Dasein (ㅤ ْ )
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ーーふと思った。俺は一体何なのだろうと。

 

誰しもが一度は思う事だろう。自分とは何者なのか?自分なりの答えを出すか、答えを探す事を答えとするか、分からない事を結論とするか。何にせよ皆すぐにそんな疑問に片付けて忘れてしまうだろう。

 

だけど俺は時折この問いに捕らわれる。何気ない時に考えてるのに気がつく。

 

俺は誰かの為にいるのだろうか?誰かの為に俺がいるのだろうか?

 

そんな煩雑とした思考を振り払い立ち上がる。時間も時間だ、夕食を作ろう。

 

台所で料理をしていると集中出来る。俺は流石に考え事しつつ調理を進められる程には料理に慣れてはないからだ。余計な事を考えずに済む。余計な事と言うべき事かは分からないが。

 

オーブンで数種の野菜を焼きつつ、安い豚肉を適当な味付けをしてフライパンで焼く。という割りと雑な調理を調理で食事を用意する。オーブンで焼いた色とりどりの野菜の中からパプリカを一つとり口にする。

 

うむ、ホクホクとした食感。熱でえぐみや苦味も消えて甘みが際立つ。我ながら上々だ。

 

一人で食事をさっさと終えてしまう。正直言って味気ない。自分で言うのは何だが料理自体は味は悪くはないと思う。

 

だがどうも作っている時点で食べた気になってしまうというか、元々小食気味なのもあって食べる前に気分的にお腹一杯になってしまうのだ。

 

実際自炊しても食費もさして浮くというわけでもなし、時間の節約などを考えればむしろ出来合いのものでも買った方が総合的なコストパフォーマンスは良いと思う。事実お隣さんがいなければ俺はとうにそうしていただろう。

 

食休みがてらに本を読みつつ時間を潰す。ちらりと時計を見て夜九時を回った事を確認し立ち上がる。いつも夜七時に起きてるあの人はこの時間からは自由時間だ。

 

アパートの自室を出てすぐ隣の部屋に向かう。

 

人を尋ねるなら事前に連絡してアポを取るべきだが、彼女は一応携帯は持っているがほぼ放置しているので大抵連絡がつかない。それにこの時間は余程の用がない限りあの人は部屋にいる。

 

居るのは確かでも会えるかは本人の気分次第なのだが。

 

インターホンを押して来訪を告げる。しかし、それに応答はない。それはいつもの事だ。なのでドアノブに手をかける。鍵はかかって無かった。これは文字通り今日は門戸が開かれているという事だ。

 

「お邪魔します」

 

そう一言かけて、俺はドアを潜り中に入った。間取り自体は俺の部屋と変わらない。しかし青リンゴにも似た爽やかで甘い花の香りが薄くする、書棚に大量の蔵書が収まる部屋の中で椅子について本を開いていた眼鏡をかけた女性がゆっくりと俺に目を向けた。

 

「お!あーちゃん!こんばんはー。久々だね!久しぶりだね!ご無沙汰してるね!昨日あったぶりだけど!」

 

バタンと音を立てて本を閉じ、早口で畳み掛けるように挨拶してくる油断し切ったゆったりとした服を来た小柄な女性。お隣さんのレアさんだ。

 

「こんばんは。後、昨日はレアさんと会ってなかったから一昨日ぶりですよ」

 

「そうだっけ?まー、一日も二日も一週間も一年も一光年も大して変わらないよ!細かい事気にすんなあーちゃん!」

 

訂正したら勢いよく切り返される。光年は距離の単位ではないかと思ったが、細かい事はに気するなと言われたばかりなので俺はツッコむのを辞めた。

 

レアさんは立ち上がり無音の足取りのぬるっとした歩みでキッチンに向かうとコップに水道水を汲んで戻って来て俺に差し出した。

 

「どーぞ、粗茶ですが」

 

「ありがとうございます」

 

俺は微妙に笑ってコップを受け取る。これはこの部屋を訪ねるとレアさんが毎回やるお約束だ。実はいつもちょっと楽しみにしてる。

 

「あ、レアさんこれ。焼き野菜」

 

タッパーを差し出すと、レアさんはパッと顔を輝かせて受け取った。

 

「おぉ!ありがとうねぇ!綺麗な焼き色だねぇ!色鮮やかだね!甘そうだね!美味しそうだね!」

 

今日もテンションが変に高いレアさんは大袈裟なくらいに喜ぶ。すぐに食べるような事はせずにタッパーを冷蔵庫にしまった。彼女は決まった時間の食事以外で間食はしない。夜行性ながらちょっと几帳面なくらい規則的な生活をしている。引き換えにレアさんは先日渡した洗ったタッパーを返してくれた。

 

「昨日、あれ?一昨日だっけ?まいいか、ありがとうね!すっごく美味しかったよ!あの、野菜の炊き合わせ?だっけ?凄かった!」

 

「そう?少し薄味だったかなって気がしたから、レアさんの口に合ったなら良かったです」

 

俺は答えながら、その場に胡座をかいて水道水を一口飲んだ。この部屋にはテーブルやソファーや座布団は無い。そもそも来客など想定していないのだろう。

 

「薄口だったけどボクはあれ好き!出汁がすっごく凄かった!うまみ!うまあじ?が凄い!後柔らかく炊けてた!美味しかった!」

 

レアさんは温野菜が好きらしいので、良く差し入れているが、いつも嬉しそうに美味しかったと言ってくれる。この人は食事に手間をかけるのが面倒だから適当に済ませるタイプだけど、曰く出来合いの惣菜や弁当なんかだと野菜料理が不足しがちで飢えるのだそうだ。何かボク、肉食と勘違いされがちなんだよね。と以前ボヤいていた。

 

この人がいなかったらやはり俺は自炊など辞めていただろう。自分の為なら作るまでもないが、他人が喜ぶのが動機で料理人になると言う人の気持ちが少しわかる気がする。もっとも調理自体楽しくはないので俺に職業料理人は務まらないだろうが。

 

レアさんも椅子に座って、眼鏡を外して机の上に置き、一息吐く。こうして改めて見てもこの人は体が小さい上、顔立ちは整っており、可愛いのだが、童顔と言うかはっきり言うと幼い。レアさんが大学生である俺より歳上だと聞いた時は失礼にも驚きを隠せなかった。本人曰く、良くおどろかれるよー。との事だ。

 

「レアさんの部屋ってものが少ないよね」

 

俺はふと思った事を口にした。いつも思うのだがこの部屋は殺風景だ。

 

「そんなことないよー。色々あるよー、本とか!本とか!後机とか!」

 

「うん……本くらいしかないですね」

 

レアさんは筋金入りの本の虫だ。だから確かにこの部屋は雑多なジャンルの大量の蔵書がある。俺も本は多少読むがこの人には叶わない。ただ、意外とレアさんとはあまり本の話はしないのだが、どうも乱読家らしい。

 

だから本とそれを納める本棚。後は机とレアさんが今座る椅子、寝る為のベッド。そのくらいしかない。テレビ一つなく、見た範囲家電もエアコンと電子レンジ、冷蔵庫くらいである。良くいえば無駄が全く無い。しかし遊びもない。

 

そうして目を走らせた時、ベッドサイドに置き捨てられたスマホを見つけた。あれがこの部屋にある若者らしい唯一のアイテムだろうか、放置されているのだが。

 

「スマホ、ほとんど使ってないよね」

 

「んー?使わないねぇ。でもバイト先に連絡したり連絡が来たりとかでどーしても必要だからねー。固定電話もないし。まぁ、煩いの嫌だから通知音とか切ってほっといてあるんだけどね!」

 

この人は典型的な携帯を携帯しないタイプだなと思う。

 

「でも通知切ってたら連絡に気付けないんじゃないですか?」

 

「いや、そんなことはないよー。ちゃんと連絡が入ってなかったかとか確認するもん!一日一回くらいは!んで入ってたら折り返すから問題ない!」

 

レアさんは雑音とかの刺激が大嫌いらしいから仕方ないのかもな。この人が太陽が沈んでから起きて、朝日が登った後に寝るのは夜は人が居なくて静かで好きだからと以前言っていた。

 

「ただ、そーいえばさー、少し前に大きめの地震あった時携帯が勝手にいきなり鳴ってびっくりしてさー。なんかミサイルとか降ってくる時も鳴るとか?勘弁してよー、そんなのでも鳴るとか本気で携帯捨てたくなったよー」

 

「あー、確かにあれうるさいですよね。でもあれも確か設定で切れたと思いますよ」

 

「え!本当!?切って!はい!」

 

そう言いつつレアさんは無駄に俊敏な動きで椅子から立ちスマホを取り俺に手渡すとすぐに椅子に戻った。 

 

とりあえずスマホを弄る。俺のモノと機種自体は同じだったから設定を見るとすぐに該当設定は見つかった。

 

「切れましたよ」

 

「ホント!ありがとー!これで寝てる時にビクッて起きなくてすむよー。いやーあーちゃんは機械に強くて凄いねぇ」

 

「……どういたしまして」

 

俺が機械に強いのではなく、レアさんが疎いだけ……と思ったがそれは言わずに、スマホをベッドサイドに戻す。

 

「でも、警報を切ってたら本当にミサイルとか大地震の時にどうするんです?」

 

「別にどーもしないよ?大体地震なんて地面が揺れた時気付けばいいし、ミサイルなんて落ちて来た時に気付けばいいでしょ!そもそも気付かなくっても特に問題ないし!何言ってんのあーちゃん?」

 

「うん……そうだね……」

 

この人は浮世離れし過ぎてふわふわしてる。レアさんなら本当に大災害が迫ってても一顧だにせず死ぬまで本を読んでそうだ。緊急時には俺がレアさんを抱えて避難しようと、内心決意した。

 

その後暫く談笑して、レアさんが夜ご飯(午前零時あたりの食事)を食べる時間になる前に切り上げた。ばいばいと手を振るレアさんに軽く手を振りかえして自分の部屋に戻る。

 

気持ちが落ち着いて、良く眠れそうだ。

 

………

……

 

いつも上滑りしている。そんな気がする。

 

例えばーー友達と遊んでいる楽しい時間。退屈な講義を聴いている辛い時。退屈で暇を持て余している時。病気で苦痛に唸っている時。

 

そんな時間に夢中になっている時すぐに気がつく。何かに夢中になっている自分を俯瞰している全く冷静な自分がいる。

 

ふとそれに気がついた時に、ハッとして醒める。あーあ、と冷め切った自分が何をやっているのか。と耳元で囁いてくる。

 

そうしていつも俺は夢中になりきれなかった。

 

皆が酒に酔い、楽しく騒いでいる飲み会で一人酔えずにシラフでいるような疎外感。それに近いモノがいつでもついて回ったーー

 

 

 

「レアさんてさ」

 

「うん?何だいあーちゃん!何か聞きたいの!知りたいの!あまりにも知り過ぎた男なの!?」

 

後日また夜にレアさんの部屋に遊びに来た俺はいつものようにコップの水道水でもてなされていた。引き換えに俺は野菜スープを差し入れた。今日もハイテンションのレアさんははしゃいでいた。  

 

「いつも大体零時過ぎに動きますよね。全く出ない日も多いけど」

 

「そだねー。午前を回らないと案外まだ人も多くて嫌になっちゃうんだ。まぁ確かにバイトとか入ってないとそもそも出ないけどねー」

 

時折夕刻、或いは日が登ってから外出する事もあるが、そういうのは日中に済ませなきゃならない予定の場合だそうだ。

 

「バイトって、夜の仕事だから水商売とかですか?」

 

「あーちゃん君ねぇ、水商売!ホステス!風俗嬢!とかサービス業の究極じゃないか。コミュ障?いんきゃ?のボクに務まるとおもうかねー?」

 

俺の不躾な興味本位の質問に、レアさんは明け透けに返す。本人はこう言うが、こんな風に気の置けない所は魅力的だと思う。

 

だけどまぁ、務まらなそうだとは俺も思った。ステレオタイプのコミュニケーション障害ではないが、レアさんのコミュニケーションは独特だし、割と明るいイメージなのに、陰陽でどちらかと言われば隠だと思う。

 

「まぁ、難しそうですね。レアさん小さくて可愛いから結構人気出そうな気もしますけど」

 

「でしょ!ボク見てくれだけは良いらしいからね!いやいや、騙されるなボク!子供に間違われるような見てくれでウケる訳ないでしょ!」

 

「それはそれで好きな人もいるかもですね……合法だし」

 

「ロリ認定!?いや無理だよ!そもそもそんなめんどくさそうな相手にめんどくさい接客とか出来ないからそれ以前の問題だよ!」

 

「うーん……」

 

人付き合い嫌いなこの人ならそうかもなぁ、と思う。しかし我ながら凄くしょうもない話をしている。

 

「でも実はボクが逆に接客したら面白いかなって思って以前24時間営業のファミレスのバイトに申し込みした事あるよ!面接で即落とされたけど!せっかくだからその後同じ店に五回くらい面接行ったけどね!」

 

「それはまた型破りですね」

 

無茶苦茶な話だがこの人らしさはある。

 

「いやいや、それがそーでもないんだよ。一度面接で落とされても二回、三回といくと雇って貰える事もたまにあるんだよ。そのファミレスのてんちょも最後の方またかみたいな感じでちょっと楽しそうだったし!結構仲良くなったよ!まぁ雇ってもらえなかったけどね!」

 

「雇ってはもらえなかったんですね」

 

思わずちょっと笑ってしまった。俺もその店長の立場だったなら、同じ人が五回も来たらいっそ面白いかも知れない。

 

「まー、ボクも五回も行ったら流石に飽きたけどね!今度一緒に行く?面倒だからやっはやめよ!」

 

レアさんと食事はちょっと行ってみたいと思ったが、残念ながら勝手に検討されて却下されてしまったようだ。まぁ、この人が他人と外食するイメージもない。行くなら一人で行くだろう。

 

「それで、隣だとたまに夜中レアさんが部屋を出るのが分かるんだけど……」

 

「うん。そりゃ外出る時は大抵夜中だからね!」

 

だけど、レアさんは出て行って割とすぐに戻ってくる事がある。それは毎日同じ時間だ。

 

「でも出かけてる訳じゃない時ありますよね。たまたま見たんですが、アパートの前で……」

 

「……見たの?」

 

そこまで言うと、レアさんが珍しく目を細めて俺を見据えた。気を悪くしただろうか?

 

「……はい、見ちゃ不味かったですか?」

 

「あー!見られてたのかー!しかもよりにもよってあーちゃんに!うぁー、人目には気をつけてたんだけどなぁ」

 

そう言いながら珍しく恥ずかしげに頭を抱える。そんなに見られたくなかったものだろうか。確かに真夜中だから人目を避けてるのは分かるが。

 

「あれ、なんかの武道の練習ですよね?レアさん武道家だったんですね」

 

レアさんは毎日アパート前で深夜に木刀で何やら型っぽいものと、素手でも型っぽいものを練習していた。素人目にも、地味な動きながら凄く丁寧にやっているし、動きも洗練されてるからレアさんがちゃんと何かを学んでるのは分かった。

 

引きこもりイメージのレアさんには意外に思えるが、普段あまり動かないけど、何気なく動く時の姿勢がいいし、歩くときの少し不気味なぬるっとした感じはそのせいだったのかと納得もあった。

 

「武道家なんてたいそーなモノじゃないよー!やめてー!ただの趣味!」

 

「あれはなんですか?剣道じゃないですよね?剣術、でも素手の型っぽいものも……?」

 

「うん……所謂古武術みたいな……試合もないし型を練るだけの趣味みたいなーねー」

 

「古武術」

 

それっぽいかなと思ったら本当にそうだった。知り合いにそういうモノをやっている人は居ないかったから少しテンションが上がる。

 

「古武術ーなんて言うとご立派そうに聞こえるけど、何てことないよー。やってる事地味だしー、ボクみたいな引きこもりでも出来るゆるい型稽古だしー」

 

「レアさんは武術好きではないんですか?」

 

この人が自分のやる事をここまで卑下するのは珍しい。好きではないなら何故やっているとも思えない?レアさんは好きでもない事をやる人ではないと思う。

 

「好き……なんだよね。大好き。だからね、そんな自分を恥じる気持ちがあるんだ」

 

「好き……なのに恥じる?」

 

何だろう、整合性が取れてないというか。レアさんらしくない考え方というか意外だ。

 

「だってさ、あーちゃん。武術ってカッコいいような気がするけどさ、冷静に考えてみてよ。ただ如何に上手く人を傷つけるか、如何に上手く人を殺すか……どう言い繕っても本質はそれなんだよ」

 

「……それは確かに」

 

素人なりに要は争いの中で必要に迫らせて作られたもの……だというくらいは分かる。レアさんの言い分は元も子もないが正しいのかも知れない。

 

「武術が好きだからさ。一時期は色々な流派とか、武術家の人とか調べたんだ。今はネットとかでどーがも簡単に観れるし、便利だよね。そうするとね、やっぱり人間臭さが酷いんだ」

 

「人間臭さ?」

 

「武術の型の用法、門派のちょっとした解釈違いでいい歳した武術家が口喧嘩。実戦武術、実戦的とか品評する人々」

 

「……」

 

あぁ、それは如何にも……

 

「実戦ってねぇ。結局は殺し合いでしょ?皆そんなに殺し合いが好きなのかな?実戦武術が上手い、殺し合いが上手い事がそんなにも誇らしいのかな?」

 

如何にもレアさんが嫌いそうな世界だ。

 

「大の男が顕示欲旺盛に刀を振り回して、自分の武術の業前を凄いだろうと動画で公開してね、それを他の武術やってる人が勿体ぶって批評する。正直一般の人からすればなんの興味もないしステータスにもならないのに、勝手に流派の宗家を自称する人達もいるんだ」

 

そうしてこめかみに指を置いて一つ息を吐いた。夜のレアさんは躁鬱と言ったら大袈裟だが、たまにテンションが低くなる時がある。そうやって見せる真面目な様子はレアさんにとってそれが大事な事だと分かった。

 

「馬鹿馬鹿しい、と思ったんだ。それにボク自身も武術を誇る気持ちがあった事に気がついて恥じたんだよ」

 

「誇ってもいいと思いますよ。どんなモノであれ一生懸命身につけたモノを恥じる事はないと思います」

 

「ありがとーねぇ、あーちゃん。でもボクは行き着くところまで行った人を知ってるから、誇っていいのかどーにもねぇ」

 

「行き着く所まで行った……武術家ですか?」

 

それはどんな人だろう?興味がある。

 

「うーん」

 

そこでレアさんは話すかどうか迷ったのか、少し考えながら眼鏡のつるを指で押し上げようとして、眼鏡をかけてない事に気がついたようだった。

 

「まぁ、あーちゃんにならいいか。ここだけの話……って言うのに限ってここだけの話にはならないものだけれど」

 

「別に誰にも話しませんよ」

 

レアさんにとってまずい事なら俺は他で漏らそうとは思わない。この人の嫌がる事はしたくない。

 

「武術の界隈にはある曰く付きの流派があるんだ」

 

「曰く付きの流派……」

 

それはどういう曰くだ?

 

「もちろんさっき言ったように、武術流派なんて殺し合いの最中から生まれてきたモノだから人を殺すのに使われて来たし。割と最近でも先の大戦で実際に遣い手が軍刀で敵を殺したりなんて山程あったからねー。そういう意味では曰く付きってのも変なんだけど」

 

逆に言うと先の大戦では大勢の遣い手が戦死しちゃった結果、秘伝的な技術が失われたりしたんだけどね。とレアさんは補足した。

 

「では曰く付きというと?例えば妖刀みたいに学んだ人が沢山狂ったみたいな話ですか?」

 

「流石あーちゃん、それに近いね。流石に学んだ人が皆おかしくなる訳じゃなかったけど。単にある狂った人がその流派を学んでしまった結果かな」

 

何はともあれ狂人を輩出してしまった、という事だろうか。

 

「有り体に言って、この平和な現代で少し前に刃傷沙汰をやって死人を出してしまったんだ」

 

「なるほど、そりゃまずいですね」

 

「それも道場長の宗家が門弟と真剣で立合った結果だったからね」

 

「それは……」

 

門弟を斬るだなんて確かに狂った宗家さんだったようだ。

 

「その宗家さんは何故そのような事を?」

 

「うーん。あの人は凄い善良だったけど、時代錯誤な程責任感があったからなぁ。自分で決着をつけようと思ったのかなぁ……」

 

?狂っていたのは宗家ではないのか。それに知っているのかのような口ぶり。つまりレアさんは……

 

「その道場にはね、ボクと最も歳の近い最年少の兄弟子が居たんだ。物凄い不吉な空気を纏っていて、気味の悪い眼をしていたから人を覚えられないボクですら彼は未だに覚えている」

 

レアさんが懐かしそうな眼で、落ち着いた声色でつらつらと話した。俺は無言で先を促した。

 

「凄い才覚だったから先生は夢中になっちゃったみたいだけどね。彼はボクから見たら天才というよりただの修羅だった。結果一匹の剣鬼が出来た。彼を育ててしまった先生はそれが自分の間違いだったと思い詰めてしまって、自分で清算しようとしたんだろうね。ただ遅過ぎた。彼が一人の時に狙って、彼に一太刀は浴びせたけど仕留め切れずに逆に斬り殺された」

 

殺されたのはレアさんの兄弟弟子の門弟の方ではなく宗家の方だったのか、なんだか壮絶で物語みたいだ。

 

「……その後その門弟の人は?」

 

「とりあえず当時は未成年だったというのと、証言や現場検証からは先生が先に斬りかかってきて止む無く、という話だから。実際に本人も先生に斬られて深傷だったからね。本人へのお咎めは大した事ではなかったようだけど詳細はよくわからない。その後の彼がどうなったかも、今現在生きてるのか死んでいるのかも分からない」

 

「何せ武術流派にあってはならない大事件だ。宗家も死んだし、そんな事があっては誰も後を継ぐわけもなくそのまま門下生は皆散り散りになってその流派は事実上失伝。そんな曰く付きだからあの道場にいた人も誰もあの流派名は名乗ってないだろうね。それがボクの今の道場の前に居た道場、もちろん秘密」

 

それは、確かにそんな道場に在籍していたとは言えないだろう。間近にそんな人を見たのならレアさんが武術をやる人の言動にデリケートになる理由も分かる。

 

「……その、レアさんの兄弟子さん。どんな方だったんですか?」

 

「……あれはね。そもそも普通の人とか違う世界に生きている人かな。確かに皆と同じ共通の世界に生きている、だけど人の形をしているだけで一般的な人とは別の魂の形をしてるように感じた」

 

「……違う生き物、ですか?」

 

「そうだね。精神が違うんだ。あぁいうのを昔の人は鬼といったのだろうね。一般的な人間とは別だから同じ良い悪いの尺度で図る事が間違いだ。善悪の彼岸にいるんだよ」

 

「言わば二次元の外にいるボクらが一枚の絵を俯瞰してみてるようなものさ。上の次元がずれていたのかも知れない」

 

余人とは別の魂……か。でもなんだかそれは、まるで、俺が抱くレアさんの……

 

「レアさんはその方をどう思ってました?」

 

「……正直に言うと、親近感を持っていた。今まで生きてきてあの人にだけそれを抱いたんだ」

 

あぁ、やはり。と俺はそう思った。

 

「けど彼はボクなど眼中になくさっさと彼岸へと行ってしまった。……何かが違ったらボクもああなってたのかも知れない。だからボクは武術がそれ程に恐ろしく、醜いものだと知っていなければならない」

 

「剣を取る者は皆、剣で滅びる。それは正しいと思うんだ」

 

それは確か聖書でのキリストの言葉だったか、ふと聖書と剣という言葉で連想された。

 

「でもレアさん、キリスト自身、私は平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。とも言ってますよ」

 

「マタイの福音書だね。うん、キリストの語る愛は皆が思ってるより遥かに優しくて、遥かに苛烈だ。そして人は剣を取らずには来れなかったのも事実だし、そう考えると矛盾だね」

 

「それでもレアさんは武術が好き、なんですね」

 

「どうなんだろう、でもやっぱりうん。好きなんだろうね」

 

変な言い方だが、少し安心した。俺からみると捉えようのないレアさんも彼岸にいるように感じていたから。そういう人間的な葛藤のようなモノがある事が嬉しかった。

 

俺は何となくレアさんの蔵書を眺めていた時先程レアさんの口から出た言葉が題目となっている本を見つけた。ニーチェだった。気になったので借してもらう事にした。するとレアさんは嬉しそうにそれはニーチェ入門にはいいよー、と言いながらこれはそれの姉妹編だからと言って道徳の系譜という本も貸してくれた。

 

その後少しレアさんと話した後、二冊の哲学書を手に自室へ帰った。

 

………

……

 

ニーチェは有名ながら実際に今まで読んだ事は無かった。そもそも哲学書自体がほぼ手をつけた事がないジャンルだ。

 

だから実際に紐解いてみると存外に難解だった。レアさんと違って哲学に造詣の無い俺がちょっと一読しただけで分かるほど優しいわけも無かった。

 

しかし、勿論感じ得る所もあった。論文のロジック云々よりも、そこから感じられるニーチェという人だ。

 

彼はしきりに、人間の悪臭。畜群への吐気を訴えていた。ほとほと人間達に嫌気がさしてそこから来る苛烈なまでのニーチェの激怒が本から立ち上って来るように感じた。

 

それにレアさんの印象が被った。あの人も、武を語った時人間臭ささに言及した。人々の営為に倦んでいる。故に極力関わらない、人々の営みを一切目もくれず人の世にいるだけの半世捨て人だ。

 

ニーチェは激しく、レアさんは穏やかだ。だが、根っこは同じ。ニーチェは怒り、レアさんは呆れた。そういう事なのかも知れない。

 

いや、ニーチェに限らずそもそも哲学者という人間は差異はあれども皆そんなモノなのかも知れない。

 

夜、レアさんの部屋を訪ねた。インターフォンで来訪を告げてドアに手を掛けたが鍵がかかっていた。多分中には居るのだろうが、今日は他人と関わりたくない日なのだろう。もしかしたら本当に外出してるのかも知れないが。

 

まぁ、レアさんを訪ねて会える率は大体二回に一回か、三回に一回の間程度だ。その夜は大人しく自分の部屋に戻った。

 

………

……

 

「とーぞ、粗茶ですが!」

 

「頂きます」

 

あるく日の夜。俺はレアさんの部屋を訪れてた。いつものように、コップに注がれた水道水でもてなしを受けていた。

 

「レアさん。これ、蒸し野菜」

 

俺は引き換えに、自分の夕食で作った温野菜をお裾分けする。

 

「おぉ!ありがとうねぇ!これはまた綺麗だね!きのこも沢山入ってる!美味しいそうだねぇ!」

 

「手製のドレッシングをかけてありますが、お口に合えばいいですが」

 

適当にレシピを見つけたものだが、電子レンジで調理出来て、しかもドレッシングも材料を混ぜるだけの簡単料理だ。しかし自分で食べてみて中々美味いと思ったから。レアさんにも気に入って貰えたら良い。

 

「おぉ!火を通した野菜は凄く甘いからしょっぱい味付けはいいね!甘辛だね!」

 

「……レアさん、魚や肉ちゃんと食べてます?」

 

「えっ?食べてるよ。というか普段はお肉ばっかりだよ!出来合いのお惣菜ももっと野菜料理増やして欲しいよ!」

 

いつも野菜で大喜びするから、レアさんが動物性タンパク質を取っているかちょっと心配になってしまったが杞憂のようだ。まぁ、あくまで普段温野菜をあまり食べられないからこそ喜んでくれるのだから。

 

コップから水道水を一口飲み、喉を湿らせる。

 

「レアさん。インドア派ですよね」

 

「うん?そだねー。筋金入りの引きこもりだよー」

 

レアさんはタッパーを仕舞いつつ答えた。その通り、基本この人は家に居る。バイトとか何がしか用事が無いと外出しない、という印象ではあるが。

 

「暇な時に何処かに外出とかしないんですか?」

 

「しないよ?用事もない所に出歩く必要がないでしょ!そもそもそれただの苦行だよ!暇だから苦行するとかボクは行者!?」

 

まぁ、そりゃあ人が居ないから刺激も少ない、という理由で夜行性の人がわざわざ人や刺激が盛り沢山のシャバにわざわざ出る訳もないか、と納得する。

 

世捨て人。そもそもそれがレアさんの印象だ。わざわざ人の世には関わらないとは思っていたが、しかしこの人が何を思っているのかは前々から色々興味はあった。

 

「レアさんて何処か行ってみたい所とか、見てみたいモノとか無いんですか?旅行とかで」

 

「ないね」

 

あっけらかんと即答した。

 

「何か体験したい事とか、初めてみたい事、スポーツとか何かは?」

 

「んー、ないね!」

 

バサッと切り捨てた。こういう所、この人の言葉は小気味良い。そして意外でも無かった。どうにもこの人は狭い世界で自己完結しているようなのだ。しかし、妙な事だが閉じてしまっている、矮小な人物、という印象は受けない。どうにもレアさんは底知れない深みを感じさせる人だ。

 

一見して軽い風船。手に取ると重い鉄塊。

 

そんな所に俺は少しの怖さも感じていた。

 

「こう、何かこの世界で見聞を広めたい。みたいな気持ちはありませんか?」

 

敢えて当たり前な一般論みたいな質問をぶつける。続け様に不躾だと我ながら思ったが、レアさんは特に嫌な顔もせずに答えた。

 

「あぁ、その手の考えは良くある誤謬だね!あーちゃん、君はそれで世界は広がると思うかい?」

 

「う、ん?まぁ、色々な場所に行ったり、様々な体験をすればその人にとっては見識は広がるのではと思います」

 

答えながら俺は一瞬、それになんの意味があるんだろう?という考えが過った。言いながら俺自身この一般論をあまり支持している訳でもないと気がついた。

 

「そうだね、それは確かに間違いじゃないよ。確かに世界は広がるね!ただ、限界の中でひたすらに広がるだけだよ」

 

「限界の中で広がるだけ……?」

 

「んー、そうだねぇ。例えばね、ここに一本の線を引くね」

 

レアさんが中空に人差し指でピッと線を引く仕草をする。

 

「そしてこの線は何処までも伸ばす事が出来るよね。それこそ無限に、馬鹿馬鹿しい程長い線を引けるだろうね」

 

「?はい」

 

「でも無限に伸ばしても線は線にしかならない。始点と終点という限界の中でただ無限に伸び続けるだけだからね。でも、どこまで伸びたところで線はただの線だ。でも限界の外に出ればどうだろう?」

 

「……」

 

はて、限界の外、とは?

 

「線は始点と終点という限界の外に出る事で今度は面になるんだよ。そして面もまた何処までも広がり続ける事が出来るね」

 

今後はカツっと机の上で指で四角を描いた。

 

「あぁ、なるほど」

 

つまり一次元の限界を超えて二次元に、という訳だ。

 

「ボクにはこの世界での見識を広めようとする事はこれと同じに感じるんだ。確かに世界は広がるだろうね。ただそれは面が何処までも無限に広がり続けるのと変わりない、つまりは同じ所で堂々巡りしてるようなものだよ。虚しい無限だね」

 

これを悪無限性って言うんだよ。などとレアさんは続けた。

 

「究極を言えば人間は自分の頭の中でだけで世界は完結出来るんだよ。だって長くて精々百年、限りある人生の中で地球上のあらゆる場所になんて行けっこない。無数の人間の営為を全て体験なんて出来ない。それらの多寡で人にさしたる違いは出ないとボクは思うな」

 

「だってさ、仮にボクが百年生きたとして、その全てを読書だけに費やしたとしても、世界中にある本の1%も読む事も叶わない」

 

「まぁ……言われてみればあくまで人一人が経験出来る程度の差しか生まれないのは確かですね」

 

その人にとってはそれはかなり大きいのではないか。とも思うが、しかし人の一生で体験できる事なんて砂漠の中の砂粒一粒程度だろう。レアさんの言う事にも一理ある気はする。

 

「線が線である限界を超えでて面に、面の限界の外の立方体に、そういう風に限界を止揚し続ける真無限性。ただ同じ所を行ったり来たりしてるより、ボクにとって面白いのはこっちかな」

 

専門用語が混じってて難しいが言わんとする所は分かる気がする。

 

ふと、先日レアさんが話してくれた人斬りの事を思い出した。曰く別の次元にいる、か。

 

「えと、つまり世界を広げるのではなく、超えていく?」

 

「流石あーちゃん!スパッと言えばその通りだね!」

 

なんか褒められた。なるほど、世界を超えるとは、俺みたいな凡人からすると割とスピリチュアルなイメージだが。

 

「具体的にどうするんです?」

 

「簡単だよ、自分の頭で考えるんだよ。当たり前だと思ってる事をね。これに気付けない人は例え直接月に行ったって何を体験したって気付けないけど、気付ける人は居ながらにしてずっと考えてるんだよ」

 

「えっと?」

 

「そうだね、じゃあ例えばあーちゃん!君は誰だい!?」

 

俺は誰だ、俺は……

 

「中島淳」

 

俺の名は中島淳。だ、……俺の名?

 

「そうかな?じゃあ君は中島淳なの?あーちゃんは、中島淳なの?」

 

「え、……と。いや」

 

何だ、今レアさんに問われ時、自分は中島淳という答えに引っ掛かりを感じた。

 

「あーやっぱり、あーちゃんは分かってた。自分が中島淳じゃないって」

 

「それはどういう……俺は俺では?」

 

俺は俺だ。中島淳だ。その筈だ。それに何故違和感を覚えるのだ。

 

「君は中島淳かい?」

 

「……はい?」

 

「ボクはね、昔から、レア。と自分の名を呼ばれるたびに違和感を覚えたんだ、それはボクじゃない、という齟齬を感じていた。それは何故か、と考えてボクは気が付いたんだ」

 

「ボクはレア。と考えているボクがいる」

 

「レア。と思ってる何かがいる」

 

それは……?

 

「レアさんは……?」

 

「レアと思うボクが居る」

 

「我思う故にあり」

 

それは、誰しも知っているデカルトの命題では……?

 

あ……

 

あ……!

 

「……そうか」

 

そうか、そうだ!

 

そうなんだ!

 

今気がついた、俺を、俺をやっている事!それに常について回っていた事。

 

楽しんでいる俺、あるいは苦しんでるいる俺、それを見ている全く苦しんでも楽しんでもいない俺、第三者のような我。

 

「我思う故に有り」

 

「そう、故に有る我は……あーちゃんではない」

 

そうか、中島淳をやっているところのこれ、これが我で、だが、我=中島淳では無い。

 

「名前は結局のところ記号だよ。 AさんBさん。あるいは一番二番、要はそんな感じの個人識別番号でしかない。ホントに人をAさんとか、324番とか呼ぶようにしてれば自分が Aとか324だとか勘違いする人は居なかったろうにね」

 

「なのに何々さんちの何々くん。そんな風に名付けた事が躓きの石なんだ。如何にもそれが自分自身であるという意味を持つように思われてしまったんだよ」 

 

「つまり……?俺は中島淳をやってる……」

 

やっている、なんだ、これは?

 

「あーちゃんをやっている、それだよ」

 

レオさんはそう断言した。

 

「つまり、名前に意味は有ると人々に名前をつけた。それ自体が誤謬なんだよ。名は体を表す、それは正しい。逆に言えば名は体しか表わさない。つまりね」

 

「体をやっているところのこの主体は名前では表せない」

 

「この、俺が俺だと思っているこの、なんでしすかね?」

 

「そう、それが何とも言えない。何なのか分からない、不思議だ。ボクがボクをやっているその不思議に驚く。いみじくもアリストテレスは哲学は驚きから始まると言った通りだ」

 

確かに今、俺も驚いた。そしてその不思議を考えた。レアさんはこういう不可思議の中で生きていたのだろうか。

 

「それで、この自分をやっている所のこれ。これは中々厄介だ。プラトンを始めとした古代ギリシャでは魂と言われる。これは割としっくりくる一語だね。あるいはヘーゲルなら精神。ショーペンハウアーなんかは意思。デカルトならコギト。人によって全然表す言葉が違うのがやっぱりわからないという所だね。現代の科学的唯物論者なら脳だと言うだろうね」

 

「まぁ、残念ながら未だもって脳の何処の働きで意識や心と言ったものが生じているかはよくわからない、脳味噌を切り拓いた所で精神や魂、意識なんて見つかりっこない」

 

「脳では無い……んですか?」

 

俺みたいな考え無しには心は脳によるものと漫然と思っていたが。

 

「ないね!ちなみに昔は精神や心は心臓にあるとも思われていたよ。だから文字通り心の臓な訳だね」

 

「聞いた事ありますね。そう言えば心臓移植で記憶転移が起こるとも聞きますし」

 

「そうだね、そう考えるともしかしたら心臓と精神には何らかの関わりがあるのかもね。まぁ、脳の話に戻るとまぁ脳ってのは結局は生体コンピュータな訳だよね。でもそのコンピュータの働きでどうして心や精神、自我が生じるかって言ったら謎だ。例えば機械の方のコンピュータの性能がこの先飛躍的に向上していくとして、強いAI、物語に出てくるような感情を持った。つまりボクらにはある、これを持つAIが生まれるかな?」

 

生まれるか否か、今の話を省みて考えると……

 

「生まれないように……思えますね」

 

「ボクもそう思う。もちろんどうなるかは分からないけどね。でもコンピュータを弄っている科学者なりという人種は大抵自分という精神や魂の不思議に驚いていない。それが何なのか分かっていない事すら分かっていない不明な人間に一体どうして機械にそれを与える事が出来るだろう?」

 

「これ無知の知ならぬ無知の無知だね」

 

……なるほど、俺も漫然と科学が発展していけば人間と同じような考える機械というものは出来るような気はしていた。しかし、これはレアさんの言う事が最もかも知れない。人が自分でも分からないものを機械に与える事が出来る道理があるだろうか?

 

それは難しい気がする。ただ漫然とコンピュータやAIの性能を上げ続けていれば、何となく人間と同じ意識が生まれる。なんて見通しは曖昧模糊に過ぎるだろう。

 

「もし意識を持つAIというものを作るのならそもそも人間の意識や精神が何なのか。という所が分からないとまず前提条件すら成り立たないように思いますね」

 

「そうだね。だからもし科学者さん達が本気で心、魂、精神を人工的に作り出す気なら彼らはきっとここに躓くと思うよ」

 

「科学の父と言われる万学の祖、アリストテレスが形而上学を第一の学としたのを忘れてはいけない。言ってみれば土台が何なのか理解せぬままにその上に城を築くのは無謀だ。それをアリストテレスは分かっていた」

 

つまりレアさんが言っているのは科学以前の話。例えば今出た俺が俺をやっているところのこれの謎。

 

「恐らく今の科学万能主義の世の中はここを見落としてしまっているね。ソクラテスの時代、二千年経っても本質的な不思議は解明されていない。哲学は古代ギリシャの時代から本質的に前進していない。かと言って科学がそれを解いてくれた訳でも無い。これを見落としたまま不確かな土台の上に科学は肥大している」

 

「ボクが存在しているという事はどういう事なのか?」

 

存在ってなんだ?と問われればこの俺の身体の事を指すのか?いや、先程からの問題の俺をやっているこれ。これは何だという事か、そう言われて見れば深く考えてしまう。なるほど、分からない。

 

「分からない。そう分かっているのならいいんだ。是、ソクラテスの説いた無知の知だ。だけど今の科学者達は分からない事すら分かっていない人が殆どじゃあないのかな?」

 

「まぁ、こんな事声高に訴えても神秘主義だなと一笑に付されるのがオチだろうけどね」

 

「最も付け加えておけば、科学者側の人もこの不思議に気付いている人は少なからずいると思う。そういう人は言葉の端々に出るからね」

 

……単純に批判の姿勢だけ見ると非科学的だと俺も思ったかも知れない。しかし……

 

「レアさんの意見をちゃんと聞いた上で忖度抜きで俺の印象を言うなら、正鵠を射ている様に感じます」

 

分からない事を非科学的と一蹴してしまうのなら、それこそ科学万能と思考停止しているだけの様にも思えた。

 

「ありがとーねぇ、あーちゃん。でもボク自身正直に言えば単に科学万能主義的な世界が嫌いなだけという私怨混じりだという事も否定出来ない。人は無為自然でいいんじゃないかって気がする気持ちはあるからね」

 

……分からなくも無い。半世捨て人のレアさんはそういう世界に生きにくさを感じている部分もあるのだろう。黙殺されるしか無いマイノリティの苦悩は俺にも少し、分かる。

 

「誰だって世の中に対して不満はありますよ。特にレアさんのそれは中々理解されないだろう事も何となく分かります。それでもレアさんは不平不満を言うでも無く、穏やかに生きてます。それは立派な事だと思いますよ」

 

だって、レアさんとは違う。もっと誰でも持っているような小さな不満が我慢出来ず、世の中や周囲の所為だと常に口にし続けなければ生きていけないみっともない人は沢山いる。なのにこの人は誰の理解も求めず、ただ孤高に生きている。それが俺には尊く思える。

 

——わびしくて、さびしくて、でもみちたりている。

 

レアさんは一瞬驚いたように眼を開き。次に俺をよく見ようとするようにジトリとした目線を向け、最後に柔らかく笑った。

 

「ありがとう、あーちゃん」

 

「便利な世の中になった、と俺も思いますがきっとそうは思わない人もいる。そのくらいは俺も分かります」

 

誰にも何も口にせずに生きるより、誰か一人くらいはレアさんの話を聞く人間が居てもいいではないか。誰もいないのであれば俺がそうでありたい。

 

大多数に住み良い世界は作る事は出来るだろう。だけども全員に良い世界などあり得ない。どうしたって仲間外れの人間は出てくる。例え万人を幸福に出来る世界でも一人は切り捨てられる。

 

何処で間違えたのか、幸せを欠く人間はいる。俺はそれを知っている。

 

「便利、かぁ、確かにボクにはよくわからない事だね。逆に不便で何がいけないんだろう?」

 

逆に問われると答えに詰まる。何かいけないのか、と。別にいけなくはないのだろうが……

 

「……利便的であれば労力や時間が節約出来る、という単純な理由とか?」

 

「さて、節約して果たして何かプラスになるのかな?例えば、そうだねぇ」

 

レアさんは一つ考えるように間を空けてから続けた。

 

「東京から大阪に移動する時に、交通手段Aを選ぶと移動時間は三時間で料金は五千円。一方交通手段Bを選ぶと移動時間は一時間で料金は一万円。これだとどっちが便利だろう?」

 

とりあえず東京大阪間を一時間で移動出来る交通手段は無いと思ったが、この場合ただの例え話で別にそこを揚げ足取りする必要はないだろう。所要時間だけで考えるなら前者の方が便利だ。

 

「一概に時間が掛からないからBの方が便利だとは言えませんね。単純に言えばお金を節約したいならA、時間を節約ならBを人は選ぶでしょうけど」

 

「そうだね。ならこれなら?交通手段Aは移動時間は三時間で料金は五千円。交通手段Bは同じく移動時間一時間で料金は五千円」

 

時間は三倍だが料金が同じと言うのは……

 

「何か時間以外の面で強いベネフィットがAにあるのなら……」

 

「それが、全く無いんだ。つまりAとBは全く同条件。ただ Aの方は三時間かかるだけ」

 

「まぁ、それだとAは論外かと。誰も選ぶ人は居ないのでは」

 

うむ、と一つもっともらしく頷いてレアさんは言った。

 

「そう、誰も選ぶ訳ないね。 Aの交通手段は恐らく廃業だ。どう考えても Bの方が便利だよね」

 

そういう事になる。時間がかからない分Aの方が便利だからだ。

 

「じゃあ、会社員の佐藤さんが仕事で東京から大阪に出張になりましたー!ってなって交通手段 Aを選んだ場合とBを選んだ場合。さて佐藤さんはどっちが得をするだろう!?」

 

「えっ?」

 

会社員佐藤が出張の移動手段でAとBどちらにするか?もちろんわざわざ三時間かかるだけのAを選ぶ筈は無いだろう。だがBを選べば佐藤氏は差し引き二時間得をするか?

 

「……パーキンソンの法則か」

 

すぐにレアさんが言いたい事に気がついて俺はそう呟きを漏らす。

 

「そうだね。第一法則。こっちはボクよりあーちゃんの方が専門だね」

 

確かに俺は大学では経営情報学専攻だ。概要くらいは知っている。

 

パーキンソンの法則、第一法則とは、仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する。と言うものだ。

 

平たく言えば時間があればあるほど、その時間一杯に仕事量は増える。つまり

 

「Bを選んでも佐藤さんは何も得をしない…… 」

 

「そう言う事になるね。Bを選べば移動時間は往復で四時間削れる。でもそしたら単純に佐藤さんの仕事が四時間増えるだけだろうね」

 

まず間違いないだろう。Aを選んでも移動時間が増えるだけ。Bを選んでも仕事時間が増えるだけの話だ。

 

「これは分かりやすい例だよね。ただどんなものでもそうだと思うんだよ。便利な道具で時間や労力を節約出来るかも知れない。だけどそうやって手に入れた時間にさらにせこせこと働く。ボクは世の中便利になって、余裕が出来るどころかむしろどんどん余裕を無くしていく気がするね」

 

「皮肉ですが、確かにその通りかも知れませんね」

 

余裕を無くした現代人とはよく言うが、それが利便性を追求した結果だと言うのは滑稽だ。

 

「不便だったら何が悪いのかな?ただのんびり労力をかけてそれで問題はないとボクは思う。便利にして節約できて時間や労力を得なような気がするのかも知れないけれど残念、その人の人生の持ち時間は全く変わらない。」

 

「人生の残り時間自体を増やす事は確かに出来ませんね。せめて有効活用しようとして、更に時間を仕事に一杯に使って余暇を潰すなら本末転倒ですか」

 

こっくり、と緩慢にレアさんは頷いた。

 

「そう。だからそう言った事をはじめ、ボクはよくわからないんだ。そういう人の営為が分からないし、関わろうとも思わない。根本的に人でなしなんだね」

 

「無理に関わる必要はないでしょう。関わりたい人達も居れば関わりたくない人だって居ていいと思います。多様論としてもそういう人が居てもいいでしょう」

 

レアさんは瞑目してまた一つ頷いた。

 

「かも知れないね。でもボクにはやっぱりよくわからない。別に居なくてもいいんじゃないかって思う」

 

あまりにも穏やかに放たれた言葉故に殊更にぎくりとさせられた。

 

「いや、居てもいいとは思う。つまりどっちだっていいと思うんだよ。優生論も多様論もどうでもいい。そんなのは人がもっともらしく後付けした理屈だと思う。別に人間なんてもの居ても居なくても何も変わらないんだ」

 

あぁ、そうか。この人は、何も価値を見出して居ないのか。

 

「ーーそれって凄く優しい事じゃないかな?」

 

………

……

 

人は何処かで自身に価値を置いているものだ。

 

どんな人間だって何かしらの分野で自分には価値があると見出して生きているものだろう。

 

自身は無価値だ。何も自信がない。と嘆く人も詰まるところは人間には何か価値があって然るべきだと考えているからそのように悩む。

 

で、あるなら、自身を含めた人間に一切の価値を見出さない人間が居たとするならどうだろう。つまりその人に取ってはホームレスもアメリカ合衆国大統領も大差ない。恐らくは誰の生き死にも……もちろん自分の生き死にもどうでも良い。

 

おおよそ真っ当な人間の精神性とは言えないだろう。それは確かに人でなし、と言われる種類の人種なのかも知れない。

 

………

……

 

「あそこは結構掘り出し物多いからね。俺も定期的に見に行くよ」

 

「ないなー、って探してたのが結構あったりするんだよねー。しかも安かったりするよー」

 

その日、俺は大学からの帰りに真昼の街を同期生の柊茉莉と談笑しつつ歩いていた。

 

柊は女性としてはやや高めの身長に、緩やかな曲線を描く身体をややゆったりした服装で隠し、何処か間延びした口調で、顔つきは童顔で美人というより可愛らしい。如何にもおっとりとしていそうで、実際おっとりとした性格の人物だ。

 

柊とは大学では特別に仲が良いという程ではないが、話題は合って割と話す方だ。今日もたまたまタイミングが合ったから流れで一緒に帰宅する事になった。

 

「この前も絶版のが見つかってねー」

 

「中々に穴場……あれ?」

 

ふと、道行く人の中に見覚えのあるシルエットを見つけて、俺は立ち止まった。それを見て柊は怪訝な顔をする。

 

一瞬見間違いかと思った。しかし、幼い子供のような体躯。いつものだぼだぼの部屋着ではなく、よそ行きの服だろう黒いワンピース姿のその人は間違いなくレアさんだった。

 

俺は腕時計に眼を落とす。午後二時だった。はて、規則正しい夜行性のレアさんは寝ている時間の筈だ。あの人は日中に用事がある時は寝る前の午前中に済ませるらしいので午後の日中に外出なんてする事があるのか。

 

「レアさん」

 

「はい?」

 

丁度こちらの方に歩いて来たのでせっかくだから声を掛けてみる。が何処か事務的な返事が返ってきた。

 

「ん〜?」

 

レアさんは眼を細めて、俺を注視して来た。裸眼だ。そういえばレアさんは目が悪い。人を見分けるのは苦手だと聞いた事がある。街ですれ違いで出会った相手が、どうも俺だと分からないのだろう。

 

「俺ですよ、中島です」

 

「なかじま?……お、その声はあーちゃん!こんにちは!」

 

わざわざ名乗ったのだが、レアさんは声で判別したようだった。別にいいけどレアさんは俺のフルネームを記憶していないのかも知れない。

 

「こんにちは。珍しいですね、こんな時間に」

 

「うん、ちょっとどうしても昼間、午後からじゃないと駄目な用事があってねー。正直凄く眠い」

 

まぁ、普通の人で言えば夜更かしして真夜中に外出しているようなものだ。別にそれくらい、と思わなくもないが、レアさんは早寝早起きだから辛いのだろう。実際俺もこんな日向でこの人と向き合って話してるのは中々違和感がある。

 

「中島くんの知り合いー?」

 

きょとんとした顔で柊が聞いてくる。一見して子供のようなレアさんと俺の関係性は客観的には確かに少し奇妙か。実際には偶々お隣さんだったと言うだけなのだが。

 

「そちらの人は初めましてだねぇ!こんにちは、レアと申します!いつもウチのあーちゃんがお世話になってます」

 

「え、はい。初めましてー、柊茉莉です」

 

俺が紹介しようと思うより先にレアさんは自ら挨拶した。しかもやたらテンションが高い。いつもと言えばいつもの事のようだが、この人は普段は他人には普通に礼儀正しいから少し驚いた。

 

「レアさん。もしかして結構辛いです?」

 

「うん……実はちょっと太陽がキツい……割と気持ち悪い」

 

やはりというか太陽に当てられたのと徹夜ーー徹昼と言うべきかーーでテンションがおかしくなっているようだ。

 

「用事は終わりました?」

 

「うん。何とか終わったとこー」

 

「じゃあ、無理せず帰って早く寝た方がいいですよ」

 

「うん、そうするよー。じゃあねあーちゃん、桂木さん」

 

そう言ってレアさんはくたびれていてもぬるりとした歩きで去っていった。帰る場所は同じなのだから一緒に帰ろうかと思ったが、レアさんは身体が小さいのに歩くのが早く、呼び止める前に、あっという間に遠くへ居た。

 

早く帰って寝たいだろうし、道中に付き合わせるのも酷か。

 

「……知り合いー?」

 

「うん、アパートのお隣さん」

 

柊から再度同じ質問を投げかけられたので、正直な所を答えた。

 

「変わった娘だねー。これから寝るのかなぁ?」

 

「うん、夜行性の人だから」

 

まぁ、色々突っ込みどころ多いし、変わってるのは間違いない。

 

「後、桂木じゃなくて柊なんだけどなー」

 

「うん、名前覚えるの苦手な人だから気にしないであげて」

 

とはいえあの人は名前呼び間違えなどの失礼が無いように、覚えられないなりに名前を呼ばずに誤魔化したりしてるっぽいのだが、今日はその配慮も出来ぬ程度には疲弊していたのだろう。まぁ、柊も本気で気にしてはいないだろうが。

 

「でもあの娘、可愛いねー。お隣の娘さんかー」

 

「……歳上だよ」

 

何か勘違いしている気がしたので俺は小声で訂正した。

 

確かに浅い印象だけで言うなら可愛い人とか変わった人で済んでしまうかも知れない。しかし、少なからず関わりのある俺は知ってる。あの人は底知れない怖さのある人だ。

 

底の知れない、か。

 

そういえば、レアさんから以前借りたニーチェの著書。そこに記述された余りにも引用され過ぎてもやは手垢にまみれた感のある一節を思い出した。

 

怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。

 

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

 

ーー善悪の彼岸には至ってはいけない。のぞくだけでも害なのだ。

 

………

……

 

夜、その日もレアさんの部屋にお邪魔して、手土産を渡した。その日は品目、調理法ともに簡単な野菜炒め。肉は抜きだ。やはりと言うべきかレアさんはそんなのでも喜んでくれた。

 

俺が渡したタッパーを冷蔵庫に入れたレアさんがそのままいつものようにコップを取り出し、しかし普段通りに水道水を注ぐのではなく、珍しく冷蔵庫からペットボトルを取り出し何か飲み物を注いでもってきてくれた。

 

「どーぞ、粗茶ですが!」

 

いつもと同じ台詞で飲み物は出されたが、これは初めてのパターンだ、とコップを受け取りつつ小さく唸った。レアさんはそのまま椅子に腰掛けて、机の上に乗せてた眼鏡をかけるとニコニコしてた。

 

粗茶と言いつつ本当に茶を出してくるか。しかし、どうも緑茶の類いでは無さそうだ。よく冷えているが、どうやら麦茶でもない。それよりかなり色合いが濃いのだ。近いのは烏龍茶だろうか?

 

決意して、そっと一口飲む……めんつゆだ。

 

よく冷えてダシの効いためんつゆだ。道理で色が濃い。しかも濃縮タイプなのに希釈してないから凄くしょっぱい。まぁ実際レアさんが冷蔵庫から注いでたのが見えた時点で分かっていた。別に隠すでもなくめんつゆのボトルからコップに注いでいたからだ。

 

いつものパターンを変えて突拍子もない悪戯を始めるとはこの人はこういう事もするのか。実際本当に茶と思い込んだまま飲んでいたら盛大に吹いただろう。まぁ、レアさんは分かるように注いでいたのが優しさだろう。

 

何処か楽しげに笑ってるレアさんがツッコミ待ちのように見えて、何となく乗るのも悔しいから俺は何も言わずコップからめんつゆをちびりとやった。

 

「そういえば昨日、珍しく夜更かし……じゃなくて昼更かし?して真昼間に歩いてましたが、あの後ゆっくり眠れましたか?」

 

「うん!あの日は疲れたよー。結局真昼間に寝る事になったから寝坊しちゃったしね!疲れは取れたし、今日一日でリズムは戻せたからいいけどね」

 

「そうでしたか」

 

あの日は本当に疲れてそうだったから回復したのなら何よりだ。

 

「なんかさー、食糧とかちょっとした雑貨なら夜でもコンビニが24時間営業してて親切だと思うけど、他は全然だよねー。もっと市役所だの銀行だの色んな業種で夜中に開いてる所あっても良いと思うんだー。それこそこの前の便利の話じゃ無いけど、そういう所を配慮してくれた方がボクはありがたいなぁ」

 

ふむ、まぁレアさんからすればそれは助かるか、とめんつゆを舐めるように飲み、少し考える。そしてふと閃き、おっ、これはと思った。

 

「レアさん、それはむしろ不都合かも知れませんよ」

 

ニヤリと笑って俺は言った。きょとんとレアさんは目を丸くして首を傾げる。

 

「うん?どうしてだい?」

 

「だって真夜中にも真昼間と変わらずにどんなお店も開いていたら、皆も真昼間と変わらずに夜中出歩くようになるじゃないですか。あるいは逆に皆が真夜中に出歩くようになったからお店も開いてるようになったのかも知れないですよね」

 

「あっ!そうか!」

 

「どちらにせよ、レアさんが好きな、人が居なくて静かな夜は台無しですよ?」

 

普段頭の回転が俺より早くて、更に発想も柔軟なレアさんから初めて一本取れたかも知れない。普段が翻弄されっぱなしだけあって、ちょっと達成感があった。めんつゆのちょっとした意趣返しくらいは出来たかも知れない。

 

「凄いね、あーちゃん!きっとその通りだ!夜中は何処も閉まっているから意味があるんだ、やっぱりあーちゃんは頭が良いねぇ!」

 

しかし、レアさんは素直に感心するばかりなので毒気が一切抜かれる。

 

「頭はレアさんの方がいいですよ。俺は凡人ですから」

 

「いや、ボクはただの馬鹿だよ。ボク程愚かな人もそーは居ないんじゃないかな。いいじゃないか、凡人で!例えば天才はどうあがいても平凡では居られないだろう、そう考えると平凡と言うのも得難い才能だよ」

 

平凡が才能……か。

 

「まぁ、確かに天才になんかなるものじゃないとか、平凡が一番とかよく言いますね」

 

「うん。使い古された言葉だけど、それだけに含蓄がある。真っ当な感性を持って普通に生きていけるのならそれが一番じゃないかな?」

 

「無論ボクは自分が天才だと思うほどには愚かではないけど、やっぱり、どうしたって平凡を得られない人って努力で平凡にはなれない。そういう人は多かれ少なかれ苦悩はするものだと思うよ」

 

……平凡を得られなかった人達。それは確かにいるはずだ。何が悪いわけではない、本人がどうして異端な事もあるだろう。環境が真っ当じゃない事もあるだろう。

 

あぁ、ならば一体何が悪かったというのか。誰が悪い、何が悪いというわけではないのなら一体何処で歯車が狂ったのか?

 

ふと思う頭をよぎった二人の母親の記憶。幼い俺を抱いている、何処か儚い笑顔の母。家に俺と二人残されて、一人で食卓の椅子に座って今にも消えてしまいそうに泣いている母。

 

こつ、と俺はグラスを置いて尋ねた。

 

「……レアさんもそういう苦しみはありますか」

 

「どうだろう?あると言えばあるし、ないと言えばないかな」

 

「……分からないんですか?」

 

「ボクは自分が欠陥品だとは自覚している。でもその事に不満があるか?と言われると特に無いんだ。そんなだからこその欠陥なのかも知れないけど」

 

 

……最初から欠けている人が不満は持たない、か。そんな馬鹿な、と思う反面、それはもしかしたら道理なのかも知れないとも思った。

 

最初から欠けているのならそれが何なのか知らないのだから、それがない事に不満を抱きようがない。と単純に考えたらその通りだ。

 

例えば、元々眼の見える人が失明してしまった場合、その人が絶望から立ち直るのに年単位で時間がかかる事が多いと言う。その場合、その人は視力という元々有ったものを失ってしまったから、明確なマイナスだ。

 

だが、生まれつき全盲の人は特に目が見えない事に不便を感じている訳でもない。そもそもその人は視力があるという事を知り得ないのだから視力がある事の利点も不便も分からない。この場合特にプラスでもマイナスでもない。

 

しかし、人はそう簡単には割り切れないというのも道理の筈だ。生まれた時から全盲の人も、視力がある事前提の世界で生きなければいけなく事に何も思う所もなし。というわけもない。

 

俺はどうなのだろう?欠けていたのか、失っていたのか。いつも考える。何処で間違えたのか。

 

歯車が狂ったのはいつなのか?どうすれば良かったのか?

 

後悔がついて回った、あの時ああしていれば或いは、と。そうしていつも思っていた。

 

「レアさんは過去に戻れたらやり直したい事ってありますか?」

 

「え?うーん……」

 

俺の質問に意表を突かれたように少し驚いたレアさんは少し考える。

 

「ん……考えた事が無かったけど、特にないね」

 

「……ないんですか?あの時ああしてれば良かったって事が一つくらい」

 

んー、とレアさんはまた少し考えてから口を開いた。

 

「そういうのって現状に何か不満があるからやり直したいんだよね。さっきの話と同じでボクは現状に不満がないんだ」

 

あぁ、やはりこの人は遠い。俺とは違う彼岸にいる。本当にこの人には何もないんだ。どうしてこう言い切れるのだろう。俺とレアさんは何が違うのだろう。

 

あぁ、でもこうも思う。不満が無いとは裏を返せば何一つ満足も無い。つまり不満しかない。という事なのかも知れない。

 

「それにこれは間違いだった、あれは間違いだったとやり直し続ければ正しく生きられるのかな?何処までもやり直し続けるポイントが増えるばかりで多分キリがないんじゃない?」

 

飛ぶ矢は止まっている。ゼノンのパラドックスに少し似ているかもね。などとレアさんは嘯いた。

 

「確かに、一体何処までやり直したら満足がいくのか、延々とやり直し続けるのかも知れませんね」

 

もっともかもな、と思う。一よりニ、さらに三、十、百と留まるところを知らないのが人間だ。

 

「それでも、一つ、二つでいいから間違いを正せたならと、そうしたら今よりマシになっていたかも知れないと、そうも俺は思ってしまうんですよ」

 

「……それも人間らしいとボクは思うよ。足を知れという言葉は大抵は多くを持つ者が言うものだから」

 

「足るを知るものは富む。それはその通りだ。けれど知れと言われて知ることが出来るものでもないんだろう。多分知る人しか知れないんじゃないかな」

 

「……そうなんでしょうね」

 

最初から多くを持つもの。あるいは老子のような凡人とは比ぶべくもない偉人。そう言った人達に持たぬ人の事を何が分かるのだろう?

 

「だけどレアさんは知っていますよね」

 

「……多分そうなのかな?まぁ、結局は有るか無しかなんだろうけど、有っても無くてもどっちでもいいとは思うよ」

 

ならば、俺はやはり知りたい。価値も無価値も等価値と言ってしまうこの人が何を思っているのか。彼岸の向こうの風景を見たい。

 

「何にせよ有った方が無いよりいいのではないんじゃないでしょうか?」

 

「そうかな?それも突き詰めると大した事なくなっちゃうんじゃないかな?」

 

「例えば、そーだね。これもさっきのゼノンのパラドックスもちょっと関係してくるかな」

 

「?飛ぶ矢は同時に静止しているという奴ですか」

 

俺も一応概要くらいは知っている、あのパラドックスが有るか無しかに関係があるのだろうか。

 

「そうそう。アキレスと亀でも似た事だけどね。要はあれは矢が飛んでいる空間を無限に分割してしまうと起きるパラドックスだよね」

 

「そうなりますね」

 

時間と空間に関するパラドックスだった筈だ。矢が A点からB点に飛ぶとして矢はA点からB点に飛ぶまでにその中間点Cにまずたどり着く必要がある、しかしAからCまでにたどり着くまでにはさらにその中間点Dにたどり着く必要がある。

 

以下同じ理屈で無限に中間点を通過する必要がある為、 A点からB点までをいつまでも辿り着かずに飛んでいる筈の矢が止まってしまう事になる。というようなものだった。

 

「問題なのは無限という奴だ。無限に分たれてしまうからこそ起きる問題だよね。だけど古代ギリシャのデモクリトスは物質にはそれ以上分割出来ない最小単位があると考えた。つまりは有限だね。この最小単位が今にも繋がる原子論、原子(アトム)だ」

 

「なるほど、物質は有限であるから確かに無限に分割出来ないですね」

 

「そだね、ちなみにこのアトムが後にライプニッツのモナド。そして現在の素粒子物理学に繋がる事になるね」

 

「でもアトムには対立概念があってね虚空(ケノン)って言うんだけどね。こちらはアトムの運動の場としての無限に分解出来るものなんだ」

 

「という事は、矢のパラドックスで問題とされているのはどちらかと言うとケノン……?」

 

「という事になるのかな?虚空がイコール空間や時間と考えるのは多分違うだろうけどね」

 

「でもつまりこれも有るか無しか、を問題にしていると考えられる」

 

「矢を飛ぶ時間や空間は無限か有限か、と考えると確かに近い気はしますね」

 

文字通り無限か有限か、無か有かに繋がってくるという事なのだろう。

 

「有るか無しか、人間で当てはめると生か死かと言うのが近いかな」

 

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。……詩人ってのはズルいよね。ただ一言の言の葉でそれを切り取ってしまう。」

 

「ハムレットですね」

 

なるほど、確かにたった一言の台詞で問題を明らかにしてしまう言葉を操るのが詩人という人種なのだろう。

 

「でも、人間ってのはそういうものだ、何故か存在してしまい。死ぬまではどうしても生きている。どんな人間もこれは例外はないね」

 

「そうなりますね」

 

「でもこれって凄い事だとは思わないかい?路上で寝ている浮浪者も、一国の大統領も、お金がありすぎて使い切れない大富豪も、歴史に名を残す大英雄も、極刑に処される極悪人も、あーちゃんもボクも、等しく生きて死ぬ。これだけはこの世界で掛け値無しに公平だね」

 

「そう考えると、大抵の事はどうでもよくならないかい?存在して、死ぬまでは生きて死ぬ。ただそれだけの話なら何を必死になる事があるだろう?」

 

「……理屈の上では分かります、が」

 

確かに生きている間に何をしようが人は死んで終わりだ。その虚しさを思えば何をしようと、あるいは何もしなくても同じ。という考えに至ってしまうのは分かる。

 

「感情の上で飲み込めない?」

 

「まぁ、こういう考え方も手垢にまみれてるって言えばその通りだし、結局人間は感情の生き物だからね。自分が死ぬのは分かっていても、今日死ぬとは思いもしないし、何となくいつまでも生きてる気がする。大抵の人がそうじゃないかな」

 

確かに理屈の上では生きている以上今日死ぬ可能性はあるのは分かる。でも俺が今日死ぬかも知れない事を念頭に生きているか?と問われたら否だろう。確かに今日も明日も十年後も漫然と生きているような胡乱な考えがある。

 

「今日死ぬかも、と毎日毎日のように考えながら生きるなんて大抵の人は耐えられないでしょう」

 

「なのかな?死ぬものは死ぬという当たり前の考え方で生きるだけだと思うんだけどね……例えばある人が今日いっぱいで死ぬと分かったとする」

 

「はい」

 

「あーちゃんはその人は最後の一日はどうすると思う?」

 

「ん、最後の一日をですか……」

 

何をするか?最後の一日を、その日によるだろうが、周囲に感謝を伝えるか。大事な人と寄り添って終わるか。好き放題出来なかった事をやるか。死に場所として何処か行きたい場所に行くか。

 

「人によってやる事や過ごし方は違うでしょうが、最後の一日を悔いを残さないように過ごすんじゃないでしょうか?」

 

「恐らくそうなんだろうね。だけどそれがどうもボクには奇妙に感じるんだ。別に普段通りでいいじゃないか?いつものように仕事に行っても、学校に行っても、怠惰に寝て過ごしても、映画でも見に行っても、ただ当たり前の一日を過ごして死ねばいいんじゃない?」

 

「ん……確かにそうですが、最後となると中々そうするのが難しいのかなと」

 

あぁ、でも確かにそうだ。どうして普段通りに過ごせないのだろうか?レアさんは恐らく何一つ普段と変わりない一日を過ごして死ぬのだろうという気がする。

 

「ボクは今日が最後の一日だと分かった途端にその日の行動を変えるようならその人は生き方を間違えてると思う。だって普段からやりたい事を心からやれてる人なら別にいつ終わっても良いじゃないか。あーちゃんは悔いを残さないように過ごすと言ったけど、最後の一日に慌てるような人はどんな一日を過ごしたとしても、間違い無く悔いを残して死ぬんじゃないかな?」

 

辛辣な意見だ。でも確かにそうなのかも知れない。最後のたった一日で一体何が出来るのか、何が取り返せるというのだろう。

 

「そう考えると難しいのかも知れないですね……ただ死ぬ時に悔いを残さないだけの事なのに」

 

「だから、だよ。明日世界が終わりになろうとも、今日は林檎の木を植える。それだけでいいと思うんだ」

 

その行為をポジティブに捉える人は単純で善良なのだろう。明日世界が終わる日に林檎の木を植えるというのは何処までも空虚で、無為だ。現実的にそんな事をする人はまず居ない筈だ。だが、その虚しさを知ってそれをやれとレアさんは言っているのだ。

 

「無意味でも、ですか?」

 

「無意味だから、だよ」

 

「そうだね……あーちゃん、キミはアリとキリギリスという話は知っているだろう」

 

「はい。かなり有名な童話ですよね」

 

知らない人はまず居ないだろう。冬に向けてせっせと食糧を貯め込むアリと音楽を奏で、歌を歌い日々を楽しむキリギリス。やがて冬になり食糧は無くなるとキリギリスは困る。アリは食糧を計画的に溜め込んでいたアリを頼るが拒否されてキリギリスは雪の降る中凍え死ぬ。勤勉に生きるべきだという教訓が込められた奴だ。

 

「アレは最近ではアリがキリギリスに食糧を分けてあげてハッピーエンド。という毒にも薬にもならないような話に改変がされてたりするらしいね」

 

「無難な話ではありますけどね。子供向けにマイルドにし過ぎても結局何も伝わらなくなっちゃうでしょうし」

 

というか、こうして突っ込んだ話をしてみて気が付いたがレアさんは意外と毒舌気味だ。普段がテンション高いけど口は悪くないイメージが強かったが、いつもは何かを訴えかけようという意思がないからそれこそ毒にも薬にもならない話し方になってしまうのだろう。

 

「まぁ、それはいいとして……ボクはあの話は嫌いなんだ。アリの方が賢いなんて間違いなく嘘だ。人生の空疎、無意味を正しく理解していたのはキリギリスだと思う」

 

「ただ、歌って、楽器を弾いて、そして行き倒れて降り積もる雪の下でキリギリスは最後はこれで良しと笑っていたんじゃないかな」

 

「……なるほど」

 

確かに、アリとキリギリス、どちらの人生がより上等だったのだろうか?大差ないのではないだろうか?少なくともレアさんの言う通り堅実なアリが賢いとするのは短絡的に過ぎるだろう。ただ無為な人生を歌って楽しんだキリギリスの方が上等だったのではないか。

 

「死ぬまでは生きてるんだから、別に生きてる間に何もしなくてもいいし、何をしてもいい。そのくらいの自由は人には許されているんだ。有りか無しかなんてどっちでも良い。そう気がつけば何も持たなくても満ちている。足る事を知るものは富むとはそういう事じゃないかな」

 

「何も持たない事も全てを持つ事も同じ……という事ですか」

 

「そうだね、清貧って言葉はあるよね。清貧と貧乏は違う。お金で買えないものは貧乏だけだけど、ボクが思うにお金持ちでも清貧は人はいるんだ」

 

「お金持ちなのに清貧ですか?」

 

それは何だか矛盾するような気がするが。

 

「確かに清貧の定義からするとお金を持っていたら正確には清貧ではないだろうけど、清貧な性質のお金持ち自体は別におかしい事じゃないよ。要は清貧な人はお金なんて無くても充分満ちている人って事だよね」

 

「ですね。お金が無くても最低限の生活で困らないというわけですから」

 

「でも、お金が無くても満ちている清貧な人はつまりお金に拘らないって事だね。じゃあ逆に言えば清貧な人はお金があったって別にそれはそれでいいという事になる」

 

「確かにそうですね」

 

つまりはレアさんのいう有っても無くても同じというやつだ。

 

「なら、たまたまお金を持ってしまったそうそう人もいるだろうね。……逆にお金を突然持ってしまった、所謂成金の人に多いらしいけど不必要に派手に贅沢してお金持ちアピール。でも元からお金を持っていた訳でもないからお金の使い方が分からずにあっさりご破産。でも豪遊生活から元の生活に戻れず……みたいな話は割とあるらしいよ」

 

「確かにそういう話は聞きますね」

 

やはり人間分不相応なモノを持つとろくな事がないという事なのかも知れない。

 

「でも、清貧な性質を持った人はいきなり大金が手に入った事で変わらないよね。別にわざわざ不必要に豪遊する必要もないし、無くなったら無くなったで特に構わない。もしお金が入った途端に変わるようならその人はただの貧乏で清貧では無かったのだろう」

 

「貧乏と清貧……なるほど全く違うものですね」

 

貧乏が金を得た時の振る舞いは成金。清貧が金を得たら、全く違うか。

 

「ね、お金もあってもなくてもどっちでもいいモノだよね。死んだ後にお金は持っていけないし、最低限あれば生きていける……いや全くなくても生きるのに差し支えないよね。路上で生活も充分出来るんだし、それで他の人達と同じく死ぬまでは生きられる。もちろんあったって別に困るわけじゃない、お金で解決出来るばかりだしあるならそれで助かる事は多いしね」

 

つまりは結局どっちでも良い。レアさんにはそれだけの事なのだろう。

 

「でも生か死か、有るか無しかも奥深い話でね。有るものがある。というのはともかく、無いものが有る。と言ったら何かおかしい気がしない?」

 

「無いものは無い。なら分かりますが、確かに無いものが有る。というのは矛盾してるように感じますね」

 

「ね。でもさっきケノン(虚空)という概念があると話したけど、これは要は無いものが有るって言ってるようなものなんだ。よくよく考えるとちょっと奇妙だ」

 

確かに、無いという概念が有るというのはそう言われると奇妙ではある。無いものを有るかのように言う、か。

 

「そう考えると何だか数字の0みたいな感じですね、実際には無いから」

 

「流石あーちゃん!丁度それと同じ感じだね。あると便利だから概念としては有る。けど実際には無い。ここに林檎が0個あります。と言う事は出来ても何だか破綻してる気がするよね」

 

レアさんは何もない机の上を指差しながら言った。そこには無い林檎が0個あると言われれば確かに直感的に零のおかしさを感じる。

 

「実際初期ギリシャ哲学者のパルメニデスは無がある事は不可能と至極当然のように言ってるからね。ケノンとか零とかの概念はそれに反しているのかも知れない。じゃあここで有るを生。無いを死と置き換え直してみよう」

 

「というと、つまり零やケノンと死は同じという事ですか?」

 

死もまた無いとすると、生きて死ぬのは絶対の公平と言ったレアさんが矛盾するような気がするが。

 

「そうだよー。零とまんま同じだよ。例えばあーちゃん、キミは死とは何?と聞かれたら一体何を指して死とはこれと言うかな?」

 

「え?……何をですか……死体?」

 

「死体は確かに死んでいる、生きてないね。でも死体はただの物体だ。これは死んでるって言っても死体がそのまま死ではないし、死体を解剖して中をいくら探しても死を取り出す事は出来ないよね」

 

確かにその通りだ、死体は死んでいるが別に死体が死ではない。と改めて考えると死とは何だ?

 

「う、ん、例えば今死にそうになっている生き物がそのまま実際に死ぬ瞬間が死、というのも……」

 

「生きてる状態から死んだ状態になるプロセスを指して死。というのも明確ではないね。これは今死んだって言っても、生きてるものが死体になる過程の何処に死があったのだろう?」

 

死んだ瞬間を死というのも確かにしっくりこない。そもそも生きてる状態から死ぬ時の明確にどの瞬間を指して死んだというのだろう?心臓が止まった時か?脳死?生命維持の全機能が不可逆的に停止した瞬間か?どこの時点で死んだのだかも分からない。

 

「よくよく考えて見ると死なんてこの世界の何処にも無いと思わない?」

 

「確かに死体はありますが、何が死というのは……つまり概念だけの実際には無い事を言っているから零と同じ……?」

 

「と、いう事になるね、ただの形而上の概念だ」

 

ん?しかし生きる事と死ぬ事が確かだと言ったのはレアさん自身だ。それに人は確かに死ぬし俺も死ぬ。のに死が無い?

 

「人は死ぬのに死はない、ですか?」

 

「そう人は生きて死ぬ。でも死なんて何処にもないんだ。おかしいでしょ!」

 

「おかしいですね」

 

「でも、孔子なんかもいまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。って簡潔に言ってたりね。とどのつまり死なんてありもしないモノを語っても分からないんだ」

 

ありもしないものに至る、のが生きるという事なのだろうか。確かに死が何なのかなんて誰にも分からないのかも知れないが。

 

「この世界に実在するのは生きているものだけだよね。死んだ人間は何処を探しても見つからない。だから誰も死を知り得ない。という事にならない?」

 

「はい。確かに、死んだ人に聞く事は出来ないですからね」

 

だが居ない人間に聞く事は勿論出来ないのだからやはり分からない。

 

「結局生きている時にしか実在していない。でも死んだらもう実在していない。つまり人間は実は死ねないんだ」

 

「え?」

 

人は死ねない?そんな馬鹿な?

 

「そうだね……人間は実在してるよね?」

 

「はい」

 

「実在しているものは生きているでしょう?」

 

「そうなりますね」

 

「死んでいるモノは実在してないね?」

 

「もう死んでいないわけですからそうですね」

 

「つまり人間は生きて実在しているモノになるね」

 

「そうですね」

 

「じゃあ死んで実在していないものは人間じゃないよね」

 

「……はい」

 

「じゃあ人間は死ねない事にならないかな?」

 

「う、ん……」

 

少し考えてみて噛み砕く。という事は……

 

「単に人間は生きて存在している。けど、死んだらもう人間として存在していない、だから人間は死ねないと……?」

 

「そう、流石あーちゃん!分かりやすいね!」

 

「死ぬのに、死ねない。とは凄い矛盾ですね」

 

「そう、矛盾だ。人は生きて死ぬ。そこに何の意味があるのか誰も分からない。生の始めに暗く、死の終わりに冥し。という奴だね。そもそも意味なんて全くないのかも知れない。これはちょっとした絶望だね」

 

「所謂、死に至る病だ。でも死に至る病は同時に死ねなくなる病というパラドックスなんだよ」

 

レアさんは、死を考えて、最後には死ねない事に気がついた。

 

この人の事が知りたいと俺は思ったがとりとめなく話してみればみるほど分かる事が多くあり、そして分からなくなっていく。

 

レアさんは分からない事をずっと考え続けているのだ。ただそれしかないようにずっと、ただひたすらに。

 

何故なら、死ねないから。

 

「レアさんは、生きて、何を望みますか?」

 

「それは勿論決まっているよ」

 

俺の問いにレアさんはあるかなしかの微笑を浮かべて言った。

 

「ボクは、たった一つ、真性の愛を求めているんだ」

 

………

……

 

歩みを止めてふと空を仰ぐ。

 

夜空は澄んで、僅かに欠けた丸い月が浮かんでいる。月明かりで霞のように浮かんでいる雲が見えた。

 

良い夜だ、日中は少し暑かったが、日が暮れると過ごしやすい気温になり長袖で丁度良いくらいだ。

 

「おい、にーさん。人の事無視して何黄昏ちゃってんの?」

 

そんな夜にこうして何故か因縁をつけられる羽目になってるのだから月でも見て現実逃避の一つもしたくなるこちらの心情を汲んで欲しい。

 

「ふと思ったが黄昏時でも無いのに黄昏れるというのはおかしな気はしないかな?」

 

「知るか!んなもん国語審議会にでも文句を言え!」

 

何も考えずに思った事を口走ったら、微妙に気の利いた返答が返ってきた。

 

何故こうなったのかと思う。ちょっと買い足したいモノがあったからコンビニに行ってきただけなのだが。

 

俺が住むアパートは店が立ち並ぶ表通りに近く、結構利便性が良い。表通りから路地を一本入り込んですぐの所にあるのだ。

 

同じアパートの住民は外出する時も帰ってくる時も皆大抵は、この路地を通るだろう。確かにこの路地は建物と建物の間の如何にも路地裏という感じで、月が明るい今夜でも陰になって非常に暗い。

 

とはいえ、今まではそんな事も無かったのだが何故か今夜に限って派手な格好をした如何にもヤンチャしてそうな三人組がいて、目を付けられたという訳だ。見たところまだ幼さが残る顔付きは多分俺より年下ではないだろうか。

 

「それで、一体何の用なんだ?」

 

「お金ちょーだい」

 

俺の前に立った、ガタイの良い一人はそう要求した。何故縁もゆかりもない若者に金を贈呈しなければならないのか。

 

「断ると言ったら?」

 

「簡単な二択だよ、痛い目にあうかちょっとばかりお金を恵んでくれるか、おにーさんの好きな方を選びなよ」

 

俺の後ろに居る線の細い少年が言った。俺の逃げ道を塞ぐような立ち回りといい、陰湿そうな口調といい狡猾な蛇を思わせる。

 

後の一人の少年は少し離れた所で建物の壁に背を預けたまま、煙草を吹かしつつ、酷薄な目付きでこちらを睥睨している。恐らく三人の中であれが頭だろう。如何にも油断ならない雰囲気だが、何処か呆れているような目付きにも感じる。

 

しかし、今時こんなカツアゲなんてしている人間が居るとは、正直そちらに驚いてしまい、イマイチ危機意識が働かない。

 

「手を出すつもりならこちらは警察を呼ぶよ」

 

「そう言っとけばす引くと思ってんの?呼びたきゃ呼べばー?」

 

俺は無言でスマホを取り出してキーパッドを呼び出して1を入力する。すぐに後ろから伸びてきた腕に手を掴まれた。

 

「やめとけ」

 

「やめる事は検討するから離してくれないか?」

 

その瞬間前にいる少年が一歩踏み込んできた。

 

「ッ!」

 

「っと」

 

いきなりの左フックを咄嗟に上体を反らして避ける。踏み込みと小さくだが振りかぶりがあったから避けられたけど鋭いパンチだった。体格の良さといい何か格闘技をやってそうだ。

 

「分かった、待て待て」

 

とりあえず静止する。ホントに殴りかかってきた。これは厄介だ。大声で助けでも呼ぶか?

 

「おい!」

 

突然に少し離れた壁際にいた少年が声を出した。何だ?俺の前後に居る二人もぎくりとした様子だ。

 

「って、お!」

 

突然俺に殴りかかってきた少年が驚いたように飛び退った。次の瞬間俺も驚いた。今の今まで俺を含め四人しか居なかったと思っていたのにすぐ側を誰かが歩いていたのだ。少し離れた所で傍観していた少年は真っ先に気づいて警告の声を発したのだ。

 

というか、この小柄でぬるっとした影は。

 

「レアさん?」

 

「はい」

 

茫とした眼で歩いていたレアさんが歩みを止めた。

 

「ん、と?」

 

レアさんは目を細めて少し困った様子で俺たちを見渡した。遅れて気付く、目の悪いレアさんは今裸眼な上にこの暗さで人を見分けられないのだろう。

 

この路地でゴダゴダしてる事くらいは声などで分かりそうなものだが、全く意に介さずに通行するのはレアさんらしいが、流石にこの状況に巻き込むのは不味い。

 

「いや、なんでもないです。行って下さい」

 

「お?この声はあーちゃん!こんばんは!」

 

それなのに遅れて俺の事に気がついて朗らかに挨拶してきた。ここは早く行って欲しいのに、レアさんは状況を把握しようとしたのか再び俺を含めた少年達を見渡す。

 

「レアさん、ここは行って下さ……」

 

「おぉ!あーちゃんケンカかい!?やんちゃだね!でも若い内はそういう発散もいいかもね!大怪我しない程度に皆がんばれー」

 

あーもう!この人は、分かってはいたけどビタ一文こっちの意を汲んでくれない。

 

「何このガキ?あんたの知り合いかぁ?」

 

「いや、まぁ……」

 

「ガキって酷いな!こう見えても君たちよりお姉さんだよ!」

 

どうすればいいんだ!収拾が付かなくなってきた。

 

「いやー、でも可愛くね?このにーさんよりこっちの方がよくねぇか?」

 

「おっ!あーちゃんなんかボクナンパされてる!?見てくれはいいらしいけどナンパは初めてかも!」

 

細身の男がよりにもよってレアさんに興味を持ってしまった。そして何か微妙にレアさんが喜んでる。どうする?

 

「その女は辞めとけ」

 

「お前そんなガキくさいのがいいのかよ?」

 

依然、少し離れた所にいる少年とガタイのいい少年がほぼ同時に言った。後者はただ揶揄しているだけだが、前者は真面目に忠告しているトーンだ。

 

「ま、いいじゃん。な、もし良ければ金くれない。無理なら俺たちとちょっと付き合ってくれねぇ?」

 

ニヤニヤと笑いながらレアさんに迫りつつ、図々しくそう要求する痩せた少年。まずいな、止めるべきだが、ガタイのいい方がさりげなく俺の動きを牽制していた。

 

「おー、少年!ボクかお金が欲しいの!?」

 

「そそ、どうする?」

 

言いつつ少年がレアさんに手を伸ばした。

 

「レアさん!」

 

「じゃ、はい!」

 

その手を取りレアさんは何かを握らせる。

 

「あ?」

 

少年が手の中のそれを広げると万札だった。二枚あるようだ。

 

「ん?どした少年!お金欲しかったんじゃないの?」

 

「いや、そうなんだけどよ」

 

多分ここまでノリ良くお金を出す人間は居なかったのではないだろうか。ガタイの良い方と痩せた少年はむしろ困惑気味だ。一人まだ壁に寄りかかったままの少年は咥えタバコで目を細めてた。

 

「若いと遊ぶにも色々入用だろう、えんりょすんな少年!」

 

「あ、まぁな……」

 

「どしたー?足りないかー?悪いけどボクも今手持ちがそれだけしかなくってね」

 

「いや、そういう訳じゃねぇよ」

 

そう言って細身の少年は万札をポケットに突っ込んだ。足りないとは思えない。カツアゲの成果として二万も手に入れば充分ではないだろうか?

 

しかし手持ちをあっさり全部渡してしまうとはレアさんも何を考えてるのか、或いは何も考えてないのか?俺が呼び止めて巻き込んでしまった形でもあるので悪い事をしたかも知れない。

 

「もういい、行くぞ」

 

ずっと壁に寄りかかったまま何処か警戒しているような様子でいた少年は、金を取れた事で潮時と判断したのか短くなった煙草を踏み消して身体を起こすとそう一言言って有無を言わさずに表通りの方に歩き出した。

 

痩せ型とガタイの良い二人は困惑気味に一瞬顔を見合わせたが、仲間がさっさと歩いて行ってしまうので結局二人とも踵を返して早歩きで歩き出した。

 

俺は一瞬少年達を呼び止めるべきか迷った。レアさんのお金が取られてしまったのは俺のせいもあるからだ。だがいきなり殴りかかって来るような相手だ、返せといったら間違いなく拗れてしまうだろう、そしたらやはりレアさんを巻き込んでしまう。

 

そもそも無理矢理奪われたものならまだしも、レアさんが自分で進んで渡した金を俺が返せというのも筋違いではないだろうか。そんな気もして判断がつかぬまま結局去っていく3人組を見送ってしまった。

 

「あーちゃんは出かける所?ボクは帰るけど」

 

何事も無かったのように、レアさんは尋ねた。

 

「あ、俺も帰る所です」

 

「ん、かえろ」

 

そう言ってぬるっと歩き出した。足音もしないからさっきはすぐ近くを歩いているのに気付かなかった。レアさんも用事で出掛けてたのだろう。同じアパートなのだからこの路地を通りかかる事はおかしくない。

 

「レアさん、良かったのですか?お金取られちゃって」

 

並んで歩きながら、話しかけた。

 

「んー?取られた訳じゃないよ。欲しいって言われたからあげたんだから」

 

あっけらかんと返される。しかし、二万というのは安いお金でもないし……

 

「しかし、あれは殆ど恐喝に近かったのでは……」

 

「そう見えるかもだけどそうでもないよ。彼はらお金を要求したけど、お金をあげるか、あげないかはボクの自由だ。彼らは自己責任でお金を要求して、ボクは自己決定でお金を譲渡した。別におかしくはないでしょ?」

 

「ん、そうなのかも知れないですが……」

 

そう言ってしまうと別におかしな事ではないのかも知れないが、しかしやはりレアさんが不当に金を失ってしまったようなのが引っかかる。

 

「でも、あれじゃ脅し取られたようなものでは?」

 

「ボクがお金を無くした事を気にしてるのかな?あーちゃんは優しいねぇ。でも気にする事はないよー。そだねー、ボクがお金を渡した事には二つほど理由があるよ」

 

「理由というのは?」

 

「単純な話、別に手持ちの二万くらいあってもなくてもどっちでも良かったんだよ。欲しいという人がいるなら別にあげたって構わなかっただけ。たかだか紙切れ二枚無くしたとこで死ぬわけでもなし」

 

「まぁ、お金がどうでもよかったのなら確かに……」

 

以前話したが、レアさんは足る事を知っている。要はテッシュペーパーを一枚くれと言われて惜しむ必要はまずない。という感覚なのだろう。

 

「ならもう一つは?」

 

「ボクは喧嘩したくも、揉めたくも無かったからだよ。そんな事をしてもなんの得もないからね」

 

アパートに着いて、二人でカツンカツンと階段を登りながらレアさんは答えた。

 

「お金ってのはトラブルを解決する為にもあるものでしょ?お金渡したら喧嘩もせずに揉めもせずに済むんだから考えるまでもないよ」

 

「ん……確かにそうですが」

 

それはお金で解決出来るならそうなのだけれども、別に奴らにお金を払う謂れもないのに何故レアさんが払わないとならないのかと、いう気はする。そう思うなら呼び止めて取り返すべきだったし、今更ではあるのだが。

 

レアさんは自分の部屋に着いてドアを開けると、どーぞ。と招いてくれた。話し足りなかったからありがたい。

 

俺はお邪魔しますと一言かけて、上がった。いつものようにキッチンに向かったレアさんが冷蔵庫を開けて、粗茶ですが。の決まり文句とともに置いたのは缶入りの緑茶だった。

 

「お茶ですか、珍しいですね?」

 

先日のめんつゆと立て続けにセオリーを外されて、思わずそう言った。めんつゆはおふざけだろうが、今日は未開封の缶であるためまごう事なく茶であろう。

 

「うん。バイト先のてんちょがくれたから。ボクは水しか飲まないから要らないと思ったんだけどあーちゃん飲むかなって?」

 

水の方が良かった?と続けて聞かれたが、ありがたく頂く事にした。

 

缶を開けて一口飲む。よく冷えていて、雑味も少なく喉越しも良い。俺も缶やペットボトルのお茶の類は殆ど飲まないが中々美味しい。

 

「で、なんの話だっけ?」

 

「カツアゲ少年達の」

 

「あぁ、そうだったね!」

 

うむうむと頷く、レアさん。つい先程のトラブルも既に印象が薄れつつあるらしい。いや、この人にとってはトラブルですら無かったのかも知れない。

 

「まぁ、シンプルに考えれば彼らはお金が欲しかった、ボクは揉めたくないから渡した。結果彼らはお金を得た。ボクは揉めずに済んだ。WIN-WINでしょ?」

 

彼らは望み通り金を得たが、レアさんは奪われている、Win-Loseの様に思えてもしまうのは俺はレアさんほど達観してないからだろう。

 

「その気ならお金を渡さずに済ませる事が出来たのでは?」

 

「それで喧嘩になったらどーすんの?ボクが殴られても意地でも渡さないってしようと思えば出来るけど、ボクは怪我する。彼らも何も得られないでLose-Lose。誰も得しないじゃない」

 

「……仮に喧嘩になったとしてもレアさん簡単にたためるでしょう?」

 

「あのねぇ、あーちゃん。ボクが武術かじってるからって現実的に女が男三人をたためるわけないでしょ。漫画や映画の見過ぎだよ」

 

嘘をつけ、と思った。俺も多少荒事は経験してるから雰囲気で分かる。おそらくレアさんはあの三人くらいどうとでも出来る。ただやりたくないだけなのだ。

 

「それに仮にどうか出来たとして、暴力振るってまでお金なんて守るようなモノかな?それをしたとしてボクはお金を出さずに済むかも知れない。だけど彼らは何も得られず怪我をするだけになる」

 

おそらくこちらが本音なのだろう。確かにそれだと割りを食うのは彼らだけになる。しかし……

 

「そうなったとしても、元々カツアゲで金を奪おうと考える方の自業自得ではないでしょうか?」

 

「相手が悪いのだから、こちらは攻撃してもいいって考え方はボクは嫌いだ。それは卑しい考え方だ」

 

レアさんは珍しくキッパリと断言した。つまり本当に嫌なのだろう。

 

「なら警察なり助けを呼んだりするのは?」

 

「警察が来たら、おまわりさんに拘束されてあーなりましてこーなりましてって一々せつめーしなきゃなんないでしょ。たかだか二万円を惜しんで労力と時間を無駄にするなんて馬鹿馬鹿しいよ」

 

「む、なるほど……」

 

何か聞いていると確かにたかだかお金を守るためだけに大袈裟な気がしてきた。不当に金を取られた方が合理的なんておかしな筈なんだけど。

 

「あー、それよりあーちゃん。えーと……」

 

「はい?」

 

レアさんが何か言いたそうだけど、言いにくそうに小さくうなっている。珍しい、なんだろう?

 

「……今日は、お野菜……」

 

目を泳がせたまま顔を少し赤くして、ボソリと言った。おやさい?お野菜!

 

「あぁ!野菜ですか、ちゃんとありますよ!」

 

いつもの手土産を忘れていた。俺は一旦自室へ帰り、夕食の時に作った温野菜を取りに行った。自らおねだりする程に楽しみにしていてくれたとは、結局金よりレアさんは野菜料理の方が余程大事らしい。

 

今日は作ったのは煮豆だ。油でニンニクを炒め、香りがたった所に玉葱や人参、馬鈴薯等の根菜を炒め、そこにトマト缶と水と大豆を投入して煮込み、コンソメ等で味付けをした。ポークビーンズのレシピを参考にした肉抜きバージョンとでも言おうか。

 

レアさんの部屋に戻り、煮豆を渡す。豆料理は久々だとレアさんは大喜びした。温野菜にしてもいつも結構色々バリエーションを変えている甲斐があった。こういう所は無邪気で可愛い人だと思う。

 

もっとも、元々底知れない雰囲気はあっても、邪気みたいな匂いはしない人だが。

 

「でね、多分あーちゃんが引っかかるのは相手が悪い。という点じゃないかな?」

 

煮豆を冷蔵庫に収めて戻ってきつつ、レアさんは話を戻した。

 

「確かに。相手が悪いのに何故お金を奪われなきゃならないのか。とは思います」

 

「まず第一には彼らの不正によって、ボクはお金を失ってもさっき言った様に得にボクは不利益を被ったと思わない」

 

確かにさっき言ってた通りの事だ。

 

「もう一つ。これは皆勘違いしがちだけれども、不当にお金を得るのが悪い事だとして、悪いのは相手であり、ボクが悪くなるわけじゃない」

 

「まぁ確かにレアさんが悪い事をした訳じゃありませんね」

 

「ところがどっこい。あーちゃんはボクが悪いと思っているんだよ」

 

え?レアさんが悪いと思っているだって?

 

「そんな事思うわけないじゃないですか」

 

「なら、あーちゃん。不正を受けてお金を失うのは善い事だろうか?それとも悪い事だろうか?」

 

「……悪い事ですね」

 

仮に今日の事で少年らに金を奪われていたのが俺だったなら、今日は良い事があった。等とは言えない事態なのは確かだ。

 

「そうなると不正でお金を失ったボクが悪いのであって、不正にお金を得た彼らの方が善い事になるよね」

 

「そんなはずは、いや、単純に利益不利益で考えるとそうかもですが……」

 

全く単純にお金を得たという事とお金を失ったという事がどちらが悪い事かと言うとそう言えてしまうかもだ、が。

 

「そう、それが陥穽なんだよ。皆んな不正は悪い事と言いながら、気付かぬ間に善悪の転倒を起こしているんだ」

 

「そもそも悪い事は悪いのか考えてないから、不正をして得た利益を善いもの。不正を受けて被った不利益の方こそ悪い事と思ってる事に皆、気がついてない」

 

「……」

 

確かに、そうかも知れない。言われてみると不正を受けて不利益を被るのは事は悪い事だと思っていた。が、確かに受けた方が悪いというのは普通は話が逆だ。

 

「ソクラテスが言った命題は正しいんだ。この世に誰一人として、知って悪を為す者は居ない」

 

「悪を為す人は、居ない?」

 

「そうだよ。今回の場合だと、彼らには不正をもって利益を得る事は善いことだった。逆にそれによって不利益を被ったボクは悪だという事だね」

 

確かに単純に彼らは利益が良いことだと思ったからやったのだろう。

 

「つまり彼らは悪いと知っていて、それをしたわけではない。ですか」

 

「もちろん。だって悪いのは何故悪いかって、本人にとって悪いからだ。不当にお金を奪われたくない。なぜ?それは単に奪われる本人にとって悪いからだよ」

 

「……しかし、レアさんにとって別に奪われても悪い事ではない」

 

「そだよ。ボクから見て不正でお金を得ようとしてる彼らは悪いとも善いとも思わない。ただボクはお金でトラブルを回避出来るのは善い事だと思った」

 

「そもそも、彼らは不正でお金を得て、ボクが不正でお金を失うならボクは正当である証じゃないか」

 

「言い換えれば、彼らは自分が善い事をして、ボクも善い事をした。当然あそこに悪い者は誰もいない」

 

「凄く大胆な考え方ですね。というとカツアゲは悪い事じゃない?」

 

「そうだよ。知っていて悪は為さない、つまり人はそもそも悪い事なんて出来ないんだから」

 

レアさんの言っている事を突き詰めるとそういう事になる。少し考えて言った。

 

「殺人も、盗みも、強姦も、放火も、悪い事は出来ない……」

 

「その通りだよ。所謂悪行、それらを行う人は単にその本人にとっては善い事だから行うんだ」

 

「悪い事だとはされていているのは知っていても、やる当人は別に悪い事だとは思わないから知らない、と」

 

「その通り。ボクから言わせると自ら悪行を為す人間などこの世にいないから、突き詰めて悪人などいない。罪悪感なんて大抵は嘘の言葉だ、どんな悪行も為す本人はその時善い事だと思っているから為す」

 

ざくり、と世界が斬られた音がした。

 

俺は時々、この人が怖くなる。レアさんの言葉は切れ味が良すぎる。

 

「ボクはね、さっき言った通り悪い事をした人間を攻撃するのが嫌いだ。誰も悪い人なんて居ない」

 

「テレビは嫌い。ネットも嫌いだ。何故なら失敗した人。悪行を行った人。そういった人間を見つけては虫みたいにたかっては攻撃する卑しい人間がどうしても目につく」

 

「……察します」

 

レアさんならそれは見たくもない人々だろうというのは想像出来る。故に人間が目に入るものを持たないのだろう、兎角今の世の中は煩すぎる。

 

「誰かが殺されたニュースを見たとして、ボクは無関係だ。何かが違えばボクが殺したか、殺された側になってたかも知れない。でもたまたまボクではどちらでも無かった」

 

「そんな被害者側でも加害者側でも、関係者でもないボクに何が言えるだろう?何も言えないよ。外野が口を出すべきではない。被害者側の人間のように懸命でも、加害者側の人間の様に必死でもない、覚悟もない無関係な人間が傲慢にも横から口を挟むべきじゃあない。わきまえるべきだ、ボクはそう思う」

 

「……義憤程、人々の鬱憤ばらしに最適な事はないでしょうからね」

 

他人の悪や失敗を、日々の一服の清涼剤にして生きている。大多数の人間はそういう風に生きている。それは仕方ない事なのかも知れない。だが、確かに卑しいと言えばその通りなのだろう。

 

「そうだね。そんな時に限って、皆言葉を軽々しく使い過ぎる。そうして自らの言葉の価値を自ら下げる。ヨハネの福音書曰く、まず言葉ありき。だ。言葉は大事に使わなきゃいけない」

 

そう言ってキシ、と小さな音を立てて座っていた椅子からレアさんがぬるっと立ち上がった。

 

何かと思ったらゆったりとかつするっと俺の側によりストンと座ってきた。あぐらをかいていた俺の足の上に。

 

「レアさん?」

 

「あーちゃんはボクの話をよく聞いてくれるねぇ」

 

レアさんは、普通ではない。だが、やる事は本人のルールやパターンの中の範囲だからあまり突拍子のない事はしない人だと思ってたが、急にここまで近づいてくるのは珍しい。

 

レアさんの身体は小さくて、その小さな体躯に凝縮したように体温が高く。そしてこの部屋と同じ、青リンゴのような爽やかさと甘い花の混じった香りがした。

 

「誰にも見出されたくなかった。誰にも知られたく無かった。ボクが死んだら、ごく僅かな人にそんな人もいたね。程度に思われて忘れられていく様に消えたかったんだ」

 

「ボクは毎夜毎夜、胸に強い不快が迫るんだ。それを一人で味わい尽くす。それで良かったんだ」

 

「……」

 

「でも、あーちゃん一人くらいになら知られるのも悪くないと、今はそう思う」

 

「はい。俺も貴女が知りたいです」

 

少なくともこの人が死んだら、あっさりと忘れられそうには、俺はない。

 

自分の懐の中に入り込んで座るレアさんの頭頂部が見えた。俺よりかなり小さい体躯故にちょうど良さそうな高さにあり、俺は自然と手を伸ばした。そっと撫でる

 

レアさんは撫でられるまま心地良さそうに目を細めた。

 

「これ、気持ちいいねぇ」

 

レアさんの髪は艶やかで細い、しかし繊細なだけでなくコシも強い。撫でてて中々面白い手触りだ。手に伝わる体温は熱くて、小さな身体に凝縮された熱量を秘めているのを感じた。

 

 

「ねぇ、あーちゃんも何か変な話してよ」

 

「俺がですか?」

 

「そーいえば、あーちゃんの事は何も知らないなと思ってね。あーちゃんもあるでしょ?変な話」

 

「珍しいですね。俺の話ですか……」

 

この人が他人に興味がないのは明白だし、俺の事もどうでもよいと考えていると思っていたのだが、そうでもなかったようだ。

 

俺もレアさんのようなものとは違うが、ロクでもない話ならいくつか話せなくもない。だが聞いていて楽しい話と考えると難しいが……

 

「そうですね。じゃあ初恋の話、などを少し」

 

「初恋!他の人から出た話ならもうこの瞬間に聴覚を遮断している所だけど、ことあーちゃんならおかしな話をしそうで楽しみだね!」

 

気持ちは分かる。俺も他人から初恋の話など聞かされたら、間違いなく聞き流す。心の底からどうでもいい話題筆頭だろう。

 

「はは……いや、変という程変な話でもないですし、初恋というのはそれっぽく言っただけで、実際はそんな話でもありません」

 

「うんうん。まぁ聞かせてよ」

 

「はい。あれは俺が中学生の頃のクラスメイトの女子でした」

 

当時の事を思い出しながら、そんな当たり障りのない話出しから俺は語り始めた。

 

「その人はクラスに数人はいるような、素朴で可愛いらしい顔立ちの方の娘でした。と言ってもどちらかと言えば地味であんまり印象に残りにくい外見でしたね。性格的にも良い意味でも悪い意味でも目立つ事がないという人だったと思います」

 

「あーちゃんは仲が良かったのかな?」

 

俺は首を振って言った。

 

「いえ、それが全く。ただ同じクラスにいるだけの人としか思ってませんでしたし、向こうも同じだったと思います。それこそ話した事は二、三回程度でした」

 

俺の懐にいるレアさんの雰囲気が少し鋭くなった気がした。もしかしたら今本気で傾聴する姿勢に入ったのかも知れない。

 

「ふむ、では何故初恋になるの?」

 

「いや、さっき言ったように初恋という話ではないのですが、ちょっと印象に残っている事がありまして」

 

「うんうん、何々?」

 

「ある日その娘が死んだのです」

 

「おぉ!それは何故なの?」

 

明らかにレアさんの声のテンションが上がった。幸いにも話に興味を抱いてくれたようだ。

 

「交通事故だったそうです。お通夜の席にはクラスメイトは皆出席していて、俺も漫然と出席したのですが」

 

「うんうん!」

 

ふと当時を思い出すと、確か彼女の死の知らせを聞いた時、その娘の名前を聞いてかろうじて死んだのは誰の事か分かったという感じだった。薄情かも知れないが、クラスメイトとはいえ本当にそのくらい関わり無かった相手だった。

 

「何というか、老年まで生きて死んだ人のお通夜や葬儀とは違って夭折した人のお通夜は、酷い雰囲気でした。クラスメイトの女子達は泣いてましたし、その娘の母親は気丈な態度でしたが、父親の方は人目も憚らず泣き崩れていて見るに忍びないくらいでした」

 

「ふーん、まぁそういうものなんだろうね」

 

レアさんは特に気の無さそうに相槌を打った。

 

「でも、何より印象に残っている事は」

 

「うん」

 

「彼女の死顔です」

 

「おぉ」

 

「……交通事故で死んだという事は聞いてますが、その娘が具体的に何が死因となって死に至ったのか等は分かりません。ただ、目立って大きな外傷は無かったみたいでした、少なくとも見える範囲には。だから棺に収まったその娘の死体を見る事が出来たのです」

 

事故死なら死体が酷く傷ついているケースも多そうだが、もしそうなら棺が開かれる事は無かっただろう。

 

「……どうだったのかな?」

 

「それが、凄く綺麗だったのですよ」

 

「おぉ!」

 

レアさんの声に熱がこもっていた。逆に俺はあの娘の死顔を思い出して穏やかな気分になり、静かに続けた。

 

「その娘はさっき言った通り、素朴で可愛らしい印象だったのですが、悪い言い方をすれば地味でした。年齢も年齢だし化粧っ気も全くありませんでした。しかし、葬儀屋の方が死化粧を施したのでしょう。プロの仕事は凄いものです」

 

「生きていた時は可愛らしかったのに、丁寧に化粧を施された死顔は美しかったのです。余りにも綺麗だから俺はその時こう思ったんですよ。この娘の父親も、クラスメイトの女子達も何故泣いているのだろう。だって——」

 

——こんなにもきれいなのだから、このこはきっといまからおよめにいくんだ

 

「そっか」

 

俺の話を聞いてレアさんは満足そうにそう言った。

 

「つまりあーちゃんは綺麗なお嫁さんを見たのが初恋かぁ」

 

クスクスと笑いながら珍しくからかっているような調子だった。

 

「いや、本当に恋って訳では、勘弁して下さいよ」

 

まぁ、言い出したのは俺なのだが、慣れない言い回しなどするものではない。

 

「でも、面白い話だったよ。綺麗なお嫁さん。いい話だね」

 

「……良かったのでしょうかね?その娘は」

 

「それはあーちゃんが感じた通りじゃないかな?その娘はお嫁に行ったんだ。きっとそれで良かったんだよ。世は並べて事もなしかな」

 

俺自身、ただその娘の亡骸の美しさに震えたのが事実だ。確かにレアさんの言う通りなのだろう。そして同時に慟哭する周りの人達も忘れられない。

 

「犠牲は無くならない。世の中は残酷ですね」

 

「多分違うよ。世界は残酷なわけじゃない。ただ無関心なだけなんだと思うよ」

 

「無関心、ですか」

 

「そう。別に人間を含め種としての生物や、個体がどうなろうと世界からすればどうでもいい事だろうね」

 

まぁ、そうだろう。俺達だって、道端の蟻や家畜の豚の生死、地球の裏側で死ぬ赤ん坊を気にかけたりしない。そも世界は喜びも悲しみもしないから、残酷ですらないのだろう。

 

「例えば今ここでボクやあーちゃんが死んだ所で誰も悲しまないし、困らない。命は代替が効く。変わりはいくらでもいる。一個人なんて、いてもいなくてもいい。」

 

「……そうなのでしょうね」

 

「だからね、あーちゃん」

 

レアさんが俺の手をキュっと握った。

 

「……ボクは」

 

「ボクは、多くの人間を救うより、たった一人を深く傷付けたい」

 

………

……

 

ある日、母から電話がかかってきて、その知らせを聞いた。

 

俺はそれに、そうですか。とだけ返して、その後少しだけ話して電話を切った。

 

その後、俺は大学の講義を受ける予定があった所を一人、部屋でこれまでの事を思い出し、考えた。

 

とりとめなく考えつつ、適当な時間になったので食事の準備を始める。上の空ではまともに調理も出来ないと思い、集中しようと心掛けるが、それでも上滑りしそうになる。

 

それでも、肉類を入れていない野菜炒めに味噌汁が無事完成した。こんな時にも野菜料理を作っている自分に、少し苦笑いが出た。

 

「考えると、最近俺も野菜を多く摂ってるな……」

 

あの人に釣られてか。肉魚も好きだが、まぁ温野菜も美味しいからいいが。

 

一人食事を摂る。味は良いと思う。だが普段以上に味気ない。しかし腹は減っているし、わざわざ作ったのだからと半ば惰性で食べた。

 

食後、ノートを開き、頭の中にあるモノを殴り書く。雑文ですらない。ただ意味を為さない単語の羅列であり、正直書いている俺自身も意味は分からない。だが、まとまりのない頭の中を少しでも出力しながらの方が考え易いかという思いつきだ。

 

こんなのはそもそも思索とも言えないかも知れないな。そうとも思う。レアさんはどう思うだろうか、あの人の意見を、聞いてみたい。

 

時計を見る。もう日が沈み、夜の匂いは濃くなっている。ちょうどいい時間だろう。

 

俺は部屋を出て、お隣に向かった。インターホンを鳴らす。普段通り反応はなくドアに手を掛ける。鍵がかかっていて開かない。これは今日はレアさんが誰にも会いたくないという表示だ。

 

普段なら俺は自室へ戻る。だが、俺は少し立ち尽くしてもう一度、インターホンを押し込んだ。

 

規則正しいレアさんはこの時間、起きて部屋に居る筈。しかし、レアさんは気分でない時に人と関わるのを嫌うのを知っていながら俺は何をしているのだろう。

 

間が開いて、俺は自室を戻るべきか、はたまた更にインターホンを鳴らすべきか、そもそも一体自分は何しているのかと思い立ち尽くした。

 

しかし、俺が動くより先にガチャリと鍵を外す音がして内側からドアが開かれた。

 

「あーちゃん?」

 

「……レアさん」

 

今日は本来開かれないはずのドアを小さく開き内側から覗いたレアさんに対して俺はどんな顔をしていただろうか。

 

「こんばんは。ほら、おいで」

 

すぐにレアさんはドアを大きく開き俺の手を引いて招き入れた。

 

「これ、差し入れです。野菜炒めですが」

 

「おぉ!ありがとうね!これはしなっとしてて美味しそうだ!」

 

タッパーを渡すとレアさんはいつもように喜ぶ。彼女は野菜は良く火を通した方を好む。シャキッとした歯触りより、しんなりして甘みが出たものが好きらしい。

 

「はい、どーぞ粗茶ですが」

 

そしてキッチンから戻ってくるとお約束通りにコップが出される。今日こそは水道水だった。

 

「頂きます」

 

一言断り、ぐっと三分の一ほどを飲み、一息吐く。

 

「さて、先日はボクの話をあーちゃんが聴いてくれたから、今日はあーちゃんがお話してくれるのかな」

 

どうも俺の心の乱れはレアさんにはお見通しらしい。俺は何があってもあまり表情や話が変わらないためか何を考えてるのか分からないと言われることが多々あるのだが、今はどうなってるかは自分でもよくわからない。

 

「……そうですね。少し聞いてくれますか」

 

「うん」

 

ふ、とまた一つ息を吐き話始める。

 

「実は昨日父が死にました」

 

「それはご愁傷様……あーちゃんはそのお父さんとは何かあったのかな?」

 

レアさんはすぐに事情がある事に気がついたようだ。流石に父が死んでいるにも関わらず、家にも帰らずにここにいるのはおかしい事は分かるか。普通なら通夜やら葬儀やらでそれどころではない。

 

「はい……そもそも、俺の親は本当の親ではないんです」

 

「というと、養親かなにか?」

 

「そうです。幼い頃に養子として取られたのが今の親でして」

 

まだ三歳くらいの頃だったろうか。今の養親に初めて会った時のことは朧げながら覚えている。当時は優しそうな、仲のいい夫婦だった。

 

「養子だったの。そういうの良く聞くけど、身の回りではあーちゃんが初めてかな」

 

「俺も俺以外ではあまり知りませんね。養子を取る人なんてまだまだ少数でしょうから」

 

「ま、そうだろうね。珍しい話だから取り沙汰されるという面はあるだろうしね。で、今の両親とは上手く行かなかったのかな?」

 

「……上手くいきませんでした。育ての両親は俺を最初、実の子供のように愛そうと努力してくれました。ただ、俺と両親は噛み合わずに実の家族のようになれませんでした」

 

「……確かに養子に取られて幸せな家族になる。なんていう風に上手くいくとは限らないだろうからね」

 

俺は一つ頷いて口を開いた。

 

「その通りです。養子縁組なんかの話は何かと美談に仕立てられるものですが、実際に調べてみると結局破綻しているケースも多いんです」

 

当然と言えば当然であるかも知れない。血の繋がった親子だって上手くいかない事は多々あるのだ。俺から言わせると、本来赤の他人同士が親子ごっこするなんて上手く行かなくて当たり前だろう。

 

「何が悪かったのか……今考えると俺が実の母の事を覚えていたのがまずかったのかも知れません」

 

「あーちゃんの実のお母さん?どんな人だったの?」

 

「あまり良くは知りません。父親は居なくて一人で俺を産んだ片親でした。ただ元々身体が弱かったらしくて、俺を産んですぐに体調を崩したそうです。孤独な人だったようで頼れる親類なども居らず、俺は施設に預けられました。それから程なくして死んだそうです」

 

「ふーん。あーちゃんがかなり幼い頃の話だよね。覚えてるんだ」

 

「はい。まだ物心が着く前、その頃覚えている事なんて他に何もないですけど、それだけは覚えてます。……母が俺を泣きながら抱きしめてたんですよ」

 

あの母の泣き顔が未だに忘れられないのだ。俺の原風景とでもいう物なのかも知れない。

 

「それが俺の母親と強く思っていました。引き取られた後の養親は俺の事を実の息子と言ってくれました。……今考えると申し訳ないのですが母親を覚えていた俺は、それは違う。と思っていました」

 

「客観的に言っても、事実違う訳だからね」

 

「……はい。そういう俺の意思が齟齬となって、養親ともギクシャクとしていき、益々噛み合わなくなりました。思い通りに行かなかった事にとうとう根を上げたのは養父です」

 

「なるほど、そこでお父さん」

 

「えぇ。ある時を境に俺に対する態度は冷たくなりました。養父も俺がどこまで行っても完全に他人だと気付いたのでしょう。そして次第に夫婦で言い争いになる事が増えていきました、そしてある時喧嘩の最中に養父が養母にこう言ったのです」

 

「なんて?」

 

「お前が子供を産めないからこうなった。と」

 

「あっちゃあ」

 

忘れえぬ言葉だ。あれを聞いた時の感情は今でもありありと思い出せる。悲しいとか虚しいとかの感情では無かった、屈辱だった。あれ以上の屈辱は無かった。

 

「何故、養子を取ったか。理由は養母の不妊症だったそうです。不妊治療も受けたそうですが、妊娠出来る芽は無いと医師に告げられた。そして俺を引き取ったのだそうです」

 

「だから養母さんのせい、か」

 

「はい。それを実の夫に攻められた養母の心中は察するに余りありますが、しかしそれを聞いた俺は悔しかった。レアさんなら分かるんじゃないですか?つまり二人にとっては俺は……」

 

「実の子供が出来ないから、の」

 

「代替品でしかなかった」

 

レアさんの言葉を引き継いで俺は言い切った。

 

「……子供の居ない夫婦が犬を飼うようなものかもね」

 

「それと変わらないと思います。こんな事は誰も言いません。養子を取った人間は口が裂けても言えないでしょう。取られた方も惨めで言えません。周囲だって言えるわけないです。それでも養子として取られた立場から俺は言わせて欲しい」

 

「所詮養子なんて自分の子供の代わり、代替品だと」

 

「まぁ、自分の子供を作るより前に養子を取る人はまず居ないだろうしね」

 

「他人の子供も自分の子供と変わらないのなら、最初から養子を取ればいい。それなら分かります。新しく作るより今既に居る親のいない子供を幸せにする方を優先すべきではないですか?」

 

「その通りだね。本当に他人も自分の子供と等しく愛せるなら、現に存在する子供という問題を放っておいて、未だ肉体としての存在のない子供を求めるというのは倫理的ではないとボクは思う」

 

レアさんは抜身故にこういう時に綺麗事や上っ面だけの慰めは言わないから話しやすい。

 

「ですが現実には、結婚して子供が欲しいと思って養子を取る人なんて居ません。まず、自分達の子供を産もうとします。しかし何らかの理由でそれが出来ない人が次善策として養子を取る」

 

「子供を作るというのも所詮は自己愛だからね。当然他人の子供と自分の子供は全く違う。試しに子供という語を取れば一目瞭然。残るのは他人と自分だ、普通の人がどちらを愛するかなんて議論の余地もない事だね」

 

その通りだ、つまり自己愛。子供に自分をみる以上、他人の子供では決定的に駄目なのは道理であろう。

 

「それで、その後養父さんはどうなったの?」

 

「荒れに荒れましたよ。夫婦仲も、俺ともガタガタになり、家族というロールプレイもそこまで。結局離婚して、失踪同然に養父は姿を晦ましました。それ以来何をしてるかも分からずにもう長いこと会ってません。いや、違いますね、二度と会う事は無かったです」

 

「なるほど、それで訃報だけが届いたの」

 

そう、養母には訃報がもたらされた。そして俺へと。

 

「はい。決別した養父が一体あの後どう生きたのか、どうして死んだのか、詳しい事は分かりません。病死、としか。だから俺がこうしているのはこういう訳です。もう養父とはとうに通夜や葬儀に参列する縁も、義理も切れています」

 

とどのつまり、養父と俺とは最初から最後まで他人だった。

 

「ふーん。でも、あーちゃんは死んだ養父さんに対して何か引っかかっているんじゃない?」

 

そう、今日はそれをずっと考えていた。

 

「……いざ、死んでしまったと聞くと、色々考えます。昔は俺にも穏やかで優しかった事。おそらく俺を息子として見る事を諦めた後、態度が別人のように変わり冷たく、辛辣になった事」

 

「……」

 

「荒れていく姿を見ていて、決別した後病死したと聞くと、寿命を削ったのは俺と無関係とは思えないんですよ」

 

「まぁ、そうかもねぇ」

 

「養父と俺は結局親子には成れず他人でした。しかし、不合理な事に俺が間違えた所もあるのではないか、養父も何か違えばこういう終わりにならなかったのではないかと考えてしまうんです」  

 

「あーちゃんは優しいねぇ」

 

自分がただ素直に養父を実の親と受け入れれてればそれで全て上手く収まったのではないか。

 

こんなものは決して優しさではないのだろう。

 

そもそも一体最初に間違えたのは誰だったのか。

 

病弱な身体をおして俺を産んですぐに他界してしまった実の母か。

 

実の子供が出来なかった代わりとして養子を選択した夫婦か。

 

施設に訪れた時、他の子供もいたのに俺を選んでしまった養親か。

 

記憶に残る実の母が忘れられなかった俺か。

 

誰が悪かったのだろう?一体何処で間違えたのだろう?

 

「レアさんならどう思いますか?忌憚ない意見が聞きたいです」

 

「うーん。ボクはその当事者じゃないから完全に外側からみた感想程度にしかならないけど……」

 

「聞かせてください」

 

「んー。まぁ死んじゃった後にこうしてれば、というのは手遅れだから考えるだけ無意味じゃないかな?」

 

さくりと切り捨てられた。半ば想像していた事だった。俺はこの冷徹で抜身の言葉が欲しかったのかも知れない。

 

「それはお互い生きている内に考えるべきだったよ。思うところがあったのなら、まだ何かやれる内にお互い話しておくべきだったとボクは思う」

 

「別にあーちゃんがおかしいという訳じゃない。以前話したけど、今日が最後の日だと知ってその日の行動を変える生き方は必ず後悔を生む。人は身近な人が明日にも居なくなっているかも知れない、或いは自分が去るのかも知れない。そんな当たり前の可能性すら忘れてしまう愚かな生き物だから」

 

「本当に……確かに、愚かしいですね」

 

正しくその通りで、反論すらする気も起きず、思わずふっ、と自嘲が漏れる。事実俺は養親との間を変えようと動く事はしなかった。それが全てだ。

 

「あーちゃんは養母さんとはどーなの?」

 

「養父とは違い、そんな事があってからも良くして貰っています。恩義があるんです」

 

でも、同時に。

 

「ただ、養母を親と思っているかと言うと、やはり未だにそうは思えないというのが正直な所です」

 

申し訳ないと思う。しかし、自分の中のイジけたガキの部分がそう言っている。だってそうじゃないか、と。そしてまだ記憶に残る実母の顔が思い浮かぶ。俺はそんなイジけたガキを否定出来ない。

 

「……いいんじゃないかな、それで」

 

「……そうでしょうか?」

 

「思えないものはしょうがないよ。でも養母さんも多分あーちゃんの事を思っているし、あーちゃんも養母さんに恩を感じている。なら、養母さんに不満と感謝をハッキリ伝えてもいいんじゃないかな。少なくとも死んでしまった養父さんと違って言いたいことを言えるし、話し合う事も出来るんだから」

 

あぁ、そうだ。養父とは永遠に話す機会を逸してしまった、だが、確かに養母とは話す事が出来る。

 

「あぁ、でも、こんな恩知らずな事、言っていいの、ですかね」

 

「いいんだよ。全て許されている。養母さんは傷付くかも知れない。その上であーちゃんも養母さんの話を聞けばいい。傷付け合えばいいんじゃないかな。人間の関係ってそういうものだよ。お互い刻み合いながら、それでも努力してやっていくしかない」

 

「二人はいつまでも幸せに暮しました。なんて御伽噺のフレーズは空想だよ。実際に二人が幸せにやりたければお互いに努力するしかないよ」

 

そう、なのだろう。養母と話せるとのはお互い生きている間だけだ。養父が死んだ事にも俺は悔いを残した。養母とも同じ事になるのなら俺はただ愚か者だ。

 

「そうですね、一度話してみます。考えてみれば俺が実の母を覚えているという事すら後ろめたくて言ったことが無かったので」

 

 

ふ、とレアさんがいつものぬるっとした動きで立ち上がり俺の前に歩みよっていた。

 

すとんと俺の正面に座り、何かと思いきや、少し身体を伸ばして俺の頭を撫でてきた。

 

「それでいーんだよ。正直な所を言ってしまえば。我慢する事はないよ。でも、養母さんの気持ちも考えてあげて、きっと傷付くと思って、その上で話し合えば」

 

あぁ、レアさんの撫でてくれる手が凄く優しい。それは否応なしに、この人は俺を大事にしてくれてると分かってしまう撫で方で少し涙が出そうになった。

 

この人は不思議だ。とても冷徹に感じる事もあれば、温情を見せる時もある。凄く残酷に思えるが、とても優しいようにも感じる。

 

そしてふと思った。そう言えばずっと昔、養母にもこんな風に撫でられた事があった。俺は代替品であったのかも知れない。でも、代替だとしても愛されていたのかもと、今そう思った。

 

「それにあーちゃんが自分で代替品になる必要はないんじゃないかな?」

 

「……そうでしょうか」

 

レアさんはくしくしと俺の髪を梳いてくれながら続けた。

 

「現実的には、それは人は誰かの代替部品になるし、代わりなんていくらでもいるからね。例えば会社員Aさんが突然病死したとしても、どっかの誰かがAさんの変わりをやる。Aさんなんて生きていようが死んでいようが世界は変わらない。一個人なんてその程度のものだよ」

 

それはレアさんが以前に言ってた事だ。

 

「居ても居なくても、許されている。ですか」

 

「そうだよ。つまりは自由だ」

 

「突き詰めて命は代替が効くが故に命だ。誰かが誰かを代替品にするのは自然の営為だよ。だからあーちゃんは確かにある夫婦の間に出来なかった子供の代替品とされたのかも知れない。だけどーー」

 

「誰かにとってのあーちゃんは代替たりえるかも知れないけど、あーちゃんにとってあーちゃんだけは代替が効かない」

 

それもレアさんが教えてくれたものだった。

 

「俺にとって、俺がある。のだけは確かで、誰かでは代替が効かない、ですか」

 

「Cogito ergo sumーー我思う、故に我あり。いや、正しくは我しか居ない。だからあーちゃんは誰かの代替品になる必要なないんだ、というかなり得ない」

 

「ボクの代わりはいくらでもいる。でもどこまで行ってもボクしかいない」

 

レアさんらしいアイロニーだった。

 

「だから誰かにとっての自分なんて実は意味がない」

 

レアさんは俺の頭から手を引き立ち上がる。そして背中を向けて言った。

 

「……何処かで赤ん坊が泣いてるのが聞こえる」

 

「え?」

 

ぽつり、とレアさんが呟いた言葉に俺は聞き返した。だが、レアさんは全く別の話題を切り出した。

 

「話は変わるんだけどね、ボクはあーちゃんと違って最初は両親は居たんだ。でもあーちゃんと同じ所もあって片親なんだ」

 

「そうなのですか。離婚か死別かでしょうか?」

 

初めてきく話だ。しかしそもそもレアさんはあまり自分の事を語らないから当然ではあるが。レアさんはきしりと音を立てて椅子に座り話を続けた。

 

「離婚だね。死んだって話は聞かないから多分何処かで生きてはいる筈だよ。……詳細が分からないって所もあーちゃんと同じだったかもね。また一つ違う点はボクの場合居なくなったのは母の方なんだけどね」

 

「……理由は?」

 

「ぶっちゃけボクだねぇ。ボクの母は結構母親とはこうしなければいけない。子供にはこうあって欲しい。みたいな固定観念に囚われた、頭の硬い所があったんだよ。そこで生まれてきたのがよりにもよってボクだ」

 

「あぁ……」

 

思わず納得の声が出てしまった。いや、ここで納得しちゃうのは失礼だと分かっているのだが、腑に落ちてしまった。

 

「良くさ、血の繋がった家族と見比べて母親によく似てるとか、血筋だね、とか言う人いるよね。それとは逆に家族が考え方とか言動とかが全然似てなくて本当に自分の子供なんだろうか?とか冗談混じりにいう人いるよね。ボクの場合は、家族の中でボク一人が異質だったんだ。さて、あーちゃんは親子は似てるのが普通だと思う」

 

「……どうでしょうね?俺自身は血の繋がった肉親が居ないから言われた事ないですし、俺からは他人を客観的に見ると親子で似ている人もいれば特にそうも感じないという人もいるから、何とも」

 

「その通りだね。そりゃ肉親と似てる人もいれば、似つかない人もいる。でもボクはそこに血筋とか遺伝子とかはさして関係ないと思っている」

 

何を言いたいか分かる。そうだ、さっきレアさんが言った通りなのだ。自分の子供に拘る。それは自分の血筋や遺伝子に拘るという事でしかない。

 

そしてそれは、人間も所詮獣に過ぎないという証左だ。自分の遺伝子を持った子孫を残そうとする本能に捉われている畜生と何が変わらないのか?

 

「ボクはね。血縁が遺伝子で似るって正直信じないんだ。人間は獣じゃあない。だから人間にとって重要なのはジーン(遺伝子)ではない。ミーム(模倣子)の筈だ」

 

「ミーム、ですか」

 

「そう、ミーム。あーちゃんは知っている?」

 

「はい、一応。ドーキンスが提唱した自己複製子ですよね」

 

進化生物学者のドーキンスの著書で有名になった概念で、一般向けの書籍だから俺も読んだ事はあった。自己複製子とは文字通り自身のコピーを増やしていく単位であり、それが遺伝子だ。遺伝子は生物が子孫を繁栄する中で自身のコピーを広めていく。

 

これに対してミームとは模倣子。人の脳から脳へ、コミュニケーション、文書、教育等により複製されていく自己複製子、技能、思想、文化等々の平たく言えば情報だ。

 

「なるほど、つまり家族が似るのは遺伝子が共通しているからではなく、ミームが共通しているからだと?」

 

「その通り!家族なんだから生活環境は極めて近いよね。そうなればその家庭に特有の風土みたいなもの、考え方、果てはちょっとした仕草。そういったものは共有される、故に家族は似かよるとボクは思う。血筋だからじゃなくてね」

 

だからあーちゃんみたいな血の繋がらない家族でも似るケースも多いんじゃないかな?とレアさんは続ける。確かに、似るのはミームの共有故という仮説はありそうで少し興味深い。血縁のある家族と無い家族で差異があるか、調査したら面白いのではないだろうか。

 

「でも、ボクのように血縁と似ても似つかないようなモノもいる。それもおかしくは無いんだ。もし血筋、遺伝子故に人が似るなら、全ての血縁者は似てないとおかしい。だって共通の遺伝子をもっているんだから似てないのは矛盾だ」

 

「でも、似る理由がミームなら矛盾はしない。ですか?」

 

「そうだね。子供というのは他の人からのミームの受け継ぎ手にはなっても、往々にして親のミームの受け継ぎ手にはならない。子が親に似ないのはその為だよ」   

 

「さて、閑話休題。ボクの話をしよう。そういう訳でボクは家族の中で一人異物だったんだ」

 

「違う思想(ミーム)を持っていた。ですか?」

 

「そう言えるだろうね。あの頃の家族は……両親とも普通の夫婦だった。何となく出会い、何となく恋愛し、何となく結婚して、何となく子供を産んだ。深く考えずに、そうしてれば何となく幸福になれると疑いもしていなかった。つまりは何処にでもいる愚かで平凡な男女だったんだ」

 

レアさんが意外と毒舌なのは最近知った事だが、このレアさんの語りは悪辣ですらあった。だがつまるところこれがレアさんの両親への心象なのだろう。

 

「だけど、現実は思うようにいかないものなんだよね。生まれてきたボクはどうも母から見ると理解不能のモンスターだったようなんだ」

 

「レアさんはどんな子供だったのですか?」

 

「そうだね……さっきはミームと言ったけどあの頃のボクが考えていた宇宙は誰かから複製された思想でも無く、一体何処から降って来たのか……例えば幼稚園の頃とかだろうか。母に膝枕されていた時なんかに突然宇宙に飛んで、堕ちる。そういう事がたびたびあった」

 

「宇宙に飛ぶ?」

 

「何というかね。意識とか自我が母の膝の上から突然宇宙に溶けるんだ。言語化しにくい感覚なんだけど、ボクでありながら全てだという感じ。それが少し続いて、宇宙から地球に降りて来て空から膝枕されてるボクを高みから見つけてそのボクに降りて来て、そして母の膝の上のボクにボクが重なりハッと我に返る。そんな風に宇宙そのものになる。そういう感覚があの頃確かにあったんだ。子供の頃ってそういう事ないかな?」

 

「……俺は特にないですかね。知り合いからもそういう話は聞いたことない、ですね」

 

不可思議な話だ。自分が宇宙に溶けるなんて想像が難しい感覚だった。でも形而下の概念に囚われていない子供だからこそ掴む事が出来うるものなのかも知れない。

 

「後は例えば幼い頃住んでいた実家。あの頃の家族は夜になると団欒っていうのかな?リビングに皆居て、テレビ見てたり漫画読んでたり思い思いに過ごしていたんだ」

 

「確かに普通の家族団欒ですね」

 

正直意外だった。今の孤独と静寂を愛するレアさんのイメージからするとテレビを見ながら家族と一緒というのは想像し難い。

 

「でもそんな時にボクは考えていたんだ。家族全員リビングに居る時、和室には誰も居ない。誰もいない和室は有る、と言えるのかな?とね。今誰もいない、つまり誰も見ていない和室なんて無い、のかも知れない。ボクが和室へ向かい、そのドアを開けた瞬間に初めて和室が現れるのかも、とかね」

 

「……存在を観測しているのではなく、観測して初めて存在する。ですか?」

 

「まぁ、言葉にするとそんな感じかな?後は誰も見ていない和室が存在するとして、そこでは何が起こっていても不思議ではないし、許される。とかね。和室にあったぬいぐるみが宙を飛んだり、踊ったりしているかも知れない、なんて事も考えてたなぁ」

 

「それは少し分かる気がします」

 

確かに子供の頃は前提を疑う事が出来た。自由奔放に考える生き物だった。人が死んだ時、死んだ人は何処にいるの?と大人に問いかける子供は皆、紛れもない哲学者だ。

 

「あの頃宇宙にだって飛べたボクは、今よりずっと純粋だった。大人が考える子供への押し付けがましい愚にもつかない純粋さじゃないよ。不純物が無かったんだ。今は無駄なモノを取り込み過ぎた」

 

「でもそんなボクは、まともな子供でも人間でも無かったんだ。純度が高すぎた。人がもつ前提としての情緒や道徳も持たなかったんだ。あの頃のボクは爬虫類が悟性と言語を持っていただけのようなものだったのかも知れないね」

 

「どんな子供だったか少し興味あります」

 

爬虫類か。言わんとしている所は分かる気がする。俺が知るレアさんは爬虫類とは思わないが、しかし纏っている空気がただ事ではない。超然としていて、時に冷徹で、別の生き物ではないかと感じる事がある。

 

それがより純度が高いものだったなら、それはどんな子供だったのだろう。

 

「もう一度言うと、現実は甘くは無い。ただ漫然と子供が欲しいと、子供がいれば幸せになれると、そう思って子供を産む親は程度の差はあれ理想に裏切られて打ちひしがれるものだよ。だけどウチの親はそれは特に大きかったんだろうね」

 

子供がいれば幸せになれる、か。俺自身の養親の事を思い苦笑が浮かんだのを自覚した。

 

「母はね、何処にでもいる平凡でそこそこ善良な女だったんだ。だからボクのいう事なす事一つも理解が出来なかったらしい。でも悪い事に、いや本来は良い事なんだろうけど、それでもボクを理解しようと努力した。母親たろうとしたんだね」

 

「……良い人だったんですね」

 

だが、所謂良い人のする事が常に正しいとは限らない。世の中はそんな単純計算では回らない。レアさんの話ぶりは平然としているようで、母親への悪感情が隠しきれていないように感じる。

 

「そうだね、だから母はボクとまともに向かい合った。今のボクならそんな母の意を汲んで適当に合わせるような事も出来るけど、子供の頃のボクはそんな発想も無かったからね。ボクのする事、いう事に時には否定したり、説得したり、困惑したりしながら、だんだんと」

 

レアさんがそこで左手を掲げて軽く握り。

 

「……」

 

「壊れていった」

 

ぱっと開いた。

 

「初めのうちは朝起きられない。調子が悪そうだ、くらいだった。そして情緒不安定になっていきヒステリックに怒鳴り散らす頻度が上がっていった。そしてぐったりと家事も出来ず、それどころか身の回りの事も出来ずに部屋に何日も引き篭もるようになった」

 

「それで、そのままどうなったんですか?」

 

「躁鬱、っていうのかな?みたいな感じで、全く動けない時が続いてある時活動的になるんだけど、そのタイミングで家から突然出て行ったんだ。父は連絡を取ろうとしたりしていたけど、結局それ以来一度も戻ってこないまま離婚が成立したみたい」

 

「その後は分からず……ですか」

 

「そうだね。その後、精神状態や生活が良くなったのか悪くなったのか……まぁ分からずじまいだけど、母も母なりに上手くやっているといいね」

 

果たして本気でそう思っているのか少し怪しいと失礼ながら思ってしまった。

 

「ボクには抽象的な『普通』って奴はよく分からない。……いや、一応何が普通とされるかは知ってるけれど、何故そうなのかは心底理解出来ない。数学の公式みたいなモノだと思っている。何故そうなのかは理解しなくてもそれを当てはめておけば大抵間違いにはならない」

 

「抽象的ではありますが、極力一般的な普通の言動みないなのはありますからね」

 

何が普通か、考えてみれば絶対的な普通などあり得ない。単純に考えてしまえばつまり。

 

「ようはマジョリティ、多数派の意見や価値観が普遍的、普通とされるだけの事でしょう。マイノリティはいつだって異端として切り捨てられてきたのが現実なのでしょうから」

 

「そうだね。ボクもそう考える。でも大抵のマイノリティ、切り捨てられる少数派は叫ぶね、当たり前を押し付けるなと」

 

それはそうであろう。みな少数派なら間違いなく思う事だ。

 

「少数というだけで迫害される人々は当然そう訴えて然るべきかと思います」

 

俺自身、そう思わずにはいられない。

 

「それは凄く分かる。マイノリティがそう叫びたいのは当然の事だね、でもボクはこうも思う」

 

「わきまえろよ、と」

 

ズクリ、と胸に何かが刺さった。

 

「世の中を回しているのはやはり大多数の意見なんだよ。多数派が正しいとは限らない。でも少数派を優先したって上手く行くはずもない」

 

「もっと言えば単純な話なんだ。十人を殺して一人を生かすか。一人を生かして十人を殺すか」

 

それは、その通りだが、それは余りにも。

 

「少数、だというだけで蔑ろにされて、いいの、ですか?」

 

「残念だけど、それが現実だよ。例えば、同性愛者、両性愛者、といった人達は大多数の異性愛に色々言われる。そして異性愛が当たり前だと押し付けるなと怒りを覚える人がいる」

 

「それはただのノイジーマイノリティだ。日陰物はお天道様に顔向けは出来ないよ。身の程を知って暗闇に生きるしかない」

 

それは、そんな、ただ大多数の理解が得られないというだけ、で。

 

「それは、でも好きで日陰物になったわけでもないのに」

 

「そんな理屈を多数派は考慮してくれないんだよ」

 

正論だ。しかし正論は鋭く人を傷つける。何より痛々しいのは、レアさん自身少数派としてそう言っている事だ。

 

「少々極論だけど、人を殺しまくる人がいるとする。ただその人は悪意ではなく、救済の為に人を殺しているんだ……これはおかしい事じゃない。皆が思う以上に殺す対象を思っての殺人、つまり善意の殺人というのは多いんだ」

 

「……」

 

「さて、そんな善意の殺人者もただの少数派の思想の持ち主として尊重されるべきだとあーちゃんは思うかな?」

 

「それは……」

 

「出来ない。そんな事したら多数派が回す社会は壊れる。もしかしたらその殺人者の方が正しいのかも知れない。でも、それが尊重されるわけはないんだ」

 

「……」

 

「分からない、かな。ただボクはそう思うんだ。日陰物はわきまえるべきだ、と」

 

多数を生かす為に少数を切り捨てるのはやむ終えない。そういう論法はありきたりだ。しかしその手の理屈を言うのはいつだって多数派で、切り捨てられる少数からその言葉が出る事など今の今までないと思っていた。

 

「切り捨てられる少数派でレアさんはいいのですか?」

 

「……あーちゃんは知っているかな?暗い所にいる人から明るい場所はよく見えるんだ。逆に明るい所にいる人には暗い場所は全く見えない」

 

「え?」

 

返ってきた言葉は質問の答えではなく、一瞬面くらってしまった。

 

「ほら、今は夜だよね。そしてこの部屋は照明が点いているから明るい。そこのカーテンをめくって窓から外を覗いてごらん。暗い外の道が見えるかな?」

 

「それは殆ど見えないです」

 

やってみるまでもない。レアさんの言う通り明るい所から暗闇は見えない。

 

「まぁ、街灯に照らされてるいる辺りは見えるだろうけどね。ただ、暗い道に居る人側は明るい窓から覗くあーちゃんが一方的によく見えるだろうね」

 

「……日陰物の方が良く見える、と」

 

「そういう事だね。ボクは、切り捨てられる少数派であるボクがいいんだ。暖かい陽だまりに身を置いて、暗闇でもがき苦しむ人々が眼にも入らずに生きていくより、暗闇に身をやつして苦しんでる皆から目を逸らさずに生きていたい」

 

「レアさんは、多分優しいん、ですね」

 

「それは多分違うよ、もっと利己的なただの性癖だよ。単純に普通で幸福な人はつまらないんだ。皆似たり寄ったりで語るべき物語がない。苦悩して、それでもと立ち続ける人達がボクには実に面白い。それだけなんだ」

 

そこまで言って、レアさんは口元にあるかなしかの嗤いを浮かべた。俺にはそれは自嘲めいて見えた。

 

「そうだね、あーちゃん。ダンテの神曲は読んだ事あるかな?」

 

「ダンテですか?一応一通り目を通した事はあります」

 

古典文学史では外せない偉大な作品だ。地獄、煉獄、天国の三篇に分かれた聖数『3』を基調とした韻文による物語。日本語訳で読んだから三行韻詩が味わえなかったが、語学力があれば原文が読めたのにと思ったものだ。

 

「ボクはあれを読んだ時は楽しかったよ。まず地獄編、ウェルギリウスに案内されダンテが漏斗状となった地獄を降っていく。暗くて、様々な怪物が跋扈する地獄の情景。様々な凄惨な刑罰の描写に地獄の罪人達との対話。読んでいて引き込まれるよね、本当にダンテの巡った地獄が頭の中に浮かぶようで胸がワクワクするような気持ちだった」

 

確かに、俺も読んでいて、地獄篇の描写は圧巻だった。

 

「そして、地獄から出て煉獄篇。陰鬱とした地獄から出て煉獄山の麓に出た時の明るさに解放感。山を登りながら浄化されていく罪!そしていよいよ天国へと昇天」

 

読んだ事のある俺は、何となくこの時点で次に何が語られるか分かってしまった。

 

「そうしてボクは神曲の完結となる天国篇を楽しみに手に取った。だけど、天国の単調で代わり映えのない描写。実があるようでしかし頭に入ってこないベアトリーチェとのやりとり。がっかりしたよ。一言で言って退屈だった」

 

「確かに俺もつまらなかったとまでは言いませんが、天国篇は先の二篇に比べると微妙でしたね」

 

凄惨で描写が多彩で読んでて高揚するような地獄篇と、明媚な描写だが単調で退屈な天国篇は対象的に感じた。まぁ天国と地獄で事実対象なのだが。

 

「そういう事だよ。ただ単調な幸福が続く天国なんて退屈に過ぎる。人は永遠の退屈へ登りたいのだろうか?」

 

レアさんは前髪を摘んでこよる仕草を見せながら言った。

 

「天国へ行く最も有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。って言葉はそういう意味だとボクは思っている。千篇一律な幸福より不幸に四苦八苦した人をこそボクは愛する」

 

なるほど、如何にももっともらしい。だけれども……

 

「本当ですか?」

 

「うん、というと?」

 

「レアさんは、どっちでもいいのでは」

 

その時、レアさんの前髪をこよる手がとまり、肩がおこりのように一つ震えた。

 

「……いや、どすりと刺さったね。不意だったからやられたよ。あーちゃんは凄いね」

 

「恐縮です」

 

先日一本取ったと思った時とは違う、それより深い手答えを俺は感じた。直感だった。レアさんの言ってる事は表面的には嘘ではないのだろう。だが、より深いところではレアさんは遍く全てを愛している、もしくは厭んでいる。そう強く思った。

 

「また話がそれてたね。ごめんね、ボクは話てるとあっちこっちに話が飛んじゃうんだ、コミュ障だから。ともかくボク自身がとことんまともではないみたいなんだよ。だからボクにその気が無くともボクと浅からず関わった人は大抵段々狂っていくんだ、ボクにはどうしてもそういう所がある」

 

レアさんは、無表情に一つ嘆息してそう言い切った。

 

俺もすぐには口を開かず、レアさんもそこで黙した為に静かな間が空いた。俺は瞑目して考える。

 

生か死か。正常か異常か。正気か狂気か。そして、存在か虚無か。

 

俺は

 

俺はこの人と同じモノが見たい。この場所を超えて行きたい。そう思った。

 

ベアトリーチェと共に行くダンテのように、グレートヘンと登るファウストのように。

 

永遠の女性が我らを高みへと登らせる。

 

ただし決してそこは退屈な天国などではない。

 

「レアさんは、たった一人を深く傷付けたいんでしたよね」

 

暫くの沈黙を破るように俺は目を開き、口火を切った。

 

「……?うん」

 

俺は分かっていた。この孤高の女性は誰かを傷付けたいと言ったのではない、レアさんが傷付ける一人とは一人しかいない。レアさん自身だ。

 

だけどーー

 

「俺も一緒に傷を付けて下さい」

 

レアさんは椅子に座ったままギクリと体を起こした。普段は切長の眼が珍しく丸くなっている。どうも驚かせたようだった。

 

「参ったな、さっきぐさりとやられたばかりでこんな事はもう滅多にないだろうと思ったところにさらにがつんとやられた。あーちゃんはボクの考えを悉く超えて行くね」

 

ぽりぽりと指先で頬をかく仕草をして、気を取り直したのかレアさんの眼に冷たさが宿った。

 

「あーちゃんも狂いたい?」

 

「構いません。そもそもあまりまともではないですし、いや、違いますね」

 

多分、俺は

 

「レアさんに睨まれて、もうとうに狂っていたんです」

 

むう、と一つ唸るような声を出して目を逸らす。頬が少し紅潮していた。珍しく照れたような仕草は、いつもの超然とした雰囲気ではなく、見た目道理の幼い少女のようだった。

 

「あーちゃん、実はボクの事好き過ぎるでしょう?」

 

「割とそうですが今気がついたんですか?」

 

でなければこっちだって手土産持って毎夜訪問したりはしない。

 

「おぉう、そうくるか」

 

レアさんは、頬が上気したまたどうしたものかと迷う風に視線を宙に迷わせた。この人好意を向けられ慣れていないな、と俺は直感した。

 

「ならもう結婚しちゃう!ボクと紙切れ一枚に過ぎない契約交わしちゃう!?」

 

「……いいですね、それ」

 

「え、うん」

 

「じゃあ、今夜はこれで」

 

俺は立ち上がると、別れを告げて自室へと戻った。去り際にレアさんが目を丸くしていたのがおかしかった。すぐに結婚の手続きについて調べたくなった。久々にやってやるという熱量が俺の中に生じていた。

 

明けて、いや、暮れて翌日の夜。俺はレアさんの部屋を訪ねるといつも通り温野菜を渡し、挨拶を交わしてレアさんに書類を渡した。

 

「これ、婚姻届です。必要な所はもう記入してあるので、後はレアさんの記入がいる所と印鑑だけですね」

 

「へー、これが婚姻届なんだ。書く内容もそこまで難しくないんだね」

 

「まぁ、必要な所で出来る部分は俺が全部書いておいたので、後はレアさんのが必要な所だけ書いて貰えれば」

 

「でも、籍入れたりしたらなんか後々めんどーな手続きとかあったりしたら嫌だなぁ」

 

本当にめんどくさそうな顔で言ったレアさんに、俺は一つ強く頷いて言った。

 

「まぁ、面倒な事があっても俺が助けますよ」

 

「そっかー、まぁいいか!じゃあもう書いちゃお!」

 

俺が促すと、レアさんはノリでサラサラっと書類に記入して、印鑑を押した。

 

「……よし、問題なさそうですね。明日役所に提出しておきます」

 

「おねがーい」

 

そういいながらレアさんはゆるい表情で手をひらひらと振った。

 

その後、俺は談笑もそこそこにしてお暇した。  

 

さらに暮れて翌日。俺はまたレアさんの部屋を訪問した。

 

「どぞ、これ野菜の煮物です」

 

「お!今日は和風だね!美味しそうだ!あーちゃんのお出汁の味好きだよ」

 

根菜やインゲン、豆等複数種類を適当に出汁で煮込んだだけの割と雑なものなのだがレアさんはいつものように喜んでくれる。ちなみに出汁は丁寧に取って風味と旨味を重視して、調味料での味付け自体は薄口にした上品なものをレアさんは好む。

 

「それと婚姻届出しておきました」

 

「おぉ!それじゃ、ボクらは夫婦になったの!?」

 

「はい、そうなります」

 

俺はこくりと頷いた。

 

「おー、そうかぁ。ボク結婚したのかぁ」

 

そう独言るようにいいながら、レアさんはいつものように台所へと向かい、コップに水を汲んできた。

 

そして俺にいつもの水道水、もとい粗茶を差し出しつつレアさんは大きく息を吐いた。

 

「そうかぁぁーー、……マジで?」

 

「真面です」

 

「結婚したのボク?」

 

「しました」

 

「ボク流石にノリで生きすぎじゃない?」

 

「意外とまともな事いいますね」

 

素で微妙に失礼な感想を漏らしてしまった。

 

「生まれて初めて言われたよそんな事。うーん、ここまでボクの想定を超えていくとはあーちゃんを侮っていたなぁ。ボクが結婚するとか一ミリも考えた事なかったんだけどなぁ」

 

「この天と地の狭間には、俺たちの哲学では思いも知れない事がまだまだある……のかも知れないですね」

 

そう言って俺はしたりとばかりに笑ってみせた。

 

「ボクみたいなのは存在と無の狭間で毒ニンジンを呷るものと相場が決まっているんだけどね」

 

そう言ってレアさんは俺とは逆にしてやられたとばかりに少し苦味が走る笑みを浮かべてペタリと座った。

 

「まー、いいかぁ。別に何が変わるわけじゃないしねぇ」

 

「まぁ、変えて下さいとも言うつもりはないです」

 

そも、それ以前に。

 

「他人が変えて欲しいと言ってレアさんが変わるわけ無いじゃないですか」

 

「そんなのわかんないよー?人は変わるもんだよ」

 

へらっと笑いながらレアさんはそう韜晦する。

 

「じゃあ俺と一緒に暮らして下さい」

 

「やだよ」

 

べ、と舌を出して悪戯に笑う。ほらやっぱり。

 

「冗談です。そんな事はどうでもいいんです。ただ」

 

「ただ?」

 

「一緒に傷付けてくれますか?」

 

「それは難しいかも知れない、あーちゃんを傷付けるのはやはり他でも無いあーちゃん自身なんだよ」

 

「……まぁ、でも」

 

「でも?」

 

レアさんは小さなその手で俺の手を取って包んでくれた。

 

「それでも傷付きたければ、ボクと一緒に来るといいよ。あーちゃんがボロボロになってもう駄目だと行けなくなるまで。あーちゃんと一緒も、ちょっと楽しいから」

 

「ーーあぁ、そうか」

 

やっと分かった。レアさんの言っていた事が。

 

俺は誰でも無く、誰である必要も無い。誰の為でも無く、誰の為にもあれない。きっとそれでいい。

 

「一緒に連れて行って下さい。天国でも地獄でもない、レアさんが創る涯へーー」 

 

………

……

 

闇から抜ける気か?

 

そんなわけないだろう。

 

紙切れ一枚で暗闇から抜けられると錯覚出来るほどボクは愚鈍じゃない。

 

錯覚だよ。暗闇からは誰も逃げ出せないよ。  

 

だけどーーくらがりからあたたかいひなたのひとたちをみて 

 

それだけでボクはわらっていきていけるからーー



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2-1

——愛の中には、つねにいくぶんかの狂気がある。

——しかし狂気の中にはつねにまた、いくぶんかの理性がある。

 

ニーチェ著、ツァラトゥストラはかく語りきより。

 

 

一人の青年が部屋で椅子に腰掛け、パソコンを前に大学へと提出するレポートを纏めていた。

 

青年は旧姓を中島淳。最近に結婚して姓を改めた為、今の名前は野々村淳と言う。

 

何の奇縁か、彼は自分の住むアパートの部屋のお隣さんのとある女性と夜に時折部屋を訪ねて差し入れし、話をするという関係だったが、つい先日関係に進展があり——進展がありすぎたといえるが、入籍する事となった。

 

何故そうなったかといえば、他人から見たら悪ノリとしか見えないだろう。だがそのノリで結婚してしまうだけあって淳と妻という事になる女性は稀代の変わり者である。少なくとも紙切れ一枚の契約の結婚関係などで何かが変わるわけではないという程度には。そういう意味では大して進展したといえる程でもないのかも知れない。

 

淳は目線を上げて、長い間のデスクワークで凝り固まった体を解すように一つ大きな伸びをすると立ち上がった。まだレポートは仕上がった訳ではないが一区切りをつけて、食事の支度をする事にした。

 

彼は手早く自炊を始める。魚焼きグリルでアジを塩焼きにしつつ、もう一品、コンソメでジャガイモや玉ねぎ、ニンジン、セロリにキャベツと言った野菜を煮込む。レシピ的には肉類抜きのポトフというべきか、それとも野菜スープと言った方が正しいか迷う料理だ。

 

炊いたご飯と出来た料理で彼は食事を済ませる。一人の食事は淡々としていて手早く澄ませた。

 

食後にコーヒーを淹れて一服しながら、のんびりと本を開く。こういう豊かな時間を楽しめるようになったのは淳の妻にあたる彼女の影響だろうか。彼は以前は何か常に居心地の悪さや焦燥感に焦がされていた所があった。

 

時計を見て夜も更けてきた事を確認し、淳は本に栞を挟み立ち上がる。夕食に作った肉抜きポトフもどきをタッパーに詰める。これは元々お隣さんへの差し入れの為に作ったものである。彼女は温野菜が大好物なのだ。そして彼女は規則正しい夜行性でこの時間からが自由時間であり訪問するのに最適だ。

 

自分の部屋を出てすぐお隣のドアに立ち、インターホンを押す。ドアに手を掛けると開いていたので彼は入った。

 

これはこういう二人の間の暗黙の決まり事だ。彼は来訪をインターホンを鳴らして告げる。彼女は答えないのでドアを開けてみる。鍵が掛かっていればそれは今日は誰にも会うつもりはないという表示。空いてれば会ってもよしだ。ちなみに彼女はスマホは持ってこそいるが通知オフにして携帯もせずにほぼ放置しているので連絡はつかない。というか敦はスマホの番号やアドレス等すら知らない。

 

「お邪魔します」

 

一言挨拶しつつ、敦は部屋に踏み入った。そこで彼は少し驚愕した。部屋の中の様子が特に変わっていた訳ではない。いくつもの書架に大量の蔵書が収まり、他にはベッドと机と椅子くらいしかない殺風景ないつもの彼女の部屋だ。

 

「おー、あーちゃんこんばんはー」

 

しかし、その住人はいつもと少し違った。普段訪れても机の前で椅子に座って書見をしているというのが常だが、今日はこの部屋の住人の女性、とても小柄で顔立ちも整っているが、あどけなく可愛らしい童顔の為に子供のようにしか見えないーー実際は敦より年上なのだがーー身体も起伏に乏しく、特に胸元は僅かな隆起すらない見事な平坦で全体的にやはり幼い体躯にダボついたTシャツを纏っただけの油断仕切った服装。

 

それ自体はいつもの事だが彼女は、ベッドにうつ伏せに寝そべり、自身の腕を枕にしていた。普段はいつも椅子でしゃんと背筋を伸ばしいるイメージとはかけ離れた佇まい。

 

これが敦の妻に当たる女性、名は、野々村レアである。

 

「ごめんねー、粗茶いるれるねー」

 

普段と同じ、涼しげで高く、でもどこか冷たい声色だったが、夜はテンションが高めの彼女らしからぬ間延びした言葉だった。

 

ぬるっと、身体を起こす。気怠げに上体を起こすと後ろで一房伸ばしている黒い艶やかな髪が背中からさらりと溢れた。そのしなやかな動作には、普段の幼い体躯らしい幼気な雰囲気とは違った色香があった。

 

「いや、それはいいんですがどうしたんですか?体調悪いんです?」

 

「いやー、全然。むしろ好調?だって今日は暖かくて気持ちいいじゃないかー」

 

言われ気付く。レアは別に調子が悪そうではない。最近は少し冷え込んできたが、この部屋は暖房を早くも利かせていて確かに暖かい。レアはむしろふにゃふにゃしている。

 

「あぁ、粗茶はいいですよ。自分で淹れますので、あと差し入れ。野菜だけのポトフ作って来ました。」

 

「あー、じゃあいいかー。ポトフありがとうねーあーちゃん。冷蔵庫に入れといてー」

 

そう間延びした口調のままぽてりと再びベッドの上に腹這いに伸びるレア。正直更に驚きを重ねながら敦は言われた通り台所に移動して、冷蔵庫を開ける。中に入っているのは調味料等が多く食材は余り入っていない。こんな事は初めてである。レアはこれまで差し入れら自分で冷蔵庫に収めていたからだ。こんな勝手に俺が弄っていいのだろうか?

 

そう思いつつ、台所から戻るとレアはベッドの上で変わらずうつ伏せに伸びていた。

 

部屋の中は青リンゴに似たニュアンスが混じる甘い花の香りがした。レアが好んで愛用しているローマンカモミールの精油の香り。

 

そんな中、ベッドに伏したレアは、ただただ暖かい中でこの上なくリラックスしているとしか見えなかった。

 

クスリ、と敦は笑った。こんな姿をレアが自分に見せるのは初めてだった。いつもはむしろ椅子にしゃんと座ってハキハキとしているからだ。これはレアが淳に心を開いてきた証左とも取れるか。

 

「レアさん。今日はいつもよりリラックスしてますね」

 

「んー、まぁ、ねぇ。一応結婚までして?飾るのも馬鹿馬鹿しいでしょ?」

 

そう腹這いにリラックスしながら、レアは答える。以前はよりハキハキした口調だったが、今は呑気だ。

 

「飾っててくれたんですね?」

 

むう、と一つレアは唸る。

 

「そりゃ、何処まで見せていいかボクには分かんなかったもん」

 

「もう、見せてもいいと」

 

「一応とはいえ夫婦でしょー。もう引くなら引かれていいから、あーちゃんには、どんどん見せる事にしたよ」

 

ベッドの上でむー、と小さく唸りレアはそう言った。

 

淳はそのレアの耳元に顔を寄せて言った。

 

「嬉しいですよ。俺としては別に今更引く気もありませんから」

 

ぽっ、とベッドに臥せるレアの頬が小さく紅潮した。うー、とまた小さく唸る。

 

「別に引かれてもレアさんはどうでもいいでしょう」

 

「あーちゃんこんないじめっ子だったのかぁ」

 

レアは頬に赤みを残したまま目を逸らして言った。

 

「まぁ、俺も地を見せていけばお互い様という事で」

 

そういう構えになったのであれば、レアのいう紙切れ一枚に過ぎない婚姻関係を結んだのも多少は意味はあったのかも知れないと敦は思った。

 

「もー、それでいいよー」

 

レアはベッドに伸びたまま投げやりに言った。

 

「どうせ暫くは一緒なのですからね」

 

「でもあーちゃん。一緒にいる事は出来るけれど、一緒に生きる事は出来ないよ。そこは勘違いしちゃいけない」

 

そこでレアは淡々しながらもはっきりした口調で言った。彼女が真面目に意思や思想を表示する時の声色だ。

 

「というと、その二つは違うという事ですか?」

 

それが分かっている敦も拝聴する姿勢に入る。それに曲がりなりにも夫婦関係になった事に対するレアのここでの考えは、良く理解しておくのが関係を続ける上で重要だと考えた。

 

「まるで違うよ。誰かと一緒にいる事は出来る。でも生きる事も死ぬ事も自分でしか出来ないと言うだけの当たり前の事だよ」

 

敦は床に座り、一考して言葉を返す。

 

「良くどんな人も一人では生きられない。と月並みな言葉はありますがそれは違う、と?」

 

「そうだね、断言出来るけど違う。ボクに言わせればどんな人も一人でしか生きられない」

 

レアは即答した。リラックスした姿勢で漠とした目線を敦に向けながら。

 

「例えば今ボクはあーちゃんと一緒にいるけど、ボクが今生きてる主体は他ならぬボクだ。あーちゃんはボクの変わりにボクを生きられると思う?」

 

「そりゃあ無理ですね。レアさんはレアさん以外には生きられませんよ」

 

「そうだね、当たり前の話だ。その人の生はその人しか生きられないし、その人の死はその人しか死ねない」

 

「……その通りですね」

 

否定は出来ない。敦がレアの生を生きる事は出来ず、レアの死を死ぬ事は出来ない。逆もまた然り。

 

「だからボクは寂しいとか、誰かと一緒に生きるとか死ぬとか言う人がよくわからない。戯言にしか思えない。誰と一緒にいようが誰も居なかろうが、自分が生きる事と死ぬ事は自分でしか出来ない。多分、そんな当たり前の事も分からない人が多いんだと思う」

 

「孤独を味わえない人は生きる事の奥深さも味わえないだろうね」

 

考えれば当たり前のことである。誰も他人の人生や死を肩代わりは出来ないのだ。どんなに助けたくても、その人の代わりになる事は出来ない。誰かの先は本人しか生きられず。誰かの痛みは本人にしか痛まず。誰かの快楽は本人しか気持ちよくなく。誰かの喜びは本人しか喜べず。誰かの悲しみは本人しか悲しめず。誰かの死は本人しか死ねない。どう否定したくてもこればかりは覆せないのだ。

 

「なるほど、つまり」

 

「人は絶対的に一人なんだよ」

 

「……そうなのでしょうね」

 

「だからボクと一緒に居たければ、あーちゃんかボクが嫌になるまでは一緒に居ればいいよ。でもね、忘れないで」

 

レアはベッドにうつ伏せのまま手を伸ばして敦の頬を撫でた。

 

「あーちゃんもボクも一人だ」

 

………

……

 

その後敦は四日の間レアの部屋を訪ねなかった。レポートに集中したかったのと、レアはある程度一人で放っておく必要があるからだ。とにかく他人の煩わしさを嫌い、一人の豊かな孤独を好む女性だと理解していた。仮に毎日訪ねたとしても会えるのは二日に一回か三日に一回くらいで他の日は玄関に鍵がかかっているため会えない。

 

「どーぞ、粗茶ですが!」

 

「頂きます」

 

そうして一仕事を終えた敦は日が沈み暫く経った事、五日ぶりにレアの部屋を訪れていた。今日は、先日とは違い普段通り椅子で読書していたレアに迎えられて、いつものもてなしを受ける。

 

レアの得意のもてなしはコップに注いだだけの水道水を粗茶と言い張り出す事だった。彼女なりのユーモアであろう。敦はいつものそれを受け取り、僅かな塩素臭さのある水道水を一口飲んだ。

 

レアはきしりと僅かに椅子を軋ませて座ると、かけていた眼鏡を外して机に置いた。ふと敦が見ると机の上に雑多な本が積まれていた。普段は机の上は割とスッキリしているから少し目を引く。背表紙が見える範囲だとアウグスティヌスやカント、アリストテレス、フッサールやベルクソン等。珍しい事にノートも開いたまま置いてある。

 

「何か調べ物ですか?」

 

「あぁ、これ?これまではそうでもなかったんだけど、昨日急に時間についてびっくりしてね。時間に睨まれたというか、とにかく気になり出したから少し時間について研究してみようかと思って、参考資料だね」

 

「時間、ですか」

 

なるほど未だ現代の学問でも解き明かせない、如何にも哲学的分野だと思った。

 

「首尾はどうです?」

 

「もー全然分かんない!全くさっぱり分かんない!時間って何だろうね?過去や現在や未来って?こんなにも全く分からないのかと我ながら驚いたよ!」

 

「まぁ、何って言われたら少なくとも俺も分からない事は確かですね。でも本には何か答えになりそうなものは無かったんですか?」

 

「本の中にはあくまで彼らが考えた時間論が書いてあるだけだから。これは他人の考えだ。あくまで参考だよ、例えばベルクソンがこう言ってるから時間はこういうものなんだ。じゃ意味ないでしょ?気になったんだから自分で考えなくちゃ」

 

「なるほど、それもそうですか」

 

敦は一つ頷く。確かに他人の考えを借用して答えです。で終わりなら研究ではないだろう。つまりそこからレアなりの考えを生み出す最中という訳だ。

 

「じゃあ今のところレアさんの時間に関しての考えはどうなのですか?」

 

「いやー、取り止めなく考えているんだけれど、とっ散らかっちゃってまだまだまとまんないから話せるような段階でもないんだよねぇ」

 

「もの凄い感覚的に思いついた事で一つ言えば、イデアは永遠だよね?だからイデアに時は無いと思ったんだけれど、ここら辺をカントのなんかを見てみると案外この感覚に近い事言ってて、時間は人間の直感の主観的条件であり、現象の一切の物は時間の内にあると言っている。つまり時間はそれ自体自存するものではなく客観的な物に付属する物としては無である。つまり物自体には時間は還元されないという事だからやはりカントの物自体はかなりプラトンのイデアと通じてるなと。ただ物体に時が帰属されないというのはボクの今のことろのとりあえずの徒手格闘での考えとは違っていて……」

 

トントンと指先で机を叩きつつ、爛々とした眼を中空へ向けて考えを整理するように話していたレアがふと我に帰る。

 

「ごめんごめん。こんな感じで自分でもさっぱりだよ」

 

「確かに聞いていてもさっぱりでしたね」

 

クスリと笑って敦は言う。しかし分からないなりに分かった事は一つある。

 

「ただ、やりがいはあるみたいですね。今のレアさんは凄く楽しそうです」

 

「分かるかい!実は昨日からワクワクしっぱなしでね。何もしていない時でも時間を思っているくらいだよ!」

 

時において時を思うとは中々面白いアイロニーかも知れない。

 

「でも、中々難しいでしょうね。時間なんてまだよく分かってない事ですし」

 

「そりゃそーだよ!だって簡単だったらつまらないじゃないか。ゲームにしてもパズルにしても難しいから面白い」

 

「なるほど、確かに簡単だったらやりがいがないですね」

 

ふむ、と敦は一つ頷く。それにレアは如何にも楽しげに目を輝かせて答えた。

 

「そうだね。良くさ、簡単に分かる何々だの、誰でも分かる何々だのの入門書とか、明日からすぐ使えるテクニックとかのハウツー本とか人は好きだよね。あれはボクには分からない。むしろボクが書くなら誰にも分からない何々とかの入門書とタイトルに付けるね」

 

実に皮肉屋な所のあるレアらしいと思い敦は笑った。

 

「それは逆に読んでみたくなりそうですね」

 

「それがいーんだよ。だって芸能、学問、スポーツ、どんな分野にしても自分一人じゃ一生全身全霊をかけてもまるで極め尽くせない程に奥深く難しい。だからこそ人は夢中になるんじゃないか。なべて世は面白き事ばかりだ」

 

「簡単なものばかりだったら、確かに人生飽きてしまうでしょうからね。時間の事も、レアさんなりに何か分かったら是非聞かせてください」

 

「そーだね。いずれまとまったら聞いてもらおうかな。あーちゃんと話すのはボク自身いい整理になるからね」

 

喜んで、と敦は応じて水を一口飲んだ。なんだかんだ彼はレアの話を聞くのが好きなのだ。

 

「一緒にご飯作りましょう」

 

「へ?」

 

そして少し間が空いた所で唐突に話を変えて敦は提案した。珍しくレアは面食らったような声を出した。

 

「まだ夜ご飯の時間じゃないよ?」

 

「レアさん、いつも何時くらいに食べますか?」

 

「起きてから大体18:15分から夕食で、夜は23:50分に食べるけど」

 

レアは完全な夜行性で人気のない夜を活動時間帯としているが、几帳面なくらい規則正しい。決まった時間以外に間食等もしない。

 

「じゃあその時間に合うように今日は、一緒に食べましょうよ」

 

普段よりやや推し強く敦は言った。曲がりなりにも結婚している割にはほぼ他人というくらいドライであるが、レアも割と自分を見せていく姿勢のようなので、敦も多少したい事くらい提案してしまおうと考えた。レアの場合嫌なことは嫌だと言うからあんまり遠慮も要らないかとも考えたのだ。

 

「あーちゃん、一緒に作って食べたいの?」

 

「はい」

 

「食材がないけど……」

 

「じゃあ買いに行きましょう」

 

小気味よく答える敦に、うーんと唸るレア。

 

「めんどーくさいなぁ」

 

難色を示す、これは旗色が悪いかと敦は思ったが、レアは少し考える様子を見せる。

 

「あー、でもどちらにせよ買い物も食事の用意も必要かぁ。じゃあいこーか?」

 

「そうしましょう!」

 

よし!通った。そう敦は思った。ちらと時計を見る。まだ近くのスーパーは営業時間帯だ。

 

「じゃあ先に買い物行きますか、食事の時間にはまだ早いけど」

 

「そだねー、あ、ちょっと待って着替えてかなきゃ」

 

「ちょ!」

 

言うや否や部屋着であるだぼだぼのロングTシャツを脱いでしまうレア。淀みの無い脱衣に敦は静止の声が中途半端に止まってしまう。上はスポーツブラに下は普段着らしい飾り気ないシンプルなパンツはどちらも爽やかなミントブルーだった。服を着ているとただただ小さくて幼く見える体躯だが、裸になってみると乳房らしきものは全くないものの腰まわりの曲線に僅かに成熟した女性らしさが無いことも無かった。

 

「レアさん、人の見てる所で着替えは……」

 

女性的にどうなんだと思ったが微妙に失礼なようで敦は言い淀む。

 

「んー?別にいいでしょ。全部は脱がないよ?」

 

そう言いつつも、むしろ下着も変える必要があるなら躊躇なく脱ぎ捨てそうだと思わせる程には迷いがない。

 

「いや、下着でも……」

 

「まぁ、いいでしょ。いちおーボクら夫婦でしょう?そんか細かい事いいっこなし!見たく無ければ後ろ向いてるといいよー」

 

む、と敦は言葉に詰まる。確かに曲がりなりにも夫婦であるというのは確かだ。そこを持ち出してくるあたりレアの意地の悪さが見える。

 

そう言われたならと、逆に敦は目を背けるどころかレアの着替え姿を凝視した。

 

「レアさん、綺麗な身体してますね」

 

「そうでしょ?ボク見てくれだけはいいからね。身体付きもいいでしょ?」

 

逆に意地悪したくなって敦は言ったが、レアの返答はむしろ若干得意げであった。そう言えば以前から自分の事を見てくれはいいと言ってたから容姿には自信があるというか、自分の身体を気に入っているようだと敦は思った。もしくは逆に主観的評価を排した客観的な価値観を言っているのかも知れないが。

 

「おっぱいは全然ないんだけどね、身体もちっちゃいから」

 

ぴっとスポーツブラの端を指で伸ばしながら舌を出してレアはそう言った。確かに二次成長期前の女の子かというくらいに平坦だ。それでいて腰つきが少し女性らしいから僅かなアンバランスさが倒錯的な美を生んでいる。

 

「ブラジャーいるんですかそれ?」

 

敦のその言葉は意地悪とかでは無く、素で疑問が出てしまったのであった。言ってから失言だと気づいた程に。

 

「要らないと言えば要らないんだけど、動く時先っぽが擦れて痛くなる時があるんだよね」

 

返答は全く怒った様子も無かった。普通に地味に生々しい事情を教えてくれた。

 

そんな事を話つつレアは淀みなくキャミソールを肌着として着ると、外出用の服に着替えた。敦は初めてみる服装だった。卸したてだろうか。

 

「はい、いいよー。行こうか買い物」

 

「じゃあ、行きますか」

 

敦もグラスの水道水を飲み干して立ち上がった。そうして二人連れ添って、部屋を出る。

 

「あれ?」

 

「ん?」

 

そうして部屋を出て歩き始めた所で敦はおかしな事に気がついて立ち止まる。

 

「レアさん鍵閉めました?」

 

「閉めてないよ」

 

「え?」

 

「ん?」

 

敦はレアが自室の鍵を閉めなかった事に気がついて詰問した。普段自分が訪れる時鍵を掛けている事が度々あるのに。

 

「何故閉めないのですか?」

 

「ボクは居ないから閉める必要はないでしょ?」

 

「え?」

 

「ん?」

 

敦は少し考える。考えて何となく分かった。レアは、外敵を入れない為に鍵を掛けるのではなく、自分が内に閉じこもるために鍵をかけるのだ。手段は同じでも目的が違う。だから自分が室内にいる時は鍵を掛けるが、自分が室内に居なければ自身の孤独が犯される訳ではないから鍵を掛ける必要がない。そういう事だろうと敦は理解した。

 

「レアさん。鍵は閉めましょうね」

 

「え?でも必要ないよ」

 

「泥棒とか入ったら困るから鍵かけましょう」

 

「別に盗まれて困るものないよ?」

 

「本とか盗まれたら困るでしょう?」

 

「うーん?困る、かも?」

 

「それで警察とか呼んだり呼ばれたりしたら凄く面倒くさいですよ」

 

「うーん。それは面倒だなぁ」

 

「じゃあ鍵かけた方が面倒がないですよ」

 

「そうかなぁ?まぁじゃあ閉めよう」

 

敦の子供に言い聞かせるような言葉に、レアは素直に従って部屋に戻り鍵を取ってきて施錠した。

 

「これからは出かける時鍵を閉めて下さいね」

 

「んー、覚えてたらそうするよ。ありがとうねあーちゃん」

 

共に歩き出しながらそういうと、レアは素直に頷いた。変に老成して感じる事もあれば、酷く幼稚にも感じる本当に妙な女性である。そして覚えてたらという辺りに不安を残す。まぁ、あまり気を回しすぎてたらレアという女性とはやっていけるわけもないのだが。

 

カツ、カツ、と二人でアパートの階段を降りて、表通りに歩き出す。こういう人だからやはりあまり遠慮はいらないのかも知れない。

 

「一緒に行くなら折角だから手を繋いで行きます?」

 

手を差し出しながら敦は提案する。

 

「やだよ。片手を相手に取られてたら危ないでしょ?転んだらどーすんの」

 

ぺし、と払われた。やはり嫌な事は嫌と拒否する。まぁこういう人だから遠慮はやはり要らない。ただ、配慮は必要だろう。真っ当な価値観をした普通の人間ではないのだ。

 

普通の人間の扱いをされると時には、傷付く事人もいる。それは敦自身も知っていた。

 

こうして並んで外を二人で歩くというのも初めての事だと敦は思った。とにかくレアは引きこもりがちで外では滅多に姿を見ない。隣を行く彼女は普段の何処かぬるっとした気味の悪さのある動きで歩く。

 

と、思ったが、いつの間にか隣では無く前を行かれていた。敦は歩みを早めて隣に追いつく。しかし少し気を抜くと置いてかれそうになる。

 

速い!?並んで歩くのは初めてだが、妙だ。レアは速く歩いているようには見えないし感じない。なのにそのぬるっとした歩みでスルスルと滑るように先に進んでいってしまう。速くないのに速い。そもレア自身小柄で敦より歩幅等もかなり小さい筈なのに、それでも敦が早歩きしないと置いてかれてしまいそうだった。

 

レアの独特な印象を受ける歩き方や身のこなしは武術を修めているからとは知っていたが、初めて並んで歩いてその奇妙さに気がついた。速く見えないのに速く。しかも距離感が分かりにくいのかいつの間にか離される。

 

とは言え、敦が油断なく早歩きすれば着いて行けるくらいだ。別に人通りの多くない道だったのは幸いだった。敦は知る由もないが人通りが激しい所だったなら、レアはこの歩みに加えてぶつかりそうな人を体を半身に切るだけで躱して真っ直ぐ歩いていくので、素人では到底着いていけないからだ。

 

なお、敦が少し着いて行くのに苦労している事に気付かないが、レアには特に悪気はない。彼女は他人と連れ歩く機会が今までほぼ無かったから特に人と歩法が変わっている自覚が無いのだ。

 

「あれ?野々村か」

 

そうして二人でスーパーへの進んでいた時、ふと横合いから若い男の声がかかった。自身の名が呼ばれた事と相手の意識が自分に向っている事に気がついてレアは立ち止まった。一拍遅れて敦と足を止める。

 

「はい?」

 

「野々村、だよな?」

 

レアは声を掛けてきた人物に向き直り、答える。声を掛けてきた人物は見た目からおそらく二十代半ば頃だろうか、明るい髪色にやや派手で片耳にピアスをした若者らしいファッションの遊んでいそうな感じの若者といった風貌だ。レアにそう問いかける口調は半ば確信的だった。

 

「はい、野々村ですよ」

 

「おぉー、やっぱりか!久しぶりだな!オレだよ、高遠だ、覚えてるか?」

 

「えー、と。たかとーさん?」

 

レアが認めると、高遠と名乗る男は旧友に会ったという風に明るくそう続けたが、レアは全くピンと来てない様子で目を細めてじとっとした目付きで相手を見据えていた。一見睨んでるのかとも取られかねないが、単に弱視のレアが相手の顔や姿に心当たりがないか見ているだけであろう。

 

「あー、覚えてないか?同級生だったから学校じゃ何回か同じクラスになったんだぜ」

 

「んー?ごめんなさい。覚えてない……」

 

どうも級友らしい男を前に少し考えていたが、諦めたように。若干バツが悪そうにレアは答えた。

 

「やっぱり覚えてねぇか。まぁ野々村は昔からなんか飛んでる奴だったしな。しかし変わらないな、昔のまんま」

 

高遠は特に気を悪くした様子も見せなかった。ただレアの姿を一瞥してそう感想を漏らした。幼い外見はどうも学生時代から変わっていないようだ。級友の再会に敦は口を出さずに一歩引いて静観していた。

 

「成長がないんですよ。中身も外見も」

 

「中身は知らねぇけど。てか、タメ口でいいよ。クラス同じだった時は普通に話してただろ」

 

少し自虐的にレアは返す。それに高遠は他人行儀な口調にツッコむ。レアも覚えていない相手に微妙に距離を測りかねたのかも知れない。

 

「そう?じゃあそーするね。後ボク、結婚したからもう野々村じゃないんだ」

 

「え?お前結婚してたのか!いつ?」

 

「つい一週間ほど前かな?ところで、あーちゃんの苗字、っていうかボクの苗字ってなんだっけ?」

 

報告しつつ、レアは敦に話を振った。どうも彼女は夫となる相手の名前も覚えていなかったようだ。

 

「あぁ、レアさんの名前は野々村のままですよ。俺が野々村姓になったので」

 

「えっ?じゃああーちゃんお婿さんだったの?」

 

「そうなります」

 

そういえばちゃんと伝えてなかったと思いつつ敦は報告する。なお、彼が野々村姓にした理由は二つ。野々村という名前の響きがーーちなみに彼はレアの名の方しか知らなかったので婚姻届の記入を見て初めて野々村という姓を知ったーーなんだか可愛らしくてレアに似合っていると思ったので変えたくなかった事。

 

また、敦自身養子として貰われた際に一度改姓しているので、いっそ二度姓を変えてしまうのも面白いと思った。野々村というレアと同じ姓を名乗るのもいいと思った。後、おまけ程度の理由だが、面倒くさがりのレアは改姓したら煩雑な手続きに辟易としてしまいそうでもあると思った。

 

「何?そちら旦那さん?」

 

「そだよー」

 

「初めまして、野々村敦です」

 

敦はそう高遠に名乗り、挨拶した。高遠はそんな敦を一瞥して返礼する。

 

「あぁ、初めまして。高遠っていうんだが、それはともかく野々村。色々言いてぇ事があるんだがいいか?」

 

「なぁに?」

 

そう前置きする高遠にレアはやや間延びした口調で聞き返す。考えようによっては男受けを狙った女がやるあざとい口調のようだが、あざとさが感じられず童女のような印象なのは天然なのだろう。

 

「まずお前、自分の旦那の姓名覚えてないのかよ!そんで自分の姓が何に変わったか把握してないのかよ!それ以前に嫁入りだか婿入りだか把握せず結婚しているのかよ!色々おかしいだろ、何なんだお前!?」

 

そして高遠は怒涛の勢いでツッコミを入れた。何ならおかしい所は他にいくらでも挙げられるだろう。確かに何もかもおかしい。

 

「まー、細かい所は別にどーでもいいじゃない?たかが結婚だし」

 

はー、と高遠は唖然としたのか単なる呆れか困惑か、一つ息を吐いた。

 

「あー、変わってねぇってのは訂正するわ。昔以上にすっかり訳の分からない感じになってたわ」

 

「そう?ボクもちゃんと成長してたのかな」

 

「成長って言うのかそれは」

 

くっ、と高遠は一つ笑って皮肉げに言った。

 

「まぁいいや。久々に会えたが元気そうで良かったぜ。同窓会でもあったら来いよー。機会があったら酒でも飲もうぜ」

 

「気が向いたらねー」

 

高遠はいいつつ踵を返した。夫の前で女と酒を酌み交わそうと誘うのは考えようによってはなんだが、それにレアは答えた。傍から聞いている敦は多分レアが気が向く事は無さそうだと思った。

 

「と、そうそう」

 

歩きかけた足を止めて高遠は振り返って言った。

 

「結婚おめでとう。お二人さん」

 

「ありがとーね」

 

「ありがとうございます」

 

最後に笑って祝福を告げた高遠は、レアと敦からの返礼を聞き届けずに歩き去っていった。レアが背中にばいばいと手を振る。

 

「いい人でしたね」

 

「そだねー」

 

「ところで思い出せました?」

 

「いやー、誰だったんだろうね?」

 

「……逆にレアさん。昔の同級生で覚えてる人は?」

 

「そりゃ、覚えている人くらいいるよー。えー、と……あれ?」

 

敦の質問に少し考えてレアは固まった。難しい顔で記憶の中を探っているようだった。

 

「あれぇ?まぁいいか」

 

そして諦めた。どうやら一人も出て来なかったらしい。

 

「むしろ良くボクなんかの事覚えている人いるよねー。目立たなかったと思うんだけど」

 

「むしろクラスメイトには滅茶苦茶印象に残っているんじゃないですかね」

 

苦笑いしながらそう敦は言った。レアは本人は普通にしているつもりでも良くも悪くも印象には残りそうではある。

 

そんな雑談を交わしつつ、スーパーに到着する。入店してレアは買い物カゴを迷いなく取る。

 

「持ちますよ」

 

「ん、ありがと」

 

端的なやりとりで敦はレアからカゴを受け取る。生鮮食品売り場に入った所でレアが細かい物を見るためだろう、ポケットから出した眼鏡を掛けつつ口を開く。

 

「で、ご飯作るのはいいけど何作る?」

 

とりあえず大雑把でも何を作るか考えがないと何を買うべきか見通しがつかない。というか買いに出る前にメニューを決めるべきだったとも言える。いい加減なレアはともかく敦がそこに気がつかなかったのは勢い任せ過ぎたきらいがあろうか。

 

「そうですね、レアさん何食べたいですか?」

 

「そりゃあもちろん」

 

「野菜料理ですよね」

 

さも得意げに台詞を奪われて、レアは少しむくれた。

 

「そーなんだけどさー。あーちゃんやっぱり意地悪だ」

 

「すみません。具体的に何がいいですか?」

 

「まぁ、手間がかからないものでいいよ?根菜と葉野菜が食べられれば」

 

「じゃあシンプルにグリルでいいですかね?」

 

「いいよ。あーちゃんの焼き野菜は甘くて好きだよ。あーちゃんは何食べたい?」

 

「そうですね……ってか、レアさんが作るんですか?」

 

「そだよ?だって一緒に作ろうってあーちゃんが言ったんじゃない」

 

言ったは言った。しかしまさかレアが料理するとは真面目には思っていなかった。

 

「レアさん、料理出来るんですか?」

 

「出来なくはないよ?というか難しいのでも無ければレシピ見て食べられるくらいのもの作る程度なら誰でも出来るでしょ?」

 

確かにそのくらいは出来る人は多いだろうが、レアは出来ないと思っていたとは敦は流石に失礼過ぎて言えなかった。出来合いとかで済ませてそうで自炊イメージが無かったのだ。

 

「あー、じゃあ。魚が食べたい気分ですかね?」

 

「魚ねー。洋と和なら?」

 

「まぁどっちでも」

 

「んー、じゃあこっちも簡単に作っちゃうよ。ムニエルとかでいいでしょ?」

 

「いいですね、美味しそうです」

 

そんな風に話しつつ、敦は人参を手に取りながら、ふと思った。

 

「なんか、割と新婚っぽい会話ですね今」

 

言われたレアは、敦を見て首を傾げて少し考えてから返す。

 

「そーかも?まぁ実際に一応新婚なんだから別におかしくはないでしょ」

 

「そうですね」

 

くっ、と一つ笑って敦は答えた。実際にはこの人と共にスーパーでこんな会話を繰り広げているというのはおかしな感じだと敦は思いながら買い物カゴにニンジンを放り込んだ。

 

「まって、あーちゃん。こっちの方がいいよ」

 

そう言って陳列棚を目を細めて眺めていたレアはカゴから敦の入れたニンジンを別のニンジンに取り替えた。

 

「鮮度が悪かったですか?」

 

「いや、どうだろ。多分こっちの方が美味しいよ」

 

何か野菜の目利きのポイントでもあるのだろうか。敦は自分が選んだニンジンを手に取り眺めて、レアが選んだものと見比べる。

 

「俺には見た目には変わりが分かりませんが」

 

「そりゃそうでしょ!ニンジンなんて見かけどれも同じじゃないか」

 

「じゃあ何故美味しいと分かるんです?」

 

「見れば分かるでしょ?」

 

「は?」

 

「え?」

 

何を言ってるんだこの人はと敦は間抜けた声を出し、レアも何かおかしいのかと首を傾げる。

 

まぁ、いいかと気を取り直して敦はキャベツを二つ手に取る。

 

「ではこの二つではどちらが美味しいですか?」

 

「こっちはかなりいい感じだね!イキイキしてる、美味しいんじゃないかな?」

 

敦の左手側のを指差してそういうレア。イキイキというほどの違いがやはり敦には分からない。まぁ、この人の言う事だからなんだかんだ当てになるかと言われた方を選ぶ。

 

せっかくだからとその後の食材を陳列からどれがいいかと選定をレアに任せた。レアは少し眺めただけで割と無造作に選んでいった。

 

選ばれた食材と選ばれなかったものを見比べてみても、どういう基準なのかやはり敦にはよく分からない。確かに他と比べ色艶がよく見えるのもあるが、大抵は似たり寄ったりだ。むしろ選ばれたものの中にはやや形が歪であえて買う人が余り居なさそうなものもあった。

 

だがまぁ、レアが他人とは違う感性、鋭い感受性を持っている事は敦も分かっている。何かしら根拠があるのだろう。もっともレアが選んだものと弾いたものを食べ比べてみる訳でもないから本当に選ばれたものが他と比べて美味しいのかは謎ではあるが。

 

そう言えば前に部屋にお邪魔した時にあった事を思い出した。レアが用を足しに席を外した間、手持ち無沙汰なので何気なくレアの机の上に無造作に置かれていた数冊の本の中の一冊を手に取り捲って少しだけ内容を読んで、元通りに置いた。

 

戻ってきたレアが椅子に座りつつ机の上を一瞥して、あーちゃんこの本、気になるの?。と敦が少しだけ手にした一冊を指差して言ったので驚かされたのだ。

 

何故そう思ったのかと聞いたら、読んだでしょと言い切った。敦は僅かに本が動いていたのを見逃さなかったのかと思ったが、曰く、あーちゃんの手癖が付いていた、との事。良くは分からなかったがあの人は自分の私物に他人が触れると気付くくらいには鋭い。目利きも当てになるのやも知れない。

 

そうして大体の食材を購入してスーパーを出る。レアの購入した分の袋がそこそこ大きいので持ちましょうかと敦は一応言ったが、すげなく断られた。この人は自分の持分を侵されるのは嫌がるタイプだから何となくそうなるだろうと思った。

 

その癖、逆にこちらの事は犯してくる事もある。購入時には会計を別々にするのが面倒くさいと言って全て自費で払おうとした。そこに面倒くさい以外に全く他意がないので、ある意味で自分本意な人である。

 

荷物を持ったまま敦は早足でレアについていきアパートに帰宅。レアの部屋へと共に戻り食材を置いた。

 

「んー、まだご飯の時間には早いねぇ。どーする?」

 

レアは本日二度目の粗茶ならぬ水道水を敦に渡しつつ、椅子に座り言った。

 

「もう暫くしたら調理を初めればちょうどいいと思いますよ」

 

敦も腰を下ろし、渡された水道水を一口飲みつつ答えた。

 

「じゃあ何かお話しでもしてよう!何がいい?」

 

「そうですねぇ……」

 

「あーちゃんって冷たいとか言われない?」

 

レアは提案するや否や問い、そしてそれに何か敦が答えようと考えたところで、結局自ら話題を振った。

 

「あー、何回か言われた事はありますね。ドライとか。レアさんはどう感じます」

 

「確かに一般的な感覚の人からすると冷たいとかドライと思われるんじゃないかなあーちゃんは」

 

自覚はある。人の情は勿論持っているが、しかしそれを、そもそもあまり良いものと思っていないし、レア程ではないにせよ人と近すぎるのは煩わしいと感じるタイプだ。

 

「レアさんは冷たい俺は嫌ですか?」

 

クスリと一つ含み笑いを漏らしてレアは答えた。

 

「まさか、あーちゃんの温度は好きだよ。じゃなかったら今ここに居られる訳ないでしょ」

 

「ありがとうございます」

 

知っていた。少なくともベタベタと人好きするような人物だったら一歩たりともレアの部屋等入れる筈がない。そのくらいは分かるくらいには敦もレアを理解している。

 

「そもそもボクは温情溢れる善人が嫌いなんだよ」

 

「でしょうね」

 

今度は敦が一つ笑って答えた。それも知っている。レア程純度が高くないにせよ。敦もそう言った人間を煩わしいという気持ちはある。二人は少なからず似た者同士な所があるのやも知れない。いや、似た者夫婦というべきか。

 

「以前話したね。世の中は多数派が回している。少数派はわきまえるべきだ、と。けれどボクだって切り捨てられ続けてきたマイノリティとして、思う所がなかった訳じゃない」

 

「……それはそうでしょうね」

 

以前話した時にはレアが語らなかった事だ。切り捨てられる少数派の思い。それを語る気になったのは彼女が敦に心を少しずつ許している証左か。

 

「……昔、まだ子供の頃。家族で植物園、所謂フラワーパークに行ったことがあるんだ。そういえばまだあの頃は母もいたっけ」

 

少し遠い眼をしてレアは語り出した。懐かしい記憶に、母親。敦は以前聞いた話を覚えている。レアを愛そうとした故に、レアに狂い、愛しきる事が出来ずに決別したという母親。

 

「色とりどりの花がパークの中に畑のように、いや文字通り花畑だね。咲いていたのを眺めながらボクは思った」

 

「これはなんなんだ?と。この庭園はなんの意味はあるのか、と。いや、意味が分からない訳じゃなかった。表向きそれは美観を呈するものだとはボクも知っていた」

 

「……」

 

「でも、ボクは人為的に理路整然と咲いた色とりどりの花が、ちっとも綺麗とは思えなかった。なんだろうこれは?と思った。ボクはむしろ、ただ学校に行く道すがらの原っぱにポツポツと咲いている蒼い矢車菊の方がよっぽど綺麗だと思った」

 

こくり、と敦は一つ頷いて、先を促した。ここに自身の言葉は要らない。ただレアの話を聞きたい。

 

「ボクは以前は、そう言ったものを綺麗だとか、こういった事は良くないとか、これが欲しいとかそういう人の価値観は一種の韜晦のように思ってたんだ。ただ、皆そういう方便にしたがって振りをしているだけだ、と」

 

「それは……」

 

敦はいくらなんでもそれは、と思って口を開いた。それをレアが引き継いだ。

 

「そう、それはボクが愚昧だった」

 

「皆は、それらを本気で美しいと思っている。家族と共に花を見に行き初めてそれを知った」

 

「……驚いたよ。そうして母と上手くいかなくなったのもそれからだった。面白いものでね、ボクはボクが当たり前だ。別に周りも自分もおかしくないと、いや、違うかな。何がおかしいという発想もない内は案外そんなに問題なかったんだよ」

 

「……そういうものですか?俺の場合は最初から噛み合わなかったですけど」

 

ふむ、とレアは一つ頷き続けた。

 

「そりゃボクとはケースは違うからね。ボクは実親、あーちゃんは養親。それにあーちゃんは最初から実のお母さんを意識していたんでしょ。ボクとは違って最初から自分が、あるいは養親さんが間違えていないかとは思っていたでしょう?」

 

それはそうだと敦は頷いた。確かに敦の場合最初の一歩から狂っていたのは自身自覚している。

 

「だからボクの場合はそれが切っ掛けになったんだ……母はボクを異端視し始めていた。そこにボクが自覚を持ち初めたら決定的だよ。だってそうでしょ?相手がおかしいと思ってても相手がそうではないと居直ってるなら何も言えないかも知れない。けど、相手と自身がおかしいと思い始めたなら、心置きなく攻める事が出来る。自他共に認めるというやつだからだね」

 

「……ボクは善人が嫌いだ。彼らは善意なら相手の意思を無視して押し付けていいと思っている。……それでボクは思い知らされる。大多数が持つ価値観。良い悪いはボクより先なんだ。ボクがどう感じるか何て関係なく、皆にとって良いものは良く悪いものは悪いんだ。人それぞれ、なんてよく言われる事は詭弁だ。善人は自分達とは違った価値観をそのまま許容してはくれない」

 

「……」

 

敦にも少なからず共感出来る話だった。そして少し耳が痛かった。善意であるなら押し付けても良い。いや相手が遠慮しても押し付けるべきだ、何故ならそうするのが世の中規範だから。そういう風に敦もやってきた部分がある筈だ。

 

「多分誰しも多少なりとも考えた事はあると思う。何から何までそうあるべきという価値観の持ち主なんてそう居ないからだ。ただボクという異邦人は悉くがそうだったんだ」

 

「悉く、ですか?」

 

レアは、一息吐いて間を作ってから話を続けた。

 

「そうだね、悉く、だ。今の大多数が良いとするものの中でボクが本当に良いと感じるモノは少ない。ボクは……花なんて邪魔だ。犬なんて汚い。赤ん坊なんて気持ち悪い。音楽なんて煩い。テレビなんてつまらない。映画なんて退屈だ。旅行なんて面倒くさい。食事なんてどうでもいい。家族なんて煩わしい。そして、太陽が眩しいーー」

 

敦はぞくり、とした。レアという人は本当に魂の形とでもいうべきものが余人とは違う。それを改めて思い知った。

 

しかし、本当にそこまで悉く、良いとされる価値観から外れてしまっては果たしてどれ程の生きにくさを感じるだろうか。

 

敦は、思った。レアは、可哀想だ。

 

「ボクはそういうモノなんだよ。皆が欲しがるような射幸心を煽るだけにある刺激の強い娯楽なんて要らない。ボクはただ、孤独に思索に耽る、豊かで静かな日々が過ごせればそれでいいんだ。どうか皆ボクをそっとして欲しいんだ。誰にもボクを見られたくない、見つけないで欲しい。触らないで欲しい。ただ」

 

レアがその両手を挙げると、敦は応じるように片手を差し出した。するとレアはその手を包み、頬を寄せた。

 

「あーちゃんが居ればそれでいい」

 

とても満ち足りた表情でレアはそう言った。

 

……敦はふと思う。自分も大概だが、レアさんも俺の事、実は大好きなんじゃないか、と?自惚れなのか?少なくとも凄く懐かれている気がする。

 

敦という男は元々愛されるという事に懐疑的で、自惚れるなと思う。しかし、普通に夫婦として考えればドライなレアの言動が、彼我が死んでも尚、飽きたらぬほど愛しているのが伝わってくるのだからしょうがない。

 

まぁ、どちらにせよ自分が居る事で、この人が豊かになってるならそれで良い。

 

「とはいえ、以前言ったようにボクはボクとしてある限りボク以外はボクとして生きて、死ぬ事は出来ない。ボクはボクとしてのみ生きて、死ぬ。その絶対的孤独が保証されているという点でボクはもう救われているんだ」

 

レアは楽しそうな顔で敦の手をもみゅもみゅと握り込みながら言った。

 

「ボクの事はもう良いんだ。だけど、誰かと共に生きて死ぬ。なんて事が出来ると錯覚している不自由な皆が可哀想だ」

 

「皆が、可哀想ですか?」

 

敦はどきりとした。今しがたレアの事が可哀想だと憐れんだが、そのレア自身が返す刀で皆が可哀想だと喝破したのだ。

 

「そうだよ。人は、自分の生しか生きられないし、自分の死しか死ねない。それは自分一人でしか出来ない。なのにそれを誰かと共に生きて死のうだなんて土台無理な事を信じて、錯覚で自身を慰めて生きる。不自由じゃないか」

 

そうだ、敦だって本当はレアの言う事は分かっている。敦はレアにどうしようもなく惹かれているが。しかし、レアだけの生と死に敦が入り込む余地は無い。逆もまた然り。敦だけの生と死にレアも誰も関われない。

 

「ただ、己のみの生を生きて、死を死ぬ。その絶対的孤独の玄妙な味わい深さを豊かに噛み締める。これが世界で一番の自由だ」

 

「だけれど、皆はこの孤独の妙味を楽しめないらしい。それはそうかも知れない。何処までも自由という事は何処までいっても全ての自分の能力、技術、性格、情緒、容姿から生まれも育ちもーー外部のせいに、誰のせいにも出来ない。全ては自分に帰属するが故に自由だ。多分大抵の人はこれに耐えられない。だったらそういう人は卑しく環境や他人や世界に社会に不平不満を垂れ流しながら不自由に生きる事で自分を慰めるしかないんだろうね」

 

そこでぱっとレアは満足したのか敦の手を解放した。敦は小さくて熱いレアの手の感触の残る、自身の指を握り込んだ。  

 

「……確かに自由は、そんなに甘い考えで手に入るものではないのでしょうね」

 

「そうだね。飽くことない欲望で、ただ求めて持ち続ける事によって人はどんどん動く事も考える事も出来なくなっていく。だから、全て切り捨ててしまえばいいんだ。そんなものになんの価値はない」

 

ーー幸あれ、わが子よ! ただひたすらに進みゆけ! 一切を失う者は、一切を獲るのだ!

 

「何故、なのでしょうね。あれさえあれば、金さえあれば。そう思う気持ちは分からない事もないです。ただ、俺も、一体どれだけの金が、物が、手に入ったら幸せになれるのだろう?と、思います」

 

「ただの紙幣、紙切れ。あるいは金塊、鉄屑。そう言ったモノに価値をおいている限りは何処までいっても人は飽くなく喰らい続けるしかない餓鬼だ。そもそもそんなあり方が不幸なんだ。幸せには程遠い」

 

「だからね、あーちゃん。ボクは可哀想な皆に幸せになって欲しい。ボクは、優しくなりたい。皆が、皆が幸せになってくれたらどんなにいいだろう?」

 

少し面食らった。敦はレアはそう言った人々に倦み、無視していると思っていたからだ。

 

「……どうしたら皆が幸せになると、思いますか?」

 

「決まっているじゃないか、他人は変えられない。だからボクが皆を幸せに、皆を一つにするんだよ」

 

「一つに?」

 

どうやって?

 

「そうだよ。そして存在を一つにする力なんて、昔っからもう皆が分かってる事だよ」

 

「……それは?」

 

「愛だよ」

 

ドクリ、と敦の胸が鳴った。

 

愛、だって?それは余りにも古く。余りにも使い回され。余りにも安っぽく。故に底の知れない言の葉。

 

「レアさん、それは……」

 

「うん、ここまでにしよう。夜ご飯の時間が近いね。そろそろ作り出そうか?」

 

言われて敦は時計に目を向ける。話をしている間に夜も更けていた。確かにそろそろ調理を始めた方が良さそうだ。

 

「……そうしましょうか」

 

敦は立ち上がった。話の続きを促す事に意味はないだろう。レアは、話す時には話す。黙るべき時に黙る。人間というのは話すのは簡単でも黙る事は難しい。

 

きっと然るべき時に、続きは聞かせてくれるだろう。

 

「ん、つくろー」

 

レアも続いて立ち上がり、二人共に台所に向かった。

 

「れっつ、くっきーん!」

 

レアは台所で俎板を前に、やる気の無さそうな声色でかつテンション高く言った。真似しようとしても出来無さそうな、地味に器用な言い方だった。天然だろうが、どんな心境ならそんな言葉が出るのか。

 

レアは、右手に持った小ぶりなキッチンナイフを指の間と手の甲で器用にペン回しの如く回して見せた。側から見てて危険極まりない。

 

「危な、くないですかそれ?」

 

「ん?危ないよ。ミスしたら肉少し削げたりするから」

 

唖然としつつ突っ込むと、レアは平然と返した。言いながら、ナイフを指の間をクルクルと回してはしっと握って止めた。

 

「でも危ないからいいんだよ。刃物に対する恐怖や抵抗を克服するのと、指先の柔軟性や微細な感覚を養うにはこーいう手慰みはおすすめだよ」

 

「……まぁ、怪我しないように気をつけて下さいね」

 

言いつつ、さてどうするかと考える。もともと一人暮らし用のアパートのキッチンは少々手狭だ。本来複数人で調理するには向かないだろう。だが、レアが子供のように小さいので、二人でも多少余裕はあるから、共に作る事くらいは出来なくもないか。

 

と、考えている間に、レアは洗ったアスパラガスをトントンと小気味良く等間隔でカットし終わっていた。続けてしめじを袋から取り出し洗う。

 

「あーちゃん、鍋にお湯沸かしてジャガイモ茹でてくれる?」

 

「分かりました」

 

敦もジャガイモを取り出して洗い、鍋に水を張った中に投入して火にかける。

 

しかし、敦はジャガイモを何に使うのかは知らないが、何を作るのだろう?

 

そう思いつつ、傍らに目をやるとレアはしめじをカットし終わっており、既に鱈の切身の下拵えを始めていた。というか手が早い。手際の良さに敦は驚いた。

 

それでは、置いていかれないように敦もさっさと調理を始めようと野菜を取り出して洗い、包丁を取った。

 

そうして、敦は野菜たっぷりのスープと焼き茄子を作った。レアは鱈のムニエルに付け合わせにキノコとアスパラのソテー。レアの仕事が早いのと、割と手早く作れるレシピだったので、出来上がりのタイミングを合わせる為下準備が終わったレアが敦を軽く手伝っていた。  

 

敦はレアが料理を出来る事も意外であったが、本人曰く出来なくはない程度のレベルのその手際も良いのもまた意外であった。案外多芸なのかも知れない。

 

そうして二人で作った食事を運んで食べる。食卓もないので、レアは自分の机の上。敦は……いつものように床に座って、床に食事を置く。なんだかなぁと思わなくもないが、しかし他に卓や机もない為致し方ない。

 

「この茄子凄く美味しいよあーちゃん!」

 

レアは敦が作った焼き茄子を口にして感激していた。焦げ目がついた茄子は香ばしくも、ふっくらトロトロと甘く焼き上がっており、それに鰹節と薬味におろし生姜を添え、上から醤油をかけて供する。普段の作り置きの差し入れと違い、出来立ての熱々な為当然美味い。レアは喜んで食べた。

 

「簡単なんですけど、シンプルなだけに美味いんですよね」

 

答えつつ自分でも焼き茄子を一切れ食べる。うむ、確かに美味い。

 

そして敦は続けてマッシュポテトを口にする。食事にはたっぷりのマッシュポテトが添えられていた。

 

それはそうである。この食事ではご飯やパンに当たる主食なのだ、マッシュポテトが。

 

やけに沢山ジャガイモを茹でると思ったが、レアは茹で上がったジャガイモをすり潰した。聞くと、レアはジャガイモが好きだから主食をポテトにする事があるのだそうだった。ドイツ人みたいだと敦は思った。まぁ、敦も流石に主食にした事はなかったが、別にジャガイモは嫌いではないので構わないのだが。レアも嬉しそうにポテトを食べている。

 

しかし、茄子やスープに関しては別に食べるまでもない。自分で作ったから、不味くないのは分かっている。敦にとって未知の好奇はレアの作った魚のムニエルである。

 

手際は良かったから、おそらく味も期待出来ると思ってはいるが、レアの料理とはどのような味なのかは中々想像が出来ない。

 

見た感じ、衣がカリッと焼き上がり、バターソースがかけられている。びっくり箱を開ける心持ちでとにかく、一口食べてみる。

 

ゆっくりと咀嚼して、味わう。なるほど。

 

「これは美味いですね」

 

「でしょう、案外ボクも一応食べられる程度のモノなら作れるんだよ」

 

「ご謙遜を」

 

これは……美味い。カリっとした外側に柔らかい中の身。下拵えやソースにディルやバジル等のハーブを上手く使っており、魚らしい生臭さを消しつつ香り高い。バターソースも濃厚でよく合っている。

 

美味いし敦の舌に合う。これは良い。しかし、何というか、敦は気に入ったがそこはかとない違和感も感じる。はて何だろうと思いながら、付け合わせのアスパラガスのソテーも口にする。これもやはり美味い。

 

そこで、違和感が何なのかに気づいた。この料理には、女性の手料理とか、家庭的な料理と言ったニュアンスがあまりしないのだ。例えるなら外食する時、レストランのシェフが作った料理に近い印象を受ける。

 

悪く言えば家庭的な暖かみのようなものが一切ない。シェフは客がどんな人間であろうと、常に均一に公平に自分が作れる最高の料理を出すだろう。つまり良く言えばそういう誠実さが伝わる料理だった。

 

それに、敦はーー自分でも捻くれていると思うのだがーー家庭料理の暖かみとなどという物言いが嫌いだった。なるほど確かに家庭の人が作る料理は、如実に作り手の心証、気分が出る。それはつまりは暖かくもなれば、冷たくもなる。

 

誰でも少しは分かるのではないだろうか?家族の母でも父でも親代わりでも、妻でも夫でも誰でもいいが、そう言った人が作る相手への情が冷めた時。この程度でいいや、とほんの少し手を抜く気持ちが出てくる。それを食べる人は、段々、段々と料理に思いやりの気持ちが薄れていく事を案外感じ取ってしまう。

 

そういう意味では敦は家庭料理の残酷さも知っている。

 

だから敦にとっては、余計な熱の籠らないレアの料理が。

 

「あぁ、やっぱり美味しいです」

 

とても好ましかった。

 

「あーちゃんの野菜料理も美味しいよ」

 

レアは嬉しそうに返した。

 

二人は食事を済ませた。敦は割と手早く食べてしまう方だが、小柄な体躯からは意外な事にレアも食べるのが早かった。

 

「美味しかったねぇ」

 

「えぇ、どうぞ」

 

お腹いっぱいになり満足げにしているレアに、敦は自分で淹れた茶を一杯差し出した。なお、レアの部屋には茶器などはなかったので敦は自前のを持ち出した。

 

「ん、ありがとう」

 

礼をいいつつ、茶碗を見る。お茶など久しぶりだとレアは思った。飲み物等に頓着がないので普段もっぱら水道水しか飲まずわざわざ茶など口にしないからだ。

 

はて、緑茶とはどんな味だったかと一口含む。

 

……熱いかと思い、猫舌のレアは恐る恐る口にしたのだが、丁度いい温度ですぐ飲めた。若草のような、フレッシュな香りに、甘くまろやかな舌触りで、喉に落ちる時に僅かな渋みが後味を残す。雑味がなく、食後の口内をスッキリする爽やかな茶であった。

 

「あーちゃん、このお茶美味しいね。いいお茶なの?」

 

「いえ、茶葉自体は大したものでもない煎茶ですよ。コツさえ抑えれば結構美味しくは入れられるんです」

 

敦は以前茶の淹れ方にハマっていた事があった。ツボさえ抑えてしまえば、それなりのものは淹れられるものだ。

 

「あーちゃんは色々出来て凄いねぇ」

 

むしろ敦からすれば、料理の手際やらレアが存外に器用だったのが驚かされた。

 

その後、敦は後片付けを申し出たがレアは自分がやっておくと言ったので任せる事にした。深夜にもなってレアもバイトがあるという事なので、敦は暇乞いをして自室へと帰った。

 

今日は良い日だった。

 

………

……

 

「どーぞ、粗茶ですが」

 

その日、自分の勉強がひと段落した敦はちょうど良い時間だったので、温野菜を土産にまたレアの部屋を訪れ、いつもの粗茶(コップに注いだ水道水)でもてなされていた。

 

レアは机の上で開かれたままの三つほどの本に栞を挟んで閉じ、同じく開かれたノートに楽しそうな表情でハミングしながらペンで何かを書き込んだ。ゆったりとしたハミングはアヴァマリアのようだった。

 

「ご機嫌ですね」

 

水道水を一口飲みつつ敦がいうと、レアはペンを置き、笑って椅子に座った。

 

「うん。最近は調子が良くてねぇ。あーちゃんが良く聴いてくれて話すからかな。次から次へと考えが湧いて、凄く楽しいんだ」

 

「お役に立てているなら何よりです。良く人と話すと考えが纏まると言いますしね」

 

「うんうん、まさにそれだねぇ。まぁ今までも対話をしなかったわけじゃないんだけどね」

 

「そうなのですか?誰と?」

 

「うーん頭の中の誰かと?」

 

おぉ、また何やら可笑しい事を言い出したぞ。と敦は思った。

 

「こうね?ふと考えている時。あるいは全く考えていない時。いきなり頭の中で誰かがこうじゃない?ほら?って囁いてくるんだよ。ボクはその内容を吟味して自身なりに意見を考えだす。すると暫く経つとまた頭の中でそれに対して何かが答えて囁いてくるんだよ」

 

「なるほど」

 

何となく分からないでもない。敦に経験はないが、創作をやる人間や研究者などは良く天啓が降りてくると聞く。

 

「ソクラテスなんかも良く神霊(ダイモン)の声を聞いていたと言うけど。多分そういうものなのかもね。頭の中でボクはそうやって対話しているんだ」

 

トントンと自身の頭を指先で叩きレアは言った。

 

「やっている事は所謂弁証法だね。ソクラテス流に言えば産婆術。ほら?と何かが言ってくるから、そうかな?と返す。するてほらやっぱりって具合に一つの命題が出来る。するとそれにまた次の声が聞こえる。そうやって少しずつ思索が進むんだ」

 

「なるほど、つまり頭の中でプラトンの対話編みたいな事が起きるわけですか」

 

「そういう事だね。そして、ボクのダイモンはきっとボクそのものなんだ。同時にボク自身、誰かさんのダイモンなんだろうね」

 

誰とは言わないけど。そうレアは誰にともなくそう言って、クスクスと何処か意地悪に笑った。

 

「まぁ、話を戻すと、そんなボクだけどあーちゃんとお話しするのもまた違った刺激になって楽しいんだよ。今日はなんのお話する?」

 

そしてやっぱりご機嫌な様子で、そう言った。何の話をするかとリクエストを聞かれて敦は少し考えてみる。

 

「うーん、そうですね……じゃあ俺の専門の経営学に関わる事でレアさんの意見は何かありますか?」

 

経営系は組織論、マーケティング、生産管理、戦略論、他にも様々な多くの分野を包括しており学際性の高い学問だ。それだけにレアならば何か話せるものもあるだろうと敦は思った。というかこの人は乱読だから割と経営系の本も普通に書棚にある。ドラッカーやコトラーの著書が大体揃っている程だ。

 

それに専門畑出身者ばかりではなく、全く専門分野が違う人の意見を聞くというのは経営系、組織や企業では硬直化を防ぐためや柔軟な発想を得るために大事だとよく言われる事だ。哲学者(フィロソフィア)の立場の話を聞くのもいい学びになりそうだ。

 

「そうだね……じゃあ専門外で僭越ながら、社会的責任について少し関わる事で、ちょっとボクの思う事を話そうか」

 

「CSRですね」

 

CSRーー企業の社会的責任ーーこれは色々広範に渡る為一概に何とは言えないが、企業は社会に影響を及ぼすものとして、利害関係者、地域社会、消費者、環境、多くのものに倫理的価値に乗っ取り貢献していくべきである。という責任である。

 

例えば、企業が自身の利益のみを追求して環境汚染をしてはいけない。といったものだ。

 

高度成長期には工場が有害な産業廃棄物を垂れ流して多くの公害病で健康被害を引き起こした事がある。これは当たり前だが現在のCSRの観点からは許されない事だ。もちろん社会的責任は何も環境保護に限った事ではないが。

 

「似たものではソーシャルマーケティングもあるよね。レイザーの方のね」

 

「良く勉強されてますね」

 

浅学ながら。などとレアは韜晦する。しかし、敦は専門外の知識がそれ程あるのに舌を巻いた。ソーシャルマーケティングとは良く知られているのは、それまでは企業などの営利組織のものとされていたマーケティングを、学校や病院と言った非営利組織にも必要であるとして取り入れていこうという考えである。これはマーケティングの第一人者のコトラーが提唱したものである。

 

しかし、ソーシャルマーケティングにはもう一つの意味合いがあり、そちらはレイザーが提唱したもので企業等が社会的責任を果たす活動をいうもので確かにCSRにも通じる。

 

「だから最近は大企業ではコンプライアンスにはうるさいよね。例えば労働基準法無視で過労死でも起これば大事件だ。ニュースにもなる」

 

「大企業では特にそうですね。そういった事があればそれこそ社会的信用がなくなりますから今は徹底しているそうです」

 

ふ、と息を吐き一つ間を置いてからレアは言った。

 

「奇妙に思う」

 

「……と、いうと?」

 

「何で企業の方が過労死させないように〜、なんて従業員に配慮する必要があるんだろう?」

 

敦は少し考える。彼も少しはレアの思考法も分かってきている。彼女はまず前提を疑い、それを考える。その上で敦は答えを返した。

 

「そうしないと過労死、労災も出るからでしょうね」

 

「うん。確かにそうなんだろうね。過労死しかねない仕事を課す企業があれば、過労死する人が出る。それはその通りなんだろう」

 

「でもボクみたいな組織なんかにはどう足掻いても着けない人間からすると心底わからない」

 

レアは本当に理解出来ないと言ったように小首を傾げて続けた。

 

「何で人は過労死なんてするんだろう?死ぬ前に休めばいいんじゃないの?」

 

「まぁ、その通りですね」

 

敦は思った。なるほど、レアが言っているのは至極当たり前過ぎる程当たり前の話だった。

 

「果たして、異常なのは過労死するほどの業務を課す企業なのかな?それとも過労死するまで働く従業員かな?」

 

「……どちらも異常ですね」

 

こっくりとレアはゆっくり頷いて続けた。

 

「確かに過労死しかねない程仕事を振る会社はおかしい。でもボクはそれ以上に死ぬまで働く人の方がおかしく感じる」

 

「人が死なないようにコンプライアンスを守って〜なんていう風に企業を変えていく。という事自体がボクには良く分からない」

 

「……なるほど」

 

少し考えて、敦は問い返した。

 

「責任は働く従業員にある、と?」

 

「そうだね。少し考ればわかる事だよ。仮にボクが企業に勤めるなら、そもそも過労死なんて出した企業には最初から入らない。そして、いざ会社で働いたとして、この会社はボクが死んでも構わないんだな、という業務内容ならばボクはとっとと辞める。当たり前だよね、死ぬかも知れなければ辞めるに決まっている」

 

「当たり前ですね」

 

「人が死んでも構わないような企業は誰もが辞める。そうすれば、その企業は従業員が居なくなる。そうすれば業務が立ち行かなくなってその企業は潰れる。したがってそんなブラック企業は世の中から消えていく。これも当たり前の話だよね」

 

「……その通りですね」

 

「ならば、悪いのはそんな企業で働き続けて存続を許している従業員に決まっているじゃないか。彼らが全員辞めればあっという間に問題は解決する」

 

「変えるべきは企業ではなく、働く個人の方だよ」

 

「……なるほど」

 

レアの言っている事は至極当たり前だ。当たり前過ぎて考えもしなかった事だ。コンプライアンスなんて従業員個人個人が先に変われば必要はないのでは、という視点は面白いと敦は思った。

 

「仕事をしなければ、生活が出来ないからかな?それも分からない。食い繋いでいくだけの方法なんて探せばいくらでもあるし、なんなら過労死するくらいならホームレスでもやって生き延びた方が遥かにマシじゃないかな?」

 

「まぁ、そんな会社に勤め続ける必要はないのは確かですね」

 

「よく生活しなきゃだから、まず生活出来なきゃ、という人が多いけど。そのせい何だろうね、生活する為に馬鹿げた仕事すらする」

 

「そもそも生活なんてのは生きるための手段でしかないはずだ。必要だから生活するだけ。なのに生活する為に生きている。そういう転倒を起こしている人が多い」

 

「いみじくもソクラテスがぼくは生きるために食べているが、皆は食べるために生きてる。と言った通りだ、順番を間違えちゃいけないよ」

 

レアは、そう穏やかな口調でしかし歌い上げるように言った。敦は一つ頷く。

 

「確かに生きる為の手段としての仕事で死んでては本末転倒でしょう」

 

「だから門外漢のボクが思うのは『企業』が社会的責任を担うのではなく個々人こそが社会的責任を担うべきではないか。という事かな」

 

「具体的に個々人が果たすべき社会的責任とは?」

 

「そんなの決まっているよ」

 

敦の問いかけに、レアは前髪を指先でこよるような仕草を見せて答えた。

 

「考える事。ただそれ一つだよ」

 

これを、社会的っていうのはボク的にはちょっと抵抗があるけどね。とレアはボヤいた。

 

「考える。ですか」

 

「そうだね。人間に責任があるとすればそれはボクは考える事だと思う」

 

「だって、過労で死ぬまで企業で働くなんて、まるで機械じゃないか?機械なら壊れるまで作業するよね。なら過労死する人間なんてただのロボットと同じだよ」

 

相変わらず、シビアな考えと容赦のない切れ味の言葉だと敦は思った。少し痛快ですらある。

 

「そしてロボットがロボットたる所以は考えたりしない事だ。彼らが自分で考える事の出来る人間なら死んだりしなかった筈だ」

 

クスリと一つ笑ってレアは続けた。

 

「結局のところ、最近の人は考える事が出来ないんだと思う。ただ命じられるまま考えずに死ぬまで働くんだから。それの方がきっと楽何だろうね」

 

「死ぬ方が楽、というのもおかしな感じですけどね。死ぬより考えるべきだと思いますが」

 

敦が答えるとレアはこくりと頷いた。

 

「そうだね。でも、皆そうしない。死ぬ事も生きることも自分の意志で出来ないなんてこんな不自由な事はないのに。多くの人は不自由に不平不満を述べる。だけれども本当は皆、自由なんか欲しくないんだと思う。不自由な家畜でいた方が楽なんだ。多分皆、自由が決して楽でも甘い物でもないと直感しているのだろう」

 

「自由ですか……レアさんの言う自由は」

 

「そう、自由とは孤独の自覚だ」

 

「生きることも死ぬ事も自分一人でしか行えないと自覚して、その孤独の中で考え続ける事。それが自由なんだよ」

 

「もちろんその考えも絶対的に自分一人のものだ。つまり、自由とは豊かで、静かで、残酷で、優しくて、厳しくて、救われていて、絶望的なんだ。多分皆、この自由を生きるのに耐えられないんだろうね」

 

水道水で唇を湿らせて、一つ間を置いて考えて敦は言った。

 

「自由には責任を伴う。とは月並みな言葉ですが、なるほど。責任とは考える事ですか」

 

「その通りだね。考えるなんて誰でもやっていると勘違いしている人もいるけど、大多数の人は考えるんじゃなく、悩んでるだけだ。悩むという行為は、考えるという営為とはまるで真逆だ。考える事とは、ただ上へ上へと不断に止揚し続ける事だ。でも悩む事はどうしようどうしようとその場で足踏みし続けるただの思考停止に他ならない。大抵の人は考える事じゃなく悩む事しか出来ない」

 

「なるほど、確かに悩む事程無為な営為もないですね」

 

敦にも心当たりはある。悩みに悩んでいても、それで悩みが解決するわけではない。それは考えてないからだ。思考停止と言われると中々耳が痛い。

 

「そう、だから平凡な大多数の人は考えない。故にただのロボット人間だ。つまらないんだよ」

 

そう言って、レアは目を細め。ふと、ハッと口元に手をやった。

 

「あぁ、ちょっと人の事を悪様に言い過ぎたね。ごめんね、あーちゃん」

 

いえ、と敦は微笑して首を振った。

 

「別に俺もレアさんが聖人君子とは思って居ませんよ。いや、レアさん風にいうなら聖人君子なんてつまらないじゃないですか。むしろ俺としてはレアさんが何を思うのかもっと聞きたいです」

 

ん、と一つ喉を鳴らしながら、レアは少し頬を紅潮させた。

 

「……ずるいなぁ、あーちゃん。ボクだってあーちゃんにはあんまり嫌な所見せたくない気持ちだって、あるんだよ」

 

「良い部分も、醜い部分も見てそれを許容するのもいいんじゃないでしょうか、夫婦ですし」

 

「いじめっ子」

 

レアは眼を逸らしポツリと呟いた。

 

「じゃあもう少し続けちゃうよ。ボクは普通の人達がつまらない」

 

「はい」

 

どーにでもなれと話続ける事にしたレアに、敦は相槌を一つ打つ。

 

「仮に……人間一人一人が書物だとしよう。大半の本は似たり寄ったり、予定調和の退屈な本ばかりだろうね。きっと殆どの本が大差ない内容だろう。もちろん、中には面白い本もあるだろうね。でも」

 

とんとん、とレアは指先で中空を叩くような動きを見せて続けた。

 

「そんな本はどれだけ読めば見つかるだろう?何百冊に一つか、あるいは千か、もしや万に一つかもね」

 

「そして、どの本も例外なくデッドエンドだ……どうしてボクは読んだ事もない本の結末だけ何故か知っているのだろう?」

 

「人生録、ですか。ちょっと読んでみたい気もしますね」

 

敦のコメントにクスリ、と一つ自嘲めいた笑みを一つ溢してレアは続ける。

 

「でもこれは比喩にしても破綻しているね。人を本とするなら、ボク自身も本だ。本が本を読むことなんて出来っこないからね」

 

「まぁ、それはそうですね」

 

「それならボクは、ボクは何故ボクというこの本であるのか?あるいは本とは何か?という問いの方が面白いなぁ」

 

「レアさんらしいですね」

 

一つ笑って敦は水を一口飲む。レアは一通り話終わると、照れ笑いを浮かべて頬をかいた。

 

「あははー、経営学系って話だったのに大分脱輪しちゃったね。ごめんねぇ、話下手で」

 

「いえ、面白かったですし。問題は組織が先か個人かという点は参考になりました」

 

「まぁ、強いて言えばそこら辺はトップダウンかボトムアップかのアプローチに通じなくもないかもねぇ」

 

「それに経営学は広範ですから。おおよそどんな学問や思想からでも学ぶ所があります」

 

うんうん、とレアは頷いた。

 

「わかるよ。経営学は兵法によく似ているというか、むしろ現代の兵法だ。兵法を前提にすれば色々な学問の理解の助けになるし、またどんな学問の教えも兵法に取り入れる事が出来る」

 

「はは、レアさんは兵法家ですもんね」

 

「あっ!違うよ!ボクはぶんけーだよ!」

 

うっかりと口を滑らせたレアは慌てて訂正する。

 

「まぁ、ボクの話はこんな所だけれど。ボクもあーちゃんに専門の観点からお話聞きたいな」

 

「いいですけど、何の話がいいですか?」

 

「そうだねぇ……じゃあBtoCマーケティングに対してBtoBマーケティングの差異はどんなものなのかちょっと気になってるかな?」

 

「おぉ、ずいぶん突っ込んだ所攻めますね。まぁ、上澄程度の所で良ければ少し話せますよ」

 

にぱっとレアは嬉しそうに笑った。

 

「じゃあ是非聴かせて!」

 

それから敦は、レアが尋ねた事についてなるべくポイントを抑えて端的かつ分かりやすく論じた。レアはとても興味深そうに聴いてくれた為、敦も久々に興が乗って舌が回った。

 

一通り話終わるとレアはしきりと、凄い分かりやすくて面白かった。専門の人はやっぱり違うね。と喜んでいた。そうしてその日は互いに違う視点からの交流的対話を楽しみ、お互いに満足して淳は部屋へと帰った。

 



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2-2

その日、敦は買い物に出かけ、その帰り道についていた。

 

表通りから路地を一本入り少し歩けばもうすぐに自宅のアパートが見える。が、そこで敦は足を止めた。

 

スッ、と軽く電柱の陰に身を寄せる。アパートの前に人影があった。

 

それだけならだから何なのかとスルーしてしまう所だが、どうも立ち止まったままアパートを窺っている様子なのだ。

 

誰だ?敦は思った。見たところ、中年か初老の間くらいの男。敦が知る限り、このアパートの住民にも関係者にもあんな人物は居ない。身なりを見ても、セールスや勧誘の類いとも思えない。そもそも今はもう夜だ。控えめに考えて、不審者ではないだろうか。

 

どうしたものか。若干気味が悪いが、いっそ無視して部屋に帰るか?レアさんならどうするだろうか。ふとそんな事を思う。あの人なら一顧だにせずに帰りそうだと思って敦は笑みを浮かべた。

 

少し考えた末に敦は一応声を掛けてみる事にして、男性へと歩き出した。敦が近づいてくる気配に気がついて、男は敦に振り返った。

 

「今晩は」

 

「……今晩は」

 

敦が声をかけるより先に、男の方から挨拶をしてきたので、敦も答える。柔和そうだが厳しさも混じった声色だった

 

「このアパートに何か用事でしょうか?」

 

敦は率直に尋ねる。相手が不審な反応を示したら見逃さないように注視しながら。

 

しかし、男は落ち着いた様子で表情は変わらなかった。こうして近くでみると何処か疲れたような愁いを帯びた顔付きをしている。髪も真っ白だ。もしかしたらそれらの印象から殊更に老けて見えるだけで実年齢は見かけより若いのかも知れない。

 

「あぁ、失礼。私は怪しいものではなく、と自分で言うのも可笑しな話で説得力はないかも知れないね」

 

男はそう言って、少し笑った。敦から見ても邪気が感じられず、不審者では無く何か事情があるのかも知れないと思った。

 

「君はこのアパートの住民かな?」

 

「はい。そうです。もしかして誰かに用事ですか?」

 

「そうだね、君は野々村という女性は知っているかな?ここに住んでいるのだが」

 

レアさん?この人はもしかして。敦はある予感がした。

 

「お隣に住んでますが、貴方は……?」

 

「私は野々村レアの父親でね……いや、彼女はもう野々村ではないか」

 

やはり、あの人の父親だったかと敦は思った。以前に少し昔の事を聞いているが、母は居ないが父親はいるとの事だった。

 

いや、もしかしたら父親を騙っているだけという事もあり得るが、口ぶりからして結婚した事を知っているようだ。恐らく本物か。

 

「いえ、あの人は野々村のままですよ」

 

「……レアが結婚したと聞いて、居ても立っても居られずに来てしまったのだが……つまり君が」

 

敦は恭しく一礼をして言った。

 

「初めまして。レアさんの婿となりました野々村敦と申します。挨拶にも伺わなかった非礼をお詫びします」

 

「そうか……君がレアの……どうして、君はレアと、いや。ともかくレアは元気だろうか」

 

「はい。あまり外には出ませんし、毎日会えるわけではないですが、いつも楽しそうにしています」

 

「そうか……夫の君でも毎日は会えないか。彼女は相変わらずらしい」

 

親子にしては何処か遠い距離感のコメントとともにレアの父親は少し苦味の走る笑みを浮かべた。

 

「……レアさんを尋ねに来たのでは?会いに行かないのですか」

 

アパートまで足を運んできて、何故こんな所で立ち止まっているのだろう?それにそんな事俺に聞かなくても本人に聞けばいい。そう思って敦は言った。

 

「いや……彼女がどの部屋に住んでいるか知らなくてね」

 

「それでしたら……」

 

「いや、今のは情けない言い訳だな。正直に言うと……親として失格だと自分でも思うが……ここまで来ておいて、私は怖いのだよ、レアに会うのが」

 

「っ!」

 

親なのにそんなだから!

 

一瞬で敦は激昂した。あまり感情的にならない彼にしてはここまで怒りを覚えたのはいつぶりだろう。しかし、彼は歯噛みして怒りを抑えた。

 

怒りのような感情は激しいが短期的だ。それを律する術はとにかく抑えて一呼吸置く事だ。そうすると敦は冷静さを取り戻してきた。

 

「……お察しします」

 

この人が悪い訳ではない。決して親がこうだからレアさんがああなのではない。レアさんがああなのだから親がこうなったのだ。あの人ならそう言うだろう。そう敦は思った。きっとこの人も親としての苦悩は他人には測れないものがあっただろう。

 

「レアさんは訪ねても疎んだじはしないと思います」

 

「そう、だろうか。いや、ここまできて辞めよう。彼女の部屋に案内してくれないか」

 

敦はスマホをポケットから取り出して時間を見た。訪ねても大丈夫な時間だ。ただ今日、戸が開かれているかは運だ。

 

「ついてきて下さい」

 

そう言って敦は先導してアパートの階段を登り、レアの部屋前まで来た。

 

「ここです」

 

敦は告げて、インターホンを鳴らす。横でレアの父は緊張を隠せないようだった。

 

「……留守、だろうか?」

 

「いえ」

 

応答がない事にレアの父はそう言ったが、そもそもレアはインターホンに応答したりしない。鳴らすのはあくまで来訪を告げる以上の意味はない。

 

敦は続けて、ドアに手をかけた。鍵はかかっていなかった。

 

「貴方はツイているようですよ」

 

「え?」

 

敦は今日訪ねても、会える確率は3:7か良くて五分五分と踏んでいたのだが。

 

敦はドアを開けて、いつものように踏み入りつつ声を出した。

 

「今晩はー。レアさんにお客さんですよ」

 

「今晩は。客?ボクに?」

 

奥で本を読んでいたレアが本を机に伏せつつ首を傾げながら答えた。自分に客とは解せないという風に。

 

敦が促すと、レアの父はおずおずと入室して、姿を見せた。

 

「ん〜?」

 

父親を前にして、レアは目を細めて小さく唸った。裸眼であった。敦はすぐに気がくつ。この人、父親が誰なのか判別出来ていない。

 

「レア……久しぶりだな」

 

「うわぁ!びっくりした!とーさんか、久しぶりだねぇ、ご無沙汰してるね!じゅーねんぶりくらいかな?」

 

しかし、レアの父親が挨拶すると声で分かったのか、父だと判別出来たようだった。そして父親相手にも変わらないノリに、敦はギョッとした。十年も会ってないのにこれか、と。

 

「いや、流石にそんなに経ってはいないよ。四年ぶりか」

 

それに対してレアの父親がやんわりツッコむ。敦はなんだ、と一瞬思ったが、いや四年ぶりの再会も結構なものだぞと思い直した。

 

「そだっけ?まー、十年も四年も一ヶ月も大して変わらないよ!細かい事気にしないで、まー座ってよ」

 

そういいつつ、レアは立ち上がりキッチンへ向かった。レアの父親は座ってと促されたものの、座布団もなく、椅子は先程レアが座っていた一脚しかない。何処に……と困惑している様子だったので、敦は率先して床に胡座をかく。それを見て、レアの父親も倣って敦の隣に腰を下ろした。

 

「どーぞ、粗茶ですが!」

 

そして、レアが水道水を注いだコップを持って戻り、父親、そして敦にいつも通りのもてなしをした。

 

やった……この人、父親にもこれをやった。と敦はレアのブレなさ具合に地味に感動していた。そして父親の方はコップを片手に当惑していた。

 

しかし、彼はふっと一つ笑って言った。

 

「レア、随分雰囲気が変わったな」

 

「うん?そーかな」

 

レアは椅子に座り直しながら応じる。

 

「あぁ、ずいぶん明るくなったし、楽しそうだ」

 

父親は何処か安心したように穏やかに笑って言った。

 

「やはり、彼のおかげなのだろうか?」

 

「そーかもねぇ」

 

「いや、俺が初めて会った時からこんな感じですけど」

 

敦は冷静に訂正する。敦とレアはそこまで長い付き合いという訳ではないし、初めて会った時から割と愉快で変わったお隣さんだったのだ。

 

「でも、最近はあーちゃんのおかげで考えるのが楽しいよ」

 

誰かがいるおかげで、一人の時間が益々豊かになるなんて考えても見なかったな。とレアは宣いつつクスクス笑った。それを見て、父親は穏やかな微笑を浮かべて言った。

 

「何にせよ安心した……結婚したと聞いた時はまさかと思って、こうして来た訳だが。会えて良かった」

 

「おぉ、とーさん知ってたの?なんかねー、気がついたらなんかプロポーズされたり、結婚してたりしたんだ」

 

「どちらかと言うと結婚はレアさんから提案したような……」

 

そう、敦は控えめに発言する。確かに言い出しのはレアが先だったが、本当に結婚する事になったのは主には敦のごり押しなので強くは言えない。無論レアの悪ノリによるところも大きいが。

 

「ふむ、正直お前が結婚なんてするとは私は思っていなかったから。驚いたよ」

 

「とーさんもそう思う?ボクもボクが結婚するなんて思った事がなかったから、ボク自身も驚いたんだ」

 

父親の言葉に、レアは同調した。普通の父と娘なら、結婚して親から離れていくなんて当たり前に起こり得る事だろうが、この二人の共通認識として到底起こりえぬ事だったのだろう。

 

父親はふっ、と笑って聞いた。

 

「ならどうして結婚したんだい?」

 

「えー、と?何でだっけ?」

 

「レアさんが結婚する?と言ったので」

 

父親の問いにレアと敦が答える。

 

「そうそう、そしたらあーちゃんが本当に婚姻届持ってきてね」

 

「必要な記述で書ける所は俺が全部書いたので、レアさんが書くだけだと言いまして」

 

「だからなんか書いたら、本当に提出して結婚したみたいなんだ」

 

二人の説明に、父親は苦味走った笑いを浮かべた。

 

「そういう所はやはり昔と変わらないのだな。大方紙切れ一枚の契約くらい、なんて言ったのではないか?」

 

「言ったような?言わなかったような?」

 

「いや、言ってましたよ」

 

まさに、結婚に対してレアが言った事そのままだった。流石に父親、娘の事は割と分かるのかと敦は内心関心した。

 

 

はは、と何処か愉快そうに一つ笑って父親は言った。

 

「そういう所は変わらないのだな。でも以前より確かに楽しそうで、お前は綺麗になったな」

 

「そうかな?ボクは見てくれだけはいいらしいからねー」

 

「いや、昔よりずっと綺麗になったよ……レア、結婚おめでとう」

 

「……うん。ありがとう、とーさん」

 

父親は穏やかな微笑をたたえたまま祝福し、レアも何処か似通った表情を浮かべて、答えた。

 

「あぁ、良かったよ。お前が元気そうな姿が見れて良かった。すまなかったな、ずっと顔も見せないで」

 

「ん?顔を見せなかったのはボクじゃない?」

 

事実、レアは父親に会いに行こうとすればいつでも行けた。特に必要がなかったから行かなかった。だから二人は会う機会がなかった。それだけ。そうレアは心底思っているのだ。自分が父親に四年間ほっとかれた、などとは考える筈もなかった。

 

苦い笑みを浮かべて父親は首を振りながら立ち上がった。

 

「私はそろそろ帰るよ。私はまた、会いに来てもいいだろうか?」

 

「もー帰るの?べつにいーよ、いつでも。ありがとうね、とーさん」

 

レアは柔らかく笑って答えた。父親は敦に目線を送った。とても静かで深い眼だった。

 

「では、俺がそこまでお見送りしますよ」

 

それを受けて敦も立ち上がる。クス、とレアは笑った。

 

「うん、ばいばい。どーさん」

 

そう言って椅子に座ったまま、優しい笑顔で手を振ってレアは手を振って部屋を出て行く二人を見送った。

 

父親と敦は共に連れだって、無言でアパートの階段を降り、少し離れた場所まで歩く。そこで、レアの父親はポツリと言った。

 

「ずいぶん変わったものだ」

 

「……そうなのですか?」

 

それに敦は応じる。父親は足を止めて話始めた。

 

「あぁ、明るくなったし、楽しそうで、そして……遙かに底知れない雰囲気だった」

 

「……」

 

「敦君と言ったね。こうして君に言うのも何だが、親として失格というのは理解しているが……久しぶりに会ってみても、やはり私は彼女が怖い」

 

そう、久々に会った野々村レアという存在は、もはや父親では理解の及ばぬ異邦人だった。彼は潔くもう実の娘が理解の及ばぬ何かなのだと認めていた。

 

「……」

 

「もう、私には彼女が何を思っているのか、検討がつかないよ。情け無い話だが、親としてレアが理解出来ないんだ」

 

親なのに、と敦は思う。しかし、敦とて子供でもない。分かってはいるのだ。

 

親だって。と。

 

子供が子供の頃は、親が無敵の存在だと無根拠に信じている。たまたま血の繋がった親だと言うだけで、何か自分の親は周囲の誰かとは違う特別な人間だと思っている。

 

だが、子供もいつまでも子供ではない。段々と成長して、大人になり、物事の道理を理解するにつれ分かってくるのだ、親は無敵で特別などではないと。

 

そして、やがて自分が親になったり親と同じ年齢になった時に、自分の親達がどれ程の苦労や懊悩しながら自身に接していたのか理解する。

 

これはしかし、実の親がいなかった敦には分からなかった事だ。

 

だけれども、それが健全な在り方なのかも知れない。

 

子供は根拠なく親が全能だと思い込み、親はそんな子供の前で必死に虚勢を張る。どんな親子でもきっと不完全にしか出来ないだろうが、そんな在り方が当たり前なのかも知れない。

 

そうやり切れない親子だっているのだから。

 

例えば……敦の養親は、敦が実の親は死んだ、養親は瑕疵があると最初から思っていたから失敗した。

 

例えば……レアの両親は、レアという別の世界の何かの親としてあろうとし続けて限界を超えてポキリと折れてしまった。

 

何が悪かった、と言う訳ではないのだ。誰が悪かった訳ではない。でもレアの母親は逃げ出した。

 

そして先に逃げられた事により父親は、自分は逃げ出せずに、しかしレアとまともに向き合えもせずに中途半端な所で立ち止まるしかなかった。

 

誰がそれを責められるのか。敦は疲れ切ったような風体のレアの父親を前にそう思った。

 

そして、敦にも理解し切れなかった所。レアの父親は娘に恨まれているとすら覚悟して、恐れを抱きながら会ったのだ。

 

そして、数年ぶりに会ったレアがまるで昨日別れた相手と今日また会った程度の気安くて、明るくて、レアは全く父親に思う所などないのだと彼は理解したのだ。

 

それに、安心し、そして同時にそれが、底知れず恐ろしかった。

 

数年前まで実の娘とどう付き合って来たのか、その恐怖を彼は思い出した。

 

「……俺も、レアさんの事は分かりません」

 

レアの父親の心境を慮り敦が絞り出すように言うと、父親は夜空を仰ぎ息を吐いて、続けた。

 

「そうだろうね……でも、私は最近になってこれでいいのではないのかとも思っているんだよ」

 

「良い、ですか?」

 

「あぁ……これは、娘がレアだったからこそ気付けたのかも知れないが。そもそも自分の子供だからとか家族だからとかで相手を理解出来て当然だと思う事自体傲慢じゃないか、とね」

 

「……」

 

長年の懊悩の為か、髪は真っ白になり顔にも皺が刻まれて老け込んだ顔に、しかしその老いに見合った深みのある表情を彼は浮かべた。

 

「例え夫婦でも、子供でも、やはり他人なのだ。どうしたって、自分では理解出来ない所はある。決定的な違いはある。だけどそれを認める事。そういう寛容さが、相手を思うなら大事なのではないかと、今はそう思う」  

 

「……分かります。あの人はそうですから」

 

「好きだから思うようになって欲しいという傲岸。愛するから自分の期待を押し付けるという不遜。突き詰めてそれこそが人と人との軋轢のもとなのだろう」

 

父親は夜空を見上げて疲れた溜息を吐いて続けた。

 

「あぁ……親になったばかりの頃の私達は、何故それがわからなかったのだろう、な」

 

ふっ、と苦い笑みを浮かべて彼は目線を敦に戻した。

 

「君がレアと関係を続けるつもりなら、今私が言ったことを少し覚えておいて欲しい」

 

「……分かりました。ありがとうございます」

 

「……君はレアに私達の事。昔の家族の事はどれくらい聞いているんだい」

 

そこでふと父親は転換した話題を振ってきた。

 

「軽くは、母親は段々と様子がおかしくなり出て行ってしまった事などは聞きました」

 

「……彼女の弟の事は?」

 

「弟?」

 

弟、レアのだろうか。敦は以前レアの両親の話を聞いた事はあるが、弟がいるなんて話は出なかった。もっともあの時の話は両親についてだから兄弟関係は話の筋には関係なかったとも言えるが。

 

「聞いていないようだね」

 

「はい、初耳ですね」

 

「まだ、私達が一緒に暮らしていた時。私達は四人家族だったんだ。私達夫婦に、長女のレア。その弟の息子の四人。レアと息子の二人姉弟だった」

 

「……それが、仲のいい姉弟でね。レアは弟を良く可愛がって一緒に遊んでいたよ。……それこそ私達親すら例外ではなく他人に興味を示さない彼女の、唯一特別な人間だったのかも知れない」

 

「……」

 

黙って傾聴している敦をチラリと見やって父親は続けた。

 

「彼女に聞いたかと思うが、彼女の母親……私の元妻は彼女を理解仕切れずに段々とおかしくなっていった。その帳尻を合わせるように、息子の方を溺愛……いや、依存するようになっていった」

 

「それで、レアさんの弟さんはどうしたのです?」

 

「息子もまた聡明だった。自身が母親に求められ、母親は娘を厭うようになると。それを機敏に感じ取り、息子は段々とレアを避けるようになったのだよ」

 

いや、と父親は一度首を振り続けた。

 

「私がそう思いたいだけかも知れない。もしかしたら、単に息子は……ただ、自分を愛する母親を苦しませる姉……レアが悪者だと思って嫌うようになったのかも知れない」

 

くしゃり、と父親は顔を歪めた。

 

「それは、あまりに……レアが可哀想だ。レアは間違いなく弟だけは愛していたんだ。その弟に疎まれたのなら、レアは……」

 

敦もまた、その痛みに同調して胸を押さえた。

 

「悲しそうだったんだ。レアのあんな姿はあれきりだった。いつも通りに接しようとするレアを、息子は無視してばかりだった。その度にに浮かべるレアの顔が忘れられない」

 

声を震わせながら父親はそれを言った。

 

「そして私の元妻は、息子を連れて出て行った。それきりだよ。レアはそれきり弟とは連絡すら取れていない」

 

「実は、少し違和感を覚えた事があります……」

 

一息に語った父親に、敦はそう切り出した。

 

「レアさんから話を聞いた時。レアさんは自身の母親に悪感情を抱いているように感じました。それは自分を捨てたような母親に対してはおかしくはないです」

 

でも、と敦は続けた。

 

「高々自身を見切り、捨てた程度の事をあの人が根に持つか?と」

 

そう、普通の人間なら親に疎んじられ、切り捨てられたとなれば、深く傷つくだろう。

 

だが、少し考えてらしくないと思った。高々切り捨てられたくらいの事をレアさんが恨むか?と。

 

あの人な深淵にいる。彼岸にいる人だ。そんな当たり前に当てはまらないと思った。

 

「君もそう思うかね……実は私も今思うと母親が出て行った事自体は、レアは本当にどうでもいいと思ってたのかも知れないと。ただ、レアにとって深刻だったのは弟を母親が引き連れて出て行ってしまった事だったのだ、と」

 

あぁ、やはりそうだったか。と敦は思った。

 

「レアは……可哀想だ。元妻は全くこちらとは関わろうとはしない。結果レアはあんなに好きだった弟とそれ以来連絡も取れていない……それどころか今どうしているかすら父親である私すら分からないんだ」

 

溜息を長く吐き父親は告げた。

 

「私は……もしかしたらレアは君に弟を見ているのではないか、とそう思った。君自身は今の私の話を聞いてどう思ったかな」

 

レアが、敦に弟を見ていて敦自身を見ていたなら……敦は瞑目して少し考えて言った。

 

「それは、分かりませんね。俺には分かりません」

 

それに父親も深く頷いた。

 

「そうだ。私も同じだ。分からないんだ。もしかしたらレアは君など見てなくて、君を通して弟を思っているのかも知れない。あるいはとうに弟を忘れてただ一心に君を思っているのかも知れない」

 

そう言って空を仰いだ。

 

「……そうだ、分からないんだ。だけど、分からないと、分からない事を、理解出来ないと言う事を認める事が、娘を理解してあげる唯一の方法だと、今はそう思える」

 

いみじくもソクラテスは言った。ただ、考えた末に、自分が何も知らない事を、何も理解出来ない事に気付く事。それが無知の知だと。知らないと知る事において世人より遥かに進んでいるのだと。

 

人は愚かしくも、愛する者、近しい者の事は自分が一番よく知っていると思い込む。そしてそれは多くの場合思い込みだ。むしろ他人、対して関係の深くない程度の方が正しくその人を捉えているものだ。

 

そんな事をする人じゃない……!こんな人だとは思わなかった……!良く溢れるありきたりな、愚にもつかない戯言だ。

 

愛するなら……愛するなら何故相手の事など分からないと認める事が出来ないのだろう。

 

「俺は……分からない、あるがままのあの人をこそ、あるがままに愛したいのです。そうでありたい」

 

それを聞いてふ、と父親は何処か寂しげで、だが安心したような笑みを浮かべた。

 

「……話は少し戻るんだが、レアの母親と弟は揃って出て行ってしまった後は彼女はより内にこもるようになった。元々自分で考えているのが好きな子だったからね。今より遥かに無口で、他人には弟くらいにしか構わなかったから弟も居なくなってしまうと自然とそうなった」

 

「その後、レアさんは?」

 

「そうだね……そのすぐ後くらいだったろうか。レアは一時期体調を崩していた事があってね、心配したし、あの頃の事は印象に残っている」

 

「病気ですか?」

 

「それがよくわからないんだ。どうも慢性的な吐き気や不調があったようなんだが、彼女は自分の事を訴えないから気付くのが少し遅れた。だけどその頃は殆ど食事も取れなくなってしまってね」

 

「病院には?」

 

「勿論行った。もっとも彼女は昔から病院嫌いで、嫌がったがね。でも少し様子見してもよくなる気配がないから半ば強引に連れて行ったけど、原因がよくわからなかったんだよ。彼女は医師にも殆ど語らないから私が色々話した。それで最近母親と弟が出て行ったという経緯から精神的なものではないかと言われた」

 

「それで、心療内科へも連れて行ったのだがね……彼女はただ黙り続けて医者も私も困り果ててしまったよ。何も訴えないのではどう直せばよいのか分からない。結局病院でも改善はせず、彼女はあの頃大分やつれて、同年代の子供と比べても明らかに異常な域にまで体重が減ってしまった」

 

「……その病は結局どうなったのですか?」

 

「ある時を境に回復したんだ。食事もほぼ元通り取れるようになってね、体重も大分戻った。……あれから殆どレアの身体の大きさは変わってないのだが。彼女の成長が止まってしまったのはもしかしたら、成長期にそうやって栄養失調になったせいなのかも知れない」

 

 

「考えすぎかもしれないがね。あくまで一時期の事だったから」

 

確かに、レアの身体はまるで子供だ。敦は思う、その理由は単なる体質なのか、あるいは成長期の問題なのか。レアさんなら……

 

ーーボクはボクが小さい事を知っていればいいだけで、別にボクが何故小さいかなんてボクが知る必要はないよ。

 

驚いた。あの人なら間違いなくこういうだろう。というのを更に突き抜けて、本当に今敦の頭の中でレアの声がした。

 

なるほど、確かにそんな事どうでもよい。

 

「彼女が何故あの不調に陥ったのか、医師も言っていたが私はやはり当然母親と弟を失った事の精神的ショックが大きかったのだろうと、私は思っていたのだけれどね……」

 

そう言って、少し間を開けて父親は敦を伺うように目線を向けた。

 

「実際の所は分からない……ですが、俺は違うような気がします。それは、あの人らしくない」

 

ふー、と父親は長く溜息を吐いて言った。

 

「そうだね……今は私もそんな気がする。きっかけにはなったのかも知れない。ただ、実際はタイミングの問題なのかも知れない。弟も居なくなりそれまで以上に大好きな思索に耽るようになり、そして何かに思い至ったのかも知れない」

 

「食事を取れなくなる程の不快な、何か。にですか」

 

「そう、かも知れないね。実際には分からない。推測としてだ。だけど彼女は回復した、でももしかしたら彼女はその時囚われたそれを考え続けているのかも知れない……全て推測だ」

 

ふ、ともう一つ父親は息を吐き言った。

 

「もしかしたら君にならレアは話す時が来るかも知れないな。私では無理だったが」

 

「俺も気になります。まぁ、話してくれるかは分かりませんが」

 

「君は先刻、結婚の挨拶にも来なかった非礼を詫びたね」

 

「え、はい」

 

突然に、レアの父親は話を変えた。痛いところでも合った為に流石に面くらいながら敦は肯首した。

 

「確かに普通に考えれば、無礼で非常識だろうな……一人娘を任せる相手なのに挨拶にも来なかった」

 

だけれど。と父親は続けた。

 

「だが、そんな君を責める資格が私にあるわけもない。私はずっと彼女を恐れて放っておいたのだ。こんな時にだけまともに父親振る資格などあるわけもないし、するつもりもない」

 

「……」

 

 

「実は先程レアと会ったとき。試す意味合いで、少しその非礼で君を詰る。という事も考えたのだよ。出来なかったのだけれどね」

 

「何故出来なかったのですか?」

 

「私は分かっているが、弟に対してがそうであるように彼女の愛する相手に対する愛は、余人のそれとは比べ者にならないのだよ……直感的に、彼女は深く君を愛していると思った、その君にフリだとしても悪意を向ける事は……出来なかった」

 

「……」

 

「情け無い話だがね。結局の何処私も娘が怖かったのだよ。どうしようもないな私は」

 

「だから、やはり君を責めるつもりはそもそもないよ」

 

「それで、いいのですか?」

 

「いいんだよ。ただね」

 

「レアは可哀想だ」

 

父親のその言葉に、ドクリと敦の胸が高鳴った。

 

「彼女だって決して望んであぁなったわけではないのだ。どうしようもなかったのだよ。私も、元妻も、あたり前に子供を産んで、当たり前の子供が生まれ、当たり前に育てられると思っていた。馬鹿な、考えだった」

 

「その結果がこれだ。望んで彼女を生んだ私達はいい、しかし彼女は……だけどね今日レアに会えて良かった」

 

「何故?」

 

敦がそう尋ねると、皺の入った顔に穏やかな笑みを浮かべ、父親は言った。

 

「彼女は、それでも楽しそうだった。あんなに明るいレアは初めてみたよ……君のおかげで、彼女が今を楽しめているのなら感謝こそすれ責めることなどはないよ」

 

それは私には出来なかった事だからね。と父親は寂しげに笑った。

 

「それにそれを言うならレアとて君のご両親に挨拶などしていないだろう。いや、するわけがない」

 

「それは確かに……」

 

敦もつい先日養父が鬼籍に入ったが養母は健在である。しかし、別にレアに挨拶に来てくれなど要請などしていない。頼んだ所で今しがた父親が言い切った通り生粋の無精者のレアが来るわけもないだろう。あの人ならあーちゃんの養母なんてボクは興味もないし、関係もない。と言いそうだと敦は思った。

 

まぁ、そんな事頼むつもりも意味も敦にはないのだが。

 

「だから君にはレアを、いや……」

 

宜しく頼む。そんなありきたりの言葉が続くのだったかも知れないが、しかし父親は口を噤む。あまりにもそぐわないと思ったのかも知れない。今更真っ当に父親らしい言葉をかける事にか、あるいはレアという女性の事を男に頼むという事にか、その両方か。

 

「……君も薄々感じているかも知れないがレアは恐ろしい所がある。彼女に浅からず関わった人は少なからず狂わされた」

 

でも、と父親は続けた。

 

「例え君がレアと共に真っ当には生きられないように狂ってしまっても。その狂気の涯にも幸福はあるのだと、私は願っているよ」

 

レアの父親は去っていった。敦に娘を頼むとも、また会おうとも言う事もなく。歩いていくその背中を敦は立ち尽くしたまま見送っていた。

 

一人の親なのに、なんて、小さくて寂しげな背中をした人なのだろうか。レアは言っていた。人は一人でしか生きられない。彼女は寂しさという感情を理解出来ない。なるほど、あの父親はレアを思っている。だけれども根本的に分かり合えないのかも知れない。そう敦は思った。

 

そしてこうも思った。彼はレアにまた来てもいいかと聞いていた。だが、もしかしたらもうここに来る事はないのかも知れないとーー

 

………

……

 

ある日の深夜。野々村レアは一人、ノートの開かれた机の前に座って書見をしていた。

 

夜行性の彼女の性質上、基本的に万年カーテンの引かれた部屋の照明の光量はやや薄暗いくらい。深夜故に外からも同じアパートの建物ナからも音一つしない静寂。薄く漂う青林檎のニュアンスの混じる花の香り。

 

レアの大好きな豊かな静寂と孤独の世界だ。今日は特にバイトの予定もないので、自由に本を読めるし、いくらでも思索に耽る事ができる。

 

机の上には愛用の眼鏡が置かれている。一応手元の字くらいは見えるから本を読むなら眼鏡は必要としなかった。

 

とはいえ、レアは細かいモノを見る必要がない時は裸眼でいる事もまた多かった。

 

彼女の眼は近視に乱視混じりで、その弱視は決して低度ではない。正直眼鏡なしでは日常生活に支障を来たす。普通の人なら常にコンタクトか眼鏡をしているだろう。

 

だが、彼女にはかえってその弱視は好都合であったのだ。レアには兎角見たくも無いものが多すぎる。だから眼鏡を外してれば良い。

 

口元にあるかなしかの笑みを浮かべて本のページを捲っていたレアがふと、動きを止めて顔を上げた。振り返る。

 

部屋の隅に、気配があった。別に何もない、何の音もしなければ、何も見えず、何の匂いもなく、如何に人より高い感受性を持ったレアからしても、そこには何もないと分かる。

 

だが、相反するように、レアはどうしてもそこに何もない何かが在る事を感じてしまう。そういう気配がある。そこにあるのだ、確かに。

 

ゾワゾワしたものを感じ取る、部屋の隅から存在の気配とでもいうものが伸びてくる。睨まれている。レアは動けない。

 

あ、まずい。と思った時には来た。胸に疼き。ムカつき、不快感が来る。レアは椅子に座ってまま前がかりになった。嫌に普段は静かなまま一定のリズムを刻んでいる心臓が嫌に高鳴り、その上から胸に手を添えきゅっと押さえた。

 

「っつ」

 

かたり、と音を立てて立ち上がる。はっ、はー、と呼吸が乱れる。それに合わせて精神も乱れていく。気持ちが悪い、不快だ。

 

曲がりなりにもレアは兵法者だ。本人は決して認めようとはしないが。しかし、始めてたかが数年という程度のキャリアではないし、技量も低いレベルでは決してない。普段なら、武術的な心身を律する術として呼吸法で精神に働きかけて、激情を納め冷静にーーもっとも彼女は激情とは縁遠いからそういう使い方をした事はないーーなったり。逆に精神を昂揚させて身体のパフォーマンスを上げたりなど出来る。

 

だが、このこれ。存在の気配に睨まれた時はどうしても呼吸を整えられずに、動揺を抑えられない。胸の不快感が邪魔をする。全く、自分はなんて未熟者だと心底思う。

 

落ち着こうとキッチンに向かい、震える手でコップに水を注ぐ。

 

「粗茶だけど、ね」

 

強がるように、誰も聞いていない諧謔を口にして水を飲む。一口の生温い水を嚥下すると、食道を伝って、胃に落ちて滞留する。その感覚がありありと感じられて、……不快だった。

 

コ、とコップを置き、部屋に戻りベッドに身体を横たえる。先程の一口の水が胃の中で転がるのが分かり不快だ。

 

いつもこの時、心身とも思うようになってはくれないのに妙に身体感覚が過敏になる。どくり、どくり、と心臓がポンピングするのを感じる。身体中の血管内の血がそれに合わせて流れるのを感じる。筋肉の繊維が緊張し弛緩するのを明確に感じる。

 

それがどうしようもなく疼き、どうしようもなく不快で、横たえたままじっとしていられなくてレアは身体を起こす。普段は、植物のように静かで動きのない彼女だが、満身で感じる不快感を紛らわす為にゆら、ゆら、と上体が動く。彼女は心身が文字通り動揺していた。

 

この不快。レアはこれをこう思う。これは自分が野々村レアとして生まれ落ちた瞬間に感じた原初の不快なのだろう。

 

キルケゴールが謳った死に至る病とはこれの事だったのかも知れない。いつかレアは敦に言ったが、決して死に至れない病でもあるのだが。

 

これは、何か。何とも言えない、存在としか言えない何か、が『野々村レア』をやっている事の自覚。その不可解をどこまでも、なめかましいまでに感じてしまう故に不快なのだろう。何故、『これ』がこの『人間』をやっているのかという疑問。

 

それが、堪らなく、不快だ。

 

さっき、レアは気配を感じた。そしてレアを睨んだのは多分他でもないレア自身なのだ。

 

夜にたまに訪れるこの不快をレアは一人噛み締める。疼く胸、不快感を抱きながら、立ち上がり、その場にしゃがみ込み、椅子に座り、ベッドに横たわり、上体を起こす。普段の落ち着きと動きの少なさと打って変わって、多動的だ。疼きと不快でじっとしていられないのだろう。

 

段々と、レアはベッドの上で座って胸を押さえている時間が長くなってくる。こうして不快を噛み締める。この不快こそが存在の証明。どうしようもなく、どうしても自分が在ってしまった。その事を実感させる。何故、何もないのではなく、何かがあるのか。

 

それはただ、その事を想う。それにおいてそれが在る。

 

ーーいい変えるならば、cogito, ergo sum

 

そうして、レアはいつしかベッドに大の字になっていた。不快は薄れ、呼吸もゆっくりと整ってきた。

 

彼女は、疲れたような表情で漠とした眼のままベッドサイドの本を取って開いた。

 

彼女のベッドサイドには二冊の薄めの本が置かれている。これはいつもの書見の時とは別に、普段寝る前に少しずつ読む日課となっている本だ。言わば座右の書。いや、ベッドに置いてあるから寝右の書と言うべきか。

 

毎朝寝る前に少しずつといってももう数え切れない程繰り返し繰り返し読んできたからそれこそレアはこの二冊は内容を誦じる事が出来る。

 

それでも何度でも繰り返すのは習慣なのだろう。今こうして手に取り、分かりきった文面をなぞっていくのは二冊の片割れ。ーーカミュ著『異邦人』

 

「今日、ママンが死んだ」

 

レアは全く抑揚のない声で、極めて有名な冒頭の一節を口にした。パラ、パラ、と読み飛ばしながら、ページを捲っていく。

 

「星々とに満ちた夜を前にして、私は初めて、世界の優しい無関心に心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った」

 

そうして今度は逆に物語の末尾の一説を噛み締めるように口にした。最後の方は大きく息をつくように。そしてパタリと本を閉じて元通りベッドサイドに置いた。

 

レアは瞼を腕で覆うようにして、ゆっくりと溜息をついた。少し苦しげだった口元には普段の穏やかさが戻っていた。不快は完全に去っていた。大の字になったまま呼吸法で改めて心身を整える。

 

復調したレアは、ベッドから起き上がり机の上に開かれたままの読み止しの本を取った。椅子には着かず、またベッドに戻るとべたっとうつ伏せになりリラックスした様子でまた読書を始めた。

 

そうして、暫く書を楽しんでいたが、ふと集中が切れ何気なく時計に目をやるともう夜が明けそうだった。

 

食事の時間かな。

 

そう思って、レアは本に栞を挟んで閉じる。立ち上がりキッチンに向かう。

 

あまり食器等、物の少ないキッチンだが棚には急須が置かれていた。

 

先日食事を共にした時、敦がお茶を淹れてくれたが、その味にレアが喜んだ事で敦が茶器一式と茶葉をくれたのだった。

 

それでレアも淹れ方を調べて自分で淹れてみたが、悪くはないものの、敦が淹れたモノ程美味くはなく。二、三回試して結局自分で淹れるのは辞めてしまった。結局敦が淹れた方が美味しいから、敦が訪問してきた時にたまにおねだりして淹れてもらっている。

 

冷蔵庫を開く。食材の類は殆ど無く、基本的にすぐ食べられる食料が少し入っている。適当に買い置きのコンビニのサンドイッチに、もう一品兼飲み物として缶入りリキッドタイプのカロリーメイトを取り出す。

 

椅子に座ってカロリーメイトの缶を開けて一口飲み、サンドイッチの包みを開けてもそもそと食べだす。

 

全く食に無頓着極まりない食事だが、レアも一応普通の人間らしいところもある。彼女も美味しいものは好きだ。敦のくれる野菜料理は大好きである。誰だって快は好むし、苦痛は嫌う。

 

とはいえ、美味しいものが食べたいからと言って、わざわざ自分で作ったり何処かに食べに外食に行くほどではない。面倒くさいし、労力を払ってまで美味を追求するほどの拘りはレアにはないのだ。そもそもサンドイッチとカロリーメイトでも充分に美味しいし彼女は食事を楽しんでいた。

 

レアからすれば、お腹も空くしちゃんとモノが食べられる心身を持ち。食べる食料にも困らない。この二つ以上何を望むというのか。どちらかも手に入らない人もいるというのに。

 

そうしてサンドイッチを食べて、カロリーメイトを飲み干して食事を終えると後片付けをする。空が大分明るくなってきた。

 

少し呑むか、と思いレアは台所から一升瓶を引っ張り出した。

 

レアは自身の事を嗜好品の類いはあまりやらないし、拘りもなければ、趣味らしい趣味もなく我ながらつまらない人間だと自負しているが唯一酒は好んで嗜む。主には日本酒だ。

 

彼女が好きなとある銘柄の純米酒か、純米吟醸酒のどちらかを気分で飲むがその日は吟醸酒にした。

 

レアは小皿に塩を小さく盛り、グラスを取り机の上に置いて椅子に座る。キュポンと一升瓶の栓を開けてグラスに冷やのまま酒を注ぐ。

 

グラスを揺らし、まず香りを立てる。メロンに似た果物のような華やかな吟醸香が鼻をくすぐる。一口呷ると、甘く濃厚な口当たりに、良く磨かれた米の旨味が広がり、フルーティな吟醸香な鼻に抜ける。

 

ほぉ、とレアはうっとりと息をつく。やはり旨い。良い酒だ。

 

小皿からほんの僅かに塩をつまみ、ペロっと舌先で舐めた。少し含みのある塩辛い味。ただの塩ではなく所謂旨味調味料を加えてある食塩だ。

 

そうして、まだ口の中に塩気の残っている所に酒を含む。すると塩味が酒の甘さを引き立てるとともに、旨味調味料の旨味と米の旨味が相乗効果となり、まるで昆布や鰹などで丁寧にとった上等な出汁のような素晴らしい旨味が何倍にも口の中で広がる。

 

「くぅー」

 

思わず小さく声を出してしまう。旨い。これは堪らない。外見上は幼い女の子のように見えるレアが、塩を肴に酒を呑んでいる姿は側からみたら中々にシュールだ。もっとも別に誰も見てはいないのだから良いが。

 

ゆっくりと旨い酒を呑んでいると段々頭に酒精が回ってくる。そうして、レアは酒を楽しみながら、酔い初めた頭で思索の宇宙へと一人飛び出していく。

 

つらつらと存在の疑問と謎について考える。考えれば考える程分からない事が分かる。しかし、同時に何かを自分は理解している。本質に近いところを直感する。

 

その直感する謎を論理化しようと頭を回す。こうして、存在の謎に深く思い巡らす時、レアは確かに舌に甘味を感じる。酒の甘みではない。蜜のような甘みだ。

 

あぁ、美味しい。この世にこんな美味しい事はない。ただ、これだけでもうレアは満たされていた。こんなにも自分はもう幸福だったのだから。

 

朝日が登り、外では鴉が鳴いていた。

 

ーーねぇ、君たちは人々を目覚めさせるのではなく、本当は夢に誘っているのではないかい?

 

そんな事を思い。ただ、レアは満ち足りた顔で幸せそうに暫し酒を呑み。その日は寝た。

 

………

……

 

その日、淳は買い出しから帰ってきた所だった。

 

もう日も暮れた時間。カンカンとアパートの階段を登る。鍵を出ながら歩き、自分の部屋の前に立つとドアを開錠して開き、玄関へと入り帰宅した。

 

ばたり、とドアを閉めて、内側から鍵を掛ける。そうして、ふー、と一つ息を吐きながら買い物袋を片手に部屋の中に入る。

 

そこに、あり得ないものが居た。

 

「お帰りー、あーちゃん」

 

「うわぁぁぁぁっ!」

 

「ゆぁっ!」

 

何故か、帰ってきた所の自分の部屋の真ん中にレアがさも当たり前のように居て敦を迎えた。誰もいない筈の部屋で出迎えの挨拶に合い、敦は驚きのあまり叫びながら飛び退く。敦の驚きように驚かせたレア自身も驚いて妙な声と共に飛び上がった。

 

「な、なん?何で?部屋に?」

 

おかしい。留守中にレアさんが上がり込んだのか?いや、おかしい。鍵はちゃんとかかってたぞ?ならどうして中にいるんだ?すり抜けた?驚きすぎて敦の頭の中は支離滅裂だった。

 

「ご、ごめん。驚かせたね。落ち着いてあーちゃん」

 

「え、あの。どう」

 

「これ見て」

 

まだ混乱したままの敦が言いかけた瞬間にピッとレアは人差し指の先を突き出して強く言った。反射的に敦はその指先を見る。

 

レアはその右手人差し指をすー、と下ろし中に何か包むように軽く右手を握るとゆらゆらと一定の拍子で上下させる。そしてゆっくり下ろした所でふわっと手を開いた。

 

「はい。落ち着いた?」

 

「え?はい」

 

落ち着いていた。何か至って平常心に戻っていた。さて、落ち着いた所で改めて敦が思ったのは、やはりどうやってこの人は部屋に入ったのだろう。という事だった。ついでにもう一つ、そもそもレアから敦の部屋に訪ねてきた事自体一度もないのに何故?

 

「えー、と。どうやってこの部屋に入ったんですか?」

 

「今さっき、あーちゃんと一緒に入ったんだよ」

 

レアは笑顔で答えた。

 

「は?」

 

「あーちゃん帰って来て、鍵とドア開けた時一緒に入ったんだよ」

 

事実である。実はアパートに帰って来た敦の死角を潜って一緒にドアを通って先に部屋に入っただけでタネも仕掛けもなかった。

 

「……俺しか居なかった筈ですが」

 

「ボク存在感ないからねぇ。眼に入らないと気付けないでしょう?」

 

タネも仕掛けもないが、普通に考えてそんな事気付かずに出来る筈もない。

 

「忍者か何かですか?」

 

「外物には忍術の教えもあるよ」

 

「え?」

 

「いや、何でもないよ」

 

ふ、と一つ笑ってレアは続けた。

 

「ごめんね。ちょっと驚かせたかったんだけど、勝手に入っちゃったのは良くないね」

 

「いや、別に構わないですよ。滅茶苦茶びっくりしたので今度は俺にも分かるように入ってくれるとありがたいですけど」

 

「そーするよ。次からはね」

 

ぱっ、とレアは笑って言った。驚かせたかったというのが上手くいってそれは満足したのかも知れない。だから、二度同じ事はしないだろう。レアは自己中心的でありながら他人の嫌がる事はしない。そういう立ち位置なのだ。

 

もっとも、レアは本来全く他人に拘うタイプではないので、本来他人に好かれるも嫌がられるもないのだ。そんな人物がこんな事してくる事が異常か。

 

「まぁ、ちょっと待って下さい。お茶淹れますから」

 

「本見ていいー?」

 

「構いませんよ」

 

答えつつ、敦は台所の冷蔵庫に買い物の食材を入れる。それを終えると急須を使い緑茶を淹れて部屋に戻る。レアは卓の前の座布団に座って、敦の本棚の蔵書を一冊抜いて読んでいた。

 

「どーぞ、粗茶ですが」

 

「ありがとー」

 

敦はいつもやられている粗茶返しをする。もちろんレアの水道水とは違いそれなりに良い葉で良く淹れた茶だ。皮肉に取られかねないが、まぁこのくらいの冗句は通じる。

  

レアは、くっ、と一口飲みほぅ、と息をつく。

 

「あーちゃんの淹れるお茶はやっぱり美味しいねぇ」

 

「恐縮です」

 

そう言いながら敦は椅子に座る。しかし、用事なく全く外に出ないレアが自分の部屋に居るというのは敦にとってもどうにも違和感だ。別に直ぐ隣なのだからおかしくないと言えばそうなのだが、普段敦の方が訪ねる立場でまさかレアの方から訪ねてくるなんて事があるとは思わなかったから尚更。

 

ふと、レアの手元の本を見る。自分の蔵書から何に興味を示したのだろうかと気になった。そして読んでいるタイトルを見て感嘆した。

 

「流石レアさん。お目が高いですね」

 

「ん、これ?」

 

レアは目を落としていた本を軽く掲げる。タイトルは、T.レビット著のマーケティング発想法。

 

「ん……マーケティング近視眼について概念は知っているし、実際の記述を一度は読んでおきたくてね」

 

「レビットのマーケティングマイオピア(近視眼)の論文は、この分野においては20世紀に出た数多の論文の中でも白眉のものですから確かに一度読んでおいて損はないです」

 

その語り口は敦にしては珍しくやや熱がこもっていた。なんだかんだで彼も学問好きなのだろう。

 

「それにその本もマーケティングを学ぶなら是非読むべきです。俺の大学のマーケティングを教える教授がいるのですが、その方はマーケティング関連の文献だけで一万冊を読んでいるそうですが、曰くその中から最高の一冊は何かと聞かれたなら、まさにそれだそうです」

 

「ふーん。一万冊の中の一冊か。そう言われると通して読んでみたいなぁ」

 

「お貸ししますよ」

 

「いや、自分で買って読むよ。一万冊の一冊ならボクも是非欲しいから」

 

そう言いながらあえて今は読まないという風にパタリと本を閉じた。

 

「それは絶版なので、割と高価なんですよ。俺も思い切りましたし」

 

「いや、それならば尚更ボクの蔵書にしたい。お金が幾らかかってもね」

 

そう言った後、ハッとして、レアはお茶を飲んで苦い笑いを浮かべた。

 

「やっぱりボクは駄目だなぁ」

 

「何がです?」

 

「こうして……この本が欲しいと思う。あーちゃんに足る事を知る事なんて以前言ったけど。やっぱりボクも欲しいんだなぁ」

 

「……」

 

「ボクの先生は言ったよ。執着なんてそうそう捨て切れないって。だってそうだろう?執着や欲求はやっぱり人間捨てられない」

 

「何も欲求しなければ……」

 

「それは最早生き物じゃないんだろうね」

 

クスクスと笑ってレアは言った。

 

「人は、生きてる限り欲求する。分かりやすく言えば人は死ぬまでは食べる。それが欲だ」

 

「ボクは……欲まみれだよ。この本をボクの蔵書にしたいし、ただ怠惰に寝るのが好きだ。美味しいものを食べるのも好きだし、こうしてあーちゃんとお話するのも大好きだ」

 

自分と話のが大好きとまで言われ敦は顔を紅潮させる。だって、だってだ。

 

「欲まみれ……ではレアさんは誰かから10億のお金が貰えるとして欲しいですか?」

 

「要らない」

 

全くどうでも良さそうにレアは答えた。

 

「大企業の名経営者として社会的地位を得るのは」

 

「嫌だ」

 

吐き捨てた。

 

「芸能界で誰も意見出来ないほどの大御所になるのは」

 

「なにそれ?」

 

ふっ、と笑いレアは言った。

 

「やはりレアさんは何も要らないのでは?」

 

このように何の価値も求めぬ人に、自分が価値を見出して貰えるなんて、それは幸福な事ではないか。そう敦は思った。

 

ふふふ、とレアは笑った。

 

「違うんだよ。あーちゃん、それは違う」

 

「違う、とは?」

 

レアは茶を一口啜って答えた。

 

「あーちゃんはボクを足る事を知っている。まるで悟りきった賢人か何かと勘違いしているのかも知れないね」

 

「ならば言うと、ボクは悟りどころか、俗だ、それはもう俗だ、ボク程の俗物はそうは居ないだろうね」

 

敦も自分の茶を啜りながら、問い返す。

 

「大して欲しないのに俗物ですか?」

 

「そう、そりゃもう俗物だよ。だってさ、大抵の俗物は金だとか地位だとか名声だとかを欲しがるよね」

 

ふむ、と考え俗物とはそういう印象だと敦は頷いて答える。

 

「でも、逆に言えばそういう俗物は、とんでもない資産とか、名声だとかで自分の価値を証明してある程度満足出来るんだよ。自分は下賤な者とは違う、と」

 

「ではレアさんは?」

 

「もっと救いようのない俗物なんだよ。ボクは」

 

クスクスと笑うレア。それは自嘲か。

 

「ボクは……結局の所、何億、何兆、何京あっても満足出来ない。世界中の要人、大物を支配してもつまらない。そんなものはまるでくだらない」

 

「つまりね、ボクは何を持っても満足できなくて、もっと美味しいものがあるはずだとすべ全てを投げ出しただけだよ。金も、人も、地位も、全て足りない、満ち足りないと全て捨てた。そんな俗物が他に居るわけないじゃないか!」

 

「ははは、つまりレアさんはお金を何兆持っても、国のトップに立っても満足出来ませんか」

 

「出来る訳ないじゃない。そんな程度」

 

笑うレアと敦。

 

吾不足止(止まるに足りず)未不(足ることを)知足也(知らず)。足る事を知るとは、ようは足る事を知らず、その末にどんな価値すら足りない、意味ないと気付く事なんだよ。そんな何を手にしても飽くる事ない程の俗物、ボクの他どこにいるんだい!」

 

そういって、レアは哄笑した。さも楽しそうに。

 

あぁ、と敦は思う。確かにこの人は普通のこの世の人の価値観ではまったく満足出来ない人なのだろうな、と。

 

「そうですね、レアさんはそんなものじゃ足りない。求めるのは」

 

「愛なのでしょう」

 

その瞬間、レアの動きが止まった。そして、クスリと笑った。

 

「そうだね。本物の愛こそを僕は求める」

 

「……ひとつ聞いていいですか?」

 

「いいよ」

 

茶を一口含み、レアは答えた。

 

「レアさんは俺の事、実は愛してます?」

 

口の中で茶を転がし風味を楽しんでこくりと飲み下して。レアはん〜、と考えた。

 

「それ以前にボクはね。愛しているという言葉を軽々しく口にするのは好きではないんだ。本当に相手を、真に愛するなら決してそんな事は簡単に口に出来なくなる。言葉は使えば使う程に自ら価値を下げてしまうから。だからボクは愛していると簡単に口にする人の愛は全く信用していない」

 

「……なるほど。口にすればする程愛を安っぽくしてしまう、ですか」

 

最もらしさは感じる意見だ。敦はそう思った。ならば敦が続けて聞きたいのは。

 

「では、レアさんの真の愛とは?」

 

「……ボクもあーちゃんも他の誰もが、生きている限り絶対的に孤独だという話は前にしたよね」

 

「人は自分の生しか生きられず、自分の死しか死ねない。でしたね」

 

こっくりと緩い笑みを浮かべて頷いてレアは続けた。

 

「そうだね。だからボクは誰かと共に生きようと他人と連む人々は理解出来ない。他人の生を生きることは出来ず、他人の死を肩代わりも出来ないから、誰かと生きるなんて大前提からして不可能なんだ」

 

ふむ、と敦は頷く。確かに以前も聞いた論調だ。

 

「だけど」

 

そこでレアは一つ前置いた。

 

「逆説になるけど。そういう生き方、絶対的孤独の自覚。それのみが他者と共に生きる事を可能とする唯一の方法なんだよ」

 

正直どういう事か分からず、敢えて敦は口は挟まずに、もっとよく聞こうと茶を一口飲みつつ眼で先を促す。

 

「……そうだね。少し回り道をして、カントの物自体の話からしようか」

 

「物自体ですか。聞いた事はありますが……」

 

有名な概念だが、敦はカントは読んだ事はないので詳細は分からなかった。

 

「まあ、実際プラトンのイデアの系譜と言えるものだよ。イデアが空想的なら物自体は現実的なだけで、実際は指しているものは一緒なんだ。空想、現実的というのも単に受ける印象の問題なだけなんだけどね」

 

「では物自体が指すのものというのは?」

 

敦はレアの逸れかけた話を本筋に戻すように、肝心な事を聞く。敦はこれまでの付き合いでレアの話し方は極めて取り留めなくあっちこっちに飛びながら中々本筋が進まない事が多々あると理解し始めていた。学際的な性癖のせいもあるのだろうが、論理的なのに案外そういう体型的に話をしない所は女性らしい印象だ。

 

「物自体はつまり、ここに湯呑みがあるよね」

 

レアは敦が淹れたお茶の湯呑みを指先で軽く叩きつつ言った。

 

「はい」

 

「じゃあ、あーちゃんはこの湯呑みそのまま、それ自体を捉えられているのかな?」

 

「えっ、と」

 

「もうちょっと分かりやすく言うと。今あーちゃんの目の前にいる、野々村レアという人間をあーちゃんは捉えられているかい?」

 

「あぁ、なるほど」

 

そう言われると何を言われているのかと納得する。そんな事捉えられない。レアという存在は敦にとって謎そのものだからだ。

 

「人間ってブラックボックスだと理解しやすいよね。そう、自分は自分でしかない以上、誰かを理解するなんて無理なんだ。だってその人は他人であって自分じゃない。それがなんなのかは分からない」

 

「最もですね」

 

敦は頷く。他人というものが全く分からないというのは敦も実感する所だからだ。レアや敦のような外れ者は特に他人の分からなさがよく分かるのではないだろうか。

 

「まぁ、普通の人?程、愛する身内の事を自分は良く理解しているって考えがちだけどね」

 

クスクスと何処かシニカルな笑みを浮かべてレアは続けた。

 

「ちなみに実際ある心理学の実験であったそうなんだけど、ある人物の家族なんかの近しい身内の群と、ただの知人の群。その二つにその人物のパーソナリティをどっちがより適切に理解しているかというテストでは、あの人の事はよく知っている。と自信満々に答えた身内群の答えは的外れで、客観的に見てる知人群の答えの方が遥かに正確だったって結果になったそうだよ」

 

嬉々としてレアはそんな事を言った。皮肉屋なのは分かっているが、人間嫌いなのか人間好きなのか、よく分からない人だと敦は思った。

 

「まぁ、話を戻すと物自体は、近代哲学の祖と言えるデカルト的二元論に連なる代表的概念と言えるだろうね。つまりは主観と客観。物自体は単純に言えば客観という事だね」

 

「自分は自分以外は生きられず、主観としてしか湯呑みを見ることは出来ないから。ですか」

 

ず、とその湯呑みから茶を啜りレアはクスリと笑って頷いた。

 

「そうだね。それにその主観も人の数だけある。この湯呑みは今あーちゃんとボクが同じ物を見ているけど、あーちゃんから見た湯呑みとボクが見てる湯呑みが同じ様に見えているとは限らない。いや、むしろ絶対に違う見え方をしている」

 

「少なくとも主観である以上、レアさんと答え合わせは出来ないですからね」

 

自分の主観そのものを他人に出力する事は不可能な以上当然である。

 

「いや、そんな事はない。湯呑みは誰が見ても同じ湯呑みだーーと思う人も居るかも知れないけれど。ならばもっと分かりやすく言えば、犬がこの湯呑みを見たら?蛇はこの湯呑みをどのように観測している?蝶はどう知覚している?」

 

む、と敦はつまる。それを言ったらもう。

 

「そもそもそういう風に生き物が違えば根本的に世界の認識のルール自体が違うんだ。湯呑みはボクらには想像も出来ない見え方をしている筈だ。ならば、どれが正解なんだろう?僕が見ている湯呑みか、あーちゃんが見ているものか、犬か、蛇か、はたまた蝶か?一体誰が湯呑みを正しく認識しているのかな?」

 

「……正解など無い?」

 

「そう。ボクらが湯呑みを見たところでそれは湯呑みそれその物を認識する事は出来ない。客観としての湯呑みは誰も知ることはそれこそ神様じゃないと知ることは出来ない。故にカントは物自体を知ることは出来ないと言ったんだよ」

 

「なるほど」

 

実にもっともらしい話で腹に落ちると敦は感じた。つまりは人は客観は知り得ないという訳だ。

 

「だけど、だ。デカルトに端を発する近代哲学が積み上げてきたものを一気に突き崩して近代哲学を終わらせた巨人が出た。それがヘーゲルだ」

 

「そしてカントが物自体を知る事は出来ないと言ったのに対して、ヘーゲルは物自体を知る事は簡単だと言ったんだ」

 

「……真逆ですね。しかし、ヘーゲルは如何にして知る事が出来ると言ったのでしょう」

 

主観に立つ人間は客観的な観測は出来ない。その論法をどう破るというのかと敦は首を傾げる。

 

「まぁ、言ってしまえば案外簡単なものだよ。ヘーゲルといえば極めて有名なのは弁証法だ。これは矛盾命題を対立させて、より高次の命題へ止揚する。というものだ」

 

「といいますと?」

 

「えーとね。まず一つの命題があるよね、これが正(テーゼ)。そしてそれと対立する反対命題がある、これが反(アンチテーゼ)。この対立から高次の統一命題、これを合(ジンテーゼ)を生み出すというのが概要だね」

 

「なんだかディベートみたいですね」

 

「流石あーちゃん。それもまた弁証法だよ。特にヘーゲル以前のプラトンの対話篇における弁証法なんかはまんまディベートと言えるしね」

 

ふむ。と敦は茶を啜る。そう言われると分かりやすい。ディベートでは対立する立場の人間に分かれて議論する。しかし勘違いされがちだがディベートは対立する意見を潰してやり込め自分の立場を無理矢理通す、いわゆる論破が目的ではない。それはなにも生み出さず非生産的とされる。つまりはそう言う事だろう。

 

「一応、例を挙げると、ボクが夕飯に猛烈にトンカツが食べたくなったとする。しかし、昨日作ったカレーが残っていてこれを夕飯に食べないとカレーが無駄になってしまう。この二つは対立しているけど、ならば……」

 

「夕飯はカツカレーにすれば良い。という訳ですか」

 

「その通り!」

 

敦の出した答えにパチ、と指を鳴らしてレアは言った。  

 

「そもそも実際カツカレーというもの自体いつかの何処かにあった洋食屋さんの店主が、自分はトンカツも好きだけど、カレーも好きだ。という対立から生み出した物なのかも知れないね」

 

「まぁ、そんか風にこういう弁証法的理論は現実の問題解決や、あるいは小説、漫画なんかの物語の中でもいくらでも見られるものだね」

 

「そしてヘーゲル哲学はおおよそ何処を切ってもこの弁証法、正-反-合で構成されていると言ってもいいくらいだ」

 

なるほど、と敦は頷く。確かに、物語などでは、主人公側とそれと対立する敵役側。どちらも最もな主義主張を持ってぶつかり、そしてどちらが勝つにせよ、その両者の対立からどちらとも違う結末を迎える。というのは多い。それが弁証法的論理なのだろう。

 

特に敦は、レアもだが。そういう少し捻くれた者にとっては単純に主人公側の善が勝つという勧善懲悪モノの物語は嫌う人もいる中、弁証法的物語は魅力もあるのだろう。

 

「ですが、その弁証法で物自体が知れる、と?」

 

「そだね。当然知れるんだ。だって近代的主観と客観の対立というのは典型的矛盾対立じゃないか」

 

「あっ」

 

確かにその通り。決して交わらない対立だ。

 

「ならば、だよ。物自体は客観が主観と差別されているからこそ捉えられない。故に、主観と客観の対立を止揚して、超克するならば当然物自体は容易に捉えられ、超えられていくんだ」

 

「つまり、対立を超えていくヘーゲルが二元論から始まる近代哲学を終わらせたのは当然の事なんだ」

 

対立で始まった近代哲学が、それを止揚して終わる。それは道理だった。

 

「だけど、限界を超えていくヘーゲル哲学はまた次の限界に行き当たる。これがアルファにしてオメガ」

 

それは以前レアが言っていた事で、敦は覚えていた。線は点と点の間の限界を超えて、面に、面は線と線の限界を超え、立体に。

 

「そして、ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ。ヘーゲルが終わらせた時、次の時代へと梟は飛び立った」

 

「そして、今梟は此処にいる。今、此処に。充分に羽休めをして、さぁ、また飛び立とうとする梟がね」

 

す、とレアが前腕を水平に上げた。その腕にとまった何かが見えるような気がしたのは敦の錯覚か。

 

「見えました。俺にも梟が」

 

ただ見えた気がした己の直感をこそ、敦は信じる事にした。

 

レアはそんな敦を見て、クスリと楽しそうに一つ笑った。

 

「話を今のを踏まえて物自体以前に戻そうか……つまりね、ボクが言う人の絶対的孤独。どこまで言っても自分しか居ない世界。それを自覚する事それが」

 

そこでレアは一口茶を飲み間を取った。

 

「全てだと気付く事なんだよ。己が己自身でしかなく、己しか居ないと言うこと。つまりコギトエルゴスム(我思う故に我有り)

 

「この在り方において、世界は我の内にしかなく、故に我が世界そのものなんだ」

 

コギトエルゴムスーー近代哲学の祖であるデカルトの第一命題と絡めて、近代を終わらせたヘーゲルを語ったのはまさにレアの皮肉であり、そしてまさにアルファにしてオメガ。

 

「一にして全、全にして一。つまりはそれがアルファにしてオメガという訳ですね」

 

言わんとする所は敦にも伝わる。つまりは世界が人を内包するのではなく、人の中に世界がある。逆もまた然り。

 

「その通り!……だからね、あーちゃん。自分が絶対的孤独に存在している。それすらも分からずに他者を浅ましく求める人々には分からないんだ」

 

「彼らはどんなに他者や愛を求めても、一と全の壁に阻まれ続けて、その実誰とも触れ合えないんだ。分からない限りは、永遠に」

 

レアは一つ嘆息した。

 

「二人が別の事を欲するのは、それぞれ喜びを得ようとする仕方が異なるからではないか。にも関わらず全ての人は、幸福になりたいという点は一致している」

 

「外へいくな、内へ戻れ。汝の中にこそ神はすみたもう」

 

「……どちらもアウグスティヌスだ」

 

「つまり、ボクがボク以外の何者でもない絶対的孤独において、ボクは全てであると気がつく。そういう在り方で初めて人は人を愛せる。つまり真性の愛だ」

 

そこまで言って、レアは両手の指を合わせてほぅっと息をついた。

 

「……でもね、人は大抵孤独を許容出来ない」

 

どこか苦い口調でレアは続けた。

 

「寂しい。等とのたまい、自分以外の他者に愛を求める。そうして、恋人や妻、夫を得る。それが大抵の人の愛だ」

 

だけど、とレアは歯噛みする。

 

「相手に失望を覚えれば、安易に別れて別を探す。あるいは相手が死ねば、別の人を探す。それが普通だ」

 

レアは両手を広げて差し出し、それをギリと握り込んだ。

 

「……許せないよ。そんなモノが愛だなんて。だってそうじゃないか、相手によって変わったり、失われたり、移ったりするものが愛な訳がないじゃないか」

 

「認めない。ボクは認めない。そんなものは悪性の愛だ。そんなものを愛とは認めない。かけがえないから愛なんだ。変えが効かないから愛なんだ。取り返しが付かないから愛するんだ」

 

その時、敦はレアの眼を見て背筋に冷たいものが走った。彼女の眼に、どこまでも冷たい氷のように燃え盛る焔が確かに灯っていた。

 

「きっと人が争うのはそんな悪性の愛故なのかも知れない」

 

「ボクは、ボクとしてある事のみにおいて、あーちゃんを抱きしめられる。そしてあーちゃんは、あーちゃんとしてのみ立つ事によってボク自身なんだ。この愛が分かるかい?」

 

レアの問いに敦は一つ間を置いて言う。

 

「つまり俺は俺を愛するようにレアさんを愛する」

 

「そうだね。そうしてその在り方で人は全てを愛せる。つまりね、アガペーとは究極の自己愛そのものなんだ!」

 

だから、と。レアは言う。

 

「言えないんだ。真に愛するなら言葉には出来ない!愛してるなら愛している等の言葉は安くし過ぎてしまう。いや、愛などと言う語彙では真の愛を表すには愛は甘すぎる!」

 

ならばどうすればいいーーと声なき声が聞こえる。

 

「……あーちゃんはリア王は読んだ事あるかな?」

 

「はい」

 

「……リア王は、王としての富、土地、名声。それらを娘達に与えようと思った。するとリアの娘達は父であるリア王に美辞麗句を弄して愛を伝えた……父の資産目当てで愛なんてないのに」

 

「……」

 

リア王ーーシェークスピアの作品の中で、四大悲劇と言われる作品の中でも最高傑作と言われる、最大の悲劇。

 

「だけど末娘のコーディリアだけは真っ直ぐに父であるリア王を愛していた。だからコーディリアがリア王に自身への愛を問われた時コーディリアは言ったんだ」

 

「Nothing」

 

「何も無し。ですね」

 

「そうだね。彼女は愛を言葉では、いや何をもってしても表せないと知っていたんだ。だからコーディリアはリアを一心に愛していたからこそ何も言えなかった。しかしリアは、そのコーディリアの愛を理解出来ずにコーディリアに失望した」

 

「そしてリア王は、甘言を弄したコーディリアの二人の姉を優遇して権力や領地を与え……だけどコーディリアは捨てられた」

 

「その末路はあーちゃんも知っている筈だ」

 

姉二人はただ権力が欲しかった。適当にリアを煽て、それが手に入ると父であるリアが疎ましくなった。

 

そして皮肉な事に、コーディリアを冷遇して捨てたリアは、今度はその姉二人に冷遇され追放されてしまう。実の娘二人の仕打ちにリアは狂気にすら陥る。

 

「美しいコーディリアは、貧しくなってこよなく富み、見捨てられて無上のものに、蔑まれてこよなく愛おしいものとなった」

 

そして、リアとコーディリアが再会した時、リアはコーディリアの愛を理解して、和解する。しかし、それは余りにも遅すぎたのかも知れない。

 

「神にとって人間は、腕白な手にある虫けらと同じ。気まぐれに殺される」

 

敦はその結末を、リア王の作中の引用で答えた。

 

「……そう、物語の最後、コーディリアも死んでしまい、最愛の娘を失ったリア王は、その亡骸を手に狂い喚き、全てに絶望して自らも後を追うように死ぬ」

 

シェークスピアの四大悲劇の中でも壮絶な幕切れといえるだろう。四大悲劇の中でも最高傑作と賞賛する声が多い作品だ。シェークスピアの作品の中でもやはり敦も一番印象深かった。

 

「コーディリアはリアを確かに愛していた。しかし、本物故にそれを証明出来ない。蒙昧なリアは愛ですらない姉達が自分を愛していると勘違いした。こんな事の為に全ての悲劇は起こった」

 

「リアがコーディリアの愛を少しでも理解したていたのなら……違う結末があったのかも知れませんね」

 

こくりとレアは頷いた。

 

「だけどコーディリアは愛していたからこそ、何もない。と言ったんだ。いや、そもそも真性の愛は決して誰かに伝えるものではない。伝わるものでもないし、伝える必要もないのだろうね」

 

「……」

 

ーーどうだろうか?ふとそう敦は思った。

 

コーディリアはリアを愛していた。ならば、ならばだ。仮にコーディリアがその愛を言の葉を使い、伝えようとしたのなら。何もない。ではなく、愛を言葉にしていたなら。

 

リアとコーディリアはあのような救いのない結末を迎えずに済んだのかも知れないーー

 

「ただ愛するなら、愛すればいい。浅ましく相手から愛されようと望む事も、傲慢にも自分の愛を理解されようとする事も要らない。それでも強いて言えば」

 

ぬるっとレアは立ち上がる。唐突ながら認識しにくい独特の身のこなし故に敦はぴくりとも反応出来なかった。

 

なんだなんだ?と思ってるうちにレアはスルスルと椅子に座る敦の前に立つ。

 

ふっ、とレアは微笑して敦を包み込むように抱きしめた。小さな体躯のレアは丁度、椅子に座る敦を胸に掻き抱く事が出来た。ふわり、と青リンゴと花のニュアンスの混じるカモミールの匂いがする。

 

「レアさん?」

 

「こうするだけでいいと思うんだ。ボクはこれでいい」

 

満ち足りた表情でレアは敦を抱く手にきゅ、と力を込めた。

 

「あぁ、それで良かったのかも……知れませんね」

 

そうだ。レアとコーディリアはあれで良かったのだ。二人の結末は悲劇だったかも知れない。だが、悲劇で何が悪い。

 

毒にも薬にもならないような話なら、物語にすらならない。リア王という物語は無かっただろう。ただコーディリアはリアを愛していたし、リアもコーディリアを愛していた。ならばあの二人の物語はそれで良かった。

 

レアはただ、言葉は無く、愛おしげに笑みを浮かべ。優しく敦を抱きしめて、その小さな手で頭を撫でていた。

 

そのどうしようもなく分け隔たれた相手に、言葉ではなく目一杯の愛を伝えていた。

 

あぁ、この人の身体は小さいけど、凄く暖かい、な。

 

ふとこれまでの事を敦は思い出す。懐かしい実母、施設、義父、義母、数々の過去や人。

 

それでも、こうしている俺は幸せだったのかも知れない。

 

そう思い、レアの腕の中で敦は静かに目を閉じたーー

 

………

……

 

その日、いつもレアの訪問受け付け時間になって、敦はここ暫くはレアを放っておいてあまり尋ねずに間を空けがちだったので久々に顔を見に行こうと思いたった。

 

この前は初めてレアの方から敦の部屋を訪ねてきた、というより侵入してきたなんて事もあったがやはりというかあれ以来あんな事もない。まぁ、レアが気が向いたらまた向こうから来る事もあるのかも知れない。それが明日になるか一年後になるのか、数十年後か、もう二度とないのかは分からないが。

 

いつもの手土産の温野菜を手にとる。葉野菜や根菜をコンソメで柔らかく煮た野菜たっぷりのスープである。そして部屋を出て隣へ向かう。

 

レアの部屋のインターホンを鳴らして来訪を告げる。応答はいつも通りない。ここでドアに鍵がかかっていたら今日は来訪を受け付けてないという事で無駄足であるのだが、敦がドアに手を掛けるとあっさり開いた。

 

「お邪魔します」

 

敦は挨拶したが、返礼が無かった。おかしいな?と思う。まさか留守で鍵を掛けずに出たのでは?いや、この時間に居なかった事なんて無かったのだが。

 

「いないんですか?」

 

色々思いつつ敦は声をかけつつ室内に踏み入る。そこで何故か室内でしゃがみ込んでいるレアを見つけた。

 

「レアさん?どうしました」

 

「ん〜、あーちゃん?いらっしゃい」

 

敦の言葉にレアは蹲ったまま力の無い声を返した。どうやら只事ではないぞと敦は考えてすぐにレアに歩み寄る。

 

「大丈夫ですか?体調悪いんですか?」

 

「ん〜、悪くは無いけどくらくらするよー」

 

「それを体調不良というのです」

 

ツッコミつつ、いつも以上に顔色の白いレアの額に手を当てる。発熱はない。というか普段は体温が高めの印象なのにむしろ今日はひんやりしている。風邪等ではないのか。

 

「とりあえずこっちへ」

 

床でしゃがんだままにさせておくのもなんだと思い、敦はレアを半ば抱えるように手を貸してベッドに運んだ。とさり、と自分のベッドに腰を下ろしたレアはまだ目眩がするのか眉間を押さえている。

 

「具合はどうです?何か薬もってきましょうか?」

 

「じゃあ、冷蔵庫の中にあるゼリーのパックを一個……いや、二個取ってきてくれるかな」

 

「ちょっと待っててください」

 

敦はキッチンに移動して冷蔵庫を開ける。中は調味料の類いが少し入っているくらいで食材、食料の類いは殆ど入ってなかった。ただパック入りのエネルギー補給目的のゼリー飲料が複数あったので言われた通り二つ取り出しす。引き換えに手にしていた差し入れのスープの入ったタッパーを冷蔵庫に入れた。ついでに水道水をコップに注ぎ、レアの元に戻る。

 

「これでいいのですか?薬とかは……?」

 

まだ目眩がするのかベッドに腰掛けたまま眉間を抑えているレアに敦はゼリー飲料を渡す。

 

「大丈夫。ありがとうねぇ」

 

レアは礼を言いながらパックのキャップを切り、ちぅとゼリーを吸った。

 

珍しく体調を崩していると思いきや、カロリー補給を最優先するレアを見て敦は一体何んだと考えて、まさかと口にする。

 

「レアさん、もしかして……ご飯食べてません?」

 

「ん」

 

こくん。とパックを咥えたままレアは頷く。

 

「それはなんでまた?」

 

「ん〜」

 

一パック飲み切って、くしゃりとレアは空のパックを握りつぶす。レアからコップを受け取り水を一口飲みつつ答えた。

 

「ボクいつも決まった時間にご飯食べてるんだけど。ふと別にボクお腹空いてもいないなって最近気付いたんだよね。そしたら別にお腹減ってもいないのに食べなくてもいいかなって」

 

「えぇ……」

 

まさかそんな事で?と敦は思った。

 

「そしたら食べなくても別にお腹減らなかったんだよね!これはいいなと思って!何せ食事しなければ食費と時間も節約出来るからね」

 

レアはもう一個のゼリーのパックを開けつつ答えた。

 

「で、どのくらい食べてなかったのですか」

 

「多分……一週間か一週間ちょい?あ!あーちゃんが来た時にくれたお野菜は食べたよ!」

 

「即身仏にでもなる気ですか?」

 

しかも天然で。食欲も消え絶食して緩やかに死に走るとかこの人は実は馬鹿なのだろうかと敦は思った。確かに数日前に訪ねた時差し入れした覚えはあるが、あれ以外一週間以上何も口にしていないなら完全に飢餓状態であろう。

 

実際、レアは目眩が酷くなってきて、はてなんだろう?と思い、流石にカロリー枯渇状態で活動し過ぎたと気が付いてゼリー飲料を取りに行こうとした所で立ちくらみで倒れそうになり咄嗟にしゃがみ込んでいたのだ。そこにタイミングよく敦が来たのだった。

 

レアは手早く二つ目のゼリーを吸い尽くすと、コップの水を飲み干す。やたら規則的な生活してる印象だったが、唐突に断食し出すとは敦にもやはりレアはまだまだ読みきれない。そういえばと敦はレアの父と会った時の話を思い出す。

 

レアは一時期、原因不明の食欲不振に陥り食事が取れなかった事があると聞いた。まさかとは思うが、多分今回は関係ないだろう。倒れそうになるやゼリーでカロリー補給は出来るのだから。

 

「何か食べられそうですか?」

 

「食べられるよ?やっぱりお腹は空いてないけどね」

 

一応尋ねるが、とりあえず食事を取る事は問題無さそうだ。

 

「何か作りますよ。台所お借りしてもいいですか」

 

ゼリー飲料なら吸収も早いだろうし、とりあえずのカロリー補給にはいいだろうがしかし、流石に一週間ほぼ絶食状態の枯渇したエネルギーを補うには足りないだろう。さっき冷蔵庫を見た限りでは多分この部屋にはもう敦が持ち込んだスープ以外に食料もない。

 

「作ってくれるの?自分で何か買いに行こうと思ってたんだけどな。じゃあお願いするね。ありがとうねぇ」

 

お任せを。と敦は返す。無駄に遠慮しない辺り、レアも結構敦に甘えるようになってきたのかも知れない。敦としても危なっかしいので自分に任せて貰いたかった。

 

どうにも……放っておいてあげる必要もあるのに、完全に目を離すのも危なっかしい人だ。そう敦は思った。

 

とりあえず、一旦自室に帰り食材を取ってきてレアの部屋の台所を借りて調理を始める。

 

レアは、身体に力が入るかと手をにぎにぎして確かめていた。

 

なるべく早く済ませようと、出汁を用意すると味付けて、具材を入れて冷凍うどんとともに煮込む。

 

レアはベッドに寝そべり、のんびりと本を読んでいた。

 

「出来ましたよ」

 

敦は器に盛り付けたうどんをトレイに乗せて運ぶ。レア好みに、長ネギ、大根、にんじんに舞茸など野菜類を具にした煮込みうどん。

 

カロリー補給の必要があるが、一週間ほぼ絶食状態だと胃が弱っていて急に食べたら胃がびっくりしてしまうかも知れない。このうどんなら消化の良さと吸収の面で回復食としても丁度良いだろう。

 

「ん、ありがとー。机に置いてくれる?」

 

そう言って、レアは本を置いてベッドから立ち上がり机へと向かい椅子に座った。その足取りは普段通りヌルッとしたものだった。目眩が収まったのだろう。ゼリーの急拵えカロリー補給が効いたのか。

 

「どうぞ。簡単なものですが」

 

「美味しそうだねぇ、いただきます」

 

レアはそう言いつつ手を合わせ、箸を取りうどんを啜る。

 

「ゆっくり含んで良く噛んで下さい。急に食べると胃に悪いので」

 

「ん、なんかあーちゃんは、お母さんみたいだねぇ」

 

うどんをもくもくと咀嚼して、飲み下すとレアはそうコメントした。敦は床に腰を下ろしつつ空笑いして流した。この歳の男としては母扱いされるのは流石に複雑だった。ましてや母親が居ないレアからだと尚更。

 

「このおうどん美味しいよあーちゃん!」

 

「お口に合ったなら良かったです」

 

レアは感激して敦に言う。敦からすると別に特別な事は何もしてはなく、簡単に作っただけのものなのだが。あるいは、レア本人は自覚していないだけで飢餓状態での食事が事様美味に感じられているのかも知れない。

 

食事に集中するレアから、敦は意識を外して適当に近くにある本を手に取り暇つぶしに捲った。

 

「……人というのはやっぱり不思議だね、あーちゃん」

 

「はい?」

 

うどんを食べながら、ふとレアはそう溢した。

 

「ボクみたいな人でなしが、こうして旦那様にご飯作って貰っているなんて。少し前までは可能性としても思っても見なかった。生きていると何が起こるか分からないものだね」

 

ふむ、と敦は目線を泳がせつつ一考して応える。

 

「それは俺も同感です。こうして奥さんにご飯作っているなんて考えても見なかったもので」

 

うどんを飲み下し、レアはクスクスと笑った。

 

「お互い様かぁ。似た者夫婦ってやつかな?」

 

「そうかも知れませんね。でも、必然なのかも知れないとも思います」

 

その心は?とレアはうどんを口にしているので無言で眼で問いかけてくる。

 

どうでもいいが、結構眼や表情で言いたい事が敦には分かるのだが、これはレアが存外に情緒豊なのか?あるいは敦がレアに対して感受性が高いのか?

 

「人には縁がある。とそう俺は感じます」

 

「つまり?」

 

「強いて言えば、人と人とは出会うべくして出会う。と言うだけの当たり前の事ですかね?」

 

「ボクとあーちゃんが夫婦となってるのも当たり前の事?」

 

レアはクスクスと笑いながら、そう言った。敦は答える所を持たずに肩を竦めた。

 

あり得ないとも思うし、当たり前とも思う。類は友を呼ぶとも言う。結局のところ人は、自分と近い次元、同じ深さの人としか出会う事はないのだろうと敦は思う。

 

浅瀬に生息する魚が、いくら泳ぎ回って必死に探した所で深海魚に出会う事などない。

 

レアという深海魚と出会えたのは、出会うべくして出会ったという事だ。これを言葉にするなら。

 

「縁……か」

 

「ん?」

 

「いえ」

 

そんな事を考えている内に、レアはうどんを出汁まで飲み干し綺麗に完食して、ご馳走様でしたと手を合わせた。

 

「片付けますよ。休んでて下さい」

 

「そ?ありがとねー。じゃあお願いするね」

 

レアはここでも遠慮せずに敦に任せて、自分はベッドに戻った。敦は食器と調理に使った器具を手早く洗う。以前レアと一緒に料理した経験から、この台所の勝手は慣れたものだ。

 

敦が部屋に戻るとレアはベッドの上で上体を起こして本に目を落としていた。普段より漠とした眼に、暖かい食事によってカロリーが回ってきたのか上気した頬が何処か幼い容姿に似合わぬ色香を漂わせていた。

 

「うどん鍋にまだあるのでお腹空いたらまた食べて下さいね。」

 

「あと、冷蔵庫に作ってきた野菜スープ入れておいたので、こっちも良ければ食べて下さい」

 

「うん、ありがとうねぇ。あーちゃん」

 

「今後はある程度ちゃんと食べて下さいよ。じゃないと毎日来ますよ?」

 

「うん。倒れない程度にたべるよー」

 

ほっ、と敦は小さく安堵の息を吐いた。まぁ、同じ轍を踏むほど愚かな人ではない……と思っているのだが、ならそもそも倒れるまで絶食しないとも思う。だがまぁ、敦が気にかけすぎてもしょうがない。また、次来た時にでも確認すれば良い。

 

「では、俺はこれで」

 

消耗しているレアと今日は話し過ぎてもなんだと、今日はお暇する事にした敦。だが。

 

「あーちゃん、待って」

 

「はい?」

 

その敦を呼び止めると、レアは少しの色香を感じさせる顔色のまま両の腕を広げて言った。

 

「抱っこ」

 

「は?」

 

「抱っこして、抱っこ」

 

ベッドの上で上体を起こしたままレアは敦にそう要求した。初めての事に敦は少し驚く。レアがたまにスキンシップしてくる事はあれど、本人からねだってきたのは初めてだったからだ。

 

ならばと、答えて敦はベッドの上のレアに歩み寄り、膝を突いて、ぎゅっと掻き抱いた。直ぐにレアからも抱き返してくる。

 

「あーちゃんは暖かいねぇ」

 

むしろいつもはレアの方が小さい体躯に高い熱量を持っていて、暖かい事を敦は知っている。今はカロリー枯渇で体温が下がっているのだ。とはいえ先程触れた時より熱量を感じるので少し安心したが。

 

「今日はレアさんは甘えん坊ですねぇ」

 

そんなレアが可愛くて、敦はレアを抱きしめながら頭を撫でる。

 

この人は、超然としてて、不気味で、孤高。でも、甘えられて、こんなにもちっちゃくて、可愛い人だという事に敦は気がついた。

 

「そうだよ。ボクは甘ったれだもん」

 

嘘だ。この人は他人と触れるのが嫌いだ。敦はそう思った。人と理由なく触れたくないはずだ。

 

何故それが分かるか、敦もそうだからだ。他人の肌が触れ合うのに常に不快感が伴う。誰しも知りもしない相手とベタベタくっつくのは気持ち悪いだろう。

 

でも、何でだろう?何でこんなにこの人を抱きしめるのは嬉しくて、気持ちいいんだろう。

 

「ねぇ……なんでだろう?」

 

まるで敦の疑問に応じるように、レアがそう呟いた。

 

敦の疑問は、何故こんなにも喜ばしいのかという喜びから出たものだった。しかし、レアの声には深刻、何故心地よいのかという問いだった。

 

これでよいのか?という風に。

 

………

……

 

「どーぞ、粗茶ですが」

 

「ありがとー」

 

その日、粗茶と言いつつ本当に茶を出したのは敦だった。レアは茶碗を受け取り、丁度良い温度の茶を啜る。

 

「美味しいねぇ。これ粗茶じゃないんじゃない?」

 

その旨みが豊で雑味も無い茶を正味してレアは言う。しかも猫舌気味のレアにも飲みやすい。それは緑茶の適正温度の関係だろうが。

 

「いえ、茶葉自体は別にそこまでいいものじゃないですよ」

 

淹れた敦はそう応じる。使った茶葉は敦がレアにあげたものだが、茶の愛好家には評価されている銘柄を使っているのだが、しかし別に高級品という訳ではない。

 

「ふーん。でもボクが淹れるより余程美味しいよ?茶葉の問題じゃないんじゃない」

 

「まぁ、いくら高品質な茶葉を使っても淹れ方が駄目だと台無しって事は勿論ありますよ」

 

若干苦い顔で敦は続ける。

 

「高級品の茶葉をわざわざ買って、雑に淹れて台無しにしちゃうって人も居るんですよ。安物だって丁寧に淹れればそれなりに美味しいのが分からずに」

 

「それは人間性の問題かもね」

 

レアはそう言った。

 

「つまりは、高ければ良い。グレードが高ければ自分も良くなると人は勘違いしがちなんだよ」

 

「なるほど。いいものを買えばいいものが淹れれると確かに人はそう考えるがちです」

 

「だけどそれは違う」

 

レアが断言すると敦は続けた。

 

「どんないい茶葉を買ったところで淹れる人が素人なら不味くなります。大した茶葉でなくとも上手い人が丁寧に淹ればそれなりに飲めます」

 

レアはゆっくりと頷いた。

 

「つまりは、茶葉そのものではなくて淹れる人の問題だね。つまりはいつだって大事なのはその人だ」

 

「そして案外それが分からない人が多い」

 

「宝の持ち腐れ。という奴ですか」

 

「そうだね。不味いお茶しか淹れられない人が高級茶葉なんて買っても分不相応という事だねぇ」

 

「まぁ、せっかくの良い品を台無しにされるのもあまり気分は良くはないですね」

 

敦が言うと美味そうに茶を啜り、レアは答えた。

 

「それが、良い茶葉を手に入れればそれだけで自分は一流の茶人とでも思えちゃう人が多いんだよ」

 

「そしてこれは茶に限らない。何でもそうだよ」

 

クスリと、無邪気にしかし、皮肉に一つ笑って続けた。

 

「例えば、多くの人は服、小物、車なんかの日用品やアクセサリーなんかは有名な高級ブランドが好きだよね。なんでかな?」

 

「それを持っている事自体がステータスだからですね。高値で、流通も専門店に限られる。そう言った高級志向の製品はニーズがあります」

 

うむうむ。とレアは笑顔で頷いた。

 

「そうだね。そして高級ブランド品を身につけていれば、一流の人間。成功者の証ってアピール出来て皆も羨む……そんなものつけた所でその本人の中身や人間性は何一つ変わらないのにねぇ」

 

今度こそ完全に皮肉にレアは暗く笑った。くっと敦も似たような笑みを返した。

 

「なるほど。ガワだけ飾って中身は空っぽ。な人間も多いと」

 

「そだね。無論そういうものを自然と着こなす、使いこなす。そういう人も居るんだろうけど、そう言う人が本当に凄い一流じゃない?多分極一部だろうし、よく分かんないけどね」

 

ふむ、と敦は思う。確かに成金など、身の丈に合わぬものを付けてそれをアピールしがちだ。それは多く場合、鼻につくだろう。

 

本物は、安物だろうが超高級だろうが、身につけているもので物腰が変わるわけではない。

 

古代ギリシャ。当時の世界のほぼ全てを手中にしたマケドニアの征服王アレクサンドロス三世。

 

彼はある逸話がある。時代を同じくする哲学者に、服も着ずに裸で樽を住処に暮らしていた犬のような哲学者ディオゲネスがいた。アレクサンドロスは自ら足を運んでディオゲネスに会いにいった。

 

日向ぼっこをしていたディオゲネスを前に、自ら、王であるアレクサンドロスであると名乗り。そしてアレクサンドロスは何でも望みを言ってみよ。とディオゲネスに言う。

 

ディオゲネスは答えて言う。そこに立たれると日を遮るから退いてくれと。

 

アレクサンドロスは帰路に言ったと言う。私がアレクサンドロスでなければディオゲネスになりたい、と。

 

「でも、レアさん。分かるんですね?着飾ったブランド品とかって」

 

「え、分からないよ?」

 

「えぇ?」

 

じゃあ何で言ったんだと敦は思った。

 

「分かるわけないじゃんボクに。見てくれで高級品か安物かの良し悪しなんて。そもそも、服?車?とかのブランドなんて皆同じに見えるし、自慢でもしてくれないと分からないよー」

 

「分からないんですね……」

 

「むしろ自慢されても分からない事あるよ。いつも何々って店を使ってるって言われて、何それ?って聞き返しちゃった事あるよ。なんかスーパーだってゴニョゴニョ教えてくれたけど。後から調べて、何か有名高級志向スーパーの事だったらしいって知ったりね」

 

「あぁ……」

 

なんか、それはちょっと相手が気の毒だ。自慢のつもりで言ったけど通じなくて、直接凄いんだぞとも言えずにどん詰まり。自慢する相手が悪かったのかも知れないが。後から気付いてくれたならまだいいが、レアは、多分自慢を自慢とも気付かなかった事も割とありそうだ。

 

「そんな事言って、あーちゃんこそ高級ブランドとか分かるのかよー?」

 

「一応、俺、経営学専門ですよ。ブランドについてくらいは学んでますよ。要は差別化戦略ですよ」

 

「マックドナルドに対するモスバーガーってね。やっぱり専門の人は、服とかも見てブランド分かるんだ。凄いねぇ」

 

「そりゃあ……」

 

正直分からない。無論マーケティング、ブランド戦略を学ぶ上でテキストに事例は実際、ブランドを挙げたものが載っていて学んだし、実際に商品を買ってみたり店に行って目で見て勉強した事はあるが。

 

だが、別に服だのなんだの自体に一々興味があるわけではないから商品を見た所でなんのブランドだかなんて知らない。精々分かるのは有名な車の車種がどこの企業かくらいか?

 

返答に窮した敦を見て、レアの眼がニマリと笑った。同じ穴の狢だと察したのだろう。

 

敦は少し悔しかった。そして思った。自分もレアの事は言えない。存外に物知らずなのではないかと。

 

その通りである。レアの浮世離れは世捨て人のそれだが、敦も大概ではある。執着や物欲が対して無いのだ。

 

本人達に自覚はないのかも知れないが、似た者夫婦と言えるかも知れない。

 

「まぁ、茶も何でもそうですが、そもそも高級だから良い。売れているから良いものとは一概には言えませんからね」

 

敦は小さく咳払いして話の方向性を少し逸らすように言った。

 

「あぁ、それはそうだね。今はモノが飽和した時代だからね。良いものを作れば売れる、なんて事あるわけがない。ってのはあーちゃんの専門では基本だよね」

 

「良いものなら売れるなんて簡単な話なら、マーケティングも戦略も必要ないですからねぇ」

 

高度成長期。まだモノが少なかった時代ならとにかく作れば売れた。だが、モノに溢れた今の時代はどんなにいいモノを作ったところで埋もれてしまうのだ。

 

「むしろ、製品は普通のクオリティでも、マーケティング戦略が上手くハマってヒットというパターンは多い気がしますね。そして、あまり知られてない商品やブランドの中にも非常に良いものはあります」

 

「あるねぇ。知る人ぞ知るってヤツ。例えばお酒とかでも有名銘柄で高価なモノにも味で決して見劣りしない、でも割と安価。なのに余り知られていない。みたいなの。そういうの見つけると嬉しいよね」

 

確かに、知名度はないが、安価でしかも質がいい。というものはありがたい。特に天邪鬼な所のあるレアは如何にも好きそうだと敦は思った。

 

「だけど、やはりそういうのは今の時代中々珍しいです。そもそも全く売れなければ商品として成り立たないですからね」

 

知る人ぞ知る。というのはつまりニッチな需要はあるという事だ。他の競合の少ない需要を供給したり、少数だが、固定の根強いファンをちゃんと取り込んで生き残っている。そうでなければ全く誰にも知られずに消えている。

 

「例えば……おーいお茶ってペットボトル入りの緑茶ありますよね?」

 

「あるねぇ。飲んだ事ないけど。いやあったかな?ないと思う?まぁいいか!」

 

釈迦に説法かも知れませんが。などと嘯きつつ敦は続けた。

 

「当然あの商品は、ペットボトルの中にお茶が入っているというだけのものです。ですがこう、バリっと」

 

敦は実際にはお茶のペットボトルを持たぬ為、無手で、引き剥がす仕草をした。

 

「パッケージを引き剥がしてしまいます。すると黄緑の液体の入っただけのペットボトルになりますよね」

 

「なるねぇ」

 

「それを店頭、あるいは自販機に並べたら売れるでしょうか?」

 

「売れないねぇ。一本10円で売ってても買う人居ないんじゃないかな?」

 

その通りだろう。店に黄緑の液体が入っているだけの無地ペットボトルが茶として売られていても誰も買わないだろう。

 

「例え中身は同じものでも、裸のペットボトルだと誰も買わないのに商品名な企業名の書かれたデザインされたパッケージが貼ってあると皆が買う。平たく言ってマーケティングってそういうものなんですよね」

 

「もしかしたら皆、お茶を飲みたくてお茶を買っている訳ではないのかも知れないね」

 

「先日のレビットのマーケティング近視眼的見方だとそうなるかも知れませんね。まぁ、消費者も情報が無いと買うにも、意思決定が出来ないのもあるでしょうが」

 

「そうだね。沢山のブランドの色んな種類のお茶が売ってるのに、仮にお店に並んでいるのが全部裸のペットボトルに入ったお茶だったらそもそもどれがどれだか分からないから決めようがないね」

 

レアは、クスリと笑って続けた。

 

「そうなるとどれももう同じだから、皆適当に買ってどの商品が当たるかは運だよね。今日はなんのお茶が当たるかくじ感覚も面白いかも」

 

「はは、昨日のが美味しかったから同じのを買おうとしても、全部ガワが同じだからやっぱりどれか分からないですね」

 

「いや案外皆、違いなんて分からなくなるかも知れないよ」

 

割と皮肉屋なレアはそう笑って言った。

 

「ありそうじゃない?人間の知覚は存外いい加減だしね。少しのバイアスで認識がねじ曲がってしまうって心理学系の実験結果で色々な事例があるよね」

 

「人は茶を味わっているのではなく、パッケージを味わっている。ですか、暴論のようですが中々面白い」

 

「実験したら面白そうじゃない?仮にコカコーラの缶の中にペプシコーラ。ペプシコーラの缶にコカコーラを入れたら。九割九分の人は味を逆に感じるんじゃないかな?」

 

「まぁ……そうなりそうですね」

 

中身がオレンジジュースとかなら流石に気付くだろうが、同じコーラなら銘柄の入れ替わりに気付く人なんていないだろうなと敦も思う。

 

「味というより。パッケージ、情報、値段、如何に付加価値を与えるかというのが商品において基本……というのは門外漢のボクも何となく分かるけど、正直馬鹿馬鹿しくも感じるな」

 

専門のあーちゃんにこう言うのは悪い気がするけどさ、とレアは続ける。

 

「お茶だなんて美味しければいいじゃないか。だから」

 

チン、と空になった茶碗を指で一つ弾いて言った。

 

「だから、ボクはこれでいい。変哲ない茶碗に注いだ、誰でもないあーちゃんが淹れてくれた美味しいお茶がボクは好きだよ」

 

ふふ、と敦は笑った。この人にそう言って貰えるのが嬉しかったのだ。

 

「おかわり要ります?」

 

「いや、いいよ」

 

そうレアは、首を振る。

 

「でも、いいなぁ。ただお茶の入っているだけのパッケージも何もない名もないペットボトル。それは素敵だ」

 

「……」

 

それを聞いて敦はふと想像した。パッケージも貼られてない黄緑の茶が入っている裸のペットボトルがスーパーの一角にぽつりと一つだけ陳列されている。なんだこれは?と客達は一瞥して誰もそれを手に取りもしない。

 

「いつも話たね。ボクは何でも無い。誰にも理解されず。誰にも認められず。何者でもなくなってしまいたいと」

 

「パッケージの剥がしたペットボトル。ですか」

 

「いいや、まだ甘いかな?だって裸のペットボトルなんてお店に並んでいたら逆に目立つじゃないか?」

 

確かに。と敦は首肯した。さっきの想像でいればスーパーに裸のペットボトルが陳列されてても少なくとも誰も買わないだろう。だが逆に誰もがこれは何だ?と目をつけるだろう。

 

「以前話した通り、ボクは強欲過ぎるし俗物だ。いっそ全てを捨てられたら、何もかも捨てて最後に残る、そのものになれたら。とそんな夢を見る」

 

「捨てて、捨てて、捨てて、捨てて、捨てて、捨て果てる事でレアさんは」

 

全てを得る。

 

「人は事実を語る事は出来ない。ボクは騙ってばかりだね。だからここで一つ物語でも試しに語ろうか」

 

真実を語るのはいつの時代も物語と相場が決まっているからね。とレアは続ける。

 

「聴かせて下さい」

 

では、とレアは語りはじめた。

 

ーー昔々、ある国にお姫様がいました。

 

お父さんである王様に可愛がられ。玉のように美しいお姫様は、大事に育てられました。

 

豪華絢爛なお城。お姫様にかしずく召使達。沢山の宝石やドレスなどの贈り物。贅沢な食事。多くの貴族の男の人がお姫様に結婚を申し込んで来ました。お姫様は何でも手に入ったのです。

 

でもお姫様はいつもつまらなそうにして、笑う事も無く、あまり喋りませんでした。

 

何でも欲しいものは手に入り。思い通りに何でもいきます。でもお姫様は自分が不自由だと思っていたのです。

 

何を手に入れても満たされないお姫様は、やがて自分の物を捨て始めてしまいました。お姫様のお部屋は伽藍堂になり、服も簡単なものを最低限しか持たなくなりました。

 

日がな一日、黙して座ったまま物思いに耽るばかりになりました。召使達が話しかけても喋りません。ずっと一言も喋らなくなったので、お城の中ではお姫様はおかしくなってしまったのだと噂されました。

 

心配した王様は高名なお医者様を呼んでお姫様を診てもらいました。しかし、お医者様が何を聞いてもお姫様は黙ったままです。身体を診ようしてもお姫様は黙ったまま嫌がるので無理に診れません。

 

何も答えて貰えず、診察も出来ないので一体何が悪いのかさっぱり分からずお医者様は困ってしまいました。

 

王様は直接お姫様と話そうとしましたが、やはりお姫様は黙るばかりで会話になりません。王様は諦めずに色々話しかけます。何か欲しいものはないかと聞いた時、とうとうお姫様は答えました。

 

私は何も欲さない事を欲します。

 

久しぶりにお姫様の声を聞いて王様は驚きました。何故今まで喋らなかったのかと続けて訪ねました。

 

何も話す事がないから黙っているのです。

 

そう答えたのを最後に、お姫様はもう二度と喋りませんでした。王様は諦めました。

 

物を持っても満たされない事に気付いたお姫様は全てを捨ててしまう事にしたのです。

 

お姫様は何も喋らず。何もせず。まるで植物のように毎日を過ごしました。そうして少しずつ自分に関わるものを自分の中から捨てていきました。

 

そして、お姫様は自分そのものまで捨てていきました。もう何もいらなかったのです。

 

まず思想を捨てました。記憶も捨てました。人格も捨てました。容姿も捨てました。そして身体も捨てました。

 

お姫様は何もかもを捨て去ってしまいました。

 

後に残ったのは、お姫様だった存在。何一つ持たない。ただののっぺらぼうでした。

 

全てを捨て去っても、それでものっぺらぼうだけは残ったのです。

 

しかし、お姫様だったのっぺらぼうは、もう誰にも認識されませんでした。

 

召使達も、王様も、のっぺらぼうには気付きません。お姫様の事はもう誰も覚えて居ませんでした。王様もお姫様なんて記憶から消えてました、もちろん何者でもないのっぺらぼうなんて見えません。

 

のっぺらぼうの方も王様なんて分かりません。自分がかつてお姫様だったなんてのっぺらぼうは覚えていません。だってのっぺらぼうは何もないからのっぺらぼうなのです。

 

のっぺらぼうはただ世界を徘徊し始めました。何も思わずに、何にも縛られずに、全てを見て回りました。のっぺらぼうは自由だからです。

 

しかし、何を見ようと何処に行こうと、のっぺらぼうは何も、何も、何も何も何も何も何も思いませんでした。何故ならのっぺらぼうは自由だからです。

 

ある村に、一人の老婆が居ました。

 

老婆は結婚もせず、子供も居らず。孤独でした。村では昔から偏屈者だと言われ、誰も関わろうとしない為、老婆は殆どの人から無視されていました。

 

そんな孤独に暮らす老婆をのっぺらぼうは見ていました。

 

老婆はのっぺらぼうに言いました。そこに誰か居るのかい?

 

のっぺらぼうは答えを持ちませんでした。しかし、老婆は誰かにのっぺらぼうがそこに居る事に気づいたのです。

 

のっぺらぼうは、何も思う事なく老婆の家で老婆と共に過ごしました。老婆ものっぺらぼうと共に毎日を過ごしました。そんなのっぺらぼうと過ごす毎日は老婆には満ち足りた日々でした。

 

そうして、何ものでもないのっぺらぼうと共に過ごしている内に老婆もまた自分が何も欲さない事に気付きました。

 

そして老婆ものっぺらぼうになりました。

 

のっぺらぼうはのっぺらぼうとなる事で、のっぺらぼうと一つになりました。

 

二つののっぺらぼうは一つとなって世界そのものと一つとなりました。

 

そうしてのっぺらぼうは永遠に全てとなりました。

 

「めでたしめでたし……とね」

 

そう言って、レアは話を締め括った。

 

「最後の方はのっぺらぼうと言い過ぎ感があるね、これ」

 

クスクスと笑ってついでに一つ諧謔を弄する。敦は一つ息を吐いた。

 

「全てを捨て去って。それでも残る何か……」

 

「そう、何も無くしてしまって。最後にただ『在る』という事のみが残る……それは素敵だ。この世界で一番の自由だ」

 

レアは雄大な絶景を眺めているかのような眼で微笑を浮かべつつ両手をゆっくり広げて言った。

 

「それが、のっぺらぼうですか」

 

「強いていえばそうなるね……話は一旦逸れるけど。哲学があれば哲学者がもちろんいるね。あーちゃんは哲学者って聞くと誰が思い浮かぶ?」

 

「?レアさんですね」

 

「いや、ボクじゃなくて、もっと一般的な」

 

敦の答えに珍しく少し頬を紅潮させつつ、レアはツッコむ。

 

「プラトンとかカント、ニーチェとかですか」

 

「そうそう、誰でも知っている。哲学者と言えばと聞かれればいくらでも出てくる名のなる人は沢山いるね。いや、沢山って程はいないかな?高名なのは紀元前からの歴史で高々二、三十人だし」

 

「でも、そのくらいは大哲人と言われる人は出ているわけですね」

 

「そう、それだよ!」

 

ぴっ!と鋭く指先を向けて我が意を得たりとばかりにレアは言った。

 

「どれです?」

 

「つまりね、史上に名の残る大哲人って人達は哲学者としてはある種、半端者なんだ」

 

余りに大胆な論法に敦は面喰らう。しかし、今までレアと話をして来た事を踏まえて考えると何が言いたいかは遅れて分かった。

 

「名が残っている……からこそ、ですか」

 

「流石あーちゃん!そう、名を残してしまったからだ」

 

こんな事を言ったら哲学研究家さん辺りに何様のつもりだとお叱りを受けそうだけどね。とレアはクスクスとシニカルに笑って嘯く。

 

「つまりね、偉大な哲学者が名を残している蓋然性が無いんだよ。ここら辺は他の学問の学者と違う、哲学の特殊性なのかも知れないね」

 

「転倒を起こしてるのかも知れません。名のある哲学者が偉大な哲学者だと」

 

敦の指摘にレアは、多分そうだろうね。と頷く。

 

「彼らは、どうあれ自分の思索や理論を形に残して発表せずにはいられなかった。だから名前が残った。でも、もっと彼岸にいってしまった何も語らずに、何も残さずに消えていった、もっと徹底していた哲学者。それはきっといつの時代にも、場所にも数多くいた筈だ」

 

「哲学者である故に、名が残る事がない……と」

 

「そうだね。スピノザはね、それが分かっていたんだ。彼は自分の論文を発表するに当たってそれがスピノザである必要がないと分かっていた。自分がスピノザである意味がないと理解していた。彼はそういう領域にいたんだ。だから彼は遺言で自分の論文は匿名で発表するように、と言い残したそうだよ」

 

そう考えると彼は思想といいヘーゲルと同じく結構東洋的な哲人だね、と継げ足す。

 

「それらが、主著、エティカを始めとしたスピノザの没後に出された名著達だ。ただ、気の毒な事にどうしてか、スピノザの遺言は守られずに結局スピノザの名の下にそれらが出されてしまった。故にスピノザと言う名前が残ってしまった。惜しかったね」

 

「手違いでスピノザは名前が残ってしまった……ですか」

 

「そうだね。もっともスピノザからすれば、もう名前が残ろうが残るまいがどうでも良かったのかも知れないけどね。だってスピノザはもう死んでいるもの」

 

クス、と笑いレアは茶碗を手の内でクルリと一つ回すと言った。

 

「あーちゃん、やっぱりおかわり頂戴」

 

お茶のおねだりに、敦も一つ笑って答えた。

 

「いいですよ」

 

そして小休止代わりに敦が改めて茶を淹れて、自分の分と一緒にレアの茶碗に急須から回し注いだ。

 

レアは淹れたての暖かいお茶を一口飲み、美味しそうにほぅ、と一つ息をつく。

 

「何かお茶請けがあるといいのですが」

 

「ん〜、でも甘い物あんまり食べられないからなぁ」

 

「いえ、お茶請けは甘い物とは限りませんよ。例えばお新香とか煎餅とかもよく合わせますし」

 

甘い物苦手だったのか、と思いつつ敦は言う。火を通した野菜の甘さは好むようだが、多分ショ糖のキツい甘さが駄目なのだろう。

 

「そういうばそうだねぇ。お煎餅は欲しいかも」

 

サラダ味が好きだなぁ、などと宣うレア。そこで話が大分逸れてる事に気がついた。

 

「話を戻すけど。スピノザはしくじってしまってスピノザと言う名が後世に残ってしまった……ボクは上手くやる。誰にも見られず。聞かれず。認められないまま、野々村レアは消えて、そうしてのっぺらぼうだけが後に残る」

 

「それが、レアさんの目指す所ですか」

 

ずっ、と自分も茶を一つ啜りつつ敦は相槌を打った。

 

「そうだね。ニーチェは、人は何も欲さないより、まだしも無を欲すると言った。だけど、人は無を欲した所で零には至れない。何故なら人である以上は、まず先に存在がある。存在は有だ。有は零には成れない。在るが無い事には至れない」

 

だから、とレアは続ける。

 

「ボクはむしろ無を欲する事より、何も欲さない事で至りたいんだ。人は無には触れられない。だけど空には触れられる」

 

「空。仏教ですか」

 

「そう。無ではない、空だ……あーちゃんにはいつだったか話たよね。名前は体を表すけど。体をやっている主体は決して表せないと」

 

暫く前に聞いた事だった。名には意味がある、名が何か確かな実在を指す。そういう考えが人々を欺く、誤謬だとレアは喝破していた。レアが人の名前に頓着しない癖もそういう思想故だろう。

 

「ボクがボクの持つ物を全て捨てて、野々村レアである事すら辞める。何もかも無くしたボクに最後にそれでも残る物」

 

「ボクが『在った』以上、必ずそれだけは在る。絶対的に無には至れない、根源的有。それが空だ」

 

「そして、それこそが、お姫様様と老婆が至った……のっぺらぼうですか」

 

こくり、とレアは頷く。

 

「こののっぺらぼうを、空とも言えるし、プシューケーと言ってもいいだろう。神とも言えるし。端的に魂とか、あるいは力への意志なんて言った人もいる。でももっと簡単で単純に一言で言えてしまうんだ」

 

「それは?」

 

「存在、だよ」

 

「ボクが有るという事は存在として有るという事で、遍く全ての有もまた存在なんだ。そしてこれだけは紛れもなく確かな事だ」

 

「Cogito ergo sumーー我思う。故に我有り。デカルトのこの命題も、思索している存在だけは確かに存在していてそれだけは、疑い得ない。という事に気付いただけの事なんだ」

 

デカルトはこの存在である我と自分であるデカルトを同一視してしまう陥穽にはまり込んでしまったのは、デカルトの過ちだと思うけどね。等とレアは続ける。

 

「ついでに言うとデカルトの命題は哲学史に残る至上命令と言えるけど。これはもっと単純に言い表せる。ボクならこう言うね、『有るものは在る』……ボクはこれだけは絶対的真理だと自負しているよ」

 

「在るという事だけしかなく。それで満ち足りいる。誰にも認められず、知られる事のないのっぺらぼう。それは何にもないし、意味もないけど、世界で一番の自由で、きっと凄く幸せだよ」

 

「だからね、あーちゃん」

 

レアは柔らかい微笑を浮かべて言った。

 

「ボクを必要とする者が居なくなったその時、野々村レアは綺麗に消えてそして何かが残るんだよ」

 

さっぱりするね。とレアは結んだ。

 



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2-3

野々村敦という人間は、空虚である。

 

敦は自身をそのように自認していた。

 

情も薄く、強い意志があるわけでもなく、過去に影響されながらも、未来を夢見るでもなく、大事な思い出もない。端的に言って何かどうしても譲れぬ何かが無い。人間としての芯が無い。

 

だが、空虚たる所以はその中途半端さにある。つまり色々な点で何も無いという事を徹底して極めるという所も無い。生きながらにして諦めながら、しかし様々な未練、そして欲を残す。つまりはショボいのだ。

 

故にこそ野々村レアという人間に惹かれたのだろう。彼女は自身を誰よりも愚かな俗物と称していたが、敦はレアを虚無の領域にある狂気の存在だと思っていた。自分のような半端者ではない。きっと極点まで行ってしまう人だ。

 

だから憧れた。一緒に行きたいと思ったのだ、彼女の創る彼岸。涯の涯へと。

 

強いて言えば、敦にはそのくらいしかない。他人(レア)ありきの芯なんて如何にも軟弱。レアについて行ける価値など今のところはないだろう。

 

だから自分もこれから自分の頭で考えていこうと、そう思っている。

 

総じて、野々村敦は自身をこのように考えていた。

 

その証左に一つ。敦はかつてレアに自分の生い立ちを話した時、一つの嘘をついていた。

 

「兄さん」

 

その日。夕刻、帰宅の途に着く敦は、アパートへの道すがらに聞き覚えのある幼き声に呼び止められて凍りついた。

 

一瞬、止まったように感じられた心臓は徐々に鼓動が早くなっていく。

 

ゆっくりと振り向く。そこには幼い体躯をして、色素の薄いロングの髪を背中に流した少女がいた。丸い眼をした幼気な可愛らしい顔だが、歳に不相応な落ち着いた表情だ。

 

服装なフォーマルなデザインのカーディガンにスカートと、学校の制服のようにも見えるが、私服であった。

 

「……紬」

 

その少女の名は中島紬。敦の血の繋がらぬ妹だった。

 

「何をしに来たんだ?」

 

「……」

 

「いや、すまない……」

 

引け目もあって、つい硬い声が出てしまった。敦は一つ息を吐いて冷静になる。

 

「話なら俺の部屋でいいだろう?」

 

「はい」

 

「分かった、じゃあ行こう」

 

紬が頷くと、敦は先導するようにさっさと歩き出す。妹は何回かは敦のアパートに来たことはある為、気兼ねする必要はお互い無い。

 

すぐ近くだった為、兄妹は直ぐにアパートに着いて、敦は自室に妹を招き入れる。とりあえず緑茶を淹れて差し出す。

 

ベッドに座り、啜らずに、静かに茶を一口飲み紬は落ち着いたように息を吐いた。

 

「兄さんのお茶はやっぱり美味しいのです」

 

「あぁ、……ありがとう」

 

敦は自分も椅子に腰掛けつつ、久しぶりに会う妹に目を向ける。こうして対峙していると独特の空気を感じらる。幼い肌の瑞々しさがそのまま拡散しているように、温い湿気が感じられて少女がすぐそこにいるという生々しさがあった。

 

ふと考える。ここにレアが居た時に纏っていた空気と全然違う。彼女は涼しげで乾いた、薄く甘い芳香の混じるものだった。あの人とは違う、人間の生々しい重みを感じさせる妹の雰囲気に敦は少しの緊張を覚えた。

 

「兄さん、そんなに硬くならなくていいのですよ?私は今日兄さんを責め立てたりしに来た訳じゃないのです。ただお話ししたかっただけなのです」

 

その紬の言葉が刺さると共に、敦は少し安心した。その声色は敦を気遣っているのが分かったからだ。

 

だが、それでも敦も負い目は感じていた。

 

「紬、すまない」

 

「いいのです。兄さんは出られなくても仕方なかったのは私にも分かるのです」

 

主語が無い。紬のたまに出る癖だ。だが、敦の感じる負い目は理解していた。つまりは彼女の父親ーーそして敦の養父ーーの葬式に参列しなかった事。しかし紬の声色はむしろ優しげですらあった。

 

ーー敦がレアに過去を語った時、嘘をついた事が一つ。そして言わなかった事が一つある。

 

敦の養父が養母と離婚し、敦とも決別した後、養父がその後どうしていたか知らないと言った点ーー会う事こそ無かったが、一応、離別後にどうなったかについては知ってはした。それが一つ。

 

そして言わなかった点ーー養父は離婚後に再婚し、その後すぐ今度こそ実の娘をもうけた。つまり敦には血の繋がらぬ妹に当たる存在がいるという事ーーそれがこの中島紬だった。

 

ーー正直な心情を述べるなら、敦は紬の事を妹と思ってはいない。そもそも血の繋がりはないし、事実上縁が切れた後の養父が知らぬ所で作った娘を妹と思えるか考えれば、それは難しかろう。

 

しかし、法律上だけで客観的に述べるとーー法律上の事実が客観的事実なのかと問いを投げれば甚だ疑問だがーー敦は養親との間に特別養子縁組を組んでいる為に法律上実の親子となっている。もちろん養親が離婚した所でこれが無かったわけもないので、血は繋がらぬとも戸籍上は養父の娘である紬とは実の兄妹になる。

 

「……父さんの事、紬は大丈夫なのか」

 

「沢山泣いてたら段々と落ち着いてくるものなのです。長患いで覚悟、みたいなのもある程度あったですし」

 

「……強いな。落ち着いているなら良かったが」

 

しかし、実の妹のようにこそ思ってはいなくとも、敦にとって紬は少々特別に思っている相手だ。他人でもなく、妹でもなく、友人でもなく、家族でもなく、何と思っているかは敦にとっても定かではない。しかし、養親とも上手くはやれなかった敦にとっては紬は——もちろん少々複雑な思いはあるのだが——大事な相手と言えるし、弱みでもある。

 

ふるふる、と紬は首を振った。自分は強くなどない。といいたいのだろう。

 

「今日は兄さんにお話ししたい事と、伝えたい事があって来たのです」

 

「……聴くよ」

 

事実上縁の切れた後の養父が作った紬と敦。一応兄妹関係ではあるが、何故この二人に親交があるのか。本来ならお互いの存在自体知らないままでもおかしくない関係であった。

 

ある時、紬の方が父が何かを隠してる事に気がついて問い詰めて、それで自身に兄に当たる者がいる事を聞き出した。そして敦に連絡を取り、相見える事になったのが初対面であった。あれは敦にとっては晴天の霹靂であった。

 

「兄さん、何がありました?」

 

「何、とは?」

 

紬は敦にいきなりそう聞いてきた。尋ねている風だが確信的な口調である。

 

「お父さんの事とは違う何かが……雰囲気が全然違うのです」

 

やはり気取られている。父親を亡くしたばかりなのだからーーそれが血も繋がらず縁が切れているとは言えーー態度の変化等はあってもおかしくはなかろうが、しかし確かに敦に変化があったというならそれとは別のファクターが大きいだろう。紬のこういう所は敦は苦手でもあった。

 

「それは」

 

「……恋人、出来ました?」

 

あっさりと、紬は言ってきた。これは女の勘などと言った生優しいものではない。紬は人並み外れた共感能力と感受性の高さを持っており、会話や表情等から相手の感情や内実等を読み取ってしまう能力を持っていた。

 

もちろん、得た情報から演繹的に即座に答えを出してしまう頭脳も極めて明晰な為。周囲からは神童扱いされているそうだった。敦は内心で紬の事を密かに妖怪サトリ扱いしている。あるいはそれも読まれているのかも知れないが。

 

かつて、父親が隠していた息子である敦の存在に気がついて、敦へとたどり着けたのもこの能力の為だった。

 

が、しかし今回に関しては紬の指摘は、完全な正解ではない。当たらずとも遠からずではあるが。しかし、まさか恋人を飛び越して——もしくはそれ未満ながら——夫婦とは、希代の慧眼の持ち主を持ってしても読みようがない。

 

「恋人じゃない?おかしいですね?片思い、でもないですし」

 

敦が答えるより、その反応で自身の誤謬に気がつく。しかし、どうも大きく外した訳でもないとも解釈するが正答が分からずに困惑した様子だ。

 

無理からぬ事である。それだけ紬という少女が読みを外した事がないという事。

 

「恋人ではないのだが……」

 

「恋人ではなく?」

 

紬は指先を顎に添えて小首を傾げる。可愛らしい仕草だったが、その眼が、敦の眼を真っ直ぐに覗き込み、底の底を読み取ろうと燗と光っていた。

 

「……結婚をした」

 

「けっこん」

 

「結婚」

 

敦の端的な報告に、紬は鸚鵡返しに応じる。

 

「つまり、夫婦。ですか?」

 

「そういう事になる」

 

「ふうふ」

 

紬の確認に敦が頷くと、またも鸚鵡返しにしながら、眼を中空に向けて、落ち着いて噛み砕こうとしているかのように考え込む様子だ。極めて利発な紬には珍しい仕草だ。

 

そんな妹の様子にそんな場合でもないのは承知で敦は、内心でしてやったりと思っていた。何せ、紬という少女はこちらが何か言う前には何を言うか了解している。何かを明かそうとした時には何が出るか既に了承している。とそんなサトリ具合なのだ。本人に悪意はないが、ずっと話していると流石に辟易とする事もある。

 

しかし、常にそんな澄まし顔の妹に出会って以来初めて、完全に慮外の一撃を食らわしてやったのだ。そのどういう事か把握しきれないという顔を初めてみて、我ながら小物らしい満足感を敦は覚える。

 

「その……なんとまず何から言えばいいか困りましたが、ともかくおめでとうございます」

 

「あぁ……ありがとう」

 

少しして、まだ幾許かの当惑は残しつつも平静さを取り戻したのか、ともかく祝辞を述べるのは流石の自制心か。

 

「色々と普通の結婚や夫婦生活ではないようですが、そこは今はアレコレ聞きません。ゆっくり知れれば良い事です」

 

全く紬の言う通りで、結婚したと言うにも関わらず別に以前と変わらぬ暮らしをしていたり、一応身内の紬にすら報告すらなかったり色々まともではないのは伺い知れる。

 

しかし、それをこの場で一つ一つ問い詰めていても中々先に進まないので一旦脇に置いておく分別が紬にはあった。もっと重要な事、優先順位がある。

 

「でも、そうですね……」

 

一つ間を開けて、微笑んで紬は言った。

 

「兄さんがちゃんと人を好きになれて、安心しました」

 

紬から見て敦は、その生い立ちからか明らかに人間不信の気があった。特に紬から見て悲しかったのは、それは他人が悪い訳でもないと、敦が他でもない自分自身を信用出来てない事に起因していた。

 

故に紬はずっと心配だったし、兄には幸せになって欲しかった。どういう形にせよ、人を好きになれたならそれはきっと前進だろうから。

 

実際久々に見た敦の纏う雰囲気は一変していたのだ。以前は、孤独な陰を纏っていて人を寄せ付けないような雰囲気があった。しかし、しかし今は孤独の中にも穏やかな雰囲気になっている。

 

良い変化……と思うのだが、一方で以前には有った——例えそれが負のものとしてもーーエネルギーが今は乏しく、なんだか以前以上に気勢が無くなったように感じるのが紬には少し引っかかった。

 

何はともあれ。

 

「ご結婚相手は、お隣の方ですか」

 

その紬の言葉はカマをかけるなどという風でもなく確信口調だった。

 

「……わかるのか」

 

敦はあまり驚きはなかった。紬はこのくらいは良く見透かしてくるからある程度は慣れているのだ。

 

「兄さんの目線と意識がそちらへ向かうので。お隣さんもさっきこっちに意識向けましたよ、私の事が気になったみたいですが、すぐ興味無くしたみたいで数秒だけでしたけど」

 

「うわぁ……」

 

敦は二つの意味で若干引き気味の声を出した。まず、相も変わらぬ紬の恐ろしい感受性に。この少女、一般家屋程度の中なら何処に誰が居て何をしているか感覚的に把握する事が出来る程なのだ。

 

あまり同じ家庭に住みたくはない。敦は内心そう思った。

 

そして、どうやら隣室にいるらしいレア。もう起きてる時間だし多分書見でもしているのだろうが、気になっても数秒でどうでも良くなるというあまりにもらしい無関心っぷり。

 

こちらは同じ生活範囲内でも気楽だろう。むしろそうなったら向こうが根を上げてしまうか。

 

「やっぱり変わった人ですね。なんか透明で、男の人か女の人かすら分かりませんでした」

 

「普通はわからない」

 

訝しげに首を傾げる紬に、敦は冷静に突っ込む。隣室の人間が意識を向けてきたなど分かる時点で大概おかしいが、それでどんな人間か読まれてはいよいよ、人間離れし過ぎていると敦は思った。以前よりも鋭くなってないだろうか?

 

「とりあえずご結婚相手の事は一旦置いておきます。先に私の方の話をしていいですか?」

 

再び話を後回しにして何だか、色々話す事や聞く事が多くなって、今夜中に終わりますかね。などと内心思いつつ紬は尋ねた。

 

「あぁ、いいよ。……父さんの事か?」

 

「はい」

 

こくりと紬は頷いた。

 

「お父さんは、最後の方は兄さんの話をするようになりました」

 

「……」

 

敦は内心驚愕した。あの養父は敦の事を間違いなく疎んじていたからだ。最初は間違いなく愛していただろう。血の繋がりの有無など関係ないと、お前こそが俺の実の息子なのだと。

 

しかし愛憎は表裏一体。呆気なく裏返った後に残る感情は、失敗の一言に尽きた。結局の所、血の繋がらぬ息子など偽物だった。養父にとって敦はただの縁無き他人だったのだ。

 

分かっている。だから養父は養母と敦と決別した後、敦という忌まわしい失敗を取り戻そうとしたのだ、つまりは……

 

敦はふるりと首を振り、口を開いた。

 

「そう、か」

 

そう、養父は敦を疎んじていた。それは新しい家庭を持ってからの事で分かっていた事だ。事実、養父は紬に問い詰められて隠し切れずに養子の存在を白状した時しか敦の事を語ろうとはしなかったのだと敦は聞いていた。

 

紬にしても、父に敦の話を振るのは忍びない思いがあったから結局敦の話題はタブーのようになってしまった。人の心に用意に触れてしまう紬は、触れられたくない痛みもあると弁えていた。

 

兄を居ないものとして振る舞う事の自分の痛みなら耐えられるのだから。

 

「父さんが何て言っていたか気になりますか?」

 

「……」

 

それに対して、敦は一つ考えるように目を伏せる。しかしその時、口元に小さく笑みが掠めた。

 

(笑った……?)

 

その笑みを紬は見逃さない。しかし、紬を持ってしてその意図が読み切れなかった。このタイミングにおいて自嘲とか皮肉とかの色ではなく、本当に面白がっていた笑みだと分かったからだ。

 

やはり、以前の兄と違う。

 

最も、笑みの理由は大した事ではなかった。敦はもしレアだったなら、と考えたのだ。そしたらあの人が、どうでもいい。と即答するのが目に浮んだだけの事だった。

 

しかし、それは今は関係の無い空想だ。敦自身としては、どうでもいいとは切って捨てられない。

 

「父さんは、なんて?」

 

「後悔を口にしていました」

 

「……」

 

それは、一体どういう後悔なのか?敦の胸が不快に高鳴った。

 

「兄さんに、申し訳無かったと。悪い事をしたと」

 

あぁ。

 

敦の想像したような後悔では無かったが、養父が晩年抱いた悔恨の念は、敦の胸の内の不快感を消してくれるようなものでは無かった。

 

「思えば、俺はあいつをちゃんと一人の人として考えて引き取ったのではなく、自分達の慰みの為に引き取ったのかも知れない。あいつはきっとそういう所を感じ取っていたのだろう」

 

紬の言った言葉は、そのまま父の台詞の要約のようだった。そしてその言葉は、敦の昔の心情を幾許か捉えていた。

 

「その過ちを直視出来ず、自ら望んだ息子に向き合う事もなく逃げ出した俺は、一体何をやっていたのだろうな……と」

 

「あぁ……」

 

そうか養父は、そう考えていたのか。ずっと疎んじられているものとばかり思っていた。

 

「父さんは、謝りたいが兄さんにもう合わせる顔がない。だから謝罪を伝えて欲しいと、言伝を預かって今日来ました」

 

「そうかぁ……」

 

父は、後悔していたのか。

 

「和解の目はあったのか……」

 

そう知っても、敦の胸には喜びも、さりとて悲しみもなくただ空虚だった。

 

その、敦の眼を見て紬の心は軋んだ。感受性の高さ故に人の痛みに彼女はとても弱いのだ。親しい人程同調し易くなってしまう。

 

相手が苦しんでいるのを見て、自分も引き摺られて苦しみを感じる。そういう共感性は誰にでもあるが、紬の場合それに加えて同調性で本当に相手の苦しみが伝わってしまうのだ。自分と相手とで二乗になってしまう。覚悟はしていたが辛い。

 

「別に、父さんが悪いわけじゃなかったのになぁ」

 

「兄さん」

 

「母さんが死んで……一度は失った家族」

 

「それでも、また得られたそれを壊してまで、俺は、一体何が欲しかったんだろうなぁ……」

 

そう、天井を仰いで呟く敦に、とんと軽い衝撃が走った。紬が椅子に座る敦に縋るように抱きついて、涙を流していた。

 

「ご、めんなさい。兄さん、ごめんなさい」

 

「何でお前が謝るんだ?」

 

泣きながら謝罪する紬を敦は抱き返しながら問う。

 

無論、敦は分かっている。養父の生前、敦と養父は混じり合える可能性は有ったのだ。

 

ただ、皆臆病過ぎたのだ。敦は養父に嫌われていると自らを遠ざけた。養父は、悔やみながらも恨まれているだろうと自ら歩み寄れなかった。

 

そして、二人の心情を理解していながら、歩み寄れる可能性があると知りながら、兄と父、二人の不興を買うことになるのが怖くて、結局最後まで二人の間を取り持つ事が出来なかった紬。

 

だからこそ紬は後悔する。手遅れになってから。やはり父が生きている内に自分が何とか出来たのだと。

 

何が神童だ。人の心が分かるのに、自分は何一つ大切な人の役に立てない。

 

「ごめ、んなさい」

 

「お前は、何も悪くない。悪いのは」

 

自分一人だったと。

 

そう思った刹那、またあの人の声が聞こえた気がした。

 

「誰も悪くなんてないんだよ」

 

あの人ならこう言うと敦は思った。

 

そうだ、誰も悪くない。教えてくれたじゃないか、誰も悪と知って悪を為すものは居ない。皆、父も自分も紬も、ただただ、幸福になりたかっただけなのだ。

 

ただ、皆が幸福を願って、それで万人が上手くいくような世界ならどんなに良かっただろう。

 

現実には皆が皆、幸福を願った結果が万人が万人に対する闘争となる。

 

敦は顔を上げた紬の、涙を指先で拭った。

 

「ありがとう、紬」

 

後悔は残るけど。でも、少しの救いにもなった。

 

「父さんは、兄さんを愛していました」

 

くしくし、と紬は自分で涙を拭いながら言った。

 

「どうか許してあげて下さい」

 

「憎んでなんていないよ」

 

ふるふると首を振り敦は言った。そう別に憎んでいた訳じゃない。

 

それに多分愛されたかった訳でもない。

 

そして、恐らく養父とも上手くいかなかった一つの要因。それの敦の性が今も顔を見せていた。

 

(何をやってるんだ俺たちは)

 

何処か場の空気に酔ったような、自分と妹。それを俯瞰している酷く醒めた敦がいる。

 

(まるで安っぽいドラマだな)

 

こういう冷笑的な部分こそが敦の欠点でもあり長所とも言えるかも知れない。よく言えばどんな時でも幾許かの冷静さを保てる。しかし、ただその瞬間に無我夢中になるような、生きる事への懸命さに欠けているとも言える。

 

野々村敦は気勢の無い男である。そして紬もそれは知っていた。

 

敦はとりあえず仕切り直しとばかりに、温かいお茶を改めて淹れ直した。一服して紬も落ち着きを取り戻す。

 

「それで、改めて聞きたいのですが」

 

「うん」

 

平静とした口調に戻った紬が話題を変えてきた。

 

「ご結婚相手はどのような方なんです?」

 

まぁ、やはり気になるのはそこだろう。

 

「見かけは……俺より年上なんだが凄く小柄で、顔立ちも幼い子供みたいな、可愛い人だよ」

 

紬は、兄はロリコンだったのだろうか?と口には出さないが思った。紬自身、人の嗜好や志向を読む事には自負があったので今まで気付けなかったとしたらちょっとした屈辱だ。

 

「……人柄はどのような人なのですか?」

 

「一言で表すのは難しいな……分かっていると思うけど相当変わっている」

 

「まず夜行性だ。陽が落ちる頃に起きて、朝日が登ってから寝る」

 

「それだけだとずぼらな印象ですね」

 

「それは違う。いや、そういう面もあるだろうが……かなり規則的な生活だからな」

 

「ならば人嫌い……ですか?」

 

む、と相変わらずのサトリっぷりに敦は閉口しかけるが改めて口を開く。

 

「どうだろうな……人が嫌い云々は分からないが、少なくとも人間の刺激がキツいのは確からしい。夜中は静かで人が居ないからと言っていた」

 

「何となく分かります」

 

紬は、お茶を一口飲み続けた。

 

「私と同じ所がある人、でしょう」

 

「……」

 

それに敦は即答は出来なかった。是とも言える、否でもある。確かにあの人も感受性が高すぎる部分があるのだろう。しかし、紬のように人に関わるタイプでもない。

 

「分かりますよ……人の心が映るのが辛くて辛くて、向き合えないというのは」

 

「いや」

 

敦は思った。紬の言う事は的外れではないが、正答とも思えない。第一会ってもいないのに、あの人の事が分かるなんて顔されるのは、流石に妹相手でも敦は不愉快だった。

 

「そんな単純に理解は難しい人だよ」

 

「なら、兄さんはどんな人だと思っているんですか?」

 

「言っただろう、分からない」

 

「それでも、強いていうならあんなに優しい人もいないし、あんなに怖い人もいない。かな」

 

そう独白するように言う、敦の目線は伏せられていたが、紬はそんな兄の眼を真っ直ぐに覗いていた。

 

「でも、その人が兄さんは好きなのですね」

 

「あぁ」

 

「結婚しても……それでも共に暮らせなくても、ですか」

 

その言葉に、敦は暝目した。そうして、暫しの後に答えた。

 

「例えばだが、紬はどう思う?好きな相手がいつか出来た時に自分はどうしたいと思う?」

 

「どう、ですか?そのような人もいないのでまだ……」

 

「一度も考えた事もないか?例えば、いつか自分も好きな男が出来たら結婚して、子供を産んで、幸せな家庭を作ると、漠然と思った事はないか?」

 

「……」

 

答えられなかった。紬もそんな何処か当たり前のテンプレート通りの幸福を漫然と将来に思い描いていた部分がないとは言えない。如何に幼くても、いや幼いが故にそんな事も考える。

 

思えば、そんな当たり前を得ようとした大人達に踊らされた目の前の兄を知りながらだ。

 

「子供は、出来るとは限らない。そんな下らない理由から結婚生活が瓦解する可能性はある」

 

それはまさに、敦の養親が辿った道であった。紬の父でもあるが、昔を知らない紬と、その当事者の敦では、同じ父でも見ていたものは違う。

 

「お前が好きになれるのは男ではなく女かも知れない。そうしたら少なくとも結婚は無理だ、それ以前に誰一人、人を好きにはなれないという事もありうる」

 

「……」

 

如何に強い共感能力を持っていたとしても、紬は誰かではない。自身とは決定的に違う人の立場に自身を置いて考える……という訳ではない。その能力は必ずしも人以上ではないのだ。

 

「ごめんなさい。私も、兄さんに当たり前を押し付けたのかも知れないです」

 

「俺の事は別にいいんだ。だけどあの人にはあまり押し付けたくはないんだ」

 

当たり前の価値観を当たり前のように押し付けられる。あまり真っ当には生きてこれなかった敦にとってそれ自体は業腹だが、仕方ないと弁えている。

 

だが、あの人は多分それに自分以上に倦む所があるだろう。敦は思う。あの人は俺より深いから、きっと自分自身も気付かず犯してきた部分があるはずだ。それはなるべくしたくない。

 

「後は、俺自身の理由もある」

 

「欲しいモノは手に入れたくない。ですか」

 

「有り体に言えばそうだ」

 

敦の心情を読み取った紬に、頷いて答える。もしかしたら、先の理由は方便でこちらの理由が殆どなのかも知れない。

 

「花が美しいからと、自らのものにしたいと手折ってしまう」

 

「そうすると途端に萎れてかつての美しさや香りが見る影もなくなってしまった花を呆然と眺めている」

 

そう話す敦の眼に無情な痛みが宿っているのを紬は見た。

 

「男の欲っていうのはそういう所があると思う。いや、男に限った話でもないかも知れないが……」

 

「なるほど」

 

紬は頷いた。言っている事はもっと小さな話でも自分でも身に覚えがある。多分誰にでもあるのではないか。

 

例えば、店に売っている商品がどうしても欲しくてなけなしのお金で買って手に入れる。しかし、いざ手元に来ると、あんなにも欲しかったのに、それが酷くありきたりなつまらないものに思えて結局見向きもしなくなる。

 

「思うに、花を愛するなら手折ってしまうべきではない。ただあるがまま咲き誇る美しさを自然に愛でればこそ、花は喜んで綺麗に咲くんだと」

 

買わずに後悔するより、買って後悔しろ。などという言葉はあるがどうか?買っても手に入れても満足出来ないくらいなら、手に入らずに悔いを残す方が上等なのかも知れない。

 

「兄さんは……」

 

「兄さんは、手に入らないモノしか愛せないのですか」

 

紬の指摘に、敦は頷いて答えた。

 

「そう、かも知れないな」

 

「あるいは、手に入る程度のモノは、手に入れる価値がないのかも知れない」

 

以前、他ならぬレアが自身は俗物で誰よりも強欲だと自称していたが、その論法で言うなら敦も大概なのかも知れない。

 

「兄さんは、変わりましたね」

 

紬はポツリと言った。

 

「以前は、足りないと、飢えていたのに」

 

「それは、別に今も変わらないよ。ただ、あの人と話している内に飢えているというその事によって案外俺は幸福だったのかも知れないと、今はそう思う」

 

「得られる事はなく、満足もする事がない。それでも良いと」

 

生きていても何も得られないと分かっていて、諦めている。紬は思う。そんな絶望を幸福と言うのか。いや、敦の眼にも口調にも自己欺瞞の色はない。本気で言っている。

 

「と、言うかだ。そもそもあの人なら多分こう言うと思う」

 

「どのようにですか?」

 

「人は、一人でしか生きられない。故に絶対的個人が、恋人や夫婦関係において、相手は自分のものだとか、自分は相手のものだ、なんて考える事自体、傲岸不遜にも程がある」

 

そうだ、あの人ならきっとそういう。この瞬間、敦は自分の口を借りてレアが喋っている気すらした。

 

「そんなものは愛とは認めない……と、きっとこう言うだろうな」

 

なるほど、話を聞くだけで一筋縄ではいかない人らしいのは分かった。恐らく超個人主義で、内省に耽ってばかりいるイメージだろうか。しかし。

 

「又聞きでは、何とも判断出来ませんね」

 

相手を理解したくば直接会って、観て、話す。紬にとってこれが一番だ。むしろ本人に会う前より、他人の評価を聞きすぎるとバイアスがかかってしまうというものだ。

 

「では、挨拶に参りますか」

 

「会う気か……」

 

まぁ、そう言い出すだろうと思っていた敦は軽く嘆息した。

 

「それはいくら私でも会ってみないとどんな人かは分からないのです。幸い今ご在宅ですしね」

 

「そうなんだが、気難しい所もある人だからな……」

 

あの煩わしい事大嫌いな人の所に、全く知りもしない他人ーー実際は義妹の関係にあるのだがーーを連れて行ってどんな顔をするか。むしろ、レアをここに呼んだ方がまだいいか?大差ないかも知れないが。

 

「兄さんのご結婚相手に、妹として一言挨拶するだけですよ。別におかしな事でもないのです」

 

「まぁ、な」

 

退けるのが難しい程に正論だ。確かに至極当たり前の事だが、結婚したから、相手の血縁とも親戚付き合い〜などと、如何にもあの人が嫌いそうだ。というか敦だって面倒だ、事実、敦も向こうの父親に挨拶すらしなかったという非礼を犯している。

 

敦はチラリと時計を一瞥する。とりあえず訪問は可能のいつもの受け付け時間だった。

 

今日は別に尋ねるつもりはなかったから、手土産の用意もなく手ぶらになるが。

 

「分かった。行くだけ行ってみよう」

 

ふ、と一息吐いて敦は観念したように言った。

 

敦もいっそ、この妖怪サトリの様な妹とサトリならぬ悟り澄ましたような自称俗物のレアを引き合わせてどんな化学反応が起こるか少し気になってきた。

 

「えぇ、是非」

 

ぱっと笑顔を浮かべて紬は応じた。

 

「ただ、会えるかの保証は無いぞ。あの人は誰にも会う気のない日は鍵を閉めて、一切対応しない。携帯の類も持ってないから連絡も取れないしな」

 

そういいつつ敦は重い腰を上げる。実際にはレアは携帯は持ってはいるが、使わないし、敦も連絡先を知らないので、分かりやすくそう言った。

 

「多分だけど、今日は会えますよ」

 

予言じみた紬の言葉に、敦は小さく苦笑した。

 

何となく敦もそんな気がした。

 

敦と紬は共に部屋を出て、お隣の扉の前に立った。敦はいつも通りインターホンを鳴らす。

 

紬は、インターホンなど鳴らさずとも、敦の部屋から出た時点で中の住人の意識がこっちを伺っているのを把握していた。いや、相手の意識の広がりに包まれているような独特の感覚は、把握されていたというべきか。

 

ごくたまにこういう空間把握能力の持ち主がいる事を紬は経験から知っていた。

 

勿論応答はないので、敦はドアに手をかけるが、あっさり開いてしまった。

 

ほら、やっぱり。敦はそう思いつつドアを開けて入室する。

 

「お邪魔しますー。今日客を一人連れて来たんですけどいいですか?」

 

「こんばんはあーちゃん。んー?お客様ー?だれ?」

 

敦の言葉に中からレアは応じる。その惚けたような声色に紬は狸め。と内心思った。私の事は兄の部屋にいた時に気がついていたのに。

 

「お邪魔します」

 

紬は夫婦の問答を待たずに、兄に続いて室内に踏み入りながら、挨拶する。鼻先を爽やかな青林檎に花のニュアンスが混じった香りがくすぐった。

 

その間取り自体は兄の部屋と同じだが、書棚やら積まれた書籍だらけの部屋。その机の前の椅子に腰掛けている兄の妻となった人物。

 

紬はその人をちゃんと視界に収めて意識したのに、上手く認識が出来なかった。顔立ちは?体格は?表情は?一瞬何も分からずに混乱しそうになった。

 

「ありゃ、これはまた一段と可愛らしいお客様だねぇ」

 

のんびりとした風鈴のように涼やかな相手の声が耳に届いたので、それをとっかかりに意識を繋げるようにして紬はやっとそこにいる人物を感覚で捉えた。

 

なるほど、聞いていた通り幼い顔立ちと体躯だと紬は思った。実際下手すればレアは、紬より幼く見えかねない。

 

レアはゆったりした部屋着だから体つきなど分かりにくいが胸などは、紬の方が少し発育がいいくらいだ。背も僅かに紬が高い。

 

レアは椅子の上で立てた片膝に、開いていたらしい本を伏せて持った手を置き。首を傾げて、漫然として色のない流し目で紬を見上げていた。

 

その口元には、あるかなしかの笑みが浮かんでいる。紬には、その何処か面白がっているようで無関心なような全体の雰囲気が印象的であった。

 

何処となく不気味に紬は感じた。

 

「これは、実は俺の……妹で、紬といいます。今日、挨拶したいとの事で」

 

「初めまして。私は、中島紬と申します。兄さんとご結婚された義姉さんとこうして、お会いできて嬉しいです」

 

兄の紹介に乗っかるように、紬はまず初手はなるべく丁寧に挨拶をした。それに対して、レアは自分の格好が無作法と思い、机に本を伏せて置き、姿勢を改めて、返礼した。

 

「これはご丁寧に、初めまして。私は、私は〜…」

 

そこまで言ってレアは先の言葉を見失ったように、何とか口を開きかけて、結局噤んで少し考えこんだ。そして結局諦めてこう言った。

 

「あーちゃん。ボクの名前って何だっけ?」

 

『は?』

 

その質問に、兄妹は異口同音に間抜けた声を返した。いやこの場合は桁外れの間抜けはレアであった。

 

「……紀昌ですか貴女は、野々村レアですよ」

 

「あぁ!そうだった。野々村レアと申します。以後お見知り置きをー」

 

それに対して、紬は答えを返しあぐねた。今のが、ただの諧謔として惚けてみせただけならーーまぁキツい冗談だがーー笑って流す事も出来たのだ。

 

しかし紬は、真面目にレアが自分の名前を忘れて困ったというのがありありと分かってしまっただけに笑いようがない。

 

室内に入り、兄と並んで硬い床に腰を下ろしながら、あの人は若年性認知症なのだろうか?と紬は素で心配した。この後の話でおかしな所があったなら病院へ連れていかなければ。などと考えていた為、座布団一つない事は気にもならなかった。

 

そして、レアはキッチンへ行き二つのコップに水道から無造作に水を注ぐと、戻ってきて二人に差し出した。

 

「どーぞ、粗茶ですが」

 

レアはこれが言いたかったのだという風にニコニコ笑っていた。

 

「頂きます」

 

「あ、ありがとうございます?」

 

紬は、兄が微笑んで何でもないように水道水を受け取ったのを見て、戸惑いつつも自分も受け取った。

 

とりあえず一口飲む。ぬるくて、僅かにカルキ臭い本当にただの水道水だった。

 

「いやぁ、自分の名前をど忘れとかよくあるよねー」

 

そこで更にレアが自分の席に着きながらあるある、という風に追撃してきたので紬が水道水で咽せそうになったがなんとか飲み込んだ。

 

「ないですね」

 

敦は冷静に突っ込んでいた。

 

「あー、いや。でもた、たまに私もど忘れってありますよ」

 

そして、紬は気を遣ってフォローした。我ながらかなり苦しいが。

 

「ねー、あるよねぇ」

 

おかしいのはあーちゃんだ。などと嘯きながらレアはクスクスと笑った。

 

最初の第一印象から一転、畳み掛けるように三つボケを重ねられる茶目っ気に紬は笑うべきか迷った。

 

「あの、ちなみに名前をど忘れって本当に良くあるのです?」

 

しかし、後のは意図した冗句だが最初の大ボケが素だったのは分かった為、紬は確認してみた。

 

「いやー、本当の事言うと良くあるって程じゃないよ。子供の頃からたまーにあったくらい」

 

紬は、病院を勧める方向に思考が傾き始めた。しかし、兄を横目で見ると彼は特に顔色を変えずに水道水を飲んでいた。

 

敦はもう一々大袈裟に驚きはしないくらいにレアの無茶苦茶加減には慣れていた。

 

ただ彼は、今日はレアさんテンション高いな。嫌がられるかもと思ったが、意外と客に喜んでいるのだろうか?などと考えていた。

 

「あれ?野々村……」

 

そこで遅れて紬は気がついた。結婚したのに中島姓ではないのか。夫婦別姓を名乗っているのだろうか?

 

「俺が野々村姓になったんだよ」

 

敦は紬の疑問を汲み取って答えた。

 

「えっ、婿入りしたのですか?」

 

「あぁ」

 

敦は肯首した。

 

「何故です?」

 

「そうだな……単に野々村って名前が気に入った、からだな」

 

「そう、ですか……」

 

紬は俯いた。もう兄は自分と同じ姓ではないのだ。これで、自分は敦の妹だと言える根拠が一つ無くなった事になる。

 

それはいいとしても、今の兄の答えには含みが合った。兄には養父と同じ姓を捨てたいという思いがほんの幾許かにせよあった事を悟ったのだ。紬は流石に少し堪える。

 

「あの、レアさん。とお呼びしてもいいですか?」

 

「何でもいーよ」

 

先程までは笑っていたレアは、兄妹間で問答が行われている間に笑みが消えて呆けたような表情で、焦点の定まらない目線を中空に向けたまま、紬の問いに本当に何でも良さげに答えた。

 

「レアさんは、何で兄と結婚したのですか?」

 

「んー、何でだっけ?」

 

「俺は知りませんよ」

 

紬の質問に、ぼんやりした目線を敦に向けて、レアははて何でだろうという風に言った。

 

敦もレアがどういうつもりで結婚したかなんて分かるわけもない。と答える。

 

「確か……あーちゃんが婚姻届持ってきて、書いてって言ったから、かな?」

 

なんなのだ、この人は?紬は思った。

 

「……なら兄さんは何故婚姻届を?」

 

「レアさんが結婚する?みたいに言ったからしてみようかな、と」

 

「そだったけ?」

 

確かに先に結婚を口にしたのはーー半ばおふざけでだがーーレアだったのだが、本人はもうそんな事は忘れていた。

 

「まー、そんな大した理由はなかったんじゃないかな?きっと太陽が眩しかったからだよー」

 

そう言ってクスクスとレアは楽しげに笑った。

 

「二人ともふざけてますか?」

 

真面目に話を聞こうとしてるのに全く取り合って貰えないような受け答えに紬は、流石に少し撫然として言った。

 

「あー、ごめんねぇ。そうじゃないんだよ」

 

レアは少し困った様子で弁明した。少しの疎わしさが混じっているのは、レアのピントの外れで視座しているような態度に相手を怒らせてしまう事が恐らく少なからず有って食傷気味なのだろう。

 

「紬、別に俺もレアさんもふざけている訳じゃない。言っただろう」

 

普通を押し付けるな、か。

 

最もだ。紬は思った。ここで自分が子供のように(子供なのだが)感情的になっても誰にとっても全く利得にならない。そんな事より自分の感情なんて捨て置いてこの人を見極める事に徹するべきであろう。

 

そう考えて紬は一つ息を吐いて自制した。

 

「いえ、こちらこそごめんなさい。好きにお話を進めて下さっていいです」

 

「そう?じゃあ、本当の所を言うけどね。やっぱり同じなんだ。大した意味はないんだよ。逆に結婚するのに大袈裟な意味だとか、理由だとかって必要かな?」

 

レアはのらりくらりしていた所を、少し正対する姿勢になったのかそう答えた。

 

「……人によると思うのです」

 

紬は当たり障りのない返事をする。その眼がじっと、レアの眼や表情を覗き込んでいた。

 

「ボクはね、人達が結婚するのに大した意味も理由もないように思う」

 

クス、と何処かシニカルなニュアンスの混じる笑みを漏らした。

 

敦は紬の隣りで、おっ、今日は皮肉屋が現れそうだぞ。などと思っていた。

 

「何となく出会った二人が何となく付き合って、何となく結婚して何となく一緒に暮らして、何となく子供出来たりもして、何となく育てて、何となく死んでいく。そんなもんじゃあないの?」

 

「むしろそんな深ーく深刻に考えてたりしたら誰も結婚なんか出来ないよきっと」

 

そう言ってレアは何処か品を作るように椅子の上で片膝を立ててクスクスと笑った。

 

敦は口出しせずに、そんな様を見てレアさんって意外と少しあざとい仕草するよなぁ。しかも微妙なバランスで可愛いな。などと全く関係ない事に思考を巡らせていた。

 

この人、多分自分がかわいい事知っているよな。いや、そもそも以前から自分は見てくれは良いらしい。とか言ってたし、客観的な評価を自認しているのだろう。本人自身が主観的に自分の容姿をどう思っているのかは知らないが。

 

「まぁ、そんな訳で大した意味もないのだから、結婚なんて大抵が勢いだよ。そういう意味ではボクも多分、例に漏れず」

 

特に紬が口を挟まないのを見て、レアは話し続ける。

 

「あーちゃんが婚姻届持ってきて、ボクはまぁ面白いかも知れないし書いてもいいかぁ。と思ったから記入した。単にそれだけなんだ」

 

ごめんねぇ、つまらなくて。とレアは微笑して言った。

 

「兄さんの親については聞いていますか?」

 

それに対して紬は何か自分の所感を述べるでもなく、全く別の話を切り出した。

 

「聞いてるよ。養子だったとかでしょ」

 

「そうです。ですから気になりませんか?」

 

紬はいつもの悪癖で主語を抜いて尋ねた。

 

「気にならないねぇ」

 

しかしレアは即答した。紬の言わんとしている所をちゃんと汲み取ったのか。

 

否。紬の問いかけが何を指すのかは、レアは別に理解していなかった。ただ何か気になる事がないか?と言われれば特にない。それだけだった。

 

「……気になりませんか。私が、兄さんのどの親の娘なのかという事がです」

 

レアが理解していない事を読み取って、紬は今度はちゃんと明確に言った。

 

「あぁ!そっちね!なるほどねぇ」

 

確かに、敦の親に当たるのは実の両親と血の繋がらぬ両親。総勢四人いる事になる。じゃあ、敦の妹を名乗るこの少女はその四人の中の誰の娘に当たるのか?

 

「えーと、あー?ごめんね、お名前なんだったっけ?」

 

レアは問いかけようとして、先程名乗りを聞いた紬の名前をもう忘れている事に気付き、改めて聞く。

 

「中島紬です」

 

「ん、じゃあつーちゃんだね」

 

「つーちゃん……」

 

紬は唐突につけられたニックネームに、少し困惑する。そんな渾名で呼ばれた事は一度も無かったのだ。

 

そして、レアは目の前の、敦の妹である少女の形に『つーちゃん』と明記すると、中島紬という名は五秒程で何処かに溶けて消えた。

 

「そんでね、つーちゃん。それはちょっと気になるけど、聞く方が面倒かなぁ。覚えるのが大変だから」

 

「……」

 

紬は絶句した。レアの頭の中が単純明確、無駄を削ぎ落としてとことんシンプルに構成している事を理解したのだ。

 

つまり、オッカムの剃刀である。レアは色々な情報で重要じゃない部分はすぐに切り捨ててしまう癖がある。

 

例えば、知り合いから、自分には一つ歳上の兄と、二つ下の妹がいると聞いたとする。レアはざっくりこう覚える、この人には兄妹がいる。

 

そして、その兄妹が兄か弟か妹が姉か、そもそも何人か忘れてしまうという具合だ。ぶっちゃけ他人に対して覚えいる事など、その程度でも案外事足りるのだ。

 

だから、敦の親。単純に言っても四択ーーさらに誰が誰と、という組み合わせを考えたら更にややこしいーーなどレアははっきり言って覚えてられる自信がない。なら最初から聞かない方が覚える必要もなくて助かる。

 

「私は、兄さんの養父の実の娘なのです」

 

「ありゃ、そーなんだ」

 

そう思っていた所に聞いてもいないのに紬から教えられてしまった。聞いてしまったら聞いてしまったらで仕方がない。一応覚える努力はすべきか。まぁ、多分徒労に終わるのだが。

 

あーちゃんの妹は養父の娘。妹は養父の娘。妹は養父の娘。レアは頭の中で三回繰り返した。

 

「ん、養父さんの実の娘さん……?」

 

紬はそう言った事にレアは遅れて気がついて考えた。確かあーちゃんの場合は決別したのが養父さんだから……

 

「今何を考えました?」

 

その時、紬はほとんど睨むような眼付きでレアに言った。

 

あぁ、やっぱりそういう事かとレアは得心がいった。

 

敦の養父は養子である敦を実の息子と見る事を諦めてしまった。それはレアをして重要な所だと思い覚えていた。

 

そして今の紬の感情を露わにした反応。つまりは、養父にとって敦と紬は言わば偽物と真作の関係なのだ。

 

子供が出来なかったが故に求めた養子である敦。その養子に対する失意の後に求められた実子。考えるまでもない関係性だ。

 

もっともそれは、あくまでも養父からの視点での関係だが。

 

否、それだけでなくーー

 

「つーちゃんが思っている事は、ボクは全く考えてないよ」

 

やっぱりこの人は、兄を偽物だと!そう紬は激昂した。が、しかし。

 

「だって、ボクはあーちゃんが真作だろうと、偽物だろうと関係ない。そんな事はどうでもいいんだ」

 

その言葉を聞いた瞬間。紬は困惑した、この人は兄が本物でも偽物でもどうでもいいと?そう言ったのだと理解した瞬間に、紬自身の背筋がスッと冷えた。

 

この人は本当にどうでもいいのだ、ならば今それに拘ったのは……

 

「そうだね……一口の刀、刀剣があったとする。その刀の茎には銘が切られている。それには真作もあれば、名工を騙った銘を切った偽物もある」

 

そして。

 

「そして、もちろん無銘もある。でも、それら真作だろうと偽物だろうと、無銘だろうと。皆等しく刀剣、一口の刀だ」

 

「同じく、ボクにとっては、あーちゃんはただの一個人に過ぎない」

 

「だ、だったら……」

 

そうだよ。とレアは頷いた。

 

「自分が真作。そしてあーちゃんを偽物と貶めているのは、他ならぬつーちゃんだ」

 

「っ」

 

その、レアの指摘に紬は天地が逆転するかのような錯覚に、一瞬自分が何処かに転落してしまうのではないかと咄嗟に自身の額を抑えた。

 

そして、その極めて辛辣なレアの意見を側から聞いていて、敦は両者に何もフォローはせずに静聴していた。

 

あるいは……あるいは、敦は、紬が自分に対して強い親愛ーーあるいは執着ーーを見せるのは、敦に対する紬の一種傲慢な哀れみから来ていると気づいていたのかも知れない。

 

 

そういう妹の無意義の優越にうんざりしてた部分が敦にもあったのかも知れない。

 

「つーちゃんはボクを鏡として映った自分の思考をみたんだよ」

 

人を見る眼には自身があった。しかし、無意義の投影。相手に映る自分の心が混じっている事は、紬をして今まで気づいた事が無かった。

 

「兄さんを見下していたのは、私自分なのです?」

 

「そういう面はあるんだろうね……ボクからすれば、人に真も偽もない。万人は等しくボクと同じただの人に過ぎない」

 

今まで気付かなかった自身の心の内を恐るように言った紬に、レアは答える。

 

「つーちゃんはとてもいい眼を持ってるけど、なまじ眼がいいから人の事ばかり見過ぎちゃうんだね」

 

同じ高い感受性を持っていながら、そこがレアとの違いだった。

 

外に目を向ける余り、自分に対する智見が浅いのだ。性質は近いのだがレアとは向いているベクトルが真逆、レアはとことんまでに内省に拘る。曰く、汝自身を知れ。

 

レアを理解しようと眼を向けていたら、まさか逆に、レアに自分も知らない自身の卑しい部分を刺され、紬は傷を負った。

 

ニーチェの箴言は正しい。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

 

レアを理解しようと紬はレアの深い所を覗いた事により、また同時にレアは紬の事を理解した。そういう事なのだろう。

 

レアはぽむと両手を合わせてそれを離して広げて言った。

 

「つーちゃん、そんな事一々気にしないの。ボクはね、他でもないボク自身が無意味で無価値なように、またあーちゃんも無価値で無意味なんだ」

 

無価値と断じられた敦は、特に不服そうでもなく、むしろさもありなんとばかりに二人の対話を静聴して口を出す様子はない。

 

敦にとって、敦になんら価値を見い出そうとしない、そんなレアの自然な態度が救いだったのかも知れない。

 

「そんな事はないのです!兄さんが無価値な訳ないのです」

 

「あー、それはねぇ。つーちゃんが自分には価値がある。とか価値が無くちゃいけない。みたいに思っているからじゃないかな?」

 

紬が反論すると、ぴっ、と指を一本立てて微笑して穏やかに、しかし厳しくもレアは言った。

 

「つーちゃんは、きっと良いご両親や環境。理解のある友人なんかに恵まれて来たんだね。もちろん辛い事だって色々あっただろうけどさ。でも周りに恵まれたのはとても幸福だね」

 

「はい。私は幸せだったと思います」

 

レアの言葉に、紬は頷く。様々な人を見てきた、しかし、自分に近しい人達は皆良い人ばかりだと紬は思う。人の内面を透かしてしまう紬にとってその有り難みはよく理解している。

 

故に中島紬はきっと幸福なのだ。

 

こっくりとゆっくり頷きレアは言った。

 

「幸福な家庭は全て似通っているが、不幸な家庭はどこもその不幸の様が異なっているのである」

 

「……トルストイのアンナ・カレーニナの有名な冒頭の一節だ」

 

「名前は聞いた事ありますが、読んだ事はないのです」

 

「まぁ、書評をしたい訳じゃないから別にそれはどうでもいいんだよ」

 

面白いがっているような歌うような口調でレアは言った。興が乗ってきたのかも知れない。

 

「つまりは、平均的幸福な人達は皆考え方が似たり寄ったりなんだ。ちょっときつい事ばっかり言っているけどごめんねぇ」

 

「いいえ、お気遣いなく。忌憚ないお話を聞かせて欲しいです」

 

軽くフォローを自ら入れるレアに、紬は自らの心が刺される痛みは一切黙殺し、興味深そうな目線でレアを見ながら答えた。

 

「つまりね、つーちゃんは当たり前に愛されたから。自分には愛される価値があると思っているし、逆に言えば価値があって然るべきだと思っているんだ」

 

「……とりあえず、否定はしません」

 

「だけどそれ故に」

 

「私は兄さんを見下している、ですか」

 

レアが言わんとした所を紬は自ら引き継いで言った。レアは微笑を絶やさぬまま頷いた。

 

「つーちゃんは、幸福で」

 

「兄さんはそうでは無かった」

 

「つーちゃんは価値があるから愛されて」

 

「兄さんは価値が無いから愛されなかった」

 

「……」

 

二人のやり取りを敦は黙って、水道水をちびちびやりながら聞いていた。自分の事であるが、他人事のように。

 

「そう私は思っているとレアさんは言いたいのですね」

 

「意識的に思っているとは言わないけどね。でも、つーちゃんがあーちゃんを想う気持ちの(シャドウ)にはそういうものがある」

 

「……」

 

一考して紬は思う。確かに自分は兄を見下したりする気持ちは一切ない。しかし無意識の働きの中にそういうものがあると言われると、もしかしたらそうなのかも知れないとも思う。

 

「幸福とは、突き詰めて自己に愛される価値があるからだ……と考えに依るのが躓きの石なんだ」

 

「価値が無ければ幸福に成れず。無価値ならば不幸になる。突き詰めてそういう貧しい思想こそが禍福の格差の大元じゃあないかな?」

 

「人に価値を見出すのは、商品にお値段をつけるのと変わりない、と?」

 

レアは笑みを浮かべて頷いた。

 

「そうだね。自身の値札に第三者に値段を書いてもらってどうだ?と他人に誇る。我を買えるか!と売り込む。そう考えると実に卑しいと思わないかな?」

 

「言いたいことはわかるのです」

 

しかし紬からして、レアの比喩はある種露悪的でげんなりする所があった。ただ、人に愛されるというだけの事をそこまで悪様に考える必要があるのか?

 

だが、そういう一面も否定は出来ない。それは紬も思う。

 

「……ボクが思うに、価値があるから愛するとか、無価値だから嫌いとか、そんな悪性の愛こそが世界を無限に分かつ諸悪だよ」

 

「どうして無価値なものをあるがままに無意味に愛したらいけないんだい?」

 

「ッ」

 

刺さった。

 

少なくとも自覚してしまったからだ。紬は兄をあるがままにしておけずに、価値を必死に付加しようとしていた。

 

ぐらりと身体が傾ぎそうになり、床に手をついて自身を保つ。紬は傍らに座ってずっと口を挟まない兄を見た。

 

兄もまた紬を見ていた。特に表情は無い、しかし眼だけは複雑な感情が混ざって後暗く光っていた。

 

その眼の中から確かに紬に対する感情を読み取った。

 

兄の眼には、ざまぁみろ。と確かに紬を嘲笑している部分があった。

 

あぁ、紬は理解した。そうか、どうしても昔から兄が自分に対して壁を張っているように感じたのは何故か。

 

分かってはいたのだ。兄は、私が煩わしかった。

 

何故そう思われるのか。今までは、実子と養子という間柄故と思っていた。しかしそれは、間違いではないが本質ではない。つまり紬はこう考えていた。有体に言えば実子の自分に敦は嫉妬していたのだと。

 

だがレアが暴いた通りそれは紬の傲慢。

 

今初めて気がついた。兄はその傲慢こそが煩わしかったのだと。

 

何故?何故私にはそれが見えなかった。人を見透かす事には嫌になる程自信があったのに。

 

紬と同じく、鋭い感受性を持ちながら、しかし何も見ていないような漠とした、焦点の定かでない、ある種白痴めいてすらいるレアの眼。

 

自分とこの人は一体何が違うというのか。

 

「なんの価値もないボクはそんなボクが割と好きだし。何一つ意味のないあーちゃんも何の意味もないけどボクは好きだよ」

 

その言葉で、何故兄がこの女性と結婚したのかを悟った。それは必然ですらあったのだろう。

 

何の価値もない二人が一緒に、特に意味もなく夫婦をしているのだ。

 

「……凄く気が楽だし、心地良いんだ」

 

それまで黙っていた、敦がポツリと補足する様に言った。

 

そう、無意味な人間など居ない。誰しも愛される事も幸福になる価値がある。そんな当たり前で善良な考えを抱く紬はここでは一人異端者だった。

 

「人に価値なんてないといいたいのですか?」

 

「無価値だからこそいーんじゃないかな?」

 

紬の疑問に何言ってんだとばかりにレアは切り替えす。

 

「そーだねえ。もう少しお話しようか。つーちゃんは老荘は読んだ事あるかな?」

 

「いいえ」

 

「じゃあ、荘子からボクの気に入っているお話を一つしてあげるよ」

 

昔々。などと諧謔のつもりか殊更に陳腐な話出しでレアは話を始めた。

 

「大工の棟梁が、斉の国に出かけたんだ。そしてある所で社に聳える神木の櫟の木を見たんだ。その木はあまりに雄大だった。幹の太さは周り百抱え程あって、その高さは山を見下ろす程だったんだ」

 

はて、何を語りたいのか。紬は語る内容にも耳を傾けてつつ、レアの目の動きや表情、仕草に注視していた。

 

「その木を材料として船を作ったら何十艘も出来そうな巨木だった。その見事さに大工の棟梁のお供の弟子は、じっと見とれた。しかし棟梁は見向きもせずに素通りしたんだ」

 

「何故です?」

 

「そう棟梁の弟子も思った。慌てて棟梁を追って追いつくとこう尋ねたんだ。私が棟梁の家に弟子入りして以来このような素晴らしい材は見た事がありません。それなのに棟梁は視もせず素通りしてしまわれた。一体どういう訳でしょう?」

 

すると、棟梁は答えて言ったんだ。とレアは続けた。

 

「下らぬ事を言うな。あれはつまらぬ木だ。船を作れば沈む。棺桶を作ればすぐ腐る。道具を作ればすぐ壊れる。門や戸にすれば樹脂が出る。柱にすれば虫が食う」

 

そこでレアはシニカルな笑みを深めて言った。

 

「つまり全く役に立たない、使い道のない木だ。だからこんなに長生き出来たのさ」

 

「そうして棟梁が家に帰るとその夜、その櫟の巨木が夢枕に立って、こう言ったんだそうだ」

 

「お前は私を立派な木と比べたいのだろうが、梨や橘、柚や木の実の類は、実が熟すともぎ取られる。また、大きな枝はへし折られ、小さな枝も引っ張られる」

 

「なまじ役に立つ取り柄があるために、かえって己の生命を苦しめるもの。だから天寿を全うしないで、自ら俗人に打ちのめされて、若死する結果になる。これは木に限らない。あらゆるものがこうなのだ」

 

「私は以前から、役立たずでありたいと願ってきた。その死に近づいた今になって叶えられ、真に役立つ存在になったのだ」

 

ふ、とレアは小さく息を吐き告げた。

 

「これがね、荘子の一編。何故巨木は長生き出来たのか、なんだよ」

 

「つまりそれが、貴女の……」

 

紬が言いかけると、レアは笑って言った。

 

「そうだよ。ボクは無意味で役立たずの巨木になりたいんだ。この世界全ての無価値なものを包むほど……あーちゃんも全部ボクが愛するモノになるんだ」

 

そう夢心地で言うレアの眼の恐ろしい程の昏さに、吸い込まれそうになり、紬は吸い込まれそうになり目眩を起こした。

 

この人は異常だ。異質な愛に狂っている。

 

「価値があるから()()()。そんな悪性の愛こそをボクは悪む。分けて代表的ななのは」

 

クスクスクスクスと、心底愉しそうに嗤いながらレアは紡ぐ。

 

あぁ、この人はいけない。駄目だ。そう紬は理屈ではなく直感で理解した。だからきっとこの後続く言葉はとびきり最低な論法なのだ。

 

「母親からの、実の子供に対する愛だ」

 

ほら、みろ。

 

「母親と言うのは、まず子供を自分のものと考えるね。まぁ、気持ちは分かるんだよ、自分のお腹の中に宿って、自分が苦しい思いして必死に産んだ子供だもん。母親は一目みてそれを自分の()()()だと思う」

 

「さて、つーちゃん。君はある産まれた赤ん坊がその母親の物と思うかな?」

 

幼い紬は、まだ子供を産む苦しみも、それによって与えられる赤ん坊も知らなかった。ならば母親から生まれてきた自分の立場しか知らない。

 

その立場からすると……

 

 

「少なくとも母親だからと子供は所用物では、ないとおもうのです」

 

そう言うしかない。無論幸福な環境で育ってきた、善良な紬は自分の母親への深い敬愛を抱いている。だが、母親の所有物として言いなりになるか、と言えば……

 

「でも、つーちゃんのお母さんはそう思っているのかな?」

 

「っ!」

 

レアの醒めたような声に、紬は少しかっとなったが、底冷えするような、レアの眼の底の光りに、反論を失う。

 

「全くないかな?つーちゃんがお母さんに反発を抱いた事。この人は自分を所有物のように扱っているんだー。って思った事が、一度でも無かったと言えるかな?」

 

「……ありますよ、それくらい」

 

紬は抱いた反発心を抑えて、正直に答えた。

 

それはそうだろう。仮にどんな幸福な家庭でも口喧嘩くらいある。そして、百人の子供が居れば百人が一度は母親に対して思った事があるはずだ。

 

「あるだろうね。でも仕方ないよ、お母さんからするとつーちゃんはあくまで『私の子供』なんだ」

 

「私がお母さんの子供なのは間違いじゃあないじゃないですか」

 

その通り。とレアはゆっくりと深く頷いた。

 

「でもそれはね。お母さんからしたら『子供』じゃ駄目なんだ。『私の子供』じゃなきゃダメなんだ。これは全く大きな違いだと分かるかな?」

 

なんだ、この人は。紬は思った。この話は兄に対する当て付けのつもりか?実の子供じゃなきゃいけないと言いたいのか?よりによって兄の目の前で私に対して。さっきから紬の癇に障った。

 

しかし、紬から見て、レアには皮肉の色はあっても決して敦への当て擦りのような毒気は一切無かった。それどころか、レアの意識はほぼ紬に向けられて、敦が眼中にない様に感じる。

 

そもそも前提として紬から見て、レアには善意も悪意も何も色が見えなかった。

 

紬は、兄を横目で見る。敦もまた口を挟む様子もなく興味深げに傾聴しているだけだった。

 

「よくわかりません」

 

まさか、兄の前で実の子供である事かとも言えずに紬はそう返した。

 

「単簡だよ。『子供』と『私の子供』の違いは、『私』の一文字。つまりね、私、じゃなきゃダメなんだよ」

 

つまりね、とレアは微笑して言った。

 

「私じゃなきゃ駄目。というのはただの自己愛なんだよ。母親が『私の子供』に見ているのは他でもない『私』つまり母親自身なんだ」

 

「『子供』に『私』をつける事で子供と私を自己同一化しているんだね。突き詰めてそこに子供なんていない。とも言える。母親は『私』を抱いて喜んでいるんだ」

 

違う。紬はレアが実の子供云々という話をしたいのかと思ったが、違った。紬は浅く見ていた。

 

「お母さんからしたら、私は『私』ではなく『お母さん』そのものだと言うのですか?」

 

「……滑稽じゃあないかな?産みの苦しみを越えて、現れた赤ん坊を抱いて、自分が産んだ。私の赤ちゃんだ。と」

 

紬の問いには答えずに、レアは暝目して静かに言った。

 

「ボクには赤ん坊は産めないけれど、もしボクがその立場なら間違いなくこう思う。お前は一体何処から来たんだ?お前は一体何なのか?」

 

その言葉に敦は引っかかるものがあったが何も言わなかった。いや、彼は何か納得していた。

 

「父親の場合には多くあると思うんだ。突然産まれでた自分の子供。その存在にお前は何処から来たんだ?という()()が父親にはある」

 

「……」

 

その言葉に、紬は父親の事を再考する。父はもう死んでしまったがしかし……

 

 

「母親にはそれが無い。そして自分の子供が『私』ではないと、乖離を感じる事に子供を憎むようにすらなる」

 

「なら、私のお母さんも私を憎むようになると?」

 

ぼんやりとした目を開き、レアは応じた。

 

「一面的にはね。ただ、母親というものはそうして自己同一視していた子供が、自分と乖離していく中で、段々と自己とは違う別人だと区別していくんだよ。そうしてやがて『私』だった子供が『他者』だと認められる」

 

「それが、母親というものの自分の子供への課題だと思う」

 

「母親がそうだというなら、つまり父親は逆。だというのです?」

 

まさに、とレアは指先で座る椅子を叩き。言った。

 

「正しくその通り!……母親が子供に対して、自己同一化から他人へと区別の移り変わりが正常な成り行きなら、父親は、ある時いきなり現れた他人を、自己同一化していくのが課題と言う事だね」

 

「つまり、つーちゃんの言う通り。母親は子供が産まれた瞬間に母親となり、そしてやがて他人となる。父親は子供が産まれた瞬間は他人だけど、やがて父親となる」

 

「順番の違い。というだけですか」

 

「そう、順番が逆なだけだ。だけど逆である事によって決定的に違う部分が父母の間にはある」

 

なるほど、それがつまり。

 

「驚き。ですか」

 

「そう。母親が自身の子供に辿る、『私』から『他人』へのプロセスは驚きが無いんだ。まず最初の一手で私のだ!と感激してるんだから当たり前だよね」

 

「父親はまず最初に驚いている。これは誰だ!?と。これは大きな違いだよ。驚かない限りそれが何なのか考えない。考えない。つまり思考停止というのは色々な意味で恐ろしいものだよ」

 

だからね、とレアは微笑んで続けた。

 

「両親というのは、どちらがと言えば、母親の方が重要であり恐ろしいんだ」

 

その言葉に紬は兄を横目で見る。兄を見限ったのか父である。ならば逆に言って兄にとって自分を大事にしてくれたのは養母であったと言える。

 

いや、そもそもが敦が養親に馴染めなかった理由こそ実の……

 

「話が逸れたね。まぁ、つまり。プロセスが逆というだけで。結局子供には価値が必要だというのは確かなんだ」

 

「親ならどんな子供でもかわいいと言う」

 

「つーちゃん、そんな月並みな言葉信じているなら、コウノトリが赤ん坊を運んでくる。なんて事を信じているより凄いよ」

 

レアは紬の言葉を言い終わるのをまつでもなく、やや呆れたように言った。

 

まぁ、確かに少し無邪気というか、陳腐にも程があった反論だと紬も言っておいて思った。

 

レアは中空に目を向けながら、でも赤ん坊は何処からくるかボクは知らないからコウノトリがもたらしているというのは可能性でいえばまだあるかな?などと独りごちるように言っていた。

 

しかしまぁ、この話をしている印象からして、紬はレアが自分の母親にある種のコンプレックスを抱いているらしいのは理解した。

 

何があったかは分からないが。おそらく真っ当な家庭ではなかったのだろうと察した。

 

「まぁ、そんな事はいいか。話を戻すと愛する子供に価値を求める。付加価値を与えようとする。それこそボクが言う悪性愛だ」

 

「だけど、これは当たり前と言えば当たり前なんだ。大前提として、子供というものが悪性の愛の象徴的な現存在と言える」

 

「……男女が愛し合うという事自体もお互いに価値の見出し合い。だからですか」

 

紬が言うと、レアは立てた人差し指をゆっくりと振って返した。

 

「それもある。でも重要なのはそこじゃ無いんだ。まず愛する事の在り方の問題なんだ。そこに激しい転倒がある」

 

「愛する事の在り方?」

 

「そうだねぇ。つーちゃんはまだそんな感情を抱いた事もないかも知れないけど。本気で愛し合った男女、いや、男女に限らなくてもいいんだけど。それが深い愛な程、彼らの多くはこのように思った事があるはずだ」

 

「……」

 

「いっそ、お互い溶け合って一つになってしまいたい。と」

 

確かに、紬には実体験としてそのように思った事はないが。確かに昂った恋愛感情がお互い一つになりたいという点に行き着くというのはよく聞く話だ。

 

「ここにおいての愛は真性のモノに近い。つまりね。分化した存在を合一させようとする力が働いているからだ。故に恋愛には当然そう言う感情が伴う」

 

「それが正しい愛の在り方ですか」

 

まぁ、有り体に言えばそうかな。とレアは頷く。

 

「突き詰めて、恋人夫婦がセックス。性行為にかりたてられるのもその為だよ」

 

「セッ!」

 

唐突に性の話へと突っ込まれ、紬は赤面しつつ驚愕した。一方敦は集中して拝聴していた。どうも今まで聞いてきた事を理解する上でも今日のレアが重要な事に言及している事に気がついたからだ。

 

「考えてみたら当然だよ。あれなんか一つになる。なんて表現されるじゃない。結局の所どんなに愛し合っても二人は、区別された個人と個人。決定的に一人でしかない」

 

「つまりセックスは擬似的な差別的現存在の合一。と言えるかもね。つまり二人が一つになりたくてするんだ。ここまでは正しい愛の作用。でもね」

 

ふー、とレアは溜息を一つ吐く。そうして残念そうに言った。

 

「ただしここで、ヘラクレイトスの唱えたエナンティオドロミナが起こる。これは平たく言えば一切のものはいずれ、その対立物へと転化する。という原理だ」

 

まさに万物流転を唱えたヘラクレイトスらしいね。と言いつつレアは続ける。

 

「つまりセックスの結果生まれるのが子供ってわけだね」

 

ともかくと、紬も落ち着いてレアの話を噛み砕く。

 

「つまり合一しようとした結果が分化している。というのです?」

 

「そうだね。考えても見たら笑い話だよね。二人が一つになりたいと思ってセックスしたら三人に増えちゃってる訳だから。一体何やってんだろうね」

 

クスクスとレアはシニカルに笑う。

 

「まぁ、そういう訳で愛はここに悪性へと転化する。という働きがあるわけだね。まぁ、このおかしさを大抵の人は疑問にも思わない訳だけど」

 

「良いところまではいくんだよ。愛し合って、二人で一つに。という精神の働きは正しく人間のみしか持てない人間の精神の最も高潔な指向とボクは思う」

 

紬は語りながら苦味の混じる微笑を浮かべて目を伏せるレアに歓喜しつつ絶望しているような複雑で静かな、だが激情の色をみた。

 

「だけど、そこまでだ。結局は獣の衝動のまま考えなしに分化してしまう。世界をより複雑にしてしまう方向に転化する。獣性を捨てきれない人の限界なのかもね」

 

「いみじくもユングの言った通り、多くの獣性は文化人を歪曲し、多くの文明は病める動物を生み出すと言った通りだね」

 

ならば、と紬は考えて口を開く。

 

「なら、愛し合った人同士は子供を生んではいけないと?」

 

「いいや、そういう訳じゃないよ。ボクはそれは好きにしたらいいと思うよ」

 

ふるふると首を振り、あっさり前言を覆すようにレアはそう言った。

 

ただしね、と続けて口を開いた。

 

「それは子供が生まれてくる。という現象を考えて考えて考えた末に、生もう。と答えを出した末の人間の精神にのみ許されるべきだとは思う。ただ、獣の衝動のままに快楽目的で生み出すのは全く人間的ではない」

 

まぁ、そんな観念論じゃなくて、即物的に言ってもそうでしょ。とレアは続けた。

 

「自分の子供への感情。金銭的事情。環境。そう言ったものを考慮せずに考えなしの親に生み出されて不幸になる恵まれない子供は多いじゃない。可愛そうだよ」

 

「それは、分かります」

 

現実的なレベルでそう話されると、まぁ否定のしようはない。

 

「もっとも、親や環境が悪いから、イコールで子供が不幸になるのかと言ったらそれも違うけどね。無論相関はあるだろうけどね」

 

ついでとばかりに継ぎ足したレアの言葉の真意は紬にも不透明だった。

 

凄いなぁ。と紬はやや呆気に取られていた。この人とんでもない自閉体質なのはよく分かる。なのに凄い喋る。自分の宇宙を展開しっぱなしだ。ここまで訳の分からないような分かるような人は初めてかも知れない。

 

そんな紬の考えはお構いなしに、レアはまだまだとばかりに口を開く。

 

「反出生主義、なんていうけどアレはお話にもならない。辛い思いをする子供を作りたくないから生まない。それは立派な自由意思だ。だけどそれで人類皆を救えるだなんて世迷言だよ」

 

「?、その主義で皆を救えるという人がいるのですか?」

 

「それがねぇ、居るんだよ」

 

クスクスと楽しげにレアは紬の質問に答えた。

 

「つまり、誰一人子供を生まなければ人類は緩やかに絶滅するでしょ?そうすればもう苦しむ人間はこの世から消える。これこそ救済だと」

 

「なるほど?」

 

紬は首を傾げつつ、相槌を打つ。別にその主義に関する感想は置いておくとして……

 

「全く、その通りの主張でぐうの音もでないよねぇ」

 

「でも、どうやって人類皆に子供を産ませないのです?」

 

皮肉げなレアに、紬は真っ先に浮かんだ疑問を呈した。

 

「その方法はね……誰も提示してないんだよ!ただ生むのは正しくないから生むな。それだけ」

 

「いや、正しく不可能という点に目を瞑れば完璧な理屈という奴だよね」

 

そう言って、レアはきゃらきゃらと笑った。

 

この人凄く楽しんでいるなぁ。と紬は思った。

 

敦もレアさんがこんな楽しそうなの初めてかもなぁ。等と思っていた。

 

「そもそも不可能以前に、百歩譲って人類絶滅が叶ったとして。その主義を唱えている人は既に生まれている以上、絶対に救われないのにね」

 

「確かに。手遅れなのですね」

 

だって生まれてしまったのだから。そんな主義振り翳しても本人はもう遅いのは道理だ。だって生まれてしまったのだから。そんな主義振り翳しても本人はもう遅いのは道理だ。そして生まれるのは苦だと断じて生を否定した時点でもう彼らには絶対に生きている限り救いはないのだ。

 

仮に至れるとしたら絶対絶望。

 

「まぁ、そんなものは、ただ生きる事が辛くて耐えられない人達が自分へ処方した鎮痛剤としての主義だよ。皆を救えるとでも思わないと生きていけないだ。本質的には弱者の救済としての宗教と同じ働きだね」

 

そういう意味では害がある訳ではないし慰めとしてはあっても良い主義だろうね。とレアは嘯く。

 

「ボクに言わせれば、反出生主義なんて甘いよ。そもそも気づいている人間なら子供なんて生まないのなんて当たり前だ。子供を作らないというのは人間の最も高い自由意思による行為の一つだからね」

 

そんなのは大前提だ。とレアは続けた。

 

「ただ辛い人達は、決して自らの自由意思による行為として子供を生まない訳じゃないんだ。そういう人達は仮に子供を生めば自分が楽になるとすればほぼ間違いなく生むだろうからね」

 

「実際、そういう考え。辛いけど子供さえ生まれれば。と考える女性はいるよね。そういう人って大抵子供生んだ後更に地獄になるんだけど」

 

そう言って、レアは殊更シニカルに笑った。

 

「つまり、レアさんが言うのは」

 

その時、それまで黙って対話を聞いていた敦が急に口を挟んだ。

 

「レアさんがいう真の愛とは、一つになるものですか」

 

「うん、流石あーちゃん。そのとーり」

 

「そして、悪性というのは……」

 

敦が言いかけて辞めたそれに、レアはクスリと一つ笑って続けた。

 

「まず初めに言葉があった」

 

それはレアが以前にも口にしていた、ヨハネの福音書の冒頭の一節だと敦はすぐに気がついた。

 

「そして、この世界の原初の過ちは、神が光あれ。などと口を滑らせてしまった事なんだ」

 

レアは眼を伏せて訥々と語る。

 

「最初はただ一つ切りの虚無で世界は完結していた。そこを光が切り開き。無であった一を光と闇の二つに分けてしまった」

 

つまりは光と闇なら闇が先だったわけだね。とレアは告げ足す。

 

「何故神様はそんな事を望んでしまったのか?その果てにどうなるかただ見たかったのかも知れない。ただ彼が持ち込んだ、分割していく力。それこそが悪性だ」

 

「つまり、神が悪いのですか?」

 

紬の質問に、レアがどう答えたものかと考える。

 

「難しいね、この話だけで取るなら、悪を持ち込んだのは確かに神様だ。しかし、ボクの言う真と悪は言わば便宜的なものだ」

 

「先程のエナンティオドロミナはここでも起こる。正しい事は正しくある事をやめて、間違いは間違いである事をやめる。きれいは汚い。汚いはきれい。という事だね」

 

マクベスの一説を引いて、レアはそう論ずる。

 

「つまり、悪だって突き詰めたら真理に通ずる。単に指向性の違いに過ぎないともいえるね」

 

「悪くないのなら、問題はないのではないのですか?」

 

「問題ないのかも知れない。ただやはりボクの指向性の問題だよ。まず美しく無いし、何より煩わしいんだ」

 

紬の反論に、レアはあっさり切り替えす。

 

「人々や世の中が、どんどんと分たれていき、歪みあって闘争にふける。そんな人間のあり方が幸福だと思うかい?」

 

「争いなんて、理由は要らない。むしろ理由なんて建前だ。政治思想の相違だとか最もらしい事から、何となく顔が気に入らない。何でもいい。そうやって人は人と人とを完全に決別させ。世界を複雑にさせていく」

 

終わらない闘争の歴史。人類史とはそういうものと言えるかも知れない。

 

そうして、今も昔も争いを根絶を夢見る人達がいる事は紬とて知っている。

 

「幸福ではない。と私はそう思います」

 

正直な所を紬が述べると、レアも頷いた。

 

「正しくだね、ボクもそう思うよ。ならば、ボクは、ボクこそが世界を単純に合一させるべきだと思うんだ」

 

「それが貴女の真性の愛……」

 

つまりは、この世界を全て平らかに慣らす。そんな愛、それは。

 

「そうだよ。ただ、集団として意味なく争い、対立分離していく人々を、ただ個人として愛して、一つに、合一するんだよ」

 

そう語るレアの眼には常軌を逸した光があった。

 

そんな問答をやはり暝目して敦は聞き入っていた。 

 

「……正気ですか?」

 

そう思わず漏らした紬に、レアはぽつりと言った。

 

「愛の中には、つねにいくぶんかの狂気がある」

 

これは、誰でも心当たりがあるかも知れないね。とレアはいう。

 

だけど、とレアは続けた。

 

「しかし狂気の中にはつねにまた、いくぶんかの理性がある」

 

「そして、ヘーゲルは言った。理性的なものは現実的なものであり。現実的なものは理性的である」

 

「ね?正気か、と言えばそもそも愛なんてものは狂気の産物だろうね」

 

紬は絶句する。しかし、確かに愛などと言われるものは、理屈を張説した狂的なものではなかったか。

 

「でも、その紛れもなく狂気が、現実なんだよ」

 

そう、レアは楽しそうに言った。

 

「つーちゃんは、ずっと、ボクを見ているね」

 

「そうして、ボクが何なのかを気にして、ボクと自分の相違に困惑してしまっている」

 

「つーちゃんは、ボクと違って頭がいいね、だから逆にシナスタジ(共感覚)に振り回されてしまうんだ」

 

「ボクが何なのかなんてどーでもよくないかな?そんな事よりつーちゃんは君自身が何なのかを考えた方がいいよ」

 

ねぇ、だから……

 

孤独を楽しもうよ。

 

紬は一通り話して、レアという存在に当てられそうになり、敦とともに部屋を辞する。またお話したい。と最後に言い添えた。

 

レアはさようならと最後まで笑顔で二人を見送った。

 

カンカンと音を立てて、紬はアパートの階段を下り、道路へと降りる。敦も付き添っていた。

 

紬は、電柱に寄りかかると気疲れしたように一つ息を吐く。年齢以上に大人びた仕草だった。

 

「頭がクラクラします」

 

そして、端的に対話の感想を述べた。

 

「珍しいな。そんなに当てられるまで同調する事もないだろうに」

 

「こっちを意識したり、私に働きかけようとして話してくる人は、いくらでもいなしたり弾いたり出来るんですけどね……」

 

「あの人は私に話しているのに、私の事なんて見向きもしてないです。人の型をした宇宙があるみたいでした」

 

故に吸い込まれそうになった。いみじくもヘラクレイトスはこう言った。魂は、それ程深いロゴスを持っている。

 

「合一とはよく言ったものです……なんだか頭の中にまだあの人が居るみたいな感じがして抜けません」

 

こめかみを指先でコツコツと叩きながら紬は言った。

 

「それは分からないでもない」

 

あの人の空恐ろしい所だ。紬のような感受性がない敦も、レアと話している内に彼我が混じっていくような感覚がある。

 

「別に悪くいうつもりはないですが、凄く怖い人と結婚しましたね。……きっとあの人の近しい人の中でおかしくなった人がこれまでにいると思います」

 

「それは本人が言っていた。母親は狂ったらしい」

 

さもありなん。と紬は思う。しかし、憐れむべきではない。というか憐れむべき対象がないというべきだろうか。

 

あの人はああいう存在で、それはしょうがない。どうしようもないのだ。レアという存在は自閉してしまって、自己完結している。故に他者や自己の憐憫が入り込む隙がない。

 

臨床心理学的に野々村レアという人間のパーソナリティやセクシャリティを判断するとすれば、レアはスキゾイドパーソナリティとアセクシャルの傾向があると言えるだろう。

 

もっともレア自身は、臨床心理などで、人の事を類型に当てはめてパーソナリティを十把一絡げに診断するなどという行為は精神に対する冒涜だと間違いなく嫌うであろうが。

 

「母親ですか……」

 

せめて母親くらいは、どんな存在でも娘を無条件に肯定して続けてもいいじゃないか。

 

あの人は、どう足掻いても人並みには成れない。そういう自分に決して葛藤や苦痛が無かった訳じゃない。そう紬は思う。

 

きっと苦しかった事を忘れてしまったのか。或いは苦しみを感じなくなってしまったのか。

 

「でも、あの人はきっと大丈夫でしょうね」

 

「うん?」

 

紬は誰にともなく言った。

 

そう、母親では無くとも、あの人を認めてくれる人はここにいるから。

 

「私は兄さんの方が心配です」

 

「……そうか」

 

「あの人は周囲の人を狂わせる。でも殊更にあの人に狂わされるのは、あの人が愛した人だと思います」

 

「そうかもな」

 

分析するように、話す紬に敦は淡々と返す。

 

「分かっているのですか?兄さんはあの人に誰よりも()()()()()()のですよ!」

 

「そうだな」

 

「兄さんも狂わされたいのですか!」

 

紬が必死にそう訴えた。もういいじゃないか。だって兄は今まで色々狂わされてきたのに、この上なんでさらにおかしい人に狂わされなければならないのか。

 

「別に構わない」

 

それを敦は一言で切って捨てた。

 

「お前も分かってる通り俺も、あまりまともには生きられなかった」

 

「もう幸福をまともな人生に求める気はないんだ」

 

「それが本当に幸せなのですか?」

 

紬の反駁に、敦は少し考えるように間を開けて言った。

 

「確か臨床心理学か何かの本で読んだ記述だ、細かい事は覚えてないから大雑把になるのだが」

 

「一昔前の精神病院に、とある婦人が入院していたそうだ。その婦人は結婚したものの夫との夫婦関係が上手くいかず夫には逃げられ、本人はある時発狂したそうだ」

 

「……はい」

 

「その婦人は病室で精神科医に毎日こう報告するそうだ、昨日、自分が赤ん坊を生んだんだ、と。先生にも赤ん坊を見せてあげる。と実に幸せそうに」

 

「毎日毎日、そう同じ事を幸せそうに医師に報告するんだそうだ」

 

「……」

 

紬はなんというべきか分からず絶句した。

 

「そしてその精神科医はこう言ったそうだ」

 

「この人を治療する手立ては無いし、仮にその手立てがあったとしても私は彼女を治療するつもりもない。何故なら彼女は今のままが幸せなのだから」

 

敦はふっ、と一つ息を吐き言った。

 

「……俺はこの医者を誠実な医者だと思う。病のおかげで幸福な人間の病を治すべきではないと、俺もそう思う」

 

「なぁ、この狂った婦人の幸福を否定する必要があるのか?」

 

「兄さん」

 

「兄さん!」

 

紬は、語る敦を一喝した。

 

「分かっているのですか!あの人は兄さんが好きです。だけど兄さんがどうなろうと何とも思わない、そういう人なのですよ」

 

「分かっているさ、そんな事は」

 

しかし、敦は即答した。

 

「逆に聞くが、俺がレアさんを好きなら、レアさんを俺が幸せにしなければいけないのか?レアさんが俺を好きならば、俺をレアさんが幸せにしなければいけないのか?」

 

「そういう……」

 

もの、だと、思う、夫婦というのは。しかし、紬は返答に窮した。

 

「最近分かってきたのだが、俺はあの人が居れば幸せになれるとか、あの人が幸せにしてくれるとか、そういう考え方は嫌いらしい」

 

まず間違いなくレアさんもそうだろう。と敦は続けた。

 

「あれさえ手に入れば、或いは、あの人が居てくれれば、幸福になれる。幸福にしてくれる。そんな物や他者に依存したような幸福を求める。その在り方自体が既にどうしようもなく不幸だ」

 

それに。と敦は言う。

 

「この考えに関していえば、別に俺はそれ程おかしな事を言っているつもりはない。確かに一般的な考えとは言えないのだろうが、何なら皆何故そう思わないのかとすら思う」

 

「それこそ既に、兄さんがあの人に拗られてる証左じゃないですか」

 

「……そうかも知れないな」

 

紬の指摘を否定は出来ず、敦は苦笑した。

 

「だが、自惚れじみているかも知れないが、レアさんだって俺じゃなかったら流石にノリなんかで結婚なんてしていないだろう……」

 

「……それは、あの人が兄さんを必要としてないからですか?」

 

敦は肯首した。

 

「レアさんは俺なんか居ようが居まいが、別に自身の幸不幸には関係ないんだ。それは俺も同じだ、別に俺が幸福になるのにレアさんなんて必要ない」

 

それをあの人から教えてもらった。そう敦は言う。

 

「突き詰めて、明日にも俺かレアさんは居なくなっているかも知れない。それならそれでお互いにまぁ良い。もしかしたらずっと関係が続くかも知れない。それも一興」

 

「これって、案外良い夫婦関係じゃないか?」

 

そういい終えた、敦の眼をじっと覗き込み紬は一つ息を吐いた。

 

「そうかも、知れませんね」

 

否定は、出来ない。確かにパートナーが幸せにしてくれる等という受け身の姿勢などシンデレラシンドロームと何が違うというのか。

 

レアならこういうだろう。その人が幸福であるのは、その人の精神の在り方が自ずから幸福である事によってのみ可能であり、他者が誰かを幸福にする事など不可能だ、と。

 

「それでも、私は兄さんに幸せになって欲しいです」

 

紬は、敦の眼の奥にはどうしても諦念がある事を見てとってしまう。

 

諦めてしまった人にも幸福があるのだろうか?

 

「あぁ、ありがとう」

 

「今日は帰ります。兄さん、また」

 

「あぁ、またな」

 

そう二人は別れの挨拶を告げると、紬は踵を返した。

 

「兄さん」

 

数歩行った所で紬は足を止めて呼びかける。敦も背を向けた所で応じた。

 

「あぁ」

 

「おめでとうございます」

 

「あぁ」

 

「ありがとう」

 

そうして二人は別れた。

 

「もう一度、あの人とは話す必要がありますね」

 

紬は歩きながらそう独言た。

 

………

……

 

数日後、朝。

 

レアは気持ち悪い太陽の光を遮るカーテンのかかった部屋でぼんやりと本を読んでいた。

 

今日は深夜のバイトを終えて帰宅して、食事も取り、後は自由時間だといつものように書見しながら思索に耽っていた。

 

アリストテレスの自然学の時間論を読み返しながら、理解を深める。しかし、頭の回転も鈍くなってきて、レアは一つ伸びをしてくぁ、と猫のようにあくびを一つした。

 

そろそろ今日は寝ようかな。などと思い始めた所で、ピタリとレアは動きを止めた。

 

中空に向けた目線が、ふっとカーテンで閉ざされた窓の方へと走った。

 

彼女は置かれていた眼鏡に手を伸ばした。

 

………

 

レアと敦の住むアパートの外の道路に、一人まだ幼い少女が立っていた。

 

敦の血の繋がらぬ妹に当たる、紬だった。また兄を訪ねて来たのか、しかし彼女はアパートの中に入らずに、少し離れた場所でじっと二階へ目線を送っていた。

 

兄を訪ねてきたのなら、さっさと兄の部屋へと向かうなり、或いは兄の携帯へ連絡を入れるなりすればいいのだ。つまり、今回紬が用があるのは兄では無い。

 

あの後、兄に聞いてみたがレアに連絡をつける手段は無いらしく、用のない限りずっと部屋で本を読んでいる為、他人とは会わず、そもそも会える事自体が難しいとの事だった。

 

元来なら、敦が間に入らなければ、全く生息域の違う野々村レアという深海魚に紬が出会う事は無かっただろう。

 

逆に考えると敦は生息域が近かったと言えるのだろうか。

 

閑話休題。そういう訳で、レアに兄を介さずに連絡を入れたりの手段はないので、こうしてアポ無しで訪れて、レアのいる辺りの部屋の中にアタリをつけて少し集中する。

 

あの人なら、上手くすればこれで……。

 

そう思っていた時、遠目に二階の一室が開かれたのを紬は確認した。あの部屋は確か先日訪れてた部屋だ。

 

どうやら上手くいった。そう紬は思った。

 

ゆったり、ぬるりとした足取りで階段を降りてアパートを出てきた人物は、小柄な身体にダボついた服を纏った野々村レアだった。

 

す、と紬は右手を上げて合図を送る。少し離れたレアはそれを見てとって歩み寄ってきた。

 

「こんにちは。んー、と」

 

近くまでくると、レアは挨拶をしつつ眼鏡の奥で目を細める。誰だか戸惑っているのだろう。数日前に会ったばかりだが一回会っただけではレアの記憶に残るのは難しいか。

 

「こんにちは。先日はありがとうございました」

 

「ん、んー?先日。あぁ!その声はつーちゃん!お久しぶり、ひと月ぶりだね!」

 

いや、ちゃんと記憶はしていたらしく紬の返礼を聞くと誰だか思い出したようだった。どうもレアは人の判別には眼より耳に頼るらしい。

 

「いや、四日ぶりなのです」

 

「そだっけ?まぁ、一か月も四日も一年もおんなじようなもんだよ。細かい事気にすんなつーちゃん!」

 

レアは、いつだったか敦に言ったのと同じような事を、同じようなテンションで言い切った。紬はツッコむべきかも分からず絶句してしまう。

 

「んで、今日はボクに用かな?あーちゃんの事?」

 

「いや、どちらかというとまた貴女とお話したかったのです」

 

「ふーん」

 

なるほどなるほど、などと特に意味もなく頷きながらレアは中空に目線を向け考える。

 

レアは正直面倒くさいなぁ。とまず思った。元々人と関わるのは億劫な人間なのだ。しかも、今し方寝ようと思っていた所。

 

普通の人なら午前中、日中だが、レアからするとそこそこ遅い時間に訪ねられたようなものなのだ。まぁ、迷惑と言えば迷惑である。

 

「うーん。じゃあちょっと出ようか。適当に話せる所へ」

 

だが結局、アパートを一瞥するとレアはそう言って歩き出した。

 

直接部屋を訪ねずに、自分が出てくるのを待った所から紬が兄を抜きで、或いは知られずにレアと話したかったのだろう事を配慮したのだろう。

 

レアからしたら自室に招き入れて話すのが一番楽でいいが、今は敦も隣に在宅だった。さして厚い壁でもないアパートの部屋に紬を上げたら直ぐに気取られるだろう。ましてレアの部屋に訪ねる人間など今まで敦とレアの父親しか居なかったのだ。

 

紬も異論は挟まずに、レアについて歩き出した。どうでもいいが、レアの服装は今さっきまで部屋でだらけてましたと言わんばかりの無造作な部屋着だ。

 

どう考えても他所行きの格好ではないが、本人が気にしないなら一々指摘するほどでもないので紬は何も言わない。

 

表通りへとレアは歩く、しかし紬は早足でも置いていかれそうになる。敦もやられた歩きだ、ぬるっとしたある種気持ち悪く、ゆったりすらしてるのにスルスル先に行ってしまうレアの歩法。

 

「ちょっとま、すみません。レアさんもうちょっとゆっくり歩いて下さい!」

 

引き離されそうになり、小走りで追いすがりながら、已む無く紬はレアに訴えた。下手したらはぐれる。

 

「うん?別に急いでないけど早かった?」

 

「レアさん、武道か何かかなりやってますよね」

 

「うん。いちおーかじる程度には」

 

当然そのくらい紬は先日最初に会った時の佇まいで見抜いていた。知っている限りで、合気道の高段者に似たような歩き方をしている人も知っていた。

 

割と一般の人は、自分が歩けていると思っているのだが、実は正しく歩くと言うのは人間にとって高等技術なのだ。大体一般人の歩き方は雑で汚い。

 

レアのように歩けるのは身体操作術、つまり体術の練度が高い人だけだ。頭の位置の上下動が無く、軸の左右のブレがないから、ホバークラフトのようにスルスル行ってしまうのだ。上下左右動に拍子が消えると早さも分からない滑るような錯覚を受ける。

 

「こんくらいでいいかな」

 

そういいながら、レアは歩みを緩めた。もっともやはり遅くなったか見かけから分かりにくいが、紬でもついていけるようになった。

 

二人は少し歩いた所にあるファミレスに入った。談話するならまぁ妥当だろう。

 

レアは適当に店員と言葉を交わして、案内された席に二人で掛けた。

 

店内は時間帯故か客は疎らだった。話しを人に聞かれる心配はあまりないだろう。別に二人は密談しに来たわけではないのだから良いのだが。

 

「まぁ、好きなの頼みなよー、お姉さんの奢りだー」

 

レアはそう気前良く言いながら、紬にメニューを手渡した。

 

「いえ、自分の分は払いますよ」

 

「いや、遠慮……ん!?」

 

レアは言いかけた所で自分の腰に手を当てて声を上げた。

 

「……どうしました?」

 

半ば悟りながら紬は聞いた。

 

「財布忘れちゃった……」

 

まぁ、顔に描いてあったから分かってた。というか考えてみればそんなずぼらな服にポケットすらあるようには見えない。

 

普段携帯すら携帯しないレアだが、今日に至っては、外の様子を見に手ぶらのまま出てきたままここまで来たので、財布以前に何も持ち出してない。

 

自分の名前を忘れたり、このボケ具合は何らかの障害なのかも知れないが、まぁ紬は別に医者でもない為なんとも言えない。別に本人が不便を感じてないのなら他人が言う事でもあるまい。

 

「ごめんねぇ、取ってくるね」

 

「いえ、いいですよ。出しますから」

 

レアはそう言うが、紬は面倒だとそう申し出る。

 

「うーん。じゃあお願いするね、帰ったら返すね。ありがとうねぇ」

 

それにレアはあっさり甘える。無駄に遠慮する良くある反応を省く辺りは紬が抱いている人物像通りか。

 

「メインて、肉料理ばかりだねぇ。野菜はサラダくらいかなぁ」

 

メニューを捲りながら、温野菜料理を何となく探しつつボヤく。

 

「お肉嫌いなのです?」

 

「いやー、好きだよ。だから逆に火の通った野菜だけのも食べたくなるんだけどね。まぁいいや」

 

温野菜なら敦が居れば食べられるし、別にレアはここに食事に——元々食事は決まった時間以外摂らない——来たのではないからどうでも良い話しである。

 

結局、二人ともドリンクバーだけさっさと注文すると、揃って飲み物を取りに行き席に戻った。ちなみにとって来たのは紬はメロンソーダ。レアがコーヒーだった。

 

レアはコーヒーに砂糖は入れずミルクだけ入れて、スプーンでかき混ぜると一口飲む。

 

ミルクで苦味もマイルドになり、まぁまぁ香りも良く、雑味も少ない。まぁ、決して不味くは無く中々飲める味だ。

 

だが、どちらかというと自分はあーちゃんの緑茶の方が好きかな。などとレアは思った。

 

「さて、ボクと話しがしたいとの事だけれど、何が聞きたいとかある?」

 

カチャリと、カップをソーサに置いてここまで殆ど口を開かない紬に対して、レアはそう口火を切る。

 

「……貴女は何故、哲学などを行なっているのですか?」

 

その紬の質問に、レアは口元にあるかなしかの微笑を浮かべた。

 

「ふーむ。その問い方は、つーちゃんの前提としてボクの哲学には価値や意味があると思っているね」

 

ならば、とレアは続ける。

 

「それは誤謬だよ。大前提からして誤っている。ボクのに関わらず、そもそも哲学というものには価値も意味も無いんだ」

 

「……しかし、貴女は世界の合一や愛を先日語っていましたが、アレは貴女の目的で哲学でないですか。それが無意味だと?」

 

あれ程はっきり荒唐無稽な哲学ーーというべきなのかも怪しいがーー語っておいて、それに価値がないと断ずるのは矛盾ではないか。

 

「それは必然としてそれを目指す事になっただけだねぇ。それに意味があるとか価値があるからそうすべきだ。などとは別にボクは思っていないんだ」

 

「例えば地面から石を拾って、手を離すと石は地面へと落ちるよね。これは必然だ。だけど石が落下するという『運動』に何の意味や価値があるかというのは全く別な話しでね」

 

ちょっとズレるかな?などとレアは首を傾げつつコーヒーを口に運んだ。

 

「そうだね……そもそも一般論で、哲学って何やるのかよく分からないイメージじゃない。大体の人は哲学ってなんの役に立つの?みたいに言ったりね」

 

「まぁ……明確に何をするのが哲学というと、皆抽象的にしか考えてないかもしれないのです」

 

実際一概に哲学と言っても、政治哲学、道徳哲学、分析哲学、論理学、実在論、存在論。など様々な分野、立場があるから詳細を語ろうとしたら大変だ。

 

「だけど、まず学問というのは、何かしらの意味があり、価値があるよね。という前提がそこにはあるんだ。例えば数学。物理学。工学。心理学経営学言語学化学医学薬学etc.」

 

「これらは、人間の文化、文明やテクノロジーを発展させて来た、正しく意味や価値のあるものと言えるよね」

 

「では、哲学はそうではないのです?」

 

「まぁ、そこは人により主張が違うだろうね。哲学ってのは考える事だし、そう捉えるとあらゆる学問の源流とも言える。実際哲学者アリストテレスは万学の祖なんて言われているしね」

 

そう前置いておいて、レアはしかし、と続けた。

 

「ボクの考えはそうではない。哲学は、何かに役立たせたり、意味があるものじゃない。突き詰めて()()とは言うけれど、ボクは『学問』とすら思っていない」

 

ストローでメロンソーダを吸いつつ、紬は目線で続きを促す。

 

「極論しちゃうと哲学なんて何の役にも立たない。故に学問ではない。むしろ社会から見れば極めて危険な反社会的なものですらあるんだ」

 

「哲学は反社会的……?」

 

初めて聞く意見だ。が、紬も少し考えてみる。分からなくはないかも知れない。

 

「哲学ってのは全てを考えるし前提を疑うね。社会ってのは常識とか当たり前な事で出来ているけどさ、でも哲学は当たり前が何故当たり前かを考えるんだ」

 

そうだ、つまり。

 

「考えてもみなよ?人間社会ってのは、当たり前な事が当たり前だと皆信じきっているから正常に回るんだ。当たり前が当たり前ではない人ばかりになったらそこで社会の回転は止まるよね」

 

紬からすれば世界中が目の前のレアのような人間ばかりになったらと想像してみると分かる。それは社会が終わる。あるいは一つの世界が。

 

「一つ例を挙げてみよう。社会を回す血液とも言える経済、お金というものを哲学で考えよう」

 

「はい」

 

紬は頷く。お金の哲学とは聞いた事もないので少し興味は惹かれる。

 

「まずこの社会においてはお金は分かりやすい価値だね。とりあえず皆お金は欲しい。お金持ちにさえなれば幸せになれる。そこまで思ってなくてもあるに越したことはない。ほぼ全ての人はそう思っているね」

 

「貴女はそうは考えないのですね」

 

レアはコーヒーカップに口をつけつつ手を上げて制する。

 

「まぁまぁ。それをここから考えるんだから結論を急がないの」

 

「で、だね。なんで、お金がそんな価値があるのかと言えばそれは当然それがあれば何でも買えて、何でも手に入るからだよね。でもさ」

 

カチャリとカップをソーサーに置いてレアは続けた。

 

「何でも手に入るからお金に価値があるのか、お金に価値があるから何でも手に入るのか、はて、どちらだろう?」

 

鶏が先か卵が先かみたいな話だろうか、紬は首を傾げた。

 

「どちらかとだとおかしくなると?」

 

「順当に答えで言えば、何でも手に入るからお金には価値があるんだろうね」

 

「しかし、考えるとやはり妙だ。本質的にただの紙切れでしかない紙幣なんてものに何でそんな価値なんかあるのかな?」

 

首を傾げ、レアはそう疑問を呈する。

 

「それこそ社会が作り出した制度故になのではないです?」

 

「果たしてそうかな?お金、つまり紙幣、あるいは金銀。挙げ句の果てにはネットワーク上を行き来する実態のないデジタル上の数字」

 

「どこまで行ってもその本質はただの紙切れや金属片や数字に過ぎないんだよ。少し考えてみなよつーちゃん」

 

ピッと指を立ててレアは論じる。

 

「人は紙切れ一つの為に、自殺もすれば人も殺す。ただの紙切れのためにそこまで?なんだか滑稽じゃないかな?」

 

「……滑稽かはともかく、おかしいというのは同意するのです」

 

金の為に人を殺す。絶望して自ら死ぬ。そんな事世の中にいくらだって例があるのだが、それが紙切れの為と考えれば人は愚かしいと嘆くべきなのか、あるいは喜劇だと笑うべきか。

 

「事実、お金に本質的な価値なんてないんだ。はっきり言ってしまえば紙幣制度というのは集団幻覚だね」

 

「殆どの人がそれに価値があると思い込んでいるから、結果的にそれに疑似的な価値が生まれる。紙切れにせよ金属片にせよデジタルの数学にせよお金という制度はそんなものだよ」

 

つまりは、お金に価値などないと言う。それは紬も分からなくはない。しかし、現実としては。

 

「例え、それが全員の勘違いだったとしても、価値が生まれている以上はお金には価値があるのではないのです?」

 

「まぁ、それはその通りだね。じゃなかったら貨幣制度なんてとうに消えてるからね」

 

紬の反論にあっさり是と頷くレア。しかし、カチャカチャと意味も無くティースプーンでカップの中をかき混ぜつつ続ける。

 

「でも考えてみたら面白くないかな?皆が突然、お金がただの紙切れだと言う事に気がついてそれを捨ててしまう。貨幣制度の崩壊だ。そうしたら、経済の前提が破壊されて、既存の社会システムは崩壊する」

 

痛感だよね。とレアは何処かシニカルに笑って言った。

 

「思考実験としてはしては面白いかも知れないですけど……」

 

紬が言いつつグラスを置くとカラリと氷が音を立てた。

 

「現実的には無理だと思うのです」

 

それこそ、レアが不可能と笑い飛ばした反出生による人類絶滅と現実性にはさしたる違いはないのではないか?と紬は思う。

 

「もちろんそのとーり。社会が崩壊するとしてもそんな愉快な崩壊の仕方はまずあり得ないとボクも思うよ」

 

人類全員が子作りを放棄した結果、人類が滅ぶ程度に馬鹿げた話だというのはレアも理解している。

 

「まぁ、まず有り得ないのは前提として、その有り得ない可能性を秘めているとしたら哲学なんだよ」

 

レアは欄と目を光らせて言った。

 

この人はそういう有り得ない可能性に何かを見出している事を紬は悟った。

 

「お金のついでにもう一つ言えば、ボクは日本に生まれた日本人だ。とりあえずそうなる事は分かる。つーちゃんもそうだよね?」

 

「はい。血筋も生まれも日本なのです」

 

「では、ここで一つ問いを投げよう『日本』て何かな?」

 

カップに残ったコーヒーを飲み干しつつレアは言った。

 

「何が、『日本』……?」

 

「ちょっとおかわり淹れてくるからちょっとその間考えてみてよ」

 

そういいつつレアは空になったカップを手に取り、席を立ってぬるりと歩き去って行った。

 

紬は課題として与えられた問いに対して一考する。さして時間を立てずにレアは湯気の立つカップを手に戻ってきたが、紬はそこまでかけずに答えを出した。

 

「さて、どう思うかな?」

 

音を立てずにカップを置いて着席しつつレアは聞いた。

 

「何が日本か、私には分からないのですが、レアさんの考えは分かるのです。国もまた集団幻覚なのではないですか?」

 

「そうだね」

 

クスリと小さく笑ってレアは肯定した。まぁ、お金に引き続いて例を出したら大抵の人はレアが言いたい事はわかるだろう。

 

「国。と人は当たり前に言うけど、じゃあ国って何か?土地?指導者?法律?政府?国民?一体何処を探したら国とやらがあるのさ?」

 

「だからこれもやっぱり同じ、何処を探したって国なんて実態はない。集団幻覚だ」

 

レアは今度はミルクすら入れず、しかしまた無意味にスプーンでカップの中をかき混ぜながら言った。

 

「人間の精神や言葉って面白いものだよね。実態として存在しないものに名をつけて皆で思い込めば実在する概念に出来る。ここら辺はボクは人間の無限の可能性を感じるよ。言ってみれば国や金のイデアなんて無いはずだ」

 

 

ブラックのままのコーヒーを一口飲みながら、そう言うレアの口調に皮肉の色は無かった。

 

「そう考えるとこれが中々面白いよ。お金や国なんてつまり実在しない。実在しない概念と考えるとお金も国も立派に形而上の存在と言えるね」

 

「この世の何処にも実態が無い。だから形而上というのです?」

 

「そうだね。そしてもうこの世には無い形而上の存在という意味では幽霊と同じだね」

 

「これもまた面白い。今の科学的物質主義の現代では幽霊は実在するなんて多くの人が馬鹿げていると言うだろう。でも同じく実態のない幽霊のお金や国の実在は誰も疑わないんだから」

 

「そして、幽霊により異常な言動をきたす事を一般に、取り憑かれている。呪われているというね」

 

ならば、とレアは微笑して続ける。

 

「この世のほぼ全ての人は、お金や国の事で、一喜一憂したり大騒ぎ。そんな物の為自殺もするし、なんなら他人も殺す」

 

「皆、幽霊に取り憑かれて呪われているようにボクには見えるかな」

 

レアはクスクスと邪気のない笑いを浮かべた。そんな笑顔を前に、紬は自分が当たり前に信じていた土台がひっくり返されるような一瞬の恐怖を感じていた。

 

そして気がついた。この人も、半ば形而上の存在なのではないか。

 

野々村レアは肉体こそ形而下のものであれど、半分幽霊なのだ。

 

そこまで語ってレアはハッとした。

 

「と、また話がとっ散らかっちゃった。話を戻すね。でだ、今のを踏まえて社会や文化にとって哲学の危険性は言うまでもない」

 

「集団幻覚を解いてしまったら、社会は崩壊すると?」

 

「まぁ、真っ当に考えて崩壊するだろうね。国やお金なんてどこにも無い。と皆が思えばそこまでだ」

 

「つまりね、哲学は妥協せずに考えるという営為なんだ。これは徹底している。前提や実在すら疑うし、考察する。皆が皆こんな事をやり出したら社会経済なんてあっという間に死滅するだろうね」

 

つまり、とレアは言う。

 

「故に哲学は文化的には役に立たないし、社会的には危険極まりないんだ。哲学の祖、ソクラテスの最後を忘れちゃいけない。彼は国法によって処刑された」

 

古代アテナイでは正しく哲学の危険性に気づいてたんだね。とレアは言った。

 

「しかしまぁ、今の社会システムにとって幸いなのは誰も哲学。つまり考える事をしないから、そんな心配はないって事かな」

 

「新しいイデオロギーや主義による、社会変革、革命だ!なんて考えている人はたまに居るらしいけど、アレなんてボクから言わせれば方法論が徹底的に間違っているよ。正しい意味で社会変革を可能とするのは、哲学による精神革命のみだよ」

 

「まぁ、そんなこんなで色々言ったけど。何故哲学を?と問われたら、哲学とは考える事。人間とは考える動物だ。故にボクはただ考える人間で在るから。答えとしてはそんなものかな。」

 

なるほど。この人が一つ分かった気がする。紬は思った。

 

この人は、真面目なのだ。クソがつくほどに。間違いなく、やると言ったら徹底的にやる人なのだろう。半端は許さない。

 

「ついでだから補足するとね。だからこそ皆哲学なんて、と思うらしい。だって皆生活しなければならない。生活が成り立たなくちゃ哲学なんてやってられるか。と思うようだね。なるほど、かくして本質的な問いは忘れ去られるというのは分かる」

 

でも、とレアは言う。

 

「いみじくもソクラテスは皆は食べる為に生きているが、ぼくは生きる為に食べている。と言った」

 

「正しく、生活するなんて事は生きる為の手段な筈だ。しかしこの世の大半の人間は、生活する為に生きているという転倒を起こしているんだ。おかしくはないかい?だって考えてみるまでもなく人は、生活するよりも先に生きているのに」

 

はっと紬はさせられた。確かに紬も日々、学校に行ったり勉強をしたりと幼いながらも生活がある。まるでそれが生きる義務のように。さて、紬は生活する為に生きていたのか?生きる為に生活していたのか?順番を間違えはいなかったかと思わず内省する。

 

「極論、人が生きる事と生活する事は何ら関係性すらないんだよ。仮に生活の全てを辞めたとしてイコール死に繋がるわけではないんだ。生活しても、しなくても、遍く人間は死ぬまでは生きているんだから」

 

これは絶対普遍的事実だね。とレアは言う。

 

「哲学とは考える事そのものだ。人が生きる事は考える事だ。ボクにはね、人が無内容に生活して、哲学をしない事が非常に奇妙に思える」

 

「最初の答えからの逆説になるけれど、哲学の意味とはこれなのだと思うよ」

 

まぁ、ボクからはこんな所かな。とレアは口を噤む。

 

「哲学に意味はない。しかし、人は生きているなら哲学をする筈。ですか……」

 

なるほど逆説だ。紬は考える。哲学に意味は無い。故に必然生きる事にも意味はないと言う事か?

 

否。紬はそんな愚鈍ではない。それを考えろとレアは言っているのだ。生きる意味とは?いやそもそも生きるとは何だ?誰が生きているのだ?生きている自分とはなんだ?

 

レアはそういう問いを立てているのだ。なるほど、そう問われば一度はとことん考えるべき事なのかも知れないと紬は思った。

 

思索に沈みそうになり、紬は我に返った。今はそうでは無かった。自分に向き直り問いを投げるのはいつでも出来る。

 

今は目の前のこの世から半分離れているような宇宙猫と向き合わなければ。

 

 

「ちょっと失礼するのです」

 

紬は一体席を立ち、飲み物のおかわりを取りに行った。

 

カルピスを手に戻ってくると、レアはメニューを開いて眺めていた。

 

「何か食べるのです?」

 

「いや、いらないよー。ただ、割とこういうお店のメニュー読むの好きなんだよね」

 

何故?と紬が目で問うと、レアは答えた。

 

「見ているだけで、美味しいもの沢山食べた感じになって幸せになれるからね」

 

「私は美味しそうで、お腹が空いてきて食べたくなるのです」

 

「そう?むしろ食べた気になってお腹一杯にならない?」

 

ならない。と紬は思ったが、そう言えば兄も自炊すると作っている時点で食べたような気になってしまって食事があまり面白くなくなると言ってたのを思い出す。そういう心理はあるのだろうと思い直した。

 

「それはいいのですが、もう少し聞かせてもらっていいのですか?」

 

「うん?何を?」

 

「レアさんは兄さんをどう思っているのですか」

 

「また漠然とした問いだね、あーちゃんの事は人間だと思っているよ」

 

紬の問いかけに、レアはメニューを捲りながら答えた。

 

その返答に紬は考えた。この人は真面目だ。今だっていい加減に煙に巻いたのではない。本気で、本質しか言わない人間なのだ。

 

ならばどう問うか?

 

「兄さんは幸福になれるでしょうか?」

 

「なるほどねぇ」

 

しかし、レアはその問いを聞くとパタンとメニューを閉じた。

 

レアの論理はすぐにその問いの立て方故に、本質に気がついたからだ。

 

「善意なのは分かっているけどねぇ、あんまり自省の無い善意は傲慢なものだよ」

 

窘めるようなレアの口調に紬は、言葉に詰まった。何か急所を刺されたような気がした。

 

「そんなにあーちゃんは可哀想かな?不幸かな?」

 

「そうまでは言わな、いのです」

 

「なら何で幸福になれるかなんて聞くの?」

 

何故ってそれこそ何故だ、と紬は思う。何故自分が弾劾されなければならない。

 

「大切な人に幸福になって欲しいなんて事当たり前なのです」

 

「確かに言う人は多いね。あの人には幸せになって欲しいとか。だけどボクはそういう物言いは嫌いだな」

 

あくまで穏やかな口調でしかしきっぱりとレアは言い切り、カップを持ち上げつつ続けた。

 

「人間を馬鹿にするな。といつも思う」

 

つまり、また兄の事を見下すのか?と言外にレアが言っているのを紬は見てとった。

 

しかし、それが何故にかは分からない。まさか自分みたいな子供が兄を心配するなんて烏滸がましいと言いたいのか?

 

それこそ人を馬鹿にしている。そう思って紬の目つきは険しくなる。

 

「違うよ、つーちゃん。幸せになって欲しいという前提が傲岸なんだ」

 

レアも、紬の言いたい事を読み、勘違いを是正する。

 

「単純な話で、あーちゃんの幸福を望むつーちゃんはあーちゃんを不幸だと考えているんだ」

 

その言葉に急所を刺されたような気がして紬は動きが止まった。

 

「別にそこまで……」

 

「でも幸福になりたいとかさ。幸福になって欲しいとか言うって事は前提として今が不幸じゃなきゃ成り立たないよ」

 

論理的にね。とレアは淡々と言う。

 

「幸福ならば、もう幸福なんだから幸福を欲し得ないよね。突き詰めて、人は幸福を欲するという事において自分や誰かを不幸にしているんだと思うよ」

 

「もっと単純に言って不幸だから幸福を望むんだよ」

 

「……」

 

紬は閉口した。そんなつもりはなかった、が、紬は確かに兄を不幸だと憐れんでいたからこそ、幸福になって欲しいなどと思ったのでは無かったか。

 

「先の問いの答えとも兼ねて言うと、ボクはあーちゃんが幸福になって欲しいとは思わない」

 

「……兄さんは幸福だと思っているからなのです?」

 

「いや、幸福とまではボクには分からないけどね。ただ少なくとも世の中の大半の物質的快楽を幸福と勘違いしているどうしようもなく卑しくて浅ましい、不幸な人達とは違うのも確かだね」

 

さらりと、割とキツめの毒を吐きつつ紬は答えた。

 

「まぁ、あーちゃんは少なくとも不幸に違いない。という風には見えないからそも幸福になって欲しいとは思えないよね。もう幸福なのかも知れないしね」

 

そこまで言ってからレアはカップをとりコーヒーを一口飲む。

 

「……もし不幸だったらどうなのです?」

 

レアがカップをカチャリとソーサーに置いたタイミングで紬は聞いた。

 

「そうだとしても、なって欲しいとは思わないかな」

 

あっさりとレアは答えた。

 

「そんな事をボクが思っても仕方がないんだ。だってあーちゃんの人生を生きているのは他ならぬあーちゃんで、ボクが肩代わりは出来ないよね」

 

人は自分の生を生きる事しか出来ない。他人の生を代わりに生きて、死を代わりに死ぬ事は出来ない。レアが以前も口にした絶対的普遍的事実。

 

「つまり、あーちゃんが生きる事はあーちゃんの自己責任だ。幸福か不幸かはあーちゃん自身の課題であって、ボクがそれをどうこうは出来ないんだ」

 

「……貴女の為に不幸になっても、なのですか?」

 

人間的な暖かみというものが感じられない、酷薄ですらあるレアの意見に、紬はそう問い返す。

 

うーん。とレアはまた無意味にカップの中身をスプーンでかき混ぜつつ少し返答を吟味する。

 

「ボクが誰かを幸福にしたり不幸にしたり出来ると思うの?」

 

「もちろん出来るのと思うです」

 

ふむ。とレアはカチャリとスプーンを置く。

 

「ボクはそうは思わないな」

 

暝目してポツリとレアは言った。

 

「ボク、というか人が他人を幸福にしたり不幸にしたりするのは、どだい無理ではないかな」

 

「だって幸福になるのは誰かな?その人本人だよね。その人が幸福足り得るのはその人が幸福においてのみだし、不幸足り得るのもその人が不幸においてなんだよ」

 

「ただのトートロジーなのです」

 

「そんな事はないよ、要は幸不幸はその人の精神の在り方でしかないという話」

 

反論にレアは確と答える。

 

「不幸な精神は不幸でしかないし、幸福な精神は幸福でしかない。その人の精神を外部から変えたりは出来ないんだよ」

 

良く馬を水辺に連れて行く事は出来ても水を飲ます事は出来ないっていうよね。と続ける。

 

「人が幸不幸なのはその人の精神、つまり主体の在り方である以上は、外部の環境や人間関係は全く幸不幸には関係がないんだ」

 

また紬は痛い所を突かれた気がした。兄は不幸だと無意識化に見下していると喝破され、何故そうかと考えれば、それはやはり恵まれない兄の環境や育ちを憐れんでいたのだろうから。

 

「というかむしろ、割とそういう人はいるけど恋人さえ居れば、とかお金があれば、幸福になれる。と考えるような低劣な精神の在り方をしている人はまさにそういう在り方によって不幸なんだ」

 

「外部の人物、環境に価値を置くのがそもそも徹底的に間違っているんだよ。外に価値を求めるのは、逆説、自分自身に価値を見いだせないからだね」

 

人の内。その理性において己のどこまでも深い存在について考えるという、どこまでも甘美で豊かな事を知らないなんて。とレアは嘆くように言った。

 

「なら、レアさんは幸福なんですか?」

 

「ボクはね、生まれてきていい事なんて一つも無かったよ」

 

紬の問いに、レアはあっけらかんと答えた。

 

「ボクは自分にとって何が良い事なのかも良くわからずに善いとは何か考えていた。良い事を知らないが故に今まで特に悪い事も無かったよ」

 

レアは穏やかな顔をして、語る。

 

「だからこそ、ボクは今まで幸福だったし、これからも幸福なんだ。何故ならボクは幸福になりたいと願った事はないのだから」

 

ぞくり、と紬は背筋に冷たいものが走った。一瞬、今目の前に座るレアが誰なのか、いや、何なのか分からなくなったのだ。

 

なんなのだ、この人は何かが豊かに在るはずなのに、在って無しという虚無も感じさせる。分かってはいたが、紬も深入りすると目眩を起こす。

 

「まぁ、つまりボクが言いたいのはあんまりあーちゃんを甘く見ないで欲しいという事かな。彼はボクなんか居なくたって問題ない。彼はそんなに弱くないよ」

 

「……貴女はそれでもいいのかも知れません」

 

そう語ったレアに紬も静かに反論する。

 

「でも、あまりにも冷たいのです。人は感情の生き物です。環境や社会が悪いのではない。本人が悪い。確かに良く聞く弁です。ですがそんな事を言う人は」

 

そこで一つ間を置いて紬は言った。

 

「本当に辛い思いを知らないのに恥知らずに言う人か」

 

あるいは、と。

 

「知っていて、それでも言えてしまう人。誰もが貴女みたいに強い人ではないのです」

 

ーー皆お前みたいに強くはない。

 

いつか、誰かに言われたような事と同じ事を言われてレアは息を呑んだ。

 

確かに一般論で言えば、レアの論理は厳し過ぎるきらいはあろう。誰のせいにもさせない。全ては己の精神のみにおいて己は己たらんとする、そのあり方。

 

それは余人にはあまりにも辛すぎるのかも知れない。辛すぎるから、自分は環境や他人のせいで不自由だと、仕方ないと慰めているのだろう。

 

苛烈な自由と、安楽な隷属。

 

しかして人が望むのはどちらか?

 

ーーあぁ愛しき者よ。貴方が毒人参の杯を手渡すのなら、私はそれを呷ろうーー

 

言うまでもない。しかし、あえて()ろう。

 

「つーちゃんのいう事もよく聞く話だね。確かにそれも人を慮っているんだとは思うよ」

 

レアは静かに口を開いた。

 

「ボクもあーちゃんと、社会とやらが悪い、環境が良くない。などと傷の舐め合いをすれば正しいのかな?」

 

そこでレアはシニカルに笑って言った。

 

「残念だけど、ボクは誰かがとか社会とかが悪いとか思った事がないんだ。つまり前提からしてそれは無理なんだよ」

 

そのレアの眼の奥が心底分からないと言っている。紬はそれを見て取った。

 

「誰かと傷を舐め合い、慰めあいながらいきていく。それは分かるようで分からない。その誰かは他人である以上、やっぱり本人は自分の人生を生きて、自分の死を死ぬしかないじゃないか」

 

レアは全力で理解出来ないと、問いを発していた。

 

分からない、分からない。誰かがこう言う。誰か私を助けて。

 

誰が、誰を助けるというのだ?助けられる私とは誰なのだ?何故そんな当たり前の事を考えない。

 

それを考えれば、そんな事は言えなくなる筈。いや、そこに置いてひとまずの()()()()()。なのになぜそれに気づかない。

 

「当たり前の事なのに、なんで皆無駄に悩んでばっかりで、自分で考えないんだろう?」

 

 

レアは首を傾げて言った。

 

「その程度も分からない、自分の人生を他人のせいにするような薄志弱行な精神の者は端的にボクには縁がないだろうね」

 

「それが出来る人ばかりじゃないのです」

 

「確かにそれはそうなんだろうね。分からない人は分からない。考えない人はどうあっても考えない。それはボクも分かる」

 

「でも、あーちゃんにそれが出来ないとでも?」

 

「それは……」

 

紬は返答に窮した。

 

「申し訳ないけれど、ボクは他人を慮って手加減は出来ないんだ。昔はそれで身内が壊れた事もあったよ」

 

それは紬は兄に又聞きしていた事だ。しかし、この時こう思った。それはレアに狂わされたが故に壊れたのか?

 

もしかしたら、強引に正されて、苛烈な真実の元に耐えきれず壊れたのかも知れない。そんな事を紬は思った。

 

「だからボクはちゃんとあーちゃんに確認したよ?いいの?って。それでもあーちゃんはボクの隣を選んだんだ」

 

「……」

 

「それは紛れもないあーちゃんの自由意志じゃないか。素晴らしい。それをつーちゃんにせよボクにせよ、外野がどうこう言うのなんて、彼への冒涜じゃあないかな?」

 

言い返せなかった。心配、兄を思う気持ちに嘘はない。しかしそれに託けて兄の自由意思に対して干渉する自分の中の傲慢さを紬は少しずつ自覚したのだ。

 

「つまりは覚悟の上だ。一人の男が本気で挑んできたんだ。こちらも一人の女として、手加減してやろう。だなんてあーちゃんに対する最悪の侮辱じゃないか」

 

しかして、レアという女性は一切敦を甘く見ないし、舐めない。否、敦に限らず、今こうしているように何人であっても、関わる以上は己と同じ一人の人間として対等に挑む。

 

それでついてこれないならそれまでだ。

 

「ボクだって一応は女をやっているんだから、そのくらいじゃないと女が廃るってもんじゃないかな。ついてこれないなら置いていく。それでいいんだよ。ボクも一々人を引っ張り起こす程暇じゃないからね」

 

しかし、紬から見てレアという女性のなんと奇怪な事か。まるで幽霊じみた半分あの世の存在。俗世事一切無意味也と目も向けない。しかして、この充実した力への意思。

 

「ボクはボク自身が善く生きればいい。他人を外から善くする事は出来ないんだから。ただボクが善くあれば、きっと他の人もついてくる。あーちゃんに限らず、人間へのそういう信頼は大事だよ」

 

故に常に命題は一つ。汝自身を知れだよ。とレアは結ぶ。

 

「確かにそうなのかも知れないです」

 

紬は思う。なるほど、この人の言う事は常に普遍的で正しいのかも知れない。

 

「けど貴女はどこまでが本気なのです?」

 

そう疑問を呈した。

 

「汝自身を知れ?詭弁なのです。だって」

 

でも本当の事も言っていないのではないか。だって、

 

「貴女は自分に興味なんてないのです」

 

それは紬にははっきり分かった。

 

「うん、その通りだよ」

 

それにレアはあっさり肯首した。

 

「それはそうだよ。ボクが知りたいボクの事はそんな事じゃあないんだ。確かにつーちゃんの言う通りボクは野々村レアなんかに興味はない。正直生きてても死んでてもどうでもいいんだよ」

 

そうだ、紬から見てこの人は自分に全く頓着していない。しかし、それをあっさり認められて鼻白んだ。だってそれでは汝自身を知れという命題に背くではないか。

 

「それでは矛盾するのです」

 

「いや、していないよ。ボクが知るべき汝というのはね、野々村レアではなく、何でか野々村レアなんかをやっている所のその主体なんだ。つーちゃんはそこを勘違いしているね」

 

野々村レアをやっている主体?それこそ知るべき汝?思いもよらない言葉に紬は考えこんでしまう。

 

「別につーちゃんだけじゃない。割と皆考えないからそこに躓くんだ。汝自身を知れ。そう聞いたのが山田太郎さんだったら、山田太郎とは一体何なのかと問われている、と山田太郎さんは思ってしまうんだ」

 

「コギト・エルゴ・スム。デカルトの有名な命題も同様に誤解されやすい。デカルトは徹底的な懐疑により、疑っている我だけは疑いえない。と言った。しかしこれを聞いて多くの人はデカルトはデカルトが在ると言ったと思っている」

 

指先で摘んだティースプーンで宙を混ぜるようにクルクル回しながらレアは言った。

 

なるほど、紬にも言わんとする所は察せられた。

 

「デカルトがいった我はあくまでデカルトではない。という事なのです?」

 

「そうだね。ここが陥穽だけど、我≠デカルトなんだ。デカルトはデカルトは在る。なんて言っていないんだ」

 

「ただ、デカルトをやっている所の我。主体であり、確かにある何か。それだけは在ると気付き、同時にそれは決して()()()()()()()()()()んだ。デカルトは驚いたろうね」

 

「つまり、汝とは……」

 

それか、と紬は知るべきものは何かを理解する。

 

「そう、野々村レアという人間を何故だかしている、我。その何かだ。それは形而下の肉体として野々村レアをやっているが、しかし決して野々村レアではない。言ってみれば野々村レアという実在の否定態としての存在でもあるそれだ」

 

「魂、みたいなものと思えばいいのです?」

 

「まぁ、有体に言えばそうかな。ただこの何かは何とも言語で定義するのが難しいから人により言い方もまちまちだ。先のデカルトのようにコギトと言えば、古代ギリシアではプシュケー。あるいは絶対精神。まぁ色々だね」

 

ただ、理解としては概ね間違ってないよ。とレアは続ける。

 

「貴女は肉体とは関係無い魂をこそ知れ。というのですね」

 

「まぁ、そう言われると二元論的で語弊があるかもだけど……いや、そう言えるのかも知れないけど別にボクは身体と魂?のどちらかが真であり偽であると思っている訳でもないからねぇ」

 

とは言え、とレアは続けた。

 

「でも、間違いじゃあないよ。確かにボクみたいなのが知るべきは肉体ではないところのこれだ。何故なら野々村レアという肉体なら形而下の科学者、解剖学者が頑張ってくれるだろう。だからボクは形而上のこれをこそ相手にするべきだからね」

 

まぁ、要は役割分担だね。などとレアは嘯いた。

 

「……」

 

紬もまた考える。そして聞いた。

 

「何故、それを知るべきなのだとおもうのです?」

 

「逆説的だけど、それを知らないからかな。要は汝自身を知れ。これは哲学の祖ソクラテスの始まりの命題なんだ」

 

そこで、レアはカップを持ち上げてもう空だと気づいて立ち上がった。

 

「と、ちょっと飲み物取ってくるねー」

 

「では、私も」

 

「ん、じゃあボクが一緒に取ってきちゃうからいいよ、何がいい?」

 

紬は一瞬遠慮しようかとも思ったが、わざわざ二人で行くのも不合理だし、レアもその無駄を良しとはしない——悪いとも思わないかも知れないが——だろうし、頼む事にした。

 

「ではカルピスソーダで」

 

「ん」

 

頷いてグラスを取り、レアは歩き去って行った。

 

それを見送りながら、紬は考える。曰く考える事即哲学。

 

「人を見る眼には自信があったのだけどな……」

 

そう小さく、独りごちる。兄の伴侶。その人を知りたくてここまで来た。

 

しかし、少し分かったと思ったら手を離れていくような捉えどころのないレアの印象が上手く固まらない。感情の動きも良く掴みきれない。

 

なんだか、微笑するレアから言外に、他人の事を分かった風に思う事の傲慢さを皮肉られているような気がした。否、それはおそらくレアがそう言っているのではなく、紬自身の内がそう言っているのだろう。

 

ふと紬は思い出した。昔、近所で良く見かけた一匹の猫だ。

 

白地に黒斑の猫だったが、しかし毛皮は薄汚れ、骨に皮が張ったような見るからに老いた猫だった。

 

若い猫のような優美さやしなやかさ等は最早見られない。まるで枯れ木のような老骨の猫。猫らしい俊敏さも失われて、無駄に動かずじっとしているか、ゆるりと歩いていた。

 

若い野良猫などは車が通る道路に飛び出し、他意もない人が近づいても意味もなく走り出し、運動量も能力も高いのに無駄や危なげを感じるものだ。

 

しかし、老猫はそんな身のこなしながら、道路を歩いても車や自転車にぶつかるような危なげなく、無駄に動かなくても人間に触られる事もない。不思議な老獪さがあった。

 

いつも同じ近所を通りかかると居たような気がするが、いつの間にか居なくなっていた。いつ居なくなったのか紬も良く覚えていない。いつも居たのに大して印象にも残っていなかったのだ。

 

老猫なのだから、多分寿命で死んだのだろうが、まるで煙のように消えていた猫。今まで忘れていた猫の事を何故か思い出した。

 

「ただいま」

 

「おかえりなさい」

 

そこでレアが戻ってきた。紬の前にグラスを置いて座る。

 

ちなみにレアはドリンクバーにて、カルピスソーダに何か別のジュースをブレンドしようかと稚気を抱いたが、やられても別に面白くもない悪戯なので辞めた。

 

「で、話の続きだけどね」

 

「はい」

 

紬は答えつつ、ストローから一口ソーダを吸う。

 

「汝自身を知れ。それに乗っ取ってボクがボクをやっているところのさっき言ったこの()()を考える」

 

 

レアはスティックシュガーを一本とって破り、取ってきたコーヒーにサラサラと入れると、スプーンで混ぜつつ言った。

 

最初にミルク。二杯目はブラック。三杯目に加糖と地味に味の違いを楽しんでいるようだ。

 

「しかし、そのこれ。仮に魂として。それが分からないんだ。ボクがボクをやっているという当たり前の現象が分からない」

 

「つまり無知の知」

 

それ即ち、分からないという事をわかる事という逆説。そうレアはコーヒーを啜りながら言った。

 

「これが汝自身を知ろうとしたソクラテスたどり着いた命題だ」

 

「分からない。というのが答えなのですか?」

 

「答えであり問いだよ。ソクラテスは曰く哲学の祖だ。つまり彼の出した答え、無知の知は実は終わりじゃなく、そこから始まりなんだよ」

 

「つまりはαにしてΩだね」

 

「つまり、結局始まりに戻ってくるのです……?」

 

知らないから知ろうとする。知ろうとして知らない事にたどり着く。なんだか堂々巡りだと紬は思った。

 

事実これは悪無限と言えるだろう。あるいはニーチェの言った永劫回帰もこれではなかったか。

 

「違うと言いたい所だけれども、確かにそうかも知れないね。哲学の祖ソクラテスから今に至るまでニ千年。さて哲学は二千年の間に何を突き止めたか……」

 

「いや、実際ね。何も進んじゃいないんだ。我々は二千年前のソクラテスの頃から足踏みしていると言えるだろうね」

 

そう。一体古代ギリシャの時代から愛知者が考え続けていた頃から、一体今の哲学者が何を導き出したというのか?

 

西洋哲学の歴史とは、なべてただのプラトンの脚注だ、とはとある哲学者ホワイトヘッドの言である。

 

「なら成果も出てないのですか?」

 

それこそ自然科学、科学技術は目覚しい発展をしているだろうに。と紬は思う。

 

「出てないと言えばそうだね、だけどまぁそれも仕方ない。始まりにして終わりだからね。つまりもし成果が出たときは並べて人類が次の高み(始まり)へと至る時だろうね」

 

「その高みとは何なのです?」

 

それが分からないから無知の知。と言っているのは承知で敢えて紬は問いを投げた。

 

しかし、レアはシニカルに笑って答える。

 

「一つ言えるのは、こうだよ。って言ったら皆、はい分かりました。と至れないのは確かかな」

 

「まず勘違いしている人が多いけど、知識と知恵は違う。幾ら外部から知識を蒐集した所でその人自身が変わるかと言ったらそうじゃないんだ。その人が自分で考えられる人じゃないと衒学的(ペダンチック)な人で終わりだ」

 

言わんとする所は紬にも分かる。特に今は情報化社会。知識なんてネットで検索すればすぐに見つかる。しかし、だから今の人間は昔の人間より知恵があるのか?

 

「知識を良く良く消化して知恵としているものだけが碩学者だ。そもそも哲学をお勉強するもの、と勘違いしている人が割と多い」

 

勉強するものではない。との言に紬は引っかかりかけたが、しかしレアはさっき哲学を学問とする事すら怪しんでいた事を思い出す。学問でないなら確かにお勉強ではない。

 

「この事をカントは哲学を教える事は出来ない。哲学する事を教えるだけである。と言っているんだ」

 

「つまりね、プラトンはこう言いました、カントはこう論じた、それに対してヘーゲルは〜となぞるだけなら、なれても唯の()()()()だ、愛知者ではないよ」

 

つまり、と一つ間を置いてレアは続ける。

 

「真理とは、これが真理ですよ。と提示されて皆が了解出来るものじゃないんだよ」

 

「ならば、真理とはなんなのです?」

 

その紬の問いにレアは肩をすくめていう。

 

「それは、皆の内にしか見いだせないよ。考えてもみなよ。今まで覚者は沢山居た。だけどこれが悟りだと教えてみんな悟れるなら、今頃皆悟っているはずじゃないか」

 

語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。ウィトゲンシュタインのこの命題には、確かに一定の理がある。

 

「もちろん覚者も言葉を残した人はいる。だがそれで悟れた人なんて一部も一部だ」

 

「有体に言えば、真理なんていくら言葉を尽くしても、分かる人は分かるし、分からない人には絶対に分からない」

 

「教えてもらってもわからないのです?」

 

然り。とレアは頷きコーヒーを一口飲んで告げた。

 

「分からないよ。哲学っていうのは、才能と努力が必要なんだ。だからさっき言った通り知恵と知識は違うって事なんだよ」

 

「分かりやすくいえば、プロ野球選手が、どうやって球を打つか?理論を言葉に出来る人はいるよね。でもその人の打撃理論を聞いたら誰でもプロ野球選手の投球を打てるようになるかな?」

 

「なりませんね。少なくとも凄く練習してる人じゃなきゃ、その理論を聞いても役に立たないとおもうのです」

 

その通りだろう。弛まぬ努力はもちろん、そもそもプロになれる程の天稟があって初めて理論を実践できるようになる。

 

「そう、これがスポーツなら皆それが分かるだろうね。だけど、知恵に関しては、人間って読んだ本やネットからの外部から取ってつけた知識で、賢くなったり自分が変わったりする気になっちゃうんだよね」

 

「だけど残念。哲学だって、いやむしろ哲学こそ分かるにはその人の才能と努力が必要だ。むしろ大事なのは、才能。ない人間にはどうやったって分からない」

 

そうして、才能のない人が努力だけしても、上部だけ様々な哲学者の理論の流れを勉強しただけの、先に言った哲学学者にしかなれない。

 

何処までも生々しく、この宇宙が存在するという謎に驚愕する。そして自分が生きて死ぬという奇妙奇天烈。それをただ考える。

 

それが理解出来ない魂に哲学など土台無理な話だ。下手の考え休むに似たり。というが無駄という意味では理解出来ない人は眠りこけていた方が遥かに有意義だろう。

 

「だけど分かる人には必ず分かる。必然ボクの言葉は聞こえる人には届く筈だ」

 

そう語るレアの眼は、この世の何処も見てはいなかった。

 

紬は思った、なるほど、この人は控えめに言っても非常に変わっている。しかし……

 

「レアさんの考え方は分かった……とは言えませんが、これから考えてみるのです。私からも良いですか?」

 

「もちろん。ボクが一気に喋っちゃったからね。今度はつーちゃんの話を聞こう」

 

紬の言葉にレアは頷く。互いに話して聞く。これぞ言葉のキャッチボールだろうと。もっともレアから投げられた言葉は明後日の方向どころか宇宙へ飛んでいっていたのかも知れないが。

 

「あくまで聞いていて思っただけの、まだ感想なので的外れなのかも知れないですが」

 

そう前置きから紬が語り出した。

 

「まず、現実的ではないのです。今を生きる人々は地に足付けてこの現実を生きているのです。それを全く無視して形而上の事のみでその人達を論ずるべきではないのではないのです?」

 

「ふむふむ」

 

紬が語り出した反論をレアは爛々とした眼で聞いた。

 

「私は、形而上の論理で正論を言うのは、おかしいとは思わないのです。でもそれが形而上であれ、形而下であれ」

 

そこで一つ区切って、紬は一口ジュースを飲むと続けた。

 

「……正論というのは人を傷つけてるのです。レアさんのいう形而上の言葉が分からない人は傷つく事はできませんが、そういう人でも分かる現実的な正論は、人は反発します」

 

ならばましてや。

 

「貴方の言ったとおり、貴方の言葉が届く人ならばきっとその人は尚更傷つくとおもうのです」

 

「なるほど、そうだろうねぇ」

 

そう、レアの言葉がまるで届かない隔絶した人種は、レアを嘲笑うか憐れむかくらいだろう。その言葉は如何なる意味でも響かない。

 

しかし届いてしまう人は、その言葉で切り刻まれてしまうのかも知れない。

 

「そして、貴女は愛を前に語りました。全てを合一するのが真の愛、と。それは万人に対する平等な愛の形、と言う風に私は解釈したのです」

 

ふむふむ、とレアは頷きコーヒーを一口飲み、返した。

 

「なるほど、言い換えてみればそれで間違いではないと思うよ」

 

所謂所のアガペーって奴と同類なのかもね。とレアは続ける。

 

もっともボクはキリストのような聖人でもなんでもない、ただの俗物だけどね。と一つ諧謔も挟んだ。

 

しかしそれは、逆説。

 

 

「翻って誰も愛さないという事なのではないのですか。貴女は兄さんを愛してはいないのではないですか?」

 

その紬の言及に、中々鋭い切り込みだとレアは感心した。

 

もし、レアが敦を愛しているなら、それは一例の特別な愛を持っているという一点で万人に対する普遍的な愛が破綻する事になるからだ。つまり真性の愛は成り立たない。

 

「そして貴女は、根本的に人との関わりを避けているのです」

 

それは自明。なるべく人と関わらなくて済むからと夜行性になる人が、人付き合いに捲んでいる事など言うまでもなく。考えるまでもない。

 

「ふむふむ、つまり?」

 

レアは微笑したまま先を促した。

 

「貴女は、人や世界と向き合わずに形而上へと逃げているだけなのではないですか?」

 

紬は抱いた感想を忌憚無く吐き出した。言ってしまってから口が過ぎたかとも一抹の後悔がよぎった。

 

聡明な紬なら当然推測は出来る。レアという女性とて、好きでこうなったわけではない筈だ。誰しも少なからずそうだろう。この人がこうなったのは然るべき経験があったからだ。

 

その結果としてのレアの在り方を逃げと断ずる傲慢ではないかと自覚はあった。

 

しかし、レアのあるかなしかの笑みはいささかも変わらず、その眼には僅かの苦味の色も浮かばなかった。

 

「なるほどねぇ。確かにボクにはそういう一面があるのも確かだろうね」

 

それどころか、あっさりと肯首した。紬は鼻白む。

 

でも、とレアは続けた。

 

「反駁は幾つかあるよ」

 

「聞かせて欲しいのです」

 

「そうだね、じゃあまず……と言いたいところだけど、今日のところはこれくらいにしておこうかな。結構喋ってつかれちゃった」

 

眼をしぱしぱさせてレアは言う。時間が時間だし眠気もあるようだ。

 

む、と紬は肩透かしを食う。ここで終わっては尻切れとんぼだがしかし、突然訪問して長々と話を始めたのは紬の都合ではあるので無理強いをすべきでもない。

 

そう。だからそろそろこの宇宙猫が語り、騙るのもあと少し。

 

「ただ、一つだけ」

 

「何ですか?」

 

レアはカップに残ったコーヒーを飲み干しつつ、告げた。

 

「人を愛そうとするなら、誰かを求めては駄目だ。一人きりになって初めて人を愛せるんだよ」

 

まぁ、少し考えてみるといいよ。と言いつつレアはカップを置いた。

 

「続きは、もしお互い生きている内にまた会えたら話そうよ」

 

「それは次会えたらという約束じゃないのですね」

 

「生きている事に約束なんてないよ」

 

「もしボクがもうキミに語る(騙る)事が無かったなら、それは単にボクかキミが死んだのだろうね」

 

それだけの事だよ、とクスリと笑って、レアは答えつつ伝票を取って立ち上がった。

 

「ここはボクが払っておくよ」

 

ばいばい。と手を振りレアは歩き出した。

 

「待って下さい!」

 

紬が血相を変えて立ち上がり、呼び止めた。

 

「お財布忘れたんじゃなかったのです?」

 

「あっ!そうだった」

 

………

……

 

逃げる。逃げるな。それは逃げだ。

 

逃げるという語彙を、世の中で人がよく言う使い方にこんなものがあるだろう。有体に言って否定的な言葉。負の意味合いが込められている。つまりは逃げてはいけないという価値観だ。

 

このような風潮に疑問を抱いてきた。逃げるというのはあらゆる生物種が取る生存の為の手段ではないか。生きる為に逃げるというのは普遍的な戦略である。

 

逃げる事をしない生物など生き残れない。ライオンに狙われたガゼルは逃げる事で生き残り種を反映させる。逃げるのが正しいのだ。襲いくるライオンに立ち向かう草食動物などいないだろう。

 

例えば大地震の後大津波がおし寄せて来たら、誰でもすぐに高台へ逃げる筈だ。逃げるんじゃない!などと言いながら津波へと突っ込んでいく人間は居ないし、居たらただの狂人だ。

 

そこまで極端な話ではないにしても、様々な危機に際して適切に逃げる事を出来ない人というのは心身ともに壊れやすい。実際今の時期そういう人は珍しくないのだ。はっきり言えば逃走を悪となす風潮は害悪でしかない。

 

「誤解を恐れずに言うなら、凡そ逃げる事の出来ない人は弱いんだ」

 

先のライオンの例えで言えば、ライオンは捕食者。ガゼルは逃げる事しか出来ない非捕食者。百獣の王などと言われる通りライオンは文句無しに強い生物であろう。

 

しかし勘違いされがちだが、自然界の掟は弱肉強食などでは決して無い。

 

適者生存なのである。

 

事実、捕食者たるライオンやトラは多くの種が絶滅に瀕しているが、逆に非捕食者の草食動物は繁栄していたりする。

 

狩る側の強き者が、捕食される弱き者より生物として成功するとは限らない。

 

武の観点から見ても、これは共通点がある。

 

武の道を行く者は恐らく分かる人が多いだろうが、強さと逃げ足の速さは比例する。

 

つまり、強い人は大抵逃げ上手なのである。

 

当然と言えば当然だ。武において強者とは生き残る能力が高い者であり、生き残る為には逃げ足が肝心だからだ。

 

逃げる事を知らない猪武者などすぐ死んで終わりだ。

 

何処か適当に護身術を教える教室にでも行けば分かるが、何処の教室でも最初に教えるのは逃げる事であろう。

 

身を守る事において最重要となってくるのが即ち遁走なのだからさもありなん。

 

つまり、逃げを恥や悪とする考えは、逃げるくらいなら人に死ねと言うような暴論だ。

 

むしろ逆なのだ。逃げる。という行為を超克するには徹底的に逃げなければならない。

 

嫌な事があれば逃げれば良し。怖い事があれば逃げれば良し。危ない事があれば逃げれば良し。

 

そう全ての人に勧めたい。世の中が逃げて、逃げて、逃げまくる人で溢れたら通快ではないか。

 

そうしてあらゆる事から逃げた果てにきっと人は気がつく。ただ一つだけ逃げられない事がある。

 

「ゆっくり行くと日射病にかかる恐れがあります。でも、急ぎ過ぎると汗をかいて、教会で寒気がします。と彼女は言った。彼女は正しい。逃げ道はないのだ」

 

異邦人の何気なくはあるが、好きな一節だった。

 

そう、人は、自分が生きて、そして死ぬという事からは絶対に逃げられない。

 

遍く人々に逃げ場は無く、己の生を己で生きて、己の死を己で死ぬのだ。

 

中には、生きる事から逃げて死ぬ自殺者もいるではないか。と反論する人もいるだろうが、これは安直な考えであろう。

 

確かに自殺者とは自分の人生から逃げようと死ぬという事と確かだ。

 

しかし、大抵の人は漠然と生きて、漫然と死ぬ。

 

それに比べて、自殺者は自分が生きているという事実に真摯に向き合った結果、自ら死する。そのあり方は自分の人生を逃げずに全うした。そういう他ないじゃないか。それは紛れもない勇気だ。

 

凡そ、自殺者ほど、己の生と死。存在と虚無に真っ向から立ち向かっている人はいない。本人が無自覚であってもだ。

 

ならば自殺者の意思は、間違いなくこの世でもっとも自由な意志の発露だ。その勇気に祝福を。

 

そして、自殺者でなくとも人は逃れられぬ生、そして死を迎える。今までの全人類がそれを例外無く行って来たのだ。

 

ならば、だ。どんなに生きる事を考えず。死ぬ事にも向き合わない人も最後は必ず生きて死んでいく。今までの総人類が全てそうだった。

 

つまりは、遍く人は逃れえぬ生と死を絶対的に踏破出来ると約束されているのだ。

 

人生とは。熱力学の三原則と同じだ。敗北は不可避。そして逃走も不可能。つまり、死と言う名の負け(勝ち)は必然である。

 

ならば、ならば、だ。ある人が死んだのなら、それを悲しむよりも、自分の生を、死を全うした勇者を讃えるべきではないか。その勇気を寿ぐべきではないか。

 

畢竟全ての人間は逃れられぬ己の生と死を必ず踏破出来る事を約束された勇者なのだ。ならば己が存在する事に誇りを持て。

 

生まれた命。それが例えどんなに醜悪であっても、欠陥を持っていても、人でなしであろうと、害悪であろうと、誰か一人くらいはその人間を肯定し続ける人がいてもいいではないか。

 

そういう者を軽蔑し、侮蔑して、嫌悪する。それも仕方はない。しかし、その人が生と死に向き合って現に存在する。その事に一片の敬意を抱いて然るべきではないか。

 

「とまぁ、そんなところかなぁ」

 

「なるほど。全ての人は勝利を約束されている、ですか」

 

レアはその夜、そんな事をつらつらと敦に語っていた。紬と話した後に思った事を整理する為という意味があったろうか。

 

敦もそれは、中々面白い考え方かも知れないと思った。世の中には生きている間に何をしようとどうせ死ぬのだから意味が無い。そんな風に言う人は一定数いる。いや、誰しもそう思った事が一度くらいはあるのではないか。

 

事実、他ならぬ敦もそう考えた事もあった。

 

言わば、神は死んだと喝破したニーチェの語ったニヒリズムのひとつの形式と言えるだろう。いみじくもパスカルの言った、神なき人間の惨めさは正しかった。

 

しかし、どうせ必ず死ぬ。その事実を絶対的で普遍的な勝利と考えるのは極めて毅然として精強さを感じさせ、良い考えだと敦も思った。

 

同じくニーチェで言えば力への意志であろう。

 

それは究極、ニヒリズムの超克。

 

超人への道。

 

「つーちゃんの言う事ももっともだったけどね」

 

「紬の?」

 

「形而上に振り切れたボクの考えはなるほど現実的ではないのだろう。とね」

 

不可能という事に目を瞑れば完璧。それは奇しくもレア自身が先日紬に何気なく言った事だったが、それはそのままレアにも当てはまるのではなかったか。

 

「でも、逆説。不可能事は可能だから不可能足り得るんだよ」

 

「……あるものはある。無いものは無い。ですか」

 

「そうだね。そもそも可能性が無いものはそもそも無い。不可能ですら無い筈だからね。つまり不可能性は可能態でしかない」

 

そう言いながら、自身の不可能性すらも結局は存在論。形而上学へと戻ってきてしまう事の皮肉にレアはクスクスと笑う。

 

「今の時代は一つの特異点だと思うんだ。あーちゃんはそうは思わないかな?」

 

「……人類史を見渡してみても、ここまで変化の激しい時代はないでしょうね」

 

少し考えて敦は答える。

 

「そうだね。二十世紀に入ってから一世紀ちょいで世界人口は指数関数的に増大。科学技術もまた、目まぐるしい勢いで発展しているね」

 

「神が死んでから、一世紀以上経ち、今や物質的科学が支配する世界だ。いつか皆科学がこの世の未知を駆逐すると思っているのだろう」

 

「けど、それは間違い。でしたよね」

 

敦はそう先取って言った。そう、それはいつかのレアが言っていた事だ。

 

「そう。例えば……科学諸学問において土台となる基礎的な数学や物理学諸般があるように、この世の全ての前提となる土台となるのが形而上学」

 

それが他でも無い大哲人であり、同時に万学の祖。つまり科学の父と言えるアリストテレスが立てた第一学。

 

それを無視して積み重ねる科学など、砂上の楼閣に過ぎぬとしたのがレアの批判だった。

 

「余りにも歪に発達した物質的科学信仰。さて、あーちゃんはどう思うかな?」

 

「……エナンティオドロミナ、ですか?」

 

先日紬と共に聞いた概念。一切のものは対立物へと転化する。これヘラクレイトスの唱えた万物流転。

 

「そのとーり!流石あーちゃん。つまりね。大局的に見れば一方に偏ったら必ず揺り戻しが来るんだ。俯瞰すればバランスは必ずとれているという事だね」

 

パッと笑って、レアはそう言った。そして、指を立てて振り子のようにゆっくり振って続けた。

 

「ヘーゲルが歴史哲学として論じたように、人類の歴史を見渡すとそうなっているんだ。物質と精神。強制と自由。そして、治と乱」

 

「歴史はそうした揺り戻しを繰り返しながら一人の人間が成長するように、進歩していったんだよ」

 

つまり、と敦はそれに対して口を開いた。

 

「それも、エナンティオドロミナ?」

 

「そうだね。ボクはエナンティオドロミナはヘーゲルの弁証法に通じると思う。精神現象学における奴隷と主人の弁証法なんてまんまだしね」

 

レアは振り子にゆっくり振っていた指をクルクルと回しながら機嫌良く言った。

 

「と、閑話休題だ。つまり、こうまで歪に突出した物質的信仰は、間違いなく近い未来に大きな揺り返しが来る」

 

だから、そこに好奇がある。レアはそう言いながら立ち上がり、窓際へと歩いていくと夜空に浮かぶ月を仰ぎ、振り返った

 

「例え、どんなに不可能に思えてもきっと……」

 

 

きっとボクの言葉が届く人達がいる。

 

「ねぇ、あーちゃん」

 

「ボクは諦めてないよーー」

 

 

かみよ、すべてのつくりぬし  

 

あまつみそらをしろしめす

ひるはあかるきひかりもて

よるはめぐみのねむりもて

よそおいたまえばもろびとは

ゆるみしからだよこたえて

あすのちからをやしなえり

つかれしこころやすらかに

 

 

 

なやみはとけてあともなし



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