!」

「ふむ。では貴様はそこで『法術(ほうじゅつ)』の百三十ページから百五十ページを帳面(ちょうめん)に書き写せ。それが終わったら帰っていいぞ」

「……そんなっ……!」

「……不満があるなら今すぐ出ていってもいいんだぞ? この程度のことも出来ないような生徒は私の教室にはいらない」

 セクールスが温か味の欠片もなくピシャリと告げると、エカルラートは疲労困憊(ひろうこんぱい)といった顔色で、泣き出しそうになりながら『法術』の本を書き写し始めた。

 授業時間が終わるまでに、次々と生徒たちが脱落していく。

 結局終業の鐘が鳴り終わるまで最後まで残っていたのは、レーキとグーミエの二人だけだった。

 シアンは終業の鐘がなっている途中で、安堵したのか『火球』を消してしまって失格となってしまった。

「ふん。たった二人だけか? まったくつまらん。最後まで残った貴様らも『火球』を消して帰っていいぞ。……これで貴様らの力量は大体解った。明日からの授業はこんな楽しい物ではないぞ。覚悟するように。以上」

 言いたいことだけ言い置いて、手にしていた本を閉じると、セクールスはさっさと教室を出ていった。

 後には、明日からの日々を思って呆然とする生徒たちだけが残された。

 



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第21話 セクールスの課題

「それでは授業を始める」

 翌日から、セクールスの授業が本格的に始まった。

 レーキ達生徒七人は、みな一様に重い足取りで『赤の教室・()』へと向かった。

「昨日『火球(かきゅう)』を維持できなかった者は前へ。それからそこの二人。鳥人一と人間一」

『火球』を維持することに成功していたレーキとグーミエは、セクールスに指さされて共に顔を見合わせた。

「お前たちはこいつらに『火球』を維持するコツを教えてやれ。全員が一刻(約一時間)『火球』を維持できるようになるまでは次の段階には進まん」

「……先生、私は終了の鐘の最中までは『火球』を維持していました! 彼らに請う教えなど何も有りません!」

「うるさい、鳥人二。お前は失格だと言ったはずだ。つべこべ言わずに『火球』を出してそいつらの話を聞け」

 異存を唱えるシアンを、セクールスは一瞥(いちべつ)だにせず、吐き捨てるように告げた。

「人間一、ここに一刻分の砂時計がある。これで時間を計れ。私はここで興味深い研究書を読む。全員が合格したら知らせろ」

 そう言うと、セクールスは本当に持参した研究書を読み出してしまう。

 レーキとグーミエは困り果て、もう一度顔を見合わせた。互いに目で「やるしかないのか……」とやり取りする。

「……えっと、レーキ君。僕はこちらから半分の皆にコツを教える。君は残りの半分に教えてくれ」

「解った。それから俺のことはレーキでいい」

「ありがとう。僕もグーミエでいいよ。……ではレーキ、頼んだ」

 こくりとレーキは(うなず)いて、手始めに昨日最初に脱落した女生徒、エカルラートに『力』を制御する時のコツを伝え始めた。

「まずは『力』を意識する所から始めるんだ。でもその為に力みすぎてはいけない……」

 普段半ば無意識にしている事を、言語化していくのは難しい。しかし言葉にしていく内に自分の中でどんな事をしているのか、どうやっているのか、それが明確に理解できていくような気がする。

「……例えば袋の口を縛っている(ひも)を思い浮かべる。袋の中に入っているのは俺達の『力』、天分だ。袋を縛っている紐を緩めれば中から『力』が漏れてくる。その紐で出てくる『力』の量を調節する」

「……え、と、こう? かしら?」

「そう。紐を引きすぎると袋の紐は閉じてしまうし、紐を緩めすぎても袋は大きく開いて『力』が早く出ていってしまう。だから……えっと、自分の袋の量がどれだけあるのかとか紐をどれだけ緩めればいいのかとか……長く『火球』を維持するには釣り合いが大事なんだ」

「……その……私はどうして貴方より早く疲れてしまうの?」

「それは、多分……君は天分の全体量に対して袋を開けて取り出す量が多すぎるんだ。セクールス先生は大きさは指定したけど、どんな火勢の『火球』を出せとは言わなかった。だから……」

「袋から取り出す『力』の量を少なくして、その分長く『火球』を燃やす、かしら?」

「そうだ」

「ありがとう! なんだか解ったような気がする!」

 ほっと華やいだ笑みを浮かべるエカルラートに、レーキも一瞬笑みを返す。

 レーキがもう一人の生徒にコツを教えている間に、グーミエは二人の生徒に説明を終えていた。

 残っていたシアンは、自己流で『火球』を作っては消している。

 イライラとした表情で「早くしたまえ!」とレーキたちを急かしてくる。こんな課題は早く終わらせてしまいたいのだろう。

「……では砂時計を落とし始めるよ。みんな『火球』を作って。行くよ!」

 グーミエの合図で七人は一斉に『火球』を作った。

 教室は静まり返って、七つの『火球』が燃えるジリジリとした音、誰かが思い出したように発する呼吸音、セクールスが本のページをめくる規則的な音以外は聞こえない。

 半刻(約三十分)が過ぎ、その半分の時間が過ぎた。

 まだ脱落者は出ない。

 もう少しで全員が合格する。そう思っていた矢先。

「……もうダメだ……!」

 レーキにコツを教わった生徒の一人が、脱落した。それをきっかけに、グーミエが受け持った生徒たちとシアンも腕をおろしてしまう。

「……全く無駄な時間だ!」

 シアンが腹立ちを隠しきれない表情で、脱落した生徒たちを責め立てる。

「貴様らのせいで大切な授業時間をこんなに無駄にしてしまった!」

「……」

 責められた生徒たちは(くや)しそうに(うつむ)いて、シアンと担任教師を恨めしく見る。

 セクールスは生徒たちの恨みなど、どこ吹く風で相変わらず読書に没頭しているようだった。

「貴様らのような出来の悪い生徒は今すぐこの教室を去るべきだ!」

「……止めろ。彼らを責めたって課題は終わらない」

 激昂(げきこう)し言い募るシアンと脱落した生徒たちの間に、レーキは『火球』を作ったまま思わず割って入った。

「……失敗したからと言って『火球』を消してしまった君も彼らと変わらない」

「……! 何だと!」

 黒い羽の卑しい者と(さげす)んでいた相手に言い返されたのがよほど腹に据えかねたのか、シアンがレーキに食ってかかろうとしたその時。

「……まって、砂が全部落ちた!」

 グーミエが嬉しそうに宣言する。その時まで『火球』を維持していたのはレーキ、グーミエ、エカルラートの三人だけだった。

「……やった! やったわ! 出来た!」

 エカルラートは嬉しそうにはしゃいで、座ったままぴょんぴょんと跳ねた。

 その声に集中を破られたのか、セクールスが本から顔を上げる。

「……む。終わったか? ……当然全員合格したのだろうな?」

「……いいえ。先生。まだです」

 グーミエが悲痛な面持ちで報告する。

「ふん。では二時限目始まりの鐘まで休憩。それから全員が揃って合格するまで続けろ」

 それだけ言うと、セクールスはまた読書に戻ってしまった。

 授業と授業の間の休憩は半刻(約三十分)もない。休息に当てられる時間はわずかだった。

 

 結局、その日は全員揃って合格することは出来なかった。

 初めのうちは成功していたレーキ達三人も回を重ねるにつれ疲れ果て、『火球』を維持し続けることが困難になって行った。

 四度目の失敗の後。セクールスは読み終わった二冊目の本をぱたんと閉じて宣言する。

「……明日も全員が(そろ)って合格するまで同じ『火球』の授業を続ける。今日の課題は各人なぜ自分が失敗したのかよく考察すること。そして明日の授業にそれを活かすこと。本日の授業はここまで。以上」

 言いたいことだけ言って。セクールスは生徒たちを見ることもなく教室を出て行った。

 ──明日も、これをやるのか……

 残された生徒たちは、途方に暮れた表情で帰り支度を始める。

 その中にあって。一人激しい憎悪の感情に(ひとみ)を燃やす者がいた。

 理想の羽色を持つ鳥人、シアン・カーマインだった。

 

 

 授業が始まって三日目の朝。

 まだ昨日の疲れが抜けきらないレーキは、重い体を引きずるように教室棟へと向かっていた。

「お。おはよー! レーキ!」

 背後から元気な声がした。振り向くと、そこには教科書を手にしたクランが立っていた。

「……クラン。おはよう、久しぶりだな」

 クランは『選定試験』で白の系統を宣言された。こうしてクラスが別れてしまうと残念ながら毎日のように会うということも無くなってしまう。

「……? どうした? なんだか元気ないな?」

「……『赤のⅤ』の先生が出す課題がきつくてな……」

「実技じゃ一番のお前でも手こずる課題? 何? 座学?」

 レーキは簡単にクランに今まで赤の教室・Ⅴで行ったことを説明する。それを聞いたクランの顔色がみるみる青ざめた。

「……おれ、『白の教室』でよかった……」

「……『赤のⅤ』以外の『赤の教室』もこんなに厳しいのかな……?」

 レーキはふと浮かんだ疑問を口にする。

「うーん。わかんねーけど……多分そんなに厳しくないと思う。『赤のⅤ』が特別じゃねーか?」

 クランは首を傾げて、

「……ちょっと先輩とか他の友達とかにその辺のとこにも聞いてみるわ」

 と、請け負ってくれた。

「……ありがとう。クラン」

 その後は「また街で遊ぼう」だの「グラーヴォが座学でピンチ」だの他愛のない話題をやり取りして、レーキはクランと別れた。

 友との再会で少し気分が上向きになった。レーキは溜め息を一つ着いて気分を切り替えると『赤の教室・Ⅴ』に(おもむ)くべく階段を上る。

「……おはよう」

 教室の扉を開けると、そこは先客がいた。ここ数日で、すっかりクラスの代表的立場に収まりつつあるグーミエと高圧的な態度を崩そうとしないシアンだった。二人は会話することもなくそれぞれ席に着いている。

「……あ、おはよう。レーキ」

 グーミエが力なく挨拶を返してくれる。彼もこの数日で随分疲れてしまっているようだった。

「……おはよう。レーキ君」

 意外なことにシアンが返事をした。

 何事が起こったのか。驚いて何も言えずにいるレーキに向かってシアンはダメ押しとばかりにっこりと笑ってみせた。

「……!」

「……いや、何。折角(せっかく)同じクラスになったのだからね。挨拶の一つでもするべきだろう?」

「……」

「どうした? 私の顔に何かついているとか?」

「……いや。驚いてしまっただけだ。君から挨拶を返されると思っても見なかったから……すまない」

「ふふん。私は無礼な相手にも完璧な礼儀作法で応じるよう厳しく(しつ)けられているんだよ」

 シアンの言葉は相変わらず上から物を言うようであったが、態度を軟化させると言うならレーキに言うべきことはない。

「……ところで君、私と同じグラナートの出身だと言っていたね。具体的にはどこの生まれなんだい?」

「……ああ、俺は……テルム山の山奥の村の出身だ。田舎の村だったから、村に名前がないんだ」

「ふん。そうか。私は首都チャラスの出身だ。素晴らしい都だよ、チャラスは。君、チャラスを訪れたことは?」

「いいや? 一度もないな」

 グラナートの首都チャラスは、巨大な商業都市だと幼い頃話に聞いた。祭の日にやってくる旅の一座も、チャラスで一旗揚げたいと息巻いていたようだった。『山の村』からはとても遠くて、師匠とともにグラナートからアスールに向かった時も通ることはなかった。

「それは勿体無い! 生涯で一度は訪れるべき場所だよ、商都・チャラスは。街並みは、それはそれは美しくて活気に満ちていてね。どんなものでも手に入るという大市場があるんだよ」

 我が事のように街を称賛し、シアンは親密な者にでも話しかけるように続ける。

「……しかし君、そんな山深い所からはるばるヴァローナまで? 君の家は村長か何か務めていたのかい?」

「……? いや。ただの農家だ」

「ではどうして?」

「俺の亡くなった師匠が……ここに来て勉学を続けるように取り計らってくれたんだ」

「……師匠ね。ちなみにどなたに師事していたんだい?」

「アカンサス・マーロン師だ」

「ふうん。知らないな。……私も師について学んでいたんだ。師はグラナートでも指折りの天法師だったよ。私には大いなる才能があると言って教え導いてくれたんだ。その彼が『ヴァローナ天法院で王珠を得給え、それが最上だ』と勧めてくれたからこんなヴァローナくんだりまで来たんだよ」

「……なるほど」

 結局は自慢話に落ち着くのか。レーキは妙に納得して頷いた。

 シアンは自分がいかに優れているか、いかに恵まれているかをこちらに見せつけたいのだ。そうしたいと言うなら、させておけばいい。

 そんな会話をしている内に。次第に疲労の色濃い生徒たちが次々教室にやってくる。

 全員が揃ってすぐにセクールスがやってきて、その日の授業が始まった。

 

 本日二度目の挑戦でクラスの全員、七人が『火球』の課題に成功した。

「……先生、全員成功しました!」

 グーミエが喜色を隠せぬ声色でセクールスに報告する。

「……ふん。ようやく終わったのか? では本日の授業はこれまで。皆休息を取るように。以上」

 セクールスは、相変わらずの冷たい態度で言い置いて教室を出ていく。

 それを待っていたかのように、生徒たちは口々に喜びの声を上げた。

「やった! やったぞ!」

「もう『火球』出さなくていい! わーい!」

「ちくしょーっ! あの鬼教師! こんな課題出しやがってー!」

「おおー! もー二度とやりたくない!」

「……でもさ、どうしてセクールス先生はこんな課題を僕らにやらせたんだろう?」

 熱狂の一時が収まると、グーミエが呟くように疑問を口にした。

「……ふん。あの教師は底意地が悪いのさ。私達が疲れ果てるのを見て喜んでいるんだろう」

 シアンはその一言でセクールスの意図を片付けてしまう。

「……」

 本当にそうなのだろうか?レーキは考える。セクールス先生はただ生徒たちを痛めつけるためにこんな課題を出したのだろうか?

 確かに、この課題を嫌がってこの教室から出ていく者がいれば、教える生徒が減って先生の手間が減るかもしれない。読書の時間も増えるだろう。

 だが、この教室に所属している者は、この数日で確実に精密な天分の使い方を覚えていっている。

 やり方は確かに手厳しいが、生徒たちは確実に成長している。それにこうして休みをくれたのは、生徒の体力がもう限界だという事も解って居るのではないか?

 そう思うと、レーキは完全にはセクールスのやり方を否定できなかった。

 



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第22話 陥穽

 四日目には、小さな『光球』を一刻(約一時間)維持する課題が出された。

 半日休んで気力も体力も充実していたレーキたちは、一度の挑戦でその課題をやり遂げた。

「そうか。終わったか。では……半刻(約三十分)休憩を許す。次の時間は、小テストを行う。正解できた者から昼の休息に入っても構わんし、難しければ図書館に行って資料を探すことも許可する」

 珍しく優しげにセクールスが告げる。

 生徒たちは何ごとかと身構えたが、半刻(約三十分)後、セクールスが持参していた小テストは用紙にしてたった一枚。

 楽勝だ。今日の課題は(やさ)しいな。生徒たちの多くがそんな感想を抱きかけた。

「まずは人間(いち)。お前用の小テストだ。取りに来い」

 ──個人個人でテストの内容が違うのか?

 セクールスが指差した生徒が、次々とそれぞれにテストを渡される。レーキの番が来た。呼ばれるままに教卓に近づき、テストを受け取る。

 小テストの用紙には一言。『天法(てんほう)とは何か?』たったそれだけ。

「何か?」と問われても。学習の途上であるレーキには明確な答えがない。

 途方に暮れてこっそりと他の生徒たちの様子を盗み見ると、彼らもまた問題を前にして、頭を抱えるもの、溜め息をつくもの、憤るものとそれぞれに苦悩していた。

 その中で一人、シアンだけがすらすらとペンを走らせて、テスト用紙に答えを書いているようだった。

 彼には容易い問題が出たのであろう。自分も負けてはいられない。

 ──天法、とは、何か?

 改めて考えれば考えるほど、解らなくなる。

 天法とは天の法を司りし王、すなわち天の王の助力を得て天法士が使う不思議な術のことだ。

 だがそれだけでは不十分。強い天分を持つ者の中には、天法士でなくても天法の様な不思議をなす者もいると師匠に聞いたことがある。

 幼かった頃、焼ける山の村で殺される寸前だった自分を救ってくれた不思議なあの炎。あれは無意識に身の(うち)から湧き出した天法の様なもの、なのだろうか。

 あの時のことは(つと)めて考えないようにしていた。

 あの大工は俺のせいで……俺のせいで、死んだ。死んでしまったのだ。

 取り返しはつかない。今更、容易く償いや埋め合わせが出来るなどとは、口が裂けても言えない。

 湧き上がる後悔と胸を押しつぶす罪悪感を、出来()る限り(すみ)に追いやって、レーキはセクールスの設問への答えを考え続ける。

「……先生、出来あがりました」

 やがて、自信たっぷりなシアンが一番にテスト用紙を手に教卓へ向かった。

「早かったな。見せてみろ」

「こんな簡単な問題でよろしいのですか? 問題をお間違えなのでは? セクールス先生」

 教師を揶揄(からか)うようなシアンの物言いを、セクールスは(とが)めなかった。代わりというわけではないのだろうがシアンに視線も向けずに彼の答えを検分している。

「……これでは不合格だ。やり直し」

 すぐにテストを突っ返されて、シアンはむっと眉を怒らせた。

「何故です? 私の答案は正しいはずです!」

「……設問をよく読んで答えろ。私が出したのは『人はいかに天法士になりうるのか?』だ」

「……ですから、その通りに……!」

「これでは『自分が天法士になれる理由』だ。そんなつまらん答えを私は欲していない」

「……!」

「他にテストが終わったものは?」

 セクールスは会話を打ち切ると教室を見回した。生徒たちは黙ったまま誰も手を挙げない。みな必死にテストと向かい合っていた。

「はあ……こんなに簡単な問題も解けないようでは先が思いやられるな。……ではその小テストを貴様らの卒業までの主題とする。心して解け」

 大仰に嘆息(たんそく)して見せ、セクールスは低く陰鬱な声音にわずかに喜色を(にじ)ませて告げた。

 

 

『赤の教室・()』の授業が始まって、早い物で三ヶ月が過ぎた。

 クランが聞き回ってくれたおかげで、やはり『赤のⅤ』授業内容は、他の教室に比べれば進んでいるようだと解った。

 解った所でその流れを止めることも、セクールスに抗う術もない。ただただ、生徒たちは必死に授業へ食らいついた。

 基本の各色天法は勿論のこと、高位の『赤』天法、応用の混色法(こんしょくほう)──二つ以上の系統の天法を同時に操り、全く別の系統を作り出す法──他の教室であれば二学年生の終わり頃に習得するはずの法術を織り交ぜ、教科書にはない順番でセクールスは授業を進めていく。

「何故『法術』の書にある通りの順番で教えないのかだと? ……ふんっ。私のやり方のほうがはるかに効率が良いからに決まっているだろう?」

 そうのたまう師の顔は自信に満ち溢れていて、レーキたち生徒は反論も許されない。

 

 三ヶ月の間に幾度か『小テスト』の答案を提出した。その度にセクールスは不合格を突きつけてくる。

 解らない。天法とは。考えれば考えるほど袋小路に入って抜け出すことが出来ない。

 一度、困り果ててアガートに『小テスト』の内容を話してみた。アガートは不正解だった答案をしげしげと見て肩をすくめた。

「うーん。難しく考えすぎ、かなーオレはなんとなく答え解ったよ……でも、それはオレの答えだからね。君は君の正解を探す事ほうがいい。それがそのセクなんとかって教師の意図なんじゃない?」

「自分の、正解……?」

「『自分の頭で考えること』はね、簡単に答えを教えて貰うより苦しいし、辛いし、大変だけど……でも近道するよりずっと沢山のモノをくれるよね」

「……俺、この問題には正解がないってのが正解かと思い始めていました……でも正解がある、なら、もう少し頑張ってみます」

「うん。頑張れー」

 レーキの決意に、アガートは茫洋(ぼうよう)としたいつもの笑顔で応えてくれた。

 

 入学の季節は、課題に溺れて汲々(きゅうきゅう)とする内にいつの間にか終わっていた。寮にも新しい顔ぶれが増えているが、まだレーキと親しいものはいない。

 春の暖かな日差しを楽しむ余裕もなく、日々は慌ただしく過ぎていく。

 すでに大気は夏の気配も濃厚に、枝の先に芽吹いた新芽は若芽となり青々と茂り、寮生たちは衣替えを終えた。

 そんな日常を送る内に。次第、他の教室にいるクランや他の生徒たちも、「授業がキツくなってきた」と口々に()らすようになっていった。

 

 毎日セクールスの授業に付いていったレーキたち七人も、どうにか一人も欠けることなく毎日教室『赤のⅤ』に通っている。

 この三ヶ月、授業内で出される課題は過酷なものであった。それに加えて。宿題が生徒たちの行く手に立ちふさがった。

 一学年生の間、座学の成績に目立った問題もなくクラスで上位に居たレーキを持ってしても、宿題の質、量、共に歯ごたえのあるものだった。

 この頃レーキは寮に戻ってから夕食の時間まで机に向かう。アガートに(うなが)されてようやくかきこむように夕食を()った後、消灯時間を過ぎても机から離れられないこともある。

 当然、クランたちと街に遊びに出かける余裕もない。貴重な休日は、宿題の消化と休息に充てられた。

 天法院の週に一度の休日である『諸源(しょげん)の日』が開けて翌日、『()の日』。

 レーキは今日も『赤のⅤ』へと向かう。その足取りは重くはなかったが、決して楽しげというものではなかった。

 たった今、彼を思い悩ますのは今日の課題の成否と、昨日の宿題が合格をもらえるかと言う学生らしい悩みだけ。

 そんな贅沢な時間が、一年以上も続いていたから。過去の全てを、忘れ去ったしまった訳ではないけれど。

 その陥穽(かんせい)は、ポッカリと口を開けてレーキを待ち受けていた。

 

「おはよう」

『赤の教室・Ⅴ』に向かったレーキは、すでに着席していた生徒たちに朝の挨拶をする。

 近頃は生徒たちは、自分の定位置とでも言うような席を決めていた。レーキの定位置は階段状になった教室の最前列、右の端、一番扉に近い位置だった。

「ああ、おはよう」

「おはようーレーキ、昨日の宿題終わった?」

 グーミエやエカルラートが、真っ先に声を返してくれる。そろって着席していたほかの生徒たちも、軽く挨拶を返してくれた。

 シアンの姿が見えないのはいつものこと。彼がやってくるのは決まって始業の鐘が鳴る前、セクールスがやってくるほんの少し前だった。

「ああ、なんとか終わった。昨日のは少し手強かったな」

「やっぱり! レーキでも難しかったのね……私も苦労したけ、ど……?」

 会話の途中で扉を見やったエカルラートに釣られてレーキも振り返る。そこにはシアンが立っていた。

 彼がやってきたと言うことはもう始業の鐘が鳴るのか? 慌てて席に着こうとしたレーキに、シアンはうっすらと勝ち誇ったような微笑みを向けた。

「レーキ・ヴァーミリオン君」

「……? なにか?」

「きみ、その姓と『ヴァーミリオン・サンズ』とか言う()()()()盗賊団とどんな関係があるんだい?」

 私は知っているんだぞ。シアンの微笑みの形を作っても笑っていない(ひとみ)がそう語っている。

「……?」

 何だって? こいつは何を言っている? 『ヴァーミリオン・サンズ』。壊滅した、盗賊団。わからない。何も考えられない。

 壊滅した? なにが? ヴァーミリオン・サンズが?

「……」

「何度でも言おう。きみは、盗賊団と、どんな関係があるんだい?」

 噛んで含めるように。わざとらしい大声で、教室中の生徒たちに聞こえるように。シアンの貴公子然とした顔が、次第に愉悦(ゆえつ)じみて醜怪(しゅうかい)(ゆが)む。

「なぜきみの名は壊滅した盗賊団と似ているのかな? なぜだか答えたまえよ!」

 肯定も否定も。レーキに答えはない。壊滅した。その一言だけが、ぐるぐると頭の中を駆け巡っている。ああ。心臓が。心臓が早鐘のように鳴っている。こめかみに血が上って、頭が破裂しそうだ。そのくせ胸の奥が冷たく凍り付いて。何も考えられない。考えたくない。

「……答えられないと言うことは、きみが盗賊団に所属していたという報告は本当らしいな! 汚らわしい!」

「……!」

 息をすることを忘れていた。知覚できることを忘れていた。シアンが放った一撃の鋭さに負けたわけではない。ただ信じたくなかった。ヴァーミリオン・サンズが壊滅した。そんなこと、信じたくない。

「……壊滅、した……?」

 息とともに、やっと吐き出せたのはその一言だけで。ではじいさんは、テッドは、頭は、タイク、カイ、サラン、みんな、みんなは?

 こんな日が来るのではないかと、心のどこかで恐れていたのかもしれない。でもそんなことはあり得ない無いと子供のような願望で押しつぶしてきた。

 盗賊団はお尋ね者の群れ。執行官の手にかかって処刑台の露に消えることだってあり得ることだったのに。

「……みんな! 何か無くなった物はないか? こいつは薄汚い盗賊だったんだ! 隙あらばきみたちの大切な学用品を盗んでいたのかもしれないぞ!」

 ああ、何かが。何かとても醜い物が、きーきーと何かを叫んでいる。俺は何をしているんだ? こんなところで何を見て、聞いている?

 泣き出したかった。誰もいない場所で。ただみんなの行く末を案じて一人で泣きたかった。逃げ出せた者はいたのだろうか? それとも全員が処刑されてしまったのだろうか?

 彼らは盗賊で善人とはとても言いがたかった。子供だからとレーキを揶揄(からか)ったり、軽くあしらう者もいた。それでも彼らは、あの砦は、初めてレーキが人らしく生きることができた場所。初めて得られた居場所だったのに。

「……みんな、みんなは……どうなった! 全員、処刑、された、のか……!?」

「……っ! 薄汚い盗賊どもの最後なんて知るもんかっ!」

 急に問い詰めたレーキに気圧(けお)されて、シアンは一歩後じさって吐き捨てる。

「やはりな! 盗賊の最後をそんなに気にかけるなんて、お前も薄汚い盗賊なんだろう!? お前も一緒に処刑されればよかったのに!」

 その一言で。レーキの中で決定的な何かがふつりと切れた。腹の底から熱く煮えたぎる何かが湧き上って、喉の奥を焼くようだ。そのくせ胸の奥はずっと冷たく凍ったままで。

「……てめえに、何が、わかる……!」

 気がつけば口に出していた。

「のうのうと環境に甘えて……家柄とやらにふんぞり返って生きてきた、てめえに何がわかる……!!」

 (せき)を切ったように言葉が止まらない。悔しくて苦しくて絶望で目の前が暗くなるほど傷ついて、こいつはそれをレーキの敗北だと思っている。他人を、他人の人生を容易い言葉で破滅させようとして喜んでいる。そのことにひどく腹が立った。

「俺は死にたくなかった。ヴァーミリオン・サンズに拾われなければ、俺は怪我と飢えとで死んでいた! ……十一だった。()()()()()()()()()()() 十一のガキには他に行き場なんて無かった! 生きていくために……それが悪いことだと、知っていても……やるしかなかったのに! てめえはそれをこんなところで言い立てて何がしてえんだ! それをみんなに知らせれば俺が這いつくばって許しを請うとでも思ったのか!」

「……ほ、ほら見ろ! 正体を現したぞ! 薄汚い盗賊の一員め!」

「確かに、俺もあの人たちも盗賊だった。盗みもしたしもっとひどいことをしていた奴だっていた。しあわせに死ねるなんて誰も思ってねえさ! でも……大きなお屋敷で召し使いにかしずかれて、いい家に生まれたってだけで偉そうにしてるてめえが、てめえのような奴があの人たちを語るな! あの人たちは俺を助けてくれた! 飯を食わせて雨露(あめつゆ)から守ってくれた! それが気まぐれだったとしても……()()()()()()()()()()

 喉の奥から血を吐くように言葉を(つむ)ぐ。固く握りしめた拳が、知らないうちに小刻みに震える。その拳で、シアンを殴り飛ばしてやることも忘れていた。泣くまいと思っていたのに。紅色の隻眼(せきがん)が後から後から涙をこぼして止まらない。

「俺のことは何とでも言うがいいさ! 結局ヴァーミリオン・サンズを裏切ったんだからな……だがてめえのような奴があの人たちを悪く言うことは俺が許さねえ! 絶対に! 絶対にだ!」

 盗賊団を離れても、ヴァーミリオンを名乗り続けたのは。師匠に出会うまで、彼らだけが自分を人らしく扱ってくれたから。それを忘れたくなかったから。

 だから。それだけは譲れない。

 



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第23話 哀悼と決意と

 ──やってしまった……。

 激情に任せてぶちまけてしまった。こんな奴のために。

 教室にいる生徒たちはみな、目の前で起こった出来事に驚愕(きょうがく)して言葉を失っている。

 シアンですらレーキの激昂(げきこう)にあっけにとられて、口を(つぐ)んでいた。

 怒りの色に染められていた思考は、一瞬にして()めている。

「……っ」

 解っている。怒りに身を任せて、それを吐き出した後に起こること。レーキはそれを幼い頃からよく知っていた。

 拒絶。

 恐れられ、突き放され、禁忌に触れるように、そこに無いモノのように扱われる恐怖。

 ……ああ、何をやっているんだ。俺は。

 止めどなく視界を揺らす涙を拭うことすら忘れて、レーキは立ち尽くす。

 恐ろしくて恐ろしくて。周囲を、みんなの顔を見回すこともできない。

 一体いつから俺はこんなに(もろ)くなったのだろう。レーキは思う。

 ガキの頃はいつも独りだった。それでいいと思っていた。石のように頑強で、独りで、いつも自由になりたかった。

 かんたんなことだ。あの頃にもどるだけさ。心のどこかで幼かった自分が言う。

 自業自得だ。善良な人々の蓄えを奪ってきたツケが回ってきたのさ。盗賊だった自分が笑う。

 それでも温かな声を、何気ない日常を、気の置けない友を、失うことがこんなに()()なんて──!

「……何を騒いでいる? ガキども。もうとっくに始業の鐘は鳴っているぞ。さっさと席に着け」

 静寂を打ち破ったのは、いつの間にやら鳴っていた鐘の音とともに教室に入ってきたセクールスだった。

「……!」

「……先生!」

 先に我に返ったのはシアンの方で。

「セクールス先生! こいつは、レーキ・ヴァーミリオンは……!」

「お前が気安く俺の名を呼ぶな……!」

 もういい。もうどうなってもかまわない。シアンを制したレーキの声音は堅く鋭く、冷たく研ぎ澄まされた刃のようだった。

 その声に打たれたように、シアンは二の句を接げずにいる。

 レーキはセクールスに向き直った。涙の跡を拭って(つと)めて静かに申告する。

「……先生、申し訳ありません。今日は気分が優れないので早退させてください。お願いします」

 真剣な顔でそう告げたレーキを(いぶか)しげに一瞥(いちべつ)して、セクールスは自分の(あご)に手をやった。

「……ふむ。確かに顔色は悪いようだな。……仕方ない。許可する」

「……ありがとう、ございます」

 それだけ言って一礼する。レーキは振り返ることなく教室を出て行った。

 

 こつり、こつりと授業が始まったばかりで人気の絶えた教室棟の廊下に、レーキの足音が響く。

 授業を休んだのは、この学院に来て初めてだった。

 本当は何一つ聞き逃したくなかった。セクールスの授業は確かに苦労の多いモノだったが、その分自分が成長しているのだと言うことを実感させてくれた。

 前に進みたい、のに。振り向いて立ち止まっている暇なんて無いのに。

 それでも事実は残酷で。苦しくて、堪え難くて、恐ろしくて。

 教室を離れるにつれ、早まっていく鼓動に合わせて。次第に歩みが早くなる。

 半ば飛ぶように教室棟の階段を駆け下りた。

 建物の入り口を出ると同時に羽を打ち振るって空へと飛び上がる。天法院の屋根を越え、尖塔を超え、もっと高く、高く。

 レーキの心を映したと言う訳ではないけれど。今日の空は重く雲の垂れ込める曇天。大気には微かに雨の気配が香る。

 寮の部屋に帰るわけにはいかない。いつアガートが帰ってくるかもしれないから。

 彼を目の前にしたらきっと泣いてしまう。何もかもを吐き出して身も世もなく泣いて(すが)ってしまうから。

 だから飛んだ。このままどこまでも──いや、グラナートまで飛んでいきたい。きっと、今は誰の物でも無い、あの砦まで飛んでいけたら。そう出来たら良かったのに。

 空を飛ぶときはいつだって独り。風はいつだって鳥人(アーラ=ペンナ)の味方で、気流に乗れば何処へだって飛んで行けるはずなのに。

「ああああああぁぁぁぁぁぁ……!!!!」

 レーキは吠えた。哀悼の代わりに。叫んでも叫んでも、喪った物を取り戻すことは出来ない。解っている。遺されたモノに出来るのは、(いた)むことだけ。それは師匠が本当の最後に教えてくれたことだから。

 雲が近い。あんなに大きかった天法院の屋根が小さく見える。ずいぶん高い所まで上ってきてしまった。夏の服では堪え難いほど体が冷えている。

 空は冷たい。夏の空ですら。飛行すると言うことは、いつだって凍死や墜落の危険と隣り合わせだ。

 レーキの耳に不意に死の王の言葉が蘇る。

『汝が愛した者は必ず汝よりも先に我が領土の住人となるであろう』

 汝が愛した者。ヴァーミリオン・サンズ。ああ、これも死の王の呪い、なのだろうか?

 だとしたら。もしかしたら。俺に残されている時間は、思っていたよりもずっと短いのかもしれない。

 寒い。空の冷たさだけでは説明が付けられないほど、身の(うち)が、体の芯が冷たくて戦慄する。

 このままじゃだめだ。愛しい人たちの顔が次々脳裏に浮かんで、消える。

 ──そんなのは、駄目だ。

 生きていて欲しい。愛しい人たちすべてに笑って生きていて欲しい。年老いて静かに思い出を振り返って、満足するまで生きていて欲しい。

 そのために、しなければならないこと。それも解っている。学びを得た今はそれが明確に見える。

 死の王を呼び出すという法。真っ先に学ばなければならないのはその法だ。

 それでも。今は叫んでいたかった。悼んでいたかった。忘れるためではなくて、覚えていられるように。いつでも思い出せるように。空に痛苦を刻みつけるように。

 レーキは叫び続けた。涙を振り払って、冷たい空を飛び続けた。

 

 

「お休みの所失礼します。お話があります。セクールス先生」

 一日の授業を終えて夕食時も過ぎ、教授用の個室で寛いでいたセクールスを訪ねたのは降り出した雨に打たれて濡れ(ねずみ)になったレーキだった。

「……もう気分とやらはいいのか? 私の授業を抜ける位だ、それなりの理由があったのだろうな? 鳥人(いち)

 セクールスは安楽椅子に腰掛けて、読書灯代わりに『光球』が(とも)る暖炉のそばに陣取っていた。その声は常と変わらず冷淡で、レーキはいっそ安心する。

 セクールスの傍らのサイドテーブルには読みさしの本が幾冊も積み上げられ、壁に設えられた本棚にも赤い絨毯の敷かれた床にも無数の本、教科書、研究書、そのほかありとあらゆる本状のモノ、書類状のモノたちが積み上げられ、並べられていた。

 レーキは一礼して、注意深くその個室に足を踏み入れる。足の踏み場がないとはこのことだ。

 この部屋は、広さに対して本が多すぎる! そんな感想は表に出さず、レーキはセクールスの前に立った。

「……はい。家族のように親しく思っていた人たちの訃報(ふほう)を受けて……動揺しました」

「……ふん。下らん理由だ。それで? 貴様はその下らん理由を謝罪するためだけにここに現れた訳ではあるまい?」

「はい。先生に是非教えていただきたい法術があります。俺はその法さえ習得できたら……この学院を去るつもりです」

「何故?」

「シアンからお聞きになったでしょう? ……俺、……私の過去のことを」

「ああ、鳥人()が何かわめき立てていたな。貴様盗賊だったのか?」

「……はい。私はかつて盗賊団で養われていました。いずれはその一員となるはずでした。……ですが、アカンサス・マーロン師が私を弟子にしてくださいました。それで私は……天法士になると言うことを夢見るようになりました」

「ふん」

 つまらぬことを聞いた、とでも言う代わりにセクールスは鼻で笑って足を組み替える。

「それで?」

「私は師の元で修行していました。でも高齢だった師が亡くなって……それで、俺……私は『呼び戻しの法』を実行しました」

「……その様子では、しくじったのだろう? そもそもあの法は寿命が尽きていない者を呼び戻すための法だ。年老いて(ただ)しく死なんする者にあの法は意味がない」

「はい。当時の私はそのことを知りませんでした。ただ師に生きていて欲しくて……自分の我が(まま)のために『呼び戻し』を使いました。そのせいで……私は呪いを受けました。死の王の呪いです」

「ほう? それはどんな?」

「『自分の愛した者が必ず自分より早く死の王の国に召される』。それが私が受けた呪いです」

 レーキの告白を受けて、セクールスは沈黙した。やがて引き結ばれていた薄い唇から、ゆっくりと息を吐き出す。セクールスはサイドテーブルの引き出しから、喫煙用のシンプルなパイプを取り出し、それに何かを詰めて極小の『火球』を投げ入れた。喫煙は彼の数少ない息抜きの一つのようだった。

「……そうか。それで? お前が教わりたいと言う法とやらは何だ?」

「死の王を呼び出すための法。もう一度死の王に会ってこの呪いを解いてもらうために必要な法の全てを。教えてください、セクールス先生!」

「……確かにその呪いを解くにはかけた本人(天王)(すが)るしかないだろうな……」

 特大の嘆息(たんそく)とともに紫煙を吐き出して、セクールスは天を仰ぐ。

「私のような者が天法院にいては、きっとこれからも色々な方に迷惑がかかります。だから、その法さえ教えていただければ、俺は……っ」

 レーキは堅く拳を握って、紅い隻眼でセクールスを見つめた。院長代理にはもう迷惑をかけられない。だから、この冷酷だが優秀な教師に頼み込むしかない。後はない。

 そんなレーキの覚悟を、セクールスは呆れ顔で見つめる。

「阿呆か。貴様は……ただでさえ『天王との謁見(えっけん)の法』は成功の確率の低い法だぞ? 『王珠(おうじゅ)』もない天法士(てんほうし)のなり損ないが成功させられる法ではない」

「……!」

「……いいか? そもそも『王珠』はただの天法士の許可証兼判定機ではない。持ち主となった法士を助け、天法の扱いをも(やす)くするほどの強力な法具(ほうぐ)なのだ。それ故持ち主本人のためにしか働かず、その者と運命を共にして果てる」

「……で、では、俺は……一体、どうしたらいいのですか……?!」

 絶望する。暗い迷宮に迷い込んで、何処に行って良いのか進むことも退くことも出来なくて。

 レーキは唇を噛んで(うつむ)いた。

「ふん。くだらん。簡単なことだ。……学べ。学んで、学んで、王珠を手に入れろ。行く手を(はば)む者がたとえ己の過去だとしても、切り捨てて進め。騒音など意に介すな」

 事もなげに。セクールスは言う。セクールスならきっとそうするだろう。何者に立ち向かわれても己を貫き、壁を砕き、やってみせるだろう。この苛烈で冷酷に見える教師ならば。全てを託せる予感が、する。

「……な、なら……俺、は……!」

「そうだ。意に介すなと『私が』言ったのだ。反論は許可しない」

 言いつのろうとするレーキをパイプの先で制して、セクールスは常と変わらず不機嫌そうに言い切った。

「……先、せ……っ」

「うるさい。泣き言を言うなら成功した後にしろ。……()()()。死の王の面前に(まか)り出る、か。無茶を言う」

 セクールスの薄い唇が、カチンと音を立てるほどの強さでパイプの吸い口を噛む。その表情は苦虫を噛み潰したようで、それが『天王との謁見の法』の難しさをそのまま現しているようだった。

 この本の虫、膨大な知識を誇る教授を持ってしても、その法は無茶だというのか。

「……無茶な要求ほど()()()……私はお前に少し興味が湧いて来た。良いだろう。お前に『天王との謁見の法』を教えてやる。だがお前がその法を成功させるためにはまず王珠を手に入れるほか──天法士になるほか手立ては無い」

「……はい」

「やれるか? 出来るというならば私はお前のために少しばかり時間を使ってやる」

「……出来ます。やって見せます!」

 引き結んでいた唇からゆっくりと息を吐き出して、きっぱりとレーキは宣言する。

 迷うことなんて無かった。恐れることなんて無かった。たとえどんなことが、己の行く末に待ち受けているとしても。

 行きたいと思った道は、行かなくてはならない道はただ一つなのだから。

「……そういえば、お前、名はなんと言った? 覚える気のないモノは忘れてしまう質でな」

 それが癖なのかセクールスは自分の顎に手をやって、『赤の教室・()』を開いてから初めて、真剣にレーキを見てくれた。

「俺は……レーキです。レーキ・ヴァーミリオンと言います。セクールス先生」

 そう告げたレーキの表情は胸に生まれた決意に後押しされて、いつになく晴れやかだった。



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第24話 世界の命運

 夜遅く寮の部屋に帰ってきたレーキに、アガートは何も聞かないでいてくれた。

 (たず)ねる代わりに、体を拭くための布とスープと柔らかなヴァローナのパンを差し出していつものように茫洋(ぼうよう)と笑う。

「……アニル姉さんがね、『こいつを君に食わしてやれ』ってさ。君、姉さんに好かれてるなあ」

「姉さんが? ……ありがとう、ございます……」

「お礼は姉さんに言うと良い。オレじゃ無くてねー」

 スープは腹に入ると体を芯から温めてくれるほどに熱くて、アガートが自分のために法術を使ってくれたことが(うかが)える。夜食を口にして、レーキは初めて自分が空腹だったことに気づいた。

 久しく忘れていた感覚だ。飢えを感じずに日々を過ごすことの出来る今の自分は、とてつもなく幸運なのだと、レーキは改めて思った。

「……俺、放課後はしばらくセクールス先生の所に通うことになりました」

 温かな食事で人心地がついたレーキは、ぽつりぽつりとこれまでの経緯をアガートに告げる。

 この人にはもう黙っていられない。話した後に待っているのが拒絶であろうとも、このまま何も告げずに居ることがひどく卑怯な気がした。だから、話した。

 今朝、教室で起こったこと、自分が盗賊団で養われていたこと、呪いのこと、セクールスに言われたこと。

 全てを黙って聞いてくれたアガートは、がりがりと髪をかき回して珍しく困ったような表情を浮かべた。

「……うーん。そいつは相当危険な呪いだぜ、レーキ。君の肩に世界の命運が乗っかるんだ」

「……え?」

 アガートが突然言いだした言葉にレーキは面食らってしまう。話が飛躍しすぎていて、レーキには何のことか解らない。

「……世界の、命運?」

「例えばさ、君がこれから生きて行ってさ、もし、もしもだぜ、有りとあらゆる人々──この世界に生きる人々を、天王を、竜王を──とにかく生きとし生けるもの全てを愛するようになったりしたら、どうなると思う?」

 そんなこと、考えてもみなかった。ただ愛しく思う人々を守りたい。それだけがレーキの望みだったと言うのに。世界中の人々を愛する。そんなこと、どんな博愛に溢れた天王(てんおう)にだって無理というものだ。

「……待ってください! そんなことあり得ないです!」

「そーかなあ。あり得ないなんてそれこそ『あり得ない』ぜ。そして、そうなったらこの世界に住む全ての人々は君と運命共同体って訳だ」

「そ、そんな……!」

「……でもね。そこにこそ『付け入る隙』って奴があると思うんだ。死の王だって君と一緒に全ての命を刈り取る訳にはいかないだろう? だからさ、死の王に会ったら言ってやると良い。『俺はこの世界の全てを愛している』ってさ」

「……思ってもないことは言えませんよ……」

「ははは。その為にもまず、死の王に会わなきゃねー」

 アガートの冗談めいた物言いに、レーキは力なく言葉を返した。アガートはうーんと大きく伸びをして笑いかける。不意にその表情が真剣味を帯びた。アガートはレーキに改めて向き直った。

「……変なこと聞くけどさ。……オレはさ、今この時、君の運命共同体かい?」

「……?!」

 ずきりと核心を突かれた気がした。掴み所が無い笑顔の裏で鋭く観察し、賢く洞察するのがレーキのルームメイトだった。そのことを改めて思い知らされる。

「……ごめん、なさい。きっと、そうです。あなたのことをずっと尊敬しているし、一緒に居ると師匠のそばに居たときのように安心します。それを『愛』と呼ぶのかどうかは解らない、けど……あなたには死んで欲しくない。ずっとしあわせで笑っていて欲しいって思います」

「……君は全く……難儀(なんぎ)な呪いを受けたもんだねぇ」

 しみじみとアガートは呟く。もう一度がりがりと長く伸び放題にした髪をかき回し、意を決するように(まぶた)を閉じる。

「……正直言うとね、オレは怖い。死ぬのとか初めてだし、一生に一度のことだろ? 緊張するよね」

 相変わらず冗談めかして告白するアガートの表情はいつになく真剣で。レーキは何も言えなくなってしまう。

 誰だって死ぬことが恐ろしい。ましてや他人に死期を握られるなんて、自分だったら堪え難いことだ。それなのに。アガートは微笑んだ。

「……でもね、嫌じゃ無いんだ。その呪いは言ってみれば君がオレに向けてくれた好意そのものだから。残念なのはその呪いが解けない限りオレは君を一人でとり残してしまうだろうってこと。君はさ、結構寂しがりだからさ、オレが死んだらきっと泣いちゃうんだろうなーって思うとね」

 ぱちんと片目をつぶって、アガートが笑う。それが恐怖を吹っ切る為の強がりだとしても、アガートは笑っている。

 もっと早くに、呪いのことを告げろとなじられても仕方が無いと思っていた。この部屋から出て行って欲しいと言われても、仕方が無いとも。それでもこの人は笑っている。笑って、レーキの行く末を案じてくれる。

「本当に、ごめんなさい……俺はこの天法院(てんほういん)に来るべきじゃ無かったかもしれない。そうすれば……少なくともあなたに迷惑をかけることは……」

 レーキに返せるものは、ただ謝罪の言葉だけで。生き抜くたびに、年を数えるたびに、失えない人が増えて行く。

 だったら僻地(へきち)の小屋に()もって静かに隠遁(いんとん)していた方が、これから出会うはずだった人々のためになるのかもしれない。そんな考えが心に芽生えて息が苦しくなる。

 ぎゅっと胸を押さえて俯いたレーキに向かって、アガートは優しく、幼子に諭すような声で語りかけた。

「なあ、レーキ。動き出した時間は戻らないんだよ。オレたちが出会ったことを白紙には出来ないし、ここに来なければ君は呪いを解く方法に近付くことも出来なかった。……そもそもね、人ってやつは一人では生きられない生き物なんだ。だから君はこれからも誰かに出会って、その人を愛して、一緒に歩いて行って良いとオレは思うぜ。それが『人生』ってもんさ。呪いがあろうと無かろうとね」

 アガートはいつでもレーキが欲しかった言葉をくれる。未来を指し示してくれる。他人を思いやって笑うことが出来る。年齢はレーキとさほど変わらないはずなのに、ずっと強靱で柔らかな心を持っている。

「少なくともオレは君に出会えて良かったと思っているし、君もそうだと良いと思うほどには君のこと気に入ってるぜ」

 もいちどぱちんと片目をつぶって、アガートはいつも通り茫洋とした微笑みを浮かべた。

 泣くのは呪いが解けたとき、そう決めた。だからレーキは涙を流す代わりに堅く唇を噛んだ。

「……ありがとう……アガート……!」

 万感の思いを込めてただ一言。いつでも何度でも言いたかった一言を。レーキは泣き顔の代わりに笑顔で告げた。

 

 

 夜が明けた。

 朝の鐘が鳴って目覚めれば、レーキは今日も『赤の教室・()』へと向かう。そこに何が待ち受けていようとも、行かねばならない。天法士(てんほうし)となるために。

 レーキがいつものように教室に入った途端、話し込んでいた生徒たちが静かになった。

「おはよう」

 一言だけ(つぶや)いていつもの席に向かう。生徒たちは静かにその行動を見つめている。

 それは予想通りの反応だったから。レーキの決意を揺るがすようなことでは無い。

 法術の教科書を机においた。師匠がくれたあちこちがすり切れた大切な本。その手触りがレーキの心を鼓舞してくれている。何を言われようとどんな仕打ちに遭おうと、この教室を離れる訳には行かない。授業を聞き逃す訳には行かないから。

 ──師匠、俺に勇気をください。全てをやり遂げるだけの力をください。どうか、どうか!

「……おはよう、レーキ。もう具合は良いの?」

 はじめに沈黙を破ったのは、意外なことにエカルラートだった。彼女はおずおずと、言葉を発した。

「……エカル、ラート……?」

 その声にレーキは驚いて顔を上げた。エカルラートは心底からこちらを案じているようで、その表情は心配を湛えて曇っている。

「おはよう。レーキ」

 エカルラートに続いてグーミエが挨拶を返してくれた。彼はいつもより少し硬い表情(かお)をしてレーキを見ている。

「……!」

 グーミエはレーキのそばまで歩み寄って、硬い表情のまま、すうと息を吸い込んだ。まるで覚悟を決める前のように。

「……ねえ、レーキ。みんなが聞きたいと思うから僕が代表して聞くよ。君が盗賊だったってシアン君の話は……本当なのかい?」

 レーキはすぐに言葉を返せなかった。それは本当のことで、どうすることも出来ない自分自身の過去だ。

「……ああ。本当だ。俺は盗賊団で養われていた」

 レーキは努めて平静に事実を述べた。そうすることしか出来なかった。一瞬ざわりと教室が色めき立つ。グーミエは小さくため息をついて頷いた。

「そうか……では、これは僕が聞きたいから聞くよ。今の君は盗賊なのかい?」

「いいや、違う。俺は天法院の学生で……王珠(おうじゅ)を授かって天法士(てんほうし)になるまでは学生だ」

 グーミエが真剣な顔で聞くから。レーキも背筋を伸ばして答えた。それがレーキに出来る精一杯だった。

 そうだ。違う。俺はもう盗賊じゃ無い。帰りたいと願って帰れる場所はもうあの砦じゃ無い。

 少しの沈黙のあと。グーミエは大きく頷いて顔を上げる。その表情は先ほどとは打って変わって晴れやかで、憂いをどこかに置いてきたようだった。

「……そうか。なら良いんだ。……僕もそうだから。君と同じ、王珠を授かるまでは学生だよ」

「……!」

 今度はレーキが驚愕(きょうがく)する番だった。手酷く拒絶されたとしても仕方が無いと、覚悟を決めていたのに。グーミエは笑っていた。優等生らしい、はにかんだ笑みを浮かべてレーキを見ている。

「あ、の、わたしも! ……わたしも同じよ、レーキ。王珠を授かるまでは学生なの」

 エカルラートが、授業中にそうするように手を上げて発言する。その顔があんまり一生懸命で、レーキの胸に言葉が詰まる。そう言えばエカルラートの質問に答えても居なかった。

「……ありがとう、エカルラート。……具合はもうすっかり良いよ。昨日は大声出して、ごめん。……みんなも、ごめん」

 内心のことは解らない。レーキが盗賊であったことに(いきどお)っている者もいるだろう。ただ彼の謝罪を手酷く()ねつける者は、その場に誰一人居なかった。

「……おやおや。なぜ貴様のような薄汚い盗賊がこの神聖な教室に居るんだ?」

 たった一人の例外を除いて。

「シアン・カーマイン……」

 レーキの呟きを聞き逃さず、シアンは眉をつり上げた。

「私の名前を気安く呼ぶなよ。盗賊」

 昨日の意趣返しとでも言うのか。始業の鐘間近に教室に入ってきたシアンは忌ま忌ましげに吐き捨てた。

「昨日教室を逃げ出してそのまま学院を去ったと思っていたのに……なぜ貴様はここに居るんだ?!」

 レーキを指さして、シアンは詰問するように、あるいは弾劾するように叫ぶ。

「……天法士になるために。この教室で法術を学ぶために。俺はここに居る」

 決意とともに静かに告げたレーキに向かって、シアンは怒りを隠しもせずに喚き立てた。

「まだそんなことを……!」

「……なあ、教えてくれ。俺がお前に何をした?」

 レーキは席から立ち上がった。純粋な興味が湧いてくる。何故シアンは俺を目の敵にするのだろう? 何故俺を(いと)うのだろう? シアンと対峙(たいじ)したレーキは凪いだ心のまま問うた。何故?と。

「俺が盗賊だったことでお前が何か不利益を(こうむ)ったのか? 家族や知り合いが盗賊の被害に()っていたというなら……俺には謝罪することしか出来ない。……すまない。でもその盗賊はおそらく俺じゃない」

 的外れなレーキの謝罪に、シアンはますます怒りを募らせているようで。褐色の頬に血が上っているのが解った。

「違う! そんなことはどうでも良い! ……貴様のような薄汚い盗賊が……薄汚い黒羽がこの教室で大きな顔をしていること自体が不愉快だ!」

 ああ、そうか。またもやこの羽、この黒い羽のせいか。シアンの本音、聞き慣れた罵倒(ばとう)にレーキはいっそ安堵する。

 ふっと皮肉く微笑みを浮かべて、静かに、聞き分けのない子供を諭すようにレーキは(つぶや)いた。

「そうか……解った。納得したよ。……俺は好んで黒羽に生まれた訳じゃない。お前のような羽色に生まれていればと思ったことも何度もあるよ。でもこれは俺には全くどうしようも無いことなんだ。だから謝罪もしないしお前の為にこの教室を出て行くこともしない」

 きっぱりと言い放ったレーキの隻眼(せきがん)は密やかな熾火(おきび)のように燃えている。誰がお前なんかに負けてやるものか。この羽に負けてやるものか。それはレーキが得た一つの答え。この羽のせいで何かを諦めるなんて、もう真っ平だ!

「貴様……!!」

 シアンが拳を固める。すぐさま利き腕の右でまっすぐに殴りかかってくる。

 わかりやすい軌道だ。武術の達人で無いレーキにも、容易く避けることが出来た。殴り返してやろうか。逡巡(しゅんじゅん)する間に自然と体が動く。横をすり抜けたシアンの拳を押さえて、そのまま腕を背中にねじり上げる。昔習った素手格闘術の応用だ。

「……殴り合いがやりたいなら教室の外でやれ」

 いつも通り、始業の鐘ぴったりに現れたセクールスは、呆れ顔で教室の戸口を(あご)でしゃくった。

「セクールス先生。……おはようございます」

 レーキがセクールスを見て腕を放すと、シアンは大げさにねじられた辺りをさすりながら教授に訴えた。

「先生! 私はこの薄汚い盗賊に暴力を振るわれました!」

「……私が見たのは貴様がレーキに殴りかかる所だったが。それより前に殴られたのか? 鳥人()

「……!」

 生徒たちを決して名前で呼ばないこの教師が、セクールスが、生徒を呼んだ。「レーキ」と。

 ざわりと教室が色めき立つ。シアンですらあっけにとられてセクールスとレーキを交互に見ている。

「……ふん。さっさと席に着け。ガキども。授業の時間は短いぞ」

 教師の一言に、レーキは軽く手を払って何事も無かったように席に向かった。その通りだ。授業の時間は有限で無駄に使うことなど出来ない。

「ああ、レーキ、昨夜の話だが。早速今日の放課後から始めるぞ。帳面を付けても構わん。準備を整えて私の部屋に来るように」

「……はい。よろしくお願いします」

 深々とレーキは頭を下げた。昨夜の内にこの教師と生徒の間に、なにが起こったのだろう。どんな約束が取り交わされたというのか。生徒たちは興味を隠せずにざわめきだした。

「……うるさい。黙れガキども。これ以上騒ぐなら教室を出て行って構わんぞ」

 セクールスの叱責(しっせき)に生徒たちは仕方なく押し黙る。それでも好奇心を隠せずに生徒たちはレーキを注視していた。

 床にへたり込んだシアンだけが、ぱくぱくと陸に打ち上げられた魚のように呼吸しながら呆然としている。

「……ふん。それでは本日の授業を始める」

 セクールスの宣言とともに。その日の授業が始まった。

 



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第25話 セクールスの課題Ⅱ

「なあ、レーキ。お前が盗賊団に養われて三百人以上の人を殺した伝説の暗殺者で『赤の教室』で乱闘騒ぎになってクラスメイトをナイフでボコボコにしたけど金の力で教師を抱き込んで何事もなかったことになった、って噂は本当?」

「……やめてくれ。九割方嘘だ」

 久々に食堂で一緒になったクランは、レーキを見るなり開口一番こんな質問をぶつけてきた。

 先日教室で起こった出来事に、どんな尾鰭(おひれ)がついているのか。あまりにも(ひど)い噂話に辟易(へきえき)として溜め息と共に訂正しようとしたレーキに、クランは「やっぱりなー!」と明るく応じた。

 さすがのクランでも、そんな馬鹿な話があるはずが無いと思ったようだった。

「嘘だと思ったんだよなーさすがに。クソ真面目なお前がさー……あ、でも九割……?」

「……盗賊団に養われていた、と言う所だけは本当だ」

「な、な、何で……?!」

 驚いて取り落としかけた食事のトレーをしっかりと握り直して、クランが(たず)ねる。

「ガキの頃、死にかけていた所を拾って貰ったからだ」

「え、え?! どうして?!」

 再度仰天してクランが取り落としかけたトレーを無事(つか)まえて机に置いてやると、レーキは子供の頃の出来事を()()まんでクランに聞かせた。

 孤児だったこと、住んでいた村が焼かれたこと、それを自分の成したことだとされたこと、(つぶて)をもって追われたこと。

 流石に自分の所為で大工が死んだとは言い出せなかったが、クランは納得してくれた。

「はぁーっそう言うことか……なんだそれ……壮絶すぎる……」

 当然のようにレーキの目の前の席に腰掛けて、クランはがっくりとうなだれた。確かに両親が共に健在で、今でも実家からこの天法院に通ってきているクランからすれば、レーキの生い立ちは十分過ぎるほど衝撃的なものだろう。

「お前、自分のことはあんまり話さないからさ……まさかそんな壮絶な子供時代とか……思っても見なかった……」

 心なしかクランの(ひとみ)が潤んでいる。やめてくれ、こちらを哀れんで泣いたりするのは。喉まで出かかった言葉を飲み込んで、レーキは食事を口に運んだ。

 今日はメニューはグラナート風・羊のスパイス焼きとグラナート風とは名ばかりの柔らかなヴァローナのパン。

 レーキが育った村でも盗賊団の砦でも、スパイスの利いた料理はよく食べられていた。それが懐かしく思えるという訳では無いけれど。レーキは時々食堂でスパイスの利いた料理を口にしていた。

「話した所で過去が変わる訳では無いからな……それに盗賊団に属していた事は自分から話して回るようなことじゃないだろう?」

「確かにいきなりそんな事話されても……どうして良いかわかんないしな。正直ちょっと引くし……」

 レーキの目の前に陣取っていたクランも、今日のおすすめ定食「ヴァローナの蕪煮(かぶに)」を旨そうに腹に収め始めた。

「……引くような話をして、すまない」

 クランの言葉にレーキは思わず食事する手を止めて謝罪する。

「いや! お前にはどーしよーもない事情ってヤツがあったんだよな? それならおれがアレコレとやかく言えるコトじゃないし……」

 クランにも、友人の過去に不用意に踏み込みすぎたと反省するだけの分別はあるのだろう。

 レーキはうなだれてしまったクランに何も言うことが出来ずに眉根を寄せた。

「クラン……」

「……それにさ、おれ、お前が一所懸命(いっしょうけんめい)勉強してる特待生だってコト知ってるしさ。むしろそれしか知らないし……さびしいけど最近一緒に遊びに行けない位真面目にやってるのも知ってるしさ……さびしいけど」

 さびしいと二度も言った……共に行動できないことがそんなにさびしいのか。そんな風に言われればレーキとて石木ではない。気持ちは動く。

「……本当にすまない。俺もお前やオウロやグラーヴォと一緒に遊びに出かけられたらどんなに楽しいかと思う。でも今はやらなきゃならないことがある」

「……うん。わかってる。それはホントはおれもなんだけどさ……正直座学が、マジで、やばい……!」

 いつでも暢気(のんき)に楽しそうにしているクランが、珍しく脂汗を浮かべて窮状(きゅうじょう)(うった)えた。

「そんなに危ない、のか……?」

「……かなり、やばい」

 一学年生の時分は、クランの座学の成績は中の下と言ったところだった。今はそれが悪化しているらしい。可哀想だが、レーキにしてやれることは皆無に等しくて。沈黙をしか返してやれない。

「……」

「……あ、そうだ! レーキ、お前『赤の教室』だったよな? な?」

「ああ。専攻は『赤』の系統だ、が……?」

「……頼む! おれに『赤』法術の基礎を教えてくれ!」

 クランが勢いよく頭を下げる。レーキは遠い目をして「そうか……基礎からか……」と(つぶや)いた。

 確かに時間は惜しい。それでもこの気の置けない友人の窮地を、あっさりと見過ごす事も出来なくて。

「……解った。時間を作る。……その代わりお前に頼みたいことがある」

 レーキは一度(えり)を正して、クランの眼を覗き込んだ。釣られて緊張するクランに向かって声を潜め、真剣な表情で交換条件を告げる。

「……何か金になる仕事を紹介してくれないか?」

 クランはその言葉を反芻(はんすう)する間に(まばた)いて、それから辺りの生徒たちが全員振り返るほどの音量で、

「……なん、お前が!? お前が金の話を? ……えぇーっっ!?!?」

 そう叫んだ。

 

 

 時を二日前に(さかのぼ)る。

 レーキが教授に上手く取り入ったとみたシアンは、授業中はやけに大人しかった。

 終業の鐘が鳴ってセクールスが教室を去るや否や、シアンは帰り支度を始めていたレーキに詰め寄ってきた。

「あいつをどうやって丸め込んだ! 卑怯者!」

 馬鹿馬鹿しい。相手にする時間も惜しい。レーキは少しだけセクールスを真似て、冷ややかに返した。

「……くだらない。ただ教えを請うただけだ。それが先生の興味を引いた。それだけだ」

 納得がいかない様子のシアンはレーキを恨みがましく()めつける。その眼を隻眼(せきがん)で真っ直ぐ(にら)み返してレーキは努めて静かに告げる。

「そこをどいてくれ。放課後は忙しいんだ」

「……貴様がどんな手を使ってあいつを抱き込んだのか、絶対に暴いてやるぞ!」

 そんな台詞をレーキに突きつけて、シアンは(きびす)を返して教室を出て行った。

 

 その日の放課後。レーキはセクールスの教授用個室を訪れた。

 彼が昨日ここを訪れてから、本の類いで埋め尽くされていた個室に一つ変化があった。

 本来なら来客用に使われるはずの椅子に(うずたか)く積み上げられていた本が撤去されている。それは、レーキのために用意された椅子だった。

「来たか。……ではそこに座れ」

 指し示された椅子にレーキが腰掛けると、セクールスはパイプに煙草をらしきモノを詰めて手早く『火球』を放り込む。

「……で、朝の騒ぎは何だったのだ?」

「シアン・カーマインは、俺のこの黒い羽が目障りだそうです。それで殴りかかって来ました」

 苦笑交じりに答えたレーキに、セクールスは豪快に鼻から紫煙を吐きながら言い切った。

「ふん。くだらん。……実にくだらんな。グラナートの鳥人どもの間で黒が忌色(きしょく)であることは解る。……が、ここはヴァローナだ。黒は学問の天王の貴色(きしょく)だぞ。所が変われば常識も変わる。そんなことも理解できんのか? 鳥人()は」

「……鳥人は特に色への信仰心が厚いのです。ですがそれは信仰に(かたく)なであるとも言えます。俺は生まれついてこんな羽色でしたから……もしかしたら他の鳥人より信仰心が足りないのかもしれません。ヴァローナの黒にもすぐに慣れました」

「ふん。そんな下らん信仰心などさっさと捨ててしまえ。真の信仰は己の内面を照らす光だ。他者を踏みつけにする道具では無い」

 それがセクールスの本心なのだろう。レーキは初めてこの教授の事を好ましい人物であると認識した。

「……話がそれたな。さて、レーキ・ヴァーミリオン。お前に最初に言っておく」

「はい」

 居住まいを正したレーキに向かって、セクールスはきっぱりと命令する。

「まず金を作れ」

「……え……!?」

 金。今までのレーキと最も縁の薄い単語の一つだ。それを不意に突きつけられて、レーキは狼狽(ろうばい)した。金など無い。逆さにされてもここで暮らすために最低限必要な分しかない。

「『天王との謁見(えっけん)の法』には祭壇が必要だ。学生の内であれば学院の備品を借り出すことも出来るだろう。だがお前が実際に『謁見の法』を実行できるのは王珠(おうじゅ)を得てからの事だ。機会は正式に学院を去るまでの(わず)かな時間だろう。一度で成功しなかった時のため、念のために自前の祭壇を手に入れられるだけの金を用意しろ」

「……あ、あ、え、と、それはどの程度の額、なんですか?」

「新造の祭壇に最低百万シア(通貨単位)。中古でも六十万シアはかかるな」

「百、万……!」

 優秀な職人の年収を軽く超える金額にレーキは絶句した。そんな大金、見た事も無い!

 マーロン師匠は、優秀な天法士で素晴らしい師匠であったが、清貧を絵に描いた──と言うより金というもの自体に全く執着の無い人物でもあった。

 その師匠が唯一贅沢を許し、入手に糸目を付けなかったのが『本』だった。師匠は必要だと思えば小麦を買う為の金しかなくても、『本』を買う金に()ててしまうと言う困ったところがあった。

 レーキも初めは師匠の家に大量の本が置いてある事に驚いたものだ。

 

 そもそも『本』と言うモノはそこそこ高価な物である。

 ヴァローナでこそ庶民の間でも粗悪な紙に刷られた娯楽作品の本などが流通していた。だが、紙自体を輸入に頼っているグラナートや、紙の原料である木材を輸出しているにも関わらず質の良い紙が手に入りにくいアスールでは文字が読める者自体が珍しい。

 師匠が必要としていた『本』は多くが専門書であったから印刷され出版されることは希で、やはり職人や手跡の美しい者、その『本』が欲しいと熱望する本人が手作業で書き写す必要があった。

 そんなモノを師匠は大量と言えるほど自宅に遺していった。レーキは後になって気がついた。アスールの師匠の家にあった『本』は師匠の財産でもあったのだ。

 

「……それから主祭(しゅさい)であるお前を補助する助祭(じょさい)が最低二人は欲しい。助祭を務められるのは天法士(てんほうし)、それもなるべく優秀な者が良いだろう。……そいつらに払うための報酬も必要だ」

 その相場は(いく)らなのか。もう聞きたくも無い。それでも尋ねない訳には行かなくて、レーキは恐る恐る金額を問うた。

「……そうだな……一人頭……五十万もあれば何とか()(くみ)の天法士が雇えるだろう。問題は無い」

 事もなげにセクールスが言う。

 噂で聞いた。この個室にある『本』は全てがセクールスの私物だと。これだけ大量の本を集める事の出来る財力があるのだ、セクールスにとっては祭壇一つに助祭を二人雇うだけの額などはした金であるのかもしれない。

「……全部で、ひゃ、ひゃくろくじゅうまん! ……問題は大有りです! そんな大金、どうやって稼げば良いんですか?!」

 合計を数えたレーキの声が思わず裏返る。それだけあれば一年以上は軽く遊んで暮らせる。くらくらと眩暈(めまい)がした。

「……うむ。稼ぐ手段はお前に任せる。残念だか私は金策など(うと)くてな……なに。時間はまだある。卒業までにどうにかしてそれだけ稼げば良い」

 そう言って、いつになく爽やかに笑みを浮かべたセクールスのなんと無責任な事か。ついて行く師を誤った、かも。ひっそりとそんな予感が、する……

 

 

「……はあ~っそう言うこと、かー」

 呪いの事を詳しくクランに説明する気にはなれなかったレーキは、試したい法術の儀式の為に大金が必要なのだとだけ告げた。クランは気の良い奴ではあるが何事もすく顔に出てしまうタイプで、包み隠すと言うことを知らない少年だ。

 それに、クランにはいつもと同じ態度で接して欲しい、とも思う。呪いに怯えて暮らしたり、レーキを避けるようになっては欲しくは無い。それがレーキの小さな()(まま)だった。

「儀式が必要ってことはかなり難しい法なんだろうな……」

「先生は祭壇と助祭が必要だと言っていた。そのために金がいると」

「なるほどねー。レーキが金の話するなんてこりゃ天から槍が降るかと思ったけど……そー言うことなら納得。んー。なんか良い仕事見繕(みつくろ)ってやるよ! 任せとけ!」

「ありがとう。よろしく頼む」

 手のひらでどーんと胸を叩いたクランが、ちらりちらりと意味ありげにレーキを見る。

「……その代わり、おれのほうのお願いも……な? な? な?」

 胸の前で両手を組んだクランの鬱陶しい懇願(こんがん)を、片手でどうどうと制しながらレーキは観念したように頷いた。

「……ああ、解った。俺も基礎の復習になるし……お前の成績を底上げしよう」

「やった! 持つべき者は特待生の友達! いやっほーい!!」

 諸手を挙げたクランの喜びようにレーキも思わず口元を(ほころ)ばせた。

 

 

 

 雨の多かった夏が過ぎ、少しばかり収穫が少ない実りの季節も終わって、『学究祭』の三日間を駆け抜ける。

『学究祭』でレーキは「『火球』の効率的維持時間についての小論文」を発表して、そこそこの評価を受けた。

 レーキは良く学び、そして良く働いた。勿論その合間にクランの座学を見てやることも忘れなかった。

 クランが最初に紹介してくれた仕事は、クランの実家である宿屋の厨房での手伝い仕事。

 夕食時と休日の、忙しい間だけの短い仕事だった。従業員用のまかないから始めて、料理の腕がそこそこあると解ると宿泊客のための食事も担当するようになった。「宿の飯の味が上がった」と一部で評判にもなった。

 よく働く息子の友達と言うことでクランの両親は賃金に色を付けてくれたが、しかしそれだけではとても目標金額に到達することは難しい。

 レーキはアガートにも相談してみた。アガートは苦学生で小金の稼ぎ方を熟知していた。その方法の一つをこっそり教えてもらう。

 それは『治癒水(ちゆすい)』を詰めた小壜(こびん)剣統院(けんとういん)の生徒たちに売りさばくこと。

『治癒水』は学院の中で作るので、「学院の外で学生が許可無く天法を使ってはならない」という地上の法を犯す事は無い。ただ見つかればキツくお叱りを受けることは間違いない。

 生傷の絶えない剣統院の生徒たちは、手軽に傷を癒やして体力を回復させてくれる『治癒水』を常に欲していた。

 正規の天法士が作ったモノは確かによく効くが、その分値段もそれなりにする。騎士や王族出身の生徒たちはそのお高い『治癒水』を容易く手に入れる事が出来たが、平民や貴族階級でも裕福では無い家出身の学生たちはそうも行かない。

 そこに商機がある。天法院の学生が作る『治癒水』を正規の値段よりも安く提供するのだ。

勿論(もちろん)、おおっぴらに売ってはいけないし、数も加減しなければならないよ。建前としては友達のために『治癒水』を作って小壜代を貰うとかなんとか言っておけば大丈夫。このくらいならお目こぼししてくれるだろうってギリギリを攻めるのさーふふふっ」

 アガートはそう言って、いつになく黒い笑みを唇に乗せた。眼鏡が曇って中の眸が窺い知れないのはなぜだろう。

 さいわいレーキにはグラーヴォというコネがある。販路には困らない筈だ。

 そして治癒水を作るために必要なのは、出来上がったモノを入れるための小壜と知識と己の天分だけ。元手もさほどかからない

「……そ、そんなこと俺に教えて良いんですか?」

「いいのいいの。オレはそろそろ目を付けられてるからねー。ここらが潮時だよ……」

 ふふふ……アガートの微笑みが少しだけ怖い。この先輩はその方法で、一体幾らくらい資金を作ったのだろう。

 それを訊いてはいけないような気がして、レーキは思わず目をそらした。

 



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第26話 卒業式の前夜

 働いている時間以外は、睡眠時間を削ってでも学習に()てた。

 片っ端から知識を詰め込めるだけ詰め込んで、噛み砕き咀嚼(そしゃく)する。出来ることは全てやっておきたい。だから、セクールスが提示する課題を次々にこなしていった。

 

 そのうちに、自分の得手不得手(えてふえて)が解ってきた。

 レーキの系統は『赤』の『火』属性。

『赤』を(こく)する『黒』の『水』属性とは相性が悪いはずだったが、不思議と『黒』の系統の術を使うのに支障はなかった。その代わりとでも言うのだろうか、レーキは『黄』の系統『土』の属性の術をたまにしくじった。

『青』の二系統『植物』『雷』属性、『白』の『金』属性については大きな問題は無い。

 

「その黒い羽のお陰かもしれんな」

 放課後の課外授業中、セクールスが言う。

 体に表れた色の特徴は各色天法の発現を助けてくれる例がある、と。

「体色や好む色を見ればその天法士がどんな系統の法を得意とするかおおよその見当がつく。例外はあるがな」

 確かにセクールスの得意とする天法系統は『赤』であるが、彼の髪も(ひとみ)(はだ)も、服で隠れていない部分に赤い色は一切無かった。

 ──まさかこの黒い羽が? 俺を助けてくれている、と?

 レーキは半信半疑で背に負った羽を見やる。そんな馬鹿な。

「……しかしこれは……死の王はお前が不得意な『黄』の系統、土の王の眷属だ。『天王との謁見(えっけん)』に支障が無ければ良いが……」

 案ずる教師にレーキはきっぱりと自信に満ちた声音で言う。

「それなら……これからは『黄』の天法を重点的に学びます。何度失敗しても最終的に成功すれば問題はありませんから」

「……ふん。お前も言うようになってきたな。その通りだ。最終的に成功すれば問題など無い」

 セクールスはレーキの変化を面白がっているようで、その酷薄な唇が笑いを形作っている。

「……所で、セクールス先生。もうじき『混沌の月』の休暇ですよね。その間の課題をいただきたいのですが」

「ふむ。では休暇中は金を作れ。課題は特にない」

「……それは……何故ですか?」

 素気なく「課題はない」と言われて、レーキは不意に突き放されたような、そんな不安を覚える。まだまだ、覚えたい事も覚えなくてはならない事も沢山あるだろうというのに。

「貯金は目標額には及ばないのだろう?」

「……はい。まだまだとても足りる額では無いです……」

 皮肉く笑ったセクールスの前で、レーキは項垂(うなだ)れる。懸命に働いては居るものの、貯金はまだ目標額の半分、八十万シアも貯まっていない。

「それに……お前もそろそろ自分には何が足りなくて、何が足りているのか見極めが出来てきた頃だろう? 足りないと思うなら自分で考えて学べ」

「……あ……! はい!」

 突き放された訳では無かった。セクールスはレーキの実力をそれなりに評価してくれているのだ。

 それならば。期待に応えねばなるまい。改めて腹の底から喜びとやる気が湧いてくる。

 

 

 レーキは、座学と実習の期末試験を難なく乗り越えた。明日から冬の長期休暇が始まる。

 落第寸前だったクランも、レーキの手助けあってどうにか期末試験を通過していた。

 天法院の期末試験は、進級の可否を兼ねている。本日をもって、天法院組は無事に三学年生への進級が決まったのだった。

 休暇中、レーキはクランの実家とオウロの実家の二つを掛け持ちして働く事になっていた。明日からは忙しくなる。

 その前に、二人の祝いを兼ねて、久々にレーキとクランたち幼馴染み三人組が『(うみ)燕亭(つばめてい)』へと集合した。

「まずは、カンパーイ!」

 クランの音頭で四人は思い思いにジョッキを掲げる。今日(ジョッキ)を満たしているのは酒以外の飲み物だった。

 レーキとグラーヴォは明日も朝が早い。二人に合わせてクランとオウロも酒を頼まなかった。

「いやーこれでクランもレーキもとうとう三学年生っスね~! おめでとうっス!」

「ありがとう。オウロ」

「へへへっこれもおれの実力のたまものだよねー」

「……レーキに感謝するっスよ……クラン……」

「な、何だよ! そのかわいそーなモノをみるよーな目はよぉー!」

「レーキ、『治癒水(ちゆすい)』のこと……」

 グラーヴォの言葉を皆まで言わさず、レーキはすかさず首を否定の方向に振った。

「グラーヴォ、その話は後でしよう」

「そうっス。今は冷める前に料理を食うのが先っス~」

「ん? 『治癒水』がどうかした?」

 結局、今になってもクランには『治癒水』の格安販売の話はしていない。

 一枚噛ませればきっと役に立ってはくれるだろうが、如何せんクランは口が軽すぎる。仲間はずれにしてしまう事に、心は痛むが仕方ない。その代わりにレーキが知恵を借りたのはオウロだった。

 オウロは万事良く心得ていて、小壜の仕入れや販売数の決定、在庫の管理、貯まった金の管理まで幅広く手伝ってくれていた。

『これも商究院(しょうきゅういん)の勉強の一環みたいなもんっスよ~……まあ、もちろん分け前はもらうっスよ~』

 とはオウロの弁だ。

『治癒水』の販売は、予想以上の利益を上げている。現在、レーキの貯金の半分以上は『治癒水』の販売で得たモノだった。

「休みの間にレーキにちょっと『治癒水』を作って貰う約束なんっスよ~。なあ、グラーヴォ?」

 嘘に、ほんのちょっとの真実を混ぜてオウロが誤魔化してくれた。グラーヴォもうんうんと大きく頷いている。

「……あ、ああ。ちょっと作って貰って練習終わりに使うんだ」

「まあ、レーキなら『治癒水』くらいどってこと無いよな?」

「ああ。問題ない」

 レーキは飲み物を口元に運んで、クランから視線をそらす。レーキも腹芸が出来ない訳では無いが、クランを相手にするとどうにも気が引ける。

「そんなことより今日は二人の進級祝いっス! オレっちとグラーヴォの(おご)りっス! 腹一杯になるまで食って良いっスよ~」

「マジか!? 良いのか~? そんなこと言っちゃってぇー!」

「いいっスよ~食え食えっス~」

『治癒水』の商売は、オウロの懐もいささかならず豊かにしていた。そんなオウロもクランに隠し事をすることには後ろめたさを感じているらしい。『奢るのは利益還元ってヤツっスよ!』とこちらもオウロの弁。

「んー! じゃあ、おれはこれからー!」

 テーブルに並べられていた香りの良い料理の中からクランが選んだのは、様々な魚介を新鮮な果実油で煮た海の燕亭の新メニュー、「魚介のチャラス風油煮」。

 港街でもあるグラナートの商都・チャラス名物を海の燕亭風にアレンジした一品だった。

 新鮮な果実油はしつこさもなく爽やかに、香草が魚介の臭みを消して旨味を引き立ててくれる。ぴりりと辛みのある香辛料が少量振りかけられていて、それが食べる度に食欲を誘う。

「こりゃうまーい!!」

「うーん。確かに美味いっス!!」

「……ああ、これは美味いな……! このスパイスは何だ? ……ん。フィルフィルの実か?」

「お、解るのか? オウロのツレの坊主」

 新しい料理を運んで来た海の燕亭の亭主がレーキの(つぶや)きを拾って話に割り込んで来た。

「その赤いのはグラナート産フィルフィルの実を砕いたものだ。輸入品で値は張るが、どうしてもソイツがその料理に使いたくてなあ」

「はい。解ります。この辛さはグラナート産のフィルフィルですね。俺、グラナートの出なんです。チャラスには行ったこと有りませんけど……この料理を食べると何だか懐かしくて……とても美味しいです」

「おお! 本場のヤツにそんなこと言って貰えるとは……料理人冥利に尽きるじゃねぇか!」

 亭主は感激したのか、嬉しそうに笑ってばしばしとレーキの背中を叩く。

 レーキと亭主が料理とスパイスの話で意気投合する横で、クランとグラーヴォは「美味い美味い」と料理を平らげている。

「む。レーキ! ほらほら! 油断してると全部二人に食べられちゃうっスよ~!」

「……あ、ま、待ってくれ! 俺もまだ食いたい!」

「ほふはほ、ヘーキ、はほひひはいほへんふふっちゃふほ~」(そうだぞ、レーキ、早くしないと全部食っちゃうぞー)

「んぐ。……口に食い物入れたまましゃべるなよ……なに言ってるか解らん」

 良家の出らしく、テーブルマナーはきちんととしているグラーヴォが珍しくクランをたしなめる。

 そんな凸凹四人組の様子を微笑ましく眺めていた亭主は、看板娘の妻に引っ張られて厨房に戻っていった。

 

 

 働いて働いて、その合間にレーキは『黄』天法を自習した。

『黄』の天法は『土』の属性であるが、死霊(しりょう)を見、その霊を鎮めるための法術でもある。

 

 死を迎えながらその自覚が無く、死の王の国に迎え入れられなかった地上を彷徨(さまよ)う魂を『死霊』と呼ぶ。

 大概の死霊は家具を軋ませて音を出す程度の大した力しかないものの、死霊の入り込んだ生き物の遺骸(いがい)が人を襲うなどという例がある。

 そんな時、死霊を土に返すのが『黄』の天法の一つの役割だった。

 

 あっと言う間もなく『黒の月』が終わり、レーキの天法院二学年生の年も終わった。

 いよいよ『混沌の月』が来て、それが過ぎれば数日もしないうちに三学年生は卒業式を迎えて正式に天法士となる。

 レーキとアガートが、同じ寮の部屋で過ごせるのも後わずか。アガートはその時がくればこの部屋を巣立っていく。

 レーキはそれがとても寂しい。

 アガートは卒業試験で、座学の学年一位を取った。優秀な特待生のまま、優れた天法士となるだろう。

 レーキも特待生に相応しいだけの成績を収めていたが、未だに実感は湧かない。

 俺はアガートとの隣に並べるだけの研鑽(けんさん)を積めただろうか?

 胸を張って彼の後輩だと言えるだろうか?

 アガートの卒業後の進路はまだ聞けていない。それを聞いてしまったら、いよいよ別れが近づいてくる気がして。アガートから話してくれるまでは何も聞かないで置こうと決めた。

 

「本当に三年間は『あっという間』、だったなー」

 感慨もひとしおにアガートが呟く。卒業までは本当に様々な出来事があったのだと思う。レーキとの同室もその一つだろう。

 明日は卒業式で。とうとう三学年生たちが王珠(おうじゅ)を授かる式の日だ。

「……本当に、卒業、なんですね……」

「うん。明日王珠を貰って、オレは天法士になるよー……と言っても何個王珠を貰えるかまだ解んないんだけどさー」

「アガートみたいに優秀な人でも王珠の数は解らない物なんですか?」

「うん。そればっかりは天分(てんぶん)の量で決まるからね。努力すれば多少は増えるんだけどさー。天分。それでも限界はあるよねー……ってか、優秀は褒めすぎ? でも悪い気はしないねーもっと褒めてー」

 照れくさそうに冗談を言って、ぽりぽりとアガートが髪を整えたばかりの頭を掻いた。その髪は卒業式に備えて久々に散髪されて、肩口ぐらいの長さに揃えられていた。まばらに生えた無精髭も今日はすっかり姿を消している。

「……いつもそうやってちゃんと身だしなみを整えて居れば、もっと女生徒に受けるのに」

 レーキは素直な感想を口にする。身綺麗にして黙っていればアガートはかなり男前の方だと思う。

「あ、言ってなかったっけ? オレね、オレよりちょっと年上のおねーさん系が好みなの。だから年下の後輩ちゃんたちにはあんまりキョーミ無いなー」

「もう。あんまりもっさりした格好してると年上のおねーさんとやらも寄ってきませんよ」

「ちぇー。そういう君はどーなのさー……まあ君はいつも手紙のやりとりしてる村とやらに良いコが居るんだろ?」

 村の皆との手紙のやりとりは続いている。村長の手紙の最後に一文を添えるだけだったラエティアも、この二年ですっかり共通語(コモン)の文字を覚えて、まだたどたどしい文字でレーキに手紙を書いてくれるようになっていた。

 家族のこと、村で起こった小さな出来事、レーキに触発されて始めたと言う勉強のこと。

 ラエティアから手紙が届く度にレーキは小躍(こおど)りせんばかりに喜んだ。

 そんな様子をアガートはしっかり目撃していたらしい。

「……! ち、ち、違いますよ! ラエティアとはまだそんなんじゃ……!」

「ふうんーまだねー。ほうほう。ラウテェアちゃんかあー」

「……ラ『エ』テ『ィ』アです!!!!」

 ラエティアのことを考えると、レーキは自分ではどうしようも無いほど赤面してしまう。心が陽だまりの中に居るように暖かくなって、耳の後ろがむずむずとくすぐったくて。

 離れて見て、改めてどんなにか彼女が大切で、愛しくて、絶対に失いたくない存在だと言う事が解った。

「ははーごめんごめん。でもさ、レーキはそのラエティアちゃんのこと好きなんだろ? そして多分だけどその子も君の事嫌いじゃ無いぜ」

「……! ど、どうしてそんなこと解るんですか……?!」

「君、前に言ってたろ? 『村の女の子が文字を覚えて手紙をくれる』って」

「……はい。それは言いました、けど……」

「女の子は嫌いな男のために手紙なんて書かないよ。ましてやそのために文字を習ったりなんて絶対しないねー」

 ズバリと断言されて、レーキは何も答えられなくなる。

 ──ラエティアも俺の事を思ってくれている? 少なくとも嫌いでは無い?

 そんな風に思うだけで心臓がドキドキと高鳴って、どうしようも無く喉がからからで、いても立ってもいられなくなる。

「……それなら……あの、その……良いんです、けど……」

 気の利いた事を言いたい。嬉しくて嬉しくてそれを言葉にしたいのに。口から出てきたのはそんな歯切れの悪い台詞だけで。どぎまぎと床を見つめるレーキに、アガートはにやにやと笑みを浮かべて言った。

「青春だねー頑張れよーレーキ君ー!」

 



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天法院の三学年生
第27話 卒業式と新入生


 翌日の卒業式を迎えて、三年生達は正式に天法士(てんほうし)となった。

 式の内容は特に厳重に()されていて、式場に入れるのは生徒本人と家族だけ。

 下級生のレーキは、食堂兼講堂の前で心を躍らせながら、同じように卒業生を待つ人々と共に式を終えて出てくる新天法士を待った。

 季節はちょうど冬と春の間。レーキにとっては天法院で三度目の春。

 肌寒い日がここ数日続いていた事が嘘のように今日の陽射しは暖かく、天法院の敷地に植えられた木々たちは葉を落としていた梢の先にすでに新芽を兆している。

 卒業生たちを祝福するように雲は優しく(かす)み、空の色は穏やかに晴れた春の水色だ。

 式の始まりは昼の鐘と同時だった。時折扉の中から漏れ聞こえる歓声と静寂が三刻(約三時間)ほど続いた。

 最後に一際大きな拍手と歓声が聞こえて、式場となった食堂から王珠の授与を終えた卒業生たちが次々と退出して来る。

 それぞれが悲喜こもごもの表情を浮かべ、真新しい王珠(おうじゅ)を見せ合って互いの三年間の健闘を(たた)えている。

 懸命に努力した者もそうで無かった者も、今は得られた結果に納得しているようで。卒業生達の表情は、みなどこかすがすがしかった。

 その中に、同級生と談笑しながら扉を出て来るアガートの姿があった。その顔はいつもよりずっと誇らしげで、卒業式の結果は彼にとって満足いくモノだったと窺える。

「……あ、レーキ! なんだ、こんなトコで待っててくれたのかー」

 彼はレーキの姿を認めると、いつもより嬉しそうに微笑んで、同級生にルームメイトだと簡単に紹介してくれた。

「おめでとうございます!」

 下級生は卒業生を祝福するの為に、色取り取りの『光球(こうきゅう)』を作って弾けさせるのが天法院(てんほういん)の伝統だ。弾けた『光球』は美しい光となって卒業生たちを取り囲み、きらきらと輝いて消える。

「ありがとねー!」

「ありがとな!」

 祝福された卒業生たちの感謝の言葉が、食堂の前、あちらこちらから聞こえた。

 

「……それで……どうでした? 卒業式は」

「うん。何とかねー。目標達成! いえーい!」

 アガートは指を幸運を呼び込むという形に曲げて、レーキの目の前に差し出した。

 食堂前で下級生たちからの祝福を受けた後、レーキとアガートの二人は寮に戻る為に学院の廊下を並んで歩いている。こうして寮に帰ることもあと数回。そう思うとこの時間がとてつもなく貴重なものなのでは無いかと思えてしまう。

「……目標?」

「そそ、目標。……ほら。これ見て」

 そう言ってアガートが差し出したのは、真新しい、黒色に光る王珠。一つがちょうど掌に収まる大きさの珠が三つ。

 王珠の数はようやく天法士と呼べる一ツ組(ひとつくみ)、天法士としては二流の二ツ組(ふたつくみ)三ツ組(みつくみ)から五ツ組(いつくみ)が優秀な天法士とされる。

「やった! 三ツ組ですね!」

「そ。これでオレも先が見えた。……オレはね、レーキ。この学院に残る」

「……え?」

 唐突なアガートの宣言に、レーキは言葉は呆気(あっけ)にとられて長身のルームメイトを振り仰いだ。

「……それは、研究者になる、と言う事ですか?」

 毎年、少数の生徒が天法院に残って研究を続けると言う話を、レーキも知っている。確かに、物事の観察と分析に優れたアガートには研究職はぴったりだ。

「違うよー」

 だが、アガートは笑って首を否定に振った。

「オレは教師になる。三ツ組の王珠を授かればこの学院でも教師になれるからねー。オレはヴァローナ国立天法院の教師になるよー」

 飄々(ひょうひょう)といつも通りの口調で、だがいつも以上に饒舌(じょうぜつ)にアガートは続ける。

「オレはね、もともと天法の研究者になりたかった。少なくともこの学院に入学した時はそう思ってた。だから学院に残るのは予定通り。……でもね。君と出会って、君の相談を受けたり、色んなこと教えたり、考えたりしてる内にさ、『ああ、教えるってのもなんだか悪く無いんじゃ無いか?』って思うようになったんだよ」

 茫洋(ぼうよう)と微笑む表情の裏で、アガートはそんな事を考えていたのか。レーキに知識を授ける合間に、そんな風に思ってくれていたのか。

「オレは元々教師ってモノをあまり信用してなかった。奴らはオレたちを無責任に(あお)るだけ煽って優秀で無い生徒のことなんかこれっぽっちも考えてくれないってね。……そう思ってた。オレ、座学はともかく実習の方はさっぱりだったしねー。期待されてないなってのが解っちゃうんだよね。何となく」

 座学の成績が幾ら良くても、実習で良い成績を残せなければ──天分の量が少なければ──高いレベルの天法士には成れない。アガートはなまじ座学の成績が良いだけに、期待を抱いた教師たちの落胆を一層誘ったのだろう。そんな教師たちの態度に彼は人知れず傷ついてきたというのか。

「……でもさ、そんならオレがいっちょ信用できる教師って奴になってやっても良いかな?……なんて思っちゃったんだよねー、ちらっとね。それでさー担任に相談したんだよ。そしたら『教師という道は易しくは無いが、優秀な君なら出来る。やってみなさい』って背中押されちゃってね。じゃあ、頑張っちゃおうかなーって」

 自分の進路のことであるのに、他人事のようにアガートは話す。そうやっておどけて居ても彼が本気で努力の出来る人だと、レーキはもう知っている。そしてとても優しい人だと言う事も。だから素直に賛同した。

「……とても……素晴らしい事だと思います。俺もアガートは教師に向いていると思う!」

「君にそう言ってもらえると自信つくなあ。ありがとー!」

 レーキの言葉を素直に受け取って、アガートは、はにかんだ笑みを浮かべてひらひらと手を振った。

「……ま、オレの教え方一つで生徒たちの行く末が決まっちゃうってのはまだちょっと怖いけどね」

 アガートはそう言って肩をすくめてみせる。根は真面目で、責任感もあるアガートのことだ。きっと生徒たちに慕われる、良い教師になることだろう。

「実は院長代理とも話は付けてあるんだ。三ツ組取れたら雇ってくれるってさ。いえーい」

 アガートはにっと笑って、レーキの肩に手を置くと、も一度幸運を呼び込む指を作って差し出して見せた。

「……それでね。君はさ、オレの生徒第一号みたいなモノだからさー。ちょっとばかり贔屓(ひいき)しちゃう。……三学年になっても頑張れ、レーキ。そんで、『呪い』なんかちょちょいと解いて自由に生きろよ。オレも出来るだけサポートするからさー」

「アガート……」

 感無量(かんむりょう)とはこのことだ。生徒と教師という立場は違っても、まだまだアガートとこの学院で学ぶ事が出来る。

 レーキは、胸をいっぱいにする感動で言葉を喉につかえさせながら、大きく頷いた。

「ありがとうございます! ……先生!」

「まだ気が早いよー。だけど良い響きだな。……先生、か」

 照れくさそうに、アガートはぽりぽりと頭を掻いて笑みを浮かべた。

 

 

「……と、言う訳でオレは春からここの教師だよー。学生寮には居られなくなっちゃうけど……教師用の独身寮が学院の敷地内にあるからね。いつでも遊びにおいでー」

 数日後、そんな台詞を残してアガートはレーキと同室だった学生寮を出て行った。

 アガートの荷物を運び出してしまうと、急に部屋ががらんと広くなったような気がする。

 作り付けの机の脇に、アガートは多くのメモを貼り付けていた。メモで覆われていた壁紙は他の部分より白く、陽に焼けていない。それはアガートが、この部屋で三年間過ごした確かな証しだ。

 そんな大小様々な跡が残る壁は、窓から差し込む春めいた陽の光に照らし出されていた。

 この所陽気の暖かい日が続いている。どこか眠気を誘う心地よい春の大気。気持ちも上向きになるようだ。

 季節はもうすっかり春を迎えて、新入生もちらほらと学院にやって来ている。

 それでも一人の部屋にぼんやりと視線を遊ばせていると、不意に喪失感が心に染み通る。寂しくないと言えば嘘になる。だが、アガートにはすぐ会える。

 食堂で、教室で、独身寮の部屋で。彼を永遠に失った訳では無い。だから、少しくらい寂しくても大丈夫。

 さあ。最終学年だ。三学年からは実習が増え、難しい、応用の天法が多く授業に登場してくると言う。油断は出来ない。

 貯金もまだ目標額には達していない。今年は去年以上に気合いを入れて稼がねばならないだろう。

 レーキは気合いを入れるために両手で頬を叩いた。

 

 この所の日課になっていた『黄』天法の復習でもしようと朝から机に向かっていると、不意にとんとんと戸を叩く音がした。

「? ……はい。どうぞ、開いてます」

「あ、レーキ・ヴァーミリオン君? 自習期間にすまないね」

 開いた扉の前に立っていたのは、今年寮長になったレーキと同じ学年の青年と、白いフード付きマントを目深にかぶった小柄な何者かだった。フードの上からぐるぐると顔に巻き付けられた縞のマフラーのせいで、その素顔は全く(うかが)い知れない。

「この部屋は卒業生が居ただろう? それで片方開いてるって言うから……悪いけど新入生と相部屋になってくれないかな?」

「新入生、ですか?」

「そう。こちら新入生のズィルバー・ヴァイス君。ズィルバー君、こちらは三学年生のレーキ・ヴァーミリオン君だよ」

「……ど、どモ、よろしくお願いですマス」

 レーキの前に立った新入生は、不思議なイントネーションの挨拶と共に深々と頭を下げる。そうしているとズィルバーの背丈はレーキの腰ほどの高さで、姿勢を正しても胸の辺りに届くかどうか。ミトン状の手袋をして、きっちりと白を基調とした服を着込んで居るので、彼がどんな種族であるのかは全く解らない。

 この新入生がどんな人物かはまだ解らないが、『呪い』の一言がちらついて、レーキは躊躇(ためら)う。

 この子を受け入れて良いものなのかどうか。レーキの逡巡(しゅんじゅん)を拒絶と取ったのか、寮長は不安げな表情で眉を寄せた。

「この子はニクスからはるばる来たんだけどね、ここで断られるともう寮には行き場が無いんだ。どうにかここで受け入れて貰えないかな?」

 行き場が無い。そんな風に言われてしまってはレーキに断ると言う選択肢は無い。こんな時、師匠ならアガートならなんと言うだろう。やはり『はい』と言うだろう。

「……わかった。あまり広くない部屋だけど、それでも君が良いというなら、俺は歓迎するよ」

「ア、ありがとうございますデス!」

 ズィルバーは何度も何度もぺこりぺこりと頭を下げた。その声はやはり不思議な抑揚だったが、彼が喜んでいる事だけは解った。

「ああ、良かった。じゃあ、ズィルバー君、解らない事があったらレーキ君に訊いてね。それでもどうしようも無かったら僕の所まで来てね」

 それだけ言い置いて、寮長は部屋を出て行く。後には大きな背負い袋を腕に抱えた新入生と、新三学年生が残された。

 



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第28話 天法院の食堂でⅡ

「……ズィルバー君。とりあえず君のベッドはそちら側で良いかな?」

 レーキが数日前までアガートのモノであったベッドを指し示すと、ズィルバーはぺこりと頭を下げて大荷物をベッドの上に置いた。

「そちらの物入れと机も君が使って良い。……ああ、改めて名乗ろう。俺はレーキ・ヴァーミリオン。今年で三学年生になる。見ての通り鳥人(アーラ・ペンナ)で……グラナートの出身だ」

「あ、あの、レーキサマ、小生は……ズィルバー・ヴァイスと申しますデス。あの、その……ニクスから参りました、デス!」

 やはり、ズィルバーの共通語(コモン)の発音には不思議な(なま)りがある。

 ニクスと言えば北方にある大国で、ここヴァローナとはかなり距離が離れている。武の国とも言われ、豊かな鉱山が多く金属加工業が盛んだとも聞いた事があった。

「随分遠くから来たんだな。俺の事はレーキでいいよ。……少なくとも様は要らない」

「……ではレーキサン、とお呼びしてもよろしいでますデス?」

「ああ。それでも構わない」

「ありがとうます、デス!」

 ズィルバーがまた、ぺこりと頭を下げる。その顔は相変わらず一切見えない。顔どころか(はだ)の一片ですら、ズィルバーは完全に隠している。そこまでして膚を隠したい理由とは何だろう? レーキにはそれが解らなかったが、新入生がそうしたいと言うなら彼の意思を尊重するべきだ。

 そんな事を考えて、押し黙ってしまったレーキをズィルバーは小首を傾げて見つめてくる。(ひとみ)の姿形ははっきり見えなくても視線は確かに感じる。

「……レーキサン、あの、その……小生の共通語は変でしょうますデスカ?」

「あ、いや、少し訛りがあるけど、ちゃんと通じている」

「良かった、デス!」

 表情が見えない代わりにズィルバーの両手は雄弁で、ほっと胸をなで下ろす仕草をしている所を見ると、安堵しているのだろう。

「荷物を解いて寛ぐと良い。……もう黒いマントは用意してあるか?」

「ハイ! ありがとう、ますデス! ヴァローナ天法院(てんほういん)の黒マント、ちゃんとあるますデス!」

「そうか。俺は天法院に来た時まだ入学するつもりは無かったから、慌てて準備したんだ。今君が荷物を置いてるベッドの前の主に教わって」

「卒業の先輩様、でますかデス」

「そうだ。俺たちの先輩で……春からはここの教師になる人だ」

 君にもそのうち紹介する。レーキがそう言うと、ズィルバーは手を打ち鳴らして喜んだ。

「スゴイ、デス! 小生がヴァローナ天法院の、先生様とお知り合いになられますデス!」

 

 ズィルバーは早々に背負い袋の中身を作り付けの棚に移して、今は自分の物になったばかりの机を楽しそうに検分している。ふと、疑問が湧いたレーキは、そのご機嫌な背中に問いかけた。

「……そう言えば君は何故はるばるヴァローナへ? ニクスにも立派な天法院があるんだろう?」

「……ソレは……ニクスの天法院は卒業したらみんなニクスの天法士団に入る約束ますデス。小生の父上はソレでは小生が苦労する思うますデス。それで小生をりゅ、りゅ……」

「……留学させた?」

「ソレますデス!」

 五大国には、それぞれに国の貴色を冠した『天法士団』が設立されている。有事にあっては、天法による戦闘と医療によって各国の騎士団を助け、平時においては王族貴族の相談役、医療者として人々の尊敬を集める『天法士団』は、多くの天法士にとっては憧れの所属先であった。

「……小生は故郷の町から出た事がありませんますデス。共通語もへたますデス。ニクスの『純白の天法士団』はとても厳しいといいますデス。父上は心配した、デス!」

「なるほど」

 しかし、そのために遠い外国に息子を送り出すということは、ズィルバーの父上という人はかなり思い切った人物なの知れない。それともニクスの天法士団が、それだけ厳しい環境だと言う事だろうか?

「小生の故郷で天法士(てんほうし)になったひと、いませんますデス。大人はみんな職人なるデス。だけど小生は特別ますデス。天分とても沢山、デス」

 訥々と語るズィルバーの話を纏めると、どうやらズィルバーの周囲では、子供の頃から不思議な現象が起こっていたらしい。それを心配した両親が旅の天法士に相談した所『この子には天法士としての才能があるかも知れない。教育を受けさせると良い』そう勧められた、と。

 ズィルバーの両親は方々手を尽くして息子の才能を伸ばしてくれる師を探した。その師がヴァローナの天法院出身で、ズィルバーが教育を受けるならヴァローナが良いと言う事になったらしい。

 ズィルバーの父上は特別な息子を甘やかして育てすぎたと感じていたのか、高級な下宿生活では無く、様々な人々と生活を共にすることになる寮に放り込んで息子の自立を促す事にした、ようだ。

「……それで、小生は寮にきましたますデス!」

 これまでのいきさつを語り終えて、ズィルバーは満足そうにふすーっと息を鳴らした。

「……なるほど。そうか。君は良い両親に育てられたんだな」

「えへへ……父上も母上も優しい、素敵ますデス!」

 真っ直ぐ誇らしげに両親を語るズィルバーが、レーキには少しばかり(まぶ)しい。レーキにとって両親と言えるのは養父母だけで、山の村の家が燃えてしまった今となっては、本当の両親の手がかりは皆無だ。

 全く会いたくないと言えば、嘘になるだろう。だが会った所でどんな事を言えば良いのか、どんな顔をすれば良いのかも想像することすら出来なかった。

「……レーキサンは、どうしてグラナートからヴァローナきたますデス?」

「それは追い追い話そう。短い話でも無いから。……それより、君は腹減ってないか?」

「ハイ! ぺこぺこ、デス!」

 すでに昼を告げる鐘が鳴って久しい。レーキは椅子から立ち上がって扉を指した。

「それじゃあ、食堂に行こう。食べ物はトークンと引き換えに貰うんだ。食堂の場所も覚えて貰わないと」

「ハイ、ますデス……あの、レーキサン、ご飯、食堂で食べなくちゃダメますデス?」

「……いや。食器をきちんと食堂に戻しさえすれば何処で食べても問題ない。俺も時々寮の部屋で食事をする事もある」

 ズィルバーのフードの下から、安堵の気配がする。やはりこの新入生は、他人に膚や顔を見られたくないのだ。レーキはそう確信した。

 

 食堂への道すがら、レーキはズィルバーに簡単に天法院の各棟を紹介する。

 三年前は天法院に入るかどうかも解らぬまま、アガートと一緒に歩いた歩廊を、今度は新入生と一緒に歩いている。その事が、とても懐かしいと同時に温かい。

 食堂には相変わらず沢山の人々がいて、騒がしく、活気に満ちている。三年前には圧倒された光景が、今では日常の一部になっている。そんな風に思う日が来るなんて、レーキには思わぬ事だった。

「……いっぱい人! います、デス!」

 ズィルバーはやはり圧倒されたようで、レーキの羽の陰に隠れるように後じさった。

「……大丈夫。みんな飯を食いに来てるんだ。俺たちと同じだ」

「……!!」

 ズィルバーの表情は見えないが、おろおろと怯えている事はよく解った。新入生を安心させようと、レーキは彼の肩に手を置いた。びくりっとその肩が跳ねる。恐る恐るこちらを見上げてくる新入生に、レーキは微笑みかけた。

「大丈夫。みんな飯を食うのに夢中で君が来た事にも気付いてない。だから君が怯える事は無い」

「レーキ、サン……」

「ほら、これが食堂のトークンだ。これ一つで一食分の食事と交換できる。……これは君に上げる。俺も新入生の頃、先輩にこれを貰って嬉しかったから」

「ありがとます、デス……」

 掌に落とされたトークンをぎゅっと胸元に握りしめて、ズィルバーは(うつむ)いた。その姿はまるで何かに祈るようで。

 やがて、なけなしの勇気を振り絞ったのか、ズィルバーは顔を上げた。

「ご飯、食べましょう、デス。レーキサン」

「……ああ、そうしよう」

 二人はそろって食堂に足を踏み入れた。

 

 



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第29話 禁忌

「全員構え……よし、撃て」

 セクールスの合図で、実習室で一列に並んだ『赤の教室・()』の生徒たちは一斉に『水撃(アークヴォ・アターキ)』を的へと放った。

 掌を的へ向ける者、指先を向ける者、杖状の物を用いる者、スタイルはみなそれぞれ違ってはいたが、どれも激しい水流が、的である木人形を襲う。

 

 入学の季節が過ぎて、『緑の月』もすでに後半。レーキたち新三学年生は、既に通常の授業に入っていた。

 ここは実習棟にある実習室。石造りで天井の高い広い教室で、一クラス分の生徒たちが天法の術を試しても、問題ないほどには頑強に作られていた。

 レーキたち、生徒の前に少し離れて置かれているのは、的となる木で作られた等身大の人形。それが天法の術を受けて、同じく木で作られた架台の上でゆらと震えている。

「次。『鉄の弾(フェロ・クーグォ)』構え……よし、撃て」

 下された命の通りに、生徒たちは『鉄の弾』を的に放つ。誰一人狙いは外さず、『水撃』でずぶ濡れになっていた木人形の何体かは、『鉄の弾』を受けて所々丸く風穴が空いた。

「ふん。命中率は悪くないようだ。……さて、本日の課題は『黒』と『白』の『混色法』だ。右手と左手でそれぞれ違った系統の天法を使っても構わんし、二つの系統をこね上げて一つの色となしても構わん。今回の実習時間中に的を徹底的に破壊せよ。それが出来た者から休憩とする」

 それだけ言うと、セクールスは持参した書物を読み出してしまう。生徒たちも、今ではすっかり馴れてしまったこの光景に、文句一つ言わない。

 

『赤の教室・Ⅴ』は、進級時に人数が二人減って五人となった。脱落したのは『赤のⅤ』のやり方に最後まで馴染めなかった者と、実家の都合で天法院を辞めざるを得なかった者。

 残ったのはレーキ、グーミエ、エカルラート、シアン、もう一人はロシュと言う獣人の男子生徒だった。

 二学年生時の教室での騒ぎから、シアンはレーキと表立って接触する事を避けているようだった。あちらが何も仕掛けて来ないと言うなら、レーキにも言うことなどは無い。

 レーキに放課後、術を教えているとしても、セクールスの特別扱いはせいぜい名前を覚えた事くらいで、課題の量も教え方の苛烈さもほかの生徒と何も代わりはしない。むしろ金策のため仕事をせねばならない分、レーキはほかの生徒たちより常に疲労困憊(ひろうこんぱい)といった有様だった。

 シアンにもその事は解ってきたようだったが、「あいつは教師を買収するために無理して金を稼いでいる」などと吹聴しているようだ。

 金で買収されてくれる相手ならば、どんなに楽なことか。自分にまつわる噂話として聞かされる度に、レーキはそう思う。

 セクールスは、もとより金など歯牙にもかけない。それに、レーキが真に相対したいと願っているのは死の王だ。現世の金など、どれだけ積んでも、死の王の前には塵芥(ちりあくた)で有ろうことはレーキにも解った。

 

「……『氷塊撃(グラキエース)』」

 レーキはイメージする。右手に『水撃』、左手に『鉄の弾』。『黒』と『白』、『水』と『金属』、二つの系統の天法を混ぜ合わせると、不思議な事に物体を凍らせる事が出来る。

 力の流れを意識する時、レーキはいつも身のうちで燃え盛る炎を感じる。その真っ赤な炎をゆっくりと両腕に巡らせて、指先でその二つの炎を黒と白との炎に変換する。直接水や金属をイメージするより、このやり方のほうが自分には容易い。

後は、二つを同時に指先から放出してやれば『氷塊撃』の完成だ。

 レーキの狙いは、過たず木人形を直撃する。一撃で人形の半分を氷塊が押しつぶし、半壊させた。

「……相変わらず凄いね。レーキは」

 レーキの隣で、必死に『氷塊撃』を放っていたエカルラートが溜め息混じりに呟いた。

「そう言う君だってちゃんと『氷塊撃』が出来てる」

「……うん。でもね、わたし、いつも思うの。あの的イヤだな……人みたいな形のモノを壊しちゃうのはなんかイヤだな……」

 エカルラートの眉は、しょんぼりと(くも)っている。木製の的だと解って居ても、人型をしていると言う事が、彼女の倫理観に訴えかけるのだ。

「そうだな。確かに……ただの木だと解っていても、あまりいい気分じゃない」

 確かに『人型』は、心の柔らかい部分を刺激してくる。あの、赤く焼けた村で。己が死にたくないという一心で、無意識に放った一撃が(ほふ)った命。

 先に俺を殺そうとしたのはあいつだ。そう自分を納得させようとしても、忘れられない断末魔の叫び。人形は叫ばない。だが『赤』の天法の実習で焼け焦げた人型を見た時、レーキは何度も気持ちが折れかけた。

 だからこそ、レーキは目一杯の力で実習を終わらせる。一瞬でも早く耳に残るあの叫び声を消し去りたくて。

「わたし、もし人に向かって攻撃の天法を使わなきゃってなったら……どうしたら良いんだろう……」

 人に向かって、天法と言う強大な力を使うという恐怖。レーキの中にもそれは確かに、ある。実習の中で人形を使うのは、その恐怖に次第に順応させようと言う意図なのか?

 そう勘ぐってしまう。

「……エカルラートは優しいな……そうだな……使わなければいい。攻撃のための天法は」

「……え……?」

「今は大きな戦争とか起こってないだろ? だから天法士が戦いに駆り出される事も少ない。でも、俺が言うのも何だけど……盗賊とか魔獣に遭うとか、どうしても危ない場面に遭遇する時もあるから、その時のために大切なモノを守るための天法を主に学べば良いんじゃないかな?」

「……守るための、天法……?」

「例えば敵を足止めしたり、攻撃を届かないようにしたり、防御したり、攻撃以外にもとれる手は沢山有るだろう?」

 それは詭弁(きべん)だと、自分でも思う。そんな危険が、この心優しいクラスメイトに降りかかる事が無いようにとも。

 レーキには確信があった。再び命の危険を前にすれば、自分は手加減なくこの強大な力を振るう。目の前の脅威を打ち倒すために、容赦など出来ない。

 死にたくない。今はどんな事をしてでも死ぬ事など許されない。

「……そうね。まだまだやれることはいっぱいありそう!」

 表情が明るく輝き出したエカルラートを前にして、レーキの胸はちくりと痛む。彼女を綺麗事で欺いているような、そんな良心の(うず)きがある。

 人は誰しも、自分が出来ることを積み重ねて行くしかない。その先に何があるのか。エカルラートにもレーキにもそれが何かはまだはっきりと解らなかったが、今はやれることをするだけだ。

「……でも、攻撃のための天法を学ぶ事も必要だよ」

 そんな二人に釘を刺すように、エカルラートの隣にいたグーミエが会話に合流する。

「グーミエ」

「ごめん、二人の話聞いちゃった。……攻撃のための天法も知らないと、相手に天法士が居たときどんな手を取っていいのか解らなくなるから。だから今は攻撃と防御とどちらも学ぶと良いよ」

「そうだな。敵の理屈が解れば、やれることはもっと増える。そうすればもっと沢山の人を守れるかもしれない」

「……ありがとう。二人とも。あの的はやっぱり何だかイヤだけど……でもわたしはやれることをする!」

 吹っ切れたように、エカルラートは掌を木人形の的に向けた。まだ数カ所(へこ)んだだけの人形に『氷塊撃』を放つ。

 レーキの氷塊のように大型では無いものの、エカルラートの氷塊は確実に木人形を壊していく。

 ──俺も、今やれる事をしよう。

 レーキは木人形に狙いを定め、『氷塊撃』を放つために一つ深呼吸をした。

 

「本日の実習はここまで。午後は『赤の教室』で座学だ。本日は禁忌(きんき)の法について学ぶ。これは実際に使って試してみる事の出来ない術だ。口訣(こうけつ)の類いは一切教える事は無い。ただそのような法が存在しているのだという事実を胸に深く刻み込め」

 常にも増して、セクールスは重々しく次の授業内容を告げる。禁忌の術、とは一体どのような術なのだろう。生徒たちはみな、神妙な面持ちではいと答えを返す。

「では実習室を片付けて昼休憩。以上」

 一足先にセクールスは実習室を出て行った。残された生徒達は散らばった的の欠片を拾い集めゴミ箱に放り込むと、床を掃き清めた。

 シアンはいつの間にやら姿を消していた。こう言った掃除や後片付けのような作業を!彼は極端に嫌がっていた。『自分のような名門の跡取りがする作業では無い』、と言うのがその理由のようだ。

 初めのうちはグーミエが掃除をするようにとシアンを(いさ)めていたが、近頃は言っても無駄と諦めたのか姿を消そうとするシアンを追いかける事もなくなっていた。

 生徒たちはシアン抜きでテキパキと掃除を済ませると、昼食を取るために散っていく。

 グーミエとエカルラートは弁当を持参していて、食堂をあまり利用しない。箒を掃除用具入れの小部屋に戻して、レーキは一人で食堂に向かった。

 

 昼食を済ませて、レーキは『赤の教室・Ⅴ』に向かう。教室の場所は二学年生の時から階層が変わって三階になっていたが、名称は変わらず『赤の教室・Ⅴ』のままだ。担任も生徒のメンバーも替わらないのだから、変える事の方が何かと不都合なのだろう。

 教室の作りも、二階のモノと大して変わらない。窓から見える景色がほんの少し変わっただけだ。

 一番乗りだったレーキは、扉に最も近い「いつもの席」に着席した。もう幾度読み返したか解らない『法術』の教科書をめくって、『禁忌の術』についての予習を始める。

 曰く、『人の死を冒涜する術』。これは死霊を操り、死者の体を使役する外法など。

 曰く、『人の精神を冒涜する術』。これはかつて存在したという、人の精神に直接働きかける外法など。

 曰く、『強大過ぎる術故に伝承する事を禁じられた術』。これは各色天法にいくつか存在する。

 今日の授業で、おそらく学ぶ事になるのはその三つだろうと目星を付けて、レーキは帳面に一つ一つを書き付けた。

 そのうちに、他のクラスメイトたちも教室に集まってくる。授業開始を告げる鐘が鳴る前にシアンが飛び込んで、そのすぐ後にセクールスがやってくる。それもいつもの光景だった。

「……それでは午後の授業を始める。まず、『法術』の教科書をしまえ」

 開口一番。セクールスの言葉に、生徒たちが一瞬ざわめく。それを一瞥(いちべつ)だけで制したセクールスが大きな黒い革表紙の本を教卓に載せた。

「本日学ぶ『禁忌の術』それは……『魔法(まほう)』と言う」

 重々しくセクールスが告げる。『魔法』。聞き馴染みの無い単語だ。レーキも始めて聞く単語に首をひねった。

「いいか。『魔法』と言うモノは魔のモノ、すなわち魔人(まじん)幻魔(げんま)が使用する不可思議な術の事だ」

「……それは、魔のモノにとっての天法と、言う事でしょうか?」

 グーミエの質問に、セクールスは静かに頷いてゆっくりと首を振った。

「……そうとも言えるが、そうだとは言い切れない。何故ならかつて人も『魔法』を使っていたからだ」

「それは天法では無く、と言う事ですか?」

「ああ。人は遠い昔、魔のモノとの争いの最中、魔のモノが使う術を真似て『魔法』を開発した。その力は天法を凌駕(りょうが)するほどに強大で、大きな島一つを軽々と宙に浮かせ、多くの人々を離れた地に運び、海を割き、天候をも自在に操ったという」

 現在の天法では、そんな事は不可能だ。では『魔法』はなぜ、『禁忌』となったのか。

「その強大な力を持って人は魔のモノとの争いに勝利した。多くの人々が様々な『魔法』を学び、発展させていった。……だが。『魔法』には思わぬ落とし穴があった」

 言葉を切ったセクールスは軽く息を吸い込んで、次の言葉を続ける。

「……『魔法』を行使していた者たちが次々と『魔人』と化したのだ。『魔法』は強力だったが、人々の精神を(むしば)み、その性質を魔のモノへと作り変えてしまう事が解った。それ故いかに強力であろうと便利であろうと『禁忌』なのだ」



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第30話 ルームメイトの正体

「かつて、天法(てんほう)は魔法を手本として作られた。使用者を魔に落とすという性質を取り除いた代わりにその力はより限定的なモノとなった。……ただし。それでも天法は強大な力である事には違いないのだ」

セクールスの授業は続く。冷淡に見える教授は脅すでも無く、なだめるでも無く、ただ普段と変わらず事実だけを語る。

「貴様らは既に強大な力を手にしている。その事実を深く胸に刻め。そして強大な力には責任と代償が伴う事を知れ」

「……先生。責任は理解できます。では天法の代償とは一体何なのですか?」

 恐る恐る、核心を突く質問をグーミエが投げかける。その姿を一瞥(いちべつ)してセクールスは改めて前を向いた。

「それは、天分の減少だ。天分とは貴様らの生命力。生きるために必要な魂の力だ。天法は貴様らの生命力を呼び水にして行使する奇跡だ」

「そんな……では天法士は天法を使う度命を削られていると言う事ですか……!?」

 突きつけられた事実の重さに、驚愕したレーキが、思わず悲鳴じみて叫んだ。

 確かに実習の授業を行った後、疲労を感じる事は多かった。だが、まさか己の命を削って術を使っていたとは。それに、そんなに大切な事を今まで黙っていたなんて!

「……安心しろ、現在多くの天法士が使う事を許されている術の天分減少率は微々たるモノだ。休息を取れば十分に回復する程度のな。貴様らの寿命を脅かすほどの量では無い。……だが、そこで『法術』に記された三つ目の『禁忌』を参照しろ。そこにはなんと?」

「……『強大過ぎる術故に伝承する事を禁じられた術』と、あります。先生」

 レーキは、帳面に書き付けた三つ目の『禁忌』を読み上げる。使用者の命を削るほどに強力な術。それ故に現在では『禁忌』とされている。と言う事なのだろうか?

「それは読んで字の如く。強大である故に使用者の天分を大量に消費……つまり生命力を大量に削ってようやく発動を許された術だ」

 レーキの推測は正しかった。だが安らぎや喜びなどは感じない。ただただ、天法が天分を──すなわち命を──削って使うものであるという事実に打ちのめされていた。セクールスは、そんなレーキを置き去りにして授業を続ける。

「……では何故そんな危険な術が存在するのか? かつて人と魔のモノとの間に三度の争いがあった。それを『魔竜戦争』という。いまから千年以上も前のことだ。その頃には天法士の命をすり減らして行使する術にも需要はあったようだが、魔のモノの多くが粛正され、残ったモノも『呪われた島』に封印された現在においては無用の長物として『禁忌』と化した。よってその法術をこの教室で教授する事は無い。安堵したか?」

 生徒たちの間に漂っていた緊張が、わずかに弛緩する。『禁忌』とは過去のもの。自分たちとは関わりの無いもの。そんな風に思っているのかも知れなかった。

 レーキはそんな風に暢気(のんき)に考えられない。彼は思わず懸念を問うた。

「……先生。では、『呼び戻しの法』のような多人数で儀式を行って発動する術の場合、天分を使用する者とは一体誰になるのですか?」

「それは儀式に参加した者全員だ。困難な術故、多くの天法士で術の確度を上げ、大きな代償を分け合うのだ。だが、主祭を務めるものが最も多く天分を使う事になるだろう」

「……」

 師匠が死んだ日、発動できた事自体が奇跡だった。あの『呼び戻し』で俺はどれだけの天分を、自分の命を、削ってしまったのだろう?

 改めて自分の愚かさの代償に、レーキは震えた。恐ろしくて、背を伝う冷たい汗が止まらない。

「先生! 我々が『禁忌』の術を知らされないなら、魔人に遭遇した時は一体どうやって戦えば良いのですか?」

 威勢よく質問したのは、シアンだった。魔人と戦う。シアンには英雄願望でもあるのだろうか。それとも年齢相応な、少年の無鉄砲なのだろうか。

「……ふん。魔人はたった一人の天法士が立ち向かえる相手ではない。逃げろ。……逃げ切れるものならば、だが。……ああ、こちらが多人数ならばあるいは勝ち目はあるかもしれんな」

 師匠が、生前語ってくれた事を思い出す。魔人をたった一人倒すために、天法院を首席で卒業するほどの天法士と、後に天法院の実質的院長になるほどの天法士、それに戦士と剣士が四人ががりでようやく成し()げた。それも大きな犠牲を払っての事だ。魔人に立ち向かう事はそれだけ困難であると。

「逃げろだなんて! カーマインの家名に傷がつきます!」

 セクールスのあざ笑うような態度に、尊大に返したシアンが酷く場違いに見える。彼には現実というものが見えていない。彼は脅威でも敵でも無い。愚かで、浅はかな、十七歳のちっぽけな少年だ。

 ああ。微かに眩暈(めまい)が、する。セクールスが授業を続ける声は聞こえているのに、内容がちっとも頭の中に入ってこない。

 静かにレーキは息を吐いて、己の腕を抱くように両手で二の腕を掴んだ。天法を使うこと、憧れだったことがこんなに恐ろしく感じるなんて。

 止めようとするのに、体の震えがいつまでも止まらなかった。

 

 

 授業が終わって、どうやって寮に帰り着いたのか覚えていない。

 気がつけば、レーキは部屋の戸の前に立っていた。部屋の中からは人の気配がする。

 ああ、やっと。帰り着いた。三年もの間、我が家のように暮らしてきた部屋。アガートが、ズィルバーが、何時も誰かが居てくれる、この部屋。

 安堵から、部屋の戸を叩くと言う最低限の配慮も忘れて、レーキはふらふらと扉を開く。

 その瞬間、誰かと目が合った。白銀にも似た美しく光る体色。天を向いて二股に伸びた角。一対の牙と人間のモノとは違う口元。手袋を外した指先には鋭い鉤爪が、大きな複眼がこちらをじっと見ている。

 何に似ているかと問われれば、子供の頃村をぐるりと囲む森で見た甲虫によく似ている。黒いローブを脱ぎかけた巨大な二足歩行をする甲虫、としか形容できない、“ソレ”は驚きに硬直したレーキを見つめて、叫んだ。

「……あああああぁぁァァァ!!!!」

「……?!」

 その叫び声で、レーキは正気に返る。その声は、確かに新入生ズィルバーのモノだった。慌てて扉を閉めて謝罪の言葉を口にしたが、ズィルバーの返事は無い。

「……すまない。着替え中だったんだな……」

 ズィルバーは、慌てて着替えを済ませているのだろう。バタバタと部屋の中で気配が動く。

「本当にすまない。……着替えが終わったら扉を開けてくれ」

 それだけ言って、レーキはずるずると扉の脇に座り込んだ。授業中から感じていた悪寒が今やはっきりと明らかになっている。(ねば)ついた汗が背を()う。精神的な衝撃が肉体にまで影響してきたのか。それとも、今になってがむしゃらに授業と課題と仕事に打ち込んできた疲労が、どっと出てしまったのか。眩暈がする。寮の廊下がぐらぐら揺れている。

 ──ああ、このまま眠ってしまいたい。何もかもを忘れて、このまま……。

 そんな事を考え始めて、目を閉じようとしたレーキの頭上から声が降ってくる。

「……レーキ、サン……」

 顔を上げると、いつも通りきっちりと服を着込んで、マフラーをぐるぐると巻いたズィルバーが扉の隙間からこちらを見ていた。

「……本当に……ごめん……」

 這うように部屋の中に入ろうとするレーキの顔を覗き込んで、ズィルバーは慌てて肩を貸してくれた。

「顔色が……とても悪いますデス……!」

「……すこし、色々と驚きすぎた、みたいだ……」

 アガートのように、おどけて苦笑交じりに言おうとするが、上手くいかない。

 どうにかベッドにたどり着き、ブーツを脱ぐ間も惜しんで横たわる。次第に頭痛が(きざ)してくる。熱が出てきたのか、水の中を泳いでいる時のように手足が重い。

「……君は、蟲人(ちゅうじん)、なんだな……?」

 蟲人。インセクトゥム=ウェルミス。体に昆虫の特徴を持った亜人種。大半がニクスに住み、人によっては四本腕や六本腕を持ち、手先が大変器用で鍛冶や彫金など職人仕事に長けているという。

 そう言えば、ズィルバーはニクスの出身だと言っていたっけ。周りには職人になる者が多いとも。

「……そうますデス……小生は蟲人、デス……」

 消え入りそうなほど、小さな声でズィルバーは肯定する。これで納得した。執拗に膚を隠したがるのは、亜人の中でも特異な光沢のある銀色を隠すため。昆虫の特徴を持った顔や手足を隠すため。

「……急に戸を開けたりして……本当にすまなかった……」

「いえ、いえ! ここは小生だけの部屋ではないますデス。そのうちレーキサンには言わなくちゃいけない事だった、デス」

 蟲人だとレーキに知られた事で、いっそ気持ちが吹っ切れたのか、ズィルバーは首を振る。

「小生は……怖い、デスか? 気持ちが悪い、マスか?」

 改めて、おそるおそる発せられた問いをレーキはゆっくりと否定する。

「……いや……蟲人を初めて見て……驚きはしたが……君を怖いとは……思えない……」

 そうだ。本当に怖いものは他にある。魔人、魔獣、野の獣、死霊、人々の悪意。そして死そのもの。

 ──俺は死にたくない。ここで死にたくない。まだ、死ねない。

 ズィルバーは、レーキの返答にはっと息をのむ。相変わらず顔は見えないが、その肩から力が抜けているようだった。

「……! ありがと、マス!!」

「……すまない……俺はもう、酷く疲れて……限界なんだ……ちょっと、眠らせて……」

 それだけを口に出すのが精一杯で。そこでレーキの意識は、ふつりと途切れた。

 

 

 

 初秋の森を歩く。

 既に森の木々は色づいた葉を落として、真新しい落ち葉は踏みしめる度に、さくさくと乾いた音を立てた。

 枯れ葉の間から驚いて出てくる虫たちが、裸足の上を這い回ってむず痒い。

 見覚えがあるようで、知らない森の道をトボトボと、自分は一体何処へ向かっているのだろう。

 森の向こうは(ほの)かに明るい。あれは赤の色。炎の色。祭りの色。

 ああ、俺は……村に、あの山奥の村に帰っているんだ。

 俺は、薪を()って帰らなければならない。それが養母の言いつけだから。暗くなる前に薪小屋をいっぱいにしなくては、今日も飯を食わせて貰えない。

 途端に手足が重くなる。足を踏み出す度に深く落ち葉の奥に沈み込む。それでも体は勝手に前へ進もうとしている。

 俺は、帰らなきゃいけない。飯時は戦争だから。じいさん一人じゃ手が回らない。みんなが──砦のみんなが──飯が出来るのを待っているから。

 はやく、帰らなきゃ。そう思っているのに。足は落ち葉の積もった地面にめり込んで、とうとう膝上まで埋もれてしまう。

 ああ早く。心だけは急いている。そんな自分の隣を誰かが通り抜けた。

 振り向けば、自分の隣をじいさんが歩いている。ああ、こんな所に居たのか。なあ、じいさん、今日の献立はどうしたら良いと思う?

 そう問いかけたはずなのに。声が出ない。じいさんは、よたよたとした足取りで森の向こうの村を目指して歩いて行く。

 よくよく目をこらせば。じいさんの隣を(かしら)が、その隣をテッドが、みんながこちらを見る事も無く、枯れ葉を踏んで森の向こう目指して歩いていた。

 ──待って! 待ってくれ! 俺も行かなくちゃ! あそこに行かなくちゃ!

 そう思うのに。既に(もも)の上まで足が枯れ葉に埋まってしまって、歩き出す事が出来ない。

 次第、陽は(かげ)って森の中は暗く、森の奥にはさらに沢山の人々が、一斉に森の奥を目指して歩いている事に気がついた。

 そこに見知った顔の数々。ラエティア、その家族たち、森の村の人々、学院で出会った人々、この国で出会った人々、師匠は一人、もう随分前を歩いている。みんな真っ直ぐに森の奥を目指して。

 ああ。悟ってしまった。この森の先にあるのは村なんかじゃ無い。そこにあるのは。

 ──待って! みんな! 駄目だ! この先に行っては駄目だ!

 押し止めようとするのに。もがけばもがくほど、自分は一人土に埋まって取り残されて行く。

 ──嫌だ! 待って! 俺を置いていかないで!

 無我夢中で、隣を通りかかった誰かの足を掴んだ。もう、体は胸元まで土に埋まっている。身動きが取れない。

「……大丈夫。誰も君を一人置いて行きはしないよ」

 そう言って、捕まれた足を見下ろしているのは良く見知った顔。師匠のようでも有り、じいさんのようでも有り、ラエティアのようでもアガートのようでもある、その顔がふっと微笑んだ。

「……目が、覚めたかい?」

 



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第31話 寮の部屋で

「……っ……」

 重い(まぶた)を開ける。額には冷たい何かが載せられている。それが心地よくて。

 気がつけば、誰かの腕を掴んでいた。夢の中で掴んだと思ったのは、この腕だった。

 そこに居たのは。目の前で茫洋(ぼうよう)と微笑んでいるのは、良く見知った顔。

 それは、アガートだった。

「……ああ、目が覚めて良かった。(ひど)い汗だ。……悪い夢でも見たのかい?」

 ああ、夢か。あれは夢。高熱が呼び込んだとびきりの悪夢。レーキはほっと息をついて、掴んでいた腕を放した。

「君、帰ってくるなり倒れたって。この子が知らせてくれたんだよ」

 アガートの後ろには、おずおずとこちらを覗き込んでくる、いつも通りマフラーをぐるぐる巻きにしたズィルバーの姿もあった。

「『レーキさんが倒れました!』って教師の寮に飛び込んで来るなり叫んでね。オレもビックリしたよー」

「……小生もとってもビックリしましたデス……レーキサン、具合悪いますデス、小生ではどうして良いのか解らないますデス……」

「……二人とも……ありがとう……」

 人見知りの気があるズィルバーは、必死の思いで教師の寮まで行ってくれた。アガートもそれに気付いてここまで来てくれたばかりか、自分が目覚めるまで付き添ってくれた。

 レーキは二人に礼を言った。何度礼を言っても足りないような気がするのに、高熱でひび割れた唇からこぼれたその声は譫言(うわごと)のようにか細くて、体調はまだまだ回復とは言いがたい。

「『治癒水(ちゆすい)』を作ってきたから、これ飲んで。病には意味無いけど、多少は体力を回復してくれる。それと、何か食べられるようなら食堂に行ってこよう」

「……ありがとう……」

 枕元に置かれた『治癒水』の小壜は五、六本はある。背中を支えて貰いながら、差し出された瓶の中身を一本飲み干す。渇いた喉に『治癒水』は甘露のようで、心なしか気分も良くなってくる。

「出来れば着替えた方が良いね。……手伝おうか?」

「……着替え、取って貰えれば……自分で、出来ます……」

 どちらかが脱がせてくれたのだろうか、ブーツはベッドの脇に揃えられていた。制服代わりの黒いマントも、クローゼットに片付けられている。もそもそとレーキが着替える間に、アガートはこれからの事を事細かにズィルバーに指示していた。

「良いかい? 熱が下がったらなるべく食事を食べさせて、水を沢山飲ませるんだ。それから乾いた服に着替えさせてね。食事は消化に良いモノを。あーこれはアニル姉さんに聞けば解る。熱が下がらないようなら『治癒水』を飲ませて、いつでもオレを呼んで。……あ、オレはアガート・アルマン。君は?」

「……し、小生はズィルバー・ヴァイスと申しますデス……」

 二人そろって、自己紹介も後回しにして付き添ってくれたのか。それがとても嬉しくて、レーキは新旧のルームメイトをぼんやりとみつめてふっと微笑んだ。

「……良かった。笑えるならもう大丈夫。……あのね。何があったのか、聞いても良いかい?」

 微笑み返してくれる、アガートの(ひとみ)が優しくて。レーキは授業であった出来事を、ぽつりぽつりと話した。

「……そんな……!」

 横で話を聞いていたズィルバーも、告げられた事実に動揺したようで大きく肩を震わす。

「……そうか。それはショックだよね……でもさ、レーキ、新入生君。君たちの周りにいる天法士のこと、よく考えてごらん。彼らは短命かい?」

 子供たちを諭すように、アガートはレーキとズィルバーに言う。良く思いだしてごらん、と。

「……」

「まずは院長代理。あの方もう七十を過ぎてるけど、ピンピンしてる。レーキの師匠だった方も七十の坂を見たよね? 現役で授業を持ってる教授陣だってそんなに若くは無いだろう? 何よりオレも君たちより年上だけど、なかなか死にそうには無いよね?」

 そんな風に言われると。確かに、レーキは短命な天法士を知らなかった。亡くなってしまった師匠も、一般的には長生きだったと言われる年齢だった。

「……それじゃあ……俺も……?」

「ああ、大丈夫さ。……それに、今の所オレは死の予兆も感じない。安心して」

 いつものように、アガートが笑って片目をつぶる。ズィルバーには死の王から受けた呪いの話はしていない。それを(おもんぱか)っての事か、アガートは意味ありげな物言いをする。

 死の王の呪いがある限り、アガートは自分より早く死ぬ。その彼が大丈夫だというなら、今はまだ『その時』じゃない。この体調の不良も一時なモノ。アガートはそう言いたいのか。

「……さて。レーキが目覚めて安心したから、オレは一度、教師寮に戻ろうかな。朝になったらまた来るよ。後は任せて良いかい? 新入生君」

「ハイ! お任せくださいマス! 先生サマ!」

 今更ながら、かちかちに緊張して応えるズィルバーに、アガートは苦笑を漏らした。

「様は要らないよ、アガートで良い……って言うのも気後れするだろうから、ただの『先生』で良いよー」

「解りましたデス、先生!」

 敬礼でもしそうなズィルバーの勢いに、アガートは苦笑を深くして、新入生の両肩に軽く手を置いた。

「……君は元気な良い子だねー。あ、君も看病はほどほどにして寝るんだよ。君まで倒れたら大変だからねー」

「はい!」

「それじゃ、おやすみ。レーキ、ズビルバー君」

「……小生はズィルバー、デス……」

「ああ、ごめんごめん。オレ人の名前覚えるの苦手でさー」

 教師になっても、アガートの悪癖は抜けないらしい。茫洋と笑いながら謝罪するアガートを見ていると、気分が落ち着く。大丈夫。日常はまだここにある。俺は生きている。きっと明日も、その明日も生きているだろう。そんな不確かな希望がある。

 レーキは目をつぶった。

 明日また目覚めて生きるために。さいわいな事にその夜、夢はもう見なかった。

 

「……おはようございマス。レーキサン」

 目を覚ますと、そこにはフードの奥の暗がりからこちらを覗き込んでいるズィルバーの顔が見えた。

 早朝の鮮やかな陽の光を受けて、ズィルバーの複眼は銀色金色と様々に色を変える。まるでキラキラと光る鉱石のようだとレーキは思った。蟲人の貴色は『白』。『金属』を象徴する色だ。

「……ああ、おはよう……ズィルバー」

 どうにかベッド上に起き上がる。まだ体の節々がぎこちない。それでも、気分は昨晩と比べものにならないほど爽快だった。

「……具合はどうますデス?」

「……うん。熱はだいぶ下がったみたいだ。気分もいい」

「お水、飲みますデス?」

 アガートの残していったアドバイスを忠実に実行するつもりか、ズィルバーは水差しから木製のコップに水を注いで手渡してくれる。

「ありがたく貰うよ。……それと、昨日は本当にありがとう」

「いえ、いえ……! 小生に出来たのは先生を呼んできたことだけマス……」

 恐縮してしまっているズィルバーに、レーキは微笑んで、手にしたコップの中身を飲み干した。

「……うん。旨い。それに、だけ、じゃ無い。君のお陰で俺は今こうして水を飲めてる。ありがとう。君が同室になってくれて、本当に良かった」

「あ、あ、その、あの……小生も……レーキサンと同室で良かったますデス……」

 褒められたことがこそばゆいのか、ズィルバーはあたふたと両手を振った。

「……レーキサンは小生の顔、見ても『怖い』も『醜い』も言わなかったマス。小生の共通語(コモン)も笑わない、デス……ニクスを出て、この国に来る間、みんなみんな小生を怖がるますデス。蟲人は滅多にニクスを出ないマス。旅する蟲人は少ないますデス」

 この小柄で内気な少年が、故郷をでてから何があったのか。珍しい容姿をしていると言うだけで、こんなに人目を恐れるようになるには、どんな出来事があったのだろう。それはきっと悪意に(まみ)れたモノだったのだろうと、想像するだに怒りが湧いてくる。

「……俺には蟲人の美醜は解らない。……でも君はきっと醜くなんか無い」

「レーキサン……」

 ズィルバーの銀色をした鉤爪状の手を握って、レーキはきっぱりと告げた。ああ、そう言えば今日は手袋をしていないし、マフラーも巻いては居ない。次第に夏の足音が聞こえる季節だ。それなのに完璧に膚を隠し続けることは困難なことであったろう。せめてこの部屋に居る時くらいは、(わずら)わしい装備なしでのびのびと過ごして貰いたい。

 レーキがその旨を告げると、ズィルバーは戸惑いながらそっとマントのフードを外した。露わになったその横顔はやはり白銀で。陽射しに映える(きら)めきを、レーキは美しいと思った。

「……蟲人である君をどんな風に褒めて良いのか、俺はよく知らないけど……君のその白銀の色はとても綺麗だと思う」

「……ううっ……それは……蟲人でも体色を褒めるなんて、恋人同士しか、しませんデス……」

 ズィルバーが人間の様な膚を持っていれば、きっと赤面していたのだろう。その代わりに新入生は鉤爪で顔を覆って俯いた。

「……え、あ、そ、それは……ごめん」

 恥ずかしげに俯くズィルバーに、今度はレーキが慌てる番だった。

「ただそう思っただけ、なんだ……あの、その、た、他意は無い……!」

 慌てて言いつのるレーキとズィルバーの間に、気まずい沈黙の時が流れる。その間を縫って、コンコンと戸を叩く音がした。レーキは咳払いをして、ズィルバーは慌ててフードを被り直した。

「……どうぞ」

「やっほー。二人とも。もう起きてる?」

 ズィルバーが開けた扉の前に立っていたのは、朝になったらまた来ると言っていたアガートで。レーキとズィルバーは、顔を見合わせて笑い出した。



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第32話 寮の部屋でⅡ

「オレだと解った途端笑うんだからなー全く失礼な後輩たちだよ」

 怒っているように唇を尖らせてみせるアガートは、籠にいっぱいの朝食と追加の『治癒水』を(たずさ)えていた。

「……さて、二人とも睡眠はちゃんと取れたかい?」

 はい。と頷いた後輩二人に、先輩は「よろしい」と鷹揚(おうよう)に返してみせる。

 すぐさま茫洋(ぼうよう)と表情を変えて微笑んだアガートは、レーキの額に手を触れて熱を確認した。

「……うん。熱も下がったみたいだね。何か食べられるかい?」

「はい。……実は今すごく腹が減ってます」

「よしよし。食欲が戻ればもう安心だね。ほら。ヴァローナのパンと野菜のポタージュ。それから『チーズも食え!』ってアニル姉さんが」

 アニル姉さんなら、『食って寝れば治る!』位のことは言いかねない。きっとそれもまた真なのだ。良く栄養を取って休息する事に勝る療養は無い。

 アガートから朝食を受け取った瞬間、焼きたてのパンの香りがふわりと鼻腔をくすぐる。それはもう幾度食べたか解らないヴァローナの柔らかなパンの薫香(くんこう)。途端にレーキの腹の虫がきゅうと鳴いた。

 夢中で丸いパンに(かじ)りつく。良く咀嚼(そしゃく)すると温かな小麦の甘さが舌に心地よい。ヴァローナのパンはミルクをふんだんに使い、こね過ぎず発酵に時間をかける。五大国の主食パンの中では一番柔らかで、贅沢であるのがヴァローナの製法だった。

 水筒に入れられていた、地の野菜をたっぷり使ったポタージュもまた旨い。空きっ腹に染み通り、気持ちを温かくしてくれる。

「……あ、飯は君の分もオレの分もあるからね。遠慮しないで食べて」

 レーキが旨そうに朝食を頬張り出すと、アガートは籠の中から次々と食物を取りだした。ズィルバーは焼きたてパンを手渡されて、おろおろと二人の先輩を交互に見た。

「……大丈夫。この人は君を罵ったりするような人じゃ無い。だから……大丈夫」

 力強く断言するレーキのその言葉に、意を決したようにズィルバーはフードを脱いだ。

「……ああ、君が……噂の蟲人の新入生だったんだね?」

 蟲人を目の前にしたアガートの反応は、思っていたよりもずっと平静だった。一度(ひとみ)を瞬いて、それからいつもと同じように微笑んだ、だけ。

「君の事は教師たちの間で噂になってる。蟲人の天法士はとても珍しいし、ヴァローナの天法院に入学してくる蟲人はもっと珍しいけど……前例が無い訳じゃ無いんだ。蟲人は平均して天分が強いと言われている。今はみんな手ぐすね引いてどうやって君を一人前の天法士にしようかって思案中。君、入学試験の成績もなかなかだしね。二年になる頃には引く手数多(あまた)だろう」

 事もなげに、アガートは続ける。いつだって、先を閉ざそうとする高い壁に風穴を開けていくのは天法士だった。

 レーキにとっての師匠が、そうであったように。今遠い国からやってきて、傷ついた亜人の少年の固い殻を壊していくのは、やはり天法士のアガートで。

「……うーん。その前にさ、何か困っている事とかはないかい? ニクスとヴァローナでは随分気候が違うしね。体調とか文化の違いとか……何でも相談に乗るよ? そのための教師だからね」

「……あの、あの……先生は……小生が『怖く』は無いの、デス……?」

 恐る恐る、ズィルバーはレーキに投げかけたのと同じ問いを、アガートへ向ける。

「ううーん。……怖いね。その若い才能がねー怖いねー」

 いつも以上に冗談めかして、アガートが応えると、ズィルバーは苛立ちを隠せないようにずいっと顔をアガートに向けた。

「あの、その、……そんな事では無くて! この顔! この顔が怖くは無いの、デス!?」

「……君は、『怖い』と言われる方が好みかい?」

「……いいえ! いいえ! 決して!!」

 アガートの静かな質問に、ズィルバーは叫びだしそうな声音で返した。

「……そうか。君が顔を隠しているのはそのせいだね? 誰かに言われたんだね。『怖い』って」

「……ハイ。ずっと、ニクスを出てからずっと言われたデス……『あいつは醜い』とか、『怖い』とかたくさんたくさん……!」

 その言葉を投げつけられた時のことを思い出すのか、ズィルバーはぎゅっと胸を押さえて俯いた。

 そんな新入生に、アガートは穏やかに優しく子守歌でも歌うように続ける。

「……君はそう言われてどう思った?」

「……すごく悲しくて……苦しくて、でも小生は共通語(コモン)が下手だから、何も言えなくて……でも、おかしい、のは……『怖い』のは、蟲人じゃナイ、あの人たちデス……!」

 それが、ズィルバーの本音。どうして、見ず知らずの他人に酷い言葉を浴びせることが出来るのか、外見が異質だと言うだけで、どうして石持て追うことが出来るのか。蟲人の町に来れば異質であるのは、お前たちの方なのに。

「……そうだよ。その通りだ。……君はね。言葉の事もあるけど、多分必要以上に心に気持ちを封じ込めてしまう人だ。だからね、ホントはもっとそうやって気持ちを吐き出して良いんだよ。人間が本当に恐怖を抱くのはね、『解らないモノ』なんだ。君が言葉を、怒りを吐き出さなければ相手はそれを理解できない。だから君に感じなくて良い『恐怖』を感じる。恐怖を感じると人はその対象を排除しようとしてしまうんだよ」

「……小生が、『怖い』のは、小生のせい……?」

 ズィルバーの発言を、アガートは首を振って否定する。

「ううん。違う。みんなが『君を知らなすぎるせい』さ。君には怒りがあって悲しんで傷つく心があって、才能があって、蟲人で、気持ちが優しいってことを知らない奴が多すぎるんだ」

「……」

 不意に突きつけられた、気持ちを解放すると言うこと。ズィルバーには、まだ良く飲み込めないのだろう。彼はただ黙ってアガートの答えを聞いている。

「……ま、急に『怒れ』なんて言われても君は戸惑ってしまうだろうけどねーまずは伝えたいと思うことだよ。自分が今どんな風に考えているかってね。それで、君がどんな子だか解った上で攻撃してくるような奴は……もうどうしようも無いかなー無視するとかぶん殴る、とか?」

「先生……暴力はいけないと思うマス……」

 アガートの冗談に、ふっとズィルバーの口元が笑った。蟲人の表情は他の亜人や人間に比べると分かり難いと言うが、ズィルバーの顔も手足も複眼も、彼の気持ちを雄弁に語っているようなそんな気がする。

 成り行きを見守って居たレーキも、思わず笑みを浮かべた。自分に出来るのは、ズィルバーと一緒に怒りを溜め込むことだけ。どうしたら、彼が周囲の眼を極端に気にしないで生きられるようになるのか、彼に自信を持たせてやれるのか、考えて導いてやることはきっと自分には出来ない。

 だから、レーキはズィルバーをアガートに引き合わせてやりたかった。彼ならきっと新入生を解ってくれる。導いてくれる。解放してくれる。

 だから、二人がこの場にいて、冗談を言い合う様子がとても嬉しい。そんな日がこんなに早く来てくれて。とても、嬉しい。

 その時、誰かの腹の虫がぐうぅと盛大に鳴いた。

「すみまセン、小生デス……昨日の夜は大変で、食べられなかったカラ……」

 マントを跳ね上げて、おずおずとズィルバーが鉤爪の手を上げる。よく見ればその腕は左右に二対、合計で四本の腕が天井を向いていた。彼は、腕の数が人間と違うことも隠していたようだ。

「……うんうん。冷める前に朝飯食べちまおう。レーキは『チーズも』」

「『食え』ですね。……ありがとう。アニル姉さんにもありがとうって伝えてください」

「えーめんどくさいー君が自分で言った方が姉さんも喜ぶぜー」

「……まったく、もう! その位頼まれてくれたって良いじゃ無いですかー!」

 レーキはアニル姉さんのお気に入りだとアガートは言うが、レーキにはいまいちその実感が無い。

 姉さんは皆に厳しく、優しく、いつも元気な食堂の調理人だ。ヴァローナの国立学院に務められるくらいだから、腕も身元も確かな人なのだろう。

 姉さんには、食堂が空いている時間に調理について質問をしたこともある。ただ食堂に食事をしに来て、すぐに去って行く生徒たちと比べれば、自分は姉さんと親しい間柄であるとは思うが。姉さんは、生徒によって態度を変えるような人では無かった。

「……所でさ、夜食べられなかった、で思い出したんだけど。レーキ、君、最近夜を抜いたり朝を抜いたりなんてこと多かったろ? アニル姉さんが『最近食堂でアイツを見ない』って言ってたぜ」

「そう言われてみれば……最近忙しくて、気がついたら食堂の開放時間が終わっていたりしたことがよくありました。あ。その……アガートと同室だった頃は良く夜食を用意して貰ってたから……その癖が抜けなくて……朝も……ギリギリまで睡眠時間を確保したくて……あ、でも宿屋の仕事の時はまかないも出てたし……食ってないなんてことは……」

 レーキの言い訳じみた言葉に、アガートは心底あきれたとでも言うように苦い表情を作った。

「……君ねぇ。健康な成人男性が一日約一食で体が持つ訳無いだろ? ましてや昼間は実習、夜は仕事なんて忙しくしてるのに。無茶も良いとこだよ!」

「……返す、言葉が、無い……です……」

 指摘されてみれば、反省しきりである。なるほど、授業で知った事実のショックも大きかったが、この所の忙しさにかまけて体調管理を(おろそ)かにしていたツケが回ってきたのが今回倒れてしまった一番の原因のようだ。

「……とにかく、君は体調が回復するまで食って寝ること! 復調したら一番にアニル姉さんに礼を言うこと! 君の担任と職場にはオレが連絡しとくから。安心して休むこと!」

「はい……」

 しょんぼりと頷くレーキに、びしりと指を突きつけてアガートは命じる。

「新入生。ズ、ズイ……とにかく君は言いたいことを我慢しないこと! 後出来たらで良いけどこいつが飯を食ってなかったら叱ること!」

「解りまシタ! えっと……小生はズィルバー、デス! 先生! 覚えてほしい、デス!」

「お。早速はっきり言えたね! よし! ……でも名前を覚える件はちょっと猶予が欲しい……そんな先生であります! ……えへへ」

 誤魔化すように茫洋と笑うアガートに、後輩二人は思わず顔を見合わせて、笑い出した。

 

 



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第33話 『治癒水』の行方

「『治癒水(ちゆすい)』の製造を辞めようと思う」

結局、四日の間休養をとって、レーキは復調した。

 アニル姉さんに礼を言いに行って、しっかりとお叱りを受け、溜まりに溜まった課題も何とかこなす。

 起きあがれるようになってから一週間後の放課後、レーキはオウロの実家、彼の部屋にいた。

「……そうっスね。そろそろ潮時ってヤツかもしれないっス~」

 オウロは帳簿とにらめっこしながら、あっさりと肯定する。

「……いいのか?」

「随分稼がせて貰ったし……近頃取引額が大きくなりすぎたと思ってたっスー。それに……」

 オウロは警戒するように辺りを見回して、声を潜めた。

「……近頃『治癒水』のことを嗅ぎ回っているヤツらが居るみたいっス。グラーヴォの所にも話を聴きにきたらしいっス。何も知らないって追い返したみたいっスけどね~」

「……何が目的なんだ? そいつらは」

 自然とレーキも声を潜めて訊ねる。自分には心当たりがない。

「うーん。解らないっスけど……何だかきな臭いっス。オレっちたちが儲けてるのを気に入らない奴ら……例えば『治癒水』作ってる正規の天法士にとっても目障りな存在には違いないっス……ま、オレっちにちょっと考えがあるっス。その辺は任せとくっス!」

 オウロはニヘリと笑みを浮かべて、請け負ってくれた。頼もしくはあるが、いったい何をするつもりなのか。心配でもある。

「……所でレーキはどうして『治癒水』作りを辞めたいっスか?」

「それは……」

 言いよどむレーキに、オウロはみなまで言うなとばかりに頷いた。

「……言いたくない事ならいいっス~。元々『治癒水』の話はレーキが資金を貯めたいから始まったことっス。そのレーキが辞めたいなら、すっぱり辞めるっス~」

「……有り難う。でも言えない訳じゃ無い。まだ俺の中でも上手く折り合いがついてないだけなんだ」

 そうして、レーキは授業で知った、天法(てんほう)は天分、つまり自分の生命力を使って発動する術だと言うことをオウロに伝えた。

「……休息して回復するものとは言え、今の俺は余分に天分を使う気になれないんだ。それで『治癒水』の製造を辞めたい」

「……はあ~っそりゃ当然っス……オレっちだってそんなの聞かされたら辞めたいって思うっス……」

 大きな溜め息と共に、オウロはがっくりと肩を落とした。

「……それにしても……便利な術ってのはやっぱりコワい代償があるもんっスね……」

「……そうだな。俺もまだ怖い」

 肩を落とした姿勢のまま、オウロはレーキを案ずるように見上げる。

「……レーキはそれでも天法士(てんほうし)になるっスか?」

 その問いへの答えは決まっている。とっくに心は定まっているのだから。

「ああ、俺にはそれしか道がないからな」

「……でも、レーキなら料理人にだって何だって成れるっス……何で、天法士かって聞いても良いっスか~?」

「……俺は亡くなった師匠に誓ったんだ。『天法士になる』って。それに……他にも天法士に成りたい理由も成らなきゃいけない理由も沢山ある」

 そうだ。盗賊の小僧の憧れが、もう直天法士に成れると言う所まで来たのだ。諦めるつもりも辞めるつもりもない。

「そうっスか……それならオレっちに出来ることは応援することだけっス~。レーキ、ガンバるっス!!」

「……ありがとう。オウロ」

 励ましてくれる友人が居る。その事がとても嬉しいと同時に、身を引き締めてくれる。王珠(おうじゅ)を授かるその日まで、死の王と対峙するその日まで気は抜けない。

「……ただ、今『治癒水』の販売を辞めるとグラーヴォに迷惑がかかりそうで少し心配だ」

「……ああ、その辺りもオレっちの考えが上手くいけばどうにかなるっスよ。いいっスか~?……」

 

 オウロの家で、『治癒水』について話をしてから一週間後。レーキは『赤の()』の教室にいた。

 すでに朝一番の授業は終わって、今日から選択授業が加わる。

『赤のⅤ』の生徒たちも二限目は『治癒』『薬学』『儀式』『攻撃』など様々な専門的な天法の授業に散っていく。

 レーキが選択したのは『儀式』と『治癒』の二つだった。

「……レーキ・ヴァーミリオン」

 次の授業のため、教室を移ろうとしていたレーキを呼び止めたのは、近頃は全くこちらを無視していたシアンだった。

「……俺に、何か用か?」

 訝しげにレーキが応えると、シアンは勝ち誇ったような表情をして、こちらを(にら)みつけてくる。

「……お前が学院の外で『治癒水』を違法に販売している事は調べがついてるんだ!」

 重大な秘密を暴き立てるように、指を突きつけてくるシアンを、レーキは静かな表情で見つめる。

 ああ、やはり『治癒水』の事を探っていたのはシアンの息がかかった者か。それで得心がいった。

「……それが、どうかしたのか?」

 あっさりと認めたレーキの予想外の反応に、シアンは怒りを(つの)らせているようで軽く唇を噛んで続ける。

「……それも正規の値段では無いらしいな!」

「学生が作ったものだからな。当然効果は正規の天法士が作ったものに及ばない。安くして当たり前だろう?」

「屁理屈を言うな! この事は当然学院に知らせる! お前のような違反者がこの神聖な学び家に居て良いはずがない!」

「……何を勘違いしているのか知らないが……『治癒水』は学院内で作ったものだ。違法には当たらないし、それに学院の許可は得ている。『治癒水』の販売は『天法院(てんほういん)』と『商究院(しょうきゅういん)』、『剣統院(けんとういん)』の共同計画なんだ。知らないのか?」

 オウロの『いい考え』。それは学生たちが秘密で続けてきた『治癒水』の販売を、(おおやけ)のものとする事、だった。

 オウロはまず『商究院』の教師を巻き込み、学生が作った『治癒水』が有用な商材であること、販路が確立されていることを認めさせた。

『商究院』は『天法院』と『剣統院』側にも働きかけ、『天法院』には学生の小遣い稼ぎ程度の『治癒水』の製造を許可して貰った。また、『剣統院』には学生が作った『治癒水』を安く買って貰い、生徒たちに活用して貰えるように約束を取り付けた。

 レーキが『治癒水』を販売していた件は、先行試験と見なされ、セクールスに「ほどほどにしておけ」と言われただけでお(とが)めはなかった。

 かくして、『治癒水』販売はレーキの手を離れて行ったのだ。

 ちなみにオウロはこれからも『治癒水』の販売に関わって、その時付けた帳簿などをまとめて『商究院』卒業の課題がわりにするつもりだと言う。

「……そんな、馬鹿な!」

 シアンの元に届いた報告は、少しばかり情報が古かったらしい。驚愕するシアンに、レーキは静かに告げる。

「君も金に困っているなら『治癒水』を作って回収担当のクランと言う生徒に持って行くと良い。出来が良ければ良い値段で買い取って貰えるぞ」

『治癒水』販売を公にする課程で、クランにも事実を打ち明けた。始めは(いきどお)っていたクランだったが、これからは一枚噛んでも良いと言ったオウロの言葉に機嫌を直して、出来上がった『治癒水』の回収担当になってくれた。クランが回収した『治癒水』は、教師によって検査されてから、『剣統院』に送られる手筈(てはず)になっている。

「……だ、だれがそんな下賤なマネを!!」

「そうか。俺たちは『治癒水』の練習が出来て、『商究院』は商売が出来て、『剣統院』は『治癒水』が手に入る。誰も損をしない良い仕組みだと思う。誰が考えたのか知らないが」

 いままで非公式で天法院の生徒たちが行ってきた小遣い稼ぎを、公式の商売にしたのはオウロの功績だ。それを知っていて、レーキはしれとした表情で告げた。

「……なあ、シアン・カーマイン。君は金持ちの生まれでここでの成績も悪くはない。何が不満なんだ?」

 唐突なレーキの問いかけに、シアンは眉を(くも)らせる。レーキにとっては本当に疑問なのだ。どうしてそれほどまでに自分を敵視するのか、どうしてそんなことに時間を割けるのか。

 レーキは課題と仕事に追われ、倒れるまで走りつづけてようやくこの場所に立っていられるというのに。

「……君は俺を敵視しているが、俺は君より飛び抜けて優秀でもなければ君と競うほどの金持ちでもない。ただの農民出の田舎者だ。そんな相手に労力を使うより授業や課題に注力したほうがより建設的だと思うが」

「……っ!!」

 正論で諭されてシアンは、怒りで顔色を朱に染めた。シアンとて解っているのだろう。レーキをいくら責め立てた所で、彼は折れもしなければ学院を辞めたりもしない。そしてシアンの思惑通りにレーキが折れたとしても、満たされるのは自分の自尊心だけだ。レーキが学院に居ても居なくてもシアンの成績は変わらないし、彼がカーマイン家の跡取りで有ることには変わりない。

「……貴様の……その自分はさも『大人』なんです。とでも言いたげな態度が気に入らない……!」

 シアンが絞り出した答え。それはシアンの本音でもあるのだろう。

 始めは黒い羽が目障りだった。だがここヴァローナでは黒は貴色で、他の人間や亜人たちはレーキの羽色など気にもとめない。言い立てれば言い立てるほど、孤立して行くのはシアンのほうで。それは目に見えている。

 次に腹が立ったのが、レーキのシアンに対する態度だった。どんなに痛めつけても感情を爆発させたのは一度きりで、普段は大人ぶって取り澄ましている、とシアンは思っているようだった。

「……実際の所、俺は君より年上で成人しているんだがな。そうか。それはすまなかった。……これから態度を改めるように努力する」

 レーキは困ったように眉を寄せるが、シアンにとってはその表情こそが腹立たしい。

 まるでだだをこねる子供を前にした大人のような表情(かお)じゃないか!

「……もういい! 貴様に関わるとろくなことが無い! 貴様のことは今後無視する!」

 癇癪(かんしゃく)を起こした子供のように言い捨てて、シアンは教室を出て行った。

「……」

 一人取り残されたレーキは、ひっそりと溜め息をつく。シアンの宣言通りこちらを無視してくれるなら、気が楽だ。

 さあ、選択授業が始まる。急いで教室を移動しなければ。レーキは気持ちを切り替えて、『赤のⅤ』を後にした。

 

 



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第34話 ウバの畑で

 やけに暑い夏が訪れて、ヴァローナはうだるような残暑に()かれた。その残暑も『黄色の月』を迎えて和らぎ、近頃はようやく過ごしやすくなってきた。

 もう季節は実りの秋。学究の館、近隣の村々でも果実酒(ワイン)にする赤紫色のウバ(ブドウ)の小振りな果実が、あたり一面の畑にたわわに実って収穫の時期を迎えていた。

 ヴァローナのワインは甘口で口当たりも良く、若いモノから熟成されたモノまで人気が高い。高級品は近隣諸国にも輸出されており、『ヴァローナの果実酒』と言えばワインの代名詞にもなっている。

 この時期はどの農家も、収穫とワイン仕込みの人手が足りない。学究の館から、手伝いの人員を頼むと言うことも多かった。そんな時、貧乏学生はこぞって収穫に参加する。飯は保証されているし、手間賃もはずんで貰えるからだ。

 今年はレーキも、ズィルバーと一緒に街の近くの農家に雇われた。授業を休んで休日の『諸原(しょげん)の日』を含んだ三日間住み込みで働く。

 初めはレーキ一人でこの仕事を受けようかと思っていたが、近頃、時々素顔を(さら)すようになったズィルバーが「小生もお供したいデス!」と言い出した。これもいい社会勉強になるだろう。レーキは承諾(しょうだく)し、結局二人でウバ摘みをすることになったのだ。

 

「それじゃ、わたしが二人にウバの摘みかたを教えるね」

 レーキたちの指導役になったのは、お世話になる農家の娘だった。年の頃はズィルバーと変わらない十五、六歳くらい。そばかすの散った顔が明るい褐色で、元気の良さそうな娘だ。

「わたしはレサン。よろしくね!」

「俺はレーキだ。よろしく頼む」

「小生はズィルバーと申しマス。この度はよろしくお願いいたしマス!」

 フードを目深に被ったズィルバーのやけに(かしこ)まった挨拶に、レサンはくすぐったそうにくすくすと笑って頷いた。

 ズィルバーはアガートに共通語のレッスンを頼んで、このひと夏、放課後に練習していたようだ。この頃は訛りは残るものの語彙は各段に増えていた。

「じゃあ早速始めるね! 熟したウバは柔らかいから……こう、優しく手に持ってね? そしたらこのツルの所をちょきん! 後は優しく籠に入れて、籠がいっぱいになったらあっちの納屋に持って行ってね。そこで母さんたちが実を選別するから」

「ああ、解った。収穫用のハサミはこれか?」

「そうそう」

「小生はハサミを二つお借りしても宜しいデスか?」

「ああ、あなたは腕が四つ有るもんね。……スゴいね! それも天法? あなたたち天法院の学生なんでしょ?」

「はい。小生たちは天法院の学生デス。ですが小生の腕は生まれつきデス。天法ではありまセン。それに学生は天法院の外で天法を使ってはならない決まりなのデス」

「そっかー。残念! せっかく天法が間近で見られると思ってたのに!」

 明るく笑うレサンは、それ以上ズィルバーの腕については深く聞いてこない。そう言う種族の亜人なのだと、納得しているようだ。

「さあ! さっさと収穫始めよう! ウバの実が熟れすぎたら困るもの!」

 レサンの発破を合図に、レーキとズィルバーは収穫を始める。最初は柔らかい実に遠慮して恐る恐る。熟したウバの実がそう簡単に傷つかないと解ってからは、手早く大胆に。

 レーキとズィルバーの隣ではレサンが、その隣にはレサンの父親、他にも雇われた者たちが黙々とウバの実を摘んでは、納屋に運んで行く。

 納屋では、レサンとよく似た彼女の母親と仲間たちが傷付いた実や過熟した実を手早くより分けている。ワインに出来ない実は、皮ごと絞って果実水にするという。

 早朝から収穫を始めて、もう何度畑と納屋を往復しただろうか。レーキはふと手を止めて、首にかけていた布で額の汗を拭った。

 時折、低木の連なるウバ畑を吹き抜ける風が心地良い。残暑の季節は過ぎたとは言え、今日の天気は晴天で。労働していると暑さを感じるほどによく晴れ渡っていた。

 ──この緑と赤紫色の畑の上を飛んで見たらさぞかし気持ちが良いだろうな。

 ウバ畑をわたる風のように、この快晴の秋の空を飛ぶ。それは鳥人にこそ許された大いなる喜びだ。だが、レーキは盗賊団を(いた)んだ日から大空を飛ぶことを止めていた。

 飛べない訳ではない。ただ不用意に空を飛んで墜落することが怖くなったのだ。

「……ちょっと疲れちゃった? もう直、昼ご飯だよ!」

 空を見上げて一息ついていたレーキに、レサンも額の汗を拭いながら明るい声で言う。

「昼ご飯は母さんお手製のウバ料理なの。ウバの葉でお肉とか色々包むのよ!」

「へえ。ウバの葉が料理に使えるとは知らなかった。食べるのが楽しみだ」

「母さんはこの辺りじゃ一番の料理上手だから。期待するといいよ!」

「……ああ、想像するだけで……小生はもうお腹ぺこぺこデス……!」

 四本腕で、黙々とウバの実を摘んでいたズィルバーが情けない声を出した。腕が多い分、ズィルバーは他人より腹が減るのが早いのだろうか。そんな少年の様子に、レサンは弾けるように笑った。

 

 昼を告げる鐘が遠く、街中から微かに農村に届く。ウバを摘んでいた人々が、やれやれと作業の手を止める。レーキとズィルバーもまた、その鐘に気付いて顔を上げた。

「さあ! お昼ご飯の時間だよ! 納屋の前に行って!」

 ウバの実で満杯になった籠を軽々と小脇に抱えて、レサンはおさげ髪をなびかせ、踊り出しそうな足取りで納屋へと向かっている。レーキたちも籠を手に急いで後を追った。

 納屋の前には、簡易なテーブルが(しつら)えられていた。その前で、レサンの母親が皿になにやら料理を並べているようだ。

「母さん! わたしも手伝う!」

 駆け寄って手早く籠を置いてくる娘に、母親は優しい笑みを向ける。

「あらあら。走ったら危ないよ」

「大丈夫! ウバも潰れてないわ!」

「まあまあ。まずは手を洗ってらっしゃい」

「はーい!」

 母親とレサンは、顔こそよく似ていたが性格は全く違っているようだ。ようやく追いついてきた学生二人に向かって、レサンは「井戸はこっちよ!」と、言いながら元気よく駆け出して行く。

 冷たい井戸の水で顔と手を洗うと、指先はわずかにウバの赤紫色に染まり始めていた。

「……三日もウバ摘みしたら、指なんかウバ色になっちゃうわよ」

 きゃらきゃらと花が(こぼ)れるように少女が笑う。レーキとズィルバーも、その笑みに誘われて破顔した。

「さあ! ご飯並べるの手伝ってね!」

「ああ」

「はいデス!」

 三人はレサンを先頭にして、食卓に駆け出していった。

 

 昼食に舌鼓を打って、ウバを絞った果実水で食後の一息をつく。ウバの実の果実水は甘さの中に(ほの)かに渋みと酸味が内包されている。一気に体の疲れが癒やされていく。そんな気がする。

 確かにレサンの母親は料理上手で、昼食はとても旨かった。ズィルバーはウバの葉で挽き肉を包んだ料理をおかわりした。

「あんたは四本の腕で良く働いてくれた。たんとお食べ」

「ありがとうございマス!」

 レサンの父親は、食後にパイプを一服しながらにこにこと笑った。

 食事のためにフードを脱いだズィルバーに、蟲人と出会ったことのない一同は始めこそ驚いた様子だった。

 だが、ズィルバーが自分は蟲人の天法院生だと自己紹介すると納得してくれたようだった。何より、彼が四本腕を生かして人一倍働いていたことを、みなは知っていた。働き者は働き者に優しかったのだ。

「……はあ~っ美味しかったデス!」

「ああ。旨かった……出来たらあのウバの葉巻き肉料理の作り方を教えて貰いたい」

「あらあら。それならお祖母ちゃん直伝のレシピを教えてあげる。わたしはね、もっとみんながウバ料理を作るようになれば良いなーと思うの」

 レサンの母親は喜んで、レーキにレシピを伝授してくれる。レサンはなかなかお料理に興味を持ってくれないの、と困ったように笑いながら。

 一刻半ほどの休憩を取って、一同はウバ摘みの作業を再開した。それは日が沈む直前まで続いた。

 

「……それじゃあ、二人とも。おやすみなさい。明日もよろしくね!」

 レサンは灯りのカンテラを手にして、離れの扉を閉めた。レーキとズィルバーは仕事の間、レサンの家に寝泊まりすることになっていた。

 二人は天法院の学生と言うことで、特別に離れをあてがわれていた。今はレサンたちが用意してくれた堅い板にたっぷりと藁を敷き、シーツをかけただけの寝台に横たわっている。

 暗闇の中でレーキは天井を見つめる。この仕事を終えれば、とうとうセクールスから命じられた資金が目標額に達する。ようやく、ようやくだ。

 これでまた一歩、目標である死の王との対面に近付けたような気がする。

「……ねえ、レーキサン。もう寝ていマスか?」

「……いや。まだ起きているよ」

 遠慮がちに訊ねてくるズィルバーに、レーキは彼が寝ているはずの寝台を振り返って応じた。

「あの、デスね……レーキサンはウバ摘みをして、お金をもらったら……それで何をしマスか?」

「俺か? ……俺は試したい儀式のために祭壇を買うよ。そのために今まで貯金してきたんだ。君は?」

「……小生は……働いてお金を貰うこと自体が初めてデス。だからどうしていいのか解らなくて……それでレーキサンに使い道を聞きまシタ」

「なるほど。……使い道が思いつかないなら……今は貯金しておくと良い。いつか思わぬことで金がいるようになるかもしれない。少なくとも俺はそうだった」

 それも、初めて聞いた時には耳を疑うほどの金額だった。苦笑まじりに告げたレーキに、ズィルバーは頷いたようだった。

「そう、デスね……貯金しマス。あ、でも、一つダケ……買いたいモノが有りマス……それだけ、それだけは買いマス」

「ああ、そうすると良い。……所で買いたいモノって何だか聞いてもいいか?」

「えへへ……それは、内緒、デス……」

 好奇心に負けてレーキが訊ねると、ズィルバーはふふふと笑った。昼間の疲労に身を任せ、その語尾が次第に小さくなっていく。その内小さな寝息を立てて、少年は眠りについたようだ。

「……おやすみ」

 小さく呟いて、レーキもまた目を閉じた。



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第35話 最後の『学究祭』

 ウバ摘みの季節が終わって、とうとう『天王との謁見(えっけん)の法』のための資金が貯まった。『白の月』の下旬。今年も『学究祭(がっきゅうさい)』の三日間がやってくる。

 レーキたち三学年生は、迫り来る卒業試験に集中するために『学究祭』は自由参加となっていた。

 大人しく試験勉強をする者、三年間のまとめを発表する者、開き直って最後の祭りを目一杯楽しむ者……生徒たちはみな思い思いに最後の『学究祭』を過ごしている。

 レーキはグーミエ、エカルラートと共同で「『治癒水(ちゆすい)』の効果・効能を増幅させる応用混色法について」の研究を中間発表する事にした。さいわいなことに『治癒水』作りに関わったことで、論文に必要な試料は容易く手に入る。

 三ヶ月前、レーキが卒業に向けて『治癒水』について論文を書こうと思うとグーミエに話した所、彼とエカルラートが応用混色法を研究していることを知った。エカルラートの思いつきで、三人の研究をまとめて生かすことで何かしら人の役に立つ研究が出来ないかと言うことになった。それで、三人の共同研究が始まったのだ。

 

「……レーキ、お疲れ様。張り番代わるよ」

 祭りの三日目、『赤の教室・()』で共同研究発表についての説明役になっていたレーキに、休憩から戻ってきたグーミエが声をかける。

「ありがとう。ちょうど団体が出て行って暇になった所だ」

 先程まで教室には、天法士たちが数人訪れていた。レーキの説明を一通り聞いて、良くまとめられた興味深い研究だと、言葉をかけてくれた。それが、嬉しい。

「さっき来た天法士の集団に褒められた。良くまとまってるって」

「良かった! 本職に褒められるなら良い線行ってるよね。……我ながら、だけど、この展示はよく出来たから、嬉しいよ」

 発表用の展示は書き文字の美しいエカルラートが中心になって作成された。

 論文をまとめて推敲したのはグーミエで、実験を担当したのがレーキだった。

「俺もだ。君もエカルラートも頑張ってくれたからな。君たちと最終学年でこの研究発表が出来て良かったよ」

「君も一生懸命やってくれたじゃないか。この研究が評価されるなら、それは三人の功績だよ」

 シアンがレーキの過去を暴き立てた一件以来、グーミエとエカルラートには感謝の念しかない。過去を知ってなお、彼らは自分を学生として受け入れてくれた。クラスメイトで有ることを続けてくれた。

 そして、こうして共同研究にも参加してくれる。

「そうか。そんな風にいって貰えると、俺も嬉しい。本当にありがとう……それじゃあ、ちょっと休憩してくる」

「うん、いってらっしゃい」

 説明役をグーミエに任せて、レーキは教室を出た。

 どこに行こうか。今年、クランは出店を開いて居るはずで、ズィルバーは同級生たちと演劇をしているはずだ。

「小生は照明係デス!」

 と、ズィルバーは嬉しそうに語っていた。同級生たちとズィルバーの関係は、良好になってきているようで、レーキもほっとしている。

 教師であるアガートは生徒たちが羽目を外し過ぎて問題を起こさないように見回りしている予定で、セクールスは祭りの間休暇をとって自宅に引きこもっているようだ。今頃は読書三昧の一日を過ごして居ることだろう。

 祭りも、今日で最後日。長かった三年間がいよいよ終わる。それが嬉しいと同時に、とても寂しい。

 いよいよ1ヶ月半後、『黒の月』に行われる卒業試験に合格すればレーキは晴れて天法士となる。

 

 最後の『学究祭』。三日目の夜。研究展示を終えたレーキは、オウロとグラーヴォの二人にズィルバーを紹介した。学院内で顔を合わせる機会のあるクランには、秋がくる前に紹介済みだった。

「小生は天法院の一学年生、ズィルバー・ヴァイスと申しマス。ご覧の通り蟲人(ちゅうじん)でございマス。先輩方、よろしくお願い、いたしマス!」

 少々緊張気味に頭を下げたズィルバーは、フードは被らず、長いマフラーをぐるぐると首に巻いただけ。銀色の角も複眼も晒したままだ。

「よ! 久しぶりー! 今日はフード被ってないんだな」

「ほー! 蟲人は随分ツヤツヤなんだな」

「おおお……!」

 始めて二人を引き合わせた時、クランは学院内の噂でズィルバーのことを知っていた。ズィルバーはなかなか優秀な生徒のようで、希少な蟲人の天法士候補と言うこともあいまって三学年にも噂は届いていたらしい。

 グラーヴォは蟲人に会ったのが初めてのようで、非常に素直な感想を漏らしている。

 一番興奮しているのは、宝石を扱う商人になりたいと言っていたオウロだった。わなわなと震えていたと思ったら、突然顔を上げて叫びだした。

「……噂には聞いていたけど……君、スゴいっス!! まるで白金っス!! 素晴らしい光沢っス!!」

「……あ、あの……お褒めいただきまして光栄でごさいマ……ス……あ、あの……レーキ、サン……!」

 珍しく鼻息を荒くしてオウロは、ズィルバーの周りをぐるぐると回って、彼の光沢をあらゆる角度から観察している。当のズィルバーは困惑した様子で、レーキに助けを求めた。

「……オウロ、ズィルバーが怯えている。その辺にしておいてくれ」

「……おおっと……ゴメンっス! 怖がらせるつもりはなかったっス~! ……その……君があんまりステキな色だったから……」

 オウロは細い目をますます細くして、ぐっとズィルバーに迫っている。ますます怯えるズィルバーの後ろから、レーキは静かに忠告した。

「……それ、蟲人の間では愛の告白みたいなものらしいぞ」

「……おっとっス! ……今日会ったばかりだし、愛の告白はまだ早いっスね~」

 どこまで冗談で、どこまでが本気なのか。オウロは、にこにことした笑みをズィルバーに向けて手を振った。

 レーキがズィルバーを、クランたち三人に会わせたかったのは、ズィルバーの交友関係を広げることが第一の目的だった。

 情報通で顔も広いクラン、大抵のことに冷静沈着で商才もあるオウロ、腕っ節に自信があり『剣統院(けんとういん)』に顔が利くグラーヴォ。彼らならきっと、ズィルバーが何かしらの問題にうち当たった時に、解決の糸口を指し示してくれる。そう思っている。

 加えて。始めて出来た親しい後輩を仲の良い友人たちに紹介したい、と言う単純な動機もある。

 初対面で強めの先輩風を吹かせていたクランは、今日も自分では爽やかだと思っている笑みを浮かべて後輩を困惑させていた。

「自分はグラーヴォだ。剣統院の三年生。……なあ、蟲人って、喧嘩強いのか?」

「あ、その……蟲人の中には強い方もいらっしゃいマスが、小生は喧嘩は苦手、デス……」

 グラーヴォの強面と唐突な質問に、ズィルバーは身を竦めながらどうにか言葉を見つけている。語尾は消え入りそうに小さくなっていた。

「……そうか。なら荒事になったら頼ってくれ。直ぐに駆けつける。レーキの後輩なら自分にとっても後輩だ」

「は、はいデス! ……あ、その……ありがとうございマス……」

「グラーヴォは顔は怖いけど……すげー良い奴なんだ。強くなることに対してもすげー真面目だしな」

 グラーヴォの肩をぽんぽんと叩いて、クランが請け負う。三年間の学習と鍛錬の成果なのか、グラーヴォの体格はますます威圧感の有るものになっている。

「最後のオレっちはオウロっス。さっきは興奮しすぎてゴメンっス~……オレっちは『商究院(しょうきゅういん)』の三年っス。お金稼ぎたくなったらオレっちに相談するっスよ~……君のお願いなら……どんな手を使ってもなんとかするっス~!」

「オウロ、目がコワい……後鼻息荒い……おれ、お前を見る目が変わりそう……」

 どん引きしているクランの横で、オウロはヴァローナ風の挨拶をしている。

 ズィルバーもおずおずと挨拶を返すが、やはりまだ怯えて居るようだ。

「……それじゃみんな揃った所で、行きますか!」

 凸凹四人に、ズィルバーを加えた五人組が向かう所。それはもう、一つしかない。

 

 祭りの最後は決まって夜。

 五人組は『(うみ)燕亭(つばめてい)』の旨い食事を、たらふく楽しんだ。特にグラーヴォとズィルバーは良い勝負で、二人で五人前の料理を平らげてまだ小腹が空いているという。それもまた笑い話で。

 今夜の『海の燕亭』では、祭りに合わせて街にやってきた楽団が陽気な曲を奏でていた。

 レーキはジョッキに半分の若いワインを飲み干して、これは確かに旨いモノだと唸る。ワインを選んだのはウバ摘みの成果がどんな酒になるのか、興味が有ったからだ。

 ズィルバーもワインを試したがったので、少量を分けてやると、彼は「……小生はワインよりも果実水の方が好きデス」とジョッキを置いた。

 晴れて酒を飲んでも咎められない年齢になっていたクランは、やはり少量の酒で酔いつぶれ、酔っても顔色の変わらないオウロはもう何杯目か解らない麦エール酒を嬉しそうに口もとに運んでいる。店にいる客は誰もがみな賑やかに幸福そうで。ほろ酔い加減のレーキもまたしあわせを実感していた。

 宴は続く。『夜の鐘』、街中の鐘が同時に鳴り出す前に、五人組は揃って天法院の敷地内に着いた。もうじき天法士となるレーキとクランの二人は耳に綿を詰めて『夜の鐘』の瞬間に備えている。

 初めて『夜の鐘』を味わうズィルバーは、大きい音がするから耳を塞いだ方が良いと言われて、慌てて腕を隠した。蟲人は耳の位置が人間や他の亜人とは違うらしい。

 先触れの鐘が鳴った。今年も『夜の鐘』が始まって祭りが終わる。先触れに促されて大音量で街中の鐘と言う鐘が鳴り出す。何度味わっても凄まじい振動だ。

火球(ファイロ)!!」

光球(ルーモ)!!」

 レーキとクランは他の生徒たちに混じって火球と光球を作り出しては空へと打ち上げる。

 天法院の上空に、次々と光と炎の華麗な花が咲いた。

 クランが苦手としていた基礎の『赤』天法は、レーキの助けもあって天法士として問題の無い水準にまで高められている。凸凹四人組はみな、この三年で着実に成長していた。

 ──ああ、これでとうとう、最後の祭りも終わりだ。

 感慨と共に。今日位は惜しみなく天法を使う。レーキは両腕で抱えるほどの大きな『火球』を、思い切り上空に打ち上げた。それを一度収縮させ、ぱあっと小さな『火球』に分割させる。炎色を、赤から青へ青から白へ黄へと変化させながら、放射状にばら撒いた。散らばった『火球』は、次第に火勢を無くして消えていく。

 天法院の関係者はその精確な『火球』の扱いに驚き、天法院の外で見物していた人々はその美しさに歓声を上げた。

 オウロとグラーヴォ、ズィルバーの三人も空を見上げて手を叩き驚嘆の声を上げている。

 二十五度目の鐘が鳴り終わる。

 レーキたち最終学年の生徒たちにとって、最後の『学究祭』が、終わった。

 

 



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第36話 卒業式

 その時がやって来た。

『黒の月』、中旬に卒業試験が行われた。

 

「いつぞやの小テストの答えは……『天分』です。『天法は天分を以て全てと成す』と『法術』の序文に有る通り、『天法』とは何かの問いに答えるなら、それは『天分』。すなわち自分の生命の力です」

 セクールスは、レーキの答えを聞いて小さく頷いた。試験の後、レーキはセクールスの個室を訪れて、最後まで残していた課題に返答を出したのだった。

「……その通り、正解だ。答えは『法術』の序文に有るというのに、それを導き出すのに卒業試験までかかるとはな」

「……不甲斐ない生徒で、すみませんでした」

「ふん。お前はまだマシな方だ。小テストに合格しないまま卒業する生徒も居る。私としては不本意だがな」

 相も変わらず不機嫌そうな表情のセクールスは、パイプを片手にゆっくりと紫煙を吐き出した。この二年で、レーキはセクールスの顔は、実際の感情よりも不機嫌に見えると言うことを学んでいた。

「あの小テストは俺たちに卒業までの主題を与えるためのモノだったんですか?」

 レーキの問いに、セクールスは首を振って応えた。

「……違う。卒業してからも、だ。その生徒に足りないもの、その生徒が強化すべきものを選んで課題を与えている。生徒一人ひとりに違う課題を与えるのは、その生徒が生涯に(わた)って向き合う壁とするためだ」

 生徒を導くことが嫌だ、研究をしていたいと口癖のように言っていた教授は、誰よりも生徒たちの事を考えていた。やるからにはとことんまで。それがセクールスの信条なのだろう。

「では俺の課題も?」

「そうだ。お前は堅すぎる。多くを学ぶためには柔軟な思考もまた必要なのだ」

「……ありがとう、ございます。先生は……生徒を見るのが億劫だとおっしゃいますが……とても優しい先生だと思います」

 素直な感謝を口にする生徒に、セクールスはいつも通りの表情を崩さず鼻を鳴らした。

「ふん。くだらん。お前たちが無事卒業すれば私は二年間は学生どもに関わらずにすむ。研究に使える時間が増える。それだけのことだ」

 そんな風に言い捨てた、セクールスの口許は心なしか満足げで。レーキにはそれが誇らしかった。

 

 卒業試験の結果は『混沌の月』の休暇前に生徒たちに伝えられた。『赤の教室・()』に残った五人の生徒たちは、全員が卒業を許可された。

 卒業許可を告げられて、生徒たちは手を取り合って喜び合った。

「……浮かれて居られるのも今の内だ。学年首席になるのは、私だからな!」

 学年首席の生徒は、卒業式で総代として挨拶をする決まりになっている。シアンはそれを狙っているらしい。喜び合っていた生徒たちに向かって宣言したシアンは高笑いを残して教室を出て行った。この、『赤の教室・Ⅴ』でみなが顔を合わせるのも、今日が最後だと言うのに。

「……彼はずっと変わらないね」

「ああ。そうだな」

 苦笑を浮かべたグーミエに、レーキも溜め息混じりに応える。

「……そんな事より、今日でこの教室が最後なんてとても信じられない。寂しくなるね」

 エカルラートがしょんぼりと俯くと、ロシュが「まだ卒業式があるさ」と慰める。

「所でエカルラートは卒業したらどうするのかもう決めた?」

 グーミエの質問に、エカルラートはこくりと頷いて微笑む。

「ヴァローナ天法士団の治癒隊を目指そうと思ってるの。あのね、実は『学究祭』で研究展示を見た治癒隊の方からお誘いいただいてるの。そう言うグーミエは?」

「それは凄いね! 僕はまだ幾つ王珠を授かるか解らないから確定では無いけど……やっぱり天法士団に入りたいと思ってる。卒業式が終わったら入団試験を受けるよ。レーキは?」

「俺は試したい儀式が成功してから考えるつもりだ。……でも儀式が終わったらまずはアスールに帰ることになると思う」

「そうか。でもレーキならどこにいても素晴らしい天法士であれると思うよ」

「ありがとう。グーミエもきっと天法士団に入れると俺は思ってる」

 互いに健闘を讃え合う。レーキから見ても、グーミエは優れた生徒だと思う。彼こそどこにいても素晴らしい天法士になれる。

「……王珠を貰って天法士に成れるのは嬉しいけど……あーあ。やっぱりみんなと離れ離れになるのは寂しいね」

 エカルラートの呟きに一同が同意する。二年の間共に苦労してきたクラスメイトは、いつしかかけがえのない仲間になっていた。

 

『黒の月』の終わり、年越しの日。レーキはアガートとズィルバーの二人と過ごした。

 ズィルバーの実家は、休暇の間に帰るには遠方で、アガートの勘当は彼が天法士になっても解けていなかったのだ。

 二人は年越しに、レーキの卒業決定を祝ってささやかな祝宴を開いてくれた。祝いの料理をあらかじめ用意してくれたのは、年越しは家族と過ごす予定のアニル姉さんだった。

『混沌の月』を経て『青の月』の始め、天法院にも卒業式の日が訪れる。

 

 卒業式の朝。レーキは早朝に目覚めた。この部屋に居られる日数も後わずか。三年の間にすっかり見慣れた天井を見上げて、静かに長く息を吐く。

 レーキはベッドに起き上がり、手早く眼帯を付ける。それは卒業の記念として、ズィルバーがウバ摘みの賃金で仕立ててくれた、新しく肌触りも良いモノだった。ズィルバーが買いたいモノとは、レーキへの贈り物だったのだ。それが、とても嬉しかった。

 遠い昔、盗賊の剣士、カイがくれた古い眼帯はすでにあちこちが擦り切れて、バラバラになる寸前だった。それを見かねて、ズィルバーは感謝の言葉と共に眼帯を贈ってくれたのだ。感謝を述べたいのはこちらの方だ。ズィルバーはこの一年アガートの助言を守って、食事や休息をさぼりがちなレーキをよく助けてくれた。

 隣のベッドを振り向けば、ズィルバーは静かに寝息をたてている。彼を起こさぬように密やかにベッドを抜け出たレーキは、着替えを済ませて机に向かった。

 とうとう明後日、『天王への謁見の法』を実行する。そのために、口訣(こうけつ)を予習しておく。当日は事情をよく知っているセクールスとアガートが、助祭となって儀式を手伝ってくれる事になっている。二人には本当にいくら感謝してもしたり無い。

 この三年間、レーキは様々な人々に出会い、助けられ、苦楽を分かち合った。それはアスールの村にいて暮らしているだけでは味わえなかった望外の喜びで。今では思い出の一つ一つが、レーキの生きていくための糧となっていた。

 

「いよいよデスね……」

 朝食の時間が終わった食堂は、講堂として卒業式の会場になる。

 式に参加出来るのは本人と家族だけ。家族のいないレーキは一人きりで式に出席する。

「……それじゃあ、行ってくる」

 レーキは、すでに舞台の設えられた食堂に足を踏み入れる。そこは良く知っている場所のはずなのに、不思議な緊張感がみなぎっていた。

「レーキ!」

 一足先に会場に入っていた、クランが駆け寄ってくる。彼もどうにか無事に卒業を決めていた。背後には、宿屋を営んでいるクランの両親が揃って立っている。

 儀式の資金を貯める際に、クランの両親にもお世話になった。挨拶と礼を言う内に、次第に卒業生とその家族たちが食堂に集まってきた。多くはヴァローナ風の装束の人々だが、中にはグラナートやアスール風、黄成(こうせい)風の衣装の人々も混じっている。名高いヴァローナの国立天法院には、五大国中の優秀な人材が集まっていたのだ。

 生徒たちがみな集まって、昼の鐘と共に卒業式が始まる。

 

 卒業生が一人ずつ名前を呼ばれた。名前を呼ばれた生徒は舞台に張られた天幕に入って、そこで王珠(おうじゅ)を受け取る。

 始めに名前を呼ばれたのは、学院内で見かけたことはあっても、名前も知らぬ生徒だった。

 どうやら、王珠の数が少ない生徒から名前が呼ばれているようで。最初に天幕から出てきた生徒は、一つだけの王珠を大切そうに手にしていた。

 今年の卒業生は七十余名。二百人近くの新入生を迎えて残ったのがそれだけの人数だった。

 レーキの友人知人で、最初に名前を呼ばれたのはクランで。彼は舞台に上がって天幕に入ると、しばらく後に王珠を二つ手にして出てきた。天幕は厚くて中で何が行われて居るのか(うかが)いしれない。天幕を出たクランは王珠を誇らしげに掲げて家族とレーキの元に戻って来た。

「……やったぜ! これでおれも天法士だ!」

 潜めた声に気色を滲ませて、クランは二つの王珠を両手に握りしめている。王珠はクランが得意とする系統、『白』色で淡く光っていた。

「おめでとう! クラン!」

「クランちゃん、おめでとう!」

 喜び合うクランの家族をよそに、卒業式は続く。見知らぬ生徒が、天幕に消える。出てくるときには、みな喜びの表情を浮かべ、その手には王珠が握られている。

 次に名前を呼ばれたのはレーキのクラスメイトだったロシュだった。彼は天幕から出て来るときに、三つの王珠を手にしていた。

 三ツ組(みつくみ)の王珠授与が終わると、次は四ツ組(よつくみ)だ。レーキはまだ名前を呼ばれていない。四ツ組以上であるならそれは喜ばしいことだ。期待と、自分の名前が、式が終わっても呼ばれないのではないかと言う不思議な不安。胸が高鳴る。

 エカルラートの名前が呼ばれた。彼女の王珠の数は四つ。優秀とされる四ツ組の天法士となった。

 その次、他の教室の生徒たちに続いて名前を呼ばれたのはシアンだった。彼もまた四ツ組の天法士となって天幕から出てくると、満足げな表情で王珠を見せつけている。

 すぐ後に、グーミエの名が呼ばれる。グーミエもまた四ツ組の王珠を手にした。

 レーキの名はまだ呼ばれない。確かに自分は卒業を許可されたはずだ。それなのに、なぜ名前を呼ばれないのだろう。今や心臓は不安によって、早鐘のように打ち鳴らされていた。

「……続いて、レーキ・ヴァーミリオン君。前へ」

「……は、はい!」

 ようやく呼ばれた! 応える声が思わずうわずってしまう。緊張に身を固くしながら、レーキは舞台上の天幕の中へ進んだ。

 

 天幕をかき分けて中に入る。そこには院長代理であるコッパー師と、見知らぬ人影が佇んでいた。

「……!!」

 院長代理の隣に立っているのは、ただの人ではなかった。

 天幕の天井に届きそうなほどの長身、頭に複雑な形状の角を戴き、全身を美しい黒色の鱗が覆っている。見たことのない光沢を放つ衣を纏い、その顔は山の村の祠で、街の教会で、伝説を綴った物語の中で幾度も見たことのある、この世界を造ったとされる竜王に酷似していた。

 ──竜人(りゅうじん)、だ……!!

 竜人は、竜王に近しい姿をした亜人だと伝承にはある。常は五竜王が居ると言う『兄の月』にいて、竜王を補佐しているとも言われ、地上の国では滅多に姿を見られない。竜人は人や他の亜人たちにとっては畏怖と崇敬の対象であった。

『……いかにも。我は竜人である』

「……!?」

 声に出したつもりはなかったのに。レーキは愕然と竜人を見つめる。

『我は君たちと近い発声器官を持たぬ。それ故に君の思考に直接割り込んで発話することを許可して欲しい』

「……は、い……」

 頭の中に直接声が聞こえてくる。それは男性のようでも女性のようでもある、不思議な声だった。

『ありがとう。……さて、我はD367-58。個体名をディヴィナツォーネと言う。呼びづらければ『ディヴィ』と呼称する事を許可する。本日君に『オーブ』を授与する者である。君たちが『王珠』と呼称する端末の事である』

「……王珠を授けて下さるのが竜人様でいらっしゃるとは存じあげませんでした」

 ディヴィナツォーネは、奇妙なモノの言い方をする。レーキにはその意味する所はよく解らなかった。

『さもありなん。この儀は他言無用である。天幕を出たら我の話した言葉は忘れよ。我の存在を秘するは無用の混乱を避けるためである』

「解りました。他言はいたしません」

 そう言って一礼したレーキを、院長代理が手招いた。

「……君も驚いたじゃろう? (わし)も驚いたんじゃよ。遥か昔の事じゃがな」

 悪戯っぽく笑う院長代理に、レーキはわずかに緊張が緩んで苦笑した。

「……驚きました。王珠は竜人様のお作りになったモノなんですね」

『その通りである。ここでその仕組みを君に開示する事も出来るが……全てを話すには時間が足りぬな。それでは君にもオーブを授与する。此方(こちら)へ』

 招かれるままに、レーキはディヴィナツォーネの前に進み出る。レーキよりもはるかに背の高い竜人が、身を屈めるようにして、彼/彼女の鉤爪がついた手のひらには小さい王珠をレーキに差し出した。その数、五つ。

五ツ組(いつくみ)……?!」

『今期のオーブ五つは君だけだな。おめでとう』

「あ、ありがとうございます……!!」

 竜人を前にした緊張は、五ツ組の王珠の喜びにどこかへ吹き飛んだ。

 レーキは王珠を受け取って、勢い良く頭をさげる。じわりと、その重さが手のひらに伝わってくる。

「……さ、此方へおいで。王珠の登録をせねばならんからのう」

 院長代理に促されて、レーキは小さな台の上に王珠を置いた。言われてみれば、五つの王珠はまだ何色にも光っていない。

「このナイフで指先に少し傷をつけての。王珠に一滴血を垂らすんじゃ。それで登録は完了じゃよ」

「はい」

 レーキは差し出された意匠の凝ったナイフで指先に小さな傷口を作り、にじみ出てきた血液を一つの王珠に一滴垂らした。その瞬間、五つの王珠がいつか選別試験でみた紅色に光り出す。

 それはレーキの色。確かに鼓動する命の色だ。

『これで君は『天法士』となった。これより先は良く精進し、良く見極め、良く生きよ。……我は君を祝福しよう』

「おめでとう、レーキ君。君は良く学んだの。五ツ組とは儂も鼻が高い」

 竜人と院長代理は、優しく祝いの言葉をかけてくれた。レーキは感激して礼を返す。

「ありがとうございます! ディヴィナツォーネ様! コッパー様!」

 この瞬間、レーキ・ヴァーミリオンは晴れて天法士となった。

 



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第三章 天法士時代
第37話 初仕事・前


 黙々と歩く。背に負った荷物は重く、負紐は歩みを進めるほどに、肩を締め付ける。地下に潜ってから、すでに四刻(約四時間)ほどは歩き続けている。……と、思う。陽の射さぬ地下の坑道では、時間の感覚もおかしくなっている。

「……おい。ポーター。水!」

 松明を手に前を歩いていた男が、後ろを振り返って横柄に叫んでいる。レーキは黙って、皮袋に入った飲み水を差し出した。

 男は喉を鳴らして大量に水を飲んでから、皮袋を突っ返して来た。

「……あまり飲みすぎ無いほうが良い。本当に必要な時に足りなくなる」

「あぁ! ポーター風情がこのオレに意見するのか?!」

 レーキの忠告に腹を立てた横柄な男は、腰に帯びた長剣に手をかけてこちらを脅してくる。レーキは閉口し内心で独りごちる。

 ──この依頼は『ハズレ』だったな……と。

 

 

 卒業式を終えて、レーキは多くの人々に祝福された。一年前にレーキがアガートに向かってそうしたように、今日はズィルバーがレーキに向かって『光球』を降らせて見せてくれた。

「おめでとうございマス!」

「……ありがとう! ズィルバー!」

「すげーよ! レーキ! 五ツ組(いつくみ)だって?!」

「……クラン! おめでとう!」

 背後から突然抱きついて来たクランの重さによろめきながら、レーキは笑って応える。

「レーキ! おめでとう!」

「グーミエ! 君もおめでとう! 素晴らしい総代挨拶だった!」

 結局、学年首席となったのはグーミエだった。レーキは最高位の五ツ組であったが、卒業試験の成績でグーミエには及ばなかったのだ。首席を逃したシアンはさぞかし悔しがったことだろう。

「おめでとう! レーキ!」

「君も! おめでとうエカルラート!」

 友人たちと喜びを分かち合い、天法士となったレーキは、明後日にとうとう『天王との謁見の法』を行うことになっていた。

 

 機会は寮を引き払うまでの数日間。おそらくは一度きり。学院の備品である祭壇を使って、実習室で『天王との(えつ)(けん)の法』の儀式を始める。

「……それではよろしくお願いします。セクールス先生、アガート先生」

 レーキは、協力してくれる二人の教師を振り返り一礼する。二人は黙って頷いた。儀式のために、三人は『土』を表す『黄色』のローブを着て、金細工の祭壇の前に(ひざまず)いている。祭壇の造りは小振りで、人一人で抱えられるほどの大きさだった。

 祭壇の前で、レーキを頂点とした三角形を作り、三人は一礼する。

「始めます。……『地の母、地の父、全ての生きとし生ける者を統べる定めの王、すべての死せる者を束ねる死人の王。地の母の眷属にして刈り取る者……』」

 死の王のための『謁見の法』、口訣の始めは『呼び戻しの法』のモノに少し似ていた。いにしえの言葉と今の言葉が混じり合った、長い呪文。学びを重ねた今は、その意味が全て理解できる。

 主祭であるレーキに続いて、助祭役の二人が輪唱するように口訣(こうけつ)をなぞる。

 身の裡から天分が抜け出て、それが祭壇に注がれる。初めての感覚ではない。『呼び戻しの法』を使った時と同じ、言葉に力が融けて行く。同時に、首から提げていた五つの王珠(おうじゅ)が力強く美しい光を放った。それが体から抜けて出て行く天分の量を抑えて制御してくれているのか、『呼び戻し』を行った時のような骨身の全てを持って行かれる苦しみは無い。

 ──これが王珠の力か……!

 もっと長い呪文でも、いつまででも唱えて居られるような錯覚。三人が呪文を唱和する内に、祭壇がまばゆい光を帯びだした。

 体の芯から沸き上がってくる高揚感。確かな手応えを感じる。

「『……我が呼びかけに応えられよ! 至り来たれ! 死を司りし天王!』」

 一瞬の静寂。

 次の瞬間に、光の奔流が祭壇の上に立ち上り、実習室に風が吹き荒れる。

 ああ、あれは。あの光に浮かび上がるあの人影は。暴風がおさまると、見覚えのある長い髪が見えた。あの時と違うのは、光の中に浮かぶ死の王の顔がはっきりと視認できるということ。死の王は思っていたよりも年若い、男の顔をしていた。

『……我を呼ぶは汝か』

 三年前に聞いたあの声よりも、はっきりと耳に届く低く滑らかな男声。威厳に満ちたその声に打たれて、レーキは一礼した。

 後ろに控える二人の教師たちも、揃って身を屈める。

「……はい。(わたくし)でございます。地の父、全ての生きとし生ける者を統べる定めの王、すべての死せる者を束ねる死人の王、地の母の眷属にして刈り取る者、死の王様。私の呼びかけに応じて下さいました事、心よりの感謝を捧げ(たてまつ)ります」

『……汝は一度我が領土を(おか)した。それが何故に我を呼ぶか』

 死の王の声は抑揚も無く、怒りの感情は見られない。それでも、レーキは深く首を垂れて平伏した。

「……その儀、深くお詫びを申し奉ります。あの時の私は未熟で御座いました。生死の理も理解出来ず闇雲に師を求めて『呼び戻しの法』を行使致しました。そのために死の王様のご領土を汚しました事、重ねてお詫び申し奉ります」

 死の王の怒りを畏れるように縮こまって、レーキは言葉を紡ぐ。粘ついた、冷たい汗が背を這っていく。死の王の存在感は強烈で。レーキは言葉を発する度、過ち犯して居るような、深い底なし沼に落ちていくようなそんな気がした。

『面を上げよ。不遜なる者』

 その言葉でレーキはようやく顔を上げて、死の王を見上げた。

「……はい。王の(かんばせ)を仰ぎ見る栄誉をお許しくださって有り難きしあわせで御座います。その上で不躾ながらお願いが御座います! 死の王様が私に賜った呪いをお解き願いたいのです! どうか! どうか! 伏してお願い申し奉ります!!」

 必死の様相で這いつくばるレーキを見下ろして、死の王は沈黙した。

 教師二人も、死の王が発する威圧感に飲まれて身動きが取れないでいる。

『……未だその時に(あら)ず』

「……!? お待ちください! 死の王様! その時とはいったい?! お待ち下さい……!!」

 その一言。たったそれだけ。死の王はその一言だけを発して、取り縋るレーキを残し、ゆっくりと大気に溶けるように光の粒となって消えていった。

 その日、何度『謁見の法』を試みても死の王が再び呼びかけに応えることはなかった。『謁見の法』は成功だった。だが、『呪い』が解かれることはなかったのだ。

 

 

 失意を抱えたまま、レーキが寮を出て行く日がやってきた。

「レーキサンも先生になればいいノニ……」

 寂しげに俯くズィルバーの肩を抱擁して、レーキは苦笑する。

「……ありがとう。でも俺はそんな器じゃないよ」

 それは本心で。生徒たちを教え導く重責を担えるほど、自分はできた人間ではない。それに、たとえ教師になりたくても、『呪い』と言う重荷が、その道を選ばせてはくれなかった。

「これからどうするのデスか? レーキサン……」

「一度、アスールの村に帰ろうと思ってるんだ。待っていてくれる人もいるからな」

 ラエティアの、その家族たちの、村人たちの顔が脳裏に浮かぶ。卒業出来たこと、一度アスールに帰ることは手紙にしたためて、いましがた送ったばかりだ。

 三年ぶりに会うラエティアは、いったいどんな表情で自分を迎えてくれるだろう。楽しみで有ると同時に、自分など忘れられてしまったのではないかと言う不安もある。

「そう、デスか……小生は寂しい、デス……」

「……ズィルバー。なにもこれが今生の別れじゃない。俺はアスールへの路銀を稼ぐためにまだ『学究の館』に留まるつもりだ」

「……! ホントデスか?!」

「ああ、街の宿屋に部屋も借りた。祭壇を買ってしまったから……安宿しか借りられなかったが」

 儀式を助けてくれたセクールスとアガートにそれぞれ謝礼を支払って、再度『天王との謁見の法』を試みるために祭壇を手に入れた。

 それで、レーキの貯金は大半が消えてしまった。

 アスールに帰りたいが、すぐさまと言う訳には行かない。金を稼ぐ必要がある。

「……そ、それジャア! 遊びに行っても良いデスか?!」

「ああ、仕事に行っている間は留守にしているだろうが……いつでも遊びに来ると良い」

 そんな台詞を残して、レーキは学生寮を出て行った。

 

 生きるために、仕事をせねばならない。それも、出来れば報酬の良い仕事に就きたい。

 五ツ組を取ったということで、レーキの元には亜人に対して排他的な政策を採っている黄成(こうせい)以外の四大国から、天法士団への誘いが有った。だがレーキはその全てを断った。確かに天法士団へ入団する事は名誉であったし、国立の機関であれば賃金も申し分ないだろう。

 だが、結局『呪い』が解けなかった今、アガートが言うように天法士が短命でないとしても、天法士として日常的に天分を使う職業に就くことに躊躇(ためら)いがある。

 

「……え、あ、天法士団の誘いを全部断ったぁ?! 正気か……?!」

「……あまり大きな声を出さないでくれ。壁が薄いんだ……それに俺は正気だ」

 レーキが部屋を取った安宿に、集まってくれたクランとオウロに今後のことを相談する。幼馴染三人組の内、グラーヴォはニクスの騎士団に就職が決まり、旅立ちの準備に追われていた。

「はあ……五ツ組なら天法士の働き口なんてどこでもよりどりみどりなのに……」

 溜め息をつくクランを後目に、レーキは首を振った。

「……その……俺は天法士としては働きたくないんだ。だからそれ以外の仕事を探している」

「……やっぱり、天分を使いたく無いっスか?」

 かつて天分が生命力で有ることを説明されていたオウロは、納得したように頷いてくれる。

「……ああ。その通りだ」

「……まあおれだって天分をばかばか使うような職場に行きたくは無いけどさー」

 クランは天法士として看板を掲げつつ、家業である宿屋を継ぐために実家で働くことになっている。

「うーん。オレっちの実家は今人手が足りてるんスよ……レーキはアスールに帰るつもりなんスよね~? それなら長期にがっつり働く職場より、短期でちょいちょいと儲かるような職業が良いかもしれないっスね~」

 オウロは晴れて『商究院』を卒業し、この春からは貴金属を扱う商人の見習いとして働く事が決まっていた。

「……でもさーそんなウマい職場知ってるか?」

「うーん。アスールに向かって旅立つ準備をするなら……いっそのこと旅すること自体が仕事になる職業はどうっスか~? 例えば『旅人のためのギルド』に入るとか~」

「『旅人のためのギルド』?」

 耳慣れない言葉にレーキは首を傾げる。

「ああ、レーキは知らないっスか? 『旅人のためのギルド』は旅ぐらしの人の身許を保証して仕事も斡旋してくれる組合っス~『学究の館』にも支部が有ったハズっス~」

「……ああ、そう言えば師匠が昔そんなギルドに入っていたと言っていたな」

 師匠は『ギルド』の仕事で、想定外に魔人と出くわしたと言っていた。

「でもさー『旅人のためのギルド』は払いも良いけど危険な仕事も多いって話だぜ?」

 クランが懸念を口にする。オウロは「大丈夫っス!」と親指を立てた。

「そこは仕事を選ぶっス~荷運びの人足(ポーター)とか届け物の請負とか、戦闘とかに参加しない依頼を選べば、街中で仕事するより『旅人のためのギルド』で請け負った仕事の方が賃金が高いっス~」

「なるほど。まずはその『旅人のためのギルド』に行ってどんな仕事が有るのか聞いてみてから決めることにする」

 オウロに『ギルド』の場所を聞いておく。話題が一段落して、クランは大きく延びをして、呟いた。

「……ああー旅かー! おれも旅とか行ってみたいなー! おれ、この国からでたこと無いし」

「……そうだな、いつかアスールに遊びに来るか? その時は歓迎するぞ」

「お! いいねー! アスールは何が名物なんだっけ?」

「オレっちも宝石の買い付けとかでアスールにも寄るかも知れないっス~」

 結局、クランとオウロとの会話は気の置けない友人との楽しい雑談に変わってしまい、それは夕飯時まで続いた。

 今日はもう遅い。レーキは翌日『ギルド』に行ってみることにした。

 

「いいっスか~? 『ギルド』に行く時は天法士だってバレないように王珠は隠して行くっス~天法士は高い賃金で雇って貰えると思うっスけど、その分危険も多くなるっスから……」

 オウロの忠告に従って、レーキは身につけていた王珠の飾り板を外して、肌着の下に隠した。王珠がなければ、レーキはただの鳥人の青年だ。これで『ギルド』に向かえる。

『ギルド』は『学究の館』の中でも、宿屋や飯屋が並ぶ賑やかな通りに面して建っていた。レーキが借りた安宿からもほど近い。

 建物の正面には、旅人の杖を図案化した看板と『旅人のためのギルド』と書かれた額が掛かっていた。

 戸口に扉は無く、誰でも気軽に入っていけるようだ。

 レーキは一呼吸して気持ちを落ち着けると、『ギルド』の中に足を踏み入れた。



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第38話 初仕事・後

 レーキは『ギルド』に入会して、荷運び人足(ポーター)として、仕事を受けることになった。

 直接戦闘行為に参加しない職業としては、ポーターが一番賃金の良いモノだったのだ。

 戦闘に参加すればどうしても命の危険がある。それに、レーキは日常的に天法を使う職業に就くことを躊躇(ためら)っていた。

 『ギルド』で、丁度護衛とポーターを探していたネリネと出会った。

「……あたしはネリネ・フロレンス。考古学者よ」

 自己紹介と共に、ネリネは右手を差し出す。それはグラナート流の挨拶だった。その手を右手で握り返すとネリネは我が意を得たりとばかりに、にっと笑った。眼鏡の奥、藍色の眸がくりくりと良く動く、元気の良さそうな少女だ。

「俺はレーキ・ヴァーミリオン。今はポーターをしている」

「よろしくね。ポーターさん。ええっと、お料理が出来るってホント?」

 レーキが天法士で有ることを隠して作った経歴書を見ながら、ネリネが問い掛ける。

「ああ。宿の食堂で働いた事もある」

「そう。それならあなたで決まりだわ……今回頼みたいのはね、遺跡調査のお手伝いなの。ヴァローナにある古い金鉱の奥で遺跡が見つかったのよ。どうも古代期の遺跡みたいで、あたしはそこの調査に行きたいの」

「なるほど」

「残念だけど、一度調査隊が入った後だから……危険はないわ。念のため護衛も雇ったし」

 一度調査された遺跡に、一体何の用があると言うのだろう?

 レーキは疑問に思ったが、詳しく尋ねることはやめておいた。ネリネの提示した賃金はなかなか良い額で、危険が無いと言うなら受けたい依頼だった。

「……解った。依頼を受けよう。出発はいつだ?」

「話が早くて助かる。出発は明日の朝。朝の鐘がなる頃に。遺跡の場所はこの街から徒歩で半日くらい北東。あなたに運んで貰いたい荷物は食料と調査に必要な機材」

「それも解った。……ではまた明日」

「ええ。……またね!」

 

「……もー! 後ろで何揉めてんのよ。ぐずぐずしてると置いてくわよ!」

 一番前を進んでいたネリネが、後ろを振り返って叫ぶ。横柄な護衛の男は、ちっと舌打ちしてから彼女を追いかけた。

「すみませんね! ネリネさん。ポーターの奴が生意気言うもんで」

「ふうん。ま、あんまり揉めないで仲良くやってよね」

 ネリネはカンテラを持ち直し、眼鏡の位置をくいっと直してレーキを振り向いた。

「ポーターさん、地図によるともう少し進んだら少し開けた場所にでるはず。そうしたらご飯にして。お料理が出来るって言うからあなたに決めたんだから」

「ああ、解った」

 ネリネは地図が頭に入っているらしい。背嚢に差してある地図を広げることなく、レーキに命じると、先頭にたって歩き始めた。

 二つに束ねた空色の長い髪が、カンテラの明かりに照らされて揺れている。念のために被っている帽子は、金属で補強されているようでいかにも重そうだ。

 その髪色に似合うように、青緑色を基調にした動き易い服装のネリネは、胸元の膨らみさえ無ければ少年のようにも見えた。

 

 黙々と歩く。するとネリネが言った通りに坑道が幾本も集まった広場のような場所に出た。

「さ、ここでご飯にしましょ。今、火を(おこ)すわ」

 レーキが運んだ薪を、簡易的な焚き火台に載せて、ネリネは手早くカンテラの火を移す。燃え上がる炎が、坑道とその場にいる三人の顔を照らし出した。横柄な護衛は早速地べたに座って自分の武器である長剣を点検している。

 レーキは大きな背嚢から、塩漬け肉と日持ちする根菜類を取り出した。主食はやはり日持ちする堅いパンだ。調理器具の鍋と折りたたみ式の五徳(ごとく)を取り出し、包丁代わりのナイフで手際よく根菜をカットする。塩漬け肉と一緒に根菜を鍋で煮込んで、持参した調味料で味付けすれば、夕食用の具沢山スープの完成だ。坑道に鼻孔をくすぐる美味そうな香りが漂う。一度調査されて、危険が無いと解っているからこそ出来る芸当だ。

 金鉱までの道すがら、レーキが料理する機会はなかった。手持ちの食料を節約するために、街道上では持参した弁当を、金鉱のそばにあった町では食堂で食事をすませたのだ。

「一日一食でも温かいモノ食べたいじゃない? それが真っ暗闇の地下ならなおさらよ」

 それがネリネの持論らしい。それで保存食ばかりでなく、野菜類も荷物に加わったようだ。

「……うん。うん! これ、美味しい!」

「ああ、まあまあいけるな」

「……そうか。ありがとう」

 ネリネも横柄な護衛も、具沢山スープを気に入ったらしい。鍋いっぱいに作ったスープは、あっと言う間に三人の腹に収まった。

「……あー美味しかった! ポーターをあなたに決めたあたし、天才!」

 指をぱちんと鳴らして、ネリネは自画自賛する。レーキが鍋と食器を片付けている間に、横柄な護衛が「ネリネさん、今夜はこれから先へ進むんですかい?」と訊ねた。

「いいえ。今日は、ここで朝まで休むわ。遺跡まではもうちょっとだけど、疲れ過ぎちゃったら調査に支障が出るでしょ?」

「なるほど。了解です。それなら交代で火の番をした方が良さそうですね」

「そうね。最初はあたしでいい?」

「それじゃ次はオレで」

「ポーターさんは最後で大丈夫?」

「構わない。……それなら俺は先に休ませて貰う」

 調理器具を片付け終わったレーキは、焚き火に背を向けて、坑道に布を敷き横になった。布は厚手だったが、一枚だけで太刀打ちできるほど坑道は甘くない。岩盤が剥き出しの地面は固く冷たく、眠りに就くどころでは無い。目を閉じて羽を体に巻きつけるようにくるまると、地下の寒さも幾分和らいだが、眠気は一向にやってこなかった。

 横柄な護衛はしばらく起きてネリネに何か話しかけて居たようだったが、依頼人は素気ない調子で返していた。

 やがて横柄な護衛は疲れたのか、諦めたのか、レーキと同じように布を地面に敷いて横になった。

 ネリネは一人静かに焚き火を守っているようだ。そんな気配を背後に感じながら、レーキがウトウトと眠りの(ふち)彷徨(さまよ)っていた、その時。

「なにすんのよ?! このバ……っ!?」

「役得だよ……! や・く・と・く! 大声出すんじゃねえよ! あのクソポーターが起きるだろぉ!」

 ネリネが短い叫び声を上げた。レーキが振り向くと、横柄な護衛が依頼人を組み敷いて、右手でネリネの口を塞ごうとしている所だった。

「生意気なガキのクセによぉ……こんなクソつまんねー場所までオレを連れ回しやがって……! あんな報酬だけじゃ満足出来るわけねーだろぉ……!」

「……むーっ! むぐーっ!!」

 横柄な護衛は、剣を生業としているだけあって体格も恵まれている。ネリネは抵抗しているが、完全に身体の自由を奪われていた。

 レーキは身を起こし、静かに立ち上がった。

 横柄な護衛はネリネを押さえ込むのに夢中で、こちらに気付いていないようだ。

「……何をしている?」

 レーキの静かな問いに、横柄な護衛は驚いたのか、ばっと顔を上げた。

「……なんだ、起きちまったのかぁ? お前にも良い目を見させてやるからよぉ! そこで待ってろよ! クソポーター!」

 ポーターを職として選ぶ者は、戦闘に関する技に縁遠い者だと横柄な護衛は思い込んでいるのだろう。レーキが邪魔出来ないと決め込んで、こちらに背を向けた。

「……っやめろ! ばかっ! クソ野郎はてめーだっ! 放せっ!」

 男の腕が緩んだ隙をついて、ネリネは横柄な護衛を罵倒する。近づいてくるレーキを見つけて、「助けて! ポーターさん!」と彼女は叫んだ。

「『金縛り(パラリーゾ)』」

 レーキは横柄な護衛に向かって、在りし日の師匠が、自分や盗賊たちを押しとどめるのに使った天法を放った。剣を抜かれて依頼人や自分を傷つけられては堪らない。先手必勝だ。

 横柄な護衛は、指一本、自分の意思で動かせなくなった。師匠は『金縛り』を無詠唱で行使していたが、レーキはまだその域に達していない。

「……クソっ?! なんだ?! これっ?! 体が、うごかねぇ?!」

 狼狽(うろた)える護衛をネリネの上から退かしてやると、彼女は素早く立ち上がり、自分を襲おうとした護衛に蹴りを食らわせる。 

 護衛は「ごふぅっ?!」と(うめ)いてネリネを押さえ込んでいた姿勢のまま、坑道にころがった。

「……はぁはぁっ……ざまぁみろ! てめーはクビだ!」

 ネリネは元護衛に向かって、侮辱を表す指の形を作って突きつける。元護衛によって乱されていた胸元を整えながら、依頼人はレーキを振り向いた。

「……ポーターさん、ありがとう。あなた、天法が使える、の?」

「……ああ。一応、天法院を出ている」

 レーキは観念して真実を告げた。

「じゃあ、本職ってコトじゃない! 王珠(おうじゆ)は? なんで黙ってたのよ!」

「天法士として働くつもりは無かったんだ。今回は緊急事態だったから、仕方なく……」

「ワケわかんない!」

 確かに、天法院まで出ているのに天法士として働くつもりがないとは、おかしなことだろう。

 天法士として『ギルド』で仕事を受ければ、ポーターとは比べものにならないほどの報酬が手に入ると言うのに。

「……とにかく、俺はポーターなんだ。これ以上、天法を使うつもりはない」

「解ったわよ! ……所で、コイツどうしよう……?」

 ネリネは横柄な元護衛を見下ろして、溜め息をついた。

「そうだな……とりあえずロープで縛っておくか?」

「そうね……それからちょっと休みましょ。あたし一睡もしてないし……ん?」

 

 グるるるぅ……! るるるっ……!

 

 何かが唸る声が遠く聞こえた。坑道の奥から複数の気配がこちらへ近づいてくる。

「……嘘?! なんで……?!」

 焚き火の灯りに写し出されたのは。狼や犬によく似た魔獣、トリュコス数頭の群れ。

 ネリネはその姿を認めて息を飲んだ。

 トリュコスは森林に多く()む魔獣で、群れを作り複数で狩りをする。生態も狼や犬によく似ていたが、その額には尖った角が三つ生えていた。牙も爪も鋭く、動作も素早い厄介な魔獣だ。

 焚き火を挟んで、四頭のトリュコスと向かい合う。魔獣はこちらの隙を窺って、姿勢を低くし唸り声を上げている。このままでは戦力が足りない。レーキは素早く横柄な元護衛の『金縛り』を解いた。

「……ひぃっ?!」

 元護衛はか細い悲鳴を上げて、身体が自由になると同時に跳ね起きると、剣をひっつかみ、こけつまろびつトリュコスがいない坑道に向かって走り出した。

「……あんの……バカ……っ」

 戦力にならぬ者を追いかけても仕方がない。ネリネは警戒を解かぬまま吐き捨て、レーキは両手をトリュコスの群れに向ける。

 ネリネは前を見据え、ウエストバッグから短めの山刀を取り出した。

 トリュコスは、じりじりと間合いを詰めてくる。

『赤』天法の『炎』は、この狭い坑道の中ではまずいだろう。『黒』天法の『水』は、光源である焚き火を消してしまう可能性がある。

 ならば。

「『金縛り(パラリーゾ)』!」

 まずは一頭。一番前に出ていたトリュコスを行動できなくする。同時に飛びだしてきた一頭にすかさず混色天法を叩き込む。

「『氷槍(グラキ・ランケア)』!」

 鋭く尖った氷の槍が、数本、トリュコスを捉えてそのわき腹に風穴を開ける。その衝撃で、坑道の壁に叩きつけられ一頭は絶命する。ネリネがあっと悲鳴を上げた。

「ポーターさん! 毛皮は高く売れる! 傷つけないで!」

「無茶言うな!」

 仲間が容易く無力化されたことに怯んだのか、残りの二頭はレーキたちから距離を置いた。彼らも諦めるつもりは無いのだろう、暗闇の中から低い唸り声が響く。これでは目標が定まらない。そこでレーキは一計を案じた。

「今から坑道を明るく照らす。それで奴らも驚くはずだ! 目を覆え!」

「解った!」

「……いくぞ! 『光球(ルーモ)』!」

 目を隠しながら、トリュコスが隠れた坑道に向かって大光量の『光球』を投げ込む。薄暗い坑道で、突然眩しい光をみた魔獣たちは怯んでいる。『光球』が消え去る前に、その姿がはっきり見えた。

「『氷塊撃(グラキエース)』! 『氷槍(グラキ・ランケア)』!」

 二頭のトリュコスそれぞれに向けて天法を放つ。『氷塊撃』を食らった一頭はぎゃんっと断末魔の悲鳴を上げて倒れた。『氷槍』は幾本かはトリュコスに刺さったが、残りはすんでの所でかわされた。そのままの勢いで最後のトリュコスがレーキに肉薄する。

 ──()られる……!

 殺気を、死を、膚で感じる。思考が引き延ばされる。あの時、山の村で死にたくないと願ったあの時と、同じ。死は目の前にある。

 その瞬間。

「でりゃああああぁぁ……!」

 雄叫びと共に。ネリネがトリュコスの首筋に、山刀を叩き込んだ。

 



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第39話 宿屋にて

「はあ……はぁ……はあ……やった……っ!」

 ネリネの一撃で、『氷槍』を受けて弱っていた四頭目のトリュコスは事切れる。すんでの所で、レーキを狙った牙は空を切った。

「はあ……っ」

 呼吸を再開する。鼓動が跳ね回る馬のように暴れている。額に浮かんでいた脂汗が、つと思い出したように流れ出した。

「はぁ……なんで、こんなとこに、トリュコスがいんのよ……っ!」

 返り血で汚れた顔を拭いながら、ネリネはトリュコスの死骸を見下ろした。

「……さあな。どこかに魔獣が出入り出来るような抜け道があるのかもしれない。……『金縛り(パラリーゾ)』で縛ってあるヤツは? どうする?」

 つとめて冷静に声を作る。強烈な死の恐怖はまだ心臓を掴んでいる。

「あたしがトドメを刺す。ポーターさんは……えーと、なんだか『雑』だから」

「……」

 指摘されてみると、レーキが仕留めたトリュコスの死骸は、あちこちに風穴が空いていた。

 レーキは、動きの素早いトリュコスを仕留める為には面の攻撃が一番有効だと思っただけで、けして精密な天法の扱いが苦手な訳では無い。無いのだが……

宣言通り、ネリネは素早く『金縛り』をかけられ身動きがとれないトリュコスに、とどめを刺した。

 魔獣の肉は人にとっては毒が有るモノが多く、毒のないモノでも食べ続ければ魔人になってしまうと言われていて、食用とすることは出来ない。ただ毛皮や角、牙、爪、と言った素材はただの獣よりずっと頑丈で、需要は大きかった。

「うーん。こっちのトリュコスの毛皮はダメだなーどっちみちここで解体するのは無理か……ねえ、ポーターさん。一匹だけでも持って帰れ無いかな?」

 ネリネはトリュコスを検分し、一番状態の良い一頭を指差してレーキを手招きする。

「……そいつを運ぶなら別料金だ」

「やった! じゃあ決まりね!」

 ネリネはぱちんと指を鳴らして、明るく笑った。状態の良いトリュコスの毛皮や角は、高く売れるだろう。思わぬ副収入と言う奴だ。

「……でも、今回の遺跡調査はここで終わりね……護衛はクビにしちゃったし、ここに住み着いてる魔獣がコイツらだけならいいけど……まだ居るようなら討伐隊を出して貰わなきゃ。二人だけで調査するのは危険すぎるから」

 溜め息混じりに、ネリネが宣言する。

「……そうか。君が安全を取ってくれて、ほっとしている」

「勇気と無謀は別物よ。さ、血の匂いが他のヤツらを呼び寄せちゃう前にここを離れましょ」

「ああ」

 ネリネは消えかけていた焚き火を、カンテラに移してから手早く焚き火台を片付けた。彼女は手についた埃をぽんぽんと払って、ふと何かを目に留める。

「……あ、元護衛の荷物、置きっぱなしだ。うーん。慰謝料として小銭は貰っとくとして……後は残して置いてやりましょ。あたしってば慈悲深い!」

 元護衛の荷物から手早く財布を抜き取るネリネを、レーキは止めなかった。彼がしたことを考えれば、ネリネの言い分ももっともだと思ったのだ。

 ここに来るまでに、ゆうに四刻(約四時間)はかかる坑道の中。それも一本道だった訳でもない。灯りも地図もなしに飛び出した元護衛の男は、果たして無事に出口まで辿り着けるのだろうか。それはレーキの預かり知らぬ所だ。

 

 レーキとネリネは不眠不休で、金鉱のそばの町まで戻って来た。結局、帰り道で元護衛と再会する事はなかった。

 もう夜が明けている。町の役場に駆け込んで、坑道内に魔獣が出たこと、遭難している男が居ることを説明して、証拠にトリュコスの死骸を見せた。

 町としても、坑道内に魔獣が居ることは好ましくない。近日中に調査すると応対にでた町役人は息巻いていた。

 クタクタだった二人は、その足で宿へ向かった。少しでも良い、睡眠と休息が取りたい。

 トリュコスの死骸は、宿に向かう道すがら革製品を扱う店に売却した。傷も少ない良品としてなかなかの額になった。それをネリネは半分にしてレーキにも分けてくれた。

「運搬料はこれでいい?」

「こんなに……いいのか?」

「うん。あなたが居たから取れた獲物だもん。それと……今回の依頼料は『学究の館』に戻ってからでいいかな? ここでポーターさんに降りられたら、あたし結構ピンチ」

 ふふっ。冗談めかして笑うネリネは、返り血さえ落とせばなかなか愛らしい少女だった。

 

 町に二軒しか無い宿の一つは、ちょうど二部屋が空いていた。二人は鍵を受け取って、早速部屋へと向かう。

「……色々とありがとね、ポーターさん……じゃ失礼かな、レーキさん」

 向かい合った部屋の扉の前で、ネリネはレーキを振り返って、心なしか沈んだ静かな声音で言った。

「ああ。……いや、俺こそ礼を言いたい。おかげで命拾いした。ポーターでもレーキでも好きなように呼べばいい」

「解った。……じゃあ、ありがと、レーキ」

 ネリネはそれだけ言って、自分用の部屋に消えていく。彼女の背中には疲労の色が濃く現れていた。

「……」

 レーキも黙って自分用の部屋に入って、重い荷物を下ろす。

 そのままベッドに倒れ込みたかった。だが、返り血こそ浴びていないものの、汗はたっぷりかいている上に、坑道内の埃でかなり薄汚れている。出来れば、水浴びか湯浴みをしたい。

 さいわいなことに、水の豊富なヴァローナの宿には風呂用の小部屋が付いていることが多い。この宿にも、浴槽の据え付けられた小部屋が用意されていた。

 宿の主人に頼んで、熱い湯で浴槽を満たして貰う。湯代は宿賃に上乗せされるが、仕方がない。

 

 入浴の習慣は、アスールで師匠と暮らすようになってから覚えたモノだ。

 アスールの入浴は蒸し風呂が主流だったが、師匠はたまにたっぷりとお湯を作って浴槽に入った。

 レーキは山の村に居た頃も、盗賊団に居た頃も、身体を水で拭うことなども滅多にしなかった。水は貴重なモノで、喉の渇きを潤すためのモノだった。

「ヴァローナでは毎日のように風呂に入る人もいるよ。ここはアスールだから毎日とは行かないがね。……それにしても……ああー! 良い気持ちだねえ」

 初めは水が無駄だ、恥ずかしいと抵抗したレーキだったが、風呂から聞こえる師匠の長い溜め息と鼻歌があんまり気持ち良さそうで、いつしか彼も風呂に入るようになった。

 天法院の寮には、寮生用の大きな浴場が有ったので、レーキも幾度となくお世話になった。

 

 早速湯に入り、汗を洗い流す。

「ああ……」

 深い息と共に。とっぷりと浴槽に沈み、温かな湯を堪能する。足を伸ばせる大きさの浴槽が有り難い。

 ゆったり心地良くなると、同時に自分がいかに疲れていたのかと思い知らされた。

 そのまま眠ってしまうかとすら思った。だが、湯が冷めてくる前に風呂から上がらなくては。身体を冷やしてしまう。

 後ろ髪を引かれながら、浴槽を出て備え付けの布で水気を拭う。濡れ羽も丁寧に拭ってそのままベッドに倒れ込む。

 目を閉じてしまうとそのまま眠り込んでしまいそうだ。どうにか起き上がり眼帯と下着と王珠(おうじゆ)を身に付けて、レーキはベッドに戻ると、そのまま眠りこけた。夢を幾つか見たような気がするが、内容は全く覚えていない。

 

 とんとんとん……

 ドアを叩く音で目が覚めた。宿に着いたのは昼前だったというのに、目覚めるとすっかり日が暮れていた。明かりのない室内はひどく暗い。レーキは王珠の光を頼りに、戸口を探して部屋を横切った。

「……何か、用か?」

 そこに立っていたのは、返り血を落とし服を着替えたネリネだった。彼女も風呂に入ったのか、さっぱりとした顔でにっと笑った。

「ご飯よ、レーキ。ご・は・ん。今食べっぱぐれると明日の朝まで飯抜きよ」

「ああ、飯か。ありがとう」

 言われてみれば、腹が減っている。レーキはむき出しの腹に手をやった。

「……ふうん。天法士だって言うのはホントなのね」

 レーキが首から提げていた王珠を目ざとく見つけて、ネリネは納得したようだ。

「ああ」

「ん? しかも王珠五つ? ……って最高位じゃない?!」

「……一応、な」

「やっぱりワケわかんない……! ……後、その、……服ぐらい着てよね!」

「あ……すまない」

 王珠を見ていたネリネの顔色が、急に赤くなった。

 まさか、年頃の少女が部屋に訪ねてくるとは思っても見なかったのだ。レーキは慌てて扉を閉めると、肌着を着て一張羅の上着を纏った。

 その色は天法院で着慣れた黒だった。

 

 二人は揃って、階下の食堂に下りて行った。食堂は賑やかで、明らかに宿泊客で無い近所の常連も混じっている。

「おー。やってるわね!」

 ネリネは、騒がしい食堂が気に入ったらしい。にっと笑うと、さっさと空席を見つけて腰掛ける。レーキもその向かいの席に座った。

「おいちゃん、麦エール! ジョッキで! 後ツマミになりそうなもの二、三皿と……今日のおすすめは?」

「あいよ! ジョッキ一丁ね! 今日は鶏の半身焼きだね!」

「じゃ、それちょうだい! レーキは?」

「俺は酒は止めておく。……君も、酒は止めておいた方が良いんじゃないか?」

「え? なんで?」

 早速差し出されたジョッキに口をつけ、口元にエールの泡を付けながらネリネはきょとんとレーキを見る。

「君は、未成年だろう?」

「……え、やだぁ! そんなに童顔に見える? あたしこれでも『学究院』出てるのよ?」

 通例であれば『学究院』やその他、専門院に入学する生徒は十五歳を超えている。それから三年間、高等教育を受け、成人年齢である十八歳を迎える頃には卒業するのだ。

 ……と言うことは。ネリネはとっくに成人と言うことになる。

「……そ、そうか……すまない。俺はてっきり……!」

「ま、良いけどね! まだまだ若いのはホントだもーん」

 上機嫌のネリネは、笑って自分の頬を指差しながらジョッキをあおった。

「んく……ぷはーっ!! ……かーっ!! 美味いっ!!」

「お! ねえちゃん良い飲みっぷりだねー!!」

 隣の席で、やはりジョッキを傾けていた常連客がネリネをはやし立てる。ネリネは口元の泡を手の甲で拭いながら、にぃっと歯を見せて笑った。

「まあね! ……おいちゃん、麦エールおかわり!」

 ネリネが二杯目のジョッキを空ける間に、レーキはこの街の名物料理だと言う、豚の香草焼きとウバの果実水を頼む。

「……おい。そんな調子で呑んで大丈夫なのか?」

 運ばれてくるツマミをつつきながら、既に三杯目のジョッキに取りかかったネリネに、レーキは一応声をかけた。

「ん? ああ、この位よゆーよ! よゆー! いえーい!!」

 ネリネの顔色は変わっていなかったが、口調は常以上に明るくなっている。このまま呑ませるのはマズイ。クランたちとの宴会からレーキは学んでいた。

「……少し速度を落とせ」

 麦エール酒の代わりに果実水を押し付けて、ネリネの手からジョッキを奪い取る。

「えー!! ホントによゆーなんだってば! レーキのイジワル!!」

「……そんな事を言う奴ほど酒癖が悪いんだ」

「んー。なんか実感こもってる感じ? ……解ったよぉーだっ!! ご飯も食べるよーっと!」

 ふくれっ面をしたネリネの興味は、酒から食事に移っていった。彼女は鶏の半身焼きを豪快に手掴みで口に運び、かぶりつく。脂で汚れた口元を手の甲で拭い、果実水を喉を鳴らして流し込む。その所作はやはり、元気の良い少年のようだ。と、レーキは思う。

「うん! これも美味い! おすすめなだけのこと有るじゃない!」

 ネリネはパチンと指を鳴らして、半身焼きを賞賛する。

「……にしても果実水(ジユース)か……こう言う時はやっぱり果実酒(ワイン)でしょ。おいちゃん、ワインー!」

「……おい」

「いいの、いいの! このお料理には絶対ワインが合うから!」

 ……もう、何を言っても無駄だ。諦め気味のレーキの肩を、あははっと笑いながら痛みを感じる勢いでネリネが叩く。

「……さ、レーキも呑もう! おいちゃん、じゃんじゃん持ってきて! 今日はとことん呑むわよぉー!」

 高らかに宣言するネリネの横で、レーキは大きな溜め息をついた。

 

「……んー。もう一杯……っ!」

「……水なら飲んでいい」

 散々に飲み食いし、酔いつぶれたネリネを背負って、レーキは宿の階段を上る。

 ネリネは本当に酒が強いようで、その細身のどこにそんな量が入るのかと疑問になるほどの酒を飲み干していた。

「……やだぁー! お酒がいいよぉー!」

「駄目だ。今夜は飲みすぎだ」

「やだぁー! やだぁー!」

 全く困った『荷物』だ。子供のように暴れるネリネをどうにか運んで、彼女用の部屋に到着する。

「ほら、着いたぞ」

「……やだぁー! だって、お酒呑んでなきゃ……怖くて、怖くて……眠れ、ない……っ」

 気がつけば、ネリネはレーキの背に顔を埋めてぐすぐすと泣いていた。

「……」

「……あンの、クソ野郎……っ! 依頼人に手ぇ出そうなんて……ワケ、わかんない……っ」

 何も無かったように気丈に振る舞っていたが、やはり年若い女性にとっては坑道で起こったことは恐ろしい出来事だったのだ。

 背に負ったネリネの身体は、とても軽くて。乱暴に扱えば、簡単に壊れてしまいそうで。

 未遂とはいえ、改めて横暴な元護衛への怒りが湧いてくる。

「……部屋、入るぞ」

 レーキは一言断ってからネリネ用の部屋に入り、ぐずって背中からなかなか離れようとしない彼女をベッドに座らせた。

 備え付けの水差しから木製コップに水を汲み、「これを飲め」と差し出す。

 ネリネは黙って、差し出されたコップを受け取って口元に運ぶ。

「……俺には君の痛みは解らない。解ったと言うつもりもない。それがどんな苦しみなのか解るのは君だけだ。だから、君に呑みすぎるなと言うこと以外に、俺に出来ることが有れば……教えて欲しい」

「……」

 踏みにじられた者の痛みが解るのは、同じように踏みにじられた者だけだ。

 だから。レーキに出来ることは少ない。彼が思いついたのは、ただ彼女に寄り添うことだけだった。

 レーキの言葉に。ネリネは苦しげにふにゃりと顔を歪ませた。レーキの服の裾を掴み、彼を見上げると、眼鏡の奥、藍色の眸がじわりと涙に滲み出した。

「……何にもない……何もしなくて、いい……! でも、そこに、居て……っ!」

「……ああ」

「……うっ……ぁ……あーっ! あーっ! 怖かった……すごく、怖かったのよぉ……っ!!」

 ぎゅっとコップを握りしめて、ネリネは堰を切ったように泣き出した。



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第40話 再会

「……おはよー……頭……すごく、痛い……ぐぅ~っ」

「……おはよう。あれだけ呑めば当然だ」

 目の下に(くま)を作って、朝食の時間にのそのそと食堂に下りてきたネリネは、椅子に座るなり頭を抱えて机に突っ伏した。

「……これを。飲むと良い」

 レーキは頭痛に苦しむネリネに、小瓶を差し出した。

「んー? なにこれ?」

「友人と開発した特殊な『治癒水』だ。通常の体力回復と怪我の治癒効果の他に鎮痛効果を持たせて有る。飲めば頭痛が和らぐハズだ」

「あーなにそれ、スゴい。便利ねー」

 自分の声すら頭に響くのか、ネリネは抑揚もなく驚く。早速『治癒水』を受け取って、躊躇(ためら)いも無く小壜(こびん)の中身を一気に飲み干す。

「んー。味は要改良、かな……? 薬みたいなものだから味はどうでも良いと思ってるでしょ? コレ……」

「味か……あまり気にしていなかったな」

 舌先で唇を舐めながら、ネリネが告げる。まさか、味を指摘されるとは思っても見なかった。それは盲点だった。

「……やっぱりね。でも飲むものだから不味いより美味しい方が良いじゃない?」

「かもな」

「あーでもさすが天法士の作ったブツだわ……頭痛、だいぶ楽になってきた。ありがと」

 突っ伏していたテーブルからレーキを見上げて、ネリネはふっと笑った。

「ブツ……とりあえず、効いたなら良かった」

 その笑みに釣られるように、レーキも口角を僅かに引き上げた。

 

 

 昨晩、大泣きすることで緊張の糸が切れたのか、ネリネはひとしきり泣き喚いた後、ベッドに転がると直ぐに眠ってしまった。身体が冷えないようにシーツをかけてやると、眠っても険しかった表情が幾分和らいだ。

「……おやすみ」

 声を掛けても返事はない。彼女が深く眠り込んだことを確認して、部屋に鍵をかける。それから、レーキは自分用の部屋に戻った。

 ベッドに横たわり、見知らぬ部屋を眺める。

 明日、半日かけて『学究の館』へ戻ればこの仕事は終わりだ。知らず大きな嘆息が漏れた。

 ポーターを始めたばかりだというのに、大変な目にあった。しかも、貯金はまだまだ目標額に達していない。

 昼の間、泥のように眠っていたと言うのに、隻眼を閉じると眠気が兆してくる。レーキはそのまま朝まで眠り込んだ。

 

 

「おはようございますー朝食ですー!」

 宿の従業員が、笑顔とともに運んできた朝食は、柔らかいヴァローナ風の丸パンとバターで焼いたとろふわの炒り卵、付け合わせに火を通した葉物野菜と芋、それから紅茶(ホンチヤ)とミルク。

 紅茶はこの頃ヴァローナでも流通し始めた飲み物で、心をおだやかにし、眠気を払って口の中をさっぱりさせてくれる効果がある。

 原産地であり、一大産地である黄成から輸入されたモノが最上級であるが、最近ではヴァローナやアスールの一部でも生産されているようだ。

「……あら。紅茶だ。あたしこれ好き」

「うちの女将さんが最近凝ってるんですよ。黄成産とか色々取り寄せたりしてるんです」

「それって高いんでしょ? ふうん。豪勢な話じゃない」

「まあ、お客さんにお出ししてるのはアスール産のそんなにお高くない奴なんですけどねー」

 従業員が困ったように笑った。ネリネは紅茶にたっぷりとミルクを注いで、スプーンでくるくるとかき回す。

「でも、アスール産もなかなか悪くないわよ? ……うん。やっぱり美味し」

 ミルク入りの紅茶を一口嚥下(えんげ)して、ネリネは満足げに頷いた。

「うーん。頭痛が治まってきたらお腹空いて来ちゃった。ご飯おいしそー!」

 ネリネは千切ったパンの上に炒り卵をたっぷりと載せて、慎重に口まで運んだ。そのままかぶりつき、頬張ると「うーん」と(うな)る。

 その様子があんまり美味そうで、レーキも真似してパンに卵を乗せてみた。ふわふわと柔らかなパンととろりとした卵は確かに良い風味で。鼻に抜けるバターの香りがまた素晴らしい。

「……ああ、これは美味いな」

「でしょ、でしょー! ……ああ……美味しい……!」

 レーキもネリネも、食事を摂る速度は早い方で。美味い、美味いと食べ進める内に食器はすぐに空になってしまう。

 食後にまだ温かな紅茶を堪能し、二人は息をついた。幸福な沈黙。その後に先に口を開いたのはネリネだった。

「……あのね。昨日はありがと」

 彼女は真っ直ぐに、レーキの隻眼を見つめて言った。泣きはらしていた(まぶた)は、まだほんのりと赤い。

「……いや、俺は、何も……」

 それが、レーキの本音だった。自分にできたことは、ただ黙って隣にいることだけだった。

「ううん。あなたにとっては何でもないコトかもだけど……あたしはスッゴく助かったの。だから、お礼を言うの」

 あたしが、言いたいから、言う。言外にそんな意味を込めて礼を言うネリネは、すっかり立ち直ったようだった。

「……そうか」

 レーキは安堵して、ふっと微笑んだ。その反応を見たネリネは、にっととびきりの笑顔を浮かべ、パチンと指を鳴らす。

「……さ、これで、この話はお終い。あなたもその……忘れてくれると助かる」

 さすがに泣きじゃくる姿を見られるのは恥ずかしかったのか、ネリネは苦笑気味に言って眸を反らした。

「解った。……俺は何も見てないし、聞いていない」

「……ん。良かった。……今日はこれから少し食休みしてからすぐ出発しましょう。今日中に『学究の館』に着きたい」

 きりりと、依頼人の顔を取り戻したネリネは、レーキに向かって提案する。

「解った。支度しよう」

 レーキは早速立ち上がった。ネリネは「あたしはもう一杯だけ休むわ」と優雅に紅茶のお代わりを頼んだ。

 

 昼前に金鉱の町を出発して、『学究の館』にたどり着いた時は夕食時を過ぎていた。さいわいにして、道中事故も事件も起き無かった。

 街に戻った二人は、『ギルド』に今回の依頼が失敗だったと言う報告をした。それでも規定によって、ポーターへの賃金がネリネから支払われる。

「はい。コレで全額よ。……依頼受けてくれて、ありがと」

 ネリネが寄越した報酬は、気持ち上乗せされていた。全額は、街で三日間ポーターとして働いたとしても、なかなか得られない程の額だった。金のない身だ。ありがたく受け取ることにする。

「ああ。こちらこそ、ありがとう」

「……あのね、レーキ。これに懲りないで欲しいの。あたし、またあなたに荷物を頼みたいし……」

 礼を言われて、珍しくネリネが言い淀んだ。眼鏡越しにレーキの顔を見上げて、唇を尖らせる。その様子が()(まま)(とが)められた少女のようで、レーキは思わず頷いていた。

「……ああ。まだまだ貯金も貯まってないしな」

「良かった! それじゃあ、またね!」

 ネリネが微笑みを浮かべて、右手を差し出した。レーキはそれを握り返す。ネリネは初対面の時と同じように、にっと不敵に笑った。

 

 週末、『諸源(しよげん)の日』に、ズィルバーとアガートが揃って宿にレーキを訪ねて来た。

「お言葉に甘えて、遊びに来ましたデス!」

「あ、オレもねー。君がどんな生活してるかちょっと気になってさ。これお土産ねーアニル姉さん特製のパンだよー」

 ズィルバーは、好奇の目を避けるためのフードを脱ぎながら部屋に入ってきた。安宿の部屋が物珍しいのか、キョロキョロと部屋中を見回している。

 初夏へと移り変わりつつある季節柄、ぐるぐる巻きのマフラーは止めて居るらしい。

 一方アガートはいつも通りの茫洋(ぼうよう)とした笑みを浮かべ、両の掌には収まらないほど大きな紙の包みを差し出してくれた。紙包みに鼻を近付けると(ほの)かにヴァローナ風パンの良い香りがする。

「はあ……良い匂いだ……ありがとうございます。姉さんにもお礼を伝えて下さい」

「うん。言っとくねー……で、どうなのさ? 新しい仕事は」

 安宿の粗末な部屋に、椅子は一脚しかない。レーキがそれに腰掛ける。アガートとズィルバーは自然と並んでベッドに腰掛けた。

「……ポーターの仕事を三件ほどこなしました。一件目は魔獣に遭遇して危ない所でしたが、その外は問題有りませんでしたね。この分なら夏過ぎにはアスールに帰れそうです」

「魔獣に、遭遇……したのデスか?! レーキサン、大丈夫デスか?! お怪我は、デス!!」

 ズィルバーは(すく)み上がって、怪我を探すように、おろおろとレーキの手足を検分する。お坊ちゃん育ちで狩りなどの経験もないズィルバーにとっては魔獣はただただ恐怖の対象なのだろう。アスールの森に暮らしていたレーキには小さい魔物なら狩った経験があった。魔物と言うだけで恐れることもない。

「ああ。大丈夫。こうして怪我もない」

「はーっ! よ、良かったデス……!」

 ズィルバーはほっと胸を撫で下ろし、ベッドに腰掛け直す。その隣でアガートががりがりと頭を掻きながら唸った。

「うーん。魔獣って、何が出たの? 場所は?」

「トリュコスです。古い金鉱の奥でした」

「うーん。トリュ……って角生えてる狼に似たヤツだよね? 洞窟とかねぐらにすることがあるって何かで読んだけど……それかなー?」

 記憶の奥を探るように、アガートは首を捻る。名前を覚えることが苦手なのは、魔物にも当てはまるらしい。

「そうかもしれません。金鉱の奥に遺跡が見つかったらしいので、そちらの入り口から入り込んだのかも」

「なるほどねー。遺跡の中には魔獣を引き寄せる『魔具(まぐ)』が眠ってる場合があるらしいって聞いたことあるなー魔獣は魔の気配に敏感らしいから」

「なるほど。『魔具』は魔の者が作った法具(ほうぐ)のようなモノ、ですよね?」

「うん。『魔具』は色々と便利な効果があるし、使用者を魔で汚染する事がほとんど無いから、今でもかなりの高値で取り引きされてるよー。高すぎて新人教師の薄給じゃ手も足も出ないくらい」

 苦笑するアガートをみれば、新人教師の給料は相当安いらしいことがうかがえる。この先輩は苦学生であったが、就職しても金銭には苦労しているらしい。

「あー……『魔具』で思いついたんだけど、魔物除けの法具とか作ってみる? あんまり強力な魔物には効果無いけど……そのための本とか貸し出すよー?」

「ああ、それはありがたいです。魔物なんて遭わず済むにこしたことはないですから」

「……あ、あの……っ」

 先輩たちの話を黙って聞いていたズィルバーが、おずおずと手を挙げた。

「その法具、小生にも作れマスでショウか?」

「ああ、うん。ズィルバー君なら大丈夫じゃないかなー? そんなに難しくないし。オレが教えてあげるからやってみるー?」

「ハイ! 小生は何かレーキサンのお役に立ちたいのデス!」

 力強くズィルバーは請け負う。後輩の心意気に胸が熱くなる。レーキは魔物除け作りを、ズィルバーに任せることにした。

「ありがとう、ズィルバー。頼めるか? 当然、勉強の合間で構わないから」

「ハイ! もちろんデス!」

 ズィルバーは元気良く、どんっと胸元を叩いて背筋を伸ばした。奮起する後輩の様子が頼もしくもあり、微笑ましくもある。

 その後三人は四方山(よもやま)話に花を咲かせた。

 夕方の鐘が鳴ると、今度会うときまでに魔物除けの法具を作ってくると約束して、ズィルバーとアガートは帰って行った。

 

 休日を挟んで今日も『ギルド』へ向かう。仕事はないかと、数々の依頼が掲示された壁を眺めてみる。

 ポーターを必要とする依頼は幾つか有る。賃金の良い仕事を探して、依頼書を見比べていると、

「……ふうん。ロクな依頼がねえな」

 レーキの隣で腕を組んだ男が、依頼書を眺めて溜め息をついた。

 それは、どこかで聞き覚えの有る声で。

 レーキよりも頭半分ほど背が高いその男は、長短二本の剣を左腰に下げていた。(みどり)色に見える眸を僅かに細め、顎髭(あごひげ)を撫でる男。レーキは記憶の糸を手繰(たぐ)る。

 ふっと浮かび上がる情景。それはいつかの『学究祭』の日、『剣統院(けんとういん)』でグラーヴォを打ち負かした二年生代表の姿だった。

「……あんた、『剣統院』の……グラーヴォの、先、輩……?」

「……あン? なんだ? お前、グラーヴォの知り合いか?」

 男は訝しげにレーキを見てくる。その眼光は鋭く、こちらを値踏みするようだった。

「友人だ。何年か前にあんたととグラーヴォの試合を見た」

「ふうん。……あー試合の後に控え室に来た連中の一人だろ? その黒い羽、なんだか見覚えがあるぜ」

 レーキを指差しながら男はにやと笑う。あの頃は、髭など生やして居なかったような気がする。

「ああ。あの日は確かに控え室に行った」

 次第に記憶がはっきりして来る。確かこの男はあの日グラーヴォに『治癒水』を渡して激励(げきれい)していた。

「やっぱりな。……あの後、グラーヴォに妙に懐かれてなぁ。卒業まで面倒見てやった。あいつ、ニクスの騎士団に入っただろ? オレとすれ違いになったな」

 なるほど、あの時のグラーヴォの感激具合からすればそんな事もあるだろう。

 確かに、グラーヴォはニクス騎士団に入団したとレーキが告げると、男は肩をすくめて自嘲気味に笑う。

「……オレもニクス騎士団に入ったんだがなぁ。どうにも(はだ)に合わなくてな。こっちから辞めてやった。今は南に向かって旅をしながら金を稼いでいる最中だ。一度グラナートに行ってみたくてな」

 ニクスの騎士団と言えば、精強な武闘派で知られている。ニクスと言う国自体が武を尊ぶ気風も有って、資金も潤沢で規模も大きい。毎年の入団志望者も多いが、採用される者は実力者ばかりだと聞いた。そんな騎士団を自ら辞めてきたというこの奇特な男にレーキは興味が湧く。

「……所であんた名前は?」

「オレか? オレはウィリディス・レスタベリ。呼びにくいからウィルでいいぜ」

 親指で自身を差して、ウィルは不敵な笑みを浮かべる。

「解った。俺はレーキ・ヴァーミリオン。レーキで構わない。よろしく頼む。ウィル」

 ニクス風の挨拶は知らない。レーキがとりあえずヴァローナ風に両手のひらを上向きに差し出すと、ウィルも同じ様に両手を差し出した。

「……おう。再会ってヤツを祝して飯でも食おうぜ。オレは腹が減った。最近のヴァローナの様子も聞きたいしな」

「ああ」

『ギルド』の一階の半分は、旅人のための食堂になっている。レーキとウィルはそこへ場所を移して、早速昼食を注文した。

 



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第41話 新しい仕事

「あ、レーキ! 仕事探し?」

『ギルド』の食堂で、知り合ったばかりのウィルと、安価な値段にしてはなかなか美味い昼食を()っていたレーキに声を掛ける者がいた。

「……ん。ああ、ネリネか。確かに次の仕事を探している、が」

 口に入れたばかりの牛肉のシチューを飲み込んで、レーキは一週間ぶりに出会うネリネを見上げる。

 彼女は遠慮も会釈も無く、レーキの隣に腰掛けると、自分のために軽い飲み物を頼んだ。

「仕事の話なら一つ良いのがあるけど……んで、この剣士っぽいハンサムさんはだーれ?」

 好奇心いっぱいの表情で、ネリネはウィルの顔を覗き込む。確かにウィルはなかなか整った顔立ちで、優しく微笑めば恋人にも不自由しないと思われた。

「ンあ。オレか? 剣士っぽいじゃない。オレは剣士だ。ちんちくりんのお嬢ちゃん」

 ウィルは腰に下げた二振りの剣を叩きながら、にぃっと笑った。

「……レーキ。あたし、コイツ、キライ」

 口もとをひくりと震わせて、ネリネは腹立たしそうに声を低くする。

「ウィル、彼女はすでに成人している。彼女はネリネ、彼はウィリディスだ」

「へーそうなのか? ちんちくりんでかわいいから中等校の学生かと思ったぜ! 言いにくいならウィルと呼んでくれ。お嬢ちゃん」

 親指を立てて快活にいうウィルの顔を、ネリネはまじまじと見つめた。

「……うーん。かわいいには全面的に同意するし顔は悪くない、けど……ちんちくりん……やっぱり、あたし、コイツ、キライ」

 獣なら低く唸り出しそうな形相で、ネリネはウィルを睨んでいる。

「ははっ! おかしなお嬢ちゃんだぜ!」

 当人のウィルはどこ吹く風で、昼食の牛赤身肉ステーキを口いっぱいに頬張った。

「……所でネリネ。仕事の話がどうとかと言っていたか?」

「あ、そうそう。この間の遺跡ね、調査したら魔獣の群れが住み着いてることが解ったの。それでそいつらを掃討することになってね。結構人数を集めてて、報酬もなかなかだからあなたも乗らないかと思って」

 仕事に気分を切り替えたネリネは、頼んでいた果実水を受け取りながらレーキに向き直る。

「しかし俺はポーターだぞ?」

「もちろんポーターの仕事よ。掃討作戦が終わったら遺跡の調査もするから。そのための道具とか運んで貰いたいの」

 ポーターとして働くなら、危険はないだろうか? レーキは逡巡(しゅんじゅん)する。

「……その話、オレも一枚噛ませてくれ」

 塊の肉を片付けたウィルが、口もとを品良く拭いながら会話に加わった。

「魔獣退治だろ? ならオレのような剣士の出番は多いよな?」

「……ねえ、レーキ。コイツ、腕は立つの?」

 にかぁっと、歯を見せて笑っているウィルに向かって、ネリネは懐疑的な眼を向ける。

「ああ。ヴァローナの『剣統院(けんとういん)』で学年代表に選ばれるほどには。何年か前に試合を見たが、かなり出来ると思う」

 レーキは、あの時見た試合を思い出していた。常にグラーヴォの上手を行き、翻弄(ほんろう)していた華麗な剣技。裏腹に上手に包み隠した鬼気。あれだけの技巧者はそうはいまい。

「お前が見たのは二年の時のオレだろう? あれからオレはものすげー進化してるぜ!」

 臆面もなく言い放ったウィルは、自信に満ち溢れた表情を、その男前な顔に浮かべた。

「……あ、そ。学生の時成績優秀でも実戦ではてんで役に立たないヤツもいる。あんたは違うって言える?」

 プロの顔をしたネリネが、値踏みするようにウィルを見つめる。鋭い視線に臆することもなく、ウィルはネリネを見つめ返す。

「魔獣退治は経験がある。騎士団で愉快な仕事と言えばそれくらいだったしな」

「騎士団? こんな所でぷらぷらしてるってコトは騎士団を放り出されたの?」

 やっぱりね。とでも言いたげなネリネは、ふんと鼻を鳴らした。

「違う。こっちから辞めてやったんだ。騎士団ってトコは体面ばっかり気にしてクソみてえなお貴族様がふんぞり返っていやがってな。魔獣退治で手柄をたててもみんな奴らの出世の道具にされちまう。それが馬鹿馬鹿しくてなぁ」

 それは苦い経験だったのだろう。ウィルの表情に一瞬暗い色が陰る。

「……ふうん。ちなみにどこの騎士団にいたの?」

 ウィルの事情を聞いて、ネリネは少し態度を軟化させた。一応聞いておいてやる。と、言外に示しながら、ネリネは腕組みをした。

「ニクスだ」

「は?」

「だから、ニ、ク、ス! ニクス雪白の騎士団だ!」

「聞こえてるわよ! なんなの?! 『五大国一』の騎士団をわざわざ辞めて来たって言うの?! アンタもレーキと同じ類いのバカなの?! ワケわかんない!」

 剣士や戦士にとっては憧れの騎士団、その中でも『五大国一』と噂されるニクス雪白の騎士団を自ら辞めてしまうことも、最高位の五つ組の王珠(おうじゆ)を授かりながら天法士として働かないと(のたま)っていることも、ネリネにとっては同類の『ワケのわからない』こと、らしい。

 勿体ない、という点ではネリネの嘆きはもっともだった。

 レーキとウィルの二人は、揃って顔を見合わせる。

「……はあっ、まあ良いわ。人手は多いに越したこと無いし、ニクスの騎士団に一度は入れる位なら腕も確かでしょう。アナタを雇うように『ギルド』に推薦しておく」

「うしっ! 魔獣退治!」

 子供がピクニックにでも行くと知らされた時のように、ウィルは喜んで拳を握った。

「で、レーキはどうする?」

 レーキに向き直ったネリネは微笑んで、眼鏡の位置を直す。できたら引き受けて貰いたい。期待を含んだネリネの視線に、レーキはわずかに眉を寄せた。

「……決行はいつだ?」

「四日後の早朝に金鉱の前から。引き受けてくれるならアナタには前日に荷物を運んで金鉱の町に入って貰う。金鉱の町で宿を取って一泊よ」

「解った。報酬は?」

「これだけ」

 ポーターの仕事としては、上限に近い報酬額を提示されて、レーキの心は揺れる。

「……解った。依頼を受ける。だがあくまでも俺はポーターだ。それを忘れないでくれ」

 結局、報酬に釣られた。ネリネに念押しして、レーキは心を決める。

「解ってる。契約成立ね、お料理も上手なポーターさん」

 ネリネは、レーキが天法士(てんほうし)であることを開かそうとはしなかった。彼女の義理堅さに感謝しながら、差し出されたネリネの右手をレーキは握り返した。

 

 三日後の昼前に、レーキ達は『学究の館』を出発した。レーキとネリネ、それから二人についてきた、金鉱の町の位置を知らないと言うウィルは(そろ)って街道を進む。

「そーだな、その町とやらまで暇だから、護衛でもしてやろうか? お嬢ちゃん?」

「……護衛なんて……要らないわよ」

 吐き捨てるネリネの様子を、気にかけた風も無くウィルは「そりゃ残念。報酬を増やそうと思ったのにな!」と、とぼけたように答える。

 レーキはネリネに、個人的なポーターとして雇われた。運ぶモノはネリネの調査用器材と彼女の食料と水、それから自分の食料と水と調理道具だ。

 今回ネリネは、連射が出来る小型のクロスボウと矢筒を携えていた。彼女は遺跡調査に向かう依頼人であると同時に、魔獣退治に参加する雇われ人でもあった。

「あたしの本職は考古学者だけど、それだけじゃ生活が苦しいから。普段はこうしてレンジャーも兼業してるの」

 ネリネの(たずさ)えたクロスボウはよく手入れされていて、彼女はいかにもその扱いに慣れているようだ。では、なぜ前回は護衛など雇ったのだろう?

 レーキが疑問に思って押し黙っていると、ネリネはそれを察したように振り向いた。

「あたしね、遺跡とか古代のモノとかに囲まれてるとそっちに意識を集中しちゃって他のコトとかどーでも良くなっちゃうの。だからこの前は念のために護衛を雇ったんだけど……失敗だったね」

「ああ、そう言うことか」

 納得した様子のレーキに、ネリネはこの前の出来事を思い出したのか、唇に苦笑を浮かべる。

「次は失敗しない! ……そうねぇ、いっそあんた達のコトはこのあたしが護衛してあげるわ。何が来ても任せておきなさい!」

「おー頼もしいなーお嬢ちゃん!」

 子供の悪戯を眺めて微笑むような、慈愛の表情で、ウィルはネリネを見ている。小柄なネリネと大柄なウィルが並ぶと、まるで兄妹のようだ。と、レーキは思ったが、これは言わぬが花だろう。

「あんたねぇ……その『お嬢ちゃん』っての止めなさいよ。あたしにはネリネ・フロレンスってれっきとした名前があんのよ! それにこの中じゃ多分あたしが一番年上だからね!」

 びしりと音でも立てそうな勢いで、ネリネはウィルに人差し指を突きつける。

「あンん? そうか? オレは十九歳だが……あんたは?」

「俺か? 俺はもうすぐ、二十一歳、だな、多分」

 突然訊ねられて、レーキは指折り数えて自分の歳を思い返した。

 レーキは自分の生まれた日を知らない。卒業式がある『青の月』生まれで有るらしいことは解っていたので、『青の月』が終われば歳をひとつ取ることにしていた。

「やっぱりね! あたしは『混沌の月』生まれの二十二歳よ!」

 予想が当たり勝ち誇って、ネリネが胸を張る。

「ふうん。三人とも大して違わねーじゃねぇか」

「違うわよ! 大違いよ! とにかくあたしはアンタより年上なんだから敬いなさい!」

「はいはい。解りましたよ。ネリネお嬢さま」

「ぐぎぎぎ……! お嬢ちゃんよりはマシだけど、でも、なんか、ムカつく……!」

 ネリネを揶揄(からか)って遊ぶことが、楽しくなってきているのだろう。ウィルは黙っていれば男前な顔に、にやと笑みを浮かべてネリネの隣を歩いている。

 それを振り切るように、ネリネは後ろ手に腕を組み合わせて、前を行くレーキの隣に並んだ。

「……それにしても、レーキは多分って……自分の歳なのに曖昧なのね」

「俺は生まれた日と言うヤツを知らないからな。自然と曖昧になったな」

 背に負った荷物の位置を直しながら、レーキは前を向いて歩を進める。その隣で、ネリネは思いついたように「ああ」と呟いた。

「……グラナートでは誕生日を重視しない風習があるとか?」

「いや。グラナートでも生まれた日は祝う。俺は孤児なんだ。だから誕生日は解らない」

 淡々と過去を告げるレーキの横顔を、ネリネは黙って見つめる。短い沈黙の後、ネリネは明るく微笑んだ。それは哀れみでも悲嘆でもなく。ただ柔らかな笑みだった。

「……そっか。あ、でも、もうすぐ二十一ってことは生まれ月くらいは解るんでしょ?」

「ああ、それなら『青の月』だ」

「やだ、今月じゃない!」

「そうだな。それがどうかしたか?」

 驚きの声を上げるネリネを見やって、レーキは事も無げに言う。

「えっと、その……誰かお祝いとかしてくれる人、居ないの?」

「……師匠……師匠が生きていた頃は『青の月』の最後の日にいつもより飯を一品増やしてくれた。肉とか魚とか……とにかく美味いものを。今思うと……それが『お祝い』だったのかもな」

 

 師匠は決まって「『青の月』最後の日だから、今日はご馳走にしましょう」と言った。

 日々の生活は慎ましくて、ご馳走と言ってもたった一品、夕餉(ゆうげ)のメニューを増やすだけ。

 大げさな誕生日祝いの言葉などは無かったが、師匠はレーキが一つ歳をとることを喜んでくれた。

 それに師匠はいつだって、背丈が伸びることを、出来なかったことが出来るようになることを喜んでくれた。レーキにとってはそれで十分だった。

 師匠がこの世を去ってからは、『青の月』最後の日は特別な日では無くなっていた。

 

「……そっか。今はお祝いしてくれる人、いないのね。あたしと同じだ」

 ネリネは笑みを浮かべたまま、自分を指差した。

「あたし一人っ子でね。おかーさんはあたしを産んですぐに亡くなったの。だからあたし、おとーさんに男手一つで育てられたのね。そのおとーさんもあたしが十八の年に死んじゃった。だからお誕生日お祝いしてくれる人、今は居ないの」

 天涯孤独で有ることを、からりと明るい表情でネリネは告げる。その後で、言い訳のように慌てて付け足した。

「あ、あ、もちろん友達はいるのよ?! でも、こんな風にフィールドワークばっかやってると……なかなか会う機会とかないだけだし!」

 言い募るネリネの顔を見ていると、レーキは何故だかクランたちの顔を思い出した。思い出せる友がいる。そのことが無性に嬉しかった。

「……ああ、俺にも友達はいる。ただ、生まれた日の話なんてしたことは無くてな」

「そ、そう。それなら良いの! 何だかしんみりしちゃうから……この話はお終いね!」

「くくっ。お嬢ちゃんが言い出したんじゃねーか」

 いままで黙って二人の会話を聞いていたウィルが、ぽそりと呟く。それを聞き(とが)めたネリネが、きっと眼を鋭くしてウィルを振り返った。

「うっさい! バカ! ……あたし、やっぱり、アイツ、キライ!」



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第42話 再びの坑道

 レーキとネリネ、そしてウィル。三人はじゃれ合うように言葉を交わしながら、街道を行く。

 ネリネは父親も考古学者だったと言い、父親の残した研究を完成させるために、その後を継いだのだと誇らしげに語った。

 ウィルは没落した騎士の家系で、幼い頃から騎士団に入るために教育された、と苦い表情で言った。

 レーキは自分が孤児だったこと、師匠に拾われたことを話したが、その他のことは黙っておいた。ネリネもウィルも、面白がって他人の過去をあれこれ詮索してくるような性格では無かった。

 やがて、日暮れの前に、金鉱の町が見えて来る。

 一番前を歩いていたネリネが、後ろを振り返って問いかけた。

「所でアナタたち今夜の宿はどうするの?」

「ン。オレは眠れるならどこでも構わないぜ」

「アンタはどんな環境でもぐーすか寝られそうよね」

 ネリネの軽口に、ウィルはふふんと鼻を高くして「まあな!」と応じる。

「言っとくけど、褒めて無いし!」

「そう言う君はもう決めているのか?」

 レーキの問いに、ネリネは自信満々に頷いた。

「もちろんよ。この間の宿にしようと思って。予約の手紙も送って有るわ。あの宿、ご飯もお酒もなかなか美味しかったし」

「抜かりないんだな。俺は……どうしたものか。最悪、馬小屋でも倉庫でも屋根が有れば有り難いんだが」

 本心からレーキがそう言うと、ネリネはにぃっと不敵な笑みを浮かべた。

「ふふふー! その辺も抜かりないわよ。今回レーキの分のお部屋も予約してあります! 慈悲深い雇い主に感謝しなさい。あたしってば天才!」

 ぱちんと指を鳴らして眼鏡の位置を直し、ネリネは自分を(たた)える。

「そうか。それは助かる。有り難う、ネリネ」

 レーキが礼を言う隣で、ウィルは自分を指差してとびきりの笑顔を浮かべて見せた。

「なあ、オレは? オレは?」

「……くっ! アンタ、ホントに顔だけは良いわね……アンタの分なんて無いわよ。自力で何とかしなさい」

 素気(すげ)ないネリネに、ウィルはおどけてちぇーと唇を尖らせた。

 

「おーおー。なかなか悪くない部屋だ」

 宿の部屋に入るなり、ウィルは荷物を下ろしてベッドに飛び込んだ。

「飯もかなり美味いぞ」

 レーキも荷物を背から下ろして、椅子に腰掛ける。

「お! まずは飯だな! それから酒だ!」

 ウィルは、ベッドから跳ねるように飛び起きた。落ち着きのない男だ。と、レーキは思った。

 ウィルは金鉱の町で宿を探したが、結局、数少ない宿は、魔獣退治に参加する人々で全て埋まっていた。宿の従業員(いわ)く、馬小屋位しか空きがないと。

 見かねたレーキが相部屋を申し出ると、ウィルはそれに飛びついた。

 ネリネがレーキ用に予約した部屋には、予備のベッドがあったのだ。

「飯だー、飯だ!」

 歌うように踊るように軽やかな足取りで、ウィルは階下に降りて行く。

 レーキは彼の後に続いて、食堂に向かった。

 

 翌日、朝の時間を告げる鐘が鳴った。

 金鉱の前に魔獣退治に参加する二十人余りの剣士や戦士、天法士、レンジャーたちが集合する。

 皆がそれぞれに得物を手にして、興奮を押し殺し出発の時を今か今かと待っている。

「……皆さまに火の王さま、水の王さま、木の王さま、金の王さま、土の王さまのご加護が御座いますように」

 町長の訓辞の締めくくりを合図に、集まった狩人たちは順繰りに金鉱の狭い坑道に分け入って行った。

「さ、あたしたちもそろそろ出発よ」

 小型のクロスボウを携えたネリネと、大荷物を背負ったレーキの番が、もうじき来ようとしている。

「ランタンは……どうしよっか。んー」

「ああ、オレが持つ。前衛はオレだからな」

 手を差し出してランタンを受け取ろうとするウィルを、完全に視界に入れずにネリネはレーキに向き直った。

「アナタにお願いするわ、レーキ。あたしはこれで手が塞がっちゃうから」

「……解った」

「オレを無視すんなよな! お嬢ちゃん!」

「……なんでアンタがここに居るワケ?」

 冷ややかなネリネの視線にも、全く気落ちした様子もなく、ウィルはレーキからランタンを横取りする。

「クロスボウのあんただけじゃ戦力不足だろぉ? オマケにポーターだって抱えてるんだ。だからオレが手を貸そうってワケだ」

「余計なお世話よ!」

 ウィルの申し出を、ネリネはきっぱりとはねつけた。

「まあまあ。そういきり立つなよ、お嬢ちゃん。冷静になってくれ。魔獣は油断ならない相手だぜ? 戦力は多いに越したことはない」

「……アンタに言われなくても解ってるわよ……」

 レーキが天法士であると言う奥の手はあるものの、確かにレンジャーとポーターだけでは手が足りないと言うことは理解できる。

 ネリネの心は揺れているようで、言葉も歯切れが悪かった。

「……ネリネ、俺も戦力は多い方がいいと思う。この間はどうにか勝てたが、魔獣の数が増えれば危険だ」

「……」

「そうだ。レーキの言う通りだぜ? それにな、オレは照明用の油を節約できる」

 あまりにも正直なウィルの言い様に、ネリネは溜め息混じりに横目でウィルを見た。

「……ああ、そう言う魂胆ね。良いわ、ついてきても。ただし後で油代請求するからね!」

「よしっ! そうこなくちゃな!」

 にっと、ウィルが会心の笑みを浮かべる。ネリネは溜め息を深くして、頭を抱えた。

 

 係の町役人に促されて、ウィルを先頭にした三人は金鉱の中へと足を踏み入れる。

 この金鉱は元々自然の洞窟だった。

 だが鉱脈を求めて野放図に人々が掘り進めていった結果、坑道は入り組み、地図が無ければ進むことも戻ることも容易ではない、迷宮の様になってしまった。

 今回もネリネは地図を背嚢(はいのう)に差しているが、レーキとウィルの二人も念の為、地図を携帯している。

「……魔獣が多く棲み付いてるのは、坑道と繋がった遺跡の中みたいよ。ここから随分歩くから覚悟しといて。……さ、こっちよ」

 地図を一瞥してから、ネリネは迷い無く行く先を指し示す。

 前方を警戒しながら、ウィルがランタンを掲げて前を行き、その後にネリネ、レーキが続く。

 坑道の中は空気がひやりと冷たく、どこか湿っている様な感触がある。ランタンの明かりに照らされた壁には、無数の(つち)跡が残されて、今歩いている坑道が人の手によって掘られたものだと言うことが、はっきりと解った。

「人ってホント、ワケが分かんないわ。何十年って歳月をかけてこんなに複雑な穴を掘っちゃうんだから」

 感嘆とも驚嘆ともつかず嘆息を漏らしたネリネの言葉に、レーキは同意した。

「ああ。人と言うものは驚異的なことを成し遂げるものだな」

「……レーキはさ、遺跡って見たことある?」

 魔獣が棲み付いた遺跡までは、まだまだ距離がある。ネリネは警戒しつつも雑談を続けたいようだ。

「いや。残念だがまだ無い」

「古代の遺跡もね、素晴らしいモノがいっぱいあるの。意匠の凝ったの、規模の大きなの、純粋に美しいの……どれもみんな人の手で作られててね、全く同じモノは一つもない。だからね、あたしは沢山の遺跡を見たいの」

 遺跡を語る、ネリネの(ひとみ)は眼鏡の奥でキラと輝いている。

「世界中の遺跡を見て回るってのがあたしの夢。今はまだヴァローナの遺跡ばっかりまわってるけど、その内他の国にも行きたいな。国が違えば様式も違ってくるから」

 楽しげに夢を語るネリネ。夢を持ってそのための努力を続けられる人間の、なんと眩しいことか。

 レーキの夢は『天法士になること』だったが、念願が叶った今、彼は新たな目標を立てられずにいる。

 アスールの村に帰ることはただするべきコト、で有って夢ではない。死の王の呪いを解くコトもまた同じだ。やらなければならないコトだから努力するし、やり遂げようと思うが、それが夢かと問われればレーキは違うと答えるだろう。

 自分の『夢』とは一体なんなのだろう。俯いてそんなことをぐるぐると考えながら、レーキはネリネたちに続いて坑道を歩いた。

 

 遺跡にたどり着くまで、魔獣に出くわすことはなかった。四刻(約四時間)ほど坑道を進み、以前魔獣に襲われた広場のような場所で今回も休息を取る。煮炊きをする事は出来ない。魔獣に調理の匂いを嗅ぎつけられては問題があるからだ。日持ちの良い堅パンと干し肉をそのままかじって、素早く水で流し込む。昼食はそれでお終い。味のほどは推して知るべしだったが仕方がない。

「うーん。あの時のスープの味が恋しい……」

 どこか寂しげに呟いて、ネリネは肩を落とした。

「スープ? なんだそりゃ」

 事情を知らぬウィルは干し肉を飲み込んで、親指を舐めている。

「この間はレーキがここでスープ作ってくれたのよ。それがとっても美味しかったの! 今日は魔獣を呼ばないように携帯食で済ませたけどね、魔獣をどうにかしたらまた食べたいわ」

 あの時のスープの味を思い出したのか、うっとりと目を細めて、ネリネは頬に手を当てた。

「へぇ。オレも食ってみたいもんだ。そんなに美味いなら」

「スープでよければ材料は荷物に入っている。この仕事が無事に片づいたらいくらでも作ろう」

「やった!」

 拳を握って大袈裟(おおげさ)に喜ぶネリネを見ていると、調理をする者として顔が綻ぶ。

 短い休息の後、レーキたち三人は遺跡に向かって、薄暗い坑道を警戒しながらすすんでいった。



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第43話 魔獣退治

「ふう。やっと着いた!」

 狭い坑道がぶち当たった遺跡は、飾り気も無ければ何も無い小部屋で、天井の角には古くなった蜘蛛(くも)の巣が(ほこり)をかぶっていた。

 光源はカンテラ一つしか無いにも関わらず、遺跡の壁は(ほの)明るく、青白く光っているように感じる。お陰ではっきりと遺跡の形が見て取れた。

 人工的に加工された石を巧みに組み合わせて、遺跡の壁は築かれている。この石は何と言う石なのだろう。心を穏やかに静めるような不思議な輝きの石だった。

 壁を(へだ)てて、人と何者かが争う声がする。先に遺跡に着いた狩人たちは早速、魔獣退治を始めているようだ。

「あたしたちも急ぎましょう。獲物がいなくなっちゃう!」

 クロスボウを構えながら、ネリネはウィルに合図する。

 休息の時に事前に打ち合わせていたのは、ウィルとネリネが時間差で敵の前に飛び出し、片っ端から魔獣を退治すると言う、作戦とも呼べないような荒っぽいモノだった。

「うしっ! コレ、頼んだぜ!」

 レーキにカンテラを預けてから、舌なめずりでもしそうな表情で、ウィルは先立って部屋を出る。双剣を抜き放ち、油断なく気を配って魔獣を探す。

 小部屋を出ると、左右に小部屋と同じ材質で作られた廊下が伸びていた。

 廊下には、坑道と繋がった小部屋と同じ位の大きさの部屋が行儀良く並んでいる。

 ウィルは人の声がする方向を避けて、右手の廊下に進んだ。その後ろをネリネが、カンテラを掲げたレーキが続く。

 ウィルが隣の小部屋の入り口に立つ。中の気配を伺い、何かを感じてにぃっと歯をむき出して笑う。

 入り口は狭く、人一人通るのがやっとの大きさで、部屋の中から何かの気配がする。

 ネリネは頷いて、クロスボウを構え直す。ウィルは『作戦』に従って、迷わずに小部屋に飛び込んだ。それと同時に、ぎゃんっと何者か獣が悲鳴を上げる。

「二匹!」

 ウィルの報告に続いて、ネリネが小部屋に踏み込む。

 二人を照らすように、レーキはカンテラを小部屋の中へ向けた。

 その小部屋には二匹のトリュコスが待ち構えていた。部屋の右側にいた一頭を、ウィルの双剣が鮮やかに切り裂いている。首筋から血液を吹き出して、トリュコスは絶命していた。

 次の瞬間、もう一頭の首筋にネリネのクロスボウから放たれた矢が、二本続けざまに命中する。

 為す術もなく、残ったトリュコスは断末魔の悲鳴を上げて床に倒れ伏した。

「……ふうん。そこそこやるじゃない。それにコレなら毛皮の価値を落としてないわ」

 ウィルの倒したトリュコスの傷口を検分してネリネは立ち上がり、自分が倒したトリュコスの角に青い塗料を塗りつけた。後で死骸を回収するのは、町が雇ったポーターの役目で、その時に誰が何頭魔獣を退治したのか解るように、目印を付ける決まりになっていた。

「あんたもな。かなりいい腕だ」

 ウィルも、魔獣の角に支給されていた緑色の塗料を塗り、ネリネを見てにっと笑った。

「……さ、次行きましょ。この部屋には何も無いようだしね」

 ネリネの言う通り、この小部屋には二頭のトリュコスの死骸以外に目に付くものは無い。

 装飾もなく、遺物の一つもない。大きさまで坑道と繋がった小部屋と変わらない。

 三人は並んでいた小部屋を虱潰(しらみつぶ)しに当たって、合計五頭のトリュコスとかち合った。

 他の狩人たちが狩った分と合わせると、かなり大きな群れになるだろう。

 小部屋の中に、少し大きな部屋に繋がっている部屋が見つかった。その部屋には既に他の狩人たちが入っていて、印の付けられたトリュコスの死骸が放置されていた。

 その部屋の先にも別の部屋が繋がっているようだ。

「調査に入った学者が作った簡単な見取り図があるの。それ見せて貰ったんだけどね、それに()るとこの先は大きな部屋になってる。その部屋の先にさらに大きなホール。ホールじゃないほうに遺跡の外に通じてるらしい階段があって、大きな部屋を挟んで同じ様に小部屋が並ぶ構造になってるの」

 埃の積もった床に、ネリネは簡単な図を書いた。遺跡は、ほぼ左右対称になっているようだった。

「そのホールにね、壁画と玉座らしきモノが有るらしいの。そこは後でじっくり調査するつもりだけど、まずは魔獣退治ね」

「それなら、大きな部屋とやらに行ってここと反対側の小部屋が並ぶ辺りを調べた方が良いんじゃねえか? ホールよりトリュコスが巣を作ってる可能性が高い」

「そうね。トリュコスは元々木の虚とか小さな洞窟とかを寝床にするの。だから狭い空間を好んで棲処(すみか)にするはず」

 事情を完全には飲み込めていない様子のレーキに、ネリネは丁寧に説明する。

「なるほど、解った」

 ネリネとウィルは、魔獣退治の経験も魔獣の生態に対する知識も持っているようだ。

 レーキも、グラナートとアスールの森にいた魔獣の生態については、いささか知っていた。だが、その他の魔獣については、一度か二度本で読んだきりだ。実体験の伴わない知識は弱い。それを痛感する。

「……まず大きな部屋に出ましょ。それから大勢反対側に向かってるようならホールに向かう」

 三人は指針を決めて、

大きな部屋へ向かった。そこにもトリュコスの死骸があった。

「んー。あっち側はもう狩り尽くされてるかなー?」

 反対側への入り口を見やって、ネリネは大きな部屋を検分し始める。ホールに続いている入り口は大きく、三人がいっぺんに出入り出来る程の広さがあった。

「……っ!!」

 ホールから争う気配がする。ホールには、既に狩人たちが入っているようだ。悲鳴と怒号が上がった。ホールの仲間は、随分苦戦しているらしい。

「……お! 良いところに! あんたらも手伝ってくれ!」

 ホールから、大きめのクロスボウを手にした男が大きな部屋に飛び込んできた。その男は埃と血に塗れていたが、自分自身に大きな怪我は無い様だった。

「トリルだ! トリルが居たんだよ! かなり大きい! それも二頭!」

「え!?」

 レーキも本で読んだことがある。トリルはトリュコスを従える巨大な魔獣で、トリュコスに似た三つの首に一つの大きな胴、三つの植物のツタに似た尾を持つという。

 体長は狼より少し大きめなトリュコスを三頭合わせたよりももっと大きく、別名を『トリュコスの王』とも言った。

「お! そいつは良い! 加勢に行こうぜ!」

 強敵を前に、好戦的な眼差しを隠そうともしないウィルが唇を舐める。

「そうね。トリルが暴れて遺跡が傷だらけになったら大変だわ!」

 珍しく、ウィルとネリネの意図がすんなり重なった。レーキとしても否やはない。実物のトリルを一目見てみたいと言う好奇心にも勝てなかった。

 他の狩人たちを呼びに行くという男を残して、三人はホールへ向かった。

 

 ホールは巨大な空間だった。

 狩人として参加している天法士が、持続時間の長い『光球』を打ち上げたのだろう。ホールは天井まではっきりと見えている。

 天井は狩人たちの頭上はるかに高く、鳥人であるレーキならば、飛び回ることさえ出来そうだ。

 壁一面に竜人か竜王らしき影、動植物と何かの儀式の場面、人間と亜人、様々な種類の壁画が、今では見られなくなった古代の様式で描かれている。

 ホールの端は十数段高くなって、その上には周囲の材質と同じ青白く光る、石造りの玉座が設えられていた。かつてはこのホールで、何らかの儀式が行われていたのかもしれない。

 今は二頭のトリルに占拠され、その周りを十数頭のトリュコスが守りを固め、それを十人ほどの狩人たちが取り囲んでいた。

 トリュコスたちは、自分たちの王と女王を守ろうと必死に抵抗している。既に事切れたトリュコスの死骸が、ホールのあちこちに転がっていた。

「ちぃっ! 出遅れたぜ!」

 踊るような足取りで、ウィルはトリュコスの群に向かって駆け出して行った。

 双剣を振るい、牙を剥き出して襲いかかってくるトリュコスを次々と斬り伏せる。その横顔は直ぐに返り血で赤く染まった。

「アイツ……張り切っちゃって、まあ!」

 ネリネはトリュコスとトリルを狙って、クロスボウで矢を射掛ける。

 幾本か矢がトリルの身体に突き立ったが、どちらのトリルもその程度では、疲労の色も見せなかった。トリルは三つの首を器用に使い、狩人たちの攻撃をいなしている。

 有る者は剣を使い、有る者は弓を使い、有る者は天法で。トリュコスは見る間に数を減らしていく。

「……よっしゃ!」

 ネリネの放った矢が一頭のトリルの大きな(ひとみ)を一つ射抜く。トリルはホールを揺らすほど大きな悲鳴を上げて、天を仰ぐ。その隙を狩人たちは見逃さない。無防備に(さら)された喉に向かって矢と『氷槍』とが尽き立った。

 どうっと巨大なトリルの一頭が、玉座の階段を滑り落ちる。悲痛な遠吠えと共に。もう一頭のトリルが玉座から飛び降りて、狩人たちに襲いかかった。

 三つの首に狙われて、体勢を崩す狩人たちの中にあって、ウィルはただ一人残りのトリルの前に立っていた。

 トリルの植物にも似た三つの尾が鞭のようにしなって、三方向からウィルに殺到する。遺跡の床が穿(うが)たれる程の衝撃。

 だがウィルはその場所には既に居ない。予備動作も見せずに飛び上がり、振りかざす刃はトリルの首の一つを捉える。赤い血潮がトリルの首の一つから間欠泉のように噴き出した。

「ひとぉーつ!」

 切り裂いた首の数を数える余裕さえ見せて、ウィルは凄惨な笑みを浮かべる。それは心底強敵と死合うことを喜びとする鬼人の笑みだった。

 トリルの牙を、爪を巧みにかいくぐり、笑いながら、ウィルはトリルに死をもたらす一撃を加えていく。

 やがて、トリルはフラフラと足元もおぼつかず、攻撃も空を切るようになってきた。

「……じゃあな、でっかいの」

 しなやかなバネのように。ウィルは双剣を構えてトリルに肉薄する。

「……お前に会えて、楽しかったぜ……!」

 ウィルが(ささや)く。同時に手にしていた双剣が、トリルの無傷の首を確実に捉える。駆け抜けざまにウィルの双剣は、トリルの二つの首筋を切り裂いた。

 トリルは膝を突き、巨体がぐらりと傾く。恨めしそうな三対の眸がじっとウィルを見つめて、急速に光を失って行った。

 数匹残っていたトリュコスも、狩り尽くされる。狩人たちの中にもトリュコス、あるいはトリルに手傷を負わされた者も居るようだ。怪我を負った者は、ホールの入り口まで後退して天法士の手当てを受けている。

「……ふう」

 双剣にべったりと(まとい)付いた魔獣の血を拭って、ウィルは二振りを鞘に収めた。



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第44話 遺跡の調査

「……はぁ~っ。アレを剣だけで倒すのね……」

 呟いたネリネの声音は、(あき)れと感心が相半ばする。

「お。見たか? オレの実力ってヤツを!」

 高揚と鬼気は影を潜め、ウィルの表情は常と変わらず陽気な色男に戻っていた。

「……見せつけられたわよ。さすが元雪白の騎士団ねー。ホントの戦闘バカってのがどんなモンなのか見せつけられたわ!」

「ふっ。まあな!」

「誉めてない! ……ワケじゃないか。でも、なんかムカつくから、やっぱり誉めてない!」

 ぷいっとそっぽを向いたネリネは、不機嫌に唇を尖らせる。そこに、狩人の一人が声を掛けて来た。

「おおーい、あんたら。動いてる魔獣はもう居ないぞ。それから、そっちの色男はこっちのトリルに印付けてくれ。あんたが一人でやっつけた様なモンだからなあ」

「解ったわ!」

「おう。貰えるモンは貰っとくぜ!」

 ネリネとウィルは、それぞれ自分が倒した獲物に印を付けに向かう。

 坑道がぶつかった小部屋の反対側に合った部屋を掃討していた狩人たちも、ホールに集まってきている。死者の一人もなく、怪我人は手当されて、これで無事に魔獣退治は済んだようだ。

「はあ……」

 レーキは長く深い息を吐いた。今でもまだ脳裏でウィルの双剣が(ひらめ)いているような気がする。

 鮮やかな手並み。それは殺戮(さつりく)で有ったのに。ただただ軽やかで美しかった。

「……ねえ、どうしたの? ぼーっとして。レーキは怪我とか無い?」

 戻ってきたネリネの、気遣わしげな一言でレーキは我に返る。自分には痛みも傷もない。荷物を下ろして検分し、そちらも無傷で有ることを確かめる。

「……ああ。俺は何ともない。荷物も問題ない」

「ならよかった! 本隊はこれからしばらくここで待機よ。あたしは遺跡の調査を始めるから、アナタは機材を持って付いて来て」

 他の狩人たちを見渡せば、彼らも獲物に印を付けたり使い終わった武器を手入れしたりとそれぞれに緊張を解いていた。

 遺跡本来の出入り口は、ひとまず封印されることになった。天法士が木の天法を使い、出入り口を葉の生い茂る数十本の樹木とツタとで塞いだ。トリュコスとトリルはそこから入り込んだと見られるからだ。

 魔獣の死骸を回収する役目を負ったポーターたちの到着を待って、狩人たちは金鉱を引き返す。それまでは魔獣の解体としばしの休息だ。

「……これは中に入れた火種の光量を増幅してくれる法具(ほうぐ)のカンテラよ。荷物の中にこれの脚が入ってるから……取り付けて、壁画を照らしてくれる? それ終わったら文房具入れ出して。あたしこの壁画を記録するわ」

 ネリネはてきぱきとレーキに指示して、画帳を広げ、壁画をスケッチし始めた。

 レーキは指示通りに特別に明るいカンテラに三脚を取り付けて、青白く(ほの)光る石に描かれた壁画に向けた。壁画は灯りに照らされて、色鮮やかに浮かび上がる。それは丁度、玉座と思しき椅子に竜人らしき人物像が腰掛けている図だった。

 手持ち無沙汰のウィルは、夢中でスケッチを続けるネリネの様子を腕組みして眺めている。

「……これは、古代王国期の様式ね。ほら! この描線はヴァローナの遺跡に広く分布してる、第二シェンナ王朝の特徴よ!」

 ネリネが夢中になると周りが見えなくなると言うのは本当のようだ。何か手伝えるかと声を掛けても、なんの返事も無い。

 観察にのめり込んで、彼女は誰に聞かせるでもなく口走る。

「……うーん。でもちょっと後期の特徴も入ってる。そもそもこの石の材質はなに? これ自体に何かを含ませてあるの? こんなに大きな遺跡なのに! まさか!! ワケわかんない!」

 独り言にしては大きな声量でぶつぶつと呟くネリネは、たっぷりと一刻半(約一時間半)の時間をかけて壁画の一部を写し取った。

 退屈してきたのか、ウィルはその辺りの汚れが少ない床に布を敷き、座り込んで双剣の手入れを始めている。レーキは邪魔にならぬようにランタンの側で待機していた。

「はあ……風景を精確に写し取る法具が欲しい……アレあったら資料作成がもっと楽になるのに!」

「ああ。だがあの法具は中々高価だ」

 レーキに向かってボヤきながら、ネリネはペンを置いた。

「……さ、あたしたちも休憩しましょうか。ちょっと疲れちゃった。……あ! そうだ! レーキ、お願い。あのスープ作って!」

「解った」

 魔獣に襲撃される心配は無くなった。煮炊きしたとしても問題は無いだろう。レーキは背嚢(はいのう)から材料と調理道具を取り出して、早速調理を始める。

 焚き火台に火を(おこ)し、調理用に取り分けておいた水を鍋へ注いでから材料を放り込む。

 こうして料理を作っていると、戦闘に直面して自分も気持ちが高揚していたと言うことが解った。鍋底を舐める炎を見つめていると、心が凪いでいく。調味料とスパイスで味を調(ととの)え、静かに鍋の中身をかき回していると、我ながら美味そうな香りが立ち上ってきた。上出来だ。

「……出来たぞ。食ってくれ」

「やった! ありがと! おいしそー!」

 木製のマグカップにスープを盛って、ネリネへ差し出す。それをじっと見ていたウィルが、にぃっと笑って手を差し出した。

「……ん? オレの分は?」

「……ああ、あんたも食うか?」

 食器は二人分しか持ってきていない。自分用のカップにスープを注ぎ、レーキが差し出そうとすると、ネリネは手を振ってそれを止めた。

「ああ、いいのいいの、レーキ。コイツの分なんて荷物に入れてないし」

「そんなつれないこと言うなよォー! お嬢ちゃんがレーキのスープが美味いって言うから楽しみにしてたんだぜぇー!」

「……そうねえ、食べたければ材料費と技術料のお金払いなさい! 今回レーキを雇ってるのはあたしなんだからね! ……うーん。この温かいスープ……やっぱり美味しいわぁ……!」

 ネリネはスープを一口(すす)って、うっとりと目を細める。ウィルは口惜しげに唇を曲げて、ネリネの口元に運ばれるカップを見つめる。

「……うむむ……おう! 払ってやる! それでそのスープが食えるなら払ってやるよ! ……ただ、今は持ち合わせが、ない……全く無い! 今回の魔獣退治の報酬が入ったら払う!」

「はあ……アンタ貯金もないの? 仕方ない。後払いでもいいわ。ちゃんと払うなら。契約成立よ。レーキ、コイツにスープを食べさせてあげて」

 勝ち誇ったように、ネリネは笑みを浮かべる。

「解った」

 レーキがスープを差し出すと、ウィルはまず香りを胸一杯に吸い込んだ。はーっと息を吐いてからスープを口にする。

「……ふぃーっ……おー! 確かにコレは美味いな……! この遺跡とやらは底冷えしやがるから、温かいモノが余計に染みるぜ……!」

 ごろごろと根菜類が入ったスープは、小腹も満たしてくれるだろう。しみじみとしたウィルの呟きに、レーキは安堵する。どうせ作るなら、食べた者に美味い言って貰いたい。それが調理をする者としての願いだ。

 ネリネとウィルはお代わりまでした。求めてもらえるのは嬉しいが、自分の分が無くなってしまう。また飯を作るからと二人を(なだ)めて、自分用のスープを確保する。

 三人は温かいスープを食べて休息をとると、それぞれの作業に戻った。

 

 一刻(約一時間)後、魔獣の死骸を回収に大勢のポーターたちが到着する。彼らは整然と魔獣を探し出して、印を記録してから実物を運び出した。トリルはあまりに巨大過ぎて、そのままでは運び出す事も出来ない。ポーターたちを待つ間に、獣の解体に馴れたレンジャーたちが集められて、皮や角、爪、牙などが回収された。どの道魔獣の肉は食べることも出来ない。トリュコスやトリルなどは(にかわ)などにして利用する事も出来ない。そのままこの遺跡に放置される事になるだろう。

「肉が全部無くなるまで放置して、後で骨を回収するのよ。トリルの骨は生半可な鋼より硬いから、いろいろ使えるの」

 ポーターたちの仕事を眺めていたレーキに、ネリネが話しかける。彼女はホール左半面の壁画を写し終わって、一息入れていた所だった。

「魔獣の死骸が魔獣を呼んだり、なんてことはないのか?」

 レーキの疑問に、ネリネはうーんと首を捻ってから答えた。

「……あるかもね。でも、入り口は塞いじゃったから大きな魔獣は入り込めないわ。万が一入り込んじゃったら……ま、また討伐隊を組織して退治するしかないわね。仕方ないけど」

「魔獣の肉が食えりゃーなー。現地で食料調達も出来るのによぉー」

 頭の後ろで指を組んで、ウィルは運び出されていく魔獣を眺めている。

「アンタなら魔獣くらい食べても何ともなさそう」

「流石のオレも、魔人にはなりたくねぇー」

「……さあて。レーキ、あたしたちはこのままここに残って調査続けるわよ。契約は二日間だったわね」

 ネリネはウィルの呟きを流して、レーキに向かって告げる。食料も燃料も十分用意してある。準備は万端だ。レーキは頷いた。

「……なあ。オレを護衛として雇わないか?」

 ウィルが、唐突に真っ直ぐネリネを見つめる。

「あんたたちと一緒にいると退屈しねぇし。このまま、ただ帰ってもつまらねぇしな」

「……どういう魂胆?」

 ネリネは、険を含んだ視線をウィルへと向けた。苦い経験がネリネの表情を暗くする。

「どうもこうもねぇ。ただの退屈しのぎさ。それに……オレはあんたのやってるコトにちょいと興味が湧いた。壁画を写した後は何をするんだ?」

「……」

 無邪気な少年のように。ウィルは笑っている。興味を抱いた、と言うのは本当のことなのだろう。ネリネは逡巡(しゅんじゅん)している。ウィルが居れば、何か荒事が起こった際に役に立ってくれることは間違いない。だが……

「ネリネ、俺がいる。だから、どうしても嫌なら……ウィルを帰しても大丈夫だ」

 レーキの言葉に、ネリネは顔を上げた。そして、失敗を振り払うようにぱんっと両掌で頬を叩いた。

「……ん。大丈夫。人手は必要だし、コイツの腕は確かだわ。……いい? ウィル。雇うからにはあたしの言うことはちゃんと聞いて貰うわ。賃金はこれだけ、後払いで。食料はちょっと足りないから支給は少なめよ。アンタの仕事はあたしとレーキの護衛。手すきの時はあたしの調査を手伝って貰う。それでいい?」

「ああ。いいぜ! 契約成立だ!」



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第45話 遺跡の『使い道』

 狩人たちの本隊が、ポーターたちと坑道を引き返していった。

 遺跡に残ったのは、レーキたち三人だけ。

 この場所が人と魔獣との闘いで騒がしかったことがまるで幻で有ったかのように。

 遺跡はしんと静まりかえって、ただその場に残されたトリルの死骸だけが激闘の残滓(ざんし)を伝えている。

 ネリネは懸命に壁画のスケッチを続け、レーキはその助手を務めた。ネリネのペンが画帳を滑るカリカリと言う音だけが、遺跡の静寂を(おか)している。

 ウィルは初めこそネリネの作業を興味深そうに眺めていたが、今はすっかり退屈して、見回りと称してあちらこちらを見学している。

 さいわいなことに、魔獣も森の獣も不届きな人間も現れる気配はない。遺跡は平穏そのものだ。

「……反対側は何も残ってねぇな。小部屋はどれもすっからかんだ」

 見回りから戻ってきたウィルが、壁画を見上げながら告げる。レーキはカンテラの位置を直しながら頷いた。

「ここは一度調査されているらしいからな。めぼしい遺物は回収されているんだろう」

「お嬢ちゃんはそんな遺跡を調査してどうしようってんだ?」

「……俺にも解らない。本人に聞いてみてくれ。もう少しすれば壁画を写し終わるはずだから」

 スケッチに没頭するネリネは、背後で交わされる会話を気に留めてもいないように見えた。

「……この遺跡はね、『使い道』が解ってないの」

 ネリネは振り返りもせずに唐突に言った。

「遺跡にはね、必ず何らかの『使い道』が有るものなの。例えば『魔法』の儀式の為とか、竜王を(まつ)って託宣を受ける為の聖殿とかね」

 画帳に最後の一線(ひとせん)を引いて、ネリネは深く息をつく。そして、ゆっくりと二人の男たちを振り返った。

「……さ、壁画は全部写したわ。明日はこれを解読して、この遺跡にどんな『使い道』があるのかを探りましょう」

 そう告げたネリネの(ひとみ)はカンテラの灯りに照らされて、眼鏡越しに一際きらきらと輝いて見えた。

 

 焚き火を囲み、代わる代わる見張りをたてて、三人は小部屋の一つで十分に睡眠を取った。

 三人とも時計などは持っていない。すっかり目覚めた時が朝だ。

 朝食は焼いた腸詰めに、ベーコンと日持ちする堅パン、砂糖を入れた紅茶(ホンチヤ)。ポットのような洒落た物はないので、紅茶は茶葉を直接カップに散らして()れた。

 二人分を三人で分け合って食べる。腹一杯とは言えないが十分に満足感はある。

 朝食を済ませて、ネリネはホールに向かうと画帳を広げた。

「……この図はあの玉座だと思う。形も類似してる。この人物像は竜人……に見えるわ。この、人物像の上に描かれている図形は多分……星。夜空の星ね。この様式では星はこんな形で描かれるの」

 スケッチと玉座を見比べて、ネリネは首を捻る。

「うーん。でも、ここは地下よ? 天井を見上げても星なんて何処にもないわ」

 確かに天井は高く、暗く、星の気配など微塵もない。慎重に飛べばあそこまで行けるだろうか、と、レーキは天井を見上げた。

「……俺が天井まで飛んでみようか? 近くで良く見れば星が見つかるかも知れない」

「お願いできる? どんな些細(ささい)なものでもいい。手懸(てが)かりが欲しい」

 藁にもすがるように、ネリネはレーキを見る。レーキは余計な荷物を全て下ろして、久々に羽を打ち振るった。

 大丈夫。ぎこちない部分はどこにもない。ふと墜落の不安が心によぎる。念のため『治癒水』をネリネに預けて、レーキは床を蹴って飛び上がった。

 天井にぶつからないように慎重に羽ばたいて、目を凝らして『星』を探す。

 天井の材質は、他の壁と変わらないようだ。石を組み合わせて築かれ、近付けば(ほの)かに青白く光っている。

 だが、『星』らしき装飾や図形、その外怪しげな凹凸一つ見つけられなかった。

「……駄目だ。何もない。天井は壁や床と同じ材に見える」

 天井から舞い降りて、レーキは静かに首を振った。

「……そっか……それじゃあ、次は玉座を調べましょう。壁画には玉座らしきモチーフが何度も出てくるの。腰掛けてるのは竜人だけじゃない。王冠を被った人間っぽい人物像とかも居るのよ」

 ネリネは全くめげては居ない。天井が駄目なら玉座、玉座が駄目ならホール以外の部屋、調査すべき場所はまだまだ沢山残されている。

 玉座の側には、解体されたトリルの死骸が残されていた。それを迂回して、三人は玉座が据えられた壇上に登った。

 玉座は石造り、大きさは人が一人腰掛けるにはかなり大きい。小柄な女性なら二人は余裕で腰掛けられるほどの座面も、レーキ二人分の背丈よりも少し大きい背凭(せもた)れも、仄かに青白い石で作られていた。それは壁や天井と同じ材質に見える。

 玉座をひとしきり調べたネリネは、恐る恐るそれに腰掛けた。

 そこから檀の下を眺めても、何も起こらない。遺跡は静まり返ったまま、沈黙に眠ったままだ。

「……駄目ね。ちょっと期待したんだけど。あたしには資格が無いのね」

 落胆した様子のネリネに、ウィルが訊ねる。

「オレも腰掛けてみていいか?」

「いいわよ。多分、性別とか年齢とか関係ないとは思うけどね」

 ネリネが明け渡した玉座に、ウィルがどっかりと腰掛ける。かつてこの座に掛けた者もそうしたのだろうか。ウィルは足を組み、辺りを睥睨(へいげい)する。

 石造りの肘掛けに腕を載せて、足を組み替えてみたり、肘掛けを叩いてみたり。ウィルがあれやこれやと試してみるものの、玉座も遺跡もなんの反応も返してこない。

「はーっ! やっぱり駄目か……まあ、オレは竜人でも無けりゃ王様でもねぇからなぁ」

 玉座から立ち上がったウィルは、手袋をした手のひらの埃を払った。玉座には、長い間に降り積もった埃が層になっていた。この遺跡に訪れる者が、長らく居なかった証拠だ。

「あんたはどうする? 折角だから座って見るか?」

「……俺か?」

 玉座を指されて、レーキは若干気が引ける。ネリネとウィル、二人が試してだめだったなら自分でも恐らく結果は同じだろう。

「うーん。そうね。亜人種はアナタだけだし、それが資格かもしれないから。一応座ってみてよ」

 ネリネに促され、レーキは渋々玉座に腰掛け、そっと肘掛けに腕を預ける。

「……ほら、やっぱり、なにも……」

 レーキがそう言い掛けた、その、瞬間。

『……オーブを確認。見学者としての認証を開始』

 突然、レーキの頭の中で声がした。

 それは、卒業式の日に竜人、ディヴィナツォーネが自分に語りかけて来た時とそっくり同じ感覚だった。

「レーキ? どうしたの?」

「……待って、くれ! 声がする。頭の中に声が聞こえる!」

 ネリネの問いに、レーキは珍しく慌てて答える。同時に、胸元から紅い光が漏れ出て居ることに気がついた。首から提げていた王珠(おうじゆ)を服の中から取り出すと、五つの王珠は命じても居ないのに、眩いほどの光を放っていた。

「……?! 王珠がひかって、る、の?!」

『……認証。登録者、レーキ・ヴァーミリオン。当館・星間の棺の見学を許可します。閲覧項目は……』

 頭の中の声は、こちらの都合などお構いなしに何かの項目を並べ立ててくる。

「ま、待て! あんたは何者だ?!」

 慌てるレーキに、頭の中の声は一度言葉を切った。

『……項目案内を中断します。私は当館・星間の棺の案内係、ステラ四〇三号と申します。よろしくお願いいたします。レーキ様。命令を入力してください。私が実行します。見学者認証で実行可能な命令をご存知ですか? 一覧を表示しますか?』

 案内係と名乗った頭の中の声は、レーキの命令を待つように沈黙する。

 レーキはネリネたちに頭の中の声が何を言っているのかを手早く説明した。

「と、とにかく、その一覧を見せて貰って!」

「……解った……あ、の、ステラ四〇三号。一覧を見せてくれ」

『命令を実行します』

 頭の中のステラの声と共に。レーキの目の前に光で出来た文字の一覧が現れる。それは宙に浮いていて、ネリネやウィルにも見えているようで、二人の口から驚きの声が上がった。

「なんだぁ?! これは?!」

「……これ、古代語だわ! 共通語より前に各地で使われてた言語よ! ええっと、これは『星』『空』……『夏』『星座』……?」

 ネリネは夢中になって、飛び出してきた光の一覧表をたどっている。考古学者のネリネをもってしても、全ての解読は即座に出来ないようだ。

「……なあ、ステラ四〇三号、俺以外の二人にも君の声が聞こえるように出来ないか?」

 レーキは一計を案じて、ステラに提案した。ステラは考え込むように一度沈黙して、それから「了承しました。音声による案内を開始します」と、答えた。どこからとも無く、ざらついた声が聞こえる。それは低く落ち着いた女声のようであった。

「ありがとう」

「どういたしまして。レーキ様、一覧より命令を選んで下さい」

「……ねえ、レーキ。この『星空』何とかって命令を選んでみて。多分それがこの遺跡の『使い道』なんだわ!」

 興奮を隠せないネリネはレーキの腕を引っ張って、一覧表を指差した。

「解った。ステラ四〇三号、一番目の命令を実行してくれ」

「了承しました。『星空投射』を実行します」

 ステラの声と共に。仄青白く光を帯びていた天井が、急に黒く深く色を無くした。次の瞬間。

 星空が、一面の星空が。双子の月が、レーキたち三人の頭上に輝きだした。

 深遠なる空の彼方で星が瞬く。そこはもう、天井とは思えない。空から降って来そうなほど、沢山の星々が。美しい星々が。夜空に散りばめられて。

 三人はそれぞれに嘆息する。言葉も無い、とはこのことだ。それほどまでにその星空は壮麗だった。

「……ねえ、これ、この星空、多分『今日』の星空だわ。月齢も星座の位置も……今の季節の星空なの!」

「ステラ四〇三号、この星空はいつのモノだ?」

 ネリネはもはや喜びも隠せていない。彼女はくるくると壇上を踊りながら、星空を見上げた。

「現在投射中の星空は、現在、当館から見られるナリア地方の星空です。現在の時刻は……」

「……ナリアは古代の地名よ。この国がヴァローナって呼ばれる前の名前」

 ステラが告げる時刻は、昼前の時間だった。流石に星空が見られる時間ではない。ではこの星空は、本物の星々ではないのか?

 レーキは疑問をステラに告げる。

「当館は星空を観測すると同時に、見学者の皆様に擬似的な星空の投射をお楽しみいただく施設です。本物か偽物かの問いには擬似映像であるとお答えします」

「擬似映像……それは法具で映し出した幻、の様なものか?」

「エラー。法具とは? 定義がありません」

 ステラはそれだけ伝えて沈黙する。ネリネがぱちんと指を鳴らして私見を述べた。

「んー。多分だけど……この遺跡が作られた頃には法具は無かったのよ! 天法が確立されてたかどうかも怪しいわ。……ん? じゃあ何で王珠が反応したのかしら?」

 ステラは王珠を『オーブ』と呼んだ。かつてディヴィナツォーネも、王珠をそう呼んでいた。

 ではこの遺跡は、竜人たちが持っている法術と何か関係があるのかもしれない。レーキはそう考えたが、竜人との約束通り、王珠が竜人由来の道具で有ることを、言葉にはしなかった。

「……とにかく! この遺跡の『使い道』は解ったわ! それだけでも大きな一歩よ!」

 ぐっとネリネは拳を握って宣言する。

「ここは古代の人たちが星空を観測するために作った施設なのよ! ……どう言う仕組みなんだかはさっぱりだけど……」

 勢い良く断言したネリネの語尾が、もごもごと曖昧に濁っていく。

「……ねえ、レーキ。これは天法、では無いのよね」

「ああ。俺の知っている法ではこんなことは出来ない」

 レーキの知っている天法の中には幻を映し出す術も有るには有った。しかしそれはこんなにも大規模なモノではなく、映し出せる幻も真に迫っているとは言い難い、質感を伴わぬモノだった。

 たった今天井に映し出されている星空は、何より美しく、瞬く様さえ本物に見える。

「そうよね……それに、ここは天法が成立する前の遺跡みたいだし……壁画に竜人が居たってことは竜人の使う法具みたいなモノなのかしら?」

「可能性は有るんじゃないか? 竜人は俺たちには理解出来ない不思議な法術を使うと聞くから。……あるいはこれが『魔法』なのかもしれない」

 レーキが懸念を口にすると、ネリネは首を捻った。

「……となると……この遺跡全体が、『魔具』ってことかしらね?……うーん。多分だけど違う気がする。ここが巨大な『魔具』ならもっと魔獣が蔓延ってるような気がするの。トリルとトリュコスだけだったってことは単純に遺跡が森の中に建ってて雨風が(しの)げる環境だったからなんじゃない?」

「……はあ……オレには法術のことはよく解らんが……この遺跡がすげーってことだけは解る」

 押し黙ったまま、仮初めの星空に見入っていたウィルが、レーキたち二人の会話に合流した。

「……こんな星空、久しぶりに見たぜ。空気が澄み切った人里離れた雪山の上だとこんな星空が見えるんだ。オレは魔獣退治に出かけた山の上でこんな星空を見た」

 感慨に(ふけ)るウィルは、まるで星の光を掴み取ろうとするように天井に手を伸ばした。

「街があると何かと灯りが有るから。星が見えにくくなるんでしょうね。……澄んだ空気の雪山か。いつかこの遺跡の星空と雪山の星空を見比べて見たいわ」

 玉座を挟んで、ウィルの反対側に立ったネリネも天井を見上げる。

 レーキもまた美しい星空を見上げ、盗賊の砦の静かな夜のことを思い出した。

 

 夜半を過ぎた盗賊の砦で、明かりを灯す者は居ない。燃料を節約するために、盗賊たちは日付が変わる前には床についてしまう。

 レーキも例外ではなかったが、小用のために真夜中に起き出した時、一度だけ降るような星空を見たことがある。

 その日は片満月で、砦の歩廊は柔らかな月の光に照らされていた。ひんやりとした秋の大気が心地良い。レーキは直ぐには寝床に戻らず、砦のてっぺんに向かった。

 砦のてっぺんは長い年月の間に僅かに崩れて下地の石が剥き出しになっている。慎重にその上に立って空を見上げた。

 星は天に有って、微かに瞬き(きら)めいて、レーキを静かに見下ろしている。

 盗賊に養われるようになって、ようやく鳥目が治ってきたレーキは、生まれて初めて星空を美しいと感じた。ここからなら星に手が届きそうだと、幼いレーキは思った。

 砦中で目覚めて、星空を見上げて居るのは自分ただ一人。孤独と同時に、美しいモノを独り占めしている喜びが心に湧き上がる。

 あの時、冴えた星空を眺めたのは自分一人だった。今は傍らに誰かがいる。友が仲間が。

 ──ああ、俺は今、一人では無い。

 そのことが、とても嬉しかった。



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第46話 調査を終えて

「……それにしてもあんた、天法士だったんだな」

 星空を眺めていたウィルが、視線を転じてレーキの王珠(おうじゆ)を見た。

「……あ……ああ。一応、天法院を出ている」

 今は柔らかな光を(たた)えている王珠に手を当てて、口()もるレーキにウィルは素朴な疑問をぶつけた。

「じゃあなんでポーターをしてるんだ?」

「……天法士としては働きたくない、からだ」

「ふうん。何だか解らんが、あんたが選んだ道だからな。オレに口出しする権利はない」

 あっさりとウィルは引き下がる。彼とて有名騎士団を自ら辞めた身だ。他人のことは言え無いのだろう。

「……ああ、なるほどなぁ。オレとレーキが『同じ類いのバカ』ってのはそう言うことか」

 ウィルは、ネリネの言い放った言葉を覚えていた。栄誉とされる職に就きながら、それをぽんと投げ打ってしまう愚か者。ネリネに二人はそう思われているようだ。

「はっはっは! オレたちはバカらしいぜ!」

 レーキの肩を叩きながら、ツボに入ったのかウィルは大笑いする。

「……確かに……そうかもしれないな」

 自嘲気味なレーキの呟きに、ウィルはにっと笑みを深めた。

「バカで上等! オレは今の生き方を選んで正解だったと思ってるぜ。……こんな凄いもんも見られたしなぁ!」

 頭上に輝く星空と同じくらい、ウィルの眼差しはキラキラと星を見つめて。降り落ちてくるような星を受け止めるように、彼は腕を広げた。

「……そうね。ニクスの騎士団に居たんじゃ、こんな所にくる機会なんて無かったでしょう……うーん。もっと沢山あたしに感謝していいのよ?」

 ふふふ。ネリネは不敵な笑みを浮かべる。ウィルは笑いながら、冗談めかしてお辞儀をした。

「へへっ! お嬢ちゃんには感謝してるよ! ……賃金も払って貰うしな!」

「う。忘れてた……まあ仕方ないか。必要経費ね……さあ! 次はこっちの項目よ、レーキ。これは多分『月の満ち欠け』だと思うの」

 ネリネがあれこれと指示するままに、レーキは一覧の命令をステラに実行させていく。

 投射出来る星空は、現在のモノだけではない。過去や未来、レーキが知らない地方のモノ、月の運行を示したモノ、果ては星座の由来まで多岐にわたっていた。

 一覧表の命令を一通り試していると、随分時間が経ってしまった。気がつけば、きゅうるると誰かの腹が切なく鳴いている。

「……んあ。オレだ。なあ、腹が減った。そろそろ昼飯にしようぜ」

 ウィルの提案に、二人は一も二もなく賛成した。

「ステラ四〇三号、どうすれば星空の投射を止められるんだ?」

「……あ、ただ止めるだけじゃ駄目よ! ご飯食べたらまた調査するんだから!」

「解った。ステラ四〇三号、訂正だ。一時的に投射を中断したい。どうすればいい?」

「回答します。中断命令を実行しますか? また、見学者の離席によっても投射は中断します」

 答えは簡単だった。レーキが玉座から立ち上がると、遺跡はふっと明かりが消えたように静けさを取り戻した。ステラも沈黙したまま。なんの音声も聞こえない。

「……はあ……いままで色んな遺跡を見てきたけど……こんなに完全な機能が残ってる遺跡は初めて……」

 うっとりと、半ば夢見心地でネリネが呟く。彼女にとって、この遺跡は大発見で有るのだろう。興奮冷めやらぬまま、ネリネは壇上にへたり込んだ。

「うう……あたしに天法の才能が有ればなあ……似たような遺跡に出会った時、こうして動かせるのに……」

 がっくりとうなだれるネリネを置いて、ウィルはさっさと(きざはし)を降りていく。

「……ここじゃ飯は作れねぇだろ? 移動しようぜー」

 食欲を優先するウィルに、恨めしげな視線を向けながら、ネリネも渋々、壇上を降りる。

 レーキは玉座に座る際に下ろしていた荷物を背負い、二人の後を追った。

 

 レーキが作った、チーズと(あぶ)りベーコンに隠し味のピクルスを加えたサンドイッチを摘まみながら、ネリネは遺跡の調査メモを見返している。

 干し肉とカロート(ニンジン)セヴォ(タマネギ)を煮込んだスープにチーズを落として、レーキは完成したそれを、ネリネとウィルに差し出した。

「……あ、ありがと! このサンドイッチ美味しい! このちょっぴり酸味があるのがたまらないわね!」

「ああ。飯が美味いと士気が上がるよなぁ」

「……良かった。量は少ないが香辛料もある。サンドイッチでもスープでも、少しかけるとぴりりとして美味いぞ」

 細かく砕いたフィルフィルの粉を受け取って、ネリネは満面の笑みを浮かべた。

「ありがと! それ貰うわ! ……うーん。このスープも美味しい……! ああ……ダメね……こんな贅沢覚えたら、不味い携帯食じゃ我慢できなくなっちゃう!」

 困ったと言いながら、ネリネの表情は嬉そうなままで。スープにフィルフィルの粉を振りかけて彼女はううーん。と満足げな声を上げた。

「……所で食料は後どれくらい持つ? オレの分は予定に無かったんだろ?」

 言葉とは裏腹に、サンドイッチをぺろりと平らげて、ウィルはスープを口にする。

「そうだな、明日の朝を軽く()る位までならなんとか。それ以降は厳しい」

「それならほぼ予定通りね。アンタは食料に余剰は無いの?」

「今オレの背嚢(はいのう)に残ってるのはこれくらいだな」

 ウィルが背嚢から取り出したのは、堅パン一個と干し肉が少々。小さくて固い赤いマッサ(リンゴ)の実が一つ。

「うーん。予定に無かったって言っても少ないわね」

 ウィルの食料を検分して、ネリネは腕組みする。

「余計な荷物は持たない主義なんだよ。オレは。……ん。お嬢ちゃんも食うか?」

 そう(うそぶ)いたウィルは、マッサの実を拾い上げると、一口(かじ)りつく。瞬く間に、赤い皮の下の白い果肉が齧り跡だらけになった。

「……いらない。ま、一日位食べなくても死にはしない! さ、食べたらホールに戻るわよ!」

「はいはいっと!」

 マッサの芯までぱくりと胃に収めて、ウィルは立ち上がる。彼は手のひらを払って、手袋をはめた。

「俺はここを片づけてから追いかける」

「ん。そのくらいの間は待つわよ」

「解った」

 レーキは、調理に使った鍋と食器を持参した水で軽く洗った。足りなくなった分は天法で造ることにする。ネリネとウィルには既に自分が天法士で有ることは明かしてしまったし、ウィルが残ったことで元々飲み水が足りない。調理器具を洗わないで済まそうかとも思ったが、カビや汚れも気になる。そうなると天法で大気から水を造り出すしかない。

「『造水(アクア)』」

 レーキはたっぷり鍋一杯分の水を造って飲み水用の水筒に収める。それを見ていたウィルが、感心したように口笛を吹いた。

「なあるほどね。確かに天法士なんだな。あんたは。その水は飲めるのか?」

「ああ。飲める。不純物を何も含んでいないから味は無い」

 何かを思い出したのか、ウィルはああと呟いた。

「……そう言えば、グラーヴォがたまに抱えてた安い『治癒水』の出所はあんたか?」

「……そうだ。俺が作ってグラーヴォに渡していた」

 レーキは正直にそれを認めた。『治癒水』の販売をしたことも、今となっては懐かしい。

「あれは良く効いた。価格が安いのも良かったぜ! 味はいまいちだったけどなぁ」

「う。それはネリネにも言われた。今後改善する」

「そうしてくれ」

 レーキは調理器具などを片付けて、荷物をまとめる。三人揃ってホールに向かうと、午後いっぱいを使って遺跡の調査は続いた。

 

「ありがとう、ステラ四〇三号。これで実行出来る項目は全部だな?」

「回答します。レーキ様。見学者権限において実行出来る命令は全てです」

 とうとう一覧表には、実行していない命令が無くなった。

 玉座の肘置きに腰掛けて、メモを取っていたネリネは顔を上げて、小首を傾げた。

「……見学者権限、か。なら見学者で無い権限もあるの?」

「ステラ四〇三号、見学者以外の権限について教えてくれないか?」

「見学者以外の権限については管理者に訊ねてください。私には開示の権限が有りません」

 レーキの問いに、ステラは平坦な声音で答える。感情は一切感じさせないが、流暢な言葉使いだった。

「うーん。少なくとも『管理者権限』ってのは有りそうね。レーキはそれに該当しないの?」

「ステラ四〇三号、俺には管理者の資格はないのか?」

「レーキ様のオーブは管理者権限に該当しません。申し訳ございません」

 謝罪する声にも感情は無い。ステラはただ決められた言葉を問いに応じて返しているだけのようだ。

「オーブってのは王珠のコトなのよね? 王珠五つでもダメってコトは……問題なのは数じゃないんでしょう。えーと、王珠以外にもオーブが有るってこと? うーん……」

 ネリネは頭を抱えて考え込む。調べれば調べるほど、謎は深まるばかりだ。

「……最後に一つだけ。この施設が作られてからどれ位の時間が経ってるの?」

 ネリネの問いをレーキがステラに向かって繰り返す。

「当館が竣工してから経過した時間は千三百七十四年と五ヶ月と四日と二刻十六分三十七秒です」

「やっぱり! 第二シェンナ王朝後期で当たりみたいね。壁画の様式はその頃のモノだし。うーん。流石あたしってば天才!」

 ネリネはパチンと指を鳴らして、自分の推測が当たっていたことを喜んだ。

「……ふう。もう良いわよ、レーキ。ここで引き出せそうな情報はだいたい引き出したわ。その席から立ち上がって大丈夫。お疲れ様」

 ネリネはレーキの肩を軽く叩いて「ありがとう」と礼を言った。

「解った。ステラ四〇三号、見学を終了するにはどうしたらいい?」

「終了を命令してください。レーキ様。終了命令で当館は待機状態に移行します」

「……あ、待ってくれ、レーキ。その姉さんに百年後の星空を写すように言ってくれ」

 玉座の隣に胡座(あぐら)をかいて、調査を眺めていたウィルが手を挙げる。レーキがそれをステラに伝えると、天井は再び美しい星空で満たされた。

「……ああ。綺麗だな」

 空を見上げて、ウィルは心底からしみじみと呟く。百年の後を予測した星空も、また美しく光り輝いていた。

「ああ」

「そうね」

 レーキとネリネの二人も空見上げて、感嘆する。ウィルは一度目を閉じて、何度か瞬くと(まぶた)を上げた。天井に映し出されたその星空を(ひとみ)に焼き付けるように、じっと見つめて深く息を吐く。

「……オレたちの誰も百年後のこの星空を実際に見ることは出来ないだろう。でもきっと百年後も星は光って、そこにある。例えば人の全てが死に絶えたとしても。それがとてつもなく偉大なことに思えてなぁ」

 戦いを好み、強敵との命の遣り取りに喜びを見いだすウィルの意外な一面。それは詩人の様な横顔だった。



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第47話 新しい仕事Ⅱ

 遺跡の調査を終えて、レーキたち三人は『学究の館』へと戻った。

『ギルド』にたどり着いたネリネは、大満足の様子で。レーキとウィルに、報酬を気前よく支払ってくれた。ウィルはその中から油代と食事代を、しっかりネリネに徴収された。

「……それじゃ、二人とも。何かあったらまたよろしくね!」

 にっと満面の笑みを浮かべて、ネリネは二人と挨拶を交わした。

 行きに金鉱の町で一泊、遺跡で二泊、金鉱の町に帰り着いて一泊。そこから『学究の館』までは半日。実に四日ぶりにレーキは安宿に戻った。

 明日は絶対に休日にしようと決心しながら、宿の受付に帰還を告げる。その時、レーキは二通の手紙を受け取った。早速、部屋に戻って中身を確かめる。

 一通はアガートからのもので、それには今度の『諸源の日』に、ズィルバーと共に訪ねても良いかと予定を聞く一文があった。

 残りは『君宛の手紙が天法院に届いたから、宿に預けておくよ』と言う一文だった。

 もう一通の手紙の差出人を確認する。それはレーキが待ちに待っていた人で。

「……ラエティア……!」

 アスールから届いた、ラエティアの手紙。この数年で共通語の読み書きを覚えた、ラエティアの書く文字は、達筆とは言い難かった。

 だが、彼女の素朴で優しい人柄を表すように、素直で誠実なものであった。

 便箋を傷つけないよう、慎重に封を切る。そこから、一瞬ふわりと森の香りが漂ったような気がした。

 

『レーキへ。いつもお手紙ありがとう。今ごろはきっと天法士さまになっているのね! マーロンさまもきっとよろこんでいらっしゃるわ。わたしも、とてもうれしい! 今すぐ、レーキがよろこんでいる顔を見てみたい。三年間レーキが、がんばってきたことは村のみんなも知っています。だから、みんなもよろこんでいます。それに、レーキが森の中の村に帰って来てくれる日が、楽しみでたまらないの。早くその日が来ますように! 急いで帰ってきてね! ずっとずっと待っています ラエティア』

 

「……俺も……今すぐ、君に会いたい……!」

 レーキの脳裏によぎるのは三年前、ラエティアが十七歳だった頃の姿で。今の彼女は一体どんな顔で笑うのだろう? それが解らないことがひどく悔しくて。

 レーキが天法士になったことを知らせた便りは、まだアスールについてはいないだろう。レーキが努力を実らせることを信じて、ラエティアは手紙をくれた。

 ──ありがとう、俺を信じてくれて。俺は天法士になったよ! 目指していたモノになれたよ!

 レーキの胸の奥がじんわりと熱くなって、鼻の奥につんと涙が兆すのを感じる。改めて、天法士になれた感動が身の裡から湧き上がってきた。

 直接、この気持ちをラエティアに知らせたい。彼女が喜んでくれる姿を、この目で見たい。

 俺が渡りをする鳥なら、今すぐアスールに飛んで行くのに……!

 レーキは、ラエティアからの手紙をそっと抱きしめた。まるで、その手紙が彼女本人であるかのように、大切に、優しく。

 

 ラエティアからの手紙で、気持ちは高揚していたが、肉体の疲労感はどうしようもない。レーキは翌日一日、安宿でゆっくり体を休めた。

 アガートたちが訪ねてくる週末の『諸源の日』までに、近場でいくつかの届け物仕事をこなす。早くアスールに帰るためには、金が必要だ。そのために出来る仕事を、確実に受けた。

 まだまだ、目標額には足りない。レーキは焦燥感を覚えながら、黙々と荷を運んだ。

 

『諸源の日』はすぐに巡ってきた。アガートとズィルバーは、揃ってレーキが泊まる安宿にやってきた。

「よー。元気だった?」

「レーキサン! お邪魔しますデス!」

「はい。何とか元気でやってます。……君も元気そうだな、ズィルバー」

 二週間ぶりに会う二人は、すっかり夏の装いで。特にズィルバーは、編み目の大きい涼しげな帽子を被っていた。

「うんうん。元気が一番だからねー……所でさ、ズィルバー君が君に渡したいモノが有るんだって」

「俺に?」

「あ、あの……! これ、仕事の時に持って行ってくだサイ!」

 ズィルバーがレーキに手渡したのは小振りなベルだった。振ってみると控え目だが美しい音がする。

「これは?」

「魔獣除けのベル、デス! このベルの音は魔獣が嫌がる音色なのデス。それを法術で増幅させていマス。これを鳴らしていれば、余程強力な魔獣で無い限り、近寄ってくることはありまセン!」

 ズィルバーは以前の約束通り、魔獣除けの法具を作ってくれた。これはありがたい。魔獣除けの法具があれば、仕事中の危険も随分減ることだろう。

「ああ! こんなに早く約束を守ってくれたのか。有り難う、ズィルバー。これで仕事中も安心だ」

「エヘヘ……どう致しまして、デス!」

 ズィルバーは誇らしげに胸を張る。蟲人(ちゆうじん)であるズィルバーの表情は、レーキには解りづらかったが、彼がきらきらと複眼を輝かせていることはよく見て取れた。

「ズィルバー君はねー、かなりがんばったよー放課後はずっとオレのトコでソイツの作り方を習ってね」

 アガートは生徒の成長を喜んでいるようで、にこにこと笑ってズィルバーの頭を撫でた。

「えへへ……それは、アガート先生が丁寧に教えてくれたカラ……今の小生一人では太刀打ち出来ませんでシタ。有り難うございまシタ!」

 ズィルバーはくすぐったそうに(うつむ)いて、帽子を深く被りなおした。

 自分のために懸命になってくれる後輩の優しさと、そんな後輩のために時間を割いてくれる先輩の暖かさ。

 レーキは、そんな二人に心から、ただただ感謝したくて。

「……二人とも、本当に有り難う。二人にはどうやってお礼をすればいいのか……」

 貰ったばかりの小さなベルを握りしめて、深く頭を下げる。

「お礼なんてそンナ……! 小生はレーキサンのお役に立てればそれでいいのデス!」

 ズィルバーは慌てた様子で、四本の腕を振った。

「そーそー。オレもね、君が元気で楽しく暮らしてくれれば、それが一番だと思ってる。だからさー、アスールに帰っても時々、手紙を出してね。君が大好きなあのコとどんな暮らしをしてるのか、オレに教えてねー」

 茫洋(ぼうよう)とした笑みを浮かべて、アガートはレーキの手を取った。ベルを握った両手の上から両手を重ねて、ぽんぽんと子供をあやすような優しさで叩く。

 レーキは頭を上げた。その顔は、こんなに優しい二人に出会えた喜びと、いずれやってくる別れへの寂しさで泣き出しそうにくしゃくしゃだった。

 

 翌日から、レーキは懸命に働いた。

 友人や恩人との別れは確かにつらい。だが、それは師匠の時とは違って、永遠の別れではない。

 彼らがくれた優しさ、思いやり、そして全ての思い出はちゃんとレーキの胸の奥にある。

 それに、生きていれば再び出会う日もいつか来るだろう。時が来たら、彼らに会うためにまた旅をするのも良いだろう。

 今はただ、アスールに帰るために。ラエティアに会うために。努力をしよう。

 レーキはポーターとして、『ギルド』の仕事をこなす。

 時にはネリネと、時にはウィルと、まれに三人が一緒になる仕事もあった。

 ネリネは金鉱とつながった遺跡について論文を書きたいようで、その執筆時間を確保するためにまとまった金が必要になったらしい。直近の二週間は主にレンジャーとして働いていた。

 ウィルは護衛仕事をこなしながら、時々魔獣退治に参加していた。魔獣を狩りにいくウィルの表情は嬉々として輝いていた。

 いつしか、見知った三人で過ごす時間はレーキにとって待ち遠しいものになってゆく。

 春は走るように過ぎ、初夏は瞬きする間に過ぎる。

 今年もひどく暑くなりそうな、夏の気配を色濃く感じながら。レーキの貯金はもう直ぐ目標額を達成しようとしていた。

 

「良い仕事が有るんだけど」

『ギルド』の食堂で、食事を()っていたレーキにそう告げたのは、三日ぶりに会うネリネだった。

「……良い仕事?」

「ええ。ヴァローナからグラナートに向かう荷船が護衛と料理人を探してるの。それがなかなか良い報酬なのよ」

「なるほど。だが、グラナートまで行く訳には……」

 国外まで足を伸ばす仕事に難色を示すレーキに、ネリネは意味ありげに笑いかけた。

「うふふ。それがね、今回募集してるのは、ヴァローナ国内で仕事をしてくれる人なの。その船、グラナートに行くまでにヴァローナで幾つか港に寄るらしいんだけど、ヴァローナ国内最後の港で雇う人は決まってるらしいの。それまでの護衛と料理人が足りないんだって」

「なるほど、それなら問題ない。俺は料理人として船に乗れば良いのか?」

「ええ、それが良いと思うわ。船に乗るのは五日後、『学究の館』から半日くらい行った港町から。乗ってる期間は一週間、報酬はこれだけ」

 ネリネが提示した額はなかなか高額で。それがあれば目標額は易々と超える。

 それに、船は子供の頃からレーキにとって憧れの一つだった。幼い頃は『船乗りになりたい』と、半ば本気で願っていた程に。

 船に乗ることが出来て、仕事をすれば報酬を貰うことも出来る。ここ、ヴァローナで働く最後の仕事として、丁度良いとレーキは思った。

「解った。その依頼を受ける」

「ありがと! あたしも護衛としてその船に乗るの。船主に『料理人が見つかった』って連絡するわね!」

 ネリネは華やかに笑って、レーキの前に腰掛けた。それから従業員に軽食を頼む。

 運ばれてきた軽食に(かじ)りつきながら、ネリネは言った。

「んー。船でもレーキのご飯が食べられるなんて、今から楽しみだわ!」



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第48話 『海の女王号』

「……と、言うわけで。これがアンタたちに乗ってもらう船よ!」

 港町。多くの船が停泊する港に、一際大きな帆船が入港している。マストは三本、白い帆はきちんと畳まれ、マストの先端にはこの船がグラナート船籍であることを表す赤い旗が据え付けられている。

 その帆船を指差して、何故だかネリネが胸を張った。

『海の女王号』。船の脇に打ち付けられた銘板の文字と女王らしき横顔が、その船の名を表していた。

「……!」

「おーおー! でっけーな!」

 マストを三本も持つ大きな船を目の前にして、興奮に飲まれて押し黙るレーキと、はしゃぐウィルの対照的な二人は並んで立っている。

「はあ……結局このメンバー? レーキはあたしが誘ったから当たり前として……なんでアンタがここにいるのよ!」

 溜め息をついたネリネが鋭く指摘する先には、のほほんと笑うウィルの姿があった。

「ンあ? オレか? オレはこの船を護衛してグラナートに行くんだよ。元々グラナートに行く旅の途中だしな。丁度良かったんだ」

「あ、そう! そりゃ、ずいぶん清々するわね!」

 毒づいたネリネはふんっと唇を尖らせる。

「ん? あんたらもグラナートに行くんじゃないのか?」

「行かない。あたしたちはヴァローナ最後の港で降りるの」

「そこまでの契約なんだ」

「はー。それじゃあ、あんたらとはもうじきお別れか。寂しくなるぜ」

 そういって笑ったウィルの表情は、いつもより確かに寂しげに見えた。

 

「こちらは船長さん。船主さんからこの船を任されてる人よ」

「よお。よろしくたの……」

 埠頭で、荷物の積み込み作業を監督していた船長に、ネリネは声を掛けた。船長と呼ばれた男は振り返り、気さくに手を挙げかけて言葉を飲んだ。

 船長は、筋骨隆々な体格の良い鳥人(ちようじん)で、年の頃は三十半ば、立派な焦げ茶色の羽を背に持っていた。

 船長の鋭い視線が、ネリネのすぐ後ろに居たレーキに注がれる。

「……よろしく、お願いします」

 レーキは丁寧に頭を下げた。鳥人と面と向かって話すのは、今でも緊張する。手酷く拒絶されてしまったら、自分にはどうして良いのか解らない。

「……ああ。よろしく頼むぜ。お前さんは護衛か?」

 船長は驚きから自分を取り戻したようで、口から顎にかけて生やした髭を撫でると、真っ直ぐにレーキの隻眼を見つめてくる。船長の視線は重く鋭く、レーキは自分の心底までを見透かされているように感じた。

「いいえ、料理人です」

「そうか。グラナートの料理は作れるか?」

「はい。あまり高級な料理は知りませんが、家庭料理なら」

 レーキの返答に、船長は我が意を得たりとばかりに破顔する。

「それでいい。船員どもは故郷の味に飢えてやがるからなあ。家庭料理、歓迎するぜ」

 船長は右手を差し出す。レーキはその手を握り返した。船長の手のひらは力強く、大きくて、暖かかった。

「あ、と。お前さんは……ネリネちゃんだろ? 話は船主から聞いてるぜ。ネリネちゃんが推薦したのがお前さんか。お前さん、名は?」

「レーキです」

「そっちの色男は?」

「オレはウィリディス。ウィルでいいぜ!」

 ネリネとウィル、二人とも挨拶を交わして、船長は三人をそれぞれの持ち場に案内する。ネリネとウィルは護衛として甲板(かんぱん)に残り、レーキは厨房へ。

 厨房は火を扱う都合上、耐火煉瓦(れんが)で覆われている。かなりの重さがあるので、バラストと共に船底に設置されていた。

 厨房に向かう、薄暗い船内の狭い通路を船長は先立って歩きながら、レーキに声を掛けた。

「……なあ、お前さん、歳はいくつだ?」

「……あ、その、俺は二十一です」

 唐突な船長の問いにレーキは足を止めて、慌てて答えた。船長はレーキを振り返って、腕を組む。

「そうか……お前さんは運がいい。鳥人にとって、『黒』は()み色だ。それはお前さんも解るな?」

「……はい」

 その事は嫌と言うほど思い知っている。レーキは身を固くして、船長の言葉を待った。

「黒い羽を待った鳥人が長く生きることは珍しい。幼い頃に捨てられたり、存在を隠されて虐待されたりするからだ」

「……はい。俺も、捨て子です」

 レーキの告白に、長身の船長はレーキを見下ろして、表情を曇らせる。

「……そうか。お前さんは良く生き残ったな。……船員どもの中には鳥人も多い。お前さんに対して失礼な態度を取る者もいるかもしれねえ。そんな時はワシの名前を出せ。ワシはカナフ。お前さんがこの船に乗っている間、お前さんを庇護するぜ」

「……え……? あ、その……有り難うございます……!」

 船長の突然の申し出に、レーキは面食らう。

 鳥人である船長にとって、黒い羽は忌むべき色のはずなのに。レーキは恐る恐る「でも、どうして?」と船長に訊ねた。

「海で生きる者にとっては『黒』は尊い色なんだ。水の王の色だからな。海で生きる者は火の王を敬愛しつつも(おそ)れ、水の王を慕いつつも(おそ)れる。ワシは鳥人だが海に生きる者だぜ。それに……」

 そこまで言って、船長はどこか悲しげに言葉を切った。

「……ワシの弟もお前さんと同じ黒羽だった。赤ん坊の頃に捨てられたんだ。……生きていれば、お前さんとそう変わらない歳だろうぜ」

「……!」

 そんな偶然が有るだろうか。兄弟。そんな存在がいるかもしれないと、レーキは今まで考えて見たこともなかった。

 驚愕に見開いた隻眼を、じっと船長に向ける。船長は笑って顎髭(あごひげ)を撫でた。

「まあ、お前さんと違って、弟は髪も眼も真っ黒だったがな」

「……あ、そ、その……そう、ですか……」

 一瞬、期待してしまった。この男が自分の兄だったとしたら、そんな風に考えてしまった。それを見ぬいたように、船長はレーキの頭をくしゃりと撫でてくれた。

「この先が厨房だぜ。頑張れよ、青年」

「……はい。頑張ります!」

 船長の指し示した扉には、『厨房』とかかれたプレートが取り付けられていた。レーキは船長に一礼して、その扉を開ける。

「……あの……すみませ……」

「……遅い! グズグズすんな!」

「アイアイ、サー!」

 扉を開けて一番に聞こえてきたのは、威勢のいい男の声とそれに答える二人の男女の声だった。その声に混じって、野菜を刻む音、沸騰する鍋の音、什器(じゆうき)がふれあう音、様々な音がいっぺんにレーキの耳に襲いかかる。その大きさに、レーキの声はかき消されてしまう。

「あー違う違う違う! その芋は角切り! そっちのカロート(ニンジン)も同じ大きさで! それにしても船長おそいわネ! 新人連れてくるって言ってたけど、どうなったのかしら!」

 厨房の音にかき消されないよう、矢継ぎ早に大声で部下らしき人々に指示しているこの男が、恐らく厨房の責任者なのであろう。彼は船長と同じくらいの年頃で、濃いブラウンの髪を白い布で覆って、同じく白いエプロンを腰に巻いていた。料理人らしく、髭はていねいに剃り上げている。

「……よお。ルーク、新人連れてきたぜ!」

 レーキを厨房に押し込むようにして、船長は責任者らしき男に声を掛ける。

 ルークと呼ばれた男はくるりと振り返って船長の姿を認めると、満面の笑みを浮かべた。

「あらあら~船長! いつも言ってるでしョ! ルークって呼ば・な・い・で。ルーちゃんって呼んでヨ! そのコが新人ちゃん? あらやだ、貧相な坊やネ」

 船長に話しかける時、ルークの声は急に高くなった。ちらりとレーキを一瞥し、その瞬間に興味が失せたように船長に向き直る。

「お前にかかると大抵の男は『貧相な坊や』だなぁ」

 船長は呆れたように苦笑した。ルーク、いや、彼の希望によれば、ルーちゃんはレーキを無視して船長に近寄ると、「……で、このコ使えるの?」と小声で船長の耳元に(ささや)いた。

「解らん。お前が見極めてやってくれ」

 ルーの背丈はレーキより少し大きい。レーキはルーの側で出来る限り大きく声を張った。

「すみません! 新人の、レーキです! よろしく、お願いします!」

「あら。挨拶はちゃんとできるのネ。でも料理の腕の方はどうかしら? 早速だけどその芋の皮むいて。それが終わったらそれを角切りに。大きさはそっちのコに聞きなさいネ」

 大きな船の厨房らしく、そこで皮むきを待つ芋の量もたいしたものだ。レーキは自前のエプロンを身につけ、背中の羽を邪魔にならぬよう背中にくくり付けると「はい!」と返事をして、芋の山へと向かう。

「うふふ。良いお返事だけど、船の上ではこう、ヨ。……野郎ども! 気合い入れろ!」

「アイアイ、サー!」

 ドスの利いたルーのかけ声に、部下たちは一斉に答えを返す。

 レーキも慌てて「アイアイ、サー!」と叫んだ。ルーはそんなレーキを見て初めて満足そうに頷いた。

「よろしい。……さあ、野郎ども。夜ご飯までは後四刻(約四時間)しか無いのヨ! 急いだ急いだ!」

「アイアイ、サー!」

 パンパンと手をたたいて、ルーは全員に発破をかける。レーキは早速、芋の皮むきに取りかかった。

 

 出航は、レーキが厨房に放り込まれてから約一刻(約一時間)後のことだった。

 レーキは命じられるまま、大量の芋の皮をむき、刻んだ。その次はやはり大量のセヴォ(タマネギ)の皮をむき、刻み、飴色になるまで鍋で炒める。その間に船は港を出ていた。

 ヴァローナの沿岸部を左舷に見ながら、『海の女王号』は快調に風を掴んでたくさんの帆を膨らませる。やがて、陸地は遠ざかり、風と海流が船を南へと運んでいく。

 次に寄港するのは翌昼だ。そこはレーキが訪れたことのない、そこそこ大きな港町。その港で、ヴァローナの特産品であるウバ(ブドウ)の果実酒を大量に積み込む予定だ。

 船の厨房は狭い。おまけに換気も十分でないようで、湯気も煮炊きの煙も充満している。

 レーキは汗だくになりながら、大量のスパイスを油に通す。刺激的なスパイスの香りが鼻腔を刺激する。立て続けに出るくしゃみを押し殺し、程よく炒めたスパイスを野菜が煮える鍋に投入した。

「スパイス、終わりました!」

「次はパンを焼くわヨ! 新人ちゃん、そこに小麦粉の袋有るでしョ」

 ルーが指し示した先には、麻袋がいくつか積まれている。レーキはその一つを持ち上げた。

「これですね?」

「そうヨ! 百八十人分のピタパンを作るのヨ! 一人の割り当ては三枚! 分量は解ってるわネ? 発酵は一度。新人ちゃんは生地を作りなさい。焼くのはこっちでやるワ」

「アイアイ、サー!」

 小さな調理台では、生地をいっぺんにこねることは出来ない。レーキは出来る限り大きな生地を作り、次々かまどのそばで寝かせておく。

 作業をこなしても、こなしても、また次の作業がやってくる。厨房は狭いが船は大きく、乗組員は多い。レーキは必死に料理を作り続けた。

 

 初日の夕食が終わった。

 今日のメニューはグラナート風のスパイスを利かせたカレラスープとピタパン三枚。

 船員の大半は腹を空かせた男たちで、レーキたち料理人が苦労して作ったスープとパンは、瞬く間に彼らの腹に収まっていった。呆然とする間もない。大鍋はお代わりの声と共に空になった。レーキは味付けが好評だったことに安堵する。

 今回は、大陸の沿岸を転々と寄港しながら陸続きの隣国へ向かう航路で、港ごとに新鮮な食料が手に入る。貯蔵室の中身も腐り果ててしまう前に使い切れることだろう。

「さあ! アタシたちもご飯にしましョ!」

 戦場のようだった厨房に平穏が訪れる。食事時間は、給仕としても働いていた料理人たちはやれやれと息をついた。

「改めて名乗るわネ。アタシはルーク。だけどそう呼んだら返事しないから。ルーちゃん、もしくはルーさんとお呼びなさいネ。それからこっちの男のコはトマソちゃん、女のコはフレーズちゃんヨ」

「よろしくねー!」

「よろしくー」

 トマソと呼ばれた青年は、小太りでいかにも料理上手といった柔らかな雰囲気を(かも)し出している。フレーズと呼ばれた女性はトマソとは対照的に、細身で勝ち気そうな顔をしていた。

「で、新人ちゃん、アンタは?」

「よろしくお願いします。俺はレーキと言います」

「解ったわ。レーキちゃんネ。とりあえず、初日の働きは合格ヨ。味付けの方はこれから確かめるとしましョ」

 調理台を食卓にして、四人は立ったままパンとスープの食事を始めた。

 根菜と鶏肉をたっぷり入れたカレラスープは、炒めた数種類のスパイスの香りが複雑に絡み合い、具となっている肉と野菜の臭みを見事に消している。辛みの強いフィルフィルを多めに入れるのがグラナート風で、刺激的な風味が食欲を増進させてくれる。

「あら。なかなか本格的じゃない。キライじゃ無いワ。ただネ、フィルフィルは苦手なコもいるから、もっと量を減らしてもいいわヨ」

「解りました。気をつけます」

 スープを飲む手を止めて、レーキは頷いた。

「さあ、明日は港に着くわヨ。お昼はみんな町で食べるから作らなくても良いワ。その代わり買い出しに行くわヨ! トマソちゃんとレーキちゃんはついてらっしゃい」

 ルーはそれだけ言うと、食事を再開した。

 



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第49話 船員の休日

『海の女王号』には、船員用の個室など無い。基本的に、男も女も荷物が置かれていない船室に雑魚寝する。

 一等航海士ら幹部と、特別な客のための船室も、カーテンで区切られた大部屋だ。ただ船長だけは例外で、船尾には船長のための個室が用意されていた。

 ただし、その部屋は、海図や羅針盤(らしんばん)などの法具(ほうぐ)、航海に必要不可欠な物、カネや宝石などの貴重品を管理するための大切な保管室でもあった。

 

 航海初日の夜。厨房の片付けと翌朝の仕込みを終えたレーキは、ルーに見送られて厨房を後にした。

 暗い船内の通路を進んで彼が連れてこられたのは、すでに何十人もの船員が思い思いに眠りこける船室の片隅だった。

「暖かい季節は大抵ここで寝るんだ。寒い季節は厨房のそばで寝ることもある。ほら、これ。君の毛布だよ。これをかけても良いし、床に敷いても良い」

 レーキを船室に案内してくれたのは、トマソだった。トマソはレーキに毛布を渡すと、スペースを探して、そこに小太りの体をねじ込んだ。

「朝は起床のラッパが鳴るからね。起きたら毛布を部屋の隅につんで、厨房に向かうんだ。明日はぼくが一緒に行くよ。じゃあね。おやすみ」

「ありがとうございます。おやすみなさい」

 出来るだけ睡眠時間を確保したいのか、トマソは伝達事項を言うだけ言って眼を閉じる。すぐに小さないびきが聞こえだして、トマソが眠ってしまったことが解った。

 レーキは眠っている人々を起こさぬように、そろそろと部屋の隅に向かった。

 船の壁は垂直ではない。船底に行くにしたがって丸みを帯び、甲板に行くにしたがって狭まって行く。荷を積む船底がもっとも大きく膨らんで、甲板はそれよりも面積が小さいのが一般的なグラナートの船だった。

 レーキたちが眠る船室は比較的上方で、厨房よりも甲板に近い。暖かな今の季節、火は落としているとはいえ、厨房のそばで眠ることはのぼせる危険があった。

 レーキは壁際に、どうにか横になれるだけのスペースを見つけると、そこに薄い毛布を敷いた。いざ横になると、手足を伸ばせるだけの余裕はない。背中を丸めて羽を引き寄せ縮こまり、眼を閉じる。

 ぎしっぎしっと、船の外装が軋む音が聞こえた。潮の臭いと船体を洗う波の音も感じる。ここはもう、壁一枚を隔てれば海だ。その事が少しだけ恐ろしい。

 レーキは固く眼を閉じて、眠ることだけを考えようとした。

 それなのに。憧れの船に乗っていると言う興奮が、船板一枚へだてて、そこに大海原が広がっていると言う事実が、彼を寝かせてくれなかった。

 寝返りを打つことも難しく、レーキはまんじりともしない夜を過ごした。

 

 明け方。

 とろとろと、眠りの海に沈もうとしていたレーキの耳に、よどんだ船室の空気を鋭く切り裂くラッパの音が飛び込んでくる。

 船員たちはそれを合図に次々と起きだして、自分の持ち場へと向かっていった。

 レーキも眠い目をこすりながら、どうにか起きあがった。毛布を片付けると、それはほんのり湿っている。船の外装の隙間から、波しぶきの欠片がにじんでくるのだ。

 ──どうりで、ここだけスペースが空いていた訳だ。レーキは肩を落として苦笑する。

「……あー。そんなとこで寝てたの」

 のそりと起き出してきたトマソは、驚いたように壁際を指差した。

「ここ、外は海だから、どうしても水がしみてきちゃうんだよね……ごめんね。言っておけば良かった……」

トマソは心底申し訳なさそうに、後輩に向かって頭を下げた。

「あ、いえ……どのみち寝付けなかったから、気にしないで下さい」

「そっか。ほんと、ごめんね……さあ、早く厨房に行かないと。厨房長に怒られちゃう」

 厨房長とはルーのことを指すのだろう。慌てて厨房に向かうトマソについて、船の中、入り組んだ細い通路をレーキは進んだ。

 

 朝の厨房にたどり着くと、すでにルーとフレーズが支度を始めていた。

「遅いわヨ! アンタたち!」

 ルーの叱責を聞きながら、朝食の準備に忙殺されたかと思えば、あっと言う間に昼が来た。

 船はすでに入港の準備を整えている。ここで果実酒(ワイン)の樽を大量に積み込んで、次に船が港に入るのは二日後だ。

 樽の積み込みには、四刻(約四時間)ほどかかるという。その間に、ルーはレーキたちを伴って食料の買い出しに出かける。

 ルーはなかなかの目利きで、市場におもむくと、肉、魚、香辛料、野菜、果てはフルーツまで様々な食材を選んで配達の手配をすませた。

 それから、試してみたいヴァローナの食材を色々と買い込んで、レーキたちに荷物持ちをさせた。

 途中、市場で軽食を買い食いして、腹の虫をごまかす。

「さあ! 船に戻ったら新作の試作ヨ! それがアンタたちの今日のまかないになるのヨ! その荷物はアンタたちのお昼になるんだから、丁重に運んでちょうだいネ」

 それにしては、荷物の量がちと多いようだが。レーキとトマソは顔を見合わせたが、反論することも出来ずに、買い物をしてご機嫌なルーの後を追いかけた。

 

 夕食の一騒動がどうにか片づいて、ルーはレーキに告げる。

「今日もよく頑張ったじゃない。レーキちゃん。アナタ、明日は昼までお休みで良いわヨ」

「え……?」

 自分に何かミスがあったのだろうか? 慌てるレーキに、ルーはにっこりと笑いかけた。

「船員はネ、交代でお休みを取ることになってるのヨ。料理人は食事二回分の休みを取るの。だから明日のお昼は食べるだけでいいワ」

 聞けば、トマソとフレーズの二人も明日は休みだと言う。レーキは安堵して、ふと、何かに気がついた。

「あ……俺たちが休みなら、ルーさんは?」

「交代要員ってコト? ちゃあんといるわヨ。安心なさい」

「いえ、その……ルーさんはいつ、お休みするんですか?」

 昨日も、最後まで厨房に残っていたのはルーだった。朝だって、レーキたちより早く厨房に詰めていた。それが厨房長の仕事なのだとはいえ、ルーにだって休息は必要なはずだ。

「あら、レーキちゃん……優しいトコあるのネ。タイプじゃないけど、キュンと来ちゃうワ! ……大丈夫ヨ。アタシもそのうちちゃんと休みを取るもの。ただアタシはアンタたちよりたくさんお給金もらってるからネ。その分たくさん働くのヨ!」

 おどけてふんっと力こぶを作ったルーは、確かに頼もしい。「それにネ……」と彼は続けた。

「アタシはお料理が好きなの。好きで好きでたまらないの。この厨房でお料理するのはアタシの仕事でも有るケド、趣味でもあるのヨ!」

 そう断言したルーの表情は、とても楽しげだった。

 

 船室で、どうにか壁際以外のスペースを見つけてレーキは眠る。昨日の夜まんじりとも出来なかったせいか、今日の睡眠は速やかに訪れた。

 何か、海に関する夢を見たような気がした。だが、それは起床時間を知らせるラッパの音にかき消されてしまった。

 今日は夕食の支度まで自由時間だ。交代要員に感謝しつつ朝食を()ってから、レーキは甲板に登った。

 船は今、見渡す限り大海原を進んでいる。三本のマストに渡された帆は、全てに風をはらんでいた。

 甲板では、幾人もの船員が忙しそうに働いている。

 中にはレーキと同じように非番の者もいるようで。甲板の上で体をほぐす者、カードゲームに興じる者、雑談に花を咲かす者、昼間から酒を(たしな)む者までいた。

 甲板に立っていると、潮のうねりが船を揺さぶって、海の香りを含んだ風が髪と羽とをはためかせる。

 空は快晴。絶好の航海日和だ。

「……あ、レーキだ! おはよー!」

 聞き慣れた声が、空を見上げていたレーキを呼び止める。振り返ってみると、ネリネが風になびこうとする髪を押さえながらのんびりと近寄ってきた。

「アナタも非番?」

「ああ。君もか?」

「うん。でも船室は狭くて暑いから、ここまで上がってきたの」

 確かに、換気の行き届かない船室は甲板よりもずっと蒸し暑い。甲板は、吹き渡る風のおかげで涼しく爽やかだった。

「そっちは仕事、どう?」

「忙しいがどうにかこなしてる。足は引っ張ってない、と思う」

「ふふ。アナタなら大丈夫よ。こっちはねーとにかく……ヒマ。見渡す限りなーんにも無いし、なーんにも起こらないし、ヒマでヒマでもう……あ、オマケにあたし、ウィルのヤツと組まされたのよ!」

 それが一番の憤慨(ふんがい)だとばかり、ネリネは眉をつりあげる。

「知り合いと一緒なら気が楽じゃないか?」

「アナタねぇ……それ本気? まあ、アナタの天然は今に始まったことじゃなさそうだけど……アイツはね、あたしの天敵なの!」

 ネリネの声色が不機嫌そうに低くなる。どうやら、彼女の虎の尾を踏んでしまったようだ。

「……そうなのか? それなら、すまなかった」

 レーキは素直に謝罪する。ネリネは大げさに溜め息をついて、腕を組んだ。

「……まあ、確かにアイツの相手してる間は暇つぶしになるって言うか……退屈はしないって言うか……ううん! やっぱりアイツと一緒なんてイヤよ!」

「……誰と一緒が『イヤ』なんだ?」

 レーキとネリネの背後から、やはり聞き覚えのある声がする。

「……げっ」

「ああ、ウィルか。おはよう」

 噂をすれば。にっと笑みを浮かべたウィルが、二人の背後に立っていた。

「つれない事いうなよォ。オレといれば退屈しないだろォ?」

「うっさい! 退屈はしないかもしれないけど、うっとうしいのよ!」

「あんたも非番か?」

 レーキの問いに、ウィルは笑って答えた。相変わらず、その顔は何処に出しても恥ずかしくないほどの男前だった。

「おう。そうだぜ! あんたら、暇ならこいつでもやらないか?」

 そう言ってウィルが差し出したのは、ラベルの無い酒瓶だった。

「……なにこれ?」

「蒸留酒だとさ。船乗りはこいつで景気をつけるらしい。さっき貰った」

「はあ~? 美味しいの? ソレ?」

 訝しげなネリネに、ウィルは酒瓶を差し出す。

「一口試してみたが、なかなか『クル』な。美味いと言えば美味い」

「ふうん。ま、試すだけなら試してみようかしら。レーキはどうする?」

「……俺も一口だけなら」

 強い酒を臭み消しに使う調理法もある。未知の『食材』に、レーキは好奇心を隠せない。

 先に酒瓶を受け取って、ネリネは栓を抜いた。瓶の口に鼻を近づけて、まずは香りを確かめる。

「あら、良い香りじゃない。味はどうかな?」

 呟いてネリネは一口、酒を口に含んだ。そのまま飲み込んで、くぅっと声を漏らす。

「はぁーっ!! たしかに美味しい! けど濃いわね! コレ! 喉が焼けちゃうわ!」

 ネリネは興奮したように目を見開いて、ふうっと酒の匂いのする息を吐いた。

「はい! 次はアナタね!」

 ネリネから瓶を渡されたレーキは、まず鼻を近づける。華やかな酒の香りが瓶の口からふわっと漂ってくる。匂いを嗅いだだけで、これが強い酒だと解った。一口、舌の上にのせるとそれだけで熱い。芳醇な香りと強烈な旨味。飲み込むと酒は喉をかっと火照らせて、胃の()まで落ちていった。

「……っ! げほっ……! げほっ!」

 刺激が強すぎて声も出ない。咳き込んでしまったレーキの背をウィルがさすった。

「はぁっはぁっ……!」

「……ねえ、大丈夫?」

「……ああ。これは、美味いが、強い、酒だ……!」

「あんたは一口にしといた方が良さそうだな」

 そのまま呑むのはもうごめんだが、酒精(アルコール)を飛ばして料理に使うなら美味いかもしれない。そう伝えると、ネリネとウィルは二人して大笑いした。

「お嬢ちゃんもそのくらいにしとくか?」

「まさか。あたしはもっと呑むわよ。今日は非番だしね!」

「そうこなくっちゃなあ! どうせなら、飲み比べでもするか?」

 ウィルの挑発に、ネリネはにいっと不敵に笑う。

「負けた方は勝った方の言うこと『何でも聞く』ってのはどう?」

「いいぜ。その言葉、二言はねぇよなあ?」

「ふふ。アンタこそ!」

 ネリネとウィルは二人そろって笑っているが、相対するその(ひとみ)は真剣そのものだった。

「おい、二人とも、呑みすぎは……」

 二人を案じるレーキを後目に、二人は勝負を始めてしまった。



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第50話 予兆

「……あたしの、勝ち、だぁーっ!!」

「……く、オレの……負け……か……おえっぷっ」

 レーキの再三の制止も(むな)しく。ネリネとウィルの勝負は、ネリネの辛勝で終わった。

 決着がつくと、面白そうな見せ物が始まったとばかりに周りを囲んでいた野次馬たちがおおーっと、どよめいた。

「やるじゃねーか、嬢ちゃん!」

「良い呑みっぷりだねー!」

「いやいや、そこの色男もなかなか頑張った!」

 勝者として拳を天に突き上げたネリネは、珍しく顔を真っ赤にしている。

 ウィルはすでに甲板(かんぱん)に沈みながら、青い顔で口もとを押さえている。

「……あたしの、命令、わぁ……ちょっと待ってぇ……今、考えても……多分……あー? なんだっけぇ……?」

 ネリネの方も勝ったとは言え、すでに限界のようだ。

 レーキが、ふらふらと頭を揺らすネリネに水を飲ませているうちに、船縁(ふなべり)でえずき出したウィルを船員の一人が介抱する。

「はははっ! 船縁で吐いたらいっちょ前の船員見習いだぁ」

 二人の勝負を、当然のように賭け事の対象にしていた暇な野次馬たちも、勝敗がついたと解って賭を精算して散って行った。

「……二人とも呑みすぎだ」

 やがて、甲板に並んで横たわり、ぜいぜいと虫の息で喘ぐネリネとウィルの隣に膝を立てて腰掛けて、レーキは溜め息をついた。

「……レーキぃ……あの、『治癒水』ぃ……」

「あれは痛みを緩和するものであって酔いを()ますものじゃない」

 死霊に憑かれた死体のように、のろのろと手を伸ばしたネリネに、レーキは水の入った(びん)を押し付ける。

「うーうーっ」

「とにかく水を飲め。酔いを醒ましたいならな」

 レーキにしては珍しく、はっきりと腹を立てている声音でネリネに命じる。

「……あんたもだ」

「……すまねぇ……うっぷ!」

 ウィルにも水入り壜を押し付けて、レーキはやれやれと頬杖をついた。

 せっかくの休日だというのに、昼前から酔っ払いの介抱とは!

 しかし、甲板に居てもする事など何も無かったことも事実で。レーキの中に生まれた憤りは、海を吹き渡る風にまもなく溶けていった。

 

「……ほんっと、ゴメンね。レーキ……」

「オレも……すまねぇな……」

 遅い昼食にと、厨房でピタパンに具材を挟んだ軽食を作って、レーキはネリネとウィルが伸びている甲板に戻った。

 二人の顔色は数刻前にくらべると、いくらか平常に近づいている。レーキは少し表情を緩めて、二人にピタパンを差し出した。

「……食えるようなら食うと良い。無茶をするなとは言わないが、自分の健康のことも考えろ」

 ネリネはピタパンを受け取って、しおらしく「……うん」と頷いた。

 ウィルは甲板に横たわったまま、「まだ、無理……」とうめいて目を閉じる。

「解った」

 レーキは二人の隣に改めて腰掛けて、自分用のピタパンを勢い良く頬張りだした。

「うー。こりゃ、明日は二日酔い、かな……」

 ネリネはのろのろ身を起こして、ピタパンをほんの少し(かじ)る。もそもそと半分くらいまで食べ進め、がっくりと肩を落とした。

「調子に乗りすぎたわ……レーキ、あの『治癒水』ちょうだい。頭が痛くなってきたの……」

「……解った。ほら」

 レーキは腰につけていた革製のポーチから、特製の『治癒水』を取り出して、ネリネに手渡した。

「ありがと……」

 小瓶の栓を開けて、ネリネは『治癒水』を飲み干す。最後の一滴を舌で受け止めて、ネリネは首を傾げた。

「……ん。あれ? なんだか、甘くて……美味しい……?」

「味を改良した。その……君たちに指摘されたから……不味いより美味い方がいいだろう?」

 レーキは不思議とバツが悪そうに、首筋を掻いた。そんなレーキを見つめて、ネリネはゆっくりと嬉しそうな笑みを浮かべる。

「……うん。そうね……今の方が絶対良いわ! ……ありがとね、レーキ!」

 

 青い空に浮かぶ白い雲がちぎれ、寄り集まり、またちぎれながら西から東へ吹き流されてゆく。その形は千変万化、例えるモノに事欠かない。

 雲が形を変える速度が速い。雲の高さの空は強い風が吹いているのかもしれない。

 天気は快晴。甲板を吹き渡る風も心地良い。だが、少しずつ雲の数が増えているような気がした。

「……気のせい、か……?」

「んー。どしたの? レーキ」

「いや、何でもない」

 遅めの昼食を摂って一刻半(約一時間半)ほどして、空を見上げていたレーキは甲板から立ち上がった。

「……そろそろ、俺は厨房に行く。二人は大丈夫か?」

「うん。酔いもだいぶ醒めてきたし、『治癒水』も貰ったから。心配かけてごめんね」

「オレも、一眠りしたらだいぶ良くなった。ありがとよ」

 その言葉にレーキは頷いた。二人とも顔色が良くなってきている。もう問題はないだろう。

「……それじゃあ、また」

「またね! お夕飯期待してる!」

「おう。またな!」

 三人はそれぞれに軽く手を挙げて、挨拶を交わす。そのままレーキは甲板を後にした。

 ──さあ、仕事だ。

 厨房に向かいながら、レーキは気持ちを引き締めた。

 

 厨房に戻ると、すでにルーが一人で夕食の下ごしらえを始めていた。

「ルーさん、ただいま戻りました」

「あら、おかえり、レーキちゃん。初めてのお休み、どうだった?」

 仕事にのめり込んでいないときのルーは、穏やかで優しい人物に見える。ルーは野菜を刻む手を止めて、レーキに微笑んだ。

「結局、酔っ払いの介抱で終わってしまいました」

 厨房の仕事を始めるためにエプロンを身につけながら、苦笑混じりにレーキが答えると、ルーはくすくすと笑った。

「船乗りは大酒飲みが多いから。仕方ないわネ。……ああ、甲板で女のコと男前が飲み比べしてたって聞いたけど、レーキちゃん知ってる?」

「知ってます。二人とも……友人……? いえ、仲間です」

 二人の勝負がよほど大きな話題になっているのか、ルーの耳が早いのか。レーキは諦めて肯定する。

「あらあら! じゃあ介抱してたのはそのコたちネ?」

「はい。二人が呑んでいたのは香りの良い強い酒でした。あれは、何という酒なんですか? 料理に使ったら良い臭み消しになると思うんです」

 レーキの問いに、ルーは口もとに人差し指を当てて答えてくれる。

「そうネェ。香りが良いっていうならラムかウィスキーだと思うワ。より甘い香りがラムで、煙っぽいのがウィスキー。どちらも蒸留酒で強いお酒ヨ。どっちを使ってもいいケド……よりお料理に向いてるのはラムの方かしらネ」

「なるほど。ありがとうございます。ラム、か……今度試してみます」

 レーキの返答にルーは我が意を得たりとばかり何度か頷いた。それから、まだ刻んでいない野菜をレーキに渡して「それ、刻んで」と命じる。

「……そうネ。色んな味を試してみるといいわヨ、レーキちゃん。美味しいモノをたくさん知ってれば、組み合わせてもっと美味しいモノを作れるでしョ? それがお料理の楽しみヨ」

 料理を作ることは、とても楽しい。その料理を誰かが喜んでくれたなら、なおさらだ。

 そんなことに、改めて気づく。

 ──ああ、だから。俺は料理を作ることがやめられない。

「はい!」

 レーキは真っ直ぐにルーを見て、喜びを隠せずに微笑んだ。

 

 翌日の昼過ぎ。

 ワックスがけされたばかりの艶光る甲板の表面に、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。

 あっという間に雲は空を覆い尽くし、やがて、くすんだ灰色の雨雲へと変わっていった。

 時間が経つにつれ、次第に雨足は強くなり、甲板では空から零れ落ちた雨粒が踊る。船員たちは慌てて帆を畳み、甲板の開口部を閉じた。

 明かり取りを兼ねている格子状の開口部が覆われると、船内は途端に月の無い夜のように暗くなる。

 船の外装を叩く波が荒い。風向きが変わって海がうねり出す。嵐の前兆だ。

 今日の夕方には『海の女王号』が寄港地に到着する予定になっていたと言うのに。このままではそれも難しい。

 この海の荒れようでは、厨房は危なくて使えない。夕食の準備を始めていたレーキは、ルーの命令でトマソや他の船員たちと共に、船室で待機していた。

「……ふう。昨日は良く晴れてたから、こんなに急に天気が変わると思わなかったなぁ」

 不安げなトマソの溜め息に、レーキは頷いた。

「……かなり揺れていますね。船は大丈夫でしょうか?」

「もうっ! 怖いこと言わないでよー! ……多分ね。多分大丈夫。大きな船だし……」

 自信なげにトマソは言葉を濁す。いくら大きな船だとはいえ、猛り狂った海の暴虐には敵うはずもない。為す術もなく、『海の女王号』は波に揉まれる。

 外装が(きし)む度、トマソの顔色は青ざめて、彼はレーキにしがみついた。

「ひいぃぃぃっ……!!」

 レーキとて、この状況は恐ろしい。自然相手に、人などは無力としか言えない。

 だが、自分以外の人間が先に怯えてしまうと、かえって冷静になるようで。

 レーキはトマソに「大丈夫ですよ。浸水もしていないし、船は無事です」と言い聞かせた。

 そんな状態が数刻も続いただろうか。ふと、船の軋みが止んだ。船をなぶっていた波音も静かになる。

 レーキとトマソは、俯いていた顔を上げた。

 その時。

 

 ドンッ……!!

 

 何か巨大なモノが勢い良く船にぶつかってきたような、そんな衝撃が走った。

 立ち上がっていた船員たちは、衝撃の大きさに負けて、左舷の壁に押し流されるように転がる。腰掛けたままだったレーキとトマソも、左舷側に倒れた。

「……っ?!」

「なに?! なに?! 何が起こったの……?!」

 薄暗い船室にいる者は、誰一人、何が起こったのかわからない。さざ波のように混乱が広がっていく。

 ぎ、ぎぎぎぎギギギギ……

 大きな船が左に(かし)ぐ。船室の船員たちは慌てて近くに有るモノに捕まる。それから、ゆっくりと船が右に傾ぐ。

 何かが、嵐とは違う何かが、『海の女王号』を揺さぶっている!

「……ひぃっ! 助けてくれ!!」

 誰かがそう叫んだ。それが合図になったように。船員は口々に悲鳴を上げる。

「誰か……! 誰か助けてくれ!!」

「いやだ……死にたくない……死にたくない……!!」

「水の王さま……お助けください……!!」

 口々に悲痛な叫びを上げる船員たちの中にあって、レーキもまた混乱していた。

 何が起こっているのか、何が船を揺らしているのか。

 解らない。ただ事ではないことだけを膚で感じる。

 レーキはもどかしくなって、掌を宙に向けた。緊急事態のようだ。仕方がない。

「『光球(ルーモ)』!」

『光球』のまばゆい光が船室を照らす。船員たちはその光に釘付けになった。騒がしかった船員が、水を打ったように静かになる。

「……天、法……?!」

「天法士だ! 天法士がここにいる!」

「……レーキ、くん……?」

「静かに! 外から何か聞こえる!」

 レーキは立ち上がって耳をすました。船の上部、甲板の方から切れ切れに聞こえる、悲鳴と怒号。それはこのままここにいては、はっきりと聞こえない。(らち)があかない。レーキは叫んだ。

「俺が様子を見てくる! 道をあけてくれ!」

 期待のこもった視線を向けてくる船員たちをかき分けて、レーキは甲板を目指す。船員たちの悲鳴が、あちらこちらから聞こえる。

 船室の中はまるで、悪人が恐ろしい責め苦を与えられるという死の王の国、その底であるようだ。

 甲板が近づくにつれ、はっきりと船員たちの叫ぶ声が聞こえる。

「……!」

「……ラファ……だ!!」

「……ラファ=ハバールを船に近づけるな!」

「ラファがこの海域に出るなんて……!!」

 ラファ=ハバール。

 魔獣の本で読んだことがある。

 海に住むと言う、巨大な魔獣。体長は船ほども大きく、魚類の頭を持ち、そこから生えている曲がりくねる十数本の触手を使って船を沈める、と本にはあった。

 ──そんな魔獣が、この船に?

 開口部にかぶせてある蓋をどうにか持ち上げて、甲板に出た。雨はいまだ激しく甲板を洗っている。遠くで雷鳴までが響きだした。

 レーキがそこで見たモノは。



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第51話 ラファ=ハバール

 鱗のない魚のような顔。マストの半分ほどに巨大な灰色のそれから、うねって伸びる吸盤のついた触手は(ほの)かに赤みかがって。船縁(ふなべり)に絡みついて船を揺さぶっていたのは、きっとこの触手だ。

 ラファ=ハバールは、図説の何倍も恐ろしい生き物だった。

 レーキは驚愕に息を呑む。こんな生き物がいても良いのか。許されて良いのか。

 海を冒涜(ぼうとく)するために生まれてきたように、おぞましいその生き物は、巨体には不釣り合いなほど小さな四つの(ひとみ)を見開いて、触手を甲板(かんぱん)の上に伸ばしてくる。

「……レーキ! 何してんの?!」

「ネリネ!」

 揺れる甲板の上でバランスをとりながら、連射式のクロスボウをラファ=ハバールへ向けていたネリネが、レーキを見つけて駆け寄ってきた。

「下の船室は何が起こっているのか解らなくて混乱してる! あいつがラファか?!」

「そうよ! アイツが突然下から来たのよ! 今、護衛と甲板要員が揃って応戦してるけど、触手を切っても本体はたいして気にしてないみたいなの! ウィルも苦戦してる!」

 船の護衛は元々、別の船に横付けされて自分の船に敵が乗り込んできた時、つまり白兵戦を想定して雇われている。

 遠距離から先手を打つために天法士も数人揃えられているが、船同士の戦闘とは勝手が違う。護衛の天法士たちも、まだ決定な一撃を与えられないでいた。

 このままでは『海の女王号』はラファに沈められてしまう。レーキは戸惑う。

「……ここはあたしたちがなんとかする! レーキは船室に……」

「……俺も……やる! 俺は死にたくない。今のまま船室で怯えていてもジリ貧だ!」

 ラファ=ハバールは確かに恐ろしい。でも、船室でうずくまっていたら事態が解決するのか。再びラエティアに会えるのか。

 だから、自分が出来ることをする。レーキは決意する。ネリネに告げた言葉は本心で。それに、死の王は言っていたではないか。『未だその時に非ず』と。

「俺は、多分ここでは死なない」

 そうだ。その証拠に、気の置けない仲間、ネリネもウィルもまだ死んでいないのだから!

「……わかったわ! 出来るだけ触手より頭に一撃入れて! 触手はあたしたちが!」

「解った!」

 船縁でラファ=ハバールを迎撃している天法士達は、みな鳥人ではなかった。彼らは必死に法術を飛ばしているが、はっきりとラファに打撃を与えている攻撃は少ない。相手が巨体過ぎる。遠すぎる。

 ──『火』は駄目だ。相手は水浸しで海の魔獣。生半可な『火』ではかき消されてしまう。『水』。これは論外。『土』と『金』と『木』の系統も難しい。では。

「……考えろ、考えろ、考えろ!!」

 焦燥。どうすればラファに大打撃を与えられるか。レーキが逡巡するその時に。遠くの空で稲妻が一瞬辺りを照らし出す。

「……っ!!」

 これだ。『青』の天法は特殊な二系統、すなわち『木』と『雷』!

「みんな! 船縁から離れてくれ! 『(いかづち)』を使う!!」

「レーキ!」

 船縁に並ぶ護衛たちに、レーキは叫んだ。その中にウィルの顔を見た気がした。雨の中、空中に飛び出したレーキはラファに迫った。

 右手を突き出し、ラファに向かって声を限りに叫ぶ。

「おまえの好きにはさせない! 『青雷槌(アスル・フルグル・マルテルロ)』!!」

 護衛たちが船縁から離れたことを確認して、レーキは自分が知る、もっとも強力な『雷』の天法をラファの頭に叩き込む。

 レーキの右手から、強烈な雷撃がほとばしり、ラファ目掛けて飛んで行く。

 ギギギギギギィィィ……木材をこすり合わせるような音を発して、ラファの触手が船縁を離れていく。

「やっ、た……?!」

 喜びもつかの間。

 ラファの本体が、巨大な口を開けて船に迫る。その口の中を目掛けて、レーキはまたもや『青雷槌』を放つ。幾度も幾度も。

 びくり、とラファの巨体が震えて、その動きを止めた。

 ラファに『雷』の攻撃が有効であると悟った護衛の天法士たちが、レーキの足元でかわるがわる『青雷槌』をラファに食らわせた。

 ラファの体が揺れる。その太い触手がうっとうしい虫でも払うように船縁を薙ぎ払おうとする。

「させるか! 『氷塊撃(グラキエース)』!!」

 レーキは襲い来る触手をかいくぐって飛び、太い触手を『氷塊撃』でぼろぼろにしてやった。

 ラファは声もなく触手をくねらせて悶えている。それは痛みにのたくっているようにみえたが、そもそもこの怪物に痛みを感じる機能が備わっているのだろうか?

 それすら疑問だった。

「もう一度、『青雷(アスル・フルグル)……』?!」

『青雷槌』を放とうとしたレーキに、ラファは狙いを変えた。触手は一斉に空を飛ぶレーキを叩き落とそうと(うごめ)いて、殺到する。

「……くっ!!」

 攻撃しようにも、呪文を唱える隙がない。こんな時、師匠なら、無詠唱で法術を使っていただろう。修行が足りない。だが、それは今、嘆くべきことではない。今はただ生き残ることだけを考える。

 レーキは飛んだ。ラファの触手が届かない空高くへ。雨粒が顔を、体を、羽を叩いて、すでに痛いほどだ。

「……雷の王さま……どうか、俺に力を……あいつを倒す力を貸してください……!! 『青雷槌(アスル・フルグル・マルテルロ)』!!」

 十分な高さを確保して、レーキは天の王に祈りを捧げた。そして、思い切り腕を振り下ろす。特大の『雷』がラファ=ハバールの頭に向かって下って行く。

 同時に。『青雷槌』に()かれるように。自然の雷がラファに向かって一直線に落ちて行った。

 沈黙。耳をつんざく雷鳴の中で。誰もが息を止めた。

 次の瞬間、その場に音が戻る。やけにゆっくりと、ラファが嵐にうねる海の中に沈んでいく。

「……はぁ……はぁ……はぁ……っ!」

 レーキは荒く息を継ぎながら、嵐の中を降下していった。

 どうにか海の怪物を倒すことはできた。だが、体力はもう限界だ。早く、船に戻らなくては。この嵐の中、海に落ちれば瞬く間に溺れてしまう。

 よろよろと雨を縫って飛ぶレーキは船縁にネリネとウィルの姿を認めた。良かった。二人は、船は無事だ。

 二人は大きく手を振って、何かを叫んでいる。それが雨音と雷鳴にかき消されはっきりと聞き取れない。

「二人とも、何を言って……?!」

 不意に、レーキは何かに足を捕まれた。そのまま乱暴に振り回され、海面に叩きつけられる。

 一瞬、レーキは何が起こったのか解らなかった。一呼吸遅れて、重い痛みが、はっきりと全身を襲う。

 レーキの足に絡みついたのは。ラファ=ハバールの細い触手だった。

 断末魔に叫ぶ代わりに、ラファは自分を追い詰めたレーキを道づれにしようとしている。

 海中に引きずり込まれそうになって、痛みは一時忘れた。レーキは必死に羽ばたく。ラファに引きずられて、どんどん船が遠くなっていく。

 海から飛び立つ鳥もいるのに。レーキの羽は雨に濡れそぼってひどく重い。

 ──嫌だ! こんな所で死ねない!! 死にたくない!!

「『氷槍(グラキ・ランケア)』!!」

 ラファの触手が『氷槍』に貫かれて、千切れ、離れていく。

 やった! 喜びに浸る間もない。レーキの体は逆巻く波間に飲まれた。苦しい。息が、出来ない!

「ダメよ! そんな……! 船をもどして!! いやあああ!! レーキ! レーキぃぃぃぃ!!」

 遠く、どこか遠くで。誰かが自分の名前を呼んでいる。意識を手放すその瞬間。レーキはそんな気がした。

 



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第四章 空白時代
第52話 痛み


 最初に感じたのは『痛み』だった。

『痛み』はいつでも自分の隣にあって、自分を縛り付けていた。

 幼かった頃、何か些細(ささい)なことで養父は自分を殴った。自制の利かない酔っぱらいの一撃は強烈で、幼い体は容易に傷ついた。

『もう少し加減しておやりよ! 死んじまったら元も子もないだろ!』

 養母は笑いながらそう言っていた。それは彼女の優しさなのだと過去の自分は思っていたが、今から考えるともっと利己的な理由からくる言葉だったのだろう。

 自分が死ねば働き手が無くなる。そんな打算からくる言葉。

 ああ。今解った。自分が酒に対して消極的な理由の根は養父母だ。

 彼らは自分に全てを押し付けて、日がな一日酔っていた。それが悲しかった。恨めしかった。だから。だから自分は酒が、『キライ』だったのだ。

 

「……痛、い」

 口に出すと、はっきりと自覚する。足が腕が羽が──全身痛みのない箇所など無いように痛む。この痛みが消えるなら。酒で良いから口にしたい。いいや、それよりも。

『治癒水』を入れていたポーチにのろのろと手を伸ばす。中に入れていたモノは全てがぐちゃぐちゃで、『治癒水』の(びん)は割れていた。

「……」

 ああ。ここは……どこだ?

 落胆しながら隻眼を巡らす。

 暗い場所だ。あまりに暗くて、何も見えない。複数の気配が身じろぎする音が聞こえる。

 頬に感じる、石造りの床はわずかに濡れている。首から提げている王珠が、胸元に当たって痛い。

 口の中は潮の味がして、ひどく喉が渇いた。それから、何かがすえたような強烈な臭いが鼻をつく。

 ──ここは、船の上じゃないのか?

 自分は助かったのか? でも、どうやって? 船はどうなった? 嵐は? ラファ=ハバールは?

 まず、必要なのは情報だ。そのために明かりが欲しい。レーキは痛みに軋む体をゆっくりと起こした。ああ、背中がひどく痛む。

「……『(ルー)……()』……」

 人差し指の先に小さな明かりを点す。ざわりと周りの気配が動いた。

『光球』に照らし出されたのは、薄汚れた人の群と石造りの狭い部屋。三方は窓のない壁に囲まれ、最後の一方はやはり窓の無い木製の扉で閉ざされていた。この部屋は光の射さぬ暗闇の中だ。

 成人が三人も腕を広げれば壁に届いてしまうその部屋の中に、十数人がひしめいていた。

「ルー……!!」

 誰かが呟いた。人の群は一斉に『光球』を見つめている。その表情はみな一様に怯えていた。

「ルー? リレ エスト ウェネーフィクス……!?」

「クィド トゥ イク……ウェネーフィクス……!!」

 人々の話す言葉はレーキの耳に入るものの、なにを言っているのか意味は分からない。どうやら共通語ではないようだ。

「……ここは……どこだ?」

 レーキは痛みをこらえて、一番近くに居たの女性に話しかけた。

 泥でもかぶったのだろうか。汚れにまみれたぼろ切れのような服を着た女性は、その格好には不釣り合いなほど、真新しい金属製の首輪をつけていた。

 垢じみた顔を『光球』に照らされて、女性は「ヒィ……!!」と声を上げた。

「……オ、オディ イルッド! アヴィルラ メ! クィア ノロ モルティム!」

 彼女が叫ぶ言葉も、レーキには理解出来ない。共通語でないことは確かだが、よくよく聞けば、彼らの言葉は天法の呪文にどこか似ているような気がする。

「教えてくれ、ここは……どこ、だ? 俺の言葉が、解るか?」

「……イルッド!! ク、クィット ディシス!!」

 駄目だ。女性は怯えて悲鳴をあげるばかりで、耳を貸してはくれない。

 せめて、何か器があれば。身を苛む痛みを緩和する『治癒水』を造ることが出来るのに。レーキは床を這い進んで器を探した。怯えた人々はレーキを避けるように身を引いていく。

 腕を動かす度、足を進ませる度、全身に痛みが襲いかかってくる。レーキは、歯を食いしばって痛みに耐えた。

 どうにか部屋の隅で、手のひらに収まるほど小さく縁の欠けた椀をみつける。

「『(アク)……()』、『治癒水(パナケア=ドローレ)』……」

 椀を手に取ると清潔な水を造り、それを『治癒水』へと変えた。痛みに苛まれていない普段なら数分もかからずに出来る手順なのに。今は集中することすら難しい。

 どうにか出来上がった『治癒水』を、口に運ぶ。それは、ひどく苦かったが、喉を下って胃の腑にたどり着くにつれて、痛みはゆっくりと落ち着いていった。完全になくなった訳ではない。ただ少しだけマシになった。

「……は、あ……」

 椀を石造りの床に下ろして、レーキは『光球』を消した。痛みを抑えても、体力が完全に回復したわけではない。レーキには休息が必要だった。少しだけ。少しだけ眠りたい。

 レーキは知らない言語でざわめく人々を後目に、床に倒れ込むように眠りに落ちた。

 

 

「……ソルジット! アーラ=ペンナ!!」

「……ぐぅっ?!」

 どれほど眠ったのだろう。深い眠りの底にいたレーキは、鋭い痛みをみぞおちに感じて目を覚ました。

 レーキは痛みに身をよじり、混乱しながら(まぶた)を持ち上げる。二人の男が自分を見下ろしていた。

 一人は獣の特徴の濃い獣人の男。彼は松明を手にしている。もう一人は無精髭を顔中に生やした人間の男。彼は丈夫そうな鎖を携えていた。

 男たちは部屋の中にいる人々に比べたらまだ清潔な服を着て、首輪はしていない。

 無精髭の男はレーキの髪を掴んで、そのまま彼の身を無理やり引き起こした。レーキは男のなすがまま、顔を上げる。

「ノクィスト イクト エスト ウェネーフィクス?」

「……ネ! イズデム エステ!」

 男はレーキの顔を覗き込みながら、部屋にいた人々に何かを尋ねた。人々は男たちに何かを訴える。言葉が解らない、と言うことがなんとも、もどかしい。

「何を、言って……いるんだ……?」

「……ターチェ! ……ヴェニ!」

 無精髭の男は荒々しい手つきで、レーキの首元に巻かれていた金属の輪を掴んだ。

 それで、レーキはやっと部屋にいた他の人々のように、自分も首輪をしていることに気がついた。

 無精髭の男は素早くレーキの首輪に鎖をつけて、彼を部屋から連れ出した。

 狭い部屋の外は、同じような部屋の扉が幾つか並ぶ通路になっている。床には水がたまり、それが腐ってひどい悪臭がする。

 薄暗い、粗雑な石造りの壁には松明が並んでいた。おかげで、どうにか転ばずに歩くことが出来た。

 男たちに引かれて、レーキは天井の低い通路を進んでいく。

「……どこに、行くんだ?」

「ターチェ!」

 レーキの問いは、一喝によって封じられた。黙々と、通路の先に向かう。

 そこには、先程の部屋よりは大きな部屋が一つ。ここは地下なのだろうか? この部屋にも窓はない。松明で照らされた部屋の真ん中には、人一人が横たわってもまだ余裕のある四角い石製の台が設えられていた。

 石の台には鎖のついた枷らしきものが固定されている。

「ここは……?」

「ターチェ!」

 無精髭の男は『黙れ』とでも言っているのだろうか? 男たちはそのまま、レーキを台の上に突き飛ばした。

「……くっ!? 何を……っ!?」

 二人がかりで、慌てるレーキを仰向けの姿勢で石の台にくくりつけようとする。

 このまま石の台に囚われる訳には行かない。レーキは手足をばたつかせ、無精髭の男に向かって『金縛り』を放った。

「エト ホク ガイ エスト! ヴィレ ウェネーフィクス!!」

 獣人の男が叫ぶ。レーキは彼にも素早く『金縛り』をかけた。

 身動きのとれなくなった男たちを、台のある部屋に置き去りにして、レーキは首輪から鎖をはずして走り出す。金属の首輪自体は繋ぎ目が見つからず、手探りで外すことが出来なかった。

 台のある部屋の先には、上り階段が見えている。レーキは必死になってその階段を上った。襲い来る痛みに、何度も気力が萎えそうになる。

 必死に階段を上りきると、そこには重い金属製の扉が立ちふさがっていた。肩を扉に押し当てて目一杯、力を込める。

 鍵はかかっていないようだ。次第に扉は油の切れた蝶番の音を響かせて、開いていく。

 外は昼間なのだろうか? 扉の隙間から溢れてくる光が、薄暗い地下の明かりに慣れた隻眼に眩しかった。

 上階は地下と違って木造で、内装は地下よりもずっと清潔で、乾いていた。

 樽や木箱がきちんと並べて置いてある。それはどこか商店の倉庫を思わせた。

 レーキは地下へと続く、重い金属製の扉を押して閉じる。念のために『封錠』の天法をかけて、容易には扉が開かないようにする。

 ああ。痛みが、特に背中と羽の痛みがぶり返してくる。

「……はあ、はあ、はあ……っ」

 肩で息を継ぐ。脂汗が額を伝い落ちる。

 逃げなければ。ここから逃げ出さなければ。そんな本能に従って、レーキは痛む体をだましだまし、倉庫の外に運んでいく。

 倉庫の外は廊下が左右に伸びている。右はすでに壁が見えていた。先程の男たちの仲間に出くわさぬよう、慎重に左の廊下を進んでいくと、そこには正面に木製の洒落た扉と、右側に木製の質素な扉が有った。

 ここが店だとするならば、洒落た扉は店の表に通じる扉だろう。そこには確実に出口がある。レーキは念のため、質素な扉に小声で『封錠』をかけてから、洒落た扉をほんの少しだけ開けて、中をうかがった。

 そこはやはり商店のようで。身なりの良い数人の男女と、店員らしき恰幅の良い男が何やら言葉を交わしていた。

「ホック サフィス エスト。サルヴス エスト ボンヌゥム バロウム」

「クム ムルタ リン コスタ?」

 相変わらず、彼らが何を言っているのか解らない。聞き慣れない言語を翻訳する術など、天法にはない。

 レーキは一か八か、店の表に躍り出た。

「『金縛り(パラリーゾス)』!」

 客らしき男女と店員を一息に縛る。驚愕する暇さえ与えない。人数を広げると効果時間が短くなるが、仕方ない。逃れた者はいない。上手く行った。

「サルヴス フウジット!!」

 叫ぶ店員を後目に、レーキは店を飛び出した。

 

 店の前はまた、別の店。その隣もその隣も。ここは商店の連なる街中だ。

 表に掲げられている看板は、どれも読むことは出来ない。文字の形はどこかで見たことのあるモノだ。だが、どこでみたのか。思い出せない。

 ここは繁華街なのだろうか? 並んだ店も通りも賑やかで、人と亜人とで溢れかえっていた。

 店が並ぶ通りの奥は緩やかな坂道になっていて、ここから見るだけでも大きな建物が幾つかそびえている。

 その反対側は港なのか、小型の船と陽光に照らされて光る海が見えた。

 空は青く、雲一つ見えない。ここが一体どこなのか、それは解らない。だが、まずはあの店や男たちから逃れることが専決だ。

 レーキは翼を広げて、この場から飛び立とうと大地を蹴った。

 ──しかし。彼はひどい痛みに襲われて、飛び上がることさえ出来ずうずくまった。

 恐る恐る、黒い羽を広げる。右の羽は無事だ。傷もぎこちない所もない。

 では、左の羽は。

 関節の手前から先が見当たらない。羽を目一杯広げても、左は右の半分にも満たない。意識を失っている間に。鋭利な刃物かなにかで断ち切られたのかもしれない。傷口はすでに血が止まって、滑らかな断面を(さら)していた。

「……あ……っあ……っ!!」

 広げた羽を見上げて、レーキは愕然と声をこぼした。ひどい痛みの正体はこれだった。これだったのだ。

「……あ、あ、あ……あああああぁぁぁぁ……!!!!」

 止めどなく隻眼から涙があふれ出る。どうして。どうして、こんな、ことに。

 幼い頃からこの羽がキライだった。こんなモノがなければ、と憎んだこともあった黒い羽だった。

 だが、いざ失ってみると、それは自分を自分たらしめていた、大切な欠片の一つで。

 なにが欠けても、自分は今の自分にはならなかった。その決定的なモノが欠けてしまった。

 どうしていいのか、解らない。レーキは逃げ出すことも忘れて、往来にうずくまった。

「……あ、あ、あぁ……!!」

 駆け寄ってくる人々の足音がする。ああ。恐らく羽を切り落としたのは彼らだ。

 彼らは人々をじめじめとした不潔な空間に押し込めて、首に枷をはめるような連中なのだから。

 逃れなくては。再び捕まれば、どんなことをされるか解らない。

 それに、自分はまだ生きているではないか。

 羽を失っても、二度と空を飛ぶことが出来なくても。自分は生きなければならない。

 ここで死んではならない。大切な人々のためにも。

 それでも嗚咽は止められない。レーキは泣きながら、地を這う。

「……カピト、カピト ホック!」

 声が近い。逃れなければ。身を起こせ。走れ、走れ!

 命令に従ってくれない体を叱咤して、レーキは立ち上がろうとする。

 その時。頭上から不意に、声が降ってきた。

「……アスネ ヴェネ?」

 



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第53話 奴隷屋から逃れて

「……っ!?」

 それは静かな声だった。穏やかでとても優しい声音。

 立ち上がろうとしていたレーキが見上げると、優しい声の持ち主はこちらに手を差し出していた。レーキは思わずその手を取った。

「……アスネ スタス?」

 優しい声の持ち主はレーキを立ち上がらせて、声をかけてくる。意味は分からない。だが、その声音は変わらず暖かだった。

 優しい声の持ち主は、レーキの頭二つ半ほど背が高い。声とよく似合う柔和な表情を浮かべた顔は中性的だったが、声の低さからすれば男性であろうか。短く切りそろえた黒い髪と白い膚。往来を歩く人々の中でも飛び抜けた長身。

 何より特徴的なのは、頭の両側に戴いた不思議な色の角。山羊のそれのようにも見える捻れた大きな角は彼のこめかみから直接生えている。乳白色のそれは、昼間の太陽を受けて、時に青く、時に赤く、見る角度によって色を変えた。

「……あり、がとう……」

 思わず呟いたレーキに、長身の男は微笑みを返した。

「……ドミニ=イリス。イル エスト ウン 『ホスべス』」

 長身の男の連れらしい男が、レーキを見つめて何かをささやく。

 こちらの男の背丈はレーキとさほど変わらない。男の横には大きな黒い犬が寄り添っている。

 男の膚は褐色。髪の色は銀。眼鏡をかけていて、その奥の(ひとみ)は長身の男の角によく似た不思議な色だった。

 長身の男も眼鏡の男も、清潔で布をたっぷり使ったいかにも高価そうな服を着ている。

「……アア デンネ。エゴ テ ファチア アルクゥイッド デ イラ。シーモス」

 長身の男が、背後にいる眼鏡の男を振り返って何かを告げる。

「インテリゴ。……『トランスレイショー』」

 眼鏡の男は頷いて、レーキに向かって、手のひらを向けた。それは、レーキが天法を使うときの仕草とよく似ていた。

 くらり。一瞬、耳の奥で何かが歪む。その感覚はすぐに消えて、レーキの中で何かがすっきりと有るべき場所に収まった。

「……これで、僕の言葉が解る、かな? 『アーラ=ペンナ』さん」

「……あ、あ、は……い……?」

 長身の男は微笑みを浮かべながら、レーキの眸を覗き込む。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 長身の男の言葉だけではない。道を行く人々のつぶやきが、店の軒先に吊された看板の文字が、そして背後から、「ソイツを捕まえてくれ!」と叫ぶ男の声が、すべてが明瞭に意味をもって聞こえてくる。

 レーキは混乱する。なぜ、突然言葉が理解出来るようになったのか。

 心当たりは、眼鏡の男が自分に向かって使った『術』のようなもの。それが異邦の言葉を翻訳している。

 狼狽(うろた)える内に、不意をつかれた。背後から走ってきた、店の店員らしき屈強な男に腕を取られる。しまったと思ったときにはすでに遅かった。

「……!!」

「手間をとらせやがって! 店に戻れ! アーラ=ペンナ!」

「……嫌だ! 手を放せ!」

 レーキは抵抗するが、純粋な力では店員の男に敵わない。後ろ手に腕を捻られて、背中と羽が悲鳴を上げる。

「こいつ! 傷物奴隷のクセにおれにたてつくつもりか?!」

「ぐ、ぅ……! 俺は、奴隷になった覚えなんて、ない!」

「……その子、売り物なの?」

 店員の手から逃れようともがいているレーキを指して、事態を見守っていた長身の男は小首を傾げた。

「これはこれは『使徒(しと)』様方。さようでございます。ちょいと目を離した隙に店から逃げ出しましてね。まだまだ躾が必要なようです」

 揉み手でもしそうなほど、店員は改まって長身の男に答える。

『使徒』とは何者か。レーキには解らなかったが、店員の態度をみているとそこには身分の差が有るようだ。

「その子の羽は、生まれつきではないよね?」

「ええ。左は骨が折れて歪んでましてね。見栄えも良くないし、空を飛ばれても迷惑だ。いっそ『ばっさりやっちまおう』ってことになりまして」

「な、んだと……!?」

 そんな理由で、鳥人に取って大切な羽を切り落としたと言うのか。レーキはショックを受けると同時に(いきどお)る。折れているだけなら、まだ治療できたかもしれないのに!

「その子、どの地区の出身?」

「さあ。海岸に倒れて居たところを拾いました。『方舟』でアーラ=ペンナは珍しいですから。高値が付くかと期待したんですが。ご覧の通り右目も欠けてますしね。大した額にはならんでしょう」

 店員は値踏みするようにレーキを見る。

 レーキは思わず右目に手をやった。そこには有るべき物がない。右目を覆っていたはずの眼帯が。嵐の海を漂う間に無くしたのか、奴隷屋の店員にはぎ取られたのか。

「……眼帯は、どこだ……?」

 店員に拘束されていても、レーキはそれを尋ねずにはいられなかった。

 あれは、ズィルバーが初めての給料で仕立ててくれた、大切な品だ。取り返さなければ。

「は! 知るかよ! そんなこと、どうでもいい! 大人しく店に戻れ!」

「嫌だ! 俺は奴隷じゃない! 眼帯を返せ!!」

 レーキは身をよじって店員に向き直り、自由になる方の右手を彼に向けた。『金縛り』をかけてしまおう。そう決めた瞬間。

「お止めになった方が、よろしいですよ? アーラ=ペンナの貴方(あなた)

 眼鏡の男がレーキを制止する。レーキが戸惑っていると、長身の男が一歩近づいてくる。

「……それは、君の大切な物なの?」

 レーキの顔をのぞき込むようにして、長身の男が身を屈めた。

「ああ。大切な、後輩に貰ったものだ」

「そう。解った」

 長身の男は穏やかに顔をほころばせた。それから店員に向き直り、静かに告げる。

「……ねえ、奴隷屋さん。その子、僕が買うよ」

 レーキは愕然と長身の男を見る。長身の男はレーキに悪戯っぽく微笑みを向けてくる。

「へ? よろしいんですかい?」

「うん。言い値で買ってもいい。その代わりその子の持ち物を全部持ってきて。それから切り落とした羽も」

「お買い上げありがとうございます!」

 店員は頭を下げてレーキの腕を放した。

「傷物ですんで勉強させてもらいます! 羽と持ち物はすぐに持ってこさせます! 他に上物もおりますんで、店にいらっしゃいませんか?」

「ううん。僕はこの子だけでいいよ。シーモス、君は?」

 長身の男は背後を振り返り、眼鏡の男──シーモスに尋ねる。

「そうですね。(わたくし)は上物とやらを拝見いたしましょうか。案内していただけますか?」

「毎度あり!」

 二人の男は、奴隷を買うことに慣れているのだろうか。戸惑う様子も嫌悪する様子もなく、淡々と手続きを進めている。

 シーモスと黒い犬が奴隷屋に向かってしまうと、レーキと長身の男は通りに残された。

「……」

 礼を言った方がいいのか。それとも、警戒するべきなのか。レーキはにわかに判断が付かずに長身の男を見上げた。

「……ふふ。君は運が悪かったね。あんな店に捕まるなんて。……僕はイリス。君は?」

「……レーキ、ヴァーミリオン……」

「そう。いい名前だね。ようこそ、『方舟(はこぶね)』へ。歓迎するよ。『ソトビト』のレーキくん」

「『ソトビト』?」

「ふふふ。ここでは誰に聞かれるか解らないから……説明は出来ない。僕の連れが戻ってきたら、僕の家に行こう。君の治療もしなくちゃ」

 彼の語る言葉は、意味が解るようになっても秘密めいていて。レーキは警戒を解けずにいる。

 戸惑うレーキに向かって、イリスが華やかに笑う。

 治療。その言葉で思い出したように、レーキの全身に痛みが兆してきた。レーキはふらりとよろめいた。

 

 

 気が付くと、レーキはベッドに寝かされていた。それも、天蓋付きの大きなベッドに。

 痛みに負けて気を失ってしまったらしい。その間にここに運ばれたのか。

 ベッドのシーツは(はだ)に心地よく、清潔で、良い香りがする。枕もマットレスも柔らかく、質の良い物だと言うことが解る。

 全身を(さいな)んでいたひどい痛みはなりを潜め、(うず)くような背中の痛みだけが残っている。

 レーキはベッドから身を起こした。

 一張羅の黒い服は脱がされて、白い寝間着を着せられている。

 船に乗り、海を漂い、奴隷屋の地下室に放り込まれた間ずっと着ていた服だ。そのままではこの美しいベッドに放り込めなかったのだろう。

 首元に違和感がある。手を当てるとそこにはまだ金属の輪がはまったままだった。

 レーキはベッドの上で辺りを見回した。一人で使うには広すぎる部屋だ。この部屋は恐らく客間なのだろう。それも豪奢な類いの。

 ベッド、机、椅子、チェスト。部屋に設えられた家具はみな、(ぜい)をこらした上物ものだった。

 奴隷としてレーキを買ったイリス。だが、彼はレーキを奴隷として遇するつもりはないのか。それなら、なぜ首輪をつけたままにするのか。これを外す際に、レーキを起こしてしまうことを(おもんぱか)ったのか?『使徒』『方舟』『ソトビト』……解らないことがあまりに多すぎる。

 レーキは嘆息して、ベッドから立ち上がろうとした。

 くらりと眩暈(めまい)がして。レーキは床にへたり込んでしまう。

 とても腹が減っている。一体いつから食事をしていないのか。何でもいい。何か、食べなくては。

 レーキはどうにか起き上がって、ベッドに腰掛ける。それだけでひどく疲れて、肩で息をする。

 その時。コンコンと扉を叩く音がした。

 いったい誰だ。誰何(すいか)する気力もない。レーキが押し黙っていると、扉が開かれた。

「失礼いたします」

 丈の長いワンピースにエプロンをした使用人らしい少女が、金属のトレイを手にしてそこに立っていた。

「レーキ様、お食事をお持ちしました」

 黒髪の少女は食事をのせたトレイをベッドまで運ぶと、優雅に一礼する。彼女の首にはレーキがしている物によく似た金属の輪がはめられていた。

トレイには、野菜と穀物をくだいた粥とヴァローナ風の柔らかなそれによく似たパン、見たことのない果物、それから何かの果実水がグラスに注がれてのっていた。

 ごくり、思わずレーキの喉が鳴る。

「……これ……」

「どうぞ、お召し上がりください」

 粥は温かく、良い香りが鼻腔をくすぐる。パンはいかにも柔らかく、果物は甘い香りの果汁を滴らせている。もう、我慢など出来ない。

 レーキはまずパンにかぶりついた。それは予想通りに柔らかく、甘く、齧りつく度に芳醇(ほうじゆん)な麦の味わいが口内に広がる。美味い。腹が減っていれば口にする物は何でも美味く感じるものだが、これは、ただそれだけではあるまい。

 粥は鶏をベースに、数種類の出汁で炊かれていた。塩分は控え目に、スープの旨味だけで全体の味をまとめている。これならいくらでも食べられそうだ。この粥を作った料理人は大した腕だ。レーキは夢中で全てを平らげる。

「……ありがとう。これを作った人にも礼を伝えてくれ」

 すっかり空になった食器を名残惜しく見下ろして、レーキは使用人の少女に告げる。

 絶食の後は一度に沢山食べてはいけない。

 それはかつてじいさんが言っていたことで。レーキはじいさんの作った鶏スープを思い出した。あれも空腹に染み渡る素晴らしい味だった。あの時も、傷を癒やすために眠った。だから今度も。

「すまない。少し眠らせて貰う。君の雇い主にも礼を言う」

「かしこまりました。お伝えします」

「ありがとう……」

 レーキはベッドに横になって、シーツをかぶった。

 立ちふさがる謎は多い。そもそもここが何処なのかすら解らない。それでも俺はまだ生きている。生きているんだ。

 だから、どんなことがあっても、必ず帰る。みんなの元へ。ラエティアの元へ。

 瞼を閉じるとすぐに眠気がやってくる。

 レーキは大切な人々の顔を思い浮かべながら、眠りの海に沈んでいった。体力的を回復させるために。

 ──生きるために。



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第54話 『島』

 月の無い闇の中を飛ぶ。闇は深く星すら見えない。

 懸命に羽ばたいても羽ばたいても。こんな闇の中では進んでいるのか戻っているのか定かではない。

 そもそも、どうして飛んでいるのか解らない。もがいてもがいて、どこに向かっているのか解らない。

 とっくに意味は消失して、羽は千切れそうなほどに痛んで。

 ──俺はなぜ、飛んでいる?

 解らない。解らない。考えることすら億劫で。

 ──もう飛ぶことを止めたって良いじゃないか。誰かが耳元で(ささや)く。

 ──だって、ほら。お前の左羽は、もう。

「……あああああぁぁ……!!」

 そうだ。俺の羽は切り落とされてしまった。だから、もう。飛べない。空を飛ぶことは出来ない。

 墜ちていく。真っ暗闇の空をどこまでもどこまでも。もがいてもがいて。

 

 レーキは叫び声を上げながら、ベッドの上で目を覚ました。

「……」

 嫌な汗が額に染み出している。それを拭って、荒くなった呼吸を整えた。

 どれだけ眠っていたのだろう。今は昼なのか夜なのか。カーテンを締め切った部屋の中は暗かった。

 レーキはベッドから起き上がって、『光球』を灯すとカーテンを開くために窓に向かった。

 一度食事をした時よりも、足元はしっかりしている。眠っていたことで足が萎えた様子もないようだ。

 体の痛みはほとんど無い。背中の羽もわずかに(うず)く程度だ。体は確実に回復しつつあった。レーキはほっと息をついた。

 カーテンを開いて、窓の外を眺める。空は暗く、瞬く星がちらちらと見えている。代わりに、眼下には街の灯りが(まぶ)しいくらいに輝いていた。

 街が随分と低く見える。ここは海と反対側に見えていた大きな建物の一つなのか。

 両開きの窓を開く。涼しい風が部屋の中に吹き込んで、部屋の(よど)んだ空気を塗り替えていく。

 不思議と気持ちは()いでいる。もう、空を飛ぶことはない。もしかしたらその事に安堵を感じているのかもしれない。空を飛ぶことが無ければ墜落することもない。

 ──違う。本当は悔しくて苦しくて恨めしい。こうなる原因を作ったラファ=ババールを、奴隷屋の奴らを許すことは出来ないし、怒りのたけを思い切り吐き出したい。

 負の感情はぐるぐると腹の(うち)で渦巻いているのに。それは喉の奥でつっかえて胸を締め付けるばかりだ。

 レーキは腰高の窓枠に拳を打ちつけた。それから、声もなく泣き崩れた。

 

 扉をノックする音が遠く聞こえる。

 レーキはぼんやりと頭を巡らす。つけたはずの『光球』は消えている。泣き出してから、どれほど時間が過ぎたのか。すでに涙は止まっていた。夜風が、頬にこぼれた雫も乾かしてしまった。

「……はい」

 レーキは静かに答えた。怒りが渦巻いていた胸中は、泣き出したことで、一時麻痺してしまったようだ。レーキは立ち上がり、扉に向かった。

「……ねえ。具合はどうかな?」

 扉を開けるとそこに立っていたのは、ロウソク立てを手にした、イリスと名乗った青年だった。イリスは出会った時と同じように、身を屈めて柔らかくレーキに微笑みかけてくる。

「痛みはほとんど無くなりました。……その……助けていただいて、有り難うございました」

 レーキは目を伏せて、丁重に礼を言う。

「良かった。あちこちひどい怪我だったってシーモスが言ってたから……心配だったんだ」

 イリスは、心底から嬉しそうな顔で笑った。

「あのね、これ。奴隷屋さんから届いたの。君の大切な物でしょう?」

 イリスが差し出してきたのは、見覚えのある眼帯だった。ズィルバーが贈ってくれた、革製の眼帯。それは盗賊団にいた頃、剣士のカイがくれた眼帯に似せて作られた、見間違いようのない形だった。

「はい。とても大切な物なんです。……有り難うございます」

 イリスから眼帯を受け取って、レーキはそれを慣れた手つきで身につけた。

 ──今度は無くさない。絶対に。

 レーキは決意する。

「うん。良かった。それ、とても汚れていたから、洗わせて貰ったの。ごめんね」

「いえ、わざわざ有り難うございました」

「それから……君が着ていた物だけど、汚れていたし、あちこち破けていたから洗って繕っておいたよ。そこのチェストにしまってあるから。君が首から()げていた(たま)も一緒に入れておいたからね」

「?! あ、は、はい!」

 言われてみれば、有るべきモノ、王珠(おうじゅ)の感触がない。首輪の感触で誤魔化されていたようだ。レーキは慌ててチェストへ向かう。引き出しを開けると、そこにはイリスの言葉通り、丁寧に畳まれた一張羅と五つの王珠が収納されていた。レーキはほっと胸をなで下ろし、王珠を身につけた。

「……それも君の大事なモノなの?」

 イリスは小首をかしげて、尋ねてくる。レーキ「はい」と返した。

「そう。それならやっぱりシーモスに見せなくて良かった。彼はそう言う珍しいモノに目が無くてね。きっと君から取り上げようとするから。身につけておくならシーモスに見せちゃダメだよ」

「はい。隠しておきます」

 レーキの返答に、ふふふ。とイリスは楽しげに微笑んだ。

 イリスという青年、なんだか少しアガートに似ているような気がする。長身であるコトと黒髪であるコト、物腰の柔らかな所くらいではあるが。

 そう思うと、レーキは安堵してわずかに口もとをゆるめた。

「……あの、お聞きしたいのです。ここはいったい『どこ』なのでしょうか?」

 レーキは、ずっと気になっていた疑問を口にする。

「その前に、椅子にかけてもいいかな? こうやって屈む姿勢は結構つらいから」

「あ、はい。どうぞ、かけてください」

「ありがとう」

 イリスはテーブルに灯りであるロウソク立てを置いて、椅子に腰掛けた。レーキはその向かいの椅子に腰を下ろす。

「それじゃあ始めるね。ここは『方舟』。中央地区の端。僕のお家……って言っても君には解らないね。『方舟』はね、元は『始めの島』と言ったの。人間は昔ここから世界中に広がっていったんだよ。でもね、今は『ソトビト』には『呪われた島』とか『封印の島』なんて呼ばれてるみたいだね」

 事も無げにイリスは口にする。『呪われた島』と。

 かつて御伽噺(おとぎばなし)で、セクールスの授業で聞いた。魔人(まじん)幻魔(げんま)が封印されたという島のことを。そんな島に自分は立っているというのか。

「『呪われた島』?!」

「そう。人と魔のヒトの戦いが終わって、僕らはこの島に閉じこめられたの。もう随分昔のこと、だけど」

 そう言って、イリスは悪戯をした子供のように笑う。レーキは無意識に身を引いた。では、魔のモノが封印された島に閉じこめられたとのたまうこの青年は。

「……あなたは、魔人?!」

「残念だけど、魔人じゃないの。僕は幻魔。そして、この角の色が魔のヒトである証し」

 レーキには二つの違いが解らない。だが、この柔和な青年が幻魔? 人を食うと言う魔のモノ? だが彼はかつて師匠が話してくれた魔人の姿とは縁遠い気がする。

「……教えてください。魔人と幻魔とはいったいどんなモノなのですか? 人を食うと言うのは本当ですか?」

「うーん。簡単に分類するとね。魔人は幻魔が選んで力を与えた者。幻魔は魔のヒトの王様が選んで下さって力を与えられた者、かな。まあ、その外に自力で魔人になった者、もいるのだけれど」

 イリスは胸元に手を当てて、何かを考え込むような仕草でそう告げる。

 魔のモノに王がいると、師匠も言っていた。魔のモノには、魔のモノの秩序があるのだ。

 今まで手厚くもてなしてくれたことを考えると、魔のモノの全てが人に敵対的ではないようだ。レーキは混乱する。

「それから……人を食べる、と言うのは本当。ただ僕やシーモスのように血や体液だけを嗜む人とか肉自体がないと食べた気がしない人とか好みはバラバラなんだ。まあ、少なくとも僕は君を殺して食べたりはしないから。安心していいよ」

 無邪気に笑うイリスを前にして、レーキは戦慄する。イリスは自分を食べる気は無いというが、それが本心かどうかも解らない。彼が心変わりしたら。やはりレーキを食肉にしてしまうと決めたら。自分の立場はひどく危うい。

「それにね。『ソトビト』を直ぐに食べちゃう訳には行かないんだよ。僕らの法でそう決まっているから」

 イリスの微笑みは優しげだったが、レーキは安堵することなど出来なかった。

「その、『ソトビト』と言うのは何者なのですか?」

「それはね。君みたいに『封印の結界』の外から来た人のことだよ。その結界はね、この島の周りを取り囲んで魔のヒトを外に出さないようにしているんだよ」

「では、この島にいる人々はみな、魔のモノなのですか?」

 あの奴隷屋も道行く人々も全てが? だとするなら魔のモノの数はかなりの人数になるはずだ。

「ううん。ここにいるのが魔のヒトだけなら、食べるモノがないでしょう? それは困っちゃう。だからここにいる人たちの大部分は普通の人たちだよ」

「え……?」

 ならば、なぜ人々は魔のモノの食料となる危険を冒してこの島に留まっているのか。レーキの疑問をイリスは笑って受け止めた。

「それはね。『封印の結界』の内側に魔のヒト以外の人間を閉じ込めるための結界が張ってあるからだよ」

 淡々とイリスは説明を続ける。

「魔のヒトたちがこの島に封印された時、この島には一万人以上の普通の人たちがいたの。『封印の結界』は魔のヒトだけを閉じ込める結界だったから、普通の人たちは島から逃れることができた。だから僕たちは結界の内側に別の結界を作ったの。まあ、この島は空に浮かんでるから実際に逃れたのは空を飛べる鳥人くらいだったけど」

 それで、この島では鳥人が珍しいというのか。

 そんな事はどうでもいい。イリスは言った。この島が空に浮かんでいると。

「空に浮かぶ、島?」

「そう。ここが『始めの島』だってことはさっき話したよね? 『始めの島』はね、魔の陣営が本拠地にするために周りの海少しと一緒に、魔法で空に浮かべて合ったんだ。空に浮かぶ島の話、君は聞いたこと、ない?」

 かつて、授業でセクールスは言っていた。魔法は、大きな島一つを空に浮かべることが出来た、と。

「……あり、ます」

「ふふふ。この島はね、自由に空を飛ぶことご出来る。だからいつもは空を飛んでいるんだけど、たまに海水とお魚を補給するために海まで降りるんだ。多分君はその時紛れ込んだんだね。封印の結界も僕たちが張った結界も来るモノは(こば)まずだから」

 レーキは運が良かったのか、悪かったのか。

『呪われた島』のお陰で命は助かったが、羽を失い、こうして魔のモノに出会ってしまった。

 情報を上手く整理しきれない。レーキはうつむいてぐったりと肩を落とした。

「……疲れちゃった、かな? 今日はここまでにしておこうか」

 イリスはそう言って微笑むと、席を立った。

「時間も遅いしね。……ああ、チェストとクローゼットに入っているモノは自由に使っていいよ。君の服の他にも何着か入れておいたから」

「……有り難うございます」

「その代わり、と言うわけじゃないけど、明日からこの島の外のことをいろいろ教えてほしい。『ソトビト』にはそれを聞く決まりなんだ」

 少なくとも外の知識を提供している間は、食料とされることはないのだろう。レーキはようやく警戒を緩めた。

「俺も、まだ聞きたいことが山積み、です」

「うん。何でも聞いてね。僕に解ることなら答えるから」

 ここが、『呪われた島』だということは解った。イリスが幻魔であることも、自分が『ソトビト』と呼ばれる存在であることも。では『使徒』とは? 『方舟』とは?

 解らないことはまだまだある。

 イリスの笑みは一貫して優しげだ。それにほだされた訳ではないけれど。レーキは何度目かの礼を伝える。イリスは笑って応じると、部屋を出て行くために扉へ向かった。

「ふふふ。それじゃあ、おやすみなさい。レーキくん。あ、この部屋の外に出ても良いけど、お家からは出ないでね。君が『ソトビト』だと解ったら他の魔のヒトたちにさらわれちゃうかも知れないから」

「……解りました。気をつけます……あの……おやすみなさい」

 一人部屋に取り残されたレーキは、当惑したまま椅子に座り続けた。

 



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第55話 定めるべきモノ

「鏡と剃刀(かみそり)を貸してほしい」

 翌日の朝、食事を運んできた使用人の少女に、レーキはそう依頼した。

 朝食をすませると顔を洗い、借りた剃刀でヒゲをあたる。レーキは毛深い質ではなかったが、幾日もまともに身支度していないと、さすがに居心地が悪かった。

 さっぱりした所で、身に帯びていたポーチに入れていたモノを検分する。

 割れた『治癒水』の(びん)と鏡、海水に浸かったメモ帳とペン、湿気た少量の携帯食、飴、財布、石になった師匠の王珠(おうじゆ)、それからズィルバーが作ってくれた魔獣除けのベル。

 剃刀もあったが、海水に浸かったせいか刃にはすっかり(さび)が浮いていた。割れた壜と鏡のかけらを丁寧に取り除き、残りはポーチに戻した。

 ここで、今すぐに役立ちそうなモノは何もない。ただ、何かをしていないと落ち着かないだけだ。

 ここは『呪われた島』。気を緩めればどんな事が起こるかは解らない。

 着せられていた寝間着から、もともと着ていた一張羅に着替える。他に用意されていた服に袖を通すつもりはなかった。出来るだけ、魔のモノに借りを作りたくはない。

 筋力が落ち切らぬように、ゆっくりと部屋の中を歩き回る。

 イリスは、部屋の外に出ても良いと言っていた。だが、体力の戻らぬ今、屋敷の中をうろつく気にはなれなかった。

 左の羽の先が痒いような気がする。それは、すでに切り落とされているというのに。その奇妙な感覚に、レーキはただ独り唇を噛んだ。

 

 昼食を運んできた使用人が、昼過ぎからご主人様がいらっしゃるので部屋を出ないようにと告げた。

「解った、と伝えてくれ」

 食事をすませて、レーキはイリスを待ち受ける。イリスの物腰は一見柔らかで、こちらに害意は無いように見える。だが、表面上の態度を信じて良いのかは解らない。相手は魔のモノ、人の天敵なのだ。

 思い悩むうちに、ノックの音がした。来意を告げる声はイリスのもの。

「……どうぞ」と、レーキが答えると、扉を開けたのはイリスと一緒にいた男、シーモスだった。

 シーモスは相変わらず、黒い大きな犬を連れて部屋に入ってきた。

「お邪魔いたしますよ」

「ごめんね。シーモスも君のお話を聞きたいって」

 イリスは苦笑しながら、シーモスの後から部屋に入ってくる。

「……構いません」

「レーキくん。改めて紹介するね。こちらはシーモス。魔法士だよ。それからこっちの黒いコはアルダーくん」

 イリスはしゃがみこんで、シーモスが連れている黒い犬の頭を撫でまわしながらそう言った。

「アルダー様は(わたくし)の用心棒でございます。私、荒事は苦手でございまして。私共々、以後お見知り置きを」

 シーモスは、慇懃(いんぎん)な調子で一礼して見せる。それがどうにも芝居がかって胡散臭くて、レーキは戸惑う。

「……あの、シーモス、さん、も『幻魔』なのですか?」

 レーキの問いにシーモスは微笑みながら答えた。

「いいえ。ソトビトのレーキ様。私はしがない『魔人』でございます。私は人として生まれ、魔法を(たしな)み、魔人となりました者でございます。それ故に魔の王様以外の主を持たぬ身の上でございますよ」

 魔人には、幻魔によって力を与えられた者と自力で魔人なった者がいると、イリスが語っていた。それにセクールスは言っていた。魔法を使う者は、魔に浸蝕され魔のモノになると。

 ──なるほど、この男は魔法を使うことで魔のモノになったのか。

 では、レーキが彼らの言葉を理解できるようになったのも、『魔法』と言う訳か。その事に思い至ってレーキは顔色を青くした。

 魔法を使う者は魔のモノとなる。では使われた者は?

「……魔法を使う者が魔人になることは解りました。では魔法を使われた者は?」

「ああ、それを心配なさって居られるのですね? 貴方には『翻訳』と『治癒』の魔法をおかけしましたが、どちらも貴方の魂を魔に染め上げる程の力はございませんよ。ご安心下さいませ」

 シーモスは眼鏡の位置を直しながら、くすりと笑った。人の気持ちを逆撫でするような、嫌な笑みだとレーキは思う。

「……さて。それじゃあ、早速『ソト』の話を聞かせて? レーキくん」

 ひとしきり、黒い犬を撫でて満足したのか、イリスは立ち上がって椅子を示した。

「何を、聞きたいのですか?」

「そうだなあ。まずは君がどこから来たのか、とか、聞かせて欲しいな」

「解りました」

 レーキは、(うなが)されるまま椅子にかけた。それから、自分がヴァローナで仕事のために船に乗ったこと、ポーターや料理人として働いていること、海に落ちる前にラファ=ハバールと遭遇したことなどを手短に説明した。

「……ここまで、大変だったんだね」

「なるほど、ラファ=ハバールに船を襲われたのでございますね? 人の身で……よくぞご無事でございましたね」

「運良く嵐が来ていて、雷がラファに落ちました。それでヤツは海に沈んで行きました」

 自分が天法を使ったことは、出来るだけ隠しておきたかった。いざという時に、それが不意打ちに使えるかもしれない。そう考えてのことだ。

「……貴方は何もなさらなかった、のでございますか?」

 眼鏡の奥からこちらを見つめるシーモスの不思議な色の(ひとみ)が、なにもかもを見透かしているような気がする。レーキは平静を装って、告げる。

「俺も少しばかり天法を使えますが……あんなに大きな相手に対しては無力でした」

 実際、ラファ=ババールには苦戦した。

 嘘には真実を混ぜ、隠したいモノ以外のことは誠実に。レーキはオウロを思い出して、ボロを出さぬように言葉を選んで返答する。

「左様でございますか。……『天法』を嗜まれる『ソトビト』の来訪は私が記憶いたします限り初めてでございます。これから、お話を伺いますのが楽しみでございますね」

 シーモスの含み笑いが、レーキの背をひやりと撫でる。奴隷屋に『金縛り』をかけようとしたレーキを止めたのはシーモスだったが、彼は何をどこまで知っているのだろう。気を許してはならない相手だ。

「レーキくんは、魔法士なの? シーモス」

「魔法士ではいらっしゃいませんが、『術』をお使いになられるようでございますよ。イリス様」

「僕は魔法のことはよく解らないな。それより、君が暮らしていた国の話を聞かせてよ」

 イリスはにこにこと笑って続きを促す。レーキはヴァローナが学問と湖沼の国であること、自分も学生であったことなどを説明した。

「俺はもともとグラナートに暮らしていました。船の仕事が終わればグラナートに帰るつもりでした」

 アスールのこと、特にラエティアのことは彼らに知られたくなかった。この『呪われた島』が空を飛んでいると言うなら、アスールの上空を飛ぶことも出来るかもしれない。空飛ぶ島が人々に危害を加えたと言う噂は聞いたことはないが、念のためだ。

 イリスたちに『島』の航路を決める権限が有るのかどうかは解らないが、慎重に伏せておいた方が良いとレーキは判断する。

「グラナートって言う所は君の故郷なの?」

「はい。俺はそこで生まれ育ちました」

「そっか。僕は、この島で生まれたんだ。この島がまだ空を飛ぶ前のことだけど」

 それはどれほど前のことなのだろう。魔のモノは、長い時を生きるとは聞いていたが。

「まあ、僕のことはまた後で。君からは何か聞きたいことは有る?」

「……では、『使徒』と『方舟(はこぶね)』について教えてください」

「うん。解った。僕たちはね、この島のことを『方舟』と呼んでいるんだけど、それには理由が有るんだ」

 イリスはくつろいだ表情で、切り出した。それは、恐るべき内容だった。

 魔のモノが『呪われた島』に封印された時、島には大勢の普通の人たちがいた。彼らは魔の軍勢が戦争に勝利すると信じてついてきた者たちだった。

 魔のモノは、彼ら普通の人たちを文字通りの食い物とするために、魔のモノを閉じ込めるための結界とは別の結界を張った。

 そして、普通の人たちを閉じ込めた。それから、長い年月をかけて、魔と人との戦いによって世界は荒廃し、この空に浮かぶ島以外に、人が生きられる場所は皆無だと教えたと言うのだ。

「……この島に住んでいらっしゃる人びとは、ご自分たちのことを『選ばれた民』、なんて呼んでいらっしゃいますよ」

 言外に皮肉をたっぷり()かせて、シーモスが言う。

「僕たちはね、その『選ばれた民』を導く王の『使徒』なんだって」

 そう、笑顔で告げたイリスの顔を直視できない。この島は何かがおかしい。歪んでいる。

「『使徒』の血肉となることは、この島では大変名誉なことなのでございます。それ故に人びとは私たちに敬意を示すのでございます」

「この島の人はみんな、魔人や幻魔に成りたいみたい。まあ、誰だって食べられるより食べる側に成りたいって思うよね。僕や友達に直接『魔人にして欲しい』って言って来る人もいるよ。大抵はお断りするんだけど、中には本当に選ばれちゃう人もいるね」

 事も無げに、イリスは言う。優しげな物腰でありながら、この男もまた、どこかが狂っている。

「……レーキ様。もし、『ソト』のお話を私たち『使徒』以外の者にされますと、残念でございますが私たちは貴方を『処分』せざるをおえません。ゆめゆめお忘れ無きようになさいませ」

 微笑みながら、シーモスはレーキに釘を刺してくる。レーキは、粘り着いてくる恐怖に息を飲んだ。

「……はい」

 今は脅迫に屈するほか無い。ここで彼らに逆らって、真実を人びとに伝えた所でなんになるだろう。自分が『ソト』からやってきた者で有ると言う証拠など、見せることは出来ないのだから。

「……貴方は賢いお方でございますね。そんな貴方にご褒美を差し上げましょうか。貴方のその羽。美しい羽でございますのにもったいない。ですから、私が再び空を飛べるようにして差し上げましょう」

「……え?」

 ──一体、どうやって?

 喉元まででかかった問いを飲み込んで、レーキはシーモスを見た。

「貴方の切り落とされた羽、残念でございますがすっかり痛んでおりました。それを貴方に繋ぎ直すことは出来ません。ですから、時間はかかりますが完全に元の形を取り戻すことの出来ます方法と、それより時間はかかりませんがただ飛べるようになる方法、どちらかお選びいただけますか?」

 空を飛ぶことが出来れば。この空飛ぶ悪夢の島から、逃れることも出来るかもしれない。

 レーキは逡巡する。この男の言がどれほど信用出来るものなのか、その代償に何を要求されるのか。解らない。

 即答をさけたレーキに、シーモスはにこやかに微笑みかける。

「ふふふ。今、ここでお答え下さらなくても結構でございますよ。大いにお悩み下さいませ。ですが、どちらの方法をお選びになっても、貴方が再び飛べるようになることは保証いたしますよ」

「……考えて、みます」

「シーモスの魔法はすごいよ。きっと君も元通りになる。……さあ、君はまだ本調子じゃないだろうから、今日はここまでにしておこうか。僕らはそろそろお暇しよう」

 そう言って、イリスとシーモスは部屋を出て行った。

 一人取り残された部屋で、レーキは無残な姿になった左羽を見上げる。

 目標は定まった。こんな恐ろしい島は出来るだけ早く脱出して、アスールへと帰る。そのために使える手段はどんな事でも使う。

 再び飛べるようにしてくれると言うなら、それに賭けてみても良いのかもしれない。

 大きな問題はこの島に張ってあると言う結界と、この島が空を飛んでいると言うこと。

 それらをどう攻略するか。一つひとつ解決して行かなくては。



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第56話 『ソトビト』の眼

「イリスさん。俺の羽を治してくれるようにシーモスさんにお願いしていただけますか?」

 翌日、一人で部屋にやってきたイリスに、レーキは頼み込んだ。一晩考えて出した結論。それは、脱出を優先させるために行動すると言うことだった。

「うん。もちろん、いいよ! え、と、それから僕のことはイリスと呼んで。言いそびれてたけど、言葉もそんなに丁寧でなくて良いからね」

 照れ笑いを浮かべるイリスに、レーキはぎこちなく微笑み返した。

「……解った。出来るだけ砕けた言葉を遣うように心がける。俺もただレーキと」

「うん。ありがとう!」

 さいわい、イリスは自分に友好的だ。彼の気が変わらぬように、細心の注意を払わねば。

「イリスさん、いや、イリス。この島は空を飛んでいるんだよな。それには決まった航路でも有るのか?」

「うーん。一応決まっているみたいだよ。僕は魔法士じゃないから、航路の決定に関わってないんだ。でも、どうしてそんな事が知りたいの?」

 イリスは小首をかしげる。レーキは好奇心から訊ねたと前置きして、続ける。

「この島はかなり大きいが、『ソト』で空飛ぶ島を実際見たと言う噂を聞いたことはないんだ。だから、いつもはどんな所を飛んでいるのか少し気になった」

「そっか。……この島はね、海の上ばかり飛んでいるよ。この島のことを『ソト』の人たちに知られると、ここにやってくる人が大勢出るかもしれないし……『方舟』の中の人たちに陸の街を見せる訳には行かないから」

 では、内陸にある街や村を『呪われた島』が襲う確率は低そうだ。心密かにレーキは安堵する。

「でもね、海の水を()むときは、陸の近くの海にいくよ。それ以外の時はずっと大きな海の上かなあ」

「そうか。俺はその時に紛れ込んだのではないかとあなたは言っていたが、なぜ海水を汲むんだ?」

「この島は空に浮いてるから、水の補給が難しいんだ。だから、島と一緒に海を少し浮かせてあるの。普段はその海から塩を抜いて水を確保するんだよ。それと、普通の人たちが漁をするためにお魚も補給するの」

 それが、港の先に見えた海の正体か。海を少しとイリスは言うが、見えていた海には果てが見えなかった。この島は、一体どれだけの海を共にして飛んでいるのだろう。

 この島が海水を汲むために、陸の近くに降りた時。その時が脱出の機会かもしれない。空を飛ぶことが出来れば、陸に向かうことも船を探すことも出来る。この島が頻繁に海水を汲んでくれれば良いのだが……

「ねえ、レーキ。君の羽が治って、空を飛べるようになったら、僕にも飛んでいる所をみせてね。残念だけど、この島には空を飛ぶ鳥やアーラ=ペンナの人たちはあんまりいないんだ」

 イリスはキラキラと(ひとみ)を輝かせて、レーキを見つめる。

「でも、空を飛ぶ時は結界に気をつけて。建物よりはずっと大きいけど、目には見えないモノだから。ぶつかったら危ないよ」

「ああ、忠告に感謝する。……それで、もし、結界にぶつかったらどうなるんだ?」

「そうだね。僕はぶつかったことがないからはっきりは言えないけど……見えない壁に跳ね返される感じみたいだよ」

「そうか」

 イリスと他愛のないやりとりをする。あせりは禁物だが、一刻も早く情報が欲しかった。

 この島には一握りの幻魔と彼らの下僕である魔人、それから大多数の普通の人々、そして彼らより立場の弱い奴隷たちが暮らしているらしい。

 奴隷は罪を犯した者や、食うに困るほど困窮した者がなるようで、その多くが薄給で働かされているようだ。

「ところで、この首輪を外してくれないか?」

 奴隷の話が出たことで切り出したレーキに、イリスはしょんぼりと表情を曇らせた。

「……それは、ダメ。その首輪があるとね、君がこの島のどこに居るかが解るんだ。それは他の幻魔にも外せない。もし、君が迷子になったり、さらわれたりした時のためにそれはしておいて、ね?」

「……さらわれたり、とあなたは言うが、『ソトビト』はそんなに必要とされているモノなのか?」

 金も無ければ権力者でもない、自分ごときにそんな価値があるのか。レーキは半信半疑で訊ねる。それを、イリスはいつになく真剣な表情で見つめた。

「この島にいる人たちはね、新しい刺激に飢えてるの。『ソト』の世界が今どんな風になっているか、とか、そんな事が知りたくてたまらないの。そのためなら『ソトビト』……君にどんな事をしても良いって思ってる人もいる。君の意思とは関係なく魔法で頭の中を覗いて、君の体をばらばらにして、君の全てを記録しようなんて人もきっといる」

 もしものコトであるのに。思い当たった可能性に怯えるように、イリスは自分の腕を抱いた。

 ──あなたは、なぜそうしないんだ? レーキの脳裏に問いがひらめく。

 あなたも幻魔なんだろう?

 魔法士がいれば、俺の頭の中を覗かせることも出来るのだろう?

 あなたがそれをしない理由は、何なんだ?

 レーキはぐるぐると、頭に浮かんだ問いを息と共に飲み込んだ。今はまだ、その問いを口に出すときではない。もっと、この幻魔の好意と信頼を得なければ。

「ごめんね。脅すつもりはないんだけど、お家の外に出る時は本当に気をつけて。慣れるまでは僕やシーモスといっしょに出かけてね」

「……解った。俺も危ない目には遭いたくない。気をつける」

 レーキの言葉に、イリスは安堵したように破顔した。

「この島のことは今日はこれくらいにして。君の生まれた国のことを聞かせて欲しいな?」

 イリスに促されるまま、レーキはグラナートの話をする。船で商売をする商人が多く居ること、山岳地帯には鳥人が多く住むこと、首都にはどんなものでも揃うと言う市場が有るらしいこと。レーキにとっては当たり前で、とるに足らないことに感じるあれこれに、イリスは喜びを隠せないように頷いた。

「……その国はこの島よりずっと大きいんだよね?」

「ああ。大陸の南はずっとグラナートが広がっている」

「すごいね! 海でも島でもない……陸がいっぱいあるなんて! 僕はこの島から出たことないから、知識では知っていてもね、実際に見たことはないの」

 子供のように無邪気にはしゃぎながら、どこか寂しげなイリスの横顔。大きいとはいえ、ここは島だ。そんな環境から出たことがないと言う彼は、一体どうやって暮らしてきたのだろう。

 どうして、彼のような人が幻魔になったのか。どうして、幻魔にもかかわらず自分に優しくしてくれるのか。

「……あなたは、どうして俺に親切にしてくれるんだ?」

 この問いなら訊ねても良いだろう。疑問を口にしたレーキに、イリスは柔らかな笑みを向けた。

「それは……君が『ソトビト』だって言うのもあるし、珍しいアーラ=ペンナだって言うのもある、けど……一番はね、君の、その眼」

「眼?」

「君はあちこち傷ついて、ふらふらして、倒れてしまったけど、その一つしかない眼はまだ生きてた。生きたい、生きなきゃってキラキラしてた。だから……助けたい、助けなきゃって、そう、思ったの」

 じっと、レーキの隻眼に注がれる視線。イリスの眸は茶の中に緑の()が散った、美しい色だった。レーキがそれをのぞき返すと、イリスは驚いたように視線をそらせた。

「あ、あのね! お昼にはシーモスが来るから……君の羽のこと、頼んでおくね!」

 イリスは慌てたように手を振って、立ち上がった。それから、嬉しそうな笑みを残して部屋を出て行った。

 

 昼過ぎに、シーモスが用心棒だという黒い犬を伴ってやってきた。イリスはいない。彼一人だった。

「私の申し出をお受けになると、イリス様からお聞きいたしましたが」

 黒い犬の頭をなれた手つきで撫でてやりながら、シーモスは切り出した。

「はい。俺がイリス、さん、にお願いしました。羽根が元通りにならなくても良い。より時間がかからない方法でお願いします」

「かしこまりました、(うけたまわ)ります。……ああ、私相手に言葉を改めなくても結構でございますよ。レーキ様。私のこれは……癖、のようなモノでございますから」

 シーモスは口先で笑う。相変わらず人を食ったような笑みだ。レーキは苛立ちを殺して唇を結んだ。

「……もちろん、どちらの方法も貴方が魔人となる危険性はございません。ご安心下さいませ」

「……あなたのその言葉は、信用出来るのか?」

 レーキは、思わず言葉にトゲを含ませてしまう。この男は信頼出来ない。そう、本能が告げている。

「ふふふ。もし、私が貴方の魂を魔で(おか)してしまったら……イリス様は酷くお嘆きになるでしょう。それは私の本意ではございません。私はイリス様の庇護を受けております身の上ですから、あの方の望まぬ事は致しませんよ」

「……それが、あなたの本心で有ることを願う」

 吐き捨てるようなレーキの呟きに、シーモスは皮肉げな笑みを深める。

「……以前、私は魔の王様以外に主を持たぬと申し上げましたね? それは自由で有ると同時に不安定でも有るのでございます。イリス様は有力な幻魔でいらっしゃるのに配下の魔人を持たぬお方。私は魔法を()くするとはいえ、後ろ盾となる(幻魔)を持たぬ者。私たちは双方に利を得て盟友となったのでございますよ。ですから私はあの方を裏切るような真似は致しません」

 きっぱりと、シーモスは言い切った。今はその言葉を信じるしかない。レーキは唇を噛んでから、静かに息を吐き出した。

「……解った。羽の事はあなたに任せる。だが、具体的にどうやって空を飛べるようにするんだ?」

「ふふふ。お任せくださいませ。……そうですね、まずは貴方の無事な羽と残った羽を計測致しましょう。それから型をお作りいたしまして魔装具(まそうぐ)をお作りいたします」

「魔、装具?」

 聞き慣れない単語に、レーキは首を傾げた。

「貴方の羽の代わりに羽ばたいて空を飛ぶことを補佐する魔具でございます。義翼、とでも申しましょうか。魔具は人の生命力を糧として魔力を生み出します。その魔力は魔具の動力として使用されますので、使用される方の魂を侵すことはまずございません」

 確かに、遺跡などで見つかる魔具を使用して魔人になった者がいると、聞いたことはない。だが、生命力を糧とする、なら魔具を使用する事はその分命を縮めることになるのではないか。

 その疑問をシーモスにぶつけると、シーモスは微笑んで告げた。

「レーキ様お一人が空を飛ぶために、寿命を尽きさせるほどの魔力は必要ございません。ただ長時間にわたっての使用は酷く体力を消耗する、程度の事でございますよ」

「……なるほど。その方法なら、どれほどの期間で空を飛べるようになるんだ?」

 生命力を──天分を消耗する、と言う点では魔具も法具もそう変わらないようだ。となれば、一番の問題は、時間。出来るだけ早く飛べるようになりたい。

「魔装具の設計に半年、実際の制作に半年から一年弱、と言ったところでございましょうか」

「……もし、羽を元の形に戻す方法をとったら、どれほどの時間が?」

「もう一つの方法は、貴方様の治癒力を魔法で活性化いたしまして、再び羽が生えて参りますのを待つと言うモノでございます。そちらは足かけで三年近くかかると見ていただければ」

 三年。羽が元に戻っても、今から三年も待っては居られない。ではやはり、選ぶべき方法は。

「解った。では、やはり魔装具をつくる方法でお願いしたい」

「かしこまりました。……ふふふ。腕が鳴りますねえ。アーラ=ペンナの羽を造る、とは、私も初めてでございます。個人的にもとても楽しみでございますね」

「……初めて?」

 いぶかしげなレーキの問いに、シーモスは涼やかに声を上げて笑った。

「ふふふ。……ええ。魔装具を造ることには馴れておりますが、羽を造ることは初めてでございます」

 



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第57話 魔人の申し出

 昼の前にイリスが部屋にやってきて、『ソト』の話を聞いて帰る。と言う日々が幾日か続いた。

 この数日で解ったことは、現在、魔の王とやらは在位していないこと、幻魔の中から選ばれるかもしれないこと、資格のある幻魔は二十七人いること、大抵の幻魔は二、三人の魔人を配下として使っているが、イリスは自分の魔人を持たぬこと、イリスの屋敷で働いている使用人は、みな、ただの人であると言うことだった。

 昼を過ぎて、レーキは屋敷の中を歩いて回る。

 いくつもの客間、主人の主室、書庫、書斎、食堂、厨房、温室、地下室、倉庫。

 広い屋敷だ。『ソト』の基準から言っても大きく、大商人や貴族が住むような規模だ。 ただ、庭だけは屋敷の大きさに比べて狭かった。その庭と隣家の境にはレーキの背丈の倍以上はある塀がそびえ立って、隣家の様子は(うかが)えないようになっていた。

 十数人の使用人たちはレーキを客として扱った。主人にそう命じられていると、シンプルだが質の良いワンピースのお仕着せにエプロン姿の少女が言う。

 使用人たちに、イリスを恐れる者や(あなど)る者はいなかった。みな、主人を敬ってよく仕事をしていた。

 体力が完全に戻ると、レーキは書庫の本を読み、使用人たちの手伝いを始めた。

 イリスには「ゆっくり休んで良いのに」と言われたが、客分として大人しくただ部屋にいることは性に合わない。

 書庫の蔵書の中には、魔竜王の誕生と、かつて人と魔のモノとの間に起こった『魔竜(まりゆう)戦争』についての記述が有った。

 

 かつて、混沌から五色の竜王たちが生まれた。五色の竜王たちが『世界』と亜人と人を作った後に、魔竜王とも幻竜王とも呼ばれる末の竜王が生まれた。

 末の竜王は、もっとも長く母なる混沌と共にあったために決まった色や形を持たず、角も生えてはいなかった。

 

 ここまでは、レーキも聞いたことのある創世の逸話だった。

 その後に、兄姉たちを妬んだ魔竜王によって魔獣や魔植物が作られて『世界』にばら撒かれた。それが天の『魔竜戦争』の始まりだったと、師匠は教えてくれた。

 地の『魔竜戦争』は五色の竜王たちに敗れた末の竜王が、双子の月の一つに封印される直前に魔の王を選び、その王が人々の王たちに宣戦布告したのが原因だったと。

 だが、魔のモノの書庫にはそれとは異なる魔竜王の姿が描かれていた。

 

 決まった色と姿を持たぬゆえ、末の竜王は世界作った五色の竜王たちから迫害された。

『世界』と関わることを禁じられ、新しい動物や植物、様々なモノを創ることも禁じられた。

 末の竜王はそれに耐えた。

 やがて、世界の運行を天の王たちに任せようと五色の竜王たちが決めた時も、実際に天の王を選んだ時も、末の竜王は何も言わなかった。末の竜王は兄姉たちと共にあれるだけで嬉しかった。

 五色の竜王たちは隠遁の場所として月を創った。末の竜王も当然その月について行くつもりでいた。

 だが、それは叶わなかった。五色の竜王たちは月を二つ創り、大きな兄月を自分たちのもの、それより小さな弟月を末の竜王のものとした。そして、二つの月の行き来を禁じたのだ。

 ついに、共にあることすら拒絶された末の竜王は激怒する。

 五色の竜王が愛した『世界』の全てが憎い。

 動物が、植物が、鉱物が、人が、亜人が、全てが恨めしい。

 末の竜王は動物を獲物にする魔獣を、植物を駆逐する魔草、魔木を、鉱物を魔石と化す術を、人々を餌食とする魔のモノたちを生み出して、『世界』を侵蝕する。

 末の竜王は、五色の竜王たちに戦いを挑んだ。五対一、分の悪い戦いだった。それでも、ただ別れ別れになるよりもいくらかましだった。

 そして末の竜王は敗れる。

 その後、地の『魔竜戦争』が起こった顛末は良く知られている通りだった。

 

 レーキには、今まで聞かされたいた逸話と、魔のモノが所蔵する本に書かれていることのどちらが本当かは解らない。

 だが、古い言い回しで書かれた本は魔竜王を悲劇的に描いていた。

 姿形が他の兄姉たちと違うが故に疎まれ、拒絶される。それは、レーキがかつて味わった苦痛とよく似ていた。

 

『魔竜戦争』の本を読んで数日。シーモスの魔法工房に招かれた。工房はイリスの屋敷の中、庭に面した一室にあった。

「私の屋敷はイリス様のお屋敷のお隣でございます。ですが、このお屋敷にお邪魔しておりますことが多いもので、ここにこうして工房を作らせていただいたのでございます」

 相変わらずの回りくどい言い回しで、シーモスは言う。

 レーキは魔装具(まそうぐ)の設計図を作るために、羽や背中をあれやこれやと測られて、切り落とされた左羽は型を取った。

 痛みはないが型を取るために上半身を脱げと言われたのには辟易(へきえき)した。なにより、巻き尺を当てられるとこそばゆい。

「申し訳ございません。なにしろ助手も居りませぬゆえ。全てを私一人の手で行わなければなりません」

 シーモスは楽しげに羽を測った数字を、一つずつ紙面に書き付ける。

「図面もあなたが引くのか?」

「ええ。図面は私が。ですが実際に魔装具の部品をお造りいたしますのは、腕の確かな職人でございます」

 レーキの羽を測り終える頃、イリスが黒い犬と共に工房にやってきた。

 イリスはハーブ茶の入ったポットと人数分のティーカップを携え、黒い犬は小ぶりな柄付きの籠をくわえていた。

「もうそろそろ終わったかなって、思って。お茶とお菓子を持ってきたよ」

 イリスはにこにこと笑みを浮かべて、ポットとカップを工房にあった台に置いた。黒い犬はその隣に器用に籠を並べる。その中には香りの良い焼き菓子が詰まっていた。

「いい子だね、アルダーくん。いい子」

「これはこれは。ありがとうございます。イリス様。アルダー様も、ありがとうございます」

 黒い犬を撫でるイリスの隣で、シーモスはハーブ茶をカップに注ぎ始める。

「……あなたの『癖』は飼い犬にまで及ぶんだな」

 そう言えば、シーモスは奴隷屋や使用人たちにも変わらぬ口調で話しかけていた。

 ふと漏らしたレーキの言葉に、シーモスはくすりと微笑みを浮かべて、黒い犬の頭をそっと撫でた。

「ふふふ。アルダー様は『犬』ではございませんよ。私の用心棒で……かつては人でございました『魔獣』でございます」

「かつては、人……?」

 発言に驚愕するレーキを、シーモスは静かにあざ笑う。

「この方はかつて、魔獣を殺して双満月(そうまんげつ)の日に魔獣と化す呪いを受けました。それを知らず、ある双満月の日にこの方は魔獣となって理性を失い、妻子を食い殺しておしまいになられました。それを悔いて、その悲劇を忘れてしまいたくて、この方は呪いを逸らしてただの魔獣となる道をお選びになられました。私はそのお手伝いをした報酬として、魔獣となられたこの方を『飼う』ことにいたしました。ふふふ……もう、ずいぶんと昔のお話でございます」

 人であった、魔獣。シーモスが過去を語る間、黒い魔獣は大人しく身を伏せていた。

 その言葉が解っているのかいないのか。かつては人で有ったと言う魔獣は、静かに中空を見つめるだけだ。

「……レーキ様。貴方も強い『呪い』を受けておいででございますね?」

 不意に核心をつくシーモスの言葉に、レーキはぎくりと眼を見開いた。

「残念ですが、私にはその呪いを解くことも逸らすことも出来ません。ですが、その呪いをやり過ごす術はございます」

 そんな術が有るというのか。いったい、どうやって。

 言葉にして問う事も出来ずに、レーキはシーモスを見つめてうめいた。

「ふふふ。簡単なことでございますよ。貴方は、貴方が大切だと思っていらっしゃる人々より長く生きればよろしいのです。その方々より貴方が長く生きられれば、その方々は天寿を全うなさいます。そのためには」

「……その、ためには?」

 シーモスはいったい何を言い出すのか。レーキは固唾を飲んで次の言葉を待った。

「……貴方が『魔人』となられればよろしいのです。貴方が長い時を生きるモノになられればよろしいのです」

 口の端に笑みを張り付かせたまま、シーモスは愉快げに告げる。

「あ……お、俺、が……?」

 困惑に、レーキは浅い息を繰り返す。

 そうすれば、呪いから逃れられる?

 そうすれば、みんなが天寿を全うできる?

 そうすれば、俺は人を愛することができる?

「……レーキ……君は魔人に、なりたいの?」

 イリスはこちらを案じるように、胸に手を当てて眉根を寄せた。

「お、れ、俺は……!」

「……幻魔が魔人にした人はね、主に絶対服従なの。主が死ねと言えば死ななきゃいけないし、主が死んだら死んでしまうの。僕は……君が本当に望むなら、君を魔人にしても良いよ。でも、それは本当に君の望みなの?」

「わか、解らない……」

 解らない。本当に解らないのだ。呪いを解くために懸命に努力してきた。一度は死の王を呼び出すことにも成功した。

 それでも呪いは解けていない。

 どんな事をしたって、生き延びたいと思ってきた。だからと言って、魔人になりたいかと聞かれれば、簡単に答えは出せない。

「……ごめんね、レーキ。シーモスが変なこと言って。……でもね、僕は君が魔人になることは反対。それは今の君を君で無くしてしまうことだから。僕はそんなこと、したくない」

 イリスは真摯に、自分の気持ちを口にする。イリスが配下の魔人を持たぬと言うのはそのためなのだろうか。魔人になる、と言うことは人としての()り方をそんなに歪めてしまうモノなのだろうか。

「ふふふ。申し訳ございません、レーキ様。私の失言でございました。……ただそんな術もまだ残っているのだと思し召していただければ」

「シーモス!」

「はいはい、イリス様。この話はお終いといたしましょう。せっかくのお茶とお菓子が冷めてしまいますから。……さあ、どうぞ?」

 レーキは呆然としたまま、差し出されたハーブ茶のカップを受け取った。

 魔人に、なれば。魔人に、なれば。ぐるぐるとその言葉が脳内を巡っている。

 レーキは言われるがまま茶をすすって、菓子を食べたが、何の味も感じなかった。



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第58話 『慈愛公』

『呪われた島』の上で過ごした時間が、三カ月を過ぎた。

 その間に、レーキはこの島が半年に一度、海水を汲みに陸に近づくことを知った。

 知ったところで、羽の代わりになる魔装具(まそうぐ)はまだ影も形もない。

 それに、ヒトを外に出さぬと言う結界をどうやって突破して良いのかも解らなかった。

 イリスの屋敷の中で、庭で、厨房で働きながら、レーキは這うような歩みでこの島のこと、魔のモノのこと、この島に住む『普通』の人々のことを学んでいった。

 奴隷屋の地下に押し込められていたヒトたちは一体どうなったのだろう?

 彼らの安否を気にするレーキに、イリスは「大丈夫」だと告げた。

「あの奴隷屋さんは潰れちゃった。あのヒトたちはレーキにも、奴隷のヒトたちにもひどいことしてたから。シーモスがあの時、免許を取り上げたの。それで、地下のヒトたちはみんな別のちゃんとした奴隷屋さんに移ったよ」

「……そうか。それなら、良かった」

 肩の荷が一つ降りた。レーキは安堵する。

 イリスたち魔のモノは、好んで人の食事を口にした。それは生きる糧とはならないが、「おいしさは感じるから」とイリスは言った。

 やがて、レーキはイリスのために嗜好品としての『食事』を作るようになった。

 好評だったのはレーキの故郷、グラナート風のしっかり辛みの効いたもので、いまいち反応が薄かったのはヴァローナ風の薄味であるが野菜の旨味を生かした料理だった。

「レーキが作ってくれるモノはみんなおいしいけど……はっきりと辛いもの、とか、甘いもの、とかそう言うモノが僕は特に好きかな」

 食事を作るために必要な香辛料は、シーモスが魔法で精製してきた。

「貴方の記憶にある味を、擬似的にこの島で取れたモノに付与しているにすぎません。限り無く本物に近いニセモノ、でございますね。……このスパイスを大量に食べると……貴方も魔人となられるかもしれませんね」

 冗談とも本気ともつかない口調で、シーモスが言う。念のため、レーキはシーモスの作ったモノは口にしないようにした。

 馴れてくると、広い屋敷の中は調べ尽くしてしまった。怪しい場所はシーモスの工房くらいなもので、他の部分はいたって快適な屋敷だ。

 書庫の本はまだ半分も読破していないが、部屋に籠もって本を読むばかりでは体が鈍ってくる。

 レーキは市場が有るなら行ってみたい、とイリスに持ちかけた。

「……うーん。そうだね。君も暇を持て余してるみたいだし、いっしょに行ってみようか」

 イリスはあっけなく承諾する。彼自身も、屋敷に居て退屈していたらしい。三カ月もの間、大した事件も起きなかったのだ、問題などはないだろう。

「でも今日はシーモスがいないから……明日にしよう。いいかな?」

「ああ、構わない」

 話を持ちかけたレーキよりも、もっと嬉しそうな表情でイリスは笑った。

 

 市場に出かける当日。レーキは『呪われた島』で当たり前だと言う形の服を着た。いつもの一張羅では『ソトビト』であるコトを喧伝(けんでん)するようなものだとシーモスが指摘していたゆえだ。

 その服は襟ぐりが大きく開いていて、奴隷の証しである金属の首輪がはっきりと見えていた。

「市場には奴隷が行くことも多いから、その首輪をしていてもおかしいことはないよ」

「……市場ではもっとへりくだった態度をとったほうが良いのか? その、『奴隷』らしく」

 姿見で首輪を確かめるレーキの後ろで、イリスは椅子にかけてレーキの支度が終わるのを待っていた。シーモスは急な打ち合わせの予定が入ったらしく、同行しないようだ。イリスは仕方ないとそれを受け入れて、一人で市場について来ることにしたらしい。

「そのままでかまわないよ。奴隷と主人の関係はそれぞれだから」

「解った。準備できた」

「うん! さあ、市場へ行こう!」

 レーキよりも、よほどウキウキと楽しそうに、イリスは屋敷を出る。

「魔獣に引かせた車に乗ってもいいけど、市場はそんなに遠くはないから。歩いていくとちょうど良いよ。……ああ、市場で買い物したらまとめてお家に届けて貰うのを忘れないでね」

「解った」

 なるほど、市場はイリスの屋敷から四半刻(約十五分)もかからぬ辺りで賑わっていた。露店が立ち並び、魚を売る店が多く、肉類を扱う店はごくわずか。野菜と果物は見慣れぬ種ばかりでどれも大きく値段が高い。島で有る故に耕作面積は限りがあるのだろう。

 レーキが野菜を買うことを躊躇(ためら)っていると、イリスは「欲しいものは何でも買っていいんだよ」と笑った。

「この島で食べられている野菜はね、大きく育つように品種改良してあるの。島のみんなが沢山食べられるようにね」

「それもこれも『使徒』様方のおかげ様でございます」

 レーキたちのやりとりを聞いていた、野菜売りの老人が笑みを浮かべてイリスに一礼する。

「……お若い方、こんなにお優しい『使徒』様にお仕え出来るとはなんと羨ましい。『使徒』様方への感謝を忘れてはなりませんぞ」

 レーキは曖昧に微笑んで、答えを濁した。

 野菜売りの老人から幾つか品物を買い、イリスの屋敷に運んでくれるように頼む。

 老人は快諾し、イリスを見つめておお! と声を漏らした。

「あなた様が、かの『慈愛公(じあいこう)』様……! お目にかかれて光栄の至りでございます!」

 老人は感激した様子で、地面に平伏しそうなほどの勢いで頭を下げる。

「そんなに(かしこ)まらなくていいよ。おじいさん。僕もあなたから野菜が買えてうれしい」

 老人の頭を上げさせながら、イリスは困ったように笑う。

 野菜売りの店を離れてから、レーキはイリスに尋ねた。

「『慈愛公』、と言うのは?」

「うーん。僕たち幻魔のことをあだ名で呼ぶヒトたちがいるんだよ。『慈愛公』とか『冷淡公』とか……面白がって自分からあだ名で名乗る魔のヒトもいるけど、僕のは柄じゃないからちょっと困ってる」

 苦笑混じりにイリスは告白する。

「僕はね、特別優しい訳じゃないの。人間や亜人はみんな脆いし、魔のヒトも大怪我をすれば死んでしまうから……手加減しなきゃいけないし、優しくしなきゃいけない。だって、弱いヒトに優しくするのは当たり前の事でしょう?」

 イリスの言葉はもっともだが、レーキは微かに違和感を覚える。確かに幻魔や魔人と比べてヒトは(もろ)い。イリスにとっては『弱いヒト』であろう。だが、同族である魔のモノまでもが同じくくりとは。彼はこの穏やかな物腰に、どれだけ強大な力を秘めているのだろう。

「……ねえ、ねえ。レーキ。所でお肉とお魚、どっちが食べたい?」

 イリスの問いに、レーキは思考を中断する。

「俺は魚の気分だが……あなたは?」

「そっか! それじゃ、魚にしよう! 魚屋さんはこっちにいっぱいあるよ!」

 子供のようにはしゃいで駆け出して行くイリスは、秘めたる力の欠片も現してはいない。

 レーキがそれに安堵して、イリスを追いかけようとしたその時。

「……?!」

 突然、視界を布のようなものが覆った。

 天幕にでもぶつかったのかと、レーキは慌ててその布を外そうとした。布は袋状になっていて、誰かが故意に被せたものだと解った瞬間、首筋にひやりと冷たいものが突きつけられる。

「声を出すな」

「……な、に……?!」

「逆らえば命はない」

 冷ややかに告げる男の声が、すぐ耳元で聞こえる。

 捕らえられたのだと、悟ったときにはもう遅かった。後頭部を(したた)か殴りつけられて、レーキは意識を失った。

 

「……うっ」

 最初に感じたのは冷たい水。誰かが自分に水をかけたようだ。そのせいで意識が戻った。

 頭が痛い。視界は何かに覆われていて、荒い布目以外は何も見えない。布目の隙間から微かに光を感じる。その布が濡れて鼻や口にまとわり付いて息苦しい。

 布を外そうと腕を上げようとするが、後ろ手に拘束されていてぴくりとも動かない。

 背もたれのついた、椅子のようなものに座らされているようだ。足はその椅子に括り付けられているのか、立ち上がることも出来ない。

「……あーっ! かひっ! あぐっ……!」

 再び水がかけられた。布がさらにぴたりと顔に張り付いて、息が、息が出来ない……!

 闇雲に頭を振ることしか出来ない。レーキは視界が赤く染まって行くのを感じる。

「……目が覚めたようだぞ」

 低く嘲笑うような男の声がする。誰でも良い。この布を取ってくれ。レーキは叫ぶが、声は言葉にならない。

 不意に背後に気配がした。無造作に突然顔の布が取り去られる。

「……はっぐ、……げほっ……はーっ! はーっ!!」

 新鮮な空気を貪るように味わう。息が整ってくると、一段高い場所に設置された椅子に気怠げに腰掛けた人物が見えてきた。

 それは、光の加減で青にも緑にも赤にも見える髪を短く刈りそろえ、一目で高価で有ると解る衣装を着た金眼の男。

 男はその手元でレーキの王珠を(もてあそ)び、もう片方の手で頬杖をついていた。

 この三ヵ月で学んだ。幻魔や魔人は体のどこかに何色でもない、遊色の部分を持っていると。イリスは角、シーモスは(ひとみ)、と言うように、この男は恐らく髪。

 では、この男は魔のモノなのか。

 ──ここはどこだ?

 黒い石で作られた部屋の照明は少なく、大きく、どこまでも果てがないように見えた。

「……イリス・ラ・スルスの奴隷よ。そなたの口から直接名乗ることを許す」

 重々しく、男が告げる。レーキを見下ろすその眸は冷たく、何物にも興味を失っているように見えた。

「『苛烈公(かれつこう)』のご命令だ! 名乗れ、奴隷!」

「痛ぅ……!」

 後ろから頭を小突かれる。『苛烈公』。ああ、ではやはりこの男は魔のモノ。それも、二つ名を持つ幻魔だ。

 レーキは唇を噛んで、しゃがれた喉から声を絞り出した。

「俺は……けほっ……レーキ、と……いいます」

「そなたはイリス・ラ・スルスの『ソトビト』を知っておるか?」

「……」

 何と答えることが正解なのだろう。素直にそれは自分だと白状するか?

 レーキは混乱して押し黙る。再び頭を小突かれて、レーキは(うめ)いた。

「……う……っ」

「まあ、良い。そなたがあくまでも主に忠節を誓うと言うなら、長く楽しめると言うものだ」

 唇を吊り上げて『苛烈公』は笑う。その眸に喜びの色が過るのをレーキは見た。

「……何を、楽しむと、言うのですか……?」

「……野暮なことを。まずは水責めか? 手足の爪を()ぐか? それとも……その不揃いな羽を『美しく』整えてやろうか」

『苛烈公』の笑みに、レーキの背筋が冷たく凍る。

 この男は、自分を拷問にかけるつもりだ。それも楽しげに。

 レーキは騎士や兵士ではない。当然、拷問を受けたことも、それに耐える訓練をしたこともない。

 顔から血の気が失せていくのを感じる。自分がどれだけ痛みに耐えられるのか、限界は解らない。いっそ今、自分が『ソトビト』で有ることを明かしてしまった方が良いのか。

 固唾を飲むレーキに、『苛烈公』は微笑みかける。

「……レーキとやら、この私に、何か言いたいことがあるのか?」

「……ございません」

『ソトビト』をヒト扱いしない魔のモノもいると、イリスは言っていた。ならば、ぎりぎりまで自分が『ソトビト』であると告げないほうが、安全であるかもしれない。

 痛みには馴れている。それに、痛みで意識が混濁する前に、いざとなれば天法を使ってしまおう。王珠(おうじゆ)を取り上げられて、天分に負担はかかるが、集中すればこの部屋にいる全員に『金縛り』をかけることも可能だ。

『苛烈公』に天法が通じなかったとしても、拷問を実際行う者には敵うかもしれない。

 覚悟を決めて、レーキは『苛烈公』を見上げた。

「……ほう。眼が、変わったな。良い眼だ。責め甲斐のある」

「『苛烈公』、何から試して参りましょう?」

『苛烈公』の配下らしき男が、レーキの隣でひざまずいて命令を待つ。

「拷問官、水責めから始めよ。直ぐに死んでしまってはつまらん」

「仰せのままに」



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第59話 『苛烈公』

 大きな氷の浮いた水桶に、頭から漬けられる。

 もがいても、もがいても、手足の自由はなく、拷問官は手加減などしてくれない。

 容易に死なぬように、息を『させられる』。

 冷えた水は肺腑(はいふ)に少量ずつ入り込んで、(せき)が止まらない。

 冷たい。このままでは溺れ死ぬ前に、凍えてしまう。

 次に顔を水から引っ張り出されたときには、拷問官に『金縛り』をかけよう。

 そう、決めているのに。歯の根が合わない。

 ──息をさせてくれ! 息を!

「……げほっ! はっ……はっ……はーっ!! かひゅ……!!」

 水面に顔を近づけられる度、気力が萎えていく。痛みが、頭の中をがんがんと揺らしている。

 ──俺は、このまま、死ぬ、のか?

 そんな恐怖を身近に感じる。手始めでこれだと言うなら、さらなる拷問を受けたら自分はどうなってしまうのだろう。

「……俺、……っ」

「……ほら、奴隷が何かを言いかけておる。拷問官よ」

 髪を掴まれて顔を上げさせられる。レーキは焦点のあわぬ視界を、『苛烈公(かれつこう)』へと向けた。

「……死にたく、ない……っ」

「ならば、『ソトビト』のことを話せ、奴隷よ」

「……俺、俺は……っ」

 譫言(うわごと)のように。レーキは死にたくない、と、繰り返した。

 自分が『ソトビト』であると話したところで、拷問は止まないだろう。そもそも、魔法で頭の中を(のぞ)けると言うのに、それをせず拷問を手段とするのは、それが楽しいからだ。

 何も言わず、黙って耐えれば拷問はエスカレートする。義父の暴力と同じだ。

 哀れっぽく泣いて許しを乞うてみよう。そうして時間を稼ぎ、隙をうかがう。まだ頭の中でモノを考えられるうちに……!

「……お許し、ください……! 俺は知らない……何も、知らない……!!」

「……ふん。つまらん嘘をつくな、奴隷よ。まだ水を飲み足りないか?」

『苛烈公』は気怠げに髪をかきあげて、レーキの隻眼(せきがん)を射るように見下ろしてくる。

「……本当、です……! 俺は……!」

「拷問官、奴隷に好きなだけ水を飲ませて……」

 そう言いかけた『苛烈公』は何かに気づいて、言葉を切った。

 小走りに誰かが近づいてくる音がする。

 拷問官とは別の男が『苛烈公』の隣に走り寄って、そのまま耳打ちする。

『苛烈公』は舌打ちして、「仕方ない。通せ」と知らせを持ってきた男に命じた。

 やがて、石造りの床を大急ぎでこちらにやってくる足音と、「いいから、早く案内して!」と叫ぶ耳慣れた声が聞こえてきた。

「お待ち下さい! 『慈愛公』!」

「待たない! 僕のレーキはどこ?! ラルカくん!!」

 押し止めようとする『苛烈公』の配下たちを振り切って、この場に現れたのは、いつになく取り乱し声を荒らげるイリスだった。

「……これはこれは、『慈愛公』イリス・ラ・スルス。我が屋敷に何のご用かな? そなたの奴隷なら、ほら、そこに」

「……レーキ!!」

 イリスはレーキの姿を認めると、青ざめた顔をして駆け寄ってきた。

「大丈夫?! 生きてる?! ……ああ、どうしよう?! どうしてこんなに冷たいの……?!」

「……イリス……?」

「ああ! 良かった……!! 生きてる……!!」

 水に濡れるのも構わずに、イリスはレーキを抱きしめて、無事を喜んでくれる。

 冷え切った体に温もりを感じる。安堵に、レーキは大きく息を吐いた。

「……ラルカくん。レーキに何をしたの……?!」

「ここに運び込んだ時には気絶しておったからな、水をかけて目を覚まさせただけだ」

『苛烈公』を振り返って、イリスは拳を握って立ち上がった。『苛烈公』は悪びれた様子もなく笑みを浮かべて、怒りに震えるイリスを見ている。

「……レーキにひどいことをするなら、僕は君を許さない……!」

「ほう。『慈愛公』には似つかわしくない台詞だな。よほどその奴隷にご執心(しゆうしん)と見える」

「……っ! レーキにも、他の奴隷のコたちにも、二度と手を出さないで……!」

 イリスは『苛烈公』を睨み付けて、毅然(きぜん)と胸を張る。

「それは、そなたが『ソトビト』を独占しておるからだ。『ソトビト』を公開し、我らにも外界の情報を共有して貰えるなら、私は何もせぬ」

「情報はいずれナティエちゃんにも君にも教えてあげる。だから、『ソトビト』のことはほっといて!」

「……『冷淡公』と同じ情報なぞ、価値はない」

『冷淡公』ナティエの名が出たとたん、吐き捨てるように『苛烈公』ラルカは言う。

『ナティエちゃんとラルカくんはね、とても仲が悪いんだ。ずっとケンカしているんだよ』

 以前、イリスが友達か幼い子どものことでも語るように言っていた。

 それが、幻魔を指していると頭では解っていたものの、まさかそれが『冷淡公』『苛烈公』などと物騒な二つ名で呼ばれる人物とは。

「レーキ、ちょっと待っててね。今、(かせ)を外すから」

 レーキの耳元に(ささや)いて、イリスは金属製の手枷を事も無げに引きちぎった。怪力としてもほどがある。

 続けて、椅子と一体になっていた足枷を紙でも裂くように外してしまった。

 レーキはただ呆然と、鉄枷を外して行くイリスを見つめる。この男もまた、異能の幻魔なのだと、思い知らされる。

「帰ろう、レーキ。……歩ける? お家まで運ぼうか?」

「あ、ああ……歩け、る……あ、ま、まって、くれ……王珠(おうじゆ)……王珠を取られた……!」

 レーキはよろめきながら立ち上がり、胸元に手をやった。

 イリスはレーキが立ち上がれたことに安堵したように息をついてから、『苛烈公』を振り返った。

「……レーキから取り上げたものを返して」

「ん? これか?」

『苛烈公』は弄んでいた王珠を持ち上げて、イリスの足元に投げ出した。

 イリスはそれを拾い上げて、レーキの首にかけてくれる。

「……これ、大事なモノ、だよね? 壊れてない?」

「多分、大丈夫……海に叩きつけられても、壊れたりはしなかった……」

「良かった……!」

 我がことのように、イリスは喜んで顔を(ほころ)ばせる。

 それから、一度見せた笑顔を厳しい表情に封じ込め、『苛烈公』に告げた。

「じゃあね、ラルカくん。さよなら」

「待たれよ、『慈愛公』」

「何? 僕はもう、レーキと一緒に帰るから」

「そなたの奴隷を無断で連れ出した事はこちらの落ち度だ。謝罪しよう。二度と手出しはせぬ。その上で『慈愛公』、オレに組みしないか?」

『苛烈公』は表面上は優しげな笑みを口元に掃いて、イリスに語りかける。レーキはそんな笑みを知っている。それは、甘言を持って人を騙そうと言う者の笑みだ。

 イリスはいつになく冷たい表情をして、『苛烈公』を見つめた。

「……僕はナティエちゃんにも、君にも味方するつもりはない。君たちのケンカにはつき合っていられない。けど、君が僕の大切なコたちにひどいことをするつもりなら、もう一つの僕が君を踏み潰して焼き尽くす」

 紛れもない、殺気がイリスの茶色の(ひとみ)を燃え上がらせる。

 踏み潰して焼き尽くす。その宣言がどのような行為を指すのか。レーキには解らなかったが、イリスが本気で腹を立てているのだと言うことははっきりと理解できた。

「……半竜人め」

『苛烈公』は忌ま忌ましげに低く呟く。

 イリスはそれに答えることなく、レーキに腕を貸して『苛烈公』の黒い謁見室を出て行った。

 

 謁見室を出た途端、レーキは咳き込んで片膝をついた。

 寒い。一度下がった体温がまだ元に戻らない。レーキはうずくまって、自分の肩を抱いた。

「大丈夫……?! 寒いんだね?! このお家を出たところにシーモスが待ってる! ちょっと我慢してね?」

 イリスはレーキの体を楽々と抱き上げて、装飾の少ない寒々しい廊下を走り出した。

『苛烈公』の屋敷はどこも石造りで、温かみと言うモノが感じられない。

 イリスは長い廊下を全速力で走る。その腕に抱えられているレーキは、まるで空を飛んでいるような速さだ、と思った。

「……イリス……」

「ど、どうしたの……レーキ?!」

「ありがとう……助けて、くれて……」

 今、出来ること。それは、ただ感謝を伝えることくらいで。レーキの呟きに、イリスはぱっと顔色を明るくして頷いた。

「うん……うん!」

 

『苛烈公』の屋敷の前では、馬くらいの大きさの魔獣に引かせた車が用意されていた。その中にはシーモスが待機していた。

 イリスとレーキが車内に乗ったことを確認すると、シーモスは御者に出発するように命じる。

「おやおや。これは(ひど)い。手荒い歓迎を受けられましたね、レーキ様」

 寒さに震えるレーキの手足には、金属の枷に擦れて出来た真新しい傷がある。

「『苛烈公』は次代の魔の王候補のお一人で、大きな派閥を作っておいでです。そのご趣味は……身を持ってお知りになられましたね?」

 シーモスはそんなことを話す片手間に、手早くレーキに治癒の魔法をかける。傷は見る間に塞がっていった。

「シーモス、レーキがすごく寒そうなの! どうにか出来ない?!」

「残念でございますが、たった今、私に出来ることはここまででございます。屋敷で風呂を用意させております。その『寒さ』は風呂で癒やすことと致しましょう」

 

 イリスの屋敷に戻ると、レーキは服を着たまま直ぐに熱い風呂へ放り込まれた。

『呪われた島』では真水は貴重品で、それは船と同じだ。

 ここにはもともと入浴の習慣は無かったが、レーキの話を聞いたイリスが興味津々で湯船を作らせたのだ。

「早速お風呂が役に立つことになっちゃった……」

 しょんぼりと肩を落とすイリスの隣で、湯船に入ったレーキは冷え切って固まっていた体を熱い湯に(ほど)いていく。

 血流の滞っていた手足に急に血液が流れて、びりびりと痺れるように痛む。その痛みも湯の熱さも今は心地よい。

「……ああ……あたたかい……」

「良かった! 痛むところとか、苦しいところは有る?」

 レーキの顔を覗き込んで、イリスは心配そうに眉根を寄せる。レーキはゆっくりと指を曲げ延ばして、傷があった手足を確かめる。

「……いや。もう痛みもないし、咳も出ない」

「はーっ……本当に……本当に、良かった……」

 イリスはようやく安堵したように湯船のへりにすがってへたり込む。

「……ごめんね、レーキ。僕が油断したせいで……君をひどい目にあわせちゃった……」

 茶色い眸を潤ませて、イリスはレーキの顔を覗き込んでくる。心なしか両方のこめかみから生えた角まで力無い。

「いや、あなたのせいじゃない。俺も、久しぶりの外出で少し浮かれていた」

「……でも……」

「本当に、あなたのせいじゃない。それに……あなたは、いや、君は。二度も俺を助けてくれた。命の恩人だ」

 親愛の情を込めてレーキは言う。

 いくら、誰よりも力を持つ者だと言う自負が有ったとしても。たった一人で『苛烈公』の配下たちが大勢控える屋敷に乗り込んで行くことは、勇気の要ったことだろう。そのことにだけでも、感謝したい。

「……その、一人で『苛烈公』の屋敷に乗り込んで、怖くはなかったのか?」

「あ……ううん。夢中だったし、お外でシーモスも待ってたから……大丈夫、だった。心配してくれてありがとう」

 イリスは湯船のへりから顔を出して、レーキを見上げる。その顔が喜びの光に照らされて、明るく輝く。

「それより、レーキが市場でいなくなって……その時の方がずっと、怖かったよ……」

 思い出しただけで身がすくむのか、イリスは眼を伏せて、湯船のへりに額を預けた。

 レーキを見失って、イリスは慌てて屋敷に戻り、シーモスを探し出したようだ。

 シーモスは首輪からレーキの居場所を特定し、一刻(約一時間)後にはすでに『苛烈公』の屋敷にたどり着いていたらしい。

「……でも、良かった。君が無事で。ラルカくんのお家でね、君がずぶ濡れで座ってるのを見たときも、怖かった。もう間に合わなかったのかって、思った」

「大丈夫、俺は生きてる。ずぶ濡れなのは変わってないが」

 まだ身にまとったままの服を引っ張って、レーキは苦笑する。つられて、イリスも微笑んだ。

「ふふふ。冗談が言えるなら、安心だね! ……ん? あれ? でも、シーモスはどうして『お風呂()かしておいて』なんて、言ったのかな?」

 



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第60話 半竜人

「種明かしは簡単でございますよ」

レーキが、『苛烈(かれつ)公』に誘拐された騒動の翌日。

 シーモスの工房で、レーキはイリスの疑問を口にした。

『なぜ、風呂を()かすように言ったのか?』と。

「貴方様が『苛烈公』のお屋敷に捕らえられていることはすぐに解りました。『苛烈公』はと言えば拷問をこよなく愛されることで名をなしておられるお方。貴方様はすでに拷問を受けていらして、濡れ鼠か血塗れか、はたまた……まあ、とにかくお風呂をお召しになられた方がよろしい状態でいらっしゃるだろうと推測いたしましたまででございます」

「ああ……そう言うことか……」

 なるほど。言われてみれば納得する。

「俺はてっきり、魔法を使って未来でものぞいたのかと」

「時間を操る魔法は手間がかかります。具体的に申しあけますと儀式が。それに、成功率も高くはございません。わざわざ、不確実な手段に頼らずとも、ヒトにはこの『頭脳』と申します物が備わっております」

 魔装具の設計図を机に広げながら、シーモスは皮肉くこめかみを叩く。

「魔法は貴方様が考えていらっしゃるほど万能ではございません。限界もまた、確かに存在しているのですよ」

 ですから。とシーモスは続ける。

「魔法では死の王の国から完全な形で魂を呼び戻すことは出来ません。一度死したことで何かしら障害が残ってしまわれるのです。この分野で魔法を頼りに致しますのは最後の手段でございます。ご自分の行動がどの様な効果をもたらすのか、熟考くださいませ。くれぐれもご油断なさらぬよう。……ま、これはイリス様にも申し上げて置かなくてはなりませんね」

 シーモス抜きで外出したことは、どうやらイリスの独断だったようだ。

自分がいれば、レーキを守りきれると判断したらしい。

 ──それで、昨日はあんなにしょげていたのか……

 風呂場でのイリスのしょんぼりした態度の理由も解ったところで、レーキは一つ気になっていたことをシーモスに訊ねた。

「解った。反省する。……所で一つ訊ねたいんだが、『半竜人』と言う言葉に聞き覚えは?」

「どこで、それを?」

 シーモスの微笑みがわずかに固くなる。彼は設計図を用意する手を止めて、顔を上げた。

「『苛烈公』がイリスに向かってそう言ったんだ。捨て台詞のように」

「……私の口からは何とも申し上げられませんね。直接、イリス様にお訊ね下さいませ」

 素気(すげ)なく、シーモスは質問をかわす。

「その、例えば、その言葉をイリスに直接告げたら、彼が悲しまないだろうか?」

「……左様でございますね。では、こうしましょう。イリス様に、ご両親のことをお訊ねになってみてください。それで謎は全て解けると存じます」

 

 シーモスと魔装具の打ち合わせをしてから、レーキは彼の工房を出る。

 昼食を挟んで、イリスが部屋にやってきた。

「今日のお菓子は料理長が作ってくれた、甘くておいしいフルーツタルトです! レーキ用にあんまり甘くないのも用意してもらったよ!」

 昨日しょげかえっていたことが嘘のように、イリスははしゃいだ様子で菓子を載せたトレイを差し出す。イリス用の菓子は甘味料をたっぷりと使っていて、レーキには甘すぎる。甘くない菓子はありがたかった。

「昨日は、ホントにごめんね……これ、お詫びの印でもあるの」

 甘味料と果物の収穫量が少ない『呪われた島』では、甘い菓子は贅沢品だ。幻魔とて毎日口に出来るモノではない。

 それをふんだんに使った菓子は、イリスのとっておきのようだった。

「解った。……ありがたくいただく」

 気に病まずとも良いのに、とレーキは思うが、それでイリスの気が済むというなら受け取ろう。

「ふふふ! 良かった! それ、とっても美味しいよ!」

 ハーブ茶を喫しながら、菓子を食べ他愛の無い話をする。

 紅茶と言う飲み物のこと、それを好きだと言ったネリネのこと、ウィルのこと、仕事で向かった遺跡のこと……

出会った人々のことは初めて話した。イリスなら、彼らを害するようなことはしないだろうとそう思えた。

 黙ってレーキの話を聞いていたイリスは、ため息をついて「僕も飲んでみたいな……そのお茶。それに、そのコたちにも会ってみたい……」と(ひとみ)を輝かせる。

『呪われた島』には茶の木がない。とイリスは言う。この島が結界に覆われる前には、茶の木は発見されていなかったのだ。

「僕たちがこの島に閉じこめられている間に、『ソト』では色々なことが変わっているんだね……」

 しみじみとつぶやくイリスに、レーキは思い切って訊ねた。

「なあ、イリス。君はこの島で生まれ育ったと言っていたが、ご両親も魔のヒトだったのか?」

「あ、え、僕の両親? ……ううん。二人とも魔のヒトでは無かったよ。魔のヒトにはね、子どもは生まれないの」

 残念だね。と、イリスは答える。

「僕より君のことが聞きたいな……ねえ、レーキの父様(とうさま)母様(かあさま)はどんなヒト?」

 イリスは無邪気に訊ねてくる。レーキは言葉に詰まった。

「……俺は……両親の顔を知らないんだ。どんなヒトたちかも解らない。生まれてすぐに養子にだされた、から」

「……どうして?」

 イリスの眼差しは真っ直ぐで、純粋な疑問で満ちている。レーキは淡々と鳥人の黒い羽が不吉であること、そのせいで今まで苦労してきたこと、今は黒くても羽があって良かったと思っていることをイリスに話して聞かせた。

「……レーキの羽、とってもキレイなのに……」

 自分のことのように、しょんぼりとうなだれるイリスにレーキは微笑みかける。

「……ありがとう。それより、君はなぜこの島に? どうして幻魔になったんだ?」

 レーキの問いに、イリスは躊躇(ためら)うように深く呼吸した。それから、「あのね」と切り出した。

「……あのね、僕の父様は……竜人、なの」

「?! 竜人、様が地上でお子を?」

 イリスはとんでもない事実を告白する。

 竜人が地上に降りてくることすらまれなのに。竜人の子とはどう言うことなのだろう。

「そう。僕は竜人の父様と人間の母様の間に生まれたんだ。父様は地上が大好きで、人間が大好きだった。だから、母様と地上で出会って結ばれたんだよ」

 竜人が、人間と子をなすことが出来るとは初耳だ。それで、半竜人、か。驚愕するレーキにイリスはどこか寂しげな笑みを向けた。

「……でもね。それはいけないこと、だったみたい。僕が生まれる前に父様は月に連れ戻されたの。僕を身ごもっていた母様は殺されかけて……この島に逃げてきた。それで、僕はこの島で生まれて、それから僕は獣人のふりをして暮らしていたんだよ」

 レーキは息をのむ。確かに、レーキもイリスは獣人だと思っていた。

 言われてみれば、イリスが頭に頂く角は竜人のそれにも見える。見上げるほどの長身もそうだ。

「僕と母様はお金持ちじゃなかったけど、仲良く暮らしていたの。それでね、この島が『方舟』になって、お金持ちじゃなかった僕と母様は奴隷になった。母様は頑張って働いたの。小さかった僕の分まで。それで働きすぎて、病気になってね、死んじゃった」

 努めて明るく、それが何でもないことのように、イリスは言う。

「その後でね、僕は王宮に連れて行かれて、王宮の奴隷になったの。それでね、僕は先代の魔の王様のお世話をする係になった。魔の王様はとてもキレイで、優しい方だったよ。僕が十三歳になった時、魔の王様が僕に聞いたの。『お前は幻魔になりたいか?』って。僕は……『幻魔になったらずっと魔の王様と一緒にいられますか?』って答えたの。僕は魔の王様とずっと一緒にいたかった。だから、僕は幻魔になったけど、魔の王様は戦争に負けて死んじゃった」

 ヒトが魔のモノになると、そのヒトの時は止まると言う。イリスの外見に不釣り合いな言葉遣いは、十三歳で彼の時が止まっているからなのか? だが、彼はとても未成年者には見えない。

「え、と。……君は、十三歳には見えないな」

「うん。僕は大人になった僕を想像して、今の姿を作ったの。竜人はね、もともと竜人の姿とおっきな竜の姿を持ってるの。僕は半分だけ竜人だから、ヒトに近い姿なんだよ」

 イリスは、えっへんと誇らしげに胸をはった。

「それにね、幻魔にはね、一人に一つずつすごい力があるんだよ。僕のはね、『変身』だよ。僕はヒトと竜だけじゃなく、どんな姿にもなれるんだ」

 イリスはそう言って、目をつぶる。その姿が二重にぶれるようにゆっくりと変化して行く。

 瞬き二つほどの後、レーキと同じほどの背丈の少年がそこに立っていた。髪の色、眸の色、角の色はイリスそのままに、顔つき体つきはまだ幼さを残してあどけない。

「……これが僕のホントの姿。シーモスが『大人の姿でいた方が何かと便利』って言うから、普段は大人の姿でいるの」

 はにかむように微笑んで、イリスは後手に腕を組んだ。そのぎこちない仕草は、確かに子供だと言うことがしっくりくる。

「……えっと、レーキは大人の僕と子供の僕、どっちが好き?」

 恥ずかしげに聞くイリスの問いに、レーキは真摯(しんし)に答えた。

「馴れているのは大人の方、かな。でも子供の方も君らしくて良いと思う」

「そ、そうかな? えへへ……! じゃあ、時々子供の僕になろうかな。レーキといるときだけ!」

 満面の笑みを浮かべて、イリスは嬉しそうに何度も頷いた。



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第61話 背負うべきモノ

苛烈公(かれつこう)』の一件から、三ヵ月が過ぎた。

 今年もまた『黒の月』が巡って、一年が終わった。

『呪われた島』では『混沌の月』を大々的に祝う。街中は美しく遊色(ゆうしよく)に光る飾りで満ち溢れ、人びとは食卓の贅沢を謳歌(おうか)する。

 また、『混沌の月』は魔のモノにとっては社交のハイ・シーズンで、幻魔は連日、同族を大勢招いたパーティーを(もよお)す。

 イリスとシーモスもレーキを残して、たまに出かけていった。

 雲より高い場所を飛んでいる、『呪われた島』に四季は無いようだ。暦はすでに冬を迎えているというのに、この島では季節さえ春のまま時を止めている。

 島を取り巻く大気の温度は、そのままなら人びとが凍えてしまうほど冷たい。それを、大規模な魔具を使って適温に保っているらしい。

 イリスは、屋敷の中でたまに子供の姿をとるようになった。そちらの姿の方が、イリスものびのびとしているように見える。

 イリスの怪力は、本人曰く『竜人だから当たり前』のようで、特別な能力とやらではないらしい。竜人というのは他にどんな能力を秘めているのだろう。

 近頃、レーキは警戒しつつも、イリスたちと街中や郊外に出かけるようになった。

『呪われた島』の郊外には、幾つもの大規模な温室が建てられている。そこでは寒暖差を必要とする植物や、『呪われた島』の気候に合わない植物や動物が育てられていた。

 希少な果物を収穫することの出来る温室は、イリスのお気に入りで、そこにいる時の彼は終始楽しげだった。

 

 レーキが『呪われた島』にやってきてから半年。とうとう魔装具の設計図が出来上がった。

「設計は完璧でございます。後はこれを形にいたしますだけでございますね」

 工房でシーモスが自信に満ちて宣言する。

「早速、職人たちを手配いたしましょう。部品が出来上がり次第組み上げます」

「良かったね! レーキ。これでまた飛べるようになるね!」

 今日は大人の姿をしたイリスが、ぱちぱちと手をたたいて喜んでいる。

「ああ、ありがとう」

 素直に礼を返したレーキの表情も、晴れやかだ。

「……レーキ様がただ一言、『魔人になる』とおっしゃられれば、こんなに回りくどい手段をとらずに済むのでございますが」

 魔人になれば、魔力で汚染されることの懸念が無くなる。強力な治癒魔法で数日のうちに羽を再生する事も可能、らしい。

「シーモス! ダメ! その話は無しでしょ!」

 相変わらず、イリスはレーキの魔人化に反対している。真剣な眼差しで、シーモスに釘を刺す。

「ふふふ。冗談でこざいますよ」

「……それは、質の悪い冗談だな」

 レーキとて魔人になるつもりは微塵(みじん)もない。魔人になれば、この島から出て行くことは本当に出来なくなる。それだけは避けたかった。

「レーキの言うとおりだよ! シーモスは時々イヤなこと言うんだから!」

「申し訳ございません、イリス様。もう悪い冗談は申し上げませんから」

 ()ねたように言うイリスに自分用の茶菓子を差し出して、シーモスはくすくすと笑う。

 それで、イリスの機嫌が直ってしまうことをシーモスは良く知っているようだ。イリスは茶菓子を受け取って、にこにこと相好(そうごう)を崩した。

「……あ、そうだ。ねえ、レーキ。その羽は『方舟』で切られたのは知ってるけど……その片方の眼はどうしたの?」

 唐突に無邪気に。イリスは菓子を摘まんだ指をちらりと舐めながら訊ねてくる。

 それが、レーキが最も恐れていた質問であることをイリスは知らないだろう。

 レーキは直ぐに答えることが出来なかった。

「……随分と古い傷痕でございますね」

「シーモスにはこの眼は治せないの?」

「ふむ。少々難しいかと存じます。傷ついてから長く時がたってしまうと治癒魔法は効きづらくなって行くのでございますよ」

 二人がそんなやりとりをする間、レーキは片眼を、養父母を失った、あの日のことを考えていた。

 焼ける(はだ)の臭い、燃える建物の熱さ、そして耳にこびりついてはなれない大工の断末魔。

 あの時自分が放ったモノは、確かに未熟だが強力な天法だった。死に物狂いで身を守るためとはいえ、自分はあの大工を──

あの大工にだって、今の自分と同じように大切な人たちがいたはずだ。その人たちともっと生きていたかったはずだ。

 命を奪うと言うことは、そのヒトの未来の全てを奪うことだ。

 レーキは今まで、その事を深く考えることを止めていた。考えてしまえば、その罪の重さに押しつぶされてしまうから。

 でも、それでは駄目だ。罪を背負って歩いて行くことは、自分に課せられた罰の一つなのだから。

「……どうしたの? レーキ?」

 すっかり沈黙してしまったレーキの顔をのぞき込んで、案じるようにイリスが訊く。

 レーキは一つ深呼吸をして、真っ直ぐにイリスを見つめた。

「……これは……そうだな。俺に課せられた罰なんだ。だから、たとえ治せても、治さなくていい」

「……いったい、なんの罰、なの?」

 レーキは片眼を失った経緯(けいい)をイリスに語って聞かせた。

 故郷の村が盗賊におそわれたこと、盗賊を引き入れたと思い込んだ村人に襲われたこと、自分を殺そうとした大工を返り討ちにしたこと、そして、逃げ出して盗賊団の一員になったこと。その全てを。

「……で、でも、それはレーキが殺されそうになったから、なんでしょ? レーキは悪くないよ……」

「それでも、俺がヒトの命を奪ったことには変わりない。誰かの蓄えを掠め取って生きていたことにも」

 向き合うべきは過去の罪。背負うべきはそこから先の生き方という罰。

「……俺は今の『山の村』へ行ってみたい。あの大工の家族が今も生きているなら……会って謝罪したい」

 たとえ謝罪出来たとしても、許されることは無いだろう。命を差し出すことは出来ないが、それ以外のやれることは全てしよう。

 それが今のレーキの本心で。

「……その村は、『ソト』に有るんだよね?」

「ああ、グラナートに有る」

「そっか」

 そう呟いたイリスは何かを恐れるように、ぎゅと眉根を寄せた。

 

 その日の夜。イリスはレーキの部屋にやってきた。

 今は子供の姿で、イリスはレーキに『ソト』の話をせがんだ。

「そうだな、今日は何の話をしようか?」

「……あのね、今日はレーキが生まれてから今までどうやって生きていたのか、その話が聞きたい」

 真剣な表情でイリスは言う。だから、レーキは淡々と全てを話した。

 山の村での暮らし、盗賊団の仲間、師匠のこと、アガートとの出会い、天法院の日々、クランたちと過ごした『学究祭』の思い出、セクールスとクラスメイトのこと、ズィルバーと魔獣除けのベルのこと、そして最後に大切な人、ラエティアのことを。

 思い出の全てが自分を形作っている。だから、それを知りたいと願っているイリスに伝えた。

「……ありがとう。そっか。レーキには、いっぱい大切なヒトたちがいるんだね」

 全てを聞いたイリスは、ため息のように言葉を漏らす。そして、意を決したように唇を一文字にひき結んだ。

「……ねえ、レーキ。レーキは『ソト』に帰りたい?」

「……ああ。帰りたい」

 それが嘘偽りのないレーキの本心だ。だから、それを誤魔化すことなんて、出来ない。

 イリスはゆっくりと、苦悶の表情を顔に浮かべた。

「……そっか。……そうだよね。そうだよ、ね……」

 頷いたイリスは泣き出しそうに顔をくしゃくしゃにして、喉から絞り出すように呟く。

「……ご、ごめんね。僕、僕なら……ううん。僕にも、出来ない……君を『ソト』に帰してあげられない……僕、僕は……ごめんね……ごめん……それに、ホントは君に『ソト』に帰って欲しくない……! 僕とずっと一緒に居て欲しい……!! 行かないで……!!」

 堪えきれずにぽろぽろと大粒の涙が、本音と一緒にイリスの茶色い(ひとみ)から(あふ)れ出す。すぐにイリスは声を上げて、子供らしく泣きじゃくった。

 号泣するイリスを前にして、レーキはどうして良いのか戸惑う。正直なところ、幼い子供と接した記憶は少ない。だから、自分が幼い子供だった頃、そうして欲しかったと思うことをする。

「……大丈夫。君のせいじゃない。君が謝ることじゃない」

 レーキは、イリスの頭をそっと撫でた。黒い髪は柔らかくて、さらそらと心地良い感触だ。

「……っ! レーキ、レーキ……!! ごめんね……ごめんね……!」

 イリスはレーキに抱きついて、肩口に顔を埋める。そんなイリスの背中を、レーキは彼が泣き止むまで優しく叩き続けた。

 

「もうじき、『ソトビト』の報告書を作らなきゃいけないの」

 泣き腫らした(まぶた)をこすって帰って行ったイリスは、翌日大人の姿で現れた。

「ナティエちゃんもラルカくんも『ソトビト』のことが知りたいって手紙をいっぱいくれるんだ。だから報告書、作らなくちゃ」

「俺に、出来ることはあるか?」

 レーキの申し出に、イリスはうんと嬉しそうにうなずいた。

「報告書、書くの手伝ってくれる?」

「ああ、もちろん」

「それじゃあ、今日から書き始めよう」

 そう言って、イリスは紙の束を取り出した。二人はあれこれと相談しながら白紙と格闘する。

「後でシーモスも来るよ『お二人だけだと不安でございます』だってさ!」

「ははは、俺たち、信用されてないな」

 二人は声を上げて笑う。昨晩は泣いていたイリスがいつもの調子を取り戻して、レーキは安堵する。

「……これが終わったらまた温室に行こう? それでね、甘い実をいっぱい採ってね、美味しいケーキを作ってもらうの!」

「報告書を書いたご褒美に?」

「うん!」



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第62話 『冷淡公』

『混沌の月』の後半を使って、報告書を書き上げた。

 報告書には現在の『ソト』の世界の情勢や、気候情報、流行、食物、その外レーキが解る範囲の出来事を詳細に書き連ねた。

 レーキが知っているのは、行ったことのある国の事柄だけ。どうしてもヴァローナ国内の記事が多くなった。

 レーキの希望で、報告書には個人名は一切でてこない。レーキの名も鳥人で有ることも伏せられている。

「他の幻魔に大切な人びとの名前を知られたくない。娯楽にされたくない」レーキはそう考え、イリスは個人名を記なさいことを了承した。

 出来上がった随分と厚いその紙束を、シーモスが魔法を使って別の紙束二つに複製する。

 その二つは、大きな派閥の長である『冷淡公』と『苛烈公』に届けられた。

 シーモスの回りくどい説明によると、『呪われた島』の幻魔には現在、三つの大きな派閥があるようだ。

 それはすなわち『冷淡公』を筆頭とする穏健派。『苛烈公』を筆頭とする強硬派。そしてそのどちらにも組みしない中立派。

 多くの幻魔は、穏健派か強権派どちらかの派閥についているようだが、強大な能力を持つイリスが中立派であることから、中立派も一定の発言力を持っている、らしい。

 イリス本人にその自覚があるのかどうかは怪しいが、イリスを中立派の長であると見なしている幻魔もいるようだ。

 まれに、イリスの屋敷に中立派の幻魔が訪れてくることもあった。

 そんな時、イリスはレーキを部屋に隠して決して誰にも会わせようとはしなかった。

 

 報告書を届けて一ヶ月は、何事も無く平穏に過ぎた。

 イリスは、レーキと使用人たちの大半を連れて予定通りに温室におもむいた。イリスお気に入りの温室は島の東側に位置していて、屋敷からは魔獣の引く車で約二刻(約二時間)。使用人たちの数は多く、魔獣車を何台も連ねて行く。

 陣を使った魔法で転移する事も可能だが、極力魔法に触れたくないレーキのために魔獣車がしつらえられた。

「こうやって、のんびり出かけるのも楽しいよね!」

 先頭の魔獣車に乗り込むと、イリスは楽しげにはしゃぎ始める。今日はシーモスも同席しているので、大人の姿のままだ。

 魔獣車は魔具の一種で、石畳の道を走っても揺れはほとんどない。馬に似ているが全身を(うろこ)に覆われ、たてがみの代わりにヒレの生えた魔獣、レビ=エクウスに引かれている。

 魔獣車は街中を抜けて田園地帯を抜け、やがて森の中を走る。『呪われた島』の主な道はみな石で舗装されていて、魔獣車もヒトも通行しやすいようになっていた。

 森の中に、ぽっかりと開けた土地が見えてくる。

 そこに建てられているのは、金属で作られた巨大で優美な骨組みの温室と、隣接する屋敷。温室の骨組みは曲線で構成されていて、壁も屋根も取り付けられた無数の硝子板で囲まれて、太陽の光をふんだんに取り込んでいた。

「……!」

 何度見ても、その大きさ、精緻な細工に圧倒される。温室の骨組みはどこもかしこも美しく装飾されて、この建物が実用一辺倒のためのモノではない事を知らせていた。

「ようこそ! お久しぶりです。『慈愛公』! みなさん!」

 温室の管理人は快活で年嵩に見える魔人の男で、イリスの姿を見るとにこやかに出迎えてくれた。

「そろそろペルシコ(モモ)マッサ(リンゴ)、それからウバ(ブドウ)が食べ頃です。フラゴ(イチゴ)フィコ(イチジク)もございますよ」

「やった! 僕、フラゴが一番好き。レーキはウバを摘んだことがあるんだよね?」

「ああ。果実酒にするウバを摘む仕事をした」

 ズィルバーとウバ詰みの仕事をしたことが、懐かしく思い出される。

 あれは、ほんの一年と少し前のことで。あの時は、まさか一年後に『呪われた島』に居ることになろうとは思いも寄らなかった。

「さあ、どうぞ。温室へ」

 管理人に促され、レーキたち一行は温室に踏みいった。

 春もまだだと言うのに、夏や秋になるはずの果物がたわわに実り、華やかな香りが温室中に満ちている。

 白、赤、桃色に黄色。これから実を付けるはずの花も咲き乱れ、温室の中はどこもかしこも賑やかだ。

「こちらのハサミをどうぞ。沢山収穫してくださいね」

 管理人からハサミを受け取って、レーキとイリスは果物を採り始める。使用人たちも思い思いに果物を摘み、楽しげに笑い合っている。シーモスと黒い魔獣は、そんな一行を眺めてのんびりと後から付いて来た。

 イリスは採り立てのペルシコの丸い実に、皮ごとかぶりつく。溢れ出る果汁に悪戦苦闘しながら、品良く強い甘味のペルシコを堪能する。

「おいしい! お菓子も美味しいけど、そのままの実も美味しいよね!」

「ああ」

 レーキは粒の大きなウバの実を一粒、口に運びながらうなずく。

「このウバは、俺の知っている物より随分甘くて美味しい。俺の知っているウバも甘いんだが……こう、甘さの度合いがずっと大きい」

「果実酒用のウバは、甘みの中に渋味や酸味を残してあると聞きますね。この温室のウバは食用なので、甘味を重視して品種改良してあるんですよ」

 温室の管理人が、作業する手を止めて客人に解説してくれる。

「僕もそれ、食べたいな」

「ん。ほら。どうぞ?」

 ペルシコの果汁で両手を汚したイリスの口に、直接ウバの実を放り込んでやる。もぐもぐと果実を噛んで味わうイリスは、嬉しそうに笑った。

「うん! こっちも美味しい!」

「イリス様、お手が汚れていらっしゃいますよ。これをお使いください」

 シーモスが水の球を宙に浮かべて差し出すと、イリスはそれで手を洗った。服の端で手を拭こうとするイリスに苦笑しながら、シーモスはすかさず清潔な布を差し出す。

 一行は様々な果実を採っては味わって、数刻、和やかな時間を過ごした。

 

「……おや? 転移陣が反応している……? すみません、失礼します。『慈愛公』」

 管理人が、一礼を残して慌てて屋敷に戻っていく。

 イリスたち一行は貴人が野外でそうするように、温室の中に小さな天幕を張っていた。日差しを避けて軽食やハーブ茶、そして取れたての果物をそこで味わえるように。

「おや。他のお客様がいらっしゃったようでございますよ?」

 本日、温室は貸し切りと言うわけではない。他の客と鉢合わせる、そんなこともあるだろう。

「そっか。それじゃ、そろそろお土産を採って帰ろうか」

「そうだな。帰りも魔獣車だから早めに出たほうが良いかもしれない」

 使用人たちが天幕を片づけ始め、取れたての果物は多くの籠いっぱいに詰められた。

 イリスは最後にフラゴを摘みに行き、レーキはそれについて行った。

 フラゴは背の低い草につく小さな実で、イリスは大きな身を屈めて、赤く熟れた実を摘んでゆく。時々つまみ食いをしながら。

「そんなに食べてばかりだと、籠がいっぱいになる前に熟れた実がなくなるぞ」

 レーキはフラゴ摘みを手伝いながら、苦笑気味に言う。

「だって、美味しいから。つい食べたくなっちゃうんだ」

 和気藹々(わきあいあい)と笑い合いながら、二人はフラゴを摘む。

「ねえ、レーキ。お家に帰ったら、今日とった果物を使ったお菓子の作り方を教えて?」

「え? ……珍しいな、君がそんなことを言い出すなんて」

「……うん。レーキみたいにね、美味しいもの作れたら、楽しいかな? って、そう思ったの」

 柔らかなフラゴを潰さぬように、丁寧に摘みながら、イリスは微笑んだ。

「……だが、菓子なら料理長に教わった方が良いんじゃないか? 俺よりずっと上手だ」

 イリスの料理長は、料理も菓子作りにも優れた手腕を発揮する人物で、宮廷料理とでも言える豪奢な種類の料理も多く知っていた。

 この半年の間に、レーキは彼女に教えを請うた。菓子作りは『呪われた島』に来てから、料理長に教わって本格的に覚えたものだ。

「ううん。レーキに教わりたい! 料理長は忙しいしね」

「そうか。俺で良いなら、よろこんで」

「やった!」

 フラゴの籠を高く差し上げて、くるくると踊り出すイリスに、今度はレーキが微笑んだ。

「ふふふ……相変わらずだな、『慈愛公』」

 不意に誰かの声がした。静かで、優しいがどこか冷たく、威厳に満ちた女性の声。

 レーキとイリスが振り返ると、そこには美しい黒髪を背中まで垂らした、整った顔立ちの少女が(たたず)んでいた。

 切れ長の赤い(ひとみ)、高く通った鼻梁。唇は赤の強い遊色に彩られ、わずかに笑んでいる。

「ナティエちゃん!」

 イリスが驚いたように、彼女の名を呼ぶ。

 白い行楽用のドレスを身にまとったナティエは、笑みを深めてイリスを見つめる。

「久しいな、イリス。今日は果物摘みか?」

「うん! 美味しいよ。ナティエちゃんも食べる?」

「いや、私は止めておこう。口寂しくはない。……新しい奴隷だな。アーラ=ペンナとは珍しい。片翼なのは残念だ」

 ナティエはレーキに視線を転じると、冷静に値踏みするような眼で見つめてくる。

 彼女は年若い少女の外見をしているが、その眸は老成した大人の女性のそれを思わせた。

 レーキは眼を伏せて、その視線をやり過ごす。

「……レーキだよ。奴隷屋さんで買ったの。羽は切られちゃった。ひどいことするよね!」

 憤るイリスに、ナティエは「そうだな」と同意する。

「ナティエちゃんはどうしてここに?」

「私も果物を摘みにきた……と、言いたいところだが、お前に会いに来たのだ、イリス」

「僕に?」

 ナティエの言葉に、イリスはわずかに身構える。

「イリス・ラ・スルス、報告書は読んだ。お前が拾った『ソトビト』に会わせてはくれないか?」

 ナティエの声は優しげだったが、有無を言わせない力強さがあった。

「……それは、だめ」

 イリスは一瞬レーキを見て、それからナティエに向き直った。その眸は確かに真っ直ぐナティエを見据えて、拒絶を表していた。

「……どうしても、か?」

「うん。どうしても。『ソトビト』は誰にも会わせない。君にもラルカくんにも、ね」

『苛烈公』ラルカの名が出た途端、ナティエは表情を消した。冷たく冴え冴えとした氷面のように、ナティエは冷めた眼でイリスを見つめる。

 ──ああ、思い出した。幻魔ナティエの二つ名は『冷淡公』。これが彼女の本性か。

「……そうか。解った、イリス。お前の意志は硬いのだな?」

「うん。それだけは絶対に、だめ」

 冷たい眼をしたまま念を押すナティエに、イリスはいつになく真剣な表情で返す。

 二人の幻魔の間に、じりじりと互いを燃やし尽くし、凍て尽くすような緊迫を感じて、レーキは息を飲んだ。あまりの緊張感に、そのまま時が止まってしまうかとすら思った。

 だが、先にナティエが表情を和らげた。

「……では、お前の気が変わる時を待つとしよう、イリス。邪魔したな」

「うん。じゃあね、ナティエちゃん」

 ナティエは(きびす)を返して、その場を立ち去ろうとする。レーキはほっと息をついた。その瞬間。

「……アーラ=ペンナの奴隷よ。『ソトビト』に伝えておけ。『いずれ私の前にまかり出よ』とな」

『冷淡公』ナティエは振り向いて、確かにレーキを見た。その遊色の口もとは微笑んでいたが、赤い眸は完全に凍てついていた。



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第63話 『青の月』最後の日

『冷淡公』との邂逅(かいこう)の後。

 帰りの魔獣車の中で。イリスは長い息を吐き出した。

「ナティエちゃんはラルカくんより、ずっと怖いコだから。レーキのこと、バレなくてホントによかった」

「……」

 ──はたして、そうなのだろうか?

 レーキは考える。『冷淡公』は確かに自分を見て言った。『いずれ私の前にまかり出よ』と。

 彼女は自分が、『ソトビト』であることを気づいていたのではないか?

 解っていて、そんな言葉を残したのではないのか?

 いずれにせよ二度と『冷淡公』にも『苛烈公』にも会いたくはないものだ。

「……ねえ、レーキ、レーキ! どうしたの?」

「……ああ、何でもない」

 気遣わしげに顔をのぞき込んでくるイリスに、レーキは微笑みを返す。

 イリスは安堵したように、もう一度長いため息をついた。

 

『青の月』は最後の日を過ぎて、レーキはまた一つ歳をとった。

 レーキが二十二歳になったことを知って、イリスはそれを喜び、盛大に祝ってくれた。

 生まれて初めて、誕生を祝ってくれた師匠の祝いはささやかだった。友人たちには『青の月』生まれだと言うことを告げなかった。

 だから、こんな規模で誕生を祝われたことは初めてで。レーキは戸惑う。

「おめでとう! レーキ!」

「おめでとう御座います。レーキ様」

 イリスとシーモスが口々に祝いの言葉を贈ってくれる。

「お誕生日はね、そのヒトが生まれてきてくれたことをお祝いする日だよ! 生まれてきてくれて、僕と出会ってくれて……ありがとう、レーキ!」

 実の両親は、生まれたばかりのレーキを(うと)んで捨てた。だが、ヒトの天敵である魔のモノ。その、強者である幻魔は疎まれた自分に『生まれてきてくれて、ありがとう』と言う。

 そのことがなんだか皮肉で、でも、うれしくて。

「……その、なんだ。こちらこそ……あ、ありがとう……」

 レーキは面映(おもは)ゆい心地で、祝福の声に応える。

「どういたしまして!」

 イリスは(まぶ)しそうに笑って、美しい布で包装された小箱を差し出した。

「……これは?」

「それ、ね、お誕生日の記念に、贈り物」

 レーキが小箱を開けると、小振りな折り畳み式の包丁が一本入っていた。刃には美しい書体でレーキの名が刻印されている。

「レーキはお料理好きでしょう? これがあれば、どんなところでもお料理が出来ると思うの」

「ああ、これは確かに持ち運ぶのに便利だ。ありがとう。切れ味も試してみたい。後で何か作ってみよう」

「うん! なにか美味しいもの、作ってね!」

 にこにこと嬉しそうに笑うイリスの隣で、シーモスがやはり美しい布で包まれたなにかを差し出す。

(わたくし)からはこちらを。お納めくださいませ」

 その包みには、辺の片方に穴があいた小振りな長方形の鉄板が入っていた。こちらにもレーキの名が彫刻されている。

「包丁を使われるからには、まな板もご入り用で御座いましょう? この鉄板ならまな板の代わりになりますし、そのまま肉などを焼くことが出来ます」

「シーモスも……ありがとう。大事に使わせてもらう」

 レーキは包丁とまな板を、腰のポーチに丁重にしまった。それは、あつらえたようにポーチの大きさにぴったりだった。

「……そうだ。イリスの誕生日はいつなんだ?」

「僕? 僕はね、『緑の月』の二十日だよ。レーキとおなじ、春の生まれだよ」

 レーキの問いに、イリスはにっこりと笑って答える。

『青の月』が終われば次は『緑の月』だ。すぐにイリスの誕生日は巡ってくる。

「解った。その時はイリスを祝おう。何かほしいモノはあるか?」

「えーとね……僕は、レーキが作ったケーキが食べたいな!」

「ケーキだな? 腕によりをかけて作ろう」

「やった!」

 手をあげて大喜びするイリスの隣で、取り澄ました顔で「よろしゅう御座いましたね」とつぶやいたシーモスに、レーキは訊ねた。

「ところでシーモスは? 誕生日はいつなんだ?」

「……私、で御座いますか?」

 不意に話題を振られて、シーモスは一瞬驚いたように眼を見開いた。

「私は……忘れてしまいました。随分と昔のことで御座いますから」

 驚きは、直ぐに人を食ったような笑みに沈んで隠れてしまう。レーキは、シーモスの不意をつけたことを密かに喜んだ。

「シーモスは、毎年お祝いさせてくれないんだよね……」

「魔人は長い時を生きます。毎年、誕生日を祝っておりましたらキリが御座いませんよ」

 苦笑を漏らすシーモスを、イリスは不服そうに見る。

「僕は毎年お祝いして欲しいし、なんなら毎日だってお祝いして欲しいな。何でもない日でもさ!」

「……イリス様は菓子を食べ過ぎでいらっしゃいますよ。あれはあくまで嗜好品で御座います」

「う……」

 シーモスにたしなめられて、イリスは言葉に詰まったようだ。

「でも、でも……美味しいし……美味しいし!」と言い訳にならぬ言い訳を繰り返す。

 二人のやりとりを聞いていたレーキは、くすりと笑った。

「ほら、レーキ様にも笑われておりますよ」

「あー! レーキ、笑うなんてひどいよー!」

「ごめん。何だか二人が仲のいい兄弟みたいで、つい、な」

 兄弟。そんな風に言われたことなど無かったのだろう。イリスたちは互いに顔を見合わせて、

「じゃあ、僕がお兄ちゃん!」

「私が、兄で御座いますかね」

 同時にそう言った。

 

『緑の月』に入って、『冷淡公』と『苛烈公』からイリスに正式な招待状が届いた。

『冷淡公』は丁重に、『苛烈公』は簡潔に、

報告書は読んだ、『ソトビト』を伴って晩餐会に来いと、それぞれに言ってきた。

「うん。もちろん断るよ」

 にこやかに、だがきっぱりとイリスは言う。

 レーキとてそうしてもらいたい。

 ここはイリスの書斎。今は上質の材で作られた書き物机の向こうにイリスが座り、レーキとシーモスは来客用のソファに腰掛けている。

「……しかし、公式の招待状でございますから、お断り致しますにも何か正当な理由をこじつけませんとなりませんね」

 二通の招待状を代わる代わる見比べていたシーモスは、何かに目を留めた。

「おやおや。どちらの晩餐会も同じ日付でございますね。仲のおよろしいことで。これでしたら、お二方共に片方だけに出席は致しかねるとお返事致しましょう。『冷淡公』も『苛烈公』もご納得いただけるでしょう」

「うん。変なところで気が合うんだよね、ナティエちゃんもラルカくんも。……でもちょうど良かった。どっちも行く気はないもの」

 招待状の封筒をもてあそびながら、イリスは物憂げにつぶやいた。

「報告書もあげたのに……二人ともしつこいよね!」

「『ソトビト』の来訪は約二十年ぶりで御座いますから。『ソトビト』から少しでも外界の情報を引き出したいので御座いましょう」

 まれに『呪われた島』に紛れ込む外界人、『ソトビト』。

『ソトビト』の情報は、時としてこの島に変革をもたらす。新しい流行を生み出す。

 魔のモノはその変化を望んでいる。

 長い時を生きるモノにとって、常に変わらない日々とは猛毒なのだろう。

「……なあ、その、二十年前の『ソトビト』は今はなにをしているんだ?」

 黙って二人のやりとりを聞いていたレーキがふと、浮かんだ疑問を口にする。

 イリスとシーモスは、視線を交わして沈黙する。訊ねてはならぬことを訊ねたのかと、レーキは身構えた。

「……二十年前、『ソトビト』を見つけましたのは、『苛烈公』の魔人で御座いました。彼は……『苛烈公』の尋問を受けて、それから行方不明になられました」

「行方、不明?」

「表向きは、で御座います。恐らくは『苛烈公』のご趣味が行き過ぎた結果で御座いましょう」

 ご趣味が、行き過ぎた。では前にこの島に紛れ込んだ『ソトビト』は『苛烈公』に責め殺されたと言うのか。

「僕たちは前の『ソトビト』さんの名前も解らないの。ラルカくんがくれた報告書には書いてなかったから」

「人間で……壮年の漁師であった、と聞き及んでおります。ですが、それだけです。外界の情報も、多くを語る前に『行方不明』、でございましたから。レーキ様は本当に運がよろしかった」

 レーキの背中に、冷たいモノが伝わって行く。あの時、イリスが間に合わなければ、自分もどうなっていたか解らない。危ない所だった。

「……とにかく、ナティエちゃんにもラルカくんにもお断りの返事をして、この話はお終い! もっと楽しいことをお話ししよう」

「左様でございますね」

 イリスが強引に話題を打ち切ったおかげで、重苦しかった書斎の雰囲気が幾分和らいだ。

「僕の誕生会だけどさ。今年はお家のコたちだけでやろうか。お客さんにレーキを会わせたくないし」

「それでしたら、例年通りの晩餐会と内々のお祝いと両方を催しましたらいかがでしょう? レーキ様がいらしてから、イリス様は社交の機会を回避してしまわれますから」

「あ、それ良いかも! 二回誕生会をやれば二回美味しいものも食べられるし」

 書き物机の向こうで、イリスは両手を上げて賛成する。

「では、そのように。追加の『ワイン袋』の手配もいたしましょう。近頃のイリス様は『食事』をさぼっておいでだから」

「うう……」

 やれやれとばかりに、シーモスが肩をすくめる。

 イリスは、レーキと一緒に良く食事をしていたはずだ。菓子までたくさん食べていた。

 それなのに、『食事』をさぼっているとはどういうことだろう。

 ──ああ、そう言うことか。

 魔のモノにとってヒトの食事は嗜好品。ヒトこそが魔のモノの生きる(かて)

 どんなに優しく、好意的であったとしても、彼らは魔のモノ。ヒトとは違う理で生きるモノ。

 その事を、レーキは改めて思い知らされた気がした。

 



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第64話 確かに心に残るモノ

『緑の月』を迎えて、イリスの屋敷はにわかに忙しくなった。

 毎年『緑の月』には、主に中立派の幻魔たちを招いて、イリスの誕生日を祝う晩餐会を行う。

 それが、この屋敷で一番大きな社交行事で、使用人たちはみな準備に追われていた。

 普段は使われていない客室まで丁寧に掃き清められ、庭の木はすっきりと剪定(せんてい)され、花瓶という花瓶に美しい花が生けられた。

 イリスの意向で、食事はヒト用のモノが(きよう)される。

 晩餐に招いた幻魔とその従者たちは、全部で三十五人ほど。その全てに、身分に相応しい食事を提供する。

 普段は屋敷のモノたちが食べる分だけの食事を用意している厨房は、てんてこ舞いで。

 レーキは厨房で、晩餐会の用意を手伝った。

 料理長の指揮の(もと)、懸命に働いている間はなにも考えずにすむ。

『呪われた島』のこと、魔のモノのこと、友のこと、ラエティアのこと、どうやってここから逃れたらいいのか──

どんなに歓待されても、たとえ情を感じても。

 ここは自分のいたい場所ではない。

 帰りたい場所ではない。

 それだけは、揺らがない。

 でも、ここから逃れることばかりを考え続けていることに、疲れている自分もいた。

 だから、この機会はレーキとってさいわいだった。

 

「お料理とっても美味しかったよ! みんなも喜んでた」

 晩餐会を終えた翌日。イリスは子供の姿でレーキの前に現れた。

 会の間中、レーキは厨房にいた。おかげで招待客には、誰一人会うことはなかった。

「それなら、よかった。料理長にも伝えておこうか?」

「ううん。もう言ったよ! それでね、今日のお菓子も貰ってきたの」

 たしかに、イリスは焼き菓子の載った皿を手にしていた。

 レーキはイリスに椅子をすすめる。二人はテーブル越しに向き合った。

「ぬかりないな」

「えへへ。これは昨日のお菓子の残りなの。多めに作っておいたんだって」

 焼き菓子を摘まみながら、イリスの話に耳を傾ける。イリスはやってきた客についてあれこれ聞かせてくれた。

 晩餐会で特に好評だったのは、レーキの知識を元にシーモスが作った香辛料を使う料理だったと言う。

「……みんなそのお料理を食べて、これが『ソトビト』の新しい料理か、『ソトビト』に会わせて欲しいって言うんだ。そのためにお誕生会に来たんだと思う。もちろん断ったけど」

「断ってくれたのはありがたいが、昨日来たのは、君と同じ中立派の幻魔なんだろう? それでも駄目なのか?」

「うん。だめ。中立派のみんなのなかにはね、ナティエちゃんとラルカくんが嫌いなだけでホントは僕と仲良くしたい訳じゃない人もいるから。そう言う人はレーキに何をするか解らないし」

 言動こそ幼いが、イリスは思慮の浅い子供ではない。長い年月を過ごすうちに、ヒトの心の機微を良く見つめて来たようだった。

 そんなイリスがそう言うのだから、中立派の中にも確かに危険な者もいるのだろう。

「このヒトなら信用出来る、って中立派のヒトもいるよ。でもそのヒトだけにレーキを会わせたら、不公平でしょ? そんな風に言われたら全員にレーキを会わせなきゃいけなくなっちゃうから」

 それは、その通りだ。イリスは派閥の長でもあるのだから、より一層公平であることを求められるはずだ。

「……それにね、ホントの事を言うとね、レーキを紹介したい友達はいないの。この島で、ホントに友達だって言えるヒトは、シーモスだけなんだ」

 どこか寂しげにイリスは笑う。この、けして狭くはない島の上で、友と呼べるモノがたった一人であるとイリスは言う。

「もちろん僕のお家で働いてくれてるコたちは、大事だよ。でもね、みんなは弟とか妹みたいな感じでね、友達ではないの。それに、普通のヒトのみんなはね、僕より早くいなくなっちゃうから。友達になっちゃいけないってシーモスは言うの」

 長い時を生きれば、普通の人々とは生きる時間が違ってくる。

 親しくなった者をなす術なく見送る。それも、幾度となく。その度に心は深く傷ついて削られていく。

 自分の心を守るために、シーモスの言葉は正しいのかもしれない。

「ふふ。だから、普通のヒトとは友達にはなれないの。けど、でも……」

 イリスはレーキをじっと見つめて、哀しげに眼を伏せた。

「……そう、思ったら、何だか苦しくて……悲しくて、心臓がね、ぎゅーってなるの」

 レーキには、イリスにかける言葉が見つからない。幻魔として生きることの孤独を、レーキは知らない。想像を巡らすことすら難しい。

 だから。レーキは静かにイリスの手を取った。

「……本当に大切なヒトは、たとえ死んでも君の心の中にずっと、いる」

 自分に向かって呟くように、イリスを諭すように、レーキは続ける。

「大切な人を亡くしたとき、始めは心の中に穴があいたみたいに虚しくて苦しい。自分にはもっと何かが出来たんじゃないかって、後悔する。でもいつか、思い出は寒い夜の炎みたいに君を暖かく照らしてくれる。きっと俺の師匠や盗賊団のみんなみたいに。だから、恐れないでくれ。ヒトと過ごす時間を」

 真っ直ぐにレーキはイリスを見つめる。

 イリスは驚いたように眼を見開いて、レーキを見つめ返してくる。

「レーキ……っ」

「……偉そうなことを言って、すまん。ただ俺は、そう思っている」

 イリスは、右手に重ねられていたレーキの手をぎゅっと握り返した。

「ううん。ありがとう。……そっか。思い出、か。そうだね。そのヒトと過ごした思い出は無くなったりしないね。ずっと『ここ』にある」

 イリスは胸に手を当てて、呟いた。その表情が何かを吹っ切ったように、明るく晴れていく。

「……ねえ、レーキ。たとえ君がいなくなっても、僕はきっと君と一緒にいたことを覚えているよ。一緒に食べたお菓子の味も、一緒に歩いた市場の匂いも、君の手が温かいことも、君の声もその羽の色も、きっと、きっと忘れない」

 だから。今度はイリスがそう言って言葉を継いだ。

「……僕の友達になってくれる?」

 ああ。解った。自分より先に旅立ってしまうと解っていても。誰かとつながる事を止められない。

 呪いが降りかかると解っていても、手を伸ばすことを止められない。

 イリスと自分は似た者同士だった。

「俺が呪われていることを、君は知ってるだろう?」

「うん。……でも、君ならきっとその呪いに負けないって僕は信じてる」

「君は死ぬことが怖くないのか?」

「ううん。怖い。とても怖いよ。でもね、僕はもう、十分に生きたんだ。だから……死ぬことくらいで君を諦められない」

 イリスの指先と言葉に熱がこもる。

「それにね、いつか死んじゃうから、ヒトは生きてることが楽しくて、嬉しいんだよ!」

 果てしなく長い寿命を捨ててもいいと、イリスは言う。それだけの価値がレーキとの絆にあると。

「……すまない。もう、遅い。……俺は君のことを友達だと、思っている」

 レーキの告白に、イリスは嬉しそうに顔を輝かせた。

「ありがとう……!」

 万感の思いを込めて、イリスは言う。

 そのまま、イリスはレーキに飛びついて、ぎゅっと抱きしめてくる。

「ありがとう、レーキ! 僕の新しい友達!」

 

 晩餐会から間もなく、イリスの私的な誕生会が開かれた。参加しているのはイリスの屋敷にいる者たちばかり。

 レーキはイリスの願い通りに、大きなケーキを幾つか作った。使用人たち全員に行き渡る量だ。

 イリスの誕生会は、晩餐会の準備に追われた使用人たちの慰労を兼ねていた。

 使用人たちは大いに飲んで食べた。イリスは終始満足げな表情で笑い、この日ばかりはシーモスもうるさい事は言わなかった。

 これからも、こんな穏やかな日が続いていくのだろうか。

 その時のレーキは、そんな風に考えてしまった。

 



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第65話 魔装具

 また、夏が巡って来る。

 四季のない、『呪われた島』での暮らしは、すでに一年になろうとしている。

 

 その日、レーキは朝からシーモスの工房に呼び出された。

「朝早くからお呼び立ていたしまして、申し訳ございません。レーキ様もいち早くご覧になりたいかと存じまして」

「一体何を俺に見せたいんだ?」

「ふふふ。此方(こちら)でございます」

 珍しく興奮気味に、シーモスは机の上にあった布包みを指差す。

「どうぞ。開けて、中身をご覧ください」

 レーキは慎重に包みを開いた。

 その中には、銀色の『金属で作られた羽』としか形容しようがない物体が折り畳まれて収まっていた。

「……これは?」

「貴方のために作らせました、『魔装具』の試作品一号でございます!」

 とうとう出来たのか。レーキは驚きと喜びで、言葉もない。

 ゆっくりと息を吐いて、ごくりと唾を飲み込む。

「まだ塗装も終わってはおりませんが。まずはレーキ様にこの羽をお試しいただいて、微調整を行いましょう。塗装はそれからでございます」

「……ああ。これで俺はまた、飛べるんだな?」

「左様でございます」

 自信たっぷりに、シーモスは一礼する。

「ただ……一つ問題が」

「問題?」

「飛ぶための強度を得るために、レーキ様の骨に軸を埋め込む必要がございます。もちろん痛み止めは処方いたしますが、術後は少々痛みを感じますかと」

 もったいぶったシーモスの言い方に、レーキは決意を固めるように大きく息を吸い込んだ。

「……耐えられるほど、少々、なのか?」

「ええ、軸が骨に馴染むまでは少々」

「では、やってくれ」

 再び空を飛べるなら。多少の痛みは堪えよう。出来ることは何でもしよう。

 レーキの決意は固い。シーモスは我が意を得たりとばかりに、にやりと笑った。

「それでは早速、準備いたしましょう。これをお飲み下さい」

「これは?」

 手渡されたコップの中には、どろりとした濃い緑色の液体が入っている。薬のような、とてもかぐわしいとは言えない(たぐい)の匂いが鼻まで届く。

「体の感覚を麻痺させる薬でございます。これで感覚を麻痺させて、眠っていただいている間に骨と軸を融合いたします」

「それは、魔法で?」

「半分『はい』で半分『いいえ』でございます。軸を埋め込む手術自体は魔法を使用いたしませんが、その後、治癒魔法をかけて定着を早めてまいります」

「解った。あなたに任せる」

 今でも、シーモスは全幅の信頼を置くことの出来ない相手だと思う。

 それでも、イリスの望まぬことはしないと言ったその言葉を、レーキは信じる。

 レーキは、コップの中身を一気に飲み干した。

 それは意外にも青臭くもなく、口当たりも良く、(ほの)かに甘く飲みやすかった。

 直後に、舌先がじんと痺れるような感覚。

 (うなが)されるままうつ伏せに台の上に横になると、レーキはそのまま意識を失った。

 

 次に目を覚ますと、そこは自分にあてがわれている客間だった。

 この一年の間、ずっと寝起きしてきた客間はすっかり馴染みの景色で。

「う……」

 まだ、少し体が重い。じくじくと羽の芯が痛んだ。手術とやらは無事に終わったのだろうか?

 左の羽を広げてみると、断ち切られた羽の先端に金具のようなモノが突き出ていた。

 どうやら無事に成功したようだ。痛みも耐えられぬ程ではない。

 レーキは寝台から起き上がって、体調を確かめる。

 ふらつきはない。(うず)くような痛みの他は、変わった所はない。これなら問題ない。

「……レーキ! 手術したんだって?! 大丈夫?!」

 ノックもせずに飛び込んできた子供の姿のイリスは、心配そうに眉根を寄せて、レーキのそばまで駆け寄ってくる。

「もう動いて平気なの?」

「ああ。大丈夫だ。羽が少し痛むだけだ」

 レーキが金具のついた羽を広げて見せると、「良かった……!」と、イリスは安堵の表情を浮かべた。

「これで、レーキは飛べるようになるんだね……!」

「……ありがとう。君たちのお陰だ」

「えへへ。どういたしまして! 僕は何にもしてないけど、ね!」

 何もしていないと言いながら、胸を張るイリスに、レーキは口元を綻ばせる。

「飛行テストはいつするの?」

「まだ聞いていない。早ければ嬉しいんだが」

「テストをするなら、海の上ですると良いね、もし落っこちたりしたら危ないも、の……?」

「失礼いたします! イリス様!」

 不意に部屋の扉が開いた。

 常になく緊張した面持ちのシーモスが、ノックも無しに部屋に入ってくる。

 イリスとは違って、シーモスは礼儀作法などにうるさい。その彼が慌てて駆け込んで来るとは。よほどの一大事に違いなかった。

「『冷淡公』と『苛烈公』にしてやられました! あのお二人が共同で『使徒議会』に働きかけて、議会が『ソトビト』の身柄を議会預かりにする(むね)の使者を送って参りましたよ!」

「え?!」

「……?!」

 一息に言ってのけたシーモスは、イリスを見据えた。驚愕していたイリスは、見る間に表情を険しくした。

「使者はいまどこ?!」

「応接室に。イリス様を呼んで参りますからと抜け出して参りました。イリス様、お召し替えを。それで時間を稼ぎましょう!」

「わかった!」

 イリスの姿がぼやける。次の瞬間には大人の姿となったイリスが現れた。

「レーキはここにいて! 絶対に議会に引き渡したりしないから!」

「解った!」

 ばたばたと(せわ)しなく、イリスとシーモスは部屋を出て行った。

 不安な心地のまま、レーキは一人取り残される。

 じりじりと時間だけが過ぎていく。

 

 二十七人の幻魔たちが議員として所属する『使徒議会』は、魔の王亡き今、魔のモノの最高意志決定機関であると聞いた。

 幻魔たちに問題が持ち上がったとき、票決をもって問題解決に当たるのが『使徒議会』だと。

 その場合、過半数の賛成をもって議会の意志を決定とすると言う。

 イリスの派閥、中立派は数の面で『冷淡公』の穏健派、『苛烈公』の強硬派に負けている。その上二つの派閥が手を取り合ったとなると、票は過半数に達してしまう。

『ソトビト』欲しさは、普段の不仲すら乗り越えてしまうというのか。

 もし、議会の命令をはねつけたら、イリスはどうなってしまうのだろう。

 イリスの力は強力で、容易く傷つけられることはないかもしれない。だが、他の二十人余の幻魔たちを敵に回して無事でいられるとは思えない。

 俺が『ソトビト』だと使者に名乗り出たら、イリスやシーモスは何事もないだろうか。

 彼らに迷惑をかけることもないだろうか。

 レーキは逡巡(しゆんじゆん)する。

 議会預かりとなったら、俺はどうなるのだろう?

 今のように、自由に屋敷を歩き回るようなことは出来なくなるだろうか?

 イリスたちとも、引き離されてしまうだろうな。

「それはイヤだ、な……」

「……何がイヤなのだ?」

 一人(つぶや)いたレーキの背後から、不意に声がした。

 静かで、優しいがどこか冷たく、威厳に満ちた女性の声。どこかで聞き覚えのあるその声。

「……?!」

 振り向いたレーキの前に立っていたのは、『冷淡公』ナティエであった。

「『冷淡公』! どうして、ここに?!」

「また会ったな。……私の幻魔としての能力……教えてやろう『ソトビト』。それはな……」

 ゆっくりと、ナティエの指先がこちらに伸ばされる。レーキはその指先から逃れようと、後じさった。

「無駄だ。『ソトビト』」

 まただ。背後でナティエの声がする。気が付けば、彼女はレーキの背後に肉薄していた。彼女が付けている香水の香りが、ふわと鼻に届くほどに。

「……『跳躍(ジヤンプ)』だ」

 静かな声音と共に。ナティエの腕がレーキの羽に触れた。その瞬間。

 レーキの視界がふっと暗くなる。

 次の瞬間。レーキはナティエと共に見知らぬ場所に立っていた。

「……ここは魔の王様の城だ。『ソトビト』の身で、この場所に立てることを喜ぶんだな」

 

 レーキは持ち物を取り上げられて、長いらせん階段を登らされた。

 そして、分厚い木製の扉のついた、牢のような部屋に放り込まれた。

 部屋は狭く、半円形で、窓には頑丈な格子がはまっている。そこから見える景色は、随分と空が高い。どうやらこの部屋は天を()く塔の上にあるようだった。

 寝台と小さな机、丸椅子。それがこの部屋にある家具の全てで。

 レーキは黙って寝台に腰掛けた。

 ……やられた。使者はイリスとシーモスを引きつけて置くための罠だった。

 本命は『冷淡公』の能力。レーキを『ソトビト』だと見破っていた『冷淡公』であれば、レーキを捕らえることも難しく無かったのだろう。こんなに易々と連行されてしまうなんて。

 今頃、イリスたちはどうしているだろう。

 俺がいなくなって、慌てているのだろうか。

 ──慌てているんだろうな。……でも。

 かえって良かったのかも知れない。こうして捕らわれていれば、イリスたちに迷惑をかけることもない。

 彼らが議会を敵に回すことはない。

 だがこれで、この『呪われた島』から抜け出すことはほぼ不可能になった。

 イリスたちならまだしも、議会が相手ではこの魔の王の城を出ることすら難しいだろう。すでに事態は絶望的で。

 レーキは頭を抱えて、背中を丸めた。

 



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第66話 高い塔の上

 翌朝、レーキは両手に(かせ)をはめられ、鎖に繋がれて部屋を連れ出された。

 長いらせん階段を下らされ、大きな建物を引き回される。

 たどり着いたのは、天井の高い広い部屋。

 何十人もの人が一斉に踊り出したとしても、まだ余裕のあるその部屋には、大きな楕円形の円卓が据え付けられ、その周りに一際大きくて立派な椅子と、二十七脚の椅子が置かれていた。

 ではここが、議会の会場。二十七人の幻魔が集まって、『呪われた島』の意志を決定する中枢。

 たった今、二十七脚の椅子は二十脚だけ埋まっている。大きな椅子には誰もかけていない。

 穏健派と強硬派、それぞれ十人ずつの幻魔たちがこの場所に集まっていた。

 円卓を前にして、レーキは(ひざまず)かされた。

「……貴様が『ソトビト』であったとはな」

『苛烈公』ラルカの()()ましげな声が、静まり返った議会場に響く。

「『ソトビト』、そなたの名は?」

『冷淡公』ナティエの冷たい声が、いっそ優しくレーキに尋ねた。

「……レーキ、ヴァーミリオン、と言います」

 レーキは出来るだけ声を張った。(うつむ)いても、沈黙しても、ここにいる幻魔たちに自分を罰する隙を与えるだけだ。

「……『ソトビト』レーキよ。『慈愛公』の報告書は正確であるか?」

「作成には俺──私も関わりました。何度も推敲して、正確を期してあります」

「ふん。正確な報告書が欲しければ絞り上げて吐かせればいい」

『苛烈公』はニヤニヤと酷薄な笑みを浮かべて、腕を組んだ。

「貴公の『趣味』は最後の手段だ。『苛烈公』。前回の『ソトビト』のこと、忘れたか?」

「うるさい、黙れ、『冷淡公』! 『ソトビト』のことで一時休戦してはいるが、貴様と私は敵同士だ!」

「ああ、そうだ。愚かにもそれを忘れて貰っては困る」

 互いの間に火花を散らすように。『冷淡公』と『苛烈公』は向かい合う。

 二人の間を取り持つよう、あるいは(あお)るように、両派の幻魔たちが口々に何かを叫ぶ。

 蚊帳の外であるレーキは、固唾を飲んで円卓でのやりとりを見守った。

「……静粛に! ふむ。正確ならば良いのだ。私が『ソトビト』に聞きたい事は今の所、無い」

 先にレーキの存在を思いだしたのは、『冷淡公』のようだった。『冷淡公』は今回の議長役でもあるのだろう。彼女の言葉で、議場はしんと静まり返った。

 険しい顔をしたままの『苛烈公』から顔を背けて、『冷淡公』はレーキを見据えた。

「そなたの身柄は、『使徒議会』がこの魔の王様の城にて預かる事となった。そなたは議会全体の所有物だ。以後は聞かれたことに素直に答えよ。嘘を並べ立てるなら『苛烈公』のお手を煩わせる事となろう」

 皮肉たっぷりに『冷淡公』は命じる。

 レーキはうなだれて、「はい」と答えた。

「……一つ、質問があります。『冷淡公』」

「ほう。なんだ? 質問を許そう」

 真っ直ぐ前を見て、そう告げたレーキに、『冷淡公』は興味をそそられたようで。

 レーキは一息深呼吸して、はっきりと言った。

「『慈愛公』はどうしてこの場所にいらっしゃらないのでしょう?」

「簡単な事だ、『ソトビト』よ。『慈愛公』はこの一年の間貴様を独占しておった。それゆえ彼とその仲間たちは十分に『ソトビト』の知識を吸収した。議会はそう判断したのだ。よって、『慈愛公』はもう二度と貴様に会う事は叶わん」

『冷淡公』に代わって、『苛烈公』が嘲笑うようにレーキに告げる。

 もう、二度と。イリスにもシーモスにも、屋敷の使用人たちにも会う事は出来ない。

 その事実が、レーキを打ちのめす。

 がっくりと肩を落としたレーキに、『冷淡公』は静かに微笑みかけた。

「そなたは殺さぬ。生きて我らの役に立てることを光栄に思え。……それに、喜ぶが良い。そなたの働き次第では魔人の末席に名を連ねてやっても良いぞ」

 殺されなかったとしても。魔人にされれば、長い時をこの『呪われた島』で過ごすことになる。もう二度と大切な人たちには会えない。

 レーキは全てを打ち砕かれた思いで、両手を床についた。

 

 どうやって部屋に戻されたのか、覚えていない。

 気がつけば塔の上の狭い部屋に戻されて、手枷を外されていた。

 机の上には、カチカチに乾いたパンとどろりと濁って冷えたスープが、夕食として申し訳程度に置かれていた。

 それを食べる気分にはなれず、レーキは寝台に横になった。

 寝台は長い間使われていなかったのか、カビ臭く横になっただけで埃が舞い上がる。

「ごほっ……ごほっ!」

 軽く咳き込んだレーキは、隻眼(せきがん)に涙がにじむのを感じた。

 

 翌日、レーキが部屋から連れ出される事はなかった。日がな一日、出来ることもなく、レーキは寝台に横たわって静かに過ごした。

 食事は日に一度。それを運んでくるのは、無口な奴隷の男だった。

 レーキが話しかけても、何の返事もない。こちらを見ようともしない。

 食事は粗末だが量の多いモノで、イリスの屋敷で食べていたモノとは比べものにならなかった。

 体力を保つために一口、二口食べてみて、あまりの味気なさに愕然とする。

 そんな食事でも無いよりはましだ。幼い頃は食べられるモノなら、どんなモノでも喜んで食べた。

 自分はいつから、美味いと思うことを当たり前に思っていたんだろう。

 自分はいつから、友と呼べる人たちと一緒にいることが当たり前だと思っていたんだろう。

 一度暖かな世界を知ってしまったら、もう昔には戻れない。

 レーキは呆然と、窓の外の切り取られた空を見上げた。

 

 二日目。やはり音沙汰はない。

 レーキは捕らえられた獣のようにぐるぐると狭い部屋の中を歩き回る。

 何もない。出来ることもない。

 いっそ、この部屋を燃やしてしまおうか。レーキは考える。

 火事が起きて人々が騒いでいる間に、この部屋を抜け出して、逃げ出して……その後は、どうする?

 どこまで逃げられるか解らない。それに、この島からはどうしたって逃げられないのだ。

 それに、俺が逃げたらイリスたちはどうなる?

 もう、彼らには迷惑はかけられない。そう思うと。レーキは身動きが取れないでいた。

 

 三日目。

『冷淡公』の前に引き出されて、幾つか質問を受けた。

 それはどれも、報告書に書いた出来事を補完するような質問で。

 レーキは淀みなく答えた。

『冷淡公』は満足して帰って行って、レーキはまた塔の上の部屋に放り込まれる。

 その繰り返しが二、三日続いた。

 

 

 レーキが魔の王の城に捕らわれてから、三週間。呆気ないほど簡単に時は過ぎた。

 近頃、レーキは寝台に横たわっている事が多くなった。身を清めていないせいで、顔にはまばらにヒゲが生え、着ている物からはすえたような臭いがする。

 この部屋には鏡がない。だからどんなにひどい顔をしていても、構わない。

 一週間も食事係の奴隷にしか会わないから、どんな格好をしていても、構わない。

 レーキはひどく疲れていた。

 この牢獄での静かすぎる暮らしは、まるで拷問のようで。

 この際、『冷淡公』や『苛烈公』でもいい。誰かと話したかった。笑い合いたかった。

 ──ああ、今頃イリスは、シーモスは何をしているのだろう。

 もう、俺を諦めたのだろうか。忘れてしまったのだろうか。

 訳もなく涙が出る。ああ、もう。いっそのこと……

 いや。そんな事は出来ない。

 たとえ苦しくても、自分は生きなければならない。まだ、死ぬわけには行かない。

 俺はまだ大丈夫。愛しい人々の顔を思い出せる間はまだ。

 こつりこつり。誰かが階段を上がってくる音がする。今日も食事係が食事を運んでくるのだろう。

 レーキは寝台から起き上がる。今日も食事を摂らなければ。生き延びなければ。

「……こちらで、ございます」

 珍しい。食事係が声を発している。鍵を開ける音がして、誰かがこの牢獄に入って来る。

「ご苦労。お前は下がって良い」

 そこに立っているのは。美しく長い黒髪の少女。『冷淡公』だった。

 

「『冷淡、公』?」

 どうして、こんな所に?

 訳も分からず、レーキはただ呆然とするばかりで。

『冷淡公』は後ろ手に重い扉を閉めた。

「……レーキ!」

『冷淡公』の遊色の唇がレーキの名を呼ぶ。彼女はいきなりレーキに飛びついてきた。

 その顔もその声も『冷淡公』その物なのに。

 レーキを見つめる赤い(ひとみ)はとても優しくて、懐かしくて。

「……あ……あ、あ……君は、イリス?」

 そう、呟いたレーキの目の前で、『冷淡公』の姿がぼやける。

 次の瞬間には。子供の姿のイリスが、涙目でレーキに抱きついていた。

「そうだよ! ……ああ、良かった! 無事だったんだね! レーキ!」

 イリスは声を潜め、それでも喜びを爆発させてレーキを抱きしめる。

「ああ。身体はなんともないよ……でも、どうして、ここに?」

「君を助けに来たんだ! 遅くなってホントにごめんね……もっと早く来たかったのに! シーモスが三週間お待ちくださいって言うから……」

 助けに来てくれた。イリスたちは俺を忘れた訳ではなかった。そのことがとても嬉しい。眩暈(めまい)がするほどに!

「……時間もないから手短に言うね! レーキはその扉を押さえてて。誰も入ってこれないように。あ、そうだ。これ!」

 そう言ってイリスが差し出したのは、レーキがいつも持ち歩いていた、腰のポーチだった。

「君の持ち物はみんな入ってる。それから、これ」

 イリスはレーキの王珠(おうじゆ)を首にかけてくれる。

「はい。レーキの大事なもの。これも、必要でしょ?」

「ああ、ありがとう! これがあるし、ただ扉を押さえるより効果的な方法がある」

 レーキは分厚い扉に近づいて、手をかざした。

「『封錠(セルーロ)』」

 扉に、容易くは開けられない天法の錠前をかける。これで、外から扉を開こうとするモノをしばらくは拒めるはずだ。

「それで、これから何をする?」

「うん。まずはこの、邪魔な鉄格子を……」

 イリスは窓に嵌まった鉄格子を、易々とこじ開けて引き抜いた。窓はぽっかりと虚空に口を開ける。それは、レーキや子供の姿のイリスなら、通り抜け出来る大きさだ。

「ここから外に出るのか? でも、ここは高い塔の上だぞ?」

「うん。大丈夫。僕の後についてきて」

 イリスは躊躇(ためら)いもなく、窓の外に身を躍らせた。

 その姿が一瞬ぼやけて、次の瞬間には変化している。

 真っ白な鱗に覆われた、巨大な体躯(たいく)。レーキが一抱えしても、まだ足りないほど太い四肢。しなやかな尻尾はやはり大きく、広い広い背中には空を飛ぶためには十分なほど大きい竜の羽根が生えていた。

 穏やかな、茶色の眸と遊色の角だけはそのままに。イリスは竜の姿となって、中空に浮かんでいた。

『さあ! レーキ! 来て!』

 脳内に直接声がする。竜のイリスが腕を伸ばす。誘われるがまま、レーキは窓辺を蹴って、その腕に飛び込んだ。



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第67話 さようなら、友よ

 イリスが、力強く空を飛ぶ。

 レーキをその手の中に隠して、一度屋敷の庭に降り立つ。

 そこでは、シーモスと屋敷の使用人たちが待っていた。

「お久しぶりでございますが、ご挨拶は後ほど。まずはこれを」

 シーモスが差し出したのは、レーキのための魔装具(まそうぐ)。切られた羽の代わりになって、空に羽ばたくためのもの。

「もう、使えるのか?」

「もちろんでございます! さあ、装着いたしましょう」

 かちりと音がして、魔装具が骨に取り付けた軸にはめ込まれる。それはぴたりと、残った羽に沿い、一体となった。色だけは未塗装の銀色のままで。レーキは羽を広げて違和感が無いかと確かめる。

「痛みはございますか?」

「いや、無い。ありがとう」

「時間がございません。テストは抜きで、ぶっつけ本番で参りましょう。行けますか? イリス様!」

『もちろん!』

 まだ、竜の姿のままだったイリスが、身を(かが)める。

『乗って! 二人とも! しっかり掴まってね!』

 レーキとシーモスが背中に登ると、イリスは大地を蹴って空に飛び上がった。

 次第に遠ざかる屋敷の庭では、使用人たちが口々に「ご無事で良かった!」「お元気で、レーキ様!」「さようならー!!」と手を振って、声を上げている。その中にはシーモスの黒い魔獣もまざっていた。

 この一年、彼らにも色々と世話になった。彼らと働く日常は、とても楽しくて。

 この『呪われた島』で過ごす日々に、喜びを与えてくれた。

「……ありがとう! みんな!」

 レーキは庭が見えなくなるまで、力一杯手を振り返した。

 

『島』の北方に向かって、イリスは一直線に飛んでいく。

 その途上で、シーモスがレーキにこの三週間の間に起こったことをかいつまんで説明した。

 レーキが『冷淡公』に連れ去られ、二人は慌てたこと。

 レーキと面会するために二人は手を尽くしたが、議会は頑として動かなかったこと。

 それで、救出計画を立てたこと。

「……三週間もお待たせいたしましたのは、その時期にこの島がもっとも陸地に近付くから、でございます」

「……? それが、どうしたんだ?」

「レーキ様。魔の王の城から逃れたとあっては、貴方の居場所はこの島の上にはございません」

 はっきりとシーモスは言い切った。ではどうすればいいのか。この島に居場所が無いとしたら、俺はどこに行けばいい?

「……」

『レーキ、逃げて。この島から』

 静かに空を飛んでいたイリスの言葉が、頭の中に飛び込んでくる。

『僕が、ヒトを捕まえる結界をちょっとだけ壊す。レーキはそこから外に出て』

「壊せる、のか?!」

『……多分。すごく一生懸命やれば、レーキ一人が通れるくらいは一時的に壊せる、と思う』

 イリスの言葉は、いつになく自信が無さそうだ。それでも、レーキはイリスの頑張りにかけるしかない。彼を、信じるしかない。

『それでね、外に出たら、レーキは一生懸命飛んで』

「大陸までとは申しませんが、船か島を見つけるまで飛んで下さい。無理でも、なんでも」

「……無茶を言う」

 レーキは思わず苦笑を漏らす。

 テスト飛行も無く、初めての魔装具を使って、何もない海の上をただ、ひたすらに飛んでいく。

 無茶でもなんでもやるしかない。それが、この島から、この危機から逃れる唯一の方法なのだから。

『ホントはね、レーキとお別れするのはつらい。すごくつらいし、もう二度と会えないのは絶対イヤだと思う。……でも、僕はレーキにしあわせでいて欲しい。笑って生きていて欲しい。だから、さよなら、する』

「イリス……」

 空を飛ぶイリスは、矢よりもずっと速い。

 直ぐに島の北端、人影のない浜辺を通り過ぎ、島と共に空に浮かぶ海の上に到達する。

「さあ、着きましたよ。私が結界を可視化いたします」

 シーモスがイリスの背で、両腕を突き出して何かの呪文を唱える。シーモスの周りに、光り輝く文字と図形で出来た陣が浮かび上がった。それと同時に。レーキの眼にも強固な結界が見えるようになった。

 それは、淡く輝く青色の壁。少しの隙間もなく敷き詰められて、空を覆い尽くしていた。

 結界は、島と共に浮かんでいる海の端にあった。そこから先はすっぱりと海が途切れて、無くなっている。

 眼下に、本来の海が広がる。その海はどこまでも広くて果ては見えなかった。

「もうじき、海を()むためにこの島は降下いたします。それが、好機でございます」

 それまでが、この二人と過ごせる最後の時間か。

 レーキは覚悟を決めて、唇を噛む。

「……疑問があるんだ。『冷淡公』の能力ならここに直接来れるんじゃないか? それに、俺が逃げたと解ったら君たちはどうなる?」

『ナティエちゃんなら大丈夫。ここは海の上で空中でしょ? ナティエちゃんは足場が無ければ『跳躍(ジヤンプ)』出来ないんだって!』

「我々なら大丈夫でございます。どんな難局も、切り抜けてご覧に入れましょう。……ふふふ。それに、イリス様にはあらかじめ認識阻害の魔具をお渡ししておきましたし。魔の王の城に訪れた方が、イリス様だと見抜ける者は、今あの城におりませんよ」

 加えて、イリスは『冷淡公』に変身していた。それで、どれほど議会を誤魔化せるのかは解らないが、シーモスがついていればイリスは大丈夫だろう。

「竜体のイリス様以上に早く飛ぶことの出来る個体はこの島にはおられませんし、仮にいらっしゃったとしても私が撃ち落とさせていただきます。ご安心を」

 最後までシーモスは抜かりない。不敵に笑うシーモスに、レーキは初めて安堵と信頼を覚えた。

『あ、ちょっとまって。レーキ、それ、外すね』

 イリスが背中のレーキを振り返って、腕を伸ばす。

『僕の指に触ってね。『汝、()き放たれよ。イリス・ラ・スルスの名において命ずる』』

 イリスの言葉と同時に。この島にやってきて奴隷屋に捕らわれてから、レーキの首にずっとはめられていた首輪がポロリと外れて落ちた。

『もう、それもいらないからね』

「……ありがとう、イリス」

 レーキはそっと、イリスの大きな竜の指を撫でた。どんなに礼を言っても、言い尽くせない。だから。レーキはイリスの大きな手をぎゅと抱擁した。

 イリスはくすぐったそうに(ひとみ)を細めて、改めて前を向く。

「……さあ、時間でございます。イリス様」

『解った! この青いのを壊せばいいんだね?』

「左様でございます! 思いっきりぶちかましてくださいませ!!」

『振り落とされないでね!』

 イリスは思いきり、息を吸い込んだ。

 喉の下あたりが大きく膨らんで、白い鱗がきらきらと陽の光に輝いている。

 イリスはかっと眼を見開いて、大きく息を吐き出す。

 ──これが、竜の息吹(ドラゴン・ブレス)……!

 轟炎(ごうえん)がイリスの口から吐き出され、じりじりと結界を焼き焦がす。

 たっぷり数分。イリスは炎を吐き続け、青かった結界の一部が灼熱(しやくねつ)したように赤く変色した。

『はあっ、はあ! ダメだ! 壊れないよ?!』

「もう一度! もう一度です! イリス様!! 思いっきり『力』をぶつけて下さい!!」

『……思いっきり、ぶつける!!』

 イリスは一度結界から距離を置いた。そのまま、拳を振りかぶり、勢いをつけてありったけの力で結界を殴りつけた。

 ぶうんっ!

 竜の拳が唸りを上げて叩きつけられる。その背の上でレーキたちは、ただしがみついていることしか出来ない。

 奔流のように。暴風のように。竜のイリスは結界を殴り続ける。

『……でぁああああぁぁぁぁぁ……!!!!』

 最後の一撃。とびきり重いその一撃に、結界は耐えきれず小さな穴が開いた。

 その穴に指を突っ込んで、イリスは結界の(ほころ)びをこじ開ける。

『うぐ、ああああぁぁぁぁ……っ!!!!』

 裂帛(れつぱく)の気合いと共に。結界の穴が広がった。

『はあっ……はあっ……さあ! 今だよ! レーキ!!』

「……解った!」

 イリスが、必死の思いで開けてくれた穴。

 そこまで、イリスの大きな手が優しく運んでくれる。

 レーキが通り抜けるには、十分な大きさのその穴をくぐって、レーキはとうとう結界の外に出た。

『行って、レーキ! 振り返らないで!』

「……ありがとう! イリス、シーモス! 屋敷のみんなにも、ありがとうと!」

 レーキはイリスの手のひらで、力強く羽ばたく。

 黒と銀と。ヒトと魔のモノと。その羽はとても奇妙で、でも温かくて。

 ──大丈夫、どんなにちぐはぐな翼でも、飛べる!

 ふっと、身体が浮いた。一年ぶりに兆す、飛行の感覚。レーキはそのまま、イリスの手のひらを蹴って飛び上がった。

『……やった!』

 一度ふらりとよろめいて、それでもレーキは飛んで行く。

 振り向かないで、とイリスは言った。でも。

 レーキは一度だけ振り返る。遠く小さくなって行く友と『呪われた島』。

「……さようなら! 友よ!!」

 声を限りに。レーキは叫ぶ。

 その声は風に乗って、イリスたちに届いたろうか?

『さようなら……レーキ……』

 微かに。脳裏に寂しげなイリスの声が聞こえた気がした。



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第五章 天法士時代Ⅱ
第68話 旅人


 鬱蒼(うっそう)とした森の中。人が通ることを止めたなら、すぐに森に返ってしまうだろう道を進む。

 標高の高いこの場所では、秋の気配が色濃い。

 木々の隙間からのぞく、今日の空はどこまでも白く淀んで。

 木立を吹き抜ける風は、夏の名残でまだ暖かく。

 森の大気は湿り気を帯びて、鳴く鳥の気配すらなく。

 旅人は梢の先に紅葉を見つけて、雨が降らないようにと水の王に祈った。

 二十二年前の春先、ここで同じように水の王に祈りを捧げた旅人がいた。新たな旅人が、そのことを知る由もない。その旅人が、赤ん坊だった自分を運んでいたことも。

 旅人は鳥人の男。黒と銀の奇妙な色の羽をその背に負って。右目に眼帯、一つ残った左眼は赤く、その髪も膚もまるで色が抜けたように白かった。

 旅人──レーキ・ヴァーミリオンはただ一人、『山の村』へ向かう道を登っていた。

 この峠を越えれば目指す村まではもうすぐ。夕刻までにはたどり着けるはずだ。

 

 

 どこまでも青い空と海の間を、縫うように飛び続けたレーキは、幸運にも力尽きる寸前で一隻の帆船を見つけた。

 シーモスの作った魔装具は壊れることもなく、レーキを船まで導いてくれた。その事に感謝する。

 船に降り立って、そこで倒れ込んだレーキを乗組員は親切に介抱してくれた。

 おまけに、わずかな現金しか持っていなかった彼を、目的地に着くまで雇ってくれた。

 帆船はグラナートに向かう商船だった。

 グラナートの港に到着したレーキは、その足で『山の村』に向かうことにした。

 良い機会だと思った。一度アスールに帰ってしまえば、旅に出ることは容易ではないだろう。

 それに、何よりも『呪われた島』の上で思ったことを実行したかった。

 あの大工に謝罪と贖罪(しよくざい)を。そのためにも、あの日逃げ出して以来足を踏み入れていない『山の村』へ。

 レーキがたどり着いた港街から、『山の村』の(ふもと)の町まで約一ヶ月。金が尽きたら旅人のギルドの仕事をして、一人旅を続けた。

 グラナートで黒い羽の鳥人は、奇異と蔑視の目で見られる。宿を取ろうとして断られたこともあった。仕方なく、レーキは羽をマントで隠し、王珠(おうじゆ)を身分証明書代わりにした。

 王珠の効果はてきめんで、レーキを強力な天法士と見て畏れる者、敬う者、利用しようとする者、()びを売る者すらいた。

 レーキはすぐに疲れ果てて、王珠を濃紅(こいべに)色のマントの内側に隠すようになった。師匠もグラナートからアスールへの旅の途中、そうしていたっけ。そんな事が思い出された。

 

 グラナートはヴァローナとは正反対で、乾いた土地が多い。森や林は国の北側にあるテルム山脈に集中していて、その辺りにしか生えていない。その他は、乾いた砂ばかりの砂漠や背の低い草花がまばらに生えた半砂漠、それよりほんの少し雨の多いサバナが国土の大半だ。

 レーキが進む街道は、サバナの中を横断していた。今は雨の時期も終わって、咲き誇っていた小さな花々も枯れていた。不思議な形にねじくれた裸の木々が転々と、街道のそばに立っている。

 レーキは、その街道をただ黙々と歩き続けた。

 時に道沿いの町に立ち寄り、時には野宿して、『山の村』の麓の町までたどり着いた。

 その時には予定の一ヶ月はとうに過ぎ、既に秋が感じられる季節になっていた。

 

 麓の町は小さな町だが、このあたりでは一番豊かな町だった。

 旅人のための宿があることが、その証拠だ。余所者(よそもの)が訪れることのない町や村では、宿など営んでも商売にならないからだ。

 麓の町についてレーキが一番初めにしたことは、今夜の宿を探すことだった。

 無事に見つかった部屋に荷物を置いて、レーキはマントで羽を隠したまま酒場に向かった。

 この麓の町には、鳥人やその混血が多く住んでいる。羽の色を知られれば、どんな仕打ちを受けるかは想像に難くなかった。

 それでも、レーキが酒場に向かったのには訳がある。少しでも『山の村』の現在の情報が欲しかったのだ。

「何か食うものと水をくれ」

 レーキの注文に、酒場の主人である男は難色を示す。

「うちは酒を売る店だ。飯はおまけみたいなもんだ」

「解った。ではエール酒と水、それから飯を」

 主人はそれで納得して、エール酒と水を出してくれた。レーキは手つかずの酒を手にして、この酒場で一番声の大きい卓に近づいた。

「すまない。この酒を奢るから、誰か最近の『山の村』について教えてくれないか?」

 明らかに旅人であるレーキを、男たちは(いぶか)しげな眼でみつめる。

 酒の入ったジョッキとレーキを見比べて、男たちは眼を見合わせた。その中でも一番酔いの回っているらしい男がジョッキをとった。

「……なんでそんな事聞きたいんだ?」

「明日、『山の村』へ行きたいからだ」

「あんな所、行ってどうする?」

 どうやら、男は山の村を知っているらしい。レーキは男をじっと見つめた。

「人を探している」

「誰を?」

「十一年前に死んだ大工の縁者を」

「そんな奴探してどうするんだ」

 男はジョッキを手にしたまま、まだ酒を飲まない。周りの男たちも、静かに二人のやりとりを見守っている。

「会って謝罪したい」

「なぜ?」

「探している縁者にしか言えない」

「オレが、その縁者だと言ったら?」

「死んだ大工は鳥人だった。あんたはそうは見えない」

 ふん。と鼻を鳴らして、男はジョッキから酒を呑んだ。

「……酒を呑んだと言うことは、教えてくれると言うことか?」

「あんたがやりたいことはよく解らんが……あんたがマジな眼をしてるのは解る」

 男はもう一口酒を呑んで、レーキの隻眼(せきがん)を見据える。

「あんたの探し人のことは『山の村』の奴らに聞きな。オレには解らん」

「そうか……」

『山の村』には今でも人が住んでいるのか。それを聞けただけでも良しとする。レーキが礼を言ってその卓を離れかけると、男の声が背中を追ってきた。

「……残念だが、あの村は一度滅びているぞ。盗賊に襲われて、生き残った奴らも散り散りになったらしいぜ。今の村の住人は、大半が新しく入った奴らだ」

「そうか。だが古い村の生き残りも少しはいるんだろう?」

「多分な。……酒、美味かった。あんたの探し人が見つかると良いな」

「……ありがとう」

 ジョッキを掲げて見せる男は、余所者を警戒しているだけで悪い男ではないようだ。

 レーキは一礼して、料理を待つ間に空いている席を探した。最初の男の他にも幾人かの酔客に『山の村』のことを訊ねたが、返ってきた答えはどれも似たようなモノだった。

 

 久々に故郷の料理を味わう。この辺りでだけ飼育されている、大きなトカゲの切り身に香辛料をまぶして焼いたもの、ぶつ切りにした野菜を煮込んでやはり香辛料を効かせたカレラスープ。小麦粉を練って蒸して乾かした粒状の主食、フフル。

 どれも懐かしい味だ。焼きトカゲとスープはよく辛味が利いている。汗をかきながら料理を楽しむ。一口食べる度に、辛みと旨味が交互にやってくる。それは美味くて懐かしい。

 ──ああ、俺は、帰ってきた。

 確かに、レーキは実感した。

 

 次の日の早朝。レーキは麓の町を発った。

 川沿いの山道を登って、『山の村』へ向かう。途中、木材を伐り出してきた(きこり)の一団とすれ違う。

 この辺りは、高い山脈にぶつかる雲のお陰で雨が多く降る。そのために、山の麓にはグラナートでは珍しい森が広がっていた。

 樵たちは山の木を伐り出して、川を使ってそれを麓に運ぶ。麓の町はそれを加工して、川下の街々に運んだ。遠く河口に至るまで様々な名前で呼ばれるその川は、ここではただ『川』と呼ばれていた。

 山道はいったん『川』を離れて、険しくなってくる。レーキはこの半月ほどずっと手にしていた、自分の背丈ほどの長さの木杖を頼りに山道を進んだ。

 一番険しい箇所を登り切ると、急に視界が開けて来た。

 その村には名が無い。

『山奥の行き止まりの村』だとか『山の村』だとか呼ばれていて、村人たちも近隣の住人もそれで困りはしなかった。

 レーキはとうとう、『山の村』に戻ってきた。盗賊の襲撃から、村が燃えたあの日から、十一年の時が経っていた。

 それは、レーキがこの村で過ごしたのと同じだけの歳月だった。

 

 レーキの姿を見つけると、その辺りで遊んでいた鳥人の子供たちが近寄ってきた。見慣れぬ余所者を、好奇心と警戒心が入り交じった眼で見つめてくる。

 やがて、子供の中でも一番勇敢な女の子が前に進み出た。

「あなたはだあれ? 何のご用?」

 少女の背丈はレーキの腰の高さほど。まだ十歳にもなってはいまい。レーキは身を(かが)め、マントについていたフードを跳ね上げて、少女に目線を合わせた。

「この村に古くから住んでいる人はいるか?」

「えーと……ブンニーさんでしょ、アリコさん、スカラートさん……」

 少女が挙げた名前は、どれも聞き覚えの有るモノで。かつてレーキを()()として扱っていた村人たちの名だった。

「その内の誰でもいい。家に案内してくれ。これは、そのお駄賃だ」

 レーキは少女に、幼い子供のお小遣いとしてはうれしい分の銅貨を握らせた。

 少女は(ひとみ)を輝かせて、レーキと銅貨を見比べると「旅人さん、こっち!」と村の中の道を駆け出して行った。

 一緒に遊んでいた子供たちも期待に満ちた眼でレーキを見つめながら、少女の後を追う。

 その後をレーキはついていった。



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第69話 赦しを乞う

「はあ! はあ! ここ、ここね! ブンニーさんち!」

 少女が示した家は、『山の村』では平均的な家だった。木造の柱と土の壁、雪を警戒した石()きの屋根と、鳥人たちが出入りするための大きな窓。それから(かたわ)らに薪小屋。

 レーキが暮らしていた、ペール夫妻の家も似たようなモノで。

 ──ここは変わらないのだな。

 眩暈(めまい)がする。この村はまるで時が止まっているようだ。変わらない。あの頃に戻ってしまったのかと、錯覚するほどに。

「ブンニーさん! ブンニーさん! 旅人さんだよ!」

 ここまでレーキを案内してくれた少女が、ブンニー家の戸口を叩く。

 レーキは一つ息を吸い込んで、覚悟を決めた。

「はいはい! 何の用だい?」

 扉を開けて、年嵩(としかさ)で鳥人の女が出てくる。その女はレーキの姿を認め、(いぶか)しげに首を(かし)げる。

「あんた、どちら様? 家に何の用だい?」

「俺は、レーキ・ヴァーミリオン。……いや、レーキ・ペールだ」

 ブンニー家の女が驚愕(きようがく)に眼を開いた。そしてレーキを(おそ)れるように一歩後ずさった。

「い、いまさら何の用だ! また村を襲う気かい?!」

「あの時の俺は盗賊とは何の関係もなかった。俺はただ養母の言いつけで森に行き、薪を拾っていただけだ」

 ブンニー家の女は、信じられないモノを見る眼でレーキの出方を(うかが)っている。

「ペールの家の三軒先に住んでいた大工を覚えているか?」

「ああ、覚えてるよ! あの人は盗賊がつけた炎にまかれて死んだんだ!」

 この村で大工の死の真相は知られていないらしい。だが、ブンニー家の女は憎々しげに吐き捨てる。レーキは静かに、女に問い続けた。

「彼の縁者は今どこに?」

「みんなあの時亡くなったよ! あの人が最後の一人だったんだ!」

 あの時の大工の怒りの理由が、十一年ぶりに解った気がした。家族を亡くして、その怒りの全てをぶつけようとしたのが、その場にいたレーキだったのだ。

「……そうか。なら、最後に一つ教えてくれ。彼の墓は今どこに?」

「墓地に決まってるだろ! なんだい! 今更(ゆる)しを()うつもりか!」

 ブンニー家の女は金切り声を上げて、レーキを非難する。

「……ああ、そうだな。赦しを乞うだろう。でもそれは俺が盗賊を呼んだせいじゃない。俺が、あの人を殺したからだ」

「……?!」

 レーキの告白に、ブンニー家の女は絶句する。レーキを指差して、ぱくぱくと唇を震わせる。

「あの人が俺を殺そうとした。だから、俺はあの人を殺した」

「……ひ、人殺し……?!」

「……そうだな。でも本当は殺したかった訳じゃない。俺はただ、死にたくなかった。それで、偶然そうなったんだ。あの時俺が犯した罪は、あの大工に関するものだけだ」

 ブンニー家の女はレーキを見つめ、「ひいっ」と叫んで戸口へ逃げ込んだ。その様子では、冷静に話を聞いてくれはすまい。レーキは対話を諦めて、墓地へと向かう。

 固唾(かたず)を飲んで、レーキとブンニー家の女のやりとりを見つめていた子供たちは、墓地へと向かうレーキの後を、遠巻きにしてついて来る。

 恐いもの見たさ、とでも言うのか。謎めいた旅人は、刺激の少ない村の子供たちの好奇心をいたくくすぐったようだ。

 墓地への道すがらに。レーキは野の花を何本か摘む。秋に咲くその花は、この辺りでは珍しくもない雑草で。ただその花弁は黄色く、可憐であった。

『山の村』の墓地は村の北側、山との境にあって、一日中日の射さぬ陰鬱な場所だった。

 幼い頃、レーキは何度かここを訪れていた。普段は人気の無い墓地は、独り隠れて泣くのにはお(あつら)え向きの場所だったのだ。

 大工の男の墓を探す。鳥人たちの墓標は止まり木を模した、木製の板を組み合わせたもので。止まり木には、その人物が生前営んでいた職業に関する飾りがかけられている。

 農民なら(すき)(くわ)、大工なら金鎚(かなづち)(のこぎり)などだ。

 大工のための飾りはすぐに見つかった。その中の一つが、あの大工の墓だった。

 レーキはその前に片膝をついて、摘んできた野の花を手向けた。

「……本当に、すまなかった。赦してくれと言えた義理ではないが……赦してくれ」

 死後、大工の男は死の王の国で家族と再び会えたのだろうか。

 レーキは(こうべ)を垂れて、死の王に祈る。

 ──あの人が、死の王様の国で平穏に暮らしていますよう。苦しみから解放されていますよう。どうか、どうか。

 墓も死の王も、何も応えてはくれない。それでも、レーキは祈り続けた。

 

「……旅人さん、泣いてる、の?」

 いつの間にか、先ほどの少女がレーキの隣に立っていた。

「ああ、いや……泣いてはいないよ」

 レーキは微笑んで、少女の頭を撫でてやった。

「旅人さん、すごく苦しそうな顔してたから」

 くすぐったそうに笑ってから、少女が言う。

「そうか。そんな顔してたか? ありがとう。君は優しいな」

「まあね!」

 得意げに少女は胸を張る。その背に揺れている羽は褐色で、まだ空を飛べるほど大きくはない。

「君はこの村で生まれたのか?」

「うん!」

「俺はどこかよそで生まれて、この村で育ったんだ」

「え! 旅人さんはこの村の人だったの?」

 少女は驚いて、まん丸に眼を見開いた。

「ああ。十一歳までこの村にいた」

「じゃあ、今はどこにいるの?」

「アスールにいた事もあるし、ヴァローナにいた事もある」

「アスール? ……ってどこ?」

 少女は首を傾げる。幼い少女は、この国の外に別の国があると言うことを知らないのだろう。

「よその国だよ。ここからだとかなり遠いな」

「遠いのにどうして帰ってきたの? あ、お墓参りだね!」

 レーキが手にしている花を見て、少女は納得したように頷いた。

「ああ。そうだな。俺は墓参りに来たんだ」

「お墓、見つかった?」

「見つかった。でも後二つ探したいんだ」

 レーキは立ち上がり、辺りを見渡す。少女もそれを真似して、きょろきょろと辺りを見回した。

「なんて言うウチのお墓? いっしょに探して上げようか?」

「ありがとう。探しているのはペールと言う夫婦の墓だ」

「わかった!」

 少女は墓地の入り口を振り返って、叫んだ。

「ねえ! みんな! 旅人さんがお墓を探してるんだって! ペールってウチのお墓だって!」

 墓地の入り口でレーキを遠巻きにしていた子供たちが、わらわらと少女の周りに集まってきた。

「旅人さん、一番さいしょにお墓を見つけた子にお小遣いをあげて? そしたら、みんながんばるから!」

「君はなかなか交渉上手だな。……解った。一番に墓を見つけた子に、さっき君に上げたのと同じ額の手間賃をだそう」

 わあっと上がった子供たちの歓声が、墓地の陰鬱な空気を明るくする。子供たちは墓地に散らばって、ペール家の墓を探し始めた。

 ペールの墓はなかなか見つからなかった。子供たちは文字が読めない。墓標の文字が判別できるはずがなかった。

 これではないか、あれではないか、と墓を探す内に。ペール夫妻の墓が揃って並んでいる場所を見つけた子供がいた。

 最初に墓を見つけてくれた少年に、レーキは小遣いをやった。

 喜んでいる少年を後目に、レーキはペール夫妻の墓に(ひざまず)く。

 それは粗末な墓で。今では世話をする者も居ないのだろう。止まり木は()ちかけ、それにつけられた農機具を模した飾りも片方は外れていた。

 ──やはり、養父も養母もあの時死んでいた。

 酒を飲む度に自分を殴りつけた養父。自分を奴隷か何かだと思っていた養母。けっして愛しいとは言えない。それでも、レーキにとっては初めての家族だった。

「……さようなら。ありがとう。養父(とう)さん、養母(かあ)さんだった人」

 レーキはその墓にも野の花を供え、彼らのためにも祈った。

 子供たちはレーキが祈る間、静かに口をつぐんでくれていた。

 レーキは立ち上がる。目的を果たした今、この『山の村』に来ることは二度とあるまい。

「みんな、墓を探してくれて、ありがとう。ここは……この村は俺の故郷だった。また、ここに来られて良かった。だが、もう二度とここを訪れることは無いだろう。俺は、俺が帰るべき場所に帰る」

 そう言って、レーキはマントを脱いで荷物にしまった。レーキの背に黒と銀の羽を見つけた子供たちは、あんぐりと口を開けて驚いている。

「……旅人さんは、アーラ=ペンナだったの?」

 褐色の羽の少女が問う。レーキは静かに微笑んだ。

「黒と、銀色のはね、はじめて見た……!」

「変なはね……!」

「黒いはねのアーラ=ペンナなんてホントにいるの?! お話の中だけだと思ってた……!」

 子供たちは口々に感嘆の声を上げる。レーキは子供たちが静かになるのを待って、「これから空を飛ぶから。羽が当たらないように少し離れてくれるか?」と告げた。

 子供たちが言われた通りに距離をとると、レーキは羽を一度打ち振るい、墓地から飛び立った。

 子供たちは気付いてはいなかったが、レーキの眼にはブンニー家の女を先頭にして、村人が墓地に向かっている所が見えていた。

 村人たちと争うつもりも、村人たちから糾弾(きゆうだん)されるつもりもない。レーキはゆっくりとその場を旋回(せんかい)しながら、『光球』を幾つも打ち上げた。『学究祭』の最後、光のショーの応用だ。

 踊り回り時に弾け、刻々と色を変えていく『光球』の美しさに、子供たちは大喜びで歓声を上げてはしゃいだ。村人たちも驚嘆し思わず足を止めた。

 そのショーがすっかり終わる頃には。レーキは夜の闇に紛れて姿を消していた。



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第70話 惜別と

 わずかな月明かりと『光球』を頼りに、レーキは上空から盗賊団の砦を探した。

 今日は兄月(あにづき)の三日月。天空に浮かぶのは、三日月が一つだけ。

『山の村』から盗賊団の砦までは、子供の足でもたどり着けるほどの距離のはずだ。

 大した特産もない貧しい村を盗賊団が襲ったのは、その距離の近さ故なのだろう。砦が近くにあると知られたくなくて、村に火を放った。

 今から思い返すと、盗賊団に入れて欲しいと願いでるなんて無茶をしたものだと思う。

 (かしら)が気まぐれを起こしてくれなければ、自分なんて簡単に始末されていただろう。

 仲間となったレーキに、みんなは優しくしてくれた。それでも、盗賊と言うモノは本来残忍なモノなのだ。

 頬に当たる秋の夜風は冷たい。砦は闇に沈んで、なかなか姿を現さない。諦めかけたその時に、森の木々の間、円い歩廊が見えた。

 ──砦だ。

 レーキは砦にゆっくりと舞い降りた。

 砦には人影も無ければ明かりもない。もう、何年も前に廃墟と化したのだろう。盗賊たちがここに暮らしていた痕跡(こんせき)は、徐々に森に浸蝕(しんしよく)されつつあった。

 ここは武器庫。ここは頭の部屋。こっちは寝室で、馬小屋はあそこ。

 レーキは砦を巡って、盗賊たちの痕跡が少しは残っていないかと探して回った。

 だが、見つかるのは()ち果てた、誰のモノともいえないガラクタばかり。

 レーキは落胆しながら、懐かしい厨房を探して火を焚いた。今夜の宿はここにしよう。

 懸命に料理を覚えた厨房で、乾燥させたトカゲの肉と、お湯で戻したフフルで簡単な食事を済ませる。

 育ち盛りだったレーキに、じいさんはここで、よくつまみ食いをさせてくれた。

『ほうほうほう。みんなにはナイショだよぉ』と言って。

 二年間。二十二年の中のたった二年間。それが、レーキがこの場所で暮らした時間。

 楽しい思い出だけだったとは、言い切れないけれど。それまでの人生よりは、ずっとかけがえのない時間。

 その二年間があったから、レーキは人らしく生きられた。誰かのために働く、と言うことを知った。

 だから、あの二年間はレーキに取って大切なモノだった。

 感傷に浸りながら、レーキは眠った。その日の夢にはじいさんが出てきたような気がした。だが、目覚めたとたんに詳細は霧散してしまった。

 

 朝靄(あさもや)の中、レーキは砦を出発した。

 最後にもう一度だけ、砦の部屋を見て回って、レーキは砦のくずれかけたてっぺんに立つ。

 ここで飛行訓練をした。ここで独り星を見た。

 その場所から、空へと飛び立つ。惜別(せきべつ)の思いを込めて。

 (ふもと)の町まで降りて、それからヴァローナへ向かうために旅を続けようと、レーキは決めていた。

 ヴァローナには友人たちがいる。それにヴァローナには、アガートに預けてある祭壇があった。

 ──もう一度、死の王に謁見(えつけん)しよう。

 全てに決着をつけて、それからアスールに帰ろう。そのために、祭壇は必要不可欠だった。

 

 一ヶ月かけてサバナを横切って、港街に辿り着いた。そこからは船でヴァローナへと向かう。テルム山脈が立ちはだかるために、陸路でグラナートからヴァローナに向かうことは危険をともない時間がかかる。

 大抵の旅人は船を利用する。レーキも船に乗ろうと、港に向かった。

 大小さまざまな船が港に停泊している。その中に、レーキは見慣れた銘板を見つけ出した。

『海の女王号』

 それはあの時、レーキたちが乗っていた、船。ラファ=ハバールに襲われた、あの帆船だった。

「……ちょっと! うそ!! アンタ! レーキちゃん?! レーキちゃんじゃないの?!」

 背後から甲高いが野太い声がする。そこに立っていたのは、『海の女王号』の厨房長、ルークだった。

「……ルーさん。お久しぶりです」

「やだァ!! アンタ生きてたの?! 良かった!! ……ホントに良かった……!!」

 ルークはレーキに抱きついてきた。(たくま)しい胸板にレーキを抱き寄せて、涙ぐんでいるようだ。

「アンタのお陰で船は助かったって……でもアンタは海に落ちたって……アンタのお友達がネ、言ってたワ!」

「は、い。海に落ちたんです。でも、どうにか、助かりました」

 レーキは『呪われた島』の話はせずに「助けてくれたヒトがいた」とだけ告げた。

 あの島のことを知る者は少ない方がいい。下手に吹聴して、あの島を訪れる人間が増えたりしたら大変だ。

「そう……良かったワ!! あ、ここで待っててネ! いま船長呼んでくるから!!」

「はい。解りました」

 ルークはレーキを解放して、慌てて船長を探しに行く。

 船長は、ルークに引っ張られてやってきた。

「おい、ルーク!! 驚くって何を……?!」

「ほら! 見て!! この子ヨ! 生きてたのヨ!!」

「……?!」

 レーキの姿を前にして、船長は眼を見張った。

「……お前さんは、レーキ!!」

「はい。レーキです」

 覚えていてくれたのか。レーキは微笑みながら頷いた。

「忘れる訳がねえ! お前さんはワシの船の命の恩人だ! お前さんがいなけりゃこの船は海の藻屑(もくず)になってた!!」

 船長もまたレーキを抱擁して、感謝を伝えてくる。

 あの時、ラファ=ハバールに立ち向かって良かった。生きていて良かった。レーキは心からそう思う。

 

 船長にも、親切なヒトに助けられたと言う話をした。やはり『呪われた島』の話は伏せて。

「所で今日は港に何の用だ? 船が入り用なら相談に乗るぜ?」

 にっと船長が歯を見せて笑う。レーキはその言葉に甘えることにした。

「はい。俺はヴァローナに行こうと思ってるんです。そのために船を探しています」

「おお! それならお誂え向きだ。『海の女王号』は明日からヴァローナに向けて出発するんだ」

「それなら、乗せて下さい。お代はちゃんと支払います」

「命の恩人から金は取れねえよ! 今回はただにしてやるから。乗ってきな!」

「そんな……」

 恐縮するレーキの背中を叩いて、船長は豪快に笑う。

「出発まではまだ一日ある。それまで陸地でゆっくり体を休めな。明日、今くらいの時間に船まで来てくれ」

「解りました。ありがとうございます!」

 二人とは港でいったん別れた。さあ、どうやって時間を潰そうか。レーキはぶらぶらと、街の中を歩いていく。

 呼び込みをする魚屋。舶来の品を売る雑貨屋。青果に衣類、肉に武具。宝飾品に本。

 陳列されていないモノは無いのでは無いかと思うくらい、港街は活気があって、どこも賑わっていた。

 その中、美味そうな匂いを漂わせている食堂でレーキは足を止める。ここで飯にしよう。

「いらっしゃいませ!」

 レーキが店に入ると、威勢のいい年嵩(としかさ)の女性が声をかけてくる。

「今日のオススメは?」

「今日はヴァローナ風魚の煮込みなんかおすすめだね! ぜんぜん辛く無いけどね!」

 グラナートの人々は辛味を好む。それでもヴァローナ風の辛味のない煮込みを作ると言うことは味に自信が有るのだろう。

 レーキはそれとピタパンと果実水を注文して、席に着いた。

 食事を待つ間、レーキは店の女性にオススメの宿を訊ねた。ここから遠くない所に良い宿があると教えられ、後で訪ねてみることにする。

 先にやってきた果実水を一口、二口飲みながら、レーキは安堵する。

 船は見つかった。今夜の宿も確保出来そうだ。後は、ヴァローナに向かって出発するだけ。

 レーキはもう一度、果実水を口にしようとジョッキに手を伸ばす。その手が、空を切る。

 果実水のジョッキは、思っていたよりも 少し遠くにあった。

 レーキは苦笑して、ジョッキを引き寄せる。

 自分で思っているよりも、疲れているのかもしれない。目測を誤るとは。

 果実水を口にして、レーキは何の気なしにそのジョッキを見ていた。

 その時。にうっと小さな手がテーブルの下から伸びてきた。そっとテーブルの上を探るように動いて、ジョッキを探し出すと、ゆっくり、ゆっくりと場所をずらしていく。

 レーキはそのジョッキを、上から押さえつけた。小さな手は慌てて引っ込んでいく。レーキが手を離し、じっとジョッキを見守っていると、小さな手はまた顔を出した。

 テーブルの下に誰かがいる。多分、子供だ。

「……そんな所に隠れていないで、出ておいで。そうしたら果実水を飲ませてやる」

 レーキの言葉に、小さな手は驚いたようにジョッキから手を引いた。

 やがて、おずおずと小さな子供がテーブル下から()いだしてきた。

 (ほこり)にまみれた黒く短い髪、黒い(ひとみ)。裸足でボロボロの服を着て、ひどく()せている。年の頃は三、四歳位だろうか。

 その姿に、レーキは驚愕する。

 子供の背には、小さな黒い羽が確かに一対。子供は黒い羽の鳥人(・・・・・・)だった。

「ああ! またこんなトコまで入り込んで! 出てお行き! しっ! しっ!」

 料理を運んできた店の女性は、子供の姿を見つけると手荒く追い払おうとする。子供は慌てて(きびす)をかえし、店を飛び出して行った。

「……あの子は?」

「すみませんね、お客さん。あれは最近この辺をうろついてる浮浪児でねえ。お客さんのご飯を狙って来るんですよ。追い払ってもキリが無くてねぇ。まったく、黒い羽なんて薄っ気味悪くてかなわないねぇ」

 黒い羽の子供。自分と同じ黒い羽の。それがとても気になって。レーキは気もそぞろに昼食を食べ始める。

「……同情して、餌付けしたりしたりはやめて下さいよ、お客さん。ここでタダ飯が食えるなんて覚えられたら、たまりませんからねぇ。やるなら最後まで責任持って下さいねぇ」

 店の女性はレーキに釘を刺して、厨房に戻っていく。

 最後まで、責任を持って。その言葉が耳の奥でこだましている。

 そんな覚悟も甲斐性も俺にはない。そう、思うのに。黒く小さな羽が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 

 食堂を出ると、黒い羽の子供の姿はすでになかった。レーキは心のどこかで安堵する。

 宿を探そう。そう思い直して、歩き出したレーキの後ろを、誰かが付いてくる気配がする。振り返ると、レーキから少し距離を開けて立っていたのは先ほどの黒い羽の子供だった。

「……出てきたら、果実水、くれるって……」

 そんな約束とも言えない台詞を真に受けて、レーキの食事が終わるまで、待っていたというのか。それとも、そんな細い糸にでも(すが)りたいとでも言うのか。

 レーキは観念して、「ついておいで」と告げる。黒い羽の子供は表情もなく、黙って後を付いてくる。

 露店で、果実水と魚のフライを挟んだピタパンの軽食を買う。

 黒い羽の子供に果実水とピタパンを渡すと、子供はレーキと食べ物を見比べた。

 そして、勢い良くピタパンにかじり付く。まるで早く食べないと食べ物が幻になってしまうとでも言うように。

 口の周りを油でべとべとにしても気にも留めない。ピタパンをあっという間に食べ終わった子供は、けふっとちいさなげっぷをして、果実水をごくごくと喉に流し込んだ。

「良い食べっぷりだな。まだ食えるか?」

「食べたの、これだけぶり、だから。まだたべれる」

 子供は二本の指を立てて、二日ぶりの食事であることを教えてくれる。

 せめて、腹一杯になるまで食わせてやるか。

 レーキはそう心に決めて、子供が食べたいと言ったモノを片っ端から食べさせた。



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第71話 ただのカァラ

「……もう、いらない」

 最後に小さなダクル(ナツメヤシ)の実を、何個も口いっぱいに頬張って子供は満足した。

 ぱんぱんに大きくなったお腹をかかえて、子供はけふうと声を()らす。

 二人は街の中、小さな噴水の有る公園に設えられたベンチに並んで座っていた。

「おじさんはなんで、ご飯くれる?」

「……正直に言うと、お前が気になったからだ」

「なんで?」

「俺のマントをめくって下を見てみろ」

 子供はレーキのマントをちらりとめくった。そして、その下にあった黒い羽に驚いたように眼を見開いて、レーキの顔と羽を見比べる。

「黒い、はね……?」

「そうだ。俺も黒い羽なんだ」

「……おじさんは、誰? ……おとう、さん?」

「いや違う。俺はレーキ・ヴァーミリオンだ。お前は?」

「カァラはカァラ。ただのカァラ」

「カァラ。それがお前の名前か?」

「うん」

 カァラは頷いて、ベンチに腰掛けたまま、足をぶらぶらと揺らしている。

「同じ、黒いはねだから、ご飯くれた?」

「そうだ。同族のよしみってヤツだ」

「同族?」

「同じ仲間、と言うことだ」

「なかま……初めて見た」

 レーキも黒い羽の鳥人には、初めて出会った。

 この子もまた、自分と同じ様に捨てられたのだろうか?

「お前、親は?」

「いない。おかあさんは動かなくなっちゃったから。おとうさんは初めからいない」

 動かなくなっちゃったから。死の概念すら教えられていないほど、カァラは幼い。そのことにレーキは愕然(がくぜん)とする。

「おかあさんが動かなくなって、くさい臭いがするようになって、カァラはその家にいられなくなった。だから、街で暮らしてる」

 カァラは淡々と事実だけを言う。そこに悲しみや困惑は見えない。

「……お母さんは、ただ動かなくなったんじゃない。死の王様の国へ行ったんだ」

「死の王さまの国?」

「ヒトが動かなくなって腐っていくことを、『死ぬ』と言うんだ。死ぬと魂はみんな死の王様の国へ行く。そして、良い行いをした者は平穏に、悪い行いをした者はその罰を受けながら暮らす」

「おかあさんも、死ぬ?」

「ああ、そうだ。そして、そんなときは『死んだ』と言う」

「死んだ。おかあさんは、死んだ」

 覚えたての言葉を反芻(はんすう)するように、カァラは死んだとくり返す。

「レーキは物知り。……ねえ、おかあさんは今しあわせ?」

 レーキは一瞬返答に困った。死の王と謁見(えつけん)したことはあっても死の国をのぞいたことはない。ましてやカァラの母親に会ったこともないのだから。

「……多分、な。平穏に暮らしているだろう」

 そうであって欲しい。希望を込めて、レーキはそう言った。

 

 カァラを連れて、レーキは宿屋に入った。宿屋の主人には難色をしめされたが、宿代を倍額払うと告げると喜んで部屋に通してくれた。

 宿の部屋に、湯を張った広口の桶を用意して貰った。グラナートの宿には風呂の設備がない。身体の汚れが気になるときには、こうして桶に湯を張って全身を拭くのだ。

「まずは髪と身体の汚れを落とそう。それから服を買いに行く。カァラ、服を脱いでお湯に入れ」

「どうして汚れを落とす?」

「汚いままだと服屋に入れないからだ」

 カァラはその答えに納得したようで、レーキの命令に従った。

 子供らしい遠慮のなさで、ぼろ布のような服をぱっと脱ぐとカァラは桶の湯に浸かった。

「……あ、お前、女の子か」

 話し方と表情の見えない顔のせいで、レーキはカァラが男の子だと思いこんでいた。

 まあ、こんな小さな子供だ。男の女もないか。レーキは浴用の海綿(スポンジ)にたっぷりと湯を染み込ませて、カァラを洗った。薄汚れていた膚をこすってやると、健康的な褐色が現れる。

 カァラは大人しく身を任せて、黙ってお湯に浸かっていた。

 ごしごしと洗っても、カァラの羽の色は変わらない。闇夜のように暗く、黒いままだ。

 最後に黒い髪を石鹸(せつけん)で洗って、カァラをお湯から引き上げると、彼女はうとうと船を()いでいた。

「ほら、終わったぞ。寝るな、起きろ」

 柔らかい布で全身を拭いてやる。カァラは眼をこすって、どうにか眠気に抗おうとしているようだ。

「仕方ない。服は俺が買ってくる。お前はここで寝ていろ」

「やだ。カァラも、行く……」

 湯を浴びる前に着ていたぼろ服を拾い上げて、カァラはそれを再び着ようとする。

「それは着るな。せっかく身体を洗ったんだ。こっちを着ろ」

 レーキは自分の着替え用の服をカァラに渡した。レーキにはぴったりのシャツだが、カァラが着るとブカブカのワンピースのようだ。

 靴は無いので歩かせることは出来ない。眠たげなカァラを腕に抱いて、レーキは古着屋に向かった。

「今日は何になさいましょう。お客様」

 古着屋の主人は品の良さそうな老婦人で、レーキたちを微笑みで出迎えた。

「この子のための服が欲しいんだ。このまま俺の服を着せておく訳にも行かないから」

「かしこまりました。お坊ちゃんはお好きな色は?」

「あ、いや、この子は女の子だ」

「あら。これは失礼いたしました。お嬢ちゃん、お好きな色はなあに?」

 老婦人は優しく、カァラに訊ねる。

 カァラは無表情のまま、「……黒。色の名前は黒しか知らない」と言った。

 老婦人は困ったように、眉を寄せた。

「あらあら。ここには黒は置いていないのよ……」

「どんな色でも良い。サイズが合えば」

 レーキがそう助け船を出すと、老婦人は在庫を探し始めた。

 女の子らしい白色のワンピースと桃色の上着、白いサンダル、それからちょうどよいサイズの下着を揃えた。全てを身につけると、カァラはすっかり女の子らしい姿になった。

「うんうん。これは見違えましたわ」

「カァラ、よく似合っている」

 カァラはスカートの端を()まんで、何かを確かめるようにその場でくるくると回っている。

 服の代金を払い、ついでにカァラの黒い羽を隠すためのケープも買った。

 服装を整えて宿に戻る前に、念のためカァラの親の消息を訊いて回った。カァラが語ったことが嘘だとは思えないが、親が生きていて誘拐したと誤解されたくはない。

 数人に訊ねてみたが、みな、その子は孤児で母親は死んで発見されたと言う。

 それで、レーキは納得してカァラを連れて宿に戻った。宿の主人はカァラが女の子だと知ると、ひどく驚いた。

 夕食は宿の食堂で摂った。あれもこれも食べたがるカァラを抑えて、辛味の少ないカレラスープとピタパンだけを注文する。昼間あれだけ食べたのだから、夜はこれで十分だ。

 カァラは不服そうな顔もせず、黙々と夕食を食べた。

 ──さあ、これからどうしたものか。

 つい、成り行きでカァラを連れて来てしまった。だが、自分は彼女の父親でも縁者でもない。しかも、明日にはこの国を旅立つ者だ。

 でも。この子は黒い羽の鳥人だ。この国で、それはひどい差別につながる。このままこの国に彼女を置いて行ったら。きっと自分は後悔するだろう。

『最後まで、責任を持って』

 食堂の女性の声が、脳裏を過る。

 それで、レーキは決心する。

「なあ、カァラ。お前はこれからどうしたい?」

「どう?」

 カァラは首を傾げる。綺麗に洗われた黒い髪が、照明のしたでつやつやと光っている。

「例えば、俺と一緒に行く気はないか? ヴァローナへ」

「ヴァローナ?」

「ヴァローナと言うのは、隣の、別の国だ。そこでなら、お前はここにいるより平穏に暮らせるだろう。黒はヴァローナでは学問の色だから」

「……」

 カァラは表情を変えぬまま、じっと空になった皿を見つめている。彼女なりに懸命に考えているのだ。レーキはカァラが結論を出すまで、静かに彼女を見守った。

「そこに行けばごはん、食べれる?」

「ああ。ここの飯よりは薄味に感じるがな、パンはとても美味い」

「レーキといっしょに?」

「ああ。ヴァローナまで一緒に行こう」

 カァラはそれだけ聞くと、こくんと頷いた。

「行く。レーキといっしょに」

 

 翌朝、ようやく夜が明けた頃。

 レーキはソファの上で目を覚ました。

 ちびすけとは言え一応女の子だ。ベッドはカァラに(ゆず)って、レーキはソファで眠ったのだ。

 身を起こすと、カァラはすでに目を覚ましていた。ベッドの上で辺りを見回して、レーキと目が合う。カァラは無表情の顔にわずかに不思議そうな眼をして、レーキを見ている。

「……どうした? おはよう。カァラ」

「おはよう。レーキ。全部ゆめかと思った」

「夢じゃない。今日はこれから船に乗るぞ。目が覚めたなら、服を着替えろ」

 買ったばかりの服で寝かせる訳にも行かなかったので、昨日は寝間着代わりにレーキのシャツを着せてカァラを寝かしつけた。

 カァラはベッドから跳ね起きて、昨日買ったばかりの服に着替えようとする。小さな手ではなかなか上手く着付ける事が出来ずに、カァラは苦戦しているようだ。

「ああ、まだ一人では無理か。……ほら、こっちにおいで」

 ソファに近付いてきたカァラに、レーキは服を着せてやった。ワンピース、桃色の上着、ケープまでをしっかり着込んで、カァラはどこか満足げに胸を張った。それからくるくると、その場で回りだす。

「何をしてるんだ?」

「こうすると、服がふわふわして面白い」

「そうか」

 レーキはカァラが満足するまで放っておこうと、自分の支度を始めた。

 持ち物を確認し、腰のポーチを身に付ける。荷物入りの背嚢(はいのう)を用意して、マントを着込んだ。この国を出るまではマントは着ておこうと決めている。

 そうこうする内に。飽きたのか目が回ったのか、カァラは回ることを止めてレーキをじっと見つめている。

「……どうして、レーキのはねは半分別の色?」

「ああ。これはな、銀色、と言うんだ。そうだな……俺の羽は半分、使い物にならなくなって、それで新しい羽を、(もら)った」

「銀色、銀色……それは銀色」

 カァラは新しく覚えた言葉を復唱する。

「……新しいはね、カァラももらえる?」

「俺の場合は、たまたま羽を作れるヤツと知り合ったんだ。普通は作れないし、貰えない」

 脳裏にちらりとシーモスのしたり顔が浮かんで、レーキは苦笑する。

「銀色、ピカピカでいいのに。黒よりずっといい」

「羽が駄目になったときも、羽を貰った時も、かなり痛かったからな。それでも欲しいか?」

「……なら、いらない」

 子供は全く正直だ。

 



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第72話 白紙の本

 朝食を食べてから、レーキはカァラを連れて街に出た。一緒に旅をすると決めたら、服以外にも必要なモノはまだまだある。

 それを揃えている間に、船長たちとの約束の時間が迫ってくる。レーキはカァラの手を引いて、港へ急いだ。

 船の前で食材を受け取っていたルークは、レーキとカァラを見て開口一番「なに、それ?!」と叫んだ。

「昨日、拾いました。この子の分はちゃんと代金を払いますから、ヴァローナまで乗せてやってください」

「嘘、嘘、嘘!! レーキちゃん、アンタ、一晩で子持ちになっちゃったのネ?!」

「あー、そう言うことに、なるのか……はい。そう言うことです」

「ちょっと! 船長!! またまた驚くわヨ!!」

 ルークは騒がしく、船長を呼びに行く。カァラはルークに驚いたようで、レーキの影に半分身を隠している。

 ルークに呼ばれてやってきた船長に、カァラが黒い羽の鳥人である事、孤児であること、グラナートに独り置くよりヴァローナに連れて行った方が良いのではないかと思っていることを伝える。

 船長は複雑な表情をして、「そんな、若い身空で子持ちとはなぁ……」と(つぶや)いた。

「……解ったよ。乗りな。その子の代金も要らねえよ。ヴァローナに連れてってやんな!」

「ありがとうございます」

 またまた、船長の好意に甘える事にする。カァラの今後のことを考えると、金は幾らあってもありがたかった。

「……はね」

 カァラは船長の焦げ茶色の羽を見上げて、指差した。

「黒くない。いいはね」

「……ちびすけ。黒い羽根も良い羽だ」

 船長はカァラの髪をくしゃくしゃと撫でた。

 カァラはびくりと震えて、眼をつぶった。それから、ゆっくりと船長を見上げる。

「……黒いはねもいいはね?」

「ああ、そうだ。俺の弟と同じ羽だ」

「弟って、なに?」

「同じ親から生まれた、カァラより小さい男の子のことだ」

 レーキがそう教えると、カァラは「弟、弟……」と何度も呟いた。

 カァラの知識はとても狭いようで。どんな教育を受けてきたのだろうかと心配になる。それともこの年頃の子供は、みなこうなのだろうか?

「んまー!! この子カァラちゃんって言うのネ!」

 ルークが発した叫びに反応して、カァラはびくっと肩を震わせた。レーキの後ろに素早く隠れて、無表情で辺りをうかがう。

「ほら、ルーク。ちびすけが怖がってるぞ!」

「もー! 船長ったら! ルークってよばないでヨ! ルーちゃん、って呼んで!!」

「……ルーちゃん?」

「そうヨ! ルーちゃんって呼ばないとアタシ返事しないんだか、ら……」

 何度となく繰り返した台詞を続けようとして、ルークははた、と何かに気づいたようにカァラを見た。

 カァラはレーキの影でルークを見上げて、「ルーちゃん、ルーちゃん」と、何度も繰り返して単語を覚えようとしている。

 その光景に、ルークは目尻を下げた。

「そうヨ! ルーちゃんヨ。よろしくネ! カァラちゃん」

 ルークが右手を差し出すと、カァラはその手とレーキを見比べた。

「握手ヨ。カァラちゃん。はじめましてのご挨拶。お手てを握ってちょうだい。アタシはルーちゃんヨ!」

「……うん。カァラはカァラ。ただのカァラ」

 カァラは小さな手で、ルークの大きな手を握り返した。ルークはますますにこにこと、相好(そうごう)を崩した。

「良いコ、ネ! 気に入ったワ! お菓子作ったげる! ついてらっしゃい!」

「お菓子?」

 首を傾げて自分を見上げてくるカァラに、レーキは言った。

「行ってくると良い。お菓子は甘い食べ物だ。とても美味い」

「食べ物……うん。食べたい」

 カァラは心なしか(ひとみ)を輝かせて、ルークを見上げる。

「俺も後でお邪魔して良いですか? 出来たら厨房を手伝いたい」

「あら。遊びに来るのはかまわないわヨ! でも手伝いは心意気だけ貰っとくワ! アンタはこのコの面倒を見て上げなきゃダ・メ。小さな子供はネ、アンタが思ってる以上に手が掛かるモノなのヨ!」

 そう言うモノなのか。確かに厨房の目が回るほどの忙しさを考えれば、小さな子供を遊ばせておく余裕などなかった。

「解りました。ルーさん。この子と俺がいていい場所はどこですか?」

「お前さんたちは客室を使え。そのちびすけに船室で雑魚寝は無理だ」

 船長の申し出に、レーキは恐縮しきりだ。

「え……いいんですか?」

「今回は客も少ないしな。客室は空いてるんだ。自由に使いな!」

「ありがとうございます!」

 レーキは深々と頭を下げた。何から何まで、船長とルークには世話になりっぱなしだ。

「さあ、出港までそんなに時間はない。二人とも、乗った乗った!!」

 船長に招かれて、レーキとカァラの二人は『海の女王号』へと乗り込んだ。カァラはルークと共に厨房へ行き、レーキは客室へと案内される。

 客室は布で仕切られただけの大部屋だが、船室とは違い、幅の狭いベッドが二つ置かれていた。これはありがたい。

 レーキは客室に荷物とマントを置いて、厨房に向かった。

 厨房ではルークが粉をこねて、何かを作っている。カァラは静かに、調理台の脇に立ってそれをじっと見つめていた。昼食の時間は過ぎたばかりで、厨房にはルークとカァラしかいなかった。

「さあ! これをこうして伸ばして、と。少し休ませたら、綺麗に切って形を整えて焼くのヨ!」

 どうやら、簡単な焼き菓子を作っているようだ。相変わらず厨房長は手際が良い。

「失礼します」

 レーキが厨房に入っていくと、カァラが駆け寄って来た。

「作ってるところを、見せて貰ってたのか?」

「うん。粉ぐるぐるするとかたまりになる。面白い」

 カァラはレーキを見上げて、相変わらずの無表情で面白いと語る。その眼が興奮しているようにきらきらとして見える。レーキにもこの子の表情が少しずつ解るようになってきた。

「カァラちゃんはとっても良いコ、ネ! お料理に興味が有るみたい。お菓子作ってるアタシのコトじっと見てるのヨ!」

 ルークは使った調理器具の後片付けをしながら、レーキを振り返る。

「あら、やだ!! レーキちゃん、アンタ、何その羽!! どうしたの?!」

 ルークはレーキの銀の片羽を視界に入れ、驚いて木製のボウルを取り落とした。

「あ、の、これは……片方使い物にならなくなって……その、これは羽を補うための法具(ほうぐ)です」

「嘘、やだ……使い物にならなくなったって……事故にでも……あ、あの海の怪物にやられたのネ!!」

 ルークは口元に手のひらをあてて、わなわなと震えている。まさか、ルークにこれが魔装具である事を告げられない。

 レーキが「そんな感じです」と誤魔化(ごまか)すと、ルークはレーキに駆け寄って彼を抱きしめた。

「痛かったでしょう! 苦しかったでしょう! 鳥人が羽を無くすだなんて……そんなのアタシだったら耐えられないワ!!」

「ルーさん……あの、その……今は痛みもないし、この法具のおかげで飛ぶのに支障も無いんです」

 ルークはぱっとレーキの身を離して、ケロリとした顔で言った。

「……ホント? 法具ってスゴいのネ! でも、無理しちゃダメヨ! 泣きたい時は泣いても良いのヨ! アンタはそう言うの溜め込んじゃいそうだから、余計にネ」

 ルークには見透かされている。レーキが物事を背負い込みやすい性格だと言うことを。

 レーキは苦笑しながら、ルークの手を取って優しく叩いた。

「大丈夫です。ルーさん。羽を無くしたと気付いたときに大泣きしましたから。もう、大丈夫、です」

 しっかりとルークの眸を見据えて、レーキは断言する。ルークは胸元に手をあてて、はっと身をすくめた。

「……あらやだ。今のちょっとドキっと来たワ! アンタ、その内イイ男になるわヨ!」

「え、と、その……そうなんですか?」

 そう言われて、どんな風に返して良いのか解らずに真顔になったレーキをちらりと見て、ルークはふん。と鼻を鳴らした。

「……冗談ヨ! さあ、カァラちゃん。クッキーの続きをやっつけまショ!」

「……ショ!」

 ルークの語尾を真似て、カァラはむんっと胸を張る。それでも表情は変わらないままだった。

 

 両手には余るほどのクッキーを袋に入れてもらって、カァラはご満悦で客室のベッドに腰掛けている。

 それが癖なのか、足をぶらぶらとさせて、ぽりぽりとクッキーを食べる。食べる度に鼻息を荒くして「これ、すごく、おいしい!!」と何度も言った。

「いっぺんに全部食べなくて良いぞ。夕飯が食えなくなる」

「やだ。食べないとなくなる」

「無くならない。お前以外は誰も食べない」

「……ほんと?」

 カァラはクッキーの袋とレーキを見比べて、悩んでいるようだ。レーキはカァラの前のベッドに座った。

「まあ、食いきっても俺かルーさんがまた作ってやるから。安心しろ」

「レーキ、クッキー作れる?」

「ああ。他の菓子も料理も作れる。食いたいなら作ってやる」

「……なら、とっとく」

 カァラは宝物を扱うように、クッキーの袋をそっと閉じた。レーキは手近にあった(ひも)でその口を閉じてやった。

「ほら、これなら誰も食べられないだろ? 食べたくなったら紐をほどけば食べられる」

「うん!」

 カァラはクッキーの袋を胸に抱いて、それを何度も優しく撫でた。顔に表情こそ無かったが、彼女が喜んでいることはレーキにもはっきりと解った。

「……なあ、カァラ。お前が何を怖がっているのか、俺にも解る。食べ物が無くなるのが怖いんだろう? だから言っておく。もう、食えるときに食えるだけ食わなくてもいいんだ」

「なんで?」

 カァラは小首を傾げて、レーキを見上げる。レーキは真剣な表情で、カァラと眼を合わせた。

「俺がお前の食い物を用意してやる。一生、は無理だから……お前が自分で食べる物を手に入れられるようになるまで。だから、焦らなくても怖がらなくてもいい」

「……カァラとレーキはなかま、だから?」

「そうだ。仲間は助け合うんだ。お前が困っていたら俺が助ける。お前はいつかお前が仲間だと思ったヤツを助けてやれ」

「うん。なかまは助ける。助ける……」

 この子はまるで白紙の本のようだ。書き込んだ物事次第で、この子がどんな本になるのかが決まってしまう。レーキには、それが少し恐ろしい。それでも、自分に出来るだけのことをして、彼女と言う本を豊かにしてやりたい。レーキはそう思った。

 



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第73話 再び『学究の館』

『海の女王号』に乗船してから、八日後の朝。レーキはベッドの上で眼を覚ました。

 狭い。温かなかたまりが、ぴったりと背中にくっついている。

 眠っている間に、カァラが同じベッドに潜り込んでいた。ただでさえ狭いベッドが、余計に狭くなっている。

 レーキは肩をすくめて、カァラをそっと隣のベッドに移した。

 この数日、カァラはレーキと一緒に寝たがった。断っても、朝方にはこうしてベッドにもぐり込んでいる。

 旅の終わりが近づいていることを、カァラも理解しているのだろうか。

 ヴァローナに着けば、レーキはカァラの里親を探そうと思っている。そして、カァラが成人するまで養育費を送るために働く。

 年若く独り身のレーキの元より、夫婦が揃っている家庭で養育された方が、カァラにとってしあわせだとレーキは思うからだ。

 それに呪いの事もある。今ならまだ彼女を『愛している』と言うほど深く彼女を知らない。それなら、彼女は呪いの対象にはならないだろう。

 今日の午後には、『学究の館』から半日ほどの港町にたどり着く。まずは『学究の館』で里親を探そう。レーキはカァラの寝顔を見やって、心の中で『良い親をさがしてやるからな』と(つぶや)いた。

 

「これでお別れなのねェ……寂しくなるワ……はい、コレ……」

 カァラに最後のクッキーを渡しながら、ルークはさめざめと泣いている。この短い航海の間、カァラはすっかりルークのお気に入りになっていた。

「ありがとう!」

 ありがとうと言う単語を知らなかったカァラに、それを教えたのはたった八日前のことで。

 相変わらずカァラの表情は(とぼ)しかったが、その声は弾んでいた。カァラはクッキーの袋を大切そうに自分の肩掛け(かばん)にしまった。

「……大事に、食べる」

「ううッ! うれしいこと言ってくれるじゃないッ!」

 ルークはカァラを抱き上げて、最後にひしっと抱きしめる。

「……ありがとうございました。本当にお世話になりました」

「ああ。気にすんな! また船が入り用ならワシを頼ってくれ。……達者でな!」

「はい。船長も!」

 レーキは最後に、船長と固い握手を交わす。

 レーキとカァラの二人は、港町に降り立った。

 船縁から手を振るルークが見えなくなるまで手を振り返しながら、二人は町中に向かう。

「まずは『学究の館』に行くぞ」

「『学究の館』?」

「ああ。そう言う名前の街なんだ。大きい街だぞ、ヒトも沢山いるし、学院が沢山ある」

 二人、手をつないでのんびりと乗合馬車の乗り場に向かう。

 大人の足なら『学院の館』までは半日ほどだが、子供にそれだけの距離を歩かせる訳には行かない。レーキは馬車を使うことにした。

 

 湖沼の平原に、秋の日はすでに(かたむ)きかけていた。乗合馬車の車窓から、懐かしいヴァローナの景色が見えた。

 街道沿いには並木が植えられている。グラナート育ちのカァラには、大きな木自体が珍しいようで。

「あのならんでる、大きいのはなに?」と目を丸くしている。

「あれは木、だ。小さな種から大きく育つ。切れば材木になるし、燃料にもなる。実が生るモノも花が咲くモノもある。木になる実は果実と言う」

「果実? 果実水となかま?」

「そうだ。果実水は果実から作るんだ」

「果実水飲みたい」

「街についたらな」

 レーキとカァラ、二人のやりとりを、乗り合わせた人々は微笑ましそうに見守っている。

 カァラは貰い物のクッキーを一枚だけ取り出して、ゆっくりと時間をかけて食べた。ルークに遊んでもらった時間の、名残を惜しむように。

 カァラはようやく、自分の食べ物を横取りされないと言う環境に慣れ始めている。

 食事をがっつかなくなったし、腹がぱんぱんに膨れるまでは食べなくなった。

 その内に、痩せ気味な身体も少しずつ、子供らしい丸みを取り戻すだろう。

 

 馬車は日暮れ寸前に、『学究の館』にたどり着いた。

 空は夜でも昼でもない黄昏(たそがれ)に染まり、街には夕陽が作る長い影が落ちている。

 今日の夕焼けはとても美しい。家々は夜のための明かりを灯し始め、人々は一日の終わりを楽しむために窓辺に(たたず)んでいた。

 そんな早晩の景色の中を、レーキはカァラと共に『旅人のためのギルド』へ向かった。『ギルド』で宿を紹介して貰って、明日から友人たちを訪ねる。それからカァラの里親を探し、天法院で祭壇を受け取る。

 思えばグラナートに着いたときに、手紙を出しておけば良かったかと思う。だが、国をまたいだ手紙は、大幅に遅れることも行方不明になることも多い。本人が直接おもむいた方が早いことすらあった。

 突然、友人たちを訪ねてみな驚きはしないか。迷惑ではないか。レーキはそれが少し心配だった。

 

『ギルド』は今日も賑やかだった。

 併設されている食堂も、夕食時とあって盛況だ。

「……お腹すいた……」

 食堂から漂う夕餉(ゆうげ)の香りに刺激されたのか、カァラがお腹を押さえて訴える。

「そうか。ならまず飯を食おう」

 カァラの手を引いて、レーキは食堂の席についた。ヴァローナ流の料理とウバ(ブドウ)の果実水を二つたのむ。

「ヴァローナの飯はあまり辛くない。ウバの果実水は飲んだことがあるか?」

「ない」

「甘味があって美味いぞ」

 最初にやって来た果実水のジョッキを、カァラに渡す。カァラはそれを一口飲んで眸を輝かせた。

「おいしい!」

「そうか。良かったな」

 レーキが微笑むと、カァラは口の端をへの字に結んだ。

「どうした?」

「くち、レーキみたいにしたい」

「口? ……お前、笑いたいのか?」

 カァラの表情が乏しいのは、彼女が顔の筋肉の使い方をよく知らないからなのか。それとも他に理由があるのか。

「うん。にこってする」

「それなら口の端をこう、上にしなきゃダメだ」

「こう?」

 カァラはぐわっと口を開ける。笑っていると言うよりは、ただ口を開いただけだ。

「うーん。違うな。まず口を閉じて、頬をあげる感じで……」

「……レー、キ?」

 カァラに向かい合っていたレーキの背後で、声がした。

「まさか、レーキなの?!」

 その聞き覚えのある声に、レーキは振り返る。

 そこに立っていたのは、青い髪に藍色の眼の女性。眼鏡も顔立ちも船で別れた時と変わらない。自称、考古学者のネリネだった。

「……なんで……なんで!! 生きてるなら何で連絡よこさないのよ!! このバカ!! もう! ワケわかんない!」

 ネリネはレーキに詰め寄って(えり)を掴み、がくがくと首を揺らしてくる。

「……すま、ない……」

「そ・れ・に!! 聞きたいことも言いたいことも、山ほど有るわよ! まず、この子は誰?! あんたの隠し子?!」

 急に指さされて、カァラはびくりと身をすくませる。それから慌てて、テーブルに半分身を隠した。

「本当にすまない。でもカァラが驚くから、手を離してくれ……」

「あ、ごめん……」

 そう言われて、ネリネはレーキの襟からぱっと手を離す。

「この子は俺の子じゃない。グラナートで拾った、孤児だ」

「そうなの? 羽の色が同じだから、てっきり親子なのかと……って、その銀色の羽のことも聞きたいわ。あ、ちょっとつめてくれる?」

 ネリネはレーキの前の席に腰掛けようとして、先に掛けていたカァラを見下ろした。カァラはじっとネリネを見つめて、逃げるようにレーキの隣に座り直した。

「ちょっと脅かしちゃったみたいね。……それで? 船から落ちてあんた今まで何してたの?」

「それは、ここでは話せない。飯を食ったら今夜の宿を決めるから、そこまで来てくれるか?」

 ネリネは考古学者だ。もしかしたら、『呪われた島』のことを知っているかもしれない。だが、こんなに人が多い場所で、そんな話をする訳には行かない。

 真剣な表情で言ったレーキに、ネリネは姿勢を正した。

「解ったわ。今は聞かない。まだ宿取ってないの? それなら家、来る?」

「良いのか?」

「良いわよ。部屋はあるし。あ、あたしもご飯たべちゃお。……すみませーん!!」

 ネリネが注文をし、食事を待つ間カァラを拾ったいきさつを簡単に話した。グラナートでは黒い羽の鳥人は苦労すること、それで彼女をヴァローナに連れてきたこと、彼女の里親を探していること。

 レーキとネリネが会話している横で、カァラはおとなしく果実水を飲んでいる。

「ふうん。そう言うことね。なら、あたしも協力するわ。心当たりをあたってみる。レーキの同族だもんね、楽しく生きて欲しいわ」

「……同族? なかま? おねえさんも?」

 覚えたばかりの単語を聞いて、カァラ顔を上げた。

「……あたしはレーキと同族じゃないけど、仲間だわ。あたしはネリネ。あなたは?」

「おねえさんはネリネ、ネリネ。カァラはカァラ。ただのカァラ」

 カァラはぱっと小さな右手を差し出した。

「はじめましてのごあいさつ!」

「あら、グラナート流の挨拶ね。よろしく!」

 差し出された手を、ネリネは握り返す。カァラはぐわっと口を開けて、懸命に笑おうとしている。

「……どうしたの? この子いきなり口を開けて」

「この子なりに、笑おうとしてるんだ」

「……そっか。笑うときはね、カァラ。こうするのよ」

 ネリネはにっと歯を見せて笑う。カァラはそれを真似てにっと歯をむき出した。

「そうそう! その調子! ……所でこの子、いくつ?」

「カァラ、お前、歳はいくつなんだ?」

「? とし?」

「生まれてから、何年ってことよ」

「……わかんない。年、ってなに?」

 もしや、この子は年と言う概念を知らないのか? 他にも、知らないことが多すぎる。この子には、教育以上に何かが欠けているような気がする。

「そうねえ……お日様が昇って沈んで、また上るのが一日。これはわかる?」

「うん」

 ネリネが丁寧に、カァラへ一年と言う概念を教える。ついでに基本的な数の数え方も教えてやると、カァラは三本の指を示しながら「えっと……カァラが生まれて気が付いてから、三、寒いのがあった」

「じゃあ、三年か四年くらいかしらね。あなたは三歳か四歳ね」

「カァラは三歳か四歳……三歳か四歳……」

 カァラは教えられれば覚えも良く、知能はけして低くない。ただ基本的な物事を教えられていなかったようだ。

「この子、いったいどうやって暮らしてたの?」

「詳しいことは解らない。出会った時は浮浪児だった。母親と暮らしていたらしいが……母親はもう死んでいるようだ」

「おかあさんは死んだ。死の王さまの国にいる。いまはしあわせ」

「そっか。カァラ、お母さんってどんなヒトだった?」

「おかあさん? おかあさんは……たまにごはんをくれる。はねがあるから、同族。元気な時は抱っこしてくれる。たまにぶつ。カァラはおかあさんがすきだけど、おかあさんはカァラがきらい。黒いはねだから。でもいつもじゃない。すきなときもある。おかあさんはびょうき。せきって言うのをする」

 運ばれてきたヴァローナ風のシチューを食べながら、カァラは大人二人にそう説明した。

 カァラのたどたどしい説明をつなげると、カァラの母親は鳥人で、病弱で、病が原因で死んだようだ。黒い羽の我が子を(いと)いながら、それでも一人で懸命に育てていた。最期は床についていることが多くなって、話すこともままならなかったようだった。

 全てを聞き終えたレーキとネリネは、シチューを食べ続けるカァラを見守る。

「……良い家を、探して上げなきゃね」

「ああ。そうだな」

 二人は顔見合わせて、互いに頷いた。



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第74話 ネリネの家

 食事を終えて、三人はネリネの家に向かう。ネリネの家は、『学究の館』の端の方にある二階建ての家だった。この辺りは、石造りの建物がぴたりと密集していて、戸口は通りに面している。各家庭に前庭は無い。いかにも大きな街の家だ。

「あたしんちは、ここね」

 ずらりと並んだ家のうち、一つを指さしてネリネはその家に入っていく。レーキとカァラも後に続いた。

 家の中はきれいに整頓されていて、廊下に有る小さな机には一輪挿しで花が飾られている。家具は昔から使われているような、古いモノが多い。ネリネは綺麗好きなのか、掃除も行き届いていた。

「寝室は二階よ。二部屋有るから右のを使って。お風呂入りたいならココ。洗面もココね。キッチンは……」

 ネリネは家の中を案内しながら、居間らしき部屋に入っていく。そこはすでに明かりが点いていた。

 居間は居心地の良さそうな空間で、一人掛けのソファー二脚と二人掛けのソファー一脚、それに背の低いテーブルが並べられている。その内の一脚、一人掛けのソファーに誰かが腰掛けていた。

「……よお。遅かったな。邪魔してるぜ」

「あのねえ。帰るときは帰るって連絡くらいしなさいよ! まったく、どいつもこいつも!」

 ソファーに座っていた、誰かが立ち上がる。彼はレーキの姿をみとめて、ぱちぱちと(みどり)色の(ひとみ)(まばた)いた。

「あんた、レーキじゃねえか。よお。久しぶりだなぁ。元気でやってたか?」

 軽い調子で手を挙げたのは。やはり船で別れて以来、久し振りに出会うウィルだった。

 これは嬉しい驚きだ。ウィルはあの時から少しも変わらず、今は武装も解いてすっかりくつろいでいる。

「ウィル。久し振りだな。グラナートに行ったんじゃなかったのか?」

「ああ。行った。けど、あそこは砂漠ばっかりで面白くねえ。だから帰ってきた。……ん? その小さいお嬢ちゃんは?」

「ああ、この子はカァラだ。グラナートで拾った」

「ほー。カァラ、か。良い名前だ。オレはウィリディス。ウィルと呼んでくれ、カァラ」

 ウィルが腰を(かが)めて差し出した手を、カァラは小さな手で握り返した。

「ウィル……ウィル……うん。おぼえた」

「良い子だ。よろしくな」

「な!」

「……所で、どうしてネリネの家にあんたがいるんだ?」

 レーキが素朴な疑問を口にすると、ネリネが苦虫を噛み潰したような顔をして、(つぶや)いた。

「……したのよ」

「……? なにを?」

「ああ、もうっ!! こ・ん・や・く! したのよ! 色々あって、このバカと!!」

 真っ赤になった顔を手のひらで隠しながら、ネリネは叫ぶ。

「……婚約?」

 あれだけ、ウィルを毛嫌いしているように見えたネリネが、そのウィルと、婚約?

 レーキには事情がにわかに飲み込めずに、唖然(あぜん)として二人を見比べる。

 ウィルはぽりぽりとこめかみを()きながら、ネリネの肩を抱いた。

「まあ、そう言うことになった」

「そうよ! 婚約したの!! 何度も言わせないで!!」

「え、と……なるほど? それは、おめでとう」

「ま、あんたならそんな反応でしょうね……あ・り・が・と・う!」

 ヤケになって礼を言うネリネは、耳まで真っ赤になっていた。

 そうか。この二人が。人生とは何が起きるか解らないものだ。

 感心しきりのレーキに、ネリネは「えー、こほんっ! それで? あなたの方の話を聞かせてくれる?」と咳払(せきばら)いをした。

「ああ。その前にカァラを寝かしつけたい。この子には聞かせたくない」

 カァラはまだ幼い。ここで話したことを、どこかでぽろりと吹聴(ふいちよう)するかもしれない。それを考えると、彼女には『呪われた島』のことは話せない。

 レーキがカァラを抱き上げると、彼女は「カァラもレーキの話、聞きたい」とはっきり言った。

「だめだ。大人の話だ。お前には聞かせられない」

「大人ならいい? どうしたら大人になれる?」

「あと十四年待て」

「十四年って寒いのが何回?」

「十四回だ」

 十より多い数は教えられていないカァラは、首を(かし)げる。

「十四年になったら大人になって、お話聞かせてくれる?」

「そうだ。そのために早く寝ろ。寝れば早く大人になれるぞ」

 カァラはこくりと頷いた。

「……ぜったい、ぜったい、だよ?」

「ああ、絶対、だ」

 それで、カァラは納得したのか、寝室まで運んでも大人しくしていた。

 グラナートで買っておいた寝間着に着替えさせ、ベッドに寝かしつけると、カァラはレーキを見上げた。

「お話おわったら、いっしょにいてくれる?」

「ああ、俺もこの部屋で寝るからな」

 客用らしきこの部屋には、さいわいベッドが二つ有る。何も問題は無い。

「よかった。早くねる。早く大人になる……」

 レーキの言葉で、カァラは安堵したように眼を閉じて、まもなく小さな寝息をたて始めた。

 

「……結構良いパパしてるじゃない。レーキ」

 カァラが寝息をたて始めたの確認して、レーキは階下に戻った。

 揶揄(からか)うようにネリネは言うが、レーキには自分が父親になれるとは思えなかった。

 レーキは『良い父親』と言うモノを知らない。だから、それがどんなモノなのか目指しようがないのだ。

「……俺が?」

「そうよ。あの子、あなたのこと信じてるわ」

「俺で無くても、あの子は信じるさ。優しい、善良な大人ならな。……それより、今までの話をしよう」

 レーキはネリネとウィルの向かいのソファーに腰掛けて、あの時、海に落ちてから何があったかを話し始めた。

 気が付いたら『呪われた島』にいたこと、羽を切り落とされていたこと、魔のモノであるイリスとシーモスに助けられたこと……『呪われた島』で起こったことの全てを。

 ネリネとウィルは時折質問を挟みながら、全てを聞いてくれた。

「……『呪われた島』、か……『始めの島』と『封印の島』の伝説は聞いたことがあるわ。人間は『始めの島』から世界中に広がって行った、って。でもこの千年以上『初めの島』の捜索に成功した人はいないの。『封印の島』もそう。どこかにはあるけど、誰にも見つかって無いのよ」

 やはり、ネリネは島の伝説を知っていた。彼女になら、安心してこの重たい荷を預けることが出来る。とレーキは思う。

「今、その二つを探している者がいるのか?」

「うーん。今は表立って探してる学者はいないと思うわ。少なくともあたしは聞いたことがない。……その、『始めの島』は空を飛んで移動しているのよね? そりゃ、見つからない訳だわ」

 ネリネは呆れ顔で嘆息して、腕を組んで眼鏡を押し上げた。

「君には申し訳ないが、この話はここだけの話にしておいて欲しい。『呪われた島』に上陸しようとする者が増えれば、犠牲者が増えることになる」

「そうね。それに、『始めの島』と『封印の島』が同一の島で空を移動してるなんて話、突飛(とつぴ)すぎて学説にしたって誰も相手にしてくれないわ。……でも、あたしが個人的に少しばかり文献を漁るのは、仕方ないわよね?」

 にいっと、ネリネは不敵な笑みを浮かべる。発表するつもりはなくても、調べるつもりは有るらしい。

「何か新しい発見が有ったら、俺にも教えてくれ」

「任せといて!」

「……その、魔のモノは結界の外には出てこれねえんだな?」

 黙って話を聞いていたウィルが、鋭い眼差しでレーキを見()える。

「ああ。彼らにも結界はどうにも出来ないようだった。……だが……」

「だが?」

「彼らの力はどうしようもなく強力だ。いずれ、結界を破って外に出てくることが無いとは言えない。俺は、それが恐ろしい」

 イリスやシーモスは、魔のモノとしては例外中の例外だ。『冷淡公』や『苛烈公』のことを考えれば、魔のモノは人類にとって脅威であることは間違い無い。

「……そうか。あんたがそう言うならきっとその時は来るんだろうな。ああ、その時までオレは腕を(みが)こう。わくわくするぜ」

「わくわく、じゃ無いわよ。バカ! そんな事になったら戦争よ! 戦・争!!」

 ウィルは強者と戦えるなら、たとえ魔のモノであっても構わないのか。ネリネはウィルをたしなめる。

「騎士の本分は戦いだろォ。戦争、良いじゃねえか」

「あんたは『元』騎士でしょ! それに、あたしはそんなのゴメンよ! 戦争になんかなったら……遺跡探しなんて悠長に出来なくなるでしょーが!」

「そんなに目くじら立てるこたーねぇだろォ、ネリネお嬢ちゃん!」

 戦闘狂のウィルと遺跡マニアのネリネ。にらみ合う二人は水と油のようで、根本的な所は似ているのかも知れない。レーキが感心していると、ネリネは「……所で、レーキ。その羽、魔具(まぐ)なのよね?」と切り出した。

「ああ。羽の形のからくりを作って魔法を閉じ込めて有る、らしい」

「……ふふふ。完全に動く、それも新しい魔具、なんて……何それスゴすぎるあたしも欲しい!!」

「これは俺の羽に合わせて作ってあるから、君が持っていても役には立たないと思う」

 真顔で返したレーキに、ネリネは頭を抱えて転げ回る。

「違うの! 違うの! 役に立つとか立たないとかはどうでも良いのよ! 研究したいの! どんな機能があるとか、どんな機構で動いてるとか、どんな材質とか、色々調べたいの!! 魔具はね、ロマンなのよぉおぉ!!」

「あまり叫ばないでくれるか? カァラが起きてくるから……」

「……うー! うーっ!」

 悔しげに身悶(みもだ)えして、地団駄を踏むネリネ。

 その横でウィルはくつくつと肩を震わせて笑っている。

「……見てて飽きないだろォ? だから、婚約したんだ」

 そう言って、ウィルは片眼をつぶって見せた。



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第75話 進路を定め

「それじゃあ行ってくる」

 翌朝、レーキはカァラをネリネに預けて天法院に向かった。

 カァラは「レーキといっしょにいたい」と言ったが、天法院に子供を連れて行くわけにはいかない。

「すまない。今日はネリネと一緒にいてくれ。夜になる前には帰るから」

「どうして、レーキといっしょじゃダメ?」

「今から行く場所に、子供を連れていけないからだ」

 そう諭したレーキに、カァラはスカートの端を握りしめた。

「早く大人になる、から、ダメ?」

「今は子供だ。まだ無理だ」

「……カァラ、今日はあたしとウィルと一緒に遊ぼ。レーキが帰ってきたら羨ましくなる位楽しくね!」

「……」

 ネリネが明るく笑って、カァラを抱き上げる。カァラは押し黙ったままネリネに抱きついて、ふいとレーキから顔を背けた。

 その様子に少々心は痛んだが、レーキはネリネの家を出発した。

 ネリネの家から天法院までは、徒歩で半刻(約三十分)ほど。懐かしい街並みを眺めながら、レーキはそぞろ歩く。今から向かえば授業の前に天法院に着けるはずだ。

 アガートやズィルバーは、アニル姉さんは、そしてセクールス先生やコッパー院長代理は変わりないだろうか?

 例年通りなら、天法院もそろそろ『学究祭』の準備に入る頃。みな、忙しくしているだろうな。

 そんな事をつらつらと考える内に、レーキは天法院にたどり着いた。

 気難しい爺さんのように厳しく、時に優しく、自分を導いてくれた天法院。

 正門にかけられた『ヴァローナ国立天法院』のプレートも、蔦に覆われた建造物も、何もかもが変わらない。懐かしい。

 自分を育ててくれた学び舎に、レーキは再び足を踏み入れた。

 

 教職員のための部屋がある棟に向かう。アガートもそこで授業の準備をしているはずだ。

 一年半前、まだまだ駆け出しの教師であるアガートには、個室は与えられていなかった。まずは何人かの教師が共同で使っている準備室に向かおう。

 勝手知ったる校舎の中。王珠を腰のベルトに吊り下げているレーキは、誰何されることもなく準備室前までやって来た。

 軽くノックをすると、扉の向こうから「開いてるよーどうぞー」と聞き慣れた声がした。

「……失礼します」

 アガートに再会したら、一体どんな顔をしたらいいのだろう。レーキは戸惑いながら、準備室の扉を開けた。

「……あー今日はテストやって、それ終わったら『学究祭』の準備……」

 テスト用の紙をまとめながら、机の方を向いていたアガートがふと、振り返る。

 眼鏡ごしの黒い(ひとみ)が、ゆっくりと驚愕の形に開かれた。

「……!!」

 アガートはテストを放り出し、無言でレーキに駆け寄った。そのまま、飛びついてきてぎゅっと抱きしめてくれる。

「……バカ野郎!! 今までどこで何してたんだよー!! おかえり! おかえり……!!」

「すみません……! ただいま! ただいま帰りました……!」

 感極まったのか、アガートは双眸(そうぼう)からポロポロと涙をこぼしていた。

「……君が海で行方不明になったって『ギルド』から宿屋に連絡があって……それで宿屋がオレに連絡してきたんだよ! オレは何ともないから、君が生きてるって解ってたけど……それでも心配するだろおー!!」

「ごめん、なさい……!」

 話したいコトが沢山ある。聞きたいことも。今はただ、互いの無事を喜ぶコトで精一杯で。気が付けばレーキもまた、隻眼から大粒の涙をこぼしていた。

 

 レーキとアガートが再会を喜び合っていると、授業の開始を知らせる鐘が鳴った。

 その音で授業に向かう所だったことを思い出したアガートは、レーキに椅子を勧めて、「ここでちょっとまっててー!」と言い残し準備室を駆け出していった。

 しばらくして帰ってきたアガートは、ズィルバーを(ともな)ってくる。

「?! ……レーキサンんんんっ……!!」

 何も聞かされずに準備室までやって来たらしいズィルバーは、レーキの姿を見た瞬間に弾かれたように飛びついてきた。

 ズィルバーは今年で三学年生。今は卒業に向けて健闘中だと言う。

「オレから言うのもなんだけどね、かなり優秀な生徒だよー学年首席も夢じゃないねー」

「そんな……まだまだデス!」

 謙遜しながらも誇らしげなズィルバーの顔は、確かな努力に裏打ちされた自信で輝いているように見えた。この一年半の間で彼は着実に成長しているようだった。

「……それで、一体なにが起こったの? 始めから説明してくれるかい?」

「小生にも解るようにお願いしまス!」

 二人に(うなが)されて、レーキはこの一年半の間に合ったことを説明した。船で起こったこと、『呪われた島』にたどり着いたこと、そこから脱出してグラナートへ向かったこと……

黙って全てを聞いてくれた二人は、同時に長い溜め息をついた。

「『呪われた島』の結界か……それで、一年以上も連絡出来なかったんだね?」

「はい。外の世界と連絡をとる手段は何もなくて。俺が外の世界に帰るためには、強力な幻魔の力を借りなければなりませんでした」

「そうか、幻魔の……」

 そう呟いて何かを考え込むアガートの隣で、ズィルバーが小さく震えて言った。

「魔人に、幻魔、魔法……伝説の中の存在では無かったんデスね……」

「ああ。脅かす訳じゃないが、『呪われた島』で彼らは確かに生きている。たった今、この時も」

 中立派の筆頭であるイリスが、『ソトビト』を逃がすなどという暴挙に出て、あの島の勢力図は様変わりしていることだろう。

 イリスやシーモスは無事だったのだろうか? よもや極刑に処せられることは無いだろうが、何らかのペナルティーは与えられているかも知れない。それが、気にかかる。

「……君を助けてくれたって二人は、話が通じそうだけどねーそんな奴らばっかりじゃないんだろ?」

「はい。ヒトを自分たちよりもはるかに下に見下しているような、そんな幻魔や魔人のほうが多数派でした」

「ううーん。この話、院長代理の耳にも入れといた方が良さそうだな……」

 アガートは珍しく、難しい顔をして立ち上がる。レーキが「俺も行きます」と立ち上がりかけるとアガートは手でそれを制した。

「あ、君はここでちょっと待ってて。詳細は君から院長代理に語ってもらう。その前にズィルバー君にその魔具を見せて上げてよ」

「ズィルバーに?」

「彼、君に魔獣よけの鐘を作ってから、法具の研究に興味もってね。新しい法具試作したり古い魔具を修理したりしてるんだ。将来は本格的にそっちの道に進みたいみたいだよ」

「小生は元々職人の息子ですカラ……見よう見まねで何トカ。魔具を見せていただけるならありがたいですケド……」

 そう言うことならレーキに否やは無い。魔具を見せやすいように、恐縮するズィルバーに背を向けてやる。

「一度取り外すと元通り着けられるか解らないから、このままで大丈夫か?」

「ハイ! 取り外し出来るようなモノなのかも含めて見てみマス!」

「頼む」

 後輩二人のやりとりを見つめていたアガートは、ようやく茫洋(ぼうよう)とした笑みを浮かべて言った。

「それじゃあオレは、院長代理のとこ行ってくるねー」

「はい。お願いします」

 アガートを待つ間、ズィルバーはレーキの背中の魔具を検分して、取り外しが出来ることを発見した。

「ここにボタンがあって……これを押しながら滑らせれば魔具が外れるようになっていマス。修理の事を考えると外れるようになっていた方が利便性があがりマス」

「なるほど」

「……これは……加工の精度が素晴らシイ。蟲人の親方でもココまでの精度を出せる者は少ないでショウ。それにとても軽い……ヒトの世界には伝わっていない未知の金属である可能性がありマス」

 レーキの羽から取り外した魔具を、ズィルバーは丁重に調べていく。

「ナルホド……魔法の込められている部分については手も足も出まセンが、羽の形の部分は複製することも出来そうデスね。問題は材質の重さ……」

 あれこれと考え込むズィルバーにレーキは訊ねる。

「なあ、ズィルバー。この魔具の色を黒くする事は出来ないか? このままだとひどく目立つんだ」

「ええっと、この魔具は完全分解出来そうにないノデ……機能を損なわずに塗装は難しい、デス。申し訳ないデス……」

「そうか……いや、出来ないならいいんだ。仕方ない。勝手なことを言ったな。すまない」

 うなだれるズィルバーから、魔具を受け取ってレーキはそれをまじまじと見つめた。

 初めてシーモスの工房で魔具を見た時は、驚きもしたし、なにより嬉しかった。何度も一緒に空を飛んだ今は、これを失いたくないと思うほどには愛着がわいている。

「これは、まだ一人では着けられないんだ。着けてくれるか?」

「あ、ハイ!」

 ズィルバーは慎重に、魔具を羽に取り付けてくれる。羽ばたいて感触を確かめるわけにも行かないので、羽を広げたり畳んだりして試してみた。

「滑らかに可動していマス。違和感はありマスか?」

「いや、問題はない」

「良かったデス! この魔具はレーキサンの羽にぴったり合うように作られていマスね。でも、これが試作品、なのデスね……」

「ああ。試作一号とか言っていたな」

『使徒議会』に捕らわれたことで試験飛行も無しに飛び立つ事になってしまったが、試作一号は壊れることもなく今までレーキの翼となってくれている。

「塗装されていないだけで、動作は完璧デス! でも、もしその魔具が壊れたら……修理出来る者は外界には恐らくいないでショウ」

 それが口惜しいように、ズィルバーは言う。

「天法を使用して、それに近いモノが作れないか試してみたいデスね」

「それはありがたい。これもいつ壊れてしまうかは解らないからな。それに君が似たようなモノを作れるなら、俺の他にも助かる鳥人がいるだろう」

 事故などに遭って翼を失う鳥人もいる。そんな人々のためにも、ズィルバーの思いつきは役に立つことだろう。

「あ、それを応用したら、手や足を失った方々のための法具を作るコトも出来るかもしれまセン!」

 ズィルバーの顔が一層、明るくなる。確かな手応えと、進むべき道を見つけたヒトの顔。ズィルバーは何かを決意したように、レーキの顔をじっと見た。

「……決めまシタ! 小生がやらなきゃいけないコト。やるべきコト。小生はレーキサンのお役に立ちたいし、もっと大勢の方のお役にも立ちたいのデス! だから、ヒトのお役に立つ法具の研究をしマス!」

 自分を罵る人々に怯えていた少年は、天法院での三年間で大きく成長していた。

 そんな後輩を、レーキは(まぶ)しいモノを見るように隻眼を細めて見守った。



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第76話 コッパー院長代理

「久しぶりじゃのう、レーキ君。大まかな話はアガート君から聞かせてもらったよ」

レーキは、アガートに呼ばれて院長代理の部屋に向かった。

 コッパー院長代理と会うのは、自分の卒業式以来のことだった。

「院長代理、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

 レーキは深々と院長代理に一礼する。

 七十の坂を越えてなお、コッパー院長代理は顔色も良く健康に見える。だが、院長代理はゆっくりと頭を振った。

(わし)もそろそろ歳じゃ。あちこちガタがきておるよ。そうさのう。今年の三学年生が卒業したら引退しようと考えておる」

「え?!」

 院長代理のそばで控えていたアガートが、声を上げた。引退話は彼も初耳だったのだろう。驚きに目を見開いて、院長代理を見ている。

「……そこで、じゃ。次の院長代理候補にも君の話を聞かせてやっておくれ。もうじきここにやってくるでのう」

 それはいったい誰なのか。折りもよく、部屋の扉がノックされる。

 院長代理が許可を出すと、扉が開かれて、そこに見知った顔が立っていた。

「……授業中に呼び出すと言うことは、余程緊急事態なのでしょうな、院長代理」

 苦虫を噛み潰したような表情で、一同を見回しているのはセクールス教授その人だった。

 

「セクールス、先生……!」

 そう呟いたレーキに一瞥(いちべつ)をくれて、セクールスは室内に踏み込んでくる。

「レーキ・ヴァーミリオンか。お前は海で行方知れずになったと、そこの見習い教師から聞いたが?」

「ほっほっほっ。無事に帰ってきたんじゃよ。セクールス君。じゃが、行方知れずになっていた間、大変な経験をしたようなんじゃ」

 セクールスは胡散臭いモノでも見るように(ひとみ)をすがめて、爪先から頭のてっぺんまでじろじろとレーキを見る。

「……それは授業を投げ出しても聞くべきこと、なのですかな? 院長代理」

「そうじゃよ。実に大変なことじゃ。それに、君もレーキ君が行方知れずになって心配だったじゃろう?」

「……別に。そいつも一人前の天法士なのです。何か危険が有ったとしても切り抜けるでしょう」

 一人前の、天法士。セクールスが自分を評してそう言ってくれたことに、レーキは胸の中が温かいものでいっぱいになるのを感じた。

「それで? 私に聞かせたい話とはいったいどんな話なのですかな?」

 つまらない話ならすぐに出て行くぞ。言外にそんな雰囲気を漂わせつつ、セクールスは院長代理の前に進み出る。

「長い話になるじゃろうから、まずはみな椅子にかけなさい。喫するモノも欲しいところじゃが……それは後のお楽しみじゃな」

 そう言って院長代理は自分の椅子に腰掛ける。アガートとセクールスも、来客用の椅子に座った。レーキも慌てて手近な席についた。

「さあ、レーキ君。最初から始めて終わりまで話しておくれ」

 

 レーキは全てを三人に話して聞かせた。

 羽を切られたと話した所で、院長代理はひどく悲しげな表情をした。

 魔法を使うシーモスの話をすると、セクールスはぴくりと眉を持ち上げて身を乗り出してきた。

『呪われた島』の環境、幻魔の数、『使徒議会』、魔装具、半竜人……話しても話しても、まだ何かを忘れているような気がする。レーキは夢中になって、この一年半に起こった出来事の全てを話した。

「……なるほど、のう。大変な冒険じゃったのう、レーキ君」

 院長代理はひどく歳をとったような表情で、眼鏡の位置を直して顎髭(あごひげ)を撫でた。

 セクールスは難しい顔で、何かを吟味するように押し黙っていたが、やがて射るような視線をレーキに向けた。

「……この話、他に誰に話した?」

「考古学者の女性とその婚約者に話しましました。それからここの生徒にも一人。三人とも口が軽い者では有りません」

 ネリネが言っていた、今は『始めの島』すなわち『呪われた島』を表立って探す学者はいない話も付け加えておく。

「ふむ。この事を知る者は多くない方が良いだろう。『呪われた島』を目指す者が出てはならないからな」

「俺も、そう思います。俺はたまたま運が良かった。お話した通り、俺の前に『呪われた島』に迷い込んだ者は『苛烈公』と言う幻魔に責め殺されたと聞きました」

「ふん。犠牲者ばかりではない。『呪われた島』を目指す者の中には長の命を得たいがために、魔のモノとなることを目指す不届き者もいるだろう。それも数多くな。そんな奴らに均衡(きんこう)を崩されて、魔のモノが結界を破って外に出てくるようなことになれば……魔竜戦争の再来だ」

 かつての魔竜戦争では人類側がからくも勝利した。だが、失われた犠牲はけして少なくはなかったと聞く。特に天法士は自らの命と引き換えに、今では禁忌となった法を行使した。再び魔竜戦争が始まれば、また多くの犠牲者が出る。

「今度も人類が勝利できれば良いが……万が一魔の側が勝てば、世界の全てが『呪われた島』と同じように魔のモノに支配されるだろう」

 それが恐ろしいとセクールスは言う。

「魔のモノは三派が鼎立(ていりつ)して均衡を保っていた。お前を逃がしたことでそのバランスは崩れる。それがこちらに有利に運べば良いが……」

 セクールスは冷徹に見るべきモノ見て、言うべきコトを言う。

 彼の懸念はもっともで、レーキは絶句する。

 自分はただ友となった幻魔が苦しんでいなければ良いなどと、のん気に思っていた。

 イリスの失脚はもうどうしようもない決定事項で、それがヒトにとってどんな意味を持っているのか、深く考えてみたことなど無かったのだ。

「魔のモノの侵攻が明日になるか百年後になるかは見当も付かん。だが、それはいつか必ず起こるだろう。その時までに出来ることをしなくてはな」

「出来る、こと?」

 それが何かはっきりとは解らずに、レーキは首を傾げる。セクールスは重いため息をついて、「いいか?」と前置きする。

「魔のモノに対抗出来るのは主に誰だと思う?」

 それは恐らく騎士や剣士のような戦士ではない。彼らの技巧は何処までも個人のモノだ。

 どんなに優れた戦士も、出来ることには限界がある。弓兵や槍兵でもない。彼らだけでは魔法に対抗出来ない。では。

「……天法士、でしょうか?」

「そうだ。そこまで解っていて、なぜ答えが解らんのだ? 魔のモノに対抗する手段が足りないなら育てれば良い。禁忌を開示することは出来ないが、強力な法を操ることが出来る天法士を育成する事は出来る。今まで以上に我々が努力する事もな」

 出来の悪い生徒を前にした時と同じ口調で、きっぱりとセクールスは言い放つ。セクールスは、今以上に教師としての職務に(はげ)むことがいつかやってくるかも知れないその日に備える事だと言いたいのだ。

「その通りじゃよ、セクールス君。そこで儂から君に提案じゃ。儂は今期をもって引退する。その後を君に託したい」

「……は、い?」

 一瞬セクールスが、なにを言っているのだこのボケ老人は? とでも言いたげに眉を吊り上げる。

「……誰が、何を、託されるというのです?」

「ほっほっほっ。君が、この学院を、じゃよ、セクールス君」

「はあ?」

 普段は鋭いセクールスも、このことは予想などしていなかったのだろう。眉を怒らせたまま、事態が飲み込めずに語気も荒く聞き返している。

「……なぜ私がっ?」

「だって君、レーキ君の話を聞いてしまったじゃろう? 生徒たちの育成に力を注がねばと思ってしまったじゃろう? それだけでは不満かね?」

「……っ」

 罠にかかった捕食動物のように。セクールスは肩を怒らせたまま、「やられた……」と(つぶや)いた。

「……解っていて……全て計画の内で私をこの場に呼びましたね? 院長代理」

「ほっほっほっ。儂は君ならレーキ君の話を聞きたいだろうと思ったから、この場に君を呼んだのじゃ。それにな、セクールス君。向いておらん者に無理に責任を負わせるほど、儂は酔狂ではないぞ」

 それが院長代理の本音なのだろう。その才が有るから、選んだ。セクールスならその責務を全うするだろうから。

 セクールスは大きなため息をもらして、肩から力を抜いた。

「……解りました。引き受けましょう。ですが、私が院長代理となるからには私のやり方を通させていただきます」

「ああ。君のやり方、大いに結構じゃ! 新しい時代には新しいやり方が必要じゃからな。……ふう。これで儂も肩の荷が下りたわい」

 穏やかに、コッパー院長代理は笑う。彼がその責務について、二十余年。もう、自分に出来ることは無い。後進に未来を託してもいい時期だ。そう決めた老人の、さっぱりとした笑みだった。

「……私がお断りしたらどうしました? 院長代理」

「なあに。君は第一候補じゃ。まだ候補は何人かおる」

「そうですか。……少し早まった、か……」

 もう一度セクールスは深いため息をつく。

「おめでとうございます! セクールス院長代理!」

 アガートは茫洋(ぼうよう)とした笑みを浮かべて、どこか揶揄(からか)うようにセクールスを祝福する。

「うるさい。まだ就任してはおらん、見習い」

「オレはアガート・アルマンです。いい加減覚えて下さいよー。……オレも人のことは言えないですけどね、その『癖』なおした方が良いですよー、セクールス先生」

 がりがりと頭をかきながら、アガートは苦笑する。

「なんと言われても興味が無いモノは覚えられん。覚えて欲しいなら、少しは努力して見ろ、見習い」

「ちえーレーキは覚えて貰えたのになー」

 アガートはセクールスの仏頂面を前にしても、いつもの調子を崩さない。有る意味、彼も大物であるとレーキは思う。

「……さて、私は食事を摂ってから午後の授業の準備をせねば。院長代理、失礼いたします」

 セクールスは院長代理に軽く一礼して、部屋を出て行った。

「おお、もうそんな時間かね。儂も昼食をいただこうかのう」

 院長代理も席を立って、秘書を務めている職員を呼んでいる。足の不自由な院長代理は滅多に食堂に下りてこない。昼食はこの部屋に持って来させているようだ。

「レーキ、オレたちもご飯にしよっか。ズィルバー君も誘って食堂に行こう」

「はい」

 アガートが立ち上がるのにつられて、レーキも席を立つ。

「あ、レーキ。君が宿屋に残してた荷物ね、オレが預かってるよー」

「ありがとうございます。あの、祭壇も預かって貰ってますよね?」

 宿屋に残したモノは世間的には大した値打ちの有るモノでは無かったが、師匠の『法術』の本や調理器具、少しの現金などが戻ってくることは嬉しい。持つべきモノは優しい先輩だ。

「ああ。あれもちゃんと管理してるよー必要になった?」

「はい。アスールに帰る前にもう一度死の王様との『謁見の法』を試してみたいんです」

 レーキが、ここ『学究の館』に戻ってきた目的の一つを告げる。アガートはうんうんと頷いた。

「なるほどねーじゃあ、またオレが助祭をつとめようか? 後一人は……またセクールス先生にでも頼む?」

「そうしたいのは山々なんですが、今回は二人も天法士を雇えるほどの金が無くて……どうしようかと」

「……その一人、儂ではダメかのう?」

 秘書がくるのを待つ間、黙って椅子にかけていた院長代理が、不意に会話に入り込んできた。

「え?!」

 アガートとレーキは驚いて、顔を見合わせる。

「報酬は無しでもかまわんよ。死の王様との謁見は珍しい儀式じゃから。経験しておきたいのじゃ」

「え、あの、その……?!」

 思っても見なかった申し出に、レーキは慌ててしまう。

「儂とて四つ組の天法士じゃ。資格はあると思うがのう」

「いえ、あの、その、資格は十分と言うかっ! むしろ畏れ多いというか……!!」

 にこにこと笑みを浮かべて、院長代理はレーキの返事を待っている。

 金が無いのも、これからカァラに金がかかることも、どうしようもない事実だ。レーキは腹をくくって、頭を下げた。

「……そのっ、よろしくお願いいたします! 院長代理!!」

 その言葉を待っていたように。院長代理は身体全体を揺すって笑いながら、鷹揚(おうよう)に頷いた。

「ほっほっほっ。では善は急げじゃ。今日は水の曜日じゃから……儀式は三日後の、土の曜日の放課後に行うのはどうじゃ? その方が多少は成功確率も上がるじゃろうて」

「はい!」

 院長代理が協力してくれる。こんなに心強いことはない。三日後の再会を約束して、レーキとアガートは院長代理の部屋を後にした。



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第77話 『海の燕亭』のひととき

 食堂で昼食を食べて、レーキは先輩と後輩の二人と別れた。彼らには、午後も授業と『学究祭』の準備がある。長々と邪魔する訳にも行かない。

 アニル姉さんは、お産のための休みに入っていて、今回会うことは叶わなかった。それだけが残念だ。

 ネリネの家に戻る前に、レーキはクランの実家である宿屋とオウロが働いている貴金属店を訪ねた。

 二人は久々に会うレーキの姿に驚き、再会を喜んでくれる。

 クランにもオウロにも『呪われた島』の事は話せなかった。クランは秘密を秘密のままにしておくことの出来ない性格であったし、オウロは学者でも天法士でもない。それに、二人に『呪われた島』と言う重荷を負わせることは躊躇(ためら)われた。

 海に落ちて一年の間、外界と連絡が難しい離れ小島にいたと説明する。二人はそれで納得したのか、深くは事情を聞かないでいてくれた。

 羽のことも聞かれはしたが、法具だと誤魔化した。天法に明るくないオウロはともかく、仮にも天法院の卒業生であるクランもそれで誤魔化されてしまうのは少し問題だとレーキは思う。

 ついでに二人にもカァラの里親探しの件を頼み、グラーヴォから来た手紙を見せて貰う。

 グラーヴォは元気そうで、近頃は魔獣退治にも連れて行って貰えるようになったと最新の手紙に書かれていた。

 クランとオウロとは、今夜再会を祝して『海の燕亭』で夕食を囲む約束をして別れる。

 

 ネリネの家にレーキが戻ると、カァラは遊び疲れて二階で昼寝していた。

「おかえり。あなたが天法院に行っちゃった後ね、カァラは良い子で遊んでたわよ」

 何やら分厚い本から顔を上げて、ネリネはそう言う。ネリネの家の居間にはカァラが遊んでいたとおぼしき、紙の残骸が散らばっていた。

「ただいま。……そうか。ありがとう」

「あの子泣かないのね。表情もあまり変えないし。でも、あなたがいなくて寂しいんだってことはあたしにも解ったわ」

 そんな風に言われると、ちくりと胸の奥が痛んだ。

 だが、彼女はいずれ里親の所でしあわせになるのだ。あまり自分と関わり過ぎない方がいい。

「……そうか。そう言えばウィルは?」

「昼飯食べにギルドに行ったきり帰ってこない。多分、カァラと遊ぶのに飽きて急な依頼を受けたのよ」

 盛大なため息と共に。ネリネは読んでいた本を閉じた。

「カァラの寝顔、見てくる?」

「いや、起こしてしまうかも知れないから、このまま寝かせておこう」

「そうね。でもあんまり昼寝しすぎると、夜寝られなくなっちゃうわよ」

 ネリネは苦笑気味に笑って、ソファーから立ち上がった。

「レーキ、今夜のご予定は?」

 今夜は『海の燕亭』で友人たちと飯を食うと告げると、ネリネは「それならカァラも連れて行きなさい」と言った。

「ずっと良い子で我慢してたんだから、夕食くらい一緒に食べて上げなさい」

「ああ、解った」

 レーキが頷くと、ネリネは大きく伸びをして、にっと笑う。

「んー。あたしはどうしよーかなー? 今夜はレーキのご飯が食べられるかと思って期待してたんだけど」

「簡単なもので良ければ、作ってから行こうか?」

 レーキの申し出に、ネリネは顔を輝かせる。

「え! ホント? やったあ! 是非そうして!」

「まずは何があるのか見せてくれ。足りなければ買い物に行ってくる」

 レーキは、ネリネの家の台所と食料庫を見せて貰って、十分な量の食料が有ることを確認する。これなら、ネリネが満足出来るだけの夕食が作れそうだ。

 パンを焼いて、肌寒い秋に相応しい温かな煮込み料理でも作っておこう。

「どう? 足りないモノとか有る?」

「いや、このままで大丈夫だろう。早速始める。パンの仕込みに少し時間がかかるから」

 ネリネの家の台所は清潔で、掃除も行き届いていた。使い勝手も悪くない。パンの仕込みをしながら、レーキはふとネリネに訊ねた。

「いつもは君が料理をするのか?」

「うん。ウィルがいるときはね。あいつがいないとつい外食しちゃうけど。一人でご飯作って食べるのって、なんだかわびしいじゃない?」

「かもな」

 料理を作ること自体に楽しみを見いだしているレーキでも、自分一人が食べる時は簡単なもので済ませてしまう。

 それに、『学究の館』のように大きな都市では外食するあても多くて、作って食べるよりもずっと手軽だ。

 

 パンを焼き始め、煮込み料理が良い匂いを漂わせ始める頃、カァラが眠い眼をこすりながら二階から下りてきた。

「おはよーカァラ。レーキ、帰ってきてるわよ」

 ネリネにそう告げられたカァラは台所に飛び込んできて、レーキの足にしがみついた。

「おい、こら。今は調理中だ。危ないぞ」

 カァラはレーキの足をぎゅっと抱いたまま、放そうとしない。仕方なく、レーキはカァラを抱き上げて居間まで運んだ。

「今日は『海の燕亭』と言う所で夕飯を食べる。お前も来るか?」

「うん!」

 カァラは大きく頷く。その表情のない顔が明るくなっている。

「レーキ、お腹空いた!」

「夕飯はご馳走だぞ? それまで待てないか?」

「良いにおいするから!」

「それはあたしのご飯よー! 味見する?」

「する!」

 カァラに煮込み料理を味見させると、それで彼女は満足したようで、嬉しそうに鼻息を吐き出した。

「おいしい!」

「ふふふ。やっぱりねー! 夕飯楽しみ!」

 はしゃいでいるカァラとネリネは、仲の良い親子のようだ。ネリネは実に楽しそうにカァラの相手をしてくれる。彼女は子供の扱いがずいぶん上手いが、一体どこで覚えたのだろう。

「ネリネ、君はどこで子供の扱い方を覚えたんだ?」

「あ、あたしね、昔子守の請け負いしてたのよ。小遣い稼ぎにね」

「ああ、なるほど」

 ネリネは子供と接した経験が多いのだ。それなら納得だ。願わくばネリネくらい経験豊富な人を、カァラの里親にしたいものだとレーキは思う。

「ん。そろそろ出かける準備した方が良さそうね。カァラ、そのままだとちょっと寒いから着替えよっか。かわいいケープ、レーキたちに見せて上げよう?」

「うん。いいよ」

 カァラがネリネに着替えさせられている間に、レーキは料理を火から下ろした。

 我ながら良い出来だ。ヴァローナ風の野菜の旨味を生かした煮込み料理と、焼きたてのアスール風パン。アスール風のパンはヴァローナの物より少し固めで、素朴な味が特徴だ。作り方も、ヴァローナ風のそれよりも手間暇をかけず簡単だった。

「おまたせ、レーキ。こっちは準備できたわよ」

 ネリネに連れられて戻ってきたカァラは、レーキが買ってやった服一式を着て、肩掛け鞄も右肩にかけて、出かける準備は万端のようだ。

「こっちも終わった」

「ありがと! 美味しくいただくわ」

 レーキとカァラはネリネに見送られて、『海の燕亭』へと向かった。

 

 レーキたちが到着する頃には、すでにクランとオウロが宴会を始めていた。

『海の燕亭』は今日も盛況で、そう広くない店内は客たちが夕飯を楽しむ声で溢れていた。

「遅かったっスね~もう勝手に始めてるっスよ~」

「よー! その子か、レーキ。グラナートで拾ったって子は?」

「すまん、遅くなった。ああ、この子が昼間話した女の子、カァラだ」

 知らない大人二人を前にして、カァラはレーキの陰にさっと隠れる。

「レーキとカァラちゃんは果実水で良いっスか~?」

「ああ、それで良い。頼む」

 オウロが注文を店の主人に伝える間に、レーキはカァラを席に座らせた。カァラは、テーブルの上に乗っている料理たちに興味津々のようだ。

「カァラは腹が減ってるらしいんだ。まず何か食わせて良いか?」

「もちろん! 大いに食えよー! おれはクランだ。よろしくな、カァラ」

「クラン、クラン……」

 カァラはクランの顔をまじまじと見て、名前を覚えようと何度も口の中で繰り返す。

「オレっちはオウロっスよ~カァラちゃん」

「クラン、オウロ、レーキ!」

 三人をそれぞれ指差して、カァラは嬉しそうに声を上げる。

「そうだ」

「正解!」

「当たりっス~!」

「っス~!」

 オウロの口癖を真似て、カァラは唇をとがらせる。その様子に大人たちが微笑むと、カァラもネリネ教わった通り、にっと歯を見せる。

 カァラに夕飯を食べさせながら、レーキはグラナートに行ったと言う話をした。

「ヴァローナに戻ろうと思って、船を待っている間にこの子と出会ったんだ」

「それでこの子を拾ったんスね~でも思い切ったことしたっスね~」

「どうしても、あのままグラナートに残して置けなかったんだ」

 グラナートでの黒い羽の鳥人扱いを、生まれたときからヴァローナにいる二人に説明する。

「……それじゃあ、レーキも相当苦労したんっスね……」

「ああ、それなりにな」

「お前そう言うこと話さないよなー! 前だって孤児だってこと聞くまで言わなかったし……水臭いぞ!」

「話しても、楽しい話題じゃないからな」

 レーキは困ったような表情で、クランを見る。

「それは……そうかも知れないけどさー!」

 クランは(いきどお)るようにくしゃくしゃと髪を乱して、「あーもー!」と叫んだ。

「とにかく! おれはお前が困ってたり苦しんでたりするならどうにかしてやりたいって思う位には、お前の友達だからな!」

「オレっちもっスよ! オレっちもレーキの味方になりたいっスよ!」

 酒の入っている二人は、常にないほど熱く宣言してくれる。酒の勢いだとしてもそんな言葉が嬉しい。レーキは微笑んで礼を言う。

「クラン、オウロ……ありがとう。頼りにしてる。カァラのことも、よろしく頼む」

「おう! 任せとけ!」

「オレっちも心当たりを探してみるっスよ~!」

 当人のカァラは解っているのかいないのか、『海の燕亭』名物、海の魚介のバター焼きを黙々と食べている。

 その口元についたバターを拭いてやって、レーキはカァラの頭をそっと撫でた。

「?」

 カァラは不思議そうにレーキの手を見上げる。この子と過ごす時間もそう長くはない。そう思うと、少し寂しい。

「それ、美味いか?」

「うん! おいしい!」

「そうか。他の料理も美味いぞ。色々食べると良い」

「うん!」

 元気の良いカァラの返答に、レーキは笑みを返す。それから彼はクランたちと他愛のない話を続けた。

 

「……所で、オウロ。お前に預けてある金のことなんだが」

「ああ、アレなら商業ギルドで預かって貰ってるっスよ~」

 アスールに帰るために貯めた金は、そこそこの額になっていた。それを宿屋に置いておくのは、やはり不安がある。そこで、レーキはオウロに相談したのだった。

 オウロのような商人は商業ギルドに口座を持っていて、給与や売り上げ、資金などを預けている。それを利用させて貰った。

「必要なら二、三日中に引き出してくるっスよ~」

「ああ、頼む。少しまとまった金が必要なんだ。それに、カァラに冬の服も買ってやりたい」

「これからどんどん寒くなってくるっスからね~」

「了解っス~」とオウロは請け負ってくれた。これで、『謁見の法』を試みるための報酬を払うことが出来る。

「レーキはやっぱり、アスールに帰るのか?」

 酒入りのジョッキを傾けながら、クランが聞いてきた。

「ああ。年が明けるまでには帰り着きたい」

「ふうん。じゃあ、ようやくかわいい彼女と会えるな!」

「……その……まだ、彼女、じゃない」

 珍しく口ごもって眼をそらすレーキに、クランは頭の後ろで腕を組み、にやっと笑みを向ける。

「そうかーまだかー。でも、いいよなーそう言う決まった人のいるヤツはさー」

「……そう言うお前には、決まった人はいないのか?」

「そんな人がいたら、実家で手伝いとかしてねー!」

 吠えるクランに、レーキはしょんぼりとした眼を向ける。

「そうか……」

「うっ。そんな可哀想なモノを見るような顔すんなよー!!」

「いや、俺だって……ラエティアが俺を待っていてくれる保証なんてどこにも無いんだ……」

 真顔で呟くレーキを横目に、クランもしょんぼりと肩を落とす。

「うーん。現実は甘くない、の、か……?」

「……」

「なに暗くなってるっスか! 信じるっス! ラエティアちゃんは待っててくれるって! クランはいつか運命の人が現れるって信じるっスよ~!!」

「スよ~」

 空腹も満たされたのか、退屈そうにしていたカァラがオウロの語尾を真似する。

 その間の抜けたタイミングに、大人たちは顔を見合わせて、笑いあった。



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第78話 猶予

 三日後、『(つち)の曜日』の放課後。レーキの姿は、天法院の実習室にあった。

「では、よろしくお願いします。コッパー院長代理、アガート先生」

 レーキは院長代理とアガートに一礼し、二人はレーキに返礼した。

 三人は黄色のローブを着て、金細工の祭壇の前に(ひざまず)いている。

『天王との謁見の法』を行う。そのための準備は全て整えた。

 アガートと院長代理の二人には、貴重な時間と天分を消費させてしまう。何としても法を成功し、死の王に呪いを説いて貰わなければ。

 レーキは緊張した面持ちで、祭壇に向き直る。

「それでは始めさせていただきます。『地の母、地の父、全ての生きとし生ける者を統べる定めの王……』」

 今ではすっかり覚えてしまった呪文を、一つ一つなぞるように、三人が唱和する。

 レーキのテノール、アガートのバリトンと院長代理の(しゃが)れ声。三つはうねり、重なって身のうちから力が引き出されて行く。

 次第に、三人の王珠が光を帯びる。

 不安、恐れ、高揚感。感情は混じり合い、溶け合って全てが天分となって祭壇に注がれる。確かな手応え。これなら死の王は訪れる!

「『……我が呼びかけに応えられよ! 至り来たれ! 死を司りし天王!』」

 最後の一言。一瞬の静寂の後に、暴風と共に祭壇の上に光が寄り集まって、死の王の姿を形作る。

 死の王は記憶の中にある年若い男の姿のまま、レーキたち天法士の前に現れた。

『……汝はまた我を呼ぶか』

「……はい。私でございます。三度お目通りいたします。地の父、全ての生きとし生ける者を統べる定めの王、すべての死せる者を束ねる死人の王、地の母の眷属にして刈り取る者、死の王様。私の呼びかけに応じて下さいました事、心よりの感謝を捧げ奉ります」

 畏まり、身を伏せるレーキを見下ろして、死の王は静かに(たたず)んでいる。

 その姿が時折、炎の揺らめきのように(かす)む。

不躾(ぶしつけ)ながらお願いの儀がございます。死の王様が私に賜った呪いをお解きいただきたいのです。どうか、ぞうか、伏してお願い申し上げます!」

『……その時に非ず、と我は告げた』

 死の王の宣告は冷たく、耳に滑り込んでくる。レーキは伏したまま、背中を冷たく這い(のぼ)る恐怖と戦う。

「……! お願いで、ございます!」

『……』

 言い募るレーキに、死の王は表情も無く沈黙する。ああ、また。またしても駄目なのか。レーキは絶望的な心持ちで、死の王に平伏した。

 その時、コッパー院長代理が顔を上げて、「死の王様」と声を発した。

「……(わし)はもうじき貴方様のお国に参ります、しがない年寄りでございます。死の王様のご尊顔を拝するご無礼をお許し下さいませんかのう」

 院長代理は伏した姿勢のまま、死の王に向かって言葉を紡ぐ。その声は遠慮がちで、尊敬を含んでいたが、怯えなどは感じられなかった。

『……許す』

 死の王の言葉で、コッパー院長代理は顔を上げる。好好爺(こうこうや)の笑みを崩さず、院長代理は死の王に問うた。

「有り難う御座います、死の王様。あのう、今がその時で無いのなら、この可哀想な鳥人の子は、どれほどの時をお待ちすれば宜しいのか、お示しくださいませんかのう。このままではこの子は常に怯え悲しまねばなりません。どうぞ、老い先短いこの年寄りを哀れと思し召してくださらんか。お願いでございます」

 そうか。呪いを解く事が今出来ないというなら、それはいつになるのか訊ねればいい。そうすれば、その期間だけでも怯えずに暮らしてゆける。院長代理の助力に、レーキは心から感謝する。

 何かを考え込むように押し黙った死の王は、やがて重い口を開いた。

『……不遜なる者、我が領土を侵せし者。まずは十年後、再び見えようぞ』

 それだけ告げて、死の王は中空に溶けるように自らの王国に戻って行った。

「まず、は……? あの、それは……?! お待ちください! 死の王様!!」

 慌てたレーキの言葉は死の王に届いたのだろうか?

 それを知る術は、ない。ただ、十年後と死の王が宣言した言葉を信じるだけだ。

 肩にのしかかっていた緊張が解けると、どっと疲労感が襲ってくる。レーキは嘆息して、アガートとコッパー院長代理を振り返った。

「……お二人とも、ありがとうございました」

 レーキが深く礼をすると、アガートは肩を回しながら息を吐いた。

「はあ~! 二度目だけど、緊張したねー」

「ふうー。死の王様は意外に寛大なお方じゃったのぉ」

 院長代理は杖にすがって立ち上がり、顎髭(あごひげ)を撫でながら祭壇の前のレーキを見つめた。

「……これで少しは時を稼げたかの、レーキ君。十年後、儂は手助けする事は出来ないじゃろうが……次こそは、じゃよ?」

「……はい!」

 一体何が死の王の琴線に触れるのか、それはまだ解らない。だが、時間は十年ある。それまで、出来るだけのことをするしかない。

 死の王は決して、『呪いを解かぬ』とは言っていないのだから。

 

 十年後まで、祭壇はアガートが預かってくれることになった。祭壇の材は金無垢では無いとは言え、旅の空に持ち出すには少々重すぎる。それにヴァローナの方が助祭となる天法士を雇い易いだろうと言う判断だ。

 着替えが済んで、アガートに今回の報酬を払おうとして、断られた。

「今はさ、給料があるから金には困ってないんだ。それは君の新しい生活のために使うと良い。オレからの餞別(せんべつ)だよー」

「……ありがとう、ございます」

 新しい生活。アスールに帰って、一体どんな生活が待っているのか。今は想像もつかない。それでも、生きていくために金は必要で。アガートの心遣いがありがたかった。

「十年以内にまた会いたいけどさーアスールとの距離を考えると、次は十年後かなあー」

 寂しげに、アガートは言う。

「せめて『学究祭』までここにいない? もう二週間もないから」

「……そうですね。『学究祭』までここにいます。俺も、このまま直ぐにアスールに行くのは少し寂しいし……それにまだカァラの行く先も決まってませんから」

「ああ、カァラちゃんか。オレも心当たりを……って言いたい所だけど、オレの知り合いに子供を欲しがってる夫婦はいないんだよねー独身の奴らばっかりでさー」

 とほほほーと、アガートは苦笑を浮かべる。アガートとズィルバーにも、カァラの事情は伝えてある。だが、独身教師と学生の二人にはあまり期待は出来ない。

「ともかく、ズィルバー君も今年最後だろ? 張り切って展示とかやるみたいだから、見に来て上げてよー」

「はい。必ず」

『学究祭』の日の再会を約束して、アガートと天法院で別れ、レーキはネリネの家に戻った。

 

 ネリネとは、自分の食費を出すことと食事を作ることで、『学究祭』まで宿泊する約束を取り付けた。この街での宿代を考えると、破格の値段での滞在だ。

「んーあたしは部屋貸しただけでレーキのご飯が食べられるしね! 言うこと無いわ」

「ありがとう。それに、すまない。今日もカァラを見て貰って」

「今は『始めの島』の資料あたってるトコだから問題無いわよ。カァラちゃん、大人しい子だし」

 当人のカァラはレーキの隣に座って、ネリネに貰った紙に絵を描いている。

 そろそろ食事の支度をせねば。レーキが立ち上がると、カァラは紙から顔を上げた。

「どこ、いく?」

「どこにも行かない。台所で今日の夕飯を作るんだ」

「レーキのご飯、おいしい!」

 今日も味見をする気満々で、カァラは台所までついてくる。

「まだ味見の番じゃない。刃物を使って危ないからネリネの側にいろ」

「やだ!」

「なら、見てても良い。その代わりその台から向こうにいろ」

「うん!」

 この頃カァラは、はっきりと意思表示をするようになった。どこか遠慮がちだった仕草も、子供らしく大胆不敵になってきている。

 それでもまだ、彼女の表情はぎこちなく、笑うことも怒ることも難しいようだ。

 カァラの里親探しはなかなか順調のようで。クランとオウロが頑張ってくれている。

 レーキは手際良く夕食を作りながら、『学究祭』までの予定について考えていた。

 まずはカァラに冬の服を買ってやろう。ヴァローナの冬はグラナートのそれよりずっと寒い。薄着で風邪など引かせてはいけない。

 それから自分の冬用のマントも。これからの季節、旅の空に防寒具はかかせない。アスールへ帰るための旅支度を、本格的に始めなければ。

 アスールに、帰る。ラエティアに会える。その事を考えるだけで心臓が高鳴る。

 天法院を卒業して、もう一年以上が経ってしまった。その間便りを出すことも出来ずに、彼女を待たせている。

 それが心苦しくて、たまらない。

 彼女が諦めてしまっていたら。レーキを待つことを止めてしまっていたら。

 それでも良い、彼女に一目会いたい。彼女に会って、今の彼女がどんな顔をして笑うのか、見てみたい。

 ──どうぞ、ラエティアがしあわせに暮らしていますように。

 それを願わずにはいられない。

「……レーキ! レーキ! カァラにも味見させて!」

 カァラが自分を呼ぶ声で、我に返る。台所に置かれた台の横で、元気良くぴょんぴょんとカァラが飛び跳ねている。

 ──まずはこの子のしあわせ、だな。

「ああ、ほら。これを少し食べて見ろ」

 レーキは微笑みを浮かべて、カァラを抱き上げた。

 



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第79話 里親

 レーキにとっては久々の、カァラにとっては初めての『学究祭』はつつがなく終わった。

 大人たちと目一杯祭りを楽しんだカァラは、『夜の鐘』が始まる前までは疲れて眠い眼をこすっていた。

『夜の鐘』の馬鹿騒ぎが始まると、カァラは驚いて眼を見開いた。

 空を彩る火球や光球の乱舞に、すっかり心を奪われたようで、ネリネの家に帰るまで何度もそのことをレーキに伝える。

「すごいねー! ぴゅーってなって、ぴかーってして、キラキラーってして、すごくうるさいかった!」

「そうか。そんなに凄かったか」

「うん!」

 ネリネの家に着いても興奮気味のカァラは、その日は夜遅くまで寝付かなかった。

 

 翌日、昼近くなって起き出してきたカァラは開口一番、レーキに訊ねた。

「ねえ! 今日もぴかーキラキラする?」

「キラキラ? 祭りの騒ぎのことか? 残念だが祭りは昨日で終わりだ」

「そう……」

 星でも光球でも映し出せそうに輝いていたカァラの(ひとみ)が、がっかりと伏せられる。

「……来年になればまた祭りの季節がくる」

「来年……寒いのが一回来たらまたキラキラする?」

「そうだな。寒いのと暑いのが一回ずつ来たらな」

 レーキにそう告げられて、カァラの黒い眸が途端に明るくなる。

「ネリネ! ネリネ! 祭りまたやるって!」

 祭りの間はウィルと一緒だったらしいネリネは遅い朝食を食べていた。ウィルはと言えば、二日酔いが祟ってまだ寝ている。

 カァラはキラキラがいかにすごかったか、祭りがどんなに楽しかったかと言うことを、ネリネに語って聞かせた。ネリネは頷きながら耳を傾けてくれる。

「うんうん。ああ、やっぱり天法院の打ち上げ見に行ってたのね! 今年はかなり見ものだった。あたしたちはちょっと離れたトコから見てたのよ」

「祭りうるさい! でもすき!」

「そうね! あたしも祭り大好き! だからこの季節はいつも『学究の館』にいるのよ」

「来年また祭りやる?」

「やるわよ! きっとまた楽しいわ!」

 ネリネはぱちんと指を鳴らして笑った。それにつられるように、カァラもにっと歯をむき出す。

 カァラは少しずつ、自分の表情と言うものを獲得しているようだった。

「さ、今日はお出かけする時、レーキが買ってくれた寒い時用のお洋服着ようか。今日は随分寒いしね!」

「今日はどこいく?」

「んーないしょ! でも良い所よ!」

 

 今日はとうとう、里親にカァラを託しに行く。

 オウロが探してきてくれた夫婦は子供が一人いて、その子の弟か妹を欲しがっていると聞いた。

 数日前、レーキは一人でその家族に会いに行っていた。

 ブラン夫妻は優しげな人間の夫婦で、『学究の館』で代々文房具店を営んでいた。カァラの姉になる予定の子供も妹が出来ることを喜んでいた。

 家も人物にも荒れた様子はない。子供も健康そのもので、カァラより少し大きい六歳だと言うことだった。

 レーキが黒い羽の鳥人でも構わないかと問うと、夫妻はきょとんとした様子で「ええ、もちろん。うちの子になりたいと思ってくれるならどんな色の羽でも大歓迎よ」と言ってくれた。

 ヴァローナの人々は、黒い羽の鳥人がグラナートでどんな扱いを受けるのか、知らない者が多い。この夫婦もきっとそうなのだろう。レーキは安堵する。

 カァラは自分と同じ黒い羽だが、血のつながりはないこと、グラナートで母親が死んで浮浪児であったことを伝える。それでも構わないか、と。

 夫婦はそれも承知してくれた。

「もちろん養育費も払います。俺は独身で、良い父親も良い家庭も知らない。だからあなた方にカァラを託します。どうぞ、よろしくお願いします」

 深々と頭を下げるレーキに恐縮しながら、夫が言う。

「お金なんて……もし私たちにお金を払うつもりが有るなら、その分を貯金してください。そして、そのお金をカァラちゃんが成人した時に贈って上げてください」

「でも、それではあなた方の負担が……」

「新しい家族が増えるのです。それを負担とは思いませんよ」

「……ありがとう、ございます」

 レーキが会って話した印象は、とても善良な家族のようだった。彼らならカァラを託しても良いだろうか?

 今はこの一家が、彼女をしあわせにしてくれることを願うしかない。

 レーキは再び深く頭を下げて、里親候補の家を後にした。祭りが終わったらカァラと引き合わせると約束して。

 

 祭りは終わった。

 カァラは何も知らず、買って貰ったばかりのコートを着てくるくる回っている。レーキはカァラを抱き上げて「さあ、行こうか」と声をかけた。

「お出かけ!」

 カァラはヴァローナに来て、少し重くなった。短くざんばらだった髪も、少しずつ伸びてきている。

 出かけることが楽しいのか、カァラは嬉しそうにぎゅとレーキの首元にしがみつく。

 その温もりをもう感じられなくなると思うと、レーキはひどく胸が痛んだ。

 ネリネの家から里親候補の家までは、そう遠くない。ゆっくりと歩いても半刻(約三十分)、とうとうたどり着いてしまう。

「さあ、着いた。ここだ」

「? あ、お店やさんだ!」

 下におろされたカァラは楽しそうに、文房具店に入っていく。

「よくきたね、いらっしゃい、カァラちゃん」

 店主であり父親であるブラン家の夫が、カァラを出迎えてくれる。

「? おじさんはカァラのこと、しってる?」

「うん。レーキさんから話は聞いてるよ。カァラちゃんはお店やさん好きかい?」

「うん! いろんなモノいっぱいあって、すごい!」

 カァラは初めて見る文房具に興奮して、キョロキョロと辺りを見回している。

「ははは。それじゃあ後でお店の中も案内してあげようね。まずカァラちゃんに紹介したい人たちがいるんだ」

「だれ?」

「おじさんの奥さんと娘だよ」

 店舗の奥の住宅に、カァラと父親候補は入っていく。どうやら、カァラはうまくやって行けそうだ。レーキは胸をなで下ろす。

 一言挨拶をしてからネリネの家に帰ろうと、レーキも文房具店の奥に足を踏み入れた。

 もう、母親候補と娘との挨拶はずんだらしい。カァラは教わった通りに右手を差し出していた。その手を前にして、妻と娘はきょとんとした顔をしている。

「カァラ、それはグラナートの挨拶なんだ。ヴァローナの挨拶は、こう」

 カァラにヴァローナ流の、空の両手を差し出してみせる挨拶を教えていなかったことを思い出す。レーキがやってみせると、カァラもすぐに真似した。

「すみません。この子はまだこの国の事柄に(うと)いんです」

「いえいえ。こんなに小さな子供なんですから、当然です。ヴァローナ生まれの子供でもこの年頃ならちゃんと挨拶なんか出来ませんよ。カァラちゃんはちゃんと挨拶できてえらいね!」

「カァラ、えらい?」

「うん。とっても!」

 ブラン家の夫に褒められて、カァラは嬉しそうに胸を張った。

 新しく出会った優しい人々と、彼女は仲良くやっていけそうだ。

 ここでの俺の役目は終わった。

 レーキはほっと息をついて、カァラの頭を撫でた。さよならの代わりに。

「それでは、カァラをよろしくお願いします。ブランさん」

「はい。レーキさん」

 男二人は一礼する。ブラン家の子供はカァラに「お姉ちゃんと一緒にあそぼ!」と声をかけていた。

「うん!」

 カァラが遊びに夢中になっている内に、レーキはブラン家を後にすることにした。

 そっと静かに。ブラン文房具店の前まで出てくると、レーキは振り返った。

 そこに、店の奥からカァラが駆けてくる。レーキの姿が見えなくなって不安に駆られたのか。

「……レーキ! どこ行くの!」

 カァラは叫ぶ。その声は不安げに震えている。レーキはカァラと視線を合わせて屈み込んだ。

「カァラ……お姉ちゃんと遊ぶんじゃなかったのか?」

「今日はいつ帰ってくるの! またてんほーいんにいくの?!」

「……」

 レーキは言葉に詰まった。表に飛び出して行ったカァラの後を追って、ブラン家の人々が店まで出てきた。レーキは腹をくくって慎重に、カァラに言い聞かせることを決めた。

「……帰らない。よく聞いてくれ、カァラ。お前は今日からこの家の子になるんだ」

「なんで?!」

 カァラは絶叫する。本当に訳が分からないと言いたげに。

「お前にはお父さんもお母さんもいない。だから良い家で大きくなって欲しい」

「じゃあ、レーキは?!」

「俺と一緒じゃ、お前はしあわせになれない。ここの子になれば、お前は優しいお父さんお母さんに育ててもら……」

「ちがう! レーキといっしょで、カァラはすごいしあわせ!! カァラにお父さんお母さんはいらない!!」

 レーキの言葉を遮って、カァラは断言する。

「カァラとレーキはなかまでしょ?! どうしてカァラをおいていく?! カァラはレーキだけでいいのに!!」

 いつの間にか、カァラは黒い両の眸からボロボロと涙をこぼしていた。いつでも無表情だった顔がくしゃくしゃに歪められて、はっきりと悲しみの形を作っている。

「……カァラ……」

「おいていかないで!! カァラはレーキといっしょでなきゃ、いや!!」

 カァラはレーキに飛びついて、けっして手を離すまいとすがりついてくる。

「……レーキ、さん」

 おずおずと、ブラン家の妻が進み出た。カァラはびくりと身を震わせて、ぎゅっとレーキにしがみついた。

「あのね、レーキさんは両親が揃った家でなければカァラちゃんはしあわせになれないと言うけど……その子はあなたと一緒にいて、もう十分しあわせなんだわ」

「ブランさん……」

 ブラン家の妻は困ったように微笑んで、そっとカァラを安心させるように頭を撫でた。

「この子にはそれが解っているのよ。だから、とても残念だけど……この子のしあわせを願うなら、一緒にいて上げて下さい。その道はあなたにとって、とても大変な道になると思うけど……」

 最後まで責任をもって。いまさら、グラナートの食堂で聞いた台詞が脳内で何度も繰り返される。

「……ブランさん……すみません。本当に、ごめんなさい」

 決意と共に、レーキはブラン夫妻を見つめた。レーキの心はもう決まっていた。

 この子を育てる。彼女が自分を必要としなくなるまで。

 夫妻は寂しげに微笑んで、顔を見合わせる。そして、さっぱりとした表情でレーキに向き直った。

「いいえ。子供たちがしあわせに生きることは、私たちにとってもしあわせです。その子は縁があって私たちの子供になる所だった。だから、きっと立派に育ててください。私たちの代わりに」

「ありがとうございます……ブランさん」

「……レーキ、もうカァラをおいていかない?」

 レーキの隻眼(せきがん)を覗き込んで、カァラが心配そうに訊ねる。レーキはカァラをそっと抱き上げた。

「ああ。お前が俺をいらないと言うまで、一緒にいよう」

「そんなこと、カァラはいわない!」

 カァラは唇を尖らせて、ぎゅっとレーキに抱きついた。



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第80話 家路を急ぐ

『学究の館』にいる人々に、別れの挨拶をする。

 天法院の人々、クランとオウロ、ネリネたち……みなレーキとの別れを惜しみ、再会を約束してくれる。

 それが済んで、レーキはカァラと共にヴァローナを旅立った。

 カァラを連れているために、徒歩での旅は難しい。街道を走る乗合馬車を利用して、約一ヶ月の旅路。

 五年前、『学究の館』に向かったのと同じ道を今度はアスールの村に戻るために辿(たど)る。

 季節はすでに冬。屋根や壁のある馬車での旅はありがたかった。

『学究の館』を出て一週間。街道に雪が降った。

 雪を見たことのないカァラは、くるくると回りながら、空から落ちてくる白くて冷たい氷を捕まえようと必死になっている。

 さいわい、街道が通行止めになるほどの量は積もらなかった。

 レーキとカァラは、東へ東へと旅を続ける。

 ヴァローナとアスールの境の街まで、何事もなくたどり着いた。この街にはヴァローナとアスールの関門が設けられている。

 ここを初めて通った時は、森の村の村長が書いてくれた身分証明書が役に立った。今回は王珠と『旅人のためのギルド』の身分証明書がある。

 関門の役人は、レーキの王珠(おうじゆ)とカァラを見比べた。

「天法士様でいらっしゃいますか? その王珠を少しお貸し願えますか?」

 本物の王珠は、持ち主と持ち主が許可した者以外が手にしても光る事はない。

 関門の役人はそれを知っていて、レーキから王珠を受け取る。役人の手の中で、王珠は光ることを止める。それをもって、レーキは本物の天法士だと認められた。

 小さな子供であるカァラはレーキの連れと言うことで、そのまま通された。

 さあ、ここから先はいよいよアスールだ。

 街道は青い道へと代わり、森の中を曲がりくねりながら続いていく。ここからは徒歩や野宿は危険だ。森の村に向かうために一週間、幹街道を森先案内と共に隊列の一員になって進む。ここまでずっと馬車の旅を続けてきたカァラは、アスールの森林に驚嘆している。

「木が……いっぱいある!! これぜんぶ木なの?!」

「ああ。これが森と言うんだ。これがアスール。森の国だ」

「国、いろいろある!」

 近頃のカァラは、笑ったり驚いたりと忙しい。溢れ出ようとしていた心を、せき止めていた何かが外れたのだろう。くるくると表情がよく動くようになった。

「あれ! あの木のとなりのはなに?」

「ん。あれは……兎か、レプスだろう」

「冬毛になってない所をみるとレプスだな」

 同じ馬車に乗っていた森先案内の獣人が、鼻をひくひくと動かしながら窓の外を見つめる。

 獣の特徴が濃い獣人の男は、警戒するように(ひとみ)をすがめた。

「危険はないのか?」

「奴らは群れなければ隊列を襲ってはこねえんだ。あの数なら問題ない」

 森先案内がそう言うのならば、大きな脅威では無いのだろう。

 安堵したレーキの隣で、カァラは無邪気に訊ねた。

「レーキ、レーキ! レプスってなに?」

「魔獣だ。小さくて兎に似ている。ただ牙も爪も鋭くてヒトを襲う」

「レプスはこわい?」

「ああ。小さな子供一人で太刀打ちできる魔獣じゃない」

「レプスはこわい、こわい……」

 (おび)えるように眉を寄せて、カァラは復唱する。

「お前がもう少し大きくなったら、兎やレプスの狩り方を教えよう。この辺りで暮らすならその位は覚えた方がいい」

 山葡萄の見つけ方、子山羊の抱き方、魚の釣り方……師匠が自分に教えてくれたことの全てをこの子に教えよう。あの懐かしい師匠の家で。

「レーキとカァラは森の中でくらす?」

「ああ、そうだ。俺たちはこの国で暮らす。森の中にある村の外れに俺の師匠が(のこ)してくれた家がある。そこで暮らそう」

「ししょー?」

「師匠は俺を助けてくれた、とてもえらい天法士の女性だ。今はもう……死んでしまった」

「ししょーは死んだ……レーキは悲しい?」

 師匠の死を(いた)むレーキの悲痛な表情を(のぞ)き込んで、カァラは悲しげに眉を寄せた。

「……ああ。今思い出してもまだ悲しい」

「あのね、きっと、ししょーも死の王さまの国でしあわせ。カァラのおかあさんといっしょ」

 そう言ってカァラはそっと微笑み、不意にレーキの頭を撫でてくれる。

「カァラ……ありがとう。そうだな。お母さんも師匠も今はきっとしあわせだ」

 馬車の座席に膝立ちになっていたカァラを、レーキは自分の膝の上に乗せた。

 それだけでカァラはご機嫌になって、にこにこと笑みを浮かべた。

 

 森の中を行く旅が一週間続いた。初めは物珍しがってあれこれとレーキを質問責めにしていたカァラも、青い道の旅が終わる頃にはすっかり退屈していた。

 そんなカァラに、森の村についたら会わせたいヒトがいるとレーキは告げる。

「それはだれ?」

「……ラエティアと言う、獣人の女の子……いや、女性だ」

「ラエティア?」

「とても優しくて、パンを焼くのが上手くて、俺のために文字を覚えて手紙をくれて、金色の眼がとても綺麗で……その、とにかく、とても大切で素晴らしい女性なんだ」

「うん。カァラもラエティアにあいたい。パン食べたい」

「……お前はまず、食べ物のことだな……」

 いきなりこんな小さな子供を連れて帰ったら、ラエティアはどんな顔をするだろう。

 まず驚くことは間違いないだろうが。少し不安だ。

 

 隊列は魔獣に襲われる事もなく、無事に幹街道沿いで一番、森の村に近い街についた。ここからは乗合馬車で二日、カァラを抱えて半日とちょっと。

 その、あと少しの道行きがとてつもなく遠い様な気がする。

 レーキは(はや)る気持ちを抑えて、森の中の細く青い道を村へ向かっていく。

 木々の梢が重なり、黒い影となった森に陽が沈みかける。ようやく森の村が見えてきた。

 村にたどり着いたのはちょうど夕食時。青い石を敷き詰めた村の広場には、まだ人気も火の気もある。

 森の村の周りには新しい雪が積もっていたが、広場は綺麗に雪をかいて集めてあった。誰が作ったのかは解らないが、おどけた顔した雪像が二体並んで立っている。

 村で唯一の酒場兼宿屋だけは皓々(こうこう)と明かりを灯し、広場に面した店々の多くは、そろそろ営業を終えようとして片付けに入っていた。

 レーキはカァラを抱き上げるのを止めて、彼女の手を引いた。彼らが二人で広場に入っていくと、見知った顔の肉屋の女将(おかみ)さんが、眼を見張りながら駆け寄ってきた。

「……レーキ! あんた! レーキじゃないか!!」

「はい。肉屋のおばさん、ただいまかえりま……」

「なんだって?!」

「レーキ? いつ帰ってきたの?!」

「レーキ! お帰り!」

「その子は誰なの? もしかしてあなたの子?」

「おおーい! 誰かラエティアちゃん呼んでこい!」

 そう大きくはない広場は、たちまち蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。

 レーキを取り囲んで喜ぶもの叫ぶもの、涙ぐむもの、質問を次々と投げかけるもの……五年前にレーキが出発した朝と同じように騒がしく、森の村の人々はレーキの帰還を喜んでくれた。

 嬉しい。一人ひとりにただいまと言いたい。レーキは揉みくちゃにされながら、広場の真ん中に連れていかれた。

 すると、そこには息を弾ませてようやく広場にたどり着いたラエティアが待っていた。

 村人たちは二人を取り囲んで、一瞬静まり返る。

 レーキより一つ年下のラエティアは今年、二十一歳。蕾だった花は可憐に花開いて、肩まで長く伸ばした栗色の髪、今にも泣き出しそうに潤んだ金色の眸、薔薇色の頬も。記憶の中にあるよりも、黄昏時の光に浮かぶラエティアはずっと美しかった。

「……レーキ」

 ラエティアが、安堵と戸惑いの吐息と共に呟く。

「ただいま。ラエティア……!」

 その言葉が合図で有ったように。ラエティアはレーキの胸目掛けて飛びこんでいく。

 二人とも、ここが村の広場であることを忘れたようにしっかりと抱き合って、お互いの空白を埋めるように感触を確かめ合う。

 村人たちの間から歓声が上がった。

「レーキ! レーキ! なんで手紙くれなかったの! わたし、ずっと心配だったんだから!」

「ごめん、ラエティア。手紙が出せない場所にいた。……心配かけてごめん!」

 ラエティアは泣きながら、レーキの肩に何度も拳をあてる。そんな仕草すら愛おしい。

 初めてこんなに近く抱きしめたラエティアは、温かくて、優しくて、柔らかくて。焼きたてのパンの良い匂いがした。

「もう、どこにも行かないで! 行くならわたしも一緒に連れてって! もう心配しながら待っているのは……いや……」

 レーキの胸に顔を埋めて、ラエティアはしゃくりあげながら泣いている。

 そんな彼女の肩を抱きしめて、レーキは何度も「うん。うん……」と頷いた。

 天法院にいた時も、ポーターとして働いていた時も、『呪われた島』の上でも。

 レーキが一番会いたいと願っていたのは、ラエティアだった。その思いはこうして本人を目の前にして確信に変わった。ラエティアが愛しい。ただただ愛しい。

「……俺はやっぱり君が好きだ。君がしあわせになってくれることが、俺のしあわせだ」

「……!!」

 レーキの一言で、ラエティアは頬を赤く染めた。柔らかな毛で覆われている獣の耳が恥ずかしさに、すっかり垂れてしまっている。

「……うん。わたしも……ずっと、ずっと、レーキのことが好き……! で、でも、こんな所で、そんなにはっきり、その……言わないで……!」

 顔を真っ赤にしたラエティアがうつむくと、外野の村人たちは一斉に二人をはやし立て祝福する。

 その声で我に返ったレーキの顔も、すぐに耳まで赤くなった。

「……えと、あー。その、師匠……師匠の家はど、どうなってるんだ?」

「あ、うん……そのう……マーロン様のお家は変わりないよ。その、わたしが時々空気を入れ換えたりしてる、から……」

 話題をそらすように、レーキとラエティアは一度身を離した。野次馬たちからは失望の声が上がったが、レーキもラエティアも元々人前で愛を語り合うような性格ではないのだ。

「……出来れば今夜から師匠の家で暮らしたい。それと、君に会わせたい子がいる」

 歓迎騒ぎに紛れて、肉屋の女将さんに抱き上げられていたカァラに、ラエティアを引き合わせる。ラエティアはカァラの羽を見て、驚きを通り越して絶望の表情を浮かべた。

「グラナートでこの子を拾った。彼女はカァラ。孤児なんだ」

「……えっ、と、身寄りの無い子供を、拾った……?」

 紙のように白くなりかけていたラエティアの顔色が、どうにか戻ってくる。

「ああ。グラナートでは、身寄りの無い黒い羽の子供が生きていくのは難しいんだ。だから、誰か良い人に里親になって貰うつもりで連れてきたんだが……懐かれてしまって」

「……懐かれて、しまって」

 ラエティアはレーキとカァラの顔を交互にみつめる。二人の共通点が黒い羽しかないことをはっきり確かめるように。

「カァラ、彼女がラエティアだ。馬車の中で話しただろう?」

「ラエティア! パンくれる! レーキのたいせつなひと! カァラはただのカァラだよ!」

「え、と、その……パン? あ、……大切な人……その……うん。わたしはラエティア・アラルガントだよ、カァラちゃん!」

 ラエティアは何かを吹っ切ったように、明るく笑った。

「あ、こら! パンくれる、じゃないだろ! ごめん。ラエティアがパン作りが得意だって話したらこの有様で……」

「ううん。今でもパン作り得意だよ! わたし今ね、パン屋さんで働いてるの。カァラちゃんはお腹空いてるのかな? 残り物のパンで良ければ、直ぐ用意出来るよ?」

「パン食べたい! ラエティア優しい!」

「解った! ちょっとまっててね!」

 ラエティアは、ばたばたとパン屋の方へ駆けていく。野次馬たちは山場が終わってしまったとばかりに騒がしくなった。

「なあ、みんな! レーキもカァラちゃん、っていったけ? この子も長旅で疲れてるだろうから、今日はお開きにして土産話は後で聞かせて貰おうじゃないか!」

 肉屋の女将さんは売り口上で(きた)えた喉で、野次馬たちみんなに聞こえるように、そう告げた。野次馬をしていた村人たちは三々五々散っていく。今は夕食時で、村人たちが家に帰れば温かな夕食が待っている。

「……お待たせ!」

 パン屋から駆けてきたラエティアが、アスール風の堅めのパンに塩漬け肉を挟んだモノをカァラに手渡した。

 カァラは躊躇(ためら)いもなくかぶりつき、満足そうに唇の端についた欠片を舌で舐めとった。

「ふふっ。お腹空いてたんだね、カァラちゃん」

「……ふごふ、ふいふた。むぐっ」

「こら、モノを食べながら話さない」

 三人、広場に残されたレーキとラエティア、それにカァラ。レーキとラエティアは顔を見合わせて、同時に破顔した。

「……お帰りなさい」

「ただいま」



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第81話 長い夜のはじまり

 結局、長い間使用していなかった師匠の家にそのまま泊まることは出来なかった。

 それで、村に到着した晩、レーキたちはアラルガントの家にお世話になることになった。

「……あ?! 嘘だろ! レーキだ!!」

 アラルガント家の扉を開けるなり、レーキが村を出た時五歳だった末息子、ラグエスが飛び出してきた。ラグエスは今年で九歳。すっかり腕白そうな少年に成長していた。

 彼はレーキを見るなり指を向けてくる。

「……なんでだよ! なんで子連れなんだよ! そいつ誰だ?! ティア姉ちゃんってひとがありながらさー!!」

「ラグ、ラグエス! 違う、違うの!」

 ラエティアは慌てて、カァラの事情を説明する。

「……でもさ、レーキがそいつの世話をするっていうなら、そいつの親はレーキじゃん」

「? ちがう。レーキはなかま。カァラに親はいない」

 胸を張って反論するカァラを無視して、ラグエスは唇を尖らせる。

「……ティア姉ちゃんはずっとお前のこと待ってたんだぞ! その間何人姉ちゃんをお嫁さんにしたいってヤツがきても全部断ってさ!!」

「え……」

 レーキがラエティアの顔を見ると、彼女は困ったように眉を寄せた。

「ラ、ラグ! そんなこと、どうでもいいの! レーキはちゃんと帰って来てくれたんだから!」

「良くねえよ!」

「……何を騒いでいるんだ?」

 家の前での騒ぎを聞きつけた、アラルガントの家長が戸口から顔を出した。

「父さん!」

「父さん、レーキが帰ってきたの!」

 アラルガントの父親は昔と変わらない静かな眼をして、レーキを見る。レーキは深く一礼した。

「……良く、帰ってきたな」

「はい。ただいま、帰りました」

「入りなさい。外は寒い」

 父親はそれだけ言って家の中に入ってしまった。ラグエスも毒気を抜かれたようで、「ちぇっ」と舌打ちして家に入った。

「ラグがごめんね、レーキ。……さ、中は温かいよ。入って!」

 ラエティアが開けてくれた扉から、アラルガントの家に入る。

 確かに室内は温かで、夕餉(ゆうげ)の良い匂いが漂っている。

「よ! おかえり、レーキ」

家の中でくつろいでいたアラルガント家の次男が、軽く手を挙げる。

「……ふんっ」

ラグエスは腕を組み、鼻を鳴らした。

 ラエティアの兄弟は全部で四人。上二人と末っ子は男の子で、ラエティアだけが女の子だった。隣町までレーキを見送ってくれた長男は、すでに結婚して独立している。

 この家に残っているのは次男とラエティア、それからラグエスだけだ。

「おかえり、レーキくん」

 料理用の大きな木さじを片手に、ラエティアの母親が、台所から顔を出す。

 ラエティアの両親は二人とも獣人で、髪の色も眼の色も、一家揃ってそっくりだった。

 母親はラエティアより少し背が低くて、少しふっくらとしていたが、顔立ちは娘と瓜二つだ。

 村でも評判の料理上手で、彼女が作る山羊のチーズは隣町でもなかなか良い値で売れた。

 父親は森を開拓した土地で畑を作り、小さな牧場を作り、山羊を飼育していた。チーズを作るための乳も、その家畜たちから取れたものだ。

 だが、それだけでは暮らしが成り立たないので、森先案内としてかり出される事もあった。

 森の国で、一家は慎ましく、そして、たくましく暮らしていた。

「外、寒かったでしょう? ご飯出来てるよ。さあ、食べて行ってちょうだい」

 ラエティアの母親は、遊びに来た娘の友達にでも言うように夕食に誘ってくれる。

 アラルガントの父親も母親も、五年前と少しも変わらない。そのことに、レーキは安心した。

「ありがとうございます。俺より先に、こいつに夕飯を食わせてやってください」

 カァラは見知らぬ人々に囲まれて、いつもより少し大人しい。レーキの影から顔をのぞかせて、じっとアラルガント一家を見つめている。

「ほら、カァラ。挨拶しなさい」

「カァラはただのカァラです。よろしくです」

 レーキに促されて、ペコリ、とカァラは頭を下げる。それがアスールでは一般的な挨拶だった。

「まあー小さいお嬢さんねー! お歳はいくつ?」

「えーと、こんだけ?」

 カァラは指を四つ立てて、ラエティアの母親に見せる。カァラが母親と挨拶をしているうちに、ラエティアが父親と次男にカァラの事情を説明した。

 ラエティアの母親はレーキとカァラに配膳を手伝わせて、夕食を食卓に並べた。

 

「……それじゃあ、カァラちゃんはレーキくんとは血の繋がりはないのねー」

「はい。鳥人の黒い羽は珍しいので、遠い親類の可能性は捨てきれませんけど……俺自身が捨て子ですし、調べようは無いです」

 夕食に舌鼓を打ちながら、レーキはカァラとの出会いを改めて説明した。

 さすがに評判の料理上手、ラエティアの母親が作ったスープはとても美味かった。スープに添えられたパンは、ラエティアが(つと)める店の余りものだ。

「ああ、やっぱり美味いな、アスールの、このパン……」

 しみじみと、レーキはラエティアの作ったパンを味わう。五年前、師匠のためにレーキのためにラエティアが作ってくれた、アスール流のパン。懐かしくて、美味しくて、心が温かくなる。

「おかわり!」

「……お、オレもおかわり!」

 カァラと競い合うように、ラグエスは夕食をおかわりしている。ラグエスは、カァラに敵愾心(てきがいしん)を燃やしているようだ。

 久々に味わう森の村での団欒(だんらん)

 レーキはせがまれるまま、天法院の事や『学究の館』の事、ヴァローナでの出来事をアラルガント一家に話して聞かせた。

 船から海に落ち、『呪われた島』にたどり着いた事は話せない。一家には外界と連絡の取れない離島に流れ着いたと説明する。

 始めは不機嫌そうにレーキの話を聞いていたラグエスも、天法院の授業や海での遭難を耳にすると、身を乗り出して話に聞き入っていた。

 夜も更けて。レーキは語れることの全てを話した。アラルガント一家も満足して、それぞれ寝室に向かう。

 明日は師匠の家に戻って、そこで暮らすための準備をする。ラエティアも、仕事を休んで手伝ってくれる。

 今日、カァラはラエティアの部屋で、一緒に眠っているはずだ。

 長男が使っていたベッドを借りて、レーキは眠りについた。

 

「……おはよう。レーキ。朝、だよ」

 明るい陽の光が(まぶた)に届く。優しい声がする。

 ゆっくりと眼を開けると、そこには、微笑みを浮かべるラエティアの顔があった。

「……夢じゃ、ないよな?」

「うん。夢じゃ、ないよ……?」

 柔らかなカーブを描く頬に、そっと手のひらで触れる。

 ラエティアはそっと、その手に頬を預けてくる。その感触は想像していたよりもずっと滑らかで、温かい。

「……おはよう。ラエティア」

「おはよう。レーキ」

 こうして言葉を交わすだけで。心が満たされる。その癖、ひどく乾いているような、もっと彼女に触れていたいような、もどかしい思いが募って。

 ああ。やっと。やっと帰ってきた。帰るべき所へ、戻るべき所へ。

 万感の想いをこめて、レーキはラエティアに触れる。ラエティアもそれを望んでくれているようで。

 見つめ合う(ひとみ)が互いだけを映して、それがとても幸福で。それなのに。

「……なーに朝からいちゃいちゃしてるんだよ……」

 部屋の戸口から、ラグエスの冷めた声がする。ぷいっと顔を背けたラグエスは(ほの)かに顔を赤くして、腕を組んでいる。

 レーキは慌てて起き上がり、ラエティアは急いでベッドのそばから離れた。

「お、おはよう、ラグ……」

「おはよう、ラグエス……」

「……ふんっ! まあ仲がいいなら良いけどさっ……でも場所ってもんを考えろよな!」

 それだけ言い捨てて、ラグエスは出て行った。

「……あ、のね、朝ご飯っ、食べたらマーロン様のお家に行こう?」

「ああ。そう、しよう」

 今更ながら、気恥ずかしい。二人は揃って顔を真っ赤にしながら、朝の支度を始めた。

 

「はい。これ!」

 レーキはラエティアに預けていた、師匠の家の鍵を受け取った。朝食の後でアラルガント家を辞すると、レーキはラエティアとカァラを連れて、マーロン師匠の家に向かう。

 師匠の家の外観は、四年前とあまり変わっていないようだった。

 鍵を開けて、家の中に入る。インクと紙と(ほこり)の匂いが、ふわりと鼻に届く。懐かしい。懐かしい師匠の家の匂い。

 テーブルも、チェストも本棚も、この家の中に有るモノの何もかもが変わらない。

 レーキは胸一杯に、師匠の家の空気を吸い込んだ。

 床に眼を転じると、人が暮らしていなかったにしては、埃がつもっていない。ラエティアが定期的に掃除してくれていたのか。

 ラエティアを振り返ると、彼女はにこにこと笑みを浮かべていた。

「掃除、してくれてたのか?」

「うん。いつ、レーキが帰って来ても良いようにね!」

「……ありがとう」

 レーキは今すぐラエティアを抱きしめたくなる衝動をこらえて、笑った。

「うん! でも、ずっと人が住んでなかったから……ちゃんとお掃除して、シーツとかお洗濯しなきゃ。まず、窓開けるね」

 ラエティアはてきぱきと、家中の窓を開けていく。レーキもそれに習って窓を開け、掃除用品を納戸から出してきた。

 家の裏の井戸から手桶に水を汲んで、井戸がまだちゃんと使える事を確かめた。

 (よど)んでいた空気が、動き出す。師匠の家が息を吹き返す。

 カァラは初めて訪れた場所に興味津々で、ラエティアの後ろにくっついてあちこちと部屋を覗き込んでいた。

 レーキは髪を(たば)ね、口元を布で覆って壁の埃を落としながら、カァラに「今日からここで暮らすんだ」と、告げた。

「ここがレーキのお家?」

「ああ、そうだ。そしてお前のお家にもなる」

「そうかー」

 カァラは嬉しそうに笑って、飛び跳ねる。

「カァラちゃん、まだ床はお掃除してないからぴょんぴょんはダメだよ?」

「ちぇー」

 シーツを両手いっぱいに抱えたラエティアが、部屋を横切っていく。

 掃除をし、洗濯をし、足りているモノと足りないモノを選び取り、師匠の家をヒトが住める状態に戻していく。

 この分なら日が暮れる前に掃除は終わりそうだ。

「……もうすぐお昼だから、わたし一旦家に戻るね。お昼ご飯持って帰ってくるから。レーキたちは少し休憩してて!」

 そう言い残して、ラエティアは家に帰って行った。

 残されたレーキたちは、ラエティアが帰ってくる前に台所の床を水拭きし、テーブルと椅子を磨き上げた。

 (かまど)(すす)を落とし、どっさり出た灰と煤は肥料として春までとっておく。

 薪小屋に残っていた薪を見つけた。(おの)()び付いてはいたが、まだ使える。レーキは薪を、竈にくべるのにちょうど良い大きさに割った。それをカァラは興味深そうに眺めている。

「……レーキー!」

 こちらに駆けてくるラエティアの声。彼女は両手に手提げ篭を抱え、大きな荷物を背負って、よろよろと緩やかな坂を上ってくる。

「ラエティア! どうしたんだ? その荷物……!」

 レーキは薪を割る手を止めて、ラエティアの荷物を受取に向かった。

「えっ、とね。これは今日のお昼ご飯で、こっちは夜ご飯の材料。それから塩漬け肉とかソーセージとか、お芋とか保存食いろいろ……と小麦の粉!」

「これ、全部食料か!」

「うん。これだけあれば、少しは困らないでしょ?」

 ラエティアの代わりに背嚢(はいのう)を背負って驚く。こんなに、沢山の食料を用意してくれるなんて。

「……こんなに、良いのか……?」

「うん。もちろんだよ! その食料はね、広場のお店のみんなからレーキの帰還祝いと、家の母さんからの贈り物なの。だから遠慮しないで」

 ラエティアは重量から解放されて、はーっと息をついて笑った。

「ありがとう。……俺はここに帰って来さえすれば、後はどうにかなるんじゃないかと甘く考えていた。そうだな、生きていくためには本当にいろいろなモノが必要になるんだな」

 ため息をついたレーキに、ラエティアは明るく笑ってみせる。

「うん。でも、大丈夫! 困った時はみんな助けてくれるもの」

「後でみんなにお礼を言いに行かなくちゃな」

「うん!」

 

 三人で昼食をとって、掃除の続きを再会する。そう広くない家だが、とにかく本が多いおかげで埃も多い。全てが終わる頃には、だいぶ陽が(かたむ)いていた。さいわい今日は冬の晴れ間で、洗濯物はすっかり乾いた。これで、今夜は清潔なベッドで眠ることが出来る。

「ラエティア。今日は手伝ってくれてありがとう。夕飯食ってくか?」

「え、良いの? じゃあ、わたしが作ろうか?」

「いや、俺が作るよ。その間、ラエティアはカァラと遊んでやってくれないか?」

「うん。いいよ」

 夕飯はレーキが手際よく、ネリネたちにも好評だった野菜と塩漬け肉のスープを作った。昼食用にとラエティアが持ってきてくれたパンを添える。

 食後に、ラエティアへの土産の一つだった紅茶(ホンチヤ)を煮出し、氷砂糖と喫して、三人は満足して夕食を終えた。

「レーキの作ったお料理、とっても美味しかった! まるで料理人の人が作ったみたいだったよ!」

「ありがとう。……なあ、ラエティア。夕食が終わったら君に話したいことがあるんだ」 そう、レーキは切り出した。

 



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第82話 春の訪れ

 眠い眼をこするカァラを先に寝かしつけて、レーキとラエティアは台所兼居間に戻った。

 師匠が使っていた、(かまど)の側の安楽な椅子にラエティアを座らせて、レーキは「これから話すことはとても長い話になると思う」と前置きする。

「もし、その……君さえ良かったら、今日はここに泊まっていって欲しい」

「……うん。それだけ、話したいことがたくさんあるのね? 解った。聞かせて下さい」

 ラエティアは姿勢を正して、レーキの言葉を待つ。

 レーキは事の始まりから、全てをラエティアに話した。

 自分がグラナートで捨てられた孤児だったこと、住んでいた村が盗賊に焼かれたこと、村人に殺されそうになって相手を殺したこと……森の村をでる前に、ラエティアに告げていたことも告げられなかったことも、包み隠さず伝えた。

 ラエティアは時折(うなず)きながら、全てを聞いてくれた。

「レーキは、殺されたくなくて、その人を……」

その先を訊ねてしまうのが恐ろしい。ラエティアは泣き出しそうに眉根を寄せて、そっとレーキを見つめる。

「……うん。でも、殺したくて殺したんじゃない。それだけは……本当なんだ」

「……うん。わたしはあなたを信じる。だってレーキは今とても辛そうな顔、してるもの……」

 それから、盗賊団に拾われたこと、師匠に救われたこと、この村でしあわせだったこと、師匠が亡くなって『呼び戻し』に失敗して、呪われたことを彼女に告げる。

「……死の王様の呪い?」

「ああ。それは……俺が愛した者は必ず俺より先に死の王様の国に逝くと言う呪い、だ」

「……ああ……! レーキ……そんな……っ! ひどい……」

 絶句したラエティアに、レーキは申し訳なくなって、眼を伏せた。

「……ごめん。ずっと君に言えずにいた。なんだか君の寿命を縮めているような気がして……」

「……ううん。違うの! そうじゃないの。その、大好きな人がみんな先に亡くなるなら、レーキは最後の時にひとりになっちゃう……! そんなのって、そんなのってないよ……」

 ぽろりとラエティアの(ひとみ)から大粒の涙がこぼれ落ちる。レーキは立ち上がり、自分の行く末を案じて流された涙を拭ってやった。

「ラエティア……ありがとう。……だから俺はその呪いを解いて貰う。死の王様に」

「解いて、貰えるの?」

 レーキを見上げるラエティアは、不安げに聞いてくる。

「天法には、死の王様に現世にきて貰うための法があるんだ。それで俺は死の王様に会った。死の王様は『今はその時ではない』と言っていた。次に見えるまで十年とも」

「じゃ、あ、その十年の間はあなたは死の王様に会わない……死なないのね?」

「ああ、そうだと、思う」

 良かった……ラエティアは息を吐いて、レーキの胸に額を押し当てる。

「俺はもう、自分の心を偽ることは出来ない。君を、愛している。村の人々を友人を、沢山の人々を愛している。だから、絶対に呪いを解いて貰う。何度だって死の王様に訴える」

「うん!」

 それから、レーキは天法院に行ってからの出来事を話し続けた。

 ラエティアは天法院で出来た友人たちに会ってみたいと言い、見事天法士になったことをよろこんでくれた。

 五つ組の天法士となってもポーターとして働いたことに「どうして?」と訊ね、ネリネの話に少しむっとして、彼女が最終的にウィルと婚約した話をするとにこにこと笑った。そして、遺跡の不思議に眼を丸くして、船に乗ってみたいと言い、恐ろしいラファ=ハバールに身を(すく)め、『呪われた島』で羽を切られた話に憤慨(ふんがい)する。そこで出会った魔のモノたちのこと、『島』から逃れてグラナートにたどり着いたこと、故郷の村に墓を訪ねたこと、カァラと出会ったこと……レーキが全てを語り終えると、すでに空は白み始め、竈にくべた薪は燃え尽きていた。

「五年前にこの村を出発してから、本当に色々なことが、あったのね……」

 ラエティアは肩を抱く。彼女にそうさせたのは朝方の寒さばかりではなかっただろう。

 レーキは竈に薪をくべて、小さな『火球』を放り込んだ。薪はぱちぱちと音を立ててはぜ、竈は直ぐに暖かさを伝えてくる。

 薬缶(やかん)を竈の上にかけ、温かな薬草茶を煎れると、レーキはラエティアにカップを渡した。

「ありがとう」

 二人、黙ってほんのり甘い薬草茶を飲む。

 優しい、穏やかな、静かな時間。レーキは肩の荷を下ろし、ラエティアは新たな荷を大切に抱えて。やがて、レーキはぽつりと言葉を漏らした。

「……なあ、ラエティア」

「なあに?」

「こんなこと、俺には言う資格はないのかも知れない。言ってはいけないことなのかも知れない。……だから、俺が今から言うことを君は断ってくれて良い」

「? 一体なあに? レーキ」

「……その……全てを聞いて、それでも俺を好きだと思ってくれているなら……俺と……」

 レーキは手にしていたカップをテーブルに置いて立ち上がり、ラエティアの前に(ひざまず)いた。

「……家族になって、くれないか?」

「……!!」

 ラエティアは眸を丸く開いて、無言でまっすぐに自分を見つめるレーキを見つめ返した。

 やがて、金色の眸から涙が(あふ)れ、まなじりで弾けて頬をぬらす。

「……わたしで、良いの?」

「ああ。君じゃなきゃ、いやだ」

「わたしは、なんの取り柄もない、この村から出たこともほとんどない……ただの獣人だよ?」

「うん。取り柄なんか無くても良い。ただの獣人のラエティアが、ありのままの君が好きなんだ」

 レーキは頷いて、カップを固く握りしめるラエティアの手にそっと手を重ねた。

「……わたしね、レーキの話を聞いて、少し、怖くなった。レーキはいろんな所に行って、辛いことも素晴らしいことも、いろんなことを経験してきたんだよね?」

「ああ。そうだな」

「じゃあ、じゃあね……もし、わたしと家族になって、この村で暮らして、それが退屈でつまらなくなったら……どうする?」

 天法士の妻として自分は釣り合わないのではないかと、ラエティアは不安げな顔をする。

「……そんなことになったら……君を連れて旅をする。どんなことがあっても、君と一緒に。君はそんな暮らしはいや?」

「ううん。この村みたいな穏やかな場所でずっと暮らせるのも素敵だけど……でも、やっぱりあなたがいなくちゃ、いや。……ああ、わたし、解った。あなたがいてくれれば、どんな場所でも良い」

 すとんと気持ちが()に落ちたのか。ラエティアは流れ続ける涙を拭って、唇を笑みの形に変えた。

「……ずっとこんな日がきて欲しいって思ってた。でも、夢が本当になると、もう、何がなんだかわからなくなるの。嬉しくて、嬉しくて、『はい』って一言お返事すればいいのに、レーキに伝えたいことがいっぱいあって……」

「うん。それを、全部聞かせてくれる?」

 跪いたまま、ラエティアの顔を(のぞ)き込む。その顔は、甘酸っぱい果実もかくやと言うくらい真っ赤に染まっていた。

「……あのね、レーキからの手紙が届かなくなって、天法院の人から『レーキは行方不明になった』って手紙が来て、わたし、苦しかった。半分くらい諦めてた。レーキは死んじゃったのかも知れないって……でも、絶対に帰って来るって、もう半分のわたしが言うの。だから、わたし、半分のわたしにすがって、ずっと待ってた。レーキが帰ってくるのをずっと。この家をお掃除するのも多分願掛けだったんだと思う。ここを綺麗(きれい)にしていれば、レーキが無事に帰ってくる……ああ、うん、もう、わたし、何言ってるんだろう!」

「ラエティア、ごめん。苦しい思いをさせて。連絡できなくて、ごめん」

「ううん。だってそれはレーキのせいじゃない! だからね! その……わたしの返事は……はい。わたしをあなたの家族にしてください。ずっとわたしの側にいてください……!」

 ああ。その言葉を待っていた。ずっと夢見ていた。レーキはラエティアを見上げ、ラエティアはレーキを見つめ、それから二人はおずおずと口づけを交わす。

「……ありがとう。ラエティア」

「うん。ありがとう、レーキ」

 この村で初めて二人が出会ってから、はや十年近く。孤児であった少年と賑やかな家庭で育った少女は、家族になった。

 

 

 冬の季節が終わり春の季節が巡って来るのを待って、レーキとラエティアは婚礼を上げた。

 レーキは天法士らしい黒いローブを、ラエティアはアラルガントの家伝統である、濃緑の婚礼衣装を着て、村の広場にある、青龍王の(びよう)へと(もう)でる。

 そこで誓いの言葉を捧げ、最後に口づけを交わし、二人は村長の家に向かった。

 村長の家では、すでに宴の準備が整っている。

 そこへ向かう道すがら、花婿、花嫁の姿を一目見ようと村人たちが二人を取り囲み、なかでも女性たちは森で摘んだ春の花を雨のように降らせて、二人の前途を祝福してくれる。

 森の村にとって、二人の結婚は大きな喜びであると同時に、春を祝う祭りであった。

 今日、ラエティアのはにかんだ表情は、ヴェールに隠れてなかなか見えない。それでも彼女の横顔はとても美しかった。

 隣を歩くレーキは緊張に身を固くしながら、ラエティアをエスコートする。

 その後ろを、青いドレスを着せられたカァラが解っているのかいないのか、楽しそうについて来た。

 

 冬の間、ラエティアは1日置きに師匠の──今はレーキのモノになった家にやってきてくれた。なにかれとレーキたちの世話を焼いて、たまには泊まっていくこともあった。

 カァラはラエティアの焼くパンの(とりこ)になり、ラエティアもカァラを可愛がった。

 アラルガントの一家はレーキとラエティアの結婚を喜んでくれた。

 特にラエティアの母親、ラセット夫人は「お式はグラナート風とアスール風、どちらがいいかしら?」などと腕まくりして準備をすすめる。

 レーキには、グラナート風の婚礼はよく解らない。義理の母になるラセット夫人にそう告げると、夫人は「それならアスール風ね! うふふ! もう何年も前からティアのための婚礼衣装を用意してたのよー」と、クローゼットの中から刺繍(ししゆう)も見事な濃緑のドレスを取り出してきた。

「……素晴らしいドレスですね」

 女性の衣類にうといレーキにも、それが手の込んだ刺繍だと言うことは解った。たった一人の娘のために、ラセット夫人は腕によりをかけたのだ。

「でしょ? うふふ! レーキくんはねー天法士さまなんだから、ローブを持っているでしょ? 今から春までにそれに刺繍してあげる。このドレスと並んでも見劣りしないようにね!」

「ありがとうございます!」

 レーキは正装用のローブをラセット夫人に託した。ラセット夫人はとっておきの刺繍糸を大盤振る舞いして、レーキの黒いローブを美しく飾ってくれた。

 ちなみにカァラ用の青いドレスは、ラセット夫人とラエティアの合作だ。

 ラグエスも始めは「こぶ付き」だの「待たせ過ぎなんだよ」だのとぶつくさ文句を言っていたが、しあわせそうな姉を見ているとどうにも心が揺らいだようだ。結局は祝福してくれる。

 父親であるシャモア氏と次男のランズは、元より結婚に賛成で、レーキとラエティアのために新しいベッドを作ってくれた。

 自分の家庭を持って独立している、長男ラヴェルは可愛い妹のために(めす)の子山羊を一頭贈ってくれた。

 村人たちからの贈り物の品々で、新生活の準備は次第に整って行く。

 

 婚礼の宴は、村長の長く退屈な挨拶から始まった。

 宴を村長宅で行うのは、アラルガント家もレーキの家も、これだけの人数を収容しきれる広さが無いからだ。

 乾杯の合図を待ちわびていた人々は大いに飲み、振る舞われる料理を味わう。評判の料理上手たちが、その腕をふるった品の数々は瞬く間に人々の胃袋に収まっていく。

 レーキとラエティアは村人たちの祝福を次々と受け、その全てに丁重に礼を返す。

 ラセット夫人の祝い料理を、じっくり味わう暇もない。

 やがて、宴もたけなわ。人々は婚礼のための歌を合唱し、新郎と新婦は揃って新居へと向かう。今日だけは二人の邪魔をせぬようにと、カァラはアラルガント家に預けられた。

 ラセット夫人にも懐いているカァラに不満は無いようだったが、「けっこんって、なに? ふうふって?」と夫人を質問責めにして、だいぶ困らせたようだ。

 

 レーキとラエティアは、家への道をゆっくりと二人で歩む。

 森の中の、通い慣れた道。遠く木立の間に見える西の空は、赤とも紫ともつかない素晴らしい夕焼けの名残が微かに。

 夕闇が迫る道をレーキの『光球』が照らす。美しい花嫁が、転んでしまわないように。

 ラエティアはまだヴェールを垂らしたまま、レーキと並んでいる。レーキはラエティアと手をつなぐ。黙って一緒にいることが、とても自然で。ラエティアの温かな手のひらは、とても心地よかった。

 

 家に、今日から二人とカァラの家になるこの家に、帰ってきた。

 レーキはろうそくに明かりを灯し、ラエティアを家に迎え入れる。

 そこで、ようやくヴェールを跳ね上げて、慣れない化粧を(ほどこ)したラエティアの顔を見た。

 揺らめくろうそくの明かりで見るラエティアは、かつて無いほど美しかった。

「……ラエティア、おかえり」

「うん。ただいま。レーキ。……あの、あのね、レーキ。ティア、って呼んで? 家族、は、みんな、そう呼ぶから……」

「うん。解った。……おかえり、ティア」

「うん。ただいま。レーキ」

 ぎこちなく、二人は幾度も交わしたはずの挨拶をする。

 改めて見つめ合うと、気恥ずかしくて、くすぐったくて、二人は押し黙った。

「あのな……」

「あのね!」

 同じタイミングで、二人は口を開く。レーキが黙っていると、ラエティアが遠慮がちに呟いた。

「……あのね、わたし、尻尾が、あるの……」

「うん。知ってる。夏になるとスカートからはみだす、から……」

「う、うん。……それから、ね、肩にね、黒子が二つ並んでるの……」

「……それは、知らなかった。普段、肩は出さないもんな……」

 二人で、こんなに近くにいると。暴れ出す、互いの鼓動が聞こえてしまいそうな気がする。

「あのね、あの……レーキの秘密も、教えて?」

「え、とその……俺、俺の、秘密?」

「うん。どんなことでも良い。レーキしか、知らない秘密……」

 そう言ってレーキを見上げる、ラエティアの金色の(ひとみ)は少し潤んでいる。

「俺、は……足の小指の形がちょっと変わってる。それから、へその脇に大きめの黒子が、ある……」

 二人とも真っ赤になって、他愛のない、他人が聴けば笑い飛ばすような秘密を共有する。

 それが、二人がその夜初めてした、秘密の儀式だった。

 



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最終章
第82.5話 書簡


前略 レーキ・ヴァーミリオン様

お手紙ありがとう。それから、結婚おめでとう。

いやーまさか君に先を越されるとはねー

ま、そうなるだろうと思ってはいたけどさ。

こっちはまあ、ぼちぼちやってます。オレは相変わらずだよー

この間、卒業式があってね。今年の首席はズィルバー君、と言いたい所だけど、残念ながら彼は次席。首席は別の女の子だったよ。

そう言うところまで君たち何だか似てるなあ。

あ、ズィルバー君は五ツ組の天法士になったよ。今年は五ツ組が三人も出たんだ。すごいねー

ズィルバー君は法具の研究をするために、しばらくは天法院に残るってさ。

手始めに、指を無くしたヒトのための義指型法具をつくるって張り切ってるよ。

学院に残るってところは、オレに似たかな?

まあ、彼は教師になるつもりは無いみたいだけど。

アニル姉さんは、無事に元気な女の子を生んだんだって。今はまだ仕事を休んでるけど、子供が乳離れしたらまた食堂で働くってさ。

コッパー院長代理は、卒業式を終えて引退されたよ。コッパー様が後継指名した時はそりゃー大騒ぎさ。

セクールス先生は、ほら、あんな感じのヒトだろ? やっぱり敵も多くてねー

それにコッパー様は穏やかな方だったから、それに甘えてた一派もいたんだよ。

そー言う人たちは戦々恐々さ。セクールス先生、やたらと厳しいからなあ。

オレもよく怒られてるよ。

でもさ、この前見習いから馬鹿者に昇格したんだよー

ん? 昇格じゃない? まあまあ。悪評も無いよりはマシっていうだろ?

そのうちオレも、名前憶えて貰えるくらいにはなるよ。まあ、何があの人の心の琴線に触れるのかはオレもよく解らないんだけどさー

もうじき、そうだなーこの手紙が君に届く頃には、今年の新入生が入学してくるよ。

今年はどんな生徒がやってくるんだろうなあ。毎年この時期はわくわくするんだ。

プレゼントを待ってる子供みたいにね!

あの、『学究祭』ではしゃいでいた、小さなレディは元気かい?

結局君が引き取ることになるとはなあ。

花嫁さんとも仲良くやってるかい?

君にまた会える日が来るのが、本当に楽しみだよ。

それまで、家族揃って健康に楽しく暮らしなよー

じゃあね。

 

親愛なる先輩、アガート・アルマンより。

 

 

拝啓、レーキ・ヴァーミリオンさま。

元気にしてる? お手紙ありがとね!

ちよっとニクスまで行ってて、あなたからの手紙受け取るのに随分時間かかっちゃった。

お返事書けなくてごめん。

あたしもウィルも、かわいい、かわいいウェスタリアちゃんもみんな元気一杯よ!

最近はウェスちゃんも走り回るようになって、もう、大変。父親と同じで、目を離すとすぐどこかに行っちゃうんだから。

あなたのトコにも子供生まれたんだって? おめでとう。

カァラちゃんもいよいよお姉さんね。あの子も随分大きくなったでしょ?

もう九歳だもんね。時間が経つのって本当にあっと言う間だわ。

あたし、五年前は自分が母親になるなんて、思っても見なかった。その前は結婚するとすら思ってなかったし。

あなたもそうだったでしょ?

自分が父親になるなんて、思ってなかったでしょ。

でも生きてるって、多分こう言うことなんだわ。思いもかけないことが、思いもかけないときに、次々起こるのよ。まったく息つく暇もないわね。

所で、『始めの島』のことだけど、少し動きがあったの。

黄成(こうせい)の文書館で古ーい地図が見つかったって。それがどんなものか、今度直接行って確かめて見るつもり。ま、今は金欠なんで、年内にはね。んーでも、あたし黄成の古語って苦手なのよね。どうしよ。

まあ、なんとかなるでしょ。あたしって天才だからね!

次に会うときまで、お互い頑張りましょ。

それじゃあね!

 

あなたの友、美人考古学者、ネリネより親愛を込めて。



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第83話 旅立ち

「それじゃあ、行こう。父さん、母さん」

 今年も秋の実りの季節、『黄色(きいろ)の月』が終わろうとしている。後三月で今年という年も終わってしまう。

 森を開拓して作った畑は、すっかり収穫を終えた。今年は良く麦が実った。お陰で旅費に色をつけることが出来る。家の戸締まりをすませて、旅立つための準備も万端だ。

 早朝。森の向こうには、まだ弟月がうっすらと白く見えている。

 朝靄(あさもや)の立ちこめる森の中、小さな家の戸口に立つのは褐色の(はだ)の少女。

 黒く長い髪を腰まで伸ばして束ね、円く黒い(ひとみ)はキラキラと、空を飛ぶための訓練を始めたばかりの大きく黒い羽を今はきちんと畳んでいる。

 それは、今年十四歳になったカァラだった。

 十年前、カァラは正式にレーキとラエティア夫婦の養子になった。

 不慣れな若夫婦は手探りで、それでも懸命にカァラに愛情を注いだ。カァラは大きな病や怪我に見まわれることもなく、すくすくと成長し、健康な少女となった。

 いったい、いつのことだっただろう、カァラがレーキとラエティアを『父さん』『母さん』と呼びだしたのは。

「行こう。カァラちゃん。忘れ物は無い?」

「うん。大丈夫。心配しないで、母さん。さあ、レドくん。行こう?」

「んー。ねーちゃ……」

 カァラは隣を見下ろした。そこには、今年五歳になるレーキとラエティアの息子、レド・ヴァーミリオンが眠そうな眼をこすりながらどうにか立っている。

 一般的に、異なる種族の亜人同士は子供が出来にくいと言われている。初めての実子、レドがラエティアの胎内に宿ったのも、婚礼から五年が経ってからのことだった。

 家族はレドの誕生を大層喜んだ。レドはラエティアに似た栗色の髪に、レーキに似た赤色の眸、それから茶に黒の散った小さな羽を持って生まれてきた。

 レドの羽が黒く無かったことに、レーキは心密かに安堵した。たとえ黒い羽に生まれついても、アスールにいる限りレドが差別を受けることはないだろう。それでも、心配の種は少ない方が良いに決まっている。

「うーん。レドくんおねむみたい」

「朝早いんだ、仕方ない。村までは俺が抱いて行こう」

 レーキは小さな息子を抱き上げて、背嚢を背負い直す。

 今日、レーキ一家はヴァローナに向けて旅立つ。

 ヴァローナで、三度『天王との謁見の法』を試みるために。

 カァラを天法院に入学させるために。

 

 四年前、カァラが十歳の年。

 彼女は突然、「私、天法士になりたい」と言い出した。試しにカァラに王珠(おうじゆ)を持たせてみると、それは黒く力強く輝いた。

 この子には素質があるのでは? そう感じたレーキは、カァラに天法は自分の命の力を削って行う術なのだと言うことを伝えた。

 それでもカァラの決心は変わらず、レーキは根負けして彼女が天法を学ぶことを許可する。

 初めて授業を行うと決めた日。レーキは師匠の『法術』の本をカァラに渡した。

「この本は?」

「この本は、俺の師匠が学生の頃使っていた教科書だ。俺が天法を学ぶために師匠が譲ってくれた。古いものだが、今も天法の基本は変わらない。だからこれを今度はおまえに譲る」

 学生時代、師匠の代わりにいつでもレーキのそばにいてくれたこの、黒い革の表紙。

 喜びのときも挫けそうになったときも、自分を励ましてくれた師匠の形見の一つ。

 この本は、今度はカァラの支えとなってくれるだろう。

 カァラは端のすり切れた革の表紙を宝物でも扱うようにそっと撫でて、レーキを見つめた。

「……そんな大事なもの、私にくれるの? 良いの?」

 カァラは訊ねる。かつてレーキが師匠にそう言ったように、少し申し訳無さそうに。

「ああ。俺がただ持っているよりお前の役に立った方がその本も喜ぶだろう」

「……ありがとう、父さん! 父さんの次は、私がこの本を大事にする!」

 カァラは『法術』の本を胸に抱いて、決意に眸をきらめかせた。

「私、絶対天法士になる。父さんみたいに、誰かを助けられる人になる!」

 ああ、この子の運命を変えたのもまた、自分と言う天法士だった。師匠のように、アガートのように、セクールス先生のように。

 それは、連鎖していく。先の先まで連綿と続いて、いずれはこの子が、誰かの運命を変えるのか。それを見届けたい。

 その日、レーキは父親であると同時に、カァラの師となった。

 カァラには確かに才能があった。簡単な術を直ぐに扱えるようになり、何を教えても覚えは良い。カァラは楽しげに、レーキの教えを吸収する。

 この数年で、レーキがここで教えられることは全て教えた。後は設備が整った教育機関で、王珠を得ることを目指して学ぶほか無い。

 誕生日の解らないカァラは、『混沌の月』をすぎれば十五歳になる。天法院に入学出来る歳だ。

 三度『謁見の法』を行うと決めた時期とも重なる。それならば、カァラも連れてヴァローナに向かおう。

 本当ならば家族全員で、旅に出たかった。

 だが、そのためにはいささか路銀が心許ない。その上、『謁見の法』で助祭をつとめてくれる天法士に払う報酬も、用意しなければならないのだ。森の村で慎ましく暮らすレーキたちには荷が重い。

 仕方なく、村についたらレドはアラルガントの家に預けられる手筈になっていた。

 旅支度の一家は、緩やかな坂を下って村へ向かう。

 この旅はカァラにとっては二度目の、ラエティアにとっては初めての長旅だ。

 小さなレドを置いて行かなくてはならないし、レーキもこの十年長旅とは無縁だった。レーキの頭は、出発に際して心配事でいっぱいだ。

 だが、女性二人は不安よりも期待が勝っているらしい。楽しげな表情で、母と娘は目的地の話をしている。

「あら、レドくんはおばあちゃんたちが大好きだし、わたしとレーキは年が明ける前には帰ってこられるもの。心配ないと思う」

 あっけらかんとラエティアは言う。

「父さんは心配しすぎ。十年前村に来るときだって何事もなかったんだから」

「……だがな……」

「それにね、三人いればどんなことだって、どうにかなるわ。あなたは天法師さま、カァラちゃんはその卵よ」

 (まぶ)しいほどの信頼を込めて、ラエティアは笑む。

 ──結局、彼女たちには敵わない。

 レーキにはそれが頼もしくて、愛しくて。彼は微笑した。

 

 レーキの腕の中で眠ってしてしまったレドを、アラルガント家に預けた。

 レドの祖母であるラセット夫人は優しく孫を抱いて、彼を起こさぬように小声で「いってらっしゃい!」と一家に声をかける。

「なにも、ティアねえちゃんまで行くこと無いのに」

 すっかり成人となったラグエスが、どこか寂しげに姉に言った。

「ラグ、わたしはいつでもレーキと一緒にいたいって結婚するときに決めたの。だから二ヶ月も離れ離れになるなんて、いやなの」

 きっぱりと言う姉に、ラグエスは溜め息をついて肩をすくめる。

「結婚して十年も経つのに……まったく、仲がよろしいこって」

「そのうちラグにも、ずっと一緒にいたいって思える人が出来ると良いね」

 ラグエスは十九歳。まだ結婚を考える歳では無いだろうが、愛しいと思える人の一人くらいはいてもおかしくはない。

「うるせー! よけいなお世話。ほら、さっさと出発しろよ。みんな広場で待ってるぞ」

 早朝にもかかわらず、一家の旅立ちを見届けるために、広場では大勢の村人たちが集まってくれていた。

 レーキはこの十年、師匠と同じ様に天法士としても、村の一員てしても、村のために尽力してきた。

 怪我人や病人を治療し、魔獣が出ればこれを退治し、作物が良く実るようにと天法を使った。

 マーロン師匠、レーキと二代の恩を村人たちは忘れていない。村人たちもまた、何かれとなくレーキ一家を助けてくれた。

「初めて村に来たときは、あんなにちいちゃかったカァラが天法士さまになりに行くとはなあ……」

「レーキもラエティアもカァラも、気をつけていっといで!」

「ありがとう、おばさま! 行ってくる!」

 村人たちに見送られて、一家は乗合馬車の駅がある隣町に向けて出発した。

 初めて通ったときはレーキに抱かれながら歩んだ道を、今度、カァラは自分の足で踏みしめて進んでいる。その後をラエティアが追い、その隣でレーキは感慨に(ふけ)った。

 月日が経つのは本当に、早いものだ。

 一家は順調に旅を続ける。関門の街を抜け、『学究の館』までは徒歩で二週間。

 道中大きなトラブルもなく、一家は『学究の館』にたどり着く。

 

 時刻は昼前。街にでている学生や、学者、教職員たちで、街のメインストリートは賑わっている。

 十年ぶりに訪れた街は、街並みも雰囲気も驚くほど変わりがない。行き交う学生たちの顔ぶれはすっかり入れ替わっているのだろうが、街そのものが持つ性格は全く変わっていない。

 学ぶモノ、教えるモノ、その二つを支えるモノ。そのための都市。それが『学究の館』の本質だ。

「……はあ……ヴァローナはおっきな街ばっかりだと思ったけど、ここはホントに大きいのねー。それに黒い服の人たちがいっぱい!」

 ラエティアは溜め息混じりに(つぶや)く。森の中の小さな村しか知らない彼女にとって、見るもの聞くもの全てが珍しいようで。

 ヴァローナに入ってから、ラエティアは良く感嘆の声を上げていた。

「ここは、ヴァローナの王城に次ぐ都市だからな。はぐれないように手をつなぐか?」

「うん!」

 当然のように手をつなぐ夫婦を後目に、カァラは辺りを見回した。

「父さん、まずはどこに行くの?」

「まずは天法院に向かう。アガートに挨拶したい。お前の入学試験についても相談したいしな」

「私は天法院の場所を知らないから、父さんについて行く」

「解った」

 午後の授業が始まる前に、天法院にたどり着きたい。レーキはラエティアの手を引きながら、カァラと共に天法院におもむいた。

「ここも、変わらないな」

 天法院の建物は、十年程度の風雨では全く変わらなかった。門も学び舎も、相変わらず気難しい爺さんのような風格を保ったままだ。

「ここで、父さんも、父さんのお師匠さまも勉強したのね?」

 カァラが、不安げに息を飲む。

「……私にも、出来るかな……?」

「ああ。お前なら、きっと大丈夫だ」

 天法院の佇まいに気圧されて、立ちすくむカァラの肩に、レーキは手を置いた。

「……父さん……!」

 カァラはレーキを振り返って、きゅっと唇を結んだ。

「……うん。私、頑張るね!」

「ああ。行こう」



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第84話 十年後の再会

「よー。元気だった?」

 十年ぶりに直接会うアガートは、相変わらず年齢の解らない顔をしていた。

 少しの無精髭(ぶしようひげ)と伸び放題にした黒い髪。学生も教師たちも着る黒いローブ姿で、レーキ一家を出迎えたアガートは、ずり下がっていた眼鏡を指で押し上げ、茫洋(ぼうよう)と微笑んだ。

 まるで時が十年前に戻ってしまったようだ。

 レーキとアガートはヴァローナ風の挨拶をして、抱擁を交わした。

 十年前見習い教師だったアガートは、今では教師用の個室を与えられていた。

 机の周りに張り付けられた無数のメモ、床に散らかったままの書籍や資料。それはまるで規模が大きくなった寮の部屋の再現のようで。そんな所まで、アガートは変わらなかった。

「はい。一家揃って元気でやってました。あなたは本当に変わりませんね」

「そうかなー? 最近は徹夜とかちょっと堪えるようになってねー。無理が利かないって言うのかな。試験期間の前後なんかもう大変」

 教師として、問題作成や採点で忙しいのだろうが、アガートが言うとそうは聞こえない。まるで、試験に追われる学生のようにすら見える。

「手紙、ありがとうございました。教授になられたとか。おめでとうございます」

「ああ、うん。ありがとー。まったく責任ばっかり増えていってね。苦労を背負い込んでるよー。それにしても、おチビちゃん、大きくなったなー。オレも歳をとる訳だ」

 とほほと苦笑するアガートにカァラは、「お久しぶりです。カァラです。アガートさま」と一礼した。

「やあ、久しぶり。カァラちゃん。そちらのご婦人は愛しのラ、ラ……ラエティアちゃんだね! はじめまして。オレはアガート・アルマン。学生時代はレーキと同室だったんだ」

「愛し、の……? はい。アガートさま。はじめまして。わたしがラエティア・アラルガントです」

 ラエティアとアガートは、今日が初対面で。二人はにこやかに挨拶を交わした。

「君からの手紙がくる度に、レーキはそりゃー大喜びしてたからねー。それで、『愛しのラエティアちゃん』、さ」

「あ、それで、愛しの……その、そんな……」

 アガートの言葉に、レーキとラエティアは顔を見合わせて思いがけず赤面する。

 二人の反応を満足げに眺めて、アガートはカァラに向き直った。

「所でカァラちゃんは、今度の入学試験を受けるつもりなんだろ?」

「はい。私、ここで勉強してアガートさまや父のような天法士になりたいんです」

 カァラの真っ直ぐな眼差しを、アガートは目を細めて受け止める。

「うんうん。がんばれよー。でも、君のお父さんみたいに頑張りすぎて体こわすなよー」

「そんなことが、あったの? レーキ……」

「あれは……精神的に少し参っていただけで……」

 ラエティアは気遣わしげに、普段は風邪などもひかぬ丈夫な夫の顔を覗き込む。レーキは困り顔で、心優しい妻を見た。

「でも倒れたのは事実だろー?」

 にやりと人の悪い笑みを浮かべて、アガートは無精髭を撫でている。

「でも、私が体調を崩したらアガートさまが看病してくださるんでしょう?」

「……う。まあ、そうなるだろうなあ。君は親友の大事な娘だからねー!」

 カァラの一言に、アガートは一本取られたとでも言いたげに笑う。

「そう言うことでさ。君たちの大事な娘さんのことはオレが預かろう。女子寮に空きがあるから、試験までそこで過ごすといいよー」

「ありがとうございます。助かります」

「どうぞカァラちゃん……カァラを、よろしくお願いします」

 レーキとラエティア夫婦は、そろって深々と頭を下げた。アガートは面映ゆそうにがりがりと頭を()いて、来客用の椅子から本を片付ける。

「ま、まずは積もる話ってヤツをしようぜ。今日、オレの受け持ちは遅い時間のコマだから。それまで時間がある」

 

 十年分の空白を埋める。アガートとは年に一、二度は手紙のやりとりをしてはいたものの、書面で語りきれなかったことは山ほどあった。

 この十年で、天法院におけるセクールス院長代理の体制は確立され、若いがやる気のある有能な教師が多く重用されていること。

 二年前、ズィルバーは義肢法具(ぎしほうぐ)の研究をさらに発展させるために、職人が多い故郷、ニクスに帰ったこと。

 去年の夏、コッパー前院長代理が八十六歳で亡くなったこと。

 アガート自身は依然として独身で、浮いた(うわさ)の一つもないこと。

 他愛無いことも重要なことも。時にアガートが語り、レーキが語り、互いに相づちを打つ。

「……それで、また『謁見(えつけん)の法』をやるつもりなんだね?」

 アガートが姿勢を正してレーキに向き直る。

「はい。ちょうど死の王様が告げた十年の節目ですから」

「君の祭壇はちゃんとここにあるよー。今回もオレが手伝う。うーん。ズィルバー君がここにいればなー。彼も手伝ってくれただろうけど……」

 部屋の隅には、祭壇とおぼしき塊が布に包まれて置いてある。アガートは思案顔でそれを一瞥した。

「もう一人の助祭(じよさい)に誰か心当たりは有りませんか? もちろん報酬は用意してあります」

「うーん。……ごめん、すぐには思いつかないなー。とりあえず日付を決めない? 四日後の『(つち)の曜日』とかどうかな? その次の週はもう『学究祭』だし」

『学究祭』を前にして、学院中がその準備に追われている。アガートの後輩に当たる教師たちも、セクールス院長代理も今はみな忙しいのだろう。

「はい。俺は次の『土の曜日』で大丈夫です。その……無理を言ってすみません。しかも『学究祭』の準備で忙しいさなかに……」

「ううん。オレたち教授は当日は休みだからね。気楽なもんさー。実習室使えるようにセクールス院長代理に今からかけあってみよう。ついでに助祭のあてがないか聞いてみようよ」

 良いことを思いついたとばかり、アガートは手を叩いた。確かに、セクールス院長代理にも会っておきたい。レーキは賛成する。

 早速、一同は院長代理の部屋へと向かった。

 かつてコッパー前院長代理が使っていた頃は、不思議と和やかで日当たりも良かったその部屋は、新しく本棚を全面に設えられてセクールスの蔵書で埋め尽くされている。

 薄暗いのに、なぜだか居心地の良い部屋の真ん中で、セクールスは何かを一心不乱に書き(つづ)っていた。

 組織の長と言う立場は苦労も多いのだろう。十年前は黒々としていた髪には白いものが混じり、眉間の皺はますます不機嫌そうに深く刻まれていた。

「セクールス院長代理(せんせい)。『天王との謁見の法』をやるためにレーキが着きました。実習室の使用許可出してください」

「そうか」

 書類から顔を上げて、セクールスは戸口に立っているアガートとレーキ、それからラエティアとカァラを順繰りに見た。

「セクールス院長代理、お久しぶりです」

 ふかぶかと頭を下げるレーキとその横で同じ様に挨拶する、ラエティアとカァラ。セクールス院長代理は静かに女性二人を見つめる。

「その、獣人(ベースティア)の女性と鳥人(アーラ=ペンナ)の小娘は誰だ?」

「俺の妻と娘です。娘は天法院への入学許可をいただくために試験を受けさせていただきます」

「ほう。娘にはもう王珠(おうじゆ)を持たせたのか?」

「はい。黒色に輝きました。それから俺が教えられることは全て教えました」

 レーキの言葉に、セクールス院長代理は(ひとみ)を細めた。それから、カァラに命じる。

「……レーキ・ヴァーミリオンの娘。火球と光球を両手に一つずつ作って見せろ」

「あ、え、はい! ……『火球(ファイロ)』『光球(ルーモ)』」

 突然の命令にカァラはわずかに躊躇(ためら)うが、難なく二つの(きゆう)を操って見せる。

「片手に二つの光球、もう一方の手に二つの火球を制御出来るか?」

「はい。こう、ですか?」

 セクールス院長代理はつぎつぎとカァラに課題を出した。カァラはそのどれにも的確に対応する。最後に手のひらに小さな雷を呼び出させて、セクールス院長代理は小さく嘆息した。

「……父親より娘の方が、余程出来がいいぞ」

「はい。自慢の娘です」

 レーキは胸を張って、そう言いきった。カァラは覚えが早く、覚えたことを忘れない。柔軟に物事を考え、習い覚えたことを応用することも得意だった。

「入学試験を受けろ、娘。そして合格しろ。優秀な天法士は多いほど良い。……お前、名は?」

「はい。カァラ・ヴァーミリオンと申します。セクールス院長代理さま」

 カァラは緊張も控え目に、優雅に一礼する。

 セクールス院長代理は鷹揚(おうよう)に頷いて、(かたわ)らのパイプを手に取ると薬草の葉を詰めた。火種を放り込み、深く一服する。

「良く(はげ)めよ。ヴァーミリオンの娘。いずれ私を楽しませてくれ……それで? 結局この十年で『呪い』は解けなかったのだな?」

「はい。残念ながら」

 セクールス院長代理は眉間の皺を深くして、パイプを口元に運んだ。

「……解った。実習室の使用を許可する。だが助祭の当てはあるのか?」

「はい。一人はアガート教授が勤めてくれます。もう一人はまだ目処が立っていません」

「そうか。いっそのこと、旅人のためのギルドで四ツ組の天法士を雇ったらどうだ? 今の時期はこの街に人が集まる。中には使える者もいるかもしれん」

 ああ、その手もあるのか。旅人のためのギルドには、天法士としての仕事を求める者たちもやってくる。その中には、対価と引き替えに手を貸してくれる四ツ組以上の天法士もいるだろう。

「有り難うございます、セクールス院長代理。『土の曜日』までに助祭を探します」

「ああ。今度こそ『呪い』を解け。そして己の人生を生きろ」

 セクールス院長代理はそれだけ言って、書類に視線を戻した。

 

「そう言えば……天法士のギルドってありませんよね? 商人や傭兵や旅人なんかはギルドがあるのに」

 院長代理の部屋を辞して、レーキはふと疑問を口にする。アガートはオレの憶測だけどね、と前置きしてその理由を語ってくれた。

「ああ、天法士はどうしても天法院に行かないと王珠を貰えないだろ? だから各学院の影響力が強くなるんだよ。その結果、学院単位で結束したりするのさ。それがギルドの代わりだよ。それに『旅人のためのギルド』って強力なギルドがあるからね。わざわざ天法士ギルドを作らなくてもみんなそっちで事足りちゃうのさ」

「なるほど」

「……さて。ちょっと遅くなっちゃったけど、昼飯にしないか? オレは腹が減ったよ」

 アガートの言葉に誘発されたように。タイミングよく、誰かの腹の虫が切なげにきゅうるる……と鳴く。

 カァラがおずおずと手を挙げて、「あの……私、です……」と申告した。

「うんうん。君は育ち盛りだからなあ。それじゃあみんなで食堂に行こう! 今日はアガート教授の奢りだよ!」

 そう笑って、アガートはレーキ一家と共に食堂に向かった。

 



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第85話 十年後の再会Ⅱ

 食堂で、レーキは久々にアニル姉さんと再会した。

 昼飯時からは、少し時間がずれている。今食堂にいるのは、ゆっくりと食事を()っている教職員たちがほとんどで、生徒たちはみな授業に出ていた。昼飯時の喧騒を乗り切っても、姉さんは相変わらず威勢がよく、溌剌(はつらつ)とした表情で働いていた。

 子供を生み育てている間に、体格は少しふっくらしただろうか。だがキラキラと輝く(ひとみ)はレーキが学生だった頃と少しも変わらず、てきぱきと配膳をこなす仕草も少しも衰えてはいない。

「……よお! レーキじゃないか! あ、いけね! 今はもう天法士さまなんだっけ! こほん。……レーキさま。ずいぶんお久しぶりですね。お元気でした?」

「はい! 姉さんこそお元気そうで何よりです。……あの、さまはいらないです。なんだかくすぐったい、から。あ、こっちの二人は俺の家族です」

「あ、あの、はじめまして。妻のラエティアと言います!」

「こりゃこりゃ、ご丁寧に……アタシはここの料理人でアニルだよ! よろしくね!」

 アニル姉さんはラエティアとカァラを交互に見て、驚いたように眼を丸くした。

 姉さんは、レーキよりいくらか年上と言ったところだ。卒業生がこうして家族を連れて挨拶に来るなどと言うことは、まだあまり経験したことがないのだろう。

「……じゃあ、お言葉に甘えよう。アタシもなんだか変な感じだからね! へえーレーキが結婚したとは聞いてたけどね! こんな大きな娘がいるのか」

「はい。試験に受かれば来年からこちらでお世話になります」

「お父ちゃんだけじゃなく、お嬢ちゃんも天法士さまになるの?!」

「はい! カァラと言います! よろしくお願いします!」

 元気よく頭を下げるカァラを見つめて、アニル姉さんは歯を見せて笑う。

「おう! 任せときな! レーキの娘ならアタシにとっては姪っ子みたいなもんだ! それで? 今日は一家揃って昼飯?」

「はい。今日のおすすめは何ですか?」

 レーキが学生時代の頃と同じ様に問うと、姉さんは嬉しそうに目を細めた。

「今日はね、ヴァローナ風の鶏焼き定食だよ!」

「じゃあ、それで!」

 瞬く間にアニル姉さんは三人分の定食を用意する。それを受け取る頃に、アガートが遅れてやってきた。

「オレもいるよーアニル姉さんー」

「ああ、アガート先生か。あんたはいつも食堂だね。他の先生みたいに外の店なんかには行かないの?」

「外の食堂は高いし、当たり外れがあるから。ここなら安いしいつも美味いしねー」

「褒めてくれるのはありがたいけどさ、あんた教授で高給取りだろ? そんなにがっつり貯めてどうするのさ」

「んー。老後資金? かなー」

「そんな若い身空で老後のこと考えてどうするのさ!」

 姉さんは明るく笑って、アガートに定食を手渡す。アガートは四人分のトークンを支払って茫洋(ぼうよう)と笑った。

 

 四人揃ってアニル姉さんおすすめの定食を食べ、レーキ一家は天法院を後にする。

『学究の館』に到着したら、ネリネの家を訪ねると彼女と手紙で約束している。その約束を果たして、今夜は彼女の家に厄介になる。

 ネリネに実際会うのは、やはり十年ぶりで。彼女の家にたどり着くまでにレーキは一度道を間違えた。

 つい先ほど、夕刻を告げる鐘が鳴った。もうじきこの付近の家も、茜色に染まることだろう。

 ネリネの家は、十年前と同じ場所にあった。閑静な住宅街のなか、周りと良く似た造りの都会的な家。

 その前でラエティアは緊張で身を固くし、カァラは懐かしそうに目を細めて瞬いた。

 レーキは一家を代表して、扉のノッカーを叩く。

「はーい! 今開けるー!」

「にーちゃん! おれが、おれがあける!」

 子供のような、二つの高い声が競い合って応答する。ばたばたと室内を走る音がして、開かれた扉の向こうには、小さな男の子とさらに小さな男の子が立っていた。

「……こんばんは。お母さんは?」

 ネリネに良く似た藍色の眸と、ウィルに良く似た黒い髪の少年たちは、レーキを見上げてじっと見つめる。

「……鳥人だ! 黒と銀の羽の鳥人が来たよ! 母ちゃん!!」

 少年は踵を返して、部屋の中に駆け込んでいく。その後をきゃーっと悲鳴のような声をあげながら、弟が追いかけていく。

「……え、あ、鳥人?! もう着いたのね! 久しぶり、レーキ!」

 小さな子供たちに押されるように、ネリネが顔を出す。眼鏡をかけてエプロンをつけた彼女は、笑い顔こそ十年前とほとんど変わらなかったが、長かった髪をばっさりと短く切り揃えていた。

「ああ、久しぶりだな」

「子供たち直接見るのは初めてでしょ? こっちの大きいのがウェスタリア、小さいのがウェントゥス。ウェスくんとウェンくんよ! ほら、ご挨拶!」

「ウェスタリア・レスタベリです! 七歳です!」

「ウェンくんです! さんさいです!」

「俺はレーキ・ヴァーミリオンだ。よろしく」

 こんな時のために練習しているのだろう。ネリネの子供たちは元気良く名乗りを上げた。

「……レーキおじさん、ホントに黒と銀の羽だ! 母ちゃんが言ってた通りだ……!」

「おおー! ぎんのはねかっちょいい!!」

 ネリネの子供たちは母親の客人を前にして、興奮を隠せない。

「ほらほら、こんな所じゃなんだから中に入って!」

 ネリネに促されて、レーキ一家は住宅の扉をくぐった。ネリネの家は相変わらず良く片づいていたが、一階の一室だけはひどく散らかっていた。おそらく、子供たちがそこを遊び場にしているのだろう。

「獣人さんがラエティアさんね? ……ってことは、あなた、カァラちゃん?!」

 レーキ一家を居間に案内して、ネリネは安楽椅子に陣取った。

 この居間は居心地がいい。レーキ一家は揃ってソファーに座り、ネリネの子供たちも思い思いに空いている椅子に腰掛けた。

「改めて。はじめまして、ラエティアさん。あたしはネリネ・フロレンス。考古学者……だけど今は育児休業中ってとこね。よろしく!」

「はじめまして、ネリネさん。わたし、ラエティア・アラルガントです。普段はパン屋さんで働いています。よろしくお願いします……」

 ネリネは鷹揚に、ラエティアはおずおずと。正反対の二人が、初めて挨拶を交わす。ネリネはぱちんと指を鳴らして、何事か得心かいったように頷いた。

「……んー。なんだかよく解ったわ。レーキが一生懸命、アスールに帰りたがったワケ。こんなかわいい人が待ってるんだもん。そりゃー帰らなくっちゃね!」

「あの……その……そんな……っ」

 面と向かって言われて、ラエティアは顔を真っ赤にしてしどろもどろになる。

 ネリネはにっと、楽しげな笑みを浮かべて見せた。ラエティアを揶揄(からか)っているのか、それとも本気なのか。判断が難しい。

「……そのくらいにしてやってくれ、ネリネ。ティア……ラエティアはその、恥ずかしがり屋なんだ」

「ふふふー! 二人とも仲が良くて、妬けちゃうわね!」

 やはりネリネは、レーキ夫婦を揶揄っているらしい。まったく人が悪い。

 レーキがため息をつくと、ネリネは改めてカァラに視線を転じ、まじまじと彼女を見つめた。

「それにしても、大きくなったね、カァラちゃん! 元気そうだし……しあわせそうね! すごく眼が生き生きしてる!」

「ありがとう、ネリネさん! うん。父さんと母さんがいてくれて、かわいい弟もいてね。私、今すごくしあわせ!」

 にこにこと笑うカァラに、ネリネが感慨深げな表情を向ける。

「……ねえ、レーキ。あなたのあの時の選択は絶対に間違いじゃなかったわ。あなたがこの子を引き取るって決めたのは」

「そう言って貰えると、俺も……嬉しい」

 控えめで、それでも誇らしげな笑みを浮かべるレーキに、ネリネは何度も頷いた。

「それにしても、年が明けたらカァラちゃんが天法院か……子供の成長って早いわね。よその家の子は特に」

「ああ、確かにな」

「自分の家の子は、ちょっと見ない内に大きくなってるなんてこと無いものねー。特にこの子たちは元気いいから。目が離せないし」

 その元気のいい兄弟は、今はまだ大人たちの会話を大人しく聞いている。

「そう言えば、その子たちの父親はどうしている?」

「ああ、ウィルなら元気よ! ギルドの依頼受けて出かけてる。今はあたしががっつり働けないから、その分頑張ってくれてるわ」

「レーキおじさん、父ちゃん明日帰ってくるよ!」

「かえってくるよ!」

 小さな兄弟は口々に叫ぶ。ウィルはこのちびすけたちに慕われているのだろう。小さな兄弟は二人とも、喜びで眸を輝かせていた。

「そうか。久しぶりにウィルにも会いたかったんだ」

「あら? アイツに何か用だったの?」

「いや。ただ顔を見て話がしたかった。それは、君も同じだ」

 ネリネはまじまじとレーキの顔を見た。そして、嬉しそうに顔を(ほころ)ばせる。

「……そっか! あたしもよ。あなたたちに会いたかった!」

 眼鏡の奥でにっこりと笑い、ネリネはレーキ一家を見回して立ち上がる。

「今ね、丁度ご飯つくってたの。積もる話ってヤツはご飯の後にしましょ」

「俺も手伝おう」

「あ、あの、わたしも……」

 立ち上がりかけたレーキ夫妻を押しとどめて、ネリネは笑う。

「ううん。あなたたちは長旅で疲れてるでしょ? 今日くらいあたしに作らせて。ね? ……さあ、ウェスくんウェンくん。君たちは手伝ってくれ賜えよ?」

 ちびすけたちを連れて、ネリネは台所に向かって行進する。その後をカァラが着いていった。

「あら、カァラちゃんも大丈夫よ? ゆっくり休んでなさい」

「ううん。ネリネさん、私手伝いたい。最近お料理が出来るように練習してて……」

「うーん。それならね……」

 やがて、台所からは楽しげな声が漏れ聞こえてくる。レーキとラエティアが顔を見合わせて、台所に向かおうとすると、カァラがティーセットを手にして戻ってきた。

「『レーキたちはそれ飲んでて』だって。父さんと母さんはお茶飲んで休んでて?」

 機先を制されてしまった。レーキとラエティアはもう一度顔を見合わせて、笑いあった。



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第86話 墓参り

「……って訳で、遺跡探しの合間に色々調べてたら今やあたしが『始めの島』の第一人者扱いなワケ。現地に行ったこともないし行く気もないのにね」

ネリネはそう語ると、紅茶(ホンチヤ)を一口すすり、ため息をついた。

「うーん。行く気がないは嘘か。何かの弾みでたどり着いちゃったら本格的に調査しちゃうだろうけどね。探し出してまで行きたくない、が本音ね」

 楽しい夕餉(ゆうげ)の後、ちびすけたちを寝かしつけて一服する。

 ネリネがこの十年で『始めの島』とも『呪われた島』とも呼ばれている島について、調べたことを話してくれた。

 (いわ)く、『始めの島』は人間が発祥したとされる島で、その候補は現在幾つかあるがどれも決め手にかける。『始めの島』の地図もみつかったが欠損も激しく、推測で描かれた部分や空白部分も多い。

 曰く、『呪われた島』は魔人や幻魔が結界に封じられた事からそう呼ばれる。

 現在はその二つを同一視する学説は主流ではなく、どちらかと言えばとんでもないとされる学説である。

「でもね、『始めの島』と『呪われた島』が同一のモノで有ると仮定すると、矛盾点がなくなる古い資料が幾つもあるのよ」

 今日はカァラも、大人たちと一緒に会話に加わっている。

 カァラはここで初めて、レーキが『呪われた島』にたどり着いたことがあると知らされた。銀色の羽が魔装具(まそうぐ)で有ると言うことも。

 成人年齢には達していないが、カァラはもう十分に分別のある女性だ。

 この事は口外してはならぬと言い含めて、レーキは全てを話した。

「そっか。私と初めて出会ったとき、父さんはそんな経験をした後だったんだね……あの時、大人になったら話してくれるって言ってたのはそのことだったの?」

「ああ。そうだ。『呪われた島』のことを知らせるモノは少ない方がいい。お前は幼かったから、いつ口を滑らせるか解らない。だから話さなかった」

「今、話してくれたってことは私も大人になったってこと?」

 カァラは悪戯(いたずら)っぽく微笑んで、胸を張った。

「いや。お前はまだ子供だが、賢い。何より物事をよく見ている。成人してはいないが話してもかまわないと思ったんだ」

「そっか。私、信用されてるってことなのかな?」

「ああ、そうだな」

 レーキの一言で、カァラは嬉しそうに笑みを浮かべた。

「……ありがと、父さん。『呪われた島』のことは誰にも話すつもりはないよ」

 胸の前で拳を握って、カァラは真剣な眼差しをレーキに向ける。

 そんなカァラを(まぶ)しそうに見つめて、レーキは目頭が熱くなるのを感じた。幼かった娘。グラナートで拾った小さな子供は、この十年で確かに成長していた。

「……有り難う。カァラ」

「どういたしまして。……私ね、父さん。小さな頃は早く大人に成りたかった。大人になれば父さんたちの仲間に入れて貰えると思ってた」

「お前は初めから『仲間』だった」

「うん。そうだね! 父さんは一度だって私を邪険にはしなかった。里親を探そうとはしてたけど……それだって、私のしあわせを真剣に考えてのことだった」

「ああ。お前と出会って……途方に暮れたことはあっても、お前を疎ましく思ったことは一度もない」

「うん! それに母さんも、突然来た娘なのに、私のことすごく可愛がってくれた。私、今はずっと子供のままだったらいいのにって思う。そうしたら家族一緒にいられるのにって。離れて暮らさなくても良いのにって」

「カァラちゃん……やっぱり、寂しい、の?」

 気遣わしげに、ラエティアはカァラの手を取った。

「うん。寂しいよ……天法院に行って、新しい事を覚えるのは楽しみだよ。でも、父さんにも母さんにもレド君にもずっと会えないのは寂しい……」

 今にも泣き出しそうな娘を、ラエティアはそっと抱き寄せ、幼子にそうするように優しく背中を叩く。カァラは母を抱き返して、泣き出さぬように唇を噛んだ。

「……でも、私、天法士になりたいって決めたから。だから寂しくても頑張るから」

「うん、うん……わたしも、すごく寂しい……三年もあなたに会えないなんて……けど、カァラちゃんが頑張るって決めたことを応援したい。お手紙いっぱい書くね……カァラちゃんもお手紙書いて……そのためのお金は任せてね! ……でも、頑張りすぎは絶対だめだよ?」

「うん!」

 カァラの返答は明るく、けれど少しだけ涙で滲んでいた。

 

 翌日になって、レーキは一人で『学究の館』の郊外にある墓地へと向かった。

 それは、コッパー師の墓に参るためだった。

 ラエティアはカァラと一緒に、買い出しに出かけている。たまには母娘(おやこ)でお買い物も良いね、とラエティアは笑っていた。

『学究の館』の墓地は街の北側に位置していて、陽当たりの良い緩やかな丘陵地にあった。秋晴れの良い気候のなか、レーキは死者を弔う黄色い花を携え、一刻(約一時間)ほどかけて共同の墓地にたどり着いた。

 墓地には様々な墓石が整然と立ち並んでいる。ヴァローナの弔いの主流は墓石で、グラナートのように木製の墓標は使わない。中でも、黒色の墓石は教育に携わってきた故人のもの。歴代の天法院・院長代理たちが眠っている霊廟(れいびよう)もまた、黒い石で作られていた。

 霊廟の装飾は厳かで、正面の壁には故人の名前を刻んだ銘板(めいばん)が並ぶ。そのなかでも真新しい銘板に『ストラト・コッパー』の名があった。

 コッパー師の最期は、老衰であったと言う。春先のうららかな午後に、眠るように亡くなったと。コッパー師に妻はなく、看取ったのは、彼に長い間仕えていた家族同然の使用人だったらしい。

「……コッパー様、レーキです。今日までここに来られなかったことをお詫びします」

 レーキは一人、霊廟の前に立ち花を捧げる。他にも近くこの霊廟を訪れた者があったのか、しおれていない色とりどりの花束が幾つも並んでいた。

 ──コッパー様、『呪い』はまだ解けていませんが、俺も家族もこうして生きています。十年前、あなたがしてくれたことを無駄にはしません。俺は望みを捨てていません。

 死の王様の国で、どうぞ安らかにお過ごしください。

 はたして、コッパー師の一生は幸福であったのか。後悔や心残りは無かったのか。今となっては知る術は無いけれど。

 コッパー師の死後の安寧を、レーキはただ祈った。

 祈り終えて、レーキはコッパー師から数えて、十代ほど前の院長代理を探した。

 それは、マーロン師匠の本の中で見つけた自分と同じ『レーキ』と言う名の院長代理だった。沢山の名が刻まれた銘板の中に『レーキ・アルマニャック』の文字が見える。

 ただ名前が同じと言うだけの、見知らぬ人物。だが、この人は、レーキに『天法士』と言う憧れを抱かせてくれた人の一人に違いなかった。

「有り難うございました。レーキ……いえ、アルマニャック様。お陰で俺は夢を一つ叶えることが出来ました」

 レーキは同じ名前の偉大な天法師に一礼して、墓地を後にした。

 

 ラエティアたちと約束した時間までは、まだまだ余裕がある。レーキは墓地を出たその足で『旅人のためのギルド』へ向かった。そこで、儀式に参加してくれる四ッ組以上の天法士を探すために。

『ギルド』で依頼を受け付けていた青年に、儀式のために天法士を探している旨を告げ、細かな条件を決める。

 死の王と対面しても狼狽えないだけの胆力は必要であるし、レーキが呪われていることを吹聴しないように、秘密が守れる者が望ましい。報酬はアガートが辞退した分、少し弾んでおいた。

 青年は丁寧にそれを書き取って、依頼書が並んだ掲示板に新しい依頼を張り出した。

「『祭』が近いですから、天法士様も大勢『学究の館』にいらしてます。条件に合う方もすぐに見つかりますよ」

 時刻はちょうど昼時。レーキは『ギルド』の食堂で昼食を摂る事にした。

 食堂の看板娘のオススメは、熱々のグラタンとウバの果実酒。グラタンはとろけたチーズと白いソースの下に、小麦粉で作った短い平麺が敷き詰められて、肌寒い日には堪らない逸品だった。

 レーキは果実酒の代わりに果実水を頼んで、汗を掻きながら温かな料理を堪能した。

 食後に紅茶(ホンチャ)を頼んで一杯を喫していると、先程の受付の青年が食堂を覗き込んだ。

「儀式のための天法士様をお探しの依頼主様! 候補の方がいらっしゃってます!」

 こんなに早く候補が見つかるとは。

 レーキは紅茶を飲み干して、席を立つ。食堂を出ると、そこはもう『ギルド』の受付だ。

 その受付の前に鳥人が一人(たたず)んでいた。美しく曇りのない赤色の羽。どこかで見覚えがある、と思った瞬間。その鳥人が振り返った。レーキの姿を認めて、驚愕に両眼を見開いた鳥人。それは忘れもしない、レーキに盗賊団壊滅を知らせた男、シアン・カーマインその人だった。

 



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第87話 シアン

「シアン・カーマイン……」

 レーキは、驚愕に隻眼(せきがん)を見開いた。グラナートで何不自由なく暮らしているはずの彼が、なぜヴァローナの『旅人のためのギルド』にいるのか。なぜ依頼を受けようというのか。なにも解らない。

 ただ、レーキ自身も歳を重ねたように、シアンもまた年齢相応の落ち着きを顔に刻んでいた。

 天法院時代は、見るからに金をかけた衣服を好んでいたシアンは、たった今、暗赤色の質素なローブを着て、赤色に光る王珠(おうじゆ)を腰に下げている。

「レーキ・ヴァーミリオン……?」

 シアンはレーキをじっと見つめて、息を飲んだ。

「あ、お二人はお知り合いでしたか? こちらが依頼主様で、こちらは今回の候補の方です」

 受付の青年は二人の因縁など微塵(みじん)も知らない。明るく笑って二人を引き合わせる。

「お知り合いなら、積もる話などなさいますか? 個室をお貸ししましょうか?」

「ああ、いや……」

 レーキが『彼は駄目だ』と告げようと唇を開くと、シアンが急に頭を下げた。

「この依頼受けさせてくれ! ……いや、受けさせてください!」

 シアンの態度に面食らって、レーキは唇を半分開けたまま、受付の青年を見た。

「……やはり、個室を貸して欲しい」

「かしこまりましたー!」

 受付の青年は笑顔を崩さずに、二人を客用の個室に案内した。

 

「……何が目的なんだ?」

 客用の個室で、二人は備え付けのソファーに向かい合って腰掛ける。

 レーキは表情を硬くして、シアンを見つめた。

「……その……まず、君に謝罪がしたい。天法院に在籍していた頃の私の君への態度は酷い物だった。すまなかった」

 はっきりとシアンは言う。十数年という時を経てこの男にどんな心境の変化があったというのか。レーキは、何が何だか訳が分からずに沈黙した。

「……私には妻がいる。その妻が身重なんだ。だから、今は金を稼ぎたい。君の依頼は一度の儀式の報酬としては魅力的だ」

「……君ほどの金持ちなら、こんな所で仕事を探さなくても良いのでは?」

 問いかける声が、思わず固くなってしまう。レーキはシアンから眼を離さずに、身構える。

「実は妻との結婚を反対されてね。実家からは勘当されてしまった。無一文で追い出されたんだ」

 シアンは恥ずかしげに目をそらし、苦笑している。

 なるほど、それで質素なローブを着て、仕事を探しているわけか。

 レーキは納得したが、だからと言ってシアンのことを手放しで信用出来るわけではない。

「……シアン・カーマイン、すまないが……」

「レーキ・ヴァーミリオン、私の話を聞いてくれないか? その上で私は君に謝罪したい。それでも、どうしても私が信用できなければ、別の人に依頼してくれ」

「……」

 レーキにも好奇心はある。学生時代は横暴で尊大だった彼が、どんな経緯で身重の妻の為に働くようになるのか。それが知りたい。

 レーキの沈黙を、シアンは了承と受け取って語り始めた。

「……私の妻は、ヴァローナ天法院の教師で、セクールス院長代理の名代としてグラナート・深紅(しんく)の天法士団にやって来た。私はその時、深紅の天法士団の一員だった。妻は美しい女性で、長い黒髪と限りなく黒に近い藍色(あいいろ)(ひとみ)を持ち、それが白い(はだ)に良く映えていた」

 

 シアンは彼女の美しさ、弁舌の(たく)みさ、賢さ、大勢の異国の天法士たちを前にしても決して怯まぬ心の強さに惹かれた。一目惚れだったと。

 彼女は主席でヴァローナ国立天法院を卒業し、五つの王珠を授かって、教師として天法院に残った。天法士としても優秀な人物だったのだ。

 セクールスが院長代理に就任し、ヴァローナ国立天法院は、各国の天法院との連携を深めようと動いた。そのための使者として、セクールスの信任も厚い彼女が選ばれたのだ。

 彼女に惹かれたシアンは、彼女の知性を美貌を褒め称え、自分の心を捧げたいと告げた。

「私は恋を求めにこの国にやって来た訳ではありません」

 シアンの申し出は、きっぱりとはねつけられる。それでも、彼は諦めることが出来なかった。彼女を崇拝することが運命だと思った。

 彼女は予定通り、一週間の間グラナートに滞在し、ヴァローナに戻っていった。その間、シアンは何度も彼女に自分の胸の内を伝え続けた。だが、色よい返事はついに貰えなかった。

 彼女がヴァローナに帰ってから、シアンの世界は色を失った。彼女がいなければ何もかもが虚しく、味気なかった。

 仕事にも身が入らず、何を聞かれても上の空で。

 それで、シアンは決心した。ヴァローナに向かうために天法士団を休職し、旅支度を始めた。彼女に一目会いたい。その一心だった。

 胸を躍らせてヴァローナに渡ったシアンは、すぐに『学究の館』へ向かった。

 それが、五年前のこと。出会いから一年以上をかけて、シアンは彼女に思いを伝えつづけた。だが、彼女は一向にうんとは言ってくれなかった。

 その間に彼は天法士団を辞め、『旅人のためのギルド』で職を求めるようになった。

 家族がシアンを呼び戻すために、仕送りを止めるようになったからだ。

 シアンの家族は、跡取り息子に再三国に戻るようにと言ってきた。そんな卑しい黒髪の女などではなく、国に戻って羽の美しい鳥人の娘と結婚しろと。そんな家族とシアンは絶縁した。

 家族も彼を勘当し、その後一切の連絡もして来ないと言う。

 シアンの家族は、彼女の内面の美しさも知性も何も知らず、ただ彼女が黒髪で有ると言うだけで批判する。

 その時、自分がいかに愚かで偏見に満ちたモノの見方をしていたかという事に、シアンは思い当たった。

 黒い羽を持っていたクラスメイトを攻撃した自分と、黒い髪の彼女を嫌う家族は同類だ。どちらもただ物事の表層だけを見て、本質を見ようとはしていなかった。

 ある日シアンは彼女にそのことを告げた。自分がいかに底の浅い者であったかと、過去を恥じ入ったと。それでも自分は彼女を諦められない、改めるべき所は何でも改める、彼女を心の底から愛していると。

 彼女は初めて、シアンのオレンジがかった眸を見つめて言った。

「あなたは、過去を(かえり)みることの出来る人。あなたは懸命(けんめい)で愚かな人。私のために多くを投げ出した人。私があなたに報いるためには何を差し出したら釣り合いがとれるの?」

 彼女は苦しげな表情で胸を押さえて、じっとシアンを注視する。

「心が欲しい。……君の心が。ただ私を愛していると。その一言だけがどんな宝物にも代え難いんだ」

 シアンの言葉に、彼女は沈黙した。そして、意を決したように前を向く。

「……解ったわ。私の真心をあなたに捧げます。愛しています、シアン」

 そうして、シアンと彼女は結ばれた。

 祝福してくれたのは彼女の天法院の同僚たちだけ。シアンの家族に結婚を知らせたものの返答は何もなかった。

 彼女は鮫人(レビ=イクテユース)の血を色濃く引く者で、鳥人のシアンとの間に長らく二人の愛の結晶は生まれなかった。

 彼女の懐妊が解ったのは、三月前。彼女はそのまま体調を崩してしまい、天法院を休職する。産休中、天法院からの給与は半分になってしまう。そのために、シアンはなんとしても金を稼ぎたいと言った。

 

「私は愚かだった。盲目に教えられた価値観だけを信じて君を軽んじた。君に大変不快な思いをさせた。……許してくれと、言えた義理でないことは解る。だが、謝ることは許して欲しい。本当にすまなかった!」

「……」

 自分の前で深く頭を下げるシアンを見つめて、レーキは憮然(ぶぜん)と腕を組んだ。

 今でも感情はシアンを許せないと思い、理性はもう良いではないかと考える。

 迷いに迷って、結局、レーキが出した答え、それは。

「……シアン・カーマイン。頭を上げてくれ。俺はやはり君の仕打ちを許す事は出来ない。君がどんなに謝罪してくれたとしても」

「……やはり、そう、か。本当に……申し訳ないことを……」

 シアンは後悔を隠せぬ表情で、(うつむ)いた。

「……だが、俺は君の奥方に何の遺恨もない。子を産む女性は命懸(いのちが)けだ。そんな奥方のためと君が言うなら、協力する」

「……え……?」

 驚いて顔を上げたシアンに、レーキは静かに言葉をつなげる。

「依頼を受けてくれ、シアン」

「……あ、え、……ああ! 受けさせてくれ! どんな儀式でも、必ず君を助けてみせるとも!」

 うっすらと涙ぐんでいたシアンは、学生だった頃と変わらぬ自信に満ちた笑みを浮かべた。ただその顔から、傲慢(ごうまん)(あなど)りは消えていた。

「それで、どんな儀式を行うつもりなんだ?」

「俺がやりたいのは死の王様との『謁見(えつけん)の法』だ。俺は……呪われているんだ。死の王様に」

 シアンに、『呪い』の内容と経緯をかいつまんで説明する。シアンは絶句して、両の眼を見開いた。

「それ、じゃあ、学生だった頃に君はすでに……あの頃、金を稼いでいたのは……」

「ああ、そうだ。『呪われて』いた。だから、『呪い』を解いて貰うために死の王様に謁見したくて祭壇を買うために働いていた」

「私は……君がただ自由になる金が欲しいから働いているのかと思っていた。やはり私には真実は何も見えていなかったんだな……」

 愕然(がくぜん)とシアンはつぶやく。自分が毛嫌いしていたクラスメイトは、考えていた以上に深刻な荷を負っていた。そんなこととはつゆ知らず彼を攻撃していた自分が、改めて恥ずかしい、とシアンは言った。

「……セクールス先生が俺に興味を持ってくれたのも、その『呪い』のお陰だ。俺の実力じゃない」

「……セクールス先生……先生がくれた課題は結局、学生時代に解けずじまいだったよ。『人はいかに天法士になりうるのか?』……今でも私は、どうしたら自分が天法士たりうるのかどうかと考えている」

「それが、先生の狙いなんだ。先生は俺たちに命題をくれたんだ。それは学生だった頃だけじゃない。天法士になってからもその先も、ずっと俺たちを導いてくれる」

「先生の下で学んでいた頃は、腹立たしいことも多かったが……今はあの人の元で学んで良かったと心から思えるよ」

「ああ、俺も、そう思う」

 初めて、レーキとシアンは笑いあった。

 旅の途中、宿の部屋で。シアンに手酷く拒絶されたあの日から、すでに十数年の時が流れていた。



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第88話 謁見

『天王との謁見(えつけん)の法』を行う、『(つち)の曜日』がやってきた。

 アガートとシアンの二人とは、天法院で待ち合わせている。レーキは一人で、天法院へと向かった。

 これで三度。死の王に、どんな思惑があって十年後に(まみ)えようと言ったのだろう。

 今回、『呪い』を解いて貰えれば良いが、それが叶わなかったら?

 思考は目まぐるしく働いているのに、気持ちは静かに()いでいる。

 せめて、皆が寿命まで生きられるよう死の王に掛け合ってみよう。そのために、己の命を引き換えにしても構わないとすら、レーキは思う。

 まだ子供のカァラと幼いレドのことは心配だ。だが、彼らを生かすためなら、今すぐに自分が死の王の国に連れて行かれても仕方がない。ラエティアには苦労をかけることになるが……それだけは気がかりで。

 それでも、覚悟を決めてレーキは実習室へと向かった。

 実習室では、黄色いローブを着たアガートとシアンが、すでに待っていてくれた。

「おはよーレーキ。もう祭壇は用意してあるよ」

「おはよう。昨日のうちに口訣(こうけつ)は覚えておいた。今日は出来る限りのことをさせてもらう」

「アガートも、シアンも、今日は宜しくお願いします」

 部屋の真ん中には祭壇が設えられて、準備はすっかり整っていた。

「……あのさーオレ、死の王様に聞きたいことがあるんだよね」

 突然、アガートがそんなことを言い出した。

「だからさ、オレが何を言っても止めないで欲しい」

「え? 一体何を聞くつもりなんですか?」

 レーキは驚いて、頭の後ろで腕を組んでいるアガートを見た。

「んーその時になったら解るよ」

 秘密めかしたアガートの口調に、レーキは疑問を覚えつつ、祭壇の前に(ひざまず)いて助祭二人の準備を待った。

 背後から咳払いと、「いいよ」の一言が聞こえてくる。レーキは大きく息を吸い込んで、十年ぶりの呪文を唱え始めた。

「では……始めます。『地の母、地の父、全ての生きとし生ける者を統べる定めの王、すべての死せる者を束ねる死人の王。地の母の眷属にして刈り取る者……』」

 朗々とレーキは言葉を紡ぐ。その後を助祭の二人が追いかける。

 至り来たれ、至り来たれ。

 祈り呼びかける声よ、死の王の元に。我が願いを届けておくれ。愛しい人々のよろこびを、しあわせをしかるべき時まで刈り取らないで下さいと。

「『……我が呼びかけに応えられよ。至り来たれ。死を司りし天王』」

 ゆっくりと、最後の言葉が唇から吐き出される。

 沈黙の後に、立ち上る光の渦。死の王がやってくる、前兆。広い実習室を吹き荒れる風に、レーキは思わず(ぬか)ずいた。

『……我を呼ぶは汝か、不遜(ふそん)なる者』

 死の王の姿は十年前と変わらない。年若い男の顔をして、滑らかで感情の見えない声が実習室に低く響く。

「はい。(わたくし)でございます。三度(みたび)お目通りいたします、地の父、全ての生きとし生ける者を統べる定めの王、すべての死せる者を束ねる死人の王、地の母の眷属にして刈り取る者、死の王様。私の呼びかけに応じて下さいました事、心よりの感謝を捧げ奉ります」

『汝の願いは変わらぬか?』

 死の王は抑揚のない声で問うて来る。

「はい。どうか、私が(たまわ)りましたこの『呪い』をお解き下さい。罪無き人々の命を寿命まで刈り取ることをお止めください。死の王様の慈悲を皆にお与えください。そのために私の寿命の残り全てを、死の王様に捧げ奉ります」

『要らぬ。汝の寿命など、何の役にも立たぬ』

 にべもない。レーキの覚悟をはねつけるように、死の王の声はいつにも増して平坦で色もない。

「……では、死の王様は何をお望みなのでございますか? 一体何を引き替えにお捧げいたしましたらこの『呪い』を解いていただけますのでしょうか?」

 平伏したまま、レーキは死の王に訴える。

「俺っ……私はどの様な罰を受けても構いません。たとえ八つ裂きにされても構いませんから……!!」

『……汝にその覚悟があるのなら、我にも慈悲はある。汝はまだ年若い。今はその時ではない』

 死の王は繰り返し、『今はその時で無い』と言う。では、その時とはいつなのか。

 その時がきたら、死の王は一体なにを取り上げようと言うのか。『呪い』を解いてくれるのか。レーキは身の(うち)がかっと熱くなるのを感じた。

(おそ)れながら申し上げます」

 アガートが身体を伏したまま、声を上げた。

『面を上げよ。天法士』

 死の王はアガートを一瞥した。その姿が蝋燭(ろうそく)の上の炎の様にゆらりと(かす)む。

「死の王様、偉大なる方。ご尊顔を拝する栄誉に浴します、私はアガート・アルマン。死の王様が『呪い』を賜りました、レーキの友人でございます。そして私も恐らくその『呪い』によって、寿命を刈り取られる者でございます」

 アガートは顔を上げて、真っ直ぐに死の王を仰ぎ見た。

「死の王様は彼に何度も『その時で無い』と仰いました。では今がその時でないなら、それは一体いつなのでございましょう。死の王様は何を待っておいでなのでしょう。彼はいつまで『呪い』に怯えねばならないのでしょう」

 淀みなく、アガートは死の王に訊ねる。これが、アガートが聞きたかったこと、なのか?

 死の王は沈黙したまま、答えを返さない。

『……』

「お答えいただけませんか……それでは、別の問いを。私はいつまで生きることが出来ますでしょうか?」

 アガートがレーキより先に死ぬなら。それが『呪い』なら。アガートの寿命が解ればレーキはそれより長く生きるはず。

 そのために己の寿命を知ろうとするアガートを、レーキは慌てて振り返る。

『我は寿命を告げぬ。それが死の王の(ことわり)だ』

「お許しくださいませ、存じ上げておりました。では、死の王様がその時をはっきりお告げにならないのは、レーキの寿命と関わりが有るからで御座いますか? 彼の寿命まで『呪い』を解くおつもりは無いと仰るので御座いますか?」

 またしても、死の王の沈黙。それを肯定と受け取ってアガートは顔に喜色を滲ませた。そして、水面に輝く光の様に揺らめく死の王の姿を見つめる。レーキははらはらと、アガートを盗み見た。

『……小賢しい。不遜なる者とその友よ。汝らの命が尽きるその時に再び見えよう。それまでは我を呼び出すこと(あた)わず』

 それだけ言うと、死の王の姿は煙のように掻き消えた。

 

「はあ……」

 溜め息をついたのは誰だったのか。三人の天法士は起き直り、互いに顔を見合わせた。

「これで、良かったのか? レーキ」

 シアンが、案ずるようにレーキを見る。

「……んー。良いんじゃないかな? レーキが寿命まで生きられる事は解ったし。寿命が解らないってのは、ま、他の人とおんなじさ」

 のんびりとした物言いで、アガートは言う。死の王を怒らせるのではないかと、気を揉んだレーキは、アガートをたしなめるように言った。

「でも、無茶です! 死の王様にあんな物言いを!」

「大丈夫。あの方は案外寛大なお方だよ。三回も会ってるんだもん。その位解るさ」

「三回も……こんな重圧を……」

 シアンはがっくりと肩から力を抜いた。初めて『謁見の法』を行った彼は、死の王を目前とする緊張から解き放たれて、文字通り羽を伸ばす。

「死の王、『もう呼ぶな』って言ってたな。『その時』とやらが来たら迎えに来てくれるのかな? ……ってことはこの祭壇もしばらくお役御免だねー」

「……そうですね。あの様子だと『謁見の法』を行っても来ては貰えないでしょうね」

『呪い』を解いては貰えなかった。レーキは途方に暮れて、アガートを見つめる。

「ん?」

「結局『呪い』を解いて貰えませんでした……」

「んー。そうだね。でも、オレは安心したよ。レーキは寿命まで生きられる。それがいつになるのかは解らないけど、オレは君の死に顔を見なくて済むって、これではっきりしたからねー。親しい人が先に死ぬって苦しいものだからさ。君には悪いかなって思うけど」

 呆気ないほど明るく、アガートは言う。その顔には確かに笑みが浮かべられていた。

「でも……っ……でも、貴方は寿命まで生きられないかも知れない、俺の『呪い』のせいで……!」

「ああ、気にしないで……って言っても難しいだろうけど……そもそもオレの寿命だって後どれほど残ってるか解らないしさ。明日死んでそれがオレ本来の寿命かも知れないし。だから、君がオレに対して気負うことは何にもないよ」

 事も無げに、アガートは言う。それが彼の本心からの言葉だと、レーキには解った。

「昔、学生だった頃言っただろ? 君はさ、愛しい人をたくさん作れ。世界中の人を愛する位の気持ちでいなよ。死の王が『こんなに大勢死ぬなら呪いを解かなくちゃ!』って思うくらいの数、人を愛して生きなよ」

「アガート……」

「君は人を愛することが出来る人だ。人に愛されることが出来る人だ。……人にはね、誰かを、何かを愛する権利があるんだよ。それは死の王にだって奪えないさ」

 アガートは笑っていた。それはいつものように茫洋(ぼうよう)としていて、そして、どこまでも優しい微笑みだった。

 



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第89話 クランの婚礼

 レーキとラエティアが『学究の館』に滞在している間に、クランが婚礼の式を挙げた。

 相手は八歳ほど年下の娘。それもグラーヴォの妹だった。もちろん彼女とクランも幼馴染(おさななじみ)で、子供の頃からずっとクランを想っていたらしい。花嫁の熱烈なアプローチにクランはようやく彼女を、一人の女性として見るようになったようだ。

 レーキとラエティアは婚礼に招かれて媒酌人(ばいしやくにん)をつとめた。媒酌(ばいしやく)はヴァローナの風習で、すでに夫婦となった二人が、新しく夫婦になる二人の(さかずき)に新しい水を注ぐのだ。新郎新婦はその水を飲み干して、永遠の愛を誓う。

 レーキ、オウロ、グラーヴォ。その他にも沢山の友人縁者たちに見守られ、クランは花嫁の手をとって黒竜王の(びよう)に詣でた。

 続いて行われた結婚披露の宴では、グラーヴォが馴れない酒を飲み男泣きに泣いた。結婚した妹は末っ子で、兄弟唯一の女の子だった。グラーヴォは妹を一番可愛がっていたのだ。

「妹を泣かせたりしたら、親友だからって許さないぞ……?」

 グラーヴォはすっかり酔いが回っていつにも増して(いか)つい面相で、クランの肩を叩く。

「ひ、ひい! グラーヴォ、顔が近いし怖い……!」

「……グラーヴォ、飲みすぎっスよ~」

 クランは結局、実家の跡を継いだ。この十年で、すっかり宿屋の若主人ぶりが板に付いて来ている。

 オウロは五年前に独立し、念願の自分の店を持った。今日花嫁が身に付けている宝飾品の全ては、オウロの見立てによるものだ。

 グラーヴォは六年ほど前には上級騎士の娘と結婚し、騎士団で順調に出世している。なかなか忙しいらしく、こんな祝い事でもない限り帰郷する事もない。

 三人の幼馴染みとレーキ、四人が揃うのも実に十年以上ぶりで。お互いに、話せども話せども話題は尽きない。いつまでもこんな風に語り合っていたいような、名残惜しい夜も更けて。新郎新婦は席を辞し、さめざめと鼻をすする新婦の兄とその友人たちは、珍しく朝まで飲み明かした。

 

『学究祭』の次の日まで、レーキとラエティアは『学究の館』に滞在した。

 レーキ一家とネリネたち、二つの家族は共に『祭』を堪能して、一緒にレーキが腕によりをかけて作った料理を味わった。

「……んー。腕は落ちてねぇな。相変わらず美味い。あんたの作るモンは」

 二人の息子に囲まれたウィルは昔通りの色男であったが、その雰囲気は少しばかり柔和になったような気がした。

 息子たちは、食事の間ずっと父親から離れない。競い合うように「父ちゃん、父ちゃん!」と叫びながら、ウィルを見上げて話し続けている。

 その様子をネリネは満足げに見つめて、微笑んでいた。

「あーあ。明日からこの美味しいお料理、食べられなくなっちゃうのね……」

 デザートのマッサ(リンゴ)のパイを一囓(ひとかじ)りして、ネリネはしょんぼりと(つぶや)いた。

「カァラちゃんは明日から寮生活か。レーキたちも明日帰るって言うし……寂しくなるわ」

「無事に天法院に合格したら、私、ときどきここに遊びに来ても良い? ネリネさん」

 カァラもパイをかじりながら、ネリネに問いかける。

「もちろん! いつでも大歓迎! 勉強とか色々疲れたら、ネリネさんが優しく癒やしてあ・げ・る」

「『隙を見てこき使う』の間違いだろぉー?」

「うっさい。あたしがこき使うのは良い歳の大人だけだから」

 ネリネとウィルの関係は十年の月日を経ても、大きくは変わらなかったようで。レーキはそのことになぜだか安堵する。

「次にこの国に来るとしたら……三年後、カァラの卒業式だな」

「その時も家に泊まりなさいよ。カァラちゃんのお祝いして上げたいし」

「もう。父さんもネリネさんも気が早いよ!」

 当人をそっちのけで話を進める大人たちに、カァラは苦笑する。

「でも、カァラちゃんならきっと天法士さまになれるって、わたし、そう思うよ」

「母さん……」

 不思議と自信に満ちて、ラエティアは言う。

「カァラちゃんはあんなに一生懸命、勉強していたんだもの。天法士さまになるための勉強だってきっと大丈夫!」

「……うん。私、頑張るね! 父さんも母さんもネリネさんも信じてくれるんだもの!」

「……おい」

 奮起(ふんき)するカァラを見つめていたウィルが、息子たちを抱き寄せて不意に呟いた。

「……お嬢ちゃん。あんまり気負いすぎない方がいいぜ。たとえ何者にも成れなかったとしても、失敗したとしても、お前はお前と言うだけで……そこに生きているってだけで十分に『素晴らしい』コトなんだからよぉ」

 一度は家族の期待に応えて騎士団に入り、現実の壁にぶち当たったウィルには思う所が有るのだろう。

 ウィルの静かな言葉に、カァラはパッと顔色を輝かせた。

「うん! ありがとう、ウィルさん! なんだか、すごく気が楽になった」

 カァラは彼女なりに、期待を重圧に感じていたのだろう。いま、明るく笑う娘を見て、レーキは己を(かえり)みる。

「すまない、カァラ。……そうだな。たとえお前が天法士にならなくても、お前が俺のかわいい娘であることは変わらない」

「わたしも、だよ。ごめんね、カァラちゃん……どこにいても、なにをしていても、カァラちゃんはわたしたちの愛しい娘、だよ」

「……父さん、母さん……うん! 二人とも、ありがとう! 私も二人のこと、大好きだから!」

 カァラは、レーキとラエティアに抱きついてくる。妻と娘を優しく抱きしめて、レーキは思う。

 まだ死にたくない。せめてこの子が独り立ちするまでは、と。

「……さあ、飯食ったら出かけようぜ。天法院の『打ち上げ』見物に行くんだろ?」

「ああ。そうだな」

 ウィルに(うなが)されて、二つの家族は天法院へと向かう。

 一番小さなウェントゥスをウィルが肩車して、兄のウェスタリアをネリネが背負う。レーキはラエティアと手をつなぎ、カァラは母と手をつないだ。

 心地良い晩秋の夜。風はなく、大気は澄んで、絶好の『打ち上げ』日よりだ。

 十年ぶりの『打ち上げ』はどのようなものだろうか。レーキは期待しながら空を見上げた。

 

 

 年が明けて、カァラはつつがなく天法院に入学した。入学試験では驚くほど良い成績を残して、特待生となることも出来た。

 レーキとラエティアはアスールに戻り、小さなレドと再会した。

 日々の生活は飛ぶように過ぎていく。春がきて花が咲き、今年も種まきの季節がきて、麦刈りの時期になって。忙しく働く合間に、ラエティアはカァラから来る手紙を、毎日今か今かと待っている。

 一年が過ぎ、カァラが『黒の教室』に進んだことを知らせてくる。

 二年が過ぎ、三年が過ぎる頃。もう幾度目かも解らないほど送られてきた手紙で、カァラの卒業が決定しそうだと、レーキとラエティアは知った。

 娘の晴れ姿を見るために、八歳になるレドを連れてレーキ一家はヴァローナに向かう。

 乗合馬車を使って急げば、三週間ほどで『学究の館』にたどり着くことが出来る。カァラの卒業式には間に合う計算だ。

 卒業式の二日前、レーキ一家は『学究の館』に到着した。レドを一旦ネリネの家に預けて、レーキとラエティアは天法院に向かう。

「……父さん! 母さん! 来てくれたのね!」

 三年ぶりのカァラは少しだけ大人びて見えた。彼女は学生の色、黒のローブに身を包みレーキたちを出迎えてくれた。

「……ああ。どうにか間に合った。卒業試験、どうだった?」

「うん! ばっちりだよ! 明後日、卒業出来る!」

 カァラは、満面の笑みを浮かべて大きく頷いた。



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第90話 カァラの旅立ち

 食堂の端、設えられた壇上の天幕から出てきたカァラは、黒く輝く五つの王珠を(たずさ)えていた。

 呆然とした様子で辺りを見回し、家族の姿を見つけるとようやく顔を(ほころ)ばせる。

 今年の五ツ組(いつくみ)は、カァラだけ。カァラが最後の生徒だ。彼女はそのまま卒業生総代として、生徒とその保護者たちの前で挨拶をした。

「まずは父と母に感謝を捧げます。孤児だった私を温かく受け入れ、ここまで育ててくれた父と母にはどんなに感謝してもし足りません。ありがとう、父さん、母さん! それから、私のために色々な我慢をしてくれた小さな弟にも感謝を!」

 カァラはレドの姿を見つけて、小さく手を振った。レドは、姉の晴れ姿を驚いたようにじっと見つめている。

「もちろん、院長代理と先生方にも感謝を。『黒の教室』を受け持って下さった、アガート先生には感謝と共に大きなよろこびを捧げます」

「ありがとー!」

 カァラの言葉に応えて、アガートはおどけて声を上げた。その様子をカァラは苦笑気味に見やって先を続ける。

「一緒に切磋琢磨(せつさたくま)したクラスメイトのみんなにも感謝とおめでとうを。私たちの学生生活を支えて下さった職員の皆さんにも感謝を。中でもいつも美味しいご飯を作って下さった食堂の皆さんには、特別な感謝を捧げます」

 壇上で、カァラが深々と一礼する。食堂に拍手と笑いが起こった。食堂の職員たちはみな、カァラのために手を叩いてくれていた。

 カァラの食いしん坊は、天法院でも変わらなかったのだろう。彼女はよく食堂に入り浸っていたようだ。

「先ほど申し上げた通り、私は孤児でした。グラナートの港町で実母を亡くして、その日、その日をどうにか生きていました。グラナートでは忌み色である黒い羽の鳥人の私は、町の人たちから(うと)まれていました。食うや食わずの生活を続けて、そのままではいつか野垂れ死ぬか、犯罪やいかがわしい商売に手を染めても生き延びるか、私に選べる道はとても少なかった。そんな時、父が私を拾ってくれました。私に選択肢をくれました。私と同じ黒い羽の鳥人である父は優しい人で、お料理が得意で、とても働き者でした。そんな父と結婚した母はやっぱり優しい人で、パン作りが得意で、お裁縫も上手でした。私は父や母と暮らすうちに、沢山のことを教えて貰いました。暮らしに必要な知識、学問、生きていくための技術……そのどれもが私には宝物です。でも、私はそれだけでは物足りないと、いつしか父と同じ職業に就きたいと思うようになりました。父は、父の本職は、天法士です。この学院で学び、五ツ組の王珠を授かった天法士です」

 誇らしげに、まっすぐ前を見てカァラは告げる。レーキの胸に温かいモノがこみ上げてくる。目頭が熱くなって、泣き出しそうになるのを彼は必死でこらえた。

「私が父と同じくらい優しくて偉大な天法士になれるかどうか、まだ解りませんが……今日、私はこうやってこの場に立つことが出来ました。今日は卒業式でありますが、同時に天法士としての始まりの日でもあります。研鑽(けんさん)を重ね、少しでも父に近づけるよう、私はこれからも日々努力していきたいと思います。皆さま、これからも、まだまだ未熟な私たちを見守り導いてください。よろしくお願いいたします。これを持って、卒業生総代挨拶とさせていただきます。皆さま、ご静聴有り難うございました!」

 カァラが壇上で深々と礼をする。それを合図に、会場は参加者たちの拍手でいっぱいに包まれた。鳴り止まぬ拍手のなか、壇上から降りたカァラは小走りに家族の元に駆け寄ってくる。

「父さん! 母さん! 五ツ組、五ツ組だよ!」

「ああ! よくやったな、カァラ!」

「カァラちゃん、よく頑張ったね! すごい、すごいよ!!」

「ねえちゃん! おめでと、おめでと!」

 家族が抱き合ってカァラを祝福する。カァラは眼の縁に涙を溜めて、五ツ組の王珠をレーキに見せた。

 それは確かに五つ。カァラの手のひらで黒く美しく輝いていた。

 

「ねえ、父さん。後で話したいことがあるの」

 食堂の前で下級生たちから伝統になっている『光球』の祝いを受けて、カァラは一度寮へ戻った。

 夕刻に家族水入らずの食事をしようと『(うみ)燕亭(つばめてい)』へ向かう途中、カァラは声を潜めてレーキに聞いた。

「ん? なんだ?」

「後で母さんにも相談するけど、まずは父さんに相談したいの」

「解った。食事の後で話そう」

「うん。ありがと」

 久々に訪れた『海の燕亭』には看板娘が増えていた。すでに老年の域にさしかかりつつある亭主と年下の妻の娘が、店で働くようになったのだ。娘の年の頃はレドより少し大きいだろうか。母親に良く似た元気の良い娘が、注文をとりにやってきた。

「いらっしゃいませー! ご注文は?」

「魚介のバター焼きと……今日のおすすめは?」

「えーと、マレバス(スズキ)とカブのスープ! 今日は良いマレバスを仕入れたんだって」

「ではそれも貰おう。ティアは食べたいモノは?」

「わたしはヴァローナの白パンが食べたいな」

「カァラとレドは?」

「私は何か辛いモノが食べたい」

「おれはお肉食べたい」

「えーと、えーと……」

「それなら、甘辛いタレで炒めた鶏肉があるよ! フィルフィル(トウガラシ)の粉をかけたら辛くもなるし」

 ジョッキを下げて厨房に戻る途中だった、母親の方の看板娘が一言声をかけてくる。困り顔で頭を抱えていた看板娘は、ぱっと表情を明るくした。

「うん。そんなのもあるよ!」

「じゃあ、それも一つね! やったね、レドくん。お姉ちゃんと一緒に食べよ?」

「うん!」

 カァラとレドは笑い合い、看板娘たちは厨房に戻って行った。厨房から、すぐに美味そうな匂いが漂ってくる。

 レーキ一家はその夜、大いに食べて、飲んだ。カァラは初めて酒を(たしな)み、「お酒って結構美味しいね」と、顔色を明るくした。

 

 滞在先のネリネの家に戻って、酔いの()めたカァラはレーキと二人きりになると姿勢を正した。ラエティアはレドと一緒にネリネと話をしている。カァラの相談とはいったい何なのだろう? レーキは身構えた。

「……あのね、父さん。私、寮を引き払ったら、アスールの村に帰らないでそのまま旅に出ようと思うの」

「カァラ……」

 突然の娘の申し出に、レーキは戸惑う。カァラは慌てて言葉を続けた。

「あ、あの、誤解しないでね! 父さんや母さんやレドくんと暮らすのがイヤになったとかじゃないの。逆なの。みんなと暮らすってコトが快適すぎるの! 三年間、寮で暮らしてみてね、私ずっと父さんたちに甘えてたんだなって、解った。だから、もっと広い世界を見なきゃ、自分一人で何が出来るのか知らなくちゃって思ったの」

 カァラは真っすぐに未来を見つめている。天法院では見つからなかった、自分の行くべき道を探し始めている。

「手始めにズィルバーさんのいる、ニクスにいってみるつもり。ニクスは雪の国だけど、これからの季節なら雪も溶けていくでしょ? そのための旅費も、もう貯めてある」

 まだまだ幼いと思っていた娘は、巣立つための準備を進めていた。カァラの黒い(ひとみ)に迷いはない。レーキはただ黙って彼女の決断を見守るしかない。

「……カァラ、お前がそう決めたのなら、俺に出来ることはお前の無事を祈ることと、お前が助けを必要としたときに手をさしのべられるように準備することだけだ」

「うん。父さんなら反対しないって私、解ってた」

 カァラは父に飛びついて、礼を言う代わりに抱きしめた。レーキはそっと、すっかり大人になってしまった娘の背を叩いて言った。

「それでも、俺も寂しくない訳じゃないんだ。ニクスに行くならアスールを通るだろう? せめて途中まで俺たちと一緒に行かないか?」

「……うん。ありがと。そうさせて貰うね。三年ぶりに家族が揃うんだもん……私もホントは寂しい。ずっと四人で一緒にいたいって思うこともある。でも、旅に出たいって気持ちも止められない。ごめんね、父さん」

「カァラが謝ることはなにもない。子供はいつか親の手を離れて行ってしまうものだ」

 いつかこんな日が来るのではないかと予感していた。カァラやレドが独り立ちする日。それが、こんなに早くやって来てしまうとは。

「……ありがとう。父さん。私を拾ってくれて。ずっと育ててくれて。私に家族をくれて。私、父さんの娘になって、ずっとしあわせだった」

「これからもずっと、お前は俺の娘だ。お前が旅に出ても、誰かと新しい家族になったとしても」

「うん! うん……ありがとう。私たちは『なかま』で家族。ずっとずっと……!」

 顔を上げたカァラは、泣きながら笑っていた。レーキは、そんな娘の頬を伝う涙をそっと(ぬぐ)った。



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第91話 弟子達

 カァラが天法院を卒業して、五年の月日が流れた。

 あちこちを旅して回るカァラは、時々アスールのレーキの家に戻って来た。その時その時に様々な土産や土産話を(たずさ)えて。

 ニクスでズィルバーに会って義肢(ぎし)法具(ほうぐ)の基本を学び、ネリネに付いてヴァローナの全土をふらふらと巡り、グラナートにも足をのばしていたようで。帰ってくる度に彼女はたくましく、頼もしくなっていく。

 五年目の夏にカァラが持ってきた土産は、十歳になったばかりのイロンデルと言う獣人の少年だった。

 ラエティアたちアルガントの一家よりずっと獣の特徴の濃いイロンデル少年は、身体中を茶色い毛で覆われ、ピンと尖った耳と犬類のように長い鼻づらを持っていた。

 ふて腐れたように眼を伏せる少年は、カァラの陰に隠れてレーキの家に入って来た。

「あのね、父さん。この子を父さんの弟子にして欲しいの」

 喉を潤すようにと、ラエティアが用意した冷たいハーブ茶を飲み干して、カァラは突然そう言った。

「カァラ先生……!」

 イロンデルは、狼狽(うろた)えたようにカァラを見上げた。見開かれた水色の(ひとみ)が揺れている。イロンデルも、何も聞かされていなかったのだろう。レーキは苦笑する。

「カァラ、彼も困っているぞ。最初から説明してくれ」

「あ、ごめん。私ね、アスールの王都で頼まれて子供たちに読み書きを教えてたの。イロンデルくんはその生徒の一人でね、孤児なの」

「……」

 自分の話題を出された少年は、浮かない顔で机の上のカップを見つめていた。

 レーキがイロンデルに視線を向けると、それを避けるように、少年は眼を()らす。

「読み書きが出来ないと何かと大変でしょう? だから彼は一生懸命私の授業を受けてくれた。今では共通語(コモン)は問題なく読み書きできるようになったよ」

「ふむ」

「それでね、彼の将来の夢は天法士になることなんだって。私はまだ旅を続けるつもりだから腰を据えて天法の手解きは出来ない。それで、父さんなら良いお師匠さまになってくれるんじゃないかって」

「なるほど。事情は解った。だがそんな大事なことを、何の知らせも無しに決めるんじゃない」

「それについては、ごめんなさい。父さん」

 謝ってはいるが、反省の色は見えないカァラに苦笑しながら、ラエティアは少年にハーブ茶を勧める。

「それで、イロンデルくん、はカァラちゃんになんて言われてここに来たの?」

「……『天法士になりたいなら、私と一緒に来て』って……オレ、先生が天法を教えてくれるんだと思ってた……」

「ごめんね、イロンデルくん。でも父さんは私のお師匠さまだから。父さんに教われば、君もきっと天法士になれるよ」

「……」

 イロンデルは口を真っすぐに閉じて、押し黙る。憧れの職業に()いている先生を信頼してついて来たと言うのに、急に突き放されたように感じて彼も戸惑っているのだろう。

 レーキは背を丸めて身を屈め、少年の眼をじっと見つめた。

「君は天法士になりたいのか?」

 レーキの隻眼から眼を逸らしながら、それでもイロンデルは小さく頷いた。

「もう、王珠は持たせたのか?」

「うん。綺麗な水色に光ったよ。素質は十分だと思う」

 カァラは、はっきりと請け負った。彼女がそう言うなら、イロンデルには才能があるのだろう。後は彼の意思次第だ。

「……君がもし、俺を信用してくれるなら、俺は君に教えられるだけのことを教えよう。君が十五になるまで。それから天法院に送り出そう。君が、君だけの王珠を得られるように」

「……オレ、正直、解らないんです。あなたを信用していいのか。先生のお父さん。まだあなたの名前も知らない、から」

 おずおずと、イロンデルはレーキを見る。希望と好奇心と警戒が入り混じった、その眸。

 きっと初めてマーロン師匠に天法士になれると言われたときの自分も、そんな眼をしていた。レーキは静かに微笑んで、頷いた。

「ああ、すまない。君は賢い子だな。俺はレーキ。レーキ・ヴァーミリオン。カァラの父親で、君と同じ孤児だった」

 

 イロンデルがレーキの家での暮らしに馴れた頃、カァラはまた旅立って行った。

 十五歳になるまでの五年間、イロンデルはレーキに付いて天法や様々な学問を修めて行った。

 暮らしに馴れてみれば彼は熱心な生徒で、レーキが教えたコトを繰り返し復習して真面目に課題に取り組んだ。

 イロンデルはカァラのように才気煥発(さいきかんぱつ)(たち)ではなかったが、着実に地道に実力を着けて行く。彼は、少し年上だが学問は苦手なレドといつの間にか良い友になっていた。

 その間に、カァラは新しい弟子とその妹の二人を連れて帰ってきた。今度の弟子は九歳の人間の少女で、妹共々やはり孤児だと言う。

「どうしても姉妹が離れ離れになるのはイヤなんだって。それなら二人一緒にって」

 今度はカァラも、手紙で(うかが)いをたてて来ていた。

 新しい弟子も素質は十分だと言うし、生活費はカァラが用意すると言うので断る理由が見つからない。レーキたちが受け入れると返事の手紙を書くと、カァラは姉妹を(ともな)って帰ってきた。

 カァラは姉妹を残して、また旅に出た。彼女たちは初めのうちこそ二人だけで会話をしていたが、次第に「女の子が増えてうれしいわ!」とよろこぶラエティアに懐いていった。

 弟子が増え家が手狭になってきた。レーキはイロンデルと姉妹のために離れを建てた。

 姉妹がやってきてすぐに、小さかったレドが十五歳の誕生日を迎える。レドは近頃レーキより背も高くなり、畑仕事を手伝う内にがっしりとした体つきになってきた。

 鳥人と獣人の混血であるが故に空を飛ぶことは苦手だったが、羽も十分に大きくなった。そろそろ将来を見据えて、何かしらの道を選ぶ時期だ。彼は読み書きはどうにか出来るようになったが、やはり学問は好まないようだった。

 レドは姉のように、天法士になる道を選ばなかった。

「おれ、父さんや姉ちゃんみたいに頭良くないからさ。天法士さまになるのは無理だと思う。だけど、料理作るのはスゴく好きなんだ。だから、将来は料理人になりたい」

 レドはにこにこと笑ってそう言った。

「そうか」

 レーキはそれをよろこんだ。いつでも楽しそうに料理をするレドは、確かに料理人に向いていると思った。

 子供たちは次第に大きくなっていく。イロンデルが天法院に向かい、レドは料理人修業のために近くの町の食堂に住み込みで働くようになった。

 姉妹の姉が天法院に行っている間に、カァラが新しい弟子をつれて久々に戻った。今度の弟子は十歳の鳥人の少年で、彼は真っ白な羽をその背に負っていた。

 

 月日は飛ぶように過ぎる。

 レーキは五十一歳になっていた。死の王の訪問はまだ無い。

 十年が過ぎ、十五年が過ぎ、カァラが連れてきた弟子たちは十人を超えた。

 その間に、カァラは旅の空で出会った人間の青年と結婚した。

 ラエティアは張り切って、カァラのために婚礼衣装を縫い上げる。

 カァラの夫になったルーと言う青年は、妻より少し年下で、黒い髪に銀色の眼を持っていた。レーキの家に挨拶にやってきたルーは、家の戸口で何かにつまずいて、かけていた眼鏡にヒビを作った。彼は誠実そうで純朴な青年で、四ツ組の天法士だった。

「天法士としては一流だし、私のやりたいことを手伝ってくれるし、良い人だよ。ちょっとアガート先生に似てるし。そこも気に入った」

 カァラは笑ってこっそり教えてくれた。

「お前のやりたいことって何なんだ?」

「うん? 私のやりたいことはね、両親がいない子供が夢を叶えるお手伝いをする事。手始めにアスールの王都に孤児院を作ったの。ルーはそこを手伝ってくれてる」

 レーキがカァラの夢を手助けしたように。カァラは、大勢の孤児たちの夢を支えようとしている。カァラは、自分がするべきことを見つけた。その道を歩いて行くことを選んだ。それがレーキにはとても誇らしかった。

「そうか……ところでお前、アガート先生のこと、好きだったのか?」

「ああ、うん。同じクラスの女の子たちみんなに人気有ったよ、アガート先生。よく見ると顔も良かったし」

「そうか……」

 恋だの何だのというよりは、青春時代の淡い憧れと言ったところか。

 その、当のアガートは結婚をする気配もなく、とうとう出世の階段を登りつめていた。年齢を理由に院長代理を退いたセクールスが、後任にと指名したのがアガートだったのだ。



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第92話 冬の旅人

 レドが勤め先の食堂の一人娘と結婚したいと言いだしたのは、レーキが五十二歳、レドが二十六歳の年だった。

 一人娘はレドより少し若い二十三歳。ローリエと言う名のその娘は、わずかに獣人の血を引く人間の娘で、レドと並ぶと確かに似合いの二人だった。

 いずれはレドに食堂を継いで貰いたいと、ローリエの父親はレーキに言った。

 レドは腕の確かな料理人に成長していた。一時期はアスールの王都に修行に出ていたが、今は隣町の食堂に勤めている。

 レーキとラエティアに、反対する理由はなかった。

 木洩(こも)れ日が美しい初夏の午後、ローリエはラエティアが譲った婚礼衣装を着て華燭(かしよく)(てん)を挙げた。ローリエは、手直しすることなくラエティアの婚礼衣装を着られたのだ。

 二人の子供たちが結婚して家を出ても、レーキの家には弟子たちが入れ替わり立ち替わりやって来た。

 素直な子、手の掛かる子、内気な子、元気が取り柄の子。どの弟子たちもみな個性豊かで、レーキとラエティアは感傷に浸る(いとま)もない。

 レドがローリエと結婚した翌年。二人の間に長男のリエールが生まれた。

 その後を追うようにカァラとルーの間にも女の子の孫、ノワールが生まれる。

「レーキもとうとうお祖父(じい)ちゃんね! わたしもお祖母(ばあ)ちゃんだけど!」

 ラエティアはそう言って明るく笑った。

 レド以来、久々に見る赤ん坊は小さくてふにゃふにゃと柔らかくて。

 恐る恐る孫たちを抱いたレーキは、こみ上げてくる愛しさとこの子たちを絶対に守らねばならないと言う決意にあふれた。

 巣立って行った弟子たち、今手元にいる弟子たち、そしてカァラとレドの家族。レーキの家族は随分と数が増えた。『山の村』で独り生きることで必死だった頃には、思いも寄らなかった現在(いま)

『家族』とは、自分を殴りつける者でも、搾取(さくしゆ)する者でもない。誰一人として欠けて欲しくない大切な者たちだった。

 

 時は行き、過ぎる。

 まだ、死の王の訪問は無い。

 レーキが六十二歳になった冬。その冬は秋からやけに風が強くて、森の木々は早々に葉を落とした。初雪がちらつくのも早かった。寒く長い冬になるだろうと、経験からレーキはそう思う。

 今年は薪を多く用意しておいた方が良いだろう。弟子たちに手伝わせて、レーキは秋から暇を見つけては薪を作った。

 近頃は、薪割りをするだけで関節が恨みがましい(きし)み声を上げる。書物を読もうと思っても、目が(かす)んで思うように文字を追えない。

 レーキはいつしか、自分が確実に老いていることに気づいた。ラエティアも、歩く速度や話す速度が、若かった頃と比べれば随分ゆっくりになった。

 老いることは構わない。人は誰もが老いて行くのだから。だが、気がかりは死の王の『呪い』。誰かの訃報が届く度、レーキは身が縮む思いがする。

 自分より年上の恩人たちは、仕方がないと思える。先に生まれた者が先に死ぬ。それは自然な摂理だからだ。

 さいわいなことに家族も友人たちも、欠けた者はほとんどいない。みなそれぞれの国で、街で、日々の生活をおくっている。

 一体いつまで、弟子たちを預かれるだろう。と、近頃レーキは考える。自分に残された時間はどれほど有るのだろう、と。

 今、レーキの手元にいる弟子は二人。どちらも十二歳の少年で、一人は人間、一人は獣人だった。そこに、年が明けたらカァラの一人娘ノワールが加わって三人になる。

 来年十歳になるノワールは、母の羽を受け継いで、夜の闇よりも暗い黒色の羽をもって生まれてきた。母に似て好奇心旺盛(おうせい)な賢い子だ。彼女も良い天法士になれるだろう。

 いや、天法士になれずとも良いのだ。ノワールと共に暮らし、彼女に自分の知識と経験の一端を与えることが出来れば。それだけでレーキは満足だった。

 レーキはノワールがこの森の村にやってくる日を、心待ちにしていた。

 

 森の村に本格的な冬がやってきた。

 近頃、ラエティアの体調が優れない。彼女は軽い風邪をこじらせて、そのままベッドにいることが多くなった。

 その事をカァラへの手紙にしたためると、カァラは予定を前倒しして、ノワールを連れて森の村へやってきた。

 冬には珍しい、うららかで暖かな日の昼下がり。レーキの家に向かうなだらかな坂道を、ふたつのシルエットが登ってくる。

 ベッドの上で窓の外を眺めていたラエティアが、「まあ!」と久々に明るい声を出した。

「あの子たちよ、レーキ。あの子たちが来てくれたの!」

「ああ。そうだ、ティア。カァラとノワールだ」

 ベッド横の椅子に腰掛けていたレーキは、二人を出迎えるために立ち上がった。

「お祖父さま!」

 戸口で娘と孫を出迎えたレーキに、ノワールはうれしそうに飛びついた。

随分(ずいぶん)大きくなったなあ、ノワール。見違えたぞ」

「わたし、もうすぐ十歳です、お祖父さま!」

「そんなに大きくなったのか! お前ももう立派なレディだなあ」

 こうして、ノワールに会うのは二年ぶりか。レーキは目尻を下げて、得意げに胸を張る小さな孫の頭を撫でた。

 娘と孫は温かそうな冬の装いだが、いつまでも屋外にいさせる訳にいかない。

「カァラもノワールも。さあ、早く中に入りなさい。部屋の中は暖かい」

「ありがとう、父さん。途中でね、レドくんのお店に寄ったの。それで肉入りシチューを分けて貰ったから温め直してみんなで食べよう!」

「そいつはありがたい。昨日焼いたパンと野菜スープもあるし、アラルガントのお義母さんにいただいたチーズとウバ(ブドウ)果実酒(ワイン)もあるぞ。弟子たちも呼んで飯にしよう」

 ラエティアの父親であるシャモア氏は、五年ほど前に亡くなった。八十の年を目の前にして、眠ったまま二度と目覚めなかった。

 夫と父親を失ったアラルガントの人々は失意に沈み、ラエティアも悲しみに耐えられぬようによく泣いていた。

 シャモア氏の妻である、ラセット夫人は今でも健在で、末息子のラグエス夫婦と一緒に暮らしている。

「うん。でも、その前に、母さんに会いたい。母さんの具合はどうなの?」

 カァラは分厚い冬用のコートを脱ぎながら、気遣わしげにレーキを見つめた。

「……手紙に書いた通りだ。悪くはないが良くなってもいない」

「そう……父さんは? 体調はどう?」

「絶好調とは言い難いがな、どうにか生き延びている」

 静かに、レーキは告げる。その様子が痛々しいのか、カァラは眉を曇らせて眼を伏せた。

「父さん、あのね。私しばらく、ここにいて良い?」

「ああ、構わない。部屋は空きがあるからな。……さあ、母さんが起きている内に顔を見せてやってくれ」

 カァラは「うん」と頷いて、ノワールと共にラエティアがいる寝室に入っていった。

 

 カァラとノワールがやって来たことで、ラエティアは大層よろこんだ。久々にベッドから起き上がり、みなで同じ食卓を囲んで夕食を食べた。

「ノワールちゃんは、本当にカァラちゃんが子供だった頃にそっくりね!」

 確かにノワールは、髪の色も羽の色も母親に良く似ていた。ただ(ひとみ)だけは父親であるルーに似て、銀にも青にも見える。

 ラエティアが懐かしい昔話を始める。レーキは何度も頷いて、カァラの逸話を弟子に披露する。当人のカァラだけが「もう、やめてよー!」と恥ずかしげに顔を手で覆った。

 翌日から、ノワールはレーキの弟子の一人になった。年下とはいえ同年代の女の子がいることで、先輩である二人の弟子たちは一層張り切って授業を受けるようになった。

 レーキは苦笑するが、カァラは朗らかに「あら、ノワールはかわいいもの。当然」と笑った。

 静かだったレーキの家は、春の花が咲いたように賑やかになった。ラエティアも、日ごとに元気を取り戻して行っているようで。レーキは安堵する。

 

 カァラとノワールがレーキの家にやって来てから、一ヶ月。

 その日はひどく寒くて、レーキは朝から体調がすぐれなかった。

 灰色の雲から絶え間なく雪がこぼれ落ち、森を白銀が覆い尽くす。雪は夜の間に降り積もり、それでもしんしんと止む気配はない。

 昼も間近だというのに。垂れ込めた雲は低く、辺りは薄暗く、全ての音が雪に食い尽くされているように。家の外は静寂に満たされている。

 そんな雪空の下、雪をかき分けて森の道を一人の旅人がやってくる。

 旅人はレーキの家の明かりを見つけると、安堵で白い息を吐いた。

 



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第93話 最後の『謁見』

「レーキ師匠。お久しぶりです。お元気でしたか?」

 レーキの家にやって来た旅人は、家に入る前に雪まみれの外套(がいとう)とつば広帽を脱いだ。

 がっしりとした体つきの旅人は、レーキより背が高い。その背を縮めるように丸めて、丁寧に頭を下げる。

 旅人は、レーキが初めてカァラから預かった弟子、獣人のイロンデルだった。

 彼はレーキの元で学びを得、天法院を卒業して、四ツ組(よつくみ)の天法士となった。

 近頃は、カァラの孤児院を手伝っていると聞いている。カァラの使いで、アスールの王都からレーキの家にやって来ることも何度かあった。

「ああ。なんとかやっている。どうした? その、君は……イ、イ……イロンデル。今日はどんな用だ?」

 こんな悪天候を押してまでやってきたのだ。何か重要な用件なのだろう。

 レーキはイロンデルに、(かまど)のそばの一番暖かな椅子をすすめた。

 イロンデルはその椅子に座ると、ああと呻くようなため息をついた。彼の四肢は、雪によってひどく冷たくなっていた。

「師匠がお元気そうでなによりです。あの、今日はですね……」

「あら、イロンデル君、どうしたの、こんな天気の日に……?」

「イロさん!」

「カァラ先生! ノワールちゃんも……あの、先生、聞いて下さい」

 隣室からカァラとノワールが何事かと顔を出した。ノワールは見知った顔に出会えてうれしいのか、イロンデルに駆け寄った。

「良い知らせ? 悪い知らせ?」

 カァラは、イロンデルに乾いた膝掛けを渡しながら聞いた。

「悪い知らせです。近頃、ニクスとヴァローナでおかしな病が流行っているのをご存知ですか?」

「ううん。知らない。どんな病なの?」

「初めは風邪の様な症状なんです。それが悪化すると患者は眠り込むようになって……目が覚めれば助かることもあるようですが、眠ったまま衰弱して亡くなる例も多いようなんです。それで『死の眠り病』なんて呼ばれてます」

「それが、君がここに来たことと何か関係が有るのか?」

 温かなハーブ茶を()れながら、レーキはイロンデルを振り返った。

「はい、師匠。とうとうアスールの王都でも、その病の患者が出始めたんです。孤児院の関係者にも何人か。それでカァラ先生に報告と今後の方針をうかがうためにオレが来ました」

「そう……報せてくれてありがとう。まずは父さんが淹れてくれたハーブ茶を飲んで温まって。それから、これからのことを考えましょう」

 優しい母であり娘のそれだったカァラの顔が、導く者、束ねる者の厳しい側面を見せる。レーキも自然と姿勢を正した。

「……ねえ、イロさん。父さまは? ルー父さまは病気、大丈夫なの?」

「ああ、オレが王都を出たときにはルーさんは元気だった。大丈夫だよ」

 恐る恐る父の安否を訊ねるノワールの頭を、イロンデルはそっと優しく撫でた。

「……あらあら。お客様?」

 騒がしくなった気配につられて、ラエティアが居間にやってきた。ラエティアはカァラたちがやって来てからすっかり元気を取り戻したようで、今も寝室で編み物をしていた。

「ティア、イロンデルだ。カァラに用が有って来たんだ」

「まあ。こんな雪の日に、大変だったね。風邪引かないように、よく暖まってね?」

 ラエティアは、最近細くなってきた眼をますます細めて優しく微笑んだ。

「もうすぐお昼でしょう? みんながイロンデルくんとお話している間に、わたしがご飯作ろうかな?」

「大丈夫。俺が作るよ。ティアは温かい所でゆっくりしていなさい。病み上がりなんだから」

「もう、レーキは心配性なんだから。体は何ともないのに。じゃあわたし、お手伝いするね。二人でやれば、すぐ、に……」

 ふらり、とラエティアがよろめいた。戸口にすがりつき、どうにか転倒をまぬがれる。

 レーキは慌てて妻の傍らに駆け寄って、その身体を支えた。

「どうした? 大丈夫か? ティア」

「ごめん、レーキ……急に、なんだか、とっても眠たくて……眼を開けて……いられない、の……」

「ティア?!」

 ラエティアは、夫の腕に身を預けるようにして目をつぶる。その唇から小さな寝息がくうくうと()れ出した。

「ティア! ティア!!」

 レーキが叫び声を上げて揺すっても、ラエティアは一向に目覚める気配がない。

 居間にいた人々の顔に緊張がよぎる。カァラは唇を噛みしめて、ゆっくりと母に近寄った。

「母さん、母さん……! 目を開けて? 母さん!」

 ラエティアの手を取って、カァラは何度も母を呼ぶ。それでもラエティアは穏やかな寝息を崩さない。

 とすん。とカァラの背後で音がする。レーキとカァラが振り返ると、居間にいたノワールが尻餅(しりもち)をついて、ぼんやりと宙を見つめていた。

「……ノワール? どうしたの?」

「母さま……? わたしも、とっても、眠たい……」

 ノワールは眼をこすり、そのまま床に突っ伏して眠りだした。カァラの顔色が、みるみるうちに蒼白になっていく。

 為す術がないとはこのことだ。レーキの愛しい者たちが次々に倒れていく。レーキは自分の顔から、血の気が失せていくのを感じる。微かに眩暈(めまい)。くらりと倒れそうになる身体を鼓舞してレーキはラエティアを抱き上げた。

「カァラ……お前は、大丈夫、か?」

「……うん。まだ、大丈夫。ねえ、父さん、これって……」

「『死の眠り病』?!」

 驚きに声を無くしていたイロンデルが、怯えたように叫ぶ。

「ううん。多分違う。母さんは確かに調子を崩していたけど、ノワールは違う。今の今まで元気そのものだった。父さん、今体調は?」

「心臓が少しばかりびくびくしているが、まだ大丈夫だ。……母さんを寝かせてくる」

 レーキはラエティアをベッドに連れて行った。

 ベッドに身を横たえたラエティアは、静かに眠っている。その横顔に苦悶の色はない。

 最愛の妻の頬をそっと撫でて、レーキはぼんやりとその時が近づいているのだと悟った。頭の奥が重い。指先がわずかに(しび)れている。眩暈はますます酷くなっていく。病の予兆。それはきっと死に至る病。

 いよいよ、『呪い』が彼の愛しい人たちを襲いだしたのだ。

 

「父さん。大丈夫? 今うちに『天王との謁見(えつけん)の法』をやりましょう」

 カァラは意を決して、レーキとラエティアの寝室にやってきた。

「だが、死の王様は俺の呼びかけに応じて下さるだろうか?」

『我を呼び出すこと(あた)わず』と、かつて死の王は言った。不安にかられるレーキに、カァラはきっぱりとした表情で告げる。

「父さんが駄目なら私がいる。私が主祭になって、父さんは助祭になればいい。それなら父さんが呼び出したことにはならない。祭壇は無いけど、ここには四ツ組以上の天法士が三人いるもの。絶対に呼び出してみせる」

 カァラは自信に満ちていて、その決意は固い。

 

 彼女に『呪い』の話をしたのは、カァラが成人に達したその年だった。

 カァラは驚きはしたが、レーキを責めるような言葉は一言も言わなかった。

「今まで、明らかにその『呪い』で死んだ人はいないんだよね?」

「ああ。まだ俺の寿命は尽きていないのだろう。親しい方で亡くなったのはご高齢だったコッパー前院長代理くらいだ」

「なら、父さんは『呪い』のこと気にしないで良いよ。そんなモノ気にして生きていたら、父さんの寿命が縮まっちゃう」

「ああ、そうだな。だが……」

 言葉を濁すレーキに、カァラは拳で胸を叩いて応じる。

「大丈夫。今度は私が『呪い』を解く方法を探す。もし駄目でも、私は父さんより先に死なない。絶対死の王を説き伏せてやる!」

 カァラの態度を頼もしいと見るか、怖いもの知らずと見るか。

 彼女の若さが、その時のレーキには酷く眩しかった。

 

「もうじき雪が止む。そうしたら、外で『謁見の法』を試す。そうだ! 家にあるもので簡易的な祭壇を作りましょう。それからイロンデル君はこの呪文覚えて。覚えきれなかったらメモを見ながらでも良いよ」

「一体誰と『謁見』するんですか? 先生」

「……死の王。死の王を呼び出すの」

 怖じ気づくイロンデルを叱咤(しつた)しながら、カァラは簡易祭壇を作っていく。

 人数分の黄色いローブなどこの家にはない。レーキは黒色の天法士用ローブを、チェストから引っ張り出して着る。それだけのことに酷く時間がかかった。これに袖を通すのは久々だ。普段は野良仕事をするときの格好のまま弟子たちを指導しているのだ。

 雪が止んだ。離れにいた弟子たちにも頼んで、家の前に簡易祭壇を(しつら)える。

「父さん、呪文は?」

「だめだ。もう、かなり曖昧だ。俺にもメモを作ってくれ」

「うん。解った」

 死の王との『謁見』は、多少の危険を伴うかも知れない。好奇心で、うずうずと何事かと聞いてくる弟子たち。彼らには、ラエティアとノワールの看病をするようにと言いつけて母屋に行かせた。

 夕刻。すっかり雪の止んだ森の中。

 レーキの家の前に三人の天法士が並んだ。カァラを先頭にして、右にレーキ、左にイロンデル。レーキはすでに(ひざまず)くことも困難で。三角形を描いて立った三人は、互いに一礼する。

「……それでは、始めます。『地の母、地の父、全ての生きとし生ける者を統べる定めの王、すべての死せる者を束ねる死人の王。地の母の眷属にして刈り取る者……』」

 カァラの(りん)とした声が、静寂の森に響き渡る。レーキとイロンデル、二人の助祭がそれに続けて唱和する。

 何度も唱えた呪文だというのに。メモを見ていてもレーキは言葉が出てこない。何度もつっかえ、間違えながらどうにか二人の後を辿(たど)って行く。

 三人の声はうねり、広がり、やがて収縮して、強い力となって祭壇に吸い込まれて行く。

 儀式は確かに動いている。王珠を通して、祭壇に注がれる天分を確かに感じる。

「『……我が呼びかけに応えられよ! 至り来たれ! 死を司りし天王!』」

 カァラが最後の一文を唱え終えた。

 屋外の冷気に刺されるような、沈黙。

 母屋の窓から固唾を飲んで見守っていた弟子たちが、どちらともなくため息をついた。

 その瞬間。

 轟々(ごうごう)と激しい風が吹き荒れる。

 森の木々を揺らし、雪を舞上げて、突風は光を伴って祭壇の上で次第に形を成して行く。

 長い髪、年若い男の横顔。しっかりと着込んだ襟の高い衣服まで、はっきりと識別できる。死の王は三十年前から少しも変わらぬ姿で、レーキの前に現れた。

『……我を呼ぶは汝か?』

「はい。私です」

 カァラは死の王を見上げて、きっぱり告げる。

『汝は何者だ?』

「私はカァラ・ヴァーミリオン。レーキ・ヴァーミリオンの娘です」

『汝は不遜なる者の娘、か……』

 レーキの記憶の中と変わらぬ声。威厳に満ちた死の王の声は、不思議と感慨深げな声音だ。

「はい。私は彼の娘です。死の王よ、今こそ父の『呪い』を解いて下さい。父を解放して下さい」

『……ふむ、そうか。不遜なる者よ。時は満ちた!』

 死の王は喜色を隠し切れぬように、高らかに宣言する。

『死の王の呪いは、死の王にしか解けぬ。だが、我は汝の呪いを解かぬ』

「……どう、して? ……な、なぜですか? 死の王様!」

 レーキは叫ぶ。次第に痛みを増していく額を抑え、すがりつくように手を伸ばし、片足を引きずって、死にゆく身体を一歩また一歩と死の王の前へと進ませる。

『簡単な事よ。……我は()いた。人がこの世界に生まれてより一万年以上。我は最初の死人。故にこの職責を担って来た。我の後から死に逝く者を出迎え導くこの職責を』

 光り輝いていた死の王の輪郭が、ゆっくりと人らしい肌の色になって行く。長い髪は金の色、その眸は暗い水色、涼やかな目元に(しわ)はなく、不満げに結ばれた唇は(ほころ)ぶ前の薔薇(ばら)の色。現世に死の王が顕現(けんげん)する。

 それは写し身でも影でもない。死の王本人が、ここにやって来た。

 死の王は簡易祭壇から、ゆっくりと大地に降り立った。襟の高い白い外套を着て、黄色い花で編んだ冠を(いただ)いた死の王は、カァラを一瞥(いちべつ)してレーキに眼をやった。

「……我は倦いた。故に我が職責と権能の全てを汝に禅譲(ぜんじよう)する」



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第94話 死の王

「……何と、(おつしや)いましたか?」

 思わず、問い返さずにはいられない。レーキは愕然(がくぜん)と、目前の死の王を見つめた。

「我が職責と権能の全てを汝に譲る、と言った。死の王であれば、『死の王の呪い』を解くことが出来よう。汝は死の王となり呪いを解き、我は永い苦しみから解き放たれる」

「……え、あ……死の王……?! 俺、が……?」

 ──この、俺が?

 捨て子で、ただの鳥人で、老人で、ただの父親で、ちっぽけで、それでもしあわせな、ただの男である俺が?

「……そんなの、卑怯だ!」

 面食らっているレーキの隣で、カァラは先に我に返ったように叫んだ。

「そんなの『呪い』を利用して、父さんの大切な人たちを思う心を利用して……面倒を押しつけてるだけじゃない!」

「……黙れ、不遜なる者の娘。人の身で天王(てんおう)となることは栄誉である」

 図星を突かれても、死の王は顔色一つ変えない。ただ静かにレーキの隻眼(せきがん)を見つめてくる。

詭弁(きべん)だ! 父さんはそんな栄誉、ちっとも望んでないのに!」

「……死の王様。俺はやはり、もうじき死ぬのですか?」

 レーキは静かに死の王の暗い水色の(ひとみ)を見つめる。慌てふためいていた心が()いで行く。

 決断しなくては。自分の寿命がつきる前に。この、脳髄(のうずい)を焼く痛みがすべてを食い尽くす前に。

『呪い』を解いて、ラエティアを、ノワールを、たった今苦しんでいるかも知れない愛すべき人々を。病から、『呪い』から守らなければ。

「……死の王は人の寿命を告げぬ」

 ──死の王には、俺の寿命が少ないと解っているのだろう。だからこそ、カァラの『謁見(えつけん)の法』に応じたのだ。

 死の王の表情には憐れみも、嘲弄(ちようろう)も何もない。死の王はただ黙って、レーキの決断を待っている。

 呼吸は苦しく、頭が割れるように痛む。この『謁見の法』で天分を使ってしまった。ああ、俺に残された時間は本当に少ないのか。それが、肌で解った。

 それが死の王の目論見(もくろみ)なのだと解っていても、拒否など出来ない。自分に出来ることは、たった一つだけ。

「……死の王、様。解り、ました……」

「……父、さん……駄目!! う、ううっ……!!」

 カァラの顔が苦痛に(ゆが)む。『呪い』がカァラにも手を伸ばそうとしている。

 時間がない。レーキは全てを振り払うように、死の王に向き直った。

「……貴方のお申し出、慎んで、お()け致します」

「約定はここに成った。レーキ・ヴァーミリオン、これより汝がこの星の死の王。全ての死に行く者の王。すべての死せる者を束ねる死人の王。地の母の眷属にして刈り取る者」

 歌うように。死の王は言祝(ことほ)ぐ。彼が差し出した手をレーキが取る。

 その瞬間。レーキ・ヴァーミリオンという、ただの鳥人は永遠にこの世から消え失せた。

 

 

 

『死の眠り病』で床に()し、回復した人々は口々に言う。

「死の王は金の髪の若者だった」

「いや、違う。死の王様は白い髪の年老いた方だった」

「死の王さまは黒と銀の羽の鳥人だったよ」

 人々の中で『死の王』は黒と銀の羽を持つ鳥人でである、と噂が次第に広まっていった。

 流行病が終息した後も、九死に一生を得た人々は、死の淵で黒と銀の羽の鳥人を見続けた。

「死の王は隻眼の老人で、自分に言った。『君はまだ死ぬ定めではない』と」

 時が過ぎるにつれて、噂は物語になった。

 子供の寝物語で、酒場の歌で、小説で、演劇で。いつしか、死の王は人々の想像の中で語られる。

 死の王は長い時を生きた老人で、黒と銀という特異な羽を持つ鳥人、黒色の長いローブを着て、赤い隻眼は鋭く、静かに人を諭すように話す。

 かつて、レーキ・ヴァーミリオンと言う名の天法士が生きていたことを人々が忘れても。

 死の王は、畏怖と安堵と絶望と希望の彼方で語り継がれる。

 

 

 

「……おはよう。カァラちゃん」

「母さん……!」

 レーキが死の王と共に消え去って、二日後。ラエティアはベッドの上で目を覚ました。

 ベッドの隣で、看病疲れからうたた寝していたカァラは、頬を撫でる母の手に安堵する。

 年老いて血管の目立つ手。それでもよく働き、案外に力強いその手。

「……母さん……」

 カァラは母の手をとって、頬を寄せる。

 母には告げられない。父を深く愛していた母には。父が愛する人たちを守るために消えてしまったなんて。

「……父さんは……レーキは、行ってしまったのね……?」

「……!」

「わたしね、さっきまで父さんと一緒だった。わたし、父さんに『これからずっと一緒にいられるの?』って聞いたの。でも父さんは『すまない。しばらくは迎えに行けない』って。父さんは『もう行くよ。ティアはカァラたちの所へ戻りなさい。また迎えにくるから』って。そう言って、行っちゃった……」

 母は知っていた。死の淵の夢うつつで、父と別れと再会を告げられていた。

 ラエティアの金の眸から、涙が一筋こぼれ落ちる。

「父さんは死の王さまになったのね……わたしたちを、生かすために」

「……うん。それが前の死の王の計略だった。父さんに責任を押し付けて、自分は解放されたの」

 腹立たしげに(つぶや)いたカァラの手をとって、ラエティアはゆっくりと首を振った。

「……前の死の王さまはね、きっと辛かったの。大勢の人を迎えに行って、感謝されるだけじゃない。どうして、とか、まだイヤだ、とか、死の王さまを憎む人も沢山いる。そんなお仕事をずっと、ずっと続けて、疲れてしまったのよ。レーキにお仕事を代わって欲しいって思うくらい。死の王さまも必死だったのよ」

「でも、父さんはみんなを道連れにして死ぬ道なんて選ばない。そういう人だって解っていて、父さんを追いつめたんだよ?」

「それでも、死の王さまはレーキが寿命終えるその時まで、待っていて下さった。たぶん、たぶんね。前の死の王さまも、心底悪いヒトでは無かったのよ」

 ラエティアはそっと微笑む。その眸は寂しげに濡れている。カァラは口惜しさをこらえるように、唇を噛んだ。

「……母さんは、人が良すぎるよ……」

 こらえきれずに。カァラの黒い眸から涙が次々にこぼれだした。

 

 

 

 時はうつろう。

 レーキの愛した人々の元にも、死の王がやってくる。

 

 セクールスは、突然寝室に現れたかつての生徒の姿を見て全てを悟った。

「最後に一服する時間はあるか?」そう言って愛用のパイプに薬草を詰めた。

 

 ウィルは、孫たちに剣術を教えている最中にかつての仲間を見た。

「やっときたのか。とっくの昔に覚悟は出来てるぜ」笑って死の王の手をとった。

 

 グーミエとエカルラートは同じ寝室で、かつてのクラスメイトを見た。二人は共に死の王の手をとって、翌朝、子供たちに発見された。

 

 ウィルを失って悲嘆の涙にくれていたネリネは、息子たちに(かつ)がれて、仲間たちと星を見た遺跡で死の王を出迎えた。

「そっか。もう、時間なのね。あたしまだまだやりたいことがあったんだけどなあ。でも、アナタとウィルが待ってるなら、もう行かなきゃね」もう、立ち上がることも出来なかったネリネは息子たちを見回して微笑んだ。

 

 グラーヴォとオウロは同時期にベッドの上で。独り残されたクランもじきに家族に囲まれて静かに旅立った。

 

「待ってくれ! まだ行く訳には行かないんだ! もうすぐ三人目の曾孫(ひまご)が生まれるんだ!」シアンはそう言って死の王の手を振りほどいたが、逃れることなど出来なかった。

 

 ズィルバーは、新しい法具(ほうぐ)の試作中に懐かしい顔を見た。

 弟子たちの前で部品の説明をしていたズィルバーは突然「レーキサン、解りまシタ。ちょっとだけ待って下サイ」と、共通語(コモン)で話し始めた。

「……すまないね。もう小生には時間がないようだ。君たちは試作を続けてくれたまえ」

 ニクスの言葉でそれだけ言い終えると、ズィルバーはそのまま倒れて帰らぬ人となった。

 

 アガートは一ヶ月ほど前から体調が優れずに、ベッドの上で眠ったり起きたりの生活が続いていた。

 その日はよく晴れた秋の日で。アガートは朝から、今日は良いことが起こるような予感で心をときめかせていた。

「……やあ。やっと来てくれたねー! ずっと待ってたよー」

 ようやく訪れた死の王を、アガートは茫洋(ぼうよう)と笑って出迎えた。

 

 

 

 多くの愛しい人々を、『死の国』に迎えた。

 死の国で、死者たちは生前に似た暮らしを送る。

 その内に死者の記憶は曖昧になり、ゆっくりと時間をかけて存在は稀薄(きはく)になり、死者たちは『死の国』の土に()けていく。

 短い者は数十年、長い者でも数百年。

 それはあたかも、生き物の遺骸(いがい)が腐って土へと返るように。死者たちの魂は人が生きる世界の養分になる。

 

 

 レーキが死の王になって十八年後の夏。

 夕闇が迫る森の中。梢の向こうに残照が赤く空を下る。反対側の空には、弟月がぽつんと寂しげに上りつつある。

 赤と濃紺が入り混じった宵の空は、美しい紫色のグラデーション。

 夏の暑さもこの時刻になればようやくその手をゆるめて、爽やかな風が人々の頬を撫でる。

 家の前に持ち出した安楽椅子に腰掛けて、ラエティアとレドは沈み行く今日の陽を見送っていた。

 いよいよ八十を目の前にしたラエティアは、よく昔の話をする。

 レドが生まれた日のこと、カァラが村にやって来た日のこと、結婚した日のこと、孫たちが生まれた時のこと。決まって最後にラエティアは父の最後の日の話をする。

「……父さんはね、私たちのために死の王さまになったの」

「うん」

 レドは、幾度となく聞かされたその話を完全には信じていなかった。

 父が死んだ日、そこにいたのは姉と姪と父の弟子たちだけ。

 レドは父の遺体に会うこともかなわず、妻と共にこの家に駆けつけた時には空の(ひつぎ)だけが用意されていた。

「遺体は無いの。父さんは消えてしまったから」

 姉は硬い表情で空の棺に父の遺品を詰めて、墓を作った。

 父がどうして死んだのか、どうして遺体がないのか。本当の所はレドには解らない。

 でも、父さんが死の王さまになっただなんて。そんなこと、簡単に信じられる訳がない。

「……もうじき、もうじきね。父さんが迎えに来てくれるの」

「そんなこと言うなよ、母さん。父さんは死の王さまになったんだろ? それなら迎えになんか来ない方が良い」

「……うふふ。ダメよ。人はみんな、いずれ父さんの所へ行くの。わたしもあなたも。だから、あなたはそれまで、()いの無いように生きなさいね?」

 近頃、母は眠って過ごすことが多くなった。

 一人では日々の生活もままならない。母の介護をするために、レドは店をローリエとリエールに任せて、週の半分以上はこの懐かしい森の中の家に通っている。

 それでも、母はゆっくりと衰弱している。『その時』が近づいているのだと、レドにもはっきりと解る。

 ──死の王さま、死の王さま。父さんが死の王さまだと言うなら、まだ母さんを連れて行かないでくれ。せめて、リエールの子が大きくなるまで。

 夜になって、床に入る前に。レドは祈らずにいられない。

「……そろそろ、家に入ろうか、母さん」

 すっかり、日が沈んでしまった。ほんのりと西の空は明るいが、東の空では星が瞬き始めている。

「……」

 母は答えない。じっと夕陽が消えた空を見つめている。

「……母さん?」

「……父、さん……?」

 呟いた母の見つめる先に。きらきらと光が舞い始めた。夕陽の名残か何かだ。レドは何かの見間違いかと眼をこする。それでも光は消えてしまわない。

 光は次第に輝きを増して、やがて、そこに像が結ばれる。白い髪、赤い隻眼、黒と銀の羽。そこにいるのは、確かに十八年前に死んだはずの父だった。

「……ずいぶん待たせたな、ティア。迎えに来た」

 耳に馴染んだ父の声。それは記憶の中にある通りに優しい。

「……レーキ。ああ……もう、遅いよ! 待ちくたびれちゃった!」

 母は安楽椅子から立ち上がり、足取りも軽く父に近づいて行く。

「あ、ああ……母さん! だめだ! 行っちゃ駄目だ!!」

 レドが伸ばした手をすり抜けて、母は父の(かたわ)らに寄り添った。

「……レド、お前の順番はまだ先だ。今まで母さんの面倒を見てくれてありがとう。いずれまた会おう。その時まで良く生きなさい」

 父は最後に微笑み、母の肩を抱いた。その一瞬で、父と母の姿は夜の闇に()けた。

「……父さん、母さん……?!」

 気がつけば。レドは家の前に出した椅子に腰掛けて、ぼんやりと空を見上げていた。

 隣の安楽椅子では、年老いた母が静かに眠るように一生を終えていた。



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第95話 遠く遠く、空より遠く

 レーキが死の王となって、百年の月日が流れた。

 その間にレドとカァラを、そして孫達を死の国に迎えた。

 死の王は一人、百年後の星空を見上げる。

 孫たち、弟子たちは血を繋ぎ、レーキの愛する『家族』はますます増えて行く。

 アガートとカァラは、死の国の土に溶けていくまでの時間に、死の王の片腕となって働いてくれた。

 レドは死後も平穏に、自分の家族と共に在ることを選んだ。

 

 

 数百年が過ぎた。

 常にレーキの傍らにいたラエティアは、とうとう死の国の土となった。

 その間に、レーキの『家族』たちは世界中に散らばり、その時その時に、かけがえのない時間を生きる。

 死の王はその全てを、死の国に迎え入れた。

 彼らのために、彼らの家族のために、そして彼らの友人たちのために心を砕いた。

 大勢のレーキの子孫たち、友人たちの子供たちは。

 

 ある者は王の血筋と交わって、地上の王となった。

 ある者は偉大な天法師となり、人々を導いた。

 ある者は酒に賭け事に溺れて身を持ち崩し、裏路地でひっそりと息絶えた。

 ある者は、家族の愛情をその身に受けることもなく幼くして死んだ。

 

 その全てが。死の王にとっては愛しい血の筋。

 次第に、地上は愛しい者たちであふれていく。

 

 

 今日も死の王は、死に行く定めの者の前に現れる。

 その、もうじき死者になる者は、薄暗い部屋で玉座に座っていた。

 部屋中に漂う血の臭い。死者になる者は胸部に開いた風穴から大量の血を流していた。この傷では命は助かるまい。そんな大きさの傷だった。

 玉座の背後にある大きな窓からは、月光の冴えた光が差し込んで、それだけがその豪奢(ごうしや)な造りの部屋を照らす。

 部屋の外は騒がしいのに。この部屋は死に行く者を(いた)むように静寂に包まれていた。

 ここは王の間。城の中にあって、王が謁見(えつけん)の為に利用していた部屋だった。

 音もなく突然に。死の王は玉座に向かって敷かれた絨毯(じゆうたん)の上に降り立つ。

 新しい死者に向かって手を広げ、死の王はただ「迎えにきた」とだけ告げた。

「……っ」

 新しい死者は顔を上げる。逆光になって、その顔はよく見えないが、息を飲む音がした。

 ゆっくりと新しい死者は立ち上がった。額に(いただ)いた冠はねじくれ、こめかみから突き出した一対の角の片方は無残に折り取られ、残った片方も先が欠けている。

 ふらふらと死の王に近寄る長身は、どこもかしこも傷だらけで。

「……レーキ……レーキ、なの……?」

 呼びかける声はひどく弱々しかった。

「ああ。そうだ。友よ」

「……なんで、レーキがここに……?」

 躊躇(ためら)いがちに、新しい死者は腕を伸ばす。その手は乾いた血に(まみ)れていた。

「……俺は……『呪い』を解くために死の王と取り引きしたんだ。新たな死の王になると」

 死の王は静かに告げる。新たな死者は苦痛に喘ぎながら、片足を引きずって死の王の前へとすすむ。

「……ああ、そっか。レーキは死の王さまに、なったんだね……?」

 玉座が落とす影から姿を現したのは。死の淵に立つ幻魔・イリスだった。

「……ああ、ああ……! 会いたかった。ずっとずっと、君に会いたかったよ……!!」

 今すぐ駆け寄りたいのに。イリスは一歩一歩もどかしそうに歩を進める。

「俺は、君に再会する日がこんなに早く来るとは思っても見なかった」

 瀕死の旧友を、死の王は見つめる。その表情は、友の傷を痛ましく思っているように見えた。

「……僕、頑張ったんだ……僕が生きてるってことは君が『呪い』をどうにかしたってことでしょう? だから君や君の大切な人たちに迷惑かけたくなくて、頑張って、頑張って……魔の王さまになったんだ」

 ゆっくりと、青年のそれだったイリスの姿が子供の姿に変わっていく。姿を変えたイリスは死の王に駆け寄った。その身体から痛々しい傷が消えていく。

「僕が魔の王さまになれば、外に出たいって人たちを抑えておける……魔のヒトたちを島の外に出さないで済むって思ったんだ」

 死の王の腕に飛び込んだ瞬間、イリスはうれしそうに微笑んだ。だが、その表情はすぐに曇って行く。

「……でも、それも限界なんだ。魔のヒトも普通のヒトも、みんな島の外に出たがってる。……僕、失敗しちゃった。お前みたいに弱腰な魔の王さまはいらないって言われちゃった……みんなが僕を殺せって言うんだ……シーモスも一生懸命、僕を助けようとしてくれたけど……先に君の国に行ったでしょう?」

「ああ。君の所へ戻らなくてはって、ひどく取り乱していた」

「僕がいないから、島の結界を壊すのはスゴく大変だと思うけど……魔のヒトたちは島の外に出る。そうしたら、外のヒトたちと戦うことになる……ごめん、ごめんね。レーキ……」

「……君が、謝ることじゃない。君は今まで数百年も良くやってくれた。礼を言う。……もう、ゆっくり休んでくれ」

「うん……ありがとう」

 旧友の腕の中で、子供の姿のイリスは眼を閉じる。

 その瞬間に。玉座の上に残されていた魔の王の遺骸(いがい)は、塵と砕けて闇に消えた。

 

 

『呪われた島』の結界が打ち砕かれる。

 幻魔と魔人、その信奉者たちは解き放たれた。

 世界の全てを魔のモノとするために、彼らは次々と人の街を襲撃する。

 彼らの先頭に立つのは、イリスを(ほふ)って魔の王を僭称(せんしよう)した幻魔。それは『苛烈公』でも『冷淡公』でもなかった。

 イリスが魔の王であった時代に『苛烈公』は粛清(しゆくせい)された。それを恨みに思っていた『苛烈公』の派閥の幻魔が、クーデターを起こした張本人だった。

 

 死の国に大勢の戦死者たちが増えていく。

 兵士、騎士、戦士、天法士、幻魔、魔人、そして無辜(むこ)の人々。

 両方の陣営のヒトビトが、死の国にやって来た。

 死の王に出来るのは、死んだ者を迎えること。

 そして、この戦いが早く終結することを祈ることだけ。

 魔のモノたちは数の上では劣勢だったが、強力な能力をもっていた。

 各国の天法士団は『禁忌』を解放する。レーキの弟子たちの遠い弟子たちが、何百人と犠牲になった。

 次第に戦いは苛烈さを増した。人の陣営にも魔の陣営にも、甚大な被害が出た。

 魔の陣営は『呪われた島』を海に下ろした。空飛ぶ島は、維持するためにコストがかかりすぎる。

 いよいよ『島』を浮かせていた魔法士たちも戦に駆り出された。

 最後の決戦が始まる。天法と魔法、地形を一変してしまうほどの、強大な術と術とかぶつかり合った。

 見渡す限りの荒れ野となった戦場で、人の先頭に立つのはウルス・レスタベリと言う名の将軍。

 遠い祖先の面影をその横顔に宿した彼の号令の下、人の連合軍は勇敢に戦う。

 死の王は戦場に降り立って、敵味方の彼我(ひが)なく全ての死者を抱擁する。

 数に劣る魔の陣営は、次第に人海戦術を採る人の連合軍に押されていく。

 魔の陣営が戴く王は偽の王。正式な魔の王ではなかったために、幻魔を新しく任じることが出来ない。魔のヒトは数を減らし、信奉者たちも魔の陣営を密かに離れて行った。

 決着がついたのは、この戦いが始まって五年の月日が流れた後。

 とうとう偽の王は捕らえられ、魔の陣営は瓦解(がかい)した。

 生き残った魔のヒトはごく少数で。彼らはいずことも無く姿を消した。

 この大きな戦いは人の連合軍の勝利で幕を閉じ、それ以降、表立って人と魔が大きくぶつかり合うことはなくなった。

 

 

 数千年が過ぎた。

 魔のヒトビトの残滓(ざんし)も時間をかけて、死の国の土に還っていく。

 イリスは数千年に亘って、死の王の友であり続けたが、最後は謝罪を残して消えた。

 死の王は変わらず死者を迎え続ける。

 世界は移ろう。

 地上の王の時代が終わり、民が自らの舵を民の代表に預ける時代がやって来た。

 ヴァローナで初めて民の代表になったのは、クラドと言う名のホテル王だった。

 天法はさらに発展を遂げ、天法士ではない市井の人々も気軽にその恩恵に与れるように改良された法具が大量に作られるようになった。

 人々の暮らしは豊かになったが、一方で富める者と持たざる者の差は開いて行く。

 何度か大きな戦が世界を(おお)った。

 富を資源を土地を。豊かであることが絶対的な価値観のように。

 人々は争い、その度に死者は増えた。

 それでも、死の王は死者の中に、家族の、友の、懐かしい面影を何度も見る。

 レーキの血は限りなく薄まったが、今ではこの世界に生きる全ての人々が彼の子、孫たちと同じだ。生きる者、死んで来る者、全てが愛しい自分の『家族』。

 愛情をもって、死の王は職務を続ける。

 

 

 数万年が過ぎた。

 今や人の領域はこの星、フィレミアの外へと(およ)んでいた。

 沢山のレーキの子孫たちが、人口の増えすぎたこの星から飛び出して、星の船で新たな星、新たな世界を目指して飛んで行く。

 その頃から、竜人たちは地上にいた人々と親しく交わるようになった。

 彼らは天法とも魔法とも違う、『科学』とも呼ばれる不思議な術を操った。その術を得て、人はさらに人の世界を広げて行く。

 新たな星では、その星の天王が新たに選ばれる。それは死の王も例外ではない。

 フィレミアの外、双子月の軌道を越えて死んだ者は、フィレミアの死の国にはやって来ない。

 それでも、フィレミアに残った人々は数多く、死の王の仕事は増すばかりだ。

 

 

 数億年が過ぎた。

 学者たちは、五億年後にフィレミアは滅びると主張する。

 この星が仰ぎ見る太陽は、百億年の後、ガス状の星雲となって死んでしまう。その過程で、赤色巨星となり、フィレミアを含む近隣の星々は太陽に飲み込まれて塵も残さす消えてしまう、と。

 フィレミアに残っていた人々は、新しい星に、新しい世界に、移住を始めた。日ごとにフィレミアの死の国にやってくる死者の数は減っていく。

 五億年も先の事など思い煩わない者たちは、住み慣れたこの世界を離れ無かった。

 ネモフィラと言う名の学者は、星の最期(さいご)を感じるためにここで生きると言った。

 結局、ネモフィラの子供たちも最後までこの星を離れなかった。

 

 

 五億年が過ぎた。

 膨れ上がった太陽の熱が、近くの星々を()いた。

 フィレミアも水分と言う水分が干上がった。海が消えたことで海に生きるモノが死んだ。水分を必要とする陸棲(りくせい)の生き物の姿が消えた。この星に残っていたわずかな人々もみな死に絶えて久しい。

 最後の死者が死の国の土に還って、死の王は思考する事を止めた。

 死の王はただ一人。

 孤独にその時を待っている。

 既に永すぎる時のなかで、心は鈍化し感覚は磨り減り、自我を保つことも難しい。

 それでも彼は待っている。

 

 この星が太陽に飲まれて、消滅する。

 この星の死の王である自分の責務が消滅する。

 

 その時を。



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エピローグ 六色の竜王が作った世界の端っこで

「……それで、フィレミアの死の王さまはどうなっちゃったの?」

 寝物語に古い神話を聞かせて欲しいとねだった(いとけな)い少女に、母は自分の知っている人類発祥の星、フィレミアの死の王のお話を語って聞かせた。最後まで語り終えても、娘の小さなおめめはぱっちりと開いたまま。母は小さくため息をついて、娘の額から髪を払った。

「フィレミアが無くなって……死の王さまの永い永いお役目もお終いになったからねえ。今頃はゆっくりお休みしているんじゃないかしら?」

「死の王さま、一人でかわいそう……」

 小さな娘は優しい子に育っている。母親はそのことに満足して、穏やかに微笑む。

 ここは、フィレミアから数十光年以上離れた小さな惑星。小さな太陽と三つの衛星に恵まれた、人が居住できる環境の星。

 百年ほど前に人が入植したこの星で、その一家は穏やかに、慎ましく、それでも楽しく生きている。

「でも、死の王さまには家族も友達もいっぱい居たから。思い出したりすることもいっぱいあったんじゃないかしら?」

 母の言葉に、娘はまだ納得出来ないようで。かわいい唇をとがらせた。

「うん……」

「さあ、もうねんねしましょう。このままじゃ夜じゃなくなっちゃう」

 子供用のお布団に潜り込んだ娘は、苦笑する母を見上げて綺麗な赤色のおめめをぱちぱちと瞬いた。

「……ねえ、死の王さまはなんてお名前?」

「うーん。死の王さまは昔は人だったって、言うお話だから……人のお名前があったかも知れないけど、お母さんは知らないなー」

「そっか……」

 落胆する娘の頬にキスを落として、母は部屋の灯りを消した。

「おやすみなさい。かわいいおちびさん」

「おやすみなさい。お母さん」

 ──ああーん。あーん。……ふぎゃあー!!

 その時、隣の部屋から泣き声が聞こえてきた。

「赤ちゃん、泣いてる」

「うん。ごめんね、お姉ちゃん。ちょっと見てくるね」

 母は慌てて、赤ちゃんが眠っていた部屋に駆けつける。そこにはぷくぷくとよく太って、健康そうな赤ちゃんが、小さなベッドの上で泣いていた。

「おおーよしよし……元気だねー」

 母は赤ちゃんを抱き上げると、ゆっくり体を揺すった。赤ちゃんはまだ泣き止まない。

「……怖い夢でもみたのかな?」

「あら、お父さん」

 赤ちゃんの泣き声を聞いて、居間にいた父が子供部屋へやって来た。

「うーん。この感じは多分、お腹空いてるんだと思う」

「ミルク、作ってこようか?」

「うん。お願い」

 赤ちゃんをあやしながら、母は赤ちゃんのふっくらとした可愛らしいほっぺたを堪能する。

 ミルクの香りのする、この柔らかくて温かくて小さな命。かけがえのない、この大切な我が子。大事に育てるからね……母はそっと赤ちゃんの額にキスした。

「さあ、ほら、泣き止んで……わたしのかわいい()()()くん」

 泣きじゃくっていた赤ちゃんは、ぱっちりとおめめを開く。

 それから、お姉ちゃんと同じ赤色の眼で、じっと母を見つめて、うれしそうにきゃっと笑った。

 



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