【IF】Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜【番外】 (しらなぎ)
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IF
わたしにはあなただけがいない


・Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜 https://syosetu.org/novel/243704/ のIFルートの短編です
・本編にはまったく関係ありません
・ドラパン前提
・百合
・年齢は5年生~6年生



 

 

 初めてキスをした時、こんなものか、と思った。

 

 

 

 

 パンジーがドラコとキスをしたと嬉しそうに話す頬が林檎のようにほの赤く熟れていて、今にも泣き出しそうに瞳が潤んでいる。

 1年生の時からパンジー・パーキンソンはずっとドラコ・マルフォイのことが好きだった。

 彼の反応を求めて、彼のつまらない冗談に甲高く笑い、威嚇するように彼の腕にひっつき、まるで雛鳥のように彼の後ろをついて回っては彼の真似をして彼を求めた。

 だからパンジーの気持ちが成就したのなら嬉しい。

 そう思いつつも、シャルルの胸の中は言葉に出来ないわだかまりがモヤモヤと渦巻いていた。パンジーが幸せそうで嬉しい気持ちは決して嘘なんかじゃないのに。

 

「おめでとう、パンジー。ドラコもやっとあなたの魅力に気付いたのね」

 シャルルはずっとずっと前から気付いていたけれど。

 

「ありがとうシャルル!あなたにお祝いされるのがいちばん嬉しいわ!あなたはずっとわたしのことを応援してくれていたものね」

 無邪気に喜んでハグをしたパンジーだが、その言葉の裏に僅かな牽制が入っていることをシャルルは知っていた。「当然よ、親友だもの」ハグに応えて背中に腕を回す。肩にかからないくらいの、綺麗に切り揃えられた黒髪から柔らかい薔薇の香りが漂った。嗅ぎ慣れた匂い。

 

 パンジーはシャルルにずっと劣等感を抱いていた。ドラコが彼女に向ける熱の篭もった視線を、パンジーはずっと見ていた。ふたりが名前で呼び合うようになり、距離が近くなり、ふたりの視線が絡むようになってからはシャルルのことを「親友」と呼ぶときいつも心の中に黒いものが生まれて自己嫌悪に苛まれたけれど、ようやく純粋な気持ちだけで言える。

「ええ、わたしたちは親友よ」

 なんだか涙が出るほどにパンジーは幸せな気持ちだった。

 

 

 ふたりが常に一緒にいるのはスリザリンどころかホグワーツ中で有名な事実だったが、ドラコの態度が以前とは変わっていた。おそらくそれに気付いたのはスリザリンの、それも同学年だけだっただろう。

 嬉々として彼の食事を取り分けるパンジーに目を合わせて「ありがとう」と礼を言うことだとか、教室に移動する時パンジーの教科書を持つようになったことだとか、パンジーが引っ付いてくるために腕を曲げて待つようになったことだとか。

 そんな小さな、紳士ならして当然の気遣いを今までドラコはして来なかった。パンジーが自分に恋していることを知っていただろうに、突き放しもせず、受け入れもせず、その好意を当たり前のように享受していただけだった彼の変化。

 ドラコに好きだと言われたわけではないらしいが、やっぱりふたりはカップルだった。

 シャルルはそれを横目で見て歯噛みしたくなった。

 

 何がそんなにモヤモヤするのか分からない。ドラコが時折今でもシャルルを見つめていること?今まで蔑ろにしていたのに突然優しくなったこと?パンジーと過ごす時間が今まで以上に減ったことだろうか?

 あるいはその全てなのかもしれない。

 

 ただ甘ったるいシュガーのようにとろけたパンジーを見るたびに、シャルルの胸の中はほの苦いビターを帯びるのだ。

 その感情は「悔しさ」にいちばん似ていた。

 

 

「それにしても、パンジーがマルフォイを捕まえてくれて本当に良かったわ。このままじゃわたしマルフォイと結婚させられそうだったのよ」

「そ、そうなの?!どういうことよ!」

 目を剥いて、怒りの表情でパンジーがダフネに食いついた。肩を竦めてダフネが肩に垂らした三つ編みをつまらなそうに弄ぶ。

「小さい頃から父親とミスター・マルフォイの間で話してたらしいのよ。どちらも魔法省にコネがあるから、歳の近い男女の子供を結婚させるのはいい案じゃないかって」

「き、き、聞いてないわ!」

「誰にも言ってないもの。シャルルにだって言ってないわ」

 パンジーがシャルルを見ると、本当に初めて知ったらしく瞠目してダフネを見つめていた。

「知らなかったわ……。だからダフネはマルフォイに当たりがきつかったの?」

「そうよ。だってもしわたしの夫になるなら、きちんと彼を見極めないとじゃない?でも彼って子供っぽくてとても結婚なんて考えられないと思ったわ」

 人の彼氏に向かってすごい言い様ではあるが、たしかにドラコはかなり子供じみていた。それが許されるバックボーンを持っていた。

 しかしダフネの好みは年上の頼りがいのある知的な男の子だ。ドラコはまったくもって真逆だった。

 

「じゃ、ドラコのご両親は……ダフネの方がいいと思ってるのかしら」

 たちまちパンジーが不安そうに声を震わせる。それを笑ってあしらった。

「ただの軽い口約束よ。そこまでマルフォイと親交があったわけでもないし、たぶん彼はわたしが婚約者候補だったことも知らないと思うわ。ただ、うちの場合……」

 顔を暗くして視線を伏せる。睫毛の影が頬に落ちた。

「ほら、アステリアが虚弱なのは知ってるでしょう?だから妹は嫁の貰い手が厳しいと両親は考えているの。どこか有力な家から婿を取って、わたしは結婚するのが小さい頃から決まってるのよ」

「ダフネ……」

 政略結婚は貴族の常識だけれど、彼女たちはまだティーンだ。特に好きな人と結ばれたばかりのパンジーは、痛ましそうにダフネを見つめた。

 

「もうっ、わたしの家のことはいいの。受け入れる心の準備はずっとしてきたし、恋人が見つかればその人と結婚するのも許されてるの。これから卒業までに素敵な人を見つければいいだけの話よ。それよりパンジー……」

 暗くなった空気を払うように、ダフネが目の奥をいたずらっぽく煌めかせながらパンジーを問い詰めた。

「ねえ、マルフォイとのキスはどうだったの?」

「えっ!そんな……恥ずかしいこと言わせないで、ダフネったら……」

 顔を隠して恥ずかしさに身をよじるが、本当は彼女は何もかもを明かしてしまいたいと思っているのを全員が知っている。彼女はボーイフレンドとそっくりで、自慢するのが大好きで、恋の話をするのも大好きなのだから。

「いいじゃない。そんなに隠すようなことじゃないわ。ここにいる全員ファーストキスは済ませてるんだから」

「トレイシーも?」

「そりゃ何回かはね」

「シャルルだってアランとしてたものね。誰かと付き合ってるって話は、あれ以来まったく聞かないけど」

 背中を押され、少しの間視線をさまよわせたパンジーが口を開いた。言いたくって仕方がなかったような顔だ。3人共苦笑いすら出ない。

 

「この前わたしたち、ホグズミードに一緒に行ったでしょう?ダービッシュのお店を見て、グラドラグスでドラコが目を留めたワンピースをプレゼントしてくれて、天にも昇るような気持ちになったわ!その日の彼、なんとなくいつもと違う気がしてた。だって、いつも衣装店を見てる時退屈そうなのに、あの日はずっと隣でわたしが見てるのに付き合ってくれたのよ。その後休憩することになって三本の箒に行って……」

 

 話し始めたパンジーの口は止まらずに動き続けた。紅茶をひと口飲んでまた興奮したように言葉が滑り出した。

 

「わたし、いつもみたいに彼の隣で話を聞いてたわ。彼が話すところを見るのって大好き。彼って言葉通りに表情がころころ変わるから、その横顔を見ているとうっとりするの。カウンターに座っていたんだけど、ビールの棚でボックス席の影になってて、他の人から見えづらくなるからわたしたちいつもそこに座るんだけど……。そうしたら、ドラコがいきなり口を噤んで」

 

 夢見るように語っていたパンジーが、不意に眉を寄せた。眉尻は垂れ下がって、瞳は潤んで、感極まったように言葉がつかえる。

 

「ふっと黙ったまま、ドラコのじっとわたしを見下ろしてきて……驚いて、わたしも彼の目を見つめたまま動けなくなった。だって、そうじゃない?彼がわたしのことを……み、見つめてくれたことなんて、今まで、ぜんぜん……。戸惑って動けないでいたら、ドラコのグレーの目が近付いてきて、わたし何も考えられなかった。ただ、綺麗だなって思うだけで……固まってたわたしの唇に、なにか柔らかいものが当たって、それでようやくドラコにキスされたんだって気付いたの!」

 

 パンジーはとうとう涙を零れさせた。

 何年もドラコに一途な恋をしていた。ダフネもつられて少し目の奥がジンと熱くなる。

「やだ、マルフォイって意外と素敵なキスをするのね。わたしまでドキドキしそうだわ」

「ちょっと、ドラコはわたしのものよ!」

「誰も盗らないわよ。ガールフレンドになったんだから、もう少し余裕を持った方がいいわ」

「あんなにカッコいいんだもの、余裕なんて……。でも本当に夢みたいだった。それで彼が『目を閉じない方が好きなら、僕はかまわないけど?』って意地悪そうな顔で少し笑って、あわてて目を閉じたらまたキスをしてくれて……。わたし少し泣いちゃったわ」

 うっとり思い出す余裕もなく、積年の思いをようやく実らせて本当に嬉しそうに笑うパンジーにシャルルは胸が締め付けられた。すごく可愛くて、すごくいとしくて、パンジーを手に入れたドラコは幸せ者だ。

 シャルルは一瞬、目を伏せた。

 

 恥ずかしそうに目をこすったパンジーが、「わたしだけばっかりなんてそんな話ないわ!みんなも吐きなさい!」と居丈高に言った。

「まずはダフネからよ!」

「いいけど、もう前に話したじゃない」

「恋の話は何回聞いてもときめくものよ」

 ダフネはこの中の誰より早くファーストキスを体験していた。彼女の恋はみんな知っていたから、せがまれてずっと昔にダフネは話している。パンジーの追求は昔から激しく、たぶんその時の仕返しで今日からかったんだろう。

「知ってのとおり、初めては2年生の夏休みで、相手はエリアス・ロジエールよ。告白して妹のように思ってるって言われた時は、分かっていたけどやっぱり切なかった。それで、最後の思い出にってお願いしてキスしてもらったの」

 何年も前から何回もせがまれて話しているので、ダフネの口ぶりはあっけらかんとしている。羞恥もなく、もはや投げやりで、でも僅かに初恋に思いを馳せる感傷的な響きがあった。

 

「ああ、何回聞いても切ないわ……」

 パンジーが胸を抑えた。大げさな、とダフネが白けた視線を送る。

「報われない初恋って、なんて胸に迫るのかしら」

 初恋を叶えたばかりのパンジーがか細く囁く。浮かれ切っているパンジーにダフネは嫌味を言うことさえバカバカしく思った。まあ、多少は幸せ気分に浸らせていてもいいだろうと、諦め混じりにため息をつく。

「それにしても6つも歳上の男の子に最後のキスをねだるなんて、ダフネって大人しそうな顔して、けっこう積極的よね?」

 ケラケラとトレイシーがからかった。拗ねたようにダフネが「その言い方、なにかいやだわ」と横目で睨む。

「でも、いつも自分から告白するじゃない。モテるのに、自分に好意を持つ男の子にはぜんぜん興味ないなんて言って」

 彼女の恋愛遍歴はすべて把握している幼馴染のシャルルが追撃した。ダフネは言い訳がましく言った。

「だってわたしを好きになる人って、同世代や年下が多いんだもの。その上妙に自信過剰な人ばっかりだし」

「穏やかでか弱そうだもんね、ダフネって」

「見た目だけはね」

「ちょっと!」

 3人が顔を見合わせてくすくす笑う。スリザリンの中でもいっとう儚げで優しそうな上に、他寮生との揉め事もめったに起こさないダフネは、その見た目や雰囲気から誤解を受けることが多いが、内面はシビアで大人っぽい。揉め事を起こさないのは優しいからでも寛容だからでもなく、ただ興味が無いからだ。

 

「トレイシーは?誰が相手だったかしら?」

 同室のダフネでもトレイシーの恋愛事情はあまり聞かない。ボーイフレンドのウワサもあまり流れなかった。ただ時折、トレイシーにはにかみながら話しかける男の子が現れるから、ダフネはなんとなく察している。

「ファーストキスはエディよ」

 なんてことの無いようにトレイシーは言った。

「エディ?」

「1つ下のエドワード・ベイジー。3年生の時に婚約したの」

「えっ!?」

 3人は揃って驚き声を上げた。

 そんなこと、誰も何も聞いていない。ベイジーはチェイサーの控え選手で来年には正選手として活躍を期待されている純血のスリザリン生で、女子生徒からそこそこ人気があるが、トレイシーと特別親しくしているところは見たことがなかった。

 青天の霹靂に唖然としている3人に、トレイシーは苦笑した。

「婚約したばかりの頃は、彼って垢抜けてなくてなんだか言うのが恥ずかしかったんだよね。それから何年も経って今更言うことでもないかと思って……」

「でも、ベイジーって今レイブンクローの彼女がいるんじゃなかった?」

「うん」

「うんって、うんってあなた……!」

 信じられない、とばかりにパンジーが口を開けている。

 

「何回かこっそりデートしたり、試しにキスしてみたんだけど、お互い恋は生まれなかったわ。婚約も親の仕事の関係だし。だからホグワーツにいる間はお互い火遊び程度の恋愛をある程度してもいいって結論になったの」

「トレイシーは、それでいいの?」

 おずおずと気遣わしげにダフネが尋ねた。婚約について長い間考えてきたダフネにとっては他人事ではない。トレイシーはある意味、自分がなりたくなかった未来を選ばされている女の子だ。

「気にしないわ。結婚なんて所詮政治のひとつだもの」

 彼女はさらりとしている。元々トレイシーが冷めた一面を持つことを知っていたが、さすがに空いた口が塞がらずにパンジーとダフネは圧倒された。

「彼もそれで気にしないの?」

「うん、納得してるわ。わたしたち、別にお互いには満足しているから」

「似た者同士なのね。それならいい家庭を築けそうね」

 シャルルだけは感慨もなさそうに、さらっと祝福を送る。冷めているのはシャルルも同じだった。

 恋愛にも、人にも、ちょうどいい距離感で滑るように人の間を泳いでいるシャルルに、トレイシーは親近感を持っている。そんなシャルルが誰を選ぶのか、誰を選んで来たのかトレイシーは気になった。

 

「シャルルはやっぱりファーストキスはトラヴァースなの?4年のダンスパーティーでパートナーだったよね?」

 衝撃から立ち直ったパンジーがニヤニヤと唇を釣り上げた。

「あの時のあなた達ったら、お熱すぎて見ていられなかったわよ。人前でもかまわずくっついて」

 パンジーには言われたくないが、たしかにあの頃シャルルはアランにべったりだった。

「でもわたし達、付き合ってたわけじゃないのよ?ただ、スリザリンでわたしに申し込んでくれたのがアランだけだったから、嬉しくて甘えていただけ」

「そういえばそんなこと言ってたわね」

 訳知り顔でダフネが頷く。シャルルはパーティーへはスリザリン生と行くことを決めていたが、思惑と違い、シャルルに熱い視線を送っていたはずのドラコはパンジーを誘い、いちばん仲が良かったセオドールはダフネを誘った。ザビニとはお互いを相手に考えることすらなかった。

 自尊心が傷ついて羞恥に苛まれ、ショックを受けていた心が、アランに申し込まれたことで慰められたから、少し舞い上がって甘い時間を過ごすことを楽しんでいただけだ。

 アランからもシャルルへの激しい恋心や執着心は感じられなかった。

 

「な、何それ、シャルルといいトレイシーといい、いちばん大人びた遊び方してたなんて……!」

 スリザリンの同学年の中ではいちばん初めに色気づいていたパンジーが愕然と呟いている。特にシャルルは恋もした事の無いお子ちゃまだったのに。

 まあ、今でもシャルルは恋をしたことはないのだが。

 

「でも、ファーストキスはアランなんじゃないの?」

「そうなんじゃないかしら。だってそれ以前にシャルルに噂なんてあった?」

「わたしたち、誰も聞いてないし……。大体シャルルは秘密主義すぎるわよ」

 

 非難されるように言われ苦笑する。少し考えて、悪戯を企む子供のように微笑みを浮かべた。ザビニとは関係を終えてかなり時間が経っているし、時効だろう。彼も相当に口が軽いから噂が回っても人のことを言えないはずだ。

 

「ファーストキスはザビニよ」

 今度こそ3人は、シャルルの言葉に度肝を抜かれた。

 言葉を無くす友人たちに、内心悪戯が成功したことを喜びながら、何食わぬ顔で言い加える。

「キスしたのは2年生の時だったわ。お互い恋心はなかったけど、1年生の頃からザビニはわたしの先生だったの」

「先生?」

「恋愛を操る先生よ。昔から彼は女遊びが派手だったでしょう。しかもモテるだけじゃなくて、恋愛を楽しみながら、恋愛にのめり込まずに、でも相手を自分に夢中にさせることが上手だった。だからわたしは彼の異性に効果的な手段を教わっていたの」

 

 理解が追いつかないという顔を見て、さらに付け足してみる。

「……もちろん、実践も含めてよ」

 

 その言葉の意味することが分かったのか、ダフネの顔がかぁっと赤くなった。それを見てパンジーも真っ赤になる。

「ザビニと仲がいいのは知ってたけど、まさかそんな関係だったなんて……」

「あら、トレイシーは知ってると思ったわ」

 彼女は首を振った。

「ザビニは高慢ちきだけど、敵に回したらいけない人の秘密は絶対に守るわ」

 だからザビニを選んだんでしょう?という視線を受け止めて、シャルルは満足そうに頷いた。

 

 

 初めてキスをした時のことが頭の中に浮かぶ。

「君って仕草や口調や異性の思考回路ばかり知りたがるけど、もっと即効性のある手段は興味無いのかい?」

「たとえば?」

「俺がよく使ってる手段さ。分かるだろう?」

「即物的で、下品な?」

「ハハッ!なんだ、実践が怖いなら無理に誘わないよ。初心なお嬢様なら躊躇って当然だ」

 小馬鹿にしたようにシャルルを尊重する振りをするザビニに気分が害される。その程度の挑発に乗るつもりはなかったが、「可愛らしく恋愛ごっこを楽しんでいるままがちょうどいいさ」という副音声が聞こえてくるようで、言わせたまま引くのも癇に障る。

 

 思考を読んだようにザビニが「ただ……」とわざとらしい助け舟を出した。

「僕なら、君に振り回されずにちょうどいい距離感を保ったまま、実践を練習出来ると思うけどね。もちろん、他に君にそういう相手がいるなら何も言わないよ」

 シャルルは挑発的に顎を上げた。

「あら、あなたの余裕がずっと持つとは思えないわ」

「クッ、君のそういうところ好きだな。大した自信家だ。もちろん君に夢中にならない男なんていないだろうけど、僕はその感情すら自分でコントロール出来る。証明してきただろ?」

 

 ザビニは笑うと高慢で大人びた風貌がくしゃっと歪んで、いかにも幼気になる。どこまで本気か分からない流れるような賞賛に、多少溜飲が下がったシャルルは、彼の申し出を脳内で咀嚼した。

 ふたりは自信家だった。お互い自分の魅力を客観的に自負している。

 シャルルが儚げにしなだれかかれば男子生徒はザビニも例外でなく頬を染めたし、ザビニが瞳を見つめて意味ありげに囁いてみせればシャルルも例外でなく鼓動を高鳴らせることが出来た。

 そしてザビニはときめきすら「遊び」として楽しんでしまえる。シャルルに恋を望まない都合のいい男の子は、たしかにザビニしかいないだろう。

 

 自分が、恋愛的な……性的な触れ合いをした時、どういう心の動きをするかはずっと確かめてみたいと思っていた。

 シャルルはザビニを見つめ返して、甘やかに微笑んだ。それが合図だった。

 

 節ばっている大きな褐色の手のひらをザビニがシャルルの頬に添え、シャルルはゆっくりと瞳を閉じた。そっと押し付けられた暖かい唇、掠った吐息、頬から頭の後ろに回された手の感触、生ぬるい自分以外の体温。薄く目を開けると熱を帯びたネイビーの瞳がシャルルを見つめている。

 シャルルは自分の頬が火照り、僅かにぼうっとする脳内を自覚し、胸が甘く疼くのを感じた。ときめきが全身をゆっくり流れていた。

 キスを終えた時シャルルは思った。

 ああ、こんなものか。

 これならわたしは、わたしを失わずに楽しめる。

 

*

 

 パンジーが思いを叶えてから、ふとした時にシャルルの強い視線を感じていた。不機嫌そうでどこか射抜くような瞳はパンジーと決して交わらなかった。彼女の瞳はいつも、パンジーのすぐ側の人に向けられている。

 一瞬で離れる視線だったが、パンジーは敏感に感じ取れた。彼に好意を向ける女子生徒にずっと牽制して来たけれど、シャルルにだけは通用しないことを知っている。

 射抜くような視線が何度も重なるにつれ、心の中にどんどん恐れと怒りが募った。

 

 ──やっとドラコに見てもらえたばかりなのに、いまさら彼を奪わないで!

 

 ドラコからの熱を孕んだ視線に、シャルルはずっと気付かないふりをしていた。いまさら、いまさら、ドラコの隣を望もうだなんて、そんなことは絶対ゆるさない。たとえそれが親友であっても。

 

 図書室の奥の奥の席はシャルルのお気に入りだった。授業後ドラコからのいつものお茶会の誘いを断り、とても惜しい気持ちになりながらもパンジーはまっすぐその席へ向かった。

 橙のアンティークランプの光に照らされ、ほの暗くなってきた図書室内で、本を捲る姿が美しく浮き上がるシャルルの横顔に、一瞬パンジーは気圧された。まるで芸術品みたいに完成された美だったから。

 そして気圧された自分に怒りが湧いてくる。

 パンジーはずっとシャルルが羨ましかった。当たり前のように、パンジーの欲しいものすべてを手にしている彼女が。

 

「シャルル」

 

 静かに視線を上げたシャルルが、少し驚きを浮かべてパンジーを見上げた。まばたきの度に星が散る。それにすら惨めな気持ちになりそうだった。

「どうしたの?ドラコは?」

「談話室にいるわ」

「なにか課題が終わっていないの?」

 答えず、パンジーはシャルルの隣の席に座る。彼女は戸惑っているようだった。

 静かで、どこか威圧感さえ感じるパンジーは初めてで、自然と顔が引き締まる。

 席の周りに人気はない。周辺の本棚は課題や授業に関係の無い雑学的な本が置かれているから、滅多に生徒がここの本を探しに来ることはないし、マダム・ピンスのヒステリックな金切り声もここには届かない。生徒たちの話し声も靄がかったように遠い。人に知られたくない話をするのに絶好の場所だ。

 シャルルはセオドール・ノットとここでよく過ごしている。

 

「ドラコがあなたを想っていたことには気付いていたでしょう?」

 喉から出た声は存外冷静だった。でも自分で言ったその事実に、鋭く心臓が痛む。シャルルは否定せずに困ったように俯き加減で視線を逸らした。

「でも、わたしはあなたのことをずっと応援して来たわ……」

 申し訳なさそうな、出来る限りパンジーの怒りを和らげるような声に顔が歪みそうになる。これに関してシャルルは悪くない。ただパンジーが惨めな気分になるだけ。彼女には分からないんだろう、シャルルがパンジーを尊重しようとするたびに、どれほど情けなくて惨めな感情に襲われるかなんて。

「言っておくわ。わたしは決して彼を離さない。あなたがドラコを求めても、彼があなたを想っていたのはすでに過去のことだわ」

「ドラコを求める……?」

「あなたが嫉妬に満ちた顔でドラコを見つめているって、わたしが気付かないとでも思った?」

 だんだん、声が震えてくる。パンジーが睨みつけるが、シャルルはただ途方に暮れていた。

「嫉妬……?わたしが?」

 白々しい!目の奥が燃えるみたいだった。

「そうよ!今まで彼の視線を見ないふりしていたくせに!それにわたしがどんな気持ちだったか……」

 甲高い声で怒鳴ってから、必死に自分の気持ちを落ち着かせる。いけない、マダムが来てしまう。それに今日パンジーはシャルルと喧嘩しに来たわけでも、絶好しにきたわけでもない。

 ドラコに選ばれた女として、ただ宣戦布告をしに来たのだ。

 

「手に入らなかったものをいまさら惜しんでも、もう遅いのよ、シャルル」

 

 彼女は強い口調にたじろぎ、パンジーを見つめながらもう一度口の中で呟いた。「嫉妬……」

 そして、いきなり燃え上がったかのように顔を真っ赤に染めた。首元まで朱に染まっている。うろたえて、火照った自分にさらに動揺して瞳を揺らすシャルルにパンジーは呆気に取られた。こんなに顔を赤くした彼女が見たことがない。

 いつも余裕そうに澄ましているのに、今はその余裕もすっかり消え去っていた。

 やっぱり……。

 パンジーの目から見ても、羞恥で潤んだ瞳や、熟れた頬や、そのせいでさらに際立つ絹みたいな肌はとても愛らしくて、それに何故か泣きそうになった。どうしてもシャルルにドラコを盗られたくない。どうしても、どうしても、ドラコの隣を譲りたくない。シャルルにかなわないと分かっているから、こうして彼女に言うしかない自分が悔しくて仕方ないけれど、なりふり構わずにでも、どうしてもドラコを誰にも渡したくなかった。

 

「そう……これは嫉妬だったのね……」

 シャルルは手のひらで顔を覆った。彼女が自覚していなかったことに、パンジーは初めて気付いた。恋に鈍感なのは理解していたつもりだったけれど、ここまでだったなんて。

 自分が余計なことを言ったんじゃないか。

 背筋が冷たくなる。

 半ば縋るような気持ちでパンジーがシャルルを見つめた。

 

 少し赤みの引いてきたシャルルが、パンジーを潤む瞳で見つめた。それにドキリとする。彼女がドラコに向けた射抜くような強い瞳だ。

「安心して、わたしは彼を望んでなんていないから」

「うそよ」反射的に返す。「ドラコに向けられる視線はわたしがいちばん分かってる」告発するような響きが篭もっていた。

「本当よ。見ていたのは、彼がパンジーを幸せにするかどうか分からないから」

「そんな綺麗事を知りたいんじゃないわ!」

 真っ白になるほど手をきつく握りしめる。

「わたしは全部分かってるの。隠そうなんて思わないで。シャルル、わたしはあなたのことも失いたくないのよ、大事な親友だもの……」

 言い終わる前に言葉尻がか細く消えた。

 もはやパンジーは涙を浮かべていた。それを見てシャルルが顔を歪ませ、皺が寄るほどぎゅっと目をつぶる。

 

「気付きたくなんてなかったわ……。でも、あなたが気付かせたのよ」

 悩ましく、苦しげな声で呻いて、シャルルが隣に座るパンジーの手のひらを掴んだ。そのままするりと指先を絡める。

 シャルルはそっと顔を寄せた。間近で見つめ合った宝石のような青い瞳が、きらきらと膜を張っている。鈴のような低い囁き声が掠れていた。

「たしかにわたしは嫉妬していたんだわ。わたしの隣からあなたを奪って、当たり前のようにあなたに大切にされて、わたしには向けてくれたことのない笑顔を向けられるドラコに……」

 まるで罪を吐き出すような声だった。泣きそうな、林檎のようなシャルルの表情と言葉の意味を理解する前に、パンジーの唇に熱い果実のような甘さが触れる。

 頭の先から痺れが広がり、パンジーは目を開いたまま身体を固くしていた。

 柔らかく下唇を食まれる感触に脳内が溶けるような気持ちの中で、頬を冷たい雫が濡らすのを感じた。シャルルが泣いている。

 

 古ぼけた紙の香りに包まれた図書室の片隅で、淡い橙の光に照らされながら、少女たちの影はひそやかに重なり合っていた。

 

*



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死より遠い夢想

・本編のオリジナルキャラクター、ターニャ・レイジーがもしも本当のメイドだったら?という話
・自サイトの企画でいただいたリクエストになります
・代々スリザリンに隷属し、ハウスエルフと同程度の扱いを受けているターニャが、シャルルに見出される暗い話です
・すべてにおいて捏造しかありません


 

 嘲笑が耳を離れない。

 四六時中だれかに罵られ、嘲笑われ、消費されていく奴隷のような人生がターニャ・レイジーの運命だった。

 

 着古して茶色くなったシャツには無数の皺が寄り、ほつれた糸を治す余裕もなく、長年の垢が固まりついて紺にも茶にも見える薄汚い色に変化した上着を羽織る。せめてもの砦として、最後に緑のローブに腕を通した。

 ターニャはスリザリン生ではない。ホグワーツの生徒ですらなかった。

 ただ、スリザリンのために身を粉にして働く役割を与えられた、生まれながらの従僕だ。魔法使いに尽くすハウスエルフと、スリザリンに尽くすターニャは同じだ。都合の良い道具、あるいは召使い。ターニャの人生はこの世に生を受けた時から、ターニャのものではなかった。

 

 血の契約。

 

 ターニャを縛る、祖先から続く呪い。

 魔法界ではとっくに忘れ去られた、夢物語のような話を、幼い頃から母は夜な夜なターニャに言い聞かせた。わたし達一族、レイジー家は高名な魔法使い、サラザール・スリザリンその人に忠誠を誓った部下の末裔であると。

 サラザールがホグワーツを去る時、祖先は残され、血の契約を交わした。たとえ離れていてもサラザール・スリザリンへの忠誠を、この血が絶えるまで誓うことを。

 そして信頼を受け、スリザリンの思想をのちのちまで残し、スリザリンの魂に尽くすことを誇りに考えた子孫は、血の契約に基づいて1000年もの間ホグワーツで……スリザリンの守護を担っている。

 

 暗く淀んだ母の瞳を見て、いつもターニャは思ったものだ。バカバカしい。

 奴隷であることをどれだけ綺麗な言葉で包み隠しても、レイジー家が魔法界の最下層にあたる存在であることは変わらない。母が縋るように信じるその話が、一体どれだけ事実に基づいているのか。

 もし祖先が本当にサラザール・スリザリンに信頼される部下であったなら、今のターニャ・レイジーが奴隷として生きることはなかったはずだ。

 何もかもバカバカしくて、恨めしかった。

 諦められたら楽だろうに、ターニャの腹の中はいつも怒りと、口惜しさと、絶望、そして恨みでじくじくと煮立っている。

 わたしは必ず、この呪縛から逃げ出してみせる……。

 

 

 かの有名なハリー・ポッターと同時期にスリザリンにメイドして送り出されたターニャは、生徒になることは出来なかった。

 入学可能なほどの魔力を発現出来なかったからだ。

 先祖から伝わる杖を持ってはいるが、呪文を唱えても、杖を振ってもろくな魔法を使えなかった。せいぜいが、繕いものをするときに針を少し動かすことが出来たりだとか、火傷や切り傷を僅かに癒すことが出来るだとか……。そんな初歩的な生活魔法だけだ。

 ターニャは魔女ではなく、魔法界の鼻つまみ者のスクイブだったのだ。

 

 暖炉の灰を這いつくばって掃除していると、談話室に騒々しさが近付いた。授業が終わり生徒たちが帰ってきたと気付き、ターニャは慌てて立ち上がった。汚れた格好で自分たちの空間を歩き回られることを、スリザリンの"高貴"な子息子女様方はお嫌いになる。

「嫌だわ、ドブのような匂いがすると思ったら、また貴方なの?」

 1人の女子生徒が嫌そうにジロジロと舐め回した。足元にパラパラと零れている灰を眺め、「さっさと片付けてちょうだい」と鼻を鳴らし、寝室に去っていく。

 彼女はたしか5年生の生徒だっただろうか。ターニャは「はい」と機械的な返事をした。彼女の傍にいた何人かがクスクス笑いながら、「本当に使えないスクイブね」「のろまなんだから」と嘲笑を投げつけていった。

 スカートを握り締めたくなるのを抑え、ターニャはしゃがみこむ。とっととこの場から消え去らないと、また絡まれてしまう。

 遠巻きにターニャを笑う生徒の声が聞こえてきて、それは毎日のことと言え、胃がよじれるような思いがした。

 

 嘲笑を向けられることも、先程の女生徒のようにただ見下されることもターニャは大嫌いだ。

 

 ふと、足音が近付いてきてターニャは身を固くした。振り返ると杖を構えた女子生徒が立っている。咄嗟に頭を庇おうとするよりも早く、彼女が杖を振った。

「スコージファイ」

 みるみるうちに水分が床を綺麗に磨き上げた。目を丸くするターニャにも呪文をかけ、汚れていたターニャの身体を冷たい感触が走り抜けた。

「まぁ、洗っても小汚いのね……」

 ぽつりと漏れたような独り言に身体が熱くなる。羞恥か、惨めさか、怒りか分からない。ターニャはただ黙って俯いていた。

 

「シャルル、何してるの?そんな奴隷にかまうなんて」

 避難するような甲高い声に、シャルルと呼ばれた生徒が綺麗な微笑みを浮かべた。

「暖炉のそばでお茶を飲むんでしょう?スクイブがやるより、わたしがやった方が早いじゃない」

「だからって……」

「あなた、もう下がっていいわよ」

 顔も見ずにその生徒は手をひらひら動かした。唇を噛み締めすぎて、苦い血の味を感じた。

 

 

 高貴な家柄の子供たちというのは、まぁ毎日飽きもせずに、パーティーの真似事をしたがる。

 暖炉の前で、個人の寝室で、湖の畔で、空き教室で……くだらない大人ごっこで、拙い社交もどきをしては満足している幼稚な蛇のために、ターニャは奔走しなければならなかった。

 カップを準備し、場を整え、軽食を用意し、食器を洗い、後片付けをしながら、またどこかで呼ばれれば駆けつける。杖を3回振ると、ターニャの持つ指輪に呼ばれた場所が映し出されるのだ。奴隷の証。小さな緑の石がついたこの指輪がターニャは大嫌いだった。

 

 広いホグワーツ城を駆け回るのは至極非効率だ。少しでも遅くなれば鬼の首を取ったかのように罵られる。来たばかりの頃は要領を掴めずに、自分の足で駆け回っていたターニャだったが、だんだんとやり方が分かってきた。

 ホグワーツにはターニャと同じ立場の生き物がいる。ハウスエルフ。彼らはスリザリンに尽くすターニャを自分たちと似たような仲間だと捉え、次第に協力してくれるようになった。

 呼ばれれば姿あらわしで連れて行ってくれたし、衣服の洗濯も、繕い物も、軽食の準備も嬉々としてやりたがった。そうして「お嬢様方はとても喜んでおいででしたよ」とありもしないことを伝えてやれば、それだけで彼らは大満足らしい。

 

 彼らのように、惨めさを感じずに役割を受け入れられたら、どんなにか生きるのが楽だろう。

 決してそうはなりたくないと思う反面、ターニャはハウスエルフという生き物が羨ましかった。日々の小さなことに幸せを感じて生きていけるほど、ターニャは無垢じゃない。

 

 地下の冷たい廊下に革の音が響く。ペタペタとした間の抜けた音だ。革はとっくに古くなって底が剥がれている。下級生がターニャを見て顔を寄せ合った。何かしらの会話の後に、意地の悪そうな表情を浮かべた。

「おいスクイブ」

「はい、お呼びでしょうか」

 返事もせず少年たちは魔法をかけた。どこからか糞爆弾が落ちてきて爆発すると、腹を抱えて楽しそうに笑った。

「本当に爆発したぜ!これってホグズミードでしか買えないんじゃないのか?」

「グリフィンドールの双子が横流ししてるらしい。スリザリンには売らないらしいが、レイブンクローに従兄弟がいるから分けてもらったんだ」

「ぶはっ、これを双子にぶっつけてやろうぜ!」

「あいつらどんな顔するかな。俺たちはホグズミードにはまだ行けない年齢だからな……」

 小さい脳みそでくだらない計画を企んでいる。企みとも言えない。バカバカしい。糞爆弾をぶつけられるのは初めてではないが、呻きたくなるような匂いがする。

「これ片付けておけよ」

「聞かれたらなんて答えるか分かってるよな?」

「はい、坊っちゃま」

 赤いローブの生徒にやられました。都合の悪いことは全部そう言うことになっている。スリザリンの言いなりの彼女の言を信じる教師がホグワーツにいるものか。

 

 糞爆弾は匂いがなかなか取れないし、泥の汚れもしつこくこびりついている。管理人のフィルチにまた大目玉を喰らうだろう。フィルチは同じスクイブだったが、杖を持ち、僅かに魔法を使えるターニャのことを、魔法使いの生徒たち以上に妬んでいた。

 ウンザリする。

 何もかもにウンザリする。

 死を考えたこともあるが、何故、生まれてきただけのターニャが死ななければならないのか悔しくて死ぬことも出来なかった。

 

 クスクス笑いや嫌悪感の表情が通り過ぎていった。

 これの処理は時間がかかりすぎる。ターニャではどうにもならない。ローブから杖を取り出して3度振ると、パチンと軽快な音と共に小汚い生き物が現れた。

 廊下という、生徒の目が触れる場所に居心地が悪そうだ。彼らは隠れて働くことを是としている。

「ミードをお呼びになりましたか、ターニャ?」

「うん。悪いけど、ここの片付けを頼みたいの、お願い出来る?」

「もちろんでございます。ミードはここの片付けをお出来になります」

 ターニャは「ありがとう」と頷いた。「ついでに、この身体も綺麗にして、匂いを取れたりする?」

 指を鳴らすと、もうターニャの身体は元通りだった。その時、指輪が震えた。どこかでまた呼ばれている。舌打ちして呟く。

「お願い、ミード」

 姿くらましする瞬間、目を剥いている黒髪のスリザリン生が目に入った。シャルルと呼ばれていたあの生徒だった。

 

*

 

 ターニャの部屋は、地下の小部屋に与えられている。代々レイジー家の召使いが使っている部屋だ。

 レイジー家でも魔力を示した子供なら生徒として入学出来る。もちろん、魔法界での悪評もあり、ほぼ使用人のように扱われるが、魔法使いにはなれるのだ。

 母も魔女だった。

 父は知らない。一度も母の口から聞いたことがないが、おおかたマグルとまぐわって、その事実は死を以て隠蔽したのだろうと、ターニャは睨んでいる。

 代を重ねるにつれ、レイジー家の魔力は弱まっていた。スクイブが生まれるのもターニャが初めてではない。

 祖先は、スリザリンの純血主義に賛同しながら、血の契約を残すためにマグルと交わってでも子を残したがった。マトモで正しいスリザリンの魔法使いなら、奴隷に子種を与えるような真似は、とても恥ずかしくて出来ないからだ。

 

 疲れきって泥のように眠る。朝が来なければいい。

 

*

 

「ザビニの新しい彼女が……」

「知ってる?スチュアートの従兄弟って……」

「デリックがハッフルパフの女にフラれたらしいわよ……」

 

「ルシウス・マルフォイがまた……」

「ロジエールは魔法省に入省して……」

「この前制定された法律はあの……」

 

「またハリー・ポッターが……」

「次のクィディッチでは頭でっかちなレイブンクローに……」

 

 パーティーごっこをしている生徒たちは、ベラベラと色々なことを喋った。ターニャが部屋にいても、その汚さを厭うことはあれ、話を聞かれることに対しては何の警戒心も持たない。

 悪口を言うだけでなく、何か、薄暗い計画を立てているときでさえ。

 出来る限り気配を消しているターニャの存在感は希薄で、彼らは歯牙にもかけない。だからターニャの元には多岐に渡る情報が集まった。

 夜間の規則破りのデートでもターニャは呼ばれるし、入室禁止の部屋でも呼ばれるし、それでもターニャには何かやり返す手段があるわけでもない。秘密にしろと言われれば、ターニャは秘密にするしかなかった。

 

 教師陣はターニャに同情的な人もいた。レイジー家がむかしからホグワーツの住人であることは常識となっていたが、ターニャのように、見る人に悲哀を連想させるレイジー家の人間はあまりいなかったからだ。

 良くも悪くもレイジー家はスリザリンに固執していた。

 自分たちが縋れるものは、血の契約を交わしたサラザール・スリザリンの元にしかなかった。奉仕を忠誠だと思い込み、喜びを感じることで自分たちの惨めさを肯定しようとしていたのだ。

 しかし、ターニャはそんな負の洗脳には染まらなかった。

 

 1度、校長と話したことがある。レイジー家には踏み込まないことがある種の不文律となっていたから、ホグワーツはレイジーに干渉しない。干渉する権利を持たない。

 

「こんばんは、ターニャ」

 ある晩、アルバス・ダンブルドア校長はターニャの部屋を訪れた。知的なブルーアイズが優しそうに煌めいていた。反射的にお茶を淹れようと駆け出した彼女を、深い声でダンブルドアが止める。

「良いのじゃ、ターニャ。今日は君とお喋りをしにやって来たのじゃよ」

「わたしと……?」

 ハウスエルフ以外に自分の名前を呼ばれるのは久しぶりで、耳に違和感を感じる。狭苦しい部屋で向かい合うと、ターニャが悪いわけは無いのだが、こんな場所に校長がいる申し訳なさのようなものが浮かぶ。

「君の献身ぶりには目を見張るものがある。幼いのにようく頑張っておるのう。……ホグワーツでの生活はどうじゃね?」

「……はい、不便はありません。城に住まわせていただきありがとうございます」

「礼など言わなくて良い。君の祖先と創設者の取り決めなのじゃから」

 深い同情的な視線がターニャを包み込んだ。

「レイジー家は素晴らしい同盟者じゃった。スリザリンが去ったあとも、ホグワーツや魔法界の発展に非常に貢献した……今では、その文献も消え、歴史の中に埋もれてしまったがのう」

 悲しみの声。母の妄言が事実だったことにターニャは驚いた。ダンブルドアは眉を垂れ下げていた。

 

「レイジー家の祖先が素晴らしい人物だったのは間違いないじゃろう。しかし、あまりにも献身的で忠誠心が強かったあまりに、間違いを犯してしまった……。君の困難な呪いのことじゃ」

 ドキリと心臓が音を立てる。血の契約をあまり知っている人はいないし、レイジー家はこれ以上ない誉れと教わる。呪いだと考えているターニャは異端だ。母にも言ったことが無い。見抜かれているのか、ダンブルドアも呪いだと考えているのか分からないけれど、同じ考えを持つ人にターニャは初めて出会った。

 

「血の契約は古の強力な魔法じゃ……。1000年経っても褪せることなく効果が持続しておる。儂も個人的に血の契約を調べたのじゃが、具体的な記述を見つけることは出来なんだ。その名の通り血で縛られる契約じゃが、ターニャ、君が望むなら儂は出来る限りの協力は惜しまないつもりじゃよ」

「それは……」

 呪いを解いてくれるということですか。そう言いそうになった。声には出していないはずだったが、ダンブルドアが哀れに見つめながら首を振る。

 当然だろう。ターニャは瞳を暗く淀ませた。

「呪いの解呪方法はまだ分からぬが、君のホグワーツでの生活をより良いものとするために、できることはある。儂に望むことはあるかね?何でも言ってみなさい」

 

 なぜそんな申し出をしてくれるのかは分からないが、ターニャは考え込んだ。

 罵られることも、奴隷として生きることも、くだらない人間の雑用をさせられることも、スクイブと呼ばれることも、母も、何もかも嫌いだ。

 でも、ダンブルドアにできることがあるだなんて希望的な観測は出来なかった。

 魔法使いでさえ、マグルから生まれたというだけで蔑まれるのに、マグルの血が混ざり、スクイブであるターニャを彼がどう庇うというのだろうか。

 スリザリンの命令を遵守することを血で縛られているターニャに対して……。

 

「ターニャ。絶望の中にも微かな光はある。心を閉ざして諦めてしまえば、いつか訪れる光を掴むことも出来なくなってしまうのじゃ」

「光……?」

「光じゃ」ダンブルドアは深く頷いた。「犠牲を強いられても良い人間は、この世にはいない。ターニャ、君は望みを抱いて良い、幸せになろうとして良いのじゃよ」

 

 涙が滲んだ。綺麗な言葉だ。綺麗な心だ。

 ターニャには、ひどく眩しい。

 笑いだしたくなった。

 どいつもこいつも、ターニャを自分より下で当然だと思っている。

 幸せになるために、結局誰かの下につかなければならないなら、わたしは自分で全てを呪いながら生きる!

 

 静かに首を振ったターニャにダンブルドアはそれ以上何も言わなかった。可哀想な子を見る目で見るな。ターニャの胃は煮えくり返っていた。

 申し訳なさを感じる必要は、ダンブルドアにはどこにも無いのに、彼はターニャに謝罪をした。帰り際、「いつでも儂は君の幸せを願っておる。その協力も惜しむつもりはないよ」と声をかけた。

 

 彼が帰ったあと、ターニャは自分の醜さに泣いた。

 差し出された手すら振り払って、自分のありもしないプライドを守ろうとする醜さが惨めで仕方なかった。ダンブルドアは綺麗な人なんだろう。与えることに慣れている。それが妬ましくて仕方がない。

 

 ターニャは自由に生きたい。

 そして、自分を見下した全ての人間に、苦痛に悶える死が舞い降りることを望んだ。

 

*

 

 閉鎖的な環境では人間の優劣が明確に現れることが多いが、スリザリンのカーストの苛烈さは他寮の比ではなかった。

 この寮では常にひっそりとした緊迫感が漂っている。

 良家の子息子女はこの世の王かのように振る舞い、下の人間は媚びた笑顔を常に浮かべている。それが剥がれるのはターニャの前でだけだ。

 ターニャは彼ら、彼女らにとって日頃の不満を晴らすちょうどよい道具だった。

 

 「授業の予習」だと呪いをかけられ、憂さ晴らしに痛め付けられ、ターニャの骨の浮いた細い身体は傷だらけだ。酷くぬらついた瞳でターニャを見下ろして、醜悪な笑みを浮かべるスリザリン生は吐き気を催すほど醜い。

 彼らが大嫌いだ。

 けれど、ターニャはこの環境がある意味で居心地が良いことを認めないわけにはいかなかった。他人より下の人間に優越感を覚える感覚が、ターニャにはよく分かる。

 自分を仕事仲間だと扱いながらも、何か命じられると嬉しそうな様子を隠さないハウスエルフを見ると、ターニャの心は僅かに慰められるのだ。

 彼らが自分より惨めだとは思わないが、彼らが自分に逆らわないことも知っている。何かを動かすというのは気持ちがいい。

 

 人生の転機はある日、唐突に訪れた。

 

 癇癪を起こして用意した紅茶を掛けられ、床を拭き、新しくお茶を淹れ直し、顔も見たくないと追い払われて割れたカップを持って廊下に出ると、その後ろから誰かが追い掛けてきた。

「ねえ」

 ターニャは俯きがちに振り向いて、敬虔な態度で命令を待った。廊下は冷たく静まっていて、石壁に鈴のような声が反響していた。

「あなた、この前ハウスエルフと一緒にいたわよね?」

「はい」

 目を真っ直ぐ見ると生意気だと小突かれるので、ターニャはローブからちらりと見える白魚のような美しい指を見つめながら返事をした。皮が剥がれ血が滲んだターニャの手とは全く違う手のひら。

「そうすると、あなたは厨房の場所が分かるの?」

「はい」

「そうよね、いつも食べ物を運んでるのに──どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのかしら!」

 嬉しさの滲む声で生徒が呟いた。そんなの簡単なことじゃないか?ターニャを気にする生徒が誰もいないからだ。考えるまでもなく簡単なクイズ。浮かれたように「ハウスエルフを探していたのよ。紹介してちょうだい」と命じられ、ターニャはやはり、「はい」と頷いた。

 

 厨房も地下にある。大ホールの真下で、石造りの壁に囲まれているのは変わらないが、ハッフルパフの寮に向かうにつれて明るく廊下が照らされていく。

 食べ物の絵画が並べられた暖かい雰囲気の廊下の前で立ち止まり、出来るだけ見えやすいように洋梨の絵を擽った。梨は笑い声を上げ、大きな緑色のドアに変わった。

「まぁ!こんなところに入口があったのね。同じ地下だったのに気づかなかったわ……。絵に触れるだけでいいの?」

「はい。擽ってください」

 ドアを開けると食器用品が至る所に飾られただだっ広い空間が広がっている。ハウスエルフの寝室の役割も果たしていた。

 

「ようこそお嬢様!よくおいでくださりました!」

「ご用事めはなんでしょう!」

「お菓子をご準備なさいましょうか?」

「お嬢様、紅茶を1杯お飲みになりますか?」

 わらわらと群がってきたハウスエルフ達は甲高い声で喚き始めた。分かってはいることだが、ターニャへの態度と明らかに違うことに胃の腑が重くなるような気分になる。

 腰の当たりでキーキー喚き続けるハウスエルフに女子生徒は軽く手を上げた。静かに。言葉にしなくても一瞬でハウスエルフ達は黙り込み、期待に満ちるギョロギョロした瞳を見つめた。

 

 上に立ち、しもべを使うことに慣れ切った、気品のある態度に息を飲む。ここまで洗練された仕草の生徒はなかなかいない。

 ターニャは初めて顔を上げた。腰まで流れる黒髪と、利発そうな青い瞳。

 スリザリンで唯一、ターニャに無害な魔法をかけたシャルル・スチュアートだ。

 彼女の声はたいして大きくないのに、ハウスエルフ達が一言も聞き漏らさないように前のめりになっているので、よく通った。

「今日は、そうね……夜食のサンドイッチだけいただくわ。数切れで充分。それから、これから色々お願いしたいことが増えると思うのだけれど、同じハウスエルフに頼みたいの。誰かわたしの専属になってくれる子はいるかしら?」

 何人かが前に出て、自分をアピールし始めた。

 その中のひとりを適当に選び、「それじゃ、ミロに決めるわ。さっそくサンドイッチをお願いね」と命令すると、小躍りしそうな勢いでサッと奥に消えていった。

 

 満足そうなシャルルが振り返り、「あなたもご苦労だったわね」と労りの言葉をかける。あまりのことに身体が固まって、強ばった顔でターニャは「いいえ、お嬢様」と首を振るしかできなかった。

 ハウスエルフに対しても、ターニャに対してもシャルルの態度はスリザリン生だとは思えない。

 

 それから時折、シャルルは気まぐれにターニャを助けた。

 虐められて怪我をしているのに気付けば癒しの魔法をかけ、汚れた格好で談話室を歩いていたら汚れを落とし、罵倒されていれば「そんなに嫌なら視界に入れなきゃいいじゃない?」とどうでも良さそうに言った。

 始めは喉が焼け付くような屈辱に襲われたが、だんだん、奇妙で複雑な感情になった。シャルルはたぶん、ターニャに同情もしていないだろう。興味もないし憐れんでもいない。

 たまたま目に付いたときに、気が向けば、いつもスリザリン内をウロチョロしているスクイブのメイドを、スリザリンにふさわしく整えてやっているだけなんだろう。

 なんだか肩の力が抜けた。

 シャルルの視線は無機質で、楽だった。

 

*

 

「誰にも見つからない隠し部屋ってないのかしら」

「隠し部屋?僕らの会合のためにか?」

「いいえ。ちょっと個人的にいろいろ試してみたいことがあって。呪文の実践とか」

「ああ……。例の」

 黒髪の男子生徒が納得したように声を上げた。ここは深夜の談話室で、周りに人は誰もいない。ターニャはブレーズ・ザビニが空き教室で楽しんだ後片付けを終え、彼に眠りのための紅茶──ナイト・ティーを淹れ、寝室に戻るのを見送ったばかりだった。

 入れ替わるようにふたりがやって来てヒソヒソ顔を突き合わせている。

 

「図書室に向かう途中の銅像があるだろ?その隣の絵画の裏に階段がある。それを下りると小部屋があって、滅多に人が来ない」

「そうなの?セオドールがそんな冒険じみたことしてたなんて」

「いや、先輩に教わった。狭いが居心地は悪くないよ」

「そこはぜひ使わせていただくけど、あなたが知っているんじゃ、誰にも見つからない隠し部屋とは言えないわ。おばかさん」

「無茶言うなよ……」

 シャルルが軽く彼を小突くと、ほんの少し苦笑いする。

 

「そう言えばあなたって厨房の場所も知っていたし、ホグワーツの構造に詳しいの?何かいい場所を知らない?」

 会話の流れが不自然に途切れ、息潜めていたターニャが顔を上げると、シャルルが真っ直ぐ自分を見つめている。テーブルを拭いていた手を止めて、ターニャはいつも通り短い返事を返そうとした。「いいえ」と。

 しかしなぜか脳内が一瞬躊躇した。そして、これはチャンスなのだと気付き、背中がドキッと強ばった。

 シャルル・スチュアートは他のスリザリン生と違う。イル・テローゼを見るに興味が無い人間には徹底的に興味がなく、今までターニャもその対象だったが、ハウスエルフを紹介したことで僅かに視界に入れることになった。

 彼女は、自分の視界に入る人間に対して、無駄に罵倒したり虐げたりはしない。

 今、彼女がターニャを忘れる前に恩を売れるチャンスだ──。

 

「……それならば、必要の部屋が適当かと思います」

「必要の部屋?」

 彼女は目をくりっとさせて食いついた。

「はい。本人が望む通りの部屋が現れます。必要だと願ったものが揃い、必要だと想像した通りの部屋が具現化される部屋です」

「すごい!それこそ求めていたものだわ!それってプライバシーはどうなっているの?」

「願いが同じなら同じ部屋が開かれます」

「つまり、バレないような部屋をイメージすればいいわけね……」

 すぐにそのことに思い至り、ワクワクと思考する表情をしている。

「そんな都合のいい部屋が本当にあるのか?聞いたことないが」

「ホグワーツにならなんでもあるわよ」

「創設者を信仰するのは勝手だが……」

 何かモゴモゴ言って、セオドール・ノットが黙る。

 

「それにしても……。あなた、ホグワーツに詳しいわね?」

 検分するような目でシャルルはターニャを初めてまじまじと眺めた。

「先祖代々ホグワーツで勤めておりますので、大体の構造は幼少から話を聞いています」

「なるほどね。ふぅん……」

 目を細めたシャルルが、友好的にニコッと微笑んだ。その笑顔になぜかゾクッと背筋に冷たいものが走り、俯いているターニャの口元がほんのりと笑みの形をかたどった。

 

 必要の部屋の価値に大喜びしたシャルルは、それからターニャのことを庇うようになった。

 いや、庇うというのは正しくないかもしれない。

 自分の専属のように扱い出したのだ。

 談話室でもかまわず呼び出し、お茶を飲んでいるときは用事がなくても後ろに立たせ、他の人からの呼び出して抜けなければならないときは、呼び出した生徒に「わたしが彼女を使っていたところだったのよ?」と微笑んだ。それだけでスリザリン生にはじゅうぶんだった。

 彼女はスリザリンに君臨する有力な子女なのだから。

 

 ターニャの生活は劇的に上向いた。細かな怪我がなくなり、罵倒は相変わらずいつでも投げつけられるが、シャルルの前ではあまり言われないし、仕事量も減った。

 ターニャもさらに気に入られようと、彼女が雑談に興じている時、こっそりと情報を与えるようになった。

 スリザリン生の弱みを、それも陥れられる弱みをターニャは数多く握っていたのに、今までは誰かに密告することがかなわなかった。しかし彼女なら情報を上手く扱う事が出来るだろう。

 誰かに利用されることは吐き気がするほど嫌いだし、シャルルのことも嫌いだ。でも彼女には利用される価値がある。

 

「あなたって名前はなんて言うの?」

 最近図書室傍の小部屋で闇の魔術の本を読み漁っている彼女が、本から視線を上げずに尋ねる。シャルルのティータイムの準備はターニャが全て担っている。ハウスエルフのミロは見かけない。たぶん違う目的のために使われているのだとターニャは睨んでいた。魔法の実践のために必要の部屋を求めたことと闇の魔術とハウスエルフ。馬鹿でもイコールで結べるというものだ。

「ターニャ・レイジーと申します」

「ふぅん。レイジー、あなたのその服、もっとマシなのを着たらどう?それともハウスエルフのようにボロを纏うのが誇りなのかしら」

 スリザリン生から名前を呼ばれるのは、この城に来てから初めてのことだった。

「いいえ……しかし……新しいものを着てもすぐに汚れたり破けてしまいますし……。常に新調出来るほど、その……」

 家が貧しいことを、金に困ったことがないであろう彼女に言うのは羞恥に襲われ、言葉が先細りになる。それに母はターニャのために服を買うより、スリザリンのためにティーカップや掃除用具を揃えるような女だった。

「じゃ、わたしのお古をあげるわ。そんな小汚い格好で近くをうろつかれると気になるもの」

「ありがとうございます」

 じっと俯く。じくじくする怒りをそっと抑える。

 

「でも、ダンブルドアはよくあなたを雇っているわね。あなたがそれを望んでいようが、ダンブルドアのような偽善者が、虐げられると分かっていて子供の奴隷をそのままにさせているなんて」

「ホグワーツはレイジー家に干渉する権利を持ちません」

「……どういうこと?」

 シャルルが怪訝そうに顔を上げた。ブルーの瞳の奥に好奇心がちらりと見える。

「レイジー家は1000年前からスリザリンの奴隷ですから」

 自嘲の響きが籠るのは抑えられなかった。「1000年……?創設者の時代から、レイジー家はホグワーツに勤めていると?」

 まさか、と目を見開くシャルルに頷く。「はい」

 

 彼女の顔にゆっくりと興奮が広がっていった。それが移ったようにターニャの身体もドキドキと緊張が波打っていた。彼女は創設者を信仰している。ターニャは乾燥した唇を舐めた。

「じゃ、あなたの家は相当歴史があるじゃないの……。もしかして、スリザリンについて何か伝承が残っていたり……?」

「サラザールはホグワーツを去ることになっても、過去の友情と自分達の結晶に執着していました。自分が去った後は自分の思想を正しく扱う人間がいないことも知っていました。だから彼は遺志を託した人間を城に残した」

 ブラウンの瞳とサファイアブルーの瞳が絡んだ。シャルルが愕然として、小声で囁いた。

「遺志を託されたのが……レイジー家の祖先だと?」

「はい」

「そんな……まさか……」

 

 それきり彼女は黙り込んだ。どこかを見つめて考え込んでいる。

「証明出来るの?」

「はい」

「どうやって?」

「わたしには血の契約が掛けられています」

「血の契約?」

 

 ターニャは語った。祖先とサラザール・スリザリンが交わした古の魔法。忠誠を捧げ、スリザリンとスリザリンの思想を守るために末裔に至るまで奉仕を誓った魔法。

 だからターニャはスリザリン生に逆らえない。命令に背くと血を吐き、蛇に締め付けられたように喉が締まり、心臓の上に禍々しい赤黒い模様が浮き出した。血管が浮き上がるようなおぞましい模様。それが繰り返されると死に至るのだ。文字通り血に呪いが流れている。

 

「レイジー家がホグワーツにいるのは、それがスリザリンとの契約だからです。彼の去ったのち、スリザリンを守護し、導くこと。わたし達はホグワーツに雇われているのではない。だからダンブルドアとはいえ、レイジー家に干渉することは出来ないのです。仮に彼がどんな魔法をかけても、わたし達はいつでも望んだとき、好きなように城に来ることができます。1000年前からレイジー家の居るべき場所はスリザリンだと定められています」

 

 長い間シャルルは黙っていた。

 永遠にも感じられた沈黙の中、喜びと憤りの綯い交ぜになった表情のシャルルが、告発するように言った。

「それが事実なら……レイジー家の扱いは不当なものだわ」

「……」

「サラザールの信を受ける、創設者時代からの血筋がこんな……こんな立場においやられているなんて……」

「……世代を重ねるにつれ、歴史は埋もれ、ただ血の契約だけが残りました。命令に絶対に逆らわない人間を、人間がどう扱うかは知っているはずです」

「…………」

 

 青ざめた顔で唇を震わせながら、シャルルは決然として言った。

「レイジー……。あなたのような血筋が尊重されないのは間違っているわ。ええ。絶対に許されるべきじゃない。わたしが必ず、サラザール様の大切な部下の子孫を、ふさわしい立場にまで戻してみせる」

「……どうやって?」

 諦めと嘲笑を浮かべるターニャに、シャルルは悪魔のような美しい笑顔を浮かべた。

「歴史を証明するの。大丈夫よ。わたしは必ず魔法界を掌握するから」

 

 サラザールに心を掴まれた子孫は、こういう気持ちだったのかもしれない。ターニャは光を纏うような悪魔を見て、そう思った。

 

*



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喪ったものに焦がれながら生きている

・sapphireのIFルートのお話です
・リクエスト内容:長編スリザリン夢主とドラコの子育て
・子育てしたことなくて結婚生活メインになってしまいました
・呪いの子スコピとはまったくの別人です
・やっぱりわたしにはただ幸せな短編って書けないんだなぁとしみじみ……


 

「ははうえ、ちちうえはまだ?」

 お絵描きをするのに飽きたのか、息子が足元にじゃれついてきた。シャルルはスコーピウスを抱き上げ、膝の上に乗せておでこをくっつける。

「お父様はお仕事で忙しいのよ。もう少しだからいい子で待ってましょうね」

「でも、せっかくちちうえをかいたのに」

 雪のように真っ白で、ほのかに赤づいたみずみずしいほっぺたがぷくっと膨らんでいる。シャルルに似た青い瞳に不満の色をまざまざと湛えていた。

「まぁ、ドラコを描いてたの?喜ぶわ。わたしにも見せて」

「うん!」

 小さな足でたたたっと駆け出していき、テーブルの紙をグシャッと握ってまた走ってくる。窓から吹く風がプラチナブロンドを柔らかくさらった。

 

「ほら、これがちちうえで、これがははうえ、まんなかはぼく!」

 得意そうに胸を張り、キラキラした瞳で見上げてくるスコーピウスの頭を撫でて「とっても上手ね」と抱き締める。子供はぽかぽかしていて、柔らかくて、ちいさい。未だに自分に息子がいる現実が信じられなくなることがある。

 ドラコと結婚したことも。

 学生時代の微睡みの夢の続きを見ているみたいだ。

 

「お父様が帰ってくるまで、文字のお勉強をしましょうね」

「え~!きのうもそのまえもしたのに?もうおなかいっぱい!」

 その言い様に声を上げて笑ってしまった。なんとか堪えながら「毎日やらなきゃダメなのよ」とたしなめると、みるみる目に涙を浮かべる。

「いや!」

「あら……」

「ほうきがいい!ほうきがいい!」

「もうお昼にいっぱい飛んだでしょう」

「ほうきじゃなきゃいや!」

 ごね始めたスコーピウスは長引く。叱りつけるのもどうかと思うけれど、わがままを全部聞くのもどうかと思って、泣いた顔を眺めながらシャルルは考えていた。スコーピウスの顔立ちは穏やかだから、癇癪を起こしているのに、無垢な顔を悲しそうに歪んでいて本当に胸に迫るほど可哀想に見えてかわいい。

 泣き声を聞きつけてきて、パシッと音が鳴った。ハウスエルフのマーレイだ。

 

「坊っちゃまがお泣きになってしまわれた!奥様、どうされたのですか?」

「お勉強よって言ったら嫌だって……箒に乗って遊びたいんですって」

「それでしたら、お外の後にお勉強をしましょう!坊っちゃま、箒のあとはきちんと今日の分を終わらせないといけません!奥様はそれをお望みです」

「やだなの!」

「お勉強をしないなら、箒もダメでございます!」

 ピシャッとマーレイが言うと、スコーピウスはますます火がついたように泣き始めた。シャルルは抱き上げて、「さぁ、お外に行きましょう」と暴れるスコーピウスをあやしながら庭に行く。

 箒を出したらグスグス言いながらも、すぐに楽しそうに遊び始めた。子供というのはそういうものなんだろうけど、気分屋すぎてついていけない。

「マーレイはお勉強の支度をして参ります」

「ええ」

 

 スコーピウスは可愛い。子供用の箒に乗って、地面から30センチほどだけ浮いてキャッキャしている彼を見ているとそう思う。水色と灰の空にほんのりとオレンジが混じっている。花が咲き乱れて鼻腔を擽る。

 幸せの象徴みたいな光景だ。

 

 シャルルに育児は向いていないが、なんとか手探りで毎日を過ごしていた。

 マーレイが居なければとても子育てなんか出来なかっただろう。ドラコだって向いていなかった。マーレイは昔こそ子供の前に姿を表さなかったし、自分から意見を言うこともなかったが、見かねた彼女が育児を手伝ってくれるようになってから随分楽になった。

 シャルルは母や父にあんまり叱られたこともないし、わがままを言った記憶もなく、ドラコは厳しいルシウスを慕いながらも怯えて成長した。泣いていたら、あらあら泣いているわね、いつまで泣いているかしらこの子、とぼーっと眺めてしまうシャルルと、いつまで経っても叱りつけることに慣れないドラコではマトモな育児が望めるはずもなかったのだ。

 

 スコーピウスが2歳ほどまでは仕事に就かず、一緒に生活してくれたドラコだが、マーレイが積極的に手伝ってくれてからは、シャルルが強く背中を押したこともあって魔法省で働いている。

 息子が大きくなった時に、いつまでも大戦の悪いイメージが残っているマルフォイ家では困る。シャルルはまだ小さな息子を連れて社交界や他家のパーティーには出られないから、自由なドラコに委ねるしかない。

 頼りがいはないけれど、一生懸命頑張っているドラコは可愛いし、ルシウスが一緒に出て社交や政治の実践的なやり方を叩き込んでいるからかなり見れるようにはなっている。

 

「うわっ!」

 小さな悲鳴が上がって、思考に耽っていたシャルルは現実に戻ってきた。スコーピウスが地面にコロンと倒れている。

「落ちたの!?大丈夫、スコーピウス?」

「へーきへーき」

 ぴょんと立ち上がり、また空中に浮かんでは飽きずに飛び回っている。ドラコに似たんだろう。シャルルは別に空を飛ぶことに興味はなかったし、お世辞にも上手くはなかったが、スコーピウスは庭の障害物を器用にすいすいと避けて、水の中を泳ぐように自由に箒を扱っている。

 

 息子はドラコによく似ていた。シャルルに似ているのは、その瞳くらい。つんと上向いた鼻はドラコとシャルルどちらもだし、ふたりとも唇が薄い。垂れがちな眉はシャルルに似ているかもしれない。

 息子が生まれた時、自分の本当の父親の面影が感じられなかった。そのときようやく、シャルルはこの生活を本当の意味で選ぼうと思った。もうひとつの選択肢を諦めていないことを、ドラコは知りもしないだろう。もうひとつの選択肢すらドラコに話したことは無い。彼は優しすぎる。シャルルは本当は、魔法界の礎になろうと思っていたのだ。魔法族が誰にも支配されず、忖度せず、自由に生きられるための礎に。

 

*

 

 大戦でその名声が地に落ちたとはいえ、マルフォイ家は過去の実績があり、潤沢な資金があった。さらにスチュアート家は白い家だ。

 しかしやはり、マルフォイ家に向けられる目は厳しい。

 

 暖炉の炎が緑に燃え上がって、スコーピウスが歓声を上げて走り寄った。

「ちちうえ!おかえりなさい!」

「ああ、ただいまスコーピウス。もうお風呂に入ったのか?」

 抱き上げると、片腕に乗せてドラコが丸いおでこにキスを落とした。

「箒で遊んだから泥まみれになったのよ。おかえりなさい、疲れたでしょう」

「ただいま」唇が一瞬触れ合い、リップ音が響く。「将来の名クィディッチ選手は確定的だ。やっぱりシーカーかな」

「何人分のニンバスを買うつもり?」

「ニンバスなんかもうダメだね、やっぱりファイアボルトだろう」

「それこそもう古いじゃない」

「いや、改良されてますます洗練されているし、プロでも使っている選手はいる。根強いファンがいるメーカーなんだ。それに学生なら誰も持てないくらいまだ上級の品格を持ってる」

 熱く語るドラコを流して、ドラコの上着を受け取った。杖を振ってかけておく。あとでマーレイが洗うだろう。

 

 背も伸び、スラッとしていながら、以前より胸板は厚くなり、後ろ髪を伸ばし始めているドラコだが、こうして中身が変わっていないところもある。

 クスクス笑ってもう一度キスをした。

「食事にしましょう」

 

 マーレイの準備した食事に舌鼓を打つ。スコーピウスがニコニコ今日の出来事をドラコに報告しているのに相槌を打つ彼は、学生時代の時には想像もつかないほど穏やかな顔つきをしている。

 付き合っていた頃から、いつも高慢に顎を上げ、ニヒルな笑みを貼り付けていた彼の、本当にリラックスした時の表情をシャルルは結婚してから初めて知った。ドラコは両親の前でも気品のある表情を意識しているし、スリザリン生の前では威圧的に振る舞おうとした。シャルルの前でさえ彼はスリザリンらしかった。

 心を開ける相手がいないことは、ずっと知っていた。

 その相手に自分がなれたことが嬉しい。彼の優しい眼差しだけでも、結婚してよかったと思える理由のひとつだ。

 

「シャルルは今日は何をしていたんだ?」

「刺繍をしていたわ。ハンカチにマルフォイ家の紋様を縫ってるの。できたら良かったら使ってね」

「もちろんさ。でも魔法を使わずに手で縫うなんて、物好きだな」

 おかしそうにドラコが肩を竦めた。魔法でやっても良かったけれど、刺繍はハウスエルフがやっていたからシャルルはあまり得意じゃない。練習しているといい暇つぶしになるのだ。

「その方が愛情がこもってるような気がするでしょう?」

「ああ。使うのが楽しみだよ」

 もう何枚もハンカチを渡しているのに、まなじりを緩めて嬉しそうに頷いてくれる、純粋さを失わない可愛い人。くすぐったくも、羨ましくもなる。

 

「そう言えばセオドールから手紙が来たのよ。久しぶりに彼に会いたいわ。今度食事に招待しても?」

「ノットから?かまわないが、僕には何も言わないくせにあいつ……」

「魔法省で会わないの?」

「あいつは基本的に事務次官室にいるからな。シャックルボルトは生真面目な奴だから、個人的に親しくなるのは無理だろう」

「最近はどの部に出入りしてるの?」

「法執行部、事故惨事部、運輸部あたりだな。昔から知り合いの奴も多い」

「あら、それじゃグレンジャーが……」

 言い終わる前にドラコは苦々しげに顔を歪めた。鼻にシワが寄っている。たまに彼女の話が出ることがある。大人になってお互い昔のように喧嘩せずに話はできるらしいけれど苦手意識は消えないらしい。

「頭でっかちなのは変わらないね。個人的な友誼に正義漢ぶって口を挟んでくる」

 個人的な友誼、は所謂賄賂や横流しや資金援助なので、そりゃあグリフィンドールのグレンジャーは好かないだろう。変わらないのね。卒業以来何回かしか顔を合わせたことがないが、妊娠してからはほぼ誰にも会っていない。

 パンジーやダフネ、セオドールなどのごく親しい友人たちだけだ。だから友達でもなんでもなかった人の名前を聞くだけで懐かしい。

 

「新聞で見たけど、彼女法執行部の部長補佐に任命されたんでしょう?さすがグリフィンドールの誇った才女ね」

「謙遜だなんて、君らしくないじゃないか」

 フッとドラコが唇を釣り上げる。

「君が入省していたら、同期の誰よりもキャリアを昇ることは確実だった。そうだろ?大臣の座も狙えたかもしれない」

「そうね」

 シャルルも謙遜せずに片目を瞑ってみせた。元々大臣になるプランもあった。今はそのプランはセオドールがなぞっているらしい。シャルルがドラコと結婚した時点で、共犯者ではなくなったというのに彼も律儀なものだ。それとも、メッセージなのかもしれない。彼は何も語らないが、いつでも来ればいいと言われているような気がして、有難い気持ちにも、気詰まりな気持ちにもなる。

 

 会話が途切れ、穏やかに笑っているのを待っていたスコーピウスが、今度は僕の番だと言わんばかりに話し始めた。よく似たふたりが笑っているのは幸せな光景だ。愛する人に愛され、子供に恵まれ、経済的にも余裕があり、嫌なことは何一つやらなくていい生活。想像する普遍的な幸せがここにある。だからセオドール、わたしを取り戻そうとするのは辞めてほしい。

 わたしはこの光景を失いたくない。

 

*

 

 スコーピウスを寝かし付けて寝室に行くと、寝間着に着替えたドラコが手紙を書いている。シャルルに気付いていないようだ。

 シャルルは悪戯を思い付いた子どもみたいに、猫のような足取りでそろそろ近づいた。集中している背中にわっと覆い被さる。彼の肩が軽く跳ね、「シャルル……」と目を細めて軽く睨まれた。

「今のでインクが跳ねた。書き直しだ」

「あら、ご愁傷さま」

 かまわず膝に乗って、首筋に頬を寄せると上から溜め息が落ちた。仕方ないなと甘やかすような彼の溜め息がシャルルは嫌いではなかった。

「まったく君は、気まぐれで猫みたいだ」

 額に、頬に、鼻にキスが降ってきて、シャルルも彼の首筋に吸い付いた。筋張った喉仏を軽く食むと、顎を掬い取られて熱を持った唇が合わせられる。そのまましばらく湿ったキスを交わし、ドラコが膝に手を入れてシャルルを横抱きにした。

 軽々シャルルを持ち運ぶ彼に、今でも胸が甘くなる。

 付き合うまでは知らなかった。彼がこんなに簡単に女の子を甘やかせる男の子だなんて。

 いつも両脇に体格が良くて力持ちのふたりを侍らせていたから、ドラコは同世代の中で一際華奢に見えた。王様のように振る舞う態度はむしろ幼稚さが際立った。

 いまでも優雅で気品があり、余裕ぶって見せようとする彼の、男らしい色気を見ると彼に夢中で仕方なかった頃のときめきが戻ってきたような心地がして、新鮮に彼にときめいてしまう。

 

 シャルルの前髪を掻き分けて、ドラコが上から見下ろしている。グレイの瞳の奥に炎が映っていて、シャルルの身体も内側からゆっくりと燃えていく。

「……スコーピウスは?」

「ぐっすり眠ってるわ」

 甘えるように彼の首に腕を回した。その後は言葉はいらなかった。

 

 

 彼の肩に頭を乗せ、彼の鼓動を感じる。ドラコが空いている手で抱え込むようにシャルルの頭に手を回し、優しく髪を撫でる。

 熱は消え、今は気だるげで心地のいい倦怠感と、ぬるい体温を穏やかに分け合っていた。

 

「セオドールは今度の日曜が空いてるんですって。ドラコはどう?」

「……僕の腕の中で、他の男の名前を出すなんて随分挑戦的だな」

 顔は見えなかったが、声色で彼が不満そうに目を細めたのが分かった。

「わたしはあなたのものになったのに、まだヤキモチ焼きさんなの?」

「いい気分はしない」

 ドラコの滑らかな胸板にクスクスと吐息が擽る。ドラコは親指で頬を撫でながら、シャルルの額に唇を触れさせた。柔らかく細められた瞳が、薄暗い部屋の中でちらりと笑んでいる。

「わたしはいい気分よ。でも本題は彼じゃなくて、せっかくだからパンジーやダフネも招待したいと思って」

「同窓会か。君がしたいなら予定は開けるよ」

「ダフネはともかく、パンジーが来れるか分からないけれど……」

 

 シャルルと同じく屋敷を守るダフネと違い、パンジーは働いている。婚約している人はいるが結婚はしていなかった。学生の頃、誰よりも恋愛に夢中だったパンジーは卒業後ホグズミードの服飾店で仕事の楽しさに夢中になっている。

 会うたびに「結婚したい」と口では言うけれど、シャルルやダフネの生き方をしたいとも思っていない様子だった。子供が出来たら仕事は辞めるか、休職しないといけなくなる。それを嫌がっていた。

 もう25歳になるから、今年には式を挙げるといっていたけれど、どうなったのか聞いていない。

 

「ノットもいつまで独身でいるつもりなんだかな。そろそろ身を固めないと相手がいなくなるだろう」

「恋人はいないの?」

「さぁ、君の方が詳しいんじゃないか。昔からその手の話題を彼とすることは無いな」

「あら、そうなの?女子と違って男子は恋バナを好かないのかしら?」

「ザビニの奴は聞いてもないのにベラベラ話してきたが……」

「彼ならそうでしょうね。ザビニも懐かしいわ……」

「そういえばザビニとも親しかったな。いつの間にか色んな奴と仲良くなっているから、昔はやきもきして仕方なかったよ」

「あなたは分かりやすくて可愛かったわね」

 ドラコが頭の上で呻いた。羞恥心と戦っているのが分かる。

「少しは旦那をフォローしようと思わないかい?」

「もちろん、今のあなたも可愛いわよ」頭を起こして唇に吸い付くと、「そういう意味じゃない!」と憮然とした。やっぱり可愛い。シャルルは笑った。

「特にノットはいちばん厄介な仮想敵だった。君は仲良くなった相手にはスキンシップが多くなるから気が気じゃなかった」

 今日はめずらしく素直な日のようだ。

 見当違いの嫉妬をしているのが少しおかしかった。向こうがどう思っているかは分からないけれど、セオドールから色恋めいた視線や態度を感じることはなかったし、シャルルだって彼に恋をしていたわけではない。いちばん仲が良かったし、今でも大事な人ではあるけれど。

 ドラコが嫉妬すべき対象はセオドールよりむしろザビニだったのだが、彼はそれを知らない。

 ドラコが素直なので、シャルルもあの頃の気持ちをほんの少しだけ教えてあげることにした。

「わたしだってパンジーには少し嫉妬してたわ」

「……そうなのか!?」

「え、そんなに驚くこと?」

「だってそんな素振り一切……むしろパーキンソンと共有しようとまでしたじゃないか。あの時は正気じゃないと思ったね」

「それはパンジーに申し訳なかったから……」

 

 ドラコへの恋心を自覚した時愕然とした。大好きなパンジーがずっと彼を好きだったことを知りながら、彼を求める自分の板挟みになってジレンマに苦しんだ。

 そしてドラコも自分に恋をしていることを知っていた。

 親友を裏切りたくないけれど、彼とキスをする女の子になりたかった。

 悩んだ末に、パンジーが許してくれるならシャルルはザビニとのような身体だけの関係でもいいと思ったのだが……当のドラコに強く拒否されて断念せざるを得なかった。倫理観が欠ける行為であるのはまぁわかっていたのだけれど、当時のシャルルはドラコと結婚するつもりなんて微塵もなく、学生時代の恋だけで終わらせるつもりだったのだ。想い出にするつもりの恋がここまで本気になって、自分が結婚を選んだなんて今でも信じられない。

 

 彼への恋が、やがて愛に変わった。

 

*

 

「久しぶりね、シャルル」

 ダフネがシャルルの背中に腕を回した。シャルルも頬をくっつける。

「スコーピウスもひさしぶり」

「こんにちは、ダフネ」

 練習した仕草……胸に手を当てて腰を曲げる仕草を、拙くもきちんと出来たスコーピウスにダフネが胸を抑えてあげる。「Merlin's beard ……なんてかわいいの」

 キスの雨を降らしてスコーピウスを抱き上げる。

「重くなったわね」

「ぼくおもいの?こんなにちいさいのに」

「まぁ、おちびちゃんったら、まぁ」

「てていたい?」

「いいえ、いたくないわ」

 ダフネはめろめろだ。

「ミスターは?」「後から来るわ。娘を連れてね」

 卒業してすぐ結婚し産まれた娘は、もう8歳になっている。すっかりお姉さんだ。もの静かで落ち着いていて、聡明さの片鱗が見え隠れしていた。

 

 テラスでお茶をして、スコーピウスはほっぺたに食べかすを付けながらクッキーを頬張っている。また暖炉が燃えて、セオドールがやってきた。

 身内のごく親しい集まりだというのに、ハーフオールバックにして、余った前髪を垂れさせてキッチリとした格好をしている。服装こそややラフではあるけれど、シャルルたちなんかカジュアルなワンピースだ。

「セオドール、よく来てくれたわね」

「久しぶりねセオドール!わたしはパーティーにもあまり出てなかったから、あなたと会うのは何年ぶりかしら」

「久しぶり」

 いたって義務的に彼はシャルルとダフネをハグして、すぐに身体を離した。見た目は静穏としていて、どこか冷たくて厳格な知性を感じるが、中身はあまり変わらない。不器用で素っ気なくてシャイ。

 

 少し魔法省に顔を出していたドラコが戻り、パンジーも仕事を早退きして夕方にはメンバーが出揃った。学生の頃、暖炉前のソファを占領していたメンバーに懐かしくなる。そして今はここに息子のスコーピウス、ダフネの旦那、そしてふたりの娘のセレーネがいる。

 グラスを傾けて、カチンカチンと音が鳴った。深い赤みの美しいワインの香りを楽しんで、喉の中を滑り落ちる感触を楽しむ。舌に残る苦みも。

「こうして集まることが出来て本当に感慨深い。新しい家族や仲間もいるし」

「君たちの仲がいいのは昔から知ってたけど、今でも集まるほど深い友情だってこと、当時は知らなかった。ここに来られて嬉しく思うよ」

 穏やかな笑みを浮かべるエイドリアン・ピュシー。2学年上のスリザリン生で当時はチェイサーをしていた。今はダフネの夫だ。ダフネと共に何回かマルフォイ邸に来たことはあったけれど、固定メンバーが集まる中に来るのは初めてだ。でも居づらさを微塵も感じさせない落ち着いた態度でグラスに口をつけた。

 ダフネがピュシーと婚約した時は驚いたけれど、さもありなん。彼女がいかにも好きそうなタイプだと思った。穏やかで、静かな雰囲気があり、優しい年上の男性。

 

 セレーネとスコーピウスは並んで座っている。まだマナーが完璧ではない彼が、口の端を汚したり、袖を汚しそうになるのをせっせとカバーしてくれている。

「セレーネ、おいしい?」

「おいしいわ」

「でしょ?ぼくがたべたいっていったんだよ。マーレイのつくるカサ……なんとかはすごくおいしいの!」

「カサレッチェ?」

「うん!」

 こうして見ると、昔のダフネとメロウのようだった。ダフネもメロウをよく可愛がってくれていた。同じことを思っているのか懐かしそうなダフネと視線が絡む。

 

 始めは近況報告や、魔法省や新聞の話をしていた話題がだんだん深い話になっていく。

「パンジー、結婚の話はどうなったの?」

「半年後を予定してるわ。あとで招待状送るわね」

「まぁ!おめでとう!」

「ついに決心したのね」

「いつまでも独り身はね……。両親も早く後継ぎを産めってうるさいのよ」

 パーキンソン家の跡取りはパンジーしかいない。急く気持ちも分かる。むしろよく待ってくれていた方だろう。

「子供が出来るまでは働くつもりよ。大きくなったらまた働くしね」

「パンジーは本当に仕事が好きね。セレーネがホグワーツに入ったらわたしも働いてみようかしら?」

「あら、いいじゃない。想像より大変だけど、悪くないわよ、労働って」

「でも働いたこともないのに、わたしに出来るかしら?」

「家で出来ることでもいいじゃない?薬草学が得意だったんだから、庭で育ててみるとか……。研究職を目指したっていいし」

「今更勉強なんて出来る気がしないわよ」

「シャルルは仕事に復帰する予定は?」

 セオドールが尋ねた。少しドキリとする。

「どうかしら、あまり考えたことないわ。スコーピウスとの生活で手一杯なの」

「夫婦で何か話したりは?」

 ドラコが肩を竦める。「でもシャルルが望むなら好きにしていい。ホグワーツに戻っても、魔法省でも、呪文開発も、シャルルなら何でも向いているだろうな」

「ありがとうドラコ。そうね……スコーピウスの入学と同時にホグワーツに戻るのは、さすがに過保護が過ぎるかしら?」

 笑い声が上がる。

 セオドールは表面的に微かな笑顔を浮かべながら、目だけはまっすぐシャルルを射抜いていた。

 

 酔いを覚ますためにバルコニーで星を眺める。ナルシッサが凝っていた美しい庭園が目の前に広がっている。シャルルも彼女の手ほどきを受け、庭の維持のために気を配っていた。

 ウィルトシャーの広い一等地は、この世の全てを手にしたかのような錯覚を起こさせるほど見事だ。

 カーテンが開かれて、バルコニーに人が入ってくるのを感じた。シャルルは前を向いたまま星を眺め続けた。

「……シャルル」

「あなたも涼みに?」

 低く掠れるような声はセオドールのものだ。分かっていた。

「君相手に余計な問答をする気は無いから、本題を言わせてもらうけど。君はあの頃の続きを求めるつもりはもうないんだな」

「ええ、そうよ」

 シャルルは彼に向き直った。黒い瞳に苦々しさが現れている。

「なら僕も降りるよ。僕の器じゃなかった」

 君にしか出来ないことだった。さらりとした口調の中に憤りと諦めが隠されている。

 しばらくふたりは沈黙していた。

 

「結婚はしないつもり?」

「いや、相手の候補はいる。ノット家もようやく汚名が薄れてきたし、経済的な余裕も出来た。純血家として名に恥じないところまで立て直せただろう」

「あなたはよくやったわ、セオドール」

「それはどうも」

 昔からの癖で、シャルルは上から褒めるような口ぶりになった。彼の顔に皮肉げな笑みが浮かぶ。シャルルとセオドールは対等な友人であり、シャルルの野望の部下のような存在でもあった。

 セオドールは幼い頃に見たシャルルの資質と、シャルルが作るはずだった未来が手の中から零れていくのを、ただ諦めることは出来なかった。シャルルがホグワーツで未来を担う人材の洗脳をし、セオドールが魔法省で影響力を持つ。そんな未来は途中までは上手くいっていたのに。

 

「結局君はこっちの道を選ぶんだな。君の望みより、学生時代の恋を」

 告発的な口調になったが、シャルルは表情を変えない。やや申し訳なさの滲むような、ただ美しい微笑みが浮かんでいる。

「あの偽善者のように、愛こそ最も美しいだとか言い始めないように頼むよ」

「まぁ、随分懐かしい綺麗事を」

 シャルルは肩を揺らして笑った。「愛は所詮欲望のひとつに過ぎないわ」

 結婚し、子宝に恵まれ、穏やかで代わり映えの無い幸せな生活を営んでいるシャルルの口から出るにしては、夢のない言葉だ。

「結局、どちらの欲望をより強く叶えたいか。そういうことでしかないのよ」

「僕たちの野望より、君はドラコとの愛の方が強かったと。お熱いことで」

「さぁ、どうだったのかしら……」

 

 視線を伏せるシャルルの白い横顔が、月明かりの下でくっきりと浮かび上がっている。学生の頃より一層儚げな美しさに磨きがかかった。

「わたしの野望に巻き込んでごめんなさい。あなたが諦めていないことは分かっていたわ。でも終わらせてあげることが出来なかったのは、わたしの心に未練があったからよ」

「……」

「いつもこれでいいのか不安だったし、選ばなかった未来に焦がれている……今も。選択肢があると安心出来たの。道は途切れていないって」

「途切れていないさ。君が望むなら、これからも」

 先程のドラコの言葉をあえてなぞった。シャルルの瞳が悲しげな光を帯びる。シャルルは首を振った。

「いいえ、道があると窮屈に感じるの」

「窮屈?」

「魔法に関わると嫌でも叶えたい欲望に想いを馳せてしまう。今を肯定するために、わたしは自分を縛ってきた。魔法の研究も、政治も、子育て以外のすべてを切り捨ててきたけれど、そうするとますます迷いそうになるのよ。だから、もうすっぱり捨てることにしたわ」

 

 僕を?

 セオドールは一瞬そう言いそうになって、内心で舌打ちを零した。シャルルの横顔は清々しく、夜風に髪がたなびいた。

「さぁ、もう冷えるわ。中に入りましょう」

 

 バルコニーから中を見つめる。ガラス越しに見える光景を見つめる。スコーピウスが笑顔でシャルルを見上げ、シャルルが愛おしそうに抱き上げてキスをする。ドラコがシャルルの腰を支えて寄り添っている。シャンデリアが暖かく照らす家族と、セオドールの間には透明なガラスがある。

 

 このガラスの中が窮屈な鳥籠なのか、それとも自分だけが取り残されているのか、セオドールにはわからなかった。

 

 



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メロウ

【sapphire ~ハリー・ポッターと宝石の少女~】
https://syosetu.org/novel/243704/
・こちらのシリーズ作品のIF短編
・本編に関わりのないパラレルワールド
・年齢操作有り、原作6、7年目の内容をすべて捻じ曲げています
・普通にドラコがいるしスネイプもいるし原作の展開を丸無視しています
・捏造しかない
・個人サイトの10万hit企画でいただいたリクエストから
・リクエスト内容:成長したメロウの話。図体は大きく育ったのに主人公にベタベタくっつく彼が見たい
・メロウ:夢主の弟
・例によって当たり前のように無から生えたオリキャラ視点です


「キャッ」

 すれ違い越しに肩がぶつかって、鞄の中から教科書や本や羊皮紙達がバサバサと崩れ落ちる。

 

「痛ッ。ちょっと、どこを見て歩いてるの?」

「…ごめんなさい」

「本当注意力がないのね」

「アンジー、大丈夫?」

「床じゃなくて周りを見たら?」

「あなたは随分床のゴミを探すのが好きみたいだけど…ねぇ?」

「……」

 俯いてやり過ごしていると、彼女たちは顔を合わせ、肩を竦めて去っていく。つまらない人ね、とクスクス声が後ろに流れて行った。

 

 嫌な人たち……。

 そっちがぶつかってきたのに。向こうは3人で広がってきゃらきゃら話していて、わたしはちゃんと端に寄っていたもの。

 クッと唇を噛む。

 彼女たち──特にぶつかってきたアンジェラ・オルブライトがわたしは大嫌いだった。いつも取り巻きを引き連れて選ぶっているスノッブだ。7年生のリーダー格の1人、パーキンソンに可愛がられているからって、自分まで偉くなったつもりでいる。彼女なんて大して可愛くもないし、成績も悪くて、家柄だって有力でもないくせに。

 毎日バカみたいに飽きもせずお茶会ばっかりしている。N.E.W.Tに落ちてしまえばいいんだわ。

 ……なんて心の中ではなじれるけど、実際に面と向かったらわたしは俯くばかりで、言い返せもしないのだ。

 わたしはため息をついて床にしゃがみこんだ。

 

「大丈夫?」

 ふと、上から声が降ってきた。顔を上げると端正な顔がわたしを覗き込んでいる。

 淡い茶髪をふわふわと遊ばせている彼は、わたしの向かい側に膝をつき、散らばった教科書を拾い集め始めた。

「あ…」

 びっくりして戸惑っているうちに、彼は手早く纏めて「はい」と差し出した。

「あ、と…ごめんなさい…ありがとう」

「荷物が多いんだね。談話室に戻るところ?」

「うん…」

「僕もなんだ、一緒に戻ろ。鞄持つよ」

「あ、だい、大丈夫…」

「遠慮しないで」

 彼は蜂蜜色の瞳を細めて、邪気がない様子でニコニコと手を出している。わたしは混乱して思わず手渡してしまった。軽量化魔法がかかっているから持ってもらわなくて大丈夫なのに。…

 

 ほとんど話したことがない同級生と、なぜか並んで歩いていることに緊張して頭が白くなる。

 だって彼はスリザリンの有名人だ。

 チラッと横目で見上げると、彼は何も考えていないような微笑みを浮かべている。

 背が高くてわたしの頭が彼の肩ほどまでしかない。スラッとしているけど、クィディッチ・チームのチェイサーでローブを脱ぐと意外と筋肉質だと、女子たちがきゃあきゃあ噂話していた。甘いマスクと優しい話し方だからすごくモテるのだ。成績も良いし。

 メロウ・スチュアートはスリザリン5年生の中心的な男の子だった。

 わたしみたいな地味な女の子とは関わる機会なんてなかったのに、どうして急に。…

 

 視線に気付いたのか、スチュアートがパッとこっちを見たので慌てて視線を逸らす。彼は当たり前のように、人懐っこく話しかけてきた。

「ね、さっき見えたんだけど、『古代北欧の歴史とルーン文字学における現代の新解釈』って本あったでしょ。僕嬉しくなっちゃった。周りに読んでる人だれもいないんだもの」

「!…知ってるの?」

「ウン。でも小むつかしくない?バブリング教授らしいよね。なんか角張ってて遠回しっていうかさ」

 

 ビックリしてまばたきを繰り返す。思わず彼の顔をじっと見つめてしまうと、黙り込んだわたしに「え、何?」と首を傾げた。

「教授から教えてもらったの?」

「そうだよ。僕あの人好きだな。分かりづらいけど面白いし。そう思わない?」

「う、うん…思う!驚いた……教授が本を出してることすら知らない人のほうが多いから…」

「だよね!」

 彼は屈託なく、嬉しそうに笑った。ニコーッと音が鳴るような人懐っこい笑顔だ。

 心臓がドキッとして、嬉しさと親近感に頬が熱くなる。

 

 同じ古代ルーン文字学を取っているのは知っていたけど、教授とそこまで仲が良かったなんて。

 バブリング教授は少し偏屈というか、淡々としていて、ルーン文字学は難しいし……資格を取っても就職先は専門的な研究職が多いから、あんまり熱心な生徒はいない。

 でも質問すると冷たい態度で意外と詳しく教えてくれるし、参考文献なんかも貸してくれて、話も面白いのだ。わたしは教授が好きで研究室にたまに顔を出していて……そうしたら彼女が昔出したという本を教えてくれた。5年生にはまだ早いかもしれないが、と言いながらも試験範囲外のその本を教えてもらえたことに、なんだか仲良くなれたような、目をかけてもらっているような気がして嬉しかった。

 

「せっかくだからその本でレポートを書いてみたいんだけど、参考文献が多すぎて中々進まないや。引用も多くて…でもやっぱり教授ってすごく頭がいいなーって勉強になるよ」

「わかる…わ、わたしも書いてみてるの…」

「本当?テーマは?」

「えと、アングロサクソンの歴史と占い学の関連性と変遷…」

「面白そう!進んでる?」

「うーん…」

「やっぱり難しい?」

「そうだね…それに教授が引用してる書籍が絶版してて……だから今代わりのを探してる途中なんだ」

「なんてタイトル?」

 彼とはほぼ初めて関わるのに、わたしは気付いたらリラックスしていて話しやすかった。声に威圧感がなくて、木漏れ日のようにフワッとした雰囲気だからかもしれない。

 タイトルを言うと、彼は「ちょっと待って。メモするから」とローブから小さなメモ帳と羽根ペンを取り出した。インクがいらない羽根ペンだ…高いやつ……。

「メモを持ち歩いてるの?」

「いつ知りたいことができるか分からないからね」

 真面目で知的好奇心が高い彼に尊敬の念が湧く。成績がいいのは知ってたけど、こんなに勤勉だったんだ。チヤホヤされてる甘やかされたお坊ちゃんだと思っていたから、すごく意外だった。

 ふと、スチュアートがレイブンクローの末裔だったことを思い出す。

 サラサラとメモをする彼の、伏せた金色の睫毛が影を落としている。

 

「よし…と。後でシャルルに聞いてみるよ。本の蒐集家なんだ」

「え、わ、悪いよ、そんなの……」

「悪い?何が?」

「だってわざわざ……」

「僕が読みたいだけだよ。この本も、あと良かったら君の論文も」

「えっ……」

「ダメかな?」

 小首を傾げて眉を下げた彼は、見下ろしているのに見上げられているみたいだった。子犬のような悲しげな笑顔にうっ……と罪悪感を覚える。気付いたらわたしは頷いていた。

「ありがとう!」

 悲しそうな雰囲気が消えて、パッと明るく笑う。

 彼の笑顔は光が差したように晴れやかで、なぜかわたしまで嬉しくなった。まるですごくいいことをしてあげたみたいだ。

「セオドールにも聞いてみようかな。すごいんだよ、彼の家って絶版本や限定本がたくさんあってさ」

「あ、あの」

「ん?」

「わ……」

 全く仲良くないのに、普段なら絶対そんなことは考えないのに、彼の柔和な雰囲気がわたしに言ってみようかな、言ってもいいかな…という気持ちにさせた。指先を弄りながら少し勇気を出してみる。

「わたしも……スチュアートのレポートを……読ん……読んでみたい……かも」

 尻すぼみになったか細い声を聞こうと、スチュアートが腰をかがめて、彼の綺麗な顔が近付いた。恥ずかしさと緊張で顔が熱くなる。彼はわたしの緊張をよそにあっさり頷いた。

「いいよ。まだ手をつけたばっかりだから、時間はかかっちゃうけどね」

「え、い、いいの?」

「うん、いいよ。君のも読ませてもらうんだし」

 いいんだ……。

 即答されて、わたしは拍子抜けした。

 そして彼のオープンさというか……自然体なところが羨ましくも卑屈にもなる。少し話しただけで、彼が相手の反応を気にしたり、恐れたり、緊張する様子が微塵もないことが分かった。

 スチュアートの跡取り息子だから当然かもしれない。

 やっぱりわたしとは全然ちがう。

 

「じゃ、聞いたら教えるね」

「う、うん。でも……えっと、彼女嫌がらないかな…」

「何を?」

「わたしに本を貸すこと…」

「嫌がる?どうして?」

「だ、だってわたし……混血だから……」

 ローブをギュッと握る。彼の顔を見れなかった。スチュアート家は純血だし、純血主義だ。彼の姉のシャルルも、純血の友達ばかりに囲まれている。

 よく考えたら、きっと彼も……。

 混血であることを侮蔑されるのは慣れているのに、彼から拒絶されたらと思うと、どうしてか少し怖い。

「そうなんだ?たぶん本の貸し借りくらい気にしないんじゃないかな?」

 どこまでものんきそうな声音に、ほっと肩の強ばりがほどけた。安心したわけじゃなくて…唖然としたっていうか、呆気に取られるっていうか。

 彼と話していると、こっちが固くなるのがなんだかマヌケなように思える。

「それにシャルルは僕に甘いから、お願いしたら許してくれるよ」

「そ、そう……?ならいいけど……」

 そういう問題じゃないと思う、とは言えなかった。

 話しやすいのに、なんだか不思議なペースの人だ。

 

 談話室に入って、持ってくれた鞄を「ハイ」とニッコリ手渡される。

「あ、ありがとう」

「レポート頑張ってね。……あ、待って!」

 そこで別れて、寝室に戻ろうとしたら彼が階段を追いかけてきた。

「どうしたの?」

「ねえ、君の名前教えて。聞くの忘れてた。僕はメロウ・スチュアート」

「………………。知ってる……」

 ニコニコ尋ねてくる彼にわたしは絶句してしまった。なんとか声を絞り出してそれだけ返す。

「そう?君は?」

 

 ひ、ひどい……。

 5年間も同じスリザリン生なのに。

 ほぼ話したことがないとはいえ、わたしが目立たないとはいえ、クラスだっていくつも被ってるのに、同級生で同寮生なのに!

 名前すら覚えられていなかったことがショックで、喉のあたりが締め付けられた。

 わたしを無邪気に見つめていた彼は、目を丸くしてまばたきをすると、慌てて眉を下げた。きっとわたしが酷い顔をしていたんだろう。表情を取り繕う余裕がなかった。

 

「ワッ、ごめんね、僕興味がないことは覚えられなくて。テ……テスラ?みたいな名前だったよね」

「全然ちがう……!テイラー!スザンナ・テイラーよ!」

 困った顔でトドメを刺され、傷付いたのを誤魔化すようにつっけんどんに言った。態度が悪いかも…と心の片隅で思ったけど、引っ込みがつかなかったし、それ以上に惨めだった。

「スザンナ・テイラー……スザンナ・テイラーだね」

 彼はわたしの声音なんか気にした様子もなく、名前を口の中で飴を転がすように何度か呟いた。

 

「うん、覚えた。もう忘れないよ、スザンナ」

 

 彼は腰をかがめて目を合わせ、蜂蜜の瞳をキラッと細めて優しく笑うと、「またね」と手を振って男子寮の方に消えていった。

 わたしはしばらくその場に立ち尽くしていた。

 たぶん、顔が真っ赤になっていただろう。

 酷いことを言われたのに、単純だけど……だって、その顔があんまりにもハンサムで…優しくて。

 それに、男の子に名前を呼ばれるのは彼が初めてだったから。…

 

*

 

 彼とは古代ルーン文字学、数秘術が被っている。いつも一緒にいる人たちは選択科目が分かれていて、彼は1人で教科書を読んでいたけど、この前話してからは当たり前のように隣に座って来るようになった。

 なぜか懐かれてしまったらしい。

 あれこれ話しかけてきて、最近はわたしも緊張が解れて来たけど、いつも胸がドキドキするようになってしまった。

 我ながら本当にチョロすぎる。

 いつもこうなのだ。

 人に優しくされる機会が少なすぎて、ちょっと親しくしてくれただけですぐ好きになってしまう。

 

「この前の本ね、シャルルもセオドールも持ってないって。でも欲しいから探すって言ってた。もう少し待っててね」

「そ、そこまでしなくても…稀覯(きこう)本は高価だし……」

「汚したり乱暴に扱わなきゃ大丈夫だよ。君はそんなことしないでしょ?」

「そうだけど……えと…そうじゃなくて…」

 スチュアートの会話のペースは独特で、たまに意図が伝わりづらい。彼の脳内でたぶん完結しているんだろう。

「わざわざ申し訳ないよ。ち、違うのを参考にするから大丈夫」

「……?」

 彼はふっくらした唇を僅かにひらいて首を傾けた。そして「あ」と丸っこい声を出す。

「もしかしてだけど…君のために買うと思ってる?」

「え、いや…」

「あのシャルルがわざわざそこまでするわけないよ。欲しいから探すって言わなかった?僕」

 スチュアートがおかしそうにクツクツ笑った。わたしは恥ずかしくなってなんと返せばよいか分からずに、「そ、そうよね…」と赤くなって俯いた。

 一気に羞恥が沸き上がる。

 すごく傲慢なことを言ったみたいだ。

 でも。と心の中で言い訳をする。普通そう思うでしょ?わたしが必要だって言った本を買うって言われたら、当然そこまで、って申し訳なく思うでしょ?

 釈然としない気持ちを隠し、「ごめんなさい、偉そうなことを言って」と謝ると、スチュアートはまた不思議そうにわたしをまじまじと見た。

「ものの見方が自己意識的なのに、すぐ謝ったり、お礼を言ったり、スザンナって変わってるね。僕の周りにはいないタイプだ」

「……」

 これって嫌味?ストレートに「自意識過剰」だと言われた気がして、胃の腑が重くなった。

 でも彼の表情は穏やかだった。目にもわたしを嘲笑うような嫌な感情は全くなくて、むしろ親しみがあるように見える。

 返し方に困って眉を下げた。

 わたしの沈黙も気にせず、彼は満足してニコッと「君と話してると楽しいよ」とだけ言って、教科書に目を落とす。

 わたしは彼と話していると振り回されっぱなしだ。心がズキッとしたかと思えば、なんてことのない褒め言葉で嬉しくなって。

 わたしとっては、誰にでも自然体でいつでも自由に振る舞う彼の方が、よっぽど変わって見える。今のも嫌味でも皮肉でもなく、単純に思ったことを口にしただけなのだろう。名家出身なのに、貴族的なスリザリンらしくない彼はまるで鳥みたいだ。

 

 

「最近、ずいぶんお元気が良さそうね」

「……」

 

 彼と仲良くなってから、女子の当たりがきつくなったのは感じていたが、今日とうとう女子たちに呼び出された。アンジェラ・オルブライトだ。

 呼び出されたと言っても、男子がやるような決闘や奇襲じゃない。同じスリザリン生だし、私情での私刑をすると上級生に目をつけられる。

 だから、彼女たちのお茶会に招かれたのだ。

 談話室の目立たない席でオルブライトと取り巻き2人に囲まれ、わたしは味のしない紅茶を飲み込んでいた。

「彼と親しくなるのはとても難しいもの」

「どんな手を使ったのか、みんな知りたがってるのよ?テイラー」

「今まで本と床ばかり追っていた視線が、今は彼のことばかり見つめて…」

「ま、彼の方はあなたを追ってはいないようだけれど…」

「あら、そんなことを言っては可哀想よ。うふふ」

「……」

「相変わらず無口なのね。お茶会なのだから少しはおしゃべりでもしてみたらいかが?」

 わざとらしい口調で彼女たちがネチネチクスクス笑っている。言い返すこともなく、わたしは黙って耐えていた。

 今まで嫌味を言われることこそあれ、特に嫌がらせめいたことをされなかったのは、ひとえにわたしが分を弁えて大人しく過ごしていたからだと知っている。

 けれど、最近はオルブライトが話しかけているのに、それを切り上げてスチュアートがわたしを見つけると気軽に声をかけてくるから、それが気に食わないんだろう。

 毎回彼女が悔しさと嫌悪の目で睨んでくるのが、恐れ以上に胸がすく気持ちだったけれど、こうなってしまっては直接言い返すなんてとても出来ない。

 

 オルブライトは同寮生の女子の中ではそこそこ発言力がある。純血で顔が広いこともあるが、なによりパーキンソンの庇護下にあるからだ。

 対してわたしはスチュアートに気まぐれにかまわれているだけ。気まぐれな彼がいつわたしに飽きるかしれない。

 

 彼女たちにムカつくのは、直接わたしをコントロールしようとするくせに、こうしたお茶会に招いて遠回しに言って、自分たちに非はありませんという場を整えるところだ。

 貴族の社交かどうか知らないけど、誰に見られても「いじめ」には見えない現場で心底ムカつく。

 

「か、彼とは文字学のレポートで話が合うだけ…。気になるなら、参考書の名前も教えるけど」

 オルブライトが不愉快そうに目を細めた。

「私は文字学を取ってないわ。もちろん知ってるでしょう?……当てつけのつもり?」

「別に、そんなんじゃ…」

 

 嘘だ。

 ちょっとした反抗心があった。

 彼が好きなら、彼の話に合わせる努力をしたらいいのに。

 スチュアートはレイブンクローの末裔らしく知識欲が強いんだから、彼のレベルに合わせて勉強すればいい。

 知能の低い彼女には無理な話だろうけど。…

 

「も、文字学以外なら、魔法薬学はどう?彼、カノコソウの精神作用と魔法薬の相互性についての論文を研究してるって言ってたから…。きっと参考になる意見を述べたら、な、何時間でも議論してくれるよ」

「……」

 ヘラッと悪意がなさそうに、機嫌をうかがうように言ってみたが、オルブライトは凍土の目でわたしを睨む。

 煽ったのはわたしだけど、やっぱり少し身が竦む。

 紅茶を流し込んでみたけど、ぬるくなっていた。

 彼女は成績が悪くて、魔法薬学も当然ながら出来ない。努力しないで、こういうくだらないお茶会ばかりしてるから成績が上がらないだけなのに、彼女はそれも分からないのだろうか。

 

「ね、ご自分でも自覚してるでしょ?釣り合わないって…」

 クス、と手を口元に添えて少し顔を傾け、蔑むようにオルブライトが笑う。取り巻き共が追従する。

「そうよねぇ、当然分かってるはずよね。それなら自分がどうすればいいかも分かるんじゃない?」

「テイラーは成績がいいものね。わざわざ私たちが口に出さずとも…」

「アンジー!」

 割り込んできた声にピクリとオルブライトが肩を揺らす。綺麗に切りそろえられた髪、勝気な瞳……パンジー・パーキンソンだ。

「お茶に誘おうと思ったら、もうしてたのね。これはなんの茶葉?」

「アッサムとセイロンをブレンドしたロイヤルティーよ。母のお気に入りなの」

「じゃ、これが合いそうね」

 ハーブクッキーを並べ、パーキンソンは当たり前のように椅子を魔法で作り出してオルブライトの隣に座った。オルブライトはさっきまでの凍てつくような悪意的な顔は鳴りを潜め、甘えるような声音で「これ、メロウのお母様から?分けていただいてもよろしいの?」とニコニコ調子のいいことを言っている。

 

 テーブルに並んだクッキーを「好きに食べて」と示し、パンジーはわたしを不思議そうに見た。

「この子は?」

「あ…わたしは…」

「スザンナ・テイラー。混血だから、この場にはふさわしくないわね」

 自分から誘ったくせに、オルブライトはそう言ってわたしを追い払おうとする。でもパーキンソンとお茶会なんて胃が痛くなりそうだ。彼女の言いなりになるのはムカつくけれど、それに乗って後にしようと思ったのにパーキンソンが「あぁ」と腑に落ちるようにうなずいた。

「最近メロウと仲がいい子よね。よくあなたの話してるわ」

「仲がいいなんてそんな…ちょっとメロウがかまってるだけでしょ?選択科目が同じなだけで…」

「そうそう、今だけよ」

「ねぇ?」

「あー……」

 なぜかオルブライトたちが返事をしていたが、わたしはそれどころじゃなかった。

 スチュアートがわたしの話をしていることも、パーキンソンに認知されていることも想定外だった。

 肩をすぼめるわたしを見て、パーキンソンが呆れる。

 

「なるほどね。アンジー、あなたの気持ちもよく分かるわ。けど、あんまりこの子にちょっかい掛けない方がいいわよ」

「パンジーったらこの子の味方するの?どうして!?」

「そういうわけじゃないわよ。ただ、メロウはめんどくさい男だから」

「めんどくさい…?」

「あの子って自分のことに外野から口出しされるのを嫌うのよ。そういうところ、シャルルにそっくりだわ。嫌なことがあるとすぐシャルルやダフネやドラコに泣きつくし。余計なことしない方がいいわよ、メロウに好かれたいならね」

「…だってパンジー、この子私の邪魔ばかりするのよ?」

「ふふ、やっぱりあなた私に似てるわ。今度アステリア達とするお茶会に招待してあげるから、メロウの目を盗むことはやめなさい。テイラー…だっけ、この子を庇うわけじゃないわよ。愚策だから言ってんの」

「分かったわ…」

 

 拗ねたようにオルブライトが唇を尖らせる。そのわざとらしく可愛こぶった顔は張り倒してやりたいくらいだったが、よく分からないけど、わたしは許されたらしい。

 アンジェラ・オルブライトの愛称であるアンジーは、パンジーの名前と響きを似せたものらしく、彼女たちは1年生の時から仲が良かった。

 影響力の高い上級生に上手く取り入る要領のいいところが、昔からわたしは嫌いだ。嫉妬もあるし、嫌悪もある。こんな子、すごく性格が悪いのに。

 

 スチュアートのお母様が作ったクッキーを1枚食べる。「相変わらず美味しいわ」なんて褒めたたえているオルブライトが腹立たしい。たしかにすごく美味しかった。わたしは、初めて食べた。

 スチュアートの遠さが、クッキー1枚でも突きつけられて胸が重くなった。

 

*

 

 ある日、夕食から戻って談話室に入ると、暖炉の前から「スザンナ~!」とスチュアートに手を振られた。ほかの女子…特にオルブライトからの視線がバチバチ刺さる。

 暖炉前には姉の方のスチュアートとセオドール・ノットが腰掛けていて、それなのに手招きされるものだから無視して通りすがりたくなった。

「な…なに?」

 顔が引き攣るのは抑えられなかったかもしれない。

「あ、ここ座って」

 スチュアートが2人がけのソファを詰めて幅を開けた。向かいではノットとお姉さんが並んで座り、カップを啜っている。

「え、あ、でも…」

 火の爆ぜる音がこんなに近くで聞こえる。温かい暖炉のそばに座れるのはスリザリンでも限られていて、わたしはスチュアート以外と話したことがない。

 緊張するわたしに、お姉さんが宥めるような声を出した。

「大丈夫よ。あなたに用事があるの」

「あ、あ、はい…」

「本が届いたんだ!」

「あ…」

 それでようやくこの場に呼ばれた意味が分かった。何かしてしまっただろうかと心臓が冷えた。指先を意味もなく擦る。

 

「ほら、これでしょう?わたしもセオドールも教授が本を出していること、知らなかったからとても驚いたわ。教授が引用するだけあって、この本もとても興味深かった」

「あ、あの、スチュアート…ありがとうございます…わ、わざわざ……。絶版してましたし、お高かったのかと思うのですが……」

「気にしないで。わたしにとっては大した額じゃないし、わたしもこの本と出会えて嬉しかったから、気負わないでね」

「は、はい…」

 

 あ……圧倒的に話しやすい……!

 話が…通じる……!

 

 姉のシャルルは弟と違い、わたしがなにを重荷に感じているか分かった上で優しくフォローしてくれる。弟とずいぶん違う…。もちろん、弟の方の次に何を言い出すか分からないソワソワする感じももちろん好きなんだけれど…。

 

「ね、わたしにも良かったらあなたのレポートを見せてもらえない?」

「えっ…」

「もちろん無理にとは言わないわ。ただ、人の視点や考え方って参考になるから。それに、アドバイスも多分できるわ」

 お姉さんは「これでも毎年首席争いしてるのよ」とウインクをした。そんなのスリザリン生なら全員知っている。

 彼女の宝石のような目に見つめられると言葉を奪われたような気分になって、気付いたらうなずいていた。

「ほんとう?嬉しいわ、ありがとう」

「スチュアートがお礼なんて…わたしこそ、あ、ありがとうございます」

「「気にしないでいいのに」」

 

 姉弟が口を揃え、顔を見合せた。一拍おいてふたりが笑い始め、わたしも釣られて少し吹き出してしまった。

 分かりづらいから、とふたりを名前で呼ぶ許可をもらえて、嬉しいような恐れ多いような。

 それからしばらく、暖炉前で文字学について色々討論した。ノットも取っているらしく、シャルルに話を振られて会話に混じり、メロウもどんどん意見を言って、わたしは年下だし的を外したことを言ってしまうかもって怖かったけれど、みんなわたしの意見をきちんと考えてくれるからとても楽しかった。

 こんなふうに、古代魔法の考察とか、エジプト文明との関連性とか、現代魔法理論への応用とか…真剣に話し合える人がいなかったから。

 

 シャルルの前での…メ、メロウ…(心の中でも呼ぶのに緊張する…)は、なんていうか、弟感が強くて少し可愛かった。幼げに見えるというか。「その観点は面白いわね」と褒められて「でしょ?」とやや胸を張るところも、シャルルが手を上げると頭を下げて撫でられているところも、なんだか子犬みたい。

 こういうふうに甘えるんだ……。

 嬉しそうにはにかむ彼を見て、胸が甘やかに疼いた。

 

 

 今年はO.W.Lがあるから、いつも空き時間は図書室や談話室、自分の部屋で勉強しているけれど、ずっと箱詰めなのも気が滅入る。

 グーッと背伸びして窓を見ると、外が随分晴れていた。湖の波間から揺れる日差しがまぶしい。

 少し気分転換しようと、わたしは道具を片付け、買ったけれど読む暇がなくて積んであった小説を一冊持つ。

 ちょうど昼食時でお腹が空腹を訴えていた。そのまま食堂に向かい、サンドイッチやバケットをカゴに詰めて外に出た。

 寒いけれど、温度調節機能の着いたローブを着ていたら気になるほどでもない。今日は風もなくて気持ちがいいから、湖のほとりで過ごそう。

 

 木の下にハンカチも敷かず、そのまま座る。少しお行儀が悪いけれど誰も見てないしいいよね。

 バスケットからサンドイッチを取り出して、少しずつ食べながら本を開く。もちろん汚さないようにはするけど、これは自分の本だから、あんまり神経質になる必要も無い。図書室の本だったら、ちーっちゃなパン屑が少し挟まるだけでも殺されてしまう。

 

 首筋をひやりとした風が撫でていって、ペラペラと紙が捲れる。少し読みづらいけど…なんだか湖のほとりで木に持たれながら読書って、ちょっと小説の1ページのようで、なんとなくワクワクする。

 ホグワーツはまさしく、ファンタジーに出てきそうなお城なわけだし。

 晴天だからかチラホラと人が行き交っている。人の声も丁度いい喧騒となって、しばらくわたしは本に没頭していた。

 たった数時間の休憩だけど、こんな過ごし方をO.W.Lのせいでもうずっと取れていなかった。

 

「ねえ"~~~くっつきすぎだよ!」

「何よ、羨ましいの?だったらあなたもくっつけばいいじゃない」

「そうしたいよ、僕だってさ…でも周りがうるさく言うんだもの。姉離れがどうとかさ!」

「あなたがシスコンなのは事実じゃない。でもいいわ、そっちの方が都合いいから。ね、シャルルお姉様、温室に行こうよ」

「僕の姉様だってば!」

 

 聞き覚えのある声と名前に視線を上げると、真ん中にシャルルを挟んでメロウと女子生徒がなにやら言い争っていた。

 バターブロンドのふわふわした髪を編み込んでシニヨンに纏めた髪型……アステリア・グリーングラスだ。シャルルをめぐって口論しているらしい。

「わたしを挟んで喧嘩しないの」

「だってメロウがぐちぐちうるさいんだもの」

「うるさくない!そもそもアスティが割り込んでくるのが悪いんじゃないか…せっかく久しぶりにシャルルとふたりになれるのに!」

「ふん、抜け駆けなんて許さないから」

「姉弟水入らずを邪魔しないでよっ」

「私も姉弟みたいなものでしょ?ね、シャルル姉様?」

「あ、ずるいよシャルルに聞くのは!」

「そうね…アスティも妹のように思ってるわ」

「ほらね!」

 

 喧嘩に負けたらしく、メロウがうなだれて拗ねたように顔を背けた。

 グリーングラスとメロウが幼馴染なのは知っていたし、彼にとって彼女が特別なのは有名だったけれど、思った以上に親しそうでなんだか胸の中に雨雲が立ち込めたような感覚がする。

 メロウは穏やかで寛容でマイペースで…どこか掴みづらい雲のような人だと思ったのに、彼女と喧嘩する彼は拗ねたり、怒ったり、子犬がじゃれているみたいだ。見た事のない顔ばっかり。

 それにグリーングラスも、いつもと雰囲気が違う。

 病弱で社交経験が少ないという彼女は、いつもなんだか儚げに弱々しく微笑んでいて、一歩引いたところでニコニコ話を聞いているタイプだった。

 まさに深窓のご令嬢というか……、少しでも強く何か言われたら、はらはらと涙を流して病に伏してしまいそうな。

 

 それなのに、メロウやシャルルと話すグリーングラスは、快活で勝気でワガママで、ちょっとパーキンソンに似ている。

 普段のイメージと真逆だ。

 

「あ、オルブライトだ」

「うわっ」

 彼らの視線の方を見ると、ホグワーツから出てきたオルブライトたちがいて、グリーングラスは急に今にも倒れそうな儚げな表情になった。

 そして、メロウの声……「うわっ」という声の中に嫌そうな響きを感じ取って、嬉しくなる。湖のそばを通り過ぎようとする彼らの背中をそっと盗み見て、耳をそばだてた。

 

「メロウってあの子苦手よねー。私も苦手。圧が強くて怖いんだもん」

「苦手っていうか、なんか最近しつこいんだよね…」

「しつこいって?」

「スザンナの悪口言ってきたり、アスティは次代を産むにはどうとか、何日の何時の予定は空いてるかとか…」

「ふふ、彼女はあなたが好きなのよ」

「知ってる」

 シャルルがからかいを含んで笑うと、メロウは肩を竦めた。ドキドキしながら前のめりになる。

 知ってるんだ……メロウってそういうの、分かるんだ。

 

「私にも牽制して来るのよ。でも付き合う気ないよね?」

「うん」

「じゃあキッパリ振ったらいいじゃない」

「うーん…好きだとも言われてないのに、なんて言えばいいの?仲悪くなったらダメでしょ?」

「出来れば。彼女のお父様、かなりやり手だもの」

「だよね」

「めんどくさいわねー、跡取りって」

「ほんとだよ~…。でもでも姉様、僕、もうちょっと頑張ってみるけど、上手くいかなくても許してくれるでしょ?僕、頑張ったもの」

「ふふっ、そうね。パンジーに間に入ってもらってわたしがオルブライトの機嫌を取ってみるわ。だからもう少しわたしが仲良くなるまでの間、上手くあしらっておいてね。あなたってば顔に出すぎるんだもの」

「だって~…」

「シャルルはメロウに甘すぎよ!」

 

 ギリギリ聞き取れたのはそこまでだった。

 遠ざかる背中を見つめて、ゾクゾクッと優越感…いや背徳感…そんな、言葉に出来ない薄暗い気持ちが背筋を掛け上った。

 メロウはあの子のこと、好きじゃないんだ!

 

「うふふっ」

 

 暗い喜びが滲んだ。

 わたしを見る時の、小馬鹿にして見下して勝ち誇った表情が歪む様を幻視した。

 ざまあみろ!

 

*

 

 バレンタインが近い。ホグワーツ全体に浮き足立った雰囲気が流れていて、女子生徒は特にどこか甘く楽しげだ。O.W.Lが迫ってきていてピリピリしていた同学年も、最近はその張り詰めた空気が緩んでいる気がする。

 今までもこれからもバレンタインなんてわたしには関係のない行事だと思っていたけれど、恋バナをしている女子たちの会話が耳に入ってきて、ふとまぶたの裏にメロウの優しい笑みが浮かぶ。

 わたしは思わず俯いて、顔が熱くなったのを誤魔化した。

 バレンタインなんて、元はキリスト教の聖ウァレンティヌスに由来する、恋なんて全然関係ない宗教的行事に過ぎないのに。魔法界ではマグルの宗教など知ったことじゃないだろうに、なぜこんなに浸透しているんだろう。

 

 いくらメロウが好きだといっても気持ちを伝える気はなかったし、過去のわたしは恋に溺れる人のことを少しバカにしている部分があった。

 なのにこうしてホグズミードでカードを選んでいる自分が、バカらしくて仕方がない。

 城内の雰囲気にあてられたせいもあるし、オルブライトのせいもあった。彼女たちがメロウに何を贈るかで盛り上がっているのを聞いて、奇妙な焦燥感と侮蔑感に囚われたのだ。どうせ相手にされていないくせに、と。

 それはわたしも同じだけれど、少なくともわたしはメロウに苦手には思われていないはずだ。その優越感が背を押した。カードはどうせ無記名なんだから、彼女が送るなら、わたしだって……。

 

 ショップはファンシーで入ることにすら気後れした。勇気を出して踏み込んで見たあとも、あまりにも女の子らしい品ばかりで、あまりこういうものに触れてこなかったわたしはドキドキと不思議に胸が逸った。居心地がとても悪くて周りの視線が気になったけど、お客さんはみんな自分たちのことに夢中で、だれもわたしなど見ない。

 バレンタイングッズのコーナーはさすがに人が多かった。恐る恐る近付いて、慣れない可愛らしいカードをそっと眺める。

 

 ハートはあからさますぎる。リボンは甘ったるすぎる。キャンディやお菓子が描かれたものはいかにもバレンタインという感じで浮かれているみたいだし、かといって無地は味気がない。

 どれがいいのか選びあぐねて、ウロウロとコーナーをさまよう自分が滑稽だった。周りにグループの女の子が多いのもなんだかいたたまれない。薄緑に花の描かれた、シンプルなカードを選んでわたしはそそくさと店をあとにした。

 

 メッセージも迷いに迷った。

 結局、これもシンプルに「Happy Valentine's Day」とだけ書き、薔薇を一輪付けてフクロウに頼む。無記名ですら想いを伝える勇気がない自分に少し笑える。

 オルブライトは何を贈ったんだろう。名前は書いた?好きだと伝えたのかな。

 情けなくて女々しい。ティーンの楽しむイベント事すら上手く楽しめないことに腹が立つような、便乗したくせにどこか盛り上がる周囲に白けるような虚しさを抱え、バレンタインを迎えた。

 

 ホグワーツのバレンタインは無駄に凝っている。フリルの可愛らしい飾り付けがされて、チョコレートやキャンディが至るところで交わされている。

 朝食の席でメロウと一緒になった。

 

「ハッピーバレンタイン、スザンナ」

「は、ハッピーバレンタイン」

「これあげるよ」

 

 彼がなんの気もなしに、ラッピングされた小さなお菓子を手渡してきて、わたしは驚きと喜びに胸が軋むのを感じた。

「あ、ありがとう!いいの?」

「うん。お母様がつくったスノーボールだよ。好き?」

「えっ!?」

「好き?こういうの。あんまりスイーツを食べてる印象ないから」

「あ、うん、す、好き…だよ」

「なら良かった。息子の僕が言うのもなんだけど、お母様が作るお菓子って美味しいんだ」

 メロウが嬉しそうにニッコリ笑った。お菓子のことだと分かっていても、たった一言「好き」だというのにこんなにも戸惑ってしまう。

 

 ひっきりなしにフクロウが天井を飛び交っていて、あちこちで浮かれた声が聞こえてきた。メロウにも途切れる暇がなくカードやプレゼントが届いていて、テーブルに小さな山が出来るくらいだった。

 すごすぎて、もはや空いた口が塞がらない。

 彼はカードを一瞬流し見ては、特に感慨もなく山の中に突っ込んでいく。嬉しそうでも、嫌そうでもなく、無感情だった。もらうことが当たり前だという態度。

 

「すごい量だね…」

「まぁ、うちは名家だからね。付き合いのカードも多いよ」

 苦笑したメロウがチラッとわたしを見る。彼のプレゼントに対して、わたしの前は真っ平らだ。数少ない友達からの数枚のカードしかない。恥ずかしくなって俯いた。

 付き合いだけじゃない、どう見ても本気の贈り物だってたくさんある。彼は他人からの好意をどう思うんだろう。この大量の山の中に自分のちっぽけなカードが紛れることに、安堵と同時に、惜しいような気持ちも浮かんだ。わたしは彼にとって大した人間じゃないと突きつけられているようで。

 

「ハッピーバレンタイン」

 ふと、後ろから可憐な声がした。

「これあげるわ」

「ありがとう、アスティ。僕からも」

「ありがと。でもシャルルお姉様からもう貰ったわ。違うのはないの?」

「フクロウで贈ったよ。ハーブクッキーの缶をたくさん」

「たくさん?」

「たくさん。好きでしょ?」

「ええ!嬉しい、ありがとう。さすがメロウね?」

 イタズラっぽい笑みを浮かべてアステリア・グリーングラスが去っていく。最後の含みのある言い方が二人にしか通じないジョークのようで、隣にいた部外者のわたしは惨めさに胸が痛んだ。

 グリーングラスの視界にすら入らない自分。

 クッキー缶をたくさん贈ってもらえるグリーングラスと、スノーボール一粒のわたし。

 止まらないフクロウと、ハートに飾られたメロウ宛のテーブルの山。

 

「ほんとうに…よくモテるのね」

 思わず皮肉っぽくなった自分のつぶやきに、わたしは慌てて笑みを浮かべた。

「羨ましいくらい。恋人は作らないの?」

「うーん…」

 メロウは気にしていないようだったけど、答えを聞きたくない問いを自分でしてしまって、何て答えるのか喉が引き締まる。

「別に好きな人いないしなぁ」

 それに、ホッとする自分と、ズキンとどこかが痛む自分がいた。頭の中でやめろと叫ぶのに、わたしはさらに問いかける。このホグワーツの甘い空気がそうさせるのかもしれない。そ

「今まで恋人は何人かいた…よね?」

「うん」

「どうして付き合ったの?…す、好きだったの?」

「あれ?」

 

 メロウが言葉を遮って首を傾げた。カードと一輪の薔薇を見て目を細める。心臓がドキン!と一際強く跳ねた。

 わたしが贈ったカードだ…。

 カードを眺めるメロウの横顔が見たことのない表情だった。どういう表情なの?読み取ろうとジッと見つめてしまっていると、おもむろにメロウがわたしを見下ろした。

 

「これ、スザンナからだよね?」

「っ」

 ヒュッと喉が鳴る。

「ど、どうして分かったの?」

「だってレポートを見せてくれたじゃない」

「そ、そっか。うん、それ、わたしから…ハッピーバレンタイン」

「ありがとう」

 余計なことを書いていなくて心底良かったと、恐れるような気持ちで安堵する。わたしはヘラリと下手くそな、媚びるような笑顔で誤魔化した。

 何も気付いていませんように。何も気付いていませんように。

 期待がないのだから、せめて友達でいたい。…期待ないよね?だって、好きな人はいないって、たった今言ってたもの。

 

「嬉しいな。友達からカードがもらえるって。素敵なサプライズだよね」

 

 メロウが彫刻みたいな美しい顔立ちで、完璧な笑顔を浮かべた。彼を見慣れたわたしでも、思わず見蕩れずにはいられない笑顔だった。

 

「そういえばどうして付き合ったかだっけ」

「あ、ああ、うん」

 忘れていなかったらしい。彼は無邪気に流れるように答えた。触れることも出来ない宝石のように、完璧な笑顔だった。

 

「純血だったからだよ」

 



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番外
青の肖像


・Sapphire 〜ハリー・ポッターと宝石の少女〜 https://syosetu.org/novel/243704/ の番外編です
・無から生えてきたオリキャラ視点
・ぜ~んぶ捏造


 まずい!

 私はほぼ半泣きで走っていた。腕の中にスケッチ用の羊皮紙ブックと絵画セット。そして変身術の教科書。

 入学して1週間、友達も数人でき、ホグワーツ生活にも慣れ始めたから、最近は休み時間にスケッチにちょうどいい場所を探して散策していた。

 今日は西塔から見える花畑が美しくて、タレットで絵を描いていたらすっかり時間を忘れてしまったのだ。さらに悪いことに、次の授業まであと10分しかないのに自分がどこにいるか分からない。

 

 走りながら階段を駆け下りて、気付けば見覚えがあるような無いような道に出ていた。乗り換える階段を間違えたのかもしれない。

 なんで階段が幾重にも分かれていたり、トラップの扉があったりするの?絶対辿り着かせる気がないでしょ!

 心の中で毒づいても状況は好転しないが、思わずにはいられなかった。

 その日の気分が乗る場所を求め、色々な道を歩き回っているから、その分知っている道が多くなって全部見覚えがある気がして、正しい道が分からないのだ。

 

 マクゴナガルは遅刻した私から容赦なく減点するだろう。

 入学した日に監督生から通達があった。生徒同士の自助努力で勉学に励み、一致団結になって寮の得点の獲得を目指すこと。

 スリザリンは意欲が高く、2年生を筆頭にお互い勉強会を開いたり、上級生が下級生に勉強や点の稼ぎ方を教えて寮杯優勝を目指して努力していた。

 その甲斐あって、今はスリザリンが1位とリードしている。他の寮に比べても減点は滅多に出ない。

 なのに私が引かれたら……。

 考えるとさらに焦り、目が潤みそうになる。

 

 キョロキョロしながら走り回っていると、タペストリーの裏からヒョイッと緑のローブが出てきた。「助かった!」と「バレた!」の気持ちが同時に出てきたけど、生徒の顔を見たら後者の気持ちの方が強くなった。

 スリザリンの有名人のシャルル・スチュアートだ。

 ハッと息を飲むような美しさだ。

 顔立ちは可愛らしいけれど、どこか儚げで消えそうな雰囲気を纏っている。

 この人の噂は色々聞くけど、あまりにも有名すぎて近寄りがたくて怖い人だった。

 

 彼女は、泣きそうな私を見て「あら」と眉を下げた。

「どうしたの?たしか……エイダ・トレンブレイだったかしら?」

 頬に細い指を添え、おっとりと首を傾げるスチュアート。

 まさか名前を覚えられているとは思わなかったから仰天してしまった。

「知ってたんですか?私のこと……」

「もちろん。純血でしょう?それより、こんなにうるうるとして、どうしたの?」

「道が分からなくて……」

「そうよね。まだ1週間だもの。次の授業は?」

「……変身術です……」

「あら……」

 

 ローブからくすんだシルバーの精緻な懐中時計を取り出し、さらに困った顔をした。

「うーん、走ってもギリギリ間に合わないくらいね。急ぎましょう、こっちよ」

 彼女はたたたたーっと駆け出した。慌てて後を追う。何回かチラチラ振り返りながら、スチュアートはすぐに息の上がる私に合わせて走ってくれた。この人、走るんだ……。

 動作がすごくゆっくりとしていて優雅だから、バタバタ駆けるなんてことと結び付かないけれど、意外と俊敏に走る。遅れないように必死について行った。

 

 知らない抜け道を通り抜け、途中で動く階段を止めたりしながら、小さな背中を必死に追ううちに、馴染みのある道に辿り着いた。何をどう走ってきたか疲れ過ぎて覚えていない。

 変身術の教室の前で、肩を上下させて汗を拭う。

 

「間に合わなかったわね」

 えっ、こんなに急いで走ったのに!

 焦る私とはうらはらに、スチュアートは淡々と、何にも思っていないトーンで呟いた。

「ううっ、すみません、遅刻してしまって」

「仕方ないわ、ホグワーツは広大だもの」

「でも点が……」

「大丈夫、今日のうちに取り戻しておくわ。次は魔法薬学だからね」

 

 スチュアートは悪戯っぽくウィンクした。当たり前のように言われたセリフにポカンとして、それから顔に熱がぽわっと昇ってきた。2年生にもなるとこんなにカッコイイことを言えるようになるのだろうか。

「あの、ありがとうございました」

「いいのよ」

 これから怒られるのか……と覚悟を決めようと深呼吸するうちに、スチュアートが慈愛めいた微笑みを浮かべ、ガラッと扉を開けた。

 なぜ?と戸惑う私をよそにスタスタとマクゴナガルの元に向かい、おずおずと後をついて行くと教室中の視線が集まってくる。

 

「どうしたのです、スチュアート?今は1年生の授業ですよ」

 赤くなって俯いている私を庇うようにスチュアートが私の背に手を回した。

「迷っていたみたいだったので連れて来たんです、マクゴナガル教授。遅れてしまって申し訳ありません」

「そうでしたか。ですが、2人とも遅刻ですよ。トレンブレイ、もう入学して1週間も経つのですから……」

 厳格な響きの声が降ってきたが、マクゴナガルはそこで言葉を止め、コホン、と咳をした。

「まぁ良いでしょう。スリザリンから5点減点。次はありませんよ、いいですね?さぁ、早く席にお着きなさい。スチュアートも授業へ早く向かうように」

 もっとお説教をくらうと思ったのに、私が泣いていると思ったのか、手早く許してもらえた。恥ずかしくて赤い顔だろうし、目がまだ潤んでいる気がするから、そのせいかもしれない。半泣きだったのは事実だし。

「ありがとうございます、マクゴナガル教授。それでは失礼します」

 ニッコリしたスチュアートが軽く私の背を押し、友達が小さく手を振ってい席に座る。最後にもう一度微笑みが飛んできて、廊下に消えていく。

 私は胸がドキドキして、頭がぼーっとする感じがした。スチュアートはすごく優しい人みたいだ。

 

*

 

「トリック・オア・トリート!」

 

 甘い香りが漂う談話室にそんな掛け声が飛び交っている。今日はハロウィーン。私達もホグワーツでの初めてのイベントに浮かれ、お菓子を持ち寄って微笑みを交わしあった。

 いつもは石煉瓦作りの、シンと冷たく高貴な優雅さの漂う談話室が、今日ばかりはみんながニコニコと陽気だった。先輩方も楽しそうだ。

 3年生以降はホグズミード休暇があるらしく、よく話しかけてくれる先輩に「お話聞かせてくださいね」「お土産をいただけるんですか?嬉しい!」とまとわりついてお見送りをした。

 

 先輩方がいなくなって、談話室はやがて静かになった。残っているのは下級生だけだ。

 暖炉の前で、マルフォイとパーキンソン、グリーングラスがお茶会をしていて、1年生は邪魔しないように端っこの方で静かに息をひそめる。

 クラッブとゴイルもお菓子を美味しそうに口に詰めていた。

 

「ねえ、声をかけに行ったら迷惑かな?」

 ベティが囁いた。私は思わず目を丸くした。「本気?」

「だってこんな機会滅多にないのよ。今日は他の先輩もいないし」

 スリザリンには独特の階級があり、明文化されていないルールも数多く存在する。聖28一族の純血家系やクィディッチ・チームの選手たちは、スリザリンの中では明確な上位者で、ドラコ・マルフォイは2年生ながらにスリザリンの支配者と言って良かった。

 魔法界で最も高貴で力のある一族であり、チームの花形のシーカーに決まったばかりのご子息だ。

 過ごす友人はみんな高名な純血家系ばかりで、私やベティのような家なんかとは到底比べ物にならない。私の家はそんなに思想にうるさくはないけれど、スリザリンに入って何ヶ月かも過ごせば、すっかり彼らに近寄りがたいオーラのようなものを感じるようになっていた。

 

「エイダお願い、私グリーングラスと話してみたいの。落ち着いていて、優しくて、とっても素敵なんだもの」

 ベティはダフネ・グリーングラスに憧れていた。数年前に魔法省の役人が集められたパーティーで、泣いているところを一度慰められたらしい。それ以来話したことはないけど、密かに憧れているのだ。

 その気持ちが私には分かる。

 私にも憧れの先輩がいる。

「そうだね……、お菓子は充分あるよね?」

「ええ、足りるはずよ」

 話しているうちに階段から黒髪をたなびかせた少女が降りてきて、暖炉前の集団に合流し、話し始めた。シャルル・スチュアートだ。

「ああっ……」

 ベティが悲愴な落胆の声を零した。歩き出そうとしていた気持ちがしゅうううっと萎んでいく。

 

「タイミングが悪かったね。いずれ話す機会はあるはずだよ」

 肩を落とす友達を慰める。

「そうよね……。仕方ないわ、授業の準備をするわね」

 ベティの曽祖父は、親族の反対を押し切って混血の魔女と血を結んだ。暗黙の了解として、純血以外の生徒はスチュアートに話しかけないようになっている。

 彼女は純血主義を誇るスリザリンの中でも特に、その思想が強いことは有名だった。

 

 でも、立ち上がった私たちに気付き、スチュアートが横目でチラリと視線を寄越した。

「あら、トレンブレイ!あなたもいたのね、こっちへいらっしゃい」

「え、あ……」

 迷子のところを保護されてから、スチュアートはたまに話し掛けてくれるようになった。嬉しいけど、嬉しいけど……。

 逡巡を見抜いたかのようにベティが「行かないと!」ときらきら瞳を輝かせて背中を押した。でも、彼女を置いて、あの場所に一人で行くなんてとてもむりだよ。

「お友達も連れておいで」

「えっ!」

 ベティが虚を突かれて、口を丸くした。顔を見合わせる。ベティは混血なのにいいの?でもスチュアートが来いと言ってるのだったら従った方がいいのだろう。

 急に水を向けられ、紅潮する彼女と一緒にドキドキしながら彼らの元にそろそろ近付いていく。スチュアートは杖を振って二人がけのソファを持って来ると、視線で座るように促した。

 

 パーキンソンはどうでも良さそうな態度で、マルフォイは片眉を上げて「誰だ?」と顔に浮かんでいた。緊張で強ばった身体に冷めた視線が突き刺さる気がして、心臓がうるさく鳴っている。グリーングラスは穏やかに微笑んでいて、「シャルルが最近目をかけている子ね?」と空気を和らげた。ベティがほー……っとうっとりしたように彼女を穴のあくほど見つめているが、気付かないのか、気にしないのかサラリとした態度だ。

 私たち、場違いにもほどがある。手汗がじわっと滲む。

「トリック・オア・トリート!お菓子はある?」

「あります!」

「は、はい」

 用意していたフィフィ・フィズビーをその場の全員に配る。ベティが自分もあげていいのだろうかと窺うような、不安そうな表情をしたが、スチュアートがベティにも手を伸ばしたので嬉しそうにカップケーキを載せた。

「やったぜ」「これ、腹に溜まるんだ」

 クラッブとゴイルがくぐもった声で喜び、ベティが安堵にほっと肩を緩める。

 

「あなたたちは?」

「え?」

「まだ言ってないわ」

 え、私たちもねだれってこと!?そんなこと考えもしなかったのに、促されて、私たちは小さな声で口に出した。

「ト、トリック・オア・トリート……」

「はい」

 

 スチュアートはマダム・ミレアムのトライフル、グリーングラスからクッキー、パーキンソンからショートブレッドを渡され、私たちはあたふたしてお礼を言った。クラッブたちはテコでもよこさない姿勢で、マルフォイは顎でテーブルを示した。切り分けられたクランブルケーキが乗っている。好きに取れってことだろう。

 

「この子達、誰?」

「あ、と、エイダ・トレンブレイです。この子が……」

 拳をギュッと握り、顔を真っ赤にしてベティも名乗る。

「聞いたことないわね」

「こ、混血で……」

「ふうん」

 パーキンソンのジロッと舐めるような視線にベティが小さく震えたが、誰も何も言わなかった。怖い。スチュアートに気まぐれにかまってもらうのは、嬉しいけれど怖かった。

 スリザリンは純血主義を掲げる寮とはいえ、混血やマグル育ちの生徒もかなり在籍している。けれど、ここにいるメンバーはほとんど純血だけで固まっているコミュニティなのだ。

 

「マルフォイ、知らないの?」

「何がだ?」

「アブラクサス・マルフォイ──つまりあなたのお祖父様が、多額の寄付で魔法文化の発展に寄与したと表彰された時、肖像画を描いたのがトレンブレイのお祖母様なのよ」

「そうなのか?」

「そうなんですか?」

「何で当事者がどちらとも知らないのよ」

 呆れてスチュアートが吐息で笑ったが、祖母が誰の絵を描いたかなんて知らない。だって、ばあばのアトリエには本当におびただしい数の絵画が飾られているのだ。

「なぜ知っているんですか?」

 画家としてばあばが成功したおかげで、分家の傍流筋の我が家は金銭的にも成功し、社交界に出られるほど余裕が出てきたが、成り上がりとも揶揄される。それに、ばあばと違い、ママは平和主義だし、パパはただの真面目人間だ。

 

「純血紳士録に載ってるでしょう?」

 何を当たり前のことを、とスチュアートが怪訝そうに答えた。そんなこと言われても、紳士録なんか私たちくらいの年齢の子供が見るものじゃない。

 当主や、いずれ家督を継ぐ後継者か、婚約相手を探す年頃の子息子女の一部か、政治家くらいしか普通見ないものだ。

 マルフォイが呆れた顔しているからやはり普通じゃないのだろう。さすがスチュアート……。感嘆のような、畏怖のような感情が浮かぶ。

 

 しばらく祖母について話に花が咲いた。その間ベティは憧れのグリーングラスに相手をしてもらっていたようで、見てる私がはずかしくなるくらい周囲に花が飛び、頬も紅潮しきっている。

 石扉が開き、セオドール・ノットが本を抱え談話室に入って来た。暖炉前には目もくれず、スタスタ部屋に戻ろうとするのをマルフォイが呼びつけると、やや面倒くさそうにやってきた。

「こんな日にまで朝から本の虫かい?まったく、君には呆れ返るよ」

「僕には生産性のない茶会を飽きずに繰り返す方が、呆れて物も言えないが」

「純血に社交界は切り離せないものだろ?ほら」

 端により、自分の隣を開けて見せたが、ノットは肩を竦めて首を振る。彼は純血名家の子息だったが、スリザリンの中では変わっていて、いつも本を読んでいて一人を好み、独特の孤高感を纏うまるでレイブンクロー生のような人だった。

 誰かとつるんでいるところは滅多に見かけず、強いて言うならマルフォイかスチュアートと交流が多いくらい。たまにお茶会に参加しているのを──恐らく参加させられている──のを見るけれど、大抵の場合、さっさと寝室に戻ってしまう。

 

 眉をしかめたマルフォイにも涼し気なノットだったが、「もういいか?」と言う前に、スチュアートの言葉に珍しく大きく顔をしかめた。

「セオドール、トリート・オア・トリート」

 見るからに嫌そう~な表情だ。

「持ってると思うか?僕が?」

「部屋には?」

「ない」

「あら……」憮然と、吐き捨てたとも言えるように素っ気なく呟く彼に、スチュアートは大きな瞳を三日月型に細めた。

「それじゃあ悪戯しないといけないわね?」

 ブルーの瞳に楽しげな輝きが宿り、幼い子供みたいな笑みを浮かべる。普段どこか飄々とした雰囲気の彼女らしくない無邪気な顔に、私は思わず惹き付けられた。

「付き合ってられない」

 去ろうとするノットを引っ張り、スチュアートが無理やりマルフォイの隣に座らせる。彼はため息をついて足を組んだ。諦めの体制が早い。

 

「うーん、悪戯……悪戯……」

 スチュアートは唸って頭を捻らせる。パーキンソンが「双子のお菓子を食べるとか」と笑うと、「ふざけるな」とすぐさま却下されている。

「悪戯なんてしたことがないから、いざとなると思い浮かばないわね」

「じゃあもういいだろ。食事のデザートをやるから」

「ビュッフェスタイルじゃないの!逃がさないわよ」

 パーキンソンも面白がってニヤニヤ目を猫のようにしている。

「何がいいかしら」

 スチュアートはぽやーっとした顔で、ノットの頬を人差し指でツンとつついた。「やめてくれ」

 止められても、考え込んだ顔でズブズブ突ついている。うんざりした顔でしばらく好きにさせていたが、やがて「鬱陶しい」と雑に手を掴んだ。

「意外とほっぺたは柔らかいのね」

「なんなんだ……」

「悪戯しようと思って」

「じゃあこれで終わっただろ」

「ダメよ。つまらないもの」

 

 マルフォイとパーキンソンは気にした様子もなく、まだ悪戯のことを話しているが、私はぽかんとしてしまった。ベティと目が合う。彼女も「キャーッ!」と内心で叫びをこらえるように、口を手で隠している。

 ノットは嫌そうな顔でスチュアートの手を握ったままだ。たぶん、手を離したらまたつつかれるのが鬱陶しいからなんだろうけど……。

 なぜか私たちはいたたまれないような気分になり、胸のあたりがソワソワする。

 

「分かった、もう好きにしてくれ。とりあえず授業に行かせていただいても?君たちが集団で遅刻したいなら、僕は止めないけど」

「もうそんな時間?」

 ノットが気だるげに髪をかきあげ、大きくため息をつく。逃げられないと悟ったようだ。じろっとスチュアートを睨んでも何処吹く風で、マルフォイもパーキンソンも楽しそうで、ノットの無表情が友達の前では僅かにだが、たしかに分かりやすく動いてすこしドキドキする。

 入り込めない世界の一幕を覗いてしまった気分だ。

 

 ノットが手を掴んだままスチュアートを立たせ、腰を支えた。

 解散の雰囲気になり、挨拶とお礼をして暖炉前を後にした私とベティは、教科書を取りに寝室に戻ると、同時に「はーーっ」と興奮を吐き出した。

 お互い手を握って、そうしたらもうドキドキが足元から駆け上がってきた。

 

「えーっ、えーっ!」

「今の、もう、何もかもが凄かったわね!もうっ、もうっ、言葉が出てこないわ!」

「私はスチュアートと話せたし、あなたはグリーングラスと話せたし……私たちマルフォイグループの中に混ざってたのよ?」

「やっぱりダフネって優しくてすごく素敵……あっ、ダフネって呼ぶのを許してもらえたの!今度、薬草学を教わる約束もしちゃったわ!」

「良かったね!憧れだったもんね!」

 

 ひとしきり吐き出し、落ち着いたところで、お互いそーっと目を合わせる。

「……見た?」

「ええ……。スチュアートとノットって……」

「でも周りは何も気にしてないみたいだったけど……でも……ねぇ?」

「あのふたりってとてもお似合いだわ!そう思わない?なんだか、ふたりだけの雰囲気があるというか……」

「うんうんっ、なんか、スチュアートも見たことない顔してたし……」

 彼らがあんなに仲がいいなんて知らなかった。不思議なほど気分が高揚して、ずっと鼓動が早鐘を打っている。関係を想像するなんて下世話だけど、邪推しないではいられないというか……。

 甘くない空気なのに、二人とも心を許しているのが漂っていて、逆にそれがいたたまれないというか……。

 私のほうが照れくさくって顔が熱くなってしまう。

 

 画家には、ピン!と来るインスピレーションのきっかけがある。源泉とも呼ぶかもしれない。私はたぶんそれを見つけたんだ。スチュアートとノットが並ぶ構図が、次々と頭の中に浮かび、今すぐに筆を取りたくて仕方なかった。

 

*

 

 小さい頃の思い出は、両親よりばあばとの方が多い。触れ合った時間はそう変わらないのだろうけど、ばあばは強烈だから、記憶に残りやすいのだ。

 

 私は両親が仕事でいない時はいつもばあばのアトリエで過ごしていた。

 

 吹き抜けの見上げるほど高い天井と、壁中に飾られた肖像画や気色や動物、植物、建物、ありとあらゆるカラフルな絵。壁に入り切らずに、空中をたくさん額縁が泳いでいる。

 ばあばはいつもキャンパスで絵を描いていた。

 板の上に魔法みたいにみるみる出来上がっていく、ばあばの描く世界を見るのが好きだった。自然と私も筆を取るようになり、ばあばは私が欲しいものは全て与え、私の描く世界になんの感想もよこさなかった。

 賞賛も、否定も、アドバイスも。

 描いた絵を見せると、厳しそうな顔つきを緩め、深く頷いてただ話を聞いてくれる。

 私の脳内の世界は私だけのもの。それを画家であるばあばは分かっていて、尊重してくれたからきっとのびのび好きなように、絵を描くのが好きなまま成長出来たのだと思う。

 

 トレンブレイの本家は元々フランスに起源を持ち、そこそこながい歴史を持つ純血家だけど、うちは分家の傍流の傍流もいいところだし、マグルの血が何度も混じったこともある、そう大したことの無い家柄だった。

 けれども本家の手前、一応純血主義を守り、血を繋いでいる。

 両親も激しい純血主義というわけではなく、お友達はたくさん作りなさいね~結婚はママとパパが相手を決めるからね~というゆるい感じで、婿養子のパパはスリザリンだけど、ママはハッフルパフだった。

 うちの全ての決定権はばあばが握っているが、ばあばにも思想のことをあれこれ言われたこともない。

 でもばあばは私にスリザリンに入ってほしいのかなと感じていた。ばあばは出身寮に愛着が湧くタイプでもなく、純血主義でもなく、あらゆる業界、あらゆる階級、あらゆる出身の知り合いがいたけど、スリザリンは優れた寮だといつも言っていた。

 

 入学が決まって、改めて二人で話す場を設けられた時のことが強く頭に残っている。だから私はスリザリンに入ろうかなと思った。

 

「エイダ、あんたは絵を描くのが好きかい?」

 入学の祝いの言葉もなしに、開口一番分かりきったことを尋ねた。ばあばは勝気な微笑を浮かべていたが、目が強い光を放っている。私は即答した。

「好きだよ」

「あんたにゃ才能がある。母さんは情けない爺さんのほうに似ちまって、あたしに似たところはとんとないが、あんたには受け継がれたようだ。将来は画家としても食っていけるだろうね」

「ほんと!?」

 ばあばに直接褒められたり、絵や将来について言及されるのは初めてだった。私はなれるなら画家になりたかった。そこまでの才覚が己にあるかは分からなかったし、まだ知らなくても良いと思っていた。それはこれからゆっくり自分で確かめていけると思っていたから。

 でも成功しているばあばから太鼓判を貰うと、足元が空中に浮かび上がった気分になる。

 

「あんたの人生だ、指示は言わない。だが、画家としても、あんたの祖母としても、ひとつ口を出させてもらおうかね。エイダはこの世で最も強い力はなんだと思う?」

「強い力……?」

「画家に限らず、全てにおいて成功するために一番必要な力だ」

 

 11の子供に聞く内容ではないと思ったけど、ばあばの顔が至極真剣だったので私も真面目に考えた。でも、パーティーにも数えるほどしか出たことがない、社会を知らない私には難しい。

 

「……権力?」

「権力はもちろん強い。でも権力を得るためにも、使うためにもその力が必要になる」

「ええ……うーんと、お金?」

「金は大抵の場合手段にしか過ぎんよ」

 

 ばあばの返事は哲学的だった。ばあばが成功した中で、見つけた答え……ばあばの持っているもの……。

 多分、愛情とか、優しさとか、家族とか、そういう答えを求めているわけではないことは何となくわかる。

「才能?」

「それを十全に発揮するためにばあばが掴んだものさ」

「思想……とか」

「それは生き方の指針さね。信じてる奴らには全てなのかもしれんが、あたしらには違う」

「もうっ、分かんないよ」

「ヒントをやろう。母さんも持っているものだ。そしてよくあんたに教えている。もちろんあたしとは意味合いが違うがね」

「……ママも……。うーん……」

 

 のほほ~ん、としているママはばあばにまったく似ていない。絵を見ても「上手ね~」とか「凄いわね」としか思わないし、優しくて大好きだけど、取り立てて優れたところのない、本当にばあばの娘か疑うくらいに似ていないママが掴んでいる、この世で最も強い力。

 そんなものをママも持っているとは思えないけど……。

 

 わかんない。よく言われるのは「お友達と仲良くね」とか「お友達をたくさん作るのよ」とか「人に優しくすれば、お友達が増えて、手助けしてもらえるのよ」とか。

 

 え~?うーん……。

 

「友達……?」

「おう、そうさね」

「えっ?」

 

 ダメ元で言ったのに、まさか肯定されるとは思わなくて間抜けな顔でばあばを見つめる。たしかにばあばには知り合いがたくさんいるし、ママも友達が多いけど、そんな穏やかな答えがばあばから出るなんて。

 

「友達がこの世でいちばん、成功に必要な強い力?」

「そう、つまり人脈さね。いいかい、エイダ。この世で最も役立つ力は人脈だ。コネとも言うね。このアトリエに、それが集結されてるだろう」

 

 ばあばが部屋を見渡した。飾られている絵、絵、絵。

「ばあばが誰かのために描いてきた全てがばあばの人脈さ。友達までといかなくていいんだ。知り合い、顔見知り、友達──そういうツテが多いほど、成功を引き寄せられる」

 

 ばあばは野心に燃える目をしている。私は彼女ほど野心が強くないから、ピンと来ないけど、ここにある全てががばあばが掴んできたものだと思うと、胸が少し熱くなるような感覚はある。

 画家として人生を賭けて築いてきたもの。

 

 でもなんで急にこんな話を?

「えっと、友達をいっぱい作れってこと?」

「ハハッ!」ばあばは仰け反って大声で笑った。ビクッと肩が揺れる。「そういうところは母親似だね」

 

「友達でもなんでも、顔は広い方がいい。そのためにスリザリンは一番いい場所だよ。次はハッスルパフだね」

「スリザリン……」

 なるほど、寮の話だったのかと、ようやく話が見えてきた。

「あの子にも話したもんだが、言葉のまま友達いっぱい作るねなんて言ってね……。理解もしてなかったね、ありゃあ。だが、ハッフルパフで宣言通り友達を作りまくって、結局はばあばの思う力を手に入れてる。向上心の欠片もない子だが、あれはあれで天性の才能だねぇ。だがあんたはスリザリンが向いてると思うね。画家になりたいならなおさらだ」

 

 多分ばあばは、ママに話した時もこんな感じだったんだろう。口は出すけど、結局本人の選択に任せるスタンスだから、理解しなくとも構わないという風な語り口だ。つらつら話す言葉を、聞き逃さないように私は耳に意識を集中した。

 

「純血主義なんぞ古臭い考え方だがね、名家というのは力を持ってるもんさ。魔法界で頭角を現すやつは、結局階級社会から逃れられない。幸いあたしらは純血で、古臭い人間たちとコネを繋ぐ血筋を持ってるんだ。絵画を望むような連中っちゅうのはある程度立場がある奴らだから、それを利用しない手はないよ。ばあばはそうやって画家としてのし上がった」

 

 なんとか咀嚼しようとする私を穏やかな目で見つめ、ばあばはシワシワの手で雑に私の頭を撫でた。頭が左右にグラグラ揺れる。

「あんたにゃ難しいかもしれんな。まぁ、決めるのはあんただ、好きなようにするといい。だがいずれ分かるだろうよ。画家は傲慢で強欲な生き物さ。あれもこれも欲しくなるから、そのために必要な瞬間を逃がすんじゃないよ」

 

*

 

 スチュアートを見ていると、ばあばの言いたいことが分かるような気がした。彼女は聖28一族じゃないけれど、周りにいる友達は名家の人ばかりで、本人も古い家柄で、生まれた時から影響力が高い。

 容姿、経済力、成績、影響力……そういう者を全て持つ人たちが立つ、スリザリンのカーストトップの中に彼女はいる。

 

 そんな彼女に顔を合わせた時、ちょこちょこと構ってもらっていると、ハロウィンの時みたいにマルフォイたちと知り合えて、あれ以来彼らともたまに話すようになった。

 話しかけづらいから私からは近寄れないけど、彼等は目に付いた人間に臆することなく、大した用事ではなくとも、思いついた時に話しかけるということが当たり前に出来る。

 名家の子息子女からの覚えがめでたくなると、同級生で関わりがなかった影響力の強い同級生も私に話しかけてくれるようになった。マルフォイやスチュアートが私の祖母の話をしてくれたみたいで、何人かに「うちも彼女の描いた肖像画があるよ」と言われることもある。

 顔が広まればそれだけ、私がいないコミュニティで話題が上がる機会も増えた。

 

 ばあばの言っていたことが、カチリカチリとハマる感覚がして、私はドキドキした。私はすでに血筋は備えている。ばあばという最強の人脈も持っている。

 あとは自分の才能を証明するだけ。

 そして、その機会は自分で選べるのだ。方法もたぶん分かる。スチュアートに見せればいい。もし彼女が気に入らなかったとしても、純血家に固執する彼女なら、人に話を広めるくらいは善意でしてくれると思う。

 なんて贅沢な環境なんだろう。

 スリザリンはたしかに優れた寮だった。ばあばや私の夢を叶えるための。

 

 私は暇さえあれば羊皮紙と筆と絵の具を持って絵を描いた。まだ、人に見せられるほど自分の絵に納得いっていないし、これだという構図に出会っていない。

 景色を描くのも好きだけど、私のばあばのように人を描きたかった。きちんとした道具を使えば、絵の中の人物が圧倒的リアリティを持って、生きているのと変わらないくらい多彩な表情を見せて紙面の中で動き出す。絵は魂を吹き込むのと変わらないのだ。

 

 下書きはいくつか描いていて、モデルは友達だったり、先生だったり、絵の中の誰かだったりするが、一番多いのはやはりスチュアートだ。

 彼女は何か目を惹き付ける雰囲気を持っている。

 何枚か、ハロウィンの時に感じた興奮を形にしたくて、スチュアートとノットの構図や、スチュアートと誰かの構図、暖炉前に彼らが集まった時の、高貴で優雅で、けれど張り詰めたような気品が漂う絵を練ってみたけれど、これだという着地点は未だ見つからない。

 

 今日もインスピレーションを求めて、ウロウロと校内を彷徨う。静かな雰囲気の気分だったから図書室に足を向けた。談話室と迷ったけれど、寮はいつでも見れる。

 湖のほとりは、静かだけど今日の晴れ晴れとした天気では爽やかすぎる気がした。

 

 書籍が林のように並び、風の音のような紙がめくれる音の中をふらふらと歩く。マダム・ピンスが目を光らせているので、ささやくような話し声やひそやかな笑い声しか聞こえて来ない。

 窓から射し込む光で埃が煌めいて舞っている。厳かとも言えるような穏やかな静けさ。

 

 心に留まるものを探しながら、不自然にならないよう視線をそっとあちこちに走らせていると、どんどん人が少なくなっていく。

 上級生が幾人か座るだけになり、書籍も教科書や参考書からもっと専門的な、高度な分野に変わっている。おそらく錬金術系統や、外国の呪術、他にも触れたことの無い学問。奥に進んでいく。

 本棚に隠れるようにぽっかりと隔離されたような席がいくつかあり、ひと目から逃げるように誰かが座っている。隠れ家みたいな席があることを私は知らなかった。見かけるのはレイブンクロー生やスリザリン生ばかりだ。

 

 ふと、細い小道のような場所を見つけた。大きな本棚が入り組み、まるで道のようになっていて、向こう側に窓ガラス光が落ちている。棚の合間を縫うように歩かなければ見つけることも出来ないようなところだ。

 誘われるまま足を向ける。

 

 道の先、開けた小さなテーブルでは一組の男女が座っていて、私は咄嗟に本棚に隠れた。スチュアートとノットだ。

目の前の光景を見た瞬間、額縁に飾られた絵が浮かんだ。私は描くべき絵を見つけたと思った。

 柔らかい陽光の下で、ノットが羊皮紙を広げている。でも彼の視線は、手元ではなく、向かいで文字を追っている俯いた彼女に捧げられている。長い睫毛に光が宿るように反射し、空色の瞳が陽光で万華鏡のように僅かに色を変える。

 彼の横顔はゴシックに硬質で、しかしその静かな瞳には常になく穏やかな色を湛えているように見えた。

 

 艶やかな黒髪が一筋、顔の横に垂れる。白魚のような細い手が小さな耳をなぞるように髪をかけるのを、ノットがぼうっと眺めている。彼の顔は相変わらず無表情で、何を考えているのか読み取ることは出来ない。

「……どうしたの?」

 視線に気づいた彼女が顔を上げて、首を傾げた。

「いや……」

 歯切れ悪く彼は答え、視線を逸らして羊皮紙に目を落とす。スチュアートは何回かまばたきを繰り返し、「何それ」と小さく笑って、また本の世界に戻った。ノットがまたちらりと彼女を見つめると、それから二人は黙り込んで、ノットは羽根ペンを動かし始めた。

 机の下で、あと少しでも足を動かせば触れ合うか触れ合わないくらいの距離で、お互いの靴が向かい合っている。

 

 切り取られたような一瞬を、私は焼け付くほどに強く見つめ、瞼の裏で何度も反芻した。熱が体内を巡っていたが、心はひどく落ち着いていた。触れてはならないもののように、私のひっそりと踵を返す。

 今を絵にすれば、額縁の中で永遠に彼らは彼らだけの世界で生き続けるだろう。それはずいぶん甘美に思えた。彼らの中にある感情が、私の見たものとは異なっていても、私が描けば絵の中の彼らはそれが事実になる。

 

 画家とはどこまでも傲慢だ。

 私は自然と笑みを浮かべていた。私の感じたことを永遠に生きた幻想として残し、閉じ込める。あの瞬間はたしかに、世界に二人しかいなかったのだ。

 



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人を謗るは鴨の味 1

・ガールズサイド
・久しぶりの小説なのでリハビリのためにノリと勢いだけで書きました
・脳みそを使ってないのでマジでなんも内容がない
・原作キャラが女子にボロクソに言われてますがヘイトの意図はありません
・いずれこの女子たちがボロクソに言われるボーイズサイドも書きたいです
・友達とする恋バナと他人の悪口ってたのし〜い!ってだけの話


「ドラコの新しいカフスボタン見たっ?」

 ノックもそこそこにドアを開けるなり、頬を紅潮させたパンジーが前のめりになって言った。

 ダフネの部屋で寛いでいたシャルル達は、慣れたように目だけを上げ、ダフネはファッションカタログに戻り、トレイシーは課題に戻った。ミリセントはもはや視線すらも向けない。ソファに身を投げ出していたシャルルだけが、本を閉じて緩慢に身体を起こしたが、微笑みには「またなのね」という風な僅かな呆れを含んだ苦笑が滲んでいる。

 しかしパンジーはそれに気付いているのかいないのか、気にした様子もなくソファに座ると、早口で捲し立てた。

 

「ねえ、誰かドラコに見せてもらった?とっても素敵だったんだから!」

「見てないわ」

 総意の答えをシャルルが口にする。すると彼女は大袈裟に、芝居がかった仕草で嘆いた。

「なんてもったいない!絶対見た方がいいわ!本当に品が良くて、センスに溢れたカフスだったわ。ホグワーツ中を探しても、ドラコのつけてる物を超えるのはないと思うくらい」

「マルフォイの袖口なんかいちいち注視して見たりしないわよ。ただでさえローブで隠れてるんだから」

 うんざりとミリセントが突き放したが、パンジーは「そうよね」と目を丸くし、得意げにうなずく。

「たしかにドラコのすぐそばで過ごさないと、彼のローブの下のオシャレには気付けないわよね。悪いわね、ミリセント。あなたが彼とわたしほど親しくないってこと失念していたわ」

 自分で言って嬉しそうなパンジーに、ミリセントは下手を打ったというように顔を顰める。

 

 普段からパンジーは人の話を聞かないが、ドラコ関連になると殊更人の意見も聞かない。その上、すべてを自分に都合よく捉えて、満足するまで話し続けるのだ。

 さっさと退散すれば良かったのに、強引に自分とドラコの話に結び付けられてしまったミリセントは、逃げるタイミングを失ってしまった。

 

「それで、何がどう素敵だったの?さっきから何の情報もないけど」

 ダフネは、さも興味ありませんというのが丸わかりの冷めた口調で、パンジーに質問を投げかけた。言いたいだけ言わせてやれば、盛り上がったパンジーはまた勝手にドラコの元に戻ったり、他の女子にもドラコの話をしに行く。

「そうね、どう素敵……もう、とにかく素敵だったのよ。わたしの言葉じゃ上手く言い表せないわ」

「何色のカフスボタン?」

 シャルルが横から手助けした。

「深緑よ。スリザリン・カラーね。グリーンマラカイトを使ってるんですって!それで、周りをダイアモンドの粒で囲っていたの。ダイアモンドよ?少なくとも片腕で20粒くらいは使ってあったわ」

「さすがマルフォイ家ね……」

 シャルルたちはみな名家出身で、貧しさとは程遠い生活をしてきたセレブだったが、その中でもマルフォイとザビニは郡を抜いている。感心してシャルルが呟くと、パンジーが興奮して激しくうなずいた。

「そうよね?すごいわ、彼、この前ネクタイピンを新調したばかりだったのに。とっても優雅だわ……そう思わない?」

 誰も返事をせず、シャルルは微笑み、あとは肩を竦めるばかりだったが、パンジーは気にもしない。ひとりでうっとりと両手で頬を包んでいる。

「80ガリオンですってよ!ドラコが今度魔法省の役人たちが集まるパーティーに出席するから、そのためにミスターが買ってくださったんですって」

「80ガリオン……!?」

 トレイシーが唇を引き攣らせて絶句する。デイヴィス家は純血家だが、そこまで上位ではない家柄だ。息子のパーティーのためにそんな金額をポンと出せるのは別世界の話のようだった。

 けれど、パンジーの前でドラコを褒めるなんてバカのすることだ。パンジーに対する彼の言動を褒めるならまだマシだが、愚直に「ドラコって素敵ね」なんて言おうものなら、次はどれだけ自分とドラコが親しいか延々と自慢が始まる。どうせ最後には強引にそっちに話を持っていくのだから、わざわざ自分が踏み台になりたくはない。

 

「見えない部分に気を遣うなんてオシャレね。多分ルシウスのセンスでしょう?あの人、すごく気品があるものね」

 ダフネ、トレイシー、ミリセントの3人は、「シャルルナイス!」と心の中で全く同じことを叫んだ。

 その通りだ、優雅なのもさすがなのも、マルフォイ家であって、決してあの高慢ちきで子供っぽいドラコではない。なぜかドラコというのは、同級生の女子生徒の中で、素直には褒めたくない男の子のポジションにいた。そして、彼を褒めればパンジーが鼻をどこまでも高くするのだから、できるだけ賞賛なんかしたくもないというものだ。

 

「ええ、お父様も本当に素敵よね……。お母様のナルシッサもいつまでも綺麗で若々しいわよね。あの素晴らしいご両親のもとで育ったドラコがあれだけ素敵なのも当然だわ」

 

 ミリセントは、もうやっていられないと、苛立ち混じりのため息をついた。いい加減に慣れればいいのに、彼女はどれだけ惚気を聞かされても、パンジーのこのドラコ賞賛が鼻について仕方がないのだ。

「金にあかせて宝石で着飾っても、あのお坊ちゃんの中身があれなら宝の持ち腐れだわ。いつまでたっても子供っぽくて、本当に同い年か分かりゃしない」

 パンジーがさすがに眉をひそめた。

「わたしの前でドラコを悪く言うなんて、随分偉くなったじゃない、ブルストロード」

 不機嫌な声音にミリセントは一瞬ぎくりとした。ブルストロードは聖28一族に数えられる純血名家だが、彼女自身はマグルとのクォーターだ。そのコンプレックスは何年経っても拭い切れない。

 だが、ミリセントの肩をダフネが持った。

「彼女の言う通りよ。同級生の男なんてみんな子供っぽいけど、その中でもとりわけマルフォイとザビニは幼稚だと思うわ。そうね……少しはノットとトラヴァースくらいの落ち着きを持たないと、まるで後輩の世話を焼いてる気分になっちゃう」

「ダフネまで……」

 ますます眉を釣り上げ、パンジーは唇を尖らせた。周囲を見渡しても、トレイシーはうなずき、シャルルは呆れ笑いをするばかりで自分の味方はいなさそうだ。

 せっかくいい気分だったのに水を刺され、パンジーは拗ねた声で言った。

 

「何よみんなして……。大体ダフネはただ年上好きってだけじゃないの。比べないでよね」

「だってみんな穏やかさと寛容さが足りないんだもの」

 澄まして言うダフネ。

「フン、でも子供っぽいって言うけどね、ダフネ?あなたが好きになる年上の男は、きっとダフネのことを同じように思ってるわよ。幼くて手がかかる可愛い後輩って」

 今度はダフネが顔を顰めた。痛いところをつかれてしまった。ダフネは同世代の中では落ち着いて大人びている方だが、年上の男からはたしかにそう見られてしまうだろう。

 現に、初恋の6つ年上の男の子からはそういう理由で振られた経験がある。

 

「わたしの好きな人をそんなに言えるほど、あなた達の好きな人は大層な男なの?」

 腕を組んで吐き捨てたパンジーは、自分の言葉に少し俯き、パッと顔を輝かせた。

 

「そうよ。いつもわたしばっかりドラコの話をしてるけど、みんなには好きな人はいないの?ダフネは知ってるけど、ミリセントやトレイシーは?シャルルも、気になる人くらいはいるでしょ?」

 

 うげっと顔に浮かべ、ベッドから立ち上がったミリセントを、パンジーは素早く制した。腕を掴んで自分のそばに連れてくると、空いているソファに無理やり座らせる。

「ほら、トレイシーとダフネも」

 諦めてふたりも寄ってきた。

 女子は恋の話が好きとはいえ、パンジーの恋バナ好きは筋金入りだ。これならば、黙ってドラコの惚気を聞いていた方がマシだったかもしれない。だが、自分の話はしたくないけれど、他の人の話は少しだけ好奇心が擽られるのも事実だった。

 

*

 

 テーブルを囲んで5人の少女が向かい合う。乗り気なのはパンジーだけで、トレイシーはニコニコしていたが、あとはいやそうだったり、困った顔をしている。

 おかまいなしのパンジーは、まずシャルルに矢を定めた。

 

「シャルルの浮いた話ってひとつも聞いたことないけど、何か面白い話持ってないの?」

 初手から面白い話、ときた。シャルルは肩を竦めて首を振った。

「あいにく、パンジーの好きそうな話は何もないわ」

「本当に?告白くらいはされたことあるでしょ?」

「それは、まぁ……」

「当然よ。シャルルほど美しくて賢くて優しい魔女はホグワーツにいないもん」

 歯切れ悪く答えるシャルルを、トレイシーがすかさず持ち上げた。彼女が太鼓持ちなのはもうずっと前からなので、ありがとうとも言わず、微笑んでおく。

「でも、シャルルに釣り合う男がいないよね」

 本気かは分からないが、トレイシーは真顔でのたまった。

「それはさすがに……」

「シャルルってまず恋はしたことなかったわよね。ときめいたりしたこともないの?」

「恋人だけじゃなく初恋もまだなの?」

 ダフネが問うと、ミリセントが目を見開いた。彼女とは年々会話をする機会が増えているが、そこまでプライベートなことを話すほど親しいわけでもなかった。シャルルは無性に気恥ずかしい気分になって、自分の腕をすりすりと撫でた。

「まぁ、ときめいたというか……恋かもしれないと思ったことは、たぶんあったわ……。いまだに恋かわからないんだけど」

 言うつもりがなかったことを、ついポロッと言ってしまいシャルルはしまったと思ったが、女子4人が一気に華やいだ声を上げる。

 

「え!なんなの、それ!」

「誰?だれ?」

「スリザリン?それとも他寮生?」

 やかましい声を切るように、シャルルは憮然として言った。

「年上だったわ。でも、それ以上は言わない。それに恋かも分からないんだから」

 ミリセントにまで「初恋がまだなんてお子様ね」だとか言われたら嫌だなんていう、シャルルの見栄っ張りの悪いクセが出て、つい言わなくていいことを零してしまった。

 顔を赤くして、少し不機嫌そうになったシャルルにパンジーはとてつもなく暴きたい気持ちになりながらも、それをなんとか押さえ込んだ。シャルルが拗ねたり不機嫌になることは滅多にないが、一度そうなれば尾を引いてめんどうくさい。

 

「仕方ないわね。いつか話してもらうわよ。じゃあダフネは?」

「今は好きな人はいないわ」

「つまんないわね。トレイシーは?」

「右に同じ」

「ええ!ミリセントは?そういえばミリセントの彼氏って見たことないわね」

 水を向けられたミリセントは、ウッとして、しばらく黙り込んだ。眉を谷のようにしかめ、小さくつぶやく。

「恋人なんて出来た試しないわ」

「え?そうなの?」

 パンジーだけじゃなく、他の女子も驚いたことに、ミリセントはバカにされたような気分になった。

 ぶっきらぼうに答える。

「何よ、当然でしょ?男子から私が影でなんて呼ばれてるか知らないわけないわよね?」

 ミリセントは惨めさを押し殺し、凄んだ。

 

 1年生の頃から体格がよく、大柄で、杖より先に手が出ることの多かったミリセントは、他寮の男子生徒からも、自寮の男子生徒ですらからも「メスゴイル」だの「女版クラッブ」だの散々に言われているのだ。

 ダフネたちは視線を交差させて、やや気遣わしげな表情になった。それがますます惨めさと苛立ちを増させる。

「別に気にしてないわよ。こっちだってあんなガキ共お断りだしね。なんであいつら、自分たちが選ぶ側だと思ってんのかしら、偉そうに」

 我ながら言い訳っぽく聞こえるかもしれないとは思ったが、本心だった。いくら男子から人気のない自分にだって、選ぶ権利があるはずだ。それなら絶対、ミリセントはダサくてガキっぽくてバカな同級生なんか選ばない。

 

「たしかに昔のあなたはちょっと乱暴で、男子から色々言われてたけど、今はけっこう人気あるわよ」

 シャルルがなんでもないふうに言った。

「は?」バカにしているのかと、ミリセントの眉根が釣り上がる。

「そうなの?」

 ワクワクを隠しきれないようにトレイシーが前のめりになった。

「知らない?私たちの代で下級生の男子からいちばん人気があるのはダフネとミリセントよ」

「ダフネは分かるけど、なんで私?」

 困惑と苛立ちが混じった声でミリセントがたじろぐ。パンジーも意外そうだったが、好奇心が瞳にまたたいている。

「誰から聞いたの?下級生の男子と仲良かったかしら?」

「メロウからよ」

「ああ〜」

 

 シャルルには2つ年下の弟がいる。例によって1年生グループのリーダ格になっているメロウは、せっせとシャルルに情報を回しているらしい。

「女子の憧れはわたしとダフネ、女子と仲がいいのはパンジーとトレイシー、あとリッチモンドね。彼女意外と世話焼きだから。で、男子から人気なのはダフネとミリセントだって」

「へぇ〜!良かったじゃない!」

 トレイシーに肩を叩かれ、ミリセントは嫌そうに身をよじった。照れを隠すようにムスッとした表情をしている。

「嬉しくないわよ。結局ガキじゃないの」

「また可愛くないこと言って。素直に喜んでおきなさいよ。でも何かモテる理由があるの?」

 何気に失礼な質問をパンジーが口にしたが、いちばんそう思っているのはミリセントだ。

 

「ミリセントって下級生の揉め事にちょこちょこ居合わせるんでしょ?何回か、グリフィンドールを蹴散らしてあげたって聞いたわ」

「そんなことあったの?」

「あなたそういうところあるものね。姉御肌っていうか」

「あれは別にそういうんじゃないわよ。ただ、スリザリンのくせにグリフィンドールもやり込められないんじゃ寮のメンツが立たないから……」

「それで、杖を抜かれても毅然と対応して、他対1でも颯爽と勝つし、おまけに相手にゲンコツまでお見舞いして追い払ったところが大人っぽくてかっこいいって人気なんですってよ」

「あらあらまぁまぁ〜」

 3人が似たような表情でニヤニヤニマニマして、ミリセントは逃げ出したくなった。

「何よ、それ。モテるっていうか、男の先輩みたいな扱いじゃないの」

 口からはやっぱりトゲトゲしい言葉が出たが、ミリセントのブラウンの肌はその色を増していた。

 

 たしかにスリザリン生は、揉め事には口を出したがるが、颯爽とやり込めることはなかなか少ないかもしれない。嫌味や皮肉で煽るだけ煽り、いつも口論に発展するか、影からこっそり正体が分からないように嫌がらせをするかだ。

 正面切って剣幕で追い払う真似は、同世代どころか、スリザリンの誰もできないかもしれない。守られた下級生の男子が憧れるはずだ。

「それにミリセント、昔は背が高くて大柄って感じだったけど、今はスタイルが良くてセクシーって言葉が似合う風になったわ」

「は、はぁ?」

 セクシー?

 それが、自分に向けられているのか一瞬分からなくなる。

「そうね、たしかにミリセントってセクシーだわ。色っぽいというか」

「他の寮合わせても私たちの代でいちばんスタイルがいいんじゃない?」

「な、なんなのよ急に……。気持ち悪い」

「失礼な!」

「ひねくれてるわね〜」

 ダフネがクスクス笑う。シャルルも柔らかく微笑んだ。

「同級生とかは、多分昔のミリセントの印象が強く残りすぎてるのね。でもあと数年もすれば一気に色んな人からモテるようになると思うわ」

「慰めなんかいらないわよ。というか、もう私の話はいいでしょ。恋バナがしたかったんじゃないの?」

 

 ミリセントは腕を組んで顔を背けた。全員から向けられる生ぬるい笑顔がいたたまれなさすぎる。

「そうね」なおも笑いながら、パンジーが思い出したように「恋バナがしたいんだったわ」と言ったが、しかしパンジー以外誰も色めいた話がなかった。

「でも、ここで終わるのもつまらないわね〜」

「わたしはじゅうぶんだけど」

 シャルルを黙殺し、「あっ!」とパンジーは何かを思いついてしまった。

 

「じゃあ、同学年で付き合うなら?」

「お題スタイルって……。もう恋バナでもなんでもないじゃない」

「だってダフネ、あなた達に大した話がないのが悪いんじゃないの。わたしは当然ドラコよ」

「知ってる」

 トレイシーが呆れ顔で答える。「同学年ってことは、スリザリン以外でも?」

「ええ、いいわ。他の寮にいいなって思う人がいるの?」

「いないけど」

「そうよね」

 ダフネとミリセントがうなずく。パンジーも水を得た魚のように生き生きと扱き下ろし始めた。

「まぁ、たしかにドラコ以外いい男ってわたし達の学年にいないわよね。グリフィンドールはバカばっかりで、ハッフルパフはマヌケしかいなくて、レイブンクローはつまんない気取り屋しかいないし」

「気取り屋具合でザビニに並べる男はいないと思うけど……」

「それもそうね!」

 シャルルがボソッと言うと、女子たちはドッと笑った。他人の悪口がいちばん楽しい。それが他寮生ならなおさらだ。他の学年より関わりが多い分、粗もよく目につく。

 

*

 

「他は?まだマシだなって思うのいないの?」

 もはやマシ扱いにされた男子生徒たちに、4人はうーん、と唸った。

「付き合いたい人はいないから、有り得ないのを引いていかない?」

「トレイシー、ナイスアイディアね」

「ふふん、でしょ?まずは、ポッター」

「当たり前よ!」

 満場一致で決まった。スリザリンはほぼ全員ポッターが嫌いだ。唯一の例外はシャルルだが、ポッターは混血なので恋愛として見た場合選択肢としては有り得なかった。

「グリフィンドールは全員有り得ないわよね。ウィーズリーは貧乏でダサいし、バカだし、ロングボトムはデブでノロマで泣き虫。あとは混血でしょ?」

「言えてる!」

 辛辣なパンジーの意見にトレイシーが甲高く笑う。

「そこまで言わなくても……」

 半笑いでシャルルが窘めると、「じゃあシャルルはあいつらと付き合えるの?」と追撃が来た。

「うーん……」

 付き合う……付き合う……。キスしたり、ハグしたりするだけじゃなくて、交際するなら色々お互いを尊重し合わなければならないだろうし……。

 そう考えると……。

「ウィーズリーは……ちょっと」

「アハハハ!」

 控えめに答えると、ダフネが吹き出し、手を叩いて爆笑し始めた。こんなに大口開けて笑う彼女は滅多にない。

「シャルルが、き、拒否するってよっぽどよ!?アハハハ!」つられてパンジーたちもお腹を抱え始めた‪。シャルルにも移ってきて、ハァハァ笑いながら「だって」となんとか言い訳をする。

「だって彼、わたしのこと嫌いだし……喧嘩っ早くて、話し合いとか出来なさそうなんだもの」

「そうね、そうね」

「あんなのと結婚したら絶対地獄よ?お金も無いし、将来性もないわ」

「ポッターだってありえないけど、ウィーズリーはもっとありえないよね!だってポッターは将来性と実績だけはあるもの」

「ハーッ……笑った」

 涙を拭ってミリセントが息を整える。シャルルは笑いすぎと、楽しさと、罪悪感で心臓がドキドキした。普段純血の悪口を窘める立場だし、興味のない人は興味がないからわざわざ悪口なんて口にしない。だけど、パンジーやドラコたちが人の悪口で盛り上がってる理由が少しだけ分かってしまった。良くないって分かってるのに、なんだか空気に飲まれてしまう。

 

「でもネビルはよく分からないわ。ちょっと鈍臭いけど、彼に嫌なところって感じないし、威圧的でもないし。キスできるかは分からないけど」

「うへぇ」

 少なくともシャルルにとってはナシでは無いらしい。全員理解が出来なかったが、ネビルは横に置かれることになった。

 

「じゃ、ハッフルパフは?」

「なんかロクなのいた?」

「いない」

 

 とりあえず否定から入る。

「まず同世代のあいつら、純血が少ないわよね」

「マクミランとエイマーズくらいじゃない?あーあとサンプソンは一応純血なんだっけ」

「そうね」

 校内の全ての純血を把握しているシャルルがうなずく。

「みんな悪い人たちじゃないわよ」

「付き合うには良い人か悪い人かじゃないわ。魅力的かそうでないかよ」

 この中ではいちばん恋多きダフネが悟った顔で言う。

 

「さすがダフネ。その理屈で言うと、ハッフルパフの時点で魅力がないわよね。全員ナシ!」トレイシーが明るく残酷な決断を下す。

「私も無いわ」と、ミリセント。

「当然わたしも」当然パンジーも。

「エイマーズは文字学で話すけど、割と話が分かる人よ。年上だったら選択肢には入るかもしれないわね」

「エッほんと?」

 トレイシーが口をぱっかんと開けた。ダフネが同世代の男子をそう評するなんて珍しい。

「穏やかだし、話し方もゆったりしてて、聞き上手で、けど話すのも上手いわ。大人しいから目立たないけど」

「分かるわ。素敵な人よ。主張が激しくなくて。マクミランは楽しい人だけど付き合うとなると疲れちゃいそう。サンプソンは少し気弱すぎるかも。ハッフルパフで選ぶならエイマーズよね」

「年上じゃないからわたしはナシだけど」

 ダフネは梯子を外した。

 

「次はレイブンクローだね。わたし、顔はコーナー好きだよ」

「まぁ……」「そうね…」「そう?」「整ってるわよね」

 シャルルは肯定し、ミリセントは怪訝そうに首を傾げ、パンジーとダフネは嫌々ながらうなずいた。

「だよね?あー、すごくタイプなのに、どうして半純血なのかしら」

 トレイシーが嘆く。

「いくら顔が良くたって、穢れてる時点でないでしょ」

 パンジーが毒を吐き、「分かってるよー。でも、もったいないって思っちゃうのよ」とため息をついた。

「ゴールドスタインも容姿は割といいわよね。スリザリンの次に、男子がまぁまぁかもしれないわ」

「でもあいつも半純血よ」ダフネにもパンジーはすぐ指摘した。

「そうなんだよねー」トレイシーが悲しげに肩を落とした。

「レイブンクローの有力な純血はテリー・ブートだけど、タイプじゃないわ」

「マルフォイとは真逆だものね。わたしももう少し……なんというのかしら……気品がある雰囲気の人が……」

「なんか、熱血っていうか、元気っていうか」

「うるさい」

 ミリセントがビシッと突き付けた。テリー・ブートはレイブンクローなのに、ぽく見えない雰囲気がある。お嬢様育ちのシャルルたちには合わない空気感だった。彼は名家育ちなはずなのだが……。

 

「じゃあ、ついに我が寮ね」

 パンジーがいきいきと楽しげな表情を浮かべた。

「今更同学年の同寮生の誰がいいとか、考える余地ある?正直1番ないわね、全員」

「何よミリセント、さっきから全員バッサリじゃない」

「いい男が誰もいないのが悪いわ。私らの代、不作すぎるわよ。上だったら、まだ女子の扱いがマトモな人だっているのに」

「まぁねぇ……」

 ダフネもおっとりとしながらも、全面賛成だった。

「強いて言うなら……トラヴァースかしら」

 アラン・トラヴァースは、スリザリン3年生の中で1番大人っぽくて、穏やかで、人当たりも良かった。身長が高く見た目もハンサムで、攻撃的な感じがない。

「あー……」ダフネが好きそうだ。

「年上だったらなぁ……」

 本当に惜しそうなダフネの声に、どれだけ年上フリークなのよ、とツッコミが入る。

「同い年ってだけで、なんだか気持ちが萎えるのよね」

「重症ね……」

「トレイシーは?ミリセントもなんとか1人くらい選びなさいよ」

「本当にスリザリンの奴だけは絶対ムリ!どうしてもどうしてもなら……うーん……ブート」

「ええ?まぁ、接しやすそうではあるのかもしれないけど」

「わたしは…エントウィッスルかなぁ……」

「へぇ?」

 面白そうにパンジーが眉を上げる。「意外だわ。どうして?」

「ニコニコしてて話しやすいし、人を否定しなくて、けど他人と距離を取るところがあるでしょ。ズカズカ踏み込んでこなくて楽そう」

「夢がない理由ね〜」

 つまらなそうにパンジーは肩を落とした。分かっていたことだが、このメンツで恋バナがそもそも間違っていたんだろう。

 踏み込んでこないからいいだなんて、恋愛という前提をひっくり返すような理由だ。

 

 もはや期待もしてなかったが、最後にシャルルを見る。シャルルはうんうん唸って、テストよりも悩んで答えを捻り出した。

「結婚生活まで見据えるなら、セオドールかしら……?」

「……!」

 4人の顔が、パァァァっと輝いた。

 これよ、これ!

 こういうのを求めていたのよ!

 

 いきなり捕食者の顔つきになった彼女らに、シャルルがたじろぐ。

「なによ……」

 セオドールとシャルルが、1年生の時から特別に仲がいいのは周知の事実だった。パンジーは、いずれ恋に発展するかもしれないと、密かに野次馬しているくらいだ。

 

「なんで?なんでノットなの?」

 トレイシーがガシッとシャルルの腕を掴んだ。パンジーがひしっと隣りにより、瞬時にふたりで逃げ場をなくす。ミリセントもちょっと楽しそうで、ダフネは苦笑していた。

「ちょっと、なんでわたしの時はそんなにいきいきするの?」

「だって……ねぇ?」

「なんでノットなのよ?」

「特に深い理由は……1番仲がいいし……話も合うし……話し合いもできるし……。恋愛したとして、喧嘩とかあったときに、ちゃんと話をして仲直りをして、理解していくことが出来そうだから……?」

「随分ちゃんと考えてるのね!」

「仲良いものね〜!やっぱり今までの積み重ねでそう思うようになったのかしら?」

 華やいだ声で、からかわれるでもなくひたすらキラキラした目を向けられ、シャルルはゲンナリとした。

「言っておくけど、恋とかはないからね、わたしたちの間に。ただ、関係を築くという点において、1番対話が成立しそうなのがセオドールだっただけよ」

「そんなこと言って、ときめいたこともないの?」

「多分ないわ」

「多分ってことは、あるかもしれないってこと?」

「あのノットに?」

「ときめく要素ってある?」

「スチュアートって趣味悪いわね」

「アハハ!でもわたしもノットはなー。一緒にいても本の話しかしなさそう。てか、話振ってくれなさそう」

「わかるわ。女子の喜ぶこと何も知らなそうじゃない?」

「話しかけてもさ、ああ、うん、とか相槌ばっかりで、挙句の果てには本に集中したいんだが今じゃなきゃいけないことか?とか言いそう!」

「キャッハハハ言いそうだわ!」

 とうとうトレイシー、ミリセント、パンジーは好き勝手盛り上がり始めた。セオドールのイメージが悪すぎて、ムッとするような、でも彼女たちの言うことも分かるような感じでちょっとニヤッとしてしまう。

 実際はまったくそんなことないのに。

 ダフネもクスクス笑っている。

 セオドールとマトモに会話をするのはシャルルとダフネくらいのものだから、みんな彼のことを知らない。

 

 ただ、今庇ったところでどうせ恋愛に繋げられるだけだ。

 だからシャルルは他の人を刺してみることにした。

「わたしは彼と話が合うからいいのよ。それより、つまらないって意味ではクラッブとゴイルでしょう?」

「最初っからあいつらは選択肢に入ってないよ」

 全員真顔だった。むしろ、何を言い出すの?と引き顔すらしている。わかっていたけど、可哀想で少し笑えてしまう。

「じゃ、有り得ないってほうなら、ザビニよね」

「絶対有り得ないわね」

 ミリセントが力強くうなずいた。顔がいい女にしか優しくないザビニのその性質を彼女は酷く毛嫌いしている。1年生の時から割とつるむことが多くて親しい間柄ではあるが、メスゴイルだとか言い出したのもザビニ派のフォスター達だし、彼らがヘラヘラ嘲笑ってあだ名を広げたのも知っていた。ミリセントはいずれあいつらをボコボコにしてやるつもりだった。

 

「あら、ブレーズはけっこう素敵だと思うけど……」

「はぁ?」と、トレイシー。

「えぇ……」と、シャルル。

「ないわよ」と、ダフネ。

「あんた正気!?」と、ミリセント。

 パンジーに非難がごうごうと飛び交う。

「そ、そこまで?だって、顔がいいじゃない。話も面白いし、お金持ちだし、純血だし……」

「何言ってんのよ、あんなナルシストで高慢ちきでサディストで馬鹿みたいにヘラヘラしてる無責任な男!」

「パンジーってほんとに見る目ないね……」

 トレイシーの小さなつぶやきは、幸いなことに彼女の耳には届かなかったらしい。

「そんなに人気がないなんて……」彼女は少し呆然としている。

「そうでしょうね。お互い火遊びならいいかもしれないけど、将来を考える相手としては彼、最悪だと思うわ」

 シャルルですらそこまでボロクソに言うのだから、本物だ。ブレーズ・ザビニは本当に同寮生からの人気が終わっていた。

 彼が関係を持った女を寮でどれほど悪意的に笑っているか知っていたら、とてもザビニと付き合いたいなんて思えないだろう。

 

「ま、本命はドラコだから、言ってみただけよ」

「あいつもどうかと思うけど」

「わたしはザビニもないけど、マルフォイはもっとないわ。結婚を見据えたときにあれだけ頼りがいの無い男でパンジーはほんとにいいの?普通に話すだけでも、自慢話と悪口ばっかりで心底つまらないのに」

「ダフネ!」

 ここまで直接的なドラコの悪口をぶつけられたことはなかった。悲鳴めいた非難をあげた彼女に、ダフネは悪戯っぽく片目を瞑り、「今日はそういう日でしょ?」と悪びれもしない。

 

 パンジーは唇を引き結んでンググッ……と唸り、「もー!」とドハッと息を吐いた。

「自分たちに好きな人がいないからって、人の好きな人をあんまり悪く言わないでよね!」

 今までの自分たちの全てを棚上げするセリフに、シャルルが笑いだし、パンジーも呆れたように笑った。そして5人の少女たちは共鳴して、コロコロクスクス吹き出した。

 恋バナと他人の悪口は、友達とするのがやっぱりいちばん楽しい。

 

*

 



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