キングヘイローまとめ (瑞穂国)
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比翼連理

はじめましての方は、はじめまして。瑞穂国と申します。

昨年からpixivに投稿していたウマ娘の小説を、ハーメルンでも公開していこうと思います。

まずは一番作品数の多いキングヘイローのお話から。


――あなたは、私だけの一流。

 

 

 

 トレーナーが、さらに二人のウマ娘を担当することになった。

 まあ、それ自体は当然の成り行きだと思う。チームに所属するウマ娘の人数は、トレーナーの人数よりずっと多い。それ故一人のトレーナーが数人のウマ娘を担当するというのが普通だ。むしろ今まで、彼が私一人を――彼がまだ経験の浅い新人であったことを差し引いても――担当していたことの方が特別なのだ。

 

――「キングヘイローは素晴らしい結果を残してくれた。君も三年で十二分に経験を積んだことだし、この辺りがいい頃合いだろう」

 

 チームの主任トレーナーから、彼はそう言われていた。

 喜ばしいことだと思った。嬉しいことだとも。私たち二人の活躍が認められたからこそ、トレーナーは将来有望なウマ娘をさらに任されたのだから。

 同時に身が引き締まる思いもあった。こうして期待されている以上、それに応えるだけの結果を出さなければ。それが一流のウマ娘としての責務だ。ウマ娘とトレーナーは一心同体、私の走りがそのまま彼の評価となる。彼の評価を落とすような、情けない走りはできないと思った。

 とは言っても、大して思い詰めていた訳ではない。紆余曲折あったとはいえ、私たちは一流に相応しい結果を出して来たし、それだけの実力はあると思えていた。これまでと大きく変わることなんてない、これからもトレーナーと二人で走っていくだけ。そう思っていた。

 

 

 

 ……けれど、私の思っていたようにはいかないのだと、しばらくして思い知った。

 簡単な話だ。小学生でも解ける算数の問題。担当するウマ娘が三人になれば、一人あたりに割ける時間は今までの三分の一。朝から晩まで私一人に付きっきり、という訳にはいかなくなる。

 最初の頃はまだよかった。デビュー前の後輩二人に対して、トレーナーは重点的に基礎トレを行うよう指示していた。平日の練習は三人揃ってペース走や併せをしていたから、あまりそれまでの違いを感じなかった。私以外の子にアドバイスをする横顔を、何だか誇らしく思う余裕もあった。

 でも二人がデビューすると、いよいよ状況が変わってきた。当然だけれど、レースがあればトレーナーはそちらへ付き添うことになる。地方のレース場なら金曜日から前ノリなんてこともざらだ。彼はトレーニングのメニューだけを置いて、出走する子と新幹線へ乗り込んでいく。

 ……それが当たり前。私がレースに出る時だって、彼はそうしてくれる。頭ではきちんと理解しているはずなのに、丁寧に練られたことのわかるメニューと注意するべきポイントがびっしり書き込まれたレポート用紙に、表情が険しくなる。抜けてはいけない力が、肩から抜けそうになる。

 トレーナーのいないトレーニングは、なんだか不思議な気分だった。やってることは普段と変わらないのに、妙なところでふっと気が抜けてしまう。一緒に残った後輩へ指導をしている時はいい。けれど例えば、タイムトライアルをした時、ペース走をした時。

 

「ねえ、今の走り、どうだったかしら」

 

 ゴールして、額の汗を拭いながら尋ね、そこでようやく気づく。私の問いかけに答える人はいない。振り向いたところに人影はなくて、私の声はターフの風に流される。私のパートナーはそこにいない。トレーニングコースの上には他のウマ娘たちの声が響く。思わず吐いてしまう溜め息も、どこにも届かない。

 

 

 

 私のレースと、後輩のレースの日程が被った時もあった。トレーナーは随分悩んだみたいで、でも最終的に後輩へ付き添うことを決めた。頭を下げるトレーナーに「気にしないで」と声をかけた。私と後輩では経験してきた場数が違う。それに、彼女にとっては初の重賞レースだ。トレーナーが付き添うべきはどちらかなんて、素人にだってわかる。

 

「任せなさい。一流に相応しい結果を残して来るわ」

 

 そう胸を張って彼と後輩を送り出した。

 けれどまた、一着でレースを終えて気がついた。息を整えながらスタンドを振り返る。外ラチに一番近いところ、最前列に目を遣って「しまった」と思った。そこにトレーナーの姿はない。見つけられたのは、応援に来てくれた後輩と、私の友人たち。

 いつものように観客席へアピールして、いつものように一流の宣言をして、そしていつものように地下道へ下がった。いつも通りはそこまでだった。いつも私を待っていて、一番に祝福と労いの言葉をくれる人が、そこにはいない。同じレースを走った子たちがそれぞれのトレーナーやチームメイトに出迎えられる中、私は一人淡々と地下道を控室へ歩いた。途中でかかってきたお母さまからの電話にどこか安堵している自分がいて、それを腹立たしく思いながら短い通話をする。交わした言葉はいつもより多かったような気がした。

 トレーナーと話ができたのは、レース終わりのシャワーを浴びてからだった。着信にワンコールで出ると、トレーナーの声がした。勝利の報告をすると、いつものように祝福と労いの言葉が返ってくる。あちらのレースも無事勝利を収めたようで、電話越しでも後輩の喜びようが伝わってきた。

 ライブの準備があるからと、短く電話を切り上げた。少し元気を取り戻した自分が、我ながら単純で笑えてしまった。

 

 

 

 

 

 

――そうして、しばらくの時間が流れていった。

 今日、ターフには私一人が立っている。二人の後輩も、トレーナーも、どこにもその姿はない。チームごとに練習に励むウマ娘たちの中、ポツンと私一人が立っている。

 昨日は、後輩二人が揃って出走した。当然、トレーナーもそれに付き添っている。今頃は反省会を終えて、帰路についている頃だろうか。今日中には帰ってくるはずだけど、遠征で疲れているだろうし、きっと練習には現れない。だから今日は私一人でのトレーニングだ。

 

「……ま、自主トレと変わらないわよね」

 

 柔軟を終えて、誰にともなく呟いた。

 トレーニングメニューは彼がきちんと残してくれている。重点的に気をつけるべきポイントもわかってる。あとはそれを、いつもの通りに、一流らしくこなしていくだけだ。

 ……そのはず、なのに。

 実戦を想定した、ペース配分を意識しての走り。コース取りと、集団での位置、そしてゴールまでの距離を測りながら走っていく。残りの距離が四百メートルを切ったあたりから、スパートを切るべきタイミングを待っていた。溜めた脚を一気に解き放つ、私の武器だ。

 けれど、スパートが切れなかった。

 踏み込んだはずの足に、ターフを掴む感触がない。あたかも雲を踏んだかのような、不可思議な感覚が足裏から伝わる。まだ行ける、ここから上がって行ける、そう思うのに、スピードが上がらない。

 

「なんで……っ! どうして……っ!」

 

 奥歯を噛み締めて、もう一度スパートを掛ける。でも結果は同じだった。ターフを踏み込む確かな感触がどこにもない。残したはずの脚が動かない。重りはない。枷はない。けれど私の脚は前に行ってはくれない。

 結局、スパートらしいスパートを掛けることができないまま、ゴール板の前で膝に手をついた。額から汗が滴る。渾身の走りには程遠いのに、いつもより体に溜まった疲労が大きい。拭っても拭っても、汗は頬から零れ落ちていった。

 ダメだ。こんな走りではダメだ。こんなものじゃない。歯を食い縛って天を仰いだ。縮んだ肺を無理にこじ開けて息を吸う。新鮮な空気を吸うと、少し体が冷却された。

 

「……まだよ。もう一本」

 

 次は大丈夫。そう自らに言い聞かせて目尻の汗を拭い、足を動かしてまたスタート位置に立った。深呼吸を挟んで構える。ゲートの開くその一瞬をイメージして、芝を蹴り上げ、走り出す。

 走る。走る。走る。一歩、一歩とターフを踏み締める。腕を振り、腿を上げて、足を前へ。走れば息が上がる。心拍数が上がる。胸が苦しくなる。足が重くなる。前を見ているのが辛くなって、汗と共に視線が地面へ落ちそうになる。

 けれどそこで俯けば負けてしまう。だから死んでも首は下げない。意地と根性とプライドで歯を食い縛り、前を睨み続ける。そうしなければ勝てない。それ以外の勝ち方なんて知らない。

 一歩ゴールへ近づくたび、ずしりと体が重くなる。一歩前へ踏み出すたび、ぐにゃりと視界が歪んでいく。一歩地面を蹴るたび、絶望に似た苦渋がこの身を苛んでいく。

 それでも、私は走るんだ。

 なのに。なのに。……それなのに。

 

「……っ」

 

 足に力が入らない。

 走る感覚が薄れていく。ターフの上に立っている実感が湧かない。何かが足りていない気がして、欠けてしまった物の分、力が出ない。

 何度試しても上手くいかない。キングヘイローの走りは、今の私のどこにもなかった。滲んだ視界の彼方に見える第四コーナーを曲がった先、スパートをかける自分の姿がどうしても思い描けなかった。

 ……わかっている。何が足りていないのか、何が欠けているのか、何が必要なのか。それを、この胸が張り裂けてしまいそうなほどの痛みと共に、理解している。

 

「……どうしていないのよ、ばか」

 

 ウマ娘とトレーナーは、一心同体。一蓮托生。そんな言葉は方々で耳にした。強いウマ娘には優秀なトレーナーが必要で、同じように優秀なトレーナーには強いウマ娘が必要だ。どちらが欠けても成り立たなくて、二つが揃って羽ばたかなければ意味がない。

 言いたいことは理解しているつもりだった。事実、私がこれまで一流に相応しい結果を残せたのは、共に歩んでくれた彼がいたからに違いない。二人三脚、彼が共に走ってくれたから、私はここへ立っている。

 その言葉の、本当の意味を理解した。

 ウマ娘はトレーナーと共に走る。彼の夢と信頼と期待を背に乗せて共に走る。

 私はきっと一人でも走れる。でも。だけど。

 

 

 

 キングヘイローというウマ娘の走りには、彼が必要なのだ。

 

 

 

 欠けた胸が痛い。意地でも下げてこなかった首が、過去感じたことがないほどに重い。前を見ているだけで苦痛に等しい。なにも背負っていない私に意味が見いだせなくて、空っぽの根性で走ることがひどく滑稽に思えた。

 こんなこと、気づかなければよかった。

 最終コーナーを曲がり切って直線に差し掛かる。もうすぐスパートを掛けるタイミングだ。それなのに、気合いの入れどころも、力の入れどころも、意地の発揮どころも、何一つわからなかった。ゴールへと続く道が、全くもって見えてこなかった。

 ……ああ、だめだ。唐突に理解して、ふっと力が抜けそうになった。

 きっと、私は走れない。

 

 

 

「スパートだ、キング!」

 

 

 

 凛とした号令がコースに響いた。ふわり、軽やかに吹いた風に乗って届いた言葉が、私の耳を震わせる。

 

「……え」

 

 荒れた呼吸の合間に、我ながら間の抜けた声を挟んだ。

 コースの脇をチラリと右眼の端だけで窺った。流れていく景色の中に、人影が一つある。スラリとした立ち姿の男性だ。クリップボードとストップウォッチを手に私を見る目は、穏やかでありながら強い意志を感じさせる。私のトレーナーがそこにはいた。

 目を見開いた。同時にカチリと、自分の中に最後のピースが嵌ったような、そんな錯覚を抱いた。ぽっかりと空いた穴に熱が宿る。欠けていたところが満たされて、溢れる程の力が湧いてきた。

 脚がある。私には脚がある。大地を踏み締め、強く蹴って駆けていく、脚がある。

 あなたと共に鍛え上げてきた、脚がある。

 キングヘイローは、ここからだ。

 奥歯を噛み締める。「ええ、今行くわ」、そう心の中で呟いて、一際強くターフを蹴った。芝が抉れる感覚。同時に、自らがまるで風になったかのような感覚。双翼を得たかのような感覚。

 自然と顔が上がった。風の先にゴールが見える。何だかいつもより、足の動きがいい気がした。前へ、前へ、自分でも信じられないくらいの速さで体が前に行く。

 ……ふふっ。まだ、まだよ。キングはまだ、ここからなんだからっ。

 

 

 

「お疲れ様。さすがの走りだね、キング」

 

 メニューを全て終えた私は、汗を拭いながらトレーナーの前へと足を向けた。労いの言葉を掛けてくれた彼は、ニンジン味のスポーツドリンクを差し出す。受け取ったペットボトルは思わず「冷たっ」と声を出してしまうほどキンキンに冷えていた。きっとついさっきまで氷水にでも漬かっていたんだろう。

 首筋に当てると、冷たさが心地よかった。熱くなった血液が冷却されていく。練習終わりの至福の一時。それをしばらく味わって、それからキャップを開け、中身を煽った。よく冷えたドリンクが喉を通っていくと、頭がジンとした。

 

「ラップタイム管理も申し分ないし、上がり三ハロンはやっぱり驚異的だ」

 

 きっと引くほどメモが取られているのだろうクリップボードを見つめながら興奮気味に話すトレーナーの横顔を、チビチビとドリンクを口にしながらどこかぼんやり眺めていた。

 ほんの少し前まで、こんなやり取りも、二人きりの景色も、当たり前だった。それがなんだか、今は少し懐かしい。二人きりでのトレーニングなんて、本当にいつぶりだろうか。

 

「――キング?」

 

 こちらを覗き込んで声を掛けてきた彼に、慌てて我に返った。ドリンクのキャップをキュッと閉める。

 

「……驚いたわ。あなた、帰って来たばかりでしょう。トレーニングに来るなんて、思ってなかったわ」

 

 私の言葉を聞いていたトレーナーは、不思議そうに首を傾げていた。

 

「もちろん来るよ。当然だろう」

「……どうして?」

「君が走ってるから」

 

 真っ直ぐな瞳の答えに迷いは微塵もない。見つめ合うのが気恥ずかしくて目を逸らし、タオルに口元を隠した。随分子供っぽいことを訊いてしまった気がして、余計に頬が熱い。

 そんな私の仕草をどう受け取ったのか、トレーナーはおもむろに頭を下げた。あまりに突然のことで、私の方が面食らってしまう。

 

「ごめん。最近ずっと、君に、君自身のことを任せっきりだった」

 

 謝罪の言葉に、なんと返せばいいのかわからなかった。

 ちゃんと理解してる。これまでみたいに、私一人につきっきりとはいかないことも。後輩たちが、デビューしたばかりで大事な時期であることも。先輩である私なら、自己管理もできるだろうと、彼が信頼してくれていることも。

 ……ちゃんと理解していなかったのは一つ。私には、自分で思っていた以上に、彼の存在が必要だったこと。

 少しの間があった。頬の熱が引く頃に、タオルに向かって小さく息を吐く。

 

「なあに、そんなことを気にしていたの? 私はキングヘイロー、一流のウマ娘よ。トレーナーがいないくらいで、トレーニングや自己管理が疎かになったりしないわ」

 

 いつもの調子でそう答えた。少しばかり混ぜ込んだ、嘘と見栄と意地。ズキリと、また少し胸の辺りが痛む。

 顔を上げたトレーナーと目が合う。口元を緩めた彼の表情は、なんだか少し寂しそうに見えた。

 

「……そうだよな。さすがはキングだ」

 

 またズキリと、胸の別のところが痛んだ。

 彼が何を言って欲しかったのか、わかる気がする。けれどそれは、私の言って欲しい言葉と同じで、私の本音そのもので、彼に告げたい言葉と一字一句違わない。私の勘違いで、都合のいい妄想のような気がしている。

 だから、その言葉を口にするのに、相応の勇気が必要だった。

 

「……だ、だからといって、別にあなたがいなくてもいいとか、そういう訳ではないからっ」

 

 早口で言い切って、彼から目を逸らした。タオルで汗を拭うふりをして、口元と熱い頬を隠す。

 一流のウマ娘である私が、世界でただ一人頼るのは、あなただけなのだ。そう告げるに等しいセリフは、ともすれば愛の告白のようで、それに気づいてしまうと、せっかく鎮めた心臓の鼓動がまた早くなった。熱い何かが血液と共に体中へ運ばれていく。でもそれを、不快なものとは感じない。

 タオル越しに、一つ息を吸った。

 

「……一流のウマ娘である私には、一流のトレーナーであるあなたが必要よ。それは、本当のことだから」

 

 もう一度、今度はよりはっきりと口にした。ありったけの勇気と気合いを振り絞って、トレーナーの目を見つめる。真ん丸に開かれた瞳の中に、夕焼けと私が映り込んでいた。

 しばし言葉を失っていたトレーナーが、安堵に似た息を吐いた。夕陽を受ける瞳が、ゆっくりと弓なりに細くなる。

 

「ありがとう。……俺も同じだ。俺には、どうしても君が必要なんだ」

 

 穏やかな表情が告げる言葉には、ほんの少し子供っぽい懇願が混じる。私のものと同じ、愛の告白にも似た響きを聞き届けて、耳が熱くなった。ターフを駆ける時と同じように、ふわりと不思議な心地が胸の辺りを支配する。

 

「……それは、どのくらい?」

 

 気づけばその不確かな心地のまま、口を開いていた。言ってしまってから、しまったと思っても遅い。慌てて口を塞いでも、言葉は零れてしまった後だ。

 また、子供っぽいことを尋ねている。そんなこと、訊いたって仕方がないのに。きっと彼を困らせるだけだ。

 慌てて、私は私自身の発言を取り消そうとした。

 

「ごめんなさい、今のは忘れて――」

「一番だよ」

 

 けれど、私が言葉を募らせるより前に、トレーナーが答えてしまった。

 言いかけた取り消しの言葉が詰まる。開いたままの唇から呼吸をすることもままならず、高鳴る心臓のまま彼を見つめていた。私を捉えて離さない瞳が、彼が真剣そのものであることを物語る。

 迷いなく動いた唇が、彼の言葉を語った。

 

「君が一番だ。一番信頼してる。一番応援してる。一番期待してる。――他の誰でもなく、君が一番必要だ」

 

 遮ることも、目を逸らすことも、できなかった。ターフの風だけが私たちの間を駆けていく。しばらくそのまま時間が流れた。一瞬のことだったはずだけれど、なんだか随分と長い時間に感じられた。

 先に目線を逸らしたのはトレーナーだった。夕焼けの茜とは別の色で染めた頬が苦笑いする。

 

「ごめん、すごく恥ずかしいことを言ってる気がする」

 

 羞恥で頬を掻く彼の姿に、私の方も一気に力が抜けた。思わず頬が緩む。随分締まりのない笑い方をしている自覚はあったけれど、それを直せる力まで今の私からは失われていた。せめて口元だけでもと、拳とタオルで綻んだ唇の端を覆い隠す。

 

「ええ、まったく。……お互いに、ね」

 

 随分恥ずかしいことを口にしたのは、私も同じでしょう。私にはあなたが必要で、あなたには私が必要で、そんなわかりきってたはずのことを改まって確認していることが気恥ずかしく、頬が熱い。

 妙な時間が流れていた。それ以上に告げる言葉が見つからず、緩みの引かない頬を隠しながらも、ただ彼を見つめている。たったそれだけのことに、無上の喜びを見出している。

 この感情を、何と例えればいいのだろう。

 

「キング。何か、俺にして欲しいこととか、ないかな」

 

 長い沈黙の後、一つ咳払いを挟んで改まったトレーナーが、私に尋ねた。

 彼の考えていることはすぐにわかった。私を一人にしたことの、埋め合わせでもするつもりなんだろう。

 彼も戸惑っているのかもしれない、そう思った。これまでの三年間は、何をするのにも一緒だった。どんな時でも共に走った。だから、ほんの少しでも別の道を歩んだ後に、どうしたらいいのかわからない。

 微かな息が唇の隙間より漏れた。まったく……そんなこと、いちいち気にしなくたっていいのに。

 

「埋め合わせのつもりなら、必要ないわ。埋め合わせてもらうようなことでもない。あなたはデビューしたての二人に付き添うべきと判断して、私もそれを支持した。それだけのことでしょう」

 

 そう、それだけのことだ。まだ二人で走り出したばかりだった頃、彼が私に付きっきりだったのと同じ。それを埋め合わせてもらおうなんて、そんなことは思いもしない。

 でも……でも、そうね。これくらいは許されるかしら。

 

「……ああ、それにしても。今日は何だか、いつもより頑張った気がするわ。脚もパンパンだし、もう一歩も動けないかも」

 

 ウララさんが嬉しそうに話していた、「トレーナーにおんぶしてもらったんだ~!」という言葉を思い出しながら、私はトレーナーに告げる。

 トレーナーから視線を外して、もうほとんど乾いた汗を、わざと拭うふりをした。足首を回したり、腿をマッサージしたり。我ながらあまりにも滑稽な演技をしていると、そう思う。

 まあでも、疲労があるのは事実だし、全てが全て噓という訳ではない。誤魔化すように自分へ言い聞かせると、それがさらに私のやっていることへの恥ずかしさを増す。

 ……こういう時は、素直に甘えられる娘が羨ましい。

 

「でも、トレーニング後のミーティングは、きっちりこなさないとよね。一流のウマ娘は、自身の振り返りも疎かにしないもの。――ああ、誰か私を、トレーナー室まで連れて行ってくれないかしら」

 

 最後は早口に捲し立てた。熱い顔に手で風を送りながら、片目でチラリとトレーナーを窺った。

 豆鉄砲を喰らった鳩、とでも言えばいいのだろうか。ぽかんと間の抜けた顔をトレーナーは見せている。それがさらに頬を熱くした。

 慣れないことはするものじゃない。安易にウララさんの真似をしたのはよくなかった。やっぱり取り消そうかと唇を開きかける。

 

「俺でよければ、連れて行こうか」

 

 トレーナーの返事に、一瞬頭が真っ白になった。ぽかんと、しばらく間抜けに口を半開きにするのは、今度は私の番になる。「……そう」と、ほんの一言短い言葉を返すのに、随分と時間を擁してしまった。

 

「そうね。あなたは私のトレーナーなのだし、それじゃあお願いしようかしら」

 

 内心でガッツポーズを握った。

 まあでも、流石におんぶという訳にはいかないだろう。それに、学園内でそんなことされたら、私が恥ずかしさで死んでしまう。いつも一緒にいる娘たちにでも見られたら、明日からどんな顔で会えばいいかわからないもの。

 でもきっと、肩くらいは貸してくれるだろう。それでいい。それで十分。それだけで、私は彼とこれからも走っていくのだと、そう思えるから。

 

「それじゃあ、キング。少し失礼するよ」

「ええ、どうぞ」

 

 歩み寄ってきた彼の方へ手を伸ばした。やっぱり気恥しくて目を瞑る。夕方の風は、少し涼しい気がした。

 次の瞬間、予想もしなかった感覚がした。

 ふわり。まるで翼でも得たかのように、私の脚がターフを離れた。宙に浮かぶ感覚。不安定に思えた浮遊感は、しかし別の何かに支えられていて、すぐに安心感へ変わった。ふと懐かしい心地になったのは、子供の頃、お母さまが同じようにしてくれたのを思い出したからだろうか。

 

「……え」

 

 自分の身に何が起こったのか、ゆっくりと理解した私は、間抜けな声とともに瞼を上げた。

 夕陽を背にしたすぐ側に、こちらを覗き込むトレーナーの顔があった。

 これは……っ。これ、は……っ。

 

「ど、どうしてお姫様抱っこなのよっ」

 

 自分で叫んだ言葉に、顔から火が出るほどの熱を感じた。

 私は今、トレーナーの腕の中に収まっている。肩と膝裏を支えられて、彼の腕に抱かれている。俗にお姫様抱っこと呼ばれるそれは、確かに誰かを運ぶための一つの方法だ。

 けれど、全く心の準備ができていなかった私には、それはあまりにも強すぎる刺激だった。何より、普段より圧倒的に近い距離感と、夕焼けの中で微笑む彼の表情に、一瞬でも惚けてしまった自分が恥ずかしかった。

 彼が困ったようにオロオロと視線を動かす。

 

「え、今のはお姫様抱っこの流れじゃなかったか?」

「今のはおんぶの流れでしょう!?」

「そ、そうだったのか」

 

「いやでも、おんぶだと足に負担が……」「安全かつ負担のない運び方ならこっちの方が……」なんて、彼はしばらく早口で理屈を並べた。そっぽを向いてしまった顔が、少しずつ赤くなっていく。最後には眉を八の字に下げて、彼は苦笑いした。

 

「……ごめん、降ろすよ」

 

 ……もう、へっぽこ。降ろせなんて、言ってないでしょう。

 ……ああ、ううん。この場合、へっぽこは私の方かしら。

 

「――ばか。ばか。ばか、ばかっ」

 

 足をばたつかせ、軽く握った拳で数度彼の胸を叩いた。それから腕を伸ばし、彼の首を絡め取る。落ちないためとはいえ、あまりにも恥ずかしい格好にまた足をばたつかせる。きっと夕焼けなんかじゃ誤魔化せないほど真っ赤になっている顔を隠そうと、彼の肩に頭を埋めた。腕に力を込めたことで、図らずも彼を抱き寄せる形になる。

 私が暴れている間も、彼は私を落とさずにいてくれた。

 色んな感情がごちゃ混ぜになっている。今日はただでさえ、心の整理が追い付かないほど、色んなことがあった。色んなことを思い知って、色んなことを確かめて、色んな感情が溢れて。自分の心がどこにあるのかも、今の私にはわからない。

 けれど一つだけ、確かなことがある。

 私とあなたは二人で一流。私とあなたのどちらかが欠けても、キングヘイローにはなれない。私にはあなたが必要で、あなたには私が必要。大空を舞う鳥の羽が二枚あるように。豊かな緑の二本の枝が互いを支え合っているように。……私に、二本の脚があるように。

 私はあなたを離さない。これからも共に走っていく。……だから、お願いよ、トレーナー。

 

「――決して、離さないで」

 

 埋める肩に、我ながらどうしようもなく頬を緩めて呟いた声は、自分でもよく聞き取れなかった。だからきっと、トレーナーにも聞こえていないはずだ。

 

「――うん、わかった」

 

 一体、何がわかったのだろうか。私を抱える腕の力が、少し強くなった気がした。

 トレーナー室へと、彼がゆっくり歩きだす。風は涼しいはずなのに、どくどくと鳴る心臓が熱い血液を送り出し続けるせいで、一向に体は冷えない。けれど不思議と嫌な心地はしなかった。

 

 

 

 トレーナーの耳が、私の声を埋めた肩のすぐ傍にあることへ思い至ったのは、それからしばらくしてのことだった。




投稿した内容を見直しながら、一日一作ずつくらい公開していきます。


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あなただけの勝負服

連日投稿の二作目です。
キングとお母さまのお話。


 緊張した面持ちで部屋へと入ってきたウマ娘は、緩いウェーブのかかった綺麗な鹿毛をしていた。

 端正な面持ちと勝気な栗色の瞳が印象的な美少女。あどけなさは残るものの、立ち姿や小さな所作からは気品と育ちの良さが感じられる。名のある良家の令嬢か、あるいはどこかの王族の姫様か、そんな雰囲気であった。

 

「キングヘイローです。本日はよろしくお願いいたしますわ」

 

 綺麗に腰から上半身を折って一礼するウマ娘――キングヘイロー。そんな彼女の横に立つ若い男性も、揃って頭を下げた。どことなく騎士のような雰囲気の、こちらも見事なお辞儀だった。襟もとにキラリと光るバッジから、彼が中央トレセン学園所属のトレーナーであることがわかる。

 短くも素晴らしい挨拶をしてくれた二人。しかし顔を上げても、やはりウマ娘の方は緊張が解けない様子だった。GⅠを勝利した経験のあるウマ娘が、こうした打ち合わせで固くなることは珍しい。最高峰のレースを勝つだけあって、年齢以上に落ち着いた雰囲気で臨む子がほとんどだ。しかし、こと今日のこの子に限っては、それも無理のないことだと思った。

 栗色の瞳が揺れている。その視線は、入室した時からずっと私のすぐ隣へ向けられていた。

 私がパートナーと認めた、一流デザイナーであるウマ娘がそこには立っている。チラリと窺ったその横顔は、普段と変わらず涼やかに見えるだろう。しかし隣の私には、目の前のウマ娘と同じかそれ以上に緊張で強張っているのがわかった。緩くまとめた鹿毛の合間に覗くうなじを冷や汗が通り抜けている。ここがデザイナー事務所の応接室ではなく、行きつけのバーであったら、彼女は真っ先に私へ泣きついてきただろう。

 ようやく、という様子で震える唇を開いた彼女が、二人の来訪者に用意された席を勧めた。

 

「……よろしくお願いいたします、キングヘイローさん。――どうぞ、お掛けになってください」

「……ええ、失礼します」

 

 勝負服デザイナーと競技ウマ娘。本来であれば、互いに仕事上の付き合いでしかない間柄だ。和やかな雰囲気づくりに努めることはあっても、ここまでぎこちない間合いが流れることはない。そんな空気には絶対にしない手腕を、隣の彼女は持っていたはずだ。しかし今日はそのスキルがまったく発揮されていない。

 勝負服デザイナーと競技ウマ娘――母と娘。実に数年ぶりとなる親子の対面を目にした私は、感慨深いものを感じながら、他の同席者と共に席へ着いた。

 

 

 

 

 

 

 勝負服の裁縫師なんて仕事をしていれば、当然のことながらデザイナーとの繋がりができる。人付き合いとか、伝手とか、縁とか、どうやってもそういうのとは切り離せない業界だ。いい仕事をして評価されたければ、いいデザイナーの勝負服を担当する必要があるし、逆にデザイナーも腕の立つ裁縫師とのパイプを持ちたがる。世知辛いようだが、技術や才能だけでご飯は食べられないのだ。

 幸いにして、私には技術と才能も、そしてそれを活かせるパイプもあった。テーラーであり、幼少の頃から裁縫を教えてくれた両親と、業界各所にパイプを持ち、それを私へ引き継いでくれた師匠には、感謝してもしきれない。

 技術も伝手もあり、業界でも一流と呼ばれる私は、それだけに様々なデザイナーと繋がりがある。しかしそんな中でも、取り分けて付き合いの深いデザイナーというのが、一人いた。お得意様、という言い方もできるが、どちらかと言えばパートナーだろうか。お互いにお互いの技術へ惚れ込んだ者同士、という奴だった。何かとウマが合ったこともあり、気づけばプライベートでも友人と呼べるくらいの付き合いになった。

 彼女は元競技ウマ娘だった。それも錚々たるタイトルを獲得した一流のウマ娘。しかし驕ったところは一つもなかった。それはもちろん、デザイナーとしての矜持やプライドはあったし、それが原因で頑固な私と衝突することもしばしばだったが、よく人の話を聞き、そして謙虚で素直だった。一人の仕事人間として、その姿勢には敬意を表していた。

 他方、仕事の関わらない、プライベートな彼女は、どこか抜けたところのある人だった。仕事をしている時の優秀なイメージはどこへやら、どこにでもいるような――いいやどちらかというと常人より不器用でおっちょこちょいな、放っておけない可愛さのある人だった。そして何より子煩悩だった。

 競技者だった頃に結婚し、出産もしたという彼女は、いつも肌身離さず娘さんの写真を持っていた。スマホの待ち受けはいつも娘さんの写真か、娘さんと彼女のツーショット。二人でランチをしている時も、必ず娘さんの話が出る。やれ、かけっこで一番を取っただの、テストで百点だっただの、彼女の似顔絵を描いてくれただの、そんな話を飽きもせず笑顔で話して聞かせてくれた。

 

「愛されてるね、キングちゃん」

「……ふふっ、そうかしら」

 

 私がそう言うと、汗を掻いたアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、彼女は照れくさそうに笑った。黒曜石のような液面を見つめる目は、年下には思えないほど大人びて、そして綺麗だった。

 

「あの子には、幸せになってほしいの」

 

 母としての言葉は、願いとも祈りとも取れる響きで、少し息を呑みながら、私も「そうだね」と頷いた。そうすると彼女は、何とも優しく笑うのだった。

 

 

 

 

 

 

 彼女から珍しく飲みに誘われたのは、ファッションショーのために揃ってホテルへ宿泊した時のことだった。

 普段の彼女は「キングが待っているから」と、お酒の席には全く参加しない。こうして翌日にショーを控えて準備に追われた日や、勝負服をデザインしたウマ娘のレースを観に来た日なんかに、ホテルへ泊まることになった時だけ夕食に参加する。しかしそれも、彼女から誘ってくることはなかった。いつも私や、彼女の同僚が連出して初めて、彼女はお酒の席へ顔を出す。

 だから、彼女から声を掛けられるのは、本当に珍しいことだった。

 

「キング……本気で、トレセン学園に入学するつもりらしいの」

 

 イタリアンのお店で腹を満たし、近場の静かなバーへ場所を移すと、頼んだカクテルが届く前に、彼女がぽつりと呟いた。

 トレセン学園と言えば、ありとあらゆるウマ娘レースの最高峰、トゥインクル・シリーズに出走するウマ娘たちの集うところだ。特に選りすぐられたエリートのみが在籍することを許される、競技ウマ娘にとってあこがれの場所。私が生業としている勝負服を着ることができるのも、トレセン学園に所属し、トゥインクル・シリーズでGⅠレースに出走するウマ娘だけだ。

 彼女の娘さんは、その学園に入学し、競技者を目指すのだという。奇しくも、母と同じ道を歩もうとしているのだ。

 彼女の表情はこれ以上なく曇っていた。

 

「……反対なの?」

 

 私が尋ねると、彼女は勢い良く首を振った。綺麗な鹿毛が彼女の心を表すように乱れていた。

 

「……わからない。でも、心配なの」

 

 出されたカクテルをチビチビと口にしながら、彼女は訥々と語った。そこには、レースに関わる者として私が知っていることもあり、また逆にレースを走った者しか知り得ないこともあった。

 競技者を目指すウマ娘は、同じ世代でも七千人前後。上や下の世代も含めればその数は数万人に膨れ上がる。トレセン学園だけでも、その人数は中・高等部合わせて二千人を超える。その中で、レースに出られるのはたったの十数人。しかも一着になれるのは、たったの一人。シニア級になれば、ウマ娘は常に数万分の一という頂点を目指して走ることになる。どれほど才能があろうと、どれほど努力しようと、どれほど挑み続けようと、それだけではもうどうしようもないものがあるのだと、彼女は言った。

 

「娘は……キングは、才能のある子よ。脚は速いし、努力もできる。親の贔屓目なんかじゃない。あの子には一流の素質がある。だけど……だけど……」

 

 それだけで勝てる世界じゃない。元一流競技ウマ娘の語るレースの現実は、どんな言葉より重かった。

 

「結果が出せなくて、走ることが嫌になって……学園を辞めていく娘を、何人も見たわ。同期も、後輩も、先輩も……何人も何人も何人も。私より脚の速い娘もいた。私より努力している娘もいた。私にはない素質を持っている娘もいた。……そんな娘でも、勝てない世界なの。夢を潰されて、涙すら枯れ果てて、走ることすら嫌になってしまう、そういう世界なの」

 

 彼女は震えていた。両の腕で自分自身を抱え込んで、小さく椅子の上で丸まるようにして、青い顔で震えていた。

 

「……それは、やっぱり、入学には反対ってこと?」

「違うっ。違う……違う、けど……」

 

 声は今にも消えてなくなってしまいそうだった。心配そうにこちらを窺うバーテンダーに「大丈夫です」と目配せして、私は彼女の背をさすった。ぽたぽたと雫がカウンターの上に零れていた。

 

「……怖い。怖いの。あの子を応援したい、背中を押してあげたい……でも、すごく怖いの」

 

 娘さんの話をするときは、いつでも太陽みたいに笑っていた彼女。その彼女が今、ぼろぼろと涙を流していた。堪えることも、留めることもままならない様子で、彼女は泣いていた。

 

「キングは、頑張り屋さんだから。私の娘は、誰よりも努力家だから。あの子は、一流のウマ娘だから。――だからきっと、私が『頑張って』と言ったら、本当に頑張ってしまうのよ。どこまでもどこまでも、ボロボロになるまで頑張ってしまうのよ」

 

 そんな無責任なことを、娘には言えない。悲痛な親心の叫びだった。

「娘には幸せになってほしい」、幾度となく彼女が繰り返していた言葉を思い出した。彼女はいつだって、娘さんの幸せを一番に願っていた。娘さんが笑顔でいてくれることが、彼女の何よりの幸せなのだと語っていた。

 だから、彼女はこれほどまでに心配しているのだろう。レースが娘さんから笑顔を奪ってしまうのではないか、と。ウマ娘にとって生き甲斐にも等しい「走る」という行為を、娘さんが苦痛に感じてしまうのではないか、と。彼女自身がそういうウマ娘をたくさん見てきたからこそ、不安で、心配で、怖いのだ。例えそれが、娘さんの望んだ道の結果なのだとしても。

 

「どうしたらいいか、わからないの」

 

 それは私も同じだった。一人で娘さんの未来を抱え込み、どうしたらいいのかもわからず涙する彼女に、どんな言葉を掛ければいいのかわからなかった。可愛い娘の夢を応援したい、けれど親として無責任なことはできない、二つの心に挟まれ苦しむ友人に、何と言えばいいのかがわからなかった。赤子でも癒すように背をさする他なかった。

 結局その夜は、少しも酔えずにホテルへと戻った。次の日、何事もなかったように仕事をこなす彼女に、一流デザイナーとしての意地と矜持を見た気がした。

 

 

 

 彼女の娘さんが、半ば家出するような形でトレセン学園に入学したことを知ったのは、それから一年ほど後のこと。彼女が初めて、平日に私をお酒に誘った夜のことだった。

 

 

 

 

 

 

 裁縫師という仕事は、デザイナーと違ってトレセン学園に足を運ぶ機会がよくある。担当する子の採寸や、勝負服の修繕と仕立て直し、時にはサポート科の服飾の授業を手伝うこともある。

 トレセン学園を訪れると、仕事の傍ら、私はそれとなく娘さんの姿を探していた。娘さんのことは小さい頃から知っているし、歳は離れているが妹のような存在だ。彼女のことを抜きにしても、娘さんのことは気になっていた。

 とは言っても、あまりにも広大な敷地に各科合わせて数千人の生徒や教職員、トレーナーの在籍する学園内で、娘さん一人を見つけることは難しかった。仕事で来ている以上、方々探し回るわけにもいかず、せめて遠目にでも見つけられればと思っていたが、そう上手くはいかなかった。

 だから、娘さんの方から私へ声をかけて来た時は、非常に驚いた。

 お昼休みのカフェテリア、食べ盛りのウマ娘たちで賑わう空間の一角で、私は娘さんと向かい合っていた。幼い頃から何度も顔を合わせているけれど、娘さんと私の二人だけ、というのは、思えば初めてかもしれない。

 小さい頃から、同年代の子と比べると大人びて、しっかりした子という印象の少女だった。しかし、こうして改めて顔を合わせると、やはり年相応の、あどけなさの残る少女だ。おかわり自由だというカフェテリアのランチメニューを、悩まし気に選ぶ横顔がなんだか微笑ましかった。

 

「裁縫師さんがいらしているとは聞いていましたけれど、知り合いだったので驚きました。思わず声を掛けてしまって……お仕事中にすみません」

 

 頭を下げた娘さんに、「いいのよ」と答えて笑った。私もあなたを探していたのだ、という話をすると、栗色の鮮やかな瞳が真ん丸に見開かれた。「そうですか」と言って、少し照れくさそうに毛先を弄る癖が、小さい時から変わっていない。でも、言葉遣いも声色も、やや大人の色を帯びていて、年の離れた姉としては少し寂しい気もした。

 お互いの近況を話しながら、パスタを巻いた。とは言っても、私の方は変わらずの仕事なので、これといって話すこともなかった。自然、話題は娘さんのこと――トレセン学園とレースの話になった。

 入学したばかりの娘さんには、まだ指導をしてくれる人――トレーナーはついていないという。トゥインクル・シリーズへ出走するためにはまずトレーナーにスカウトされ、どこかのチームへ所属する必要があった。そしてスカウトを受けるためには、年に数回開催される選抜レースへ出走しなければならない。

 

「まずは選抜レースの出走権を獲得します。そしてトゥインクル・シリーズへの出走も、近いうちに、必ず」

 

 真っ直ぐに私を見て語る目は、娘さんの並々ならぬ決意を感じさせた。譲れない夢――それが叶うか叶わないかは別にして――を持っている者の目だ。私の決して短くない人生の中で、その目には何度かお目にかかったことがある。

 ああ、この子は本気なんだ。私だって本気で夢を追いかけてきた人間だったから、それくらいはわかった。そしてはたと気づく。きっと彼女も、この瞳に見つめられたのだろう、と。

 その時、彼女は何を思ったのだろうか。

 

「あの……何か?」

 

 ふとした思考に沈んで黙った私を、娘さんが覗き込んだ。さっきの決意とは裏腹に、少し不安げで寂しそうな目だった。慌てて首を振り、なんでもないと答えた。

 

「頑張ってね、キングちゃん」

 

 少し迷って、でも結局そう告げることにした。友人の娘さんを――随分年の離れた妹を応援したい気持ちは本当だ。でも、それは確かに、無責任な期待と願望であるように思える。

 娘さんは、微かに笑って頷いて、そして真剣そのものの表情で「はい」と答えた。けれど、栗色の目が見つめる先は、目の前の私より少し遠い場所のように感じた。

 

 

 

 

 

 

 トレセン学園へ所用があると、時折、娘さんと会うようになった。とはいえ、それほど頻繁ではない。私が学園を訪れる頻度は不定期で、一週間のうちに三度も足を運ぶこともあれば、数か月特に要件もなしという時もある。そして訪問すれば毎回娘さんと会える、という訳でもない。私には仕事が、娘さんには学業とトレーニングがあるわけで、両方の折り合いが上手くついた時だけ昼食を共にした。

 選抜レースへの出走権を得た、という話を娘さんから聞いた後、しばらく会える機会がなかった。学内開催のレース結果を部外者が知る方法はない。結果はどうだったのか。トレーナーからのスカウトは受けたのか。そろそろ訊いてもいいだろうかと思案していた時、「娘からトレーナーを紹介された」と彼女から聞かされた。

「お寿司が食べたい」という彼女を、幼馴染が大将をしているお店へ連れて行って、話を聞いた。選抜レースの結果が芳しくなかったこと。けれど素質を見込まれて、トレーナーのスカウトを受けたこと。トゥインクル・シリーズへのデビューに向けて練習を始めたこと。チビチビと日本酒を口にする彼女は、時に嬉しそうに、時に不安そうに、時に誇らしげで、時に寂しげで、時に泣きそうに話してくれた。

 

「担当は新人のトレーナーらしいわ。専属でウマ娘を担当するのもキングが初めてだって」

 

 へえ、と少し驚いた。娘さんはトレーナー選びにも妥協しないと言っていた。いくらレース結果が芳しくなくて、他にスカウトを受けなかったとしても、実績も何もない新人のスカウトを受けるとは思わなかった。それとも何か、余程のものが、そのトレーナーにはあったのだろうか。

 

「経験も実力の内よ。トレーナーっていう職業もそう。新人の頃からウマ娘を勝たせてあげられるトレーナーなんて、どんなに強いウマ娘を担当しても、ほんとに一握りしかいないわ。……だから、心配」

 

 でも、と彼女は少し笑う。

 

「キングの素質を見抜くなんて、将来有望なトレーナーね」

 

 親バカ、と思わず呟いてしまったことは、お酒も入っていたので許してほしい。

 

 

 

 

 

 

「似た者親子」という言葉は、彼女と娘さんのためにあるのだと思う。

 

 

 

 とあるレースに娘さんが出走した、次の月曜日の夜。いつもよりお酒の量が多かった彼女は、潰れた饅頭みたいにバーのテーブルへ突っ伏して涙を流していた。

 話を聞くと、レースが終わった直後に娘さんへ電話を掛けたが、余計なことを言って切られてしまったらしい。今回に関してはどうやっても彼女を庇う要素がなく、「それはキングちゃんが可哀想」と私は苦言を呈した。彼女は益々萎んでしまう。

 最初は、レースで負けてしまった娘さんを、励まそうと思ったのだという。

 

「電話に出た時のあの子、声が震えてたわ」

 

 もう、それだけで、訳がわからなくなってしまったらしい。頭が真っ白になってしまったらしい。

 マスターの渡してくれたおしぼりに顔を埋めて、彼女はくぐもった声で吐露した。

 

「あの子が落ち込んでいるのなら、励ましてあげたい。次は勝てる、あなたは強いウマ娘なんだから、って。そう言ってあげたい。……でも、昨日のキングは、傷ついてたわ。負けて、悔しくて、すごく傷ついてた。震えてた」

 

 そんな風になるのなら、もうレースなんてやめて欲しい。それは彼女の、()()()()()()だった。

 

「傷つくのなら、レースなんて出なくてもいい。私はただ、キングが笑って走っていてくれれば、それでいい。走ることが大好きなキングでいてくれれば、それでいい。たったそれだけなの」

 

 でもそれは、娘さんには関係ないことだ。娘さんの望んでいることじゃない。それは彼女もわかっているんだろう。そしてもちろん、彼女の本心だって、違う。

 彼女は、自分で自分を責めている。情けない自分を、誰よりも責めている。娘を励ますこともできず、あまつさえその大切な娘を傷つけた、自分自身を責めている。

 

「キングは、あんなに頑張り屋さんで、すごい子なのに。それなのに私は、大切な娘一人、慰めてあげられない。どうして私は……私はこんなに、へっぽこな母親なの……」

 

 ……本当に不器用なのだ。不器用なのに、真面目で真っ直ぐな生き方しかできないんだ。そういうところが可愛らしいと思っていたけれど、今はひたすらにもどかしい。何より、自身の不器用さに苛まれる彼女が、不憫でならなかった。

 

「こんな私に励まされたって、あの子も迷惑なだけよね、きっと。それにもう、顔も見たくないくらい嫌われてるわ、私」

 

 辛そうに、自嘲気味に泣いて笑う彼女の言葉を、それだけは断じて否定した。

 

 

 

 

 

 

 娘さんと会う時に、彼女の話をしたことはなかった。どこからか「私が娘さんとたまに会っている」という話を聞いたらしい彼女に、きっちりと口止めをされたというのも理由だけど、そもそも娘さんから「母はどうしているか」と訊かれたこともなかったからだ。

 けれどその日、珍しく娘さんの口から、彼女の話題が出た。娘さんがクラシック級からシニア級に移ってしばらくした頃のことだった。

 

「母は元気ですか」

 

 ミルクと砂糖の入ったコーヒーを混ぜていた私は、びっくりして向かいの娘さんを見た。私と同じようにコーヒーへスプーンを入れていた娘さんが、妙な面持ちで私を見ている。

 

「ああ、いえ、えっと……元気なのは知ってます。毎日のように心配性なメールが届きますから。でもその、仕事とか、最近どうしてるとか……」

 

 あちらへこちらへと目を泳がせる娘さんは、誤魔化すように言葉を募らせた。その度に娘さんの顔がそっぽを向いていった。仕舞いには頬を染めて眉尻を下げ、俯いてしまう。

 

「ごめんなさい、今のは忘れてくださいっ」

 

 慌てた様子で娘さんはコーヒーをすすった。どうにもまだ熱かったらしく、渋い顔をしてすぐにカップから唇を離す。食事中に慌てるということのなかった娘さんには珍しい失敗だった。

 ふっと力が抜けてしまって、頬の緩みを自覚した。端から見れば随分変な笑い方をしたと思う。でもなんだか安心したのだ。

 娘さんは眉間に皺を寄せて私を軽く睨んだ。

 

「わ、笑わないでください」

「ごめん。――キングちゃんからお母さんの話題が出るの、初めてだったから。ちょっと驚いた」

「それは……」

 

 自覚はあったらしく、娘さんはバツが悪そうに視線を落とす。カップの液面を静かに見つめる顔を、私もコーヒーに唇をつけながら見つめていた。しばらく瞳を彷徨わせて、娘さんは溜め息交じりに再度口を開く。

 

「……あの人、自分の話はこれっぽっちもしないんですよ」

 

 これまた娘さんには珍しく、丁寧さの抜けた、少々ぶっきらぼうな言い方だった。呆れているのか、照れ隠しなのか。どちらかはわからないまま、「ああ、そういうところはあるね」と私は相槌を打った。

 

「やれご飯は食べてるかだの、しっかり寝てるかだの、しっぽのケアを怠るなだの、私のことは散々心配するくせに。自分のことは一つも話さないんです。……昔からいつもそう。自分のことは棚に上げて、私のことばかり」

 

 そこまで言って、娘さんはまたそっぽを向いた。カフェテリアの大窓に向かって唇を尖らせる横顔。伏せった目が少し寂し気だ。大人びた表情に、ほんの少し子供っぽい色が宿る。

「直接訊いてみたらどうかな」と提案しようかと思って、けれど留まった。それができていたら、こうしてわざわざ私へ尋ねたりはしない。

 親心があるのなら、子心とか娘心とか言えばいいのだろうか。親心が複雑なように、娘心だって複雑で繊細だ。特に、娘さんの年頃なら、尚更。同じような経験を、随分前のことだが、私もしている。

 

「元気にしてるよ。すっかり仕事人間になってる」

「……母は、昔から仕事人間です」

「そうだね。でも、キングちゃんが学園に入ってからは、もっと仕事してる」

 

 頑張っている娘さんに負けないように。そして、いつか娘さんの勝負服を作れるように。けれどそれはまあ、私の口から娘さんに言うことではないだろう。

 娘さんの瞳がコーヒーへ落ちた。整った顔立ちに明らかな影が差す。唇が震えていた。

 

「……母にとって、私は仕事の邪魔になる存在だったんでしょうか」

 

 心臓が締め付けられる感覚がする。慌てて首を振り否定した。それだけは断じて否定しなければならないと思った。

 

「違うよ。そんなわけない。むしろ逆。仕事しかやることがないんだよ、今のお母さん」

 

 ()()()()()()()、娘には見せてあげられない。彼女はいつもそう言う。キングヘイローの母親として恥ずかしくないように、こんなことしかできないんだ、と。母親としてできることはこれくらいしかないのだ、と。

 ……ああ、ほんと、不器用な愛し方だ。

 

「……親不孝な娘です」

 

 伏せった目で、娘さんはぽつりと呟く。けれど、再び私を見た瞳に、影は残っていなかった。勝気な瞳。眩いばかりの栗色の瞳。それとよく似た目を、私はよく知っていた。

 

「やめません。誰が何と言おうと、私は走ります。私は、私自身が一流であるために、授かったこの二本の脚で走り続けます」

 

 叫ぶような宣言だった。まるで、私ではない、遥か遠くの背中へ投げかけるように。一流を示して立ち続ける誰かに、宣戦布告をするように。

 ああ、ほんと、不器用な愛し方だ。言葉を語るには器用さが足りなくて。けれど切って捨てられないほどお互いを知っている。それゆえ口を出さずにはいられなくて。だけどやはり、本音を語るには不器用が過ぎた。

 もどかしい。けれど私にはどうすることもできない。私はただここで、大好きな友人と、大切な妹分が、いつの日か向き合えることを祈る他ない。

 その日がきっと遠くないと、私は信じて疑わない。

 挑戦的に笑った娘さんは、それからまた気恥ずかしげにそっぽを向く。頬を紅潮させて、尖った唇で語ったのは、さっきまでの勢いとは程遠い、ささやかな声だった。

 

「それに……いつかあの人に、私の勝負服を()()()()()()()のが、私の夢ですからっ」

 

 それは、なんとも反抗的な、親孝行だった。

 

 

 

 

 

 

「キングヘイローの勝負服を製作して欲しい」、URAから彼女と私に依頼があったのは、大接戦となった有記念をキングちゃんが制した、その年明けだった。

 こうした依頼はままある。URA賞や顕彰ウマ娘、年度代表ウマ娘など、最も高い格付けの賞をウマ娘に授与する際、記念品として勝負服を贈ることがあるのだ。そうした場合、URAの認定した勝負服デザイナーに依頼が来る。それも、ごく一部の、選りすぐられた一流デザイナーにだけ、だ。彼女は史上最年少でその依頼を打診され、以降ほぼ毎年、この栄誉ある仕事を請け負っている。

 そんな彼女に、黄金世代の一人として中央レースを盛り上げる娘さんの勝負服製作依頼が来るのは、当然と言えば当然の成り行きだった。

 この時の彼女の乱れっぷりは、十数年来の付き合いになる私でも見たことがないほどのものだった。メールチェックをした直後にかけて来たらしい一回目の電話は、あまりに興奮していて八割以上何を言ってるのかわからなかった。鼓膜が破れそうだったので遠慮会釈なく途中で切ると、十分ほどして二回目の電話がかかってきた。鼻息は荒かったものの若干落ち着いたらしく、仕事上のやり取りをあれこれと二十分ほどして切った。……が、そのさらに二十分後に三度目の電話があって、今度は明らかな涙声で不安を語られた。再び二十分ほど慰めて電話を切り上げ、さあ今度こそ仕事にとりかかろうと思い直したところで、四回目の電話がかかってきた。

 感情のジェットコースターに結局六回も付き合わされた私は、今夜飲みに行く約束だけ取り付け、問答無用で電話を切った。以後の着信はことごとく無視。

 いつものバーで適量を見計らってアルコールを摂取させると、彼女は潰れた牡丹餅みたいになって静かになった。水を与えて落ち着かせると、ようやく話が聴けるようになる。

 

「……私で、いいのかしら」

 

 結局のところ、彼女の悩みはそこへ集約されるのだろう。薄々気づいていたけれど、酔いに任せてぽつぽつしゃべり始めた彼女の話を、いつもの通り相槌だけで聴いていた。

 

「私は嬉しいけれど……キングはきっと、そうじゃないはずよ。――私が勝負服を作ること、キングはどう思っているのかしら。きっと他に……私以外に、作ってほしいデザイナーが、いたんじゃないかしら」

 

 口を開くたびに萎んでいく声。どうやら、娘さんの今の勝負服をデザインできなかったこと、彼女はいまだ引き摺っているらしかった。乗せられた不安と寂寥は、なんだか遠い恋人に想いを馳せる乙女のようだと、そんなことを思わずにはいられない。

 さすがに堪えきれず、口へ当てた拳に私は小さく吹き出した。テーブルに突っ伏す彼女が、恨めし気な瞳でこちらを軽く睨む。端正な顔が台無しで、だけど無性に可愛らしくて、やはり笑ってしまった。

 

「わ、笑わないでっ」

 

 抗議の声にごめんと返す。彼女の不安への答えは、きっと顔合わせの時に娘さんが答えてくれる。だから私にできることは、彼女をその場に送り出すこと。数年ぶりの対面の場に、彼女を着かせること。

 すれ違っていた――のかどうかすらよくわからない、けれど確かに開いてしまった距離を埋めるきっかけになるのなら、これくらいのお節介は許されてもいいだろう。そう思うくらいには、私はこの親子が大好きだ。

 

「いくらURAでも、一存でデザイナーを決められないでしょ。勝負服を着て走るのはウマ娘なんだから。候補を何人か提示するか、少なくともこのデザイナーで良いかどうか確認は取る。それくらい、知ってるでしょ」

「……うん」

「だから大丈夫。少なくともキングちゃんは、あなたのことを嫌がってない。あなたに勝負服のデザインを任せてもいい、ってそう思ってる。……そういう風には考えられない?」

 

 彼女は何も言わなかった。頷くことも、首を振ることもなかった。チビチビと、半分ほどになったコップの水に口づける。それからグイッと、残った水を一息に煽った。コップを置いた彼女は、ここではないどこか――誰かを真っ直ぐに見つめていた。落ち着いたバーの照明を受けて、栗色の瞳が瞬く。宝玉そのものの輝きを、ただただ美しいと思った。

 

「……作るわ。キングの勝負服。どんなデザイナーにも負けない、一流の仕事をして作るわ。あの子の走りに相応しい勝負服を、必ず、きっと」

 

 力強く宣言して、清々しく言い切って、そうして彼女は私を見た。眉を下げて少し恥ずかしそうに、けれど確かな意志を宿して彼女は手を差し出す。

 

「だから、お願い。裁縫師として、あなたも一流の仕事をして頂戴」

「――元からそのつもりです」

 

 彼女の力強さに負けないくらい、勢い良く手を握って、ぶんぶんと振った。彼女はくすぐったそうに笑う。思えば、そんな風に笑う彼女を見たのは、随分と久しぶりのことだった。

 カクテルのおかわりを二人分頼む。マスターが準備してくれる間、私は彼女に尋ねた。

 

「それで、デザインはどうする? もうアイディアの一つや二つ、あるんじゃないの?」

「……さ、さすがに、今日依頼があったばかりで、何もないわよっ」

 

 彼女は何かを隠すように白を切り、そっぽを向く。だけど不器用ゆえに、やっぱり嘘が下手だ。

 ……これは今夜こそ、三年近く温めたとっておきの秘密道具を出す時が来たんじゃないか。そんなことを考えて、湧き出る悪戯心を押さえながら出されたカクテルを受け取る。彼女が口をつけたところで、私は何気ない風を装って呟いた。

 

「……『極秘』の棚の中身、出さないの?」

「んぶっ!?」

 

 雰囲気のいいバーには全く似つかわしくないむせ方を隣の彼女がしている。見事に不意を突くことに成功したようだ。ゴホゴホと激しく咳込む彼女は、涙目を白黒させながら私を見た。アルコールのせいにしては、随分と鮮やかな赤に頬が染まっている。

 (くだん)の棚は、彼女が普段仕事をしているデスクに存在する。五年ほど前から存在しているその棚の中身については、誰も知らない――という体になっている。

 鍵付きのその棚を、彼女は日に何度か開けては中身を取り出し、百面相をしているらしい。

 

「なんっ……なんで、知ってるのよっ!?」

「言っとくけど、知ってるのは私だけじゃないから」

 

 そもそも、この件の情報源は彼女の同僚だ。

 しれっとして更なる爆弾を投下すると、彼女は最早声も発することができなくなってしまったらしい。パクパクと金魚みたいに言葉にならない声を上げ続ける。それから元の通り、テーブルに突っ伏して潰れてしまった。「もういっそ殺して」と、くぐもった声が訴える。

 

「今更だよ」

 

 そう、今更だ。

 不器用だけれど。少し臆病だけれど。世間一般の差す「いい母親」とは間違っても言えないけれど。

 娘さんが大切で、大好きで、懸命に愛している。ただそれだけの点をもって、彼女は「一流の母親」だ。そんなこと、当の昔に、私も彼女の同僚も知っている。

 だから、彼女がその不器用な愛し方を隠していたつもりなら、今更だ。

 

「……あの中身は、出さないわ」

 

 しばらく悶え苦しんでいた彼女は、そう言ってようやく顔を上げた。カクテルグラスを手繰り寄せ、けれどその中身を口にすることなく見つめている。そこに映る誰かへ――彼女によく似た誰かへ微笑みかけながら。

 

「今の……いいえ、これからのあの子に相応しい勝負服をデザインしたいから」

 

 とびきり優しい笑顔を向けられると、私の頬も勝手に緩む。今夜は久しぶりに気持ちよく酔えそうだと、そんなことを思った。

 

「それは、これからもずっと走ってほしい、ってこと?」

 

 私の言葉にぱちくりと彼女は瞬きをした。そんなこと思いもしてなかったんだろう。けれど、それほど考える時間はなく、彼女は赤い頬を掻きながら答えた。

 

「そ、そういうことっ」

 

 じゃあそれも、伝えられるといいね。私の提案に彼女はまた言葉を詰まらせて、「善処します」とそっぽを向いて答えた。

 

 

 

 

 

 

――そうして、親子は対面した。

 

 

 

 六人掛けの応接室の机に、六人が腰掛けている。私たち勝負服デザイナー側が三人――彼女、私、そして彼女の同僚。娘さんたちウマ娘側が三人――娘さん、トレーナー、URAの担当者。彼女と娘さんは、それぞれの真ん中の席に腰掛けて、対面していた。

 始めに、URAの担当者が企画の趣旨を説明した。中央レースを盛り上げる黄金世代――スペシャルウィーク、グラスワンダー、エルコンドルパサー、セイウンスカイ、そしてキングヘイローの五人に、特別賞が贈られること。今後のさらなる活躍を期待して、全員に勝負服が送られること。そこまで説明して、「あとはお願いします」とURA担当者は頭を下げた。

 あとを任された彼女は、チラリと手元のメモへ目線を落とした。それから正面の娘さんへ目を向けた時、その横顔はもう仕事人間のものになっている。私の横に座るのは一流の勝負服デザイナー。今は、目の前にいるウマ娘を輝かせることに、全身全霊をかけている。

 

「キングヘイローさん」

「はい。何でしょうか」

 

 彼女に呼ばれた娘さんも、真っ直ぐに見つめ返した。部屋に入って来たばかりの、やや緊張した様子の少女の姿は、すでに影を潜めている。そこに座るのは一流の競技ウマ娘。磨かれた二本の脚でターフに立ち、世代を輝かせている。

 よく似た栗色の瞳が、しばらく静かにお互いを見つめていた。

 

「最初にお伺いします。――あなたの勝負服のデザイン、私が担当してよろしいでしょうか」

「……え」

 

 おそらく、この場の誰もその質問は予想していなかっただろう。勝負服の打ち合わせで、彼女がそんな弱気とも取れる発言をしたことなど、私の知る限りない。

 娘さんも驚いたように目を見開いた。半開きの唇からすぐに返事は出てこない。

 その娘さんを彼女は微動だにせず見据えている。瞳の色は変わっていなかった。娘さんの勝負服作成が決まった日に見せたような、彼女の内の不安からではない。いや、もちろんそれもあるにはあるのだろうが。真っ直ぐな目線に感じるのは、不安よりも決意の色が強かった。

 それが、娘さんに伝わったのかどうかは、わからない。

 

「――ええ、もちろんです。構いません」

 

 娘さんも強い瞳でそう返事をした。やや不安げに推移を見守っていたらしい娘さんのトレーナーが、ふっと力を抜いて笑う。そんな彼をチラリとだけ見遣って、娘さんはわずかに目を細めた。

 

「確認するまでもないことですわ。私は、あなたが私の勝負服を作るのに相応しい、一流のデザイナーと考えています」

 

 ほんの少し言い淀む間があった。開きかけた唇から、一瞬だけ声が出てこない。けれど娘さんは、はっきりと、前を見据えて言い切った。

 

「私は、あなたに、私の勝負服を作っていただきたいのです」

 

 目を見開くのは、今度は彼女の番だった。

 栗色の瞳がきらりと光る。柔らかな煌めきは一瞬瞼によって隠された。再び開かれた時、雫の兆しはもうどこかに消えていた。

 

「ありがとうございます。光栄です。――そのご期待に沿えるよう、精一杯の仕事をさせていただきます」

「ええ。よろしくお願いいたします」

「では早速、勝負服の方向性ですが――」

 

 勝負服の打ち合わせが始まる。彼女のイメージ。娘さんのイメージ。トレーナーにも意見が求められ、裁縫師の私にも意見が求められる。けれどやり取りは終始、彼女と娘さんが中心だった。お互いの主張を真っ直ぐにぶつけ合う、端から見れば随分と白熱した議論になっていた。

 持ち込んだ画用紙に、彼女が凄まじい速さでイメージ画を描く。そうすると、娘さんの意見がすぐに飛んで来て修正が入る。二人の意見に、私も裁縫師として口を挟む。トレーナーが娘さんと二言三言意見を交わし、それもまた反映される。実に忙しない会議だ。

 でも不思議と、楽しい二時間だった。

 

 

 

「キング!」

 

 予定時間を一杯まで使った打ち合わせを終え、娘さんは応接室を後にした。事務所を後にする娘さんたちを、私たちも見送る。エントランスへやって来たエレベーターへ、娘さんが今まさに乗り込もうとした時、彼女が娘さんを呼び止めた。

 ぴたり。エレベーターへ乗せかけた足を娘さんが止める。「少し待っていて」と囁いた娘さんに「わかった」とトレーナーが微笑して頷いていた。ヒールを美しい調べで鳴らして、娘さんは彼女を振り返った。

 

「……キングヘイロー、さん」

「……はい。なんでしょうか」

 

 彼女に言い淀む間があった。開きかけた口から言葉が出なくて、グロスを引いた唇が震えている。けれど、彼女ははっきりと、真っ直ぐに娘さんを見つめて言い切った。

 

「……いつも、応援しています。――きっと、あなたに相応しい、勝負服にします」

 

 短い言葉に目を見開くのは、私であり、娘さんだった。「応援しています」、その言葉が彼女の口から出ることなど、本当に初めてだった。

 驚きを隠せない様子の娘さんは、ぱちくりと長い睫毛を震わせた。栗色の瞳が揺れている。淡い光が宿って、それが流れて瞳の端へ溜まっていく。けれど、娘さんが少し長い瞬きをすると、水面のような揺らめきはすでになかった。

 一流ウマ娘はシャンと背筋を伸ばして答える。

 

「……応援、ありがとうございます。――はい、あなたならきっと、素敵な勝負服にしてくださると、確信しています」

 

 浮かぶ笑顔は、一点の曇りもない、正しく太陽のような明るさだった。そんな風に笑う娘さんを、随分と久しぶりに見た気がした。

 そして娘さんは――キングヘイローというウマ娘は、力強く宣言する。

 

「そして必ず、勝負服に相応しい走りをすると、お約束しますわ!」

 

 

 

 エレベーターの扉が閉じたあと、彼女が滂沱のごとく泣いたことを、私も彼女の同僚も、気づかなかったことにした。



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わらっておかあさま。

三作目です。
キングが五歳くらいの頃のお話。


――この前買ったばかりのお洋服が、もう小さくなってしまう。

 

「キングちゃん、こっちのお洋服はどうかしら」

 

 ラックからいくつかを見繕って取り出した私は、選んだ洋服を広げて娘に披露した。世界で一番可愛い娘だから、何を着たって似合うけれど。個人的には、あっちのロリータ服を着せてみたいのだけれど。今手に取っているデザインのものが、年相応でより可愛らしくなると思うのだ。

 けれど、キングちゃんはいやいやと首を振った。私と同じ色の髪が、ふわりと風を孕む綿毛のように揺れる。その合間で、林檎の頬を一杯に膨らませて、キングちゃんは拒絶の意を示した。

 

「いいえ、ちがいますっ」

 

 駄々のコネ方すら愛らしい。落胆しながらもどこか得した気分で、私は選んだ洋服をラックへ戻した。

 キングちゃんはまだプリプリと頬を張っている。私を見上げる顔に目線を合わせようと、膝を畳んだ。間近に迫った栗色の瞳が、何かを訴えて私を見る。

 

「……キングちゃんは、お母さまの選んだお洋服を着るのは、イヤ?」

「ち、ちがいますっ! そんなこといってません」

 

 ただ、とそう前置いて、キングちゃんは唇を尖らせた。やっぱり頬を林檎のようにしてそっぽを向く。それが、最近の娘の甘え方だって、私だけは知っている。

 

「キングには、おかあさまみたいな、おとななふくがにあいますわっ」

 

 キングちゃんの言葉に目を見開いた。

――この前買ったばかりのお洋服が、もう小さくなってしまう。毎日顔を合わせていると、些細な変化にはなかなか気づかなくて。けれどふと、その変化に気づかされる時がある。

 お気に入りだった服に、袖を通せなくなった。

 届かなかったはずの戸棚へ、手を伸ばせば届くようになった。

 絶対嫌と言っていたピーマンを、苦い顔をして食べるようになった。

 一人でできることが増えていって。

「おかあさま!」と私に助けを求める声が減っていって。

 我が子が、健やかに逞しく育っているのだと実感して。

 私は一人、嬉しくも寂しくなる。

 そんなに、急いで大人にならなくてもいいのよ。もう少しゆっくりだっていいのよ。……まだ、子供でいたって、いいのよ。

 そんな風に思ってしまう私は、きっとダメな母親なのだろう。この子のために、世界一の母親になろうと、そう決意したはずなのに。世界一の娘のために、胸を張って誇れる「お母さま」になると、そう誓ったはずなのに。

 喜びは、いつだって寂しさと背中合わせだった。

 私が、キングちゃんのためにしてあげられることなんて……本当は、どこにも無いのかもしれない。

 

「――おかあさま、かなしいのですか」

 

 気づくと、キングちゃんがこちらを不安そうに見つめていた。小さな手が私の頬に触れる。栗色の瞳がこちらを覗き込んで揺れていた。

 ああ、本当に、ダメな母親だ。愛しい娘に心配をかけて、こんな顔をさせている。本当に、どうしようもない。

 精一杯笑って、私は首を振った。

 

「ううん、大丈夫。――キングちゃん、大人になったなぁ、って思っただけよ」

「キングがおとなになると、おかあさまはかなしいのですか」

 

 幼い娘の鋭い疑問が胸に刺さる。痛む心を押さえながら、私はもう一度首を振った。

 

「そんなわけないでしょう。――キングちゃんが笑っていたら、お母さまはそれだけで幸せよ」

「……そうなのですか?」

「ええ。そうよ。キングちゃんの笑顔以上に嬉しいものなんて、お母さまには無いわ」

「そうですか」

 

 答えたキングちゃんは、何かを決めたように力強く頷いた。栗色の瞳が笑う。えっへんと胸を張って逞しく立ち、小さな唇の端を一杯まで持ち上げた。

 

「わかったわ。キング、たくさんわらいます。――おかあさまが、たくさんわらってくれるように」

 

 そうして、娘は高らかに笑った。小さな体を全て使って。力一杯声を響かせて。まるで私を励ますように。私を勇気づけるように。私に力を与えるように。

 眩いその笑顔が、何ものにも替え難い、私の宝物。

 

「――ふふっ。ありがとう、キングちゃん」

 

 娘を抱きしめた。まだこの胸の内に抱くことのできる、私の娘。きっといつか、この胸の内には収まりきらなくなる、私の可愛い娘。誰より強くて優しい、私の愛しいキングちゃん。

 零れてしまった涙は、抱きしめたキングちゃんには気づかれていなかったはずだ。



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お嬢様の玉子焼き

四作目です。
キングヘイローが玉子焼きを作るお話。
Twitterで話題のクッキングヘイローに合わせて書いたお話です。


「メイド長、お願いがあるのだけれど」

 

 お嬢様――お屋敷の主の娘さんが控えめな声とともに(わたくし)のもとへ訪ねていらしたのは、朝食の支度ももうすぐ終わろうかという頃合い、丁度私が新鮮な卵を菜箸で溶こうかとしていた矢先でございました。

 振り返ると、このところグンと身長の伸びたお嬢様が、お気に入りの手帳を握り締めて立っておいででした。卵三つを割って入れたボウルを一旦傍らへ置き、私はお嬢様の方へと向き直ります。朝早いというのに、お嬢様はもうしっかりと身支度を整えておいでです。トレードマークとなっているエメラルド・グリーンのリボンが右耳に揺れておりました。

 

「おはようございます、お嬢様。いかがされましたか?」

「おはよう。えっと、その……ね」

 

 栗色の瞳を惑わせて、お嬢様は手帳で口元を隠しました。しばらくして、お嬢様は私が今まさに溶こうとしていた卵へ目を遣ります。お嬢様はどこか恥ずかし気に、けれど勢い込んで力強く、手帳の向こうの小さなお口を開かれました。

 

「お料理を教えて欲しいの」

「……まあ。それはそれは」

 

 少し驚いてしまいました。私の作る朝晩のお料理や、休日にお出しするお菓子を、それはそれはおいしそうに召し上がるお嬢様ですが……料理そのものに興味を持たれた様子は、これまでなかったのです。ですから、今回のお願いは突然のことで、けれど私はすぐに頷きました。「娘が興味を示したものは、なんでもやらせてあげて欲しい」、それはお屋敷の主からのご依頼でもありました。

 

「ええ、もちろん、よろしいですよ」

「ほ、本当!?」

 

 お嬢様は大きな瞳をキラキラと宝石のように輝かせておりました。そのようなお顔をしていただけるのは、お屋敷の「食」を預かる者として、この上ない喜びでございます。

 家庭科の授業でお料理が始まる年頃でもございますし、よい練習にもなるでしょう。そう思って興奮気味のお嬢様へ再度頷いた私は、メイド用のエプロンを取り出してお嬢様へ手渡します。少し大きいかなとも思いましたが、どうやらいらぬ心配だったご様子です。ベージュのシンプルなエプロンを少々お手伝いして身に着けると、お嬢様は誇らしげに胸を張りました。

 

「よくお似合いです、お嬢様」

「そうでしょう、そうでしょう」

 

 その場で踊り出しそうなほど上機嫌なお嬢様でございました。

 

「それではお嬢様、どのようなお料理を作りましょうか」

 

 手を洗って準備を終えたお嬢様に尋ねます。本日の朝食は純和食ですから、玉子焼きにお魚に御御御付とお浸しと、何品かの準備をしております。とは言いましても、御御御付は作ってしまいましたし、お魚も間もなく焼き上がります。お浸しももう一人のメイドが準備しているところです。保存されている食材を思い出しながら、どのようなお料理ならできるだろうかと、そんなことを考えておりました。

 お嬢様は最初から作りたいお料理が決まっていたご様子。私が尋ねると、一も二もなく答えが返って参りました。

 

「玉子焼き! 玉子焼きがいいわ」

 

 ボウルを指差して、お嬢様はそうおっしゃいました。

 

「かしこまりました、玉子焼きですね。――ふふっ、お嬢様の大好物ですものね」

「ええ。メイド長の作る玉子焼きは、世界で一番おいしいわ」

「ありがとうございます。お嬢様がおいしそうに召し上がっていらっしゃると、私も嬉しいです」

 

 嬉しい気持ちのままに私が答えると、お嬢様はニパッと花を咲かせるように笑いました。

 すでに割ってある卵の入ったボウルをお嬢様の前にお出しします。菜箸を持ったお嬢様の手を取り、ゆっくりと卵を溶いて参ります。一つ私が教える度、お嬢様は「少し待って頂戴」と、傍らの手帳に愛らしい字でメモを取っておりました。それを何度も繰り返し、少しずつ玉子焼きを作って参ります。

――けれど、何事も最初から、そう上手くはいかないものです。

 できあがった玉子焼きは、玉子焼きではなくスクランブルエッグとなっておりました。途中でうまく巻くことができず、崩れてしまったのです。おまけに、端が少々焦げてしまいました。

 お嬢様は今にも泣きそうな顔で玉子焼きを見つめ、調理場のテーブルにうなだれておりました。

 

「大失敗だわ……」

「そのようなことはございませんよ。確かに、玉子焼きではないかもしれませんが、きちんと完成はしております。それに、味にしてもこの通り」

 

 端の方を菜箸で取り、一口摘まみます。お嬢様の要望で、私が普段作るものより少し甘い味付けにした玉子焼き。火が通り過ぎてしまってはいるものの、口の中にほろりと甘さが広がります。ふと、お弁当の記憶を思い出して、とても懐かしい気分となりました。

 落ち込んだままのお嬢様に目線の高さを合わせます。潤んだ栗色の瞳が揺れて、私の方へ視線を寄越されました。

 

「一度ではうまくいかないものなのです、お嬢様。おいしい玉子焼きは、何度も練習して、できるようになるのですよ」

 

 お嬢様は努力の方ですから、私の言葉を理解していただけると思うのです。きっといつものように、「そうね。一度で諦めるなんて、一流のすることではないわ」と、また前向きに取り組んでくださると、そう思ったのです。

 けれど私の予想に反して、今朝のお嬢様は浮かない顔のままでした。たくさんメモの取られた手帳を指先が弄ります。お嬢様には珍しく、どこか焦っておいでのようでした。

 

「……何度も失敗している時間は、ないのよ」

 

 開かれた手帳の一ページ、カレンダーの一か所に色鉛筆で花丸が描き込まれております。今日から二週間とかからずやって来るその日は、丁度母の日でございました。

 私はようやく理解できたのです。お嬢様がどうして突然、お料理をしたいとおっしゃったのか。どうして迷いなく、玉子焼きを作りたいとおっしゃったのか。

 玉子焼きは、お屋敷の主――奥様の大好物でもあります。きっとお嬢様は、奥様のために、奥様の大好きな玉子焼きを作って、母の日のプレゼントとしたかったのでございましょう。

 

――「助けてメイド長! キングちゃんのケーキが……!」

 

 似たようなことが、以前にもあったのです。それを思い出してしまうと、私はもうただただ微笑むことしかできませんでした。

 零れかけたお嬢様の雫を、指先ですくいます。

 

「お嬢様。お一つ、提案してもよろしいでしょうか」

「……なにかしら」

「これから毎朝、玉子焼きの練習をいたしませんか?」

 

 キョトンと、お嬢様は栗色の目で私を見つめておりました。

 

「今日より早く――そうですね、朝の六時頃からではどうでしょうか。早起きをして、玉子焼きの練習を致しましょう。もちろん、奥様には内緒で」

 

 人差し指を唇に当て、秘密の仕草をします。思えば、私とお嬢様はよく、こうして二人の秘密を共有しておりました。

 目を見開いたお嬢様は、ポニーテールにした鹿毛を何度も激しく揺すって頷かれました。

 

「ええ、練習するわ。早起きして、上手にできるまで、何度も練習する。――もちろん、お母さまには内緒で」

 

 そうして、二人で指切りげんまんをして、約束を致しました。

 朝食用にもう一度玉子焼きを作る私の手元を、お嬢様は初めて作った玉子焼きを口へ運びながら、穴が開くほどに観察しておりました。

 

 

 

 お嬢様は、一日として欠かすことなく、毎朝厨房へいらっしゃいました。奥様似の鹿毛をポニーテールにして、どこからか持ち出した三角巾も被って、とにかく気合いの入ったご様子でした。

 お料理というのが初めてのお嬢様は、それはもう、失敗の連続でございました。最初は卵が上手く割れず、黄身と白身と殻が混ざり合ってしまいました。気合いを入れてかき混ぜ過ぎたのか、溶きかけの玉子が飛び散ってしまったこともございました。そしてやはり、初日と同じようにひっくり返すのに失敗して、玉子焼きではなくスクランブルエッグに仕上がったこともございました。

 けれど根気強く、お嬢様は取り組んでおられました。何度失敗しても諦めず、次こそはと卵に向き合い、溶いてかき混ぜ、玉子焼き器に敷いては巻いておりました。一週間もする頃には、私はもう傍で立つばかりで、ただただお嬢様の奮闘を見守っておりました。

――そうして、二週間はあっという間に過ぎていったのです。

 

「――感服いたしました、お嬢様」

 

 差し出されたお皿を見た私は、無意識のうちに拍手を打っておりました。

 綺麗に折り畳まれているのは、鮮やかな黄色に焼けている玉子焼き。丁寧に丁寧に、何度も丹念に巻かれたことのわかる逸品でございます。積み重ねられた玉子が美しい層を見せる、素晴らしい景色と評する他ありません。柔らかな見た目と、程よく半熟の出来栄えに、食欲をそそられます。

 

「素晴らしい出来栄えです。奥様もきっと、お喜びになります」

「……そう、かしら」

 

 けれど、当のお嬢様ご本人は、あまり納得のいかないご様子でした。

 

「確かに、今までで一番の出来よ。味だって自信がある。……でも、メイド長の玉子焼きには、及ばないわ」

 

 栗色の瞳が揺れて、次第に落ちていきました。心なしか、折角伸びた背が、小さく縮んでしまったように思われます。

 

「お母さま、本当に喜んでくれるかしら」

「お嬢様――」

 

 不安そうな呟きに、私は身を屈めました。俯かれてしまったお嬢様と、そうすることでようやく視線が合います。

 真ん丸をした栗色の瞳が、水面に映るお月様のように揺らめいて、私を見ておりました。

 

「お嬢様。どうして、私の玉子焼きがおいしいのか、おわかりになりますか」

「……どうしてかしら」

 

 可愛らしいお耳をすっかり垂らしてしまっているお嬢様。その頭をそっと撫でます。ふわりと心地よい感触。奥様とお揃いのシャンプーの香り。お嬢様はくすぐったそうに目を瞑って、しばらく私にその綺麗な髪を撫でさせてくださいました。

 

「――お嬢様に喜んでいただきたいからです」

「……私に?」

「はい」

 

 お嬢様の頭から手を離し、私は頷きます。目をぱちくりとされているお嬢様。

 

「お嬢様に喜んでいただきたい。ただそれだけを考えて、私は玉子焼きを作っております。ですから、私の玉子焼きはおいしいのです。――そしてそれは、お嬢様も同じではありませんか?」

 

 初めて挑戦するお料理だったのです。たくさん失敗もして、思い通りにならないことばかりだったことでしょう。けれどそれでも、飽きることなく、投げ出さず、ただただひたむきに玉子焼きを作ってこられた。

 その想いこそが、きっとお料理をおいしくするのです。

 

「お嬢様が、奥様に喜んでもらおうと、毎朝一生懸命であったことを、私はよく知っております。それは、誰にでもできることでは、決してないのですよ。優しくて強いお嬢様だからこそ、できたことなのですよ」

 

 素敵なお嬢様。どうかそう不安にならないでいただきたいのです。大丈夫でございます。お嬢様のお気持ちは、きっと奥様へも伝わります。――ただそれだけを思い、願い、祈りながら、私は言葉を重ねておりました。

 

「――お嬢様。どうかこのメイド長の言葉を、信じてはいただけませんか」

 

 玉子焼きを持つその手に、私の手を重ねます。何度も何度も失敗した手。卵を割って、溶いてかき混ぜ、焼いて巻いた手。たくさん想いを込めた、お嬢様の手です。

 しばらく私を見つめていたお嬢様は、やがてゆっくりと一つだけ頷かれました。栗色の大きな瞳に、鮮やかな色が宿ります。

 

「……ええ、ええ、信じるわ。そうよね。お母さま、きっと喜んでくれるわよね」

 

 今朝初めて、お嬢様はニパッと白い歯を見せ、笑ってくださいました。

 

 

 

「――あら? この玉子焼き……」

 

 午前七時きっかりの朝食のお時間。緊張した面持ちでお嬢様が見つめる中、早速玉子焼きを口へ運んだ奥様が、不思議そうな顔をして口元を押さえました。ゆっくりと確かめるように玉子焼きを咀嚼した奥様が、厨房から様子を窺っていた私へ目を向けます。

 

「メイド長、いいかしら」

「はい。何でございましょう、奥様」

 

 厨房から出て奥様のもとへ歩み寄りますと、奥様はちらりとたった今召しあがった玉子焼きを見遣って、そうして私へ尋ねました。

 

「今朝の玉子焼きは、別のメイドが作ったのかしら。いつもと味付けが違うわね」

 

 奥様と私を交互に窺うお嬢様の不安げなお顔が、視界の端に映っております。私は、それには気づかなかったフリをして、一つだけ頷きました。

 

「はい、おっしゃる通りです。本日は私がお作りしておりません」

 

 やっぱりねと奥様は微笑みます。もう一切れ玉子焼きを摘まんで口へと運んだ奥様は、緩んだ頬を押さえながら、それはそれはおいしそうに咀嚼しておりました。

 

「――とてもおいしいわ。メイド長の玉子焼きはもちろん好きだけれど、こんな風に甘い玉子焼きも私は大好きよ」

 

 そうおっしゃって、奥様は目を細めます。それを見つめていたお嬢様が、ぱっと満面に花を咲かせました。春を咲かせたように輝く瞳。耳が動くのに合わせて、お気に入りのリボンも揺れておりました。隠し切れない喜びを溢れさせるご様子に、私も目を細めます。

 よかったですね、お嬢様。そう思わずにはいられません。お嬢様が、一生懸命に玉子焼きの練習をしていたこと、このメイド長は一番近くで見させていただいたのですから。

 

「……ところでメイド長。この玉子焼きは、誰が作ったのかしら」

「はい、それは――」

 

 答えかけて、ふとお嬢様が「しーっ」と人差し指を唇に当てているのに気が付きました。お嬢様が作った玉子焼きであることを、どうやら黙っていて欲しいご様子。

 私は、とても良い出来の玉子焼きだと思うのです。奥様も認めていらした通り、味も申し分ないですし、形も整っております。二週間のお嬢様の努力の結晶でございます。けれどお嬢様は、まだ納得できていないご様子でした。

 納得のいっていない玉子焼きを、自分の作ったものと名乗り出るのは、恥ずかしいのでしょうか。ともかく私は、喉元まで出しかけていたお嬢様のお名前を、寸でのところで引っ込めます。

 

「――申し訳ありません、奥様。私からは申し上げられません」

 

 ただ、と。私はそう前置いて、付け加えることにいたします。

 

「奥様のことが大好きな方から、とだけ申し上げておきます」

「……そう」

 

 それだけで奥様に察して頂けたのかは、わかりません。もしかすると、最初の問いかけを私にした時点で、奥様は誰の作った玉子焼きなのか、お気づきになっていたのかもしれません。ともあれ、それを確かめるのは、メイドとしては野暮というものでございます。

 奥様はただ優しく微笑まれただけで、それ以上何かを問うことはありませんでした。

 

「では、これだけ伝えて頂戴。――おいしい玉子焼きをありがとう。また作ってほしいわ」

「はい、かしこまりました。必ずお伝えいたします」

 

 私が答える間、お嬢様はお顔を真っ赤にして、ご自身の作った玉子焼きを頬張っておいででした。



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綿菓子を溶かすように

五作目です。
キングとウンスのお話です。


「……キング? おーい」

 

 ブルーハワイのかき氷を口にした友人は、けれど心ここにあらずという様子でそのまま固まってしまった。ストロー状のかき氷用スプーンをくわえる、薄いリップの引かれた唇。形よく盛り上がった桃色がどこか悩ましい。彼女の名前を呼びながらも、私はぼうっとして見惚れていた。

 毎年恒例の夏合宿が行われる学園所有の合宿所近くでは、八月の終わりに夏祭りが開催される。開催の二日間に限っては厳しい門限も緩和されるとあって、トレーニング終わりに足を運ぶウマ娘はそれなりにいた。そんなわけで、夏祭りは例年盛況を見せている。

 はてさて、そんな夏祭りに今年も私は繰り出して来た。変わり映えしないいつものメンバー、同期五人組。去年グラスちゃんが見つけた貸衣装屋さんで浴衣も借りて、束の間の夏休みを満喫していた。

 だというのに、目の前の彼女は、ずっとこんな感じだった。

 

「おーい、キングヘイローさんー?」

 

 呼びかけに答えなかったキングをもう一度呼ぶ。今度は大袈裟に手まで振ってみた。けれど、丸テーブルを挟んだ向こう側から返事はない。キングはお祭りの喧騒を横目に見遣ったまま、ぼうっと心ここにあらずだ。せっかく買ったかき氷も、このままでは溶けてしまいやしないか。

 さて、どうしようか。次の一手を考えながら、キングにしては珍しいなと、そう思った。敏感過ぎるくらい周りをよく見てる子だ。私がいかに追試を回避しようか思案してれば、「真面目に勉強なさい」とどこからか小言が飛んでくる。私が「一流ウマ娘キングヘイローの一流に可愛いエピソード」を後輩たちに披露しようとすれば、「おばかっ」と大して痛くもないチョップがどこからか飛んでくる。四方八方に耳と目がついてるんじゃないかと思いたくなるくらい、彼女は周りをよく聞いているし、よく見ている。

 だからこうやって、私の呼びかけに答えないなんてことは、今までは無かった。……何か、別の考えに囚われてた時以外は。

 

「――えーいっ」

 

 第三の策として手を伸ばし、キングの頬を指先でつつくことに決めた私。キングにしつこく注意された通りに浴衣の袖を片手で折りつつ、向かいに腰掛ける彼女の頬に触れる。むにゅり。一流ウマ娘は頬の柔らかさまで一流だ。マシュマロにでも触れているみたいで、人差し指の感触が幸せだ。

 キングはようやく、私の方へ目を向けた。その拍子に、さらに頬へ指が沈み込む。普段からは想像もつかない顔のキングに、私は思わず吹き出してお腹を抱えた。

 

「ちょっと、スカイさん!? 何するのよ! というより、そんなに笑わないで頂戴っ!」

 

 口を開くなり、キングは真っ赤な顔で抗議を寄越した。けれど、それは無理な相談というものだ。目の前であまり怖くない怒り方をしているのも相まって、可笑しさが勝ってしまう。

 どうにか笑いを収めながら、ごめんごめんと謝った。キングは「まったく、もう」とそれで言葉を収め、ようやく二口目のかき氷を口にする。浴衣姿も相まって、随分と優雅な所作に見えた。

 

「キング、やーっとこっち見てくれた。ぼーっとしてるから、心配しちゃった」

「……それは、その」

「何かあった? 悩み事?」

 

 ぼーっとしていた自覚はあったらしく、キングはバツの悪そうな顔をして栗色の瞳を夕闇に惑わせた。細い眉が困ったように下がる。会場に灯り始めた提灯の、淡い光に浮かぶ悩ましげな表情が、なんだか大人びて艶めかしかった。

 

「な、なんでもないわ」

「えー、ほんとにー?」

「……スペシャルウィークさんたち遅いわね、って思っていただけよ」

 

 キングはそう答えてそっぽを向く。彼女の言う通り、焼きそばとたこ焼きとお好み焼きを調達に行った私たち以外の同期三人は、まだ戻ってこない。

 でも、キングの言葉は嘘だ。根が真面目で真っ直ぐないい子だから、嘘が隠せていない。顔と仕種に全部出る。

 自分のかき氷を崩して頬張る。宇治抹茶の練乳がけ。とろりとまろやかな甘さを味わいながら、私は向かいのキングへさらに言葉を続ける。

 

「トレーナーさんのこと考えてたでしょ」

「んぐっ!?」

 

 言葉にならないくぐもった悲鳴が上がる。図星だったようだ。

 キングと、キングのトレーナーさんの仲の良さは、端から見ていてもよくわかる。お互いにお互いを信頼している間柄。キングの言葉遣いとか、トレーナーさんの目元とか、お互いの距離感とか、そういうのを見ていれば二人の関係性はよくわかった。

 でも……最近、その関係性が少し、変わってきたように思う。時期的には、キングのトレーナーさんが、キング以外の子も担当するようになった頃からだろうか。

 頬杖をついて溜息をもらすことが増えた。それと同じくらい、嬉しそうにスマホを弄ることが増えた。悩まし気に教室の窓を眺めている姿が増えた。それと同じくらい、頬を染めてトレーニングから寮へ戻る姿が増えた。それは、少しキングを見ていれば気づいてしまうぐらいの変化で、実際私やグラスちゃん以外にも気づいている子は多いと思う。そしてキングをそんな風にしている要因の中心に、トレーナーさんがいることは明白だった。

 ……まあ、ごまかしたって仕方ない。端的に言えば私は、キングがトレーナーさんに()()()()()好意を抱いているのではと、そう疑っているわけだ。

 実際こうして、そういう節はあるわけだし。

 

「キング、トレーナーさんのこと大好きだもんねぇ」

 

 盛大に咽たうえに、一気に飲み込んだかき氷で頭が痛んでいるらしいキングは、顔を真っ赤にしながらも言葉を発せず悶えている。涙目が恨めし気に私を見つめていた。

 ようやく痛みから解放されたキングは、ザクザクとやや乱暴に氷の山を崩した。夕焼けとは別の色で頬を染め、そっぽを向いてぶっきらぼうに答える。それもやはり、彼女にしては珍しい。

 

「別に、いいでしょうっ。自分の担当なんだから、色々思うところはあるのっ」

 

 そこでごまかさないのが、キングのいいところで可愛いところだ。でも開き直り方はあまりうまくない。器用さとは縁遠い友人だ。

 キングに倣ってザクザクと宇治の山を崩す。練乳と絡んだ夏の雪を一口。頭が痛くならないように適量を舌に乗せる。冷気が口の中を支配して、ミルクと混じったシロップの香りが鼻を抜けた。

 キングはまたも適量を見誤ったらしく、二度目の激痛で眉間に皺を寄せていた。

 

「……大好きなのは否定しないんだね」

 

 祭りの喧騒に紛れて聞こえないように呟いた。けれどどうにも、耳のいい彼女には聞こえていたみたいだ。眉間を押さえて鈍痛と戦っていたキングが、やや険しい顔で口を開く。

 

「スカイさん。言っておくけれど、恋愛感情とか、そういうのではないから。変な勘繰りはしないで頂戴」

 

 少しばかり低いトーン。真面目な声音。真っ直ぐな視線に射竦められて、私は黙ってキングの言葉を聞いていた。

 

「信頼しているし、尊敬もしているわ。あなたの言う通り大好きよ。私が走るためには彼が必要なのもよくわかってる。でも、それはトレーナーとして、よ。恋愛対象としてではないわ」

 

 そんな風に見るのは彼に対して失礼だ。キングが言外に含んだ意味を察して、私は頷いた。さすがに、それ以上何かを言おうとは思わなかった。ここから先はキングに嫌われる覚悟が必要だろう。それは絶対に嫌だ。

 

「ごめん」

 

 視線を落として謝ると、キングはすぐに肩の力を抜いて微笑んだ。ポンと柏手を一つ打つ。

 

「はい、この話はおしまい。――私もごめんなさい。スカイさんといるのに、ボーっとしてしまって。せっかく一緒に遊んでるんだもの。目一杯楽しまないとよね」

 

 キングはいつものように笑って、またかき氷を口にした。青空色の氷が唇の向こうへ溶けていく。今度は頭を痛めなかったようで、彼女は夏恒例の冷たさと甘さに目を細めた。まだ幾ばくか早い秋色の瞳が瞬く。

 スぺちゃんたちが山ほどのパックを抱えて戻ってくるまでに、かき氷は残り半分になっていた。

 

 

 

 人波の合間にキングは何かを見つけたらしかった。

 カロン。それまで軽やかで規則正しかった下駄の音が明らかに弾んで高鳴った。石畳がまるでターフであるかのようにキングは一歩を踏み出す。今まさにリンゴ飴をかじろうとしていた私は、驚いて一瞬反応が遅れた。

 

「キングちゃん?」

 

 チョコバナナを頬張るスぺちゃんが私に代わって真っ先に反応した。結った鹿毛を夕闇の中で鮮やかに揺らして、キングは振り返る。思わず見惚れてしまう笑顔で、彼女はひらりと手を振った。覗いた白い歯が眩しい。

 

「ごめんなさい。少し……野暮用よ。先に行っていて頂戴。必ず追いつくから」

 

 言うが早いか、キングはすぐに人の海へ飛び込んでいった。バ群嫌いが嘘みたいな身のこなしにしばし唖然とする。

 残された四人で顔を見合わせた。スぺちゃんの腕を私が、エルちゃんの腕をグラスちゃんが掴み、もぐもぐと買い食いに夢中な二人を引っ張る。

 

「追い掛けよっかぁ」

「ええ、そうですねぇ」

 

 グラスちゃんとは意見が合致した。

 キングはすぐに見つかった。立ち並ぶ屋台の一つ、行列のできている焼き鳥屋さんの前に、エメラルド・グリーンが咲いている。可憐な花から朝露が滴るように、キングの横顔から笑顔が零れていた。細くなった栗色の瞳が見つめるのは、すらりと背の高い好青年。キングに応えるようにして緩める頬が、御伽話の騎士そのものだった。

 胸が、ざわついた。

 

「……キング。――キング」

 

 一度目の呼びかけは掠れていて、祭りの喧騒に流されてしまった。二度目の呼びかけで、彼女がようやく振り返る。驚いた様子でキングは目を見開いた。

 

「スカイさん……皆さんも」

 

 見返り浴衣美少女が一人。その向こうで騎士が笑った。

 

「こんばんは」

「こんばんは。キングちゃんのトレーナーさん」

 

 真っ先に答えたグラスちゃんがぺこりと頭を下げるのに続いて、他の二人も挨拶をする。私も少し遅れて「こんばんは」と彼に告げた。

 キングのトレーナーさんは私たちの方を――より具体的には、大量の食べ物を抱えたスぺちゃんとエルちゃんを見てまた笑った。優しそうな目の細め方がどことなくキングに似ている気がした。

 

「お祭り、楽しんでるみたいだね」

「はいっ。おいしいもの、たくさん食べますっ」

 

 元気一杯に答えたスぺちゃんに、キングとトレーナーさんが揃って「まだ食べるつもり?」と言いたげに眉を八の字に下げる。乾いた苦笑が零れていた。

 

「――なるほど。キングちゃんの()()()は、トレーナーさんでしたか」

 

 クスリと意味ありげに笑ったグラスちゃんが、そんなことを言った。それに、キングはぱちくりと目を(しばた)く。特に動揺したりすることもなく、まるでそれが当たり前みたいに、キングは頷いた。

 

「ええ。トレーナーが見えたから、声を掛けようと思って」

「そうなんですね。ふふふ、仲が良いんですね」

 

 グラスちゃんの笑顔に、チラリとキングがトレーナーさんの方を見た。見られた方のトレーナーさんが瞬きを一つして、ふっと目元を緩める。それにキングもまた目を細めた。私の持ったリンゴ飴みたいに、ほんのりとその頬が朱い。

 

「――まあ、ね。共に一流を歩む相手だもの」

「――そう言ってもらえると嬉しいよ」

 

 トレーナーさんの優しい声音。キングの耳がぴょこりと動く。浴衣に合わせておしゃれをした耳カバーが、顔には出ないキングの感情を物語る。

 私は、ただキングの顔だけを見つめて、二人のやり取りを聞いていた。

 

「――それじゃあ、トレーナー。もう行くわ」

「ああ、いってらっしゃい。――引き留めて申し訳ない。皆も楽しんで。でも羽目を外し過ぎないようにね」

 

 手を振るトレーナーさんにぺこりと頭を下げて、また私たちは喧騒の中へ歩き出した。キングは最後まで手を振り返していた。動きを止めた手の指先が、しばらく晩夏の空気を彷徨う。ゆっくり折りたたまれていく細い指が名残惜しげだった。

 

 

 

 キングの機嫌はすこぶる良かった。石畳を鳴らす下駄のリズムは高鳴ったまま、鼻歌でも歌いそうな勢いで浴衣を揺らしている。手にした綿菓子を口にするのも忘れる始末だ。栗色の輝きは増すばかりで、いよいよ夜にとっぷり漬かり始めたお祭りを、キラキラと見つめている。

 ……やっぱり、キングの心は、ここにあらずだ。さっきみたいにぼうっとしてるわけじゃない。それでも彼女の心は今この場にはない。

 明るい声音が語っている。一流のウマ娘としての声でも、心配性のお節介焼きとしての声でも、私の親しい友人としての声でもない。純粋に、たった一人の女の子としてのキングが、とても大切なもののようにトレーナーさんとのことを話している。

 浴衣を見せびらかしたらしい。くるりと全身を回してみせると、彼は「似合ってるね」と答えたそうだ。それだけじゃ足りないから、キングに相応しくありったけ褒めるようにと伝えたら、結局「綺麗だね」とばかり答えたという。

 明日は、トレーナーさんとお祭りに来るらしい。二人で浴衣を着て回ろうと、そんな約束もしたそうだ。一流のエスコートを要望すると、彼は「花火のよく見える場所を探しておくよ」と頷いたという。今から楽しみで仕方ないと、キングは呟いて笑った。

 エルちゃんが甲高い口笛を吹いて茶化す。グラスちゃんは相変わらずの含み笑い。スぺちゃんはいつもより食べるペースが速くなった。それをキングは「そういうのじゃないからっ」と顔を真っ赤にして否定する。

 私は一人、綿菓子を摘まみながら、ぼんやりと考えていた。

 ……どうして、彼だったんだろう。恋愛感情とかそういうのを抜きにしたって、キングがトレーナーさんに全幅の信頼を置いているのは事実だ。誰よりも彼のことを慕っていて、彼のことを必要としている。

 例えるのなら、比翼の鳥で、連理の枝。……ああいや、これだと恋人同士の例えになってしまう。ありきたりな言葉を使うのなら、一心同体だろうか。お互いに、お互いのいない自分自身など考えつかない、そういう様子だ。

 その理由には、薄々だけれど、気づいていた。

 クラシック級のキングは……いいや、私の知っていたキングヘイローというウマ娘は、気高く美しい走りと、惚れ惚れする末脚を持ったウマ娘だったけれど。いつもどこかで、自分自身を縛り付けて走るウマ娘だった。

 肩肘を張って、見栄を張って、意地を張って。まるで……なるべき姿なんてものがあるように。細くてしなやかで強い脚は、いつでも鎖で雁字搦めにされていた。苦しくて苦しくて苦しくて、堪らないはずなのに。だというのにキングは、いつでも前を見ていた。まるでその苦しみに気づかないふりをしているように。そんな痛みなど存在していないように。いいや、そんな苦しみも痛みも、まるで始めから自分の一部であるかのように。その苦しみと痛みが無ければ立っていられないかのように。

 キングヘイローというウマ娘の走りは美しかったけれど、でも誰よりも自由や喜びからはかけ離れていた。

 ……もっと、自由に走ればいいのに。いつしかそう思うようになった。

 キングの思うままに駆けてくれればそれでいいのに。誰かになる必要なんてないし、何かになる必要もない。キングはキングだ。だからキングのまま、キングの走りたい道を走ればいいのに。

 私はそうやって走ってきた。誰かの決めた道じゃなくて、私の道を、私なりに。だから……キングもそう思ってくれたらいいなって、そんなことを祈りながら走っていた。

 でも、それはどだい無理な話だったんだ。ちょっと考えたらわかること。だってキングにとって、走ってるときの私は、()()()()()()()()なんだから。私の走りを見たって、キングは「どう攻略するか」しか考えない。変幻自在、自由自在、私がどんなに自由気ままに走ってみせたって、キングは「どう勝つか」しか考えない。私が私の走りたいように走っても、私の祈りはキングに届かなかった。

 私には、キングが自らの脚に嵌めた足枷を、解き放つことはできなかった。それができたのは、キングのトレーナーさんだった。

 他の何物でもない。まして誰かでもない。キングを、キングヘイローという一流ウマ娘にしたのは、彼なんだ。形のない幻に縛られたその脚を解き放ち、自由の翼を羽ばたかせたのは、彼なんだ。

 だからトレーナーさんが、キングの特別になった。それが、「どうして彼だったんだろう」という自問への、私なりの答えだ。

 ……胸の辺りがもやもやとする。口にしている綿菓子が、溶けることなく体の内に溜まっているみたいな。晴れない雲がどんよりと漂っているような。正直、私の中にこんな感情があったなんて、自分でも驚いてるくらい。

 一番最初にキングを見つけたのは私だ。夕闇の迫るターフの上、ひたむきに走る背中を見つけたのは、私だ。風を切り裂く稲妻みたいな、眩く美しい末脚に魅せられたのは、私だ。

 グラスちゃんでも、エルちゃんでも、スぺちゃんでも……トレーナーさんでもない。一番最初にキングを見つけたのは私なのに。それなのに、キングの特別になったのは彼だ。私は特別になれなかった。

 羨望と悔恨が幾層にも折り重なる。美しい栗色の瞳が――お星様みたいにキラキラした瞳が映すのは、いつだってトレーナーさんのことだ。そんな風に見つめられる彼が羨ましい。同時に、最初からずっとキングのことを見ていたのに、結局彼女には何もしてあげられなかった自分が情けない。キングの足枷をもっと早く外してあげられなかったことが悔しい。

 キングとトレーナーさんを見るたびに、この感情が沸き起こる。キングが誇らしげに彼を見るたび、彼が優しい眼差しでキングを見るたび、胸の内に晴れない靄が広がっていく。最初から私のものなんかじゃないのに、キングをトレーナーに取られたみたいで……面白くない。つまらない。

 溶けない砂糖の塊が、口の中にまとわりつく。

 

「……綿菓子って、こんな味だっけ」

 

 ぼんやりしたまま呟いた。私を囲むお祭りの喧騒が、やたらと大きくなったような、そんな気がした。

 ふと、暗がりの向こうから、太陽が私の腕を掴んだ。振り返ると、焼けてしまいそうに明るい栗色の瞳が私を見つめていた。晩夏の光を全てその内へ宿しているかのような、眩い輝き。

 

「――スカイさん」

 

 眉を垂らすキングが、けれど強い声で私を呼んでいた。思考の海にすっかり沈んでしまったのだと、そこで気づく。周りを見回しても、スぺちゃんたちの姿はない。いつの間にやらはぐれてしまったみたいだ。

 

「……なあに、どうしたのキング?」

「どうしたもこうしたもないわよ。急にいなくなるんだから。驚かせないで頂戴」

「……ごめん、ちょっとぼーっとしてたみたい。さっきのキングと一緒だね」

 

 その件はごめんなさいって、とキングはさらに困った様子で、もう一度謝った。別に責めたわけではないのだ。でも、変なところで律儀なキングらしかった。

 ぐいと、キングが私の腕を引く。それに身を任せて、キングに導かれるまま歩き出す。人混みで歩きにくそうにしながら、見つけた隙間に体をねじ込むようにして進むキング。彼女に手を引かれる私は、揺れる鹿毛と、浴衣から覗く白いうなじを、やっぱりぼんやり見つめていた。

 

「ああ、もうっ。お祭りのこういうところ、苦手だわ」

 

 やっとの思いで人混みを抜け出したところで、キングは軽い溜め息を吐きながらぼやいた。日も沈んで、人の行き来も一番激しい時間帯だ。キングがそう思うのも無理はない。

 

「キング、バ群嫌いだもんね」

「ええ、そうよ。だから人混みも苦手」

「……それなのに、私のこと探してくれたんだ」

 

 私が呟くと、キングは狐にでもつままれたみたいに、キョトンとしてしまった。小さな口が言葉を紡ぐのに、少しばかりの時間がある。

 

「……当たり前でしょう、そんなこと。友達が急にいなくなったら、心配じゃない」

 

 キングはごくごく普段通りに、「今更何を言ってるの」とでも言わんばかりに、当然のこととしてそう答えた。狐につままれるのは今度は私の方だった。顔から力が抜けてしまって、間の抜けた声が漏れる。うまく言葉が見つからないまま、結局「そっか」とだけ俯きながら答えた。唇の端がなんだか緩い。

 口の中の綿菓子が、ゆっくりと溶けていく。

 

「ほら、行くわよスカイさん。グラスさんたちを待たせてるから」

 

 キングはそう言って、また私の手を引いた。そういえば、人混みの中からずっと繋いだままだった。キングも私も、お互いにその手を離さなかった。

 重なった手をそのままに、私たちは人波の脇を歩いていく。二人分の下駄の音がハーモニーを奏でる。ちょっと不思議な気分がしていた。

 ねえ、キング。こういう特別もあるのかな。

 

「ねえ、キング。それって、友達限定?」

「ええ、そうね。キングがわざわざ探してあげるのだから、光栄に思いなさいな」

「でも私、キングのライバルだよ。友達とは少し違うんじゃない?」

「ライバルで友達、でしょ。特別な存在に変わりはないじゃない」

「……あっはは。そうだね。うん、そうかも」

 

 短く答えて、視線を足元に落とした。キングはきっと振り返らないだろうから、心配いらないけど。でも今の顔は、できれば誰にも見られたくない。そう思う。

 ねえ、キング。もしも私が、「キングはキングのままでいいんだよ」って口にしてたら、どうなってたのかな。「キングの道を究めればそれでいいんだよ」って言ってたら、キングはどうしたのかな。

 キングのことだから、きっとすぐには納得してくれなくて。「はいそうですか」とは絶対に言ってくれなくて。でも……多分、私の話を聞いてはくれたよね。そうして多分、自分で選んで決意して、「私はこの道で行くわ!」って私に宣言するんだ。もしかしたら今度は逆に、私がキングに「あなたはあなたの道を行きなさい」って教えられちゃうかも。キングは私なんかよりずっと強くて、かっこいいから。

 ねえ、キング。もしそうなれてたら……私がキングの足枷を外せていたら。私はキングの特別な存在になれたのかな。今のキングにとってのトレーナーさんみたいになれたのかな。

 ……あー、いや、うん。多分ならないなぁ。例えトレーナーさんじゃなくて、私がキングを足枷から解き放てたとしても。私たちはきっと今と変わらない。キングはその両脚で力強くターフに立っていて。私はそれに見惚れて、魅入って、憧れて。そうしてキングの隣に立つんだ。ライバルで、友達のまま。

 今更特別な存在になんてなれない。だってずっと前から、私たちはライバルで友達だった。そういう()()だから、きっと他のものになんてなれない。なる必要もない。

 歩調を少し早めて、私の手を引くキングに並んだ。キング、と名前を呼ぶと、彼女はひらりと髪を揺らして私に目を向けた。足を止めると、カラリと下駄を鳴らしてキングも立ち止まった。向かい合ったまま、繋いだままの手に力を込める。

 ねえ、キング。キングは特別だから。ほんの少しだけ、私の本音を教えるよ。多分、ずっと前から思ってた、私の身勝手な感情だけど。でもキングにだけは知っててほしい、そう思うから。私の特別なライバルで友達のキングには、知っててほしいから。

 

「ねえ、キング。私はさ――キングには幸せになってほしいなって、そう思ってるから」

 

 ねえ、キング。これでいいんだよね。私はこうやって祈ることしかできないけど。キングのために何かをしてあげることはできないけど。できることといえば、君と一緒に走ることだけだけど。これからもキングのライバルで、友達だけど。

 この気持ちだけは、本当だよ。

 

「……何よ。藪から棒に」

 

 溜め息交じりに呆れた顔を見せ、でもキングはすぐに笑った。力強く、生き生きとして、逞しくて、どこか艶やかで、眩しくて。そうやって笑うキングに、私は今日も見惚れてる。

 

「安心なさい。私の幸せは、私のこの手で、必ず掴み取ってみせるわ」

 

 想像通りの答えが、想像通りの言葉と共に、想像以上の笑顔で返ってきた。思わずお腹を抱えるほど笑ってしまって、キングに怪訝な顔をされる。

 

「いやー、キングならそう言うと思ったよ」

「……何なのよ、もう。私のことを知ったみたいに」

「いやいや、結構色々知ってるよ。キングが実はただの可愛い女の子だ、とかね」

「かわっ……もう、スカイさんっ」

 

 夜闇でもわかるくらい顔を赤くしたキングが、抗議を寄越した。その拍子に繋いでいた手が離れる。空になった手を、私はいつもの通り頭の後ろへ回して組んだ。ひらりひらりと、詰め寄ってくるキングの視線をかわしてみせる。

 

「――ほら、キング。早く戻ろうよ。皆待ってるんでしょ」

「~~~っ! ふんっ、今はこれくらいにしてあげるわ」

 

 ぷりぷりと頬を膨らませたキングが踵を返して歩き出す。それを追いかけて、すぐに追いついて、並んで歩く。石畳を打って奏でる、二人分の下駄の音。カラコロ。カラコロ。手を繋いでいなくても、その音が重なって響いている。

 これからも、こうして歩けたらいいな。そんなことを思ってるうちに、大量の焼きとうもろこしと、はしゃぐライバルたちの声が、私とキングを出迎えた。



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水も滴る一流ウマ娘

六作目です。キングとトレーナーのお話。
晩夏ウマ娘企画に合わせた作品でもありました。


『ねえ、今から会えないかしら』

 

 夕食終わりの合宿所、唯一のプライベート空間であるボンクの中で、私は三分ほどかけてそんな文面を書き上げた。送信ボタンに指を伸ばしかけて、押す寸前で思い留まる。トーク画面の一番上、今まさにメッセージを贈ろうとしている相手の名前を確認した。アカウント名をわざわざ設定し直した、「トレーナー」の文字がそこにはある。

 じゃんけんで負けた末の二階のボンク。下のボンクの子がいないのをいいことに、柵の間から投げ出した足をはしたなく揺らす。パタパタ。落ち着かなくて、しばらくそうしていた。スマホの画面が自動的に明度を落とす。

 

「……ま、その時はその時よね」

 

 そう自分に言い聞かせて、画面の明度を戻し、送信ボタンを押す。私のメッセージが確かに送信されたことを示して、文面の横に時刻が刻まれた。午後六時。夏も終わりとなればまもなく陽も沈む頃合いだ。

 すぐに既読がつかないとわかると、私はスマホの電源を落として、ボンクの端の方へ置いた。投げ出した足をまたパタパタと揺する。やることはなくて、結局私はまたスマホを取り、ロックを解除した。すぐに表示されたトーク画面の右上から、アルバムを開く。二日前の日付と「夏祭り」の文字が打たれたフォルダをタップした。フォルダの中には、トレーナーと二人で撮った写真がずらりと並ぶ。

 一枚、一枚と写真をめくっていく。私の撮った写真がしばらく続いた。かき氷、焼きそば、射的に金魚すくい――それからトレーナー。色んな事が思い出されて、愉快で、嬉しくて、思わず笑ってしまった。楽しい夏の思い出だ。

 その時、バイブレーションと共に新着メッセージを報せるアラームが鳴った。写真にすっかり見入っていた私は、突然の出来事に肩を跳ねる。その拍子にスマホが手から飛び出して、慌ててお手玉をしてキャッチした。息を一つ吐いて、メッセージを確認する。トレーナーからだった。

 

『いいけど、何かあった?』

 

 わずかに身構えた文面。それはそうよね。トレーニングも終わった時間に担当から連絡があれば、きっとどんなトレーナーだって身構える。

 唇の隙間から息が漏れた。心配性なんだから。そう思いつつ指を動かす。返事はすぐに書けた。

 

『ただのお散歩よ』

 

 トレーナーからは、安堵した様子の返信がすぐに来た。

 三十分後に合宿所の正門で落ち合う約束をして、トーク画面を閉じる。まだしばらく時間はある。そう思って、ふと自分の格好に目を落とした。学園指定の体操着にジャージ。合宿中の部屋着は基本的にこれだ。

 柵の間から足を引き抜き、ボンクの中を移動する。梯子を伝って部屋へ降りて、一人が一つ使えるクローゼットを開いた。中には合宿にあたって持って来た荷物と衣類、それと靴。

 

「どんな時でも、身だしなみは大切よね」

 

 ハンガーにかけておいたワンピースを取り出した。夏祭りには浴衣を借りて繰り出したから、結局出番がなかったのだ。それからサンダル。涼しさと実用性とデザインを兼ね備えた今夏のお気に入りだ。

 髪を整えて、ワンピースに着替え、サンダルを持って部屋を出る。丁度その時、同室になっていたスペシャルウィークさんとすれ違った。不思議そうな目をして彼女は首を傾げる。

 

「キングちゃん? どこか行くの?」

「ええ、少し散歩よ。門限までには戻るわ」

 

 スペシャルウィークさんはそれで納得したらしく、「いってらっしゃい」と笑顔で手を振ってくれた。それに手を振り返し、玄関を目指す。手首の腕時計が、待ち合わせまであと五分だと告げていた。

 ヒグラシの鳴く正門前に人影があった。背格好と立ち姿でトレーナーだとすぐにわかる。彼は特に何かをするでもなく、妙にソワソワしながら海の方を眺めていた。

 サンダルの音で気が付いたのか、私が近寄るとトレーナーがこちらを振り向く。夕闇の中で、双眸だけがきらりと光った。細くなった瞳に妙な動悸を覚える。夕暮れの中で合宿所から抜け出して、わざわざ待ち合わせをしてからお散歩に行くなんて、なんだか恋人同士の逢引きみたいだ。そう思うと、なんだかイケナイことをしている気分になった。

 

「こんばんは。キングより先に来てるなんて、殊勝な心掛けね、トレーナー」

「こんばんは。君を待たせるわけにはいかないからね」

 

 彼が真面目腐った顔で言うものだから、思わず笑ってしまった。

 行き先を尋ねた彼に、特に決まっていないと答える。お散歩はお散歩だ。気の向くまま、脚の向くまま、特に計画もなく二人並んで歩くのも、たまには悪くないだろう。今日はそういう気分だったから、こうして彼に声を掛けたのだから。

 

「それなら、海を歩こうか」

 

 特に考えた様子もなく彼はそう提案した。彼も今しがたぽっと思いつくままに口にしたみたいだった。日が暮れて、少しずつ星が支配していく水平線を、潮騒を聴きながら歩く。いい気分転換にもなりそうだし、なんだかロマンチックだ。そう思って、私は彼の提案に頷く。

 合宿所の前に広がる海と浜辺は、昼の間またとないトレーニングスペースとなる。でも日が暮れると、そこにはまた違った空間が広がっていた。ウマ娘やトレーナーたちの声が響かない、静かな浜辺。こう見るとただのプライベートビーチだ。昼間の喧騒が嘘みたいに、今は打ち寄せる波の音だけが静かな時を支配していた。

 風が髪を通り抜ける。少し強いかもしれない。でも寒くはない。夜とは言ってもさすがにまだまだ夏だ。吹く風は生暖かく、髪とワンピースをはためかせる。体を包む夜の気配が心地よい。

 

「――海に来て、正解だったわ」

 

 明日のトレーニングの打ち合わせが一段落したところで、私はふと呟いた。波打ち際を見遣りながら、素足できめの細かい砂を踏む。お気に入りのサンダルは、もう脱いでしまった。よく考えたら、散歩へ行くのにサンダルというのも、ナンセンスだったかも。

 

「いい気分転換だよね。俺もたまに、宿舎を抜け出して散歩してる」

「あら、そうだったの。誘ってくれたらよかったのに」

「それだと、キングが門限に引っかかるね」

 

 私たち学生と違って、トレーナーに門限も消灯時間もない。大人だという理由だけでこの扱いは、なんだかずるい気もする。でもその分、彼が遅くまで仕事をしてることも知ってる。だからずるいと思うより、私が同じ立場じゃないことがもどかしい。

 

「ここへ来て、いつも何を考えてるのよ」

「んー、色々。トレーニングのメニューとか、レースの予定とか、休養にいいところはないかとか」

 

 指折り数えながら彼は言う。思わず笑ってしまった。それだと気分転換というより、思索のお供という感じだ。それに考えてることは、私と後輩二人、彼の担当ウマ娘のことばかりじゃない。

 

「ふふっ、何よそれ。ほとんど私のことじゃない」

「ああ、確かに。言われてみればそうだ」

 

 言われて気づいたという風に、彼はへにゃりと口元を緩めて苦笑いした。息抜きには全くなっていないという事実に、今更ながら気づいたんだろう。鬼のようにメモを取ることといい、山のように資料を読み漁ることといい、こうしてあらゆる時間を私たちのために費やすことといい、全力で取り組むことしか知らないみたいだ。そういうところが心配でもあり、でもそれ以上に嬉しくて堪らない。この人をトレーナーに選んだこと、この人に担当ウマ娘として選ばれたこと、それが間違いじゃないんだって、そう思える。

 

「――ま、そういうところ、私は好ましく思ってるけど」

「そっか」

 

 照れ隠しなのか、返事は短くて素っ気なかった。砂の足元を見つめながら、彼は頭の後ろを掻く。満月に一番近い月が照らす頬に、白い光とは別の色が宿っていた。

 やや大きな波が寄せると、飛沫が私の足を濡らした。波打ち際はすぐそこだ。崩れた波頭に泡と星光が混じってキラキラとしている。

 

「えいっ」

 

 不思議な瞬きに誘われるように、砂浜にサンダルを投げ捨てて、波の中へ足を差し入れた。打ち寄せた夜の海が足首をさらっていく。ヒヤリとした水の感触が心地よい。ワンピースの裾を持ちあげながら少しずつ深いところへ。ふくらはぎのあたりまで浸かると、踏み出すたびにパシャリと水が跳ねる。

 

「濡れるよ」

「足までだから大丈夫よ。トレーナーも来なさいな。気持ちいいわよ」

 

 彼は軽く息を吐きながらも、靴を脱いでズボンの裾をまくった。波へ真っ直ぐに足を踏み入れて、歩み寄ってくる。足元で水滴を飛ばす海を見つめながら、「おおっ」と感嘆の声を上げている。はしゃぐ気持ちがこちらへ伝わってきた。ふっと笑う顔がまるで私と同じ子供みたいだ。

 

「海なんて久しぶりだ」

「気持ちいいでしょう?」

「そうだね。これはなんだか楽しいな」

 

 そう言って口の端を吊り上げる彼に目を細める。弾む心地で足を遊ばせた。パシャリと持ち上がった海水が飛ぶ。大小の水滴に月光が宿って反射して、花火みたいにキラキラしていた。

 しばらくそうやって、波打ち際で海と戯れた。珍しく彼が思い出話をしてくれた。子供の頃、波打ち際で大波に飲まれて溺れかけ、大泣きした話だった。以来つい最近まで、海は苦手だったという。そういえば、クラシック級の頃に遠泳トレーニングをしていた時、なんだか彼の顔色が優れなかった気がする。

 

「波が怖かったなんて、トレーナーも子供の頃があったのね」

「それはもちろん。今だって、大人かどうかはよくわからない」

「ふーん」

 

 でも、私には十分大人に見える。

 

「ねえ――」

「キングッ!」

 

 私が彼を呼ぼうとしたその時、切迫した声で彼が私を呼んだ。鬼気迫る表情で彼が波を掻き分け、私へ駆け寄る。伸びてきた両腕に何が何だかわからず、頭が真っ白になった。身体を固くしたまま、ぎゅっと思いっきり目を瞑る。

 腿の辺りを抱えて、背中に手を添え、そのまま垂直に私の体を水面より抱え上げる彼。ふわりと、私の体は軽々宙に浮いた。お姫様抱っこされた時とはまた違った感覚。何が何だかわからずに、私はただ彼にされるがままだった。

 間髪を置かずに、私の脚を冷たいものが濡らした。散った飛沫が微かに顔にもかかる。潮の香り。少しして、波がかかったのだと理解した。

 ゆっくりと目を開く。見降ろす位置に彼の顔があった。月光だけでもわかるくらい、その体が濡れている。湿ったワイシャツが彼の体にへばりついていた。

 

「トレーナー……」

「……濡れちゃうよ、キング」

 

 私を見上げるようにしながら彼はそう言った。

 きっと大きな波が来ていたんだろう。それこそ、昔彼がさらわれたような波が。だから彼はこうして私を抱き上げて、庇ってくれたのだ。自分がびしょ濡れになるのも構わずに。

 レースが終わった時みたいに心臓が鳴っている。ゴール板を駆け抜けて、外ラチのところに立つ彼へ歩み寄る時みたいに、バクバクと激しい鼓動がする。堪らなくて、痛いくらいに。

 

「……あなたが濡れていたら、仕方ないじゃない」

 

 飛沫のかかった彼の前髪に指で触れる。塩を含んだ水滴が私の指を濡らした。彼は「そうだね」と優しく苦笑いして、私を降ろしてくれた。

 夏の夜はまだ温かい。風も冷たくなくて、空気もぬるま湯みたいだ。でも、濡れたままでいたら風邪を引いてしまう。夜のお散歩は切り上げて、彼を宿舎に帰してあげないと。

 

「キング――」

 

 申し訳なさそうな顔で彼が私を呼ぶ。「悪いけど、散歩はここまでにしよう」って、そう切り出すんだろう。

 だから、その前に。

 

 

 

 私は思いっきり、後ろに向かって倒れこんだ。

 

 

 

「キング!?」

 

 驚いた彼の声が聞こえるより前に、私の体は海の中へと吸い込まれる。盛大に水飛沫が上がって、夜風の代わりに宵海が私の体を包み込んだ。ふかふかとした砂底にしりもちをつく頃には、全身がびしょ濡れになっている。お気に入りのワンピースも、お洒落をした耳カバーも、整えてきた髪も、容赦なく海水を被った。跳ねた水飛沫が唇にかかってしょっぱい。普段なら絶対に嫌なのに、今は笑いが止まらなかった。

 

「キング……わぷっ!?」

 

 慌てて駆け寄ってくるトレーナーに、思いっきり水を跳ねかける。まるで遊び方を覚えたばかりの子供みたいに、ただ手ですくった海水を跳ねかける。でもそれも長くは続かなかった。あんまり可笑しくって耐え切れなくて、その場でお腹を抱えた。背中に波が当たって砕ける。

 

「あーあ、おっかしい」

「キング、どうして……」

 

 困惑した顔で彼が手を差し伸べた。今度は素直にその手を取る。でも、まだ可笑しさは収まらない。ふつふつと湧き起こる笑みを拳の内で噛み殺しながら、私は答えた。

 

「理由なんてないわ。――あなたが濡れるなら、私も一緒に濡れたかっただけよ」

 

 それ以上の理由なんて、ほんとに無かったのよ。

 二人で砂浜に上がり、履いてきたものを手に取る。私のハンカチはびしょ濡れで、辛うじて無事だった彼のハンカチを二人で使った。でもそれも、すぐに濡れて使い物にならなくなる。

 

「びしょ濡れね。――悪いけどトレーナー、お散歩はここで終わりにさせてもらうわ。早く帰って服を替えないと、風邪を引きそうだもの」

 

 私がそう提案すると、彼はまた困った風に笑って、わかったと一つだけ頷いた。

 濡れた服からお揃いで水滴を垂らして、二人で合宿所を目指す。砂まみれの足でサンダルを履くと、変な感触がして気持ち悪い。でも不思議と嫌な気はしなかった。彼も同じ思いをしているのだと思うと可笑しくて堪らない。

 宿舎の前で「おやすみなさい」と言って別れた。時計を確認すると、まだお風呂の使用時間には間に合う。急いで部屋に戻って、着替えとタオルを取ってきた。スペシャルウィークさんの真ん丸に見開かれた目を、それっぽいことを言って何とかごまかす

 人気(ひとけ)のない使用時間ギリギリの露天風呂からは、湯気に混じって真ん丸のお月様が見えていた。



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花火は音しか聞こえない

七話目です。
小学校中学年くらいのキングと花火大会の思い出。
うっすらとかぐや様オマージュです。


 (わたくし)がお嬢様の携帯に出たのは、今宵開催の花火大会へ向けてお嬢様が浴衣を着付けている真っ最中であったからでした。

 着信を知らせる画面には「お母さま」の文字が光っております。お嬢様のお母さま――お屋敷の主である奥様からのお電話でした。お嬢様のお許しを得て、私が代わりにお電話を受けます。

 

「メイド長でございます、奥様」

『あ……メイド長』

 

 携帯の向こうに聞こえる奥様の声は、ひどく沈んで、そして安堵しているご様子でした。

 

『キングはどうしてるかしら』

「ただいま浴衣をお召しになっているところでございます」

『そう……。かわってもらえるかしら』

「お待ちください。――お嬢様」

 

 メイドの手を借りて帯を結んでいらっしゃるお嬢様をお呼びします。奥様に似せて長くされた髪を、今宵は顔の右で結っておまとめになったお嬢様は、ぴょこぴょこと愛らしくお耳を動かして私を振り向きます。奥様がお呼びです、と伝えると、お嬢様はスピーカーにするようにお答えになりました。

 スピーカーにした携帯を、お嬢様の前に置きます。お嬢様は浴衣を早くお披露目したくて仕方がないという様子でニコニコと笑って、お電話に出ました。

 

「もしもし、お母さま? 今浴衣に着替えてるのよ。帰ってきたら存分に見せてあげるわね。それで、一緒に花火を観ましょう。だから、早く帰って来てね」

 

 浮き立つ心そのままというように告げたお嬢様。けれど、電話口の奥様のお返事は歯切れが悪く、ひどく落ち込んでいるご様子でした。お嬢様もお気づきになったようで、不安げな表情を覗かせて携帯の向こうの奥様へ問われます。

 

「お母さま? 何かあったのですか?」

『……キング』

 

 随分と長い躊躇いの間がございました。奥様がゆっくりと息を吸う音まで聞こえた気がします。私も、もう一人のメイドも、お嬢様と奥様のやり取りを固唾を飲んで見守っておりました。

 

『……ごめんなさい、キング。帰れなくなってしまったわ』

「……え」

 

 栗色の瞳がぐらりと揺れる様子がはっきりと見えておりました。

 急な衣装デザインの依頼が入ってしまったこと。初めてGⅠを走るウマ娘の勝負服であること。出走が急遽決まったので、急いで製作しなければ間に合わないこと。そのための資料を用意しなければならないこと。事務所の他の方にも手伝ってもらって急いでいるけれど、花火大会には間に合いそうにないこと。一つ一つ事情を丁寧にご説明される奥様は、けれど今にも申し訳なさで消えてしまいそうな声音で、半ばパニックになっていらっしゃるようにもお見受けいたしました。それを、お嬢様の方はただ静かに、時折相槌を打つだけでお聞きになっておりました。

 

『ごめんなさい、キング。一緒に花火を観る約束、守れなくて』

 

 全てを語り終えたらしく、奥様はそこで言葉を切りました。何も声を発しなくなった携帯の画面を、お嬢様は小さな唇を開かずに見つめております。髪の間に覗く横顔からは、お嬢様のお気持ちを窺い知ることは叶いませんでした。

 しばらくした後、お嬢様はゆっくりとお顔を上げました。鏡に映る表情が困ったように眉を八の字にしております。「仕方ないわね」と強がりな溜め息を吐いているように、私には思えました。

 薄桃色の唇がゆっくりと開かれます。溜め息を吐き出すように、お嬢様は短い言葉を紡がれました。

 

「――ええ、わかったわ」

 

 それはとても……とてもとても大きなものを飲み込んだ「わかったわ」のように、私には思えたのです。

 

『キング――』

「そのウマ娘には、お母さまの勝負服が必要なんでしょう」

 

 何かを言いかけた奥様を遮るように、お嬢様はそうおっしゃいました。携帯の画面を見つめる目は、もう揺れ動くことなく、静かでお強いものになっておいででした。どこか誇らしげでもあります。私はその横顔をただ見つめていることしかできませんでした。

 電話の向こう側で奥様は覚悟を決めたご様子です。一つ息を吸った後に聞こえてきた声音は、今を時めく一流デザイナーのものへと様変わりしておりました。

 

『――ええ、そうよ。彼女を輝かせるためには、私のデザインした勝負服が必要なの。彼女はそれを望んでる。その期待を裏切ることはできないわ』

「でしたら、その期待に応えてくださいな。でなければ、このキングとの約束をふいにしたこと、許さないんだから」

『もちろんよ』

 

 奥様の答えに、お嬢様は満足げに頷かれます。端から見ているだけの私からしますと、一体どちらが母で娘なのか、わからないほどです。こういう時のお嬢様は、年齢よりも随分と大人びて、逞しく頼もしくなられます。

 話は終わりと、どこか素っ気なくお嬢様は通話を切ろうとされました。

 

「それじゃ、お母さま。お仕事頑張ってね」

『――なるべく早く帰るから』

 

 奥様の声が最後に元へ戻ります。娘を想う母としての感情が、そこへ全て込められているような気がいたします。お嬢様がそれをどうお受け取りになったかは、横顔からはわかりません。

 

「ええ、期待して待ってるわ。――間に合わなければ、そっちから花火を観てください」

『……ええ、そうするわ』

 

 お嬢様はそこで通話終了のボタンを押されました。画面はすぐにロック画面へ切り替わります。お嬢様と奥様が笑顔で並んで映っておりました。

 しばらく、部屋の誰も言葉を発しませんでした。お嬢様は黙ったまま、色んなものを噛み殺すようにじっと、携帯の画面をご覧になっておいででした。

 やがて細い浴衣の肩を竦めて、お嬢様はこちらを振り向きました。眉を八の字に下げて、困ったわとお嬢様は苦笑いをされます。残念そうな様子はどこにもありません。少なくとも私には感じられません。けれど半分に折れてしまったお耳が、お嬢様の心の内を物語っておいでです。

 

「……一流デザイナーを母親に持つのも、考えものね」

 

 溜め息交じりのお言葉。それに傷ついたような表情を見せたのは、当のお嬢様ではなくメイドの方でした。

 

「……折角、」

 

 悲しげで寂しげな若いメイドの表情。普段よりお嬢様と親しくしていることもあり、お嬢様の内心を想って感情を抑えきれていない様子でした。お嬢様を見つめる目が、今にも泣き出しそうです。

 

「折角、お嬢様が浴衣をお召しになったのに、奥様がいらっしゃらないのでは意味が……」

 

 俯き加減で悲しそうにしているメイドを、私は止めようと口を開きかけました。それはお嬢様が口にしない限り、メイドが口にしていいものではございません。今一番その想いを強くされているのは、お嬢様なのですから。

 けれど、私が言葉を発するより先に、お嬢様がメイドへ声をお掛けになりました。

 

「意味がないなんてこと、ないわ。あなたたちと爺やに見せてあげられるじゃない。それに、浴衣を着て、花火を観ることに意味があるのよ」

 

 着付けの終わった浴衣をひらりと舞わせて、お嬢様はその場で一回りしてみせました。髪飾りが踊ります。袖がはためきます。散りばめられた花の柄から、花びらと香りが舞い飛ぶかのような気がいたします。そうして、その花に負けないほど可憐な笑顔をお嬢様は見せるのです。

 メイドは一瞬息を呑んで、それからありがとうございますと笑っておりました。それに、お嬢様は安堵した様子で息を吐かれます。メイドを気遣ってのお言葉であることは明白でした。お嬢様のお優しさに免じて、私は開きかけた口を閉じます。

 お嬢様は次に、私の方へ目を遣りました。頼みごとをする表情が、やはり奥様とそっくりでございます。

 

「メイド長。悪いけれど、お夕飯を一人分、残しておいてくれるかしら。お母さま、きっとお腹を空かせて帰ってくるわ」

 

 メイドとしてこのお屋敷へ――いいえ、お嬢様にお仕えして早十年。感情を抑えることをこれほど困難に感じたのは、今日が初めてでございました。

 

「かしこまりました」

 

 お嬢様の優しさに敬意を表しつつも心が痛み、私は深々と一つお辞儀を致しました。

 

 

 

「……お母さまも、花火を観てるかしら」

 

 花火大会の会場へは足を運ばないことにしたお嬢様は、お屋敷のバルコニーから花火を見つめておいででした。雰囲気だけでもとメイドが用意した即席のチョコバナナを頬張るお嬢様が、やや遠くへ見える花火へ向けてポツリと呟かれます。

 結局、奥様は花火が打ち上がるまでには、お屋敷へお戻りにはなりませんでした。一時間ほど前に二度目の電話があり、帰宅は間に合わないこと、お嬢様だけでも花火大会を楽しんでほしいこと、奥様も事務所から花火を観ることをお告げになりました。お嬢様はその一つ一つに「わかったわ」と頷かれて、けれど結局こうしてお屋敷に残っております。

 

――「折角なら、皆で観た方が楽しいじゃない、花火!」

 

 そうおっしゃったお嬢様のご提案で、バルコニーには今、私を含めお屋敷に務める五人のメイドと執事が全員集っております。執事の爺やさんが最近ハマっていらっしゃるというフルーツティーを披露されておいでです。香り豊かなお茶を嗜むメイドたちを背に、お嬢様はバルコニーの手すりへもたれるようにして花火をご覧になっておりました。

 

「きっとご覧になっておりますよ」

 

 お嬢様のお隣に控え、私はそうお答えします。お屋敷から奥様のデザイナー事務所は離れておりますが、むしろ花火大会の会場へは近いはずでございます。

 お嬢様はふっと力が抜けたように笑われました。月の光を受ける鹿毛が、夜風に流されてキラキラとしております。

 

「だといいけど。……こんなに綺麗なんだから、観ないと損よね」

 

 お嬢様の言葉は、決して花火のことだけを指しているわけではないように、私には思えました。

 花火が開いてから、随分と遅れて音が届きます。お腹の底へと響くような、花火特有の力強さは、さすがにこのお屋敷までは届いては参りません。せいぜいが耳朶に余韻を残す程度でございます。お嬢様は、その音一つ一つにまで聞き入るように、お耳をピンと立てておいででした。

 

「……お母さまは」

 

 花火を見つめるお嬢様は、再びポツリと、やはり隣の私にしか聞こえないようなお声で呟かれます。先程とは違って、独り言のような響きを、私は何も言わずに聞いておりました。

 

「お母さまは誰かの夢を叶えるお仕事をしてる。とても大切なお仕事よ。とてもとても素敵なお仕事よ」

 

 誇らしげなセリフは、お嬢様が折につけて語っていることです。まるで我がことのように、胸を張って嬉しそうに、お嬢様はいつもおっしゃいます。その言葉をお聞きになる時、奥様はいつも気恥ずかしそうに笑って、「ありがとう」とお嬢様の髪を撫でるのです。

 けれど今宵、お嬢様の髪に触れる優しい手は、ここにはございません。お嬢様の声は、見上げるほどに遠く暗い夜空へと吸い込まれていきます。

 お嬢様はなお、遠い花火を瞳に宿したまま、お口を開きます。

 

「私も一流のウマ娘になるの。だからわがままなんて言わないわ。お母さまがいなくたって、キングは大丈夫よ。……でも、」

 

 声はどんどんと萎んでいきました。澄んだ声音は、最後には蚊の鳴くほど小さくなってしまいます。お嬢様の隣にいても、そのお声は花火の音に紛れてしまうほどか細いものでございました。

 でも、のその先を口にされるのを、お嬢様は随分と長い間躊躇っておいででした。開きかけの唇からは息が漏れるばかり。まるでいけないことを口にするように、お嬢様は殊更ゆっくりと言葉を零されました。

 

「でも……でも、ほんとのほんとに少しだけ……寂しいわ」

 

 霞んだ声で語る瞳に、涙はございません。遠くで咲き誇る大輪の花火を見つめる目は、微笑んですらおいでです。

 ……ああ、けれど。折角着付けた浴衣を、皺になるほど握り締めて震える小さなお手を、隠せてはいないのです。バルコニーへ今にも崩れそうな二本のおみ足を、隠せてはいないのです。

 

「お嬢様――」

 

 居ても立ってもいられず、私はお嬢様を抱き寄せました。きっと、お嬢様が本当にそうして欲しい方の、代わりにはならないのです。お嬢様の大好きな奥様の代わりには、ならないのです。けれど、まだ幼く小さな体に、こんなにも強さと優しさを抱えたお嬢様を、放っておくことはできませんでした。

 お嬢様は驚かれた様子で、ほんの少し浴衣の肩を跳ねました。けれどそのまま何も言わず、私の肩に頭を乗せております。可愛らしいお耳が垂れて、私の肩を撫ぜておりました。

 

「お嬢様。よいのですよ、お嬢様。寂しいと言ってもよいのです。お嬢様の強さも優しさも、私はようく知っております。けれど寂しい時は、寂しいと言ってもよいのです。泣いてもよいのです。お嬢様は――お嬢様はまだ、子供でいらっしゃるのですから」

 

 心配をかけてもよいのです。甘えてしまってもよいのです。たくさんたくさん、駄々を捏ねてもよいのです。けれどお嬢様は、決してそれをなさりません。私たちにも、奥様に対してでさえも。それが、奥様や私たちが大好きだからだと知っております。大切に想ってくれているからだと知っております。大人の真似をした背伸びではなく、お嬢様の強さと優しさが為せる業なのだと、存じております。

 それでも、どうかお嬢様。こんな時はわがままを言ってもよいのです。寂しいと訴えてよいのです。袖が絞れてしまうほどに泣いてもよいのです。全て全て、その幼いお身体で抱え込まなくてもよいのです。

 お嬢様はなおも夜空を見つめておいででした。小さな唇から、むせ返る夏よりもずっと熱い息を吐かれます。けれどお声だけは、凛と張っておられました。

 

「ああもう、なんでかしら。花火がよく観えないわ」

 

 バルコニーの手すりに、夜露が雫を作っておりました。

 

 

 

 灯りの落とされたお嬢様の寝室を訪ねると、二つの寝息が聞こえて参りました。

 一つはベッドで眠るお嬢様のもの。着付けていた浴衣を脱ぎ、寝間着へとお着替えになったお嬢様は、掛布団の中へお行儀良く収まっておいでです。その手には珍しくぬいぐるみが一つ握られております。ウマ娘を模したぬいぐるみで、昔から大人気のシリーズでございます。お嬢様が今お抱きになっているのは、現役時代の奥様をモデルにされたぬいぐるみでございました。四年ほど前に復刻した際、お嬢様と二人でレース場へ足を運び、入手したものでございます。奥様は随分と恥ずかしがっておいででしたが、お嬢様は大層大切に飾っておいででした。そのぬいぐるみを、まるでそこにはいない誰かの分を埋めるように、お嬢様は抱き締めて眠っております。

 もう一つの寝息は奥様のもの。ぬいぐるみを抱いて眠る我が子を守るように右手を添え、ご自身は床へ膝をついてベッドへ突っ伏すように眠っておいでです。お嬢様がご就寝なさって一時間ほど後にお戻りになった奥様は、花火セットを私へ預けるなり、靴を揃えることも、ジャケットを脱ぐことも忘れて、お嬢様の寝室へと向かわれたのです。なかなかお戻りにならないので、私はこうして見に来た次第でございます。きっと、お嬢様の寝顔をご覧になって安心されたのでしょう。あるいは、何事かを語りかけたり、子守歌を歌ったりなどされたのかもしれません。一流デザイナーとしてのお姿はどこにもなく、娘を守る母の姿がそこにはございました。

 ともに眠るお嬢様と奥様を、しばらく見つめておりました。ようやく意を決して、お部屋へと足を踏み入れます。奥様をこのままにしていては、お体に障ります。メイド長として、起こして差し上げなければなりません。

 

「奥様――」

「キングちゃん――」

 

 肩を揺すろうとしたその時、奥様がぽつりと呟かれました。お目覚めになられたのかとそう思いましたが、どうやらそうではなく、奥様は寝言にてお嬢様を呼ばれたようでした。その証拠に、お嬢様の訴えでここ一年ほど使わなくなった「キングちゃん」という呼び方をされています。

 肩にかけようとした手が止まります。それは奥様がお嬢様を呼ばれたからではございません。奥様の目頭から、小さな水滴が零れて、お嬢様のベッドへと落ちていったからでございます。

 奥様はなおも囁かれました。

 

「ごめんね、キングちゃん。へっぽこなお母さまで、ごめんね」

 

 零れた寝言が、きっと奥様の本音なのでございます。

 今度こそ肩を揺すって、奥様を起こします。居間へと戻られた奥様のために、私は一人分残していたお夕飯を温め直して、お出し致しました。



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誕生日にはおいしいケーキを

八話目。
キングヘイローへ一年に一度届くファンレターのお話です。


 一年に一度だけ、ファンレターをくれる方がいる。

 

 

 

 初めてファンレターを受け取ったのは、まだトゥインクル・シリーズへの出走さえ決まっていなかった頃、奇しくも私の誕生日のことだった。

 

「ファンレターが届くなんて、早くも注目の的だね」

 

 自主トレを終えて帰寮した私に、寮長はウィンクしながらそう言って、一通の手紙を手渡した。私はその手紙を、飛び跳ねそうなほど嬉しい気分が半分、首を傾げる不思議な気分が半分で受け取ったのだった。

 寮長によれば、こうしたことは珍しくはあるけど過去に例がない訳じゃないそうだ。学園内の模擬レースや選抜レースの結果は学外へ公開はされていないものの、極秘という訳ではないから学園関係者を通して知ることができるという。中にはそうした人伝の話で早くからウマ娘に目をつける方もいるのだとか。つまりこのファンレターの送り主は、どこからか私の噂を聞きつけて、早速応援してくれたという訳だ。

 受け取った手紙は何度も読み返した。才能溢れるウマ娘だと聞いたこと、トゥインクル・シリーズへの出走が楽しみであること、怪我無く楽しんで走ってほしいこと、そうしたことが丁寧な文章で綴られた手紙の最後には、こんなことが書かれていた。

 

『キングヘイローさんのお誕生日が近いとお聞きしました。ささやかですがお誕生日プレゼントを同封いたします。トレーニングの息抜きに楽しんでいただけますと幸いです』

 

 同封されていたのは、私も知ってる洋菓子店の、ケーキ食べ放題付きティータイムチケットだった。

 

 

 

 トゥインクル・シリーズへ出走すると、やはり多くのファンレターが届くようになった。トレーナーは選別しようかと言ってくれたけれど、私は全てに目を通すことにした。一通一通、隅から隅まで読んで、宛名のあるものには返事も書いた。そうやっているうちにふと、初めてファンレターをくれたあの方は、宛名を残していなかったことに思い至った。差出人のサインはあったけれど、送り主の住所などは記されていなかった。それゆえ、返事を書けていなかった。それが不義理な気がして、私はファンレターの山の合間にあの方を探した。次こそは送り主の住所を書いているかもしれない。そうしたら、必ず返事を書こうと思った。「あなたが初めてのファンレターをくれた方でした」と、そうしてお礼を述べたかった。

 けれど、待てど暮らせどその方から手紙は届かなかった。何通もファンレターを書いてくれる熱心なファンもいる中で、初めてファンレターをくれたあの方からだけは一向に二通目が来なかった。

 ようやく待ちわびたファンレターを見つけたのは、私がジュニア級からクラシック級へ移った年の春、一通目と同じく私の誕生日のことだった。

 内容は最初の手紙と似たようなものだった。惜しくも敗れた皐月賞だけれど末脚が素晴らしかったこと、今後のクラシック級での活躍にも大いに期待していること、ウマ娘は体が資本だからとにかく健康に怪我無く一年を過ごして欲しいこと。そうしたことが、質のいい便箋一杯に書かれていた。そして一年前と同じように、誕生日プレゼントが同封されていた。前のお便りと同じ私お気に入りの洋菓子店のケーキ食べ放題チケットと、それから健康祈願のお守りも入っていた。

 気遣いに感謝しつつ、早速返事を書こうとペンを取って、そこではたと気づいた。二度目の手紙にもやはり、その方は送り主の住所を書いていなかった。ペン先が便箋の上で空回りして、私は頭を抱えて唸ることになった。

 

 

 

 三度目のファンレターは、高松宮記念を勝利で飾った後、やはり狙ったように私の誕生日に届けられた。

 クラシック三冠を無冠で走り終えてからのマイル・短距離路線への電撃的な転換を発表した後には、さすがにファンレターの数が減った時期があった。届いたファンレターも、私の決断を心配する声が多かった。そういう反応になるだろうと予想も覚悟もしていたから大してショックは受けなかったけれど、唯一あの方のことだけが気になった。初めてファンレターをくれた方というのはどうしても意識してしまうもので、期待を裏切ってしまっただろうかとか、愛想を尽かされてしまっただろうかとか、そんなことをふと考えて心が痛んだ。

 だから、それまでと同じ日に届いたその手紙を見つけた時、ほっと胸を撫で下ろす自分がいた。

 手紙の中身はそれまでの二通とさして変わらなかった。クラシック三冠のレースは毎回手に汗握って見ていたこと、路線変更には非常に驚いて心配したこと、けれど高松宮記念でもキングヘイローらしい走りが見れて考えを改めたこと、今後の活躍も益々期待していること。そうしたことが、四葉のクローバーがあしらわれた便箋一杯に丁寧な文字と文章で綴られていた。それから最早お馴染みになってしまったケーキ食べ放題のチケットとお守り。お守りはウマ娘の間では有名な必勝祈願の神社のものだった。

 そしてやはりと言うべきか、送り主の住所はどこにも記されていなかった。もうここまで来ると、何か理由があって返事を求めていないとしか思えなかった。実際、そういう一方通行のファンレターというのも多い。私としては、応援してくれるファンとは積極的に交流したいところなのだけれど。距離感を保っておきたいというファンも中にはいる。この方も、きっとそういう考えの持ち主なのだろうとそう思った。

 

「……ありがとうございます。いつも励みになります」

 

 私にできるせめてもの感謝は、もらった手紙に向けてそう呟くことだけだった。

 一年に一度の奇妙なファンレター。それがキングヘイローの走りを支える一因であることに間違いなんてなかった。

 

 

 

 

 

 

――今年も、あの人からファンレターが届いた。

 

 朝の陽射しも温かな春の一日。身支度を整えた私は自分の机の前に立ち、そこへ置いた開封済みの手紙に手を触れた。丁寧に綴られた宛名書きを指先でなぞる。ふと、背後でもぞもぞと物音がして、驚いて振り向くとお寝坊さんが寝返りを打ったところだった。これはまた起こさないとダメかしらと思いつつ、私はファンレターを手に取る。指で表面を撫でると、なんだか心地の良い感触がした。

 封筒を見つけた時、開けるまでもなくあの人の手紙だとわかった。お守りが入っているからだろう、他の方よりほんの少し厚さがあるのだ。それと、封筒の封印のところに、封蝋を模したシールが貼ってある。手に取りひっくり返して封筒の表側を見ると、綺麗な文字で「キングヘイローさん」と私の名前が書かれていた。

 封を開け、三つ折りになった便箋を取り出す。手紙の中身は昨夜のうちにもう読んだ。去年一年間のレースの感想、URA特別賞受賞のお祝い、この間お披露目した新しい勝負服のこと。そうしたことが書かれた後に、いつも通り誕生日の祝福とプレゼントを同封した旨が書かれていた。

 昨夜読んだ内容を、もう一度なぞっていく。便箋一杯に詰め込まれた想い。その一言一言を最後の一文まで噛み締める。

 そして、便箋を一枚、めくった。

 一枚目の便箋と違って、そこにはたった一行しか文章はない。びっしりと端整な文字の並ぶ一枚目とのギャップが激しい。まるでその一文だけ、完成した一枚目の便箋に後から書き足したように思える。最後まで迷って、でもどうしても伝えたくて、ただこの一行だけを書き加えたように私には思える。

 天使のカーテンが柔らかに便箋の上で揺れていた。

 

『いつも応援しております』

 

 親指でなぞったその一文に、思わず溜め息が漏れる。そういえば、あの人の手紙には一度も「応援してます」と書いてはなかった。無事これ名ウマ娘と言わんばかりに、ただ私が無事にレースを駆け抜けるようにとだけ書かれていた。……まるで、どこかの誰かがしつこく送ってくる、心配性なメールみたいに。

 

「……これで気づかれないつもりなのかしら」

 

 もう一度ため息が漏れた。けれどその拍子に口の端が緩んでしまう。手紙を見つめる目元から力が抜けてしまう。それが無性に腹立たしくて、私は頬を張った。想像以上にいい音が響いて、ジンとした痛みが走る。

 手紙を封筒に仕舞って、鞄の中に忍ばせる。そうして鞄のチャックを閉めてから、ニンジン抱き枕を抱えてまだ夢の世界で楽しそうにしているウララさんを起こすことにした。

 

 

 

 お昼休みにトレーナー室を訪ねると、予想通り部屋にはトレーナーしかいなかった。休憩ぐらいすればいいのに、デスクでインスタントコーヒーをすすりながら相も変わらず資料を読み漁っている。私が入室したことに気づくと、彼は顔を上げてマグカップと資料をデスクに置いた。

 

「ごきげんよう、トレーナー」

「いらっしゃい、キング。お茶でも淹れようか」

「いえ、遠慮するわ。用件を済ませたら、すぐ寮に戻るから」

 

 そうかい、と立ち上がりかけていたトレーナーはまた腰を落ち着けた。私は彼の正面、少し前に導入された休憩用のソファに腰掛ける。なかなかに良い座り心地で、最近の私のお気に入りだ。

 横に置いた鞄のチャックを開く。今朝忍ばせてきたファンレターを取り出して、彼からも見えるよう顔の前に掲げた。彼は瞬きを一つして首を傾げる。

 

「ファンレター?」

「ええ、そう。ほら、毎年私の誕生日に送ってくれる方よ」

「ああ、ケーキ食べ放題チケットの。今年も届いたんだ」

 

 彼の言葉に一つ頷いて、でもそこで視線を下げた。手紙の封筒で口元を隠す。意地を張っていた分、その先を口にするにはほんの少し勇気が必要だった。

 ええい、ままよ。自分の中で踏ん切りをつけ、私は言葉を続ける。

 

「それで、その……ね。チケットの使い道なのだけれど」

 

 チラリ。目だけで机の方を見遣る。私のぎこちない様子に気づいているのか、彼は普段よりも数段優しい面持ちで私を見つめていた。まるで私のことなどお見通しと言われているようで、なんだか面白くない。

 私が言葉を続けるのを待つ彼の厚意に甘えて、ほんの少しゆっくりと息を吸った。

 

「……ごめんなさい。今年もあなたと行こうと思っていたのだけれど。――どうしても、誘いたい人がいるの」

 

 毎年あの人から届いたチケットは、トレーナーと使っていた。ある意味恒例行事のようになっていた。だから今年も、チケットが届いたらまた彼と行こうと、最初はそう考えていた。

 ……でも、今は無性に、会いたい人がいる。このお店のケーキを一緒に食べたい人がいる。今この時だけは、彼以上にそう思ってしまう人がいる。

 彼は特に驚いた様子もなく、変わらずに優しい面持ちのまま、一つ頷いた。

 

「行っておいでよ」

 

 答えが真っ直ぐ過ぎて、私の方が動揺してしまう。顔の前に掲げた手紙に唇が触れた。伏せた瞳が自分でもわかるくらい宙を泳ぐ。手紙の端を摘まむ指にいらぬ力が籠った。

 

「でも……忙しい人だから、断られてしまうかも」

 

 言ってからしまったと思った。何とも私らしくない。あの人の忙しさを理由に逃げ道を作るような言い回しだ。でもどうしても、いつもの私ではいられない。弱気で幼い自分が顔を出す。子供っぽい考えや言動や行動をしてしまう。それがどうしてかはわからない。

 そんな私に、一も二もなく彼から答えが返ってきた。

 

「それはないよ。キングに誘われたら、絶対に断ったりしないって」

 

 断言する言い方だった。視線だけ上げて窺うと、彼と目が合う。どうする、と問いかけるみたいに静かに私を見つめる目は、私が誰を誘おうとしているのか、気づいている様子だった。……いいえ、もしかしたら、一年に一度のファンレターの送り主の正体も、彼は気づいているのかもしれない。

 彼に気づかれないよう、小さく溜め息を一つ。決心はついた。大きく一つ頷いて、今度はしっかりと顔を上げる。ソファに預けていた背筋がシャンと伸びるのを感じた。

 

「そうね。――そうよね」

「ああ」

 

 彼もまた頷く。ふと、私に兄がいたらこんな感じなのだろうかと、そんなことを思った。

 手紙と鞄を手に取って、ソファを立つ。用件はこれで終わりだ。でもその前にと、私は彼のデスクへ歩み寄る。彼は不思議そうな目で私のことを見つめていた。

 

「なら、あなたにはこのチケットとは別に、私とケーキを食べる権利をあげるわ。――もちろん、あなたの奢りでね」

 

 いつもの調子で笑って見せると、彼も普段通りに苦笑いして、でもすぐに同意してくれた。「楽しみにしてる」と言う彼のおでこに軽くデコピンをお見舞いして、そうして踵を返し部屋を後にした。すぐにスマホを取り出して、通話アプリを立ち上げる。電話をかけたい相手の番号は、履歴を追えばすぐ一番上に見つけることができた。

 発信ボタンを押しかけて、ふと手にした手紙を見た。丁寧な筆致の「キングヘイロー」という文字が目に入る。

 ……きっかけは、それとよく似た筆跡を最近見たことだった。URAから贈られる新しい勝負服の製作打ち合わせの中で受け取ったメモ。勝負服デザイナーが描き上げたラフスケッチに書き込まれた文字の癖と跳ねや止めの形がよく似ていたのだ。

 もしかして。そう思ってしまえばあとは簡単だった。もしかしたら、心のどこかで薄々気づいていたのかもしれない。

 送り仮名の脱字が同じ箇所にある。文書の封印に封蝋シールを使っている。挙げだしたらキリがない。でも何より決定的だったのは、毎年同封されていたケーキ食べ放題のチケットだった。

 私のお気に入りのお店。そのお店のケーキが子供の頃から大好きだった。イチゴがたっぷりのショートケーキ。濃厚でちょっと大人な味のチョコレートケーキ。秋には美しい仕上がりのモンブラン。季節ごとのタルトでは、シャインマスカットのやつが一等好きだった。お店のロゴが入ったケーキボックスを手にして帰ってきたお母さまを見ると、恥ずかしいほどに飛び上がって喜んだ。

 毎年の誕生日も、お母さまがそのお店でケーキを買って来てくれていた。思えば、どんなに忙しい時でも、私の誕生日にだけは必ず一緒にいてくれた。玄関で出迎えるとケーキボックスを見せて微笑んで、メイド長が腕によりをかけたお夕飯を一緒に食べて、お屋敷の皆で誕生日の歌を歌って、そして私がケーキを食べるところをいつも穏やかに見つめていた。そういう人だった。

 一度として、私の誕生日を祝ってくれなかったことなんてなかった。

 

「……やり方が回りくどいんだから。いつもいつも」

 

 ああでも……それは私も同じか。

 溜め息を吐きつつ発信ボタンをタップする。電話はすぐに相手の呼び出しを始めた。でも、お母さまが電話に出るのにはいつも少し時間がかかる。私の番号だけ着信音を変えてるくせに。かかってきた瞬間に電話に気づく仕事人間のくせに。どういうつもりか、私の電話にだけはすぐに出てくれない。この私がこうしてわざわざ電話をかけているというのに、一体何を考えているんだか。まあどうせ、しょうもないことを考えてるんだろうけど。

 いつもよりワンコール分早く、相手は電話に出た。間髪を入れずに私は口を開く。

 

「もしもし、お母さま?」

 

 

 

 午後のトレーニングに遅刻した私を、トレーナーは何も言わずに許してくれた。



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「みちしるべ」

九話目です。
小学校卒業間近のキングが、トレセン学園入学のために家出をする話。
タイトルは茅原実里さんの同名曲から。


「爺や、少しいいかしら」

 

 据え付けられた時計の針が十時を回ろうとする使用人用の休憩室に、このような時間に聞こえるはずのない声が響いたものでしたから、一杯の紅茶で休息を入れていた(わたくし)は随分と驚いて部屋の扉へ目を遣りました。人一人分の姿が見えるだけ開かれた扉の隙間に、人影が一つだけ覗いております。ゆったりとした寝間着をお召しになったお嬢様がそこへ立ち、真剣そのものの表情で部屋の中の私を見つめておいででした。艶やかな鹿毛の間に見えるすっかり大人びた印象のお顔立ちに、早いものでもうまもなく中学生へおなりになるお嬢様の成長を改めて感じておりました。

 

「これはお嬢様。いかがされましたかな。――ささ、どうぞ中へ」

 

 席を立ちお嬢様を招き入れますと、音を殺すようにして扉を閉じたお嬢様は、ありがとうとやはり小さな声でお告げになります。何やら隠し事であることは察せられましたので、私も極力音をたてないよう頷き、小声でお飲み物の有無を尋ねますとお嬢様は私と同じ紅茶を所望されました。

 私が二杯目の紅茶を淹れる間、席へ着かれたお嬢様は窓から暗い庭園をぼんやりと眺めておいででした。まだ幼くあられた頃は、床へ届かない足をパタパタと忙しなく揺らしていらしたものですが、今ではきっちりと揃え落ち着いた佇まいで椅子へ腰かけております。どことなく、同じ年頃であった頃の奥様の雰囲気に似ているような気がいたしました。

 私の差し出した紅茶を、就寝用の柔らかな耳カバーを揺らしながら、お嬢様は微笑んでお受け取りになります。

 

「休憩中にごめんなさい」

「構いませんよ。私としましては、こうしてお嬢様とお茶をできる時間こそ、至福の一時でございますからな」

「……そう」

 

 カップより漂う湯気に息を吹きかけて、お嬢様は目元の力をわずかばかり緩めてくださいました。お嬢様はそのままゆっくりと、私と同じペースで紅茶を嗜まれます。夜ですからさすがにお茶菓子などはなく、しばらく二人で静かにカップを傾けておりました。

 中身が半分ほどになったところで、お嬢様はソーサへカップを戻されました。それへ倣い、私もカップを置いて、わずかばかり居住まいを正します。お嬢様はまだ何事かを考え込まれている様子で、小さな眉間へうっすら皺を刻みながら、テーブルの上で目線を彷徨わせておいででした。私はそんなお嬢様が言葉を選ばれるまで、じっと待っておりました。

 

「……爺やに話があるの。とても大事な話よ」

 

 いつになく深刻なお顔で、お嬢様は私へそう切り出されました。真ん丸をした栗色の瞳に真っ直ぐ見つめられると、自然にこの老体の背筋が伸びる心地がいたします。奥様、そしてお嬢様とお仕えして長い私ですが、これほど緊張する瞬間は片手で数えられるほどしか経験がありません。それほどに張り詰めた空気をお嬢様は醸し出されておりました。

 

「かしこまりました。この爺やでよければ、お嬢様のお話をお聞かせください」

 

 私が頷いて続きを促しますと、お嬢様はもう一度躊躇うような間を開きかけの唇より零し、ゆっくりと用件をお告げになりました。

 

「……家出を手伝って欲しいの」

 

 その言葉が決して冗談や一時の迷いでないことは、すぐに理解することができたのです。「家出」と、その短いお言葉をこうして私へ告げるのに、どれほど悩み考えそして決断されたのか。そうしたお嬢様の心の内が、震える声音から余すところなく感じ取れたのです。お屋敷に仕える執事としては、止めてしかるべきかもしれませんが、お嬢様の決心を無碍にすることは、私には大層難しいことでございました。

 すぐに返事をできずにいる私を、お嬢様はやはり静かに、けれど決して視線を逸らすことなく見つめておいででした。

 

「……お屋敷を出て、トレセン学園へ行かれるつもりですかな」

 

 私の確認にお嬢様は無言のままこくりと一つ頷かれました。

 トレセン学園――ウマ娘レースの最高峰であるトゥインクル・シリーズへ出走するウマ娘が集う学園からお嬢様への合格通知が届いたのは、つい先日のことでございました。しかし当のお嬢様には、さほど喜んでいるご様子はございませんでした。というのも、学園への入学に奥様が難色を示しておられるからです。お嬢様がトレセン学園へ進学されるか否かが、ここ半年ほどはお屋敷のもっぱらの話題でございました。私も、メイドたちも、お嬢様と奥様のやり取りをハラハラとして見守って参りました。

 しかし、ことここに至り、お嬢様はついに奥様の反対を振り切って、学園へ進まれることを決心されたご様子です。家出という手段を用いてでも、ご自身の夢を叶えるおつもりなのでしょう。

 

――「いつか私も、一流のウマ娘になるのよ!」

 

 思い返せばそれが、お嬢様が努力なさっている時の、いつもの口癖でございました。

 

「……学園の寮には、三月から入寮できるそうよ。確認したら、栗東寮に空きがある、って。だからここを出て、私はトレセン学園に行く」

 

 お嬢様はもう一度、今度はさらにはっきりと、ご自身の決意を口にされました。胸の前に重ねた手を強く握りしめ、奥様が宝石と評された瞳に並々ならぬ決心を宿して、私を真っ直ぐに見据えておいでです。目を逸らすことなど私にはできませんでした。夢を追いかける者の目、とでも申しましょうか。もう二十年近く前のことですが、同じような目に見つめられたことを、今更ながらに思い出しておりました。

 

「さようでございますか」

 

 さて、では私も、老骨に鞭打って覚悟を決めると致しましょう。大きくおなりになったとはいえまだまだ幼いお体に、一杯の強さと優しさを詰め込まれたお嬢様が、大きな瞳を震わせてお告げになった覚悟です。

 

「かしこまりました、お嬢様。この爺や、お嬢様の家出をお手伝いいたしましょう」

 

 私が答えると、お嬢様は困った風に眉を下げて、「ごめんなさい」と首を垂れました。その拍子に、可愛らしいお耳まで、ぺたりと畳んでしまわれます。こんな時にまでお優しいお嬢様です。

 お嬢様が私に手伝って欲しいことというのは、お屋敷を出た後に学園まで車で送り届けて欲しいとのことでございました。お屋敷から学園の寮へはさすがに車が必要でございましょう。お屋敷の運転手も任されている私にしかできないお手伝いでございます。

 仔細を説明し終えると、お嬢様はもう一度頭をお下げになりました。

 

「巻き込んでごめんなさい。本当は、私一人でどうにかするべきなのに」

「よいのですよ、お嬢様。むしろ私は嬉しいのです。こうしてお嬢様に頼っていただけるのですから」

「……ありがとう」

 

 顔を上げたお嬢様の微笑みは、どこかたどたどしく、今にも消えてしまいそうに弱く儚いものでございました。

 その後は、またしばらく紅茶を嗜んでおりました。お話を聞いているうちにややぬるくなってしまいましたが、お嬢様は何も言わずにゆっくりとカップを傾けておりました。普段からよく私やメイドたちの世間話に付き合ってくださるお嬢様ですから、こうして改まるとこれといって話題もなく、それゆえ私たちは薄くなってきた湯気を鏡のような夜の窓に写しながら静かに芳醇な香りに心を落ち着けておりました。

 

「――お嬢様。お一つだけ、爺やのお願いを聞いてくださいますか」

 

 飲み終えたカップをわざわざ下げて、ご寝室へ戻ろうとするお嬢様を、私は呼び止めます。振り返ったお嬢様は、何かしらと首を傾げて、私に続きを促されました。

 

「……家出をされる前に今一度、奥様とお話ししてはいただけませんか」

 

 誠に勝手なお願いと自覚しつつ、私は深々と頭を下げお嬢様にそう願いました。

 お嬢様。私はお嬢様を敬愛しております。勝手ながら、孫とも思いお仕えして参った所存です。ですがお嬢様。私は奥様の執事でもございます。奥様がまだまだ赤子であった頃よりお仕えして参った者でございます。奥様のこともまた、お嬢様と等しく、どちらかなどと決して言うことができないほどに、大切に思っております。

 私にとって大切な方たちが。あれほどに仲睦まじいお二人が。お嬢様の家出という形で引き裂かれてしまうのは、私には大変きついものがあるのです。

 

「身勝手なお願いとは存じております。しかし私は、お嬢様のことが大好きなのと同じくらい、奥様のことも大好きなのです。――ですから、どうか」

 

 執事として、本来こうしたことは口にすべきではないのでしょう。厳しかった私の師匠などが耳にすれば、無言のままお屋敷を追い出されたやも知れません。しかしそれでも、私は言わずにはおれませんでした。

 私へ歩み寄っていらしたお嬢様が、その手を私の肩へ置かれて、顔を上げるようにと仰せになりました。

 

「わかったわ、爺や。もう一度、お母さまと話してみる」

「……ありがとうございます。その際は、私もお嬢様へお力添えを――」

「いいえ」

 

 お嬢様は鹿毛を揺らして首を振り、私の言葉を遮りました。やはり困ったように眉を八の字に下げて、お嬢様は微笑まれます。

 

「これは私とお母さまの問題だから。私だけで話すわ」

「お嬢様――」

「気持ちだけもらっておくわ。ありがとう」

 

 お嬢様はそれだけ言って、私と指切りをし、必ず奥様とお話するとお約束くださいました。そして「おやすみなさい」といつも通りの笑顔を残されて、休憩室を後にされました。

 

 

 

 

 

 

 お嬢様は、私との約束通り、奥様ともう一度だけお話の場を作ってくださいました。丁度、お嬢様が家出の決行日と定めた日曜日の、おやつ時のことでございました。

 

「爺やさん」

 

 お屋敷の二階から降りて休憩室へと入ってきたメイド長が、珍しく険しいお顔で私をお呼びになりました。仕事をしながらも正直まったく手に付かず、仕方なく休憩がてら紅茶でも飲もうとしていた私は、電気ケトルのスイッチを押しかけたままメイド長を待ちます。

 

「メイド長、いかがされましたかな」

「……お嬢様の、お荷物の支度が終わりましたので」

 

 家出の計画には、メイド長も加担しておりました。というよりも、お嬢様自ら、家出を計画していると私たち使用人へお話になりました。ひどくショックを受け、引き留めるメイドもおりましたが、お嬢様は「もう決めたことだから」と丁寧にその願いをお断りになりました。

 メイド長は、その場ではお嬢様を引き留めることはされませんでした。けれどなにかしら思うところはある様子で――いいえ、このお屋敷に思うところのない者などおりませんが、ともかく彼女の心の内が、今この時だけは表情に露わとなっておりました。

 

「お二階の様子は、いかがでしたかな」

 

 淹れたばかりの紅茶を差し出しながら尋ねますと、テーブルへついたメイド長が何もわからなかったと首を振りました。お嬢様と奥様は、奥様のお部屋に籠ったまま、中でどのような会話が為されているかはわかりません。しかしいい加減、最初にお出しした紅茶もなくなる頃合いでしょう。取り換えに行かなければと、そんなことをぼんやりと考えておりました。

 

「……不思議で堪らないのです」

 

 一口だけ紅茶で唇を湿らせると、メイド長はぽつりと呟きました。

 

「奥様は、お嬢様には好きにさせて欲しいと、私に仰せになりました。お嬢様のやりたいようにやらせて欲しいと、いつもいつも」

「……さようでございましたな」

「お嬢様がトレセン学園へ入学されるとおっしゃった時も、きっと奥様はお許しになるのだろうと思っておりました。きっとお喜びになるだろうと思っておりました。けれど……」

 

 メイド長はそこで言葉を詰まらせ、今一度カップへ口をつけました。その向かいへ腰を落ち着けた私も、彼女と同じように紅茶を含みます。淹れ方を少々失敗しましたでしょうか、いつもよりもいくらかお茶の渋みが強いように感じました。

 

「奥様は、ことこの件に関してだけ、どうしてお許しにならないのでしょうか」

 

 メイド長の疑問に私は答えを持ち合わせてはおりません。

 ただ……このところ思い出すようになったことはございます。お嬢様がお産まれになってからのご様子ですっかり頭から抜け落ちていたことでございましたが。思えばあのような奥様のお姿を存じているのは、このお屋敷には私しかおりませんでした。

 

「……思うに、奥様はご自身の学生生活に――学園のことも、そしてレースのことも含めて、あまり良い感情をお持ちではないのかもしれません」

 

 余人が聞けば意外に思われるかもしれませんが、私は競技者として現役であられた頃の奥様を、そのように感じておりました。一流と呼ばれるにふさわしい錚々たるタイトルを獲得し、多くのファンがつくほどに世間からも注目された奥様ですが、レースや学園の話をされるところなど私は全く存じ上げません。むしろ明確に、そうした話題を避けているご様子すらありました。私の知る学生時代の奥様というのは、レースにひたむきな夢追う乙女ではなく、勝利を心から喜べない物憂げな少女でございます。

 輝かしい経歴をお持ちなのに、なぜ。多くの方はそうお思いになるでしょう。メイド長もそれは同じであるご様子でした。

 私は、奥様からたった一度だけ聞かされた学園とレースのお話を、メイド長へすることといたしました。

 

「メイド長。中央トレセン学園には、毎年どれほどの学生が入学されるか、ご存知ですかな」

 

 知りませんと首を振ったメイド長へ、私は例年七百から八百名ほどだと答えます。この辺りの数字は、奥様の頃から今でも変わっていなかったはずでございます。通常の学校であれば、まず間違いなくマンモス校と呼ばれる人数でございましょう。

 

「ではメイド長。その内何名が、中等部と高等部を経て学園を卒業されるか、おわかりになりますか」

「……厳しい世界ゆえ、中退者は多いと聞きます。半分ほど、でしょうか」

「……奥様の同級生では、五十名もおりませんでした。編入生や留年した学生を含めても百名と少し、二百名には遠く及びませんでした」

 

 たった八分の一。入学してから最後までトゥインクル・シリーズで走り続ける子は、たったそれだけしかいないのです。ほとんどの少女たちは、理由は様々あるにせよ、夢破れて学園を去ることになるのです。

 この数字をどう取るかは、人によりますでしょう。けれど私はどうしても、残酷な数字だとそう思ってしまいます。そしておそらく奥様も、多くの同級生や上級生、下級生が学園を去る姿を目にして、同じように思われたのでしょう。そしてそうした学園を去る学生の中には、奥様のご学友――例えば同じクラスの方であるとか、寮の同室の方であるとか、同じチームに所属する方であるとか、そのような方もいらしたことでしょう。

 

「とあるレースに、奥様が出走された時のことでございます。同じレースに、奥様のご学友も出走登録をされておりました。そのご学友は、しばらくレースで結果を出せておらず、このレースで入着できなければ引退して学園を中退されることになっていたそうです」

 

 そしてそのレースは奥様が勝利をおさめ、一方でご学友は入着を逃し、学園を中退する運びとなりました。

 

「奥様が直接、ご学友の夢を奪ってしまったわけではございません。入着を逃したということは、奥様以外にもそのご学友に先着された方がいらしたわけですから。けれど……そういうことが何度もあったのでございます」

 

 奥様がレースで勝利するたびに、誰かが夢破れて学園を去っていくのです。ほんの一握りの才能が夢を叶える一方で、多くの才能は打ち砕かれてしまう。レースに勝ち、学園に残り続けて来た奥様は、同時に涙すら枯れ果てたご学友を何人も見送ってきたのでございましょう。

 奥様が私へ聞かせてくれたことは、それだけでございました。

 

「ご自身の輝かしい成績より、奥様の脳裏にはそちらの記憶の方がずっと強くこびりついているのでしょう。……奥様にとって、レースはウマ娘から夢も希望も笑顔を奪う、忌むべきものなのやもしれません」

 

 そして、そうやって傷ついたウマ娘たちをたくさん見てきたからこそ、奥様はお嬢様の進学を手放しで認めることはできないのでしょう。誰よりも、お嬢様の健やかな成長を望まれているお方です。誰よりも、お嬢様の笑顔を大切に思われているお方です。ご自身の愛娘が、夢破れて深く傷つき、笑顔を奪われてしまうことを見過ごせる親など、果たしてどこにいるというのでしょうか。

 すっかりぬるくなってしまった紅茶へ手を伸ばす気分にはなれず、私としたことがつい話し過ぎてしまったと今更思いながら、窓の外へ見える昼下がりの庭園へ目を落としました。もう春だというのに、まだうっすらと冬の気配が残っているような、そんな気がしてなりません。

 

「……そんなの、嘘です」

 

 それまで静かに私の話を聞いてくださっていたメイド長は、絞り出すようにそう言って首を振りました。瞳に涙を堪えるメイド長は、やはり私と同じように眼下の庭園を眺めておいでです。けれどその目は、私とはまた違うものを見つめているように思われました。

 

「私は奥様のレースを、一度しか見たことがありません。――あの時の奥様は、それはもう眩いほどでございました。レースが終わるとすぐにお嬢様を抱きかかえられて、大層嬉しそうに笑っておいででした。……私には、奥様がレースを忌み嫌っているだなんて、そんな風には到底思えないのです」

 

 メイド長が一体いつのレースの話をされているのか、私にはすぐに理解できました。お嬢様がまだ保育園にも通われていなかった頃、奥様の引退戦となったレースのことでございます。お屋敷の留守を預かり、テレビにて観戦していた私も、あのレースのことはようく憶えております。

 世間をして「一流」と言わしめた現役時代の奥様でございますが、ことあのレースについては否定的な前評判がほとんどでございました。何しろ、出産と育児を経て実に数年ぶりというレースでございました。さすがの「一流ウマ娘」でも勝てるはずはない、それが世間の評価でした。しかし、奥様はそれを見事に覆された。

 あの日、奥様がどのような想いで走っておられたのか。私に知る由はございません。それでも――

 

「そうでございましたな。――あの日の奥様の笑顔は、やはり忘れがたい」

 

 メイド長のおっしゃる通り、あの日の奥様はまさに眩いの一言に尽きるのです。零れるほどに、その身の内にある想いを余すところなく溢れさせるように、誰にも憚らず隠す必要などないように、奥様は笑っておられた。小さなお嬢様をしかと抱きかかえ、無邪気な笑顔に応えるようにして、汗にまみれたお顔をくしゃくしゃにして微笑んでおられた。

 あの笑顔こそが、奥様にとってのレースの真実なのだと、私にはそう思えてならないのです。そうでなければ、あの聡明なお嬢様が、「私も一流になるのだ」なんて宣言されるはずがないのですから。

 随分冷えてしまったカップの中身を何とか流し込み、私は席を立ちます。お二階の話し合いが終わる気配はありません。いい加減、お茶のおかわりをお持ちしなくては。

 目尻を拭ったメイド長も席を立たれます。これより夕食の支度だという彼女を部屋から見送り、私はお茶のおかわりを淹れるべく、電気ケトルのスイッチを押しました。

 

 

 

 お嬢様と奥様の話し合いは、結局実を結ぶことはなかったようでございました。

 

「奥様。夕食の準備が整いましてございます」

 

 太陽が地平線に身を隠そうという頃合い、メイドたちが腕を振るった夕食が完成したのを確認して、私は奥様の部屋を訪ねました。話し合いが終わると一階へ降りて来たお嬢様と違い、奥様はずっと部屋へ籠ったままでございました。

 ノックをしながら部屋の中へ呼びかけても、返事は返って来ません。閉じ切った扉の前でしばらく立ったまま待っておりましたが、さてもう一度お呼びしようかと手を伸ばしたタイミングで、中から奥様の声がいたしました。

 

「爺や、少し話があるの。入って来て」

 

 奥様のお声は随分と力ないものに聞こえました。私は一言断り、閉じたままの扉を開きます。お部屋の中、寂しげに笑って私をお出迎えになった奥様は、大層疲れ切ったご様子でベッドに腰掛けておいででした。

 

「お呼びでしょうか、奥様」

「……ええ」

 

 頷かれた奥様は、けれどそこで言葉を切り、視線を落とされました。気力も体力も全部使い切ってしまったというようなご様子です。どこかやつれたようにもお見受けします。これほどに疲労困憊した様子の奥様は、どんなレースの後であろうと見たことがございません。

 伏せったままの目を、奥様は一瞬だけ隣へ移しました。ぽっかりと空いたベッドの上、奥様の隣には丁度人一人分のスペースが残されております。そこへ残った皺が、少し前までその場所に座っていたであろう方の存在を思い起こさせました。

 固く引き結んだ唇を奥様はゆっくりと丁寧に解かれました。

 

「キング、今夜出て行くのでしょう」

「……やはりご存知でございましたか」

 

 そのような気がしておりました。デザイナーとして多忙な日々を過ごされる関係上、お屋敷にいることの少ない奥様でございますが、その分よくお嬢様のことを気にかけておられます。時に、メイド長や私がご心配が過ぎるのではと思うほどに、よく気にかけております。ですから、此度のお嬢様の企てに関しても、きっとどこかでお気づきになられたのでしょう。ここ数日の奥様を見ていて、私はそのように感じておりました。

 

「……『入学を認めてくれないなら、家出するから』って。前にそう言われたの。だから……なんとなく、そんな気がしてたわ」

「お止めになりますか」

 

 私が尋ねますと、奥様は何も答えずに伏せっていた目を閉じました。長い長い沈黙でございました。時折開かれる唇が震えておりました。閉じた瞼の長い睫毛が震えておりました。すっかり垂れてしまったお耳の先が震えておりました。何かを飲み込み堪えるようにしていらっしゃる奥様を、私はただじっとその場で直立不動のまま待っておりました。

 どれほどの時間がそうして過ぎていったのかはわかりません。もう日も暮れて辺りは夜になろうかとしております。時間の経過は、時計の針を確認しない限り判然としませんでした。

 結局、奥様は私の問いかけに答えることはございませんでした。お顔を上げてベッドを立った奥様は、ほとんど物の置かれていない真っ新な机の上から、茶封筒とクリアファイルを私へ手渡されました。中身はトレセン学園への入学時に必要な書類で、奥様の署名が入ったものも見受けられました。

 

「キングに渡して。必要なものだから」

「かしこまりました」

「それと、ごめんなさい。折角呼びに来てもらったところ悪いけれど……お夕飯はあとでもらうわ」

「奥様、それは――」

 

 私の言葉を遮るように奥様は首を振り、視線を逸らしました。逸らした視線の先、今しがた書類をお取りになった奥様の机に、写真立てが一つ。半年ほど前、奥様とお嬢様が最後にお出掛けになった際にお撮りになった、二人並んでのお写真がそこへ収まっておりました。

 奥様の目元がほんの少しお優しくなったようにお見受けいたします。

 

「キングが屋敷を出て行くまで、私はここで待ってる。私にできることは、それくらいしかないわ」

 

 顔を合わせれば引き留めてしまうから。奥様がぼそりと最後に呟いたお言葉は、私にはそのように聞こえました。

 それはつまり、お嬢様を引き留めたくはない、と。このお屋敷を出て、トレセン学園へと入学し、そして奥様と同じ競技ウマ娘として夢を叶えて欲しい、と。私にはそういう意図であるように思われました。それを奥様へ確認しようとして、けれどはたと思い留まります。それを確かめたところで意味はないのです。むしろ今日この日まで多くを悩まれたであろう奥様を、苦しめてしまう問いのように思われました。

 黙ったままの私に背を向け、奥様はお部屋の窓の方へと歩み寄られます。昼間であればメイドたちの手入れが行き届いた庭園が見えるところでございますが、生憎と薄暗がりの今では何も見えてはおりません。鏡のようになった窓にはぼんやりと奥様の姿が映るばかりでございます。

 見えないはずの庭園を見つめるふりをして、奥様はまたポツンと呟きました。

 

「……キングのこと、私は何もわかってなかったのかしら」

 

 独り言のような呟きに、私は返す言葉を持ち合わせておりませんでした。

 

「『お母さまは何もわかってない』、『ずっとレースで勝つのが夢だった』、『お母さまが何を言おうと譲らない』って。……そんな風に思ってたなんて、知らなかった」

 

 訥々と語る声が、ほんの少し嬉しそうに聞こえたのは、私の気のせいでございましょうか。奥様のお背中からは、何も窺い知ることはできません。窓に映るお顔もおぼろげで、私の位置からは感情を読み解くことは叶いませんでした。

 

「……キングは私とは違う。キングのやりたいこと、私とは違う道を見つけるって思ってた。……私と同じ道を選ぶなんて思わなかった」

「それがお嬢様の選ばれた道でございます。奥様と違う道でなかったとしても、お嬢様の意志であれば、応援して差し上げてもよろしいのでは?」

 

 差し出がましいこととは存じつつも、私は私自身の意見を述べさせていただきました。奥様は少し驚いた様子でチラリと私を振り返りましたが、結局何もおっしゃらずにまた窓の方をご覧になりました。お部屋には再度、初春の静けさを含んだ沈黙が流れます。

 

「――言えないわ。『頑張って』、『応援してる』、なんて軽々しく言えない。そんな言葉一つで立ち向かっていい場所じゃない。それに、それを言ったら、キングはどこまでも頑張ってしまう。あの子はそういう娘よ。ひたむきで、努力家で……でも、そういう娘から潰れていく世界なのよ、あの場所は。才能があって、努力ができる娘でも、容赦なくすり潰してボロボロにしていく世界よ」

 

 言葉を紡ぐ間に何度も噛み殺すような間がございました。小刻みに震える小さな肩が堪えていらっしゃるのは、奥様の記憶にある恐怖なのでございましょうか。いいえ、それだけには思えません。あたかもご自身の本心まで噛み潰しているかのように私には思えます。

 お嬢様をレースの世界へ送り出したくないお気持ちも、一方でお嬢様の夢を応援したいお気持ちも、奥様はそのどちらもお持ちなのでしょう。でなければこれほど悩むことはないのです。苦しみ恐怖することもないのです。こうして、今まさに奥様のもとを飛び出そうとするお嬢様を、引き留めることをしないようにとご自身を部屋へ閉じ込めることもなさらないのです。

 

「嫌われたっていい。一生、口をきいてもらえなくてもいい。キングが笑っていればそれでいい。走ることが大好きなままのキングでいてくれればそれでいい。ただそれだけでいいのに」

 

 それは奥様の強がりでございました。お嬢様に嫌われてしまったら、きっと誰よりも奥様は悲しいのです。あるいは生きる支えをすべて失ってしまうやもしれぬほどに悲しいのです。けれどそれでも、奥様の願いはたった一つ、お嬢様が笑っていることなのでございます。それ以上の願いなど、奥様の内には存在しえないのでございます。

 私には、最早それ以上口にできる言葉はございませんでした。家出をお決めになったお嬢様も、それを黙って見送ろうという奥様も、もうすでに覚悟を決めていらっしゃる。この期に及んで私が言葉を尽くしても、それはお二人の並々ならぬ覚悟を無碍にする行為に他なりません。お二人に仕える執事として、それはできぬ相談でございます。

 

「――書類は確かに受け取りました。ご夕食の件も、私からメイド長へお伝えしておきます」

「……ありがとう。――爺や」

 

 窓から庭園を見つめ続ける奥様へ深々と一礼をして、私はお部屋を後にしようとしました。しかし扉のノブへ手をかけたところで、奥様は今一度私をお呼び止めになります。髪の隙間から窓の向こうの薄闇に紛れるようにして横顔が覗いておいででした。

 

「なんでございましょう、奥様」

「その、ね。……あの子のこと、無事に学園まで送り届けて頂戴」

「――かしこまりました」

 

 部屋を辞する直前に窺えた奥様の横顔は、ほんの少し口の端を緩めていらっしゃるようにお見受けいたしました。

 

 

 

 お荷物を全て車へ移し終え、お嬢様の家出の支度が整ったのは、夜も七時を回った頃でございました。

 お嬢様をお呼びしようと屋敷の二階へ足を運んだ私は、階段を上がった先、閉じられたままの奥様のお部屋の前に立ち尽くすお嬢様の姿を見つけました。軽く握った右の拳で今しも扉をノックしようとしているお嬢様ですが、しかし寸でのところで手が止まり、そのまま扉を叩くことなく半歩下がってしまわれます。開きかけた口から何かしら言葉を発しようとしているようでございますが、それもまた上手くいっておりませんでした。二度、三度と、お嬢様は同じことを繰り返されておりました。

 

「お嬢様」

 

 堪らず私が声をかけますと、お嬢様は驚いたご様子でこちらを振り向き、そして困ったお顔で微かに笑います。お嬢様は小さく溜め息を吐き出されて、チラリと奥様のお部屋を見遣りながら口を開かれました。

 

「……最後くらい、挨拶しようと思って。それが一流の礼儀というものでしょう」

「……さようでございましたか」

 

 頷かれたお嬢様は、今一度奥様のお部屋に向き直ります。手が伸びて、握られた拳が扉をノックしようとしております。私はそれをお嬢様の一歩後ろへ立ち、見守っておりました。

 ……けれどその後も、お嬢様の手が軽やかにノックを鳴らすことは、ついぞなかったのでございます。私が訪ねる前と同じように、二度、三度と躊躇するようにに拳を彷徨わせるお嬢様。力なく握られた小さな手は宙を惑うばかりで、最後には微かに震えながら力なく降ろされてしまいます。

 

「……なんて、言えばいいのかしら」

 

 ポツリと、お嬢様は心底お困りになった様子で呟きました。

 言葉が全く浮かばないのでございましょう。扉をノックしたとて、その後に一体何を奥様へ告げればよいのか。黙認されているとはいえ、家出をしようとしている今、どんな風に挨拶をすればよいのか。その言葉がどうしても見つからず、思い悩み、結局お嬢様は扉をノックできずにいるのでしょう。

 そんなお嬢様に、私からできる助言はたった一つでございました。

 

「――いってきます、でよいのですよお嬢様」

「……本当に? 本当に、それだけでいいの?」

「さようでございます。いつものように、いってきます、とそれだけでよいのです」

 

 旅立つ子が親に告げる言葉に、きっとそれ以上のものなどないのでございます。伝えたいことも、口にしたい想いもあるでしょう。けれどそれらを、上手く言葉にできないというのであれば。その時は無理せず短い言葉でもよいのです。千の言葉を語るより、たった一言の方が想いが伝わるという時もございます。ですからよいのですよ、お嬢様。いってきます、のただその一言で十分なのです。

 お嬢様は、私の言葉に全てご納得された訳ではないようでございました。私を振り返った拍子に揺れた鹿毛の合間、細い眉を目一杯に下げておいでです。なおも問いかけるようなお顔に思わず目を細めます。随分と大きく――背も伸びて、しっかりとしたお考えをお持ちで、多くのことをご自身でできるようになられました。爺やは勝手に、すっかり大人になられたものだと、寂しさ半分に思っておりました。けれどこうして間近で窺うお嬢様のお顔は、いまだ幼くあどけない少女のものでございます。期待も不安も、その小さなお体一杯に詰め込まれた、決して特別ではない女の子でございます。それを私はすっかり失念しておりました。

 私は半歩前へ出てお嬢様のすぐ側へと立ち、一言断ってそのお背中へ手を添えます。思えば、幼いお嬢様とお庭のブランコで遊ぶ時は、いつもこうしておりました。

 

「――大丈夫でございます」

 

 爺やがここへおります。いかほど、お嬢様の助けになるかはわかりませんが、それでもこの爺や、いまだお嬢様の背を支えることくらいはできます。

 お嬢様は真ん丸の瞳を一しきり揺らした後、意を決したように頷いて、もう一度緊張した面持ちでお部屋へ目を向けました。小さな唇が震えながら息をされます。

 コンコン。コツリ。扉からは小気味いいノックオンが響きます。

 

「……いってきます、お母さま」

 

 掠れてしまいそうなお声で、お嬢様は扉へ向かってそうお告げになりました。お部屋の中よりお返事はございません。けれどお嬢様は扉の前より動かず、眉間のあたりへうっすら皺を作って栗色の瞳を揺すり、根気強く待っておられました。廊下には物音一つなく、ただただ静かな時間が流れておりました。

 ふと、扉の向こうより微かですが音が聞こえました。パタリ。キシリ。音はあまりにたどたどしく、けれど確かにこちらへと近づいて参りました。それが、人の歩む気配なのだと少しして気づきました。あまりに力ない歩みでありました。あたかも、両の脚に枷が嵌められているかのような。あたかも、両の脚が鎖で雁字搦めになっているかのような。あたかも、両の脚では支えきれないものを意地でも背負い続けているかのような。そのように私には感じられました。

 扉のすぐ向こう、足音は薄い木の板をたった一枚挟んだあちら側でピタリと止まりました。何かの擦れるような音が微かに聞こえて参ります。コツリと小さな音も聞こえて参ります。扉の向こう、すぐそこへ誰かが立っていて、扉へ触れていることは明白でございました。

 半歩、お嬢様は前に出ますと、震える小さな手で扉へ触れました。細い指先から段々と、扉の質感を確かめるようにして手のひらを押し当てたお嬢様は、そうしてゆっくり瞼を落とされました。一つ、二つ、三つ。堪らない衝動を我慢するように深呼吸をされるお嬢様。再度目を開かれると、私から隠すように目元を拭って、そして踵を返して扉より離れていかれます。私は未だ開かれない扉へ一礼をして、そして真っ直ぐに階段へ向かわれたお嬢様の、その後を追いかけました。

 玄関前に回したお車の後部座席へお身体を収めるまで、お嬢様は終始無言でございました。階段を一段ずつ踏み締めていかれる間も、サッと最後の身だしなみを整える間も、玄関で靴へ足をお入れになる間も、唇は引き結んだままでございます。先程と同じように、懸命に何かを堪えていらっしゃるように、私はお見受けいたしました。

 

「お嬢様!」

 

 私が運転席のドアを閉めたタイミングで、お屋敷に勤めるメイドが二人、玄関より出て参りました。いずれも、私やメイド長よりお嬢様と歳の近しい、若いメイドでございます。日頃より、お茶やおしゃべりに興じ、仲の良い三人でございます。

 それまで無言であったお嬢様は、笑顔を作ると窓を開けて、二人をお迎えになりました。「くれぐれもお体にお気をつけて」「ご活躍をお祈りしています」「何かあればいつでもご連絡ください」とかわるがわるに手を取り涙声でお嬢様に言葉をかけるメイドたち。その一つ一つにしっかりと頷かれ、「ありがとう」と笑顔まで見せて、お嬢様は応えておいででした。

 一しきり言葉を交わされたあと、メイドたちは目元を拭いながら車より一歩下がります。

 

「もう少々お待ちください、お嬢様。まもなくメイド長も参ります。今、奥様を呼びに行かれていますので」

「……そう」

 

 お嬢様はチラリとメイドたちの後ろを見遣りました。諦めを多分に含んだ、ほんの小さな溜め息をお一つ。お嬢様はバックミラー越しに私へ目を向けられると、実に簡単にご命じになりました。

 

「いいわ、爺や。出して頂戴」

「お嬢様――」

 

 私よりも先に、メイドたちが引き留めようといたしました。けれどお嬢様は首を振ります。それから申し訳なさそうに眉を下げて微笑まれました。

 

「ごめんなさいね。でも、寮の門限に遅れてしまうから。もう行かないと。それに――あの人は、きっと来ないもの」

 

 小さな嘘を吐いて、お嬢様はもう一度私へ車を出すように命じられました。私は今一度、玄関の方を窺います。お嬢様のおっしゃる通り、確かに厳かな作りの扉が開かれる気配はありませんでした。

 

――「私はここで待ってる」

 

 奥様の並々ならぬ覚悟を私は目にしております。もしかするとお嬢様も、薄々そうした雰囲気を感じ取っているのでしょうか。

 

「……かしこまりました」

 

 私はお嬢様のご命令を了承して、サイドブレーキを降ろしました。お車をゆっくりと進めます。メイドたちは一礼して見送ることも忘れ、車に追い縋って手を振っていました。それに、お嬢様はずっと笑顔で答え、手を振り返しておりました。やがてメイドたちを置き去りにし、車は速度を上げます。お嬢様もメイドたちも、車が角を曲がってお互いが見えなくなるまで、ずっと手を振っておりました。

 振り終えた手を、お嬢様は名残惜し気に降ろします。窓を閉めた拍子に、お耳を垂らして寂しそうに目を伏せたお嬢様の顔が、そこへ映り込みました。

 座る位置を正したお嬢様は目を伏せたまま、再び黙りこくってしまわれます。取り出したスマホを無言で弄る姿がバックミラーから窺えました。

 すでに夜闇に覆われて、緩やかに眠りにつこうとしている住宅街を、私はゆっくりと車を進めておりました。家々が密集して道も細いわけですから、法定速度というのも遅く設定されております。時速にして三十キロ弱というスピードは、ともすればウマ娘のジョギングより早い程度。ほんの少し本気を出されてしまえば、おそらく今の車よりもウマ娘の方がずっと早く走れてしまうことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 ……ですから、もしも元競技ウマ娘が本気で追い駆けたのなら、この車にはすぐ追いついてしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

「キングッ!」

 

 閑静な住宅街には全く似つかわしくない声が、車のエンジン音に混じって響き渡りました。必死に呼びかけるその声は、この爺やの耳にもしかと届いたのです。主人に仕える者として、決してその声を聞き逃したり間違えることなどありえません。

 そして、私と同じかそれ以上に敏感に、その声へ気づかれる方もおります。

 目線だけでバックミラーを窺うと、住宅街の街灯の明かりがチラリと人影を映しました。翻る鹿毛が季節外れの蛍でも宿ったかのように煌めいております。美しい身のこなしと均整の取れたフォーム……とは程遠い、我武者羅で無我夢中な走りでございました。どこか不格好にも見えるウマ娘の走りに、しかし思わず見惚れてしまわずにはいられません。

 後部座席のお嬢様は、窓へへばりつくようにしてその姿を見つめておいででした。

 

「……停めて」

 

 掠れ声の呟きが車内に漏れます。お嬢様は潤んだ栗色の瞳で私を振り返り、もう一度ご命じになりました。

 

「爺や、停めてっ。お願いっ」

「かしこまりました」

 

 私はサイドランプとブレーキを同時に操作して、すぐに車を停めました。減速に従い、走ってくるウマ娘――奥様との距離が急速に近づきます。

 

「キングッ!」

 

 必死の形相でもう一度お嬢様を呼ばれる奥様。それに応えるようにお嬢様は窓を開き、その緩慢な動きがもどかしいかのように隙間へお身体をねじ込むようにして、身を乗り出されました。

 

「……さま……お母さまっ!」

 

 お嬢様の叫びへ呼応してか、奥様はさらに速度を上げて、こちらへと駆け寄ります。現役であられた頃の切れ味はどこへも残っておりません。けれどアスファルトを踏み締めて駆けるその姿は、ともすれば稲妻のようで、あるいは風のようで、レース場を駆けていらした頃のお姿を重ねずにはいられません。その脚は、ただお嬢様のためだけに、大地を蹴っております。

 奥様はやがて緩やかに減速し、息を整えながら車のすぐ側へ立たれました。その様子を確認されたお嬢様は、乗り出されたお身体を車内へと戻し、奥様の呼吸が落ち着くのを待っておりました。

 春の夜の寒い空気が車内へ入ることなど一向に気にも留めず、開け放たれた窓を挟んでお二人は対面しておいででした。どちらかが声を発することはありません。奥様もお嬢様も一生懸命に言葉を探しているご様子で、よく似た栗色の瞳が街灯の光を受けながらお互いを見つめ、揺れておりました。アイドリング中のエンジンの音だけが、妙に小気味よく辺りへ響いております。

 先に声を発したのは、奥様の方でございました。意を決したように一つ息を吸われて、震える唇で言葉を紡がれます。

 

「――キング」

 

 奥様はたった一言、お嬢様のお名前を呼ばれました。大変短いその言葉に、様々な想いが込められているように思われました。

 奥様の手が伸びます。窓の縁に乗せられていた手がゆっくりと、車中のお嬢様の方へ。細い指先が震えているのは、走った直後故なのか、はたまた別の理由からか。

 指先がお嬢様の髪に触れます。震える瞳で奥様を見つめておいでだったお嬢様は、全てを委ねるようにして目を瞑ります。奥様が頭を撫でる時には、いつもそうされておりました。いつも照れくさそうに頬を染めながら、瞳を閉じて優しい手つきに髪を任せておいででした。

 お嬢様の艶やかな鹿毛を、奥様はそれはそれは丁寧な手つきで撫でておりました。ここ最近の険しい表情が嘘のように、先程お部屋で窺った疲れ切ったご様子が嘘のように、ただただ穏やかな表情でお嬢様を撫でておいでです。時折、きらりと光るものを瞳の端で堪えるようにしながら、カバーをしたお嬢様のお耳も撫でておいででした。愛しさと慈しみの限りを尽くしていらっしゃるように私はお見受けいたしました。

 一分ほどそうした後、奥様はお嬢様から手を離されました。目を閉じて、奥様のされるがままになさっていたお嬢様がゆっくりと目を開き、再び奥様を見つめます。開きかけた唇がどこか名残惜し気でございました。

 

「――いってらっしゃい」

 

 奥様はとても静かにそうおっしゃいました。お嬢様の目を真っ直ぐに見つめて告げた言葉は、先刻お嬢様が奥様へとお掛けになった言葉への返答でございましょうか。それはきっと、お嬢様が一番欲しかったお言葉に違いないのです。

 

「――いってきます」

 

 お嬢様はもう一度、奥様へそうおっしゃいました。様々訊きたいことはございますでしょう。しかしお嬢様はそれ以上何も言わずに、やはり真っ直ぐに奥様を見つめておいででした。これ以上言葉を交わすことを恐れているようにも思えます。

 ……本当に、よく似た母娘でございます。そう思うのは私だけでございましょうか。伝えたいことも、口にしたいことも確かにあるのでございます。それこそ、言葉にすれば尽きぬほどあるのでございます。けれどお二人とも、それを形にするのが苦手なのです。それはお二人揃っての不器用さゆえでしょうか。あるいはお二人のお優しさとお強さゆえなのでしょうか。ともかくお二人とも、特に奥様が強く言葉足らずを自覚されているがために、言葉を尽くされることをされないのです。この頃は、殊更に。

 お嬢様に見つめられた奥様は微かに目を細め、もう一度開いた唇から申し添えられました。

 

「……いつでも帰っていらっしゃい」

 

 短い言葉に込められた想いは、端から見れば明らかなのでございます。ああ、けれど奥様。やはり此度も、言葉が足りません。周囲の者からすれば明確なことも、当事者には全く伝わらぬことというのも、多ございます。

 お嬢様はひどく傷ついたお顔をされました。唇を噛み締め、瞳の光を強くされます。奥様の言葉をどう受け取ったものか、図りかねるようにただじっとして黙っておりました。

 

「いいえ……帰りません。何があろうと、決して」

 

 決意を込めてお嬢様はそうおっしゃいました。言い切った時、その目はもう奥様を見てはおりませんでした。

 

「もういいわ。出して、爺や」

 

 珍しく強い口調でお嬢様は私に向けそうおっしゃいました。バックミラー越しに私を見る瞳が、薄暗い夜の中で微かに揺れております。

 

「……よろしいのですか」

「ええ、いいの。もう話すことはないわ」

 

 お嬢様は奥様へ目を向けることなくもう一度そうおっしゃいました。そんなお嬢様を、奥様は何とも言えない表情で静かに見つめておりました。やがて、奥様もまた私の方へ目を向けます。

 

「行って頂戴、爺や」

 

 震える唇から紡がれた言葉は、今宵一番力強い響きでございました。

 

「……かしこまりました」

 

 奥様が後部ドアより離れるのを待って、私は車を再び走らせました。お嬢様も奥様も、お互いに手を振ったりなどはされませんでした。サイドミラーに映る奥様はお嬢様と言葉を交わされた場所から動かず、夜風に束ねた鹿毛を揺らしながら車を見送っておりました。バックミラーに映るお嬢様は奥様と言葉を交わされた窓を見ることなく、背もたれに寄り掛かって反対の窓を見つめておりました。

 静かな、とても静かな春の夜を車は走り抜けていきます。時折現れる灯りの下を通るたび、冷たく白い光が車内を流れていきます。その度に後部座席のお嬢様の姿が照らし出されました。お嬢様は、先程のようにスマホを弄ることもなく、どこかぼうっとして窓の外を眺めておりました。流れていく光が栗色の瞳に反射する度、宝石のような輝きを見せております。

 光がリズムを刻む合間に、お嬢様は薄い唇をほんの少しだけ開かれました。

 

「……爺や」

「はい、お嬢様」

「ラジオか何か、かけてくれるかしら」

 

 私は頷いて、ラジオのスイッチを入れました。一体どこのチャンネルであるかは把握しておりませんが、どうやら歌のリクエストコーナーであるようでした。パーソナリティーは耳に心地の良い玲瓏な声でリスナーからのお便りを読み上げ、そしてリクエスト曲を紹介していました。私は存じ上げない曲名でしたから、きっと最近の曲なのでしょう。

 そうして、一曲、二曲と曲がかかります。曲の合間のトークも小気味よく、リズミカルに番組は進んでいきます。お嬢様は、聞き入っている様子はございませんでしたが、窓の外を見遣りながら時折耳を澄ます素振りを見せておりました。

 最後となる三曲目をパーソナリティーが紹介して、曲がかかります。伴奏も何もなく、女性歌手の歌声から始まる曲でした。ふと、どこかで聞き覚えのある曲だと、私は思いました。

 カタリ。沈黙を保って後部座席へ収まっていらしたお嬢様が、初めて物音を立てて反応いたしました。伏せがちに半分ほど閉じていらした双眸を、今は目一杯に開いてオーディオを見つめております。耳カバーをしたお耳をピンと立てて、食い入るように歌声に聞き入っております。

 微かに開いた唇がわなないて、ハッと息を吸いました。

 

「……お母さまの、子守歌だわ」

 

 背もたれに預けておいでだった体を前のめりにして、お嬢様はそうおっしゃいました。

 お嬢様の呟きで、私もようやく合点がいきました。ああそうです、奥様の子守歌でございます。奥様がよく、寝床のお嬢様へ囁いていた子守歌でございます。寝物語の最後に、奥様はいつもこの歌を口ずさんでおりました。

 それまでの強張ったお顔を、お嬢様は気の抜けた溜め息とともに柔らかくされました。

 

「いつも同じ歌ばかり。おかげで憶えちゃったわ」

「聞き覚えがあると思いました。懐かしいですな」

「……他にレパートリーはなかったのかしら」

 

 苦笑いして、お嬢様はまたお身体をシートへお預けになりました。けれどその表情は、いくらかもとの明るさを取り戻したようにお見受けします。ドアへもたれかかるようにして窓から外を眺めるお嬢様は、ラジオから流れる歌に合わせて歌詞を口ずさんでおりました。

 

「晴れの日も、雨の日にも――あなたを守るために」

 

 お嬢様のささやかな歌声に乗って景色が流れていきます。カーナビを見遣りますと、地図の端の方に「中央トレーニングセンター学園」の文字が見えて参りました。お嬢様の向かわれる栗東寮はその真向かいですから、もう十分というところでしょうか。

 まもなく到着いたします。そうお嬢様へお伝えしようとバックミラーを窺いました。丁度その時、差し掛かった街灯の光が車内を照らします。夜だというのに随分と明るく、不躾なほどに眩い光でございました。

 

「……願いはひとつだけ」

 

 震える声で歌詞を紡ぐお嬢様の頬に、初春の夜露が伝って煌めいておりました。

 開きかけた口を、私は閉じました。まだ歌は終わってはおりません。お嬢様も今しばらくは聞き入っていたいご様子。お声をかけるのは、もう少し後にするといたしましょう。

 

 

 

 学園の寮に着きますと、寮長だという学生が出迎えてくださいました。寮長さんはお嬢様のお荷物をお部屋へと運び込む指示をあれこれとしてくださいました。ものの数分で、残すところはお嬢様の身一つとなります。

 俄かに居住まいを正されたお嬢様は、私を真っ直ぐ見据え、お優しい笑顔を見せてお別れの言葉をくださいます。

 

「爺や、ありがとう。とても助かったわ。――体には気をつけて、ね」

「お嬢様こそ、どうぞお体を大切に。何かありましたら、いつでもこの爺やにお申し付けください」

「もう、爺やったら。寮に入るんだもの、爺やにあれこれしてもらうわけにはいかないわ」

 

 お嬢様はクスクスと口元へ当てた拳へ笑みを押し殺されました。なるほど、これは然り。私としたことが、余計な一言でございました。

 ……ああ、そうでございます。お嬢様はこれから、私が何かして差し上げることもできない、手の届かない場所に旅立たれるのですな。ご自身の二本の脚で大地を踏み締め、走って行かれるのですな。

 お嬢様はひらりとお手を振って踵を返し、寮の玄関へと向かわれようとしました。やはり大きくなられた、そう思います。幼くはあります。大人と呼ぶにはまだ時間がありましょう。けれどそのお背中は、もう随分と大きくなられた。あたかも育ち盛りの翼を、目一杯に広げて力の限り羽ばたこうとするように、私には感じられました。

 

「お嬢様――」

 

 私が呼びかけますと、お嬢様はくるりと振り返り首を傾げます。用件を尋ねる瞳に何を伝えたものか、私はしばしの間迷っておりました。

 

「時々でよいのです。お屋敷にお顔をお出しください。私も、メイドたちも……奥様も、お嬢様にお会いできないのは寂しゅうございます」

 

 私の言葉に、お嬢様は「あっ」と何かにお気づきになられた様子で、真ん丸に目を見開きました。それから困ったように、あるいはどこか自嘲されるように、眉を下げて肩を竦めておいでです。

 小さく力の抜けた溜め息を吐かれるとともに、お嬢様は微笑んでお答えになりました。

 

「ありがとう。でも、ごめんなさい。屋敷には帰らないわ。これは私が決めたことよ」

 

 胸を張って告げられた言葉には、家出のお手伝いをお願いされた際と同じ、確かな決意が宿っておりました。

 

「私は、私のなりたい私に――一流のキングヘイローになるまで、絶対に帰らない」

 

 真っ直ぐな瞳に見つめ返されてしまっては、私にはもう、「さようでございますか」以上に返す言葉はございませんでした。

 お嬢様に向かって深々と頭を下げます。

 

「いってらっしゃいませ、お嬢様。ご活躍を期待しております」

「いってきます。楽しみにしていて頂戴」

 

 高らかな笑い声を残して、お嬢様は歩んでいかれました。振り返ることはもうございません。私もお呼びたてすることももうございません。停めた車の前にて、寮の玄関へ消えていかれるその時まで、お嬢様を見送っておりました。やがてその背中は、寮の中へと入って、見えなくなりました。

 

「……楽しみにしております」

 

 厳しい世界でございましょう。辛いことも、苦しいことも……きっと奥様が心配されていた通りにあるのでございましょう。

 それでも、お嬢様のことです。努力家のお嬢様のことです。ひたむきに夢を追う嬢様のことです。誰よりも強く優しいお嬢様のことです。必ずやご自身の夢を叶えてくださると、私はそれを信じております。

 さて、夢を叶えた――目指すところの一流となられたお嬢様がお屋敷へ戻られた暁には、私も執事としてそれ相応のおもてなしをしなければなりますまい。お茶にお菓子、お料理も……もしかすると、そうした準備の時間はあまり残されていないやもしれません。

 私はその日が楽しみで仕方がないのです。

 お嬢様と旅立ちのお荷物の分軽くなった車を出して、私はお屋敷への帰路につきます。ラジオを切った車内に、私はふと、歌を口ずさんでおりました。



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腹巻パーティー、近日開催

十話目です。
ある休日前の夜、キングにかかってきた一本の電話のお話。
(pixivへの投稿はハロウィン直前でした)


――私のスマホは心配性。

 

 

 

『――ちょっと、キング。聞いてるの』

「……はいはい。聞いてますから」

 

 学生たちの憩いの場となっている共同スペースの端、通話用に設けられた一人がけの空間に陣取る私は、若干うんざりしながら電話の相手に返事をした。

 夕食も終わったこの時間帯、それも金曜日の夜となれば、レースを控えていないウマ娘たちにとっては一番の息抜きタイミングだ。実際、私もつい先程まで、友人たちとボードゲームに興じていた。それなのにどういう訳か、かれこれ二十分近くこうして電話に拘束されている。やはり「お母さま」という通知が見えた瞬間に、電話に出るのをやめた方がよかっただろうかと、今更ながらに思った。

 相変わらずの心配性――という名の小言を連発するお母さまを適当にあしらいながら、私は仕切りの隙間からチラリと共同スペースの一角を見遣る。友人たちは相変わらずボードゲームを続けていた。その内の一人、グラスさんと偶然目が合う。「大丈夫ですか?」とでも言いたげに小首を傾げた彼女へ、目線だけで「問題ないわ」と答える。グラスさんはこくりと頷いて、またボードゲームへ戻っていった。

 

『――それで、キング。腹巻はどの柄にするの』

「だからいらないってば。今時なによ、腹巻って」

『この季節は寒暖差が激しいでしょう。寝てる間にお腹を冷やしたらどうするの。この前だって――』

「お腹を冷やしたのは小学校一年生の時に一回だけじゃない。そんな前のことを『この前』なんて言わないでくださいな」

 

 まったく、親という生き物はどうしてこうも心配性なのだろうか。いいや、話に聞く限り、スペシャルウィークさんのお母様なんかは、もっとどっしり構えている印象だ。やはりお母さまが特別心配性なんだろう。

 ……いい加減、少しくらい信頼してくれたっていいじゃない。もう子供じゃないし、アスリートとして体調管理くらいは自分でできる。トレーナーだっている。お母さまにいちいち心配してもらわなくたっていい。小言を言うくらいなら、少しくらい別の話ができないのかしら。もしかしてお母さま、私に小言を言う以外の話題がないんじゃないかしらと、最近はそんなことすら思っている。

 折角の時間を台無しにしている気がして、どうしようもなく溜め息が漏れた。

 

「わかったわよ。じゃあ次の週末に、自分で買いに行きますから。それでいいでしょう」

『何言ってるの。それくらい買ってあげるから』

「強情な人ですね!?」

 

 最早溜め息すら出てこない。もう諦めの境地に両足を突っ込んでいる。色々と馬鹿らしくなって、「ならお母さまの好きにしてください」と投げやりに全て任せた。電話の向こうで「仕方ないわね」と答えたお母さまの声音は、どこか嬉しそうに聞こえる。そういえば、小さい頃はよく、お母さまに連れられてお洋服や靴を見に行った。お母さまは、自分の服なんかより、私の服を選んでいる時の方がよっぽど楽しそうだった気がする。

 この週末中に注文して送るからと言うお母さまに「はいはい」と答えた。週末か、と思って私はもう一度共同スペースへ目を遣る。今週末のハロウィンに向けて実行委員たちが作った飾り付けが部屋のあちこちに見えた。カボチャやコウモリ、おばけの姿が広い部屋のあちこちに散らばっている。

 ふと、イタズラ心が湧いてきた。

 

『それじゃあ、キング――』

「待って、お母さま」

 

 電話を切ろうとしたお母さまを呼び止める。お母さまは電話の向こうで随分驚いたみたいだった。しばらく間があって「何?」と短い声が返ってくる。

 クスリと口の端から笑みが零れた。今の私は、きっとよからぬ企てをする、悪役令嬢みたいな顔をしているだろう。

 

「トリック・オア・トリート。――お菓子をくれないと、イタズラします」

 

 今週末やって来るというハロウィンに相応しい言葉をスマホに向かって囁いた。

 

『……そういえば明後日だったわね。でも残念、お菓子なんて用意してないわよ』

「あら。それじゃあイタズラですね」

『……直接会えないのに、どうイタズラをするつもりかしら』

「それは秘密です。でも、一流のイタズラであっと言わせるから」

 

 まあ、ネタはないけど当てはある。お屋敷のメイドたちに頼めば、喜んでとびっきりのイタズラを仕掛けてくれるだろう。お母さまのことだから、きっと簡単に腰を抜かすに違いない。

 例えば、そうね。朝起きたら、スマホの待ち受けが私の一流ブロマイドになっているというのはどうだろうか。それか目覚まし音声が私の笑い声になっているとか。これくらいならそんなに手間もかからないだろうし、メイドたちも協力してくれるだろう。

 画面の向こうでお母さまは妙にあからさまな溜め息を吐いた。

 

『わかったわ。ハロウィンには間に合わないかもしれないけれど、何かお菓子を送るから。それでいい?』

「ええ、結構です。イタズラは勘弁してあげる」

『……もう、勝手なんだから』

 

 体に気をつけて。お互いにそう言って、おやすみなさいもして、電話を切った。やや過熱したスマホをポケットに仕舞い、私は通話席を立つ。途中で抜けてしまったボードゲームはもう終盤に差し掛かっていた。次のゲームから私も加えてもらうことにする。今夜は何だか誰にも負けない気がした。

 

 

 

 数日後、寮監室で受け取った荷物には、温かそうな腹巻が三着と、私一人では食べきれないほどのお菓子が詰まっていた。



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駅に流れるクリスマスイブ

十一話です。
イベントの無料配布用に用意したお話です。
時期的に近かったのでクリスマスのお話となりました。


――窓際に飾られたクリスマスツリーに、白銀の煌めきが重なる夜になった。

 

 

 

 ふと顔を上げてみると、日も落ちて幾ばくかの時間が経った駅の改札には、私と同じようにして立っている人影がちらほらと見受けられた。ある人はスマホの画面を気にして、ある人はしきりに腕時計を確認し、またある人は窓の向こうに雪降る空を眺めている。雑踏に紛れるその姿はバラバラだけれど、不思議と私と同じ目的なのだとわかった。だって、全員が全員、どこかソワソワと落ち着きなく、電車が到着するたびに改札口へ目を向けていたのだから。

 息を吐くと、薄っすら白い靄になって冬の空気へ溶けていく。丁度、目の前を小さな子供さんが改札口へ駆けて行った。その後にお婆さまと思しき女性が続いて、子供さんを追い駆ける。人の波をものともせず、元気よく俊敏に駆けて行った小さな影は、やがて勢いそのままに改札から出てきたばかりの女性に飛びついた。笑顔で子供さんを抱き留めたのは、どうやらお母さまらしかった。「ママおかえり!」という元気な声が人波の合間を縫ってこちらまで届く。ケーキの相談をしながら仲良く手を繋いで歩く姿に、自然と私の心まで温かくなった気がした。

 その時、新たなメッセージの着信を報せてポケットのスマホが鳴る。送り主に心当たりのある私は、首に巻いたマフラーへ溜め息を吐き出しながらスマホを取り出した。手袋を外して画面のロックを解除すると、見覚えのあるアイコンからウマインにメッセージが届いていた。トーク画面を開く。

 

『メリークリスマス』

 

 一日早いそのメッセージを表示すると、ウマインの粋な計らいでトーク背景に雪が降った。

 しばらく、他愛もないやり取りを繰り返す。最後にサンタのスタンプを送る頃には、すっかり手がかじかんでしまった。折角の手袋もこれでは意味がない。真っ白な息を吹きかけて指先を暖め、数度手のひらを擦る。一瞬温かくなったうちに素早く手袋をはめた。でも結局寒くて、私はもう一度、合わせた手のひらの内に息を吹いた。

 改札から溢れ出てくる人だかりに探している顔が見つからないと、私はやることもなくて空ばかり見つめた。降り始めた雪は強くなる一方だ。もしかすると、明日には積もってしまうかもしれない。元々トレーニングはオフだからいいけれど、有マ記念に出走する子たちにとっては悩ましいところだろう。

 ……また、レースのことを考えている。思わず自分で自分に苦笑い。もうこれは職業病と言えるかもしれない。こういう日ぐらい、少しロマンチックなことを考えつかないものだろうか。

 唇の合間から漏れた息が、また白くなった。首元が寒い気がして、巻いたマフラーに口元を埋める。遠くに聞こえるクリスマスソングを、ほんのちょっとだけ口ずさんだ。マフラーの中が一瞬だけライブ会場になる。

 歌詞がうろ覚えになったところでもう一度目線を窓へ向けた。外の様子に、あまり変化はないように見えた。蒼を極限まで濃くしたような夜空から、ふわふわと白いものが舞い降り続けている。思えば、子供の頃はそれだけで大はしゃぎしていた。雪が降った日は、決まってお母さまが家で仕事をしていたからだ。だから夜空に雪がちらつき始めると、いつもウキウキしながらお母さまの帰りを待っていた。

 今も、あの頃と同じかそれ以上に、不思議と胸を躍らせて人を待っている。

 

「……キングを待たせるなんて、いい御身分ね」

 

 ぽつりと呟いた言葉の最後が、微かに笑って冬の空気に溶けていった。何をするでもなく、手持無沙汰に、ふと辺りをぼんやり眺めながら人を待つ。たったそれだけのことが楽しくて堪らない。こういうことが最近はなかったからだろうか。寒い風が吹いても大して気にならなかった。

 ……一体、彼はどんな反応をするだろうか。驚くだろうか。微笑むだろうか。お土産を用意しているだろうか。「メリークリスマス」と言ってくれるだろうか。もしかして、その全部だろうか。改札口を見つめるたび、そんなことばかりを考えた。そして考えれば考えるほど、霜焼け気味の頬が緩んだ。誰にも見られないのをいいことに、マフラーの内で何度もにやけた。無性にくすぐったくてパタパタとブーツで足踏みする。その音色が我ながら愉快だった。

 浮かれている。その自覚はある。でも、それはもう今日という日のせいにしておいた。今日という日に街中に溢れるメロディーのせいにした。今日という日に心弾ませる人々のせいにした。今日という一年に一度の素敵な夜が私を浮かれさせるのだと、そう思うことにした。

――やがて、ホームへ電車がやって来る。それから少しのタイムラグがあって、ぞろぞろと人が改札口へ現れた。流れの邪魔にならない位置から私は降車客の顔を窺う。私と同じようにしている人が、やっぱりちらほらと数組ほどいた。

 改札から出てきた彼氏を、鼻先を赤くして笑う彼女が出迎える。お揃いの手袋が暖かさを求めるように重なるのを見届けた時だ。

 

「――キング?」

 

 私の名前を呼ぶ人がいた。

 自動改札機にウマモをタッチして出てきたやや赤い顔は、私を見つめてどこか間の抜けた表情をしていた。厚手のコートにマフラーという、私と同じ完全防備のせいか、普段よりいくらか膨れて見える。色合いもあって、どことなく子供のペンギンみたいだなと思うと、少し可笑しかった。

 歩調を早めてこちらへやって来るトレーナーの方へ、私も二歩三歩と歩み寄る。浮かれた笑みをもう一度だけマフラーの内に零して、それから彼の前に立った。研修という名のクリスマスプレゼントを受け取ったばかりの彼は、瞳の内にクリスマスカラーを揺らして私を見つめる。

 

「キングが出迎えてあげたのよ。もっと喜びなさいな」

「……それはもちろん、嬉しいけど。それ以上に驚いた。待ってるなんて聞いてなかったから」

「だって言ってないもの」

 

 種明かしをしてしまうと簡単なことだ。二時間ほど前、今日のトレーニングを済ませて、後輩たちとミーティングもして、渡されたメニューを全て終えた私は、彼にそれを報告した。そして私の報告に対して、彼は「お疲れ様」と「こっちはあと一時間で終わる」と返事を寄越したのだ。

 彼としては、単に事務的に、いつも通りの返事をしただけだったんだろう。私もそれをわかっていたし、最初は「気をつけて帰っていらっしゃい」とだけ返事を送るつもりだった。でも、送信ボタンをタップする直前にふと思ったのだ。会いたいな、と。

 そう思うと、途端にいてもたってもいられなくて、私は手早く着替え、コートとマフラーを掴み、門限の延長申請をしてブーツに足を通していた。そうして、学園の最寄り駅に一人立ち、彼を待っていたのだ。

 ……まあ、でも。ここまでの顛末は、今はいい。

 

「折角のクリスマスイブだし、あなたの顔でも見とこうと思ったのよ」

 

 経緯を語るなんて野暮なことはせず、私はそれだけを彼に告げた。彼は驚いた様子で目を見開く。開きかけの唇から、今しも「どうして」とさらに問いかけが零れそうだ。でも、私はそれ以上答える気はなかったし、問わせる気もない。

 もう半歩、彼との距離を詰める。

 

「――おかえりなさい」

 

 頭半分ほど背丈の違う彼を見つめて、私は一言だけそう言った。寒さで突っ張った頬が自然と解れて緩んでいく。やっぱり浮かれているかしら、とそんなことを思いながら、私は彼に笑みを向けた。

 赤鼻のトレーナーも、私と同じようにかじかんだ目元を緩めて、白い息とともに答える。

 

「――ただいま」

 

 たったそれだけのやり取りに口元のにやけが止まらなくて、やっぱり浮かれてるなと確信しながら、マフラーの中に表情をごまかした。

 

「――しかし、随分降って来たね、雪」

 

 駅出口の軒下までやって来たところで、彼が夜空を見上げてそう呟いた。口を開いた拍子に彼の息が真っ白な靄に変わってクリスマスの空へ昇っていく。私も頷いて「そうね」と呟くと、同じように随分はっきりした白い息が漏れる。二人分の息が混じり合って、雪舞う夜にゆっくりと溶けていった。

 

「キング、傘は?」

 

 尋ねた彼に首を振る。

 

「持ってないわ。そんなに降ってなかったのよ、私が来た時は」

 

 ほんの少しだけ見栄を張った。本当は天気のことなんてちっとも気にしていなかった。衝動のまま彼を迎えに来たものだから、防寒着のことしか頭に入っていなかった。駅の近くで雪がちらつき始めた頃に「しまった」と思っても遅い。

 こんなこと、彼には言えない。浮かれていたのがバレてしまう。まるで……恋人を待ちわびる、年頃の乙女みたいではないか。

 

「これ、使って」

 

 ひらひら舞い落ちる雪を手のひらにすくいつつ、さてどうしようと考えていた私に、彼はおもむろに折り畳み傘を差し出した。バックの中に常備しているものらしい。サイズ的に、人一人くらいは雪を凌げる。

 差し出された折り畳み傘を一瞥して、私は黙ったまま彼を見た。

 

「俺は大丈夫だから。キングが使って。君に風邪を引かせるわけにはいかない」

 

 ……どうして。この人はいつも、こうなのだろうか。

 わかっている。トレーナーとして、彼は私を気遣ってくれている。いつでも、何よりも、私や他の担当ウマ娘を優先してくれている。

 でも、このキングに限って言えば、その言葉は不正解だ。私が欲しいのはそんな言葉じゃない。

 あからさまに大きな溜め息を一つ、吐いてみせる。

 

「……あなた、まさかこのキングに傘を持たせるつもり?」

 

 彼へ詰め寄るようにして傘を押し返す。当惑した顔の彼へ手袋をした指をさし伸ばし、朱い鼻先に触れた。白い吐息の向こうで、クリスマスを反射する瞳が揺れ動いていた。

 

「あなたが傘を差しなさい。それで、二人で使いましょう。――わかったかしら?」

 

 有無を言わせぬよう、多少凄みをつけて言うと、彼は観念したようで「わかった」と頷いた。私はそれに満足して、突き付けた指を離す。

 彼が差した傘に二人で身を収め、軒下を出る。折り畳み傘は、二人で使うにはやはり小さかった。彼の肩に雪が解けるのを見つけて、私は多少強引に彼の腕を取り、引き寄せる。

 

「くっついた方が寒くないでしょう」

 

 私の言い訳に、彼は「そうだね」と答えて、優しく微笑んだ。その笑顔を目にすると、自分の言葉通り体が暖かくなる。頬なんて熱いくらいだ。それをマフラーでごまかしながら、彼と歩いていく。

 うっすらと積もり始めた雪の上に、ブーツと革靴が足跡をつけていった。



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私の優しいサンタクロース

十二話目です。
クリスマスに合わせて書いたお話でした。
キングの実家にもクリスマスの朝はやって来る。


 ……きっと、サンタクロースはいる。こんなへっぽこの私にもプレゼントをくれる、とびきり優しいサンタクロースが。

 

 

 

 朝日が照らす庭園には、昨夜降った雪がうっすらと積もっていた。

 テラスへの扉を開くと、冬の朝が容赦なく私の体を刺す。ストールを羽織ったくらいではどうにもならない冷たさで、吐いた息が瞬時に白くなったのがその証拠だ。雪を降らせた曇天が晴れて、青空ばかりが広がるいい天気だというのに、冬の空気は今日も凍てついている。肩のストールを引き寄せて両腕で体を抱いた。花も落ちた庭園に、私の息だけが広がっていく。

 一歩を踏み出して、テラスから庭園に足を降ろす。薄い雪の感触はほとんどなく、靴の形だけがくっきりと跡を残した。それだけでは味気なかったけれど、なんとなく足が向いたので、私はそのまましばらく庭園を見て回った。

 我が家の庭園は、メイドたちが丁寧に手入れをしてくれているけれど、さすがに冬となると見どころはない。季節ごとに色とりどりの花を咲かせる花壇も、お屋敷自慢の薔薇も、今は真っ白な雪をかぶって春を待っている。閑散とした空気がそこには満ちていた。

 ……でも。雪の日は決まって、この庭園に一等綺麗な花が咲いていた。

 

――「お母さま!」

 

 雪が降ると、早起きのキングが私の手を引いて、朝の庭園へと連れ出してくれた。愛らしい鼻とふっくらした頬を赤くするのもいとわず、真っ白な世界を駆け回って笑うキングは、雪の妖精さんみたいだった。一度、たっぷりと雪が降り積もった時は「雪だるまを作るわ!」なんて言い出して、お屋敷みんなの雪だるまを作り終わる頃には小さな手を冷たくしてしまった。私が手のひらで包んで暖めると、キングは「お母さまの手、あったかい」と言って楽しそうに笑った。

 

「……さすがに、もう雪ではしゃぐような歳じゃないわね」

 

 雪が器用に乗った薔薇の枝をつつくと、降り積もった結晶がパラパラと落ちた。ふうと吐いた息が雪に負けないくらい白い。凍てついた風がひゅうと吹いて残る雪もかき落とした。私はまた、肩のストールを手繰る。

 

「――奥様?」

 

 ふと、テラスより私を呼ぶ声がした。振り返ると、扉を開いてメイド長が顔を覗かせている。不思議そうな顔をした後、彼女もまたテラスへと出てきた。きっちりとまとめた錦糸の髪に、彼女の吐いた白い息がキラキラと輝きを添えた。

 寒そうなそぶりは見せず、メイド長はぺこりと頭を下げた。

 

「おはようございます、奥様」

「おはよう。冷えるわね」

「はい。奥様も、そのままですと風邪を引かれますよ」

「そうね。戻るわ」

 

 頷いて、足をテラスへと向ける。メイド長が開いてくれた扉から室内へ戻ると、濃厚な甘い香りがしていることに気づいた。ココアの香りだ。

 ダイニングへ戻ると、大きめのマグカップを携えた爺やが待っていた。ストーブの近くへ腰を降ろした私に、マグカップを差し出す。中身は、香りの通り、淹れたばかりの温かなココアだった。

 

「ありがとう。――ココアなんて、あったのね」

 

 少し前――キングが小学校に入る前までは、屋敷にもココアを常備させていた。でもこのところは、特に買い置きはしていなかったはずだ。メイドの誰かが購入したのだろうか。

 爺やはニコリとして答えた。

 

「いえ、そちらは頂いた物でございます。今朝、届いておりました。宛先は私になっておりましたが、お屋敷の皆さんで楽しんでほしいとのことでございましたので、まずは奥様からと」

「……頂いた物? 一体どなたから?」

「……さあて、どなたでございましょう。送り主は『サンタクロース』と名乗っておりましたが」

 

 やや含みのある言い方で、爺やは目を細めた。もう少し問い詰めたかったけれど、その間に折角のココアが冷めてしまうのはもったいなくて、私は口を噤んだ。爺やは一礼して、キッチンの方へ下がっていく。

 ストーブの明かりをぼんやり見つめながら、ココアの入ったマグカップを両手で包んだ。淹れたばかりだけあって、じんわりとした温かさが陶器のカップから伝わってくる。ストーブと合わさって、冬の朝に冷えた手が暖められた。

 凍てつく両手をゆっくり解しながら、ココアの香りを吸い込む。甘やかな香りで胸を一杯にすると、どうしようもなく息が漏れた。鼻先をくすぐる湯気が暖かいから、どこかほっとして気が抜けてしまう。寒さに強張った体から力が抜けて、ゆったりとした気分になる。不思議な心地だ。

 マグカップに口をつける。一口すすると、濃厚な甘さと包み込む暖かさが口の中に広がった。椅子に背を預けて思わずほうと溜め息を吐いた。ココアの存在感が舌に残る。でも嫌な感じはしない。甘いことは甘いけれど、チョコレートらしい苦味が残されている。朝の寝起きでぼんやりとして冷えた体には、とてもよく染みる暖かさだった。

 二口、三口とゆっくりココアを楽しむ。しばらくして感想を訪ねた爺やに、「おいしい」と答えると、嬉しそうに目を細めた。

 

「そうです、奥様――」

 

 ココアを飲み終わって冷えた体がすっかり温まった頃、着々と朝食の準備を進めていたメイド長がカウンター越しに私へ声をかける。マグカップを爺やに下げてもらい、私はメイド長の方を見遣った。彼女には珍しく、柔らかな笑みを見せていた。

 

「――今年も、サンタクロース様より、お預かり物がございます。先程、お部屋の方へお持ちいたしました」

「……そう」

 

 頷いて、すぐに席を立った。朝食の時間まではもうしばらく時間がある。毎年恒例になっているサンタクロースからのプレゼントを、確かめるくらいの時間はあるだろう。

 朝食の支度が出来たら呼ぶように言づけて、私は朝降りてきたばかりの階段を二階へと上がっていく。パタパタと踏み締めるスリッパの歩きにくさが、今はもどかしい。やっと階段を上りきって、自分の寝室へと廊下を小走りに進む。ドアノブに手をかけて、ふとしばらく主人の帰っていない隣の部屋を見遣った。

 ぴたりと閉じられた扉に、懐かしいことを思い出した。クリスマスの朝は、よくその扉がわずかに開かれていて、そして隙間から栗色の瞳が私の様子を窺っていた。いつもそれに気づいていないふりをして、サンタクロースからのプレゼントを確認していた。

 ほんのちょっと寂しさを唇から漏らして、自室の扉を開く。開け放ったカーテンから冬の朝が見えるけれど、まだ少し薄暗い。壁際のスイッチを押して照明を灯すと、ベッドの上に小包を見つけることができた。トナカイとサンタがあしらわれた緑色の包装紙に、クリスマスカラーのリボンが巻かれている。

 ベッドに腰掛けて、小包を手にした。リボンの間にカードが差し込まれている。「親愛なる」とわざわざ前置いて私の名前が書かれていた。その下にはQRコード。携帯を取り出して読み込むと、音声ファイルが再生された。「We wish you a Merry Christmas」と、どこかで聞いたことのある女性の声がアカペラで歌い出す。携帯をベッドへ置いて歌を聴きながら、私はカードをめくった。雪の降る夜を駆けるサンタクロースのイラストが描かれた下に、短く言葉が添えられていた。そして差出人は――サンタクロース。

 歌はまだ流れている。それを聴きながら、特に何をするでもなくカードを眺めていた。サンタクロースと名乗る差出人の、随分と綺麗になった文字を指先で何度もなぞった。

 

「……バレていないつもりなのかしら」

 

 どうしようもなく頬を緩めて呟いた。

 サンタクロースから初めてプレゼントをもらったのは、もう十年ほど前のことだ。初めて私にクリスマスカードを書いてくれた時、サンタクロースはまだ文字を覚えたばかりで、拙い平仮名で手紙を書いてくれた。年を追うごとに随分と上達して、今ではすっかり綺麗で整った文字を書くようになった。でもずっと見慣れてきた筆跡だから、一目見れば誰が書いたかなんてすぐわかる。

 

――「おかあさまっ! サンタさんはきましたか?」

 

 ……サンタクロースはいる。とびきり優しいサンタクロース。私を世界中の誰よりも笑顔にしてくれるサンタクロース。

 ……大好きな娘一人、満足に励まして応援してあげることもできない、こんなへっぽこな私にもプレゼントをくれる、お人好し過ぎるサンタクロース。

 携帯から流れていた歌が最後まで流れ終わる。目尻を指先で弾いて、それから携帯を取り、メッセージアプリを開いた。ホーム画面一番上のトークを開き、すぐに通話ボタンを押そうとして思い留まる。一度考えて、「おはよう」「少し電話してもいいかしら」とメッセージを送る。

 返事はきっとすぐに来ないと、そう思って包みの方を開こうとした。けれど今まさに置いたばかりの携帯から着信音が鳴り響く。設定してある曲のおかげで誰からの着信かはすぐにわかった。驚きが先に立って、慌てたまま携帯をお手玉する。何とか手の内に掴んで一度呼吸を落ち着けて、なんとはなしに髪を整えてから、応答ボタンを押した。電話の相手がすぐに口を開く。

 

『メリークリスマス、お母さま。どうされたんですか』

 

 

 

 私が遅れるのをわかっていたように、メイド長はできたての暖かい朝食を出してくれた。



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「私だけの天使」

十三話目です。
タイトルは松田聖子さんの曲から。
帰りの遅いお母さまと、お母さまの帰りを待つ幼いキングのお話です。


 仕事が終わってうちへ帰ると、パジャマの天使が駆けてくる。

 

 

 

「おかあさま!」

 

 心持ち控えめに告げた「ただいま」の声に、待ち兼ねた様子の大きな返事があって、幾ばくか驚いた。パンプスを脱ぎかけていた手を止めて、声が聞こえてきた扉の方を見遣ると、ぴょこぴょこと忙しなく動く耳と、きらきら光って止まない瞳がすぐに見つかる。肩を撫でる鹿毛と、最近お気に入りのリボン、そしてパジャマの裾を揺らして、キングちゃんは真っ直ぐ私の方へ駆けてきた。とてとて、ついてきたメイド長を置いてきぼりにして、脇目も振らずに走ってくる。肩にかけた鞄を傍らに置いて膝を折り、私は愛しい娘を抱いて迎えた。

 ぽすん。私の腕の中にキングちゃんの体が収まると、そんな風に軽やかな音がした。仰け反りそうになりながら小さな体を抱き締める。お風呂にはもう入ったのだろう、シャンプーの香りがふわりと広がって、鼻腔をくすぐった。穏やかな心地に、急速に筋肉が弛緩していくのを感じる。背をポンと叩いて、髪を優しく梳いてあげると、ぴょこりと揺れた小さな耳が頬を撫ぜた。

 

「おかえりなさい、おかあさまっ」

「ただいま、キングちゃん」

 

 明るい声に私が返事をすると、キングちゃんは益々嬉しそうに笑い声をあげる。まだまだ小さな手と腕で、一生懸命抱き着く可愛い娘に、私の方も自然と頬が緩んだ。

 二十秒ほどそうした後、キングちゃんを解放する。胸元から顔を上げたキングちゃんは、やっぱりきらきらした瞳で私を見つめて、そしてニパッと白い歯を見せた。たったそれだけで、今日一日の仕事の疲れなんてすっかりどこかへ行ってしまう。私はもう一度だけ、そっとふわふわの鹿毛を撫でた。

 

「――もう遅いでしょう。起きていたの?」

 

 私が尋ねると、キングちゃんはバツの悪い顔をして、一瞬だけ目を逸らす。小さな両の手の指を絡ませて、しばらく迷う素振りのあと、上目遣いに私を窺いながらゆっくりと口を開いた。

 

「……おかあさまのおかおをみたかったのです。ごめんなさい」

 

 天使は許しを乞うように、両の手を絡めて握り、揺れる瞳で私を見つめていた。チクリとした胸の痛みを感じる。私はもう一度キングちゃんの頭を撫で、ぺたんと寝てしまった可愛らしい耳に触れた。

 

「怒っている訳じゃないのよ。――今夜は、もう少し起きている?」

 

 私がそう言うと、キングちゃんはパッと顔を明るくして、勢いよく二度三度と頷いた。お日様そのものの笑みが可愛らしい顔から零れる。笑顔をそのままにして、キングちゃんはぐいぐいと私の袖を引いた。

 

「おかあさま、ごはんができてますよ。こんやもとてもおいしいです」

 

 キングちゃんに手を取られるまま、廊下を足早にダイニングへと向かう。鞄を預けたメイド長がニコリとして道を開けてくれる。それに、私の方は微かな苦笑い。コートの袖を引っ張って進むキングちゃんに合わせて、私は少し歩調を早めた。

 

「今夜の献立は何かしら」

「カレーですっ!」

 

 尋ねると、元気一杯の返事が返ってくる。メイド長特製のカレーは、今夜はお野菜がたっぷり入っていたらしい。でも好き嫌いせず、全部きちんと食べたと、キングちゃんは誇らしげに報告してくれた。

 

「偉いわね、キングちゃん」

「とうぜんです。キングはいちりゅーなんです」

 

 えへんと胸を張るキングちゃん。少し前まで、「ピーマンはいやです……」って言っていたのが嘘みたいだ。

 

「そうね。キングちゃんは一流だわ」

 

 私が頷くと、キングちゃんは頬を緩めて相好を崩した。えへへ、と笑う顔が「もっとほめて」と言っている。娘に求められるまま、何度も飽きることなく頭を撫でた。艶やかな鹿毛に指を通すたび、小さな耳がパタパタとして、私も思わず唇の端が緩んでしまう。

 洗面所で手洗いとうがいを済ませ、脱いだコートをメイド長に預けてからダイニングへ向かうと、先に席へ着いていたキングちゃんが、まだ床へは届かない足を揺らして私を待っていた。手招かれるまま向かいへ腰を落ち着けると、すぐにメイドが夕食を持って来る。大根とキャベツのシンプルなサラダ、それからキングちゃんの言う通り野菜がたっぷりのカレーライス。キングちゃんが食べやすいようにだろう、お店で食べるものよりいくらか小さく揃えられた具材が、ルウの中に溶け込んでいた。

 向かいに座るキングちゃんには、爺やが湯気を立てるマグカップを差し出す。中身はココアだと爺やは言った。それを聞いたキングちゃんが、真ん丸の瞳を輝かせて両耳をパタパタと動かす。小さな両手でマグカップを受け取ったキングちゃんは、「じいや、ありがとうございますっ」と笑顔でお礼を述べた。爺やがニコリとして下がっていく。

 

「いただきます」

 

 手を合わせて、遅い夕食を取り始める。サラダを一口。瑞々しいトマト。それと、スプーンにすくったカレー。すっかり空っぽのお腹にゆっくりと夕ご飯を入れていく私を、向かいからキングちゃんはずっと見つめていた。両手で持ったマグカップに、小さな唇から息を吹きかけ、ゆっくりココアをすする。私と目が合うと、にへっと笑った。

 

「おかあさま、おいしいですか」

「ええ。とてもおいしいわ」

 

 目元を緩めながら答えると、キングちゃんは満足そうにまたココアをすする。それから、今日の出来事をあれやこれやとお話してくれた。朝、私を見送った後に、メイドとお庭の花壇に水をやったこと。保育園ではお絵描きが上手だと褒められたこと。お迎えの車の中で爺やに歌を聴かせたこと。夕ご飯はきちんと噛んで残さず食べたこと。お風呂はメイド長に入れてもらったこと。そして、おしゃべりをしながら、私の帰りを待っていたこと。あのね、あのね、と飽きもせずに話してくれることを、私は相槌を打ち、時折食事の手を止めて聞いていた。

 キラキラしたキングちゃんの一日が、ただただ耳に心地よく、そして愛おしかった。

 

 

 

 キングちゃんのマグカップに注がれた二杯目のココアは、結局半分ほど余ってしまった。

 カレーが三分の一くらいになった頃から、随分眠そうにしていた。一生懸命おしゃべりしてくれた唇が、言葉の代わりに寝息を吐き出すまでの時間はさほどかからず、数分もしないうちにキングちゃんは目を閉じた。今はテーブルの上にお行儀よく突っ伏して眠っている。

 元々、眠かったのだと思う。普段ならもうベッドで愛らし寝顔を見せている時間だ。それが、私の顔を見たいからと、眠いのを我慢して起きていた。そこへ怒涛のようにしゃべったから、いよいよ疲れてしまったんだろう。

「起こして、寝室へお連れいたしましょうか」とメイド長は言ってくれたけれど、起こしてしまうのは何だか可哀想な気がした。それに、これは私の身勝手だけれど、キングちゃんの天使みたいな寝顔を、もう少しここで見ていたかった。だから起こさないようにと、メイド長の申し出は断った。

 眠る天使のすぐ隣へ席を移し、食後の紅茶をすすりながらそっと髪を梳いていた。時折、小さなお耳がぴくりと動くけれど、キングちゃんが目を覚ます気配はない。柔らかなほっぺと唇を艶やかな鹿毛の間に覗かせて、愛らしい寝息を奏でている。その寝顔以上に大切なものなんて、この世にないように思えて、だからずっと髪を撫でていた。

 

「すっかり、眠ってしまわれたようですね」

 

 声を潜めた爺やに頷く。多分もう、ちょっとやそっとのことでは、キングちゃんは目を覚まさないだろう。すっかり夢の国の住人になっている。もうそろそろ、ベッドへ移しても大丈夫だ。

 

「……ベッドへ移しましょう」

「かしこまりました。では、ここは私が――」

「いいえ。私が連れて行くわ」

 

 私が答えると、爺やはぱちくりと瞬きをする。それ以上何かを言い募ったりはせず、目元の皺を何本か増やして「かしこまりました」と返事をし、その場を辞した。残った紅茶を飲み干し、物音を立てないよう細心の注意を払って、私は席を立つ。

 すやすやと心地よさそうに寝息を立てるキングちゃんを、起こさないようにゆっくり抱え上げると、両腕にその存在感がしっかりとかかった。まだまだ幼いとはいっても、日々信じられないくらいの早さで成長している。小さくか弱い、という表現を使うには、今のキングちゃんは随分大きい。

 廊下を進み、階段を上がって、キングちゃんを寝室へと運ぶ。腕の中のキングちゃんは、時折身じろぎをしたけれど、もうすっかり深い眠りの中らしく、瞼を上げることはなかった。全てを私へ預け安心しきった穏やかな寝顔に、つい見惚れてしまいそうになるけれど、それを堪えて足元を探りながら歩く。ベッドへ辿り着くほんの二分ほどの時間が、とてもゆっくりと流れるものに感じられた。

 おひさまの香りがするベッドへ静かにキングちゃんを寝かせ、掛布団をかけようとしたところで、小さな手が私の袖を掴んでいることに気づいた。抱っこして運んでいる間に、無意識のうちに掴んでいたらしい。起きている様子はないから、右手でそっと解いて、そのまま掛布団の中へ仕舞おうかと思った。けれどふと、私は思い留まって、動きを止める。

 

「……さま」

 

 ほんの微かに漏れた、吐息みたいなキングちゃんの寝言が、私を呼んだのだと理解できた。心臓を鷲掴みにされるような感覚がして、私は息を呑み、たった今私を呼んだキングちゃんの顔を見る。

 天使は相変わらず、純粋で愛くるしい顔をしていた。悲しみなんて何一つ知らないみたいに、穏やかな呼吸と共に眠りについている。きっと今夜も、いい夢を見る。そうわかっていても、今この時、キングちゃんの手を離すつもりにはなれなかった。

 小さな手を、私の右手で包む。反対に左の手で、キングちゃんの顔にかかった前髪を払った。そうして、もう一度キングちゃんの頭を撫でる。今夜何度目になるのかは、もうわからない。

 ……きっと、寂しい思いを、させている。キングちゃんは、そういうことを私に感じ取らせまいとしているけれど。ふとした瞬間の表情や仕種でわかってしまう。

 いつも一緒にはいられない。それはもちろん、今時四六時中子供と一緒にいるという親の方が珍しいとわかっているけれど。それでも、私がキングちゃんに割いてあげられる時間は、きっと周りにいる子たちの親に比べて、ずっと少ない。

 

「……お母さまはここよ。ここに、いるわ」

 

 柔らかな鹿毛にそっと触れた。

 ……初めて、あなたをこの腕に抱いた時、誓ったのだ。世界で一番のお母さまになると。あの人が亡くなった時、約束したのだ。何があってもあなたを守る、決して不自由はさせないと。

 あなたを想わない日はない。私の心はいつだってあなたのそばにある。でも……それが、言い訳だって、わかってる。あなたが決して口にしない、あなたの本当の望みを叶えるものではないって、わかってる。

 私にできることは、私に許されたすべての時間を、あなたのために使うこと。こうしてそばにいられる間は、ずっとあなたと手を繋いでいること。暖かなベッドで眠りにつくあなたが、楽しい夢を見れるように見守っていること。

 

「ここにいるわ。――安心して、おやすみなさい」

 

 前髪を上げて、そっと額にキスをする。キングちゃんの寝顔が、ほんの少し、笑ったような気がした。



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耳のお手入れは丁寧に

十四話目です。
キングの耳のお手入れのお話。
タイトルは新シナリオの同名イベントから。キングには耳を丁寧にお手入れしてくれる人がいたんだろうなぁ、という妄想を膨らませた結果です。


「――もう、キングちゃん。動いちゃダメよ。危ないでしょう」

 

 可笑しさを堪えながら静かに窘めると、太腿を枕にする娘はクスクスと笑って耳を跳ねた。

 久しぶりの何もない週末。お出掛けの約束をした明日に備えていつもより早く寝支度を済ませた私の部屋へ訪ねて来たキングちゃんは、お気に入りの枕と一緒に耳かきを手にしていた。キングちゃんはそのままベッドに腰掛けて、あと少しで床へ届きそうな足を揺らしながら、可愛い声で私に耳掃除をねだった。私が温かい濡れタオルと、柔らかいタオル、それからブラシと綿棒を持って来て同じようにベッドへ腰を落とすと、太腿に小さな頭が預けられた。けれど、いざ耳に触れると、くすぐったいと言って身をよじっていた。

 

「こーら、キングちゃん。少し我慢なさい」

 

 就寝用の耳カバーを何とかはずし、露わになった耳へ軽くブラシをかけながら、もう一度キングちゃんを窘める。キングちゃんは拳を唇に添えて、控えめに笑いを零した。

 

「ごめんなさい。お母さまの手、気持ちよくって。くすぐったいんだもの」

 

 白い蛍光灯の光を宿した栗色の瞳で私を見つめ、キングちゃんはそう訴える。指先で触れた小さな耳が、ぴょこぴょこと踊るように動いて手のひらを撫ぜた。それがあまりに可愛らしくて、堪えきれなかった笑いをゆっくり零しながら、しばらくの間優しく触れていた。キングちゃんが黄色い悲鳴を上げて身をよじる。

 

「――さあ、キングちゃん。今度こそじっとしてるのよ」

「はーい」

 

 いいお返事を聞き届けて、ブラッシングを再開する。ようやく落ち着きを取り戻したキングちゃんの耳を手に取ると、ぴくりとほんの少しだけ跳ねた。キングちゃんはくすぐったいのを我慢しているらしく、端の方が吊り上がっている口元を一生懸命引き締めていた。

 

「……ふあ」

 

 ブラシをかけると、キングちゃんの口から声が漏れた。さっきまでくすぐったさを堪えてぴったり閉じていた唇が、緩んで半開きになっている。それとは反対に、真ん丸だった目は半分ほどに細くなった。睫毛の合間に栗色の瞳が揺れている。

 

「ふわあ……ふぁあ」

 

 心地よさそうにすっかり緩んだ声を発するキングちゃん。その様子を見ながら、ゆったりと長いストロークでブラシを動かす。強くすると痛がるけれど、かといって弱すぎてもケアの意味がない。キングちゃんの反応を見守りながら、手の加減とブラシをかける場所を調整する。今夜は耳の裏の、付け根の辺りが気持ちよさそうだ。

 右耳、左耳とブラシをかけ終えると、キングちゃんはすっかり大人しくなった。くすぐったさを堪えようと強張っていた肩の力が抜けている。太腿にかかる存在感が少し大きくなった気がした。秋色の大きな瞳をとろんとさせて、私に全てを委ねている。

 ブラシを置いて、今度は暖かいタオルを手に取る。少し熱めにしておいたタオルにそっと触れると、丁度お風呂のお湯ぐらいの温度になっていた。冷たいと驚いてしまうキングちゃんには、これくらいが心地いい。

 タオルを右の手のひらに広げる。左の手でそっとマッサージしていた耳を、タオルの湯気でゆっくり包んだ。

 

「ふにゃ」

 

 猫みたいな声に思わず笑いが零れてしまう。いつもハキハキとしているキングちゃんの口元が、今ばかりはどこかだらしなく緩んでいた。安心しきった、無防備な娘の表情。たったそれだけだけれど、その表情をこうして目にできる幸福を噛み締める。

 

「気持ちいいですか~?」

「ふぁいぃ」

 

 気の抜けた返事にまたクスリ。タオルでふやかすようにして耳をマッサージしながら、素敵な色合いの鹿毛を梳いた。指先に伝わる滑らかな感触が私の心まで解きほぐす。

 

「かゆいところはない?」

「……耳のふちがかゆいの」

 

 キングちゃんの答えたところをタオルでなぞると、そのまま溶けてなくなるんじゃないかってくらい、唇の輪郭が緩くなる。そうして開いた小さな隙間に、アイスクリームを差し出したくて堪らない。明日は絶対にキングちゃんとアイスクリームを食べようと、ふとそんな決心をして、私の頬からも締まりがなくなった。

 タオルがぬるくなってしまうまで丹念に耳を拭いて、そして仕上げに乾いたタオルで水気を取る。キングちゃんは終始、私の触れていない方の耳をパタパタとしていた。

 水気を取り終えて、いよいよ耳かきを手にする。柔らかな耳の感触を確かめながら、中が見えるよう、強くならない加減で耳を引っ張った。キングちゃんは目を閉じて待っている。小さな鼻からすぴすぴと可愛らしい音がしていた。

 そろりと細い竹の棒を小さな耳へ入れていく。耳かきが挿入されていく感触があるのだろう、キングちゃんが微かに眉を跳ねた。「大丈夫よ」と囁いて、左手で耳の裏を撫でる。キングちゃんはうっすらとだけ目を開けて、「……ん」と微かな吐息で返事を寄越した。

 視覚と、指先の感覚を頼りにして、小さな耳の中を慎重に擦る。キングちゃんの耳の中は綺麗だった。いつもメイド長が掃除してくれているのだから当然のことだ。だから私は、キングちゃんのかゆいところを探りながら、耳かきをゆっくり操る。時折小さな耳垢を見つけて、ティッシュに取った。

 

「お耳の中が綺麗ね、キングちゃん。きちんとメイド長にやってもらっているのね」

「お風呂上がりにお願いしてるわ。でも最近は、自分でやる練習もしてるのよ」

 

 キングちゃんは自慢げにそう言った。目を閉じたままの彼女に自然と微笑む。左の手で耳のふちをなぞった。

 キングちゃんが、また少し、大人になっている。

 

「そうね、きちんと練習して頂戴。耳はとても大事な器官だから、自分でお手入れできるようにならないと、ね。それが一流の条件よ」

「ええ、わかってるわ。――一人でできるようになったら、お母さまにもしてあげる」

「ふふっ、楽しみにしてるわ」

 

 私が答えると、キングちゃんはコロコロと笑った。

 耳かきから綿棒に持ち替えて、残った小さな耳垢をふき取っていく。耳の形をなぞるように、触れるのがわかる程度の加減で。それから、耳のふちもなぞっていく。キングちゃんはこれが一番のお気に入りで、また心地よさそうに表情を緩めた。布団へ寝転ぶ尻尾がパタパタ音を立てる。

 

「――はい、おしまい」

「……もう少し。お母さま、もう少しだけやって頂戴。お願い」

 

 反対の耳に取り掛かろうとしたところで、キングちゃんが私を見つめてねだる。細い眉を八の字にして、丸くて大きな瞳を潤ませながら、無言で私を見つめる可愛い娘。

 

「あと少しだけよ」

 

 苦笑が漏れるのを自覚しながら、ほんの少しだけともう一度綿棒を動かす。耳はデリケートな器官だ。お手入れは大事だけれど、あまりやり過ぎても傷つけてしまう。

 耳を全体的に綿棒で撫で、最後に裏のところをさすってお手入れを終える。今度は右耳を掃除しようと耳かきに持ち替えた。耳の中が見やすいように、キングちゃんには少しだけ体勢を変えてもらう。

 柔らかな声に胸の辺りをくすぐられながら、同じように丁寧に右耳の手入れを進めていった。

 

 

 

「お母さま」

 

 両耳のお手入れを終えて、道具やタオルを片付けた私を、ベッドに腰掛けるキングちゃんが呼んだ。振り向けば、耳かき意外にまだ何かをねだるようにして、栗色の瞳が私を見つめている。持ち込んだお気に入りに枕を小さな胸の前で抱きかかえ、細い両脚を床の上でぱたぱたと揺らしていた。

 

「なあに?」

 

 娘の隣に腰を降ろし、艶やかな鹿毛とふわふわの耳カバーを一撫でして問いかける。キングちゃんはぎゅっとさらに強く枕を抱き締めた。私を上目遣いに窺って、小さな唇を半開きにする。言いたいことはあるけれど、それを躊躇っているみたいだ。もう一度頭を撫でて、キングちゃんが口を開くのを待つ。

 まあるいほっぺをリンゴみたいにして、キングちゃんはゆっくり唇を動かした。

 

「今日は……一緒に、寝てもいい?」

 

 キングちゃんはそれだけ尋ねて、小さな唇を引き結ぶ。栗色の瞳に蛍光灯の光が揺れていた。多くを語らない表情が、けれど何よりも娘の心を雄弁している。

 柔らかな鹿毛に触れる。私の指が髪を梳くたびに、キングちゃんは目を細めてくすぐったそうにした。小さな耳がぴょこぴょこと宙に弧を描く。

 

「あら、もう一人で寝れるんじゃなかったの?」

 

 込み上げる笑いを堪えながら、キングちゃんに問いかける。リンゴの頬をますます赤くして、キングちゃんは早口に否定した。

 

「ね、寝れるわよっ。……でも、今日だけ。今日だけ、たまたま偶然、そーゆー気分なのっ」

 

 ぷっくりと頬に空気を溜めるキングちゃん。パンパンに張って丸くなった頬を手のひらで包み、指先で撫でる。柔らかな感触を確かめると、ふと息をついてしまう。

 

「……仕方ないわね。今夜だけよ」

 

 私の言葉にキングちゃんがパッと表情を明るくする。花を咲かせるみたいに瞳をキラキラさせて笑うキングちゃんは、喜びを溢れさせて両脚をばたつかせた。リズミカルに揺れる小さな体に合わせて、綺麗にしたばかりの耳が踊る。今にも飛び跳ねそうな勢いで、それが可笑しくて愛おしい。

 

「ほら、お母さまっ。早く寝るわよっ。明日は朝からお出掛けなんだからっ」

 

 抱えていた枕を私の枕の横へ並べて、ベッドへ倒れ込むように横になったキングちゃんが、足と尻尾をパタパタさせて私を呼ぶ。切り替えの早さに感心しながら、明かりを落としてキングちゃんの隣へ寝転び、温かい体の肩に布団をかける。一緒の布団にくるまると、私と同じシャンプーの香りが、キングちゃんからふわりと漂う。

 布団の中でキングちゃんと向かい合う。明かりを落とした真っ暗な部屋の中で私を見つめる双眸が、丁度さっき見上げた星空みたいに瞬いていた。心を奪われてしまったように見入っていると、クスクスと可笑しくて堪らない様子でキングちゃんが笑う。

 

「どうしたの?」

「ううん、なんでもないわ。――明日が楽しみね、お母さま」

 

 キングちゃんはそう言ってまた笑った。つられて私の頬も緩む。布団の中で手を伸ばし、ポンポンと二度だけキングちゃんの頭を叩いた。

 

「ええ、そうね。お母さまも楽しみよ。――だから、早くおやすみなさい」

「はい。――おやすみなさい」

 

 答えたキングちゃんはそのままゆっくりと瞼を落とした。ふわぁ、と唇の隙間から欠伸が吐き出される。さらりと前髪が流れてベッドへ落ちた。

 キングちゃんに倣って私も目を瞑る。穏やかな寝息を聞くよりも、私の意識が遠のく方が、幾ばくか早かったかもしれない。



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風になびく

年末のイベントで頒布した「キングヘイロー短編集」に収録のお話です。
pixivの方では同短編集のサンプルとして公開していましたので、こちらでも公開します。


 鼻歌交じりで湯船に浸かり、お母さまが隣に入ってくるのを待つ時間が、毎週末の一番の楽しみだった。

 子供心にもわかるほど忙しかったお母さまだけど、コーディネートしたショーや、勝負服を担当したウマ娘のレースがない週末は、ずっと私に構ってくれた。服や靴を買いに行ったり、遊園地や動物園に行ったり、ご飯を食べに行ったり、そういうのも楽しかったけれど。私の一番の楽しみはと言うと、お屋敷のお風呂にお母さまと二人で入ることだった。

 一緒にお風呂に入ると、お母さまは必ず私の髪を洗ってくれた。小さい頃はよくメイド長に洗ってもらっていたけれど、私はお母さまに洗ってもらうのが一等好きだった。指先が触れるとくすぐったくて、でもとっても温かくて、不思議と心が弾んでしまって。はしゃぐ私を、お母さまはよく笑いながらたしなめていた。「もう、髪が洗えないわ、キングちゃん」と囁かれるとしばらくはじっとしていられたけど、そのうち我慢がきかなくなって、結局最後にはお母さまをシャンプーまみれにしてしまった。お母さまは苦笑いしながらそっと私の頭を撫でて、丁寧に私の髪を洗い流した後、自分の体についたシャンプーを流していた。

 体と尻尾まで洗い終わると、お母さまは私を湯船に浸からせて、自分の髪を洗い始める。肩まで浸かるように言われてたのに、それも忘れて湯船の縁に顔を乗せ、私はずっとお母さまを見ていた。艶やかな鹿毛が白い背中に流れると、とっても綺麗だなといつも思った。

 

「お母さまの髪、とても綺麗」

 

 湯船から私が呟くと、お母さまはこちらを振り返って、照れくさそうにはにかむ。シャンプーを流し終わると指が伸びてきて、鼻先をツンとつつく。触れられたところがやっぱりくすぐったかった。

 

「ありがとう。キングちゃんの髪も、とっても綺麗よ。お母さまはその髪が大好き」

 

 優しく笑ってお母さまはいつも頭を撫でてくれた。何度も何度も、飽きる様子もなく私の髪に触れてくれた。それが堪らなくくすぐったくて、嬉しかった。お母さまとよく似た色のこの髪が誇らしかった。

 

「キングちゃん。一つ約束して頂戴」

 

 湯船の隣に入って来て、私を肩のところまで浸からせながら、お母さまはいつも言った。

 

「どんな時でも、髪と尻尾だけはきちんとケアすること。いい?」

 

 それが一流の条件だとお母さまは言った。私は威勢良く頷いて約束した。それから、のぼせるまでおしゃべりする間、ずっとお母さまの髪を弄っていた。

 幼い頃のその約束を、私は今も守っている。

 

 

 

「――いい仕上がりだね」

 

 ウイニング・ライブ前の控室。スタイリストさんが仕上げてくれた私を見て、トレーナーは納得したように頷いた。彼の言う通り、今日も完璧な仕上がりだ。微塵の綻びもない。たとえセンターでなくても、一流は身だしなみに細心の注意を払うものだ。彼の評価に私も同意すると、スタイリストさんは出番が近づいたら呼びに来ると言って、控室を出て行った。

 ふと、私は自分の肩のところに流れる、整えてもらったばかりの髪に触れた。普段からの手入れの甲斐あって、通した手櫛がするりと抜ける。触り心地も申し分ない。トリートメントの広告のオファーが来たって問題ないくらいだ。わざわざそんなことを確かめたのは、支度中に理由もなくお母さまとの約束を思い出したからだった。

 

「……髪と尻尾はきちんとケアしなさい、って。そういえば昔、お母さまがよく言ってたわ」

「キングの髪も尻尾も、いつも綺麗だもんね。お母さまの言いつけだったんだ」

 

 トレーナーの言葉を否定する理由もなくて、でも少し釈然としないものを覚えながら首肯した。その拍子にまたさらりと髪が揺れる。私の自慢の鹿毛だ。

 

「急に思い出してね。まったく、どうしてなのかしら」

「さっき、お母さまと電話したからじゃないか?」

「……いつも通り、『頑張ってね』の一言もない電話だったじゃない。むしろお母さまのことなんて思い出したくなくなったわ」

「……君は嘘を吐くと、尻尾と耳によく出るね」

 

 トレーナーからの指摘に喉の奥で声が詰まる。サッと尻尾と耳を隠す私に、彼は微苦笑を向けた。何だか無性に恥ずかしくなって頬が熱い。

 

「……ひ、ひとの尻尾を観察するなんて、デリカシーがないわっ」

 

 顔の温度をごまかして抗議すると、トレーナーはやはり微苦笑のままごめんと謝った。

 ステージの様子が見れるモニターには、障害レースの子たちのライブ映像が流れていた。そろそろ私のところにも声がかかるだろう。椅子を立って鏡の前で一回り。納得のいく仕上がりになっていることをもう一度確認して、トレーナーにもお墨付きをもらう。テーブルに置いたままにしていたスマホを取って、本番前最後のチェック。最近始めたウマッターというアプリに通知がたくさん来ている。それとは別に、ウマインにメッセージが数件。メッセージの方に手早く返事をして、アプリを落とそうかと思って、少し思い留まった。ホーム画面の最新履歴が通話時間の表示になっているトークがある。

 ……そんなことを思ったのは、髪の件を思い出したからだろうか。

 

「トレーナー、こっちに来なさい」

「どうした、キング?」

 

 スマホで何かしらやり取りをしていたらしいトレーナーは顔を上げると、私の方へやって来た。その間にカメラを起動して自撮りモードにしておく。のこのこやって来た彼にスマホを手渡した。

 

「はい、本番前の一枚。撮影よろしく」

「わかった。キング、そこに立って――」

「何言ってるの、あなたも一緒よ」

 

 えっと驚いた顔をしているトレーナーのスーツの裾を掴み、私の隣に引き寄せる。これならきっちり二人揃って映るはずだ。早くカメラを構えなさいと急かすと、彼はこのまま撮るのかとさらに当惑した様子だった。

 なによ。このキングが、本番前にあなたと一緒に写真を撮ろうというのよ。素直に喜びなさいな。一流のウマ娘とトレーナー同士、これくらいいいじゃない。

 強引に押し切ってスマホを構えさせる。表情と髪を整えて一流らしく一番の笑顔で。その横に映る彼は、いまだ当惑しながらも柔らかな微笑みを見せていた。私としては、もう少し力強く笑ってもいい気がするのだけれど。レース後のトレーナーはいつもこんな感じだし、私はそういう彼の笑い方も好きだ。

 一度、二度とシャッターが切られる。映りは上々だ。お礼を言って早速スマホを返してもらう。

 

「……ウマッターには投稿しないでよ」

「しないわよ」

 

 画像の送り先は一つだけ。通話時間が最新履歴になっているウマインのトーク画面を開いて、画像を貼り付ける。私とトレーナー、二人で笑っている写真が問題なく送信されたのを確認して、そのままアプリを落とした。それから今度は、ウマッター用の写真を撮る。

 コメントを添えてウマッターに写真を投稿し、電源を切ろうとしたその時、ウマインに新しいメッセージが入ったと通知があった。画面の上に流れてきたメッセージは一つ。

 

『髪、きちんと綺麗にしてるのね。素敵よ』

 

 通知はさらに来たけれど、それを確認する暇はなかった。スタッフが控室に現れて、準備をお願いしますと告げる。スマホの電源を落としてトレーナーに預け、彼に見送られながら控室を出た。

 

「さあ、最高のライブにするわよ!」

 

 会場から吹いた微かな風が、自慢の鹿毛をさらりと揺らして過ぎていった。



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お嬢様と「開かずの間」

十六話目です。
昨年頒布した「キングヘイロー短編集」におまけとしてつけていたお話です。
幼いキングヘイローと、実家のお屋敷にある「開かずの間」のお話。
キングの実家に仕えるメイドさん(ゆーこ)が登場します。


 私のお仕えしているお屋敷には、「開かずの間」と呼ばれるお部屋が一つございます。

 とは申しましても、本当に開かない部屋という訳ではなく、単に日中ほとんどの時間は鍵がかかっているというだけのお話でございます。お屋敷のお部屋は基本的に、お屋敷の主である奥様のご意向で鍵がかけられていませんから、鍵のかかっているそのお部屋だけが目立ってしまっているという訳なのです。

「開かずの間」を開ける鍵は、お屋敷にたった一つだけしかございません。今はその管理を私が任され、お預かりしております。私の前はお屋敷のメイド長が管理しており、二年前に私が「開かずの間」の掃除を任された際に、鍵も預かることになったという経緯がございました。

 それと、鍵を預かるにあたって、奥様よりいくつかの言伝もいただいております。掃除をするとき以外、部屋を開けないこと。奥様を決して部屋に入れないこと。それから――

 

――「――それから、もしも。もしも、キングちゃんが……娘がどうしても部屋の中を見たいと望んだら、入れてあげて頂戴」

 

 最後のその言伝を特に重大なことであるように告げて、奥様は私へ鍵をお預けになりました。

 奥様のおっしゃった通り、お嬢様は「開かずの間」に興味をお持ちのご様子でした。とはいえ、その興味はどちらかというと、得体のしれないものを警戒するそれであったように、最初の頃はお見受けいたしました。私が掃除をしていると、廊下の影から遠巻きにこちらをお窺いになって、心配そうに瞳を揺らしておりました。「おへやにはいってだいじょうぶなの?」とメイド服のスカートを引っ張られたことも幾度かございます。私はその度に「大丈夫ですよ。お掃除をしているだけですから」と答えておりました。お嬢様はそれに納得はされていないご様子で、「わかったわ」とお答えになっても決して「開かずの間」へお近づきになろうとはなさいませんでした。

 けれどこのところは、少しお嬢様の興味が変わってきたように思います。小学校へと入学されて、また一段と成長され、しっかりとお考えになるようになったからでしょうか。「どうも怖いものではないようだ」というのにお気づきになったらしく、好奇心に満ちた目で「開かずの間」とそこの掃除をする私を見つめるようになりました。

 

「入ってご覧になりますか」

 

 何度か尋ねてみたことはございます。けれどお嬢様は、しばらく迷った後に首を振って拒否をされました。最初の頃の、怖いものを恐れる様子ではございません。好奇心を理性で押さえていらっしゃるようでした。お屋敷の中で唯一鍵がかけられている部屋であることも、そして「開かずの間」に奥様が決して近づこうとされないことも、お嬢様は理解しておられるご様子でした。きっと、何か目にしてはいけないものがあるのだと、ある程度わかっているようでございました。

 ……ですが、部屋の中を知る私としては、そんなことは決してないと思うのです。お嬢様が目にしてはいけないなどと、そのようなことは断じてございません。部屋に鍵をかけている理由は、お嬢様に見せないためではなく、奥様が見ないようにするためなのだと、いい加減理解できてまいりました。

 

「――ねえ、ゆーこ。このお部屋の中には、何があるの」

 

 ですから今日。掃除を終えた私へそうお尋ねになったお嬢様に、私は隠し立てをするつもりは一切ございませんでした。

 

「気になりますか、お嬢様」

 

 今まさに鍵をかけようとしていた手を止め、私は身を屈めてお嬢様に尋ねました。目の合ったお嬢様はしばらく迷うようにして瞳を揺らした後、とても慎重に一つ頷かれます。私はそれに微笑んで、差したままだった鍵を抜き、「開かずの間」の扉を開きました。カーテン越しの柔らかな日差しが部屋には満ちております。

 

「……入って、いいのかしら」

「はい。お嬢様が望まれるのなら入ってもよいと、奥様が」

 

 お嬢様はまじまじと私を見て、それから意を決したように小さなおみ足を踏み出されました。そのお背中に続いて、私もお部屋に入ります。

「開かずの間」は、お屋敷の他のお部屋と同じ洋室でございます。内装もさして変わってはおりません。机と本棚、クローゼット。使う者がいないために布団やシーツこそ備えておりませんが、ベッドも置かれております。このお部屋だけが、まるで時が止まってしまったかのように、生活感のない静けさで支配されております。

 お嬢様は一通りお部屋を見回されたあと、ゆっくりと本棚の方へ歩み寄られました。分厚い本がいくつも収められた本棚の、中段あたりはガラス戸になっており、中にはトロフィーや盾が並んでおります。それぞれの横には必ず一枚のお写真が添えられていて、どれも同じ二人組が映されておりました。

 一つひとつ、お嬢様は煌びやかなトロフィーとお写真とを、交互に食い入るように見つめておりました。やがて全てをご覧になったのか、本棚に収まった本の背表紙をなぞっていきます。どれもウマ娘のトレーニングに関する本ばかりでございました。それも終わると、今度は机の方へと歩み寄っていかれます。ほとんど物の置かれていない、真っ新な机でございますが、たった一つ使い古された写真立てだけが伏せて置かれております。それを、まるで本のページでもめくるように丁寧に、お嬢様は表にされます。収められた写真の中身は、私の位置からでは光が反射してよく見えませんでした。けれど、先程と同じような二人組が映っていたようにお見受けいたしました。それと、写真のお二人が、何かとてもとても大切なものを抱えていらっしゃるようにも。

 お嬢様は黙ったまま写真を見つめておりました。指先がガラスの上を滑り、写真を一撫でされます。それからまた、元のように写真立てを伏せて、お嬢様は私を振り返りました。

 

「……お父さまの、お部屋だったのね」

 

 お嬢様の問いかけに、私は黙ったまま頷きました。

 お嬢様のお父様――旦那様とは、私は直接の面識はございません。私が奥様に雇われるより前に亡くなられたと聞いております。その頃、お嬢様はまだ、随分と幼かったということも。

 このお部屋には、お嬢様の知らない旦那様の思い出が、詰まっているのです。

 

「お母さまの思い出がたくさんつまっているわ」

 

 お嬢様はポツリとそう呟かれました。

 部屋の中を一通りご覧になったお嬢様は、入口で待っていた私のもとへと、ゆっくり近づいてまいりました。私を上目遣いに見つめるお嬢様が、クイッと小さな手で私のメイド服を引っ張ります。私は再度身を屈め、お嬢様と目線の高さを合わせました。

 お嬢様は真ん丸でキラキラとした瞳をわずかばかり揺らし、とても慎重に言葉を選ぶようにして私へ尋ねました。

 

「……ねえ、ゆーこ。お母さまはどうして、このお部屋に入らないの」

 

 お嬢様のとても純粋な問いかけは、しかし答えようとすると少し難しいことのように思えました。私は「そうですね」と一度目線を床へ落とし、言葉を考えます。お嬢様はそれをじっと待っていてくださいました。

 聡明なお嬢様へきちんと伝わるよう、私はその瞳を真っ直ぐに見つめ、つとめて優しく映るようにと表情を緩めます。

 

「思い出が詰まりすぎていると、それに甘えたくなってしまうのですよ」

 

 私自身にも少し覚えのあることを、私はお嬢様へのご説明の言葉として選びました。

 どういうこと、とお嬢様は私を見つめたまま首を傾げます。陽の光を浴びて艶やかな輝きを見せるお嬢様の鹿毛を、私はそっと手で撫でました。

 

「思い出は大切ですが……過去ばかり振り返っていても、前には進めないのです。ですから奥様は、このお部屋に入りたがらないのだと思います。――前を向いて、一生懸命、今を生きるために」

「……でも、それはとても寂しくないかしら。――私はいやよ。お母さまとの楽しかったこと、思い出せないなんて」

 

 小さなお手を胸の前で拳にして、お嬢様は悲しそうなお顔をします。とてもお優しい方です。奥様が悲しまれるのを、お嬢様は一番嫌われます。「お母さまには笑っていてほしいの」といつもおっしゃいます。

 私はお嬢様に「大丈夫ですよ」と語りかけ、柔らかな髪を撫でながらもう一度笑って見せました。

 

「大切な思い出は、いつでも胸の内にあるのです。例え触れられなくても、ちゃんとあるのです。――それに、寂しくなどございませんよ、奥様は。こんなに可愛らしい、奥様のことが大好きなお嬢様がいらっしゃるんですもの」

 

 私の言葉の意味を確かめるように、お嬢様はその栗色の瞳を揺らして、私を見つめておりました。拳をそっと開くと、手のひらを胸に押し当てて、ゆっくりと瞼を落とされます。やがて納得したように、一つ、二つと頷かれました。

 お嬢様はにこりと、あたかも春の花を咲かせるように笑いました。

 

「ありがとう、ゆーこ。このお部屋に入れて、よかったわ」

 

 ぺこりと頭を下げたお嬢様に、私も一礼で返します。これでよろしかったでしょうか、奥様。今日も帰りの遅いという依頼主に、私は心の中で尋ねます。いずれにせよ、ご報告は差し上げなければ。

 

「ゆーこ」

 

 お部屋を出て、鍵をかけたところで、お嬢様は再度私を呼ばれました。私を見つめるまあるい瞳に、決意の光が宿っております。それは丁度、私に鍵をお預けになった時の、奥様の瞳にそっくりでございました。

 

「私、これからはもう、お父さまのお部屋には入らないわ」

「……よろしいのですか」

「ええ。キングは過去を振り返らない。前を見て、一生懸命生きていくわ。――それに」

 

 お嬢様は今一度、ご自身の胸に手のひらを重ねました。一秒、二秒、ゆっくりと呼吸をしながら目を瞑ったお嬢様は、やはり柔らかな笑みを浮かべます。

 

「お母さまの大好きな人だもの。きっと私のここにも、お父さまはいるわ。お部屋に入って思い出す必要なんて、ないじゃない」

 

 優しい色の瞳に微笑まれると、私はどうしようもなく頬を緩めて、「はい」と答えてしまうのです。



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五年目の夏

十七話目です。

久しぶりにうっすらキン×トレ風味のキングヘイロー。
キングヘイローが高等部三年になった設定です。


 夕食後に訪れたトレーナー室には、案の定今夜も明かりが灯っていた。

 

「トレーナー、入るわよ」

 

 ノックもそこそこに中へ告げて、引き戸を開く。最近大掃除をしたからか、いくらか滑りの良くなった扉がスルスルと動いた。部屋の中を見遣ると、特に驚いた様子もなくこちらを向いた瞳と目が合う。部屋の主は持っていたペンを傍らへ置いて、私へ部屋のソファを勧めた。

 

「いらっしゃい、キング。何となく来る気がしてた。――お茶でも淹れようか」

「ええ、そうね――」

 

 すぐさま腰を浮かせかけたトレーナーに、いつものようにお茶をお願いしようとして、ふと思い留まる。左手に提げた袋を一瞥。今しも電気ケトルとティーセットの方へ向かおうとする彼を、私は寸でのところで制する。

 

「いいえ、いいわ。今夜は特別に、私が淹れてあげる。――だから、仕事は一旦、紅茶が入るまでになさい」

「……ああ、わかった。それじゃあ、お言葉に甘えて」

 

 迷うような素振りの後、トレーナーは頷いて浮かせた腰を席へ落ちつけた。すぐに開きかけだった書類と、パソコンとの同時睨めっこが再開される。もうすぐ使い切りそうなノートに、彼は素早くペンを走らせていた。

 仕事を続けるトレーナーを尻目に、私は私でお茶の準備を始める。手にしていた袋をテーブルに置いて、代わりに電気ケトルを手に取る。一旦トレーナー室を出て給湯室で中を濯ぎ、水を入れてスイッチをセット。あとはお湯が沸くまでの間に、ポットとカップの準備をする。

 壁際の戸棚を開いて、中からティーセットを取り出す。トレーナーの担当するウマ娘が増えたこともあって、部屋備え付けのティーセットの数も随分多くなった。彼と私、二人分しかカップが並んでいなかった頃が、今は最早懐かしい。

 感慨深いものを一先ず頭の隅へ押し遣り、二人分の茶葉を測ってポットへ入れる。後はお湯が沸くのを待つばかりだ。途端に手持無沙汰になった私は、テーブルの上で仕事中の電気ケトルを見つめつつ、ソファへ深々と腰掛けた。視線を少し上にすると、自分のデスクで書類を読み耽るトレーナーが目に入る。チームの後輩たちのスケジュールでも考えているのだろう、時折レースの名前を呟きペンを動かす。かと思えば、何かを考え込むようにして拳を口へ当て、しばらく動かないこともあった。

 ゆっくり息を吐いた拍子に目元から力が抜ける。唇の端が緩くなって、慌てて両の手でそれを隠した。だらしのない顔は、どうやら彼には見つかっていないようだった。

 お湯が沸くまでの間、ソファからトレーナーの姿を見つめていた。そのうち電気ケトルのスイッチが落ちる。二人分のお茶を淹れている間に、彼も自分の身の周りを整頓していた。持ち込んだ袋の中身を取り出そうとする頃合いで、彼もソファに腰掛ける。角を挟んで隣り合う彼の前に淹れたての紅茶を差し出した。

 

「どうぞ。――仕事は一段落した?」

「ありがとう。――一応は。もう少しやるけど」

「そう言うと思った」

 

 今年も新加入のメンバーを迎え入れ、私を含めて五人のウマ娘を担当する彼の仕事量は、単純計算で去年の二倍近くになる。私と二人三脚だった頃に比べて慣れてきたとは言っても、そう易々とこなせる量じゃないのはわかっているつもりだ。私たちのトレーニングが終わった後も、このトレーナー室には門限近くまで明かりが灯っている。きっと今日も彼は門限ギリギリまで資料と格闘するつもりだろう。

 だからこそ、私はこうしてトレーナー室を訪ねた訳だ。

 

「はい、これ。差し入れ」

 

 袋から取り出した物をトレーナーの方へ差し出す。プラスチックのカップに入ったプリン。ウララさんに連れ添ってコンビニへ行った時に買った新作だ。疲れた時にはやはり甘い物に限る。

 華やかなデザインのティーカップ、その隣にプラスチック容器のプリンが並んだ。一緒に用意しておいたスプーンも差し出す。私たち二人にはお馴染みの光景だ。

 新作か、と呟いてトレーナーは早速プリンを手に取った。

 

「ありがとう。丁度甘い物が欲しかった」

「どういたしまして。そろそろ甘い物が無くなる頃合いだと思って」

 

 トレーナー室の戸棚には、一応菓子の類が常備されている。ミーティングのお供とか、トレーニング中の栄養補給用だ。そのお菓子を、彼が仕事の合間に少し摘まんでいるのは、私だけが知っている秘密でもある。

 

「買い足さないとな」

 

 トレーナーは呟いてプリンを一口食べた。私もそれに倣おうと、プリンの蓋を開ける。クリーム色の表面をスプーンでひとすくい。一口分のそれを口にすると、濃縮された甘さが舌の上に広がっていった。極上の花のように華憐な香りと相まって私の感覚を支配する。一口でも幸せになれる甘さだ。

 

「これは当たりね」

「ああ、おいしいね。疲れも吹っ飛ぶ甘さだ」

「体に染みる感覚がするわ」

 

 二人して表情を緩めながら感想を述べて、もう一口味わう。それから、私の淹れた紅茶に手を伸ばした。舌に残る濃密な甘さを、紅茶の爽やかさと温かさでゆっくり溶かし、揃って息を吐く。

 そうやって、しばらくは二人でお茶の時間を楽しんだ。プリンを少しずつ減らしながら交わす会話は、いつも通りレースとトレーニングのこと。最近は後輩たちのレースプランやトレーニングメニューについて、彼から助言を求められることも増えた。五年分の経験と、私自身の考えを元に、答えさせてもらう。メモまで取って真剣に聞いてくれるから、私としても満更でもなかった。

 いつの間にやら紅茶もプリンも残りがなくなる。最後の一口をすすった私に、カップを置いたトレーナーが尋ねた。

 

「それで、キング。今夜はどういった用件で来たのかな」

 

 何となくこちらの事情を察しているのか、やや苦笑いしながらの問い掛けだった。わかっているのなら話が早いし、今更遠慮もない。私はほくそ笑んで、傍らのセカンドバッグから参考書とノートを取り出した。

 

「私の用件はこれよ」

「……やっぱりか」

 

 トレーナーは呟いて、くしゃりと苦笑いを深くした。私はそれには答えず、愛用のペンケースも取り出す。消しゴムと共に取り出したシャープペンは、手が疲れにくいデザインだと言って、彼が誕生日にくれたものだ。

 着々と勉強の準備を進める私に、トレーナーはもうわかりきったことを確認した。

 

「君はまた、俺に門限の延長を申請させるつもりだね」

「あら、よくわかってるじゃない。光栄でしょう。キングの穏やかな勉強時間確保に協力できるんだから」

「……まあ、構わないけど」

 

 適当な理由を考えたのか、トレーナーはすぐにスマホを取り出して、通話を始める。相手は栗東の寮長らしく、手慣れた様子で話を進めていき、二分後には門限延長の申請が取れた。私はそれに満足して笑う。

 職権乱用かな、とおどけた様子で呟き肩を竦めたトレーナーは、そもまま席を立った。自分の作業机とその周りをごそごそ探り、しばらくして戻って来る。抱えた資料を机の隅に重ねた。私が勉強する間は、ここで仕事をするつもりらしい。これもいつも通りだ。

 

「それじゃ、始めるから」

「ああ、どうぞ。俺もここで仕事してる」

「一時間したら紅茶を淹れて頂戴。ミルクティーがいいわね」

「お安い御用だ」

 

 トレーナーが頷いたところで会話を切り、それぞれの作業へ没頭していく。夏休み前の期末試験、それに模試も控えている私は数学の参考書を解いていく。その隣で資料を広げる彼は、時折ペンを走らせ、また時折パソコンのキーボードを打って仕事を進める。

 門限までの二時間弱。一週間に一度程度、不定期なこの時間が、最近の私のお気に入りだ。

 

 

 

 夏が近づいてきた六月の夜は、日中の熱を残すように生温い。梅雨が始まればここに湿気も混じるだろう。あと、虫も。それを思うと少し憂鬱だけれど、これからの季節特有の夜の雰囲気を、私は嫌いになれなかった。

 

「少しずつ夏になってきたね」

 

 トレーナー室から寮までの帰り道。隣で歩くトレーナーはポツリと呟いた。丁度同じことを考えていた私は、妙な同調に思わず笑う。

 

「そうね、また今年も夏が来るわ」

 

 当たり前のことを、何の変哲もない言葉にしただけだ。トレーナーの言葉をそのまま写し取ったとも言える。でも不思議と、それだけで心躍らせている自分がいた。別に特別好きな季節という訳でもなく、むしろあのうだるような暑さは苦手な方だけれど。まったく、変な私。

 

「夏は伸び時だし、みっちりトレーニングを積まないとよね。まあそれに、先輩として後輩たちもビシバシ指導しないと。特に新人二人はデビューしたてだし、気合いも入ってるでしょう。鉄は熱いうちに打て、よね。そうなると、私も負けていられないわね。学生生活最後の夏だし――」

 

 そこまで言って、はたと気づいた。今更だけれど……私にとってはこれが、最後の夏だ。トレーナーにスカウトされて、レースもトレーニングも重ねて、これが五回目の夏。当然の時間の流れに今更思い至る。

 

「……来年は、もうないのね」

 

 夜に溶かした呟きは、多分彼には聞こえなかったはずだ。

 横のトレーナーを窺う。初めて会った時は少し頼りなく感じた顔立ちも、この五年で随分印象が変わったように思う。それはそうだ、今や五人のウマ娘を担当するトレーナーで、学園内でも注目されている若手の一人だ。選抜レースの時にウマ娘側から声をかけられていた場面も二、三度目にしている。そういうのを見ると、私も我がことのように誇らしい。まあ五年も一緒にいるわけだし、その相手が評価されているというのはいい気分だ。

 けれど、トレーナーの隣にこうして立っていられる時間は、決して長くはないだろう。レースの世界を離れるという選択肢は、今のところ私にはないけれど。この世界にいる限り、彼と走り続けるつもりでいるけれど。それでも学園を卒業すれば、こうして彼と歩く時間が減ることくらい、理解している。

 胸の辺りが、ほんの少し、チクリとだけ痛んだ気がした。

 

「……トレーナー」

 

 寮の玄関まで送ってくれたトレーナーを、無意識のうちに呼び止めていた。彼の方へ伸びそうになった右手を左手で留める。次の言葉を考えていなくて、目線を斜め下へ落とした。

 

「ごめんなさい、なんでもないわ。それじゃ、おやすみなさい」

「キング」

 

 踵を返そうとしたところで、反対にトレーナーが私を呼び留める。口角を吊り上げて彼は笑っていた。私と一緒にレース前インタビューを受けている時の、あの挑戦的な笑顔だった。

 

「最高の夏にしよう。君らしく」

 

 一切の躊躇いを感じさせず、トレーナーはそう言い切った。真っ直ぐ私を見つめて、真っ直ぐな言葉で、真っ直ぐに想いを口にする。

 胸の痛みなんて、きっと私の気のせいだ。

 

「――おーっほっほっほ! いい心掛けじゃない、さすがは私のトレーナーね。ええ、ええ、最高の夏にしてみせるわ。あなたも私も、この先一生忘れられないくらい、とびっきりの夏にね。あなたにはその権利をあげる」

「光栄だね」

 

 笑ったトレーナーと、まるでレース前みたいに拳を突き合わせる。何か面白そうなことを探しておくと、トレーナーは約束してくれた。

 お互いに「おやすみなさい」と言って、今度こそ踵を返す。部屋への道すがら、人のいない廊下でスキップした拍子に、脱げたスリッパが明後日の方へ飛んでいった。



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年に一度の夜だから

十八話目です。
キングヘイロー(12)がメイド長と一緒に七夕祭りへお出掛けするお話。
※キングがまだ、トレセン学園への入学希望をお母さまへ打ち明けていない頃です。


「キング。今夜の七夕祭りは、メイド長と行ってきなさい」

 

 ビジネスカジュアルに身を包み、いつもより早くお屋敷から出勤される奥様は、私からお鞄をお受け取りになると、お見送りにいらしたお嬢様へそうおっしゃいました。

 お屋敷からほど近いところで開催される七夕祭りは、七月七日の夜限定の催しでございます。お嬢様は毎年楽しみにされていて、今年は浴衣を着ていくのだと、ついこの間見繕ったばかりでございました。奥様も、お仕事を早く切り上げることができれば、お嬢様と共にお祭りへ向かわれておりました。ですがどうやら、今夜はそうもいかないご様子です。

 寝間着姿のお嬢様は、奥様の言葉に頷かれます。奥様を見つめる横顔に、これといって残念そうな様子は窺えませんでした。カバーをされたお耳だけがひょこりと小さく動きます。

 

「わかったわ。それじゃあ、お母さまの分まで、私とメイド長で楽しんでくるわね」

「……ええ、そうして頂戴」

 

 奥様はほんの一瞬だけ申し訳なさそうにした後、すぐに笑顔でお答えになりました。伸びてきた手がお嬢様の頭に触れます。ゆっくりと感触を確かめるようにして奥様が頭を撫でる間、お嬢様は目を閉じてその手を受け入れておいでです。

 十秒ほどでお嬢様の頭から手を離し、奥様は踵を返されます。ガチャリと開いた扉の隙間から朝が差し込むと、私は一礼して奥様をお見送りいたしました。私の隣でお嬢様も奥様へ手を振ります。

 

「いってらっしゃいませ、奥様」

「いってらっしゃい、お母さま。お仕事頑張って」

 

 一歩を踏み出した奥様はそこで立ち止まり、お嬢様の声にお応えになりました。

 

「いってきます」

 

 穏やかな声の響きを残して扉が閉まると、玄関には私とお嬢様だけが残されます。私が顔を上げると、こちらを見ていたお嬢様と目が合いました。

 

「さあ、朝ご飯にしましょ、メイド長」

「かしこまりました、お嬢様。今朝は日本食でございます」

「玉子焼きはあるかしら」

「はい、もちろん」

 

 お嬢様の大好物であり、私の得意料理でもある一品の用意を告げると、お嬢様は嬉しそうに目を細めてリビングへと向かわれました。

 

 

 

 お祭りの会場へやって来ると、お嬢様が真っ先に向かわれたのは、短冊を吊るす大きな笹でございました。

 浴衣のお嬢様は、瑠璃色の裾を初夏の雑踏にはためかせて、私の手を引きます。あまり人混みが得意ではないお嬢様ですから、時々立ち止まっては困ったように辺りを見回し、人波に隙間を見つけてはそちらへと進んでいきます。

 

「人が多いところは、やっぱり苦手だわ。大丈夫かしら、メイド長? 歩きにくくない?」

 

 ふうと息を吐かれたお嬢様が私へ尋ねます。私はそれに、いいえと首を振りました。

 

「まったく問題ありません。お嬢様の案内のおかげです」

「そう?」

「頼もしい限りです」

 

 私が笑って答えると、お嬢様は満更でもないご様子で、同じように笑みを零されます。お嬢様はまた私の手を引いて歩き始めます。浴衣に合わせて揺れる尻尾が、大変楽し気でございました。

 かれこれ五分ほど歩いて笹の前まで辿り着きますと、やはり多くの人がそこへ集まっておりました。ご学友の集まりやご家族連れ、それに恋人同士。どの人もその手に短冊を握っております。会場に置かれた笹にはすでにたくさんの願いが結ばれており、その重さで枝葉がしなっておりました。

 会場で用意されている短冊を受け取る列へは並ばず、お嬢様は真っ直ぐに笹の方へと歩み寄られます。金魚の巾着袋から取り出したのは二枚の短冊。どちらもお屋敷で書かれたものでございます。一心不乱に書いていた短冊には、丁寧な筆致のお嬢様の文字と、可愛らしいイラストが並んでおります。

 けれどお嬢様は、笹へと伸ばしかけた手を一度引っ込め、二つの短冊を見比べては何かを考え始めました。浴衣の肩越しにのぞくお顔は真剣そのものでございます。やがてお嬢様は片方の短冊を巾着袋へお仕舞いになり、残った一枚の短冊のみを笹へとかけておりました。

 背伸びをしていた足を元へ戻すとお嬢様は満足そうに頷かれて、腰に手を当てます。

 

「よし」

「一枚だけでよろしかったのですか?」

 

 気になって尋ねた私を振り返り、お嬢様は口角を吊り上げて挑戦的に笑います。爺やさん曰く「昔の奥様にそっくり」だという、力強い笑顔のままお嬢様はお答えになりました。

 

「ええ、いいの。もう一枚のお願いは、よく考えてみたら、私が自力で叶えることだもの。だからお願いする必要なんてないの」

 

 何ともお嬢様らしいことを自信たっぷりに言い切るので、私は思わず頬を緩めてしまいました。お嬢様は努力の人ですから、ご自身のことはご自身でどうにかしようとなさるのでしょう。今までもそうして、少しずつ、叶えていらしたのですから。

 

「きっと、お嬢様なら叶えられますよ。――お嬢様はきっと、一流のウマ娘になれます」

「……し、知っていたのね」

「ええ、もちろんでございます。私はお嬢様のメイド長でございますから」

 

 ほんのりとまだ早い夏の夕暮れが差した頬を、お嬢様は瑠璃色の袖で隠してしまわれました。

 お嬢様が短冊を吊るし終わりましたので、控えていた私も一歩前へと歩み出ます。肩にかけた鞄から私も短冊を取り出し、お嬢様よりやや上の方へ吊るします。笹の葉が生い茂る間、人目に余り付かないところ。望み通りの場所へ短冊が吊るされたのを確認して、私はまた一歩下がりました。

 

「メイド長も何かお願い事?」

 

 お嬢様が珍しそうに私を見ます。例年、こうした催し物で何かお願い事をするというのが無かった私ですので、無理からぬことです。

 お嬢様の問い掛けには、私は首を振ってお答えいたしました。私の吊るした短冊は、私の願い事ではなく、預かり物でございます。

 

「奥様からの預かり物ですよ」

「お母さまの?」

 

 今朝、お嬢様がお見送りにいらっしゃるよりも前に、奥様よりお預かりした短冊でございました。こちらはこちらで、珍しいことでございます。お嬢様と連れ立って七夕祭りへいらした際には何かしらお願い事を書かれる奥様でございますが、お仕事でご一緒できない時にこうして短冊を託されたことは初めてでございました。いつもはお願い事をする代わりに同じくらい優しくお嬢様の頭を撫でるだけに留めておいでです。それが今年は、どういう訳か、こうして私へ短冊を託されておいででした。

 奥様が何を想ってそうされたのかは、私には今一つわかりません。

 

「……そう」

 

 お嬢様は多少短冊の内容を気にする素振りをされたあと、頷いて短くお答えになりました。次の瞬間には、明るい栗色の瞳が私を見つめて光ります。瑠璃色の袖から白い手を伸ばして、お嬢様は再び私の手を取りました。

 

「ねえ、メイド長も何かお願い事をしなさいよ」

 

 クイッと、十二年の内に随分と大きくなられたお手で私を引っ張り、お嬢様はそうご提案されました。

 

「私でございますか」

「ええ、そう。ほら、行くわよっ」

 

 私の答えを待たず、お嬢様はまた歩き出し、会場で配られている短冊を手にしました。薦められるままペンを取った私は、しばらく考えた後、奥様と同じお願い事を笹の葉へ吊るすことにいたしました。

 

 

 

 縁日の出店でいくらか食べ物を見繕い、私とお嬢様は休憩スペースに腰を落ち着けておりました。

 パック一杯の焼きそばと、玉子にくるまれたお好み焼き、鰹節が踊るたこ焼きに、香ばしい香りのとうもろこし。買って回った品物を広げ、もらった箸を手に、二人で少しずつ摘まみます。お祭り特有の、濃ゆいソースの味わい。普段お屋敷ではあまり出さない味付けゆえでしょうか、お嬢様は物珍しそうに瞳をキラキラとしながら優雅に召し上がっておりました。

 口に運んだたこ焼きが熱かったのでしょう、お嬢様は慌てた様子で口元を隠し、はふはふと熱そうに目を潤ませます。ようやくの思いで嚥下すると、ふうと息を吐いておりました。そんなお嬢様に、私は開栓したラムネの瓶を差し出します。夕焼けに空が染まり始め、提灯も灯りだしたお祭りの景色を透かすようにしながら、お嬢様は一口を煽られました。

 淡い夏の炭酸が弾け、お嬢様の耳が踊ります。

 

「そういえば、こうしてメイド長とお祭りに来るのも、久しぶりね」

「さようでございますね。ふふ、懐かしいようで、新鮮な心地でございます」

 

 お嬢様と最後にお祭りへ出掛けたのは、お屋敷で一番若いメイドが来る前ですから、お嬢様が小学校へご入学される前のことでございます。あの頃はまだ、小さなお嬢様のお手を、私が引いていた覚えがあります。その立場が、今宵はすっかり反対になってしまっているものですから、やはり懐かしさよりも新鮮な心地がいたします。

 

「そう? ふふっ、浴衣を新調した甲斐は、あったようね」

 

 お嬢様は栗色の輝きを細くして笑います。うなじの辺りで結わえた髪に咲く朝顔が揺れておりました。柔らかな眼差しを見つめると、自然、私の頬も緩んで参ります。

 

「折角ですから、お写真もたくさん撮りますね。――奥様も、きっとご覧になりたいでしょうから」

「……ん、そうね。たくさん撮って頂戴」

 

 私の提案には、お嬢様はどこか曖昧に頷いて、返事をなさいました。箸が伸びてきてたこ焼きを一つ摘まみます。今度はゆっくりと息を吹きかけながら熱を冷まして、お嬢様はたこ焼きを口へ運ばれました。

 ……寂しさは、やはり確かにあるのでございましょう。お嬢様はそれを決して口になさいませんし、私たちがわかるように表へ出されることもございません。「もう慣れたことよ」といつもおっしゃいます。「お母さまの仕事を誇りに思うわ」といつもおっしゃいます。きっとそのどれもがお嬢様の本心でございます。けれど本来、そうした本心と、「それでも寂しい」、「それでも会いたい」という感情は、両立するはずなのです。けれどどうも、お嬢様はそれをいけないことなのだと、そう思っていらっしゃるようでございます。

 会いたい、とそう口にしてもよいのですよと、喉まで出かかった言葉を飲み込みます。それをお嬢様が決して口にしない理由も、私はようく知っております。お嬢様のこととなると過保護なほどに心配性な奥様が、気を揉むことが無いように。奥様には笑顔でいて欲しいというのが、幼い頃からのお嬢様の願い事でございました。

 私にできることは、お嬢様が決して表へ出さない寂しさを、少しでも和らげることだけでございます。奥様がお側にいられない間の時間、お嬢様のお側にいることだけでございます。

 他愛もない話をしながら出店の品を少しずつ減らしていきます。お嬢様の寂しさは、いくらか夏の風へ流されているでしょうか。そんなことを頭の片隅へ置きつつ、私はお嬢様のお話を聞いておりました。

 二十分ほどすれば、パックの中身はすっかり空になっておりました。私がプラスチックのパックをまとめてゴミ箱へ捨てる間、お嬢様はぬるくなったラムネの残りをチビチビと口へ運びます。栗色の瞳がどこかぼんやりとして、流れる雑踏を眺めておいででした。

 

「お嬢様――」

 

 次はどこへ向かいましょうか。私がそう尋ねようとした時、お嬢様の瞳が一際強い輝きを放ちました。がたりと勢いよく立ち上がったお嬢様が、下駄をカラコロと鳴らして小走りに駆けていきます。一体どうしたことでしょうと、私は慌ててお嬢様を追い駆けつつ、その向かう先へと目線を向けました。

 流れる人波の中に、お祭りの雰囲気には似つかわしくない、ビジネスカジュアルのウマ娘が立っております。艶やかな鹿毛に夏の風をくぐらせるそのウマ娘は、誰かを探すように辺りを見回しておりました。チラリと窺った横顔は、紛れもなく奥様でございました。

 

「お母さまっ」

 

 近くまで駆けよったところで、お嬢様が奥様を呼ばれます。奥様の、カバーをしたお耳がぴょこりと動くと、視線がすぐさまお嬢様を捉えました。奥様は目を見開き、そしてすぐに細めて、お嬢様の方へと足を向けます。

 

「お待たせ」

 

 奥様がお嬢様へそうおっしゃったところで、私はようやくお嬢様のすぐ後ろへ追いつき、奥様へと一礼を致しました。奥様は短く労いの言葉を私へくださいました。

 顔の右へ流した髪へ指先を通しながら、お嬢様は奥様へお尋ねになります。

 

「お母さま、どうしてこちらへ? 今夜はお仕事だったはずでしょう」

 

 お嬢様の問い掛けに、奥様はまるで何でもないことのようにさらりと、わずかばかり振り乱した髪を整えながらお答えになりました。

 

「仕事が早く終わったから来たの」

 

 奥様の答えはただそれだけでございました。けれど、それで十分な気も致しました。朝出て行かれたままの格好と、微かに上がった息、髪を整える仕草。できうる限り急いでこちらへいらしたことは、端から見れば明確でございます。そして、奥様がどうしてそれほど急がれたかなど、今更私が語ることでもないのでございます。

 お嬢様はゆっくりと花が開くように、お顔を明るくされて、満面の笑みを見せました。

 

「幸運ですね、お母さま。キングの浴衣姿を間近で見られるのよ」

「ええ、そうね。よく似合っているわ、キング」

 

 答える奥様も、お嬢様に引かれるようにして、唇の端を緩くされます。見つめ合い、笑い合うよく似たお二人のお顔に、私も微笑まずにはいられませんでした。

 

「――さ、行きましょう、お母さま。私、かき氷が食べたいの」

「ええ、いいわよ。お店はどこかしら」

 

 お嬢様は、今度は奥様の手を引かれて、雑踏へと歩み出されます。奥様もまた、仕方がないわねと言うように、けれど楽しさを隠しきれずに手を引かれておりました。お嬢様のラムネ瓶を片付けて、私もお二人の後を追います。

 ブルーハワイとメロン、お嬢様と奥様は揃ってかき氷を頬張り、そして二人仲良く冷たさに頭を痛めておりました。

 

 

 

 

 

 

 

――キングがいつまでも幸せに笑って過ごせますように。



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キング親子の初詣

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

新年最初はキングヘイローです。
高等部三年になったキングがお母さまと初詣に行く話。


「初詣、一緒に行きませんか」

『いいわね。丁度、話したいこともあったし』

 

 そんな通話をしたのは、高等部生として最後の新年を迎えてすぐのことだった。

 

 

 

 

 

 

 伝えた待ち合わせ時間の一時間前だというのに、あの人は参道の入口に一人立ち、どこか落ち着きなく人の流れを見つめていた。

 初詣の参拝客で賑わいを見せる三が日最終日。行き交う晴れ着美人の合間に目当てのコート姿を見つけた私は、人の波を極力避けつつそちらへと歩み寄っていった。決して目立つようなところ――例えば背丈があるだとか、格好が派手だとか、そういうことはない人だけれど。昔から不思議と、人波の中にその姿を見つけるのは容易かった。

 あと少しで声が届くだろうか。そんなところで、あの人がこちらへ目を向けた。スッと右の手が上がる。小さな動きで遠慮がちにひらりと振られる手が、あの人が私を見つけた合図だ。私もそれに、軽く手を挙げて応える。マフラーに吐いた息が微かに白くなって後ろへ流れていく。

 

「あけましておめでとうございます、お母さま」

 

 あの人――お母さまの前に立ち、私は真っ先に新年の挨拶をした。まあ、挨拶自体は、元旦に電話で済ませているけれど。折角こうして顔を合わせたのだし、改めて言っておいても罰は当たらないだろう。

 私を見つめる目を、お母さまはわずかに細める。私と同じように白い息を吐き出しながら、お母さまは答えた。

 

「あけましておめでとう、キング。――随分、着くのが早かったのね」

「その言葉、そっくりそのまま返してあげます」

 

 待ち合わせの一時間前に来ておきながら、自分のことを棚に上げて一体何を言っているのか。

 私の返答にお母さまはもう一度目を細める。白い息を吐いた唇が、「それもそうね」と微かに呟いた。何かをごまかすように右の手が肩に流れる髪に触れる。

 

「……折角早いのだし、ゆっくりお店を見て行きましょう」

 

 お母さまの提案に頷いて、私たちは揃って参道へ足を向けた。並んで仲良く写真を撮る晴れ着の学生さんや子供さん連れの家族を横に見つつ、見上げるほど巨大な提灯の下をくぐる。

 一本道で続いていく参道の両脇には、初詣客を引き入れようと気合いの入ったお店がずらりと並んでいる。飲食店、雑貨屋、土産物店。なかでも賑わいがあるのは、やっぱり飲食店、特に食べ歩きができるような手軽なものを売っているお店だ。店頭からいい匂いが漂うお店が多くて、それに引き寄せられるように人が列を成している。今も、小さな子供さんがお母様の手を引いて、あれを食べたいとせがんでいる。引っ張られている方のお母様は根負けした様子で、しょうがないなあと苦笑しながら子供さんと列の方へ向かっていった。見慣れた初詣の光景だ。

 ふと懐かしい気持ちになって、マフラーの内で頬が緩む。お店の横を通り過ぎる時には、親子は列に加わって見えなくなった。目線を前に戻そうとして、隣のお母さまが私のことを見つめているのに気づく。

 

「……なんですか?」

「……あれが食べたいの、キング?」

 

 私を見つめる目が微かに光る。私の顔と、先程のお店を、お母さまは交互に見遣った。

 言葉に詰まると共に、頬がほんのり熱くなるのがわかった。ごまかすように視線をお母さまから逸らす。まさかバレているなんて、迂闊だった。食い意地が張っていると思われただろうか。

 

「べ、別に……そういうのじゃないわっ」

 

 否定の声は自分でも驚くくらい子供っぽくなる。本当に、食べたくて見つめていた訳ではない。ただ目に入った親子の姿が、いつかの自分自身に重なって見えただけ。懐かしむ気持ちで目を向けてしまっただけだ。

 あの年頃だった自分の姿は、今は随分遠いもののように思える。

 

「……そう?」

「ええ、そうよ。――ほら、行きましょ」

 

 なおも尋ねたお母さまに今一度頷く。なおもお店の方を気にするお母さまを促して、参道の先へと歩き出した。早めた歩調に、お母さまは小走りに追いついて来て、すぐに私の隣へ並んだ。

 参道は奥の方へ行くにつれて人の密度が増していく。参拝を待つ人たちの最後尾に並んだ私たちは、ぽつぽつと話をしながら順番が来るのを待っていた。取り立てて話題もなく、他愛もない話があちらへこちらへと行ったり来たりする。少し――二年くらい前だったら、こうしてまた普通の親子みたいにお母さまと話せるなんて、考えられなかった。

 

「――今年も、」

 

 お母さまの声色がそれまでと変わったのは、お寺の本殿まであと数分というところまで辿り着いた時だった。ほんの少し身構えて背筋を伸ばし、チラリと隣を流し見る。お母さまは白い息をマフラーのうちへ吐き出しながら、変わらずに列の前へ目を向けていた。私もそれに倣って、前を向いたままお母さまの話を聞くことにする。きっとこれから話すことが、今日のお母さまの本題だ。

 

「今年もトゥインクル・シリーズで走るそうね」

「……ええ、そのつもりです」

 

 少し前に正式に発表したことだ。

 競技ウマ娘、特に学外への進学を予定している子は、高等部三年の冬にはトゥインクル・シリーズからドリーム・トロフィー・リーグへ移籍するのが一般的だ。それは、一般大学に通いながら、トゥインクル・シリーズのローテーションに対応するのが難しいという現実があるからだ。そしてトレセン学園の大学部とは違い、基本的にはそうしたレースのローテーションを一般大学は考慮してくれない。その点、ドリーム・トロフィー・リーグは大きなレースの間隔が広く取られており、一般大学に通いながらでもローテーションの調整が容易になっている。

 私は今、高等部三年。今年の三月には高等部を卒業し、四月からは大学生だ。受験はこれからだが、トレセン学園の大学部ではなく、一般大学への進学を予定している。当然、ドリーム・トロフィー・リーグへの移籍を予定していたけれど――

 

「まだ、やり残したことがあるのよ」

 

 もう労わる必要のない左脚を、無意識に手で押さえた。痛みはもうない。けれどこの脚に、大きな宿題を残している。

 トゥインクル・シリーズ最後の春シーズン……になるはずだったシーズンのローテーションを詰め、ドリーム・トロフィー・リーグへの移籍も決めた直後のことだった。私の左脚が違和感を訴えた。幸い大事には至らなかったものの、お医者様からはしばらく走ることは控えるように指示を受けた。折角立てた春のローテーションはすべて白紙となり、唯一出走できた安田記念も満足のできる内容とはいかなかった。

 ……このままドリーム・トロフィー・リーグに進む、という選択肢はもちろんあった。秋に関してはローテーション通りに満足いくレースができていたことだし、受験が控えていることを考えてもそれが妥当な判断だったはず。どこからも文句は出なかっただろう。

 けれど、「やり残した」という思いが、わずかながらもしこりとなって心に残った。そしてそのしこりを放ったまま次のステージに進むことなどできなかった。

 

「……口で言うほど簡単なことじゃないわ。わかっているの?」

「ええ、わかってるわよ。トレーナーにも散々言われたわ」

 

 でも、彼は認めてくれた。大学に通いながらトゥインクル・シリーズで走ることがどれだけ大変なことかを淡々と説明しながらも、「それでも走りたい」と言った私の言葉には一も二もなく頷いてくれた。

 

――「キングが決めたことなら、俺は全力でサポートするよ」

 

 トレーナーは、私の答えには納得していた様子だった。むしろ、私が移籍を取りやめることを、確信していた節もある。

 ともかく、これはもう、私もトレーナーも了承していることだ。お母さまが何と言おうと、今更覆す気はない。

 次にお母さまの唇から漏れたのは、いつも通りの心配性な小言ではなく、多分に諦観が混じった小さな溜め息だった。

 

「……何を言っても無駄みたいね。あなたは、こうと決めたら絶対に曲げない子だもの」

 

 誰に似たのかしら。微かに漏れ聞こえてきた呟きに、「あなたよ、あなたっ」というツッコミを辛うじて堪える。せめてもの抗議で眉間に力を入れてお母さまの横顔に目を向ける。変わらずに列の前を見遣るお母さまは、そのままゆったりと目を閉じた。長い睫毛に冬の空気がキラキラと光る。マフラーに埋まる口元がほんの少し緩んだ気がした。どこか……嬉しそうに見えたのは、見間違いだろうか。

 

「やり残しだけはしないようになさい。それがあなたの望んだ道なら、尚更。……やり残した、という後悔ほど虚しいものはないわ」

「……お母さまは、」

 

 その先を口にする前に列が動き出す。目を開いたお義母様と視線がぶつかる。細くなった目が「行くわよ」と私を促した。開きかけた唇からうっすら白い息を吐き、そのまま噤む。余計なことでしかない質問は胸の内へ飲み込むことにして、階段を登り切り、私たちは本殿に足を踏み入れた。

 周りのカップルや家族連れに混じってお賽銭を投げ入れる。ご本尊に向かって手を合わせ、首を垂れた。特別な願い事は何もない。レースでの活躍は、すでにトレーナーと行った初詣で誓っている。自身の健康は、友人たちとの参拝で祈願済みだ。であれば、残すところはもう、今隣で一緒に手を合わせている人のことくらいしかなかった。

 お母さまが幸せな一年を過ごせますように。改まってそんなことを願うのはどうにもむず痒くて、カバーをした耳が疼くのが自分でもわかった。

 ゆっくり十秒ほどをかけて参拝を終え、本殿を後にし、元来た参道の方へと向かって行く。本殿の階段からは参道の全貌がよく見えた。とは言ってもほとんどが参拝客で埋め尽くされていて、石畳が見える隙間はどこにもない。私たちが並んだ時よりも、本殿へと続く人の列は長くなっていた。待ち時間と寒さを紛らわす人たちの話声が、残されたわずかな隙間も覆っていく。

 この後の予定は特に決めていないけれど……早々に移動するなら、メインの通りではなく横の道から抜けてしまった方が良さそうだ。

 

「――キング。少し、待っていて頂戴」

 

 年明けの喧騒を観察していた私は、そう声をかけてきたお母さまの方を振り向く。ソワソワと妙に落ち着かない様子のお母さまは、チラリと一瞬だけ人波に視線を向けて、そして私の目を見つめた。

 

「ええ、わかったわ」

「すぐに戻るから」

 

 近くに見えたベンチで待つことを伝えてお母さまを見送る。お母さまは小走りに参道の方へと向かい、決して背丈があるわけではない後ろ姿はすぐに人波に紛れてしまった。

 お手洗いにでも行きたかったのかしら。そんな風にぼんやり考えながらベンチに腰を下ろした。手袋を外して、コートのポケットから取り出したスマホを開く。LANEにいくつかメッセージが届いていた。この冬に帰省している友人たちからだ。

 メッセージを確認して、返事を返していく。一つ返信するたびに、顔を上げて人波の方を見遣った。お母さまはすぐには戻ってこない。指先を擦り合わせて、またスマホの画面に目を落とし、送られてきた内容にクスリと笑ったりしながらまた返事を書く。皆実家にいるからか、内容は家族とのことが多かった。

 大きな魚とおじい様と一緒に映るスカイさんの写真へ返事をしたところで、ようやくお母さまが戻ってきた。スマホの画面を落としてコートのポケットへねじ込む。ベンチを立って出迎えようとしたところで、ふとお母さまが紙袋を手にしていることに気づいた。さして大きなサイズではない、手で持ってしまえる程度だ。並んでいた出店で何か買ってきたのだろうか。

 

「お待たせ」

「なにを買ってきたの?」

「これよ」

 

 お母さまはそう言って、口を折っただけの紙袋を開いた。中を覗くまでもなく、ふわりと温かな湯気が立ち昇り、そして鼻先を包む柔らかな甘い香りが辺りに広がる。懐かしさと共に、幼い興奮を――お祭りの喧騒に並んだ時のような高揚を感じた。

 紙袋の中身は、一摘まみ程の大きさをしたカステラのお菓子――人形焼きだ。さっき、私が目で追っていた親子が並んだお店で売っていたものだった。

 目の前のお母さんと人形焼きを、数度交互に見遣った。私によく似た栗色の瞳は、何も言わずに私を見つめている。ああそういえば、私を見つめるお母さまの目は、いつだって優しさで満ちていたなって、今更になってそんなことを思い出した。

 

「お母さま、これ――」

「――言ったでしょう。やり残しは、しないようになさい」

 

 私が尋ねる前にお母さまは答えて、そして今一度紙袋をこちらへ差し出した。

 とても自然に、唇から笑みが零れた。トレーナーや友人と過ごす時と同じように、ごく自然に頬の筋肉が弛緩する。それは、人形焼きのおかげ、ではない。お母さまがどう思っているかは知らないけれど、それだけじゃない。

 

「ありがとう、お母さま」

「いいのよ。ほら、できたてのうちに食べましょう」

 

 たった今立ち上がったばかりのベンチに、今度は二人並んで腰を下ろす。口の開いた紙袋から人形焼きを一つ摘まんで、熱いのを冷ましながら一口かじった。花弁がゆっくりと開いていくように、カステラの爽やかな甘みと、餡子のしっとりした甘みが口の中へ広がっていく。その味を、やはり懐かしく感じた。

 今更ながら今日一日の予定を二人で話す。まずはおみくじを引こう。これでも、五年連続で大吉を引けている。お店も、参道を歩いている間にいくつか目星をつけていた。屋敷の爺ややメイドたちにお土産として買わないと。それから友人たちにも。お昼は近くのお蕎麦がいいだろうか。最近話題のパフェも食べに行きたい。近くのお店も事前にピックアップ済みだ。お母さまも、やるなら全部やろうと張り切り始める。

 その日は、何年振りかの、いつもと変わらない初詣の一日になった。



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あなたに捧げる勝負服

二十話目。
小学校六年生のキングと、お母さまの勝負服のお話。
一昨年に頒布した「キングヘイロー短編集」に収録していたお話です。


 思い出せる限り一番幼い頃の記憶は、果てまで澄み渡る真っ青な空を背にして、緑のターフに二本の脚で立つ、一人のウマ娘の姿だった。

 幼い頃の記憶なんて本当に曖昧なものでしかない。多くの人は自分が三歳だった頃のことだって憶えてないという。私だってそうだ。小さい頃のことなんて何一つ覚えてない。好きだったというお菓子やぬいぐるみを見せられてもピンとこない。何冊も丁寧に作られたアルバムをめくっても、敷き詰められた写真に映る自分自身は何だか他人みたいで、不思議な気分がするものだ。

 あの時の記憶もやはり曖昧だ。いつの頃だったのか、どういう場所だったのかはアルバムをめくるまで思い出せなかった。大きなレースだったから、きっとターフに立つウマ娘には割れんばかりの喝采が浴びせられたはずだ。当時の私の背ではレース場なんて見えないだろうし、一緒にいたメイド長が抱えてくれていただろう。メイド長はきっと何某かを私へ話しかけただろうし、私もきっとそれへ興奮気味に答えていたはずだ。だけど、そうしたことは一つも思い出せない。何となくそんな気はするけれど、幼い私の記憶には残っていない。

 思い出すのはいつだって、眩い笑顔で手を振ってくれた、たった一人のウマ娘のことだけだ。

 かっこよかった。誇らしかった。眩かった。今思うと、子供心にそういうことを感じていた気がする。息をすることも、瞬きすることも忘れて、食い入るようにその姿を凝視していたような気もする。そうでなければ、きっとこんなに鮮明に思い出すこともできない。私というウマ娘の一生は――キングヘイローというウマ娘の生きる道は、この記憶から始まったと言っても過言ではない。

 ……思えばあの日あの瞬間から、私は漠然と、けれど確かに、こう思うようになったのだろう。

 いつかこの人のように――お母さまのようになりたい、と。

 

 

 

 

 

 

 今日一日のノルマを達成すると、窓から差し込む光はいつの間にやら夕焼け茜色になっていた。HBの鉛筆と角の丸まってきた消しゴムを筆箱へ仕舞い、私は机の前で大きく伸びを一つする。最後の問題は随分集中して取り掛かっていたし、流石に肩のあたりに妙な張りがあった。伸ばしてやると、痛くて気持ちいい。

 よし、悪くないわね。解き終わった問題集に確かな手ごたえを感じて頷く。鉛筆に替えて赤ペンを持ち、早速採点を始めた。自分でやる以上、採点基準は厳しくだ。納得いかない箇所には容赦なく赤字を入れていく。五分ほどをかけて採点作業を終え、合計点数を出した。やはり悪くない数字だ。これなら難関中学も受験できるんじゃないかしら。

 間違った箇所の見直しを手早く終えて、問題集とノートを棚へ戻す。ふと、書店の袋から取り出さないまま棚へ並べてある本に目が留まった。取り出して手に取ると、相応の厚さがあって、ずしりとした質量を手で感じる。その中身がとある学校の過去問題集であることを、買った張本人の私は知っていた。

 

「……そろそろ、解いてみようかしら」

 

 取り出した中身の表紙を見つめながら考え込む。難関中学の問題ほどではないにしろ、相応に難易度の高い問題が並んでいる問題集だ。生徒に文武両道を求める校風らしい。買ったばかりの頃、一度だけ解いてみたことがあるけれど、合格ラインには程遠い惨敗だった。まず、小学校六年生の範囲が出てきた時点で、そこまで勉強していなかった私に太刀打ちができるはずもなかった訳だけれど。でも今は違う。学校の授業を一年分ほど先取りして、さらに中学受験用の問題集にも取り組んだ私は、最早無敵とも言えるだろう。今こそリベンジの時ではないだろうか。

 ここに乗っている過去問のすべてで合格に十分なラインを取れていれば、学力試験は問題ないはずだ。そうすればあとは実技試験が残るだけとなる。そっちは私の才能――授かったこの二本の脚をもってすればどうということはない。

 この過去問題集さえ解ければ、きっと安心させることができる。だからこそ、この過去問題集が解けてから、私は自分の進路を打ち明けようとそう決意したのだから。

 

――「見てお母さま! 私、トレセン学園に通うわ! 学力試験だって、このキングにかかれば余裕よ、ほら!」

 

 赤丸で一杯に埋まった答案用紙を見せてそう告げたら、お母さまはどんな顔をするだろうか。きっと笑ってくれるに違いない。もしかしたら、「私に勝てるかしら、キング?」とライバル宣言されてしまうかも。そうしたら、私はそれに「絶対に勝って見せるわ!」って応えるんだ。それで、二人揃って一しきり笑って、その後でお母さまは「頑張りなさい、キング」と背中を押してくれるだろう。それを思うと、今から頬が緩んで仕方ない。

 いけないいけないと首を振る。一流になるんだもの、だらしないところは見せられない。一流はいつだって、優雅に高らかに笑ってみせるのだ。

「中央トレーニングセンター学園」と表紙に書かれた問題集を、また書店の袋へ戻して棚に並べる。取り組むにしたって明日以降だ。今から解き始めたら、せっかくメイド長が用意してくれている夕飯の時間に間に合わない。

 とはいえこうなると、特にやることというのが無くなってしまう。夕飯の時間までは手持無沙汰だ。日の長い季節ならウマ娘用ランニングコースを走ってくるところだけど、もう陽も沈むとなれば爺やは許してくれないだろう。かといって、他にできることというのもない。

 こういう時、私には決まってすることがある。

 自室から顔を覗かせ、辺りの様子を探る。私の部屋がある屋敷の二階に人の気配はない。メイドたちは階下で夕飯の支度中のようだし、爺やは車の整備をしている頃だろう。しばらくは誰も二階へ上がってこないはずだ。

 これ幸いと自室を抜け出した私は、いつも鍵のかかっていない隣の部屋へそそくさと歩み入った。扉を閉じると、あまり人の温もりがしない部屋の中に、カーテン越しの夕焼けが満ちていた。

 ここはお母さまの部屋だ。とは言っても、いつも忙しく働いている人だし、この部屋にいることはほとんどない。せいぜい毎日寝る時くらいのものだろう。その就寝時間すらも、最近はファッションショーやイベントへの参加が重なって、この部屋にはいない。だから余計に、ベッドとテーブル、二つのクローゼットしかないこの部屋には生活感が感じられなかった。

 ふらふらとベッドへ歩み寄る。主が使っていなくても、メイドの手で毎日綺麗に整えられているベッドに、私は迷うことなくうつぶせで倒れこんだ。ギシリとスプリングが軋んで、私の体を受け止める。干したてなんだろう、ふかふかの掛布団が心地よい。私より少しだけ高さのある枕も申し分ない感触だ。そうしてしばらくの間、ここ最近主人に会えていないベッドを慰めていた。

 

「……お母さまの香りがする」

 

 顔を埋めた枕にふと呟いた。

 そんなはずはないってわかってる。ベッドは毎日綺麗にされている。枕も掛布団もシーツも、たとえ使っていなくたってメイドたちが毎日取り換えてくれている。だからいつだって、ベッドからはお日様の香りがしている。お母さまの香りが残っているはずない。

 それでも微かに、お母さまの香りがしたのだ。その匂いの正体が何なのかはわからない。シャンプーなのか、リンスなのか、香水の類なのか、毎夜飲む紅茶なのか。でも確かに、私を抱き締めてくれた時に広がるあのふわりとした香りが感じられるのだ。

 こうしていると自然に深い息が漏れる。両の瞼が勝手に落ちていく。揺れる尻尾と脚でパタパタとベッドを叩いた。こんなところを見られたら、きっと子供っぽいと思われてしまう。だから誰にも見られてはいけない。私だけの秘密の時間だ。

 しばらくベッドを堪能した私は、名残惜しく思いながらも体を起こして這い出る。きっちりと原状回復を行って証拠を隠滅し、最後に足を向けたのはクローゼットの前だ。お母さまの部屋にあるのは二つのクローゼット。そのうちの右の方を迷わずに開ける。目当てのものはすぐに見つかった。

 スーツや流行の服とは一線を画するデザイン。一目見れば、それが一体誰のためにデザインされたものなのかがわかる。多くの人のためではなく、世界でただ一人を輝かせるために用意された衣装。気高さと優雅さ、そこに可憐さと愛らしさを雑妙に編み込んだ、世界にただ一着の衣装。あの日のターフで誰よりも輝いて見えた、お母さまの勝負服。

 何着か勝負服を持っていたらしいお母さまだけれど、手元に残しているのはこの一着だけだった。どうして残しているのかは知らない。前に訊いてみたことがあるけれど、照れくさそうにはにかむばかりで「キングには内緒」と教えてくれなかった。何か特別な思い入れでもあるのだろうか。

 クローゼットからハンガーごと勝負服を取り出して、よく見えるように手前へかけ直す。ここ十年ほど、誰も着たことのない勝負服。年に数回クリーニングへ出されるものの、私が時折こうして眺める以外ずっとクローゼットに仕舞われている勝負服。けれどその輝きは、決して色褪せていないもののように思えた。生地がいいからなのか、仕立て方が上手いのか、あるいは大事に手入れしているからか。何が理由なのかはわからないけれど、ともかく私の瞳に映るお母さまの勝負服は今でもその鮮やかさを失わない。

 一歩、二歩と下がって勝負服全体を視界に入れる。そのまま床に座り込んで目を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、レース場のターフの上に流れる穏やかな風が勝負服をなびかせる光景。ひらりとスカートがはためく。ふわりとフリルが揺れる。ゆるりとリボンが舞い踊る。強くしなやかで逞しい二本の脚でターフに立つウマ娘の後ろ姿を一際輝かせるように。私はそれにただ魅入って、息を呑んで見つめ続けている。

 やがてウマ娘がこちらを振り返る。艶やかな鹿毛の髪を、一瞬だけ吹いた強い風の中に躍らせて、ゆっくりと。光の加減かその表情を窺い知ることはできない。その口元は優しげにも、挑戦的にも思えた。その目元は和やかにも、力強くも思えた。その顔立ちはお母さまのようにも、そして鏡に映る私自身のようにも思えた。

 ゆっくりと瞼を上げる。レース場の光景は消え失せ、ターフを行く風も吹き止んで、部屋の中には夕焼け茜色を受ける勝負服だけが残された。ほんの少し、その色が褪せたような気がする。それは、この勝負服を着ていたウマ娘が――あの日眩い笑顔で手を振ったお母さまが、ここにいないからだろうか。

 

「……よしっ」

 

 立ち上がり、勝負服へと歩み寄る。元あった通りにクローゼットへ仕舞おうとハンガーへ手を伸ばしかけて、ふと思い留まった。引っ込めた手を今度は勝負服の袖へ伸ばす。指先で触れると不思議な感触がした。ウマ娘の勝負服用の特殊な生地を使っているからだろう。普段着る機会のあるどんな服とも違った手触りだ。けれどどういう訳か不思議と懐かしい感じがした。なんでだろうと考えて、でもすぐにそれもそうかと納得する。だって、子供の頃から何度もこの勝負服を引っ張り出しては眺めているのだ。慣れ親しんだ感触に懐かしくもなるだろう。

 

「……いつか、私も。――いいえ、きっとすぐに」

 

 いつもと同じように呟いて、クローゼットを閉じた。静かに部屋を出て階下を目指す。もうそろそろ夕食の支度が終わっている頃合いだろう。階段を数段下れば、食欲をそそるいい香りが漂ってきた。早速お腹の虫がはしたなく鳴き始める。それを りつけながら階段を降り切って、ダイニングからキッチンを覗き、見つけたメイド長の背中に問いかけた。

 

「今日のお夕飯は何かしら?」

 

 

 

 その日の夜は、いつもより早く帰ってきたお母さまと、久しぶりに就寝前のティータイムを楽しむことができた。

 

 

 

 

 

 

 観客席の外ラチから一番近いところに眩い笑顔を見つけた途端、私は自分でも信じられないくらい自然に、ありのままに、頬を緩めて手を振ってしまった。随分長く感じられたレース人生の中で、そんなことは初めてだった。

 歓声がしている。大喝采がしている。割れんばかりに拍手が鳴り響いている。けれどそのどれも私の耳には入らなかった。いつものように勝った者の責務として観客席へ応えることも忘れ、私はただ一人のもとへ駆け寄った。広いレース場の中でただ一人、今はただあの子の声だけが聴きたかった。レース直後の疲労感もどこかへ忘れ去って、脇目も振らず一目散に彼女のもとへと駆け寄った。

 

「――キングちゃんっ」

 

 彼女の名前を――愛しい我が子の名前を呼ぶと、ただそれだけで世界が鮮やかに彩られた気がした。春に花が開くように。夏に太陽が輝くように。秋に山が色づくように。冬に大地が白銀を纏うように。私の世界は無数の色彩で溢れていった。そうしてその只中に、娘は大輪の笑顔を咲かせていた。

 外ラチを潜って観客席の柵の前に立つ。キングちゃんを抱えるメイド長が驚いた様子で目を見張っていた。無理もない。レースのあとでこんな風に勝手をするところなんて、誰にも見せたことない。私自身驚いているくらいだ。でも今は、身体が私の心のままに動いている。

 キングちゃんが無邪気に私へ手を伸ばす。それへ益々破顔して、私は娘に応えようと手を伸ばし、その小さな手を握った。それから今度はキングちゃんを抱きかかえる。手を離したメイド長は一つお辞儀をすると、にこりとして「おめでとうございます」と言った。私はそれに何度も頷いて、「ありがとう」と笑う。

 

「おかあさま!」

 

 胸の内でキングちゃんが私を呼んだ。小さな手でしっかりと勝負服を握り締め、ぐいぐいと身を乗り出そうとするキングちゃんを、私と目線の高さが合うようにもう一度抱き上げる。栗色の大きくて真ん丸な瞳を宝石みたいにキラキラさせて、キングちゃんは真っ直ぐに私を見ていた。ターフに流れる微かな風が揺らした艶やかな鹿毛の間に、きっとこれ以上に綺麗なものなんてないような笑みを零す。あんまり鮮やかで、輝かしくて、眩くて、私は思わず目を細めた。

 

「おかあさま、すごいです!」

 

 真っ白な歯をニカッと覗かせて、興奮気味にキングちゃんはそう言った。小さな鼻から力強く息を吐き、お餅みたいな頬を真っ赤に染めて、キングちゃんはまだ拙い言葉をいくつもいくつも叫んだ。まだまだ小さな体の、その内にあるものを全て私へ伝えようとするように、何度も何度も笑った。その一つ一つに頷くたび、私はこれまでの人生で一番の幸せを噛み締めた。この身の内にこれほどの喜びがあったことを初めて知った。

 今日この日のたった一つの勝利を、これほどまでに嬉しく思えたことなどなかったのだ。

 

「キングちゃん。――この勝利はあなたのものよ、キングちゃん」

 

 きっと私の言葉は難しくて、可愛い娘にすべては伝わらない。でもそれでいい。この勝利は、私があなたに捧げるもの。あなたへの感謝。あなたへの祈り。あなたへの願い。

 私のもとへ産まれてきてくれたキングちゃんに。私に歓喜と幸福の全てを与えてくれたキングちゃんに。私の愛しいキングちゃんに捧げる勝利。

 

 

 

 あなたが二本の脚で歩いていく道が、どうか輝かしく素晴らしいものでありますように。

 どれ程の困難が待ち受けようと、それすらも乗り越える眩いものでありますように。

 

 

 

 両の手でしっかりとキングちゃんを抱き締める。擦り付けられた頬と、髪を撫でる小さな耳が、無性にくすぐったくて堪らなかった。



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『世界に一つだけの花』

二十一話目。
タイシンママの営むお花屋さんに、一年に一度やってくるキングとお母さまのお話。


 その親子がやって来たのは、夏も盛りのお盆休みの頃、私の営む小さな花屋が繁忙期を迎えていたある日のことだった。

 

 

 

「ごめんください」

 

 お昼頃から増えてくるお客さんのために店先の花の準備をしていると、そんな私に声がかかった。凛と澄んだ声音は決して強いものではなく、けれど不思議とよく通る音色で、引き寄せられるように顔を上げる。こちらを覗き込むようにして声をかけて来たのは、私とあまり歳の変わらない、一人のウマ娘だった。

 やや明るい鹿毛を顔の右側から肩に流し、鮮やかな栗色の瞳で私を見つめるウマ娘の、端整な顔立ちにハッと一瞬目を奪われる。モデルや俳優と言われても納得してしまうその容姿には、どこかで見覚えがあった。はて誰かのそっくりさんだろうか、という思考を一度頭の隅へ押しやって、私は花の前に折っていた膝を伸ばす。ぺこりとお辞儀をして、お客様を出迎えた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 頭を下げた拍子に、そのウマ娘が小さなウマ娘と手を繋いでいることに気づいた。娘さんだろうか、ふわふわの鹿毛とまあるい栗色の瞳をした女の子は、私の方を興味津々と言う様子で見つめている。歳は私の娘――タイシンと同じか少し幼いだろうか。

 私が顔を上げると、お母さんがぺこりと会釈を返してくれた。それを見ていた娘さんも、お母さんの真似をしてちょこんと頭を下げる。フリルのついたスカートをふわりと揺らし、ぴょこぴょこと小さなお耳を動かす娘さんを、お母さんは横目で見つめて微笑んでいた。愛らしい仕草に私の方までつい頬を緩めてしまう。

 

「本日はいかがされましたでしょうか」

 

 日差しの強い店先から店内へと案内しつつ、用件を尋ねる。娘さんの歩幅に合わせて歩くお母さんは、キラキラした目で花を眺める娘さんを見守りながら答えた。

 

「お墓に供える花束を見繕っていただきたいのです」

 

 季節柄の注文に私はさっと頭の中で考えを巡らせた。花束を予約されたお客様がいらっしゃるのは、今日はお昼前から連続している。そちらはおおむね準備も済んでいるので、まだしばらくは時間に余裕があった。

 

「かしこまりました。お時間を三十分ほどいただきますが、よろしいでしょうか」

「ええ。よろしくお願いいたします」

 

 それから、予算や供養をされる方、色の好みなどを聞き取っていく。昨年亡くなったご主人のお墓参りなのだと、お母さんは答えた。話を聞きながら、何だか他人のような気がしなくなる。私も三年前に夫が他界して、彼女と同じようにタイシンと二人きりの母子家庭だった。

 ひと通り聞いておきたいことを聞き終えて、私は早速花束の作成に取り掛かる。

 

「三十分ほどお待ちいただきますので、お時間経ちましたらまたこちらへいらしてください」

 

 待っていてもらう間、近くのカフェでも紹介しようと私が考えていると、お母さんはどこか迷う素振りを見せた。チラリと横を向いた目が娘さんの様子を窺う。その娘さんは、さっきから店先の花に夢中なようで、飽きもせず真ん丸の瞳を向けていた。

 ふっとお母さんの唇から息が漏れる。

 

「……こちらで待たせていただいてもよろしいですか? 娘が随分お花を気に入っているようなので」

 

 構いませんよ、と私は笑って頷いた。脳裏によぎるのはタイシンのことだ。お店に連れて来ると、タイシンはいつも飽きもせず花を眺めている。

 仲良く並んで鑑賞会を始めた親子に気を配りつつ、花を見繕い花束にしていく。時期も時期なので、墓前に供える用の花は多めに仕入れてある。すぐに十分な量を見繕うことができた。

 

「おかあさま、みてくださいっ」

 

 手に取った花を確認してもらおうとしたその時、娘さんがはしゃいだ声でお母さんを呼んで手招いた。小さな手が指さす先には、バケツに差さって大きな白い百合が咲いている。タイシンのお気に入りなので、季節になるといつもお店に置いていた。その百合を、娘さんはうっとりとして見つめている。

 招かれたお母さんが、娘さんの隣に腰を下ろして目線の高さを合わせ、同じように見惚れていた。

 

「綺麗な百合のお花ね」

「ゆり、ですか? おにわには、ないおはなです」

「そうだったわね。――キングちゃん、百合のお花が気に入ったの?」

「はいっ」

 

 元気よく返事をして頷いた娘さんに、お母さんは小さく吹き出して笑った。端正な顔立ちの大人な表情が、その一瞬だけは随分と幼く可愛らしいものになる。お母さんは愛おしげに娘さんの頭を撫でた。娘さんの方は照れた様子で、瞼を閉じて頬を緩めながら、お母さんに撫でられている。

 ……ほんの少し、胸の奥がちくりとした。

 一しきり娘さんを撫でた後、お母さんは立ち上がり辺りを見回した。私を探していたらしく、目が合うと「すみません」と呼ばれる。作りかけの花束を手に、私は彼女のもとへと歩み寄った。

 

「百合も、何本か花束に入れてもらっていいですか」

 

 私が選んだ花の中に百合は入っていなかった。私は頷いて、娘さんに一言断ってから、いくつか見頃の百合を選ぶ。

 

「お父さまにも見せてあげましょう」

 

 不思議そうな表情の娘さんに、お母さんがそう言った。娘さんの顔がパッと明るくなる。

 百合の花を加えて、茎や葉を切って全体を整え、落ち着いた風合いの包装紙で包む。約束した三十分よりやや早く仕上がった花束を手渡すと、親子は揃って笑顔を見せた。顔立ちや髪色もあるのだろうけど、本当によく似た笑顔だった。

 

「またのご来店、お待ちしております」

 

 ずっと手を振り続ける娘さんと、そんな娘さんの手を引きながら花束を抱えるお母さん。よく似た色合いの尻尾を仲良く揺らして去っていく二人の後ろ姿を、しばらくぼうっと見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 次の年も、また同じ時期に親子はやって来た。一年という時間の分大きくなった娘さんと、相も変わらずに仲睦まじく手を繋ぐお母さん。お父さんの墓前に供える花束を求めるところも去年と同じだった。

 一際暑い日だったので、私は二人に缶ジュースを差し上げた。たまにお店に顔を出すタイシンのために、取り置きしてあるニンジンジュース。扇風機近くの椅子を勧めると、二人で仲良くジュースを傾けていた。花束を作り終わる頃、娘さんが空になった缶をわざわざ持って来てくれて、「ごちそうさまですっ」と真っ白な歯を見せて笑った。親子は楽しげに会話を弾ませながら、お墓参りへ向かって行った。

 その次の年も、そのまた次の年も、親子は私のお店にやって来た。周りに何件かある花屋の中で、私のお店を選んでくれていることが嬉しかった。

 そのうちに、私は親子とぽつぽつ会話をするようになった。そうは言っても一年に一度だけ会う相手なので、随分他愛もない内容だ。「今日は暑いですね」だとか、「この間の台風は大変でしたね」だとか、「今日はこんなお花がありますよ」だとか、パッとしない話題を振っていた。でも何だかんだと話が続いて、出来上がった花束を手渡してからもしばらく話し込んでしまったりした。

 親子はいつも一緒だった。娘さんが小学校へ上がると、さすがに手を繋いだりはしなくなっていたけれど。それでも歩く時はいつも隣同士で、端から見ていてもわかるほど仲良くおしゃべりをして、年々そっくりになっていく笑顔を見せていた。

 

「できる限り、一緒にいてあげたいんです」

 

 ある年にポツリと、お母さんはそう言った。それが何よりも優先すべき大切な約束だと言うように、店内の花を順に眺めている娘さんを見遣る瞳に強い決意を宿していた。仕事が忙しくてあまり一緒にはいられないのだ、という話は聞いていた。だからこそ、一緒にいられる時間は全て娘さんのために使ってあげたいのだと、お母さんは言った。

 

「娘の笑顔が一番ですから」

 

 少し恥ずかしそうにしてはにかむ優しい表情を、眩しく見つめていた。

 ずっと親近感はあった。初めて会った時に、母娘二人だけの家庭だと知って、それが私自身とタイシンと重なった。でも同時に、羨ましさも確かにあった。親子には、私とタイシンにはない仲の良さがあったからだ。楽しげに笑い合って歩いているところを毎年見てきた。翻って、私はどうだろう。最後に、タイシンとあんな風に笑いながら話ができたのは、いつだっただろう。亡くなったあの人のお墓を、二人で訪れたのは、いつだっただろう。よく冷えた缶のニンジンジュースを、並んで傾けていたのは、いつだっただろう。一緒にいられる時間を、全部タイシンのために使ってあげられたのは、いつだっただろう。そう思うと胸がキュッとなって痛かった。

 ……悪いのは私だ。忙しさを理由にしていた。亡くなった夫の分まで、母親として、タイシンを養うために働いているのだと、そんな言い訳をして。タイシンが、落ち着きのある、周りよりいくらか大人びた子なのをいいことに、側にいてあげたり、話をしてあげることを大切にしてこなかった。……タイシンが周りよりも大人びているのは、私が忙しくて家にあまりいないせいなのに。

 あのお母さんのように、限りあるタイシンとの時間を大切にしていれば。我慢ばかりのタイシンに、せめて母親にくらいはわがままを言わせてあげていれば。あの親子を羨むこともなかったのかもしれない。

 今となってはもう、タイシンとどうやって話せばいいのか、それすらわからない。

 

 

 

「レースの世界に行きたい」、そう言ったタイシンがトレセン学園に入学して、私がたった一人での生活に慣れてきた年のお盆。遠くに鳴くセミの声を聞いていると、いつものようにお母さんが現れた。「ごめんください」、と私を呼ぶ彼女の隣に、今年は娘さんの姿がない。

 一体どうしたのだろう。少し不安に思いながら、注文の通りに花束を用意する。毎年のものと同じように、立派に咲いた百合の花も選んでおいた。親子が毎年注文するので、二人が尋ねてくる時期になると必ず用意するようになっていた。

 

「今日は、娘さんはご一緒ではないのですか?」

 

 私が花束を作る間、娘さんと同じように、ニンジンジュース片手に店内の花を眺めていたお母さんへ、私はできるだけ何気ない風に尋ねた。前に聞いた話だと、娘さんは今年中学生になるはずで、もしかしたら部活で忙しくしていたりするのかもしれない。

 私の質問にお母さんが何とも言えない表情をするのが見えて、しまったと思った。立ち入ったことを聞いてしまったかもしれない。すぐに謝ろうとしたけれど、私が頭を下げるよりもお母さんが口を開く方が早かった。

 

「娘は、トレセン学園に入学しました」

「……えっ」

 

 あまりの驚きで目を見開いた私は、随分と間の抜けた声を発してしまう。偶然もここまで来ると、奇跡だとか、神様のイタズラだとか、そういう類のものに近い気がした。ともかく、お母さんの短い返答だけで、私はある程度娘さんが来ていない理由を察することができた。

 

「学園は寮生活ですので、娘は今も寮に。……お盆は帰ってこないそうです」

 

 淡々と答えたお母さんだったけれど、伏し目がちにぼんやりと花を見つめる横顔に、隠し切れない寂しさが滲み出ていた。幼い娘さんと繋がれていた手は、今日は彼女自身の艶やかな鹿毛を、所在なさげに梳いている。眩い真夏の日差しとは対照的な、光量の小さい店内の照明が照らす姿に、どうしても私自身を重ねずにはいられなかった。

 

――「トレーニングあるから、お盆は帰らない」

 

 数か月ぶりにLANEへメッセージが届いたのは、お盆も直前になった八月の頭。通知はその短いメッセージの一件だけだった。「二、三日でも家でゆっくりしたら」というメッセージは、さすがに送れなかった。第一、家に帰って来ても、タイシンはゆっくり過ごせないだろう。依頼の多いお盆の時期はずっとお店を開けている訳で、例えタイシンが帰って来たって、私が労わってあげられる訳ではない。それどころか、いつもみたいに家のことはタイシンに任せっきりになってしまう。体も心も休まったりはしないだろう。

 結局、私は散々悩んだ末に「わかった」「体には気をつけてね」と、無難でパッとしない返事だけを返した。私とタイシンのやり取りはそれでおしまい。去年も、その前も、同じことを毎年繰り返している。本当は顔くらい見せてほしいけれど……そんな私の本心をメッセージにできるわけもなく、既読から動かないトーク画面をぼんやり眺めるばかりだった。

 親子の間でも、タイシンと私と似たようなやり取りがあったのかもしれない。納得できると共に、意外にも思っていた。今まで見てきた――年に一度顔を合わせるだけの間柄ではあるけれど――お母さんと娘さんの仲の良さを思えば、お盆の、それもお父さんのお墓参りくらいは、顔を出しそうな気もしていた。

 

「うちの娘も、お盆は帰ってこないそうです。トレーニングが忙しいらしくて」

 

 止まってしまっていた手の動きを再開して、ぽつぽつとタイシンの話をすると、お母さんは少し前の私と同じように驚いた表情を見せた。タイシンのことを話題に出すのは初めてのことだ。まして同じトレセン学園に通う競技ウマ娘だったなんて、彼女にとっても思いもよらない偶然だろう。

 

「……そうでしたか」

 

 お母さんはさらに何かを言いかけたけれど、丁度そこへ予約のお客様がいらして、私たちの会話は途切れてしまう。幼子と手を繋ぐ夫婦から距離を置くように、彼女は店内の一番奥でフラワーアレンジメントを見ていた。接客を終えても、お互いにそれ以上会話が弾むでもなく、店内には私が花束を用意する音だけが響く。それも、十分もせずに終わってしまった。

 

「――お待たせしました」

「ありがとうございます」

 

 代金と一緒に、空になったニンジンジュースの缶を受け取る。完成した花束とジュースの缶二本を交換するのは、いつもなら娘さんの仕事だった。今日は一人ぼっちの空き缶が一本だけ、並ぶものもなくカラリと乾いた音を鳴らす。

 花束を受け取ったお母さんは、しばらくその出来を確かめるように、両の目を矯めつ眇めつしていた。それからもう一度律儀に頭を下げて、店を後にする。娘さんと並んで揺れていた鹿毛の尻尾が、今日は一人大人しく、夏の陽射しを鬱陶しそうにしながら遠のいていった。

 

 

 

「ごめんください」

 

 あれから数日後、店頭から聞き覚えのある声に呼ばれて、私はハッとして手を止め顔を上げた。日差しを遮る庇の下に立ち、こちらを窺うウマ娘が一人。緩いカールのかかった鹿毛に陽が透けて、逆光で顔がわかりにくくなっていたけれど、一目で娘さんだとわかった。

 私と目が合うと、娘さんは律儀に会釈をする。礼儀正しい子という印象は、特に小学生になってからは強くあった。お母さんと話している時は年相応に可愛らしい一面を見せるだけに、ふとした瞬間に大人びた対応をされるとドキリとしてしまう。

 お母さんがいないからか、あるいは中等生になったからか、今日の娘さんは一段と大人びた雰囲気に見えた。その姿がどことなくタイシンに重なる。一瞬ぼうっとしかけた私は、慌てて接客モードのスイッチを入れた。

 

「いらっしゃいませ」

「ご無沙汰をしています」

 

 出迎えた私に娘さんははにかんで答えた。育ちの良さを感じさせる柔らかな口元が、お母さんによく似ている。全体的に落ち着いた雰囲気を纏い、けれど勝気な目元の印象だけが育ち盛りの若々しさを帯びていた。

 店内へと招きつつ用件を尋ねた私に、娘さんは迷いなく答える。

 

「花束を見繕っていただきたいのです。父の墓参りへ行きますので」

 

 数日前とまったく同じオーダーに、私は目を瞬いてしばらく固まってしまった。余程おかしな顔をしていたのか、娘さんが怪訝な表情で私を覗き込む。慌てて接客用の笑顔を取り戻し、娘さんの注文を了承した。

 待ち時間を伝えると、いつも通りに店内で待つと答えた娘さんに、今日もニンジンジュースを手渡した。よく冷えた缶ジュースをチビチビと傾けながら店先に並ぶ花たちを眺める娘さん。そんな彼女を視界の端に見ながら、花束を見繕う。折角だから、お母さんへ渡した時とは違った色合いにしてみようと、色違いの品種や別の花を選んだりもした。でも、真っ白な百合だけはいつも通りに、特によく咲いているものを選んで花束に添える。

 ある程度形が整ってきたところで、フラワーアレンジメントを眺めていた娘さんへ、私は声をかけた。

 

「トレセン学園へ入学されたそうですね」

 

 さらりと背中で鹿毛を揺らして振り返った娘さんは、短い返事と共に頷く。特に驚いた様子はなかった。

 

「ご存知でしたか」

「はい。数日前にお母さまがいらして、その時にお話を窺いました」

「……お母さまが」

 

 ぽつりと呟いただけで、娘さんは難しい表情をして、輝きに満ちた栗色の瞳を伏せた。ある程度察することはできていたけれど、やはり二人の間に何かしら事情があるのは明白だった。そうでなければ、わざわざ日時をずらしてお墓参りになんて行かないだろう。

 それ以上踏み込むことは、さすがに憚られた。代わりに、トレセン学園での様子を尋ねる。順調だ、と娘さんははにかみながら学園生活のことを答えてくれた。

 他愛もない話をしているうちに、花束を作り終わる。空の缶と交換すると、娘さんはしばらくの間、しげしげと花束を見つめていた。やがて満足そうに微笑んで頷く。

 

「頑張ってくださいね」

 

 店を後にする娘さんの背中へ声をかけると、軽い会釈のあとにひらりと手を振り返してくれた。いつもお母さんと並んで揺れていた鹿毛が、今日は一人シャンとして、でもどこか背伸びをした様子で歩いて行く。少し前には私を追い越したとはいえ、背格好はまだお母さんの方が大きい気がした。

 ……頑張って、の一言を、そういえばいまだにタイシンへ言えていないことに、今更ながら思い至った。

 

 

 

 

 

 

「実は……娘とは、喧嘩中なんです」

 

 寂しげな表情が自身を責めるように事情を教えてくれたのは、一年という時間が立ち止まる暇もなく流れ去ったお盆だった。

 去年と同じように一人でお店を訪れたお母さんに、私は娘さんも来ていたことを話した。余計なことかとも思ったけれど、人伝でだって娘さんの様子を聞けた方が、お母さんも安心できるんじゃないかという考えの方が勝った。私が、チケットちゃんやハヤヒデちゃんのお母さんから、同じようにタイシンの様子を伝え聞いて安堵しているだけに、尚更。

 お母さんは栗色の瞳を潤ませながら真ん丸に見開いた。花を選んでいた私のところまで、彼女が息を呑む音が聞こえてきたほどだ。けれど、すぐに長い睫毛を伏せってしまって、「そうでしたか」とか細く返事をした時にはすっかり困り切った表情をしていた。

「喧嘩中」の一言には、困り果てた彼女の、どうしたらいいのかわからないという感情がありありと滲み出ていた。

 

「レースの世界へ進むことに、大反対したんです。……どうしても娘が心配で」

 

 ちびりちびり、差し上げたニンジンジュースを口にしながら、ぽろぽろと言葉を零すお母さん。短い相槌を打つたび、これまで以上に力がこもった。目の前で物憂げに話す彼女が、私自身に見えて仕方なかった。どうしても他人には思えなかった。

 ……心配でたまらない。心配で心配でたまらない。募る一方の心配が、今しも胸を引き裂いてしまいそうなほどに。

 タイシンは、決して体の強い子ではなかった。季節の変わり目に体調を崩すことはままあった。周りと比べても明らかに食が細くて、小さい頃は吐き戻したりもした。身長も体重も、同学年の前の方から数えた方が早いくらいで、恵まれた体格とはいかなかった。

 そんなタイシンが、レースを走る。ハヤヒデちゃんやチケットちゃんみたいな、あるいはもっとがっちりとしたアスリート体型の子たちと同じ舞台で走る。体格が全てではないけれど、でも体格があったら受けなくてよかったハンデだってある。小さな体でもそのハンデを受け止め、抗って、走り勝とうとするタイシンを想うと、どうしても不安でいっぱいになった。

 でも……「大丈夫?」「無理してない?」なんて、訊けなかった。そんな資格、もう私にはなかった。今まで散々タイシンのことを、タイシン自身に任せてしまっていた。母親らしいことは何もできなかった。家で一人過ごすことの多かったタイシンに、声をかけることも、抱き締めてあげることもできなかった。……ほったらかしにしていた、そう思われたって仕方のないことだ。だから、そんな私が今になって心配したって、タイシンにとっては鬱陶しいだけだろう。「今更母親面すんな!」、タイシンだってきっとそう思う。

 私にできるせめてものことは、タイシンに知られることのない場所で、タイシンに気づかれないように、タイシンの背中を見つめていることだけだった。

 

「――……あの?」

 

 呼びかけられて我に返る。いつの間にやら深い思考に沈んでいたらしく、花束を作る手が止まっていた。私の異変に気付いたのか、お母さんが不安げに顔を覗く。容赦ない夏の陽射しが、物憂げな栗色の瞳に煌めいた。

 大丈夫ですか、問いかける視線に頷き、一度花から手を離す。心を落ち着けようと軽く息を吸い、それがそのまま小さな溜め息として漏れ出た。くすんだ猛暑の空気に、目の前の白い百合だけが妙に鮮やかだ。

 

「……すみません。私も娘のことを思い出してしまって」

 

 去年に引き続いて、柄にもなく娘のことを話した。私の内にある不安も、それを伝えないようにしていることも。そんな私のあてどない話を、お母さんは小さく相槌を打って、聞いていてくれた。

 

「心配な気持ち、よくわかります」

「でもきっと、娘にとっては大きなお世話なんです。……やはり、私の胸の内に、しまっておいた方がよかったのでしょう」

「……そう、でしょうか」

 

 後悔の混じるお母さんの言葉には、簡単には頷けなかった。

 お母さんは、私がタイシンにしなかったことを……してあげるべきだったことを、彼女の娘さんにしてあげているんじゃないだろうか。それが本来、母親のあるべき姿なんじゃないだろうか。そんな風にも思える。黙って見守る、なんて都合のいい言葉に騙されず、心配も不安もきちんと伝えようとしている。娘になんて声をかけたらいいのか、それすらわからずに何も伝えられなかった私より、余程母親としての責任を果たしているようにも思えた。

 

「……母親として、何が正しいかなんて……今でも何もわかりませんから」

 

 呟いた言葉に、お母さんは難しい顔をして考え込む。私たちの間に流れる空気は、べたつく夏とは正反対に寒々しいものだった。

 話し込んでしまったせいで、花束の完成は随分と遅くなった。頭を下げようとした私に、お母さんは「こちらこそ、話に付き合わせてしまって、申し訳ありません」と言って手で制した。花束を受け取ったその表情からは、すでに物憂げな陰が取り払われている。

 

「今年もきっと娘が来ますから……今日のことは、どうか秘密にしておいてください」

 

 最後にそれだけ言い置いて、お母さんはお店を後にした。手入れの行き届いた髪と尻尾が、真夏のただ中で揺れる。親近感と羨望が混じる背中へ頭を下げ、「またのご来店をお待ちしております」と私は彼女を送り出した。

 

 

 

 お母さんの言った通り、その年も娘さんは数日後に私のお店へやって来た。

 

 

 

 

 

 

 花屋を営むようになってから、長らく請け負っている仕事がある。それが、レースに出走するウマ娘への、贈答用の花束やフラワーアレンジメント、フラワースタンドの製作だ。

 ウマ娘に花束を贈りたい、という要望は多い。ウマ娘レースを取り仕切るURAでもその辺りは承知しており、混乱を避けるためにある程度のルールを設けていた。具体的には、花束のサイズや値段について、メイクデビューや未勝利、一勝から三勝クラス、OP以上、重賞、GⅠといったレースの格付けごとに規定が存在する。フラワースタンドのように大きなものは、GⅠに出走するウマ娘にのみ贈ることが許可されていた。

 私のお店の立地だと、東京や中山、大井の開催日にはこうした贈答用の花束の依頼が多い。反対に、地方での開催となる夏の間は、この手の注文はほとんどない。

 ただ、お盆も後半に差し掛かったその日、私は珍しく贈答用のフラワースタンドを用意していた。一年ぶりに娘さんが訪ねて来たのは、丁度その日だった。

 

「ごめんなさい、お忙しいですよね」

 

 そう言ってお店を後にしようとした娘さんを引き留める。実を言うと、今日あたりにご来店されるのではと思って、フラワースタンド作りの傍らである程度準備を進めておいたのだ。花屋としての勘が、見事に的中した形だ。

 一旦フラワースタンドを作る手を止めて、娘さんが注文した花束の用意に取り掛かる。店内で待つ娘さんに例年通り冷えたニンジンジュースを手渡すと、彼女は眉を八の字に下げて苦笑した。

 

「よく考えたら、きちんと予約の連絡をするべきですよね。……つい、今までの癖で」

 

 申し訳なさそうにする娘さんへ首を振る。

 

「構いませんよ。トレーニングの御都合もありますでしょう。お供えのお花なら、この時期は充実させていますから、予約なしでも対応できます」

 

 またお好きな時に来てください。私の言葉に、娘さんは「ありがとうございます」と頭を下げた。

 選んでおいた花を整え、花束へと仕上げる間、娘さんは店内を見て回っていた。しばらくすると、その興味は私が作っていたフラワースタンドに移ったようだった。作りかけの、人の背丈ほどもあるフラワースタンドを、しげしげと見つめて観察する娘さん。真剣そのものの横顔を見遣りつつ、今年も立派に咲いた百合の花を包んで、花束を完成させた。事前にある程度準備していたからか、十分もかかっていない。

 出来上がった花束と空の缶を交換する際に、娘さんが尋ねた。

 

「あちらのフラワースタンドは、ウマ娘への贈答用ですか?」

 

 やや驚いてパチパチと瞬きをした。作りかけのフラワースタンドには、まだウマ娘の名前などは入っていない。勝負服の色合いをモチーフにして花が彩られているだけだ。

 

「ええ、そうです。よくおわかりになりましたね」

「レース場ではよく見かけるもので。それに……見覚えのある勝負服のデザインに、よく似ていたものですから」

 

 きっと、娘さんも知っているウマ娘だったのだろう。贈り先のウマ娘はトゥインクル・シリーズの一つ上、ドリーム・トロフィー・リーグで活躍していたウマ娘で、先日現役を引退し、明日が引退ライブになっていた。フラワースタンドの依頼は、そんなウマ娘の勝負服を担当したデザイナーからで、かれこれ十年近く御贔屓にしてくださるお得意さまだ。その辺りの事情を掻い摘んだ私の話を、娘さんは神妙に聞いていた。

 私の話を聞いた後、娘さんはもう一度フラワースタンドを見つめる。作りかけの小さな花園を映していた瞳が、やがて私の方を見た。真正面から目にした栗色の瞳に、純真無垢な感動の光が宿っている。

 

「見事なフラワースタンドですね」

「ありがとうございます。――受け取る方にも、喜んでもらえるとよいのですが」

「きっと喜ばれます。それは、人それぞれ好みはあるでしょうけれど。でも、綺麗なお花をいただけたら、それだけで嬉しいじゃないですか」

 

 娘さんはそれがさも当たり前のことのようにさらりと答えた。けれど聞いていた方の私は、ハッとしてしまう。シャンとして鮮やかに咲くフラワースタンドと、大事そうに抱えた色とりどりの花束。それぞれを交互に見つめた後、娘さんは柔らかに微笑んだ。潤んだ唇が、「やっぱり、綺麗」と呟く。

 

――「かあさんのおはな、どれもみんなきれいだね!」

 

 遠い昔の情景が、目の前の娘さんに重なって、フラッシュバックした。まだ、お店を開けて、それほど時間が経っていない頃だったと思う。夫を亡くして、タイシンと二人きりの生活にようやく慣れた頃だったと思う。並んだバケツに咲く花園の、その只中で、一際眩しい笑顔を見た。店先に並ぶ花がタイシンのお気に入りで、いつも飽きもせずに眺めていた。胸に焼きついて忘れ得ないはずの記憶を、今更ながらに思い出した。

 

「――あのっ」

 

 それでは、と言って店を後にしようとした娘さんを、私は呼び止める。踵を返しかけた娘さんは、キョトンと不思議そうな顔をして、また私の前に立った。わざわざ引き留めたものの、すぐに言葉が続かなかったせいで、私と娘さんの間に妙な沈黙が流れる。

 やっとの思いで言葉を見つけて、じめつく季節になぜか乾いた口を開いた。

 

「……もしも、疎遠な母親から花束を受け取ったら……それでも嬉しいでしょうか」

 

 栗色の瞳を、娘さんは真ん丸に見開いた。数瞬遅れて、なんてことを尋ねてしまったのだ、と気づいても遅い。娘さんもまた、ここ数年はお母さんと喧嘩中で、距離を置いているのだから。

 ごめんなさい、と慌てて取り消そうとした私より先に、娘さんが動揺の表情を穏やかにした。私の事情を察してくれたようにも思える。「そうですね」と呟いて長い睫毛を伏せ、娘さんはしばらく考えるような仕草をした。

 

「……嬉しい、と思います」

 

 答えはやや歯切れの悪いものになる。娘さん自身もよくわかっていない、という様子だった。戸惑いと申し訳なさをない交ぜにして、眉が下がる。

 

「実はその……母とは喧嘩中といいますか。今ちょっと微妙な感じで、距離もあって……」

 

 去年のお母さんと同じことを娘さんは言った。伏せった睫毛の間に覗く瞳が、どこか悲しげに映る。でも、娘さんは話すことを辞めなかった。

 

「今の母が、私に花束をくれるとは、思えません。でも……そうだとしても……」

 

 軽く握った拳を口元に当て、眉間にうっすら皺を寄せる娘さん。誰も解いたことのない難問に挑むように、けれどその難問は必ず自分で解かなければならないのだというように、真剣に考えこむ。やがて一つ納得した様子で、二、三と小さく頷いた。サイドテールとリボンが揺れる。顔を上げた時、娘さんの表情は確信に満ちて、晴れやかだった。

 

「例え疎遠になっていたとしても。母から花束を受け取ったら、嬉しいです」

 

 それが真実の答えだと、自信たっぷりに娘さんは笑った。チラリと覗いた白い歯が、心の底から嬉しそうに見える。当の私は、胸の前で手を重ねて、娘さんの答えを聞いていた。

 

「……そう、ですか」

 

 短い返事を精一杯搾り出す。少し、笑えていたと思う。

 ありがとうございます、と二つの意味で頭を下げてお礼を述べ、娘さんを送り出す。

 

「娘さん、きっと喜びますよ」

 

 律儀に軽い会釈をした娘さんは、最後にそう言い残して、真夏日の下を歩いて行った。

 

 

 

 数日後のお盆休み最終日、店のメールアドレスに一通のメールが入っていた。フラワースタンドを注文してくださった勝負服デザイナーさんからで、いつも通りに出来栄えの感想と、感謝の言葉が丁寧に綴られていた。今回はその下に、「伝言です」と前置いて、もう一文書き加えられている。

 

『素敵なフラワースタンドをありがとうございます』

 

 言伝は、フラワースタンドを贈ったウマ娘からだった。添えられた画像データを開くと、勝負服姿のウマ娘がフラワースタンドと並んで笑っていた。満開の花と、満面の笑み。これを限りに一線を退く少女は、目元にうっすらと涙を見せながらも、晴れやかな表情を見せていた。

 

――「きっと喜びますよ」

 

 娘さんの言葉が頭の中で何度も反芻された。少女の笑顔と、傍らに置いた花束を交互に見遣る。今日はお昼でお店を閉めて、夫のお墓参りに行くつもりだった。

 メールを閉じてパソコンの電源を落とす。かけていた眼鏡と交換で花束を手に取った。

 

「――……よしっ」

 

 シャッターを閉じたところで一つ決心をして、墓前に供える花束を片手に店を後にした。

 

 

 

 私の決心が形になったのは、結局年も暮れる頃になってからだった。

 

 

 

 

 

 

 再び季節が巡ったお盆の季節は、ここ数年でも一番の暑さになっていた。いつもは涼やかな表情をしているお母さんも、今日ばかりはじっとりと汗をかき、お店に入るなり額をハンカチで拭っていた。店内は冷房が効いているので、この季節は戸を閉じると涼むことができる。

 予約のお客様用にフラワーアレンジメントを準備していた私は、店内で待つというお母さんにいつも通りニンジンジュースを差し出す。よく冷えた缶をいつもより勢いよく傾けたお母さんは、店内に据え付けた小さなテレビに目線を向けていた。丁度、夏の甲子園の中継が映っている。

 

「野球、お好きなんですか」

「ああ、いえ、そういう訳では」

 

 お母さんに尋ねられて、私は首を振った。スポーツにはあまり興味がなかった。野球のルールも随分怪しい。甲子園の中継がついていたのは、少し前にやって来たお客様のお子さんが見たがったからだ。困ったように笑いながら花を選ぶ親御さんには構わず、お子さんは釘付けになって中継を見ていた。

 訳を手短に話すと、お母さんは「そうでしたか」と頷いて、またテレビに目を向ける。熱心な様子もなかったけれど、目を離すこともしていなかった。何とはなしに流しっぱなしにしていた私も、時折顔を上げて中継を見る。吹奏楽と応援団による、気合いの入った声援が送られていた。灼熱の盛り上がりを見せるスタンドとは正反対に、相対するピッチャーとバッターの雰囲気はキリキリと張り詰めていく。引き絞られた弦のような空気が画面越しに伝わって来て、思わず固唾を飲み手を握った。

 素早いモーションからピッチャーが白球を放る。伸びてくる球を、バッターも迎え撃ち、フルスイング。すわ、ボールは捉えられたように見え、バットから快音が響くかに思えた。けれど白球はそのままキャッチャーの手に吸い込まれる。変化球だろうか。見事空振りを獲ったピッチャーへ、共に守るチームメイトがグローブを叩いて拍手を送る。一方のバッターへも、スタンドから応援が降り注ぎ、ベンチから檄が飛んだ。

 一球一球の勝負をお母さんは黙って見つめている。相変わらず、目線に熱心なところはない。見入っている風でもない。ただ、話しかけることもなかったので、私はそのままアレンジメント作りを進めた。

 包装紙で飾り付け、依頼された内容のメッセージカードも挿し、できあがったフラワーアレンジメントをテーブルの端に置いておく。受け取りのお客様がいらっしゃるにはまだ時間の余裕があった。私はそのまま、お母さんが注文した花束作りを始める。

 指定された色合いに合わせて花を見繕っていく。予算丁度くらいまで花を選び、最後に大きく咲いた百合を手に取る。茎や葉を切り揃え始めたところで、フラワーアレンジメントを受け取りにお客様がいらした。完成した花籠を手渡し、代金を受け取る。ふわりと温和に笑ったお爺さんは、お店を出る前に流れていた甲子園の中継をしばし眺めた。お母さんと目が合うと、お互いに小さく会釈をしていた。

 ウキウキした足取りのお爺さんを見送り、花束作りを再開する。鋏の音の合間に、甲子園の応援がBGMとして響く。時折歓声が上がるとやはり気になって、手を止め画面を見たりしていた。

 結局、いつも通りに三十分近い時間をかけて花束を完成させた。私が手を止める気配を察知したのか、お母さんは甲子園の中継から目を離す。

 

「こちらでよろしかったですか?」

「ええ、ありがとうございます。――いつも、素晴らしい出来栄えですね」

 

 完成した花束をしばらく見つめて、お母さんはしみじみとそう言った。ありがとうございます、とはにかんだ私へ、彼女も薄く笑う。

 丁度その時、点けっぱなしのテレビから一際大きな歓声が聞こえて来た。反射的に私もお母さんも画面へ目を向ける。試合が大きく動いたようだ。二点を追っていたチームがランナーを溜めて、そしてバッターには強打という触れ込みの三番を迎えている。一打同点、逆転という場面になっていた。当然のことながら、バッターを応援する声が大きくなる。スタンドの吹奏楽と応援団も一段階ギアを上げ、正に轟くような応援を繰り広げた。合間に混じる「頑張れー!」「頼んだぞー!」という声もマイクが拾っている。それに応えるように、バッターはニヤリと自信に満ちて笑った。

 

「応援の声がすごいですね」

 

 呟いた私の言葉に、お母さんは曖昧に頷くだけで、あまり反応が良くなかった。剛腕ピッチャーに一人相対するバッターを見つめ、彼女は何某かを考え込むように難しい顔をする。険しさを増した目線の先でピッチャーが一球目を投げた。バッターの鋭いスイングは、一点も譲るまいとする渾身の速球を捉えず、審判が「ストライク」をコールした。

 張り詰めた息をゆっくり吐くと、お母さんは困ったように眉を下げた。

 

「自分の期待を、希望を……夢を、誰かに託すのが応援です。……私は時々、それがとても身勝手で無責任なことのように思えてしまって」

 

 だから、声を枯らすほどに一生懸命、誰かを応援できない。心底困った表情を見せてお母さんは苦笑いした。そうして穿ったことを考えてしまう自分が、嫌で嫌で堪らない。そんな風にも見えた。

 お母さんの言葉は、私にはあまりピンとこなかった。でも、それを「そんなことありません」と言えるほどの経験も持ち合わせていなかった。目の前のテレビを見つめる。そこに映る三番バッターのように、滝のような声援を背にした経験などない。自分の何十倍、何百倍もの夢を託された経験もない。

 ギチリ。バッターがバットを握り直すと、そんな音がした気がした。自信に溢れた表情とは裏腹に、両の手が微かに震えていたように見える。緊張、責任、重圧、そういうものが両の肩に掛かっている。

 託された期待、信頼、希望……数多の夢は、一体どれだけの重さがあるのだろうか。

 膝元に伸びてきた一球をバットが弾く。これでストライクは二つ。追い込まれた。額に汗を滴らせるバッターへ、ここで声を枯らさんばかりに応援が響く。反対に、両の手を握り締め、祈るようにグランドを見つめる観客の姿もあった。

 お母さんはなおもポツリと口を開いた

 

「私の声が重荷になってしまったら……そう思うと、怖いです」

 

 その言葉には共感できるものがあった。私も同じようなことを、タイシンに対して思っていたからだ。と同時にようやく気づく。きっと今の話は、お母さんにとっては娘さんに対する想いなのだろう。

 ただでさえ厳しいレースの世界に挑む娘へ、どんな言葉をかければいいのか。応援も、その反対に心配も、どちらもが娘にとっての重荷になるような気がして。だから私はずっと、タイシンには極力何も言わないことを選んで来た。言葉が娘を曇らせるのなら、初めから何も告げないことを是とした。そして多分お母さんは、反対に言葉をかけることを選んだ。ただし、応援の言葉を除いて。それはきっと、話を聞く限り、応援の言葉の方が娘さんの重荷になると思ったからだろう。

 大声援の中、際どいところへ放たれた一球をバッターが見送る。どうだ、そう言わんばかりにキャッチャーがぴたりとミットを止め、ピッチャーもその行方を目で追った。しかし、審判は腕を上げず、ボールと判定する。この土壇場で素晴らしい選球眼をバッターは見せていた。

 

「……お気持ちは、とてもよくわかります」

 

 私が頷くと、お母さんはテレビから目線を外して、微かに目を細める。ずっと同じことを思ってきた、そう言った私の言葉に長い睫毛を伏せて、鮮やかな栗色の瞳を半分ほど隠す。去年までなら、話はそこで終わっていたかもしれない。でも今年は、それより他にも、伝えたいことがあった。

 

「ですが今は……伝えてよかったと思っています」

 

 俯いた顔を上げて、お母さんは目を見開く。輝く瞳が揺れていた。私はその目を見つめ返し、去年の暮れのことを思い出す。

 去年の年末、私は初めてタイシンのレースを観戦した。今までもテレビの前では見守って来たけれど、レース場へ足を運ぶのは初めてのことだった。そして折角だからと、初めてタイシンのために花束を用意した。タイシンは私がレースを観に来ることを嫌がるから、来ていることがバレないように、タイシンには内緒でトレーナーさんから渡してもらった。でも、タイシンにはバレバレだったみたいで、その日の夜には「花束ありがとう」と短いメッセージが来た。

 

――「……応援してくれて、ありがと。ちゃんと……嬉しかったから」

 

 年末に帰って来た時も、その時の話をしてくれた。わざわざ食事の手を止めて、照れくさそうに話す表情を思い出す。溢れそうになった涙を懸命に堪えながら、タイシンと二人でご飯を食べたことも。

 

――「頑張って、タイシン」

 

 学園に戻るタイシンに、初めてそう伝えることができた。心の底から、まるで子供みたいに純粋に、そう思えた。タイシンは少し驚いたみたいだけど、ちょっとだけ笑って「ありがとう」と手を振った。

 ……私は、やっぱりダメな母親だった。そう思う。私の言葉が重荷になるから、なんて思い上がった決めつけをして。それを、タイシンと連絡を取らない言い訳にしてきた。でも、タイシンは私が思っていたよりずっとずっと、強い子だった。強い子になった、というのが正しいのかもしれないけれど。小さくも逞しい体は、今更私一人の応援を受け止めたくらいで、重荷に感じたりなどしないだろう。

 流れかけた沈黙を破って、テレビから一際大きな歓声が響いた。私もお母さんも再び画面に目を遣る。カメラは、鋭く伸びた白球がフェンスの際まで飛んでいく様子を捉えていた。外野手の合間を綺麗に破った打球。どうやら先程のバッターが、ついにピッチャーの投球を捉えたらしかった。

 カメラが切り替わり、ホームへ駆け込んでくるランナーの姿を映す。一人、二人、危なげなく帰還して同点。そして三人目も三塁を蹴って走ってくる。そこへ、外野からの送球も返ってきた。土にまみれたユニフォームと、白球が並んでホームへ。ランナーが滑りこむのと、キャッチャーのミットが伸びるのはほとんど同時だった。一瞬のプレー。しかし審判の判断は早かった。両腕を広げるジェスチャーを繰り返す。セーフだ。一挙三得点を挙げる大逆転劇となった。

 スタンドと言わず、ベンチと言わず、選手と言わず、観客と言わず、あらゆる場所であらゆる人たちが歓声を上げ、大きな拍手を送る。その真っ只中、二塁まで進出した三番バッターが高々と拳を突き上げた。その顔には真夏の太陽にだって負けない、眩い笑顔が浮かんでいた。

 逆転劇を見届けたお母さんは、改めて花束のお礼を述べて、そのまま店を後にしようとした。冷房の効いた店内から出て、酷暑の店先までお母さんを見送る。丁寧に会釈をしたお母さんへ、私はもう一度声をかけた。

 

「――あの、花束をお渡しになるのは、いかがでしょうか」

 

 私の言葉にお母さんは不思議そうな顔をする。言葉が明らかに足りていなかったので、私は慌てて付け足した。

 

「応援の気持ちに花束を贈られる方は、たくさんいらっしゃいます。もし、直接お伝えになるのが難しいようでしたら、花束はいかがでしょうか。それでしたら、私もお手伝いが――」

 

 そこではたと気づく。これでは完全にお店の売込みだ。あまりにも後手後手で思い至る自分に嫌気が差しつつ謝る。

 

「すみません、これではお店の売込みですね……」

「いえ……ふふっ」

 

 首を振ったお母さんは、花束で口元を隠しながら小さな笑い声を零した。そんな風に笑うお母さんを見るのは、思えば随分久しぶりのことだった。

 

「お心遣い、ありがとうございます。その時には、ぜひあなたに。――あなたのお花は、色んな方を笑顔にしますから」

 

 お母さんはそう言って笑って、ひらりと手を振り店を去っていった。

 

 

 

 繁忙期を乗り切り、お盆休みも最終日になった。例年通りに今日は午前で店を閉め、午後は夫のお墓参りに行くことにしていた私は、墓前に供える花束用の花を見繕っていた。

 大きな百合の花を手にした時、カラリと軽快な音がした。冷房を効かせるために閉めていた店のドアが、丁寧に開かれる音だった。手元にまとめていた花を一旦置いて、店先を振り返る。

 

「いらっしゃい――」

 

 お客様を出迎える言葉が、途中で途切れてしまった。驚きの余り開いた目と口が塞がらない。私はその場で固まって、店先を――たった今、開いたドアを律儀に閉めてくれた人影を見つめていた。

 肩にかからない、はねっけの強い鹿毛。ピンと張った大きな耳。ツンと吊り上がった勝気な瞳は、私と同じ澄んだ蒼の色。小柄な背丈は、私とさして変わらない。

 見間違いようはない。店先に立って、どこかソワソワとしているのは、私の娘――タイシンだった。

 

「――えっと……ただいま」

 

 タイシンの言葉にハッとして、私はようやく体の自由を取り戻した。ややもつれそうになりながらも、なんとか店先まで駆け寄り、タイシンの前に立った。でも、あんまり突然のことで、すぐに言葉は出てこなかい。

 

「タイシン、どうして」

「……ちょっと遅めのお盆休み、だから」

 

 トレセン学園は今、夏合宿期間のはずだから、休養日をもらったということだろうか。

 気恥ずかしげに髪を梳きながら、タイシンはなおも言葉を続ける。落ち着かない視線が、お店の中と目の前の私を行ったり来たりしていた。

 

「その……たまには一緒に、父さんのお墓参り、行こうと思って」

 

 いいかな。窺うように尋ねたタイシンへ、一も二もなく頷いた。何度も何度も頷いた。断る理由なんてどこにもない。トレセン学園に入学してからはお墓参りに行けていなかったから、きっとあの人も喜ぶはずだ。

 

「――おかえりなさい、タイシン」

 

 店の中にタイシンを招き入れる。よく冷えたニンジンジュースが丁度二本残っていて、二人で熱さを紛らわせた。私が花束の用意を再開すると、タイシンはどこかゆったりとした表情でその様子を見つめていた。そして半日だけの営業を終え、二人で店仕舞いをしてお墓参りに向かった。実に六年ぶりの、家族が揃ったお墓参りになった。

 

 

 

 

 

 

「――母さん、お客さん」

 

 店の奥で帳簿の整理をしていた私は、店先から呼ぶタイシンの声に顔を上げ、かけていた眼鏡を取った。お店の方へ出ると、真新しいエプロン姿のタイシンが、暑さ続く外から人影を一人案内している。カンカン照りの真夏日を逆光にして立つのは、やはり一年ぶりに顔を合わせるお母さんだった。

 いつも通りにお墓参り用の花束を承り、準備を始める。お母さんは、手渡したニンジンジュースを片手に、お店の中を見て回っていた。その様子を、私を手伝ってくれるタイシンは、時々チラチラと窺う。私のお店に、私とタイシン、そしてお母さんの三人が一堂に会しているのは、なんだか不思議な感覚がした。

 

「――娘さん、今年は帰っていらしたんですね」

 

 選んだ花を確認して頷いたお母さんが、水替えをしていたタイシンをチラリと見遣ってそう言った。大学部になり、お盆の間は帰って来て店を手伝ってくれていることを話す。お母さんは穏やかに笑って、私の話を聞いていた。

 

「大学に通いながら、レースも続けていますし……忙しいのは、これまでと変わらないみたいですけれど。でもお盆くらいは、一緒に夫のお墓へ手を合わせたいって、そう言ってくれて」

 

 どうして急に、とは思った。でもタイシンの中で何か思うところがあったのは伝わって来て、そしてそこには特段踏み込まないことにした。照れたように「ちょっと色々考えたっていうか……」と言い淀んだ横顔だけで、十分すぎる気がした。それに、ただ親子揃って過ごせるだけで、私はこれ以上ないほどに嬉しかった。

 今も、休んでいればいいのに、店を手伝ってくれている。こうして二人で店にいるのも、思い返せばタイシンが小学生になる前以来だろうか。

 そうでしたか。短く答えて頷いたお母さんは、改めてタイシンの方を見つめていた。たまたま目が合うと、タイシンはぎこちなく会釈をする。それに、お母さんは上品に笑って返した。

 

「……旦那様も、きっとお喜びになるでしょうね。あんなにしっかりされた娘さんをご覧になって」

「はい、きっと喜びます」

 

 穏やかだけれど、時折大袈裟なところがある人だったから。もしかしたら墓石から飛び出るくらい、喜んでくれるかもしれない。多分去年も、それくらい喜んでいたはずだ。

 全体を整えながら、選んだ花を花束にしていく。私の手元を静かに見つめていたお母さんは、ふと思い出した様子で、遠慮がちに口を開き尋ねた。

 

「あの……娘は今も、毎年お墓参りに来ていますか」

「……えっ」

 

 私は驚いて顔を上げた。お母さんは困ったように眉を下げ、瞳を揺らしている。

 娘さんの話をお母さんにするのも、また反対にお母さんの話を娘さんにするのも、このところは控えるようにしていた。お母さんも娘さんも、多分お互いが私の店に来ていることは知っていたのだろうけれど、わざわざ尋ねてくるようなこともしなかった。

 はたと考えたけれど、私は頷いた。娘さんから特に口止めはされていなかったし、お店に来ていることくらいは伝えてもいいだろうと思った。

 お母さんは「そうですか」と小さく呟いて、目を閉じた。瞼を落として、しばらく何も言わずに考え込む。私は静かにその端整な顔立ちを見つめていた。

 やがて、お母さんはゆっくりと瞼を上げた。整った睫毛の間に見えた瞳は、もう惑ってはいない。ただ、どこか緊張した雰囲気は残っていた。それはまるで、想い人に告白することを決意した年頃の少女のような、久しくお目にかかっていない表情だった。でもとても強い決意――丁度、私がタイシンへ花束を渡そうと思った時のような決意を、心の内へ宿したように見えた。

 花束を包み終わり、空になったニンジンジュースの缶と交換する。店先まで見送った私を振り返り、お母さんは照れくさそうにはにかんで言った。

 

「来年は……娘と一緒に来れるように、頑張ってみます」

 

 娘がいいと言ってくれるか、わかりませんけど。自信なさげに眉を下げた表情へ私は一も二もなく頷いた。何度も何度も頷いた。例え喧嘩中で離れていても、お母さんも娘さんも、確かにお互いのことを想っていた。

 

「いつでもお待ちしています。――きっと旦那様もお喜びになりますよ」

 

 仲睦まじかった二人を知る者として、心の底からそう思えた。それが、決して叶わない願いだとも思わなかった。

 一礼して店を後にするお母さんへ、私も深々と頭を下げる。むせ返る風にそよぐ艶やかな鹿毛を、店先に並んだ花たちも見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 一年なんて、あっという間に過ぎていく。

 今更、私の生活が大きく変わることなんてない。朝は早く起きて、朝食もそこそこに家を後にし、自分の店へと向かう。週に何度かは市場へ花を仕入れに行って、そこから店に戻り、開店前の準備。店を開ければ、あとは一日中接客と花の手入れ。お昼も軽く摘まむだけで済ませて、基本はずっと立ったまま。店を閉めると一日の収支を確認して、明日の予約を確認してと、しばらく雑務が続く。アルバイトの子も入ってはくれているけれど、一日の半分以上は私一人で切り盛りしている。タイシンが産まれるより前から続けて来た、私の生活だ。

 今更変わったりしない。でも……ほんの少し、それこそ小さな花がたった一輪開く程度の変化はある。

 時々――月に数回の頻度だけれど、タイシンとお互いの近況を報せるようになった。夏と冬には、必ずタイシンが家に帰ってくるようになった。頻繁ではないけれど、タイシンが私の前でも笑うようになった。

 多分その多くはタイシンの成長の証で、私が何か変わったわけではないのだと思う。でも一つ、タイシンを心の底から応援できるようになったこと。これだけは、私の中で変わったことかもしれない。

 今でも心配はある。レースを見るたびハラハラしている。無理だけはしないで、といつも思っている。でもそういう感情とは別に、一度レースが始まれば、研ぎ澄まされた末脚で食らいついていく姿に、両の手を握り締めて「頑張れ」と声援を送ることができた。

 変わらない日々と、ほんの少し変わっていく日常。それを繰り返しているうちに、一年なんてあっという間に過ぎていく。

 そして――それはきっと、私だけに限ったことではないはずだ。

 

「ごめんください」

 

 その親子がやって来たのは、夏も盛りのお盆休みの頃、私の営む小さな花屋が繁忙期を迎えていたある日のことだった。

 遠くにセミの声が響く中で、店先から聞こえて来た明朗な声は、凛と澄んだ真っ直ぐな響きをしていた。花の手入れをしていた私は、並んだバケツの前から顔を上げ、店先に目を向ける。眩い真夏の光を背景にして、よく似た雰囲気のウマ娘が二人、そこには立っていた。

 

「いらっしゃいませ。――お待ちしていました」

 

 お母さんと娘さん、私の待ち望んでいたお客様を笑顔で迎える。並んで立つ二人は、まるで示し合わせたように揃って会釈をし、淑やかな笑みで答えた。

 墓前に供える花束の注文を承って、三十分ほど待ち時間があることを伝える。親子はチラリとだけ顔を見合わせ、そして「お店で待たせてください」と娘さんが答えた。私は冷えたニンジンジュースを二人分手渡し、花束用の花を選び始める。

 私が花を見繕う間、二人はいつかのように、並んで花を見ていた。あの頃と比べて、娘さんの背丈はすっかりお母さんを追い越してしまっている。静かに肩を並べていると、二人の間にわずかな距離感と、ほんの少しのぎこちなさも感じられた。でも、一度話し始めると、それもすっかり払拭されてしまう。私の目に映るのは、相も変わらずに仲睦まじい、一組の親子の姿だった。

 ……少し前まで、その姿を羨ましいと思っていた。私とタイシンにはないものを持っているのだと。でも、今はそうは思わない。私に見えていなかっただけで、親子にだってそれぞれの苦悩や葛藤があったことを、ほんのその片鱗だけだけれどわかってきた。私と同じような想いをお母さんが抱えていたことも、きっと少しではあるけれど感じてきた。

 それでも、親子は懸命にお互いのことを想っていた。大切にしたい、そう思う気持ちだけは、ずっと同じだったのだと思う。私が気づかず忘れていただけで、同じことをずっとタイシンに想い続けていたのと同じように。

 同じ場所に咲いていても、種が違えば花は違う。育て方も、見頃も、その美しさも違う。多分、それと同じことだったのだと思う。私とタイシンには、私とタイシンなりの想いがある。それを見つけていければいいのだと、そう思う。

 

「――母さん、お昼ご飯持ってきた。――あっ」

 

 昼食を持って店に戻ってきたタイシンと、親子が顔を合わせる。慣れていない営業スマイルで「いらっしゃいませ」と言ったタイシンに、親子は板についた笑顔で会釈をした。そこから、タイシンと娘さんが話し始める。二人が学園で顔見知りだった、というのは去年発覚した新事実だった。

 何やら熱心にレースの話をしているらしい娘二人を残し、私とお母さんで他愛のない世間話をする。私の手元を見つめながら話すお母さんは、ここ数年で一番楽しげだった。花束を作りながら話す私も、きっと見たことないくらいに明るかったはずだ。

 三十分よりも随分余裕を持って花束の用意が終わっても、私たちはしばらく話していた。お店の時計が十二時を告げて、そこでようやくすっかり話し込んでいたことに気がついた。お互いに苦笑しながら代金を受け取り、花束を手渡す。空になったニンジンジュースの缶が、二つ並んでテーブルに置かれた。

 

「またのご来店をお待ちしています」

 

 タイシンと並んで、店先まで親子を見送る。親子は二人仲良く会釈をし、微笑んで手を振った。よく似た艶やかな鹿毛の髪と尻尾が、真夏の風に吹かれてなびく。二人の間には、今年も大きく華憐な純白の百合の花。世界に一つだけの親子が、そこには咲いていた。



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小学生キングヘイローの運動会

二十二話目。
小四キングヘイローの運動会をお母さまが応援しにくる話。
キングがレースの世界を目指すことをまだお母さまに話してない頃のお話です。


 土曜日の仕事を何とか午前中に終わらせた私は、事務所を後にしてそのまま三十分ほど離れた運動公園へ足を運んだ。スタンド付きの大きな陸上競技場を備える運動公園で、陸上競技大会や学校の運動会なども開催される。今日は、私の娘――キングの小学校の運動会が開かれていた。

 足を踏み入れた競技場は、数百人の小学生が集まっているとは思えないほど静かだった。いいえ、小さなざわめきが聞こえてはいるけれど、運動会特有の幼気(いたいけ)な声援の大合唱は響いていない。それもそのはずで、手元の時計はすでに十二時半を回っていて、今は昼食休憩の時間になっていた。生徒たちはそれぞれの家族や友人たちと昼食を取っている。芝生にレジャーシートを広げたり、観客席の座席に腰掛けたりしている人たちの姿がそこかしこにあった。

 おにぎりやサンドウィッチを手にして、玉子焼きに唐揚げにと頬張る眩しい表情の合間を縫って、事前に教えられた場所へ歩を進める。しばらくすると、一人のウマ娘が大きく手を振りながらひょこりと立ち上がった。ポニーテールにした鹿毛が初夏の陽射しに揺れる。額に締めた真っ白なハチマキが眩しくて、目を眇めた。

 

「お母さま!」

 

 大きな栗色の瞳をキラキラと輝かせて、キングが私を呼んだ。天性のものなのか、不思議とよく通る声が、広い観客席でも真っ直ぐに届く。眩いばかりの笑顔に私も手を振って応えた。

 早く早く、と私を急かすキングの横で、立ち上がったメイド長がスッと頭を下げる。例年通りのことではあるけれど、彼女にはキングの応援と、昼食場所の確保をお願いしていた。今年で四度目ともなれば彼女もすっかり慣れたもので、確保されていた場所は適度な日影がありつつ競技がよく見える観客席の一角だった。そこへ、彼女を筆頭としたメイドたちお手製のお弁当が広げられている。

 出迎えたキングに手を引かれて、その隣に腰を下ろす。ご機嫌な様子の娘を見ていると、仕事中に張り詰めていた思考がゆっくり解れていった。

 

「お待たせ、キング。遅くなってごめんなさい」

 

 遅れたことを謝ると、キングはぶんぶんと首を振った。トレードマークのリボンと、艶めく鹿毛のポニーテールが揺れる。私を見つめる瞳に、責め立てる色は少しもなかった。

 

「全然問題ないわ。だって、キングの一番の見せ場には間に合ったんだもの!」

 

 答えて、キングは高らかに笑う。隣で見守るメイド長も朗らかな笑みを浮かべていた。

 今日の運動会でキングはいくつかの競技に出場するけれども、中でも「見せ場」と言っていたのは学年別のクラス対抗リレーだった。キングはそこでクラスのアンカーを任されているという。脚の速さは一年生の時から折り紙付きで、クラスで走者を決める時も満場一致だったそうだ。

 

――「期待されたからには、応えないと。それが一流というものよね!」

 

 そう言って、張り切って練習をしていた。メイド長や爺やからはそう聞いている。気合いの入り様は、端から見ていてもよくわかった。

 ……よく似たようなことを、私も随分と前に言っていたような、そんな気がした。

 

「ありがとう、お母さま。私の運動会を見に来てくれて」

 

 満面の笑みのままキングはそう言った。首を振るのは、今度は私の番だった。忙しさも何も関係ない。親として娘の運動会を見に来るのは当たり前のことだ。それを、娘が楽しみにしているのなら、尚更。普段、そういう当たり前のことをしてあげられない分、せめてこういう時くらいは娘のために時間を使ってあげたい。

 柔らかな鹿毛に手を伸ばし、二、三とそっと撫でつける。ぴょこぴょこと耳を揺らしたキングに、私は笑ってみせた。

 

「全力で楽しんできなさい」

「ええ、もちろんよ!」

 

 答えたキングの笑みは、それまでの天真爛漫なものから、自信に溢れた挑戦的なものへと様変わりしていた。

 

「――さあ、お嬢様。午後からのためにも、きちんと栄養補給を致しましょう」

 

 控えていたメイド長がお弁当箱を差し出す。重箱タイプの容器の中には、ぎっしりのおむすびと色とりどりのおかずが、二段に分けて敷き詰められている。三人で食べるにしても多い気がするけれど、お腹を空かせたキングには丁度いいかもしれない。

 

「いただきます」

 

 それぞれにおむすびを手に取り、手を合わせた。昆布の入ったおむすびを一口かじったキングは、メイド長お手製の玉子焼きも頬張る。お弁当へ必ず入っている大好物に舌鼓を打ち、うっすら染めた頬を緩めていた。

 

 

 

 午後の競技が始まると、キングはクラスのテントへと戻っていった。自分の出場する競技でない時は、クラスメイトと一緒になって応援をしていた。小さなポンポンを懸命に振り、「ファイトー!」と声を上げる様子が観客席からも見えていた。自分の競技が始まれば、額に汗を輝かせながら全力でプレーしていた。競技ではないけれど、学年全員でのダンスという演目もあって、こちらもライブパフォーマンスさながらのキレを見せていた。眩い笑みに青春の煌めきを添えるキングの姿を、私もメイド長も微笑ましく見守り、手に汗握って応援し、声を上げて喜んでいた。

 そしていよいよ、クラス対抗リレーの順番になった。四学年以上の生徒が参加する競技で、各学年ごと、さらに午前と午後の部に分かれている。参加は各クラスから一チームずつ、計二チーム。

 メイド長によると、午前の部では各クラス接戦で、キングのクラスはハナ差で三着だったという。午後の部も熱戦を予感させた。それを察知しているのか、応援する観客席のご家族からも熱が伝わってくる。

 入場してきた生徒たちが、送られる声援に応えて手を振りながら、それぞれのスタート位置へ分かれていく。キングはというと、アンカーを示すビブスを着て、観客席の丁度正面、スタートとゴールの位置へやって来た。リレー競技では、ウマ娘は四百メートルを走る。キングは観客席正面でバトンを受け取り、トラックをぐるりと一周回ってゴールするのだ。よく見ると、キングと同じようにビブスを着た子が観客席前に集まっている。どうやらアンカーは全員ウマ娘らしい。

 まもなく始まる本番に備え、生徒たちは楽しげに話しながら体を解している。キングもクラスメイトと言葉を交わしつつ、両脚や手首のストレッチをしていた。何某かを囁かれると、自信満々で高らかに笑う。その笑顔を囲むクラスメイトも信頼の眼差しを向けていた。

 競技開始の時間が近づき、生徒に準備を促すアナウンスが入った。一番走者が集まってじゃんけんをし、コースとバトンの色を決めていく。キングのクラスは一番外の四コーススタートで、緑のバトンとなった。

 予定されていた時刻がやってくると、関東GⅠファンファーレがスピーカーから鳴り響く。リレーを見守る生徒と観客から手拍子が送られる様は、実際のレースさながらだ。丁度、小学生向けのちびっ子レースを観ているような雰囲気を感じる。

 拍手と歓声の中で第一走者が一人ひとりスタート位置につく。それを見たスターターが「位置について」と号令をかけた。競技場の喧騒が一瞬収まり空気が張り詰める。続く「よーい」で走者がスタンディングスタートで構えると、いよいよ緊張がピークに達する。

 次の瞬間、乾いた音が響いた。間髪を入れずに、四人の第一走者が一斉に走り始める。場内には再び拍手と声援が溢れた。

 第一走者からレースは熱戦になった。トラックを回って走っている間に、最内と大外の間にあったスタート位置の差が埋まっていく。第二走者へバトンが渡るのはほとんど同時だった。バトンが第三、第四走者と渡っても、常に競り合う状況は変わらない。各チームの実力が拮抗しているのだろう、大きく遅れたり、反対に圧倒的に速いチームもない。ウマ娘も交えているために順位関係の整理と認識は複雑だが、おそらく逆転の可能性がある位置でレースを進めている。

 新しい走者にバトンが渡る度、大きな声援が飛ぶ。走者の友人や家族は特に大きな声を出していた。中には「逃げ切れー!」や「差せー!」と、レースの応援そのままの声もある。反対に、走り切って汗水垂らす走者には労いの言葉と拍手が送られた。

 接戦は続いていたけれど、走者も残り少なくなってくると、それまでの小さな積み重ねの分開いた差がわかりやすくなってくる。アンカーまで残すはあと二人となったところで、先頭と最後方の差は三秒を越えていた。一番後ろを走っているのは緑のバトンを持った男子生徒――キングのクラスメイトだった。

 懸命に走るが、なかなか差は縮まらない。むしろバトンパスでもたついた分、差が少し開いた。最後から二番目の子も必死の形相で追い駆けるけれど、届きそうにはない。

 最初にアンカーへ渡ったのは赤いバトンだった。受け取った黒鹿毛のウマ娘は「あとは任せた!」という言葉に頷いて走り出す。一歩目から綺麗なフォームが目を惹いた。教科書通りの、きちんと型を教え込まれた走法。多分、近くのクラブチームへ所属しているのだろう。こと走る技術において秀でているのは間違いない。

 さほど遅れずに残るチームもバトンを回していく。二番目は青、三番目は黄色のバトンが渡った。体操服の上にビブスを着たウマ娘たちが次々に走り出していく。そして最後に残されたのがキングになった。

 必死に追い上げを図るクラスメイトに、キングはずっと声をかけ続けていた。「頑張れ!」「その調子、その調子!」「あと少しよ!」という声が、やはりよく通って観客席まで聞こえてくる。励まされる方の生徒もそれに何とか応えようと歯を食いしばっていた。先のクラスが全員バトンを渡し終わっても、その勢いは衰えない。きっちり自分の任された順番を走り切り、待ち構えたキングへとバトンを手渡した。この時点で、先頭とのタイム差は五秒ほどだっただろうか。

 

「ごめん、後は任せた!」

 

 絶え絶えの息で倒れ込みそうになりながら、クラスメイトがキングに声をかける。バトンをしかと握り締めたキングは、最初の一歩を踏み出しながらはっきりと答えた。

 

「ありがとう。――任されたわ!」

 

 踏み出した足が競技場のトラックを踏み抜いた。瞬間、風にリボンがなびいて、エメラルドグリーンの閃光が駆け抜ける。猛然と追い上げにかかるキングの背中へ、自然に声が出た。

 

「頑張れー、キングー!」

「頑張ってください、お嬢様!」

 

 図らずも隣のメイド長と声が揃い、顔を見合わせて笑う。走り出したキングに、万雷の声援に混じった二人の声が届いたのかはわからない。ピクリと動いた耳を風に揺らして、キングの背中が駆けて行く。

 観客席から大きなどよめきが起こった。それもそのはずだ。最初の数歩で加速を終えたキングの走りは、明らかに他のアンカーよりも速かった。次元が数段違うと言ってもいい。見る間に差を縮めていき、コーナーの途中ですでに三位の子を捉えていた。そのまま涼しい顔で外から追い抜いていく。

 

「――すごいです」

 

 メイド長が息を呑んで呟いた。まずは一人をかわしたところで、クラスメイトから黄色い声が上がった。すでに走り終えた子たちも「いいぞキングー!」と手を叩いて激励する。その声に応えるように、キングはさらにもう一人を捉えて抜き去った。抜かれた子も必死に食い下がるが、キングについていけていない。劇的なレース展開に競技場の熱はさらに高まる。レースを盛り上げる実況の声にも力が入った。

 先頭を逃げる黒鹿毛のウマ娘が第三コーナーに差し掛かる。チラリと横目で後ろを窺い、キングとの差を確認して一段ギアを上げた。残りは二百メートルもない。逃げ切りを図る先頭の子に、背後から猛然とキングが迫る。少し遅れて第三コーナーに入ったキングは、一息と共にさらに強く踏み込んだ。

 思わず息を呑んだ。頭の奥が痺れる感覚。重ねた手の内で心臓が強く脈打つ。流れる血潮が熱くなっていく。それは随分と久しぶりに味わった、懐かしさすらある感覚だった。

 強く踏み込んだその一歩で、キングはグンと加速した。否、加速という表現すら生温い。それはあたかも稲妻が走るような感覚。はためくリボンがエメラルド・グリーンの雷光となる。

 興奮のあまり背筋が震えた。それは、かつて「光輝なる一族」の一員として、未来ある才能の原石を見つけた時と同じ感覚。長らく自分の中に眠らせていた、血潮沸き踊るあの感覚だった。

 足が速いことは知っていた。今も見せていた通り、一度走り出せばキングのスピードは他の追随を許さない。けれどそれは、少し探せばどこのクラブチームにでもある才能の類で、飛び抜けたものではなかった。でも、たった今見せた加速とトップスピードはずば抜けている。それは、才能と呼ぶに相応しいものだった。随分前に封印したはずの、自分の中にある競技ウマ娘の本能が疼いたのが、何よりの証拠だ。

 見つけた。心のどこかで自分が呟いた。それに気づいて、慌てて考えを振り払う。才能を見つけること、その才能を磨く手助けをすること、それは「光輝なる一族」の責務であって、今の私の責務ではない。

 今の私がやるべきことは、期待を背負って全力を尽くす娘へ、親として精一杯の声援を送ることだ。

 

「あと少しよーっ、キングーッ!」

 

 第四コーナーへかかろうという先頭の子へ、キングはもう五バ身へ迫っている。腕を振り、脚を上げ、髪を流すキングへ向けて大きな声で叫んだ。

 

「もうひと踏ん張りです、お嬢様!」

 

 両の手を重ねて固く握り締め、メイド長も声援を送る。いつも冷静で穏やかな彼女に珍しい、熱のこもった声。それに応えるように、キングはさらに伸びてくる。

 

「キングいけーっ!」

「頑張れキングちゃん!」

 

 クラスメイトが口々にキングを応援する。外に持ち出し、今まさに追い抜きにかかろうとするキングは、任せなさいと言いたげに自信満々の笑みを浮かべていた。額を伝う汗さえ、その走りを彩る宝石の煌めきとなる。青春の輝きを風と共に置き去りにして、キングは電光石火の末脚を見せていた。

 

「走れーっ!」

 

 コーナーを曲がり切り、最後の直線へ入る。陸上競技用トラックの直線は短い。しかし、最終コーナーの終わりですでに先頭の子へ並びかけたキングには、十分すぎる距離だった。

 懸命の粘りを見せる黒鹿毛のウマ娘。ここへ来てバテることなく最後の一伸びを見せた。最後の直線のために脚を溜めていたのだろう。けれどそれは、キングの鋭い末脚を振り解くほどではなかった。

 踏み出した一歩でキングが先頭に変わる。一歩、一歩、強く大地を蹴る度に、グンとキングの体が前に出る。大きな声援を一身に受け、その全てを速さに変えるようにして、キングは駆け抜ける。我が娘ながら、その姿はかっこいいの一言に尽きた。

 興奮のあまり言葉にならない声を上げ続ける私とメイド長の前で、キングはおおよそ二バ身の差をつけゴールテープを切った。顔を見合わせた私たちは、今にも抱き合わんばかりの勢いで互いの手を取り、その場で飛び跳ねる。すごい、かっこいい、素晴らしい、思いつく限りの賛辞が、着の身着のままでお互いの口から漏れた。でも、どれほど言葉を尽くしても、興奮は収まらなかった。

 ゴールして速度を緩めたキングは、一筋の汗を滴らせながらも満面の笑みでガッツポーズを作り、クラスメイトや同じ団の生徒、客席のご家族にアピールする。そんなキングのもとへ、わっと同じチームで走ったクラスメイトが駆けつけた。瞬く間に囲まれてたじろぐキングには構わず、一人の女子生徒が飛びかかり抱き着いた。そのままもみくちゃにされ、「もーっ!」と苦笑いで悲鳴を上げるキングに、観客席からも小さな笑いが漏れる。それが次第に、温かな拍手へと変わっていった。

 

「今の子、すごかったなぁ」

「あんなに走れる子見たことない」

「皆に抱き着かれてるの、かわいい~」

 

 微笑ましく和やかな雰囲気の中で、キングに言及する声を聞いていた。内心誇らしく思いながらも、飛び跳ねてはしゃいだ身を落ち着け、温かい拍手に混ざる。恥ずかしさと興奮で熱い頬をごまかしながら、「おめでとう」と小さく呟いた。

 

「あの子って、確かあのウマ娘の娘さんよね。ほらあの有名な――」

 

 拍手の合間にそんな言葉が聞こえてきて、瞬間私は凍りついた。ありとあらゆる筋肉が一瞬のうちに強張る。全身の毛が逆立ち、反対に耳がぱたりと絞られていくのが、自分でもわかった。

 その声を皮切りに、生徒たちの健闘を称える拍手に、余計なものが混じる。道理で足が速いと思った。未来は約束されたも同然。母親譲りの素晴らしい才能だ。そんな才能を持った子が走るなんてズルい。トゥインクル・シリーズにはいつ出てくるのか。今のこの場には関係のない、どうでもいい話ばかり。

 何人かの視線が私に向けられたことに気づいた。でも、それには気づかなかったふりをして、全て無視する。不愉快極まりない。走ったのは私ではなくキングであり、キングと共に走り、あるいは競い合った生徒たちだ。今この瞬間に目を向けるべきは、どう考えたってそちらだろう。

 

「……奥様」

 

 隣のメイド長が私にだけ聞こえる声で、心配そうに呼びかけた。大丈夫、と競技場を見つめたまま答える。メイド長はそれ以上何も言わず、私と同じように毅然と拍手を送っていた。

 ……「母親譲りの才能」、そんな言葉は私が現役だった頃も耳にしたことがある。母親が同じように競技ウマ娘だった、という例は決して珍しくない。そういうウマ娘は、必ずと言っていいほど、母親が引き合いに出される。母親の残した成績が偉大であればあるほど、その傾向は強い。何をしても、どんな結果でも、母親の成績と比較され、批評される。結果が出なければ「母親ほどの才能はない」とこき下ろされ、結果を出しても「母親の才能を受け継いだ」と書かれる。どんな評価も、自身の才能については触れてくれない。まるでその才能はウマ娘のものではなく、母親のものであるかのように。そうした世間の評価に苦しみ続けた子を何人も知っている。

 違うのに。産まれ持った才能は、誰のものでもない。どれほどの人が何と言おうと、ウマ娘自身のものだ。ましてや母親のものなどでは断じてない。称賛も批判もウマ娘自身が受け取るものだ。

 キングの才能は、キングだけのものだ。あの子自身に授けられた、あの子だけの特別なもの。その才能を誇るのも、磨いたのも、信じているのも、全部全部キング自身だ。そして才能を示した時、称賛の眼差しと拍手を送られるべきなのも、すべからくキング自身だ。決して私ではない。

 けれど……ことレースにおけるキングの才能は、今日のように正当に評価されることはないのだろう。晴れやかな表情でクラスメイトと言葉を交わすキングとは対照的に、私の内心は暗澹たるものだった。

 ……幸いにして、キングは才能豊かな子だ。少し不器用でおっちょこちょいなところはあるけれど、秀でたものは私よりずっと多い。何より、自身で一度決めたことをやり切るための努力ができる。努力の天才、と言ってもいいだろう。そういう風に育ってくれたのは、きっとメイド長やゆーこ、アリー、爺やの存在が大きい。屋敷に仕える四人の使用人は、「キングの好きにやらせてあげてほしい」という私の抽象的なオーダーを律儀に守ってくれている。おかげで、キングの世界はグンと広くなった。

 だからきっと大丈夫。キングの才能が私という存在に邪魔されることはない……はずだ。

 拍手が収まった頃合いで、リレーの選手たちが退場していく。アンカーとして競い合ったウマ娘たちと言葉を交わしながら、キングもトラックを後にした。しかしすぐに生徒たちの集団からは離れ、観客席の方へとやってくる。私と目が合うと、栗色の丸い瞳が得意げに笑った。

 観客席の最前列、駆け寄ってきたキングの方へ私も場所を移す。数分前までの暗澹たる思考は一旦頭の隅へと押し遣り、たった今全力を尽くして来た娘と向かい合った。わずかに上気した頬の娘を見ると、否応なく頬がだらしなくなりかけた。それを、母親の矜持で引き締める。

 

「全力を尽くしてきたようね」

「ええ、もちろん!」

 

 キングはさも当たり前であるかのように胸を張った。練習の成果が出た、とは言わない。努力の痕跡を表に出すことをあまり好まない子だ。見栄っ張りなのだろう。でも、気持ちは少しわかるので、私も何も言わないことにしている。

 

「そう。よく頑張ったわね」

「ふふん、当然よ。だってキングは一流なんだもの!」

 

 そう答えてキングは大きく高笑いした。私の内にほのめいた暗闇すらも吹き飛ばすように、力強く晴れやかに。誰かを勇気づけるその笑顔もまた、キングの授かった才能なのかもしれない。

 笑いを収めたキングが細めていた目を開く。陽射しの加減だろうか、大きくまあるい栗色の瞳が、いつにも増して爛々と輝く。あたかも多くの人を魅了する特大の宝玉のように。吸い込まれるように目を奪われたその瞳に、今は挑戦的な色が宿った。

 唇の端を吊り上げて、キングは私へ挑むように口を開いた。

 

「もしかして、お母さまより速かったんじゃないかしら」

 

 キングの言葉に目を見開いた。純粋極まりない、(いとけな)さすら感じる挑戦の言葉。それが強く胸を打った。

 暗澹たる思考が戻りかける。けれどそれ以上に晴れやかなものが――純粋な挑戦を受けて立とうという無垢な想いが私の内を満たしていく。それは久しく忘れていた感覚に思えた。

 

「さあ、それはどうかしら?」

 

 やや意地悪な返答をした。最近流行りの悪役令嬢のように。かつて「一流ウマ娘」を名乗っていた頃の私が、ほんの少しだけ顔を出した。

 私の返答が大層お気に召さなかったようで、キングはすぐに頬を膨らました。「絶対私の方が速いわ!」と言ったキングの顔があまりにも愛らしくて、堪えきれずに吹き出してしまう。益々ぷりぷりとしてしまった娘のご機嫌を取ろうと、鍛えた腹筋で笑いを収めつつ手を伸ばす。少し汗ばんで、けれど触り心地のよい髪を撫でながら、私は短く「そうね」とだけ答えた。



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誕生日には一番の笑顔を

二十三話目。
キングの誕生日のためにケーキを選ぶカワプリちゃんと、通りすがりのお母さまのお話です。


――その日その場にいたのは、本当にただの偶然でしかなかった。

 季節がようやく春らしくなった四月二十七日。夕方が訪れたデパートの地下は、平日ゆえかそれほど多くの人がいるわけではなかった。賑やかなのは、どちらかといえば上の方のレストラン街。すでに仕事を終えた人たちが空腹を満たそうとしている。そんな夜の喧騒とは距離を取り、私はお菓子売り場をあちこち歩いていた。今週末は春の天皇賞。勝負服を担当した子も出走するので、私も現地まで足を運ぶ予定だった。当然手ぶらという訳にも行かないので、彼女と、彼女のトレーナーさんやチームメイトが分けて食べられるようなお菓子を差し入れるつもりだった。

 和菓子や洋菓子のお店をいくつか回り、結局こし餡が大好きな彼女には和菓子を持っていくことにした。それから、京都レース場でお世話になっている方へもいくつかお菓子を見繕う。日持ちするものはその場で買ってしまって、日持ちしない和菓子だけは土曜日の夕方に受け取りの予約をした。私の手には紙袋が二つぶら下がる。

 腕時計を確認すると、迎えに来るようお願いした爺やが到着するまではしばらく時間がある。さてどうしたものかと考え始めた私は、ふと売り場の一角、ケーキ屋さんの前で頭を抱え唸っている少女を見つけた。やや赤みの強い鹿毛の、美しい髪と尻尾。一目できちんと手入れがされているのがわかる。無機質な蛍光灯の光でも、その艶やかさが際立った。不思議と、娘の――キングの姿が重なる。

 

「――あら?」

 

 と、そこでその少女が、私も見たことのあるウマ娘だと気づいた。大きく愛らしい空色の瞳。けれど目元はツンと吊り上がり、勝気な印象を抱かせる。横顔だとなお一層はっきりとする目鼻立ち。そして服の上からもわかる抜群のプロポーション。

 迷わず彼女の方へ一歩を踏み出す。いつもなら、相手のプライベートの時間にそんなことはしないのだけれど、不思議と声をかけたいと思った。彼女はキングの友人でもあるし、挨拶くらいはしておいて罰は当たらないだろう。それに、あの様子だと相当困っているようだし、放ってもおけなかった。

 

「ごきげんよう」

 

 可愛い顔を険しくしてなお唸っている少女に声をかける。少女は大きな耳をピクリと跳ねて、慌てた様子で私の方を見た。ひらりと揺れた鹿毛の合間に、不思議そうな表情が覗く。

 

「突然お声がけしてごめんなさい。――カワカミプリンセスさん、かしら?」

「――え、あ、はいっ、そうですわ。(わたくし)、カワカミプリンセスです」

 

 少女――カワカミプリンセスさんは、やや戸惑いながらも頷いた。私を見つめる怪訝な表情は、やや警戒の色を含んでいる。どちら様でしょう、とでも言いたげだ。無理もない。私と彼女に面識はない。私が一方的に彼女を知っているだけだ。――所謂、ファンというものだった。

 デザイナーとしての屋号、あるいは本名を名乗ろうと思って、一度留める。多分、カワカミプリンセスさんにとっては、こちらの方が馴染みが深いだろう。そう思って、私は最近時々使うようになった言葉で名乗った。

 

「はじめまして。キングヘイローの母です」

 

 私が素性を明かすと、カワカミプリンセスさんは真ん丸の目をさらに大きく見開いて驚く。パチパチと瞬きを繰り返したのち、彼女はようやく開きかけの口を動かした。

 

「き、キングさんのお母さま!?」

 

 素っ頓狂な声がデパートの地下に響く。耳の先までピンと伸ばして、カワカミプリンセスさんは驚いていた。いっそ大袈裟なくらい、素直でありのままな反応が話に聞いていた通りで、私は思わず微笑ましくなってしまう。長らく大人の世界に身を置いていると、その率直さは宝物のように眩しかった。

 唇から漏れそうになった笑い声を押し殺し、至って平静にはにかむ。キングの大切な友人だ、母親としてあまり変なところは見せられない。

 

「娘がいつもお世話になっています」

「こ、ここここっ、こちらこしょっ! キングさんには大っ変、お世話になっておりますわっ!」

 

 カワカミプリンセスさんは赤い鹿毛が舞い踊るほどに勢いよく頭を下げた。余程慌てたのか、途中で少し噛んでしまっている。丁寧で、まるでマンガやアニメのセリフみたいなお嬢様言葉と反対に、どこか放っておけない、一直線な快活さが一挙手一投足から滲んだ。そこがまた、私には可愛らしく、好ましく思える。

 緊張を隠せない表情ながら、キラキラと純真な瞳をカワカミプリンセスさんは私に向ける。あまりに真っ直ぐなので、年甲斐もなくときめいてしまった。娘と歳の頃の変わらない子にこんなことを思うのも変な話だけれど、孫娘を前にしたお婆ちゃんというのはこういう気持ちなのかもしれない。娘に対するそれとはまた違った可愛らしさを感じていた。

 一つ居住まいを正し、私はカワカミプリンセスさんに尋ねた。

 

「それで、カワカミプリンセスさん。お困りの様子でしたけれど、どうかされましたか」

「……そ゛う゛な゛ん゛て゛す゛う゛ぅ゛~っ」

 

 一転、この世の終わりみたいな表情で再び頭を抱えるカワカミプリンセスさん。ショーケースの向こうでケーキ屋さんの店員さんが苦笑いしている。どうやら私が見かける前からこんな調子らしい。一先ずお店の前を離れ、私は彼女の話を聞くことにした。

 

「実は――」

 

 はっきりした眉を子犬みたいに八の字にしてしまって、カワカミプリンセスさんは話し始める。

 彼女が悩んでいたのは、明日のキングの誕生日に、サプライズで渡すプレゼントのことだった。他の友人――黄金世代の子たちや取り巻きーズの二人はそれぞれにプレゼントやパーティーを企画していて、それならと彼女はケーキを渡すことにしたらしい。それで、洋菓子店のたくさん入っているこのデパートへやって来たのだと言うが――

 

「――全っ然、決まりませんわあぁぁ~っ!」

 

 魂のこもった叫びだった。無理もない。ケーキを扱うお店は複数あるし、おまけにどの店舗も品揃えが豊富だ。誰もが喜ぶ定番の品、季節限定の彩り豊かな品、少しビターな大人向けの品。目移りする一方で全く決まらない。ちなみにカワカミプリンセスさんは、さっきのお店のプリンに目移りしてしまい、慌てて首を振ったという。

 どうすればいいんですの。頭をこねくり回して悩む姿に、つい口元を緩めてしまう。ああなるほど、キングが好きになるのも頷ける。真面目で、真っ直ぐで、一生懸命で……あの子の好きなタイプだ。

 

「カワカミプリンセスさんの選んだ物なら、あの子はなんでも喜びますよ」

「それはそうなのですけど……」

 

 わかりきったことを答えた私に、カワカミプリンセスさんも頷く。それでもなお納得していない横顔で、私には彼女の悩みが理解できた。同じことを私も何度も悩んできた。

 

「……だからこそ、妥協はできませんわ。私は……キングさんに一番喜んでいただきたいんですもの」

 

 そうね。彼女の言葉に私もすべて同意して頷いた。

 きっと喜んでくれる。誰かが一生懸命に心を込めたものを、絶対に無碍になんかしない子だ。だからこそ一番喜んでほしい。一番好きなものを食べてほしい。一番おいしいものを食べてほしい。そして――とびっきりの、一番の笑顔を見せてほしい。

 カワカミプリンセスさんの想いも、その悩みも、痛いほど理解できた。

 うんうん唸っていたカワカミプリンセスさんが、チラリと私の方を窺う。その時、ピンと何かを閃いた様子で、ぴょこぴょこと耳が動いた。彼女はポンと柏手を打ち、やはりキラキラした瞳で私を見つめる。

 

「そうですわっ。キングさんのお母さま、少しお手伝いをしてはくださいませんか?」

「お手伝い、ですか?」

「ええ。お母さまにお手伝いいただければ、きっと一番良いものに近づけると思いますの」

 

 いかがでしょうか。両の手を合わせて上目遣いにお願いするカワカミプリンセスさん。揺れる鹿毛の合間に微かな不安を覗かせる顔を見ては、断ることなどできなかった。

 

「ええ、構いませんよ。――でも、私はお手伝いまでです。カワカミプリンセスさんがご自分で選ばないと、意味がありませんから」

「もちろん、心得ておりますわ!――ささ、参りましょうお母さま。それとどうか、私のことはもっとお気軽に呼んでくださいませ。『カワカミ』でも『プリンセス』でも何なりと」

 

 呼び方については考えさせてもらうことにして、一先ずまた売り場を歩き始める。そういえば、贈り物を誰かと選ぶことなど、随分久しぶりだ。しかも、娘の友人と娘への贈り物を選ぶことになるとは。新鮮さを感じながら、売り場のショーケースに目を向けた。洋菓子、さらにケーキまで絞っても、その種類の多さには改めて目を回される。自分で食べたいものを選ぶのでも一苦労なのに、誰かへの贈り物となると悩みの種は尽きない。一つひとつ吟味して見比べて、とやっていてはキリが無い。

 こういう時は、何か一つ「これ」という目標が欲しい。デザインでも同じだけれど、抽象的で漠然としたイメージを、少し具体的にする作業が必要だ。

 

「――まずは何か、とっかかりが欲しいですね。カワカミプリンセスさんは、どのようなケーキを選びたいのか、決めていらっしゃいますか。スポンジケーキなのか、タルトなのか、フルーツが多いものにするか……その辺りから絞り込んではどうでしょう?」

 

 あくまで助言程度に留めた私の問い掛けは、カワカミプリンセスさんを大いに悩ませたらしい。可愛らしいお顔の眉間に深い皺を刻み、難しい表情をした彼女は、うんうん唸りながら考え続ける。必死にアイディアを搾り出そうとしているのが伝わった。

 

「……ケーキはスポンジにするつもりですわ。誕生日のケーキには、あのフワフワ感が欠かせませんもの。ですが味の方は……何も決まっていませんの」

 

 悩むカワカミプリンセスさんは、キングとのお茶会のことを話してくれた。彼女から誘ったり、あるいはキングからの誘いを受けて開かれるお茶会では、よくケーキを持ち寄って食べていたという。

 ただ、と彼女は苦笑い。

 

「キングさんはどのようなケーキも華麗に優雅にいただいておりますので。つい見惚れて、味の好みなどはお聞きしておりませんでしたわ」

 

 ……あの子はまた、妙な格好つけを友人に対してしているのではないかしら。少なくとも私の知るキングは、好きなケーキを食べると一目でわかるくらいに満面の笑みを浮かべていた。華麗や優雅という印象より、純真無垢や天真爛漫という言葉が相応しい。お上品にお行儀よく、という振る舞いももちろん礼儀作法として教えてきたけれど、そういうものが大人相手や社交界の場、仕事の時だけでいいとも教えてきた。

 まったく、変なところで格好つける性格は、一体誰に似たのやら。……思い当たる節は一人しかなく、私は盛大な溜め息を吐きそうになった。

 うーん、と長考の構えに入ったカワカミプリンセスさんがぽつりと呟く。

 

「せめて、キングさんのお好きなケーキや……お好きなお店などわかると、とっかかりになるのですけれど」

 

 その一言でピンときた。とっかかりとしては十分かもしれない。

 

「あの子の好きなお店でしたら、心当たりがありますよ」

「本当ですのっ!?」

 

 ロケットでも飛び出して来たのかと見紛うばかりの勢いで、カワカミプリンセスさんは私に迫った。あまりの勢いに思わず仰け反る。パッと花を咲かせた愛くるしいお顔が、興奮で彼女の勝負服と同じピンクに染まっていく。私の手を取った彼女は鼻息荒く口を開いた。

 

「ぜひっ。ぜひ、教えてくださいませっ」

 

 喜んで、と私が頷くと、カワカミプリンセスさんは益々笑顔を明るくして、両の耳を嬉しそうにパタパタとさせていた。

 

 

 

 デパートから場所を移すことにした私たちは、迎えに来た爺やの車に揺られて、私の事務所からほど近い洋菓子屋さんへ足を運んだ。行きつけのお店、とまではいかないけれど、年に何度かはお世話になっていた。ここ数年は足が遠のいていたけれど……去年久しぶりに訪れる機会があって、変わらないおいしさに安心したのを覚えている。

 平日だからか、店内に人はほとんどいなかった。丁度今ケーキを受け取ったばかりのカップルだけだ。併設されているカフェの方にも人の姿はない。店内にはどこかのんびりとした空気が流れている。

 

「――どうかしら、プリンちゃん」

 

 車中での会話で決定した呼び方でカワカミプリンセスさん――もとい、プリンちゃんを店内へ案内する。「プリンセス」から取ってプリンちゃんという安直な呼び方だけれど、どうも彼女は気に入ったらしい。私が若干のむず痒さを覚えながら呼ぶと、彼女は嬉しそうに耳をぴょこぴょこと動かす。

 店内に足を踏み入れたプリンちゃんは、両目を真ん丸にして感嘆の声を上げた

 

「ここが……キングさんのお気に入りのお店、ですのね」

 

 ソワソワと店内を見回したプリンちゃんは、そのまま迷うことなくショーケースの方へ歩み寄る。色とりどりのケーキが並ぶショーケース。ガラスにへばりつくようにして、彼女は一つひとつのケーキに目を輝かせた。

 キングのお気に入りというと、真っ先に思い浮かぶお店だ。キングは小さい時からこのお店のケーキが大好きだった。きっかけは何だったのか、よくは憶えていない。ただいつも、私がこのお店のケーキを買って帰ると、パッと表情を明るくしていた。だからいつも、キングの誕生日やクリスマスに食べるケーキは、このお店のケーキにしていた。

 おいしそうに頬張って、時折クリームを口の端につけてしまったりして、幸せそうな笑顔でケーキを食べるキングの表情が、今でも脳裏に焼き付いている。

 ショーケースを前にして再び考え込むプリンちゃんを横目に見ながら、私は店員さんに話しかける。カフェに入れるかを聞くと、まだ営業はしているという話だった。ただし、ケーキ食べ放題はもう受付を閉め切っているという。それだけ確認して、私は店員さんにお礼を言った。

 再び頭を抱えかけているプリンちゃんの肩を叩く。

 

「ねえ、プリンちゃん。折角カフェがあるのだし、一つ食べてみたらどうかしら」

 

 レース前の食事制限中ではないかを確かめると、それは問題ないと答えが返ってきた。プリンちゃんもぜひ食べてみたいと頷く。私は二名でカフェに入りたい旨を店員さんに伝え、席まで案内してもらった。

 注文はケーキセットが二つ。折角だから、ケーキは店員さんにお任せで選んでもらう。お客さんが少ないからか、数分もするとすぐにケーキと紅茶が運ばれてきた。店員さんが選んだのはオーソドックスな苺のショートケーキ。ずっと変わらない定番ケーキだ。

 

「うちのパティシエが一番自信のあるケーキですからっ」

 

 ほわほわした印象の店員さんは、そう言って微かに白い歯を見せた。

 ケーキを目の前にしたプリンちゃんは、瞳を益々輝かせる。ルビーのごとく煌めく苺、滑らかな純白のホイップクリーム、ふわふわと弾むようなスポンジ。それらが層を作る断面は絶景と言うに相応しい。どんな時でも、いくつ歳を重ねても心をくすぐる景色だ。

 心躍らせる表情のプリンちゃんに頬を緩める。そのまま永遠に見つめていそうだったので声をかけると、なんだか緊張した様子でフォークを手にした。強張った表情でごくりと喉を鳴らすプリンちゃん。

 

「い、いただきますわ」

 

 恐る恐る伸ばしたプリンちゃんのフォークが、ショートケーキの端に沈んでいく。柔らかなスポンジは綿菓子のようにフォークを受け止め、そのままスッと通した。一切の抵抗なく滑らかにケーキが切り取られる。一口大になったショートケーキを顔の前に運んだプリンちゃんは、「ほわあぁ……」と気の抜けた声を発して感嘆している。澄んだ水色の瞳にショートケーキが大写しになっていた。

 薄くリップを引いた唇にゆっくりとショートケーキが吸い込まれる。ままよ、勢いをつけるように一口を含んだプリンちゃんが目を見開いた。もくもくと口を動かす彼女は、一口分欠けたケーキと私を交互に見て目を瞬く。言葉を発しないまま、しかしその全身から「おいしい」という感情を一杯に噴き出していた。

 

「~~~~~っ! 甘くて最っ高においしいですわっ!」

 

 たっぷり一切れを味わって口の中を空っぽにしたプリンちゃんは、今にも飛び上がりそうな調子で感想を口にした。太陽と見紛う眩い表情に思わず顔の筋肉が綻ぶ。やっぱり、おいしそうにしている人を見るのが、私は大好きだ。

 

「それはよかった。私も大好きなのよ、このお店」

 

 そう言って私も一切れを口に含む。思い出補正を抜きにしても、ケーキの出来栄えは素晴らしいお店だ。気に入ってくれたのなら、私としても嬉しい。

 先程の店員さんが、ニコニコした笑顔で小さくガッツポーズを握るのが、プリンちゃん越しに見えていた。

 早速二口目を食べたプリンちゃんは身悶えして頬を押さえる。「ほっぺが落ちてしまいますわ」と呟いた彼女は、そこで何かを納得したように二度三度と頷いた。スカイブルーを宿した瞳が、職人の手で磨かれた宝石みたいに光を映す。純粋で真っ直ぐで、目を逸らすことなどできない輝きだった。

 

「決めましたわ。キングさんへのサプライズのケーキはここのお店にします。――ここのお店のケーキがいいですわっ」

 

 口元の緩さを自覚しながら、私はその言葉に首肯する。

 

「ふふっ、ならそうしましょう」

 

 プリンちゃんはぶんぶんと大袈裟に頭を振って頷いた。それからまた、もくもくとケーキを食べる。落ちそうなほっぺたを押さえながら笑う彼女に、つられて私まで頬を緩めてしまう。向かいに座る彼女の姿に、やはりキングの姿が重なった。心を素直に告げる表情が眩しい。私の口にするケーキも数段増しでおいしくなった気がした。

 

 

 

 結局、プリンちゃんは悩みに悩んで、ケーキを何種類か買っていた。緊張と不安と、でもそれ以上の期待を瞳に込めて、彼女はケーキボックスを受け取る。大事そうに箱を手にすると、店員さんへ丁寧に頭を下げていた。

 

「――ありがとうございました、お母さま」

 

 お店を出てプリンちゃんを学園へと送っていく車中、彼女は改まって私へお礼を言った。それに私はかぶりを振る。

 

「大したことはしていないわ。――いいものが選べたかしら」

「もちろん! ばっちりですわ!」

 

 流れる夕闇の街灯りを背景に、プリンちゃんはニパッと笑う。自信満々に胸を叩く仕種。覗いた白い歯が、東京の灯りにも負けずに輝く。それを見た私は、一つ満足して軽い息を吐いた。

 

「そう。素敵なサプライズになることを祈っているわ」

 

 威勢の良い返事をしたプリンちゃんは、なおもじっと私を見つめていた。不思議に思って首を傾げ、どうしたのと尋ねる。彼女は少し照れたように答えた。

 

「いえ――当たり前のこと、かもしれないのですけれど。キングさんもお母さまも、よく似ていらっしゃるなと思いまして」

 

 意外な言葉に思わず目を見開く。

 

「そう……かしら」

「はいっ」

 

 プリンちゃんは迷いなく首肯した。とても嬉しそうな表情で語り出す。

 

「お顔立ちはもちろんですけれど。困っている方を放っておかれないことも、助言だけされて後は見守っていてくださるところも……とてもそっくりさんですわ」

 

 とてもお優しいお二人ですわね。プリンちゃんの言葉は真っ直ぐ過ぎて、どう返したものだろうかと答えが詰まる。

 ……私とキングは似ているのだろうか。あまり考えたことはなかった。仕事で忙しかった私は、一般的な家庭に比べれば、娘と過ごしてあげられた時間は圧倒的に少なかった。代わりにキングが多くの時間を過ごしたのは、屋敷の使用人たちだ。キングが今のキングになった、そこへ一番大きく影響を及ぼしたのは、メイド長の愛情であり、ゆーこの優しさであり、アリーの明るさだろう。今までずっとそう思ってきた。

 ただ……一流の母親であり続けようと、それだけは心に決めてこれまで過ごして来た。キングの前に立っていても恥ずかしくない、彼女が胸を張って誇れるような、娘が歩む道を照らす一流の母親になろうと思っていた。

 もしも。もしもキングが、そんな私の姿を見ていたのだとしたら。そんな私の姿に、何か少しでも感じるものがあったのだとしたら。ほんのひと摘まみでも、キングの生きる道の指針になるようなものを見出してくれていたのなら。母親として、これほど嬉しいこともない。

 街並みの灯りが流れゆく車内に、気づくと私は小さな笑い声を零していた。

 

「きっと、プリンちゃんが言うのなら、そうなのでしょうね」

「はいっ。私、キングさんのことで嘘などつきませんわ」

「ええ、そうね。今日、それがよくわかったわ」

 

 トレセン学園へ向かう短いドライブの時間に会話が弾む。春の夜は次第に暮れていくけれど、車内で交わされる声音は明るいままだ。それがどこまでも心地よく、楽しく、私は随分この時間を名残惜しんだ。

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 打ち合わせを終えて一杯のコーヒーを引っかけようと席を立った私は、胸ポケットを忙しなく震わせるものに気づいた。鳴っていたのはプライベート用のスマホ。光る画面を確認すると、キングからの着信だった。

 普段の癖でさっと身だしなみを整え、深呼吸を一つ挟んで、応答をタップする。コーヒーメーカー脇の壁にもたれかかり、通話をスピーカーに切り替えた。

 

「もしもし。まだ仕事中なのだけれど」

『ごきげんよう、お母さま。ええ、そうだろうと思ったわ。でも、出てくれたってことは、休憩中か何かよね。手短に済ませるから、このまま話してもいいかしら』

 

 断る余地もなく、そもそもそんなつもりもなく、私はすぐに了承する。キングは律儀に「ありがとう」と言って、すぐに本題を切り出した。

 

『改めてですけど。お誕生日祝いのメッセージ、ありがとうございます』

 

 昨夜、日付が変わったタイミングで送ったLANEのことだった。朝起きた時にでも気づいてくれればいい、そう思って送っているのに、キングは毎年すぐに返事を寄越す。今年もお礼のメッセージは、数分後には返って来ていた。それなのに改まってお礼を言うところが、律儀なキングらしい。

 

「おめでとう。――時間が経つのはあっという間ね。ついこの間、赤ちゃんだったと思っていたのに」

『ついこの間、は言いすぎでしょう。――おかげ様で、すっかり大人になったわよ』

 

 嘆息しながらも、キングは優しい声の響きでそう言った。その声を聞いて私は唇の端を緩める。

 それから、とキングはさらに話を続けた。

 

『カワカミさんのケーキ選びも、お手伝いしてくださったそうですね』

 

 言われて、そういえばプリンちゃんに口止めをしていなかったことを思い出した。別段、知られて困るようなことではないけれど、娘とその友人の会話の話題に上がるのは妙にむず痒い。

 サプライズで受け取ったケーキを食べながら、プリンちゃんは昨日の経緯を事細かに話して聞かせてくれたらしい。やはり胸の辺りがむずむずする。

 

『お母さま、カワカミさんとはお知り合いだったんですか?』

「いいえ、私が一方的に知っていただけよ」

『……それだけで、お声がけを?』

「困っていたようだったし、何よりあなたの大切な友人でしょう。声をかける理由には十分じゃない?」

『そうですか』

 

 あなただって、同じ状況に直面したら、同じことをするでしょう。私の中で確信していることを、敢えて口にすることはしなかった。代わりに今一番知りたかったことを尋ねる。

 

「素敵な誕生日のサプライズになったかしら」

『ええ、それはもう。最高の一日だったわ』

「そう。それなら、よかったわ」

 

 電話口のキングは、それはそれは嬉しそうな声をしていた。例え顔が見えなくたって、その声だけで十分伝わる。やっぱり答えはわかりきっていたのだから、わざわざ確かめる必要はなかったのかもしれないけれど。でもキングの嬉しい声が聞けて、私はそれで満足だ。

 

『……ところでお母さま。実は偶然たまたま、同じお店のケーキ食べ放題チケットを二枚、ファンの方から頂いたのだけど』

「……そう」

 

 予想もしない方向から飛んで来た特大の爆弾に、何とか平静を装う。私の動揺には気づかなかったのか、キングはそのままその話題を続けた。

 

『どうかしら。去年と同じように、どこかで時間を合わせて、一緒に食べに行きませんか』

「構わないけれど。……よかったの? お友達やトレーナーさんと使わなくて」

 

 ()()()()()()()()()()()もそれを望んでいる。けれどキングはすぐに問題ないと答えた。

 

『友達にはパーティーを開いてもらったし、トレーナーとは別で出掛けるわ』

 

 ……しれっとトレーナーさんとデートすることになっているような気がしたけれど、なんとか堪えてそこには触れないことにする。私はさっと頭の中のスケジュール帳を開いた。幸いゴールデンウィークの祝日には予定が入っていない。

 

「わかったわ。ゴールデンウィークの祝日なら空いているから。あなたの好きなところで行きましょう」

『ありがとうございます。それじゃあ、後で予定を送ります』

 

 用件はそれで終わりらしかった。仕事に戻ろうと、電話を切り上げようとする。ふと何かを思い出したらしいキングがそれに待ったをかけた。

 

『――ああ、そういえば。ケーキを食べてるところを写真に撮ったから、後でLANEするわ』

「あら、ありがとう。プリンちゃんも写っているかしら」

『ええ、ばっちり二人で……プリンちゃん? 待ってくださいお母さま、プリンちゃんってなんですか?』

「カワカミプリンセスさんのことよ。プリンセスだから、プリンちゃん」

『そうじゃなくてっ。いつの間に仲良くなってるんですか!?』

「昨日、あなたのケーキを選ぶついでに、一緒にお茶をしたもの。いい子ね、プリンちゃん。真っ直ぐで一生懸命で……益々ファンになったわ」

『ええ、ええ、あの真っ直ぐさと一生懸命さがカワカミさんの魅力で……っじゃなくて!』

 

――結局、それから三十分ほど、取るに足らないような内容の通話は続いていた。



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いと嬉しきもの

お久しぶりです。このところ原稿ばかりで新作を上げていませんでした。
というわけで、いつものキンおかです。駿大祭イベから思いを馳せました。
キングとお母さまが、想いを受け継ぐこと、想いを託すことについて考えるお話。


 想いは継ぐもの。想いは繋ぐもの。想いは続くもの。

――故に想う。

 師よ。師よ。我が師よ。

 弟子よ。弟子よ。我が弟子よ。

 受け継がれしその想い。繋ぎ紡ぎしその想い。連綿と続きしその想い。

 息吹きたまへ。綴りたまへ。託したまへ。

 永遠(とわ)に、久遠(くおん)に、悠久に。

 

 

 

 カワカミさんを送り出してしまうと、いよいよ楽屋には私一人が残るだけとなった。

 すっかり静かになった楽屋へ、私が装束へ腕を通す衣擦れの音が微かに響く。烏帽子のあご紐を留め、私は鏡を見た。そこへ映るは、千年の時を越えて芸を紡いできた、熟練の白拍子――に扮した私自身。仕上がりが申し分ないことは、一目見てわかった。不注意で脚を怪我してしまったから舞こそ披露しないものの、神聖で格式高い儀式を奉納する一人の演者であることに変わりはない。であれば自ずと、私のやるべきことも見えてくる。一流はいつだって手を抜いたりはしない。今の私の全力を尽くすだけだ。

 楽屋を後にして舞台へ足を向けると、しんと張り詰めた空気が辺りを満たし始めた。一歩を踏み出すたび、形容しがたい静寂と冷気が濃くなる。秋の夜は涼しくなったとはいえ、まだ肌寒いとまではいかない。けれど体を撫でる空気が確かに肌を粟立たせる。それは例えるなら、底の小石が見えるほどに澄んだ川の流れのように思えた。侵しがたく、厳かで、静かで、清らかな雰囲気。この世ならざる世界へと足を踏み入れる感覚。改めて、これが神事――三女神へ奉納するものなのだと実感していた。

 しんとした空気を一度深く吸い込み、吐き出す。神聖な雰囲気に体を馴染ませる。そうしてからそっと口を開き、私の演じる白拍子の師という役の台詞を呟いた。

 

「弟子よ、我が弟子よ。稽古のときである。こちらへ参れ」

 

 自分の台詞に、幼い頃の記憶が重なった。

 

 

 

 駿大祭にこれといって特別な思い出はなかった。きっと、誰にでもありふれているようなものばかりだ。賑わう屋台の並びだとか、荘厳な神輿や山車だとか、ウマ娘たちの喧騒だとか。幼い頃、そういうものを目にして、触れて、感じたことはよく憶えている。でもそれだけのこと。特別な思い入れがある訳ではない。同じような思い出は、きっと誰にだってあるはずだ。

 ただ……奉納劇の演者に選ばれたことで、鮮明に思い出したことがある。あれは確か、小学校の低学年だった頃。私がまだ、私の手を引くお母さまに「キングちゃん」と呼ばれていた頃のことだ。

 

――「お母さまもね、奉納劇を演じたことがあるのよ」

 

 その年の奉納劇を観劇した後、お母さまはふとそんなことを私に教えてくれた。伝統的な装いのお母さまを想像して俄然興味の沸いた私は、当時の写真がないかを随分しつこく尋ねた。お母さまは困ったように苦笑いしながら首を横に振って、代わりにその時の話を色々してくれた。演目の内容だとか、後輩たちと一緒だっただとか、先生の稽古が厳しかっただとか、でも稽古合宿は楽しいことばかりだっただとか。今思うと、お母さまがそんな風に学生の頃の思い出を語るのは、本当に珍しいことだった。

 お母さまの参加した奉納劇の映像は、偶然にもウマ娘神事継承保存会のアーカイブに残っていた。メイド長がそれを見つけてくれて、私は期待に胸膨らませて映像を再生した。お母さまのことだから、きっと主役だったに違いない、とそんな風にも思っていた。

 お母さまたちの奉納した演目は『白拍子』と紹介された。当時の私には、古めかしい言葉の多い奉納劇の内容はまだ難しくて、全てを理解できたわけではなかった。でも、お母さまの演じた役がどういう役だったのかは、一目瞭然だった。

 お母さまが演じていたのは、主役の白拍子……ではなく、奇しくも今日の私と同じ白拍子の師だった。

 白拍子の師は、『白拍子』という演目の中にあって最も出番の少ない役だ。そも、本来の台本には演者すら設定されていない。白拍子や胡蝶、旅芸人のように具体的な見せ場は用意されていない。台詞も片手で数えるほどしかない。

 ただ、お母さまの演じた白拍子の師には、ほんの少しアレンジが加えられていた。

 

――『弟子よ、我が弟子よ。稽古のときである。――こちらへ参れ』

 

 師が白拍子を呼びつけて始まる稽古は、本来白拍子の舞を師が見つめ、未熟な点を指摘するに留まる。しかしお母さまは、そこで白拍子と共に舞を披露したのだ。演目の序盤も序盤、舞の披露は一分と少ししかない。けれどその短い舞で、お母さまは見事に白拍子の師という役を――その存在の意義を表現してみせた。病を患っている故の儚さはあるが、ふと見せる動きのキレ、洗練された指先の所作、しなやかな足捌き、真っ直ぐに揺るがぬ力強い目線……そうした舞の中でピタリと決めなければならない点が完璧に決まっていた。ともすれば、主役である白拍子を飲み込んでしまいそうなほどの凄まじい魅力。おかげで師という存在の偉大さが観る者の脳裏へ鮮烈に刻まれ、その技芸を受け継がんとする白拍子の物語に深みを増していた。

 ……とまあ、そんな物語上の意義に気づいたのは、実際に私が『白拍子』の稽古をつけ始めてからのことだ。幼かった私は、単にその優雅で可憐な舞姿に見惚れてしまっていた。ひらりと舞う蝶のように、はらりと揺れる花のように、ふわりと羽ばたく鳥のように、お母さまの舞は綺麗だった。

 

 

 

――幼い頃に見たあの舞を、随分久しぶりに思い出した。

『白拍子』という演目を仕上げていくにあたって……そして何より、カワカミさんへアドバイスをするにあたって、改めてお母さまの舞へ想いを馳せた。短くも鮮烈な舞を披露したお母さま――白拍子の師は、何を想っていたのだろうか。舞台演出としての意義とは別に、どのような想いが込められていたのだろうか。

 師の想いを継がんとする弟子に、師は何を想い託すのだろうか。

 目を閉じて胸に手を当てれば、おのずと答えは見えてきた。とても簡単なことだ。

 

「……お母さまも、同じだったのかしら」

 

 舞台の袖でポツリと呟く。集まり始めた観客の喧騒によって、私の声は秋の夜長に紛れた。ゆっくりと瞼を上げれば、舞台を見つめるカワカミさんの姿が目に入った。いつもの元気溌溂な横顔が、今宵ばかりは緊張と決意をない交ぜにしている。碧い瞳の揺れるさまを見守るうち、私はふっと唇の端を緩めた。

『白拍子』という演目は、師の想いを継いでいく物語だ。それは同時に、偉大な師の背中をいかに追い駆け、追い越していくかという物語でもあると、私は解釈している。であるならば、師の――託す者の想うことなどわかりきっている。

 

「――ここへ至ってご覧なさい」

 

 白拍子を試し見定めるような師の――お母さまの視線が思い出される。多分、カワカミさんの稽古を見ていた時の私も、同じような視線を送っていただろう。

 想いを継ぐということは、想いを託す者と同じ領域へ至るということだ。偉大な師を追い越すということは、師と同じ場所へ至って初めてスタートラインに立ったことになる。故に、託す者は想うのだ。ここへ至りなさい、と。そのために技を教え、芸を伝え、稽古をつける。それら一つひとつが想いの種となり、水となり、栄養となる。

 緊張を解すようにカワカミさんが深呼吸をすると、私の託した髪留めのリボンが揺れた。美しく見せる所作、優雅に映る足捌き、華麗に映える扇の扱い――怪我をする前に、私が白拍子役として意識していたことは、全て彼女に教えた。稽古をつける中で芽生えた奉納劇への情熱も、白拍子役として表現したかった想いも、彼女には全て伝えた。そしてカワカミさんは、私の想定を超える努力と根性でその全てを吸収してくれた。私の想いまで引き継ぐと約束してくれた。その言葉ほど嬉しいものなど無い。私の想いが確かに彼女の中へ根付いたのだと、そう確信した時の喜びは至上のものだ。

 今宵、私は舞を披露しない。けれど、それは必ずしも、私が舞わないことを意味しない。カワカミさんが舞う時、私も一緒に舞っている。私の託した想いが、確かに彼女と共に舞う。それは何とも不思議な心地で、けれど一等尊いものに思えた。

 

「――さあ。それじゃあ、始めましょうか」

 

 私たちに稽古をつけてくれた講師の先生が、音を立てずに柏手を打った。まもなく舞台の幕が上がる。私たちは小さな声で「はい」と返事をした。真っ先に舞台へ上がるカワカミさんが一際大きく深呼吸をする。

 

「――キングさん」

 

 私を呼んだカワカミさんに、「なあに」と答える。彼女はこちらを振り向くことなく、ただ真っ直ぐな瞳で舞台を見つめ続けていた。

 

「どうかご覧になってください。あなたの想い、しかと受け継いで、舞って参りますわ」

 

 水干の袖を揺らし、カワカミさんはいつものように胸の前で拳を握った。いつもと違ったのは、小指の方からゆっくりと、その手のひらの内へ何かを包み確かめるように拳を作ったこと。その内に彼女が何を握り締めたのか、今更確認するまでもない。

 

「――いってらっしゃい」

 

 幕開けを告げる拍手の中へカワカミさんが歩み出す。舞台へ上がる白拍子の背中。技を受け継ぎ、芸を受け継ぎ、師の想いをも受け継がんとする背中。その背中を見つめる度、私の頬はどうしようもなく緩む。

 

 

 

 師よ。師よ。我が師よ。

 とくと御覧じよ。

 我が弟子は其処へ至るなり。

 我が弟子は其処を越えるなり。

――ああ、その喜びの、なんと大きなことか。

 

 

 

 

 

 

「――先輩」

 

 休憩時間中に少しくらいお腹に何か入れようとしていた私を、ふと懐かしい声が呼び止めた。落ち着いた大人の女性らしい声音になっていたけれど、声の響きは学生の頃から変わっていない。かけていた伊達眼鏡を外しつつ、私は声の主を振り向いた。

 私と同じ駿大祭のスタッフの腕章をつけたウマ娘は、私の顔を見るなりぺこりと頭を下げる。腕章の色から、駿大祭の中でも「奉納劇」を担当しているスタッフだとわかった。学園卒業後の彼女が、ウマ娘神事継承保存会に所属し、今年の奉納劇の講師を務めたことは、つい最近に聞いている。

 顔を上げた彼女と目が合うと、私たちはどちらからともなく唇の端を緩めた。

 

「お久しぶりね」

「はい」

 

 頷いた彼女がはにかむ。うっすら見えるえくぼが、学園の後輩だった頃から変わっていなかった。

 久方ぶりの対面を果たすと、彼女は打って変わって神妙な面持ちをした。細く整えた眉が八の字に下がる。私が口を開くより前に、彼女はもう一度、今度はより深く頭を下げた。腰から折れる綺麗な礼だった。

 

「娘さんにお怪我をさせてしまい、申し訳ありませんでした」

 

 律義さも相変わらずな元後輩に、私も小さな息を吐く。娘――キングがどういう状況で脚を怪我したのかは、本人からも、彼女からもすでに聞いている。あの子らしいと言えば、あの子らしい。気持ちが入り過ぎたが故の失敗だ。キングの不注意が招いた事故だったと私は聞いているし、判断している。怪我にしたって、日常生活に支障が出たり、キングの選手生命を絶たれるような大怪我ではない。少しの間安静にしていれば済むようなものだ。

 この件に関して、彼女からはすでに電話で謝罪を受けている。彼女が責めを受けるようなことではないし、キングのトレーナーさんも同じように言っていた。だから、話はそこで終わりでもよかったのに。本当に彼女の律義さは変わらない。

「気にしないで」という言葉をかける代わりに、私は手に持っていた小さな紙袋の口を開けた。中から取り出したのは東京レース場名物のGⅠ焼き。駿大祭に合わせて出張出店していたものだ。

 

「――奉納劇、観たわ。とても素晴らしかった」

 

 私が衣装を担当した奉納舞の準備もあったから、観れるかどうかは今日までわからなかった。でも、一緒に来ていた私の事務所所属デザイナーが気を利かせてくれて、奉納劇を上演する間だけ準備を抜けることができた。おかげ様で、私は娘とその友人たちの晴れ舞台を間近で見ることができた。

 

「娘も満足そうな表情をしてた。同じ演目、同じ役を演じたから、よくわかるわ。あの子は『白拍子』という演目を、白拍子の師という役を、納得できる形で演じ切れていた」

 

 ようやく頭を上げた彼女の目の前に、一つ手にしたGⅠ焼きを差し出す。出来立てでホカホカとした焼き菓子が包み紙越しに手のひらを温めた。

 

「お疲れ様。――ありがとう」

 

 あの子は……きっと悔しかっただろう。自分から手を挙げたことを最後までやり切れなくて、悔しかっただろう。一生懸命練習してきたのに、その成果を発揮できずに終わったことが、悔しかっただろう。自分の不注意で周りの友人たちへ迷惑をかけてしまったことが、悔しかっただろう。

 だけどそんな悔しさは、今日のあの子のどこにも無かった。そういうの、自分の内に仕舞い込んでしまう子だし、表に出すことを良しとしない子だから、今日も多少隠しているところはあるだろうけれど。でもそんなこと微塵も感じさせない表情をしていた。

 そこには色々な要因があるだろうけれど、演技指導を担当した彼女の気遣いも一つ大切な要素だ。白拍子役に新しい子を選び、キングと入れ替えるという手だって選べた。けれどそうはせず、台本と登場する役を変えてまでキングを残した。種々の事情を鑑みての判断だけれど、おかげでキングは最後までやり切れた。

 彼女が残してくれた。彼女が繋いでくれた。キングの想いをこの『白拍子』に、他のメンバーに、そして何より、役を引き継いだプリンちゃんに。

 私とGⅠ焼きへ交互に視線を遣った彼女は、ようやく表情を柔らかくして、私からGⅠ焼きを受け取った。

 

「こちらこそ、ありがとうございます。――娘さんには、たくさん助けてもらいました」

「そう」

 

 誇らしい気持ちが顔に出てしまっただろうか、私を見つめる彼女はどこか可笑しそうに笑う。気恥ずかしさから視線を逸らし、私は咳払いを一つした。

 

「……それにしても。演目が『白拍子』と聞いた時は、驚いたわ」

「ええ、私もです。こんな偶然、あるものなのですね」

 

 秋の夜長に照らされる瞳が、懐古の色を宿す。『白拍子』は、私にとっても、彼女にとっても、思い入れのある演目だ。だからこそ、あまりにもでき過ぎた偶然に驚いている。私の娘が演者に選ばれ、そして彼女が演技指導を担当した年に、私たちの演じた『白拍子』が演目に選ばれる。そんな偶然、そうそうあるだろうか。

 

「まさかとは思うけれど、あなたの差し金かしら?」

「まさか。そのような権限、私にはありません。……ただまあ、大好きな演目ですから。毎年必ず、奉納劇の演目として推挙はしています」

「ああ、そういうこと」

 

 苦笑いで小さく舌を出す彼女に私も釣られてしまう。どうやら今回の偶然は、彼女の情熱と執念がもたらしたものらしかった。

 一しきり肩を震わせたあと、彼女はほんの少し遠くを見るように目を細める。暖かい橙色をした提灯が揺れる瞳に、今ここにいる私と、それから幾ばくか懐かしい頃合いの私が重なって映るのに気づいた。同じように私も、パンツスーツ姿の彼女に、水干へ袖を通したウマ娘を重ねていた。

 

「稽古をつけている時に、何度も思い出しました。私たちが演じた『白拍子』のこと」

「……そう」

 

 もう、二十年は前の話だ。けれどいまだに、この季節になると思い出が甦る。どうやらそれは、私だけではないらしかった。

 ふと目を閉じれば、二十年前と同じ空気が感じられる。懐かしい雰囲気を思い出したからか、彼女はクスリと小さく笑っていた。

 

「先輩の舞が、久しぶりに見たくなりました」

「あら。それじゃあ一指し、舞ってあげようかしら?」

「いいですね。でも、今は私の方が上手いですよ、()()

「今更なに言ってるの。当たり前でしょう」

 

 おどけた様子の彼女に、私の方も軽口を混ぜ込んで答える。学生の頃ならいざ知らず、今となっては彼女の方が実力が上だ。当時からセンスはあったし、その上で稽古と研究を重ねていれば当然のことだった。もっとも……いざ舞うとなれば、一度や二度くらいは驚かせてみたいとも思う。

 

「……舞と言えば、」

 

 舞の話が出たことで、私は観劇中に感じたことをふと思い出した。

 

「最後のカワカミさんの舞。あれもあなたが指導をしたのかしら」

 

 私の質問に対して、彼女は「半分」と答える。それで私は納得した。プリンちゃんの舞に感じた既視感の正体は、種を明かしてしまえば簡単な理由だった。

 

「舞に限らず、カワカミさん――白拍子の役は、先輩の娘さんが積極的に面倒を見てくれました。全体の大きな動きや台詞回しから、一つ一つの所作まで。熱心で……よく研究もされていました」

「……道理で、ね」

 

 どういう反応をしたものかわからず、結局妙に静かな息を一つ吐く。そんな私を、彼女は微笑ましいものでも見るように、穏やかな表情のまま見つめていた。

 白拍子役が最後に披露する舞は、『白拍子』の一番の山場になっている。そんな山場にプリンちゃんが披露した舞は、言ってしまえばまだまだ粗削りなものだった。講師である彼女の舞を知っているだけに、その彼女ほど洗練されたものでないことは容易にわかる。

 けれど、粗削りであるがゆえに、光るものがわかりやすかった。それは例えば、ふと見せる動きのキレであったり、洗練された指先の所作であったり、しなやかな足捌きであったり、真っ直ぐに揺るがぬ力強い目線であったり。見る者をハッとさせるほどの、強く美しい魅力を放ち、こちらの視線と声を奪った。師の技と芸と想いを継いでいくに相応しい存在だと納得させるだけの説得力を持っていた。そんな舞を彼女と共に指導したのが、キングだという。

 自然と自分の頬が緩んでいることに気づいた。

 あの舞は、私の演じた白拍子の師の披露した舞への回答として、キングが用意していたものだろう。「ここへ至ってご覧なさい」、そういう風に舞った私へ、「至り越えていかん」という回答。あるいは、『白拍子』という演目になぞらえるのなら、「その想いを受け継がん」という回答。

 結局、キングが舞を披露することはなかった。けれどキングが温め形にした想いは、確かにプリンちゃんへと受け継がれた。そしてプリンちゃんは、そんなキングの想いまで受け継いで、あの舞を披露した。

 

「……嬉しいものね」

 

 つい正直な感想が漏れる。彼女は特別言葉を募ることもせず、ただ短く「はい」と頷いた。

 ……嬉しくないものだと思っていた。キングが私と同じ道を――レースの世界を選んでくれても、嬉しくないと思っていた。まして、私の想いを受け継いで走るなどと言われても、嬉しい気持ちなど起こりようはずがないと思っていた。栄光と釣り合わない挫折、歓喜も埋もれてしまう苦悩、笑顔もかき消してしまう滂沱。そういうものばかりの世界へ、たった一人の大切な娘が足を踏み入れたことを、喜ばしいと思えるはずがなかった。むしろ、私の後など追うことはないと、私の想いなど継ぐ必要はないと、そう思っていた。

 けれど、今はそれが――全てではないにしても――誤りだったと知っている。知ってしまった。レースで走るキングを見れば、やはり嬉しかった。ウィニング・ライブのセンターで笑顔を見せるキングを見るのが、嬉しかった。かつての私が身を置いた世界で、同じようにキングが歩んでいることが、嬉しかった。

 

――『いつかあなたを越えてみせます』

 

 真っ直ぐで純粋で無垢な言葉を聞かされた時、涙が出そうなほど堪らなく嬉しかった。

 だから、今はわかっている。もしもキングが私の想いを受け継いでいくと口にしたのなら。私はその言葉を、これ以上ない喜びと感じるのだろう。私の想いを受け継いで歩む背中を、この上なく誇らしく感じるのだろう。そういう風に感じてもよいのだと、今は思える。

 その時、スマートウォッチがぶるりと震えた。時刻を見ると、そろそろ休憩時間も終わりだった。私を呼ぶメッセージが一緒に来ているデザイナーから入っている。

 

「そろそろ行くわ」

「はい。奉納舞も楽しみにしてます」

「時間があったら見に来て頂戴。今年の衣装も自信作だから。――それと、これ」

 

 頷いて立ち去ろうとした彼女を引き留め、手にしていた紙袋を手渡した。彼女はぱちくりと瞬きをする。

 

「あの子たちに差し入れて頂戴。丁度人数分あるはずだから」

 

 元々、他のスタッフも食べるだろうかと余分に買っておいたGⅠ焼きだ。さっき彼女へ手渡したものも含めて六個。奉納劇に参加した子たちで丁度だろう。

 

「ありがとうございます。いただきます」

 

 はにかんで一礼し、彼女は私の行き先と反対方向の雑踏へ紛れていく。ジャケットの背中が視界から消えるまで、私はその場に留まり見送った。多少なりと名残惜しい気持ちを一旦頭の隅へ押しやり、踵を返す。まもなく始まる奉納舞の準備が私にもある。

 ……自分の分のGⅠ焼きを食べ損なったことに気づいたのは、仲良く頬張る親子を見かけた時だった。




多分、今回の駿大祭イベのキングは、最初の三年間が終わった後のキングだと思います。


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描いた夢、ここにある今

お久しぶりです。
C102で頒布した合同誌「ウマ娘母親小説合同2」に寄稿した作品を公開いたします。
メガドリームサポーターの中でキングが現役時のお母さまとレースをする話です。


 メガドリームサポーター――サトノグループによって開発されたトレーニングサポートAIシステムが学園のVRウマレーターに実装されたのは、記憶にも新しい三か月ほど前のことだ。過去のありとあらゆるウマ娘のデータを集積しているというAIは、その膨大なデータに基づいてトレーニングのアドバイスをしたり、過去のレースやウマ娘のデータを再現して模擬レースを実施したりすることができる。特に手探り感が強い新人トレーナーや、怪我などで脚に負荷をかけられないウマ娘には重宝される存在だった。

 キング――キングヘイローを筆頭に数名のウマ娘を担当する俺もまた、このサポートAIを随所で使用していた。トレーニングのアドバイスをもらうことはもちろん、個人的にはレースの展開予想において非常に有用なアイテムだと考えている。過去のレース傾向や出走するウマ娘の情報の整理が段違いに楽で且つ早くなった。実際には、このAIには蓄積されていないデータ――直近のトレーニングの様子や担当トレーナーの指示の傾向を加味しないといけないが、反対に言えばその部分だけを俺が補って他はAI任せにできる。おかげでレース研究にかける時間が大幅に浮いて、その時間を他の仕事に充ててもお釣りが来た。この三か月は根の詰め過ぎでキングに心配をかけることもせずに済んでいる。

 さて、メガドリームサポーターという新しいツールを手にし、ウマ娘もトレーナーも程度の差はあれどトレーニングに取り入れていく中、これを熱心に活用する人物がいた。他でもない、俺の担当ウマ娘であるキングだった。

 きっかけは、メガドリームサポーター導入直後に、俺がVRでの模擬レースを提案したことだ。当時は有用な使い方を模索中で、そのためキングにも色々と協力をしてもらっていた。VR模擬レースもその一環だった。

 以来、キングは頻繁にVR空間での模擬レースに取り組んでいる。

 VR模擬レースには利点が多い。学園内で実際に行われる模擬レースというと、まず参加メンバーを自分で集めねばならず、集まってもせいぜいが数名だ。実際のレースではフルゲートで十八名が集まるわけで、模擬レースという割に実戦的なトレーニングにはなりづらい。学園内には可能な限り実戦に近い模擬レースの開催を試みる学生の有志団体があるけれど、そういう団体主催の模擬レースは大体月一で実施日が決まっていて、ウマ娘の走りたいタイミングで参加することは難しい。その点VRであれば、レースの人数も実施タイミングもウマ娘の望むままだ。出走相手のレベルも選択できる。おまけに天候やバ場の条件も自由に設定できるため、実際の天気に左右されることもない。VRでも実際に体に負荷がかかるようになっているから、通常の模擬レース同様多用はできないけれど、それを補って余りある利点があった。

 ただ……キングが熱心にVR模擬レースへ挑んでいるのは、そうしたVRゆえの利点とはまた別の理由からだ。

 

 

 

 VR空間でもターフには風が吹いていた。肌を撫でつける空気の感触も、鼻先をくすぐる芝と雨粒の匂いも、そしてレース場に流れる熱気さえも、現実と遜色ないほどリアルに再現されている。だから目の前のレースを見つめる時、握った拳に力が入ってしまうのも無理からぬことだった。

 俺の眼前に再現されているのは東京レース場。天候は晴れ、されどバ場状態は芝・ダート共に稍重。それゆえ前日に降った雨を感じさせる湿った匂いがした。そして、今まさに俺の担当ウマ娘が参加しているのは、芝千八百メートルで開催されている模擬レースだ。GⅡ毎日王冠などと同じ条件になる。

 普段こうした模擬レースを見守る際は、トレーニングコースが見えるスタンドの可能な限り高いところへ位置取り、ストップウォッチと双眼鏡を駆使して担当ウマ娘とレース全体を観察することになる。ところが、VR空間ではその必要はなかった。コース各所へ定点カメラを十数個、バ群を追い駆ける追従カメラを三個まで設定して、それぞれ自由に切り替えてVR空間上で映像を確認できるのだ。それにレースへ参加する各ウマ娘のラップタイムはAIが自動で計測してくれて、こちらも自由に切り替えてVR空間上に表示できる。おかげで普段のように忙しなく手と首を動かす必要もなく、俺はゴール板の側からレースの推移を見つめていた。

 第四コーナー手前に設定した定点カメラをバ群が通過したのを確認して、映像を追従カメラに切り替える。バ群全体が見渡せるカメラで担当ウマ娘の位置取りを確認、すぐにもう少しバ群へ寄ったカメラへ切り替える。トレードマークであるエメラルドグリーンの勝負服を身に纏い、輝く鹿毛をターフに揺らす担当ウマ娘――キングヘイローの姿がカメラに映った。もちろんVR空間上に作られたデータの姿だが、かなり精巧な作りをしている。ゴール板を見つめ、ラストスパートのタイミングを計る真剣な瞳に、思わずドキリとした。どんなウマ娘にも言えることだが、勝負に挑む時の彼女たちは、普段の年頃な少女の姿からは想像もつかない表情を見せる。特にキングは、それが強い魅力となってこちらの目を惹きつけた。思わず仰け反りそうになる迫力なのに、息を飲んで目が離せなくなってしまう。勇ましくもあり、優雅でもあり、頼もしくもあり、美しくもあった。気を抜くといつまでもその姿に魅入ってしまうので、普段は模擬レースの忙しなさがありがたかったのだが、今は何とか自分の精神力で思考を現実――否、VR空間に繋ぎ止めなければならなかった。

 映像を四コーナー終盤のコース外側からの定点カメラに切り替えたところで、六ハロン通過のタイムが刻まれた。集団の先頭がいよいよ最終直線にかかろうとしている。当のキングはというと、まだ後方五番手あたりを走り、外を回してじわじわと位置を上げていた。最終直線での切れ味勝負を考えているのは明白だ。東京レース場の直線は長い。焦りは禁物だ。

 外を回したキングは横に広がる先頭集団を避けて大外へと持ち出す。残り四百メートルを示すハロン棒に差し掛かる直前で、彼女の両脚に備わった一級品のエンジンに火が入った。みるみるうちに加速して先頭へと突き進む。芝を蹴り上げるその姿は風か稲妻か。キングは鮮やかに自慢の鋭い末脚を見せつけた。

 一つまた一つと順位を上げるキングをカメラ越しに、そしてゴール板横から見つめる。視界の端に表示されるラップタイムも、彼女の走りが申し分ないことを如実に示していた。

 圧倒的なスピードを見せつけ、キングはゴール板を駆け抜ける。息を整えつつゆっくりと減速していく背中を見つめる俺は、早速表示される着順に顔をしかめた。

 しばらくすると、レース場に所狭しと響き渡る高笑いが聞こえて来た。勝者が自らを誇示する高らかな旋律。それはキングヘイローというウマ娘の専売特許であった。

 だが、今凱歌を響かせたウマ娘は、キングではなかった。

 肩で息をして苦々しい表情を浮かべるキングの目線の先に、一人のウマ娘が立っている。背格好はキングよりやや小さいが、堂々とした立ち姿がキングに負けず劣らない存在感を醸し出す。凛々しく整った顔立ちも、輝く栗色の瞳も、キングのそれにそっくりだ。ただ、風に吹かれてなびく鹿毛はキングよりいくらか明るい色合いをしている。トレードマークのリボンもキングとは反対の左耳に揺れていた。

 威風堂々とターフに立つウマ娘の姿には俺も見覚えがある。一度――随分前だけど、彼女の走りを研究したこともあった。それに、現実世界の彼女とも何度か顔を合わせたことがある。トゥインクル・シリーズとドリーム・トロフィー・リーグの双方で輝かしい成績を収めた、「伝説」とまで呼ばれる競技ウマ娘。キングを打ち負かした少女は、キングの母親――現役だった頃のお母さまだった。

 一しきり高笑いを披露したお母さまは、自信に満ち溢れた表情でキングを見据える。一つ間違えば生意気にも映る勝ち誇った笑顔は、しかしその勝利がまるで当たり前であるかのような振る舞いによって、勇壮な王者の風格をまとった。吊り上がった口角には、その実力を認めざるを得ないだけの説得力がある。

 まるで姉妹のようにキングとそっくりなお母さまは、悔しさを滲ませるキングにいっそ清々しい笑みで言葉をかけた。

 

「いい筋をしているわね、後輩。――でも残念。今回も私の勝ちよ!」

「むきーっ!」

 

 悔しさが頂点に達したらしいキングは、その場で地団駄を踏み始める。VR空間とはいえ、キングがここまではっきりと包み隠さず悔しさを表に出すのは珍しい。もちろん、強力なライバルである黄金世代の面々には対抗心を隠しもしないが、かといって負けてもここまで悔しさを表に出すことはまずない。彼女は自分が負けた悔しさよりも、自分を負かした相手への称賛と尊敬を優先する子だ。

 ただ……これだけ悔しがるのも無理からぬことかもしれない。お母さまとキングの模擬レースはこれで十度目。対戦成績は零勝十敗。今回もまた、好位でレースを進めたお母さまが最終直線で難なく抜け出し、鬼のような豪脚を披露したキングをいなして半バ身先着していた。

 相手との相性が悪い、と言われればそれまでだ。最後の豪脚で全てを撫で切るキングと違い、お母さまは好位につけてペースを握り展開を支配していた。自身の脚は残しつつ、前のウマ娘にはプレッシャーをかけて体力を削り、後ろのウマ娘には末脚勝負を許さず引き離す。お母さまの走り方は、位置取りを後ろへ下げることの多いキングからすると、すこぶる相性が悪い。何しろ、レース序盤から中盤にかけて、後方からでは好位のお母さまに何も仕掛けることができない。かといって前目につけてマークしようとすると、バ群の競り合いに巻き込まれて折角の末脚を失ってしまう。

 もちろん、相性の悪さだけが敗因ではない。お母さまは重バ場をものともしないパワーも持ち合わせていた。出走するウマ娘たちが脚を取られて嫌がる内側の荒れたバ場でも難なく走ってくる。それに、バ群を捌く観察眼と器用さも一級品だ。最終コーナーで内に閉じ込められていても、必ずどこからか抜けだしてくる。十回も模擬レースを繰り返せば、「伝説」と呼ばれるだけの能力の高さを骨の髄まで思い知らされた。

 普通ならもう嫌になって、やめてしまいたくもなる。けれど……どうやらキングにそのつもりはないようだった。

 

「ふんっ! 今回は勝ちを譲ってあげただけよっ!」

 

 ひとしきり悔しさを露わにした後、キングは尊大に腕を組んで険しい表情を見せ、お母さまに言った。そしてビシッと真っ直ぐに人差し指を突きつけ、宣言する。

 

「覚えておきなさい! 次こそ勝つのは私なんだからっ!」

 

 一切淀みのない宣戦布告が真正面からお母さまを貫く。キングの言葉を受け止めるお母さまは、自信に満ちた微笑みのまま、わずかに目を細めてキングを見つめていた。余裕のある視線に益々キングの瞳が燃え滾る。向かい合う二人の間に、しばらく静かな火花が散っていた。

 

「いいわ、いつでもかかってきなさい。――ま、次も勝つのは私だけれどっ」

「っ! いいえ私よ! 勝手に決めつけないで頂戴っ!」

 

 模擬レースを終えたばかりだというのに、もうすでに次を見据えて互いを主張する二人に、こちらとしては苦笑いする他ない。メガドリームサポーターがウマ娘の性格まで再現できるのかはわからないが、端から見れば親子なのも頷ける似た者同士だ。

 放っておくとこのままもう一戦と言い出しかねないので、ほどほどのところでキングに声をかけVRウマレーターからログアウトする。手を振るお母さまは最後まで律儀に俺たちを見送ってくれた。

 

 

 

 

 

 

――随分久しぶりに、懐かしい夢を見た。幼い頃は頻繁に見ていて、でもこのところはとんと見なくなった、懐かしい夢。私が憧れたとあるウマ娘の夢だった。

 

 

 

 お母さまと走ってみたい。そんなことを思ってしまったのは、ほんの出来心だった。

 過去のありとあらゆるレースやウマ娘のデータを収集しているというメガドリームサポーター。最新技術を駆使して開発されたサポートAIが作り出すVR空間の中では、すでに現役を退いたウマ娘の姿と走りを再現することができる、そんな話は聞いていた。メガドリームサポーターがお披露目された際にも、学園の有志とAIが再現した名だたるウマ娘たちとのエキシビジョンレースが開催され、大きな話題を呼んでいた。でもその時には、ぼんやりと実力を試すのには丁度いいくらいにしか考えていなかった。

 VR模擬レースをトレーナーが提案してきたのは、エキシビジョンレースから少ししてのことだった。その頃は新しいツールの有用な使い方を彼も模索中で、私もできることは協力していた。

 ランダムに生成されたコースは、東京レース場芝千八百メートル。天候は晴れているけれど、バ場は稍重。そこまで設定したところで、トレーナーは私に尋ねた。

 

――「折角だし、誰か走ってみたいウマ娘はいないかな?」

 

 トレーナーとしては、メガドリームサポーター内に蓄積されている過去のウマ娘のデータが、どれほど再現されるのかを試してみたかったのだろう。それじゃあ誰と走ろうかしら、と考え出した私は、けれどすぐに一人の名前が浮かんでしまった。そして彼女以外なんてもう思いつかなくなってしまった。

 

――「お母さまと走ってみたい」

 

 ……そう告げてしまったのは、やはり私の出来心だ。トレーナーも随分驚いていた。けれど取り繕いようもなく、私はそのまま取り下げることをしなかった。彼も少し考えるような素振りはあったけれど、私の提案を了承してくれた。

 かくして、私はお母さまと走ることになった。

 メガドリームサポーターが再現したお母さまは、トゥインクル・シリーズを走っていた頃に着用していた勝負服に身を包んでいた。URAのアーカイブ映像の中でしか見たことのない姿が、VR空間とはいえ目の前に再現されていて、不思議な感覚がした。でも、変に気負ったりだとか、気持ちが昂ったりだとか、そういうことは特段なかった。いつも通りの模擬レースだ、そう思っていた。

 でも、ひとたびレースが始まると……不覚にも私は、お母さまの走りに見惚れてしまった。

 お母さまのレースを見たことが無い訳じゃない。さすがにメイクデビューやOP未満は見つからないけれど、GⅠ含む重賞戦線で活躍してきたお母さまのレース映像を見ることは容易い。……今更隠しても仕方がないことだけれど、実を言うとクラシック級の頃までは、いつもお母さまのレースを参考にしていた。口ではどれだけ否定していても、結局あの頃の私は、お母さまのようになりたかったのだ。お母さまの歩んだ軌跡をなぞろうとしていただけ、ただの真似事だ。でも、「お母さまのあとを追いかけるのはやめる」、トレーナーとそう決めてからは、意識して見ないようにしていた。

 とはいえ、幼い頃から繰り返し見てきたお母さまの走りは、はっきりと私の脳裏に焼き付いていた。だから、今更その走りに目新しさなどなかったはずだった。

 前を駆けるお母さまには、見る者の目を奪う「華」があった。一つの綻びもない流麗なフォーム。ターフの風をはらむ鹿毛が陽の光でキラキラしていて、思わず息を飲んでしまった。お母さまと走ったウマ娘は、いつもこんな光景を目にしていたんだ、って……少し羨ましくなってしまったほどだ。

 結局私は勝てなかった。トレーナーと二人で磨き上げてきた渾身の末脚を披露したけれど、早々に集団から抜け出したお母さまを捉えられなかった。

 そこで終わらせればよかったのに。私はお母さまとの再戦を選んだ。負けても、負けても、負けても、諦め悪く挑んだ。

 十戦十敗。それでもなお、この挑戦を止めようとは思わなかった。ただ、何が私をそこまで駆り立てるのか、一番大事な部分がまだよくわからなかった。意固地になっている自覚はあった。子供っぽくムキになっている自覚はあった。でも、私をそんな風にしているものの正体が掴めず、自分の中で納得がいかなくて、だから無理を言って挑み続けていた。

 

 

 

「ねえ、トレーナー」

 

 十一度目の正直へ挑戦するべくVR空間のレース場へ立った私は、ゴール板近くでレース分析の準備を進めるトレーナーに声をかけた。カメラの設定やタイム計測の準備をしていたらしい彼は、その手を止めて私に目を向ける。

 自分で話しかけておきながら、私は口を開くのにしばらく躊躇した。

 

「……トレーナーはどう思っているかしら」

「この模擬レースのことかい?」

 

 確かめるように尋ねたトレーナーへ無言のまま頷く。もうVRウマレーターへログインしてしまってから訊くことではなかった気もした。でも、ここまで何も言わずにこの模擬レースへ付き合ってくれている彼に、意見を求めたかった。

 トレーナーはほんの少し考える素振りを見せてから、質問に答えてくれた。

 

「この模擬レースは、キングがやりたいことなんだろう? なら、キングが納得するまでやった方がいい。俺はそう思ってるよ」

 

 淀みのない返答に私の方が言葉に詰まる。

 確かに、この模擬レースは私のやりたいことだ。誰かに強いられる訳でもなく、私が望んで挑んでいる。でも……本当にそれでいいのだろうか。

 

「それは、そうなのだけれど。……前に約束したでしょう。もうお母さまの後は追いかけない、って」

 

 私の言わんとするところを、トレーナーも理解してくれたみたいだ。

 私は私の道を――私だけの「一流」を歩む、そう決めたのは菊花賞も終わってすぐのことだった。それは他でもない、トレーナーが私にくれた助言だった。あの日から、私は誰かに求められたわけでも、誰かに決められたわけでもない、私が自分で選んだ道を私の脚で歩くことにした。

 私が固執しているこの模擬レースは、もしかしたらあの日の約束を違えるものではないか。私にはそんな風に思えてしまう。

 私の懸念を吹き飛ばすように、トレーナーは柔らかに笑っていた。

 

「そうだったね。――でもこの模擬レースが、お母さまの後を追いかけていることになるとは、俺は思わないよ」

「それは、なぜ?」

「キングが純粋に、お母さまに勝ちたくて挑んでるから」

 

 トレーナーの答えに目を見開く。声の出ない私を真っ直ぐに見据えて、彼はさらに言葉を続けた。

 

「これまで十戦、確かに勝てなかった。でも、君は一度も『お母さまのように走ろう』とはしていなかったし、思っていなかっただろう? 確かにあと少し届かなかったけど、君は君自身の走りをしていた。君と俺で一つずつ見つけてきた、『キングヘイローの走り』をしていた」

 

 決して激しい響きのない、穏やかな口調のトレーナー。でも一つひとつの言葉には、私に寄せる絶大な信頼が感じられた。菊花賞後のあの日から――いいえ、それよりずっと前、彼が私の担当になった時から、その信頼は変わらない。私だけの才能も、私だけの走りも、私だけの魅力も、その全てを彼は信じてくれている。一度気づいてしまうと、真っ直ぐで曇りのない信頼は、ひたすらにこそばゆい。胸の辺りがくすぐったくて、高鳴る心臓の分だけ頬が熱い。

 その信頼があったから、私は私だけの道を、胸を張って堂々と歩んでいくことができる。

 

「君は今、競技ウマ娘・キングヘイローとして、同じ競技ウマ娘であるお母さまに勝とうとしてる。お母さまの背中を追い駆ける娘として、ではなくね。――それはもう、普段のレースと何も変わらない」

 

 トレーナーはそう言って答えを締めくくった。私の心にわだかまった、もやもやとはっきりしなかった曇りが晴れていく。自然に唇の端が持ち上がるのを感じた。

 

「ねえ、勝てると思うかしら」

「君が勝てないと思ったことは一度もないよ」

 

 一切躊躇のない返事があって、私は堪らずに吹き出し、笑ってしまった。開いた唇の間から笑い声が漏れる度、胸のつかえが外れて流れていく。VRウマレーターを通して感じる私の脚の感触も、心なしか軽くなった気がした。

 

「ふふっ、そうね。私もそんなこと、思ったことないわ」

 

 私なら勝てる、いつだってそう思ってる。世界中の誰よりもまず、私自身がそう信じてる。そして、私が私を信じているのと同じくらい、トレーナーも私を信じてくれている。積み上げてきた努力、重ねてきた悔しさ、磨き続けた私の脚、その全てを信じている。

 だからこそ……君と勝ちたい、いつだってそう思ってる。強く強く、世界中の誰よりも強く、そう思っている。相手がお母さまだからとか、そういうのは関係ない。私は負けたらいつだって誰にだって悔しくて、でもその度に次こそは勝つと心に決めた。私を信じてくれる人たち――ファン、チームの後輩、友人、ライバル、そして何より彼と私のために、私は勝ちたい。

 

「私は勝ちたいの。――だから挑み続けるわ。十回、二十回、百回、千回、何度だって挑み続ける」

「ああ、それでいい。――そして最後に勝つのが君だ」

「ええ、そうね。――勝って来るわ」

 

 二人きりで勝利を誓い合う。それから目を閉じて一つ深呼吸をした。VR空間で再現された芝と雨の香りを肺に吸い込む。感覚の研ぎ澄まされた肌を涼やかなターフの風が撫でた。そして目を開く。自分の中でスイッチの入る感覚がした。

 

「それで、トレーナー。これからレースに向かう一流ウマ娘に、最後のアドバイスをする権利をあげるわ」

「今更、特別付け加えることは何もないよ。――君らしい走りで勝っておいで、キング」

 

 不敵に笑って答えたトレーナーに、私も高笑いで応える。レース前恒例のやり取りだ。私たち二人にもう言葉はいらない。尽くすべき言葉は全てレース前に尽くしている。あとは彼に勝利を誓い、彼の言葉で送り出されるだけだ。

 どちらからともなく差し出した拳を合わせ、ほんの数秒見つめ合う。私たちはそれで十分だ。

 

「いってくるわ、トレーナー」

「いってらっしゃい、キング」

 

 名残惜しく思いながらも合わせた拳を解き、彼に背を向けて走り出す。府中千八のスタート位置は第二コーナーの途中だ。VR空間で「返し」は必要ないけれど、私はいつも通りに足元を確かめながらターフをゲートへと向かう。穏やかな風が、私の自慢の鹿毛と、勝負服の裾を揺らしていた。

 ゲート前にはすでに出走するウマ娘たちが控えていた。模擬レースとしては破格の条件の、フルゲート十六名の参加。ゲート入りを待つ各ウマ娘はそれぞれに煌びやかな勝負服を身に着けている。しかし、そんな華やかな空間にあっても、()()の存在感は圧倒的だった。

 

「――来たわね」

 

 私を見つけると、彼女――お母さまはほんの少し目を細めた。レース場に差し込む陽の光が横顔を照らし出す。鏡映しのように私とよく似た顔が、VR空間上に再現されている。見る者を圧倒する存在感、目を逸らすことなど許さない華やかさ、一目で虜にされてしまう魅力。一流のアイドルと言われたって信じてしまう、まるで完璧で無敵に思える一流ウマ娘が私の前に立っていた。

 私よりいくらか背丈の低いお母さまを見つめる。今のお母さまとはまた別種の自信を纏うウマ娘に正面から相対し、私は口を開いた。

 

「光栄に思いなさい、今回も私と走る権利をあげるわ」

 

 私の言葉に、お母さまは愉快そうにニヤリと笑う。

 

「よっぽど私と走りたいのね、あなた。――いいわ。私は一流のウマ娘。何度だってこの胸を貸してあげる」

「ふんっ、言ってなさい。あなたよりも私の方が一流なんだから。それを今日ここで証明してあげる」

 

 売り言葉に買い言葉で言い返す。バチリ。お互いに黙った私とお母さまの間で、雷にも似た放電現象が起きる。それは、スカイさんやスペシャルウィークさんとの間に生じるものとは、ほんの少し違うように思えた。

 どちらからともなく目線を外し、ゲート入り開始の合図を待って体をほぐす。奇しくも今回は、私とお母さまは隣のウマ番からのスタートだった。

 体の各所を伸ばし、腿上げをしたりして足元の感触を確かめていると、隣で同じようにしてるお母さまが何気ない風に話しかけてきた。

 

「……わかっていると思うけれど」

 

 まるで独り言みたいに、お母さまは発バ機の方を見つめたまま口を動かしている。その横顔をチラリとだけ窺い、私も同じように発バ機へ目を向けて彼女の言葉を聞いていた。

 

「私は所詮、影に過ぎないわ。かつてターフを駆けたウマ娘の、データの集合体。それが私」

 

 お母さまの――いいえ、かつてのお母さまによく似たウマ娘の言葉に私は沈黙を貫く。そんな私を彼女もまた一切窺わない。二人並んで発バ機を、そしてその向こうのコースを見つめる。発走時刻はもう間もなくだ。

 

「私はあなたが本当に走りたい相手じゃない。あなたが求めている答えも言葉も、私は与えてあげられない。それは本物の私の役割でしょう」

 

 私たちの間にVR空間の再現したターフの風が流れる。レース場特有の芝と雨の香り、じりじりとした熱気。それらが近くて遠い私たちを隔てた。

 ……レースの世界に行きたい、そう決めた時からたくさんの夢を描いた。描いた夢はほとんどが叶わなくて、でもほんの少しは叶えることができたりして、そうして今の私がここにいる。でも……一番初めに見た夢は、夢見たその日から叶わないことがわかっていた。

 お母さまと同じターフに立って走ること。その夢だけは絶対に叶わない。

 今目の前にある光景は、あの日の夢そのものだ。でも本物じゃない。それは私もわかっている。

 

「ねえ、あなたは私に何を求めているのかしら」

 

 確かめるお母さまの言葉は、これまで以上に真剣な響きだった。影を追い駆けるのはやめなさい。本物の代わりを影に求めるのはやめなさい。「所詮データ」と自分で言っていたくせに、お母さまの言葉にはそんなニュアンスが含まれていた。

 ……本当に、データでだってお節介で心配性な人だ、まったく。本物のお母さまなら言い出しかねないことなのが尚更。

 でもその心配は、的外れもいいところだった。

 

「何か勘違いをしているようだけれど」

 

 準備運動の手を止める。ファンファーレはないけれど、トレーナーからゲート入りの合図があった。各ウマ娘が順にゲート入りしていくのを待ちながら、私はお母さまの言葉に答える。

 

「私があなたに求めるものは一つだけ、私との真剣勝負だけよ」

 

 叶わない夢をいつまでも引き摺るつもりはない。私は一流のウマ娘、キングヘイロー。一流は過去にはとらわれない。一流はいつだって前を見て進み続ける。希望も絶望も、栄光も挫折も、歓喜も悔恨も、全てひっくるめて受け止め積み上げて、そうして前へ踏み出していく。現状に満足せず、常に高みを目指し、ただ前だけを見据えて進み続ける意志、それこそを一流と呼ぶのだ。

 だから、私がお母さまに――模擬レースを走るウマ娘に求めることは一つだけ。私と真剣勝負をしてくれることだけだ。

 

「私があなたに挑み続けるのは、単に私があなたに勝ちたいから。それ以上でもそれ以下でもないわ」

 

 そして勝つことで証明してみせる。今日の私は、確かに昨日の私よりも前に進んでいるのだと。そしてこれからも前に進み続けるのだと。

 私の答えにお母さまは満足したらしかった。小さな笑い声を残して、私よりも先にゲートへ入った。それから少し遅れて、私もゲート内に収まる。背後で扉が閉まった。

 

「それを聞いて安心したわ。――勝てるものなら、勝ってみなさいな」

 

 隣のお母さまがコースの先を見据えたまま最後にそう言った。大外のウマ娘が収まって発走準備が完了し、全員が身構える。張り詰めた沈黙が周囲を満たした。

 次の瞬間、ゲートが開く。各ウマ娘が一斉に駆け出して、レースが始まった。

 私とお母さまはほとんど同時にゲートを飛び出した。そのまま緩やかに加速して前の位置を取りに行くお母さまに対して、私は最低限の速度に乗せるだけで後方へ下げた。出走しているウマ娘の傾向からして、先行勢と後続勢で大きく二つの集団ができることは、トレーナーとの事前分析から予想できた。思い切りよく逃げるウマ娘もいないし、隊列もそこまで長くならないだろう。そうすると、終盤にはウマ娘たちが固まって団子のようになる可能性が高いと、トレーナーは見ていた。バ群に巻き込まれるのは、私が最も不得手とする展開だ。

 勝つための選択肢は一つだけ。距離のロスはあるものの集団の外を回してバ群に巻き込まれることを避けるしかない。とはいえこれが問題だった。私の入った枠は三枠六番。内枠だ。そのままスムーズに大外へ持ち出すことはできない。普通はそのままの位置でレースを進め、コーナーなどで外へ持ち出すことになる。

 だけど私は別の手段を選んだ。

 外枠から飛び出てきた先行勢と後続勢が互いを牽制し、激しい位置取り争いをしながら私を追い抜いていく。自分の位置がみるみるうちに下がっていき、内心を冷や汗が伝った。でもそれを何度か深く息を吸うことで落ち着かせる。勝負は私より外枠のウマ娘が全員私より前に行ってからだ。

 序盤の位置取り争いが一段落をする頃には、先頭を行くウマ娘が向こう正面の直線に入っていた。後ろから二番手の位置まで下げた私からは、それ以上の情報は手に入らない。共にスタートを切ったお母さまは、おそらくいつも通りに先行勢の真ん中あたりにつけているだろうけれど、それもここからでは確認できなかった。

 覚悟を決めて一つ息を入れる。私の勝負はまだ先、集団が第三コーナーにかかってからだ。それまではじっと機を窺い、脚を溜める。

 大きく隊列が動くことなく、ウマ娘たちの集団は第三コーナーへと突入していった。先頭のウマ娘を皮切りに、先行勢、続いて後続勢もカーブに差し掛かる。私のすぐ前に形成されたウマ娘の集団が、荒れた内のバ場を避けつつ内ラチに沿って曲がっていく。一方の私は、彼女たちよりもわずかに大きく膨らみながらカーブに入った。同時に抑えていた速度のギアを一段階上げる。位置をわずかに上げて、私は後方三、四番手で後続集団の大外につけた。

 大外でレースをするために私が選んだのは、集団を捌いて外へ持ち出す方法ではなく、思い切って最後方付近まで下げ、集団を後ろから丸ごとかわして外に出る方法だ。周囲に気を配りながらバ群を捌いていくよりも確実に大外へ持ち出せるが、距離のロスが一番大きいうえにレースの半分以上を大外へ回すことに使ってしまうため、最終盤までに位置を上げておくことが難しい。直線が長く差しのレースが決まりやすい東京と言えど、この走り方は大きなリスクを伴う。でも、この走り方が一番私の実力を発揮できる。私もトレーナーもそう判断した。

 第三コーナーを集団の外へつけながら回り、大ケヤキの影を越える。試しに前方の様子を窺ってみるけれど、カーブからでは前の集団が壁になって見えない。先頭からどれくらい距離が開いているのか、先行集団の動きはどうか、今はわからない。でも逆に、それがよかったのかもしれない。いっそ割り切って自分の走りに集中できる。大外を回すことで、私は他のウマ娘よりもやや長い距離を走っている。焦りも(はや)りも命取りだ。

 大ケヤキを越えて第四コーナーへ差し掛かる。レースは後半戦だ。すでに残り八百メートルのハロン棒を越えている。千メートルの通過は体感で六十一、二秒だろうか。だとすると先頭は六十秒を少し回ったくらい。千八百メートルとしては平均かやや遅いタイムだ。展開としては先行勢が有利となる。

 思考と判断の時間はほんの数瞬、一定のリズムで繰り返す呼吸一回分の間だ。私は意を決して脚に力を込める。それまでよりもほんのわずかに強く地面を蹴り、走りのギアをさらに一段階上げる。私の体がグンと加速して前に出た。スパートというほどではないがペースを上げ、位置を上げる。前目有利の展開で、いつもの位置から仕掛けても勝てない。

 大外を回りながら前に出て、後続集団中央付近の外を走る。見慣れた東京レース場の景色が視界の端で流れ、もう間もなく最終直線へ向くことを報せた。あと数秒もすれば、先頭のウマ娘は長い東京の直線に入る。そこからさらに数秒で全てのウマ娘が最終コーナーを回り切り、後は直線勝負だ。

 後続集団の中にさざ波のようなざわめきが広がる。誰もが勝負の時に向けて備えていた。すでに動き出しているウマ娘も少なくない。

 そしてついに、ウマ娘の隊列は最終コーナーを越えて、五百メートル超の最終直線に入った。激しく動き出した集団越しに、残り四百メートルを示すハロン棒が見える。私の勝負はあのハロン棒を越えてからだ。

 みるみるうちに「四」の数字が書かれたハロン棒が迫り、数秒の後に視界の端を通過した。残りは四百メートル。ここからが最後の正念場だ。

 脚に力を溜める。わずかに腰を落としてぐっと踏み込む。丁度、バネが縮むような感覚だ。そして縮んだバネは、解放してやれば凄まじい速さで飛んでいく。

 溜め込んだ足の力を一気に解放する。瞬間、体がふわりと浮き上がるかのような錯覚を受けた。キングヘイローというウマ娘の醍醐味である豪脚が解放された瞬間だ。一度スパートをかければ、私は風とも稲妻とも競える。ターフに吹くそよ風など置き去りにして、私は先団を目指し大外一気に駆け上がった。

 だけど……予想通りに、ほとんど同じタイミングで私よりも前に躍り出たウマ娘がいた。

 走りながら思った通り、レースは先行有利な展開になっていた。先行集団は十分な脚を残してラストスパートに入っている。けれどその中にあって、苦も無く一足抜け出したウマ娘がいた。置き去りにした風に艶やかな鹿毛をなびかせる一人のウマ娘。それが一体誰かなんて、今更確かめるまでもなかった。

 先行集団から一歩前に出たお母さまは、すでに先頭を走るウマ娘を捉えていた。そのまま難なく抜き去って、隊列の先頭へ躍り出る。先行勢が必死に追いかけるが、彼女の脚に敵う者はいない。じりじりとその差が開いていった。

 でも。だけど。たった一人、彼女に届いて勝てるウマ娘が、ここにいる。

 そのウマ娘は、十度の敗北を経験してなおここで走っている。敗れても、敗れても、敗れても、決して諦めることなどしない。だってそうでしょう。たったの十回なんて、ライバルたちに負かされた数に比べれば、取るに足らない。だからそれぐらいで音を上げて、絶望して、諦めるなんて、絶対にありえない。俯くにはまだ早い。一流のウマ娘は常に顔を上げて、前を見据えて走る。汗も涙も速さに変えて、勝利という栄光へ邁進する。不屈で編んだエメラルド・グリーンの勝負服を、ターフを駆ける緑の閃光にして走る。そのウマ娘の名は――

 

「キングヘイローッ!」

 

 猛スピードで後方へ流れていく風の中、私の名前を呼ぶ叫び声が耳を掠めた。誰の声かなど言わなくてもわかる。前を駆けるお母さまがチラリと振り返り私を窺った。汗を滴らせる一瞬の横顔が、「来るなら来なさい」と挑戦的に口角を吊り上げる。

 言われなくても――絶対に勝ってみせる。

 残り四百メートルからスパートをかけた私の脚は、残り三百メートルを切ったところでついに最高潮を迎えた。最後の末脚が私の売りだけど、残念ながらエンジンのかかりが若干遅い。一瞬で最高速まで加速できるわけではない。だけど、一度エンジンに火を点けてしまえば、私とトレーナーで鍛えてきたこの脚は、誰よりも速い。

 後続集団はすでに抜き去り、先行集団の後方へ取りつく。まだ十分に脚を残してしぶとく走っている彼女たちだけれど、いかんせん集団が固まっているせいで全力を発揮できているわけではなかった。早めに抜け出したお母さまが正解だ。私は何とか外に持ち出そうとする彼女たちに針路を邪魔されないよう、距離を取りながら大外を捲っていく。一人、また一人、ウマ娘を抜いていく。一歩、また一歩、前へと踏み出していく。そうしてその先に、今二百メートルのハロン棒を通過したお母さまが走っていた。

 奥歯を食い縛ってなおも全力で走る。体中に疲労が溜まっている。意識しないようにしているけれど、早鐘のような心臓と、振り絞った肺が痛い。でもまだ脚は動く。全力で走れる。零れる汗を滴るそばから後方へ流して、私はお母さまへ迫った。

 残り二百メートルを切ったところで、先行集団の最後の一人を捉えきり、抜き去った。残るはただ一人、お母さまだけだ。鹿毛を揺らす背中がもうはっきりと見える。あと少し、あと少しで手を伸ばせば届きそうだ。勝負はもう十秒ほどしかない。そのたった十秒で十一度目の決着がつく。

 追いかける背中には、もう一バ身の差もない。あと数歩で追いつける。あと数歩で追い越せる。そんな距離だ。でも、そのあと数歩が果てしなく遠い距離だと、私はよく知っている。半バ身差、クビ差、アタマ差、そんな差で負けたレースは数知れない。記録される時計には、コンマ一秒の差すらないことだってある。そのほんのわずかな差をかけて、ウマ娘たちは鎬を削っているのだ。簡単に抜かせてくれるウマ娘など、この世のどこにも存在しない。

 私にできることは、ただ前に出ること。私の全力が――積み上げてきた努力と、磨いてきた才能と、勝ちたいと願う心の全てが、前を行く背中に届くと信じて走ることだけだ。

 腕を振り、脚を上げ、大地を蹴って走る。全身全霊でお母さまの背中に迫る。残りはもう百メートルもないだろう。ようやく半バ身まで近づいたけれど、私たちの距離はじりじりとしか詰まらない。もう目の前に見えるゴール板を越えるまでにこの差をゼロにして前に出れるかは五分五分だ。

 走る。走る。走る。走る。走る。ただ我武者羅に走る。目の前のゴールだけを見つめて走る。共に走るお母さまの熱い息遣いを聞いて走る。駆ける疾風となり、轟く迅雷となり、ひたすらに走る。

 勝ちたい。周りよりもほんの少し負けず嫌いな心を燃やして、私は走る。

 クビ差まで迫り、アタマ差まで並んで、ハナ差まで詰め寄った。東京レース場のゴール板はもう目の前だ。私が前だとか、お母さまが前だとか、もうそんなのわからなかった。ただひたむきに走った。ただひたすらに走った。すでに上がり切った息を二人で吐いて、それでも負けじと歯を食いしばり走った。燃え滾る呼吸も、早鐘のような心音も、芝を舞い上げる足音も、切り裂いた風の轟も、一体どちらのものかわからないくらい。まるで世界には、私とお母さまのたった二人しかいないみたいに、私たちは互いに譲るまいと走った。

 

「――ふふっ」

 

 ゴール板を駆け抜けたその時、小さな笑い声を確かに聞いた。最初、それは隣で走るお母さまのものだと思った。でも少しして、自分も同じように笑っていることに気づく。どうしようもなく可笑しくて、嬉しくて――楽しくて。私は自然に笑ってしまっていた。

 全力を出し切った脚は、ゴールを駆け抜けて減速しようとした瞬間に、すっかり力が抜けてしまった。惰性で走る体を何とか支えながら減速し、他のウマ娘の邪魔にならない場所でターフに仰向けで倒れ込む。隣のお母さまも同じように、私のすぐ右隣りで寝転んだ。散々酷使した肺へ新鮮な空気を送り込む。しばらく言葉も発せずに、私たちは荒い呼吸を繰り返した。そうこうする間に全員がゴールし、AIがすぐさま着順を発表する。ハナ差でレースを制したのは――私だった。

 

「――よっし!」

 

 思わず声が漏れて、眼前の青空に向け右の拳を突き上げた。息はまだ整っていなくて、それ以上の言葉は出てこない。でも、それ以上何かを口にする必要もない気がした。青い空に勝者の拳を伸ばす、それだけで私は十二分に満足だ。

 ふと、私の突き上げた拳に、別の拳が伸びてくる。コツリ。私の隣で握られた左拳が、私の右拳を軽く叩いて合わさる。チラリと隣を見遣ると、お母さまが私と同じように青空を見上げていた。横顔に見える頬がすっかり緩んでいる。私の視線に気づくと、彼女は汗まみれの顔を私に向けて、益々笑みを深めた。艶やかにリップを引いた唇がゆっくりと動く。

 

「おめでとう」

 

 笑顔で贈られた祝福の言葉に、私も負けないくらい満面に笑って応えた。

 

「ありがとう」

 

 雲一つない空をもう一度見上げ、合わせた拳を私も軽く叩き返す。お母さまはコロコロとくすぐったそうに笑って、掲げた拳を降ろした。私もゆっくりと手を下げる。もう少しの間は息を整えていたい。

 三十秒ほど息を整えた後、沈黙を破ったのはお母さまだった。

 

「――あーあ、負けちゃったわね」

 

 悔しさの滲む声を青空へと吐き出す。私はそれに、今までの仕返しとばかりに言葉を返す。

 

「ふふん、言ったでしょう。私の方があなたより一流だ、って」

「……あら、今日はたまたま、勝ちを譲ってあげただけよ。次は私が勝つんだから」

 

 負けず嫌いな返事に私はつい笑ってしまう。お母さまは不満げに鼻を鳴らしたけれど、すぐに気の抜けた笑みを零した。そうして柔らかな溜め息を一つ吐く。それまでの悔しそうな雰囲気とは打って変わった、清々しく満足げな溜め息だった。

 

「認めるわ。あなたは確かに一流のウマ娘。走りも、気迫も、素晴らしかった」

「……今更ね、そんなこと。当然の事実だわ」

 

 青空を見上げたまま答えた私に、お母さまはまた堪えきれなかったように小さく笑う。コロコロした笑い声を彼女が収めるまでの数秒間、私は黙ってそれを聞いていた。私の言葉をバカにする響きはちっともなくて、むしろ嬉しそうだと私には聞こえていた。記憶の中のお母さまも、嬉しいことがあると同じように笑っていた。

 笑いを収めた後、お母さまはぽつりと呟く。

 

「あなたなら、きっといいライバルになれたわ」

 

 とても寂しそうな言葉に、そっと隣を見遣った。お母さまは目を閉じて静かに息をしている。表情は変わらず穏やかだ。横顔から何かを窺うことはできない。

 ……お母さまにも、私にとってのスカイさんやスペシャルウィークさんのようなライバルがいたことは、知っている。でも、お母さまがライバルと走れた期間は短かった。トゥインクル・シリーズの後半、そしてドリーム・トロフィー・リーグを走っている間、お母さまにはライバルらしいライバルはいなかった。極端な話、お母さまはその間、競い合う相手もなく一人で孤独に走っていた。

 目の前の彼女は、所詮はお母さまの影。お母さまというウマ娘の過去のデータを集めて作られた存在。走りはともかく、お母さまという一人のウマ娘を、その内面まで再現できているのかはわからない。

 でももしかしたら……お母さまはずっと、ライバルが欲しかったのかもしれない。

 

「……あなたはライバルなんかじゃないわ」

 

 お母さまの横顔を見つめるのはやめて、私は上体を起こした。上手く言葉にできるかはわからない。だから、レース終わりの頭をフル回転させて、よく考え言葉を選んだ。

 

「ライバルとは、共に競い合い、高め合う存在。でも、私にとってのあなたは違う」

 

 黄金世代とも呼ばれる、私のライバルたちが浮かぶ。いつでも、どんなレースでも、たとえ模擬レースでだって負けたくない、私のライバル。彼女たちに勝ちたい、そう思う気持ちは今日のお母さまへのそれと変わりない。でも……勝ちたいという気持ちは同じでも、そう思う動機は少し違うのだ。

 その違いを説明する言葉を、私は一つしか知らない。私にとってお母さまが、ライバルではなく何なのか。そんなの一つしか思いつかない。

 

「あなたは……私の憧れ。そして憧れとは、いつか自分の脚で越えるべき存在よ」

 

 最初からわかっていた。自覚したのは随分経ってからで、認められたのはつい最近だ。はっきりと口にしたのは、もしかしたらこれが初めてかもしれない。

 記憶すら曖昧な、幼かったあの日。ターフで笑うお母さまに憧れた。汗にまみれてなお、ターフに吹く風を纏って眩く笑うお母さまに憧れた。いつか私もお母さまのようになりたい、そう思ったから私はレースの道を選んだ。

 お母さまのようになることは、もうやめた。お母さまの真似事ではなく、私自身の道を歩くと決めた。もうその背中を追い駆けることはしない。でも、憧れることをやめるつもりはない。随分時間がかかったけれど、私はお母さまに憧れているのだと認められた。その気持ちを捨てるつもりはない。

 憧れているからこそ、負けられない。憧れたその背中に追いつき、追い越したい。もちろん、私が信じた、私の走りで。

 寝転んだまま私の言葉を聞いていたお母さまが、見開いていた目を細く和らげる。緩んだ唇から零れる笑い声に、寂しい響きはもう無かった。

 

「ふふっ、憧れなんて光栄ね。――きっと本当の私も、それを聞いたら喜ぶわ」

 

 何気ない呟きに私は思わず言葉が詰まる。お母さまに憧れている、そんな単純なことすら、認めるのに随分時間がかかった。それを口にすることだって、まだこそばゆい。まして本人に直接聞かせるなど、今はできる気がしない。

 覚悟を決めて息を一つ吸う。レース後の火照りとは違う頬の熱を自覚して、目線は明後日の方へと逸らした。例え本物でなくたって、本人を前にして口にするのは気恥ずかしさが勝った。

 

「すぐにではないけれど……いつかきちんと、伝えますから」

 

 お母さまは何も言わなかった。ただ静かに、満足した様子で頷いた雰囲気だけが、芝の擦れる音で伝わってきた。

 

「ええ。ぜひ、そうして頂戴」

 

 私たちの話はそれで終わった。そしてタイミングよく、トレーナーが私のもとへ歩み寄ってくる。私とお母さまの話が終わるのを待っていたのだろう。

 私もお母さまも立ち上がって、裾を払い、身なりを整えた。私は踵を返し、トレーナーのもとへと歩み寄る。私を出迎えた彼は、「いい走りだった」と短く褒めて、私とハイタッチを交わした。詳細なレースの振り返りは、VRウマレーターをログアウトしてからだ。

 

「キング」

 

 ログアウトしようとした私をお母さまが呼び止める。スラリと伸びる二本の脚でターフに立つ姿は、やはり堂々としてこちらの目を惹いた。私の憧れによく似た少女は不敵に笑う。

 

「またいらっしゃい。私はいつでもここにいる。――いつだって相手になってあげるわ」

 

 VRウマレーターの生み出すターフの風が、私たちの間に吹く。決して強くなく、けれど確かに吹いた風は、私の鹿毛と、お母さまの鹿毛を梳いてなびかせた。

 風に舞った髪を押さえ、嘆息と微苦笑を混ぜて私は答える。

 

「もうしばらくは来ないわ」

「あら、そう」

 

 お母さまは短い返事をしただけだった。

 ログアウトを確認するメッセージに「はい」と答えると、VRウマレーターからのログアウトが始まる。次第に消えていくVR空間の中で、お母さまは最後まで律儀に手を振って、私とトレーナーを見送ってくれた。

 

「さよなら、私の光輝ある君(ヘイロー)。――いいえ、キングヘイロー」

 

 

 

 

 

 

「ほら、あと少しよ! 気合い入れていきなさい!」

「トレセーン! ファイ!」

「オー!」

 

 外周トレーニング中の後輩たちを鼓舞する声と、それに応える掛け声が午後の空に響いていた。目標としていた公園まではあと一キロほど。額に汗を流すウマ娘たちは、一列になった隊列を崩さず同じペースで走り続けている。その隊列から一人はずれ、キングはメガホン片手に後輩たちを激励していた。特に最後方で苦しそうにしている新人には頻繁に声をかけている。そんな自チームの様子を、俺は併走する自転車から見守っていた。

 三分ほどでチームは公園まで辿り着いた。デビュー済みの子たちにはまだ余裕があるが、新人二人は揃って肩で息をしていた。特に最後方だった青鹿毛の子は息も絶え絶えだ。まだ断じるのは早いが、彼女の適性はスプリント路線かもしれない。

 キングは自転車の荷台に積まれたクーラーボックスを開けて、早速よく冷えたスポーツドリンクのペットボトルを差し出していた。

 キングを中心にして休憩を取るウマ娘たちを見守りつつ、俺は鞄からタブレット端末を取り出した。メガドリームサポーターの実装と同時に各トレーナーに配られた、学園支給の端末だ。このタブレットと、ウマ娘の速度や脈拍を計測できる端末を併用することで、リアルタイムでのデータの蓄積と分析が可能になっている。限定的ではあるが、もちろんメガドリームサポーターの支援も受けられる。各ウマ娘ごとに次のトレーニングの負荷を考える参考になった。

 

「――ねえ、どんな感じかしら」

 

 担当ウマ娘たちの状態を確認して、次のトレーニングの負荷に細かい調整を入れていると、隣に立ったキングがタブレットを覗き込んできた。俺はキングの方にタブレットを差し出し、彼女も見やすいようにする。最近はこうして、二人でトレーニングの内容を考える機会が増えた。キングは俺と同じかそれ以上に、後輩たちの様子を気にかけてくれている。

 データの見方や分析、AIの見解と俺の見解、そしてキングの意見。それらを交えて話を進めていく。開けっ放しのスポーツドリンクに口をつけるのも忘れて、キングは俺の話を聞いていた。時折自分の意見を口にする時は、必ずタブレットから顔を上げて俺の方を見る。栗色の瞳は真剣そのものだった。

 一つのタブレットを覗き込んで話をしていると、ふいにお互いの二の腕が触れる。俺とキングはお互いの体がぴたりとくっつくほどに身を寄せ合っていた。キングはチラリとだけ俺を窺ったけれど、特に気にした素振りもなく話の続きを促す。

 

「――ん、そうね。これで行きましょう」

 

 キングは納得して頷いて、思い出したようにスポーツドリンクへ口をつけた。細く白い首筋が薄い汗を伝わせながら動く。彼女が小さく息を吐くのを聞きながら、俺はタブレットの電源を落とした。

 

「はい、トレーナー」

 

 手にした鞄へタブレットを仕舞うと、キングが俺の方へスポーツドリンクを差し出して来た。蓋の開いているペットボトルは、つい今しがた彼女が口をつけていたものだ。

 

「あなたも相当自転車を漕いだでしょ。きちんと水分は取らないとダメよ」

「ああ、ありがとう」

 

 有無を言わせぬ表情と口調のキングからありがたくペットボトルを受け取り、一口含む。最初は割と気にしていたのだが、キングは平然と自分のものを差し出してくるし、反対に俺のものを口にしたりするので、少なくとも彼女に対して俺は気にしないことにした。話を聞くと、小さい頃からお母さまやメイドたちと食べ物や飲み物をシェアするのが当たり前だったらしく、俺に対してもその延長線なんだと思う。多分、年の離れた兄のような感覚なのだろう。

 一口もらったスポーツドリンクを返すと、キングはもう一度口をつけてから蓋を閉め、ペットボトルをクーラーボックスへ仕舞った。他のチームメイトもそれぞれのペットボトルを戻す。ここからは学園への復路だ。

 体を解す担当ウマ娘たちを確認しながら、俺もまた併走用のママチャリに跨る。キングはというと、やはり列からは外れて一番後ろの新人に話しかけに行った。

 

「ほら、あと半分よ。私も隣で走るから、一緒に頑張りましょう」

「は、はいっ」

 

 キングに話しかけられた新人は、嬉しさと緊張を半々にして、うわずった声で返事をしていた。キングを見つめる瞳には純粋な憧憬の色が見えている。それに気づいていないフリをしているのか、キングは至って平静を装って走り出す準備をしていた。でも、尻尾がソワソワしているのは俺からだと丸わかりなので、こちらとしては笑いを噛み殺すのに必死だった。

 

――「わ、私っ。キングヘイローさんが憧れなんですっ。キングヘイローさんに憧れて、トレセン学園に来ましたっ」

 

 選抜レースのその日、俺に走りを見ていてほしいと話しかけに来た彼女は、頬を上気させながらそう言った。そして同じことを、俺がスカウトして初めてチームに加わった時も、威勢良く宣言していた。

 確かに、もうそういうことがあってもおかしくはない。キングがデビューしてすでに三年以上。彼女に憧れて学園にやって来たウマ娘が現れてもいい時期だ。

「憧れ」という言葉をキングが強く意識したのは、きっとそれがきっかけだったのだろう。

――キングとお母さまの、最後の模擬レースからすでに一か月以上。あれ以降、キングが俺にVR模擬レースを提案してくることはなかった。

 十一戦目にしてお母さまに勝った、というのも一つの理由ではあるだろう。でもそれだけではなく、むしろあの時の勝利はキングにとってきっかけでしかなかったのだと思う。

 キングがお母さまを強く意識していることは、彼女をスカウトする前から知っていた。彼女を担当するようになってからは、そのこだわりが俺の――あるいは彼女自身の想像よりずっと強かったことにも気づいた。「お母さまのようになりたい」は比喩表現でも何でもなくて、キングはお母さまと同じ王道を歩むことで自らの才能を証明しようとしていた。お母さまの真似事をしていた、と言ってもいい。

 菊花賞を契機にお母さまを追いかけることはやめ、キングはキングだけの道を歩み始めた。お母さまの真似事をしなくたって、キングにはキングだけの魅力があることを、今の彼女は知っている。そんな彼女だけの素晴らしいところを、好ましく思っている人たちがいることも、よく知っている。キングが以前のようにお母さまへ強いこだわりを見せることは、もうなくなった。でも、かと言って全く意識しなくなったかというと、そうではない。いつでも頭の片隅にお母さまがいることは、俺もキング自身もわかっていた。

 今回、VR模擬レースを通して、キングはお母さまに対する感情が「憧れ」であると気づいた。いや、正確に言えば、もう随分前に俺もキングもその答えには薄々勘付いていた。あくまで今回、その「憧れ」をはっきりと認識して、そして認めることができた。ただそれだけのことだ。でも、キングにとってその意味は、とても大きかったのだと思う。

 

――「私の憧れはお母さまよ。今更それをやめるつもりはないわ」

 

 模擬レースが終わった後、キングははっきりとそう言い切った。俺としては、その答えには大満足している。だってそれは、きっと何より強くて純粋な、キングの原動力になるのだから。

 憧れは止められない。キングはこれからも、憧れに近づき、いつか追い越すために努力と研鑽を重ねるのだろう。もちろん、彼女自身の脚で。彼女自身の選んだ道で。

 そして今、自身で決めた道を邁進するキングの背中に、憧れる者が現れた。きっとこれからも、何人も現れる。かつてお母さまに憧れて走り出したキングが、今度は誰かの憧れになっていく。

 多くの人が憧れる一流ウマ娘、キングヘイロー。そんな彼女の隣に立ち、その走りの一助となれたのなら。これ以上の栄誉はあるまい。そのために俺もまた、彼女に負けず劣らない努力を積み重ねよう。彼女と歩む一流トレーナーとして、そして彼女が選んだ一流トレーナーとして、相応しくあるために。

 

「――それじゃあ、始めるぞ」

 

 腕時計で時刻を見ながら、スタートの合図を送る。先頭のペースメーカーが腕時計型の端末でタイムを計り始め、走り出す。一列で学園への帰路についたウマ娘たちを、俺も一拍遅れて自転車で追い駆けた。俺のすぐ前を走るのは、キングと、キングに見守られる新人だ。

 後輩を励ましながら走るキング。緩やかに巻かれた鹿毛が風になびいて、しなやかに流れていた。誇り高くシャンと伸びた背筋。スムーズな脚運び。時折覗く横顔には、競技ウマ娘としての真剣な眼差しと、後輩を見守る柔らかな笑みの両方が垣間見える。

 なるほど、憧れるのも頷ける。見る者を惹きつけて離さないキングの魅力。彼女をスカウトすると決めた時から、その魅力にすっかり心奪われていたことを、今更ながらに思い出した。



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花愛ずる王

二十六話目。ファンから贈られた花を大切にしているキングと、キングのお気に入りのお花屋さんの話。
昨年の夏に頒布した小説同人誌「キングヘイロー/zero」に収録したお話です。


 レースと花には切っても切れない縁がある。

 レースを走るウマ娘が花を受け取る機会は多い。レースに出走したり、ライブに出演したり、URA主催のイベントに参加したり、そうした折につけてファンやスポンサーが花を贈ってくれる。贈られる花の形態も、花束だったり、フラワースタンドだったり、アレンジメントだったりと様々だ。人気の高いウマ娘ともなれば、控室の一角にこんもりと花の山ができる。過去には花だけで控室が埋まってしまった、なんていう話もあるそうだ。

 俺の担当ウマ娘であるキングのもとにも、ファンたちから頻繁に花が贈られてくる。GⅠを含む重賞戦線の常連で、ライブパフォーマンスも一流であり、かつファンサービスも手厚く、メディア露出もそれなりにあるとなれば、キングが相応の人気を獲得しているのは当然のことだ。でも、キングに花を贈る人が多いのは、それだけが理由ではない。

 キングはとにかく贈られた花を大切に扱っていた。もらった花束やフラワースタンドとは、必ず一つひとつ一緒に写真を撮って、後日学園が運営するファンクラブサイトへ掲載していた。お礼のメッセージとサインまで添える徹底ぶりだ。ウマッターやウマスタのアカウントを開設してからは、ウイニング・ライブ後にすぐそうした写真をアップしていた。

 写真だけでなく、キングはできる限り、もらった花を引き取るようにしていた。ウマ娘宛に贈られた花、特に大きくて持ち帰るのが困難なフラワースタンドなどは、URAやイベント運営の方でまとめて回収するのが常だ。でも、キングは別で業者にお願いして――もちろん、手配するのは俺だ――自分宛ての花は全て学園まで持ち帰り、トレーナー室に飾っていた。

 

――「お花をもらったのは私なのだから、どうするかは私の勝手でしょう」

 

 そう言って、毎日せっせと花の手入れをしていた。俺もちょこちょこ水を換えたりしていた。おかげで、レースやイベントの後しばらくはトレーナー室が花で彩られ、退屈しなかった。

 これだけ大切に扱ってもらえるのなら、花を贈る方としても嬉しい気持ちが大きいのだろう。キングにはすっかり花束を贈る固定客がついていた。

 

 

 

「この花束、持って帰ってもいいかしら。部屋に飾りたいの」

 

 トレーナー室に引き取った花束のうち一つを取り上げて、キングがそんなことを尋ねた時があった。花を移し替える花瓶やらなんやらを用意していた俺は、妙なことを訊くなと思いながら「もちろん」と答えた。

 

「キングがもらった花だから、キングが好きにしていいよ」

「……それもそうよね」

 

 変なことを訊いてしまった自覚はあったのだろう。キングは微かに頬を染めて頷き、花束を引き取っていった。

 それからというもの、キングは時折自室にも花束を引き取っていくようになった。本人は「部屋に飾るのに手ごろなサイズを探してるの」と言っていたけれど、それにしては熱心に吟味――というよりも、最初から決まった花束を探しているように見えた。それも何度か繰り返せば、いつも同じ花屋からの花束を持って帰っていることに気づいた。花屋の名前は「リ・ブラン」といって、学園から少し離れたところに構えた個人経営の店らしかった。キングのお気に入りの花屋なのかなと、ぼんやりそんなことを思っていた。

 花屋の名前を憶えると、別のことにも気づいた。同じ名前の花屋から、キングだけでなくチームメイトのもとにも花束が届けられることがあった。チーム全員で学園主催のライブに参加した時には、チーム宛の立派なフラワースタンドまで。全国規模で展開しているフラワーギフトのサービスならまだしも、個人経営のお店に複数のファンが偶然花束を注文した、なんてことは考えにくかった。だから多分、キングに花を贈ってくれるファンと同一人物なのだろうと思った。キングを応援するうちに、俺が担当するチーム全体まで応援してくれるようになったのかもしれない、そんなことを想像した。担当トレーナーとしては、ただただ嬉しく、ありがたい限りだった。

 気づけば俺も、レースやイベントの度に、同じ花屋からの花束を探すようになった。

 

 

 

 ある日、チームのメンバーがまだやって来ないうちにトレーナー室を訪ねたキングが、お母さまへ花を贈りたいと言い出した。なんでも、近々お母さまが主催するファッションショーがあるとかで、そのお祝いにとのことだった。キング個人ではなく、チームの連名で贈りたいらしく、だから俺のところへ話を持ってきたそうだ。

 業界でも一、二を争う一流の勝負服デザイナーであるキングのお母さまは、勝負服のファッションショーを時折開催していた。俺も何度かキングに誘われて見に行ったことがあった。キングはいつも興奮気味にあれこれショーや勝負服の話をしてくれて、ショーを楽しんでいるのはよくわかった。でも、こうして花を贈りたいと言い出したことはなかった。当人からも花を贈ったという話は聞いたことがなかった。

 ともかく、俺としては反対する理由がなく、また二人が歩み寄るきっかけとしてもいいだろうと思って、俺はキングの申し出を了承した。キングは気恥ずかしそうにお礼を言った後、花屋の名刺を俺に渡してそのお店を使うよう指定した。受け取った名刺には、例の「リ・ブラン」という花屋の名前があった。

 点と点が線で繋がった俺が名刺から顔を上げると、キングは顔を真っ赤にしてそっぽを向いていた。

 

「……そういうことよ」

 

 まだ何も言っていないのに、キングは俺の考えを肯定した。そして明後日の方角を向いたままの赤い顔で、あれこれとお母さまへの文句を言い始めた。やれ、これでバレていないつもりなのか、だの。やれ、こんな回りくどいやり方するなんて、だの。そんなキングに俺は堪らず吹き出した。それはもう、ただ母親へ素直になれない、反抗期の少女にしか見えなかった。すでにその時期を過ぎた俺からすると、くすぐったいほどに可愛らしかった。

 キングはあまり怖くない怒り方で抗議を寄越したけれど、可愛らしい彼女の様子に今更込み上げるものを堪えることもできず、俺は甘んじてその「へっぽこ」呼びを受け止めることにした。

 

 

 

――後日、お母さまから俺のアドレスへメールが一通入っていた。「花束の御礼」と題したメールの宛名は、どこかわざとらしい俺のチーム宛。添付されていた画像ファイルには、照れた様子で笑って花束を抱えるお母さまが映っていた。



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背丈が伸びても

二十七話目。
キングとお母さまが食事に行くお話。
シニア級三年目が始まってすぐくらいの想定のお話です。


 たまに、お母さまと食事をするようになった。

 食事でもどうか、と特に前触れもなく、お母さまからLANEが入る。すぐの週末の時もあるし、数週間先の時もある。いくつか候補日を提示してくれる時もある。お母さまの予定が空いてる日時を伝えてくるだけなので、相変わらず勝手だなと思う。ただまあ、私の次走は気にしているらしく、出走予定のレースがある週とその前週には絶対にお誘いが来ない。次走が決まっていない時には、わざわざレースの予定を確認してくることもある。あまり表には出してくれないけれど、お母さまなりに私のレースを応援してくれてるのかな、なんてそんなことを思ったりもする。

 お店を選ぶのは二人で半々といったところだ。お母さまが選ぶ時もあるし、私が提案する時もある。折角だから少しいいところを選ぶようにしている。その方がゆったりと会話を楽しめるからだ。フレンチやイタリアン、お鮨が多いかもしれない。お母さまは明らかに気合いの入ったお店を選んでくる。娘と食事をするだけなんだから、ちょっと張り切り過ぎじゃないかしら、とも思う。……トレーナーは「君も張り切ってるじゃないか」と言っていたけれど、そんなことはない。絶対にお母さまの方が張り切っている。

 ともあれ。お互い忙しい身の上ではあるけれど、たまに時間を合わせてお店を選んで、二人きりで食事をする機会ができた。思えば、私がトレセン学園に入学する前も、お母さまは時たま食事に連れて行ってくれた。あの頃はとにかくその日が楽しみで、指折り数えながら当日のお洋服を考えたりしていた。メイド長に教えてもらって、ほんの少しメイクをしてみたり、髪をセットしてみたこともある。今考えると、はしゃぎ過ぎではなかっただろうか。そんなことを思い出しながら覗いた鏡に、ばっちり気合いの入った支度をしている自分が映って、思わず苦笑い。

 どうやら私は、いまだにお母さまと食事へ行くことを、嬉しく思っているらしかった。

 

 

 

 年が明けて最初のお母さまとの食事は、フレンチのレストランになった。誘ったのは私で、お店を選んだのはお母さまだ。

 新年の挨拶は軽く済ませて、あとはひたすら他愛もない話に花を咲かせながら、粛々と進むフルコースに舌鼓を打つ。前菜から始まって、スープ、魚と続くメニューは、一流店だけあってどれも唸るおいしさだ。目新しさはあるが、それ以上に食材の良さを際立たせることに重点が置かれている。主役となる素材のおいしさを引き立てつつ、見た目の楽しさも気を遣っている。バランス感覚の求められる、丁寧な仕事ぶりだ。お母さまの好みそうなお店だと思った。

 ノンアルコールのカクテルがあるというので、今夜はそれも注文してみた。グラスで出されると、見た目にはお酒なのか違うのかの判断がつかない。一口飲んだお母さまの反応で、ようやくお酒でないことを確信する。恐る恐る私も口づけると、甘さのない爽やかな炭酸飲料の味がした。強いライムの香りが口の中を満たす。初めての感覚を確かめるために、早速二口目をちびりと口にした。お酒が飲めない私からすると、雰囲気だけでも味わえるのは新鮮だ。

 

二十歳(はたち)になったら、お酒の飲み方も覚えないとね」

 

 私を見つめていたお母さまが、ぽろりとそんなことを言った。ほのかに緩い口元が、落ち着いた照明の下でもよくわかる。お母さまは何だか楽しそうだった。そんな様子を見ていると、二十歳を迎えてから一緒にお酒を飲むのが、ほんの少し楽しみになったりもする。

 メインの肉料理を半分ほど口にしたところで、お母さまがおもむろに居住まいを正した。ゆっくりと開いた唇から、打って変わって真剣な声音で尋ねる。

 

「この春はどうするのかしら」

 

 ナイフとフォークを一旦休めて、私もまた姿勢を正した。目の前にいるのは元競技ウマ娘だ。相応の礼節と態度をもって口を開かねばなるまい。

 年が明けて数日が経ち、東西金杯も開催されて、既に新しいレースのシーズンが始まりを告げている。トレセン学園の各チームでは、所属するウマ娘たちの春シーズンのプラン、そして今年の始動戦が固まりつつあった。すでに何人かの有力なウマ娘は、次走と春シーズンの大目標を発表し、各スポーツ紙も大々的に報じている。

 もちろん、私のチーム、そして私自身も例外ではない。

 

「大きいところは、高松宮記念と安田記念を予定してます。ただ間隔が開くので、それぞれの前に一走挟もうかと」

「そう。それなら、次走はシルクロードステークスか阪急杯といったところかしら」

 

 いずれも一月と二月に開催される短距離重賞だ。私とトレーナーが想定していた始動戦でもある。

 

「ええ、そのどちらかを考えてます」

 

 あとは私の調整次第というところだ。幸いにして、今のところは順調に調整が進んでいた。前走のマイルチャンピオンシップからすでにひと月以上が過ぎ、トレーニングも負荷を上げている。このままいけば、私の始動戦はシルクロードステークスになるだろう。

 私の返答を聞いたお母さまの返事は、相変わらず短い。

 

「そう。頑張りなさい」

「ええ。全力を尽くします」

 

 このところ、お母さまとレースの話をすると、いつもこんな感じだ。自分から尋ねてくるくせに、反応は淡白で素っ気ない。「応援してる」だとか、「観戦に行く」だとか、そういう言葉はない。「頑張りなさい」のただ一言だけだ。

 まあ、一時期に比べれば――ことあるごとに私のレースへ反対してきた時期と比べれば、随分マシにはなった。あの頃は「どうして認めてくれないの」という疑問が強かったけれど、今はお母さまがどういう想いで私をレースへ送り出したのか、それを多少なりと理解できるようにもなった。だから、こうして普通にレースの話ができるということは、お母さまを安心させることができたのだろうと、そう思っている。とはいえ、だ。やはりもう少し、何かしら反応があってもいいだろうと、娘としては思う。

 私のレースに興味が薄い、という訳ではないらしい。私が話を続ければ、歯切れよく言葉を返してくれる。けれど、お母さまから話を膨らませることはない。

 そうなると、私はいつも決まって、ムッとしてしまう。

 

「もう少し、何かないんですか」

「……これ以上、何もないわよ」

 

 眉を八の字にしてお母さまは答えた。再びナイフとフォークを動かし始めたお母さまに、私は「そうですか」と不満げに呟いて、同じように残りのお肉へ手をつける。手の込んだソースが、レアに仕上げられた牛肉へよく馴染んでいた。

 切り分けたお肉を一切れ堪能してから、お母さまは再び口を開いた。

 

「あなたの好きなようにやりなさい。……あなたのやりたいことを、やりたいようにやりなさい」

 

 言うべきことはそれだけだと、お母さまはノンアルカクテルに口をつける。以前、どこかで似たような言葉を聞いた気がした。

 元々、お母さまはどちらかというと、私に関しては放任主義だった。私がやりたいと言ったことに対して反対されたことは、レースを除けば記憶にない。私が幼いながらに様々な経験をできたのは、いつも連れ添ってくれたメイド長の存在もあるが、私が決めたことならと認めてくれたお母さまの存在も大きい。

 私がやりたいことを訴えると、「頑張りなさい」とその手が私の頭を撫でてくれた。そして、成功しようと失敗しようと、私がやり切ったら、「頑張ったわね」とやはり私の頭を撫でてくれた。おかげで、私は何か新しいことに挑戦することを、例えそれがどれほど突拍子がなくっても、あまり恐れなくなった。

 私の頭と耳には、あの懐かしい感覚がまだ残っている。

 

「わかりました。――どうです、たまには娘のレースを応援に来てみては。ファンサービスしますよ」

「……生憎と、仕事で忙しいのよ。あなたもよく知っているでしょう」

 

 ええ、もちろん、よく知っている。でももう一つ、知っていることがある。どんなに忙しくても、私のレースはいつだってチェックしてくれていること。勝てばガッツポーズを握って、負けても労いの拍手をくれていること。それくらいは、私も人伝に聞いていた。学園内にはお母さまの情報屋がいるようだけれど、お母さまの仕事場にだって私のスパイがいる。

 今はまあ、それで十分かなとも思う。何が何でもレースを観に来てほしいなんて、そんな子供っぽいことを思うような年齢でもなくなった。もちろん、レース場まで観に来てくれたら嬉しいけれど。でも画面越しでだって、どこかで見守ってくれているのなら、私はそれで満足だ。私が、私の脚で、私のやり方で、私だけの一流を示すところを、お母さまへ見せつけることができる。

 お互いのメインのお皿が綺麗になって、ウェイターさんが片付けてくれる。それを見送ったお母さまは、おもむろにスマホを開いた。どうやら予定管理のアプリを起動したらしい。数秒だけ指先が画面を操作し、すぐに電源を落とした。

 

「……高松宮記念は難しいけれど、安田記念は観に行けそうね」

 

 一瞬理解が追いつかず、私は二、三と目をしばたく。スマホから顔を上げたお母さまをマジマジと見つめてしまった。お母さまは澄ました表情をしているけれど、さっきまでスマホを操作していた指先が気恥ずかしそうに髪を梳く。

 

「……私のレース、観に来てくれるんですか」

「ええ、そうよ。たまにはいいでしょう」

 

 尋ねた私にお母さまが答える。折角なのだから、素直に私のレースが観たいと言ったらどうだろうか。そうしたら私も、それなりに素直に喜んだりできるのに。

 こちらを窺うお母さまが、ほんの少し眉を下げる。開きかけた唇から、「あなたが嫌ならやめる」なんて台詞が今にも飛び出しそうで、そうはさせまいと私はすぐに言葉を返した。

 

「ふうん、そうですか」

「……案外、嬉しそうね」

「ええ、まあ、それなりに」

 

 隠しても仕方のないこと……というより、隠すようなことでもないので、私は率直に答える。

 

「私のレースを観るために、わざわざレース場まで足を運んでくださる方のことは、誰だってありがたく思ってますし、嬉しいですよ」

 

 私に限らず、トゥインクル・シリーズを走る多くの競技ウマ娘が、同じことを思うだろう。応援してくれるファンというのはそれ自体が得難いものだけれど、そこからさらにレース場まで観戦に来てくれる方というのは、非常に稀な存在だ。

 だから、コースに出てスタンドを振り返った時、そこに自分へ声援をくれるファンの姿を見つけたら、何よりもまず歓喜と感謝の気持ちが溢れてくる。張り上げる声に応えたくなる。

 もちろん、声援に応える一番の方法は、レースに勝つことだけれど。ファンサービスだって立派な応え方だと、私は考えている。

 この気持ちは、お母さまだってよく知っていることのはずだ。

 

「約束通り、一流のファンサービスで魅せてあげますから」

 

 私がそう言うと、お母さまは硬い表情を少し和らげる。

 

「そう。――それじゃあ、たくさんファンサービスして頂戴」

「もちろんです。そのかわり、キチンと応援してくださいな。この、一流のキングのこと」

 

 至極当然の交換条件を提示した私に、しかしお母さまはすぐには頷かなかった。折角柔らかくなった表情が、また元のように困った様子を見せる。本人は隠してるつもりなのかもしれないけれど、八の字になった眉で一目瞭然だ。

 睫毛を震わせたお母さまは、ほんの少し躊躇うようにして口を開く。

 

「応援するわよ。――いつも応援してるわよ」

 

 小さく息を吐く。困ってしまうのは私の方だ。

 そのたった一言を告げるのに、何を躊躇うことがあるのだろうか。まさかこのキングが、そんな応援くらいで気負ったりすると思っているのだろうか。だとしたら的外れもいいところの杞憂だ。どんな声援だって、私は全て受け止めて、私自身の力に変える。誰かの激励に背中を押される力強さを私は知っているのだから。

 だから、安心して応援してほしい。お酒も飲めない私は、確かにまだ大人ではないけれど。でも、お母さま一人の声すら受け止められないような子供ではない。

 

「ええ、よく知ってます」

 

 お母さまの不安がどこにあるのか、わからないけれど。……わかってなんて、あげないけれど。まだどこかに残っているのだろうその不安が少しでも払拭されるようにと、私は至っていつも通りに笑ってみせた。

 降参と言うようにお母さまは小さな息を吐く。丁度その時、デザート前のシャーベットが運ばれてきた。

 

 

 

 爺やの車が寮の正門前に停まったのは、延長を申請していた門限まで十分ほどの余裕を残した時間だった。

 

「寮まで送るわ」

 

 そう言ったお母さまは、私が何かを答える前に爺やの開けたドアから車外へ出る。毎度毎度、そこまでしなくていいと言っているのだけれど、お母さまはいつも律儀に栗東寮の玄関まで送ってくれていた。最近はもう諦めて、大人しく送られることにしている。

 爺やと車を残して、特に何も言わず歩き出す。一月の夜は冷え込んでいる。刺すような寒さがコート越しでも容赦なく身を震わせた。真っ白になった息が寮の灯りに照らされて煌めく。

 チラリと窺ったお母さまも吐いた息を純白に染めていた。ほんの数秒間、真っ白なそれがお母さまの周りに漂って揺らめく。ぼんやりしたまま、ヴェールみたいだなと、そんな感想を抱いた。向こうの景色が透けて見える薄布は、ゆらりと天へ昇るうちに、隣を歩く私のそれと混じり合って、夜闇に溶けていく。その様を不思議な心地で見つめながら、お母さまと並び歩いた。

 このところ、お母さまと歩くたび、同じように妙な感覚がする。最初は、久しぶりだからかと思っていたけれど、どうもそうではないようだ。違和感というほどではないけれど、何かが違う気がして、答えを探るようにお母さまを窺っている。

 私の視線に気づいてか、お母さまはもう一つ白い息を吐き出した。

 

「まだまだ冷えるわね。……体調には気をつけなさい」

 

 相変わらず心配性なお母さまに、溜め息の一つも吐きたくなる。不思議な感覚の答え探しを一旦中止して、私は普段通りに答えた。

 

「ええ、わかってるわ。もう子供でなし、体調管理も完璧なんだから」

「……そう」

 

 いつもの電話越しなら、もう二言三言、余計なお節介が続くだろう。けれど今夜は、短い相槌を寄越しただけだった。その代わりと言うように、前を向いていた視線が私の方を窺う。栗色の瞳が薄ら灯りのもとで私の顔を丁寧に写し取った。目元の皺がそっと深くなる。

 栗東寮の玄関までは、正門から三分もかからない。夕食で温かくなった体がまた冷えてしまう前に、私たちはガラス扉の前に辿り着いた。足を止めたお母さまとは反対に、私は数歩前に出て回れ右をする。玄関の蛍光灯が照らすお母さまの顔を、私がやや見下ろす形になって、少し不思議な感じがした。

 

「……背、伸びたわね」

 

 妙な感覚の正体を、ポツリとしたお母さまの言葉が教えてくれる。ああそういえば、記憶の中の私は、いつもお母さまを見上げてばかりだったなと思い至った。お母さまと目を合わせようとすると、自然と顔を上げていた。少なくとも、私が学園に入学するまでは、そうだったはずだ。それがいつの間にか、私の方が見上げられている。

 お母さまの背を追い越したのは、一体いつだったのだろう。それがわからないくらいには、会わない期間が長かったのだと、今更ながら気づいた。

 

「……娘に背丈を抜かれた感想は?」

 

 何よそれ、とお母さまは苦笑する。

 

「大きくなった、以上の感想なんてないわよ」

 

 答えは淡白だった。でも、とても穏やかな口調で告げられた言葉には、私の想像も及ばないような大きな意味が込められているように感じる。背が伸びることなんて、私からすれば当たり前だけれど、お母さまからはまた別のものが見えているのかもしれない。

 短く答えたお母さまだったけれど、ふと瞼を伏せて、考える素振りを見せた。白い息一つ分の間の後、お母さまはもう一度口を開く。

 

「大きくなり過ぎなくて、よかったわ」

 

 私を見つめるお母さまの真意がわからず、私は首を傾げる。どういう意味だろうか、私が尋ねようと唇を動かした時、お母さまが半歩前に踏み出した。

 

 

 

 ふわり。

 

 

 

 温かなものが私の頭に触れた。

 お母さまの手だとすぐにわかった。少し遅れて、お母さまが私の頭を撫でているのだと理解した。子供の時よりいくらか小さく感じる手のひらが、けれどあの頃と変わらない温かさで私に触れている。ゆっくりと丁寧に、けれどはっきりと存在を感じられるように、何より優しく包み込むように、私の髪を撫ぜた。時折、ポンポンと子供でもあやすみたいに軽く叩かれる。

 訳がわからず、空いた唇を閉じるのも忘れてお母さまを見つめた。私と目が合うと、お母さまはふわりと優しく微笑む。子供の時と何も変わらない、私の大好きなお母さまの顔だった。

 

「まだこうして、手が届くもの」

 

 お母さまはそう告げて、私の頭を撫で続けた。指先が愛おしげに私の耳へ触れる。

 

「~~~~っ!」

 

 体中の血液が顔に集まってしまったみたいだった。寒さなんて忘れてしまうくらいに頬が熱い。この年になってお母さまに頭を撫でられている羞恥。それを嬉しく思っている自分への困惑。そして、懐かしい感触と温もりへの安心感。色んなものがない交ぜになって私の中で渦巻く。結果として、私はお母さまにされるがまま、その場から動けなくなっていた。

 ふと、私を見つめるお母さまの顔に、ほんのり朱が差していることに気づく。寒さで霜焼けになったわけではなさそうだ。

 

「……さ、さすがに少し、恥ずかしいわねっ」

「な、ならやらないでくださいっ」

 

 自分で始めておきながらあんまりな言い草に、私はささやかな抗議の声を返す。けれど結局、お母さまは私の頭を撫で続けた。もうまともに顔を見れず俯く。目を瞑ってしまうと、手の感触がより鮮明になった。

 優しい手つきで髪に触れる手が、寒さなんて忘れてしまうくらい温かい。その温もりに溶かされて緩んだ表情は、俯いていたから見られてないはずだ。

 

 

 

 翌日。何を思ったのか、「昨日は楽しめたみたいだね」なんて笑顔で言ってきたトレーナーには、少しきつめのデコピンを一発お見舞いしておいた。



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