九尾の末裔なので最強を目指します (斑田猫蔵)
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すべてのはじまり

――元禄年間、播州某所。仔牛ほどもある七尾の妖狐と、妖狐に負けぬほどの大きさを誇る雉妖怪との闘いは既に終結に向かっていた。並外れた妖力を持つ大妖怪同士は、火焔と妖気の塊が飛び交うくんずほぐれつの争いを止め、互いに距離を取った。距離を取ったと言っても、妖しく輝く二対の瞳は互いの挙動をしっかりと見据えていたが。

 妖狐と雉妖怪の身体が縮み、ゆるゆると変化していった。いずれも大妖怪であるから、人型に変化する事などこの二体の異形には造作もない事である。むしろ両者ともに人型で過ごす事の方が多いほどだ。先程は攻撃に回す妖力を少しでも増やすために変化を解いて本性に戻っていただけに過ぎない。

 変化の終わった二体の異形は、いずれも若い女性の姿を取っていた。女の姿に変化しているのはどちらの異形もメスであるためだ。

 

「強いわね」

 

 白い着物をまとった貴婦人に化身した妖狐が呟いた。敢えて残している七房の尻尾が、風にたなびく煙のように揺れていた。

 

「流石は雉鶏精一派最強とうたわれた妖怪ね。ご存知の通り、私はかれこれ八百年は放浪を続けていたけれど、あれだけの攻撃を受けながら、ほぼ無傷で立っている妖怪なんてあなたが初めてよ、紅藤殿」

 

 妖狐の言葉に、紅藤と呼ばれた雉妖怪がほほ笑んだ。童女のような屈託のない笑顔である。

 

「ほぼ無傷というのは間違いですわ、白銀御前様。あなた様の攻撃は、狐火も尾の刃も生半可なものではありませんでした。現に私も何度も深手を負いましたわ……すぐに再生しましたけれど」

 

 にこやかに語る紅藤に対し、妖狐の白銀御前は思わずため息をついた。それから、胡喜媚が率いていた雉鶏精一派の中に、何があっても死なない妖怪がいるという話を思い出したのだ。不死の妖怪はきっと彼女の事だろう。紅藤の指摘通り、先程の白銀御前の攻撃は、それこそ生半な妖怪が受ければ痛みを感知する前に絶命してしまうような代物である。大妖怪故に死なずに深手を負うというのはまだありうる。しかしそれだけの傷を負いながら、相手にそれと悟られずに即座に再生するなどという芸当は大妖怪であっても難しい。あまつさえ紅藤は、それを「何度も」行ったと言っているではないか。

 

「化け物ね……」

 

 白銀御前の口から思いがけず言葉が漏れた。

 

「化け物、ですか」

 

 紅藤が文字通りオウム返しをし、僅かに首を傾げた。

 

「確かに私と出会った者たちはすべからく私の事を化け物だとか化け物じみていると言いますわ。ですが、玉藻御前様のご息女である白銀御前様からもそう呼ばれるとは夢にも思いませんでしたわ」

「そこで母上の事を引き合いに出されても……」

 

 妙に屈託のない笑みを見せる紅藤を眺めながら、白銀御前は力なく微笑んだ。どの組織にも属さず、仙人や神仏に仕えていない白銀御前は野良妖狐と呼んでよい存在だった。しかしながら、周囲の妖怪たちは彼女を野狐と見做してそっとしてくれはしない。白銀御前の母親は金毛九尾こと玉藻御前であり、妖怪たちは嬉々としてその事実を引き合いに出してくるためだ。それは今回とて同じ事であった。

 

「ともあれ、あなたが化け物の中にあっても化け物じみた力の持ち主である事は確かね。それこそ、九尾の狐が相手であってもあしらえるかもしれないわね」

 

 白銀御前の言葉は世辞でも何でもなく本心からの言葉だった。先程の衝突で、紅藤の妖力が自分よりも遥かに上回る事、場合によっては妖狐の最高峰である九尾の狐よりも強いであろう事を白銀御前は看破していたのだ。先の両者の戦闘は、傍から見ればどちらも全力を尽くした闘いに見えるであろう。しかし当事者である白銀御前は、本気を出していたのは自分だけである事を知っていた。紅藤の攻撃はちょっとした体当たりや翼を使っての相手の攪乱などと、実に稚拙なものでしかなかったのだ。

 あれこれと先程の戦闘を考察し分析していると、紅藤はゆっくりと頭を振った。

 

「私は戦闘が苦手ですので、大妖怪を相手にして互角に闘うのは難しいかと」

「あれだけの妖力があれば苦戦しないのではないかしら」

 

 問いかけると、紅藤は困り顔――これも演技ではない表情だった――で続けた。

 

「妖力は持て余すほどあるのですが、戦闘に適切な妖力の量の調節は勉強中なのです。力を振るうだけならば簡単なのですが、それではむやみに相手を傷つけてしまう事になりますし」

「戦闘が苦手ってそういう意味なのね」

 

 白銀御前は呆れつつもその一方で妙に納得もしていた。紅藤があくまでも妖力をおのれの再生に充てて、稚拙な攻撃しか振るってこなかった理由もここで判明した。紅藤は相変わらず少し困ったような表情を浮かべたままだ。戦闘時にむやみに力を振るい、相手を殺してしまう所でも想像してしまったのだろうか。

 

「成程ね。それだけの力を持っているにも拘らず、あなたが統治者として君臨していない理由が何となく解ったわ」

 

 妖怪の社会は実力主義である。その土地に住まう妖怪たちを統べる長が強大な力を持つ妖怪である事は言うまでもない。しかしながら、強大な妖怪であるから他の妖怪の上に君臨するわけでは無いのも事実である。支配者となる為に必要な要素は、妖力だけではないためだ。統率力・知性・人心掌握術・権謀術数などの諸々の要素も具えていなければ、海千山千の妖怪たちを心服させる事は難しい。とはいえもっとも重要なのはやる気や性格だ。幾ら妖力と諸々の才覚に恵まれていようと、本人にその気がなければ支配者にはなれない。それは卓越した能力を持つ大妖怪であっても変わりない話である。

 

「私はそもそも権力には興味がありません。仙道を深く知り妖術の研究が出来ればそれで満足なのです。ですが所属している組織が盤石であればあるほど、研究は安泰になります。私が雉鶏精一派の再興に拘泥しているのはそのためです」

「それで私を勧誘したのね」

 

 合点がいったとばかりに白銀御前は呟いた。

「雉鶏精一派は関西の鳥妖怪集団の中で一、二を争う程の勢力を誇っていたけれど、それも胡喜媚様が健在だったころの話だものね。胡喜媚様がおかくれになり、正式な後継者がいなくても、私を雉鶏精一派の傘下に加えて、勢力がある事を示したかったんでしょ」

 その通りです。紅藤は悪びれず屈託のない様子で頷いた。玉藻御前の娘というだけで白銀御前は今迄に多くの妖怪たちに絡まれてきた身分である。ましてや雉鶏精一派の創設者たる胡喜媚は、玉藻御前の義妹として親密な間柄だったという。雉鶏精一派の面々が、白銀御前に接触を図ろうとするのはとうに予想済みの出来事だった――強いて言うなれば、紅藤が強すぎた事が予想外とでも言うべきであろう。

 白銀御前様。改まった様子で紅藤が呼びかける。愛嬌ばかりが目立ったその顔には真面目そうな表情が浮かび、両の瞳が暗い紫色に輝いていた。

 

「此度の勝負は、引き分けという事でよろしいでしょうか」

「構わないわ。それであなたが納得するのならば。あのまま続けていれば、紅藤、あなたが勝っていたと思っているし」

「それは解りませんよ。私は正式な大妖怪のお歴々と違って、体力は殆どございませんので。続けたとしても、ばててこの場で寝込んでしまうのがオチですわ」

 

 ぽつぽつと言葉を交わしつつ、白銀御前は紅藤を見つめていた。先程の争いは、何も互いが憎くて、或いは殺そうとして行ったものではない。雉鶏精一派に勧誘したい紅藤と、雉鶏精一派の傘下に入りたくない白銀御前の意見が真っ向から対立し、話し合いではらちが明かないからと闘ったまでに過ぎない。妖怪としての実力を誇示した上での闘争にて勝敗を決め、敗者が勝者の主張を受け入れる。実に単純明快な話であるはずだった。それでどちらかが勝利を収めれば。

 

「引き分け、ねぇ……」

 

 白銀御前が紅藤の放った単語を反芻し、考え込むように柳眉を寄せた。彼女の脳裏は幾つもの疑問と思考であっという間に埋め尽くされてしまった。自分は敗けたと思っていたから、勝者であるはずの紅藤からのこの主張はある意味有難いものではある。しかし素直に喜べる内容とも思えなかった。引き分け。白銀御前は紅藤に敗けた訳ではないが、さりとて勝利した訳でもない。

 

「私の力には心服したけれど、このまま見逃すのは惜しいと悩んでいる所でしょう」

 

 紅藤はちいさく頷いた。心の中を言い当てられたと言わんばかりの表情だった。今回は見逃してくれるかもしれないが、ここできちんとしないと、紅藤はまた絡んでくるはずだ。そんな考えが白銀御前の脳裏にはっきりと浮かんだ。

 

「残念だけれど、あなたがどれだけ誘いかけて、或いは闘いを挑んだとしても、私があなたの配下になるつもりは無いわ」

 

 けれどね。紅藤の表情がこわばるのを見てから、白銀御前は続けた。

 

「あなたの強さに免じて、一度だけ機会をあげるわ。もしも、もしも私が子供を産んで、その子孫たちが出来たとしたら、そしてその子孫たちの誰か一匹があなたの配下になる事を強く望んだのならば、その子をあなたに差し上げますわ。我が身命に誓って約束します」

 

 本当ですか! 紅藤の瞳とその顔が喜色に輝いた。思わず前のめりになった紅藤を軽く手で制しながら、白銀御前は続ける。

 

「ただし、あなたが配下に出来るのは一匹だけよ。それも変な術を使って無理に操ったり力に任せて脅し手従える事は出来ないわ。首尾よく配下になったとしても、あなたや修行に嫌気が差してあなたの許を離れてしまったらそれっきりよ。それに――」

 

 白銀御前はそこで思わせぶりに言葉を切り、それから口許に妖しく邪な笑みを浮かべた。それは奇しくも彼女の母に似た笑みだった。

 

「私には今の所子供なんて一匹もいないし、子供を持つ予定も無いわ。そんな条件は飲めないというのなら、今の話はなしよ」

 

 どうするのかしら。白銀御前は琥珀色の瞳で紅藤を見据えた。約束などと仰々しい事をのたまってしまったが、紅藤の思惑に乗らずに、尚且つ約束を守るというこの二点を両立できると白銀御前は思っていた。白銀御前の子供は未だに存在しないし、仮に子を産んだとしても、悪名高き雉鶏精一派に好き好んで仲間入りするような仔狐が出てくる確率は限りなく低いであろう、と。

 

「――この度は譲歩していただき有難く存じておりますわ、白銀御前様」

 

 紅藤は頬を火照らせたまま白銀御前に礼を述べた。あれだけの難条件を重ねておいて「譲歩」と言うのか。吹き出しそうになるのを堪え、紅藤のまっすぐな視線をその身に受けていた。

 

「白銀御前様に現時点で子孫がおらずとも、それは問題などではありません。白銀御前様が機会を与えてくださった事そのものが重要なのです。ええ、白銀御前様。私は待ち続けますよ、何十年でも、何百年でも、何千年でも」

 

 白銀御前はその時、自分はつがいも作らずに独り者として暮らし、いずれは生涯を終えるだろうと思っていた。紅藤と出会ってからきっかり十五年後、白銀御前は子をなす事になったわけだが、その未来を紅藤が知っていたのか、それは定かではない。

 

 



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第一幕:雉仙女への弟子入り
三月下旬の朝


「源吾郎、源吾郎。いい加減に起きなさい」

 

 誰かが自分の頭の近辺で叫んでいる。女の声だ。まだ眠いのに……脳が覚醒を拒否しているのか、島崎源吾郎は枕元で呼びかける声の主が母か叔母か姉なのか判別できずにいた。すっぽりと被った布団の中で、源吾郎は眉根を寄せる。が、目覚まし時計よろしく呼びかけていたその声がふいに止んだ。ああ、これで二度寝が出来る……源吾郎の表情が緩み、意識が今再び眠りに向かおうとしていた。呼びかけていた声が静かに息を吸う音を、源吾郎はこの時聞き逃していた。

 

「二週間後に紅藤様の許で修業をするんでしょ。そんなに寝てばっかりじゃあ……」

 

 紅藤《べにふじ》。修業。源吾郎は布団を跳ね飛ばさんばかりの勢いで半身を起こした。クリアになった視界の先には、呆れたような笑みを浮かべた源吾郎の母・島崎三花が控えていた。枕の傍らに埋もれていた目覚まし時計を探し、時刻を確認している間に源吾郎はすっかり目を覚ました。

 

「おはよう、源吾郎」

 

 頃合いを見計らって三花が源吾郎に改めて挨拶をする。源吾郎はやや素っ気なく挨拶を返し、もぞもぞとベッドから降り立った。

 

「このところずっと寝坊しているみたいだけど。若いからってあんまり夜更かししちゃあねぇ……」

「夜更かしなんかしてないよ、母様」

 

 軽い調子ながらも説教じみた事を口にする母に対して、源吾郎は口を尖らせた。

「寝る時間があんまり変わってない事は母様だって知ってるだろ。ただ、布団の中で考え事をするようになっただけだし」

「考え事って、どんな事?」

 

 三花はいっそ無邪気な様子で源吾郎に問いかけた。目を白黒させながら源吾郎は母の顔を見つめていたが、それは別に寝起きだからではない。美魔女だのなんだのと言われているものの、母の姿は一応の所中年女性のそれである。そんな母が、子供っぽい様子で末息子に話しかけて来るとは思っていなかったためである。

 いろいろさ。深い吐息と共に源吾郎は呟いた。今迄人間として生きてきた事、高校卒業を機に妖怪として生きる事に対する希望的観測……それこそ考えている事は色々あったが、敢えて母の前では口にしなかった。

「そりゃあ、源吾郎も色々考えるわよね」

 穏やかに語る三花の顔から源吾郎は視線を逸らしていた。直視せずとも母が動物の仔でも見るような、微笑ましく和やかな表情を浮かべている事は解っていた。成長していく源吾郎にとっては少し腹立たしい、しかし幼少の頃より馴染みのある表情だった。両親のみならず、年かさの四人もいる兄姉たち、母の弟妹たる叔父や叔母さえも、源吾郎を未熟な年少者、幼い庇護者と見做し、相応の振る舞いを行っていた。

 自分が野心を抱いたのは、源吾郎を「可愛い仔狐」と見做す親族たちを見返したいだけなのかもしれない。野心そのものは昔から変わらないが、近頃はそんな考えが脳裏をちらつくのだ。俺は母様や兄上たちや姉上が考えているような仔狐じゃなくてれっきとした猛獣だと、その身に流れる貴種の血に違わぬ実力があると、その事を認めさせることができればどんなに嬉しいだろうか。源吾郎は静かに考えながらほくそ笑んでいた。

 

「あら、寝癖が出ているわ」

 

源吾郎の心中に渦巻いていた、少年特有の青臭く仄暗い考えは、母の実に世俗的な指摘によって吹き飛んでしまった。源吾郎は声にならない音声を喉から漏らしつつ、母が指し示した部位を見るべく、半身を捻って斜め後ろを確認した。寝起きの源吾郎の臀部からは、さも当然のように白銀に輝く尻尾が四本生えている。母の指摘する寝癖を、源吾郎も発見した。大根ほどの太さがある尻尾の先端に生える毛が、妙に跳ね上がったり絡まったりしていたのだ。源吾郎はその部分をやや雑に整えてから前を向いた。それと共に、全長一メートル半もある源吾郎本体よりも壮麗な見た目の尻尾の輪郭が薄れ、見えなくなった。

 

「ご飯の用意はできてるわ。少し冷えているかもしれないけれど、温めれば良いから」

「冷えてても大丈夫だよ」

 

 息子の尻尾の寝癖を指摘した三花は、源吾郎が尻尾を隠す所をもちろん目撃していたが、特に気にも留めずに普段通りの会話を行っただけだった。源吾郎が妖狐の血を引いている上にその性質が妖怪に近い事などは、彼の実母である三花はとうに心得ている事柄である。何しろ、三花自身が妖狐を母に持つ半妖なのだから。島崎三花は妖狐の半妖、それも玉藻御前の孫娘にあたる存在である。今は人間社会に溶け込んでいるので不惑間近の長子がいる、ちょっぴり若作りの美魔女という事になってはいるが、半妖として生を享けてかれこれ二百八十年は経っているのだ。

 

 玉藻御前の孫娘を母に持つ島崎源吾郎は、言うまでもなく玉藻御前の曾孫にあたる存在である。母の代で既に半妖であり、父が人間であるために、源吾郎自身は妖狐のクォーターであり、本来ならば母や叔父叔母よりも人間に近しい存在であるはずだった。現に源吾郎の四人いる兄姉たちは、妖狐としての特徴は殆どなく、残っていたとしても形骸的なものだった。無論母親譲りの整った容貌や純血の人間よりも五感が鋭いなどという妖狐由来の特徴はあるにはあるが、「普通の人間です」という主張が通る程には人間離れした存在でもない。

 とうに成人を迎えた兄姉たちは、サラリーマンやオカルトライター、工場勤務に画家と様々な業種に就いたが、ごく普通に人間社会に溶け込み、人間として暮らす事を選んでいた。妖力らしい妖力を持たない兄姉たちにしてみれば、それが当然の選択だと言わんばかりに。

 妖狐のクォーターたちの中で、人間よりも先祖である妖狐の血が色濃く発現した唯一の存在。それこそが島崎三花の末息子、島崎源吾郎だった。

 

 源吾郎は母が戻ったリビングに直行せず、まずは洗面台に向かった。洗面台で顔を洗うのが源吾郎の習慣である。少しでも女子にモテようと身だしなみに気を遣っているという面もあるにはあるが、目が覚めたら自分の顔を確かめておきたかった。別に源吾郎はおのれの容貌を好いている訳ではないのだが。

 長方形の鏡に映るおのれの像に、源吾郎はざっと視線を走らせる。鏡に映るのは見知った若者の顔である。日焼けの形跡がないような生白い肌に奥二重か一重か判然としない細い目、丸みを帯びた低い鼻、分厚くもなく薄くも無い唇……醜男ではないがイケメンとも言いがたい、端的に言えば特徴の薄い顔つきである。かつて中学生か高校生だった時に、同じ部活の女子が気遣い混じりに「島崎君って平安貴族みたいな顔だから、平安時代だったらモテたかもしれないよ」と源吾郎の顔を評価していた事があった。

 源吾郎はしばらく鏡の向こうのおのれを睨んでから、深々と息を吐いた。今日も俺は俺のままだ。自分の顔が寝ている間に急激に兄上のような超絶イケメンになっているなんて事はなかった。そりゃそうだろう。幾ら玉藻御前様の末裔だからって、そんな超展開なんてある訳ない。

 四分の一まで妖狐の血が薄まったにも関わらず、尻尾を四本も持つ源吾郎はある意味兄弟たちの中で最も母親の、妖狐の血を色濃く引いていると評価できるだろう。しかし皮肉な事に、源吾郎の容姿は人間である父親に似ていたのだった。

 

 テーブルには既に朝食が用意され、母ははす向かいに腰を下ろし、新聞を読んでいた。挨拶をしてから食事に取り掛かったところで、母は思い出したように顔をあげる。

 

「いよいよ再来週から始まるのね」

「う……うん」

 

 唐突な母の言葉に、源吾郎は頷くのがやっとだった。優雅に新聞を読みながら末息子の食事を観察しているのだろうと源吾郎は思っていたのだが、母の思案顔を見て驚いてしまったのだ。

 

「来週から一人暮らしも始めるし。あ、でもきちんと計画は立ててるから、母様は心配しなくて大丈夫だけど」

 

 直近のイベントを口にしながら、源吾郎も思案に耽っていた。二月末に高校を卒業した源吾郎は、今長い春休みを満喫している最中だった。満喫と言っても自堕落に暮らしていた訳ではない。運転免許を取るべく教習所に通ったり、これからの生活の算段を立てたりと、高校生だった頃よりもある意味忙しく充実した日々を送っていたのだ。ついでに言えば実家で両親や長兄と一緒に暮らすのも今週いっぱいまでだった。

 

「……新生活は不安かしら?」

 

 声のトーンを僅かに落とし、三花が問いかける。一見すれば新生活を始める大人になりかけた息子を案ずる母親の図そのものだった。目玉焼きの美味しさに機嫌を良くした源吾郎は、不安なんてないよ、むしろワクワクしているくらいさ、と軽い調子で言い放った。

 

「……この半年間で色々あったなーって思ってただけだよ、母様」

 

 源吾郎は思案に耽るうちに、未来の事だけではなく過去の事も思い出していたのだ。いずれは妖怪としての生き方を選択し、玉藻御前の曾孫である事を世に知らしめようという野望は幼い頃から持ち続けていた。しかしそうするための具体的な手段、要は雉仙女こと紅藤の許に弟子入りする事が決定したのは半年前の事であったのだ。

 

「いやさ、俺が高校卒業後どうするかって話になった時に、兄上たちや叔父上たちまで集まって大騒ぎになったけど、結局紅藤様の許で修業するって事で落ち着いたからさ。いま思い出してもあの親族会議は凄かったよ」

「そりゃあ、母上が、あなたのお祖母ちゃんが公認したんだから弟たちも何も言えないわよ」

 

 そう言うと、母も目を細め、何かを思い出そうとしていた。母は玉藻御前の孫娘である事は源吾郎も知っていた。しかし源吾郎も想像すらしなかった事をも知っている事を知ったのは、半年前の親族会議があったからだ。



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荒ぶる親族会議

 源吾郎の進路を話し合うというテーマの親族会議が開催されたのは、昨年九月の土曜日の事だった。日曜日ではなくわざわざ土曜日に開催されたのは、議論が長引いたとしても親族たちの通常業務に支障をきたさない様にと言う運営側(要は源吾郎の両親だが)の配慮によるものだったのだろう。

 

 進路についての親族会議がある事を当事者である源吾郎はもちろん聞かされていたが、それでも八畳間の和室に、両親・母方の叔父たち・兄姉らがすし詰め状態で集まっている様子は壮観だった。親族らの表情や座り方はまちまちだったが、彼らから放たれる圧は相当なものだった。尻尾のある母や叔父たちが、惜しげもなく黄金色や銀白色の尻尾を露にしているからなのかもしれない。集まっている者たちの中で尻尾を出していないのは元から尻尾がない者たち、要は生粋の人間である父の幸四郎と、末弟よりもうんと人間に近い源吾郎の兄姉たちくらいだ。

 そんな室内に招き入れられた源吾郎は足取りも軽やかに空いている箇所に、気負いなく腰を下ろした。母方の親族がほぼほぼ集合する中で、源吾郎は実の所さほど緊張していなかった。全員ではないにしろ、集まっている親族らに今後の生き方を示すのにうってつけだとほくそ笑んでいるくらいである。

 

「これで全員揃ったかしら」

 

 母の三花が視線を走らせてから皆に問いかける。末の叔父が事前に聞いていた欠席者(仕事の都合上、叔母と二番目の兄が欠席だった)の報告を行うと、三花は軽く目を伏せてからゆっくりと頷いた。母がこの度の親族会議の司会進行役であるらしい。

 

「源吾郎の、高校卒業後の進路、身の振り方について発表するわ。気になった事とか、意見があればどしどし言ってちょうだいね」

 

 すました顔で言うと、母は源吾郎に合図を送る。

 

「さぁ源吾郎。あなたの口から言ってちょうだい。ここまで親族が集まるのはあんまりないけれど、取り繕う必要は無いわよ」

 

 解ってるとばかりに源吾郎は頷き、躊躇わずに口を開いた。

 

「俺は高校を出たら、妖怪としての生き方を選ぼうと思ってるんだ。それでもって、世界征服がやりたい。そこまで大それた事にならなくても、妖怪たちの王者として君臨したいと思ってるんだ。何せ俺は――母様も叔父上も姉上も兄上たちもだけど――かの偉大なる大妖狐・玉藻御前様の直系の子孫なのだから」

 

 源吾郎の物言いは齢十七の若者のものとしてはいささか芝居がかったものであった。実際に源吾郎は、おのれの政策をを記者の前で語る若手議員を演じるような塩梅で親族に進路を宣言したのだ。喋りながら、源吾郎は内心おのれの言葉に酔い痴れてもいた。ああ、良いぞ良いぞ。叔父上たちや兄上たち姉上の表情はどうだ。幼い仔狐だと思っていたこの俺の、堂々たる主張に目ん玉をひん剥いて驚いているじゃあないか。ああ、色々思う所はあったけれど、中学高校と演劇部に入って、演技演劇の研鑽を重ねていて本当に良かったぜ。

 しかし源吾郎その面に浮かんだ恍惚とした笑みは、ほんの数秒後には儚くも霧散した。親族らが瞠目し、源吾郎を凝視していたのは真実である。源吾郎に集まっている視線には、彼に対する称賛の色は無かった。当惑・失望・義憤……視線に込めた感情はまちまちだったが、いずれも冷ややかなものが根底にある事には変わりない。

 

「源吾郎は本気で言っているのか、正気なのか……」

「ええと、仮にこれから書く小説の内容を暴露しただけだとしても中々イタイと姉としては思うわ。そりゃあ、若い子が権力とか強さとかに憧れるのは仕方ないとして、そんなのを掴んでふんぞり返るっていう主人公の話はねぇ……」

「三花姉さんも義兄(にい)さんも庄三郎君の事で散々苦労していたと思っていたが、まさか末息子までが悩みの種だったとはなぁ。いやはや、なまじ妖力がある分庄三郎よりも厄介かもな」

 

 気付けば親族たちは顔を見合わせ目配せをして思い思いの事を口にし始めているではないか。味方になりうるかどうか解らないが、源吾郎は知らず知らずのうちに両親に視線を向けていた。舌鋒鋭く意見を述べている親族の中で、両親は何も言わないでそこにいたのだ。父は柔和なその顔に困り顔を浮かべており、母は表情の読めぬ密やかな笑みを向けながら親族たちを見つめていた。

 

「まぁまぁ兄貴たち。ちょっと落ち着きましょうよ」

 

 どうしたものかと思っていると、隣に座る末の叔父・桐谷苅藻が会話に横槍を入れていた。兄姉はもちろん、苅藻の兄である叔父たちも話し合いを止めた。

 

「そりゃあ兄貴たちも思う所はあるでしょうけれど、今回の会議の主賓は源吾郎ではありませんか。思うに、源吾郎はまだ将来の事についてはっきりとした事を全て言い切ってはいませんし」

 

 兄たちに話しかけているためか、苅藻の口調は普段とは異なり丁寧なものだった。

 

「さぁ源吾郎。お前が最強を目指している事や世界征服とやらを考えている事は、俺も姉さんも兄貴たちも十分に解ったよ。だから今度は、何故そんな事を考えるのか教えてはくれないか」

 

 そして聞きなれた砕けた口調で、源吾郎に苅藻は語りかけていた。

 

「――一概に世界征服と言ったとしても、その背後にある動機が如何なるものなのか、それによってこれから俺たちが源吾郎に話す内容は変わってくると思っているんだ。虚構と現実をごっちゃにするなと叱責するだけで済むかもしれないし、ひとまず大学に進む事をアドバイスする可能性だってある。もちろん、それ以外の理由をお前が抱えていて、尚且つ兄貴たちでさえそれだったらしゃあないわ、と思う可能性もあるにはあるけれど」

「ああ……はい」

 

 苅藻の口調はある程度砕けてはいたが、日頃のひょうひょうとした表情はなりを潜め、ほとんど真顔に近かった。源吾郎としても世界征服を行うための動機は、今この場所で語らねばならない事は解ってはいた。

 

「但し源吾郎。自分が玉藻御前の末裔だからって言う一言で片づけるのは無しだからな。俺たちはお前が玉藻御前の曾孫だってことは百も承知だし、そもそもここに集まっているみんなは、幸四郎義兄さん以外は玉藻御前の孫か曾孫だしな」

 

 さぁ語ってみせろ。お前が抱えている真の理由を。無言ながらも目で促され、源吾郎も苅藻を見つめ返してから口を開いた。

 

「だってさ、世界征服できたら、美味しいものを気が向いた時に好きなだけ食べれるし、俺好みの可愛い娘とか美女とかが傅いてくれるハーレムとか作れるもん。俺だって男だよ。女の子にだっていっぱいモテたいし、皆から凄い奴だって称賛もされたいよ。叔父上たちはご存知かどうかは知らないけれど、学校でも『皆さんは自分の得意な事を活かして自己実現しましょう』って言って子供たちを教育するんだ。で、俺は玉藻御前の末裔の中でもとりわけあのお方の力を色濃く受け継いだんだ。大妖怪すらひれ伏させ、人間社会も妖怪社会も等しく震撼させ、ついで酒池肉林を実現させた力を、やりたい事のために使って何が悪いのさ。俺だって酒池肉林にはめっちゃ興味あるよ。未成年だけど」

 

 源吾郎はここでいったん言葉を切った。誰も口を挟むような暇を与えぬようなマシンガントークを繰り出していた源吾郎だったが、まだ語りきっている気はしなかった。それでも喋るのをやめたのは、ひとえに身体が思いについて行かなかったからに過ぎない。

 親族たちはしばらくの間何も言わなかった。彼らは拍子抜けしたと言わんばかりの生暖かい視線を源吾郎に向けていたのだ。

 

「ねぇ源吾郎。一ついいかしら」

 

 まず口を開いたのは姉だった。彼女は一回り以上年下の弟に対して無遠慮な視線を向けたのち、やはりあけすけな様子で言い足した。

 

「最後の辺りから酒池肉林ばっかり言ってたと思うけれど、あくまでも酒池肉林の肉は豚肉の肉であって他意は無いんだからね。まぁ、使用人たちを裸にして宴会場にスタンバイさせてたともあるけれど、あれも王様の命令で殺し合いをさせて、敗けた方を猛獣とか毒蛇の餌にしていただけらしいわよ。だから、その、源吾郎が期待しているような甘美で破廉恥な内容じゃあないと思うから」

「双葉姉様。酒池肉林に関してそんな真顔で解説されても……」

 

 妙に誇らしげな表情の姉に対する源吾郎のツッコミは弱弱しかった。だが源吾郎が行きつく暇もなく今度は姉の隣に控える長兄が口を開く。

 

「源吾郎よ。世界征服という進路を考えていると聞いた時にはぎょっとしたが、今こうして君の本心を知れて兄さんは妙な話だがほっとしているよ。最近、君とは世間話や事務的な話ばかりで、込み入った話を聞いていなかったから。だがね、君の望む進路は、君がほんとうに望んでいる事に較べれば余りにも大それていると僭越ながら思うんだ。君はまだ若いし、弟たちの中ではある意味一番頭がいいとも僕は思ってるんだ。だから、玉藻御前から受け継いだ力などに頼らずとも、君の真の望みは叶えられると……」

「俺からあのお方の力を取りあげたら、一体何が残ると思ってるんですか!」

 

 源吾郎は半ば叫ぶような勢いで言い放っていた。長兄の態度は叔父たちと異なり優しく柔らかく、おのれの意見を口にしている時でさえ、源吾郎の気持ちを汲み取り好意的だった。だがそれでも、長兄の言葉に源吾郎は激してしまった。

 

「宗一郎兄様。兄様は自分があのお方の能力とは縁遠いなどと考えているのであればそれは大きな間違いってやつですよ。宗一郎兄様は、いえ兄上たちも姉上も、術を操るような能力は無いでしょうけれど、自分の顔を鏡で確認しても、それでもなお自分たちは玉藻御前の血は薄いからあの方とは無関係だなんて言えるんですか? 兄上たちも姉上も、あのお方から頂いた大切な物を、俺が望んでも手に入れられなかった物を、とうに得ているではありませんか」

 

 目を丸くする三人の兄姉を睨みながら、源吾郎は続けた。

 

「島崎君のお兄さんはめちゃくちゃ美形だけど島崎君はそうぱっとしないよね、ってクラスメイトや近所の大人たちから言われる気分がどんなものか、兄上たちには解りますか? 学芸会や文化祭のステージで、見た目だけで端役に回されて、演劇の才もやる気すらも無いような軽薄なイケメンが誰にも疑われずに主役になるのを陰から眺める悔しさが、姉上には解りますか?」

 

 世の中本当におかしいよ……それは若者の戯言に過ぎなかったのかもしれない。しかし瞳に暗い光を宿した源吾郎の口から出てきたときには、ある種の呪詛めいた響きが滲んでいた。

 

「人間としての性質を多く受け継いだ兄上たちが妖狐としての器量と魅力を持っていて、俺は折角妖狐としての能力を母様から、祖先から受け継いだというのに、よりによって……」

 

 感極まった源吾郎は強く唇を噛んだ。自分が兄姉たちと異なった容貌と能力の持ち主である事は幼少の頃より知っていた。誰にも言った事は無いが、実は自分は兄姉たちとは血縁ではないのではと本気で悩んだ事もあった。実際には疑うまでもなく源吾郎も四人いる兄姉たちも同じ父母から生まれた兄弟ではあるのだけれど。

 ああ、緩んだ源吾郎の口から、少年らしからぬ諦観の混じった吐息が漏れた。

 

「母様の、玉藻御前様譲りの恵まれた容姿をお持ちの兄上たちと姉上は、さぞや幸せでしょうね。努力してもそれを認めてくれずに単なる道化と見做されて貶められる事も無いし、それどころか事あるごとに過大評価されてチヤホヤされるんですから……」

 

 源吾郎は言葉を切り、兄姉らを見つめた。姉は「何言ってんだこいつ」と言わんばかりの表情で、二人の兄は憐れむような視線を源吾郎に向けていた。彼らの表情を数秒間直視した源吾郎は首を垂れた。つい先程まで活火山よろしく激していた源吾郎の心は急激に醒めつつあった。

 

「下らん、実に下らんぞ、源吾郎よ」

 

 年かさの叔父の一人がたまりかねたように呟いた。

 

「世界征服などという大それた野望を我らが抱く事自体が間違いだというのに、まさかあんな幼稚な理由でそんな大望を抱いたとはな。なまじ力を持ちすぎているから余計にたちが悪いではないか。源吾郎。お前はおのれの望みを叶えるために動くだけだと考えているだろうが、お前が齎した災禍は、我々にも及ぶものだと心得るんだな。或いは、今ここで我々が、お前の下らない野望とやらを追い出してやっても構わないが」

 

 この叔父の呟きに応じて、もう一人の叔父が静かに頷いている。この叔父さんたちの事は何となく苦手だ。源吾郎はふとそんな事を思った。叔父たちは一族の安寧を優先したいと考えている事は伝わるのだが、強迫観念に取り憑かれているような気配を感じてしまう。

 

「あんまりカッカなさると血圧が上がってしんどくなりますよ、小国丸の兄さん」

 

 またしても苅藻が叔父に声を掛ける。

 

「私は真剣な話をしているんだ。変な事を言って茶化すんじゃない」

「神経質にならずともいいではないですか。そりゃあ俺とて甥が悪事を重ねるのを黙って見ているつもりはありませんが、俺たちの甥がヤンチャになって悪目立ちしたからと言って、それが即、玉藻御前の末裔たる俺たちへの災禍になるかと言えば話は別ですよ。何せ玉藻御前の末裔を騙っている妖狐は、近畿だけでも数千匹、兵庫だけでも六、七百匹はいるんですよ」

「それとこれとは話が別だ」

「まあまあ落ち着いて……」

 

 小国丸と苅藻の話は平行線をたどりそうだった。その事に気付いた源吾郎は、タイミングを見計らって声を上げた。そして皆の注目を受けた中で、その言葉を口にした。

 

「叔父上たちや兄上は色々とお考えでしょうが、俺が妖怪として生きる道を学ぶことはもう決まってるんです。来春の四月から弟子入りをして修行に励むって事を、ある妖怪と既に約束済みなので」

 

 室内のあちこちから驚嘆の声が上がる。親族らのほとんどは、この親族会議にて源吾郎の進路を決めようと思っていたのだろう。だからこそ源吾郎も先手を打っていた。進路が決まっていない段階で会議が始まれば、親族らになだめすかされて丸め込まれていたであろうから。

 

「……まあ、何と言うか賢い選択だと俺は思うよ」

 

 ぎこちない笑みを浮かべながら、叔父の苅藻が呟く。

 

「いくら源吾郎が四尾で凡狐よりも才能があるとはいえ、いきなり野良妖怪になるのはリスクが高いからねぇ」

 

 野良妖怪とは組織に所属しない妖怪たちの総称である。多くは組織のしがらみに縛られない自由を享受している訳であるが、後ろ盾がない分他の妖怪や悪徳退魔師に襲われたり殺されたりする危険と隣り合わせの日々を送っている訳である。

 話を小出しにするのは卑怯だと叔父が憤慨混じりにぼやいていたが源吾郎はこれを聞き流した。もとより自分は話を小出しにした覚えはない。自分の意見に叔父たちが妙に反応を起こすから、その分話が遅れただけの話である。

 

「それじゃあ源吾郎。源吾郎は妖怪の許で修業するって事だけれど、お前の師匠になる妖怪を、私たち教えてくれないかい」

 

 穏やかな声音で父が尋ねた。末息子が妖怪の弟子になる未来を受け入れようとしている父の顔を見ながら、源吾郎は答えようとした。その妖怪の名を出せば叔父たちは大騒ぎするが、それ以上の事は出来ないだろう。

 

「――雉仙女・紅藤の許で修業する事が決まった。そうでしょう?」

 

 源吾郎が今まさに言おうとした事を、何者かがよどみない口調で言い放った。源吾郎の向かいに座る叔父や兄姉たちの表情が、強い驚愕に染まる。何事だろう。源吾郎も振り返った。

 

「――――ッ」

 

 そこにいる者を目の当たりにした源吾郎も、言葉を失った。

 親族会議まっただなかの中に姿を現したのは、女性に化けた一人の妖狐だった。彼女は静謐な表情でもってそこに佇んでいる。純血の妖狐、それも高位の存在である事は、背後でたゆたう白銀の六尾を見れば明らかだった。

 今再び室内は静寂に満たされていた。唐突に現れた六尾の妖狐に誰も彼も驚き、母や叔父たちは強い感情の籠った眼差しを彼女に向けていた。彼女もまた見つめ返している。視線のやり取りに込められた感情は強かったが、敵意や殺意と言った類ではない。むしろ思慕や慈愛と呼べるような、柔らかく暖かなものだった。

 ごきげんよう。妖狐がその身に違わぬ優雅な物腰で言い放つ。

 

「みんなしばらくぶりね。けれどもう()()()()()()()()()()()実に嬉しいわ」

 

 源吾郎は自分よりもいくらか年上の女性に化身しているその妖狐を凝視していた。六尾という狐の特徴がなくても彼女が生粋の異形である事は肌で感じ取っていた。若い娘の姿ながらも円熟した気配や落ち着いたデザインの衣装を身に着けても尚漂っているろうたけた気品などは、並の人間とはかけ離れたものだった。

 

「お母様も元気そうで何よりですわ」

 

 妖狐の闖入者にまず声を掛けたのは、源吾郎の母である三花だった。

 

「それにしても、今回の親族会議にお母様も出席なさるおつもりでしたら、もう少し早く来てくださっても良かったのでは無いでしょうか。今は弟たちも息子たちも落ち着いていますけれど、所々炎上しかかっていていましたし」

 

 あのお方が、俺のお祖母さま……? 納得と疑問と驚愕が脳内で渦巻く中、源吾郎は六尾の妖狐を見つめていた。源吾郎はもちろん、純血の妖狐である祖母の存在は知っていた。しかし彼女の動向は謎に包まれていたため、安否すら不明だったのだ。そんな彼女が、まさかアポも無しにこの親族会議に乱入する事は源吾郎には想定外の事だった。

 

「私はあくまでも、源吾郎の進路について皆が納得する所を見届けたかっただけだから、今このタイミングが丁度良いと思っているの。それに、はなから私が出席していたら、息子たちも孫たちも委縮してしまって、言いたい事を言えなかったはず。久しぶりに顔を合わせた兄弟姉妹やその甥姪たちが、結果はどうあれ思っている事を率直にぶつける事こそが、健全な会議の姿だと三花も思うでしょ」

「それもそうねぇ……ちょっと手が出そうになったところもあって冷や冷やしましたけれど」

 

 若い娘の姿を取る祖母と、不惑間近の長兄の親に相応しい姿を取る母の会話には、内容のみならず構図そのものにも気になる所はあるにはある。しかし源吾郎は突然の事が多すぎてツッコミを入れる余裕すらなかったのである。

 

「お祖母……さま……?」

 

 こちらを見つめる六尾の妖狐に、源吾郎はおずおずと声を掛けていた。源吾郎が生まれた時に祖母も立ち会っていたと聞いてはいたが、赤ん坊の頃の事など覚えていない。従って祖母と対面するのは今回が初めてと言っても遜色ない。

 

「しばらくぶり、いえあなたに合わせれば初めまして、になるかしら。私は白銀。妖怪たちからは母の呼び名にちなんで白銀御前と呼ばれるわ」

 

 白銀御前は気まぐれに揺らしていた六尾に力を籠めると、真面目な表情を作って言い足した。

 

「あなたにとっての祖母であり、大陸からこの地に降り立った大悪狐・玉藻御前の娘よ」

 

 重々しい口調で告げる白銀御前を前に、源吾郎は背筋を伸ばして見つめ返すのがやっとだった。理由はさておき彼女の威容に打たれていたのだ。純血の妖怪、玉藻御前の娘であるという事実を脇に置いたとしても、それでもなお有り余るほどの威厳を白銀御前は持ち合わせていた。

 

「源吾郎。あなたは妖怪として生きるために来春から紅藤殿の擁する研究センターに就職し、そこで彼女の弟子として修業を行う。それで違いないわね」

 

 源吾郎は瞬きを忘れて白銀御前の端麗な面を見つめるままだった。その通りですと頷けば話は早いのだろうが、彼女が唐突に現れた時と同じくらい驚いていたために反応できなかったのだ。

 

「そんなに緊張しなくて良いのよ。別に私は事実を口にしただけだし、息子たちと違って源吾郎を咎めるつもりは無いわ。むしろ――」

 

 思わせぶりに言葉を切り、白銀御前は口許に艶麗な笑みを浮かべた。

 

「この白銀御前の名において、あなたが紅藤殿の許で修業する事を許可しましょう」

 

 源吾郎は相変わらず瞠目したままだった。ややあってから、野太く鋭い声が、静寂を切り裂き源吾郎の意識を現世に引き戻した。声の主は叔父の一人、いかにも血の気の多そうな小国丸だった。

 

「正気ですか母上。『黒い羊』たる源吾郎に妖怪としての生き方を許可するには飽き足らず、よりによって、あの忌まわしい雉鶏精一派の紅藤の許で修業する事を許可するなんて」

 

 紅藤の名を出した辺りで、頬を火照らせながら語っていた叔父の顔は蒼ざめだしていた。源吾郎も紅藤が他の妖怪から危険視されている事は知っている。デキる妖怪が読むビジネス誌の人気規格である「ガチでヤバい大妖怪トップテン・関西編」の中に、紅藤が上位にランクインしている事さえ知っているくらいだ。しかし実際に紅藤に会ってみたものの、言う程危険そうな感じはしないというのが、源吾郎の率直な感想である。

 もっとも、叔父たちはそのような評判のあるなしに関わらず、胡喜媚と関わりのある雉鶏精一派を恐れてはいたが。親族たちの多くは玉藻御前の末裔でありながら野心を持たず安寧を保って暮らす事を強く望んでいる。雉鶏精一派は、そんな自分たちの生活を脅かしかねないと思っているらしかった。

 

「――私に子孫が出来た場合、その子孫たちの中から紅藤殿に弟子入りを強く望む仔狐が現れた場合、その仔を紅藤殿に弟子として差し出すと、私は紅藤殿と盟約を結んだの。自分の主張を通すために一勝負した後に。もう、三百年も前の事だけどね」

 

 瞠目しているのは源吾郎だけではなく叔父たちや父親や兄姉たちも同じだった。むしろ源吾郎よりも兄姉たちや父親、それよりも白銀御前の息子らである叔父たちの方が驚きの念は強いようだ。

 

「三百年前と言えば、私は独り者で気ままに過ごしていたけれど、紅藤殿の方は雉鶏精一派の立て直しを図ろうと大車輪で働いていたところだったのよ。胡喜媚様が亡くなった直後でもあったし、頭目を継ぐはずだった胡喜媚様の一人息子もその百年前に失踪したきり、行方知らずになっていたからね」

 

 白銀御前は伏し目がちに語っていた。自分の言動を悔いているというよりも、遠くの記憶を掘り起こし、細々とした事を再現しようとしているように見えた。

 

「先の盟約を聞いて不安な気持ちにさせてしまったのならば謝るわ。あの頃は単純に、自分が雉鶏精一派の傘下に入る事を疎んで、それでも紅藤殿を引き下がらせるための話だったの。あの頃の私は婿を得る事も実の子を持つ事も無いだろうと思っていたから。それに、万が一の事も考えて、あれやこれやと制約を付けておいたのよ」

 

 白銀御前の視線は、叔父たちを素通りし他ならぬ源吾郎の前で止まった。

 

「子が生まれたとしても紅藤殿に提示した条件に合致しない可能性の方が高いと私は考えていたの。実際には、末孫の源吾郎が紅藤の許に弟子入りする事を切望しているし、そうするべきだろうと私も思っているわ」

 

 源吾郎。いっとう柔らかな声で白銀御前は呼びかける。

 

「妖怪として生きるのならば、凡百の妖怪ではなく名声と栄光を得たいと思うのならば、紅藤殿はその道を学ぶための師範としてまたとない存在になるはずよ。研究者ゆえに癖の強い面はあるけれど、強大な力を持つ者が心得なければならない大切な事について、彼女は真摯に教えてくれるわ」

 

 源吾郎は、先日出会ったばかりの紅藤の顔を思い浮かべようとした。白銀御前の言うような難しい事を考えている妖怪なのだろうか、と。しかし祖母との対面の驚きが未だ尾を引いているのか、上手く紅藤の顔を思い出す事は出来なかった。

 

「……母上様が、紅藤とそのような盟約をかわしていたとなれば、今回源吾郎が弟子入りするというのも致し方ない事でしょうね」

 

 年かさの叔父の一人が、柔和そうな顔に困惑の色を見せながら白銀御前に告げる。

 

「しかし、正直に盟約に従って大丈夫なのか、実の所不安でもあるんです。源吾郎を弟子にした事に味をしめて、我々にちょっかいを掛ける懸念とかは……」

 

 その心配は無いでしょう。何番目かの息子の意見に対して、白銀御前はきっぱりと言い切った。

 

「紅藤殿は私が示した盟約を自ら破るような事はしないと思っているわ。昔は彼女を警戒していた時もあったけれど、視ているうちに律儀だとか善良だという彼女の善性にも気付いたのよ。それにもし、彼女がおのれの欲するがままに力を振るう悪逆な妖怪であったならば、三百年前のあの勝負の時に、さっさと私を殺してその死体を忠実な手下に作り替えて隷属させる事も出来たはず」

「し、死体を加工して隷属……」

 

 そんな事は出来るのか。素直な源吾郎の問いかけに、白銀御前は頷いた。

 

「紅藤殿の妖術の知識と技量面では可能でしょうね。そもそも彼女は三百年前に、妖怪から放出された妖気のかたまりを培養して、独立した妖怪の子供を作るという術すらも会得して、二度ほどその術で新しい妖怪を生み出しているのよ。そのような難業に較べれば、妖気も素体も十分に残っている死体を、生体ロボットに仕立てるような事は難しくは無いでしょう――それを彼女自身の()()()が拒まなければの話だけれど

 ともあれ、源吾郎が弟子入りしても、源吾郎も私もあなたたちも特段不利益はこうむらないはずよ」

 

 白銀御前が笑みを作ってそう言うと、叔父たちはもう何も言わなかった。顔を見れば完全に納得しきっている様子ではないものの、母を言いくるめる気概は無いらしい。

 源吾郎はそんな親族から視線を外し、自分の母親である三花の顔を見た。意外にも母は落ち着き払っていて、むしろ満足げな笑みさえ浮かべている。

 もしかしたら、母様はお祖母さまと紅藤様の盟約を知っていたのだろうか――? そのような疑問が脳裏をかすめたが、猛烈な疲労感に襲われ、うやむやにしたままでも構わないだろうと源吾郎は思い始めていた。



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とにもかくにも師弟の契り

雉鶏精(ちけいせい)一派へようこそ。島崎源吾郎君」

 

 源吾郎の対面に座る、二十代半ば程の女性の姿を取った、しかしゆうに六百年もの歳月を生き延びたその妖怪は、愛嬌のあるその顔にささやかな笑みを浮かべて告げた。自分の祖母・白銀御前も彼女と相対した時、この笑みを見たのかもしれない。取り留めも無いがそんな考えが脳裏にふと浮かんだ。

 

「私の事は存じていると思うけれど、改めて自己紹介するわね。私は紅藤。雉仙女とも呼ばれているわ。この研究センターの長にして、雉鶏精一派の第二幹部です」

 

 妖怪もとい紅藤は、笑みを浮かべつつも淡々とおのれの地位について源吾郎に説明した。源吾郎は知らず知らずのうちに身を乗り出し、紅藤の顔や瞳に熱烈な視線を送っていた。雉鶏精一派は今では多くの妖怪が注目し或いは危険視するほどの規模と影響力を持った組織である。このちっぽけな研究センターのセンター長のみならず、幹部としての地位も確立しているではないか。源吾郎としては、紅藤のその辺に関わる事も聞いておきたかった。

 ところが、紅藤は源吾郎の熱い眼差しに気付くと、静かに微笑んで手を振るのみだった。

 

「ああ、でもごめんなさいね。第二幹部だから凄そうとかって思ってくれているみたいだけれど、その辺りについては多く語る所は無いわ。そもそも、雉鶏精一派のトップは、二代目である胡琉安(こりゅうあん)様だもの」

 

 第二幹部と言う地位も、今となってはお飾りのような物だと、紅藤はあけすけな様子で言い足した。強大な力を持つ紅藤は、実は雉鶏精一派の中でも最も妖力を保有する妖怪でもある。紅藤が幹部職である理由は、単純に敵対勢力に対する牽制なのだと彼女は言った。

 

「三百年前の新体制立て直しの際ならまだしも、今の雉鶏精一派は、胡琉安様も立派になりましたし組織も他の幹部たちも優秀な妖怪に恵まれているから盤石になったんじゃないかと思ってるの。私もそろそろ引退して、研究だけに専念できればと思っているんですけれど」

 

 紅藤のなかば繰り言めいた言葉を、源吾郎は相槌を打ちつつ聞いていた。力を持ちつつも、権力や名声に関心を示さぬ紅藤の態度は若い源吾郎には不思議な物であり、また奇妙な清々しささえ感じた。

 と、思い出したように紅藤がこちらを見つめる。眼鏡の奥にある紫がかった瞳には、妙な力が籠っているようだった。

 

「ああ、だけどね。私の手持ちの部下たちの中で、幹部として申し分ない素養と才覚のある妖怪として育てあげる事が出来たら、その子を代わりに幹部にして、私は引退しても構わないって幹部の皆様と約束しているのよ」

 

 紅藤の瞳は奇妙な輝きを宿していたが、源吾郎の瞳も輝いていた。

 

「それじゃあ、紅藤様は僕を大妖怪になるよう手ほどきをしてくださるだけではなくて、ゆくゆくは幹部にしてくださるって事ですね」

「未来の事は確定できないけれど、そういう話になるわね」

 

 食い気味に問いかける源吾郎とは対照的に、紅藤は落ち着いた様子で頷いた。

 

「島崎君。あなたは妖怪としてはまだまだ若いけれど、それを補って余りあるほどの才能と素質があると私は思っているわ。母方の系譜を辿れば、必ず偉大な血筋の方々に至る訳ですから……

 血統ばかり重視して大妖怪の子孫をやみくもに奉る風潮には正直うんざりしてはいたけれど、島崎君に関しては、名実ともに兼ね備えた大妖怪に育つと確信しているわ――あくまでも心がけが良ければの話だけれど」

 

 紅藤はつらつらと言葉を重ねていた。妖怪の社会が実力主義である事には違いない。しかしかといって妖怪たちの血統がないがしろにされている訳でも無い。実力者の子孫が名門と見做され、名門の妖怪たちは実力者と縁組をする。そのような事が連綿と行われる中で、実力と血統は切っても切れないものだと妖怪たちは思うようになっていた。

 

「島崎君が人間との混血だという事を揶揄する妖怪たちがいるかもしれないけれど、彼らの言葉は気にせずに修行に励むと良いわ。そういう手合いは思った事を口にしているだけだから、その言動について気に病んでもしんどいだけよ。

 それに何も人間の血が混ざっているからと言って、半妖やその子供たちが純血の妖怪よりも劣っているなんて私は思わないわ。妖怪であれ人間であれ、立派な者もいれば普通のものもいる。ただそれだけの話ではないかしら」

 

 源吾郎は意外そうに紅藤を見た。妖怪、特に年数を経た妖怪は人間との混血である半妖やその子孫を忌み嫌ったりむやみに馬鹿にしたりするものであると源吾郎は思っていたのだ。

 紅藤の言葉を意外に思ったのはほんのわずかな間だけだった。源吾郎は喜色に満ちた笑みを浮かべ、口を開いた。

 

「ああ、流石は雉仙女と呼ばれているお方ですね。人間の血が混ざっているから劣っているなどと言う都市伝説を信じる愚か者どもとは大違いではありませんか。いや、たとえ連中が口にしている事が真実であったとしても、偉大なる玉藻御前様の血は、人間の血が混ざろうとも衰えないという事でしょうかね」

 

 源吾郎は紅藤の許可を取るのも忘れ、やにわに立ち上がった。そしてそのまま尻尾を隠していた術を解除し、臀部に生える四尾を顕現させた。質量を伴わない尻尾たちに紅藤の視線が釘付けになっているのを源吾郎はきちんと把握していた。

 

「まぁ、銀色の四尾なのね。毛並みも色合いも見事なものね」

 

 紅藤は源吾郎の見事な尻尾に関心を抱いているようだった。源吾郎は真剣な表情を作って説明する事に決めていた。

 

「僕は兄姉や親族たちと較べて多くの妖力を宿した状態で生まれたそうなんですよ。産まれた時から三尾の状態で、四本目は確か、中学に上がってすぐにできましたね」

「あなたの事は前々から知っていたけれど、実際に目の当たりにすると本当にびっくりしてしまうわ。若くして二尾になる事はままあるけれど、その歳で四尾になっている狐を見たのは、私も初めてよ。そもそも、生まれつき三尾という事自体が珍しいわ」

 

 嘆息しつつ呟く紅藤を、源吾郎は実にいい気分になりながら聞いていた。妖狐の妖力は尻尾に蓄えられる。従って妖力が増えるごとに尻尾も増えていき、尻尾の数が増えるにしたがって一本一本に蓄えられる妖力も加速度的に増えていく。少しばかり妖力の強い妖狐ならば生後数年から十数年の間に一尾から二尾になる事はそう珍しくはない。しかし尻尾の数が増えれば増えるほど、必要となる年月も妖力も増えていくのだ。

 通常の妖狐の場合、四尾になるまでには三百年から五百年の歳月を要するという。生まれつき三尾であり、生後十数年で四尾になったという源吾郎の異常さはその点でも明らかであろう。尻尾を生やした親族たち、二百年以上生きている母や叔父叔母でさえ大半が二尾止まりなのだから。

 

「普通の妖狐ならば、九尾になるまでに八百年から千年以上かかるけれど、島崎君の場合なら二、三百年で九尾になれるかもしれないわ。もしかしたら、もっと短い期間で九尾に到達できるかも」

 

 源吾郎は言葉を出さずただ紅藤を見つめ返した。最強になる事を目指している源吾郎であるから、九尾になりたいとは思っていた。しかし紅藤の話を聞くその瞬間まで、その望みは漠然とした物に過ぎなかった。数百年と聞いて、道のりは遠いのだと源吾郎は感じた。いかに妖怪として生きようと思っているとしても、数百年生き続ける所をイメージするのは難しかったのだ。

 

「特段難しく考える事は無いのよ」

 

 源吾郎の表情を読み取り、紅藤が告げる。強くなる事そのものは、さほど問題ではないのよ。紅藤の余りにもキャッチ―な発言に源吾郎は度肝を抜かれつつも妙に納得もしていた。強大な妖力を保有しているという事で畏れられ、だというのに力に固執しない紅藤の先の言葉には、奇妙な説得力があったのだ。

 

「妖力というものは、健全で健康な妖怪ならば死なずに長生きしていればいやでも増えていくものなの。それよりもきちんと正面から向き合って、考えなければならない問題があるわ」

 

 そう言うと、紅藤は白衣に包まれた胸元におのれの右手を添えた。

 

「強大な力を得て大妖怪になったとして、その力をどのように扱っていくか。力を悪しき目的に濫用されずに自分自身も力に溺れないようにするにはどうすれば良いか。それこそが、強さを求める者たちにとって真に考えなければならない問題よ」

 

 それが出来なければ利用され続けるか破滅しかない――昏く冷たい声で紅藤が言い添えるのを、源吾郎は聞いていた。相変わらず紅藤はうら若い女性にしか見えないのだが、その声と表情だけは妙な凄味があった。

 源吾郎と紅藤はそれから喋らず身じろぎもせず数秒ばかり見つめ合う形になった。源吾郎は厳密には紅藤から視線を外せないだけだった。その数秒の間に、紅藤の表情や気配から、おどろおどろしいものが薄れて霧散していくのを源吾郎は感じた。そして気が付いた時には、紅藤は見た目相応の、明るい笑みを見せていたのだ。

 

「あらごめんね島崎君。急に難しい話をしてしまったから困っちゃったかしら……けれども、この話だけは大切だからと思って、つい説明に力が入ってしまったの。けれど、島崎君ならば道を違えずにひとかどの大妖怪になれると、私の後釜に相応しい存在になると信じているわ」

 

 紅藤はここでうっすらと目を細めた。

 

「あなたの祖父である桐谷のお坊ちゃまは、親兄弟と激しく対立しましたけれど、それでも彼は自分が愛し信じる者を護り抜く事が出来ましたもの。直系の孫である島崎君も、いかなる労苦があろうとも、信念のもとに乗り越える事が出来るはずよ」

 

 桐谷のお坊ちゃまって、明らかに人間の事じゃあないか……人間であろう祖父の事を引き合いに出され、源吾郎は戸惑った。祖父の事を源吾郎はほとんど知らないし、そもそも自分は「妖狐」である玉藻御前の血を色濃く引いている事をアピールしている身分だ。その事についてひとこと言ってやろうかと思ったが、紅藤はその暇を源吾郎に与えはしなかった。

 

「……桐谷のお坊ちゃまの事については、また後々お話ししましょう。あの方と白銀御前の馴れ初めと顛末については、事情を知らない者が耳にするには心の準備が必要ですからね。それに今は、その話よりこちらが先でしょう」

 

 そう言って紅藤が源吾郎に差し出したのは一枚の誓約書だった。日本語で文章が記されたそれは、学校や会社に入ってすぐに記入するものと大差ないように見えた。これに署名する事によって、師弟の契りが結ばれる事になるのだと、紅藤は弾んだ調子で教えてくれた。

 



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天狗の煽りに乗る狐

 主人公の女体化表現がありますのでご注意ください。


「それじゃあ、センターで働いている他の弟子たちに挨拶に行きましょう」

 

 書き終わったばかりの誓約書を受け取った紅藤は、なめらかな口調で源吾郎に告げた。

 

「この前の面談で話したと思うけれど、研究センターでは私の他に私の弟子たちが三名在籍しているの。面談の時はみんな仕事が忙しくて会えなかったから、今から顔合わせを始めるわ」

 

 紅藤の顔には柔らかく甘やかな笑みが広がっていた。源吾郎もつられて笑い返していた。

 

「もちろん皆には島崎君の事はあらかた紹介しているわ。玉藻御前様の曾孫で、一族の中で妖力も気骨のありそうな子だってね。ええ、あの子たちもあなたがどんな弟弟子になるのか、気になって仕方ないみたいよ」

「先輩方も興味を持って下さってるんですね。それはまた光栄な事です」

 

 自信たっぷりなそぶりを作って源吾郎が言うと、紅藤も笑い返してはくれた。だがよく見ると紅藤の瞳には気遣うような感情が宿っている。源吾郎はおのれの矜持のために心中に抱える不安を隠したつもりだったが、年長者である紅藤にはお見通しだったらしい。

 

 紅藤に導かれ、源吾郎は研究事務所と銘打たれた部屋に足を踏み入れた。壁と天井と床は白く、据え付けられたテーブルたちは黒かった。壁の脇に設置された背の低い棚には、標本と思しき瓶詰や古びた書物、術を扱うための道具などが乱雑に並べられている。机の上も仕事用のラップトップやタブレットの他に、種々雑多なものが置かれたり積まれたりしていた。事務所の、机や棚の配置はドラマの中で見る研究室に似ていたが、ドラマでは表現されていない深く豊穣とした混沌が、紅藤の研究室にはどっしりと居座っていた。

 

「さぁみんな。彼が玉藻御前様の末裔である島崎君よ」

 

 紅藤は丸テーブルと椅子が数脚置かれた部屋の中央で足を止め、源吾郎もこれにならった。丸テーブルの向こう側から三名分の視線を受ける源吾郎だったが、視線を向けても妖怪が二人いる事しか確認できなかった。視認できた二名の妖怪はどちらも成人男性の姿を取っていたが、服装も顔つきも佇まいもまるきり異なっていた。

 紅藤は室内の豊穣なる混沌も不可視の視線も気にせずに、対面の弟子たちに言い添える。

 

「島崎君はこの度縁あってこの雉鶏精一派に仲間入りを果たし、私の許に弟子入りする事になったわ。同じ兄弟弟子として、どうか仲良くして欲しいと私は思っているの」

 

 そう言うと紅藤は源吾郎の方を向き、兄弟子姉弟子の名を教え、それから源吾郎に自己紹介するよう促した。源吾郎は正面の兄弟子たちを見つめ、口を開いた。

 

「初めまして先輩方。僕は島崎源吾郎と申します。先程紹介がありました通り、僕は玉藻御前の末裔、厳密に言えば直系の曾孫です」

 

 源吾郎は好青年風の笑みをその顔に浮かべ、更に言葉を重ねた。

 

「若輩者ゆえに先輩方にご迷惑をおかけする事もあるかもしれませんが、その際はどうか遠慮なく、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」

 

 弁舌爽やかなフレッシュマンよろしく礼儀正しいが当たり障りのない言葉を口にし、源吾郎は深々と頭を下げた。小さく控えめな拍手の音が源吾郎の鼓膜を震わせる。誰かが立ち上がる物音が響いたのは、源吾郎が頭を上げた直後だった。

 

「君の事はそこの紅藤様から、それこそ耳にタコができるほど聞いていたよ、島崎君」

 

 立ち上がりざまに兄弟子の一人がそんな事を言い放った。紅藤やもう一人の兄弟子とは異なり、白衣の代わりに仕立ての良いスーツを羽織っている。身綺麗にした男であるが、単なる優男ではない事は、精悍そうな風貌と強者らしい余裕に満ち満ちた表情が示していた。

 

「初めまして島崎君。紅藤様から説明があったけれど自己紹介するね。僕は萩尾丸。紅藤様の一番弟子のみならず、雉鶏精一派の第六幹部でもあるんだ。僕自身は天狗だから、狭苦しい部屋で研究のために引きこもるのは性に合わなくてね、もっぱら営業とか敵対勢力の一掃とかをやってるんだ。それでも幹部に慣れたのは、まぁ僕が優秀極まりないからさ」

 

 萩尾丸はおのれの身分について手短に語ると、好奇の眼差しを源吾郎に向けた。

 

「玉藻御前の子孫たちは、安寧のぬるま湯に浸かる事に腐心するような腰抜けどもだったけれど。君は違うんだよね?」

 

 その通りです。源吾郎は萩尾丸のやや辛辣な問いに頷いた。

 

「別に叔父上たちや兄上たちは腰抜けと言う程ではないと思いますがね……ですが親戚たちが自分の血統を恐れ、ひっそりと暮らそうとしている事は真実です」

 

 源吾郎の言葉に、萩尾丸はうっそりと笑った。

 

「そうなると、今回君が紅藤様に弟子入りするという話になった時、親戚たちとひと悶着あったのかい? 彼らは昔の事ばかり無駄に知っているから、雉鶏精一派が先代とまるで違う経営方針になっているというのに無闇に恐れているからさ」

「確かに叔父上たちも兄上たちも僕が妖怪として生きるという話については良い顔はしませんでした」

 

 源吾郎は昨年の夏から秋にかけて行った「就職活動」と、親族会議の結果を思い出しながら、機嫌よく話を続けた。

 

「中途半端な状態で話を進めたら反対される事は僕だってきちんと予想していましたよ。だからこそ紅藤様の許で話を付けてから、親族会議を行うように算段したんです。まぁ、お祖母さまが自分の子孫の一人を紅藤様の許によこすという盟約を行っていたなんて、僕も兄上たちも叔父上も知らなかったんですがね……ともあれ、ひと悶着ありましたが僕は晴れて紅藤様への弟子入りが許可されたのですよ」

 

 得意げに語る源吾郎に対して、萩尾丸はさらなる問いを投げかける事は無かった。滑らかなおのれの顎を撫で、何やら思案顔になっていた。数秒ばかり考え込むそぶりを見せたのち、やおら口を開いたのである。

 

「島崎君。君って確か雉鶏精一派の幹部になって九尾になって強くなって世界征服とか目論んでるって紅藤様から聞いたけどさ、今の君の話を聞いていると、そんなの不可能そうに思えるなぁ――だって血統は良いとはいえ、所詮はお行儀の良いお坊ちゃまに過ぎないんだからさ」

「俺のどこがお行儀の良いお坊ちゃまなんですか、萩尾丸先輩」

 

 気色ばんだ源吾郎は思わず吠えた。お坊ちゃまという言葉そのものには良い意味も悪い意味も無い事は源吾郎も知っている。しかし先程萩尾丸が言い放った時には、侮蔑と嘲笑のニュアンスがくっきりと表れていたのだ。

 

「君の話し方と話の内容を聞けば、誰だってお坊ちゃまだと思うものさ。自分の兄や叔父の事を、兄上・叔父上と呼びならわしている男の子の、何処をどう見ればお坊ちゃまではないなんて言えるんだい?」

「身内の呼び方だけで坊ちゃん育ちと呼ぶのは早とちりではないでしょうか」

 

 源吾郎は軽く抗議したが、萩尾丸は気にせず言葉を続けた。

 

「そこまで言うのなら身内の呼び方については目をつむろう。しかしそれでも君はお坊ちゃまだと僕は思うよ。白銀御前様との盟約があった事で話はスムーズに進んだとはいえ、君は結局のところ話し合いで物事を解決しようとしたんだろう」

 

 源吾郎の顔を見つめていた萩尾丸はここでほほ笑んだ。優しさを上辺にコーティングしているだけの、酷薄そうな笑顔だった。

 

「反対する親族たちを力ずくで黙らせるという、それこそ妖怪らしい方法は思いつかなかったのかい」

「…………」

 

 源吾郎は萩尾丸の問いに応じなかった。「力ずくで黙らせる」と言うのが、穏やかではない方法を示している事が解ったためにひどく戸惑っていたのだ。正直に言えば、源吾郎の生活や野望について苦言を呈する親族らを疎ましく思った事はある。しかしだからと言って、意見が違う親族らを武力暴力で従わせようなどと思った事は一度も無かった。やっぱりお坊ちゃまじゃあないか。嘲笑交じりの萩尾丸の言葉が源吾郎の耳に届いた。

 

「紅藤様が、いや雉鶏精一派が先代から求めてやまない玉藻御前の末裔をこの度手に入れたという事だけれど、僕がイメージしていたのと随分と違うみたいだねぇ」

 

 萩尾丸はそこまで言うと、大げさに肩をすくめてあからさまにため息をついた。上目遣い気味に源吾郎が睨むと、萩尾丸は射抜くような眼差しを投げ返したのだった。

 

「力を示したいのならかかっておいで。実力が物を言う妖怪の世界について、身をもって僕が教えてあげるよ!」

「いい加減になさい、萩尾丸」

 

 喜色を示す萩尾丸に対して、紅藤が真っ先に応じた。萩尾丸の言動をむっつりと聞いていた彼女だが、今は柳眉を吊り上げ怒りの念を示していた。

 

「何をそんなに怒っているんです、紅藤様」

「いくら何でも言い過ぎだしやり過ぎよ。あの子は折角私たちの許に弟子入りを志願したというのに、惑わせ失望させるような事は止めて頂戴」

「……島崎君の為を思ってそんな事を仰るんですか? だとすれば、或いは紅藤様のその言葉こそが彼を傷つけるかもしれませんよ。何せ今、あなたは島崎君をか弱い仔狐扱いしたんですから」

「全く、口ばかり達者になって可愛げが無いわね、萩尾丸。まぁ、二百年以上前に拾った時から可愛げなんてありませんでしたけれど」

 

 源吾郎は紅藤と萩尾丸の言い合いを静かに眺めていた。妖怪らしく萩尾丸と闘うつもりはない。萩尾丸もなんだかんだ言っても大妖怪に準じる実力の持ち主だろうし、そもそも源吾郎は妖怪と闘った事は無い。しかしここで尻尾を丸めて大人しくするつもりも無かった。上司であり師範である紅藤に言い返す萩尾丸の、均整の取れた容貌を眺めながら、源吾郎は策略を練っていたのだ。

 

「ああ、解りましたよ萩尾丸先輩」

 

 源吾郎は声を張り上げきっぱりとした口調で言い放つ。紅藤や萩尾丸のみならず、内気そうな兄弟子の一人も源吾郎をさっと見つめた。

 

「確かに、今の僕の姿は、皆さんがイメージなさる玉藻御前の末裔の姿とは似ても似つかぬ姿でしょうね。皆さんは、萩尾丸先輩はこんな姿を想像なさっているのでしょう」

 

 源吾郎は全身に妖力を巡らせ、変化術を行使した。源吾郎は確かに妖怪と闘った事は無い。しかしおのれの持つ妖力の量や、変化が得意である事は結構前から把握している。

 

「――さぁ、どうかしらセンパイ」

 

 長さを調整した尻尾で靄を追い払い、身をくねらせながら変化しきった源吾郎は問うた。今回の変化で、源吾郎は十代半ばのうつくしい少女に変化していた。あどけなさと妖艶さがせめぎ合いつつも共存する面立ち。少女故にしなやかながらも、女性的なまろやかさを持つ肢体。多少の露出はあるものの扇情的すぎない、巫女装束風の衣装を身に着けたその姿で、源吾郎は萩尾丸に近付いた。

 

「玉藻御前の末裔と言ったら、やっぱり妖艶な色香を持つ女狐って言うイメージでしょ? 生憎親族たちにそう言うタイプはいないけど、わたしならそういう姿を取る事は出来るわ」

 

 源吾郎は少女になりきって萩尾丸に語りかけた。声色も口調も、ごく普通の少女と何ら変わりはない。

 ゆったりとした歩みでもって、源吾郎は更に萩尾丸の許に近付いた。もとより両者はそう離れてはいない。そのまま源吾郎は手を伸ばさずとも萩尾丸に触れられる場所にまで辿り着いたのだ。

 

「ねぇ、もっとよくわたしを見て。良ければ手を取っても良いのよ。確かに妖狐は、鬼や天狗と較べれば、腕力や素早さに引けを取るかもしれないわ。けれど狐には狐の武器があるの。ええ、それこそが変化術であり、相手を惑溺させる力なのよ」

 

 源吾郎は切なげな表情を作り、上目遣い気味に萩尾丸を見上げた。普段のおのれのそれとは違う、白くほっそりとした右手を意味ありげに伸ばした。変化してから萩尾丸は一言も発していないが、変化した源吾郎を凝視している事は明かだった。よしよし、変化した俺の姿に興味を持ってるな――表情を崩さずに源吾郎は心の中でほくそ笑んでいた。

 

 萩尾丸からの挑発を受けた時、戦闘では敵わないと源吾郎はすぐに察知していた。だから一計を案じ、少女に変化して萩尾丸を誘惑しているのだ。これも一つの勝負だったし、強大な妖怪である萩尾丸に一矢報いるチャンスではないかと源吾郎は思っていた。紅藤とのやり取りを見るに、萩尾丸は力のある、しかもやけにプライドの高そうな妖怪であると踏んでいた。紅藤たちの前で萩尾丸が少女に変化した源吾郎に籠絡されれば萩尾丸の面目は潰れるかもしれない。しかし散々愚弄し挑発してきたのは向こうなのだ。多少の意趣返しは構わないだろうと源吾郎は思っていた。

 この勝負におのれが勝つだろうと源吾郎は信じて疑わなかった。もとより少女に変化する事には慣れていたし、少女、特に男どもが望む少女の振る舞いがどのような物か知っていたしそれを演ずる事へのためらいも無かった。源吾郎自身は妖狐の持つ妖しい魅了の力に乏しいが、魅惑的な容貌に変化し相手の望む行動を行えば、人間などはすぐにのぼせ上がってしまうと知っていたのである。

 

 萩尾丸の首と視線がゆらりと動いた。無表情を貫いていた彼の顔に、ふいに笑みが咲き広がる。異変を感じた次の瞬間には、彼の右手が源吾郎の手首を掴んでいた。手首を掴む乱暴さは、まさしく獲物を捕らえる鷲の爪の動きと変わらなかった。

 

「……全くもって見事な狐芝居じゃないか、坊や」

 

 幼子をあやすような口調とは裏腹に、源吾郎を見下ろす眼光は鋭い。手首を万力の如き膂力で掴み、源吾郎が動いたところでびくともしない。それどころか奇妙な力が源吾郎に流れ込み、変化していたはずの源吾郎の姿は、元の姿に戻ってしまった。

 唐突に萩尾丸が掴んでいた手首を放した。バランスを崩しよろめく源吾郎を前に、喉を鳴らして笑っている。

 

「ついさっきまではつまらない仔狐かと思っていたけれど、中々どうして面白いじゃあないか、島崎君。先程の言葉は撤回しよう。君が確かに玉藻御前の血を引いていると僕は認めるよ。お坊ちゃまだが気骨もあるし機転も利くみたいだね。武力が駄目なら搦め手を使う事、大の男がうら若い娘に化身して籠絡しようと思うなんて、その辺の野狐の男子では思いつかないか、思いついたとしてもできないだろうからさ」

 

 満足げな様子で萩尾丸は語ると、笑ったまま静かに言い足した。

 

「しかし、島崎君は唯一にして重大なミスを犯していると言わないといけないねぇ――男はすべからく、若い娘に関心を持ってしまう。君はそう思い込んでいたんだろう。残念ながら、僕は女性には興味は無いんだよ。その可能性も考えていれば、さっきのあれも茶番にならずに済んだのかもしれないのに」

「お、恐れ入ります……」

 

 源吾郎は数秒ばかり萩尾丸の顔を仰ぎ見ていたが恥じ入るように首を垂れた。さっきまで妙に傲慢でいけ好かない男だと思っていたけれど、ストイックなお方なのだ――女に興味がないと言い放つ萩尾丸に、女子にモテたいという願望を抱えている源吾郎はある種の尊敬の念を見出してしまったのだ。

 



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やっぱり仲間も個性的

 源吾郎の全霊を籠めた変化術籠絡術を軽くあしらった萩尾丸は、あろうことか言いたい事を伝えきるとスマホの着信音に導かれ、そのまま颯爽と研究事務所から立ち去ってしまった。気抜けするほどコミカルな着信音と、慇懃無礼の熟語が似合うような萩尾丸の声が、耳の奥に妙な塩梅にこびりついてしまった。

 島崎君。やわらかな声が源吾郎を呼んだ。紅藤が申し訳なさそうな表情をこちらに向けている。

 

「萩尾丸に色々言われたけれど、気にして落ち込まないで欲しいの」

 

 紅藤は心底困ったような表情を作り言葉を続けた。

 

「あれは萩尾丸の悪い癖なのよ。傲慢で鼻高々になって、ついで目下の相手を挑発し愚弄せずにはいられない……天狗の性だと言えばそこまでなんでしょうけれど、何分あの子はそれが目に余る事もあってね。ここ十数年は後輩いびり部下いびりがないから大丈夫かと思ってたんだけど、もしかしたら島崎君が玉藻御前の末裔と知って、その悪い癖が出てしまったのかも」

「あ、えと……僕は大丈夫ですよ、全然」

 

 タイミングを見計らって源吾郎は言った。この言葉はほぼほぼ本心からのものだった。源吾郎は穏和そうな見た目からは想像できぬほど感情の起伏の激しい青年であるが、一たび強い感情を発露すればすぐに気が静まるという性質も併せ持っていた。要は熱しやすく冷めやすいのだ。

 

「考えてみれば萩尾丸先輩も実に立派なお方でしたし……やはりひとかどの妖怪になるには、欲望に振り回されているようではいけないんでしょうか」

 

 源吾郎は変化で萩尾丸が籠絡できなかった事を思い出していた。もしかすると強い妖怪になる為の道として、色欲などの煩悩を追い払う必要があるのではないかとある意味思いつめていたのだ。

 深刻な眼差しを受け止めた紅藤は、さも可笑しそうに笑いつつ首を振った。

 

「うふふふふ……島崎君って真面目なのね。意外、いえあのお方の血が濃い島崎君らしいわ。安心してちょうだい。欲望や煩悩が、妖怪として強くなる事への妨げになる事はありませんので。

 もちろん、ひとかどの妖怪と世間で見做されている者たちにも欲望はありますわ。それは私も萩尾丸も例外ではないの」

 

 ぽかんと目を丸くする源吾郎に対して紅藤は続けた。

 

「仙道を知り妖術を極めたいという思いも、弱小組織を大きく育て上げたいという考えも、大きなくくりで考えれば欲望に相当するわ。そういう意味では、萩尾丸は欲望の塊と言っても遜色ないわ。並外れた欲望の許に動いてくれたからこそ、落ち目だった雉鶏精一派を再興させてくれたんですもの。

 もちろん、おのれの野心や欲望を御する事も必要な時もあるわ。だけど初めからすべてを抑え込んでしまうのは不健全よ」

 

 紅藤の説明が終わると、源吾郎は深く長く息を吐いた。対面の兄弟子が動いたのは、息を吸い込もうとしたその時だった。

 

「紅藤様。私も萩尾丸さんみたいに、島崎君と少しお話しても良いですか」

 

 紅藤が頷くと、兄弟子は座ったまま前方に身を乗り出した。源吾郎はぼんやりと兄弟子を見つめた。よれよれの白衣と、鳥の羽毛のように逆立ち跳ね上がった髪型が印象的な、逆に言えばそれ以外に特筆すべき特徴のない男妖怪として彼の姿は源吾郎の目に移っていた。奇妙な事に、痩せてのっぽのこの兄弟子は、傍らに控える小柄な師範とどことなく似通っているような気がしてならなかった。紅藤と同じく雉妖怪だからなのかもしれないが、それだけでは無さそうな気もしていた。

 

「初めまして島崎君。私は青松丸と申します。もうかれこれ三百年近く紅藤様の許で暮らし、研究や仕事の手伝いを行っているんです。難しい修行に付き合ったりするのはちょっと難しいけれど、雑用とか書類整理とか、そういうこまごまとした事なら相談に乗れるからね」

 

 とつとつとした口調で青松丸は告げると、ほのかに笑みを浮かべた。態度も物言いも雰囲気も萩尾丸とは大違いだった。友好的で腰の低い態度ではあるが、源吾郎の心に響く物も特になかった。若く見えるけれど母様より年上なのだなと僅かに思う程度である。

 それに青松丸自身はもう話は終わったらしく、手を膝の上で丸めて背筋を伸ばして座っていた。

 

「あら青松丸。久方ぶりに弟弟子が入ったのに、自己紹介はもう終わり?」

 

 何を思ったのか、紅藤が青松丸に問いかける。青松丸は笑みを絶やさぬまま頷き、紅藤を見つめている。

 

「はい。私は確かに紅藤様に育てられ、成長してからは紅藤様の研究や仕事を手伝ってきましたが、特筆すべき事はありませんし……」

「相変わらずあなたは控え目ねえ。まあ、そこがあなたの良い所かもしれないんだけれど」

 

 微妙なやり取りが終わると、紅藤はこちらに顔を向け源吾郎を見ていた。

 

「青松丸が言わなかったから私が説明するわね。青松丸は私が最初に持った弟子だけど、この子の事は、息子か歳の離れた弟のように思っているの」

「……」

 

 源吾郎の視線は青松丸と紅藤の間で往復していた。先程の紅藤と青松丸の会話は、単なる師弟の会話と見做すには親しみに満ち満ちていた。現に紅藤は青松丸の事を「息子か弟のようなもの」と言っていた。青松丸はもしかしたら紅藤の弟子である以前に養子なのかもしれない。妖怪の中にも幼若な妖怪を養い、子供や弟妹のように扱う事例はままある。

 源吾郎はそこで、親族会議のやり取りを思い出していた。会議の終盤に乱入した白銀御前が口にした内容も、記憶の海から浮き上がっている。

 

「あ、もしかして青松丸先輩って、紅藤様が造られた妖怪の一人ではないですか?」

「そうよ」

 

 青松丸を指で示すという無作法を咎めずに、紅藤はあっさりと、或いは観念したように頷いた。

 

「当時は雉鶏精一派もそれこそ数えるほどしかいなくて、それこそ深刻な人手不足だったのよ。それでも妖材を集められるような伝手も無かったから、それなら部下になりそうな子を作れば良いかなと思って、私の妖気を使って作ったの」

 

 紅藤は簡単な説明を終えると、じろりと源吾郎を見やった。

 

「それにしても、青松丸が造られた妖怪であるって事を知っているのはこの雉鶏精一派でも数えるほどなのに。島崎君も知っていたなんてびっくりしたわ。勉強熱心で博識なのね、島崎君は」

 

 紫に輝く瞳を細める紅藤の顔を、源吾郎は生唾を飲みながら見つめていた。何故その事を知っている、と暗に問われたのだと源吾郎は受け取っていた。

 

「そりゃあ、僕だって春から師事する紅藤様の事は色々調べましたもの。そうしたら紅藤様が普通の大妖怪たちですらお話にならない位凄い妖怪だって解りましたし……白鷺城を五、六個を瓦礫の山にしたり瀬戸内海を干上がらせたりできるほどの力があると言われている紅藤様ならば、妖気を使い妖術を操って新しい妖怪を生み出す事なんて造作も無いだろうと推理した次第です」

 

 滑らかな口調で語る源吾郎の言葉には一片の嘘が織り込まれていた。源吾郎は初めから紅藤が妖怪を作り出した事を聞かされており、したがって推理した訳ではない。しかし正直に祖母である白銀御前から聞いたのだと白状するのは何か危ないと、理由は解らないが源吾郎は思っていたのだ。もっとも、洞察力の高そうな紅藤にその事がばれてしまえば元も子もないが。

 

「まぁ確かに、新しい妖怪を作る術は普通の妖怪には難しいでしょうね」

 

 源吾郎の嘘に気付いていないのか、紅藤は静かな口調で呟いた。

 

「正直なところ、私も青松丸を作るまでに相当苦心しました。目玉とか肌みたいな組織単体ならば培養に苦労はしないんですが、独立した妖怪を丸々作るとなると……」

 

 紅藤様を以てしても、新しい妖怪を作り出すのは大変な事なのか。源吾郎は彼女の言葉を聞きながらぼんやりと思った。狐狸妖怪やある種の術者が扱う「分身の術」と、紅藤が青松丸を作り出した術は、言うまでもなく別次元の術である。分身の術はあくまでも相手の目を欺く幻術の一種に過ぎず、むしろ変化術に近い。おのれから独立し、しかしきちんと生命活動を続けて成長するような存在を生み出すような術に較べれば、分身の術など片手間で行えるお手軽な術なのだ。

 源吾郎は今一度、紅藤の「息子」を見た。青松丸は妙にリラックスした様子で座っている。紅藤が自分の事をあれこれと話している間はそわそわしていたところを見るに、内気な性格のようだ。

 

「それじゃあ、次はサカイさんの番ね」

 

 紅藤の視線は既に青松丸から離れていた。しかし源吾郎の目には、何もない空間を紅藤が注視しているようにしか見えない。あらかじめ兄弟子姉弟子の名は聞いていたので、サカイさんと言うのが姉弟子であろう事は源吾郎にも解る。源吾郎には見えていない不可視の姉弟子が、紅藤には視えているのだろうか。

 

「サカイさんは少しシャイな娘なの。だけど、初めての弟弟子って事で彼女も張り切ってるみたい」

 

 紅藤の簡単な説明に源吾郎は応じなかった。彼の視線は紅藤ではなく、数秒前まで紅藤が見ていた箇所に釘付けになっていた。

 一言でいえば異様な光景だった。乱雑に資料や機材や実験器具が置かれた机の、物と物の僅かな隙間から、質量も体積も十分にありそうな物体が、床に流れる油のごとく姿を現していたのだ。それは初め、体表を濃緑色から群青色に輝かせる、途方もない大きさのスライムのように見えた。それは重力に従うように、しかしおのれの意思でもって机から床へと降下している。鈍重そうな見た目とは裏腹に滑らかで素早い動きだった。

 床に降り立った謎のかたまりは、既にスライムとは異なった様相を呈していた。湿った音を立てながら、かたまりは表面に十数個の眼球を浮き上がらせ、本体を伸ばして触手らしきものを見せつけた。触手は植物の蔓のようであり蛸の触腕に似ていたが、うごめく触手の数本は、ありふれた獣の前肢・後肢の形になり、それから人間の手足に変貌した。眼球は数を変えながらも、しかし源吾郎を見つめていた。登場の仕方も姿かたちも機械極まりないのだが、「姉弟子」という事もあってか相手からの負の感情は特に伝わってこない。

 既知の生物とは似ても似つかぬ姿を取っていた彼女の姿は、身を伸ばしよじらせくねらせているうちに、人間の女性の姿になっていた。暗い群青色の髪と濃緑色のローブを身に着けた、背が高くグラマーな身体つきの美女である。源吾郎が呆気に取られて口を半開きにする中で、彼女は半歩ばかり近付き、やおら口を開いた。

 

「は、はじめまして。わたし、サカイスミコって言うの。あ、でも、この名前は本名じゃなくて、お師匠様から、紅藤様から貰った名前なんだけど……見ての通り、わたしはすきま女なの」

 

 たどたどしさと饒舌さが絶妙に絡み合う姉弟子の言葉を、源吾郎は相槌を打ちつつ聞いていた。すきま女と聞いて、今まで姿が見えなかったのはそのためだったのか、と源吾郎は思っていた。すきま女はとかく隙間に棲息しているという話だから、きっと師範や兄弟弟子のやり取りも、隙間に潜んで見聞きしていたのだろう――あの不定形の姿には正直度肝を抜かれたが。

 

「わたしは元々お師匠様に取り憑こうと思って付け狙ってたの。だけど逆に敗けちゃって、それからずっとお師匠様の許で働いてるの。あのね、島崎君も今にお師匠様の魅力に気付くと思うわ! お師匠様の心の中って、それはそれは豊かな隙間で満ち満ちていそうだし。あ、でも島崎君は心の隙間が少なそうね」

「あはは、そうなんだ」

 

 源吾郎は姉弟子の言葉に対する気の利いた返しが出来ず、笑ってごまかした。紅藤はサカイ先輩をシャイと評していたが、どうやら気を許した相手にはとことん話し込もうとするタイプらしい。内向的だったり内気だったりする者たちがある種の活発さを見せる事は珍しい事ではない。

 

 サカイ先輩からの握手を終えた源吾郎は、ちらと紅藤を見た。異形そのものの様相を見せていたサカイ先輩よりも、一癖も二癖もある妖怪たちを従える紅藤の方が化け物らしさでは上であろうなどと考えながら。

 



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いざ雉鶏精一派総本部へ

「島崎君。今日は朝から本部で幹部会議があるの」

 

 紅藤の弟子になって二日目の朝。紅藤は研究センターにやって来た源吾郎の姿を見るなりそんな事を言った。よく見ると、彼女は白衣姿ではなく、パンツスーツ姿ではないか。

 

「もちろん、話題は島崎君の事がメインになるわ。玉藻御前様の末裔、ゆくゆくは幹部になるかもしれない妖怪ですからね。皆あなたに興味を持ってるのよ。頭目である胡琉安様も興味津々よ」

「胡琉安様が……興味津々」

 

 両の瞳を輝かせながら源吾郎が復唱する。源吾郎自身も雉鶏精一派の頭目である胡琉安の事は気になっていた。師範が今仕えている男であるという事だし、それ以前に胡喜媚の縁者でもある。曾祖母である玉藻御前様は胡喜媚様と義姉妹の関係となったという事だが、俺も胡喜媚様の血縁者である胡琉安と仲良くなれるだろうか。源吾郎はそんな無邪気な事を考え始めていた。

 

 

 これから向かう雉鶏精一派の本部は、県庁から少しばかり離れた、お洒落な港町の一角にあるのだという。山奥にある研究センターから車で三、四十分程度はかかるという事なので、一行は社用車である黒塗りのセダンで向かう事となった。ちなみに幹部会議に向かう面子は、幹部職である紅藤と萩尾丸、そして昨日紅藤に弟子入りした源吾郎である。

 

「車で行くなんてかったるくないですか、紅藤様」

「それを言えば、そもそも私は会議に出席する事がかったるいわ」

 

 車のキーロックを解除する萩尾丸の舌打ちが源吾郎たちの鼓膜を震わせた。萩尾丸の苛立ち交じりの威嚇におののいたのは源吾郎だけであり、紅藤は全く動じていない。

 

「わざわざ車を使ってちんたら行かずとも、空を飛んだり瞬間移動を使ったりすれば良いじゃないですか。紅藤様ならどちらでもできるでしょうに。もちろん僕も出来ますが」

「どっちも疲れるからいや。それに飛ぶなら十中八九島崎君を萩尾丸が運ぶ事になるわよ」

 

 押し黙った萩尾丸に対して紅藤はなおも言葉を重ねた。

 

「それに運転が嫌なら私がするけれど?」

「……いえ、運転は僕がやりますよ」

 

 萩尾丸は観念したようにため息をつき、そそくさと運転席に乗り込む。源吾郎は少し迷ってから後部座席の下座にあたる所に腰を下ろした。すると助手席に座るだろうと思っていた紅藤は、なんと源吾郎の隣に何のこだわりもなく入り込んだのだった。

 

「僕の運転は退屈に思うかもしれないが、君にとっては実に幸運な事だね」

「一体どういう事でしょう、先輩」

 

 シートベルトを締めながら、萩尾丸の意味深な言葉に源吾郎は首を傾げる。ミラー越しに写る萩尾丸の目許には、あからさまな笑みが浮かんでいた。

 

「もしも紅藤様が運転した場合、島崎君は酔いつぶれて狐襟巻みたいになっているかもしれないからさ……君がジェットコースターなどは平気でむしろ大好きだというのならば話は別だけど」

 

 源吾郎は黙ったままだった。遊園地よりもむしろ山頂にある植物園や水族館に足しげく通っていた源吾郎は、自分がジェットコースターが好きか嫌いか即答できなかったのだ。萩尾丸は若者のようにくすくす笑いながら言い足した。

 

「紅藤様がハンドルを握れば、他の間抜けな運転手共の半分の速さで目的地に到着はするさ……急カーブなどでコースアウトして車ごと粉みじんにならないかと、最初から最後まで震え上がらないといけないけれど」

「私が運転する時は全部妖術でコントロールできるから、コースアウトも事故も無いから安全よ」

 

 源吾郎はこれにも何も言わず、視線を紅藤にスライドさせた。紅藤が運転すると言い出した時に萩尾丸が慌てた理由がここではっきりと判明したのだ。彼女は言いたい事を言うと怒った素振りも見せずにほほ笑んでいる。

 と、紅藤が唐突に首を巡らせこちらを向いた。源吾郎は彼女から視線を逸らし、ついで狭い所に入ったかのように窮屈そうに身を縮めた。日頃自慢に思っている尻尾はもちろん収納している。

 

「島崎君。そんなに縮こまらなくても大丈夫でしょ。車の中は広いんだから」

 

 紅藤が柔らかな声で呼びかけるので、結局視線を彼女に向けた。紅藤はさもリラックスした様子で椅子にもたれ、足を伸ばしている。

 

「紅藤様は、運転なさらないのであれば助手席に座ると思っていました」

 

 紅藤が隣に座っているという状況は気になるが、どうして隣に座ったのか、と直接聞くのは気が引けた。源吾郎が身を縮めているのは、つまるところ隣に紅藤が座っているからだった。大妖怪であるためか弟子入りして間が無いためか、ともかく紅藤が傍らにいると思うと緊張してしまうのだ。

 

「本部に向かう道中で、雉鶏精一派の事を改めて話そうと思っていたの。昨日も多少は話したけれど、大雑把な所しか話せなかったし」

 

 成程、それで敢えて隣に座ったのか……源吾郎は相変わらず縮こまったまま密かに納得した。

 源吾郎はそれから、昨日教えてもらった事を思い出していた。初代頭目と二代目頭目の関係性、雉鶏精一派の沿革や組織体系……確かに大雑把な内容のみだった。幹部が八名なのは胡喜媚が九頭雉鶏精である事にちなんでいるという、興味を引く豆知識的なものもあるにはあるが。

 

「もちろん、私も雉鶏精一派の全てを、包み隠さず知っている訳ではありませんわ。今の体制の雉鶏精一派では私は最古参のメンバーと見做されているけれど、それでも高々五百年程度なのですから……」

 

 五百年をさも短い期間のように言い切る紅藤の顔を源吾郎は黙って凝視していた。なかば俯き目を伏せていた紅藤の表情が静かに変化していく。顔を上げ源吾郎を見つめた時には、彼女はもう決意を固めていた事をその目つきで悟った。

 

「島崎君。あくまで今回私が話すのは、話せるのは私が知っている範疇になるけれどそれでも構わないかしら? それも、胡喜媚様がお隠れになった後の、三百年程度ですけれど」

「その三百年のうちの数十年が、野望と愛と狂気と執念の入り混じる、壮大なドラマではありませんでしたか、紅藤様!」

 

 運転に勤しんでいた萩尾丸が唐突に口を挟んだ。その声には興奮の色がありありと浮かんでいた。萩尾丸は今や幹部職に就いているが、二百年以上紅藤に仕えていた事は源吾郎も知っている。ああ見えて彼も、若い頃は大層苦労したのかもしれないと源吾郎はぼんやりと思った。

 

「これは島崎君も知っていると思うけれど、雉鶏精一派は元々、胡喜媚様を頂点とした大規模な組織でした。玉藻御前様の義妹であり、自らもやんごとなき血統を誇るお方だったから、配下になりたがる妖怪たちには事欠かなかったんです――かくいう私もその一羽ですが。雉鶏精一派が今日も年数経た妖怪の皆様より危険視されているのは、かつての頭目だった胡喜媚様が掲げていた理念と活動内容によるものです。胡喜媚様はお亡くなりになる寸前まで、義姉であり島崎君の曾祖母にあたる金毛九尾を復活させる事に尽力しておりました。敵対勢力ももちろん多かったのですが、彼らに対しては胡喜媚様や力のある配下たちが血生臭い方法でもって応じていたのです。バックに神仏がついていたとしてもお構いなしでした」

 

 玉藻御前も胡喜媚も他の妖怪たちが苦心して作ったコミュニティや秩序を破壊しつくして、おのれの欲のままに作り替えようとしていたらしいという事を、玉藻御前の曾孫である源吾郎は知っていた。そしてそれを、多くの妖怪――特に伏見の狐たちや仏の守護者たる天狗たち――が良しとしなかった事も。

 

「胡喜媚様は莫大な影響力と規模を持つ組織の長でしたが、その実態は恐怖と圧政により皆を縛り付けているだけだったのです。元々は玉藻御前様にも引けを取らぬほど聡明なお方だとも言われていましたが、そんな事実にいかほどの価値がありましょうか。胡喜媚様は正気を何処かに捨て去って久しいお方でしたし、そもそも私は玉藻御前様の事も知りません。先程胡喜媚様の許には大勢の手下がいると言いましたが、彼女の事を心の底から敬愛していた妖怪は……ええ、一羽しかいませんでしたね」

 

 その一羽は誰だろうか。紅藤の横顔を見つめながら源吾郎は思った。少なくとも紅藤では無さそうだ。紅藤はかつての主の事を多くは語っていないが、その物言いには胡喜媚に対する思慕の念は見当たらない。むしろ冷ややかな侮蔑と、未だわだかまる憎悪の念が見え隠れするくらいだ。

 

「したがって、胡喜媚様が亡くなられた時に、雉鶏精一派は或いは崩壊していてもおかしくなかったのです。実際、胡喜媚様が亡くなった直後に、雉鶏精一派に所属していた妖怪たちは散り散りバラバラになりましたからね……中には、胡喜媚様が所蔵していた秘宝や術の道具を行きがけの駄賃とばかりに持っていくしたたか者もいたくらいです。

 私も私で胡喜媚様が亡くなった事に心底安堵していました。ひとまず一羽で隠遁し、数十年経ってほとぼりが冷めた頃にまともな妖怪仙人か大妖怪の許に弟子入りして仙術の勉強をし直そうと当時考えていたのです」

 

 源吾郎は今や紅藤の顔を食い入るように眺めていた。独立するつもりだった紅藤は、今はこうして雉鶏精一派の最高幹部として今ここに居る。その間に壮絶なドラマと心変わりがあったのだろう。

 

「峰白のお姉様が私の許に訪れたのは、胡喜媚様が亡くなられてから一月後の事でした」

「峰白様が、胡喜媚様を心底慕っていた妖怪ですね!」

 

 合点がいったとばかりに源吾郎は声を上げていた。峰白と言う女妖怪の事は、昨日紅藤に教えてもらったばかりである。雉鶏精一派の第一幹部として長らく君臨しているこの女傑を、凄まじい妖怪であろうと源吾郎は思っていた。八名いる幹部らには明確な序列があると聞いていたし、何より峰白を説明する紅藤の声音と表情には、深い敬服の念が込められていた。

 

「峰白のお姉様は、胡喜媚様が亡くなった事も雉鶏精一派が壊滅する事も認めようとしませんでした。そこで仙術の心得のある私の許にやって来たのです――胡喜媚様を蘇らせて欲しいと。

 雉鶏精一派の再興には乗り気ではなかったのですが、お姉様の執念もとい熱意を目の当たりにして、お姉様の願いを叶えようと思ったのです。峰白のお姉様の生き様には、私もある意味一目を置いていましたし、心の底から慕っていた相手を喪った辛さや哀しみは、私も一応知っていましたので――もっとも、峰白のお姉様は忠義を向ける対象を間違っていたのではと思う事はあるのですが。

 胡喜媚様を蘇らせる事は叶いませんでしたが、雉鶏精一派は峰白のお姉様が指揮を執る新体制の中で、再興した次第です。新体制を打ち立てた初期に、白銀御前様をスカウトしてみたり、胡喜媚様の血を引く胡琉安様を後継者として用意したりと忙しかったんですがね。ええ、今は随分と組織も安定して平和になりましたわ」

「……実に壮大なドラマですね」

「やっぱりそう思っただろう、島崎君」

 

 源吾郎の呟きに得意げな様子で応じたのは、紅藤ではなく萩尾丸だった。

 

「僕は二百……五十年ほど前に紅藤様に拾われてこき使われている訳だけど、その頃と較べれば今なんてもう天と地ほどの差があるよ。メンバーも殆どいなかったし先輩の青松丸もまだ子供だったし、そもそも後継者もいななかったし……

 それでも雉鶏精一派が盛り返したのはさ、紅藤様のたぐいまれなる開発力と、それを適切に売りさばく僕の営業力の賜物って奴さ。いくらみんなが驚く新技術を開発しても、それを適切に流通させる事が出来なければ埋もれてしまうもの……」

 

 つまるところ、紅藤が妖怪の近代的現代的な暮らしに役立つ開発を行ったのを商品化し、世に多く棲息する妖怪たちが手に入れられるように萩尾丸は活躍したという事らしい。新体制となった雉鶏精一派は今や危険な過激派ではなく、世の為人の為妖怪の為の品物を提供する研究グループとなり、のみならず妖怪たちの生活に欠かせない組織と言う地位に、他ならぬ萩尾丸が導いたのだという。ああ、それこそ三時間ノーカットのドラマにできそうな話じゃないか。萩尾丸はいつの間にか興奮しているようだった。

 

 源吾郎はその話をぼんやりと聞いていた。萩尾丸の成功したビジネス戦略の話に興味がないというよりも、彼の話の中で一つだけ違和感を抱いたのだ。しかもその違和感が些末な事ではないだろうと本能が訴えていた。

 しかし違和感の正体がなんであるか、突き止める事は出来なかった。あれこれ考えている間に、一行は雉鶏精一派の本部に到着していたからだ。



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幹部たちの野暮な洗礼

 萩尾丸が車を停めた駐車場は、粒子径の不揃いな砂利が一面に敷かれていた。ヒールのある靴を履いている紅藤は大丈夫だろうかとさり気なく視線を配ったが、彼女は案外平気そうに砂利の上を歩いている。考えたら紅藤は雉妖怪であるから、そういう心配は杞憂だったようだ。

 源吾郎は紅藤から視線を外し、周囲を観察した。駐車場の傍らには我らが雉鶏精一派の本社ビルが傲然と聳えていた。銀灰色の外装と無機質に並ぶ長方形の窓ガラスと言う実に画一的なたたずまいのビルだったが、源吾郎はこの建物を大都市の摩天楼だと見做しうっとりと見上げていた。本社ビルの近辺には雑貨屋だの貸しギャラリーだの年季の入った雑居ビルだのがちまちまと並んでいたが、それらはデザインが異なり見る者の目を楽しませるかのようだった。あすこのサンドイッチ屋にはお洒落な美人さんがこぞってやってくるのではないか、向こうの喫茶店は内装が可愛いから、女の子と一緒に来た時に良いかもしれないとか、そんな事を源吾郎は考えていたのだ。田舎の安アパートに居を構え、山奥の小ぢんまりとした研究センターに勤務している事実を忘れ、小粋なシティー・ボーイになった気分に源吾郎は浸っていたのだ。

 

「さて島崎君。これから幹部陣やその重臣たちへのお目通りとなる訳だけど、くれぐれも態度に気をつけたまえ」

 

 小骨を踏み砕くような音と共に萩尾丸が近づいていた。とりとめもない空想と戯れていた源吾郎は、弾かれたように顔を上げ、萩尾丸の表情を窺う。彼はそれこそ「先輩風」を吹かそうかと考えながら源吾郎を見つめているようだった。

 

「昨日は思い上がったテリア犬のように僕に吠え付いていたけれど、そんな事を本部でもやってしまえば、首と胴が泣き別れになるかもしれないよ」

 

 萩尾丸はご丁寧に首をかき切るジェスチャーまでやってのけた。おどけた様子で言ってのけたのだが、それが却って不気味だった。

 源吾郎は即座に紅藤が何処にいるのか探した。探すまでもなく、彼女は源吾郎や萩尾丸の傍にいた。萩尾丸と異なり、彼女は殆ど足音を立てずに歩いていたのだ。

 

「心配しないで島崎君。萩尾丸はああは言っているけれど、私は九割がた大丈夫だと思っているわ」

「…………」

「もちろん幹部たちの中には私を良く思っていない者もいるにはいるわ。けれどだからと言って嫌がらせ程度で私の部下を襲う事は無いはずよ。私は第二幹部だし」

「第三幹部から第八幹部まではそれで通るでしょうけれど、第一幹部の峰白様が相手だったらどうするんです?」

 

 萩尾丸の問いかけに、紅藤はあからさまに困り切った表情を浮かべた。

 

「峰白のお姉様が、そんな意地悪をするなんて考えたくないわ。だけど、もしも万が一そんな事になったら、お姉様とケンカしちゃうかもしれないわ。そんなのいやよ。島崎君の事は大切だけど、それ以上に峰白のお姉様の事も大好きだから」

 

 やけに少女っぽい調子で紅藤が呟くのを、源吾郎は何とも言えない気持ちで見届けていた。万が一にでも紅藤と峰白がケンカしてしまったらどうなるのだろう。口調と言い方は可愛らしいが、要するに大妖怪同士の争いだ。大妖怪同士が争った場合、更地ではない所が更地になる事がままあるという。普通に物騒だ。

 そんな物騒な事があるんですかね……誰に聞くでもなく放った源吾郎の呟きに応じたのは、紅藤ではなく萩尾丸だった。

 

「相手が峰白様だからねぇ、これがまた無いとは言い切れないんだな、残念ながら」

 

 おどけた調子で語る萩尾丸だったが、瞳の奥は恐怖と畏敬で揺らいでいた。

 

「紅藤様は未だ多くを語ってはいないが、峰白様は実に恐ろしいお方なんだよ。大妖怪ではなくて中堅妖怪だとか実は幹部たちの中で一番弱い妖怪だと言われたりしているが、そんな事を補って余りあるほどの気性の烈しさと残忍さを持ち合わせているお方なんだ。気に入らない相手、或いは目的を果たすために排除すべきと判断すれば、峰白様は迷いなく殺しにかかれるんだ。相手が非力な幼子や、それこそ孵化する寸前の卵であろうとね」

「ヤバい……ですね……」

 

 源吾郎の短いが実感の籠った感想に、萩尾丸は力強く頷いた。

 

「峰白様の真のヤバさは、鬼畜外道との誹りを受けたとしても、おのれの目的の為ならば、一ミクロンも妥協せずに達成させてしまう心意気さ。まぁ、そこは或いは世界征服とやらを目指す島崎君も勉強すべきかもしれないね。ただ単に手段を選ばない輩ならばつまらないチンピラ妖怪もいるかもしれないが、峰白様のそれは一線を画していて、ある意味ほれぼれしてしまう程さ。

 例えば将棋。峰白様が将棋で負けそうになったならば、禁じ手を使って反則勝ちを得るなんてみみっちい真似はやらないね。対戦相手に躍りかかって半殺しにして『私の負けです』と言う言質を取るか、高価な財宝で相手を買収して勝ちを得るとか、そんな事をするんじゃないかな」

「いくら何でも滅茶苦茶じゃないっすか……」

 

 源吾郎は感嘆の声を上げた。例え話とはいえ「手段を選ばない」と言う内容がショッキング過ぎたのだ。源吾郎は確かに野心家ではあるが、高校を出るまで退屈で穏やかな生活に甘んじていた。「お坊ちゃま」と見做されるのはちと悔しいが、事実なのだから致し方ない。

 

「萩尾丸。その例え話は不適切だと私は思うわ」

 

 紅藤の凛とした声が耳朶を打つ。大真面目な表情の彼女を見て源吾郎は少し安堵した。源吾郎の戸惑いを見てフォローしてくれるのだろうと期待を抱いたのだ。

 

「さっきの例え話では、峰白のお姉様が将棋で負ける話だったでしょ。だけど峰白のお姉様は将棋では負け知らずよ。将棋だけじゃなく、囲碁もチェスもオセロさえも強いですけれど」

 

 予期せぬ話の内容に源吾郎は目を丸くしたが、気にせず紅藤は続ける。

 

「現に私は峰白のお姉様と53672回将棋を指しましたが、一度たりともお姉様は敗けなかったわよ。囲碁では9083回、チェスは5267回、オセロは少なくて815回だったけど、どの勝負も全て峰白様の圧勝だったと記憶しているわ。

 ともかく、天運で勝負が進むはずのすごろくでも有利に動ける峰白のお姉様は、ボードゲームでは負け知らずなのよ。だから悪いけれど、将棋でお姉様が不利になるって言うのは想像できないわ」

 

 源吾郎の視線は数秒間紅藤に注がれていた。彼女が大真面目に語っている事だけは解った。しかし何の話をしているのか、理解できなかった。突拍子もない話だったので、脳が理解を拒んだのかもしれない。

 

「あれはあくまでも例え話、言葉の綾って奴ですよ、紅藤様」

 

 呆れを多分に含んだ声音で萩尾丸が呟いた。

 

「それにしても、紅藤様も普通のマッドサイエンティストを気取ってますけれど、僕にはいかれたマッドサイエンティストにしか見えませんよ。あそこまで莫大な将棋の勝負回数を誤差なく把握なさっているのに、それなのにすべて負け戦とは……」

「私は勝負ごとに苦手なの。ただそれだけの話よ」

 

 確かにそうかもしれませんね……萩尾丸は渋い表情のまま頷いた。源吾郎はこの一連のやり取りを黙って見つめながら、不思議に思ったり妙に納得したりしていた。無尽蔵の妖力を持つとされる紅藤が勝負に弱いというのは意外だった。しかし恐ろしく一芸に秀でた者が世事に疎く凡人よりも世渡りが苦手であるという人間界の法則を源吾郎は知っていた。それは案外不思議な力を持つ妖怪にも当てはまる話なのかもしれない。

 

 幹部と彼らの重臣、そして頭目の胡琉安が集まっている会議室の前に源吾郎たちはいた。源吾郎は今や隠していた尻尾を顕現させていた。ついでに「玉藻御前の末裔らしく」少女に化身しようかと提案したが、師範と兄弟子の両方から却下された。紅藤は既に幹部たちに手に入れた玉藻御前の末裔は男であると知らせていたそうだ。

 

「トロフィー・フォックスだと思っているのにヴィクセンだったら、確かにみんな狐につままれたような顔をするだろうさ。しかし今回はそういうショウをするためにやって来たわけじゃあないし」

 

 萩尾丸の言葉に源吾郎は薄い笑みで応じた。源吾郎が青年であるにもかかわらず少女に化身できる事を、狐を示す二通りの英語で表現したところに萩尾丸の言葉遊びのセンスが見え隠れしているように思えた。

 会議室は存外広かった。通っていた高校の食堂と大差ない広さだろう。部屋の中央に長大なテーブルが据え付けられ、その周囲を取り巻くように異形たちが腰を下ろしている。完全に人間に擬態している者もいれば異形の面影を残している者もいた。ひどく年老いた姿のものは見かけなかったが、もちろん女も男も揃っており、彼ら彼女らはもれなく妖怪だった。

 各々の名が記された場所に着席する妖怪たちは、登場した源吾郎に胡乱気な視線を向けていた。そんな彼らの間を、白い燕のように下級妖怪たちが行き来している。喫茶店のウェイターめいた出で立ちの彼らは、悠々と座る上層部たちに、資料を配ったり飲み物やおしぼりを運んだりするのにてんてこまいのようだ。

 源吾郎はしばしの間、立ち働く彼らを何とはなしに眺めていた。下級妖怪と言えども、彼らが放つ妖気を感じ取ってもいた。その妖気の中に、何故か見知った者の妖気があるように思えたのだ。向こうの名前すら知らないのに奇妙な事ではあったのだが。

 ふいに、源吾郎の脇腹を何かが軽くつついた。驚いて我に返ると萩尾丸が気遣わしげにこちらを見、黙ったまま進めと促していた。師範の紅藤はとうに歩き始めていたが、大理石模様の硬い床の上にも関わらず、相変わらず足音は無い。源吾郎も紅藤や萩尾丸にならい歩き始めた。会議室に満ちていた音が、急に明瞭に聞こえだしたのだ。

 

「おお、あいつか。あいつが第二幹部殿の言っていた九尾の末裔か」

「妙だなぁ、玉藻御前様の末裔と言うのに随分と人間臭い奴だ」

「ああ、アレは確か半妖ではなくクォーターだという話らしい。人間臭いのはしょうがないさ」

「尻尾だけは立派だ」

「まだ子供じゃあないか。アレが我らを差し置いて幹部になるのか……」

 

 源吾郎は正面だけを見るようにつとめ、実際におのれの視界が狭まっていくのを感じた。源吾郎に対して無遠慮な意見を好き勝手述べているらしいのだが、好意的な意見はどれだけ耳を澄ましても聞こえてこなかった。口さがない者だけが思い思いの発言をしていて、源吾郎を好意的に思う者は「マトモ」だから黙って会議が始まるのを待っている、とも考えられるが。

 だがそのあからさまなひそひそ話もふいに止み、真の静寂が源吾郎を、室内を包み込んだ。数歩ほど歩いたところで萩尾丸が振り返り、早く進むようにと促した。それに従った源吾郎はいきおい紅藤の隣に立つ事になった。そこで、一組の男女と向き合った。向かいにいる男女はどちらも鳥妖怪、それも雉妖怪だった。

 

「しばらくぶりね、我が義妹の紅藤よ」

 

 雉妖怪の女の方が口を開いた。背丈は紅藤よりやや高い程度だが、肉付きの良いむっちりとした身体つきなので幾分たくましく見えた。スーツと女ものの軍服の中間的な特徴を持つ衣装を身に着け、襟元に縫い留めたバッジがギラギラと輝いている。

 面立ちは愛らしい雰囲気の紅藤とは異なり彫り深く目鼻立ちの整った怜悧な美貌の持ち主と言えるだろう――もっともこちらを睥睨する瞳の、その奥にわだかまる光が、彼女を単なる美女ではない事を如実に物語っていた。

 

「隣にいるその狐が、玉藻御前様の末裔ね」

「いかにもその通りでございます。峰白のお姉様」

 

 成程彼女が峰白なのか。源吾郎はぼんやりと思った。峰白に対して挨拶をしなくては、と源吾郎は思っていたが、向こうは珍獣を値踏みするような眼差しを向けるだけで、まだ挨拶をする意思がない事を源吾郎は悟った。

 

「金毛九尾の、玉藻御前様の末裔をこの度白銀御前様より譲り受ける事が出来ましたので、弟子にした次第です。

 ご覧の通り、彼は未熟な若狐に過ぎませんが、私の許で育つうちにいずれは九尾となるでしょう。そして九尾となった彼こそが、雉鶏精一派にさらなる繁栄と発展をもたらしてくれるはず」

「あら、そうだったのね……」

 

 気の抜けたような声を発したのち、峰白は喉を鳴らして笑った。

 

「九尾と言えば傾国亡国のイメージばかりかと私は思い込んでいたわ。三国の王朝を崩壊させた、玉藻御前様の末裔ならなおの事……ごめんなさいね、姉の癖に学がなくて」

 

 悪びれずに言ってのける峰白に対し、紅藤は笑みを絶やさぬままだった。

 

「まあ、九尾の狐は繁栄と破滅の両方を司るとか、革命のシンボルとも言われておりますし。それに破滅や崩壊の後に新たな創造が、混沌ののちに秩序が生まれ落ちるのは世の習いですわ。旧きものが亡び新しきものが栄えるのは昔から繰り返されてきたではないですか」

 

 冷静に言ってのけた紅藤を峰白はしばらく凝視していた。だがややあってから視線を外し、隣に控える雉妖怪の青年に視線を配り、それから源吾郎を見た。相変わらず値踏みするような眼差しだったが、会話をしようと言う意思の宿った眼差しだった。

 

「さて九尾の末裔君。初めましてになるわね。私が峰白よ。

 私の事はさておき、あなたはまず胡琉安様に挨拶をしなさいな。我らが雉鶏精一派の頭目・旧き貴い神の血を引く胡喜媚様の御令孫たる胡琉安様にね。幹部集団の八頭衆への挨拶はその後で良いわ」

 

 軽く頭を下げ、源吾郎は峰白の隣に控える青年を見やった。スーツ姿の若者なのだが、宝玉をあしらった腕輪や舶来もののロケット・ペンダントなど諸々の宝飾品で身を固めるその姿はさながら王侯貴族のようだった。いや実際には彼はこの場所では王として奉られているのだろう。組織だった集団に属する妖怪たちは、そのトップに立つ妖怪を自分らの王または女王と見做す事がままあると、かつて叔父の苅藻に源吾郎は教えてもらった事があった。

 胡琉安と思しき青年は、静かに源吾郎の挙動を見守っているようだった。銅貨に似た暗い橙色の瞳は驚くほど穏やかで、薄く開いた口許は今しも笑みの形に広がりそうだった。萩尾丸の持つ有能故の傲慢さも、峰白の持つ権力者らしい冷徹さとも無縁そうな面立ちに見えた。

 ああ、この男もお坊ちゃま、いや王子様みたいな奴なんだ――源吾郎の脳裏にそのような考えが鮮明に浮かんだ。小さく身を震わせてから、源吾郎は向き合う青年を見上げた。この時源吾郎はおのれがなすべき事にはっきりと気付いていた。紅藤の弟子としてではなく、九尾の狐、玉藻御前の末裔として。

 この男がここの王ならば俺は彼の心に取り入るまでの事。唐突に閃いたこの考えに源吾郎は疑いを差し挟まなかった。性別は違えど自分の曾祖母が行ってきた事を行うのだ。破滅にしろ繁栄にしろ革命にしろどのみち九尾は王に馴染みのある存在なのだから。

 源吾郎はだから、九尾ならずも九尾めいた笑みを浮かべ、相対したのだ。

 

「ご機嫌麗しゅうございます、胡琉安閣下。私こそが玉藻御前の末裔、島崎源吾郎でございます。この春より雉鶏精一派に就職し、目下の所雉仙女・紅藤様の所で研鑽を重ねる所存です」

 

 源吾郎は実にもったいぶった口調で挨拶をした。つい先日まで高校生だった若者でありながら古風な言葉を知っているのは、年かさの兄姉叔父叔母がいる上に源吾郎自身が演劇のために古今東西の書物を読みふけっているからである。

 挨拶を受け、雉妖怪の青年の表情が僅かに揺らいだ。彼は眉を下げ、人の好さそうなその面に困ったような表情を作った。

 

「ええと、丁寧に自己紹介してくれてありがとう、九尾の君、いや島崎君」

 

 源吾郎はあんぐりと口を開けそうになった。王侯貴族よろしく着飾った若者の口から出てきたのは、その装いにはそぐわぬほどに砕けた言葉だったのだ。

 青年は峰白や紅藤、そして幹部とその重臣たちを順繰りに見やってから再び源吾郎に視線を戻した。

 

「しかし、実は君は僕に対してそこまで丁寧な挨拶をしなくても良かったんだ――僕は胡琉安様ではなくて単なる影武者だから。

 だけど折角だから自己紹介するね。僕はウミワタリと言うんだ。峰白様と紅藤様に見いだされ、以来胡琉安様の影武者をやっているんだ」

 

 ぼくとつな様子で語るウミワタリを呆然と眺めていた源吾郎ははっと我に返り彼から視線を逸らせた。会議室に広がる悲嘆の声や哄笑は殆ど聞こえなかった。源吾郎の視線は彼の道化ぶりを笑う幹部とそのツレではなく、手持無沙汰になって部屋の脇に控えるボーイたちに向けられていた。彼らのうちから感じ取った妖気が、誰の妖気に似ているのかをここで思い出したのである。

 

「九尾は革命の促進者ゆえに、王を惑わせ破滅させる可能性を孕む。私はそう考えているの」

 

 朗々とした声が会議室に響き渡った。声の主は峰白だった。彼女はいつの間にか胡琉安に扮していた雉妖怪から離れ、ボーイたちが控える所にいた。

 

「影武者を胡琉安様に仕立てて会わせる事を考えたのは私たちよ。悪心を抱いた九尾の末裔が、真っ先に胡琉安様を亡き者にしようとするとか、籠絡しようとしたときの時間稼ぎとしてね」

 

 峰白はボーイの一人を伴って源吾郎の許に歩き始めていた。隣にいるボーイ、いやボーイに扮した若者こそが本物の胡琉安だろう、と源吾郎は思っていた。

 

「島崎君だったかしら。彼こそが本物の胡琉安様よ。あなたにも二度手間を掛けさせて申し訳ないけれど、きちんと挨拶をしてちょうだい」

 

 源吾郎は無遠慮な視線を本物の胡琉安に向けた。ボーイに扮していた彼の妖気は、どうした訳か師範である紅藤や、その息子の青松丸のそれによく似ていた。その事に源吾郎が気付いた時、道中で抱いた違和感の正体に源吾郎は気付いたのだ。

 当惑と困惑の表情が入り混じる源吾郎が、他者の目にはどのように映っていたか。心中に居座る感情が余りにも大きすぎて、源吾郎自身はその事を考える余裕さえなかった。




※フォックスは英語で狐という意味ですが、特にオスの狐という意味もあります。メスの狐を指す時はヴィクセンというのです。
 狐に限らず、英語ではオス・メスで動物の呼び方が違う事はままあります。


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峰白の真意

 幹部たちとの挨拶を終えて幹部会議もお開きになったころ、昼前にもかかわらず源吾郎は疲れ果てていた。大妖怪たちと会うだけでも精神的な負担は大きい。しかもあんなドッキリを仕掛けられ、散々笑い飛ばされた後ならばなおのこと。

 

「今日はお疲れさま、島崎君」

 

 ねぎらいの言葉をかけてきたのは、紅藤ではなく彼女の義姉の峰白だった。親しげな素振りは無いものの、こころもち表情が柔らかくなっている。

 源吾郎は尻尾に念を込め、文字通り妖力を振り絞って居住まいを正した。尻尾の一本が熱を帯びている。しゃんとするために妖力を消耗しているのかと思うと少し憂鬱だった。

 

「あとで少し話があるんだけど、来てくれるわね」

 

 要件を告げると、峰白は猛禽の瞳で源吾郎を見下ろした。もぞもぞする源吾郎よりも先に口を開いたのは、隣に控える紅藤だった。

 

「私もその話し合いに参加しても良いですか。決して邪魔は致しませんので」

「別に良いわ。あなたがそう言う事も、私は予測したうえで島崎君に声を掛けたんだから」

 

 あれよあれよという間に三人で話をする事が決まってしまった。萩尾丸はどうするのだろうか。源吾郎が見る限り、萩尾丸は他の幹部やその重臣たちに近付いて話し込んでいた。

 

「萩尾丸は別に参加しなくても良いでしょ。あの子が話に加わるとややこしくなりそうですし」

「それもそうね」

 

 年かさの雉妖怪姉妹は互いに頷き合っている。源吾郎は一泊遅れ、彼女らに追いすがった。

 

 峰白が二人を導いたのは先程の会議室よりもうんと小ぢんまりとした部屋だった。椅子の数も数脚程度であり、四、五名入れば満室になりそうなほどである。

 狭い部屋ではある。しかしそれは貧相な部屋である事と同義ではない。単なる会議室ではなくて応接室に近いのだろうと、これ見よがしに置かれた調度品たちを見つめながら源吾郎は思った。初代頭目が大陸出身の妖怪だったためか、背の低い棚や壺や絵は大陸風のものが目立った。

 峰白は源吾郎たちの対面、上座の席にさも当然のように腰を下ろした。その背後の壁には窓があり、美しい青空が見えていた。もしかすると窓に見せかけた絵画かもしれない。

 

「最初に胡琉安様に見せかけた影武者に引き合わせたのは、もちろん私たち八頭衆の考えよ」

 

 穏やかな調子で峰白が呟いた。明るい黄褐色の虹彩と、大きく黒々とした瞳孔がやけに印象的だ。

 

「本物の胡琉安様を不埒な妖狐から護る為の時間稼ぎもあったけれど、むしろテストとしての意味合いがあったのよね。九尾の末裔であるあなたが、胡琉安様に扮した妖怪を見抜けるほどの眼力を具えているかをね」

「となると、僕はそのテストに失敗したという事になりますかね」

「そうね。あんたは失敗したわ。言うまでもなく不合格ね」

 

 短くきっぱりと告げる峰白を目の当たりにしたその瞬間から、室内の空気が冷たく張り詰めていくのを源吾郎は感じた。失敗した、失敗した、失敗した……この単語が源吾郎の脳内で幾度となく繰り返されていく。

 みじめな棄て犬のように峰白の様子を窺う。笑みを浮かべているが何を考えているのか窺えず、一層源吾郎の不安を掻き立てた。もしかしたらここで殺されるのではないか――そのような考えが脳裏をよぎり、立ち去らずに居座ろうとしていた。

 いたたまれなくなった源吾郎は、隣に座る紅藤に視線を送った。彼女ならば護ってくれるだろうという淡い期待があったのだ。しかしその期待はいともたやすく打ち砕かれ、十万億土の彼方へと吹き飛んだ。紅藤が源吾郎以上に烈しく動揺している事を読み取るのは、ほんの一瞥するだけで十分すぎたのだ。紅藤もまた、源吾郎と同じく峰白の襲撃を警戒してはいる。しかも、峰白の挙動を窺う中に、烈しい葛藤――義姉への忠義と愛情か、数百年越しに手に入れた弟子を庇護すべきかであろう――が入り混じっている事だった。

 

「あらあら、そんなに怖い顔をして睨まなくても良いじゃない」

 

 喉の奥で峰白が笑い、芝居がかった素振りで肩をすくめた。

 

「紅藤。あんたが玉藻御前の末裔を念願かなって手に入れて、それで気が立っているのは解るわ。けれどまだ私の話は終わってないの。お願いだから殺気を抑えて頂戴。か弱い義姉をそんな殺気で威圧するのは義妹のする事じゃあないわよ」

 

 峰白閣下。何処をどう見れば貴女がか弱い存在に見えるのですか……おどけたように語る峰白に対して源吾郎はそんな疑問を抱いた。抱いただけで、口にはしなかったが。

 峰白はあてつけがましく大きなため息をつき、一言一句聞き取りやすいように喋り始めた。

 

「はっきり言うわ。私は別にそこの仔狐を害する意思なんてひとかけらも持ち合わせていないわ。そうでなければ、わざわざこんなところに呼び出すなんて回りくどい真似はしないわよ」

 

 ノックの音が響いたのは、峰白が言い終えた直後の事だった。ボーイの一人が、挨拶と共にこの応接室に滑り込んできたのだ。片手に盆を持ち、その盆の上には湯気の立つカップと、茶請けの載った小皿――当然のように三人前だった――と文庫本サイズの重箱が乗っていた。

 ボーイは手際よくカップと小皿と重箱を運び、静かに去っていった。紅藤の表情が幾分和らいだようだった。

 

「それにもし私がそこの狐を殺そうとしたら、紅藤、あんたと争う羽目になる事は目に見えているもの……あんたは私と争いたくないと思っているでしょ? それは私も同じよ。長い間雉鶏精一派の最高幹部として労苦を重ねた間柄だし。それに何より、私は雉鶏精一派の中で誰よりも平和主義者で、無駄な争いは好まないの」

「そういう事だったんですね、峰白のお姉様。早とちりしてしまって申し訳ありません」

 

 応接室に通されてからずっと黙っていた紅藤がここで口を開いた。瞳が童女のように輝き、声も無邪気さを取り戻していた。

 峰白はやや呆れたように息をつき、そして笑っていた。

 

「取らぬ狸の皮算用って言葉は紅藤も知ってるでしょ? あんたはそこの仔狐を手に入れる前から、九尾の末裔を幹部にして自分は引退するなんて連呼してたじゃない。だから他の八頭衆は変に期待したり警戒したりしてこんな事になったのよ。

 普通に弟子を新しく取って、それがたまたま玉藻御前、九尾の末裔だったって話だったら、あそこまで騒がないでしょうに」

 

 まあ、あの展開もある意味良かったのかもしれないわ。誰に対して言うでもなく、峰白がこぼした。

 

「紅藤。私はあんたの考えに異存は無いわ。単なる弟子で終わらせるか、自分の身代わりとして幹部に仕立てるかについても口出しはしない。今まで通りね。

 それでもって、他の幹部たちの事についてもそれほど心配しなくて大丈夫なはずよ。あいつらは紅藤には逆らえないって多かれ少なかれ思っているし、今回のテスト結果で、少なくとも数百年は自分の地位を脅かす存在には値しないと今は考えているでしょうし」

 

 峰白は一度言葉を切り、紅藤から源吾郎に視線を動かした。

 

「島崎源吾郎、だったかしら。あんたが胡琉安様に挨拶をする前後で、幹部とその腰巾着たちの態度が変わったのは流石に気付いたでしょ? ああでも、第三幹部の緑樹は別だけど。あいつは元々からして気性が穏やかで、紅藤の事を心底慕っているから」

「……そうかも、しれません」

 

 源吾郎は頷いた。あの会議にて妖怪たちの眼差しは友好的とは言いがたかった。しかし確かに影武者と相対し胡琉安と挨拶する前後では、妖怪たちの目つきや表情に僅かな変化があったような気もする。もっとも、押し殺した敵意や警戒心が、下手な道化への嘲笑になったというさほど気持ちの良い変化ではないが。

 

「そもそもの出自からして、島崎君は他の妖怪から疎まれる事を心得るのよ。玉藻御前の末裔で、人間の父と祖父がいるくせに妖怪の特徴が濃い――それだけでも特殊だし、気味悪がられるのは仕方が無いわ。

 しかも一尾とか、ギリギリ二尾程度だったらまだしも、おぼこい顔をして四本も尻尾を生やしちゃってるでしょ。そう言うのを見ると、やっぱり他の凡庸な妖怪たちは思う所が出てしまうのよ。自分がとうに何百年も生きていたとしてもね」

「そういうものなんですね」

 

 呟いた源吾郎の喉からは唸り声が漏れてしまった。峰白はお茶で喉を湿らせると、その面に笑みを作った。権謀術数に濁らない、心からの笑顔である。

 

「まあ、そこはうじうじ考える所じゃあないわ。出自と過去はいくら隠せども隠し通せないものだからね。

 あれこれ考えるならば、むしろ未来の展望を考えるべきね。権力を欲し妖怪たちの頂点に君臨する事を望むならば、その地位に見合うだけの存在になるべく研鑽を積む事ね。異端の血が悪いとか、人間との混血は賤しいなんて考えを、他ならぬ島崎君自身が打ち砕く事とて可能なのよ。あなた自身が片手間で敵対勢力を粛清できるほどになれば、昔の考えに凝り固まった蒙昧な愚民たちも涙を流しながらあなたの足許にひれ伏するでしょうし」

 

 源吾郎は峰白を数秒ばかり見つめていたが、何も言わず手許の茶に視線を移した。口の渇きを覚え、彼もまた茶に口を付けたのだ。峰白が先程飲んでいたし、紅藤も嬉々として飲食に勤しんでいるので問題ないであろう、と。

 カップを傾けたところで、源吾郎は湯に浸った花びらの甘い香りが鼻腔をくすぐるのを感じた。甘味も控えめながらも味わいは繊細だった。

 

「この桜茶、とっても美味しいですね」

 

 カップをそっと置いてから源吾郎は言った。先程の話題とは全く異なった話の内容だがそれは源吾郎にも解っている。むしろ先の激励(?)から話題を逸らすために発言したようなものだ。

 峰白は苦笑いしながら首を振った。

 

「あ、これは桜茶じゃなくて八重咲の桃の花を入れているから、桃茶になるのよ。見た目は似ているけどね。島崎君が紅藤に弟子入りしためでたい日だから、わざわざ作らせたの。

 若手たちは慶事のおりの花と言えば桜ばかり連想するみたいだけど、私たちは桜よりも桃派なの」

 

 源吾郎はカップの底に沈む花びらを凝視した。残念ながら桜と桃の花の違いを明確に見極める事は叶わなかった。しかし峰白たちが桜よりも桃を好むという点には心当たりがあった。研究センターと工場が併設された件の施設に植樹されているのは、桜よりも桃の方が多かったのだ。

 

「……桃と言えば、いつか西王母様が丹精して育てている蟠桃を手に入れたいですね、峰白のお姉様」

「そのいつかは、私たちにも想像が及ばない程遠い未来の事でしょうね」

 

 呆れた様子で峰白が呟くのを源吾郎はぼんやりと見ていた。西王母とその桃の事は源吾郎も知っている。あの蟠桃は確か最も頻繁に実を付けるものでも三千年に一度であると聞く。紅藤は下界で、蟠桃が実るタイミングが来るのをずっと待ち続ける事になるのだろうか。

 

「まあともかく、桃は花も実も縁起が良いって事よ。それに桃の花言葉は島崎君にぴったりだし」

「そうなんですか?」

 

 ふいに話を振られ、源吾郎は目をしばたたかせる。今も昔も女子にモテようと苦心しているため、源吾郎は花言葉も多少は知っている。彼の脳内データベースでは、桃の花言葉として「チャーミング」「気立ての良さ」などが浮かぶばかりである。どちらかと言うとむしろ女子向けの花言葉ではないか。

 

「桃にはいくつか花言葉があるけれど、『比類なき才能』や『天下無敵』もあるのよ。玉藻御前のみならず、隆盛を誇った桐谷家の血も受け継ぎ、強さを求めるあなたにこそ、桃の花実はふさわしいと思わなくて?」

「……確かに、そうですね!」

 

 つい先程まで峰白を少し警戒していた事も忘れ、源吾郎は弾んだ声で頷いた。紅藤を筆頭とした大妖怪たちが一目を置く峰白が源吾郎を「特別」と見做してくれた。それだけでもいい気分となってしまったのだ。

源吾郎の心は同年代の若者たちよりも幾分繊細で、しかも感情の動きがそのまま表情に出てしまう。おのれの心に深く抱えた物を持ちながらも、その性質のせいで熱しやすく冷めやすい若者だと見做されていたのだ。

 



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正気をブン投げ頭目を得る

※一部ヤンデレ的表現がありますのでご注意願います。


 本家イギリスでのアフタヌーンティーの時間とは異なるものの、源吾郎は応接室にてしばしのティータイムを堪能していた。峰白から桃の花についての講釈を聞いたばかりだったが、よくよく考えたら桃は雉と縁深い存在である。雉妖怪たる峰白や紅藤が桃を尊ぶのもうなずける話だ。

 

「さて島崎君。そろそろ本題に入ってもいいかしら」

「……大丈夫、です」

 

 峰白が源吾郎に声を掛けたのは、彼が茶請けの菓子を飲み下す少し前の事だった。黄色い生地に狐色の焼き色が付いたその菓子は、どうやらカスタードを揚げた物のようだ。中身はとろみがあり、濃厚な味わいがあっさりとした桜茶もとい桃茶と絶妙にマッチしていたのだ。

 源吾郎は意識して表情を引き締めた。甘味を味わい控えめに言っても至福の瞬間を味わっていたおのれの顔が、だらしなく緩んでいるであろう自覚はあったのだ。

 

「影武者を初見で見抜く事は出来なかったみたいだけど、あんたの眼力もそう悪くはないと私は思ってるの。

 私が本物の胡琉安様を引き合わせようとする少し前から、あんたはそわそわしていたでしょ。まるで何かに気付いたみたいに。ねぇ島崎君。何に気付いたのか私に教えて頂戴」

 

 峰白の言葉はそれこそ猫撫で声と呼べるほど柔らかく優しげではあった。しかしながら、源吾郎に向けて放った言葉が、依頼ではなく純然たる命令である事を源吾郎は看破していた。

 

「……安心なさい。取って食べるわけじゃ無いわ。そもそも、私らは雉であんたは狐なんだから、むしろ私らの方が取って食べられる側よね。雉と狐だもの」

 

 最後に言い添えた一言は峰白なりのジョークだったらしい。隣席の紅藤が身体を揺らしてしとやかに笑っていたのを見てその事に気付いた。源吾郎は笑わなかった。峰白は相変わらず妙齢の美女の姿ではあるが、恐るべき化け物のように源吾郎には思えた。

 ともあれ源吾郎は唇を湿らせ、発言に備えた。

 

「こ、胡琉安閣下は一体何者なのでしょう」

 

 自分でも思いがけぬ言葉が出たものだ。峰白と紅藤はぎょっとしたように視線を絡ませたが、源吾郎に先を進めるかのように黙ったままだ。ともかく、自分はこの問いかけで殺される事は無いらしい。

 

「胡琉安閣下の妖気は、紅藤様や青松丸様のそれによく似ていると、僕は感じたのです」

 

 源吾郎は抱いていた疑問を素直に口にした。妖怪の持つ妖気にはむろん個体差があるが、生物学的な意味で親子・兄弟関係にある者同士の場合、互いの妖気が似通っている事は往々にしてある。それは、鳥獣や魚の親子・兄弟の姿形や行動や性質が遺伝するのと同じメカニズムである。

 

「似ているのは当然の事よ。胡琉安様の母親は紅藤だもの」

 

 峰白の視線は、声も無く驚く源吾郎を見据え、それから紅藤にスライドしていた。

 

「紅藤が造った青松丸は、さしずめ胡琉安様の兄にあたるのでしょうね。性格はさほど似てはいないけれど」

 

 にこにこと語る峰白を見てうっかり頷きそうになり、源吾郎はすこし慌てた。

 しかし峰白が告げた事は事実でもあった。青松丸と胡琉安は確かに似通った妖気の持ち主だったが、彼らを兄弟たらしめるものはそれしか感じられなかった。研究事務所の片隅に潜む内気な男。古の血を引く者として、多くの妖怪たちを束ねる若き王者。風貌も態度も彼らから与えられる印象さえも似通った所はない。いっそ真逆だと言えるほどだ。

 

「島崎君。胡喜媚様がおかくれになった折、雉鶏精一派を盛り返そうと最初に動いたのは、私と紅藤だけだった事は知ってるわよね? ええ、あの頃は私と義妹しかいなかったわ。本物の跡継ぎだった胡張安――胡喜媚様の御子息で父親も立派な大妖怪だった癖に日和見主義のあの軟弱者――は、とうに逐電していたところで、何処で何をしているのか、そもそも生きているのかさえ判らなかった。あいつが雉鶏精一派に留まっていたら、すぐに二代目頭目に据え付けるつもりでいたんだけどね」

「そうだったんですね……」

 

 話の区切りが良い所で、源吾郎はさも驚いた様子を見せておいた。実際のところ、胡喜媚の息子が出奔し行方知らずになっている事もまた、祖母から聞いていたから知っている。

 

「当時、雉鶏精一派の起死回生の手段として、胡喜媚様を蘇らせる事を考えていたのよ。胡喜媚様の妖気も私が取り出して、紅藤が保管していたし。紅藤は雉鶏精一派の中でも妖術仙術の類に詳しかったから、彼女ならどうにかなると思ってね」

「胡喜媚様を蘇らせるという案の他には、胡張安様を探し出して頭目に据えるとか、いっそ私たちのどちらかが胡喜媚様の娘を騙り、存続させるという案もあるにはありました……結局のところ、胡喜媚様を蘇らせるという案を採用したの」

 

 峰白の説明の途中で、紅藤が言い足した。昔の事を思い出しながら語っていたからか、気だるげに見えた。

 

「そりゃあもちろん、何をどう考えたって胡喜媚様を蘇らせるって言う結論に至るわよ」

 

 峰白は強い眼差しで紅藤を見据え、迷いなく言い放った。その瞳はあくまでも澄んでいて、見る者に言いようのない不安と恐怖をもたらした。

 門外漢で若輩者たる源吾郎でも、峰白たちが雉鶏精一派を存続させるために採用した選択肢が、他のどれよりもはるかに難しい事は解った。生きている者が不死の存在に変質する事と、死んでしまった者を生き返らせる事。どちらも普通の妖怪や術者には手に余る術には違いないが、後者の方がより難しい術になるのだ。

 

「胡張安は見つけ出せなかったし、仮に見つけたとしても飼い殺しにするくらいしか使い道は無かったもの。

 胡喜媚様の縁者を騙るなんて論外よ。そもそも私たちは胡喜媚様の命を受けて、むしろ胡喜媚様の縁者を騙る不届き者を粛清し続けていた身なのですし……それに縁者と騙った事を誰も罰しないとしても、他ならぬ私自身が赦せないわ。賤しい血筋の私たちが、胡喜媚様の縁者と名乗る事など恐るべき冒瀆なのですから」

 

 ある種の一人芝居を見ているようだと源吾郎は思った。向かいに座って話し続けている峰白の顔には、様々な表情が目まぐるしく浮かんでは消えていた。冷徹な眼差しをおのれに向けていた時とは大違いである。

 

「……ともかくね、胡喜媚様復活の研究の傍らで私が造り出したのが、息子の青松丸よ」

 

 熱弁を振るう峰白を見やりながら紅藤が横槍を入れる。紅藤のその顔にもわずかに表情が戻っていた。会話に割り込まれた峰白は、特に憤慨する様子はなかった。そうよ、そうだったわね。せっかちそうに呟く峰白に対して、紅藤は頷いている。

 

「胡喜媚様を復活させるという術は失敗させるわけにはいきませんでした。なので前実験として妖力の錬成を行い、そこから独立した個体を作り出す技が私に出来るか、確認したのです」

 

 と、そこで紅藤は何を思ったか、源吾郎の方をちらと見た。

 

「ああ、だけどね島崎君。妖怪を新たに造り出す術は私から教えられないわ。もう長い事あの術は使っていないし、そもそも負担が大きい術なのよ。体力的にも……精神的にもね。私は妖怪錬成を得意とする黒山羊のお姉様の秘術をベースにして妖怪錬成術を行いましたが、青松丸は、278回目の実験でようやく造り出せたの……その意味が解るかしら」

 

 紅藤の両目は今やしっかと源吾郎を見据え、しかも昏い紫色に輝いていた。

 

「青松丸が生まれるまでに、277回分の生まれるはずだった生命の、無残な終焉を見届けたという事よ。青松丸にとっては会う事の叶わなかった兄たちであり、私にとっては意味ある生を与える事の出来なかった息子たちなのよ。

でもね、黒山羊のお姉さんによると、妖気を集めて錬成する方法を習得した術者たちの中で、私が一番少ない失敗のみで独立した妖怪を作り出せた存在になるというのよ。その意味も、賢い島崎君ならばもちろん解るわよね」

 

源吾郎は目を動かすのがやっとだった。先程胡喜媚絡みの事で興奮した峰白と同じように、今度は紅藤が興奮しているのだと把握するのがやっとなのだ。

 紅藤はなおも言葉を重ねた。

 

「……自分だけの妖怪を術で造りたいと言うのなら、いさぎよく外注する事をお勧めするわ。若しくは、ただ一人の娘を造り出すために、何千何百の他の娘たちが、無残に崩れたり腐って融けていくのを見ても心が揺らがないのならば、別に自分で行っても構いませんけれど」

「…………」

 

 源吾郎は何も言わなかった。彼自身は妖怪を造り出す術などに執着している訳ではないから、その術が習得できるか否かは特段問題ではなかった。紅藤は単に、峰白の話からかつて自分が行った所業と、その時に抱いた気持ちを思い出し、それを聞いて欲しかっただけだろう。未来につながるかどうか定かではない年長者の繰り言は、何も人間様の専売特許ではないのだ。若者に繰り言を垂れてしまうという年長者の習性については、年長者に囲まれて育った源吾郎はよく心得ているのだ。

 

「ま、まぁ苦労した分だけ、青松丸も立派に育ったじゃない。あんたも息子として熱心に面倒を見てたし」

 

 やや早口気味に峰白が横やりを入れた。紅藤のぎらついていた瞳の輝きが収まり、表情もやや穏やかになっていた。紅藤は慈母めいた笑みで頷き、峰白は言葉を続けた。

 

「青松丸はね、母親である紅藤の特徴をよく受け継いでいるわ。不死身じゃないけど再生能力は地味に高いし、頭も良くて紅藤の使う妖術もある程度は習得しているし、ひな鳥の時は弱弱しかったけど、すぐに妖力も増えていったし……本来なら、青松丸が幹部になってもおかしくなかったのよ。あいつはそれだけ優秀なの」

 

 峰白はそこで言葉を切ると、やや意地の悪そうな笑みを浮かべた。

 

「だけどやっぱり青松丸は紅藤によく似ていたのよ。あいつもどちらかと言えばマイペースで、権力を振るう事には全く興味を示さなかったもの……弟弟子の萩尾丸の態度がどんどん大きくなっても、『萩尾丸さんの方が年上ですし』って言ってニコニコしていただけだったしね」

「まぁ、青松丸は萩尾丸を拾うまで、私たち以外の妖怪とはほとんど接触がありませんでしたからねぇ……とはいえ、青松丸がのんびり屋だったからこそ、萩尾丸とも上手く行ってるとも考えられますわ」

 

 雉妖怪姉妹の会話を聞きながら、源吾郎は青松丸の事を考えていた。彼は古参の弟子として、新入りである源吾郎の教育係を任されていたのだ。ただただ優しく手応えのない妖物であるというのが源吾郎の青松丸に対する評価である。或いは、もう少しすれば青松丸の「優秀さ」が解るのかもしれない。

 

「ともかく、私たち雉鶏精一派は、最初の百年ほどは本当に小規模な集団として活動していたのよ。正式な後継者がいなかったから、あまり大々的に仲間を集めるのも危険だったからね」

 

 青松丸の出自から紅藤の古参の弟子たちの会話。そして彼らしかいなかった頃の雉鶏精一派の情勢へと話はゆっくりと転がっていった。話者は峰白だった。

 

「最初の百年は苦心なさったでしょうが、その頃に確か、胡琉安閣下がお生まれになったんですよね」

「その通り! ご明察よ島崎君」

 

 峰白は源吾郎がびっくりするほどの興奮ぶりを見せながら問いに答えた。その姿はさながら名推理を繰り出す探偵に似ていたが、ここに居るのは妖怪ばかりで探偵はいない。そもそも三百年前に雉鶏精一派の組織が刷新し、二百年前に胡琉安が誕生した事はここに居る三者はきちんと把握している。

 要は興奮するほどの謎などは無いはずだ。

 

「それでね、ここでようやく胡琉安様の父御・胡張安様にも言及する事になるわ」

 

 そう、胡張安なのよ――峰白は妙に興奮し緊張した様子で頷いていた。

 

「胡張安はやんごとない身分を投げ捨ててから、長らく何処で何をやっているのか、私にも紅藤にも解らなかったの。だけど二百年前のあの日、私たちは胡張安を見つけ出し、取っ捕まえて雉鶏精一派の本拠地に連行する事に成功したのよ。

 私たちは……胡張安を物理的に捕らえる事は出来たけど、その心を捉える事は出来なかったわ。あいつは確かに勇猛な妖怪とは言いがたいけれど、長きにわたる野良妖怪生活で、何物にも縛られない心と術を手に入れてしまっていた。私の懇願も紅藤の甘言も、萩尾丸の殺してやるという脅しすらも、胡張安を陥落させる事は叶わなかったわ。のみならず、あいつは私らが胡喜媚様を復活させるという計画を聞いて鼻で笑ったの。計画を立てるのは構わないが、変質したその妖気ではあのお方を復刻出来ないだろうってね。

 だから私たちは、別の方法を試みたの」

「それで、そうやって……胡琉安閣下がお生まれになったと」

 

 フクロウよろしく目を見開く源吾郎に対して、峰白と紅藤がほぼ同時に頷いた。

 

「ええ。だけど私たちも無理強いしたんじゃあなくて、ちょっとした交渉術でそういう風に持っていっただけよ。今後はもう絡まないっていう条件を餌にしたら、あいつはすぐにこちらの条件に飛びついてくれたわ……そういう訳で、胡張安は喜んで胡喜媚様の後継者づくりに励んでくれたし、私らも大手を振ってあいつの野良妖怪ライフに干渉しない事にしたってわけ」

 

 源吾郎の喉からは、非難めいたため息が漏れるだけだった。雉鶏精一派の神聖なる頭目、胡琉安が生まれ落ちるまでの激動のドラマを、源吾郎は贅沢にも当事者から聞いたわけではある。

 どいつもこいつもまともな奴がいないじゃないか――口にこそ出さなかったが、表情金の裏で源吾郎はそんな事を思っていた。おのれの自由と引き換えに息子を組織の人質にした胡張安、おのれの欲望のために義妹に仔を生ませた峰白。そして義姉の無茶ぶりに忠実に従った紅藤。誰も彼も普通とは言いがたい。いや、それこそが妖怪の性なのか。

 

「胡琉安閣下と紅藤様の関係性はよく解りました」

 

 ですが……おずおずと口を開き、源吾郎は紅藤を見やった。

 

「紅藤様。紅藤様は何故そこまで峰白様の言いなりになってしまわれているのでしょう?」

 

 三者ともおかしい連中ばかりであるが、強いて言うならば紅藤はまだマシな部類に入るのだろう。もしかすると、彼女は被害者かもしれないと源吾郎は思っていた。何らかの理由で紅藤が義姉の峰白に隷属し、峰白の妄想を具現化するために労苦を背負ったのではないか、と。

 妖怪が他の妖怪に隷属し追従する事は珍しい話ではない。しかし峰白と紅藤の両者に関して言えば、その通説をすぐに当てはめる事は出来ない。峰白もそう弱い妖怪ではないが、莫大な妖力を持つ紅藤に較べればうんと弱い妖怪と言う他ない。七割五分は保有する妖力と実力で格が決まる妖怪社会の中で、格上の存在が格下の相手に服従するのは、よほどの事がない限りお目にかかれないのだ。

 

「言いなりですって。まぁ確かに、門外漢からはそう見えるかもしれないわね……私の方が三十ばかり年上って事でお姉様なんて呼ばれているし、紅藤の態度も相まってそう見えるのね。

 だけどそれでも私は紅藤を従わせている訳じゃないわ。私は胡喜媚様に仕える事を欲し、紅藤は仙道の研究のために、盤石な妖怪組織を望んだ。私たちの利害がまぁ上手い塩梅に収まって、それで協力しているだけの事よ。

 それにね――私は紅藤におのれの生命を掌握されているの」

 

 思いがけぬ言葉に呆気に取られている間に、峰白は急に笑い出した。調度品を小刻みに震わせるほどのその笑い声は、さながら、いや文字通り化鳥の啼き声そのものだった。

 

「紅藤に生命を掌握されているのは、何も私だけではなくってよ。研究センターの連中だってそうよ。もちろん、あんたも例外じゃあないわ」

 

 笑い声混じりに絞り出された峰白の言葉を聞いた源吾郎は、思わず紅藤を見やった。生命を掌握する。正しい意味は掴めないがヤバくてまずい事であるだけは辛うじて解った。要するに峰白も研究センターの皆の生殺与奪は紅藤の気分次第という事であろうか。ああ、もしかして研究センターのスタッフたちが紅藤の強さに比して少なすぎるのも――

 目まぐるしく物騒な考えを弾きだそうとしていた源吾郎だったが、その思考は他ならぬ紅藤の声によって断ち切られた。

 

「怖がらないで島崎君。生命を掌握していると聞いて怖がっているのね。ああ、だけど怯える事は無いわ。私はただ、峰白のお姉様や私を慕う弟子たちに、私の望まない時とところで死ぬのを禁じているだけですから。私ね、大切に思っている者たちが勝手に死んでしまう事だけは赦せないの。それだけよ」

 

 童女のような無邪気さと、慈母めいた優しさを混ぜ合わせて紅藤は笑った。源吾郎の予想していた返答よりも優しく穏やかなものだったが、それでもやはり背筋がざわつく事には変わりない。




 強大な力を持つ雉妖怪姉妹。彼女らにも並々ならぬ決意と狂気があったのです。


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妄執募りて身を結ぶ――胡琉安誕生の真相――

 セダンを運転してくれた萩尾丸は、本社ビルのエントランスで辛抱強く源吾郎たちがやって来るのを待っていたらしい。胸元をごそごそやっているのは先程まで操っていたスマホを懐に収めたからかもしれない。

 

「ガールズトークは堪能なさったんですか、紅藤様」

 

 元気いっぱいに源吾郎の隣を歩く紅藤の姿を認めると、萩尾丸はかるく右手を上げ、爽やかな笑みを浮かべて彼女を迎えた。

 

「とっても楽しかったわ。桃茶も美味しかったし、お茶請けも美味しくて可愛かったもの」

「そうですか。それにしては早めに切り上げられましたね。お二人の事なので、終業時間まで話し込む事も予想していたので」

 

 萩尾丸は相変わらず慇懃な様子で紅藤に応じている。丁寧な言葉を使いつつも皮肉を織り交ぜた台詞である。

 

「まぁ、昔話だったからそんなに長引かなったわ。それに長話になったら島崎君も疲れるでしょうし」

「違いないですねぇ」

 

 源吾郎を一瞥した萩尾丸がうっそりと笑った。

 

 エントランスを出る寸前、源吾郎はふと歩みを止めた。通路の邪魔にはならない、しかしはっきりと視界に入る場所に鎮座された物に興味を持ったのだ。

 それは高さにして二メートル弱、幅にして八十センチ程度の彫像だった。直立し翼を広げる巨鳥をイメージした彫像なのだろうが、全体も詳細も異様な風体を示している。

 まず目立つのは、木の枝のように幾重にも分岐した長い首と、複数の頭部である。丸い輪郭と鋭い嘴が鳥類の特徴を見せており、それぞれの頭頂部には複雑で幾何学的な意匠を凝らした冠が載せられていた。額の部分に第三の目がある頭部さえあった。

 冠を被る頭部を支える首たちは、長すぎるせいか鳥の首とは思えなかった。のみならず逆立つ鱗や、明らかに蛸の吸盤にしか見えない物がくっついている首さえあるほどだ。

 全体的には鳥として作っているのだろう。しかし不定形のモノが鳥に擬態したようにも見え、また鳥でありながら蛇であり蛸であり獣であり或いは人であるような特徴を示しているようにも見えた。エントランスに置き、社員や重役たちの目に触れるには、余りにも不気味で冒瀆的な彫像だった。

 

「それは、胡喜媚様をイメージした彫像よ」

 

 声のした方を源吾郎は振り仰いだ。紅藤は小さなビジネスバッグを片手に提げ、源吾郎の視界に入る場所に立っていた。声には感情が籠らず、目つきからも感情は読み取れない。

 

「峰白のお姉様がどうしても欲しいって言うから、彫刻家に頼んで作らせたの。アレの説明についてはまたの機会にしましょ。どうせ島崎君も幹部になれば研究センターではなくてこちらでも働く事になる訳ですし」

 

 紅藤に促され、源吾郎は歩を進める事にした。

 

「島崎君、帰りは助手席に座りたまえ」

 

 行きしなと同じく後部座席に座ろうとした源吾郎に対して、萩尾丸は声を掛け、ご丁寧に手招きまでした。

 

「紅藤はガールズトークを堪能なさったみたいだから、僕は男同士の会話がしたいんだ」

 

 萩尾丸は相変わらず笑顔だった。表情の読めない笑みを不気味に思い、すがるように紅藤を見やった。だが彼女は小さく頷き、むしろ源吾郎を助手席に座るよう勧めただけだった。

 源吾郎は仕方なく、助手席に腰を下ろした。

 

 

「峰白様との話は面白かったかい?」

 

 運転の準備が終わるなり、萩尾丸はハンドルを操りながら源吾郎に尋ねてきた。源吾郎は首を捻るのがやっとだった。文字通りに「面白い」などと言える内容ではない。しかし後部座席にちんまりと座る紅藤に気兼ねし、即答を避けたのだ。

 

「面白いというよりも、含蓄ある為になるお話でした」

「含蓄のある話か……どんな話だったのさ?」

「…………雉鶏精一派が新体制になってからと、胡琉安閣下がお生まれになった時の話です」

 

 萩尾丸はそこまで聞くと、さも愉快そうに肩を揺らして笑った。ハンドルを操る手捌きは見事そのもので、車が変に揺れる事は無った。

 

「成程、成程……ああ、峰白様ならばその話をなさるだろうと思っていたよ。あの方は玉藻御前には興味なんて無いって口で仰っているけれど、実際に縁者を前にすれば、ある程度は便宜を図ろうと考えるものさ。峰白様は、紅藤様とは別方面で賢いお方だからね。

それで、話を聞かせてくれた感想を教えてくれないか。出来るだけ率直にね」

「え……」

 

 大丈夫だよ。気の抜けた声を出して戸惑う弟弟子に対し、萩尾丸は優しげな声で応じた。

 

「気兼ねする必要は無いよ。紅藤様は眠っておられるし」

 

 萩尾丸の視線がミラーに向けられる。つられて源吾郎もミラーを見た。後部座席の紅藤が、座席にもたれて瞼を閉じているのが映っていた。

 

「紅藤様はあまりお身体が丈夫ではないんだ。大妖怪なれど、十分な食事と睡眠をとらないと、相応のパフォーマンスが出せないらしくてね……しかしあのお方自身はそんな事を気にせず、研究に没頭して体調を崩す事もままあるんだ」

「そうなんですか」

 

 源吾郎は今一度眠る紅藤をミラー越しに眺めた。研究に没頭云々はさておき、大妖怪でありながら丈夫ではないというのは奇妙だ。

 妖怪にとってその身に宿す妖力は、妖術を行使するためのエネルギーであるだけではなく、生命力でもあるのだ。俗に中堅妖怪や大妖怪と呼ばれる者たちは、妖力の少ない下級妖怪たちに較べ、体力もあるし食事の頻度も少なくて済む。それは保有する妖力で生体活動を十分に維持する事が可能であり、また肉体に妖力を通わせる事でダメージを防ぐ事が出来るためだ。

 疲れやすくてよく眠り、多くの食事を求める――大妖怪紅藤の行動は、しかしむしろ弱小妖怪のそれに似通っていた。一般的に鳥妖怪は他の妖怪よりも代謝が高い事を差し引いても。

 

「だからまぁ正直に言いなよ。ドン引きしたとか、ドン引きしたとか、めっちゃドン引きしたとかさ。それに紅藤様に聞かれたとしても、あの人はそんなに怒らないから大丈夫さ」

「ちょっと待って下さいよ先輩。ドン引きしかないじゃないですか……」

 

 あからさまにニヤニヤする萩尾丸の横顔を見、源吾郎も口許に笑みを浮かべた。

 

「……まぁ、正直に言えば結構ドン引きしました」

「ふーむ。玉藻御前様の曾孫と言えども、流石にドン引きしたんだね。で、ドン引きポイントはどの辺かな?」

「…………」

 

 源吾郎は萩尾丸の問いには応じず口をつぐんでしまった。萩尾丸はきっと、源吾郎がドン引きしたところに関して突っ込んで知りたいのかもしれない。しかし先の会話は余りにもドン引きポイントが多すぎた。いや、話の一部始終すべてが、巨大なドン引きポイント、もといドン引きトークであると言っても過言ではない。

 

「今回の件は、君にとっていい勉強になっただろうね。乳母日傘で育った坊やには、ちと刺激が強すぎたかもしれないが」

 

 言い終えた萩尾丸の表情が、にわかに鋭くなったのを源吾郎は見て取った。

 

「君の望みは世界征服で、そのために妖怪たちの中で最強の存在に君臨したいと思っているんだろう。その大望を叶えるための心構えとやらを、あのお二方の会話から君も感じ取ったんじゃあないかい」

「僕はただドン引きしただけですが」

「そう、それだよ!」

 

 感極まったように萩尾丸が言い放つ。ブレーキを踏むのが僅かに遅れ、横断歩道の先端に車の鼻先が到達してしまった。

 

「大望を抱く事だけならば誰だって出来るさ。問題はそれを違わずに実行できるかどうかにあるんだ。物理的な理由を乗り越えるのは言うまでも無いが、真に乗り越えるべきはおのれの心そのものさ。

 出る杭は打たれるのことわざは君も知っているだろう。哀しいかな、優秀な者や前人未到の偉業を成し遂げる際に、愚民どもがヤジを飛ばし足を引っ張るという現象は、我々のような妖怪たちの中でもあるんだ。そしてそれを全て跳ね除けたとしても――それすらできずに挫けてしまう者も少なくないがね――『自分』と言う手強い敵がいるわけだ。

 周囲の雑音に臆せず冷徹冷酷なおのれの心を飼い慣らさなければ、いかに大妖怪であろうとおのれの大望を叶える事は難しいんだ」

「……紅藤様と峰白様は、それが出来た、と」

「少なくとも、僕はそう思っている」

 

 源吾郎の言葉少ない問いかけに、萩尾丸は短い言葉で応じた。

 

「彼女らが妥協せず諦めず、純粋におのれの心の欲するところを極めたからこそ、青松丸と胡琉安様が生まれたんだ。どちらかが適当なところで手を打っていたならば、雉鶏精一派は今ほど栄えなかったか、或いは自然消滅していただろうね。

――島崎君。君が最強の妖怪として君臨するという事は、彼女らを上回らねばならないという事になるんだよ。言っている事は、解るね?」

 

 源吾郎は言葉が出てこなかったので頷いて応じた。言葉が出てこなかったのは、色々な想いが胸や頭の中に詰まっていて、声を塞いでいたためだった。羞恥と失望とそこはかとない恐怖が源吾郎の体内で渦巻いているのを感じていた。源吾郎は誰にともなく懺悔していた。

うら若い娘の姿を取る紅藤を見た時に、すぐに下剋上出来るのではないかと言う傲慢。

冷静な狂気を受け入れた上で、峰白と紅藤が淡々と望みを叶えたと悟った時の恐怖。

そもそもの発端であるおのれの欲望が、矮小なコンプレックスを拗らせただけに過ぎないという羞恥心――ああ、かくも浅はかでちっぽけな考えではないか。

 そうして密かに後悔していると、萩尾丸が前を向いたまま声を出して笑っていた。

 

「理解したのは良いとして、そう思いつめなさんな島崎君。君は、君が思っている以上に純朴な狐なのだよ。だが、それでいい。それがいいんだ」

 

 萩尾丸は、源吾郎の視線を受けても平然としていた。

 

「思い上がりと思い上がったのちに感じる羞恥心は若者にありがちな事さ。そしてろうたけた年長者は、そういう若者の姿を見て、面白がったり過去の自分を思い返したりするモノなんだ――島崎君。君も若者を見守る年長者の気持ちが解る日が来るだろう。いずれはね」

 

 萩尾丸先輩は年長者の部類に入るのだろうか……源吾郎はぼんやりと思った。萩尾丸は見たところ紅藤と同じかやや年上の男に化身しているが、三百数十年は生きているという。三百年も生きているとなれば、十分一人前の妖怪と見做される年齢であるらしい。妖怪たちは極めて長い寿命を有するが、そんな彼らを以てしても、五百年、千年と生き続けるのは実は案外難しい事なのだそうだ。

 

「言うまでも無い事だが、僕も元々は弱弱しい野良妖怪でしかなかったんだよ。しかもあの頃の雉鶏精一派は今とは比べ物にならない程殺伐としていたからね……紅藤様は弟子にした妖怪を決して見放さないなんて事も知らなかったから、僕も必死だった。あの人の息子である青松丸と違って、僕は気まぐれで拾った小鳥に過ぎなかったからね。無能だと判れば、追い出されるか殺されるかだろうって思ってたんだ」

「……萩尾丸先輩もご苦労なすったんですね」

「センチメンタルな同情は要らないよ。僕の労苦をねぎらいたいのならば、安っぽい同情じゃなくて僕に対する称賛と服従を示しておくれ」

「……やっぱり、萩尾丸先輩って天狗っすね」

 

 取り留めも無いやり取りを続けていた源吾郎は、用心深くミラーで紅藤の様子を確認してから萩尾丸に問いかける事にした。行きしなの発言で源吾郎の脳裏に疑問を植え付けた張本人である。植え付けた疑問の正体を知っているはずだ、と。

 

「萩尾丸先輩。質問があるのですが」

「……わかる内容なら答えるけれど、急にどうしたんだい?」

 

 怪訝そうな声音の萩尾丸を見据え、源吾郎はその質問を放った。

 

「紅藤様が造られた、二匹目の妖怪は、今どこで何をなさっているんでしょうか」

「それは一体何の話かな」

 

 正面を向く萩尾丸の目が、ぎゅっと鋭くなったのを源吾郎は見た。やはり萩尾丸先輩は知っているのだ。

 

「僕が同席したガールズトークの中で、紅藤様がご子息の青松丸先輩を造った事も話題に上りました。三百回近く失敗を繰り返し、苦心惨憺の末に青松丸先輩が生まれたのだと……

 しかし萩尾丸様。紅藤様も峰白様も、二度目に造った妖怪については何一つ言及なさらなかったんですよ。それって不自然ではありませんか? 峰白様はともかく、飛び抜けた記憶力と弟子や息子への情愛を持つ紅藤様までが……」

「逆に問うが島崎君。君は何故紅藤様が妖怪を造ったのが二回なのだと思っているんだい?」

 

 萩尾丸の声音は、目つき同様鋭かった。

 

「僕が紅藤様の傘下に入った時には青松丸がいたから当時の事は解らないが、青松丸を造った所で、紅藤様が妖怪錬成の術を辞めてしまった可能性だってあるとは思わないのかい? 二人が成そうとした術は、妖怪錬成ではなく反魂の術だったようだし」

 

 しかし……源吾郎は言いかけて口を閉ざした。これ以上追及するなと萩尾丸が言外に警告しているのを源吾郎は察したのだ。

 

「――無理に隠し立てしようと思っても、島崎君相手では徒労に終わってしまうわ。いっそ本当の事を話しましょうよ」

 

 萩尾丸と源吾郎は言葉にならない驚きを喉から漏らした。流石に驚いたのか、わずかにハンドルさばきが乱れる。

 源吾郎は恐る恐るミラーを眺めた。眠っていたはずの紅藤が目を開け、紫色に輝く瞳で源吾郎たちを眺めているらしかった。

 

「良いんですか紅藤様。あの事は、一部の八頭衆しか知らないトップシークレットではないですか」

「一部って言っても八頭衆の半分は知ってるのよ。それに――島崎君はきっと、白銀御前様から真相を聞かされているはずよ」

 

 紅藤の言葉に驚いたのは、萩尾丸ではなくむしろ源吾郎の方だった。祖母である白銀御前から雉鶏精一派に関わる秘密を聞かされたという話は、まだ紅藤には行っていない。しかし彼女は、独力でその推測を導き出したのだ。

 呆然とする源吾郎の耳に、紅藤の言葉が入り込む。

 

「ごめんなさいね島崎君。先程峰白のお姉様と話していた胡琉安様の出自は、いわばある種の嘘、対外的なお話になるの。もちろん真実も含んでいるけれど、他の妖怪に怪しまれず、反感を持たれないように真実味でコーティングした作り話よ。だから、胡琉安様は確かに胡喜媚様の血を引いているし、私の息子である事には違いないわ。

――私が造り出した二匹目の妖怪。それこそが雉鶏精一派の頭目たる胡琉安様よ」

「そう……だったんですね……」

 

 源吾郎の声はわずかに上ずり震えていた。

 

「抽出した胡喜媚様の妖力からは、もはや胡喜媚様を復活できないと胡張安様に指摘されたのも事実よ。そこで私は胡喜媚様の妖気の固まりに私の妖気と胡張安様の妖気も少し付け足して、新しい妖怪を、胡琉安様を生み出したの。

 表向きの説明で胡張安様は胡琉安様の父親という事になっているけれど、厳密には父子ではなくて兄弟と言う関係に近いでしょうね……元々は胡琉安様も胡喜媚様の息子という事にしようと思ってたのよ。だけどおかくれになってから百年以上経ってるし、それじゃあ不自然だからって事で、胡張安様の息子、胡喜媚様の孫って言う設定にしたのよ。

 そう考えると、胡張安様も結構気前が良かったわ。新しい妖怪を造るための妖気を分けて下さりましたし、『父親』の名義を使う事も快諾してくださったので――島崎君。これが胡琉安様の本当の出自よ。真実が明るみになると具合が悪いから伏せてはいるけどね」

 

 紅藤が造った妖怪は青松丸と胡琉安。胡喜媚を復活させる術から妖怪錬成の術に転向し、頭目を得た――確かに余人では思いつかぬような荒唐無稽な真実である。

 

 紅藤が語る真実をゆっくりと脳内で咀嚼しながら、源吾郎は深々とため息をついた。雉鶏精一派の秘密について言及した張本人である白銀御前は、紅藤を「師範としてはまたとない存在」であると評していた事を、ふいに思い出したのだった。 



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炸裂! 入社祝いラッシュ

 


 金曜日。斜陽に赤黒く照らされた安アパートの敷地内へ、源吾郎はよろよろと入り込んでいった。田畑の中にぽつねんと佇むこの建物の一室こそが、源吾郎だけの牙城だった。

狭くつましく田舎のど真ん中にある部屋であるものの、源吾郎は案外気に入っていた。青春真っただ中のややこしい年頃である源吾郎にしてみれば、自分だけが寝起きする場所を得たという最大のメリットの前では、他のこまごまとした条件は吹き飛んでしまったのだろう。

スーパーや駅からやや遠い場所に位置しているという条件さえ、源吾郎には大した問題ではなかった。普通の人間ならばママチャリを使っても疲れ果ててしまう場所であっても、源吾郎ならば楽に行き来する事が出来るためだ。その身に流れる妖怪の血は、生粋の人間よりも優れた身体能力や体力をももたらしていたのだ。

 

 さて源吾郎は引っ張っていた通勤用ママチャリをしかるべき場所に駐輪させ、アパートの入口へ歩を進めようとした。普段ならば気にせずそのまま部屋に直行するのだが、今回はそうしなかった。

「私有地につき関係者以外の立ち入りは遠慮願います」と言う月並みな看板の傍らに、三名の男女が控えているのを発見したからだ。大人の男が一人と、これまた成人女性が二人と言う組み合わせだった。いずれも小さいがデザインの良い紙袋を提げている。彼らは互いの関係性――彼らが互いにどういう間柄か、源吾郎もよく知っていた――を示すがごとくくっつき過ぎず離れすぎず、絶妙な距離感を保ってそこに居た。そして彼らの視線は互いに向けられていたが、訪れた源吾郎にもきちんと向けられていた。源吾郎が来るのを見越して、そこで彼らが待っていた事は源吾郎にも解っていた。源吾郎はだから、入り口ではなく彼らの方へと向かっていったのだ。

 

「こんばんは、苅藻叔父さんに叔母上。それに双葉姉様まで来てたんすね」

 

 源吾郎は近付くや否や、砕けた口調で挨拶をした。年長の親族たちに笑みを向けてはいたが、内心では少し戸惑いも感じていた。姉様はさておき、どうして叔父上や叔母上が来ているのだろうか、と。

 

「こんばんは源吾郎。元気そうで何よりだよ」

 

 呼びかけにまず応じたのは叔父の苅藻だった。全体的には普通の人間と変わらぬ姿だが、すらりとした、それでいて貧弱ではない身体つきや涼しげな目許や繊細な鼻梁などは、化身した妖狐の特徴を具えていた。

 

「源吾郎も念願かなって雉仙女の許に弟子入りして、研究センターに勤めてるだろう。今日は金曜日で長い夜になるだろうから、ささやかな入社祝いをやろうと思ってね」

「入社祝い、ですか」

 

 源吾郎が反芻すると、苅藻はさもおかしげに笑った。

 

「前もって言っておくけれど、別に俺もいちかも双葉も今日集まろうって示し合わせたわけじゃあないんだぜ。だけどこうして同じ日時におのおのやって来たんだ。

 面白いと思うだろう、わが甥よ。俺は面白いと思ってるし、内心嬉しくもある。わが最愛の妹、いちかと考えが通い合った気がしてな」

「兄さんってばそんな事ばっかり考えるんだから……」

 

 妙に喜ぶ苅藻の傍らで、苅藻の実妹のいちかはじっとりとした視線を向けるだけだった。末の叔父である苅藻は、親族たちの目から見てもややシスコン・ブラコンの気がある男だった。無論彼の「愛情」は兄が妹に向けるものに留まっているのだろうが、苅藻はいちかが未だに見た目通りの無垢な少女であり、兄に対して未だに信頼と庇護を求めていると思っている節があるらしい。

 苅藻もいちかが生まれるまで末っ子だったので、後から生まれた者たちに「お兄さん風」を吹かせたいらしい。従って他の叔父たちよりも妹のいちかを構い、甥である源吾郎とその兄たちを弟と見做し接する機会が多いのだ。

 実を言えば、源吾郎は親族たちの中で苅藻の事をもっとも好み、実の兄以上に兄のように慕っていた。この叔父は源吾郎に次いで妖狐の特徴が濃く、妖怪絡みのトラブルを解決する術者として働いている所に魅力を覚えていたためである。

 

「私も本当は独りで源吾郎の所に来ようと思ってたの。みんなで大挙してやって来ても大変でしょ?」

 

 いちかが源吾郎を見つめながら呟やいた。彼女は苅藻と違って叔母らしく振舞おうとしているが、年少者を可愛がり指導したいという欲求は、すぐ上の兄とそう変わりはしない。過去は苅藻と共に術者として働いていたそうだが、何十年も前に独立し、今は若手の野良妖怪を「弟妹」と見做して自分の事務所で面倒を見たり働かせたりしているらしい。

 

「去年の秋にあった親族会議の時には、兄様たちも源吾郎も炎上寸前で大変だったって苅藻兄さんから聞いていたの。あんまり大勢で集まったら、源吾郎も委縮しちゃって可哀想だなって思ったんだけど……」

 

 気遣うような表情のいちかに対しては、笑みを返してやった。源吾郎は実は年長者に囲まれる事で戸惑う事は少ない方だ。親族会議の折に炎上寸前になったのは事実だが、別に委縮していた訳でも無い。

 

「私も苅藻叔父さんやいちか叔母さんと同じく入社祝いに来たんだけどね、源吾郎がどんな仕事をやってるのかも聞きたいと思ってるの。姉として就職したばかりの末弟を心配しているって言うのもあるけど、面白そうだから」

 

 姉の双葉はずいとにじり寄り、猫のような瞳で源吾郎を見下ろした。オカルトライターとして日夜仲間や後輩たちと取材・情報収集に明け暮れている姉にしてみれば、源吾郎の今の身の振り方はまたとないネタになると考えているのだろう。何せ九尾の子孫で人間の血も引く若者が、妖怪としての暮らしを知るべく大妖怪に弟子入りしているのだから。

 もちろん、双葉から取材を求められたら源吾郎は快く応じるつもりではある……自分が語る内容が、姉を喜ばせるに値するかどうかは解らないが。

 

「ま、ひとまず源吾郎君の部屋に入ろうじゃないか。こんなところで立ち話と言うのも粋じゃないだろう」

 

 この場での年長者たる苅藻が、アパートの入り口をさりげなく示しながら告げた。今は夕方の中途半端な時間であるが、もう少しすれば他の住人たちが行き来する時間帯を迎えてしまう。そんな中で入り口付近に大の大人が四人も固まっていたら邪魔だし怪しい。

 源吾郎は親族たちを先導するように、真っ先に動いた。苅藻が源吾郎の隣に進み出て、叔母と姉はその後ろを並んで歩く形になったらしい。

  入社祝いのためにと叔父たちや姉がやって来たのに驚いた源吾郎だったが、実は入社祝いそのものは父母や兄たちから受けたばかりだった。

父母からは祝い金を受け取っていたし、今ここにはいない三名の兄たちは、それぞれが選んだ祝いの品を源吾郎の許に送り付けていたのだ。兄たちで何を送るか示し合わせたのかどうかは不明だが、送られてきた品物に彼らの個性が垣間見え、妙に面白さを感じたものだった。

 

「色々言う事はあるかもしれないが、就職おめでとうな、源吾郎」

 

 四人が顔を突き合わせる形で腰を下ろした中、叔父の苅藻がしみじみと呟いた。源吾郎が礼を述べると、苅藻は真面目な表情を作り、言葉を続ける。

 

「して源吾郎。仕事、いや修行はどうだね」

 

 静かに放たれた苅藻の問いに、いちかと双葉の表情が一変した。いちかは心配そうな表情を深め、双葉は好奇に瞳を輝かせた。互いが抱く感情は違えど、源吾郎の暮らしに強い関心を抱いている事は明かだ。

 

「あんまし大した事はしてないんだ。正直な所」

 

 源吾郎は伏し目がちに呟いた。ある種の期待と不安を抱いていたいちかや双葉がどんな表情で相対しているのかは、だから解らなかった。

 

「今のところは紅藤様や、先輩方の雑用を行ってるだけでさ。書類の目録を作ったり紅藤様が培養している組織の培養液の調合を教えてもらったり、あとは……研究センターの敷地をぶらついて、紅藤様が所望なさる植物や虫や蛇やトカゲを捕まえたりするくらいさ。うん、特筆する事は無いよ。座学っぽい事も日に二時間くらいやるけど、それもビジネスマナーがどうとか、割と普通の事だし」

 

 源吾郎は顔を上げ、苅藻たちを見やった。彼が口にした修行、若しくは業務内容は誇張も粉飾も無い純然たる事実だ。めっちゃ強い妖怪に仕える者としての仕事の割には地味ではないか。そんな指摘が飛ぶであろうと源吾郎は踏んでいた。

 ところが、見る限り肩透かしを食らったと言いたげな表情を浮かべている者はいなかった。どちらかと言えば安堵したような、和やかな笑みを三人とも浮かべている。

 

「紅藤様ってこだわりの激しい研究者だって聞いていたけれど、新人教育の方は割とまともになさるんだなーって思うと却って新鮮だわ。だけど、サラリーマンだったら避けて通れない道だものね、下積みって」

「蛇やトカゲを所望なさるって所がやっぱり鳥妖怪らしいなぁ。だが源吾郎も頑張ってるじゃないか。言っちゃあなんだが、初日や二日目くらいで嫌気が差して、三花姉さんや俺の許に泣きつくんじゃあないかって結末も、こちらは考えてはいたんだよ」

「ちょっと苅藻兄さん。いくら源吾郎が温室育ちだからって、そこまで言っちゃあ可哀想よ」

「しかしいちかよ。兄貴たちも俺と同じ考えらしいんだから仕方無いだろうに……いや、兄貴たちは源吾郎がおのれの野望を打ち棄てるのがお望みのようだが」

「ちょっと、俺は下積みがしんどいなんて言うしょうも無い理由で、自分の野望を投げ捨てる事なんてやらないからな!」

 

 黙って苅藻たちのやり取りを聞いていた源吾郎は、ここで思わず声を上げた。苅藻の兄たちが、自分にとっての年かさの叔父たちが源吾郎の決めた進路を未だ快く思っていない事を源吾郎は知っている。さりとてその野望を棄てるつもりなど毛頭も無かった。

 源吾郎の祖母である白銀御前は、末孫たる源吾郎が紅藤に弟子入りする事を認めたのは事実である。しかしその一方で、彼女は源吾郎に強烈なペナルティも提示していた。修業を投げ出した場合、全ての妖力を奪い取りその後の生涯は人間として暮らすようにするというものである。妖狐の血に誇りを持ち心のよすがにさえしている源吾郎にしてみれば、殺されるよりも恐ろしく残酷な処罰に思えたのだ。

 

「いつか、いつの日か俺の事をアホな仔狐だって思っている叔父上たちを俺は見返すつもりなんだぜ。まだ修行は始まったばかりだからしんどいとか辛いとかそういう所はまだ解らないけど、しんどかろうが俺は投げ出さないよ。諦めて投げ出すのなら、叔父上たちで寄ってたかって尻尾を全部引っこ抜いてもらっても構わない。俺は、俺だって巡ってきたまたとないチャンスをふいにしたくないんだからさ。紅藤様って本当にすごいお方だって、話を聞いているだけでもひしひしと伝わってくるもん。それ以上にヤバい所もあるけれど」

 

 親族会議以来の渾身の叫びを、気付けば源吾郎は苅藻たちの前で放っていた。だがこれも彼らの中では想定内だったらしく、急に昂った源吾郎を前にしてほがらかに笑うだけだった。

 

「ははは、少し痩せたみたいだったから正直心配していたんだけど、元気そうで何よりだ。それに、ああ、ひたむきで一本気な所は父さんにそっくりだ。わが甥よ、源吾郎よ。兄貴たちが何と言おうと、お前は大望を果たすだろう。俺はそう思っているぞ」

 

 ややもったいぶった苅藻の言葉に、源吾郎も思わず笑い返した。

 

 それから皆の興奮が収まってから、源吾郎は入社祝いの品を順番に受け取る事と相成った。双葉からはパワーストーン付きのブレスレットと最強の主人公がハーレムを作るという旨の小説を、いちかからはデジタル妖力測定器を、苅藻からはナンパの指南書を受け取った。予想通り、三者のプレゼントはどれもジャンルが被らず、また先に兄たちから貰っていた品物とも全く別のものだった。

 余談として付け加えると、長兄の宗一郎からは自己啓発本とネクタイピンを、次兄の誠二郎からは見慣れないボタンが並ぶ関数電卓を、末の兄である庄三郎からは研究者が好んで使うようなデザインのノートPCを、源吾郎は貰っていたのである。




 PCってほとんどが窓のロゴの奴なんですけれど、研究者と芸術家はリンゴのロゴの奴を使ってそうです(偏見)


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第二幕:修行の始まり
ようやく始まる妖術鍛錬


 この章から物語が動き始めます。


「島崎君。昼イチから妖術の鍛錬を行いましょ」

 

 白衣姿の紅藤は、機嫌よくそれこそ昼下がりのおやつの内容を語るような口調で源吾郎に言い放った。源吾郎は丁度その時消耗品のチップを小箱の隙間に一つずつ詰めていくという至極簡単な雑務をこなしている最中だった。源吾郎は小首を傾げてわずかに考えを巡らせた後、手を止めて紅藤の顔を見つめた。子供でも出来る作業の続行よりも、研究センター長の発言を優先したのだ。

 

「細々とした作業には慣れてきたみたいだから、今日からぼつぼつと新しい事をやってみようと思ったの。妖怪として暮らしていくには、妖術の使い方を習得するのは必須だもの」

「ええ、是非ともご教授ください」

 

 源吾郎は目を輝かせついで声も張り上げた。源吾郎自身も、妖術を学び妖怪としての技と術を習得する事を望んでいたのだ。

齢十八にして既に中級妖怪に匹敵する妖力を持つ源吾郎の才覚は並大抵のものではない。しかしその一方で、同年代の凡狐よりもうんと多い妖力を、妖怪として扱う術をほとんど知らないのもまた事実だった。

 源吾郎は母や叔父や叔母から妖怪の生態やこまごまとした暮らしについては教えてもらっていたが、妖怪としての力を振るう事や他の妖怪と争い打ち負かす術については教えられなかった。親族の中で最も妖怪らしい振る舞いを行っていた苅藻だけは源吾郎に術を教えてくれたが、それも戦闘とは縁遠い類のものだった。

 余人よりも多くの妖力を持っているのにそれを行使できない。そんな日々からオサラバ出来るのだと思うと、源吾郎は心が弾むのを抑えきれなかった。ついでに言えば、紅藤やその弟子たちが、源吾郎の才覚に驚き称賛してくれるかもしれないという考えまであった。

 

「青松丸にお願いして、訓練用の衣装を用意しておいたわ。悪いけれどお昼休みの間に着替えておいてね。白衣はあくまでも研究室の為の衣装であり、闘うための衣装じゃあないもの」

 

 源吾郎は素直に頷き、おのれの衣装を見やった。研究室で作業中のため、源吾郎もまたカッターシャツとスラックスの上に裾の長い白衣を着こんでいる。白衣は薬品や溶剤やその他もろもろの脅威から身体と洋服を護る事に特化した衣装に過ぎない。裾も長くゆったりとした白衣は、言うまでもなく室内向けの衣装だ。

 伝えるべき事を伝えると、紅藤はそのまま源吾郎の許を離れ、研究事務所の中で渦巻く混沌へと戻っていった。まことに気ままそうに見えるその動きを、源吾郎はしばらく眺めていた。それから唐突に一人で噴き出し、たまたま傍にいたサカイ先輩を不思議がらせたりした。紅藤が雉妖怪である事を忘れて鳥のように奔放だと思い、その事に一人で勝手にウケていただけに過ぎない。

 

 妖怪の強さはその身に宿る妖力でおおよそ決まる。生体エネルギーに相当する妖力が多いほど、生命力が高くまた複雑な妖術を行使する事が可能であるからだ。妖怪の中には、身体能力の補強に妖力を充てたり、知能を向上させたりする者もいるのだという。

 人間界で用いる金銭と同じく、あればあるほどその妖怪が出来る事は増えていく。妖怪たちはだから、他の妖怪を捕食したり人間妖怪を問わず他者たちの感情を大きく揺さぶる振る舞いを行ったりパワースポットで修業をしたりと様々な方法でもって妖力を増やそうと画策するものである。

 しかしながら、妖力をふんだんに蓄えただけでは妖怪としての力を十全に発揮できるわけではない。どれだけ妖力を持っていても、それを効率的に用いる術、妖術やその上位互換である仙術などを知らなければどうにもならないのだ。

 そして、当の源吾郎は妖力をほどよく保有しているが妖術をほとんど教えられていない状態にあるという事だ。もし源吾郎が人間として生きる道を選んだ場合、下手に妖術を知っている事が平穏な暮らしへの妨げになるだろうと、母や叔父たちはそう考えていたのかもしれない。

 実際に、源吾郎よりもうんと人間に近い兄姉たちは、妖術を行使する能力を持たないが、特段問題なく人間として日々の生活を送っているらしい。彼らが間違った生き方をしていると源吾郎は糾弾するつもりはない。ただ単に源吾郎は人間として安穏と暮らすのが厭だと思っただけに過ぎない話だ。

 

「ああ……、めっちゃ広いですね」

 

 さて源吾郎は紅藤と青松丸に導かれて訓練場へと到着していた。三人とも白衣姿ではなくいわゆる訓練着に着替えていた。布地は安物のトレーナーに似ているが、着心地はむしろ体操着に似ていなくもない。

床も壁も打ちっぱなしのコンクリートのような灰白色で、数か所には申し訳程度に一畳分の大きさの姿見がはめ込まれている。

 殺風景な空間なので厳密な広さを確かめるのは難しい。しかし少なくとも上階の研究事務所よりは確実に広い。何となれば、先週胡琉安や幹部らと顔合わせをした会議室の二、三倍は広いかもしれない。

 そして驚嘆すべきは、この訓練場自体が地下にある事だろう。外部から見る限りでは研究センターは小ぢんまりとした二階建てに過ぎない。源吾郎自身は地階がある事を前もって聞かされてはいたが、ここまで大規模であるとは思わなかった。この部屋に至るまでの道中に見かけたネームプレートは地階が訓練室のみではない事を物語っていた。下手をすれば、上階よりも広いのかもしれない。

 

「元々はね、主だった研究はこの地下で行っていたの」

 

 源吾郎の言葉を聞いた紅藤が静かに応じた。過去を懐かしむようなニュアンスがその声に滲んでいる。

 

「私たちを、雉鶏精一派や胡喜媚様をよく思わない面々からの襲撃を少しでも防ぐために、この地階を用意したのよ。結界と対象を方向音痴にさせる術を仕掛けてセキュリティ面も完備した状態でね。歳月が流れてメンバーが増えるにつれて研究機材を地上階に持ち出したんだけど、ここのスペースは色々と便利だから残してあるの」

「ええ、そうでしたね紅藤様。僕が幼かったころは、紅藤様がここで研究に励み、峰白様が時々様子を見に来られていたのを今でも覚えていますよ。弟弟子の萩尾丸さんは、地階の部屋を嫌がっていましたけれど」

 

 源吾郎の茫洋とした視線に気づいたらしく、青松丸がちらと源吾郎を一瞥した。紅藤も遅れて愛弟子愛息子のそぶりに気付き、それらしく咳払いをした。

 

「それじゃあそろそろ鍛錬に入りましょうか」

 

 言うや否や、紅藤はパーカーのポケットに手を突っ込み、数枚の紙片を取り出した。漢字とひらがなと梵字を組み合わせたような紋様が記された、ある種の符であるらしかった。紅藤はそれを無造作な様子で投げ上げた。五、六枚ある符たちは重力を無視して舞い上がると、淡く輝きながら形を変えた。変化し壁に張り付いたそれは、直径六十センチ、厚みにして五センチ弱の円形の的であった。田舎の鳥除けのように黄色と黒の同心円状の模様まで再現されている。

 

「今日は妖術の行使の基礎として、自分の体内にある妖力の放出と、対象となる的への射撃を行いましょうか。妖力を弾状に放出するというのが、妖術の中では最も初歩的な技なのよね。妖力を外に出す感覚さえ覚えれば、もっと複雑な術を覚える事も夢じゃあないわ」

 

 的当ては簡単な術なのよ。紅藤は弾んだ声で言い添える。

 

「体内で廻っている妖力を手の上とかに集めて放出して、弾状に放出したのをボールを投げる要領で的にぶつけるって言う塩梅なのね」

 

 紅藤は少しの間源吾郎の様子を窺ってから、もう一度口を開いた。

 

「口で説明するだけじゃあ解り辛いと思うから、実際にやっている所を見てみましょうか……青松丸、お願いね」

 

 短い依頼を受け、傍らに立つ青松丸がゆらりと動いた。ゆったりとした足取りで動き、紅藤や源吾郎からわずかに距離を取っている。歩みを止めた青松丸は、手のひらを上にして右手を上げ、手のひらの先を注視し始めた。

 それを見つめながら、源吾郎は尻尾の毛先が逆立つような感覚を抱いていた。真剣な表情の青松丸の、彼の体内を巡る妖力を早くも察知していたのだ。祖母の白銀御前や萩尾丸などには及ばないが、下級妖怪や弱小妖怪の妖気でもない。温厚で内気そうな姿とは裏腹に、保有する妖力は多そうだと源吾郎は感じていた。

 そう思っている間に、青松丸の手のひらの上には妖気の塊が出現した。テニスボール大の、水色に輝く丸い塊である。表面はかすかに揺らめいて色調を変え、小さな焔である事を示していた。

 青松丸はこの青い焔を手のひらの上で二、三回バウンドさせるとやにわにこれを放り投げた。直線軌道を描きつつそれは的にぶつかり、乾いた音を響かせながら霧散した。青い焔の襲撃を受けた的は、中央の「黒目」の部分にはっきりと円い穴が開いていた。

 的への着弾を見届けていた紅藤が両手を胸の前で組み合わせ、短い言葉を放った。すると今度は壁に固定されていたらしい的たちがゆっくりと不規則に動き出した。青松丸は先程と同じように手のひらの上に焔の弾を作り出し、放り出した。源吾郎の眼には無造作に投げ出したようにしか見えなかった。しかし的以上に奇妙な動きを見せていたはずの焔の弾は、的の一つ――それも先程と同じ中央部分だ――をあやまたず貫いたのだった。

 

「……と、まぁこんな感じかな」

「それじゃ、今度は島崎君の番ね」

 

 紅藤の合図を聞いた源吾郎は、頬を叩いて表情を引き締め、険しい目つきでもって的を眺めた。相手が的で鍛錬であると言えども、意識して何かに攻撃を当てるために妖術を用いるのは、源吾郎にとって初めての経験だった。師範や兄弟子の前で上手く出来るだろうか。そのような不安もあるにはあった。しかし青松丸がさも簡単そうに妖術を行使しているのを目の当たりにしたばかりだったから、自分も見事にやってのけれるだろうという気持ちの方が強かった。

 源吾郎はひとまず背後の四尾を放射線状に広げた。少し意識を集中させると、妖力が血潮のごとく尻尾の中を駆け巡っているのを感じる事が出来た。



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血塗られた系譜 ※猟奇的表現あり

※二話連続で共喰い・近親交配・異種族交配等の猟奇的な表現がございます。苦手な方はご注意ください。


 源吾郎が初めて行った妖術鍛錬は、小一時間ほどで打ち切られた。源吾郎としてはもう少し鍛錬を続けたいところではあった。初めての鍛錬といえど、源吾郎自身が身に着けた事は殆どなかった。前もって覚えている変化術と妖力の放出する術の違いを把握し、放出した妖力を制止した的にぶつける事くらいしか習得できなかった。動く的を追跡できる術は、次回へのお預けになってしまったのだ。

 

「何事もね、あんまり焦ってはいけないのよ。私たちは長く生きるのだから」

 

 研究事務所の奥にある、応接スペースめいた一角に腰を下ろし、紅藤は呟いた。源吾郎はその対面に座っている。両者の手前には、サカイ先輩が気を利かせて用意した飲み物とお茶請けが用意されている。

 

「鍛錬を打ち切られてもどかしい気持ちは解るわ。だけど島崎君が満足するまで続けさせていたら、妖力が底をついて倒れてしまうかもしれないし……妖術を学び始めてすぐの子たちは、どうしても必要以上に妖力を消費してしまう傾向にあるのよ。ええ、私も他妖の事は言えないけどね」

 

 神妙な面持ちで源吾郎は紅藤を見ていた。紅藤はフォローするように目を見張りつつ言葉を続ける。

 

「とはいえ島崎君。鍛錬の様子を見る限りでは、中々筋は良さそうだと思ったわ」

「本当ですか!」

 

 先程までの表情はどこへやら、源吾郎は面を輝かせさも嬉しそうに声を上げた。紅藤の言葉が世辞ではなく本心であると気付いたためである。喜ぶ末弟子を前に、紅藤も笑みを深めた。

 

「妖力の多さは言うに及ばず、失敗したり上手くいかなくてもへこたれずに向かっていくところとか、創意工夫を重ねようとしている所が良かったわ……やっぱり、桐谷のお坊ちゃまによく似ているわね」

 

 良い所を語って聞かせる紅藤を前に、源吾郎の顔から笑みが消えた。源吾郎の美点について語るとき、紅藤はしばしば「桐谷のお坊ちゃま」を引き合いに出していた。母方の祖父の事を言っているのであろう事は源吾郎にも解るのだが、祖父を引き合いに出されて褒められても源吾郎は嬉しくなかった。むしろ癪に障るくらいである。

 あらどうしたの島崎君。源吾郎の剣呑な視線を感じた紅藤が、のんきな口調で尋ねる。

 

「紅藤様。僕の事を高く評価して褒めてくださるのは実に嬉しゅうございます。ですが、祖父を引き合いに出して褒めるのだけは控えていただけませんか」

「島崎君は、桐谷のお坊ちゃまが、お祖父さまの事がお嫌いなのかしら?」

 

 困惑したような表情の紅藤に対して、源吾郎は言葉を詰まらせた。祖父を引き合いに出される事を嫌がっている源吾郎であったが、祖父が嫌いかと面と向かって聞かれると返答に困ってしまう。そもそも祖母との接触すら数えるほどだった源吾郎は祖父とは面識がない。何せ人間だった祖父は二百年以上前にこの世を去っており、母も叔父たちも彼について特に言及しなかったのだから。末の叔母であるいちかに至っては、祖父が他界した時にはまだ物心がつく前の乳児だったという。

 

「別に、僕は祖父が嫌いでも何でもありませんよ。何百年も前に亡くなった人間だという事くらいしか僕は知りませんし……

 紅藤様。紅藤様はご自分が()()自分の弟子にしたかご存知ですよね? わが祖母の盟約を受けて、()()()()()()()を紅藤様はもらい受けたんですよね。しかも、祖母が紅藤様と盟約を交わした際は祖母は独り身で祖父の存在を知るうんと前だったと聞きます。紅藤様が桐谷のじいさまの子孫を弟子に求めたのだとすれば、いくらでも僕の事を桐谷のじいさまに似ていると言っても構わないでしょう。しかし、玉藻御前の子孫を求めたのに、玉藻御前の血統をないがしろにして、その途中で混じり込んだ人間の事ばかりもてはやすのはいかがな事かと思いますが」

 

 源吾郎は常々思っていた事を、それでも声の調子を抑えつつ紅藤にぶつけた。玉藻御前の末裔として活躍したいと思っている源吾郎にしてみれば、人間の祖父の事ばかり引き合いに出されるのは不愉快なのだ。ましてや、源吾郎はおのれに流れる人間の血を半ば疎んでさえいるのだから。

 紅藤はこの長々とした主張を聞き入れていたが、源吾郎が言い終えたところでほほ笑んだ。

 

「うふふふふふ。中々面白い子ねぇ島崎君は。あなたは桐谷のお坊ちゃまに重ね合わせてほしくないと私に必死で主張してくれたけれど、今までのあなたの言動の中で、()()桐谷のお坊ちゃまらしかったわよ」

 

 紅藤の言葉に源吾郎は横っ面を張り飛ばされたような衝撃を受けていた。もしも上司の前でなかったら、「なんてこったい」とか言いながら頭を抱えていたところである。

 

「島崎君は玉藻御前さまに似ていると言って欲しいのでしょうけれど、生憎私は玉藻御前さまの事は知らないのよ。私が生まれる二、三百年も前に、あのお方は封印されてしまったわけですし。それにね島崎君。私は桐谷のお坊ちゃまの事を高く評価しているのよ」

「評価するも何も、祖父だって所詮はただの人間だったんじゃあないですか……父と同じように」

「三花さんの婿君はさておき、桐谷のお坊ちゃまはただの人間ではなかったわ」

 

 源吾郎は反駁するのをやめ、目をしばたたかせながら紅藤を見つめた。ずっと笑っていただけの紅藤の顔に、険しさが宿ったのを感じ取ったためである。

 

「島崎君。あなたは半妖や妖怪のクォーターに馴染みがありすぎるから見落としていると思うけれど、そもそも人間が妖怪と結婚し、のみならず生まれ落ちた半妖の仔を養育する事は、なまなかな事ではないのよ。普通の人間ならば、妖怪と結婚する事も、しようと思うことすら難しいのに」

「……そうかも、知れませんね」

 

 か細い声で源吾郎は応じた。妖怪は人間社会にも妖怪社会にも数多く存在するが、半妖やその子孫の個体数が極めて少ない事は源吾郎も知っている。身内以外で源吾郎が知っている半妖といえば狗賓天狗を母に持つ薄幸そうな青年くらいだ。(この天狗の若者は源吾郎の叔母の弟分という立場に収まっているが、それはまた別の話である)

 それはとりもなおさず妖怪と人間の異種族婚が極めて少ないという事実に対する動かぬ証拠であろう。ついでに言えば半妖のほとんどは妖怪の母と人間の父という組み合わせである。人間の女性は、半分は自分の血を継いでいるとはいえ異形の仔を胎内で育てる事は出来ないためだ。

 

「そろそろ話す時期が来たのかもしれないわ」

 

 紅藤が静かな口調で呟いた。彼女の声は小さかったが、不思議な事に源吾郎はその声を明瞭に聞き取れていた。

 

「白銀御前様と、桐谷のお坊ちゃまが出会ったきっかけを話してあげるわ。あまりにもえげつない内容だから話さずにいられるのならばそれが良いのかもしれないけれど……だけどこの話で、何故私が桐谷のお坊ちゃまを尊敬しているか、きっと解ってくれると思うわ」

 

 いつになく深刻そうな表情の紅藤を前に源吾郎は黙り込んだままだった。白銀御前との接触もほとんどなく祖父の存在も概念的にしか知らぬ源吾郎は、種族の異なるこの両者がくっついたきっかけをもちろん知らなかった。何せ半妖の母と人間の父が結婚したのも、「互いに仲良しだったから」なのだと思っているくらいなのだから。

 

「桐谷のお坊ちゃまは、播州中西部では名うての術者として有名な桐谷家の七男坊でした」

「そう、らしいですね……」

 

 話を始めた紅藤に対して源吾郎は頷いた。術者というのは妖怪絡みの困り事を解決するのを生業にしている者たちの総称である。流派も信条も様々であり、妖怪に対して友好的なものもいれば、敵対的なものもいる。妖怪が術者に協力している事もあるし、狐や天狗などが術者になっている事もある。悪質な者の中には、おのれの昏い欲望を満たすために罪もない野良妖怪を惨殺したり悪趣味な連中に売り飛ばしたりする者もいるそうだ。

 身内では叔父の苅藻と叔母のいちかが術者だったが、彼らは決して源吾郎に術者の道を歩ませようとはしなかった。

 

「桐谷家は畏れられておりましたわ。普通の人間たちのみならず、敵対していた妖怪や同業者たちからもね。彼らは賀茂家や土御門や蘆屋家などといった由緒ある血筋ではありませんでしたが、逆にだからこそ実力ある血族である事を示すために、様々な事を行って優秀な術者を輩出しようとしていたの。その過程で妖怪を捕らえて食べてみたり、一族の中で能力のある者同士をかけ合わせてその能力を次代に継がせようとしたりとね。桐谷のお坊ちゃまが生まれる頃には、あの一族は大分血が濃くなっていたはずなのよ。いとこ婚は言うに及ばず、兄妹や姉弟、場合によっては叔父と姪などで子作りする流れが二、三代前に出来てしまったらしいのよね。ええ。無節操な近親婚を繰り返した事で、桐谷家は人間離れした、突出した能力を持つ術者を輩出する事が出来ていたわ……華々しく活躍する術者たちの裏では、彼らよりも多くの者たちが、死産や流産、生まれついての重篤な畸形に苦しんでいたわけですが」

 

 源吾郎は喉と舌の渇きを覚え、そっとカップに口をつけた。近親婚のくだりから、紅藤の口調は重々しいものになっていた。自然科学の中でも特に生物学に詳しい彼女であるから、近親交配が何をもたらすかを源吾郎以上に詳しく知っているのだろう。

 紅藤の面に陰鬱そうな兆しが浮かぶのを見つめているうちに、源吾郎の心中にも暗雲が立ち込めそうだった。優秀な血族を輩出しようとする為の執念はおぞましく恐ろしい。しかしまだ話は序盤に過ぎないのだ。

 

「ちょうどその頃、島崎君のお祖母さまにあたる白銀御前様は播州の地を放浪しておりました。元々は京の洛中でお生まれになったそうですが、畿内にいる術者や伏見のお狐様たちやその他諸々の有力な妖怪たちとの軋轢を避けるために、都を離れたのでしょう。大昔は、関所より西部になるとうんと閑散とした場所になっていると思われていたそうなので。

 とはいえ、白銀御前様はどこで暮らそうとも多くの者たち――私たち雉鶏精一派も例外ではありません――から注目されておりました。玉藻御前のご息女であり、彼女自身も大妖怪である事を思えば致し方ない事ですわ。ある者は白銀御前様の配下になりたいと望み、ある者は白銀御前様を打ち負かし隷属させたいと企んでおりました。中には、彼女を殺してその血肉を得ようと思っていた手合いもいたくらいです。大陸では九尾の肉を食した者は妖術にかからず呪いの術を跳ね除ける効能を得る事が昔から知られていたからね。九尾でなくても、ある程度の妖力を持った妖狐の肉でも、同じような効果が得られるそうよ」 

「…………祖母は僕たちの前にほとんど姿を見せないのもそのためなんですね。それで、桐谷家も祖母の力にあやかろうとした者たちの一つって事ですよね?」

 

 その通りよ。とつとつとした問いに紅藤は力強く頷いた。

 

「妖怪を喰い荒らし多くの犠牲を払ってでも優秀な術者づくりに励んだ一族なんだから、白銀御前様という存在を放っておいたりはしないわ。桐谷のお坊ちゃまの父親、当時の桐谷家当主は、近辺に住むという白銀御前様の存在を知って、『飯縄計画』を思いついたの。

 計画といっても、内容自体は実にシンプルなものなのよね。白銀御前様と自分の息子たちを交配させて、それによって手に入れた仔を使い魔にするという内容だったはず。

 白銀御前様に産ませた仔をどうやって使うか、当主は色々と考えていたそうよ。最前線で妖怪と戦わせる事もできるし、禁術の素材にもなるし、ある程度育ててから妖力を取り込む事も出来るだろうし、とね」

「そ、そんな事を考えていたんですか、俺の、ご先祖とやらは」

 

 紅藤の説明を遮り、源吾郎は思わず叫び声をあげていた。紅藤が頷くのを見ていると、震えが止まらなかった。

 

「少なくとも当主とその息子たちの多くは、打ち立てた計画が遂行できると考えていたそうよ。実際彼らには、その計画を行使できる素養を持っていたのよ。技能的な意味ではなく、()()()()()()な意味でね。

 実を言えば、桐谷家が近親婚を行ってから術者一族として強力な存在になっていたのは、強力な術者が生まれるようになったというだけでもないのよね。あの一族は近親婚を重ねるとともに、邪悪な禁術にも精通するようになったの――外から用意しなくても、()()の準備に事欠かなかったらしいからね。

 直截的な表現をすると、彼らは実の子や身内の生命を奪い、あまつさえその血肉を食する事すらためらわないような存在だったの。強い後継者を残す為ならと考えていたのか大陸で流行っていた風習に倣っていたからなのかは私にも解らないわ。一つ言える事は、彼らが実の身内であっても道具として扱う事の出来る倫理観を持ち合わせていたという事だけよ。さもなくば、自分の息子を妖狐と交配させ、それで生まれた孫を使役しようなどとは考えないでしょうね」

 

 固く握りしめた拳が、汗でぬめるのを感じた。もしかすると爪が皮膚に食い込んでわずかに出血しているのかもしれない。

 手のひらの状態はさておき、どうにもこうにも衝撃的過ぎる話だ。源吾郎も無知な坊やではないから、近親婚や人肉食という悪しき風習があった事は知識として知っている。紅藤の指摘通り、大陸では人肉食が普通にあり、配偶者や実子の肉を食べた話がある事も知っている。

 しかし、それらの恐るべき行為が、おのれの数代前の先祖らが関与していたと聞いて、どうして心穏やかでいられようか。脳で理解する事と心で受け入れる事は別問題だ。そのような考えが源吾郎の脳裏には鮮明に浮き上がっていた。

 源吾郎ののっぴきならぬ心中を察した紅藤が、わずかに笑みを浮かべた。

 

「ああ、だけど安心して頂戴島崎君。飯縄計画は、桐谷家当主の恐るべき計画は結局のところ頓挫した訳なのですから。だって現在、桐谷家は過去を知る者が名を知っている程度に没落してしまいましたし、白銀御前様の御子たちはほとんど一人前になっている訳ですし――そして、その悪しき計画を打ち破ったのが、ほかならぬ桐谷のお坊ちゃまであり、のちに島崎君の祖父になる若者だったの。

 桐谷のお坊ちゃまは、汚泥の中から咲き開く蓮の花のような方だったわ。父が企み兄たちがなそうとしている事の裏をかき、どうにかして白銀御前様を彼らから遠ざける事が出来たのよ。私たちも忙しかったから詳しい事までは知らなかったけれど、桐谷のお坊ちゃまは紛れもなく才覚に溢れた術者で、しかもその能力を正しい方向に使ったの」

 

 源吾郎はここで一息ついた。おのれの出自にまつわる物語は、想像以上にえげつない代物だった。紅藤も重々しい表情で語っていたのだが、「桐谷のお坊ちゃま」について言及する頃には幾分柔らかな顔つきになっていた。

 

「紅藤様。雉鶏精一派が新たに立て直される時も激動のドラマに彩られておりましたが、まさか僕の、僕の母や叔父たちの出自までここまで波乱に満ち満ちていたとは……

 先祖たちの不気味な計画を聞かされた時には肝が冷えましたが、話を聞いているうちに安心してきましたよ。僕たち一族がなんだかんだありつつも元気でやっているという事は、要するにハッピーエンドという事ですよね。『悪しき計画により狙われていたキツネのお姫さまは、優しく勇敢な王子さまと一緒になり、可愛い子供たちに囲まれて幸せに暮らしました。めでたしめでたし』って言う感じですかね」

 

 安心しなかば調子に乗った源吾郎の発言に、紅藤は思いがけず笑い出した。しかも普段見せるほがらかな笑みではなく、翳りのある陰鬱な笑い方だった。

 

「あら島崎君。私は子供だましのおとぎ話を話していたわけじゃないのよ。確かにラブロマンスに相当するかもしれないけれど、あくまでも白銀御前様と桐谷のお坊ちゃまが、血で血を洗う争いと因縁に立ち向かい、愛するものを護り抜く経緯を話しているだけに過ぎないわ」

 

 紅藤は一呼吸置くと、静かに言い足した。

 

「確かに白銀御前様は桐谷のお坊ちゃまと結ばれたわ。だけどそれはエンディングなんかじゃなくて()()()()()に過ぎないわ。おぞましい執念に立ち向かう血塗られた物語は、ここから始まるの」

 



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黒き羊の辿る道 ※猟奇的表現あり

 引き続き、一部猟奇的な表現を含みます。


「プロローグに過ぎない、ですって」

 

 妙に芝居がかった調子で放った紅藤の言葉を、源吾郎は食い気味に繰り返した。汗ばむ手のひらは開かれ、紅藤の話を聞こうとするあまり前のめりになっていた。

 紅藤は源吾郎がどのような反応を示そうとも、源吾郎の母方の系譜にまつわる話を語りきるつもりであろう。もったいぶった紅藤の物言いは源吾郎の好奇心をくすぐったが、これ以上聞くのが怖いと感じているのもまた事実だった。近親婚に夥しい犠牲を伴う禁術、そして白銀御前の存在から端を発した邪悪な計画……これらの事柄の詳細を聞かされたわけではないが、内容が内容だけに「お腹がいっぱい」になりそうだ。

 

「白銀御前様と桐谷のお坊ちゃまの真の苦難は、むしろ一緒になった後に訪れたようなものですわ。二人はすぐに子宝に恵まれましたが、そもそもただ子供を育てるだけでもなかなか大変な事なのよ。桐谷のお坊ちゃまは成人していたとはいえ経験の浅い若者でしたし、白銀御前様も立派な大妖怪でしたが、子供を産み育てるという経験は初めてでしたし。普通狐は、妖狐にしろ普通の狐にしろ、出産経験のない女狐は母親や姉に仔育てを手伝ってもらうそうですが、あのお方にはそのような選択すらできなかったのです」

 

 固唾を飲んで話を聞く源吾郎を見据えながら、紅藤は言葉を続ける。

 

「それに、彼らの事は桐谷家当主とその息子らが虎視眈々と狙っていたのです。桐谷のお坊ちゃまは当主の末息子だったのですが、その時にはもはや計画をぶち壊しにした忌まわしき裏切り者と見做されていたのです。それと共に、白銀御前様の事も恐れていたのでしょう。当主の息子らの中で最も術に長け、優秀だった末息子を籠絡し骨抜きにした悪女であるとね」

 

 紅藤様。話の途中である事は承知していたが、源吾郎は思わず口を挟んだ。

 

「僕の祖母は本当に祖父を誘惑し、籠絡してしまったのでしょうか。玉藻御前様の娘という事で母親と同じく悪女・毒婦だと思われていたのかもしれませんが、僕にはそうは思えないのです」

 

 問いかけを口にする源吾郎の脳裏には、昨秋の親族会議の光景が浮かんでいた。彼の祖母、白銀御前は確かに並外れた、異形らしい美貌の持ち主であった。しかしそのたたずまいや雰囲気は、混沌と破滅をもたらす亡国の妖婦というものとは違っていた。むしろ混沌の地に秩序の道を敷く女帝、苛烈さと慈愛を併せ持つ女傑のような雰囲気の持ち主だった。

 そうね。紅藤は源吾郎の意見に同意するかのように頷いた。

 

「色事は当事者同士にしか解らない事が多いけれど、私も白銀御前様が桐谷のお坊ちゃまを籠絡したとは思えないわ。あのお方は、うっとうしい相手は籠絡して丸め込むよりも煙に巻いて追跡を諦めさせるか、それが無理ならさっさと殺してしまうという手段を選ぶタイプですからね……少なくとも桐谷のお坊ちゃまが白銀御前様に熱烈に惚れていたのでしょう。そして白銀御前様もその熱烈さにほだされて、夫として迎え入れたのではないかと私は思っているわ。孤独に気高く暮らしていた者が、他者の好意にコロリとやられるという話は、案外多いものですし」

 

 源吾郎が安堵したように息を吐くのを見届けると、紅藤は真顔に戻って言葉を続けた。

 

「ともあれ、桐谷家は飯縄計画を諦めてはいませんでした。白銀御前様を桐谷家の支配下に置く事は難しそうだと考えたわけですが、その代わり白銀御前様の手許には、桐谷のお坊ちゃまとの間に生まれた仔がいたわけです。その仔たちを彼らは狙っていました。生け捕りに出来ればいいと考えていたようですが、或いは死体を手に入れるのでも構わないと考えていたみたいなのね。

……桐谷一族と白銀御前様一家との争いは、ゆうに二、三十年ばかり続きました。実に長い闘いだったはずですわ。白銀御前様にとっても、桐谷のお坊ちゃまにとってもね。その頃には三花さんも一人前の娘に育っていて、残った三花さんの弟たちも両親や姉の庇護のもと育っていったのよ。あの頃は親兄弟の結束も堅かったみたいよ。半妖という出自と、身近に脅威が迫っている事を考えると無理からぬ話ですけれど」

 

 身内からは聞かされなかった身内争いの話を源吾郎は聞き入っていた。それから源吾郎は、紅藤の放った言葉に違和感を抱き、それをすぐに口に出していた。

 

「紅藤様。残った弟とはどういう事でしょう?」

 

 母が五人兄弟の長女である事は源吾郎もずっと前から知っている。叔父が三人(苅藻だけは上の叔父二人よりも幾分年下らしいが)と叔母が一人である。途中から年齢差が大きいが、それでひとまとまりの兄弟なのだと源吾郎は思っていた。

 紅藤は紫色の瞳を向けながら、臆せず問いに応じた。

 

「生き残った、という意味よ。あなたの叔父である小国丸さんと留彦さんは、本来それぞれ次男と五男なの」

「そうだったん、ですね」

 

 源吾郎はかすれ声で応じた。紅藤は伏し目がちに頷いた。

 

「私たちが萩尾丸と出会う前後の事なのですが、桐谷家は一時、一体の恐るべき使い魔を保有していた時期があったのです。私たちは白銀御前様とも桐谷家ともそれほど接触していませんでしたが、くだんの使い魔の噂は、他の妖怪たちから聞き及んでおりました。

 多くの生物を犠牲にして作り出す、蠱毒の術を応用したものだったそうですが、大本の素体として、玉藻御前の子孫を使ったのだと喧伝していましたね。実際に目撃した妖怪によると、狐と人と、その他諸々の小動物や蟲が融合したような、直視しがたい姿だったそうよ」

 

 別段口内炎などないのに、口の中に血の味が広がっていくのを源吾郎は感じた。紅藤の瞳はあくまでも昏かった。

 

「……桐谷家が没落していったのはそれから数年後の事よ。あの一族は幾分恨みを買いすぎ敵を作りすぎたのよ。最高の出来だと謳っていたくだんの使い魔も、まともに従わずに一族の人間を喰い殺していたそうですし。

 ちなみに、玉藻御前の子孫を基にしたという使い魔は、一族が没落の憂き目に遭う前に始末されていたわ。桐谷家は白銀御前様たちに使い魔をけしかけたらしいけれど、返り討ちに遭ってしまったの。使い魔を斃したのが白銀御前様なのか桐谷のお坊ちゃまなのか、或いは彼らの子供たちなのか。そこまではさすがに私も知らないわ」

「それって……それって……」

 

 喉元までスタンバイしている単語は、硬く粘っこくつっかえて出てこなかった。源吾郎はしばし紅藤の昏い瞳を見つめていたが、視線を外しさまよわせ、思案に暮れた。

 源吾郎はもう一度親族会議の時の事を思い出していたのだ。ただし今回は祖母ではなく叔父たちの事を思い出していた。厳密に言えば、小国丸や留彦といった年かさの叔父たちの事を。源吾郎が妖怪として生きる道を選び、ゆくゆくはおのれの野望を叶えるつもりだと言った時に、最も反発したのはこの二人の叔父だった。

 その時の源吾郎は、自分の主張が認められるかどうかで頭がいっぱいだったから、あからさまに敵意を示す叔父たちの事を鼻持ちならないと思っていただけだった。一族で等しく安穏とした生活を送る事を至上命令とし、そうでないものを力づくで矯正しようとする叔父たちが不気味で気に入らなかった。気に入らなかったのは、自分の進む道を頭ごなしに否定されたからに過ぎなかったからだったが。

 しかし今は違う。今しがた紅藤から話を聞かされた源吾郎は、あの日の親族会議の光景を、今迄とは違った視点で俯瞰する事が出来た。あの日源吾郎が妖怪として生き、そして最強を目指すと言い放つのを、上の叔父たちが阻止しようとした真の理由をこの時悟ったのだ。

 彼らは単に、末の甥が道を踏み外す事に怯えていたのだろう。いずれはあの時と同じく、自分たちが化け物になった甥を殺さねばならないのか、と。

 

「それにしても、こんなえげつない話は初耳ですよ。妖怪の事を僕に教えてくれた叔父上、苅藻の叔父上でさえ、親族にまつわる秘密までは言及しませんでした」

「さっき話した内容は、苅藻君が教えられる内容ではないから仕方ないわ」

 

 源吾郎が慕っている叔父の名を出すと、さらりとした口調で紅藤が応じた。

 

「苅藻君が今私が話した内容をどれだけ知っているか私には解らないわ。何も知らないのかもしれないし、ほとんど全てを知っているのかもしれない。

 だけどいずれにしても、苅藻君は上の兄たちとは違うのよ。あの子は桐谷家と白銀御前様との血みどろの争いが終わったうんと後に生まれたのだから。たとえ両親と姉兄の労苦と恐怖を教えてもらっていたとしても、実際にあの子は危険と隣り合わせで育ったわけではないわ……上の兄たちと温度差があるのもそのためよ」

 

 源吾郎は小首をかしげ、わずかに首を揺らした。末の叔父である苅藻が、上の叔父二人とは何となく違う事は源吾郎もずっと前から解っていた。叔父二人と苅藻との間に大きな年齢差があるからかと思っていたのだが、それだけでもなかったという事だろう。

 

「島崎君。私が白銀御前様と盟約を交わしていた事は知っているわよね」

「もちろん、知ってますよ」

 

 唐突な質問であったが、思う所のあった源吾郎は食い気味に応じた。

 

「紅藤様。祖父母が苦労なすっているのをここまで詳しくご存じであるのならば、それこそ、祖父母たちにお力添えする事も出来たのではありませんか?」

 

 やや上目遣い気味に源吾郎は紅藤を観察していた。紅藤は困ったような表情で、ゆっくりと首を振るのみだった。

 

「言い訳がましくなるかもしれませんが、私もそれが出来ればどんなに良いかと思っていたの。だけどあの頃は私も自分の事で一杯一杯でそれどころじゃなかったの。それに白銀御前様は私に対して多くを求めてはこなかったわ。あのお方は夫と仔を護る為に助力してほしいと私たちをすがる事は無かったの。私たちの事を警戒していたからなのかもしれないし、大妖狐の娘であるという矜持の為だったのかもしれない」

 

 だけどね。紅藤はそっと言い添えた。

 

「第一子である三花さんには私との盟約の事は教えていたみたいなの。当時は桐谷のお坊ちゃまも若くて術者として未熟だったし、白銀御前様も色々不安が募っていた時期だったんでしょうね。もちろん私たちの許に直接やって来て直談判した訳じゃないわ。だけど雉鶏精一派の拠点の近辺を、白銀御前様が幼かった三花さんの手を引いて何事か話していたところは、峰白のお姉様や青松丸が見ていたの。きっとその時に、白銀御前様は娘に伝えていたんじゃないかしら。それこそ、お母さんやお父さんがいなくなった時には、あすこの雉仙女の許を頼りなさいとかってね」

 

 やはり母様は知っていたんだ。源吾郎は紅藤をひたと見つめながら思った。源吾郎が紅藤の許で修業を始めると言った時、兄姉は言うに及ばず年長者であるはずの叔父たちでさえ強い驚きを示していた。にもかかわらず、母だけは特段驚いた素振りを見せずに、祖母と源吾郎のやり取りを落ち着いた様子で聞いていたのだ。

 

「私は三花さんを弟子にしようとは思っていなかったわ。彼女は弟子入りを望むほどに私たちに興味は示さなかったし、何より彼女をあの方たちから取り上げたら気の毒だと思っていたし。

――むしろ私は、末息子の苅藻君を狙っていたのよ」

「叔父上を、ですか」

 

 源吾郎は声を上げていた。紅藤は紫色の瞳で源吾郎を凝視し、それからふっと笑った。

 

「そりゃあ私だって、早く玉藻御前の子孫を手に入れたいと思っていたもの。素養のありそうな仔がいれば、アプローチの一つや二つかけるわよ。幼かったころの苅藻君と、島崎君は結構似通ったところがあるのよ? あの子も元々は、兄たちとさほど意見が合わず、孤立気味だったし」

 

 唸るような音を喉の奥から出しつつも、源吾郎は納得したような気分で紅藤の説明を聞いていた。叔父たちの中で苅藻だけが特に源吾郎に優しく親しかったが、それはあるいは末の甥の中に、若かった頃のおのれの姿を投影していたからなのかもしれない。物憂げな孤独の色がよく馴染む、苅藻叔父上らしいとも思っていた。

 

「……こっちがどうやって仲間に引き入れようか考えているうちに、苅藻君には妹が出来たの。それで私は苅藻君を弟子にするのは諦めたのよ。三花さんも小国丸さんたちも、年の離れた末妹の事をそれぞれ気にかけていたわ。だけどいちかちゃんの面倒を一番見ていたのは、すぐ上の兄の苅藻君なのよ」

 

 苅藻といちかの関係性を提示された源吾郎は得心の言った気分でいた。末の叔父と叔母がなんだかんだ言って仲がいいのを源吾郎もよくよく知っているためだ。

 

「いちかちゃんが産まれたすぐ後に、桐谷のお坊ちゃまはおかくれになってしまいましたからね。物心つかないうちに父親がいなくなった事を不憫に思っていたみたいよ。苅藻君以外の兄弟もそうだけど、自分たちがあの娘の父親代わりにならなくてはという意気込みもあったのかも」

 

 これにも源吾郎は頷いていた。叔母であるいちかとは苅藻と同じくらい会って話をする間柄だ。源吾郎はだから、彼女の中で「父親」と「兄」の概念がごっちゃになっていると気がある事も知っている。

 ついでに言えば源吾郎も兄と父親がごっちゃになる事はある。長兄や長姉は時に源吾郎の保護者のような言動を行う事もあるし、島崎家の家族構成を知らないものからは、源吾郎が長兄か長姉の若くしてできた息子と誤解されたこともしばしばあったためだ。

 

「それもこれも、みんな父親の事を……桐谷のお坊ちゃまを慕っていた事の証明になるでしょうね。骨肉相食む争いの中で、犠牲が出ようともあの人は屈する事なく妻子を護り抜いたんですから。そしてその術を娘や息子たちに教えようとしたのよ――現に末息子の苅藻君は術者になっているでしょ? 桐谷のお坊ちゃまも老い先短くなっていたという事もあって、幼かった苅藻君に特に術を教えていたからなのよ。まぁ、最後の仔であるいちかちゃんが産まれたのがうんと後の事だから、桐谷のお坊ちゃまも結構長生きで、しかも元気な方だったんですけれど」

「……今回の話で、何か色々と解る事がありました」

 

 源吾郎は紅藤をじっと見つめて呟いた。話の途中から祖父のすごさから脱線していたような気もしたが、それでも若い源吾郎にとっては興味深い話であった。母方の親族たちとは比較的交流があったが、それでも謎に思う所は多々あったのだ。紅藤が謎のすべてを明らかにしたとは思っていないが、一族が秘密を抱えている事、そして大人は子供たちに対して知られたくない秘密を巧妙に隠し通してしまう事を源吾郎は知った。

 

「完全無欠とは言いがたいかもしれないけれど、それでも桐谷のお坊ちゃまは立派なお方だったわ。何のかんの言いながら、妻と子供たちへの愛を貫いたのですから。そんな桐谷のお坊ちゃまの形質をよく受け継いだ島崎君ならば――」

 

 未来への期待と過去への郷愁に満ち満ちた紅藤の言葉を聞きながら、源吾郎は静かにほほ笑んでいた。源吾郎は大成すると紅藤は言いたいのだろう。

 源吾郎は今や祖父の事を単なる人間とは思っておらず、彼に重ね合わせられることへの抵抗も薄れている。だがそれでも、祖父と自分は違うのだと思っていた。祖父は愛する対象のために多くの逆境を乗り越えてきた。しかし源吾郎にはモテたいという願望はあれど、誰かを真に愛しているという自信は未だ無かった。

 源吾郎は人間としても妖狐としてもまだ幼いが、それでも異性に好かれる事の願望と、愛情の違いくらいは判っていた。




※黒い羊……一族の中で異端者を指す事が多いですね。
 個人的なイメージとして、優秀な家庭の中で一人だけ問題児、みたいな感じでしょうか。


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初体験(戦闘)到来の予感

 タイトルはアレですが健全な内容です(笑)


 初めて訓練場に連れられて二週間ばかり経つ。春が通り抜け初夏の気配が漂い始めたなか、今日も今日とて源吾郎と紅藤は訓練場に籠っていた。

 怪しげな地下室に朝から籠るなんて不健全だと指摘されるかもしれないが、訓練場での鍛錬は一日につき九十分――奇しくもこれは大学の講義の一コマと同じである――のみであり、鍛錬が終われば早々に上階に戻るので別段不健全な事は無い。そもそも上階に戻ったところで勤務時間の八割は研究室に籠っているのだからなおさら問題はない。

 

「行くか行くか行くか……おっしゃあ!」

 

 自身が放った追尾型狐火の動きを見ていた源吾郎は、はしゃいで声を上げた。筆箱程度のサイズに調整した狐火は、紅藤が用意した不気味な異形の姿をした的の中央を射抜き、乾いた音を立ててはぜていった。何度も同じような光景を目の当たりにしているというのに、源吾郎は良い気分になっていた。さっきのも会心の一撃だったが今のもそうだ……全くもって子供らしい、ある意味年相応の気持ちに浸っていたのだ。

 

「見事な技捌きね、島崎君」

「わひゅっ」

 

 突如として聞こえた紅藤の声にびっくりした源吾郎は、奇妙な声を上げてしまった。驚いて目を白黒させる源吾郎を見つめる紅藤の顔には、実に屈託のない笑みが広がっている。

 

「妖力を意図的に放出するトレーニングを始めてからまだ半月しか経っていないけれど、出力も制御も大したものよ。出力の多さはさておいて、制御の塩梅は中々のものだと思ってるわ。少し前から思ってたけれど、島崎君って器用よね」

「あはは、褒めていただきありがとうございます」

 

 紅藤の評価に対して、源吾郎は笑い声を混じらせつつも礼儀正しく応じた。源吾郎は自分が器用な男であるとは思っていない。真に器用な男であったならば、とうに自分の求めている物――仲間たちからの称賛と純真な乙女との交流だ――を手に入れているはずだ。

 源吾郎は器用だと評される事が往々にしてあったが、それは単純に手先が器用だという話に過ぎない。

 傍らの紅藤は取り出したタブレットの画面と源吾郎を交互に見つめながら、数値を交えて考察を続けていた。彼女の言葉をきちんと聞いていた源吾郎ではあったが、内容は残念ながら理解できなかった。研究センターに就職した源吾郎であるが、実は文系肌で数字絡みの事柄は算数を習っていたころから苦手だったのだ。雇い主にして師範である紅藤は、無論このような特徴も把握したうえで源吾郎を弟子に引き入れている。玉藻御前の血統を手に入れるという事柄の前には、文系肌だとか算数や理科が苦手だという問題はそう大きな問題ではないらしい。

 

「さて。そろそろランクアップしたトレーニングもできそうね」

 

 紅藤の言葉に、源吾郎は期待の眼差しを向けた。器用であるかどうかはさておき、才覚がある事をセンター長にして大妖怪の紅藤に評価され、その上「ランクアップ」の話まで持ち掛けてくれた。年相応にプライドが高く、なおかつ妖怪の能力を誇りに思う源吾郎ならば、喜び興奮しない方が不自然である。しかも変化術などと違って新たに行おうとしている分野なのだからなおさらだ。

 

「――前にも話した通り、妖力を放出し、放出する妖力を調節する事は基本的だけど大切な事なのよ。基礎の習得なくして、応用を行う事はできませんからね」

 

 若手の熱血教師よろしく紅藤は源吾郎に説明を行っている。しかし口許は緩み、喜びの念を隠し切れない様子だ。

 

「ともあれ島崎君は妖術の基本を掴みつつあるのね。師範として私も嬉しいわ。どのような術を使いたいかをきちんと把握していれば、それに沿った術を行使できるようになるってものなのよ。その頃には島崎君も妖術・科学技術の奥深さのとりこになっているはず……夢が広がるわね。峰白のお姉様からは怒られちゃうかもしれないけれど」

 

 紅藤がうっとりとした口調で告げるのを、源吾郎は微苦笑を浮かべつつ眺めていた。源吾郎自身は優秀な戦士や君臨する王者を目指しているが、妖術の大家で科学者でもある紅藤は、源吾郎をおのれの後継にしたいと思っているらしい。

 ちなみにいつの頃からか「妖怪は科学技術の発展により数を減らし住みづらい世になった」と人間たちの間で考えられるようになっているが、それは大嘘真っ赤な嘘である。人間たちが世間に混じり人間に擬態する妖怪を感じる頻度は数百年前から減少しているらしいが、それはあくまでも人間たちの本能が衰え、異形たちを見抜く能力が目減りしているからに過ぎない。

 そもそも妖怪たちの種族の多くは現生人類が出現する前から存在している訳であるし、数千年も生きる妖怪や妖怪仙人たちの中には、科学技術などは自分たちが操る術の下位互換でしかないと考える者たちすらいるのだ。

 したがって、六百年以上生きている紅藤が胸を張って科学者であるとおのれの職業を申告しても、妖怪社会の中では特段不自然な事でもないのだ。

 

「峰白のお姉様といえば」

 

 何かを思い出したように紅藤が口を開いた。

 

「そろそろ的とかを使ったおままごとの鍛錬じゃあなくて、本物の妖怪と闘わせる鍛錬をやればって提案が来ているの。有事に備えて、研究センターも戦闘要員を増やしておいた方が良いってね。今のところ、うちではメインの戦闘要員って萩尾丸くらいだから」

「……そう言えば、紅藤様は勝負事は苦手とおっしゃってましたねぇ」

 

 源吾郎はさも不思議そうな調子で呟き、紅藤を見つめていた。紅藤は強大な力を持つ大妖怪だ。妖気を放出させて研究センターの機材のみならず隣接する工場の機材なども円滑に動くように便宜を図っているらしい。彼女の行っている妖術がどのようなメカニズムなのか、妖怪業および研究職に片足のつま先を突っ込んだだけの源吾郎には皆目解らない。ただし、大妖怪に準じる中堅クラスの妖怪が同じ事を行えば半時間で妖力を全て失ってミイラになってしまうらしい。

……全くもってよく解らない話であるが、詰まる所紅藤は普通の妖怪たちでさえ想像できないほど強い妖怪であるという事だ。その彼女が戦闘要員ではないという点が、うら若い源吾郎には甚だ疑問であった。莫大な機械機材を日夜稼働させるだけの妖力のある彼女ならば、敵対勢力を撃退し打ち負かす事など訳ない話だろう。何となれば彼女一羽だけでも問題ないのかもしれない。

 

「先程、研究センターでメインの戦闘要員は萩尾丸先輩だけとおっしゃっていましたけれど、紅藤様は戦闘要員ではないのですか?」

 

 源吾郎の問いかけに紅藤ははっきりと頷いた。

 

「私は峰白のお姉様や萩尾丸と違って戦闘は得意じゃないの。確かに、日頃は妖力をコントロールして妖術を行使できてるわ。だけど戦闘になったら精神統一して術を振るう事って難しいでしょ? 相手が私じゃなくて私の大切な誰かを狙って傷付けたとあれば、平常心なんてすぐに吹き飛んでしまうわ。そんな状態で力を振るえば、周辺区域ごと敵を粉みじんにしてしまうかもしれないの。

……そういう訳だから、私は戦闘要員じゃないの。嘘じゃないわよ? 実際に峰白のお姉様からも、よほどの事がない限り闘うなって厳命されているし。隕石が近付いているとか、ハルマゲドンが到来しているとか、天界の神仙の皆様が襲撃に来たなんていう緊急事態ならば話は別ですが」

「……確かに」

 

 源吾郎は控えめに頷くのがやっとだった。紅藤が戦闘向きではない理由ははっきりとした。強すぎて無関係の妖怪や動植物等々もとばっちりを喰らう危険があるという所がある意味彼女らしい。この回答が源吾郎の予想に沿っているのか反しているのかさえ源吾郎には解らなかった。緊急事態の例が隕石衝突とかハルマゲドンなどと言う尋常ならざるものだったので、そちらにインパクトを奪われてしまったのだ。

 ともあれ、妖怪であれ人間であれ得手不得手があるという事なのだろう。天は人に二物を与えずということわざを源吾郎は信じていない。天より賜った才能をいくつも保有する恵まれし者はこの世にいる。しかしそういう者たちはその才能を補って余りある程の弱点や悩みや、一筋縄でいかない何かを背負っているのだと、若いながらも源吾郎は思っている。

 

「あ、それで戦闘訓練の事だったわね……」

 

 自分の世界に没入しかかっていた紅藤が思い出したように呟く。色白の、愛らしくさえ見えるその顔は何故か愁いに曇っていた。

 

「峰白のお姉様がおっしゃってる、本物の妖怪を使った戦闘訓練だけど、島崎君はどうかしら? 確かに島崎君は同年代の子たちよりも妖力も多いし術の習得もまぁ悪くはないわ。けれど、実際に妖怪と闘った事は無いでしょ?」

 

 紅藤の言葉は問いかけではなく事実の確認だった。源吾郎はその事はさほど気にせず頷いた。彼女の指摘は紛れもなく事実だったからだ。

 源吾郎としては情けない話であるのだが、彼は未だに妖怪と闘った経験を持っていない。源吾郎の生まれ育った城下町には、もちろん身内以外の妖怪が大勢暮らしていた。野良妖怪として気ままに暮らしていた者もいたし、人間の教師や生徒として学校生活を営む者もいた。しかしながら、あまりお行儀のよろしくない野良妖怪たちに絡まれたり、因縁をつけられて勝負を挑まれたりした事は無かった。実のところ、源吾郎は野良妖怪たちに絡まれ、絡んできたチンピラ妖怪たちを圧倒しひれ伏させる事が出来たらと何十回も何百回も夢想した事はある。余りにもお行儀のよい妖怪もお行儀の悪い妖怪も絡んでこないので、実は俺がめっちゃ強いから、みんな俺を怖がってやって来ないだけなんだと思って、退屈な心を慰めた事もあった。

 強さや名声を求める野良妖怪たちが、玉藻御前の曾孫たる源吾郎をスルーしてくれた真の理由を源吾郎が知ったのはつい最近の事である。何という事は無い。玉藻御前の孫であり妖怪絡みのトラブル解決を生業とする叔父と叔母の暗躍によるものに過ぎなかったのだ。

 源吾郎は物心ついた頃から、自分が兄姉らと異なり、妖怪としての力に恵まれている事を知っていた。しかしそんな事は母方の親族らは源吾郎が物心のつかぬ赤ん坊の頃から知っていたのだ。加えて最年少の親族は年齢を重ねるたびに気性が激しくなり、なおかつ野望を幼い心に秘めつつあるのだ。放っておけばトラブルが十も二十も発生するのは目に見えていた……らしい。

 苅藻といちかが陰で動いたのは、源吾郎の母の差し金なのか彼らの意志によるものなのかは定かではない。しかし彼らは源吾郎が保育園に通っていたころから高校を卒業するまでの十数年間、彼から血の気の多い妖怪を遠ざける事に成功した。彼らは源吾郎に害しそうな妖怪たちの許を訪れ、末の甥を襲ったり絡まないようにと交渉して回ったのだそうだ。しかもその交渉方法は暴力に頼ったものではなく、話し合いだったり金品の譲渡だったり労働力の提供だったりと、聞いているうちにしょっぱさがこみ上げてくる代物である。

 これらの話を苅藻やいちかから直接聞かされた時の源吾郎の驚きは筆舌に尽くしがたいものである。しかも彼は、叔父たちに話を聞かされるまでその事実を知らなかったのだ。つくづく大人とは厄介な生物だと、自分の年齢を棚上げして源吾郎は思ったものだった。大人は子供に自由を与えるように見せかけてちゃっかりと彼らの手綱を握っている。しかも子供は愚かな事にその事に気付かないものだ、と。

 

「島崎君……」

 

 紅藤の声が優しく鼓膜を震わせた。ハルマゲドンでさえ跳ね返せるであろう彼女は、何故か不安げな様子で源吾郎を見つめている。少し青ざめているようにも見えた。

 

「嫌なら嫌って言っても構わないのよ? 峰白のお姉様には、まだ術が不安定だとか心の準備が出来て無さそうだとか私の方から説明するし。経験も無いのに妖怪と闘うなんて怖いでしょ? それに……」

「僕は嫌じゃあないですよ。紅藤様」

 

 源吾郎はその顔に浮かんでいた渋面を払拭しきっぱりと言い放った。妖怪と闘う。峰白の発案に対して源吾郎は期待と歓喜に顔を火照らせていたのだ。

 

「戦闘訓練ですけど、僕は乗り気だって峰白様にご連絡すればいいです。実のところ、僕はワクワクしながら聞いていましたよ。だって、本物の妖怪と闘って、僕の実力を見てくださるんですよね。今迄は初心者だったので紅藤様や青松丸先輩の作った的をつぶすのばっかりでしたけど……良いじゃないですか。妖怪と闘うって。実は僕、もうかれこれ十五年位前からやってみたいって思ってたんですよ。叔父上や叔母上のせこい計略のせいで叶わなかったんですがね」

「そう……」

 

 嬉しさのあまりマシンガントークをキメた源吾郎を前に、紅藤は細い声で応じていた。紅藤としては戦闘訓練を拒否して欲しかったようだが、当の源吾郎はそんな事など気にしていない。おのれの要望通りに他者が動かなかったときに機嫌を損ねてしまうのは、脊椎動物ならば致し方ない話だ。そこでブチ切れたり平静を装ったり泣き落としにかかったりと行動は多岐にわたるだろうがそれは個体差と状況によるという他ない。

 そして源吾郎は唐突に紅藤が怒り狂うであろう未来など予測していない。マイペース極まりない彼女が感情をあらわにする事は殆ど無かったし、そもそも今の彼の脳内は戦闘訓練で華々しい活躍を行う事で九十八パーセントを占められていたのだから。

 

「戦闘訓練をお望みなら、やるように段取りをはかるわ」

 

 紅藤は怒り狂う事も無く泣き落としにかかる事も無かった。彼女は単に、源吾郎の要望を聞き入れ段取りを立てると言ってくれたのだ。先程のようなか細い声ではなかったが、特段感情の込められた声ではない。

 

「そうよね。考えれば島崎君も親元を離れて私の許に弟子入りしたのだから、もうぬくぬくとした巣穴で丸まっている仔狐じゃあないものね。巣立ったのだとご両親ご兄弟ご親族は思っておいでなのだから、外界の事も知らないといけないわよね」

「僕の家は一軒家だったので、巣穴で丸まった事は無いですよ……小さいときは押し入れの中で寝るのが好きでしたが」

 

 源吾郎の大真面目な突っ込みに紅藤はかすかにほほ笑んだ。それでも世辞で笑っているという気配がありありと浮かんではいたが。

 

「ともかく萩尾丸に相談してみるわね。あの子は百近くの妖材を抱えているから、今回島崎君が闘うのに丁度良い子を見繕ってくれるはずなの。なんだかんだ言って萩尾丸も眼力は確かだから……それじゃ、今日はこの辺で切り上げて仕事に戻りましょ」

 

 紅藤の提案に源吾郎は弾んだ声で応じた。ともあれ今度の戦闘訓練で、おのれの強さを見せつけられるであろう事で彼の頭はいっぱいだったのだ。



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小雀の集いの中に玉座あり

 紅藤の一番弟子である萩尾丸は、研究センターの主力メンバーの一人である。そしてその一方で、彼は対外的に活動する組織を率いる長でもあった。

 くだんの組織の活動は、四方八方に多芸な長らしく多岐にわたっていた。雉鶏精一派の主力製品や新規開発品のルートセールスや繁忙期の補助員と言ったごく普通(?)の業種が多いと思って油断してはいけない。中には敵対勢力への攻撃や悪徳術者へのガサ入れなどと言った()()()()も仕事の一環なのだから。まさに企業戦士の言葉に偽りなしと言うものである。

 普通なのか物騒なのか判然としないこの集団は、大まかに分けて四つのグループが存在するらしい。萩尾丸は丁寧に各グループに名をつけており、下位グループから順に「小雀」「荒鷲」「翁鳥」「金翅鳥」なのだそうだ。構成員の七割は「小雀」と「荒鷲」の下位グループで構成され、残りの二割強が「翁鳥」に、そしてトップクラスの実力を持つ数名のみが「金翅鳥」に所属しているとのこと。敵妖怪や外道術者に対する攻撃任務は基本的に上位グループが出向く事になっているが、頭数をそろえる際は下位グループも駆り出される事もあり、やはり油断は禁物である。

 ちなみに萩尾丸自身は最上位グループの「金翅鳥」に所属し、トップの座を護っているという。そのあたりに彼らしさが滲み出ていた。

 

「グループ名が全て鳥の名前で統一されているって言う所に、萩尾丸先輩のセンスが感じられますねぇ」

 

 上階に戻った源吾郎は、対戦相手となる妖怪の説明を行っていた紅藤に対して呟いた。結局のところ萩尾丸の配下の妖怪の一匹と対戦する事になるわけであるが、物のついでという事で、萩尾丸が構成している組織について紅藤は解説してくれたのだ。

 ちなみにグループ名を鳥の名で統一しているものの、萩尾丸自身は鳥妖怪ではない。彼は人間由来の大天狗であり、源吾郎と同じく哺乳類に分類される妖怪である。

 

「それもそうかもねぇ……『松竹梅』じゃあありきたりだとあの子も思ったのかもしれないわ。金翅鳥は別だけど、後の三つはゴルフにちなんでいるみたいだし」

「ゴルフだったんですね」

 

 源吾郎は呟き、視線をさまよわせた。彼自身はゴルフをやった事は無いので詳細は知らない。長兄が読んでいたマンガにゴルフものがあった事、次兄が職場のゴルフサークルに勧誘された事をぼんやりと思い出しただけだった。

 

「萩尾丸先輩は大天狗だけあって慧眼の持ち主という事ですが、どんな妖怪を僕の対戦相手に相応しいと見出してくださるのでしょうか」

「それは会ってのお楽しみってものよ」

 

 紅藤は笑ってごまかしただけだった。源吾郎は明るく無邪気に笑い返していた。萩尾丸先輩はどんな妖怪を俺の許に連れてきてくださるのだろう……遠足の日を心待ちにする幼子のような無邪気さでもって、源吾郎はまだ見ぬ対戦相手に思いを巡らせていた。さすがに「金翅鳥」や「翁鳥」に所属する妖怪ではないだろうが、少なくとも「荒鷲」とかに所属する、腕の立ちそうなやつだろうな。何せ俺自身は既に中級妖怪の四尾なのだし。

 

 

 戦闘訓練への打診が行われてから休日を挟んで三日後。とうとう戦闘訓練の時がやって来た。会場は地下の訓練室ではなく工場と研究センターの中間に位置する庭の一角だったのだが、源吾郎がのたりのたりとやって来た時には、既にスタンバイが整いかけていた。

 会場の、あからさまに気合の入ったスタンバイぶりに源吾郎は一瞬面食らった。会場は今なお青々としたイネ科植物たちが生い茂る場所なのだが、視力検査のマークよろしくパイプ椅子が並べられ、その一つ一つにはとうに妖怪たちが行儀よく着席していた。目測で五、六十匹程度であろうか。研究センターの面々も勿論いるのだが、それ以外は九割がた初めて見る顔ぶれだった。彼らこそが萩尾丸の部下たちなのだろう。おおむね人型を保っているが、座席の間から尻尾をはみ出させたり手許や足元から毛皮が顔をのぞかせていたりと、本来の姿がところどころ露になっている。見た目や匂いや妖気を察するに、集まっているのは年若い妖狐や化け狸がほとんどであり、その中に猫又や鼬妖怪などが混ざっているらしい。

 源吾郎自身は観衆の大半を占める獣妖怪の少年少女にはさほど関心を向けなかった。初めて見る顔であるし、彼らから感じ取る妖気も、あれだけの数が集まっているから濃密に感じただけに過ぎない。源吾郎と互角になりうる妖気の持ち主はいないどころか、下級妖怪かそれよりも弱い弱小妖怪ばかりだった。

 それよりも気になる相手の方に視線を向けた源吾郎の耳には、ざわめきのように彼らの声が入り込んできた。

 

「見ろよ、あいつが雉仙女様の弟子だって」

「確か本物の玉藻御前の末裔なんだよな……地味じゃね? オレの方がよっぽど玉藻御前の末裔っぽくね? 金髪の美少年だし」

「自分で美少年とかよう言うわ。しかも元々はキツネ色だったのに脱色して金毛にしただけやろ」

「せやせや。しかもあんた、玉藻御前の末裔やって名乗り出て、DNA鑑定されて国産のホンドギツネだって正体暴かれたって言ってたやん。で、めっちゃ凹んでたやん」

「……玉藻御前の子孫と言えば、ちょっとおっかない術者の男がいたよなぁ。ニヒルでイケメンだけど、触ると火傷しそうな奴で」

「え、玉藻御前の子孫で術者って女の子じゃなかったっけ。ほっそりした、いかにも清楚な美少女でさ」

「どっちもいるのよ。あの二人は兄妹なんですって。元々はニコイチで活動してたみたいだけど、方向性の違いとかで分裂したみたい」

 

 さざ波のような妖怪たちの呟きが不意にやんだ。源吾郎が注視していた、明らかに玉座にしか見えない部分のすぐ傍で、一人の妖怪が立ち上がり源吾郎の許に歩み寄ったためだ。

 

「ごきげんよう、島崎君」

 

 気取った様子で話しかけてきたその妖怪は、言うまでもなく萩尾丸だった。今日も今日とて仕立ての良いスーツに身を包み、寸分も隙のない様子でそこにいる。スーツの襟元にまるいバッジが留められているのを源吾郎は見た。切手よりも小さなそのバッジの表面に、金色の翼を拡げる大きな鳥の紋章が精緻に刻み込まれていた。

 

「みんな集まっているからびっくりしてしまったかい?」

 

 いえ……首を振らずに源吾郎は応じた。妖怪たちが集まっているというプレッシャーは彼の中には無かった。源吾郎の眼には、パイプ椅子に腰を下ろし互いに寄り集まって源吾郎を表する連中は、有象無象の雑魚妖怪としか映らなかった。彼らが、萩尾丸に仕える妖怪たちだという事実を差し引いても。

 

「初めての戦闘訓練という事だから、今の君の実力に見合う相手を『小雀』から選び出していたら、他のメンバーも見学したいって言いだしてね……丁度いい機会だから連れてきたんだ」

 

 気軽な調子で語る萩尾丸の言葉に源吾郎はわずかな違和感を抱いた。しかし相手はそれを言及させる暇を与えはしなかった。彼は芝居がかった様子で首を捻り手を伸ばし、源吾郎に注目すべき場所を示した。

 

「僕の部下たちはさておき、今日は君の闘いぶりを見るために、わざわざ本部から頭目の胡琉安様と第一幹部の峰白様もお見えになってるんだ。ささ、挨拶をするんだよ」

 

 萩尾丸に指摘されずとも、源吾郎は胡琉安と峰白が来ている事には気付いていた。母親に譲りの胡琉安の妖気には覚えがあったし、何より胡琉安だけはパイプ椅子ではなく、玉座としか言いようがない豪奢な椅子に腰かけていた為だ。センター長にして雉鶏精一派最強の紅藤も、胡琉安の一番の腹心で義理の伯母にあたる峰白でさえパイプ椅子に着席しているというのに。

 ともあれ源吾郎は胡琉安の対面に進み出てその場に跪いた。以前の幹部会議の時と異なり、影武者ではなく本物のようだ。

 

「おはようございます、胡琉安閣下。本日はお日柄もよく……」

 

 跪いた源吾郎は拱手の形を取り口上を述べた。拱手の形を知っているのは、無論紅藤から教えてもらったためである。紅藤は日本出身の妖怪であるが、大陸の文化や慣習にも(現代中国と多少異なるとはいえ)精通していた。それはとりもなおさず彼女が大陸式の妖怪仙人に憧れているためであろう。

 顔を上げると胡琉安と目が合った。母である紅藤よりもくっきりとした目鼻立ちの彼は、黒紫の瞳をわずかに見張り、そして困ったような笑みを口許に浮かべた。

 

「そんなにかしこまって挨拶をしなくとも構わないぞ。九尾の若君よ、わが弟よ」

 

 源吾郎も顔を上げたまま目を見開いた。ややフランクな頭目の言葉に源吾郎は感激しぶるぶると震えてさえもいた。「九尾の若君」は、まぁ玉藻御前の子孫である事を指すための言葉であろう。それよりも胡琉安に「弟」と呼ばれた事の方が、源吾郎の中では大事だった。

 源吾郎の驚きと戸惑いに気付いた胡琉安は、柔らかな笑みでもって彼を見下ろす。

 

「私はそなたの事を弟と思いたくてな。わが祖母とそなたの曾祖母は姉妹としての友誼を結んでいたと聞くし、今のそなたは、わが母紅藤の許で稽古に励んでいるという事だから。私には兄と呼べる存在はいるが、弟には恵まれなかった故……如何かな? もしそなたが不快に思うのならば謝るが」

「そんな……滅相もございません、お兄様」

 

 源吾郎は今一度拱手の形を取り、深々と頭を垂れた。

 

「胡琉安様ほどのお方に弟として見做していただくとは、これ以上の栄誉がありましょうか……胡琉安様。私の事は好きなように考えてください。弟と思ってくださるならばあなた様の事は兄として敬い、甥と見做してくださるのであれば叔父として慕いましょう」

 

 源吾郎の言葉に胡琉安は満足げにほほ笑んでいた。玉藻御前の末裔、それも最も妖力のある者がこうして平伏し耳触りの良い言葉を放った事に喜んでいるのか、唐突な弟にする発言を素直に喜んでいるのか、その心中は謎である。少なくともパイプ椅子に座る若手の妖怪たちのみならず、源吾郎も胡琉安の真意がつかめたわけではない。

 ただ源吾郎自身が把握しているのは、先程のおのれの言葉には、胡琉安におもねるニュアンスは殆どないという事くらいだ。観衆たる妖怪たちは、早くも源吾郎が胡琉安に狐らしく媚びたと思ってひそひそやり始めている。しかし源吾郎自身はそういう意図で言い放ったわけではない。日頃より兄や叔父の事を兄上・叔父上と呼び恭しく接する源吾郎にしてみれば、割と素に近い発言だった。元演劇部ゆえにお芝居っぽさにブーストがかかっているかもしれない点は否めないが。

 

「ありがとうわが弟よ……本部では幹部たちの目があるからそなたの事を大っぴらに弟と呼ぶ事は難しいかもしれないが、そなたの事はいついかなる時も弟だと思っている。

 だからこそ、わが母の教えを受け、兄たちと切磋琢磨して欲しい。そなたはおのれの野望のために強くなる事を望んでいるようだが、私もそなたが強くなる事を望んでいる。そうすれば、いずれは……」

 

 胡琉安は思わせぶりに言葉を切り、深く息を吐いただけだった。遠い目をする彼を見た源吾郎は、この時初めて()()()()()()()()()()()()という事を意識した。何故そう思ったのかは上手く言葉にはできない。しかしみみっちい言葉や理屈を凌駕する何かが、「血のつながり」なのだろう。

 

「ともかく、今日のそなたの動きを期待しているぞ。もしかしたら兄たちに何か言われているかもしれないが、それでも私はそなたの味方だ」

「……ありがたき幸せにございます」

「わ、私も島崎君の事は応援してるよ、姉弟子として!」

 

 胡琉安と源吾郎のやり取りはここで一旦締めくくられた。ローブを来た女性に化身したサカイ先輩がおのれの心のままにやり取りに介入し、ついでローブの間から触手をうねらせているが誰もツッコミは入れない。それはあるいは観衆たちの忖度かもしれない。

 研究センターの面々は、センター長を筆頭に空気を読まないか読めないメンバーで構成されている。とはいえ空気を読めなかったからと言って彼らは凹む事は無い。そもそも彼ら彼女らはおのれの欲求(研究を進める事とか)で頭がいっぱいで、他の面々がどう思っているのかという事などそもそも問題視していない。世の中は妙に上手く回るものである。

 さて源吾郎は軽く礼をして立ち上がると、今度は峰白に視線を向けた。彼女は前に会った時とは異なり、ロングのワンピースに薄水色のカーディガンを羽織った、まことにカジュアルで婦人らしい装いであった。胡琉安を挟んで向こう側に座る紅藤も、カーディガンの色味と模様が違うだけで、ほとんど似た装いである。いわゆる姉妹コーデと呼んで遜色ないだろう。

 源吾郎はぎこちない動作で拱手した。おかしな話であるが、源吾郎は胡琉安と相対した時よりも緊張し、どぎまぎしていた。前に見た隙のないかっちりとした衣装と異なり、今のカジュアルな衣装は露出こそ少ないものの、彼女の肉体がむっちりと健康的である事を示していたのだ。峰白の華やかで明瞭な美貌も相まって、今の彼女からは強烈な「女性性」が放たれているように感じ、戸惑っていたのだ。お年頃である源吾郎は確かに異性に対して大きな関心を抱いている。しかしだからと言って師範の義姉であるメス雉の妖怪に色目を使うほど愚かでもない。いくら妖怪が異種族婚の融通が利くと言っても、鳥類と哺乳類のカップルでは繁殖はほぼ不可能だ。それに――それに源吾郎は峰白がただ美貌を持つだけの存在ではない事をよく心得ていたのだ。

 

「お、お久しぶりです峰白様……」

 

 我らがマッドサイエンティスト・紅藤が義姉と慕い敬う峰白に対する源吾郎の挨拶は、実に簡素なものだった。緊張し、ついで奇妙な感情が渦巻き合いぶつかり合うものだから、しろどもどろに話す事しかできなかったのだ。

 峰白は黄褐色の瞳で源吾郎を睥睨し、にこりとほほ笑んだ。脅威たり得ぬものに対する冷ややかな笑みだった事は看破してしまったが、それでも源吾郎は安堵した。

 

「あらあら、随分と緊張しているみたいじゃない。やっぱり初めてだから?」

「は、は、は……まぁそんな所ですね」

 

 心中には楽しみも喜びも無かったが、開いた源吾郎の唇からは笑い声が虚しくすり抜けていった。

 

「ま、今回のあなたの活躍には私も期待しているわ。なんせ、可愛い可愛い義妹が、かれこれ三百年近く熱望してようやっと手に入れた、金毛九尾の末裔なんですからね。今回の試合で、敵となる妖怪をぶち殺す感覚と快感を覚えると良いわ」

「は、はい……」

 

 なかば反射的に返事をしてから、源吾郎は周囲の空気が一変した事に気付いた。練習試合で相手の妖怪をぶち殺す。考えなしに源吾郎は、この超ド級の爆弾発言を肯定するかの如く頷いてしまったのだ。

 その時にはもう観衆たる弱小妖怪たちは騒ぎ始めていた。視線と妖気が源吾郎に向けられ、また口さがなく声高に話し始めているではないか。

 話が違うじゃないか……そのような想いを込めつつ源吾郎は峰白を見やった。いつの間にか峰白さえも非難する内容までもが飛び交うヤジを聞きつつも、彼女は涼しい顔で笑っている。ああ、彼女は空気を読まない存在なのだろう。というか胡喜媚様の存在に傾倒しすぎて、それ以外の事は些事にしか見えない手合いだし。

 

「おのれの正義を貫くために、邪魔になる存在は害される前にぶち殺す。これこそが淑女のたしなみですわ」

 

 峰白の物言いは、不思議と上流貴族か高貴な姫君のようだった。内容の物騒さと物言いの優美さが互いに際立ち、絶妙な不気味さを伴っている。ツッコミも忘れ、喜悦を示す峰白の顔を源吾郎は見つめていた。

 

「峰白殿。わが弟は淑女ではなくて紳士ではないかね」

「あらそうでしたわ胡琉安様。私とした事がうっかり間違えてしまったかしら……だけど、淑女のルールが紳士にも適用されるから問題ないわね」

 

 胡琉安の謎の指摘を受けながらも、峰白は何も問題はないと安心した様子でいる。いやいや紳士淑女の問題以前に大問題を抱えているじゃあないか。源吾郎は決意を固め、峰白を正面からしっかと見つめた。峰白に、師範の義姉にして胡琉安の伯母にあたる彼女に進言するのは正直恐ろしい。しかし源吾郎は、彼女の言に矛盾がある事に気付いてしまった。

 

「峰白様! 峰白様は以前、自分は平和主義者で無駄な争いは好まないとおっしゃっておりませんでしたか? その、先程の、淑女と紳士のたしなみとやらは、先程の平和主義とは相反する考えと思うのですが、そこはいかがお考えなのでしょうか?」

 

 源吾郎のとつとつとした問いが終わる頃には、弱小妖怪のざわめく様子も聞こえなくなっていた。固唾を飲んで様子を見ているのか、意識を峰白に集中しすぎているだけなのか源吾郎には解らない。

 峰白は左手を口許にあてて、ふっとほほ笑んだ。先程の笑みとは何となく違う、感心したがために思わずこぼれた笑みのようだ。

 

「狐って頭が良くて口が良く回るって萩尾丸から聞いていたけれど。私が筋の通っていない考えをしているとでも思っているのね……

 だけど私が平和主義なのは本当よ。大衆が胡琉安様と私たちに平伏してくれる光景こそが、私の望む平和に違いないわ。ええ、その平和を護る為には、胡琉安様を害そうとする画策する輩はさっさとこの世から退場させているわ。

 それに争いって言うのはこちらがデメリットを被ったり傷ついたりする可能性があるでしょ? 私は争いにも勝負にも興味は無いの。潰すと決めた相手は必ず叩き潰したいから」

 

 源吾郎はそう暑くない天候なのに額や背中に冷たい汗が走るのを感じた。峰白はかつて「争いを好まぬ平和主義」であると称し、今しがた「敵はぶち殺せ」と言い放った。普通に考えれば両者は相反する思想である。しかし峰白は、この二つの思想を矛盾なく自分の胸の中に抱え込んでいる事がこの度判明した。ついでに言えば彼女が聡明で弁論術に長けている事にも気付いたが、そんな事はやはり些末な内容である。特筆すべきはそこではない。紅藤とは全く別のベクトルのヤバさを彼女が抱えている。その事こそが重要だった。

 

「そう言えば……萩尾丸。今回闘ってもらう妖怪はあんたの部下って事だけど、別に死んだり腕の一、二本がもげても問題ないでしょ?」

 

 峰白の物騒な問いかけに、萩尾丸は眉一つ動かさず頷いた。この兄弟子は「天狗になる」所がままあるだけの存在かと思ったが、そっち方面のヤバささえ内包しているらしい。さすがは紅藤が一番弟子に据えた男だ。

 

「大丈夫ですよ峰白様。一応僕の組織に所属する面々には、誓約書を書かせています。そこで死亡・損傷時の対応について、皆には了承してもらっているので……」

「それなら安心ね。あなたなら大丈夫だと思っていたけれど。ええ、伊達に義妹の一番弟子をやっていないわね」

「お褒めに預かり光栄です」

 

 恭しく慣れた様子で頭を下げた萩尾丸は、頭を上げた時には源吾郎の顔をちらと見ていた。

 

「さて島崎君。そろそろ君の対戦相手を紹介するよ――準備は良いね、野柴珠彦君」

 

 萩尾丸の呼びかけに呼応し、パイプ椅子の集団の中でかすかな音を立てながら、野柴珠彦なる妖怪が立ち上がったようだった。



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激闘? 妖怪タイマン勝負 ※戦闘描写あり

※エピソードの終盤に戦闘描写がございます。
 苦手な方はご注意くださいませ。


 弱小妖怪たちのざわめきをバックミュージックにしながら、野柴珠彦と呼ばれた妖怪は堂々と立ち上がり、気軽な足取りで源吾郎の前に進み出た。妖怪たちの驚きと悲嘆と懸念の声を耳にしつつも、源吾郎は目玉が飛び出さんばかりにこの度の対戦相手を見つめていた。

 名前でイメージはついていたが、珠彦は妖狐の男だった。生粋の妖怪であるから源吾郎よりは二、三十は年上であろう。しかしすらりと伸びたしなやかな肢体やうっすらとニキビの浮かんだ褐色の肌は初々しく、どう見ても大人の男には見えない。人間で言えば十五、六くらいの少年と言ったところであろうか。

 橙がかった褐色の、キツネ色とも呼べそうな髪を揺らしながら珠彦があどけなくほほ笑む。体型と言い目鼻のはっきりとした顔つきと言いどことなく鼬を思わせる少年だった。

 しかし源吾郎が気になるのは相手の尻尾である。頭髪と同色のキツネ色の毛に覆われ、先端が白い柔毛に覆われた、典型的な狐の尻尾であった。珠彦は、全長六十五センチ程度の色の短い尻尾を、わずかに一本生やしているのみだったのだ。

 面食らった源吾郎はしばし瞬きを繰り返した。萩尾丸は源吾郎に見合う相手を見繕ってくれると聞いていたし、源吾郎もそれを信じた。確かに源吾郎は妖力こそあれど実践の経験は絶無だ。だがそれでも、珠彦が源吾郎の初陣に見合う相手なのかどうか判断しかねた。

 

「ざ、雑魚妖怪じゃないか……」

 

 源吾郎がぼやくと妖怪たちがここぞとばかりにざわめいた。

 

「おい見ろよ。クソ九尾の末裔様は、言うに事欠いて雑魚妖怪発言なすったぜ」

「何と品のないお方なのでしょう。見ず知らずの相手に妖ハラを行うなんて」

「でっかい尻尾をぶら下げてるから、脳みそがそっちに吸い取られてるのかもな」

「ああ、しかもちゃっかり俺は格好いいんだオーラを出してるからちょいムカつくな。まぁ、僕も同じ立場ならやっちゃうかもだけど」

「あいつ雉仙女殿のトロフィー・フォックスって事らしいけど、本当は張り子の狐なんじゃないの?」

「てか、検便しないと駄目じゃね? あいつエキノコックスのキャリアだったりして」

 

 弱小妖怪たちの非難の声は、先程の峰白の爆弾発言よりも大きく派手だった。それは生粋の妖怪であろう彼らも峰白を恐れている事、源吾郎を多少見くびっている事の何よりの証明であろう。

 ちなみに妖怪の一人が口にした「妖ハラ」とは、妖力ハラスメントの略称である。妖力の多寡を馬鹿にする行為や、妖力に見合わない作業を強要する事柄が該当する。人間界で言えば、アカハラ(アカデミックハラスメント)やパワハラに近いであろう。なお、先程源吾郎が発した「雑魚妖怪」も、不適切発言と見做される単語である。

 

「はじめましてっ、島崎源吾郎さん」

 

 いつの間にか珠彦は源吾郎のすぐ傍まで来ていた。四月の陽光に照らされて、珠彦の琥珀色の虹彩はきらきらと輝いていた。虹彩の中央にある瞳は縦長であり、動物としての狐の特徴をありありと示している。

 

「あ、うん……初めまして、になるかな。野柴君」

 

 なるべくニヒルに聞こえるように応じつつ、源吾郎は近くに来た珠彦の姿をそれとなく観察した。長袖長ズボンの、県立高校で見られる体操服に酷似した衣服に身を包んでいた。首元には小さな玉のついたペンダントをつけており、両耳を小さなピアスで飾っている。襟元には首を傾げる雀がデザインされたバッジをつけている。夕暮れ時のフードコートで、男女混合の仲間でポテトをつついたり軽くじゃれ合いながら、英語の問題集を片付けていく。そういう青春を過ごしてきたような、俗っぽい言い方をすれば「陽キャ」に近い少年であると源吾郎は思った。

 

「島崎さんの事はボスや先輩たちから聞いてたっす。本物の、玉藻様の子孫なんですよね」

「いかにも。俺こそが玉藻御前の曾孫、それも兄弟の中で最も妖力が多く、妖怪としての生き方を選んだ唯一無二の男さ!」

 

 源吾郎は言葉の一つ一つ、挙動の一つ一つに威厳をまとわせながら応じた。今更深々と言及するまでもなく、彼の言葉はすべて真実である。

 威厳たっぷりに振舞う源吾郎に対し、珠彦は懐っこい笑みを深めただけだった。

 

「あ、だけどイメージしてたのとだいぶ違うっすね。何というか、親しみが持てる顔立ちだと思うっす」

「……見た目はまぁ、アレだ。人間の父親に似てしまったんだ」

 

 源吾郎はわずかに声のトーンを落として応じる。このツッコミは行われるであろう事は解っていた。それでも面と向かって言われると少し凹む。

 

「だけどな、見た目の事にツッコミを入れるのは反則だろう。俺ら狐は少し妖力があれば本来の姿から変化できるんだからさ。現に、現に俺とて可愛い美少女とか、色っぽいおねーさんとかに変化出来るんだからな」

 

 源吾郎は中学生位の頃から美少女などに化身する変化術を体得した。初めは厭世的な末の兄が、出先ですり寄ってくる面々を避けるために「彼女役」になるようにと要請したためだったのだが、実は源吾郎もノリノリでやっていた。少女に化身すると、ごく自然に女子たちと会話できる事が判ったためだ。手っ取り早く女子の心理と生態を知り、モテ道におのれを導くためのうってつけの方法こそが少女への変化だったのだ。

……ちなみに源吾郎はイケメンだとか美少年に変化し、もっと直截的に女子たちを誘惑するような事は考えていない。高難易度の異性への変化を易々とこなし、なおかつ美貌に恵まれた叔父や兄たちの面立ちを知っている源吾郎ならば、()()()()可能である。そりゃあそんな事をすればすぐにでも源吾郎はモテモテになり、それこそ彼が永らく夢見ていたハーレムの三つや四つは構築できるだろう。無論その事は源吾郎もよく解っていた。

 しかしそうやって女子たちの心を射止める事を、()()()()()源吾郎自身が善しとしなかった。偽りの見掛けのみで女子達とのラブゲームを愉しむなどと言う行為は、おのれの信条や理念に、おのれの魂に反する行為だと思っていた。異性に化身するのは純然たる虚構なのでいくらでも行えるが、相手とおのれを欺いてまで女子の心を奪うほど、源吾郎の心は腐ってはいない。

 ともかく源吾郎は、珠彦が「だったらなんでイケメンに変化しないんっすか?」と尋ねないかとやきもきしていたのだ。説明はできるが、納得してもらえるかは解らないからだ。

 

「えーっ。島崎さん、女の子にも変化できるすか! 凄いっすね! 僕は人型と……柴犬とかキタキツネくらいが関の山なんで」

 

 幸いな事に珠彦はツッコミを入れはしなかった。むしろ彼はまるい瞳を見開いて、さも感心した様子で源吾郎を眺めている。珠彦はさほど変化が得意でないために、源吾郎が変化上手である事に素直に関心を示したらしい。変化術というのは、性別・種族・年齢が実体に近いほど難易度が低い。

 

「……良いのかい、野柴君」

「なにが?」

 

 不思議そうに首を傾げる珠彦から源吾郎は一瞬視線を外した。彼は研究センターの面々や胡琉安や峰白、そして珠彦の同僚であろう妖怪たちをざっと眺めていた。彼らの思惑はまちまちであろうが、そろそろ次の動きを期待しているようだった。

 

「君は、これから俺と闘うんだろう? 俺は尻尾の数も妖力の多さも君よりも勝っている。闘ったとしても、いや闘う前から勝ち目は決まっているんじゃあないかね?」

 

 今皆が集まっているのは、ひとえに源吾郎が行う戦闘訓練のためである。源吾郎のために設営がなされ、萩尾丸が適切な妖怪を選び出し、さらには頭目である胡琉安と幹部の峰白までやって来ている。だらだらと能書きを垂れずに戦闘訓練を始めるのが筋である事は源吾郎にも解っていた。

 しかし源吾郎は、この度の対戦相手と顔を合わせ、言葉を交わしている間に闘おうという気概が薄れていった。初対面である源吾郎に対して懐っこい表情を見せる珠彦を、気の毒に思ってさえもいた。この一尾の妖狐から感じ取る妖気はささやかなものだ。源吾郎が本気を出せば、彼は同僚や先輩や上司たちの前でぶちのめされ思うがままに蹂躙される姿を晒す事になってしまうのだ。

 

「心配は無用っす島崎さん。僕は萩尾丸のボスから相手はめっちゃ狂暴だから殺すつもりで挑みかかれって言われてるんで」

 

 笑いながら語る珠彦の瞳がぎゅっとすぼまったのを源吾郎は見た。まごう事なき野獣の眼光だ。

 

「思った以上に闘る気満々じゃないか……萩尾丸先輩に脅されているのかい? それとも俺と闘う事で特別手当が出るとか?」

 

 まさか。源吾郎の言葉を珠彦はまたも一笑に付した。

 

「アハハハハ、島崎さんが日頃ボスをどう思っているか丸わかりっすね。ですが残念っす。ボスはただ単に、今日の訓練がある事を『小雀』のメンバーに伝えて、島崎さんと闘いたい妖怪を募っただけっす。普通に、民主主義的にっすよ。

 打ち合わせの時は、誰もやりたがらなくってある意味もめたけど、僕が立候補したんで万事丸く収まったんすよ」

「それじゃあ、何で君はわざわざ立候補したのさ」

「玉藻御前の子孫で一番強い妖怪と闘ったとあれば箔が付くからっすよ。場合によれば、玉藻御前の曾孫に打ち勝った狐になるかもしれないし」

 

 源吾郎は笑う珠彦の顔にくぎ付けになっていた。獣の瞳に白い犬歯をうっすらと見せたその笑みは、先程まで惜しげなく見せていたあどけなく無邪気な笑みとは違っていた。

 何のかんの言ってもこいつは妖怪であり、人間とは感性が違うのだ――おのれの境遇生き方を棚上げし、源吾郎はひそかに思った。妖怪、とみに若いオスの妖怪同士が相争う場合、殺し合いではなく名声や妖力を得るという目的を含む場合がある。戦闘の際は感情の昂りが烈しいので普段以上に相手の妖気を吸い取る事が出来る。その上血筋の誇れぬ妖怪であっても、実力者やその眷属に勝負を仕掛ける事によって名声を得る事も出来るのだ。

 

「ひよこの数を数えるな、と言うことわざを君は知らないようだな」

 

 源吾郎はにやにや笑いを浮かべながら珠彦に詰め寄る。

 

「おのれに箔が付く事を考えるよりも、おのれ自身の事を心配した方が身のためだと思うぜ? 俺はむやみに君を傷つけたくはない。しかし妖怪と闘うのは今回が初めてだから、加減を間違えて殺してしまう可能性とてあるんだ」

 

 利己的な気持ちを表出せぬよう気を遣いつつ源吾郎は言葉を紡いだ。事ここに来て、戦闘訓練がどのようなものか悟り、臆病風に吹かれ始めていたのだ。おのれが負ける事に対してではない。おのれの妖力の奔流に耐え切れず、珠彦を殺してしまう可能性に源吾郎は臆していた。強さを求める妖怪としてはヘタレの誹りを受けても仕方がない。しかし一方で源吾郎が争いに消極的になるのも致し方ないのかもしれない。彼は妖怪と争った事も無ければ、人間のチンピラ小僧に絡まれた事も、兄姉たちと武力の伴う喧嘩を行った事すらないのだから。

 

「アハハハハ、お気遣いはありがたいっす島崎さん。見ず知らずの僕の事を気遣ってくれるなんて……だけど大丈夫っすよ。元より島崎さんが強い事は承知の上だし、僕だってリスクマネジメントはやってるっすよ。バイクに乗ってて事故っても、命に係わる事はあると思ってるんすよ」

 

 自分とバイクは同列なのか……源吾郎は珠彦に色々と突っ込みたかったがやめておいた。代わりにひっそりとため息をついてから口を開いた。無理しないで、タマ……切実そうな少女の声が、観衆の中から沸き立ったのを耳ざとく察知していたのだ。

 

「――どうしても闘うというのなら仕方ない。手加減してやろう。俺は別に君には恨みなどないし、そもそも実力を図るための訓練なんだからさ。それに――君を心配している彼女がいるみたいだし」

 

 源吾郎の気取ったセリフに対し、珠彦は苦笑しながら首を振った。

 

「さっきの声は彼女じゃなくて義理の従妹っす。互いに家が近くて小さい時から一緒に遊んだりしていたから、兄妹みたいな感じっすね。んで、今はフリーなんで気遣いは不要っす。元カノとは、向こうが稲荷神の許で修行する事が決まってから別れたんで」

「…………」

 

 彼女がいたという発言に対しては源吾郎は何も言わず、目を細めて珠彦を見つめ返すのみだった。彼がまぶしく感じられるのは何も陽光のせいだけでもなかった。

 

「二人とも、そろそろ準備はいいかしら?」

 

 一人の妖怪がすっと立ち上がり、優雅な足取りで源吾郎たちに近付いてくる。源吾郎の師範である紅藤だ。トレードマークである白衣姿ではなくワンピースに薄紅色のカーディガンを羽織ったラフな衣装のため、普段よりも若々しく見えた。学部生として大学に紛れ込んでいてもおかしくないほどだ。

 紅藤様……か細い声で呟き、源吾郎はすがるような眼差しを向けた。事実源吾郎はすがっていた。察しの良い紅藤が源吾郎の心の揺らぎを汲み取り、戦闘訓練を無しにしてくれるのではないか、と。紅藤の発言は義姉である峰白や頭目たる胡琉安にさえ影響を及ぼす事は源吾郎も知っていた。彼女の口から戦闘訓練の取りやめを言ってくれたならば、誰もそれに反駁はできないはずだ。峰白は小言を言うかもしれないが。

 紅藤は源吾郎の視線に気づくと、愁いを秘めた笑みを浮かべながら首を振った。

 

「大丈夫よ島崎君。今少し計算してみたけれど、あなたと野柴君のどちらかが死亡する確率はそれぞれ十二万分の一だったわ。別段これは殺し合いじゃあないから、そこまで気負わないで」

 

 港島に乱立するスパコンと脳みそが連結していても何一つおかしくないような文言を吐き、紅藤はあいまいにほほ笑んでいる。何だかんだ言っても闘う他ないのだと、彼女は暗に言っていたのだ。

 スーツ姿の萩尾丸は、さもさもおかしいと言った様子で高らかに笑い出した。

 

「はっはっは。別に僕は君がこの訓練を棄権しようが棄権しまいがどうでも良いがね。もし棄権した場合は、特製VTRの上映会に代わるだけだからさ……

 だが島崎君。怖いだとか嫌だとかって言うしょうもない感情で、自分が行おうとしている事を放棄するのはいかがかな。君自身の心が、君の裡に流れる九尾の血がその行いを認めるのかい? そもそも君は、どちらかというと人間の血を多く引き、周囲からは人間として生きるように望まれているのを承知の上で、最強の妖怪を目指す事をおのれの意志で決めたんだろう? ちょっとした事で嫌だとかやりたくないとか駄々をこねるんだったら、紅藤様に辞表を渡してしまえ。そうして姫路の実家に戻って、ママに慰めてもらうんだな」

 

 源吾郎は、射殺さんばかりの眼差しで萩尾丸を睨んでいた。不安でしぼんで垂れ下がっていた尻尾も、力強く伸びあがり毛も逆立っている。「趣味:SNS炎上 特技:炎上商法」だという萩尾丸の炎上誘導トークの手腕は伊達ではない。「火に油を注ぐ」という言葉があるが、今回はまさしくそれだった。源吾郎の燻り始めた心に、萩尾丸は油、それもガソリン級の何かをばらまいたようなものだった。

 

「萩尾丸ったら、また島崎君を焚きつけちゃって……だけど、私も仕上げをやらないと。みんな、今いるところから三歩ばかり下がってくれるかしら?」

 

 紅藤は右手を思わせぶりに水平に差し出し、首を巡らせながら皆に告げた。パイプ椅子の揺れる物音は、妖怪たちが紅藤の指示に従った事を雄弁に物語っていた。胡琉安も幹部たちも研究センターの先輩たちも、立った状態で紅藤に視線を向けていた。

 それが起きたのは、全ての妖怪たちの動きが止まってから三秒後の事だった。パイプ椅子が並べられていた内側の、円を描く領域に生えていたイネ科植物たちが音もなく青白い焔に包まれた。水色にも見える焔は烈しく揺らめき青草を舐めつくしているが、動きは妙に整っている。複雑な火術を紅藤は行使しているらしい。

 もう大丈夫よ。右手を下した紅藤が皆に告げる。青草が生い茂っていたその場所は、今や茶褐色の柔らかそうな地面があらわになっていたのだ。ついでに言えば茶色い円陣の向こう側では鼠のような小動物たちが必死で逃げ去り、紅藤の足元には蛇や蜥蜴や雑多な虫たちが、いつの間にか出現した籠に収められている。

 

「さあ二人とも、準備ができたわよ」

 

 紅藤は嬉しそうに籠を抱き上げてから源吾郎たちに告げた。珠彦は気負う事なく軽やかに、源吾郎は重々しく荘厳な様子で円陣の中に入っていった。

 

 戦闘訓練のルール説明が一通り終わると、開始の号令が上がった。この度の訓練はタイマン式の試合であり、戦闘スタイルは不問。制限時間は四十五分であるが、どちらかが戦意を喪失したり戦闘不能になったところで終了とのこと。また、戦闘中でも状況に応じてドクターストップが入るという事までご丁寧に説明があった。

 さて、簡便な闘技場に入った源吾郎と珠彦は、互いの顔を見つめながら仁王立ちしていた。妙に力んだ源吾郎の尻尾は毛先までもが針金のように立ち上がっていたが、珠彦の尻尾は左右にゆったりと揺れていた。

 

「先手は譲るぜ、野柴さんよぉ」

 

 珠彦の尻尾が四往復したところで源吾郎は告げた。尻尾の動きが止まり、珠彦はちょっとだけ驚いたような表情を浮かべた。

 

「良いんですか。それじゃあお言葉に甘え……」

 

 源吾郎は、珠彦が最後まで言い切るのを聞き取れなかった。言い切る前に、珠彦はとうに動き始めていたのだ。地を蹴る動作をしたと思った次の瞬間には、珠彦は源吾郎に触れられる距離にまで近付いていた。向こうは殴るか引っかくかするつもりなのか、右手をふわりと掲げている。突然の事に源吾郎は身をすくめる事しかできなかったが、幸い頬を鋭い風が通り抜けただけでもろに攻撃を喰らう事は無かった。

 攻撃を受けなかった事に安堵していた源吾郎だったが、それ以上に戦慄が心中を支配してもいた。やっぱりこいつは妖怪なのだ。人間とは段違いの跳躍力とスピードを目の当たりにした源吾郎は、そう思わざるを得なかった。

 源吾郎の身に流れる妖狐の血は、並の人間よりも優れた身体能力と動体視力を彼にもたらしてはいた。しかしそれはあくまでも、鈍重な人間よりも優れているというだけだったのだ。

 

 右頬に違和感を覚えた源吾郎は、その部分に指を添えた。頬に触れた指先には、赤黒く粘った鮮血が付着している。彼の斜め前に着地した珠彦の顔を見ているうちに、裂けた頬の痛みと、鉄錆の生臭い臭いが鮮明な情報として源吾郎の脳内に侵食していった。



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四尾の激情、一尾の矜持 ※戦闘描写あり

 こちらはがっつりと戦闘描写がございます。
 苦手な方はご注意くださいませ。


「うおぉぉぉぉぉおっ!」

「うぐるるるるるるぅ!」

 

 細かな砂塵が舞い散る中、二体の妖狐は戦闘を繰り広げていた。源吾郎と珠彦は互いを組み伏せ動きを封じようと、その手で相手の身体を掴み、尻尾や足をばたつかせ、闘技場の中を縦横無尽に転げ回っていた。

 今自分が懸命に行っている戦闘が、妖術も武術とも関係のない、ごくごくシンプルな取っ組み合いに過ぎない事は源吾郎にもよく解っていた。だがそんな事は、今の源吾郎には些事である。戦術も戦略も何もないが、今の源吾郎にとってはこれがベストだったのだ。初めは取り押さえてどうにかしようかと考えていた気もするが、こうして暴れているうちに珠彦がばてて戦闘不能になるかもしれないと思い始めていたのだ。必ずしも妖力と体力が直結している訳ではないが、妖力が少ない妖怪の方が疲れやすいというデータもあるらしい。

 

 端的に言って、源吾郎は珠彦の事を見くびっていた。自分の十数分の一程度の妖力しか持たぬ一尾を相手に、実戦経験が無いとはいえ遅れは取らぬと慢心していたのだ。そう。厳密に言えば源吾郎はおのれの実力を過大評価していたのだ。

 珠彦は未だ妖術らしい妖術を用いていないが、闘い方は妖怪らしかった。躍りかかって源吾郎を殴ったり引っかいたりしようとするだけの実にシンプルな攻撃なのだが、実際にそれを受け止める側の驚きは大きかった。珠彦の動きはすばしこく、また彼のしなやかな肉体は硬かった。珠彦は妖術を用いる代わりに、身体能力を向上させる方向に妖力を充てていたのかもしれない。珠彦の猛攻を回避するのを諦めた源吾郎は、自慢の尻尾を用いて頭や胴体を攻撃から護り、逆に珠彦への迎撃に用いた。今や攻防一体型の武器となった尻尾は、妖力を込めればゴムタイヤでさえ豆腐のように切り裂けるほどの強度を秘めている……珠彦には見切られ時に弾かれるのでその威力は発揮されていないが。

 

「ぐっ、おらぁっ!」

 

 何十周目かの回転ののち、源吾郎は珠彦の腰をしっかと掴み、彼を投げ飛ばした。転がり続けていても埒が明かない事はうすうす感づいていた。押さえつけられないのならば投げ飛ばし、珠彦の体勢が崩れたところを狙う方が良いと考えたのだ。小柄ながらも骨太でやや堅肥り気味の源吾郎は、細身でなおかつ本体が狐である珠彦よりもはるかに質量のある存在だ。妖力を用いない純粋な肉弾戦では、体重の重い方が有利になるのは自明の話だ。

 尻尾で地面を支えながら源吾郎は素早く立ち上がった。弾んだ呼吸を整え、投げ飛ばした珠彦の様子を窺う。紅藤は二人が入った円陣の外側に結界を施していた。源吾郎が放った狐火ですら弾かれて威力を失う代物である。さしもの珠彦もびっくりして、少しは動きが鈍くなるだろう。そこを狙えば……

 しかし、源吾郎の希望的観測はことごとく絵に描いた餅と化した。珠彦は器用に空中で身体をひねり、華麗に両足で着地したのだ。しかも青白い結界に触れる事もない。もしもこれを舞台の演目として目の当たりにしたならば、源吾郎は惜しみない拍手を贈っていただろう。

 珠彦を見ながら源吾郎は構えた。向こうはかなり余裕そうだ。呼吸の乱れも無いし、何より懐っこい笑みを向けている。

 

「島崎さんって、おっかない玉藻御前様の子孫だけど優しいんすね。言葉通り手加減してくださって、雑魚妖怪たるこの僕に花を持たせてくれるなんて!」

「んな訳、あるかよクソ狐が……!」

 

 源吾郎は中腰という間抜けな体勢のまま、尻尾を介しておのれの妖力を体外に放出させる。部下は雇い主に似ると言うが、まさか組織の末席らしい珠彦までがボスの炎上トークの手腕を身に着けていたとは……ただ単に源吾郎が激しやすいだけなのかもしれないが。

 ともかく源吾郎の感情的爆発により放出された妖力たちは、ことごとく中空を漂う狐火と相成った。十個弱の火球の出現に観衆たちは驚きの声を上げているらしいが、彼らの声ははっきりと聞き取れなかった。

 源吾郎の心は、珠彦に頬の薄皮を裂かれてから戦闘モードに切り替わっていた。弱そうだから殺してしまわないかだとか手加減しつつも格好良くキメようなどと言う雑多な考えは、とうに押し流されて消え失せていた。死力を尽くして闘わねば喰われる。非力な雑魚妖怪だと思っていた珠彦の事を、四尾を持つ源吾郎は明確に脅威だと見做していた。

 

「これでも、喰らっとけぇ!」

 

 指揮者よろしく右手を振るい、おのれの周囲に顕現している狐火を飛ばした。珠彦の顔にようやく焦りの色が浮かぶ。人間とは違う、妖獣らしい見事な動きで回避しようとしているが無駄だ。すべて標的を追尾する機能を備えた狐火なのだから。

 見ている間に狐火の一発が珠彦に着弾する。それを皮切りに四方八方を飛び交っていた狐火たちが珠彦に相次いでぶつかっていく。ぶつかった狐火は小爆発を繰り返し、珠彦の姿を覆い隠していた。青白い花火が白昼の地上で展開されるような、実に派手な光景である。

 狐火の爆発が収まったところで、源吾郎は細めていた目を開いて様子を窺った。光は収まったが舞い上がった砂塵と煙が立ち込め、相変わらず視界はクリアではない。爆発した狐火は意外にも火薬めいた強烈な匂いを放っており、匂いから珠彦の状態を類推する事も難しい。ただし、周囲は奇妙なほど静まり返り、観衆たちの声だけはクリアに聞こえてくる。

 

「あちゃー。こりゃあタマっちのやつ死んだんじゃね?」

「やっぱりボスのVTR上映会の方が良かったかも。朝からグロ見せられるなんて罰ゲームじゃんか……」

「タマ……やっぱり無茶しちゃって……伯父さんたちも従弟たちも哀しむのに」

「てかマジゲンゴローのやつひでーな。いくらブチ切れたからって言ってあそこまでやるか普通?」

「そりゃやっぱ人間様の血が混ざってるからじゃね? あいつらって殺し合いとか大好きらしいし」

「うひー。俺立候補してなくて良かったぜ。名声も何も、生きてなけりゃあ意味ないし」

 

 主に喋っているのは萩尾丸の配下たる、うら若き妖怪たちだった。彼らはおおむね珠彦の身を案じたり無謀だと呆れたりしていた。圧倒的な術で相手を圧倒した源吾郎への称賛の声は無い。むしろ観衆は源吾郎を恐れ、疎み、嫌悪の念さえ露にしている。無理からぬ話だ。妖怪は強い者に従うという習性があると言えども、見ず知らずの妖怪がおのれの同僚を殺しにかかったとあれば、そいつを敵として見做すのは当然の流れであろう。

 源吾郎への悪感情を向ける妖怪たちの声を聞きながら、奇妙な話だが源吾郎は安堵さえしていた。若き妖怪たちの感性が、人間たちのそれと似通っている事を感じ取ったためだった。妖怪に、強い妖怪になるという事は心身ともに()()()に変質する事なのか? 師範や先輩たちには黙っていたが、近ごろ源吾郎はそのような悩みに取り憑かれていたのだ。

 

 観衆がああだこうだ言ったり源吾郎が奇妙な感慨にふけっている間に、煙が晴れた。腰を落とした体勢で珠彦がそこにいるのがはっきりと見えた。詳しく確認するまでもなく無傷だ。両目が潤んで涙目になっているが、あれだけの煙に包まれていたのだから致し方ない。首元のペンダントが青紫に輝いている事に源吾郎は気付いた。

 珠彦は一つ咳ばらいをすると、ゆっくりと立ち上がった。洋服に砂塵が付着している以外は特段大きな変化は無い。

 

「……これは一体どういう事だい、野柴君」

 

 源吾郎は一歩近づくと、怪訝そうに目を細めながら珠彦に尋ねた。珠彦が無事……というか大けがをしていない事に源吾郎も安心してはいた。しかし、それ以上に確認したい事もある。

 

「どうもこうも、結界が僕を護ってくれた……それだけっすよ」

 

 珠彦は問いに応じてくれたが、何となく歯切れが悪い。右手で首元のペンダントを撫でながら、珠彦は言葉を続けた。

 

「ああ……凄かったすよ、島崎さんの狐火もこの結界も。さすがにあれだけの狐火をぶつけられたら結界もズタズタで僕もやられちゃうかなぁって思ったっすけど、全弾余裕で防いでくれたみたいだし」

「……結界で身を護った事は俺も解っているさ」

 

 源吾郎は静かな調子で言い捨てた。珠彦が結界術に頼っておのれの身を護った事は、源吾郎だけではなく他の妖怪たちも気付いているだろう。源吾郎は、珠彦が狐火の猛攻からおのれを護った結界が、珠彦自身の妖力妖術で生成したものではない事を見抜いていた。役目を果たした結界は既に解除され妖気の残滓が漂っているだけだが、それは珠彦の妖気とは異質なものだった。妖怪たちの妖気に個体差があるのと同様、彼らが行使する妖術にも個体差や癖のような物がある。人間で例えれば、筆跡や歩き方が各個人で異なっているようなものだ。

 

「だがその結界は、君の術で作ったものじゃあないよな」

 

 珠彦は、源吾郎の問いかけにあっさりと頷いた。観衆たちも声を上げているが、驚いているというよりもむしろ納得のニュアンスの方が強い。深く考えずとも、観衆に回っている妖怪たちの方が源吾郎よりも珠彦の事を知っているのだ。

 

「これが僕の自衛策っすよ、島崎さん」

 

 さも得意げに珠彦は笑い、ついでペンダントの鎖を指でつまんだ。

 

「この訓練に参加する事が決まってから、大ボスに、雉仙女様にお願いして作ってもらったんすよ。そりゃあ、僕だって生命は惜しいし、島崎さんの攻撃がめっちゃ強い事くらいは解ってたんで……」

「な、何だって……」

 

 源吾郎は愕然としながら観客席を振り仰いだ。彼は迷わず紅藤を見つめた。末弟子の視線に気づくと、紅藤は一度瞬きをしてから小さく頷いた。

 

「……そうよ島崎君。今野柴君がつけているペンダントは私が用意したものよ。直弟子ではないにしろ、ただの訓練で、若い子が生命の危険にさらされるのは見ていられないもの。萩尾丸の部下として頑張っている子ならなおさらね」

 

 紅藤はまだ色々と何か言いたげではあったが、ここで言葉を切った。詳しい話は後でするという所であろうか。

 源吾郎は視線をさまよわせ、萩尾丸や峰白の顔を見つめた。玉座の隣に座る峰白は、源吾郎と目が合うと、その面をほころばせて笑った。

 

「……そこの狐、野柴珠彦がイカサマをしたと私たちに糾弾して欲しいんでしょ、島崎源吾郎」

 

 愉快そうな峰白の言葉に、源吾郎のみならず珠彦までもが身を震わせ尻尾の毛を逆立てている。峰白はなぶるような視線を源吾郎たちに向けると、あからさまに笑い出した。

 

「野柴狐が紅藤に護符をもらって攻撃から身を護った事を、イカサマだと糾弾するつもりは私には無いわ。むしろ――間抜けだと責められるべきはあんたの方よ」

 

 猛禽の瞳と冷ややかな笑みを見せながら、峰白はためらわず源吾郎を指さした。

 

「今一度聞くわ島崎源吾郎。私たち妖怪の世界を支える実力主義は一体どういうものかしら?」

「……強い者が弱い者を圧倒し、支配する事ですよね? 目的のために、強者は弱者や敵をぶち殺す事も……紳士淑女のたしなみとして許容されているんでしたっけ」

 

 源吾郎の返答に対して、峰白は笑みを深めた。不気味な、しかし目が離せなくなるような笑い方だった。

 

「ものの見事なまでに不正解ね島崎君。確かに強者となれば弱者を支配する事は出来るでしょうね。私や義妹の紅藤みたいに。だけど、弱者がただ大人しく強者に従うなんて言うのは大間違いよ。弱者は弱者なりに身を護る術を知っているし、従いたくない強者をやり過ごす方法や、或いは強者と闘うときにどうすべきかを常日頃考えていると思いなさい。さもなくば、力を得たとしても足許をすくわれるだけよ……まぁ、その辺りはあなた自身だけじゃなくて、指導者の教育不足もあるでしょうけれど」

 

 強者たるもの弱者に油断するな――峰白の言葉に、源吾郎のみならず珠彦や他の妖怪たちも神妙な面持ちで聞いていた。こういう話は確かに、師範である紅藤からは出てこない内容だ。紅藤はどちらかというと知識や技術を習得する事に重きを置いていたし、源吾郎が誰かと闘うという事をさほど考えていないようなそぶりもあった。

 不思議な感覚を抱きながら今一度峰白を見つめ、敬礼の意を示すように源吾郎は頭を垂れた。誇らしげに語った峰白の言葉には、奇妙なほどの説得力が宿っていた。雉鶏精一派の第一幹部・胡琉安の摂政として君臨する、名実ともに強者であるにもかかわらず。

 

「ささご両人。我々の講釈は終わった。今再び戦闘に戻るとよい」

 

 威厳をもって語り掛けたのは、雉鶏精一派のトップである胡琉安だった。彼は源吾郎を見定めると、柔らかい笑みを浮かべた。期待しているぞ、わが義弟よ……少し前に義兄になった胡琉安が、優しくそう呼びかけているように源吾郎には思えた。

 

「ねぇ、もうバテちゃったのかな?」

「そんな……はぁ、俺は、まだ、イケるぜ……!」

 

 余裕綽々と言った様子の珠彦を見据えながら源吾郎は吠えた。ハッタリをかますためにイケると言ってはみたものの、実のところバテ始めている所だった。得意技である狐火が珠彦に対して効果がないので、尻尾を操る攻撃にシフトチェンジしていたのだ。対妖怪ミサイル、或いは柔軟な槍として尻尾を振るうのは、実は狐火の放出よりも妖力は少なくて済む。しかし身体的な疲労は狐火の比ではなかった。

 一方の珠彦はやはり疲れの色は見えない。雑に振り回される尻尾をかわし、時に手や足で弾いているにも関わらず、猫じゃらしに戯れる猫のような気軽さでそこにいた。しかしその彼も完全な無傷でもなく、尻尾の打撃を弾いた手のひらには、うっすらと血が滲んでいる。

 珠彦が躍りかかる。源吾郎は少し遅れて尻尾の一本を繰り出した。珠彦は危なげもなく尻尾の軌道を見切り、何を思ったか両手で掴み、ぐいと引っ張った。思わぬ行動に源吾郎はよろめき、地面に倒れ込んだ。地面が柔らかかったので特段ダメージは無いが、強い驚きに源吾郎の心は揺らいでいた。

 

「さっさと立ってくださいよ、島崎さん」

 

 珠彦の長い影が、伏せった源吾郎の目元を覆う。逆光になったために珠彦の顔は見えず表情も窺えない。しかし先程までのひょうひょうとした物言いとは明らかに何かが違う。怒りの念、それも激情を程よく抑えた冷え冷えとした怒りを、源吾郎は珠彦から感じ取った。

 

「――人間の血が濃いからと言って、玉藻御前様の末裔がこの体たらくとは……」

 

 珠彦は源吾郎が起き上がっても攻撃を仕掛けてこなかった。獣じみた顔に険しい表情を作り、ただただ源吾郎を睨んでいるだけだった。

 

「この体たらくとは……はぁ、どういう事だ。或いは俺に……喧嘩を売ってるって事かい、この凡狐が」

「凡狐だからこそ、君に喧嘩を売ったんじゃないか!」

 

 源吾郎は目を見開き、無意識のうちに後ずさっていた。自分は始終感情を爆発させていたが、珠彦の烈しい感情の発露を見たのはこれが初めてだった。

 

「僕はね島崎さん。あなたが妖狐たちが羨む大妖狐・玉藻御前様の末裔だからこそ闘って、箔をつけたいと思ったんですよ。僕自身は術も不得手で、正直なところ仲間内からも馬鹿にされている節もあるんすよ。だけど、だからこそ玉藻御前の末裔である島崎さんと闘って、先輩たちを見返したかったのに……! こんなに、こんなに情けないんじゃあ意味がないっすよ」

 

 感極まった珠彦の瞳から、涙が一滴二滴流れ出るのを源吾郎は見ていた。落涙すらいとわぬ珠彦の主張を間近で見聞きしていた源吾郎も、全身の疲労もけだるさも忘れ、心の中がふつふつと沸き立つのを感じた。珠彦の真意に触れ、ある意味彼に同情……共感し始めていた。仲間を見返したいために奮起する気持ちは、源吾郎も痛いほど理解していたのだ。源吾郎は尻尾を揺らめかせ、おのれの中を巡る妖気を確認した。闘いを続行する事を決めたのだ。それは無論おのれの矜持の為だったが、「めっちゃ強い玉藻御前の末裔」と闘う事を望む珠彦の為でもあった。

 

「野柴君、果たして俺が情けない狐かどうか、とくと味わうが良い!」

 

 高らかに言い放った源吾郎は、先程尻尾から引き抜いた毛を珠彦の前に吹き飛ばした。燃え盛り活性化した意欲とは裏腹に、自分の中に残る体力と妖力がそろそろ限界近い事を源吾郎は察していたのだ。尻尾を操る術は体力を使う反面不慣れで精度が低い。そこで異なった方法、すなわち変化術を用いて攻撃を行おうと考えたのだ。

 引き抜いた尻尾の毛は、地面に落ちる瞬間に奇怪な異形に変化した。全長一メートル半ばかりの、触手と吸盤と植物のツルを併せ持つような不気味なモンスターである。こいつで珠彦の動きを封じ、ついで妖力を吸い取ってやろうと源吾郎は思っていたのだ。

 うねうねとうごめく触手モンスターの姿からなかば目を逸らしつつ、源吾郎はそいつに珠彦を襲うよう指示を下す。自分で作り出しておいてなんだが、源吾郎は変化術で作った触手を本気で気色悪いと思っていた。触手のみならず、蛇や蜈蚣や蜥蜴や芋虫などと言ったゲテモノの類を源吾郎は苦手としていた。ついでに言えばホラーものも苦手だったりする。

 

「げ」

 

 湿った物体が倒れる音を聞いた源吾郎は、軽く目を見張り困惑の声を上げた。妖力と精神力を削って作り出した触手モンスターの幻影は、珠彦の容赦ない狐パンチで一刀両断されていたのだ。そんな……源吾郎は数瞬の間がっかりしていたが、ふとあること思い出して今一度変化術を行使した。先程よりも大目に尻尾の毛を抜き、四方に散らばるように配慮する。

 次に源吾郎が作ったのは柴犬の軍団だった。何故柴犬か? それは戦闘に入る少し前に、珠彦が「変化できるのは柴犬かキタキツネくらいっす」と言っていたのを唐突に思い出したからだった。それは大分妖力の目減りした、源吾郎なりの洒落だった。あんたは柴犬に変化できると言ってたけれど、俺の変化術で作った柴犬のクォリティーはこんなものだぜ、と。

 さて、変化術で出現した柴犬は、三角形の瞳を吊り上げ、獰猛そうな唸りを上げて珠彦を取り囲んだ。最も狼に近い犬種であり、かつて野山で兎や狐を狩っていた猟犬らしい振る舞いである。

 

「ヒィッ……そ、そんな……」

 

 珠彦の様子が一変したのは、柴犬たちが躍りかかろうと身をかがめた丁度その時だった。小麦色の頬は一瞬にして青ざめ、おのれを取り囲む柴犬たちを、さも怯えた様子で見つめていたのだ。

 柴犬に囲まれた輪の中から活路を見出そうとした珠彦だったが、逃れる事は無かった。恐怖に足がすくんだのか、彼はそのままくずおれた。その身体がみるみるうちに縮んでいき、数秒と待たずして本来の姿、キツネ色のホンドギツネの姿に変化した。

 源吾郎は柴犬たちの輪の間に入り込み、輪の中央でへたり込む珠彦を見つめた。憐れにも彼は耳を伏せ尻尾を巻き、その上ぶるぶると震えていた。源吾郎が近付いたのに気づくと、珠彦はゆっくりと顔を上げた。琥珀色の瞳には、恐怖の色がありありと浮かんでいる。もはや勝負どころでは無さそうだ。

 

「勝負ありって所かい?」

「う、うん。もう、僕の負けでいいから! そ、そこの犬たちを消してくれ! ダメなんだ、僕、犬、犬だけは……」

 

 源吾郎は黙って術を解除した。殺気を丸出しにしていた柴犬の幻影は消えていく。珠彦はそれを見届けると何も言わず頭を垂れ、そのまま地面に突っ伏した。失神したらしい。柴犬を登場させた後から様子がおかしかったが、まさかここまで犬を恐れるとは……

 

「ひとまず、この勝負は俺の勝ちって事かな……?」

 

 源吾郎は誰に言うでもなく呟いた。この問いに誰かが返答したのかもしれないが、源吾郎には解らなかった。次の瞬間には、源吾郎も倒れ伏した珠彦の傍らに膝をつき、そのまま横倒しになってしまったのだから。

 



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マムシボールと師範の噂

 目覚めかけた源吾郎がまず気付いたのは、額に張り付くひんやりとした感触だった。うっすらと目を開くと、白い天井と丸い明りが目に飛び込む。自分は今室内にいて、どこかに寝かされている事に源吾郎は気付いた。

 額に張り付いたものをそのままに、源吾郎はその場でもそりと半身を起こした。薬品めいた匂いが鼻先をかすめ、思わず顔をしかめた。マットレスの利いたベッドと柔らかな毛布の間に自分はいたらしい。

 

「おはよう、島崎君……」

 

 師範である紅藤は、源吾郎のいるベッドの、対面にあるベッドに腰かけていた。とうに着替えたらしくいつもの白衣姿だ。末弟子に対して屈託のない笑みを浮かべていたが、その顔にはわずかに疲れの色が見えている。彼女の隣には、狐の姿のままの珠彦が腹ばいになり、その隣に人型に化身している妖狐の少女が腰かけている。

 紅藤は金属製の頭皮マッサージ器具を操り、珠彦の丸い頭部を刺激していた。彼は特段嫌がらず、薄目を開けてなすがままだ。源吾郎はかつて犬が頭皮マッサージを受ける動画を見た事があったが、その光景に似ていた。

 紅藤は源吾郎の視線に気づくとマッサージを終えた。珠彦は琥珀色の瞳を見張り、マッサージ器具を名残惜しそうに見つめ、匂いを嗅いでいた。

 それらを眺めながら源吾郎は額に張り付いている物を外した。ゲル状の名状しがたい物質を取り外すと、紅藤がすぐに回収してくれた。市販の熱さましとは違う。もしかするとサカイ先輩あたりが用意してくれたのだろうか。ついでに言えば頬の切れた部分には絆創膏が張られており、珠彦の両前足の先は真っ白な包帯で包まれていた。

 

「島崎君は137分と56秒眠っていたのよ。先程の戦闘で、妖力と体力を消耗しちゃったのね」

 

 源吾郎の喉から気の抜けた声が漏れる。末弟子の感嘆にはさほど興味を示さずに、彼女は珠彦に視線を向けていた。

 

「野柴君は、妖力を取り込んだ事による肉体的負荷と、精神的な動揺が合わさって倒れただけだったわ。島崎君が目を覚ます、42分と36秒前に意識を取り戻したの……さて島崎君。気分はどうかしら」

「まぁ……悪くはないです」

 

 唐突に投げかけられた問いに答えつつ、源吾郎は紅藤をまじまじと見つめた。寝ている間、悪夢にうなされている記憶が源吾郎にはあった。寝込むたびにうなされるのは幼い頃からの癖だったが、それを師範たる紅藤に見られるのは何となく恥ずかしかったのだ。

 そのような源吾郎の心中を知ってか知らずか、紅藤はふっと笑った。

 

「だけど二人とも大丈夫よ。少し怪我があったから手当もしておいたし。ただ、少し妖力が不安定だから、一日二日はあまり動き回らずに安静にしておくのよ」

 

 紅藤はそこまで言うと、源吾郎の許に皿を差し出した。漬物用と思しき手のひらサイズの丸い小皿には、梅干し大の丸く淡い褐色の塊が三つ並んでいる。弁当の定番であるミートボールに見た目こそ似ていたが、匂いや色合いが何となく異なっている。

 

「これはマムシボールよ。島崎君たちが試合をやる前に捕まえる事の出来た新鮮なマムシをミンチにして、サラダ油でカリッと揚げてみたの」

「…………」

 

 小皿を半ば押し付けられるような形で受け取った源吾郎は、無言のまま視線をさまよわせた。狐姿のまま伏せる珠彦の鼻先には、源吾郎に渡されたものとよく似た皿が置かれてある。珠彦の小皿は空っぽだった。

 

「ねぇ島崎さん。マムシボール要らないんだったら僕が代わりに食べるよ」

 

 珠彦の言葉に、隣に腰かける少女が眉根を寄せ、尻尾でベッドを叩いた。

 

「ちょっとタマ。島崎さんの分にって雉仙女様が用意した分を貰おうなんて、それはちょっとアレじゃない?」

「それを自分で言うっすか、リン? 僕の分のマムシボールは、ほとんどリンが横取りしたじゃあないか」

「あれは横取りじゃなくて毒見よ。別に、ドクターの雉仙女様の事を疑ってる訳じゃないけど、見ず知らずの物を食べてタマがお腹を壊しても嫌だなって思ったから……」

「毒見とか言ってる時点でめっちゃ疑ってると思うけど! てか百歩譲って毒見だったとしても、リンはめっちゃ嬉しそうにマムシボール食べてたやん」

 

 リンと呼ばれた狐の少女は、どうやら珠彦の身内・義理の従妹らしい。いとこ同士の遠慮ないやり取りを眺めていた源吾郎は、マムシボールと珠彦とを見比べながら口を開いた。

 

「そんなにマムシボールが欲しいなら、僕の分を食べるかい?」

 

 源吾郎の淡々とした提案に珠彦はさも嬉しそうに耳を上げ、口も開いて小さな牙を覗かせていた。源吾郎は末っ子だったし妹分に相当する存在はいないが、妹を持つ兄の労苦は知っていた。力関係がはっきりと決まり揺るぐ事がほとんどない姉弟の関係の方がよほど単純である。

 そのままマムシボールを差し出そうとした源吾郎だったが、そのままの状態で固まっていた。紅藤が意味ありげな表情でこちらを見つめている事に気付いたためだ。

 

「マムシボールは嫌かしら?」

「実家暮らしをしていたときは、母が時々マウスの天ぷらを作ってくれましたけれど、マムシが食膳に上がる事は無かったですね」

「それでも問題ないわ。島崎君、この前食べたお茶請けの揚げカスタードは覚えているわよね? あれの隠し味はマムシパウダーよ」

「…………」

 

 源吾郎の視線は、紅藤の顔から珠彦に移り、最後に手許の小皿にシフトした。つい先ほどまで、マムシボールを珠彦に全て譲ろうと思っていた源吾郎だったが、その考えが揺らぎだしていた。蛇が苦手な源吾郎であるから、それを進んで食べようという気概は無い。しかし、以前喜んで食べたお茶請けにマムシ成分が使われていると知れば話は別である。

 結局源吾郎は、三個あるうちのマムシボールのうち、二個を珠彦に渡した。ありがとう島崎さん! 珠彦は元気よく礼儀正しく応じると、狐の姿のままマムシボールを味わい始めた。珠彦がさも幸せそうに食べているのを見ていると、源吾郎も皿の上のマムシボールが大変なごちそうであるような気がしてきたのだ。

 実際に口にしたマムシボールは、癖も無く意外とあっさりとしたものだった。肉質や味は白身魚と鶏肉の中間のようだった。ファストフード店で入手できるチキンナゲットよりも、あっさりとした風味である。

 

「島崎君には薬湯も用意するわ。少し待っててくれるかしら」

 

 紅藤はそう言うとそっとベッドから腰を浮かせ、そのまま去っていく。白衣の裾が翻るのを源吾郎をはじめとした妖狐たちは眺めていたが、視界から紅藤の姿が消えると、三者は互いの顔を見つめ合う形となった。

 

「あなたは……」

 

 そこでまず口を開いたのは源吾郎である。彼の視線は珠彦ではなく、隣の少女に向けられていた。さほど背の高くない、すらりとした身体つきの娘である。義理の従妹であると珠彦は言っていたが、面立ちや雰囲気は何となく珠彦に相通じるところがあった。強いて言うならば、少女の方が幾分凛とした雰囲気が強い。

 少女は野柴鈴花と名乗り、義理の従兄である珠彦とほぼ同時期に萩尾丸の組織に就職した事を告げた。彼女は多くを語らなかったが、珠彦と鈴花《すずか》は実の兄妹のようにつかず離れず支え合っている間柄なのだろうと源吾郎は類推していた。

 

「それにしても、野柴さんはどうしてここに? 倒れたのは僕とあなたの従兄なのに……?」

「珠彦兄さんが心配だったから」

 

 野柴鈴花は短く、しかしきっぱりと源吾郎の問いに答えた。

 

「ドクターやその部下の青松丸さんが手当てをしてくれるって事は解っていたわ。だけど、万が一の事があってもいけないと思って……どの道、私がいてもどうにもならなかったかもしれないけれど」

 

 最後の一文を口にするとき、鈴花は声のトーンを落とし、ついで自分たち以外に誰かがいないかを確かめるべく周囲に目を配っていた。ドクター紅藤の耳に入らないかと心配しているようだった。つい先ほどは、マムシボールを訝る旨の話を、紅藤のいる前で行っていたにも関わらず。

 

「紅藤様の事が怖いんですかね?」

「別に……怖いわけじゃないわ。だけどドクターには色々妙な噂があるからちょっとね」

 

 鈴花は先程までの快活そうな素振りからは想像できないような、歯切れの悪い物言いで源吾郎の問いに応じた。噂は何かと源吾郎が突っ込んで尋ねても、あいまいにほほ笑むだけで何も言おうとしない。

 やっぱり紅藤様って大妖怪の中でも規格外の大妖怪だから、普通の妖怪は畏れるのだろうか……源吾郎がぼんやりと思っていると、鈴花の代わりに珠彦が応じた。

 

「大ボスの雉仙女様には色々と噂があるんすよ。大昔に忘れ去られた禁術を操る黒魔術師だとか、妖怪の身体を機械とドッキングさせてサイボーグを作るマッドサイエンティストだとか、ドーピングで大妖怪になったとか……枚挙に暇がないっす」

「ええ……そんなに……」

 

 何故か楽しそうに語る珠彦を前に、源吾郎は驚いてしばし言葉を失った。紅藤があれこれと噂されている事を萩尾丸は知っているのだろうか。一瞬だけ真面目に考えた源吾郎だが、数秒と経たぬうちに真面目に考えるのを辞めた。炎上商法と煽りの大好きな萩尾丸の事だ。部下が上司の様々な噂を口にするのを彼は面白がり、或いは()()()()の三つや四つくらいやっているかもしれない。

 そんな事を思っていると、薬湯を作った紅藤が戻ってきた。彼女からカップに入った薬湯を受け取った源吾郎は、対面のベッドに並ぶ妖狐たちを指示しながら糾弾した。

 

「紅藤様! そこの野柴さんたちは紅藤様の事について色々と妙な噂を信じていたんです。中二病の中学生みたいに。黒魔術師だとかサイボーグばっかり作るマッドサイエンティストだとかって……」

「あらあら、そうだったの」

「そうですよ!」

 

 妙にのんきな調子で応じる紅藤に対し、源吾郎はせっついた。

 

「紅藤様。せっかくの機会ですから、そこのお二人には噂が嘘だって事は仰った方が良いと僕は思うんです」

「それもそうね。やっぱり真実が覆い隠されるのは、科学的にも良くないわ」

 

 優しげな笑みを浮かべた紅藤は、野柴狐たちの方に向き直った。

 

「野柴珠彦君に野柴鈴花さん。何か萩尾丸とかの影響で私に関する妙な噂が出回っているみたいだけど、ああいうのはあくまでも噂でフィクションだから安心なさいね。

 私はあくまでも仙術や妖術を研究していて扱えるから、黒魔術師とは違うと思うの……そりゃあ、黒魔術の系統も術者の嗜みとして使えるけれど、あんまり使わないの。私の趣味に合わないからね。

 あと、妖怪や動物と機械をドッキングさせるサイボーグ技術とかもやらないから安心して頂戴。生体に機械をドッキングさせるのは色々と負荷がかかるから、そんな事をするよりも生体組織を培養してくっつけた方が良いのよ」

 

 紅藤にまつわる子供じみた噂を信じる心を、他ならぬ紅藤自身が吹き飛ばす事に成功したのだ、と野柴狐たちの表情を見た源吾郎はぼんやりと思った。もっとも、それが良かったのかどうかは今となっては解らない。噂を否定した紅藤の口から紡がれた真実は、うら若い妖怪たちが取り上げた虚構たちよりもはるかに衝撃的だったのだ。




 雉とか鶏って毒蛇や毒虫でも臆せず捕食しちゃうんですね。
 週末なので3回更新いたします。


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「強さ」とは一筋縄ではいかぬもの

 驚愕の表情を浮かべる二人の野柴狐の表情は、奇妙なほどよく似ていた。その奇妙さをしみじみと感じ取りながら、源吾郎はカップの中にある薬湯をぐっと呷った。

 実際にはゆっくりと飲んだ方が良いのだろうが、匂いからしてじっくりと味わう性質の物ではないと源吾郎は判断を下したのだ。

 果たしてその判断はある意味正しかった。紅藤が用意した薬湯はお世辞にも美味しいと言いがたい代物だったのだ。何故か程よくトロミのついたその液体は、全体的に苦く、ところどころ山菜に見られるようなえぐみさえあったのだ。これらの味の間に甘味が妙な塩梅に絡みついており、何とも名状しがたい味わいをもたらしていた。

 

「その薬湯は、昂った神経を鎮める効能があるの。自律神経に作用するように調合しているけれど、危ないお薬とかじゃあないから大丈夫よ。ほら、作用は少し違うかもしれないけれど、人間もしんどい時とかにコーヒーとか紅茶を飲むでしょ? ああいう感じだと思ったら良いわ」

「…………」

 

 源吾郎は喉仏を上下させてはいたが、神妙な面持ちのまま黙り込んでいた。薬湯の奇妙な味が、源吾郎の心の奥底に眠っていた昔日の一幕を呼び起こしたのだ。子供用に調合された薬とは、何故ああも妙に甘かったのだろう。そんなとりとめもない思索の淵に、源吾郎の意識はなかば沈んでいた。

 

「どうしたの島崎君。浮かない顔をして」

 

 小首を傾げた紅藤が源吾郎に呼びかけ、彼の面を覗き込んでいる。半妖である実母よりもうんと年上の、しかし少女らしさが見え隠れする師範の仕草に戸惑いつつも、源吾郎は小さく頷いた。

 

「いえ。ただ単に子供だった時の事を思い出しただけです。情けない話なのですが、僕は子供の頃は虚弱体質ではないのですが度々熱を出して寝込む事がありまして……その時の事を、不本意ながら……」

 

 源吾郎は全てを言いきらずに視線を床に落とした。今となっては健康活発な青年に育った源吾郎であるが、七、八歳位までは風邪だの熱だので寝込む事がままあった。ままならぬ身体への苛立ち、味が薄いのに妙に生臭い、肉や卵の入った粥、そして子供用の水薬の、甘さと苦さの入り混じった気持ち悪さ――普段は思い出さないようにしているが、ひとたび思い出すと郷愁と嫌悪の混じった、奇妙な感慨に取り込まれてしまうのだ。

 

「へぇーっ。島崎さんってちっちゃい時は病弱だったんだ……あ、もしかしてそんなだったからスタミナがないとか?」

「スタミナが無いのは単に人間の血が濃いからじゃないの? さっきの試合を見る限り、妖力の保有量と火力は私らとは段違いだったわよ。『小雀』じゃなくて『荒鷲』に居てもおかしくないレベルだと思うわ」

 

 珠彦と鈴花は互いの顔と源吾郎を交互に眺めながら意見交換を行っている。そりゃあまぁ二十歳未満で四尾になっている狐が虚弱体質だったなどと誰が信じるだろうか。当事者だって信じられない気分なのに。

 ところが、師範でありこの場ではうんと年長である紅藤は、源吾郎の病弱だった発言に特段驚いた素振りは見せていなかった。

 

「島崎君は生粋の妖狐や人間ではなく、両方の特徴があるものね。島崎君の、半妖やクォーターの身体は、言ってみれば狐の特徴が濃い部分と人間の部分がパッチワーク状に合わさっているような物なの。身体の部位によって狐の特徴なのか人間の特徴なのか違うから、それが身体の負担になっていた可能性は考えられるわ。特に島崎君は、妖狐としての特徴が兄姉たちよりも強かったから、余計にその影響が出たんじゃあないかしら。

 ただし、島崎君は妖力も他の子に較べて多かったから、成長するにつれて身体的な負荷を妖力でカバーしているとも考えられるわ」

 

 紅藤の解説を、源吾郎は二人の妖狐と共に静かに聞き入っていた。生粋の妖狐である珠彦らにはそれこそ「他妖事《ひとごと》」であろうが、源吾郎にしてみれば思い当たる節があったためだ。

 源吾郎自身の大まかな外観は、尻尾を除けば若き日の父・島崎幸四郎に生き写しである。しかし彼は、良くも悪くも妖狐の特徴を多分に受け継いでいた。妖狐の特徴を色濃く受け継ぐ事により、源吾郎は人間よりも優れた身体能力や感覚を具えていた。その一方で、妖狐の特徴が濃いゆえに、人間たちが好む味の濃い食事で体調を崩すという体質の持ち主でもあったのだ。しかも厄介な事に、源吾郎の味覚は人間に近かった。

 

「……繰り返すけれど、島崎君も野柴君も今日と明日はあんまり動き回らず無理をしちゃあ駄目よ。島崎君の方は鍛錬は明後日から再開しましょうか。野柴君に関しては、私から萩尾丸に言っておくわ」

「その件に関しては大丈夫だと思います雉仙女様。萩尾丸様は今VTR上映会を行ってますし、明日はそれに関する感想文と筆記試験らしいので……私たちは欠席ですが、その分VTRを購入して、家で見るように言われております」

 

 礼儀正しく告げる鈴花の顔を、源吾郎は渋い顔で見つめていた。戦闘訓練の前に、萩尾丸がVTR上映会がどうとか言っていたのを思い出したのだ。内容は知らないが主催者が萩尾丸というだけでどんな内容であるかおおよそ想像がつく。IT社長よろしく()()()()()()ポーズを取りながら、おのれの功績を語る萩尾丸の姿が三時間半にもわたり延々と垂れ流されるような代物なのだろう。

 

「雉仙女様っ。思ったんですが僕らに療養をお願いしてますが、回復術なり体調を整える薬湯なりで僕らを元気な状態に戻す事って出来ないんでしょうか?」

 

 スフィンクス座りの珠彦の問いに、紅藤はにべもなく首を振るだけだった。

 

「野柴君。回復術というのは実はとても難しい術なのよ。自分の妖力で自分の肉体を再生させるのはさほど難しくはないけれど、妖力の量も質も違う相手に妖気を注ぎ込むのは、本当はとても危険な事で、それこそ生命に係わる事だってあるくらいよ。

 それに、疲れ切ってクッタクタなのに、飲めばすぐに元気になれるって言うのもそれはそれで危険よ。野柴さんたちも島崎君も、大人たちから薬物濫用は危険だって、耳にタコができるほど耳にしたんじゃあなくて?」

 

 紅藤のこの言葉に、源吾郎と鈴花は素直に頷いた。研究者たる紅藤が、生物学だけではなく薬学に精通している事、組織培養の傍ら何がしかの薬品を作ってあれこれ調査している事を直弟子たる源吾郎は知っていたのだ。

 ところが珠彦は不思議そうに目を輝かせ、白い牙を覗かせながら口を開いた。

 

「まさか雉仙女様の口からそんな話が出て来るとは思わなかったっす。噂によれば、ドーピングによって雉仙女様は大妖怪になったんすよねぇ?」

 

 珠彦の口調は軽妙だったが、周囲の空気が一変するのを源吾郎は肌で感じ取った。まず劇的に変化したのは紅藤の雰囲気だった。一泊遅れて事態を感じ取った鈴花と源吾郎も身を引き締めて次の瞬間に何が起きるかとおののいていた。温和でフワフワした雰囲気であるから忘れがちであるが、紅藤は下手を打てばその辺に転がっている大妖怪よりも恐ろしい存在なのだ。機嫌を損ねて珠彦を誅殺する可能性も、あるにはある。

 

「ええ、()()()()()

 

 紅藤はその場で源吾郎たちを見下ろしながら静かに頷いた。彼女が何かをしでかす気配はなかったが、源吾郎はその声を聞きその面を見ているうちに、心中で密かに戦慄を深めていた。彼女の声には感情の昂りは見られずあくまでも冷ややかだった。若き妖狐たちを見下ろす瞳にしても同じだ。暗い紫の瞳を一瞥した源吾郎は、外宇宙の闇を垣間見たような気分になった。彼女は、かつて源吾郎に青松丸を造り出した時の話をしたとき以上に、昏い目をしていた。

 

「私が持つこの莫大な妖力は、ひとえにかつて私が仕えていたお方が調合された、仙薬を目指しつつも仙薬ではなかった何かによってもたらされたに過ぎません。本来ならば数千年もの歳月を費やさなければ得られない力を手に入れたその時、私は未だ百歳にも満たない、矮小な雑魚妖怪に過ぎませんでした」

 

 表情がほとんど抜け落ちたような、紅藤の青白い顔を、独立した生物のようにうごめく桜色の唇を源吾郎は茫洋と眺めていた。郷愁と悔悟、悲憤と憧憬。様々な感情が無表情の仮面の裏で渦巻き爆発しつつあるのを源吾郎は感じ取っていたのだ。

 妖狐らの視線は全て紅藤の顔に向けられていた。全員真顔である。源吾郎や鈴花は言うまでもなく、発端となった珠彦さえも、事態の重大さを把握したらしい。

 若く幼い、ともすればおのれの子ではなく孫と呼んでも良いほど年の離れた妖狐たちの視線を受けた紅藤は、頬を動かして笑みを作った。源吾郎にはもはや馴染み深いものとなった無垢な笑みではなく、隠しようのない虚無感と寂寥感が滲み出た笑顔だった。

 

「――若い子たちの言葉を借りれば、私が得ている能力は文字通り『チート能力』と呼んでも遜色ないでしょうね。ええ、並び立つ好敵手すらおらず、『無理を通せば道理も引っ込む』を地で行くような能力の事を『チート』と呼びならわしている事は私も知っているわ。

 それに、そもそもこの私の力は、私自身の努力によって得たものではないわ。他の妖怪たち、鍛錬と研鑽に励み艱難辛苦を乗り越えたひとかどの妖怪の皆様に、『お前の能力は()()()()だ!』と言われても、私は大人しく頷くほかないの。元来、チートというのはイカサマを示す言葉であるので」

 

 現実世界で自分の能力をチートだと言及する者がいたとは。紅藤の主張を聞き終えた源吾郎は、ぼんやりとそんな事を思った。単行本文庫本のみならずウェブ上の小説もたしなむ源吾郎であるから、ある種の作品の中で頻出するチートがどのような意味を持つかは知っていた。しかしまさか眼前で、ここまで深刻にチートに関する話を聞けるとは夢にも思っていなかった。灯台下暗し、真実は小説より奇なりというものであろうか。

 

「だからこそ、私は峰白のお姉様を立派な妖怪であると心底から認め、尊敬し、姉として慕っているの」

 

 峰白。紅藤の義姉の名を聞いた妖狐たちは、ぶるっと身を震わせ互いに顔を見合わせた。峰白もまた紅藤とは異なったベクトルで恐ろしい妖怪である。「敵はぶち殺せ宣言」を繰り返すから、などと言う生易しい理由ではない。目を付けた獲物を鷲掴みにした挙句、高笑いの末に八つ裂きにしてしまうような、猛獣的もとい猛禽的な荒々しさを感じさせる女妖怪なのだ。

 紅藤と峰白は姉妹の間柄にあるという事だが、彼女らの雰囲気や恐ろしさはいっそ真逆と言っても過言ではなかった。優しく穏やかな物腰ながら、余人には理解しかねる豊かな混沌を育みたゆたう守護者。苛烈で冷徹な態度を貫き、おのれの定めた秩序の道を敷く為に血と肉片に塗れる事すら厭わぬ圧政者……姉妹の友誼を結んでいる者同士としては、余りにも違いすぎる。いや、真逆の性質であるからこそ、一つの目的のために団結し、事を成就できたのかもしれない。

 

「峰白のお姉様は、元々は身寄りのない、しかし突然変異にて妖怪になってしまったお方なの。お姉様の妖力は紛い物でも借り物でもなくて、あのお方自身が培ってきたものよ。

 さきの訓練の時に、弱者はまざまざと強者の喰い物になるわけではないと、峰白のお姉様は仰っていたでしょ? それは峰白のお姉様がかつて弱者であった事もあり、尚且つその状態から力を蓄えて強くなったという事の他ならぬ証拠に過ぎないの。

 島崎君もご存知の通り、私からはそういう忠告は無かったでしょ。それはやらなかったんじゃあなくて私には()()()()からなのよ。若いうちから妖力があって何があっても死なない事が当たり前になってしまっているから」

 

 紅藤は一度ゆっくりと瞬きをすると、今一度源吾郎の顔を見据え、それから珠彦、鈴花と視線をスライドさせた。

 

「私の話は若いあなたたちには難しかったと思うけれど、心構えも無いのに唐突に力に恵まれても碌な事にならないと、そう思ってくれるだけでいいの。若いうちは確かに自分の力の足りなさに落胆する事もあるでしょうけれど、真に立派な妖怪になるためには、それこそが必要だと私は思っているわ」

 

 相も変わらず神妙な面持ちの妖狐たちを一瞥すると、紅藤は珍しく底意地の悪そうな笑みを浮かべ、今一度口を開いた。

 

「――それでも仙薬とかで手軽に強くなりたいって強く望むのであれば、あなたたちのために調合してあげるわ。但し、妖力を維持するための器が小さいままなのに莫大な妖力を得てしまったら、それこそ細胞の一つ一つが分離するような苦しみを、重篤な副作用をもたらす事になるけれど、ね。それでも構わないというのならば、遠慮なく言って頂戴」

 

 紅藤のある種の禍々しさをはらんだ言葉を聞き終えた源吾郎は、はっとして彼女の顔を仰ぎ見た。紅藤が大妖怪ながらもやや虚弱で多くの休息と食事を求める理由が何故なのか、この時悟ったのだった。



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闘いも講義も終わりて友を得る

 紅藤のいつになく不気味な笑みを眺めていた源吾郎と野柴狐たちだったが、いつの間にか彼らの視線は紅藤ではなく互いの顔に向けられていた。緊張したように琥珀色や茶褐色の瞳が向けられ、背中に貼り付いた引っ付き虫を払い落とすように小刻みに震えながら笑った。

 

「べ、別に僕は強くなる薬なんぞに興味はありませんよ、紅藤様」

 

 そうして声を上げたのが源吾郎であった。紅藤の脅しめいた言葉におののいてもいたが、しかし源吾郎の偽らざる本心である事もまた真実だった。

 

「ご存知の通り、僕は玉藻御前の曾孫です。僕は確かに強くなる事を求めておりますが、あくまでも僕自身の力を磨き上げて強さを得、その先にある栄光を掴み取りたいのです。紅藤様、紅藤様ならお解り、です……よね……?」

 

 おのれの血統と矜持について熱く語っていた源吾郎だったが、紅藤の表情が変化したのを見てその言葉はしりすぼみ気味になってしまった。紅藤は先程までのおどろおどろしい表情を引っ込め、年長者らしい和やかな笑みを向けていた。源吾郎はその事に気付き、気恥ずかしくなってしまったのだ。

 源吾郎は軽くうつむき瞬きを繰り返す。傍にいる妖狐たち、野柴珠彦と野柴鈴花の視線が絡みついているのをたっぷりと感じながら、今一度顔を上げた。心臓の鼓動が早まり、口の中が乾いて喉がひりつき始めた。それでも紅藤には問わずにはいられない。

 

「紅藤様。僕の、僕の戦闘訓練をご覧になってどう思われましたか?」

「よく頑張った、と私は思っているわ。もちろん、野柴君も」

 

 当惑の色を隠し切れぬまま源吾郎は紅藤を仰ぎ見ていた。頑張ったというのが本心なのか世辞なのか、今の紅藤の表情からは読み取るのが難しかったのだ。いや、実のところ源吾郎の中では結論は出ていた。

 

「ああ、実にお優しゅうございますね紅藤様。末弟子の僕に気を遣ってくださるなんて。ですが、ですが正直に仰って下さい。玉藻御前の曾孫とは思えぬほど情けない戦いぶりだったと、英雄などではなく単なる道化に過ぎなかったのだと」

 

 珠彦と鈴花がどんな表情でこちらを見ているのか。源吾郎には解らなかったしどうでも良かった。ともかく今回は、師範である紅藤が何と返すか。ただそれだけだった。

 源吾郎が仰ぎ見た先、紅藤の白い面は源吾郎以上に当惑と呆れの色に染まっていた。彼女はあからさまにため息をつくと、源吾郎を見下ろし唇を開いた。

 

「私は別に、先の試合での島崎君の闘いぶりが情けないとか滑稽だなんて思っていないわ。むしろ――今そうやって過去を曲解し、謙遜と卑屈をはき違えてしまった今の振る舞いこそが、滑稽な道化のように、私の眼には映っているわ」

 

 心臓が何かに強くたたかれたような気分になり、源吾郎は目を見張った。峰白の苛烈な文言や萩尾丸の炎上必至の煽りトークには慣れていると思っていた。しかし師範である紅藤の言葉は、時に途方もない鋭さを持って源吾郎に突き刺さってくるのだ。日頃より温和に振舞っている事もあるのだろう。だが穏やかな笑みの裏に隠された、鋭い洞察力のなせる業なのだと源吾郎は思っていた。

 

「どんな妖怪と闘うにしろ、島崎君は初陣で必ずや苦戦するという事は既に私は見抜いていたのよ。それは峰白のお姉様や萩尾丸も同じだったわ。いえ、少し違ったわね。峰白のお姉様は血筋と能力が良くても流血と危機が迫らねば妖怪としての成長はありえないというお考えの持ち主ですし、萩尾丸に至っては、ワンサイドゲームでフルボッコになる結末を予想していたようです……フルボッコになるのは、島崎君の方ですがね」

 

 源吾郎はどう反応すればいいのか解らず、間の抜けたような息を吐くのがやっとであった。先程の紅藤の言葉が世辞ではない事は明かになった。それにしても、峰白も萩尾丸もほとんど期待していなかったという事が明らかになった。萩尾丸は言うに及ばず、峰白も源吾郎が相手を害するどころかむしろ窮地に追い込まれる事を見抜いていたという事か。彼らはそれをも見越したうえで、源吾郎に発破をかけていたのか。

 視界の端でキツネ色の物体が動く。伏せていた珠彦が、上半身を起こして座りなおしたようだった。前足の肉球をクロスさせた、小粋な姿勢である。

 

「ボスはこうも言っていたっす。島崎さんは玉藻御前の末裔で雉仙女様の訓練を受けているけれど、実は兄弟喧嘩を知らないお坊ちゃまだって。まぁ、島崎さんと闘いたいって言う妖怪が中々出てこなかったから言い足したんすけどね」

「先輩、そんな事まで皆に吹聴していたのか……」

 

 おのれ、今度萩尾丸先輩に出会ったら天狗じゃなくて妖怪ろくろ男と呼んでやろう……妙な復讐心を胸にくすぶらせる源吾郎の耳に、珠彦の更なる問いかけが入り込んだ。

 

「で、島崎さんが兄弟喧嘩を知らないお坊ちゃまって本当っすか?」

 

 珠彦はベッドの端を尻尾で叩きながら質問を投げかけた。小動物よろしく小首をかしげる様はなるほど可愛らしかったが、源吾郎は鼻を鳴らしつつそれを見下ろすだけだった。

 

「全く、上司たる萩尾丸先輩に面白おかしく教えられたとはいえあんまりじゃあないか。俺がお坊ちゃまだと見做されているのは仕方ない事として、俺とて兄弟喧嘩が何であるかという事くらいは知っているよ。あれだろう? 世間の、一般家庭ではプリンだとか何かのおやつを取った取らないとかで勃発するようなものだろ」

 

 源吾郎の返答に珠彦は目を丸くし、それからついと首を横に向けて鈴花と顔を見合わせる。今再び源吾郎に視線を戻した珠彦は、狐姿ながらもあからさまに笑っていた。

 

「あはは、やっぱり島崎さんは兄弟喧嘩をご存じない……いや兄弟喧嘩を行った事がないみたいっすね。さっきの言葉で丸わかりっす」

 

 そういうものなのだろうか。源吾郎は珠彦の瞳を見つめながらぼんやりと思った。とはいえ源吾郎が兄弟喧嘩を行った事が無いのもまごう事なき事実だった。喧嘩というのはそもそも立場や精神的なものが近しい者同士でなければ成立しない行為である。

 最も歳の近い末の兄である庄三郎でさえ源吾郎よりも七歳上なのだ。源吾郎が自我を育み反抗期を迎えた頃には、向こうはとうに少年時代を終え、いやいやながらも大人になり始めているという塩梅である。

 もちろん源吾郎も生意気で耳年増でこまっしゃくれた子供であったから、兄姉らに反抗し、彼らから反論を受けた事もままあった。しかしそれらのやり取りさえも兄弟喧嘩たり得ず、「庇護者の生意気とそれを諭す保護者の図」でしかなかったのである。

 源吾郎はだから、クラスメイトや部活の仲間が語る兄弟とのやり取りを聞くたびに別世界の出来事のように思う事が常だった。彼らが兄弟姉妹にためらいなく食って掛かり相争う事が不思議でならなかった。というよりも、そもそも兄弟の年齢差が小さい事自体が奇妙な事だと思う性質だったのだ。年かさの兄姉らは押しなべて独り身であり、母方のいとこもいない源吾郎にしてみれば、年下の親族というのは未知の存在だった。厳密には父方の従姉の()が該当するのだろうが、遠縁すぎて接点など皆無だ。

 

「ともあれ、戦闘で雌雄を決するのは、何も妖力の多さではないという事よ。最終的には、心と頭の問題になるわね。相手の攻撃をやり過ごしやり返すための機転と、どのような状況になっても揺るがずたじろがない心がないと勝負を制するのは難しいでしょうね。その辺りは、私が偉そうに言える事ではありませんが」

 

 結局心の問題に帰結するのか……源吾郎は何も口にしなかったが、頭の中でそんな事を思っていた。しかしそうなるとやはり初めから勝負が決まっていたような物なのだ。珠彦がどういう気持ちであの試合に臨んだのかは、源吾郎には正確には解らない。しかし少なくとも源吾郎よりも冷静な心持であった事だけは確かだ。というより、戦闘訓練を間じゅう、源吾郎が冷静だった瞬間が無かったと言った方が正しいであろう。

 

「……勇気を奮って戦闘訓練に参加して良かったじゃないか、野柴君。俺はさておき、君は勇敢な妖怪として、同僚たちに一目置かれるようになった。そうだろう? しかもちゃっかり尻尾も増えているし」

 

 源吾郎の視線は珠彦に向けられていた。紅藤に毛皮の手入れもしてもらったのか、怯えて倒れた時と異なりキツネ色の毛並は輝かんばかりの艶を見せている。そして気まぐれにうごめく尻尾は、今は一本ではなく二本に増えていた。

 

「確かにそれは、島崎さんの指摘通りね」

 

 源吾郎の言葉に応じたのは、珠彦ではなく鈴花だった。彼女は複雑な表情で源吾郎と珠彦とを交互に眺め、言葉を続ける。

 

「確かに二人が倒れた時、私も含めて驚いてうろたえたわ。だけどドクターたちから生命に別状なく大事にも至ってないと解ると、仲間内から珠彦兄さんの勇敢さやポテンシャルの高さを称賛する声がちらほらと上がり出したの。私たちの眼には、珠彦兄さんが四尾の狐、それもクォーターと言えども玉藻御前の末裔とほぼ互角の戦闘をこなしたわけだから」

「……確かに野柴君は強かったよ。僕が戦闘慣れしていない事を差し引いても」

 

 源吾郎は深々と息を吐き、思案の淵におのれの意識をシフトさせた。妖怪は強い者が尊ばれ、祭り上げられる。しかしそれは弱い妖怪がないがしろにされる事と同義ではない。強い者が弱い者をかばい立てする事とて珍しくないし、弱者は弱者ゆえに互いに協力し合い、どうにか生き延びようとするのが世の常だ。

 ともかくこの度の戦闘訓練で、野柴珠彦が高く評価されるのは何もおかしな話ではないのだ。一尾の少年が、ふんぞり返らんばかりに尊大な四尾の若者に立ち向かい、闘いを挑む――一尾の勝敗がさておき、誰だって一尾を応援し、彼の勇敢さを称賛したくなるだろう。それが鼻持ちならぬ四尾と互角に渡り合えたのならばなおさらだ。

 

「ふふふ、真の英雄は野柴君だろうよ。勇敢だし、強いし、それに何より賢いじゃないか」

「ア、ハハハ……ありがとうっす。島崎さん」

 

 源吾郎の心からの言葉に、珠彦は笑いながら礼を述べた。無邪気な笑みでもなく、獣じみた笑いでもなく、気恥ずかしさが見え隠れする笑い方だった。

 

「ああ、だけど島崎さんもすごかったすよ。別に、玉藻御前様の子孫だからって気を遣って言ってる訳じゃあないっす。僕はそこまで頭が回らないし、考えが足りないって弟たちや従弟たちからも言われてるし。

 島崎さんの技で一番すごかったのは、やっぱり変化術っすね。あの恐ろしさ、獰猛さを見事に再現した柴犬軍団には、さすがに僕も肝を潰したっす」

 

 口早に珠彦は言うと少し首を傾げ、不思議そうに両の瞳を輝かせながら言い足した。

 

「もしかしたら、島崎さんがもっと早い段階であの柴犬の術を使っていたら、もっと早く勝負が決まっていたかも知れないっすよ。最初なら妖力も大分残っていたでしょうから、柴犬だけじゃあなくて、ジャーマンシェパードとかピットブルとか物騒な犬も……出せた……かも」

 

 珠彦はそこまで言うと急に口をつぐみ、ぶるっと身を震わせた。犬がすぐ傍にいるところでもイメージし、急に怖気が来たのだろう。

 源吾郎は源吾郎で、一人で勝手に怯える珠彦に複雑な眼差しを向けていた。確かに、犬を変化術で顕現させた際の珠彦の怯えようは尋常ではなかった。確かに彼の言う通り、すぐに勝負を決めようとするのならば、初めから変化術を行使し、種々雑多な犬の幻影で珠彦の戦意を削ぐのが正解だったのだろう。

 とはいえ、そんな事を今になってからあれこれと考えても詮無い話であろう。狐火と尻尾の攻撃でもって珠彦を圧倒しようという考えであの時は頭がいっぱいだったのだ。それに変化術はあくまでも手慰みの術であり、戦闘に用いるような術ではないという思い込みが源吾郎の頭の中にはあったのだ。

 

「それもそうかもしれないがなぁ……まさか変化術で勝敗が決まるなんて、思ってもいなかったからさ」

「妖怪同士の闘いも気合とかが重要っす。そりゃあ、びっくりしたり驚いたりするって言うのを狙うんであれば有効っすよ。変化術が苦手な妖怪は、変化術が出ただけでも驚いちゃうもんなんすよ。僕みたいに」

「そう言うものなのか」

「そう言うものっすよ」

「そう言うものかもね、確かに」

 

 珠彦と鈴花が顔を見合わせつつ頷くのを、源吾郎は不思議な気分で見つめていた。そりゃあ人であれ妖怪であれそれぞれ得意分野が違う事は源吾郎だって知っている。それでも、自分が気軽に行った術の方が、渾身の力で振るった技よりも勝敗を決する鍵になっていたという事実を中々把握できなかったのだ。

 

「勝敗はさておき、今回の訓練で島崎君も色々と勉強になったんじゃあないかしら」

 

 紅藤はすました表情で源吾郎と珠彦の顔を眺めながらそんな事を言った。

 

「同年代・同種族の妖怪同士であったとしても、得意とする技や苦手なものはそれぞれ異なっているの。基本的には、まんべんなく全ての能力を底上げ出来たらいいのかもしれないけれど、得意な事を青天井に伸ばしていく一点豪華型も捨てがたいわ。この術だけは右に出る者はいないってくらいになるって言うのも、中々気持ち良いものよ」

 

 自分の説明が気に入ったのか、ゆるくほほ笑む紅藤の頬にはわずかに赤みが戻っていた。紅藤様もある意味一点豪華型かもしれないと源吾郎は思ったが、ツッコミは入れなかった。

 

「この度野柴君の戦闘で解ったけれど、島崎君は表立って攻撃するよりも、策を弄して相手を攪乱する術の方が相性が良いかもしれないわね」

「えぇ……」

 

 非難の声にならないように注意したものの、源吾郎の喉からはため息とは言い切れない声が漏れてしまった。紅藤の視線は、その間に未だ狐姿の珠彦に向けられる。

 

「まぁ、今後何回か様子を見ないとはっきりとした事は解らないかもしれないけどね。野柴君は妖狐の中でも特に身体能力の強化に秀でた子だから、島崎君が好んで使った攻撃術は、確かに相性が悪かったでしょうね」

「そうっす。僕はすばしっこく動いたり、身体を硬くして身を護る術ばっかりで、狐火とか変化とか狐らしい術は実は苦手なんすよ」

 

 耳を前後に動かし、鼻先を真下に向ける珠彦は、何とも気まずそうな調子で告げた。

 

「僕はばっちゃんの弟似らしいんす。大叔父さんは若い頃その体質を活かして、見世物小屋で働いて大儲けしたって聞いた事があるっす。槍や刀剣も跳ね返すし、鬼が全力で斧を振るっても、傷一つつかなったそうっすよ」

「なんかすごいなぁ、色々と」

 

 素直に嘆息する源吾郎に対して、珠彦は笑いながら首を振った。どことなく切なげな表情でもあった。

 

「まぁ確かに大叔父さんは荒稼ぎもして良い暮らしをしてたみたいなんすけど、ばっちゃんやばっちゃんの兄弟たちからは総スカンを喰らってたらしいっすよ。お金がありすぎて素性の悪い野良の女狐をとっかえひっかえして結婚もしなかったって言ってたし、結局贅沢三昧な日々が祟って、()()()()でぽっくり逝っちゃったって」

 

 源吾郎は瞬きを二、三度行ったが、何をどう言えば良いのか解らなかった。身を硬くする術を極めた妖狐が動脈硬化で生命を落とした。性質の悪いジョークだと笑い飛ばしてしまうのを、源吾郎は押しとどめるのがやっとだったのだ。成程エッジの利いたジョークだとは思うが、知り合いの血縁者の末路を笑う程源吾郎も無神経ではない。

 きっと野柴君の大叔父様は、動脈硬化から心筋梗塞になってしまったんでしょうね。紅藤が大真面目な様子で解説してくれたので、気まずかった空気が少しマシになった気がした。

 

「そんな訳で、亡くなった大叔父さんに似ている僕は、やがて放蕩狐になるんじゃないかって身内から心配されてたんすよ」

 

 珠彦はそこまで言うと、もぞもぞとせわしく身を震わせた。彼の姿がぶれ、一瞬ののちにはキツネ色の頭髪の、二本の尻尾を生やした人間の少年の姿になっていた。

 

「ああ、だけど島崎さん。今日は島崎さんに会えて、でもって手合わせもできて良かったっすよ。みんなも、僕の事をある程度は敬ってくれるだろうし、島崎さんが結構面白くて良い妖《ひと》だって事も解ったし……良ければ、友達になってくれたら嬉しいっす」

 

 唐突な申し出に、源吾郎はきょとんと眼を見開いた。つい先程まで訓練と言えど互いに感情をむき出しにして相争った間柄である。向こうは親しみのような物を感じてくれているが、あまりにも唐突ではないだろうか。

 そう思って視線をさまよわせていると、安心した様子を見せる鈴花や、ほほえましいものを眺めたと言わんばかりの紅藤の顔が視界に入り込んできた。彼女らの表情を見ているうちに、珠彦と友達になるのもまんざら悪い事ではないと源吾郎も思い始めていた。源吾郎にしてみても、珠彦から妖怪の世界を教えてもらう機会を得る事になるわけであるし。



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第三幕:連休だ されど油断は禁物だ
自警団主催の妖怪会合


 紅藤から言い渡されたゴールデンウィークの、休暇日の多さに源吾郎ははじめ面食らってしまった。祝祭日と定められている日が休みなのは言うまでも無いが、祝日と祝日の間に挟まった平日までもが休日で構わないと言い渡されたためである。研究センターの面々は同じ敷地に立つ工場が稼働しているかどうかは業務上さほど重要ではないのだが、休みの日は工場のメンバーと統一する形になっているそうだ。

 

 ともあれ、源吾郎はいつもよりやや遅い時間に起床し、のんびりと朝食を摂り身づくろいを行っていた。都合九連休もあるこの度のゴールデンウィークの計画は、未だに完全に立てている訳ではない。とはいえ何もせずにぐうたらと過ごす訳でもない。ひとまず連休の前半に実家に戻り、両親や兄姉らに顔を見せようと思っていた。兄姉らも逗留する実家に長々と居座るつもりはないが、一日だけ滞在して近況報告をすれば、息子らに対して鷹揚な両親も、弟妹たち(特に末弟)の事であれこれ気を揉んでいるらしい長兄も安心するはずだ。

 おっしゃ、思い立ったら吉日だ。今日あたりでも実家に戻るとするか……源吾郎はその考えに気分を良くしていた。だが丁度その時、彼の鋭い聴覚は、アパートの扉の付近を誰かが行き来し、何かを入れていくかすかな物音を聞きとっていた。安アパートゆえに各扉には郵便を入れるための隙間があるが、郵便物はおおむねアパートの入り口にあるポストに入れられるような仕様になっている。それでも隙間に書類をねじ込んでいくのは、よそから来た勧誘か、新興宗教の勧誘か、胡散臭い団体の勧誘のいずれかであるらしい。

 源吾郎は訝しげに首を傾げつつも扉に向かった。二つ折りにされた厚めの紙が、果たして源吾郎の扉の隙間に引っかかっている。

 

「いったい誰からだい、こんな朝早くから」

 

 ぶつぶつと呟きつつ、源吾郎はチラシを開いた。別に丸めて棄ててしまっても構わない代物ではある。

 チラシの中身を一瞥した源吾郎は、丸めて棄てる代わりに目を見張った。チラシの内容は会合への案内だったのだ。一見すれば自治会の寄り合いの案内のように見えるが、ただの案内ではなく近隣に暮らす妖怪と、術者向けの会合(参加費有り)の案内である。その事に源吾郎が気付いたのは、主催者の名に見覚えがあったためだ。この地域の妖怪たち(野良妖怪や人間界に混じる妖怪含む)を取り仕切る、豆狸の夫妻だったのだ。源吾郎は実は彼らと面識があった。引っ越してすぐに、ちょっとした手土産を携えて挨拶をしたためである。

 近所付き合いに気を揉むのは世界征服を企む男にはそぐわない行動である事は源吾郎にも解っていたが、だからと言って引っ越し先で出会うかもしれない住人達との交流をないがしろにして良いわけではない。ましてや向こうは術者である叔父叔母を通じて源吾郎の存在を知っていたのだから。

 

「こりゃあ、参加しないとダメな奴だよな」

 

 誰に言うでもなく、今一度源吾郎は言葉を漏らした。集合時刻は夕方の六時から夜の八時までである。日中活動する妖怪も、夜行性の妖怪であっても無理なく参加できる時間帯に設定されていた。

 ちなみに人間たちの中には「妖怪はなべて夜に活動する」と考えている者がいるが、これもまたありきたりな誤解である。無論昼間は休み夜間は活動する妖怪もいるにはいるが、人間社会に馴染んでいる者や鳥妖怪の多くは昼行性である。また、妖力の多さや種族によって必要とする睡眠時間は違う。体質的に毎日三時間程度の睡眠で事足りる妖怪もいれば、数十年数百年と休まず活動し、そののち十年、百年単位で眠り込む妖怪もいる。源吾郎はおおむね昼行性であり、睡眠も同年代のヒトのオスとそう大差ない。

 ともあれ源吾郎はスマホを手許に手繰り寄せ、タッチパネルを連打し始めた。彼は昨晩無料通話アプリにて「明日の朝実家に戻る」と身内らに連絡を入れていたのだ。しかし会合出席イベントが発生した今、実家に戻る日をずらさねばならなくなった。今いるアパートは交通面ではやや不便なところなので、朝から実家に向かってとんぼ返りというのは難しいであろうと源吾郎は判断したのだ。そして連絡を入れなければ、親族(特に長兄が)心配するであろう事は目に見えていた。

 返信は源吾郎が新しいメッセージを送ってからすぐに戻ってきた。意外にも実家に戻る日程がずれた事に対する疑問や懸念の色は文面からは無かった。それどころか、妖怪会合に出る事を強く推奨するような文面だったのだ。

 源吾郎は深く息を吐きながら、額に貼り付く前髪を撫でた。彼はずっと一緒に暮らしていた親兄弟の腹の内を知っていた気でいたが、それでも彼らの思惑が源吾郎の思惑と異なる事もあるらしい。

 

 結局源吾郎は夕方まで自室にいて、会合に出席する準備を彼なりにあれこれと整えていた。準備と言っても大した話ではない。単にどの衣装で出席しようかと考えただけの話だ。

 別に衣装について悩む必要などないのでは? 自分でもそう思いつつも、源吾郎は淡々と手持ちの衣装を吟味していた。きっと、衣装を選ぶ為の熱意が中途半端であるからそのような考えに陥ってしまうのだろう。仕事に行くときはスーツ一択なので何も問題は無いし、男女が親睦を深めるコンパに出席するのであれば、衣装選びも気合が入るだろう。

 もちろん妖怪会合への出席も重要であると思っている。しかしそこで出会いがあるとは思ってはいない。会合には女妖怪も大勢顔を出しているだろうが、大方が結婚しているか子供を抱えたご婦人だろうし、そうでなければ父母や年長者に連れられて出席しているような童女であろう。地元民の会合なんて、主催者が人間だろうと妖怪だろうと大体そんなものである。若者が求めるようなときめきは会合の場には無い。そもそも出席する若者の数が少ないのだから。

 結局源吾郎はあれこれ悩んだ挙句、休みの日の外出に使う普段着で出席する事に決めた。スーツが最もフォーマルな衣装なのだろうが、チラシには特にドレスコードの指定は無かったし、スーツ姿もある意味浮いてしまうだろう。選出した普段着は簡素なデザインの、地味な代物であるが致し方ない。見眼麗しいイケメンは仮にダサい服を着たとしても本体が良いから様になる事はままある。その一方で、凡庸な容姿の者は身に着ける衣装に気を遣わねばならないのだ。ダサい服を着るのがまずいのは言うまでも無いが、気取って洒落た服を身に着けても、滑稽な姿になってしまうからだ。

 

 妖怪の世界は実力主義である。強者が幅を利かせ弱者を従えている所を見ただけでは、全ての妖怪が強さを求め、頂点を目指しているのではないか、と考える者もいるだろう。

 ()()()()()()、現実はそう単純ではない。強者には弱者を護る責務が絶大なる権限と共に与えられる事もあるかもしれないし、自由を求めているのに傀儡として祀り上げられ、精神的に拘束されているのかもしれない。そしてそれは弱者に対しても同様だ。唯々諾々と上に従う者たちが、ことごとく鬱屈と不満を抱え込んだ不憫な面々であると判断するのは早計というものである。弱い者、何かに服従する者は、その地位に甘んじ幸せを感じている可能性もあるのだ。むしろ妖怪でありながら強さを得る事に関心がなく、野望とは縁遠い日々の暮らしの中に幸せを見出す妖怪たちの方が多いくらいだ。

 妖怪自警団などと言うと仰々しいが、要するにおのれの強さを高める事にこだわらない妖怪たちが結成したコミュニティという事である。野望ある妖怪のように強くなる事に興味のない妖怪たちは、しかし分別のない愚か者が見せる不条理に、ただ黙って泣き寝入りする事は()()()()。彼らは自分たちだけでは限界がある事を知っている。故に血縁や種族の垣根を越えて、近隣の妖怪たちと交流を図り、ある種の連帯感を育むのである。各個体が弱くとも、集団で寄り集まれば単体の強者を圧倒する事が出来る。これは妖怪のみならず、生物たちの間でもままみられる現象であった。

 俺は誰よりも強くなって世界征服したんねん! そう思っている源吾郎にとっても、この会合への出席は意味のあるものだ。地元の妖怪たちに挨拶周りをして、自分が無害である事をアピールしておいて損はない。玉藻御前の曾孫、野望を抱く若き妖狐の存在に恐れをなした群衆が、団結して寝込みを襲撃したとあれば、弱小妖怪との戦闘にも手こずった源吾郎はあっさり斃されてしまうであろう。それに源吾郎自身も妖怪として暮らす妖怪の生態に興味を持ち始めていた。高校に通っていた時には同学年に妖狐の少年がいるにはいたが、彼とはさほど親しくなかった上に、彼は妖怪というよりもむしろ人間と呼ぶにふさわしい行動様式の持ち主だったのだ。

 

 夕方五時五十分。指定された公民館は既にスタンバイが整い、入り口は受付会場と化していた。会場には受付係となった若そうな妖怪が、さも暇そうな表情でテーブルの向こう側に座っている。相手のやる気のなさなど一ミクロンも気にかけない源吾郎がずいと近付くと、彼から氏名と年齢と大まかな住所、そして種族を書くようにとマニュアル通りの指示が源吾郎に下された。芳名帳には既に到着した妖怪たちが、住所のみならずメールアドレスや携帯の番号などと言った個人情報まで書き記している。源吾郎はペンを取ると、先達に倣って氏名や住所を記した。電話番号は公開せず、種族の部分は少し考えてから「妖狐」とだけ書いておいた。

 受付を終え、受付係に参加費を渡して会場に入ると、既に十数名の妖怪たちと、それよりうんと数の少ない人間の術者が広場に集まっていた。座席の指定は無いらしく、彼らは気に入った者同士で集まって着席したり、どこに座ろうか考えながら周囲を見渡したり、何故か壁にもたれて部屋の様子を俯瞰したりと思い思いに振舞っている。そして源吾郎の予想通り彼らの大半は大人の妖怪ばかりだ。そう強い妖怪ではないが、少なくとも「小雀」の連中よりも強そうだ。それもそのはずで、萩尾丸が雇っている妖怪集団の「小雀」は、放っておけば野良妖怪になってしまうような、子供を卒業したばかりの若く未熟な妖怪で構成されているのだ。

 

「おぅおぅ、九尾の若君・島崎君じゃあないか」

 

 どこへ進もうかと考えていた矢先、源吾郎の前に二つの人影が立ちはだかった。一方はポロシャツとチノパン姿の狸獣人、その隣に控えるのはふくよかな身体つきの、どことなく芯の強さを感じさせるご婦人だった。彼らこそがこの度の会合の主催者たる住吉夫妻であった。源吾郎は思わず拱手の形を取りかけたが、二人の顔を見てから軽く会釈をした。

 狸と人間の姿が程よく融合した形態の住吉氏は、イヌ科の獣らしい尖った鼻面を源吾郎に突き付けたまま笑ってみせた。

 

「今朝、慌てて使いの者に案内を入れさせたのだが……君ならば必ず来てくれると思ったよ」

「末の叔父と叔母が、住吉さんと縁深いと聞き及んでいましたので。それに皆様も、玉藻御前の末裔たる僕が近所に越してきたと知って気が気でないでしょうし」

「ええ。確かにそれもその通りねぇ……あたしらの女子会でも、結構話題になってるわ」

「まぁ言うて、桐谷社長と桐谷所長からは、島崎君はさほど素行の悪い狐じゃあないって君が越してくる前に熱弁を振るっていたのは聞いていたんだがな。まぁ、可愛い甥に関する話だから、二人の言葉には多少の主観は入っていたかも知れんが」

 

 源吾郎は住吉夫妻の言葉に愛想笑いで応じた。彼らの言う桐谷社長と桐谷所長は、それぞれ叔父の苅藻と叔母のいちかの事である。社長と所長は語感が似ているのでややこしいのだが、社長だった桐谷苅藻の許から独立したいちかが設立したのは事務所なのだから仕方がない。

 ともあれ苅藻といちかの暗躍の一つがまたしても明るみになったわけだが、源吾郎はもう驚く気にもならなかった。住吉夫妻は源吾郎が「割とお行儀の良い狐」と苅藻らが評したのを身内の欲目だと思っているのかもしれないが、そうではないだろうというのが源吾郎の考えだ。苅藻もいちかも、源吾郎の事を甥として愛し、優しく接してくれるのは事実だ。しかし彼らが、甥である源吾郎を甘やかさないよう留意していた事もまた厳然たる事実だった。

 

「この会合では本来自由席だから、好きなところに座ってもらっても構わないんだが……悪いが今回はこちらから座る場所を指定させてもらうよ」

「どうしてでしょうか?」

「君と同じように初参加の子がいるんだ。術者の家系の末娘で、故あって家業を継ぐための修行を始める事になったらしくてな。人間であるとはいえ我々に関与する者だから親睦を深めたいとこちらは思っているのだが、我々の事を警戒しているようで中々打ち解けそうにないんだ。それでツレと一緒に飲食に耽っている訳だが……

 島崎君も妖怪のような物だろうが、きっと彼女と同年代だろう? よくよく考えたら、おっさんやおばさんに話しかけられるよりも、若い者は若い者同士で話し合った方が盛り上がるんじゃあないかとね」

 

 突然の申し出に源吾郎は驚いて目を丸くした。別に人間の術者が出席している事に驚いている訳ではない。術者は確かに報酬を得て、悪事を働く妖怪を懲らしめたり時に妖怪を誅殺謀殺する事もあるにはある。しかしながら、人間の術者の全てが妖怪にとっての害悪というわけではない。中には妖怪に理解を示し、友好的な関係を築こうと考える者たちも多数存在する。野良妖怪や地元を仕切る妖怪たちが、「善良な」術者とも交流を深めるのは何もおかしな話ではない。

 源吾郎が驚いていたのは、唐突に同年代の娘の話し相手になるようにと命じられたことに対してだった。兄姉や叔父叔母と言った年長者と接する機会が多かった源吾郎は、年長者に馴染みやすく、特に意識せずとも年長者に好かれる術を心得ていた。しかしその一方で、源吾郎は同年代や年下の相手に接するのは大の苦手なのだ。ましてや相手が女性となるとなおさらだ。まぁ中学生高校生だったころは、演劇部に所属する女子達とさほど問題なくコミュニケーションを取れていたが、それもこれも日頃の学校生活で、彼女らの性格や考えを知っていたからに他ならない。

 だが源吾郎があれこれ悩んでも、狸たる住吉夫妻はそのまま源吾郎を件の術者の娘のいるテーブルへと誘導したのだった。

 



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術者の娘と白衣の紳士

 白衣とは「びゃくえ」と読んで下されば幸いです。


 若い者同士でなんて言い草だと、まるで見合いをやるみたいじゃあないか。そんな事を思いつつも、源吾郎は住吉夫婦に導かれ、術者の娘が座すテーブルに案内されてしまった。ちなみに会合の食事は合理的ななビュッフェ形式であり、遠回りに案内されながら、好みの料理や果物をプレートに載せていった次第である。ともあれ源吾郎は、川底を転がる小石のように彼女のはす向かいに腰を下ろす事と相成った。

 ちなみに娘の名はチョウエンジアスカというらしい。漢字に直すと鳥園寺飛鳥である。字面から名家である事が滲み出た、尚且つツッコミどころも具えたフルネームだ。

 

「……!」

 

 腰を下ろした源吾郎は、甘い酒の香りを感じつつ目を見張った。鳥園寺さんについては特段多く語る事は無い。見たところ二十代前半の、明らかに源吾郎より年上の女性である事は明かだ。向こうもこの会合にドレスコードがない事を心得ているらしく、猫耳付きの上に肉球のイラストがプリントされた、中々に前衛的な衣服を身に着けていた。警戒の色を見せてはいるものの、一方で内気で暗そうな雰囲気は無い。のんびりしたお嬢様という風情も感じさせる。

 だがそれよりも源吾郎の度肝を抜いたのは、彼女の隣に控えるツレの存在だった。それはひとことで言うと巨大なオウムだった。純白の羽毛と黄色く凛とした冠羽が目にまぶしい。世間でキバタンだとかコバタンだとか言われる種類の鳥だろうか。それにしても思っていたよりも大分大きい。座った柴犬と並んでも遜色ないほどだ。翼を拡げて飛ぶ姿は圧巻そのものであろう。

 灰黒色の後足で品よく果物のかけらを食するこのオウムが、鳥園寺さんのツレであろうと源吾郎は言葉を交わさずとも解った。件のオウムも妖怪である事を見抜いたためだ。佇まいやほのかに漂わせる妖気は、彼が成熟した妖怪である事を如実に物語っていた。

 と、オウムはすっと摘まんでいたものを下ろし、首をかしげた。レモンイエローの冠羽をゆっくりと上下させたかと思うと、硬く頑丈な嘴を開いた。

 

「お嬢、九尾の若君が到着なすったぞ。さぁ……」

 

 白いオウムの言葉を半ばさえぎる形で、源吾郎は口を開く事を決めた。オウムの紳士然とした物言いに源吾郎は多少なりとも感動していた。しかし彼らのペースに乗る事は無く、ここは敢えて先手を取って源吾郎から自己紹介しようと思っただけである。

 

「初めましてお二方、僕は島崎源吾郎と申します。冴えなりなりに見えるかもしれませんが、これでも三國に広く名をとどろかせた大妖怪・玉藻御前の曾孫、それも兄弟らの中で最も妖力の多い存在なんです。まぁ……とはいえ今日は互いに親しくなるために集まったので派手な事はやりませんが。よろしく、お願い、します」

 

 源吾郎は得意の長広舌を振るっていたのだが、相手の様子を見ているうちに弁舌の滑らかさは失っていた。つい調子に乗ってぺらぺらとやってしまったのだが、オウムはもとより鳥園寺さんも思っていたより驚かない。こちらに興味を持ってくれてはいるのだが、何というか面白いものでも見たという顔つきになっている。

 

「お嬢、島崎どのがレディーファーストをガン無視して自己紹介をしたみたいだ。ここはお嬢も自己紹介をするのが筋だろう」

 

 ええ。オウムの指摘に鳥園寺さんは頷いた。その頬にはやはりまだ笑みが残っている。警戒の色は薄まっており、頬は飲酒の為かうっすらと紅潮していた。

 

「初めまして島崎君。私は鳥園寺飛鳥。本当は大学卒業後はちゃんとした民間企業に就職するつもりだったんだけど、物の見事に就職活動に失敗して……それで両親に言われて鳥園寺家の当主候補になってしまったのよ。不本意だけどね。それで今は訳あってとある工場で作業員をやっているんだけど……」

 

 就職活動の失敗などと言う割合ヘビーな自己紹介をかましてきた鳥園寺さんは、しかし唐突に言葉を切り、火照ったその面に意味深な笑みを広げた。

 

「実はね。私の勤務先の工場は、島崎君が働いている研究センターの隣にある工場なんだ」

「え、な、な、何ですって!」

 

 鳥園寺さんのカミングアウトに、源吾郎はまさに月並みな驚き方でもって応じた。源吾郎の事を鳥園寺さんたちが知っているであろう事は想定の範囲内だった。自分で言うのもなんだが、源吾郎は有名妖である。玉藻御前の末裔の中でその出自を隠す事無く前面に押し出しているし、彼が師事している雉仙女こと紅藤の知名度も関西では高いためだ。

 しかしまさか、たまたま会うようにと促された相手が、部署は違えど同じ敷地で働いているなどとは思ってもいなかったのだ。

 

「へぇ、それじゃあ、鳥園寺さんは工場勤務をなさっているご身分である、と……」

 

 少し上ずった源吾郎の言葉に、鳥園寺さんはゆったりと頷いた。彼女が手首に巻き付けている薄紫の玉をあしらった腕飾りには見覚えがあった。

 

「島崎君は、高校を出てすぐに……鳥妖怪の中でも妖術の大家で大研究者である雉仙女様の許に、研究者として採用されたのよね」

「その通りです」

 

 胡乱気で剣呑な鳥園寺さんの眼差しを受けながら源吾郎は応じた。源吾郎は正真正銘十八歳の青年だが、年齢の判りづらい容貌と妖怪の血が混じっているという事もあり、年齢不詳の男と見做される事がままあった。取得したばかりの運転免許を見せれば、納得してもらえるだろうか。

 そんな源吾郎の考えを気にしない様子で鳥園寺さんは言葉を続けた。

 

「失礼な言い方になるかもしれないけれど、それって縁故入社よね?」

「まごう事なき縁故入社ですね。一応、センター長である紅藤様との面談はありましたが、弟子入りを、就職を前提にした話し合いでしたし」

 

 源吾郎の就職が縁故入社である事は、妖怪であれば誰も彼も知っている厳然たる事実だった。源吾郎は源吾郎自身の秀でた能力ではなく、彼の血統のみに重きを置かれ紅藤の許に弟子入りが認められた存在であるのだから。

 余談であるが源吾郎を「普通の人間」と見做している高校側に進路を報告する際は、「親族の紹介により研究センターの事務員になった」という話を両親が作り上げた事で事なきを得た。作り上げたと言っても「親族の紹介」という部分は真実である。妖怪社会に疎い教師や生徒らは、学者である()・島崎幸四郎のツテで源吾郎が就職したのだろうと思っているらしかった。真実は少し違うのだが、そこを指摘するとややこしくなるので、源吾郎の親兄姉らは彼らの誤解を受け入れたままだ。

 鳥園寺さんは据わった目で源吾郎を眺めまわし、盛大にため息をついた。若き乙女らしからぬ、威勢のいいため息である。

 

「話し合いですぐに研究職を得られるなんて、全くもって良いご身分よねぇ。そりゃあ、私だって就きたかったわよ、研究職。だからこそ大学では生物学を専攻して、おどおどした男子とかオタクな男子たちとか妙にチャラくて威勢のいい女子たちに囲まれながら勉強したって言うのに……!

 いいこと島崎君。学部卒で、尚且つ女子が研究職になるってめっちゃ難しいのよ。リケンとかカケンとかカソーケンとか色々あるけれど、あんな所って学部卒だったら男子でさえ人間扱いされないのよ。何よ修士卒のみとか博士課程必須とか! 

……島崎君。あなたの事が心底うらやましいわ。学部卒とか修士卒でもこぎつけるのに大変な研究職に、形だけの面接で入り込む事が出来たんですから……」

 

 周囲の視線が集まるのを感じた源吾郎だったが、何も言えず愛想笑いも引きつったままだった。源吾郎が研究センターに就職した事を鳥園寺さんが羨ましがっている事、理系であっても研究職への就職が難しい事を辛うじて把握した所だ。

兄の一人である誠二郎も、十年ほど前に就職活動で大層苦労していたのを源吾郎は静かに思い出していた。次兄の専攻はブンシコウガクかデンシコウガクとかいう仰々しく眠気をもたらすような物だったのだが、散々足掻いて粘った挙句に内定した就職先は、樹脂メーカーの総合技術職だったのだ。技術職とは名ばかりの、七割がた現場で汗を流す仕事であるという。源吾郎自身はまだまだ若いが、年の離れた兄姉や彼らの友達のおかげで「大人の世界」や「大人の話」について、同輩の面々よりも詳しかった。

 

「ええと……鳥園寺さんも紅藤様の許で研究をなさりたい、という事でしょうか?」

 

 ともかく妙に悔しがっている鳥園寺さんに落ち着いてもらおうと源吾郎は口を開いた。自分のペースに相手を巻き込む作戦はとうに瓦解したが、今はそれどころではない。

 

「生物学を専攻なさっていたのであれば、或いは僕よりも鳥園寺さんの方が、紅藤様と話が合うかもしれませんね。ご存知かも知れませんが、紅藤様はおおむねほとんどの科学技術に精通なさっていますが、特に生物学や薬学に興味をお持ちの方なのです」

 

 源吾郎はこの時素直な親切心から、鳥園寺さんにこのような提案を口にしていた。紅藤ならば中途採用や学部卒とかを気にせず受け入れてくれるであろうと源吾郎は思っていたのである。

 鳥園寺さんはしかし、はじめ面食らったような表情を浮かべていたが、呆れと戸惑いに顔を歪めた。

 

「別に、私はあくまでも研究職に憧れているのであって、雉仙女の許で働きたいなんて言ってないわよ。島崎君が雉仙女をどう思っているのか私には解らないけれど、妖怪の、それも鳥なんかの許で働くなんて……願い下げよ!」

「お嬢、飛鳥よ。いくら何でも失言が過ぎないかい? 雉仙女殿は島崎どのの今のあるじに当たるんだぞ。そんな言い方をしては、雉仙女殿の事も島崎どのの事も侮辱した事にならないかとわたしは思うんだ。それに、お嬢が妖怪や鳥を疎んでいる事は解るのだが、わたしを隣に座らせてそんな事を言ったのでは、説得力もありゃしないってやつだ」

 

 オウムの言葉に鳥園寺さんは我に返ったらしく、恥じ入ったように視線を落とした。オウムは彼女の様子を見届けると、二歩ばかり源吾郎の許に歩み寄り、冠羽をかすかに動かし首を揺らした。

 

「島崎どの。先の飛鳥嬢の発言で気分を害したのならばわたしが代わりに謝罪しよう。彼女は不本意ながら就職に失敗し、妖怪と関わる仕事に就く事が決められた事に動揺しているだけなのだ。さも研究職に拘泥しているような物言いに聞こえたかもしれないが……実際には妖怪と関与しない仕事であれば、事務職でも文句は言わない口かも知れないんだ」

 

 源吾郎はオウムの言葉がひと段落したところで鳥園寺さんを見やった。彼女の表情はわずかに変化しており、源吾郎に対して申し訳なさそうな視線を時々向けていた。

 

「あ、いえ僕は別に大丈夫ですよ……それに紅藤様が鳥妖怪である事も事実ですし」

 

 しどろもどろに源吾郎が言うと、オウムは安心したように冠羽を下げた。

 

「さてわたしも自己紹介を行わないといけないね。本当は飛鳥嬢から紹介してもらおうと考えていたのだが……まぁ計画通りに行かぬ事も世の中には往々にしてあるという事だね。

 わたしの名はアレイ。見た目から解る通りこの土地の生まれではないのだが、二百年ほど前に来日し、運命の導きにより鳥園寺家に仕える事と相成った次第だ。術者風の言葉を借りれば、代々の当主に仕え彼らを護り援ける使い魔であると思ってくれれば構わないよ。

 先年まではわたしも本家にて現当主の茶飲み相手になったり弟妹達の指導を行ったりしていたのだが、第一位の当主候補となった飛鳥嬢の就職と独り暮らしが決定してからは、彼女と行動を共にしている次第だ。

 無論この度の会合にわたしも出席しているのは、飛鳥嬢と九尾の若君である君との談話談論がスムーズに進むよう便宜を図るためだな。九尾の若君が、飛鳥嬢に対して狼藉を働いた時の戦闘役を担っているのも言うまでも無いがな」

 

 アレイと名乗ったオウムの黒々とした瞳に鋭い光がともったのを源吾郎は感じた。いざという時は闘う算段も付いている。言外にアレイがそう言っているものだと源吾郎は思ったのだ。額に浮かんだ汗が流れるのを感じながら源吾郎は生唾を飲み込んだ。術者の使い魔として二百年も過ごしてきたとあれば、萩尾丸などに劣るとしても百戦錬磨の猛者であろう。妖力が地味に多いだけの、戦闘のイロハすら知らぬ源吾郎には、敵に回れば十二分すぎる脅威である事は言うまでもない。

 源吾郎の密かな緊張をアレイは読み取ったのだろう。彼がにわかに表情を緩め、すっと右足を上げたのだ。

 

「――だが、今の君の様子を見ていれば、今宵の飛鳥嬢の良き話し相手になれそうだ。いやもしかすると、今宵だけではなく今後君と我々との間には運命で結ばれた縁が産まれるかもしれない……

 さぁ島崎どの。君が我々との数奇な出会いを祝福したいと思うのならば、私と握手を交わしてくれないか。わたしの右足を取るかどうかは君の心次第だから強制はしないが――」

 

 源吾郎は迷うようなそぶりを見せたが、おのれの右手をアレイの掲げた右足に届くように伸ばした。源吾郎が迷っていたのは、きちんとした握手の為にはどの位置に手を伸ばせばいいか、考えていただけに過ぎなかった。



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若人たちとオウムの語らい

 妖怪と術者。両者の関係は一筋縄で解説できる代物ではない。それぞれ立場や種族の異なる間柄であるものの、敵対関係や一方が善で他方が悪であると簡単に言い切る事が出来ないからだ。

 妖怪と人間であれば、確かに倫理観や善悪の判断に多少のズレはあるにはある。しかしそれはどちらかが邪悪であるという事を示している訳ではない。善良な者もいれば邪悪な者もいる。それは妖怪であれ人間であれ同じ話だ。個人の心の中でさえ、善悪が共存しているのだから。

 マンガやアニメなどでは諸々の理由から妖怪と人間とが対立しているという図式を好んで用いるが、この設定も短絡的なものである。もし妖怪の多くが人間を憎み、真に敵対視していたならば、とっくに人類は滅ぼされている所であろう。妖怪たちは人間とつかず離れずの存在であるが、彼らの人間に対するスタンスはほぼ中立である。中には例外的に友好的な者もいたり、敵対的な者もいたりするが、それも個人的な範囲に収まる程度だ。

 ()()()()()、妖怪も術者も穏健派は相互理解を求めるし、そういう場を積極的に作っていくのだろう。この度源吾郎が出席した会合のみならず、鳥園寺さんが就職したという雉鶏精一派の工場もそのような目的を果たしている。研究センターに隣接する工場には、確かに若手の妖怪が従業員として勤務している。その中に混じって、術者の当主の子女たちや、現役を退いた元術者の人間もいるという。若き術者の卵たちは、独り立ちする前に妖怪の生態を知るという目的のために送り込まれるらしい。鳥園寺さんも当主候補と言っていたしその口であろう。

 

 

 さてアレイのゴツゴツとした力強い握手を終えると、源吾郎はさりげなくその手をおしぼりで拭った。別にアレイがばっちいと思っての事ではない。「動物を触ったり外で遊んだあとは手をきれいにしようね」と長兄に言われて育ったため、その癖が今も抜けないのだ。

 幸いな事に、鳥園寺さんもアレイも源吾郎の行動をとがめだてはしなかった。アレイは器用な後ろ歩きで元の場所に戻っただけだった。鳥園寺さんは源吾郎を見つめると……花が咲いたような笑みを浮かべたのだった。

 

「島崎君。私実は島崎君の事ってちょっと怖い妖《ひと》かなって思ってたりしてたの。九尾の狐の子孫の中でもとびきり力が強いとか、女子に会うたびナンパしてお持ち帰りするとか色々噂もあったし……だけど、見た感じ島崎君って面白そうね」

「ナンパとか、お持ち帰りって……」

 

 源吾郎は苦笑いで応じるのがやっとだった。そりゃあ確かに街に出てナンパをやってみたいとは思っているが、今は仕事や職場に馴染むのにやっとでそれどころではない。それに源吾郎に好意を持ってくれる女の子が出来たとしても、すぐにおうちデートと言うのも性急すぎる。女の子が嫌がりそうな雑誌やナンパの指南書等々は、見つからないように術をかけて隠しているが、女の子が喜びそうな物もあの部屋には特に無い。文字通り男一匹で暮らしているのだから。

 とりとめのない事を思っていると、鳥園寺さんは更に言葉を重ねた。

 

「島崎君って、一応妖怪よね? 九尾の子孫って事だし。だけど、思っていたよりも人間っぽい感じがするわ」

「確かに僕は、人間に近いところも多いかもしれません」

 

 唐突な鳥園寺さんの言葉に、源吾郎は頷くほかなかった。自分が生粋の妖怪ではない事も、或いは人間に近い存在かも知れない事は、指摘されずともよく知っている事だ。

 

「表向きは妖狐と名乗っていますが実際には母方の祖父と父親は人間なので妖狐の血は四分の一に薄まってますし……何より両親や親族からは、人間として生きるように教育されてきました。僕よりも妖狐の血がうんと薄い、兄上たちや姉上は人間社会に順応できたので。鳥園寺さん。人間っぽいっというのは誉め言葉でしょうか?」

 

 最後の言葉の語気が強まってしまったのを感じつつも、源吾郎は尋ねずにはいられなかった。幸い鳥園寺さんは怯えた素振りは見せていない。彼女はけろりとした表情で頷いた。

 

()()()()誉め言葉よ。思ってたよりも怖そうなところも少ないし、何より話が解りそうな感じだもの」

 

 鳥園寺さんの言葉に、源吾郎は思わず顔をしかめていた。彼女に対して憤慨していた訳ではない。彼女の言葉に思う所があり、ついつい考え込み始めていたのだ。

 鳥園寺さんは妖怪の思考や言動が人間とは遠くかけ離れているものと思っているようだが、果たしてそれは正しいのだろうか? 練習試合の時、源吾郎は普段会わない年若い妖怪たちを見たり言葉を交わす機会があった。珠彦にしろ鈴花にしろ他の妖怪たちにしろ、彼らの言動から見え隠れする考えや思いは、人間の持つそれとそう変わらないように思えた。源吾郎の妖怪らしい部分がそのように解釈したのか、若い妖怪たちの中には化け物めいた要素が薄いだけなのかは解らない。もしかすると、そもそも種族が違っても、考えたり思ったりする根っこの部分は、相通ずる部分が案外多いのかもしれない。

 

「……やっぱり、鳥園寺さんは妖怪が怖いとお思いなのでしょうか」

 

 源吾郎が思った事を口にすると、鳥園寺さんは一気に酔いが醒めたと言わんばかりの表情になってしまった。彼女は源吾郎の問いに応じようとしてくれてはいた。しかし唇を動かし口をもごもごさせるだけで、言葉が出てくる事はついぞなかった。鳥園寺さんがどう思っているかははっきりと伝わった。申し訳ない事を尋ねてしまったと源吾郎は密かに悔やんだ。

 

「普通の人間が妖怪を恐れるのは無理からぬ話なのだよ、島崎どの」

 

 代わりに問いかけに応じたのは、鳥園寺さんのツレにして使い魔であるアレイだった。彼はいつの間にか二人の間に立ち、器用に鳥園寺さんと源吾郎の顔色を同時に窺っていた。

 

「島崎どのなら十二分に知っていると思うが、我々の中でも極めて弱いと見做される妖怪でさえ、成熟したシベリアトラを苦も無く屠る事が出来るのだからな。動物の中で、ネコ科の獣で最強最大と謳われる獣を、な」

 

 その通りです。その意味を込めて源吾郎は頷いた。頷く彼の脳裏には珠彦の姿が浮かんでいた。珠彦は妖術が不得手だのさほど強くないだのと自分で言っていたものの、肉体を硬くする能力に秀でている彼ならば、大人のシベリアトラと闘っても勝つ事は出来るであろう。そして雑魚妖怪一匹に易々と斃されてしまうシベリアトラと人間の力関係。これも明確である事は説明せずとも明らかな話だ。

 源吾郎はアレイの白い羽毛から視線を外し、鳥園寺さんを見やった。笑みは無く、源吾郎やアレイの存在に注視しながらもプレートに載せたパイをぱくついているのみである。

 

「成程……それなら確かに怖いって思うのもしょうがないのかもしれませんねぇ」

 

 その通り。やはり応じたのはアレイだった。

 

「特にお嬢は術者の家の生まれだから、特に狂暴な振る舞いをする妖怪の話ばかり耳に入っていたような環境下にあったんだ。数か月前まで、お嬢の二番目の兄・隼人坊を次期当主にと思っていたから、お嬢には妖怪について多くを教えていなかったんだ。それでも妖怪に関する情報は中途半端に入ってくるから……恐ろしく思うのも致し方ないだろう」

「ねぇアレイ。私はもう当主候補になっちゃったから、パパやママみたいにこれからガンガン悪事を働く妖怪と立ち向かっていかないと行けなくなるのよね……?」

 

 パイを食む手を止め、鳥園寺さんが尋ねた。その声は不安と心配に震えていた。

 

「いずれはそうなる。だが、若当主夫婦が立ち向かっているような悪事を働く輩とお嬢が実際に立ち向かうのは、少なくとも十年ばかり実戦を積まねばならぬから、今は心配せずとも良いさ。

 ひとまずお嬢には普通の妖怪に馴染んでもらうために妖怪まみれの工場で働いている訳だし、もし妖怪と立ち向かう仕事を行うとしても……ショボい悪事を働いているだけの割と無害な連中をあてがうようにこちらで調整するから大丈夫だ。何、ショボい悪事を働く妖怪たちの方が存外多いんだぞ? バイトテロやSNS炎上キッズ、悪徳キャッチセールスとかが代表格だな。あとはパンに貼ってあるシールをちょろまかす奴とかスーパーで限定品を買い漁る輩も、お嬢でも大丈夫だろう」

「ちょ、ちょっと待って下さいよアレイさん」

 

 源吾郎はアレイの言葉を聞くや否や、思わず声を上げてしまった。部外者である源吾郎が口を挟むのは野暮だと解っていた。だがアレイの言葉は余りにもショッキング過ぎて、口を挟まずにはいられなかった。

 

「妖怪たちの中に、そんな悪事に手を染める奴らがいるんですかね? そんな、余りにもしょっぱすぎませんか? まぁ確かに、炎上天狗は身近にいますけど」

「しょっぱいと言えばしょっぱいのかもしれんがな、実際にいるんだから仕方なかろう。我々妖怪の中には、妖力を増やす事に腐心している者がいるのは君も知っているだろう。原始的に他の妖怪と闘ったり時には喰い殺して妖力を増やす者もいるが、ああいった迷惑行為で妖力を増やす戦略に出た者もいるという事だ」

 

 妖力を増やしたい、という欲求とどうすれば妖力が増えるのか。この二点については源吾郎もよく知っている領域だ。人間や妖怪の感情が高ぶり不安定になると、妖力などと呼ばれるエネルギーが持ち主の外に漏れ出る事、他の妖怪がそれを取り込んで力を蓄える事も源吾郎は知っている。だからこそ妖狐や化け狸は変化術を行使し、相手を魅了したり驚かせたり感動させたりするわけである。

 そうやって考えていったら、アレイが言うような悪事が妖怪によって行われるであろう事は源吾郎も理解はできた。バイトテロであれ炎上攻撃であれ、相手の心を動かすには十二分すぎる効果があるからだ。

 

 アレイはそれから、鳥園寺さんが結局当主候補になってしまったいきさつを、ざざっとかいつまんで教えてくれた。源吾郎が把握したのは鳥園寺家はどれだけ優秀でも鳥アレルギーなどでは当主になれない事、鳥園寺さんの父親と双子の弟(しかも一卵性)が本家・分家の間柄なのに変に意地を張ったために本来当主候補ではなかった鳥園寺さんが表舞台に飛び出してしまった事などである。源吾郎は微妙な表情でそれを聞くほかなかった。何がしかの事情があるのだろうと鳥園寺さんを見ながら思ってはいたが、余りにも生々しすぎる。そして鳥園寺さんが当主候補となってしまった決定打が、やはり就職活動の失敗という事であるところに、そこはかとない切なさがあった。

 

「とはいえ、捨てる神あれば拾う神ありという事もあり、お嬢は雉鶏精一派の傘下にある工場に就職し、どうにか当面の生活費には困らなくなったんだ。その上あの工場には多くの妖怪が働いているから、あまり妖怪に馴染まなかったお嬢には良い環境ともいえる」

 

 工場で働いている妖怪たちって妖怪らしいところを見せていただろうか……そのような疑問を当然のように抱いた源吾郎だったが、アレイはすました表情を浮かべているだけだった。彼は冠羽をわずかに上げて源吾郎の方に頭をひねり、言葉を重ねる。

 

「仕事では妖怪の暮らしぶりを働きながら観察し、家ではわたしが手ずから術者としてのレクチャーを行う日々をこなしつつ、今日という日がやって来たわけだ。お嬢は前に較べて妖怪にも少し慣れてきたみたいだし、ここで一発インパクトの強い妖怪・要は大妖怪の子孫であり妖力も潤沢にある君とお嬢を引き合わせようと思ったんだ。

 そりゃあ多少は何かあるかもしれないだろうが、一度そこそこ強い妖怪に馴染めば、お嬢も後々楽なんじゃないかと思ってな」

 

 アレイは左足で首のあたりをねっとりと掻くと、ゆっくりと足を下ろし、今一度源吾郎と目を合わせた。

 

「……それにしても、島崎どのは立派なものだなぁ。こんな事を言ってはいけないのかもしれないが、若いながらもしっかりしているとわたしは思うよ」

 

 アレイを見据えながら源吾郎は目を見張った。自分が立派だとかしっかりしているなどと褒められるとは思っていなかったためだ。ましてや相手は、出会って小一時間も経っていない、大人の妖怪である。

 今まで黙ってやり取りを聞いていた鳥園寺さんが、拗ねたように唇を尖らせた。

 

「あらアレイ。その言い方じゃあ私や隼人お兄ちゃんがしっかりしていないって言ってるみたいじゃないの。身内にばっかり厳しいんだから、ひどいわ」

「お嬢、そこまで拗ねなくても良いだろう。ああそうだな、お嬢も今日はよく頑張ったとわたしは思っている。きちんと会合に来て、九尾の若君と話が出来たんだからな。だが……景気付けのために会合に来る前に缶チューハイを二缶も開けるのは如何なものかとは思うがね」

「え~、別に酔ってないわよ~」

 

 頬を今再び上気させて笑う鳥園寺さんをアレイはしばし眺めていたが、もったいぶった素振りで源吾郎の方にもう一度向きなおった。

 

「はっきり言おうか島崎どの。その背後でたゆたう四尾からも解るように、君は現時点でも()()()()()んだ。その気になれば、この会合に顔を出さないような、素行の悪い野良妖怪の実力者を打ち倒し、彼らの頂点に君臨するだけの実力と妖力はあるんだよ。

 ()()()君はそんな短絡的な道に走らず、癖は強いが誠実なあるじに仕える道を選んだ。その道を選んだのが偶然なのか必然なのかは解らないが、真の強者になる事を心得ているかのような動きではないか」

 

 唐突なアレイの言葉に、源吾郎は目をしばたたかせるのがやっとだった。アレイはそんな源吾郎を見つめ、さも愉快そうな表情を作っていた。今度は鳥園寺さんがアレイをたしなめているようだった。だが源吾郎の心の中では、アレイの言葉が何度も何度も繰り返されていたのだ。



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実家への帰路にたたずむ九尾かな

 久しぶりに乗る電車にはそう人は多くなかった。帰省ラッシュがどうとかという話が脳裏をよぎったが、連休二日目の日曜日であれば、それも少しマシになっていたのかもしれない。

 ともあれ目的の駅に到着した源吾郎は、人の流れに従って下車した。ホームの端から見える白鷺城は新緑の光に生えていつも通り美しい。せかせかと目的地へと向かおうとする人々を見ながら源吾郎は伸びをし、おのれのペースで歩を進めた。そうすばしっこい動きではないものの足取りは軽やかだ。手土産を携えているとはいえ体積的にも重量的にもほぼ手ぶらと呼んで構わない代物だったためだろう。

 

 城下町の商店街から少し離れた住宅街を、源吾郎はゆっくりと進んでいった。二か月前まではほぼ毎日通っていたその道の景色を源吾郎は心底楽しんでいた。実家に帰る事をワクワクするほど心待ちにしていた訳ではなく、むしろ一人暮らしに順応していたと思っていたから、そういう心の動きは実は源吾郎自身にも少し驚きを伴う代物だった。

 或いはただ単に、人工的と言えど生き生きとした四月末日の自然を目の当たりにして、彼らの生命の躍動に心が動いただけなのかもしれない。

 いずれにせよ、平和で楽しげな光景である事には変わりなかった。こんもりと植わるサツキツツジは淡い赤紫の花をみっしりと咲き揃わせており、鳩や雀は巣立ったばかりのヒナを引き連れて飛び回っている。自分をフェンリルの末裔だと信じて疑わぬチワワたちからガンを飛ばされた源吾郎であったが、それもまた微笑ましい晩春の光景の一つと言えるだろう。

――景色やこまごまとした鳥獣の動きに夢中になっていた源吾郎は、だから実家に続く通りを突き抜けて進んでしまった事に気付かなかったのだ。もちろんそこには、十八年弱過ごしてきた実家までの道のりを忘れるわけがないという油断もあった事は言うまでもない。

 

 今や住宅地の散策となってしまった源吾郎の歩みが不意に止まった。とはいえ道を間違えた事に気付いたわけではない。一介の妖怪として、周囲の空気が他の場所と異なっている事を感知しただけの話だ。

 源吾郎は用心深く周囲を見渡しながら身を震わせた。隠されていた四本の尻尾が顕現し、放射線状に源吾郎の背後に伸びていく。人間ばかりの往来で本性を晒すのは控えている源吾郎であったが、今回ばかりは問題ないであろうと思っていた。人払いや認識阻害の術が、この周辺に仕掛けられている事を源吾郎は即座に見抜いたのだ。何故源吾郎がいる場所にそのような術が展開されているのかは不明である。というよりも、その術が仕掛けられている場所に源吾郎が入ってしまったという方が正しいであろう。もっともそれでも謎は謎のまま残るだけではある。人払いや認識阻害は誰かに知られたくないから行使する術である。妖怪であれ人間であれ、何も知らない者であれば不思議な力の作用によってそこに到達する事が出来ないか、出来たとしても気付かずに通り過ぎるかのどちらかなのだ。通常であれば。

 

 驚き半分ドキドキ半分で周囲を確認していた源吾郎は、そこで一体の妖狐を発見した。彼が件の術を使っていた事はすぐに解った。しかし、彼に歩み寄る事も問いかける事も無かった。彼を一目見た時に強い驚きが源吾郎の心を支配し、それ以外の動きや考えを一瞬だが奪っていたのだ。

 がっちりした身体つきのその妖狐の男は、まごう事なき九尾だったのだ。顔つきや服装などの特徴は何ともぼんやりとしてとらえどころがなかったが、彼の背後で揺れる二メートル弱の尻尾が、確かに九本あるのを源吾郎ははっきりと見た。しかもよく見れば源吾郎の四尾とよく似た、銀白色の毛並だった。

 

「…………」

「あれは……そうか。ここは……七年か。懐かしいな」

 

 九尾の男も源吾郎の存在に気付いたらしい。小声でぶつぶつと何かを呟いていたが、ゆっくりとこちらに近付いてきた。源吾郎は呆然と立ち尽くしているだけだった。確かに実家に帰ろうとしている最中だったから、妖狐の血を引く身内に会う事には変わりはない。しかし、九尾の狐に遭遇するとは夢にも思っていなかった。九尾の狐は玉藻御前だけではないが、千年以上生きたとか、それに匹敵する妖力を持つ特定の妖狐しか到達しない最終形態だ。したがって個体数も妖狐の中では断トツに少ない。その数少ない九尾らは、神としての職務や神の補佐役を行ったりしているので、平凡な妖怪は会うどころか、お目にかかる事すらめったにないほどなのだ。しかし今、その非常に珍しい事が源吾郎の目の前で起きていた。

 今や九尾は源吾郎のすぐ傍に立ち、向き合う形になっていた。顔かたちも表情も判然としないが、不思議と怖い気持ちは無かった。九尾を目の当たりにしたという衝撃が大きすぎた事も原因であるが、九尾の放つ気配や妖気も無視できない要素だった。敵対的な気配は相手から一切感じられなかった。穏やかにあるがままの源吾郎を受け入れるような平穏な気配が、九尾の周囲には漂っていたのだ。だからこそ規格外の大妖怪――おのれの師範である紅藤よりも強いかもしれない、と源吾郎は思っていた――を前にしても、源吾郎は殆ど恐怖を抱かずにいれたのだ。

 

「おはよう、いい天気だね仔狐君」

「おはよう、ございます……」

 

 挨拶を返し、源吾郎は相手の定まらぬ顔を上目遣い気味に眺めた。九尾様、と呼びかけようと思ってためらっていたのだ。九尾は固有名詞ではないから、きちんと名で呼ばなければ失礼に当たるだろう。そんな妙にまともな考えが源吾郎の中で展開されていたのである。

 

「私の事は好きなように呼んでもらっても構わないよ。九尾様、とかね」

 

 心中を見抜かれたような九尾の言葉に源吾郎が目を丸くしていると、彼は続けた。

 

「……それにしても、見られるとまずいと思って張った術を潜り抜けて入ってきてくれるとは、ね。まぁ、君ならばやりかねないと思っていたかな」

「お邪魔をしてしまい、申し訳ありません」

 

 謝ると、九尾は少し慌てたように手を振った。笑っているのだろうなと源吾郎は解釈した。

 

「謝らなくても良いんだ仔狐君。別に私は怒ってないよ。君が玉藻御前の末裔である事は私も知っている。それに()()()、私の術を通り抜けて、こうして私の前にやって来るかも知れないと思っていたんだ」

 

 九尾は手を下ろすと、やや前のめりになり源吾郎を見つめた。

 

「仔狐君。私は君の事をよく知っているんだ。君が知っている事はもちろん、君の知らない事も、()()()()()()()()()()()()さえもね」

「九尾様……」

 

 恐怖と歓喜と不安と期待とその他もろもろの感情が混ざり合うのを感じながら源吾郎は呟いていた。いったい彼は誰なのだろう。雑多な想いはひとまず原始的な疑問に落ち着いた。源吾郎の事を、未来の事まで知っているというのは脇に置いておこう。妖狐の中には二尾や三尾程度の存在であっても、未来を知る事が出来る能力を持つ者がいる。九尾ほどの存在であれば、未来を見通す事はたやすいであろう。

 しかし、白鷺城の近辺に九尾が棲息しているという話は誰からも聞いてはいない。九尾がすぐ傍にいるというのであれば、源吾郎の親族なり紅藤なりから()()()()()()を聞いているはずだ。或いは、どこか遠くに暮らしている者が、たまたまこちらにやって来ただけなのだろうか。

 

「ああ、私が何処の誰か気になっているみたいだね。だがそんな事は気にせずとも良いんだ。もとより私は本来はこの場にいる存在ではないし――時が来れば私が誰だったか、解る日が君には必ず訪れる」

 

 そこまで言うと、九尾はかすかに笑い声を上げた。

 

「それより仔狐君。こんな年寄りに関わっているよりも、家族に会いに戻ったんだから、そっちを優先した方が良いじゃあないかな」

 

 言うや否や、九尾の姿が急激に薄れ、一秒と経たぬ間に消え失せた。今いる場所が島崎家からどれだけ離れているかを源吾郎が把握した時には、既に九尾の施した術も解除されていた。



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実家の歓待、護符のおみやげ

「お帰りなさい、源吾郎」

 

 開かれたドアから出てきたのは、源吾郎の母・島崎三花であった。一ヶ月半ぶりに顔を合わせた末息子を前に嬉しそうな笑みを浮かべている。何だかんだ言って母も母で源吾郎の身を案じていたのであろう事は源吾郎は把握していた。長兄以外は実家を離れそれぞれ居を構えており、彼ら彼女らは年に数回実家に戻って来るだけだ。とはいえ、立派に成人した兄姉らの来訪と、先月やっと独り立ちした源吾郎のそれは、やはり母の中でも異なった意味があるのかもしれない。

 

「ただいま、母様」

 

 普通に声を出そうとした源吾郎だったが見事に失敗した。収まらぬ心臓の拍動に気を取られ、その声はいつも以上に高く、また上ずってかすれていた。

 三花はそそくさと息子に近付くと、気遣うような素振りを見せつつ源吾郎をドアの中へと招いていった。こんな所が俺は不器用なんだ。演劇部で頑張ったんだから、少しはしゃんとした姿を見せないと……そんな事をくよくよと考えていた源吾郎であったが、はたから見れば母に導かれ仲良く家に入る若者にしか見えなかった。

 

「少し落ち着いたかしら」

「うん……」

 

 母が源吾郎に声をかけたのは、彼がリンゴジュースを飲み干し、テーブルの上に空のカップを置いたのを見届けてからだ。テーブルの周りには三花だけではなく、父の幸四郎や長兄や次兄もわらわらと集まり出している。

 源吾郎の顔を見て特に喜色を示しているのは父の幸四郎と長兄の宗一郎だった。彼らは最愛の末息子、実の息子のように面倒を見てきた末弟がともあれ元気そうな様子で戻ってきた事への喜びを包み隠さずにいた。

 

「今回実家に戻ってきたのは、誠二郎と源吾郎だけになるわね。双葉は取材で忙しいんですって。庄三郎は……まぁあの子はいつも通りね」

「双葉は今日も今日とて弾丸取材という事で僻地の絶壁とかに仲間や部下と共に向かっているらしいんだ。庄三郎とも一応連絡がついて、生存確認はできたから、源吾郎は特に心配しなくて大丈夫だよ」

 

 母の言葉が終わるや否や、長兄の宗一郎が丁寧に長姉と末の兄の状況を教えてくれた。末弟に対して「心配するな」と口にする一方で、その顔には不在の妹弟を案じる気配が見え隠れしている。源吾郎も誠二郎も長兄の表情には気付いていたが、指摘せずただ笑って流すだけにしておいた。宗一郎が妹や弟たちの事を何かと気にかける、いわばシスコン・ブラコン体質である事は源吾郎もいやというほど知っている。

 

「まぁ、みんな違う仕事をやってるから、連休と言えども皆がばっちり集まるのは難しいと思うよ宗一郎兄様。それに、双葉姉様が取材で飛び回っているのも、庄三郎兄様がアトリエに籠ってパンダみたいな暮らしをやってるのもいつも通りだし」

「……それもそうだなぁ」

 

 源吾郎の発言に応じたのは宗一郎ではなく次兄の誠二郎だった。五人兄弟の三番目というきょうび珍しい中間子の中の中間子である誠二郎は、何かと我の強い兄弟の中にあって、控えめで大人しい性質の持ち主だった。彼について特筆すべき点は、理系を専攻した事と、兄弟の中で最も人間に近い存在であるという事であろうか。

 

「俺と源吾郎と宗一郎兄さんはそれぞれ昨日から休みだったけど、源吾郎だって昨日は昨日で用事があったとかでこっちには来れ無かったもんなぁ」

「確か、妖怪たちとの会合があったって聞いたんだよ、父さんは」

「そうそう。地元の妖怪たちとの大切な会合があるって連絡を僕らにくれたよね……して源吾郎、会合の方はどうだったんだい」

 

 宗一郎が源吾郎に視線と問いかけを投げてよこす。長兄か父母からこの問いかけは放たれるであろうと源吾郎も予測していたので、宗一郎の妙に暖かい視線にも臆する事は無かった。

 

「ああ、それが術者の跡取りになるって言う女の人と知り合いになったんだ」

 

 おおっ、とかああっ、というやや気の抜けた声が、兄たちの喉から漏れた。宗一郎も誠二郎も人間としての生き方を選んで久しい。しかし兄たちも妖怪の暮らしや妖怪に関わる術者の事もある程度は知っていた。

 驚く二人の兄に驚きつつも、源吾郎は説明を続ける事にした。猫耳パーカーを身にまとったマイペースな鳥園寺さんと、彼女に仕える巨大なオウムのアレイの姿が、脳裏にくっきりと浮かび上がっていた。

 

「主催者の住吉さんが、新しく越してきた術者の娘さんがいて、向こうもそんなに年が変わらないみたいだから話し相手になってくれって言われたんだ……向こうの人は鳥園寺って言うお屋敷の一人娘で……末っ子だったけど色々あって当主になるように修行を始めたって話をしてたんだ。お嬢様だからかな、割とマイペースで、案外度胸のありそうな女性だったよ」

「……その娘とはお友達になれそうかしら、源吾郎?」

 

 意味深な笑みを浮かべながら問いかけたのは母の三花だった。唐突な言葉に目を白黒させていると、母は少し真面目な表情になって言葉を続けた。

 

「妖怪として生きていく以上、人間の術者たちと関わる事があるのも致し方ない話だものね。悪しき考えに囚われた者たちには気を付けなければならないけれど、悪しき考えを持たない、真面目に善良に働いている術者たちと私たち妖怪は、むしろ相互に交流がある方が何かと良い事も多いのよ……

 話を聞く限りでは特に心配する事は無さそうね。鳥園寺家の事もお母さんは知ってるし。それにしても初回の会合で当主候補の娘と仲良くできるなんて流石ねぇ」

 

 母の言葉を聞くうちに、源吾郎は照れ臭さを隠すためにほんのりと笑った。「仲良く」という単語を聞いた時に、相手が女性だったために源吾郎はよせばいいのに邪推してしまったのだ。色事とかとは無関係に、ある種の政治的駆け引き的な部分で、術者と仲良くなったことが良い事であるという旨の内容を、母は源吾郎に伝えたかったらしい。

 母の口から()()()()()()()()()()()()()()()()と出てきたのも、何とも意味深であるとも源吾郎は思っていた。大人はよく聞き分けのない幼子に対して「そんなんだったらサーカスに連れていかれるよ!」とたしなめるそうなのだが、島崎家の場合ではサーカスではなくて()()()()だったのだ。今では、それが単なる脅し文句ではない事を源吾郎は知ってしまったわけなのだが。まぁ、母の場合は父と弟妹が術者な訳であるから、源吾郎たち以上に術者には()()()()()()詳しい事になる。

 

「ああでも母様。仲良くなったって言っても向こうもお酒が入っていたから気軽に話しかけてくれただけかもしれないんだ。まぁ、職場も近いし連絡先も交換したから、今後も顔を合わせる事はあるかもしれないけど」

 

 源吾郎はそこまで言うと、鳥園寺さんの事を話すのを打ち切りたい気分になった。あんまり女の人の事を考えるのが恥ずかしくなってきたためである。源吾郎はズボンのポケットを探り、中に入れていたものを取り出してテーブルに置いた。

 

「それより、ささやかだけどお土産を用意したんだ。母様も父さんも兄上たちからも入社祝いを貰ったから、そのお返しにさ……あ、でも色々あって人数分無いんだけど」

 

 言い訳めいた言葉を重ねつつも、源吾郎は鳥の絵が描かれた包装紙を解いた。中から出てきたのは一つの玉が五色の組紐で連なるストラップ四本である。デザインこそ違えど、薄紫のこの玉をあしらったアクセサリーは、鳥園寺さんや珠彦が持っていた物と同じである。

 テーブルに置いたストラップに、四人は少し顔を近づけて凝視した。やはりというべきか、驚きと感心の色を最も強く見せているのは母だった。

 

「まぁ、これはまた立派な護符じゃない」

「え、このミサンガみたいなのって護符なんだな、母さん」

「そうよお父さん。護符ってお札みたいなイメージがあるかもしれないけれど、私たち妖怪の間では、むしろこうした玉や宝珠みたいな形の護符って結構ポピュラーなのよ。厳密には、妖力を玉状に固めて丸めたものだけどね」

 

 珍しそうにストラップの一本を摘まみあげる父に対する説明を終えると、母は視線を動かし今一度源吾郎に視線を向けた。

 

「それにこの妖気は雉仙女様のものよね」

「あっ、うん。そうなんだ。これは向こうの研究センターで、紅藤様と俺たちで作ったんだ。玉は紅藤様が用意して、俺たちは組紐をより合わせて玉につなげたんだ」

 

 即座に玉の作り主を言い当てた三花に対してややへどもどした源吾郎だったが、素直にこのストラップの来歴を語った。源吾郎は実は、戦闘訓練後から連休に入るまでの数日間、座学が終わると紅藤や萩尾丸の部下である若手の妖怪らと共にこのストラップの作成に励んでいた。

 紅藤がなぜ手ずからアクセサリー型護符を量産し、それらが鳥園寺さんや源吾郎の手に渡っているのか? 話の始まりは、源吾郎が珠彦と激闘(?)を繰り広げた戦闘訓練にさかのぼる。

 戦闘訓練の前後では、細々とした変化が源吾郎の周囲で発生した。取るに足らない存在と思われていた珠彦が、源吾郎とほぼ互角の戦闘を行えたことで評価が上がりまくった事とか、強そうで偉そうで鼻持ちならないと思われていた源吾郎が、戦闘面では結構ショボい事が判明して却って親近感を抱く連中が出たというのが解りやすい変化であろう。

 妖怪たちの意識変化は主に珠彦と源吾郎に対する評価に関わるものであったが、訓練の折に珠彦が身に着けていたペンダント型の護符に関心を抱く者も多かった。下級妖怪では大怪我どころか生命に関わるかもしれないような猛攻撃から、持ち主をほぼ無傷で護り抜いたのだ。萩尾丸の部下たち、下級妖怪と呼ばれる妖怪よりもか弱い者たちの多くは、自分もこの護符が欲しいと思った。その願いはすぐに紅藤に届き、彼らに護符を提供するために彼女は惜しげなく動いたのである。

 

「人数分無くてごめん。だけど向こうも欲しがる妖が多かったから、俺が家族の人数分確保するって言うのはできなかったんだ。もしよければ使ってよ。物凄い効果がある訳じゃないって紅藤様は仰っていたけれど、それでも……」

「大丈夫よ、源吾郎」

 

 もごもごとした説明を遮り、明るい声で母が応じた。

 

「雉仙女様は、それこそ大妖怪レベルの攻撃を防げるような品でなければ『しょうもないおもちゃ』だって言い放ってしまうようなお方だって事は母さんも知ってるわ。

 もしかしたら、この護符を作るときも、雉仙女様は『取るに足らないガラクタ』だと思っておいでだったかもしれないわ。だけどそれでも、私の見立てではこの護符でも十分な代物だと思うわ」

「あはは……ともかく母様に喜んでもらって嬉しいよ」

 

 源吾郎は母の鋭い指摘に思わず苦笑いを浮かべた。母がどれだけ紅藤の事を知っているのか源吾郎には定かではない。しかしさも見てきたかのように語るので、母の眼力の鋭さに驚き、ついで笑ってしまったのだ。

 実を申せば、紅藤の妖力を用いた護符作成には、末端である源吾郎や萩尾丸の部下の数名が実際に作業するまでにひと悶着あったのだ。別に紅藤が護符の作成を渋ったり嫌がったりしたという訳ではない。むしろ彼女は若くか弱い妖怪たちの要求にノリノリで応じようとしていた。それこそ、九尾や酒呑童子などの大妖怪クラスの攻撃も弾くような護符を作り、希望者たる萩尾丸の部下たちに無料配布しようと思っていたほどだ。

 そんな紅藤に待ったをかけたのが、紅藤の一番弟子にして第六幹部の萩尾丸だった。営業戦略の才に秀でた彼の眼には、超一級品の護符を作り、あまつさえ無料で配布するという紅藤の行為は単なる暴挙と映ったのであろう。

 紅藤と萩尾丸は師弟と言えど全く異なる意見を持っていたので当然のようにもめた。上等な品をか弱い妖怪たちに提供したいという紅藤の意見と、価格のバランスを考えずに一級品をばらまくのは後々の経営に響くから適正価格で売り出すべきという萩尾丸の意見が相容れないものであるのは中学生でも解る話だった。源吾郎や青松丸と言った他の研究センターの面々は、冷静にしかし容赦なく論戦を続ける紅藤と萩尾丸の姿をなす術もなく眺めるほかなかった。研究者と営業マンは全く異なった行動原理で活動しているために、彼らが意見をぶつけ合うと収拾がつかなくなるという事を源吾郎は実地で学べたのだった。

 結局のところ、萩尾丸の意見が通り、紅藤が大分譲歩する形で事は収まった。弱めの中級妖怪から下級妖怪レベルの攻撃を防げるだけの、簡易な護符を数万円の「廉価」で販売するという所で手を打つ事と相成ったのである。「お粗末」なクォリティーの護符しか作れない事には紅藤も色々言いたそうだったが、それでも皆に手に入りやすい価格設定ではあった。彼女が作成した護符の場合、競合他社では数万円で手に入るような代物ではないからだ。

 

「本当に、珍しいお土産を僕らのためにありがとうな、源吾郎」

 

 宗一郎は源吾郎に対して優しくほほ笑んでいた。

 

「二つは父さんと母さんに一つずつ渡すとして……僕の分は大丈夫だよ。僕は知っての通り会社で割と平和に暮らしているからね。これは双葉に会った時に渡しておくよ。オカルトライターって事であちこち危ないところに行っているから、むしろ僕よりも妹が持ってた方が役立つんじゃないかな。それに妖怪が作った護符って聞いたら喜びそうだし」

 

 長兄の話を聞いていた誠二郎は、護符の一つを手にすると、そのまま源吾郎に差し出した。その右手に握らせると、彼もまた眼鏡の奥で瞬きをしつつ口を開いた。

 

「俺もその護符が無くても大丈夫。だからそれは庄三郎に渡したらどうかな? 何か大変な事から護る力が必要なのは、俺よりもむしろあいつの方だから」

「……庄三郎兄様に護符を渡すのは良いとして、わざわざ俺に託すのはどうしてです?」

 

 護符を握りしめないよう手のひらを開いたまま尋ねると、誠二郎は気まぐれな猫のように笑いながらよどみない口調で応じた。

 

「いやさ、兄弟の中で源吾郎が一番庄三郎と接触があるだろ。あいつも何か入り用があれば、俺たちよりも源吾郎に何かと連絡しているみたいだし」

「誠二郎兄様がそう言うのならば、これは庄三郎兄様にお届けしますよ」

 

 源吾郎は護符と誠二郎の顔を交互に眺めながら密かにため息をついた。庄三郎については実兄ではあるが積極的に会いたいと思っている相手ではない。しかし護符を届けるという任務を請け負った以上、近いうちに庄三郎が籠るアトリエを来訪せねばならないだろう。

 別に小さな護符だから、郵便や宅配便を使って届けても構わないのかもしれない。しかしそれだとモノがモノだけに盗難の恐れがあるのでは……? などと源吾郎は用心してしまっていたのだった。



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運命の流れと血脈の枝葉

 さて数分前まで家族らでにぎわっていたリビングであるが、今はテーブルにそれぞれ差し向かいに座る三花と源吾郎だけとなった。父の幸四郎は書き物のために書斎に戻り、二人の兄は連休中の買い出しのためにホームセンターに向かったのだ。誠二郎は源吾郎と異なり数日ばかり実家に逗留する予定らしく、その時に兄と協力してDIYをたしなむ予定であるらしい。源吾郎も多分貴重な人手という事で協力を要請されるであろう。何せ若いし膂力は常人並みだがスタミナはある。妖狐の血のために兄たちは実年齢よりも若い肉体と見た目の持ち主であるが、長年のサラリーマン生活で倦み疲れた部分はあるだろう。

 ただ一つ不自然な点があるのは、源吾郎がそこにいるにもかかわらず、彼を連れずに兄たちだけでホームセンターに向かった事だろう。別に源吾郎は兄たちに置いて行かれた事をあれこれ思っている訳ではない。ただ普段の宗一郎であれば、買い出し要員として源吾郎を連行するものだ。

 

「およそ一か月半ぶりに顔を見るけれど、特に変わった様子は無くてほっとしたわ」

 

 三花はぽつりと呟き、軽く身を震わせた。腰の辺りから二尾が伸びてゆき、フローリングの床に柔らかくたわんでいった。柔らかなクリーム色の毛並に覆われた見事な二尾である。

 源吾郎はここで、兄たちがそそくさとホームセンターに向かったのかを悟った。妖怪についての話を母が行おうとしたのを、宗一郎と誠二郎は察したのだろう。人間寄りである自分らがいれば話がスムーズに進まないとも思ったのかもしれない。

 

「まぁ、一か月半くらいじゃあそう変わるところは無いと思うけれど」

 

 尻尾から即座に母の顔に視線を移し、源吾郎は告げた。

 

「俺たちは寿命の短い人間じゃあないからさ。そりゃあ向こうでも紅藤様や先輩たちに従って修行とか妖怪の暮らしとか色々勉強はやってるよ。だけど、何十年何百年とたっているのならともかく、一、二か月で色々変わるとは思わないかな、俺は」

 

 源吾郎の言葉に母は相好を崩しクスクスと笑い始めた。

 

「さっきのは前言撤回しないとね、源吾郎。随分と妖怪らしい考えの持ち主になったわね」

「…………」

 

 源吾郎は喜ぶべきか困るべきか判断しかね、あいまいな表情を浮かべるだけだった。人間の血を多分に受け継ぎながらも妖怪として生きる事を選んでいる訳だから、妖怪らしくなったと言われて喜んでも構わないのだろう。しかし先の母の発言からは、何となく不穏さを感じ取ったのだ。

 

「源吾郎が妖怪らしくなっていくのも致し方ない事よね。あれからずっと、あなたは雉仙女様や他の妖怪たちと接している訳だし、あなた自身も妖怪になる事を切望しているのでしょう?」

 

 母の真っすぐな視線に、源吾郎は居住まいを正した。琥珀色というには暗すぎる褐色の瞳ながらも、瞳孔が縦に裂けた獣の眼差しを向けている事は源吾郎には明らかな事だった。

 半妖やその子供の場合、人間の血が混ざっているという事実からは逃れられない。しかし妖力を増す事により、後天的に妖怪と見做される事自体は可能だ。普通の人間であっても、妖怪化する事はままあるのだ。片親から妖怪の血を受け継いでいる半妖たちが、純血の人間よりも妖怪らしくなる事は何もおかしな話でも何でもない。その一方で、妖力の少ない半妖たちが、人間と同じかそれより少し長い程度で生涯を終えていくのもまた事実である。

 

「雉仙女様の許での仕事は大変かしら?」

「割と楽しいよ。そりゃあ、就職してすぐだから大変な事もあるけど……」

 

 仕事や修行を「楽しい」と言ってしまうのは不適切かも知れない。だが三花は源吾郎の言葉を聞くとさも安堵したような表情を見せたのだった。

 

「源吾郎が楽しそうにやってるって聞いて安心したわ。兄弟の中でも一番甘えん坊だと思っていたからね。それに何より、お母様と雉仙女様の間で取り交わされた盟約が、源吾郎によって実現した訳だから」

 

 母の言葉に源吾郎は短く息を吸った。源吾郎はおのれの意志で紅藤の許に弟子入りしたのは事実だ。しかしその背後には、祖母たる白銀御前と紅藤の間に交わされた不確かな盟約と、玉藻御前の系譜を取り巻く数奇な運命がもたらした大いなる結果があるのだ。

 

「私の弟妹……叔父さんたちや叔母のいちかが雉仙女様からは距離を置いてそれぞれ独立している事は源吾郎も知ってるでしょ? もし私の子供たちが、誰も雉仙女様の弟子入りを望まなければ、その時は私があのお方の弟子にならないと、と思っていたの。ああ、だけど心配しないで。その場合は、幸四郎さんをきちんと見送ってから弟子入りしようと思っていたから」

 

 口にする言葉が出てこずに手のひらを握りしめていると、獣の瞳のまま母は言い足した。

 

「今だから本当の事を言うわ、源吾郎。お母様が雉仙女様と盟約を交わした時、敢えて揃いづらい条件を提示して、成立しても成立しなくても問題が無いようにしていたのは知ってるわよね。

 私はお母様から聞かされたから盟約の事も知っていたわ。だけど、考え方だけはお母様と違ったの。玉藻御前の子孫の一匹を差し出すという盟約は、()()()()()()()()()()とね。雉仙女様は何度も私たちにそれとなく接触して機会を窺っていたし、私も弟妹達や私の家族の事が落ち着いたら弟子になろうと思っていたもの――結局のところは、源吾郎が雉仙女様の許に弟子入りしたから、色々と落ち着いた形になったけれどね」

 

 やっぱり母様は色々な事を知っていたのだ。短い間感慨に耽っていた源吾郎はふと顔を上げて思った事を口に出した。

 

「お母様が白銀御前様と紅藤様との盟約については……知っているって事はうすうす解っていたんだ。だけど、母娘でも捉え方が違ってたのにはびっくりしたよ。

 それにしても、紅藤様は未来を見通す能力を持ち合わせておられたのかな? それとも、『何としても玉藻御前の末裔を手に入れる未来を引き寄せた』とか?」

「それはお母さんにも解らないわ」

 

 源吾郎の意見と問いかけに対し、半ば目を伏せつつ三花は応じた。容貌は夫である幸四郎に合わせて中年女性の姿を取っているものの、少女らしいお茶目さが見え隠れしていた。

 

「源吾郎。何のかんの言っても私は玉藻御前の孫って言うだけのしがないおばさん狐に過ぎないわ。他人の考えている事や秘密の能力についてまで見抜くなんてどだい無理な話なのよ。

……雉仙女様が未来を見通す能力があったのか、それはイエスかも知れないしノーかも知れないわ。九尾でさえ斃せるほどの実力と妖力の持ち主だし、あのお方は胡喜媚様に仕えていたという事だから」

 

 母は意味深に言葉を切ると、口許にうっすらと笑みを浮かべた。

 

「未来視はさておき、今後起こりうる運命の操作については、私よりも源吾郎の方が詳しいんじゃないの?」

「うっ、まぁ……そうかも」

 

 唐突な母の問いかけに、言葉を詰まらせながらも源吾郎は呟いた。

 玉藻御前の血を色濃く引いた源吾郎。多くの妖怪たちは、彼が変化術に秀で、稚拙ながらも狐火や尻尾の操作などの攻撃術も多少は嗜んでいる事を知っている。しかし、源吾郎の持つ能力はこれだけではなかった。

 源吾郎が保有するもう一つの能力。それは未来操作・運命操作とでも言うべき代物だった。内容は非常に簡単である。これから生じる出来事に対しておのれが望む結果を脳内でイメージする。それだけで簡単に能力は発動され、源吾郎が望む結果を得る事ができる。能力を行使した後は目がショボショボしたり耳の奥が膜が張ったような感覚になったりする程度の副作用で済む。強い疲労感や苦痛を伴う事も無い。かつて紅藤はおのれが大妖怪になったのは「チート」によるものだと明言していたが、源吾郎の持つこの能力も十二分にチート能力と呼ぶに相応しい。望む未来を手繰り寄せられるのならば、正道では不確かな栄光を簡単に勝ち取る事も出来る。それに何より運命の自然な流れをねじ曲げておのれの欲するものを得る行為は、イカサマ野郎の行為と言っても問題なかろう。

 ちなみに源吾郎は世界征服やハーレム構築というおのれの野望を叶えるにあたり、この能力を行使する気は()()()()。幼く分別も未熟だった頃にはこの運命操作を何度か使った事があったのだが、この能力の真の恐ろしさを十二分に知ったのである。

 運命操作を使えば、確かに源吾郎が欲する物を手に入れる事は可能だ。しかしその直後に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 

 保育園児だった源吾郎は、能力を使って福引で仔犬のぬいぐるみを得た。しかしこのぬいぐるみが発端で園児同士で争いが勃発し、結局ぬいぐるみは保育園に寄贈された。

 小学生だった源吾郎は、能力を使って給食のプリン争奪戦の勝者となった。しかしすぐに食べ過ぎで気分が悪くなって早退し、翌朝まで寝て過ごさねばならなかった。午後の授業は源吾郎が心待ちにしていたモノがあり、ついでに言えば家族の夕食はごちそうだった。

 中学生だった源吾郎は、能力を使って十万円の宝くじを引き当てた。しかし直後に瀕死の仔猫が遺棄されているのを演劇部員が発見した。源吾郎は仔猫三匹の治療費として、宝くじで得た賞金と蓄えていた全財産の八割を提供せねばならなかった。仔猫は皆奇蹟的な快復を遂げた。

 

 宝くじと仔猫の件があってから、源吾郎は運命操作の能力を使わないという選択をごく自然に受け入れるようになった。イカサマで望む物を得る事が悪い事だと自覚したというよりも、目先の欲求にくらんで振るった能力がおのれに牙を剥くという事実におののいたためだった。恐ろしい事に、能力で得た物の価値の大きさと損失の大きさは比例しているのだ。おのれの野望を叶えるために使った場合、一時の栄華に酔う事が出来てもすぐに破滅と言う名のしっぺ返しが容赦なく源吾郎を襲うのかもしれない。

 一つ救いなのは、源吾郎の中にある運命操作の能力が、その能力を使いたいと強く願わなければ発動しない事であろう。使おうと思わない限り、この能力が牙を剥く事は無く、源吾郎も運命の流れなど気にせずにいられるのだ。

 

「私たちにとって大切なのは今とこれからの事よ。過去について気になる事があるかもしれないけれど、自然な流れであれ誰かの作為の賜物であれなるべくしてなった事柄なんですから」

「まぁ確かにそうかも」

 

 呆れともつかぬ妙な感覚を漂わせる母の言葉に源吾郎は素直に頷いた。妖怪たちは確かに、おのれの持つ妖力のエネルギーを行使する事で不思議な現象を起こす事が出来る。しかしながら、一般妖怪は元より大妖怪や妖怪仙人と言った上位の存在であってもできる事には限界はある。さもなくば、どうして大妖怪だった玉藻御前は那須野の僻地で今も封印され、彼女を義姉と慕っていた胡喜媚は狂い死にしたというのだろうか? 玉藻御前も胡喜媚も取るに足らぬ雑魚妖怪などではない。玉藻御前は三千年前には既に九尾であり、胡喜媚にはそれこそ時間を操る能力があったとされるのだから。

 一瞬だけ自分の曾祖母や雉鶏精一派の初代頭目に思いをはせていた源吾郎は、左手で右手を撫でながら思い切って母に尋ねてみた。

 

「そうそうお母様。実家に戻る途中で銀色の九尾を見たんだけど」

 

 母は驚いたような反応を見せたが、言葉は無かった。眉を寄せ思案する素振りが見えている。末息子の発言に心底驚いているようだった。

 

「珍しいというか、珍しいって陳腐な言葉で済まされないほどの珍しさねぇ。近所にいる刑部姫は九尾じゃあないし、ここからすぐ近くに住んでる九尾様って、伏見の重役くらいしかお母さん思いつかないわ」

「九尾は男だったんだ。だからまぁ少なくとも刑部姫じゃないよ」

 

 身を乗り出して母の言葉を待っていると、心当たりがあるのか、思案顔のまま母は口を開いた。

 

「もしかすると、大陸にいる私たちの親戚かも知れないわね」

「え、親戚だって」

 

 思いがけぬ言葉に源吾郎は目を見張った。玉藻御前の系譜は、桐谷家と島崎家のみだと源吾郎は思っていたのだ。自分たちの系譜をさかのぼれば玉藻御前に行きつくが、玉藻御前の子である白銀御前に兄弟がいるという話は特に聞いていない――それ以前に、白銀御前と会う機会すら少ないのだが。

 

「私も詳しくは知らないけれどね。玉藻御前って元々は妲己とか華陽夫人とかって呼ばれていて、大陸で活躍していたでしょ。その時に出来た子供が……源吾郎にとっては大伯父とか大伯母にあたる存在がいるとかって言う話を、お母様から昔聞いた事があるのよ。有名どころだと玉面公主になるわ。お母様の、白銀御前様の異父姉になる方だけど、父親が万年狐王って言うお方で、玉藻御前に匹敵する、いえそれ以上の大妖狐だったそうよ。

 その玉面公主様も牛魔王様と結婚なさっているから、その子孫の誰かがこっちにこっそりやって来たとかかしらね。あ、でも牛魔王様の血も入っているから、角とかも生えてるはずよね……」

 

 母の口から飛び出してきた大妖怪たちの名前に、源吾郎は驚き興奮し頬を火照らせていた。西遊記や封神演義も勿論読み込んでいた源吾郎であるから、玉面公主の名も知ってはいる。しかしまさか彼女が玉藻御前の娘、要は源吾郎の大伯母にあたる存在であるとは。

 源吾郎の驚いた表情に気付いた三花は、一度言葉を切るとにこりと笑った。

 

「まぁ、遭遇した九尾が誰かって言うのも、そんなに考えなくても良いかもしれないわ。大妖怪が悪意を持って接してきた場合、私たちにはなす術も無いんだから。

 それでも源吾郎が特に何事もなくうちに戻って来たって事は、九尾様も特に悪い事をしようとか、そういう意志が無かったって事よ」

 

 そうなんだ、と母の言葉に応じようとしたまま源吾郎は固まってしまった。ある意味真理を突いた言葉だと思ってはいるが、見え隠れする前提条件がいささか物騒すぎる。




 玉面公主とは西遊記に登場する妖怪の一体です。孫悟空の大哥(兄上)・牛魔王の第二夫人ですね。
 原作では玉面狸というヤマネコやハクビシンのような妖怪であるとされておりますが、万年狐王が父親という設定を踏襲し、妖狐であるとしております。
 なお、玉藻御前(金毛九尾)が母親であるというのは拙作内での設定ですのでご注意くださいませ。


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隘路の誘惑

 妖怪ものですがちょいちょいクトゥルー神話要素が入ります。


「いやぁ、今日は本当に楽しかったよ」

 

 港町の中心地。ゲームセンターとカラオケに挟まれた往来で源吾郎はツレたちに向かって声を張り上げていた。ツレたちは野柴珠彦を筆頭に妖狐たちである。彼らはおおむね色白なのだが、今は夕刻の陽に照らされて赤っぽく見えた。

 

 実家にまる一日滞在しDIYの手伝い等の家族サービスを終えた源吾郎は、再び自分のねぐらに戻っていた。今日は珠彦と遊ぶ約束をしていたので、昼から彼の仲間たちと合流し繁華街の中をぶらついていたのだ。

 遊ぶ資金を潤沢に持ち合わせている訳ではないが、しかし仲間たちとの遊びは本当に充実した物であった。ゲームセンターをぶらついたりカラオケで歌ったり面白いグッズが売っているお店に立ち寄ったり(源吾郎はここでちゃっかり庄三郎に渡すためのアクリル絵の具を買い漁った)公園に寄って鳩や鴉にちょっかいをかけたりして五月の長い午後を愉しんだ。

 まことに男子中学生や高校生が興じるような遊びだったのだが、源吾郎はそれこそ好奇心旺盛なコツメカワウソよろしく心底楽しみ、珠彦やその仲間らに付き合った。珠彦や他の妖狐らのような「社会妖《しゃかいじん》の先輩」と異なり、源吾郎は就職したばかりで休みの日に遊ぶ事もここ一か月半は無かったのだ。無為無趣味に過ごしていたわけではない。仕事に慣れる事と独り暮らしであれこれやる事が多く、遊ぶ時間と気力を得る事が出来なかっただけだ。紅藤やその先輩たちと働いている時には気付かなかったが、研究センターでの業務にて気を張っていたのだと、金曜日の夜や土曜日の遅い朝に思い知った。

 ツレたちはいずれも男子のみで女子の気配は無かったが、男子ばかりのグループというのも気楽だった。中学高校共に女子が多い演劇部に所属していた源吾郎は、男子が女子の会話に入る事の大変さをよく知っていた。モテる為にと女子の多い部活に入部し、乙女心を把握し女子力を磨くため(?)にと彼女らの喜ぶ事が何であるか実地でリサーチした源吾郎であったが、彼女らの会話に加わり当たり障りのない返答を行う事がしんどいと思った事がしばしばあった。なお、演劇部の女子達の誰かと恋愛関係になったとかいうラブコメ的展開は言うまでもなく皆無である。源吾郎は確かに演劇部の女子達と良好な関係を築いていたが、それはあくまでも性別を度外視した、同じ目標に進む仲間という意味合いの親しさであった。とはいえ源吾郎の演劇部での活躍は全く無駄だったわけではない。力を持つ女子達の群衆の中で孤軍奮闘する源吾郎の姿は、演劇を志す幼い少年たちを知らず知らずのうちに後押ししていた。中学であれ高校であれ、源吾郎のすぐ下の学年から、演劇部に入部する男子生徒らが出現し始めたのである。

 

「今日はありがとう島崎君。僕も、島崎君と遊べて楽しかったっす」

 

 源吾郎の言葉にまず応じたのは珠彦だった。彼は血色の良い頬を喜色に火照らせている。珠彦とは連休前の訓練で激闘を繰り広げた間柄だったが、今ではすっかり友達同士になっていた。妖怪の暮らしを知りつつも妖術の不得手な珠彦と、巧みな妖術を振るいつつも妖怪の暮らしを勉強中である源吾郎は、互いに無いものを補い合う存在としてはある意味うってつけなのかもしれない。

 珠彦の言葉に触発され、ツレたちも口々に感想を言い出した。

 

「玉藻御前の末裔だって聞いてたけど、気さくで面白かったよ」

「カラオケでは盛り上がったよなぁ。まるっきり可愛い女の子になってくれたし」

「フミアキのやつなんか彼女がいるのに鼻の下伸ばしてたよなぁ」

「また機会があった遊びたいな」

 

 機会があれば誘ってくれよ。源吾郎は片手を上げながら珠彦やツレたちに言った。カラオケに入ったおり、源吾郎は自身の変化術を発揮し、珠彦や他の若き野狐たちを驚かせた。すなわち源吾郎の十八番である美少女変化である。

 珠彦とツレたちの驚きよう、テンションの上がりようは当事者たる源吾郎の予想をはるかに上回るものだった。そりゃあまぁ珠彦たちは人間で言えば十代半ばから後半ほどであるから、ある程度は女の子に興味はあるだろうと踏んでいた。しかし実際に源吾郎は襟付きワンピースにカーディガンを羽織った姿の、さも清純そうな少女に化身すると、彼らはトップアイドルが降臨した場に居合わせたのかというほど驚き、騒いだのである。源吾郎は性別的にも性自認的にも男なのだが、男子が思う女子っぽい振る舞いを行う事も可能だ。それもまた、若き野狐たちの驚きと称賛を得た事になるのだ。源吾郎にとってもまんざらでもないひとときだった。

 

 

 別れのあいさつを終え、皆が駅に向かってぞろぞろと去っていくのを源吾郎は静かに見届けた。珠彦も仲間の野狐たちも夕方になったのでそれぞれ家に帰っていくとの事なのだ。妖狐は割合社会的な性質を持つ妖怪であり、生後数十年から六十年程度の若い妖狐であれば親兄姉と共に一緒に暮らしている事も珍しくはない。現に珠彦も、稲荷神に仕える弟たちと共に両親の実家で寝起きし、更には近所に父方の親族も居を構えているという状況らしい。もちろん、妖狐の中にも若くして放浪の旅に出たり、独り暮らしを敢行したりする者もいるのだが。

 さて親兄姉から離れ独り暮らしを満喫している源吾郎はというと、皆を見送りつつも帰るつもりはさらさらなかった。仲間との遊びがひと段落したところであるが、源吾郎の心の中にある情熱の焔は、今再び燃え上がっていた。

 源吾郎は迷惑にならぬよう往来の脇によるとダークグレイのジャケットの胸ポケットを慎重に探った。折りたたんである度なしのサングラス(源吾郎は元々眼鏡をかけていたが、就職を機にコンタクトに変えたのだ)をやけに気取った様子で装着した。

 狐目と言うにも余りにも細すぎる源吾郎の眼であるが、グラサンをかければもはや無問題だ。源吾郎は一気にニヒルでハードボイルドな物語の主人公になった気分になり、桃色の唇を薄く引き伸ばし、笑みを作った。

――おっしゃ、これからはナンパの時間だ。待ってろよ俺のカワイ子ちゃんよぉ!

 常人ならば恥ずかしさで卒倒不可避な文言を頭の中でそらんじつつ、源吾郎はマウンテンゴリラよろしく歩み始めたのだ。

 この港町には野生のナンパ師がいる事は源吾郎も良く知っていた。ナンパ師が群れをなしてうごめいているという事は、ナンパ師が求める娘たちも大勢いるという事であろう。まぁ、中には少年や青年を欲する者もいるかもしれないが、そういう手合いは萩尾丸くらいで十分だ。

 

「はぁ……おかしいのう」

 

 齢十八にしておっさんみたいなセリフを口にした源吾郎は、洒落た服屋の前で歩を止めた。服を購入して挑もうと思ったわけではない。丁度入り口付近に姿見があって、そこで自分の姿を確認したくなっただけだ。

 意気揚々とナンパを行おうと思った源吾郎だったのだが、現時点では全くもって徒労という他なかった。港町の繁華街だけあって女子達は多かった。華やかな雰囲気の女子大生っぽい感じのも、瑞々しい女子高校生っぽいのも、若いというよりあどけない女子中学生っぽいのもだ。しかし彼女らは源吾郎をあからさまに避けた。しかも静電気でビニールの束が逃れていくような実にナチュラルな動きで、である。

 姿見に映ったおのれの姿に、源吾郎は愕然とした。衣装はシンプルを通り越して洒落っ気のないモノトーン、色白の面に怪しく光るサングラスは、まぁ控えめに言っても不審者めいた風体だ。用心深い女子達がナチュラルに避けるのも無理からぬ話だと、おのずから悟ってしまった。

――なんてこった! 俺めっちゃ不審者じゃねぇか。うわ恥ずかしい、切腹してぇー

 羞恥心が極まって思考に若干のバグが生じてしまったが、まぁ月に一、二回はある事なので問題は無い。ついでに言えば源吾郎は熱しやすく冷めやすい性質であり、烈しい感情に突き動かされていても数秒と経たぬうちにけろりと落ち着いたりする事も珍しくない。

 

「…………?」

 

 案の定、源吾郎の切腹レベルの羞恥心もすぐに霧散した。おのれの斜め後ろに誰かが立っているのを、姿見によって確認したのだ。

 

「こんばんは、おにーさん」

 

 源吾郎に呼びかけるのは、愛らしく清らかなソプラノであった。声の主は見たところ源吾郎よりも二、三歳ばかり年下の少女のようだった。衣装は白いブラウスにダークグレイのロングスカートと簡素ないでたちだ。しかし金の鎖に繋がれた、七つの小鳥の頭のような奇妙な首飾りをさも当然のように身に着けている。

 源吾郎は少女をまじまじと見つめていた。何か言う前に、彼女の方が口を開いた。

 

「おにーさん、ずぅっとボクに熱い視線を送ってるけれど、おにーさんってもしかして、男の子でもイケる口なの?」

「…………」

 

 何だ男かよ。心の中で強く思ったが言葉にはしなかった。源吾郎も散々少女に化身して遊び回った後だから、異性に化身している相手を非難するのはよろしくないと思っていたのだ。

 そうしているうちに、少女は青年の姿に変わっていた。ワイシャツに黒いスラックス姿になったが、首にかけた奇妙な首飾りはそのままだ。

 

「おにーさんは玉藻御前の末裔でしょ? そんなところでしょんぼりしてて可哀想だね」

 

 あまり可哀想に思っていなさそうな口調で青年は言うと、何処からともなく名刺のような物を取り出した。状況が解らずへどもどしている源吾郎に対し、半ば押し付けるような形で差し出した。

 

「しょんぼりしているおにーさんに教えてあげる。ここから二十ヤード(約十八メートル)先をまっすぐ行くと、面白いクラブがあるよ。それは優待券。色々あって持ってたんだけど、おにーさんにあげる」

 

 青年がさし示した先を源吾郎はぼんやりと眺めた。その先には薄暗い路地裏しかないように見えた。だが青年の堂々とした物言いのために、素晴らしいクラブとやらがあるような気もしてきたのだ。

 

「さぁ、ぼんやりしてないで行っておいで。青春は儚く少年はすぐにジジィになっちゃうんだからさ」

 

 青年の言葉に源吾郎はちいさく頷いた。優待券とやらには店名と思しき単語が、けばけばしいフォントで印字されていた。



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楽園で手渡されるは藤の花

 青年が渡した優待券の店名は「港町の楽園・ぱらいそ」という実に香ばしいネーミングであった。源吾郎は青年が指し示す方角に歩を進めてすぐに「ぱらいそ」を発見した。極彩色のネオンの明滅と黄色と黒と赤を基調とした看板が、仄暗い隘路の中でこれでもかと自己主張をかましていた。ド派手な看板を眺めていた源吾郎は、高校生だったころに野暮用で大阪に向かった時の事を思い出していた。あの時見た、大阪市内のみで展開するというスーパーも、「ぱらいそ」に似て派手な看板を掲げていた。流石に、ネオンサインは出していなかったけれど。

 ネオンのグロテスクな光に照らされながら、源吾郎は入り口を探した。看板とネオンサインの派手さに気を取られ、何処にドアがあるのか見当がつかなかったのだ。

 

「おや、一見さんではありませんか……」

 

 意気ごんでいたものの、ドアを探す必要は無かった。すぐに源吾郎は声をかけられ、また声の主を発見できたからだ。看板とは裏腹にドアは黒塗りで地味そうな外観だった。その傍らに、ワイシャツもスラックスも黒一色の若い男が佇んでいる。妖狐である事は、ふわりと伸びた真っ白の一尾を見れば明らかだった。気負わず尻尾を出している所を見るに、やはりここは妖怪向けの店らしい。

 

 妖怪は霊感のない人間には視認できない。人間たちの間にこのような通説が流布しているが、これも頭ごなしに真実とは言えない。姿を隠す術を会得している妖怪もいるにはいるが、基本的には妖怪は肉体と実態を持つため、普通の人間に姿が見えるのがデフォルトである。だからこそ妖狐や狸は要らぬ混乱をもたらなさないためにも、人間や猫などの他の動物に化身しているようなものだ。

 ただし、何らかの事故で巨大な妖狐などの真の姿を人間の群衆に見られたとしても、すぐに妖怪が存在するとパニックになる可能性は少ない。そのような事故があれば他の妖怪たちに協力を仰ぎ認識をあやふやにする術を対象者にかけるためだ。ついでに言えば人間の脳はあり得ざる出来事があるとそれを正確に把握する事が出来ないという。従って妖怪に疎い人間が大型犬サイズの妖狐や巨大な鳥妖怪を目撃してしまっても、「珍しい犬を見た」「変わった鳥がいた」という取るに足らぬ記憶にすり替えられるだけに過ぎないのだ。

 なお、妖怪同士が集まったり妖怪に詳しい人間の前では、ある程度本性を晒すカジュアルな姿になる事も多い。その最たるものが、妖狐では尻尾になる訳だ。

 

 さて店の扉の前に立つ源吾郎だが、唐突に呼びかけられた事で少しぼんやりとし、黒服の顔や尻尾を眺めていた。おのぼりさんを見るような眼差しに晒されていると気付き、源吾郎はグラサンをしまってから、黒服に笑みを向けた。

 

「島崎源吾郎と申します。ご存知と思いますが、僕は本当の玉藻御前の末裔です」

 

 源吾郎は「本当の」という部分を殊更強調し、ついで隠していた尻尾をぬるぬると顕現させた。

 野良のチョイ悪妖狐の面々が玉藻御前の末裔を騙っている事は源吾郎も良く知っていた。妖怪社会は血筋で尊ばれ、実力を重視される。血筋がなく実力もイマイチな野良妖怪たちが、有名妖怪の血統を自称するのはまぁ良くある事なのだ。玉藻御前の末裔に限って言えば、()()()()が粛清も摘発も行わず黙認している事もあるので尚更だろう。

 余談だが萩尾丸の部下たちや研究センターに併設する工場の中にも玉藻御前の末裔を名乗るフォックスボーイやヴィクセンガールが十数匹ばかりいる。彼ら彼女らは萩尾丸に捕獲され、紅藤の手によって遺伝子や妖気を解析され、真の玉藻御前の血統とは無関係な庶民狐である事が既に判明している連中だった。わざわざ凡狐たちのデータ解析を行う紅藤の真意は謎である。先端科学をあれこれ考える彼女にしてみれば、遺伝子や妖気の解析は、ちょっとした手慰みみたいなものなのかもしれない。

 

「島崎源吾郎さんでしたか。お噂はかねがね聞いておりましたよ!」

 

 先程までの胡散臭そうな視線は何処へやら、黒服は目を輝かせ声を弾ませた。源吾郎は嬉しさのあまりだらしなく頬を緩ませ、二度三度頷く始末である。

 

「あは、俺自身は高校を出てからずぅっと職場と安アパートを往復する日々だったんだけど、やっぱり素性とか知られちゃってたんすね。いやぁ、有名妖《ゆうめいじん》はつらいなぁ」

「いえいえ、噂が広がるというのは良い事ですよ。妖怪たち、特に妖狐たちはいついかなる時も、玉藻御前の真の末裔が何をやってるか、気になるものですから」

 

 一息に言うと、黒服は追撃で言葉を重ねた。

 

「島崎さん。やはり玉藻御前の末裔だけあってオーラが凡狐とは一味も二味も違いますねぇ。何と言いますか、高貴な感じが致します」

「いやいや、俺などまだ若輩者で、まだまだ修行中の身なんですがね」

 

 心臓の鼓動をはっきりと感じつつ源吾郎は応じた。初めはこちらを胡散臭そうに見つめていた野狐だと思っていたが、中々どうして感じの良さそうな男ではないだろうか。

――この兄さんはごく当然な事を俺に行ってくれたんだ。何てったって俺は玉藻御前の末裔で、しかも一族の中じゃあ一番妖力が多いんだからな! クソダサコーデに身をやつしたこの俺の高貴さをきちんと把握してくれるなんてやっぱり只の野狐にしておくにはもったいない漢じゃないかね? 適当なところで連絡先を交換しておこうかな。

 

「おやぁ、島崎さん!」

 

 半ばおのれの世界に没入していた源吾郎の意識を引き戻したのは、やはり眼前の黒服だった。彼の視線は今や手許の優待券に注がれている。

 

「これはVIP待遇の優待券ではないですか。十回までは飲み放題・食べ放題・遊び放題でも無料なうえに、ポイントがたまる超優れものの限定カードだったはず……」

 

 黒服は意味深に言葉を溜めていたが、そっと後ろ手でドアを開けてくれた。

 

「さぁ、ようこそ我らの楽園へ! 精根尽き果てるその時までどうぞお愉しみを!」

 

 

 クラブ「ぱらいそ」は、路地裏の隘路にあるとは思えぬほどの広さを有していた。まぁ日本妖怪の中には空間を広げる術が得意な者が多いので、そう驚く事でもないだろう。

 広さよりも言及すべきは、店内の壮麗さとそこここで展開されている饗宴の方だ。四、五メートルほどありそうな高い天井の上には中華テーブルサイズのシャンデリアが太い鎖で吊るされ、店内を荘厳に照らしていた。燭台の上に灯る焔は黄色や橙だけではなく、青や緑、紫などと色とりどりだ。LEDや炎色反応ではなく火の妖術を用いた物のようだ。

 テーブルは丸いものや四角いものなどが並んでおり、それらの周りに置かれた丸椅子には、妖怪たちが腰かけて歓談したり、飲み食いしたりしている。男性客の所には着飾った女妖怪が幾人か侍り、女性客の所には執事めいた衣装の男妖怪がやはり数名侍っている。

 案内役の猫又に促された源吾郎は、隅っこの長いテーブル席の一つに腰を下ろした。VIPなのに隅っこかよ、とは思わなかった。隅っこには隅っこの良さがあるためだ。すなわち、他のテーブルの享楽ぶりを観察できる。それに思わせぶりな丸いステージ近いのも興味を引いた。そこは無骨だがしっかりとした柵でぐるりと囲まれており、上からの照明はもちろんの事斜め下から舞台を照らすためのスポットライトまである。歌や踊りでも行うつもりなのだろう。

 猫又の青年にジンジャーエールとチーズの盛り合わせをオーダーする。猫又は本物の猫が肉球をすり合わせるように揉み手をしながら問いかける。

 

「ジンジャーエールとチーズの盛り合わせ、ですね。島崎様、お相手はホステスで構わないですね」

「もちろん」

 

 ホステスかどうかをわざわざ聞くところが少し気になったが、他のテーブルを見るとまぁそういう事なのだろうと納得しておく事にした。女性客がホステスとガールズトークで盛り上がったり、男性客がホストの若者に酒を注がせているテーブルも、少ないながらあったためだ。

 源吾郎は水入りのグラスにそっと口を付け、深く息を吐いた。柔らかな椅子のクッションの感触が心地よい。華やかで煌びやかな場所にはからずとも訪れる事が出来た源吾郎だったが、嬉しいかどうか妙な話まだ解らなかった。どぎまぎし、少し緊張している事が辛うじて解るくらいだ。

 

「初めましてぇー、島崎さぁん」

 

 オーダーが来る前にホステスと思しき娘妖怪が三名源吾郎の前に現れた。真ん中にいる快活そうな娘の声に、源吾郎は驚き、ついで尻尾の毛も逆立ってしまった。

 

「は、初めまして……島崎源吾郎です」

 

 源吾郎が挨拶を返している間にも、娘らは源吾郎の対面だとか両隣に腰を下ろした。源吾郎はさりげなく四尾を人参サイズに縮め、彼女らに触れないよう気を配った……入店した時から大根サイズに縮めてあったので、そう大きな差は無いだろうが。

 

「私はナナコ。島崎さんの右隣がマキで左隣がユミって言うの」

「マキって言いまぁす。今日は島崎さんに会えてもうマンモスうれぴーな」

「……ユミよ。できればこれからあなたの事を色々と知りたいわ」

 

 前方と左右、三方向から娘たちに迫られた源吾郎は、思わずきゅうと身をすくめるだけだった。日頃より女子達に言い寄られ傅かれるところを夢想している源吾郎ではある。しかし滑稽な事に、実際にそんなシーンが訪れるとへどもどして縮こまるのが関の山だった。イメトレや指南書での「予習」に余念のない源吾郎だったが、実際の女子達の圧に驚き、二の足を踏んだのだろう。ついでに言えば男女関係に疎い男らしく女子の好みにはいっちょ前にうるさい所もあった。源吾郎はおのずからグイグイ迫ってくる女子よりも、物静かで大人しく、清純そうな娘の方が好みなのだ。

 源吾郎の中では、ナナコたちはグイグイ来るタイプであるという判定が下りていた。だからなおさら、戸惑ったとも言えるだろう。華やかながらも若干きわどい衣装も気になっていたし、元気娘っぽいマキなどは無遠慮に源吾郎の二の腕に指を這わせる始末である。

 

「ね、島崎さんって玉藻御前様の血を引くともだちなんだよねっ!」

「あ、うん、そうです」

 

 ナナコのアニメ声での問いかけに源吾郎はとつとつと応じた。緊張している源吾郎に対して、今年流行ったアニメ・「ともだちアニモー」のセリフを使って場を和ませようという彼女の気配りであろう。

「ともだちアニモー」というのは深夜に放映されていたアニメである。擬人化した動物たちのいる世界をスナドリネコの少女と人間の少女が冒険するという実にシンプルな内容である。高校生活も終わり間近の同級生たちが話題にしていたので気になって視聴し始めたのだ。長兄の宗一郎から「いかがわしいアニメを見るのは良くないなぁ」などと因縁を付けられて彼と共に視聴せざるを得なくなったのだが、あにはからんや「ともだちアニモー」にハマったのは宗一郎の方だった。

 少女ばかり出てくる作品だったが宗一郎の懸念したような厭らしさはなく、実在の動物の行動を擬人化された少女たちに落とし込まれた様子の見事さや、ほのぼのした作風とは裏腹に考察の甲斐があるような不穏な気配を、いちサラリーマンである宗一郎はいたく気に入り、源吾郎と一緒に観ようと誘い出す始末だった。2017年もまだ始まったばかりなのに、今年の覇権アニメになるとさえ宗一郎はあの時言っていた位の入れ込みようだ。子供の遊びにお父さんの方がハマってしまうというのは往々にしてある事らしい。もっとも、島崎家の場合は父子ではなく年の離れた兄弟だが。

 ナナコたちは「がおー」と言いつつ獣っぽく手を丸めて顔の両側に添えている。彼女らの衣装は胸元の開いたドレスではなく、「ともだちアニモー」中に登場する「ともだち」のコスプレになっていた。彼女らはそれぞれ、メインキャラのスナドリネコ、ホッキョクギツネ、ハクビシンの「ともだち」になっているようだった。

 

「が、がおー……」

 

 ニッコニコの笑顔を振りまくナナコたちを前に源吾郎も社交辞令的に彼女らのポーズをまねた。違っていたのは源吾郎は「ともだち」のコスプレをしていない事と、その面に浮かんでいたのが満面の笑みではない事だった。折角盛り上げようとしてくれるのだから応じねばならない。その思いが胆汁のように胸に染み渡ったが故の表情だった。

 

「お待たせしました島崎様ぁ。ジンジャーエールとチーズの盛り合わせです」

 

 源吾郎が義務感と羞恥心の間で揺れ動いていた丁度その時、オーダーした品が到着した。目つきの鋭い猫又と視線を交わす事コンマ数秒。源吾郎は黙って会釈をした。周囲の空気がそよぎ、わずかに涼しさを感じた。顔を上げると、ナナコたちが立ち上がっているのが見えた。

 

「うふふ、島崎さんはちょっと人見知りみたいだから……あとは頑張ってねサヨコちゃん」

 

 軽い挨拶と共に立ち去ったナナコらと入れ替わりにやって来たのは、サヨコと呼ばれた娘妖怪だった。ナナコらと同じく妖狐であるらしいが、ナナコらとは雰囲気が大分違っていた。ナナコらは若々しかったが大人の色香らしきものをばっちりと身に纏い、また女性的な強さをも持ち合わせていた。一方のサヨコは源吾郎と同じか少し幼げな娘にしか見えない。ほっそりとした身体をロングのワンピースで身を包み、品よく刺繍が施されたショールを上着代わりに纏っている。全体的に清純で、護ってあげたくなるような気配の持ち主だった。サヨコはちょっと戸惑う素振りを見せてから源吾郎の対面に腰を下ろした。

 

「初めまして、島崎源吾郎です。一応、玉藻御前の末裔をやってます」

 

 源吾郎はテーブルの脇にあった小皿をサヨコの前にさりげなく置いてから自己紹介を行った。サヨコは視線を上げると、黒褐色の瞳を上げてはにかんだ。

 

「初めまして。島崎さんですね。私はサヨコと言います。不束者ですが、島崎さんに楽しんでいただけるよう頑張ります」

 

 小さく頭を下げるサヨコの挙動を見届けていた源吾郎の胸の奥で、何かがスパークするのを感じた。

――やだ! サヨコちゃんめっちゃ可愛い! こんなクッソ可愛い娘と逢えたってここやっぱ楽園だわ!

 不思議そうなサヨコの視線に気づくと、源吾郎はさっと視線を動かしジンジャーエールをぐびりと呷った。わざわざソフトドリンクでも硬派に見えるジンジャーエールを選んだ源吾郎だったが、ピリッとした味わいと炭酸の攻撃に目を白黒させていたので、惚れた娘の前にしてはイマイチ締まりのない動作となってしまった。

 源吾郎は軽く咳払いをしてごまかすと、仔犬のような目でサヨコを見た。サヨコもまた、犬か猫の仔のような無垢な眼差しを向けている。

 

「玉藻御前の末裔だったのですね。道理でセンスの良いお洋服をお召しになられているのですね」

「えっ……まぁ……」

 

 服装を褒められるという予想外の行為に源吾郎は一瞬驚きを見せた。しかし驚きの念はすぐさま喜びに取って代わった。

 

「そ、そりゃあ枝葉の末孫と言えど、僕も一応は玉藻御前様の系譜に連なる者ですからねぇ。審美眼とか、そう言うものも具わっているのかもしれませんよ。まぁ、本質的に言えば『馬子にも衣裳』の逆パターンかもですね。やっぱり、その、どんな衣装であっても服の主の出す高貴さとか、カリスマ性は滲み出るんですよ、はは、ははは」

 

 源吾郎はまくし立てるように言うと今一度ジンジャーエールを呷る。今度はどうにかむせなかった。

 サヨコはすっかりくつろいだ様子でいるようだったが、源吾郎を見ると口に右手を添え、控えめにしかし楽しそうに笑っていた。

 

「うふ、ふふふ……島崎さんって本当に面白いお方ですね。色々なお話が聞きたくなりましたわ」

 

 そう言うとサヨコは源吾郎が今しがた渡した小皿を持ち、隣席に映った。一人で食べきるには多すぎるチーズの盛り合わせの数かけらが、既にサヨコの小皿の上にあった。

 

「島崎さん。どうぞこれを受け取ってください」

 

 隣席のサヨコが少し畏まった様子で源吾郎に告げる。それは小さな花束だった。花束というには珍しく、藤花の房を蔦で結んだ代物である。

 源吾郎はサヨコから花束を受け取るとぱぁっと顔を輝かせた。惚れた女の子から花束を貰ったという事も嬉しかったが、それ以上に花束に込められた意味を看破したからだった。源吾郎は花言葉にも詳しい。故に藤花が「決して離れない」蔦が「永遠の愛」という花言葉を持つ事も知っていた。

 

「……その花束は私の気持ちですわ」

「ありがとう、ありがとうサヨコちゃん!」

 

 源吾郎は手のひらに力を籠めぬよう、しかし花束を取り落とさぬよう注意せねばならなかった。



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暗がりはライトの灯りにかき消され ※暴力表現あり

 暴力的な表現があります。ご注意ください。


――いやもう「ぱらいそ」楽しすぎやん、いやマジで

 薄切りにされたモッツァレラチーズの欠片を口に含みながら、源吾郎は得意げな笑みを浮かべていた。脳裏に思い浮かんだのは、地元で行われた妖怪会合だった。妖怪たちが大勢集まり会食会談していたのは同じだが、それ以外は共通点も何もない、まるきり違うものだったというのに。

 あの会合で集まっていたのは色気どころか油っ気も抜けたようなおじさん・おばさん妖怪や術者ばかりだった。しかしここでは若く瑞々しい妖怪たちがほとんどだ。

 あの会合ではスーパーで購入した食材や地元の妖怪が持ち寄った食品が紙皿で出されていたし、飲み物も紙コップに注ぐものだった。しかしここではチーズの盛り合わせでさえ優雅で芸術的だし、何よりグラスもお皿も高級そうだ。

 あの会合で顔を合わせたのはマイペースでマシンガントークをキメる術者の女性だった。しかしここでは愛らしく控えめな、妖狐の女の子が微笑んでくれている。

 

 ささやかな視線を感じ、源吾郎は妖怪会合とのくすんだ思い出をほじくり返すのを一旦止めた。見ればサヨコが物静かな上目遣いで源五郎を見つめている。手にしていたチーズをおのれの取り皿に戻し、源吾郎はあたふたとサヨコを見つめ返す。

 源吾郎自身は長らく人間として生活を行っていた。しかし妖怪の女の子にもむろん興味はあった。遊ぶ相手は人間だろうと妖怪だろうと気にしないが、一緒にいる相手は妖怪の娘のほうが良いかなと思い始めているところである。

 

「もしかして、退屈されましたか」

「いやいやとんでもない」

 

 困ったようなサヨコの言葉に対して、源吾郎は取り繕うように応じた。

 

「そんな、もう色々と嬉しすぎて、この間あったショボい会合とは大違いだなって思ってただけですよ。そんな、サヨコちゃんも僕の傍にいてくれるので、退屈なんて吹き飛びますよ」

 

 源吾郎は少し前のめりになり、サヨコを見つめながら続けた。

 

「僕は今とっても幸せですよ。こんな立派な楽園に招き入れて貰って、そしてサヨコちゃんに会えたんですから。きっと僕とあなたは、二世の縁で繋がっているのですよ」

 

 源吾郎は素面であるにも関わらず耳朶まで薄赤く染まっていた。夫婦も同然だと言わんばかりの源吾郎の謎発言に対し、サヨコはドン引きするどころか理解を示すかのように薄く淡く微笑むのみであった。

 そうこうしているうちに、ウェイターが源吾郎たちの許にやってきた。尻尾の色味や質感からして化け狸の若者のようだ。

 唐突なウェイターの到来にあたふたする源吾郎を尻目に、彼は丸盆の上に置かれていた皿たちをテーブルに乗せた。大人の拳ほどもある丸い物体だ。卵のように思えたが、それが卵であるかどうか断定できなかった。というのも、簡素な灰褐色の皿に収まってテーブルに乗せられたそれは、全面黄金色に輝き、なおかつまだら模様に見えるように碧色、紅色、翠色の宝玉らしきものを所々くっつけられてあったのだ。

 

「ええと……これは……?」

 

 サヨコのいる手前、小粋な態度で尋ねようとしたが驚きの念の方が強くて見事に失敗した。化け狸の営業スマイルが妙に眩しく感じたのは、照明よりもむしろ源吾郎の羞恥心のなせる業だろう。

 

「ワイバーンの無精卵を用いたクリームケーキでございます」

 

 爽やかな口調で化け狸は問いに応じる。おのれを嘲笑しているのではと思ったのは、やはり源吾郎の思い違いだったらしい。ウェイターによると、もともとはワイバーンの卵をシンプルに茹でたものを提供していたらしいが、客人やスタッフ側の意見を取り入れ、黄金の殻に包まれたクリームケーキという洒脱なものに進化したという事らしい。

 源吾郎は半ば口の開いた、誠に間の抜けた様子で彼の説明を聞いていた。ワイバーンなどという小型のドラゴンの卵などという珍味中の珍味がやって来るというのは完全に想定外の出来事だった。

 余談だが、妖怪や術者の間では、鳥妖怪が産んだ無精卵を入手して食する事はしばしばある。鳥妖怪の娘は、独り身であっても季節の変わり目やトキメキや動揺などの大きな精神の揺らぎを受けると卵を産んでしまう事がある。その手の無精卵は腐る前に棄てたり何かしたりして適当に始末するのだが、それに目を付けて他種族の妖怪や人間の術者が食用に買い取る事もしばしばあるのだ。新生雉鶏精一派の初期も、峰白が春になる度無精卵を産み、それらを新鮮なうちに野良妖怪や術者に売りつけて財を成したそうだ。

 そうこうしているうちに説明が終わった。源吾郎は立ち去ろうとするウェイターを呼び止めた。唇を二、三度もごつかせ、言葉を脳裏で組み立てながらやおら質問を投げかける。

 

「あ、あの、この殻って貰っても良いんでしょうか……?」

 

 珍獣を見つめるようなサヨコの眼差しが何となく痛い。しかし源吾郎は二世の縁だとのたまった娘の事をしばし忘れ、クリームケーキを包む黄金色の殻に注意のほぼ全てを払ってしまっていた。外殻は中身を小さな穴から取り出したワイバーンの卵殻なのだが、そこに金箔を張り付け本物の宝玉であしらったものであるのだという。宝石を好むドラゴンの卵料理をこのように飾りだてるのは中々皮肉が効いている気もするが、源吾郎はそんな事よりも金箔や宝玉が自分の手に渡るのかを気にしていた。

 

「どうぞもちろん頂いて構わないですよ」

 

 涼しい顔でウェイターは告げ、笑みを深めた。

 

「こちらは提供された時点でお客様の物ですからね。一応メニューにあるデザートなのですが、島崎様は初回ですのでこちらでサービスさせて頂きました。

 それにしても……この絢爛な外殻に興味を持たれるとは珍しいですね。大方の人は、気にせず廃棄なさるというのに。後でおしぼりを多めに届けておきましょうか」

 

 そこまで言うと、化け狸のウェイターは源吾郎たちに一礼し静かに去っていった。源吾郎はここでようやく隣席のサヨコの事を思い出し、大人っぽく見せるような笑みを作った。

 

「ワイバーンのクリームケーキは本当に美味しいんですよ」

 

 源吾郎が何か言いだそうとする前に、先手を打つかのようにサヨコは告げた。

 

「デザートなので甘い事は甘いのですが、優しくて上品な甘さだと定評があります。いわく、甘いものが苦手な方でも喜んで召し上がってくださるとか」

「ぼ、僕は割と甘い物は好きですよ」

 

 源吾郎がそう言っている間にも、サヨコは自分の許に来たクリームケーキを食しようと奮起していた。すなわち、一緒にやってきた柄の長いスプーンを操り、外殻の一部に穴を開けていたのだ。

 源吾郎は黙ってそれを見つめていた。それからやり方が一通り判ったかなと思えたところで自分もスプーンを取った。スプーンの先で殻をつつく。硬いかと思っていたが案外軟らかく、特段スプーンに力を入れずともへこみ、ヒビが入った。

 

「ケーキと言いつつも斬新ですねぇ。殻を割って食べるなんて……昔、ダチョウの卵を一家で食べた時の事を思い出しました」

「ダチョウの卵をお召しになった事があるんですね。その話、是非ともお聞かせ願えますか」

 

 一足先にクリームケーキの中身にありついていたサヨコだったが、手を止めて源吾郎に問いかける。源吾郎に対する敬意の念で瞳が揺れているのを見届けると、源吾郎は頷きつつ口を開いた。

 

「姉が駆け出しのオカルトライターだった時に、仕事の関係でダチョウ農園からダチョウを貰ったんです。厳密には、姉の上司が貰ったらしいんですけれど、誰も気味悪がって持って帰ろうとしなかったから、仲間内で一番若かった姉が貰ったという流れになったはずですかね」

 

 興味深そうに話を聞くサヨコを見ながら、源吾郎は記憶を静かに掘り起こしていた。およそ十年前の出来事である。その頃は次兄も末の兄も学生で実家に暮らしていたから、一家でダチョウの卵を食する事が出来た。

 

「ああでも、姉様が折角貰ったものをとやかく言うつもりはないですが、ダチョウの卵なんて言うのはそう魅力的な食材ではなかったですね。味も普通の目玉焼きよりも水っぽかったし、何より白身がいくら熱を通しても半透明のままで不気味でしたよ」

「そうだったんですね……!」

 

 さも感心したように頷くサヨコを前に、源吾郎は笑みを返す。その眼はサヨコの美しい面を捉えていたが、脳裏にはダチョウの卵を食した、昔日の記憶が浮かんでいた。あの時ダチョウ卵の目玉焼きを喜んで食したのは母と長姉、そして長兄だった。父や次兄や末の兄は他の家族の様子をうかがいながらおっかなびっくり箸を進めていた気がする。

 当時子供でゲテモノが苦手だった源吾郎も当初はダチョウ卵を食べる事を渋った。しかし長姉から「食べたら女の子に自慢できるよ」と言いくるめられ、意気揚々とチャレンジした。長姉のアドバイスはまぁ正しかった。もっとも、ダチョウ卵トークに喰いついたのはおおむね男子の方だったが。

 だが今、そんな昔の話をする源吾郎の事を、サヨコは結構熱心に話を聞き、そして関心を示してくれる。して思えば双葉姉様は先見の明があったのだ。源吾郎はスプーンの先で卵の殻をつつきながら長姉に対して密かに感謝した。

 

 

 デザートも食し終わりそろそろ満腹になりかけた頃、近くのステージが急に発光した。いや厳密には発光したのはステージではなくステージの周辺にぐるりと設けられたスポットライトである。ライトの純度の高い白色の光が、黒光りするステージの土台を鮮明に照らし出している。

 妖怪密度が急に上がっている事にも源吾郎はこの時気付いた。ステージの周囲は他の場所よりも意図的に暗かったという事もあるが、源吾郎自身が心理的に視野が狭い事も大いに関係している。齢十八の若者という事もあるのだが、源吾郎は一つの事に強い関心を示す半面、他の事に注意が回らない事がしばしばあった。

 

「ショウの時間だわ、島崎さん」

 

 ショウって何だろう。源吾郎がふんわりと疑問を抱いている間に、サヨコは動いていた。彼女は白い華奢な手で源吾郎の背を優しく押し、妖怪たちの集まるステージの周縁へと向かうよう促していた。

 環状に集まる妖怪たちの輪が切れている部分がある。そこはステージの柵が無い部分で、そこから二つの影が白色光に照らされたステージに向かっていくのが源吾郎には見えた。

 ステージ上に立つ二つの影、二体の妖怪を見た源吾郎は思わず目を見張った。ステージ上に立っている事、人型で男である事以外はほとんど共通点はなかったからだ。

 一方は身長百七十五センチ程度の、がっちりとした身体つきと灰褐色の肌が特徴的な亜人だった。唇からはみ出した上向きの牙と、どことなく猪や豚を想起させる面立ちからオークと呼ばれる存在であろうと源吾郎は思った。アジア出身の存在ではないだろうが、妖怪社会も結構前からグローバル化しているし、なおかつここは港町でもある。欧米から訪れたモンスターと呼ばれる生き物たちも、在来の妖怪に交じって港町やその周縁に暮らしていることは源吾郎ももちろん知っていた。

 オークの男は革張りのジャケットをまとい、右手に金平糖のような膨らみのある棍棒を手にしている。よくよく見ればジャケットや棍棒の持ち手付近は小さな宝玉をあしらっており、スポットライトの光を反射してきらめいていた。

 他方は源吾郎よりも少し背が高いだけの、ひょろりとした妖狐の若者だった。歳は珠彦と同じくらいであろう。その上丸腰だ。しかしその見た目とは裏腹に不敵な笑みを浮かべているのはオークの男と同じだ。いや、オークの男と異なり貫禄や厳つさの薄い面立ちであるから、かえって異様でもあった。

 

「さぁ皆さんお待ちかねのショウタイムでございます。連勝記録二十回を超えて尚記録を塗り替え続けるオークプリンスと、果敢なる挑戦者のどちらに軍配が上がるのか、是非とも皆様の目でご確認を」

 

 ステージの端にいる黒服の一人が朗々とした声で群衆に説明する。表にいた妖狐の青年とほぼ同じ衣装だが、襟元は黒い羽毛でぐるりと覆われている鴉天狗か夜雀《よすずめ》の類であろうか。

 群衆が上げる歓声に源吾郎は少し顔をしかめた。彼自身もかれこれ演劇部に都合六年間在籍し、ステージの上で注目を受ける感覚を知ってはいる。しかし、お行儀の良い生徒や分別ある教師らの視線や歓声と、今ここで見られるそれとはまるで違う気がした。

 だがそれでも源吾郎がすぐに表情を繕ったのは、すぐ隣にサヨコがいたためだ。彼女は肩にかけたショールの位置をさりげなく調整していたが、ステージを疎んでいる気配はない。実際に空気を読むのが上手かどうかはさておき、源吾郎は女子相手にやり取りを行う場合、結構空気を読もうと奮起する手合いだった。

 さてステージに視線を向けてみると、オークの男は得物の棍棒を構え、妖狐の少年はたった一本しかない尻尾を水平に伸ばし、にやにやと笑みを浮かべている。妖狐が何かをポケットから取り出し、やおら口に含んだのを源吾郎は見た。

 

「うる、るるるるるるぅっ!」

 

 妖狐とは思えぬ奇怪な咆哮とともに、妖狐の少年の姿が文字通り爆発的に膨れ上がった。今や彼の姿はひ弱な若狐ではなく、オークの男よりも一回りも二回りも大きく屈強なマッチョ狐に成り果てていた。ついでに言えばこの筋肥大の作用なのか、変化が半ば解除され、黄色い毛皮に覆われた、ボディービルダーも真っ青な半人半獣の姿である。

 

――そういえば紅藤様の舎弟・緑樹様の重臣にナチュラルマッチョの狐がいたなぁ。俺もまぁある程度筋肉はあるっぽいけど、やっぱり強くなるには筋肉って必要なんか? でも、ただでさえ俺って狸っぽいとか平安貴族っぽいって言われてアレだったのになぁ……イケてる女子が読む雑誌を見る限り、ゴリマッチョよりも細マッチョの方がウケる感じだし。いやいや、俺、何を考えてるんだそもそも? もう既に妻候補のサヨコちゃんがいるっていうのに!

 

 源吾郎はしばし自分の世界に没入していたが、群衆の鋭い叫びにより我に返った。サヨコが先程よりも自分に近づいている。心臓のあたりをさり気なく撫でながら、ステージに視線を向けた。

 既に半獣人二名の戦闘は始まりを迎えていた。先手を打ったのはマッチョ狐だった。彼は狐ながらも猛り狂ったチンパンジーよろしく両腕を振り回し、間合いを図るオーク男に向かっていく。丸腰だから大丈夫だろうか、などという狐を慮る考えは今ではもう誰も抱いていないだろう。オーク男すら小さく見えるほどのマッチョと化した狐の姿を見れば、棍棒よりも太く頑丈な筋肉に覆われた両腕こそが特上の武器であると誰でも思うものだ。

 もっとも、妖狐はそもそも肉弾戦が苦手な種族ではあるのだが。しかしだからこそ、群衆は盛り上がり、歓声を上げ野次を飛ばしていた。

 オーク男は特段慌てた素振りを見せてはいない。黄色い暴風と化したマッチョ狐のラッシュを最低限の動きで躱すのみだ。狐が苛立ち動きにブレが見えた所で、オーク男が一転攻勢へと移った。彼の褐色の腕は見事に狐のみぞおちを捉え、殴られた反動でマッチョ狐は軽々と吹き飛んだ。筋肥大していてもやはり本体は狐であるから、実質的な体重は軽いのだろう。

 柵にぶつかったマッチョ狐は、硬そうなステージの上に総身を叩きつけられそのまま倒れ伏した。その姿はみるみるしぼみ、痩せた黄色い狐の本性に戻ってしまった。目は虚ろで舌をダラリと垂らしているが、胸や腹が波打つように動いているので生きてはいるらしい。

 歓喜と悲嘆の声が入り混じる中、オーク男は棍棒を握っていない方の手を挙げて、彼なりの営業スマイルを群衆たちに向けている。その間に閉じられていた柵の扉が開き、未だ意識がもうろうとしているらしい妖狐の少年を、店のスタッフが担架に乗せて運び出していった。

妖狐の右前足がジェスチャーをするかのように動いているのを見ながら、妖狐が死んでいない事に安堵している自分がいる事に源吾郎は気づいた。画面越しではない臨場感マックスの戦闘を目の当たりにして、確かに源吾郎は血気盛んな若者らしく興奮していた。しかし見ず知らずの相手とはいえ、同族である妖狐がまざまざと殺される場面を見て平静でいられるほどの胆力は未だ持ち合わせていない。

 

「流石は我らのオークプリンス! 少し力を付けただけの仔狐などを前にしてもびくともしませんでしたね! それにしても、あのひょろい仔狐がを即座にマッチョにした秘薬・金丹丸《きんたんがん》にはご興味ありませんか? 手軽に妖力を増幅させ、思っただけですぐに妖術を行使できるこのサプリメントは、一粒あたり三万円から発売しております。ですが、会員や優待券保持者にはお得なサービスと素敵な特典をご用意しておりますので、是非ともお近くのスタッフにお問い合わせください」

 

 黒鳥の妖怪はもしかすると化けカナリアなのかもしれない。そのような事を思うほど流暢な物言いで解説を行っていた。まるでケーブルテレビの番組の間に度々挿入される通販の宣伝のようだったが、観衆からのブーイングはほとんどない。それどころかあちこちから聞こえる声からは、金丹丸という単語が幾度も幾度も聞こえてきた。

 と、不意に絶叫のようなものが上がり、周囲が静まり返る。源吾郎は傍らのサヨコに視線を向けてから、声の方を見やった。既に人だかりができている。ハクビシン妖怪か化け狸の若者が尻尾を振り回して叫んでいる。興奮しているためか変化が解けかけ、顔が毛皮に覆われ鼻面も伸び始めている。据わった眼はやや血走り、鼻先や口元はてらてらと濡れて光っていた。文字通り噛みつかんばかりの勢いの彼を、黒服が数名がかりでなだめにかかっている。

 

「ほらほら落ち着いてください、暴れられたらこちらも困るんです」

「何を取り澄ました事を言っとんじゃボケェ! 俺ァおたくらの金丹丸の愛飲者でずぅっと買ってきてやったのに、乾いた雑巾をさらに絞るような事までさせて、挙句の果てにもうあなたには売る事が出来ませんだってぇ? どういうつもりじゃ!」

 

 お金がなければどうにもならないんですよ。関西弁丸出しで怒鳴り散らす妖怪の青年に黒服たちは何度かそう言ってなだめようとしたが、興奮している青年の怒りを再燃させるだけで如何ともしがたい。

 はてさて一体どうなるのだろうか。源吾郎が冷や冷やしていると、なんと黒服の一人が青年の後ろ首に手刀をかまし、物理的に黙らせてしまったのだ。不意打ちを喰らって昏倒する青年の身体を、えっちらおっちらと黒服たちは協力して運び出そうとしている。しかし彼らが向かっている先は店の出入り口ではなかった。

 

「ああして暴れる人がたまに出てくるの」

 

 ひそやかな、微かに怯えを伴った声でもってサヨコが呟く。しかし実を言えば、源吾郎が彼女の声に気付いたのは、その声ではなく彼女が源吾郎の腕に腕を絡めてきたからだ。

 

「怖かったんだね、サヨコちゃん」

 

 大丈夫よ。源吾郎の言葉に、サヨコはにっこりと微笑んだ。



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若狐 金丹前になに思う ※暴力表現あり

 暴力表現・戦闘描写がございますのでご注意ください。


つい今しがた若い客が暴れだし、黒服に半ば強引に連行されていったわけだが、他の客人たちはそれを気にする素振りは無かった。源吾郎は心のざわめきをはっきりと感じていた。急に訳の解らない事を言って暴れだす輩が出るのも怖いが、それ以上に無関心を決め込む客やスタッフたちも不気味だ。

 

「大丈夫ですよ、島崎さん」

 

 サヨコが源吾郎の顔を見上げながらささやいた。源吾郎の腕に絡む彼女の腕が動いた気がした。心臓の鼓動が早まり、ついで血圧が上昇した気がした。しかしどうすれば良いのか、源吾郎には皆目解らなかった。末息子・末弟である源吾郎は父母や兄姉たち(特に長兄)から色々な事を教えてもらいながら育った。しかし今直面しているような状況の時どうすれば良いか、そういう事は教えて貰っていない。源吾郎はあれこれ考えたのち、なすがままにする事にした。ガツガツいかずに流れに任せた方が良い時もあると源吾郎に言ったのは、確か叔父の苅藻だったはずだ。

 

「どうしてもお酒が入っちゃうと、ああいう若い男の人が暴れちゃう事もあるの……だけどうちの黒服さんは強いし訓練されてあるから、ああしてすぐに問題を解決して、私たちを護ってくれるわ」

「そうなんだ。それなら安心だね」

 

 上目遣い気味にこちらを見つめるサヨコを、源吾郎は思わず凝視していた。サヨコが整った容貌の持ち主である事はとうに解っていた。しかしこうしてうるんだ瞳で見上げられると、何とも言えない気持ちが込みあがってくる。それが彼女に対する愛しさなのだろうと源吾郎は勝手に思っていた。もはや彼女がどう思っているのかなどはお構いなしである。

 

「さぁさぁ皆様、今回は飛び入りの挑戦者が来ております! しかも、しかもその挑戦者は皆が知っている大妖怪の末裔というビッグ・ネーム! 連勝のチャンピオン・オークプリンスとの闘いは、もう見逃しちゃあ駄目ですよ」

 

 襟元を黒い羽毛で飾り立てるスタッフの声に呼応するように、群衆たちが歓喜の声を上げる。隣のサヨコは声を挙げたりはしなかったが、明らかに頬を火照らせ興奮しているようだった。

――大妖怪の末裔って誰かな。酒呑童子様の子孫だろうか。酒呑童子様って子供とか孫っていっぱいいるらしいもんなぁ。

 源吾郎はのんきにそんな事を考えつつステージを見ていた。しかしステージに誰かが入り込む気配はない。

 次の瞬間、源吾郎は思わず目を閉じた。スポットライトの白い光が、源吾郎の顔に無遠慮に向けられたのだ。光の強烈さは大したもので、まぶた越しにも光の余韻が判るほどである。

 

「そうです! 本日このぱらいそには九尾の末裔の一匹が来ているのです! さぁ来てください島崎源吾郎さん!」

 

 源吾郎の顔面に向けられたスポットライトはもうない。両目にぼんやりとした光の余韻を感じつつも、自分があからさまに名指しされているという事に源吾郎は考えが至った。しかしどうすれば良いのか解らない。どうするも何もステージに向かうのが正しい行動だろう。しかし唐突な事だったので身体どころか脳内が一瞬フリーズしてしまったのだ。

 その源吾郎の背を押す者がいた。絡めていた腕を外し、斜め後ろに控えていたサヨコだ。

 

「指名が入っているわね島崎さん。緊張なさっているでしょうけれど、頑張って活躍なさって」

 

 可憐なサヨコの面に笑みが拡がる。あどけなさの残る面立ちにそぐわぬ妖艶さを秘めたその表情を、源吾郎は呆然と、いや陶然と見つめていた。その澄んだ瞳に源吾郎の間抜けな表情を映しながら、サヨコは言い添える。

 

「非力ながらも私は応援しているわ」

「サヨコちゃんありがとう」

 

 源吾郎は小声で、しかし決然とした口調で礼を述べた。ドラマの主人公ならばここでサヨコを抱きしめるところであろう。だが源吾郎はそんな事はせず自信たっぷりの笑みを浮かべるだけに留めておいた。

 

 

 白く眩いスポットライトの下に立った源吾郎は、能面のような表情で周囲を睥睨するのみだった。こうして高い所から皆から見上げられる事を夢見ていた源吾郎だったが、実際にその場が巡ってくると、嬉しいのか楽しいのか、戸惑っているのか困っているのか解らなくなってしまう。

 おのれの感情が何であるかは解らないが、脳裏には過去の情景が浮かんでは消えていた。主に演劇部に所属していた時の頃の思い出ばかりだ。体育館のだだっ広いステージの上での三文芝居、高校の部室の隅で、主演のイケメンが活躍するのを見届けたあの思い出、そして人生最後の、演劇部員としての活動だ。いずれも共通するのは、スポットライトの白々しいほどに眩しい光だった。

 それらの後に、源吾郎は何故か庄三郎に連れられてギャラリーに赴いた時の事をも思い返していた。自分の作品がギャラリーに展示される事になると、庄三郎は源吾郎をなだめすかしたり丸め込んだりしてギャラリーの会場に連れて行った。末の兄は概ね、ギャラリーの隅に隠れたがっていた。作品を保護するために、ギャラリー内ではそう強い光が使われる事は無い。しかし橙色の柔らかな光の下でも、庄三郎はけだるそうに目を細め、隠れる場所を探そうと必死だったのだ。

 源吾郎は一瞬だけ顔をしかめ、それから周囲を確認した。末の兄の表情を思い出した事。皮肉にもそれこそが、今の彼の中で一番鮮明な感情だった。

 さて源吾郎はぎこちない様子で首を巡らせ、オーク男と向き合う形を取った。オーク男は源吾郎の視線を受けると唇を左右に広げた。唇の隙間から尖った歯が露になった気がして源吾郎はどきりとした。向こうが笑みを浮かべているのだと気付くまでに、およそ数秒の時間を要した。

 

「は、はぅでぃ……」

「は、は、は……」

 

 右手を挙げた源吾郎のか細いあいさつに、オーク男は口を開けあからさまに笑った。焔や血のような紅い口の中が露になっている。源吾郎はしかし少し冷静さを取り戻していた。恐ろしげに見えるものの、オーク男が単に笑っているだけである事にようやく気付いたためだ。

 

「英語に詳しいみてぇだな、狐のぼうず。だが大丈夫だ。おらぁ日本語もちゃんと話せるし、言ってる事も解る」

 

 落ち着いた様子で語るオーク男の言葉が終わるや否や、ほうぼうで笑い声がどっと沸いた。源吾郎が早合点して慣れない英語を使った事を笑っているのか、プリンスと称されるオーク男の少し野暮な日本語を笑っているのか源吾郎には解らなかった。解るのは自分は笑ってはいない事だけだ。サヨコちゃんが笑っていなければいいと思っただけだ。

 

「おめぇさんは、ナイン……いや九尾の子孫なんだな」

「はい。かつて妲己や玉藻御前と呼ばれ恐れられたお方の……直系の曾孫です」

 

 応じる源吾郎のその顔には、彼が持ちうる精悍な態度が戻っていた。何のかんの言って、彼の心中には「玉藻御前の曾孫である」というものがど真ん中にあるわけなのだ。

 

「さて皆様、これから我らがオークプリンスと、玉藻御前の末裔という誉れ高い血統の持ち主である島崎源吾郎君の一騎打ちを行って頂こうと思っております!」

 

 襟元を羽毛で飾った黒服が言い切ると、今一度ステージの周囲で声が上がる。先程マッチョ狐とオーク男が対戦した時よりも歓声は大きかった。そりゃあそうだろう。あのマッチョ狐はただの狐に過ぎなかったが、源吾郎は本物の玉藻御前の末裔なのだから。

 もっとも、源吾郎も歓声を受けてただただ喜んでいるだけでもなかった。これから始まる一騎打ちという言葉に戸惑いを抱かなかったかと言えば噓になる。何しろ自分は妖力は潤沢にあれど戦闘慣れしていない。それに向こうは百戦錬磨っっぽい感じの戦士のようだ。あのマッチョ狐のように、ボッコボコにされて終わるのではないか? そのような不安も心の隅で顔を覗かせていた。

 群衆の完成は少し落ち着き始めている。どちらに賭けるか、みたいな言葉が飛び交っている。源吾郎は斜め後ろに気配を感じ、首を傾げつつ振り返る。黒服の一人がいつの間にか源吾郎の傍に控えていた。目が合うと恭しく目礼し、右手に捧げ持つ物を源吾郎に手渡してきた。それは飴玉程度の大きさのものを、薄い包装紙でくるんだものだった。包装紙が半透明なので、くるまれた物体の鈍く輝く金褐色の表面が透けて見えている。

 

「こちらは金丹丸です」

 

 妖狐らしいその黒服は、すました表情で源吾郎に教えてくれた。金丹丸。脳裏でその単語を反芻していると、黒服は歌うように言葉を重ねる。

 

「本来ならば有料なのですが、島崎様は九尾の末裔ですしこの度の優待客ですから……こちらの金丹丸の料金はご心配なく。どうぞお納めください」

「あ、ありがとうございます」

 

 源吾郎は金丹丸を受け取り、数秒考えてからこれをポケットに収めた。すぐに飲むつもりはなかったためである。黒服は驚いたような表情を浮かべ、目を丸くしている。

 

「おや、お飲みにならないんですね」

「……お返ししたほうが良いですか?」

「いえ、それには及びません。ただ……地力で闘われるおつもりという事ですね」

 

 その通りですね! その意思を込めて源吾郎は強く頷いていた。

 

「金丹丸がスゴそうなお薬である事は僕も十二分に先の試合で解りました。ですが、金丹丸で強くなってしまえば、勝負の先が見えてしまいそうなので、ね」

 

 源吾郎はそれこそ九尾らしい笑みを黒服に向けていた。黒服は源吾郎の笑みに毒気でも感じたのか、戸惑ったような笑みを返すのみだった。

 そんなやり取りが行われている間に、雷鳴が轟くような笑い声がステージを震わせる。声の主はオーク男だった。

 

「はっはっは……中々に気骨のある漢じゃないか、ぼうず。そういう奴ぁ、おらぁ大好きだぜ」

「喜んでいただき光栄です」

 

 そそくさと黒服はステージを降りていく。源吾郎は視界の端でそれを見届けつつ、オーク男にも九尾の笑みを見せつける。四尾を展開し、あえてゆっくりとうねらせてみる。オーク男への、ひいてはステージの群衆へのディスプレイである。

 

「安心しなぼうず。一騎打ちと言えども殺し合いなんかじゃあねぇ。多少は手加減してやるからな。ああ、あの狐小僧の試合だって、こちとら大分加減したほうなんだ。おたくらが得意とする狐火も使って構わないぜぇ」

 

 さながら強者が弱者を見くびるときのセリフではないか。すぐに激昂したり攻撃の準備を行ったわけでもないが、源吾郎の心には闘志の焔が渦巻き始めていた。

 源吾郎は別に愚か者ではない。ある面では知恵が回る部分さえある。ただ煽り耐性が低いだけだ。

 

 

 戦闘は数分で終了した。オーク男の言う「手加減」とやらは本当の事だった。事実源吾郎は特段怪我はなく、しいて言えばオーク男の攻撃を防ぎ時に攻撃を仕掛けた尻尾の筋肉が、打撃によりジンジンと痛むくらいであろう。いや、それすらも本来は異様な事なのだ。尻尾を攻撃の武器として用いる場合、

 源吾郎は半ば無意識のうちに尻尾を強化し簡便な結界を巡らせてもいる。尻尾そのものが硬質化され感覚が伝わりにくくなっているからこそ、ゴムタイヤや鉄板という硬い物でも切り裂き打ち砕く武器になりうるはずだったのだ。そしてこれは、通常の妖狐では考えられないような戦略でもある。妖狐は尻尾を妖力の多さのステイタスと見做しているが、尻尾そのものは鋭敏な神経の集中した急所でもあるためだ。オーク男の打撃は、源吾郎が尻尾に付与していた耐久力を上回っていたという事だ。

 一方のオーク男はもちろん余裕そうな表情である。その肌が若干汗ばんでいる事、ジャケットが一部破れている事を除けばほぼほぼ戦闘前と何も変わらない。無傷だ。彼は源吾郎の尻尾の動きを躱し、はじき返し、迫りくる狐火にも臆しなかった。控えめに言って強かった。

 

「ま、ここいらで勝負を引き上げるのがよかろう。ぼうず、いやシマザキよ。おめぇは十分強かった。その若さでそこまでたぁ、おらぁびっくりしたぜ」

 

 オーク男は源吾郎を見ながら言った。源吾郎も尻尾の痛みを度外視すれば実は戦闘の続行そのものは可能である。持久走を行った直後のように、息は上がっていたが。

 黒服は源吾郎たちの戦闘が終わるや否や彼らの許に近付いた。

 

「どうやら、この度の勝負は引き分けのようでした! 皆様オークプリンスの圧倒的パワーと、若きホープ・九尾の末裔たる島崎源吾郎君に盛大な拍手と喝采を!」

 

 黒服の高らかな宣言にやはり群衆が沸き立つ。賭けがどうとか言っていたような気もするが、そのような事を口にする野暮な輩はいないらしい。誰も彼もが興奮と喜色に顔を火照らせ、拍手を打ち歓声を上げている。

 言うまでもなく、サヨコもその中の一人にいた。

 群衆のどよめきが収まったのを見計らい、彼女の許に戻ろう……源吾郎はそう思っていたのだが、動こうとしたちょうどその時、黒服がさっと近づいて源吾郎の手を取った。

 

「なかなかの戦いぶりでしたね、島崎さん。僕も同じ妖狐として惚れ惚れしましたよ」

「それはまぁ……嬉しいです」

 

 とろけるような笑顔を浮かべながら源吾郎が応じると、黒服はそっと彼の手を引いた。

 

「まだまだお楽しみかもしれませんが、チーフより直々にお話があるそうで。少しお時間を頂けますでしょうか」

 

 源吾郎は目を見張って小首をかしげた。しかし黒服の眼差しと口調には、有無を言わせぬものがあったのも事実である。



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鶏口の誘惑、牛後の未来

 赤黒い尻尾を生やした妖狐の黒服スタッフに従い、源吾郎は進まざるを得なかった。オーク男は既にステージから出ており、彼のファンらしい妖怪たちに握手をしたり投げかけられた質問に応じたりとファンサービスに精を出している。

 揺らめくシャンデリアの下を、源吾郎は歩き続けるほかなかった。黒服がさり気なく源吾郎の右袖を掴んでいたからだ。振り払うのは容易い事だったのかもしれないが、振り払わせないような何かを彼が持っていたのも事実である。

 強い白色光のない分、店内はステージの上ほど眩しくはない。しかし色とりどりのシャンデリアの光とそれを反射して輝くグラスや銀器のきらめきは、ある種の宮廷絵画のような絢爛さをもって源吾郎の目に映っていた。

 

「さて、こちらがチーフの控室です」

 

 黒服の事務的な声が、一幅の絵画でも眺めていたような心地になっていた源吾郎の意識を呼び戻した。二人はいつの間にか室内の突き当りに見える部分にまで来ていた。黒褐色の分厚そうな扉が、扉よりやや上部に設置された橙色のライトに照らされて奇妙な光沢を放っている。単なる黒光りする扉ではなく、動物を象った文様が彫り込まれているようだった。

 

「失礼します、チーフ。九尾の若狐をお連れしました」

 

 きちんとしたノックののちに、黒服が扉に向かって告げる。源吾郎は半ばほくほく顔で黒服の様子を見守っていた。自分は未だ四尾で九尾などではないのだが、九尾の若狐と言われるとやはり心が躍る。

 

「――よかろう、入れ」

 

 短い、しかし決然とした声が扉の向こうにいるチーフの返答だった。分厚い扉を隔てた向こうに声の主がいるというのに、源吾郎の耳には明瞭にその声は聞こえてきた。何か特殊な術でも使っているのかもしれないと、源吾郎はぼんやりと思った。

 扉を開けた黒服に従い、源吾郎も室内に入る。控室に一歩足を踏み入れた直後、源吾郎はとっさに目を細め顔をしかめていた。空調でかき回された空気が源吾郎の顔に当たったその時、強い香気がまとわりついたためだ。源吾郎は別段花粉症持ちではないのだが、この部屋の空気は涙が滲むほどだった。

 だが鼻と目の違和感もすぐに収まった。数度の瞬きで涙をやり過ごした源吾郎は、背の低い棚に置かれた香炉の存在に気付いた。大人が両手で抱える事の出来る大きさのその香炉は、木の葉状にくりぬかれた蓋の部分から淡々と薄紫の煙を吐き出していた。

 

「――落ち着きのなさそうな仔狐だな」

 

 低くゆったりとした声が源吾郎の耳朶を打つ。弾かれたように源吾郎は首を巡らせ、声の主を見やった。

 声の主は、黒々とした革張りの椅子に腰かけた大狸だった。クールビズに対応しているのか、上は半袖のワイシャツで襟のボタンを開けて緩めているのだが、ワイシャツの下からはしっかりとした毛皮が露になっている。源吾郎や黒服の青年と異なり、直立する獣という獣の特徴をほとんど丸出しにした姿である。

 

「初めまして島崎君。私の事は引布《ひきぬの》とでも呼んでくれると良いよ」

 

 引布と名乗った大狸は、源吾郎から視線をそらしぐっと鼻面を斜め上に向けた。スーツ姿の秘書と思しき妖怪女が、淡々とした表情で手にしていたファイルを引布に差し出すのを源吾郎は見た。妙にバタ臭い面立ちだと思っていたら、なんと秘書は縞模様のある尻尾を持つアライグマの妖怪であるらしい。

 最初のアライグマが日本に来日してからとうに幾星霜も経っている。アライグマが野生化している事も、それらの一部が妖怪化している事も源吾郎はもちろん知っている。

 但し、化け狸とアライグマ妖怪との間にはいかんともしがたい軋轢があったはずだ。それで互いに相争い、時に殺し合いに発展する事もあると、前に叔父の苅藻から教えて貰った気がする。

 

「……アライグマの秘書が珍しいのかい、島崎君」

「あ、いえ……」

 

 唐突な引布の言葉に源吾郎はへどもどし、言葉を濁らせるだけに過ぎなかった。弁明の言葉すら思いつかず、横柄そうな引布の毛深い鼻面に視線を向けるのがやっとである。

 黒服はいつの間にか源吾郎の斜め後ろに佇むのみ。喋りだす気配がないどころか、気配そのものさえ薄れだしているように感じられた。

 

「ああそうか。君は妖狐だから我ら化け狸の動向はそう詳しくはないのだな……まぁ良い。アライグマ族との軋轢や血生臭い衝突もむろん我らの間にはあるにはあった。今でもそれが色濃く出ている団体もあるだろうが、このぱらいその界隈ではそういう争いとは無縁だな。もとよりここで居を構える者も、海を越えて訪れた者も、目的が同じであれば協力するのが我らの決まりだ」

 

 引布はそこまで言うと、太い喉を波打たせ底意地の悪そうな笑みを源吾郎に向けた。

 

「国産妖怪のみで回らなければならないのであれば、君や君の縁者とて迫害される存在になりかねんのだぞ? ああ、君らが国産の妖狐である事は私とて知っている。しかし、大本を辿ればこの国とは縁もゆかりもない、大陸の狐に行き着くだろう」

「…………仰る通り、です」

 

 源吾郎の返答はか細かった。ぐうの音も出ないほどに納得している彼を見届けた引布は、文字通りの古狸めいた表情をやわらげ、いくらか柔和そうな笑みを今度は見せた。

 

「さっきの戦闘は、安全カメラ越しに見させていただいたよ、島崎君」

 

 引布は何故か首をすくめたような素振りを見せ、黒目を動かして上目遣いをして見せた。オッサン化け狸に過ぎないのだろうが、何故か愛らしい仔犬のような表情に合致しているように源吾郎は感じた。

 

「……何分粗削りではあるが、本当に闘いのセンスがあると思ったよ。心の底からね」

 

 引布の言葉に源吾郎は目を見開いた。どうにもこうにも油断ならぬ雰囲気の古狸だと思っていたが、その彼の口から滑り落ちたのは、まごう事無き源吾郎への称賛だった。

 

「とはいえ力足らずなのは致し方ないかな。私の見立てでは下級妖怪の上、いや中級妖怪に食い込むかどうかという所だろう。もっとも、オークプリンスが本気でなかったにしろ、地力であそこまで喰らいつくのは凡百の野狐には難しい話だけどね」

 

 心臓の激しい拍動を源吾郎は感じていた。一方の引布は笑みを浮かべつつ、視線を彼の顔からズボンのポケットに滑らせている。

 

「そういえば君は、金丹丸を貰ったにもかかわらず飲まなかったみたいだね。それはどうしてなのかな? 良ければ私に教えてくれないかい」

 

 唐突に意見を求められ、源吾郎は一瞬だけたじろいだ。しかしその数秒後には、彼の瞳には自信に満ち満ちた光が戻り、口元には引布のそれとは別種の笑みが拡がっていた。

 

「どうしてもこうしても、僕は外からの力に縋るような軟弱者とは違うからですよ。引布様。貴方もご存じの通り、僕は九尾の末裔、かの偉大なる玉藻御前様の曾孫です。親族たちの中にはおのれの血と出自を疎む者も多いですが、僕は、僕だけは違います。玉藻御前様の系譜である事、あのお方の能力を受け継いだ事こそが僕の誇りなのです。

――地力が及ばないからと言って、外部からの得体のしれない力に頼るなどというのは、おのれの血に立てた誓いに、いや玉藻御前様に対する冒瀆に他ならないのです」

 

 お決まり(?)の長広舌を振るった源吾郎は、斜め後ろの黒服が喉を鳴らした事で我に返った。きっと彼は笑いをこらえているのだろう。引布の背後で静かに控えるアライグマ妖怪も、胡散臭そうな眼差しを源吾郎に向けるのみだ。

 羞恥心と悔しさが源吾郎の心中を満たしていく。彼らは俺を馬鹿にしているのか。萩尾丸先輩が言うように、天狗になってあれこれ語る事は悪い事なのか。それとも、俺を白眼視する彼らの方が間違っているのか――先程まで晴れやかな表情で語っていたのとは打って変わり、暗雲のごとき考えが源吾郎の脳裏でたゆたいはじめていた。

 

「くくっ、あーっはっはっは……」

 

 引布が笑い出したのは、源吾郎の心中が昏い感情で満たされかける一歩手前の事だった。彼は肉球の目立つ両前足を、何か合唱するかのようにこすり合わせている。

 

「いや失礼。私は君を嗤った訳ではない。ただ、君の一本気のある言葉が、余りにもまっすぐなのでね……島崎君。君が君自身の血統を大切に思い、誇りに感じている事は私も重々把握しているつもりだったんだ。だけど、君は私が思っていた以上に誇り高い性質のようだね。さもなくば、初対面であるこの私に、あそこまで自分の思いを熱弁などできやしないだろう。

 ああ、今日は実に良い日になったものだよ。君のような、島崎君のような五百年に一度現れるかどうか判らぬ逸材に出会えたんだから」

「そういう事だったんですね、引布さん」

 

 引布に応じる源吾郎の顔には、既に憂いの色はない。引布の言葉を外連味のない言葉と受け取った源吾郎の心中には、もはや羞恥心も悔しさもはるか遠くへ吹き飛ばされてしまったようだ。

 代わりに彼の心は、称賛された事による強烈な喜びがあるのみ。おのれの頬の筋肉が笑みで緩んでいるのも源吾郎は気付いていた。

 

「しかしそういえば引布さんは生ではなく安全カメラ越しに僕の戦闘をご覧になったという話ですよね? そこまで関心なさるのであれば、直接見ていただいた方が感動なさったのではないでしょうか」

 

 浮かれ気分で放った源吾郎の問いかけに対し、引布は笑ったまま応じる。

 

「何、君の見事な闘いぶりを見れるのは今宵限りだとは思っていなかったから、ね」

 

 源吾郎は頬や耳朶が急激に熱を帯び始めたのを感じた。引布は喉を鳴らしてこもった笑い声を上げつつ、茶褐色の瞳をこちらに向けた。

 

「率直に言おうか島崎君。君にはこのぱらいその系列店の店長になって貰いたいんだが、如何かね?」

 

 源吾郎は軽々しく頷きかけそうになったが、すんでのところで動きを止め、生唾を飲み込んだ。心情的にはここですぐに頷きたかった。ところが自分が紅藤に仕えているという厳然たる事実を思い出したのである。

 

「……それは、いつからの話でしょうか?」

 

 源吾郎が言葉を発したのは数秒後の事だった。気のない返事を行ったと思われるのはまずいと判断したからだ。さりとて、連休明けからすぐに店長をやれと言われても困ってしまう。ぱらいそで働くという事は、きっと紅藤の弟子である事を辞める事と同義であると、その辺は源吾郎も把握していた。

 紅藤の弟子を辞める――その事に思い至った源吾郎は、芋づる式に祖母との誓約も思い出してしまった。あの時源吾郎は白銀御前に対して、おのれの妖力を担保に紅藤の許で修行をやり抜くのだと言ってしまった。源吾郎がこっそり転職していると知ったら、祖母はどうするだろうか。

 あれこれと雑多な考えが脳裏をよぎるうちに、源吾郎の心中で踊っていた興奮や喜びもなりを潜め始めた。引布さんは魅力的だが、その彼に付き従うには前途多難ではないか、と。

 引布が口を開いたのはそんな時だった。

 

「すぐすぐにとは言わんよ。君もほら、フリーターじゃあなくて就職している身分だろう」

 

 その通りです。源吾郎は引布の言葉に頷く。

 

「ご存じと思いますが、祖母、曾祖母の縁故によって僕は紅藤様の許に弟子入りし、修行している次第です」

「雉仙女の許に就職したのか!」

 

 引布は驚嘆した素振りで源吾郎を見上げている。両目が飛び出さんばかりに見開き、きちんとした牙が露になった口元も開いたままだ。

 

「だったらなおの事、すぐに彼女とは手を切るべきだよ。彼女が、いや彼女がつるんでいる連中や彼女の手下どもがとんでもねぇ連中揃いである事は君も知っているだろう」

 

 源吾郎はその問いには応じなかった。峰白や萩尾丸など、紅藤の関係者はおよそマトモな妖怪とは言い難い面々が揃っている事は事実である。

 しかし――自分の事を高く評価してくれる引布と言えど、今まで源吾郎に心を配り、あれやこれやと教えてくれた紅藤の事を悪く言うのは気が引けた。

 

「そもそも君は大妖狐だろう。そして向こうは単なる雉だ。雉鶏精一派だのなんだのと言っているが、所詮は私らのような狸や狐の餌になるような輩に、単に妖力が強いだけだからと言ってへいこらと這いつくばって従うのもどうかと思うがね。君はまだ若いし前途もある。輝かしい未来を、つまらん事で腐らせるのは実にもったいない」

「ですが……」

 

 源吾郎はたまりかねて声を上げた。紅藤様は単に強いだけではない。物凄く強くて立派なお方なのだ。源吾郎はそう言おうと思った。だが引布の冷徹な眼差しは源吾郎に有無を言わさなかった。

 

「鶏口牛後のことわざは君も知っているだろう、島崎君。才能や熱意を愚かな上司共に使い潰されて出がらしになっても良いというのならば私は何も言わないが」

 

 源吾郎は口をパクパクさせることも忘れ、引布を凝視するのがやっとだった。思いがけぬ冷ややかな言葉に源吾郎は動揺していたのだ。

 

「だが、君の未来を決めるのは他ならぬ君自身だ。すぐに決めるのは難しかろう。だが、私の許についたらどういう仕事を行うか、明日教えてあげるよ」

 

 引布は今一度愛想の良さそうな笑みを浮かべると、甘く柔らかい声で源吾郎にそう告げたのだった。源吾郎は半ば機械的に頷きながら、おのれの岐路が迫っている事をひしひしと感じていた。



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わが縁 もつれ絡まり何処へ行く

 ビジネスホテルの一室。消灯し薄暗い部屋の中で源吾郎はベッドの上で横たわっていた。早朝とは呼ぶにはやや早すぎる時間帯であるが、源吾郎の両目は開いていた。

 つい先程まで浅い眠りの中にいた源吾郎は、何がしかの夢を見ていた。夢を見ていた事だけは覚えているのだが、肝心の夢の内容はよく覚えていない。何か、とても幸せな夢だった事だけは覚えている。

 

「夢、か……」

 

 源吾郎は息を吐き、どんな夢だったのかに思いを馳せていた。日頃は夢の事なんか気にしないにも関わらず、である。そうしてしばらくベッドの上で寝そべっているうちに目が冴えてしまった。眠りが浅かったのも、こうして夢に縋っているのももしかしたらビジネスホテルのベッドの上という、いつもと違う環境だからなのかもしれない。

 ああだこうだ考えている源吾郎は、短い低周波を耳にした。音源はベッドの傍らにあるサイドチェストである。唐突な低周波に源吾郎は一瞬眉をひそめたが、のろのろと身を起こした。およそ着の身着のままでベッドに寝ころんでいた源吾郎だったが、スマホだとかちょっとした荷物の類は流石に身に着けてはいない。

 手を伸ばし、震えていたスマホを掴み取る。コンタクトを入れていないので視界はぼやけるが、目をすがめて画面を注視した。通知が来ている。

 通知は無料通話アプリからだった。連絡の主は末の兄・庄三郎からだった。源吾郎はお土産を渡すために、連休中に庄三郎のアトリエに向かおうと思っていた。そのためにいつなら都合が良いのかと打診をしていたのだが……それは数日前の話である。

 何日も前に出した連絡の返信が遅い事には特に何も思わない。末の兄が連絡面(ほかの事も)で不精なのは昔から知っている。それに源吾郎もここ二、三日はそれどころでもなかったし。

 

『須磨んがまだ今は忙しい。だけど冥土は立っている。明日、明後日なら来てもいい』

 

 半ば能面のような表情で、兄からのメッセージを源吾郎は見ていた。相変わらずの簡潔な文章だ。後どうでもいいが微妙な誤変換も彼らしい。身体のあちこちに散ったアクリル絵の具のしぶきを気にせずにスマホを打つ庄三郎の姿は源吾郎の脳裏にもはっきりと浮かんだ。

 源吾郎は明日にでも向かう予定だと返信し、それから深くため息をついた。庄三郎に護符と彼好みの絵の具を渡すという大義はあれど、積極的に会いたいと思っている相手ではない。

 別に源吾郎は、末の兄を疎み、憎んでいるわけではない。しかし兄たちの中で一番複雑な感情を抱いている存在である事は事実である。

 庄三郎は源吾郎とは全く()()()()()だった。すなわち、母方の祖先より受け継いだ美貌を持ち、なおかつ相手を魅了する能力を先天的に保有していたのだ。のみならず、彼は相手の心に干渉し、庄三郎の都合の良いように振舞ってくれるよう調整する能力すら、小学生の頃に獲得したのだ。変化や攻撃術といった源吾郎の得意とする能力は持たないものの、庄三郎も妖狐としての能力に恵まれていると言わざるを得ない。それに――庄三郎は生まれながらにして、源吾郎が欲しても得られなかったものを持ち合わせていた。

 庄三郎のその特質、ある意味で先祖たる玉藻御前のそれに近い特質が、多くの人間の心を揺らぎ、惑わし、時には狂わせた事を実弟である源吾郎は知っている。

 そもそも源吾郎は、庄三郎の存在と彼の保有する能力への影響をこの世で()()()に大きく受けた存在である。むろん人生が狂うなどという深刻な事は無い。しかし源吾郎が幼少より抱く野望は、庄三郎の能力抜きでは語れない所があるからだ。

 源吾郎は意外にも面倒ごとはさっさと片づけたいと思っている性質である。色々と予定が変わったが、本来ならば珠彦と街で遊びある程度ナンパを行った翌日にでも兄の許に向かうつもりだった。

 要するに、兄に手渡す予定の護符と、途中で購入したアクリル絵の具を源吾郎は今も持ち歩いているという事だ。

 

 午前十時。きらめくような五月の陽光を浴びながら源吾郎は参ノ宮の大通りを闊歩していた。今回はナンパが目的ではない。ぱらいそが開店するまでの時間稼ぎだし、もはやナンパなど行おうという考えはなりを潜めていた。

――思えば、この連休中に色々とあったものだ

 齢十八の若者ながら、源吾郎は妙に達観した考えを脳裏に浮かべた。

 全てはぱらいそという店の優待券を手に入れた事から始まった。サヨコという可憐な少女と知り合い、チーフや他の従業員たちに源吾郎の比類なき才覚を見せつける事が出来た。昨日まで源吾郎はぱらいその系列店の見学と研修を行っていた。見学先は若い娘が接客を務める「パリスの林檎」と、飲食店ではないがビリヤードや札遊びなどの若者向けゲーム施設の「マルパスの止まり木」だった。

 研修というには破格の待遇を、この二日間で源吾郎は受けていた。食事も宿泊もぱらいそ系列店で色々と手配してくれたのだ。研修なんだからこれくらい当たり前だよ、というスタッフの言葉に甘え、源吾郎は出されたものを口にし、見学や研修が終わると用意された個室で眠った。今朝の源吾郎がビジネスホテルに宿泊していたのは、見学が一度終わったためである。

 研修期間中に少し気がかりというか不愉快だったのは、食事の後に、妙な感覚に襲われる事だけだった。食事そのものは妖怪向けながらも味付けもしっかりしていて美味だった。しかし、食後二十分ばかり、頭が少し痛んだり気分がぼんやりしたりしたのだ。原因は良く解らないが、研修という事で緊張していただけなのかもしれない。昨晩から今朝にかけて源吾郎はビジネスホテルに一泊し、食事は近所のコンビニで簡単なものを調達したのだが、その時はくだんの妙な感覚は襲ってこなかったのだ。

 引布は「パリスの林檎」の店長に源吾郎を据えようとしていたが、源吾郎は丁寧に話し合いをした結果、まずは「マルパスの止まり木」で雇われ店長となる事で落ち着いた。源吾郎自身は年頃の若者であるから、むろん若く瑞々しい美姫たちには興味はあった。しかし源吾郎は、既にサヨコと知り合いになっている。知り合いといっても少し言葉を交わした程度であるが、源吾郎としてはサヨコを正式な妻として迎え入れたいと強く願っていた。それ故か、「パリスの林檎」にて薄い衣装を身にまといばっちりと化粧を決め込んだ妖怪娘を見ると、何かおのれが悪事を働いているような、そこはかとない気まずさを感じるのだった。源吾郎の目から見ても従業員たちは魅力的だった。ついつい見とれてしまう事もあるにはある。しかし直後に、サヨコに対して不貞を働いたような、そこはかとない罪悪感に襲われてしまうのだった。

 ぱらいそのチーフ、大狸の引布は本当に親切だった。源吾郎のわがままも多少は聞いてくれたし、サヨコとの関係についても「彼女が頷いたら俺は何も言わん」と認めてくれた。それに何より、源吾郎が雉鶏精一派を離脱し、なおかつ向こうにそれと気づかれないようにするための段取りも組んでくれたのだ。影武者に相当するものを用意し、研究センターに送り込むという算段である。丸く固められた人工式神の素とやらに源吾郎の血と妖気の一部を与えて培養する事により、見た目や行動だけではなく、妖気等々もオリジナルとほぼ変わらぬ存在を用意できるという話らしい。

 なお、この影武者は数年の短い寿命になるように調整されているとの事。影武者を使う事で紅藤や祖母である白銀御前に源吾郎の裏切りを気付かれにくくし、なおかつ途中で死ぬ事により、彼らの追跡の目をごまかす事も出来るという事である。

 引布が行ってくれたこれらの説明について、源吾郎はただただ素直に喜ぶのみだった。おのれの背信がバレないかとビクビクしているだけだったが、引布はこれらを解決できる術を知っているのだと思ったからである事は言うまでもない。だがその一方で、簡便に精密な妖怪の分身が作れる謎の物体についても、研究者的な好奇心をそそられたのもまた事実である。おのれの妖気と血により作るのであればそれは俺の「弟」なのだろうか、とさえ思ったのだ。その考えは、さほど深く考えずとも源吾郎の師範に似通ったものだった。

 ともあれ源吾郎は、紅藤の許で修行する事を放棄するという判断に至ってしまった。引布や彼を取り巻く部下たちの甘言が見事であったのは事実だ。しかし、しかし源吾郎は半ば能動的に彼らの意見を受け入れたという事実もそこにはあった。

――君は現段階でもかなり強いんだ

 引布の説明を聞いている時、源吾郎の脳裏には妖怪会合でのやり取りが浮かんでいた。あの時出会ったオウム妖怪のアレイは、源吾郎の事をはっきりと強いと評した。引布の言葉を聞きながら、源吾郎はその言葉を反芻し、紅藤に仕え続ける日々と、引布の許で働く事とを天秤にかけた。

 その間にも、引布は言葉に言葉を重ね、紅藤の事をあれこれと教えてくれた。彼女は今でこそメンドリ面で雉鶏精一派に君臨しているが、もともとは人間の術者の使い魔に過ぎなかった事を源吾郎は知った。しかも生まれつきの妖怪ではなく、ただのメス雉に過ぎなかったのだそうだ。

 

「別に後天的に妖怪になった連中を賤しいとか劣っているというつもりはないよ。だけど考えてみたまえ島崎君。君は天下の大妖怪・三國を震撼させた玉藻御前様の直系の子孫なんだ。そんな君が、ただ力があるだけの、血統も何もない蒙昧なメス雉なんぞに唯々諾々と従っていて良いのかい? しかもあいつは人間の女の姿にさせられて、男の術者に仕えていたんだ。君はもうネンネじゃないんだから、それがどういう事か想像は付くよなぁ?」

 

 粘っこい笑みを浮かべつつ、引布はあの時源吾郎に迫っていた。自分の師範、紅藤への評価に対して源吾郎はオロオロしたのも事実である。けれど、結局は彼の意見に賛同する形と相成った。

――君はかなり強い。君は強い。君は強い……俺は、現時点でも強いんだ

 アレイの言った事は正しかったんだ。源吾郎は引布の前で薄く笑み、頷いていた。引布の瞳には、風采の上がらぬ青年のいびつな笑みに見えたかもしれない。しかしサヨコの事とかおのれの血統をさり気なく褒められた事にのぼせ上った源吾郎は、おのれの浮かべる笑みのいびつさも、引布の瞳の色にも気付く事は無かった。

 

 参ノ宮で有名な神社に向かい、源吾郎は縁結びのお守りを購入した。お守りを複数持っていると神様同士で喧嘩をするから良くないという話を知っていたが、まぁ大丈夫だろうと源吾郎は判断した。護符の作り主である紅藤の事は源吾郎も良く知っていたし、そもそもこの護符は源吾郎の物ではなくゆくゆくは庄三郎に渡すものであるし。

 

 

 午後六時。源吾郎はぱらいそが開店するとともに店内に入り込んだ。黒服は半ば無作法な源吾郎の動きにも何も言わず、ただただ穏やかな笑みを浮かべて受け入れ、のみならず源吾郎が何か言う前に彼をいつかのVIP席に通してくれた。

 VIP席には当然のようにサヨコが座っていた。源吾郎は荷物が増えて野暮ったくなっていないかと懸念したが、次の瞬間にはそれすらもどうでも良くなった。

 驚いた事に、引布までテーブルを囲んでいたのである。前見たときは店の奥に引っ込んでいた彼が御自ら出てくるという所は想定外だった。

 

「こんばんは、サヨコちゃん」

 

 源吾郎は爽やかに見える笑みを作った。彼はサヨコを驚かさぬようにゆっくりとした動きで、お守りを出した。テーブルには数日前源吾郎がサヨコから受け取り、店に預けた状態になっている藤と蔦の花束がきちんと飾られていた。藤花も落ちずに瑞々しい状態にでそこに在る。

 

「どうか、これを受け取ってください」

「まぁ……」

 

 控えめに驚くサヨコの姿は、今日も今日とて愛らしく可憐だった。心温まる……などと言うには苛烈すぎる感情のうねりをどうにか制御しつつ、源吾郎は言葉を紡いだ。何のかんの言って演劇部に所属し、演劇も行った源吾郎である。内心の感情の動きは烈しくとも、その表出を抑え込み、その場に相応しい言動に留める事も意識すればできる事だった。

 

「本当は指輪とか気の利いたアクセサリーの方が良かったのでしょうが……これは霊験あらたかな神社の、縁結びのお守りです。僕の気持ちだと思って受け取っていただければ」

「ありがとう島崎さん。嬉しいわ」

 

 源吾郎の言葉にサヨコは微笑んだ。小鳥のヒナを抱くように、彼女は手のひらの上にお守りを載せている。

 少ししてから、引布が身を震わせて笑っている事に気付いた。源吾郎と目が合うと体の震えは止まった。しかし目と口に笑いの余韻が残っている。

 

「いやいや茶化すつもりはないんだ島崎君。だがまぁ、中々に初々しいと思っただけさ」

「あはは、そうですね」

 

 源吾郎は笑ってごまかした。しかし引布の指摘も真実ではある。源吾郎はモテたいだのなんだの言っているが、女子と交際した事はまだない。無いからこそそこに執着しているようなものだ。

 

「まぁ良い。今日は君の新しい職場と未来の伴侶を得たという事で祝杯を上げようじゃないか」

「ありが……」

 

 礼を述べようとした源吾郎だったが、途中でびくりと身を震わせ硬直した。強引にドアを押し開けるような鈍い音と、野卑で甲高い叫び声が轟くのを耳にしたからだ。




 次回より物語が急展開します。


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賽は容赦なく投げられる ※暴力表現あり

 暴力的な表現がございます。苦手な方はご注意願います。


「我々は自警団第六本部だ! 株式会社ゴモランよ、違法薬物製造販売・妖怪売買等二十三の嫌疑で摘発する! 神妙にお縄にかかれ!」

 

 妙に勿体ぶった口上を耳にしたと、源吾郎は思う暇はなかった。源吾郎の座す席は奥まった個所にあるにはあったが、そこからでも異様な光景を目の当たりにする事は可能だった。

 自警団と名乗りを上げた狸男を筆頭に、十数匹の妖怪がぱらいそになだれ込んできたのだ。狸妖怪がリーダーらしいが、鴉天狗や犬妖怪の姿もチラホラとある。彼らはいずれも武装し、何よりも殺気に満ち満ちていた。

 

「…………」

 

 源吾郎は目が飛び出さんばかりに瞠目し、その場に立ち尽くす事しかできなかった。ドラマや映画のワンシーンのようだ。唐突にそう思ったが、それ以外の考えは浮かび上がってこなかった。暴力が絡む映画やドラマを見た事はある。派手なアクションシーンに興奮し、歓喜の声を上げた事さえある。

 しかし、それとこれとは別物だ。やれ最強になるだの世界征服するだの言っている源吾郎だが、暴力と流血とは縁遠い日々を送っていた事はまごう事無き現実だ。殺し合いでも何でもない、遥か格下の相手との戦闘訓練にさえ戸惑い、烈しく動揺したくらいなのだ。そんな彼が、どうして今ここで展開されている暴力行為を前にして平常心でいられようか。まだ泣き叫ぶ事すらなかったというだけ()()というレベルである。いやむしろ、唐突な展開に心が追い付かず、呆然とするのみという方が正しいかもしれない。

 

「……ッ!」

 

 どれだけの時間が経ったかは解らない。だが源吾郎は我に返る事が出来た。皮肉な事に、生のアクションシーンという衝撃的な光景から源吾郎を正気に引き戻したのは、別次元の衝撃だったのだが。

 猛然と黒服やスタッフの娘らに躍りかかり、奮闘し、追い回す自警団の面々には、明らかに源吾郎の見知った顔があったのだ。

 化粧の濃いスタッフの娘と取っ組み合いを繰り広げるのは叔母のいちかだった。

 店内の中空を飛びながら、呪文と呪符をまき散らすのはオウムのアレイだった。

 ガスマスクをかぶり、噴霧器から謎の液体をまき散らす人物の傍らに、鳥園寺さんは寄り添うように佇んでいた。謎の人物に対する視線には恐怖の色はなく、むしろ親しげにさえ見えた。

 

「ど、どうしよう……」

 

 か細い、今の騒動の中では容易くかき消えてしまいそうな声で源吾郎は呟いた。見知った相手が自警団に加担している事を悟り、源吾郎は先程まで抱いていたのとは別種の恐怖を感じ始めた。

 事ここに至り、源吾郎はおのれが取り返しのつかない状況に置かれているのだと悟った。妖怪同士の小競り合いは数多くあれど、自警団と銘打つ面々が、無辜の妖怪を襲う事はまずない。現に違法薬物の製造販売などと言った嫌疑がかけられていると言っていたではないか。

 だがそれ以上に、自分がぱらいその一味であるといちかやアレイに知られるのが怖かった。アレイや鳥園寺さんは会合にて知り合ったばかりだからまだいい。問題は叔母のいちかだ。彼女が源吾郎とぱらいそとの接点について知るのにそう時間はかからないだろう。色事と甘言に騙されたという事実を、妙に潔癖な叔母が赦しはしないであろう事も目に見えていた。これがまだ叔父の苅藻であったなら話は違う。若いころ遊び人だった彼の事だから「まぁ若いうちは女の子の色香にクラっと来るのも致し方ない。しかし一流の男は女に惚れるんじゃあなくて惚れさせるんだぜ」と言われるくらいで終わるだろうが。

 

「大丈夫よ、島崎さん」

 

 戸惑いと恐怖でうろたえる中、源吾郎の耳朶を打つのは他ならぬサヨコの声だった。彼女はまっすぐ源吾郎を見つめている。気丈にも怯えた様子を押し隠し、何かを強く決意したような眼差しを源吾郎に向けていた。

 源吾郎は心臓が暴れまわり喉が渇いて詰まるような感覚を抱いていたが……少しずつ勇気と落ち着きを取り戻し始めていた。オロオロしている自分が情けないのだと、客観視し始めたのだ。源吾郎はプライドが高く、おおむね悪い意味でうぬぼれ気味だ。しかしこの局面においては、皮肉にもその特質が良い方向に転がったのだ。

――ああ、サヨコちゃんは俺以上に怖い思いをしているというのに気丈に振舞っているじゃあないか。俺は男だし、しかも九尾の、玉藻御前の末裔だ。こんな事くらいでうろたえるなんて、九尾の末裔の名折れだ!

 

「怖がらないでサヨコちゃん。君の良き夫になる事を僕はもう心に決めたんだ。君の事は僕が護る。君のためなら――何でもやるよ」

 

 聞く者が聞けば鳥肌もの・失笑もののセリフを源吾郎は何も気にせず吐き出した。恥ずかしいとか他人に聞かれたらどう思われるかなどと言う考えはなかった。源吾郎にとって大切なのは、愛するサヨコが源吾郎に頼り、何かを求めているという事だ。愛する女性に対する要求に応える事は、漢として当然の事だった。

 

「少しだけ、協力してほしいの」

「何だってやるよ。必要ならば僕の生命さえ惜しくない」

 

 喰い気味かつ本心からの言葉にサヨコは少しだけ驚いた素振りを見せた。しかしすぐにその面に笑みを浮かべ、ゆっくりと首を振る。

 

「ありがとう島崎さん。私を想うその気持ちは痛いほど伝わってきたわ。だけどそんなに気負わなくて大丈夫。少しだけ私に協力して、みんなを説得してほしいの。私に考えがあるの。だけど私ひとりじゃあどうにもならない。島崎さんが、玉藻御前様の末裔であるあなたが協力してくれれば、あの恐ろしい自警団も立ち退いてくれるはず」

 

 源吾郎はしばらく目を見張り、サヨコを数秒見つめていた。それから彼女の手を取り、気付けば握っていた。サヨコは嫌がらず、源吾郎の振る舞いを受け入れていた。

 

 

 膝の震えをこらえつつ、源吾郎は斜め後ろのサヨコに従って歩を進めた。

 未だに自警団とぱらいそ側のスタッフとの攻防は続いている。客として訪れた妖怪たちはやはりオロオロして右往左往するか、怯えて壁の隅やテーブルの陰に隠れたり、自警団に詰め寄られて逃げられなかったりぱらいその面子と共に自警団を襲撃しようと奮起したりどさくさに紛れて金品を盗み出そうとしたりと様々だ。

 

「ここで良いわ」

 

 サヨコが小声で呟いた。源吾郎は頷き、歩みを止めた。彼らが立っているのはテーブルとテーブルの間、少し開けた所だった。取っ組み合いだのなんだのの格闘にふけっていたはずの妖怪たちは動きを止めて源吾郎に視線を向けた。今の源吾郎は尻尾を顕現させた状態だった。サヨコに指示されたからだ。その方が目立つと。

 

「あの子供は誰だ?」

「お前知らないのか、あいつは玉藻御前の子孫だよ。確か、雉仙女の弟子だったとか」

「源吾郎……? どうしてここに……?」

「噂通り四尾なんだな。めっちゃ毛並み良さそう」

 

 源吾郎は頬をてからせながら観衆の視線を浴びていた。きっとサヨコは、源吾郎に自警団への説得を行ってほしいのだろう。どういう話をするのかは打ち合わせていないが、たぶん大丈夫だろう。自警団の面々も源吾郎に並々ならぬ注目を持っているし、きっと俺の話を聞いてくれる。

 軽く咳払いをしたのち、源吾郎は表情を引き締めて周囲を睥睨した。ひとまず演説を始めるとしよう。準備を始めた時、サヨコが不意に源吾郎の背をつついた。

 

「島崎さん。肩に糸くずがついていますわ」

「え、本当!」

 

 唐突なサヨコの指摘に源吾郎はやや大げさに声を上げた。慌てて糸くずを取り払おうとした源吾郎だったが、サヨコはさり気なくそれを押しとどめた。

 

「大丈夫よ。私が取って差し上げますから」

「あ、ありがとう」

 

 衆人環視の中、サヨコが源吾郎の身体に手を伸ばす。背後に回った彼女の事を源吾郎は信頼しきっていた。いや厳密に言うならば彼女には危険なところがあるという可能性を抱く事さえなかった――だからこそ、二人で出向いた時に彼女が何かを所持していた事、そして今何かが起きようとしている事に源吾郎は気付かなかったんだ。

 

「一歩たりとも動くな、自警団と名乗る狂犬共が!」

 

 ヤンキーも真っ青の暴言がぱらいその店内に響き渡る。その声の主は、間違いなく源吾郎の傍らにいるサヨコだった。可憐な乙女そのものと思っていた彼女の言葉は衝撃的だったが、源吾郎は乙女らしからぬ彼女の言動を指摘する事も突っ込みを入れる事も出来なかった。

 源吾郎の喉元には、サヨコがしっかと握るダガーが突き付けられていた。源吾郎よりもやや背が低いためか、水平に刃を突き付けるのではなく切っ先がやや斜め上を向いていた。

 

「この狐がどうなっても良いのなら暴れまわると言い。だが覚えておきな、私やそこの下っ端共を摘発するというのなら――こいつの生命はない」

 

 低くおどろおどろしい声でサヨコは言い放つ。源吾郎はまたも頭が真っ白になりかけた。だが自警団の襲撃の時と異なり、すぐに状況を把握していた。サヨコは説得のために源吾郎の協力が必要と言っていた。その言葉はある意味真実だった。いま彼女は源吾郎を人質として使い、こののっぴきならぬ状況を打破しようとしているのだから。

 源吾郎は真の恐怖に打ち震えていた。余所事の暴力、身内への悪事の露呈などで抱いた恐怖などこれに較べたら生易しいものだ。

 

「源吾郎を放しなさい! この卑怯者の女狐!」

 

 甲高い、つんざくような絶叫がほとばしる。声の主を辿り眼球を動かすと、なりふり構わず吠え立てる叔母の姿が目に映った。

 

「人質が欲しいのなら私が代わりになるわ。だから、だから甥っ子を返して。いいえ、返しなさい!」

「お、落ち着いて桐谷所長。相手を刺激しては甥御殿が……」

 

 半ば錯乱したようにまくしたてるいちかを、自警団の一人らしい化け狸がなだめている。源吾郎はどうすれば良いのか解らず震えるのがやっとだった。それでも、サヨコの突き付けた刃の先は全く震えていない。

 

「女狐の代名詞みたいなのが祖母のくせに、他妖《ひと》の事を女狐呼ばわりするなんて傑作ね」

 

 侮蔑と嘲笑の念が、サヨコの声にはふんだんに込められていた。

 

「あんたなど人質には要らないわ。体のいい、騙されやすい間抜けでなければ務まらないもの」

「…………ッ」

 

 いちかは獣の眼で、相手を射殺さんばかりの眼差しをサヨコに向けていた。しかし彼女は源吾郎の喉元を確認すると、物悲しそうな表情を浮かべ、視線を床に落とすのみだった。

 

「無駄な抵抗をやめるのはあんたたちの方よ。この狐の首を掻き切る所を見たくなければ、武器を置きなさい」

 

 私はためらわないわよ。言葉が終わるや否や、突き付けたダガーを更に近付ける。源吾郎はぎょっとして喉をうごめかせたが無論どうにもならない。

 

「――別に良いじゃないかお嬢さん」

 

 緊迫した空気が漂う中、場違いなほど明るい声がサヨコに投げかけられた。ダガーを持つサヨコが、驚きに息をのむのが源吾郎にも聞こえた。

 硬質な音を立てながら、声の主は優雅な足取りでサヨコと源吾郎の許に近付いてきた。その面には、サヨコのそれとは別種の笑みが浮かんでいた。

 

「こっちに向かってくるな! この狐がどうなっても良いのか!」

 

 サヨコが吠え、彼女の手許が動く。そのはずみでダガーの刃先が源吾郎の喉元に触れた。

 

「殺るなら殺れば良いじゃないか。君が殺りたいのなら首を掻き切るなり首を落とすなり、好きにやってみたまえよ」

「あら、中々に大胆な事を言うじゃない……」

 

 取り繕ったような不敵な声でサヨコは応じている。源吾郎は震える事も忘れ、ただ瞠目して対面の相手を凝視していた。

 サヨコに対し、人質たる源吾郎を殺せるならば殺してみろと煽っているのは、他ならぬ彼の兄弟子である萩尾丸だったのだ。




 週末なので3回更新になります。


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天狗は二狐を煽り散らす ※暴力表現あり

 暴力表現がありますのでご注意願います。
 それにしても、主人公は無事なのでしょうか――?


 今や源吾郎の対面に萩尾丸は仁王立ちで控えていた。彼は普段の小粋なスーツ姿ではない。自警団が着込んでいる警察官めいた制服や、術者たちが着込んでいるツナギによく似た衣装である。軍服のようなものに似ている気もした。

 しかしそのような衣装であっても、萩尾丸の日頃のイメージを損ねる事は無かった。彼はやはり小粋で、なおかつ寸分も隙のない男であるように源吾郎の眼には映った。

 もっとも、そんな事を悠長に考えている暇などないのだが。

 

「君が今人質に取っている仔狐が一体どういう身分なのか、きちんと把握しているんだろうねぇ。お嬢さん?」

「今さらそんな、馬鹿馬鹿しい質問をするなんて」

 

 萩尾丸の言葉もサヨコの言葉もどちらも嘲笑的だった。それをツッコむような度胸のある存在はいない。誰も彼もが、固唾を呑んで両者の動きを見ているだけだ。自分の動きで一匹の妖怪が殺されるかもしれない。その事をひどく恐れているようだった。

 

「この狐は玉藻御前の末裔に違いないわ! 間抜けだろうと何だろうと、こいつの血統と実力は、利用するに値するの」

「はいブー。お嬢さん、見事なまでにふせいか~いだね」

 

 タレントやお笑い芸人が出演するクイズ番組の司会のような陽気さで萩尾丸は応じた。しかも相手を小馬鹿にしたように身体を揺らし、ついで腕をクロスさせてバツのマークまで作っている。この動きが不謹慎にもツボに入った者がいるらしく、目を伏せて俯く手合いが何名かいた。

 こんなところでも炎上トークの手腕を見せつけるなんて……源吾郎はそう思うのがやっとだった。日頃の源吾郎だったら感情のうねりがあってしかるべきなのだが、ダガーを喉元に突き付けられた今この状況では致し方ない。

 

「まぁこいつは確かに玉藻御前の曾孫らしいよ。と言っても今はそんな事はどうでも良い。

――それよりも君らが注目すべきは、その仔狐が雉鶏精一派の構成員、それも紅藤様の直弟子であるという事なんだよ」

 

 相手に反論の暇を与えずに、萩尾丸は言葉を続ける。

 

「別に僕自身はその狐の生き死になど特に気にしてはいないよ。いじり甲斐のある弟弟子がいなくなるのはちと寂しいけれど、妖怪とて大半の連中は死のくびきから逃れられないんだからさ、仕方ないじゃないか。

 だけど、僕らのあるじである紅藤様がこの事を知ったらどう出るだろうねぇ? 良いかいお嬢さん。紅藤様を見くびるのはやめておいた方が良いよ。まぁ確かに彼女は正気を宇宙の彼方にぶん投げたとは思えないほど薄らぼんやりとしたマッドサイエンティストに見えるかもしれない。しかし彼女の、弟子たちへの執着、もとい愛着はただ事じゃあないからね。何せ、気に入った相手の生命を掌握するんだって言ってはばからないくらいなんだからさぁ」

「べらべらと糞つまらない事ばかり言って、何が言いたいのかしら」

 

 サヨコの苛立ちは、吐き捨てるような言葉のみならず、彼女の握るダガーの切っ先からも感じ取れた。源吾郎の皮膚に食い込まんばかりの切っ先は、すっと横に動いたのだ。ほんの数ミリの動きだろうが、それが随分と大きなものである事は源吾郎には解っていた。痒みにも似たような感覚と共に、生温く鉄錆の香りがする液体が滲み出てきたのだ。

 

「――そいつを殺すのは、君自身の破滅を招くという事さ、お嬢さん」

 

 萩尾丸の言葉は物々しいが、口調自体は軽やかだった。

 

「紅藤様は真の意味でのモンスターペアレントだからねぇ。もし君が下らない理由でその仔狐を殺し、或いは傷つけたと知ったならば、確実に怒りに我を忘れ、報復に出るに違いないね。彼女が、我らが雉鶏精一派で最強の妖怪である事は君も知ってるだろ? だが彼女の戦闘員としての威力は君らが考えるほどちゃちじゃあない。

 紅藤様はだね、その気になれば滋賀にいる君の一族郎党を滋賀もろとも滅却する事も出来るんだ。琵琶湖を干上がらせる事も、淡路島から持ってきた石土で埋め立てる事すらも造作ないだろう」

「ほら話も……大概にしな……」

 

 嘲弄的な笑みを浮かべた萩尾丸に対してサヨコは吠える。しかし彼女の声とダガーの動きからは、苛立ちがなりを潜め僅かな動揺が見え隠れしていた。

 

「おたくが何を囀ろうとも、もはやこの狐は雉鶏精一派とは無関係なんだよ!」

 

 苦し紛れに吠えたてたサヨコの言葉に、萩尾丸は眉を上下させただけだった。

 

「もはやこいつは雉鶏精一派から離脱する事を心に決めている! こいつは私の婿になり、雉仙女からは手を切ると、そう誓ったばかりだ!」

「物的証拠はあるのかい?」

 

 萩尾丸の問いかけにサヨコは言葉を詰まらせる。そんなものは未だ存在しない事は源吾郎もサヨコも心得ている。何せ源吾郎がぱらいその系列店の店長になると決めたのは数分前の事なのだ。それも口述のやり取りのみだ。

 萩尾丸は三十五秒ほど様子を窺っていたが、やおらゆっくりとした動きで胸ポケットをまさぐり、紙片を取り出した。源吾郎の眼が見開かれた。彼が取り出した書類には源吾郎も見覚えがあった。

 

「ご覧よお嬢さん。これは紅藤様とそこの狐が取り交わした誓約書だよ。まぁこれは、原本じゃあなくてコピーだけどね。我らがマッドサイエンティストが、まさか単なる口約束だけでそこの狐を雇っていると思ったら大間違いさ」

「そんな紙切れを物的証拠って言うつもりかい。全くもって笑わせる」

 

 サヨコは負けじとすごみ始めた。彼女が得意げに顔を歪めているであろう姿を、源吾郎は何故かイメージしていた。

 

「そんなおためごかしのビジネス文書くらいで、私らがたじろぐと思ったのか? そんな薄っぺらい紙切れとは異なる縁で結ばれていると、この狐は私に言ったんだ。()()()()で繋がっている、とな」

 

 言い切ると、サヨコは少しだけダガーを下にずらしてから源吾郎にささやいた。

 

「ねぇ、そうだったわよね島崎君。私の事を妻にしたくって、二世の縁って言ってくれたのよね」

「はい……そうです」

 

 急激に甘ったるくなったサヨコの言葉に頷いたのは、何も源吾郎が恐怖に屈しているためだけでもなかった。ダガーを突き付けともすれば自分を殺そうとしているサヨコは怖かった。だけど、嫌悪とか憎悪に直結したかというとそれはまた別問題だった。

 萩尾丸は全くもって驚いた様子は見せなかった。むしろさも面白げに顔を歪め、そして盛大に笑い出したのだ。抱腹絶倒というほかない程の笑いぶりだ。周囲の妖怪及び人間の術者の中には、彼を白い目で見る者もいた。だが萩尾丸は全く気にしていない。

 

「いやはや……中々面白い事を言うじゃないかお嬢さん。君さぁ、こんなところで悪事の片棒を担いでくすぶっているよりも、芸人を目指して大阪にでも行ったらどうだね? オプションでそいつも連れて行けば、夫婦漫才でも何でもできるだろう。

 ビジネス文書よりも二世の縁、夫婦の縁の方が強いって言いたかったんだね。それでこの僕がひるむと思ったんでしょ。ねぇそうでしょ? しかーし残念でーしたー! そんな事じゃあ僕はビビったりしませんよぉ~あ、ついでに言うと紅藤様もノーダメージだろうね。

 てかさ、てかさ君ら本当に馬鹿過ぎじゃね。夫婦は二世の縁って言葉を知っている事は評価してあげるよ。だけどさ、君ら()()()()()()()って言葉を知らないのかい?」

「…………ッ」

 

 主従は三世の縁。この言葉に源吾郎はサヨコ以上に衝撃を受けていた。萩尾丸は弟弟子の動揺など無視し、言葉を続けた。

 

「要するにだね、紅藤様と島崎君の結びつきは、お嬢さんとの結びつきより()って事だよ。そこんとこ解る? オッケーかな」

「この、よくもぉぉ……!」

 

 喉の奥でうなり声をあげたかと思うと、サヨコが動いた。もはや彼女は萩尾丸の術中に収まってしまったらしい。ただでさえ炎上トークの伝道師のごとき存在なのだ。その煽りっぷりはそんじょそこらの連中とは段違いだろう。しかも隙のない紳士といういで立ちからは想像もつかぬような軽薄な言葉と動きは、文字通り怒りのギャップ燃えを誘発するのに効果抜群のようだ。

 もっとも恐怖が臨界点に達して妙に冷静な心地になっている源吾郎にしてみれば、ピンチである事には変わりない。いやむしろ状況は悪化したといえよう。破れかぶれになったサヨコは、今まさに源吾郎の喉元にダガーを突き付けようとしている。いかな妖怪の血を引いていると言えども、きっとここで源吾郎は死ぬだろう。死んだら萩尾丸先輩の許に化け出てやる……ある種妖狐らしい考えを胸に抱きつつ源吾郎はきつく目を閉じた。

 

「きゃっ」

 

 小さな悲鳴がほとばしり、何かが床にぶつかる音が響く。銃でも発射されたような音ののちに何かが砕ける音が聞こえた。

 

「…………?」

 

 源吾郎はゆっくりと目を開いた。突き付けられた刃物も、サヨコがぴったりとくっついている気配もない。彼女は、源吾郎の斜め後ろでダガーを持っていた右手をさすっている。彼女が持っていた恐るべきダガーは見当たらない。源吾郎の斜め前に、その成れの果てがあるだけだ。ダガーは粉微塵にされ、何故か無数の花びらを持つ奇妙なオブジェに生まれ変わっていた。

 

「ふっ、ふふふふふ」

 

 射抜くようなサヨコの視線を享けながら、萩尾丸は朗らかに笑う。彼の右手は、子供がするように指鉄砲の形をとっていた。

 

「勝負ありだねお嬢さん。まさか、僕が君をただイラつかせるためだけに楽しい楽しいお喋りにかまけていたと思っていたのかい? まぁ、君もそこの狐もいじる事が出来たから面白かったけど」

 

 サヨコが半ば源吾郎を押しのけるような形で前進する。萩尾丸の顔からは笑みが消える。冷え冷えするような瞳で彼女を見つめるのみだ。

 

「人質はもう意味をなさない。ここから先は君と僕とのタイマン勝負になるね……まぁ、君が無駄に歯向かって、僕が嫌々君をフルボッコにしなくてはならない。そういう展開を望むのなら」

「…………」

 

 サヨコはもう何も言わない。萩尾丸を注視するその瞳が、きらりと輝くのを源吾郎は見た。

 

「ま、待って下さい萩尾丸先輩……!」

 

 真っ先に動いたのは萩尾丸でもなければサヨコでもない。他ならぬ源吾郎だった。自由の身になった源吾郎は、二歩ばかり前に進みだし、尻尾を広げてサヨコの姿を萩尾丸から覆い隠した。

 サヨコの瞳を見た時に、源吾郎はなすべき事を悟ったのだ。

 

「茶番はもう終わったんだ。非戦闘要員は大人しくしたまえ」

「サヨコちゃんは……彼女は悪くないんです!」

 

 源吾郎の叫びに、萩尾丸は虚を突かれたらしい。ぱらいそに到着してから、彼が驚きの表情を見せるのはこれが初めてだった。

 

「この茶番を考えたのは僕なんです! 僕が彼女を唆しただけなんです。だから、だから彼女は見逃して下さい……!」

 

 源吾郎の尻尾は奇妙にうねっていた。その動きの支離滅裂さは、彼の心情をそのまま反映していたと言ってもいいだろう。

 興ざめしたと言わんばかりの萩尾丸を、源吾郎は正面から見据えていた。何がどうあっても、彼女を護らねばならない。錯綜した心の中で、それだけが明らかな事のように源吾郎には思えたのだ。

 

「もしどうしても彼女が赦せないというのなら、僕と――」

「全くもってお馬鹿さんね、島崎君は」

 

 萩尾丸に戦闘を申し込もうとした、その源吾郎の言葉を遮ったのはサヨコだった。ご丁寧にも彼女は言葉だけではなく、源吾郎の尻尾の毛を引っ張って気を引いたのだ。

 振り返ってすぐにサヨコと目が合った。彼女は、夢から醒めたような表情で源吾郎を見つめている。

 

「ちょっと褒めてあげただけで結婚するとか何とか言っちゃって、本当にお馬鹿で間抜けな子よね、あなたって」

「サヨコちゃん……何を言って……」

 

 冷水を頭からかけられたような気分で源吾郎は呟いていた。サヨコはそんな源吾郎を見て、儚く微笑んだ。

 

「――単なるカモだと思っていたのはまごう事無き真実よ。だけど、今こうして私を庇おうとしたその姿が、今まで見てきたあなたの中で()()()()()だったわ」

「…………」

 

 サヨコの謎めいた言葉を理解しようとしている間に、サヨコは前に進み出ていた。萩尾丸はうっすらと笑みを浮かべるだけだ。日本生まれの妖狐であるはずなのに、サヨコは欧米人ばりに両手を上げ、無抵抗である事を示している。

 

「策が破れてしまった以上、私自身はもう抵抗しないわ。あなたの実力は私では……いえボスですら敵わないでしょうから」

「物分かりの良い女で良かったよ」

 

 萩尾丸は言うと、源吾郎にちらと視線を向けた。

 

「そこの間抜けにもあれば良かったんだけどねぇ」

「そんな事を言わずとも、あなたは彼の兄弟子なんでしょ? 無知だけど素質も性格も悪くないんだから、きちんと教育してあげなさいよ。さもないとまたつまらない女に引っかかってしまうわ」

 

 サヨコはそのまま大人しく萩尾丸の傍に行き、そしてそのまま自警団の一人に引き渡された。その際に彼女は器用にも、歩きながら尻尾を生やした少女の姿から、直立する狐という、半人半獣の姿へと変化していた。

 半ば本性をさらしたサヨコの姿を、源吾郎は口を閉じるのも忘れて凝視していた。サヨコは可憐な少女などではなかった。脂っ気の抜けた毛皮と、古狸顔負けのでっぷりとした肉体を誇る、まごう事無きオバサン狐だったのだ。



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楽園も一皮むけば地獄絵図

 さて観念したようにサヨコが自警団の一人に引き立てられるのを見届けた源吾郎は、足の筋肉がコンニャクに変化したような感覚に襲われその場にへたり込んでしまった。極度の恐怖、緊張及び驚愕に晒されていたのだ。脅威が去り愛した娘の姿が全くの幻だと知った以上、彼のこの反応は致し方ないのかもしれない。

 

「源吾郎、源吾郎――ッ!」

「む、ぐっ……」

 

 半ば無防備な状態になっていた源吾郎の許にタックルがかかった。相手は叔母のいちかだった。いやタックルではない。彼女は末の甥に近付き、感極まって抱擁しているのだ。少女めいた姿の娘が青年に躍りかかって抱きすくめるという絵面はまぁ周囲に見せるようなものではないが、そんな事は源吾郎もいちかも気になどしていない。叔父の苅藻を兄のように慕っていた源吾郎にしてみれば、叔母のいちかはもう一人の姉のような存在だった。

 周囲の妖怪たちも特に何も言わない。いちかの鬼気迫る態度に気圧されたのかも知れないし、そもそも彼らはいちかと源吾郎の関係を知っていたからかもしれない。

 

「大丈夫、源吾郎。怪我はないの? 怖い事は無かった?」

 

 いちかは小さな手を源吾郎の顔に沿え、正面から凝視していた。

 

「ぼ……俺は大丈夫だよ、叔母上……」

 

 その短い一言を口にするのがやっとだった。厳密には首の皮を少し切られたが、もう血は止まっているし傷も塞がりかけているから問題はない。

 それよりもいちかの方が大事である。殴られたのか、彼女の左目の周囲は青黒いあざで縁取られ、唇も切れている。源吾郎は戸惑い、叔母を見つめ返すしかなかった。自分よりも多く怪我を負った彼女は、しかしそれを一切気にせず、純粋に源吾郎の身を案じているだけだった。

 

「良かった、本当に良かったわ……」

 

 いちかは今一度源吾郎をひしと抱きしめた。遠い昔、源吾郎がまだうんと幼かった頃も、彼女はこうして源吾郎を抱きしめていた。そんな事を思い出した。思い出しているうちに、いちかは静かに源吾郎から離れていたが。

 

「甥御殿が無事で良かったじゃあないか、桐谷所長」

「ええ……本当に」

 

 自警団か術者の一人の言葉に、いちかが感慨の籠った声で応じている。何だかんだ言いつつも、いちかは源吾郎の叔母であり、保護者に近しい存在なのだと思い知らされた。

 力尽きたヒトデのように尻尾を垂らす源吾郎は、周囲の視線がおのれに注がれているのを感じた。コンニャクめいた足に力を籠めると、ふらつくがどうにか立ち上がる事は出来た。

 

「それにしても、玉藻御前の末裔である、桐谷所長の甥御殿がどうしてここに……?」

「先の萩尾丸殿が仰ったとおり、あいつは雉仙女殿の配下だったはずだが」

「まぁ今休暇中らしいし、上司も部下の活動全てを把握している訳では無かろうに」

「いやこれは待ちに待ったスクープの予感かもな。ひとまず島崎君は無事そうだから、訳を聞いてみようじゃないか」

「そいつぁ面白そうな話だ。何となれば、雉鶏精一派の醜聞《スキャンダル》が……」

 

 源吾郎はぼんやりと、周囲が口々にあれこれと考察するのを聞いていた。叔母は目を伏せて耳たぶまで赤くして妖怪や術者たちの話を聞いているだけだ。

 

「島崎君がここにいる理由を知りたいんだな、自警団及びパパラッチの諸君」

 

 声を上げたのは萩尾丸だった。予想通りというか、やはり彼はうろたえた様子はなくむしろニヤニヤしているくらいだ。源吾郎を取り囲むように集まっていた妖怪たちの視線と注意は、すぐに萩尾丸に向けられた。

 

「簡単な話さ。何を隠そう島崎源吾郎君は――叔父である()()()()()がぱらいその調査のために放った()()()だったのさ」

 

 妖怪たちの間でちょっとしたざわめきが広がった。驚いたとか納得したとかいう意見を彼らははじめ思い思いに告げていたが、萩尾丸の言が本当であると信じる方向に収束したらしい。

 それもこれも、苅藻の妖怪術者としての実績を皆が知っているからだろう。苅藻は妖怪術者の中でも、ガサ入れだとか摘発だとか丁々発止のバトルだとか、そういうワイルドな荒事を担当している部類に属する。ちなみに実妹のいちかはマイルド路線である。

 萩尾丸はそのまま源吾郎の許ににじり寄り、その肩に手を置いた。

 

「そうだろう島崎君。ぱらいそがどうにもこうにもきな臭い動きをしていると、君が実の兄以上に尊敬し慕う苅藻君から聞かされて、独りでここまで頑張って来てくれたんだろう?」

 

 源吾郎はゆっくりと顔を上げ、萩尾丸の顔を覗き込んだ。事実など二の次だ。僕が言った事に素直に頷きたまえ。言外にそういわれているのをひしひしと感じていた。

 源吾郎が頷いたのを確認せずに萩尾丸は続ける。

 

「本来ならば苅藻君が適任だっただろうと諸君も思っているかもしれない。しかしあれでも彼は術者としての経歴を積んでいるから、こういう狡猾な手合いは彼の事を警戒しているのさ。そこでさほどこっちの業界では面の割れていない、甥の島崎君をスパイとして仕立て上げたという訳さ。

 それにしても、島崎君は中々()()()()()だと思わないかね? このぱらいそに来てからいちか君との熱いハグを交わしたところまで、一部始終が他ならぬ彼の演技だったのさ。まぁ、君らには『ド外道な本性を隠し持つ女狐に騙された挙句、人質になって殺されかけたのにそれでもなお相手の善性を信じて庇い建てをしようとするどうしようもない間抜け』に見えたかもしれないが、それこそが彼の、そして彼が忠義を誓う苅藻君の狙いだった訳さ。島崎君はきっと、僕らが突入する段取りを逆算し、ぱらいそに乗り込んで『血統と女の色香にすぐによろめくような間抜けな若者』の演技でもって、逆に相手を油断させていた訳だよ。

 ああちなみに、苅藻君はこの作戦を秘密裏に打ち立てて、島崎君にだけ伝えたんだろうね。いちか君は自警団の連中と一緒に動く事は知っていたが、甥に甘い彼女の事だから、島崎君がそんな一大任務を背負っているとなれば、どう動くか彼でも把握しかねただろうからね」

 

 萩尾丸は実に滑らかな調子で皆に説明を行い、さり気なく源吾郎の肩をさすった。

 生きた心地のしなかった源吾郎だったが、萩尾丸の圧に委縮し、何も言わずに唇を噛み締めるだけだった。萩尾丸の言葉を妖怪たちは信じ始めているようだが、彼の言葉が嘘である事は源吾郎には良く解っていた。叔父である苅藻はこの件には一切関わっていないのだから。

 

「したがって、島崎君がここにいるのは叔父の命を受けたからに他ならず、我々雉鶏精一派の不祥事でも何でもないという事さ。上司以外の妖怪から受けた仕事をこなす事への是非は諸君の中にあるかもしれないが、依頼主は叔父だから、家業を手伝ったという範疇に収まるだろう。それに、我々の世界にも副業はあるのだからさ」

 

 萩尾丸はそこまで言うと、源吾郎から距離を置いた。叔母のいちかと目が合う。彼女は疑わしげな視線で萩尾丸と源吾郎を見つめていたが、何も言わなかった。

 

 

 源吾郎はそのままぱらいそから数メートルばかり離れた場所に連行されていた。自警団や術者たちがガサ入れを始めた時に、客として来ていた妖怪たちも一緒くたになって集められている。彼らはあの騒動の時に悪事を働かず、オロオロしたり呆然としていたような、所謂お行儀の良い妖怪たちだ。しかしきな臭い場所にいた事には変わりないので、表立った悪党たちをしょっ引いたのちに事情聴取が待ち受けている。

 源吾郎もまた、この即席の待機スペースで待ち続けなければならない身分だった。源吾郎ほどの妖力を持つ妖怪ならば、自警団と一緒に摘発作業に入っても問題ないのだが、当の源吾郎の精神状態からして、とても闘える状況とは言い難かった。しかも大部分のスタッフはとうに摘発され、残っているのは引布や古参幹部など、ある意味厄介な面々ばかりなので、なおさら素人の出る幕はない。

 

「……それにしても、島崎君とこんなところで会えるなんて奇遇ねぇ」

 

 変化を解き、神妙な面持ちで控える妖怪たちを眺めている源吾郎に声がかけられた。親しげな様子で話しかけてきたのは鳥園寺飛鳥さんだった。彼女も他の術者と同じく、機能的かつ安全面にも配慮した作業着っぽい衣装を身に着けている。胸許に豪快なフォントで「チキンカレー・人類滅亡」という謎の文言のアップリケをくっつけている所が気になりはしたが。

 待機スペースに集められているのは妖怪たちばかりだが、鳥園寺さんをはじめとした人間の術者もここに居合わせていた。集めた妖怪たちが逃げ出さないように監視するようにと、自警団の面々に依頼されているらしい。

 

「鳥園寺さんこそ、珍しいですね」

 

 一文字一文字噛み締めるように源吾郎は告げた。鳥園寺さんの事は会合で話し合ったばかりだからよく知っている。不本意ながら術者の道に進む事になり、妖怪を苦手とする女性だったはずだ。しかし今こうしてかがんで源吾郎を見つめる彼女には、恐怖の色はない。むしろちょっと楽しそうだ。

 

「本当はね、パパとママがこの仕事に出向くつもりだったの。だけど連休中に張りきったパパがギックリ腰になっちゃって、それで私に連絡が入ったのよ。本当は、アレイだけでも良かったんだけど、『どうせ飛鳥はトレンディドラマでも見てゴロゴロしているだけだろうから、オマケでも何でも良いからアレイと一緒に向かって勉強しなさい』って言われたから……最近は、トレンディドラマよりもポコポコ動画の号泣議員の方が好きなんだけどね」

「それは……まぁ……」

 

 鳥園寺さんの境遇に形ばかりでも同情しようと思ったのだが、上手くいかなかった。その理由は源吾郎が今精神的にひどく消耗しているというだけでもない。鳥園寺さんの言動の中に、源吾郎が未だ持ちえない強さを感じたためでもあった。

――鳥園寺さん、マジで紅藤様と気が合いそうだなぁ。俺の事も気遣ってくれて優しいけれど、何というか独特で、たくましいし。きっと彼女はキャリアを積んで、勇ましい術者になるんだろうな

 源吾郎の思案顔をよそに、鳥園寺さんは言葉を重ねる。

 

「私も最初は怖かったわよ。だけど雄太お兄ちゃんも来てくれていたし、アレイは戦闘慣れしてるから大丈夫かなって思ったの。

 あ、でも、島崎君の一連の演技、あれ本当に凄かったわね! 島崎君、捕まって人質になっちゃってたから、あれ絶対死亡フラグだって思ってハラハラしながら見てたのよ。だけど、ああいう演技で皆を欺いて手玉を取っていたなんて、本当に才能の塊ね! やっぱり九尾の末裔って凄いのね」

 

 源吾郎は声を出さずに力なく笑うのがやっとだった。鳥園寺さんが兄と言った人物、ガスマスクとタイツ姿の不審者めいた風体の男は、他の妖怪たちの動向に目を光らせつつも、妹と源吾郎の会話にも気を配っているようだった。よく見ると彼の全身タイツの胸元には「悪妖討伐・滅菌処理」というやはり謎の文言がプリントされてある。二人が兄妹である事はもはや疑う余地はない。

 そう思っていると、件の怪人物はこちらに近付き、鳥園寺さんの隣にさも当然のようにやってきた。そういえば鳥園寺さんの長兄は鳥アレルギーで当主になれなかった、という話を聞いたのを源吾郎はゆっくりと思い出した。

 

「あーあ。毛玉共の子守なんて暇だからやってらんねーぜ。俺の最臭兵器を使えば、大妖怪だろうと何だろうと狸とか狐なんだからイチコロだと思うんだけどなぁ」

「やっぱり向こうもベテランのプロだから、危ないって事で私たちは撤退したと思うのよ、雄太お兄ちゃん」

「しかし飛鳥。桐谷の姉さんだってボッコボコになりながら闘ってるじゃねえか。だのに、大の男がこんなところで引き下がるって恥ずかしくね?」

「言うていちかさんってこの業界で百年近い実績を持つプロ中のプロでしょ? 半妖だし基が人間のか弱い私らに較べたら、ポテンシャルは高いと思うけど。自警団のヒトたちだって、私らを気遣ってくれているんでしょうし」

「そうは言ってもなぁ……」

 

 鳥園寺さんとその兄の会話を源吾郎はぼんやりと聞いていた。と、ぱらいその建物に唐突に異変が起きた。事もあろうに、萩尾丸や叔母のいちかや他の面々がいるであろうぱらいそが、眩い光に覆われていったのだ。

 

「見てよお兄ちゃん。まさか、この妖怪騒動が爆発オチで締めくくられるなんて……」

 

 すぐ傍に兄がいる為なのか、鳥園寺さんの声は若干上ずり、興奮の色が見え隠れしていた。



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秘匿されしぱらいその真実

 かけ値無しの楽園など無い。そう言う事なのです。


「皆、これはもう大人しくずらかった方が身のためと思いまっせ!」

 

 大阪弁の入り混じった砕けた口調で、一匹の妖怪が皆に呼びかけた。何とも切羽詰まったその声に、源吾郎も他の妖怪たちも鳥園寺さんをはじめとする術者たちも彼に視線を向ける。アナグマ妖怪の彼は、つぶらな瞳をしばたたかせ桃色の鼻先をうごめかせている。

 皆に注目されたためか、少し得意げな表情になっていた。

 

「鳥の嬢ちゃんが言うように爆発するんやったら、こんなとこおったら僕ら全員巻き込まれてお釈迦になってまうで」

 

 大きな尻を地面につけて座り込むアナグマ妖怪の言葉に、他の妖怪たちは鋭く反応している。逃げるべきか否か。悩み次の行動を起こそうとしている感覚は源吾郎にも伝わってきた。

 アレイがかつて言った、雑魚妖怪でもシベリアトラを斃せるという内容は間違いではない。しかし妖怪であっても当たり所が悪ければあっさり死ぬ事もあるのだ。妖怪がずば抜けた生命力と再生能力を持つように思われているが、それもこれも妖力の恩恵があるからに他ならない。妖力の少ない妖怪ほど、死ぬリスクが高いのだ。

 

「……みんなで頑張って結界を張れば良いんじゃないかねぇ」

 

 鳥園寺雄太は、ガスマスクの向こうから妖怪たちを睥睨しつつ呟いた。

 

「そんな人でなしな、イケズな事を言わんくてもええやん。てか、兄ちゃんたちかて爆発に巻き込まれたら死ぬかも知れへんねんで。人間様って僕らよりか弱いねんから」

「そうは言っても、俺は結界の張り方なんぞ知らないけどなぁ」

「やっぱり逃げた方が良いんじゃないの、お兄ちゃん」

 

 相変わらずぱらいそは光に包まれている。源吾郎にはどうすれば良いのかまるで解らなかった。身の安全を確保するのならば、アナグマ妖怪が言うように逃げればいいのだろう。

 しかし、逃げずにここに留まらなければならないと、心のどこかでささやいているのを源吾郎ははっきりと感じていた。爆発しようがどうなろうが、萩尾丸先輩は無事であるはずだと。それに叔母のいちかだってあそこにいるのだ。戦闘員か非戦闘員かさておき、彼らを放って逃げるのは道義に()()()事だと、虚ろな脳で考え始めてもいた。

 

「……?」

 

 尻尾の先に奇妙な感覚が伝わってくる。何だろうと思った源吾郎の眼前には思いがけぬ光景が広がっていた。イタチやネズミ、鳩やミミズクのような小柄な妖怪たちが、何を思ったか源吾郎の尻尾に向かって集まり、そこに取り付いたり尻尾と尻尾の隙間に隠れようと蠢いていたのだ。

 

「ちょ、ちょっと……」

 

 おたくら何をやってるんだ。ちょっと強気に問いただしたかった源吾郎だったが、実際には放った言葉は尻すぼみになっただけだった。急展開の波状攻撃は、源吾郎の精神を確実に消耗させていたのだ。

 妖怪たちは黒ビーズのような瞳を向け、さも憐れっぽい表情で源吾郎の顔を見上げていた。

 

「いやさ、俺ら自分では結界は張れないけれど、九尾の末裔である島崎さんの尻尾にくっついていたら、どうにか助かりそうな気がしたんですよ……ほら、前の試合でめっちゃ尻尾を振り回してましたし」

「……成程」

 

 化けイタチか化けテンの言葉に、源吾郎はあっさりと納得していた。彼自身としては対妖怪兵器として使っていた側面があったが、それもこれも無意識とはいえ尻尾を結界で保護しているからこそ可能な事である。

 それに源吾郎は、さっきから落ち込んでいたが彼の言葉に少し気を良くしてもいた。九尾の末裔という言葉は、いついかなる時でも彼の心を掴み、揺さぶってくれるのだ。

 したがって源吾郎は自分の尻尾に妖怪たちがくっつくのを容認した。考えてみれば、自分は人型でなおかつ一メートル半もある大きな尻尾を垂らしてへたり込んでいるのだ。他の妖怪たちに較べてより多くの面積を占有している訳だから、こうして彼らがくっつくのも受け入れるのが筋であろうと思ったのだ。

 

「やーん。モフモフの尻尾に小さいモフモフが集まってるってかわい~ 写真撮っちゃおうかな」

「辞めとけ飛鳥。こいつらを撮っても後で心霊写真っぽくなるし、何より肖像権がどうとか言われても面倒だろう」

 

 爆発を忘れたかのような兄妹の会話をぼんやりと聞きながら、源吾郎はなおも光り輝くぱらいそを凝視していた。妖怪たちは相変わらずしがみついている。しかし、光は先程よりも弱まっているようだった。ド派手な爆発が生じそうな気配ではないと、爆発に詳しくないながらも源吾郎は思ったほどである。

 

「な、あれは……」

 

 静かに観察を続けていた源吾郎は、異変に気付き呟いた。眩い光は収まり始めていた。しかしぱらいその巨大な建物が激しく震えていた。毒々しい配色の看板が地面に落ちる。それを皮切りに、建物自体が大樹から落ちていく木の葉のように崩落し始めたのだ。

 

「あれは、狸の術が解けたという事だろうな」

 

 術者か妖怪か解らぬが、落ち着いた声が源吾郎たちの疑問に応じた。

 

「昔から、狸は大掛かりな術が得意だというだろう。実際に、幻術で庵を作り、客人を招いた狸もいたという記録も幾つかあるんだ。ぱらいそのチーフ・引布は狸だったし、スタッフにも狸とか貉がいるだろうから、皆で協力してあそこに建物があるように思わせていたんだろう。

 しかし今、ガサ入れと摘発が起きて、もはや術の維持どころではなくなったんだ」

 

 せやせや、ほんまやわ……源吾郎の尻尾にくっついていた妖怪たちから同意の声が上がる。源吾郎は何も言わなかったが、件の解説には大いに納得していた。それから、昔兄か姉に教えて貰った不思議な小説の事を思い出していた。確か幻によって構成されたアパートは、皆が「ここにアパートがある」という共通認識が護られている間はそこに在り続けるという話だった気がする。

 

「いずれにせよ、()()()()()()だったという訳だな」

 

 気取ったようにその人物が締めくくった。妖怪たちは源吾郎の尻尾から離れ始めていた。光は収まったが崩落するぱらいそは白い煙で覆われ始めている。その入り口と思しき部分から、自警団と思しき人影が大名行列よろしくこちらに向かってくるのを源吾郎は見た。

 行列の先頭にいるのはいかにも物々しい様子の自警団の男たちだった。彼らは籠でも担ぐように、前後で棒の一端を分担して持っている。担いでいるのは籠ではなく棒に四肢をくくり付けられた大狸・引布だった。内部で激闘を繰り広げたのだろう。脂ぎった毛皮は所々地肌が見え、血がにじんでいる部分もあった。一命は取り留めているらしく、暴れこそしないが怨嗟の眼差しを周囲に向けている。

 その後ろには、摘発対象の妖怪とその身柄を確保する自警団が続いた。ハーネスで拘束された五尾の化け狐や、人型を保っているので手枷を掛けられている鳥妖怪などだ。いずれも放つ妖気は並みの妖怪たちよりも遥かに強い。それでも今この現状を曲がりなりにも受け入れているらしく、俯いたり悔しそうな表情を浮かべながらも、素直に歩を進めていた。

 

「見て島崎君。いちかちゃんと萩尾丸さんだよ!」

 

 悪党たちが車に収容されるのをぼんやりと見つめていた源吾郎に声がかかる。声の主は鳥園寺さんだった。爆発オチという爆弾発言をかました彼女は、今は無邪気に自警団の面々が戻ってきた事に頬をてからせて喜んでいる。中々どうして神経の太い人物だ。もしかすると、初めての妖怪摘発の現場にやって来たので、テンションが平素とは違うだけなのかもしれない。

 

「さて諸君、大変な事に巻き込まれたが一体何が起こっているのか把握していないだろうから、軽く説明を行おうと思うんだ」

 

 自警団のリーダーと思しき狸妖怪の男が、待機スペースの手前、集まっている妖怪たちからばっちりと見える場所にて仁王立ちしていた。その横や後ろには萩尾丸だとか未だ顔にあざの残るいちかとか他の妖怪たちが控えている。アレイは既に鳥園寺さんの傍らに戻っていた。若そうな妖怪の一匹が、待機スペースにいる妖怪たちに何か札のようなものを配っていた。源吾郎にもさも当然のように一枚配布され、源吾郎もそれをさも当然のように受け取った。

 

「端的に言おう。君らが集まり売り上げを貢献していたぱらいそ及びその系列店を擁するゴモランは、悪質な違法集団だったのだ。

 引布を筆頭とした連中は、違法薬物の製造と販売、薬物中毒者の量産とその推奨、違法な妖怪の身柄の売買などを柱とし、罪もない、ついでに言えばおつむも足りない妖怪たちから財を巻き上げ肥え太っていたわけだ。むろん、罪状は他にもあるが……詳細の説明は割愛させて頂こう」

 

 引布とはまるで違う、隆とした体躯の狸男の表情は険しかった。妖怪たちが生唾を飲み込む音だけが響く。そう思っていると、鳥園寺さんがびしりと手を挙げた。狸男は教師のような真似はしなかったが、視線で彼女に意見を述べるように促していた。

 

「そこまでの悪事を働いているのならば、生け捕りなどと言う温い方法ではなく、その場で処刑なさっても良かったのではないでしょうか?」

「…………!」

 

 鳥園寺さんの言葉に、周囲の妖怪たちがどよめいた。源吾郎も度肝を抜いたのは言うまでもない。何となれば、彼の兄や相棒であるアレイまで驚きの色を見せている。

 だが彼女の言葉が冗談でも何でもない事は、そのつぶらな瞳に浮かんだ憤怒、義憤の色を見れば明白だった。

 

「妖怪売買の罪状はさておき、妖怪と言えども薬物中毒者を作り出すなんて赦されざる大罪だと思うのです。

 私事で恐縮ですが、元々私は生物学を勉強しておりました。ですから、薬物が脳神経にもたらす重篤なダメージも、その悍ましい仕組みについても多少は詳しいのです。そういう事を知っている身としては……」

「話は概ね解った。少し落ち着きたまえお嬢さん」

 

 鳥園寺さんの声のトーンが落ち着いたところで、狸男は彼女に制した。

 

「我々は自警団であって殺し屋やテロリストではないのだ。それに奴をこの場で殺してしまえば、奴と関わりのある、摘発せねばならない組織に辿り着く事が困難になる可能性もあるのだ。

 理にかなった意見を臆せず主張してくれた事には感謝する。だが安心すると良い。奴とその仲間には、相応の罰が下るように手配は行う予定だ」

 

 鳥園寺さんは狸男の言葉に複雑な表情を浮かべていたが、頷いて少し後ろに下がった。アレイは傍らで彼女に寄り添っている。

 

「さて諸君。配布された札を握り、少しばかり妖力を送ってくれないか。それで札が変色したものがいれば、速やかに我々に合図を行う事」

 

 狸男の奇妙な言葉に、妖怪たちは従っているようだった。ほとんどの妖怪たちは札を握ったまま大人しくしているが、中には札が変色したと挙手したり、目立つようにその場でジャンプしている者もいる。

 源吾郎も札に妖力を注ぎ込んだ――札の色は変わらなかった。

 やはり若手の妖怪が動き、札が変色した者たちに近付いている。

 

「その札は対象者の()()()()の度合いをチェックするための特殊な札だ。変色したものは治療対象としてしかるべき保護施設に通院してもらおう」

 

 薬物汚染。保護施設。ものものしい狸男の言葉に、妖怪たちは驚きと悲嘆の声を上げていた。



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かの縁 もつれほどけて落ち着けり

「萩尾丸さん。この度はお力添えのほどありがとうございました」

 

 自警団のリーダーが、萩尾丸を仰ぎ見ながら丁寧な口調で感謝の意を述べていた。萩尾丸が参戦してくれたおかげで、自警団側の損耗少なく鎮圧できたのだという旨の事を彼は語っている。一見すれば美辞麗句にも聞こえなくもないが、本心からの言葉だろうと源吾郎は思っていた。

 一通り言葉を終えると、自警団リーダーは畏まったような、緊張したような表情をその精悍な面に浮かべた。

 

「――して、この度の謝礼はいかがいたしましょうか?」

「僕に対する謝礼など、普通の戦闘員と同じで構いませんよ」

 

 萩尾丸はにこやかに、特段こだわりを見せずに告げた。狸男はあからさまに驚いている。

 

「別に僕自身は小銭稼ぎなどにもはや興味は無いんだ。皆様もご存じの通り、雉鶏精一派の幹部として、そして子会社の『金色の翼』の社長をやっていますからねぇ。

 僕自身には、君らの僕への称賛と敬意で十分です」

 

 狸男が安堵したような表情を浮かべる中、源吾郎は首を傾げた。日頃の萩尾丸らしい尊大さは随所に滲み出てはいる。しかし、報酬にこだわらないストイックな態度は予想外だった。

 そう思っていると、萩尾丸はやおらポケットから綺麗に折りたたまれた紙片を取り出し、少しだけ開いて狸男に押し付けるように手渡した。

 

「僕への謝礼は特に気にしなくて良いけれど、これからも『金色の翼』の利用を、いざという時には検討してほしいんです。事務処理や庭掃除から、戦闘がらみのゴミ掃除まで、ありとあらゆる内容に対応できる人材を用意しておりますので、いついかなる状況でも対応可能かと思います」

 

 萩尾丸はのっぺりとした営業スマイルを浮かべると、その後もペラペラと彼が擁する組織について言及を始めていた。当惑する狸男の顔を見ていた源吾郎は、萩尾丸の直属の部下に当たる「金翅鳥」のメンバーが系列店のガサ入れに参戦していた事、個人的な謝礼は不要と言いつつも萩尾丸自身は稼ぐ気満々である事を知った。

 曲者ぞろいの雉鶏精一派の幹部・紅藤の一番弟子という身分は伊達ではなかった。

 

 

 何も知らずぱらいその店内にいた妖怪たちはそのまま自警団の面々や術者たちに連行され事情聴取と相成ったが、源吾郎の身柄は萩尾丸に引き取られた。

 萩尾丸の、即興にして緻密な説明により、源吾郎はただ巻き込まれた民間妖ではなくて、自警団等のスタッフと同格と見做された為である。

 兄弟子の萩尾丸が、戦闘のみならず弁論の方面でも高い能力を保有している事が判明した瞬間であったが……半ば手を引かれる形で連行される今の源吾郎には、それを感心するだけの心の余裕などなかった。

 萩尾丸に連れられ、源吾郎はほの暗い公園のベンチに座らされた。自警団の護送車や妖怪医者の車や無関係な人間たちとの喧騒から遠く離れた場所だ。街灯が公園をまだらに照らし、その周囲を蛾が飛び交っている。

 自販機でミルクセーキを買った萩尾丸は、それを源吾郎に手渡した。小動物よろしくそれを両手で抱えている間に、萩尾丸が隣に腰を下ろす。さり気なくついてきた叔母のいちかは、萩尾丸の隣、ベンチの端っこに座った。

 

「――大変だったろう、島崎君」

 

 プルタブを開けるでもなく抱えたままの源吾郎に対して、萩尾丸は穏やかな調子で告げた。

 

「連中は君の事を、厳密には玉藻御前の末裔を手中に収めようと躍起になっていたんだよ。君みたいな未熟な間抜け野郎であれ、血統だけでひれ伏する、君以上の間抜けは世間に大勢いるからねぇ。それに上手くいけば、君を種牡として仔を()()する事も出来るだろうし」

 

 萩尾丸の言葉に、源吾郎は眼球を動かすだけだった。萩尾丸の向こう側でいちかがぶるぶると震えているのが見えた気がした。

 

「それにしても、君は薬物汚染されていなかったんだねぇ。あれで反応していたら、紅藤様のところに洗いざらい事情を話して、研究センターの地下にある旧拷問部屋で薬抜きをやってもらおうと思っていたのに……残念だなぁ」

「僕は貰った金丹丸を飲まなかったんだ。あれがどういう風に危ないのかは知らないけれど、飲まなければ薬物汚染も何もないはずじゃあないですか?」

 

 源吾郎の言葉に、萩尾丸はまずにんまりと笑い、それから声を上げて笑った。

 

「あは、ははははは……君ならまさしくそう言うと思ったよ。まさに模範的な反応だねぇ。もしかして、研修期間とやらの時に出された料理や飲み物に、()()()()()()という考えは君の考えには無いのかい?」

 

 源吾郎といちかの喉がほぼ同時にひゅ、と鳴った。源吾郎は驚いていたわけだが、何に驚いているのか把握できないくらいの驚きぶりだった。

 

「あからさまに怪しい薬を渡しても、飲まない可能性だってあるって事は、向こうとてきちんと心得ているさ。まぁあの薬も結構イイモノを使っているから高価だろうけれど、九尾の末裔を捕らえ、奴隷もとい手下にするというリターンから較べれば安いものなんじゃあないかな。ともかく、連中は君に薬の味を覚えさせようと、研修に出される食事のたびに盛っていたんだろうね。金丹丸の成分は、妖力の循環を異常に活性化させるだけじゃなくて、ある程度の依存性も持たせているからね……食事である程度依存させて、本命を飲ませるという所まで行けば、もはや向こうの思うつぼ、というものだった訳さ」

「そ、そんな……」

 

 呆然とする源吾郎に代わり、声を上げたのはいちかだった。

 

「全くもって恐ろしい組織ね、ゴモランは……それにしても、どうして源吾郎は無事だったのかしら?」

 

 今まさに源吾郎が抱き始めた疑問を、丁寧にいちかは口にしてくれた。萩尾丸は驚きもせず訝りもせず、源吾郎の顔からズボン周りに視線を落とした。

 

「島崎君、君はもしかして、紅藤様の作った護符を持っているんじゃあないかい?」

「は、はい……」

 

 上ずった声で頷き、源吾郎はそろそろと護符を取り出した。澄んだ青紫色の玉を見て、源吾郎は何となくホッとしていた。何故かは解らないが、研修の最中はくすんだ赤黒い色調になっていたのだ。

 

「庄三郎兄様に……末の兄に渡そうと思って持っていたんです」

 

 源吾郎は基本的に、面倒ごとは率先して行おうと思っている性質だった。手土産として速やかに護符を庄三郎に渡し、用事を済ませたいと思っていた。だからこそ護符を、珠彦と遊ぶ時からずっと持ち歩いていたのだ。

 萩尾丸はまたしても笑っていた。しかし激しい笑い方ではない。難解なパズルを解いた直後のような、妙に落ち着いた笑みだった。

 

「成程ねぇ……偶然に偶然が重なっただけかもしれないが、君は他ならぬ君の師範である紅藤様の護符のお陰で薬物汚染の難を逃れたという訳だね。ああ、ついでに言えばあのお方と君との縁も、生半可な事では断ち切られないみたいだね」

 

 びっくりした源吾郎は、護符と萩尾丸の顔とを交互に見つめていた。視線の往復が何度か繰り返されるのを見届けたのち、萩尾丸が呟く。

 

「紅藤様が作る護符の効能に、僕があれこれと注文を付けたのは知っているだろう? あの人は、放っておけば数百万相当の価値になるような、対大妖怪用の護符を無料でばらまく事をしでかさなかったからね……

 そこで僕があのお方を説得して、妖術や白兵戦のような物理的攻撃はある程度の水準以下で作ってもらうようにしておいたんだ。だけど――()()()()()については、僕は特に口出ししなかったからねぇ」

 

 遠回しな物言いで言葉を切ると、萩尾丸は喉を鳴らしていた。源吾郎は手の中にある護符を見つめ、今一度萩尾丸に視線を戻す。

 

「もう大体察しは付いていると思うけどね、紅藤様はその護符にかなり優秀な対薬物性能を付けていたんだ。薬物・毒物の類を服用しても、身に着けているだけですぐに解毒・無害化させるという代物さ。もっとも護符を持っている間は病気を治すための薬も効かなくなるとは言っていたけれど、それは脇に置いておこう。

 しかもだな、持ち主に危険物を摂取した事を報せるために、解毒中には()()()()()()()の、無害なシグナルが送られるように仕組んであるんだ」

「そ、そんなに……」

 

 萩尾丸の言葉は大体理解できたのだが、納得するよりもむしろ驚きが深まるばかりだった。そんな源吾郎をよそに、萩尾丸はポケットを探り、ストラップ型の護符を取り出した。源吾郎が庄三郎にと用意したものとほぼ同じだ。

 

「これを君にあげるよ。今君が持っているのはお兄さんに渡すんだろう? 色々と危なっかしいだろうから。その護符が、紅藤様の妖力の籠った護符が、大切な時に君を護るだろうね」

 

 おずおずと伸ばした源吾郎の手の先に護符が乗せられる。死んだ鳥のようにしっかりとした重量があるように、今の源吾郎には思えた。

 

「藤の花言葉は確か、『決して離れない』だったよなぁ」

 

 何かを思い出したようにつぶやいた萩尾丸に対して、源吾郎はあいまいに頷いた。源吾郎が貰った藤の花の事を言っているのか、藤の名を関する自分たちの師範の事を言っているのか、判然としなかった。

 どうしてそんな花言葉が出来たか解るかい? 無言の源吾郎を気にせず、萩尾丸は続ける。

 

「藤は昔から絞め殺しの木とも云われているんだ。大樹に絡みつき、覆いつくし、絡みついた先を枯らしてしまう事さえあるからねぇ……そういう未来が、もしかしたら君にも待ち受けていたかもしれないって事だね。

 ああ、だけど安心してくれ島崎君。紅藤様から逃れられぬからと言って、別にあのお方は藤花に似た執念深さからあの名がついたわけではないらしいからね。最初のあるじから、翼の模様にちなんでああ呼ばれているだけらしいから」

「……」

 

 源吾郎はなんと返せばいいか解らずにいると、萩尾丸の向こうに座っているいちかが動いたのを確認した。彼女は思いつめたような表情で萩尾丸を見つめている。

 その萩尾丸は、思い出したと言わんばかりの様子で、彼女の方に視線を向けた。

 

「ああ、そう言えばいちか君もいたんだったね。ご苦労様。相変わらず戦闘は下手だねぇ。苅藻君もよくぞまぁ、いちか君を独り立ちさせたものだよ。ああでも、あいつは昔から妹には甘かったからかな」

 

 取り留めもない事のように萩尾丸が言うのを源吾郎はぼんやりと見ていた。まるで、苅藻やいちかの若い頃を知っていると言わんばかりの炎上トークである。

 いちかはぐっと喉を動かすと、萩尾丸を見据えつつ言葉を紡いだ。

 

「……甥と話していた時にはもう隠す気なんてなさそうな物言いでしたけれど、甥が兄の差し金でぱらいそに潜入したって話は嘘ですよね」

 

 そうだよ。軽い調子で応じる萩尾丸を前に、いちかの瞳孔がぐっとすぼまる。

 

「甥の、その、若気の至りである事は、おおよそ推測は付いています。しかし、嘘で物事を隠蔽するのは……」

 

 使命感溢れる若教師のようないちかの台詞を遮ったのは、やはり萩尾丸の笑い声だった。源吾郎自身は叔母の糾弾に、声もなく身をすくめる他なかった。

 

「嘘で隠蔽だって。それは何だね、ヴィクセン・ジョークか何かの一種なのかな? 君らの一族ほど、嘘と虚飾と隠蔽がふさわしい連中はいないって言うのに……良いかいいちか君。君のそういう発言はブーメラン発言って言うんだよ。若者の言葉もきちんと把握しておかないと、若い子から馬鹿にされちゃうよ?」

 

 いちかの喉が鳴るのを源吾郎は聞いた気がした。おどけた表情だった萩尾丸は、もう既に真顔に戻っている。

 

「そこの仔狐が不祥事を起こした時の、君ら側で取り決めたペナルティもだね、僕は一応知っているんだよ? ペナルティが発生するのは君らの勝手と言いたいところだが、それは研究センターの妖員《じんいん》の喪失と同じ事だから、あんまりやって欲しくないというのが僕らの意見なんだ。

 それに島崎君は――()()()()()()()()()のだから」

 

 いちかは萩尾丸の話を最後まで聞くと、すっと立ち上がり、源吾郎の正面にやって来た。

 

「叔母上……この件は母様とお祖母様には内密にしてください」

「可愛い甥を悩ませるような事は私も嫌よ。だからお姉様やお兄様たちには言わないわ」

 

 険しい表情だったいちかの顔はわずかに和らいでいる。源吾郎は少し安心したが、いちかの言葉はまだ終わりではなかった。

 

「お姉様に言わないのは、あくまでも源吾郎よりも宗一郎君のために言わないってだけだからね。あの子はうんと真面目だし、源吾郎の事を息子みたいに思っている節があるから、今回の話を聞いて卒中を起こしかねないもの」

 

 それに。いちかは物憂げな表情を浮かべ、言葉を重ねる。

 

「お母様にこの事を秘匿できるかどうかは解らないわよ。お母様は能力的にも知識的にも私たちを遥かに上回っているから、もしかしたらこの案件も知っているかもしれないわ」



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あなぐらへの来訪者たち

 萩尾丸の手により家に戻された源吾郎は、適当に敷いた布団の上にうずくまっていた。あのぱらいそでの騒動に巻き込まれた事が深い痛手となっていた。肉体的な損耗はほとんどない。むしろ精神的な損耗の方が大きかった。

 妖怪は精神を鍛えるのが大事。就職してすぐに、師範たる紅藤が言っていたのを源吾郎は思い出した。精神を重んじるという紅藤の言葉には、実は複数の意味があった。

 もちろん、強者はその精神でおのれの力を御するべき、という意味もある。だが今の源吾郎が考えていたのは別の意味の方だった。

 妖怪の()()()()は、()()()()()により決まる。信じがたい話だが、それは大妖怪ですら当てはまる真実なのだとあの時の紅藤は言っていた。精神が一定以上に損耗し、弱り切ると大妖怪でも死ぬ事があるそうだ。或いは、永い年月を生きて満足した場合も。眉唾物だと一笑に付したかったが、死なぬ身である紅藤の、深刻そうな表情で語った時の姿を見ると、大人しく頷くほかなかった。

 

 そんな事をぐじぐじと考えているのは、源吾郎自身がおのれの心が明らかに弱っている事を感じ取っているためだ。妖力が目減りしているのかどうかさえ解らない。あの夜から何も食べていないが、空腹すら感じない。とにかく何もかもがどうでも良かった。そういう心情になっているのは、ひとまずささくれた精神を休ませて元に戻すための機構なのだろう。そう思いながら源吾郎は布団の上にうずくまっていた。日頃は輝くような銀白色の尻尾も、どことなくくすんだ色調に見えた。

 

 寝ているのか寝ていないのかよく解らない状況のまま、五月六日は過ぎていった。ぱらいそでの騒動があったのが五月五日の事であるから、源吾郎は貴重な連休の一日を、日がな一日寝て過ごしていた事になる。

 さすがに一日文字通り何もせずうずくまっていただけあって、源吾郎の気分はいくらか先日よりもマシになっていた。目を覚ました時に、勝手に日付が変わっている事に対して驚くだけの気概が戻って来ていたのだから。

 五月七日になっていたという事実を源吾郎はしっかと受け止めた。明日は月曜日だ。連休も終わっているし普通に出社しなければならない。未来の事を思うと少し面倒になったが、寝てばかりいるのも健全ではない。

 源吾郎はおっさんみたいな声で唸ると、ゆっくりと身体を伸ばした。

 

 

 源吾郎が寝起きする安アパートの一室には、朝から来訪者が押し掛けてきた。一人暮らししてからというもの、親族以外に誰かがやって来る事など皆無だったから、中々に珍しい事でもあった。

 ちなみに、源吾郎の許に遊びに来た面々は二組である。一組目は珠彦と鈴花のコンビである。彼らは反社会集団のゴモランのスパイとして大活躍した源吾郎の功績を讃えるためだけに、わざわざ神戸の実家からこの田舎にやって来たのだ。

 珠彦らが源吾郎の連休中の活躍を知っているのは、萩尾丸の発信したネットニュースの記事に取り上げられていたからなのだという。くだんの記事の内容は把握していないが、珠彦は素直に源吾郎を高度なミッションをこなした英雄だと信じているらしかった。

 純粋で無邪気な友のために、源吾郎は英雄である事を演じるべきだったのかもしれない。しかし源吾郎は未だ本調子とは言えず、倦み疲れた様子で珠彦の問いかけに応じるのがやっとだった。

 それでも珠彦らは長々と滞在する事なく帰ってくれた。それもこれも妹分である鈴花のお陰である。彼女は島崎君も疲れ切っているみたいだし、と気の利いた事を言い、長居せず早々に帰るようにと促してくれたのだ。

 

 妖狐たちが帰ったのちにやって来たのはアレイだった。ドアを開けた時、彼は体格の良い、壮年の人間の男の姿を取っていた。源吾郎はアレイが人型になる姿を見たのは初めてだったが、すぐに納得した。何百年も生きているのだから、変化する事など容易いであろうと。と言っても、アレイは部屋に入るとすぐに本来の姿に戻ったけれど。

 

「飛鳥お嬢は、君も知っている通りもう妙齢の娘だからな。目付け役と言えど、わたしが人型を取っていれば気を遣うみたいなんだよ。わたしもどちらかと言えば人型よりもこちらの姿の方が落ち着くし……まぁウィンウィンの関係という奴だな」

 

 黒々としたつぶらな瞳を向けながら、アレイは源吾郎が用意した水を飲んでいた。源吾郎はナッツだとか果物だとかオウムが喜びそうなものを用意しようと思ったのだが、他ならぬアレイからそこまでは大丈夫だと言われていたのだ。

 

「……お嬢の事は心配せずとも大丈夫だ。彼女には十五分で用事を済ませて戻ると伝えてあるし、あの社員寮自体に、不審者除けの結界がかけられている。お嬢は最後の休日を満喫するために動画観賞に勤しんでいたから、わたしが少し離れていても、まぁ問題は無かろう」

「あぁ……はい」

 

 いや鳥園寺さんってアレイさんに護ってもらわなくても割と大丈夫なのでは? そのような考えが唐突に浮かんだが、むろんそれは口には出さなかった。苅藻やいちか、或いは源吾郎の長兄が源吾郎を気にかけるように、アレイが彼女を「幼く可愛い女の子」と見做し、庇護せねばならないと意気込んでいる事を察していたためである。

 用件を尋ねると、アレイは冠羽を上下させ、鳥特有の首の角度で源吾郎を見つめている。

 

「お嬢に代わって君に挨拶をしに来ただけなんだ。先日、お嬢はわたしのツレという事でぱらいその摘発に乗り込んだわけだが、それ以降島崎どのの事を意識し始めているんだ」

 

 源吾郎が微妙な表情で見つめ返していると、アレイは冠羽をさっと拡げ、頭を前後にふりふり笑った。

 

「妙な顔をしなくとも良いだろう。意識し始めていると言っても、別に恋愛感情やそういう意味ではないな。あくまでもお嬢にしてみれば、君は弟みたいな存在だと思っていただけのようだからな」

 

 鳥園寺さんは男性として源吾郎を意識している訳ではない。当たり前の事柄であるはずなのに、アレイに指摘されて安堵している自分がいる事に源吾郎は気付いていた。

 当たり前の話だ。源吾郎は人間に近い見た目と考え方と言えども、今や妖怪に近しい存在なのだ。人間の女性、それも術者の当主候補になる人物が、妖怪の若者に恋心を抱くなんて通常では起こりえない話なのだし。

 

「君が取り立てて何かをした訳ではないが、島崎どの、お嬢は君の姿を見て術者としての闘志が芽生え始めたのだよ。おめでとう島崎どの。お嬢の中では、君は弟分からライバルに昇格したのだよ。

 君が大妖怪の末裔である事は飛鳥お嬢も心得てはいる。しかしお嬢は君が叔父の密命を全うし、尚且つ萩尾丸どのがからくりを暴露するまで皆をだまし切るだけの演技力と胆力があると信じている……由緒ある鳥園寺家の当主候補だから自分も、と思い始めてくれたみたいなんだ。少し向こう見ずな所があるから心配な所はあるにはあるが、ひとまず礼を述べなければならないな。ありがとう」

 

 可愛らしく頭を下げるアレイに対し、源吾郎は複雑な笑みで応じるだけだった。アレイもまた、萩尾丸の語った「真実」が()()()()事を見抜いていると、言葉の節々から感じ取っていた。

 

「そしてすまなかったな、島崎どの」

「どうして謝るのです、アレイさん」

 

 頭を上げたアレイは、何故か申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

 

「この度のあの騒動に君が巻き込まれたきっかけも、或いはわたしの発言がきっかけだったのかと思ってな。あの会合の事を覚えているかい? わたしはあの時、君が色々と心得たうえで『君は十分に強い』と告げた。しかし、島崎どのはわたしとは別の捉え方をしたのだろう」

「別に、僕は僕で動いただけですから、何も問題は……」

 

 年長の妖怪が申し訳なさそうにしているのを見ていた源吾郎だったが、ふとある事に気付き、アレイに問いかける。

 

「アレイさん。あなたも本当は苅藻叔父様の()()()()()()()という事は既にお気付きなんですよね」

「イエスかノーかでいえば、イエスだね」

「その事って、鳥園寺さんには……」

「言わないし、言うつもりもないよ」

 

 源吾郎の言葉を遮り、アレイはきっぱりと告げた。

 

「安心したまえ、お嬢は君が叔父の密命により動いたと信じている。信じているからこそ彼女の術者としてのモチベーションもアップしたんだ。真実を語ったところで、お嬢は君に失望するし、君の面目も潰れる。伏せておいた方が、互いにとってよかろう」

 

 

 昼下がり。簡単な昼食を摂ったのち気晴らしに部屋の片づけをしていると、源吾郎のスマホが震えだした。末の兄・庄三郎からの電話だった。

 

「もしもし、俺だけど」

『久しぶりだね、源吾郎』

 

 電話越しでもよく通る美声が、源吾郎の鼓膜を震わせる。兄はそのまま言葉を続けた。

 

『今から部屋に行こうと思っているんだけど、構わないかな?』

「部屋は取っ散らかってるけれど?」

『別に構わないよ。製作中のアトリエもそんな感じだし』

「ああ、だけど兄様が来るまでに見苦しくないようにしておくよ。今何処にいるの?」

『何処って、アパートの入り口だけど?』

 

 源吾郎はスマホを顔の側面にあてたまま、ベランダに向かった。入り口に面したベランダから身を乗り出すと、確かに一人の若い男が、アオサギのように佇立しているのが視界に飛び込んできた。

 源吾郎と同じくスマホを持っている庄三郎は、弟の視線に気づくと淡く微笑んだ。



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兄とけじめとバリカンと

「庄三郎兄様。これから行くけれど、なんて電話をまさかアパートの真下でやるとは思ってもいなかったぜ」

「電車の中で電話するのはご法度だろう。まぁ駅からここまでは多少歩いたけれど、源吾郎のアパートってどこだったかなと思っているうちに到着したからね」

 

 はすっぱな物言いの源吾郎を見つめながら、のんきそうに庄三郎は笑う。元々は黒ずくめの衣装だったのだろう。だがアトリエからおっとり刀でやって来たらしく、ズボンにもカッターシャツにもアクリル絵の具が点々と散っている。本人はまるで気にしていないが。

 何気ない様子で庄三郎が右手に下げた紙袋を揺らす。焼き菓子の甘い香りが源吾郎の鼻先をくすぐった。

 気が付けば、庄三郎は笑みを引っ込め真面目そうな表情で源吾郎を見ていた。

 

「本当の事を言うと、源吾郎に何かあったのかなと思ってこっちに出向いたんだ。

この前僕のアトリエに向かうって返信してくれただろう? 君の事だから、朝一には来ているだろうなと思ったんだけど全然来ないし、連絡してみても全然繋がらなかったからさ」

「……それにしても、わざわざ遠出して弟のアパートまで駆けつけてくれるなんて、兄様にしては大変だったんじゃないの?」

 

 妙に語気の強い源吾郎の言葉に、庄三郎はやはり、淡い笑みで返すのみだった。

 

 

 末の兄である島崎庄三郎は、ある意味源吾郎とは別方面で妖狐の血を色濃く受け継ぐ存在であった。比類なき能力を幾つも保有する彼であるが、真っ先に解るのはその類まれなる美貌であろう。色白である事は源吾郎も変わりないが、端麗かつ優美な面立ちと均整の取れたその姿の美しさは、陳腐な言い方ではあるが筆舌に尽くしがたいものだった。

 しいて言うならば、巷のイケメンアイドルもホスト野郎もイケメンモデルも或いは光源氏であったとしても、庄三郎と並べば下賤な山猿にしか見えないという事であろうか。

 その庄三郎が傾国の女狐の末裔であると言わしめるのは、その美貌よりもむしろ彼の保有する能力の凄まじさにあった。

 彼は先天的に人間を籠絡し惑わす能力を持ち、尚且つ相手の人間の行動や考えを自分の思うように御する能力を、小学生の頃に獲得していた。色々な方面で魅力に乏しいが、変化術や戦闘術といった「実践的」な能力を有する源吾郎とは、まさに好対照の存在である。

 優れた美貌と相手を虜にする魅力、そして他者をコントロールするカリスマ性。源吾郎がどれだけ望んでも得られなかった能力を、庄三郎は半ば生得的に手にしていたのだ。

 

 さてここまで庄三郎の能力の凄さを語ると、彼がこの能力を存分に濫用し、面白おかしく暮らしているという情景がありありと浮かんでくるかもしれない。もし()()()()()()、源吾郎は心置きなく鼻持ちならぬ兄に嫉妬し、存分に敵愾心を燃やしていただろう。

 庄三郎の持つ能力は、労せず恋人を得て他人を意のままに操れるという、傍から見れば幸運をもたらしてくれるような素晴らしい代物に見えるだろう。()()()皮肉な事に、庄三郎の半生は、その能力によって追い詰められ、苦しめられていると言っても過言ではなかった。

 無秩序に垂れ流される魅了の力にあてられた人間たちの、剝き出しの欲望の醜さ恐ろしさに、庄三郎は幼子の頃から晒されていた。おのれの内面を何一つ知らぬというのに、ただただ上辺の姿と奇妙な魅力によってのぼせ上り、おぞましく蠢く人間たちの姿を、庄三郎は幼い頃から目の当たりにせねばならなかったのだ。浅ましい本性をむき出しにして手を伸ばしてくる面々と知りながら、どうして彼らを信頼できるというのだろうか?

 実を言えば、相手の心を御するという庄三郎のもう一つの能力は、庄三郎の心を護るために開眼した能力であるともいえる。要するに、相手の人間たちに対して、自分の持つ()()()()()()()()()()()コントロールするためだけのものなのだ。今では相手を無差別に魅了し続けるという事は無くなったが、庄三郎にとっては誰かを無条件に信頼する事は今でも難しい事なのだ。

 ともあれ庄三郎は、おのれの持つ能力を恐れ、疎んでいた。優れた容姿も容易く人を魅了する能力も、本人が恋愛に興味がないのだから何の意味もなさない。むしろ庄三郎は、身内以外の他の人間と関わる事をひどく恐れた。魅了の力は実は妖怪にはほとんど効かないのだが、妖怪の事もひどく恐れていたので妖怪として生きる事も出来なかった。

 庄三郎はいつしか芸術にのめり込むようになり、美大を出て芸術家になった。日がな一日ゴチャゴチャしたアトリエに籠って制作にふけったり制作のネタを考えるためにゴロゴロしたりしているらしいが、それが庄三郎の望んだ幸せなのだった。足りないものを補うために外へ意識を向けて大きな野望を抱く源吾郎と異なり、心の奥底へ意識を潜らせ、ささやかな満足で幸せに浸るのが、庄三郎の生き様だった。

 ()()()()()、源吾郎は庄三郎を無邪気に嫉妬したり憎んだりする事が出来なかった。誰もが羨む能力の代償というには重すぎるほどの労苦を抱えている事を知っていたからだ。

 庄三郎に対して源吾郎が抱くのは、儚い羨望と、それ以上に濃密な、皮肉を好む運命へのやるせなさだった。

 

 ともあれ、弟の身を案じてとはいえ庄三郎がここまで遠出するのは珍しい事だった。もっとも、今の源吾郎には兄の珍しい動きに驚き感心するほどの余力を持ち合わせていない。

 庄三郎は布団が未だ敷かれた部屋の様子を気にする素振りは無く、源吾郎が日頃使っているローテーブルに袋を置いた。非常にリラックスしているように見えるのは気のせいではない。複雑な感情を抱く源吾郎に対して、庄三郎は純粋に歳の離れた弟の事を好んでいた。魅了の能力はさておき、相手の精神を御する能力さえ恐れている庄三郎にしてみれば、それらの能力が全く作用せずしかも剥き出しの感情を向けてくる源吾郎と接するときこそが、むしろ彼の心に平穏をもたらすのだそうだ。

 

「駅前で良さそうなシュークリームを見つけたんだ。良かったら食べないかい」

 

 源吾郎の視線は袋に注がれていた。シュークリームの形は見えないが、その嗅覚はしっかりとシュークリームを捉えていた。腹が鳴るのを源吾郎は聞き取った。失意に打ち沈み、来訪者の波状攻撃に戸惑っていた源吾郎だったが、彼の持つ本能は鈍っていなかった。

 

 源吾郎と庄三郎の間に表立った会話は無かった。ペースは違えど二人ともシュークリームを食み紅茶(妖怪用)を飲む事に専念していたためである。より厳密に言えば、内向的な庄三郎は半ば思考のふちに意識を沈めており、源吾郎は単純にシュークリームに意識を向けていただけだ。サクサクした生地と、軽めのクリームが互いを引き立てあっていた。

 正直なところ、昼食というにも遅い時間帯だったのだが、昼は昼でほとんど食べていなかったから胸焼けを起こす事もなかった。

 

「ごちそうさま」

 

 ゆっくりとシュークリームを堪能した源吾郎が行儀よく挨拶をするのを庄三郎は見守っていた。彼の笑みに安堵の色が被さるのが源吾郎には見えた。

 源吾郎はようやくというか、そこで自分の兄に対する用事を思い出した。すなわち、土産である護符を渡すという独自ミッションだ。くだんの護符は貴重品入れにしまっているから場所は解っているはずなのだが、未だに平常心は戻っておらず、兄の前でもあたふたとするさまを見せてしまった。

 

「庄三郎兄様。これがその、おみやげの護符なんだ」

 

 右手で護符を摘まみながら、源吾郎は庄三郎の対面に戻る。まさしく数日前に源吾郎の身を恐るべき薬物から護った護符そのものである。ストラップの先につけられた薄紫の玉は、源吾郎の手の震えに合わせて揺らめいている。

 

「ありがとう源吾郎。これは兄さんたちが言っていた奴だね」

「そうそう。色々あって、紅藤様が限定品として作ってくださったんだ。俺は社員だし直弟子だから、無料で貰えたんだ。ああ、だけど品質は悪くないよ。先輩の部下たちや隣接する工場の社員たちに向けて作ったやつなんだけど、普通の妖怪の攻撃も防いでくれるし……毒とか変な薬物を飲んでも、護符を身につけていれば何ともないんだ」

 

 護符のくだりについて、源吾郎は一つだけ嘘をついていた。源吾郎が入手した護符は、無料で譲り受けたものではなく自腹で購入したものである。廉価であると言えども一つ一、二万はしたはずだ。この事は実家にいる両親や上の兄たちにも言っていない。彼らに気を遣わせてしまうと思っていたためだ。

 ちらと庄三郎の様子を窺う。彼はただ無邪気に護符の玉に興味を示しているだけであった。だがすぐに源吾郎の視線に気づき、黒々とした瞳でのぞき込んできた。

 

「護符って妖怪の物理攻撃から護ってくれるものだと思っていたけれど……毒とかにも効果があるんだね」

「うん…………」

 

 子供のような声音と口調で頷きながら、源吾郎は微かに緊張し始めたのを感じた。心臓の拍動と喉のひりつきを感じつつ、残った紅茶で喉を湿らせる。

 

「庄三郎兄様はさ、俺が心配でわざわざ来てくれたんだよな」

 

 兄の返答を待たずに、源吾郎は言葉を重ねた。頬の筋肉が動くのが解る。自分は恐らく、今いびつな笑みを浮かべているのだろう。

 

「連休中に何があったのか話すよ。だけど、お願いだから母様や兄上たちや姉上には黙っていて欲しいんだ」

「大丈夫だよ源吾郎。言うて僕も、そんなに母さんや兄さんたちと連絡を取り合っている訳じゃあないって知ってるでしょ」

「それもそうかも」

 

 源吾郎は庄三郎が浮かべていたような笑みを見せると、とつとつとぱらいそでの出来事を語り始めた。

 

 

 庄三郎には案外カウンセラーの才があるのかもしれない。唐突にそんな事を思ったのは、源吾郎が洗いざらい全てを話し切った後の事だった。庄三郎は源吾郎の愚行――そう呼ぶにはいささか可愛いものでもあるのだが――について、源吾郎が語っている間には特に何も言わなかった。ただただ頷き、相槌を打ってくれるだけだった。源吾郎はだから委縮せず遠慮せず七歳上の兄におのれの心の微細な動きまで語る事が出来たのだ。

 

「……それはまぁ、大変だったろうねぇ」

 

 庄三郎は、源吾郎が話し終えてから五秒ほど間をおいてから口を開いた。目には同情の色が濃いが、自嘲的な笑みが浮かぶのを源吾郎は見た。

 

「しかし、源吾郎も危ない橋を渡ったとはいえいい勉強になったんじゃないの? 恋愛事に限って言えば、真実の愛なんてものは所詮は幻想なのさ。あるのはデコレーションされた欲望と打算しかないって事だよ」

「毎度の事ながら、その手の話になるとドライになるよなぁ、庄三郎兄様は」

 

 昏い瞳の兄に対して、そういうのがやっとだった。相手を魅了する能力のせいで身内以外の人間との関係性を上手に構築出来なかった庄三郎は、恋愛に対してはシビアでドライな意見を示すのが常である。少年だった頃は、自分が誰も愛せない存在なのだろうとやはり悩んでいたらしいが、無性愛者《アセクシャル》という存在を知った今はある意味開き直っている節もあった。

 

「きっと今もさ、俺の事を愚かだと思っているんでしょ。相手の打算に気付かず、真実の愛というものに酔っていた愚か者だって」

 

 源吾郎は問いかけるというよりも、少し責めるような口調になってしまっていた。源吾郎にとって恋愛事は中々に重要事項であるし、庄三郎とその手の話になるとやはり興奮を抑えきれずにはいられない。

 源吾郎よりは七歳分大人の庄三郎は静かに首を振った。

 

「別に僕は源吾郎を愚かだなんて言ってないさ。失敗する事自体は誰だってあるんだ。僕だって何が正しくて何が間違っているのかなんて解りっこないし。いやむしろ、弟びいきもあるけれど、十八でそこまで考えられるって大した事だと思うよ。厭味じゃなくて素直な意味でさ」

「褒めてるの、兄様?」

「もちろんさ。知っての通り僕も十八だった頃はあるけれど、周りにいる男子なんてものは……」

 

 言葉を途中で濁らせた庄三郎を見つめながら、源吾郎は尻尾を顕現させた。兄を見つめる源吾郎は、妙に晴れ晴れした気分だった。そしてなすべき事が何であるのか解ってもいた。

 

「明日から連休も明けるし、けじめをつけないといけないなと思ってるんだ。それで、尻尾の毛を全部丸刈りにしようと思いついたから、兄様にも手伝ってほしいんだ」

「けじめをつけるのに丸刈りって、中々大した話になるねぇ」

 

 のんきそうに言ってのけた庄三郎だが、言葉の端々からは驚きの色が滲んでいる。先程までとは異なり、源吾郎の顔にむしろ笑みが拡がっていた。

 

「不祥事とかスキャンダルに見舞われたアイドルだって丸刈りにしていたし。それと同じさ。まぁ、紅藤様には恥ずかしいからちょっと早めのサマーカットって事にするけれど」

 

 庄三郎が当惑した表情を浮かべていたのも数秒だけの事だった。何だかんだ言っても聡明で冷静な彼は、自分が刈り込むからバリカンは何処にあるのかと、源吾郎に尋ねたのだった。



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第四幕:妖怪仙人の忠告とたわむれ
始業前の一服、唐突な来客


 カクヨム版では「始業前の一服」「唐突な来客」と二つのエピソードでしたが、文字数の関係上統合しました。
 内容はカクヨム版と同一です。


 五月八日、月曜日。始業時間よりもいくらか早い時間に研究センターの敷地に到着した源吾郎は、いつも以上に息を弾ませていた。比較的平坦でアップダウンの少ない道だと思っていたのだが、久しぶりに自転車を漕いで進んでいるうちに、源吾郎は情けないがばててしまったのだ。連休中の不摂生というか、最終日の二日間が尾を引いているだけかもしれないが。

 

 源吾郎は所定の駐輪場に相棒のママチャリを停めた。振り仰げば五月晴れの蒼天を背後に、勤務先である研究センターが鎮座しているのが見える。

 クールビズ対応のスーツ姿の源吾郎は、着替えを右手に提げつつゆっくりと歩を進めた。未だしんどさは身体の中に残っていたが、ふらつくとか倒れるとかいう最悪の事態が訪れそうな気配はなかった。

 小さく見える研究センターを一瞥した源吾郎は、しかしその足を研究センターではなく工場棟のある道へと向けた。紅藤や萩尾丸がいる研究センターに行く事を恐れていたわけではない。工場棟には自販機があるので、そこで飲み物を買おうと思っただけに過ぎない。

 工場棟も未だ始業時間を迎えていないが、従業員たちであふれていた。彼らはとうに青みがかった灰色の作業着に着替えていたため、スーツ姿の源吾郎は大変目立った。妖怪や術者の卵たちの、妙に活気づいた声を半ば避けるように、源吾郎は出てきたジュースの缶を抱えるように両手で握り込み、そのまま工場から出た。

 休憩スペースにある数台のベンチには、やはり仕事待ちの従業員たちがくつろいでいる。手にした飲料をチビリチビリと飲む者もいれば、干し肉と思しき細い棒をしがむ者もいる。喫煙者はほとんどいない。妖狐や化け狸は煙草の煙を嫌い、術者たちは健康を心掛けるためにやはり煙草とは距離を置いている。健康的な面々ばかりだ。

 スーツ姿でなくとも自分が注目される事を源吾郎は心得ていた。何しろ単なる工員ではなく、末席とはいえ研究センターの一員、それも幹部候補生である。ついでに言えば本当の玉藻御前の末裔である。どこを取っても注目を集めるような存在なのだ、源吾郎は。

 

 それでも人気の少なそうな場所を発見した源吾郎は、そこで一息ついてプルタブを開け、はばかる事無くジュースを呷る。朝から小銭を使ってジュースを買った事に対する罪悪感も、ジュースがもたらす甘みの前では特に意味などなさない。糖分はすぐに栄養となり脳に作用するのだという。源吾郎も少しだが元気になったような気がした。

 さて飲み終えて気力も戻り、空き缶を棄てようと思った丁度その時、青灰色の作業着の影がこちらに近付いてきた。今にもスキップしそうなほどに陽気な動きを見せて接近してきたのは、鳥園寺飛鳥さんその人だった。彼女が源吾郎を源吾郎と把握したうえで近付いてきたのは、その表情からも明らかだった。

 

「おはよう、島崎君!」

「お、おはようございます」

 

 はつらつとしたその声に半ば気圧されながらも源吾郎は挨拶していた。立てば源吾郎よりいくらか背の低い鳥園寺さんであるが、その視線には甘えも媚びもなく、清々しい程にまっすぐなものだった。まぁ考えてみれば、鳥園寺さんは少し前まで源吾郎を「弟分」と見做していたわけであるから、彼女が堂々としているのは当然の事かもしれない。

 

「……何というか、随分と大人っぽくなったわね」

「そ、そうですかね……」

 

 臆せず質問を投げかける鳥園寺さんに対して、源吾郎はへどもどしながら視線を動かしていた。彼女の視線は堂々としているだけではなく、丁度研究者が実験用のマウスを見つめるような、観察者特有の眼差しである事に源吾郎はふと気づいた。

 ありえそうな話だ、と源吾郎は思った。鳥園寺さんは元々生物学を学んでおり、源吾郎よりもいっそ研究者に近い。しかもアレイの話によれば、大活躍した源吾郎の存在が、彼女のモチベーションの素になっているという事でもある。

 そんな彼女ならば、源吾郎を観察するような眼差しを向けたとしてもおかしくはない話だろう。

 源吾郎の鋭い聴覚は、他の妖怪たちや術者たちが何事かささやいている声を拾っていた。彼らが噂をしたくなるのも無理からぬ話だろう。田舎の労働者は話題に飢えているから色事やパチンコの話に飛びつくのだと、工場勤めの誠二郎もかつてそんな事を言っていた。

 しかも相手は九尾の末裔たる源吾郎と、術者の当主候補である鳥園寺さんだ。しかも遠目で見たら若い男女が親しげに話しているようにも見えるだろう。盛り上がらない方がおかしいという物だ。

 野次馬根性を出し始めた群衆が何を言っているのか、聞き耳は立てない。源吾郎は何故か、周囲から注目を集めだしていると知り却って落ち着きを取り戻し始めていた。あるいはもしかすると、連休中の源吾郎の大活躍について語っている訳ではないと雰囲気から解ったためかもしれない。

 ともあれ、周囲と鳥園寺さんに威厳を見せつけるチャンスだと思っていたのだ。なけなしの威厳を見せつける時だけは、源吾郎もしゃんとして元気になるのだ。源吾郎は白鷺城を見て育ったのだが、プライドの高さは通天閣と同レベルなのだ。

 

「そりゃあ大人っぽくもなりますよ。何せ昔から、『男子、三日会わざれば刮目して見よ』って言うじゃあないですか」

「それもそうね……だけど私たちが最後にあったのって五日の夜だったから、大体六十時間ぶりね。丸三日と言えば七十二時間だから、ちょっと短いけれど」

「ま、まぁ良いじゃないですか……」

 

 奇妙な鳥園寺さんの指摘に対する源吾郎の突っ込みは弱弱しかった。このやり取りが面白いと感じたらしく、周囲では和やかな笑い声が上がっていた。結局のところ、いぶし銀の魅力が足りぬ源吾郎には、威厳を出す事は少し難しいようだった。

 

 

「皆、長い連休が終わったけれど、元気な顔を見せてくれて嬉しいわ」

 

 小学校か中学校の若教師のような言葉を放ちつつ微笑むのは、我らが雉鶏精一派の第二幹部・紅藤である。彼女は相変わらず白衣を着こんだ状態で源吾郎たちに向き合っていたが、前とは別の白衣を身に着けているらしい。光の加減で見え隠れする紋様が、見知った物とは違うからだ。

 わずかばかり混沌度合いがマシになった研究事務所の中で行われているのは所謂ミーティングという物だった。源吾郎は就職して一か月強であるが、かなり年長の兄姉がいたためミーティングの存在は知っていた。中学や高校で行われるホームルームみたいなものだと彼は解釈していたのだ。

 もっとも、今源吾郎が直面しているミーティングは、ホームルームのそれとは大分異なる様相を見せていた。まず人数が圧倒的に少ない。それに進行役と聴衆との温度差というか、視えない壁のようなものが無いのも特徴的だ。要するに、教師が生徒らを睥睨するような気配は、ともすれば重苦しさと直結するような空気とは無縁だったのだ。

 それもこれも、あるじたる紅藤の醸し出す雰囲気と、丸テーブルにさり気なく飾られた一輪挿しのお陰だろう。

 琵琶湖でも瀬戸内海でも干上がらせる事が出来るとされる大妖怪の紅藤は、けだるそうな雰囲気をまといながら弟子たちに笑いかけているだけだった。

 

「まぁ、皆の生存確に……いえ出席も確認できましたし、今日はのんびりとやっちゃいましょう。いっつも働きづめだったら皆だってしんどいでしょうし」

「そうですね。仕事の立て込み具合も丁度良いですし、今日明日くらいはローペースでも大丈夫かと」

「わ、わたしは連休中にがっつり休んだから大丈夫ですよお師匠様! 今日から、もうガンガンに働いちゃいます!」

 

 紅藤の全くもって気ままな発言に対する、それぞれの弟子たちの反応は皆一様に異なっていた。わざわざ返答したのは青松丸とサカイさんである。源吾郎は安堵しつつ紅藤を見つめるだけ。萩尾丸はむっつりと紅藤を見つめていたが、含みのある表情で咳払いした。

 

「それにしても紅藤様。没頭なさるときは我々が放っておけば寝落ちしてしまうほどだというのに、我々が集まった初日から、随分とのんびりとなさってますね。僕はまぁ、今日から他の弟子たちはさておきあなたはエンジンフル稼働だと思っていたので予想外です」

 

 師範相手と言えどエッジの利いた萩尾丸の物言いに対して、紅藤はそっと微笑むだけだった。

 

「本来ならそうしようと私も思っていたのよ? だけど一昨日、昨日と私目当ての来客があって、こんな事を言っちゃあなんだけど、ペースが乱されちゃったのよね」

「僕以外の、八頭衆の幹部とかその部下たちと密談でもしていたのですか?」

「いいえ。私の()()()()知り合いよ」

 

 そう、ですか……萩尾丸が引き下がる形で終息した一連のやり取りを、源吾郎は半ば瞠目しながら見つめていた。最後に言い放った紅藤の口調は、けだるげであったが追及を許さないような、有無を言わせぬ圧があった。日頃のんびりとした様子の彼女らしからぬ部分を見た気がして、源吾郎は少し戸惑いもしていた。

 彼女らしいと言えば……源吾郎はここで紅藤の事に軽く思いを馳せてみた。そう言えば、俺は紅藤様の事を()()()()()()()()かもしれない。当然の事なのか驚くべき事なのか判断しかねるが、ともあれそのような考えが脳裏をよぎる。紅藤は元々は胡喜媚に仕え、今でも胡喜媚の組織である雉鶏精一派に所属する。頭目である胡琉安とはある意味親子のような存在である事も知っている。だが――彼女が雉鶏精一派に入る前はどのような暮らしをしていたのか? 断片的な話を知っている程度で、全体的な事は全くもって知らなかった。

 あれこれと考えを巡らせていた源吾郎は、ある事実に気付き脳天から尻尾の先まで電撃が走るような気持ちになった。源吾郎は紅藤の事を多くは知らない。しかし紅藤は、源吾郎の事を知り過ぎるほど知っているのだ。萩尾丸はああは言っていたものの、もしかしたら紅藤は連休中の出来事を掌握しているのではなかろうか。そしてそれをここで問いただしはしないだろうか……源吾郎は背を丸め、拳を膝の上で丸めつつ紅藤の挙動を見守った。

 

「まぁ、紅藤様にも僕らがあずかり知らぬような交流はあるでしょうね」

 

 言ってから、萩尾丸は一輪挿しに視線を向けていた。

 

「それにしても、その小瓶、何処から見つけ出したんです? 僕の記憶が正しければ、あの時捕まったヘタレ野郎の胡張安が、身柄の代わりにと差し出した代物だったと思うんですが」

「ちょっと掃除していたら見つけたの」

 

 何とも微妙なやり取りを前に、源吾郎はどう反応すれば良いのか解らなくなった。こっそりと先輩たちの様子を窺うが、朗らかに笑っていたり興味津々といった様子でやり取りを聞いたりしているだけで、特段参考になりそうにはない。

 紅藤の視線も一輪挿しの小瓶に向けられている。何かを思案するような、そんな表情だった。

 

「そういえばそんな事もあったかもしれないわね。結構前の事だったから忘れちゃっていたわ。ああ、だけど胡張安様が大事にとっていた物だと思えば、それはそれで味があるわね」

「あいつが持っていたからと言って、値打も味もありゃあしないでしょうに」

 

 萩尾丸は不機嫌そうに告げ、珍しく渋面を浮かべていた。紅藤が懐かしみ、萩尾丸が忌み嫌う胡張安というのが、胡喜媚の一人息子であるという事を源吾郎はぼんやりと思い出していた。雉鶏精一派の正式なる頭目だったにもかかわらず、彼はその地位を放棄して隠遁生活に徹しているという。安否はかれこれ二百年ばかり解らないが、今も生き続けているのならば、隠遁のスキルは相当高い事となるだろう。

 

「ともあれ、紅藤様はこんな感じだけど、僕らはちょっとずつ通常業務をこなそうじゃないか」

 

 萩尾丸は爽やかな笑みを浮かべると青松丸を筆頭とした兄弟弟子に指示を出した。彼は洞察力の高そうな瞳で周囲を睥睨し、歌うように言葉を続ける。

 

「連休明けで紅藤様はお疲れだろうけれど、別に僕らはそれで心配する事は無いんじゃあないかな。急に変な妖怪が押し掛けるとか、自警団がやって来るとか、テロ組織が特攻を仕掛けるとかそんな事はめったにない事だと思わないかい?」

「は、はい」

 

 萩尾丸の奇妙な問いに源吾郎は何故か声を出して応じていた。ぱらいその一件を言及されぬようにとのある種の自衛だったのかもしれない。

 そう思っていると、丸テーブルのすぐ傍にある電話が鳴り始めた。電話番という概念が特にないらしく、センター長である紅藤が御自ら電話を取っている。

 初めはにこやかだった紅藤の顔に、珍しく緊張の色が滲む。数十秒のやり取りののちに受話器は戻されたが、その時には紅藤は興奮で頬を火照らせていた。

 

「皆、王鳳来様がアポなしだけどお見えになったみたいなの」

 

 王鳳来。紅藤が放ったその名を耳にした源吾郎も、ただただ驚いて目を丸くしたのだった。



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三妖妃の生き残り

 現在より三千年ほど前の事。商王朝を滅ぼそうと動いた三体の妖魔がいた。三妖妃とも呼ばれる彼女らは、創世の女神たる女媧《じょか》の直弟子であり、また互いに義姉妹の友誼を結んでもいた。

 妖狐の最終形態・金色に輝く九尾を持つ九尾狐狸精こと蘇妲己。

(のちの玉藻御前)

 旧く貴い神の血を受け継いだ、九首を持つ九頭雉鶏精こと胡喜媚。

 石琵琶が霊妙な力により妖怪化した玉石琵琶精こと王鳳来。

 この、そうそうたるメンバーこそが、遠い昔に亡びた王朝を震撼させた三匹の妖魔・三妖妃なのである。

 平成生まれの源吾郎であるが、三妖妃の事はむろん知っていた。何しろ彼は九尾狐狸精の曾孫であるわけだし、現在は胡喜媚が立ち上げた組織に就職しているのだ。

「三妖妃って大昔に活躍した妖怪だよね、マジヤバない?」などとのんきに言っている妖怪たちに較べれば、源吾郎の方がよほど彼女たちに縁深い存在なのだ。

 もちろんこの事は、源吾郎のみならず雉鶏精一派の研究センターに集う妖怪たちには、彼らの出自はさておき該当する話だ。

 要するに、生き残った三妖妃の一人、王鳳来の訪問は彼らにとって寝耳に水どころの騒ぎではないという事だ。

 

 紅藤のたどたどしい電話応対から五分と待たずして、王鳳来と名乗る妖怪は研究センターの事務所に乗り込んできた。傍らには、一対の小さな牛角を生やした、しかし妖狐の特徴も併せ持つ妖怪の男性が控えている。

 王鳳来じしんは、見たところ十代半ばの可憐な少女にしか見えなかった。光の加減で深い蒼色に輝く黒髪や、東洋人ながらも日本人のそれとは異なる面立ちだと源吾郎はぼんやりと思っただけだった。衣装だとか紅藤に対する眼差しだとか漂わせるささやかな妖気だとかあれこれ考察する事はあったのかもしれない。だが、そこまで考えを巡らせる余裕は源吾郎には無かった。

 末弟子よりも幼げな見た目の妖怪少女とその従者の来訪に、センター長、いや雉鶏精一派最強と謳われる紅藤は、それはもう大げさなほどに畏まり、恐縮していたからだ。

 彼女は白衣を脱ぎ捨て、白衣の下にある茶褐色の地味なブラウスとズボン姿となり、迷わず王鳳来の足許にひれ伏していた。動きが完全に終わる前までに彼女の表情がちらと見えたのだが、紫の瞳を大きく見開き唇は引き結ばれていた。何も言わずとも、あるじが王鳳来を畏れている事は明らかだった。姉と慕う峰白に対してでさえ、彼女はあのような表情を見せる事は無いのだから。

 王鳳来がただならぬ存在であるという空気は、もちろん紅藤の弟子たちにも瞬く間に伝わった。

 研究センターは少人数なれど明確な序列がある集団だった。紅藤はむろんその中でぶっちぎりの第一位の地位に座している訳である。その彼女が、外聞もなく黙ってひれ伏している姿を前に、彼女を強いと認める面々がどうして無関心でいられようか。

 ともあれ源吾郎も緊張し、師範と同じく俯いて跪くのがやっとだった。師範と異なるのは、意図的に跪いたか否かであろう。源吾郎の場合は単に、前のように足がコンニャクのように萎えてしまい、結果的にへたり込んで丁度這いつくばる形になっただけに過ぎない。緊張が昂じて変化も解けていた。今や猫のそれと見まがうほどに短く刈り込まれた尻尾があらわになっているが、そのような状況に気付く余裕すらない。

 先輩たちがひれ伏しているのか立ったままなのか源吾郎には判然としない。しかし物音もせず室内の大気さえが動きを止めたような感覚が周囲を包むだけだ。

 

「……お願いだから顔を上げて、紅ちゃん。緊張、しないで」

 

 ひりつくような空気に揺らぎをもたらしたのは、少女の命令、いや懇願だった。声の主が王鳳来であろう事は声の方角から把握できた。紅藤ががばと顔を上げるのが源吾郎にも解った。空気が緩み、王鳳来の尊顔を見ても構わないという状況に流れていくのを源吾郎は肌で感じていた。それでも奇妙な震えがあったけれど。

 

「お、お久しゅうございます、王鳳来様……」

 

 紅藤は眼前の王鳳来に挨拶を交わしていた。声を出しているとはいえ、やはり緊張の色が濃い。

 もうしわけありません。王鳳来をしっかと見据えた紅藤の口から出たのは、何故か謝罪の言葉だった。弟子たち、源吾郎よりも年かさの妖怪たちが戸惑う気配が周囲に広がる。切迫した紅藤の表情にただ戸惑っていた源吾郎だったが、何故紅藤がここまで王鳳来を畏れるのか、その原因を悟った。

 

 紅藤は実は、胡喜媚の事を()()憎んでいるのだ。狂気をはらんだ独裁者・胡喜媚が紅藤にどのような仕打ちを施したのかは源吾郎も把握していない。しかしかつてのあるじに対する冷ややかな嫌悪や憎悪の念が、紅藤のまとう仮面の裏から滲み出るところを源吾郎は度々目の当たりにしている。

 結局のところ紅藤は胡喜媚を敬愛する峰白と共に雉鶏精一派を再興させたのだが、それも胡喜媚のためというよりも我欲を満たすために行った所業に過ぎない。

 

 一方、王鳳来は胡喜媚と()()()()()()を結んだ妖魔である。妖怪たちの中でも、実の親子や兄弟などと言った血縁者を大事にする事はありふれた話だ。しかし血族でもなく種族も違う妖怪同士が義兄弟・義姉妹となる事が、きわめて重大な意味を持つ事もまた事実である。現に胡喜媚と王鳳来の関係は、胡喜媚が亡くなる寸前まで続いていたという。二人の義姉ほどの賢さはなかったものの、王鳳来は温和で心優しい存在だったという逸話を源吾郎も知っている。だが優しいからと言って、自分が敬愛していた義姉を憎み抜く義姉の部下を許容できるか否か? 

 その事が解っていたからこそ、紅藤はここまで怯え切っていたのだろう。

 

「やっぱりまだ怖がっているじゃない」

 

 王鳳来がもう一度口を開いた。困ったような、戸惑ったような表情がその顔に浮かんでいる。

 

「紅ちゃんも、紅ちゃんのかわい子ちゃんたちもわたしを怖がらないで。わたしはあなた達にわるい事をするつもりはないの。怒っている訳でもないの。だってそうでしょ? 本当にわたしが怒ってて、それで紅ちゃんたちを、紅ちゃんたちにひどい事をしようと思ってたら、わざわざこうやって表口から入ったりしないもの。

 わたし……紅ちゃんも知ってる通りお姉様たちよりもうんと莫迦だけど、だけど闘いの事だって知ってるのよ? お姉様たちといっしょに、お馬に乗って何回も、何回も闘った事だってあるんだから。

 だからね紅ちゃん。今日は、紅ちゃんとお話がしたいなと思って遊びにきただけなの。だいじょうぶよ。紅ちゃんも……白ちゃんも胡喜媚お姉様のもとでつらい想いをしたけれどとっても頑張ったって事、わたしだって知ってるもん。それに今だって頑張ってくれているんでしょ?」

「赦して……下さるのですか? 貴女様の姉君、胡喜媚様の血統を逆手に取り、雉鶏精一派の権力を濫用する、この愚かな私を」

 

 何とも不穏な文言が紅藤の口から滑り落ちる。王鳳来は柳眉を揺らし、困ったような笑みで頷いた。

 

「赦すもなにも、()()()()紅ちゃんは何もわるい事をしていないわ。わるいのはむしろわたしの方よ。ほんとうは、おかしくなった胡喜媚お姉様を、このわたしが励まして支えてあげなければいけなかったんですから。わたしがもっと賢くて、しっかりしていたら、胡喜媚お姉様も元気になって、それで紅ちゃんたちも、胡張安君も苦しまなかったはずなのに……」

 

 言葉尻に余韻を残していた王鳳来だったが、彼女はそれでも笑った。見た目相応の少女の笑みではない。多くの労苦と悲哀を知った者が見せるような笑みだと源吾郎は思った。

 

「ほんとうにいろいろとごめんね、紅ちゃん。わるい事はぜんぶ、わたしがダメだったから起きちゃっただけなの。

 それに紅ちゃんは頑張ってくれていると思うわ。胡喜媚お姉様の孫の、胡琉安君をりっぱに育ててくれているでしょ? わたしは胡喜媚お姉様が亡くなってからいろいろな事が怖くなって逃げちゃったけれど……紅ちゃんも白ちゃんも、逃げずに立ちむかっているもの」

「私めに対してもったいなきお言葉ですわ……王鳳来様」

 

 紅藤は今一度頭を下げていた。しかしその表情には深刻さは薄れ、むしろ憑き物が落ちたと言わんばかりの晴れ晴れとしたものだった。

 

 これを皮切りに、場の空気が急激に和らいでいったのだった。



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王鳳来の予見

 ミーティングにと使われていた丸テーブルは、今では時間はずれのティータイムのような、妙に和やかな様相を見せていた。王鳳来のツレ、小さな牛角と妖狐の尻尾を四本生やした妖怪男が用意していた点心を皆でつつくという流れに相成った為である。

 桃だの丸っこい龍だの狐だのの姿をした白っぽい饅頭は、確かに中国ではよく見かける代物であった。

 お茶請けだけではどうにもならぬ――常備している桃茶を淹れ、皆に配っているのは青松丸と萩尾丸だった。研究センターの中では、紅藤に次いで序列の高い二人である。

 基本的に来客時の茶の用意や難しい事の何もない雑事は、序列の低い者から応じるのがこの研究センターのルールである。本来ならば源吾郎やすぐ上の姉弟子のサカイ先輩が行うべき事を、何故萩尾丸たちが行っているのか? それは萩尾丸と青松丸が源吾郎たちの様子を慮ったからに他ならなかった。サカイ先輩の挙動には日頃見せるある種の陽気さはとうになりを潜め、内気で用心深そうな気配を漂わせていた。源吾郎は源吾郎で出社したものの未だ本調子とは言い難い。ついでに言えば彼もサカイ先輩以上に戸惑いうろたえていたのだ。本来ならば率先して雑事をこなすべきである二人だったが、賓客をもてなすような状況ではないと当局に判断されたのだ。だからこそ、高弟である青松丸と萩尾丸が動く事になった次第である。

 ちなみにセンター長の紅藤は何もせず座っているだけではない。源吾郎とサカイ先輩に余った椅子を集めるよう指図したのちは、ごく自然に彼女の隣に来た王鳳来と他愛のないやり取りを交わし、彼女が居心地の良い時間を過ごせるよう便宜を図ろうとしているようだった。

 

「王鳳来様。本日はお越しいただき誠に有難うございました。きちんとしていない所で、きちんとおもてなしが出来ないのが心苦しゅう思います……」

 

 紅藤の顔には緊張の色は薄くなっていたが、それでもいつになく丁寧な口調だ。自分の祖母、白銀御前に対してもこのような物言いだったのだろうか。源吾郎の脳裏にふとそのような考えがよぎる。

 

「いーのよ紅ちゃん。わたしも、きゅうに思い立って来たくなっただけだもん。それにね、初めからアポを取って行くよりも、アポなしで行ったほうがみんなどうしているかとか、そういうのがわかって面白いのよ」

「そうなんですね……お見えになるとこちらで存じておりましたら、峰白のお姉様や胡琉安様にも連絡して、場合によっては集まっていただこうかと思っておりましたので」

「そこも気にしなくてだいじょうぶよ、紅ちゃん。紅ちゃんたちのところでのおはなしが終わったら、すぐに白ちゃんと胡琉安君にも会いに行くから! みんな同じところに集まってたら、お話もおさんぽもすぐ終わっちゃうでしょ? それってつまらないもん」

「そういうお考えだったのですね……王鳳来様。峰白のお姉様は冷静なお方ですので、私のような醜態を晒す事は無いかと存じます」

 

 今や紅藤と王鳳来は姉妹のような感じで話し合っている。多くの妖怪や人間、というよりもビジネスパーソンであれば重要視するであろう効率を度外視した王鳳来の言葉を、紅藤は静かに肯定しているようであった。どちらが姉で妹か判然としない所や、未だ紅藤の表情がやや硬い所などが気になるが、それでも最初よりはうんと場の空気も和らいでいると言えよう。

 源吾郎は小さな桃の形をした点心を眺め、紅藤の言葉をぼんやりと聞いていた。王鳳来の訪問に紅藤は驚くほどうろたえていたが、峰白であればうろたえたり怯んだりしないだろうという言葉に驚いていたのだ。

 というのも、圧政者として雉鶏精一派に君臨する峰白は、紅藤とは真逆に警戒心の強い、言い方は悪いが気の小さい()()()であると秘密裏に聞かされていたからだ。峰白は確かに冷静な性質であるが、日頃何かを畏れる事のない紅藤があそこまでうろたえた相手を前にしてもなお冷静でいられるのか。そこが気になった。

 さてそうこうしているうちに桃茶も全員にいきわたり、給仕していた萩尾丸と青松丸も静かに着席した。王鳳来は視線を彼らに向けたのち、さも不思議そうな眼差しで今一度紅藤に視線を送る。

 

「紅ちゃんの仲間ってこの子たちだけなの?」

「直属の部下としてはそうなりますわね。ですが弟子の萩尾丸は独自に組織を作り、数十から百近い妖怪集団を束ねておりますわ」

 

 萩尾丸の事を軽く話題に出してから、紅藤はそっと視線を彼の方にスライドさせた。それが合図だったかのように萩尾丸は静かに頷き、その面に笑みを浮かべる。彼の笑みは源吾郎も見慣れているが、普段の笑顔よりも随分と控えめなもののように見えた。

 なんだかんだ言って、萩尾丸も来客たる王鳳来を前に、いくらか緊張しているらしかった。

 王鳳来は半ば身を乗り出す形で萩尾丸を見やった。含みと忖度のある萩尾丸の笑みとは異なり、見た目通りの少女らしい、無邪気な笑顔である。

 

「スゴいね萩尾丸君! 百匹ちかい妖怪たちを仲間にしてるなんて……このあいだ会った時は、まだほんとうに子供だって思っていたけれど」

()()()、と仰られてももう二百年以上前の事ですよ、王鳳来様」

 

 萩尾丸の淡く儚い愛想笑いに、当惑の苦みが混ざり込んでいた。日頃雉仙女の一番弟子だの雉鶏精一派の第六幹部だのと権威を笠に着ている節のある萩尾丸だが、真の妖怪仙人であり屈託のない王鳳来の前では、それらも特に意味をなさないようだ。

 微苦笑を浮かべつつも何も言わない萩尾丸を見つめていた王鳳来だが、思い出したように紅藤に視線を戻した。

 

「紅ちゃん! 弟子の萩尾丸君にたくさん仲間がいるんだから、紅ちゃんもほんとうはたくさんの仲間がもてるんでしょ?」

「……確かにそうかもしれませんね、王鳳来様」

 

 静かな口調で応じる紅藤の顔に、名状しがたい寂寥の影が滲んでいる。

 

「ただ、余りに多くの部下や弟子を持つのは私の好みではないだけなのです。誰かを従えて権力を振るう事に興味はありませんし――気にかけ心を配る相手が多すぎると大変なのです」

「紅ちゃんの気持ち、わたしもよく解るわ」

 

 紅藤に応じる王鳳来の声もまた、寂しげだった。

 

「わたしもね、胡喜媚お姉様が生きていたころは多くの仲間をつれていたでしょ。だけど、胡喜媚様が亡くなってからは、こわくなってみんな自由にしたの。気が付いちゃったのよ。わたしがだれかをどれだけ好きになっても、その好きになっただれかはいつか、わたしを置いて逝ってしまうんだって」

「そればかりは、どうしようもありませんよね……」

 

 置いて逝ってしまう。紅藤はこの言葉に鋭く反応し、伏し目がちになった。

 彼女が故あって不死身の肉体を持つ事と、弟子と見做し愛情を注いでいる相手の勝手な死を異常に恐れている事は、彼女の中ではきちんとした因果関係があるらしい。源吾郎も、弟子の一人として紅藤に愛されていると感じる事は往々にしてある。その情愛が時に重々しく感じる事さえある。しかし多くを知らぬ源吾郎にできる事は、戸惑いつつもそれを受け入れるくらいだ。

 そういえば連休前に護符を作るためにと萩尾丸が連れてきた若手の妖怪たちにも、紅藤は必要以上に心を配っていたような気もする。

 それらの事をぼんやりと考えながら、源吾郎は手許にある桃茶で喉を湿らせた。紅藤と王鳳来の話題のために、五月の朝の爽やかな空気は遥か彼方へ飛び去り、先程とは質の異なる、何とも重々しい空気に包まれてしまった。源吾郎はそれを打ち砕く術を知らない。

 

「あ、あの王鳳来様。お仲間はいないっておっしゃってましたけれど、その、牛みたいな、狐みたいな男の人と一緒に来られましたよね? その人って、王鳳来様のお仲間じゃないんでしょうか」

 

 あっけらかんとした様子で問いかけたのは、姉弟子のサカイ先輩だった。源吾郎はぎょっとした様子で彼女の顔を見た。さっきまで借りてきた猫のように大人しくなっていたはずの彼女の唐突な質問に驚きを禁じ得なかった。もしかすると、この何とも言い難い空気を打破するための、彼女なりの動きだったのかもしれない。これには冷静で空気の読める萩尾丸もちょっと驚いているようだった。

 肝心の王鳳来は、ちょっと不躾な質問を前にして怒ったり驚いたりする素振りは無かった。それどころかむしろ嬉しそうだ。

 

「この子はね、玉藻お姉様の子孫なのよ! 平天大聖牛魔王の孫でもあるんだけど、今はたしか白山太子《はくざんたいし》って名乗ってたんじゃなかったかな。あ、でも家族からは雪九郎《シュエジウラン》ってよばれたんだよね? 九番目の男子だから」

「白山太子はちょっと物々しいから、雪九郎で構いませんよ」

 

 紹介を受けた牛角の男性・白山太子こと雪九郎は恭しい様子で王鳳来の問いに応じている。本名とは別の名がある事は、高名な妖怪や大陸の妖怪にはありがちな話だ。我らが雉鶏精一派の頭目・胡琉安とて戴雲鶏王という別名がある訳であるし。

 しかし名前に関するあれこれは源吾郎にとっては些事だった。それよりも彼の出自、血統の方が気にすべき事柄である。王鳳来は今さっき、彼をして玉藻御前の子孫であると言っていたではないか。

 王鳳来のツレが遠縁と判明した源吾郎だったが、すぐには言葉が出てこなかった。先日母から白銀御前の異父兄姉が大陸にいるという話を聞かされたばかりではある。とはいえ、実際に遭遇するとなるとやはり驚きが全ての感情を押しのけてしまった。

 玉藻御前の血統というと、どうしても叔父たちや兄姉たちだけだろうと思っていたからだ。

 

「は、は、初めまして、雪九郎兄様」

 

 源吾郎はとりあえず雪九郎の事を兄様と呼びかけた。雪九郎は精悍なその面に柔和な笑みを浮かべている。緊張する弟を見るような眼差しだった。源吾郎はそこで、もしかすると雪九郎が自分の様子を窺っていたであろう事実に思い至ったのだ。王鳳来の存在に気を取られ、彼が視線を向けているのに気付かなかったのだが。

 

「初めまして、君は……」

 

 雪九郎の口から出てきたのは流暢な日本語である。年数を経た妖怪たちが母国語のほかに外国語を二つ三つ習得しているのは別段珍しい事ではない。特に日本の妖怪では、今でも中国語の習得が英語学習よりも重要視されている。

 

「彼は島崎源吾郎と言ってこの春弟子入りした子で、玉藻御前様の曾孫に当たるのよ」

 

 源吾郎に代わって彼の素性を紹介したのは紅藤であった。彼女は先程まで難しい表情を浮かべていたはずなのだが、この時には既に花のような明るい笑みを見せていた。

 三妖妃の一人である王鳳来と玉藻御前の子孫である雪九郎の顔には、驚きの色は無かった。

 

「あは、やっぱりこの子は玉藻お姉様の子孫だったんだ。なんとなく、白銀姫に似ていたから」

「何となく妖気が兄弟に似てるなと思っていたところでしたが、やはり僕の親戚だったんですね。まぁ、曾祖母は大陸のみならず日本にも立ち寄っていたと聞きますし……」

 

 懐かしいものでも見つめるような王鳳来の視線を受け、むしろ源吾郎の方がたじろいでいた。彼らは既に、源吾郎を玉藻御前の縁者と見抜いていた事は先の会話で明らかになった事だ。二名に対して愛想のよい笑みを浮かべる事は出来たものの、気の利いた挨拶の言葉は口から出てこなかった。

 

「すごいわね紅ちゃん。白銀姫ってわたしたちの事をこわがっていたから、たぶん仲間にはならないだろうなって思ってたの」

「彼はこの度私の許への弟子入りを志願しましたので、末弟子として雇い入れた次第です。潜在能力や可能性は未知数ですが、ゆくゆくは幹部として育て上げ、私の後任にしようかと考えております」

 

 無邪気な様子の王鳳来に対し、紅藤は特段気負う事なく源吾郎の将来の展望を言ってのけた。王鳳来やはとこである雪九郎が感心したような声を漏らす中、源吾郎の心中はむしろ気まずさで満たされ始めていた。

 何とも言えないむずかゆい気持ちを鎮めようと、源吾郎は首を伸ばし、紅藤の方を見据えた。

 

「まだ弟子入りして間がないというのに、幹部候補ですとか研究センター長の後任ですとか、そこまで期待されていると思うと却って申し訳ないですよ紅藤様。その……先輩方を差し置いて大出世するみたいな話は」

 

 紅藤が率いる研究センターにおいて、源吾郎は今のところ最下位の序列に位置する。その事自体は源吾郎も特段問題視してはいない。だがあるじである紅藤が源吾郎を将来幹部にするという話をここで明言するのは、兄弟子たちの神経を逆なでするのではないか。

 源吾郎は恐る恐る萩尾丸たちの様子を窺った。兄弟子たちは怒っていない。むしろ目が合うと笑い出したくらいだ。

 

「何、幹部になるからと言って僕の事など気を遣わなくても構わないよ。紅藤様が引退して他の幹部の序列が繰り上がるだけなんだからさ。もちろん、元から幹部職の僕にしてみれば、何一つ問題なんてないしね」

「ま、まぁ僕は幹部になって他の皆を纏めるよりも、母様、いや紅藤様の周りで色々とチマチマ仕事をする方が性に合ってるんだ」

「わたしも、青松丸先輩と同じ、かな。すきま女だし、表に出るのはちょっと緊張するの。だけど、島崎君ってキラキラしてるから、表舞台が似合いそうだよ! 

幹部職、頑張ってね」

「あ、ありがとうございます」

 

 兄弟子たちの思い思いの言葉に対して、源吾郎は妙な笑みを浮かべながら礼を述べるのがやっとだった。彼らは源吾郎が幹部になるよう厚遇されている事を怒らないどころか、むしろそれぞれ違ったベクトルでもって応援してくれたのだ。

 考えてみれば、弟子たちの中で一人は既に幹部職であり、後の二人は幹部への昇進を望んでいないのだ。末弟子の野望とかち合わないから、嫉妬や敵愾心も出てこないのは当然の流れなのかもしれない。

 王鳳来は源吾郎と先輩たちのやり取りをしばらく眺めていたが、やおら思い出したように口を開いた。

 

「あのね紅ちゃん。きょうは紅ちゃんたちが元気かなって思って見にきたんだけど……伝えないといけない大切な事があるの」

 

 どのような内容でしょうか。問いかけた紅藤の表情が真顔だったのは、王鳳来もまた真剣な表情だったからに他ならない。

 

「九頭駙馬のお義兄《にい》様に、気を付けてほしいの」

()()()の事ですね、王鳳来様」

 

 短い声で紅藤は応じる。八頭怪。その名を口にした紅藤の表情は、一瞬だが険しかった。



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八頭怪の過去

 八頭怪にまつわる物語は、中国が唐と呼ばれていた遥か昔まで遡る。

 唐から天竺に向かう道中に、碧波潭《へきはたん》という美しく深い淵があった。その淵にはもちろん龍王が治める龍宮があった。

 万聖龍王の一人娘、万聖公主《ばんせいこうしゅ》の伴侶こそが後に八頭怪と呼ばれる男であった。当時は九頭であった事と龍王の娘婿という事で「九頭駙馬《きゅうとうふば》」と呼ばれていた。

 最終的に九頭駙馬は万聖公主の夫という身分に落ち着いたが、実は彼は元々はこの龍宮の美姫の正式な夫でも婚約者ですらなかった。というのも、万聖公主はそもそも別の男と婚約する事が決まっていたからだ。

 万聖公主の本当の婚約者は玉龍という名の幼い白龍だった。単なる幼龍ではない。というのも、彼の父は四海龍王の一人、西海龍王だったのだ。龍宮に居を構える龍王が、神に近しい存在として尊ばれるのは大陸でも日本でも変わりはない。しかしその中でも、四海龍王とその系譜に連なる者たちは別格だった。

 玉龍が万聖公主の婿候補となったのは、両家の思惑による政略結婚に他ならなかった。この政略結婚について、両者がどう思っていたのか正確な内容を知るすべは今となっては残されてはいない。しかし玉龍に関して言えば、入り婿として未来の妻に認められようと奮起していたという記録がわずかに残るばかりである。

 実は玉龍は今も健在なのだが、万聖公主に関する件については誰に何を問われてもその一切を語ろうとしないのだ。

 玉龍という婿候補がいるにもかかわらず万聖公主は最終的に九頭怪と結婚した。それは万聖公主の裏切りと九頭怪の略奪愛、要はゲス不倫が発生した事をそのまま意味している。伝承によると九頭怪と万聖公主は、事もあろうに玉龍を謀殺しようと企んだとさえ言われているのだ。

 万聖公主をどう思っていたかはさておき、裏切られた玉龍のショックは相当なものだったらしい。彼は実家に戻ると怒りに任せて暴れまわり、その際にとばっちりで家宝の玉が燃え尽きてしまったのだ……そのあと色々あって彼は白馬に変化し、玄奘三蔵やその他の従者と共に天竺を目指す度に出たというのは有名な話である。

 

 さて話を九頭怪に戻そう。万聖龍王は本来の娘婿・玉龍が犯罪者として投獄された事に驚きを見せたものの、九頭怪が代わりに万聖公主と結婚した事は割とすんなりと受け入れた。九頭怪も何だかんだ言って高貴な血統を誇るという事であり、また実力のある存在であると悟った為である。

 王の婿という称号を得、九頭駙馬と名乗るようになると、結婚祝いだとばかりに近所の有名なお寺に殴り込みをかけた挙句、仏塔に血の雨を降らせて穢し、さらに信仰の源であった宝珠を盗み出し、龍宮に持ち帰ったのだ。これを見た新妻は勤務先の天界から西王母のコレクションである九葉の霊芝を窃盗し、やはり実家に飾ったという話である。

 珍しい宝珠と霊芝がそろい、碧波潭の威光も盛んになるだろうと万聖龍王は大喜びだったらしい。しかしながら悪徳はいずれ亡びるというのが世の定めである。万聖龍王の一族が行った悪行は後々になってから天竺へ向かう玄奘三蔵の一行に知られ、孫悟空や他の神仙たちに強制家宅捜索・不敬罪による粛清の憂き目にあった訳である。

 孫悟空たちによるガサ入れによって万聖龍王も万聖公主も殺されてしまったが、九頭駙馬のみは妻も岳父も見捨てて逃走したために一命を取り留めた次第である。

 かつての天蓬元帥《てんぽうげんすい》・猪八戒とほぼ互角に渡り合った九頭駙馬であったが、彼も無傷で逃げ越したわけではない。哮天犬《こうてんけん》と呼ばれる神通力を持った犬に頭の一つを咬み落とされ、傷口から血を流しながらほうほうの体で逃れたというのが真実らしい。

 ちなみにこの哮天犬は二郎真君という最強の神仙の相棒であり、過去にも胡喜媚の頭の一つを咬み落としたり、天界で暴れまわる孫悟空を取り押さえたりと、並々ならぬ活躍を行っているのだ。

 ともあれ頭も八つになり、尚且つ妻を見殺しにしたその怪物は、八頭怪だとか八頭鰥夫《はっとうかんぷ》(鰥夫はやもめの意)と呼ばれ、彼自身も哮天犬の呪いにより「八」や「八頭」にまつわる名しか名乗れなくなったのだという。

 

 

 

「……それはまた、何というかえげつないお方ですね」

 

 源吾郎は桃饅頭を食む合間に呟いた。ほぼ全編を網羅したほうの西遊記を何度か読んだ事があったから、源吾郎も九頭駙馬の物語は知ってはいる。しかし王鳳来に直々に教えて貰ったために、一連の出来事には不思議な臨場感があった。

 あるいはそれが、王鳳来の能力なのかもしれないが。彼女の本性は琵琶に似た玉石、または玉石で作られた琵琶である。声も綺麗だし歌も得意なのだろうと源吾郎は密かに思っていた。

 

「えげつないって言っても、九頭駙馬のお兄様は胡喜媚様の()()()()なのよ」

「…………弟、なんですね」

 

 源吾郎は呟き、紅藤や萩尾丸たちを見やった。長らく雉鶏精一派に所属する萩尾丸や、そもそも胡喜媚と面識のある紅藤であれば、八頭怪の事について何か教えてくれるのではないかと思ったのである。

 ところが萩尾丸も青松丸も源吾郎と視線を交わすだけであった。紅藤は難しい表情でゆったりと首を振り、唇をもごもごさせていたが、意を決したらしく口を開いた。

 

「実の姉弟と言ってもね、胡喜媚様と八頭怪は不仲だったわよ。八頭怪の方が、胡喜媚様を莫迦にしていたのよ。高貴なる神の血を引き、ついで『道ヲ開ケル者』の末裔であるというのに、下賤な雑魚妖怪につるんでいるってね。少なくとも、彼にはそう見えたらしいの」

 

 下賤な雑魚妖怪というのは、まさか玉藻御前や王鳳来の事であろうか……驚きのために源吾郎は目を瞠っていた。玉藻御前を貴種と尊ぶ源吾郎にしてみれば中々にショッキングな話である。余談だが源吾郎は、おのれの先祖である玉藻御前が、天地開闢の折に陰気が凝って九尾になったという来歴が真実である事を強く望んでいた。要するにおのれの先祖を特別視し、凡狐から成り上がった存在ではないと思いたかったのだ。

 これから大変かもしれないわね。紅藤の呟きには、重さと湿り気が多分に含まれている。

 

「あらかじめ言っておくけれど、胡喜媚様と八頭怪が対立していたからと言って、彼が私たちの味方になりうるという訳ではないわ。むしろ私たちは胡琉安様を、胡喜媚様の孫を擁した団体でしょ。その私たちがこうして繁栄しているというのは、あの八頭怪にとっては面白くない状況なのよ。

 そうでなくとも、『道ヲ開ケル者』の意思を遂行するとき以外は、自分以外の人間や妖怪が破滅するのを酒の肴にするような手合いなのですから」

 

 王鳳来はうんうんと頷いている。源吾郎は額に汗が点々と浮かぶのを感じた。

 雉鶏精一派に就職し、紅藤の許に弟子入りした源吾郎であったが、それで完全におのれの身が保証されたというのは全くの幻想であるという事を、理屈ではなく本能で察してしまったためである。



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若人の懸念、先達の郷愁

「どうしましょう、紅藤様……」

 

 源吾郎は思わず呟いていた。声変わりの終わった青年らしからぬ、か細く上ずった声である。

 八頭怪なる存在が恐るべき脅威になるであろう事は、既に源吾郎も察していた。紅藤は特に具体的な事を口にしたわけではない。しかし彼女が遠慮なく言い放った「破滅」という単語から、途方もない重みを感じ取ったのだ。

 縋るような眼差しを送る源吾郎の視線に気づいた紅藤は、何度か瞬きをした。驚いたような、困ったような表情がその面に広がっている。

 

「ごめんね島崎君。少し驚かせてしまったわね」

 

 こういう時は大丈夫です、と返すのが大人の対応なのだろう。それは解っていたのだが、残念な事に源吾郎は間抜けな表情で紅藤を見つめ返すのがやっとだった。

 その紅藤の顔に、今度は笑みが浮かぶ。喜びや嬉しさとは異なる、相手を慮るためだけに用意された、慈愛に満ちた笑顔だった。

 

「あなたが不安がるのも無理もない話よね……島崎君自身は、妖怪同士の争いや殺し合いとは無縁な生活を今まで送ってきているものね」

 

 源吾郎が頷くのを見届けてから、紅藤は他の弟子たちを見やった。彼らの表情にも、驚きだとか戸惑いだとかが浮かび、さざ波のように揺らいでいる。

 紅藤はさも申し訳なさそうな表情を作ると、ふっと息を吐いてから口を開いた。

 

「だけど大丈夫よ。私たちを八頭怪が狙っているといえども、すぐに行動を起こすわけではないと私は思っているわ。そりゃあもちろん、胡喜媚様がおかくれになった時とか、本当の跡継ぎだった胡張安様と私たちが接触した時とか、ちょくちょくこちらにちょっかいをかけてきた時もありましたけれど……

 八頭怪は胡喜媚様の弟で、島崎君たちはもとより、私などよりもうんと永い年月を生きているの。今までの彼の動きからすれば、すぐに私たちに何かを仕掛けてくるとは思えないわ。そうね、()()()()五、六十年は、運が良ければ三百年くらいは大丈夫じゃあないかしら」

「…………」

 

 源吾郎は丸く目を見開いたまま、師範の紅藤を凝視していた。誰かがカップをテーブルの上に置く音と、アナログ時計の秒針の音が源吾郎の鼓膜を震わせる。

 純血の妖怪が長命である事、紅藤がとうに六百年以上生きている事は源吾郎も良く知っている。だから彼女が五、六十年を短いと言い切れるのも理屈の上では納得していた。それでも源吾郎自身が五、六十年の歳月を途方もない長さだと思っているのもまた真実だった。無理もない話だ。源吾郎自身は三月の末にやっと十八になったばかりの、人間としても妖怪としても若すぎる存在なのだから。

 ちなみにこうして驚きの色を見せているのは、すぐ上の姉弟子・サカイ先輩も同じ事だった。彼女はむろん源吾郎よりも年上で百歳近いというすきま女であるが、研究センターの中では源吾郎と共に年少者と見做されていた。

 

「全く、サカイさんも島崎君も賓客の前でそんな表情をしなくても良いだろう」

 

 呆れ声で発破をかけたのは、言うまでもなく萩尾丸だった。

 

「確かに八頭怪はうっとりするほどの美青年だがそれ以上に超絶厄介な輩である事はこの僕だって認めているよ。しかし、せっかく紅藤様がそいつの襲来までに猶予があると仰って下さっているのだから、雁首揃えてそんな間抜け面を晒さなくたっていいだろう。

 サカイさんも島崎君も僕らと違って若いんだ。そんな風に薄らぼんやりとするくらいならば、紅藤様の庇護の許でどうやって研鑽を積むか考えた方がよほど効率的だと僕は思うがね」

「お、仰る通りでした、萩尾丸先輩」

 

 厭味なのか素直なアドバイスなのか判然としない萩尾丸の言葉にサカイ先輩はすぐに応じていた。妹弟子の言葉を萩尾丸は軽く受け流しつつ、眼球を動かして源吾郎を見据えた。

 それから、萩尾丸の端麗な面に、秀麗だが毒気をはらんだ笑みがゆっくりと広がる。

 サカイさんは別にそのままでも良いのだけれど。そのような前置きを行ってから、彼はやにわに口を開いた。

 

「島崎君は今さっき紅藤様に紹介されたとおり、雉鶏精一派の幹部を狙ってるんだろう? 日頃から雉鶏精一派の幹部は世界征服に至るまでの通過点に過ぎないなんて言ってるじゃないか。それならさ、野心と勢いを僕らに見せておくれよ。雉鶏精一派に仇なす八頭怪と、邪魔者の胡張安など玉藻御前の曾孫であるこの俺がぶち殺す、くらいは言ってくれるかなって僕はちょっと期待していたんだけどなぁ。

 ちなみに、八頭怪のヤバさは第一幹部から第八幹部まで全員知ってるから、君がそいつと闘って斃したとなれば、その場で幹部昇格は確定するんじゃないかな」

 

 源吾郎は花瓶と萩尾丸の顔を見比べ、ひきつった笑みを浮かべるのがやっとだった。

 今もなお世界征服を夢見ている事には変わりはない。しかし嬉々として引き合いに出す内容とは思えなかった。王鳳来や紅藤の様子から察するに、八頭怪も生半可な存在ではないだろう。それに対して源吾郎は戦闘の心得などなどほとんど無い、一介の若狐に過ぎない。今の力量では、いやたとえ数十年数百年と研鑽を積んだとしても、八頭怪に敵うかどうかすら解らない所だ。

 源吾郎はややあってから萩尾丸を上目遣い気味に睨んだ。源吾郎よりもうんと経験を積んだ萩尾丸が一体どのような意図であんな事を言ってのけたのか一瞬気になった。しかし普段の澄ました笑みを見ていると、やはり真面目な話でも何でもない事に気付いてしまった。源吾郎は、またしても萩尾丸にからかわれただけなのだ。

 

「萩尾丸、王鳳来様がお見えになっている所で物騒な話はやめて頂戴」

 

 源吾郎の様子を察した紅藤が助け舟を出してくれた。というよりも彼女自身も萩尾丸の発言に思うところがあるという風情である。傍らに王鳳来がいるにもかかわらず、紅藤の面にははっきりとした怒りの念が浮かんでいた。

 

「せっかく王鳳来様が遠路はるばるいらっしゃったんですから、内輪での話に巻き込むのは良くないと思うわ。しかもどさくさに紛れて胡張安様を謀殺するなんて言ったでしょ」

「面倒ごとは一気に片づけた方が良いと思いましてね。まぁあれです。言葉の綾ってやつですよ」

 

 萩尾丸は肩をすくめ手のひらを周囲に見せつつ、あからさまにため息をついている。紅藤に注意されているにもかかわらず、怯えた素振りはまるでない。やはりそこが、単なる紅藤の弟子と実際に幹部にまで上り詰めた一番弟子の胆力の差、なのかもしれなかった。

 

「まあ胡張安の奴は……」

 

 そのまま長広舌がふるわれるのかと予測したが、萩尾丸はすぐに口をつぐみ、今度は気まずそうな表情を笑みで覆い隠す形と相成った。雰囲気からして胡張安の事を散々こき下ろすつもりだったのだろう。しかしその様子を王鳳来が見ている事を悟り、慌てて言葉を切ったに違いなかった。

 王鳳来は拗ねた子供のように頬を膨らませてから、特に躊躇わずに発言した。

 

「胡張安君はべつにわるい子じゃなかったとわたしは思ってるよ? すなおだったしわたしのことも慕ってくれたし……」

 

 王鳳来は少し顔を曇らせ、言葉を濁らせたまま口を閉ざしてしまった。考えてみれば王鳳来自身は胡喜媚が亡くなる間際まで交流があったという。胡喜媚の子息、義理の甥にあたる胡張安の事も源吾郎や他の兄弟子たち以上に知っていても当然の話だ。

 ちなみに胡張安の現在の動向は一切が不明である。紅藤たちもどうにかして二百年前に一度捕まえたきりで、それ以降の足取りは安否も含めて不明なのだという。しかし八頭怪と違って特に何かをしたという動きも何も掴めないので、雉鶏精一派の中では彼の名をあえて口にするものは殆どいないという。

 それでも源吾郎が胡張安の名を知っているのは、ひとえに最古参の紅藤に仕えているからに過ぎない話だ。

 

「仰る通り、胡張安様は悪いお方ではありませんでしたわ」

 

 紅藤はすっとまぶたを伏せ、王鳳来の言葉に同意する。源吾郎は残った桃茶をかじりながら、それを不思議な光景であるように思い始めていた。

 過去の因縁から、紅藤は胡喜媚の事を憎み抜いてはいる。しかしその胡喜媚に連なる者たちへの感情には、胡喜媚そのものに対する私怨は一切無かった。現頭目の胡琉安の事は保護者としてバックアップしているし、胡喜媚の実子である胡張安の事を悪く言う場面に出くわした事もない。

 

「胡張安様は、ただその気質が父君に似てしまっただけなのです。権力も、それに付随する責務や無秩序な狂乱をひどく恐れていましたからね……二百年前に頭目の座を打ち棄てて野良妖怪の身分になった彼に逢った事があるのですが、雉鶏精一派にいる頃よりもむしろ幸せそうでしたし」

「ひとのしあわせって色々あるものね……だけど、胡張安君もひとりっきりでたいへんだったと思うのよ。わたしのところに来れば、今の雪九郎みたいにいっしょになって、まもってあげる事はできたよ? だけど、胡張安君は家出してからわたしのところにも来なかったし」

 

 色々あったに違いありませんわ。紅藤はそんな言葉を放ったが、やはり事務所の中はじっとりとした空気で包まれている事には違いなかった。どれだけ誰かが明るい話題に持って行こうとしても、気を抜けば何処からともなく暗雲が垂れ込める。

 だが王鳳来が第一に伝えたかった話の内容を思うと、それも無理からぬ話なのかもしれないが。

 

 八頭怪の話題の時とは異なる重苦しさを肌で感じつつ、源吾郎はぼんやりと視線をさまよわせていた。居心地の悪そうなはとこ、雪九郎と再び目が合った。

 

「あのう、王鳳来様……」

 

 ちょっと訛りのあるような口調で、雪九郎はあるじの王鳳来に呼びかける。王鳳来が小首をかしげると、彼は源吾郎と王鳳来を互いに見比べながら言葉を続けた。

 

「少しばかりはとこと、源吾郎君と話をしてみても良いですか。胡喜媚様にゆかりのある雉鶏精一派のお偉方にお会いできたのも嬉しいのですが、その中に初対面のはとこがいるって事にも、今僕はかなり感動しているのです」

 

 雪九郎のちょっと芝居がかった物言いに、源吾郎の心も少し明るくなった。おのれに関心を持ってくれている事も嬉しいが、それ以上に今この場に漂う物々しい雰囲気を一変するきっかけになると感じたためだった。



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同じ系譜、異なる境遇

 さて現状の空気を打破しようと源吾郎のはとこである雪九郎《シュエジウラン》が声を上げてくれた。効果は思った以上にてきめんだったようだ。王鳳来も紅藤も、嬉しさの宿った喜びをその面に広げ、互いが面倒を見る九尾の末裔たちに対して頷き会話を促した。

 王鳳来などに至っては、既にノリノリと言った様子で雪九郎と源吾郎を見比べている。

 

「良いよ雪九郎! 雪九郎も源吾郎君もおんなじ玉藻御前のお姉様の血を引いたなかまなんだから、ここで二人ともなかよくなってほしいな」

 

 何とも愛らしい王鳳来のお願いに雪九郎は笑っていた。源吾郎も笑おうとしたが、やはり先程までの緊張が尾を引いているためか、不格好な笑みになってしまった。

 頬や耳の先が火照り、赤血球たちが轟音を立てながら血管の中を駆け巡っているのを源吾郎は感じた。そもそも自分は優れた容貌を持つわけではないのだから、様になる言動を取らないとダサいままなのだ。まぁ要するに、初対面の妖怪、それも自分と同じ玉藻御前の末裔を前に照れて顔を赤らめるなどという行為はダサいという事になる。

 

「……緊張しちゃったかな、源吾郎君」

 

 柔らかな声音で呼びかけられ、源吾郎は顔を上げる。雪九郎は組んだ手の上に顎を乗せ、わざわざ源吾郎と目線が合うように身をかがめていた。やはり玉藻御前と玉面公主の血を引いているだけあってその面は美しい。しかしやはり大陸の出身という事もあり、面立ちはアジア系ながらも若干エキゾチックな感じがした。

 

「色々と物騒な話が続いちゃったもんね。まだ若いし、怖くなってしまうのも仕方ない事だと思うよ。僕だって、ちょっとどうなるのかなってドキドキしちゃったし」

「あ、はい……確かにちょっと怖かったですね」

 

 半ばどぎまぎしながら雪九郎の言葉に源吾郎は応じた。源吾郎がおずおずと言葉を返すと、雪九郎は笑みを深め、同意するかのように頷いてくれた。

――ああ、はとこの雪九郎兄様って優しそうなお方だな……

 憧れの先輩を見つめるかのような眼差しをはとこに向ける中、源吾郎は内心そんな事を思っていた。おのれの知る身内、要するに白銀御前の子供や孫である叔父叔母や兄たちとも大分違っているとも感じていた。源吾郎自身は、別に母方の叔父叔母や兄らに疎まれたり、粗略に扱われた事は一切ない。むしろ彼らは彼らなりのやり方で源吾郎を愛してくれた。だがそれでも、親族としての雪九郎の態度は源吾郎には少し新鮮だった。

 ただ単に、どちらもあって間がないからはとこ同士と言えども他人行儀な感じになっているだけかもしれないが。

 

「故郷から遠く離れた場所にも親戚がいるって、ちょっと驚くけれど本当に嬉しいな。何というか、心強くなる感じがするんだ」

「僕も親族と言えば祖母の系譜だけだと思っていたので、正直な所驚きました。祖母とはまだ数えるほどしかあった事もありませんし、玉面公主様と祖母が姉妹だという事も、少し前に母から聞いたばかりでして……」

 

 言いながら、源吾郎は少し不安が募り始めていた。血統の事についてこの雪九郎に馬鹿にされるのではないか。それが源吾郎の不安である。

 祖父と父が人間である事、妖狐の血が四分の一まで薄まっている事は、源吾郎の本性を知っている者たちは周知の事実だ。萩尾丸の部下たちの中には、源吾郎が人間の血を引いていると言ってからかう手合いもいたが、それは彼にとっては問題ではなかった。玉藻御前の直系の曾孫であると言えば、彼らは大人しく閉口するためだ。純血であっても普通の凡狐の血統よりも、人間の血が混ざっていても玉藻御前に連なる血統の方が貴い。この不文律めいた考えが、源吾郎をいわれなき中傷から護ってくれていた。

 しかしこの不文律は眼前にいる雪九郎には通用しないだろう。雪九郎もまた、玉藻御前の血を受け継ぐ存在だからである。ついでに言えば雪九郎は人間の血を受け継いでおらず、その上牛魔王という大妖怪中の大妖怪をも祖父に持つのだから。一方の源吾郎は、祖父こそ名うての術者だったとはいえ、血の濃い父親に関して言えば全くの一般人である。玉藻御前の血統を頼りにしてはいるものの、突発的な先祖返りによって曾祖母に似ただけに過ぎない事は、兄姉たちを見れば明らかな話だ。

 源吾郎はおずおずと様子を窺っていた。王鳳来も雪九郎も何も言わないが、向こうは既にこちらが人間の血も多分に受け継いでいる事は把握しているだろう。そしてそれを指摘されても甘んじて受け入れるしかないのだ。

 奇妙な話だが、人間の血が入っている事をここまで厭わしく、そして恥ずかしく思った事はこれまでに無かった。

 

「源吾郎君」

「は、はいっ……」

 

 大陸訛りのある声で呼びかけられ、源吾郎は慌てて応じる。やはり声音は上ずり、間が抜けたような感じになってしまった。

 雪九郎は相変わらず笑っている。それがどういう意味を持つのかと、ついつい源吾郎は考えてしまった。

 

「君は相当()()()()()()()に思えるんだけれど、どうかな?」

 

 雪九郎の言葉に源吾郎は目を剝いた。お坊ちゃま育ちだとか、育ちが良さそうと言われる事には慣れているつもりだった。しかしまさか玉藻御前の末裔、それもそうそうたる血統に連なる雪九郎からそんな事を言われるとは思ってもいなかったのだ。しかも兄弟子の萩尾丸と異なり、その言葉には含みも厭味も無かった。だからこそ、源吾郎の抱く戸惑いも膨れ上がっていた。

 

「ふふっ。少し馴れ馴れしくしてしまってすまないね。いくら親族、はとことはいえあんまり詮索するのは野暮だったかな。気を悪くしたなら答えなくても大丈夫だよ」

「そんな、滅相もございません!」

 

 丁寧に謝罪する雪九郎に対して、源吾郎は半ば食い気味に切り返す。

 

「玉藻御前様の曾孫で、尚且つ孫悟空の義兄である牛魔王様の血筋でもあらせられる雪九郎お兄様に較べましたら、僕は単に玉藻御前様の血を引くだけの存在に過ぎません」

 

 源吾郎はここで言葉を切り、一度深々と深呼吸をした。言うべき事は既に決まっているが、心の準備が必要だった。

 

「それにお気づきかと思うのですが、僕は人間の血も引いているのです。祖父はまだ地元では有名な術者だったそうですが、父は全くの一般人でして、学者として論文を書く事でどうにか糊口をしのいでいるような存在に過ぎないのです。僕自身は性質も能力も母方の先祖に似ており父に似た所は少ないのですが、容姿だけは完全に父の生き写しなのです。ですから誠に――」

「それでもさ、君は()()()()()()()()()()()育ってきたんじゃあないかな?」

 

 源吾郎はまだ話の最中だったが、雪九郎はその源吾郎の言葉を遮る形で問いかけてきた。思いがけぬ言葉に源吾郎が呆然としている間に、雪九郎は言葉を続ける。

 

「源吾郎君、君はお父様が人間である事を気にしているようだけど、その割にはお父様の事を説明するとき、とても楽しそうだったよ」

「…………」

 

 すっと目を細める雪九郎の瞳の奥に、何か複雑な光を感じ取った気がした。その光が何であるか戸惑った源吾郎だったが、それでも雪九郎の言葉に素直に頷いた。

 源吾郎は父に似た冴えない容姿の事を気にしてはいたが、父親の事そのものは疎んではいなかった。学者として頑張っている事を知っていたし、一般人と言いつつも半妖を妻にした上で異形の血を引く子供らを受け入れる度量の深さは、成程普通の一般人とはいいがたいのかもしれない。

 

「確かに僕は、両親から、特に父親に可愛がられて育ちましたね。僕は末っ子で父には他にも子供がいたのですが、一番僕の事を気にかけていたみたいなのです。歳を取ってからできた子供だからなのか、見た目だけでも自分に一番似ていたからなのか、その理由は解りませんがね」

 

 源吾郎の身に流れる妖狐の血と野心に注目し警戒していた母や叔父たちとは異なり、父の幸四郎は末息子である源吾郎に結構甘かった。父も多忙ゆえに母や兄姉ほどの頻度で源吾郎に構う事は無かったが、それでも休みの日とかは遊びに付き合ってくれたし、少し甘えれば小銭とかちょっとしたおもちゃとかおやつの類を買ってくれるような優しさを源吾郎に見せてくれた。

(余談だが、小銭の類は貰うとすぐに源吾郎は兄姉らに見せびらかしてしまうので、長兄や長姉に没収されてしまうのだが)

 幸四郎自体は子煩悩な良き父親であり、もちろん他の子供らの事も愛していた。しかしそれでも、他の兄姉らに接するときに較べて父は優しく、末っ子たる源吾郎のワガママを聞いてくれたのだった。

 ちなみに、他の家庭では父母が末っ子をひいきする事で兄姉らがひがんだり末っ子を攻撃するという悲劇が発生しがちだが、源吾郎はそういうケースに悩まされる事は無かった。年長の兄姉はむしろ源吾郎の保護者に近い立ち位置だったし、誠二郎や庄三郎もそこそこ歳が離れていたので、幼い末弟が甘やかされているのを黙認していたためである。

 ともあれ、源吾郎は父親に大切にされていたのは事実であるし、源吾郎自身も父親とは何だかんだと言いつつも良好な関係を築いていたと言えるだろう。

 

「お父さんに大切にされているって、本当に良い事だと思うよ」

 

 雪九郎が静かな声で呟いた。相変わらず笑みを浮かべているが、何処か物憂げな笑みだった。

 

「僕の母は第一夫人で実力も血統も申し分なかったんだけど、父との間には中々子供が出来なかったんだ……結婚後百何年も経ってから、第一夫人の長男として僕は生まれたんだけど、その頃には父の関心は第二夫人や第三夫人の方に向けられていて、義母たちの間にも既に子供らが大勢いる形だったんだ。しかも、異母兄たちは祖父の牛魔王様に似て牛らしい頑健さが出ているのに、弟の僕は祖母に似て狐の特徴が強いからね……お祖母様は可愛がってくれたけれど、やっぱり父の黒孩童子は祖父に似た異母兄らを優遇するし……あ、でも心配しないで。異母兄らにいびられたとか、そういう事は特になかったかな。一応第一夫人の息子だしね。ただまぁ、父も母たちも兄弟たちも近い所に住んでいたから、ちょっと肩身が狭く感じていたんだ。そんな折に丁度いい塩梅に王鳳来様と知り合って、以来行動を共にしているって感じかな」

 

 ごめんね、湿っぽい話で困るよね。雪九郎は丁寧な言葉で話を締めくくった。思いがけぬ雪九郎の来歴と境遇を聞いて、思わず真顔になってしまった源吾郎であった。



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史実と真相のはざま――玉藻御前の娘たち

「いえいえとんでもない」

 

 数秒後に我に返った源吾郎は、雪九郎の謝罪に謝罪で応じた。

 

「むしろこちらの方が申し訳ないです。わざわざ複雑な家庭環境を喋るように、僕が仕向けた形になってしまって……」

 

 源吾郎はそもそも日頃より自分好みの女子たちを侍らせ傅かれるハーレムの構築を夢想してはいる。しかし雪九郎の実家の環境を聞き、その事を棚上げして驚き戸惑ってしまったのだ。

 それから源吾郎は、何故か自分の実家の事について思いを馳せていた。年若い末息子の眼から見ても、両親の夫婦仲は良好だった。厳密に言えば父が母にベタ惚れで、母はそんな父を憎からず思っている、と言う若干の温度差はあるにはあるが。

 ついでに言えば父は母の弟妹達、要は源吾郎の叔父や叔母にも「三花姉様の夫」として認められている。そうでなければ、そもそも四十年の長きにわたって平穏に結婚生活も続かないだろう。

 

「まぁアレだ島崎君。名家にゃあ名家の事情があるってものさ」

 

 雪九郎に代わって口を開いたのは萩尾丸だった。彼の口許には、猫めいた歪んだ笑みが拡がっている。

 

「大妖怪となれば、元々が野良であっても縁組だとか側室だとか当人が望む望まぬに関わらず、色々な係累が生まれるものなのだよ。雪九郎様のように、どちらの先祖もやんごとなき系譜に連なるのならばなおさらね。

 して思うとだな、島崎君。君の系譜……白銀御前様に連なる系譜は単に通常とは異なる動きを取っているだけに過ぎないのさ。何せ彼らは血統を誇って繁栄するどころか、むしろその出自を恐れてひた隠しにし、目立たぬように生きる事に多くの労力を費やしているのだからね」

 

 確かにそうかもしれません……萩尾丸の言葉に源吾郎は頷くほかなかった。

 白銀御前の子孫たちで、おのれの血統を大々的にアピールしているのは源吾郎だけである。源吾郎の縁者で術者である苅藻やいちかは玉藻御前の孫である事は知られている。しかしそれは当人たちの宣伝というよりも、むしろ不可抗力に近い状況なのだそうだ。

 

「源吾郎君の家族は、玉藻御前様の血統である事は隠しているんだね」

 

 萩尾丸の言葉が終わって数秒ほど経ってから、雪九郎が問いかけてきた。目を丸く見開き、驚きの念を示している。

 

「君も玉藻御前様の末裔だから、君の一族がこの土地を収めていて、当主の座を継ぐために雉仙女様の許で修行していたのかなって思ったんだけど……」

 

 不思議だと言わんばかりに首をかしげる雪九郎を前に、源吾郎は妙な気分になっていた。きっと当主の座という話が出たのは、雪九郎の実家がそうだったからなのだろう。その事はうっすらと理解できる。妖怪たちの血族の中で当主を立てる家系がある事も知っている。

 しかしそれでも、当主という言葉はぼんやりと浮かび上がり、源吾郎の中に同化しようとはしなかった。

 それはある意味当然の話でもあった。当主がどうとか家を継ぐという話題が、親族たちの中で出てくる事などなかったためだ。そもそも血族を繁栄させる事よりも波風立たぬように生きていく事に注意を払っているような面々ばかりなのだから。

 血縁者同士で寄り集まって親族会議を開く事もあるにはあるが、そうでない時は付かず離れずの関係を保ち、ひっそりとしかし自由に生きていく。それが白銀御前の系譜に連なる者の生き様だった。

 もちろん源吾郎も、そういう血族の生き方に馴染んでいた。発言権を抜きにした妖力面では白銀御前に次いで強いものの、一族のリーダーとして兄姉らのみならず曲者の叔父たちをおのれが従える状況など、全くもってイメージできないのは無理からぬ話だ。

 

「島崎君が修行を始めているのは、この雉鶏精一派の幹部となり世界征服を目指しているのは、あくまでも彼自身の意思によるものなのですよ雪九郎様」

 

 ぼんやりと物思いにふける源吾郎に代わり、萩尾丸が説明を始めていた。いつもの、何かを小馬鹿にしたようなニヤニヤ笑いを浮かべながら。

 

「先程申し上げました通り、彼らの一族は祖である白銀御前様からして目立つのを嫌っているようなメンバーばかりですからね。ここにいる島崎君は、たまたま野望を持ち合わせただけに過ぎませんよ。まぁ、ある意味妖怪らしいのかもしれませんね」

「そういう事だったんですか……」

「そういうもこういうも、萩尾丸君の言うとおりだとわたしは思うわ」

 

 妙に驚いている雪九郎に対して、王鳳来は落ち着いた調子で頷いている。

 

「だって雪九郎。じぶんの親族がこの地にいるって事を、いまさっき知ったばかりでしょう? 白銀姫やその子供たちが、それこそ世界征服をねらうくらい野心家だったら、それこそ牛魔王君や玉面公主ちゃんのところにあいさつに来ているんじゃないかしら? しかも、玉面公主ちゃんと白銀姫は他人じゃなくて姉妹でしょ?」

「確かにその通りですね」

 

 雪九郎が納得の声をあげる中、源吾郎は目をしばたたかせながら王鳳来を凝視していた。無邪気で天真爛漫な少女めいた言動の彼女から放たれた推論の鋭さに、源吾郎は舌を巻く思いだったのだ。自身を莫迦と称していたのも耳にしていたから、源吾郎もついつい油断して単純な思考回路の持ち主だろうと思い込んでしまったのである。

 いや、単純な考えの持ち主()()()()()、物事の本質を見定める事が出来たのかもしれないが。

 

「白銀御前様とその子孫たち……島崎君の件は、全くもって王鳳来様の仰る通りですわ」

 

 紅藤が落ち着いた口調で言い放つ。その声には恭順の意がありありと籠っていた。

 

「実を申しますと、私はかつて白銀御前様を仲間に引き入れようと画策した事があるのです。結局のところ話し合いは平行線をたどり一戦を交える事となったのですが……その際にあのお方と盟約を結んだのです」

 

 思わせぶりに言葉を切った紅藤は、源吾郎をちらと見やった。

 

「白銀御前様の子孫の中で、雉鶏精一派に、この私に付き従う事を望む者を弟子として引き入れても構わない。あのお方はそう仰ってくださったのです。当時あのお方も私たちに思うところがあったらしく、引き入れる弟子は一人だけですとかチャンスは一度だけですとか幾つもの制約を設けておられたのですが……結局は私の手許に彼が来てくれたという次第です」

 

 白銀御前との盟約を語る紅藤は、不気味なほど活き活きとしていた。研究のために雉鶏精一派を盤石なものとしたいと思っている紅藤にしてみれば、白銀御前との出会いやその後に生じた戦闘などは、興奮を伴う思い出なのかもしれない。

 ところが王鳳来は、少し機嫌が悪そうに片方の眉を吊り上げただけだった。

 

「ねぇ紅ちゃん。白銀姫と一戦をまじえたって、ケンカしたってことなの?」

「喧嘩と言うよりも戦闘、闘いですね」

「ダメじゃない紅ちゃん。ケンカや闘いなんて……」

 

 どうにも避けられない闘いだったのです。紅藤は諦観を漂わせて呟いただけだった。しかしながら、萩尾丸を筆頭に源吾郎の先輩たちは驚き呆れる始末である。

 

「あの頃は私もまだ若かったですし、交渉術も今以上に苦手でしたから……白銀御前様も気が立っておいでだったので、それなら力押しで白黒つけた方が手っ取り早いだろうと思い、一勝負()()()()()()()訳でございます。若気の至りだと思って頂ければ問題はありません」

()()()()()()()って、紅藤様……」

 

 じっとりとした視線を紅藤に投げかけるのは、一番弟子の萩尾丸だった。

 

「若気の至りだか何だか解りませんけれど、よくぞまぁ白銀御前様ほどのお方を前にして、説得できないからそれじゃあ闘いましょう、なんて考えが浮かんできますねぇ……脳筋マッドサイエンティストの称号は伊達じゃないってやつですかね」

「結果的にあのお方を傷つけたわけじゃあないから大丈夫でしょ? 話し合いがちょっとじれったかったから、ちょっと闘う方が手っ取り早いかなって思っただけなのよ、私も。後で峰白のお姉様に怒られちゃったけどね」

「そりゃあ、峰白様もご立腹なさるでしょうに……」

 

 萩尾丸の言葉には皮肉も多分に含まれていたが、紅藤は特段気にする様子はなく、普段の明るいながらもつかみどころのない様子で応対している。心なしか、萩尾丸の方がしんどそうにさえ見えるくらいだった。

 

「……まぁいずれにせよ、白銀御前様が名声や権力に興味を持っていなかった事は確かな事実ですわ。何がしかの権力や力を欲しているのであれば、我々に協力的であれ敵対的であれ、彼女の力で一大勢力を築き上げる事は可能なのですから」

 

 源吾郎は紅藤の主張を聞きながら萩尾丸の様子を静かに観察していた。白銀御前の話題が出てから、萩尾丸は明らかに落ち着きを失っている。厳密には紅藤が白銀御前と闘ったという過去の出来事に戸惑いうろたえているように見えた。いつも大体落ち着き払っている萩尾丸がうろたえているというのも中々珍しい光景だった。

 

「大叔母様がもし野心家であったならば、確かに一大勢力をお作りになっていてもおかしくないでしょうねぇ」

 

 またしても微妙な空気になった中、雪九郎がおのれの考えを口にした。彼もやはり、紅藤と白銀御前の闘いという物に不穏な気配を感じ取ったのだろう。先程よりもこころもち大きな声だった。

 

「こんな事を申してしまっては厭味のように聞こえるかもしれませんが……わが祖父母の、わが一族の権力と知名度は割合大きいですからね。何しろ祖父は斉天大聖孫悟空様に大哥《あにうえ》と呼ばれる間柄だし、祖母ももちろん玉藻御前様の娘である事もそうですが、曾祖父の一人娘だったので莫大な遺産と土地を受け継いでいた訳ですし……」

「玉面公主ちゃんのおとうさんの万年狐王様は、強くて賢い狐だったのよ」

 

 雪九郎の祖父母の説明が終わったところで、王鳳来が言い添える。

 

「強くてりっぱな子供をのこそう、と思って玉藻御前の姉様は万年狐王様に近付いて、それで玉面公主ちゃんをもうけたの。子供だけじゃなくて、万年狐王様と結婚できたら、姉様もわたしたちも良い身分におさまる事ができて、酒池肉林もできるって事でね」

 

 王鳳来が語る玉面公主の出自は、中々に源吾郎の好奇心をそそるものだった。玉面公主と言う存在を西遊記にてあらかじめ知っていたし、何より彼女が大伯母であるからだろう。そんな中、王鳳来は心底困ったような、途方に暮れたような表情を浮かべた。今まさに困難に直面していると言わんばかりの表情である。

 

「だけどね、万年狐王様に姉様のたくらみは見破られてそのままわたしたちは追い出されたのよ。娘の玉面公主ちゃんはあとつぎだからって万年狐王様がそのまま引きとってしまったの」

「ああ……」

 

 源吾郎は思わず声をあげていた。様々な想いが脳内で交錯した結果の行動だったのだが、すぐにおのれの行動を浅はかだと感じるに至った――間の抜けた源吾郎の声に反応し、王鳳来と雪九郎が源吾郎に視線を向けたためだ。

 どうしたの。両者の視線は、言外に源吾郎にそう問いかけていた。

 

「あ、いえ……玉面公主様の事は西遊記などで知っておりましてね。あの話の中にも、玉面公主様は親から莫大な遺産を受け継いだとありましたので、まさしくその通りだと思った次第ですね」

 

 源吾郎は思った事を素直に口にした。西遊記は人間たちにはある種の物語だと見なされているし、源吾郎も多少は脚色のあるものだと思っていた。しかし八頭怪の話も含め、案外実際に起きた事も網羅しているのだと思い知ったのだ。

本当は曾祖母である玉藻御前が親権争い(?)に敗けた事も気になってはいたが、そこはまぁ触れないでおこう。

 

「確かに、西遊記に書かれている事の中で、祖母の来歴は本当の事になるかな」

 

 雪九郎は面白い物でも見聞きしたと言わんばかりに目を細め、穏やかな調子で源吾郎たちに語り掛ける。

 

「だけどあれも、やっぱり人間や巷の庶民妖怪向けにアレンジされてあるところもあるんだよ。あの話の中では、祖母は猪八戒に殺された事になっているけれど……

あれは大嘘さ」

「そう……だったんですね」

 

 一、二度瞬きをしたのち、源吾郎が慎重に呟いた。それを見て、雪九郎は大きく頭を揺らして頷く。

 

「何しろ祖母は今でも健在で、屋敷の女主人として面白おかしく暮らしているらしいんだ。実際に、祖母の屋敷に猪八戒は攻め入ったけれど、歯向かってくる使用人たちを蹴散らしただけで、観念した祖母には手を出さなかったんだってね。僕も兄弟たちも子供の頃から聞かされた話なんだけどね。あたしはやはり魅惑的だから、天蓬元帥殿も殺すのをためらってくれたってね。

 もっとも、相手が脳筋な孫悟空や真面目な沙悟浄ではなくて、色好みの猪八戒だから、ある意味眉唾物かもしれないけれどね」

「ま、まぁ……玉面公主の大伯母様も、玉藻御前様の血を引いている訳ですしね」

 

 たどたどしく言葉を紡ぎ、源吾郎は微笑みを作った。玉面公主の方が、自分の祖母である白銀御前よりもうんと玉藻御前に近い女狐なのかもしれない。未だ実際に出会った事のない玉面公主に対してそのような感想を抱いたのだった。



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史実と真相のはざま――三妖妃の履歴 ※猟奇的表現あり

 やや猟奇的な表現がありますのでご注意ください。
 また、封神演義の内容を自己流に解釈しているシーンもございます。


「そういえば」

 

 さて源吾郎がおのれの血統、白銀御前やその異父姉の玉面公主に思いを馳せていると、何かを思い出したかのように王鳳来が声をあげた。

 

「玉藻御前の姉様はわたしたちといっしょにいておもしろおかしくやっていたけれど、子供運にはめぐまれなかったって今でも思うの。最初にできた子供たちは皆殺しにされてるし、あとの子供たちもきちんと育てられなかったでしょ?」

 

 確かにそうかもしれない。源吾郎は王鳳来の指摘にひっそりと同意した。

 文献では、蘇妲己として活躍していた頃の玉藻御前には、四十匹弱の子孫がいたらしい。しかし彼らは金毛九尾の眷属である事が知られ、ねぐらを焼かれて皆殺しにされた挙句、毛皮で無事だったところをファーコートにされるという始末である。

 ずっと後に誕生した玉面公主と白銀御前は今も健在であるが、彼女らは玉藻御前の手許から離れ、それぞれ思い思いに生きている。大伯母の玉面公主はおのれの生家を繁栄させる事に腐心していたようだが、白銀御前はその真逆、むしろおのれの血を残さずにひっそりと生きようと思っていたようだ。さもなくば、平安時代に生まれた老齢の妖怪であるのに、祖父に出会うまで子供どころか結婚経験もないというのは不自然だ。

 もっとも、今こうして源吾郎がここにいるわけであるから、当初の思惑はさておき白銀御前の血脈も続いているという事であり、今後はさらに繫栄するという事になるだろう。

 源吾郎はそれから、白銀御前がそもそも結婚した事のきっかけや、封神演義にあった三妖妃たちの行状などに思いを馳せていた。

――ああ、実に因果な話だ。思い出した事を頭の中で整理して比較していた源吾郎は、そう思わずにはいられなかった。

 

「あれ、源吾郎君、いまさっきなにか言ったかな?」

「ひっ、えっ……」

 

 どうやら自分の思っていた事は、独り言として音声になっていたらしい。しかしそれに他ならぬ王鳳来が喰いついてきた。彼女は濃い翠《みどり》の瞳を源吾郎に向け、興味津々と言った様子でこちらを覗き込んでいる。

 驚いた源吾郎は周囲にさっと視線を走らせたが、すぐに観念して今一度王鳳来に向き直った。源吾郎の独り言を聞き取ったのが王鳳来だけだったのかは解らない。だが彼女の問いかけにより、源吾郎が次に何を言うのか、皆が興味を持っているのは明白だった。

 

「いえその……玉藻御前様の曾孫で白銀御前様の孫である僕が申し上げるのもアレなのですが……」

 

 前置きをへどもどしながら告げ、一呼吸おいてから源吾郎はおのれの考えを述べた。

 

「玉藻御前様がかつて蘇妲己と名乗って行っていた行状と、後の子供たちとの関係ですとか、僕の祖母の境遇を思うと、どうにも因果が巡っていると思った次第なのですね。

 記録では曾祖母は妊婦の胎内にいる子供の性別とか頭の向きを言い当て、紂王にそれを確認させるよう仕向けたと言います。そうして無闇に子供の生命を奪ったから、自分が苦労して得た子供を手許で育てられなかったり、育てたとしても若いうちに仲違いされたりしたのではないかと思ったのですね。

 それに僕の祖母を付け狙い、仔を生ませて道具にしようと画策した輩もいたそうですから。その辺りが、何とも……」

 

 王鳳来の熱烈な視線に気づいた源吾郎は、最後まで言い切らずに言葉を濁した。考えてみれば、王鳳来も蘇妲己の傍にいたわけである。暗に王鳳来をも糾弾している事になるのではないかと不安になってしまったのだ。

 

「興味深い考えね、島崎君」

 

 源吾郎の主張にまず応じたのは、王鳳来ではなくあるじの紅藤であった。陰惨な話を聞いた直後であるにもかかわらず、その表情に陰りはない。

 

「確かに玉藻御前様と、ご息女の一人である白銀御前様がそれぞれ自分の子供の事で困ったのは事実ね。けれど、その事とかつての玉藻御前様……蘇妲己様の行状が因果関係として繋がると断定するのは難しいかもしれないわよ?

 あのお方は()()『私は胎児の向きと性別が判ります』と仰っただけで、()()()解剖してチェックするという行動に踏み込む事を判断なさったのは、()()()なのですから」

 

 そうですよね、王鳳来様? 紅藤がそっと尋ねると、王鳳来はこだわりを見せずに頷いていた。

 

「全くもって紅藤様の仰る通りだと僕も思いますねぇ」

 

 普段以上にねっとりとした口調で同調するのは、一番弟子の萩尾丸だった。

 

「農夫の足を割って骨髄を調べたのも、胎児の向きと性別をわざわざチェックしたのも、全部紂王が蘇妲己様の言を信じなかったからに過ぎないではありませんか。そりゃあまぁ、蘇妲己様がそれを仕向けたという点では非はあのお方にもあるだろうけれど、主犯はあくまでも紂王であると僕は思いますがね。

 まぁつまるところ、紂王はとんでもない間抜けな馬鹿だったという事に過ぎません。蘇妲己様を筆頭とした三妖妃の方々だって、わざわざ忠実な臣下や皇后の言葉を無視してゴリ押しして、宮殿に迎え入れたのですから。

 そこまで首ったけになった三妖妃の、不思議な能力に気付けないのはまぁ良いとして、愛しているはずの妃の言葉を信じずに『嘘かもしれないからチェックしーよう』なんて思って民の生命を奪うなんて行為に手を染めるのは、相当な大馬鹿野郎でなければできなかったと思いますよ……そうですよね、王鳳来様?」

 

 ウインクでもしそうな勢いでもって萩尾丸は王鳳来の尊顔を眺めている。昏君と呼ばれた紂王を堂々と大馬鹿と言い放つその態度に、サカイ先輩も雪九郎もたじろいでいた。源吾郎も心をかき乱されたのは言うまでもない。

 ところが当の王鳳来は、萩尾丸の言葉に驚かず気を悪くする素振りも見せず、ニコニコしながら首を揺らした。

 

「そうよねぇ……わたしは紂王様は莫迦だって思っていなかったけれど、姉様ふたりはかげで莫迦にしていたわ。

 なにせ紂王様は、わたしたちのお師匠だった女媧様をカノジョにしたいとか、そんなハレンチなポエムを作ってラクガキしたお方だもの」

「ハレンチポエム落書きの件は、僕も存じております」

 

 源吾郎はまだ平常心とは言い難かったが、やはりよく馴染みのある話を耳にしたという事で口をはさんだ。

 

「確かそのポエムを女媧様が発見し、思い上がった紂王の命運を縮めるべく、あなた方三妖妃が派遣された――そういう事ですよね?」

 

 三妖妃と紂王がどのようにして関わる事になったか。おのれの来歴を知るべく封神演義を読み込んでいた源吾郎はむろんその内容も把握していた。

 女媧はハレンチポエムに激昂し、それゆえに三妖妃に任務を下した。しかし女媧自身は高位の女神なので、部下たちの暗躍がバレるとマズいため、敗走し助けを求める三妖妃らを御自ら捕獲し、姜子牙らに引き渡したという――源吾郎が知っている三妖妃の来歴は以下の通りである。改めて確認するまでもない程に、有名な事であると源吾郎は思っていた。

 

「ううん。確かにわたしたちは女媧様のもとで修行していたけれど、島崎君の話はほんとうの事とはちょっとちがうわね」

 

 ところが、当事者である王鳳来は軽く首を振って源吾郎の知っている通説を否定した。何が違うのだろうか。驚きに瞠目しつつ、彼は静かに王鳳来の言葉を待った。

 

「たしかに、紂王様が女媧様の社にハレンチポエムをラクガキしたのはほんとうの事よ。だけど女媧様はその事を知っても、そんなに怒らなかったのよ。あのお方に仕えていためしつかいたちはオロオロしていたけどね。

『べつにアホがアホな事を書くのは自然の摂理だし、ほうっておいても二十八年で命運がつきるから、気にするまでもない』とかなんとかいって、みんなをなだめていたのよ」

「それでは、何故……」

 

 源吾郎の問いかけに、王鳳来はいたずらを思いついた童女のような笑みを返した。

 

「だけどね、お姉様たちは『アホポエムで女媧様を侮辱した紂王を命運より早く破滅させたら自分たちの株も上がるだろう』とおかんがえになって、それで、()()()()()()()()で、紂王様に取り入ったの……結局、わたしたちは命運をちぢめる事はできなかったし、女媧様からも破門されちゃったけどね」

「そういう事、だったんですね」

 

 驚き通しだった源吾郎だったが、王鳳来の語る話こそが真実なのだろうと思い始めていた。神々にも様々な権能や序列があるが、女媧はその中でもかなり高位の女神である。そんな彼女が、王とはいえ単なる人間の言動に腹を立てるとは思いにくい。

 それに何より玉藻御前も胡喜媚もそれぞれ野心家だったり享楽を愛していたという。偉大なる、しかし超然とした女媧の許での修行に飽き飽きして、一人の人間を堕落させて命運を縮めるという遊びに手を染めたというのもありそうな話だ。

 それにそうなると、封神演義の終盤で登場した女媧の、部下である三妖妃への苛烈な仕打ちも合点がいく訳であるし。

 

 王鳳来はあれこれと三妖妃の事について話してくれた。

 そのうちで特に興味を引いたのが、曾祖母たる玉藻御前の出来の真相である。

 玉藻御前は世界の陰気が凝り固まって九尾となった存在であるという通説があるが、それもやはり真っ赤な嘘らしい。元々は高貴な血統の胡喜媚の義姉に見合うようにと玉藻御前自身が自称していただけに過ぎなかった。しかし時代が下り、この説を巷の妖怪たち、特に妖狐たちが積極的に採用するようになったのだそうだ。

 と言うのも、単なる妖狐が成長して玉藻御前になったというよりも、陰気が凝り固まって玉藻御前になったという説を採用したほうが、妖狐らも風評被害に晒されずに済むと判断したからだった。

 それは裏を返せば、玉藻御前の悪名と影響力が、真面目でマトモな妖狐らの中で大きかったという動かぬ証拠と言えるだろう。



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不穏なるミーティングのゆくえ

 王鳳来と雪九郎が雉鶏精一派の研究センターに逗留したのはおよそ一時間程度の事だった。この珍客来賓は、紅藤のみならず源吾郎などと言った彼女の弟子らともひとしきり会話を楽しんだのち、その割にはあっさりと立ち去ってくれた。

――王鳳来様と、大陸出身のはとこに会えるなんて珍しい事だったなぁ。王鳳来様は台風の目のようなお方だったけれど、こうして見送っていると「立つ鳥跡を濁さず」なんて言葉を思い出すな

 紅藤たち研究センター一行は、エントランスで王鳳来と雪九郎を見送った。紅藤や萩尾丸は本部まで社用車で送ると申し出たのだが、王鳳来は構わないと言ってきかなかったのだ。

 お辞儀したり手を振ったりしながら、一行はゆっくりと歩み去る二人の高貴なる妖怪たちを見送った。やはり一番感慨が籠っているように見えたのは紅藤だった。

 

 

 事務所に戻った一行は、誰が何を言うでもなく再び丸テーブルの周囲に着席していた。紅藤は桃色に染まった頬に安堵の色を浮かべつつ、ひそやかなため息をついていた。

 

「――紅藤様。ミーティングで何か仰りたい事はありませんか」

 

 間髪入れずに問いかけたのは萩尾丸である。彼はやはり司会進行役、マネージャーの才があるようだ。まぁ考えてみれば、彼自身も百近い妖怪を束ねる組織の長なのだ。その上話術に長けている。曲者ばかりと言えども、少人数の集まりであるこの研究センターでの司会進行くらい彼にしてみればどうという事のない案件なのだろう。やはり第六幹部、そして紅藤の一番弟子と言う身分は伊達ではない。

 さて紅藤は、この恐ろしく気の回る一番弟子の言葉に対して、薄い笑みと共に首を揺らした。

 

「私からは特に大丈夫よ。ただみんな、連休明けで身体がなまっているかもしれないから無理だけはしないようにね。みんなからは何か連絡はないかしら?」

 

 若教師のような柔らかい言葉を放ち、紅藤は弟子たちの顔を見やった。兄弟子たちも姉弟子も特に何も言う事は無いらしく、すました表情のままだった。

 源吾郎も特に訴える事は持ち合わせていないはずだった。しかし紅藤は源吾郎の顔の前で視線を留めるとそのまま口を開いた。

 

「島崎君、何かあるかしら」

 

 紅藤は名指しで源吾郎に問いかけた。先輩たちの視線が源吾郎に収斂しているのは言うまでもない。源吾郎は喉の渇きと胸から鳩尾にかけての違和感を抱きつつへどもどしていた。

 ゆっくりと、源吾郎の挙動言動を紅藤は待っている。源吾郎はその視線を受けながら口にする案件を考えていた――考えるまでもなく、口にしたい案件はあったのだが。

 

「紅藤様。僕らはこのままで大丈夫なのでしょうか」

「大丈夫、とはどういう事?」

 

 明らかに言葉足らずな源吾郎の言葉に対しても、紅藤は苛立つ事なく軽く首をかしげるだけだった。心拍数の上昇を感じつつも、源吾郎は言葉を重ねる。

 

「……八頭怪の事ですよ。王鳳来様の前ではああは仰っておりましたけれど、やはり僕は奴の存在が気になってしまうのです」

「……安心なさい、島崎君。私たちも八頭怪の動きには警戒しているわ。だけどここ二百年ほど――私たちが胡張安様と接触して以降――は、特にこちらへの働きかけもないの。そりゃあもちろん向こうも何か策があるのかもしれないわ。だけど、すぐすぐに動き出す感じではないと、さっきも言ったでしょう」

 

 それにね。紅藤は源吾郎を見据えて微笑んだ。普段の無邪気な笑みとは違う、仄暗い笑みだった。源吾郎はすくみ上るような気分でその笑みを真正面から捉えていた。紅藤が時にこんな笑い方をするのは既に知っている。それでも慣れる事は無かった。

 

「多少は弱体化しているとはいえ、かつて猪八戒を打ち負かしたほどの相手なのよ。島崎君が、あなた達が心配してもどうにもならないわ。向こうがこちらを潰しにかかったとなれば、それこそ私が、八頭衆が総力を挙げて立ち向かって、どうにか討伐できるかどうかという所になるかしら」

 

 そんなに……源吾郎は喉仏を上下させて生唾を飲み込んだ。口の中の苦みを感じながら、紅藤様でも敵わない相手がいるのだと、フワフワした気分で思っていた。

 紅藤にも苦手とする分野がある事は源吾郎も知っている。しかし彼女の妖力と戦闘能力――かの冷徹な峰白に()()()と明言される程の力――にある種の信頼を寄せていた。何のかんの言っても、彼女の庇護さえあれば大丈夫だろう、と。

 

「いやはや島崎君、王鳳来様と親戚の雪九郎様に出会ったからって、妙に気負い過ぎていないかい?」

 

 ともすれば震えはじめていたであろう源吾郎に対して、軽薄そうな調子で声をかけてきたのは萩尾丸だった。彼は相変わらず笑みを浮かべてはいたが、その笑みの裏側には様々な感情が渦巻いて蠢くのを源吾郎は感じ取っていた。

 

「そりゃあさ、僕もさっきは幹部昇格の話を餌にして君を焚きつけた所はあるにはあるよ。でもまさか、そこまで本気になるなんて思っていなかったんだよ」

 

 やっぱり焚きつけたって自覚があるんですか……声には出さずに源吾郎はツッコミを入れていた。萩尾丸は道化師めいた笑みを引っ込め、しばし真面目な表情を作った。

 

「確かに雉鶏精一派が玉藻御前の末裔である君を配下に引き入れたという動向に注目している妖怪連中がいるのは事実だよ。しかしだからと言って、君自身に興味を持っている妖怪は少ないんじゃないかな?

 もし君が()()()影響力のある存在なのだと思われているのであれば、雉鶏精一派以外の他の妖怪勢力が君を引き抜こうと画策するんじゃあないかい?」

「はい……確かに……」

 

 掠れた声ながらも源吾郎は萩尾丸の問いに頷いた。会話の外にいる青松丸やサカイ先輩も、互いに顔を見合わせて頷きあったりしている。

 源吾郎は玉藻御前の末裔であり、野心のほかに才能もある。しかしそれでも、源吾郎を配下にしようと表立って動いた組織は、ぱらいその連中くらいであろう。まぁ紅藤は紅藤で源吾郎が高校に通っていた時から放課後の通学路などでこっそり接触を図っていたが、あからさまな勧誘ではなかったし。

 源吾郎は玉藻御前の末裔であり、野心のほかに才能もある。しかし、他の妖怪たちにとってはただ()()()()なのだ。闘う術も未熟で権謀術数にも疎く知性も高いとは言えない。せいぜい血統の良い妖怪を従えているというアピールをするくらいにしか、いまの源吾郎は使い道はない。

 

「他の、市井の妖怪たちでさえそんな感じなんだぜ。大妖怪・妖怪仙人レベルの八頭怪ならば、そもそも今の君など歯牙にもかけないと思うけどなぁ」

 

 励ましているのかけなしているのか判然としない言葉を、源吾郎は静かに受け入れた。確かに自分が妖怪社会の中で取るに足らない存在である事は、珠彦との戦闘で明らかになったばかりだ。あの訓練では一応源吾郎が勝ったと見なされているが、純粋な勝ち戦ではなく判定勝ちに過ぎないと源吾郎は思っている。

 

「は、萩尾丸先輩。ちょっとだけ大丈夫……ですか?」

 

 また珠彦と闘う日は来るのだろうか。源吾郎が妙な思案にふけっていると、このやり取りを見かねたのかサカイ先輩が声をあげた。相変わらずローブの隅は本性があらわになっており、植物とも動物ともつかぬ触手がうねっていた。

 

「別に構わないよサカイさん。何か意見でもあるのかな?」

 

 大ありです! サカイさんは妙に勢いづいており、身体の端にある触手がうねり、ぺちりとテーブルを叩いていた。

 

「わたしも八頭怪のうわさを聞いていてある程度知っているんです。何でも、八頭怪は、その、わたしたちすきま女やすきま男みたいに、心の隙間を付け狙って、相手をそそのかすのが大好きらしいんですね。

 そうなると、島崎君とか、わたしみたいなヤング妖怪も、案外あぶないかもって思うんです。心の隙間をねらうやつって、むしろ、ヤングをねらうんですよ。わたしも、お師匠様に仕える前はヤングばっかり狙っていましたし」

「……成程ねぇ」

 

 独特な語調でのサカイ先輩の主張をひとしきり耳にした萩尾丸は、小さく呟いて息を吐いた。

 

「確かによくよく考えたら、そもそも王鳳来様は八頭怪に気を付けるようにと、それを告げるために遠路はるばるやって来てくださった訳だもんねぇ……こりゃあちと面倒かもしれないね。対策はないの、サカイさん?」

「対策は……やっぱり心の隙間ができないようにするって事かな? わたしたちのうわさでは、八頭怪も心の隙間に付け込んで願い事を聞き出して叶えさせたうえでどん底に突き落として獲物のエネルギーを取るらしいから」

 

 えげつな……源吾郎は淡々と説明するサカイさんの言を耳にし、思わず呟いていた。その言がサカイさん本人か八頭怪に対して向けられたものかは自分でも判然としない。しかし既に萩尾丸がしゃべり始めていたので、源吾郎の呟きは誰も気にしなかったようだ。

 

「心の隙間に付け込まれる、だって。それじゃあ僕なんかはいの一番に大丈夫って事だねぇ。何しろ、大天狗たるこの僕には隙間どころか死角もないからね」

 

 萩尾丸も萩尾丸なりに場を和ませようとしているのだろうか。ややけたたましく、ともすればヒステリックとも取れそうな笑い声をしばし上げていた。

 別の誰かが言い放てば厭味に聞こえそうなその文言は、不思議な事に萩尾丸が発話者だと思うと、厭味どころか違和感すらなかった。言動こそ相手の神経を逆なでするようなところが目立つ彼であるが、こういうビッグマウスが似合う所も、ある意味彼の度量の大きさを示しているのかもしれない。

 サカイさんと源吾郎が戸惑ったり感心したりする中で、紅藤の息子にして古参の弟子である青松丸だけは、冷静な様子で紅藤に視線を向けた。

 

「紅藤様。この度王鳳来様から八頭怪に気を付けるよう通達が来たわけですから、ひとまずは八頭怪の特徴についてこの場でお伝えしたほうが良いのではないでしょうか。

 僕や萩尾丸さんは彼に逢ったりその姿を見たりした事がありますが、若手たちはそうはいかないでしょうし」

 

 確かにその通りね。紅藤は青松丸の言葉に頷いた。

 

「サカイさんに島崎君。一応八頭怪の特徴を伝えておくわね。相手も妖怪だから変化の術を心得ているし、衣装だってその時代その場所に応じたものになる事も可能なのよね。

 だけど八頭怪は、哮天犬の呪いを受けて以来、自分が八つの頭を持つ事を完全に隠す事が出来なくなっているの。それでも術でどうにか誤魔化しているんだけど、術でごまかした七つの頭は、鎖に繋がった首飾りに似せているわ。

 解るかしら? 小鳥の頭のような、いいえ、マリモみたいな変な()()()()()()()()()()()()を持つ相手には気を付けるのよ」

 

 紅藤の言葉に、源吾郎は返答すら忘れて瞠目するのがやっとだった。

 あの忌まわしいぱらいその一件、そのきっかけになった優待券を渡した青年こそが、紅藤が警戒する八頭怪であると、源吾郎は気付いてしまった。




 最強の妖怪って誰? と問われたら私は孫悟空と哮天犬を推します。


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鍛錬は師範の手許で続けたり

 全体ミーティングはそのまま八頭怪への注意喚起だけで終了した。源吾郎はしかし、自分が八頭怪に出くわしたであろう事を言えないまま、ただただオロオロするだけだった。

 本来ならば、師範と先輩たちのために情報を開示すべき、開示せねばならぬ事は源吾郎もきちんと解っていた。しかし八頭怪に出会った後のおのれの醜態を思うと、大人しく口を閉ざす事しかできなかったのだ。

 つまるところ、源吾郎はおのれの愚行と背信が、師範たる紅藤に悟られるのを恐れていた。

 

「それじゃあ、特に何もなさそうだからミーティングもお開きにしましょ」

 

 源吾郎が思案に暮れて目を伏せている間に、紅藤は皆にミーティングを終了する旨を伝えた。源吾郎がこれに喜び、尚且つ安堵したのは言うまでもない。王鳳来の話のせいで不穏な流れになったミーティングであったが、終わってしまえばどうという事もない。

 先輩の青松丸やサカイさんはもう既に立ち上がり、紅藤に一礼したのち持ち場に戻ろうとしていた。定まった持ち場を未だ持たぬ源吾郎であったが、ひとまず青松丸にくっついていこうと思っていた。

 源吾郎の教育係は、現在青松丸が請け負っている。諸般の事情で紅藤から手ほどきを受ける事も珍しくはない。しかしそうでない時には青松丸から雑用やちょっとした業務を教えて貰う事が常だった。

 青松丸は他の先輩たちに較べて大人しく癖のない妖物《じんぶつ》だった。生真面目すぎるのが気になるときもあるが、源吾郎は兄弟子として彼の事を認めていたし、彼に従うのもやぶさかではないと思っていた。

 

「待ちたまえ島崎君」

 

 腰を浮かそうとしたその直後、萩尾丸から声をかけられた。見れば彼はまだじっと座っている。しっかりと椅子に腰を下ろし、立ち上がる素振りは皆無だった。

 源吾郎は萩尾丸を見つめてから軽く首をかしげた。見れば紅藤も立ち上がる素振りは無い。萩尾丸に不思議そうな視線を送っていたが。

 

「島崎君の、これからの研修の話について僕から連絡したい事があるんだ」

 

 そう言うと、萩尾丸はちらと紅藤に視線を移した。

 

「長話ではございませんので、紅藤様も付き合って頂けますか」

「もちろん、私は構わないわ」

 

 突然の申し出ながらも、紅藤はこだわる事無く快諾している。萩尾丸も一番弟子・第六幹部として研究センター内での発言権は紅藤に次いで大きい。とはいえ、内容が内容だけに紅藤に同席してもらい、許可を取って欲しいと思ったのだろう。

 

「これからの研修の話、ですよね」

「その通り」

 

 源吾郎の呟きに、萩尾丸は頷いた。源吾郎は紅藤の許に弟子入りしている訳であるが、実は半年ばかり研修カリキュラムが組まれているのだ。カリキュラムによれば、四月から五月下旬までは研究センターで働く事になっていたが、それ以降は異なった部署で一、二か月間働く事となっていた。研修先は併設する工場や本部の事務所がメインらしいが、萩尾丸を筆頭とした幹部たちが抱える組織での下働きもとい研修も組み込む可能性があると、連休前に聞かされていたところであった。

 唐突に研修の事を切り出された源吾郎をよそに、萩尾丸は紅藤を見据えて話しかけていた。

 

「紅藤様。島崎君は五月下旬から一度この研究センターを離れて雉鶏精一派の部署内で研修する事になっておりますが、それを一旦取りやめて、引き続き紅藤様の監督下で修行と鍛錬を積ませる方が良いと思っているのです。

……取りやめとまではいかずとも、他部署への研修を数か月から数年先に引き延ばす、と言う内容だと考えて頂いても構いません」

 

 萩尾丸はそこまで言うと、不意に源吾郎の方に視線を向けた。

 

「そういう訳で、しばらくの間は引き続き研究センターでの内勤になるけれど、構わないかな?」

「はい……僕は問題はありません」

 

 問いかけに対し、源吾郎は素直に頷いた。萩尾丸の主張に納得したかどうかは別問題である。他ならぬ萩尾丸自身が、源吾郎がこの内容に納得するかどうかを度外視している事は肌で感じていた。ありていに言えば研修内容を変えるという萩尾丸の報告はある種の命令に過ぎず、源吾郎がそれを受け入れようが拒否しようが結果は変わらないという話だ。

 

「紅藤様はいかがお考えでしょうか?」

「別に私も、萩尾丸の考えに反対する理由はないわ」

 

 紅藤は落ち着いた調子で頷いた。萩尾丸の意見を否定はしなかったが、どことなく受動的な肯定の仕方だった。

 

「私が萩尾丸の事を、特にマネジメントや妖材《じんざい》育成の方面で信頼しているのは知っているでしょ。島崎君を手許に置いて修行を続けるべきとあなたが判断するのであれば、私もその判断には異存はないわ」

 

 何故だか解らないが、よどみない口調で告げる紅藤を見て源吾郎は安堵していた。この唐突な打ち合わせも終わりが見えてきたからだという事に、数秒ほどしてから気が付いた。

 ところが、紅藤は萩尾丸を見つめ、言葉を続けた。

 

「だけど、どうしてそういう考えに至ったかだけでも教えてほしいの。ほら、島崎君ってまだ若いし、この子の身内が用心深かったから他の妖怪たちとの交流も薄そうでしょ? 研修先ではもちろん仕事を覚えてもらうのは当然の事だけれど、同年代位の若い子たちと交流するのも大事だって思っていたから……」

「ええもちろん。温室育ちの島崎君には、是非とも若手妖怪や術者の面々とも顔なじみになって、彼らとのやり取りにも慣れるべきだと僕も思っていますよ」

 

 ただね。紅藤の意見に同調していた萩尾丸は、きりの良い所でおのれの主張を差し出そうとしていた。

 

「島崎君は幼さが、いえ若さが何分抜けきっていないと僕も感じましてね……もちろん、ただそれだけの理由で外回りの研修を無しにするのは良くないでしょうが、ある程度しっかりするまでは紅藤様や青松丸さんに任せておいた方が良いだろうと思った次第です」

「そりゃあ、島崎君がまだ若いのは私だって知ってるわ。まだ十八になったばかりですもの。生粋の人間でも若い男の子と見做されてもおかしくない年齢だし、妖狐の血が混ざっているのならば尚更だわ」

 

――やっぱり俺、紅藤様や萩尾丸先輩からは仔狐扱いなんだな

 あからさまに源吾郎は未熟者だと伝えるような師範と兄弟子を目の当たりにした源吾郎であったが、案外その心中には揺らぎはなかった。

 そもそも源吾郎は、自分が未熟者だの幼いだのと見做される事には慣れっこであった。兄姉らが実年齢よりも若々しいのは彼らにも妖狐の血が流れているからであるが、その作用は実は源吾郎にも当てはまっていた。年かさの兄姉らの場合であれば若々しさでごまかせるが、現時点で若い源吾郎の場合は若いというよりもむしろ幼いと呼んでも遜色のない話になってしまうのだ。生年月日上源吾郎は十八の青年であるが、長命な妖怪の血の作用により、実質的な成長度合いで見れば十五から十七くらいの少年と同じくらいと言っても過言ではない。

 もっとも、同年代の男子よりも若いという事実は、幸運な事に人間たちには気付かれなかった。源吾郎は早生まれの男であり、「ちょっと幼いのは誕生日が三月下旬だから」だと生徒も教師らも半ば納得していた。ついでに言えば父譲りの年齢の判然としない風貌や、兄姉の影響で耳年増になっていた事も要因の一つであろう。

 父譲りの見た目、末っ子、三月生まれ……これらは源吾郎のコンプレックスであり野望をはぐくむための原動力であったが、子供だった頃は却ってこれらの要素が人間として暮らすための助けになっていたのである。

 

「――ひとまず、研修予定先には連絡を入れておくわね」

 

 紅藤は一度ゆっくりと瞬きし、静かに告げた。彼女も王鳳来での対応で疲れているのか、若干けだるげな様子である。

 とはいえ源吾郎は今一度安堵していた。今度こそ、この話が収束しお開きになるであろう先が見えたと思ったためである。

 

「おやおや紅藤様。至極あっさりと僕の申し出を承認なさるのですね」

 

 ところが、このままだと収束に落ち着くであろう流れをかき乱したのは、発話者である萩尾丸その人だった。彼はわざとらしく目を見開き、紅藤を凝視して軽く眉を顰めたりしているではないか。

 

「承認も何も、萩尾丸の判断には私も信頼を置いているわ。確かにあなたは自分の組織運営もあるからこっちには長くは留まっていないでしょうけれど、それでもよく島崎君の事を観察してくれているし」

「紅藤様ほどのお方に僕のスペックの高さを認めていただくのは確かにありがたい事ではありますよ。ですが、いずれは僕以上に大切になる、虎の子秘蔵っ子たる島崎君の扱いについて、かくもあっさりと認めなさるとは……」

「別にもう、その話は良いじゃないですか、先輩」

 

 くどくどと説明を重ねる萩尾丸の言葉を遮ったのは、源吾郎だった。おのれが無礼な行為を働いているのは解っている。しかし萩尾丸をそのまま喋らせていたら不穏な事になりそうだと思い、ついつい口をはさんだのだ。

 叱責を予想していた源吾郎だったが、驚いたのか萩尾丸も紅藤すらも何もとがめだてはしなかった。むしろ二人とも申し合わせたように黙り込み、源吾郎の言葉を待っているようにさえ感じられた。

 

「僕は別に、お二方の意向が定まるのであれば、内勤だろうと工場勤務だろうとかまいませんよ。

――そもそも、研修のカリキュラムの決定権は、あくまでも紅藤様や萩尾丸先輩の手の中にあって、僕には発言権すらないんでしょうから」

 

 慇懃な言葉遣いながらも強い語気でもって源吾郎はおのれの考えを口にした。非礼に過ぎると気付いたのは紅藤が呆気に取られたような表情を浮かべたからだ。

 しかし、炎上トークを御自ら操る萩尾丸は別だった。彼は驚いてなどいない。むしろ源吾郎の言葉を聞き、ねちっこい笑みを浮かべただけだった。

 

「島崎君ってば、ミーティングの時はしんどそうな感じだったのに、今ではもうすっかり元気いっぱいになってるみたいだねぇ。やっぱり若い子は元気だねぇ。僕はてっきり、()()()()()()()が後を引いているみたいだから、今日明日くらいは大人しいかなって思ったんだけど」

 

 萩尾丸の笑みが、主導権を握った会心の笑みに見えてならなかった。顔面の血が引いてくのを感じながら、源吾郎は萩尾丸の術中にはまった事を悟った。承認云々の話は、何も紅藤へのお伺いではなく、話を長引かせる事で源吾郎の発言を促す事が真の目的だったらしい。そのような事に気付いても手遅れであるが。

 

()()()()()()()ですって」

 

 紅藤はつぶらな瞳を動かしながら感嘆したように呟く。疑問を屈託なく口にし問いかけようとするさまは愛らしい少女めいた仕草を伴っていたのだろう。しかし源吾郎にはその事に気付く余裕など一ミクロンもなかった。

 

「紅藤様。連休中に港町にあるぱらいそが……ゴモランの連中が摘発された事はご存じですかね」

「丁度その時は私も忙しくて摘発されたって言う報せくらいしか知らないんだけど……確か萩尾丸とあなたの部下たちも摘発に動いたんだったかしら」

 

 萩尾丸はすっと席を立つと、不気味な笑みを浮かべたまま源吾郎の斜め左に歩み寄り、そのまま源吾郎の肩を軽く叩いた。

 

「実はですね紅藤様。ぱらいその摘発時に、この島崎君も暗躍していたのですよ」

 

 実は源吾郎は、ぱらいその内容に萩尾丸が言及した時から、彼が何を言い出すのか半ば予想がついていた。しかし止める事はできない。源吾郎は演劇の才はある。しかしアドリブを習得している訳でもない。

 

「僕らもよく知っている桐谷苅藻君の命令を受けて、ぱらいそに入店したおのぼりさんを装って店の内情を調べ、摘発に踏み込んだ自警団や術者たちにガサ入れのタイミングを通達するという、非常に立派な任務を彼は果たしていたのです」

 

 まぁ、すごいわね……紅藤の無邪気な声が源吾郎の鼓膜と心臓付近をチクチクと突き刺した。萩尾丸のそれと違って紅藤は完全に源吾郎を称賛している。だがそれこそが源吾郎の心を苦しめているのだ。

 

「知らない間に、島崎君も大仕事をしていたのね。だけど気になるわね。普段の島崎君だったら、そういう大手柄を打ち立てたのならば、いの一番に私たちに自慢するんじゃあないかしら? しかも今日は、王鳳来様や親族の雪九郎様までお見えになっていた訳ですし」

「苅藻君から詳細は口外しないようにと厳命されているのですよ、彼は」

 

 紅藤の疑問に対して、萩尾丸はさも当然のように理由をでっち上げ、ごく自然な流れだと言わんばかりに解説した。嘘であると知っている源吾郎でさえ納得しかけるほどのナチュラルさである。

 しかも余計な疑問を差し挟む暇を師範に与える事なく、萩尾丸は言葉を続けたのだ。

 

「ともあれ大役を果たした島崎君なんですがね。悲しいかな、彼の仕事をやっかんだり、変に疑る輩が出てくるんですよ。中には『彼はスパイ活動をしたわけではなくて、ただ単にぱらいそのスタッフのヨイショと美少女の色仕掛けと言う接待コンボに目がくらんだだけの間抜けではないか』ですとか、『そもそもスパイ説はでっち上げられているのではないか』などと言う()を口にする面々すらいるんですね。

 そういう流言がわずかとはいえ飛び交っている中、野良妖怪に近いような面々の中に放り込んで仕事をさせるというのは僕個人としても少し不安なのですね。

 確かに、妖怪たちの中で発生した流言が七十五日ではなくならないでしょう。ですが、研究センターで二、三年ばかり真面目に働かせていれば、少しはマシなのではないかと思った次第なのです」

「……そういう事だったのね」

 

 そういってから紅藤は思案顔になり、それからさらに数秒経ってから萩尾丸の申し出を正式に承認した。

 源吾郎にとっては、非常に長い数秒間だった。

 



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天狗相手の野狐問答

 研修内容の変更という業務連絡から解放された源吾郎は、指導員である青松丸ではなく萩尾丸の許に真っ先に向かっていった。彼に言っておきたい事が出来したためである。

 

「萩尾丸先輩、少し良いですか」

 

 萩尾丸は廊下にいた。彼が通話を終えるのを見計らってから、源吾郎は声をかけたのだ。

 頬の筋肉が強い感情で痙攣するのを源吾郎は感じていた。先の煽りトークを源吾郎は非難しようと思っている。すんでのところで紅藤に真相を感づかれる事は無かったと思っているが、萩尾丸と源吾郎の言葉一つで真実があらわになってしまう所だったのだから。

 

「僕のところまでわざわざやって来るなんて珍しいねぇ島崎君」

 

 源吾郎の存在と声を認めた萩尾丸はうっすらと笑みを浮かべていた。

 

「君は今青松丸さんの許で色々と勉強しているんだろう? 僕に何か用があるのかな? 僕も僕で本部と本社に向かわないといけないから、手短に頼むよ」

 

 第六幹部であり尚且つ御自ら組織を率いる立場である事を、萩尾丸は腕時計を見せびらかしながら源吾郎に告げた。源吾郎が入社を機にホームセンターで購入した代物に較べてうんと高価そうだった。

 

「萩尾丸先輩は、全くもって良い性格の持ち主ですねぇ」

 

 言葉だけを素直に受け取れば、源吾郎は萩尾丸を褒めているように捉える事も可能であろう。源吾郎はしかし、この言葉に目一杯の皮肉を込めていた。

 源吾郎自身はプライドが高くついつい尊大な言動になってしまう事はあるが、好んで皮肉を口にするような手合いではない。しかしながら、今回ばかりは萩尾丸に皮肉を言ってやりたいと思ったのだ。何しろ彼は、ぱらいそでの源吾郎の不祥事を紅藤に告げようとニヤニヤしていたようなものなのだから。

 

「おやおや島崎君。この連休中で、いや王鳳来様や雪九郎様に出会ってから精神的に成長したみたいだねぇ」

 

 萩尾丸は源吾郎の皮肉をものの見事にスルーした。それどころかやや大げさに両腕を広げ、晴れやかな笑みを浮かべて逆に源吾郎を褒めるような言葉を口にしたのだ。

 萩尾丸には皮肉は通じなかった。聡い彼の事だから、稚拙ながらも源吾郎が皮肉を言い放った事には気付いているだろう。気付いたうえでこの態度、皮肉に皮肉を重ねる態度に出たとしか、源吾郎には思えなかった。

 

「君ってば事あるごとに『俺は凄いんだから褒め称えろ』みたいなアピールをかましてきたけれど、遂に君以上に優秀な存在がいる事を認めてくれたんだね。いやはや、兄弟子として教育した甲斐があるよ」

 

 先輩は俺の教育指導に関与していましたっけ……? そんな疑問が脳裏をかすめたが、源吾郎はツッコミを入れたりはせず萩尾丸を見上げていた。萩尾丸が教育指導に関わっていたかどうかは今回問題ではない。

 

「別に僕は、先輩を褒めるためだけに呼び止めたんじゃあないですからね」

「それもそうだろうねぇ」

 

 源吾郎の声には鋭さが混じり始めていたが、やはり萩尾丸は動じない。

 

「萩尾丸先輩、先程の研修カリキュラムの変更の件ですが、別に連休中の事までわざわざ言及しなくて良かったんじゃあないんですか?」

「どうしてそう思うの?」

 

 源吾郎の主張に対して質問で返す萩尾丸の瞳はあくまでも澄み切っていた。腹黒く炎上を容易く行う大天狗であると知っているのに、純粋な好青年と相対しているような気分になり、源吾郎は思わず首をひねっていた。

 

「どうしてもこうしても、話す必要なんてないじゃないですか。僕には先輩が決めた研修内容を拒絶する権利すら無い訳ですし、紅藤様も萩尾丸先輩の事を信頼なさっている訳ですよね。それならば、わざわざクドクドと詳細を話さなくても良かったはずですが」

「詳細も何も、僕は君が連休中に立派な活躍を行ったと言っただけだけど」

 

 そう言い放つ萩尾丸の面は既に笑みで歪んでいた。

 

「紅藤様の仰る通り、後ろ暗い事が無いのならそんなに変におどおどしなくても構わないだろう。君は単に、苅藻君の命を受けて動いただけなんだから」

 

 それは真実とは違う。源吾郎はそう思ってしまったから、萩尾丸の言葉に頷けなかった。そこで頷けばうやむやになったままにできるだろう。しかしそれは源吾郎の望みでもなかった。

 そもそも自分が何を望んでいるのか。それを見失いかけるほどに源吾郎は困惑していた。恥をかかされたから萩尾丸に反駁したかったが、真実が明るみになるのも怖かった。今この廊下には紅藤がいないからバレないだろう、と言う考えは通用しない。紅藤は様々な術を知っている。術で眼を培養して、監視カメラの代わりに使う事もあるくらいなのだ。うかつな事を口にすれば、それこそ筒抜けになってしまうだろう。

 萩尾丸は、黙って源吾郎を見下ろしていた。源吾郎が心中に抱く逡巡を目ざとく見抜いていたらしい。

 ややあってから、彼は優しげな笑みを見せた。

 

「紅藤様に本当の事が露呈するのを君はひどく恐れている……だからこそこの僕に執拗に咬みついてきたんでしょ? だけど安心すると良いよ」

 

 萩尾丸の最後の言葉を耳にした源吾郎は、はっとして視線を上げた。優しく穏やかな笑みを浮かべる萩尾丸の事を、源吾郎はこの時初めて感じの良い好青年だと心の底から思った。萩尾丸は、研究センターの中ではぱらいそでの一件を知る唯一の存在だ。

 安心すると良い。その言葉は源吾郎を庇い立てるための文言なのだろう。

 ありがとうございます。心からの感謝を示そうとした源吾郎に対し、萩尾丸は笑みを浮かべたまま言い添えた。

 

「――本当の事を言えば、紅藤様は()()()()()なのだよ」

「え、そんな――」

 

 ショックで倒れるのではないか、と言う考えが源吾郎の脳裏をよぎったがそんな事は無かった。だが倒れる事を考えるほどには衝撃的だった。

 

「とはいえ、紅藤様は直接君を叱責するつもりはないみたいだね。君にとってはありがたいかもしれないし、もしかしたらなすべき事を放棄しているだけに思えるかもしれない。別にあのお方は、師範としての務めを投げ出した訳でもなければ、君の心中を慮って敢えて何も言わない訳でもない。あのお方は、紅藤様は君の事を弟子としてあの方なりに愛しているのは真実だよ。しかし――あのお方には自分の弟子が傷つくであろう事が耐えられないだけなんだ。まぁあれだ、ちょっと身勝手な理由かもしれないね」

 

 源吾郎はぼんやりと萩尾丸の話を聞いていた。紅藤が知っている事、紅藤が怒らない事、怒る事で源吾郎を傷つけないか気にしている事……そこまで考えている間に、源吾郎の脳裏にある考えがひらめいた。

 源吾郎は半歩ばかり近付き、萩尾丸を見上げた。その顔には先程まで浮かんでいた怒りや逆恨みの色はない。純粋な称賛の色だけが、源吾郎の面に浮かんでいるだけだった。

 

「申し訳ありません萩尾丸先輩……紅藤様の優しさをくみ取って、敢えて汚れ役を担っていたなんて今の今まで見抜けませんでした」

「いや別に、僕が君をいじっているのはそういう役割もあるけれど……それ以上に面白いからやってるだけなんだけどなぁ」

 

 萩尾丸はちょっと呆れたような表情を浮かべると、源吾郎の肩をそっと叩いた。

 

「さてどうするんだい島崎君。紅藤様に洗いざらい告白するんだね?」

 

 この問いに源吾郎は素直に頷いた。

 

 

 萩尾丸の宣言通り、源吾郎はぱらいそでの一件を紅藤に話した。虚構の話ではなく真実の話の方をだ。紅藤は多少は驚いた様子を見せていたが、萩尾丸の言葉通り怒り出したり叱責したりする事は無かった。ただ、薬物汚染を辛うじて免れた所ではひどく安堵した様子を見せていたし、八頭怪の話が出た時には、不安の色をその瞳に映し出していた。

 

「……島崎君。もしよければ研究センターに寝泊まりしたらいかがかしら」

 

 研究センターに寝泊まり。紅藤の言葉に源吾郎は目を丸くした。併設する工場に勤める妖怪たち術者たちの中には、近所の社員寮に暮らす者もいるという。研究センターも紅藤や青松丸が寝泊まりしたり居住区があるという話はうっすらと聞いていた。

 しかしまさか、源吾郎自身が研究センターやその居住区で寝泊まりするようにと提案されるとは思ってもみなかった事柄だった。

 

「八頭怪にも目を付けられているかもしれないから、そうなったら私の管理下……いえ目の届く所にいた方が島崎君も安心かなと思ったの」

「…………」

 

 ひな鳥の身を案じる親鳥のような眼差しを受け、源吾郎はどう答えるべきか考えあぐねていた。紅藤の近くに居を構えた方がいざという時の安全度が高まるのは事実だ。しかし源吾郎とてアパート暮らしに馴染み始めた所だ。と言うよりも、短いひとときとはいえ誰にも干渉されない牙城は手放せない。そうでなくても紅藤はプライバシーの概念をガン無視するようなお方なのだ。研究センターで暮らすのは安全かもしれないが、引き換えに失うものが大きすぎると源吾郎は感じていた。

 そのような逡巡は紅藤と傍らにいる萩尾丸には十分に伝わっているようだった。

 

「大丈夫よ。私たちは砂風呂だからお風呂もお湯のお風呂とかも用意できるし、島崎君が急な病気や事故で大変なとき以外は術で監視しないようにしておくから」

「ま、まぁ……考えておきますね」

 

 気のない返事を返した源吾郎だったが、紅藤はやはり朗らかに笑うだけだった。

 

「まぁ紅藤様。しばらくの間は島崎君もアパート通いで良いんじゃあないでしょうか。まだ若いし色々あるでしょうけれど、それなりにタフですから」

「それも、そうね」

 

 萩尾丸の言葉に紅藤はさも納得したように頷いている。

――ああ、やはり強くなるための道は険しいのだろうな。遠くから聞こえるホトトギスの鳴き声に耳を傾けながら、源吾郎は密かに思ったのだった。



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第五幕:源吾郎、アイドルな使い魔を得る
昼下がりの業務風景


 カクヨム版ではこのお話から第二部に当たります。


 連休明け初日の業務自体は、淡々と終わっていった。ミーティングや王鳳来の来訪などで午前中は何かとバタバタしていたのだが、午後からは当初の紅藤の言葉通り、特に急ぐことも何もなく、のんびりと各自のペースで物事を進められた訳である。

 

 そんな中、源吾郎はあてがわれたデスクトップパソコンの画面を睨みつけ、ややおぼつかない手つきでキーボードを叩いていた。

 普段ならば源吾郎は雑務を行うか師範の監督下で鍛錬を行う所であるが、このパソコン作業はどちらにも該当しなかった。

 

 源吾郎が今取り掛かっているのは所謂始末書の類だ。簡単な話である。ぱらいそでの一件について、原因と対策を書くように命じられたのだ。A4の用紙に一、二枚程度の分量である。文字数で言えば原稿用紙数枚程度の代物だ。下手を打てば、夏休みの課題で行われるような読書感想文よりも少ない分量かもしれない。

 源吾郎はしかし、始末書の作成に手間取っていた。既に始末書に取り掛かってから二時間は経つが、完成には至っていない。厳密には何度か書き上げていた。しかしうまくまとまっていないと言われ、突き返され続けていた。後で気付いたのだが、最初に書いた始末書は幾分詩的な文章だったのだ。解りやすく、短い文章で書けば良いのよ。紅藤はそう教えてくれたが、源吾郎にはいささか難しいものだった。

 

「大丈夫かい、島崎君」

 

 源吾郎に優しく質問を投げかけたのは青松丸だった。風貌やひょろりとした体格は紅藤とは似ても似つかないが、こちらを静かに見下ろす眼差しは紅藤に似ている。

 

「始末書を書いて紅藤様に提出するように言われているんですが、中々難しくて……」

 

 源吾郎は少し居住まいを正し、問いに応じた。ぱらいその一件にて落ち込み半ば寝込んでいた源吾郎だったが、不思議な事に紅藤の前でその件を白状した後は大分気分も具合も良くなっていた。

 昼食にと妖怪向けスーパーで購入した炒り卵のサンドイッチとカットチーズが美味しかったからだろうと源吾郎は概ね考えていた。だがもしかすると、保持していた秘密を暴露した事も少しは関与しているのかもしれない。

 

「作文を書くみたいにクドクドと書いてしまったら駄目って言われたんだよね」

「はい……」

「そうだね。始末書は組織培養液のプロトコールみたいに、要点だけを絞って書いたらいいんじゃないかな」

「…………?」

 

 プロトコールは何度か目を通した事がある。だがどんな内容だったかすぐに思い出せなかった。源吾郎が思案していると、青松丸が小さく声をあげてから言い足した。

 

「ああごめん、プロトコールは君にはまだそんなに馴染みのないものだったかな? そうだね、料理のレシピ本みたいな感じだと言ったら……」

「めっちゃ解ります!」

 

 源吾郎は今度はやや食い気味に応じた。レシピ本であれば、最近は少しご無沙汰であるが源吾郎にも馴染み深いものだったからだ。源吾郎はある程度は料理ができる男だった。

 実家では、母の三花は息子らや娘にも料理を分担し、場合によっては丸々担当する事を強く推奨していた。そのような状況下もあり、源吾郎もごく自然に料理の手腕を身に着けていたのである。もちろん、「料理のデキる男はモテる」と言う情報も源吾郎の料理習得に拍車をかけていた。

 ともあれ源吾郎は、青松丸の助言を受け、どのような始末書にすべきかの指標を得る事と相成った。ありがとうございます! 源吾郎が元気よく礼を述べると、青松丸は穏やかな笑みを浮かべながら静かに去っていった。

 

 

 

「ありがとう島崎君。良く書けているわ」

 

 終業時間五分前。紅藤は源吾郎が提出した始末書を快く受け入れてくれた。リライトを何度か繰り返し、時々青松丸やサカイ先輩の助言を得て作った代物である。やはり文字数は原稿用紙一枚にも満たないが、源吾郎の中ではやはり大仕事だった。

 いつもの落ち着いた笑みを見せる紅藤を前に、源吾郎は軽く息を吸い、おのれの為すべき事と定めた事柄を口にした。

 

「紅藤様。僕はこれから――八頭怪の討伐について案を考えます。良案が思いつけばすぐに報告いたしますので」

「そんな、無理をしちゃあ駄目よ」

 

 勢いごんだ源吾郎の宣言を、紅藤はにべもない様子で切り返すだけだった。

 

「そりゃあ、島崎君も今回の一件で責任を感じているのは私にも解るわ。だけど、一朝一夕で敵う相手でもないでしょうし……」

 

 それとも何か、私にも思いつかないような案があるのかしら? 紫色の瞳を見つめながら、源吾郎はあいまいに首を揺らすだけだった。

 確かに自分が勢いだけで発言してしまった事は解っている。しかも源吾郎は戦略どころか戦闘の経験すら乏しいのだ。

 

「かの有名な哮天犬様でさえ手傷を負わせるのがやっとだったのよ。敗走させるだけならばまだしも……」

「紅藤様ぁ、島崎君が折角ヤル気を出したのに、それを削ぐような事を言わなくても良いじゃないですかぁ」

 

 間延びした、しかし聞きなれた声が源吾郎達の耳朶を打つ。見ればスーツ姿の萩尾丸が佇立していた。疲労の影をその営業スマイルの裏に隠し通そうとしている。そんな感じだと源吾郎は思った。

 

「おかえりなさい萩尾丸。本部での打ち合わせは長引いたのね。それともあなたの本社の方かしら?」

「本社の……金色の翼での打ち合わせなんざ長引かないさ」

 

 萩尾丸はやり手営業マンよろしく微笑み、軽く首を振った。

 

「長引いたというかてんやわんやだったのは雉鶏精一派の本部の方さ。何しろ、王鳳来様がお見えになったんだからね。ですが、やはり峰白様も胡琉安様も特段うろたえてはいなかったですね。むしろ胡琉安様などは、大叔母様などと言って喜んでおられましたよ。

――とはいえ、あのお方がもたらした八頭怪の話に、幹部連中はうろたえてはいましたが」

「それはもちろんそうよ。そういう事もあるだろうと思っていたから、こっちに控えておいて良かったわ」

 

 紅藤が茶目っ気溢れる笑みを浮かべているのを、源吾郎はのっぺりと眺めていた。彼女が権力を欲せず、また幹部同士のやり取りにうんざりしている事は既に源吾郎も知っている。だからこそ、程よく組織を運営できる萩尾丸を重宝し、彼に対外的な事柄を任せているのだ。

 

「八頭怪の動向については、特に第五幹部の紫苑様がお気になさっていましたよ」

 

 萩尾丸が幹部の名を出した時、紅藤がぐっと目を見開いたのを源吾郎は見た。八頭衆の面々はさほど覚えていない源吾郎だったが、紫苑と呼ばれる妖怪の事は記憶の中にあった。印象的な存在だったからだ。峰白、紅藤と続く女性幹部の一人であったし、何より頭目の胡琉安の遠戚であるという事なのだから。

 

「八頭衆の中では、紫苑ちゃんが血統的に一番胡琉安様に近いもの。ある意味従姉弟同士だし、そりゃあ不安になるのかもしれないわ」

 

 紅藤の言葉は萩尾丸のみに向けられていた事は明白な事だった。第五幹部と胡琉安の関係性を知らない源吾郎の事をガン無視したような内容だった訳であるし。

 しかし紅藤は怪訝そうな源吾郎の眼差しに気付くと、照れ笑いのような表情でもって源吾郎に向き直った。

 

「あ、ごめんね急に内輪の話なんかやっちゃって……紫苑ちゃんの、いいえ八頭衆のメンバーたちの来歴とかは、また今度じっくり教えてあげるわ」

「そんな事よりも、島崎君」

 

 紅藤の言葉に頷きかけた源吾郎を見つめ、萩尾丸は声をかけた。その面には満面の笑みが浮かんでる。

 

「八頭衆の事に思いを馳せるよりも君にはやるべき事がたくさんあるんだよ。手始めとして、また戦闘訓練を再開しよう。今度は野柴君以外にも志願者がたくさん出ているから、週一、二回のペースでできそうだよ」

 

 戦闘訓練。この単語に源吾郎は軽く震えたが、それでも頷くほかなかった。 



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変化術ココロを照らす鏡なり

 萩尾丸が従える若手の弱小妖怪たちと闘うという戦闘訓練を再開すると聞いたのは昨日の事であった。源吾郎がその報せに震えたのは、何も初めての始末書を書いてクタクタになっていたためだけでもなかった。戦闘訓練と聞いて、脳裏に珠彦と闘った時の事を思い出したためである。口には出さなかったが、ああいう闘いが怖いと、源吾郎は思ってしまっていた。もしかすると、ぱらいそでの一件があったから、気弱になっていたのかもしれない。

 

「――何、そんなに気構える事は無いよ」

 

 黙って心の動きを隠し通そうとする源吾郎を見下ろしながら萩尾丸は笑った。眼力鋭い彼には、源吾郎の心中など手に取るように解っていたようだ。

 

「前回とは趣向を変えているから安心したまえ。前みたいなガチのデスマッチ形式は当分おあずけだよ。君もまだああいう戦闘には不慣れのようだし、そもそも『小雀』の面々も、デスマッチ形式は嫌がるからね」

 

 小雀に所属する妖怪たちの大多数は、源吾郎の保有する妖力の多さと突発的な火力の強さに一目を置き、恐れをなしている。萩尾丸に指摘され、源吾郎は初めてその事に気付いた。闘いが始まる前に勝負がついている事もあるのだとも萩尾丸は言っていたが、そちらは抽象的すぎて源吾郎にはピンとこなかった。

 

「しかし、自身の得意分野を競うような、いわば術較べだったら参加しても構わないって彼らは言ってたんだ。変化術とか、箱の中に隠した物品を探し出すとか、火術とか、結界術とか……まぁ君や彼らが知っている、もろもろの術だね」

「なるほど、そういう事だったんですね」

 

 源吾郎は得心が言ったという表情で頷いた。その顔からは不安の色は失せていた。術較べなら何となく予想がつく。同じ系統の妖術を扱い、どちらがより巧いかを競うのだろう。それなら楽しそうだと源吾郎は単純に思った。

 

「もちろん、そういう種類の訓練ならば私も賛成よ、萩尾丸」

 

 紅藤はデスクの上に源吾郎の始末書を置いてから萩尾丸を見やった。口許にはうっすらと笑みが浮かんでいる。

 

「術較べでしたら、前のデスマッチ形式に較べればうんと安全性も高いですものね……島崎君は言うまでもなく、対戦相手の子に何かあれば申し訳ないから」

 

 源吾郎のみならず相手の妖怪をも心配している所が紅藤らしい。萩尾丸の部下であるから余計に気になるのかもしれない。

 

「それに島崎君は思っていた以上に根性のある所を見せてくれたからね。気骨のある妖怪は伸びしろがあって是非とも飼い馴らし……いや弟分として可愛がるのにうってつけだけど、何分無理をしがちだからねぇ」

 

 萩尾丸は口許に笑みを浮かべ、源吾郎に視線を送る。

 

「野柴君との戦闘訓練で君が苦戦する事は予想していたよ。しかしまさか倒れるまで頑張ってくれたのは予想外だったね」

 

 さも驚いたという素振りを見せたが、相変わらずニヤニヤ笑いを浮かべていて空々しい。源吾郎は軽く鼻を鳴らし、射抜くような視線を投げ返した。

 

「そうでしょうとも。僕が萩尾丸先輩の想定を超えるほどの頑張りを行ったのは事実でしょうね。何せ僕が珠彦、いえ野柴君にフルボッコにされるだろうって予想なさっていたんでしょうから」

「それは半分正しくて、半分間違っているかな」

「…………?」

 

 意味深な言葉に首をかしげると、萩尾丸は言い添えた。

 

「確かに君が手も足も出ずにフルボッコにされる可能性も考えていたんだ。だがね、そうなる前に君が『今日は具合が悪かったんだ』とか『本気のコンディションじゃあない』とか言って途中で試合を放棄する可能性も僕の中にはあったんだよ」

 

 源吾郎が呆然としていると、萩尾丸は笑みを崩さぬまま続けた。

 

「小雀のメンバー同士でもタイマンの戦闘訓練をやっているんだけど、負けそうになったのをごまかす手合いはいるにはいるんだ。それに君の並々ならぬプライドの高さは僕も知っていたからね。自分よりうんと格下の野柴君に地力で負けたという事を皆に知られるのは、()()()()()()()()には出来ないだろうと思っていたけれど、どうやらそれは僕の見当違いだったという事だね」

 

 源吾郎は反駁する事もなく玉藻御前の血の貴さを説明する事もなく、ただただ呆然と萩尾丸の顔を凝視するだけだった。

 血統に起因する源吾郎のプライドの高さは、源吾郎自身もよく把握している。しかしだからこそ、萩尾丸が指摘したような行動に驚いていたのだ。

 

 

 地下訓練場での鍛錬は連休明け二日目から開始された。これは半ば源吾郎が志願したものであり、やる気満々の様子を見せている所に紅藤も少し驚いているようだった。

 ちなみに今週の金曜日に控える術較べの題目は変化術である。変化術で表出させたモノ同士を闘わせるという至ってシンプルな内容だった。あつらえたような題目に源吾郎が喜び勇んだのは言うまでもない。変化術は幻影を表出させるものも含めて源吾郎の得意分野だ。しかも柴犬の幻影をけしかけた事で珠彦との試合に勝利している実績もある訳だし。

 

「グルルルルルッ」

「ブモッ、ブモォォォォッ」

「ビィイイイイイイッ」

 

 訓練場の真ん中で三種の咆哮がこだまする。紅藤はもとより源吾郎もその声を耳にしつつも驚く素振りは無い。むしろ源吾郎などは下膨れ気味のその面に会心の笑みを浮かべていた。異形めいた、異形そのものの恐るべき咆哮のあるじは、他ならぬ源吾郎が作り出した幻影たちである。

 さも満足げな様子で、源吾郎は表出させた幻影を見つめた。この度彼が表出させたのは三体の異形である。

 一体は銀灰色の毛皮と額からせり出した鋭い角が特徴的な巨狼である。

 一体はがっちりとした体躯に戦斧を両手に持った豚の頭を持つ亜人。

 一体は黄金色の鱗と虹色に淡く映ろう被膜の翼をもったドラゴンだった。

 いずれも妖怪と言うよりもむしろモンスターに近い風貌と種族であったが、特段源吾郎は気にしていなかった。モンスターと妖怪の区別は妖怪たちとモンスターたちの世界ではあまり厳密ではないのだ。

 

「おっしゃあ。こいつらめっちゃ強そうやん」

 

 源吾郎は満足げな様子で三種のモンスターたちに近付いていく。表出したばかりの彼らは咆哮を上げた以外は全くもって大人しい。それも源吾郎の表出した幻影である為だ。

 変化術で表出した物品・生物に見えるモノたちは、術の発動者の意思に従って動く代物だ。従って、いくら自分よりも強く恐ろしげであったとしても、自分を害する恐れはないという事である。事実源吾郎は特段幻影たちに何も指示を下してはいないが、それぞれ互いに頭を下げて恭順の意を示している。

 

「中々大層な術が使えるのね、島崎君」

 

 興奮に頬を火照らせている源吾郎に声をかけたのは紅藤だった。先程まで少し離れた所で術の発動を見守っていた彼女だったが、今は顕現した幻影たちに興味を持ったと見えて、こちらに向かって歩み寄っている。

 

「紅藤様もそう思われますよね。今度は僕たち自身じゃあなくて、幻影同士を闘わせるって事なので、出来るだけ強そうなのを用意してみたんです」

 

 あ、でも……とある事を思い出して源吾郎は首をひねる。

 

「ですがまた、今回も対戦相手は誰か聞かされてないんですよね」

「その方が良いかもしれないって萩尾丸が思っているのでしょうね」

 

 源吾郎のやや不満めいた言葉に紅藤は笑みをたたえて説明をした。

 

「島崎君にしてみれば、相手がどんな子かその時に判った方が地力が出せるとか、そういう事じゃあないかしら」

 

 紅藤は源吾郎やモンスターたちの幻影から二、三メートルばかり距離を置いたところで歩を止める。言い終えた時には彼女の視線は源吾郎ではなく幻影たちに向けられていた。

 

「ねぇ島崎君。ちょっとその子たちをよく視てみたいの。だからちょっと協力してくれるかしら?」

「は、はい……」

 

 気の抜けた返事が終わるや否や、一角の巨狼がのそりと動いた。虎ほどの大きさの、それも鋭利な武器を額に持つ猛獣を前に紅藤は余裕の笑みを浮かべている。むしろ巨狼の方が紅藤を前に緊張しているようだった。いや違う――巨狼の表情は源吾郎自身の感情の発露なのだ。妖狐や狸たちの使う幻術は、使い手の意のままに動き、そして使い手の心のうちを反映させる。そう言う術なのだ。

 紅藤の手前で巨狼は誰に言われるでもなく伏せた。頭部の角で相手を損ねないよう、わざわざ首を斜め横にねじっている。

 そうしてやって来た巨狼に対して、紅藤は半ば無遠慮な様子でその頬を両手で撫でていた。不意打ちで歯向かう事もなければ唸り声を上げる事もない。巨狼に較べれば、人間の、それも小柄な女性に化身している紅藤は大分とちっぽけな存在に見えた。だがそれでも巨狼は紅藤に完全に服従していた。あるじの源吾郎がそうだからだ。

 紅藤は見分を行い、幻影である巨狼と使い手の源吾郎はそれを受け入れた。彼女の、巨狼の頭部や背中に触れる手の動きは、単なる撫でる行為とは違っているように見えた。それこそ、手指の皮膚やその下に蠢く神経を駆使して、巨狼の内側を精査しているような気さえしていた。

 

「もう良いわ」

 

 紅藤がそういったのはたっぷり五分ほど巨狼を見分してからの事だった。尻尾の房に這わされた手指が離れるのを悟ると、巨狼は立ち上がって源吾郎の許に戻っていった。豚頭の亜人と金色のドラゴンが巨狼を不安げに見つめている。

 

「見栄えは良いわ。だけど気になる所が幾つかあるの」

「一体何が気になると仰るのですか、紅藤様」

 

 紅藤の含みある言葉に源吾郎が食って掛かる。犬が虚勢を張って吠えるような仕草を見せる源吾郎とは裏腹に、巨狼は恥じ入ったように伏せたままだ。

 

「まずはその角ね。きっと相手を突き殺す武器なのでしょうけれど……その位置とその角度にあるのならむしろ生活に不便だわ」

「…………?」

「今さっき、その子が私の許に近付いた時に、わざわざ首を曲げて角が私に刺さらないようにしたでしょう? 私自身は多少刺さっても問題はないけれど、これがもし他の仲間や家族に近付こうとしたならば、中々不便を強いられると思ったの。

 もちろん、対面するのを避けて、真横に並ぶとか斜めからゆっくりアプローチするとかがあるんでしょうけれど」

 

――紅藤様は何を仰っているのだろう? 大いなる疑問を抱えながら源吾郎は彼女を見つめていた。難しい言葉を使っていないので、彼女が言った事そのものを理解できない訳ではない。だが何故そんな事を言ったのか、意図が読めなかった。

 ぼんやりと意図を探っているその間にも、紅藤が質問を投げかける。

 

「島崎君。この子は外観的には狼に見えるのだけれど、狼で良いのかしら」

「ええ、もちろん」

 

 何処からどう見ても狼にしか見えないはずなのだけれど。心中でぼやく源吾郎と巨狼を交互に見やりながら、紅藤は言葉を続ける。

 

「狼、狼のつもりだったのね。見た目に少しだけ違和感があると思ってチェックしてみたら、骨格はむしろ狐に近かったわよ。そりゃあもちろん、狐の近縁種であるタテガミオオカミもいるでしょうけれど……狼を作ったのに骨格は狐になっちゃったのね」

「…………紅藤様。まさか今回の変化術って、そういう正確さも競う内容になるのでしょうか」

 

 先程まで火照るほどに紅潮していた源吾郎の頬は、今や少し青ざめているほどだ。紅藤の、優しいが容赦のない指摘を受けた源吾郎は、憤慨するよりもむしろ不安を抱き始めていた。そりゃあもちろん細かい所を……と思いはしたが。

 ところが、源吾郎の問いに対して紅藤は首を振るだけだった。その顔にはうっすらと苦笑いさえ浮かんでいる。

 

「いいえ。多分単純に変化術で出した幻影の強さを競うだけでしょうから、変化術そのものの精密さを萩尾丸や対戦相手の子が重要視するわけではないと思うわ。

 ただ、さっきの指摘は私個人が気になった事を勝手に口にしただけよ。島崎君も知っている通り、私は生物学の方面に少し知識があるから、どうしてもそういう部分が気になってしまっただけでね」

「それなら少し安心しました」

 

 源吾郎はそう言うと、おのれの作った巨狼の背を撫でた。狐の骨格を持つという事だが、骨格の違いどころか背骨の感触さえ源吾郎には良く解らなかった。



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化け較べ大は小を兼ねるのか

「うーむ……案外奥が深いんだなぁ」

 

 木曜日の夜。源吾郎はアパートの一室でイヌ科獣の骨格写真を眺めていた。平面の写真であるから現物を目の当たりにしているのとは少し違うであろう。とはいえ勉強にはなるものだ。源吾郎はおのれの知的好奇心を満たす密かな喜びに意識を投じていた。

 ローテーブルの上には源吾郎が今開いているものとは別の本も五、六冊ばかり積まれていた。叔父から貰ったナンパの指南書や、こっそりと読む大人向けの漫画や書籍などではない。生物学や民俗学、妖怪学に類されるような雑多な書籍たちである。

 今読んでいる骨格図鑑と同じく、いずれも図書館で借りたものだった。源吾郎自身も実家から自分の本をいくらかこの根城に持ち込んでおり、蔵書数は一人暮らしにしては多い方であろう。しかしながら書籍の傾向の偏り具合が中々烈しい事に気付き、仕事終わりに急遽図書館に駆け込んだ次第である。

 源吾郎は読書家であると自分の事を思った事は無い。しかし同年代の若者に較べればはるかに活字・読書に慣れている事もまた事実だった。それもやはり家庭環境の影響によるものであろう。学者である父と永い年月を生きる半妖の母は書物を愛好していたし、その影響下にあった兄姉らは言うまでもない。ともあれ源吾郎は自身の知らぬ内容を補完するという手段として本を開き、そこに記された内容を得ようとしていた。本を読めと両親に言われた事は無い。むしろ逆に、この本は読むなと制限されたくらいである。

 しばらく骨格を眺めていた源吾郎だったが、時計に視線を走らせると、本を閉じて布団の中に入っていった。明日は戦闘訓練である。前回のようなデスマッチではないにしろ、きちんと休んでベストコンディションを保っておいた方が良いに決まっている。

 

 眠っている間に、源吾郎は珍しくはっきりとした夢を見ていた。彼はパステルカラーの花が咲き誇るお花畑に訪れていた。夢の中で彼はひとりきりではなく、お供として幻術で作った三匹のモンスターがいてくれた。源吾郎は角を生やした狼の上にまたがっていたのだ。前方を戦斧を持つオークが護り、しんがりに虹色の翼をもつドラゴンが配置していた。色々な意味であるじを護るように動いていた三匹だったが、源吾郎たちの旅路は殺伐としたものではなくむしろピクニックのようなものだった。源吾郎は時々狼から降りて、花を摘んだり蝶々を追いかけたりしていた。遠足を楽しむ子供のような無邪気さを、夢の中でも源吾郎は発揮し、三匹の異形はそんなあるじを見守っていた。

 道中で可愛らしい娘を見かけたが、残念ながら彼女らはそれこそ幻で、近付いて手を伸ばそうとすると姿を消してしまった。

 これらの夢で特筆すべきは、今再び九尾様に遭遇した事である。九尾様は草原の一角、草も花も生えていない丸い地面が露出した場所にたたずんでいた。相変わらず顔つきや詳細な風貌は判らない。しかし以前出会った九尾様その妖であろうと源吾郎は確信した。銀白色の毛並みを見たからではない。彼自身が持つ、妖狐としての本能が下した判断だった。

 

「九尾、様……」

 

 源吾郎は声を張り上げ、巨狼から降り立った。九尾様に対する畏怖と憧れの念は三体のモンスターたちにももちろん伝わっていた。降り立つ前に巨狼は伏せのポーズになっていたし、他の二体も紅藤を前に見せたような、それ以上に畏まった態度を取っていたのだ。

 

「また君に会ってしまったね……」

 

 落ち着いた声音で告げる九尾様を、仔狐のような心持で源吾郎は見上げていた。夢の中とは言え九尾様に出会った事を源吾郎は素直に喜んでいた。ところが九尾様は残念ながら、源吾郎と顔を合わせて戸惑っているような、困っているような感じであった。

 九尾様の思惑は解らない。だが彼にも彼の事情があるのだろう。そう思うのがやっとであった。

 

 

 変化術を行使した術較べの訓練も、やはり屋外で行われる事が決まっていた。出社するなり源吾郎は訓練着に着替えるように命じられ、紅藤や青松丸の指示に従い会場へと向かった。会場は研究センターの敷地内、かつて源吾郎と珠彦がデスマッチを行ったあの場所だった。

 但し、初めて戦闘訓練を行った時といくらか異なった様相を見せている。かつて紅藤が青草を焼き払った一角は何事もなかったかのようにまた青草が茂っている。今回も萩尾丸の部下と思しき若手の妖怪が集まっているが、その数はかなり少なかった。多く見積もっても十名程度であろう。女子たちは三人程度であとは男子ばかりだ。男子連中のうちの一匹は、淡い金色の毛皮を持つ妖狐の本性をあらわにした状態で鎮座している。

 

「おっす、久しぶりっす島崎君!」

「うっ、おぅっ……」

 

 対戦相手は誰だろう。そう思っていた源吾郎の許に元気よく向かってきたのは野柴珠彦だった。源吾郎を見据えるその顔には、純粋な喜びと親しみの念が溢れんばかりに浮かんでいた。

 

「久しぶりと言っても、せいぜい一週間前に会ったばかりじゃないか」

「まぁそうっすけど……」

 

 源吾郎が指摘すると、珠彦は言葉尻を濁した。喜びに輝く瞳の奥に、別種の感情の光が灯るのを源吾郎は見た。

 

「前リンと一緒に会った時、とっても疲れているみたいだったから……本当は心配だったんすよ」

 

 しっかとこちらを見つめる珠彦を見つめ返した源吾郎だったが、数秒も待たずにそっと視線を斜めに落とした。ほぼほぼ同年代、何となれば弟のようにも思えていた妖狐の少年に、こうして心配されるのが気恥ずかしかったのだ。

 いや、珠彦が源吾郎を友達と見做しつつも弟分のように思っているであろう事は知っている。純血の妖怪である事もあるが、珠彦の方が実年齢は源吾郎の三倍強はある。それに何より長男である珠彦は、なんだかんだ言いつつも弟妹の扱いに慣れている訳なのだから。

 しかし気恥ずかしさにすねてばかりいてもいけない事は源吾郎とてきちんと心得ている。すぐに珠彦に視線を戻すと、敢えて笑みをイメージしながら口許を緩めた。

 

「心配してくれてありがとうな、タマ……いや野柴君。流石の俺も連休中は大活躍だったからさ、あの時はちょっとクタクタになっていたんだ。

 むしろ何というか申し訳なかったなぁ。わざわざ二人で遊びに来てくれたのに、不愛想な対応をしてしまってさ」

「別にそんなの気にしてないっすよ。ともかく、島崎君が元気そうで良かったっす」

 

 屈託なく笑う珠彦の背後で、二尾が烈しく揺れていた。妖狐の尻尾は妖力の貯蔵庫であるが、ああしておのれの感情をあらわにする時にも十二分にその効果は発揮されるのだ。プロペラよろしく跳ね回る尻尾は、珠彦の強い喜びを存分に物語っていた。ある意味彼らしいと言えば彼らしいだろう。

 安心し喜ぶ友人を前に安堵した源吾郎だったが、若手妖怪たちの監督者たる萩尾丸がこちらを見ている事に気付き、表情を引き締めた。友誼を結んだ間柄とはいえ、戦闘訓練の前にうら若い珠彦と共にじゃれ合っている所を見られたのは何とも気まずい。

 珠彦も同じような考えだったらしく、源吾郎に一度手を振るとそのまま仲間の妖怪たちがたむろする場所に戻っていった。

 珠彦が源吾郎から離れると、それを待っていたかのように萩尾丸が近づいてきた。その隣には、本性をあらわにした淡い金色の妖狐が器用に二本足で歩いて追いすがっている。

 

「おはよう島崎君。君にも良い友達が出来て良かったじゃあないか」

 

 唐突な萩尾丸の呼びかけに、源吾郎ははい、ともああ、ともつかぬ声で応じていた。萩尾丸も兄弟子として源吾郎の事を色々と気にかけているのだろう。もっとも、今わざわざ口にして出さずとも、源吾郎が珠彦と親しくなっている事は萩尾丸もとうに知っているはずなのだが。

 

「友達を選べ、なんて頭の堅い事は僕も言わないよ。だけど、僕の許で働いている妖《ひと》たちだったら、大体素性や気質は知っているからさ……」

 

 まぁそれはさておき。萩尾丸はそう言うと身をかがめ、傍らにいる妖狐の肩をそっと叩いた。妖狐は萩尾丸のスキンシップなど気にせず、ひたすら琥珀色の瞳で源吾郎だけを見つめている。

 

「今日の戦闘訓練は変化の術較べだったでしょ。今回は豊田文明《とよだふみあき》君がエントリーしてくれたんだ」

 

 萩尾丸の言葉が終わると、豊田狐は源吾郎の傍に二歩ばかり近付いた。尖った狐の鼻面を源吾郎に向け、にっと微笑んでいる。狐の姿を取っているが、術較べを行うのが見知った相手である事に源吾郎は気付いていた。文明と言えば珠彦の友達の一匹で、前に一緒に遊んだ事もある間柄だった。と言っても、こうしてサシで向き合うのは初めての事だけど。

 

「おーぅ、久しぶりやな島崎君」

「お、う、うん。久しぶり」

 

 左前足を元気よく上げて挨拶する文明狐を前に、源吾郎はぎこちない様子で挨拶を返した。その場に居合わせるのが彼や珠彦だけならば、ノリの軽さに合わせておぅ、とかうぇーいとかいう啼き声での返事でも構わないだろう。しかし今は兄弟子の萩尾丸や師範である紅藤も控えているのだ。源吾郎は彼なりに空気を読んだのだ。

 可愛い狐娘をカノジョにしているという文明は、まごうかたなきリア充である。しかも珠彦と違って無邪気な陽キャではなく、陽キャであり尚且つチャラ男でもあった。現に文明は今大分と輝いている。淡い金色の毛皮は言うに及ばず、首許や手首を飾る金属と玉のアクセサリーも光を反射して目に眩しいくらいだ。

 

「野柴みたいにタイマン勝負はやりたくないけどさ、俺も変化術には自信があるんだよぉ……んで、今日は島崎君とひと勝負したいなぁって思ったってところさ」

 

 ねっとりとした口調とは裏腹に、文明の瞳には闘志の焔が見え隠れしている。源吾郎はぐっと文明の瞳を見つめ返し、それから鷹揚に笑った。

 

「成程、成程ね。確かに玉藻御前の曾孫たるこの僕と勝負したとあれば、勝敗はさておき箔が付くだろうからねぇ……だけど油断は禁物さ。戦闘慣れしていなかったからあのタイマン勝負はあんな感じだったけれど、変化術は僕の得意分野だからね」

 

 得意げに源吾郎は言ってのけたが、文明は何も言わず鼻を鳴らすだけだった。少し離れた所に固まっている妖怪たちがやはりざわつき始めている。ざわめきの中には、珠彦が源吾郎と文明の両方を応援する声も混じっていた。

 

 

 互いの挨拶が終わると、すぐさま訓練へと移る事となった。司会進行役が青松丸である事と、有事に備えて紅藤がドクターとして控えている事は前と同じだ。

 前と違うのは、会場である青草の処理が行われていない事と、集まった妖怪たちが割と適当に会場の近辺に腰を下ろしている所であろう。

 ルールは簡単だ。互いが表出させた変化の幻影を闘わせるというだけである。出現させた幻影を先に全て打ち破った方が勝者となるという事だ。時間制限はあったが、表出させる幻影の数の制限はなかった。もっとも、源吾郎はこの訓練のために丁度良い幻影を練り上げる所存なので、数の制限などは気にも留めていなかった。

 

「さてと。いかな思惑があって今回の訓練を志願した豊田君であろうとも、俺の変化術を見れば腰を抜かすんじゃあないかい?」

 

 変化術の準備を行いながら源吾郎が告げると、文明はただニヤリと笑っただけだった。彼がこの試合に全力を傾けているのは本性をあらわにしている所から見ても明白だ。

 大妖怪ならばいざ知らず、珠彦や文明のような弱小妖怪にしてみれば、人型に化身するだけでも一定の妖力を消耗してしまうのだ。本性に戻った方がより多くの妖力を術や戦闘に扱える、と言う寸法である。

 

「出でよ、俺の忠実なるしもべたちよ!」

 

 源吾郎は高らかにキメ台詞を放った。萩尾丸の部下たちが何事か言い出しているがもちろん源吾郎は気にしない。彼は三体のモンスターたちがきちんと表出する事と、それを見た文明の反応のみに注意を向けていたためだ。

 叔父から買い取った護符を核として、源吾郎の作った幻影が顕現した。

 一体は耳のやや上の部分から偃月刀めいた一対の刃を生やす狼。

 一体は筋肉質な体躯と戦斧を持つ豚頭の亜人。

 一体は金色の鱗に銀色の羽毛、そして虹色に移ろう羽毛に覆われた翼のドラゴン。

 源吾郎が顕現させた幻影は総勢三体。数にしては少ないが、いずれも壮麗で勇ましいモンスターぞろいである。ついでに言えば紅藤の生物学的な指摘も源吾郎なりに受け入れ、その上での調整も行われた代物だった。

 三体が会場の領域内に行儀よく収まるのを源吾郎は見守っていた。文明を除く萩尾丸の部下たちの、驚きと称賛の言葉が耳に心地よい。

 それから源吾郎は文明の方に向き直る。

 

「豊田君。さっきから何も言わないけれど、もしかして俺の術が凄すぎてビビっちゃったかな?」

「まさか。勝負が始まる前にビビるようなヘタレじゃないし」

 

 源吾郎の言葉に応じる文明の顔には、不敵な笑みが拡がっていた。

 

「いやまぁ何というか、派手好きな島崎君らしい変化術だとは思ったかな。

 しかし――だからと言って俺は負ける気はしないけれど」

 

 そう言うと文明は身をかがめ、地面に生えている青草を三本ばかりむしり取った。肉球の目立つ前足で器用に掴み、数秒ほど念じて宙に放り投げる。それらは淡く輝いたかと思うと、小さな狐の姿に変化した。こちらも総勢三体だ。モルモットほどの大きさしかないが、いずれもきちんと鎧兜に身を固め、つまようじのような刀剣を佩いている。ある意味精緻な術と言えるだろう。よくできているなぁ。源吾郎は素直に文明の変化術を称賛していた。精緻で細かな所まで再現されているが、所詮はチビ狐に過ぎない。俺が作ったモンスター群には手も足も出ないだろう……そのような考えが背後にあったからこそ、源吾郎も安心して相手の術を称賛できていた。

 

「それじゃあ、試合開始の準備ができたわね」

 

 変化術が揃った所で紅藤が静かに告げる。それが合図だと言わんばかりに、地面に降り立ったチビ狐たちが源吾郎のモンスターたちに向かっていく。

 

「――誰でも構わん、殺れ」

 

 おもちゃの兵隊のように走っているチビ狐を睥睨しながら、源吾郎は冷徹な声で命じた。その命令に従ったのは豚頭のオークだった。彼は得物の戦斧を振りかぶり、そのまま向かってくるチビ狐の一匹を両断した――叩き潰したと言っても過言ではなかろう。「牛刀を以て鶏を割く」を地で行くようなスタイルである。

 

「おっしゃ、まずは一匹」

 

 見ればオークはチビ狐を両断しただけではなく、細切れにしているようだった。幻術ゆえに完全にリアルな部分まで再現している訳ではないらしく、細切れと言ってもグロテスクなアレコレが見えないのは源吾郎としてもありがたい所である。

 残ったチビ狐二匹はそのままオークに向かっていった。巨狼とドラゴンは何もせず控えているだけだ。思い切って三体顕現させたものの、どうやら彼らに今回の見せ場は無いかもしれない。そう思っている間にも、源吾郎の意図をくみ取ったオークは特攻を仕掛ける残りのチビ狐を、戦斧で薙ぎ払っていた。どちらも紙細工のように容易くバラバラになってしまっている。

 

「おやおや豊田君」

 

 文明が繰り出したチビ狐が三体とも粉微塵になったのを見届け、源吾郎は視線を文明に戻した。

 

「君さ、ヘタレじゃあないとか何とかって言ってたけど、君の狐ちゃんは全員玉砕したっぽいよ。どうするのさ?」

「ふ、あははははは……島崎君さ、ボスの炎上トークを身に着けちゃったのかな」

 

 萩尾丸の炎上トークを身に着けた。思いがけない指摘に面食らっていると、不敵な笑みを浮かべたまま文明は続けた。

 

「この展開は僕だって織り込み済みなんだよ。ああでも、むしろ粉微塵にしてくれたから、予想よりも却って都合が良いくらいだね、こちらとしては」

「一体、何を――」

 

 文明が前足を向けた先を見て源吾郎は絶句した。粉微塵になったはずのチビ狐は斃れてなどいない。いや違う。むしろ数十匹にまで増殖している。彼らは佩いていた刀剣を握りしめ、源吾郎のモンスターたちに猛然と向かっていた。



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精密な小兵、壮麗な木偶

 一体どういう事だろうか。源吾郎は細い目を限界まで見開き、状況を確認した。潰して細切れにしたはずのチビ狐たちが復活し、しかも数を増している。そこまでしか解らなかった。だがあれこれと深く考察している余地がない事も悟った。チビ狐たちは畑に群がるイナゴよろしく、先鋒のオーク、そして背後に控える巨狼やドラゴンに取り付き、彼らを害そうとしているのだから。

 細切れになった為か、モルモット程度の大きさだったチビ狐は今や独楽鼠程度までに小さくなっている。しかしそれでも彼らが脅威であろうと源吾郎は判断した。

 

「行け、やれ、やつらを蹴散らすんだ!」

 

 源吾郎はだから、幻影たちを鼓舞するように叫んだ。この叫びに呼応したのはオークだけではない。巨狼もドラゴンも、それぞれの得物――鋭い角や鉤爪――でもって、増殖したチビ狼たちを跳ねのけ、切り裂き、打ち砕いた。

 頬や耳たぶのあたりに熱が回るのを源吾郎は感じた。幻影たちの動きが、訓練の時よりもいくらか雑になっている気もするが、そんな事はどうでも良い。ひとまず今は向かってくる小兵たちを文字通り捌くのが先決だ。

 会場に視線を送る。蠢いているチビ狐の姿はまた激減した。少し心に余裕ができたらしく、源吾郎は周囲のざわめきに耳を傾ける事が出来た。源吾郎はそこで、すぐ傍にいる文明狐がクスクスと笑っている事に気付いた。

 

「ああ、まんまと術中に嵌ってくれたみたいだね、玉藻御前の曾孫殿よぉ!」

 

 視線を絡みつかせながら、文明は笑った。数秒前と異なり、チビ狐はまたしても数十匹もたむろし、徒党を組んで源吾郎のモンスターたちに向かっている。数秒前と同じだ。

――いや違う。モンスターたちが蹴散らす前よりも、チビ狐の数は増えているではないか。

 

「確かに俺の術は、島崎君みたくパワー重視じゃあないな。もう解ると思うけれど、すぐに潰れるし切り裂かれるし細切れにも粉微塵にもなっちゃう代物だしな。

 だけど、潰されたり細切れにされた方がこちらとしては都合が良いんだよ。あの狐たちは、細切れになればなるほど増殖するようなからくりだからさ」

「な…………」

 

 してやったりと言わんばかりに微笑む文明を前に、源吾郎はただ素直に驚くほかなかった。驚きが強すぎて幻影の従者たちに指令を送る事さえも忘れてしまうほどに。

 

「ブ、ブキィィイィ……!」

 

 野太い獣の、しかし悲痛さをにじませた絶叫が会場に響き渡る。声の主は源吾郎の出した幻影の一体、オークの戦士だった。彼の隆々たる体躯には、今やヒヨコサイズのチビ狐共が黄色い寄生虫よろしく群がり、たかっている。ただ近付いたりしがみついたりしているだけではない事は、刀剣を握ったり振り回したりしている個体が目立つところからも明らかだ。

 オークは今一度力なく咆えると、そのまま輪郭がブレて消えてしまった。

 起こった出来事としては、源吾郎が顕現させた変化術が、幻影の一つがうち破られただけに過ぎない。しかし源吾郎は、目の前でおのれを慕う生き物を喪ったような、仄青い哀しみの念を抱いていた。

 単なる幻である事は知っているはずなのに、一体なぜそのような感情に陥ったのか?

 自分で術を解除したのではなくて、一方的に術が破られた悔しさだったのか?

 最期にオークが向けた眼差しに、愚かにも心が動いてしまったからなのか?

 

 だが今はあれこれ考えている場合でもない。実際、源吾郎は数秒後には気持ちを切り替え、冷静に状況を把握する方面に意識を向けた。チビ狐は今や何匹何十匹いるのか目視では判別できないほどになっている。もしかすると百匹を超えているのかもしれない。

 彼らの勢いは衰えず、むしろ勢いを増しているかのようだった。チビ狐の方は味方が減る事は無く増えていく一方なのだ。しかも今しがた敵の数が減った訳であるし。

 身軽な足軽よろしくチビ狐たちは駆け回り、時に飛び跳ねてドラゴンや巨狼に彼らは向かっている。中には得物である刀剣を巨大な相手に投げる者や、その辺にある草の実や小さな砂礫を掴んで投げる者さえいるくらいだ。

 そんなチビ狐軍団の猛攻の中、源吾郎のモンスターたちは反撃どころかじっとうずくまったままだった。彼らの進退きわまる動きこそが、源吾郎自身が抱く戸惑いの動かぬ証拠だった。先程までは、単に蹴散らせばいいのだと思っていた。しかし蹴散らして打ち砕けば砕くほど相手に有利に事が起こるのだ。どうすれば良いのか。源吾郎は悩んでいたのである。

 とはいえ、悩んでいるだけでは事が進まないのもまた真実だ。

 

「飛べ、吹き飛ばすんだ!」

 

 声変わり済みの青年とは思えぬ甲高い声で源吾郎は叫んだ。この命令に応じたのは言うまでもなく翼をもつドラゴンである。彼はイヌワシなどとは比較にならぬ、壮麗な翼を広げると、軽やかに地面を蹴って舞い上がった。中空にいるドラゴンはしばしホバリングしていたが、やがて翼を打つペースを徐々に安定させ、上空五メートル程度の高度でゆっくりと旋回を始めた。地表では空気の流れを察した巨狼が身をかがめ、四肢の爪でしっかりと地面を握っている。仔馬程度のサイズのドラゴンのはばたきは、化け較べを行っている会場に文字通り竜巻をもたらしていたのだ。

 体積のある巨狼でさえ、吹き飛ばされないように自衛せねばならない程の威力である。巨狼よりもはるかに小さなチビ狐たちには、この人工竜巻の威力はてきめんであった。

 ギャアギャアキャアキャアとカモメのような啼き声を上げながら、チビ狐たちは成す術もなく一匹、また一匹と竜巻に巻き込まれ、文字通り舞い上がってしまっていた。十数秒と経たぬ間に、ドラゴンの作っている竜巻は淡い黄金色のつむじ風と化している。黄金色を構成しているのが、文明の作り出したチビ狐たちであるのは言うまでもない。

 源吾郎はちらと横目で文明を見やった。流石の彼も竜巻作戦は予想外だったらしい。呆然と目を見開き、竜巻とその中身を凝視しているのみだった。

 一方、源吾郎の頬にはしてやったりという笑みが浮かび広がっていた。つい先程まで劣勢に立たされていたと焦っていたところであるが、機転を利かせた事により、戦況を覆す事が出来たではないか。

――いや、まだ油断はできそうにないな

 おのれの優勢を確認できた源吾郎は、状況を冷静に把握する気持ちを取り戻していた。もっとも、優勢であるから冷静な判断を下せるという心持ちこそが彼の未熟さを示しているのだが、残念ながら源吾郎はその事に気付いてはいない。

 ともあれ源吾郎はドラゴンの直下で渦巻く竜巻と、地表で踏ん張る巨狼とを交互に見つめた。彼らも余裕の笑みを浮かべているように見える。しかし、チビ狐たちをああして竜巻に巻き込んだままにしておくのも何とも締まりがない気がした。

 

「おっしゃ、ここは派手に吹き飛ばすか」

 

 源吾郎の呟きがドラゴンへの動きに対する引き金になった。旋回を止めたドラゴンはその場でホバリング状態に入り……勢いが僅かに弱まったつむじ風に向かって一、二回翼を打ち付けた。虹色がかった銀色の翼から放たれた風圧が、チビ狐の軍勢を竜巻ごと吹き飛ばす。

 戦闘訓練が行われている会場の外まで吹き飛ばしてしまえばいい。源吾郎は風に翻弄されるチビ狐を見ながら無邪気にそう思った。

 しかしチビ狐たちが遠くまで飛ばされる事は無かった。風にあおられながらも彼らは飛ばされかけても見えない壁にぶつかってバウンドし、そうやって下へ下へと落ちていくだけだったのだ。

 

「今回も結界を張っておいたのよ」

 

 物静かな、落ち着いた声で紅藤が解説を行う。

 

「変化の術較べも色々な事があるでしょうから、一応結界も用意しておいたのよ。こういう結界が無ければ、訓練会場を用意した意味も無いでしょ?」

 

 妙に説得力がある所が紅藤らしい発言であった。そんな事を思いつつ源吾郎は一、二度頷き、ついで文明も腑に落ちたような、腑に落ちていないような微妙な表情を浮かべている。

 遠くまで吹き飛ばす事が出来ないと知り源吾郎は少し戸惑った。だが戸惑ってばかりではこちらの形勢が不利になるであろう事ももちろん心得ている。現に視線を向けると、チビ狐たちは大方地面に叩きつけられていたが、そのまま巨狼に向かっていこうとしているではないか。

 

「細切れにしたら増えるし吹き飛ばす事も出来ない……それなら、焼き払ったらどうなるかな」

 

 マッドサイエンティストめいた文言を源吾郎は呟いた。源吾郎のその面には、九尾めいた残忍な笑みでも浮かんでいたのだろう。文明はまずぎょっとしたように目を見開き、それから目許や口許に怯えの色がうっすらと滲む。

 

「好きにやってみれば良いじゃないか」

 

 文明の言葉を源吾郎は笑い飛ばし、小さく頷く。文明は彼なりに威厳を持って告げたつもりなのだろう。しかしその奥にある感情は源吾郎にはお見通しだった。

 ともあれ源吾郎はドラゴンに指示を送った。ホバリングしながらドラゴンは首を地面に向け、蒼白い焔を吐き出した。巨狼が驚いたように目を見開いている。チビ狐たちも戸惑ったようにてんでバラバラに逃れようとする。しかし蒼白い焔はそれらを皆等しく包み込んでいった。

 勢い盛んな焔は、たっぷり三秒ばかり訓練会場の地表を覆っていた。ドラゴンが焔を吐くのをやめ、ゆっくりと地面へと舞い降りる。焔の中で大きく動く者が無くなったと源吾郎は判断したためだ。

 

「な……マジかよ……」

「あぁ……どうにか耐えきれた……」

 

 焔が消えた直後、源吾郎と文明はほぼ同時に声をあげていた。

 源吾郎は呆然と目を見開いていたが、その顔と声には驚きの念がありありと滲んでいる。一方の文明は、会心の笑みを浮かべつつもどこか安堵したような表情だった。

 ドラゴンの吐き出した焔は、確かに大した効果を発揮していた。百を優に超えるチビ狐たちを、残り五、六匹程度まで減らしつくしたのだから。

 但し、源吾郎が顕現させていたもう一つの幻影、偃月刀めいた角を持つ巨狼も姿を消していたけれど。



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九尾の能力

「おー、やっぱり島崎君って強いんだな。幻術でもあんな力を発揮するなんて」

「相変わらず容赦がないからちょっと怖いかも」

「俺ぁそんなに島崎君の事怖いとは思わんけどなぁ。ほらさ、何か詰めが甘くね? 今だって、フミっちの狐を根絶やしにしようと思ったのに、自分の狼も消し炭にしちゃってるし」

「まー確かに島崎君って間抜けかもしれんなぁ。カッコつけた時の中二病度合いと同じ位にさ」

 

 源吾郎と文明《ふみあき》が呟きを終え、それぞれ頬を火照らせながら戦況を見守っていると、ギャラリーたる若手妖怪たちの数名が思った事を口にしていた。萩尾丸の部下にして文明の同僚に相当する彼らは、主に源吾郎の技の事について言及している。

 中には源吾郎の術を称賛する声もあるにはあったがむしろそれは少数派だった。彼らはやはり、源吾郎の迂闊さや未熟さをあげつらっていた。

 連休前の一件で、萩尾丸の部下たちと多少は打ち解けたと源吾郎は思っていた。だがやはり、彼らの源吾郎に向ける評価は中々に手厳しい。人間の血も多分に引く源吾郎と異なり、彼らが純血の妖怪であるからなのかもしれない。もしかすると、純血ながらも庶民狐庶民狸ゆえに、相手が混血と言えども妖狐界の大貴族であるという僻みもあるのだろう。源吾郎はそのように解釈していた。

 

「うーむ。俺が思っていたのと大分違うみたいだね、島崎君」

 

 前足でひげや顎を撫でながら文明が呟いた。彼の淡い黄金色の毛は、耳毛の先から尻尾の毛の先まで何故か逆立っている。

 

「僕さ、ボスから島崎君は妖力も多くて変化術の名手だって聞いていたんだよ? だから実はあのドラゴンに火焔放射されたときにはもう終わりかなって思ったんだけど……みんなが言うように詰めが甘いなぁ。ま、それで俺にもまだ勝機が残されてるって事でラッキーな話なんだがな」

 

 詰めが甘い。源吾郎はぎょっとして会場のドラゴンを見やった。金の鱗と銀色の羽毛を持つドラゴンの頭や後足は、何となく狐のそれに変化していた。だが今はその事をあれこれと気にする余裕はない。

 ドラゴンの攻撃が終わった直後、チビ狐たちの残りは五、六匹だけだった。しかし今は攻撃を受けていないのにひとりでに狐たちは増殖し、今再び数十匹の軍勢になっていた。

 毛を逆立てた文明の全身から、一定の濃度を保った妖気が放出されているのを源吾郎は目撃した。濃密な妖気は湯気のように揺らぎ、若い獣の香りが仄かに漂う。獣の香りと言っても悪臭であると思わなかったのは、源吾郎もまた妖狐の血を引いているからであろう。文明の闘志や意気込みを内包した、爽やかさと荒々しさを併せ持つ香りだった。

 

「さーて、ここからが俺にとっても君にとっても正念場だろうねッ!」

 

 文明の声とともに、陽炎のごとき妖気がチビ狐たちに降り注いだ。チビ狐たちの三分の一は既にドラゴンに取り付き、その羽毛をむしったり翼を引っ張ったりして相手の動きを封じようと奮起している。一方のドラゴンはチビ狐を振り払おうと身をゆすり頭を激しく振り彼なりに応戦しているが……ある種の決定打となった焔を吐く素振りは無い。

 それもこれも、ある意味あるじである源吾郎自身の考えが大いに関係していた。別に源吾郎の妖力の消耗度合いから考えれば、一度と言わず二度、三度ばかりは火焔を吐き出すほどの力は残ってはいる。

 しかし他ならぬ源吾郎自身が、ドラゴンが火焔を吐くには数分のインターバルがいると思い込んでしまっていた。これは図書館で借りた書物や源吾郎自身の考えが組み合わさってできた発想である。皮肉にも勉強を深めたからこそ、源吾郎とその幻影は隘路に追いやられていたのだ。

 そうこうしている間にも文明は着々と準備を進めているらしかった。ドラゴンに取り付いていたチビ狐が、ふいにドラゴンたちから離れ、仲間の許へと集結していく。彼らが手にしていた羽毛が中空を舞う。白銀の、表面が虹色の光沢に覆われた羽毛が浮かぶさまは中々に幻想的だった。

 しかし、集まったチビ狐たちが見せる様相は、その幻想を打ち砕くほどに奇怪で、いっそ悪夢的なものだった。文明のチビ狐たちは、最初に切り刻まれて細切れになり、それにより増殖していった。今はその逆の事が繰り広げられていたのだ。要するに、何十匹もいたチビ狐たちが一か所に集結し、互いに融合し、一匹の個体に戻ろうとしていたのだ。

 文明も苦労しているのだろう。彼はもはや源吾郎などは眼中になく、融合していくチビ狐たちだけを見つめていた。黄金色のチビ狐は粘土や液体のように他の個体とくっつきあっているが、粘土細工のようにすぐにはなじまず、頭部や手足が複数個見え隠れしている。それらもゆっくりと他の部分と馴染み、少しずつ大きな狐になっていくという様相だ。

 金色のドラゴンはそれを見つめていたが、耳を伏せ首を垂れて情けない様子で後ずさっている。奇妙な融合の状況を見て、源吾郎のテンションが下がったのを如実に表していた。

 そうこうしているうちに、文明のチビ狐は一匹の狐に集結してしまった。かなり大きい。源吾郎が顕現させたドラゴンもまぁまぁ大きい。仔牛や仔馬程の大きさはあるだろう。しかし文明の完全に融合した狐も、今やそのドラゴンに迫るほどのサイズに変貌していた。しかも直立し、鎧兜に身を包み刀剣をしっかと握っている。完全武装だった。恐らくは、ドラゴンが反撃したらまた分裂するのかもしれない。

 

「よっしゃ、これでタイマン勝負……だぜ」

 

 源吾郎に視線を向けながら、文明は口許を歪めた。白い牙の覗く口許からはだらりと舌が垂れ、見開かれた両眼の白目は妙に充血していた。

――本気で繰り出すつもりだ!

 文明の意図を察した源吾郎は、すぐに視線を文明から外した。幻術を万全のコンディションに仕立てた文明が、ここから仕掛けてくるのは明白な話だ。源吾郎はだから、ドラゴンと侍狐に視線を向け、次なる動きを読まねばならなかった。源吾郎の手札はもはや羽毛をむしられたドラゴンだけなのだ。慢心し、虚を突かれればたちまちにして負けてしまうだろう。

 ところが、文明の狐は動き出さなかった。それどころか幻影の様子がおかしい。初めは目の錯覚かと思った。質の悪い画像にノイズが入るがごとく、狐の輪郭がブレたように見えたのだ。

 目の錯覚ではなかった。完全武装した狐の幻影は数秒を待たずして輪郭を保てなくなったのである。呆然とするドラゴンと源吾郎を置き去りにして、そのまま輪郭が揺らぎ、ぼやけ、儚く消えてしまった。

 

「…………」

 

 源吾郎はドラゴンを見ていた。多少白銀の狐の特徴が色濃くなっているが、彼は消える気配はない。すぐ隣で荒い息遣いが耳に入り込んでくる。

 

「はぁ……、途中まで追い詰めた、と思ったんだけどな……」

 

 源吾郎はゆっくりと首を動かした。言葉と言葉の間で喘ぎながら文明は呟いていた。逆立っていた毛並みはぺたりと寝ており、ついでに耳も半分伏せていた。

 源吾郎と目が合うと、彼はにたりと笑った。少年らしからぬ、諦念と悔恨の滲む笑みである。

 

「ははっ。詰めが甘いのは俺も同じだったみたいだよ……まさか、ここからが正念場っていう所で、妖力……が尽きるなんてな……」

 

 自嘲気味に言ってのける文明を、源吾郎は戸惑いながら見つめ返していた。彼の妖気が大分と目減りしている事に気付いたためだ。そのような事に注目せずとも、文明が熱がる犬のように舌を垂らし、毛皮の下にある肌が青白くなっている所からも彼が疲れ切っているのは明らかである。

 

 会場から少し離れた敷地内のベンチに、源吾郎と文明は腰を下ろしていた。元々萩尾丸の部下たちは戦闘訓練が終われば文明もろとも仕事場に戻る予定だったのだが、妖力を消耗した文明が落ち着くまでしばし待機となったのである。

 ちなみに今回、源吾郎の方はそれほど消耗も疲労もない。従って休む必要はないのだが、文明の様子が心配だったので仲良くベンチに腰かけていたのだ。戦闘時は闘志をむき出しにしていた源吾郎であるが、その後に相手が体調を崩したとなればやはり寝覚めが悪い。

 

「二人ともお疲れ様」

 

 ベンチにゆっくりと近付いてきたのは萩尾丸だった。彼は先程まで紅藤や青松丸と何か話し込んでいたが、彼らとの打ち合わせも終わったらしい。文明の周りに集まっていた同僚たちは、萩尾丸を見ると居住まいを正した。余談だが源吾郎に話しかけてきたのは二尾の妖狐の姿に戻った珠彦と、小休止する文明くらいである。

 

「豊田君も大丈夫かな?」

「はい、もう本部に戻れますよ」

 

 同僚たる若手妖怪に囲まれつつ、文明は上司の問いによどみなく答えた。相変わらず狐本来の姿のままだが、手渡されたおしぼりを肉球の目立つ前足で器用に丸めている。つい先程まで、おっさんみたいな声をあげて顔や首周りをぬぐっていたのだ。毛皮に覆われていると言えど、クールダウンし気分を持ち直すのに冷えたおしぼりは有効だったようだ。

 

「心配させてしまいましたか、ボス」

 

 萩尾丸に気付いた文明が、ちょっと畏まった様子で問いかけている。チャラ男と言えども彼もいっぱしの社会妖《しゃかいじん》だったのだ。

 

「まぁ、少しはね」

 

 萩尾丸は淡々とした様子で応じる。とはいえ、普段のひょうひょうとした態度は若干なりを潜めていた。

 

「心配しているというよりも予想外だなって思っただけだよ」

 

 言い終えると、萩尾丸の視線は文明から逸れて、源吾郎、珠彦と順繰りに移動した。

 

「まだ二回目だから確証を得るには少し弱いけれど……戦闘訓練に入った妖《こ》たちが、普段以上にガチになるってところが気になっただけさ。

 野柴君はまぁ普段から元気一杯だからまだ解らなくもなかったのだけど、豊田君も中々に頑張りを見せてくれたからね、いつもと違って」

 

 何やら部下を慮っているのかと思ったが、萩尾丸はやはり萩尾丸だった。しんみりとした文言の中にも炎上できそうな内容を差し挟むあたりがさすがである。

 ちなみに文明はムッとした様子は見せず、ただ気まずそうに俯いて肉球を眺めるだけだった。

 

「それって、もしかして……」

 

 おずおずと口を開いたのは源吾郎だった。萩尾丸の部下たち、少年少女と呼べる年齢の妖狐や化け狸らの視線に気づいたからだ。

 

「僕自身に、その何がしかの能力でもあるって事ですかね? 接した相手の、やる気とかに作用するような能力とかが……」

「島崎君にそんな力があるのかどうか、僕には解らないっす」

 

 源吾郎の疑問にまず応じたのは珠彦だった。前足で頬のあたりを撫で、ついで尖った鼻先を触ったりしている。どうだろうなぁ……文明も首を傾げるのみだった。

 萩尾丸はそんな妖狐二人の様子と源吾郎とを交互に眺めながら口を開いた。

 

「別に、島崎君自身には兄君の一人のように誰かの心を操る能力は無いだろうと、経験を積んだ一妖怪としては思うけどね。島崎君の事だ。そんな能力を持っていたとしたら、すぐに有効活用しようと画策するのではないかな?」

 

 確かにそうかもしれないな。口には出さなかったが源吾郎は素直にそう思った。源吾郎自身は相当な野心家であり、おのれの大望を叶えるべく今でもあれやこれやと奮起している。使える能力の手数は多い方が良いと思っているし、新たに使える能力は、それこそ萩尾丸の言うように有効活用しようと考えるであろう。

 そんな事を考えていると、萩尾丸は言葉を続けていた。

 

「だから、野柴君や豊田君は自分の意志でギリギリまで自分を追い込んで島崎君に挑んだって事だろうね。何、島崎君は確かに玉藻御前の末裔ではあるけれど、あのお方が持っていたような不可思議な力にて野柴君たちを操った訳ではないから安心したまえ。

 ただ何というか……普通の妖怪である君らの闘志を掻き立てるような何かがあるのは事実だろうね。人間の血が濃い癖に妖怪としての能力が高いとかね。

 それ以上に……態度とか言動とかも大きく影響しているのかもしれないと僕は思うね」

 

 くれぐれも気を付けるように。萩尾丸は主語をぼかした一文で締めくくると、含みのある笑みを皆に向けたのだった。



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若狐と師範とイワシ水槽

 五月下旬の水曜日。源吾郎は今日も今日とて研究センターの一室で業務に勤しんでいた。戦闘訓練に備えた鍛錬も今日の分は既に終わっている。新入社員である源吾郎が行う業務は、現時点でもまだ雑務と呼んでも差し支えのないような物ばかりだった。要するに先輩たちが扱う試薬(それも妖体(じんたい)に悪影響のない安全なものだ)を調整し、先輩たちや上司が扱う資料をまとめてファイリングしたりする内容である。

 これらの内容は、連休前にほぼほぼマスターしていたから、今更しくじる事は無い。末っ子として年長者の行動を観察し時に模倣してきた源吾郎にしてみれば、これが仕事なのかと拍子抜けしてしまうほど簡潔で楽な内容ばかりだった。それこそ、高校で行ってきた授業や小論文の提出の方がしんどいと思えるくらいである。

 しかしながら、試薬の素で満たされたビーカーを覗き込む源吾郎の顔は物憂げだった。

 彼が憂鬱そうなのは、六月病を罹患したためでもなければ試薬づくりが上手く行くか案じている訳でもない。簡潔な業務に慣れると考え事が頭の中をよぎるようになった。その考え事こそが源吾郎の心に緊張と不安をもたらしていたのだ。

 

 

 源吾郎が悩んでいる事。それは端的に言えば次の戦闘訓練の事だった。五月ももう終わりに近づいていたが、戦闘訓練は実は一度しか開催されなかった。元々は週一、二回程度のペースで行うと言われていたにも関わらず、である。

 次回は火術の術較べを行おう。文明狐との変化術を終えた直後、萩尾丸は歌うような口調で源吾郎に告げた。制限時間内に用意した細い蝋燭にどれだけ火を灯せるかを競うのだと、あの時萩尾丸はご丁寧に教えてくれた。

 三度目の、火術の術較べを迎えるにあたり、今までの戦闘訓練とは大きく異なる事が二つあった。まず訓練の相手が前もって教えられた事だ。そして術を競う相手は、男狐ではなく女狐、もとい狐娘であるという事である。

 狐娘と言っても、少女などではなく大人の女性に近い感じがする相手だった。二本の尻尾は尻尾そのものの長さもフワフワした毛のボリュームも見事で、きちんと入念に手入れしている雰囲気が源吾郎にも伝わった。小雀の制服を着こんでいたためにお洒落な雰囲気はなりを潜めていたが、手指は言うに及ばず爪の先まできちんとケアしている所からしても、彼女のパーソナリティは窺い知れた。明らかに優秀な相手だろうと源吾郎は思ったのである。しかも妖狐の少年たちとは異なり、源吾郎に対して敵愾心を見せずフラットな様子で話しかけてくれたわけである。格の違いという物を見せつけられたような気分でもあった。

 あるいは、単純に男女の違いなのかもしれないが。男同士であればより優れた相手に対する嫉妬の念が沸き上がる事もあるだろう。しかし女性が男に嫉妬する事はむしろ珍しいのではないだろうか。

 いずれにせよ、源吾郎は次の戦闘訓練の対戦相手を明らかにされ、大いに戸惑った。源吾郎の戸惑いは、一言で口にできるような単純なものではなかった。また醜態を晒すのではないか、醜態を晒した自分を萩尾丸の部下たちが嗤うのではないか、そして……男である自分が狐娘と闘うべきなのか。他にも言葉にできない思いや考えは、源吾郎の胸の中で渦巻き沈殿していたのだった。

 

「どうしたの、島崎君」

 

 聞きなれた、柔らかい声音を前に源吾郎ははっと顔を上げた。見れば源吾郎が向かっているテーブルの向こうから紅藤が様子を窺っているではないか。彼女の、眠たげな紫の瞳は、源吾郎の顔よりもむしろテーブルの上に注がれていた。

 テーブルの上には、今源吾郎が作っている試薬で満たされたビーカーがある。ビーカーは灰色の小さな台の上に鎮座していて、ビーカーの中では白くて楕円形の短い棒がせわしなく回転している。精製水の中に入った薬品が均一に混ざるように攪拌(かくはん)している最中なのだ。源吾郎に代わって仕事を行っている器具の名はスターラーというそうだ。元々文系である源吾郎は、就職してからこの器具の存在を知った。中学校の理科の実験では、薬品をかき混ぜるのはガラス棒と相場が決まっていたのだ。

 スターラーのせわしない動きによりビーカーの中は小さな渦が出来ていた。透明な液体の中、透明な粒々が見え隠れしている。紅藤はじっとそれを見つめていたが、ゆっくりと源吾郎に視線を向けた。

 

「……試薬づくりをお願いされたのね。だけど見たところ、少し上の空になっていたみたいね」

 

 紅藤の声には非難するような気配はない。けれど自分はたしなめられているのだと源吾郎は思った。もう試薬づくりはマスターしたんですよ。少しくらい上の空になっても大丈夫ですよ。源吾郎は心の中でそう思い、あまつさえそれを紅藤に告げようと思っていた。

 しかし実際には、紅藤の方が先に口を開いたのである。

 

「簡単な仕事だと思うかもしれないけれど、おろそかにしたり上の空で行うのはあんまり良くないわ。ちょっとした油断が、取り返しのつかない失敗を招く事だってあるのですから」

「…………」

 

 源吾郎は紅藤のまつ毛が揺れるのを見つめてから視線を落とした。やはり注意されたのだと源吾郎は思った。紅藤の、源吾郎に対する教育はかなり熱心な方である。そしてその内容のほとんどは、ある意味精神論に通じるものだった。一昔前に流行ったような根性論とは無論異なるのだが、妖怪として大成するにあたり()()()()()()を紅藤が最も重んじている事は、日頃の言動からありありと滲み出ていた。

 それは戦闘訓練のような実戦的な物だけではなく、このような雑事に対しても例外ではない。こまごまとした事をああだこうだと言われても、源吾郎は不思議と嫌気は差さなかった。紅藤の言葉と佇まい自体に、そこはかとない説得力を感じ取っていたためだ。

 

「……戦闘訓練の事でお悩みかしら」

「お解り、ですか」

 

 密かに抱える悩みを見抜かれ、源吾郎は内心驚いていた。しかし何故解ったのかと尋ねるような野暮な真似はしない。紅藤は相手の精神に干渉するような能力を使わない事は知っている。それに何より源吾郎自身は、昔から「何を考えているか解りやすい」と周囲に思われている事も知っていたためだ。

 だから素直に、紅藤の言葉を認めたのである。

 

「正直なところ、変化の術較べがあってから、次の術較べまで間が空いているのはありがたい所もあるにはあるんですよね。その分、僕も火術の練習を重ねる事が出来ますし。ですが、次が何時なんだろうと思いながら訓練するのも緊張が募りますし……」

「それは仕方がないわ」

 

 紅藤はこちらを向いているが、遠くに視線を投げかけているようだった。

 

「実はね、萩尾丸が抱える組織の中でちょっと片づけないといけない事が発生したみたいなの。私も詳しくは知らないけれど、それが片づくまでは島崎君の戦闘訓練もお預けじゃあないかしら」

「そんな事があったんですね」

 

 源吾郎は目を瞠り、驚きの表情を見せた。そう言えばこのところ萩尾丸は研究センターにほとんどやってこない。幹部であり尚且つ自身も組織を擁している事を知っていたから特に気にしていなかったが、まさかそんな事になっていたとは夢にも思っていなかった。

 

「その事については島崎君もそんなに心配しなくて良いのよ。あっちのごたごたが収束すれば、戦闘訓練も引き続き再開されるから。学校と違って、大人の世界ではすぐに対処しないといけないトラブルが発生して、そっちを優先しないといけないなんて事は度々あるもの」

 

 源吾郎は気の抜けたような返事で応じていた。紅藤はさり気なく源吾郎を子供扱いしていた。だが源吾郎はこれに反駁する事は無かった。世間的には、高校も卒業し社会人という身分を得た源吾郎は大人の仲間入りを果たしてはいるのだろう。しかしその一方で法的には未成年に相当するし、就職したからと言ってすぐに大人になるという単純な物でもない。会社で人事部を務める長兄は大卒の新入社員を「やっぱり若い子は学生気分が抜けてないなぁ」と漏らしていたのを源吾郎はふと思い出した。単に生きているだけで年齢を重ねる事はできる。しかし精神的に成熟し、大人と見做されるには相応の経験が必要という事なのだろう。年長者に囲まれて育ったはずなのに、その事を見落としていたのだと源吾郎はこの頃思うようになっていた。

 そんな事をつらつらと考えている源吾郎の心中を知ってか知らずか、紅藤はほのかな笑みを見せながら言葉を重ねる。

 

「萩尾丸もね、自分の部下を使って島崎君の訓練に協力するのに結構協力的なのよ? 弟弟子として気にかけているという節もあるでしょうけれど、あの子の部下たちにも良い影響があると思ってるの。小雀のグループは妖員《じんいん》の入れ替わりは結構頻繁にあるけれど、みんな良くも悪くも仲良しなのよね。もちろん、いさかいが無くて平和なのは良い事だと思うわ。だけど、平和すぎて緊張感がないのも良くないのよね。特に小雀は若い子がほとんどだし、転職して別の所で働く子も多いし」

 

 島崎君。紅藤は一度瞬きをすると源吾郎を正面から見据えた。

 

「水族館のイワシの群れの話はご存じかしら? 小さくて弱いイワシたちが入っている水槽には、ほぼ必ずサメやマグロが入っているの。確かに運の悪いイワシの中にはサメやマグロに食べられる個体もいるけれど、身近に脅威がいるという緊張感のお陰で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()そうよ」

「要するに、僕はイワシ水槽の中のサメって事ですかね」

 

 要するに俺ってダシにされているのでは……そんな考えが脳裏をよぎり、無作法と知りつつも源吾郎は鼻を鳴らした。

 紅藤は源吾郎の態度を咎める事は無く、涼しい表情のままである。

 

「萩尾丸の部下たちの立場から見たらそういう事になるでしょうね。あの子たちの側から考えれば、九尾の末裔である島崎君と接触し、訓練と言えど力較べをするのはまたとない刺激になるのよ。年数を経た妖怪ならいざ知らず、野良妖怪と変わらない身分の若い子では大妖怪の末裔と力較べするどころか、会って話をする事さえままならないのですから」

「萩尾丸先輩が、案外部下思いである事は僕にもよく解りました」

 

 源吾郎は思案顔のまま呟いた。

 

「妖怪であれ何であれ、色々な経験を積む事こそが成長への早道なのですからね。しかしまさか、僕に接触する事そのものが、彼らにとっての成長に繋がるとは思ってもみませんでした」

 

 拗ねなくても良いのよ。唐突に放たれた紅藤の言葉に源吾郎は思わず目を白黒させた。自分としては平静を装って言葉を口にしたつもりだった。源吾郎は結構感情の揺らぎも大きいし、表情が出てしまう事も知っている。けれど言葉を選んで大人びたように、あるいは知的で冷静であるように演出できると無邪気に信じてもいた。

 

「相手との接触によってもたらされる成長は、何も一方的なものではないのよ。小雀の子たちへの影響ももちろんあるけれど、ああいう子たちに会って術較べをする事は、島崎君にも()()()()()()()()()事は、私も萩尾丸たちも解っているわ――もちろん、術を覚えるとか妖怪と闘う力を得るとか、それだけじゃあないわよ。

 だって、島崎君がただ力を得て強くなる事だけが重要ならば、わざわざ身内の妖怪を使わなくても良いもの。萩尾丸の事だから、後腐れが無いように見知らぬ野良妖怪を使う事も、それこそ幻術を用意して島崎君に闘わせる事も出来るんですから」

 

 紅藤の言葉が終わってから数秒ばかり、源吾郎は黙って彼女の言葉を吟味していた。今まで実力を重ねるための戦闘訓練だと源吾郎は単純に思っていた。しかし実際には、幾重もの思惑が絡まっていたのだ。その事実に驚き、僅かに戸惑いもしていた。

 

「大丈夫よ島崎君。まだ始まったばかりですからね。色々と大変だけどきっと上手くいくわ。私からは何をどうすれば良いかっていうアドバイスは難しいけれど、いずれは悩んでいたって事も過去の事になってくれるわよ」

 

 紅藤はそこまで言うと足取りも軽やかに持ち場へと戻っていった。残された源吾郎はビーカーを一瞥し、スターラーのスイッチを切った。液中の粒々が完全に混ざり合い、試薬が出来ている事に気付いたためだ。 



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修行の早道 使い魔確保?

 いつも以上に研究センターに顔を見せなかった萩尾丸が研究センターの事務所に舞い戻ってきたのは、終業時間十分前の事だった。六月が近いと言えども既に夕焼けと闇の気配が広がっている。

 

「おかえりなさい、萩尾丸」

 

 いの一番に彼を出迎えたのは師範である紅藤だ。彼女は白衣の裾がはためくのも気にせず、速足気味に萩尾丸の許に向かっていった。

 その様子は見た感じでは本当にごく普通の若い女性の所作と変わらない。研究センターの最高責任者、雉鶏精一派最強の妖怪としての威厳やすごみは一切感じられなかった。しかし真に強い者は、自分が威厳に満ち満ちて見えるかどうかなど気にしないものである。気にせず自然体でいる事自体が一種の威厳になる事さえあると言っても良いだろう。

 

「長らく留守にしていてすみませんねぇ、紅藤様」

 

 敬語ながらも気安さが滲み出た声が聞こえる頃には、萩尾丸の姿は源吾郎にも見える場所まで進んでいた。源吾郎は教育訓練を書く手をはたととめ、萩尾丸を見やった。

 しばらくぶりに間近で見かける萩尾丸の姿はいつもと若干異なっていた。具体的に言えば、倦み疲れた気配が全身から放出されているのだ。萩尾丸先輩ほどの大妖怪であっても疲れる事があるのだな……源吾郎はのんきにそんな事を思いさえした。

 

「お久しぶりです萩尾丸さん。随分お疲れのようで」

「は、萩尾丸先輩。大変だったんじゃないですか? 心の、隙間が増えてますよ?」

 

 紅藤の挨拶が合図だったと言わんばかりに、青松丸たちも萩尾丸の傍に近付いて声をかけた。比較的若いサカイさんはもとより、青松丸の言葉にも萩尾丸に対する敬意の念が滲んでいる。やはり紅藤の一番弟子・第六幹部の地位は伊達ではない。

 源吾郎も書きかけの教育訓練を放り出し、萩尾丸の許に向かった。兄弟子姉弟子は既に萩尾丸に挨拶を終えたのだ。末弟子の源吾郎が、教育訓練をダシにして挨拶をおろそかにするのは間違っている。

 

「お久しぶりです、萩尾丸の先輩……」

 

 上目遣い気味に源吾郎は萩尾丸を見上げた。上目遣いには特に意味はない。男子としては小柄なため、また幼少の頃より年長者と話す際にできてしまった癖である。

 ちなみに同級生や学校の生徒らからは男女を問わずあざといだの不気味だのと言われて結構不評だった。女子の上目遣いは可愛いというのに、世間は世知辛く理不尽だ。

 

「ああ、久しぶりだね島崎君。しばらく見なかったけれど、元気そうで何よりだよ」

 

 師範や他の弟子たちに囲まれているにもかかわらず、萩尾丸はまず源吾郎に声をかけた。炎上トーク大好きな萩尾丸先輩は、幸運な事に源吾郎の上目遣いをこき下ろす事は無かった。むしろ彼は爽やかな笑みを浮かべているくらいだ。

 

「事後報告になりますが、事の顛末を報告しますね。紅藤様はお聞きしますよね?」

「ええもちろん」

「それじゃあ説明しましょうか」

 

 説明を始めようとした萩尾丸は、何を思ったか今一度源吾郎に視線を送った。鋭く睨まれたわけでもないのに、源吾郎は驚いて軽く身を震わせてしまう。

 

「そうだね、特に島崎君はしっかりと聞いておいて欲しいね。何しろ今回の件は、()()()()()()()()()()()なのだから」

「…………!」

 

 一体俺が何をしたというのだ。萩尾丸の言葉に源吾郎は驚いたが、驚きが強すぎて却って声が出てこなかった。源吾郎が不祥事を起こしたのはぱらいその一件くらいだ。それ以降の四週間は、真面目に仕事に励み、真面目にプライベートを楽しんでいた。私生活の方ではある程度地元の妖怪や術者とやり取りがあったが、常識の範囲内に収まる出来事でしかない。別に地元妖怪と派手に喧嘩をしたとか、術者のアジトに殴り込みをかけたとか、そのような物騒な事には手を染めていない。

 萩尾丸の舐めるような視線が源吾郎の全身を覆う。呆然とする源吾郎の様子を確認すると、萩尾丸は湿っぽい笑みを浮かべた。

 

「身に覚えがないのも仕方ないだろうね。今回の件は、ある意味君が直接何かをしたという話ではないからさ」

 

 どのように話が転ぶのか、源吾郎には気が気ではなかった。間接的に関与していると前置きをしているが、萩尾丸の事だから色々と面白おかしく言い募る可能性があると源吾郎は踏んでいた。しかもいつも以上に疲弊している。疲れる仕事の恨みとして、いつも以上に妙な事を付け加えるのではないかと思っていたのだ。

 

「豊田文明君の事は島崎君も知ってるよね? 前に、君と術較べをした狐だよ」

 

 はい……かすれた声で頷き、源吾郎はぐっと身を乗り出した。

 

「フミっち、いえ豊田君がどうかしたのですか?」

 

 問いかけながら、心臓がうねるのを源吾郎は感じていた。術較べを行った文明狐の話が出たという事は、十中八九術較べが彼に何か善からぬ影響をもたらしたという事であろう。そう言えばあの時妖力を使い切ってしんどそうだったが、まさか体調でも崩したのだろうか……源吾郎の心中には仄暗い不安が暗雲のように渦巻き始めていた。

 その心中の動きに萩尾丸は気付いたのだろう。軽く笑いながら首を振った。

 

「何、そんなに深刻な表情をしなくても良い。豊田君自体は元気そのものさ。今日も今日とて本部で働いていたし……」

 

 妙な部分で単語を強調して発音すると、萩尾丸は含みのある表情を見せた。

 

「実はね、豊田君自体は五月いっぱいで退職して、別の妖怪組織に転職する予定だったんだよ。ああ誤解しないでくれたまえ。島崎君と術較べを行ったから退職を決意したとか、そういう事じゃあないからね。むしろ術較べを行う時には退職も新しい転職先も決まっていたんだ。転職して新しい職場に馴染むのにあたり、玉藻御前の末裔と闘ったという履歴があれば箔が付くと思って、立候補してくれたみたいなんだ」

「退職……ですって!」

 

 思いがけぬ言葉に源吾郎は目を瞠った。文明が絡む話だからと多少気構えていたが、転職云々の話は予想外だった。

 そうして驚く源吾郎を、萩尾丸は落ち着いた様子で見下ろしている。

 

「そんなに驚く事ではないだろう島崎君。人間たちの世界でも転職なんてザラにある話じゃあないか。それに妖怪だからとて、一生同じあるじに仕えるわけでもないのだよ。色々あってフルボッコにされた挙句追放される事もあるし、あるじに嫌気がさして逃亡する事もあるし――慕っていたあるじが部下を置いて逝く事だってあるんだからさ」

 

 確かにそうかもしれない。諭すような萩尾丸の言葉に、源吾郎は紅藤の来歴を思い出して一人で納得していた。紅藤は胡喜媚に仕えていた事で有名だが、実は胡喜媚は彼女にとっては三番目のあるじなのだという。一番目は人間の術者に、二番目は大陸出身の妖怪仙人に仕えていたそうだ。もっとも、胡喜媚に仕える前の事はあまり話してくれないので、源吾郎も多くは知らないが。

 

「ともかくだね、本来ならば豊田君は五月下旬に退職して、新しい就職先に迎え入れられるはずだったんだ。

 ところが君との戦闘訓練を終えた直後に心変わりをしてしまったんだよ。退職せずに、引き続きここで働きたいって言いだしたんだ。どうやら彼は玉藻御前の末裔である君と術較べする事でやる気に火が付いたみたいでね。僕の許で働いて、術較べをもう一度やりたいって言いだしたんだよ。

 一度退職届を出したのを取りやめにするのは別にまぁ問題は無いんだよ。『黄金の翼』は、知っての通り僕が最高責任者だから、妖事《じんじ》のアレコレも僕が口出しすればいかようにもなるしね。しかし豊田君の場合は既に転職先とも面談して内定も出て、働く準備も出来てしまっていたんだよ。僕はその尻拭いに巻き込まれて、しばらくこっちには顔を出せなかったっていう訳さ」

「それはまぁ……何とも言い難いお話ですね」

 

 源吾郎は唇を湿らせつつそう言うのがやっとだった。無論この話は、源吾郎のみならず青松丸たちも興味深そうに聞いている。

 そう思っていると、やにわにサカイさんが動いた。学生よろしく挙手はしないが、ローブの向こうから垂れた触手が蠢いている。

 

「は、萩尾丸先輩。それって豊田君単体の、問題、ですよね? それなら、豊田君自身で解決させれば良かったんじゃないですか?」

 

 サカイさんはある程度心を許した相手に見せるような親しげな口調で萩尾丸に問いかけた。内容自体は源吾郎も思っていた至極まっとうな疑問である。

 質問を投げかけられた萩尾丸は、渋い表情を作りあからさまにため息をついていた。

 

「当初僕もそう思っていたよ。あれでも豊田君は社会妖《しゃかいじん》だからね。自分で考えた事なんだから自分で落とし前を付けてほしいと思っていたんだけど、残念ながら彼単体では収拾がつかなくなってしまってね。やむをえず僕が介入する羽目になったんだ。

 全くもって骨の折れる仕事だったよ。豊田君自身は普通の野狐なんだけれど、転職先に結構良い所を選んでたし、途中から稲荷に仕える彼の親族からも懇願されるしさ……結局のところ、第五幹部の紫苑《しおん》様に助けていただく形になったんだ。豊田君は僕の許で仕事を続ける事になって、向こうには豊田君の代わりに紫苑様の部下で優秀な妖狐を一匹融通する形になったんだよ。いやはや、しんどいし恥ずかしいしで本当に大変だったよ」

「それは大変だったのね、萩尾丸」

 

 今一度盛大なため息をつく萩尾丸を、紅藤は優しくねぎらった。

 

「紫苑ちゃんに助けてもらった事は別に恥じる事じゃあないと思うわよ。ほら、私たちって何百年も生きてるからどうしても自分一人で何でもできるって思っちゃうでしょ。だけど本当は違うのよ。一人じゃあできない事もあるし、間違う事もあるわ。そういう時、誰かに助けてもらうって本当に大切よ」

 

 紅藤の言葉に対し、すぐには誰も何も言わなかった。萩尾丸に向けられた言葉なのだろうが、そこにいる皆それぞれに当てはまる言葉だと感じていたためだろう。

 いずれにせよ、紅藤が放ったためか恐ろしい程に説得力のある言葉だった。

 

「そういう訳だから島崎君。問題も解決したし、来週から戦闘訓練はつつがなく再開できるよ。いやはや、君の影響力は誠に凄いものだねぇ」

 

 萩尾丸はそんな事を言っていたが、ふと何かを思い出したらしくもう一度口を開いた。

 

「そう言えば島崎君。君って君個人の手下とか、使い魔は持っていないのかい?」

「いきなりどうされたのでしょうか、萩尾丸先輩」

 

 全くもって脈絡のない問いかけに思えて、源吾郎は目をしばたたかせた。

 

「いやさ、前も言ったように君には若い妖たちにやる気を持たせるような何かを持っていると感じているんだ。もし君に使い魔とかがいたら、そいつらにも良い影響をもたらすんじゃあないかって思っただけさ。

 それに君は世界征服を、自分がトップになってのし上がる事を夢見ているんだろう。その野望を阻止する親族から距離を置いているし実力も申し分ないんだから、既に野良妖怪の一匹や二匹、使い魔として確保しているんじゃあないかと思ったのだけど」

 

 妖怪が使い魔になる事は源吾郎も知っている。しかし源吾郎がその使い魔を従えているかどうかはまた別の話である。

 

「いえ、僕はまだ使い魔など持っていませんよ」

 

 源吾郎は素直に白状した。その辺の野良妖怪を使い魔として従わせる事も、まだ考えた事は無かったくらいだ。

 萩尾丸は驚いたような表情を見せていたが、それが作った表情である事は源吾郎には明らかだった。聡明な萩尾丸の事だ。質問する前から、源吾郎が使い魔を持たぬ事は知らなかったのかもしれない。

 

「それならさ、勉強がてらに一匹くらい持ってみたらどうだい。もしかしたら仔狐気分の君にも、下の存在が出来ればちょっとはしっかりするかもしれないしさ」

 

 源吾郎は黙ったまま萩尾丸の顔を凝視していた。戦闘訓練で仲間に馴染む事は源吾郎に課せられた課題だ。そこに新たに、使い魔を持つという課題が付け加えられたという事なのだろうか。



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増えた課題と大妖怪の心得

 使い魔。それは特定の術者や妖怪に従い、使役される者たちの総称である。服従と使役。この単語たちには不穏な気配が見え隠れしているように見えるが、実像は何という事はない。妖怪たちの間では、使い魔というのもれっきとした()()の一つとして見做されているのだ。

 もちろん、初代術者との契約と忠義と義務によりその家に代々仕える使い魔もいるにはいる。しかしそういう存在は実は少数派である。多くの、特に若手の妖怪たちは、忠義や愛情ではなく賃金と労働規約によっておのれのあるじと繋がっているだけだ。雇用主とサラリーマンと置き換えても遜色のない、実に()()()()()()()な関係性である。こちらの方が、むしろトラブルもストレスも少なく()()()主従関係を結べるのだ。感情的なものが絡まない分、互いに変な期待を持たないためである。

 要するに、あるじになろうと思う術者や妖怪は、ある程度の財力と良識さえあれば、使い魔を雇い入れるのはそう難しくはないという話だ。良識と、財力さえあれば。

 

 

 

 萩尾丸先輩。源吾郎は彼をしっかと見据えながら口を開いた。源吾郎にしてみればいつもより十五分ばかり早い出社だった。しかし昨日調べ物をした影響か、早くに目が覚めてしまったのだ。そこから普段通り朝食を摂り身支度を進めたのだが、結果としていつもよりも物事が前倒しに進み、いつもよりうんと早い時間に研究センターに到着したという次第である。

 始業時間はまだまだ先であったが、研究センターの面々はおおむね揃っている。青松丸などは紅藤と一緒にこの敷地に暮らしているというからまぁ解る。

 だがやや遠方の自宅から通勤しているという萩尾丸が始業時間よりもうんと前に到着し、なおかつ優雅に仕事に備えているのを見ると不思議な気持ちになってしまう。勤務先が遠くとも、社会妖《しゃかいじん》ならば真面目に出勤し、仕事に備えて準備を怠らないという事なのだろうか。だが見る限りでは、萩尾丸はコーヒーを飲みつつ新聞に目を通しているだけである。ある意味デキるサラリーマンらしい振る舞いともいえるのだが。

 

「おはよう島崎君。珍しく早くやって来たんだね。朝早くから切羽詰まった顔をしているけれどどうしたのかな」

「使い魔の確保について、思う事があるのです」

 

 興味深そうにこちらを覗き込む萩尾丸を見つめながら、源吾郎はおのれの主張を口にした。

 

「あれから使い魔の事について調べてみたのですが、今の僕では確保するのが難しそうなのですね。主に財力的な問題で、ですが」

 

 使い魔の話を萩尾丸から持ち掛けられた源吾郎は、その日のうちに使い魔に関する情報収集を行ったのだ。スマホやラップトップを使ったという事ではない。この土地を監督している自警団の許に赴き、使い魔に関する求妖《きゅうじん》情報を確保したのである。源吾郎はそこで、五十歳未満の若手妖怪であっても雇い入れるのにそれなりの出費がかさむという事を悟ったのだ。もちろん、パートタイムや週何日と指定すれば多少は安くて済むわけであるが。

 萩尾丸は僅かに驚いたような表情を見せていた。だがカップの縁に口を付けたかと思うと、彼の表情はいつもの含みのある笑みに戻っていた。

 

「あれからって、僕が使い魔の話をしたのって昨日か一昨日の話だよ。もしかして島崎君、僕の話を聞いてすぐに調査したの?」

 

 ええもちろんです。源吾郎は臆せず頷いた。

 

「大切な事だと思いましたので……それに僕自身、厄介事ほど先に片づけたい性質みたいでして」

 

 萩尾丸は数秒ほど源吾郎の顔を凝視していた。源吾郎の主張に思い当たる部分を見出したらしく、納得した様子で彼もまた頷いている。

 

「まぁせっかちな島崎君の事だから、僕の話を聞いてやる気が出たんだろうねぇ……良いんじゃないかな。君だってまだ若いし、モチベーションが低いよりも高い方が色々と良いだろうね」

 

 源吾郎は神妙な面持ちで萩尾丸の言葉を聞いていた。言葉だけを捉えれば、萩尾丸は源吾郎を褒めてくれてはいる。だがそれで安堵するのはまだ早い事を源吾郎は知っている。きっとニコニコしながら源吾郎に言葉の刃を向けるに違いない。深呼吸をして、源吾郎は口撃に備えた。

 使い魔確保云々の話は、数か月から数年のスパンで考えても問題ないよ。そんな前置きをしてから萩尾丸は口を開いた。案の定、口許は笑みで歪んでいる。

 

「それにしても、財力面で使い魔の確保を諦めかけているとは、ある意味君らしくないじゃないか島崎君」

「ですが、平社員の僕には専属に使い魔を雇い入れて賃金を支払うなんて甲斐性は残念ながらないんですよ。別に、研究センターの賃金に不満が……」

 

 僕が言いたいのはそういう事じゃないよ。源吾郎の言葉を遮り、萩尾丸は有無を言わせぬ様子で告げた。

 

「広く浸透している使い魔が賃金制だと知ってだね、賃金が捻出できないから使い魔が持てないなんてありきたりな考えに囚われているのかい?

 島崎君、君は三大悪妖怪の一人、玉藻御前の曾孫でしょ? しかも君自身は未だに野望を胸に抱いているんだろう? だというのに、そんな凡狐みたいな考えの持ち主というのは面白いね……」

 

 次に萩尾丸は何を言うのか。源吾郎は固唾を呑みつつ様子を窺う。既に雲行きが怪しくなっている事は明白だった。

 

「島崎君。前に誰かにも言われたかもしれないけれど、本当は君は結構強いんだよ? ああ別に、君を褒め殺しにして良い気分にさせようとか、そういう変な意図ではないから安心したまえ。

 だって考えてごらんよ。四半世紀も生きていない上に人間の血が四分の三まで流れているのに四尾の中級クラスに喰い込むほどの妖力を持ってるんだよ? 才覚のある凡狐ですら、四尾になるには百年単位の歳月が必要である事を念頭に置けば、君の実力が如何なるものか解るよね?

 お金がないとかそんなしみったれた事を考えずとも、君がその気になれば、君自身の力で雑魚……いや弱小妖怪たちを従える事なんて出来るんだよ。それこそ、今君が世話になっている自警団の連中を蹴散らしてこの土地のあるじになる事だって理屈の上では可能なんだよ」

 

 君は強い。源吾郎がこの言葉を聞くのは二度目だった。それも、源吾郎と世代の変わらぬ若手妖怪ではなく経験を積んだ大人妖怪からである。

 萩尾丸の言っている事は信用できると源吾郎も思っている。それはおのれの力を過信しているからという訳ではなく、萩尾丸の見識と洞察力の深さを知っているからだ。

 とはいえ、萩尾丸の先の主張に同意できるかどうかは別問題だった。

 

「力があれば、他の弱い妖怪を無理に従える事が出来るという話ですよね?」

 

 源吾郎の問いかけに萩尾丸は小さく頷いただけだった。話を続けて良いという合図であると源吾郎は解釈し、言葉を続ける。

 

「確かに妖怪たちの社会が実力主義である事は否定しません。萩尾丸先輩も、紅藤様も実力と実績を持った強い大妖怪ですし。ですが萩尾丸先輩。十分な強さがあったとしても、強さを笠に着ている()()では、他の妖怪を従える事は難しいのではないでしょうか? そりゃあもちろん、怖くて従うという事もあり得るでしょうが」

 

 妖怪の社会は、人間のそれよりも実力主義の側面が強い。上昇志向のある強い妖怪が組織の上位に君臨するのは珍しい話ではない。()()()ただ強いだけでは他の弱者を従えるに足る条件は満たしてはいないのではないか? 源吾郎はそのような疑問を抱き始めたのだ。

 相槌を適宜打ちながら聞いていた萩尾丸は、源吾郎の主張が終わってからうっそりとした笑みを浮かべていた。

 

「あは、ははは……島崎君。君も僕が思っていたよりも賢くなったみたいだねぇ。やっぱり若いから、色々と吸収するのが早いのかな? それとも、短命な人間の血も引いているからかな」

 

 おどけた調子で言い放った萩尾丸だったが、言葉を切って一呼吸置いた時には真面目な表情になっていた。

 

「強者として君臨する方法は一つではないんだよ。僕が提示した方法、自分以外の他者の考えなどお構いなしにおのれの欲望を押し通すというのもその一つさ。身近な例では峰白様や紅藤様がこの成功例を収めていると言っても過言ではないだろうね。

 とはいえ、島崎君が口にした内容が間違っているという訳ではないよ。欲望を適度に抑えつつ、周囲の面々と協力しながら強さを求めるというのは邪道でも何でもないからね。むしろこちらの方が王道かもしれない。

 重要なのは、強者として君臨するいくつかの方法の()()()()()()()じゃあないんだ。自分にはどの道がふさわしいか、どの道を選びたいと思っているのかそれがはっきりとしているか否かなのだよ」

 

 萩尾丸の強い視線を感じ、源吾郎は思わず視線を落とした。カップに未だ残るコーヒーの表面に、源吾郎の面がほの白く映っている。

 

「あくまでも現時点の話になるけれど、島崎君には相手を蹴落とし踏み台にしてのし上がる方法は不向きなようだね。かといって、他の妖怪、特に同年代や年下の相手と巧く関係を構築するのはまだ苦手みたいだもんねぇ……君のご近所付き合いがどんなものかは知らないけれど、少なくとも小雀の連中を前にしてイキリ散らしているでしょ? もちろん実力の無い輩が無闇にイキリ散らせば白い目で見られるのは当然の事だけど、君みたいに実力があったとしても……」

 

 萩尾丸はここで何故か口を閉ざした。イキリ散らす妖怪の代名詞と言えば萩尾丸も該当する。このまま持論を言いきったら、それこそブーメラン発言になってしまうとでも萩尾丸は思ったのだろう。彼は源吾郎以上に賢い妖怪なのだから。

 

「ああだけどね島崎君。君が単なるイキリ小僧だなんて僕は思っていないよ。同年代の面々とのやり取りに難があるだけに過ぎないし。むしろ君は、紅藤様や僕みたいな年長者の前では結構自然体で振舞っているように思えるんだ。強い妖怪相手でも変に委縮しないし媚を売る訳でもない。それでいて分をわきまえて動いているように映るしね。しかも君の言動には、年長者の心を掴むようなものがある……魅了の力とやらに頼っていなかったとしてもね」

「それはまぁ……末っ子の特性かもしれません」

 

 萩尾丸の分析の鋭さに内心驚きつつも、源吾郎は小さな声で呟いた。

 源吾郎が同年代や年下の面々との関係の構築が苦手な事、その反面年長者に好かれやすい性質を持ち合わせている事は彼も重々把握していた。

 それはもちろん、源吾郎が末っ子であるという生い立ちが大きく影響している事は言うまでもない。誠に残念な話であるが、末っ子というのは家族の中で最も無力な存在である。上位者たる保護者達(両親・兄姉・叔父叔母)の感情の機微を読み取り、彼らの歓心を買うための動きは、末っ子が末っ子として生き延びるために必要なスキルに過ぎない。

 

「君もまだ子供みたいなものだからね。ご両親や兄弟からの影響に左右される部分はあるもんねぇ。そうとも。君自身は玉藻御前の末裔である事をよすがとして傍若無人にふるまう事を赦されるような強者になる事に憧れているみたいだけど、根っこの部分は品の良いお坊ちゃまに過ぎないもんねぇ……

 少なくとも、『俺は母親の胎を喰い破って産まれたんだ』なんて言えないでしょ?」

「そんな化け物みたいな産まれ方はしてませんよ。僕の時も安産だったと聞きますし、母も父も健在です」

「あはは……まぁそうだろうね。三花さんは気丈な、むしろ芯の強い方だからね。君みたいな息子の一人や二人にうろたえる手合いではない事は僕も知ってるさ」

 

 萩尾丸の先程の過激な一文に源吾郎は反論してみたが、萩尾丸はそれを承知だと言わんばかりに笑うだけだった。やはり萩尾丸は大人の妖怪なのだと思い知らされた。それから、見た目はさておき源吾郎の母よりも彼の方が年上である事も思い出した次第である。

 

「……まぁともかく、君も修行を始めたばかりで色々と大変な所なのに、惑わすような事を言ってしまった事は謝るよ。まぁ、狐が天狗に惑わされるというのも面白い話だと思わないかね」

 

 源吾郎は軽く首をひねっただけだった。そうしていると萩尾丸が言い添える。

 

「そういう訳だから、君は君が進みたい道を見定めて動けば良いと思うよ。何だかんだと他の連中から色々言われるかもしれんが、君がまだ若くて妖怪業を始めて間がない事も彼らは一応知っているんだ。君もまともにやっていれば、まぁ彼らと馴染む事も出来るだろう。そうしているうちに、君を慕う相手も出来るんじゃあないかな」

 

 何事もそう焦らなくて良いのだ。取ってつけたような月並みな文言でもって、萩尾丸は話を締めくくったのだった。



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閑話 焼きマシュマロは狐火の味

 三度目の戦闘訓練、牧村という名の狐娘との火術の術較べは火曜日に行われる事となった。今日は土曜日であり、本番まであと丸々三日ある。

 休日だが源吾郎は練習がてらにと公園に赴いていた。普通の人間の子供らが遊ぶための公園ではない。妖怪向けの公園、あるいは施設の一種と呼んでも過言ではない場所だった。

 妖怪たちは別に異世界に暮らしている訳ではない。人間や他の動植物が暮らしている世界と地続きの場所でごく普通に暮らしている。

 とはいえ、妖怪たちが妖怪らしさを丸出しにして活動すれば、人間たちに変に注目されてしまう。不要なアクシデントを避けるために、妖怪たちは妖怪らしく動ける土地という物を用意し、こしらえるのだ。変化の習得が未熟な子供の妖怪や、大人だけれど周囲を気にせず本性に戻りたい妖怪向けの広場、遊び場のような物だ。

 よく見れば人間の術者も数名施設の中を巡回しているが、無論彼らは妖怪たちの敵ではない。妖怪に馴染むため、あるいはうっかり迷い込んだ人間や他の動物を安全に誘導するために彼らもスタンバイしているだけに過ぎない。むしろ時々妖怪の子供らが困っていたら助けたり、妖怪自警団の面々と協力していたりするくらいなのだ。

 

 大妖怪と人間の血を引く源吾郎も、もちろんここを訪れても何も問題はなかった。むしろそれこそ自警団に所属する妖怪にここを教えて貰ったくらいである。安全面への配慮が万全であれば、妖術を使っても何ら問題はない。職場以外で妖術の練習を何処で行おうかと悩んでいた源吾郎だったが、その悩みは一挙に解決できそうだ。

 

「よーし、この辺で良いかな」

 

 源吾郎は荷物を脇に置くと確認するように声をあげた。独り言ではない。ツレとして珠彦と文明が一緒だからだ。元々は訓練として一人で黙々と行う予定だった。しかし偶然にも珠彦らと合流し、彼らも誘ってこの妖怪公園にやって来た次第である。

 行き当たりばったりに合流したために、珠彦たちの準備に付き合わざるを得なくなった源吾郎だったが、その事に対する不満は特になかった。

源吾郎自身は元々早い時間に動こうと計画していたし、そもそも土曜日だから時間の余裕もたくさんある。それに何より、友達になった妖狐二人が加わってくれるというのは源吾郎としてもワクワクしていたのだ。元々一人で火術の練習を行うという時点でも結構遊びの要素は多分に含んでいた。遊び盛りな妖狐の少年たちが混ざったところで、そのコンセプトは変わらない。むしろ強化されると言っても良いだろう。

 火術の練習のためにマシュマロを焼く。これこそが、源吾郎が今日この場所で行おうとしていた事である。別に直火でマシュマロを焼く訳ではない。源吾郎が火術で発生させるのはあくまでも種火だ。そこからかつて行ったキャンプやバーベキューの要領で火を育て、それでマシュマロをいい塩梅に焼こうというのが源吾郎の目論見であった。ここに遊び盛り食べ盛りの妖狐二人が加わったので、焼く食材はマシュマロメインではなく今やたんぱく質がメインとなっていた。

 

「夏前だし、ちょっとしたキャンプ気分でもう楽しいっすよ、島崎さん!」

 

 二、三畳ほどの面積があるビニールシートを敷く珠彦の声は、言葉通り明るく弾んでいた。まだ準備を始めた所だというのに、既に楽しみ始めている所が彼らしい。素朴な性格という事もあるだろうが、珠彦は実は街暮らしのシティー・ボーイでもある。田畑が広がるこの土地を新鮮に思い、興奮しているのかもしれなかった。

 

「狐火から焼きマシュマロへの連想は俺にも思いつかんかったけど、ともあれグッドアイデアなんじゃないかなぁ?」

 

 おどけた調子で言いながら笑うのは文明である。術較べで会った時とは違い、尻尾以外は人間の少年に化身した姿である。それでも彼の変化術は健在であり、既に彼自身の作業を肩代わりさせるためのチビ狐を五、六匹顕現させていた。相変わらずモルモット程度の大きさしかないチビ狐であるが、あるじに代わりまめまめしく袋に入った荷物を運び出そうと奮起している。幻術であり、なおかつ使い手がチャラ男であると解っていても中々に感動的な光景だった。

 

「火術と言ったらキャンプ、キャンプと言ったら焼きマシュマロ、そして焼きマシュマロは漢のロマンなんだ」

 

 源吾郎はちょっと興奮気味に言ってのけた。鼻息が荒いのは、文明の操るチビ狐に感動していた事への照れ隠しである。しかし、焼きマシュマロが漢のロマンであるという主張自体は嘘ではない。

 

「焼きマシュマロが島崎君のロマンって意外……いや何か島崎君らしいっすね」

 

 シートを敷き終えた珠彦は、準備の続きがてらにこちらにやって来ると、そんな事を言って笑った。らしいって何だよ。軽口をたたく源吾郎であったが、彼の顔にも笑みが拡がっていた。

 

「学校に通っていた頃にさ、林間学校っていう催しがあったんだ。まぁ学校ぐるみで行うキャンプみたいなやつさ。それでバーベキューみたいなのをやるんだけど、そこではもちろんマシュマロも焼いた」

 

 説明しながら源吾郎は目を細めていた。妖怪の子供らが上げる歓声も、源吾郎を注視する二人の妖狐たちの顔も、源吾郎自身から遠ざかっているように感じていた。

 源吾郎は過去の情景を思い出し、僅かに眉をひそめていた。

 

「マシュマロを焼くのは俺の役目だった……いや、俺が役目を買って出ていたんだ。そうすると女の子たちが悦ぶからさ。俺自身も楽しんでいたよ。良く膨らんで美味しそうに焼き色が付くのを見るのは楽しいものだし。だが、俺が焼きたてを口にする事は無かった」

 

……学生だった頃の源吾郎は、キャンプだとかで結構張り切って活躍していた方だった。マシュマロなどを上手に焼くと女子たちから褒めそやされる事を源吾郎は幼いながらも気付いていたのだ。しかし女子たちの歓声に気を取られ、焼き立てのマシュマロ等を自分が味わうという所を源吾郎はすっかりと忘れていたのだ。当時はそんな事など全く気付きもしなかったが、損な役回りだったのかもしれないと、後になってから苦い思いがこみ上げてくるのだった。

 そんな青春の一幕を塗り替えるべく、今回源吾郎は焼きマシュマロに挑もうとしていた。一人だったら食べ時を逃す事は無いだろう、と。狐火の術の訓練だとかはそれに付随する口実でもあった。

 

「……ま、まぁなんか悪いね島崎君。男ばっかりで駆けつけちゃってさ。カノジョもガールフレンドたちも都合が悪くてこれなかったんだ」

 

 ともあれ源吾郎の説明が始まってから終わるまでの間、珠彦と文明は何とも言い難い様子で黙って話を聞いていた。その沈黙を破ったのが文明だった。恋人であろうカノジョと、それに準じる存在と思われるガールフレンドたちを臆面もなく並列して説明するところが彼らしい。源吾郎もハーレムを夢見ているにもかかわらず、それを棚上げしてそんな事を思っていた。

 

「別にさ、男だけでも良いと思うけれど、フミッチ?」

 

 文明に対して自分の意見を口にしたのは珠彦だった。

 

「そりゃあさ、僕らの中に女の子が何人か混じってても楽しいのは変わりないっすよ。だけど女の子がいたらいたで色々気を遣わないといけないし気を遣ってても色々言われるかもしれないし……」

 

 妹分がいるという事で珠彦の言葉には妙な説得力があった。そう思っていると、彼の瞳が動き、源吾郎を捉えたのだ。

 

「島崎君だって、そう思うっすよね?」

「まぁ……うん」

 

 反射的に頷くと、源吾郎の顔を凝視する視線に文明も加わった。同意を求める珠彦に対し、文明は半ば面白がっているようでもある。はて何といえばカッコよく聞こえるだろうか……源吾郎は一秒も満たぬ間で考えを巡らせ、勿体ぶったように頷いてみせた。

 

「今回は漢のロマンを追及している訳だしさ。確かに、女子たちがいるよりも男だけの方が良いかもしれないな」

 

 さしあたり良い文言が思い浮かばなかったと、口にしながら源吾郎も思っていた。だから彼は支度を忘れていたというふりをして自身の手荷物を探り始めたのだ。

 実を言えば、源吾郎は今女子たちへの関心はかなり薄くなっていた。職場で行われる術較べに意識が向いていたためでもあるし、何よりそれ以上にぱらいそでの一件が尾を引いているのかもしれなかった。

 源吾郎の荷物の中にはもちろんマシュマロはあるが、それ以外に叔父が作った護符があった。妖術が外に漏れださないようにする結界用や火を消すのに使うための護符である。敷地内は妖術が変に暴走しないように調整してあるという事だが、こういう準備を行ったうえで妖術の練習をするのがデキる妖怪のマナーである。

 

 

 火術の練習という名目のバーベキュー自体はつつがなく進行していった。要するに源吾郎が火術で小さな種火を作り、それで思い思いの食材――狐用ソーセージだの厚揚げだのトウモロコシだのマシュマロだのだ――を火であぶり、ちょうどいい塩梅になったのを食べるという物である。言葉に起こせばそれだけであるが、何せ若い男が三人も集まっているのだ。焼いて食べるだけでも大いに盛り上がった。

 源吾郎も念願かなって美味しい時の焼きマシュマロなるものを口にする事が出来たので、まんざらでもない気分だった。まぁ要するに、学生時代のキャンプの苦い記憶を塗り替え、ついで最近親しくなった妖狐の少年たちと友誼を深められた事を無邪気に楽しんでいたのである。

 時折、こちらに何者かが鋭い視線を向けてくるのが気になったが、珠彦も文明らも一顧だにしなかった。人間の術者の視線であろう事は源吾郎も解っていたが、二人がそれほど警戒していなかったので源吾郎も気にしない事にしたのだった。




 漢のロマンを大切にする島崎君。実はかなり女子力も高めです。
 ナチュラルに美少女に変化しちゃうわけだから、多少はね?


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乙女の牙城と就職談義

 主人公が女子のお部屋にお邪魔する話です。
……健全100%でお送りしますので、どうぞご安心を(にっこり)


 源吾郎が通っていた中学校の同窓会があったのは六月中旬の日曜日の事だった。その案内は実家に届いていたのだが、すぐに実家から連絡があったため源吾郎も僅かなタイムラグを挟んだものの催しの存在を知る事となった。

 同窓会に参加するという判断は両親や兄姉らを十二分に驚かせたらしい。しかし実のところ、当事者である源吾郎も何故参加するという判断を下したのか、その辺りはフワフワしたものだった。人間として暮らしていた日々に未練があるなどと言う、重々しい理由などはない。源吾郎自身は妖怪としての暮らしに順応し、力を付けようと奮起している最中だ。

 だがもしかすると、心の中で妖怪としての暮らしに少しの疲れを感じていたのかもしれなかった。紅藤の許に弟子入りしてすぐの頃は、源吾郎も割と明るく単純な心持でいる事が出来た。偉大なる玉藻御前の血統と、自身が持つ潜在能力を無邪気に信用していたからだ。源吾郎の心に宿っていた無邪気な過信は今はもう大分薄れて消えかけていた。見掛け倒しの潜在能力も、大妖怪の血を引いているという事実さえも確かな実力が無ければ無意味である事を、妖怪として生きるようになってから嫌という程思い知らされたのだ。

 源吾郎とてすぐに雉鶏精一派の大妖怪たちに認められるなどと考えてはいなかった。しかし少なくとも弱小妖怪・雑魚妖怪と呼ばれる連中からは強者であると認められ、称賛されるに違いないと思っていたのだ。実際には、源吾郎が密かに雑魚妖怪と見做していた面々に実力面で圧倒され、どうにかこうにか頑張って彼らに()()であると思わせるところで精一杯だったのだが。

 まぁ、人間の血を多分に引くという特性を持ちつつも、若手妖怪から疎まれたり憎まれたりせずに紆余曲折はあれど仲間と見做されるようになったというのは、源吾郎なりの頑張りであるともいえるだろう。

 

 同窓会で顔を合わせるのは人間たちが大多数だ。源吾郎は自分が実際には何を行っているのか、彼らに言うつもりはもちろんない。今や妖怪として生きる事を選んだ源吾郎は、妖怪の力で人間の世界をかき乱す事が無いようにと身内からきつく釘を刺されていたのだ。

 そういう忠告が無くても、そもそも源吾郎には人間たちにおのれの力を誇示しようなどと言う意志は持ち合わせてはいなかった。妖怪が様々な面で人間よりも優れた存在である事は源吾郎も知っている。妖怪同士でマウントを取り合うのはまだ良いが、人間相手にそんな事をするのは彼自身の妖怪としての沽券にかかわる問題であると割と真剣に思っていた。

 とはいえ、同窓会で仔羊のようにしおらしく顔を出すだけにとどめるつもりでもない。自分の近況の全てを口にする事は不可能だが、一部を明らかにするのは問題ないであろうと源吾郎は考えていた。同じ中学校に通っていた仲間たちがどのような進路を辿ったか、源吾郎はその全てを把握している訳ではない。しかし大半が大学なり専門学校なりに進んだ所謂進学組であろう。中には浪人した者もいるかもしれない。いずれにせよ源吾郎のように高校卒業を機に就職した者は少ないはずだ。

 妖怪の世界を満喫すべく邁進《まいしん》している事は言えないが、皆よりも一足飛びに就職した事を言ったとしてもばちは当たらないだろう。源吾郎は素直にそんな事を思っていたのだ。

 結局のところ、源吾郎は出席前に思っていた事を実行した。すなわち、同窓会の席で近況を聞きに来た連中に就職したのだと伝え、人生の夏休みとやらを満喫しているかつての同級生を驚かせたという事だ。

 

 

 演劇部の仲間たちで集まる事が決まったのも、これもまた当然の流れの事のように源吾郎には思えた。中学校の演劇部は割合大所帯で、同学年の部員は源吾郎も含めて五名いたのだ。源吾郎以外の同学年の演劇部員四名は全員女子揃いである。

 源吾郎が演劇部の中で恋愛を育む事は無かったが、彼女たちと良好な関係性を構築できたと言っても遜色は無かった。そうでなければ、中学校の同窓会に触発されて開かれた演劇部のOB・OGオフ会の案内が届くどころかそのような会合の存在も知らずじまいだっただろうから。

 元演劇部部長にして女子大生となった廣川千絵《ひろかわちえ》の一室で行われた。このオフ会に、源吾郎も当然のように出席した。遠方の大学に通う事になった千絵は実家を離れお洒落なアパートで一人暮らしを始めていたが、男である源吾郎が訪れる事を厭いはしなかった。男に対する警戒心が薄いというよりも、源吾郎に対する信頼の篤さによる結果であろう。それに今回は千絵と源吾郎がサシで会う訳ではなく、他の部員たちも勢ぞろいしている訳であるし。従って源吾郎もそれほど緊張してはおらず、割合リラックスした心持で千絵の牙城に入る事となった。

 もっとも、演劇部という目的の許に結集してから今日に至るまで、源吾郎と彼女らはあくまでも同じ目的を持った仲間であり、異性であるという意識は割合乏しかったのだが。

 

「随分とお洒落なところに暮らしているのね、千絵」

「本当ねぇ……しかも一人暮らしなんでしょ? うちらまだ実家暮らしだからうらやましいな」

「一人暮らしかぁ……楽しそうだけど大変だなって私は思うかも。自分一人で色々とやらないといけないし、夜とか怖くない?」

 

 千絵の許に招かれた、源吾郎と同年代の女子三名は思った事を口々に述べていた。源吾郎はそれを見守るだけで彼自身はまだ特に発言はしていない。思う所が無いわけではない。むしろ千絵と同じく一人暮らしを行っている身分だから、思う事は三名の女子たち以上にあるにはある。だが敢えて何も言わず様子を窺っていた。うっかり自分が何かを言った事で、千絵や他の女子達の気を悪くしてはいけないと用心していたのだ。

 

「えへへ……部屋の事を褒めてくれたり私の心配をしてくれて、みんなありがとう。でも私は大丈夫よ。一人暮らしももう三ヶ月経ってるし、料理とか洗濯も近くにコンビニやコインランドリーがあるからちょっとくらいサボっても大丈夫なんだ」

 

 女子達の言葉を受け、千絵はニコニコしながら応じていた。他の女子達もそうだが、千絵も彼女なりにお洒落を楽しんでいるらしく、ブラウスとズボン姿ながらもお洒落で可愛らしく見えた。もっとも彼女らのお洒落は、男子ウケを狙っているよりも女子ウケを狙っているように源吾郎には思えた。男である源吾郎がその事に気付けるのは、それこそ女子ウケをリサーチするために女子向けの雑誌にも目を通しているからだ。

 ともあれ千絵を筆頭に、演劇部の女子達はあか抜けた感じになっていた。会わなかった三年間のうちに彼女らは成長し変化したのだろう。成長と変化は無論源吾郎にも当てはまる事であるのだが。

 さてそんな事を考えている源吾郎をよそに、千絵は上機嫌といった様子で一人暮らしの詳細を説明しようとしていた。彼女はすっと腕を伸ばし、窓を彩るカーテンに手指を添える。カーテンは二重で、内側には淡いパステルの水玉模様のものが、外側は灰色がかった紺色の、さも無骨そうな物がかけられていた。

 

「このカーテンはね、防犯対策なのよ」

 

 女子アナよろしくちょっと得意げに語る千絵に対して、女子達は驚きの視線を向けていた。かつての仲間たち、未だ実家暮らしを敢行する少女たちの驚きの念に千絵は気を良くしたらしい。廣川部長は女優気質だったなぁ……ドヤ顔をキメる千絵を見ながら、源吾郎はぼんやりとそんな事を思った。

 

「この、可愛い感じのカーテンだけだったら、女子が住んでるって外から丸わかりでしょ? だからね、外に見せる用にごついカーテンもセットにして、それでカモフラージュしているの」

「そういう防犯対策をきっちりするって良い事だと思うよ、廣川さん」

 

 ずっと黙っていた源吾郎だったが、ここでようやく口を開いた。千絵を筆頭に女子達の視線が集中し、源吾郎は少しだけ面食らった。彼女らはただ源吾郎に注目しているだけではない。その瞳の奥には、それぞれ驚きの色が見え隠れしてさえもいた。

――何故皆はこんなにも驚いているんだろう。やっぱり俺は黙っておくべきだったのかな

 源吾郎は密かに考えを巡らせていた。同年代の面々とのやり取りはまだ苦手な源吾郎であるが、それでも気を遣うべき時は気を遣っているであろうと自分では思っている。相手が女子ならなおさらだ。しかしそれでも失敗する事はある。今回もそういう事だろうと源吾郎は思い始めていた。

 

 すごいね島崎君! やっぱり目の付け所が違うかも! 驚いていた女子達が放ったのは、歓声混じりの源吾郎への称賛だった。妖狐ながらも狐につままれたような顔で、源吾郎は注意深く千絵を見つめ、それから他の女子達に視線を移した。彼女らは四名とも感心したような様子で源吾郎を見ているではないか。

 

「やっぱり島崎君って物知りよね。いの一番に防犯対策の事とかに気付いてくれるって。部活のときとかも、私らに色々うんちくとか教えてくれてたし。思い出したら結構面白かったなぁ」

「あはは……」

 

 無邪気に笑う千絵を前に源吾郎も愛想笑いで応じた。物知りと言われる事は嬉しいが、かつて仲間たちにうんちくを垂れていたという話を思い出すと気恥ずかしい思いが滲み出てきたのだ。あのうんちくで当時の彼女らを少し辟易させていた事に気付いているからだ。

 とはいえ知識も武器であると信じている源吾郎にしてみれば、知識が多い事を褒められるのは素直に嬉しい。

 

「なに、両親や一番上の兄とかが言っていた事を思い出しただけさ。姉も廣川部長みたいに若い頃から一人暮らしを始めたんだけど、危ない事が無いようにって上の兄が心配していたのを思い出してね……」

 

 照れ隠しを交えつつも語った源吾郎の言葉に、女子達は納得したようだった。源吾郎の知識の源が、歳の離れた兄姉らの言動である事を彼女らはよく知っているのだ。それに源吾郎が兄姉らの話を必死さを押し隠して聞いて知識にしていたのも真実である。

 上の兄、と源吾郎の口から出てきたのを聞いた女子達は、またも歓声を上げた。今度は黄色い声である。彼女らは源吾郎の兄姉を、特に長兄と長姉を慕っていた事は源吾郎も知っている。

 中学生だったころ、源吾郎は諸々の理由で彼女らを家に招いた事があった。長兄の宗一郎は彼女らを末弟の友達として手厚くもてなし、彼女らの信頼を勝ち取っていたのだ。これは秀麗な容姿や妖狐の持つ魅力云々を抜きにして、宗一郎自身の面倒見の良さがもたらした結果であると源吾郎は固く信じている。

 

「そう言えば、島崎君も一人暮らしだったわよね」

 

 客人のひとり、前田朋子が思い出したように源吾郎の方を見やった。確か彼女は大学生、それも実家暮らしだったはずだ。頷くと、今度は別の女子から声が上がった。

 

「しかもうちらと違って就職したのよね」

 

 そうだよ。驚きと感嘆の念が籠ったその言葉に、源吾郎は自信たっぷりに頷いた。

 

「就職先の研究センターが実家から離れていたからね。それで安アパートを借りて一人暮らしにしゃれこんだ次第さ」

 

 源吾郎は思わせぶりに言葉を切り、さっと視線を千絵の部屋の四方に走らせた。カーテンの外側のみはやや無骨だが、それ以外の部分は可愛らしくまとまっている。女子の部屋という感じがした。壁に沿うように四角い銀色の鳥籠があるのが見えたが、不思議と部屋のレイアウトにマッチし、見苦しさとは無縁だ。

 

「……だけどまぁ、廣川部長みたいにお洒落な部屋じゃあないけどね。部屋のレイアウトまではまだ手が回らなくて」

 

 茶目っ気たっぷりの言葉を放ち源吾郎は締めくくった。しかし案の定、女子達は源吾郎が就職し尚且つ一人暮らしを行っているという所に強い関心を向けていた。彼女らにしてみれば、源吾郎の近況は意外性のある物だったらしい。

 そう思われるのも、実は源吾郎にしてみれば織り込み済みの事だった。彼女らは源吾郎が自分たちよりも幼いと思っている事を知っていた。源吾郎としては恥ずかしい話ではあるが真実なのだから仕方がない。兄弟喧嘩どころか保護者代わりになる兄姉らがいる末っ子。気宇壮大な野望に取り憑かれた早生まれ。何処をどう取っても幼いと見做されてしまうのは致し方ない話だった。

 

「あーっ! そう言えば島崎君って就職したのよね。しかも研究センターってすごいわね。島崎君って、理科が苦手なイメージがあったから」

「文系だったけれど、センター長と俺の親族が知り合いだったから、特別に採用してくれたんだ。まぁ、所謂縁故入社ってやつ」

「そうだったんだぁ……ねぇ研究センターってどんな所なの? やっぱり男の人ばっかりなの?」

「人数は少ないけれど男女混合のセンターなんだ。センター長は女性だし」

「センター長が女性なんだ! やっぱりすごいわよ! それで、そのセンター長ってどんな人? 女の人で研究センターを統括してるから、やっぱりバリキャリなのよね?」

 

 女性の研究センター長。この単語に女子達は思いがけず食いついてきた。メンバーの中には晴れてリケジョになった者もいたから、やはりその辺りは気になるのだろう。

 バリキャリ、ねぇ……源吾郎は女子達の口から出てきた単語を拾い上げつつも、あいまいに笑うだけだった。彼の言う女性センター長は言うまでもなく紅藤の事だ。しかし紅藤の存在とバリキャリという単語は源吾郎の中で上手く同化しなかった。

 源吾郎たちに見せる態度はさておき、紅藤が実のところ仕事熱心な存在である事は源吾郎も認めている。しかしバリキャリで済むような()()()()()代物ではないと判断していたのだ。

 

「ま、まぁバリキャリになるかな……」

 

 それでも源吾郎は彼女らの言葉を否定せず、言葉尻を濁しつつも応じた。実際には紅藤は新体制創設時から立て直しに奔走し、今もなお幹部の座を護る女傑中の女傑である。だがこれを仔細に語ってしまうと、それこそ妖怪の話に足を突っ込みかねないと源吾郎は判断したのである。

 とはいえ、女子達はまだ源吾郎の話を詳しく聞きたいようだった。さてどうしたものか。

 

 小さく乾いた拍手が一度響いたのは、源吾郎が密かに悩み始めた丁度その時であった。反射的に女子達も源吾郎も音源に視線を向ける。音の主は、この部屋のあるじの千絵だった。彼女はちょっと唇を尖らせ、何故か源吾郎に挑むような視線を向けていた。

 

「ねぇ皆。島崎君の話も良いけれど、私の優雅な一人暮らしライフも、まだまだ語るべきところがあるのよ」

 

 本当を言えば、一人暮らしじゃあないのよ。この子たちと一緒に暮らしているから。

 得意げに千絵はそう言うと、わざわざ立ち上がって壁際に置いた鳥籠へと向かった。鳥籠の中には、雀よりも一回りか二回りも小さい鳥が、三羽入っているのが源吾郎には見えた。




 紅藤様をバリキャリで済ませたら大変な事になると思います(白目)


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手乗りアイドルに魅せられて

「皆、さっき私が一人暮らしで寂しくないかどうかって言ってたでしょ? でもね、私にはこの子たちがいるから寂しくないのよ」

 

 言うや否や、千絵は鳥籠の入り口を開けた。彼女の左手にはさも当然のように小鳥が飛び乗る。ある鳥は千絵の手の上に行儀よく止まっているが、ある鳥は手のひらの上から勢いよく離陸し、すぐ傍のローテーブルに着地している。先に新天地に着地した小鳥を追いすがる鳥もいた。三羽とも、白地に茶褐色のまだら模様が入っている。

 

「この子たちは手乗り十姉妹《じゅうしまつ》なの」

 

 千絵の澄んだ声が室内に響き渡る。千絵以外の面々は、今や鳥籠を出て我が物顔で跳ねて飛ぶ小鳥たちに釘付けである。もちろん源吾郎もだ。

 ジュウシマツぅ? ちょっと間の抜けたような声が女子の誰かから上がっていた。小鳥好きか小鳥好きが近くにいなければ、確かに十姉妹が何であるか首をひねる者がいてもおかしくはないだろう。

 しかしそんな事は十姉妹たちも千絵すらも気にしていないようだった。千絵は自分の手に未だ留まっている一羽の頭部から背を優しく撫で、それから探検を続けている二羽に視線を向けていた。

 

「それぞれトップ、モップ、ホップって言うの。一番大きくて堂々としている子がトップ、頭の羽毛が逆立っている子がモップ、他の子よりちょっと小さくておどおどしているのがホップなの」

「千絵のネーミングセンスって独特だねぇ」

「モップちゃん以外はどっちもそっくりだけど、千絵には見分けがつくの?」

 

 独特と称された名前であったが、当の十姉妹たちは特に気にしていないらしい。探検していた二羽――トップとモップであろう――は、胸を膨らませて一声啼くと、今再び千絵の許に戻ってきた。巻き毛のあるモップは千絵の方に止まり、トップはさも当然のように未だ広げられた千絵の手のひらに舞い戻る。仲間が戻ってきた事に驚いたらしく、ホップと思しき十姉妹は渋々と言った様子で千絵の手のひらから離陸し、近場に舞い降りた。

 他の女子たちはさておき、源吾郎は既に三羽の十姉妹の区別がつき始めていた。トップとホップは兄弟姉妹なのか確かにまだら模様の入り方やシルエットは似ている。しかし態度と体格は異なっていた。千絵の言うとおり、トップの方が体格も良く動きもどことなく横柄である。一方のホップは、痩せてはいないものの他の二羽よりやや小さく、相手の様子を窺うような仕草さえ見せている。

 そんな風に密かな観察を進める源吾郎をよそに、千絵はトップと思しき十姉妹が乗った手を掲げた。

 

「足環《あしわ》を付けてるの」

 

 四対の瞳が千絵の手許、そこに止まっている十姉妹の足許にまず向けられた。十姉妹の右足首には、確かに赤いリングが通されている。薄っぺらいプラスチック製であろう。源吾郎はすぐに他の二羽の足首も注視した。いずれも右足首に似たようなリングが通されている。巻き毛のあるモップは青色、申し訳なさそうにローテーブルをうろつくホップは黄色の足環だ。成程これならば個体識別は容易いであろう。

 

「最初はトップとホップが似てたから、私も足環で区別をしていたんだけど、一緒に暮らしているうちに個性の違いが判ってくるようになったのね。今では、特に足環を見なくても誰が誰なのか解るわ」

 

 得意げな千絵の言葉に歓声が上がる。それに気付いているのか否か、十姉妹たちは気ままにさえずったり飛び跳ねたりと思い思いに動き回っていた。

 個体識別できるのなら足環は要らないのでは……理屈っぽいが至極まっとうな意見が上がりもした。もっともな話だとその意見に対して源吾郎は思ったものの、特に口は挟まなかった。今でも十姉妹たちに足環があるという事は、何らかの意味があるという事だろうから。

 

「ほんと可愛いわよねぇ。まん丸くてフワフワで、シマエナガそっくりかも」

「面倒見るのって大変じゃあないの? こんなに小さいから」

「あー、やっぱ小鳥も可愛いなぁ。でもうちにはマルがいるからちょっと無理かも」

 

 自由に動く十姉妹たちを見ながら女子たちはてんでに思った事を述べている。ちなみに女子の一人が口にした「マル」とは猫の名である。かつて源吾郎たちが発見した仔猫たちの一匹だ。後の二匹は他の家に貰われていったのだが、身体が小さく不器量だったマルだけは長らく演劇部員が面倒を見ていた。源吾郎は実はマルを引き取りたいと思っていた事もあったが、色々あって同級生の家の許に落ち着いた次第である。

 

「うふふ、やっぱりこの子たちって可愛いでしょ」

 

 十姉妹たちと部員たちとを交互に眺めていた千絵は、持っていたスマホを源吾郎たちに見せた。画像を保管するギャラリーの部分に難なく入ると、何とそこは十姉妹たちの画像で埋め尽くされていた。千絵は器用にスマホの表面を操り、古そうな画像をタップした。

 小さな画面に広がったのは、三羽のひな鳥が居並ぶ画像であった。およそ二か月前の画像らしい。羽毛の色合いや模様から辛うじて今遊んでいる三羽と同一個体である事は判る。しかし身体つきも小さく羽毛の生え具合も所々不揃いで、今よりもうんと幼い頃の画像である事は明白だ。

 

「一人暮らしにも慣れた頃に飼ってみたんだ。本当は文鳥とかキンカチョウとかでも良かったんだけど、小鳥屋さんでたまたま扱ってなかったから十姉妹にしたの。値段も結構安かったしね」

「餌やりとか大変じゃなかったの?」

「確かに小鳥のヒナってさし餌をやらないといけないらしいのよ。でもね、割合大きくなった頃に飼ったから、さし餌をするのも三、四日くらいで大丈夫だったわ。買ってきた時から、さし餌のほかにもペレットとかもつついてたし」

「そっかー。それだったら楽よねぇ……」

 

 朋子《ともこ》がしみじみとした様子で声をあげた。確か彼女は理科は苦手だったが小動物に興味があった。

 

「従妹も少し前にインコを飼いだしたらしいんだけど、ヒナの時にさし餌を受け付けなくて大変だったって聞いたのよ。動物病院に連れて行ったら費用がかさんだとか、退院してからまたちょっと元気が無くなったとかで大変だったらしいわ。

 まぁ、退院後ずっと様子を見ていた叔父さんと叔母さんが、二人がかりでそのインコに無理くり餌をあげてたら、数日後にはすっかり元気になったらしいんだけど」

「多分それは、冷えていたからでしょうね……」

 

 朋子のインコ話に対して、千絵は解説を行おうとしていた。だが十姉妹たちの甲高く鋭い啼き声を聞き取りそれどころではなくなった。十姉妹たちはいつの間にか三羽揃ってローテーブルに止まっていた。跳ね回り、啼き、身体を伸び縮みさせ動きを伴っていた。しかし愛くるしい見た目とは裏腹に剣呑な気配が三羽の間には漂っていた。

 十姉妹の一羽が、別の一羽に対して嘴を向け、近付いたら突こうと身構えているのだ。巻き毛のモップは居丈高な方にすり寄り、状況次第では突かれそうになっている一羽に冷徹な眼差しを向けているように源吾郎には見えた。

 足環を見ずとも、突こうとしている方がトップで、突かれそうになっているのがホップなのが源吾郎には解っていた。

 

「あら」

 

 三羽の十姉妹の飼い主、彼らの保護者ともいえる千絵は、三羽の緊張状態を前に気の抜けたような声をあげた。幼子のヤンチャを見守る若いママのような声音だった。

 

「きっとこの子たち、お腹が空いているのよ。それで気が立っているのね」

 

 そんな事を言うと、千絵は膝立ちのままゆっくりと移動した。黄褐色のツブツブが入った袋を取ると、袋の口を開いて中にあるものを手のひらに乗せていく。

 

「この子たちがいつも食べてるペレットよ。手乗りだしみんなの手の上に置いてたら来てくれると思うわ」

 

 ペレットと呼んだ粒々たちを、千絵は演劇部員たちの手のひらに少しずつ置き始めた。餌につられて小鳥たちがやって来る。この状況に、女子たちは満場一致で喜んでいた事は、彼女らが千絵に手のひらを見せていた事で明らかだろう。

 一応源吾郎もこれに倣ったが、自分のところに十姉妹たちが来るという期待はしていなかった。並の妖怪以上に妖力を持つ源吾郎は、実は妖力を持たない動物たちからは、おおむね恐れられ避けられていた。人間以上に勘と本能の鋭い動物たちは、妖怪が脅威をもたらす存在である事と妖怪の持つ妖力が()になる事を感じ取っているのだろう。

 もちろん、妖怪がその場にいるだけで他の動物たちに害や影響が出るわけではない。妖怪が多く住んでいる所にも動物たちが訪れたり住まいにする事はあるにはある。しかし動物たちの多くは、妖怪の放つ妖気の影響をなるべく受けないように動くのが普通の事だった。

 そういう源吾郎の考えをよそに、千絵は源吾郎の手のひらにもペレットを置いてくれた。しかも他の女子たちよりも多めにである。源吾郎が何故か動物に好かれない事、それでも源吾郎が動物に興味を持っている事は彼女も良く知っていたのだ。

 

 

 三羽の十姉妹たちは、案の定ペレット目当てに女子たちの手のひらに飛び乗った。源吾郎は彼女らの手の上でペレットをついばみ小さく啼く十姉妹たちを密かに見守っていた。今のところ自分の手のひらにやって来る十姉妹はいないが、妖怪ではない小鳥を見ていて確実に彼の心は和んでいた。妖怪でも何でもない、普通の鳥がこんなにも癒しと安心感を与えるものであるとは夢にも思っていなかった。

 

「あ」

 

 そうこうしていると、源吾郎の許に一羽の十姉妹がやって来た。手のひらに乗ってきた衝撃も、細い脚から伝わる重量も実にささやかでそれが却って新鮮な驚きをもたらした。源吾郎の声に驚いたらしく、十姉妹は小首をかしげ、喉を膨らませて啼いた。申し訳なさそうな表情のその鳥は、黄色い足環のホップだった。もしかすると、他の所で餌をつついていて、他の二羽に追われてしまったのかもしれない。

 源吾郎は手の震えを抑えつつ、ホップがペレットをつつくのを眺めていた。小さな生き物の動きに半ば感嘆していた源吾郎だったが、気弱なはずのホップは源吾郎の手の上でリラックスしていたらしい。というのも、彼は源吾郎の手のひらに乗っていたペレットのみならず、源吾郎が気付かぬ間に作っていた指の()()()()までつつき、薄皮を咬んでいたのだから。 




 歌って踊って可愛いのならばすべからくアイドルなのです。
 性別や種族の差などは小さな問題でしかないのです。


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夏の日差し、思わぬ再会

 月曜日。いつもと変わらぬ時間帯に研究センターに入った源吾郎は、自分のデスクの上に、折り畳まれた白衣が置かれてあるのを発見した。袋詰めになっているそれは、明らかに新品だった。

 

「もう七月だし、夏用の白衣を用意したの」

 

 新品の白衣をまじまじと眺めている源吾郎に声がかけられる。デスクの向こう側にはいつの間にやら紅藤が来ていた。相変わらず足音はほとんど聞こえなかった。大妖怪になると、足音を立てずに歩く事も出来るのかもしれない。源吾郎はぼんやりとそんな事を思った。

 ありがとうございます。源吾郎の言葉に紅藤はふわりと微笑む。ありがたい事だと源吾郎は素直に思っていた。白衣に夏用とか冬用があるのかまでは知らなかったが、今までの白衣だと多少の暑さを感じ始めていたのも事実である。別に研究センターが冷房をケチっているとかそういう話ではない。妖狐の血が多い源吾郎は、普通の人間より暑さが苦手なだけである。

 夏用だという白衣を抱え、源吾郎はカバンを置いて更衣室に向かう。紅藤も夏用の白衣を着ているのだろう。軽やかに揺れる彼女の白衣の裾を見ながら源吾郎はぼんやりと思った。

 

 

 三十分弱のミーティングが終わると、源吾郎は建物を出て青草の生える敷地を歩いていた。先程支給されたばかりの白衣は脱いでおり、夏物のワイシャツとチノパン姿である。右手には小動物を入れるための帆布でできた袋を提げている。例によって紅藤から蟲などの小動物の捕獲を命じられていたためだ。集めた物は薬品の原料になるほか、紅藤が美味しくいただいている場合もあるにはある。その辺りは深く考えないようにして源吾郎はやり過ごしていた。

 さて源吾郎は夏の日差しに照らされつつも任務を遂行しようと動いていた。まだ十時前だというのに日差しは強い。中休みのチャイムが鳴る前にさっさと集めて事務所に戻ろうと密かに思っていた。工場と研究センターの合間にあるこの空間でうごめく源吾郎を見ている者はいないようだ。工場勤務の面々も、工場の中で暑さと闘いながら働いている最中である為だ。

 

 イネ科の青草が大きく揺れるのが視界に映った。源吾郎は一瞬訝ったが、すぐにそちらに視線を向けて様子を窺う事にした。比較的大きな何かが暴れているのだろうと目端を付けたのだ。源吾郎も何だかんだ言って二か月強はこうして何がしかの生物を捕獲する任務を負っていた。今までにない動きである事は、一瞥しただけですぐに判ったのである。

 

「なっ……」

 

 未だに揺れる青草の間を斜め上から覗き込んだ源吾郎は、思いがけぬ光景に息を呑み目を瞠った。青草と地面の間で暴れていたのは一羽の小鳥である。弱ったり傷ついたりしている訳ではないのは、小さいながらも雄々しく両の翼を広げ、猛禽よろしくふんぞり返っている所からも明らかだ。その小鳥は雀でも目白でも燕でもなかった。屋外で見かける小鳥よりも小さく、白地に茶褐色のまだら模様があった。十姉妹、それも千絵の家で見た十姉妹の一羽だ。源吾郎はすぐにそう悟った。理屈や理性ではなく、本能でその事を知った。

 千絵が飼っていた十姉妹がここにいる事そのものも異様なのだが、当の十姉妹の行動に源吾郎は目をむいた。伊達や酔狂で十姉妹ははばたいたりふんぞり返ったりしていたのではない。何と彼は、おのれの全長と変わらぬ大きさの蜥蜴(とかげ)の上にまたがり、あまつさえ襲撃していたのである。蜥蜴に十姉妹が襲われているのではなく、十姉妹が蜥蜴を襲っているのだ。蜥蜴の動きは鈍く、頭部と首の境目あたりが抉れている。十姉妹の嘴や顔周りは血塗れだが、当の十姉妹自身は元気そのものである。きっと蜥蜴の返り血なのだろう。

 

「一体何なんだ、これは……」

 

 ずた袋を取り落としたのも構わずに、源吾郎は呟いた。おのれの理解の範疇を飛び越えるような光景を月曜の朝から目撃し、軽い混乱状態に陥ってしまったのだ。何がどうなっているのかを知りたかったが、その思いのきっかけとなった光景への驚きの念が、源吾郎の理性的な部分を押し流してしまっていたのだ。

 先の呟きはもちろん源吾郎の独り言だ。しかし、この異様な事態を動かすきっかけともなった。蜥蜴の襲撃に勤しんでいた十姉妹が動きを止めたのだ。広げていた翼をたたみ、頭部の汚れを落とすように鋭く身震いする。それから――首をねじって源吾郎の顔を見た。

 

「えっ、ちょっ……」

 

 ピュイ。十姉妹は喉を膨らませて一声啼くと、何を思ったか源吾郎の太もものあたりに飛びかかってきたのだ。いかな源吾郎と言えども小鳥に飛びかかられたくらいでダメージを受ける程やわではない。しかし異様な光景の後の急展開だったので源吾郎は驚いて目を丸くするほかなかった。飛びかかった十姉妹はずり落ちる事もなく、そのまま器用に源吾郎のチノパンにくっついた。

 源吾郎は背を曲げ左手を伸ばし、十姉妹をすくい上げる形でおのれの手に止まらせた。十姉妹は源吾郎の手を拒まず、ごくごく自然にその手に移った。用心深い小鳥としては珍しい現象かもしれない。しかし源吾郎は、十姉妹と目が合ったその時から彼は逃げないだろうという奇妙な確信を抱いていた。

 十姉妹が手指にしっかり止まっているのを確認し、ゆっくりと手を動かして小鳥の様子を確認する。案の定黄色い足環が通っている。

 

 

「た、大変です紅藤様」

 

 十姉妹のホップを手に乗せたまま、源吾郎はあわただしく研究センターの事務所に舞い戻った。タイミングよく紅藤は自分のデスクに向き合い、何かデスクワークの最中だった。

 

「どうしたの、島崎君……」

 

 日頃より落ち着いている紅藤であるが、今回ばかりはその面に微かな驚きの色が見え隠れしていた。日課の小動物探索を行っていたら、蜥蜴を捕食している十姉妹を発見した。その十姉妹は自分の知り合いが飼育している十姉妹だったから保護した……語るべき事は一応源吾郎の脳内に収まってはいた。しかしそれを言語として口に出せるかどうかは別問題である。

 

「ええと、その、友達の十姉妹を、保護したんです」

 

 そう言って源吾郎は紅藤にずいと左手を突き出した。その上にはホップが、割合リラックスした様子で羽繕いをしている。握らず手に乗せているだけなのに、全く逃げずにそこにいた事は非常に珍しい事であろう。ましてや、源吾郎はあの後大慌てでここまで向かってきていたのだから。

 

「可愛らしい十姉妹の男の子ね。だけど十姉妹ちゃんはか弱いから、島崎君に見つけて貰ってラッキーだったと思うわ」

「ピュイ、ピュ、プッ!」

 

 今まで大人しかったホップが急に啼きだした。紅藤の言葉に反応したように源吾郎には見えた。

 

「紅藤様、こいつが、ホップがか弱いかどうかは僕にも解らないんですよ」

 

 優しげな視線を向ける紅藤に対して、源吾郎は意見を述べた。紅藤とホップ。この二名の鳥類のやり取りを見ているうちに、源吾郎は落ち着きを取り戻していたのだ。

 

「僕がこいつを見つけた時、こいつは自分よりも大きな蜥蜴に飛びかかって、喰い殺そうとしていたんですよ? 十姉妹って、蜥蜴を喰い殺したりするような小鳥でしたっけ? それに、飼い主の家からここまでは三、四十キロも離れていますし」

「ピッ、ピィッ」

 

 あら、そうだったの……紅藤は感慨深そうに呟いた。その視線は源吾郎ではなく、未だ手のひらの上に陣取るホップに向けられている。彼は鳥歴六百年の大先輩を前にして、全く臆した様子はない。鳥が変わったかのような落ち着きぶりだ。

 

「それじゃあ、ホップちゃんはか弱くないかもしれないわね。長旅ですっかりたくましくなったんでしょうね」

「たくましいとかそういうレベルじゃあないと思うんですがね……」

 

 源吾郎はゆっくりと深く息を吐いた。廣川千絵(ひろかわちえ)に連絡を入れ、ホップを彼女の許に送り届けなければならない事は彼も把握している。しかし距離もあるし源吾郎には仕事もあるし、保護してすぐ配送とはいかないだろう。連絡は早く行うに越した事は無い。千絵とて大学の都合があるだろうから、互いに都合の良い日をすり合わせてホップを彼女の許に送り届ければ良いのだ。しかし裏を返せば、千絵と源吾郎の都合がつく日までは、源吾郎がホップの面倒を見なければならないという事になる。

 

「ひとまずは飼い主に連絡しますね。ホップの餌は昼休憩の時に買いに行きますが……」

「それまでの繋ぎとして、私のバードケーキをホップちゃんに分けてあげるわね。本当はちょっと脂身が多いからあんまり食べさせたらいけないけれど、こんな小鳥だったら食べすぎよりも食べない方が大変だから……」

 

 紅藤はいつになく親身な表情を浮かべ、引き出しを引いた。小さな饅頭サイズの淡い褐色の塊を、紅藤は源吾郎に手渡してくれた。右手に握ったバードケーキは、左手に止まるホップよりもはるかに質量のある存在だった。



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ドキドキ!(意味深)可愛いアイドル

 研究センター事務所。源吾郎は自身のデスクの上でだらしなく突っ伏していた。

 ちなみにあと数分で昼休憩が終わるという時間帯である。しかし今日に限って言えば、昼休憩の時間は全くもって休憩と呼べる代物ではなかった。その原因は、源吾郎が突っ伏する鼻先にどっしりと鎮座している。

 

「ピ、ピュ、プイッ!」

 

 軽やかな啼き声を耳にした源吾郎は、けだるけに目を開き、眼球だけを動かして声の主を見やった。新品の鳥籠の中、十姉妹(じゅうしまつ)のホップは餌をつつきながらさえずっていた。餌であるアワやキビの粒を摘まむたびに頭を上下させ、雀のそれに似た嘴をせわしなく動かしているのが見える。小鳥なので顔だけで表情を確認するのは難しい。しかしホップが今とても楽しいと思っている事は源吾郎にはしっかりと伝わっていた。源吾郎を恐れる素振りを見せぬホップを観察し、源吾郎は深々とため息をついた。任務を遂行した安堵感と、ホップに対して抱いた微妙な感情が心の中で複雑に絡み合っていた。

 ホップが今こうして美味しいアワやキビをつつき、広々とした鳥籠で落ち着いていられるのはひとえに源吾郎が奮起したからだ。

 

 昼休憩になると同時に、源吾郎は研究センターを飛び出してママチャリで手近なホームセンターに向かった。ペットコーナーの店員に訳を話し、一時的とはいえ十姉妹を飼育するために必要な物品を一式買いそろえたのだ。懐が突発的な大寒波に見舞われるのも気にせずに、そのまま研究センターに戻り、現在に至るという事である。

 十姉妹のために買い出しに行って戻る。言葉にすれば何という事は無いが、源吾郎にしてみればかなりの重労働だった事もまた事実である。手近と言ってもホームセンターは職場から数キロ離れていた。普段ならばどうという事もないのだろうが、時間内に戻らなければという焦りが疲労として源吾郎にのしかかったのかもしれない。

 とはいえ疲労を源吾郎がはっきりと感じたのは、仮の器にと水槽に入れられていたホップが、鳥籠の中でペレットそっちのけで皮付き餌をつついていたのを見届けた直後の事だった。

 鳥籠等の飼育用グッズを一式用意した源吾郎だったが、実は餌は二種類購入していた。千絵が使っていたペレットと、昔ながらの配合飼料である。当初餌はペレットだけ購入すれば良いだろうと思っていたのだが、店員がアワやキビなどの種子が配合された、文鳥・十姉妹用の皮つき餌をしきりに勧めるので、渋々購入した次第である。

 だがホップが喜んでついばんだのはペレットではなくて皮付き餌の方だった。ペレットにはもはや見向きもしない。源吾郎がつまんでホップに渡しても、一、二度嘴で咬んだかと思ったらすぐにポロリと落とすのだ。今は皮付き餌とペレットを同じ餌入れに半分ずつ混ぜて入れているのだが、明らかに皮付き餌を狙ってついばんでいた。

 保護した十姉妹が元気に餌を食べているという光景は、本来ならば素直に喜ぶべきものなのだろう。しかし彼にとってなじみのあるペレットではなく、それよりも格段に安価な皮付き餌をつつく所を見ていた源吾郎の心境は複雑なものだった。

 皮付き餌よりも栄養バランスの良いとされるペレットは千絵がわざわざホップたちの健康を考えて与えていた物である事を源吾郎は知っていたからだ。千絵の許に送り届けた時に、彼女が用意しているペレットを食べなくなったとあれば、それはそれで申し訳が立たないとも思っていた。

 

「おや島崎君、君の可愛い()()が上機嫌でいるというのに、君は随分と辛気臭そうな表情だねぇ」

 

 含みのある声が頭上から降ってくる。源吾郎はぎょっとして居住まいを正した。もしかしなくても声の主は萩尾丸だった。源吾郎と十姉妹入りの鳥籠を見つめるその顔には明らかに笑みが浮かんでいた。

 源吾郎も横目で十姉妹をちらと確認してから萩尾丸を見つめ返す。餌をつついていたホップは、ただならぬ気配を萩尾丸から感じたのか、餌をつつくのをやめ、動きを止める。心なしか身体が細くなっていた。

 

「こいつは僕の弟なんかじゃあないですよ」

「しかし島崎君。その十姉妹は君の()ではないんだろう? 紅藤様もオスの若鳥だと仰っていたし」

 

 源吾郎は渋い表情で萩尾丸を見つめ返すのがやっとだった。萩尾丸の言っている事は嘘ではない。だが源吾郎が論点としている所とは大いに外れていた。いやわざと外していると言うべきであろう。

 そういう問題ではありません。源吾郎は一言一句はっきりと発音した。

 

「ホップはあくまでも僕の知り合いの飼い鳥なんです。何らかの理由で逃げたのを保護したに過ぎないんですから。ですから、僕の飼い鳥でもないですし、ましてや弟だなんて……」

「ホップ君だっけ、それにしては大分島崎君に懐いているみたいだけどなぁ。十姉妹ってそんなに人懐っこい鳥だったっけ?」

 

 萩尾丸の素朴さを装った問いかけに源吾郎は言葉を詰まらせた。ホップの、源吾郎に対する異常な懐っこさはむろん彼も気付いていた。ホップは源吾郎を全く恐れなかった。それどころか水槽から鳥籠に移そうとおっかなびっくり入れた源吾郎の手に飛び乗り、手のひらの僅かなくぼみに柔らかな腹を押し付けてきたくらいである。何も事情を知らぬ者から見れば、源吾郎こそがホップの真の飼い主であると思ってもおかしくない程の振る舞いを、ホップは行ってのけたのだ。

 

「十姉妹は用心深くて臆病な性格だってお店の人は言っていました」

 

 源吾郎はぼんやりとした眼差しをホップに向けた。ホップは翼の手入れをせわしない様子で進め、その場で羽ばたいていた。

 

「……何故ホップがあそこまで僕に懐いているのか、正直言って解らないのです。ですがそんなに僕に懐いてくれるのなら、用意したペレットを食べてほしいとも思うんですよ……食べる物が変わったら戸惑うだろうと思ってわざわざ用意したのに、当のホップはペレットよりも安い餌の方に飛びついちゃうなんて」

 

 鳥籠から視線を逸らし、源吾郎はうっそりと笑った。愚痴めいた繰り言を口にしてしまったが、それを気に掛けるような心の余裕は源吾郎には無かった。

 

「そんな事言わなくて良いじゃないの、島崎君」

 

 源吾郎の発言をたしなめたのは、萩尾丸ではなくて紅藤だった。彼女の瞳には相変わらず慈愛の光が宿っていたが、その声はあくまでも毅然としていた。眼差しは小さな十姉妹に、声は源吾郎に向けて放っていたのである。

 

「相手はちっぽけな小鳥なのよ。安価でも何でも、食べるべき物を食べて元気にしているという事をひとまず喜んであげないと……何も食べられないで衰弱して膨らんでいるよりも、大分マシだと思わないかしら?」

 

 紅藤に問いかけられたものの、源吾郎は黙ったままだった。深刻な表情の師範に、源吾郎はただただたじろいでしまったのだ。問いに応じない末弟子を紅藤は糾弾しなかった。

 

「……いくら私と言えども、弱って死に逝く運命にあるものを救う事は出来ないのですから。いいえ違うわね。私にできる事なんて、あなた達が思っている以上に限られているのよ」

 

 紅藤様……源吾郎はここでようやく声が出た。おのれが放った愚痴から、話がとんでもない所に飛躍し始めている。助けを求めるように萩尾丸に視線を向けたが、目を逸らされてしまった。源吾郎はため息をつきたい気分になっていた。

 紅藤は日頃、活発で快活とは少し違うものの明るく朗らかな雰囲気を源吾郎たちに見せている。しかし何かの拍子に、こうして昏い表情と言動が文字通り顔を覗かせるのだ。別に彼女が何かをするわけではない。だが源吾郎などには窺い知れぬ何かを抱えているという事実が表出するたびに、源吾郎は情けない小動物のように恐れおののくしかできない。源吾郎はだから、紅藤にはいつも明るく朗らかでいて欲しいと思っていた。

 何とも言えない空気が漂う中、ホップだけがマイペースに動き回っている。やはり彼の喉や胸が小さく波打ち、啼き声が上がる。ちょこまかと動くホップの姿を見た紅藤の表情が、柔らかく朗らかに和らいだ。

 

「安心して大丈夫よ島崎君。ホップちゃんの事は島崎君が買い出しに行っている間に勝手に調べておきましたが、全くもって健康そのものですからね」

「ありがとうございます、紅藤様」

 

 源吾郎の顔にも安堵の表情が広がる。紅藤は多くを語っていないが、調査の結果ホップが健康そのものという言葉を源吾郎は素直に受け止めていた。それは源吾郎が紅藤の能力や知識に全幅の信頼を寄せているという事実の裏返しでもある。

 

「まぁ、健康で元気が一番って事だね島崎君。小鳥にしろ、仔狐にしろ」

 

 ずっと黙っていた萩尾丸がここで口を開いた。彼の視線は源吾郎とホップの間で何度も往復している。

 

「紅藤様の言うとおり、ひとまず君はそこの十姉妹君が元気はつらつなのをもっと喜ぶべきだと僕も思うよ」

 

 一度ここで言葉を切ると、萩尾丸は笑みを源吾郎に向けた。

 

「島崎君、妖怪であろうと妖怪でなかろうと、自分以外の生物が完全に自分の思い通りになるなんて事は()()()()()んだよ? まさか島崎君、その事を知らなかったとか?」

 

 源吾郎の反応などをお構いなしに、萩尾丸は言葉を続けた。

 

「まぁ、自分に当てはめて考えてみたまえ狐のお坊ちゃま。君は生まれてから今日に至るまで、親兄姉のあらゆる期待に――」

「解りましたよ萩尾丸先輩!」

 

 半ば萩尾丸の言葉を遮るかたちで源吾郎は声を出した。放っておけば嬉々として話を続けるであろう。萩尾丸は嫌がらずに口を閉ざした。炎上トークを好む萩尾丸であるが、こういう時は不思議と行儀よく(?)振舞ってくれるのだ。

 

「自分以外の生物は、身内であっても子供であっても完全には思い通りにならない。それが自然の摂理ですよ」

 

 ダメ押しとばかりに源吾郎は言い添える。十姉妹のホップの振る舞いに少し落胆していた源吾郎であるが、萩尾丸の主張が純然たる正論であると今は受け入れつつあった。それは彼の指摘通り、わが身に置き換えればすぐに解る話だった。源吾郎は誰かの思い通りになるような生き方を歩んできたわけではない。彼は彼なりにおのれの生き方を定め、それに向かって進んでいる最中だ。()()()、大妖怪である紅藤に弟子入りし、彼女の許で大妖怪になるべく研鑽を積んでいるのだから。

 

「よしよし。君も段々と上に立つ者の心構えが出来てきたんじゃあないかね。そう言う気持ちがあるのなら、使い魔を迎えてもまぁトラブルも少ないだろうね……」

 

 思案顔の萩尾丸は、何かを思い出したと言わんばかりの表情で源吾郎を見やった。

 

「そう言えば、島崎君って最近使い魔がどうとかそういう話をしなくなったねぇ? 僕が焚き付けた、いやアドバイスをしてすぐの時なんか、妙に焦ってどうしようかって考えていたみたいだけど」

「――使い魔を確保するよりもやるべき事はありますからね」

 

 唐突な話題の転換に多少の戸惑いを覚えた源吾郎だったが、実のところそこまでうろたえたわけでもない。萩尾丸は紅藤のように昏い部分を見せる事もないためだ。それに年長者は考える事が多いから、話があちこちに飛ぶものだとも源吾郎は密かに思っていた。

 

「それに以前先輩も仰っていたじゃあないですか。妖怪として生きる以上、あれこれと焦って動く必要は無いと」

 

 使い魔。その言葉から源吾郎は珠彦の姿をぼんやりと思い浮かべていた。僕、島崎君の使い魔になっても良いっすよ。前に会った時珠彦は笑いながらそんな事を言ってのけたのだ。萩尾丸に言わされたのか珠彦の本心なのか或いはからかわれただけなのか。発言の意図は不明である。ともあれ源吾郎は唐突な珠彦の提案に驚き、それを拒絶した。源吾郎は珠彦の事を友達だと思っている。使い魔としての関係は存外自由度の高いものであるが、友達だと思っている相手とそういう関係を結ぶのは不健全だと反射的に考えたのだ。

 そんな直近の出来事を源吾郎は思い出していたがついぞ口にはしなかった。

 それもそうだね。萩尾丸のあっさりとした返答に源吾郎は半ば安心していた。

 

「いずれにせよ、そこの小鳥ちゃんに慕われているみたいで良かったじゃないか。君にも、特に何かした訳でなくともこうして親愛の情を向ける生物がいるという証明が出来てさ」

「そりゃあまぁ、生き物に慕われるのは良い事だと思いますよ。ですが先程も申し上げました通り、ホップは僕の鳥ではなくて友達の鳥なのです。あくまでも僕とホップは、数日間一緒にいるだけに過ぎません」

 

 源吾郎はそっとホップを見やった。ひとまずホップの住と食を確保した源吾郎であるが、まだまだ行わねばならない事がある。千絵に連絡を入れればならないし、交番にも小鳥を拾ったと届け出なければならないのだ。

 

「これはまた随分と人間らしい事を考えているんだね、島崎君」

 

 驚いたような声音で呟いた萩尾丸だったが、源吾郎と目が合うと微笑んだ。皮肉の色が見えない、妙に優しげな笑みだった。

 

「いや、君の考えと行動に僕らは口出しはしないよ。その小鳥の問題は、君と小鳥の飼い主と小鳥の問題なんだからさ」

 

 

 午後の中休み。源吾郎はデスクのホップを見つめながら、千絵のSNSにメッセージを送っていた。実は買い出しの段階で、千絵が自身のSNSに十姉妹の飼育状況をアップしている事は知っていた。彼女はご丁寧にも十姉妹たちに与えていたペレットの銘柄も記載していた。小鳥用のペレットもよく見れば幾つも銘柄があったので、その情報はありがたいものだった。

 そして案の定、SNSには十姉妹の一羽が逃亡したという記載も発見できた。日付によると先週の金曜日の事らしい。書き込みの内容からしても、やはり源吾郎が保護している十姉妹こそが彼女のホップであろう。

 しかし、逃亡を記した文言には引っかかるものを感じていた。

『飼ってた十姉妹の一羽が逃げちゃった(困った表情の顔文字)……勝手に鳥籠から出ていたみたい。目的があるみたいに飛んで行っちゃったけれど、探した方が良いのかな』

 

――何故だ? 生唾を飲み込みつつ、源吾郎は千絵の短い書き込みを凝視していた。飼い鳥の逃亡を驚く意図は伝わってくるのだが、逃げた事が悲しいとか、すぐにどうにかしなくてはという気概が、文面からは伝わってこないのだ。




 十姉妹って飼い鳥の中でかなり知名度が高い存在だったのですが、現在だとどうなのでしょうか。


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小鳥へのまなざし、交錯する思い

 小鳥って啼く時に喉とか胸が膨らむのが可愛いと思います。
 インコはウネウネするのが面白くてかわいいですよね。


「ピュイ、ピッ、プププッ!」

 

 早朝五時半。静かな安アパートの一室で小鳥の啼き声だけが朗々と響いた。源吾郎は毛布の中で身じろぎ、むくりと半身を起こす。ここ数日は、ホップの啼き声が目覚まし代わりになっていた。いきおい普段よりも早い時間に目を覚ます事になる訳だが、源吾郎はそれに不満を抱いた事は無い。もちろんホップの様子を見てやらねばという責務があるのだが、むしろそれが心地よいくらいだ。

 源吾郎は鳥籠の傍ににじり寄る。鳥籠に被せられた新聞紙を取りはらうと、小さなホップが相変わらず鳥籠の壁面にへばりついていた。針金細工のような華奢な足指でしっかりと籠の棒を掴んでいる。首をかしげて片眼で源吾郎を見据えながら、彼は啼き続けていた。源吾郎に何かを訴えるその声は、体重十五グラム弱の十姉妹が発しているとは思えないほどの存在感を有していた。

 

「おはようホップ。今日も元気かい?」

 

 源吾郎が鳥籠の入り口を開けると、ホップはするすると降りて行った。控えめに侵入した源吾郎の手先に何も疑わず飛び乗って来る。

 ホップの乗る手をゆっくりと動かし、ホップごとおのれの手を顔に近づける。手乗り十姉妹であるホップを鳥籠から出して遊ばせるのは朝晩の日課であった。そして遊ばせる前に、ホップの見た目に異常が無いか否かを確認するのも大切な日課である。

 手を動かしている間にホップは両翼を広げてはばたいた。この動きに源吾郎は一瞬面食らったが、当のホップはすぐに翼をたたむと澄ました表情で首をかしげるだけだった。どうやら源吾郎はからかわれたらしい。

 真剣な表情で源吾郎はホップの様子を観察した。顔周りや身体全体は言うに及ばず、尻の周りや爪の先にも視線を向ける。ホップの世話の中で、最も注意を払い力を入れている作業であると言っても過言ではない。

 

「今日も元気みたいだね、ホップ」

「ピュ、ピュイッ!」

 

 半ば独り言のような感覚で放った源吾郎の言葉に、ホップはすぐに応じる。ホップはお喋りな性質らしくいつでもどこでも啼いているのが常である。しかし源吾郎が何か言葉を発すれば、その直後に必ずこうして胸と喉を膨らませて啼きだすのだ。まるで源吾郎の言葉を理解し、それに返事しているかのようだった。

 源吾郎は少しの間自分の指をつつくホップを見守ったり逆にホップの背中を撫でたりしてから、遊び場に彼を移動させた。バードスタンドに数本の止まり木と小さな鳥用ブランコのくっついたそれは、確かに遊び場と呼んで遜色ないであろう。ついでにスタンドの根元に餌入れと水入れも用意すれば、ホップも喜んでそこにいてくれる。

 ホップは源吾郎に見られる中、自由奔放に遊んでいた。ブランコに逆さの状態でぶら下がり、筋トレでもしているかのように止まり木から止まり木に移動し、ついでに餌入れに入っているペレットを目ざとく弾き飛ばす。

 普通の十姉妹と称するにはいささかアグレッシブな面が目立つ気がするが、アグレッシブすぎる所を源吾郎が気にする事は無かった。繰り返すがホップは源吾郎の飼い鳥ではなく千絵の飼い鳥だ。預かっている鳥が元気はつらつである事はかつて紅藤が言ったように喜ばしい事ではないか。それに実を言えば、源吾郎も既にこのちっぽけな小鳥に魅了されつつあった。ホップは無邪気で屈託がなく、しかも源吾郎に驚くほど懐いていた。ホップが何故源吾郎に懐いているのかは解らない。懐いているのではなくて単に寂しさを紛らわしているだけなのかもしれない。

 ホップの意図はさておき、ホップの事を可愛いと思う源吾郎の気持ちには偽りはない。元の飼い主に送り届けるまでしっかり面倒を見なければならないという義務感が、一時過ごすだけの小鳥に対しての愛情をはぐくむ素地になったのかもしれない。源吾郎はホップに対する感情について深く考える事は無かった。千絵の許に戻すまでホップの面倒を見なければならない事と、理屈抜きでホップが可愛い事は彼の中では動かぬ事実だったためだ。

 餌入れの餌を新しいものに入れ替えた源吾郎は、さっとホップの方に視線を走らせた。鳥籠に彼を収めようとした意図はホップも気付いたらしい。翼を広げて離陸したかと思うと、次の瞬間には源吾郎の手の甲に着地した。中指の付け根の皮を軽くつつき、源吾郎の様子を窺っている。

 

「さぁホップ。今日は本当のおうちに帰る日だからね。支度までまだあるから良い子にするんだよ」

「ピ……?」

 

 不思議そうに首をかしげるホップを、源吾郎はそっと鳥籠に戻した。今日は土曜日で、仕事のない休日だ。しかし源吾郎とホップにとっては単なる土曜日ではない。

 何故なら、ホップを千絵の許に戻すという重要な任務があるためだ。この日のために源吾郎は甲斐甲斐しくホップの世話をし、彼を安全に輸送するためのキャリーケースなども用意していた。

 他人のペットを養うという、神経を使う大変な業務から解放される……本来ならば喜ぶべき事なのだろう。しかし源吾郎は実のところ複雑な心境を抱えていた。千絵にホップを返さねばならないと思っている事には変わりない。

 その一方で、ホップをずっと手許に置いておきたいという願望さえ抱いていた。叶えるどころか想う事さえ赦されない願望であると知っていながら。思ってはいけないと思えば思うほど、その考えはより強くなるところが厄介だった。一瞬とはいえ、ホップが死んだという嘘の情報を千絵に伝え、こっそり飼い続ける手もあるだろうという考えが去来したくらいである。

――いや違う。俺はそんな事を望んじゃあいない。

 

「ホップ。今日は廣川《ひろかわ》部長の所に行くからね」

 

 源吾郎は餌を食べるホップに宣言した。そしてその言葉は、源吾郎自身を奮い立たせる言葉でもあったのだ。

 

 

 

「こんにちは、廣川部長」

「こんにちは、島崎君……」

 

 インターホンを押してすぐに、廣川千絵は源吾郎を出迎えてくれた。前に十姉妹たちを見せてくれた時と態度も服装も違う。服装はまぁ良いとして、源吾郎は彼女の態度の方が気になった。

 千絵は何かを警戒するような、いっそ()()に怯えるような表情でもって源吾郎を出迎えたのだ。気が強くリーダー気質で堂々とした態度が特徴の彼女にしては珍しい態度だった。彼女が何に怯えているのか源吾郎には皆目見当がつかなかった。源吾郎自身に怯えているという考えはない。確かにSNSや電話でのやり取りには引っかかる所は幾つかあったが……本気で源吾郎を恐れているのならばわざわざ出迎えたりもしないだろう。

 大丈夫? 気付けば源吾郎は千絵に問いかけていた。

 

「ええ。私は大丈夫よ」

 

 千絵は気丈な態度を装って応じた。彼女の視線は源吾郎ではなく、源吾郎が大事そうに抱える紙袋に注がれていた。この中にキャリーケースがあるのは言うまでもない。

 

「島崎君の事は私も良く知ってるわ。執念深くて律義な島崎君の事だもん。わざわざ私のSNSに連絡をよこしてきた時から、ホップを連れて私の許に来る事は解っていたの」

「SNSに直接連絡を入れたけど、驚かせちゃったかな」

「むしろ島崎君が普通にまじめなアカウントでツブッターをやってた事に驚いたかな。ほら、島崎君だったら『エターナルカオス』とか、そんな感じのアカウント名かなって思っていたから」

 

 千絵はちょっとだけおどけた表情を作っていた。源吾郎は笑っていたが、図星だとも思っていた。今回使ったのとは別の、裏アカウントがまさにそんな感じだったためである。

 ともあれ、今回千絵に十姉妹を預かっている事を報告するのに源吾郎はまずツブッターを使用したのだ。電話番号は知っていたのだが、直接やり取りするのは色々と問題があるだろうと配慮した結果である。

 最終的には電話でのやり取りになり、千絵が指定した日時に源吾郎がホップと共にやって来たという流れとなった。もっともその時も、千絵の言葉の節々には違和感はあったのだが。

 

「とりあえず中に入りましょ。込み入った話になるかもしれないから」

 

 そう言うと、千絵は源吾郎に入るように促してくれた。含みのある物言いであるが源吾郎は従うほかなかった。キャリーケースの中にいるホップを慮った為でもある。

 

 千絵の一室には相変わらず銀色の鳥籠が鎮座していた。ホップのルームメイトであるトップとモップは十姉妹らしく互いにくっついて相手の羽繕いなどをしている。それはそれで愛らしい光景には違いない。しかし違和感を源吾郎は覚えた。かつて見た時よりも、トップもモップも小さく貧相になっているような気がしてならないのだ。

 源吾郎はキャリーケースを紙袋から出してゆっくりと床に置いた。ホップはキャリーケースの真ん中で鎮座している。近くで見ているからというのもあるが、ホップの方が今では他の二羽よりも身体つきもしっかりして、堂々としているように見えた。

 千絵の視線は源吾郎からホップに向けられている。食い入るように見つめていると言っても過言ではない。しかし目つきがおかしい。いなくなったはずの小鳥と再会して、喜んでいるような雰囲気は彼女には無かったのだ。むしろ――源吾郎はそんな事を思っている間に、千絵が口を開いた。

 

「その、ホップが家にいた間、何か()()()は無かった?」

「いや、特に何もなかったけれど」

 

 愛鳥との再会にはそぐわぬ問いかけに疑問を抱きつつ、源吾郎は応じた。

 

「まぁ、外暮らしが長かったせいで廣川部長があげてたペレットをほとんど食べなくなったくらいかな。俺もどうしようかなとかって思ったんだけど、皮付き餌がすっかり気に入ったみたいでペレットにはもう見向きもしないんだ。ああそれと、やっぱり一羽で寂しかったのか、すっごく俺に懐いてくれてたんだ。

 変わった事と言ったらそれくらいかな。結構元気だなって思ったくらいで」

「これから私が話す事、全部信じてくれるかしら」

 

 源吾郎の話をじっと聞いていた千絵は、静かな口調で切り出した。戸惑いつつも源吾郎は頷き、千絵の発言を待つ。

 

「……実はね、逃げ出す少し前からホップの様子がおかしかったの」



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異形の小鳥が選ぶ先

裏設定:十姉妹のトップ・モップ・ホップのうち、トップとホップは兄弟だったりします。
 多分トップが兄でホップが弟だと思われますね。
 小鳥ちゃんの場合、兄弟でもほぼほぼ同時期に生まれるのであんまり差は無いですが。


「ねぇ島崎君。私が、トップとモップ、そしてそこのホップを可愛がっていた事は知ってるわよね?」

「うん、まぁ……」

 

 話の本題に入る前に投げかけられた問いに、源吾郎は頷いた。過去形であるところが気になるが、その疑問はグッと腹の奥に押しとどめる。

 

「トップは大きくてしっかり者でリーダー気質。モップは巻き毛の可愛いお調子者。それでホップは……二羽よりもちょっと小さくて、気弱だったのよ」

「そりゃあまぁ、俺だってホップが小さいのは解ってるよ」

 

 けだるげに語る千絵に対して、源吾郎は言葉を投げかけた。重苦しい話の流れを少しでも良い方向に変えたいと源吾郎は思っていたのだ。

 

「だってさ、ほんの十四、五グラムしかないんだよ? インコとか文鳥とか、他の小鳥に較べればうんと小さいよね」

「そんな、ホップが十四、五グラム()あったの?」

 

 十姉妹としてのちっぽけさを思い知った事を伝えれば、千絵も落ち着くかもしれない。そんな意図で発せられた源吾郎の言葉は、むしろ千絵を驚きの渦に突き落とす事になってしまった。

 

「一番大きいトップでさえ、最近十四グラムになったところなのに……もともとホップはもっと小さかったのよ。やっと十二グラムになったとかそんなところで……やっぱり大きくなってるわね」

 

 千絵はキャリーケースの中のホップを見つめながら呟いた。ホップは羽繕いをしたり小さく啼いたりしているが、源吾郎が思っている以上に落ち着いている。

 ホップが大きくなったから、トップとモップが小さく見えたのか……興奮を見せないホップを眺めながら、源吾郎は静かに思った。十二グラムの十姉妹が十四、五グラムに増量したというのは相当な変化である。しかし肥り過ぎであるとかそういう事ではないはずだ。

 考えてみればホップは一時的と言えども外暮らしを行っていた身である。色々な物を食べて沢山運動もしたのだから、たくましくなるのも当然の流れだろう。

 

「……異変に気付いたのは確か先週の火曜日の事だったわ。講義が昼からだったからそれだけは覚えているの」

 

 千絵は伏し目がちに語り始める。十姉妹が甲高い声で啼き始めている。大声を出しているのはホップではなく別の二羽だった。トップもモップも緊張したように啼き交わし、そそくさとつぼ巣の中に隠れてしまった。

 

「最初は活発になって、ちょっと強気になったなって思っていたくらいなの。でもまぁみんなまだ若いし、大きくなるにつれて性格が変わる事もあるって聞いていたから、そんなもんだろうなって思っていたのよ。まぁ、弱気だったホップがトップやモップに負けないくらい強気になったり、鳥籠の外で遊ばせている時に、他の二羽よりも飛ぶ事が増えたって言う異変はあったけれど」

 

 千絵は決然とした様子で顔を上げた。リップを塗った唇が震えている。話す事を若干ためらっているような気配がうかがえた。

 

「恥ずかしい話だけど、部屋に一匹のハエが迷い込んでいたの。小豆くらいの大きさの、黒くてウンコにたかるような奴だったわ。あ、でも、別にたまたま部屋の換気をしている時に紛れ込んだだけだよ。別に、そんなハエが湧くような事なんて……」

「そりゃあ、ハエだって部屋に紛れ込む事もあると思うよ」

 

 どうやら千絵はハエが部屋にいた事を恥ずかしく思っていたらしい。美意識の高そうな彼女の事だから、ハエが部屋にいたという話を男子にする事自体が屈辱を感じていたのかもしれない。その割にはあっさりとウンコなどと言っていた気がするが、それはそれでツッコミを入れたらややこしい案件である。

 

「ハエなんて本当に厄介よ……トップたちに悪いから殺虫剤も使えないでしょ。けれどハエを見つけた時は、ちょうどトップもモップもホップも籠の外で遊ばせている最中だったから、窓を開けてハエを逃がすなんて事は出来なかったの。それこそ、そんな事をしちゃえば窓の外から逃げ出しちゃうでしょうし」

 

 逃げ出しちゃう、という部分をことさら強調し、千絵は力なく微笑んだ。

 

「どうしようかと飼い主である私が手をこまねいている時に動いたのが、他ならぬホップだったのね。信じられないと思うけれど、ホップは信じられない速さでハエの許に飛んで行って、そのまま足と嘴でハエを捕まえて喰い殺しちゃったの……残念ながらその時の写真も動画もないけれど、嘘なんかじゃないわ。私はこの目ではっきりと見たの」

「まぁまぁ落ち着いて、廣川部長。ホップがハエを捕まえて食べたという話、俺もちゃんと信じるよ」

 

 源吾郎はここで深呼吸をし、ある決断をした。源吾郎が外でホップを目撃した時の事を語る決心がついたのだ。

 

「廣川部長。俺は部長を驚かさないようにツブッターでは職場でホップを見つけたとだけ連絡したんだけどね。本当は、俺が見つけた時にはホップは蜥蜴を襲っていたんだよ」

「そ、そんな……」

 

 ホップの蜥蜴捕食の件は、やはり千絵にとっても衝撃的だったようだ。彼女は軽く手で頬を覆っている。ドラマのワンシーンのような光景だった。

 

「そんな事があってから、私はさり気なくホップの様子を見ていたの。トップとモップも異変に気付いたみたいで、ホップにちょっかいをかけなくなっていったわ。それどころか、ふたりともホップを怖がるようになっていたのよ。もしかしたら、私が留守にしている間に、ホップがトップたちに何かをしたのかもしれないわ」

 

 源吾郎は千絵の話す内容よりも、今となってはむしろその口調にこそ冷え冷えとしたものを感じていた。冷静な物言いとは言い難かったが、ホップを疎む気配はありありと伝わって来ていた。

 

「まさか廣川部長。それでホップを逃がしたとか――」

 

 違うわ。源吾郎の剣呑な言葉を正面から受け止めた千絵は、彼の問いを短い否定で遮った。彼女らしからぬヒステリックな声音で。

 

「ホップが変だって思い始めたのはほんとよ。だけど、ホップが逃げたのは……紛れもない事故に過ぎないの。ホップ自身が、逃げるきっかけを作ったのは事実だけど。

 島崎君。是非とも見てほしいものがあるわ」

 

 千絵はそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に置いてあるものを手にした。それは明らかに鳥籠であった。但し中身は空である。

 ここを見て。源吾郎のすぐ傍に鳥籠を置くと、千絵は籠の一部を指差した。鳥籠の一部、金属製の檻の部分がひしゃげて変形していた。小型の鳥、それこそ十姉妹ならば難なく通り抜けられるほどのスペースが出来ていた。

 

「朝起きて窓を開けた途端に、ホップは開いた窓からそのまま飛び去ってしまったのよ。その時私は窓の傍にいたけれど、何もどうする事も出来なかったわ。外にいる雀とか鳩と同じ位のスピードで飛んで行っちゃったし、それにそもそも鳥籠にいるホップがそんな事をするなんて思ってなかったのよ。

 まさか鳥籠を閉め忘れていたのかなって思って確認したら、こんな事になってたの」

「これは……」

 

 変形した檻を見つめながら源吾郎も驚きの声をあげていた。ホップは何も語らないが、きっと鳥籠の檻を変形させ、自力で脱出したのだろう。論より証拠という言葉があるのは源吾郎も知っている。しかしそれでも驚きの念が勝るばかりだった。鳥籠は文字通り鳥を収容するための入れ物である。小さな十姉妹がどれだけ奮起しても変形するような代物では断じてない。現に源吾郎も檻に指を這わせているが、小鳥が出入りできるほどのひずみを作れるとは思えない。

 

「もう一度聞くわ。島崎君、ホップの面倒を見ている間、変な事は無かったかしら」

「無かった……と思うよ」

 

 千絵の問いかけに源吾郎は半ば戸惑いながら応じた。千絵がホップに対して変な眼差しを向けていた理由は既にはっきりとしている。源吾郎は今は千絵の態度ではなく、ホップの事に思いを馳せ、軽く当惑していた。

 

「まぁ本当に気になる所と言えば初対面同然の俺にホップがベタ馴れしちゃっていた事くらいかな。俺も詳しい事は知らなかったけれど、十姉妹って臆病な鳥らしいしさ。まぁちょっと元気一杯かなって感じはしたけれど、別に変だって思う事は無かったよ。何しろ元気な姿で廣川部長に戻さなきゃって思ってたし」

 

 源吾郎が言い切ると、待ち構えていたように千絵は深々とため息をついた。まつ毛を揺らしながら視線を上げると、きっぱりとした口調で彼女は言った。

 

「わざわざホップを連れてきてくれてありがとう。だけど今回は私の所に連れてこなくても良かったのよ」

 

 奇妙な言葉へのツッコミを入れる暇も与えずに、千絵は言葉を続けた。

 

「島崎君。ホップはちょっと変わったところがあるけれど、これからは島崎君が飼い主として面倒を見てあげて欲しいの」

 

 大人びた笑みを浮かべ、千絵はそんな事を言ってのけたのだ。源吾郎は愕然として千絵とホップを見較べる事しかできなかった。

 ウィンウィンの関係になると思わないかしら? 千絵は震える声音で源吾郎に畳みかける。戸惑いと、何故か微かな笑いを源吾郎は感じ取った。

 

「ホップを拾ってくれた時からずっと、島崎君はホップの事を連絡してくれたでしょ。私ね、島崎君がホップの事を気にかけていて、少しずつ自分で飼いたいって思い始めている事にも薄々気付いていたのよ。

 私としても、癒しを求めて十姉妹を飼ったのに、当の十姉妹の得体の知れなさにビクビクするのは困るのよ。だけど……」

「それ以上、ふざけた事は言わないでくれるかな」

 

 気付けば源吾郎は千絵の言葉を遮っていた。千絵はそれこそ豆鉄砲を喰らった鳩のようにきょとんとした表情を浮かべている。源吾郎の態度の変化を悟ったらしく、数瞬後には取り繕ったような笑みを見せた。

 

「ごめんなさい島崎君。ホップの怖さにオロオロして、変な事を口走っちゃったわ。そうよね、島崎君だってこんな得体の知れない鳥を押し付けられるなんて嫌よね?」

「俺が言いたいのはそんな事じゃないんだよっ!」

 

 源吾郎は今再び声を張り上げた。まさしく獣の咆哮に近い声音であったが、そこまで分析する冷静さは源吾郎には無かった。

 千絵の先の発言は、源吾郎をなだめる意図を持ち合わせていたのだろう。しかし源吾郎は、その発言に言いようのない憤りを感じるだけだった。千絵は確かに源吾郎の心情を慮っていたのだろう。しかし同時に、飼い鳥だったホップの境遇を一切無視した身勝手な発言でもあったのだ。

 

「今君がホップの事をどう思っているかはさておき、元々はホップは君の飼い鳥だったんだろう? そんな、ハエを捕まえたり鳥籠を()()()()するくらいが何だって言うのさ? そんな事くらいで得体が知れないとか飼いたくないなんて言うのは、余りにも身勝手だと思わないかい? そんな事じゃあ、ホップがかわいそうだよ」

 

 感情に任せておのれの考えを口にしていた源吾郎が我に返ったのは、すぐ傍で聞こえる十姉妹の啼き声だった。ホップは僅かに顔を上げ、源吾郎を見上げているようだった。顔を上げて千絵を見つめる。彼女の表情は複雑だった。激する源吾郎に怯えているようにも見えたが、その顔には困惑、羞恥、悔悟と言った様々な思いが浮かんでは消えている。

 改めて千絵と向き合う源吾郎の心中もまた複雑だった。憤怒に由来する激情は消え去り、後に残ったのは苦い後悔だけだった。こうして千絵に怒りをぶつける事など源吾郎は望んではいなかった。千絵の言うとおり、ホップを引き取る事は源吾郎が密かに抱いていた願望だったのだ。大人しく喜んでおけば良かったのではないか。

 しかしあれこれ考えてももう遅い。千絵のホップへの想いも、源吾郎の激昂ももう発露してしまったのだ。

 

「……ごめん。ホップの事でついカッとなっちゃって」

 

 良いのよ。千絵は力なく微笑んでいる。思っていた以上に怯えの色は薄い。むしろ憑き物が落ちたというようなさっぱりとした気配さえ見え隠れしている。

 

「そこまで島崎君がホップの事を思ってくれていると解って却って安心できたわ。偽善だとか何とか言われるかもしれないけれど、ホップの事、大切にしてあげてね」

 

 言われなくてもそうするよ。源吾郎は素っ気ない調子で応じた。

 果たしてホップはどういうつもりでいるのだろう……源吾郎はそっとキャリーケースの中を覗き込む。ホップはずっと源吾郎の方ばかり注目していて、元の飼い主の千絵の事など一顧だにしなかったのだった。

 

 




 めんだ……壊れたを意味する方言です。
 島崎君たちは地方民なので、時々方言を口にするのです。


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小さなアイドルの秘密

 月曜日。何とも言えないどんよりした気持ちを抱えながらも、源吾郎は出社するべくママチャリを漕いでいた。

 気が重いのは何も休暇明けの月曜日だからではない。ホップを得るきっかけとなった、廣川千絵とのやり取りが未だに脳裏にこびりついていたからだ。晴れてホップが源吾郎の飼い鳥になった事は嬉しい出来事に違いない。しかしそこに至るまでの千絵とのやり取りは最悪だった。言ってみれば、二人はホップの事を巡って喧嘩をしたようなものなのだから。

 こんなはずじゃなかった……未だに悔悟の苦い思いが源吾郎の心中にはわだかまっている。しかしどうする事も出来ない。そうそうにツブッターを使って詫びの言葉を入れればそれで済むのだろう。だがいざ詫びの言葉をと思うと中々文言が浮かんでこなかった。

 

「暑いな、今日も……」

 

 源吾郎はママチャリを押しながら空に顔を向けた。空の青さが目に眩しい。それでも重たげな雲が遠くにあるのを源吾郎には見えた。空に顔を向ければ雨の匂いが解ると、妖狐の若者たちが言っていたのを思い出した。源吾郎は生粋の妖狐ではないが嗅覚は鋭い。彼らと同じように雨の匂いを嗅ぎ取れるようになるのかもしれない。

 平坦な道が続く中、源吾郎はママチャリを漕がずに頑なに押し続けていた。いつもより荷物が余分に多いからだ。月曜日の朝は、選択した白衣や制服を家から持ち運ぶため、他の曜日よりも荷物が多くなりがちだ。しかし今回はいつもの月曜日とは違っていた。

 

「プ、プ、ピュ……」

 

 電子音のような、しかし聞きなれた音がママチャリの荷台から聞こえてきた。源吾郎は少しだけママチャリを押す速度を遅め、荷台に視線を向ける。ママチャリ特有の大きな荷台の中には、濃紺の布で包まれた四角い箱状のものが収まっている。

 源吾郎は今日、ホップを連れて出社している最中だった。千絵の許に運んだ時とは異なり、いつもホップが入っている鳥籠にて、そのままホップごと輸送しているのだ。鳥籠を布で包んでいるのは、中にいるホップを興奮させないためである。

 小鳥は優れた視力の持ち主だが、暗くなると視力も下がり、或いは夜になったと思うのか大人しくなるのだという。十姉妹はとりわけ小鳥の中でも臆病で神経質であるというから、ホップに負担をかけない運び方と言って遜色は無いだろう。但し、当のホップは特に気にせず薄暗い鳥籠の中で動き回っているようだった。特に耳を澄まさずとも、ホップの啼き声や彼が動き回る微かなはばたきは源吾郎にもはっきりと聞こえていた。

 保護している最中からもホップを寵愛し、今もなおホップに心を奪われている源吾郎であるが、この度彼がホップと共に出社しているのは彼自身の考えではない。

 源吾郎の兄弟子にして雉鶏精一派の第六幹部・萩尾丸に命じられたからに他ならなかった。

 

 

「おはよう、ございます……」

「ピュッ、ピィ、プイッ!」

 

 朝の挨拶を行う源吾郎の声はいつになく弱弱しかった。その遠因となったホップの啼き声が小鳥らしく元気一杯だったので余計にその弱弱しさが際立っていただろう。

 源吾郎が朝から疲れ切っているのは無理もない話だ。いつもは颯爽と漕ぎ進む通勤路であるが、ホップの身を案じて普段の倍近い時間をかけてゆっくりと進んでいたためだ。夏の日差しに晒されたという物理的疲労もさることながら、ホップが驚いたり弱ったりしないだろうかという心理的な消耗も多少はあった。

 ちなみに源吾郎自身は暑さ対策として首周りにタオルを巻いていただけだが、ホップの鳥籠には複数個の保冷剤を布越しに籠の上部に配置し、冷気が程よく降りてくるようにしておいた。

 止まり木の上で機敏に方向転換をするホップに笑いかけながら、源吾郎は鳥籠を自分のデスクの上に迷わず設置した。いつもの月曜日の六倍ほどの疲労を抱えているような気がしたが、元気でマイペースなホップを見ているとおのれの疲労など軽く吹き飛んだ気がした。今の源吾郎にとって、ちっぽけなホップはそういう存在になっていたのだ。

 

「おはよう島崎君。おやおや、若いのに干からびたサラリーマンみたいな表情になってるじゃないか」

「ピピピ……ププ」

 

 一息ついた源吾郎の許にやって来たのは言うまでもなく萩尾丸である。研究職ではないと言わんばかりに彼は今日も今日とてスーツ姿である。それよりも特筆すべきは、月曜の朝であっても元気で爽やか、それでいて炎上トークを忘れず搭載している所であろう。

 そんな事を思いつつ、源吾郎はホップをちらと見やった。ホップは何度か早口にさえずるとそそくさとつぼ巣の中に入り込んだ。やはり彼も萩尾丸の事は苦手らしい。

 しかし萩尾丸はそんな事はお構いなしに、身を乗り出して鳥籠の中を覗き込む。

 

「おめでとう島崎君。君が目をかけていた小鳥ちゃんは、晴れて君のモノになったんだね」

「ええ、はい……」

 

 萩尾丸の言葉に応じる源吾郎の心中には複雑なものが渦巻いていた。ホップは元の飼い主である千絵から許諾を取って源吾郎の飼い鳥になった訳であるが、そこに至るまでのやり取りは気持ちいいものだったなどと言える代物ではない。

 それに萩尾丸が月曜日にホップを連れてくるようにと源吾郎に命じたタイミングも引っかかるものがあった。土曜日、それも源吾郎がホップを連れて自宅に戻った七分後に萩尾丸は連絡を寄越してきたのだ。まるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()かのようなタイミングの良さである。

 朝からそんなしけた表情をしなくて良いじゃないか。萩尾丸はやれやれと言わんばかりに肩をすくめていた。

 

「ホップちゃん、だっけ。島崎君もホップちゃんとずっと一緒にいたいって思ってたんだろう? ホップちゃんがここの研究センターにいたのは最初の一日だけだったけれど、君はもう先週の間ずっとその小鳥ちゃんにぞっこんだったじゃないか」

 

 そりゃあそうですよ。だってホップは可愛いんですから……そう言って素直に自分の想いを認めればそれはそれで気が楽だったのかもしれない。源吾郎はしかし、あいまいな表情をその顔に浮かべ、目を伏せて沈黙するだけだった。相手が萩尾丸だったから、こんな態度を取ってしまったのかもしれない。

 萩尾丸は源吾郎の態度については軽く笑うだけだった。ホップは萩尾丸の存在に慣れ始めたのか、再びつぼ巣から飛び出して止まり木に戻っていた。

 

「島崎君にとうとうカワイ子ちゃんが出来たのかって、小雀の狐たちも噂する位の入れ込みようだったもんなぁ……まぁ、小鳥だしちっちゃいし可愛いだろうからカワイ子ちゃんには違いないだろうね。

 いやはや、君には強くなる事とか色々自分の中で課題があっただろうけれど、まさか僕が戯れに言った課題、使()()()()()()方を先にクリアするなんてね」

「今なんて仰いました、萩尾丸先輩」

 

 噂好きなご婦人よろしく感慨深そうに言葉を紡いでいた萩尾丸の言葉に、源吾郎は鋭く反応した。使い魔を持てと萩尾丸が源吾郎に言っていた事をたった今思い出したのだ。言われてすぐは使い魔を得なければならないのかと気負っていたが、ここ最近はその事をすっかり忘れていたのである。妖怪として若すぎるからすぐには使い魔を得るのは難しいと思っていたし、何よりここ数日ばかり、ホップの事ばかり考えて暮らしていたようなものだったのだ。

 源吾郎はそっとホップを見やった。愛らしいホップが使い魔……? 萩尾丸の言葉にただただ疑問が増すだけだった。使い魔というのはやはり妖怪にしろ術者にしろ役に立ち、時に闘いの場で頼りにする相棒のような存在であろう。可愛いホップがそんな存在になるのか源吾郎にははなはだ疑問だったのだ。

 千絵の証言では、ホップは生きたハエを捕食したり鳥籠を変形させたりするような並々ならぬ力を持つという。それでも源吾郎にとっては愛らしい小鳥にしか見えなかった。

 

「ひとまず、ミーティングが終わった後、紅藤様に見て貰おうか。あのお方だって、これから君と永年付き合っていく事になる使い魔がどんな子になるのか気になってらっしゃるだろうし」

 

 もしかすると今回の件は紅藤も一枚噛んでいるのだろう。源吾郎はぼんやりとそんな事を思っていた。

 

 

「うふふふふふ、島崎君。十姉妹のホップちゃんは無事に妖怪化しているわ」

 

 午前十時過ぎ。源吾郎たちは紅藤のデスクに集まっていた。先程まで紅藤に凝視されていたホップは、やたらと甘えたような声を出して源吾郎の許に近付いていった。紅藤が改めてホップを調査するという事であったが、実際に紅藤が行ったのはホップを手のひらに乗せて数秒間見つめるだけだった。ドクターである紅藤の事だから、何がしかの精密検査を行うのかもしれないと思っていたから、紅藤の動きには拍子抜けするような思いだった。だが考えてみれば、大妖怪たる彼女ならば、見るだけで色々な事が解るのかもしれない。

 

「何を驚いているんだい、島崎君。もしかして、その十姉妹が普通の十姉妹だとでも思っていたのかな?」

 

 茶化した様子で声をかけてくるのは萩尾丸だった。源吾郎はそれには答えず、手の上にいるホップに視線を走らせた。ホップが驚いて飛んで逃げないかと不安になったためだ。幸いな事に、ホップは逃走ではなく源吾郎の手のひらにくっつく事を選んでくれた。

 

「島崎君が気付かなかったのも無理のない話よ、萩尾丸」

 

 源吾郎の心中の戸惑いを察したかのように紅藤が口を開いた。

 

「ホップちゃんの妖気はまだ本当にささやかですし、何より()()()()()()()()()()()いますもの」

「ああ成程。それだったら気付けなくても仕方ないか……」

「……?」

 

 萩尾丸はさも納得した様子で顎を撫でている。しかし源吾郎にはピンと来ない話であった。自分と妖気が似通っているから察知できない。その理屈は何となく解る。しかし血縁どころか種族が大きくかけ離れているはずのホップが何故自分と似通った妖気の持ち主なのか。そこが源吾郎にとって謎であった。

 所在なく視線をさまよわせている間に紅藤と目が合う。彼女はほんのりと笑みを浮かべ源吾郎を見つめていた。

 

「島崎君。妖怪というのは何も生まれつきの妖怪だけじゃあないのよ。普通の生き物として生まれついても、何らかのきっかけで妖怪化する者も一定数存在するわ。現に私も萩尾丸も、生まれつきの妖怪じゃあありませんし……

 ホップちゃんもそう言う妖怪の一羽よ。元々はただの十姉妹だったのが、()()()()()()()()()()()で妖怪になってしまったの」

 

 紅藤の言葉は淡々としていた。しかし源吾郎の心は強く揺さぶられ、驚きのあまり数秒間ぼんやりしてしまう程であった。



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源吾郎、使い魔を得る

 しばらく驚いて目を白黒させていた源吾郎だったが、手許の小さな動きで我に返った。動きの主はホップである。彼はその名の通りぴょんぴょんと跳躍し、安全圏であるはずの源吾郎の手のひらから離陸してしまったのだ。紅藤のデスクの上で移動するたびに、ホップの爪とデスクの表面がかすかな音を立てる。もちろんホップは何かを訴えているのか呟いているのか、喉を膨らませて啼いている。

 源吾郎はオロオロとホップの動きを見守っていた。紅藤に見せるからと言って、手で軽く包んで連れてきただけではやはりマズかったのだと痛感したのである。とはいえホップを入れておくに丁度良い物が見当たらない。鳥籠は大きすぎるし、キャリーケースは家に置いてきてしまっている。

 あれこれ思っていると、萩尾丸が台座らしきものを何処からともなく用意した。二本の枝をT字型に組み合わせた、ごくごくシンプルなバードスタンドである。これ見よがしに置かれたスタンドにホップは一瞬だけ戸惑いを見せたが、萩尾丸と源吾郎を一瞥してからスタンドの周辺をうろつき始めた。源吾郎は安堵し、念のためにとホップの好む種子をスタンドの足許にまいておいた。

 

「そこまで驚かなくて良いのよ、島崎君」

 

 紅藤が呼びかけてきたのは、源吾郎がホップの様子に胸をなでおろした直後の事だった。彼女は紫の瞳を瞠り、源吾郎とホップとを観察している。

 

「さっきも言ったとおり、普通の動物が妖怪になる事もそう珍しくはないの。島崎君自身は若いし、野柴君たちみたいに生まれつきの妖怪たちと馴染みがあったから、驚いてしまったかもしれませんけれど。ほら、猫又とかは年数を経た猫がなるって昔から言うでしょ?」

「はい……確かにそうですね」

 

 紅藤の言葉に源吾郎は小さく頷く。つい最近まで人間として暮らしていたとはいえ、妖怪の事は源吾郎も一応知っている。妖狐の中にさえ、本当に普通の狐が妖怪化する事例もあるのだから。

 

「妖怪が妖力を増やす方法の一つに、他の妖怪の妖気や血肉を取り込む方法がある事は島崎君もご存じよね?」

 

 源吾郎は頷いたが、神妙な面持ちだった。他の妖怪の血肉を取り込む方法は、妖怪が力を蓄える方法の中でも短期的に効果が出る内容と言える。一方で、捕食しようとした相手の妖怪に返り討ちに遭ったり、無事に仕留めても摂取した妖力の多さに身体が耐えきれなかったり相手の妖怪の身内から報復に遭ったりと何かとデメリットも多いのが難点である。だからこそ実力主義で半ば殺し合いも容認されている妖怪社会であっても、ある程度の秩序が保たれている訳なのである。

 源吾郎は今一度ホップを見た。蜥蜴やハエを捕食したという彼であるが、今は無邪気に餌をついばんでいる。飼い主だった千絵は怯えていたものの、妖怪社会の血生臭い部分と眼前のホップの存在は上手く結びつかない。

 

「――生まれついての動物の中にも、妖気や妖力を取り込む事がきっかけで妖怪化する者もいるわ。そうでない者もいるけれどね」

 

 ホップが飛び上がり、スタンドの止まり木に着地する。源吾郎の抱く緊張などお構いなしに、気ままに翼を伸ばしたりはばたいたりして遊んでいた。

 

「紅藤様っ、まさかホップは、僕の妖気か僕の血肉を取り込んだという事なのですか?」

「よく気付いたね島崎君」

 

 ありったけの疑念がこもった源吾郎の問いに応じたのは萩尾丸だった。

 

「僕も君がどんな子なのかってよく解らない時があったけれど、なかなかどうして勘が鋭いみたいだね。まぁ、人心掌握と膨大な知識、そしてそれらを行使できる知力を持った玉藻御前様の曾孫だから当然だよね」

 

 ホップ妖怪化の核心に近付きだした事は源吾郎も解っていた。しかしそれでも疑問は完全には消えていない。しかも紅藤も萩尾丸も全てを知っていると言わんばかりの表情を見せているので、なおさらモヤモヤした感覚が募っていた。

 その通りだと言いたげに紅藤が頷いたのを見て、源吾郎は臆せず疑問をぶつけた。

 

「仮にホップが僕の妖気を取り込んだとしましょう。ですがいつどのようにホップが僕の妖気を取り込んだのか……皆目見当がつかないのです。ホップがいるところでやたらと妖気を放出した記憶もありませんし、ましてやホップに傷つけられたなんて……」

「プイッ!」

 

 源吾郎の言葉を半ば遮るように、ホップは一声啼いた。かと思うとスタンドから今再び源吾郎の開いた手の上にさも当然のように着陸したのだ。小さな足で源吾郎の手指を闊歩していたかと思うと、薄桃色の嘴で指先をつつき始めた。軽く咬んでいる感触もあるにはあるが、痛みはない。むしろこそばゆい程度の刺激である。

 

「んおっ!」

 

 源吾郎はホップの動きに思わずオッサンのような声をあげてしまった。指先を探索していたホップは、何を思ったか首を伸ばし、源吾郎の甘爪と()()()()の部分をつつき始めたのである。こういう事は引きとってから何度かあったが、急な事だったので驚いてしまったのだ。とはいえ、ホップを払い落としたわけでもなくホップ自身もそう驚いていないので結果オーライであろう。

 

()()()()()()()、島崎君!」

「プププ……」

 

 萩尾丸が名探偵よろしく気取った様子で声をあげた。彼の発言に、源吾郎のみならずホップさえもがきょとんとしていた。

 

「見たかね島崎君。ホップ君は今、君の指の()()をつついて少しだがはがし取っていただろう? それで君の妖力を取り込んだんだよ。薄皮と言えども、君の身体の一部だからね」

「…………」

 

 狐につままれたような気分で、源吾郎は慎重にホップを観察した。ホップは小鳥らしい体勢に戻っている。せわしく動く嘴の先には、乳白色の薄い破片が蠢いている。確かに言われてみれば源吾郎の薄皮のようだ。ホップはつぶらな瞳でこちらを見つめ、やがて飲み下した。源吾郎の一部をホップが摂取する瞬間を、源吾郎は見たのだ。

 源吾郎はホップと視線を交わしながら、これまでの事を思い返していた。確かに何度も咬まれていたし、薄皮を持って行かれた事もあった。痛みが無かったので気にしていなかっただけだったのだ。

 

「仰る通りです、紅藤様に萩尾丸先輩。やはりホップの妖怪化の元凶は他ならぬ僕でした」

 

 ホップを手に乗せたまま源吾郎は視線を伏せた。ホップは源吾郎を見上げ、何を思ったか身体を伸ばしてさえずっている。オスの小鳥が行う求愛行動であったが、それを見つめる源吾郎の瞳は昏かった。

 取り返しのつかない事をしたのだと源吾郎は思っていた。軽い気持ちで廣川千絵の許に向かった事がきっかけで、ホップの鳥生《じんせい》を狂わせ、千絵に不要な恐怖をもたらしてしまったのだ。

 萩尾丸と紅藤が何か呼びかけるのが源吾郎の耳に虚ろに響いた。思考にふける彼は、彼らが何を言っているのかはっきりと聞き取れない。だが陽気な声色である事だけは解った。

 その事に気付いた瞬間に、源吾郎の心中にはじりじりとした苛立ちが募りだしたのだ。

 紅藤様。萩尾丸先輩。源吾郎はゆっくりと顔を上げ二人に呼びかける。表情の抜け落ちた、能面のような顔つきで。

 

「――お二人にはこうなる事は解っていたんですよね? 僕がホップを拾った時から」

 

 源吾郎の問いかけに、紅藤たちははっきりと頷いていた。

 心中に留まっていた苛立ちが、憤怒にランクアップするのを源吾郎ははっきりと感じた。まなじりを釣り上げ紅藤たちを睨んでいた。但し無言である。本当は千絵と相対したときのように声を上げたかった。しかしさすがに、紅藤たちに恫喝するのは良くないと、なけなしの理性がブレーキをかけていたのだ。

 そのかわり、源吾郎の身体はぶるぶると震えていた。ホップは不思議そうに首をかしげていたが、それでも手の上に留まってくれている。

 

「いくら私でも、確実にこうなると未来を断言する事は出来ませんわ」

 

 紅藤はまっすぐ源吾郎を見つめている。声も眼差しも妙に晴れ晴れとしたものだった。

 

「ただね、ある程度はこうなるだろうって言う予測が立てられるだけに過ぎないわ。とはいえ、予測はあくまでも予測であって、確実にそうなるだろうと思っていても、外れる事もありますし」

 

 それにだな。紅藤の言葉が終わった直後に、今度は萩尾丸が口を開いた。

 

「命取りになるような取り返しのつかない事柄でない限り、若い子には身をもって知らなければならない事があるって僕たちは知っているからね。

 そもそも島崎君。君がその小鳥を拾った時に、『そいつは既に妖怪化しているから、元の飼い主の許に返しても受け取らないと』僕が懇切丁寧に教えたらさ、『はいそうですか。それじゃあすぐに僕が飼い主になります』と分別よく応じるつもりだったのかな?」

「それは……」

 

 源吾郎は問いに応じようとして唇を軽く噛むだけだった。何も考えが無い訳ではない。むしろ多くの考えが浮かびすぎて上手く言葉にできないのだ。萩尾丸の言っている事が正しいであろう事も解る。しかしその理解に付随する幾つもの感情が、源吾郎の発言を奪っていた。

 そんなに思いつめないで。源吾郎の鼓膜を震わせたのは紅藤の声だった。いつになく優しく声色である。

 

「ホップちゃんが妖怪化したきっかけは確かに島崎君にあるのは明らかよ。だけど、ホップちゃん自身は妖怪になる事を望んでいたわ。だからこそ島崎君の本性を見抜き、自分の家を飛び出して島崎君を探し出したんじゃあないかしら。

 前に教えてくれたでしょ? ホップちゃんは元々、あなたのお友達の許で、他の十姉妹と一緒に暮らしていたって。もちろん、十姉妹には十姉妹の幸せがあると思うわ。だけどホップちゃんのルームメイトが満足していた幸せと、ホップちゃんの考える幸せは違っていたのかもしれないし、もしかしたら他の仲間たちと上手くいっていなかったのかもしれないわ――そうでしょ、ホップちゃん?」

 

 最後のホップへの呼びかけに驚いた源吾郎だったが、静かにホップの挙動を見守っていた。紅藤が呼びかけた事がホップには解るのだろうか? そう思っている間にもホップはにゅうと首を伸ばし、元気よく一声啼いた。欲目ひいき目があるかもしれないが、「その通りだよッ!」とホップが自ら言っているように源吾郎には思えてならなかった。

 紅藤は返事をしたホップに対してにっこりと微笑んでいる。源吾郎の視線に気づくと、一度瞬きをしてから口を開いた。

 

「……島崎君、あなたはきっとホップちゃんと上手くやっていけると思うわ。何しろ島崎君とホップちゃんは()()()()だもの。

 島崎君だって、元々は人間として生きて行っても遜色のないようにご両親や親族たちに育てられていたでしょ? それでも島崎君は、妖怪として生きる道を選んだわ。人間としての生き方がずっと楽である事も十二分に知っているにも関わらずにね。

 だからそんなに戸惑わなくて良いのよ。かつて自分と同じ決断をした存在が、自分の手許に潜り込んできただけですから」

 

 紅藤の笑みが変化している事に源吾郎はこの時になって気付いた。先程まで見せていた屈託のない笑みではなく、得体の知れない雰囲気をまとった笑顔である。

 もとより源吾郎は、千絵から突き放されたホップを引き続き養い続けるつもりである。それは紅藤や萩尾丸からあれこれ言われた今も変わらないつもりだった。

 だが今は違う。源吾郎は手のひらの上のホップを見つめていた。十五グラムにも満たないホップの存在は、源吾郎が担うであろう責務のために重々しく感じられた。




 セキセイインコの平均体重は35~40グラム程度、
 文鳥の平均体重は24~30グラム程度です。
 そう思いますと、15グラム程度の十姉妹はかなり小さく感じますよね。


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半妖は人の心を思い知る

 ホップが源吾郎の使い魔になるという事はあっけない程とんとん拍子に決まってしまった。元の飼い主である千絵はもはやホップの所有権を主張する事は無いし、ホップは既に単なる十姉妹を逸脱し、幼いながらも妖怪化しているからだ。

 とはいえ、源吾郎とホップの暮らしが月曜日を境に激変したわけでもない。使い魔は通常あるじの任務を聞きこれを遂行する事が仕事になるのだが、ホップは使い魔としても妖怪としても幼すぎる。ホップの仕事はただひとつ。源吾郎の許で養われ、明るく元気に日々を過ごす事だった。そしてそんなホップを見守り、彼が憂いなく過ごせるよう環境を整える事こそが源吾郎の責務だった。

 

 

 昼食を摂り終えた源吾郎は研究センターを出て敷地内をブラブラしていた。彼が向かうのは隣接する工場のエリアだった。厳密には工員たちが休憩時にたむろする休憩スペースやベンチの近辺である。

 工員ではなく研究員である源吾郎がわざわざ工員たちが憩う場所に出向いているのは、工員である鳥園寺さんに会いたいと思っていたからだ。若い男が女性に会いたいと思って動いているというと色々な憶測が飛ぶかもしれない。源吾郎はしかし、純粋にホップがらみの案件を鳥園寺さんに相談したいと思っているに過ぎない。

 半袖のカッターシャツにチノパン姿の源吾郎は、夏でもかっちり作業着を着こむ工員たちが集まる中ではそれはもう浮き上がって見えた事であろう。だが前以上に工員である妖怪や術者の卵たちが注目しているようだった。中にはひそひそ言い合っている連中さえいる位だ。噂を言い合いながら工員たちは勝手に盛り上がっているようだったが、源吾郎は気にしないで放っておいた。昼休憩も有限だから早いうちに鳥園寺さんを見つけたかったし、噂話は勝手にやっていればいいと思っていたからだ。

 源吾郎は玉藻御前の曾孫、それも途方もない野望を抱えた男である。噂の一つや二つ、周囲は勝手に行ってしかるべきだと思っていたのだ。

 

「相談事?」

 

 鳥園寺さんは、きょとんとした表情で源吾郎を見つめ返した。源吾郎の切実そうな表情を見ている間に、彼女の面に笑みがじわじわと浮かびだしてきた。

 

「あ、もしかして島崎君のおうちに転がり込んだカワイ子ちゃんの事かしら? もうね、こっちでも噂になってるのよ。季節は夏だけど、島崎君に春が来たってね。でもそんな大切な相談、私じゃあ荷が重いかもしれないわ。一応生物学的には女だけど、女子力が絶無だってお兄ちゃんたちや友達や元カレによく言われていたのよ……」

 

 鳥園寺さんは気遣っているというよりもむしろ面白がっているような素振りを源吾郎におしげなく見せている。源吾郎は今ホップという可愛い十姉妹(オス)を養っているのだが、可愛い美少女と源吾郎が同棲しているという塩梅の噂になって広まっているのだろう。

 

「カワイ子ちゃんはカワイ子ちゃんですが……鳥絡みの話になるんです」

「ああ、そういう事だったのね」

 

 鳥絡み。この言葉がトリガーだったかのように鳥園寺さんの表情が変わった。真面目に話を聞こう、というオーラが彼女から放出され始めたのである。

 

「――ええ。島崎君の今の飼い方で、特に問題らしい問題は無いと思うわ」

 

 居候兼使い魔となったホップの飼育環境についての話を聞いた鳥園寺さんは、落ち着き払った様子で源吾郎に告げた。やはり鳥園寺さんは鳥を使い魔にしている家系だけあって飼育場の注意点には詳しかった。

 

「今のその状態でずっと面倒を見続けていたら大丈夫じゃないかしら。話を聞く限り、島崎君も結構勉強熱心みたいだし、ホップちゃんも島崎君にベタ馴れみたいだもんね。

 本当に凄いわね、まだ子供で任務は出来ないと言えども、すぐに使い魔をゲットできちゃうなんて」

「……ありがとう、ございます」

 

 鳥園寺さんの賛辞の言葉に、源吾郎は照れながら礼を述べた。

 

「他に何か気になる事は?」

「あります!」

 

 半ば食い気味に応じた源吾郎に対し、鳥園寺さんは真面目な表情で目を細めた。源吾郎は彼女の眼差しに面食らいつつも、思い切ってもう一つの悩みを、ホップを巡って元の飼い主だった千絵と口論になった事を打ち明けたのである。

 

 

「……島崎君は人間の血も引いているけれど、気持ちはかなり()()()()()()って事がよく解ったわ」

 

 千絵と口論になったいきさつを全て聞き終えた鳥園寺さんは、淡々とした口調でまずそんな事を述べた。そんな鳥園寺さんの顔を源吾郎は眺めていた。自分が妖怪としての意識を持っている事は重々承知している。しかし、鳥園寺さんの言葉を聞いていると妙な気分になっていた。

 

「島崎君。初めて会った時、私は妖怪なんて嫌って言ってたのは覚えているかしら」

「ま、まぁそんな感じでしたね」

 

 やや戸惑いながら源吾郎が頷くと、鳥園寺さんはうっすらと微笑む。噂を耳にして喜んでいた時とは質の違う笑みだった。

 

「あの時うちのアレイも言ってたと思うけれど、普通の人間たちは多かれ少なかれ妖怪を()()()生き物なの。たとえ見た目が可愛らしい小動物であっても、無害で人間に友好的であったとしてもね。ましてや、十姉妹みたいな臆病で大人しい小鳥だと思っていたのが、大きなハエを捕まえたり鳥籠をめんだりしたのを目の当たりにしたら、怖がるなという方が無理があるわ。一般人ならなおさらよ」

「…………」

 

 言葉もなく、源吾郎は静かにうなだれた。人間としての立場での鳥園寺さんの発言は、ホップを疎み源吾郎に譲渡した千絵の主張が正しいものである事を源吾郎にはっきりと伝えたのである。

 目元がしょぼしょぼするのを感じながら、源吾郎はため息をついた。

 

「やはり僕は軽率で、愚かだったんですね鳥園寺さん」

 

 千絵との口論は気分の良いものではなかったが、今一度おのれの言動の浅はかさを源吾郎は噛み締めていた。あの時の源吾郎は千絵を無責任に飼い鳥を手放そうとしていると思い込み、憤りをぶつけてしまった。しかし妖怪を恐れる人間の本能に過ぎないというのならば、そもそも源吾郎の怒りも理不尽なものでしかない。しかもホップの妖怪化は源吾郎が誘発したものなのだから。

 

「自分の言動を顧みて、愚かと評価できる人は本物の馬鹿ではないわ」

 

 それにね。鳥園寺さんは困ったような笑みを源吾郎に見せていた。

 

「廣川さんって子の言い分に一理あるように、島崎君の言い分も間違ってはいないのよ。ぬいぐるみやおもちゃじゃあるまいし、気に入らないからそのペットを手放すなんて話が腹立たしいと思う気持ちもごく当たり前の事だもの。ただ島崎君は、妖怪に対する人間の意識という物を考えなかっただけに過ぎないわ」

「……色々とありがとうございます」

「別にいいのよ。私もちょっと暇だったし」

 

 源吾郎の言葉に対して、鳥園寺さんは照れたように笑っている。そんな彼女を見つめながら、頑張って千絵と連絡を取り、彼女と仲直りをしようと源吾郎は決意を固めていた。



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若手術者の言いがかり

 

 千絵のツブッターにアクセスした源吾郎はひとまず安堵の息を漏らした。千絵が源吾郎のアカウントをブロックしていない事と、千絵の許に残った二羽の十姉妹が元気である事をツブッター経由で知った為である。

『逃げてしまったホップは、色々あって私の()()に引き取られる事になりました』

 つぼ巣の中で居並ぶトップとモップの写真の上に記された文言を見た時、源吾郎は胸の中がじんわりと暖まるのを感じた。源吾郎はあの日以降千絵と連絡は取っていない。これからツブッターにて接触を図るつもりだが、千絵も千絵なりに源吾郎と和解を求めているのではないかという明るい展望が持てたのだ。

 千絵の飼い鳥であったホップを引き取ったのは源吾郎である。その源吾郎の事を、「知人」や「他人」ではなくわざわざ「友達」と記してくれた事が源吾郎には嬉しかったのである。

 

 

 仕事終わり。未だ薄明るい空を眺めながら、源吾郎は意気揚々と駐輪場に向かっていた。源吾郎の住まう安アパートの一室では、今や弟分となったホップが待っている。小鳥のホップは夜には眠るが、源吾郎が帰宅してから小一時間ばかり籠の外で遊ぶのが彼の日課だった。ホップが籠の外で遊ぶ間、源吾郎はホップの挙動に気を配らねばならないのだが、無邪気なホップが跳ね回り飛び回る姿を見るのは、源吾郎としても楽しいものだった。

 ホップの奴、昼間はお行儀よく留守番しているから、いっぱい遊んでやらないとなぁ……幼い弟を慮る兄のような気分に浸りながら、源吾郎は歩を進めていた。

 

「――玉藻御前の末裔・島崎源吾郎、だな」

 

 低く野太い声が源吾郎に投げかけられる。その声に対して、源吾郎は水をかけられた野良猫のように、半ば大げさともいえる態度で応じてしまった。妖怪の血を引く源吾郎は、本来ならば人間や他の妖怪の気配に鋭いはずである。しかし考えこむと他の事が見えなくなる性質故に、声の主が近くにいる事に気付けなかったのだ。

 声の主は一人の男性だった。小柄な源吾郎よりも明らかに背は高く、彫り深く眼光鋭いその面立ちは精悍な猛禽を想起させた。顔つきだけで正確な年齢が判る訳ではないが、二十代半ばか後半に差し掛かったところであろうと源吾郎は思った。

 源吾郎の進路を阻むように立つその男は人間であった。しかし源吾郎は驚きと戸惑いで歩を止め、相手の問いに答えるどころではなかった。考え事をしていた時に呼び止められて驚いたというよりも、相手から剣呑な雰囲気を感じ取った為でもあった。

――この気配、前に受けた事がある。戸惑いの中、源吾郎はぼんやりと思った。以前マシュマロを焼いていた時に感じた視線は彼のものだったのかもしれない。

 

「俺の事は柳澤《やなぎさわ》とでも呼んでくれ。この敷地の工場で働くしがない工員さ」

 

 柳澤、と名乗った男の顔にふわりと笑みが浮かぶ。柳澤が言葉通りのしがない工員ではない事は源吾郎も既に気付いている。この工場で働く人間は大抵が術者の卵かその係累であるのは誰もが知っている。それに彼は、源吾郎を見て玉藻御前の末裔であると呼びかけていたではないか。

 

「少し話がある。付き合ってくれるな」

 

 提案を装った命令の言葉に源吾郎は頷いた。不穏な気配を滲ませる柳澤を見ながら、自分が二重に戸惑っている事に気付いた。すなわち、相手の剣呑な態度に戸惑い、その事に戸惑っているおのれ自身に戸惑っていたのだ。

 

「言うまでもないが、俺は別に君に危害を加えるつもりはないよ」

 

 ママチャリを押す源吾郎の隣を歩きながら、柳澤はぽつりと言った。相変わらずその顔に笑みを貼り付けているが、どういう感情がわだかまっているのか判然としない。

 

「俺を術者と見抜いているから警戒しているんだろう? 君が術者をどんな存在であると考えているのかは知らんが、術者はあくまでも妖怪絡みの仕事を手広く行っているだけであって、妖怪を殺すだけの狩人や殺し屋ではないのさ。

 それに――俺らのような人間の術者が本気で君を討つのならば、ベテランの術者が何十人も集まって挑まなければ敵わないというのが俺たちの見解なんだ」

「…………」

 

 源吾郎は柳澤の顔をじっと見つめ、寒くないのに身震いをした。ただでさえ柳澤の醸す雰囲気に未だ戸惑っている所なのだ。しかも柳澤はそんな雰囲気のまま、物騒な話まで行いだしたではないか。源吾郎が震えたのも無理からぬ話であろう。

 だがそれでも、源吾郎を見つめる柳澤の眼差しは冷ややかだった。

 

「君は妖怪の世界だけではなく俺ら術者界隈の間でも有名なんだぜ。中級妖怪ばりのポテンシャルと、とんでもない野望を併せ持つかなり強い妖怪だってね。君の事を危険視する術者も、一定数いるんだぞ?」

「それも、そうでしょうね……」

 

 源吾郎はか細い声で柳澤の言葉に応じた。注目されているとか有名であるという事実を知った事への喜びの念は無かった。人間が自分を危険視している。この言葉を源吾郎なりに咀嚼し、今までの事に考えを馳せていたのだ。妖怪に縁遠かった千絵は妖怪になったばかりのホップを恐れていたし、術者である鳥園寺さんも、妖怪を人間が恐れるのは当然の摂理だと教えてくれたばかりだった。

 

「別に俺は、他の連中ほど君を恐れている訳じゃあないよ。むしろ強くて危険な妖怪らしく、もっと堂々として欲しいと思っているくらいだ。そうでなければ――俺が君をいじめているみたいじゃないか」

「……何が目的なのですか?」

 

 そんな事を言われてもどうしようもない。その言葉を飲み込み、代わりに源吾郎は柳澤に問いかけた。善きにしろ悪きにしろ、柳澤は何がしかの目的があって源吾郎に接触しているのだろう。それこそ萩尾丸みたいに、源吾郎をからかうためだけにこうしてくっついているとは思えなかった。もっと切実な目的を抱えているのように思えてならなかった。

 目的、かぁ……柳澤は源吾郎の言葉を繰り返し、視線をさまよわせていた。

 

「そんなに大層な目的なんてないよ。ただ、君がどういう奴なのか知りたいだけさ」

 

 柳澤はそこまで言うと、鋭い眼光でもって源吾郎を見下ろした。

 

「君の野望は途方もないものだと聞いている。妖怪であっても平穏に過ごす事を望む者の多い中で、何故君は途方もない野望を抱いたのか、それが俺は知りたい。

 何のかんの言っても、妖怪と人間の混血なんて珍しいからさ。しかも君はかなり妖怪としての要素も強いし……どちらでもない中途半端な存在として、身内や周囲の面々から迫害でもされたのか?」

「違う、違います!」

 

 身内からの迫害。この言葉に源吾郎は鋭く反応した。その声はさほど大きくは無かったが、先程までとは異なり決然とした響きを伴っていた。

 

「末っ子だったから高校を卒業するまでは親兄姉に色々と干渉されて、それがちょっと鬱陶しいなって思った事はありますけれど、迫害されるなんて事は無かったですよ。まぁ、母や上の兄や叔父上たちは、妖怪の血が濃い僕が、妙な事を起こさないか気にしていましたけれど。

 確かに僕の父は人間でしたが、僕の事は大分可愛がってくれたんです。夫婦仲も良かったので僕や兄姉たちに多少先祖の性質が出ている事も気にしてなかったみたいですし」

 

 柳澤はそれほど表情を変える事は無かった。それでも皮膚の下で驚きの念を蠢かせているのは、妖怪の勘として源吾郎は察知している。

 

「……そうなるとあれか。妖怪の血を引いている事はさておき、普通の家庭で普通に親に可愛がられて育った口なのか」

「まぁそんな感じですね。ただまぁ、上の兄とは十八も年が離れているので、もう一人保護者がいるみたいな感じですが」

 

 そういう事は別に良いんだ。柳澤は驚きといくばくかの呆れに似た表情を滲ませながら問いを重ねた。

 

「家で何もないのなら、学校でいじめられたり爪弾きに遭ったんじゃあないのかい? よくよく考えれば、若いうちは家族関係よりも学校での交友関係の方が色々とメンタルには来るだろう? スクールカーストの中でどう立ち回るかもあるし」

「それも別に問題はありませんでしたよ?」

 

 源吾郎の返答に、柳澤は難しい表情をした。源吾郎の返答は柳澤の予想とは異なったものであるらしい。とはいえ、源吾郎が家でも学校でも割合平穏に暮らしていたのは事実なのだから仕方がない。

 

「家でも大切にされ、学校生活も平和に過ごしてきたのか……俺はてっきり、君の心中に心の闇だとかドロドロした鬱屈みたいなものがあって、それ故に世界征服などを望んでいるのだと思っていたよ。

 人間と妖怪、どちらの世界にも属せぬ存在であるがゆえに、既存の世界を打ち崩して自分のための新しい世界を創ろうと思っているとか、そういう訳じゃあないんだな?」

「違う……全然違いますよ……」

 

 源吾郎は半ば戸惑いを覚えつつも、柳澤の考えをきっぱりと否定した。源吾郎の半生を勝手に妄想する柳澤に対して、軽い苛立ちを覚え始めてもいた。

 源吾郎はだから、鋭い視線を柳澤に向けたのだった。

 

「僕はただ単に、玉藻御前様の力を一族の中でもより多く受け継いだから、その能力を十全に活かしたいと思っているだけに過ぎないんです。別にその、柳澤さんが考えるような暗い過去とかはありませんよ! そりゃあまぁ、見た目がパッとしないから、恋愛の方はご無沙汰でしたけれど」

「そうか、君はただの中二病だったのか……それはそれで厄介というやつだな。やむにやまれぬ理由で恐るべき野望を持っているというのならば話は解るのだが……」

 

 何とも言えない表情でぶつぶつと呟く柳澤を見ているうちに、源吾郎は彼が何を考えて何を求めていたのか唐突に悟った。彼は源吾郎が強大な力を持ち、尚且つ世界征服の野望を持つ事を知っている。口ではああ言っていたものの、多少は警戒もしているだろう。源吾郎がそんな野望を持つに足る()()()()()()()、彼はそれを知りたかっただけなのだ。そんな考えが源吾郎の脳裏に浮かんでいた。

 

「見た目がパッとしないから恋愛に不向きというのは、君には当てはまらないんじゃないのかね。君の先祖は籠絡術に長けた玉藻御前だろう?」

 

 柳澤は大切な事だと言わんばかりに声を張り上げていた。先程まで呆気に取られてぼんやりとしていたのが嘘のようだ。

 

「僕は相手を魅了したり籠絡させるような術は持ち合わせておりません」

 

 それに魅了の術は便利な物じゃあない――末の兄を思い浮かべながら言い足そうとしたが、柳澤は源吾郎の言葉を遮ってしまった。

 

「魅了の術とは無縁だなんて、とぼけた事を言っても無駄だからね」

「…………?」

「君の許にベタ惚れモードのカワイ子ちゃんが転がり込んでいるって言うのに、うちの工場で働いている鳥園寺さんにも粉をかけようとしてるだろう。妖怪だから多少は一夫多妻も一妻多夫も融通が利くと言えども、けしからん話だな」

 

 言いながら柳澤が興奮しているのは、彼の頬が火照ったように紅潮している所から明らかだった。一方の源吾郎は、興奮交じりに吐き出された言いがかりを聞きながら、却って落ち着きを取り戻していた。彼の言が誤解と思い込みによって構成されている事は源吾郎にはよく解っていたためだ。

 

「それは誤解というやつですよ柳澤さん」

「申し開きが出来るのかい、チャラ男狐が」

「確かに僕の許にカワイ子ちゃんが転がり込んでいるのは事実ですが、そのカワイ子ちゃんというのはオスの十姉妹なんですよ。元々は友達の十姉妹だったんですが、色々あって僕が新しい飼い主になったんです。

 それで、鳥園寺さんにはホップの、十姉妹の飼い方を教えて貰おうと思って昼休みにお邪魔して、あれこれ話を聞いていただけです。別にその、やましい事はありませんよ」

 

 源吾郎は一度歩を止めると、懐からスマホを取り出して一枚の画像を呼び寄せた。源吾郎の自室で撮影したホップの画像である。綺麗にホップの姿が写った写真は少ないが、今回は一枚見せれば事足りるであろう。

 これがうちのカワイ子ちゃんですよ。何とかきちんとホップが写っている画像を、源吾郎は印籠よろしく柳澤に見せた。仏頂面だった彼の顔は、十姉妹の画像を見た事であっけなく笑みほころんだ。

 

「ああなんだ。君も鳥を飼い始めたのか。それならば完全に俺の誤解だな」

 

 疑ってすまない。源吾郎に視線を戻した柳澤は、何と頭を下げて軽く謝罪をしたのだ。何のかんの言っても鳥好きには悪い奴はいない。そんな独り言を彼は口にしている。目を瞬かせる源吾郎を一瞥し、彼は言葉を続けていた。

 

「それならば鳥園寺さんに話しかけたのも解るなぁ。彼女、鳥の事も詳しいし気立ての良い娘だしな。鳥絡みの事で相談したくなるのも無理からぬ話だよ。それにまぁ、彼女と鳥の話をしているだけだったのなら、俺も安心したよ」

 

 柳澤が一人勝手に安心する中、源吾郎も実は安心していた。柳澤が源吾郎に唐突に絡んできた理由がうっすらと解ったからだ。

 きっと柳澤は鳥園寺さんに好意を抱いており、その鳥園寺さんと親しげに話していた源吾郎に軽いジェラシーでも感じていたのだろう。



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アイドル取り持つ仲直り

 土曜日の朝。仕事もないのでいつもならのんびりまったりと時間が過ぎるのを待つのが常なのだが、源吾郎は落ち着かない様子で部屋の内装を確認し、本棚に入っている本の並びを整理したり、床の上をコロコロで掃除したりとせわしく動いていた。

 前の土曜日は源吾郎がホップを連れて千絵の許を訪れた。だが今日は、千絵が源吾郎の家に訪れる約束なのだ。彼女と駅で落ち合う時間(アパートが辺鄙《へんぴ》な所にあるので、最寄り駅に到着した千絵を源吾郎が出迎える運びになっている)はまだまだ先であるが、どうにもこうにも落ち着かず、こうしてちょっとした模様替えや掃除に勤しんでいるのだ。それはやはり、千絵が一人暮らしでお洒落に気を遣っていた事に対する引け目や、そもそも千絵ときちんと和解できるかという不安から生じているに違いなかった。

 

「プ、プ、プププイッ!」

 

 ちなみに落ち着かない若者は源吾郎だけではない。鳥籠の中のルームメイト・ホップも今日はいつになく活発だ。今は普段通りの動きに戻っているが、本日彼は二度も水浴びをし、鳥籠の床部分に敷いている新聞紙を嘴で破って一か所に集めたりと、何かとせわしなく動き回っていたのである。朝の日課として鳥籠の外でちゃんと遊ばせた後なので、何が彼を突き動かしているのか、源吾郎としては気になる所でもあった。

 

「プ、プイ!」

 

 源吾郎は作業を止め、鳥籠の方に近付いた。啼き声を真似てやると、ホップは瞬きをして小首をかしげている。

 

「どうしたんだホップ。廣川部長が、前の飼い主がやって来るって事で緊張しているのかい?」

「ピ、ピピピ……」

 

 今度は穏やかな口調でホップに語り掛ける。ホップがどれだけ源吾郎の言葉を理解しているのかは解らない。ある程度理解しているのではないかと源吾郎は思っている。現に今も、源吾郎の言葉に反応し、彼なりに返事してくれているではないか。

 源吾郎は何故ホップが動き回り啼き続けていたのか、彼を見つめているうちに唐突に悟った。ホップに源吾郎の緊張が伝わっていたのだろう、と。小鳥は弱者であるがゆえに群れを作り、仲間と行動を共にする。インコの類では、飼い主の挙動を見てそれを真似する事など珍しくないそうだ。ホップはインコではなく十姉妹であるが、群れで暮らす習性があるのはインコと同じだ。しかもホップは妖怪化しており源吾郎の事を完全に仲間であると見なしている。ホップが源吾郎の行動を意識し、真似ようとするのは当然の摂理であろう。

 

「大丈夫だよホップ。緊張する事は何もないんだ」

 

 言いながら、源吾郎は指を鳥籠の檻の隙間に近づけた。当たり前のようにホップは鳥籠の壁にへばりつき、源吾郎の指先に近付いてくれる。源吾郎の指先の皮をつつくのがホップの日課だった。そして源吾郎は、小さなホップの頬や胸を指先で撫でる行為に慣れつつあった。

 

 

「吉崎町へようこそ、廣川部長」

 

 待ち合わせ場所だった吉崎駅前で、源吾郎と千絵は難なく落ち合う事が出来た。彼女もまた緊張した様子で花壇の傍らにたたずんでいたが、ママチャリを押して近付く源吾郎の姿を見ると、ぱぁっと明るい表情を見せた。

 

「わざわざ迎えに来てくれてありがとう」

「そりゃあもちろん、辺鄙な所だもの……」

 

 当然の事さと言外に述べつつ、源吾郎はおのれのママチャリに視線を向けた。

 

「本当は車で迎えに来た方がスマートなのかもしれないけれど、あいにくまだ車を持ってなくてね……アパートまで歩いて二十分くらいだからまぁ大丈夫だとは思うんだ。でももし歩くのがしんどくなったら、俺の自転車に君が乗ると良いよ。俺はそれについていくから」

 

 源吾郎は彼なりに気を遣ったつもりだった。ところが千絵は源吾郎の言葉を聞くと、さもおかしそうに笑いはじめた。

 

「あはっ、やっぱり島崎君って面白いわね。迎えに来て俺の自転車に乗っても良いよって言うのは初耳かも。そう言えばバスだったらどうなの?」

「バスはねぇ……あるにはあるけど一時間に二本だよ。暑いしさ、しんどくなったら所々休憩を挟めば良いし。コンビニは無駄にあちこちあるから、涼を取るのにも困らないし」

「それならバスはやめて島崎君についていくわ」

 

 千絵はそう言ってから、軽く視線をさまよわせた。

 

「休憩を挟んでも良いって言ってくれたけれど、島崎君は早く家に戻らなくて大丈夫? ええと、その……」

「ホップの事なら大丈夫。時間がかかるかもしれないと思って部屋には冷房を付けてるからさ。熱中症にはならないよ」

「やっぱり大切にしてくれてるんだね、ホップの事……」

 

 かつての飼い鳥である十姉妹の名を呼ぶ千絵の姿は驚くほどしおらしかった。おしとやかというよりもむしろ自信に満ち満ちた性質の娘であるから、彼女の振る舞いは源吾郎にとってもある意味新鮮な物だった。それは、彼女もまたホップの事であれこれ考えている事の裏返しでもあるようだった。

 

 そんなわけで、源吾郎と千絵はゆっくりとアパートに向かっていった。千絵は小さなバッグを揺らしながら徒歩で、源吾郎はママチャリを押しながら。

 二人はただ黙って歩いている訳ではなかった。キャンパスライフやサラリーマン生活など、自分がどのような状況にあるのかという近況報告のような物をお互い行っていた。だがそれでも、両者の間柄を考えれば世間話というにはいくらかぎこちない空気が漂っていたのも事実である。

 歩きながらアパートに向かう間、ホップを筆頭とした十姉妹の話はついぞ出てこなかった。十姉妹の事を忘れていた訳ではない。むしろ不用意に話して、険悪な空気になる事を恐れていたのだと源吾郎は思っていた。彼自身がその懸念を抱いていたためだ。

 

 

 源吾郎と千絵は思っていたよりも早くアパートに到着した。午前十時過ぎと言えども丁度良く空が曇っていたので、それほど暑さを感じずに済んだためだ。もしかすると、世間話に夢中になっていたから時間の経過を感じなかったのかもしれない。

 冷房を付けていた室内はいい塩梅にひんやりとした空気に包まれている。曇天とはいえ暑さを感じていたのだろう。千絵が静かにほっと息を吐くのを源吾郎は耳にした。

 

「曇ってたけど暑かったよね……麦茶を用意するから、適当な所で座ってて」

「プイ、プイ、ピピピピッ!」

 

 千絵が控えめながらも部屋の一角に腰を下ろすのを見届けてから源吾郎は動いた。大きな鳥籠の中に入っているホップは、源吾郎の声に呼応するかのように啼いている。ホップ自身は起きている間ほぼずっと何事か啼いているのだが、源吾郎がホップに対して何がしかのアクションを起こした時に、一層目立つ声で啼くようだった。

 

「……私がこんな事を言うのもアレだけど、ホップが元気そうで何よりだわ」

 

 用意した(と言ってもあらかじめ冷やしておいたペットボトル入りの物をグラスに注いだだけだが)麦茶で喉を湿らせると、千絵はそんな事を言った。声音はやはり小さく、呟くような物言いである。

 源吾郎はホップを一瞥してから千絵に視線を戻す。しおらしい千絵とは対照的に、ホップは皮付き餌をついばんだりつぼ巣の上部を引っ張ってワラを引きずり出したりと元気一杯だった。

 

「ホップの事はもう弟みたいに思ってるからね。あの子が元気に楽しく過ごせるように心を配るのは俺の務めなのさ」

 

 千絵の表情が驚愕の色に染まる。一瞬の後、源吾郎はまた自分が妙な発言をしてしまったかと思った。おのれの発言が中二病かぶれだと一部の存在から言われる事もままあるし、そこまで行かずとも気取った発言だと捉えられるかもしれない。とはいえ、源吾郎がホップを弟と見做している事も、彼の生活を整えるのがおのれの責務だと思っている事も偽りのない真実である。

 

「そうね。島崎君ってそういう所があるもんね」

 

 そういう所ってどういう所だろう? ぼんやりと考えていると、千絵の顔にうっすらと笑みが浮かんでいた。

 

「私たちが拾った仔猫たちの事、マルとその兄弟たちの事は覚えているわよね? あの時も、島崎君は率先して面倒を見てたって事を思い出したの」

 

 ああなんだ、廣川部長が指摘したのはそっちの方か……発言が痛いとか気取っているとか言われるのではないかと妙に構えていた源吾郎はまず安堵した。仔猫、と聞いてしばしの間郷愁の念にとらわれたのは千絵と同じである。源吾郎は物騒な野望を持っている割に小動物を可愛がりたいと思っているし、ぬいぐるみとかフワフワしたものも結構好む性質である。

 

「ホップも……島崎君に拾ってもらって幸せだと思うわ」

 

 ぽつりと放たれた千絵の言葉に、源吾郎はどう反応すれば良いのか解らなかった。彼女の言を無邪気に肯定するのは何かが違う。それだけは解った。

 廣川さん。源吾郎もまた麦茶を呷り、手指を組みつつ彼女に声をかけた。

 

「この前は本当にごめん」

 

 源吾郎は率直に謝罪の言葉を述べ、シンプルに首を垂れた。

 

「あの時は、廣川さんがホップを突き放したと思ってつい頭に血がのぼっちゃったんだ。だけど、よくよく考えたら廣川さんも怖い思いをしてたって事に気が回らなくて、それで俺、責めるような事を言っちゃったんだよ。

 そりゃあそうだよな。可愛い無害な小鳥ちゃんだと思ってたのに、鳥籠をめんだりしたのを見てびっくりする方が当たり前だろうし。俺はそこを見落としてたんだ……」

 

 源吾郎は一瞬だけ視線を千絵からホップに移した。低い位置に設置された止まり木の上でホップは身体を伸ばしている。源吾郎と目が合うと、尻尾の先まで震わせながら短く鋭く啼いた。非難がましく聞こえたのは気のせいではあるまい。

 

「ああだけど、ホップが悪いとか、そんな事は思ってないよ。この件は誰も悪くないんだよ、きっと」

 

 誰も悪くない。この文言にひとひらの嘘が込められている事を源吾郎は知っている。この度のホップ妖怪化事件の元凶は他ならぬ源吾郎なのだ。だがそれは千絵に教えるつもりはなかった。彼女は霊感も何もない普通の人間だ。可愛がっていた十姉妹が鳥籠をめんだ事に恐れおののく感性の持ち主なのだ。そんな彼女に、妖怪の力を持つおのれが飼い鳥の一羽を妖怪化させたなどと言う話を聞かせたとして、何のメリットがあるというのだろう? むしろ千絵を戸惑わせ、さらなる恐怖をもたらすだけに過ぎない。

 ホップは妙な事を起こさないし、新しい飼い主になった源吾郎を慕っている――それを千絵に伝える事が出来れば十分なのだと源吾郎は思っていた。

 さて源吾郎の話を聞いていた千絵は、源吾郎をまっすぐ見据えて微笑んでいた。

 

「色々と気遣ってくれてありがとう、島崎君」

 

 他にも千絵は何か言うだろうか。そう思って次の言葉を待ってみたが、千絵はホップの事について言い出す事は無かった。ただ彼女は、時々鳥籠の方に視線を向け、遊んだり食事に勤しんだりするホップを静かに眺めるだけである。

 数秒の後千絵は源吾郎の方に視線を戻した。こちらこそありがとう。源吾郎ははっきりとした口調で告げた。

 

「廣川部長だって忙しいだろうしホップの事もちょっと怖いって思ってるかもしれないのに、わざわざ来てくれて本当に嬉しいよ。後になってから、俺も理不尽な事を言ってしまったって気付いたから、仲直りもしたかったしね」

 

 仲直り。口にしてみるといかにも子供っぽい響きを伴っている事に気付き、源吾郎はうっすらと顔を赤らめた。

 千絵は赤面する源吾郎を見て少し気分が和んだらしく、明るい表情を見せていた。源吾郎がよく知っている、いつもの快活な彼女が戻ってきたようであった。

 

「一度手放したとはいえ、元々は私がホップの飼い主だったもの。島崎君と会う時に、ホップがどうしているのかはきちんと見届けないとって思ったのよ。島崎君の事だから、ホップを粗末になんか扱わないって思ってたわ。だけど、思ってる以上に大切にしてくれているのね。うちのトップやモップよりも、良い暮らしをしているんじゃないかしら」

 

 茶目っ気たっぷりに放たれた千絵の言葉を受け、源吾郎もホップの入った鳥籠とその周辺を眺めた。まず鳥籠自体は居住用と一時避難用の二つが常備されている。

 鳥籠の外にはホップが羽を休めるための小さなバードスタンドや小さな巣がさり気なく配置されていた。もちろんこれらは源吾郎がポケットマネーで用意した物品である。

 

「廣川部長の所のモップたちがどんな暮らしかよく知らないけれど、廣川部長がそう言うんだったらそうかもしれないなぁ」

 

 源吾郎はひょうひょうと言ったつもりだが、その顔には明らかに笑みで緩んでいた。

 

「廣川部長の所にホップを持って行くまでは、いつかは返さないとダメだって思ってたから、鳥籠とか最小限の物だけを用意してたんだ。だけど晴れて俺の飼い鳥になってから色々と買い揃えたんだ。ホップは俺の鳥だし、存分に可愛がれるってね」

「ああほんと、島崎君らしいわね」

 

 千絵は最後の一文がウケたらしい。よく見れば手を叩いて笑っている。源吾郎もつられて笑うと、若い二人は笑いの引き際が解らずにしばし笑い続けたのだった。



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晒した本性、隠された本心

 源吾郎も千絵もツボにはまってしまったらしく思った以上に笑っていた。源吾郎の視界は涙でうっすらと滲み、千絵も目許をぬぐっている。もし今千絵の目許から涙が見えたとしても、源吾郎はそう驚きも戸惑いもしないだろう。何せ笑いによって滲んだだけの涙なのだから。

 ねぇ島崎君。ひとしきり笑い終えた千絵は、ホップをまた一瞥してから源吾郎に向き直った。心持ち真面目な表情である。

 

「ええと、島崎君はホップが怖いって思った事は無いのかしら?」

 

 僅かな緊張の色を千絵の瞳から読み取った源吾郎は、素直に小さく頷いた。妖怪である源吾郎にしてみれば、非力な妖怪に過ぎないホップは脅威などではない。しかし、彼との触れ合いが恐ろしい事に思えたのもまた真実だ。

 

「えへへ、最初はホップを触るのは怖かったよ」

 

 言いながら、源吾郎もホップを見やった。構ってもらえないと思ったのか、ホップはホップでひとりつぼ巣の破壊活動に勤しんでいる。

 

「もしかしたら他の十姉妹よりも大きいのかもしれないけれど、俺の手のひらにゆうゆうと収まるくらい小さいんだよ? 撫でたり捕まえようとしているうちに力加減が狂ってホップに何かあったらって、それが一番怖かったよ」

 

 源吾郎はホップの異形ぶりを恐れてなどはいない。彼は単に、力加減を誤ってホップを傷つけてしまわないかと、その事が恐ろしくてならなかったのだ。

 既にホップが源吾郎の許に来て二週間が経とうとしている。ホップとの触れ合いに慣れてきた源吾郎だったが、未だにホップを片手で掴んだ事は無かった。両手で空間を作り、その中にホップを包む事はあったけれど。

 千絵は驚いたように目を瞠って源吾郎をまじまじと眺めていた。それからもう一度ホップにも視線を向ける。もう一度源吾郎に視線を戻した時、少し腑に落ちた、と言いたげな表情になっていた。

 

「そっかぁ、そういう意味でホップと触れ合うのが怖かったんだ。やっぱり島崎君らしいわ。ちょっと繊細な所とか」

 

 俺って繊細なのかなぁ……千絵を見ながら源吾郎は静かに思った。妖狐の血を引いているがゆえに、五感が鋭く普通の人間が見落とす事にすぐ気づくという面はあるにはある。それに源吾郎自身も細かい所を気にして動く事は往々にしてあった。やはり細かいところまで気付いてマメな男ほど女子たちの評価も高いからだ。

 

「そう言えば島崎君って怪奇現象とか、そう言うのは怖くないの?」

 

 物思いにふけっていた源吾郎に、千絵は静かに問いを重ねる。やはり驚きの念とか、こちらの意図を探るような気配がうかがえた。彼女の疑念も無理からぬ事だと源吾郎は思っていた。実は源吾郎が怨霊とかが出てくるホラーが苦手である事を彼女は知っている。それにいくら小鳥が可愛いと言えども、鳥籠の檻を曲げる十姉妹を普通の人間が手放しに可愛いと言い放つ態度に疑問を抱くのは普通の事であろう。

 源吾郎が怪奇現象や妖怪を恐れない事にはきちんとした理由がある。真の理由を千絵に明かすつもりはないが、それでも道理の通った返答は可能だ。

 

「怪奇現象とかそういう手合いの話には実は慣れてるんだ。そう言う事を研究する学者とか、オカルトライターが身内にいるからさ」

「あ、そういう事だったのね……」

 

 源吾郎の返答を耳にした千絵は、至極あっさりと納得してくれた。この内容で納得してくれるのならばそれに越した事は無い。妖怪絡みの学者やオカルトライターが身内としているのならば、源吾郎がそういう物に動じない理由として千絵も納得してくれるだろう。

 それに源吾郎の父が学者で長姉がオカルトライターである訳だから、嘘をついている訳でもない。

 父親や姉からは結構構ってもらったから、自然とそういう物に馴染んでいった……ダメ押しとばかりにその事実も告げようかと源吾郎は思っていた。

 だがその必要は無かった。千絵の注意は、すぐに源吾郎とは別の物に移ったからだ。

 

「ピィ、ピュイ、プイッ!」

 

 元気いっぱいの声の主はホップである。つぼ巣の破壊活動に勤しみ自分の世界に没頭しているのだと思っていたのだが、彼はいつの間にか鳥籠の壁面にへばりつき、身体全体を震わせて啼いている。細い指がきっちりと檻を掴んでいる所や、黒々としたつぶらな瞳がこちらをしっかりと見据えている所、ホップの声が軽く開いた嘴からごく当たり前に出てきている所などが源吾郎にははっきりと見えた。

 ホップ、遊んで欲しいみたいだよ。囁くような声音で千絵は言った。

 

「ね、島崎君。ちょっとだけホップを外に出して遊ばせてあげたらどうかしら? 私たちを見て外で遊びたいって言ってるみたいよ」

 

 千絵の提案に、源吾郎は決然とした態度で首を横に振った。千絵の言わんとしている事も、ホップが遊びたがっている事も源吾郎にははっきりと解っていた。

 

「そうだね。確かにホップは構ってもらってほしそうだけれど、いつもなら俺は仕事でホップは留守番をしている時間帯なんだ。今遊んでやる事は出来るけど、それでホップに変に期待を持たせたら可哀想だからね……」

 

 源吾郎の主張を聞くや、千絵は驚いたように目を瞠り、嘆息の声を漏らした。数度瞬きをすると、感心したように口を開いたのである。

 

「島崎君、ホップの事を可愛がってるだけじゃなくて、色々と考えてくれてたのね。本当に、ホップのお父さんかお兄さんみたいね」

「あはは……そりゃあ俺も男だから流石に姉代わりにはならないよ。まぁ真面目な話になるけれど、ホップには俺しかいないんだ。だから俺がしっかり面倒を見てやらないと……」

 

 気取った物言いだと思われたかもしれないが、やはりこれも源吾郎の本心だった。言葉を濁らせたのは、千絵の反応ではなくおのれの心に浮かんだイメージに驚いたためだった。ホップに対する接し方や考え方が、図らずとも兄たちに、特に長兄の宗一郎のそれに酷似している事を源吾郎は悟ったのだ。兄でありながら保護者らしく振舞う宗一郎の事を、時々疎ましく思っていたにも関わらず。

 それこそ、血は争えないという物なのかもしれない。

 

「この前みんなと一緒に会った時は恥ずかしくて言えなかったけれど」

 

 そんな源吾郎の心中の動きはさておき、千絵は感心した様子で源吾郎を見つめていた。

 

「島崎君、大分大人っぽくなってるからびっくりしたわ」

「まぁ、三年ぶりだもんねぇ。お互い大人になると思うよ。でも、廣川部長にそう言われると照れるな……」

 

 大人っぽくなった。同学年の中でも割合大人びている千絵にそう言われ、源吾郎の心中は嬉しさと気恥ずかしさでないまぜになっていた。何しろ、子供だった頃の源吾郎を知っている相手なのだから。

 案の定、千絵は一人で小さく頷き、過去を思い返しているようだった。

 

「本当に世の中って不思議よね。リアル中二病で、世界に挑むとか他にも色々面白い事を言って私たちを笑わせてくれた島崎君が、まさかうちらの中で真っ先に就職するなんて夢にも思ってなかったわ」

 

 やっぱりサラリーマン生活って大変なんでしょ? この問いに源吾郎は即座に頷いた。

 

「あ、あの頃は俺も若かったからね。ついつい稀有壮大な事を言ってみんなを驚かせてしまっていたのかもしれないな。だけどやっぱり現実的な道を選ぶ事が大切だって事が解ったから就職したんだ。俺は大丈夫だよ廣川部長。現実を見据えながらも、自分のやりたい事に進んでいる最中だからさ」

 

 名目上は研究職であるにもかかわらず、営業マン顔負けの滑らかな口調でもって源吾郎はおのれの状況を千絵に語って聞かせた。

 ちなみに現実を見据えつつもおのれの道を進もうとしているという言葉も嘘ではない。源吾郎は幼少の頃より育んできた世界征服の野望を未だ育んでいる。独力では実現が難しいから、大妖怪たる紅藤の許に弟子入りという形で就職し、力を蓄えているのだ。

 そしてまぁ、サラリーマン生活が大変であるという事も真実であろう。週に何度か他の妖怪たちと実力を競う訓練があるというのは人間のサラリーマンとは大分違うかもしれない。しかしそこでおのれの実力を含めた現実に源吾郎は直面し続けていた。最近では、他の妖怪に勝つという自信を源吾郎に与えるためではなく、今の源吾郎には何が出来て何ができないのかを浮き彫りにする事が真の目的ではないかと思い始めているくらいだ。

 

「本当に、色々と安心出来て良かったわ」

 

 千絵はそう言うと明るく微笑み、グラスにある麦茶を飲み干した。新たに注ぐべきか否かと考えていると、千絵は言葉を続ける。

 

「ホップの事も私以上にしっかり面倒を見てくれているみたいだし。あとはまぁ、ホップが凄い事を島崎君の前でやっちゃわないかどうかがちょっと心配かも」

「それは多分大丈夫だと思うよ、俺は」

 

 源吾郎も朗らかな表情で千絵を見た。ホップは確かに妖怪化しているが、彼が何がしかの妖術や怪現象を起こすとは思っていない。紅藤によるとホップは源吾郎の許に向かうためだけに鳥籠をめんで千絵のアパートから脱出を図ったのだ。源吾郎に会い現状に満足しているホップが、さらに何かをしでかす可能性は低い。

 それに妖怪化していると言えども、ホップの妖力は現時点ではかなり少ないのだから。

 

「ホップはまだ子供だし、怪現象をそうポンポンと起こすとは――」

 

 おのれの意見を述べようとした源吾郎は、途中で言葉を切った。ここにきて異変を察知したためだ。小さな扇風機が舞うような音が鳥籠の中から聞こえた。数瞬遅れて、千絵の顔に強い驚愕の色が表出する。そう。ホップが鳥籠をめんだと言った時に浮かべていた表情だ。

 

「島崎君! 今、ホップの周りでちっさいつむじ風が……」

 

 うろたえた様子の千絵の声を聴きながら、源吾郎はホップを注視していた。ホップは鳥籠の床、フン切り用の網の上に鎮座している。脚を傷めないようにときちんと網の上には新聞紙を引いているのだが、ホップ自身がこの新聞紙をちぎったり引っ張ったりしているので、網の部分があらわになっている。網の下、ホップの太く短い嘴が届かぬ部分に藁や小さな新聞紙のかけらが落ちているのだ。

 

「プイッ! プププププ……」

 

 さえずりとは異なる、しかし妙に気合の入った声がホップの身体からほとばしる。にゅうと半ば直立する形で伸び上がったかと思うと、半分ばかり両翼を広げ、はばたき始めた。飛ぶためのはばたきではない事は、ホップが浮き上がらない事からも明らかである。

 源吾郎も瞠目し、絶句した。今先程千絵が言ったとおり、ホップの目の前でつむじ風が発生していた。風が巻き上がる状況そのものは流石に源吾郎も視る事は出来ない。しかしまき散らした種子の皮やペレットやわらくずなどが巻き込まれて舞い上がっている所から、つむじ風が発生している事は十二分に確認できた。

 

「ホップ! 一体何をやったんだい」

 

 源吾郎はスススと鳥籠の傍に近付きホップに声をかけた。源吾郎に見下ろされながら、ホップは巻き上げたわらくずを一本嘴にくわえている。源吾郎は生まれて初めて十姉妹のドヤ顔を見た気がした。鳥類は表情筋に乏しいから顔の表情自体に大きな変化はない。しかし首の角度や目つきからして得意満面といった様子が源吾郎にはしっかりと伝わってきた。

 

「ホップ。そんな妖怪化してるからってさ、わざわざ妖術なんて使わなくても良いだろう? ティッシュのこよりでもわらくずでも粟穂でも後で渡してやるからさ……それにしても、ホップも術が使えるようになったのかい? まさか俺を見て使うようになったとか? でも俺はそんな術は使わないし」

 

 驚いた源吾郎は矢継ぎ早にホップを問いただそうとしていた。無論効果はない。ホップがどれだけ人語を解するか未知数であるし、源吾郎もホップの啼き声から彼が何を訴えているのか解読できるわけでもない。

 案の定ホップは、尾羽まで震わせて啼くだけだった。物をくわえていても啼き声を出せるのは、鳥類の発声が哺乳類のそれとは異なったメカニズムであるためだ。

 

「しまざき、くん……」

 

 おずおずとした千絵の声に反応し、源吾郎は勢いよく振り向いた。おのれの悪癖が出たのだと源吾郎はすぐに悟った。一つの事に意識が向くと他の事がおろそかになる。これが源吾郎の悪癖である。要するに、千絵の存在を放っておいてホップに妖術とか妖怪化という不穏なワードで問いただすという奇行に走ったという事だ。

 

「あ、ええとね、実はホップは妖怪化してしまってて、まぁ何というか普通の十姉妹とは違う存在になってしまったんだよ。うん、そりゃあ廣川部長だって怖がるのも無理もないよ。普通の十姉妹とは違うんだからさ。

 とはいえそもそもの元凶は俺にある訳なんだ。俺自身もまぁ妖怪みたいなものでさ、その影響でホップは妖怪化してしまったんだよ……」

 

 奇行に対する論理的な説明が悪手中の悪手であると悟ったのは、自分もまた妖怪に近い事を告げた直後の事だった。

――俺は何を口走ったんだ? そもそも妖怪の話には触れずに一切スルーして、それでまぁ穏便に話を進めるつもりじゃあ無かったのか?

 自問する源吾郎の耳にホップの声が妙に響く。千絵はもう完全に呆然としている。事の発端はホップであるのは事実だ。とはいえ、千絵を二度も驚かせた責任はおのれにあるのだと源吾郎は思った。しかも隠し通すはずだったおのれの本性すらも暴露したのだ。

 さてどうすれば良いのか……源吾郎は数度瞬きをしながら思案を巡らせる。兄姉たちの顔や萩尾丸の言葉や彼の部下の姿が脳裏に浮かんでは消える。

 どうすれば良いのか。短い思考時間ながらも源吾郎は判断を下した。目を伏せ薄く息を吐きだしてから、決然とした目つきで千絵を見やった。

 

「は、ははは。お前らには隠し通すつもりだったが、しょうもない事で露呈してしまったか……」

 

 相手を小馬鹿にしたような哄笑と共に、普段以上に乱雑な物言いで源吾郎は言い捨てる。直後、彼の背後で銀白色の四尾が顕現した。室内である事と千絵や鳥籠にぶつからぬよう配慮していると言えど、それぞれ全長一メートル強もある。巨大な白蛇、或いはそれ以上の威圧感を見せているはずだ。

 

「露呈してしまったからには仕方ない。教えてやるよ。俺は人間の血も引いているが人間なんかじゃあない。三國を震撼させた大妖狐・玉藻御前の直系の曾孫。それがこの俺島崎源吾郎だ!」

 

 そう言う間にも、半袖から覗く源吾郎の両腕が変質していく。尻尾と同じ色合いの毛皮が両腕を覆い、その先にある指先と爪が鋭く尖り始めた。獣と人の要素を融合させたいびつな腕を千絵に見せつけているのである。

 本来の姿は妖狐の尾を生やした人間のそれなのだが、狐の姿に変化する術も最近覚えた所である。怪物らしさを見せるにはいっそ狐の姿になっても良かったのだろうが、四足獣の姿には慣れていなかったし人型に戻った時に服を着なおさないといけないので腕だけ異形化させる事で留めておいたのだ。

 千絵は声も出ないまま源吾郎を見つめている。酷く戸惑い、或いは怖がっているのかもしれない。源吾郎には無論彼女の動揺と恐怖は解っていた。()()敢えてそれを無視し、言葉を続ける。

 

「俺はもとより妖怪として生きていく事、強くなって他の連中を従える事ばかり考えていたんだが、いかんせん力が伴わなくてな。ある程度強くなるまでには時間が必要だったから、間抜けな人間どもの間に紛れ込み、人間として何食わぬ顔で暮らしていたという訳さ。

 ははっ。俺の役者ぶりも中々の物だろう? 学校の連中も誰も彼も欺いて、俺は間抜けで無害な人間のふりをして過ごしてきたんだからさぁ。いやぁ、表向きは風采の上がらない生徒だって思われていたけれど、それも演技のうちだったから楽しくて楽しくて仕方なかったぜ」

 

 言い切ってから源吾郎はいったん言葉を切った。哄笑交じりに紡ぐおのれの声が、笑い以外の要因で震えていないか気がかりだった。そろそろ会話に決着をつけるべきだとも思っていた。千絵を怖がらせるのは承知の振る舞いだが、そうクドクドと行っていい代物でもない。

 

「ああそうだよ。俺は悪狐の血を色濃く受け継いでいるからな。お前らが知る俺の姿なんて全て嘘、まやかしさ。狐が人を騙して欺く事はお前らだって知ってるだろう?

 しょうもない友情ごっこ、演劇ごっこだったなぁ。まぁ、しかしお前らは俺の演技にコロッと騙されていたからこそ、三年も会ってないのに部屋に招き入れたりもしたんだしな。間抜けだとは思ったが、おかげでそこの十姉妹を使い魔として得る事が出来たから万々歳さ! 一目見て、俺はそいつをモノにしようと思っていたからな」

 

 止めとばかりにゲス丸出しの高笑いをかましつつ、源吾郎は千絵の出方を窺った。

――廣川さん。お願いだ……どうか俺の事を心の底から()()()()()()()

 千絵たちを欺き邪悪なる存在として陰で愚弄し嘲笑していた――この旨の発言こそが、源吾郎が行った演技であり嘘であった。自分がそういう悪辣な存在であると千絵に信じ込ませる事が源吾郎の狙いだったのだ。無論源吾郎の「()()」を知った千絵は、源吾郎を心底軽蔑し、嫌悪し、憎みさえするだろう。だが彼女はそうするべきだし、そうして欲しいと源吾郎は切実に思っていた。

 千絵は妖怪とは関わりのない人間だったのだ。にもかかわらず、源吾郎の不手際により妖怪・怪異の恐ろしさを無駄に味わせてしまった。ホップが妖怪化したのも源吾郎の不手際であるし、ホップが術を使わないと高をくくっていたのも源吾郎の責任だ。

 それならば自分が汚れ役になり、千絵に憎まれるべきだ。それにより千絵に対する責任を果たすのだと源吾郎は考えたのである。

 無論彼女を騙すのは辛かった。ライフスタイルが異なる二人は今後会う事も少ないだろう。だからこそきっちり仲直りを行っておきたかった。今ではそれも叶わぬ話であるが。しかし妖怪化したホップを恐れた千絵の正当な気持ちに寄り添えなかった自分への罰としては十二分だろう。

 

「……嘘よ。今言った事、全部噓でしょ」

「嘘なものか。今俺が言った事こそが本当の事さ」

 

 千絵はまっすぐ源吾郎を見つめていた。感情の揺らぎが少ないのが気になるが、概ね予想通りの反応である。だからこそ源吾郎も割合冷静に応じる事が出来た。

 後は千絵の罵倒を待つだけだ。裏切者、化け物、腐れ外道……どのような言葉が投げかけられたとしても問題ない。

 ところが、千絵の顔に浮かんでいるのは嫌悪ではなく儚い笑みだった。

 

「島崎君の演技が上手って言うのは私も否定しないわ。今のだって、別に台本を用意していた訳じゃあないのよね?」

 

 千絵の問いかけはあくまでも穏やかな物だった。源吾郎が目を白黒させていると、千絵は笑顔のまま言い添える。

 

「だけど、嘘が苦手なのは前と変わらないわね」

「…………」

 

 源吾郎は肯定も否定もせず視線を床に向けた。変質していた両腕が戻り、顕現していた四尾も姿を消した。

 千絵の言葉は穏やかだったが、源吾郎にしてみれば罵倒や平手打ちよりも打撃の大きなものだった。奸計が見抜かれる事程間抜けな事は無いだろう。源吾郎は静かにそう思っていた。

 

「島崎君のノリに応じれば良かったのかもしれないわ。だけど、さっきの島崎君、とっても辛そうだったから」

「……廣川さん。俺を赦してくれるの?」

 

 ゆっくりと源吾郎は顔を上げ、千絵に視線を向けた。彼女がゆっくりと頷くのが目に映る。

 

「そりゃあさっきの話には驚いたけれど、でも今まで不思議に思ってた事で腑に落ちるところもあったし……特にホップとの事とかもね。

 少し周りが見えなかったり何か色々と正直すぎるところがあるけれど、島崎君のそういう所、私は嫌いじゃないよ?」

 

――大人っぽいだなんてとんでもない。彼女の方がずっと大人じゃあないか

 源吾郎は複雑に混ざり合う心中を抱えながら静かにそう思った。ホップは機嫌よくさえずっているらしいが、今の源吾郎には遠くから聞こえてくるようだった。



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幕間
ミチを拓くは虹色の卵


《平成二十九年七月某日 関西某所》

 

 瀬戸内海側特有の明るくからりとした日差しが下界を照らし、木々の枝葉は爽やかな緑色に輝いていた。

 明るく爽やかな風景の奥に、木々が鬱蒼と茂る一角があった。木々はいずれも御神木と見まごうばかりに立派に育ち、その部分だけ世界が違うかのような錯覚さえ見る人は抱くであろう。

 実は青黒い葉を茂らせる大樹の奥には、他の邸宅にも劣らぬような立派な屋敷が鎮座していた。だがそれを視認できる人間は殆どいないであろう。

 不気味さと壮麗さを内包する大樹の森の奥に潜むあるじは、要するに市井の人間とはかけ離れた存在であるという事だ。

 

 

 橙色の柔らかな照明が屋敷の一室を照らしていた。血のように重く暗い紅色の絨毯が敷かれたその部屋は、剥製を含む多くの調度品やこまごまとした最新機器などを多彩に取り揃えていたが、照明と絨毯の色味のせいか、どうにも他の部屋に較べて薄暗い印象がぬぐえない。

 しかしそれが、この屋敷の女あるじの意向なのだから致し方ない。

 

 屋敷の女あるじは、今まさにこの部屋の、それもど真ん中に佇立している。年の頃は若く、二十歳前後から二十代前半くらいに見える。成人女性としては平均的な背丈の持ち主のようだが、出る所は出ているために中々に存在感のあるグラマラスな肢体の持ち主のように見えた。首周りの茶色い羽毛の襟飾り以外は殆ど装飾のない、簡素かつ身体のラインに沿った作りのワンピースを身にまとっているから、余計に彼女の身体つきが強調されているのかもしれない。

 面立ちも美女ないし美少女と呼んでも遜色は無かった。バタ臭くない程度に彫りが深く、猫のような瞳、通った鼻筋、鮮やかな緋色の唇が印象的である。やや日本人離れした風貌のために、浅黒いともいえる褐色の素肌も彼女の美貌を損ねず、むしろ一層引き立てているようであった。しかもただ美しいだけではなく、見る者の心をとらえるようなコケティッシュさも具えている。但しそれは、彼女の美貌や魅了とは別格の、心胆を寒からしめる得体の知れなさと抱き合わせだったけれど。

 うら若い娘にしか見えぬ彼女なのに何故得体の知れない気配をまとっているのか。簡単な話だ。彼女が見かけどおりの娘ではなく、人に化身した妖怪、それも大妖怪に準じる存在であるからに他ならない。彼女は山鳥御前(やまどりごぜん)と呼ばれている。既に五、六百年程度生きた化け山鳥である。山鳥は昔より化ける事で知られているが、既に彼女は大妖怪に準じる実力を具えていた。

 

 その彼女が真剣な眼差しで見つめているのは、小さな機械の中に入った一つの卵だった。この卵は先日彼女が産んだもの……要するに彼女の子供になる存在である。機械は言うまでもなく孵卵器(ふらんき)だ。おのれの本性を隠し人型に化身できると言えども、産み落とした卵を暖めなければならないのは鳥妖怪も同じ事である。但し彼女は、自分で卵を抱くなどという事はせず孵卵器に任せるという判断を下していた。行うべき事、行おうとしている事は山ほどある。三週間程度といえども、じっとりと卵を暖めるだけに費やすのはもったいないと感じての事だった。

 異様なのは卵の表面であろう。山鳥の卵は通常赤みがかったクリーム色である。しかし彼女が見つめる卵は、緑を基調とした鈍い虹色に輝いていた。強いて言うならば、玉虫色と呼んでも良いだろう。

――早く生まれるのが見てみたいわ。既にこの仔が、父親たる「道ヲ開ケル者」の特徴を具えている事は明らかだもの

 

 玉虫色の卵から一体どのような仔が育つのか――その未来を思い浮かべながら山鳥御前は微笑んでいた。まだ見ぬ我が仔を想うような暖かな感情はそこには無い。もとより今回の仔もおのれの手ごまに過ぎないのだから。

 

「こんにちは、おねーさん」

「――ッ、誰?」

 

 真後ろから聞こえてきた声に、山鳥御前は鋭く反応した。思考にふけっている時に声をかけられたから驚いている訳ではない。何者かがこの部屋に侵入してきた事、侵入者が自分の配下ではない事を悟った為である。この部屋は山鳥御前が幾重にも結界を巡らせており、入れるのは自分と信用に値する数名の配下のみだ。そもそも屋敷に辿り着く事自体、普通の妖怪には難しい事なのに。

 声の主を見据えながら、山鳥御前はいつでも戦闘できるように構えていた。その有用性から、玉虫色の卵を狙う輩が出る事は解っていた。だからこそ自衛に自衛を重ねてきたのだ。

 

「そんなに怖がったら、折角の綺麗なお顔が台無しだよ、碧松姫(へきしょうき)ちゃん」

 

 中堅妖怪が放つ妖気と殺気を正面から受け止めつつも、そいつはひょうひょうと佇んでいる。むしろ緊張しているのは山鳥御前の方だった。その姿を見て相手が誰であるのか悟ったのだ。首許を七つの珠で飾る青年――八頭怪(はっとうかい)》ではないか、と。甘言を操り接近し、多くの妖怪や人間たちを陥落させてきたというこの恐るべき存在を山鳥御前は知っていた。もちろん、道ヲ開ケル者と彼との関係も。

 

「大丈夫だよ碧松姫ちゃん。別にキミがボクにうっかり殺気を放つくらいのおてんばさんでもさ、ボクはそんな事一パイカ(約四ミリ)も気にしてないよ。

 むしろ可愛い可愛い姪っ子の元気そうな姿を見て嬉しいくらいさ。君はあの胡張安(こちょうあん)の異母姉でしょ? ボクとは直接血は繋がっていないけれど、姪っ子みたいなものじゃないか」

 

 胡張安。その名を耳にした山鳥御前の両眼の中で焔が怪しく揺らめく。雉鶏精一派初代頭目・を母に持つというこの異母弟と彼女は直接会った事は無い。しかし彼に対しては色々と思うところがあったのもまた事実である。

 既に八頭怪への警戒心は薄れていた。異母弟の名に反応していた事もあるし、或いは極度の緊張の後に判断が鈍っていたのかもしれない。

 

「キミのやりたい事、ボクも手伝ってあげる。だってキミはスゴい事をやってのけたんだよ。このボクだって十世紀に一度会えるかどうかわからないようなご主人様との間に卵を設けたんだからさ」

 

 八頭怪の視線が卵に向けられているのを見て、山鳥御前はようやくここでひと心地着いたのだった。




 そう言えば中国では、同じ漢字を名前に使っていると兄弟だと思うそうです。というよりも、親子で同じ漢字を名前に使う事は無いとか。


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ある師弟の追憶

 ここから1日1回投稿にしてみます。


 簡素な着物を身にまとった男が一羽の鳥を抱えているのが見えた。鳥は一羽のメス雉だ。全体的に茶褐色の羽毛に覆われているのだが、翼や胸元にかけて所々赤みの強い羽毛が点在しており、藤花の模様にも見えなくもない。

 男はそっとメス雉を床に置く。メス雉は一尺半(約四十五センチ)ほど歩いて男から距離を取るも、すぐに歩みを止めた。術をかけられたのか、ただならぬ気配に身がすくんでしまったのか……メス雉には理解の埒外にある事柄だった。

 いつの間にやら男は懐から何かを取り出していた。食べる物でもなければ傷つける物でもなさそうだ。メス雉にはそれくらいの事しか解らない。ゆえにぼんやりと男の動きを眺めているだけだった。

 そんなメス雉に異変が起きた。その全身が薄い靄に覆われる。靄は始めメス雉より一回り大きい程度であったが、庵の中であるにもかかわらずそのかさを増していく。

 人一人分ほどの大きさになったところで唐突に靄が消えた。

 そこにいるのはメス雉ではなく、人間の娘であった。十代中ごろから後半くらいであろうか。床に尻を付けた形で、何がどうなったか解らないと言いたげな表情を浮かべていた。着物らしきものを身に着けているが、全体的に羽毛のように柔らかく軽そうな材質に見えたし、何より茶褐色の地に所々赤みのあるいびつな文様が所々散っていた。

 娘の正体はつい先程までいたメス雉そのものだ。彼女は先程まで単なる雉に過ぎなかったのだが……男の術によって人の姿にされていた。その術は妖狐や化け狸が自分以外の物品や生物を別の物に見せる幻術に近いものであるが、無論メス雉がそんな事を知る由もない。

 

「…………ッ!」

 

 メス雉もとい娘の口から出てきたのは意味をなさない音だった。人語ではない事は明らかだが、雉の啼き声とも違っていた。変化させられた直後で発声がおぼつかないだけなのだろうが、それ以上に彼女が強く混乱している事も要因といえるだろう。

 意思疎通を行うのは諦め、娘は自分の状況を確認した。男と同じく、ヒトの形になっている。とはいえ立って歩く事についての懸念はない。空を飛ぶとはいえ、鳥はそもそもからして二足歩行である。四足歩行の獣よりも、ある意味人型の変化と相性がいい。問題は翼の変質だ。主に地上を闊歩すると言えども雉とて空を飛ぶ存在である。しかし翼だったものはひょろりと伸び、先端は丸くなっているかと思うと妙な塩梅に枝分かれしている――確かヒトはこれを使って色々な事を行うのだ。

 

「……」

 

 雉娘は今一度男に視線を向ける。人型になっているものの、濃い紫に輝く両眼には、野生の禽獣らしい烈しい焔が浮かんでいた。禽獣が持ちえる本能、或いは矜持と呼んでも良いものであろう。

 喉が痙攣したように動き、その振動がかつての姿とは比べ物にならぬほど柔らかな口許から漏れてくる。野性の心を抱く雉娘の心中にあるのは疑問だった。なぜ、なんで、なに……そのような疑問が胸の中を押し上げ、出口から飛び出そうとしていたのだ。

 ヒトたちが雉たちとは違う()()()で啼き交わす事は彼女も知っていた。そして自分もその啼き声を出せるのだと思った。

 

「怖がらなくていい、お嬢さん」

 

 男の啼き声、いやその言葉は極めて明瞭に雉娘の耳と心に染みわたった。ヒトの形になったから、ヒトの啼き声を意味のあるものと捉える事が出来たのだろうか。

 

「罠にかかって喰われる手前だったから用心するのは無理もない話だが……何も私はお前を殺したり、傷つけたりするつもりはないよ。喰うなりなんなりするつもりならば、わざわざ数日も掛けて看病もしないさ」

 

 歯を見せて笑う男から視線を逸らし、雉娘はおのれの足許を見やった。右足にはうっすらと環状の痣が残っているだけだ。括り罠にかかった時の名残である。もっとも、男に引き取られた当時は罠が足に喰い込み、痛みもあったし血も滲んでいたくらいだった。

 

「これからお前は私の使い魔として保護下に入る」

「な……な……」

 

 何、何で、何を。どういう事を言おうとしたのか雉娘にもはっきりとしなかった。しかし、ヒトの声がきちんと出てきたという事実にこそ注目すべきであろう。

 疑問を発する雉娘に対し、男は相変わらず笑っている。

 

「喰う物も寝る所も心配しなくて良いという事だ。ついでに言えばその身を脅かす物にもな。私の傍にいれば、狐も鷹も犬も猟師にも襲われはしない。私が保証しよう。

――但し、その分働いてもらわねばならないがな」

 

 少し考えてから雉娘は頷いた。危険な目に遭わないというのなら男に従うのもまんざら悪くないと思った。働くという意味は解らないが、悪い事ではないような気がする。

 

「さて名前を付けてやろう」

 

 神妙にしている雉娘を見て、使い魔になる心構えが出来たと男は思ったらしい。彼は雉娘の姿をまじまじと見つめてから「名前」を口にした――

 

 

「紅藤様、紅藤様!」

 

 元気のいい声がすぐ傍で聞こえる。それもそのはずで、デスクに向かう紅藤の対面には妖狐の青年が控えていたからだ。彼は島崎源吾郎という。厳密には父と母方の祖父が人間であるから妖狐のクォーターと呼べる存在だった。大妖怪たる玉藻御前の血を一族の中でも色濃く受け継いでおり、大人しそうな見た目とは裏腹に並々ならぬ野望を抱いてもいた。もっとも、紅藤にしてみれば年相応の勢いと幼さを持つ妖狐の若者に過ぎないのだけれど。

 さて源吾郎に話を戻そう。彼は下膨れの頬をわずかに紅潮させ、熱心な様子で紅藤に視線を向けていた。手許には印刷した用紙が添えられてある。

 既に研究室での制服である白衣は脱いでおり、左腕に垂らすような形で抱えていた。終業時間が過ぎていた事を、紅藤はここで思い出した。

 

「お忙しい所失礼します。依頼を受けていた資料、作りましたので……」

 

 ありがと。自分の声の遠さを感じながらも資料を受け取る。源吾郎は手短に挨拶をすると、そのまま足早に研究室を去っていった。

 資料を傍らに置き、紅藤は密かにため息をついた。彼女の心中にあるのは源吾郎のよそよそしい態度などではない。お忙しい、と彼が紅藤を見てそう評した事が心の中に引っかかった。

 確かに源吾郎が近づいてきた事にすぐ気づかなかったのは事実である。しかしそれは仕事に専念していたからではない。過去の事を思い出してぼんやりしていただけなのだ。

 そう。過ぎ去った昔日の記憶である。雉鶏精一派を再興した頃よりも、胡喜媚に会った頃よりもずっと昔の日々が、彼女の脳裏に唐突に浮かび上がってきたのだ。その記憶の思いがけぬほどの鮮やかさに驚き、思索にふけってしまったのだ。

 

「島崎君のやつ、やけに慌てた様子で研究室を飛び出しちゃいましたねぇ、紅藤様」

 

 低く、やや粘度のある声が紅藤の鼓膜を震わせる。今度の声の主は萩尾丸だった。ごく自然に丸盆を持ち、その上に飲み物の入ったグラスが二つ載っているのが見えた。一方は琥珀色でもう一方は暗い褐色だった。どちらも角ばって透明な氷が浮かんで揺れている。

 萩尾丸は臆せず紅藤に近付き、琥珀色の方を紅藤の許に置いた。

 

()()()()()です。まだお仕事をなさるようですし、景気づけになりますよ」

「ありがとう萩尾丸。あなたって本当に気が利くわね。まぁ、終業時間を過ぎてるから、今私がやってるのは余暇になるんですけれど」

「またまたそんな事を仰る……」

 

 呆れたような表情を見せつつ萩尾丸は笑った。すぐ傍の空いているデスクを見つけ、彼は自分のグラスをそこに置き、ついで自分も腰を下ろす。紅藤はまぁ仕事とも趣味ともつかぬものを行う所であるが、萩尾丸はきっとまだ片づけなければならない仕事があるのかもしれない。

 そう思いながら紅藤は冷やしあめに口を付けた。甘みと生姜のピリッとした味わいと丁度良い冷え具合が絶妙だった。

 

「……島崎君ですが、すっかり使い魔の小鳥に心を奪われちゃってるみたいですね。今日もああして慌てて帰ったのは、小鳥ちゃんが気がかりだったからにほかなりません」

 

 そうね。紅藤はゆったりとした口調で応じながら、源吾郎の使い魔に思いを馳せていた。今彼が心血を注いで面倒を見ているのは、ホップという名の妖怪化した十姉妹である。元々は普通の十姉妹として暮らしていたのだが、源吾郎を妖怪であると知ったうえで慕い、尚且つ自身も妖怪化したという経緯を持っている。初めはホップの熱ぶりに源吾郎も押されがちであったようだが、彼らは彼らなりに上手くいっているらしい。厳密に言えば源吾郎がホップと暮らす事に慣れたという話だ。ホップ自体は妖怪としても小鳥としてもまだ幼いから、彼が源吾郎に従順に振舞っているとは考えにくいだろう。

 

「まぁちょっと浮足立っている感じはするけれど、前よりも仕事の方はまじめにやるようになったと感じるわ」

「確かにそうですね」

 

 紅藤の言葉に、萩尾丸は含みも何もなく率直に頷いた。色々と言葉に難はあるものの、萩尾丸は案外若手妖怪の育成だとか、彼らの性質を見抜く眼力に優れているのだと紅藤は思っている。

 

「特に戦闘訓練の時なんか、前に較べてちょっとはお行儀がよくなった感じがするねぇ。前なんか訓練の後に結界術を教えて欲しいって狸の河村君にせっついていたし……僕や紅藤様みたいな明らかに格上の相手ならいざ知らず、自分とあまり変わらない若手に教えを乞うなんて事、前の島崎君なら考えもしなかっただろうに」

 

 アイスコーヒーを飲む合間に言葉を紡ぐ萩尾丸の顔にははっきりと笑みが浮かんでいる。何だかんだ言いつつも源吾郎が戦闘訓練を経て得るものがあるのならばそれで良いと紅藤は思っている。

 勝敗の行方はさておき、戦闘訓練を拒まずに果敢に続けていく源吾郎は彼なりに頑張っていると紅藤は思っている。源吾郎が相手の妖怪よりも劣った術しか使えない事は、もとより紅藤も萩尾丸も承知の上だ。何しろ源吾郎は喧嘩も知らぬようなお坊ちゃま育ちで、しかも人間として暮らしていた期間が長いのだから。

 もっとも、そうは思っていても紅藤たちはその事実を指摘したり思っているような素振りを見せたりはしない。プライドの高い源吾郎はおだてに弱く調子に乗りやすい事は既に解っている。へこたれすぎて再起不能に追い込むのも問題であるが、調子に乗って慢心するように仕向けるのも同じくらい問題なのだ。幸い源吾郎はプライドが高い一方で適度に打たれ強い側面もあるから、フォローにもさほど気を遣わなくて済む。

 

「……やっぱり前までは自分の為だけにって言う気持ちが強かったんでしょうけれど、今は違うものね。いずれにせよ、良い変化だと思うわ」

 

 紅藤はそう言うと再び冷やしあめで喉を潤す。ホップ自身は非力な小鳥かもしれないが、護る者が出来たという責務が、源吾郎の意識を変化させたのだろう。

 紅藤様。囁くような声音で萩尾丸が問いかける。彼は水滴の浮いたグラスを両手に持ち、にやにや笑いを浮かべていた。

 

「鳥妖怪を使い魔にすれば色々と苦労しそうな気もしますが……それにしても妙にタイミングとか色々と揃っているような気がしませんか? 同じ町内ではなくここから三十キロ以上離れた十姉妹が、妖怪化していると言えども無事に島崎君の許に辿り着くなんて」

 

 萩尾丸はいったい何を言おうとしているのだろう。紅藤が考えていると彼は笑みを深めながら言い添えた。

 

「もしかして、あの十姉妹が妖怪化して島崎君の使い魔に収まったのは、紅藤様が――」

「そんな事は無いわ、萩尾丸!」

 

 気付けば紅藤は鋭い声をあげて萩尾丸の言を遮っていた。彼の発言があまりにも馬鹿馬鹿しく、また腹立たしくて思わず声をあげてしまったのだ。萩尾丸は驚いて目を丸くしている。怯えているというよりも、思いがけぬものを見た、と言いたげだった。

 

「そんな、この私が普通の動物や鳥だったものを勝手に妖怪化するなんて事は無いわ。特に生まれつきの妖怪たちは、妖怪化したほうが幸せになれるって無邪気に思っている場合が多いわ。

 だけど私にはそうは思えないし、本当の所はどうなのか、まるきり解らないのよ。そりゃあもちろん、単なる雉、単なる十姉妹で終わってしまう以上の事が妖怪化すれば出来るかもしれないわ。多くの事だって知る事が出来るでしょう。けれど多くの事を知り過ぎたがために幸せから遠ざかる事だってあり得るのよ。

 しかも厄介な事に、どちらが幸せなのか較べる事も難しいの。何せ、一度妖怪化すれば元には戻れないんですから……」

 

 紅藤の言葉を聞く萩尾丸はいつの間にか神妙な面持ちとなっていた。どうやら彼は、紅藤が元々は妖怪とは縁のない、普通の雉であったという話を思い出したらしい。

 

「まぁ僕は、人間ではなくなって天狗になった事には特段後悔はありませんがね……」

「別に私は、妖怪になった事を後悔している訳じゃないわ。ただ少し、昔の事を思い出しちゃっただけよ。本当に昔の話よ。あなたを部下にした時や、胡喜媚様の弟子になった時よりも、もっと前の事をね」

 

 そう言いながら、紅藤は萩尾丸の様子を静かに眺めていた。相手に聞かれたらすぐにでも話ができるように。今の紅藤にとっては郷愁と寂寥に満ちた苦い思い出ではあるが、自分よりも若いこの大天狗が興味を持つかもしれないから。




 冷やしあめ:関西地方で夏場に飲まれる飲み物。甘くて生姜味が効いている。
 言うなればキンキンに冷えた生姜湯みたいなものです(矛盾)


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妖狐は小鳥に振り回される

 夕方。おのれの身づくろいも半ばに放っておいて、源吾郎は籠にいるホップを外に出してやった。夜の放鳥タイムである。ホップは基本的に籠の中で暮らしていて、朝と晩の日に二回、放鳥タイムの時に籠の外で遊べるようになっていた。

 ちなみに朝の方が放鳥タイムはやや長い。朝は水の交換が終わり餌を交換する段階から放鳥を始めているし、夜は夜でホップも一通り遊び疲れると自ら鳥籠に戻るためだ。

 ぜいたくな事を思っているという自覚はあるが、源吾郎としては朝の放鳥タイムが短くて夜の放鳥タイムが長くなる方が良いと思っている。しかしホップの都合や体調を優先すべき事柄であるから、源吾郎は特に何も言わずホップの動きを見守るのが常だった。

 時折自分が兄らに似てきている事を強く意識しながら。

 

 あるじである源吾郎の眼差しを時々意識しつつも、ホップは全くもって気ままに振舞っていた。一時避難用の鳥籠の壁面に外側からへばりついていたかと思えば、素早く飛び立って床の上に着陸した。畳を護るためのイグサのマットに興味を示し、ちょこまかと動いていたホップだったが一瞬動きが止まる。いつになく神妙な表情になり、腹回りが膨らむ。

 

「ピ……」

 

 控えめな啼き声を上げると、ホップは何食わぬ顔でその場を離脱した。ホップがいた所には案の定フンが残っていた。小鳥は身体の構造上決まった場所でトイレをする事は出来ない。催した時に落とすのが彼らのスタイルである。そしてトイレの後は必ずホップは何処かへ飛び去って行くので、その間に源吾郎がティッシュで拭いて()()するのが常だった。

 

「ピ、ププィ!」

 

 鈍い羽ばたきの音が源吾郎の右頬を掠める。ティッシュを持つ右手の甲に、勢いのある小さな衝撃が伝わってくる。音と衝撃の主はもちろんホップだ。喉を膨らませて啼きながら、実に滑らかな動きで手のひらから床へとつたい降りた。黒々としたつぶらな瞳がキラキラと輝いているのを源吾郎は見た。

 ホップの狙いは源吾郎の手の内にあるティッシュである。源吾郎がホップのフンを回収するのはいつもの事である。そしていつの頃からか、ホップは丸めたティッシュをおのれの獲物と見做すようになっていた。それはもしかすると、放鳥タイムに源吾郎がペレットなどの餌を放り投げてホップに取らせるという遊びを行っていたためなのかもしれない。

 源吾郎の手許にあるティッシュを引っ張るホップに対して、源吾郎は特に慌てはしない。彼にとってもいつもの事だし、どうすれば良いのか解っていたからだ。

 ホップがティッシュの塊を引っ張ろうとしている間に、源吾郎は左手でティッシュを引き出した。あとは丸めてこれ見よがしに放り投げたら終わりだ。派手な動きに気を取られるのか、ホップはほぼ必ず放り投げたティッシュの方に文字通り飛びつくのである。彼がティッシュ遊びに興じている間に、源吾郎は慌てず騒がず手許のティッシュをゴミ袋に収めれば良いのである。

 

「ピピィ、プイ、ピュピュピュ……」

 

 ホップは今日も丸まったティッシュ相手に取っ組み合いを果たしている。やはり並の十姉妹よりは活発でアグレッシブなのかもしれない。しかし考えてみればホップは大人の蜥蜴《とかげ》を捕食していたし既に妖怪化も果たしている。これくらい威勢が良くてもおかしくないのかもしれない。

 

「あ……」

 

 後始末を終えてティッシュ箱を覗き込む。獲物用に引き出した時軽く感じたが、あれが最後の数枚だったようだ。部屋に視線を走らせるが、ティッシュのストックはもう無い。

――まだ早い時間だし、ティッシュだけでも買いに行くか

 源吾郎はそう思ってホップの方にゆっくりと手を伸ばした。ティッシュの上でふんぞり返って羽ばたいていたホップは、源吾郎の動きに気付いて首をかしげている。

 

 

 ママチャリで向かった先は既に行きつけとなりかけているホームセンターだった。スーパーではなくホームセンターの行きつけが出来た理由は簡単である。餌などの小鳥用品と、小鳥そのものを取り扱っているからだ。

 ホームセンターに入った時、源吾郎はほぼ毎回小鳥コーナーに足を運んでいた。購入する物品が無い場合でもついつい立ち寄ってしまうのは、やはり小鳥に対する関心がここ二週間ばかりで上昇しているからに他ならない。おもちゃや小鳥用の餌は言うに及ばず、インコや文鳥などの小鳥そのものを見るのも源吾郎は楽しんでいた。欲を言えば普通の十姉妹を見てみたいと思っていたところだが、キンカチョウがいても十姉妹が入荷されているのはまだ見た事が無かった。

 

「誰かと思えば島崎君じゃないか」

「あ……」

 

 綿毛のかたまりのようなインコのヒナを見ていた源吾郎は、驚いて声の主の方に視線を走らせた。源吾郎に声をかけてきたのは術者の青年・柳澤だった。以前会った時とは異なり柔和な表情である。片手に提げた買い物かごの中には、インコ用のおもちゃや餌が入っていた。

 

「しばらくぶりですね、柳澤さん」

 

 ひとまず当たり障りのない挨拶を源吾郎は行った。素っ気ないとか馴れ馴れしいとか文句を付けられないかと思ったが、柳澤は源吾郎の言葉に頷いている。上機嫌そうな相手を前に源吾郎はほっとしていた。

 思っている以上に、源吾郎は相手がこちらに向ける敵意や悪意に弱いらしい。情けない話であるが。

 

「君の所には確か十姉妹がいるって聞いたけれど、インコも興味があるのかい?」

「ええと、インコというよりも小鳥に興味を持った感じですね」

 

 柳澤の問いかけに、源吾郎は小声で応じた。小声なのはインコのヒナを驚かせないようにという源吾郎なりの配慮だった。

 

「小鳥全般に関心を持っているのか。結構な話じゃないか。ちなみに俺はセキセイインコを飼っている。インコは良いぞ。動きも声も面白くて癒されるからな……もちろん、フィンチ類の小鳥らしい姿も捨てがたいが」

 

 いつの間にか柳澤の視線はガラス越しのインコのヒナたちに向けられていた。ヒナ特有の綿毛が多く、まだ腹を付けて寝そべる事くらいしかできない程小さなヒナたちである。自分のインコもここで購入した。そう告げた時には、柳澤の視線はもう源吾郎の方に戻っていた。

 インコを飼っているという柳澤を見つめている間に、源吾郎は鳥園寺さんとアレイの事を思い出した。鳥園寺さんが果たして鳥好きなのかどうかは定かではないが、彼女がオウムに類する存在と一緒に暮らしている事には変わりない。

 その鳥園寺さんの事を、柳澤は少し意識しているらしい。鳥好き、特にインコやオウムに興味があるという点で惹かれたんだろうなと源吾郎はぼんやりと思った。

 

「まぁ、セキセイインコを飼うときは言葉に気を付けた方が良いかな」

 

 唐突に柳澤は呟いた。その顔には未だ笑みが浮かんでいたが、照れとも羞恥ともつかぬ色も滲んでいる。

 

「うちのマリン――背中や腹が水色だったからそう名付けたんだが――は賢いのだろうが中々の曲者でな。オハヨウとかオカエリとか当たり障りのない言葉はどれだけ教えても覚えようとしないのに、教えてもいない上に連呼されると恥ずかしい言葉はすぐに覚えちまうんだよ……なんか最近はチュキチュキィ~とか言い出すしさぁ。ウネウネしながら言うから可愛いんだけれど」

 

 ちょっと深刻そうな表情を柳澤が浮かべていたので、源吾郎も神妙な表情を作って彼に向き合っていた。インコがウネウネしながら喋る光景は面白いだろうと源吾郎は思っていたけれど。

 鳥の本を読んでいた知った事であるが、インコにしろオウムにしろ覚えてほしくない言葉ほどすぐに覚え、しかも面白がって連呼するのだという。つまるところは飼い主が戸惑ったり驚いたりするのを見て気を引いているらしいのだが、喋る単語によっては色々と問題になるのだろう。

 

「そうなんですね……僕も家での言葉遣いには気を付けてみますね。ホップが変な事を言ってもまずいですし」

 

 源吾郎の言葉に一瞬だけ柳澤は怪訝そうな表情を見せた。しかしすぐに源吾郎が言わんとしている事に気付いたらしい。

 十姉妹や文鳥はインコとは異なり人語を発する事はほとんどない。しかし、十姉妹は十姉妹でもホップは妖怪化しているからまた話は別だろう。

 

 

 買い物を終えた時には空も暗くなり始めていた。夏に入って日照時間が長いと言えども、それにも限度はある。

 とはいえ、暗くなっているからと言って臆するような源吾郎でもない。幼子だった頃ならばいざ知らず、今は一人暮らしさえ問題なく行える大の大人なのだ。ついでに言えば妖狐の血も濃いしまだ夜と言っても早い時間だ。ついでに言えば等間隔に設置された街灯が青白く道を照らしている。

 源吾郎はだから、夜の道をママチャリで進む事に一切のためらいが無かった。大人の男で、しかも夜も活動する事のある妖狐の血が流れている。それらの事が脅威に値する事柄は無いと源吾郎に思わせていたのだ。

 

「……!」

 

 調子よくママチャリを運転していた源吾郎は、前方に転がる物を発見し、急停止をかけた。いささか急な動きであるが、それもこれも妖狐としての動体視力と反射神経の賜物である。普通の人間ならば、気付かずにソレを轢くか気付いても急停止できずに引いてしまうかのどちらかであろうから。

 源吾郎はママチャリから降り、転がっている物の方にゆっくりと歩を進めた。道のど真ん中に転がり、もとい横たわっていたのは一羽の小鳥だ。厳密に言えば雀のようだった。全体的に茶褐色で、喉元や頬が黒い。たたんだ翼もよく見れば黒い紋様が全体的に散っている。それが源吾郎の眼にははっきりと見えた。

 雀は雀の形をしているにもかかわらず、インコのヒナのように地面に腹を付けてじっとうずくまっていた。怪我をしているのか力尽きているのか。

源吾郎は思わず雀に近付いていた。野鳥は無闇に捕まえてはいけないのだが、弱ったり怪我をしたりしているのであれば話は別だ。それに保護せずとも、道の端など安全な所に移動させた方が良いだろう、とも思っていた。

 

「大丈夫か……」

 

 源吾郎の指先が触れるか否かと言った丁度その時。雀の眼が開いた。紅い瞳だった。何となく血を想起させる昏い色合いながら、それが光源であるかのように怪しく輝いているように源吾郎には見えた。これヤバい奴やん。一介の妖怪として源吾郎はそのような判断を下した。距離を取ろうと思ったのだが――後手に回ったらしい。

 その間に紅眼の雀は身をひるがえして立ち上がっていた。怪我や衰弱などとんでもない、誠に軽やかな動きであった。そいつは小首をかしげ、片方の眼で源吾郎をしっかと見据えていた。

 

「かかったな、狐」

「かかったな」

「かかったな」

「かかったな」

「かかったな……」

 

 幼子のような、しかし禍々しさを孕んだ声が幾重にも反響する。微かな妖気を伴った気配が増えていく事に、源吾郎はここでようやく気付いた。

 間抜けな体勢のまま屈みこむ源吾郎の周囲で、幾つもの紅色の星がきらめいている。きらめく紅色は星などではなく雀共の貪欲な両眼だ。

 

「狐、いやお前は玉藻御前の末裔だったな。俺たちは知ってるぞ。お前の薄皮を取り込んだ十姉妹が、凡鳥のくびきを逃れて妖怪化した事を」

「……」

 

 おとり役になっていた雀が甲高い声で告げる。源吾郎は肯定も否定もしなかった。ホップの事、さらにはホップが妖怪化したきっかけまで見ず知らずの妖怪に知られているとは思っていなかった。

 しかし今は噂の広まり具合に思いを馳せている場合ではない。

 

「その力の素、俺たちにもよこせ」

「よこせ」

「よこせ」

「よこせ」

「よこせ……」

 

 雀が羽毛を逆立てて嘴を開いた。それが合図だったのだろう。周囲に控えていた雀共が舞い上がる。外が暗いせいか雀たちの姿はほとんど見えない。闇をまとった何かが源吾郎の周りで跋扈しているかのようだった。はっきりとは見えないが、源吾郎を囲い込むように飛び回っているらしい事は音と風の流れで察していた。

 

「……ッ!」

 

 右手の甲に鋭い痛みが走る。直後、血の匂いが微かに舞った。引っかかれたのか、嘴で食いちぎられたかのどちらかであろう。

 血の匂いと痛み。この二つの刺激が源吾郎の中でスイッチとして作用した。

 

「……抵抗する気だな、小僧」

 

 源吾郎も雀共を退ける事を心に決めたのだ。まず源吾郎の両肩のあたりにテニスボール大の狐火が生じた。狐火は重力を無視してその場を漂い、雀共と源吾郎の周囲を照らしていた。この狐火は攻撃用ではない。

 それから、源吾郎の斜め前に角を生やした狼が顕現する。かつて文明狐と術較べを行った時に登場させた幻術の一体だ。但しサイズは前回よりも幾分小さく、せいぜい紀州犬と変わらぬくらいだ。

 いけ。短い源吾郎の命令に従い、狼が雀の群れに突っ込む。妖狐たる源吾郎の薄皮等を狙っていると言えど、所詮相手は小鳥に過ぎない。狼などのような捕食者の乱入にはさすがの雀も驚いて戦意喪失するであろうと源吾郎は思っていたのだ。

 狼が血路を開いたうちに源吾郎はママチャリに乗って逃走する……これが源吾郎のプランだった。

 

「な、なにぃ……!」

 

 ところが狐火に照らされる中で予想だにしない事が発生した。頭や前足を振るって暴れまわる狼に雀共がたじろいだのは一瞬だけだった。状況を察した雀共は、何と自ら狼の方に特攻し、その開いた口の中に入り込んでいったのである。

 思いがけぬ行動に狼も源吾郎も驚くほかなかった。どういう原理かは不明だが、狼の口の中にどんどん雀は入っていく。しかしブラックホールではないから狼の身体がいびつに膨らんでいくのが見えた。

 数秒の後には狼の幻術も消え、中に入り込んでいたであろう雀共の黒々とした塊を目の当たりにする事となったのである。

 

「もったいないな。力はあるのに使う術はまるきりお粗末じゃないか」

 

 お粗末じゃないか。その声があちこちで反響する。狼を打ち破った雀共の軍勢は、今もなお源吾郎を取り囲んでいる。しかも先程よりも包囲網を縮めたようだ。

 

「その力、俺たちがもらい受けるぞ」

 

 雀が舌なめずりしたのを源吾郎は見た。やはり本気で闘うべきなのか――源吾郎は密かに決意を固めようとした。

 しかし、実に思いがけぬ方向に自体は転がっていった。おのれの勝利を確信していたであろうおとり役の雀が、急に警戒した様子を見せたのだ。その警戒と動揺は他の雀共にも伝わっているようだった。

 

「まずい、まずいぞこれは! 今日はここまでだ」

「ここまでだ」

「ここまでだ」

「ここまでだ」

「ここまでだ」

 

 おとり役の雀は事もあろうに源吾郎に背を向け、そのまま空高く舞い上がっていった。他の雀共も彼の後を追ったらしい。甲高い声の混じる羽音は、源吾郎の周囲ではなく斜め上の上空へと向かっていたのだから。

――一体何だったんだ……?

 源吾郎が呆然とする中、雀共は夜の虚空のどこかへと飛び去ってしまった。全くもって奇妙な事だ。つい先程まで源吾郎を追い詰め優勢になっていたというのに。

 

「大丈夫かしら、島崎源吾郎君」

 

 優しげな女性の声が源吾郎に呼びかける。気が付くと源吾郎の斜め前に一人の女性が、女妖怪が立っているのが見えた。相手は懐中電灯を持っていて、地面の方に光を向けている。二十代半ば程の、控えめで大人しそうな雰囲気の持ち主だった。そんな雰囲気は彼女の身にまとっている衣装にも反映されていた。お洒落というよりも清潔感があって派手過ぎない出で立ちである。

 

「ええと、あなたは……」

 

 源吾郎は相手に声をかけようとして言葉を詰まらせた。相手が妖怪である事、明らかにこちらを知っているであろう事は察知している。しかし親身な様子で声をかけたこの女妖怪が誰なのかはっきりしなかった。

 前に会ったような気がするから却ってモヤモヤが募ってもいた。

 そんな源吾郎の思いが伝わったのか、女妖怪は微笑みながら自己紹介をしてくれた。

 

「ごめんね、久しぶりだから驚いちゃったよね。何しろ、春の顔合わせ以来ずぅっと会ってないものね。私は紫苑《しおん》。雉鶏精一派の第五幹部だよ」

「し、紫苑様……!」

 

 穏やかな口調で素性を口にした紫苑に対して、源吾郎は目を白黒させた。何となく見覚えがあると思ったら、まさかこんなところで雉鶏精一派の幹部に会うなんて……一人で驚く源吾郎を見ながら、紫苑はひっそりと笑った。

 

「島崎君って面白い子ね。紅藤様の前では割と元気よくお仕事をやってるって聞いたけれど、やっぱりちょっと緊張させちゃったかな」

「あの、ええと……」

 

 紫苑を見つめながら、源吾郎はどういえば良いのかと考えを巡らせていた。

 

「……そうよね。今さっきまで妖怪に襲われかけてたから、気が動転しているんだよね。今度あの子たちに絡まれたら、自分は紅藤様の愛弟子だって言ってやったら良いと思うわ。何せ私の気配に驚いて逃げ出しちゃう子なんだから……」

「え、ええと、先程はありがとうございました」

 

 あれこれ考えた結果、源吾郎の口からまず飛び出したのは感謝の言葉であった。紫苑が雉鶏精一派で紅藤を敬愛している。だからこそ紅藤の愛弟子である源吾郎の窮地を救ってくれた。そう言う事なのだろうと源吾郎は思ったのだ。



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第六幕:祝い事背後に何が潜むやら
籠の鳥たちのたわむれ


「ピ、ピ、プイッ!」

 

 八月初旬の朝。今日も今日とて源吾郎はホップを籠から出し、部屋の中で遊ばせていた。ここ数日で源吾郎たちの生活にちょっとした()()があったのだが、朝と夕方の放鳥タイムは引き続き日課として行われていた。

 ホップは妖怪化していると言えど神経質な十姉妹だから、急な環境変化について行けるだろうか。源吾郎は密かに心配していたが、それは全くの杞憂だった。ホップは全く動揺せず、むしろ自然体に振舞っているくらいだった。源吾郎が見ている前で空元気を出しているだけではない事は、日々行っている体重測定の結果からも明らかである。小鳥は本能的に元気であるように装うというが、体重の増減まではごまかせない。

 実を言えば、変化に神経質になっていたのはむしろ源吾郎の方だったのかもしれない。ホップが新しい環境に馴染めるか、ホップがストレスを感じていないだろうか。数日間と言えども、その事ばかり気にかけている時期が源吾郎の中にはあったのだ。

 ホップは源吾郎が見ている前で気ままに遊んでいた。床の上をバウンドするように跳ねていたかと思うと翼を広げて飛び立ち、すぐ傍のバードスタンドや「別荘」である小さな巣に着地する。ホップは部屋の中をおのれが住む鳥籠同様安全な場所だと思っているらしかった。もしかすると、場所云々ではなく、源吾郎が傍にいるかどうかで安全性を確認しているのかもしれない。

 源吾郎はホップの様子を見、時々彼の遊びに付き合った。丸めたティッシュをホップの方に向けて転がしてみたり、手に乗ってきた時には軽く撫でてやったりした訳である。

 最近のホップは本当によく遊ぶようになった。特に好んで行うのは丸めた物を押したり引っ張ったり持ち上げたりする遊びだ。丸めた物のバリエーションも増えており、丸めたティッシュのみならず、源吾郎や他の妖狐の尻尾の抜けた綿毛を丸めた物などもある。妖怪化しているためなのか、ホップは妖狐の抜け毛を恐れず、フェルト上に丸まったそれを無邪気におもちゃだと思っているらしい。

 

「ピ! ピィ……」

 

 遊んでいたホップが一、二度啼くと、勢いよく飛び立った。彼は源吾郎を通り過ぎ、鳥籠の壁面に斜めにへばりつく。源吾郎の方を振り仰いでもう一度啼くと、ゆっくりと滑り降りて入り口付近に近付いて行った。

 

「ホップ、もう良いのか?」

「ププッ!」

 

 籠の中と源吾郎を交互に見つめるホップに、思わず源吾郎は問いかけていた。外で遊んでいるホップが、日中入っている鳥籠にへばりつくのは「部屋に戻る」という主張である事は源吾郎も知っていた。鳥籠の出入り口は閉じたままなので、源吾郎が開けてやらないとホップは入れないのだ。もっとも、そのまま源吾郎が放っておいたらそれこそ鳥籠の檻を曲げてしまう危険性もあるだろう。

 

「まだ遊んでていいんだぞ? 俺の事は気にしなくて大丈夫。出勤するまでに余裕はあるし」

 

 鳥籠に近付きながら、源吾郎は時計を一瞥した。ここ数日、ホップは朝の放鳥タイムの終わり際にもこうして「部屋に戻る」と主張するようになっていた。

 実は生活の変化に伴い源吾郎の通勤時間は大幅に短縮されていたのだが、ホップの朝の放鳥タイムが長くなったわけではない。ホップ自身が「部屋に戻る」と主張する時間は、前に源吾郎が彼を鳥籠に戻す時間とほとんど変わらなかったためだ。

 聞き分けが良いというべきか頑固と見做すべきなのか……思案に暮れていた源吾郎は、ふと仕事の予定の事を思い出した。今日はイベントがある日だ。イベント内容は雉鶏精一派の頭目に絡む事であるが、源吾郎もしっかり巻き込まれる運びである。源吾郎自身は平社員であるが、幹部の中でも大きな力を持つ紅藤の配下なのだからまぁ当然の事だろう。

 

「ピピッ、ピッ!」

 

 ホップはぼんやりと差し出された源吾郎の手のひらに乗っている。せかすように厚い指の皮を咥えるのも彼なりの自己主張だ。

 

「そうだなホップ。今日は忙しくなりそうだし俺もそろそろ支度するよ」

 

 言い聞かせながら、源吾郎はホップを籠の中に入れてやる。ホップは手の上で踏ん張り、未練なく止まり木の上に移動していた。小鳥らしいキレのある動きでもって、鳥籠の中を確認しているのを源吾郎は見届けた。

 

 

 身支度を終えた源吾郎はそのまま部屋の外に出た。半袖のカッターシャツにスラックス姿と、一応はサラリーマンとしての衣装で身を固めているものの、彼の歩みは何とも気軽でのんきな物だった。

 源吾郎とホップの生活の変化。それは端的に言えば引っ越しである。研究センターの居住区にある部屋の一つにて、源吾郎は現在寝起きするようにもなっていたのだ。

前に紅藤に持ち掛けられた時には聞き流していたにもかかわらず、数か月後の今になって何故居住区に住まう事になったのか。それもやはりホップの存在が大きかった。一人暮らしゆえに、家を空けている時はホップをひとりきりにしてしまう。ホップ自身はそう手のかかる存在ではないが、源吾郎が動けなくなったときなどの懸念があったため、ホップを研究センターの管理下に置くという決断を下したのだ。元々はホップを居住区に置いておいたら日中の部屋の温度管理も気にせずに済むと思っていたに過ぎないが、居住区に寝泊まりする方が源吾郎も何かと楽であると気付き、なし崩し的に居住区が「本宅」になりつつある次第である。

 ちなみに元々源吾郎が住んでいた安アパートの一室も、源吾郎は活用していくつもりである。ナンパの指南書やモテ男になるための書籍は向こうに置いているし、珠彦たちみたいな友達と部屋で遊ぶにしてもあっちの部屋の方が適しているためだ。

 

 

 居住区と研究センターは本当に歩いて数分の距離しかない。従って部屋である程度のんびりしたつもりであったのだが、それでも大分時間に余裕がある。

 源吾郎はだから、すぐには研究センターには入らず敷地の中をブラブラしていた。早い時間に研究センターに到着した時には敷地内をぶらつくのが最近の源吾郎の習慣の一つになっていた。深い意味はない。ただ身体を動かしていた方が楽しいのだ。

 時々工場で働いている妖怪や術者たちに見つかったりする事もあるが、源吾郎の行動は大目に見られていた。見つかると言っても向こうも仕事前でまったりしている所であるし、挨拶や会話をするくらいなので問題になるような事はそもそも何もないわけである。

 

「お、島崎君じゃないか」

「ああほんとだ、珍しいなぁ」

 

 今日もごくナチュラルに源吾郎の姿は他の妖怪に発見された。今回声をかけてきたのは二人組の妖狐だった。仕事モードに入りつつあるらしく、尻尾以外は人間の若者の姿と大差ない。工場勤務の際は尻尾を隠して窮屈な思いをしているのだろう。その反動なのか尻尾を伸ばし、振り子よろしく左右に振ったり上下運動させたりしている。一尾なので若い妖狐なのだろうが、服装と言い態度と言い源吾郎の声の掛け方と言いかなり仕事に慣れた気配を醸し出している。

 

「おはようございます、先輩方……」

 

 源吾郎の返した挨拶に妖狐たちは明るく微笑んでいた。工場で働く工員たちの名前と顔を、源吾郎はまだほとんど把握していない。従って名前が判らない時は()()と呼ぶようにしていた。嘘ではないし、向こうの工員たちも喜ぶのでチョイス的には良いのだろう。

 

「最近この辺をブラブラしているみたいだけどさ、何かあったの?」

 

 妖狐の一人、赤みの強い尻尾の持ち主が問いかける。こちらの挙動を知り抜いているような物言いであるが源吾郎は臆しなかった。自分が何かと注目されがちな事は心得ているからだ。

 近場に引っ越したんです。源吾郎はだから、問いかけに驚く事なく率直に返答が出来た。

 

「厳密には研究センターの居住区……ある意味社宅みたいなところですかね。元々はアパート住まいだったんで自転車で通勤してたんですが、小鳥を飼い始めたんで職場の近くに住むようにしたんです。何分小鳥なので、何かあっても大変ですし」

 

 源吾郎の説明を聞いていた妖狐たちは、何故か渋い表情を浮かべ、互いに顔を見合わせていた。

 源吾郎の方に視線を向けた時、彼らは腑に落ちないと言いたげに見えた。

 

「島崎君って本当にただ者じゃあないんだねぇ……小鳥を留守にするのが心配だからって、わざわざ雉仙女様のお傍に居を構えるって決めるには、中々の()()が必要だったんじゃあないのかい?」

 

 源吾郎は妖狐たちに軽く笑みを見せながら受け流しておいた。ただ者じゃない、勇気がある。この言葉が単純に源吾郎を褒めているだけではない事は源吾郎も見抜いていたためだ。




 ペットの安全のために引っ越しを敢行した島崎君は飼い主の鑑です。


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思いがけぬ朝の情景

 思いがけぬものを目の当たりにした時、それが何か正しく認識できない。

 この法則は人間様にのみ当てはまるものではない事を源吾郎は今知った。源吾郎自身は人間の血を引いているものの人間とは異なる存在であると自覚しているためだ。

 イベントがあるという事だったので、源吾郎はあの後すぐに研究センターに入ったのだ。ちょっと早い時間だけど、と割合気軽な感覚で。

 研究センターの事務所に入ってまず目に飛び込んできたのは、萩尾丸が()()を事務所の奥へ運び込もうとしている光景だった。朝だというのに萩尾丸は困ったような表情を浮かべていて、それでも抱え持つようにその荷物を移動させようとしていたのだ。かなり大きなものだった。小柄な人間ほどの大きさと長さがあるように源吾郎には見えた。大きさの割に柔らかいのだろうか、萩尾丸が支える所を起点として、それは明らかにぐんにゃりと曲がっていた。

 どうしたんだい、ぼうっとして。低い声が鼓膜を震わせる。萩尾丸がわざわざ立ち止まり、源吾郎に声をかけているのだと気付いた。源吾郎は何か言おうとしていたがすぐには言葉は出てこなかった。ぼうっとしていた訳ではないのだが、何がどうなっているのかを見定めようといた所なので、すぐに応対が出来なかったのだ。

 

「紅藤様を運んでいる最中なんだ」

 

 そういうと萩尾丸は片腕で抱えているものを器用に揺らした。つい先程まで何か判らなかったそれは、()()()紅藤だった。普段見かける白衣ではなく、茶褐色のワンピース姿のようだ。うつぶせの状態なので赤茶けた巻き毛で顔が隠れて表情は見えないが、だらりと垂れた首筋の白さや細さがいやに鮮明だ。

 

「今さっき僕も事務所に到着したところだけど、紅藤様ときたら機材の前で寝落ちしていたみたいでね……ちょっと仮眠室に移動させておこうと思ってね」

「あ、は、はぁ……」

 

 源吾郎の声はあいまいだった。萩尾丸が運んでいるものが明らかになったが、源吾郎は落ち着きを取り戻せていなかった。いやむしろ、紅藤を運んでいると知って余計に困惑してさえもいた。紅藤はまだ眠っているらしい。萩尾丸に抱えられながら動く気配は無かった。得体も底も知れない大妖怪とは思えないほどに無防備な姿だった。

 

「君も時には僕みたいに紅藤様を運ばないといけない時が来るかもしれないね、島崎君」

 

 何気ない様子で放たれたはずの萩尾丸の言葉に、源吾郎はぎくりと身を震わせた。無論この反応を萩尾丸は見逃しはしなかった。

 

「そんなに心配しなくても良いんだよ島崎君。紅藤様は本性は雉だからね。確かに普通の雉とは較べものにならない程の巨体の持ち主だけど、元は雉だからそんなに重たくは無いんだ。まさか島崎君、いかな君がお坊ちゃま育ちだと言っても、試験管よりも重いものを持った事が無いとか言い出さないだろうねぇ?」

「いえ……そんな……」

 

 源吾郎は途切れ途切れに言葉を吐き出し、小さくかぶりを振った。

 確かに源吾郎は紅藤を自分が抱え持つ光景を思い浮かべて動揺していた。しかし自分の膂力で紅藤を支えられるのかなどという事で不安がっていた訳ではない。紅藤が、若い女性の姿を取っているから、その姿の彼女を抱える様子を思い浮かべたから動揺していたのだ。

 萩尾丸はやけにゆっくりと進みだした。紅藤の身体は揺れていたが、萩尾丸に引きずられているためであったらしい。

 

「どうしたの島崎君。顔が赤くなってるけれど」

「……出勤する前にブラブラし過ぎました。日に当たって火照ってしまったのかもしれません」

 

 早口に思いついた事を述べると、源吾郎はそのまま踵を返し手洗い場に向かった。色白の源吾郎が日焼けに弱いのは事実だが、今回の顔の火照りは陽光のせいではない事を彼は知っている。とはいえ冷たい水を何度も浴びていたら、顔と心の火照りも収まるであろう。

 

 

「ごきげんよう。調子はどうかしら」

 

 始業時間。イベントがあるという事で月曜日ではないが緊急のミーティングが開催された。貴婦人よろしく優雅な笑みでもって源吾郎たちに声をかけるのはもちろん紅藤である。普段通りの白衣姿ではなく、クールビズ対応のパンツスーツ姿である。きっちりとした服装に身を包んでいるためか、いつも以上に凛としているように源吾郎の眼には映った。数十分前まで深い眠りの最中にあり、一番弟子に荷物のように運ばれていたのが噓のようである。

 無論そんな考えは源吾郎はおくびには出さなかった。

 

「今日は前々から申し上げていた通り、胡琉安様の生誕祭です。会場も時間も例年通りだから、十時には研究センターを出発するわ」

 

 朗々と今日のイベントを説明する紅藤に対し、それを聞く研究センターの面子の表情は硬く引き締まっていた。青松丸やサカイさんは言うに及ばず、余裕綽々という顔つきが印象的な萩尾丸さえ何処となく不安そうだ。

 源吾郎は神妙な面持ちで紅藤や先輩たちを眺めていた。春に入社した源吾郎は胡琉安の生誕祭に立ち会うのは今回が初めてである。しかし事前に説明を受けていたから、生誕祭が文字通り誕生日を祝うだけの平和な会合ではない事はうっすらと知っていた。

 確かに生誕祭は表向きは胡琉安の誕生日を幹部たちと彼らの重臣たちが祝うという体裁を保っている。だがその実態は、幹部たちの丁々発止のやり取りに終始していると言っても過言ではなかろう。もちろん祝いの席であるから表立って喧嘩になったり場外乱闘になる事はまぁない。それでも幹部同士で互いに牽制しあったり力量をはかり合ったりする事は普通に起こるそうだ。

 ちなみに幹部たちの力量を測るものさしとして、どのような妖怪を重臣として従えているかもポイントになるらしい。

 普段はのんびりとしている青松丸とサカイ先輩がいつになく緊張しているのはこのためだった。彼らは、ついでに言えば源吾郎も紅藤の重臣と見做されるからである。そう見なされるのは紅藤単体の強さとは別問題の話だ。何しろ紅藤の部下は現在四名しかいないのだから。しかも最も優秀で力のある萩尾丸は、幹部であるがゆえに幹部の一人として動かねばならないし。

 新入社員で多くの事情を知らぬ源吾郎も当然のように緊張し始めた。青松丸やサカイ先輩が抱える緊張の念が伝わった為である。

 表情を引き締めたのを見定めたのだろう。サカイ先輩が源吾郎を見、ぎこちないながらも笑みを向けてくれた。

 

「そ、そんなに緊張しなくても、だ、大丈夫だから、ね。島崎君。ごちそうもお酒も、美味しいものが沢山あるからね」

「サカイ先輩、僕は未成年なのでお酒はちょっと……」

 

 場の空気がまたも気まずい方向に傾いてしまった事を、源吾郎は肌で感じ取った。未成年だから飲酒は出来ないという発言自体は間違いではない。しかし自分の都合で飲酒云々のみに突っ込みを入れる事が、サカイさんの好意の発言をふいにしてしまったのではないかと思ったのだ。

 だが源吾郎を糾弾する声は上がらず、代わりに萩尾丸がクスクスと静かに笑うだけだった。

 

「全くもってのんきな物ですね、紅藤様。良いですか、いつも生誕祭の場では申し上げておりますが、僕は第六幹部としての務めを果たさねばならないので、紅藤様にはいつも以上にしっかりなさらねばならないのですよ。

 島崎君は言うまでもなく、サカイさんも青松丸さんすらも僕から見れば心許ない所がありますゆえ……」

「そりゃあもちろん、胡琉安様の生誕祭では私もしっかりやるつもりよ」

 

 紅藤は穏やかに、しかし決然とした様子で言い放った。

 

「私は雉鶏精一派の第二幹部ですが、胡琉安様の母親でもあるのよ。大切な息子の祝いの席で、ぼんやりなんて致しませんわ。

 それに萩尾丸。私の配下が少ない事についても心配は要らないわよ。峰白様だって、いつも配下なんてほとんど連れていないじゃない」

「ええと、まぁ……紅藤様の仰る事も一理ありますかね」

 

 萩尾丸は得意の炎上トークで言い返すのかと思いきや、ややしおらしい様子で紅藤の言葉を受け入れただけだった。

 やはり寝落ちして弟子に引きずられていたとしても、紅藤の大妖怪としての威厳は損なわれる事は無いようだ。



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見出されるは女狐の面影

 かくして微妙な空気をまといつつも今回の生誕祭のあらましについて紅藤からひととおり説明があった。毎年の恒例行事であるにもかかわらず今再び丁寧な解説を行っているのは、やはりニューフェースである源吾郎の為であろう。

 新入社員で齢十八の若者である源吾郎だったが、言うまでもなくこの度の生誕祭に出席する事は確定していた。紅藤が自ら従える配下の数が極めて少ないため、能力や年齢に関係なく彼女の部下は彼女の重臣と見做されてしまうのだ。

 しかも源吾郎は単なる妖狐の若者ではなく玉藻御前の血を引く存在である。日本三大悪妖怪の一端であるというネームバリューは伊達ではない。玉藻御前の直系であるというブランドは、若輩だとかポンコツだという源吾郎自身の性質や評価を覆すほどのインパクトがあるのだ。無論だからこそ、軽率な動きは取れないのだが。

 

「……とまぁ、生誕祭についてはこんな感じだけれど大丈夫かしら?」

 

 締めの言葉を聞く源吾郎の目線は斜め下に向けられていた。両手はズボン越しに膝頭の上にあり、軽く握りしめていた。教師に指名されないように必死であがく生徒と同じような態度でもってやり過ごそうとしていたのだ。

 

「大丈夫、何か質問は無いかしら島崎君」

 

 しかし、このような振る舞いは大体が逆方向の結果をもたらすのが世の常である。ましてや相手が大妖怪をも凌駕する紅藤なのだから致し方なかろう。彼女の、いや他の妖怪たちの視線も源吾郎に注がれていた。わざわざ確認せずともそれは判っていた。

 源吾郎は顔を上げた。見つめる先は紅藤ただ一人である。指を組みいじりながらも、思った事を口にする事にした。

 

「生誕祭ってほとんど一日行うんですね。僕もその、会社? のイベントについては疎かったのでびっくりしました」

 

 源吾郎がまず気になったのは生誕祭が開催されている時間の長さだった。正午少し前から始まり、終わるのは夜遅くになるのだという。

 妖怪は人間以上に体力があり、また夜行性の者も存在する事は源吾郎も知っている。しかしそれでも、妖怪たちの集まりがここまで長時間にわたるものであるという事を上手く理解できなかったのだ。紅藤や萩尾丸が先程ちらと言ったように幹部陣のやり取りがある事を加味したとしても。

 そうよね。源吾郎の疑念に対して、紅藤は柔らかい言葉で肯定してくれた。

 

「島崎君は若いもの。そりゃあ、昼から夜までぶっ通しで生誕祭が行われるって知ったら驚くのも仕方ないわ。とはいえ、生誕祭は主要メンバーが集まる場になるから、どうしても多くの時間を取る事になるのよね。

 それに、生誕祭の後は丸二日休みになってるから、それで釣り合いが取れるんじゃあないかしら」

「そう……かもですね」

 

 頷く源吾郎の声はうつろだった。豪快な話だ、と源吾郎は思った。きっと生誕祭は時間も長く、二日分働いたのに相当すると判断したがために生誕祭の後に連なる平日二日を休日に置き換えるのだろう。生誕祭の後に休日が貰えるという事を嬉しく思う一方、平日が休みになるという状況に少し違和感を抱いてしまったのも事実だ。きっとそれは、まだ学生気分が源吾郎から抜けきっていないからなのかもしれない。学校であれば、平日と休日の境目は恐ろしい程にはっきりと分かれているのだから。

 

「丸二日休みなどと説明しても、紅藤様が仰るのであれば説得力も何もありませんよ」

 

 少しの間を置いてから口を開いたのは萩尾丸だった。茶化すような気配を見せつつも、何処となく真剣な様子も見え隠れしている。彼は今どういう立場で発言をしたのだろうか。源吾郎はふとそんな事を思っていた。

 萩尾丸は紅藤の一番弟子ではなくて、第六幹部としての立場で発言しているのだ。彼の瞳を見た時に、源吾郎は唐突にその事を悟った。

 

「まぁ、紅藤様の休みの振る舞いは今回は脇に置いておこうか。

 それよりも、何故生誕祭で多くの時間を取るかについて僕が説明してあげるよ。それはやっぱり、幹部やその下に着く重臣同士で色々とやり取りがあるからに他ならないね。胡琉安様の歓心をどれだけ買う事が出来るか。一部の幹部連中とその腰巾着共は、その事に心を砕いていると言っても過言ではないんだよ。

 例えば、重臣である鳥妖怪の娘が、胡琉安様の妻候補とか愛人になれるかどうかとかね」

「…………!」

 

 あまりにも生々しく直截的な話題に源吾郎は声も出なかった。幹部陣がそれぞれ派閥争いを繰り広げているらしい事は折に触れて聞いていたが、まさかそこまで苛烈なものであるとは思っていなかったのだ。

 源吾郎が茫洋と視線をさまよわせていると、萩尾丸はさもおかしそうに笑いつつ言い添えた。

 

「どうしたんだね島崎君。そんな事くらいで驚くなんて君も初心だなぁ……そうそう、胡琉安様だけじゃあなくて、島崎君にお近づきになりたいっていう女狐たちも今回の生誕祭に出席してくれるんじゃあないかな?」

 

 一度言葉を区切ると、萩尾丸ははっきりと笑みを作って源吾郎を見つめた。

 

「あれ? 君って女の子にめっちゃ興味があると思ってたんだけど、あんまり嬉しそうじゃないね。どうしちゃったのさ」

「どうもこうもございませんよ……」

 

 物静かな口調で呟きつつ、源吾郎は萩尾丸に視線を向ける。声色は優しげなのだが、皮肉めいたものがこもっている事を見落とすほど源吾郎は間抜けでもない。

 

「そりゃあ確かに女の子に興味があるのは事実です。ですけれど急にそんな事を言われても心の準備が整っていませんし……それに、僕の事を好きになってくれた娘が、ホップと上手くやっていけるかとか、そんな事も気になるのです」

「ああそうか」

 

 源吾郎の主張を聞いていた萩尾丸は、納得したと言わんばかりに頷いた。青松丸はちょっと戸惑った様子を見せているが、その一方でサカイ先輩は納得した様子で源吾郎を眺めている。きっとサカイ先輩は心の隙間でも覗いたのだろう。

 

「島崎君が生誕祭に乗り気じゃあない理由が解ったよ。初めての事で戸惑っているのもあるだろうけれど、君が今面倒を見ている小鳥ちゃんの事とかで頭がいっぱいなんだね?」

「まぁ、そんな感じですね」

 

 相も変わらず得意げに持論を展開する萩尾丸に対し、源吾郎は素直に頷いた。今先程ホップの事を自ら口にしたばかりであるし、ホップの事を色々と心配しているのも事実だからだ。

 生誕祭が長時間行われているという事に対しても、ホップがらみの懸念は源吾郎の心中にあった。帰るのが遅くなって、夜遅くまでホップをほったらかしにしてしまうという意味合いで。

 しかしそれを素直に口にするのも恥ずかしい。そんな事を源吾郎が思っていると、萩尾丸は少し間を置いてから言葉を続けた。

 

「ペット、もとい使い魔の小鳥ちゃんの事をそこまで気に掛けているとはねぇ……あれだね、()()()桐谷君に似ているね」

 

 萩尾丸の指摘に源吾郎は目を瞠った。萩尾丸を凝視しつつも、その脳裏には叔母のいちかの姿が浮かんでいた。

 

「そんな、大切な生誕祭の前に僕をからかうのは勘弁してくださいよ」

「別に僕は島崎君をからかっちゃあいないけどね。別に良いじゃないか。君はむしろ()()()祖父とか父親に似ているって言われるとへこむって聞いてるし」

 

 相も変わらず萩尾丸の顔には笑みが浮かんでいる。源吾郎は深く息を吐いてから言い添えた。補足しておくが、源吾郎は叔母のいちかの事を疎んではいない。兄姉と異なり小姑めいた部分が強いと思う事はあるものの、叔母として一人の術者として彼女を慕っているのも事実である。

 しかし、そんな叔母と自分が似ているという指摘を受け入れるか否かは別問題だった。

 

「そういう事を仰るのなら、せめて叔父上に、苅藻の叔父上に似ていると仰っていただければ嬉しかったんですが」

「君がそういうのは僕も想定していたよ」

 

 源吾郎の申し出に対し、穏やかな調子で萩尾丸は返した。笑みが作り笑いに変貌している事を、源吾郎は幸か不幸か気付いてしまった。

 

「だけど島崎君、君はそんなに苅藻君に似ているって感じは受けないんだけどなぁ……何というか、苅藻君に較べて()()()()だし。そういう意味で、いちか君に似ていると思ったんだけどねぇ。あと、むやみに従えた妖怪に肩入れしちゃうところとか」

 

 源吾郎は本物の獣のように喉を鳴らしつつ萩尾丸を見やるだけだった。




 会社絡みのパーティって疲れそうですね(他人事)


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天狗もくろみ狐は演じる

 主人公が女体化するシーンがございますのでご注意ください。


 ああそうだ島崎君。萩尾丸は何かを思い出したかのように声をあげた。やや素っ頓狂な気配があったので、源吾郎は目を丸くしてしまった。

 

「やっぱり入社一年目のぺーぺーなのに、大切な生誕祭に出席するのは緊張するし、あんまり気乗りしないよね? 今さっき心の準備も出来ていないって言ってたし」

「ええと、はい……」

 

 半ば念押しのように畳みかけられ、源吾郎は控えめながらも頷いていた。本人には直接言いはしないが、萩尾丸は時折、話しかけながら相手に圧をかけ、誘導しているようだった。今回もその誘導の気配を感じはしたが、源吾郎が生誕祭に赴く心の準備が今一つだったのもまた事実である。

 源吾郎の頷きが思惑通りであった事は、萩尾丸の笑顔を見れば明らかだ。

 

「そうか、君の今の気持ちはよーく解ったよ。それじゃ島崎君。君は()()()調()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それで構わないかな?」

 

 構わないかな? などと問いかけの体を保っているものの、それが問いかけなどではない事は源吾郎は既に気付いている。源吾郎は目を瞬かせるだけだった。

 もちろん源吾郎の心中では、萩尾丸の発言に対する疑問が渦巻いていた。源吾郎を生誕祭に出席しない流れに運ぼうとしている事は解る。しかしその場合自分はどうすべきなのか? そもそも体調不良などではないのに嘘を言い出したのは何故なのか……様々な考えが源吾郎の脳裏に浮かんでは消えていった。

 

「萩尾丸。島崎君が急な体調不良に見舞われたって事にするのは良いけれど、一人でこの研究センターに留守番をさせるつもりなのかしら?」

 

 萩尾丸の発言に真っ向から疑問をぶつけてくれたのは紅藤だった。彼女の疑問は、源吾郎の疑問と半分合致していた。半分だけなのは、紅藤も何故か源吾郎が体調不良になったという事を容認している所だ。

 

「研究センターにこの子一人で留守番させるのは危険だわ。私たちのうちで誰かが監督していれば変な事はしないでしょうけれど、知らないうちに機材をいじったり何か余計な事をして、壊されたら大変だわ」

 

――なんだ紅藤様。心配なのは俺じゃなくて機材の方なのか。それにしても留守中にイタズラをして機材を壊すなんて思ってらっしゃるとは……俺の事は仔猫か何かとでも思っているのだろうか。

 むっつりとした面の内側でそんな事を源吾郎は思っていた。紅藤も萩尾丸も思った事を臆せず率直に述べる性質である事は既に彼もよく心得てはいる。それでも、師範である紅藤が源吾郎よりも機材を心配しているという事実は少しショックだった。

 

「いいえ紅藤様。僕は別に、島崎君を留守番させるとは言っていませんよ」

 

 紅藤も狐につままれたような表情を浮かべるのだろうか? 源吾郎の脳裏にそんな考えが浮かんだ。だが萩尾丸は、そのようなリアクションを取る暇を与える事無く話し始めたのである。

 

「方便として島崎君が体調不良で出席できないと皆に伝えるのですが、島崎君自身を生誕祭の会場に連れて行かないわけではないのです。

 彼も曲がりなりにも妖狐ですから、本来の姿とは違う姿に変化してもらって、日雇いのスタッフの一人として紛れ込ませようと思っていたのですが、如何でしょうか?」

「スタッフに紛れ込ませるのね。それも良いかもしれないわね。面白そうだし……」

 

 おっとりとした口調で紅藤が言うのを、源吾郎は微妙な気持ちで眺めていた。善し悪しと面白いか否かがごっちゃになっている所が何というか彼女らしい。紅藤に限らず、年齢を重ねた妖怪の中には、善悪ではなく面白いか否かで物事を判断してしまう手合いがいるのだ。

 

「何も難しく考える事は無いよ、島崎君」

 

 老齢な妖怪について考えていた源吾郎の許に萩尾丸の声が届く。

 

「スタッフというのはね、要するに喫茶店やレストランで働くウェイターやウェイトレスと同じなんだよ。料理の配膳とか食器の片づけとかを彼らが請け負っているから、僕ら八頭衆は心置きなく飲食や他の幹部陣とのやり取りに勤しめるってわけさ。

 ああ、言うまでもなくスタッフのみんなは狐とか狸とか普通の妖怪だから本性がばれるとかそういう事は心配しなくて大丈夫だからね。

 素性に関してはまちまちかな。僕や他の幹部たちが日頃こき使ってる子飼いの手下もいるし、その日だけの飛び入りの派遣もいるしね。まぁいずれにせよ、妖員《じんいん》の手配は僕らの方で行っていると思ってくれたら問題ないよ」

 

 つまりだね。つらつらと生誕祭のスタッフについて説明を重ねていた萩尾丸が、一拍間を置いてから改めて源吾郎に声をかける。

 

「君は本来の君とは違う何者かに化身してウェイターかウェイトレスとして立ち働くという事になるんだ。まぁ……イケるよね?」

「変化の方は問題ありませんよ、萩尾丸先輩」

 

 源吾郎は真正面から萩尾丸を見据え、きっぱりと言い切った。彼自身変化術は得意であるという自負があったし、やはり自分が何を言ったとしても「何者かに変化し、スタッフとして生誕祭をやり過ごす」というプランが揺らぐ事は無いと解っていたからだ。

 とはいえ、この急な申し出を完全に呑み込んだわけでもない。源吾郎は手指を鳩尾のあたりで絡ませ、懸念している事を静かに口にした。

 

「但し、僕はバイトらしいバイトを行った事が無いのですよ。そこだけがちょっと不安ではありますね……」

「実にお坊ちゃまらしい不安だねぇ」

 

 源吾郎の懸念事項に対し、萩尾丸は半ば茶化すような様子を見せて笑っている。その部分はお坊ちゃま云々とは違う次元の話ではないかと源吾郎は思っていた。通っていた高校では大々的にアルバイトが禁止されていた訳ではない。それでもバイトに精を出す生徒などは殆どいなかった。

 

「さっきも言ったように、スタッフがやるのは料理や食器を運んだり、後片付けや床掃除、それと会場に置いてある植木や小物のメンテナンスとかなんだ。こんな事を言っちゃあなんだけど家での食事の準備とか細々とした手伝いに近いかもしれないね。

 バイトだろうと最初のうちは緊張するのは当然の事だよ。だけどスタッフたちも普通の妖《ひと》たちでも出来てるから、君もすぐに慣れると思うよ。

 それにだね――緊張すると言っても幹部やその重臣たちと立場ある存在として向き合うよりも大分気が楽な物さ」

 

 生誕祭の陰でスタッフとして立ち働くのは、それこそ野良妖怪とほとんど変わらないような若手の弱小妖怪がほとんどなのだという。大妖怪たちが集まる中で働くと言えども、彼らが危険な思いをする事はほとんど無いそうだ。生誕祭の場においては、幹部たちは自分の勢力を誇示したり、他の幹部と協力できるか否かをはかったりと、祭りと言えどもまあまあ忙しい。従って、食事を運んだり雑事をこなす若い妖怪に構う余裕は無い。それに人間の世界と同じく大妖怪であるのに弱小妖怪に難癖をつけて絡んだら、それはそれで印象が悪くなるだけだ。

 そこまで話を聞いて、源吾郎はようやく萩尾丸の提案の意図が何であるかを知る運びとなった。仔細な所まで聞かされ、十分に納得できた源吾郎の心中にはもう不安などはほとんどない。むしろ紅藤同様に面白いと思い始めていた。

 

「玉藻御前の末裔として幹部の皆様の前に顔を出せないのはちと残念ですが、スタッフに扮して会場に出入りするって言うシチュエーションも中々興味深いと思います。そういえば外国のドキュメンタリー番組で、社長とか会長みたいな偉い立場の人が、それこそ掃除人に扮して社内の問題点を探り出すって言うのがあるんですよ。今回もそれに似てるなって思ってワクワクしてきました」

 

 かつて見た番組の事を源吾郎は萩尾丸たちに語って聞かせた。先輩たちである青松丸やサカイさんは微妙な表情で互いに顔を見合わせている。萩尾丸もよく見れば苦みを伴う笑みで源吾郎を見つめているではないか。

 

()()()()()が僕らには不安なんだよ……やはり君にはスタッフとして動いてくれた方が面倒事厄介事は発生しないだろうね。君は確かに玉藻御前の末裔だけど、今はまだ()()()()()()()()()()()()のだから。

 念のため言っておくけれど、スタッフとして働く時はあんまり色々と喋らないようにするんだよ。無口キャラとして演じた方が良いんじゃないかな。そりゃあまぁ、聞かれたら答える位はやらないといけないけれど」

 

 萩尾丸は言葉を切ると、左手首に巻いた腕時計をちらと見やった。

 

「さてそろそろ丁度良い時間になってきたし、変化してもらおうか」

「はい喜んで!」

 

 ファミレスで働く若い店員みたいな調子で返事を返すと、源吾郎はおもむろにその姿を変化させた。本来の姿はやや小柄で堅肥り気味の青年であるが、今の源吾郎の姿は十代後半ほどのすらりとした体躯の少女だった。男の姿には変化した事は無いし今度も変化する事は無い。そう思っている源吾郎が少女の姿に変化するのは、彼の中ではある意味当然の話だった。

 

「あの、どうでしょうか萩尾丸先輩」

 

 少し小首をかしげ、手指を胸元で合わせつつ源吾郎は問うた。萩尾丸は今度は苦笑いではなく、心底面白いものを見たと言わんばかりの笑みを向けてくれた。

 

「ああ……中々良いんじゃないかな。今日の君は、ウェイトレスとして潜入してくれるって事だね。ある意味賢い判断じゃないかな。玉藻御前の末裔で紅藤様の許に弟子入りしているのは男だってみんな知ってるからさ、まさか女子に化身しているなどとは誰も思わないだろうし。

 服装はブラウスにパンツスーツで、まぁお堅い感じだけど問題は無いね。どのみちエプロンを付けるから服装も自由だしね。あんまり目立たせないのは却って良いと思うよ」

 

 ありがとうございます。少女姿の源吾郎は、可愛らしい声で萩尾丸に感謝の言葉を述べた。容貌はさることながら、声も仕草も本物の少女と大差ない。玉藻御前の血統を誇る変化力、そして卓越した演技力は伊達ではなかった。

 

「仕事中は宮坂京子とでも名乗っておくと良いよ。これから君を生誕祭の会場に案内するけれど、まとめ役のマネージャーには僕の斡旋でやって来た飛び込みのバイトだと伝えておくんだよ。

 終わり際は僕の配下の一人をこっそり君の許に向かわせるから、そいつの指示に従ってほしいんだ」

 

 それじゃあ君を会場に移すね。萩尾丸の奇妙な言い回しに源吾郎は軽く首をひねってしまった。周囲の景色が妙な塩梅に回転し始めて戸惑っていると、その回転も数秒も待たずして収まった。

 気が付けば、源吾郎は見慣れた研究センターではなく見慣れぬ広々とした部屋にぽつねんと立ち尽くしていた。他の若手妖怪がいたり部屋の雰囲気からしてスタッフルームのようだ。

 どうやら萩尾丸は妖術の類を使って源吾郎を一瞬にして生誕祭の会場裏に置いてきたのだろう。長じた天狗はその術が得意な事も、源吾郎は知っていたのだ。




 島崎君、流れるように女の子に変化しました。
 もはや様式美ですね(爆)


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配膳係は皆の新たな顔を知る

 源吾郎が少女に化身する事を覚えたのは中学生の頃、厳密な年齢を言うと十三、四くらいの頃だった。ギャラリーに顔を出さなければならなくなった末の兄・庄三郎に「()()()」を頼まれたのがそもそものきっかけだった。

 既に二十歳を超えていた庄三郎であるから、おのれが放出する魅了の力はおおむね制御できているはずだったのだが、過去の経験のために彼は用心深くなっていた。不用意に不特定多数の人間の前に顔を出せば、あてられる人間が出るのではないかと。それでも庄三郎をしたいベタベタとくっつく娘がいるのならば、彼ら彼女らの庄三郎への執着は()()になるだろうと。

 ()である源吾郎にその役を任せるのは奇妙な事に思えるかもしれないが、庄三郎の彼女役を行うには源吾郎が最も適任だったのだ。庄三郎の性格と能力上、赤の他人にこのような依頼は不可能だ。さりとて、姉や叔母にその役目を負わせるのは荷が重い。兄弟間の序列などが明確に存在するわけではないが、末弟であれば自分のいう事を聞いてくれるだろうと思ったに違いなかった。源吾郎が他の兄姉たちに対してほとんど反抗しないのを知っていたためだ。

 

 庄三郎の思惑通り、源吾郎は彼の言う事に従った。とはいえ、無理強いされたとかそういう気持ちは源吾郎の中には無かった。当時源吾郎は中学校に通う子供に過ぎなかったが、既に女子にモテたい・好かれたいという願望が心の中にはあった。ついでに言えばそれらの研鑽のために演劇部でも活躍し始めていた頃である。

――女子に化身してみたら、女子たちの様子を間近で見れる。そうすればより一層モテるための研究が出来るのではないか。

 思春期を迎えた女子たちは理由はどうあれ男子を警戒し遠ざける事があるという独特の性質を源吾郎は既に知っていた。しかし内面はどうであれ女子に擬態出来たら話は別なのではないか。そんな考えが源吾郎の脳裏に浮かんできたのである。

 

 源吾郎は男であった。生物学的な性別も性自認としての性別も。それでもなお女子に化身する事にノリノリなのは、女子に化身する事で本物の女子の生態を間近で知り、それをモテスキルに還元できると思っているからに他ならない。

 

 

 さて話を戻そう。萩尾丸の術によって会場に連れてこられた宮坂京子もとい源吾郎ははじめのうちこそぼんやりと周囲を見渡していたが、すぐにチーフと思われる妖物《じんぶつ》に発見された。

 そこからの一連の流れは実に鮮やかで、狐でありながら狐につままれたような気分を味わったほどである。源吾郎は宮坂京子として飛び入りでスタッフとなったのだが、向こうは彼女の事を知っているらしく、すぐにスタッフとして受け入れられた。

 もしかすると、萩尾丸は源吾郎がスタッフに扮して潜入するという事もずっと前から見越していたのかもしれない。一瞬だがそんな考えが脳裏をよぎった。

 

 スタッフとして立ち働いていた方が、玉藻御前の末裔として幹部たちと渡り合うよりも気が楽だ。萩尾丸の言葉が本当なのかどうか、源吾郎には今のところよく判らなかった。判る判らない以前に動き回る事に集中して考えるどころではなかったからだ。

 スタッフとしての仕事の忙しさは予想を大幅に超えていた。とはいえ、これが普通なのか普通以上に忙しいのかさえ源吾郎には判断がつかなかった。

 初めは厨房の裏方としてサラダや果物の盛り付けを任されていた。しかし生誕祭が開始した事や源吾郎の盛り付けにスピード感が無かったなどの諸般の事情により、急遽ウェイトレスとして飲み物やちょっとした食事を運ぶ事となったのである。

 生誕祭の出席者たち、雉鶏精一派の頭目と幹部たちは、宮坂京子の存在に特段注意を払う事は無かった。正体はさておき、宮坂京子そのものは労働に勤しむだけの若き庶民妖怪の一人だと、彼らは思ってくれているようだ。もっとも、それ以上に大切な事を考えている幹部たちは、いちいち集まって働くスタッフたちに思いを馳せていないかもしれないが。

 ちなみに源吾郎は、二杯目の飲み物を運んでいる時に紅藤たちの様子も垣間見る事が出来た。紅藤たちも萩尾丸も兄弟子たちも、源吾郎もとい宮坂京子の存在に気付いても淡泊な反応しか示さなかった。

 幹部・重臣としての務めがある彼らが、一介のウェイトレスに必要以上に構わないのは当然の事である。スタッフたちは日頃従えている子飼いの配下か、そうでなければ日雇いでやって来た単なる労働者に過ぎないのだから。むしろ親しげな様子を見せたら却って他の重役たちに怪しまれるだけだ。

 そのような事はもちろん源吾郎も知っている。しかしそれでも、宴の席で見せる紅藤たちの姿には源吾郎は大いに驚き、戸惑い、色々な事を感じていた。

 まず紅藤の雰囲気がいつもとはまるきり異なっていた。日頃のおっとりのんびりした雰囲気はなりを潜めていた。権力者にして絶大なる実力者として、彼女はそこに佇んでいた。いつもよりも濃い目のメイクだとか、妙に装飾の多い唐風の女道士の衣装なども目を引いたが、それらも彼女自身の風格の前ではお飾りに過ぎなかった。そんな彼女の姿を見て、源吾郎は自分が誰を師範に選んだのか思い知った。

 権力に興味が無いだとか早く隠居したいなどと常日頃言っていたのが冗談のようだ。冷静な、遠くを見渡せる鳥の目で周囲を観察する紅藤は、まさしく大妖怪の中の大妖怪と言っても過言ではない。しかも多少緊張していると言えども、無闇に威圧的な気配を振りまいていない所も大妖怪らしい。

 紅藤はおのれの力を「イカサマで得た力」だと思って今のおのれの地位もお飾りに過ぎないと考えているらしいがとんでもない話である。彼女が何かをしたのを直接見たわけではないが、紅藤が雉鶏精一派最強の大妖怪として恐れられ、尚且つ第二幹部の座を三百年間護り続けているのは当然の流れなのだと源吾郎は素直に思っていた。よくよく考えれば、一番しんどい時から雉鶏精一派の運営に携わり、頭目の生母として裏に表に活躍を果たした御仁である。もし紅藤が()()()ただ力があるだけの無能であれば、とうの昔に幹部の座を追い落とされていただろう。

 

 もう一人の幹部、萩尾丸の振る舞いもまた興味深いものだった。彼の衣装は普段とはそう大きな違いは無かったのだが、まるで別人かと思うほどに腰が低く、朗らかで穏やかな姿を見せていたのである。日頃の若手妖怪たち(特に源吾郎)をからかい、炎上トークを巧みに操る姿とは百八十度も異なっていた。

 だがそれも、萩尾丸の幹部としての立場から考えれば当然の事なのかもしれない。

 確かに、萩尾丸が研究センターの一番弟子であり、自身が擁する組織の長である事は事実だ。しかし幹部陣として見れば彼は第六幹部である。幹部は八名しかいないから、その中での序列は低い事になってしまう。だからこそ、上位の幹部やその重臣たちに対して穏やかに敵意が無い事を示しているのかもしれない。それはそれで処世術の一つなのだろうか。

 源吾郎は萩尾丸にも一目を置いている。実力はさることながら、相当に賢い妖怪であると思っていた。だが萩尾丸の賢さ優秀さも、日頃源吾郎が目にしていたのはごく一部に過ぎなかったのかもしれない。

 

 日頃仕事で接する上司や先輩たちの普段と違う一面に感心する一方、源吾郎の心中には言い知れぬ寂しさも沸き上がっていた。

 研究センターでは決して見せぬ表情を浮かべる紅藤や萩尾丸たちを見ていると、彼らが自分とは別の世界の住民であるような、見知らぬ土地に置き去りにされたような、そんな気分になってしまったのだ。無論今の源吾郎が、第二幹部の重臣ではなく単に立ち働く若手妖怪として振舞っているという事を加味したとしても、である。

 事あるごとに源吾郎は仔狐だのなんだのと言われていたが、それはある意味事実なのだと思い知らされた。

 

 

 表の会場ではとうに乾杯の音頭も終わり、二杯目三杯目の飲み物を配りだした最中だった。そこで少しばかり余裕が出来たので、源吾郎は裏手の厨房に戻る事が出来た。室内は妖術か空調で程よい涼しさを保っていたが、先程まで運びものをしていた源吾郎の身体は火照っていたし汗ばんでもいた。当然喉も渇いている。舌全体が乾いた感じがしてどうにも気持ち悪かった。

 チーフに発見されてから今に至るまで水や飲み物を口にしていない事に源吾郎は気付いた。しかも動き回っていたのだ。喉が渇くのも道理だろう。

 源吾郎はちらと厨房側に視線を向ける。とっておきの一品たち以外はバイキング形式となっている会場であるが、それでも余裕がある訳ではない。減った料理を都度補填しなければならないからだ。あらかじめ用意している物もあるだろうが、場合によっては作り足す必要もあるのかもしれない。

 

「嬢ちゃん、水が欲しけりゃ貰っても大丈夫だからな」

 

 氷だけが入ったグラスを眺めていると、カウンターの向こう側で料理の確認をしていたシェフが声をかけてくれた。体格のいい壮年の鬼の男であるが、いかつい見た目とは裏腹に物言いは親切そうだった。

 

「お偉いさん方の中に、裏まで覗き込むような物好きはいないからな。それよりも、変に我慢して熱中症とかで倒れられた方が困るんだ」

「ありがとう、ございます……」

 

 少女の声音で源吾郎は礼を述べ、グラスを一つ取った。隣にある水差しで水を六分目程注ぐと、グラスや水差しが乗せられたカウンターから距離を取る。源吾郎はカウンターに背を向け、ぼんやりと会場を眺めた。シェフの言うとおり、幹部とその重臣たちは互いに話し合ったり笑いあったりするのに集中しているようだ。時折大きな笑い声が上がったりしている。楽しい話でもしているのかもしれないと源吾郎は思った。

 

「あー。それにしても毎度毎度ボスたちもご苦労な事よねー」

「ホントそれ。八時間近く飲みっぱなし食べっぱなしって、やっぱり大妖怪様も大したものよね」

 

 ふいに少女たちの声が近くで聞こえ、源吾郎はちょっとだけ驚いた。声の方に視線を向けると、スタッフの一員である若い妖狐が二人ばかり裏手に戻って来ていたのだ。彼女らも水分補給のために戻ってきたのだろう。

 彼女らが幹部たちの子飼いの部下である事はすぐに判った。話の内容もさることながら、実は制服がわりのエプロンの小さな模様で区別がつくようになっていたからだ。

 

「それにしてもさ、今回は玉藻御前の曾孫がやって来るとかって聞いてたけど、あいつ体調不良で急にこれなくなったみたいだね」

 

 源吾郎はグラスを右手で握りしめたまま、少女らの言葉に注意を払っていた。何をどう思ったのかは定かではないが、彼女らは重臣として出席するはずだった玉藻御前の末裔、要は源吾郎の事を話題に出したためだ。

 

「大妖怪の子孫なのに体調不良とかマジウケるんだけど。でもさ、これなかったのってうちらにとってはラッキーだったんじゃない?」

「ま、まぁどんな奴なのかって言うのは気になってたから少し残念に思うところもあるかな」

「そんな、チカってば呑気なこと言っちゃダメでしょ。あいつってかなりヤバい奴だって聞いてたしさ」

「ヤバいって言ってもどーせめっちゃ強くなりたいって言ってるだけの中二病でしょ?」

 

 源吾郎は水を飲むふりをしながら聞き耳を立てていた。冷えたグラスを持っているのに身体の火照りは収まらない。むしろより暑さを感じ始めたくらいだ。

 どういう話に転がっていくのか……そう思っているともう一方の少女がため息をつくのがはっきりと聞こえた。

 

「中二病だけだったらそんなにヤバくないわよ。それよりも女に餓えてるって方が厄介なのよ。今でも気に入った女子を部屋に閉じ込めてるとか、女子一人では物足りないから気に入った女子を攫おうと画策してるとか、色々言われてるのよ」

「うっそー。いくら何でもそれはヤバいわよね」

「そうそう、ヤバいのよあいつって。うちらだって可愛いし美少女だからさ、絶対あいつに目ぇ付けられてたと思うのよ」

「やっぱり休んでくれて良かった」

 

 事の一部始終を宮坂京子として聞いていた源吾郎は、グラスを一気に呷ると洗い場の方にそれを押しやり、そそくさと裏方を立ち去った。

 目立つ事、他の妖怪たちに陰で噂される事の恐ろしさを思い知ったような気分であった。少女たちの話は、特に後半の女性絡みの話は全くの虚構である。源吾郎はもちろん女子に興味があるし、好みの美少女たちを侍らせ傅かれたいという欲求もあるにはある。しかし無理くり彼女らを攫ってまで行使しようなどと言う考えは持ち合わせてはいなかった。




 ある程度知名度があると謎の噂が立つのは仕方のない事なのです。


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男の娘は少女の欲望を垣間見る

 スタッフの若手妖怪たちは雉鶏精一派の関係者とそうでない日雇いの妖怪たちの大きく二つのグループに分かれていたが、どちらのグループも源吾郎の存在が気になるらしく、裏方で小休止している間にあれこれと噂していた。

 不思議な事に、源吾郎に対する評価は彼女らの所属する立場によってガラリと変わるのだ。

 雉鶏精一派の末端にいる妖怪たちは、源吾郎が狂暴な色狂いだと信じて疑わず、彼を疎み、出来るだけ接触したくないと思っているようだった。

 日雇いの、大阪郊外や尼崎などの会場近辺からやって来た妖怪たちは、源吾郎を血統と妖力に優れ、しかも向上心のある新鋭の妖怪だと見做し、媚を売ったり誘惑したりしてお近づきになりたいと考えているようだった。

 全くもって真逆の意見なのだが、それはある意味水と油のように交わらぬ彼女らの関係性を暗に示しているようでもある。無論表立った対立は無いが、スタッフと言えども雉鶏精一派由来のスタッフと日雇いスタッフが互いに距離を置いている雰囲気は源吾郎も感じ取っていた。

 いずれにせよ、源吾郎は自分が思っていた以上にその名が知られているのだと驚くほかなかった。嬉しいという感情は無かった。日雇いの、いわば外様の妖怪娘たちは源吾郎にすり寄りたいと思っているが、彼自身はそういうものは望んでいないのだ。源吾郎はもちろん多くの女子(できれば美少女)と深い仲になる事を望んでいる。しかしその結びつきは欲望や打算などではなく、互いの愛情に裏打ちされたものであってほしいのだ。

……深く考えずとも、何かをこじらせた男子の、他愛のない幻想なのかもしれないけれど。

 

 

 腕で支え持つ丸いトレイの上で、飲み物の水面が揺れるのを源吾郎は見た。レモン酎ハイの場所はあそこだったか……そう思って進もうとしたが、前進できなかった。何かが源吾郎の肩をしっかと掴み、動きを阻害していたのだ。

 

「場所が違うわよ、宮坂さん」

 

 声の主は一人の若い女狐だった。若いと言っても源吾郎よりは明らかに年上である。人間に換算すれば二十は超えているであろう。オレンジに近い艶やかな金髪を肩の中ほどまで伸ばし、うなじのあたりできっちりとリボンで結んでいる。面立ちそのものは日本的なのだが、上瞼の縁に沿って孔雀色のアイシャドウを施しているあたり、中々にくっきりとしたメイクである。金髪は妖狐としての彼女の本来の髪色毛色に過ぎないのだろうが、メイクの濃さも相まってギャルっぽさを醸し出していた。無論彼女は単なるギャル妖狐などではないが。

 源吾郎がへどもどして間の抜けた返事をすると、彼女は表情をほとんど変えずに短く告げる。

 

「そのレモン酎ハイは十七番の、あっちのテーブルのオーダーでしょ。

 宮坂さん、あなたちょっとぼやぼやしてるみたいだから、気を付けなさいね」

「解りました、リーダー」

 

 かすれ声で応じると、源吾郎は足早に彼女が指し示した方角へと歩を進めていった。頭数が多いので全員の顔や名前は一致しないし、彼女の名前もまだ知らない。しかし所謂バイトリーダーという立場であると見做され、配膳を行うスタッフたちからは一目を置かれ少し畏れられていた。物言いはきついが指摘内容自体は的を射たものであるからだ。ついでに言えば、彼女が玉藻御前の末裔を堂々と名乗っている所も起因するのかもしれない。

 

 

「やっと……やっとお昼か」

 

 昼休憩の旨をシェフから言い渡されたのは昼過ぎの事だった。宮坂京子として働く源吾郎にとって一番のお楽しみの瞬間が訪れたのも同義である。実を申せば生誕祭で出される料理が楽しみで、今朝の朝食は量を控えていたのだ。立ち働くのに忙しかったのでしばしの間空腹を忘れていたが、女性スタッフは休憩という通達で、今一度空腹を思い出した次第である。

 休憩場所は別の一室が宛がわれていた。中央よりやや部屋の前方に長いテーブルが三台縦長に配置され、その上に皿に盛られた各種の料理と、綺麗な皿やボウル、そしてそれらを載せる四角いトレイなどが置かれてある。

 生誕祭の会場同様、スタッフの昼食も所謂バイキング形式だった。料理は生誕祭用に多めに作っていた物であろう。バイキング形式の方が準備や片づけが楽だからなのか、或いはスタッフにも祝いの席の楽しみを体験してもらおうという粋な計らいなのか。このような形で昼食が用意されている意図は定かではない。

 しかし源吾郎にしてみればそれらの事柄は些末な話だ。生誕祭で供されている料理が、一部とはいえ自分も味わえる。その事こそが大切なのだ。しかも好きなおかずを取り分ける事が出来るから、好きな物ばかり選んでもばちは当たらないだろう。量も多そうだしくいっぱぐれる事もあるまい。源吾郎は呑気にそう思っていたのである。

 料理はいずれも見映え良く、尚且つ美味しそうだった。見た事もないが高級そうな料理もあったし、ボリュームのありそうな肉料理もある。サンドイッチなどと言った見慣れた物も具に趣向を凝らしているようだし……切り分けられたパイや手の平大の小さなパンケーキなどのデザートもある。

 おっしゃとばかりに源吾郎も食器を取り、バイキング会場に向かったのだった。

 

――こんなはずじゃなかったのに……

 数分後。他のスタッフたちが座っていないテーブルを見つけ出し、源吾郎は静かに腰を下ろした。昼食の期待に火照っていたはずの頬は色を失い、若干青白く見える。尻尾は妖術できちんと隠しているのだが、もし顕現していたら死んだ蛇のようにだらりと垂れていただろう。

 源吾郎は無言で戦利品を見た。唐揚げの隅に添えものとして敷かれていたキャベツ。輪切りにされたゆで卵の白身の部分。ほとんど人気が無いらしく、割合手付かずだった冷製サラダ……彼が自分の昼食に調達できた物品である。

 バイキングだから好きな物をゲットできる。この考えは全くの幻想だった。現実には集まっている他のスタッフたちの圧におののき、まともに希望のおかずを取る事すらままならなかったのである。

 いや、実際には一度パイを確保する事は出来た。しかし直後に他のスタッフ――言うまでもなく少女なのだが――が源吾郎に詰め寄り、後生だからそのパイを譲ってくれないかと懇願されたのだ。その様子が切実であまりにも可哀想だったから源吾郎は言葉通りパイを譲った。少女はめっちゃ喜んでくれたし代わりに焼いた厚揚げを譲ってくれたから結果オーライだと思った。「新顔の宮坂さんってチョロいわ」と、パイを受け取った少女が他の仲間に言いふらすのを耳にするまでは。

 

「はぁ……」

 

 楽しみだったはずの昼食の、何と貧相な事であろうか。そんな事を思ったが、その原因はおのれのふがいなさにあるのだから余計にやりきれない。自分でマトモなおかずを調達できなかったのは、料理を選ぶ他のスタッフにしり込みし、ついで体よく利用された為である。おのれの間抜けさ加減は深く考えずとも解り切っていた。玉藻御前の末裔なのに。

――いやいや、休憩時間なのに景気の悪い事を考えてもまずいよな。ショボいものしか無くても、多分美味しいんだよ。それに、お肉とか甘いものとかカロリーの高いものばっかり食べてても太るし。うん、ヘルシーな奴を俺は選んだんだ。

 こじつけめいて無理やり感はあるが、源吾郎はあれこれと自問自答し、テンションを上げようと奮起していた。単純なもので、そうやって考えを巡らせていると今の状況もまんざら悪くないと思えるほどにはなっていた。

 

「――宮坂さん。隣構わないかしら」

 

 金髪のバイトリーダーが源吾郎の許にやって来たのは丁度その時だった。スタッフの非公式ヒエラルキーの中で上位に君臨する彼女は、様々な料理をそのトレイにこんもりと乗せていたのである。




 タイトルに偽りなしです(迫真)


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狐が抱くは素直な気持ち

「だ、大丈夫です……」

 

 しばしトレイに注目していた源吾郎だったが、蚊の鳴くような声で彼女の問いに応じた。仕事面でも手を抜かず他の同僚たちの動きにも目を光らせている彼女が接近した事で、源吾郎は緊張していたし警戒もしていた。

 恐らくは陰険な性格の妖狐ではないだろう。しかし言動や他のスタッフたちの彼女への態度を見るに、実力も発言権も大きそうな感じだ。

 そんな彼女が自分に対して何故近づいているのか? ()()()()の疑問はそこにあった。本来の姿である島崎源吾郎であればいざ知らず、宮坂京子に接近する意図やメリットは特に無いのだ。宮坂京子という妖狐の娘は、兵庫県某所からスタッフとして応募してきた一般妖というバックボーンがあった。玉藻御前とは無関係であるし、玉藻御前の末裔を騙っている訳でもない。

 まさか、昼食の肴代わりに宮坂京子をからかい、小言でも言いに来たのではなかろうか。あまり考えたくないが、その可能性もあり得ると源吾郎は思い始めていた。その事を考えている間、源吾郎の心中は暗いものだった。

 源吾郎は自分で思っている以上に相手の悪意や敵意に弱いのだ。情けない話であるが。

 

「ねぇ宮坂さん」

 

 バイトリーダーはそんな源吾郎の心境などお構いなしに口を開いた。源吾郎は驚きを押し隠しつつ様子を窺った。ショボいものしか選べなかったとかそういう厭味でも言うつもりなのだろうか。しかし、源吾郎に向ける彼女の眼差しには剣呑な気配は何故か無い。

 

「それだけじゃあ足りないでしょ? 私、多めに取り分けてるから気に入った料理があれば分けてあげる」

「…………!」

 

 彼女の口から放たれたのは厭味でも小言でも無かった。源吾郎の瞳はまず驚きの色が浮かび、少し遅れて喜色に染まった。

 とはいえ、あからさまに喜びをあらわにするほど源吾郎も浅はかではない。素直だけど控えめな娘に見えるように返答するにはどうすれば良いか。彼女を見つめつつ考えを練っていたのだ。源吾郎はとっさの受け答えは苦手であるが、少しでも考えるタイミングがあれば、()()()事は出来た。

 

「ここで働くのは初めてでしょ? そりゃあ、誰だって最初はバイキングで好みのおかずを取り分けるのに失敗するけれど、宮坂さんはその度合いが極端すぎたから……」

 

 そういって微笑むバイトリーダーの笑みは慈愛に満ち満ちて優しげだったが、その目の奥にはひんやりとした憐憫の気配も漂っていた。気の毒な妖怪娘だと彼女なりに思っているのだろう。源吾郎は特に気にはしなかった。相手の向ける感情よりも、あきらめかけた美味しい料理にありつけるという事の方が源吾郎には重要だったのだ。

 

「ありがとうございます。それではお言葉に甘えまして……」

 

 気付けば彼女のプレートは源吾郎の側にわずかに寄せられていた。相手の表情をうかがったのも一瞬だけ、後は失礼にならないよう、おかずを貰う事に専念したのだった。

 

 

 バイトリーダーの女狐は米田と名乗った。米田さんは源吾郎がおかずを取り分けるのをしばし見届け、源吾郎が一連の動きを終えるまでは何も言わなかった。

 

「本当にありがとうございます……」

 

 別に良いのよ。源吾郎の心からの礼に対して、彼女は落ち着き払った様子で応じるのみだった。

 

「ああ見えてスタッフの仕事も重労働だからね。食事が少なかったら途中でバテて倒れられても困るし……本当にそれだけの事に過ぎないわ」

 

――うーむ。米田さんはちょっと怖そうだとか怖そうに見えて優しそうだと思ったけれど、これは所謂ツンデレという奴なのかな?

 源吾郎は分けて貰ったパイやミニハンバーグと米田さんを交互に見やりながらぼんやりと思った。どうでも良い話だが源吾郎はツンデレ女子はあまり好みではない。どちらかと言えばいつでも自分に好意を向けてデレてくれる娘の方が好きである。むしろ意中の相手にデレるのは源吾郎の方だが。

 それにね。ツンデレや好みの女子についてあれこれ考えていた源吾郎の耳に、米田さんの声が鋭く入り込む。先程よりも真剣味のある声音だった。

 

「私の方から言っておいてなんだけど、ひとから料理を貰う時は少しは警戒しないといけないわよ? もちろんその料理は安全だけど、もし私が悪心を抱いていたとなれば大変な目に遭ったかもしれないんだから」

 

 源吾郎は一瞬豆鉄砲を喰らった鳩のような様子で目を丸くしたが、素直に彼女の言葉を受け入れる素振りを見せておいた。

 米田さんから料理を分けてもらう時に無警戒だったのは事実だ。しかし、警戒せずとも安全であるという論拠があるとも思っていた。まずここはぱらいそとかいういかがわしい場所ではなく雉鶏精一派公認のイベント・生誕祭の会場である。そこで供される料理に混ぜ物がされているなどという事はまずないだろう。

 それに源吾郎は、薬物毒物を無効化する護符を身に着けているのだ。仮に何かが混入していたとしても、護符が源吾郎の身体を護ってくれる。

 もっとも、それらの事をクドクドと説明すると色々とややこしいので、米田さんの忠告を受け入れた素振りを見せておいたのだ。彼女の言っている事も筋が通り理にかなった話なのだから。

 

 

「配膳とか色々やってるのを見ながら思ったけれど……」

 

 食事も終えて一息ついていると、思い出したように米田さんが口を開いた。彼女の暗い黄金色の瞳は、今や好奇の色でもって源吾郎を見据えている。

 

「あなたって実はお嬢様とかなのかしら?」

「えっ、私がお嬢様に見えるんですか! そんな、私はお嬢様なんかじゃあないですよ」

 

 源吾郎は笑いながら何度も首を振った。仕事慣れしていない態度やバイキングでの戦況を見てお嬢様育ちだと判断したのかもしれない。

 しかし、米田さんがどう思ったとてお嬢様育ちという予測は間違っているのだ。宮坂京子は庶民狐という設定であるし、そもそも男である源吾郎は()()()()()と呼ばれこそすれお嬢様と呼ばれる事はあり得ない事だ。

 

「多分米田さんはご存じかと思いますが、私はごく普通の野狐ですよ。親兄弟も野狐ですし、たまたま夏のバイトでここに応募しただけでして……だから、お嬢様とかでもないですし、その、ここの主催者たちとも無関係なのです」

 

 自分は雉鶏精一派とは無関係な野狐である。その主張を前面に押し出しすぎただろうか。源吾郎は内心過剰に演出し過ぎたかと思っていたが、幸いな事に米田さんは訝りはしなかった。

 

「そんなに力んで説明しなくても、雉鶏精一派とは縁もゆかりもない、外様《とざま》のバイト妖怪も結構いるのよ。一日だけの短期だし、その割にはお給料も良いし何よりお料理も良いからね。

 あなたは初めて働くからちょっと緊張しているみたいだけど、あなたみたいな子はそう珍しくないのよ。まぁ言ってみれば、私も同じような物だし」

「米田さんが私と同じ、それってほんとですか」

 

 思いがけぬところで「同じ」という言葉を耳にし、源吾郎は驚いて身を乗り出してしまった。バイトリーダーとして既に仕事に慣れ切っている彼女と自分には共通点など無いというのに。

 米田さんはしばらく視線を泳がせ、思い出したように口を開いた。

 

「あ、でも確かに違う所もあったわね……私なんかは玉藻御前の末裔を名乗っているけれど、どうやらあなたはそうでもないみたいだし」

 

 玉藻御前の末裔。この単語をどういう意図で出したのか源吾郎には解らない。ただ源吾郎に解るのは、その単語を耳にしておのれが妙に興奮しているという事だけだった。



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玉藻御前をかたる者

 妖怪の社会は実力主義である一方、()()子孫であるのかという点も重要視される。妖力や妖気は子に遺伝するためだ。先祖に大妖怪がいればその子孫も大妖怪であったりその素質があるというのは、妖怪たちの間ではよく知られた話である。

 

 一方、普通の妖怪が名を上げる方法は大きく分けて二つだ。一つは地道に力を蓄えて実力者と見做されるように研鑽する事。そしてもう一つが、大妖怪の子孫を自称する事である。

 大妖怪の子孫を自称する。周囲の妖怪から一目を置かれる事だけを見れば、最も手軽で手っ取り早い方法である。しかし一方でリスキーな言動である事もまた事実である。大本の大妖怪の側からしてみれば、自分とは縁もゆかりのない野良妖怪雑魚妖怪が自分の眷属であると勝手に喧伝するのだ。面白くないと思うものがいても当然の話だ。

 従って大妖怪たちはおのれの血統を騙る手合いに対して独自に対応をしているのだ。その内容は多岐に渡り、問答無用で誅殺する場合もあれば、眷属として迎え入れる場合もある。もっとも、誅殺や拷問などと言う強硬手段を取る大妖怪の場合、野良妖怪たちもそれを恐れておいそれと血縁であるなどと言いだしたりはしないのだが。

 

 偽物の縁者に対して様々な対応を取る大妖怪たちの中で、玉藻御前の子孫たちはどのように対応しているのか。基本的には()()()()()。これが基本体制である。その基本体制がいつどのように出来たのか源吾郎には解らない。祖母の白銀御前が打ち立てたのかもしれないし、母や叔父たちが考えたのかもしれない。

 一見すると穏健で寛大な処置に見えるかもしれないが、何も白銀御前やその子孫たちが思いやりに満ち溢れているからそのような結果に至った訳でもない。

 玉藻御前の末裔は、望む望まぬを別として多くの妖怪から注目され、その動向を探られる運命にある。しかし玉藻御前の末裔を騙る者が大勢いれば、自分たちに向けられる注意も分散されるのではないか……白銀御前や源吾郎の母たちはそのように考えたのだそうだ。以来、玉藻御前の子孫を無断で騙る輩が出てもそれを放置し、好きなようにさせるというスタンスが発生した。もちろんこちらに襲い掛かってくれば抵抗はするが、そうでなければこちらから無闇に彼らを弾圧したり殺傷するのはご法度であるという暗黙のルールを、玉藻御前の子孫たちは護り続けていた。そんなわけであるから、白銀御前を始めとした玉藻御前の縁者たちは自分の親族を騙る偽者に対してはほとんど無関心だった。

 もっとも、玉藻御前の血を誇りに思う源吾郎は、消極的とも投げやりとも取れる親族たちの態度を面白く思ってはいないのだが。

 ゆくゆくは実力を持って相当強くなったら、玉藻御前の血統を騙る輩に相応の対応をしようと思っている。具体的な対応内容は特に決まっていない。一族の中での発言権が大きくなってから、どう対応しようか考えている所でもある。

 

 

 源吾郎は米田さんをまじまじと見つめていた。実は玉藻御前の末裔を騙る者を間近で見たのは彼女が初めてではない。萩尾丸の部下たちにの中にも、玉藻御前の末裔を騙る妖狐は複数名存在していたからだ。

 源吾郎自身は玉藻御前の末裔を騙る不届き者の事は好いていないが……その考えが揺らいでいるのを感じていた。その揺らぎは数か月前から始まっていたのだが、堂々とした振る舞いの米田さんを見ていると、一層揺らぎが強まった気がしたのだ。

 別に美味しそうなおかずを分けて貰ったからだとか、そういう即物的な意味ではない。

 

「玉藻御前の末裔、ですか……」

 

 源吾郎の口からは、間延びしたような声がまろび出ていた。特に演出に頼らない物言いだったが、()()()()の間抜けぶりを遺憾なく発揮した直後だから向こうも違和感を抱いてはいないようだ。

 それに米田さんを見ていると、玉藻御前の末裔を騙るのに十分な素質があるようにさえ思えてきた。金髪をなびかせているので金毛の持ち主だろうし、気が強そうに思えたその顔つきも悪くはない。

 

「やっぱり気になるの?」

「ええ、そりゃあもちろんです」

 

 そう言って頷く源吾郎の仕草もやはり嘘偽りは無かった。良い機会なのかもしれない。源吾郎は密かに思っていた。今までも確かに玉藻御前の末裔を騙る妖狐たちを見てきたし、彼らの言動も耳にした。しかし、彼らが何を思ってその肩書を選んだのか、本質的なところは未だに知らなかった。それも無理からぬ話なのだが。

 

「ええと、その……玉藻御前の末裔を名乗る事でのメリットとか、逆にしんどい事とかあるのかなって思ったんです」

 

 源吾郎は慎重に言葉を選び、自分が疑問に思っている事を米田さんにぶつけた。彼女が実は玉藻御前の末裔などではない事は見抜いている。しかしそれを悟られれば逆に自分の正体がばれてしまうかもしれない。そのように思っていたのだ。

 

「玉藻御前の末裔ねぇ……」

 

 米田さんははっきりとした声で呟き、視線を空のトレイにさまよわせていた。今ならば玉藻御前の末裔を騙る者たちの本音を聞き出せると、源吾郎は宮坂京子として思っていた。何せ宮坂京子は普通の一般妖なのだから。

 あくまでも私個人の話だけど、と前置きをしたうえで米田さんは源吾郎に視線を戻した。

 

「やっぱり仕事面では結構メリットは大きいかな。玉藻御前の末裔って名乗ったら、普通の野狐とは一味も二味も違うって、雇い主もお客も思うもの……もちろん、他にもライバルが多いから、名乗っているだけで満足してたら埋もれてしまうわ」

 

 今はこうして短期バイトに精を出す米田さんであるが、術者をサポートし時に荒事を担う使い魔稼業が本業であるらしい。しかも敢えてパートタイム制で契約をしているので、稼ぎの良さそうな仕事があれば本業とは別にこうして掛け持ちしているのだそうだ。ちなみに、この雉鶏精一派の生誕祭でのバイトも、かれこれ二、三十回目なのだという。

 米田さんによると、玉藻御前の末裔を騙っている事で、術者にあらぬ疑念をかけられて襲撃されるような事は無いそうだ。実際に人間に対して悪事を働くのであれば話は別であるが、玉藻御前の末裔と名乗る事そのものには罪が無いというのが術者たちの判断であるらしい。それどころか、玉藻御前の末裔を使い魔にしたり、協力関係にあるとした方が向こうにとってもメリットは大きいようだ。

 ネームバリューが評価や評判を左右するのは、人間の世界でも同じ事なのだ。

 

「後はまぁ、関西圏だと稲荷の眷属から警戒されるとか、無闇に大妖怪の勢力に注目されちゃうとか、その辺が厄介な所かもね。

 まぁでも、関東だったら玉藻御前の末裔って言ってても稲荷の眷属にはなれるみたいだし、そもそも私は稲荷の眷属とかああいう堅っ苦しいのは興味ないから別に問題ないんだけど。

 大妖怪とかの勢力に目ぇ付けられるって言うのも、それはそれで有名税みたいなもので、その分実力があるって事かもしれないし……」

「そういう、事なんですね……」

 

 源吾郎は感慨深く呟いていた。玉藻御前の末裔と騙る手合いは、勢いに便乗しているだけの輩なのだとさっきまで思っていた。しかし米田さんの話を聞くだに、彼らにも彼らなりの苦労があるみたいだ。米田さんは多くを語らなかったが、源吾郎はそのように解釈していたのだ。

 

「玉藻御前の末裔で思い出したけれど。雉鶏精一派の幹部の一人が本当の玉藻御前の末裔を配下にしたって事で今年は大騒ぎになっていたわね。この生誕祭も本当はそいつが出席するって事になってたし。もっとも、急な体調不良か何かで欠席みたいだけどね」

 

 話題が先程とはわずかに変化した。今までは偽者の玉藻御前の末裔の話だったのだが、今は雉鶏精一派に所属する、本物の方の玉藻御前の末裔の話になっているではないか。

 

「大分と噂になってましたね」

「あ、宮坂さんも気になるのね? やっぱり妖狐界の大貴族・玉藻御前の子孫ってどんな奴なのか、妖狐だったら気になる子もいるわよね。しかも、まだ子供みたいなものなのに、妖力だけは一人前以上だって言われているみたいだし」

「……どう思っているんですか、米田、さん」

 

 米田さんを見据え、宮坂京子は静かに問いかけた。特段内気な娘を演出したわけではなかったが、緊張しているせいでたどたどしい物言いになってしまった。

 唐突で言葉足らずな問いかけだったが、米田さんはきちんと相手の意図をくみ取ってくれたらしい。ほのかに浮かぶその笑みには、大人としての余裕に満ち満ちていた。

 

「どうもこうも、皆浮足立ってるなって思うくらいよ。若い子たちは好き勝手噂しているみたいだけど、その噂も全部が全部本当とも限らないでしょうし。それどころかむしろ――特段騒ぎ立てるような所の見当たらない、却って凡庸な妖狐なのかもしれないなんて思っちゃうんだけどね。

 まぁ、変わり者で鳥妖怪な雉鶏精一派の最高幹部に四か月とはいえ仕え続けているのは凄いんじゃないかしら。鳥妖怪ってうちらみたいな哺乳類妖怪を見下している節もあるし、そうでなくてもあの組織の幹部は曲者揃いって話だし……」

「そ、そうなんですね……」

 

 割合淡々と説明してくれる米田さんに対して笑いかけてみたが、頬が引きつって上手く笑みを作る事が出来なかった。

 米田さんの島崎源吾郎に対する評価はほぼほぼ中立に近い。しかし彼女の放った()()という言葉が、源吾郎の心をざわつかせた。



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イケメンチャラ男雷獣とグラスタワー

 カクヨム版では「弱小妖怪の処世術」「儚く散るはグラスタワー」に相当するお話ですが、文字数の関係上1つのお話に統合しました。


 昼休憩を挟んで以降の源吾郎の働きぶりについて、特段注目すべきポイントは無かった。幹部陣と重臣たちは精力的に飲食を続け、スタッフたちが少なくなった料理を補充したりオーダーのあった飲み物を運んだりする。ただそれだけである。

 

 ウェイトレスとして働くのは源吾郎にとって初めての事だったが、段々とコツが掴めたのではないかと思い始めていた。まぁ単に運ぶ時に焦らなくなっただとか、休憩のタイミングを上手くはかる事が出来るようになったとかその程度の話であるが。

 ()()()()自身は新顔であったが、スタッフたちを監督するマネージャーとか職人気質なコックなどへの覚えは良かった。暇さえあればあれこれ噂話に花を咲かせるスタッフたちと異なり、無口で黙々と働く宮坂京子は真面目に見えたのかもしれない。

 実体としては、正体がバレないかドキドキしながら働いていただけに過ぎないのだけど。

 

 

「おしっ。生ビール二つ用意したぞ」

 

 コックの言葉に反応し、源吾郎はなみなみと注がれた生ビールを運ぼうとした。だがすぐ傍に控えていた鳥妖怪の青年が、半ばひったくるような形でビールジョッキを二つとも手にしてしまったのだ。

 

「生ビールは三國《みくに》様の所だったから、代わりに僕が持って行くよ」

 

 呆然とする源吾郎に対し、ジョッキを持った若者は軽やかな声音で告げた。三國の名だけは知っている。雉鶏精一派の第八幹部であり、種族は確か雷獣だったはずだ。八頭衆の中では末席であり年齢も百五十歳程度と若輩であるのだが、伸びしろがあり過ぎるという所である意味侮れない存在であると、前に萩尾丸から聞いた事があった。

 

「三國様自体はまぁ大人しいんだけど、生誕祭にはほぼほぼ甥の雪羽《ゆきは》殿をお連れしてやって来るからね……雪羽殿も三國様の重臣には違いないんだけれどいかんせん若いから血の気が多くてヤンチャで、僕らもほとほと手を焼いているんだ。三國様達には言えないけれど」

 

 鳥妖怪の若者は低い声で言い切り、うっそりと笑った。エプロンのデザインから、彼は雉鶏精一派に属する妖怪であると源吾郎は気付いた。

 

「もうそろそろお酒も入っている頃だから、雪羽殿の近辺に食事や料理を運ぶのは鳥妖怪とか獣妖怪だったらオスだけにしておくとか、そうしておかないと変なトラブルが発生しかねないからね。

 雪羽殿は酒癖が悪いのにお酒好きなんだ。酔えば手当たり次第に獣妖怪のメスに絡もうとするし」

「それは……何とも……」

 

 源吾郎は全ては言い切らず、言い澱み唇を噛んだ。顔も知らぬ雪羽に対して腹立たしさがこみ上げてきたのだ。酒に酔う愉しみを源吾郎は知らないが、酔いつぶれて女に絡むなどとは言語道断だ。

 鳥妖怪の若者の表情がわずかに変化した。どうやら顔に表情が出てしまっていたようだ。源吾郎は一人の男として雪羽に対して怒りの念を抱いていた。もっとも、そう言った事は鳥妖怪の若者には窺い知れぬものであろう。何せ今の源吾郎は、宮坂京子という妖狐の少女としてそこにいるのだから。

 

「ま、僕もバイトリーダーから教えて貰った事なんだけどね。くれぐれも気を付けてね」

 

 鳥妖怪の若者はそういうなり、そそくさとビールジョッキを持ったままテーブルへと向かっていった。

――鳥妖怪は哺乳類妖怪を見下している。バイトリーダーという言葉から連想したのか、源吾郎は昼休みに聞いた米田さんの言葉を思い出していた。

 

 時間の流れは一定ではなく、当人の置かれた状況によって柔軟に伸び縮みするように感じるものらしい。仕事と仕事の切れ目の間に、ウェイトレスとして立ち働く源吾郎は我に返った気分でそんな事を思っていた。

 まぁ要するに夕方を通り越して短い夜が到来し始めているのだ。そして夜が訪れているというのは、長かった生誕祭のイベントも終わりが見えているという事と同義でもある。同窓会や打ち上げなどの人間のイベントの場合、場所を変えて二次会・三次会と続く事も珍しくないようだが、この生誕祭がどうなのか、その部分は源吾郎もあずかり知らぬ所であった。

 もっとも、仮に幹部たちの間で二次会があったとしても、一介のウェイトレスに過ぎない宮坂京子には何の関係もない話にしかならないのだが。

 ともあれ終わりが見えてきたという事で、緊張し通しだった源吾郎の心中にも安堵感のようなものが広がり始めていた。その頃には源吾郎に割り振られる仕事も飲み物運びと言ったものではなく、使い終わった食器やグラスを厨房に戻したり、不要な使い捨ておしぼりを回収したりと裏方らしい仕事の割合が増えてきたのである。

 生誕祭が終わるのは夜の八時であるが、スタッフたちはそこから更にひと働きせねばならない。幹部や重臣たちは生誕祭で丁々発止のやり取りを行うのが仕事だが、雇われたスタッフはその会場のセッティングとメンテと原状復帰が仕事なのだ。

 もう少しすれば、飾ってある調度品の片づけなども行う事になるだろう。

 

 

 細々とした片づけや作業がひと段落し、厨房近辺に戻っていた源吾郎は、会場全体の景色を俯瞰していた。ぼんやりしている訳ではない。全体像を見て、何をどうすべきか考えていたのである。

――うーむ。やっぱり雉鶏精一派だけあって珍しい調度品が多いのかな。それにしてもあんなものあったっけ?

 源吾郎がそんな事を思ったのは、会場の数か所でシャンデリアめいたきらめきを発見したためだ。本物のシャンデリアではない。会場の照明はシャンデリアではないし、何よりきらめいている物体は天井からぶら下がっているのではなく床からそびえ立っているのだ。高さにして一メートル半から二メートル程度であろうか。

 それが何なのか見定めようと源吾郎は目を細める。化身した少女のそこそこ整った面が歪むが、源吾郎はまるで気にしない。どうやら一つのオブジェではなく、グラスやジョッキを積み上げた代物らしい。

 やっぱり変わったオブジェだなぁ……オブジェの構成を目の当たりにしたものの、源吾郎の感想はそう変わらなかった。古式ゆかしい妖怪組織であるはずの雉鶏精一派が奇妙な調度品やオブジェを抱え持つからそう思ったのかもしれない。本社に鎮座する、胡喜媚を模したとされる名状しがたき異形の彫像や、哮天犬なる恐るべき猛犬を唐竹割りにするような掛け軸などが、奇妙な調度品の筆頭格であろう。

 

「ほらっ! そろそろ片づけに向かうよっ!」

 

 先輩スタッフがスピッツ犬のような甲高い声で皆に呼びかける。源吾郎は彼女の声に反応し、丸盆を持って表会場に出動した。

 その頃にはもう、グラスで構成されたタワーについてあれこれ考えていた事はすっかりと忘れていた。

 

 

「よぅよぅ初めましてぇ~、別嬪《べっぴん》さんよぉ」

 

 間延びした声が()()()()の鼓膜を震わせた。声そのものは悪くは無いのだろう。しかし過剰に摂取したアルコールと、発話者の増長し弛緩した精神のために、その声はひどくだらしない響きを伴っていた。

 むせかえるようなアルコールの匂いを感じながら源吾郎は振り仰いだ。

 そこにいたのは、アライグマの妖怪とカマイタチの若者を取り巻きに侍らせている一人の若者だった。若者、青年というよりもむしろ少年と呼んでも遜色がないほどに、向こうは幼く見えた。

 端的に言って秀麗な見た目の持ち主ではある。癖のある銀髪は繊細な輝きを見せており、獣妖怪でも珍しい翠眼は宝玉のようでもある。幼くあどけなさが抜けないものの、均整の取れた身体つきでもあった。

 しかし卑屈そうな態度を見せる取り巻きを従え、自身もその取り巻きに劣らぬ下卑た笑みを浮かべる様は、本来の見た目が良いために一層醜怪に見えたのである。おのれの容貌にコンプレックスのある源吾郎だが、しかしだからと言って見目の良い同性に無闇に嫉妬する事は無い。しかし、素行の悪い相手では話は別だ。

 要するに、銀髪の少年に対する第一印象は最悪だった。

 

「俺さぁ、全然カワイ子ちゃんが来てくれなくって寂しかったんだぁ。だけど、君が来てくれて嬉しいな」

「ッ!」

 

 間延びした声とは裏腹に、少年は源吾郎の右手首をがっちりと捉えた。獲物を突き殺す白鷺のごとき腕さばきだったのだ。

 源吾郎は無論抵抗できずなすがままだった。日頃行っているお膳立てされた戦闘訓練でさえ、若手妖怪を相手にして後れを取るくらいなのだ。今回のような状況下で、相手をあしらうような動きが出来なかったのもまぁ当然の話であろう。

 源吾郎自身は現時点でも中級妖怪と呼んでも遜色のない妖力の持ち主だ。若手妖怪の中では相当に抜きんでた才覚の持ち主と言えるだろう。しかし――それらの力もしかるべき時にきちんと行使できなければ単なるお飾りでしかないのだ。

 

「緊張しなくて良いんだぜ、お嬢ちゃん。雪羽様は()()()()からさぁ」

「そうそう。雪羽様だけじゃなくて、俺らも()()()()()やるからさぁ」

 

 銀髪の少年の左右に控える取り巻き共がニヤニヤしながら源吾郎に声をかける。優しいだとか可愛がってやるだとかがどういう意味か解らないし解りたくもない。しかし宮坂京子を半ば強引に捕まえて悦に入っている少年こそが、雷園寺雪羽である事がこの度明らかになったのである。

――こいつがあの鳥妖怪の兄さんが言ってた雪羽ってやつか。おべっか使いのイタチ野郎とゴミパンダに傅かれているんじゃあお里が知れてるぜ

 源吾郎は心中では毒づいていたものの、彼自身は雪羽に手を取られ、半ば引きずられるような形で移動する羽目になった。先輩スタッフとかバイトリーダーに見つかったらサボっているだとか何とかとひと悶着ありそうだ。しかし残念ながら、雪羽の拘束を振り払って逃亡できそうにはない。

 なんだかんだ言いつつも、純血の妖怪の膂力・身体能力の前では人間の血も多分に引いている源吾郎はどうにもならない事が往々にしてある。

 とはいえ源吾郎は実はそれほど切羽詰まってもいなかった。雪羽は酔いが回っているし取り巻きの妖怪共もそんなに強い連中でもない。隙を見て逃げ出す事は出来るだろう。それで後でこっそりと紅藤なり萩尾丸なりに告げ口をして、お灸を据えて貰う形にすればいいのだと源吾郎は思っていた。

 

「とりあえず、叔父貴に挨拶しよう、な。ははは、堅物の幹部のオッサンオバハン共がアホばっかりで助かるなぁ。夜の、一番妖怪として大活躍できる時間になる前に生誕祭を終わらせるんだからさぁ!」

 

――酔っているのは解るが、第八幹部の三國様はどういう教育をやってるんだ?

 脳内では好き放題考えを巡らせている源吾郎だったが、現状としては宮坂京子よりも小柄な雪羽に付き添って歩くような形にしかならなかった。

 

 

「あ、おいぃ……何やってんだよお前達ッ!」

 

 執念深く掴まれていたはずの源吾郎の手は案外あっさりと放された。雪羽の関心が、一瞬とはいえ源吾郎から離れたからである。

 雪羽が叔父貴と呼ぶ三國《みくに》を探しているうちに、一行はあの異様なグラスタワーの一つを通りかかろうとしたのだ。その時丁度ウェイターとウェイトレス――ウェイトレスの方はよく見れば米田さんだった――が、グラスタワーを構成するグラスたちを片付けようと手を伸ばしている所だった。

 雪羽は何故かその光景を見るや興奮し、源吾郎そっちのけでウェイターたちの方に向かっていったのだ。

 源吾郎はその時に逃げれば良かったのだ。しかし未だに雪羽の取り巻きが源吾郎を注視していたし、何より唐突な動きに源吾郎自身もびっくりしていた。

 

「何、と言われましても片づけですが……」

 

 ウェイターの青年は雪羽を前にして憐れなほどオロオロしていた。しかし雪羽は引き下がる事無くむしろ一層興奮が高まっただけらしい。金銀に輝く三本の毛足の長い尻尾を腰から顕現させ、不機嫌な猫のようにせわしく振り回している。

 

「片付けだって。それは俺と俺の友達とで頑張って作ったグラスタワーだぞ。それに、誰の許しを得て手を触れているんだこの下郎が!」

 

 先程以上の剣幕で雪羽は吠えている。剣幕を真正面から受けるウェイターの青年はさることながら、源吾郎も取り巻きの妖怪たちさえも無言だった。源吾郎自体は素直に雪羽の言葉に驚いていただけであるが、取り巻きが戸惑っているのかうすら笑いを浮かべているのかは、源吾郎の立ち位置からは判断できない。

 

「下郎という言葉は不適切ですよ、雷園寺殿」

 

 沈黙を破ったのは男たちではなく女狐の米田さんだった。彼女は手近なところに持っていた丸盆を置くと、すっと立ち上がって雪羽に一歩半近付いた。

 

「そちらの方は第五幹部紫苑様の直属の部下ですから、諸般の野良妖怪雑魚妖怪を示すような下郎という表現は間違っておりますわ。

 それに私たちは、こちらのグラスタワーの片づけに関しまして貴方の叔父上である三國様から許可を取って……」

「グダグダと能書きを垂れるんじゃねぇ!」

 

 米田さんの説明は理路整然としていたが、それはむしろ焼け石に水という効果しか生み出さなかった。雪羽は逆上し三尾を逆立て米田さんに猛然と躍りかかったからである。

 

「あっ――!」

 

 短い叫びをあげたのが誰なのか解らない。雪羽の予期せぬ動きに米田さんも退いたのだが、その際にグラスタワーの根元に触れてしまったのだ。



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わがまま雷獣くだを巻く

 米田さんが半身を起こしたのは源吾郎が彼女の許に近付き屈みこんだ丁度その時だった。仰向けに倒れていた彼女は、半ば変化の解けかけた姿を取っていた。明るい黄金色の二尾はらせん状に胴体に絡みつき、毛皮と鋭い爪を具えた両腕は明らかに獣の様相を見せている。倒れる間にもどうにかして身を護ろうと奮起した結果であろう。様子を見るに尻尾で腹部を護り、両腕は顔の前でクロスして胸から上を護っていたらしい。

 結果的には源吾郎が彼女を護った形になるのだが、彼女も彼女なりに自衛していたという事だ。当然の話だ。普通の獣よりも生命力があると言えども、妖怪とて傷を負う事もあるし苦痛を感じるものだ。それに一度に大きなダメージを受ければ命の危険に晒される事も普通にあるし、ケガによるリスクは弱い妖怪の方が大きいのだから。

――米田さん、こう見えて中々修羅場とか乗り切ってるのかも。

 胴体に絡めた尻尾をほどき、両腕を人のそれに戻している米田さんを眺めながら源吾郎は奇妙な感慨に耽っていた。

 米田さんの瞳孔がゆっくりと縮んでいくのを源吾郎は見た。やがて焦点が合い、米田さんは宮坂京子がすぐ傍にいる事に気付いたようだ。

 

「だいじょうぶ?」

「え…………?」

 

 相手の身を案じる短い問いかけが、ごく自然にこぼれ出た。但し源吾郎ではなくて米田さんの口からである。大丈夫、と声をかけるのは()()()()のはずだった。思いがけぬピンチに見舞われたのは米田さんで、それを救出したのが宮坂京子なのだから。

 しかし実際はどうだろう。米田さんは足の生えたクッションに驚いたような視線を向けてはいたが、源吾郎に対しては落ち着いた笑みを見せるだけなのだ。その彼女の金眼に映る源吾郎の顔は、ひどく切羽詰まっているのかもしれない。

 

「……宮坂さん。私たちを助けるためだけに無茶しちゃったんじゃないの? 色々と術が発動するのは何となく解ったけれど、それって宮坂さんが一人でやったんでしょ」

 

 米田さんは源吾郎から視線を外すと首を巡らせて周囲を見渡した。動きは止めたが未だあちこちに転がっているクッション。地面に転がっているものの割れてはいないグラスたち。そして半ばクッションに埋もれて今も呆然と横たわる二匹の妖怪たち。確かにこの光景は源吾郎の術によって成し得た物であった。

 源吾郎が何もしなければ、米田さんを含む三匹の妖怪たちに迫りくるグラスが牙を剥いていたという事である。

 

「ありがとうね宮坂さん。とっさの事だったから本当に助かったわ。それにしても心配させてしまったし無理もさせちゃったかもしれないから、それがちょっと申し訳ないかも」

「いえ、無理なんて――」

「そんな、汗だくだし鼻血まで出しちゃって……本当に大丈夫?」

 

 無理なんてやってません。源吾郎は米田さんにそう伝えるつもりだった。しかし米田さんに今のおのれの状況を的確に伝えられ、源吾郎はぐうの音も出なかった。自分の全身が汗でぬめっている事は把握していたが、まさか鼻血まで出ていたとは。恐らくは血圧が上がったがために細い血管のどこかが切れただけなのだろう。しかし面と向かってその事を指摘されると気恥ずかしい。

 そんな塩梅で米田さんと話していると、先程まで転がっていた二名ももぞもぞと動き出し身を起こした。鶏妖怪の青年はすぐに本性を隠し、ウェイターの青年姿に戻った。訝しげに、そしておどおどした様子を若干見せてはいたものの、すぐに丸盆を手繰り寄せて転がったグラスを拾い始めていた。

 自分たちも先輩に倣って仕事をせねば。雷獣の雪羽が、クッションを跳ね飛ばしつつ身を起こしたのは丁度その時だった。

 

「大丈夫ですか雪羽様」

「明らかに埋もれてましたぜ雪羽様」

 

 それまで茫洋と立ち尽くしていた取り巻きたち、カマイタチとアライグマ妖怪が身を起こした雪羽の許に近付いていった。彼らはグラスの片づけを行ってほしいという宮坂京子の依頼をガン無視していた訳であるが、それを咎めるつもりは源吾郎には無かった。

 彼らが無事である事。それこそが今の源吾郎にとって重要な事だった。

 さて雪羽はとういうとシャバの空気はやっぱり旨いだのなんだのと軽口を叩きつつも元気そうな姿を見せている。

 雪羽については米田さんほどに心配していなかった源吾郎であるが、それでも素直に良かったと安堵していた。確かに雪羽は酒癖も女癖も悪いようだ。しかも今回の事故もある意味自業自得と言えるだろう。それでも目の前で事故に遭って傷つくのを見るのは寝覚めが悪いと、源吾郎は考えていたのである。

 あるいはそれが、源吾郎の甘さなのかもしれないけれど。

 

「どうしたんすか雪羽様」

 

 カマイタチの少年が硬質な尻尾をふりふり雪羽に尋ねる。銀髪に手櫛を通してから立ち上がった雪羽は、見た目相応の少年らしく寄ってきた取り巻きと楽しそうに冗談を言い合っていた。しかし今は違う。源吾郎を――宮坂京子を凝視している。その眼差しは鋭い。妖怪、それもある程度の実力を具えた妖怪の目だと、源吾郎は思った。

 

「なぁお嬢さん――()()()()()()()()()?」

 

 雪羽の唐突な問いかけに源吾郎は即答できなかった。繰り返すが、源吾郎は今宮坂京子という妖狐の少女に化身している。才能も妖力も平均的な、それよりもやや弱い、特段注目されないような存在だ。血統的にも能力的にも雉鶏精一派の幹部やその重臣が興味を引く要素は何処にもないはずだ。

 だからこそ、雪羽の剣呑な問いにうろたえたのである。この質問の答えは二通りある。本当の答えと正しい答えだ。本当の問いはすなわち源吾郎の()()立場――玉藻御前の末裔にして第二幹部の重臣――を示すだろう。しかし、おのれの本性を隠して生誕祭に出席している事を思えば、正しい答えとは言い難い。そもそも、宮坂京子を前にしてそのような質問が飛び出してくる事()()が問題なのだ。

 

「俺たちを助けたあの術……普通の女狐が繰り出すにはいささかでかいし上手いんじゃないかなって思ったんだよ。単に上玉なだけかと思ってたけれど、そっち方面でも興味深そうだなぁ」

 

 少年らしからぬねっとりとした笑みが雪羽の面にふわりと浮かぶ。その笑みを浮かべたまま、取り巻きたちに視線を送る。

 

「なぁ、お前たちはどう思う」

「雪羽様と同じっすよ。あんな術、普通の狐の術なんかじゃないし」

「俺もそう思うよ」

 

 カマイタチがまず意見を述べ、アライグマ妖怪がそれに追従する。彼らの感想もまぁ当然のものかもしれない。この場に居合わせた者たちの中で、グラスタワー崩壊に巻き込まれずに宮坂京子の活躍を目の当たりにしたのだから。

 

「まぁ()()あったけど、君みたいな興味深い娘に会えて俺は満足してるぜ」

 

 源吾郎は未だに黙ったままだった。どう返答すれば良いのか考えていたし、何より本性がばれるのではないかと気が気ではなかった。

 グラスタワー崩壊という事故を「色々」で言い切った雪羽は相変わらず笑みを浮かべ機嫌が良さそうだ。もしかするとまだ酔いが抜けきっていないのかもしれない。

 

「俺さ、本当はちょっと退屈してたんだよ。働いている女の子たちも幹部連中に付き従う女たちも俺の事なんて無視しやがるからさ……

 それに今回は、本当だったら玉藻御前の末裔とやらも出席する予定だったんだろ? でもそいつは急に体調を崩したとかなんかで欠席するって事になっちまったし。

 いやぁ、玉藻御前の末裔が欠席しちまったのは俺も残念だと思ってるよ。ほらアレじゃん。人間の血がかなり濃い癖に最強の妖怪になるっていう野望を持ってるって噂を聞いていたからさ。まぁ言うて、そんなに派手な話が無いって事は、単なるビッグマウスに過ぎないのかもしれんけどな。そこんとこはこの雷園寺雪羽様とは大違いってわけさ。はは、ははは……」

 

 雪羽は雉鶏精一派に加わった玉藻御前の末裔に会えなかった事を悔やんでいる旨の話を行っていたが、主だった内容はその玉藻御前の末裔をこき下ろす事に終始していると言っても問題なかった。

 人間の血がかなり濃い。噂がほとんど無いから大した事は無い……日頃源吾郎が気にしているような事柄を雪羽は言ってのけたのだ。それらの言葉を一言一句あまさず聞いていた源吾郎であったが、憤慨する事は無かった。相変わらず宮坂京子としての演技を続けている事は言うまでもない。但しそれ以上に、雪羽が自分の本性に気付いたのではないかと気が気ではなかったのである。

 

「ああ、すまんなお嬢さん。あんまり愉快な話じゃなかったかな」

 

 雪羽に唐突に謝罪され、源吾郎は一度瞠目し笑みを作った。心中で蠢く動揺を隠し通したと思っていたのだが、どうやら感情の揺らぎを見せてしまったらしい。

 

「話を聞く限りじゃあ、ガムシだかミズスマシとかいうその狐野郎は自分がモテてモテて仕方ねぇって思いこんでる上に、気に入った女にはすぐに唾を付けるような奴らしいんだよな。そんな奴の話を聞いても、女の子だったらいい気分にはならないよな」

 

 雪羽の、名前に関する言葉遊びは面白いと感じた源吾郎であったが、雪羽はまだ酔いが醒め切っておらず、警戒するに値しないと静かに判断した。玉藻御前の末裔について言及するのを聞いた時はヒヤッとしたが、そのネタを材料にして自分を持ち上げる発言しかしていないわけだし。

 そんな事を思っていると、肩のあたりをつつかれた。斜め前に向き合う米田さんが、源吾郎に合図を送っていたのだ。

 

「しんどいかもしれないけれど、そろそろ片づけましょ。他の妖たちも手伝いに来てくれたみたいだし」

「本当ですね!」

 

 崩落したグラスタワーの向こう側から、幾人のスタッフたちが速足で近付いてきている。騒ぎを聞きつけたのか、或いは源吾郎がこっそり放ったチビ狐の幻術に導かれたかのどちらかであろう。

 スタッフたちが訪れたのを見ると、急に元気が沸き上がって来るのを源吾郎は感じた。すぐに彼らと共に片づけの作業に入ろうと思った。

 だが――源吾郎も米田さんも結局は動かなかった。周囲の光景に違和感を覚えたためだ。スタッフたちは数メートル先にいる源吾郎や米田さんたちが見えていないように振舞い、転がったグラスを訝りながら拾っていた。のみならず、崩れたグラスタワーの向こう側は灰紫の靄がかかっているようにも見えた。

 

「雪羽、一体どうしたんだい雪羽……」

 

 スタッフたちが立ち働く逆方向、すなわち源吾郎たちの死角に当たる方角からその声は聞こえてきた。その声は成人男性らしく低く深みがあったが、雪羽の名を口にするときはいっとう優しく甘やかに響いた。

 声のした方に視線を向けると、雷園寺雪羽によく似た容貌の青年と、黒ずくめのワンピースとローブをまとった女性が、寄り添うように佇んでいた。

 

三國(みくに)の叔父貴!」

 

 喜色溢れる雪羽の声から、やって来たのが第八幹部の三國であると源吾郎は悟った。




 米田さん、登場してすぐは「気の強そうなしっかり者のギャル」と言った感じで登場させていましたが、いつの間にか「修羅場を潜り抜けたヒロイン(女傑)」になりました。
 猫蔵ワールドの女性キャラは大体女傑になりますね。


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密談は霧のはざまでおこなわれ

 女妖怪を従え甥の許に駆け付けた三國(みくに)の姿に源吾郎は釘付けになっていた。灰色がかった銀髪や翠眼というよりも暗い琥珀色と呼んだ方が良い瞳など、仔細な部分は甥の雪羽と違う点はあるにはある。しかし顔の造形や雰囲気はよく似ており、血のつながりを感じさせた。

 三國は、一言で言えば荒々しさと優美さを兼ね備えた若い妖怪だった。荒々しい本性を、優美な立ち振る舞いでコーティングしていると言ってもいいであろう。そんな三國の本性は彼のドレスコードから透けて見えていた。

 一応はワイシャツとズボン姿なのだが、ビジネスの場の衣装というには余りにもカジュアルでラフな物だった。ワイシャツは淡いピンク色の地にワインレッドのストライプ模様が走り、さらに言えばそのストライプの間には金糸で縫い取られた稲妻の刺繍があしらわれている。しかも首許を細い鎖のネックレスで飾っていた。カジュアルを通り越して、いっそチャラチャラしていると言っても過言ではなかった。

 下手を打てば悪趣味とも取れる衣装だったが、三國自身の見目が良いために見苦しくもなく不格好でも無いのが源吾郎の心をざわつかせた。凡庸な容姿の持ち主は余程頑張らねばお洒落だと認識されないものだ。その一方で、見目麗しい者はどんな衣装でも様になってしまう。世の中は無常なのだ。

 

 若いエネルギーを持て余したチャラ男めいた姿は、雉鶏精一派の幹部の一端という荘厳な立場にはそぐわないように源吾郎には思えた。実際三國は第八幹部であり、幹部陣である八頭衆の中での地位は最下位だ。しかも百五十歳程度と、大妖怪としてだけではなく一般妖怪として見てもまだまだ若者の部類に入る。

 八頭衆の末席で、妖怪としても若い。しかしその事実があるからと言って源吾郎は三國を軽んじていた訳ではない。()()()()()。年長の幹部たちの間から末席だの若輩だの言われながらも幹部の座を護り続けている事は並大抵の事ではないと思っていたし、そもそも妖怪としての実力は源吾郎よりも遥かに上回っているのだから。

 それどころか源吾郎は三國の佇まいや放つ妖気に圧され気味だった。若き大妖怪というものを、自分は初めて目の当たりにしたのだと源吾郎は思っていた。

 もちろん、身近な大妖怪ならば紅藤や萩尾丸が該当する。しかし三國が漂わせる大妖怪としての気配や風格は紅藤たちのそれとは大いに異なっていた。大妖怪からも畏れられる紅藤は言うに及ばず、萩尾丸ですら無闇におのれの妖気をひけらかし、不必要に威圧的な気配を漂わせる事は無かった。

――萩尾丸先輩って見た目がアレだから若い妖怪かなって思ったけれど、若作りしているだけだったんだなぁ。まぁ、考えてみれば母様よりも年上だし。

 真に若い大妖怪と向き合いながら、源吾郎は取り留めもない事を考えていた。大妖怪になり、その上で最強になる事を目指していた源吾郎であったが、一口に大妖怪と言っても格の違いがある事に、たった今気づいたのである。源吾郎自身がその大妖怪に匹敵する存在に到達するまでの道のりは未だ険しいと言えども。

 

 

「みーくん。認識阻害の結界の準備できたよ」

 

 三國のすぐ傍で聞こえてきたのは女の声だった。親愛と甘えと若干の媚を含んだその声の主は、三國のすぐ隣にいた。黒のロングワンピースに黒いローブを纏った女妖怪である。彼女の背後では、薄紫の()()がゆるゆると蠢いている。風もないのに揺らめくローブの表面には、黒糸で虎柄を想起させる刺繍が施され、ローブかワンピースに付属するリボンは蛇の鱗模様だ。どうやら三國と共に現れ、術を行使した女怪は鵺らしい。

 

「ありがとう月華(げっか)。大体何分ぐらい持つかな?」

「えーと、三分ぐらいは余裕で持つと思うよ。みーくんテキパキやるのが得意だから、三分もあれば大丈夫だよね?」

「大丈夫大丈夫。ああほんと、月華はいつ見てもいい女だよね。仕事面でも有能だし、プライベートの方も……へへへ……ま、俺が見込んだだけあるよ」

 

 月華と名乗った鵺女との会話に三國はしばしの間没頭していた。警戒して様子を窺う妖狐のウェイトレスはおろか、実の甥である雪羽の事さえそっちのけである。

 しかしそれにしても二人の会話は甘ったるいものだった。恐らく月華は三國の重臣の一人なのだろう。しかし、先の会話を聞いてそれだけの関係だと思うものはいまい。

 不意に目撃してしまったゲロ甘展開に源吾郎が目を白黒させていると、月華の視線が源吾郎や米田さんに向けられた。

 

「こんばんは狐さんたち。私は月華って言うの。雉鶏精一派第八幹部・雷獣の三國様のサポート役だと思ってくれれば大丈夫よ。

 さっきは驚かせてごめんね? 結界の中に入れられちゃったから驚いたかな? だけど三國様と雪羽君との会話が終わったらすぐに解除するから気にしないでね」

「…………」

 

 源吾郎は思わず助けを求めるように米田さんをちらと見た。月華の説明は何というか突っ込みどころが多すぎた。先の説明で源吾郎が納得できたのは月華が三國の部下であるという点だけである。

 結界を張ったうえで謝罪されても一方的に行った事には違いないし、そもそも叔父が甥と会話するにあたってわざわざ結界を用意する必要性を感じない。仮に必要性があると三國が判断していたとしても、それは甥の振る舞いに後ろめたさを感じているという事になるのではないか……源吾郎はもう既にクタクタになっていたが、疑問は脳内を駆け巡り落ち着きそうになかった。

 米田さんと視線が絡み合う。彼女が源吾郎の意図を汲み取ってくれたのか否かは定かではない。米田さんは微笑むと、驚いて何も言えない源吾郎の代わりとばかりに口を開いた。

 

「ええ、私どもは大丈夫です」

 

 米田さんは短く、しかしきっぱりとした調子でそんな事を言っただけだった。源吾郎とは対照的に驚きの色は無く、妙に落ち着いた表情を見せてさえいる。

 大丈夫で済まされる内容ではなかろうに……源吾郎はそう思っていたが、そんな事は誰も意に介さない。

 三國の関心は既に月華から甥の雪羽に移っていた。

 

「さて雪羽。お前のいる辺りで何か派手な動きがあったように思えたけれど、また何かしでかしたのかい?」

「ま、まぁね」

 

 三國の優しげな問いかけに対して、雪羽は照れたように応じている。そこには気恥ずかしさが入り混じっているものの、悪事が露呈した事への後ろめたさや罪悪感は無い。

 

「グラスタワーをそこの狐が片づけようとしてたんだ。それが気になって近付いたら急に崩れちゃって……あ、でも俺は大丈夫だよ。傍にいた狐の女の子が、術を繰り出して俺たちを助けてくれたからさ」

 

 源吾郎の瞳がぐっと引き絞られる。雪羽の証言が真実とは違う事に目ざとく気付いたからだ。

 

「それじゃあ特に大した事は無いんだね」

 

 しかし、三國は鷹揚にそう言っただけだった。結界で周囲を遮蔽した所から既に気付いていたが、やはり三國には雪羽を叱責する意図でここに来たわけではないようだ。

 それよりもさ。雪羽は興奮に頬を火照らせ源吾郎たちを指差す。三尾が揺らめき、床を鞭のように叩いてさえいた。

 

「叔父貴、そこの狐の女の子凄かったんだぜ。さっき言ったけど、グラスタワーが崩れちゃったときに、めちゃくちゃにならないように術を使ってくれたんだ。フツーの見た目の良い女の子かなって思ってたんだけど、もしかしたら良いとこのお姫様かも」

「雪羽は何を珍しがってるんだい?」

 

 興奮冷めやらぬ様子の雪羽とは対照的に、三國は不思議そうに首をかしげている。

 

「そこにいる狐の女の子って、玉藻御前の末裔を名乗っている事で有名な米田さんじゃないか。まぁ確かに努力家なんだろうけれど、雪羽が興奮するほど凄い娘だったっけ?」

「違うよ叔父貴。俺が言ってるのはこっちの娘だよ」

 

 雪羽は今一度源吾郎を指し示した。ああ、この子の事か……三國は呟き、その顔に意味深な笑みが拡がる。

 

「確かに興味深そうな子だね。凄いじゃないか雪羽。ウェイターもウェイトレスも大勢いるのに、この子を見出す事が出来たなんて……」

 

 三國は興味深そうな視線を宮坂京子に向けていたが、尻尾を揺らしている雪羽の方に向き直った。

 

「それじゃあ雪羽、今あった事をおさらいするね。そこの狐の子を見つけて一緒にブラブラしている最中に、たまたまグラスタワーが崩れる所に出くわした。そういう事だよね」

「そうだよ叔父貴!」

 

 叔父の確認に雪羽は元気良く応じる。三國は一層笑みを深め、頷いた。

 

「そうか、それなら良かったよ。()()()()()()()()からね」

 

――問題が無いだって。ふざけた事を……

 三國と雪羽。血のつながった叔父と甥の微笑ましいやり取りを見聞きしていた源吾郎は、言いようのない怒りを感じ始めていた。雪羽は悪事をおくびにも出さず白々しい嘘を口にしている訳であるし、三國は真実を知りつつも雪羽の言動を事実として受け取ろうとしている。

 源吾郎の怒りは、悪事が隠蔽される事への義憤とは少し違っていた。その要素もあるにはある。だがそれ以上に彼が感じていたのは()()()()()だった。雪羽は叔父の三國に懐き甘えているが、源吾郎は叔父である苅藻や叔母であるいちかに懐いていた。しかし苅藻やいちかは、源吾郎が懐き甘えるのを容認したが、必要以上に甘やかす事は無かった。むしろ実の両親以上に厳しい一面を見せる事さえあったくらいだ。少なくとも、悪事の隠蔽など彼らは決して赦しはしないだろう。

 躾のなっていない甥をあくまでも甘やかそうとする叔父の姿。それが道義上よろしくない事は解っていても、羨望や嫉妬と言った俗っぽい感情が浮かんでくるのは抑えられなかった。




 島崎君を甘やかしてくれたのはお父さんくらいなのです。
 末息子だったので、お父さんも甘くなっていたのでしょうね。


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鴉の浄眼 秘密を暴く

 眼前で繰り広げられる叔父と甥のやり取りについて大いに思うところのあった源吾郎であるが、とはいえそれを口にする事は無かった。

 日頃威勢の良い部分のある源吾郎と言えども、幹部の座を護る大妖怪に咬みつくような無謀な真似は行わない。ましてや不要なトラブルを避けるために敢えて宮坂京子として活動しているのだ。

 源吾郎はだから、無言で三國や雪羽を睨みつけるだけに留めておいた。

 

「おやおや」

 

 三國(みくに)の視線が今一度源吾郎に向けられる。自分たちを取り囲む霧が濃くなった気がした。もしかすると霧の使い手である月華が何かをしたのかもしれない。

 

「仔狐ちゃん。さっきからずっと俺や俺の可愛い甥っ子を睨んでいるけれど、何か不満でもあるのかね?」

 

 三國のその問いかけに、源吾郎は一度びくりと身を震わせた。三國の鋭い視線は稲妻のようであったし、低くも明瞭に発音するその声は雷鳴のようであった。雷になじみがある雷獣としての特性と、大妖怪としての圧に源吾郎はおののいたのだ。

 そうして宮坂京子が怯えの色を見せているのは三國もすぐに気付いたらしい。口許に懐っこそうな笑みを作り、今度は先程よりも幾分柔らかい調子で言葉を続けた。

 

「何かあるんだったら遠慮なく言っても良いんだよ。何、俺や甥っ子がそれぞれ大妖怪だったり力のある妖怪だったりするからって遠慮しなくても構わないよ。

 今は機嫌がいいし、何かと得体の知れない八頭衆の中では一番優しくて親しみやすいって言われてもいるんだ……さぁ思っている事を言ってみたまえ」

 

 優しく促されたものの、源吾郎は口を開くつもりは無かった。極度に緊張していた事もあるが、流石に自分が抱いている怒りの念を口にしたら三國の機嫌を損ねるであろう事は、いかな源吾郎とて解っていた。

 それに自分を優しいと称する三國の言を信じられずにいた。優しいなどと自称する手合いに本当に優しい者などいたためしがない事は源吾郎も知っている。

 まごまごしている数秒の間に三國の笑みは変質した。つい先程まで上辺だけとはいえ優しさを繕っていたはずが、今では獣性丸出しの獰猛な笑みにすり替わっていた。

 

「……いや、言いたくないのなら言わなくても構わないよ。わざわざ君の口から言ってもらわずとも、君が何に不満を抱いているのか、大方こちらは気付いているからね。

 本当の事を大人たちに言いたくて仕方が無いんだろう? 俺たちが何か隠蔽工作をしているとか何とかってね」

「……!」

 

 ここで源吾郎は思わず声を上げそうになり、さり気なく口許に手をやった。まだ汗で所々ぬめっていたが、その汗も部位によっては乾き始めている。

――こちらの腹の底が判っているにもかかわらずそういう問いかけを投げてきたのか。全くもって良い性格をなさっているものだ。

 皮肉っぽく心中で毒づく源吾郎を前に、三國は泰然と構えていた。

 

「狐は賢いから無闇なもめ事は起こさないしもめ事の種も判ると思っていたけれど、仔狐だったら話は別なのかもしれないね……

 本来だったら躾の一つや二つ入れてやった方が良いんだろうねぇ。ああ、大丈夫だよ仔狐ちゃん。俺は八頭衆の中では末席だけど、優しさランキングを組んだらぶっちぎり一位になれると思ってる。要はそれだけ優しいって事さ」

 

 優しい、と言ったその直後、三國の瞳孔が針のように引き絞られた。野獣のごときその眼差しは酷薄そのもので、優しさなど一ミクロンも感じられない。

 

「三國様」

 

 黙りこくる源吾郎の傍らで口を開いたのは何と米田さんだった。

 

「この子は……宮坂さん、は単に三國様に驚いて睨んでいるように見えただけだと私は思うのです。

 お気づきかと思いますがこの子は新参ですし、こうして生誕祭に参加するのも初めてですから。差し出がましい話ですが、大目に見て頂きたいと私は思うのです」

 

 相手の出方をうかがいつつも、凛とした調子で言ってのける米田さんの姿を源吾郎は一瞥していた。助け舟を出された事は確かにありがたい。しかしそれ以上に驚きの念が強かった。

 と、今までぼんやりと三國の言葉を聞いていた雪羽も、翠眼を瞬かせながら頷いた。

 

「俺もそこの狐の姉さんの言うとおりだと思うんだ。ウェイトレスの顔なんて覚えてないけれど、何となく去年まではここに来てない娘だと思うし。

 それに叔父貴。叔父貴はいつも俺には『女の子は柔らかくて繊細でフワッとしてるから優しく接しないと駄目』だって言ってたじゃないか。だからその……そうやってそこの狐の女の子を責め立てるのは、言葉責めだったとしても叔父貴らしくないと思うんだ」

 

 米田さんと、雪羽の意見を耳にした三國の表情が目に見えて和らいだ。というよりも、先程までの鋭い表情こそが偽りだったかのような印象さえ脳裏に浮上してくるほどだ。

 三國は笑みをたたえ、まず甥である雪羽の方に顔を向けた。三國は源吾郎を顎で示しつつこの子が可愛い女の子に見えるのか、と雪羽に問いかけている。雪羽はあからさまに訝り首をひねっていたが、奇妙な問答はそこであっさりと打ち切られた。三國の視線は今度は源吾郎に向けられている。

 

「あは、あはははは……仔狐ちゃん。君は中々運が良いというか、人望に篤いみたいだねぇ。いかな妖狐が魅了の術に長けているとはいえ、我が甥にして雷園寺家の跡取り息子たる雪羽を籠絡してしまうなんてねぇ。前途有望というか、ちと末恐ろしい所もあるみたいだな、君は。

 まぁそれはそれとして、雪羽や米田さんが何と言おうが、そもそも俺自身は君が何かを思っているからと言ってどうにかしようなんて思ってはいないさ。ふふふ、何なら雷園寺家次期当主に免じてって言ってやってもいいけどね」

 

 源吾郎は相槌を打つのも忘れて三國の言葉を聞くだけだった。三國は穏やかでフランクな態度を見せているが、それでも本能が警鐘を鳴らし続けていた。油断しては、ならぬと。

 

「でもね、これだけは覚えておくと良い。君の態度を不問にするのは、()()俺が温情をかけただけではないという事をね」

 

――やはりそう来たか。

 三國が再び鋭い眼光でこちらを見つめてきた。想定の範囲内なので源吾郎はさほど驚きはしなかった。若い妖怪であるが故の気安さと気性の烈しさを、三國は上手い塩梅に使い分けているように源吾郎には思えた。

 

「仔狐ちゃん。君だって実は明るみにされたくない秘密を抱えているんだろう?」

「――!」

 

 三國はすっと屈みこみ、わざわざおのれの目線を源吾郎の目線に合わせた。獣そのものの眼差しを前に、源吾郎は何も言わなかった。黙秘によって切り抜けようとしていたのだが、そもそもその態度こそが答えそのものだった。

 

「誰だって触れられたくない秘密の一つや二つはあるものさ。だけど、それをわざわざほじくり返して晒し者にするのは粋な男のする事じゃあない。仔狐ちゃん、君もそう思うだろう?」

「はい……そう思います」

 

 アルコールの香りは三國からもしっかりと漂っていた。彼の言が酔いに任せたものなのか素面でも変わらないのかは定かではない。しかし源吾郎はか細い声で応じるのがやっとだった。

 表向きはしおらしく従順に返事をしたように見えるが、その返事が本心からのものではないのは言うまでもない。甥の悪事を隠蔽する事と玉藻御前の末裔である事を隠して潜入している事。確かにどちらも秘密には変わりない。しかし一方は純然たる悪事に過ぎず、他方は悪事というよりも方便と言った方がふさわしい。もちろん源吾郎の正体が明るみになるのは好ましくないが、その事を黙っておくから悪事を見過ごせなどと言う主張が通るものなのだろうか?

 あれこれ考えながら、源吾郎は未だにおのれが無力なのだと痛感していた。三國はおのれの妖力で威圧し、ついで甥の肩書を持ち出して道理が通らぬ事を通そうとし、半ばそれに成功した。実力や強さがあればどうにでもなるという、妖怪社会の根底に通じる実力主義の厳しさに、源吾郎は良くも悪くも出くわしたのである。おのれに力があれば、それこそ力で三國と雪羽を黙らせて逆に従わせる事が出来たのに、とも思っていた。力で三國をねじ伏せるという考えは、もちろん源吾郎の他愛のない夢想である。源吾郎の実際の実力では、雪羽相手でも相当てこずるであろうから。

 とはいえ、源吾郎も三國の事を黙っておくつもりは無かった。後で紅藤や萩尾丸たちに合流したときに、彼らにこの事は密告しようと考えていたのだ。萩尾丸辺りに相談すれば、上手い塩梅に三國と雪羽に報いる事が出来るだろうし。

 さて三國はというと、聞き分けの良いそぶりを見せる宮坂京子の姿に満足し、腹の底で相手が何を考えているかまでは気にしようとはしていないようだ。彼は満足げに微笑み、ふっと息を吐いてから言葉を紡ぎだした。

 

「良かった、良かった。これで交渉成立だね。仔狐ちゃん。君はたまたまここでスタッフとして働いているだけの妖狐に過ぎず、甥の雪羽は単にグラスタワーが崩れる所に居合わせ――」

 

 三國は最後まで言い切らなかった。周囲の異変に気付き、当惑と驚きにその顔を強張らせたからだ。隣で静かに控えていた月華が鋭く息を呑む音が聞こえた。

 源吾郎は、源吾郎たちもそこで異変に気付いた。自分たちを取り囲んでいたもやがさっぱりと消え失せていたのだ。それは鵺である月華が操っていた認識阻害の結界が解除された事を意味する。しかし三國と月華の表情を見るだに、彼らにとっても予想外の出来事のようだ。

 

「は、灰高様!」

 

 上ずった声で三國が半ば叫ぶようにしてその名を呼ぶ。源吾郎も思わず身体を曲げ、三國が注目する先に視線を向けた。

 灰高と呼ばれる妖怪の事を源吾郎はもちろん知っている。八頭衆の一人、つまりは雉鶏精一派の幹部の一員である。序列は第四幹部であるが、幹部たちの中では最年長である事、鴉天狗の将軍として元々は雉鶏精一派と対立していたという事実のために、他の幹部たちからも一目を置かれているという。

 その灰高は、一見するとロマンスグレーの髪色と和の要素を含んだスーツに身を包む紳士のような印象をもたらした。しかし柔和に細められた瞳には何やら油断ならぬものが見え隠れしている。大妖怪の紅藤が「灰高のお兄様」と呼びならわすだけの存在とも言えるだろう。

 灰高は堂々とした足取りで三國たちが集まっている所に近付いていた。三國も月華も戸惑いつつもそれをただ見守っているだけである。三國の若手妖怪らしい尊大な気配も、月華の鵺らしい気配もなりを潜めている。

 

「面白そうな気配がしたからやって来たんですが、三國さん。あなたはそこの鵺を使って結界みたいなものを張り巡らしていたんですね」

 

 三國と月華は何も言わないが、気にせず灰高は続ける。

 

「まさか、私があの程度の結界を破れないとでもお思いだったのでしょうか? 鵺と言っても所詮は鳥の名を騙る哺乳類ですからね……せめて夜雀にでも頼んだら良かったのではないですか。まぁ、太陽を司る鴉の前では、鵺の暗雲も夜雀の闇も消し飛びますがね」

 

 それにしても。灰高は周囲にさっと視線を走らせてから今一度三國を見た。

 

「相談事があるのなら、わざわざ結界を張って行わなくても良かったんじゃあありませんか? あなた方だけでは妙案が浮かばない場合もあるでしょうに……水臭いですね」

「水臭いも何も、身内の話に勝手に割り込むのは野暮というものですよ」

 

 三國が弱弱しく抗議すると、灰高は笑ったまま言葉を続けた。

 

「おやおや。野暮とかそういう言葉を持ち出して、自分の行動を正当化するつもりですか? 三國さん。私どもが何も言わないからと言って、あなたの甥の振る舞いを許容しているとでもお思いですか?」

「…………」

 

 冷徹さを孕む灰高の言葉に対し、三國は何も言えずにいるようだった。その顔は驚きと悔しさに歪んでいる。

 

「丁度私もこの後緊急の幹部会議を開こうと思っておりまして、メインの議題の前座として、雷園寺雪羽君の話でも致しましょう。心配する必要はありませんとも、あなたの甥御殿、雷園寺家次期当主の処遇の話はあくまでもオマケです。本命の議題がありますからね」

 

 灰高の最後の言葉は謎めいて意味深だった。だがその灰高は三國から視線を外すと宮坂京子、すなわち源吾郎に視線を向けたのだ。のみならず、さも当然のように歩み寄って来る。

 

「三國さんと月華さん。第二幹部の擁する若き妖狐・玉藻御前の末裔だという少年はこの度急病で欠席だと雉仙女殿から連絡がありましたよね。しかしそれは嘘なのですよ」

 

 灰高は未だへたり込む宮坂京子の肩にそっと手を添えた。灰高の持つ妖力の一部が源吾郎の許に流れ込む。相手に無理やり妖気を流し込み、変化術を解くという強引なやり方だ。前に萩尾丸に同じ事をされていたから、灰高が行おうとしている事は源吾郎にも解った。

 しかし、解っている事と対応できる事はまた別問題である。灰高のもたらした刺激により、源吾郎が維持し続けていた変化はあっさりと解除された。

 

「さぁよく見てごらんなさい。玉藻御前の末裔は()()()()()んですよ!」

 

 灰高が朗々とした声で言い放つその時には、宮坂京子の虚像は消え失せていた。本来の姿に戻った源吾郎は、四尾を丸めうなだれるほかなかったのである。



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古参幹部が物申す

 頭目である胡琉安を支える八頭衆は、文字通り八名の妖怪で構成される幹部集団だ。第一幹部、第二幹部……と幹部たちの間でも序列が出来ているのは周知の事実である。

 ()()()、八頭衆のパワーバランスはそれだけで説明できるほど単純ではない。

 八頭衆の権限の大きさで見た区分分けは多岐に渡るが、上位の幹部たちは妖力・権力・発言力共に大きな猛者ばかりである事は言うまでもない。

 特に第一幹部から第四幹部までの上位四名は八頭衆の中でも「古参幹部」「上位幹部」と称されていた。

 彼らが特別視されるのは、初代頭目の胡喜媚が生きていた頃を知っているからに他ならない。この四名の幹部の内訳は、新体制の雉鶏精一派の立て直しを図った功労者であったり、雉鶏精一派に関与していた者だったりと、雉鶏精一派に相当縁深い存在である――第一幹部から第三幹部までは。

 初代頭目である胡喜媚と直接的に関与している面々で構成される古参幹部の中において、第四幹部である灰高だけは異質な存在ともいえる。元々は胡喜媚とは無関係の組織に属し、それどころか何度も矛を交えた事さえあるくらいなのだから。

 そんな灰高が何故雉鶏精一派に属し、あまつさえ幹部になっているのかは定かではない。古参幹部の中では一番地位が低いとはいえないがしろに出来ない存在である事だけは明らかである。雉鶏精一派との関係性を抜きにしたとしても、灰高自身は鴉天狗、それも八、九百年の歳月を過ごし妖力と経験を蓄えた老齢な鴉天狗なのだから。

 

 灰高に妖気の流れを乱された源吾郎は、彼本来の姿でそこにうずくまっていた。全長一メートル半にも及ぶ四尾は放射線状に伸びている。普段ならばこの長大な四尾の長さを調節できるのだが、強引に変化を解除された直後という事もあり、野放図に尻尾を垂らしてしまったのだ。

 グラスタワーはもう既に片づけられており、源吾郎の飛び出した尻尾が悪影響をもたらす事は無い。しかし傍にいた米田さんや雪羽に尻尾の一部が触れていた。

 源吾郎は顔を上げて尻尾の長さを調整する。妖狐などの獣妖怪の尻尾をモフモフと気安く触るというシチュエーションはフィクションの世界だけなのだ。

 顔を上げた源吾郎は、多くの妖怪たちが自分に注目している事に気付いた。露天で行われる大道芸を見にきた観衆のように源吾郎たちを取り巻いている。ここまで数が多いのは、グラスタワーの残骸を片付けていた面々に加え、灰高の声に釣られてやって来たからなのかもしれない。

 源吾郎は無言だったが、それは向こうも同じだった。驚いて呆気に取られているようにも見える。思いがけぬ出来事を目にした時、何がどうなっているのかきちんと把握できないのは、妖怪であっても同じ事なのだ。

 

「う、うせやろっ!」

 

 妙に張り詰めた静寂を打ち破ったのは雪羽の叫びだった。源吾郎を見据える翠眼は驚きで揺らめいている。

 

「そんな、俺はお前の事をただの狐の女の子だと思ってたのに! まさか男が女子に化けて、しかもそいつが玉藻御前の末裔だなんて……!」

 

 ひとしきりおのれの疑問と驚きをぶつけると、雪羽は叔父の三國《みくに》に視線を向けた。灰高の登場で目を白黒させていたらしいが、雪羽の視線に気づくと大人らしく落ち着いた笑みを浮かべて頷いた。

 

「そりゃあ驚くよね、雪羽」

 

 三國はそれだけしか言わなかった。しかし源吾郎には三國がどう思っているのか知るに十分過ぎた。雪羽とは違い、やはり三國は源吾郎が宮坂京子に化身している事は見抜いていたらしい。

 だが今の源吾郎の関心はこの雷獣たちではない。その背後にいる観衆の動向が気になった。三國と雪羽のやり取りがきっかけだったのだろう。彼らも口々にしゃべりだしたのだ。

 

「銀白色の四尾にあの面立ち……あいつ本物じゃね?」

「欠席だって聞いてたけどあれ嘘だったのか」

「それにしても女の子に化身してたよな」

「女子に紛れて仕事してたとか、玉藻御前の末裔と言えどもキモすぎるんだけど」

 

 一応は小声であるものの、観衆たる若妖怪たちは遠慮なく率直に思った事を口々に言い合っていた。彼らが驚き色々な感想を抱く気持ちは解らなくもない。源吾郎とて同じ立場だったら大層驚くであろうから。

 しかし相手の気持ちが解るからと言って、今置かれている状況を大人しく受け入れられるか否かは別問題である。動物園のジャイアントパンダ、もしくは珍奇な見世物小屋で養われる異形に向けられるような眼差しを、源吾郎は全身に受けていた。驚きの展開が続いた事で精神的に疲弊していたが、それでも羞恥心は源吾郎の中にあった。

 

「諸君、そこまで騒ぎ立てるのはやめたまえ」

 

 低い声で周囲の若手妖怪たちに告げたのは、第八幹部の三國だった。彼の視線は若手妖怪に向けられ、それから源吾郎や雪羽に注がれる。

 灰高の存在にうろたえていたと言えども三國とて大妖怪である。彼の言葉に若い妖怪たちは驚き、ひそひそと囁く事さえピタリとやんだ。

 三國はやや安堵したように息を吐いてから、灰高をまっすぐ見据える。

 

「……それにしても灰高様。わざわざこの事を明るみにする必要があったのですか」

 

 この事とは無論源吾郎が宮坂京子というウェイトレスに化けていた事を示すのであろう。三國の思いつめたような問いに対し、灰高は未だにうっすらと微笑んでいる。

 

「事の重大さを正しく把握していないようですね、三國さん」

 

 上辺だけの笑みを作った灰高の視線は、一瞬源吾郎に向けられた。

 

「私もそこの狐がただの野狐であったのならば、他の幹部の手下であったとしても何も言いはしませんよ。ですが彼は玉藻御前の末裔、それも一族の中でも野心に取り憑かれ現時点でも高い妖力を持つ輩です。その彼がわざわざ私たちを欺いたという事実は、我々八頭衆であれば見逃してはならないと思いませんか。

 この狐の曾祖母は千変万化に変化し時の権力者を惑わせました。その子孫たる祖母や母親は表立った悪事は働いていませんが、しかしいずれも狡猾な女狐には違いありません。その女狐の血を受け継ぎ女狐に育てられた彼を警戒するのは至極まっとうな事ですよ」

「そこまでクドクドと仰らずとも、俺とて彼が化身していた事は見抜いていましたよ」

 

 灰高の長広舌を一旦聞き入れてから三國が声をあげる。小型犬の吠え声に似た、切羽詰まった物が見え隠れしている。

 

「血統的にはとんでもない逸材かもしれませんが、それでも僕たちに歯向かう程無謀な輩でもないでしょう。第六幹部殿の定例報告でも、上司である第二幹部によく従っていると言われているじゃないですか」

 

 それに……三國は言葉を切り、すぐ傍にいる雪羽をちらと見た。

 

「彼は先程、僕の甥を助けるために動いてくれたんです。甥は事故に巻き込まれかけたのですが、彼が力を振るってくれたお陰で大事には至らなかったんですよ。

 それに僕が彼の正体に気付いたのも、力を振るった後の事ですし……」

 

 三國の言葉はある意味本性を隠して働いていた源吾郎をかばうような発言と言えるだろう。ところが源吾郎はそんな三國の発言を複雑な心境で聞いていた。事故を未然に防ぎ、雪羽を救った事には変わりない。しかしそれは結果に過ぎない。源吾郎は積極的に雪羽を助けようとした訳ではなかった。どちらかと言えば、巻き添えを喰らいかけた米田さんや鶏妖怪の若者を助けようとして動いただけに過ぎない。だから、()()()()()()()()()と感謝されるとどうにも収まりが悪いのだ。

 

「その狐が大事な大事な甥御殿を助けたから、彼の本性や意図に目をつぶると言いたいんですね、三國さん。全くもって愚かしい――」

 

 甥御殿、と告げる灰高の言葉には、明らかに侮蔑と皮肉が混じっていた。

 

「そもそも甥御殿が巻き込まれそうになったのは事故ではなく単なる自業自得なのではないですか? いつものように乱痴気騒ぎを行っていたのでしょうし。

 それにしても、三國さんも変わりましたね。若い頃はそれこそ今の甥御殿のようにただただ遊び呆けて気に入らない相手には力を示そうとしていましたが、近親者の立場を巧く利用できるような知恵がついて、さかしくなりましたねぇ。

 甥御殿である雪羽君を大切にしているのも、雪羽君の父親で君の兄でもある雷園寺家の婿君から貰う養育費が目当てなのでしょうし。適当に面倒を見るだけで自動的にお金が入るんですから苦労はしませんよね」

「さっきから大人しくしていれば適当な事ばかりベラベラとのたまいやがって」

 

 三國の表情と口調が一変した。先程までは年長者という事もあって灰高に対して丁寧な口調で話していた彼だったが、今や敬語も恭順な態度もかなぐり捨てている。

 まなじりを釣り上げ背後で七、八本の尻尾を逆立てている三國は明らかに機嫌を損ねていた。灰高の言葉がきっかけであるのは言うまでもない。灰高の指摘が図星だったからなのか、或いは別の理由があるのか。今の状況では源吾郎には判らなかった。

 

「部外者であるあんたに何が解る。良いか、雪羽は――」

 

 周囲で小さな稲妻を放ちつつ言葉を続ける三國だったが、最後まで言い切る事は無かった。呆然と成り行きを見つめる観衆をかき分けて一人の闖入者《ちんにゅうしゃ》が三國たちの前に姿を現した為である。

 

「あ……」

 

 訪れた闖入者を前に、源吾郎は声を漏らした。やって来たのは第六幹部の萩尾丸だったのだ。萩尾丸の登場に驚いている一方で、安堵してもいた。萩尾丸ならばどうにかしてくれる。そのような信頼感を源吾郎は萩尾丸に抱いているのだ。

 

「何やら大騒ぎになっているみたいですが、一体何事ですか」

 

 萩尾丸はまず集まっている観衆に視線を向けてから、三國や灰高に問いかける。激昂していたはずの三國は気まずそうに尾を垂らし、萩尾丸から視線を外した。他の妖怪たちも似た塩梅である。

 唯一冷静さを崩さないのは灰高のみだった。彼は天狗らしい笑みを萩尾丸に向けていた。

 

「おや、これは萩尾丸さんではないですか。大騒ぎと言いますか、あなた好みの面白い状況が出来たものでして――アレをごらんなさい」

 

 面白い状況と言ってから灰高が示したのは源吾郎だった。萩尾丸も源吾郎を見た。怪訝そうな萩尾丸の表情が、一瞬強い驚きと当惑に染まったのを源吾郎は見逃さなかった。

 

「失礼ですが、アレの何が面白いとお思いで?」

「とぼけなくても構わないのですよ、萩尾丸さん」

 

 萩尾丸はぼんやりとした問いを投げかけ、灰高は臆する事なくそれを受け取っていた。

 

「あなたの事だから血気盛んな少年のしくじりを見て喜んでくれると思ったのですが、あてが外れましたね。一応状況をお伝えしますね。第二幹部殿配下である玉藻御前の末裔は本日病欠という話でしたが、()()()()ウェイトレスに変化して紛れ込んでいたんですよ。今の今まで何も騒ぎが起きていないという事は、上手に本性を隠し演じ切っていたのでしょうね。しかし三國さんの甥御殿のおイタに巻き込まれた時に力を振るってくれたので、私も彼の存在に気付けました」

 

 灰高のかいつまんだ説明は、さらりと雪羽の行状にも触れてあった。萩尾丸の目つきが鋭くなる。その視線は源吾郎にも向けられたが、思わず目を伏せてしまった。兄弟子または第六幹部として何か聞きたい事があるのだろうが、怖いし混乱しているしで何か言えるような状況ではなかった。

 

「萩尾丸さん。第二幹部殿の傍で働いているあなたならば、彼の腹の底はご存じでしょう。もしかすると、病欠になった事と我々を欺き、陰で何か画策していた事も考えられませんか?」

「島崎君の変化を解いたのは、灰高様ですね?」

 

 萩尾丸はあくまでも穏やかな口調で灰高に問いかけていた。灰高は何も言わなかったが、笑みを深めただけだった。

 呆れたように息を吐き、萩尾丸は言い添える。

 

「どういう意図でそんな事をなさったのかは解りません。ですが、()()()はどう思われるでしょうね?」

 

 萩尾丸の言葉は問いかけの体を保っていた。しかし実体は源吾郎をかばい、ついで余計な事をした灰高への脅し文句である。

 萩尾丸が第六幹部でありつつ紅藤の重臣である事、莫大な妖力と多彩な妖術を保有する紅藤が八頭衆の中では段違いの存在である事を鑑みれば、相当に効果的な脅し文句であろう。

 しかし――灰高は萩尾丸の言葉に怯む素振りなど見せなかった。むしろねっとりとした笑みを浮かべる程である。

 

「あはっ、あはははは、上手い塩梅に術中に嵌ってくれたね萩尾丸さん。ここで雉仙女殿の名を出したという事は、あの狐が変化して紛れ込んでいたのはあなた方の差し金であると認めた事になるのですよ」

「…………ッ」

 

 勝ち誇ったように言い放つ灰高を前に萩尾丸は歯噛みしているようだった。畳みかけるように灰高が続ける。

 

「ついでに申し上げますと、雉仙女殿から玉藻御前の末裔が欠席だという事を聞いていた時から、薄々こんな事だろうなと思っていたのですよ。

 しかしそれにしても面白い事になりましたなぁ。玉藻御前の末裔はトップの指示で周囲を欺いていて、ついでやりたい放題だった第八幹部の甥御殿にもお灸を据える事が出来ますし」

「面白がっている余裕なんてあるんですか、灰高様」

 

 萩尾丸の声音はあくまでも落ち着いていたが、それが一層彼の心中の烈しさを物語っているようだった。

 

「三國君の事はさておき、島崎君の件でのあなたの行為は、紅藤様への明らかな敵対行為とみなされる可能性だってあるんですよ」

()()()()()というのです? ()()()私が彼女ごときに怯むとでも?」

 

 ケロリとした表情で言ってのける灰高を前に、今度こそ萩尾丸は絶句していた。灰高の力量がどれくらいのものなのか源吾郎には解らない。しかし紅藤を敵に回しても怖くないというその発言は、はったりや強がりではないように思えたのだ。



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八頭衆の揃い踏み

 周囲には重々しい沈黙が流れていた。耳が痛くなるような沈黙の中、時間が長く引き伸ばされたような錯覚を源吾郎が抱くほどに。

 紅藤を怖れぬという灰高の言葉に、誰も彼も驚き切っていたのだ。あの萩尾丸でさえ絶句したほどなのだ。幹部と言えどもまだまだ若さの抜けない三國などがあれこれ言及できるだろうか。他の若手妖怪たちも同様だ。

 しかし、この沈黙を打破する次なる動きがあったのは、そんなに時間が経っていなかったらしい。

 

「皆一体どうしたの。この騒ぎは何かしら……」

 

 長い裳裾を翻しながら灰高たちの所に近付いたのは紅藤だった。いや、他の八頭衆のメンバーもいるようだ。

 ただ、先頭を歩いているのが紅藤というだけの話である。

 

「紅藤様」

「紅藤様」

 

 灰高と萩尾丸がほぼ同時に紅藤に呼びかける。しかし完全にシンクロしたわけではなく、微妙にタイミングがずれていた。もっとも、二人の呼びかけで決定的に異なるのはタイミングではなくその声に込められた感情だった。

 紅藤が歩を止めると、他の幹部たちも足を止めた。幹部たちだけではなく彼らに従う重臣たちもいるのかもしれない。しかし源吾郎には誰が誰なのかよく解らなかった。大妖怪や実力のある妖怪たちが集まっているのであろう事は解るが、馴染みのある紅藤だけが浮き上がるように存在して、それ以外はおぼろな存在であるようにも思えた。

 そんな風に感じるのは、源吾郎が紅藤や萩尾丸以外の幹部たちの顔を、あまり覚えていないからなのかもしれない。

 集まって源吾郎を見物していた若手妖怪たちはいつの間にかいなくなっていた。きっと八頭衆が集結するのに驚いて、別な仕事をする体で退散したのだろう。

 

「ようやくお出ましになりましたか。雉仙女殿、いえ紅藤様」

「胡琉安様と少し話し込んでおりまして。遅かったでしょうか」

 

 灰高の呼びかけに対し、胡琉安という思いがけぬ名を紅藤はさらりと出した。

 

「この度の生誕祭の主賓は胡琉安様なのですから……それに()()と言えども会う機会も少ないですし、色々と息子の身を案じて話し合うのは当然の事だと思うのですがいかが思われますか」

「そう言えば、雉仙女殿は第二幹部である前に、胡琉安様の()()()でありましたねぇ……」

 

 息子とご母堂。胡琉安を巡る関係性を示す言葉を、紅藤も灰高も殊更に強調しているようだった。口調こそどちらも穏やかな物であったが、丁寧であるからこそ却って不穏な気配が見え隠れしているように源吾郎には感じられた。

 さて雉仙女殿。灰高は源吾郎をちらと一瞥してから紅藤に声をかける。

 

「あの狐はいったいどういう事でしょうか。私どもには病欠であると連絡を入れていたようですが、実際にはこの会場にいます。それも別の存在に変化した状態で」

「そうね、その通りね灰高のお兄様」

 

 源吾郎を一瞥してから紅藤も呟く。その声は思っていたよりも落ち着き払っていた。

 

「島崎君が病欠であると皆様に伝え、その上でスタッフに変化させて紛れ込ませたのも、私の一存で考えた事ですわ。もし皆様を混乱させてしまったのならばここで謝罪いたします」

「べ、紅藤様……!」

 

 あまりにも堂々とした物言いに、八頭衆の面々の中にも驚きたじろいだ者もいたらしい。どよめく声がさざ波のように広がっていく。

 もっとも紅藤の宣言は灰高の心を揺らすには至らかなかったようだが。

 それよりも意外な事に、先の紅藤の発言で最も強く驚いているのは何と萩尾丸だったのだ。

 

「良いのですか紅藤様。今回の島崎君の動きは、私が考えて紅藤様に提案なさったのですから……」

「良いのよ萩尾丸」

 

 就職間もない若者のようにうろたえる萩尾丸に対し、紅藤は淡く微笑んだだけだった。

 

「案の出所が誰であれ、その案を認めて使おうと思ったのは()()()()()よ。だから今回の案件も、私に責任があると考えているわ。

 私の言った事や考えに逆らえないのは、萩尾丸も島崎君も同じなのだから」

 

 紅藤様……呟く萩尾丸のその面には、師範への尊敬の念がありありと滲んでいた。やはり彼は紅藤の弟子、一番弟子なのだと源吾郎は思い知った。

 

「――灰高のお兄様。そして他の幹部の皆様。会議になるのならば場所を変えて話を続けましょう。議題が二つもあるという事ですし、きっと立ち話では済まないでしょうから」

 

 背筋を伸ばして告げる紅藤の声は、そう大きくはないはずなのにはっきりと聞こえた。

 

「その会議とやら、あたしは参加しないからね」

 

 数秒も待たぬうちに蓮っ葉な声が響く。硬質な足音と共に紅藤のすぐ傍にやって来たのは第一幹部の峰白だった。やり手のエグゼクティブよろしくスーツ姿の彼女は、興醒めした様子で紅藤とその周囲に集まる妖怪たちを睥睨していた。

 

「緊急の会議と言っても、第八幹部の所のどら息子の処遇と、紅藤の所の狐の話でしょ。まぁ色々と込み入った話になるかもしれないけれど、所詮は幹部勢の中で解決できる話に過ぎないわ。八頭衆の人員整理に繋がる訳でもないでしょうし……」

 

 峰白はそこまで言うと、紅藤を凝視した。

 

「まぁ要するに今回の会議で私は特に意見は無いって事ね。強いて言うならば、紅藤、あんたの意見が私の意見になるとでも思ってくれれば問題ないわ。

 そんなに大事になる事は無いと思ってるし、万が一誰かを()()()って事があれば、それだけ連絡して頂戴」

「……承知しましたわ、峰白のお姉様」

 

 それじゃあ私は戻るわね。言いたい事を言いきったのか、晴れやかな表情で峰白は幹部たちの集まりから離れていった。

 

「折角胡琉安様のお祝い事だというのに、幹部たちがあのお方をほっぽって内輪もめの後始末をするなんておかしな話でしょ。胡琉安様はもう一人前のお方ですが、それでもいい気分はなさらないでしょうし」

 

 峰白は鳥妖怪らしく早歩きも得意らしい。素早く足を動かしているようには見えなかったが、彼女の姿はすぐに遠ざかっていった。

 

「そ、それでは関係者の方は会場に移りましょうか。部下に連絡して、空き部屋を一つ確保しておりますので」

 

 峰白の姿が見えなくなってから、控えめな調子で萩尾丸が言った。

 かくして生誕祭の会場だというのに緊急の幹部会議が始まってしまうという文字通り緊急事態が出来したのである。

 騒動の発端となった源吾郎と雪羽がこの会議に連行されるのは言うまでもない話である。それ以外には重要参考妖として、米田さんと鶏妖怪の青年、そして雪羽の取り巻きだった妖怪たちも会議に参加させられる事と相成った。



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白き雷獣の四面楚歌

 八頭衆が緊急会議にと選んだ部屋は、奇しくも源吾郎や他のスタッフたちが昼休憩に使ったのと同じ部屋だった。バイキング会場だった時とはテーブルや椅子の配置が変化している。テーブルは両側の壁際に沿って配置されていた。もちろんテーブルに向かう形で座るように意図されたレイアウトなのだろうが、その一方で部屋の中央にも単なる椅子が五、六脚置かれている。

 

 結局のところ、テーブルの傍に着席したのは八頭衆たちであり、中央の椅子に座らされたのは源吾郎たちだった。

 大阪一等地のホテルという事もあり椅子も上等な物であったが、その椅子の座り心地の良さやデザインの上品さに感心する余裕は今の源吾郎には無かった。

 妖力を一気に消耗した疲れはある程度収まっていたが、今の源吾郎の心中は強い緊張状態にあった為である。ドキドキワクワクで言い表せられるような可愛い代物ではない。口を開ければ裏返った内臓が飛び出すのではないかと思うほどに緊張していたのだ。

 言うまでもない話だが、源吾郎の緊張の理由は隣に座る狐娘の米田さんではない。おのれに鋭い視線を向ける大妖怪たちの存在の為だった。

 源吾郎にとって救いなのは、ここまで緊張し震えているのが自分だけではない、という事だった。雪羽の取り巻きであるカマイタチとアライグマも仲良く椅子をくっつけて恐怖をひた隠しにしようと奮起していた。彼らも彼らなりに事の重大さを把握したらしい。雪羽から離れた所に椅子を置きなおし、その上で大妖怪たちの視線に晒されていた。

 今回の緊急会議の元凶である雷園寺雪羽も緊張状態にあるらしかった。酔いが回って紅潮していたはずの頬はすっかり血の気を失い、むしろ額や首筋には蒼い静脈が浮き上がっている。呆然としているようにも静かに憤慨しているようにも見える表情だったが、少なくとも取り巻きたちよりは落ち着き、若いながらも威厳を示していた。

 その名の通りの白皙の面も相まって、やはり彼もまた青い血を宿す妖怪なのだろうと思わしめるものがあるにはあった。

 

「一体全体、()()()ってどういう意味で仰られたんですかね、皆さん」

 

 張り詰めていた静寂を打ち破ったのは三國の声だった。切羽詰まった響きを伴っている。

 

「前もって言っておきますが、雷園寺雪羽を害するという事であれば、俺は徹底して闘いますよ。八頭衆の上位幹部だろうと何だろうと関係は無いからな」

 

 三國は未だに自席に座していたが、状況次第では立ち上がって他の誰かに躍りかかりそうな気配を見せていた。灰色の髪が揺れ、周囲でやはり小さな放電が起きている。ある意味雪羽によく似た叔父だった。

 

「まぁまぁ三國君。そんなにいきり立ちなさんな」

 

 ひょうひょうとした声音で三國を制したのは萩尾丸だった。灰高を前にした時とは異なり、普段通りの余裕たっぷりの表情を――取り繕っているだけかもしれないが――彼は見せている。

 

「峰白様はあくまでも間引く場合があれば、と仰っただけに過ぎないんだよ。甥っ子を可愛がるのは構わないけれど、変な所で過剰に反応してああだこうだ言い募るのは却って不利になるだけだと思うんだけどなぁ……

 そもそも、雪羽君の処遇については紅藤様が決定なさると僕は思っているんだ。何せ君の甥っ子は、紅藤様が可愛がっている島崎君にちょっかいをかけたんだからさ。

 それに――峰白様が雷園寺家の肩書()()()で怯む御仁だと思わないようにね。そんな事を言えば、もしかしたら翌々日には()()()()()()()()が亡くなっている、なんて事もあるかもしれないよ?」

 

 そうですよね、紅藤様。いささか物騒な萩尾丸の言葉に対して、紅藤は重々しく頷いていた。

 

「……峰白のお姉様はいささか物騒な物言いをなさったのだと私は思っているわ。もちろん、雷園寺君をそのままお咎めなしにするつもりはありませんが」

 

 紅藤の言葉が終わると、他の幹部たちもそうだとばかりに頷いている。その中には灰高の姿もあった。生誕祭に集うスタッフたちが雪羽の言動に用心していた事は源吾郎も知っていた。しかし幹部たちもそれなりに気にしていたとは。

 

「もっとも、懲罰が必要なのは雷園寺君の保護者である三國殿も同じでしょうねぇ。雷園寺君の行状はさておき、それを指導するのは保護者の責任でもあるのですから」

 

 どっしりとした声音で言ったのは第四幹部の灰高だった。

 

「あ、でも三國さん。降格処分は多分無いと思いますから、凹まなくて良いんじゃないですかね」

 

 灰高の隣席に控える若い男の姿をした妖怪が、ひょうひょうとした様子で言い放つ。双睛鳥と名乗る鳥妖怪である。大陸風の名前であるものの、彼は西欧に住まう魔鳥・コカトリスの血を引いているのだそうだ。そのためか、その風貌は何処となくバタ臭さが漂っている。

 先祖のような猛毒や相手を死に至らしめる邪眼を持たないものの、その両目には魔力が宿っているそうだ。

 三國共々八頭衆の中ではかなりの若手であり、ゆえに将来の伸びを期待された若手ともいえる存在だった。

 

「だって三國さんは第八幹部でしょ。僕らみたいに下がいる幹部たちだと降格処分はあるだろうけれど、流石に第八幹部から下に転落する事は無いかなって……」

 

 言いながら、双睛鳥は偏光眼鏡の奥で探るような眼差しを他の幹部たちに向けていた。年若い第七幹部の言に真っ先に反応したのは紅藤である。

 

「そもそも幹部の定員も四名までだったのよ。峰白のお姉様に無理を言って今の八頭衆にしてもらった訳ですから、第九幹部・第十幹部と席次を作るのはもうできないわ。あんまり増やしても、幹部の意味合いも薄れるでしょうし」

 

 紅藤の言葉を皮切りに、第三幹部から第七幹部までの妖怪たちがそれぞれ意見を口にし始めた。自分の手下に適任者はいないかだとか、まさか紅藤様はこのどさくさに紛れて飼い狐を幹部に据えるのではないかだとか、ある意味取り留めのない話題である。

 緊張していた事も相まって、源吾郎はそれらを遠い世界の出来事が語られているような気持ちで聞き流していた。明確な序列がある八頭衆の幹部システムであるが、実の所下克上や地位剥奪なども存在する流動的な物である事は源吾郎も知っている。

 それよりも、めったにお目にかかれない八頭衆の話し合う姿そのものに源吾郎は緊張も忘れて興味を惹かれた。優劣はあると言えどもいずれも並の妖怪とは言い難い大妖怪揃いである。それでも彼らの意見の出し方や仕草、話し方などからははっきりと個性が垣間見える。しかも強そうな見た目だから強い意見を出すとも限らないあたりが中々に興味深い。

 

「あのぅ……そろそろ、本題に入りましょう」

 

 議論ともつかぬ意見が何回か飛び交った後、第三幹部の緑樹が口を開いた。彼は酒呑童子を祖父に持ち、神通力を持った妖怪仙人である白猿を父に持つ、由緒ある大妖怪である。二メートル近い頑健そうな巨躯と、凶悪そうに見える強面は、酒呑童子に連なる者である事を暗に示していた。

 但し――立派な先祖の血統とは裏腹に、緑樹自身は内気で大人しい性質の持ち主のようだが。彼の穏和な気質は、先程の声掛けにも如実に表れていると言えよう。

 

「そうだね緑樹さん。あんまりああだこうだと私たちが話しても、話題の論点がずれていくだけですから」

 

 灰高はすぐ上の幹部の言葉に鷹揚に頷くと、周囲をぐるりと見渡した。

 どうやら今回の司会進行は灰高が行いたがっているらしい。天狗というのは鴉天狗であれ大天狗であれ出しゃばりというかリーダー気質が強いから、ある意味灰高がこうして司会役を買って出たがるのも当然の話なのかもしれない。

 

「ひとまずは、雷園寺君が今日何をしでかしたのか、その辺りをはっきりさせようじゃありませんか」

 

 一音一音はっきりと発音し、灰高は周囲を、いや源吾郎たちに視線を向けた。猛禽やそれ以上に獰猛な生物の視線に、源吾郎はびくっと身を震わせてしまった。もっとも、それは雪羽や彼の取り巻きも同じだったが。

 

「あらかじめ言っておくけれど、正直に答えた方が身のためですからね。私や萩尾丸さんの術があれば、あなた方の意思とは無関係に喋らせる事は出来ますが……そういう事を若い子にするのは流石に心が痛みます」

 

 気安い笑みと共に灰高は言ってのける。心にもないリップサービスだろうと思ったが、無論そんな事はおくびには出さない。術云々の話以前に、源吾郎は問われれば真実を語るつもりでいたわけであるし。

 そんな灰高の視線は、まず雪羽に向けられた。

 

「雷園寺君。私が来た時には君が作ったという馬鹿げたグラスタワーは既に崩落した後だったけれど、あれは偶然だったのかな。それとも、君がグラスタワーを片付けようとしたスタッフと揉み合いになったからなのかな?」

 

 優しげに問いかける灰高を見ながら、雪羽が唇を舐める。彼は確かに何かを言いかけた。しかしその声よりも大きくはっきりとした声が、雪羽の主張をかき消した。

 

「確かに、雷園寺はグラスタワーを片付けようとしたウェイターたちに突っかかったんですよ。揉み合いじゃあないですけれど、彼の剣幕に驚いてスタッフの一人が転んだのがきっかけだったので……」

「そう、そうなんですよ。俺たちはそんな事をしたら駄目だって彼を止めたんですけどね」

 

 声の主は雪羽の取り巻きだった二匹の妖怪たちである。雪羽があるじだと言わんばかりに付き従っていた彼らは、至極あっさりと雪羽の非を認めた。というよりも、切羽詰まりつつも若干の媚を孕んだその声には、悪事狼藉を一切合切雪羽に押し付けようという気概さえ感じられるほどだった。

 灰高は興味深そうにおとがいを撫でていたが、視線を源吾郎たちに向けた。相違ないかと問われ、源吾郎は素直に頷いた。米田さんも鳥妖怪の若者も同じように振舞っているからまぁ問題は無かろう。

 

「結局のところ、たまたまその場に玉藻御前の末裔が、島崎君が居合わせて術を行使したから大事には至らなかったようですね。しかし何故ウェイトレスに扮していた島崎君が、雷園寺君の傍にいたのでしょうか?」

「それは――」

 

 灰高は雪羽たちを注視していたが、源吾郎は気にせず声をあげた。

 

「俺、いや僕は雷園寺さんに捕まってしまったんですよ。あの時雷園寺さんは相当酔っていて、それで僕を単なる妖狐の女の子だと思って、何のつもりか解りませんが捕まえて連れまわしていたんです! そういう事もあって、僕はグラスタワーの崩壊に居合わせたんです」

「島崎君の意見に相違はないかな」

「彼の主張は嘘ではない、と私は信じます」

 

 灰高の事実確認にまず応じてくれたのは米田さんだった。彼女の声を聞いて、源吾郎は不思議と安心した心持ちになっていた。

 

「私はあくまでも雷園寺さんが彼を引き連れてグラスタワーの傍まで来ていた所を目撃しただけですが、雷園寺さんは彼の手首を掴んで、半ば強引に引っ張る形で歩いていたような印象を受けました。

 少なくとも、島崎君が彼自身の意思で同行しているようには見えませんでした」

「うん。俺もそれは思った」

 

 米田さんの主張を裏付けるように、鶏妖怪の青年も鳩のように頷いている。

 

「雷園寺は昔から女癖が悪いと思ってたんですよ。今回も、嫌がってるのに無理やり連れてきてましたし」

 

 取り巻きのカマイタチは呆れ声でそんな事を言ってのけた。まるで、自分は雪羽の蛮行を止められなかったと悔いている常識人のような物言いである。もちろん、もう一匹のアライグマの方も同調している。

――いやいやいや、こいつらウェイトレスに化けた俺を雪羽の奴が捕まえるのを見て面白がってたじゃないか。灰高様とか、大妖怪に睨まれてるから手のひらを返したんだな。

 

「成程。無理やりウェイトレスの女子を連れて行こうとしたんですね。まぁ、いつもの雷園寺君の様子を見ていたらそんな感じだと思いましたよ。

 さてここからが本題です。雷園寺君、あなたは相手が島崎君だと解った上であのような事をしたのですか」

「違う、違いますっ!」

 

 雷園寺雪羽はここで初めてはっきりとした主張を灰高にぶつけた。その声音には流石に媚も恐怖もない。むしろそこはかとない怒りの念がこもっていた。

 

「俺は純粋に可愛い女の子だと思ったから声をかけたんだ。そんな、まさか女装趣味の変態狐だと解ってたら声なんてかけなかった。それだけさ!」

 

 案の定、雪羽は宮坂京子が源吾郎の変化である事に気付いていなかったらしい。だが源吾郎はその事実よりも自分がしれっと変態呼ばわりされている事の方が気になって仕方が無かった。

 確かに源吾郎は少女に化身する事がままあるが、あくまでも女子会などに混入し女子の好みをリサーチするためだけに使っている。破廉恥な目的は一切介在しないから、それを変態呼ばわりするのはおかしいだろう。しかも雪羽は品行方正な少年ではなくむしろ女好きである。

 俺が変態ならお前はドスケベだろうが……大妖怪たちの視線も忘れ、源吾郎は一人静かに憤怒していた。




 旗色が悪くなると取り巻きたちが手の平を返すのはよくある事ですよね。
 それはさておき変態とドスケベ……どっちもアレですよね。


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雷園寺家の家庭事情

「……雷園寺君。あなたの言動は不適切だったと断言いたしますわ」

 

 咳払いの後に、紅藤ははっきりと言い放った。

 

「島崎君の化身を見抜けずに普通のウェイトレスだと思って捕まえたという事ですが、そもそもその行為自体が問題なのよ。生誕祭と言えども仕事の一環でもある訳だし、ウェイターやウェイトレスたちは、あなた達に絡まれるのが仕事ではないわ。

 もちろん、仮にあなたが島崎君と解って絡んだとしても、問題行動である事には変わりませんが」

 

 結局のところ、紅藤は雷園寺雪羽に非があると断定してくれるようだ。そう思っていると、隣に控える萩尾丸がニヤニヤしながら言い添えた。

 

()()()()()()ギルティ判定は避けられないって事だよ、雷園寺君」

 

 萩尾丸の言葉を受け、雪羽がぶるっと痙攣するのを源吾郎は見た。だがそんな妖怪少年の言動など気にせずに萩尾丸は続ける。

 

「しかもさ、君は事もあろうに第二幹部の秘蔵っ子たる島崎君の事を変態呼ばわりしたんだよ。それって島崎君の事を侮辱したって事になるよね。あーあ、自分から罪を重ねていくなんて。口は禍の元とはよく言ったものさ」

 

 軽いノリで言っているものの、萩尾丸の言葉には説得力しかなかった。炎上トークを巧みに操る彼だからこその言であるとも言えるだろう。

 ついでに言えば、異性愛者《ヘテロセクシャル》ではない萩尾丸が変態呼ばわりを注意したというのも注目に値する話だ。妖怪の恋愛事情は人間のそれよりも緩いが、それでもやはり異性愛が普通であると思われている節はあるにはある。種族によってまちまちではあるが。

 

「……やっぱり、雷園寺家の跡取りだとか何とかって言って、甘やかされているからなんですよ。その報いを受ける時が来たってやつですね」

 

――紅藤や萩尾丸の言葉にある意味元気づけられ、源吾郎はしばし緊張していたのを忘れていた。だからこそ、雪羽に対する当てつけめいた言葉が出てきたのだ。

 

「それは違うぞ島崎源吾郎」

 

 源吾郎の呟きを拾い取ったのは、雪羽の叔父である三國だった。声音は割合落ち着いたものだったが、静かな怒りを源吾郎はひしひしと感じた。

 

「甘やかされて育てられた事を糾弾されるのはむしろお前の方であり、お前ごときに雪羽の生い立ちを糾弾する資格はないんだ。何の愁いもなく()()()()の許で育ったお前にはな」

 

 三國の主張に源吾郎は目を白黒させた。確かに自分がお坊ちゃま育ちである自覚はあるにはある。人間との混血と言えども玉藻御前の血統である為に貴族と見做される事もまだ解る。

 しかし、甘やかされているという論拠として提示した三國の言葉に引っかかるものがあった。

 違和感を覚え、しかしどうすれば良いのか解らないでいるうちにも、三國の言葉は続いた。

 

「いずれ両親のどちらかがいなくなるだとか、直截的に引き離されるのではないかという心配を抱いた事はお前にはあるか。親族から疎まれ、あまつさえ生命を狙われた経験がお前にはあるか。謂れのない事で他の兄弟や親族ばかりが尊ばれ、ないがしろにされた事がお前にあるか。

――どれもお前には()()()()()()()だろう。()()()()何故雪羽を甘やかしているなどと断定できるんだ?」

「う……」

 

 源吾郎の喉から意味のない音が漏れる。三國に反駁するつもりはない。というよりも色々な考えが源吾郎の脳裏で巡り、それを処理するので精いっぱいだった。

 はじめのうち、雷園寺雪羽の事は跡取りの癖に躾の悪い悪たれ小僧だと無邪気に思っていた。叔父であるはずの三國が跡取りである事を強調していたからなおの事。

 しかし三國のこの怒涛の主張を耳にするまでに、引っかかる発言は幾つかあった。灰高は三國が雪羽を養っている理由について揶揄していたが、その時も感情をあらわにしていたではないか。

 そもそも、跡取り息子というのが別の組織に属する叔父の許に身を寄せているというのも不自然だ。修行の一環で実家を離れる事はあるだろうが、三國の態度からして雪羽を稽古づけている感じでもなかったし。

 

「三國さん。ここはひとまず雪羽君の境遇についてお話してはいかが? 島崎君はともかくとして、私たちも込み入った事は知らないし」

「……言われなくても話すつもりです」

 

 第五幹部・紫苑の落ち着いた様子の提案に対し、三國は即答する。

 

「まぁ皆さんもご存じの通り、雪羽は俺の甥にあたります。雷園寺家に婿入りした兄の長男ですからね。

 雪羽が雷園寺家の次期当主である事は事実でしたし、その事実は揺るがないと俺は信じています。雪羽の母親は三十年前まで雷園寺家の当主でした。当主の息子であり、尚且つ兄妹たちの中でも力のある雪羽が当主候補になったのは当然の流れです」

 

 血統を誇る妖怪たちの世襲制度は、人間のそれと若干異なっている。人間の場合は長男や息子が優先的に跡継ぎになるらしいが、妖怪の場合は第一子かもっとも強い仔が跡継ぎになるのがセオリーらしい。

 とはいえ、無用な争いを避けるために第一子を跡継ぎとして育てる事が珍しくないが。従って雪羽の母が当主だったのも彼女が強かったからであり、雪羽もまた強かったから跡取りと見做されているのだろう。

 

「しかし三十年ほど前に、義姉《あね》が……雪羽の母親が急死したんです。雪羽はまだ幼かったので、当主の座は夫だった兄に移りました。

 先代当主の喪が明けきらぬうちに、兄は再婚しました。再婚()()()()()と言った方が正しいでしょうね。相手は雷園寺家の分家の女で、雪羽の母親とは遠縁にあたる存在だったのです。分家と言えども本家に出入りしていて、兄や義姉とも面識があったみたいなんですがね。

 ともあれ義姉《あね》の死と兄の再婚がきっかけだったんです。兄の後添えはすぐに子供を産みました。その仔は……雪羽の異母弟に当たるのですが、その仔の方が当主に相応しいとあの女は言いだしたんです。あの女とあの女の家来の言葉なので真実か否かは解りませんがね。

 雪羽は当主候補でしたが、雷園寺家を出るほかなかったのです。雪羽だけが、兄妹たちの中で突出した力の持ち主でしたからね。あの女は先妻の仔であり、才能にも恵まれた雪羽の事を疎んでいました。それどころか、初めから当主の座を狙っていたという噂さえありますからね」

 

 三國が息継ぎをし、一旦身の上話を中断する。源吾郎は何とも言えない表情を浮かべていた。以前会ったはとこの雪九郎も込み入った家庭事情の持ち主だったが、今回の案件はそれ以上だろう。実母の死と父親の再婚だけでも子供にとっては相当なストレスだ。しかも継母が実母の親族でしかも自分を疎んでいるとは……昼ドラを通り越してドロドロミステリーの世界の話のようだ。

 

「結局のところ、当主である兄が息子である雪羽を雷園寺家から追い出した事でどうにか落ち着いたのです。追い出したのが兄の本心だとは思いたくないですが、兄の状況ではそうするほかなかったのでしょう。兄は当主として雷園寺家の頂点にいますが、入り婿であり次期当主の()()()なので、実際の肩書ほどの発言権は無いのです」

 

 それとですね。三國は臆せず灰高を一瞬睨んだ。

 

「雪羽の面倒を見るにあたり、兄から養育費を貰っている事は事実です。しかし、養育費欲しさに雪羽を養っているという考えは純然たる間違いですからね。

 確かに律義な兄は俺に養育費と称して毎月お金を渡してくれますが、実質的には寸志や心づけみたいな金額なのです。それは兄がケチだからではありません。やはり仕方のない事なのです。先程申し上げた通り、兄は自由が利かぬ立場です。追放した息子を支援しているとあいつらに悟られないように動く事しかできないのですよ。

 それにですね、兄からの養育費とやらが貰えなくなった途端に、雪羽を外に放り出すような輩だとこの俺の事を思っておいでなのですか……?」

 

 三國の主張を聞きながら、源吾郎は半ば安堵していた。三國がむやみやたらと雪羽の事を庇いだてするのは良い事とは言えないが、そう言った言動の根底にあるのが打算ではなく愛情であると知ったためであった。



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雪羽への裁定

 思いがけぬほど暗い雪羽の過去を聞いた源吾郎は、自分もそういう境遇にあったような気分になって視線を落としていた。

 しかし他の面々はそこまで戸惑ったり驚いたりしていた訳でもないらしい。

 

「ま、簡潔に言うと当主だった母親が亡くなって、継母に目を付けられたから本家から逃げ出した。そんな感じかな三國君」

 

 萩尾丸が三國に問いかける。彼の口調は夕食のおかずでも読み上げるかのような軽快さを伴っていた。三國は鋭い視線を萩尾丸によこしていたが、事実だと言わんばかりに頷いた。

 

「雷園寺家も雷獣の名家として永年その地位を護っておりましたが、後継者争いが水面下で勃発していたのですね」

 

 灰高は興味深そうに呟いている。灰高自身も浜野宮家という一族の頭だったらしい。浜野宮家自体は今も存続しており、白鷺城を根城とする刑部狐と同盟関係にあるという。

 八頭衆は実力のある大妖怪揃いだ。紅藤や萩尾丸のように、おのれの力で上位にのし上がった者が目立つものの、名門の血を誇る者も所属しているのは事実だ。酒呑童子の孫である緑樹や、浜野宮家元当主の灰高、そして胡琉安の従姉だという紫苑などが好例だ。

 

「三國さん。あなたが雷園寺君の事を大切に思って面倒を見ている事に異論は無いわ。あなたの説明からは、実の甥にきちんと愛情を抱いている事がこちらには十二分に伝わってきました」

 

 優しげな口調でそんな事を言ったのは紅藤だった。三國と、その隣に控える月華のその面に、あからさまに安堵と喜びの色が浮かぶ。はっきりと、雪羽の事を自分たちがどう思っているのかを理解してくれたと言わんばかりの表情である。

 情深く、尚且つ年齢を重ねた紅藤にそう思われたのだから尚更であろう。

 しかし、紅藤の主張はそれで終わりはしなかった。

 

「だけどね、闇雲に愛情を注ぐだけが保護者の務めではないのよ」

「……紅藤様」

 

 叱責というには憂いの色を含んだ紅藤の言葉に、三國は臆せず言葉をぶつけた。

 

「俺が間違っていたと仰りたいんでしょうが、紅藤様は、八頭衆の皆様は引きとったばかりの雪羽の状態は覚えておいでですよね? それなのに、甘やかさずに厳しく接しろなんて言えるんですか?」

 

 三國は感情のこもった口調でおのれの意見を述べていた。しかし話している内容自体は大分ぼやかされている。要するに実家を追い出された雪羽の身を案じてあれこれ甘やかしすぎたと言いたいのだろう。だが雪羽自身がすぐ傍にいるので、色々と配慮して当時の事は言わないようにしているのだろうと源吾郎は思った。

 

「言われてみれば、雷園寺君は最初の一、二年は大人しくておどおどした感じだったよね」

 

 吞気な調子で萩尾丸はそんな事を言った。その視線は三國から外れ雪羽に注がれる。

 萩尾丸は意外にも何も言わなかった。その代わり、という訳ではないが口を開いたのは紅藤である。その面には若干の呆れの色が浮かんでいた。

 

「そりゃあもちろん、落ち込んでいる子を優しく励まし、勇気づけるのも年長者の役割よ。だけど三國君。あなたは優しく接する事と甘やかす事を、そして自信を持って振舞う事と増長する事をいっしょくたにしてしまった。それが間違いだったの」

 

 紅藤は深く息を吐き、それから物憂げな視線で周囲を見渡した。

 

「確かに私たち妖怪は、力が、実力が伴っていればなんだってできるように感じがちだと思うわ。だけどそんな環境下だからこそ、おのれの身分や立場をわきまえて動く事が大切なの。権力とは縁遠い、普通の暮らしを営む妖怪であってもね」

 

 雷園寺君。一呼吸置いてから、紅藤は雪羽に優しく呼びかける。

 

「あなたは雷園寺家の当主の座を目指しているみたいだけれど、それは()()()()()の望みかしら?」

「もちろんだとも」

 

 紅藤の問いかけに真っ先に答えたのは、雪羽ではなく叔父の三國だった。相変わらず興奮しているらしく、彼の頬は火照ったように紅く染まっていた。

 

「雪羽は雷園寺家の血を引く事を誇りに思っているんだ。その誇りこそが、雪羽の生き甲斐でもあるんだよ」

「そうさ……叔父さんの言うとおりだよ」

 

 割合食い気味に言い放つ三國の後に、雪羽はぼそりと呟いた。苦手な科目をへどもどしながら答えるような物言いだと、源吾郎は何となく思った。さしもの雪羽も、大妖怪紅藤を前に緊張しているのかもしれない。

 

「雷園寺家の当主を目指しているのならば、なおさら今のままの暮らしを続けるわけにはいかないでしょう」

 

 口調こそ穏やかであるものの、紅藤のその言葉には異論を許さぬ気配があった。彼女は少しの間目を伏せていたが、やにわに瞼を開き、紫に輝く瞳でもって雪羽たちを睥睨した。

 

「今のあなたには少し難しい話かもしれないけれどしっかり聞いて頂戴。当主にしろ組織のあるじにしろ、権力者というのは意のままに権力を操れる暴君ではありません。権力者は()()()()()であり、おのれを信じて付いてきてくれるものに()()()()存在でなければならないの」

 

 雪羽は狐につままれたような表情で紅藤を見つめ返していただけだった。しかし彼よりも年かさの三國は思うところがあったらしい。はっとしたような表情でもって紅藤と雪羽とを交互に見つめている。

 実を言えば、権力者と権力を語る紅藤の言葉に、源吾郎自身も感じ入るものがあった。先の言葉は表向きは雪羽のみに向けて放ったように見せかけているが、末弟子である()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだと解釈していた。

 何せ源吾郎自身も、権力と名声を求める妖怪の一人に違いないのだから。

 紅藤の言葉の意図はさておき、彼女の言葉そのものには圧倒的な説得力が伴っていた。雉鶏精一派の第二幹部として長きにわたり君臨し、しかもその権力に半ば辟易している彼女であるからこその発言である、と。

 

「厳しくも含蓄のある言葉ですね、紅藤様」

 

 半ば感心したと言いたげな様子で紅藤の言葉を評したのは灰高だった。表向きは紅藤の言葉を褒めているようにも取れるが、そういう解釈で問題ないのかは残念ながらはっきりしない。

 

「実はだね、さっきは三國さんや雷園寺君には色々言い募ったとは思うけれど、私としては雷園寺君には是非とも当主になって欲しいと思っているんだ」

 

「何だって……」

「それって、本当ですか灰高様」

 

 にこやかに語る灰高の言葉は思いがけぬものであった。源吾郎の正体を暴く目的もあったとはいえ、灰高は事実を隠蔽しようとする三國と、隠蔽されるようなことをしでかした雪羽を糾弾しているようにしか見えなかったのだから。

 案の定、三國も雪羽も驚きの声をあげている。三國の声には疑念の色が、雪羽の声には喜びの色が若干濃かった。

 

「ふふふ、私もまぁ長く生きていますからね。自分の害にならないのであれば、若い子の夢を応援したいという心持ちになっているんですよ。

 それに長い目で考えれば、雷園寺雪羽君が当主になるという事は我々雉鶏精一派にもメリットがあるのです。巧くいけば、雷園寺君を通じて、雷園寺家と我々にパイプが出来る事にもなりますからね」

 

 灰高は説明を終える。きちんとしたたかに利害を把握している彼の言葉に、源吾郎はその通りだろうなと密かに思った。萩尾丸を間近に見ている源吾郎であるから、ある程度経験を積んだ妖怪が、おのれの実力を押し通すだけではない事も知っていた。

 むしろ経験を積んだ妖怪の方が、周囲のパワーバランスや利害に敏感なくらいだ。紅藤はまぁその辺りが弱い気がするが、筋金入りの研究者だから仕方ないのかもしれない。

 

「まさしく仰る通りですね、灰高様」

 

 雷園寺雪羽の将来を応援する。その灰高の意見に萩尾丸も積極的に賛同の意を示した。

 

「三國君。そう言えば君はさっき雪羽君の父親で君の兄にあたる現当主からチマチマとポケットマネーを貰っているなんてみみっちい真似をしているみたいだけど、僕が交渉すればしっかりがっぽり雷園寺家から頂く事だって出来るんだよ」

 

 三國はきっと、萩尾丸の主張に驚いている事だろう。しかし内容が突飛すぎて、何をどう言えば良いのか考えあぐねているようだった。

 

「――とはいえ、現状の段階では、今の雪羽君の状況が今後も続けば当主になるどころか一般妖怪としても非難されるような立場にある。そういう事ですよね、八頭衆の皆様」

 

 相手が何も言わないのを良い事に、萩尾丸は言葉を重ねた。普段以上に彼の言葉には緩急が付いており、相手を持ち上げる時と叩き落す時の落差が烈しいように源吾郎は感じた。何せ雪羽君は当主になれる、といったその直後に今じゃあ全くもってダメダメだなどと言い放つのだ。灰高の意見を笠に着ているとしても。

 

「ははは、萩尾丸さんも辛辣ですが的を射た意見だと思いますよ」

「まぁそもそも、当主候補だったのにたった一人で実家を追い出されるというのも僕は気になってたんだ。鬼の場合は、どれだけ兄弟や親族が多くても腕っぷしとかで決めるからそんなに後腐れは無いんだけど」

「今まではそんなに僕たちもとやかく言わなかったのもマズかったかな」

 

 八頭衆の言葉を萩尾丸はしばらく聞いていたが、それがひと段落したところで萩尾丸は満面の笑みをたたえ、高らかに言い放った。

 

「だから僕は、雷園寺君は一旦叔父である三國君の許から引き離して再教育すべきだと思っているんです」



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傍若無人は命取り――狐のダシは何が出る

 雷園寺雪羽に下された再教育という処遇は、ある意味妥当なものかもしれない。源吾郎はぼんやりとそんな事を思った。不祥事に対する処遇は謹慎処分や罰金、状況によっては禁錮や極刑も存在している。

 源吾郎は悪事を働くヒトの心理や、それをどう更生させるかなどについては詳しくない。しかし禁錮や罰金と言った懲罰では案外効果が薄いのかもしれないと思う時もあるにはある。

 一方で再教育はどうだろう。指導内容が適切であれば善い市民として生まれ変わる事は出来るのではなかろうか。よく考えれば雪羽は妖怪としてはかなり若い。下手をすれば萩尾丸の部下である珠彦や文明たちよりも年下かもしれない。そう思えば、きちんとした指導者の許で教育を受ければまともになる可能性だって十二分にあるだろう。

 

「萩尾丸さん。雪羽の再教育って誰が行うんですか」

 

 再教育の件についていの一番に質問を出したのは三國だった。保護者であるから雪羽がどのような扱いを受けるのか気になるのは当然の事だろう。その声や態度には、何故か緊張の色がひしひしと滲んでいた。

 

「雪羽君の教育についてはさほど心配しなくても大丈夫だよ三國君。もちろんこの僕が手ずから行うつもりだからさ。ふふふ、何処の馬の骨とも解らぬ妖怪に教育を委託するよりは安心できるだろう」

()()()俺には不安なんですよ!」

 

 三國はたまらず吠えていた。但し、灰高や紅藤に吠え付いた時とは異なり、わずかな怯えの色が見え隠れしている。

 

「萩尾丸さん。あなたは部下たちに陰で『存在自体がパワハラだ』なんて言われているのをご存じないんですか? まぁ確かに、俺も若い頃はあなたに色々と教育指導していただいたのは事実ですが……だからこそ不安でもあるんですよ」

「存在自体がパワハラというのならば、それは萩尾丸さんだけではなく私たちに等しく当てはまる事ではないでしょうか。普通の妖怪たちには、大妖怪と呼ばれる存在はプレッシャーになるのですから」

 

 存在自体がパワハラ。文字通りのパワーワードに面食らっていた源吾郎だったが、八頭衆はそうでもなかったらしい。灰高などは諭すような口調で反論している。他の妖怪たちも納得していると言わんばかりに頷きあっているし。

 

「それにね三國さん。萩尾丸は組織を運営しているけれど結構ホワイトだと思うわ。だって()()()もここ六十年くらいゼロパーセントを更新中ですもの」

 

 事もなげに言ってのける紅藤を前に、若手妖怪の表情が引きつる。パワハラだとかホワイトだとかの基準として殉職を挙げた所に闇の深さを感じた。しかし突っ込んで聞くのは恐ろしい案件でもある。その考えは源吾郎のみならず、八頭衆である三國や双睛鳥も同じだったのだろう。

 殉職という単語により微妙な空気が流れ始めたが、萩尾丸がその流れを変えてくれた。

 

「ははは、三國君。君も中々可愛い所があるじゃないか。そう言えば君も若かった頃はおイタが多かったねぇ。涙を呑んで君をしつけた日々は今でも覚えているよ……

 だけど安心したまえ三國君。雪羽君は在りし日の君によく似てはいるが、君と違う所もある事は僕も解っているよ。育ちとか、気質とかがね。だから君に対してしつけた程には厳しくはしないつもりさ。雪羽君が()()()()マズいからね」

 

 萩尾丸はうっすらと微笑み、三國は唇を噛んでいた。萩尾丸の笑みもそらぞらしく、いっそ酷薄な気配さえあった。お坊ちゃま育ちな雪羽にある程度は配慮するが、配慮したうえで厳しく教育するという事だろうなと源吾郎は思った。

 萩尾丸は優秀であるし、相対する存在に対して色々と容赦しない事は源吾郎もよく心得ていた。

 

「そんな顔をしなくても良いだろう、三國君。曲がりなりにも君は雪羽君の保護者じゃないか。そんな風にして不安がっていれば、可愛い甥っ子も心配するだけに過ぎないよ?」

「しかし――」

「別に僕は、雪羽君をいじめたくて言ってるんじゃないよ。よく考えてごらん。今のうちに彼を外部できちんと教育するのは彼の為でもあるんだよ」

 

 三國の反駁を抑え込み、萩尾丸は声高に言い放つ。敬っている兄弟子の言葉であったが、実は源吾郎もやや懐疑的ではあった。あなたの為と言いながら行われる年長者の振る舞いは、実は自己満足に根差したものである事が往々にして存在するのを源吾郎は知っている。

 

「今はまだ変にじゃれたりするような他愛のない悪さかもしれないけれど、あのまま放っておいたら取り返しのつかない事になるかもしれないんだよ? それこそ、野良の女妖怪と交尾でもして隠し仔をあちこちに設けるかもしれないし」

 

 雪羽はともかくとしてこの言葉に三國も何も言えなかったらしい。喉がゴロゴロと動く程度である。それにしても、後妻の仔によってごたごたが生じたと知りつつも、隠し仔という具体例を挙げる萩尾丸の胆力は尋常ではない。

 とはいえ、雪羽のような少年であっても生物学的な意味での父親になれる事はまごう事なき事実でもある。妖怪は大人と見做されるまでには百年以上の歳月はかかる。しかしそのうんと前に思春期を迎えるわけであり、そうなればオスの妖怪は繁殖が可能になる訳だ。

 極端な話、齢十八の源吾郎も相手さえいれば仔を設ける事は物理的に可能という事だ――その相手を見つけ出すのが大変なのだけれど。

 

「か、隠し仔は厄介な話だな……おい雪羽。まさかそんなのが二、三匹もいるとかそんなんじゃないだろうな」

「大丈夫だって。俺も()()()()()は気を付けてるし」

 

 叔父というよりも小姑めいた口調で三國は問いかけ、雪羽は少し口をとがらせながら応じていた。やっぱり女と遊び呆けてるんだなこいつ。源吾郎はじっとりとした眼差しを雪羽に向けていた。隠し仔云々の話で近親者がうろたえるという事は、そういう可能性がある事の第一の証拠ではないか。源吾郎にも色々な噂が出来しているが、隠し仔の話は出てこない。そこがまぁ、雪羽と源吾郎との違いともいえるだろう。

 

「それにだね雪羽君。実を言えば今日だって君はかなり危なかったんだよ」

 

 わかってたかな? まるで教育テレビに出てくるナントカのお兄さんみたいな物言いで、萩尾丸は雪羽に問いかけている。

 あからさまに小馬鹿にした萩尾丸の態度に、雪羽は鼻を鳴らしながら応じた。

 

「あれだろう。グラスタワーの崩落に巻き込まれるとか、そんな事を心配だったって事だろ。だけどあれは――」

「はいブー。不正解でっす」

 

 自信たっぷりに答えようとする雪羽の言葉を萩尾丸は軽い調子で遮った。どこかで見たような光景だと、源吾郎は反射的に思った。

 

「君ほどの妖力があれば、君が作ったしょっぼいグラスタワーの崩落に巻き込まれたとてタンコブが三つ四つ出来たくらいで済むんじゃないかな。

 それよりも雪羽君。君は知らないと言えども変化していた島崎君に絡んだだろう。島崎君は仕事中という事もあって君に何もしなかったけれど、もし彼が逆上して襲い掛かってきてたなら、死んでたかもしれないよ?」

 

 相変わらずナントカのお兄さんでも気取っているのか、萩尾丸の口調は軽かった。しかし軽い口調とは裏腹に言っている事自体は大変な話である。雪羽は既に大人を小馬鹿にしたような表情を浮かべてなどいなかった。

 萩尾丸はそんな雪羽たちの様子に満足げな笑みを浮かべ、真面目な表情になった。

 

「はっきり言っておくけれど、妖力の保有量や瞬間的な出力の烈しさ、どちらも島崎君は雪羽君を上回っているんだよ。実際に島崎君が術を使う所や僕の部下である若手妖怪たちと闘う所も見たから断言できる。彼はその気になれば、雑魚妖怪が一度に十匹くらい襲い掛かって来ても、それらを全て返り討ちにして皆殺しにする事くらい訳ないんだ」

 

――いやいや萩尾丸先輩。それはいくら何でも話し盛り過ぎじゃないですか。

 真剣に、或いは澄ました表情で言ってのける萩尾丸に対して、源吾郎は静かにツッコミを入れていた。

 源吾郎が萩尾丸の部下と戦闘訓練とか鍛錬に励んでいるのは事実だ。妖怪としては極めて若いにも関わらず、豊富な妖力に恵まれている事もまた事実である。しかし絡んできた雪羽を襲撃して殺すだとか、雑魚妖怪たちを返り討ちにできるという話は源吾郎を困惑させた。もちろんその気になれば源吾郎には出来る事なのかもしれない。しかしその気になる事は多分訪れないだろう。

 というか萩尾丸がここまで源吾郎の能力の高さを評価するのは初耳だ。日頃訓練の時は術の制御度合いが粗いだの動体視力や身体的スペックは純血の妖怪に劣るだの、要はダメ出しばかり寄越していたのだ。そこまで俺を高く評価しているのならば、日頃からそういうお声がけをしてくださいよ……源吾郎は心の中で呟いていた。まぁもしかすると、所かまわずおイタを敢行する雪羽を脅すためだけに、話を盛っただけかもしれないけれど。

 

「まぁそんな訳で、あんまり好き勝手やってると早死にするかもしれないって事だね。だけど、僕の許で再教育を受ければそういう不安とはおさらばできるという事さ。

 一応は僕の保護下に入る訳でもあるから、妖怪を殺したいって言う欲求に囚われた変態術者に捕まって玩具にされる事も無いだろうしね」

「それにしても萩尾丸さん」

 

 萩尾丸の主張が終わったところで口を開いたのは三國だった。

 

「雪羽に教育が必要な事は解りました。ですが場合によっては雪羽さえ殺しかねない物騒な狐を、よくぞまぁ野放しの状態でウロウロさせてくれましたね」

「いやまぁ別に島崎君は野放しなんかじゃあないさ」

 

 始終笑みを絶やさぬ萩尾丸の視線は、一瞬源吾郎に向けられた。

 

「確かに島崎君はスペック的に物騒だし、普通の妖怪たちの脅威になり得る存在だよ。だけど何処かの誰かと違ってうちの狐は教育が上手く行ってるからね。むやみやたらと誰かを襲撃したり殺したりする事は無いんだよ。

 本当は、紅藤様が彼を迎え入れた時に僕が色々と躾を入れないといけないかなって思ってたんだ。何せ九尾の末裔で野心家だからね。だけど僕にもさほど反抗せずお行儀よくしてくれるから、何というか物足りな、いやこっちとしても問題は少なくて安心しているんだ」

 

 言うて萩尾丸先輩は俺の教育にあんまり関与してないじゃないですか。しかも俺が反抗しない事を物足りないって言いかけてましたし……ニコニコとしている萩尾丸に不穏さと不気味さを感じつつ、源吾郎は心中でツッコミを入れまくっていた。

 もちろん、空気を読んで実際に口には出さなかった。



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個性いろいろ若手妖怪

 途中から萩尾丸のワンマンプレーの様相を見せていた幹部会議であるが、ともあれ雪羽の処遇は決まったようだった。

 

「……雷園寺君の面倒を見る事は止めないわ。だけど本業に障りが無いように気を付けてね」

 

 気遣うような言葉をかけたのは紅藤だった。彼女が萩尾丸を心配するのもまぁ当然の事だ。萩尾丸は紅藤にとって心強い味方である事がこの度判明したし、何より萩尾丸も案外多忙そうだし。

 大丈夫です。師範の気遣わしげな声掛けに対して、萩尾丸は澱みない調子で返答した。

 

「紅藤様。元より若手の研修回りは今年度予定していたじゃあないですか。妖員《じんいん》とカリキュラムには若干の違いはありますが、それはまぁ誤差の範囲内みたいなものですよ」

 

 萩尾丸は話しながら一瞬源吾郎の方をちらと見た。何故見られたのかと源吾郎はきょとんとしていたが、元々自分が研修として他の部署を回る予定だったのを思い出した。源吾郎は源吾郎で、ぱらいその一件があるという事で研修は先延ばしになっていたのだ。

 よくよく考えれば、自分も雪羽を糾弾したり嗤ったりできる身分でもないのだ。ここでおのれの不祥事が露呈されては大事だ。一人そのような考えに陥っていた源吾郎であったが、萩尾丸の視線は既に源吾郎から外れ、雪羽に向けられていた。

 

「とりあえず雷園寺君は僕の傍で仕事の補佐を行ってもらうつもりだからね。僕にぺったりとくっついて、僕が仕事を円滑に行えるようにしてくれるわけだから、まぁ秘書みたいなものかな」

「秘書みたいなもの、ですか……」

 

 萩尾丸が言い放った今後の業務内容に鋭く反応したのは雪羽本人ではなかった。不安げな視線を萩尾丸に、そして疑わしげな視線を雪羽に向けるのは第三幹部の緑樹だった。

 

「その……雷園寺君の前で言うのもあれなんですが、秘書の仕事って結構大変だと思うんですよ。ええと、僕みたいにお飾りならばいざ知らず、萩尾丸さんは実際に第六幹部として下位組織の長として働いてらっしゃる訳ですし」

「確かに緑樹様の仰る通りかもしれないねぇ。僕もさ、雷園寺君が働いているってイメージが湧かないんだよ。子供だからなのかもしれないけれど」

 

 緑樹はおずおずとした様子でおのれの考えを述べ、第七幹部の双睛鳥は割合遠慮なく自分の思っている事を口にする。そりゃあまぁ妥当な流れだろうと源吾郎も思った。秘書と言えば結構重要な任務を任される訳である。雷園寺家の当主候補という肩書があろうとも、遊び呆けているような子供には荷が重すぎる。そんな事は新入社員の源吾郎にも解り切った話だった。

 

「皆様言いたい放題言ってくれますね」

 

 唇を舐め舐め言ったのはやはり三國だった。うっすらとその面には渋い表情が浮かんでいる。

 

「言っておきますが今でも雪羽は第八幹部の、要はこの俺の側近という身分ですからね。仕事もきちんとさせてます。書類に審査印を押させたり、うちの妖事《じんじ》をちょっと任せたりさせてるんです」

 

 やけにはっきりと一言一句発音しながら三國は言い切った。八頭衆の面々はそれで納得などしない。むしろ幹部同士で目配せし、ついで思った事を口に出す始末である。

 

「書類作成ならまだしも、まさか審査まであの子にさせてたなんて……」

「ああでもあれでも雪羽君真面目にやってるのかもしれませんね。定期審査も一応通ってたと聞きますし」

「定期審査が通っているって言うのがむしろきな臭いと思うんですが。それこそ賄賂とかをあれしてパスしてもらったとかって勘繰っちゃいますよ」

「み、皆さん安心して下さい!」

 

 疑念を募らせああだこうだと話し合う幹部たちに対して声を張り上げたのは、三國の重臣である月華だった。

 

「雪羽君、いえ雷園寺君が審査した書類につきましては、私の方で再確認を行っております。不備とか不審な点があればきちんと修正しておりますので、心配なさるような点は無いかと思います」

 

 雪羽の仕事を後で月華がサポートしている。このカミングアウトを前に誰もすぐには何も言えなかった。大妖怪たちを前に緊張している雪羽は言うに及ばず、一応は幹部である三國も苦笑いするだけである。

 

「成程。きちんとした書類だと思ったらダブルチェックなさっていたんですね。月華さんは信頼できるし、それなら大丈夫かも」

「いやちょっと待って下さいよ紫苑様。そもそも審査印ごときでダブルチェックが必要って所からして変だと思いませんか」

「三國君が仕事を甥っ子に振り分けたいのは解るけど、いくら何でもそれはねぇ……」

「本当に大丈夫ですか萩尾丸さん」

 

 またしても各々意見を述べだした八頭衆のうち、灰高が萩尾丸に声をかけた。第八幹部の傘下での動きに呆れたり驚く同僚たちを横目で眺めつつも、灰高自身はさも愉快だと言わんばかりの表情を見せている。

 僕は大丈夫ですよ。萩尾丸は朗々とした口調できっぱりと返事した。

 

「雪羽君が雷園寺家の当主候補って事もあってね、僕も少ぅし気を遣って秘書って言っただけに過ぎませんよ。秘書って言えば聞こえはいいけれど、実際の所は僕にくっついて僕が行うまでもない雑用の肩代わりってところですね。皆様、心配する事は何一つありませんよ」

 

 成程。マイペースに安堵の息を漏らす幹部たちを眺めながら、源吾郎は萩尾丸が雪羽をどのように扱おうとしているのかおおよその察しがついた。

 秘書あるいは雑用係の名目で、仕事中は雪羽をおのれの傍に留めるつもりなのだろう。雪羽の行動を監視し、彼がおイタを重ねないようにする意味合いがあるのかもしれない。雪羽をおのれの保護下に置いて、萩尾丸が抱える他の部下たちに攻撃されないようにするという意味合いもあるのかもしれない。

 いずれにせよ妥当な事だと源吾郎は思っていた。実年齢としては雪羽の方が年上のようだが、彼の事は自分よりうんと幼い子供であるように源吾郎には思えてならなかった。仕事に慣れていない子供であるからこそ、わざわざ萩尾丸も手許に置いて雑用をさせると言い出したに違いない。

 

「仕事とか、他の若手妖怪とのやり取りに慣れたと思えば別の仕事もさせますがね。ですが今は、仕事そのものに慣れて貰うのが先決かと思うのです。もちろん、仕事以外の事も僕の方で色々と面倒を見ますよ」

 

 仕事の時はもちろんの事、オフの時も面倒を見る予定だと、萩尾丸は暗に伝えているようなものだった。

 三國は思うところがあるらしく、発言しようと口を開こうとした。その三國の発言を遮るように喋りだしたのは、処遇の件で話題として取り上げられている雪羽その人だった。

 

「大丈夫だよ叔父さん。秘書だか雑用だか解らないけれど、それが俺の仕事だって言うのなら引き受けるよ」

「雪羽……」

 

 大妖怪たちに囲まれた中で発した雪羽の言葉は、存外威勢の良い物だった。雪羽はふてぶてしそうな笑みを作り、その視線を今度は萩尾丸に向ける。

 

「萩尾丸さん。俺を単に血筋が良いだけの子供だと思って見くびっているんじゃあないですかね。まぁ、おっさんが何をどう思っているのか、俺も実はそれほど興味はありません。

 だけど、俺を従わせて働かせている間に、ああ、やはりこいつは雷園寺家の当主候補で才能に溢れる奴なんだなって驚く事請け合いですよ」

 

 雪羽は源吾郎を一瞥し、今一度言葉を続ける。

 

「そう言えば萩尾丸さんは自分の手下をそこの島崎源吾郎とかいう狐と闘わせてるって話だけど、俺もこいつとタイマン勝負させてくれるんですよね? こいつとは本気で闘りあってみたいんだ」

 

 源吾郎と闘いたい。そんなことまで言ってのけた雪羽は、ここで口を閉じた。その頬に子供らしい笑みを浮かべたまま。

 まごう事なきビックマウスである。源吾郎はしかし、雪羽の言動に違和感を覚えたり不快感を抱く事は無かった。彼の心中は大体推察できていた。本当に力のある大妖怪たちの前で敢えて虚勢を張っていたのだろう、と。

 ある程度成長した子供が保護者の愛情を突っぱねたり、大人に対して力があるように誇示する感情は源吾郎もよく知っている。自分もそういうものに頼っており、今もなお頼っている訳であるから。

 ともあれ雪羽は、萩尾丸やほかの幹部たちが驚く所を見たいだけなのだろう。

 ところが萩尾丸は驚かなかった。彼も笑っていたが、その面には郷愁の色が見え隠れもしていた。

 

「あはは、何とも()()()()やり取りを聞かせてくれてありがとう。君の叔父上である三國君とも似たようなやり取りができたのを思い出したよ。あの時は、三國君が勝負したがったのは僕や第七幹部だったけどね……

 あ、でもやっぱり君はお坊ちゃまだなって思うよ。三國君みたく、主張の最中に暴れだしたりしないもの」

 

 萩尾丸のこの発言に、雪羽は完全に鼻っ柱を折られたらしい。驚きと戸惑いを見せたものの、恥じ入ったように俯いてしまった。頬だけではなく耳朶まで紅く染まっている所からも、彼の心中は明らかである。ついでに言えば話題にちらと上った三國も気まずそうだ。

 そりゃあまぁ萩尾丸の発言はクリティカルヒットしたんだろうな。源吾郎は他人事のように思っていた。ああして威勢よく虚勢を張る子供は、その姿が年長の身内にそっくりであるという指摘を受けるとあっさりと出鼻をくじかれるのだ。そもそも虚勢を張る事自体が「俺は他の誰とも違う。俺は俺なのだ」という主張を行う事に他ならない。だというのに父や叔父、或いは兄たちに似ていると指摘されると、一気に情けないような恥ずかしいような気持ちに陥るという寸法だ。

 ちなみに源吾郎がそこまで解るのは、身に覚えのある話だからだ。源吾郎の容貌は兄姉たちとは明らかに異なっていた。しかし源吾郎たちを深く知る者からは、源吾郎は兄――特に長兄の宗一郎――に似ていると言われる事は珍しくなかった。

 さらに言えば、反抗期に入り始めたお坊ちゃまは無闇に育ちの良さやお坊ちゃまである事を年長者に指摘されると凹む性質もある。

 まぁ要するに、萩尾丸はそれらのポイントをしっかりと押さえた上で発言したという事だ。

 さてと。微妙な態度のままの雷獣たちをそのままに、萩尾丸は進行役である灰高に目配せした。

 

「ひとまず雷園寺雪羽君の処遇は決定しました。他に何か……」

 

 幹部らに質問や意見を求めようとしていた萩尾丸だったが、何かを思い出したらしく途中で言葉を止めた。その視線は二匹の妖怪に注がれている。雪羽の取り巻きだったカマイタチとアライグマである。こいつらは事情聴取の際、手のひらを返して雪羽に非を押し付けようとした薄情者どもだ。今この瞬間まで半ば空気と化していたのだが、「処遇」という単語に身を震わせたために、こうして注目される羽目になったらしい。

 

「今思い出しましたが、ここに来てくれている雷園寺君の()()()の事をすっかり失念しておりました」

 

 ご友人という単語を萩尾丸は強調していた。先のやり取りを聞いていた萩尾丸だ。素直に彼らを雪羽の友達だと言っているのではなく、やはり皮肉がこもっているのだろう。

 

「そんなっ、僕たちは雷園寺の友人なんかじゃありませんよ」

「そうっす、いえそうでございます大天狗様」

 

 大天狗たる萩尾丸に注視され、既に二匹の妖怪たちは震えあがっていた。権勢の良い時は大妖怪の子息の取り巻きとして太鼓持ちに励み、その勢いが衰えた時には手のひらを返して離脱する。生命のやり取りさえある妖怪社会の中では、それがある意味弱者の生きる道であり()()やり方なのかもしれない。そう思っても、源吾郎の心中には冷え冷えしたものが広がっていた。

 結局この二匹の妖怪に対しては、定職があるのかどうかだけを尋ねただけで深く追及される事は無かった。彼らは雪羽に脅されて渋々手下になっていたのだと、その事をしつこい位萩尾丸たちに主張していた。その真偽も追及されなかったが、保身のための嘘なのだろうと源吾郎は思った。宮坂京子に扮して働いていた時に見た彼らは、それはもう楽しそうに雪羽に付き従っていたのだから。

 おのれのすぐ後ろで根も葉もない事を言ってのける取り巻きたちに対して、雪羽は特に何も言わなかった。取り巻きたちの言動にショックを受けたのか、それとも仕方が無いと受け入れたのか、或いは初めから全て解っていたのか。そこは源吾郎にも解らなかった。

 

 

 幹部会議第一部が終了したと灰高が言うと、関係者ではない妖怪は退出するようにと促された。退出を促されたのはスタッフとして働いていた米田さんたちと、雪羽の取り巻きだった妖怪たちの合わせて四名である。

 退出するときの様子からも、彼らの個性だとか八頭衆との関わりなどがうっすらと浮き上がっていた。取り巻きたちはそそくさと去っていったのだが、スタッフとして働いていた鳥妖怪の青年や米田さんは、きちんと挨拶をしてから去ろうとしたのだ。

 

「米田さん、だったっけ」

 

 最後に残った米田さんを、萩尾丸は何を思ったのか呼び止めた。何でしょうか。金髪をなびかせて問いかける米田さんの姿は、大天狗と相対しているのだと思うと相当に落ち着いていた。

 

「もしよければうちで働いてみないかな? 君がずっとこの時期に来てくれて働いているのを見てるから思うんだけど、中々見所があると思っているんだよね、それこそ本物の玉藻御前の末裔よりもさ。

 ()()がいるから気が引ける、なんて思わないで大丈夫だよ。僕の部下には玉藻御前の末裔を名乗っている狐も十何匹かいるからさ」

 

 唐突なヘッドハンティングに源吾郎は目を丸くしていた。バイトリーダーとして頑張っていた米田さんであるが、まさか萩尾丸までもこうして妖材として欲しいと思うとは。

 米田さんは萩尾丸の言葉を聞いていたが、控えめに微笑むと首を振った。

 

「私の事を高く評価していただいて誠に感謝いたします。ですが申し訳ありません。私は組織の中で働くよりも、自由に働く方が性に合っておりますので……」

「そっか。それなら仕方ないね。無理強いするのも大妖怪のする事じゃあないし」

 

 萩尾丸の言葉が終わるのを見届けると、米田さんは一礼し、颯爽と退室していったのだった。



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混沌をもたらしたるは誰なのか

 幹部会議第二部が始まるという事もあり、周囲の空気が一変するのを源吾郎は感じた。雪羽が糾弾される事でしばし忘れていた内臓がひっくり返るようなあの感覚がまた戻ってきたのである。

 ちなみに雪羽は既に疲労困憊と言った様子で視線を床やおのれの手指に向けている。萩尾丸の口撃はやはりこたえたと見える。

 

「さてこれで今回の会議の本題に入れるね」

 

 第二部に入ったという合図をしたのは灰高だった。彼は源吾郎のみならず八頭衆の幹部たちにも視線を配っていたが、その頬はほころび、始終笑みを浮かべていた。一見すると柔和そうな笑みに見えなくもないが、全くもって油断ならない事は既に解っている。

 何せ彼は、萩尾丸の脅しにも屈しなかったどころか、紅藤と正面から敵対する事すら厭わないと言い放っていたのだから。

 

「第二幹部・雉仙女こと紅藤殿の()()()が、玉藻御前の末裔が姿を偽ってこの生誕祭の会場に紛れ込んでいた理由と、その件に関する責任の所在について追及しようと思っております」

 

 朗々とした声で灰高が告げる。その声を聞いた面々の反応は様々だった。源吾郎はおのれが紅藤の()()()のように紹介された事が不満だったが、むっつりと押し黙って成り行きを見守るほかなかった。八頭衆の面々はおおむね神妙な面持ちだったり、緊張している素振りを見せていたりしていた。

 ちなみに雪羽は飼い狐という言葉がツボだったのか、その面にいびつな笑みを浮かべていた。源吾郎としては面白くないが、それをなじるような元気もない。

 

「島崎君、でしたっけ。彼はそもそも病欠という事で欠席であるという連絡が入っておりましたが、それは表向きの話でした。実際には今こうして皆様がご覧になっておりますように、スタッフの姿に変化して紛れ込んでいた次第です」

 

 話もまだ途中であるだろうに、灰高はわざわざ言葉を切り、ついで源吾郎の方をそっと右手で指し示した。聴衆の視線を源吾郎に向けさせようと、実に手の込んだパフォーマンスを行ってくれている訳だ。

 そんな灰高の努力もあり、源吾郎は見事に今この場では晒し者になっていた。幾つもの無遠慮な視線にさらされながら、源吾郎はたまらず視線を床に落とした。常々注目されたいと思っていたが、こんな注目のされ方は望んでなどいない。

 

「彼がああして紛れ込む理由と言いますか、紛れ込むまでの背景は大きく分けて二つが考えられます。一つ目は彼が自分で考えて我々を欺いたという事。もう一つは――彼の上司、すなわち紅藤殿の命令によって我々を欺いたという事、です」

 

 欺くという言葉が出てきたためであろう。聴衆たる雉鶏精一派の幹部たちの中から驚嘆の声が上がる。声をあげなかったのは紅藤と萩尾丸くらいだった。その萩尾丸でさえ、唇を噛んで渋面が浮かぶのをこらえていた。紅藤は表情の揺らぎを見せず、彼女が今何を思っているのか掴ませないように奮起しているようだった。

 

「まだ詳細まで言及していませんが、紅藤殿も萩尾丸さんも後者であると認めています――そうでしたよね、お二方?」

 

 なぶるような視線と口調でもって、灰高は紅藤と萩尾丸を見つめた。第六幹部である萩尾丸まで標的になっているのは、ひとえに彼が紅藤が信頼を置く重臣でもあるためであろう。

 

「その通りですね、灰高様」

「ええ。灰高のお兄様の言う通りです」

 

 萩尾丸も紅藤も灰高の言が事実である事に異論は唱えなかった。返答する様子は二人とも異なっており、それが彼らの今の心境、ひいては灰高との力関係を如実に表してもいた。

 萩尾丸は若者のように露骨にうろたえる事は無かった。しかしそれでも灰高に対して窺うような挙動が見え隠れしている。一方で紅藤は「お兄様」と呼んで敬意を示しているものの、その声は揺らがない。

 紅藤たちのある意味素直な返答に、灰高は笑みを深めつつ頷いている。

 

「やはりあなた方の差し金だったのですね。皆様も聞いておりますし、言質も取れましたから、今後意見を覆す事はかないませんよ。もっとも私は、聞くまでもなく島崎君はあなた方の差し金で今回会場に紛れ込んだんだろうと推測していましたがね。玉藻御前の末裔だとか前途有望だとかと言って何かにつけて持ち上げているようですが、所詮は経験の浅い仔狐でしょうし」

 

 一体この会議は何処へ向かおうとしているんだ? 小さなイカダに乗せられた漂流者のような心細さを源吾郎は感じていた。それはやはり、萩尾丸の態度から灰高が並の妖怪ではない事を感じ取ったからに他ならなかった。

 萩尾丸は源吾郎の兄弟子に相当するが、彼が高い能力を持つ大妖怪である事は源吾郎も既に知っている。というよりも、萩尾丸がああして困り果てる所を目撃するなどとは夢にも思っていなかった。源吾郎の知る萩尾丸は、常に余裕に満ち満ちていて、追い詰められる事とは無縁であるように見えたからだ。

 

「それにしても、何故あなた方は島崎君を変装させて生誕祭の会場に潜り込ませたのでしょうか? 何か意図があるように思えてならないのです。その意図に関して、説明していただけますね」

「むしろその前に、何故そこまでこの件を執拗に追求しようとしているのか、灰高様のお考えをお聞かせ願えますか。話はその後でいくらでも行います」

 

 灰高の質問に対して質問を返したのは紅藤だった。狼狽する萩尾丸とは対照的に落ち着き払った声と態度であり、それが何故か却って不気味だった。

 紅藤に促された灰高だったが、彼は口を開こうとはしない。紅藤も窺うように灰高を見つめている。大妖怪同士は無言で数秒ばかり睨み合っていた。

 結局のところ、折れたのは紅藤の方だった。

 

「……年長者につまらない意地を張っても仕方ありません。ひとまずは私どもの狙いをお話ししましょう。私どもが島崎君を飼い狐として皆の前にお披露目していれば、このような事態にはならなかったでしょうね。

ですが第二幹部である私の重臣の一人として、いえ飼い狐として生誕祭に出席させるには少し不安があったのです。島崎君は確かに妖怪として高い能力を保有してはおりますが、社会経験が圧倒的に少ないですからね。皆様方にご迷惑をかける危険性もあると鑑み、それならばと思って変化させてスタッフに紛れ込ませた次第です」

 

 紅藤は長々と説明したのだが、一度深く息を吐いてから再び口を開いた。

 

「要するに、皆様にあらぬご迷惑をかけないように、敢えて島崎君を欠席扱いしたのが真相です。研究センターに置いておくのも不安だったので、スタッフに化身させた。それだけでございます」

 

 紅藤の言は、まるで源吾郎が未熟な仔狐である事を前提にしているような主張だった。いや、実際問題源吾郎は未熟であるし彼自身もその事は知っている。 

 確かに保有する妖力だけに注目すれば、普通の大人の妖怪と同等かそれ以上の能力はあるにはある。しかし、この妖力を操り術として行使する経験が、源吾郎にはほとんど欠落していたのだ。その事は、珠彦や文明と言った純血の若い妖怪たちと訓練していて嫌というほど思い知らされた。

 幼少期や若年期において、保有する妖力の多さや強さは先天的な部分がある程度は絡む。しかしその力を有効活用できるか否かは後天的な環境がかなり重要なのだ。妖怪を父母に持つ純血の妖怪の場合、それこそ幼子の頃から妖術を適切に使う事を学んでいく。学ぶと言っても大げさな話ではない。兄弟姉妹や友達とのじゃれ合いの中で身に着けていくようなものなのだ。

 源吾郎にも無論兄姉たちはいるが、年齢差が大きすぎてじゃれ合うような間柄ではない。しかも兄姉らは完全に人間として生きる事に順応している。雉鶏精一派に就職するまで、妖怪としての力を振るう機会に乏しかったのは、無理からぬ話だ。

 それらの事を踏まえても、紅藤にあからさまに未熟と言われるのはこたえた。萩尾丸や峰白、或いは文明みたいな萩尾丸の部下に言われるのならまだショックは少ないだろう。しかし日頃優しく接してくれる紅藤の言葉だから、余計にショックを受けるのかもしれない。もちろん、優しくぼんやりした雰囲気の奥に明晰な頭脳と観察眼が隠されている事は源吾郎も知っているけれど。

 あるいはもしかすると、そのショックを受ける感情こそが、源吾郎が紅藤を師範として尊敬し慕っている証拠なのかもしれないが。

 

「ま、まぁ確かに」

 

 主張を終えた紅藤に引き続き、声を上げたのは萩尾丸だった。

 

「僕たちの試みは九部通り成功していたんですよ。彼は確かにスタッフとして演じている身分を全うしていましたからね。僕は彼の一部始終を見ていませんが、雷園寺君との騒動があるまでは、他のスタッフたちに疑われる事なく仕事が出来ていたのではないかと思います。もちろん、聡明なる八頭衆の皆様には、真相が見抜かれていたかもしれませんが」

 

 見抜かれていた。思いがけぬ言葉に源吾郎はぶるっと身を震わせた。三國は宮坂京子を見て源吾郎であると勘付いていたのを思い出した。幹部らの中で若手である三國でさえ気づいたのだ。源吾郎はおのれの術に自信を持っていたが、それでも幹部たちをも欺けたと思うのはやはり傲慢なのかもしれない。

 

「正直な所、僕は初めて気付いた口ですよ」

 

 おずおずと言ったのは第三幹部の緑樹だった。

 

「別に、島崎君の変化を見抜けない程衰えたとか、そういう意味ではありません。島崎君が欠席したという、紅藤様の言を信用したという事です。僕も紅藤様とは長い付き合いですが、策を弄して僕たちを欺くような真似はしないと思っていますから」

「それにまぁ、大勢いるスタッフの中に紛れ込ませているんですから、仮に紅藤様の言葉に疑問を抱いたとしても確認するのは難しいでしょうね。とはいえ、生誕祭も幹部会議も今後はスタッフの確認を強化したほうが良いのかもしれませんが」

「スタッフの確認強化は良い意見だと思うよ、双睛鳥の兄さん!」

 

 第七幹部・双睛鳥の冷静な意見に対して頓狂な声をあげたのは雪羽だった。

 

「俺が言うのもアレだけど、やっぱりスタッフだと思っていたのに変なのが混ざってたら大変だもん。それこそ、一般妖《いっぱんじん》と見せかけたテロリストが混ざっていたら、俺たちは死んでたかもしれないし」

 

 一度言葉を切ると、雪羽は源吾郎を見やった。翠眼をすがめ、じっとりとした眼差しである。

 

「まさかもしかして、俺たちの事を糾弾するためにスタッフとして送り込まれたとか……?」

「いい加減な推論は止めるんだ、雪羽」

 

 雪羽の好き勝手な言動に待ったをかけたのは三國その妖《ひと》だった。三國が日頃から甥の雪羽を甘やかしていたというのは事実らしい。雪羽は三國の鋭い口調に驚き、目を瞬かせていたのだから。

 

「陰謀論やトンデモ論が載ったしょうもない雑誌の読み過ぎなんじゃあないか? それに島崎君には感謝こそすれそう言った疑いの眼差しを君が向けてはいけないんだよ。何しろ、グラスタワーの崩落に巻き込まれそうになった君を助けたのは島崎君なのだから。まぁそれで、島崎君の本性がバレてしまった訳なんだけど」

 

 三國はどうやら源吾郎が雪羽を助け出した事について、勝手に恩義を感じているらしい。源吾郎としては複雑な心境だった。源吾郎にしてみれば、雪羽が助かったのは他の面々を助けた結果に付随した()()()に過ぎない。もちろん雪羽が大怪我をすれば良いとは思っていないが、大々的に雪羽を助けたと言われると困るのもまた事実だ。しかも既に灰高が指摘している通り、あのグラスタワーの崩壊も、大本を辿れば雪羽の言動のせいである訳だし。

 

「確かに雷園寺君や三國君を失脚させるためにそこの狐を使った、という話は飛躍し過ぎだと僕も思うなぁ」

 

 萩尾丸は三國と雪羽の両者に視線を走らせた。灰高の言葉にしおらしく控えていた時とは打って変わり、余裕と自信がみなぎるような笑みをその面に浮かべている。弱いものには偉そうに出るという、天狗らしい習性を彼はまざまざと見せつけているではないか。

 

「実際の所雷園寺君は雷園寺家当主になるべく修行するって事で話は落ち着いたし、三國君だって第八幹部の座を追われる訳じゃあないでしょ? むしろ君らが抱えている問題点が明らかになっただけだから、失脚どころか正しく反映する足がかりが出来たくらいじゃあないかな。

 それにそもそも三國君。君はまぁ第七幹部と一緒で若手だからって事で幹部に取り沙汰されただけだし。君らが失脚しようが没落しようが僕らにはそんなにダメージは無いけどね」

 

 容赦のない萩尾丸の言葉に三國はぐ、と短く喉を鳴らした。八頭衆には序列があると聞き及んでいたが、まさか第七・第八幹部が単なる若手のお飾りだと断言する所には驚きだ。

 

「いくら何でもそれは言い過ぎよ、萩尾丸」

 

 柳眉をひそめて指摘を寄越したのは紅藤だった。

 

「双睛君も三國君も確かに若手である事を承知したうえで幹部に引き入れたけれど、何もお飾りだとか、ましてや使い捨てにできるなんて思っている訳じゃないわ。

 妖怪と言えども、同じ面々がずっと幹部の座を護り続けるのも旧態依然を招くきっかけになるわ。若くても、才能と責任感のある妖《こ》が幹部の座に就いてくれることで、新しい体制を作り上げる事が出来たらと思っているんだから」

 

 紅藤のこの言葉に、萩尾丸のみならず八頭衆の面々は感動したらしい。表立って彼女を称賛する事は無かったが、敬服したと言わんばかりの眼差しを向けていたのだから。やはり権力から一歩引いた立場にいる彼女だからこその言葉なのだろう。

 そう思って感心していると、この静けさを打ち破らんばかりの笑い声が会場の空気を震わせた。笑い声の主は灰高だった。

 

「おやおや紅藤殿。研究者気質で率直な意見ばかり仰るばかりだと思っていましたが、美辞麗句を用いる事も出来るのですね。それもこれも側近である若天狗の影響でしょうかね。

 頭目の母として雌鳥面しているあなたがそんな事を仰ったとしても、やはり背後には何がしかの目論見があると勘繰ってしまいかねませんよ。

 若手を敢えて幹部に就けたのも、ゆくゆくは配下にした玉藻御前の末裔をスムーズに幹部に就任させるための方便であるように私には思えますがね」

 

 灰高は一度言葉を切ると、大げさに肩をすくめて息を吐いた。

 

「九尾の狐、特に玉藻御前は混沌の使いのようなお方なのですよ。王や帝などの権力者に近付き、混乱させ、破滅させたという来歴を紅藤殿とてご存じでしょう?ましてやあなたの狐は妖怪社会の頂点に君臨するという野望さえ持ち合わせているではありませんか。

 今は彼を無害だと思っておいでかもしれませんが、長じてそれこそ九尾になった時に、この雉鶏精一派を彼の手によって台無しにされるかもしれませんよ? 何せ曾祖母が、混沌と破滅をばらまくような妖狐だったのですから」

 

 灰高のいささか過激な言葉に場は騒然とした。大妖怪ばかりの八頭衆も、流石に玉藻御前の名を聞いて肝を冷やしたらしい。気になる相手とひそひそと話し合う声すら聞こえてくるくらいだ。

 

「島崎君が混沌と破滅の使者だと、そう仰りたいのですね」

 

 そんな中で、紅藤が静かに口を開いた。相変わらずその声には感情の揺らぎはない。というよりもいつも以上に平板な物言いだった。

 

「ですが、混沌をもたらし()雉鶏精一派に混沌をもたらそうとしているのは、灰高のお兄様も同じ事ではないでしょうか?

 平穏な所に争いをもたらし内部を引っ掻き回す、天狗らしい習性と言えばそこまでかもしれませんが」

 

 紅藤の言はあくまでも淡々としていた。しかし冷静さを装いつつも、紅藤もある意味灰高に挑もうとしているのだと源吾郎はこの時悟ったのだった。



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鴉天狗の挑発、雉仙女の激昂

「私が混沌をもたらしているですって?」

 

 紅藤の放った言葉に、灰高は正面から疑問をぶつけた。その顔には相変わらず笑みが浮かんでいるが、紅藤に対するあからさまな侮蔑と呆れの色も滲んでいた。

 

「紅藤殿。やはり貴女は鳥目なのですね。確かに私よりも貴女はうんと若いですが、研究センターに籠り過ぎてヤキが廻ったのでしょうか?」

 

 表情だけに留まらず、灰高の言葉も嘲弄的だった。感情の揺らぎを一切見せず、いっそ穏やかで平板な口調であるから、尚更不気味さを際立たせている。

 

「視野狭窄に陥っているというほかありませんね紅藤殿。秩序が護られるべきは、何も雉鶏精一派という小さい枠組み()()の話ではないのですよ。むしろ、雉鶏精一派の中で争いが無かったとしても、雉鶏精一派の動きそのものが他の組織に混乱をもたらしているのであればそれはそれで問題だと思いませんかね。

 紅藤殿はお気付きではないのですか? 関西の妖怪組織の多くが、雉鶏精一派の動向を警戒し始めているという事に」

 

――ううむ。難しい話だけれど灰高様の言葉にも一理、あるのかな?

 源吾郎は眉が寄るのも気にせずに灰高の言葉を脳内で反芻していた。紅藤に噛みつき、ついで三國の甥である雪羽の不祥事を明るみにした灰高の事を、雉鶏精一派の自治を敢えて乱そうとしている輩なのだと源吾郎も思っていた。そこにはおのれの本性を暴かれた私怨だとか、師範や先輩を追い詰めようとする態度への怒りがあるにはあったのだが。

 齢十八の源吾郎は、もちろん妖怪同士の派閥闘争や権力構造について多く知る訳ではない。しかし灰高の言葉にもある程度の正当性はあるような気もしてきた。雪羽の不祥事を正したうえで次期当主に推す事も、色々と影響力のある玉藻御前の末裔の動きを警戒するのも、外部の目を気にしていると言えば辻褄が合う。

 

「……確かにそういうお考えになるのは私も何となく解りますわ」

 

 紅藤の言葉は柔らかいものだった。ついでに言えばその面にはほんのりと笑みが浮かんでいる。ヤキが廻っただの視野狭窄だの色々と言われたうえでこのような笑みを浮かべられる点が、彼女の偉大さを示しているようだった。

 源吾郎が同じ立場だったら、多分六回ほどブチギレているだろうから。

 

「灰高のお兄様は元々浜野宮家として、私たちが根城にしていた白鷺城周辺を護っておいででしたものね。今は浜野宮家当主の座をご子息に譲っておいでのようですが、それでもやはり、浜野宮家として関西の妖怪情勢が気になるという事ですね」

「……確かに、浜野宮家としての務めという部分は今でも私の中から抜けてない所も多々ありますね」

 

 しかし訂正していただきたいところがあります。そう言った時、灰高の顔にわずかに渋いものが浮かんだ。彼がそんな表情を見せるのは初めてだった。

 

「まず一つ目として、浜野宮家はもうすぐ孫娘が当主になるんですよ。息子もあなたより少し若い位なのですが、彼も彼で色々あるのでしょう。

 それとですね、私は雉鶏精一派に入ってから今日に至るまで、君のような存在を()と見做した事は一度たりともありません」

 

 豆鉄砲でも喰らった鳩のように、紅藤がきょとんとした表情を浮かべる。灰高はもはや表情を繕わず、不快感たっぷりに言葉を続けた。

 

「それにしても気持ち悪い癖を四百年も五百年も引きずり続けているのですか。そもそもあなたが同じ組織の同じ立場の相手を無理やり兄弟姉妹に当てはめるのは、雉鶏精一派の初代頭目に()()していた時の名残ではありませんか。私の記憶が正しければ、仙道を教えると甘言を餌に、体のいい奴隷扱いした胡喜媚の事を、紅藤殿は今も()()()()()いらっしゃるのではなかったのですか? まぁ、そのような心境ながらも今もなお胡喜媚の亡霊に囚われていると思えば、それはそれで面白いですがね」

 

 言い終えてから事もあろうに灰高は高笑いをかました。本性が鴉である為に、その笑い声は鴉の啼き声に実にそっくりだった。

 会議の中では場違いすぎるこの笑い声を遮る者は誰もいなかった。誰も彼もが灰高の発言に度肝を抜かれていたのだ。

 

 妖怪たちが直面している実力主義の世界は実に厳しい。強者であればある程度好き放題に振舞えるかもしれないが、それはおのれより強い者に無作法を働けば文字通り瞬殺されても文句が言えないという事の裏返しでもある。

 だから実際には、真に好き放題に振舞う妖怪というのはごく少数なのである。これは弱小妖怪であろうと強力な妖怪であろうとあまり変わらない事である。

 というよりもむしろ、強大な力を持つ妖怪の方が言動には慎重になるという。大妖怪ほど知能が高く理知的であるというのが妖怪たちの一般常識のようなものだ。大妖怪というのはおおむね永い年月を生き抜いた個体がほとんどであるので、そうなるまでに殺されずに生き延びて智慧を得ている訳であるから、これはある意味根拠のある通説でもある。

 

 源吾郎や雪羽と言った若手妖怪のみならず、八頭衆のほとんどが驚愕したのは、灰高の大妖怪らしからぬ言動にあった。「強者に対しては慎重に行動すべし」という妖怪たちの不文律を鑑みれば、灰高の言動は失格も良い所である。同じ八頭衆のメンバーと言えども、第四幹部の灰高は第二幹部の紅藤に歯向かうべきではない。さらに言えば、紅藤は単騎であっても八頭衆の他の面子を、いや彼らが保有する精鋭部隊を殲滅せしめるほどの力を持ち合わせているのだ。容易く怒らせたり逆らったりしても良い相手などではない。

 果たしてその事実に灰高は気付いているのか? 源吾郎は灰高の事を多く知る訳ではないが、その佇まいや物言いからおおよその性格は察していた。ついでに言えば灰高が意図して紅藤を煽っているのか否かも。

 灰高は相当な切れ者のようであるし、尚且つ冷静さも眼力もきちんと具えている。しかも紅藤も一目を置いている。そのような男が、おのれの発言が紅藤をいら立たせていると気付けないなどという事がどうしてあるだろうか?

 つまるところ、灰高は紅藤が立腹するのも()()()()で彼女に噛みついているのだ。何とも絶望的な気分の中、源吾郎はそのように判断を下すほかなかった。

 そりゃあ、生きていれば気に入らない相手というのは妖怪であれ人間であれ出てくるだろう。灰高ももしかすると、紅藤に対して抱く気に入らない部分があって、それを色々と言いたくなっただけなのかもしれない。

 しかし源吾郎自身は紅藤の愛弟子である。師範である紅藤の事は尊敬している。尊敬する師範の事を悪く言われるのはやはり気が悪い。何より大妖怪同士のいざこざを目の当たりにするのは心臓にも悪い。

 

「い、いくら何でも言いすぎですよ、灰高様……」

 

 見かねた緑樹が灰高に抗議してくれた。しかし妖力も血統も申し分ないはずの第三幹部の言葉は、思いがけないほどに弱弱しく情けない響きを伴っている。

 

「ありがとう緑樹。でも私は大丈夫よ」

 

 情けないほどにオロオロする緑樹に対し、紅藤は柔らかく微笑んだ。慈愛に満ちた笑顔を前に、緑樹は当惑した様子を見せつつも何も言わなかった。

 酒呑童子と白猿の血を引くというこの大妖怪は、実のところ紅藤たちの弟分に相当する。峰白と紅藤は義弟として彼を可愛がる一方で、緑樹も紅藤たちを姉として敬意を払っている……そんな話を源吾郎は思い出していた。

 

「灰高の()()()

 

 紅藤は紫の瞳で灰高を見据えている。口調は柔らかであるが、揺ぎ無いものを持っていると言わんばかりの圧があった。穏やかな態度が目立つものの、紅藤も実のところ頑固な一面を持ち合わせているのだろう。

 

「いつも以上に色々と私に言い募ってらっしゃるみたいですが、その理由が何故か解りましたわ。

 今回もお兄様は配下の鳥妖怪たちの中から胡琉安様の伴侶になりそうな娘たちを見繕って引き合わせておりましたが、あのお方のお眼鏡にかなう娘はいなかったみたいですものね。

 雉鶏精一派のみならず、外部との調和をも考えなさるお兄様の事ですから、今回の見合いモドキの結果にも落胆し、立腹なさっている。そういった所だと思うのですが……」

 

 聴衆は灰高の毒舌に度肝を抜かれていたが、紅藤のこの長広舌にも驚いていた。何かと率直な物言いの多い紅藤が、まさかこうして皮肉と当てこすりにまみれた言葉を放つとは予想だにしなかった。

 しかしそれこそが、ある意味彼女の今の心境を示しているのかもしれないが。

 

「はーっはっはっは」

 

 灰高が動揺を見せたのは一瞬だけだった。次の一瞬には顔をしかめたように見えたが……すぐにまた彼は高笑いを上げたのだった。

 

「確かに私たちの世界には『牝鶏(ひんけい)(あした)朝を告げる』という諺は通用しませんね。ですが今のあなたの発言は、昔の事を知っている私にしてみれば上等な漫才に匹敵するほどの面白さを感じますね。

 紅藤殿。母親面や雌鳥面をしてもあなた方の過去の所業は覆る事は無いのですよ。胡琉安様が、何故いい大人であるのに妻を得ようとしないのか、その理由はあなたならば十二分にご存じではありませんか。何せ若かりし頃の胡琉安様が真に愛した娘をあなた方が謀殺し、あまつさえ――」

「――今更そんな話を蒸し返して、どうなさるおつもりですか?」

 

 灰高は何か物騒な事を言いかけていたが、紅藤がそれを臆せず遮った。彼女は椅子を跳ね飛ばしたのも気にせずに立ち上がっていた。彼女の身から放たれる濃密な妖気は、爆発的な勢いでもって会場を覆い始めている。

 爆風、或いは台風の中心に似たその妖気こそが、彼女の心中を如実に物語っていた。



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静かなる大妖怪のあらそい

 源吾郎は浮遊感を抱きながら中空を漂っていた。上を向いているのか下を向いているのか左右さえよく解らない。ただただ地に足がついていない事が辛うじて解るだけだ。

 恐らく……いや確実に何らかの理由で飛ばされて漂っているのだ。源吾郎はぼんやりと思った。彼はまだ空を飛ぶ術を会得していないからだ。鳥類や昆虫などと言った、種族的に空を飛ぶ事の出来る妖怪たちが空を飛ぶのはさして難しくはない。しかし、狐などの構造上空を飛ばない種族の妖怪たちではそうはいかない。

 浮遊していると言っても、気持ち悪さは無かった。景色はおぼろで淡い水色が何処までも広がっている。むしろ水の中で浮かんでいるような感じでもあった。

 自分以外には誰もいない――と思ったが、遥か遠方に金と銀の毛皮を持つ何かがいるようだった。あれは雪羽だ。そうに違いない。源吾郎は奇妙な確信を抱いていた。

――……ろう、島崎源吾郎! 

 

 不意に鋭い声が源吾郎の許に飛び込んできた。奇妙な事にその声は耳で捉えたのではなくて、おのれの内側、脳で捉えた物だった。鋭く少し掠れた声が今再び呼びかけてくる。

 

――反応したという事は大丈夫だな。そのままでも構わんし、起きても構わんぞ

 

 この声は……みくにさま? 柔らかい源吾郎の思考が僅かに固まった。何故三國が呼びかけているのかそもそも三國の声だと自分が認識したのは何故なのか……解らない事が多すぎる。

 

――紅藤様が妖気を放ったせいで、雪羽とお前は仲良く()()()()()()んだよ。雪羽の方は大丈夫だと確認が済んだが、ついでにお前の方にも確認を入れたんだ。何、この呼びかけはほんのついでみたいなものだ。

 安心しろ。今は緑樹様が結界を張っていてついでに紫苑様と俺の妻が周囲の認識を調整している所だ。戻ってきてもまた妖気の爆風にあてられて飛んじまう事はまずあるまい。結界も長時間持つとは思わんが、あの二人の事だから問題はないだろう

 

 三國の言葉は恐ろしく早口で、途中から「何かを言っているのが聞こえる」というレベルでの認識がやっとだった。話しかけられているというよりも、一方的に情報を詰め込まれていくような、そんな感覚だった。

 何、何を告げようとしたんだ……源吾郎の脳内は瞬く間に疑問で埋め尽くされていく。次第におのれの意識の輪郭が定まっていくのを感じ、源吾郎の瞼が開いた。

 

「…………」

 

 無言のままに源吾郎は周囲を見渡す。眼球だけを動かして。自分は確かにホテルの一室にいた。大阪のホテルの高層階にいるのはその通りだが、別に空を飛んでいた訳ではない。

 あれこれ考えた末、自分が少しの間――厳密な時間など解らないが――意識を手放していたのだと悟った。

 視界の端に白銀に輝く丸っこいものが見える。椅子にちんまりと座ったそれは変化の解けた雪羽だった。光の加減で淡い黄金色に輝く白銀色の毛皮が幻想的なほどに美しい。サイズは大柄な猫ほどであるが、猫や狐よりも細長い身体と毛足の長い毛皮が特徴的だった。取り巻きを率いて乱痴気騒ぎを行っていた悪たれ小僧とは思えぬほどの、愛らしくも美しい獣だった。

 視線に気づいたのか、雪羽は胡乱気《うろんげ》な眼差しを源吾郎に向けていた。何でお前は変化が完全に解けていないんだ、とでも言いたいのであろう。しかし人間に近い身体に妖狐の尻尾を生やした姿こそが源吾郎の真の姿なのだから仕方がない。赤ん坊の頃は人面狐よろしく首から下は毛皮に覆われていたらしいが、その辺りは流石に源吾郎も覚えていない。

 

――これは……

 

 さてここまでおのれや雪羽の状況に意識を向けていた源吾郎であったが、視線と注意をさりげなく紅藤と灰高の両者に向けた。両者は相変わらずにらみ合ったままである。派手な動きが無く静かであるが、それはいずれも強者であるからこその事であろう。強者の闘いほど長引かず、決着が付くのが速い。それを言っていたのは誰だったのか。

 紅藤から放たれているはずの膨大な妖気を源吾郎は感じなかった。緑樹が結界を張り、紫苑や月華が認識をぼやかしているからなのだろう。

 妖気の影響がないために、紅藤と灰高のやり取りをそれこそ舞台劇を鑑賞するような気分で眺める事が出来た。そして、舞台劇のように冷静に客観的に見る事が出来たからこそ、のっぴきならない状態である事も知ってしまった。

 源吾郎は結界の内側にいるから影響はないが、紅藤を起点とする妖気の奔流は未だに収まっていなかった。その証拠に、紅藤の褐色の巻き毛は不自然に逆立ち、灰高の髪や襟元は風にあおられているかのようにはためいている。

 妖怪が放出する妖気はつまるところエネルギーの一種である。普通の妖怪であれば、そのエネルギーを用いて妖術として活用するものだ。しかし、莫大な妖力を秘める妖怪であれば、妖術などと言う小細工を使わずとも()()()()()()が武器たり得る。源吾郎はふいにその事を悟った。紅藤は果たしておのれが武器を振るったという認識はあるのか。それは源吾郎には解らない。とはいえ彼女の武器に充てられて、雪羽と仲良く失神していたという事は揺ぎ無い事実だ。

 今一度紅藤を源吾郎は見つめる。やはり紅藤と灰高の両者には目立った動きはない。眼前の光景が静止画であると言っても通用するほどに彼らは動かない。大妖怪同士の争いはさぞや派手であろうと無邪気に考える門外漢であればさぞかしがっかりするであろう。

 しかし、これはやはり大妖怪同士の争いなのだ。張り詰めた空気が結界の内外を満たしている事が他ならぬ証拠ではないか。現に八頭衆の面々は誰も止めに入ろうとしない。止めに入らないのではなくて止めに入れない事は源吾郎もぼんやりと解った。そもそも八頭衆の誰かが紅藤たちの争いを止められるのであれば、萩尾丸が仲裁なり調停なりをとっくに行っている所だ。

 

「紅藤様……」

 

 心許ない呟きを漏らしたのは萩尾丸その人だった。源吾郎は思わず彼の顔に視線を向け、声も出ない程に驚愕した。日頃ふんだんにまとっている余裕の笑みが綺麗に消え去り、それどころか青ざめやつれたような表情を浮かべている。声色もそうだが、普段ならば決してお目にかかれないような面差しだった。

 幸か不幸か、萩尾丸は源吾郎の視線に気づかなかった。そして、紅藤と灰高が萩尾丸の呟きを聞き取ったのかは定かではない。

 

「先程のお言葉を撤回してくれますよね、お兄様」

 

 紅藤の凛とした声が張り詰めた空間を揺らす。物言いと絶妙に選ばれたその言葉は既に依頼や懇願ではなくて命令だった。いっそ脅迫めいた気配も見え隠れしている。

 だというのに、年長者である灰高の事をお兄様と呼びかけている。しかもお兄様と呼びかける時だけ甘く媚びるような声音を使ったのだ。そこがまた彼女の発言の物騒さと不気味さを際立たせていた。

 それとともに、少なくとも紅藤の方はまだ威嚇の段階であるのだと源吾郎は気付いた。確かに、灰高の言葉に彼女は激昂した。しかしまだ本気で彼と闘うつもりではないのだろう。威圧して灰高を抑え込もうと駆け引きをしているというよりも、沸き上がった自身の激情を抑え込んで穏便に済まそうと思っているのだと源吾郎は解釈した。紅藤はビジネスライクな駆け引きよりも、相手を慮って動く事を大切にしている事を知っていたためである。

 要するに、今後の展開がどう転ぶかは灰高次第なのだ。彼が素直に詫びればそこで落ち着くはずだ。そして結界の中で成り行きを見守る面々は、灰高が矛を収めるのを望んでいる。みんなの心が一つになった――小学生や中学生に対して使うような文句が源吾郎の脳裏にふっと浮かんだ。

 灰高はゆっくりと瞬きをし、頭を揺らした。その動きに源吾郎は思わず注目していた。紅藤の妖気を真正面から受け止めている灰高がどう出るのか。

 

「潔さが無いですね、紅藤殿。事ここにきて能書きを垂れているのでは、むしろ貴女が及び腰になっていると思われかねないですよ?」

 

 何という事であろうか。灰高の口から出たのは謝罪でも恭順の意思表示でもなかった。灰高の言葉は未だに嘲笑的で挑発的だった。それどころか紅藤が襲い掛かって来るのを望んでいるようなニュアンスさえ孕んでいた。

 

「まさか私が貴女ごときに恐れをなすと本気で思っておいでなのですか。殺るなら受けて立ちますよ。とはいえ、()()()()()()()()()()()に過ぎない貴女が、この私に勝てるとは思いませんがね――確かに莫大な妖力と多彩な妖術が貴女の武器でしょう。ですがそれ以上に欠点が多すぎる」

 

 ほんの一瞬、源吾郎は放たれている妖気をその身で感じた。視界の端で緑樹が慌てた様子で手指を動かしているのが見える。源吾郎たちを護る結界は緑樹が担当してくれていたはずだ。もしかするとその結界が揺らいだのかもしれない。

 お世辞にも愉快な空気が漂っているとは言えない状況であるが、灰高の言葉でその空気はさらに重苦しくなった。お通夜の空気はこんなものかもしれないと源吾郎は考えていた。母方の親族は皆息災で父方の親族とは疎遠な源吾郎は、未だに葬式や通夜に参列した事は無かった。

 灰高のアホは堂々と紅藤に喧嘩を売ってしまったではないか。これはもう自分たちではどうにもならん……むしろとばっちりに巻き込まれるのではないか。重く湿った絶望感が結界の内側を支配し始めた。

 

「……!」

 

 紅藤が何かを言いかけようとしたまさにその時、唐突に部屋の扉が音を立てて開いた。

 室内を満たす空気感を度外視したような、茶目っ気溢れる様子でもって第一幹部の峰白が顔を覗かせた。



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第一幹部は調停す

 雉鶏精一派の第一幹部である峰白は、幹部会議が行われている会場に入り込んだ。その足取りも表情も、気負った所はひとかけらも無い。

 思いがけぬ闖入者に誰も彼も度肝を抜かれていた。二人でにらみ合っていた紅藤と灰高さえも、一瞬彼女に視線を向けたくらいなのだから。

 

「紅藤の所の狐と雷園寺家の当主候補の話だからそんなにもめないと思ったけれど、そうでもなかったみたいね」

 

 峰白は軽やかに紅藤たちの傍らに歩み寄る。彼女が緑樹の結界の内側にいるのか外側にいるのかは判らない。しかし紅藤や灰高が発する妖気の圧などは問題にならない、と言わんばかりの素振りだった。

 いやそもそも妖気云々の問題を差し引いても、峰白の行動はとんでもないものだった。結界の内側にいて、紅藤たちの妖気に影響されないはずの八頭衆たちでさえも、固唾を呑んで成り行きを見守るほかなかったのだから。

 峰白の視線が紅藤と灰高に向けられる。野良猫の喧嘩を観察した通行人のような表情を彼女は浮かべていた。

 

「紅藤。もしかしてそこの灰高と闘うつもりだったのかしら? 一人でやろうとするなんて水臭いわねぇ。それならそうと私に一声かければ良かったのに。

――()()()妹の願いを聞き入れるのは姉の役目ですもの」

 

 妹と姉。両者の関係性を示す言葉を口にしながら、峰白は紅藤に語り掛けていた。義妹である紅藤を気遣うというよりも、今のこの状況を愉しんでいるという気配の方が濃い。

 

「お、お姉様……違います。ちがうんです、わたし……」

 

 たどたどしく言葉を紡ぎ、紅藤は俯いてしまった。大恐竜の幻影さえ浮かぶような爆発的な妖気を放っていたのが嘘のようだ。目の前にいる彼女は圧倒的な妖気を操る怪物でもなければ頭目の生母であり上位幹部として君臨する女傑でもない。ただただ途方に暮れた、いたいけな少女にしか見えなかった。

――もちろん、紅藤は少女などと言う歳ではない事は源吾郎も知っているが。

 峰白は冷徹な眼差しで義妹の様子を観察していたが、すぐに視線を灰高にスライドさせた。

 

「峰白殿も参戦されるとなると面白い事になる……と言いたいところなのですがね。貴女を敵に回すと厄介な事は私も流石に存じております。流石に最盛期の妖力は無いでしょうが、貴女の最大の武器は妖力ではなくて冷静で明晰な頭脳ですからね。紅藤殿と二人がかりで襲撃されれば、いかに私でも無事では済まないでしょう」

「よーく解っているじゃない、灰高」

 

 灰高の峰白に対する反応は、紅藤に挑発を送り続けていた時とはまるきり異なっていた。紅藤に対してはサシで勝負になっても負けないと言わんばかりの言動であったが、峰白には一目を置いているとでもいうのだろうか。

 あるいは、峰白と紅藤が同時に襲い掛かってくる事を懸念しているのかもしれない。大妖怪に劣る妖力しか持たぬ峰白の事を大妖怪の灰高が恐れているという図は、考えてみればやや奇妙な点もあるにはある。しかし峰白の堂々とした態度を見ていると、それがまた当然の事のようにも思えた。

 

「でもちょっと残念ねぇ。私を前にしても翼をたたまず嘴を向ける程の気概があれば、私も私でひと暴れ出来たのに。ええ。最近平和すぎるから私もちょっとなまっている気がするのよ。妖力の増え具合もひところよりも遅くなってるしね。そんなだから、まぁ()()()()でもできればと思ったんですけれど……」

 

 峰白はそこまで言うと、紅藤をちらと見やった。

 

「そうだ紅藤。あんたはどうなのかしら? そこの鴉を私と一緒にぶちのめしたい? それとも私が殺るのを見とく?」

 

 ぶちのめすとかやるという塩梅にオブラートに包んでいるが、要は生命のやり取りが絡む物騒な話だろうと源吾郎は思っていた。峰白は冷徹であるが烈しい気性も併せ持ち、歯向かう相手は文字通り首が飛ぶとも聞いている。今もきっと、峰白は殺る気満々なのだろうか。紅藤に敢えて聞いているという事は、紅藤の返答次第という事なのかもしれない。

 紅藤は顔を上げ、首を振った。

 

「良いんですお姉様……私が少しうろたえただけですから。そんな、あんな事くらいで動揺したら駄目なのに……」

「そこまで気に病まなくて良いでしょ、紅藤」

 

 峰白の落ち着いたその声には、呆れと優しさとどちらが含まれているのか源吾郎にはよく解らなかった。それに彼女は、既に灰高に視線を向けている。

 

「命拾いしたわね、灰高。紅藤の意見一つであんたは八頭衆のみならずこの世から退場させられていたかもしれないんだから……我が義妹《いもうと》の優しさを噛み締めるのよ」

「それは僥倖《ぎょうこう》というものですな」

 

 峰白の言葉に対し、灰高は割と軽い調子で受け流す。

 

「峰白殿が妹君を大切にしているお陰で、仰る通り私も命拾いしたという事ですね。峰白殿。なまっているのは貴女だけではなく私にも当てはまりますし」

「ああ、やっぱり鴉って賢いわね。ああだこうだ言いつつも、本当は私が殺る気じゃない事は見抜いていたんじゃあなくて?」

 

 ひょうひょうとした態度の灰高を見据えながら峰白は鼻を鳴らしていた。

 

「ええ。既に気付いていると思うけれど私個人としてはあんたを殺したく無いと思ってるわ」

 

――峰白様。若い頃殺しまくったとは聞いてましたけれどモロに殺すとか言ってしまってますやん

 源吾郎は心中でツッコミを入れていた。多分雪羽とか八頭衆の面々とかも何も言わないがその辺りはツッコミを入れているだろう。

 峰白はそんな源吾郎たちの心境など意に介さず言葉を続ける。

 

「今のこの状況で八頭衆の一人が欠けるのは雉鶏精一派にとっても大きな痛手になりますもの。これが第六幹部以下の若手ならばまだしも、あんたがいなくなるとなると……

 喜びなさい灰高。この私にそう言わしめるほどにあんたは特別なのよ。外の情勢の動きに誰よりも敏感だし、組織をまとめる心得もある。それに何より私たちに臆せず意見が言えるんですからね」

 

 灰高を見つめる峰白の顔には笑みが浮かんでいた。笑みと言っても、紅藤が日頃源吾郎たちに見せる笑みとも、萩尾丸が見せる笑みとも全く異なっていたけれど。要するに彼女の笑みは、権力者・女帝の笑みだった。

 情も何も籠っていない峰白の笑みに対して、灰高も笑みでもって応じている。

 

「それはまぁ、私が利用価値のある手駒であるという事でしょうか? そこの義妹さえも利用できるか否かで判断しているようですし」

「ええもちろんよ。胡喜媚様の……あのお方の血を存続させる為ならば私は何だってやるわよ。利用できるものは利用して、敵対する者は潰すのみ」

「やはり安心しましたよ。今更あなた方に情愛がどうだのと言われても却って信用できないと思っていましたからね。

 まぁそもそも、雉鶏精一派自体もあなた方のエゴによって生み出された組織そのものとも言えますからね。峰白殿は胡喜媚に抱いた愛情を実現させるため。紅藤殿は仙道の研究を進めるため。その二つの願望を叶えるためだけに、あなた方は組織を再興させたと私は思っておりますが?」

「エゴで動く事の何が悪いというのかしら?」

 

 灰高のねちっこい質問に対して峰白は真正面から答えなかった。その代わりに質問を灰高にぶつけたのである。

 

「確かに組織運営に当たって自分のためにやっているという所はあるわよ。私も紅藤もね。だけど、それはあんたたちだって当てはまるでしょ? あんたたちがこうして雉鶏精一派の幹部の座に収まっているのだって、雉鶏精一派の恩恵に縋りたいというエゴでもって動いたとも言える。違うかしら」

 

 雉鶏精一派を再興させたのは峰白と紅藤の願望を叶えるため。しかし後に構成員となった八頭衆も、何がしかの利己的な思惑によって今ここにいるのだ――峰白の主張はいささか身勝手ではある。しかしそれを聞いた面々は神妙な面持ちで頷いたり、互いに顔を見合わせたりしていた。

 無論エゴによって雉鶏精一派に所属したというのは源吾郎にも当てはまる。彼自身、最強の妖怪になり世界征服を行う野望を持っているのだ。野望の途中で雉鶏精一派の幹部になるというイベントもあるだろうが、それも最終目的の通過点、良い方は悪いが踏み台のようなものとも言えるわけだし。

 

「エゴで動けると言い切れる潔さは羨ましい限りです。ですが内部の動きだけで満足していて外側の動きを蔑ろにしていたら、後々痛い目を見るのはあなた方ですよ」

 

 灰高はそこまで言うと、笑みをふっと消した。今まで気付かなかったが、真顔の灰高は中々に凄味がある。

 

「ご存じかと思いますが、私は刑部狐の盟友として浜野宮家を率いておりました。今は浜野宮家当主ではありませんが、当時の繋がりを切り捨てたわけでもありません。峰白殿であれば、その意味はお解りですよね?」

「まぁ要するに、あんたやあんたの配下を害すれば、外部勢力が黙っていないという事よね」

 

 灰高の言葉に応じる峰白は、少しばかり渋い表情を浮かべていた。おのれの組織に敵対する妖怪たちは潰すと覚悟している彼女であっても、他の勢力と相争うのは悪手だと思っているのだろう。

 

「外部勢力と雉鶏精一派との動きに意識を配ってくれるのも良いけれど、あんまり雉鶏精一派の内部をかき乱したりしないで欲しいのよ。まぁ、八頭怪の話を聞いて灰高も灰高なりにうろたえているんだろうという事はイメージできるけどね。

 まぁ灰高。あんたも八頭衆の座に居座り続けたいのならば、あんまり妹をいじめないで欲しいのよ。紅藤は大抵の事は笑って受け流せるけれど、全ての言動がそうとは限らないから。今回の案件も、全くお咎めなしにする事も出来ないわよ」

 

 かくして、紅藤と灰高が真正面からぶつかるのではないかと思われた幹部会議であったが、峰白の乱入のお陰でどうにか丸く収まったのだった。

 もちろん灰高に対する懲罰を何にするかという議題はあるにはある。しかし皆一様に疲労困憊した様子を見せており、幹部会議はひとまずここでお開きになる気配が濃厚だ。



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へばる妖狐は褒められる

 なし崩し的に幹部会議は閉幕した。事を収めた峰白はそのままさっさと退出し、それが終わりの合図になったようなものだった。今までの司会進行は灰高だったのだが、流石に紅藤や峰白のやり取りを見られて気まずく思ったらしい。終わりの音頭を取ったのは萩尾丸だったのだ。

 

「最後になりますが、皆様を混乱させ多大なる迷惑をおかけした事をお詫び申し上げます」

 

 皆が腰を浮かせ立ち上がろうとする直前に、紅藤はそう言って謝罪の意を示した。憤怒で妖気を放出させて皆を驚かせた事を、紅藤はかなり深刻に受け止めているらしい。しおらしい表情を見れば明白だった。

 

「そんな、こちらこそ何もお力添えできず申し訳ないですわ、伯母上様」

 

 紅藤の謝罪に対して声を出して応じたのは紫苑だった。おば上、という言葉に源吾郎の脳裏に疑問符が浮かび、すぐに霧散した。確か彼女は胡琉安の従姉である。ならば彼女が紅藤をおばと呼ぶのはまぁ当然の話だろう。

 伯母上様。紫苑はひたと紅藤を見つめている。その顔に浮かぶ笑みはまさしく友好的なものだった。

 

「紅藤の伯母様。今後何か厄介事があれば私に何なりとご相談くださいませ。伯母のピンチを助けるのは姪の役割ですもの」

「ありがとうね、紫苑ちゃん……」

 

 紅藤は軽く目を瞠り、半ば感動した様子で紫苑に呼びかけていた。血縁的な親しみを好む彼女である。胡琉安の従姉でありおのれの姪とも呼べる紫苑の提案はさぞや嬉しいものなのだろう。

 

「だけどあなたも無理をしないでね。私への支援も、出来る範囲で大丈夫ですから。ああでも、もしかしたら姪にそんな風に気を遣わせちゃうなんて、叔母としては良くないかも知れないわね」

 

 そんな事ありませんよ、伯母上様。紫苑の言葉に対し、紅藤は弱弱しく微笑んでいるようだった。先の会合のやり取りがまだ尾を引いているのかもしれなかった。

 

 

 源吾郎は幹部会議がある会場をゆっくりと後にした。倒れそうなほどに疲弊している訳ではないが、両足両腕がやけに重たく感じた。疲れ切っている何よりの証拠らしい。

 スタッフたちはまだ立ち働いていた。会場の後片付けというものは時間がかかるものなのか、そもそも幹部会議が思っていた以上に短時間だったのか。源吾郎には判断できなかった。

――これはとりあえず手伝わないと

 ぼんやりとした頭の中でそう思うのがやっとだった。宮坂京子が架空の存在であると判明したと言えども、源吾郎がスタッフとして潜入したのはまごう事なき事実だ。であれば働くのが筋であろう、と。

 ところが、源吾郎がふらふらとスタッフたちの傍に近付くと、年かさのスタッフが慌てた様子で彼の進路を阻むように立ちふさがった。

 

「君、第二幹部殿の配下で……玉藻御前の末裔である島崎源吾郎君だろう?」

「はい、そうです」

 

 年長のスタッフは一度視線を泳がせると、源吾郎にはとりあえず休んでおくようにと告げたのだ。

 

「第六幹部殿の側近から事情は聞いているんだ。いやぁ、まさか我々も君が変化して紛れ込んでいるとは思わなかったよ……向こうも帰り支度まで少し時間がかかると仰っていたから、それまで休んでおくんだ」

 

 かくして源吾郎は、そのスタッフに誘導され、これ見よがしに壁際に安置された椅子に座らされる運びとなったのである。

 

 

 割と発言権のあるスタッフの命令と言えども、他の若手妖怪たちが働いている所で堂々と休めるような厚かましさを源吾郎は持ち合わせてはいなかった。

 もちろんしんどい事には変わりない。しかし「こいつ働かずにサボってやがる」と同年代の妖怪たちに思われているのではないかと気が気ではなかった。現に、若手妖怪たちは働きつつも源吾郎の方をチラチラ見ていたのだから。面と向かって非難するような手合いはいない。しかしそれでも居心地が悪い事には違いなかった。

 そう思っていると、若手妖怪の一人が近づいてきたではないか。源吾郎はそれまでだらりと座っていたのだが、疲れているなりに機敏な動きで居住まいを正した。近付いてきたのは金髪のセミロングを一本にまとめた女狐、バイトリーダーの米田さんだった。

 

「お疲れ様。今日は大変だったでしょ。色々あったけれど、島崎君が活躍してくれた事には感謝しているわ。ありがとうね」

「あ、う……」

 

 愛想よい表情と声色で話しかけられたが、源吾郎は残念ながら間の抜けた応対しか行えなかった。疲れ切っていた事もあるが、スタッフの一人が、それも米田さんが接近してきた事にひどく驚いたのだ。

 まぁとはいえ、気力体力が十全な状態であれば、もっと()()()な応対が出来たかもしれないが。

 源吾郎の戸惑いぶりは米田さんもよく解ったのだろう。彼女は未だスタッフが立ち働く会場を一瞥してから源吾郎に視線を戻した。

 

「私の事は気にしなくて大丈夫。もうすぐあっちの仕事も終わるし、ちょっと島崎君の様子を見て欲しいってマネージャーから直々に言われたから……」

 

 それにね。優しげな様子で米田さんが言い足す。

 

「今のあなたを見て、誰も不当にサボっているなんて言い出したりはしないわ。もしかしたら興奮して気を張っているのかもしれないけれど、今の島崎君は誰がどう見てもクッタクタに疲れ果てているってまるわかりだもの」

 

 そういうと米田さんは何処からともなく鏡を取り出した。女子がメイク直しに使うような、長方形のコンパクトな手鏡だ。それを見た源吾郎は潰れた蛙のような声をあげていた。まるきり彼女の言うとおりだった。

 源吾郎は深い呼吸を繰り返しながら彼女にかける言葉を練り上げていた。青ざめたゾンビみたいな感じになったおのれの顔を鏡越しに見た源吾郎は、何故か落ち着きを取り戻していたのだ。

 

「……申し訳ないです、米田さん」

 

 冷静になった源吾郎の口からまず出てきたのは謝罪の言葉だった。不思議そうに首をかしげる米田さんを見つつ、言葉を続ける。

 

「僕は宮坂京子という存在しない狐娘に変化して、米田さんを……他の皆を欺いていたんです。もしかしたら、米田さんも俺の本性を知って嫌な思いをなさったのではありませんか?」

 

 言いながら顔が熱くなるのを源吾郎は感じていた。米田さんは昼休憩の折などに自分の確保した料理を分けてくれたりと親切にしてくれた。しかしそれは薄幸な狐娘であると思ったからだろう。宮坂京子として動いていた時、源吾郎はナチュラルに女子として振舞い、女子の傍で動いてはいた。だが中身は島崎源吾郎という男である。その真相を知ってキモいと評した妖狐の女子たちも多かった。キモいと言われた事は確かにショックではあるが、まぁ彼女らの気持ちも解らなくもない。

 要するに、今こうして源吾郎の世話を命じられている米田さんも、内心では源吾郎を「めっちゃキモいわこいつ」と思っているだろうと考えていたのだ。

 

「別に気にしなくて良いのよ」

 

 ところが米田さんは軽く笑いながら首を振った。

 

「私も詳しい事は知らないけれど、島崎君も上からの命令で表立って出席する代わりにスタッフに紛れ込んでいたんでしょ? 上の命令に逆らえないのは、ある意味勤め妖《にん》の宿命みたいなものだし」

「……宮坂京子として働いている間、米田さんは俺に親切にしてくださりましたが、それはやっぱり俺が見た目通りの普通の女の子だと思ってたからですよね。もし……もし俺が変化していると知ってたら……」

「今になって思えば、島崎君ってかなり変化上手だったわね」

 

 口ごもる源吾郎を眺めながら米田さんは呟く。

 

「宮坂さんとして働いていた時の様子も見てたけど、まさか変化していたなんて私も気付かなかったわ。まぁ、あんまり他の子と喋らないようにとか気を付けていたんでしょうけれど、ごくごく普通の女の子って感じだったもの。

 多分、今回の雷園寺君の騒動が無ければ、誰にも疑われずに演じ切る事は出来たんじゃないかって思うわ。自信をもって良いのよ島崎君。()()()()の才能は他の妖狐たちよりも抜きんでてるんですから」

「ありがとうございます……」

 

 米田さんははっきりとした返答を口にはしなかった。しかし源吾郎の卓越した演技力が並ではない事、雪羽のグラスタワー事件というイレギュラーが無ければ本性が露呈しなかったであろう事を示唆してくれた。何事もなく生誕祭が終わっていれば宮坂京子の本性も疑われる事なかっただろう、という話である。

 それを聞いて源吾郎は安堵していた。過大評価かもしれないが、米田さんは少女に化身していた源吾郎の事をキモいと思っている訳ではないと考えていた。他のスタッフだった妖狐の女子たちよりも幾分オトナな米田さんにまでキモいと思われていたら、割と真剣に凹むところだったかもしれないためだ。

 

「本当に大した演技力だったわ。私も途中までは宮坂さんの正体に気付かなかったもの」

「途中まで、ですか?」

 

 源吾郎が尋ねると、米田さんは小さく頷いた。

 

「実はね、術を使って私たちを助けてくれた時に気付いたの」

 

 そうだったんですね……源吾郎は目を瞠った。宮坂京子の正体は、雪羽の叔父である三國には見抜かれていた。しかしまさか米田さんまで気付いていたとは。となると、三國が宮坂京子にあれこれ話を投げかけていた時、米田さんは宮坂京子の正体を知ったうえで助け舟を出してくれていたという事になる。

 妙な感慨に耽る源吾郎に対し、米田さんは静かに付け加えた。

 

「ほら、私って元々は術者の補佐がメインの仕事でしょ。それで、フリーの術者をやっている苅藻さんやいちかさんとも一緒に働いた事があるの。それで妖気の質とか匂いとかが似てたから気付いたって感じかな」

「あ、そういう事だったんですね」

 

 叔父や叔母と面識があるのならばそりゃあ確かにピンとくるのも当然の流れだと源吾郎は思った。変化術こそは自分とは異なる存在を維持し続けていたが、術で使った妖気の隠蔽までは意識が回らなかった。またあの時、術を使う反動で汗だくになった上に鼻血まで出した始末である。妖気と血の臭い。どの妖怪か特定するには十分すぎる材料が揃っている。苅藻といちかを知っている米田さんならば、宮坂京子が誰だったのか知るのは容易い事だったという話だ。



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別れは優雅にキメてみた

 玉藻御前の末裔を騙る米田さんが、本物の玉藻御前の孫である苅藻やいちかと交流がある。それはそれで中々に興味深い話かもしれない。

 

「確かに、叔父も叔母も術者やってますからそういう所で出会うって言うのはありますよね。案外術者の業界も狭いって聞きますし」

「世間は狭いって言葉はやっぱり本当の事なのよ」

 

 米田さんはそういうといたずらっぽく微笑んだ。

 

「苅藻さんもいちかさんも親切で感じの好い妖だって思ってるわ。特にいちかさんは、年上って事もあって私を妹みたいに可愛がってくれようとするし」

「まぁ、叔母にはそういう所がありますからね。自分が末っ子だから、弟妹が欲しいってずっと思ってらっしゃるんですよ」

 

 いちかの姿を思い浮かべながら源吾郎は軽く鼻を鳴らした。叔母のいちかが米田さんを妹と見做しているという話を聞いて、面白くないと思ってしまっていた。弟代わり妹代わりが欲しければ甥たちや姪がいるではないか。余所の、血も繋がっていないような妖怪を弟妹と見做すよりも、親族である自分たちを弟妹と見做す方がずっと健全だと源吾郎は思っている。しかしそれでも、いちかは源吾郎たちの姉ではなく叔母として振舞う事を選び続けている。

 いちかの兄であり、源吾郎の叔父にあたる苅藻の方が、よほど兄らしく振舞ってくれるというのに。

 あ、と米田さんが短く声をあげた。源吾郎がむっつりとしている事に気付いたらしい。

 

「そう言えば私、玉藻御前の末裔を名乗っちゃっているけれど、それこそ島崎君にしてみれば面白くない話じゃないの?」

「そんな事ありませんよ」

 

 源吾郎は米田さんの目を見据え、はっきりと即答した。米田さんが玉藻御前の末裔を名乗っているという点について、特に不愉快だとは思っていない。その辺の凡狐が玉藻御前の末裔を名乗っているのは面白くないが、米田さんはその辺の凡狐とは違う訳だし。

 その事を説明しようと思ったが、疲れ切っているのでうまく言葉がまとまらない。源吾郎は代わりに別の事を口にした。

 

「それにしても、米田さんと叔父たちが仕事上の付き合いとはいえ仲良くしてらっしゃると聞いたらそうだろうなって思いましたよ。叔父たちは、誰が玉藻御前の末裔と名乗っていようがあんまり気にしませんからね」

「そうね。苅藻さんたちはそういう所は良い意味で割り切ってくださってると思うわ。やっぱりあの二人って半妖ですから、あんまり変にこだわると却ってしんどくなるのかもしれないし」

 

 半妖。その言葉が源吾郎の心にぐっと迫った来たような感覚があった。源吾郎は父と祖父が人間である事は一応把握している。人間の血を多く引き、純血の妖狐とは色々と異なる事も解ってはいる。しかしそれでも身内ではない妖怪に半妖と言われると心がざわついた。

 今回半妖と称されたのは叔父と叔母である。母の弟妹が半妖呼ばわりされると、自分の人間の血の濃さが一層際立つような奇妙な感覚があった。

 母親が半妖で父親が人間であるから、叔父たちよりも人間の血が濃いのは事実なのだが。

 

「それにしても島崎君も大変な事ばかりだと思うけれど、とても頑張っているわよね」

 

 猫のような笑いを浮かべながら、米田さんはささやいた。何がどうという事ではないのだが、そこはかとない寂しさがこもったような声音だった。

 米田さんは何が大変だと思っているのだろうか。俺の野望の事? それとも今日の幹部会議の事だろうか……そう思っている間に彼女は言葉を重ねる。

 

「そもそも島崎君は、人間として暮らせるように育てられたんでしょ? 若いのに妖怪としての暮らしをしようと方向転換したなんて、大変な事だと思うわ」

「……まぁ、人間として暮らしていても望んだものは手に入りませんからね」

 

 米田さんは、まるで源吾郎が今ここに至るまでに何があったのかを見てきたような物言いをしていた。何故そこまで知っているのか。気になったが源吾郎は尋ねなかった。疲れ切っていて些末な疑問は割とどうでも良い事のように思えていた。

 それに何より叔父や叔母の事を知っている米田さんである。もしかすると源吾郎の両親や兄姉とも面識があるのかもしれない。そう思うと腑に落ちた。

 ともあれ米田さんの指摘通り、源吾郎が人間として育つように教育されてきたのはまごう事なき事実だ。実際に兄姉らは人間としての暮らしに順応している。源吾郎は兄姉らよりも妖怪としての気質と野望が強かった。ただそれだけの話である。

 

 

 ※

 萩尾丸の配下だという妖狐の男が源吾郎の許にやって来た。三尾を揺らしながら、車で研究センターの居住区まで送っていくと丁寧な口調で源吾郎に教えてくれたのだ。若者でしかない源吾郎に対して丁寧な態度なのは、それが仕事であり尚且つ彼が萩尾丸の配下だからだろう。

 源吾郎は促されるままに立ち上がった。狐男に従って付いて行く前に、振り返って米田さんの方を見た。

 

「今日はありがとうございました、米田さん」

 

 源吾郎は残った気力を振り絞り、玉藻御前の末裔、ひいては未来の大妖怪らしく威厳を示した。

 

「今回はここでお別れですが、俺たちはきっとまた何処かで会えると信じています。ええ、その時俺は俺の血に流れるにふさわしい態度でもってお会いしましょう。それでは米田さん、またいつか――」

「うん、また今度ね、島崎君」

 

 源吾郎の気取ったセリフに対して、米田さんは微笑みながら手を振ってくれた。源吾郎を送っていくという狐男はというと、事もあろうに笑いをかみ殺しているように見えた。



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使い魔を前に決意を新たにす

 カクヨム版ではこのお話で第二部完結です。


 朝。居住区内の一室に戻っていた源吾郎は、やけに整った電子音で目を覚ました。数秒ほどしてインターホンの音だと気付いた。源吾郎が今「本宅」としている研究センターの居住区は、外観も内装も小ぢんまりとしたアパートにほぼ近い。従って鍵も掛ける事が出来るし、外部からの連絡手段としてインターホンもあるという事だ。

 源吾郎はそこから更に数秒ほどぼんやりとしていたが、犬のように頭を振るとそのままドアの出入り口に向かい、鍵を開けた。一人暮らしの若者の動きとしてはいささか不用心であるが、場所が場所なので無問題だ。居住区にも紅藤の護りの術がかけられているらしいし、そもそも関係者でもないのにこんなところにやって来る物好きもそうそういない。

 というよりも、紅藤が来訪したのだろうと源吾郎は思った。時間は朝の九時をとうに回っている。休日だからどうという事は無い。しかし明日はへばってホップの面倒が見れないかもしれないなどと言う繰り言を帰りの道中でこぼしてしまったのだ。源吾郎と紅藤たちは別々に帰った形になるが、源吾郎を送った妖狐の男が、この事を萩尾丸に報告したとしても何もおかしくない。

 

「おはよう、島崎君」

「おはよう、ございます……」

 

 ドアを開けた先にいた訪問者を見て源吾郎は目を瞬かせた。予想に反し、やって来たのは紅藤ではなく青松丸だったのだ。

 

「昨夜は大変だったでしょ。大丈夫かな?」

「は、はい一応……」

 

 爽やかに微笑む青松丸に対して、源吾郎も笑みを返した。一応大丈夫と言ってみたものの、その言葉が本当なのかどうか源吾郎には判らなかった。起き上がって話が出来ているのだから大丈夫であるともいえる。しかしまだ頭がぼんやりとしていてあんまりやる気が出てこない。寝起きだからなのか、昨日の今日で疲れ切っているからなのか、やはり判らなかった。

 源吾郎の使い魔・ホップの面倒を見にきたのだと青松丸は説明してくれた。

 

「本当は母様が、ああいや紅藤様が来ても良かったんだけどね。若い男の子の部屋に紅藤様が上がり込むのもアレだろうって事で代わりに僕が来たんだ」

「お気遣いありがとうございます」

 

 青松丸の追加説明に対して源吾郎は即座に礼を述べていた。実は源吾郎の脳裏に紅藤が部屋に来訪する姿が浮かんでいたのだ。青松丸の言う通り、紅藤が来たとなると源吾郎は結構緊張するだろう。こちらの本宅にはやましい書籍は無いと言えども、それとこれとはまた別の話である。

 

「それにしても、思っていたよりも元気そうで安心したよ。萩尾丸さんによると、雷園寺君はまだずっと寝てるみたいだからさ。島崎君もしんどいんじゃないかなって」

「僕はあいつとは違いますよ」

 

 あいつ、という言葉に鋭さを込め、源吾郎は鼻を鳴らした。青松丸や萩尾丸にしてみれば、源吾郎と雷園寺雪羽はほぼ同格の存在らしい。それが源吾郎には気に喰わなかった。寝起きで、まだ疲れが残っているからイライラしているだけかもしれないが。

 

「あいつ……雷園寺の野郎は夜行性だから、朝に弱いんじゃあありませんか。しかも乱痴気騒ぎを起こすほどしこたま呑んでたんで二日酔いにもなってそうですし」

 

 源吾郎の脳裏には、二日酔いでへばる雪羽の姿がおぼろに浮かんだ。イメージしたその姿は小生意気な少年の姿ではなく大きな猫のような本来の姿の方だった。雪羽は好きでも嫌いでもないが……フワフワした猫のような獣が苦しんでいるのかと思うと少しだけテンションが下がった。源吾郎は猫のような生物が好きなのだ。

 そんな事をぼぅっと考えていると、青松丸がややわざとらしく高い声を上げた。

 

「そろそろホップ君の面倒を見ようと思うんだけど、僕はどうしたら良いかな?」

 

 

「ピュイッ、ピィッ、プ、プッポポッ」

 

 源吾郎や青松を見るや、ホップは機敏な動きでもって方向転換をし、そのまま止まり木から離陸して鳥籠の壁面にへばりついた。

 ホップはいつも通り元気そうだ。変わった所はない、と言いたいところだったがあるじである源吾郎はホップの動きがいつもと違う事に気付いてしまった。いつも以上に動きがすばしっこいというか、落ち着きがない。新鮮な餌や水を早くくれと言わんばかりの態度だった。あるいはもしかすると、外に出してほしいという主張なのかもしれないが。

 結局のところ、餌と水の交換は青松丸に行ってもらう事にした。やはり源吾郎も十全な状態とは言い難く、ホップの世話はお任せしたほうがよさそうだと判断したためである。何しろ、いつもは可愛く聞こえるホップの声が、今日はやけに頭蓋に響くのだから。

 

「誰だっていつでも元気一杯という訳には行かないよね。そういう時は、気負わず身近な人に頼っても大丈夫なんだよ」

 

 青松丸は鳥籠の前で丸まって作業をしていたが、言葉を紡ぐときにはわざわざ首を曲げて源吾郎の方を向いていた。源吾郎は頬を火照らせながらも頷いた。誰かに頼る事。それは源吾郎には馴染み深く、それ故に鬱陶しくも感じる事柄だった。末っ子気質故に誰かに甘えて頼る事には抵抗は薄い。しかし甘えて頼ってばかりとは思われたくない……一見すると相反する感情なのだが、それが源吾郎の中では矛盾なく共存しているのだ。

 

「……君、島崎君」

 

 青松丸の静かな呼びかけに源吾郎ははっとした。ホップを外に出して遊ばせるべきか否かと、青松丸は問いかけてきていた。ホップは数十分ほど籠の外で遊ばせる事になった。いつもホップが籠の外に出れるのは朝と夕方の短い間だけだ。朝の放鳥タイムは餌と水の交換というイベントと抱き合わせになっている。

 今日は掃除の時間がいつもより遅くなってしまったが、ホップも外で遊べるならば文句は言わないだろう。

 

「ピ、ピピピィ!」

 

 籠から放たれたホップは小さな喉を膨らませて啼いたかと思うと、一直線に源吾郎の許に飛んできた。身体が小さいためか翼を翻す回数が多いためか、羽ばたきの音は小鳥というよりむしろセミやハチの羽ばたきの音に似ていた。

 ホップは源吾郎の何処に着陸しようかと悩んでいた。源吾郎が見かねて両手でお椀の形を作るとそこにすっぽりと収まった。ホールインワンのごとき見事な収まりぶりである。

 

「どうしたんだ、ホップ。いつもは探検ばっかりするのに、真っ先に俺の手の中に入って来るなんて」

「ピ、プイー」

 

 戯れに源吾郎が声をかけると、ホップも啼いた。源吾郎の言葉を聞いて、彼なりに何かを主張したのだ。

 源吾郎はしばらく手の中に納まったホップを観察した。嘴で指の内側の部分をつついたり甘噛みしたりしているが、飛び立つ気配はない。指を近づけて頭や頬を撫でてもなすがままだった。

 

「やっぱり、ホップ君は島崎君の事が好きみたいだね」

 

 いつの間にか青松丸は源吾郎の方を向いていた。ついでに言えば少し源吾郎たちに近付いてもいる。

 

「僕が掃除をして新しい餌や水を用意したらホップ君は確かに喜んでいたよ。だけど、今の二人を見ていると、島崎君はホップ君に心底信頼されてるんだなって思ったよ」

「そう、ですね……」

 

 青松丸の話を聞いていた源吾郎は、今一度ホップに視線を戻した。先程まで撫でられて目を細めていたホップであるが、今は丸く目を見開いて首を伸ばしている。相変わらず十五グラムと軽くて小さいが、手の平に収まっているものがそんなにちっぽけなものだとは思えなかった。

――俺、今以上に強くならないとな。

 

 源吾郎は今以上に強くなる事を密かに決意した。強くなりたいと思っている事そのものはいつもの事だ。しかし、おのれの為ではなく()()のために強くなりたいと思ったのは今回が初めてかもしれない。




 次話以降から2日1回のペースで更新します。


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第七幕:妖怪たちのサマーデイズ
三人寄れば怪談話


 序盤ホラーテイストなので苦手な方は注意です。


 丙狐(仮名)という野狐は、非常にせっかちな狐だった。そのせっかち度合いは常軌を逸しており、食事の時さえ噛むのが惜しいからと半ば丸呑みで済ますという程である。

 もちろん同僚である他の狐からは「食べる楽しみを投げ出している」だの「そんなんじゃあ消化に悪いからすぐに病気になる」だのと言われていたが、全くもって意に介さなかった。丙狐はせっかちである上に割合頑固な一面も持ち合わせていたのだ。

 そんなある日、丙狐は仔鼠を六、七匹丸呑みにしてランチを済ませた。仔鼠と言っても動きのままならないピンクマウスではなく、毛も生え揃いぴょんぴょんと跳ねるホッパーマウスである。同僚である狐らは眉を顰めつつも特に何も言わなかった。丙狐のランチはいささか悪趣味であったが、妖狐として逸脱している訳でもないからだ。自分たちとてマウスを使った料理を食する事はある。それに何より妖狐は時として裏切り者の粛清や共喰いにさえ手を染める事もある。若い妖狐たちは不気味だと思いつつも、まぁそんなものかと思うほかなかったのだ。

 

 マウスたちを丸呑みにして数日も経たぬうちに丙狐は体調を崩した。食べても食べても満腹にならないという症状が始めだった。食べる量は無論増えたのだが、食べた物を消化して栄養にしているような気配が無かったのだ。それでいて腹の中では何かが留まり続けているような不快感に昼と言わず夜と言わず襲われた。

 しばらくするうちに強い腹痛を感じるようになった。食中毒や下痢の苦しみなど比較にならない。何しろ内臓が切り裂かれるような痛みだったのだから。

 尋常ならざる腹痛に苛まれるようになった数日後、丙狐は職場で倒れ、還らぬ狐となった。不審死という事もあり鑑識に掛けられた丙狐の胎を食い破って飛び出したのは、何十匹にも膨れ上がったマウス共だった。

 丸呑みにしたホッパーマウスは、丙狐の身体の中で生き延び、あまつさえ増殖していたのである――

 

 

「ひえー、そんな話されちゃあしばらくマウス料理が食べられなくなるじゃないか」

 

 アパートの一室。友達になった文明狐の話を聞いていた源吾郎は情けない声を上げた。休みの日という事もあり、源吾郎の部屋に朝から珠彦と文明が遊びに来ていたのだ。まだ午前中と言えども八月の日差しは強く、外で遊ぶという選択肢は彼らには無かった。室内で遊ぶような道具も無かったので、怪談話をするというゲーム(?)を昼日中から行っていたのだ。何故怪談話なのか? 日本在住の面々は怖い話は夏に行うものだという考えがあったためだ。

 余談だが文明たちが集まっている源吾郎の部屋は別宅の方、つまり源吾郎が元々暮らしていた方のアパートである。珠彦たちは源吾郎が今は研究センターの居住区に暮らしている事を知っている。しかし上司の同僚や上司の上司が暮らしている所にやってくるのは気まずかろうと思い、源吾郎はこちらの部屋で遊ぶ事を提案したのだ。

 

「あはは、島崎君って相変わらず怖がりっすね」

「まぁ、俺の怖話トークスキルも結構なものだったからかもな」

「俺も俺で怖がりだと思うよ……しかし怖い話は怖いしな」

 

 珠彦や文明にそう言われ、源吾郎はやや悔しそうにぼやいた。妖怪らしい野望を持つ源吾郎であるが、怖い話は未だに苦手だったりする。ついでに言えばグロ耐性も低かったりする。サスペンスドラマでの事件シーンとか、アクション系統で血が飛ぶのはまだイケる。しかしやたらめったらと人死にが出るような欧米のパニックホラーのグロ度合いはどうにも馴染めなかった。じわじわと恐怖がにじみ出てくるようなジャパニーズホラーや、末の兄が愛読していたクトゥルー神話に連なるコズミックホラーも源吾郎にしてみれば鬼門である。

 我ながら情けない話だが、妖怪の中にも怖い話を恐れる者がいても当然だろう、と源吾郎は半ば開き直ったりもしていた。人間は区別を怠りがちだが、妖怪と怨霊や悪霊は別物なのだ。

 

 さて話を戻そう。このゲームには一応ルールらしきものがあった。めいめいに思いつく限りの怖い話をして、一番怖い思いをさせた話し手が勝者になるというシンプルなものである。百物語みたいに蝋燭を灯したりはしない。百物語が自分たち以上に厄介な怪異を招くかもしれないと、三人とも固く信じていたからだ。

 話し手は誰がどのタイミングで行うかも自由。怖いと思ったらお金に見立てた札を話し手の許に置くという実に緩いルールだった。文明や源吾郎は面白がってチビ狐を顕現させ、札を運ばせたりして遊んでいる。

 勝っても「一番怖い話を行ったやつ」という称号が一時的に与えられるだけである。特に賞金とかがある訳でもない。それでも皆、それぞれの怖い話を楽しみつつ(源吾郎は怖がってばかりだが)勝者になるのを狙っていた。源吾郎は若かったが、珠彦も文明も若かった。明確な名誉がある訳でなくても、勝ち負けにこだわりたい年頃なのだ。男子ならば尚更だ。

 

「あ、でもさ――」

 

 チビ狐を撫でて遊んでいた珠彦が、思い出したように源吾郎の方を見やった。

 

「島崎君の怖い話ってなんかパンチが薄いっすね。やっぱり、怖い話が苦手だから?」

「おう、それは俺も思ったわ」

 

 源吾郎の怖い話がさほど怖くない。それは話し手が怖い話を苦手としているのだからまぁ当然の話かもしれない。源吾郎自身はオカルトライターの姉から聞き出した話とか、かつて怖々と読むのに挑戦した話をアレンジして語っていたのだが、どうやら珠彦たちには通じなかったらしい。

 だがここで、「俺は怖い話が苦手だからしゃあない」で終わりはしなかった。源吾郎の心中で闘志が燃え上がったのだ。最強になって世界征服を目論む男である。そもそもからして源吾郎はかなり負けず嫌いな性格だった。その性格がここでも顔をのぞかせたのである。

 それに実を言うと、とっておきの怖い話を源吾郎は一つ抱えていた。

 

「おしっ。そんなに俺の怖い話がショボいって言うのなら、とっておきの怖い話を披露しちゃおうかな。二人とも、聞き終わったら怖いって言う事請け合いだぜ」

「マジっすか」

「そいつぁ面白そうだな」

 

 とっておきという言葉を聞いて、若くて無邪気な妖狐二人は目を輝かせている。源吾郎はニヤリと笑って言葉を続けた。

 

「これは実際にあった話なんだ。ていうか俺が実際に体験した話なんだけどな。ほらさ、ツブッターってあるだろう。思った事とかを言葉に乗せたり、写真とか絵を貼り付けたりできるSNSだけど。野柴も豊田もやってなかったっけ?

 もちろん俺もやっててさ、アカウントは二つ持ってるんだよ。一つは実名登録のメインアカウントで、もう一つは裏アカウントさ。確かデストラクション・フォックスとかっていうアカウント名だったかな。今はあんまり使ってないけど」

 

 裏アカウント名を源吾郎がよどみない調子で言うや否や、珠彦たちは吹き出した。源吾郎がムッとして二人を睨むと、笑い顔のまま彼らは手を振ったり頭を揺らしたりしている。

 

「怖い話だって聞いてて構えてたら、まさか中二病が炸裂するなんて……」

「それじゃあ怖い話じゃなくて面白い話っすよー」

「まぁ待て」

 

 源吾郎はほのかな悔しさを感じたが、手で二人を制した。

 

「怖い話はここからだよ。今はその裏アカウントはあんまり使ってなかったんだけどさ、若い頃は結構そっちで発信してたんだよ。野望の事とか、野望の事とかさ。

 でもやっぱ恥ずかしいから身内とかにはアカウントの事は何も言ってなかったんだぜ。特に宗一郎兄様なんかはえげつない位堅物だからさ……そんなアカウントを作って密かに野望を発信してるって知ったらヤバいしさ」

「そもそもアカウント名からしてヤバいから、それ以上のヤバさは無いと思うんすけどね」

 

 珠彦のやけに冷静なツッコミを源吾郎は敢えてスルーしてやった。

 

「しかしある日気付いてしまったんだ……裏アカウントのフォロワーに、いつの間にか身内がいた事にな……苅藻の叔父上はまだ解るんだよ。双葉姉様も……オカルトライターだし。だがナチュラルに宗一郎兄様のアカウントまでフォロワーに連なっていた時は心臓が止まるかと思ったぜ。裏アカウントの事は誰にも知らせてなかったのに、そんな事になってたんだぜ」

 

 こっわ……珠彦と文明の声が重なる。二人が心底怖がっているのはその表情から見ても明らかだ。

 源吾郎は追撃でその裏アカウントには現在紅藤や萩尾丸もフォローしているという後日談を付け加え、二人を更に震え上がらせたのだった。




 島崎君のお話も何気に怖いですよね(白目)


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狐は力の真価を知る

 夏の長い夕暮れ時。源吾郎は珠彦たちと別れ本宅に戻ろうとしていた。

 普段ならば気負わずそのまま居住区の自室に戻る所であるが、驚いて歩を止めてしまった。

 敷地の入ってすぐの所で、紅藤が佇立しているのを発見したからである。見慣れた白衣ではなく、茶褐色のワンピースらしきものを身に着けており、微風にあおられて裾が柔らかく揺れている。

 源吾郎は立ち止まり視線を床に落とした。紅藤の長い影が源吾郎の足許にまで伸びている。ここで立ち止まっても何も起きない事は源吾郎にも解っていた。敷地に戻るにしても紅藤の傍を通らねばならないだろうし、何より彼女は源吾郎をばっちりと目撃しているであろうから。

 

「お帰りなさい、島崎君」

 

 観念した源吾郎が顔を上げると、紅藤が声をかけてきた。やや逆光気味なので表情は判らない。でもきっと、源吾郎が見慣れた笑みを浮かべているのだろう。

 

「ただいま戻りました」

 

 源吾郎もまた挨拶に応じ、返答した。昨日の生誕祭の件もあり、朝から紅藤を避けて行動してはいた。無論今も正面から紅藤と向き合って気まずさを覚えてはいる。しかし紅藤を避けて自室に逃げ込むという考えは源吾郎には無かった。良くも悪くもお坊ちゃま育ちなのだ、彼は。

 

「少し心配していたんだけど、元気そうで何よりだわ。やっぱり若いから、しっかり休んだら元気になれたのね」

 

 穏やかな口調で紅藤が続ける。この一日、源吾郎が紅藤を避けて行動していたのを彼女が把握していたのか否かは判らない。しかしその口調には皮肉が込められている気配は見当たらない。純粋に、源吾郎の身を案じている紅藤の気持ちが伝わってきた。

 

「紅藤様。少しだけ紅藤様の所にお邪魔してもいいでしょうか?」

 

 だからこそ、源吾郎は部屋に直行するのではなく紅藤の所にお邪魔しようと思ったのだ。昨晩はへばっていたせいで言いそびれた事が沢山あったから。

 とはいえ主導権自体は紅藤が握っている。休みの日にお邪魔したいといった部下の申し出を紅藤が跳ねのけたならば、その時は潔く部屋に戻ろうと考えていた。

 

「もちろん、大丈夫よ」

 

 紅藤はわずかに首を揺らし、にっこりと微笑んでいた。

 

 

 源吾郎が通されたのは研究センターではなく居住区の一室だった。紅藤が使っている部屋であり、源吾郎が足を踏み入れるのは初めての事だ。棚には本とか瓶詰になった何かとかが所狭しと収まっていたが、反面テーブル回りはすっきりとしている。くつろぐための部屋というよりも、むしろ隔離された小さな研究室と言った趣だ。まぁ、研究者たる紅藤にしてみれば、そういう部屋の方がくつろぐのかもしれない。

 

「お帰りなさい、島崎君」

 

 そしてこの部屋には当然のように青松丸もいた。青松丸は紅藤の一番弟子であり息子にもあたる存在だから、紅藤の部屋にいてもおかしくは無いだろうが。

 戻りました、と青松丸にも頭を下げると、彼はそそくさとコンロの方へ向かった。何か飲み物を出してくれるようだ。

 

「紅藤様……昨日は申し訳ありませんでした」

 

 促されるままに腰を下ろした源吾郎は、対面に控える紅藤に対して頭を下げた。生誕祭とそれに付随する幹部会議で、源吾郎は割と大変な目に遭った。何しろ事故を最小限に食い止めるために術を行使したり、それがきっかけで本性を暴かれたり、会議の席で内臓がひっくり返りそうなほど緊張した挙句失神しかけたりしたのだから。

 しかし、源吾郎以上に紅藤は大変な思いをした。流石にその事は源吾郎でも解っている。

 丸盆を両手で持つ青松丸がこちらにやってくる。湯気の立つ桃茶を紅藤と源吾郎の許に運んできてくれた。持ってきた桃茶は三人分であり、青松丸も話に入る気満々である事は明らかだ。

 さて紅藤はというと、源吾郎の謝罪を静かに聞き、桃茶の湯飲みから漂う湯気をぼんやりと眺めているようだった。源吾郎も湯気越しの紅藤を六秒ほど眺め、言葉を続けた。

 

「紅藤様も相当に大変な思いをなさったと思うんです。ですが、そのそもそもの発端は僕の不手際によるものですよね……? 僕が、僕が幹部の皆に『実は玉藻御前の末裔が紛れ込んでいるんじゃないか』って思わせるような事をしたから、あんな幹部会議が始まっちゃったんですよね」

 

 源吾郎はそこまで言うと、桃茶に手を伸ばして唇と舌を潤した。真夏だが熱い桃茶は中々に美味しく感じられた。

 

「昨日の事、そこまで色々と真剣に考えてくれていたのね」

 

 目が合うと紅藤はポツリと呟いた。笑みも口調も何処となく寂しげである。

 

「こちらこそ申し訳ないわ。他の幹部の皆様だけじゃなくて、島崎君や若い子もいる場所で、あんな情けない態度をこの私が見せてしまうなんて……本当は、私がもっとしっかりしていないといけないのに」

 

 紅藤は笑いながら言っていたが、その笑みは自嘲的なものだった。源吾郎はどうすれば良いか解らず、視線をさまよわせるのがやっとだった。紅藤に謝罪したはずが、その謝罪が紅藤を追い込んでしまったという罪悪感があった。そしてそれ以上に、紅藤がおのれを責める態度に驚いてもいた。しっかりしなければ、などという言葉が彼女の口から出てくるとは思っていなかった。

 紅藤は大人の妖怪、しかも大妖怪たちからも規格外と見做されるような存在なのだ。莫大な妖力に数多くの妖術、そしてそれらを正しく適切に扱える知識と知性。彼女が偉大な妖怪であると言わしめるには十分すぎる物たちばかりだ。そんな彼女が情けなく、しっかりしていないとは……! 無論紅藤とて完全無欠ではなく苦手な事もある事は源吾郎も流石に知っている。しかしそれでも、おのれが未熟であると言わんばかりの彼女の言葉には驚いてしまった。

 

「あの場で取り乱すのは無理からぬ話ですよ、母様」

 

 茫洋とする源吾郎を尻目に、紅藤に声をかけたのは青松丸だった。

 

「僕はあの場に居合わせなかったので本当の話の流れは知りませんが、灰高様が弟の、いえ胡琉安様の過去の件について言及なさったそうじゃないですか。いくら何でもあれは言い過ぎだったと僕も思いますし」

 

 青松丸も何のかんの言ってただ者じゃあないんだろうな。母親に当たる紅藤をなだめる姿を見ながら、源吾郎はぼんやりと思った。それから源吾郎は、青松丸が紅藤の息子であり、尚且つ頭目である胡琉安の兄に当たるという事を思い出した。彼自身は表に出るのが苦手だとか何とか言って大人しく振舞ってはいる。紅藤や萩尾丸が凄すぎて霞んで見えるが、青松丸自身も実は色々な意味で力を持つ妖怪なのかもしれない。

 

「まぁ、相手の後ろ暗い弱点を見つけて突き回すのが、天狗のやり口ですものね。私はどうやら、その術中にはまってしまったみたいなの」

 

 青松丸にそう言うと、紅藤はけだるげに微笑んだ。青松丸も当惑を見せつつも笑い返しているから、その件に関しては話が終わったのだろう。

 そう思っていると、紅藤の視線は源吾郎に向けられていた。先程とは異なり、視界の正面でたなびく湯気に気を取られている気配はない。

 

「ひとまずの所、昨日の件で島崎君が気に病む事は何も無いわ。いいえ、むしろ島崎君はあの時よく頑張ってくれたとさえ思ってるの。私たちの言いつけに従ってスタッフに化け切っていただけじゃなくて、事故を最小限に食い止めてくれたでしょ。三國君もとっても喜んでいたでしょ? 可愛い甥っ子が大怪我をせずに済んだって

 ええ、あれは事故だったのよ。事故みたいなものだったの。それに対して島崎君はその時の最善の行動を取っただけよ」

「……雷園寺のどら息子は、あのグラスタワーの崩落に巻き込まれても大した怪我をしないと萩尾丸先輩は仰ってましたが……」

 

 予期せぬべた褒めの嵐に驚いた源吾郎だったが、ひとまず疑問に思っていた事の一つを紅藤にぶつけてみた。萩尾丸は確か、雪羽は源吾郎より妖力面では劣る存在だと言っていた。しかしそれは源吾郎と比較になる程度の妖力を既に持ち合わせているという事実の裏返しでもある。

 紅藤は白目を動かして源吾郎を睥睨した。何故か視線が鋭い。

 

「事故に巻き込まれても大怪我になるかならないかというのは問題じゃあないわ。三國君にしてみれば、甥っ子が事故に巻き込まれなかった事こそが大切なの。ほら、あなたのご両親やお兄様方だって、島崎君が悪い事に巻き込まれないかどうか、ずっと心配していたでしょ?」

「は、はい……」

 

 たしなめるような紅藤の言葉を受け、源吾郎は俯いて今一度桃茶を口に含む。失言だったとはっきりと解った。雪羽が怪我をすれば良いと源吾郎が思っていたというようなよろしくない誤解を招いてしまったのかもしれない。

 

「ねぇ島崎君。一つだけ教えてくれないかしら」

 

 桃茶に口を付けた紅藤が、源吾郎に尋ねる。いつも通りの落ち着いた口調だった。

 

「あの会場で、変化していた島崎君の本性が判ってしまったきっかけは、グラスタワーの事故の被害を最小限に食い止めようとして、島崎君が術を振るったからだったわよね」

「そ、そうです」

 

 源吾郎は紅藤の問いにやや言葉を詰まらせながら応じた。紅藤は笑みを浮かべ、更に言葉を続ける。

 

「それじゃあ島崎君。()()()()あの時術を使ったのかしら?」

「……?」

 

 紅藤の問いかけに源吾郎は首をひねった。彼女の言っている事はきちんと聞き取れたのだが、何を言おうとしているのかがいまいち理解できなかった。

 疑問符を浮かべる源吾郎に対して、紅藤は助け舟を出した。

 

「事故に巻き込まれそうになっていた妖怪たちの中に、妖狐の女の子がいたからかしら? それとも、第八幹部の甥であり名家である雷園寺家の縁者である雷園寺君がいたから? 自分の本性が見抜かれたとしても、彼らを助ける事で恩を売る事ができるとか、自分の能力の高さを見せる事ができるとか、そう言う事だったのかしら」

「違います! そんなんじゃないんです!」

 

 紅藤の言葉を聞いていた源吾郎は思わず声を上げていた。何故あの時術を行使したのか? 大規模な術の行使で本性がバレるというリスクに対してどうあの時思っていたのか――それらの問いに対する明確な答えを、実は源吾郎は持ち合わせていなかった。()()()()()()()()()()()()思ったからそうした。源吾郎の答えはただそれだけなのだから。

 

「確かに、米田さんが巻き込まれるのを見てどうにかしないとって思ったのは事実ですよ。ですがそんな、女の子を助けて良い所を見せようとか、ましてや雷園寺家の連中に恩を売ろうとか、そんな事なんて思いつきもしませんでした。もちろん、変化が解けないように注意はしましたけれど……あの時は正体がバレるかどうかとか、そんな事まで考える余裕は無かったんです」

「それじゃあ、特に考えらしい考えは無かったけれど、助けないといけないから助けたって事ね?」

 

 そうです――源吾郎は頷き、また俯いた。紅藤の声は源吾郎の心を探るかのような響きを伴っていた。もしかすると、何も考えなしに動いた末弟子に失望しているのかもしれない。

 

「良いのよ、落ち込まないで島崎君」

 

 優しい声がかけられる。源吾郎は顔を上げずにまず目を動かして紅藤を見やった。彼女は穏やかな表情を浮かべていて、何故か安堵の色が窺えた。

 

「強くて賢い一人前の妖怪になるには、確かに自分の行った事が後でどのような結果をもたらすか判断する力も必要よ。

 だけどね、利害や損得を抜きにして動くべき時に動けるかどうか。それは()()()()()()()なのよ」

 

 島崎君。紅藤がもう一度呼びかける。源吾郎はもう既に顔を上げて彼女の視線と声を正面から受けていた。

 

「島崎君が損得抜きにして動いてくれたと知って、私は嬉しいわ。自分の行動がどのような影響をもたらすかを考えるような賢さは後々の勉強や経験で積み重ねて育てるのはか簡単なの。だけど、自分が何を大切にしているか、何を基準にして判断するのかは、生まれ持ったところが大きいから……」

「あ、ありがとうございます……」

 

 冷房は効いていて心地よい温度であるはずなのに、源吾郎は全身が火照っているのをひしひしと感じていた。



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旧友は大学デビューで変貌す

 平日の昼下がり。健全なサラリーマンや勤め人ならば各々仕事に勤しんでいる時間帯である。源吾郎は買い物籠を片手にホームセンター内をうろついていた。仕事をさぼっている訳ではない。生誕祭の休暇がまだ続いている。それだけの話だ。

 そういう訳であるから、ママチャリを飛ばしてホームセンターにやってきたのだ。そろそろホップが愛用するつぼ巣などを買い替えないといけなかったし、源吾郎自身が使う日用品も補充しておこうと思ったためだ。

 

「おっ、誰かと思えば島崎じゃないか。久しぶりっ!」

 

 買い物を済ませてさぁ帰ろうかと思った矢先、斜め後ろから声がかけられた。声のニュアンスからして、学生時代の知り合いだろうと源吾郎は思った。就職してから知り合った面々も島崎とか島崎君と呼びかけるが、ここまで気軽に呼びかける者はそう多くはない。源吾郎の事を単なる若者と見做してはいないからだ。

 

「ひさし、ぶり……」

 

 振り返って声の主を見やった源吾郎は、瞠目したまま首を傾げた。親しげに声をかけてきた事には違いないが、その顔を見ても誰なのか判然としなかったのだ。

 声の主は源吾郎と同じくらいの年齢の青年だった。飛び抜けてイケメンと言う訳ではないが、陽キャでありチャラ男である雰囲気を全身から放出させている。短い髪は明るい金髪に染められており、ワックスの類である程度固められていた。左右の耳朶には金属製のピアスが音もなくぶら下がっている。衣装自体はそんなに華美ではないが、お洒落に気を使い外部から粋に見られるように注意を払っている事が読み取れた。

 こいつはいったい誰だろう? 源吾郎は割合真剣にそんな事を思っていた。それなりに鋭い嗅覚を持つ源吾郎は、この青年が人間である事を見抜いていた。高校とか中学での知り合いであろう事は確実である。しかしここまで派手ななりをする青年には見覚えが無かった。

 

「俺だよ、こ・じ・ま・だ・よ」

「小島って……えぇ、あの小島!」

 

 たまりかねて自己紹介をした青年――小島を前に源吾郎はまたも目を丸く見開いた。小島祐一というのは高校時代の同級生である。親友とか大親友などという間柄ではなかったが、課題の問題集を一緒にああだこうだ言いながら解いたような事があるくらいには親しかった。

 だが、源吾郎が知っている小島は陽キャぶってチャラチャラした少年ではなかった。見た目も大人しく、むしろどちらかというと陽キャな生徒らに圧されがち隠れがちな少年だったはずだ。

 

「いやぁ、あんまりの変わりっぷりだから一瞬誰か判んなかったよ」

 

 源吾郎が素直に思った事を口にすると、小島は歯を見せて快活に笑った。

 

「何、大学デビューしたんだよ。大学なんて遊んだもん勝ち楽しんだもん勝ちだからさ、思い切ってイメチェンしたのさ。今一人暮らしだし、中学や高校の時の事を知ってる人もほとんどいないし」

 

 ああ成程大学デビューか。源吾郎は合点がいったとばかりに一人で小さく頷いていた。源吾郎は大学生ではないが、大学デビューが何を示すのかは大体知っている。中学時代にうだつの上がらなかった少年少女が高校時代に垢ぬけた存在に変貌する事を高校デビューという。大学デビューはその大学版であろう。

 ちなみに源吾郎は高校デビューを失敗した口であるが、それはまぁどうでもいい話だ。

 さて源吾郎は旧友の変貌ぶりに一人納得していたのだが、小島がじろじろとこちらを見つめている事に気付いた。陽キャっぽい擬態姿にそぐわぬ、真面目で冷静な分析眼である。

 一体俺の何を分析しようとしているのだろうか。源吾郎は密かに思った。源吾郎自身は学生から社会人という身分にランクアップしたのだが、所謂社会人デビューを果たしたわけではない。スーツを着込む習慣が出来たが、垢ぬけたり陽キャっぽい雰囲気をまとうという方面での変化は皆無だ。そもそも新生活や仕事の内容に馴染むのに精いっぱいで、イケてる男のファッションの研究とか、そっち方面は少しおろそかになっているくらいなのに。

 どうしたんだ、小島。思わず問いかけてみると、小島は二、三度瞬きしてから口を開いた。

 

「俺もまぁ高校時代から変わったかもしれんけど、島崎も大分変わったんじゃないか?」

「確かに就職して一人暮らしを始めたりしてるけど……そんなに変わった?」

「目つきとか表情が前とは全然違うよ」

 

 源吾郎の問いに対し、小島は即答した。目つきと表情が違う。そう言った小島の顔には、微かな怯えと畏怖の色が見え隠れしている。

 但しそれを訝る必要はなかった。小島は間を置かずに言葉を続けたのだから。

 

「何というかさ、見ない間にめっちゃ逞しくなってないか? 前までいかにもお坊ちゃま育ちの中二病で、ほわほわふわふわしていたお前がさ……」

 

――成程、そう言う事か

 驚きと、何かに対する若干の恐怖を織り交ぜつつ言葉を紡いだ小島が何を言わんとしているか源吾郎は大体察した。彼が源吾郎を見て変わったと思ったのは、ファッションなどと言った外面的な部分ではなく、内面的な部分を示しているのだ、と。

――それにしてもこの俺が逞しくなっただって? そりゃあ逞しくなったとか精悍な感じって言われれば嬉しいぜ。しかし就職してからまだ四ヶ月しか経ってないし、そこまで人って変わるものなのかな……

 畏敬の念を未だ見せている小島を前に、源吾郎は静かに思案を重ねていた。確かに数か月も会わなければ変わっている所もあるかもしれない。しかし旧友にそこまで大げさに変わったな、と言われる程の変化が自分にあったのか。それが純粋に疑問だった。

 確かに源吾郎は就職している。ついでに言えば最強の妖怪になるための修行もやっている。しかしそこまで大げさな事を行っているという実感はない。妖怪たちとのやり取りが前以上に増えたのは事実だが、源吾郎が主に行っている仕事は、恐らくは普通の新入社員のそれと変わらない所も多いだろう。目録の作成や試薬作りなどは。

 

「……とりあえずフードコートに寄ってかない?」

 

 源吾郎に呼びかけたのは小島だった。カフェラテの大きな看板を右手で示している。源吾郎はカフェラテの看板よりも、アイスクリームを模した看板を眺めていた。

 

「俺も島崎がどんな暮らしをしているのか知りたいし、島崎もさ、俺が今どんな風に過ごしているのか知りたいだろ? 立ち話もなんだし、もしよければ……」

「俺は別に大丈夫だよ」

 

 源吾郎は手に提げている買い物袋の中身を一瞥してから答えた。冷蔵庫や冷凍庫の世話になるような食品の類は購入していない。急いで持ち帰らなくても大丈夫だし、今日は特に用事もない。ホップも留守番に慣れているから別に問題はない。

 

「それよりも、小島は大丈夫なの? 今日は平日だから……」

 

 大学とかあるんじゃないの? そんな源吾郎の問いかけは小島本人の笑い声に遮られる形となった。

 

「あ、いや俺は大丈夫だよ。平日は平日でも八月だから夏休みなんだよ。んで、今バイトも終わった所だし、夜も特に用事は入ってないから今日はこれからヒマなんだ」

「夏休み、ああ、そうか……」

 

 源吾郎がぼんやりとその単語を繰り返すと、小島は小さく頷き、言い足した。

 

「大学は夏休みがめっちゃ長いからびっくりしたよ。前期の試験は日程とか時間とかばらばらに受けないといけなくてそれが鬱陶しかったんだけど、それが終わればもう自由気ままな夏休みが待ってるんだよ。九月の半ばまで自由なんだぜ? 凄くないか?」

「そっか……やっぱり学生と社会人は違うんだね」

 

 いつの間にか、源吾郎の意識の中で夏休みというものがごくごく短いお盆休みという概念にすり替わっていた。お盆休みというのは源吾郎が務める研究センターでの話である。そういう感覚でいたからこそ、小島が今夏休み期間中であるという事を失念していたのだ。

 ともあれ源吾郎は小島に促され、フードコートの空席を探して歩き始めた。大学時代は人生の夏休み――何処かで耳にしたその言葉が、源吾郎の脳裏にくっきりと浮かび上がるのを感じながら。




 大学デビューした子が垢ぬけた感じになるのはあるあるですよね。


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縁故入社とリア充談義

 二人が腰かける事の出来る空きテーブルを、源吾郎と小島は運よく発見できた。二人が持つ安っぽくて白いトレイには、各々注文した飲み物なりちょっとしたお菓子なりが鎮座している。

 ちなみに二人はそれぞれ自腹で飲み物なりお菓子なりを購入していた。実は源吾郎が小島の分まで代金を支払おうと持ち掛けたのだが、小島本人から却下されていた。学生である小島の出費は負担であろうと源吾郎は気を利かせたつもりだったのだが、当の小島には厭味であると判断されてしまったらしい。

 

「言うてここのコーヒーもマフィンも安いんだからさ、奢ってもらうまでも無いさ」

 

 俺だって稼いでいるから収入もあるし。稼ぎと収入。小島が言い放ったその単語は、源吾郎が認識しているそれとは大きくかけ離れた物なのだろう。源吾郎はぼんやりと思った。

 

「あ、でも島崎も前と同じ所があるんだな。飲み物のチョイスとかさ」

 

 シロップだけを入れたアイスコーヒーを一口吸って小島は笑う。源吾郎が頼んだのはコーヒーではなくメロンソーダだ。炭酸の気泡がコップの側面にプツプツと浮かんでいる。

 メロンソーダというチョイスは源吾郎が甘党である事が理由ではある。その一方で、コーヒーやチョコレートを飲食物として選択しないのは、彼の裡に流れる妖狐の血が濃いという要因が絡んでいた。

 端的に言えば、妖狐や多くの獣妖怪にはチョコレートやコーヒーに含まれる成分の一部は危険物質になるのだ。親族らの中でも特に色濃く発現した妖怪としての特徴は、おおむね源吾郎に多くの恩恵をもたらしていた。しかし時には、このようにデメリットとして働く事もあるのだ。

 

「それでさ、社会人ってどんな感じなの?」

 

 小島はアイスコーヒーを飲むのをしばし止め、源吾郎にそっと問いかけてきた。先程源吾郎の飲み物について言及した時とは異なり、ややしおらしい態度だった。というよりも、源吾郎の様子でも窺っているのかもしれない。

 どんな感じ、か……源吾郎は小島の言葉を反芻し、おとがいを撫でた。社会人生活について面と向かって語れと言われているが、それが中々に難しい事であると今更ながら気付いた所である。源吾郎が変わったのは、やはり妖怪として暮らすようになり、また他の妖怪と訓練と言えど闘ったり力較べを行うようになった事がきっかけなのだろう。しかしそれは小島に語るべき内容ではない。彼は純然たる人間であり、しかも変化している妖怪を見抜くような能力を持ち合わせている訳でもない。妖怪の事を知らぬ人間に対して無闇に妖怪社会の話を持ち込むのはご法度なのだ。

 そうして源吾郎が思案に思案を重ねていると、小島の方が再び口を開いた。

 

「今だから言えるけれど、島崎が進学せずに就職するって聞いて、俺もめちゃくちゃ驚いたんだよな。うちの高校って浪人してまで進学するやつだっている位だしさ。しかも、バリバリ文系だった島崎が研究所に就職なんて……本当に、世の中何が起きるか解らんよな」

「まぁ言うて、研究所勤めと言っても縁故入社だけどね」

 

 多少のじれったさと好奇心がブレンドされた小島の言葉に対し、源吾郎はこともなげに応じた。縁故入社というのは便利な言葉だった。文系の源吾郎が理系の世界である研究所に就職できたという話も、この言葉で納得させる事が出来るのだから。

 それに縁故入社というのはある意味真実でもある。研究センターのあるじたる紅藤は、祖母である白銀御前の盟約にて源吾郎を弟子として迎え入れたのだから。

 

「縁故入社、か……」

 

 源吾郎の放った言葉を小島はオウム返ししている。その顔には納得と、いくばくかの羨望の色が見え隠れしていた。縁故入社という言葉が様々な感情を呼び起こす事を源吾郎もよく心得ていた。嫉妬、羨望、侮蔑、嫌悪……どちらかというと、ネガティブな感情の方が多いのだけれども。

 視線をさまよわせ考えをまとめていた小島は、ややあってから源吾郎に視線を戻した。腑に落ちたと言わんばかりの小島の眼差しは中立的な感じだった。縁故入社を知っている者としては珍しい眼差しである。源吾郎が出会う若手妖怪たちは、彼の縁故入社を良く思わない連中が多いのだ。

 

「ああでも、縁故って言うのもそれはそれで島崎らしいなって思うな。何かその、お前の家族って結構凄そうじゃん。お父さんも学者やってるみたいだし」

「家族を褒めてくれてありがとう。まぁ言うて、家では普通の人だけどね。父さんも兄上たちも」

 

 小島の言葉を源吾郎は笑って受け流した。やはり両親や兄姉らの職業や人となりとかがクラスメイト達は気になり、またすごい人ではないかと妄想を逞しくするらしい。それにしても妙だな。ソフトクリームをぱくつく源吾郎を見据え、小島はぽつりと漏らした。

 

「縁故入社だったらさ、会社の人からかなり優遇されて特別扱いもされて大切にされるんじゃないのかい? その割にはめっちゃ逞しくなってるし。それこそ、修羅場の一つや二つ、潜り抜けたのかと思う位にさ」

 

 大真面目な様子で語る小島を前に源吾郎は思わず顔をほころばせた。真面目な様子で修羅場などというとんでもない言葉が飛び出してくるのが面白く感じたのだ。

 

「いやまぁ縁故入社の俺が特別扱いされてるのは事実だぜ。他の一般社員よりも前途有望だからって事で()()()に教育されてるってところでさ。うん、そういう意味では特別扱いかもしれんな」

「特別扱いって、そう言う事か……」

 

 すました顔で源吾郎が言うと、小島は目をしばたたかせながらもその言葉に納得しようとしていた。玉藻御前の末裔である源吾郎は、確かに紅藤や兄弟子たちから特別扱いされていると言っても良いだろう――他の妖怪たちよりも特別に高い期待を寄せているという点で。

 

「修羅場はちと大げさかもしれんが、それで俺が逞しくなったように見えるのかもな」

 

 源吾郎がそう言って締めくくると、小島は深く息を吐きながらまつ毛を揺らした。島崎も大人になったんやな。そう呟く小島の顔には、深い感慨の色が浮かんでいる。

 

「高校生の頃は大物になるとかビッグになるとかそんなフワッとした事しか言ってなかった島崎が堅実に就職したのも驚いたけどさ。就職してからそんなに落ち着きと貫禄と逞しさまで身に着けるなんて……やっぱり社会人ってのは大変なのかね」

「ははは、まぁ俺は俺で楽しんでるけどね」

 

 しんみりとした小島の言葉を受け、源吾郎は軽い調子で言ってのけた。高校時代に抽象的な野望を抱いていた源吾郎だが、就職して堅実な考えに傾いた。小島はきっとそう思っているのだろう。小島のその考えは間違いではない。源吾郎は野望に向かって動いているが、強大な力を持つ妖怪の許に弟子入りし、そこで働くという選択をした。野良妖怪として力を蓄えるなどという事と較べれば格段に堅実な方法である。

 

「小島。今度は小島のキャンパスライフについて教えてくれよ」

 

 源吾郎はやや高い声音で小島に話題を振る。就職を選んだ源吾郎ではあるが、大学生活というものに全く無関心という訳でもない。というよりも、大学デビューを果たした小島を前にして好奇心が掻き立てられた。

 大学は良いぞ。先程までしんみりとしていたのが一転し、ふやけたような笑みで小島は即答した。

 

「そりゃもちろん講義とかテストとかゼミとかあるけれど、おおむね自由だからさ。単位さえ落とさないように気を配っていれば、バイトで金を稼ごうがサークルに熱を入れようが特に問題はないし」

 

 自由という事を殊更強調し、小島は大学生活の楽しさを伝える。源吾郎のやや前のめりな姿勢を認めると、思い出したように付け足した。

 

「あ、それと合コンとかも出来るぜ」

「合コンだって。それマジか」

 

 合コン。男女が親睦を深めるためにともに飲食をする行為を示すその単語に、源吾郎は当然のように食いついた。この時ばかりは小島がどのような表情を浮かべているかも忘れていた。

 合コンという単語に過剰反応するのも、源吾郎の性質からすれば無理からぬ話だった。何せ大妖怪になるための原動力の一つがハーレム構築なのである。そんな事を割と真剣に考える程、異性にモテるか否かは源吾郎にとっては重大事項だった。女子とお近づきになれるチャンスは逃したくないというのが源吾郎の考えである。

 妖怪の女子たちでもってハーレムを構築しようと思っている源吾郎であるが、しかしだからと言って人間の女子に関心が無いという事でもない。

 

「お、やっぱり合コンには興味あるか」

「男子だったら誰だって合コンに興味あるだろう!」

 

 食い気味に言い放つ源吾郎を前に、小島は静かに笑みを見せるだけだった。

 

「そう言えば、週末に合コンがあるんだけど。良かったら寄ってみないかい?」

「本当か。そいつは嬉しいな」

 

 大学生との合コンってどんな感じだろうか。妖怪の女子を見つける可能性は低いだろうけれど、それでも垢ぬけたお洒落な女子たちとお近づきになれるし……源吾郎の意識は田舎のフードコートを離れ、週末の合コン会場に向けられていた。その脳内イメージでは、合コン会場も港町の洒落た居酒屋だったりする。大学生だからそんなものだろうと勝手に思っていたのだ。

 

「あ、だけどさ」

 

 まだ見ぬ合コン会場に源吾郎が思いを馳せていると、小島が待ったをかけようとばかりに言い添えた。何となくであるが、その声音は冷静さというか、冷え冷えとしたものがにじみ出ている。

 

「まだ人数が足りないから、参加するなら女の子を連れてきてほしいんだ。一人でも良いけど、二人くらい紹介出来たら嬉しいと思ってる」

「…………」

 

 さも当然のように紡ぎ出された小島の申し出に、源吾郎は固まってしまった。小島はこともなげに女の子を連れてこいなどと言っているが、源吾郎にはそんな伝手は無い。そもそも合コンに連れていける程仲の良い女子がいるのなら、合コンで出会いを求めなくてもいいのでは……? 正しいかどうかはさておき、源吾郎はそう思っていた。

 どうしたものかと考えこんでいると、小島がまた笑い出した。

 

「あ、ごめんごめん。いきなり女の子を連れて来いって言ったのはちょっと無理があるよな。そりゃそうだよな。就職したばかりだし、仕事も大変そうだからガールフレンドを作る余裕なんてないか。

 やっぱりそこは大学とは違うよな。大学だったらさ、サークルとかゼミとかでも女子と結構仲良くなれるし」

 

 繕うように、或いは面白がるように言い添え、小島は言葉を続けた。

 

「女の子と一緒に来れないなら、別に島崎一人でも構わないよ? よく考えたらさ、今度のメンバーは大学生ばっかりだし。社会人の島崎が参加してくれたら、みんな面白がって、珍しがってくれるんじゃないかな。だからさ……」

「ああすまんな、小島」

 

 合コンの事について小島が言い募ろうとしていたのは源吾郎も解っていた。だが敢えて途中で声を出し、彼の主張を遮った。小島の話を聞いているうちに、興が醒めてしまったのだ。女子の知り合いがいない源吾郎を面白がり、尚且つ社会人であるという事で見世物にしようとしている――そんな気配を感じ取ってしまった。

 

「よくよく考えたら、週末は予定が詰まってたわ。ははは、流石にバイトとかじゃあないけれど俺も社会人だしさ。だからさ、今度また暇なときに誘ってくれよ」

 

 そう言って源吾郎はカップに刺さるストローを無視してメロンソーダを呷った。炭酸の刺激でうっすらと涙ぐんでしまったが途中でむせるという醜態はどうにか見せなかった。

 実は小島は源吾郎の堅物度合いを揶揄した訳でもないのかもしれない。しかし、先程の小島の言動にモヤっとしてしまった事には変わりない。




 高校卒業後研究職に就職した島崎君はまごう事なき縁故入社です。
 普通に就活した場合、研究職は理系(院卒)が最低条件ですからね。
 四大卒? 相手にされませんよ(血涙)


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現れたるは白衣の若君

 生誕祭後に設けられた二日間の休みはあっという間に過ぎていった。休暇明けの木曜日なので出勤日である。しかし源吾郎はカレンダーを眺め、休日でも良かったのではないかと思っていた。盆休みが、社会人の夏休みが目前に控えていたからだ。

 研究センターの挙動は世間のカレンダーとは少し違っていた。明日は祭日なのだが大掃除のために出勤日であり、明後日からお盆休みに入る事になっていた。祭日に出勤せねばならないという事に源吾郎は多少困惑していたが、研究センターのスケジュールであるならば従うほかない。

 

「ポッポッ、プププイッ!」

 

 朝の日差しを浴びながら、ホップは胸や喉を膨らませて啼いている。元気である事には違いないが、最近啼き声が少し気になってもいた。十姉妹の啼き声は「ピッ」とか「プッ」とかだと思っていたのだが、ホップは最近よく「ポッポッ……」と啼くようになっている。健康そうなので病気などではないだろうが、気になる案件ではあるので休みのうちに調べておこうと思っている。

 

「よしホップ、今日も俺は仕事だから、良い子にしとくんだぞ」

「プィッ!」

「あ、でもあんまりつぼ巣ばっかり壊さないでくれよ。新調したんだし」

「プピピッ」

 

 出勤の支度を行いつつ、源吾郎はホップに話しかける。ホップも中々マイペースなのだが、籠の中にいる時は源吾郎の声に反応して啼き返してくれる事が多い。源吾郎も何か発するたびにホップが全身を震わせて啼くのが面白いと思っていた。

 

 

 ああだこうだと考えている源吾郎であったが、結局のところ普段通りに研究センターに向かう事となった。もちろん始業時間よりも余裕がある状態で。

 研究センターのすぐ傍で居住する紅藤や青松丸もごく当然のように居合わせた。休み明けでぼんやりしているのは源吾郎くらいであり、師範も兄弟子も割と元気そうだった。そう言えば今日は一応週明けなのでミーティングがあるという。新入社員の身分ながらどんな話になるかは大体推測できた。まぁきっと先日の生誕祭の総評でも行うのだろう、と。

 

「皆さん、おはようございます」

 

 定刻。研究センターのメンバーが集まる中で、センター長である紅藤が開始の挨拶を告げる。丸テーブルを囲み、紅藤を見つめるのはいつもの面々……に見慣れぬ人影が一つ加わっていた。白ずくめの衣装を身にまとった小柄な妖物である。認識阻害の術でも行使しているのか、「白ずくめで小柄」という事以外は全くもって何も判らない。

 年齢も性別も種族も定かではないそれは、心持ち萩尾丸の近くの席に腰掛けていた。

 

「先日は生誕祭への出席のほど、ありがとうございました」

 

 源吾郎の予想通り、紅藤は生誕祭の事について言及した。第二幹部であり、頭目の母親である彼女にしてみても、生誕祭は大きなイベントになるだろう。

 紅藤は笑みを浮かべたまま言葉を続ける。

 

「生誕祭の終盤でちょっとした緊急会議が行われたのも、もう既にみんなご存じかもしれないわね。あ、でも心配しなくて大丈夫よ。一応、平和な方向に話は進んだから」

 

 平和な方向、という所で萩尾丸が顔をゆがめて俯き、口許を手で押さえる。当事者であり紅藤の妖気爆発を目の当たりにしていた彼は、何と笑いで吹き出しそうになっていたようだ。あの発言の何処に笑える要素があるのかは謎だ。というかそれで笑いかけた萩尾丸の胆力は並ではない。

 紅藤はそんな一番弟子の様子を気にするでもなく、淡々と業務内容を語っていった。明日の大掃除の段取りを言い終えると、視線を周囲に走らせる。

 

「……私からは以上ですけれど、他に何か連絡事項はあるかしら」

「あります、大ありです」

 

 ややおどけた様子で紅藤の問いに応じたのは萩尾丸だった。大げさにも彼は立ち上がり、紅藤が腰を下ろした所へと歩を進めている。謎の人影も、よく見れば萩尾丸に追従しているではないか。

 件の人影は何者なのか。目をすがめて顔を見ようとした源吾郎だったがやはりよく判らなかった。護送されるならず者よろしく相手はフードで顔を隠していた。その上認識阻害の術が行使されているのだから尚更判らない。

 

「今日から研究センターの、いや僕の管轄の方で新しい妖《こ》の面倒を見る事になったから、みんなに報告しておくよ」

 

 萩尾丸のこの言葉を、源吾郎は淡々と聞いていた。萩尾丸は地位の高い妖怪であり今もなお多くの妖怪を抱えている。そんな彼だから、部下が増えるという報告もそんなに目新しい事ではないように思えたのだ。

 とはいえ、わざわざ連れてきている事や、認識阻害の術を使い続けているという所は気にはなるが。

 

「先程紅藤様が仰った幹部会議の話と関連があるのだけれど、第八幹部の甥御殿である雷園寺雪羽君を預かる事になったんだ。今の所いつまで預かるかは決まってませんが。まぁ、少なくとも五、六年くらいは僕の許で面倒を見る事になると思ってる」

 

 雷園寺雪羽という名を、萩尾丸は事もなげに言ってのけた。源吾郎はそこでようやく彼の傍らに侍るのがあの雪羽であると気付いた。先程までは誰なのかははっきりしなかったが、今はそこに雪羽がいるという事は明らかだ。フードを下ろして顔を見せていた事もあるし、謎の認識阻害の術も解除されているみたいだ。

 雪羽はその端麗な面に緊張の色をにじませながら紅藤たちを見ていた。生誕祭の場で乱痴気騒ぎを起こしていた時とは顔つきがまるで違う。あの時見た雪羽は享楽的で頭の悪いクソガキにしか見えなかったが、今の表情はどうだ。物憂げで理知的な流浪のお坊ちゃまみたいな面構えではないか。

 実際雪羽は真剣な表情だった。色白ながらも頬や唇は赤味を帯びており、健康そのものと言った感じである。二日酔いに苦しんでいたと聞いていたが、もう既に酒も抜けきっているであろう事は匂いで解った。

 ただ、翠眼の下にはうっすらと隈がある。萩尾丸の許に引き取られてから何かあったのだろう。

 萩尾丸はそんな雪羽の肩に手を添えた。緊張する雪羽とは裏腹に、萩尾丸は何処か楽しそうだ。

 

「彼の事は僕が直々に面倒を見ようと思っているのだけどね、最初のうちは研究センターの皆とも関りがあると思うんだ。最初のうちは雑用がか、いや秘書として僕の傍にくっつけておきたいからさ。仕事に慣れれば、僕の職場の方で働く事が増えるかもしれないけれど」

 

――要するに、雪羽の野郎は仕事が出来ないから、珠彦たちとは一緒に出来ないって事だな。

 口には出さないままに源吾郎は密かに思った。やや意地の悪い考えである事は解っているが、雪羽が仕事妖《しごとにん》としては未熟であろう事は源吾郎も見抜いていた。妖力こそ多いものの、実のところ珠彦たちよりも若くて幼いみたいだし。

 

「さて雷園寺君。これからしばらくの間研究センターの皆とはお世話になるんだ。軽くで良いからさ、挨拶をしてくれないかな」

「はい……」

 

 萩尾丸はそう言うと雪羽の肩から手を放し、一方後ろに下がる。雪羽は翠眼で周囲を一瞥し、それから意を決したように口を開いた。

 

「皆様おはようございます。僕は雷園寺雪羽と申します。元々は第八幹部の叔父の許で働いておりましたが、この度縁あって萩尾丸さんの所で研修を行う事になりました。

 未熟者、不束者なので皆様にはご迷惑をおかけするかもしれませんが……どうぞよろしくお願いいたします」

 

 雪羽少年の口から出てきた挨拶は、ごく普通にビジネスマンが口にしそうなセリフそのものだった。その事に半ば驚きつつも、源吾郎も空気を読んで拍手を送る。何度か手のひらを打ち合わせて拍手をしているうちに、雪羽もただの悪たれ小僧ではないのだと思い始めていた。認識阻害で正体を隠していた所は気になるが、それ以外の部分――立ち振る舞いや言動は堂々としている。丸二日間の萩尾丸の教育の賜物なのだろうか。いやもしかすると、こうした態度こそが雪羽の本来の姿なのかもしれない。

 そんな事をああだこうだと思っていると、雪羽に動きがあった。彼は先程まで全体を眺めていたのだが、首を動かして源吾郎の方を見やった。のみならず、半歩ばかり動いて源吾郎に近付いたくらいだ。

 

「そう言えば、こちらの研究センターには玉藻御前の末裔も勤務なさっていたのですね」

「……いかにも、俺が、いや僕が玉藻御前の曾孫だけど」

 

 おのれに視線が集まるのを感じ、源吾郎も口を開かざるを得なかった。公達よろしく雪羽は笑みを浮かべている。それが屈託のない本心からの笑みなのかは定かではないが。

 そして源吾郎の発言を聞くと、雪羽は更に笑みを深めていた。

 

「島崎君でしたよね。間接的とはいえ、玉藻御前の末裔と一緒に働けるとは身に余る光栄です。先も申し上げました通り、未熟者ではあるかもしれませんが、その折はどうか()()()()()ご指導いただければ幸いです」

 

 雪羽は先程以上に丁寧な口調と言葉でもって源吾郎個人に挨拶を交わしている。その言葉を聞きながら、慇懃無礼という言葉が脳裏に浮かび上がってきた。

 クソガキで悪たれ小僧の癖に猫被ってるなこいつ。源吾郎はそう思ってはいたものの、笑みと丁寧な言葉で応戦する事にしておいた。ここで本心を口にしたら、それこそまた乱闘になる危険性があるためだ。

 

「あはは、雷園寺家という名家中の名家の御曹司である君にそこまで過大評価してもらうとは嬉しい限りですよ。

 ええ、確かに研究センターの中では僕が先輩になるのでしょうね。ですから、困った事とか気になる事とかあれば是非とも先輩であるこの僕に、どしどし相談してください。年齢も近いし仕事面以外でも相談に乗れる事もあるかなと思いますんで」

「おお、やっぱり若い子は若い子同士で()()()なれそうだねぇ……良かったよ。僕はもうオッサンだからさ、若い子の事とかにはちょっと疎くなっていたし」

 

 萩尾丸の呑気そうな声が、笑い顔のままにらみ合う源吾郎たちの鼓膜を震わせた。




 雪羽君再登場です。
 初出時の言動はアレなのですが、書いているうちに愛着がわいてきたキャラの一人です。


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コンパの報せは唐突に

「あぁ~、もうめっちゃ疲れたぜぇ~」

 

 夕方。居住区の本宅に戻った源吾郎は、遠慮なくおのれの本音を口にした。着替える事も無くそのままだらりと寝そべり、置いてあるクッションを両前足もとい両手のひらでフミフミし始める。

 くたびれ切ったオッサンの言動そのものであるが、源吾郎はさほど気にしていない。見ているのがホップくらいだからと思い、安心して全力でだらけ切っているのだ。

 

「ププッ、プッ!」

 

 全身全霊でグデグデダラダラを始めたあるじに対して呼びかけたのは十姉妹のホップである。源吾郎が知る限り、ホップは眠るその直前まで元気はつらつとしている。人間で言えば十代前半の子供だからなのか、はたまた小鳥の習性なのかは定かではないが。

 

「あ、ただいまホップ」

 

 源吾郎は顔を上げ、ウミウシよろしく這いずってホップの鳥籠ににじり寄る。六十センチほど近付いたところでホップを見据え、源吾郎は言葉を続けた。

 

「ホップぅ、俺、仕事でめっちゃ頑張ったんだよ。今日はまぁ仕事じゃなくて大掃除だけどさ。でも俺頑張ったんだよ。祭日なのに、仕事……じゃなくて大掃除って考えただけでも大変だろ。しかも、あの雷園寺のボンボンまでいるわけだしさ」

 

 半ばまくしたてるように言い切ってから源吾郎はしみじみと今日の出来事を振り返っていた。

 実のところ、大掃除なるイベントそのものは重労働ではなかった。見た目は小柄でずんぐりとした青年であるが、妖狐の血が濃いために体力面では人間の若者よりも勝っている。それに源吾郎がメインでやったのは換気扇の掃除や水回りなど、どちらかと言えば腕力勝負の部位でもない。

 源吾郎の疲れは精神的なものに起因している。その原因は雷園寺雪羽だった。同じ空間に自分に迫る実力を持つ同年代の妖怪がいる。その事に対するプレッシャーのようなものが源吾郎の心を圧迫していたのだ。

 ちなみに萩尾丸の管轄下にいる雪羽が、源吾郎に対してあからさまに嫌がらせを仕掛けてきたという訳ではない。むしろ雪羽は品行方正な好青年(好少年?)として振舞っていた。だがそれはある種の仮面であり、その裏でこちらを虎視眈々と観察しているように源吾郎には思えた。雪羽がどう思っているのかは解らない。しかし警戒しておいて損は無いと思っている。そう思って警戒していたのだが、警戒するという事がここまで神経をすり減らすとは思っていなかった。

 要するに、源吾郎は今まで平和な世界に身を置きすぎていたという事だ。

 

「雷園寺のやつも、中々の曲者だな……」

 

 ホップを眺めながら源吾郎はぼんやりとした口調で呟いた。何もその性格や地位だけで雪羽を曲者だと判断している訳ではない。雪羽はあれでも強力な妖怪であると解っているためだ。もちろん大妖怪ではないし、萩尾丸の見立てでは源吾郎よりは弱い妖怪になるらしい。それでも同年代の妖怪たち――源吾郎が日頃術較べや摸擬戦を行う面々だ――などとは一線を画する妖力の持ち主だ。

 実はその力の片鱗を、大掃除の場でも彼は発揮していた。雷獣である彼はこびりついた汚れを落とすのに電撃の術を使っていたし、高所も臆せず軽快な身のこなしで掃除を行っていたのである。萩尾丸さえも感心していたその挙動は、或いはおのれの例獣としての、妖怪としての能力の高さを見せつけるある種のディスプレイだったのかもしれないと思う程だ。

 

 ああだこうだと雪羽の事ばかり考えていた源吾郎は、携帯しているスマホが震えている事に気付いた。誰だろうか。怖々と画面をのぞき込み、すぐに顔をほころばせた。何という事はない、姉からの電話だったのだ。

 長兄の宗一郎とは異なり、長姉の双葉は面白がりでマイペースな性格である。年齢は離れているのだが、ある意味兄たちよりも気軽に接する事が出来ると源吾郎は感じてもいた。

 

「……もしもし?」

『もしもし源吾郎。双葉だよ。元気?』

「うん、俺は元気だよ姉上……」

 

 受話器の向こう側で誰が話しかけているのかを互いに確認すると、源吾郎と双葉の姉弟はしばし話し込んでいた。盆休みは帰ってこないのか、今日まで仕事があったとは大変ではないか……いずれも取り留めも無い近況である。

 だが双葉は、源吾郎が実家に戻ってこないという事が気になったらしかった。

 

『ねぇ源吾郎。お盆なのに戻ってこないつもりなの? 兄さんも母さんたちも心配するんじゃないの』

「心配するも何も、この前の連休の時に戻ってきたよ? あ、でも姉上は仕事だからってニアミスしちゃったけど」

 

 そう言って源吾郎は軽く笑った。五月の連休に戻ってきた事は事実だが、実家に戻らない理由はそれだけではない。家を空けるという事はホップを置いて留守にするという事だからだ。日帰りならば問題はないが、実家と言えども泊まり込むとなると色々とややこしい。もちろんホップを連れて里帰りしても、両親も兄姉たちも何も言いはしないだろう。しかし暑い最中に小鳥を連れて実家に戻るというのは正気の沙汰とは思えなかった。だから今回は見送ろうと思ったのだ。

 すると、姉から問いかけがあった。声を発する前に何か息が漏れるのが聞こえた。きっと向こうも向こうで笑っているのだろう。

 

『随分と素っ気ないわね。すこーし前まで兄さんとか私とか誠二郎たちに甘えてくっついてたのに。あ、もしかして今カワイ子ちゃんと同棲中で愛の巣を構築するのに忙しいのかしら? そうよね、そうだったのねぇ?』

 

 カワイ子ちゃんに愛の巣。この言葉に源吾郎は反応してしまった。無論双葉が言う所のカワイ子ちゃんとは女子を想定して口にしたであろう事は解っている。であれば「違うから姉様」とでも言ってスルーすればよかった話だ。()()()何故か源吾郎の脳内でカワイ子ちゃんという単語がホップ(十姉妹・オス)と結びついてしまったのである。それゆえの反応だった。

 

「うーん、半分合ってるけど半分違ってるかな」

『半分合ってるって、どういう事?』

「いやさ、流石に一人暮らし始めてるけどまだ彼女なんかいないよ? だけど今、ホップと……可愛いオスの十姉妹なんだけどさ、そいつと暮らしてるんだ。んで、今カワイ子ちゃんって言われてホップの事が浮かんだの。今もピッピピッピ言ってるし」

『ああそうなの。源吾郎にはまだ彼女はいないのね』

「うん、まだいないんだよ」

 

 まだ彼女はいない。その旨の言葉を姉に伝えたのち、源吾郎は魂をも抜け出そうなほどのため息をついた。真面目に考えれば、齢十八の若者で恋人がいない手合いなどごまんといるだろう。しかしわざわざ誘導された挙句、実姉にその事をカミングアウトしたとなるとそれはそれで堪える。雪羽相手に神経を使ったから、余計にしんどいのかもしれないが。

 姉様も中々に良い性格をしているぜ……双葉が今再び口を開いたのは、源吾郎が皮肉交じりにそんな事を思った直後だった。

 

『あのね源吾郎。実は私もライターの仕事がお盆にもあるんだけど、そこで若い女の子たちと取材をするのよ。もちろん妖怪絡みの話よ。それでもしよければ源吾郎も参加してみない?』

「取材……女の子……」

 

 源吾郎は口の中で小さく呟いていた。取材という事なので双葉にしてみれば仕事の一環なのだろう。しかし源吾郎は若い女の子、という部分に興味を示していた。

 先日合コンの誘いが流れた所であるから、尚更そう言う事に喰いついたともいえる。

 

『ちなみに、正体がバレるかどうかとか気にしなくて良いからね。向こうは私らの正体も知ってるし……というか源吾郎とかはそっち方面ではもうかなり名が知られているみたいだしね』

 

 双葉によると、やってくる女の子の中には妖怪、それも妖狐の女の子もいるのだという。源吾郎は特に考えずに姉の申し出を受け入れた。確かに人間の女子にチヤホヤされたり、軽いデート的なものに興じるのも悪くはない。しかし長く付き合うならば妖怪の女子、特に同族である妖狐の女子が良いと考えていた所だったのだ。




 このお話に登場するチョロインは島崎君です(爆)


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世間とは驚くほどに狭いもの

 デートなどに着込む特別な衣装を勝負服と呼びならわすのは当然の事なのだろう。源吾郎は糊の利いた柄物のシャツを着こみながら静かに思った。

 今日は姉の双葉が言っていたコンパ……もとい合同取材の予定が入っている。妖怪向けだか妖怪ものだかの記事に仕立てるという事で、お盆の黄昏時に開始する事となっていた。港町某所の書庫バーが会場である。バーと言ってもきちんとソフトドリンクも提供してくれるらしいので、未成年である源吾郎が参加しても問題は特にない。

 可愛い感じの女の子だとか、美人な妖狐の娘が参加すると聞いていて、源吾郎のテンションはかつてないほどに上昇していた。まだ昼過ぎなのにいそいそと支度を始める源吾郎は完全に浮かれ切っていた。もちろんこの辺鄙な吉崎町から港町に出るまでに時間はかかるのは事実であるが、それを差し引いても前倒し気味に行動していたと言える。

 

「ホップ、今日はちょっと出かけるからさ、良い子で留守番しておくんだぞ」

「プ? ピューイ」

「あ、もしかしたら君にお姉さんが出来るかもしれんな、なんてな、ははは」

「ピュピュピュ……」

 

 籠の中で大人しく遊ぶホップによた話を投げかける源吾郎の顔は、生気に満ち満ちてイキイキとしていた。源吾郎の脳裏には、既にこれから参加する取材の光景が目まぐるしく浮かんでは消えていた。流石に顔も知らぬ妖狐の女の子とすぐに仲良くなれるとか、そんな都合のいい妄想を行っていた訳ではない。しかしそれでもどうやって知り合った娘を魅了し、おのれの虜にするか。その事ばかりを考えていたのだ。

 ちなみに今回出会う女子たちが危険な存在かもしれない、という考えは源吾郎の頭の中には無かった。一度サヨコとかいう女妖狐に騙されてえらい目に遭った割には不用心とも見做されるかもしれない。しかし姉の知り合いだし取材でやってきたという事であるから、素性の怪しい女が紛れ込む事も無かろう、と思っていたのだ。

 

 田舎から都会である港町へと電車で向かう間中、源吾郎はずっとドキドキワクワクし通しだった。胸の奥とか指先の血管がぎゅっと狭まって圧迫していくのを感じていた。その圧迫感は不快な物ではない。むしろ多少の切なさを孕む、心地よいものだった。源吾郎は幸せだったし、今以上に幸せが訪れると思っていた。

――ああ、もう既にお盆が来たけれど、俺にはようやく春がやってきたのかもしれんなぁ。どんな娘が来るのか、今から楽しみで仕方ないぜ

 港町に佇む、洒落た書庫バーでの取材。しかも同席するのは美人の妖狐……考えただけでも頬が緩んで仕方が無かった。とはいえ源吾郎とて公共の場で外の人間の視線を意識するほどの良識は持ち合わせている。頬が緩んでいると気付く度に周囲に視線を走らせ、筋肉の動きを意識して表情を引き締めた。今源吾郎は自分がカッコよく粋に見える衣装に身を包んでいる。いくらワクワクしていると言えどもいつもと違ってカッコよく決めようとしているのだ。だからきちんと落ち着いておかねばならない。源吾郎はそのように考えていたのである。

 

 美人の妖狐と言っていたが、一体どんな娘なのだろうか。車窓の景色をぼんやりと眺めながら源吾郎はそんな事ばかり考えていた。女子で妖狐で美形が同席してくれるだけでも嬉しいのだが、清楚で少女らしい感じの娘だったら良いな。そんな事を臆面もなく考えていた。

 異性愛者である源吾郎は、女子にモテるために奮起し、色々と研鑽を重ねている。しかしその一方で女の好みにこだわりがある事もまた事実だった。

 清純で清楚。少女らしいというか少女そのもの。それこそが源吾郎の好みのタイプだった。大人の女性にも憧れとか畏敬の念は抱くものの、その感情は恋愛感情とは異なっていた。少女が好みだなどと言えばロリコンだのなんだのと言われそうだが、もしかすると自分が長らく末っ子として子供扱いされてきた反動として、少女とお近づきになりたいと思っているのだと源吾郎は解釈していた。まぁ要するに少女が良いというのは、自分がリードしたいという願望の裏返しでもある訳だし。源吾郎は相手との精神的なやり取りも重視しているが……生々しい欲望と無縁という訳ではない。むしろ煩悩まみれであるくらいだ。

 そう言う源吾郎の好みを加味してみると、やはり妖怪の女子を選ぶというのは理にかなっている訳だ。妖怪たちは寿命が長い分、成長も人間よりもゆったりとしており、少年少女でいる時期も長いのだ。

 源吾郎もまた、人間の血を受け継ぎつつも妖怪としての要素が日増しに濃くなっている。そう言う意味でも、妖怪の女子の方が本格的に付き合うにはうってつけなのだ。

 もっとも今回は単に取材で居合わせるだけだ。そもそもその時会ったきりになる可能性とてあるにはある。そうだったとしても、おのれが女子に良く見られるように振舞う事自体は無駄ではないと源吾郎は思っていた。

 

 早めに出発した源吾郎であったが、結局約束の時間の十分前に件の書庫バーに到着する運びとなった。物思いにふけり過ぎて乗り過ごしたり港町を散策している間に少し迷ったりとハプニングがあったのだ。とはいえ遅刻した訳ではないから結果オーライと言っても問題は無かろう。

 

「あ、源吾郎。遅かったじゃないの」

 

 店内に入るや否や、姉の双葉が出迎えてくれた。源吾郎よりもうんと人間としての要素の濃い彼女であるが、品よく整った面立ちと三十半ばとは思えぬほど若々しい姿は妖狐の血の恩恵を受けている何よりの証拠だった。

 女性としては背が高く肉付きの良い姉を前に、源吾郎は尻込みせず笑い返した。

 

「港町に出るなんて久しぶりだからさ、ちょっと迷ったりしたんだ」

「そうだったのね。てっきり準備とかに時間がかかったのかと思って」

 

 双葉はしばらく源吾郎を見つめていたが、身を翻して源吾郎を手招いた。

 

「実はもう他の人たちは揃ってるの。集まってるのは三人いるわ。一人は私の後輩だけど、後の二人が今日集まって来てくれた娘たちなの。さ、おいで」

 

 姉上の後輩も来てるんだ……そんな事を軽く思いながら源吾郎は付き従った。書庫バーは既に双葉が貸し切っているらしいが、やや奥まった席で話を進める事にしているらしい。カルガモよろしく双葉の後を追従する源吾郎は、店内の雰囲気もしっかりと把握していた。ライトは柔らかい橙色で、木目の壁と相まって落ち着いた内装である。書庫バーという名称は伊達ではなく、半分棚になっている壁もあり、そこには見慣れぬ本がこれ見よがしに置かれている。

 

「さて皆、うちの弟が来てくれたわよ」

 

 双葉の声に、集まっていた三人が反応する。双葉の後ろからその三人を見た源吾郎は驚いて思わず声を上げそうになっていた。三人のうち二人は見知った顔だったのだ。初めて見る、ややオタクそうな雰囲気の女性が双葉の後輩なる人物であろう。

 問題はあとの二人だ。明らかに面識がある面々だった。厳密に言えば一人はキバタンの使い魔を従える鳥園寺さんであり、もう一人は生誕祭で一緒に働いた米田さんである。

 思いがけぬところで思いがけぬ再会を果たした源吾郎は、挨拶も忘れて目を瞠るばかりだった。



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若狐と博士の古い肖像

 出会う娘たちへの期待でときめき浮かれていた源吾郎の気持ちは、知り合いの顔を見て一変した。しばし驚愕に打ち震えていた源吾郎だったが、落ち着きを取り戻しながら羞恥心を抱いていた。米田さんがいて、源吾郎をしっかりと見つめていたからだ。

 米田さんは源吾郎があの日どのように振舞ったのか。その一部始終を知っている。別れの間際、源吾郎はかなり気取った態度でもって米田さんに挨拶をした。あれは再開するまでにかなりの時間があるだろうと思ったからこその言動だった。こんなにもあっさりと、すぐに出会えると解っていたら、あんな言動はしなかったものだ。

 何しろあの台詞は、それこそ何年も歳月が流れ、源吾郎が今以上に成長していなければ様にならない言葉なのだから。

 

――姉上、これってどういう事?

 そんな思いを込めながら、源吾郎はじろりと双葉を見据えた。恐らく双葉と源吾郎の二人きりであれば、今この状況について臆せず問いただしていた事であろう。しかし思った事を口にはしなかった。この場で姉弟で揉めても利は無いと判断したためである。

 

「ん、どうしたの源吾郎。何か緊張しちゃってるみたいだけど」

 

 双葉は源吾郎の顔を見、呑気な様子で問いかける。それを見て源吾郎は追及する事を今一度諦める決意を決めた。思えば双葉は「集まっている女子たちは源吾郎の事を知っている」と言っていたのだ。であれば面識のある鳥園寺さんや米田さんも源吾郎を知る女性陣に該当する。姉は嘘は言っていないのだ、と。

 

「大丈夫。ちょっと暑かったからさ。ぼんやりしてただけ」

「あっそう」

 

 姉とのやり取りは短く他愛のないものだった。しかしその間に源吾郎は落ち着きを取り戻し、どうやって振舞うべきか既に考えがまとまっていた。

 誰が参加するか判るまでは、それこそ出会いがあるかもしれないと思い浮かれていた。その一方で色々と癖のある本性を押し隠し、少し猫を被って振舞おうと思ってもいたのだ。

 しかし相手が知り合いである場合、猫を被るという戦法はむしろ悪手だ。ついでに言えば鳥園寺さんや米田さんを異性として誘惑するつもりも無い。彼女らはどちらかと言えば異性というよりも仲間という存在であるように思えたのだ。

 表向きは黙って笑みを浮かべているだけであったが、数秒の間に源吾郎は考えを固め意識転換をしていた。これもある種の仕事である。そう思う事にしたのだ。

 

「今日はお集り頂きありがとうございます。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、僕が島崎双葉の弟、島崎源吾郎です」

 

 本日はよろしくお願いいたします。ややたどたどしい口調ではあるが、源吾郎はすまし顔を作って言うべき事を言った。ある意味齢十八の若者らしい言動と言えるだろう。米田さんたちを前に緊張したから気負ってしまってはいるが、実際のところ本当の仕事よりは気楽な物に違いない。

 

 

 今更クドクドと言及する話ではないが、島崎源吾郎は父親譲りの容貌の持ち主である。要するにのっぺりとした特徴の薄い面立ちである。

 妖狐としての美貌に恵まれず、よりによって容姿だけが父に似てしまった事を残念に思う源吾郎であったが、この容貌が有利に働く事もあるにはあった。

 一見すると穏和で内気そうな青年に見えるその容貌は、実はある意味女子ウケが良かった。異性として女子たちを魅了する事は無かったのだが、のっぺりした面立ちは中性的と捉えられ、女子たちに警戒されにくかったのだ。思春期真っただ中の女子たちは、男くさい男子や厳つい男子を半ば本能的に警戒し、距離を置こうとするのだ。漢らしい男子とは対極の、耽美なイケメンや美少年の場合も実は似ている。おのれの美貌を濫用悪用し、無垢な女子を食い散らかす腐れ外道がいる事を、聡明なる乙女たちは知っているためだ。源吾郎の容貌は、そのどちらともかけ離れており、小柄な事も相まって威圧的なところは少なく、無害な男子であると見做される事が多かった。

 とはいえ、それも第一印象がそうである、という話に過ぎないのだけど。

 

「源吾郎君、だっけ。すごい、若い頃の島崎博士にそっくりなんだね」

 

 さて話を戻そう。源吾郎にまず絡んできたのは、双葉の後輩だという畠中さんだった。二十代後半だという彼女は、着席した源吾郎を見るなり頬を火照らせて声をかけてきた。

 島崎博士とは父の幸四郎の事だろう。特に尋ねなくてもそれくらい見当は付いた。父の幸四郎は学者をやっているから博士と呼ばれてもおかしくないし、何より源吾郎を見てそっくりと評しているのだから。

 ちなみに源吾郎は母の三花や兄姉たちとは外見的な共通点を見つけるのは難しい。しかし仕草や癖などは兄姉たちと似通っている所が大いにあるらしい。遺伝というものは奥深く、謎が多いものである。

 そんな事を思っていると、畠中さんはやや大ぶりのショルダーバッグを膝に置き、源吾郎たちが見ている前でごそごそと中をまさぐり始めた。仕事用ではなくプライベート用のものなのだろう。バッグの表面には五百円玉よりやや大きい丸いバッヂが五、六個ピン止めされており、擬人化されたイケメンのアニメ調のイラストが描かれている。案の定畠中さんはオタクだったが、源吾郎は特に驚きはしなかった。

 演劇部にいた頃などは、女子のオタク談議に耳を傾けなければならない状況もままあったからだ。

 

「ほら見て。やっぱりそっくりだわ……」

 

 畠中さんが取り出したのは父がかつて出版した本だった。当然のように妖怪絡みの本であるが、それこそが父のライフワークでもあった。畠中さんは丁寧に最後のページの作者近影の部分を示してくれた。

 

「こうしてみると、本当に博士って感じがしますね」

 

 モノクロームの小さな父の肖像を見ながら、源吾郎はしみじみとした調子で呟いた。写真の父を眺めているうちに、見知らぬ誰かを見つめているような奇妙な感覚に襲われた。三十代の頃と思しき若々しい姿を見たからではない。写真に写る父の表情が、あまりにもよそよそしかったからだ。よそよそしく用心深そうな表情を浮かべる父は、源吾郎にとっては全くもって馴染みのないものだった。

 畠中さんが示した近影を注視しているのは源吾郎だけではない。鳥園寺さんも米田さんもそれぞれ関心を示していたのだ。特に興味を持って凝視しているのは鳥園寺さんである。何しろ前かがみになり首を伸ばしているくらいだ。米田さんは姿勢良く座り、全体を俯瞰しているようにも見える。もちろん、その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。

 米田さんは見た目だけで言えば二十過ぎ、ややギャルっぽい見た目も相まって集まっている三人の中では最も若く見えた。しかし、畠中さんたちを見つめるその眼差しに、年季の入った落ち着きが宿っていたのである。

 

「これが島崎君のお父さんなんですね。凄い、本当にここまでそっくりだったなんて」

 

 食い入るように写真を眺めていた鳥園寺さんが思わず声を上げる。鳥園寺さんは源吾郎よりも四つ五つ年上の筈だったのだが、さも感心したように上げるその声音は少女のような初々しさが込められているように感じられた。

 

「私、元々は島崎博士の……主任や源吾郎君のお父さんに弟子入りしたいなって思ってたの。少し気難しい所はあるみたいだけど、ライフワークに対しては結構ストイックに打ち込んでらっしゃるみたいですし」

 

 畠中さんが言い添える。双葉や源吾郎の姉弟だけではなく、他に集まっている鳥園寺さんたちにも伝えたかったのだろう。

 

「気難しくてストイックですか。うちの父が」

 

 畠中さんの言葉を繰り返す源吾郎の声には、驚きの念が多分に籠っていた。ストイックであるというのはまだしも、気難しいという評価は父にはそぐわないように思えてならない。源吾郎の知る父は、妻である三花に時々甘え、息子らや娘を優しく監督するような、そんな存在だった。

 

「そんなに驚かなくて良いじゃない、源吾郎」

 

 驚く源吾郎を嗜めたのは姉の双葉だった。

 

「誰だって、仕事の時と家にいる時じゃあ態度とか違うものよ。源吾郎だって就職したから察しが付くでしょ」

 

 それにね。姉の言葉に頷いていると、今度は米田さんが口を開いた。

 

「後はその、年齢と共に少しずつ性格が変わるって事も考えられるかもしれないわ。若い頃血の気が多かったヒトでも、大人になって分別が付くうちに、丸くなるって事もあるかもしれないし」

 

 若い頃の島崎幸四郎に会った事がある。米田さんは事もなげに言い足した。彼女が純血の妖狐である事を抜きにして、源吾郎たちは驚いて彼女の顔に視線を向ける。

 

「島崎博士は若い頃から良い人だったわ。でも確かに、畠中さんが言うように気難しいというか、ちょっと用心深くて思った事を押し進めようとする雰囲気の人だったと思うわ。まぁ、学者とか研究者の人って色々な意味で個性的な人が多いから、学者らしいと言えば学者らしいわね」

 

 自分は父親に似ていると思って育ち、父親の事は色々と知っていると思い込んでいた。しかしそれは一種の幻想であり、本当は知らない事の方が多かったのだと思い知らされた。



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妖怪の道を選ぶに迷いなし

「それにまぁ、父さんを見て優しくて甘いって源吾郎が思うのも無理は無いわね」

 

 源吾郎、と名前を殊更に強調し、双葉は言った。

 

「何しろ源吾郎は末っ子でしょ? 子供が何人もいると、お父さんはどうしても末っ子に甘くなるのよ。それに年齢的にも、息子というよりも実質孫みたいな感じだし」

 

 実質孫。双葉のこの説明に源吾郎は納得していた。島崎家の家庭環境を知らぬ人間からは、源吾郎は宗一郎が若くして設けた息子だと誤解される事もしばしばあった。実の父である幸四郎は、源吾郎が生まれた時には四十代の後半である。孫を持つ年齢というにはちと早いかもしれないが、他の子供らと違って源吾郎を孫と見做していた可能性もぬぐえない。

 もちろん、幸四郎も三花と共に保護者としての責務は果たしていた。ついでに言えば宗一郎が源吾郎の父親のように見えたのは、それこそ若いパパのように張り切って末弟の面倒を見ていたからに他ならない。

(宗一郎自身が、そもそも弟妹の面倒を見るのが好きだったのだ)

 父の自分への態度に想いを馳せていると、双葉が言い添えた。

 

「そうね、若い頃のお父さんって宗一郎兄さんや誠二郎に似てるって思えばいいわ。あ、庄三郎もお父さんに似てる所があるかも。

 それでね源吾郎。お父さんも私や宗一郎兄さんだけの時は結構父親らしい感じだったのよ。まだお父さんも若かったし、それぞれ長男と長女だったから、子育てにも気合が入っていたのかも」

 

 若かった頃の父が兄たちに似ている。その言葉は源吾郎には思いがけないものだった。だが、源吾郎が知らぬ若き日の父の姿が明瞭に浮かんでくるようだった。

 兄たち、特に宗一郎や誠二郎が受け継いだ妖狐の特質は、実は母親や叔父たちに似た容貌だけだったりするのだ。身体的能力的な部分は人間とほぼ変わらないからだ。内面的な性格が父に似ているというのも自然な話だろう。

 四人いる息子らの中で一番父に似た気質なのは、二番目の兄・誠二郎だろうと源吾郎は思っていた。縁あって工場に勤務している次兄であるが、寡黙でコツコツチマチマと働くのが好きな部分は、学者で書きものが好きな父に相通じる部分があった。

 

「さて源吾郎。そろそろお父さんの話から離れて、妖怪としての話をしたらいかが? もちろん私も妖怪の事は多少は知っているけれど、今は私よりも源吾郎の方が多くの事を知ってるでしょうし」

「あ、うん。そうだった……」

 

 姉に促され、源吾郎は我に返ったような心地だった。そうだ。本当はここに集まった女性陣に自分の妖怪としての出自を明かし、ついで好印象を持ってもらう。そんなプランが脳裏にあったはずなのだ。

 ワクワクドキドキしながらも、源吾郎はそのようなプランを組み立てていた。しかし集まったメンバーを見た瞬間に、ある意味番狂わせが起こったのである。鳥園寺さんたちが集まっていた事も予想外だし、姉の後輩である畠中さんが源吾郎の父に関心を持ったのもそうだ。

 今更女子たちに異性として好かれようとは思っていない。しかし大妖怪の末裔として称賛はされたい。源吾郎は澄ました表情を作り、改めて自己紹介を始めた。

 

「既にご存じかと思いますが、僕は玉藻御前の直系の曾孫に当たります。もちろん人間の血も引いているのですが、妖怪として生きる方が肌に合っていると思ったので、高校を出てからは妖怪として生きております」

「玉藻御前がご先祖様で、お父さんが人間って事は半妖なんだよね?」

「そうですね。厳密には妖怪の血が四分の一、人間の血が四分の三ですが」

 

 驚いたように問いかける畠中さんに対して、源吾郎は涼しい顔で言ってのけた。今彼は尻尾を顕現させていない状態である。妖気を感じ取れない相手であれば、普通の人間に見えるのも致し方ないだろう。

 しかし場所が場所なので、尻尾を顕現してつまみ出されても問題である。飲食店は動物とか動物の体毛は禁物なのだ。

 そう思っていると、カウンターの向こうにいると思っていたバーテンが澄ました様子で源吾郎たちのテーブルに近付いてきた。理由はすぐに判った。手軽につまめる物を持ってきてくれたのだ。銀色の丸盆の上に載る皿の上には、スライスチーズとかクラッカーとか斜め切りされたカルパスとかが並んでいる。芸術的な配列がなされてあり、バーテンのセンスの良さとプロ意識が源吾郎にも読み取れた。

 

「どうぞ皆様盛り合わせです……それと九尾のお兄さん。別に気にせず尻尾を出してもらって構いませんよ」

 

 盛り合わせを置きながら、だしぬけにバーテンが言う。源吾郎が目を丸くしていると、茶目っ気たっぷりに彼は言い足した。

 

「本業はバーテンですけどね、実家が術者の一族なんで君らみたいなヒトたちとは馴染みなんですよ。むしろ私も、あなたの尻尾には興味ありますし」

 

 ああ成程そう言う事か。バーテンの言葉に源吾郎は腑に落ちた気分だった。というかよく考えれば、さっきからずっと自分らは妖怪だの半妖だのとはばからずに言っていた所ではないか。源吾郎はもちろんの事、兄姉たちも人間に対しておのれの本性を口にする事にはかなり慎重だ。そう言う方面に理解がある所を会場にしたのも、当然の流れだ。

 

「ま、確かにこれじゃあ普通の人間にしか見えないですよね」

 

 言いながら、源吾郎は軽く力み、尻尾を顕現させた。室内なので全長数十センチのミニサイズに留めておく。普通妖怪は変化するときの方が力むそうだが、源吾郎は尻尾を隠した状態の方が多い。尻尾を出す時に力んだのはそのためだった。

 ミニサイズなれど、自慢の尻尾である。春の連休の最中にバリカンで短く刈り込んだ事もあったが、今では何事も無かったかのように毛足も生え揃っている。

 ジャズらしき音楽が流れる中、源吾郎の銀白の尻尾は柔らかい照明の下でキラキラと輝いていた。

 女性陣の視線は、さも当然のように源吾郎の尻尾に向けられる。突然出現した事もさることながら、その美しさに見入っているのだろう。

 

「可愛らしい、いや綺麗な尻尾ねぇ……サラサラフワフワって感じかな」

「やっぱり島崎君も妖狐だし、尻尾の手入れの方もぬかりないわねぇ」

 

 まず声を上げたのは畠中さんと米田さんだった。彼女らは素直に源吾郎の尻尾の質の良さを褒めてくれている。

 若い女子らしくすぐに声を上げるだろうと思っていた鳥園寺さんは、源吾郎を凝視したまま思案に暮れているようだった。ややあってから、彼女は視線を源吾郎の尻尾から本体に戻し、口を開く。よく見たら真顔だ。

 

「てか思ったんだけど、島崎君前よりも妖力増えたみたいね。あ、確かに前も結構強そうな妖怪だって思ったけど……」

「妖力が増えた? 僕がですか」

 

 鳥園寺さんの問いに源吾郎は首をひねった。妖力が増えたというのは妖怪的には強くなったという事と同義だ。強さを求める妖怪として喜ぶべき言葉なのだろうが、何ともしっくりこなかった。自身が強くなったという自覚はあまり無かったから。

 

「どうなんでしょうかね。僕としては特に強くなったとか、そう言う所は特に感じませんが……」

 

 そう言って、源吾郎は出されてあるリンゴジュースで一旦唇を湿らせる。口の乾きが収まってから、もう一度口を開いた。尻尾を揺らしながら。

 

「それに尻尾も増えてませんよ? 狐というのは強くなるにつれて尻尾が増えるものなのですがね、特に増える気配もありませんし……」

 

 真顔で告げる源吾郎に対して、米田さんが笑い出した。と言ってもギャルっぽい見た目とは裏腹に、控えめで楚々とした笑い方である。

 

「島崎君、強くなりたいって言う意識が強いのは知ってるわ。それに多分鳥園寺さんが仰るように成長している事も事実だろうし。だけど強くなったからって、すぐに尻尾が増えるわけでもないのよ。もしそうなら、私たちは尻尾を増やすのに苦労しませんし……

 それにね、尻尾の数は増えれば増える程、次の尾が生えてくるまでに蓄えるべき妖力は増えるんですから。二尾とか三尾くらいまでは若い子が多いけど、それ以上になると若い子も少ないでしょ?」

「あ、はい。確かにそうですね……」

 

 米田さんの解説は優しげな物であったが、源吾郎は気恥ずかしさを覚えてしまった。妖狐は妖力を蓄えるたびに尻尾を増やすが、一尾から二尾、二尾から三尾と増えていくにつれて尻尾を増やすために必要な妖力が増えていく。その事は源吾郎も知っていた。

 才覚のある妖狐は若いうちに二尾や三尾になる事もままある。しかしそれ以降は才能よりも経験や実績なのだ。米田さんにたしなめられて、その事を一瞬とはいえ忘れていたのだと思い知らされた。

 

「あの、私もちょっと質問して良いかな?」

「もちろん、どうぞ」

 

 軽く手を挙げて質問の意思表示をしたのは畠中さんだった。

 

「さっき島崎君は半妖で、人間として暮らしていたけれど今は妖怪として暮らそうとしているのよね? その……自分の生き方で悩んだり、戸惑ったりした事は無いのかな?」

「悩みとか迷いはないですよ」

 

 畠中さんの問いに源吾郎は即答した。演技でも何でもない、本心からの答えである。

 

「確かに出自としては半妖……妖狐のクォーターになりますね。実を言えば、僕も血の濃さで言えば人間に近いんですよ。もちろん人間として生きる事も出来たのかもしれません。兄姉たちは人間として暮らしていますからね。

 ですが、人間としての生きる道には、俺が望んだものは無いと気付いたんです。そこがまぁ、俺が玉藻御前の血を色濃く引いているという証拠なのかもしれません。

 なので畠中さん。僕の事は心配しなくて大丈夫です。妖怪として生きる事に不満はないですし、むしろ望みが叶うと解っているので嬉しいくらいです」

 

 源吾郎がそう言って微笑むと、畠中さんだけではなく鳥園寺さんまでもが驚いたような表情を見せていた。



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最強の野望と風評被害

 よどみない口調で言ってのけた源吾郎をしばし驚いた様子で観察していた女性陣であったが、数秒もすれば我に返ったらしい。彼女らは未だ源吾郎に視線を向けているが、深く息を吸ったりゆっくりと瞬きを繰り返したりして、思い思いに落ち着きを取り戻そうとしている。

 驚いていてもすぐに気を取り直すあたり、女性陣の強さを源吾郎は感じていた。腕力的な部分は男の方が強いだろうが、総合的な部分を見れば女性の方が強い。この思いは幼い頃から源吾郎は抱いていた。

 

「源吾郎君。妖怪の世界で叶えたい望みってなぁに?」

 

 畠中さんの質問は、実は源吾郎にとっては想定済みの物だった。人間として育てられたにもかかわらず、妖怪の世界に身を投じる。そんな若者が眼前にいれば、そう問いたくなるのも当然の流れだろう。

 

「……そもそも、妖怪の世界って人間の世界と違うのかしら?」

「あまり大きな違いはないんですよ、畠中さん」

 

 畠中さんの呟きに答えたのは妖狐の米田さんだった。源吾郎よりも真っ先に返答した訳であるが、そのまま彼女に妖怪社会の解説を行ってもらっても問題はない。というより妖怪社会の事について一番詳しいのは、何をどう考えても米田さんだろうし。

 

「種族によっては人間の暮らしぶりとの違いが目立つ場合もあるにはありますが、少なくとも私たち妖狐の場合でしたら、その違いは人間のそれと少ないと思ってます。家族、社会、会社、勤労……そう言った概念は私たちの中にもありますからね。その枠組みで言えば、私はフリーター、島崎君は会社員になるわ」

 

 そう言ってちらとこちらに視線を向けたので、源吾郎は驚いて目を丸くした。源吾郎の事にさりげなく言及した事よりも、彼女が自分の事をフリーターだと言い切った事に実は驚きを覚えていた。

 

「ま、まぁ確かにある程度育った妖怪も仕事をするんで、その辺りは人間の組織と似てはいますね」

 

 軽く咳払いをしたのち、源吾郎は言い添える。冷静な態度を見せるように心がけてみたが、それが畠中さんたちに伝わったかどうかは解らない。

 

「ですがやっぱり妖怪社会って人間社会とは違うんですよ。実力主義の側面が強いですからね。才能があって強さを求めるものがのし上がっていく。そんなところなんです」

 

 才能があって強さを求める。源吾郎はその言葉を強調した。それこそが、源吾郎の望んでいた事であるからだ。

 

「もちろん、身の丈に合った暮らしで満足する妖怪もいるけどね。むしろそう言うヒトの方が多いかもしれないわ」

 

 米田さんの言い足したその言葉の意図は謎めいていた。人間サイドにいる畠中さんや鳥園寺さん(彼女は術者だが)を安心させるために言ったのか、源吾郎を諭すための言葉だったのか。その真相は彼女の心の中であろう。

 

「さ、源吾郎。そろそろ頃合いじゃないかしら」

 

 少し思案に耽っていると双葉が声をかけてきた。彼女の頬には見慣れた笑みが浮かんでいる。源吾郎の持つ望み、野望を話せと促しているのだ。

 源吾郎はちらと姉を見やってから、畠中さんたちに視線を向ける。少し緊張してはいるものの、野望を口にする準備は出来ていた。

 

「僕が妖怪としての生き方を選んだのは、最強の妖怪になりたいからです。それが……それが僕の望みです」

 

 最強の妖怪になる。途方もない熱量を秘めた野望を、源吾郎はかなりあっさりとした口調でもって言ってのけた。感情がこもらなかったのはやはり演技のためだ。最強の妖怪になる。無論これは源吾郎の野望である。彼の野望はこれだけではなかったが、彼女らの前で公表するにあたり控えめに表現したのだ。

 控えめと言えども、無論インパクトのある内容には違いない。現に畠中さんは驚嘆と尊敬のまなざしを源吾郎に向けているではないか。

 

「最強の妖怪って凄いね。知り合いの子たちにも強いって褒められてたみたいだし、それを目指すって事は才能があるって事だよね。島崎主任からは面白い子だって源吾郎君の事は言われてたけど、私、こっそり源吾郎君の事応援したいな」

「あ、ありがとうございます」

 

 ある意味熱烈な畠中さんの言葉に対し、源吾郎は軽く手を挙げて微笑んだ。思った以上に畠中さんが持ち上げてくれるので、内心少し戸惑ってもいた。

 だがそれよりも気になるのは、他の面々の態度である。米田さんはまぁ良い。問題は双葉と鳥園寺さんだ。二人は何故か興醒めしたような、或いは白けたような様子で源吾郎を無遠慮にじろじろと見つめている。

 

「あら源吾郎。あなたの野望の解説ってそれで終わり?」

 

 もっと色々と説明する事はあるでしょ。言外に双葉がそう言おうとしているのは解った。離れて暮らすとはいえ、姉弟で互いに何を考えているか、察するのは容易い事だ。

 さらなる説明を欲しているであろう事を見越したうえで、源吾郎は首を振った。

 

「さっきのは紛れもなく僕の野望だよ。最強の妖怪になるってさ、それ以外に何か言う事とかあるかな?」

 

 あるに決まってるじゃない。敢えてとぼけた様子でやり過ごそうとして見たが、双葉は一歩も譲らないようだ。

 

「まぁ確かにさっきのも源吾郎の野望だって事は私も解るわよ。だけど、家族や親戚の前で言った事と違うじゃない」

「ですが……」

 

 語気強く言い募る双葉を見据え、源吾郎は反駁を試みようとした。他ならぬ姉の発言により、畠中さんや鳥園寺さんが源吾郎の野望に関心を持ち始めたのを肌で感じたためである。

 

「今回はあれで良いじゃないですか。というよりもむしろ、込み入った話はこの場には……お姉様方にお聞かせするにはアレな内容ですし」

 

 源吾郎の言葉は、額面通りに受け取れば集まっている女性陣を気遣っているように受け取れるであろう。しかし実際の意図は少し異なる。源吾郎自身が、おのれの抱える真の野望を口にするのが恥ずかしいと思っていたのだ。

 源吾郎自身、今のおのれの野望を変えるつもりも無いし、紅藤たちに期待されている手前もはや後戻りも出来ない。源吾郎自身も叶えたいという強い思いを抱き、しかも実現する事を周囲からも期待されている。

 何故そんな野望を口にするのが恥ずかしいと感じているのか。源吾郎の野望を聞いた者たち――妖怪がほとんどであるが、人間だって同じ反応をするだろう――は、なべて失笑するか荒唐無稽で愚かしいと言い捨てるかのどちらかだという事を知っているからだ。年かさの妖怪であれ若い妖怪であれ、源吾郎の野望を耳にするやそう言う態度を見せるのだ。

 誰かに笑われたからと言って、その野望を棄てるなどという真似はしない。しかし、段々とその野望を軽々と口にするのが怖いというか、嫌だと思うようになっただけだ。源吾郎が嬉々として野望を語れるのは、その野望を持つに値する力量を源吾郎が持った時か、寛大に源吾郎の言葉に耳を傾ける相手に巡り合った時くらいだろう。

 

「最強の妖怪になるって事を目指してるって言ってたのに、そんな事で尻込みするなんてらしくないわよ」

 

 しかし、姉の双葉は納得してはくれなかったようだ。むしろ、ほのかな憤慨の念を滲ませて源吾郎を見下ろしているではないか。

 

「いいこと源吾郎。あんたは最強の妖怪になるって野望を持っているんでしょ。だったら堂々としていれば良いじゃない。馬鹿にされたり笑われたりするからって、その野望を口にしないなんてみみっちい事を考えるのは、三下のやる事よ」

 

 しかも双葉は源吾郎の密かな躊躇いを完全に見抜いているではないか。いささか暴論ではあるが、双葉の言う事も一理あるのもまた事実だ。最強の存在になり、妖怪の世界の頂点に君臨すれば、源吾郎が一番権力があって強い事になる。そこまで上り詰めれば、確かに彼の行う事を嗤う手合いはいないだろう。

 源吾郎は畠中さんたちをちらと観察した。米田さんは少し心配そうに姉弟の会話の行方を見守っているようだ。だが畠中さんや鳥園寺さんは面白がっている風にも見える。もちろん双葉もこの事には気付いているであろう。

 

「姉様の仰る事も一理ありますよ。ですけど、ここにお集まりのお三方は、既に僕の野望もご存じでしょうに」

 

 源吾郎はここで一旦言葉を切ると、先程よりも声を張り上げて言い添えた。

 

「何せ僕は本物の玉藻御前の末裔で、尚且つ才能もある。妖狐たち妖怪たちのみならず、術者の業界やオカルト関連の世界でも、話題になっているのではないですか」

 

 そう言った源吾郎の視線は自然と米田さんに向けられていた。別に妖狐の女性である彼女に色目を使ったという訳ではない。彼女は野狐だが、玉藻御前の末裔を自称する妖狐の一人である。

 源吾郎の問いかけにまず応じたのは鳥園寺さんだった。

 

「もちろん島崎君の事は話題になってたわ。強いうえに野望もあるしちゃっかり大妖怪な紅藤様の許に就職してるしで、警戒する妖は警戒するみたいだよ。

 そう言えば、玉藻御前の子孫だって自称している妖狐たちも色々と島崎君の行動を心配していたよ。島崎君が妙な事をしでかしたら、自分たちが()()()()を受けるかもしれないって」

「あいつらが俺の行動で風評被害に悩むって、それ普通に()だと思うんだけど」

 

 あまりの事に驚いた源吾郎は、思わずため口で言い放ってしまった。風評被害というのは元来、バッタもん等の横行により本家の風評が損なわれる事を示す。言うなれば源吾郎が本家であり玉藻御前の末裔を名乗る連中はバッタもんだ。しかし実際には自称している連中の方が本家の言動による風評被害を気にしているとは。本末転倒極まれり、と言った所だろうか。

 源吾郎はいてもたってもいられず、双葉の方を振り仰いだ。

 

「聞きましたか双葉姉様。玉藻御前の末裔を自称する連中が、本当の玉藻御前の末裔である俺の行動を気にするって、何かおかしくないですかね」

 

 弟の問いかけに、双葉は首をひねった。

 

「まぁ確かに源吾郎の言いたい事も解るわよ。だけど彼らの方が玉藻御前の末裔を名乗って活動する期間の方が、源吾郎が生きてきた年月よりも長いと思うし……まぁそこは気にしなくて良いんじゃない? 私は気にしてないし」

「まぁ、その辺りの考えは狐それぞれですから。ただ、玉藻御前の末裔を名乗っている妖狐たちは、てんでばらばらに暮らしつつも時々集まって会合をしますから、その時に話題に上ったのでしょうね」

 

 双葉の発言の後に米田さんはそんな事を言った。まぁ確かに狐は集まりたがる性質を持つわけだし、玉藻御前の末裔を名乗るという点では仲間ともいえる。彼らが集まって連絡を取り合っていたとしても何一つおかしなところはない。

 

「さて、そろそろ野望について皆に発表しましょ」

 

 ケロリとした顔で双葉は告げ、源吾郎の右肩を軽く叩いた。

 

「あんたならできるわよ。何せ、気難しい叔父さんたちや、生真面目な兄さんの前でもきちんと言えたんですから」

 

 源吾郎は小さく頷くと、何度か呼吸してから今一度畠中さんたちに視線を向けた。鳥園寺さんや米田さんは源吾郎の性格をある程度知っているはずなのだが、心持ち期待と緊張の入り混じった眼差しを向けているようだった。

 

「それじゃあ言いますね。僕の本当の野望は、最強になって妖怪たちの世界の頂点に君臨して、それでもってハーレムをこ、構築する事です」

 

 彼女らに何と言われるだろうか。そんな事が脳裏をよぎった為に、やや早口気味になってしまった。



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ハーレムの野望と源吾郎の才能

 ハーレム構築。この文言を源吾郎が口にしたその瞬間、周囲の空気は一変した。何というか、今までは源吾郎に対してかなり好意的な空気が漂っていた。それが変化したのである。良い方向か悪い方向かは言うまでも無かろう。

 

「ハーレム構築ねぇ、そ、そうなんだー」

 

 畠中さんはそう言ってひとまず笑った。場を和ませようとしてくれたに違いない。しかし明らかな作り笑いは硬いものだった。

 

「ま、まぁ島崎君も男の子だし、女の子に囲まれてチヤホヤされたいって気持ちがある事は解るかな。私も彼氏ができたけど職場でイケメンとかがいたらテンション上がるもん」

 

 鳥園寺さんは言いながらチーズを口に放る。美形を見ればテンションが上がる。何気ない一言であるが、源吾郎には何故かその言葉がグサッと来た。

 だが鳥園寺さんの言葉は終わりではない。チーズを飲み下すとそのまま言葉を続けた。

 

「だけど、そんな願望をガチで叶えたいって思うのは凄いと思うわ。色々な意味で」

「あ、ありがとうございます……」

 

 色々な意味で凄い。これが素直な称賛ではない事は源吾郎にも解っていた。何より、鳥園寺さんの眼差しには呆れの色が多分に浮かんでいる。

 

「だってさ島崎君。あなた今素面よね? そのリンゴジュースだって……」

「もちろんソフトドリンクですってば!」

 

 鳥園寺さんの質問に対して、源吾郎は半ば食い気味に応じた。おっとりした雰囲気のお嬢様と言った感じの鳥園寺さんなのだが、実のところ呑むのが好きな一面がある事を源吾郎は既に知っていた。というか今もお洒落なジュースを飲んでいるように見せかけてカクテルを口にしているし。

 

「もしかして、ハーレムが合法的に構築できるから妖怪としての生き方を選んだのかしら?」

 

 カクテルで喉を湿らせた鳥園寺さんは単刀直入に質問を投げかける。源吾郎は目をしばたたかせ、引きつった笑みを浮かべるのがやっとだった。ある意味彼女の言う通りではある。しかしそれを口にするのははばかられた。頷いたら頷いたで、「ハーレムを作りたいから妖怪の道を選んだドスケベ」と思われそうだし。

 ただでさえ変態疑惑が浮上しているのだ。あまり妙なイメージを持たれてしまうのは精神的にきつい。

 源吾郎が黙っていると、鳥園寺さんの視線は妖狐な米田さんに向けられた。

 

「聞いた話だと、妖怪の社会って一夫多妻も一妻多夫も相手が同意すればオッケーだって聞いたんですけれど、それって本当なのでしょうか」

 

 鳥園寺さんの問いかけは、米田さん相手でもかなり直截的だった。末っ子故に物怖じしない性格なのか、それとも米田さんの若いギャルっぽい見た目に引きずられた為なのか。源吾郎は不意にそんな事を思っていた。

 

「そうね。確かに妖怪社会の方が、結婚とか恋愛とかは自由度があるかもしれないわ。確かにみんなが納得すれば、一夫多妻とかでも咎められる事は無いわね。まぁ、妖狐の場合だと、一夫一妻とか一対一のカップルとか夫婦で落ち着くケースが多いけどね」

 

 妖狐が一夫一妻。そんな米田さんの解説に、畠中さんと鳥園寺さんが感心したように声を上げる。妖狐のステロタイプの中に淫獣というものもあるにはあるが、それこそ風評被害のようなものだ。無論魅了の術に長けた者もいるし、玉藻御前のように多情な妖狐もいる事はいる。しかし魅了の術はそもそも色事のみに使われるものではないし、多情なドスケベはむしろ種族というより個体としての特徴だ。何よりスケベは人間の方が多いという認識まであるくらいだし。

 

「ただ、一夫多妻とか一妻多夫を構築するならば、相手が愛人を抱えていたとしても笑って流せるほどの度量は必要でしょうね。何せ自分は一人なのに複数の妻や愛人を抱えているのよ。なのに妻や愛人たちには自分一人だけを相手にせよ、と強いるのは不公平に過ぎると思わない?」

「そ、そんなもんなんですね……」

 

 源吾郎は思わず声を上げていた。鳥園寺さんにしろ米田さんにしろ、今源吾郎が口にしたハーレム構築の件について色々と考えて思った事を口にしている。だがその内容はあまりにも重い。その重さ加減に源吾郎は少し引き気味だった。失礼かもしれないが、そんなにガチな話なんだ、と半ば他人事めいた考えさえ浮かんでいたくらいなのだ。

 

「そう言えば、昔のフランス貴族のマダムは、話し相手とかおだてて貰うために愛人を雇い入れていたそうよ。夫公認でね。だからその、源吾郎のハーレム要員が源吾郎とは別に愛人を作っててもそんなもんじゃないかしら」

 

 マジでか、と源吾郎は叫びそうになり、さりげなく口許に手を添えた。フランスは日本とはまるで異なり自由恋愛の国であるというが、男の愛人という職業があったとは恐れ入る話だ。

 

「夫公認の愛人がいたって、何か解る気がしますよ、島崎主任!」

 

 フランスマダムの愛人の話に喰いついたのは畠中さんだった。彼女は頬を赤らめてあからさまに興奮している。

 

「あ、確かに私は今独身で彼氏もいないですけど、やっぱり夫婦として夫を愛していても、イケメンとか美少年とかいたら良いなって思いますもん! それに貴族同士の結婚だったら色々と冷え切ってるでしょうし、そうなったらやっぱり心の潤いとお肌のためにも必要だったと思うんですよ。私も、メインの推しがいても、他のイケメンキャラとか気になりますし」

「……」

 

 源吾郎はしばし口を閉ざし、周囲を眺めていた。思いがけぬほどディープな話にもつれ込んだために、源吾郎には口を挟む猶予が与えられなかったのである。いかな女子力を磨いている源吾郎と言えども、愛人を持つマダムの気持ちを考察する事は難しい。少女漫画は目を通せてもレディコミには手が届かない。それが源吾郎の女子力だった。

 

「ねぇ島崎君」

 

 あれこれと思案する源吾郎に声をかけたのは鳥園寺さんだった。

 

「やっぱりハーレム構築を野望として据えたのは、学生時代にモテなかったからなのかしら?」

「モテたかどうかって話をしていないのに、モテなかったって決めつけるのは良くないですよ!」

 

 年長である鳥園寺さんを前に、源吾郎はやや強い語調で言い返してしまった。しかし鳥園寺さんは怯まない。むしろ得意げに微笑んでやっぱりモテなかったのよ、と言う始末だ。

 

「だって真にモテてる子だったら、そんなわざわざハーレム作りたいとか言わないもの。何もせずに女の子たちが寄って来るんだから、それが当然と思っているかもしれないよ」

「まぁ確かに仰る通りですよ」

 

 鳥園寺さんの言葉に、源吾郎は素直に頷いた。見た感じはおっとりとしたお嬢様なのだが、中々彼女も何を言い出すか予測がつかない。妙な事を言って刺激するのは危険だと感じたのだ。

 

「とはいえ、僕とてモテるように努力しましたし、今でも努力している所ですよ」

「それで努力して、強い妖怪になって、世界征服とかもやっちゃって、女の子にモテモテになりたいって事なのね?」

「ざっくりとしたところで言えばそんな感じですね」

 

 厳密には、最強の妖怪になる前にモテモテになったりハーレムを構築出来たりしていたら良いと思っているが、そこは話せばややこしくなりそうなので黙っておいた。強くなる事とモテモテになる事。この二つ自体は異なった事柄であるが、源吾郎の中では二つは分かちがたい者として絡み合っているのだから。

 

「モテモテになりたいから強い妖怪を目指して妖怪として生きるようになる事を決意したって、本当に凄い事よねぇ……」

 

 凄い事、と鳥園寺さんは今一度告げた。その言葉と表情には、呆れと共に感慨に耽った様子が滲んでいる。

 

「だってさ、モテモテになるだけだったら他の道だってあったはずでしょ? バンドを組んだりホストになったりさ。それこそ、大学デビューして垢ぬけた陽キャとかになったらモテモテになれるかもしれないし。

 なのに敢えて一番難しい道を選ぶなんて、やっぱり大物なのかもって思っちゃうな」

「まぁ、他の選択肢も考えた事はありましたよ」

 

 源吾郎は鳥園寺さんを見据え、軽く笑った。

 

「実はホストとかもなろうかなって思ってた時期があったんですよ。ですが小学生の時に作文で発表したら大問題が発生しましてね……それにこんな見た目なんでホストは諦めました。バンドとか、陽キャになるのも、本来の僕とは何か違いますしね」

 

 言いながら、源吾郎は学生だった時の事を思い出していた。女子に好かれる事を狙って演劇部に入った彼であるが、そこで恋愛を発展させていたら、或いは違った生き方を選んでいたのかもしれないと思っていたのだ。

 実を申せば、源吾郎は演劇のみならず声楽の方面の才もあった。演劇や声楽に詳しい者からは、そちらの進路を選ぶようにとそれとなくアドバイスされた事もある。

 しかし源吾郎はそれらをはねのけ、モテ道とおのれの野望のために、妖怪として生きる事を選んだのだ。




 本文中にあった「マダムの愛人(男)」は国によっては実在した職業らしいです。


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意外な角度でイケメン判定

 

 幼少のみぎりより大妖怪、いや最強の妖怪として君臨する事を夢見ていた源吾郎であるが、他の職業(?)で手を打とうと考えていた事もあるのは先に述べた通りである。

 まず思いついたのがホストだった。子供が何故そんな職業を知っていたのか。それはまぁ源吾郎には年の離れた兄姉がおり、それにより多少ませた部分があるからという事で説明は付くだろう。実際には彼らの所有する漫画だの小説だので知ったようなものだった。

 ホストだったらモテモテになれるやん! そう思った源吾郎は、割と本気でホストになろうかと思っていた時期もあった。思うだけに留まらず、事もあろうに「僕が私が将来なりたいもの」とかいう小学校での作文に書き上げてしまったのである。小学生がホストになる事を公言する。当然であるがこれは相当に物議を醸した。当時の担任が潔癖な若教師だった事と、件の作文が授業参観の折に読み上げなければならなかった事もまた、件の騒ぎを大きくした遠因でもあった。しかも保護者として授業参観に訪れていたのは、源吾郎の父母ではなく長兄だった。

 源吾郎が無邪気に読み上げた作文は、教室内を混乱と困惑のどん底に突き落とした。若教師がうろたえ、保護者である宗一郎が平謝りに謝罪していた事は今も覚えている。無論島崎家でも家族会議が開かれた。源吾郎はこってりと油を絞られたのは言うまでもない。但し積極的に説教をしたのは、家長である父()()()()、兄の宗一郎だったけれど。実父の幸四郎は「まぁ子供だし大目に見たまえ宗一郎」とむしろ鷹揚に言ってのけたくらいだった。母の三花は「やっぱりこの子も玉藻御前の血が濃いのよ」と言ってはいたが、呆れの色が滲んでいた。

 第三の保護者のように思っている長兄からの指導は割合に堪えた。しかし、転んでもただでは起きないのが源吾郎のしぶとさ……もとい彼の良さである。源吾郎はこの経験により、みだりにおのれの野望や願望を口にしない事、学校で妙な言動をしてはならない事をきっちりと学習したのだ。その甲斐あって、中学・高校では生徒指導や風紀委員や近辺をうろつく不良共から「普通の生徒」と見做されるような学校生活を送る事が出来た。もちろん、クラスメイトや部活の仲間からは、「ちょっと中二病が入ってて演技演劇に妙に力が入っている生徒」と思われていたみたいだが、そんなものはそれこそ誤差の範囲内だ。

 また源吾郎の才能を見て、俳優や芸人(特に芸人)になれば成功するのではないか、と親切にも言ってくれる者もいた。しかし源吾郎は俳優などになるつもりは無かった。周囲からは演劇に強い関心があるように思われていたが、源吾郎にとっての演劇はおのれの力を伸ばすための道具に過ぎなかった。それなのに才能があるだけで俳優になるのは妙だと考えていたのだ。

 中学生以降はちょっと個性の強い、しかし普通の生徒として表向き過ごしてきた。その間に人間社会での暮らしと自分の生き方がどうなのか、ずっと密かに照らし合わせてきた。

 幼少の頃から妖怪としての生き方の方が馴染んでいると思っていたが、それは成長しても変わらなかった。だからこそ、兄姉たちと違って早々に学業を終えて妖怪の世界に足を踏み入れたのである。

 

 密かに過去の事を思い返していた源吾郎は、周囲が沸き立っている事にすぐに気付けなかった。島崎君。源吾郎君。我に返った源吾郎は、おのれを呼ぶ声をようやく聴きとる事が出来た。

 島崎君。意識を向けた時、源吾郎を代表して呼びかけたのは鳥園寺さんだった。

 

「ね、島崎君。思ったんだけど、もう直接イケメンとか美少年とかに変化して、それで女の子たちにモテるとか、そういう方法はどう?」

 

 イケメンに変化する。この言葉に源吾郎は目玉が飛び出さん限りに瞠目した。が、それも一瞬の事である。イケメンに変化しないのか。その質問は源吾郎を深く知る者からはいずれ投げかけられるものだと思っていた。というよりも、よくぞ今日まで誰も問いかけなかったものだと思っても良いくらいだ。

 

「……イケメンに変化ですか。やった事はないですが、()()()()()()ですね」

 

 源吾郎はまず変化できるか否かについて応じた。技能面でイケメンに()()()()()()のと、イケメンに変化できる能力がありながら()()()()()のでは意味が全く違う。源吾郎はそう思っていたためだ。

 ゆえに彼の言葉は、やった事が無い、理論上という部分が殊更強調されていた。

 

「しかし鳥園寺さん。僕はイケメンなどに変化するつもりはありませんよ。確かにイケメンに変化したほうがモテる可能性は格段に上がるだろう事は僕だって知ってます。すぐ上の兄が、他人に心を開かないようなあの兄が、その見た目のために多くの人間から注目されている所を、僕は十数年間目の当たりにしてきたのですから」

 

 厳密には庄三郎が多くの人間を魅了するのは、見た目以外の要素もあるのだが、それは敢えて省略した。話すとややこしい案件だからだ。

 源吾郎は息を吐き、おのれがイケメンに決して変化しない理由を続ける。

 

「ですが、見た目を変化して勝ち得た愛情なんてまがい物に過ぎないんですよ。そんな事でどれだけ多くの女の子の心を掴んだとしても、そんなのはフェアな物じゃあないんです。だから僕はモテるためだけに変化するなんて事はしません。そんな事で偽りの愛情を得ようとする程俺は堕落していませんからね」

 

 源吾郎の言葉はもはやある種の演説のようなものに変貌していた。女子にモテるためのスタンスは、源吾郎がどうしても曲げられない所であるからだ。彼は素直に好みの女子からの混じり気の無い愛情を求めていた。だがそれを受けるからには自分も虚偽で飾り立てるのはご法度だと思っていたのだ。

 さて周囲はというと、流れるジャズの音楽が目立つほどにしんとしている。畠中さんと鳥園寺さんの顔には、はっきりと驚嘆の色が滲んでいる。目が合うと、鳥園寺さんは何度か目を瞬かせてから呟いた。

 

「島崎君がモテたくてモテたくてしゃあないって事は噂で知ってたけど、まさかそこまで覚悟キメてるなんて……もうイケメンに変化しなくても()()()()()()下りそうな気がするわ。主に心が!」

「それって誉め言葉でしょうか」

 

 イケメンでなくてもイケメン判定下るってどういう事なのだろう……そう言う複雑な心境を抱えながら源吾郎は尋ねていた。そう言えば女子たちの男への誉め言葉に「言動はイケメン」だの「イケメンだったら惚れてるくらいのイケメンぶり」というものがある。「ただしイケメンに限る」というルッキズムの法則から生まれている文言である事には違いない。だが……源吾郎のように容姿にコンプレックスのある者、容姿が優れないと思っている者には突き刺さる言葉である事もまた事実だ。

 無論、男も男で可愛い女子を品定めしているのだからある意味お互い様なのだろうが。

 ちなみに鳥園寺さんの先程の言葉は誉め言葉だったらしい。源吾郎の問いかけに彼女は笑顔のまま頷いていたのだから。

 成程ねぇ……さも感心したような呟きを、長姉の双葉が漏らした。

 

「源吾郎にはそんな強固なポリシーがあったのね。変化術が得意なのに、他の男の子の姿に変化したところを見た事が無かったから少し気になってたのよ」

「まぁ、最近は男子に変化しないといけない時もあるかなって思ってるんだ。イケメンとかじゃない、普通の男子にさ。そうでないと変化した俺の姿に興奮したドスケベどもを刺激しちゃうかもしれないし」

「変化した源吾郎君の姿にドスケベが興奮するってどういう事?」

 

 畠中さんの無邪気な問いに、源吾郎はしまったと思った。時には別の男の姿に変化するようにせねばならない。この発言は、先日の生誕祭での出来事を思い返して思った事である。あの時源吾郎は宮坂京子なる少女に変化したために、好色な雷園寺雪羽に見つかってしまった。

 少女に変化する事は、女子たちに警戒されずに接近できる術である。源吾郎はその側面しか意識していなかった。しかし、少女に変化する事が、欲と若さを持て余した男らを変に刺激してしまう事もあるのだとこの度知ったのである。

 あ、もしかして! 何か妙案でも思いついたと言わんばかりに鳥園寺さんが声を上げる。

 

「変化術が得意でイケメンとか男の子に変化しないって事はさ、女の子に変化できるって事かも。ううん、きっとそうだわ」

「そうそう、その通りなのよ」

 

 鳥園寺さんの問いに応じたのは姉の双葉だった。しかも何故か楽しそうな表情を浮かべている。




 ホスト事件があってからの島崎君は、割と学校では大人しい感じだったのです。


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風評は威光を示すバロメーター ※女体化表現あり

 今回は主人公が女体化します※三度目
 苦手な方はご注意ください。


「源吾郎はね、中学生の頃から女の子に変化する術を会得しているのよ」

 

 妖怪に詳しい面々のみならず、一般人である畠中さんもいる中で、双葉は臆面もなく源吾郎の能力を暴露した。

 一方の源吾郎も、そんな姉の発言に驚いたりたじろいだりはしない。源吾郎の変化術については既に話題に上っているのだ。源吾郎が何に変化できないのか話したのならば、何に変化できるかについても言及されるのが筋というものだろう。

 さらに言えば、双葉は源吾郎が美少女に変化できる事をいたく気に入ってもいた。彼女は妹を欲しており、妹がいればいいのにと思っていたからだ。源吾郎が生まれる前などは、妹欲しさに弟たち――誠二郎や庄三郎などだ――に女物の衣装を着せて()に見立てていた事もあったくらいである。

 源吾郎は双葉の「妹ごっこ」の遊びに付き合わされた事はない。しかし兄の庄三郎が弟である源吾郎を彼女役に仕立てるという発想に、双葉の影響があった事は明らかであろう。

 

 源吾郎はちらと双葉を見やった。何故源吾郎がそのような技を習得しているのか。その理由について双葉が言及するのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。

 ねぇみんな。双葉は源吾郎の視線を受け流し、畠中さんたちに呼びかけた。

 

「そんなわけで、源吾郎が女の子に変化する所、見たくない?」

 

 姉の申し出は予想通りの物だった。双葉は妹を欲していたし、しかも今ここに集まっている面々は、源吾郎が妖怪としての側面を持つ事を知っている。普通の人間ならば不可能である変化術は、しかし源吾郎の本性を知る者を相手に披露するのならば何も問題はない。

 そしてこの申し出は弟に対する命令である事も源吾郎は既に看破していた。年長者に囲まれて育った源吾郎である。彼らの考えを察したり、その思いに沿うように動く事には長けている。それに姉には弟は逆らえない。この自然の摂理を源吾郎はよく心得ていた。

 最終的な判断は畠中さんたちにゆだねられるだろう。だが源吾郎は、自分が変化する流れになるだろうとおおよそ察していた。

 

「良いんですか主任? この源吾郎君が女の子に変化する所、私たちが目の当たりにしても」

「私も興味あるわ。島崎君の事は色々知ってるけれど……女の子に変化した所はまだ見た事が無いし」

 

 案の定、畠中さんと鳥園寺さんは源吾郎の変化術に興味津々のようだ。尻尾以外は凡庸な見た目の青年である源吾郎が、大胆にも少女に変化するのだ。好奇心の強そうな彼女らの事だから、そりゃあもう興味を持ったのも無理もない話だろう。

 ついでに言えば、姉の双葉が所謂美女と呼んでも遜色ない存在である事もまた要因なのかもしれない。双葉もまた、母方の血が持つ妖狐の恩恵を容姿という形で受け継いでいたから。容姿がどうであれ、源吾郎にとっての双葉は姉であり、それ以上でも以下でもないのだが。

 

「変化するかどうかは、島崎君が決めたら良いと、私は思ってるわ」

 

 ギャラリーたちの中で、米田さんだけが他の女性陣とは違った意見を口にした。金色の瞳は源吾郎を捉えている。気遣うような眼差しと、口許に浮かんだ儚げな笑みに、源吾郎の心が揺らぐのを感じた。

 

「私たちが気になるとか見てみたいって思っても、それで島崎君が嫌な思いをするんだったら申しわけないし」

 

――やっぱこの人めっちゃ良い人やん……!

 

 源吾郎の心中に、柔らかく暖かいものがにじみ出るのを静かに感じていた。米田さんは源吾郎を気遣ってくれていると確信したためだ。もしかしたら、彼女はゲストの中で唯一源吾郎の美少女変化を見ているから、それで意見が異なるのかもしれない。

 米田さんの意図はどうであれ、彼女の気遣いに気をよくした源吾郎は、その面に笑みを浮かべた。

 

「気遣ってくれてありがとうございます。ですが僕は大丈夫ですよ。他の皆様は僕の変化を心待ちにしていますから」

 

 そう……相変わらず気遣わしげな米田さんから視線を逸らし、今度は畠中さんたちを見やった。

 

「それじゃあ変化しますね。ですが、どうか皆様には僕の変化を見てもキモいとか変態とか言わないで頂きたいんです。お願いはそれだけです」

 

 変化の準備をする前に、源吾郎は簡潔に要望を述べた。変化術を見せる事は、ハーレム云々の野望を語るよりも恥ずかしくはない。しかしそれでも、女性陣からキモいとか変態みたいだなどと言われたら恐らく凹む。それを回避するためのお願いだった。

 三人がめいめいに頷いたのを見てから、源吾郎はやにわに変化した。男物のシャツとズボン姿の青年は、一瞬にしてワンピースドレスの少女にその容貌を一変させた。本来の姿の名残は、ワンピースの模様のみである。

 数秒に満たぬこの変化を前におぉっ、と歓声が沸き立つ。やはり畠中さんと鳥園寺さんは源吾郎の変化に喰いついたようだ。妖怪に関心があったり妖怪絡みの家業を継いでいると言えども、二人が人間である事を思えば無理もない話だ。

 

「え、すごい、凄いじゃない島崎君! てか、私よりも普通に女子力が高そうな女の子になるなんて……すごいって言うかむしろずるいかも」

 

 鳥園寺さんは驚きと感動が強まり過ぎたのか、妙な事を口にしてさえいた。そもそも言うて鳥園寺さんって女子力高かったっけ? 鳥園寺さんは確かにゆるふわ系のお嬢様だけど、マイペースで我が道を行くタイプだから、女子力とかそう言うものを意識するとは思っていなかったんだけど……つらつらと源吾郎はそんな事を思っていたが、無論口には出さなかった。迂闊な発言で乙女たちの怒りを買う事が相当な愚考である事を、彼はきちんと心得ていたからである。

 

 

 源吾郎が女子の姿を保っていたのはほんの数分程度の事である。畠中さんたちが満足した頃合いを見計らい、元の姿に戻った為だった。

 

「いやー、島崎君って本当に才能の固まりよねぇ」

 

 源吾郎の姿をじろじろと眺めながら、鳥園寺さんがぼやいた。

 

「島崎君ってさ、実年齢的にも私より若いでしょ? それでもう四尾になるくらいの力もあって、それであんな難しい変化術も簡単にこなせるわけだし……」

「どうやら僕は、妖狐の中でも変化術が得意な方になるみたいなんです」

 

 チーズをつまむ鳥園寺さんに対し、源吾郎はそう言った。その声は謙虚な若者の言葉のように聞こえたが、多少の苦みが滲んでいた。

 妖狐は一般的に様々な妖術を操ると思われており、実際にその通りである。白兵戦や肉弾戦はやや苦手であるが、攻撃手段になる火術、自分や他の物を別の物に見せる変化術、心を操り自分のほしいままにする魅了の術などと、使える妖術のバリエーションも多い。

 しかし実のところ、どの妖術が得意かは妖狐によってまちまちなのだ。火術や攻撃術が得意でも、変化や魅了が苦手な妖狐もいるし、変化術はずば抜けているが他は全く振るわない、という妖狐もいるという事だ。こういった得意とする術の偏りは、幼若で妖力の少ない個体程顕著になるという。長じて妖力が増えてもその傾向は残りはするが……経験や努力によって多少埋め合わせが効いて目立たなくなるだけの話である。

 この特徴は実は源吾郎にも当てはまっていた。もっとも適性があるのが変化術であり、魅了の術の才は殆どない。火術・結界術などの戦闘向きの術も得意そうに見えるが、それは単に源吾郎自身の妖力が多いためにそう見えるだけに過ぎない話である。

 つまり源吾郎は戦士として表立って闘うよりも、隠密や諜報、或いは騙し討ちを行う方面への才があるという事である。華々しく力を示したい源吾郎としては不本意な話ではあるけれど。

 

「若くて才能も家柄も恵まれているお坊ちゃま、ねぇ……」

 

 気付けば双葉が小声で何やら言っている。彼女が挙げた特徴はある意味源吾郎の持つ属性を示しているのだが、何故か見知らぬ他人のように扱われているような気分になってしまった。

 そう思っていると、双葉が源吾郎を見てニヤリと笑った。

 

「源吾郎。あんたさっきハーレムが云々って言ってたわよね。よく考えたら、あんたが()()()すごい存在だって思われているんだったら自分からお嫁さんを探さなくても良いんじゃないの?

 だって源吾郎は玉藻御前の子孫で、現時点でもそこそこ才能があるでしょ。特に妖怪の社会は実力が物を言うんだから、実力のある源吾郎の懐に入れば安泰だって思う娘が出てきてもおかしくないわ。それでもって源吾郎に護られて、ついでに玉藻御前の子孫を生めば、立場的にも揺るがなくなるかもしれないしね」

 

 唐突な双葉の説明に源吾郎は目を瞬かせた。女子たちに傅かれる事、ハーレムを構築する事を夢見ていた源吾郎である。しかし、おのれの血筋や力そのものが女性陣を惹きつけるであろう可能性についてはあまり意識してはいなかった。

 だからこそ驚き、気の抜けた声を上げたのだ。

 

「そういうものなんですかね」

「妖怪たちも血筋を気にするみたいだし、そう言う事もあるんでしょうね」

「そりゃあもちろん、そう言う考えでもって接触する妖狐たちも、今後島崎君の前には現れるでしょうね」

 

 鳥園寺さんの言葉の後に呟いたのは米田さんだった。彼女らはそれぞれ術者の跡取り娘だったり玉藻御前の末裔を自称していたりしている。ある意味血統の大事さをよく知っている訳だ。

 

「特に玉藻御前の末裔を名乗っている娘たちにしてみれば、島崎君とお近づきになるという手段も可能性の一つと思うかもしれないわ。確かに、あなた方は私たちを不当に迫害したり脅迫したりはしないけれど……それでも単に玉藻御前の末裔を名乗っているのと、本物に認められて可愛がられたり身内扱いされるのでは大分意味が違うわ。

 というよりも、結婚したり子供を産んだりした時点で身内になるから、自称・玉藻御前の末裔から玉藻御前の末裔の身内に昇格するわけでもあるし」

 

 あ、でも……米田さんは会話を途中で打ち切り、何かを思い出したと言わんばかりに呟いていた。

 

「島崎君の配偶者として近付くのは女狐たちしかできないけれど、男狐の場合だったら、舎弟とか部下にしてほしいって言って近づく可能性もあるでしょうね。妖怪たちが、実の親族でなくても親族のように振舞う事があるのは知ってるでしょ? そんな塩梅で、島崎君の兄や弟になりたがる玉藻御前の末裔もいるかもしれないわね」

 

 米田さんはいつの間にか楽しそうに微笑んでいた。源吾郎は対照的に困ったような笑みを浮かべるだけだった。

 

「しかし米田さん。僕の周りにいる玉藻御前の末裔とやらは、そう言うそぶりを見せませんよ……」

 

 源吾郎はそこまで言って力なく微笑んだ。玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちは、源吾郎の振る舞いが風評被害をもたらさないかヤキモキしているという。今しがた米田さんが言った内容とは、玉藻御前の末裔たちが源吾郎の傘下に入ろうとするという話とはまるでかけ離れている。

 しかしそれこそが、今の源吾郎の実力と、周囲からの評価そのものなのかもしれなかった。



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侵入者には要チュウ意

 夏の盆休みも連休としてそこそこあったはずなのだが、体感的にあっという間に過ぎてしまった。

 無論学生だった頃の夏休みの日数と較べればうんと短い物であるのは事実だ。だがそれでも、春の連休と比較しても遜色ない日数である事もまた事実だ。

 あっという間に過ぎたように感じたのは、特段やる事も無く、また平和に休みの日々が過ぎていったからに他ならない。

 もちろん盆休みだからと言って怠惰に過ごしたわけではない。宣告通り実家には戻らなかったが地元の自警団での活動にも参加したし、町の夏祭りにも顔を出した。もちろん、使い魔であるホップの面倒も毎日見ていた。

 それ以外は図書館に赴いたり筋トレをしたりナンパのイメトレをしたりと、まったりしつつもそれなりに充実したひとときを送っていたのだ。

 

 

 出勤日。源吾郎はいつもより早く目が覚めた。夏場は冬場よりも早く目が覚める事が多いのだが、今回目を覚ました要因は暑さではなかった。

 ホップの啼き声と羽音である。ホップがしきりに啼き、また羽ばたく音も断続的に聞こえていた。確かに十姉妹のホップが、朝になれば啼くのはいつもの事である。しかしいつもの啼き声よりも明らかに切羽詰まっていた。何より未だに羽ばたいているのだ。

 源吾郎は布団から這い出すと、すぐさま鳥籠に向かった。視界はぼやけているが、鳥籠の中でホップが羽ばたいて浮遊しているのが見える。鳥籠の上に何かがあるらしい。だが今の状態では見定めるのが難しい。源吾郎はひとまず眼鏡をかけ、様子を窺う事にした。

 

「なっ! これは……!」

 

 鳥籠の上に乗っている者、そしてホップの動きを見た源吾郎は思わず声を上げた。事もあろうに、一匹のネズミが鳥籠のてっぺんに鎮座していたのだ。大きさは鶏卵と同じくらいであるから、きっとハツカネズミの類だろう。但し毛皮の色は灰がかった褐色であり、野生のネズミっぽさを醸し出していた。

 そのネズミが、ホップの騒ぐ原因である事は明白だった。視線をスライドさせ、用心深くホップを見た。ネズミ食料をかじるとか病気をもたらすとか色々な害がある。しかし小鳥に対しては、肉をかじったり血を飲んだり喰い殺したりするという恐ろしい事案もあるにはある。その事を源吾郎は知っていたから、不安になってホップを見ていたのだ。

 

「ポイ、プイ、プッ」

 

 勢いよく啼くホップは、見たところ目立った外傷はない。血の臭いもないし彼自身もキレのある動きを披露しているから、健康そのものであろう。

 それにしても、何故ホップはここまでキレのある動きを見せているのか。その謎もすぐに明らかになった。ネズミは鳥籠の枠を握りしめてそこに留まっているのだが、尻尾だけは檻の中に垂らしていたのだ。ホップはこれを獲物だと思ったのか、興奮して突こうと飛び上がっているらしい。源吾郎はホップがかつて蜥蜴を喰い殺しているのを思い出した。このネズミの尻尾もまた、狩猟本能を掻き立てているのだろうか。

 しかもネズミもただ者ではないらしい。尻尾はただ垂らしているだけではなく、ホップが飛び上がる度にわずかに揺らし、最小限の動きで攻撃をかわしていた。

 中々捕まらないから、ホップも躍起になっていた。つまりはそう言う事である。

 

「一体全体どうしたものかねぇ……」

 

 状況を把握した源吾郎は少し冷静になっていた。そして冷静になったからこそ、今のこの状況をそのままにすべきではないと悟ったのだ。ひとまずネズミは捕獲するか追い出すかのどちらかだ。

 ネズミが研究センターの生物ではない事は明らかだった。紅藤の擁する研究センターでは、ネズミの類を扱っていないからだ。もちろん源吾郎が料理するために調達したおかずでもない。確かに源吾郎はマウスを調理して食べる事はあるが……それはそれ用に冷凍されたものを買い求めるからだ。いかな妖狐の血を引いていると言えども、生きたマウスを捌くほどの胆力は持ち合わせていない。

 それに源吾郎自身も、野生のネズミは病気があるから迂闊に触ってはならないと、親兄弟から注意されていた身であるし。

 少し考えてから、源吾郎は術で即席の器を用意した。ネズミは用心深い生物である。捕まえるための準備をしている間に逃亡されたら元も子もない、と判断したのだ。術で作ったと言えども数分は水槽として機能してくれる。その間に本当の入れ物にネズミを移せばいいのだ。

 後はまぁ、大人しくネズミが捕まってくれるかであるが。

 

 源吾郎は意を決してネズミに手を伸ばした。後ろ首から背中の皮を摘まむという持ち方である。ネズミはあっさりと捕まった。源吾郎はホッとする一方で何か腑に落ちないような気分でもあった。源吾郎が手を伸ばしている事はネズミも解っていたはずだ。しかし彼はそれを見ても逃げようとしなかった。摘まみ上げられた時も、さほど抵抗せず鳥籠にしがみつく事すらなかったのだ。

 あのホップを挑発する尻尾さばきからして、元気が無くて衰弱している訳では無かろう。源吾郎はひとまず器にネズミを入れた。とりあえず紅藤たちに見せて、その後のネズミの処遇を決める事にしたのだ。この部屋は今源吾郎が寝起きしているが、元は紅藤の所有する敷地である。しかもこのネズミは何かが違う。であれば師範に報告するのが妥当であろう。

 

 

 本物の水槽にネズミを入れて出社した源吾郎は、思いがけない相手に出くわした。白い衣装に身を包んだ雷園寺雪羽である。彼が雪羽だと解ったのは、頭を覆うフードを被っていなかったからだ。

 雪羽は所在なさそうな表情を浮かべていたが、源吾郎とネズミを見るとニヤリと笑った。

 

「早いじゃないですか島崎先輩。それにしても、そのネズミはどうしたんです? もしかして新鮮なランチとか」

「そんなアホな」

 

 雪羽の軽口に対して、源吾郎は呆れつつ返答する。

 

「朝起きたらそのネズミが部屋にいたんですよ。それで……捕まえて紅藤様にお見せしようと思って」

 

 源吾郎はそう言ってネズミの入っている水槽を持ち上げた。水槽に入ったネズミは、妖狐や雷獣に凝視されているにもかかわらずリラックスしていた。厳密に言えば源吾郎が水槽に入れておいた小鳥の餌を両手でつまんで食べていた。よく見れば細長くて黒いウンコも一、二個転がっている。恐ろしいほどの胆力だ。

 雪羽はしばらく無言でその光景を眺めていた。いつの間にか彼もまた真剣な表情に戻っている。

 

「そうか、確かにネズミがいるって妙だもんな。俺も紅藤様や萩尾丸さんに報告したほうが良いよな?」

「報告って、どういう……?」

 

 源吾郎が首をひねっていると、雪羽が手招きしてこちらに来るようにと促してきた。彼が指し示す先には、十リットルほど入る大きさのバケツがある。連休前の大掃除の時に、水を溜めたりしたあのバケツだ。

 バケツを覗き込んだ源吾郎は驚いてあっと声を上げた。やはりネズミが数匹入っていたからだ。しかも大きさも毛並みも顔つきまでも、源吾郎が捕らえたネズミにそっくりである。

 

「実は俺もネズミを見つけたんだ。床の隅を歩いている奴もいれば、机の上に隠れている奴もいたんだ。俺だって、ネズミを使ってるなんて聞いてなかったから一応捕まえておいたんだよな。まぁ、こういう小動物を捕まえるのって面白いし」

 

 最後の一文を言い添えて笑う雪羽の顔は、まさしく獣妖怪のそれだった。

 

「しかしあっさり捕まったんじゃないのかい」

 

 源吾郎の問いに、雪羽は素直に頷いた。

 

「そうなんだよ。隠れていると思ったんだが見つかったらじっとして動かなくなるしな。捕まえる時も抵抗しなかったんだ。バケツに入っている時も、先輩の捕まえたネズミと同じように暴れないし」

 

 今一度源吾郎たちはバケツの中を覗き込んだ。ネズミらは囚われの身であるはずなのに随分とリラックスしている。仲間同士で毛づくろいをしたり、雪羽が投げ入れたであろう食パンの耳をかじったりしている。

 

「やっぱり紅藤様たちに報告したほうが良さそうだと思うよ……というか、萩尾丸先輩は?」

 

 源吾郎は雪羽を見、周囲を確認してから尋ねた。始業時間よりも幾分早い時間だが、今ここに自分たちしかいない事に気付いたのだ。紅藤や青松丸が居合わせないのはまだ解る。寝坊しているとか自分の部屋で支度しているという事が考えられるからだ。

 しかし雪羽がいるのに萩尾丸がいないというのはおかしい。雪羽は今萩尾丸の管轄下にいる。叔父から引き離されて萩尾丸の許で暮らしている状況なのだ。出社の折は萩尾丸が雪羽を連れてくる形になるから、雪羽がいるという事は萩尾丸もいるという事になる筈だ。

 だからこそ、今の状況が変だと思ったのである。

 そう思っていると、雪羽は首を揺らしながら問いに答えた。

 

「それがだな、萩尾丸さんは用事があって少し遅れるって事で俺だけここに飛ばされたんだ。飛ばされたって言うか、移動させられたって感じだな。何せ普段通り部屋の扉を開けたら、何かぐにゃっとした感触があって、気付いたらここにいたんだよ」

「それは多分、萩尾丸先輩の術だよ。あの人は俺たちを遠くに移動させる事が出来るんだ。天狗だしさ」

「……」

 

 移動術によって雪羽はこの研究室に移された。そんな結論が浮かんだものの二人とも黙り込んでしまった。ネズミたちがいるといういつもとは違う状況なのに、相談すべき年長者がいない。若者らしく、或いは子供らしくその状況に幾許かの不安を感じた。しかし自分らに出来る事はネズミを監視しつつ上司たちが来るのを待つだけだろう。

 そんな源吾郎たちとの思いをよそに、ネズミらの気楽そうな啼き声がバケツの中で響いている。




 良い読者の皆様は素手でネズミを触らないようにしましょう。


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ネズミが招いた不思議な空気

 小動物が好きなので、小動物が登場するシーンの描写には力が入っちゃいます(隙自語)


 バケツに入ったネズミたちの立てる物音や啼き声は、研究センターの室内によく響いた。源吾郎も雪羽も、無言でバケツの中身を除き、ネズミを監視していた。二人では何をどうすれば良いか解らず、半ば途方に暮れていたのだ。

 間を持たせようと、源吾郎は自分が捕獲したネズミを雪羽が捕獲したネズミらのいるバケツに移動させた。水槽に入っていたネズミは、他のネズミらに取り囲まれ四方から匂いを嗅がれていたようだが、すぐにどれがどのネズミか判らなくなった。無論攻撃やいさかいの類も無い。源吾郎の予想通り、彼らは身内だったらしい。

 

 年長の責任者もいない研究センターの中、ネズミという侵入者を監視する。尋常ならざる状況に緊張していた源吾郎だが、隣にいる存在がその緊張に拍車をかけていた。

 萩尾丸が面倒を見ているという事もあり、雪羽が研究センターに出入りする事になるのは致し方ない。それは源吾郎も解っている。しかし、雪羽と打ち解けているかと言われれば別問題だ。

 正直に言えば、雪羽に対する源吾郎の評価は低かった。烈しく憎んだり嫌ったりしている訳ではないが、いけ好かないやつというイメージがどうしても付きまとってしまう。萩尾丸の配下である若手妖怪たちには友好的に振舞う事もある。人となりを知らない相手をそうそう毛嫌いする事も無い。そう思うと、雪羽に対する源吾郎の印象はある意味特殊な物だろう。

 雪羽に対してそのような評価を下すのは、源吾郎の中にはきちんとした理由があった。何せ彼は生誕祭の場で乱痴気騒ぎを起こし、あの幹部会議の引き金になった張本人だ。ついでに言えばウェイトレスに化身して真面目に働いていた源吾郎に絡んだ挙句、本性を知った後には変態と言い捨てる始末である。そのような仕打ちを受けて、それでも相手に怒りを抱かないのは聖人君子くらいだろう。そして源吾郎は聖人君子ではないし、聖人君子を目指している訳でもない。

 そりゃあもちろん、雪羽の複雑な境遇については気の毒だとは思っている。だがそれとこれとは別問題なのだ。

 また、雪羽は純血の妖怪、それも名門の家系に生まれ実力も伴った妖怪である。萩尾丸の部下たちや、地元に住まう若手妖怪たちの多くは庶民妖怪であり、彼らは源吾郎が半妖である事をあげつらい、揶揄する事はほとんどない。仮にそうしたとしても「所詮は庶民妖怪だろう」の一言で片が付く。しかし雪羽は本家から放逐されたと言えども貴族妖怪の一匹である。しかも幼いのに実力もある。その彼に半妖である事をからかわれたらひとたまりも無い。

 

 色々な理由から雪羽とは打ち解けられそうにないと思っていた源吾郎であるが、しかし雪羽と表立って対立する事は望んでいなかった。雪羽に妙な事をされたくはないが、自分から仕掛けていくのは下策であると解っているからだ。雪羽の性格上、源吾郎が仕掛けてくれば必ず向こうもやり返すであろう。そうなれば妖怪乱闘が始まる事は目に見えている。

 乱闘を始める事にメリットはない。勝敗の行方とは無関係に師範や兄弟子にその行動を咎められるのがオチだろう。しかも源吾郎がちょっかいをかけて雪羽と相争ったとなれば、責任を問われるのは明らかだ。

 そうなると、雪羽とは極力関わらず、争いを全力で回避するのが一番なのだ。少なくとも、源吾郎が雪羽の存在に慣れるまでは。

 そのように源吾郎は思っていたので、今のこの状況はかなり緊迫したものだった。雪羽は萩尾丸や紅藤の前では大人しい良い子を演じている。それは演じる事が出来る程の狡猾さを持ち合わせているという事であり、源吾郎と一対一の時は態度が異なる可能性もあるという事でもあった。初対面の時は単なる悪たれ小僧だと思っていたのだが、単なる悪たれ小僧よりも厄介な存在なのだ、雪羽は。

 実はこのネズミ放流事件も雪羽がもたらしたものではないか、という疑惑が首をもたげた時もあった。しかしネズミらを前に驚く雪羽の姿は演技ではなさそうだ。

 

 

「先輩はさ、ネズミを何処で見つけたのさ?」

 

 ネズミに意識を向けていた源吾郎だったが、とうとう雪羽に声をかけられてしまった。彼の視線はネズミではなく源吾郎に向けられている。その面立ちには子供らしさが多分に残っており、源吾郎はちょっとだけ戸惑った。()()()()に何を緊張しているのだ、と。

 ()()()()に言えば源吾郎の方が年下なのだが、純血の妖怪は成長がゆっくりである。雪羽は既に四十年近く生きているが、人間で言えばまだ十代半ばに差し掛かるかどうかといった所であろう。精神年齢も中学生程度だと思って差し支えは無い。ややこしい話だが、そういう意味では源吾郎は年長者として振舞ってもばちは当たらないかもしれないと思っていたのだ。

 

「何処ってと、……」

 

 鳥籠の上。そう言いかけて源吾郎は言葉を濁した。源吾郎がホップを養っている事を知られてしまう。その事に気付いたからだ。鳥籠と言えば鳥を飼っていると思われる。そうなれば源吾郎はホップの話を白状せねばならないし。

 源吾郎は実は雪羽にホップの事を話していなかった。それは別に、彼が研究センターに入ってから間がないからではない。自分が大切にしている存在がいる事を、雪羽に知られる事、その後に起こるであろう事を用心しての事だった。雪羽は萩尾丸たちの監視下では源吾郎に悪さはしないだろう。しかし彼らの目が無い所でどう動くかが不安だった。しかも源吾郎の本宅が何処なのか、雪羽は既に知っている訳だし。

 トイレか、戸棚の上か……「と」から始まる言葉を探っていると、雪羽がにやりと笑みを見せた。

 

「鳥籠の上にでも捕まってたんだな」

「チュウ」

 

 源吾郎ははっとした様子で雪羽を見やった。何も言ってないのに、彼はネズミがいた状況を言い当ててしまったではないか、と。

 何を驚いているんですか? すっとぼけた様子で雪羽は言い添える。

 

「先輩が小鳥ちゃんを可愛がってる事は俺も知ってますよ。萩尾丸さんから教えてもらいましたし……何より島崎先輩には、小鳥ちゃんの匂いが染みついているじゃないですか」

「あ、そっか。確かにそうだよな」

 

 源吾郎はおのれの右手をじっと見つめた。ホップは今朝も、源吾郎の手によって放鳥され、源吾郎の監督下で戯れていた。ネズミの尻尾を捕獲できなかった苛立ちもあったのか、ホップの動きはいつもよりも烈しかった。すなわち、源吾郎の手に止まり、手指を攻撃してきたのだ。それでも彼なりに加減しているであろう事は源吾郎もよく解っていた。何せさかむけを千切られた程度で済んだのだから。蜥蜴を喰い殺すホップが本気を出せば、薄皮どころか指の肉を抉るくらいの事をやってのけるだろうし。

 まぁともあれ、ホップが源吾郎の許に来て一か月は経つ。ホップの匂いとやらが源吾郎に移っていてもおかしくはない話だ。

 

「知ってるんだったら隠す必要はないな。そうだよ、確かに俺は小鳥を飼ってるんだ。元々は友達の十姉妹だったんだけど、色々あって妖怪化しちゃったから、俺が引き取って面倒を見てるんだよ」

「十姉妹か。先輩がそんな素朴な小鳥を飼ってるなんて意外ですね」

 

 雪羽の言葉に源吾郎は微妙な表情を浮かべた。前書庫バーで顔を合わせた鳥園寺さんや畠中さんも似たような事を言っていたが、彼女らの発言と雪羽の発言は同じ意味であるとは思えない。

 ある種の皮肉が籠められているのではないか。どうしてもそんな考えが脳裏をよぎってしまうのだ。

 

「それにしても水臭いですねぇ。小鳥ちゃんの事、別に隠し立てしなくても良かったのに」

「まぁ何というかだな、ホップの事を知ったら笑い飛ばされるんじゃないかと思ったんだよ」

 

 ホップの事を直接雪羽に告げなかった理由を源吾郎はそっと口にした。但しこれは対外的なある種の嘘である。実際のところ、源吾郎には雪羽がホップに危害を加えるのではないかという懸念があったのだ。雪羽も雪羽で源吾郎を面白く思っていない可能性がある。相手に直接仕掛けずとも、相手のペット兼使い魔を害するという嫌がらせを行うのではないか、と。

 もちろん、そんな本音は口には出さない。雪羽の思惑がどうであれ、そんな事を言った日にはそれこそ乱闘になるかもしれないからだ。

 

「別に俺は島崎先輩が何を従えていようと特に気にはしないさ。あー、先輩ってペット飼ってるんだって思う位だし」

 

 それよりも。言い添える雪羽の表情は、いつの間にか真剣なものになっていた。

 

「その小鳥ちゃんが先輩のペットなのか何なのかは知らないけれど、面倒を見てるんだったら大切にしてやらないと駄目だと思うぜ。鳥籠に入れて飼ってるっていう話だから、そいつも先輩の事を頼りにしているんだろうし」

 

 思いがけぬ雪羽の言葉に源吾郎は一瞬面食らってしまった。まさか雪羽にホップを大切にしろと言われるとは思っていなかったのだ。

 しかし――彼の身辺の事を思い返してみると、彼の発言もある意味筋が通っている。雪羽自身は母親の死により実家を放逐されたし、この間も取り巻き連中に裏切られていた。その事に対して特に何も言わないが、彼も彼で思う所があるのだろう。

 源吾郎はだから、小さく頷くだけに留まったのである。



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訪れたるはネズミの親玉

 研究センターに青松丸(あおまつまる)が訪れた時、自分たちはかなり長い時間放置されていたのだと源吾郎は思っていた。しかし時計を見ると、自分が出社してからまだ十分ほどしか経っていなかったのだ。緊張のために、時間の流れがいびつに感じられたのだろう。

 

「おはよう二人とも……あ、どうしたの」

 

 小走りに近寄ってくる源吾郎と雪羽を見、青松丸は目を白黒させた。一人の先輩に二人して駆け寄ってくる。別にこれは二人で示し合わせた行動ではない。むしろ示し合わせずに思い思いに動いたから、このような事態になったのだ。

 

「青松丸さん。研究室とか僕の部屋にネズミが入り込んでたんです」

 

 源吾郎が状況を告げると、負けじと雪羽もバケツを指差した。

 

「研究室ではネズミなんて使ってないのにおかしいですよね? とりあえず、見つけたネズミは僕らで回収してバケツに放り込んでいるんですよ」

「バケツって、あのバケツだね?」

 

 呑気な声を上げる青松丸の動きを妨げぬよう、源吾郎たちは左右に道を開けた。逃げるから蓋をしておかないと……そんな事を言い、青松丸はバケツの中を覗き込んだ。ネズミたちは未だに思い思いに動いているのだろう。中を見なくても彼らが立てる物音や微かな啼き声ははっきりと聞こえる。

 

「ああ、ネズミたちはみんな元気そうだね」

 

 良かった、と青松丸が短く言い放つのを源吾郎ははっきりと耳にした。青松丸の顔には既に驚きの色はない。腑に落ちたような表情で源吾郎たちに向き合っている。彼はただネズミらを一瞥しただけであるが、源吾郎たちのあずかり知らぬ何かに気付いたらしい。

 

「紅藤様の研究センターにネズミが入っているから何事かなと思ったけれど、多分この子たちは真琴(まこと)様が従えているネズミたちだろうね」

「真琴様って誰ですか?」

 

 源吾郎は思わず質問を投げかけていた。雪羽が少し呆れたような表情を見せている気がしたが、それはスルーしておく。

 一方の青松丸は苦笑いしながら言葉を続けた。

 

「あ、そうか。島崎君は真琴様の名前を聞くのは初めてだったかな。真琴様というのは、僕ら雉鶏精一派の構成員で、今は峰白様の許で情報収集とか、諜報活動を行ってくれているんだ。あ、もちろん本性はネズミの妖怪だよ」

「それはまたすごいお方ですね……」

 

 源吾郎は半ば驚きつつ呟いた。峰白と言えば第一幹部であり、雉鶏精一派の中で巨大な権限を持つのは言うまでもない。構成員などと言っているが、峰白の直下にいるとなればそれこそ重臣と呼んでも差し支え無かろう。

 

「元々は王鳳来様にお仕えしていた時期もあるらしいんだ。かなり昔の事だから僕も詳しい事は知らないけどね。年齢も、峰白様と同じくらいか少し上だったかな」

――ネズミ妖怪で琵琶精である王鳳来様にお仕えしていたという事は、相当に力のある妖怪だったんだろうなぁ。ネズミ妖怪というのは琵琶と縁がある者もいるわけだし。

 

 胡喜媚の義妹・王鳳来の名が出てきたところで源吾郎はぼんやりとそんな事を思っていた。妖怪化したネズミは巨大化して猫や犬などを喰い殺す話が有名である。ネズミ妖怪は妖怪化してもせいぜいはおのれの天敵を喰い殺すのが関の山だろうと思われている節もある。

 しかし年数を経たネズミ妖怪の中には、巫女や術者のように振舞うものもいるそうだ。大陸で年数を経たネズミ妖怪は、琵琶を弾きながら占いを行うようになるらしい。そのような伝承を知っていたから、源吾郎は真琴が王鳳来と接点があると聞いて納得したのである。

 

「やはりこのネズミたちは高貴な出自だったんですね」

 

 さも感心したように言い放ったのは雪羽だった。その面には見た目相応の無邪気な笑みが浮かんでいる。いや、笑みの仮面であろうか。

 

「いやはや、ネズミが出てきた時には驚きましたが、きっときちんとした出自のネズミだろうと思い、生け捕りにして傷つかないように気を配っていたんです。何しろ見た目も良いですし、病原菌も持っていないみたいですからね」

 

 心にもない事を。弁舌爽やかに言い募る雪羽をじっとりと眺めながら、源吾郎は心の中でぼやいていた。名のある妖怪の使いであると知っていたからネズミを殺さずに回収したという言葉が、即興の嘘である事を源吾郎は知っていた。

 あっさりと捕まったから殺したり傷つけたりしなかった。雪羽は源吾郎と二人でネズミを監視していた時にそう漏らしていたのだ。気位の高い彼の事だ。はなから大妖怪の使いであると知っていたならばその事を源吾郎に吹聴しているだろう。

 

「それにしても青松丸さん。色々と腑に落ちませんね」

 

 雪羽に対する感情を押しとどめ、源吾郎は言葉を紡いだ。雪羽の言動も無論気になる所はあるが、それ以上に不審な点がネズミたちにはあった。

 

「真琴様とやらが、雉鶏精一派で重要な役回りであろう事は僕も理解しました。何せあの峰白様の配下なのですから……ですがそれならば、何故わざわざ自分の使いであるネズミを放ち、あまつさえそれを僕たちに見つけ出すような事をしたのでしょうか?」

 

 それにですね。源吾郎は一呼吸置いてから言葉を続ける。

 

「この件に関しては、紅藤様や萩尾丸先輩もあらかじめご存じだったと僕は思うのです。今ここに紅藤様はいらっしゃりませんが……離れた所で術を展開し、侵入者が入り込めないようにする事だってあのお方には出来る筈です。だというのに、こうしてネズミたちが入り込んでいる状況は妙ではありませんか」

 

 矢継ぎ早な源吾郎の問いかけに対して、青松丸は笑うような形で息を吐きだした。多分図星なのだろうなと思った。

 僕も詳細を知っている訳ではないけれど。そのような前置きを行ってから青松丸は説明してくれた。

 

「しいて言うならば、島崎君たちを試すためにネズミを放ったのかもしれないね。真琴様ももちろん、島崎君が紅藤様の許に弟子入りした事はご存じなんだ。ネズミたちを見つけ出せるか、見つけたネズミらをどうするか。その辺りをチェックしたかったんじゃないかな」

 

 そこまで言った青松丸は、何かを思い出したと言わんばかりに首を揺らした。

 

「そうそう。今日は真琴様がお見えになるらしくってね。今まではあんまり表立って活動なさるお方じゃあなかったけど、状況が状況だから雉鶏精一派の重臣として動くようにって色々と幹部たちの間で話が合ったみたいなんだよ。まぁ僕は、幹部職じゃないから詳しい事までは知らないけどね」

「やっぱり試されていたんですね、僕たち。しかも話の流れからして紅藤様もぐるじゃないですか」

「まぁまぁ島崎先輩。そんなにいきり立たなくても良いじゃないですか」

 

 感情が昂った源吾郎をなだめにかかったのは何と雪羽だった。彼は馴れ馴れしく源吾郎の肩に手を添え、訳知り顔で源吾郎を見つめている。

 

「先輩。僕らのような名門の若手妖怪が、年長の妖怪たちに手を替え品を替え色々とテストされるのは致し方ない事ですよ。名門の許で育ったのだから実力はあるだろう、しかしまだ若いしよそ者みたいなものだから力量を知ってみたい――彼らはおおむねそのような事を考えているんですよ。

 島崎先輩とて例外じゃあないですよ。いやむしろ、多くの妖怪たちがテストしたくなるんじゃあないですかね。何せ玉藻御前の末裔という看板はデカいですからね。それこそ、僕の背負っている雷園寺家が霞んでしまう程に!」

「そういう物なのか……」

 

 源吾郎が呟くと雪羽はさも愉快そうに笑っていた。

 

 

「皆様おはようございます。少し遅れてしまって申し訳ないわ」

 

 紅藤がそう言って研究センターの面々に挨拶をしたのは、始業時間の五分前だった。始業時間前だから遅れるという表現を使わなくても問題はない。しかし彼女としては遅れたと表現するのはある意味辻褄が合っているのだろう。何せ紅藤は研究センターのすぐ傍に住んでいて、普段は始業時間のうんと前からセンターの中にいるのだから。

 紅藤が挨拶をする中、研究センターの面々は当然のように集まっている。その中には第六幹部で一番弟子になる萩尾丸の姿もあった。

 ちなみにネズミたちは小ぶりの籠に収められ、ミーティング用のテーブルとは別の作業机に置かれている。何かあれば源吾郎か雪羽が抱え持ち、運んでくる予定だ。

 

「普通なら連休明けの挨拶で始めたいんですが……まずはお越しいただいた真琴様を紹介いたします」

 

 紅藤の言葉を合図に、傍らに控えていた女性が半歩前に出てきた。紅藤と同じく、見た目は二十代半ば程に見える。但し茶褐色の髪を肩の中ほどまで伸ばし、ゆるくウェーブがかかった状態で遊ばせている。真琴がネズミの妖怪であると聞かされていたために、その風貌もネズミの面影があるように源吾郎には思えた。別に彼女が出っ歯であるとかそう言う意味ではない。落ち着いた色味のワンピースドレスはネズミの目立たない色味の毛皮を、胴回りを結ぶウロコ模様のベルトはネズミの尻尾を想起させた。それだけである。

 

「お久しぶりのヒトと、初めましてのヒトがいるわね。私は真琴っていうの。知ってるヒトは知ってると思うけど、第一幹部の峰白様の許で、情報処理係として働いています」

 

 これからよろしくね。気安い調子で言い放つ様に、源吾郎は一瞬面食らってしまった。しかし考えてみると、彼女も紅藤や峰白と同じくらい長い年月を生きた妖怪だという。案外こうした気さくでライトな態度というのも、ある意味老齢な妖怪らしいのかもしれない。

 年数を経た妖怪がその見た目に関わらず老人臭い発言をする。このステロタイプも実は嘘だったりする。何百年と生きた妖怪は、それこそごく自然にその時代にふさわしい言動を身に着ける事が出来る。勿体ぶって老人めいた物言いをするのは、むしろ生後百年程度かそれ以下の、若い妖怪の方が多いというデータもあるらしい。

 さて真琴の挨拶が終わると、研究センターの面々は自己紹介をする事と相成った。結局のところ、真琴と初対面なのは源吾郎と雪羽だけだった。サカイ先輩は研究センターの中で若手に類するのだが、すきま女という種族である事と年功をそれなりに摘んでいるという事もあり、真琴とは面識があるらしかった。

 

「今までは情報処理係、裏の諜報係として私自身は表立って活動する事は無かったんだけど、紅藤ちゃんや峰白さんの要望もあって、八頭衆の補佐としていつも以上に働く事になったの。少し前までその件に関して軽く打ち合わせしていたんだけど、今年はニューフェイスもいるって事で挨拶に来ました」

 

 八頭衆。その言葉を耳にした源吾郎は特段驚かなかった。紅藤や峰白の事を気安く呼ぶ事の出来る彼女が、その態度や言動からして重要な存在であろう事は察していたからだ。王鳳来にも仕えていた真琴が、それこそ八頭衆に収まっていたとしても源吾郎は驚かないだろう。

 そんな事を思っていると、真琴のつぶらな瞳が源吾郎たちを捉えていた。それから遠方にあるネズミの入った籠にも視線を向けている。

 

「あ、新人君たちもネズミちゃんたちには気付いてくれたんだね。これから私も表立って働く事になるから、挨拶代わりにあらかじめ放しておいたんだ」

 

 真琴はさらりとネズミの事について言及した。紅藤や萩尾丸も、この発言にはさして驚いていない。青松丸の考察通り、やはり紅藤たちもネズミの件は知っていたようだ。

 

「やはりあの子たちは真琴様のネズミだったのですね。今お返しいたします」

 

 源吾郎はそう言って立ち上がると、ネズミが入っていた籠を抱えてテーブルに戻った。ネズミらは新たに入れられた餌や水を貰っていて落ち着いていた。彼ら自身は妖怪かどうかは解らなかったが、落ち着きぶりは凡ネズミとは一線を画している。

 ありがと。真琴は礼を述べつつ籠を受け取ってくれた。

 

「少し驚いたのならごめんね。私もさ、紅藤ちゃんが気合を入れて面倒を見ている子だって聞いていたからどんな子か気になったの。このネズミたちを放って気付くかどうか。気付いたとしてどうするかってところをね」

 

 やっぱり俺たちはテストされていたのか。笑顔のままネズミを眺める真琴を見ながら源吾郎は密かに思った。雪羽をちらと見ると、彼も無言で真琴を見ていた。相変わらず愛想の良さそうな表情を見せているが、渋い思いを抱えているに違いない。

 そんな源吾郎たちの心中に気付いたのか、真琴が笑って言い足した。

 

「あ、でもあなた達の性格について参考にしたいなって思っただけで、今回の事で評価とか業績とか査定に響くって事は無いから安心してね。

 どういう結果になっていても、ああ成程って私が思いたかっただけに過ぎないの。仮にネズミたちに気付かなくても、気付いた上でネズミたちを殺していたとしてもね」

「真琴さん、でしたっけ」

 

 ネズミのテストの事について言い終えた真琴に対して雪羽が声をかける。口調そのものはまだ穏やかなものであるが、源吾郎はそこはかとない剣呑さを感じていた。あらどうしたの。大妖怪らしい鷹揚な鈍感さでもって真琴が問いかける。

 

「さっきのお言葉ですが、それは真琴様の本心ですか」

 

 雪羽の物言いは相変わらず平板だ。しかし身体のあちこちからまたしても小さな放電が起きている。剣呑な気配を感じ取ったのは気のせいではなかった。

 ネズミのテストに関して源吾郎は呆気にとられるのみだった。しかし雪羽は違う。彼はあからさまに怒りを露わにしていた。それはある意味、気短で気位の高い彼に似つかわしい振る舞いなのかもしれない。




 雪羽君激おこの理由に関しましては、前話までにヒントがございます。


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方便は激昂おさめる手段なり

 人型ながらも獣じみた表情で怒りを露わにする雪羽に対し、源吾郎は強い疑問を抱いていた。彼が幾分短絡的で怒りっぽく、尚且つプライドが高い事も知っている。ある意味彼らしい振る舞いであるとも思えるのだが、何に対して怒りを露わにしているのか、源吾郎には解らなかった。

 雪羽の様子が一変したのは、放ったネズミが真琴によるテストであると聞いた直後である。しかし雪羽自身はその前に「若手の貴族妖怪がアレコレと年長者に試されるのは当たり前の事」と笑いながら言い放っていたではないか。他人事だと思えば笑い飛ばせる案件だが、わが身に降りかかると笑い事では済まないと思うタイプなのだろうか?

 それなら単なるワガママ小僧という事で話が付く。しかしそう結論付けるのも短絡的に思えた。それに源吾郎自身、雪羽が単なるワガママな若妖怪ではないと思っていた。無論素行のよろしくない所もあるにはある。だが貴族妖怪としての矜持も持ち合わせていると感じる部分もままあった。

 

「雷園寺……」

 

 源吾郎は呟くほかなかった。雪羽をなだめて落ち着かせようにもなす術が無かった。そもそも雪羽が何に怒りを覚えているのか判然としないし、何より放電を繰り返す雪羽に半ば怯んでいた。妖怪同士の勝負もまた、気合などと言った精神的な部分が左右する所は大きい。怯んでいる源吾郎が雪羽を大人しくさせるのはどだい無理な話なのだ。

 しかも紅藤や真琴を筆頭に、年長者たちはただ様子を窺っているだけだ。彼らが雪羽を恐れているとは考えにくい。むしろ雪羽の主張を聞こうと構えているようにさえ感じた。

 

「真琴様。そのネズミたちはあなたの配下、場合によっては眷属ですよね。確かに妖力らしい妖力は持ち合わせていないようですが……今回のテストで殺されても構わないと言い放ったのは一体どういう事なのですか?」

 

 真琴を見据える雪羽の翠眼は冷え冷えとした光を放っていた。雪羽の怒りは未だに烈しさを保ったままであるが、源吾郎は腑に落ちた思いで雪羽を眺める事が出来た。彼が何に怒りを感じたかを知った事、その怒りがもっともな事であると解ったためだ。

 雪羽は自分が試された事に怒っていたのではない。「あのネズミは別に殺されても構わない」と言い放った事に激していたのだ。()()()()に怒りを覚えるのももっともな事だと源吾郎は思った。妖怪たちには色々な考えがあると言えども、従者の生命を捨て石に出来ると聞いて戸惑う者がいてもおかしくない。ましてや雪羽は身内が死んだり他の身内に迫害されたりした事があるのだから。

 

「雉鶏精一派の構成員ならば、頭目が一族を護る事の大切さは真琴様もご存じかと思います。なのにそこのネズミらの生死は気にしないという言い草は――」

「雷園寺君、だっけ。確かに君の主張にも一理あるわ」

 

 雪羽がまだ言い切らぬうちに真琴が口を開く。一理ある。軽い調子で放たれた肯定の言葉に、雪羽は呆気に取られていたようだった。

 

「頭目は従者を護る必要がある。それは雷園寺君が持っている考えよね。もちろんそんな考えを大切にする事は善い事だと思うわ。

 だけど私たちと君は色々と違うの。君は力の強い雷獣の一族でしょ? そして私たちはネズミの一族なの。中には強い仔も出てくるけれど、ネズミたちはお世辞にも強いとは言えないわ。だけど殖える力は雷獣たちよりも強いの。弱いけれどどんどん殖えていく事ができる……そうなるとね、一匹一匹の安否について気にする余裕なんてないの。もちろん、死なない方が良いのでしょうけれど」

「……」

「……」

 

 真琴の言葉もまた一理あるもの、なのだろう。ネズミ算と呼ばれるネズミの繁殖能力やネズミの弱さを知っている源吾郎だから、真琴の言い分もまぁ理解は出来た――頭で理解するのと、心の底から納得するのは別問題だが。

 真琴の言い分はあまりにも()()()なものだった。もちろん、魚や虫のように子育てをしない生物がいる事を源吾郎は知っている。多くの仔を残すのは死亡率の高さの裏返しである事も何処かで聞いた事がある。しかし人間に近い姿をした真琴がそう言ってのける事が衝撃的だった。

 そこまであれこれと考えながら、やはり自分には人間的な側面が多く残っているのだとも思った。しかしこの主張に激したのは雪羽だ。源吾郎とは異なり、純血の妖怪である雪羽だったのだ。

 して思うと妖怪と人間の隔たりはやはり薄く脆い物なのだろうか……奇妙な方向に源吾郎の思考はうつろい始めていた。

 そんな源吾郎の思考を現実に引き戻したのは、獣の唸り声だった。いや、唸り声と思ったのは雪羽の立てる笑い声だった。

 何を笑っているのだろう……ちらと視線を向け、源吾郎はぞっとした。先程までたぎっていた怒りの色は薄らいでいる。しかしその翠眼には、底冷えするような侮蔑の色が浮かんでいた。

 

「要するにあなた方は僕たちとは違うと仰るのですね。ですが確かにその通りかもしれませんね。あなた方はネズミ。所詮は弱いちく――」

「ああすみません真琴様っ」

 

 侮蔑と嫌悪と悪意の籠った雪羽の言葉は、真琴に対する萩尾丸の呼びかけによって遮られた。雪羽もこれには虚を突かれたという様子で首をかしげている。萩尾丸はさほど焦った様子は見せていなかったが、困ったような笑みを浮かべていた。

 

「実はですね真琴様。雷園寺のやつは寝る前に酒を飲んでしまったんですよ……僕が見ていたんでまぁ大丈夫かなと思ったんですが、やはりちょっと多かったみたいですね。ええ、まだ彼はちょっと酔っているんですよ」

「……?」

 

 萩尾丸の言は誰も遮ろうとしない。それを良い事に彼は言い添えた。

 

「なので先程の言葉は、それこそ酔いどれ小僧の繰り言だと流していただきたいのです」

 

 申し訳ありません。それらしく頭を下げる萩尾丸を前に、源吾郎は首をひねるほかなかった。よく見れば雪羽もだ。

 雪羽が驚き戸惑うのも当然の事だろう。何しろ雪羽は素面なのだから。源吾郎の嗅覚をもってしても、雪羽が酒を飲んだ気配は感じ取れなかった。そもそも萩尾丸とて雪羽が酔ってトラブルを起こした事を知っているから、みすみす飲酒するのを見過ごすとも思えない。

 要するに萩尾丸は嘘を使い場を収めようとしたのだ。嘘というよりも方便であろうか。過去に源吾郎がぱらいそでやらかしたのをスパイとして潜入していたのだと皆に伝えたのと同じ事が行われているだけの話なのだから。

 

「うふふ。別に私は大丈夫よ、萩尾丸君」

 

 大丈夫、という真琴は笑みを浮かべていた。明らかに笑みだとは思うのだが、細めた両目にどのような表情が宿っているのかは解らない。

 

「私らもネズミって事で弱いって思われているから、他の妖怪からああだこうだ言われるのには慣れっこなの。まぁそれに、雷園寺君も若いし酔っていたんならしょうがないし。

 本気で私らの事を心配してくれているんだったら、私や配下たちの栄養源になってくれても良いかなって思ったんだけどね」

 

 真琴の放った最後の言葉が本気だったのか冗談だったのかは定かではない。ただ少なくとも、源吾郎は驚きいくばくかの恐怖を感じた。

 一方の雪羽は無言を貫き、俯いていたのだった。



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貴族妖怪のなやみごと

 ネズミ妖怪の親玉であるという真琴は数十分ほど研究センターに滞在したのち、配下であるというネズミたちと共に去っていった。配下のネズミたちとは源吾郎が捕獲したネズミたちである。彼らは源吾郎や雪羽が適切に捕獲した事もあり、ストレスも無くのんびりと籠の中で過ごしていたのである。

 

 真琴が帰った後も研究センターの面々は未だにテーブルを囲んで集まっていた。紅藤が注視するのは雷園寺雪羽である。

 雪羽は恥じ入るように俯いていた。色々な感情が蠢いているのは、しっかりと握った拳がはっきりと物語っている。

 

「雷園寺君。この研究センターの中では無闇に放電しないように気を付けてね」

 

 紅藤は雪羽の頭や首周りを眺めながらそう言った。彼の放電は既に収まっている。しかし確かに、あの時はかなり放電していた。

 

「もちろん、真琴様のお話で戸惑ったりおかしいと思った事は私にも解るわ。雷園寺君もまだ若いし、思わず頭に血が上っちゃったんだろうなって。

 だけどね、それとは別にこの研究センターには高価な機器が色々と揃っているの。お高くて精密な機械程電撃や雷撃に弱いって事は、雷獣である雷園寺君もご存じでしょう?」

「はい、確かにそうですね」

 

 紅藤にたしなめられる雪羽の声は弱弱しかった。今は顔を上げて紅藤を見ているが、その顔にはあからさまな当惑の色が見え隠れしている。

 それを見て微笑んだのは萩尾丸だった。

 

「君の叔父上の三國君は確かにパソコンとかに電撃を加えてデータを加工したり抹消したりする仕事もやってるよ。だけど、だからと言って雷園寺君は真似しちゃだめだよ。あれは相当な訓練とセンスが必要だからね」

「そんな仕事をやってるんですか、三國様って」

 

 パソコンに電撃を与えてデータを加工する。末席と言えども幹部職である三國がそのような事をしているとは。源吾郎は驚きのあまり声を上げてしまった。今は雪羽にあれこれと話しかけているのだという事は知りつつも、である。

 しかしそうして話題に口を挟んだ源吾郎は咎められなかった。むしろ萩尾丸などはにこやかな笑みを見せて頷いてくれるくらいだ。

 

「そうだよ島崎君。雷獣は雷撃や電撃を放って攻撃するだけだと思われがちだけど、彼らの能力は何もそれだけでもないんだ。ぶっちゃけた話、雷撃電撃なんて雷獣の使う術で最も単純な術の一種に過ぎないくらいさ。僕らが三國君に仕込んだ……いや覚えさせた術はかなり高度な物だけど、電気で動く物に干渉する位の事は、普通の雷獣でも出来ると思ってくれればいい」

 

 萩尾丸はそこまで言うと、意味深な笑みを浮かべた。

 

「まぁ、天狗である僕からつらつらと説明しなくても良いかもしれないね。何せ今ここには雷獣である雷園寺君もいるし。雷獣の力の真価とやらは、島崎君が興味を持てば雷園寺君が直々に教えてくれるからさ」

「…………」

 

 源吾郎は黙ったまま萩尾丸や雪羽を眺めるだけだった。雪羽が教えてくれる。その言葉に若干の不穏さを感じてしまったのだ。ちなみに雪羽は顔を上げ、源吾郎と目が合うと微笑んでいる。先程までのしおらしい態度は嘘のようだ。

 笑っている雪羽を見やり、萩尾丸は言い添えた。

 

「そうそう。言い忘れてたけど雷園寺君。今回の事は始末書に書いてもらおうか」

 

 やはり始末書案件だったのか……源吾郎が妙に納得する傍ら、雪羽は一変して渋い表情になった。萩尾丸はというと、表情を変える雪羽の事などまるで気にせず軽やかに言葉を続ける。

 

「始末書の方は、終業時間の一時間、二時間ほど前から書いてもらおうか。雷園寺君には色々と僕の方からもやってもらいたい事もあるしね。それに雷園寺君は元々は三國君の許で書類の承認とか妖事の仕事をやってくれてただろう? 書類慣れしてるからそんなに時間も取らなくて大丈夫だと思うんだけど……大丈夫、かな?」

 

 決定事項であるのに選択肢があるように見せかけ、その上で圧をかける。成程萩尾丸らしい問いかけ方である。三國の許で書類の承認をやっていたから慣れているだろう。この言もある種の皮肉であると思うのは勘繰り過ぎであろうか。

 外野である源吾郎がああだこうだ考えているうちに雪羽は頷いた。承ります、などと気取った文言を口にしながら。

 

「うーん。若いから、だと思うけど。島崎君も雷園寺君も、心のすきま、ちょっと大きいかも」

 

 心配げにそう言ったのはサカイ先輩だった。彼女はすきま女であり、色々な隙間を好む性質を持つ。だからこそ他の妖怪の持つ心の隙間に敏感だったし、また心の隙間が厄介事を呼び寄せる事を知っているらしい。

 

 

 昼休憩はたっぷり四十分あった。食べ盛りな源吾郎が昼食に勤しんでも、半分以上は自由時間が余っている。その自由時間で源吾郎は敷地内をブラブラしたり自販機で飲み物を買ったり同じく休憩している工員と世間話をしてみたりと、まぁ文字通り自由に過ごしていた。時々部屋に戻ってホップの様子を見る事さえある。

 そうやって自由に過ごせるこの休憩時間だったが、この日の源吾郎がまず向かったのは同じく休憩している雪羽の許だった。繰り返すが源吾郎は雪羽に親しみはさほど抱いていない。喧嘩や乱闘さえしなければ良いと思っている程度だ。

 だというのに雪羽の許に向かったのは何故なのか。自分でもよく解らなかった。

 雪羽もまた、既に昼食を終えている所だった。雷獣は妖狐や狸よりもやや草食の傾向が強い雑食性だという。しかし雪羽の昼食が何か――萩尾丸が作ったのか雪羽自身が作ったのか或いは出来合いの物を購入したのか――は定かではない。

 彼の食事が何であったかはさておき、雪羽は日中でありながらもたそがれていた。机に向かうように座り込み、ギリシャ神話か金瓶梅かの文庫本を広げているのだが明らかに上の空である。

 

「……退屈そうだな、雷園寺さん」

 

 丁寧とも砕けているともとれる物言いで源吾郎が声をかけると、雪羽は小さく声を上げた。驚いてはいないが、声をかけられて源吾郎の存在に気付いたと言わんばかりの表情だ。

 驚いてぼんやりしていたのはほんの一瞬の事だった。声の主が源吾郎だと知ると貴族的な笑みを浮かべたのだから。

 

「退屈というよりも考え事をしていただけだよ。始末書、書かないといけなくなったし」

「それは気の毒なこった」

 

 気の毒。源吾郎の言葉は社交辞令的だったが、わずかにそう思っている節もあった。雪羽が身内の話には敏感である事は、源吾郎も多少は知っているからだ。家柄にこだわる雪羽はもしかすると、自分以上に実母を敬愛していたのかもしれない。むしろ実母への郷愁が家柄への執着になっているとでもいうべきか。

 真琴は恐らくは自分の一族のスタンスを語ったに過ぎないが、まさか雪羽の家庭事情について知らない訳ではあるまい。仮にも情報処理係なのだから。いやもしかすると、解った上であの言葉を放ったのではないか。テスト放たれたネズミを捕獲できたか否かだけではなく、真琴のあの言動にどう応じるかまでだったのではないか。そのような考えが脳裏をかすめる。

 全くもって大妖怪様は厄介で恐ろしいお歴々ばかりだ……源吾郎はそう思って軽く身震いしてしまった。

 

「まあしかし、始末書を書くのは夕方だろう。気晴らしにちょっと外をぶらついて見ないか? 雷園寺さんと同い年の工員もいるし、それこそ若い娘とかもいるんじゃないかな」

 

 源吾郎がそのような提案をしたのは、ほんの親切心からだった。取り巻きの若手妖怪とつるんでいた所を知っていたから、若い妖怪と関わりたいと思っている事は知っていたためである。研究センターに併設する工場にも、若妖怪は大勢働いている。多少ヤンチャな妖怪が多い気もするが、むしろ雪羽とは気が合うかもしれない。源吾郎は無邪気にそう思ったのだ。

 しかし雪羽の返事は色よいものではなかった。彼はフードで顔を覆い、小さく首を振るだけだった。

 

「工場の……他に働いている妖怪たちとは今は会いたくないんだ。萩尾丸さんや、紅藤様にもその事は話してるけどな」

 

 それから雪羽は、この白衣を着こんでいるのも、他の妖怪たちから自分が雷園寺雪羽であると気付かれないようにするためだと丁寧に説明してくれた。

 

「島崎君はさ、俺が雷園寺家の当主候補だって知ってるだろ? それが不祥事を起こしてこんな所で働いていると庶民たちに知られたら、何と言われるか解らないじゃないか。俺はそれが怖いんだ。だから、表向きは誰か解らんようにしているんだ。萩尾丸さんの許で働いている妖怪たちだって、ほとんどが俺が誰か知らないしな」

 

 貴族の血統なのだからもっと堂々としていてもばちは当たらないだろうに……源吾郎はそう思ったが無駄口は叩かなかった。不祥事を起こし、それを糾弾されるのは恥ずかしい。その気持ちは源吾郎も理解できた。それに雪羽は思った以上に幼い。多少情緒不安定なのも致し方なかろう。

 源吾郎は自販機に向かおうと思っていたが、雪羽の分も何か買ってやろうか。親切心なのか何なのかはさておき、そんな考えがひらめいたのだった。



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鍛錬で雷獣強みを見せつける

 昼休みが終わると源吾郎は早速鍛錬に励む事になった。他の妖怪と力較べや術較べをするわけではない。紅藤や青松丸が用意した的を狐火などの妖術で撃ち抜くという比較的簡単なものである。

 余談だが的の形は蛇の目模様が記された丸くてシンプルなものである。人型だったり妖狐の形だったりすると、源吾郎も躊躇ってしまい命中率が著しく低下してしまうのだ。

 

「ふう……はぁ……」

 

 白衣姿の紅藤が静かに観測を続ける地下室にて、源吾郎は息を弾ませていた。地下室そのものはむしろ肌寒いほどに冷えているはずなのだが、源吾郎自身は顔を火照らせていた。額や頬には汗の玉が幾つも浮かんでいる。

 

「少し気張りすぎかもしれないわね、島崎君」

「そう、ですか……」

 

 紅藤の講評を聞きながら、源吾郎は首に巻いたタオルで汗をぬぐった。紅藤は黙ってそれを眺めたのち、その面にほのかな笑みを浮かべた。

 

「だけど元気そうで何よりね。もしかしたら、連休明けだからまだお疲れ気味かなって思ってたから」

「連休中はじっくり休みましたからね。なので僕は元気です」

「島崎君も若いものね……」

 

 元気です、と言い切る源吾郎に対して紅藤は笑みを深めた。人間は若者ほど体力があって元気だという事になるが、妖怪の場合はどうなのだろうか。妖怪ももちろん年老いる事はあるが、それ以上に妖力の恩恵がある。老いも若きも元気いっぱいなのではないか。そんな取り留めも無い考えが源吾郎の脳裏をよぎった。

 その考えを一旦振り払い、源吾郎は的を指差した。妖術を使っている的は源吾郎が撃ち落さない限り動き続けている。

 

「ですが、今回の的当ては僕にはちょっと難しいですね……何分動きが素早いもので」

 

 未だに動き続ける的を見ながら源吾郎は目を細めた。妖力を込めれば追尾式の狐火を撃ち出す事も出来るのだが、敢えてその術は使っていない。めちゃくちゃ早いわけではないから普通の狐火で撃ち落とせるのではないか。そう思っていたがそれが中々難しかった。真っすぐに動くのではなく、軌道が読めないから難しいのかもしれない。

 

「島崎君には難しい速度だったのね」

 

 紅藤は手許のタブレットを見やり、それから少し首を傾げた。

 

「他の若手妖怪なら特に問題なく撃ち落せるって萩尾丸は言っていたんだけど……まぁ島崎君は鍛錬も始めたばっかりだから……」

「……ま、まぁそんな感じですかね。要因は他にも色々ありますが」

 

 他の若手妖怪。珠彦や文明などと言った若狐たちの姿を思い浮かべ、源吾郎は密かにため息をついた。「小雀」と呼ばれる組織の若手妖怪たちよりも、妖力的には源吾郎の方が圧倒的に強い。しかし経験不足云々以前に、人間の血を引いているという部分が源吾郎の弱みとして作用していた。

 妖力が多く妖怪的に振舞う源吾郎であるが、身体能力は鈍重な人間よりもやや優れている程度に過ぎない。動体視力もそれを起点とした反応も純血の妖怪よりも格段に劣っていた。それは本気の訓練ではなく、オフの際にじゃれ合って遊ぶ時ですら感じる事がある事柄だった。

 無軌道に動く的を撃ち落せるか否か。その違いはそう言う部分に現れていたのだ。

 源吾郎は妖怪になりたいと思っているが、人間の血を引いているという事から完全に逃れられはしないのだ。

 さてああだこうだと思案を巡らせていた源吾郎であるが、後方に気配を感じて振り返った。案の定というべきか、ローブ状の白装束をまとった妖怪が一人、源吾郎からやや離れた所で佇立していた。鍛錬用の地下室は殺風景であり、そこにぽつねんと立つ白装束の妖怪の姿は妙に現実離れしたものにも見える。

 源吾郎はばつの悪そうな表情を浮かべこそすれ驚いたり怯えたりはしなかった。良くて不審者、悪くて亡霊に見えるその妖怪が何者であるか、源吾郎ははっきりと把握していたからだ。

 

「誰かと思ったら雷園寺さんじゃないか。何だよじろじろとこっちを見てくるなんてさ。そんななりだからお化けか何かかと思ったぜ」

 

 源吾郎が軽口を叩くと、雪羽は頭を覆うフードを取った。顔をあらわにした彼は笑いながら源吾郎に少し近付いた。

 

「島崎先輩が鍛錬をなさるって聞いて見に来たんですよ。あ、もちろん萩尾丸さんからは許可は貰ってますよ。むしろ勉強になるから是非とも見学するようにって言われたんです」

 

 そう言う事か……萩尾丸の名を出され、源吾郎は納得するほかなかった。雪羽は今萩尾丸の管轄下で動いているからだ。

 その雪羽は、源吾郎を見ながらニヤリと笑った。

 

「それにしても島崎先輩。先輩ってお化けが怖いんですか。可愛い所があるじゃないっすか」

「おい、俺に向かって可愛いなんて言うな。勘弁してくれよ」

「まぁまぁ熱くならなくて良いじゃないですか。ちなみに僕はお化けなんて怖くないですけどね。幽霊だろうと何だろうと、逢えるものなら逢ってみたいもんですよ」

 

 こいつ俺の事を弟扱いしようとしているな……話題を逸らして笑い続ける雪羽を見ながら源吾郎は冷静に思った。

 実のところ、源吾郎は誰かに「可愛い」と言われる事()()()()は嫌ではない。それ以前に末っ子であり幼さの抜けぬ所があるから、好む好まざるをお構いなしに可愛いだの子供っぽいだのと言われがちなのだ。実の兄姉ではない相手から弟扱いされる事もままある。正直な話、友達だと思っている珠彦や文明も、源吾郎を弟と見做している節が見え隠れしていた。

 大人相手にそのように見做される事は源吾郎も許容できる。しかし、まるきりの()()がそのような態度を取る事には違和感があった。

 実年齢はさておき、雪羽は自分よりも格段に幼いと源吾郎は思っている。だというのに兄貴分のように振舞おうとしているから妙な気分になったのだ。お前はむしろ俺の弟ポジだろう、と。

 あれこれと思う所はあったが、源吾郎はその事はおくびには出さなかった。幼いわりに気位の高い雪羽であるから、源吾郎が思いのたけをぶつければそれこそ喧嘩になるだろうと踏んでいたのだ。

 それに自分は玉藻御前の末裔であり、最強を目指すために邁進している男である。そんな自分が、雪羽みたいな()()相手に喧嘩を吹っ掛けるのも幼稚だと考えていたのだ。自分は雪羽と違って()()()なのだ、と。

 

「熱いと言えば、そんな白装束を着込んでて暑くないのかい?」

 

 源吾郎はちらと雪羽の装束を見やり、質問を投げかける。おのれの身元を隠すためにと新調したらしい雪羽の白装束は、袖も裾も長く、素肌があらわになる部分が一切ない。修道士の修道服に似ていると言えば良いだろうか。

 

「平気平気。実はこれ、特別素材だからむしろ涼しい位なんだ」

 

 雪羽は得意げに微笑みながら、装束の裾をつまんで内側を見せつけた。まさかこいつ白装束の下は全裸ではないか……ドスケベ雷獣を前に一瞬そう思って気構えた源吾郎だったがそんな事は無かった。雪羽はきちんと、装束の下にも服を着こんでいた。

 白装束の裏側は淡い水色の生地でできていた。よく見るとやや濃い水色の部分がヒョウ柄を示しているようにも見える。

 ヒョウ柄、青系統、そして熱に強い。源吾郎はそこまで確認し、驚きのために瞠目した。雪羽が着込んでいる衣装の素材の検討が付いたためだ。

 

「凄いなぁ、風生獣(ふうせいじゅう)の毛皮を使ってるなんて。裏地が風生獣の毛皮だったらさ、熱くもなんともないよなぁ」

 

 嘆息交じりに源吾郎は言葉を紡いだ。風生獣とは大陸や日本の一部に住まう妖怪である。ヒョウ柄模様の青い毛皮と狸やハクビシンに似た体躯の持ち主であるが、彼らの最大の特徴は丈夫さと再生能力の高さである。風生獣は焔に焼かれず刃物によって傷つく事も無い。鈍器で頭を潰されれば一時的に死ぬが、口から新鮮な風を取り込めばまた復活するという。その脳髄は食したものに長寿をもたらし、はぎ取った毛皮を加工すれば焔知らず刃物知らずの衣服になるという。

 脳髄はおろか、風生獣の毛皮もまた、妖怪たちの中でも入手しがたい品の一つであった。風生獣を仕留めても加工が難しく、そもそも風生獣自体が用心深い性質を持つからだ。

 源吾郎が驚いたのはその事を知っていたためである。

 ところが雪羽は、一人で嘆息する源吾郎を前にムッとした様子を見せた。

 

「島崎先輩! 風生獣の()()だってのは間違いですよ。毛皮じゃなくて刈り込んだ()を使って裏地にしてくださったんですから」

 

 雪羽の叔父である三國の配下の一人に風生獣の青年がいるのだという。雪羽が狂暴な妖狐と相対したとしても大丈夫なようにと、わざわざ自身の毛を刈り込み、素材として提供してくれたのだそうだ。

 

「そうか。それは俺の思い違いだったよ。ごめんな」

 

 雪羽の言葉を聞いた源吾郎は素直に謝罪した。三國が風生獣の毛皮を手に入れたか自ら仕留めたのだろうかと無邪気に思っていたのだが、仲間として風生獣を従えているというのも中々興味深い話である。

 また、配下と言えどもわざわざ風生獣の毛を使う所にも、三國が雪羽をどのように思っているのかが伝わってくるようでもあった。風生獣の頑健さは毛にも宿っている。毛皮ほどの効力はないにしろ、ある程度の熱や凶器から持ち主を護る事は事実なのだから。

 

「紅藤様。僕も的当てをやってみたいんですが、良いでしょうか?」

 

 さて源吾郎が三國や雪羽の事について思いを馳せていると、当の雪羽は紅藤に声をかけていた。無邪気な様子でもって、彼は源吾郎がやっている鍛錬を自分も行いたいと言ってのけたのだ。

 紅藤の視線は一瞬源吾郎に注がれ、それから雪羽に戻った。彼女は相変わらず笑みをたたえたまま、ゆっくりと頷いた。

 

「もちろん構わないわ。島崎君もいる所ですし、少しやってみましょうか」

 

 雪羽に向かってそう言うと、紅藤は今再び源吾郎を見やり、声をかけた。

 

「島崎君。雷園寺君に代わってくれるかしら。ちょっと休憩になるけれど、雷園寺君が撃つのを見るのも勉強になると思うわ」

 

 はい……源吾郎は紅藤を見て頷き、後ずさって見学に回る事にした。

 

 

 白装束姿の雪羽は、細長い三尾を扇のように広げていた。斜め後ろからそれを観察している源吾郎は、雪羽が放電する所もしっかり観察している。真琴を前にした時とは異なり、身体全体ではなく放電が繰り返されているのは右手の周辺のみだった。

 放電が最高潮になった時、雪羽は腕を振るった。野球選手がボールを振りかぶる動きによく似ていた。乾いた音が響き、移動していた的の動きが一瞬鈍る。数瞬の後には的は動き出していた。しかしその的の中央を示す黒点には、小さな風穴が開いていた。雪羽の動き、雷撃を放った瞬間は目視で捉えられなかった。しかし雷撃が標的をたがわず撃ち抜いた事は紛れもない事実だ。しかも雪羽の様子からして、渾身の一撃では無さそうだ。むしろ片手間やウォーミングアップだと言わんばかりだ。

 

「僕の雷撃はこれだけじゃあないですよ……あ、紅藤様。もう一度お願いします」

 

 わざわざ思わせぶりな笑みを源吾郎に見せた雪羽は、今度は細長い布で目許を覆った。目隠しした状態で雷撃を放ったのである。こちらも当然のように的の中央を雷撃が射抜いていた。

――威力どころか精密さも段違いじゃないか! しかも、見えない状態でもその精密さを損ねないなんて……

 

 続けざまに何度も雷撃を放つ雪羽を見ながら、源吾郎は彼の能力の高さに恐れおののくほかなかった。態度や素行面で色々と問題があるように見える雪羽であるが、才能面では一目を置かざるを得ない、とも思っていたのだ。




 ファンタジーで定番の的当てって威力の強さとかが重視されがちですよね。精密さとかそっち方面を評価される話があれば差が付くと猫蔵は思うのです。


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条件ありきの戦闘訓練

 ライバル通しのぶつかり合いは避けて通れない道なのです。


「島崎君に雷園寺君。次の戦闘訓練は二人の勝負と行こうじゃないか」

 

 夜。雪羽の始末書を受け取った萩尾丸は、源吾郎と雪羽を集めてそう言った。二人の若き貴族妖怪が正面からぶつかり合う。それを命じた萩尾丸の口調はにこやかで、いっそ軽ささえあった。

 

「勝負ですね。やったぁ」

「……僕も入社してからずっと鍛錬してきました。できる所まで頑張ります」

 

 戦闘訓練という言葉に雪羽は無邪気に喜んでいる。血の気の多い性質だからなのかはたまたおのれの能力に自信があるからなのか。

 一方の源吾郎はというと、控えめとも殊勝とも取れる物言いをしただけに留まった。雪羽と戦闘訓練を行う。内心ではその事に戸惑いを覚えてもいた。雪羽の能力の高さに驚き、戸惑ってもいたのだ。こいつはタイマン勝負しても負けるんじゃないか、と。

 まぁそもそも雪羽が相当強いのは生誕祭の時から知っていたし、及び腰になっている事を悟られるのも恥ずかしい。だからこうして、落ち着いた様子を見せておいたのだ。

 そんな源吾郎たちの心中を気にしているのかいないのか、萩尾丸は笑みを浮かべたまま言い添える。

 

「それじゃ、そう言う事で話を付けておくよ。今回はちと準備が必要だからさ」

「準備って何ですか?」

 

 含みある萩尾丸の言葉に不穏な物を感じ取った源吾郎は即座に質問を投げかける。今までの戦闘訓練は、萩尾丸が部下を連れてきたり来させたりして用意していた。しかし雪羽は今萩尾丸の管轄で働いている。わざわざ準備に気を使う必要はないのではなかろうか。

 

「準備って、そりゃあ観客の準備さ」

 

 観客。萩尾丸のその言葉に、源吾郎の心臓が強くうねった。とっさに胸に手を添えつつも、萩尾丸の言葉を待つ。

 

「最初に野柴君と訓練をやった時みたいにね、小雀のメンバーに見学してもらおうと思ってるんだ。あの子らも君らと同じ若妖怪だからさ、若くて尚且つ自分よりもうんと強い妖怪同士が闘う所を見るのは、彼らにも勉強になるんだよ。ただまあ、あの子らも有給とか用事とか色々あるから、日程の調整もしないといけないし」

 

 それにね。源吾郎たちの反応の暇を与えずに萩尾丸は言い足した。

 

「今回の戦闘訓練には第八幹部の三國君か、無理なら三國君の配下も来てもらおうと思ってるんだ」

「ほんとう!」

 

 第八幹部の三國。その言葉に反応したのは雪羽だった。プレゼントをもらった子供のように目を輝かせ、無邪気に喜んでいるではないか。それを見守る萩尾丸の表情は、まさしく年長者のそれだった。

 

「三國君はずっと雷園寺君の事を心配しているからね。僕の管轄下では初めての戦闘訓練だし、声を掛けたら来てくれるんじゃあないかな……まぁ、三國君じゃなくて三國君の部下が来たとしてもがっかりしないようにね」

「そこの所は大丈夫ですよ、萩尾丸さん」

 

 期待に添えず三國が来ないかもしれない。その宣言に対して雪羽は堂々とした態度で応じている。これには源吾郎も少し驚いた。雪羽が叔父にして保護者である三國の事を慕っている事は知っている。だから彼が来ないという所で若干ごねるのではないかと思っていたのだ。源吾郎以上に演じるのが得意な雪羽だから、本心を隠しているだけなのかもしれないけれど。

 そう思っていると、真剣な表情で雪羽は言い添えた。

 

「今は叔父さんも、月姉の……叔母の事で色々と気にしている所だと思いますし」

「雷園寺、月華さんの事で何かあったのか?」

 

 生誕祭で三國たちと出会った時の事を思い出しながら源吾郎は思わず問いかけた。雪羽の言う月姉というのは月華の事だろう。三國の仕事を支える存在であり、尚且つ妻である事も源吾郎は知っている。

 その月華の事を三國は心配しているという事だが、一体何があったのか。他人事ながらも源吾郎は気になっていた。

 

「おめでたなんだ。来年には子供が生まれるって」

「そっかぁ……」

 

 軽い調子で応じつつ、源吾郎は密かに驚いていた。今懐妊しているという事を雪羽が知っているという事は、もしかしたら既に生誕祭の時にはできていたのかもしれない。月華も三國の妻としてあの時色々と力を振るっていたが、健康面では大丈夫なのだろうか……他人事と解りつつも、源吾郎は少し心配でもあった。

 

「従弟なら他にも沢山いるけど、叔父貴の子供だったら仲良くなれると思うんだ。叔父貴の子供だし、本家とのややこしい話とも無関係だしさ」

 

 まだ見ぬいとこを思い浮かべる雪羽の顔は明るいものだった。源吾郎はその姿を静かに眺めるだけだった。いとこという存在は、源吾郎にしてみれば近しい存在ではなかった。母方の親族は叔父たちや叔母ばかりでいとこはいないし、父方の親族とは疎遠だからだ。仮に父方の親族と交流があったとしても、父方のいとこらと源吾郎の年齢差は大きく、世間で言う所の兄弟みたいなやり取りは不可能であろう。

 何しろいとこらは長兄の宗一郎よりも年長であるどころか、むしろ父である幸四郎の弟妹と言っても通用するほどの年齢なのだから。

 ともあれ、家の事情や親族関係は人それぞれなのだ。それは妖怪であっても変わりはない。

 

 

 さて物々しい様子で宣言された雪羽との戦闘訓練であったが、日程は案外あっさりと決まった。源吾郎も仕事に励んだり鍛錬を頑張ったり少し筋トレをしたりモテ道について考えたりホップと戯れたりして過ごしたのだが……とうとう雌雄を決する日が来てしまった。

 

「やぁ島崎君。気合が入っているみたいだね」

 

 訓練用の運動着に身を包んだ源吾郎を出迎えたのは萩尾丸だった。その後方では小雀の若妖怪たちがチマチマと動いているのが見える。パイプ椅子を運んでセッティングしているようだった。

 

「そりゃあ相手が相手ですからね……」

 

 言葉尻を濁し、源吾郎は遠方に視線を送る。椅子運びを手伝った方が良さそうだと思っていたのだ。

 

「椅子運びの方は気にしなくて大丈夫だよ」

 

 源吾郎の心中を察したのか、先回りして萩尾丸が答える。

 

「あれもまぁあの子らの仕事だからね。君はこれから闘うだろう。少しでも体力を温存しておいた方が良いんじゃないかな。もし運びたいのなら、戦闘後にやってくれても構わないよ」

 

 萩尾丸の言葉に半ば戸惑いつつも、源吾郎はそうする事にした。よく見れば、修道服めいた白衣に身を包んだ雪羽の姿も見当たらないし。ついでに言えば彼の叔父である三國の姿もだ。

 

「萩尾丸先輩。雷園寺は何処にいるんです?」

「彼なら彼で準備をしているよ」

 

 そう言う萩尾丸の顔にはおかしなものを見たと言わんばかりの笑みと、若干の呆れが浮かんでいた。

 

「雷園寺君はあの変装した姿を僕の部下たちに見られているからね。そのまま登場したら面が割れると思って用心しているんだ。

 別にだね、叔父上が来なくて拗ねてるとか、そう言う事じゃあないから安心したまえ。うん、三國君も来れない代わりに自分の部下をこっちによこしているし」

 

 萩尾丸は今回見学に来ている三國の部下について説明してくれた。春嵐《しゅんらん》と呼ばれるその妖怪は、部下というよりもむしろ三國の右腕とか相棒と呼ぶに相応しい立場の男であるらしい。取り立てて強い妖怪では無いそうだが、用心深さと賢さを持ち合わせており、三國からの信頼も篤いらしい。

 だが源吾郎の関心を引いたのは、その春嵐こそが風生獣であるという話だ。雪羽が日頃身に着けている白衣の裏側に使われた風生獣の毛というのは春嵐の物であろう。口には出さなかったが源吾郎は密かに思った。

 

 

 雪羽が姿を現したのは、戦闘訓練開始五分前の事だった。源吾郎はそれより前に会場でスタンバイしていた。その間に親しい珠彦たちと会話したり三國の腹心であるという春嵐と挨拶を済ませたりする事が出来たのである。

 まだもうちょっと時間があるな。源吾郎がそう思っていた丁度その時に、雷園寺雪羽は華麗に登場した訳だった。

 

「おおーぅ、みんな、雷園寺家の次期当主、雷園寺雪羽様のお出ましだぜ!」

 

 羞恥心で悶絶必至の文言を臆面もなく吐き出しながら、雪羽は浮き上がるように会場に現れたのである。恐らくは術で姿を隠していただけなのだろう。

 それよりも、源吾郎は彼の姿を見て絶句した。

 雪羽は人型に化身するのをやめて、四足歩行する獣の姿を取っていた。所々金色に輝く銀色の毛皮に細長い三尾や猫めいた面立ちは彼本来の特徴を具えていたが、本来の姿ではないと源吾郎は看破していた。まず大きかった。秋田犬などの大型犬よりも二回りほど大きな獣の姿を取っているからだ。源吾郎は生誕祭の後の幹部会議で、変化の解けた雪羽の姿を見た事がある。猫ほどの大きさのあの姿こそが彼の本性なのだろう。

――多少は変化していると言えど、相手も本気のようだな

 雪羽の姿を観察しながら源吾郎はそう思った。変化術は覚えれば簡単に行使できる術の一つではある。しかし行使し続けている間妖力を一定量消耗する事もまた事実だった。妖怪が十全に妖力をぶつけられるのは、本性に戻った時なのだ。

 今の雪羽は実体よりも大きな姿に変化しているが、人型を取っている時よりも消耗ははるかに少ないだろう。日頃変化に充てている妖力を戦闘に使うつもりのようだ。

 堂々たる姿の雪羽の登場に、若手妖怪たちもどよめく。

 

「雷園寺、生きとったんかワレェ!」

「おいおい、調子こいてそんなん言ってたら雷が落ちちまうぜ」

「あ、でも確かに雷園寺さんってどうなってたか気になってたのよ。不祥事を起こしてから行方不明になってたし」

「うん。何か変な所に売り飛ばされたって噂もあったしさ」

「言うて雷園寺さんって第八幹部の養子だろ? 不祥事の果てに売り飛ばされたってのは流石に盛り過ぎだと思うなぁ。俺はどっかの地下街で強制労働させられていると思ってたんだが」

 

 若手妖怪たちが思い思いに意見を述べるのはもはや恒例行事のようだ。話題の標的ではない源吾郎はもちろんの事、標的になっているはずの雪羽も涼しい顔だ。むしろ渋い表情で彼らの言に耳を傾けているのは風生獣だった。ああだこうだ言いはしないが、首筋に血管が浮かんでいる。まぁ色々と堪えているようだった。

 

「はははっ、どうやら俺の事を気にしてくれていたみたいだな。しかし心配ご無用さ。今はちょっと色々あって……修行中だからな! 何処で修行しているかはお前らには教えないけど!」

 

 雪羽が言い放つと、やっと若妖怪たちのざわめきも収まった。売り飛ばされただの強制労働されているだのとあれこれと噂をしてみたものの、真相が判って急に面白くなくなったのかもしれない。修行というのも何か地味だし。

 

「――何はともあれ、元気そうで安心しましたよ、雷園寺殿」

 

 ここでようやく風生獣の春嵐が口を開いた。こちらは完全に人型に化身しており、異形丸出しの姿ではない。水色の作業着姿の上にヘルメットを被った姿は観衆たちとは明らかに異なっていた。細面の青年であり、萩尾丸の情報も相まって神経質で理屈っぽい雰囲気を醸し出しているように見えた。

 

「しかし雷園寺殿。私が見る限りあなたは防具を身に着けていませんな。私と月華様が用意した衣服も、雉仙女様がおつくりになられた護符すらも」

 

 他の物も用意してあるんだ。そう言いつつ彼が取り出したのは水色の薄い布である。バンダナにも見えるが、これもまた風生獣の――彼自身の毛が使われた一品だろう。

 

「安心して下さい春嵐さん。そこの狐相手にこの僕が後れを取る事なんてありませんよ」

「しかし相手は単なる仔狐じゃあないんだ。もし、万が一の事があれば……」

 

 雪羽に物申す春嵐の表情は真剣そのものだった。本心から相手を心配している者の目である事は源吾郎にも十分に解る。そこに彼なりの情がある事も。

 

「まぁまぁ春嵐殿。三國君の甥っ子が心配なのは解るけれど、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。万が一の事があっても、こっちにはドクターがいますのでまぁ大丈夫でしょう……死ななければね」

「最後の一文を付け加えるあたりが萩尾丸様らしいですね……ですが、そう仰るのならばその言葉を信じましょうか」

 

 春嵐は物騒なワードについてツッコミを入れつつも口を閉ざした。

 

「私たち妖怪の生き死にはその直前まで判らない事が多いですが、私どもも安全性については十分配慮しておりますわ」

 

 萩尾丸の説明ではちと難ありだと思ったのだろう。紅藤がすかさずフォローを入れてくれる。とはいえやはり生き死になどと言っているので物騒な気配はぬぐえない。

 それでも当の紅藤はさして気にせず言葉を続ける。

 

「雷園寺君も折角訓練で力試しをしてくれるのに、そこで事故に遭ってしまったら保護者である三國さんやあなた方に申し訳が立ちませんし……もちろん、島崎君の安全についても配慮しております」

 

 そうそう。紅藤の言葉が終わったところで、萩尾丸は今再び口を開いた。

 

「今回の戦闘訓練の勝敗の決め方を言っておこうか。どちらかが戦闘不能になった時に勝敗が決まるのはもちろんの事だけど、これ以上闘っても勝ち目がないと一方が判断した時も、その時点で勝敗が決まると考えてくれれば良いかな。或いは、僕らが判断して続ければ危険があると解った時もこちらから打ち切りもあるからね」

 

 萩尾丸は一呼吸置くと、意味深な笑みを浮かべて源吾郎と雪羽を交互に見た。

 

「場合によっては、闘わずとも『自分では到底かないそうにない』と思ったら遠慮なく言ってくれても良いよ。その場合は不戦勝・不戦敗になるだけだからね」

「…………」

「…………?」

 

 源吾郎は萩尾丸の言葉に首をひねった。紅藤や萩尾丸が戦闘訓練や術較べにて危険が無いように配慮しているのは既に知っている。しかし、戦闘前に戦闘を放棄するという話が出てきたのは今回が初めてだった。

 それが源吾郎には不思議でならなかったのだ。




 変装して自分の正体がバレないようにしている雪羽君。
 実は結構気にしいなのかなと思われますね。


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目指すは兵卒にあらず ※戦闘描写あり

 戦闘描写と……一部お下品な表現がございますのでご注意ください。


「……不戦敗が使えるって、一体どういう事でしょうか?」

 

 源吾郎は半ば声を張り上げ、萩尾丸に問いかけていた。闘わずして勝敗が決まる。それらを不戦勝・不戦敗と呼ぶ事は漫画で知っていた。

 しかしその事柄がおのれの戦闘訓練に絡む事が不思議でならなかったのだ。

 萩尾丸はちらと源吾郎を見た。物憂げな眼差しも白目の蒼さも気にせずに源吾郎は言葉を続ける。

 

「勝てそうになかったら引き下がるだなんて、今まで仰らなかったですよね? そんな事を急に仰るなんて……」

「確かに、前に君は『相手を殺しても構わないから全力で攻撃しろ』と僕たちに言われていたね」

 

 萩尾丸のゆったりとした言葉に源吾郎は身を震わせる。殺しても、という物騒な文言に怯んでしまったのだ。

 

「あんな事を言ったのに、今は全く真逆の事を言っているじゃないか……大方そんな事を思っているんでしょ? 矛盾した事をと戸惑っているかもしれないね。だけど矛盾なんて何もない。変わったのは僕らの教育方針ではなくて君の意識の方なのだから」

 

 俺の意識が変わっただと……源吾郎は言葉もなく萩尾丸を見据えていた。源吾郎の探るような視線を受けつつも、萩尾丸は悠然と構えている。

 

「全力で攻撃しろ、それが出来なければ故郷に戻れと言ったのは、確か初陣の時だったよね。あの時は君に対してああいうのが適切だと思ったんだ。あの時必要だったのは、とにもかくにも妖力を操る事に慣れる事と、闘いがどのような物を知る事だったからね。才能や妖力に恵まれていても、闘う術を知らず闘う気概が無ければ戦士としての成長は望めないからね」

 

 あの言葉は発破をかけるための物だったのか。源吾郎が頷いている間に萩尾丸は言葉を続ける。

 

「戦闘訓練が始まってもう四ヶ月近く経つけれど、その間に君は使える術が増えただけではないんだ。もちろん使える術が増えたというのも重要だけど、それ以上に君には用意された場所で闘いに励む心構えもできた。何より戦闘訓練から離れたところであっても、適切に術を使う判断力も養われつつある。

――その最たるが、あの生誕祭の出来事だったんじゃないかな?」

 

 生誕祭の出来事。唐突に出てきたその言葉に源吾郎はすぐに反応できなかった。グラスタワー崩落の事を言っているのは解るが、まさかここでその話題に言及されるとは思っていなかった。ちらと様子を窺うと、雪羽もさりげなく視線を逸らしている。あの件は彼も彼で思う所があるらしい。

 ところで。萩尾丸はそんな源吾郎たちを見ながら表情を改めた。

 

「改めて聞くけれど、君らは他の妖怪に使われる兵卒ではなく、組織の長、一国一城の主を目指しているんだよね?」

「雷園寺家ってのが組織だと、城だと思ったらその通りです」

「僕もまぁ……その問いにはイエスです」

 

 おのおのの返答を耳にすると、萩尾丸は更に問いを重ねる。

 

「それじゃあもう一つ。組織の主として君臨するために、闘いの場で最も大切な事は何かな?」

 

 源吾郎たちは萩尾丸の顔を見ていたが、数拍置いてから互いに顔を見合わせた。仰々しい物言いとは裏腹に、至極簡単な質問だと思ったからだ。

 愚問じゃないですか。案の定雪羽が口火を切った。

 

「長として君臨するのに必要なのは強さですよ! 要するにずっと勝ち戦の負け知らずになれる程の強さがあればいいんですよね?」

「はいブー。不正解だからね雷園寺君」

 

 島崎君は? 言いながらこちらを向く萩尾丸に対して源吾郎は首を揺らすのがやっとだった。自分も雪羽と同じ考えであり、同じ答えだったからだ。

 

「最も大切な事と言えば、何にもまして死なない事だよ? そりゃあまぁ確かに強さとか闘いのセンスとかも大切かもしれないけどさ……そんなのがあろうとも死んだらどうにもならないわけだし」

 

 わかるよね? 幼子に問いかけるような物言いの萩尾丸を前に、源吾郎はいくばくかの気恥ずかしさを覚えた。あからさまに子供扱いされていると思った。しかし源吾郎以上に子供らしい雪羽は、いつの間にやら腑に落ちたと言わんばかりの表情を見せている。

 

「死なないために、深手を負わないために退却したりそもそも闘いを回避する事そのものも必要なんだ。君らが命令に従って動くだけの兵卒ならばいざ知らず……ゆくゆくは組織の長を目指しているんだろう? だからこそ今回からは不戦勝・不戦敗の制度も取り入れたんだよ。

 何、君らが相手を見て闘わない事を選んだとしても腑抜けなどと評したりはしないから安心したまえ。それにそもそもこれは訓練に過ぎないから、結果がどうであれ喪うものは無いからね。用心して負けを選んだとしても、おのれの実力が追い付かず負けたとしてもね」

 

 源吾郎はゆっくりと瞬きしながら萩尾丸の言葉を咀嚼していた。別に源吾郎自身は理解力が低いわけではないが、今回の萩尾丸の言葉はすぐに飲み込める内容ではなかった。自分がある程度闘えるようになったから、退却する判断も見るようになった。その判断が、真に強くなるために必要だから――そのように理解するのがやっとだったのだ。

 ちなみにだけど。萩尾丸の主張を噛み締めているまさにその時、当の萩尾丸が言葉を続ける。

 

「君らはかなり闘る気満々みたいだけど、別にタイマン勝負じゃなくても良いんだよ。それこそ、どっちの変化が巧いかとか、そんな術較べでも良いわけだし。何も、武力でぶつかっていくだけが戦闘じゃあないんだからさ」

「俺は別に、タイマン形式で構いませんよ」

 

 鼻息荒く応じるのは雪羽だった。どういう原理か首周りの毛が逆立ち、それこそライオンのたてがみのようになびいた。

 

「萩尾丸さん。俺は天下の雷園寺家の次期当主なのはご存じでしょ。玉藻御前の血を引いているとはいえ、ぽっと出の変態野郎にこの俺は負けたりしませんよ」

「おい、誰が変態野郎だって!」

 

 前足で源吾郎を指し示す雪羽に対して源吾郎は吠えた。半妖だの坊ちゃん育ちだのと言われるのはまだ笑って流せるが、変態呼ばわりされるのは癪だった。しかも相手がドスケベの雷獣少年なのだから尚更だ。

 だが雪羽は怯まず喉を鳴らすだけだ。

 

「だって変態じゃないっすか。正体を隠すために変化するのはまぁ良いとして、男なのにわざわざ美少女に化身するなんて。モテないからってそんな事をして誘惑するなんて変態の所業ですよ」

「俺は別に男を誘惑するために女子に変化してるんじゃないよ!」

 

 源吾郎はまたも吠えた。血圧が上がっているのを自分でも感じていた。それくらいブチギレているという事なのだ。何せドスケベの雪羽は曲解の末に源吾郎を変態扱いしているのだ。それも、大勢の妖怪がいる前で。

 

「そりゃあまぁ俺がモテねぇのは事実だよ。常日頃女子と交尾する事ばっかり考えてるどっかのドスケベ雷獣と違ってな。だがな、別に俺は誰かを誘惑したくて美少女に変化してるんじゃないよ。

 女子に変化してるのはだな、モテ道のためなんだ! 女子の好みをリサーチするには、女子に変化するのが一番手っ取り早いんだよ。警戒されにくいし」

 

 突き刺さるような周囲の視線をものともせず、源吾郎はうっとりと笑みを浮かべていた。今しがた雪羽に変態呼ばわりされたが、今のおのれの発言でそれが覆ると思っていたためだ。ついでに言えば、雪羽がいつでもどこでも交尾の事を考えているドスケベある事を知らしめるチャンスだし。

 

「てか、俺が変態だったらお前はドスケベだろうが。俺はだな、あの時仕事のためにウェイトレスになってただけだよ。それをスケベ目的で捕まえたのは他ならぬお前だろうが」

 

 どうなんだよ。雪羽に言い募るも彼は何も言おうとしない。源吾郎はここでやにわに観衆の方に向き直った。みんなはどう思いますか。事もあろうに意見を募ったのである。

 噂好きな若妖怪たちは、源吾郎の期待に応え、意見を口にし始めた。

 

「変態もドスケベもどっちもNGなんですけど。個人的には」

「まぁなんか五十歩百歩感あるよなぁ」

「つーかさ、それって素直に島崎君が男子に変化してたら回避できた案件じゃね?」

「あ、でも男が好きって妖もいるからさ。うちのボスみたく」

「おい拓馬。そんなんいったら掘られるぞ」

「……まぁどっちもどっちな気がするわ」

 

 若妖怪たちの率直な意見は、ただいたずらに源吾郎の心を抉るのみであった。雪羽を糾弾してくれる妖怪はいなかったのだ。厳密に言えばどっちもろくでなしじゃないか、という意見が大半を占めていたと言えるだろう。

 そんな事を思っていると、春嵐と目が合ってしまった。彼は死んだ魚のような目でこちらを睥睨すると、大儀そうに咳払いをした。

 

「雷園寺のお坊ちゃまも島崎殿も……血の気が多いとは聞いていましたが恥ずかしくないのかい? 相手の事を悪く言い合う上に交尾だの変態だのドスケベだのと……仮にもあなた方は貴族、それも上に立つ事を目指しているんだろう」

 

 春嵐はそこまで言うと、萩尾丸に視線を向けてぼそりと言い添える。

 

「むしろこの光景を見ている私の方が、恥ずかしさで死にそうですよ」

「あはは、こりゃあまた巧い事を言ってくれますね」

 

 

 さて若干のひと悶着はあったのだが、結局のところタイマン勝負で力較べをする事になった。初回であるし、そもそも互いの力量を直接見てみたい。雪羽も源吾郎もその考えに揺らぎはなかった。

 

「先手は譲りますよぉ、島崎先輩」

 

 獣姿の雪羽は源吾郎から数メートルばかり距離を取ると、そう言った。

 

「島崎先輩は俺よりも強いと仰ってましたよね。それが本当かどうか、きちんと確かめたいのですよ」

 

 先程の変態発言とは異なる穏やかで丁寧な声音である。しかしこれもまた雪羽なりの挑発だった。少なくとも源吾郎はそのように解釈している。

 源吾郎は微笑みながら狐火を生成し雪羽にぶつける。野球選手並みの速度で飛ぶ火球は、しかしデッドボールの比ではない殺傷能力もとい威力を秘めていた。

 雪羽は正面から向かってくるそれを回避しなかった。鼻先まであと数センチ、と言った所で異変が起きた。雪羽の前方で小さな白い爆発が起こったのである。白い爆発の眩さに源吾郎は一瞬目がくらんだが……すぐに源吾郎は何が起きたのかを悟った。雪羽に向けて投げた狐火は決定打にはならず、寸前のところで爆散したのだと。

 

「言いましたよね島崎先輩。俺は雷園寺家の次期当主だと。大妖怪の子孫だろうとぽっと出の相手には負けないってね」

 

 雪羽の全身は、彼を護るように幾重もの稲妻が取り巻いている。狐火の威力を放電でもって相殺したのか……慄然たる思いを抱えながらも、源吾郎は狐火を生成した。

――いくら護りを固めていたとしても、数の暴力にはかなうまい。

 

 源吾郎はおのれの妖力でもって数十発の狐火を生成し、それらを全弾雪羽に向けて放つ。威力は先程の狐火よりも強めだ。源吾郎もこの狐火たちを作るのに妖力を消耗した。しかし、おのれの力を知ってひれ伏する雪羽を見れるのならば安い対価だと思っていたのだ。




 変態とドスケベってどっちもどっちですね。
 ライバルが出来たのは良いんだけど、そう言う事で張り合う二人って一体……


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勝負の終わりは一つの幕開け ※戦闘描写あり

 割とガチの戦闘能力がありますのでご注意ください。


 会場には萩尾丸が引き連れた若手妖怪たちが数十名いたが、皆無言だった。源吾郎と雪羽。二人の若妖怪が闘う様に釘付けになっていたためだ。

 いや、それは厳密には戦闘ですらなかった。

 対戦車ライフルの弾丸すら可愛く思えるほどの威力を秘めた、源吾郎の狐火ラッシュを皮切りに戦闘訓練は始まったのだが、そのラッシュが終わるころには既に両者の力量差と形勢は明らかなものになっていた。

 優勢な方は余裕の笑みをその面に浮かべ、相手に攻撃術を放っている。

 劣勢な方は必死の形相をその面に浮かべ、相手の術を回避するのがやっとだった。回避と言っても地面の上を駆けずり回り、時におのれを身を護るように身体を丸めて転がったりするところである。

 明らかに勝敗は目に見えていた。それでもこの戦闘訓練が続いているのは、ひとえに劣勢の方が仕留められずに駆けずり回っているからだ。往生際が悪いと取るか、根性があると取るかは(ひと)それぞれであろう。

 

「ぐっ……」

 

 逃げ惑うのがやっとなその妖怪は、息切れを起こしたのかふいに立ち止まった。首を垂れ肩で息をしている。スタミナが切れかけているのは明白だ。

 しかし次の瞬間には首を持ち上げ、斜め上に獣の瞳を向けた。彼の視線の先には、優雅に宙を舞う対戦相手の姿があった。

 その姿を見るや否や、彼は奇妙なフォームで斜め横に飛んでいた。受け身の体勢もお世辞には上手とは言えず、また反動でゴロゴロと転がっていく。

 彼が先程まで立っていたところに、白銀に輝く()()が落ちていた。()()が放たれるのを察知し、すんでの所で回避したのだ。

 

「ははっ、はははっ」

 

 雷撃を放った妖怪――雷園寺雪羽は、高度七メートル程の上空を浮遊しながら高笑いしていた。源吾郎はむくりと身を起こし、ホコリを払いながら静かに見上げた。

 雪羽もまた、浮遊した状態でもって源吾郎を見下ろす。見下ろす方は獣そのものの口許に笑みをたたえ、見上げる方は密かに唇を噛んでいる。

 この戦闘訓練は、()()()()()()()()という状況でもって進んでいたのだ。

 

 

 源吾郎が威勢よく攻撃を仕掛けていたのは、実は序盤の狐火ラッシュの時だけだった。最初に狐火を放った時、雪羽は微動だにせず雷撃で迎撃していた。それを見た源吾郎は、「少しの攻撃なら迎撃できるが、沢山の攻撃ならば迎撃しきれないだろう」と思い込んだのだ。だから自身の妖力の消耗を度外視し、狐火での攻撃に文字通り力を入れた。力を入れ過ぎた。

 結果として、源吾郎の攻撃は雪羽を損ねる事は叶わなかった。雷撃を使った迎撃によって、雪羽は狐火を全弾防ぎ切ったのだ。源吾郎はある意味、雪羽の能力を読みそこなっていたとも言えるだろう。

 源吾郎の名誉のために付け加えておくが、彼の放った狐火の威力が小規模な物であるという事ではない。何せ威力面では対戦車ライフルのそれを上回る代物なのだ。普通の動物や人間にこれが命中した場合どうなるかは言うまでもない。それは妖怪が相手でも同じだった。ある程度妖力蓄えた者であればかすり傷程度で済むかもしれない。しかし若手妖怪であればやはり致命傷になり得る可能性もあったのだ。

 ともあれ源吾郎が狐火を撃ち終わってから攻防が一転した事には変わりない。萩尾丸は「島崎君の方が雷園寺君よりも強い妖怪なんだよ」などと言っていたがとんでもない話だ。自分でもオーバーキルかもと思っていた狐火の攻撃だったが、雪羽には全くもって通用しなかったのだ。

 さらに言えば、術が通用しないばかりかスタミナ面でも段違いだった。数分のインターバルを置かねば攻撃術を発動できない程に消耗した源吾郎に対し、その狐火を迎撃した雪羽は余裕そのものだった。だからこそ、狐火ラッシュ後に攻防の逆転劇が成立したのだ。

 戦慄すべきは未だに雪羽が本気を出している気配が見えない所である。流石に片手間ではなかろうが、宙に浮き雷撃を放つ雪羽の姿は余裕そのものだった。

 源吾郎の事をぽっと出だのなんだのと言って笑っていた雪羽であったが、そうやって笑い飛ばせるだけの力を持っている事もまた事実だったのだ。

 

 攻撃用の術が有効ではないと悟った源吾郎が出来るのは、ただひたすら相手の攻撃をかわし、防御する事のみだった。反撃を考える暇は無かった。最大の威力を持つ狐火が通用せずに源吾郎は困惑していたし、何より回避するのがやっとだったのだから。

 雪羽の放つ雷撃も、相当な威力を秘めているように思われた。何しろ紅藤の護符が構築する結界術をも打ち破ってしまう程なのだから。源吾郎も自分で結界を作る事は作るのだが、護符のそれに較べて貧弱であるから足しにもならない。雷撃の威力は護符が弱めてくれているのだろうが、それでも直撃すれば静電気を受けたような不快感が源吾郎を襲った。そうでなくても閃光と共に雷の槍が襲い掛かって来るのは結構怖い。

 時々自作の結界が避雷針のような形状になるときもあるにはあったが、それもやはり攻撃を回避する手段に過ぎず、決定打にもならなかった。

 

「うごっ!」

 

 足許が奇妙に凹んだ。雷撃が源吾郎にほど近い場所で炸裂したらしい。源吾郎はバランスを崩し前のめりに転がった。さほど痛みは無いが……戦闘訓練が始まってから転がってばかりである。

 

「うっ……ぬっ」

 

 動こうとした源吾郎は、ふくらはぎのあたりに圧を感じた。首を曲げて後ろを見た時に驚いて思わず硬直してしまう。先程まで飛び回っていた雪羽は、何を思ったか着陸し、源吾郎のすぐ傍ににじり寄っていたのだ。厳密に言えば、右前足を源吾郎の脚に載せている。猫に似て丸い足先は、しかし釘のように鋭い爪が飛び出している。爪の鋭さは服越しにも伝わってきた。

 

「そろそろ追いかけっこも飽きてきたんでね……逃がしませんよ島崎先輩」

 

 言葉を紡ぐその口からは小さな牙が見える。声音や口調が屈託のない少年のそれであったから、一層源吾郎の恐怖心をあおった。逃れようとするものの身体が動かない。というか何となく痺れる感じもする。電流を流されているのだとすぐに気付いた。感電死という言葉がある通り、電流は生物の動きに影響をもたらすものだ。無論それは肉体を持つ妖怪とて例外ではない。

 それ以上に、電流を流されているという恐怖心で怯んだ、という所もあるにはあるが。

 

「そこまでだ」

 

 ほとんど物音の無い中、声を上げたのは萩尾丸だった。気付けば彼は席を立ち、会場の間際にいた。雪羽の喉が小さくなり、源吾郎から足を退ける。源吾郎は反射的に匍匐前進し、雪羽から少し距離を取った。

 

「雷園寺君の勝ちだ。というか、あの先まで続ければ島崎君の方が危なかったからね。動けなくなったら、もう相手のなすがままになっちゃうわけだし。それこそ、とどめを刺そうとしてもね」

「……」

 

 萩尾丸の笑みは普段通りに見えたのだが、普段通りだからこそ一層凄味があった。雪羽も一瞬大天狗に怯んだように見えたが、源吾郎から離れると三尾をピンと立てて紹介される競走馬よろしくゆったりと会場の中を歩き始めた。取り立ててはしゃぎはしなかったものの、勝利した事に喜び、それを見せつけているかのような振る舞いである。

 

 

 未だに撤去されていないパイプ椅子を三脚ほど使って、自分は寝そべっていた。少し眠っていたのかもしれない。萩尾丸や青松丸に半ば支えられる形でここに向かったのは覚えているが……その後の記憶が抜け落ちている。やはり寝ていたのだろう。

 半身を起こすと、当然のように萩尾丸たちがいた。何やら話し込んでいたようだが、源吾郎が動いた事に気付いたらしい。視線は源吾郎に向けられていた。

 

「すみません萩尾丸先輩。仕事中に寝てしまうなんて。しかも椅子の片付けもほっぽっちゃってますし」

「別に良いよ島崎君。君も今日は頑張ったんだからさ」

 

 恥ずかしさのあまり謝罪する源吾郎に対し、萩尾丸は鷹揚に告げるだけだった。

 

「ああ島崎君バテバテだなって僕も既に気付いてたからさ。それに椅子の片付けなら、雷園寺君が頑張ってくれてるし」

 

 萩尾丸が指し示す先では、若手妖怪たちがパイプ椅子を折り畳んでいる。確かに彼の指摘通り、修道服姿の雪羽がいた。余談だがあの状態の雪羽の事は「シロ」と呼んでいるらしい。

 

「……惨敗でしたよ。手も足も出ませんでした」

 

 源吾郎はそう言って深々とため息をついた。雪羽の姿を見ていると、苦い思いが胸の中に広がっていく。

 今までの戦闘訓練でも、うまくいかないと感じたり歯がゆさを覚えた事はある。しかし今以上の気持ちを抱いた事は無かった。それは相手が相手だからなのかもしれない。相手を見くびっていたのは源吾郎の方だったのだ。玉藻御前の血を一族の中でも色濃く引いている。雪羽よりも妖怪としては強い。その言葉と過信こそが招いた結果だった。

 

「……失望されましたか。玉藻御前の末裔として、幹部候補になる身として修業を積んできたのにこんな醜態をお見せしてしまって」

「別に、僕らは君に失望などしていないから安心したまえ」

 

 おそるおそる紡いだ源吾郎の言葉に、萩尾丸はすぐに反応した。安心しろと言われたが、源吾郎は素直に安心できずにいた。萩尾丸のその面に笑みを浮かべていたが、あからさまに含みのある笑みだったからだ。

 

「というよりもむしろ、()()そもそも今回の結果で僕らが君に失望すると思ったのかな?」

「…………」

 

 畳みかけるような萩尾丸の問いかけに、源吾郎は黙して応じなかった。聞いている事の意味は解るし、答えも自分の中にはある。しかしそれを口にしてしまうのが恥ずかしくて仕方が無かったのだ。

 そんな源吾郎の様子を見ていた萩尾丸がふわりと笑みを浮かべた。先程とは笑みの質が違っている。

 

「島崎君。君に才能がある事、他の妖怪たちよりも強い事そのものは事実なんだよ。現に僕の部下たちも、君らのえげつない強さに驚いて何も言えないでいる位だったんだから。

 しかし、君はまだ生まれてから四半世紀も経っていないんだ。人間の血が多いからまぁそれなりに育っているようには見えるけど、本当の妖怪だったらまだ子供と言っても遜色のない年齢だしね。

 ましてや、妖怪らしい生き方を始めてまだ半年も経っていないだろう? いかな雷園寺君が子供じみていると言えども、負けてしまったのは致し方のない事さ」

 

 源吾郎は頷く事も忘れて萩尾丸の言葉を噛み締めていた。今でこそ妖怪らしく振舞っていると言えども、人間としての暮らしを長らく続けてきたのもまた事実だからだ。それもこれも、源吾郎が両親の許で育ったからに他ならない。両親、特に母は源吾郎が妖怪としての素質を多く持っている事を見抜いていたはずだ。見抜いたうえで、人間として暮らせるように教育したのだ。大妖狐の血を引きつつも人間として暮らせる事は、源吾郎の兄姉らが立証していたからなのだろう。

――ああ、やっぱり才能があっても経験が無ければどうにもならないのが妖怪の世界だよな。そう思うと、俺が妖怪らしい所って妖力が多くて妖術を使いこなせるって所だけになるか。だってまぁ、高校を出るまでは母様も叔父上たちも兄上たちや姉上も、人間として育つようにって思ってみたいだし。そうでなきゃあ、わざわざ人間の学校に通わせたりしないよな。

……いや待てよ。もしかしたら、うんと小さい頃に親から引き離されて妖怪の許で育ったら、俺はもっと強くなっていたかもしれないって事かな? その事は多分、いや絶対に紅藤様も萩尾丸先輩も解っているはずだ。でも紅藤様はそう言う事とか気にしないのかな? 長く妖怪業をなさっているからあんまり焦ったりなさらないし……

 

「凹んじゃっているから言うけれど。島崎君。君は能力面では同年代の、いや訓練していない大人の妖狐と同等の力を持っているんだよ。あれだけの威力の狐火を何十発も放つなんて、同じくらいの年代の狐には無理だからね。第一妖力切れを起こして狐襟巻になりかねないし。

 それにまぁ根性も並み以上あるって事は前々から解っていたけれど、今回の戦闘訓練ではそれがはっきりとなってたね。

 ただまぁ……戦略を立てていなかったのと、君の今回の攻撃方法が雷園寺君には通用しなかった。そこが敗因かな。まぁ、雷獣と妖狐とは身体の造りも違うからね」

 

 源吾郎は身を乗り出し、萩尾丸の顔を覗き込んでいた。戦略云々の件では痛い所を突かれるかもしれない。そう思っていたが、その緊張とは別の意味のドキドキが、源吾郎の心を支配していたのもまた事実である。




 島崎君の狐火、対戦車ライフルよりも強い事が判明しました。
 とはいえ相手はそれを上回る強さだったんですがね(白目)

 そりゃあ主人公にピンチがあった方が盛り上がるじゃないですか。


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弱み知る それこそ強さの秘密なり

「まずは島崎君の持つマズい所から説明しようか」

 

 すました表情で萩尾丸は告げる。源吾郎はそれを見て胸がぎゅっとすぼまるのを感じた。とはいえ、彼が何か言うのを止める術など無いのだが。

 

「島崎君。君は確かに妖力は段違いに多いよね。だけど、なまじ妖力が多すぎるからゴリ押しで勝負を進めようとする傾向があるように思えるんだ。そうでなければ、力の温存を度外視して初回からあれだけぶっ放したりしないでしょ?」

「…………」

 

 萩尾丸の冷静な言葉を聞きつつ源吾郎は目を泳がせた。萩尾丸の指摘はまさに図星だった。本当に、純粋に「ぶっ放していれば雪羽に当たるだろう」と思っていたのだ。しかしそれを口にすれば、煽り好きな萩尾丸が何か言いだしかねない。そう思って沈黙を貫いたのだ。

 恐らくは、萩尾丸には源吾郎の考えなど手に取るように解るのだろうけれど。

 

「最初の数発、いや初回の迎撃を見た時に別の手段を使っていたら、今回の戦闘訓練も違った展開を見せていたんじゃあないかな。島崎君。妖狐の強みは操る術の威力ではなくて様々な術を行使できる手数の多さと、それらを適切に扱える知性の深さなのだよ。そもそも、君が憧れてやまぬ玉藻御前とて、得意分野は頭脳戦だったらしいんだからさ」

 

 妖狐は身体の構造上武力を使った闘いは苦手なのだ。妖狐は他の妖怪――獣妖怪に較べて身体能力はどうしても劣るのだ。真顔で言ってのけた萩尾丸のその言葉に、源吾郎は面食らった。おのれの本性である妖狐が他の種族より劣っているという言葉がショックだったのか、純血の妖狐の身体能力の高さに半妖であるおのれが感嘆していた事を思い出した為なのか、源吾郎にもよく解らなかった。

 萩尾丸には、源吾郎の心の乱れはお見通しであるらしい。深い色の瞳で源吾郎を見下ろし、うっすらと笑みを浮かべた。

 

「何。妖狐が肉体的に貧弱であるとしても、別に妖狐そのものが劣った存在ではないのだよ。

 ()()()()なんだ。力に縋る事が難しいからこそ、妖狐は知性や妖術という別の強みを持ったという事なんだよ。まぁもちろん、頑張って妖力を蓄えて妖怪として強くなれば、元々の貧弱さや脆弱さをカバーできるのだけどね」

「やっぱり妖力があればどうにでもなるんじゃないですか」

 

 おのれの意見を、源吾郎はやや威勢よく言い放っていた。妖力で弱みはカバーできる。その言葉に源吾郎は喜んでいたのだ。但し、若干の怒りも籠ってはいたが。

 ()()()()()()()()()()()。萩尾丸はあからさまにため息をついた。

 

「妖力があればどうにでもなるという考えこそが、下積みの無さを表しているとも言えるかな。だけどそれも致し方ない事だろうねぇ。君は元々からして他の妖狐らよりも多い妖力を宿してしまったのだから。なまじ力がある分、深く考えずとも相手を制する事が出来ると思っちゃうんだろうねぇ……実に面白い話だよ。妖怪としての頼みの綱である妖力が、妖怪として闘う戦略を潰す足枷になっているんだからさ。

――その事が解っていたから、島崎君のご家族は余計に君を人間として育てようとしたのかもね。知ってるかい島崎君? 若いうちに妖力を得た大妖怪の方が、実は死亡率が高いんだよ。それは力を過信して調子に乗って、最終的に怒りを買って殺されるって事さ」

「う…………」

 

 萩尾丸の情け容赦ない分析に対し、源吾郎は短く呻くほかなかった。源吾郎が驚いている様子をしばし観察した後、萩尾丸は涼しい顔で言葉を続けた。

 

「あら凹んじゃったかな島崎君。だけどね、君の方が雷園寺君より妖力の保有量が多いのは紛れもない事実だよ。ふふふ、良かったじゃないか。君の方が勝っている部分もあってさ」

 

 妖力の保有量を引き合いに出してくれたのだが、素直に喜べなかった。何せ今しがた、妖力が多いだけで戦略が無ければ無能と言われた所なのだから。

 それに萩尾丸の言葉も、これからまだ更に続きそうであるし。

 

「それじゃあ、今度は雷獣の特性について話そうか。妖狐と雷獣はそもそも別種の妖怪だし、暮らし方も大分かけ離れている。それはだね、特性や強みも違うという事なんだよ。

 雷獣の特性は大きく二つ。速さと持久力を兼ね備えた肉体と、特殊な感覚器官の使い方なんだ」

「感覚、器官……」

 

 源吾郎は萩尾丸の口にした特性のうち、二つ目の内容が気になった。持久力や素早さに長けているのは解る。狐火を迎撃するために雷撃の術を発動し続けていたにもかかわらず、バテている気配はないのだから。しかもその後彼は宙を舞い、悠々とした態度で雷撃を撃ちまくっていた。

 

「確かに雷獣の五感は優れているよ。その名の通り、雷雲の近くまで飛び上がり、空を縦横無尽に飛び回るんだからね。聴力はもとより、獣妖怪としては視力も良い方なんじゃないかな。

 しかし雷獣は文字通り第六感を具えている。電流の動きによって、対象物や遮蔽物の有無を確認する事が出来るんだ」

「そんな……あっ! そう言えばあの時……」

 

 雷獣にある第六感の話を聞いた源吾郎は驚いて目を丸くしたが、ややあってからある光景を思い出した。鍛錬の折に、雪羽が目隠しした状態で的の中央を撃ち抜いた光景である。

 あの時源吾郎は、曲芸じみた技を持っているのかと思って驚いていた。しかし、電流で動きを視ているのであれば、あれは雷獣にとっては()()()()()()()と言える。

 また、今回の戦闘訓練にて苦し紛れに放った煙幕が役に立たなかったのも合点がいった。

 まだ驚く所じゃないよ。萩尾丸は源吾郎を見下ろす。半ば面白がっているような物言いだった。

 

「電流で物を視るなんて、密林にいる電気ウナギだってできるんだからさ。いや、ウーパールーパーとかだって電流を視れるよ。

 雷獣が他のそうした動物たちと違うのは、脳内で任意に感覚器官のオンオフを切り替える事が出来るという点なんだ。より正確に電流の動きを視ようとしたとき、脳内でスイッチを動かして視覚と聴覚をシャットダウンできるんだ。

……恐らくは、雷鳴が轟く中で発達した雷獣独自のメカニズムだろうね。何せ彼らは視力も聴力も優れているんだ。そんなときに間近で雷撃を見てしまえば、失明や難聴の危険があるからね……」

「雷獣の能力、凄すぎですやん……」

 

 源吾郎は思わず驚きの声を漏らしていた。電流で物を視る能力の方が、目で物を視る視力よりも優れているように思えたためだ。目で物を見ている場合、覆われていたり隠されていたりすればそれ以上見る事は出来ない。しかし、電流ならばそう言った問題からも解き放たれているのではなかろうか。

 驚き微かに震える源吾郎を見ながら、萩尾丸は静かに笑った。何処か物憂げな笑みでもあった。

 

「まぁ確かに雷獣特有の能力だし、優れているようにも思えるよね。しかし、感覚切換システムもメリットばかりでもないんだ。もしかしたら気付いているかもしれないけれど、感覚切換システムは()()()()()()()()()()()メカニズムでもあるんだよね。雷のある環境に適応するために、雷獣は脳の発達を一部犠牲にしたんだ。雷獣たちは、他の妖怪たちに較べて深く考える事が苦手なんだ。感情を表に出しやすく、衝動的でありながらも直観力に優れる。これらの特性は彼らの脳の仕組みにあるんだよね」

「…………」

 

 源吾郎は何とも言えない気分で萩尾丸を見ていた。萩尾丸の言う雷獣の性格は、雪羽や三國の行いを見ていると思い当たる所だらけだったのだ。特に雪羽が顕著だろう。喜んでいたと思ったら寂しそうにしている時もあるし、その落差がやや大きい。また、源吾郎に絡む時も、源吾郎が平静な時かちょっとテンションが上がって浮かれている時にしか絡んでこないし。

 

「あ、でも島崎君。どうか雷獣が知能が低くてアホな種族であると思わないで欲しいんだ。そう言う特性があれど、雷獣には優れた所もあるし、衝動的なところは年を取ればそれなりに落ち着くしね。中には、切換のシステムが未発達な代わりに思慮深い個体が生まれる事もあるみたいなんだ」

 

 そうなんですね……源吾郎はそう言うのがやっとだった。中々に難しい話ではあるが、どうにかして理解しようと意気込んでいるのは事実である。




 雷獣の能力を考えていたら凄い事になりました(爆)


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妖狐の決意と保護者の心

 源吾郎は萩尾丸をぼんやりと眺めながら、戦略と呼ばれる物を練ろうとしていた。雷獣は身体能力が高く、また電流で物を視る能力も優れている。感覚器官に特化している分思考力は単純であるものの、高い直観力は侮れない。

 それから源吾郎は、自分が使える術が何かを一つずつ思い出した。幻術は戦闘向きの術ではないが最も得意な術である。結界術も最近習得した。尻尾を用いた術も、狐火と同じく攻撃術だ。

 どれが雪羽に対して有効打になるかは解らない。要素が複数ある時は一つずつ試しなさいと、紅藤が言っていたのを源吾郎は思い出した。きっと戦闘訓練でも同じ事なのかもしれない。

 

「どうしたの島崎君。僕の話を聞いて落ち込んじゃった?」

 

 萩尾丸の優しげな声が頭上に降りかかる。考え込んで難しい表情になっていた源吾郎を見て、落ち込んだと思ったのかもしれない。

 仕方ないよ。源吾郎の肩には、いつの間にか萩尾丸の大きな手が添えられていた。

 

「よく考えれば、君は雷獣とタイマン勝負をするのは初めてだもんねぇ。ずっと、うちの小雀のメンバーと訓練とかタイマン勝負をしていたから仕方ないよね」

 

 萩尾丸は大妖怪であるから、もちろん強い妖怪も配下にしているという。しかし戦闘訓練に連れてくる妖怪たちは小雀という最下位のグループに属する若手妖怪たちばかりだった。彼らの大半は妖狐や化け狸である。猫又や犬妖怪などという別の獣妖怪もいたが、それこそ雷獣はいなかったと思う。

 

「相手が妖狐や狸だったら君が勝利を収めていただろうね。だけど今回の相手は雷獣、それも君より妖力は少ないとはいえ中級クラスの域にいるんだから……苦戦したのも無理からぬ話だね」

「先輩方は、やっぱり……」

 

 俺が負ける事を予測していたのですか? その問いかけを、源吾郎は寸前で呑み込んだ。何故そのような態度を取ったのかは自分でもはっきりしない。おのれの裡にあるプライドがそうさせたのかもしれなかった。

 

「予測していたとしても、実際にそうなるかどうかはこの目で見ないと断言できない。私は常にそう思っているわ」

 

 尻切れトンボになった源吾郎の問いに応じたのは紅藤だった。彼女はいつの間にか、萩尾丸や源吾郎の傍に影のように立っている。源吾郎を見下ろす眼には慈愛の色が見えていたが、どことなく物憂げでもあった。

 

「箱の中に入れた猫の生死が五分五分であると定まっていれば、箱の蓋を開けるまでは、猫の生死は判らないのですから」

「……?」

 

 何か意味深な事を言っているようだったが、源吾郎はインコのように首をかしげるだけだった。それを見て萩尾丸が笑った。紅藤と、源吾郎に対して。

 

「紅藤様。そこでシュレーディンガーの猫の例えを出されるとは、中々洒落た事をなさるじゃないですか。しかし島崎君には通じなかったみたいですね。まぁ、そっち方面も勉強が必要って事ですね」

 

 シュレーディンガーの猫。仰々しく物々しいその猫の名は、どこかで聞いた覚えがある。しかし何であるかははっきりと浮かんでこなかった。萩尾丸の言う通り、勉強して確認しなければならないだろう。

 落ち込まなくて良いんだよ。萩尾丸がもう一度言う。

 

「最初に言ったけど、今回はただの訓練だよ。そりゃあ勝敗が付いたら思う所はあるとは思う。だけど負けた事そのものはもう過去の事になるんだ。大切なのは、今からどうするか。そこなんだよ」

 

 源吾郎は伏せがちだった目を見開き、萩尾丸を見上げていた。自分が何か思い違いをしていた事をここで悟ったような気分だった。

 萩尾丸先輩。源吾郎は屈託のない声音で呼びかけていた。

 

「もしかして、雷園寺君との戦闘訓練って今回きりじゃあないですよね」

「それを決めるのは君次第だよ」

 

 萩尾丸は一呼吸おいてから源吾郎に問いかけた。

 

「次回も雷園寺君と勝負がしたい。そう言う事だね?」

「その通りです!」

 

 半ば食い気味に源吾郎が返答すると、萩尾丸は一層笑みを深めた。

 

「良いよ。構わないよ。次回の戦闘訓練も雷園寺君との勝負をすると、この僕が許可してあげる。ふふふ、勝負に負けた島崎君ならば、必ずやそう言うだろうと思ってたけどね。悔しがるだろうけれど、負けたからってめそめそして泣き寝入りで終わるような手合いじゃあないってね」

「はい……」

 

 妙な所で返事してしまったが、萩尾丸は気にせず続けた。

 

「実を言うとね、雷園寺君からリクエストがあったんだ。島崎君とは最低十回は真剣勝負がしたいってね」

 

 そうだったんですか……源吾郎の喉から小さな声が漏れる。雪羽が何を思ってそのようなリクエストをしているのか、源吾郎には定かではなかった。

 

「島崎君の意見を聞かないとこちらでは決定できないとは言っておいたんだけど、どうかな? 大丈夫?」

「全くもって大丈夫ですし、十回くらいならイケますよ」

 

 源吾郎は顔を火照らせながら問いに応じる。

 

「それにしてもあと九回は勝負したいって雷園寺の奴も思ってるんですね。こっちとしても願ったりかなったりですよ――あと九回あるんだったら、一、二回は雷園寺の奴を俺がボコボコに打ちのめす事も出来るかもしれませんし」

 

 そののっぺりとした面には、ある種の獣性を滲ませた残忍な笑みが広がっていた。半妖だから妖怪としての衝動を抑えられないのだろうと余人は思うかもしれないが、あくまでもその笑みもまた源吾郎の性質である。

 半妖が妖気を抑えきれずに暴走する、というのも間違ったステロタイプに過ぎない。少なくとも、源吾郎はおのれの意思で妖力を操り制御できているのだから。

 とはいえ、願望丸出しの笑みを見ても、源吾郎の兄弟子や師範は無闇に怯えたりはしなかった。萩尾丸はさもおかしそうに微笑み、紅藤はやや心配そうにこちらを見つめている。

 

「落ち込んでいるかと思ったら、ちゃんとやる気も元気もあるみたいだから良かったよ。やっぱり若い子は……大妖怪を目指す子はそれくらいの気概が無いとね」

「……萩尾丸。二人に真剣勝負をさせるのはいいけれど、真剣勝負ばかり連続させるのは危ないと思うわ」

 

 危ないと言った紅藤の表情は真剣そのものだった。何だろう、と源吾郎も萩尾丸も彼女に視線を向ける。

 

「萩尾丸の言う通り、凹まずに闘志を出して頑張ってくれるのは良い事なのよ。だけど、島崎君も雷園寺君も結構我が強いし勝負ごとにこだわりそうでしょ? あんまり真剣勝負にばかり意識を向けさせてしまうと、いつか()()()()が起きるかもしれないわ。私はそう思うの。

 そうね。真剣勝負を行うのは良いけれど、そればかりじゃなくて術較べも間に挟みつつやったほうが良いんじゃないかしら。双方負け戦ばかりだと、ストレスで変な事になってもいけませんし」

 

 萩尾丸はしばらく源吾郎と紅藤とを交互に見つめていたが、得心がいったという感じで頷き、源吾郎に視線を向ける。

 

「まぁ雷園寺君には事情を説明するとして、紅藤様が言った感じで訓練は進めるけど構わないよね? タイマン勝負は次の次に行うとして、次はちょっとした術較べにしておこうか。そっちの方が君も勝ちやすいんじゃないかな?」

「……お気遣いありがとうございます」

 

 源吾郎は色々と思う所はあったが、ひとまずは大人しく礼を述べる事にした。ワガママな仔狐だと気遣われた感もあるにはあるが、そのように感じた事を面に出せばそれこそワガママだと見做されるであろう。それに術較べも実の所割と好きだったりする。雪羽は雷撃以外の術を使えるという話は聞かないから、その面では確かに源吾郎の方が有利でもあろう。

 そんな事を思っていると、萩尾丸が今再び口を開いた。

 

「ははは、今度はそろそろ普通の範疇に収まる妖怪の一人に、今回の闘いについて感想を聞いてみようか――春嵐さんとしてはどうでしたか」

「…………!」

 

 思いがけぬ名前が呼ぶ萩尾丸を前に、源吾郎は驚き瞠目した。三國の部下であり雪羽の味方に当たる春嵐が萩尾丸たちの傍にいた事に今の今まで気付かなかったのだ。だが今は源吾郎の視界に彼はいて、眼鏡のずれを正しながら口を開こうとしている所だった。

 

「私を普通の妖怪と呼んで良いのかどうかはちょっと心配な所ですが……率直に言って、島崎殿も十分強いと思いましたがね。試合そのものは一方的な展開ではありましたが、何分雷園寺の坊ちゃまも強いですから致し方ないでしょう。

 というよりもそもそも、試合の体裁をある程度保つ事が出来た事に驚きです。島崎殿は半妖で、しかもつい最近まで人間として暮らしていたと聞いておりましたから」

「あ、ああ、はは、春嵐、様」

 

 春嵐の言葉は冷静さを保ち、また客観性の高い評価にも思えた。源吾郎はうろたえた様子で春嵐に声をかける。彼に高く評価されたからではない。先の萩尾丸とのやり取りで、「真剣勝負で雪羽をボコボコに打ちのめす」と言い放ったのを彼にも聞かれていたと悟ったからだ。

 

「こ、今回は僕の事を高く評価していただいてありがとうございます。あの、それとですね、さっきの雷園寺君をボコボコにとかは、別に、そんな事を本心から思ってるわけじゃないんですよ。出来心と言いますか、言葉の綾でして……」

「別にその辺りは気にしなくて大丈夫ですよ、島崎さん。君も色々と大変な思いをしているだろうって事は私も解っているから」

 

 春嵐はそう言って儚い笑みを見せた。雪羽の知り合いだけど良い人じゃないか――ふいに沸き立ったその考えが源吾郎を戸惑わせた。

 

「むしろ君には感謝しているくらいなんだ。雷園寺の坊ちゃまと()()()してくれているみたいだし」

「…………」

 

 春嵐は源吾郎が雪羽の友達になったとでも思っているのだろうか。しかし神経質そうな風貌の若者の表情からは、皮肉の色は特に見当たらない。

 

「雷園寺の坊ちゃまの事に関しては、方々に迷惑をかけてしまったと私たちも思っているんだ。というか私が三國さんや月華様にもう少し注意しておけば良かったのかもしれない。だけど実の所、萩尾丸様に坊ちゃまが引き取られたのは()()()()事だとも思っているんだ。三國さんには言えないけれど。坊ちゃまも三國さんも思う所はあるだろけれど、少なくとも坊ちゃまに関しては悪い仲間と縁が切れた訳だし」

 

 春嵐の言葉にどう応じれば良いか解らず、源吾郎はひとまず相槌を打つだけに留めておいた。三國が雪羽の事を甥として愛している事は知っていたが、春嵐もまた、雪羽を幼い弟か甥のように思っているらしい事は明白だ。試合前の言動からして事務的な間柄ではないと思っていたけれど。

 

「……と、若い子にあれこれ愚痴みたいなことを言ってもマズかったなぁ。島崎さん。しばらく雷園寺の坊ちゃまがこっちの研究センターのお世話になると思うけど、どうかこれからも仲良くしてくれれば、と」

「は、はい……」

 

 春嵐の懇願めいた言葉に対して、源吾郎は頷くほかなかった。




 島崎君の強さはメンタルの強さなのではないか。
 そんな事を時々思います。


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たそがれに現れたるは八頭怪

 土曜日の夕暮れ。源吾郎は妖狐の文明と共に術者向けの道具屋を訪れていた。

 件の道具屋は護符とか簡易的な魔道具などと言った、術者が仕事の際に用いる物品を取り扱っているのだが、妖怪たちが入店してもさほど問題ではなかった。そもそも妖怪が必ずしも人間と対立している訳ではないし、店としてもきちんとお金を払うのなら誰が来ても構わないというスタンスのようだ。

 要するに、妖狐である文明と半妖である源吾郎はお咎めなくその店に入る事が出来たという事である。何となれば、品物を眺めている面々の半数は地元妖怪だったりするくらいだ。

 

「ありがとうな文明。ここを教えてくれて」

 

 源吾郎は素直に文明に礼を述べる。この道具屋自体は今や別宅となったアパートからさほど遠くない場所に位置していたのだが、文明に教えてもらうまで源吾郎は知らなかったのだ。

 

「あはは、大げさだな島崎も」

 

 文明狐は源吾郎の顔を見ながら朗らかに笑った。その様子を見ながら、彼の眼差しや態度が弟に対する物に近いのだと今更ながら思っていた。珠彦や文明とは対等な友達であると思っていたが、二人とも源吾郎よりもオトナだった。彼らは内心で源吾郎を弟分と見做していたらしいが、オトナの気遣いでもってそう言った考えを悟られないようにしていただけなのだ。それらの事は、雪羽と接しているうちに気付いてしまった。

 

「まぁ、俺らみたいな妖怪でもさ、色々と荒事とかあったらこういう道具も使う事もあるし。近所にこういう所があるって知ってたら便利だと思ったんだけど……」

 

 文明はそこまで言うと意味深に言葉を濁し、それから源吾郎をまじまじと見た。

 

「よく考えたら、島崎は桐谷さんの甥っ子だもんな。あの人術者やってるし、道具を買うんだったらそっちの方が良いとか?」

 

 道具屋の店主の事を慮ってか、文明は先程よりも声を落として問いかけている。

 桐谷さんというのは叔父の方だろう。そう思いながら、源吾郎は渋い笑みを文明に見せた。

 

「叔父も俺が来たらめっちゃ喜ぶけど、その分他の客よりも料金を上乗せしてくるからさ、こっちも出費がかさむんだよ……向こうの言い分としてはいつも小遣いをあげてただろうって事なんだけど」

「そりゃ世知辛いなぁ。甥っ子には容赦ないのか」

 

 文明の面にも渋い表情が浮かぶのを見やりつつ、源吾郎はため息をついた。苅藻の事自体は実の兄のように慕い、時に甘えたりもする相手である。親族の中では実父の次に源吾郎を甘やかしてくれる相手であるし、何より妖怪としての生き方をこっそり教えてくれるところも魅力的だった。

 しかし商売人としての側面が強いのも事実である。苅藻はよく源吾郎に小遣いを渡してくれたが、しかしそれで源吾郎の蓄えが増えたためしはない。術者である苅藻はその手の道具も一般向けに販売しており、源吾郎は叔父の許でそれらを購入する事が頻繁にあったからだ。苅藻は抜け目なく源吾郎を言いくるめ、源吾郎に対してはやや高めに道具屋護符の類を売ってくれた。

 苅藻からお金をもらい、そのお金で源吾郎は護符を購入する……長い目で見れば苅藻の許に現金がキャッシュバックされているだけであると気付くのに、相当の月日を費やしてしまったのだ。

 まぁ要するに苅藻は甥っ子可愛さにお金を渡していたのではなく、それでちゃっかり自分の懐も暖まるようにしていたという事である。知恵の回る狐らしい所業ともいえるだろう。

 余談だが研究センターのニューフェースたる雪羽は、萩尾丸に引き取られるまで三國から十二分に小遣いを貰っていたという。羨ましい事だと源吾郎は密かに思ったりもした。

 

「それにしても、急に補助道具に興味を示すなんてどういう風の吹き回しだい?」

 

 妖術の補助道具の護符を眺めていた源吾郎に対し文明が問いかける。不思議がっている事は、顔を見ずとも明らかだった。

 

「島崎って言うて研究所勤めだろう。確かになんかすごい野望とか持ってるけれど、平和に暮らしてるんだろうし」

「戦闘訓練の相手が強いからさ。それでだよ」

「戦闘訓練の相手って、あの雷獣の坊やの事だよな」

 

 雷獣の坊や、とは雪羽の事であろう。源吾郎が頷くと、文明は驚きと呆れをないまぜにした表情で口を開く。

 

「ああ、あの時のタイマン勝負は確かに凄かったな。あの雷獣はマジで強いし……いや、それに向かっていく島崎も俺らからしたら十分強いけど」

「文明。最後の言葉だけ聞き取れなかったんだけど。もう一度言ってくれないか」

「俺らからしたら、十分強いと思うんだ」

「やっぱ俺って強く見えるんだ。文明たちからしたら」

 

 強く見える。そう言った源吾郎の声には驕りの色は薄い。むしろ自分が確認しきれなかった事柄を確認するような気配さえあるくらいだ。

 未だに一尾の文明は、そんな源吾郎を見ながらうっすらと微笑んだ。

 

「年下だろうと半妖だろうと強い事には違いないさ。そりゃまぁ確かに島崎の戦法にはちとアラがあるとか何とかってボスは言ってるけど、それ以前に威力が俺らのそれとは段違いだもん。

 てかまさか、そう言う所に自分では気づいてなくて、まだ弱いまんまだって思ってたりするとか?」

「別に弱いって思い込んでるわけじゃないよ」

 

 文明の問いに源吾郎は応じる。彼の言が正しければ、自分は「強い事に気付いていない無自覚野郎」みたいな感じになってしまう。それはそれで不本意だし、源吾郎も源吾郎なりに自分の強さには自覚はある。

 

「たださ、俺って最強を目指してるしそれを公言してるだろ? だから師範も先輩たちもそのつもりで俺に接してる感じなんだよ。そもそも先輩たち……萩尾丸先輩からしてめっちゃ強いから、それと比較したらどうしてもそんなに強くないって感じになるんだよ」

「あー成程ね。それなら無理もないわな」

 

 いやはや島崎も苦労してるんだな……文明は何故か憐れむような眼差しを源吾郎に向けてきたのだ。源吾郎はそんな表情を気にせずに頷いてやったけど。

 まぁ恐らくは、文明は庶民狐として生きる方が性に合っているのだろう。源吾郎はそう思う事にしておいた。実力主義で強い者がのし上がるのが妖怪社会である。しかしその一方で、強くなる道に関心を示さない妖怪も存在する事は源吾郎もよく心得ていた。

 

 

 まだ残暑が地面を暖めていると言えども、夏も終わりに近付いているのを源吾郎はひしひしと感じた。数日前よりも日が暮れるのが早まっているからだ。逢魔が時とも黄昏時とも呼べる時間帯になる中、源吾郎は研究センターの居住区への帰路を辿っていた。

 結局道具屋では術式の構築を補助するための護符を数枚購入した。雪羽は微弱な電流を流して、源吾郎の術の妨害をする事さえできるのだ。妖術は思念……脳の動きで構築や発動を行っている。電気刺激でそれを妨害されると上手く発動できなくなってしまうのだ。特にイメージが物を言う幻術や変化術を行使する前に妨害されるとひとたまりもない。

 補助具があれば多少はマシ、いや妨害されずに幻術も使えるかもしれない。そう思って源吾郎は一人ホクホク顔になっていた。

――だから、周囲の異変に気付かなかったのだ。

 

「……?」

 

 今度のタイマン勝負の事を思い浮かべながら歩いていた源吾郎であったが、とうとう異変に気付き、足を止めた。往来を歩いているはずなのだが異様に静かなのだ。

 源吾郎が歩いているのは住宅街の一角である。繁華街よろしく人が多いわけではないが、それでも何がしかの物音が聞こえてしかるべきなのだ。チワワの怒声とか、猫の啼き声とか鳥のさえずりとか。それらすら一切聞こえない。

 

「こんにちは、いやこんばんはかな。おにーさん」

 

 自分はいつしか結界の中に入ってしまったのだ。いや、自分がいる所に結界を展開されたのだ。眼前に人影が現れたのは、源吾郎がそのように判断を下した直後の事だった。

 

「お、お前は……!」

 

 一メートル半ほど距離を取って佇立する件の人影を、源吾郎は射抜かんばかりに睨みつける。今日も今日とて仕立ての良いワイシャツとスラックス姿であるが、七つのポンポンが連なった首飾りは今日も健在だ。そのポンポンが不穏なのに愛らしさを内包した鳥の頭である事は源吾郎もはっきりと見抜いている。

 源吾郎が迷い込んだ結界の中で出会ったのは、あの八頭怪だった。雉鶏精一派の怨敵であり、そうでなくとも出会う妖怪たちに破滅と混乱をもたらす、忌まわしい使者である。



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甘言跳ねのけ報連相

「八頭怪! 貴様俺の前に何をしに来た!」

 

 源吾郎はわずかに身をかがめて吠えた。このような思い切った態度に出てしまった理由は源吾郎自身にもはっきりとは解らない。ただ、恐怖が裏返ったがための行為である事はうっすらと感じていた。恐怖心を表に出せば呑まれると本能的に感じていたのかもしれない。もしかすると、それこそ玉藻御前の末裔であるという矜持がなせる業なのかもしれないし。

 八頭怪は源吾郎の様子を一瞥し、意味ありげに目を細めた。うっすらと笑みが貼りついたその顔は仮面のようで本心が窺えない。それが却って不気味でもある。

 

「やぁおにーさん。いや玉藻御前の末裔という事で名高い島崎源吾郎君。今日も今日とて元気そうだねぇ。いやはや、ボクも結構な歳だからさ、仔狐ちゃんが元気にキャンキャン啼いてるのを見ると癒されるんだよねー。ほら、君だって仔犬とか仔猫の出てくる動画は好きでしょ?」

 

 幸いな事に八頭怪はにこやかに言葉を紡ぐだけだった。源吾郎を仔狐扱いした所には、萩尾丸以上に相手を小馬鹿にした気配がはっきりと出ている。しかし源吾郎の言動に対して怒りを抱いたり敵意を持っている様子はない。というよりも、歯牙にかけていないと言った方が正しいだろう。

 

「君のしょうもない先輩たちと同じでさ、ボクだって若い子を応援したいって思ってるんだよ」

 

 願い事、あるんでしょ。八頭怪はいつの間にか源吾郎のすぐ傍まで来ていた。細めていた目も見開き、虹彩が暗い玉虫色に揺らぐのが見えてしまった。瞳孔の形は縦長にも横長にも見えた。少なくとも人間のそれとも、既知の脊椎動物のそれとも異なっている。

 

「源吾郎君。君は今戦闘訓練とかで困ってるんじゃないかな? 名門生まれの癖に躾のなってない雷獣の子供があんまりにも強すぎて、負け戦ばっかりでさ……」

「…………!」

 

 朗々と語る八頭怪の言葉に源吾郎は息を詰まらせた。何故彼がその事を知っているのか、と。源吾郎が雪羽と日々戦闘訓練を行っている事、負け戦が重なっている事は雉鶏精一派の面々、それもごく一部しか知らないはずなのに。

 源吾郎は明らかに動揺していた。すきま女のサカイ先輩が見ていたら「心の隙間が増えてるぅ」とでも言いだしたであろう。

 そしてそんな心の動きは、八頭怪にばっちり見抜かれてもいた。

 

「悔しいよね、歯痒いよねぇ? ふふふ。ボクが力を貸してあげるよ。そうすればあんな雷獣なんて目じゃない。何となればショタ狂いの天狗野郎も、マッドサイエンティスト気取りのメス雉だって蹴散らせるくらいの力、キミに分けてあげる事が出来るかもしれないよ」

 

 どうするの? 八頭怪の問いかけが、何重にも重なって聞こえてきた。首許を飾る小鳥の頭たちが震え、嘴を打ち鳴らしている所を源吾郎は見てしまった。耳鳴りではなく、八つの頭が口々に同じ事を言っているのだ。それで重なって聞こえてきたのだろう。

 問いかけに対し、源吾郎の答えははっきりと決まっていた。八頭怪の言葉を聞いているうちに、考えが定まったのだ。

 

「そんなん要らんわボケェッ!」

 

 関西弁丸出しでいささか乱暴な物言いであるが……拒絶こそが源吾郎の返答だった。源吾郎は珍しく目を吊り上げ、再び言い募る。

 

「八頭怪だか何だか知らないけれど、よくもまぁ俺の事を……俺と紅藤様の事を馬鹿にしてくれたじゃないか。お前も知ってると思うけど、俺は、俺はかの誉れ高き玉藻御前の末裔だ。何処の馬の骨とも解らんお前の力添えなんてはなから求めていないんだよ。しかも、俺の師範の紅藤様の事をメス雉だって言い捨てるなんて……」

 

 八頭怪の登場に当惑していた源吾郎であったが、皮肉にも八頭怪自身の言葉が危うい選択を回避する助けになったのだ。師範たる紅藤をメス雉呼ばわりするような暴言に憤怒し、八頭怪の誘いに乗らなかったという話だ。

 ちなみに萩尾丸の方については事実なのでさほど腹は立っていなかったりする。

 とはいえ、状況が変わった訳ではないのもまた事実だ。八頭怪の誘いに乗れば破滅する事は必至なのだが、八頭怪をはねのけたからと言って無事で済むという保証はない。それこそ怒りを買っていたらひとたまりもない話である。

 

「ふぅーん。今は別にボクの力添えは要らないって事だね」

「そ、そうだとも。今も今後も未来永劫な」

 

 八頭怪は今再び目を細め、何か考え事をしているようだった。数秒してから息をゆっくりと吐いている。興醒めした、つまらない。そう言いたげな表情だった。

 

「うーん。面白い子だって聞いていたけれど案外そうでも無かったね。可哀想に。あのメス雉の考えに毒されて、四角四面な考えになっちゃったのかな?

 同じ玉藻御前の子孫でも、玉面ちゃんは中々面白い子だったのに。残念だなぁ」

 

 滑らかな口調で八頭怪が言ってのけるのを、源吾郎は黙って聞いていた。他の玉藻御前の末裔を、それも玉面公主を引き合いに出されるとは思っていなかったのだ。それにしても何故こいつが大伯母の事を知っているのか。やっぱりどっちも大陸出身だから面識があるのだろう。源吾郎はぼんやりと思っていた。

 さてそんな事を思っている間にも、八頭怪の方にも動きがあった。仕立ての良い衣装を身に着けた青年姿はそのままなのだが、その背に二対の翼を顕現させていたのだ。鳥の翼とも蝙蝠の被膜とも昆虫の翅とも異なる、奇怪で冒涜的な翼である。しかしそれでも飛ぶ機能を有しているらしく、八頭怪の姿は少しずつ浮き上がってもいた。

 

「面白いというのは、所詮は自分の思い通りに動くからなんじゃないのか?」

「他妖《ひと》を思い通りに動かしているのは、君の師範だって同じだよ、仔狐君」

 

 八頭怪は既に一、二メートルばかり浮き上がっていた。淡い玉虫色に輝く不気味な翼に目をつぶれば、天使か何かに見えなくもない。

 

「考えてごらんよ? 彼女は胡喜媚の息子でボクの甥でもある胡張安を頭目に据える事が出来なかったから、わざわざ胡喜媚の孫を用意して、そいつを傀儡《かいらい》にして雉鶏精一派に君臨してるじゃないか。

 そう言うろくでもない目論見に気付いていたから、胡張安もあいつの父親も雉鶏精一派から逃げたんじゃないかな? まぁ、ボクはあいつらの事なんて嫌いだけど。特に胡張安なんかは、胡喜媚から時……巻※※……力を受け継いだ癖に、せせこましく暮らしているんだからさ」

 

 玉面公主の次は胡張安だって……一体何が言いたいんだろうか。源吾郎はそう思って声をかけようとしたが、その間に八頭怪は忽然と姿を消してしまった。そのまま上空へと舞い上がって飛び去るのかと思っていたのだが。

 八頭怪との接触は不穏極まりなかったが、ともあれ危機は去ったようだ。というのも、結界に囲まれていた時の異様な空気が消え去り、いつもの馴染みの往来に戻っているのを肌で感じたからである。

 

 

 少しの間状況を確認した源吾郎は、足早に研究センターへと向かった。八頭怪との出会いに動揺していた事もあったし、何よりこの件はすぐに紅藤に知らせないといけないと思っていたからだ。

 源吾郎はややうぬぼれの強い青年である。だが今回八頭怪が源吾郎に恐れをなして逃げたなどと思う程思い上がってはいない。八頭怪は単に源吾郎を見逃しただけに過ぎない。そこにどういった意図があるのかは定かではないけれど。

 

「あらこんばんは。島崎君、だよね」

「あ、紫苑様……」

 

 研究センターの入り口付近にて思いがけぬ妖物に声をかけられた。第五幹部の紫苑である。確かに紫苑も幹部の一人ではあるが、萩尾丸と違って研究センターと直接関係がある存在ではない。

 源吾郎が戸惑って首をかしげていると、たおやかに笑いながら紫苑は告げた。

 

「今日はね、紅藤の伯母様の所で少し話し込んでいたの。ほら、あのお方も色々と大変そうですから」

 

 ()()()と敢えて紫苑が強調したのを聞いて、源吾郎は半ば納得した気持ちになっていた。紫苑が紅藤の姪に当たる存在である事を思い出したのだ。彼女の母と胡張安が異母姉弟であり、紫苑と胡琉安は従姉弟同士だった。紅藤と紫苑は直接血の繋がりがないのだが、紅藤が胡琉安の母親なので、紫苑にとっては叔母と見做せる存在なのだ。

 

「大変と言えば……どうしたのかな島崎君。汗までかいて、とっても焦っているみたいだけど」

「紫苑様っ。僕、今さっき八頭怪に出くわしたんです」

「そうだったの……」

 

 八頭怪。包み隠さず放ったその名に、日頃おっとりとした様子を見せる紫苑も驚きの色をありありと見せていた。彼女も大妖怪の一人と言えども、やはり八頭怪の名を聞いて動揺しているのかもしれない。

 しかし源吾郎の視線に気づくと、ふわりと優しく微笑んだ。姪と名乗っているだけあって、彼女の笑みは何となく紅藤に似ている気がした。

 

「とりあえずは大丈夫そうね……八頭怪がこの辺りにやってきて、君の許に姿を現した事、紅藤様に私から報告しておくわ。だから島崎君。あんまり不安がらないでね」

「報告までしてくださるんですか」

 

 問いかけると、紫苑は笑顔のまま頷いた。

 

「紅藤の伯母様は普段は落ち着いて穏やかだけど、時々烈しい所を見せちゃう事もあるでしょ? 八頭怪の事になったらさすがの伯母様も落ち着きを失うでしょうし、島崎君に割と烈しく問いただしちゃうかもしれないわ。それよりも、私が君から話を聞いて、それを紅藤の伯母様に伝えようと思っているんだけど……どうかな?」

 

 源吾郎は少し考えてから、紫苑に伝言を頼む事にした。紫苑は紅藤の姪であり、紅藤も彼女の事を娘のように可愛がっているらしい。信頼に値する妖物であろうと源吾郎は信じて疑わなかった。




 八頭怪と玉面公主の関係……西遊記では玉面公主の夫である牛魔王が万聖龍王の屋敷に遊びに行く描写がある。九頭駙馬(=八頭怪)が牛魔王と話す描写はないものの、万聖龍王の婿である九頭駙馬と、牛魔王の妻である玉面公主は互いにその存在を知っていたのではないかと思われるし、面識があった可能性も十分に考えられる。
 なお、玉面公主が玉藻御前の娘という設定は拙作中の設定なので注意されたし。


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若狐ひそかに貰うはまじないか?

 普段の源吾郎であれば、日曜日は外出して羽を伸ばす事が多かった。だが今日は本宅である研究センターの居住区に引きこもり時間を潰そうと思っていた。

 それもこれも、昨日出会った八頭怪の存在に恐れをなし、警戒していたがための判断である。いかな源吾郎と言えども、八頭怪の恐ろしさ危険さは知っていたし、それ以上に紅藤が頼りになるとも思っていた。

 源吾郎の今の住処は紅藤の膝元である。紅藤自身は八頭怪の方が自分よりも強いとは言っていたが、それでも他の所にいるよりはマシであろう。何より強大な力を持つ妖怪の庇護下にいるという点でもって、源吾郎は安心できた。

 誰かの庇護下にある事で安堵するというのは、野心に満ち満ちた源吾郎らしからぬ考えかもしれない。源吾郎はしかし、今のおのれの心境については特に疑問は持っていなかった。末っ子であり末っ子気質の抜けない源吾郎は、必要とあらば誰かに甘え頼る事も辞さない男なのだ。

 

「ホップ」

「ポッ……プ」

 

 気まぐれにホップの名を呼ぶと、ホップも啼き返してくれる。ポッ、ポッ、という奇妙な啼き声は別に以上でも何でもないらしい。彼も妖怪化しているので、少しずつ人語を……妖怪の言葉をマスターしつつあるだけとの事だった。時間が経ち妖怪として育てば人語を話す事も変化する事もできるようになると、この前鳥園寺さんが教えてくれたところだ。ただ、彼女は微妙な表情で解説していたのだけど。

 

「今日は一日、まったり過ごそうな」

「プッ!」

 

 源吾郎は言いながら壁に埋め込まれた時計を見やる。朝の放鳥タイムが終わって互いにのんびりしている所だが、まだまだ日曜日としては早い時間帯でもある。兄から貰ったノートパソコンやこの部屋に持ち込んでいる本で情報収集して一日を過ごそうではないか。源吾郎はそう思っていたのだ。

 

 

 誰かが、いや紅藤が部屋の前に来訪したと気付いたのは九時前の事だった。インターホンが押されたとか、ドアがノックされたとか言う事ではない。源吾郎の部屋まで、彼女の妖気がじんわりと届いてきたのだ。それで源吾郎は「紅藤様が来たのだ」と気付いたのだが、そうして気付けた事に少し驚いてもいた。紅藤が妖気を放っていると感じたのは生誕祭のあの場だけだったからだ。

 とはいえ源吾郎は迷わず入り口に向かい施錠を解いた。紅藤が来ているという事は何がしかの用があっての事である事は明らかだからだ。わざわざ紅藤が源吾郎の居住区に赴いたのは初めての事だった。だから余計に大切な用事があると思ったのだ。

 そうでなければ、連絡事を出勤日まで持ち越すだろうから。

 

「どうされました、紅藤様」

「あら、島崎君……」

 

 ドアを開けると案の定紅藤がいた。源吾郎を見て少し驚いた表情を浮かべているようにも見える。先手を打って源吾郎が紅藤に呼びかけたからなのかもしれない。

 

「休みだったんで部屋でくつろいでいたら、紅藤様の妖気を感じましたので……何か大切な用事があってこられたんだと思ったんです」

「明日の事を連絡しようと思って来たの」

 

 源吾郎の言葉を聞いた紅藤は、はっきりとした口調で言い放った。

 

「緊急の幹部会議が入ったから、明日は私も萩尾丸も終日本社の方にいるわ。火曜日も、午後からこっちに来る予定です」

 

 緊急の幹部会議。紅藤を始めとした八頭衆が集まるという会合の話を聞いた源吾郎の脳裏に浮かんだのは、八頭怪のいびつな翼だった。このタイミングに緊急会議と言えばもうそれしか考えられない。何せ普段は会議をサボるという紅藤まで出席するのだから。

 

「やっぱり八頭怪の事ですよね」

「もちろん、それもありますわ」

 

 言いながら紅藤は軽く瞼を伏せた。やっぱり紫苑様は紅藤様に連絡してくださったんだ。何処となく物憂げなその仕草を見ながら源吾郎は思った。

 

「島崎君、八頭怪に会って驚いたでしょうに、きちんと紫苑ちゃんに報告してくれて嬉しいわ。やっぱり、こういう話は私たちで共有しないといけませんから……」

 

 源吾郎の頬が僅かに緩む。嬉しいという紅藤の言葉を聞き、褒められたのだとその時思ったためだった。

 

「――だけど、これからはこういう話はまず私や萩尾丸に直接言って欲しいの」

「あ、すみません」

 

 紫苑が言った事が脳裏をよぎるも、源吾郎は気まずさを覚えて謝罪の言葉が口を突いて出た。紅藤は気まずそうな表情を作り、雉鶏精一派とは一枚岩の組織とは程遠いのだと教えてくれた。八頭衆であっても、場合によっては互いを監視し合い、或いは出し抜こうとしている事もある、と。

 

「今回は紫苑ちゃんだったから良かったですけれど……他の幹部や側近たちの中には、私たちの事をよく思っていなかったり、腹の探り合いを行おうと思っている手合いも一定数存在するのよ」

 

 今回の幹部会議も、表向きの議題は八頭怪の対策会議らしい。しかし真の目的はやはり相手の動向を窺うという色合いが強いのだと紅藤は告げた。

 中々に難儀な話だ。源吾郎がそんな事を思っていると、紅藤がさらに続ける。

 

「あとね、明日は雷園寺君はお休みだから」

「休みって……具合でも悪いんですか」

 

 唐突に繰り出された雪羽の欠席連絡に源吾郎は目を丸くした。金曜日に雪羽を見た時は、健康そのもので特段変わった様子はなかったが。そう思っていると、紅藤が軽く首を振った。

 

「休みと言っても体調不良とかじゃなくて有休を取ってるだけよ」

「そう言う事ですか」

 

 有休。この言葉を咀嚼する源吾郎は思案顔になっていた。入社して半年未満の源吾郎には有休はまだないが、有休というシステムについては何となく知っている。ありていに言えば事前申請すれば休んでも問題ないというシステムである。もちろん病欠に有休を充てる事もあるらしいが、休みたい日に休むという使い方の方がメインのようだ。学校生活での休みと有休は全く異なる物であるとは頭で解っているものの、考えれば考える程不思議なシステムでもあった。

 

「あら島崎君。雷園寺君がお休みで寂しいのかしら?」

「別にあいつが休みだろうと何だろうと気にしませんがね、僕は」

「そうなの。最近休み時間とか二人でくっついてじゃれ合ってるように見えたから」

「…………」

 

 雷園寺君と仲良くなってきたんでしょ? 言外に紅藤に指摘され、源吾郎は何故か気恥しさがこみあげてきて視線を床に向けた。

 紅藤の指摘通り、源吾郎と雪羽はこのところ、休憩時間に行動を共にする事が増えていた。厳密に言えば、雪羽が源吾郎にくっつき、何かと絡んでくるだけに過ぎないのだが。

 源吾郎は雪羽との休憩時のやり取りはかなり受け身に回っているのだが、それでも二人のやり取りが成立している所には源吾郎の態度も関わっていた。完全に拒絶すれば雪羽を追い払う事だってできるのだから。

 そう言った強硬手段を源吾郎が取らなかったのにはいくつか理由がある。雪羽ともめ事を起こせば厄介だと思っている所もあったし、何より彼の保護者達への気兼ねがあったのだ。これからも雷園寺の坊ちゃまと仲良くしてくれたら。三國の側近である春嵐の言葉は、彼や三國の()()が籠められているように思えてならなかった。

 ともあれ、日が経つにつれて雪羽が源吾郎に投げかける言葉も増えていったし、源吾郎も雪羽が絡んでくる事に慣れていった。雪羽は源吾郎の持つ妖狐の能力を聞き出して知ろうと奮起していたが、話題は互いの身の上話や近況に発展する事もしばしばあった。源吾郎の応対はまだぎこちない所もあったが、頬を火照らせて語る雪羽に相槌を打つ姿は、大人の妖怪から見れば十分に仲が良さそうに見える物なのかもしれない。

 

「まぁ心配したり寂しがったりしないで大丈夫よ。明日私たちはいないけど、青松丸やサカイさんはちゃんと研究センターにいますから。二人の指示に従って、困った事があれば二人に相談すればいいわ」

「解りました、紅藤様」

 

 源吾郎が返事をすると、紅藤は今再び笑みを見せてそのまま去っていった。

 

 

 一日中引きこもっておこう、と意気込んだ源吾郎であったが、結局の所ママチャリにまたがり外出する事になった。午後三時を目前とした、昼下がりの事である。

 外出先は図書館だった。九頭駙馬――八頭怪の前身であり、西遊記等に記載があるのだ――について自分が持つ本やネットで調べていたのだが、どうにも限界があると感じたためだった。参考文献を見れば何か掴めるかもしれないと思っていたし、自分が知っている事しか書いていないとも思えた。

 八頭怪ももちろん弱点はある。九頭駙馬だった頃に哮天犬に頭を咬み落とされ、八つ頭の八頭怪に成り下がった。まぁ要するに哮天犬や彼に匹敵する能力の犬がいればどうにかなるという話だ――哮天犬を味方に付けたり、哮天犬クラスの犬を見つけ出す事が出来れば、であるが。

 哮天犬が雉鶏精一派の味方にならないであろう事は、若狐たる源吾郎も重々解っている。むしろ哮天犬は雉鶏精一派の敵ともいえる。かつて源吾郎の曾祖母たちが三妖妃として紂王を籠絡していた時、九頭雉鶏精たる胡喜媚の頭を咬み落としたのは他ならぬ哮天犬なのだから。むしろ雉鶏精一派が今もこうして繁栄できているのは、哮天犬や彼のあるじの()()()()()のためと考えても良かろう。

 また、哮天犬を武力で制圧し従わせるという方法も使えない事は言うまでもない。不意打ちと言えども、哮天犬は単騎で孫悟空にかぶりつき、石でできた頑健な身体を引き倒したのだ。それこそ八頭衆が一丸となって立ち向かったとしてもどうにかなる相手では無かろう。

 何か手掛かりは無いだろうか――そう思って駆けずり回る事が気晴らしになるのかもしれない。知らず知らずのうちにそのような考えに源吾郎は至っていたのかもしれなかった。

 

 

「おや、島崎君だね……」

 

 図書館を出て研究センターに向かう道中。軽く手を挙げたその人物に呼びかけられ、源吾郎は自転車から降りた。自転車を脇に置いた源吾郎は親しげな笑みを見せ、その人物に疑いなく近寄っていく。

 ある意味八頭怪の事でピリピリしていた源吾郎がここまで懐っこい様子を見せるのも無理からぬ話だ。相手は顔見知り、それも紅藤の息子である青松丸だったのだから。青松丸の事は影の薄い妖物《じんぶつ》であると考えていたが、彼の穏和な雰囲気や落ち着いた物腰を源吾郎は好いていた。単に、研究センターの面々が曲者揃いというだけなのかもしれないけれど。

 

「青松丸さん、こんにちは。こんな所でお会いできるなんて珍しいですね」

「こんにちは。もうすぐ夕方になるけれど、まだこんにちはで済むねぇ」

 

 やや畏まった口調で呼びかけた源吾郎に対し、青松丸はのんびりとした調子で応じてくれた。青松丸に近付いた源吾郎の瞳には驚きの色もありありと浮かんでいた。萩尾丸を研究センターの外で見る事は殆ど無かったからだ。そりゃあもちろん、彼も生活のために研究センターの外に出たり、紅藤たちから離れて余暇に勤しんだりしているだろうけれど。

 

「それにしてもどうしたんでしょうか。僕に声をかけてくださったみたいですが」

「ふふふ、島崎君に用があってね……君に渡したいものがあるんだ」

 

 渡したいもの。唐突に言われて首をかしげていた源吾郎だったが、青松丸がバッグから用意したものを見て納得した。薄紫の玉をあしらった、ストラップ状の護符である。源吾郎が護身用に足首に付けている物とほとんど同じように見えた。

 半分とぐろを巻いた小さな蛇のような護符を、青松丸は何のこだわりもなく手のひらの上に載せている。源吾郎に見せつけているようでもあった。

 

「昨夜八頭怪に出くわしたって聞いたからね。師匠の紅藤様が心配して、君のためにわざわざ用意してくれたんだよ。ほら、どうぞ」

「ありがとうございます……」

 

 源吾郎は礼を述べるや否や、その護符を受け取った。少しぬめっているような感じがしたが、特に気にも留めなかった。玉の中には濡れていなくても表面がぬるぬるするものもあるし、手の平の汗や脂をわずかに吸収したのかもしれないし。

 

「前の護符よりも強いやつを用意してくれたから、これからはその護符を付ければ安心できるからね」

 

 そうだ、と思い出したように青松丸が手を伸ばす。

 

「何なら、前の古い護符を僕が回収しておこうか?」

「あ、それは大丈夫ですよ。足に巻いているんで、すぐには取れないんです」

「そっか。それなら仕方ないかな」

 

 護符をミサンガよろしく足首に巻いている。その話を聞いた青松丸は仕方なさそうに、やや困ったように笑っていた。

 

「そうだ島崎君。新しい護符の事は僕たちの秘密だからね。天狗の萩尾丸さんとかに知れちゃうと、新しい護符代を徴収されるかもしれないからね」

「それは大変な事ですね。解りました。秘密にしておきますんで!」

 

 秘密の護符。それを手にしながら源吾郎は妙に胸が高鳴るのを感じた。青松丸は真面目でちょっと陰キャっぽくて面白味が無いと今まで思っていた。しかしこのやり取りを通して、茶目っ気のある一面があるのだと知った気がした。




 まじないというのはダブルミーニングですね。


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狂気へと誘うものはコドクなり ※残酷描写あり

 今回のお話は自傷行為、流血を伴う残酷描写、猟奇的な表現を想起させる描写等々がございます。
 閲覧の際はご注意くださいませ。


 火曜日。源吾郎はすっきりとした気持ちで目を覚ました。月曜日の段階で連絡があったのだが、紅藤たちは昼前に研究センターに戻って来るそうだ。今日は雪羽も出席しているから、昼から戦闘訓練をしてくれるという。前にやったのがパズルを解くようなものだったから、今日はタイマン形式の実戦だろう。

――雷園寺と闘えるのか。ああ、楽しみだなぁ……

 カーテンの隙間から漏れる陽光を見つめ、源吾郎はにたりと笑った。口許から涎が垂れそうになったが気にしない。

 気力体力妖力共に満ち満ちているのを源吾郎は感じた。新しい護符のお陰だろう。昨日はそれほど感じなかったのだが、護符の持つ力が源吾郎に馴染んだ証拠なのかもしれない。

 それに目覚める前に見た夢が、源吾郎を良い気分にさせていた。雪羽と相争う戦闘訓練の夢だ。夢の中で源吾郎は雪羽をやすやすと打ち負かし、ぼろ雑巾のようにずたずたに引き裂いてやったのだ。相手の肉体を引き裂き、吹き出す血潮を浴びながら、源吾郎は夢の中で高揚感を抱いていたのだ。

 

「…………」

 

 源吾郎は寝癖を整えつつ軽く首を傾げた。夢の事を思い返していたのだが、何か()()()を覚えたのだ。ごく自然に考えている事が奇妙に歪んでいるような感覚である。しかし深くは考えなかった。寝起きだから頭がぼんやりしているし、深く考えようとすると、意識の輪郭が薄れる不快感を味わったからだ。

 違和感について考えるのをやめた源吾郎は、空腹を覚えている事を知覚した。既に目を覚まし、鳥籠の中で跳ねまわるホップを見たからかもしれない。とはいえ、源吾郎は別にホップを食べれるだとか、そう言う目線で見ている訳ではない。乱雑に掴めばすぐに仕留められるだろうが、肉の量も妖力の量も全くもって少ないからだ。それこそ、一口食べて終わってしまうような小鳥に過ぎない。

――とりあえず弁当を作ろうか。あ、でもその前に朝飯を食べないとな。冷凍庫にも肉があったから、ちょっと解凍して用意しようか。豚肉は生じゃあ危ないけど、鶏肉とか冷凍マウスだったら半生でも大丈夫だよな。そうだ、ちょっと、いやがっつり肉を齧ってから弁当に取り掛かろう。

 源吾郎は朝食の事を考え、意気揚々と冷蔵庫に向かった。冷蔵庫の脇に置いてある食パン――普段はこれにチーズを添えて朝食としている――は一顧だにしなかった。ともかく今は肉が、特に血の滴るような新鮮な肉が食べたかった。

 小鳥の羽ばたきがせわしく鼓膜を震わせる。何を思ったかホップはバタバタと鳥籠の中で羽ばたいているのだ。しかし源吾郎が振り返って睨むと、小さく啼いて隠れてしまった。

 

 結局のところ、源吾郎は冷凍マウスを電子レンジで無理やり解凍し、解凍した数匹分を朝食にした。電子レンジで解凍する最中にマウスたちは爆ぜて中身があらわになっていた物もあったが、源吾郎は気にせず頬張った。今まではそういう物を見るのを気持ち悪いと決めつけていた節があった。だが今は、何故かつての自分がそう思っていたのか不思議でならなかった。

 普段のでは考えられぬほど雑で生臭い食事だったのだが、源吾郎はこの食事に満足し、ついで落ち着いた気持ちになったのだ。おのれの考えや感覚に対する歪みのような違和感も綺麗に消え去り、文字通り爽やかな朝を満喫できていた。

 ああ、今日は本当に良い日になりそうだ。一日中天気も良いみたいだし。戦闘訓練にうってつけだろうな。ああ、早く戦闘訓練を殺《や》りたいなぁ。こちとら力もみなぎってるし、雷園寺の血を見る事も出来る気がする。運が良ければ仕留める事も出来るかもしれない。仕留めたら良いご馳走になるだろうなぁ。やっぱり妖怪は他の妖怪を血肉にして強くなるんだから。

 小鳥の啼き声も聞こえぬほどに静かな室内にて、源吾郎はひとり考えを巡らせ悦に入っていた。

 

 

 源吾郎がいつもより早く出社したのは、朝のルーチンに費やす時間が普段よりも短くて済んだからだ。具体的に言えば、今朝はホップの放鳥タイムが無かったという事である。

 通常であれば、ホップは鳥籠から出してくれと言わんばかりに源吾郎の方によって行ったり啼いたりして主張するのだが、何故か今日に限ってそのような行為が一切なかった。というよりも、世話をしている間中ホップはつぼ巣の奥に引っ込んでいたのだ。何かに怯え、様子を窺うように。

 ホップの妙なほどに卑屈で臆病そうな態度について、源吾郎は特に思う所は無かった。妖力を得たと言えども所詮は臆病な小鳥に過ぎないのだと鼻で笑う位だった。まぁ、雑念に囚われずに世話に専念できたから良しとしよう。

――無駄に手に縋りついてうろうろされれば、思わず握りつぶしていたかもしれないから。

 

 そうこうしているうちに始業時間となった。源吾郎は青松丸に命じられ、午前中は消耗品の準備を行う事になった。日頃は内気で研究室の影に潜んでいるような青松丸であるが、責任者が不在なので代表らしくサカイ先輩や源吾郎たちに指示を出し、自分も時々工場に赴いて様子見をしているようだった。

 その青松丸は、源吾郎が手に巻いている護符を見て何故か不思議そうな表情をしていた。早速護符を付け替えたんです。日曜日のやり取りを思い出しつつ源吾郎が言うと、微妙な表情で頷くだけだった。妙に素っ気ない態度の青松丸に引っかかるものを感じたが、秘密裏に渡された護符の事を話題にしているからだろうと源吾郎は勝手に納得していた。ちなみに源吾郎も約束を守って護符を新調した事は誰にも言っていない。特に今日は雪羽がいるから、尚更注意せねばならないだろう。

 

 

「どうしちゃったんですかぁ、島崎先輩。カッターの刃先なんかじろじろ見つめちゃってさ」

 

 右隣から聞こえる雪羽の声で源吾郎は我に返った。二人で並んで消耗品の準備をしていたのだが、雪羽の指摘通りカッターの刃先を凝視し、動きがおろそかになっていたのだ。

 コピー用紙サイズのフィルムをカッターで切り分け、名刺サイズの物に調整する。源吾郎たちはその作業を行っていた所だった。

 声をかけられた源吾郎は、視線を刃先から雪羽に向ける。有休を使って三連休を満喫した彼は、いかにも元気そのものと言った風情である。色白であるが頬はほんのりと紅潮しており、血色も良さそうだ。顔であれ何処であれ、薄皮を切り裂けば瑞々しい肉と血が露わになる筈だ。

 ぐっと湧き上がってきた衝動を押し隠しつつ、源吾郎は雪羽に応じようとした。源吾郎には演劇部で培ってきた演技力が具わっている。血肉を欲する渇望も、それこそ猫を被って押し隠せば良いだけの話だ。

 

「いや、ちょっと考え事をしててさ」

「ふーん。ま、島崎先輩も色々と考えてそうですもんね」

 

 そう言った雪羽は再び自分の手許に視線を向けていた。彼が切り分けたフィルムのサイズは均一で、きっちりとした長方形だった。雪羽は案外手先が器用なのだ。日頃の彼の言動を鑑みるとその特徴は意外な物であるのだが、こうして作業をしているのを見ていると不思議と違和感のない姿でもある。

 雷獣というのは愚鈍な分直感力に優れているという。雪羽の手先の器用さや密かな審美眼の良さも、その辺りに由来する事なのかもしれない――それが、直截的な強さに関わるか否かは別問題だが。

 源吾郎はとりあえず指示に従って動く事にしておいた。作業そのものは退屈であるが、集中していたら時間が経つのも早く感じるだろう。それに今まで通り大人しく振舞っていれば、萩尾丸が戻ってきて戦闘訓練の準備をしてくれる。その時に存分に暴れれば良いのだ……自分が優位に立って相手をいたぶるとき、雪羽がどんな顔をするのか。雪羽がすぐ隣でいるのを承知の上で、残忍な空想に耽っていた。

 フィルムを切り分けるささやかな音だけが聞こえてくるだけだった。青松丸は工場のミーティングがあると言ってそちらに向かっているし、サカイ先輩はすきま女故に何処かに潜みつつ仕事をこなしているらしい。

 源吾郎が邪悪な考えに浸っている事にまず気付くとしたら雪羽であろう。しかし愚鈍で単純な彼は、隣の妖狐がどのような事を考えているのか、気にも留めていないようだった。

 

「あっ……痛っ……」

 

 単調な作業を一変させたのは、雪羽が声を上げたからだった。痛っ、と言ってはいるものの、雪羽は痛みよりもむしろ驚きで声を出した感じである。それでも血の臭いが既に漂い始めている。

 どうした。猫を被って尋ねる前に源吾郎は既に雪羽を見ていた。何をどうしたか、刃物を操る手許が狂ったのだろう。雪羽の指先が僅かに切れ、血の玉が浮かんでるのを見てしまった。

 様々な物がセピア色にくすんで見える中にあって、雪羽の流した血だけがやけに鮮やかに源吾郎の網膜に焼き付いている。血……鮮血の甘く芳醇な香り……妖怪の糧……ああ、あんなに美味しそうなものを見せつけているんだ。こちらとて遠慮も我慢も要らないだろう。

 

「雷園寺……そんな、俺の前で血を流したりするなんて迂闊だなぁ……」

 

 思うより先に身体が動いていた。指先から流れる血を眺める雪羽に躍りかかり、おのれの爪で彼を引っ搔いたのだ。源吾郎の手指も爪も平素は人間のそれであるが、変化術を知っているがゆえにいかようにも変化が効く。半ば無意識的に、源吾郎はおのれの右手を獰猛な獣人のそれに変えていたのだ。無論鉤爪の威力は言うまでもない。

 右手の爪の先に、肉が当たりその繊維を分断する感触が伝わっていく。それは源吾郎の攻撃が成功し、呆然とする雪羽が攻撃を甘んじて受けた事に他ならなかった。爪で切りつけ裂いた場所は腕の外側だった。飛沫のように血が飛び散っただけなので、動脈や太い血管を傷つけるには至らなかった。それでも、血の色を見て源吾郎は喜び、また渇望してもいた。もっとだ。もっと見てやらないと。

 

「な、何してんだよ!」

「ッ!」

 

 しかし源吾郎の追撃は叶わなかった。まず感じたのは全身を麻痺させるような痺れだった。雪羽が至近距離で雷撃を放ったのだろう。強い電流には筋肉の動きを止める作用があるというが、まさにその通りだった。

 次に胸のあたりに何かがぶつかったような感触があった。雪羽が胸のあたりを殴ったか突き飛ばしたのだと悟ったのは、横転して背や腰、そして頭をしたたかに打ち付けた後の事だった。

 リノリウムの硬い床に頭をぶつけた源吾郎は、雪羽の事も忘れてしばし転げまわっていた。文字通り割れるように頭が痛む。だがそのうちに様々な考えが脳裏を駆け巡り、それからふいに悟った――自分が今、異常な状況にあるという事を。

 今日の源吾郎は、異様に血肉を好み、また残忍な事を行おうと目論んでいた。しかしそれは源吾郎自身の意思に由来するものではなかったのだ。

 それでは、何がおのれを駆り立てているのだ? そこまで考えた時、源吾郎は胸を抑えた。妖怪の体力故か打ち付けた頭の痛みは治まっている。しかし何かがおのれの中で暴れ始めているのを感じた。自分ではない何かが自分の中に巣食っている。それが血と暴力を欲しているのだ、と。

 

「ら、雷園寺っ!」

 

 顔を上げて源吾郎は雪羽に向かって叫ぶ。血で濡れた腕を押さえながら雪羽は源吾郎を見下ろしていた。表情は解らない。怯えているのか憎悪の眼差しを向けているのか能面のような表情なのか、今の源吾郎には判断できなかった。

――何ヲモタモタシテイル。狐風情ガ逆ラウナ

 

「血……俺に……モットヨコセ……近づくな。……肉ト臓物ヲ……お前が危な……喰ラッテ……逃げるか……先輩を呼んでくれ」

 

 内なるものは既に、源吾郎の中で大人しくするのを良しとしなかった。源吾郎が口を開くと、図々しくも割り込んで、源吾郎の口を借りて意思表示しようとする始末である。このままでは、オロオロする雪羽を本当に襲いかねない。

 未だに床を転がりながら、源吾郎はおのれの尻尾を一本ひっつかみ、牙を突き立てた。鋭い痛みに気が遠くなりそうだったがその行為に躊躇いは無かった。自分で自分に被りつくのは正気の沙汰とは言い難い。しかしそうでもしなければおのれに巣食う化け物を抑える事は出来ないだろう。唇や舌を細かい毛が刺激して気持ち悪い。モケモケした硬い毛の間から血と生肉の味がするのももっと気持ちが悪い。尻尾から口を放した源吾郎は、今度はおのれの腕に噛みついた。痛みは尻尾よりも鋭い。ついでに言えば血の味が気持ち悪い事には変わりはない。

 

「島崎君! しっかりして!」

 

 誰かの、雪羽以外の何者かの声が鼓膜を震わせる。触れられていないにもかかわらず動きが封じ込められ……おのれから何かが引きずり出されるのを源吾郎は感じた。引きずり出されている際には痛みや不快感は無かった。むしろ何も感じない所が不気味であると言った所か。

 

「サカイさん! あれってもしかして……」

「あ、アレは蠱毒じゃない。でも、どうして島崎君の中に……?」

 

 いつの間にか拘束も引きずり出される感触も収まっていた。源吾郎は半身を起こし、声のする方に視線を向ける。駆けつけて処置してくれたのは姉弟子のサカイ先輩だった。彼女はローブの端から奇妙な触手を繰り出して何者かを拘束している。

 源吾郎の視線はその何者かに釘付けだった。それは中型犬ほどの大きさのある、奇怪な生物だった。蠱毒と呼んでいたに相応しく、それは数種類もの蟲や爬虫類を掛け合わせたような奇怪な姿を取っている。胴体は芋虫なのにムカデの脚や蜥蜴の前足を具え、背には蝦蟇のイボを生やしていると言った塩梅である。また悍ましい事に、サカイ先輩に拘束されつつもその姿を変えつつあるのだ。細長く伸びたり、丸まって膨らんだりしているのである。

 そいつは源吾郎の視線に気が付くと、そちらに向けて身体の一部をぬーっと伸ばしてきた。膨らんだ先端が花開くように裂けて、そこから小さな狐の顔が出てきたのである。

 笑う狐の顔を見た源吾郎は、事もあろうにその顔に()()()()を覚えてしまった。その数瞬後、源吾郎は蠱毒の気味悪さとおのれの考えのちぐはぐさと今の状況にこらえきれず嘔吐を繰り返し、力尽きてその場に伏せて失神した。



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雉仙女 瞋恚の焔を宿すなり

 蠱毒とは日本や大陸に古来より伝わる呪いの術である。所謂丑の刻参りに較べれば知名度はやや劣るかもしれないが……呪いの内容・効力に関しては丑の刻参りにも劣らない程である。いや、物によってはより凶悪な術であると呼んでも遜色は無いだろう。

 蠱毒の術の悍ましさや強力さに関しては、その製法を鑑みただけで察しが付く。字のごとく無数の蟲や小動物を用いて造り出す術なのだ。密閉空間にて互いを喰らい合う地獄の中を生き抜いた最後の一匹こそが、この外法の術で扱う蠱毒となる。蠱毒の基となる生物はおおむね蟲や蜥蜴や蛇などの小動物である事が多いが、恐るべき事に犬や猫が使われる場合も珍しくない。それらは犬神・猫鬼と呼ばれて区別されるが、本質的には蟲毒と変わりない。

 そうして生み出された蠱毒は、あるじに富や名声をもたらすために利用されるという。その蠱毒があるじにもたらすものが、血生臭く忌まわしいものである事は言うまでもない。蠱毒そのものが血肉に餓えているからだ。むしろ定期的に生贄を用意せねばあるじとて喰い殺される恐れもある。

 だからこそ蠱毒は外法中の外法として忌み嫌われ、各地で弾圧されてきた。

 

 妖怪たちにとっても蠱毒は危険な存在である。直截的に蠱毒に襲われて命を落とす事も若い妖怪ならばあり得る。また逆に蠱毒を喰い殺して取り込んだとしても、生半可な妖力しか持たぬ妖怪であれば、毒気に侵蝕されて自身が新たな蠱毒になる事も十分に起こりうる。

 島崎源吾郎がその身に受けた()()()()とは、そのような物だったのだ。

 

 

 ゆっくりと目を開いた源吾郎は、焦点が定まるまでの間に三、四度瞬きを繰り返した。動きは緩慢だが、頭の中では色々な考えが目まぐるしく浮かんでは消えていく。まず、自分がさっぱりしたような爽やかな香りに包まれている事に気付いた。ゲロまみれの床の上に顔面から倒れ込んだにも関わらず、である。

 次に思っていたのは夢の余韻の事だった。長い夢を見ていた気がする。ぬかるんだ薄暗い道を自分は歩いていた。何かを探して、或いは何かに追い立てられながら。辿り着いた先の花畑には、獣と蟲と蛇を無理やり継ぎ合わせたような化け物を手なずけていた男がいた。その男は源吾郎の大伯父であり八頭怪でもあった。化け物は源吾郎にすり寄り、何か恐ろしい事を言っていた気がする。だがそんな連中に白い毛皮の大きな獣が飛びかかって喰い殺し、忌まわしいものを灰燼に戻してくれた。その獣は八頭怪の天敵である哮天犬《こうてんけん》かとまず思った。しかし長い尻尾を九本持つ、オスの九尾だったのだ。前に出会った九尾様だ。夢らしい支離滅裂さでもって源吾郎は安堵し――そこで目を覚ましたのである。

 

「島崎君……」

 

 呼びかける声が斜め上から聞こえ、源吾郎はのろのろと半身を起こした。傍らには紅藤が座っていた。普段通りに笑みを浮かべているが、憔悴と疲労の色が見え隠れしている。身体のあちこちが微かに痛むのを感じながら、源吾郎は渋い表情で彼女と向き合った。

 

「申し訳、ありません……」

 

 源吾郎の口から出たのは謝罪だった。紅藤は微動だにせず彼の言葉を促している。

 

「会議でお忙しい最中だというのに俺、変な事をしでかしてしまいました。しかも、雷園寺を傷つけて……」

「……落ち着いて。大丈夫。大丈夫だからね島崎君」

 

 紅藤が上半身を前に寄せ、源吾郎に語り掛ける。悪夢にうなされた幼子をなだめるような口調だった。雷園寺は何処にいる――? 源吾郎は一瞬視線を左右に振り、雪羽の姿を探した。しかしそれらしい影は見つからない。

 

「結論から言うと、二人とも肉体面では大事に至らなかったわ。雷園寺君の方は治療している時には既に傷も塞がっていました。むしろ怪我の程度は島崎君の方が重かったわ。何しろ蠱毒の毒気にあてられていた上に、打撲や咬み傷もあったから。

 あ、でももう大丈夫よ。毒抜きもこちらでしっかり行いましたし、傷の消毒や治療も済んでいるわ。治るまでには少し時間がかかるでしょうから、くれぐれも無理をしないようにね」

 

 ありがとうございます。源吾郎は礼を述べて頭を下げたが、すぐに顔を上げて紅藤を見た。

 

「蠱毒って、俺の身体から出てきたアレですよね……?」

 

 そうよ。紫の瞳を輝かせて紅藤は短く応じる。笑みを浮かべているはずなのに、何か冷え冷えとしたものを感じた。

 

「今更かもしれないけれど、蠱毒についておさらいしましょうか。蠱毒とは恐るべき呪いの術。無数の小動物を喰い合わせた末に生き残った一匹を使役する外法の術よ。概ね富や名声を得るために、もっと言えば望みを叶えるために使うそうですが……あるじすらも喰い殺すようなモノを扱う訳ですから、正道の術とは言えないわね。

 だけど安心して頂戴。アレは私の方で平らげました。持ち主を特定するために一部サンプルを残しておりますが、アレの九割九分九厘は私が美味しく頂いたから、もうアレが何者かを害する事はありません」

「食べたんですか、アレを!」

 

 思いがけぬ言葉に源吾郎は目を白黒させる。紅藤の指摘通り、源吾郎も蠱毒の危険性は知っている。だからこそ蠱毒を捕食したという紅藤の言が信じられなかったのだ。そりゃあもちろん、ある程度の術を心得た妖怪であれば、蠱毒を斃す事は可能である。味等々を度外視すれば食べる事も出来るだろう。しかし迂闊に蠱毒を捕食すれば、蠱毒の持つ毒気や呪詛に侵蝕されるのがオチだ。

 間違っても、「スタッフが美味しく頂きました」みたいな()()()()()で食べていい代物などではない。

 

「私については心配いらないわ。まぁ、たまにはあんな()()()も良いかもって思ってるわ。サカイさんが欲しがってたけど、あの娘にはちょっと危ないから食べさせてないし」

「…………」

「うふふふふ。あの蠱毒は蟲がベースですから、鳥妖怪の私とはある意味相性が良かったのよ。それにね島崎君。蠱毒を捕食した私が蠱毒に害されないかという心配は、バケツ一杯の溶岩を瀬戸内海に流したから、瀬戸内海が干上がらないかって思うのと似ているわ」

 

――安心して良いのかどうか解らん

 穏やかな笑みを浮かべる紅藤を見ながら、彼女の身の安全について思いを馳せるのを打ち切った。彼女の言動については色々と突っ込みたいところはあるが、大丈夫と言い張るのならば大丈夫なのだろう。思えば彼女は遊び感覚で白銀御前と互角に闘い、莫大な妖力で工場のメンテを行っている。大妖怪という枠組みからもはみ出すような御仁なのだ。

 そんな事を思っていると、紅藤は真面目な表情になった。

 

「アレの出所についてだけど……」

 

 出所。この言葉に源吾郎はすくみ上った。紅藤から質問を受けるであろう事は寝起きの源吾郎であっても既に予測済みである。原因究明のために紅藤が事実を知りたがっている事は解り切っているが、本当の事――青松丸から貰った護符が異変のきっかけであるというべきか否かと源吾郎は思い悩んでいた。

 青松丸が紅藤の息子であり、能力云々を差し置いて弟子たちの中で特別視されている事は知っている。その彼が源吾郎を害する行動をしたと知れば、紅藤はひどく葛藤するであろうと。

 ところが、紅藤はそんな源吾郎の悩みなど気付いてない様子だった。

 

「アレは島崎君が手首に付けていた護符に、いえ護符モドキに宿っていた物ですわ。日曜日の午後に、青松丸と――私の息子と()()()()から受け取った物でしょう」

「――!」

 

 予想に反し、紅藤は出所を問いかける真似はしなかった。彼女の口から出てきたのは事実確認のようなものだった。何故彼女が、実際に見聞きしていないはずの事柄を知っているのか。疑問はあったがそれこそ追求しようとは思わなかった。

 何せ相手はチート(イカサマ)能力持ちの紅藤なのだ。秘蔵っ子たる仔狐の行動を知る事など造作もないのだろう。

 

「ごめんね島崎君!」

 

 素っ頓狂な声を上げて姿を現したのはサカイ先輩だった。すきま女よろしく何処かに潜んでいたのだろう。彼女はせわしく紅藤と源吾郎とを交互に見ている。

 

「勝手に島崎君の記憶を覗いて、個人情報の一部をお師匠様に横流ししたのは、わたしなの。島崎君も、雷園寺君も、蠱毒のせいで精神的ショックが凄かったから、わたしが、少しマイナスの感情を取り込んだの。その、蠱毒はお師匠様が独り占めしちゃったし。それで、その時にちょっと島崎君の記憶を探ったの。蠱毒を受け取ったきっかけ、わたしたちも知らないといけなかったから」

「いえ、大丈夫ですよサカイ先輩。むしろ色々と気を使って頂いて嬉しいです」

 

 たどたどしくも雄弁に語るサカイ先輩に対して、源吾郎は小さく頭を揺らして応じる。個人情報流出については特段気にしていない。そもそも紅藤の膝元で暮らす事になってから、そう言ったものを棄てねばならないと覚悟を決めた所である。それよりも色々な事が腑に落ちた気分になり、源吾郎は一層落ち着いてもいた。すきま女であるサカイ先輩は日頃から心の隙間を探しているという。そんな彼女であれば、相手の心を読む事も造作ないだろう。また、負担にならないように負の感情を吸い取ってくれた事についても素直に感謝していた。

 そう思っていると紅藤が紫の瞳を輝かせた。瞳の奥に、烈しい焔が揺らめくのを見出した気がした。

 

「島崎君もあなたの記憶を読み取ったサカイさんも、日曜日の午後に出会ったのは青松丸だと思っているみたいね。だけどね島崎君。あなたが出会い、蠱毒入りの魔道具を渡したのは青松丸ではありません。青松丸に成りすました何者かなのよ。

――もちろん、青松丸にはアリバイがあるわ。身内だからそう言ってるわけじゃないの。物的証拠だってきちんとあるし」

 

 言うや否や、紅藤は何処からともなく愛用のタブレットを取り出した。映し出されているのは青松丸がくつろぐ様子である。彼の自室だろうか。しかし特筆すべきは画面の右下に表記されている日にちと時間だ。それはまさしく、源吾郎が青松丸と思しき人物から「護符」を受け取っていた時間帯だった。

 

「これはまぁ研究センターの各地に配備している監視……いえ安全カメラの術式が捕らえた映像よ。もちろん画像の改竄《かいざん》が出来ないような術も機能しています。青松丸は日曜日あなたには会っていない。もちろん護符を渡したりなんかしてないわ。彼の無実については解ったでしょ」

 

 源吾郎は小さく頷くしかできなかった。ついでに言えば傍らに控えるサカイ先輩も押され気味である。サカイ先輩の報告を聞いて、青松丸に掛けられた嫌疑を晴らそうと紅藤が思うのは当然の事だ。しかしそのために、若干躍起になっているような気配も見受けられた。

 源吾郎たちがただならぬものを感じている事に気付いたのだろう。紅藤は晴れやかな笑みを貼り付け、こちらを見た。

 

「青松丸に扮し、島崎君に蠱毒を押し付けた輩については、あなた達は何も気にしなくて大丈夫よ。私の方から直々にあぶり出して――潰して差し上げますから」

「…………」

 

 頷く事も視線を逸らせる事も出来なかった。紅藤はにこやかな笑みを見せながら今後自分がどうするかを述べたに過ぎない。笑みは晴れやかでその口調には優雅さすら感じられた。しかしだからこそ、彼女の裡に潜む怒りの強さ烈しさが際立った。

 紅藤の瞳の奥で揺らぐもの。それはまごう事なき瞋恚《しんい》の焔だったのだ。

 

「私の弟子に危害を加えた事だけでも腹立たしい事ですのに、ましてや相手は青松丸に化けていたのよ。島崎君を騙し、しかも青松丸を陥れる魂胆でね。

 良いかしら? 青松丸に化けて悪事を働くという事は、私たち親子への侮辱だけではなく、雉鶏精一派への明確な挑発行為に繋がるのよ? 確かにあなた達から見れば、青松丸は研究センターの大人しい先輩にしか見えないかもしれないわ。だけど忘れないで。青松丸は雉鶏精一派の頭目・胡琉安様の兄であるという事を。八頭衆の一角になっていたかもしれないし、摂政として頭目を支えていたかもしれない。そう言う地位と能力の持ち主なの。

――ともあれ、今回の案件については私が動きましょう。荒事は峰白のお姉様や萩尾丸が得意かもしれませんが、私自身がやらないと気が済まないわ」

 

 この時の紅藤は、心からの笑みを浮かべていた。その事に気付いた源吾郎だったが、どうにもできずに引きつった笑みを浮かべるのがやっとだった。病み上がりという事もあるが、紅藤の妖怪らしい一面を目の当たりにして当惑していたのである。




瞋恚の焔:燃え上がるような激しい怒りや憎しみ、怨みの事。
瞋恚とは仏教用語で自分の心に逆らうものを怒り憎むことである。


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雷獣は笑顔で本音を押し隠す

「紅藤様、紅藤様。お気持ちは解りますがあんまり気張らないでくださいよ」

 

 萩尾丸は部屋に入って来るなり、紅藤を見やりながらそう言った。口調は相変わらず軽いものであるが、その眼差しや口許には真剣そうな気配が珍しく漂っている。

 紅藤が何か言い返そうとするのを前もって察したらしい萩尾丸は、更に言葉を続けた。

 

「青松丸さんに扮した偽者に関しましては、僕の方から地元妖怪や地元の術者たちに情報を回しておきました。紅藤様が()()()()()()()()だって事はちゃんと伝えてるからさ、すぐに彼らが動いてくれるんじゃないかな」

「激おこぷんぷん丸って、なんか可愛い表現ですね……」

 

 萩尾丸の言葉に驚きを覚えた源吾郎は、素直に思った事を口にしていた。源吾郎は激おこぷんぷん丸という言葉を、この流れで萩尾丸が使った事に驚いていたのだ。彼が根回ししていた事に対する驚きはない。

 

「可愛い表現を使わないと、こちとらやっていけないんだよ」

 

 源吾郎の微妙なツッコミに、半ば呆れながら萩尾丸は言い返す。

 

「島崎君。雉鶏精一派で恐ろしいのは峰白様だけだと思ってたら大間違いだからね。我らがセンター長の紅藤様だって……」

 

 恐ろしいお方なんだからね。萩尾丸はそこまでは言わず言葉を濁しただけだった。源吾郎は萩尾丸や紅藤を見やり、微妙な表情で頷いておいた。今しがた静かに怒りを見せる紅藤を見た所であるから、彼女の秘めたる恐ろしさはよく解っていた。

 

「紅藤様。まぁ下手人を粛清するという心づもりである事は解っているのですが、誰の差し金なのか、目星は付いてらっしゃるのでしょうか?」

「第一候補として八頭怪でしょうね。私どもをここまで愚弄して挑発し、尚且つ外法さえ使っているのですから。マトモな組織がバックにいるとは考えられません」

「確かにマトモな連中なら、外法に頼らずに私兵を率いてこちらを潰しにかかるでしょうし」

 

 

 紅藤と萩尾丸はしばし源吾郎の存在そっちのけで意見交換を繰り返していた。源吾郎はぼんやりと聞いていたが、三國の名が何度か彼らの話題の中で上がっていたのははっきりと聞いた。

 そしてややあってから、所在なさそうな源吾郎に気付いて声をかけたのである。

 

「島崎君も落ち着いたみたいだし、雷園寺君に会わせようか」

 

 雷園寺の名を聞いて、源吾郎の表情が強張った。雪羽と顔を合わせねばならない事はもちろん解っている。しかしいざその段となると情けなくも緊張し、そして会うのが怖いとも思っていた。

 何せ蠱毒に侵蝕されていたとはいえ、源吾郎は雪羽を傷つけたのである。紅藤は軽傷であると言っていたが、問題はそこではない。

 端的に言って、雪羽が自分を憎んでいるに違いないと思っていたのだ。あの雪羽に憎まれているのではないか。その事で動揺しているのは自分でも不思議だった。自分は特に、雪羽の事を友達のように思っている訳ではないのに、と。

 

「雷園寺君の事について、島崎君が心配する事は無いわ」

 

 源吾郎の戸惑いに気付いたのか、紅藤が静かに言い添えた。

 

「雷園寺君が今回の件で島崎君を憎んでいるという事は無いから安心して頂戴。蠱毒に侵蝕されていると聞いて、あの子はすぐに事情を悟ったみたいなの。あまりにも聞き分けが良いから、むしろこっちが()()になるくらいにね」

 

 最後の一文を付け加えた時、紅藤は物憂げな表情を源吾郎たちに見せていた。

 

 

「うん。俺は大丈夫だよ島崎君。いうてちょっとした引っ掻き傷みたいなもんだし」

 

 悪友を前にしたかのような口調と表情で語る雪羽を前に、源吾郎の視線は一点に向けられていた。傷を負った彼の左腕である。紅藤たちが控えているためか、いつもの修道服――あの時も着ていなかったのだが――を着用せず、会社員らしく半袖のワイシャツとズボン姿であった。ほっそりとした腕に巻かれた白い包帯を、源吾郎は痛ましいものを見るような眼差しで眺めていた。無論謝罪した。だが雪羽は気にしていないと言わんばかりに受け流したのである。

 源吾郎を憎んでおらず、尚且つ蠱毒にあてられた事情も把握している。そう聞かされてはいたが……雪羽の陽気な態度には何処か不気味さ不自然さを感じずにはいられなかった。

 

「俺がさ、好き放題に遊んでたって事は島崎君も知ってるだろ? その時に繁華街とかをぶらつく野良妖怪共と闘って……殺し合いごっごとかもやった事があるんだ。そん時に較べれば今回の傷なんて可愛い物さ。カマイタチの野郎にバッサリ斬られた事もあるしね。まぁ斬られた後にきっちりシメてやったけど」

 

 包帯を撫でながら笑う雪羽を、源吾郎は半ば驚きの念をもって眺めていた。殺し合いごっこという不吉な言葉にまず驚いていた。それから……タイマン勝負で雪羽が今もなお優位に立つ理由をはっきりと悟ったのだ。総合力は源吾郎の方が勝るのだろうが、経験値が段違いではないか、と。ちょっとした悪意にさえ尻込みをするヘタレ野郎と、殺し合いに近い決闘を遊びと称するチンピラ小僧。どちらに軍配が上がるかは明らかな話だろう。

 その殺し合いごっことやらで手下や取り巻きを得ていたのだと、雪羽は付け加えた。その面には誇らしげな笑みが浮かんでいたが、それでいて何処か寂しげでもあった。

 

「三國の叔父貴は、闘って強くなる事とか、それで手下が出来る事は良い事だって言ってくれてたんだ。春兄《はるにい》、春嵐《しゅんらん》さんからはそんなの野蛮だからやめなさいって言われてたんだけどな。

 まぁ、そんな風に殺し合いみたいなのには実は慣れてんだよ。俺も雷園寺家の当主候補だし、歳喰ってるってだけの雑魚に見下されたりしちゃあ黙っていられない訳。それで、そうやって力を見せたら雪羽様って慕ってくれるし、良い事づくめだなって思ってたんだ――そいつらは、俺が叔父貴から引き離された時点でみんな離れちゃったけどね。あ、でも別にそれも気にしてないよ? 所詮は力で従えただけだって、俺も解ってたから」

 

 いつの間にか自分の取り巻きについて熱弁を振るう雪羽を、源吾郎は微妙な眼差しで眺めていた。取り巻き連中の裏切りについて自分は傷ついていない。これが雪羽の本心なのか強がりなのか源吾郎には解らなかった。ただ源吾郎の脳裏には幹部会議での光景がぼんやりと浮かぶだけだったし、どちらにしても寂しい事だと思えてならなかった。

 源吾郎の視線に気づくと、雪羽は一瞬だけ真顔になり、それからまた笑みを作った。

 

「まぁ、そんな感じで俺は気にしてないから。だから島崎君。後ろめたいとかそんな事は思わないで、これからも普段通りに接してくれれば大丈夫だよ。だって君は――」

「お前が気にしなくても、俺は気になるんだよ!」

 

 源吾郎は思わず声を上げてしまった。雪羽の顔から笑みが消え、驚いたように目を丸くした。源吾郎自身は雪羽が目を瞠るのを確認すると目を伏せた。突発的に言い返してしまったが、次に何を言えば良いのか、それは解らなかったからだ。

 雪羽自身が大丈夫だと言い張って流してくれるのは、源吾郎にとってはありがたい事なのかもしれない。しかしありがたい事として素直に受け流す事が源吾郎には出来なかった。蠱毒があるじの願いを叶える。この文言が源吾郎の心中に突き刺さっていたのだ。もちろんあの時の源吾郎は正気とは言い難かった。雪羽を襲ったのも、血肉に餓えた蠱毒に操られての事だろう。しかし、雪羽を打ちのめしたいと()()()()()()()()()()()()()()

 おのれの心の暗部をまさぐっていた源吾郎は、手許に伝わる感触で我に返った。所在なく組んでいた手の甲に、暖かく滑らかな物が触れていた。雪羽が静かに手を添えていたのだ。源吾郎の手に触れる程に近付いており、顔を上げるとすぐ傍に雪羽の顔があるという状況だった。

 

「お願いだからそんなに自分を責めないでくれ。俺も……俺も蠱毒の恐ろしさは知ってるんだよ」

 

 雪羽の物言いは先程までとは異なっていた。明るくおどけた調子はなりを潜め、ただただ切迫したものが言葉の端々に漂っている。

 

「雷園寺家当主だった俺の母さんは、蠱毒で死んだんだ」

 

 翠眼を揺らしながら雪羽は語る。原因が蠱毒であると知った時、雪羽はその事情を即座に悟った。紅藤が先程そう言っていたのを源吾郎は思い出した。

 

「その蠱毒とやらはな、本当は俺や弟たちや妹を狙ったものだったらしいんだ。ご丁寧に子供向けのおもちゃに仕込んでいたんだからさ。本当なら俺たちが襲われるはずだった、の、を……母さんが……」

 

 表向きは事故死って事になってるよ。雪羽はやるせない笑みを浮かべていた。

 

「本当の事は俺たちしか知らないんだ。もちろん、三國の叔父貴も知らないよ。そんな話してないもん。叔父貴は知らなくていい話なんだから……」

 

 だからさ、俺には解るんだ。一呼吸置いてから雪羽が続ける。

 

「島崎君は単に蠱毒に取り憑かれておかしくなってただけで、俺を襲った事について島崎君自身には何の罪もないってな。そもそも俺だってぼんやりしてたし、傷自体も大したことないしさ。

 俺は知ってるよ。お前は本当は優しくて、良い奴で……俺の本当の仲間になってくれるかもしれないって。故意に俺の事を傷つけようなんて思わないってな」

「…………」

 

 源吾郎は何も言えなかった。雪羽の昏い光を宿した翠眼を眺め、おのれの裡で渦巻く疑問を解決しようとするのでやっとだった。

 何故雷園寺はここまで俺を信じようとするんだ? それが最大の疑問だった。例えば二人が気の置けない親友であるならば雪羽の発言はまだ解る。だが実際には、源吾郎と雪羽の間にはまだ溝らしきものはあるにはある。ついでに言えば先日変態だのドスケベだのと仲良く(?)言い合った位の間柄に過ぎない。

 そんな間柄に過ぎない雪羽が、何故こうも源吾郎に全幅の信頼を寄せ、あまつさえ源吾郎の善性を疑わないのか?

 あれこれ考えているうちに、源吾郎はある一つの答えに至ってしまった。

 雪羽は源吾郎の善性を疑わず、全幅の信頼を寄せているのではない。源吾郎が善良で優しく、おのれの信頼に値すると思いたいだけなのだ、と。要するに雪羽は()()()()()()を口にしただけに過ぎないのだ。

 あまりにも身勝手で、いっそのこと愚かしい願望ではある。しかし源吾郎には、そうして笑い飛ばす資格など無い事は解っていた。むしろ、雪羽のためにその願望が真実であると思わせるべきなのだと思っていた。

 紅藤が雪羽を心配していた理由は、源吾郎もここではっきりと解ったのである。



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静かな朝の和やかな一幕

 水曜日。蠱毒の騒動で昨日は半日静養する事になった源吾郎であったが、一晩経って心身ともに通常のコンディションに戻りつつあったので出社する事に決めた。紅藤からは無理をせず休んでも良いと言われていたのだが、別に源吾郎自身は無理をしているつもりはなかった。

 強がりでも何でもなく、源吾郎はほぼ全快と呼べる状態まで快復していた。歯形が付くまでに噛み付いた傷跡も、今では多少のかゆみを伴うだけになっている。これこそが、源吾郎の身に流れる大妖怪の血の恩恵であろう。純血の妖怪に較べれば傷の直りは遅いだろうが、それでも人間の回復能力を遥かに上回っている。

 いつも通りの時間に目を覚ました源吾郎は、支度を済ませるとそのまま出社した。仕事場がすぐ傍なのだからもう少しのんびりしても問題無い事は知っている。それでも源吾郎はサクサクと支度を済ませ、自室を後にした。何がどうという訳ではないが、何かが自分をせかしているように思えてならなかった。

 ただ単に、放鳥タイム時のホップが塩対応を行っていたからなのかもしれないけれど。

 

 

 いつもより早い時間に研究センターの事務所に入った為か、事務所には雪羽しか見当たらなかった。

 雪羽ははじめ、源吾郎がいる事に気付いておらず窓辺で外を眺めていた。源吾郎はそんな彼の横顔が見える角度にいた。

 

「あ、島崎君じゃないか。おはよう、大丈夫か元気か」

 

 室内に入ってきた源吾郎の事は、雪羽もすぐに気付いた。彼はスキップでもするような気軽な様子で源吾郎に駆け寄り声をかけてきたのである。窓辺に佇んでいた時とは異なり、物憂げで儚げな雰囲気はなりを潜めている。やや上目遣い気味に源吾郎を見つめる彼の表情と声音は屈託がなく、しかもかなり友好的だった。

 

「あ、うん。大丈夫だし元気だよ」

 

 やや戸惑いながらも源吾郎は応じ、腕の包帯を撫でつつ言葉を続ける。

 

「俺も包帯とか巻いてるから大げさに見えるけど、実はもう大分傷も治ってるみたいなんだ。傷は痛むって言うか、何かかゆみの方が強いしさ……細胞が抉れた所を埋めてるって感じなんだ」

「良かった。本当に良かった……」

 

 源吾郎の言葉を聞くと、そう言って雪羽は顔をほころばせた。やはりこの仕草も屈託がなく、いつも以上に幼げに見えた。というよりもむしろ、今の彼の言動の方が年相応なのかもしれない。普段はやや斜に構えたような言動を敢えて行ったり、源吾郎を挑発するような言動が多かった。そう言う事を言う奴なんだと源吾郎は流していたが、それもある種の仮面だったのかもしれない。

 

「雷園寺、お前は――」

「雪羽って呼んでも良いよ」

 

 呼びかけて問いかけようとした源吾郎の言葉を遮る形で雪羽が言う。やはり満面の笑みがその面に浮かんでいたが、源吾郎は苦笑しつつ首を振った。

 

「いくら何でもそれはちとマズいんじゃないかな。職場だし。間を取ってシロとかなら良いけどさ」

「あはは。それもそうかな」

「それはさておき雷園寺。そっちこそ大丈夫なのかい?」

「うん。俺は大丈夫だよ!」

 

 源吾郎の問いかけに、雪羽は元気よく応じた。大丈夫、という部分を若干強調していた事に源吾郎は気付いていた。彼の言は八割がた真実だろうと源吾郎も思っている。向こうは完全に傷も治っているみたいだし、妖力も目に見えて減少している訳でもない。

 普段と……今までと異なるのは源吾郎に対する言動くらいであろうか。本当にそのくらいなのだが源吾郎は実は若干戸惑ってもいた。雪羽とは今後も研究センターで顔を合わせ続ける間柄だ。険悪な空気よりも友好的な方が良い事は頭では解っていた。

 それでも雪羽の態度の変貌ぶりは急すぎた。考えてみれば雪羽はこれまでも源吾郎に興味を持つ素振りを見せていたのだが。

 きっかけが何であるかは源吾郎も解っている。あの蠱毒の騒動だ。本当に色々な事があった。源吾郎は蠱毒に侵蝕されているとはいえ雪羽を襲撃してしまったし、雪羽も雪羽でおのれが抱えている秘密を打ち明けた。その辺りから、雪羽の心境に何か変化があったのだろう。

 対妖関係で距離が縮まるきっかけが唐突に訪れる事は珍しくない。しかし今回のきっかけが蠱毒、それも負の感情を伴ったものであるとは皮肉が効いている。

 

「あれ、島崎君。何か元気無さそうだけど? もしかして女子にナンパしようとして失敗したとか?」

「んなアホな」

 

 唐突な事を言い出す雪羽に対して、源吾郎は敢えて呆れたような声を出してやった。実際にはそれほど呆れておらず、むしろ雪羽の軽口に密かな喜びを抱いていたくらいだ。

 

「まぁ確かに悩み事はあるよ。今朝ホップを遊ばせたんだけど、完全に俺の事を避けちゃってるんだ。そりゃあホップは小鳥ちゃんで怖がりなのは解ってるよ。だけど、俺の許に来てから俺にずっとくっついて懐いてたからさ、ちょっと凹む」

「それは気の毒だなぁ」

 

 雪羽の声はのんびりとしていたが、その声の節々には源吾郎を気遣うような色がありありと滲んでいた。

 

「とはいえ、その小鳥ちゃんに別段悪さした訳じゃなくて、小鳥ちゃん自体も怪我も何もなくて元気なんだろ?」

「何でそんな事が解るんだい?」

 

 ホップが傷ついておらず元気かどうか。雪羽に尋ねられた源吾郎は、驚いて問いを返した。蠱毒の騒動の後、源吾郎がホップの事について語るのは今回が初めてである。雪羽の指摘通りホップは無事であったし、何よりその事に気を回す余裕も無かったのだ。何せ昨晩は、簡単に作ったおじやを平らげた後、そのまま倒れるように寝入ったくらいなのだから。

 もしかしたら雷獣の能力で解ったのかもしれない。源吾郎は密かにそう思った。雷獣は電流を操る事で物体の距離や位置を探る事が出来るが、その能力を応用して相手の考えを読んだり相手に考えを伝えたりする事も出来るのだ。脳波という電気信号を雷獣なりに操っているという事である。

 さて肝心の雪羽はというと、源吾郎の言葉にこだわりのない笑みを見せた。

 

「何でって、昨日島崎君は小鳥ちゃんの事は何も言わなかっただろ。俺だって島崎君が小鳥ちゃんをめっちゃ可愛がってるのを知ってるんだぜ。それに俺を少し引っ掻いた事でもあんだけ動揺してたんだ。だからさ、小鳥ちゃんに何かあったら平然としてはいられないだろうなって思っただけ」

「…………」

 

 思った事をつらつらと語る雪羽を、半ば驚嘆しながら源吾郎は見つめていた。雷獣は感覚頼りで浅慮な個体が多いと萩尾丸は言っていたが、目の前にいる雪羽は中々どうして()()ではないか、と。真なる賢さというのは、思慮の深さではなく本質を見抜けるか否かに関わっているのかもしれない。

 

「まぁ、小鳥ちゃんが元気ならそれで良いじゃないか。生きてて、元気でさえいれば、その、小鳥ちゃんとも仲直りできるだろうし」

 

 そう言って雪羽は静かに微笑んだ。悪辣な笑みとも子供っぽさを前面に押し出した笑顔とも違う、何処か儚げな笑みだった。

 ホップの態度で源吾郎が勝手に傷ついたのは、ホップに対してある種の期待を持っていたから。その事を突き付けられたような気がした。蠱毒に巻き込まれた雪羽は、思う所があれど源吾郎を赦し、むしろ前以上に友好的に振舞った。それを見てホップもそうなのかもしれないと源吾郎は勝手に思ってしまったのだ。ホップが、本来は気弱な小鳥である事などすっかり忘れ去ってもいた。

 未だ笑みを浮かべる雪羽を見ながら、胸の奥がうねるのを感じた。笑ってはいるものの、笑みの裏側で色々な事を彼なりに思い、考えているのが伝わってきたからだ。それでもなお、彼は明るく振舞おうとしている。

 だからどうしても、源吾郎はその言葉を口にしたのだ。

 

「雷園寺……お前はやっぱり強いよな」

「あ、先輩。ようやく俺の強さを認めてくれたんですね。そりゃそうっすよ。天下の雷園寺家の次期当主なんですからね、俺は。えへへ……」

 

 源吾郎の言葉に雪羽はおどけた様子で即座に返す。何かにつけて雷園寺家の威光を笠に着ようとする雪羽の言動が小憎らしく思えたのも過去の事だ。源吾郎はおどけて自慢する雪羽の姿に安堵していた。

 雪羽とこうしてしょうもない話が出来る事。それが()()なのかもしれないと、源吾郎は本心から思っていた。



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野望の道に安寧なし

「おはよう二人とも。おやおや、随分と仲良くなってるじゃないか。うふふ、若い子が仲良くしているのを見て、おっさんも安心したよ」

 

 聞きなれた声が、呑気な口調で言葉を紡ぐ。源吾郎と雪羽が首をひねると、そこにはいつの間にか萩尾丸が立っていた。明るい笑みを浮かべる彼を見て、源吾郎は尻尾の毛が逆立つような感覚を抱いた。萩尾丸は笑顔のままであるが、その佇まいから殺気らしきものを感じたからだ。

 

「おはよう……ございます」

 

 たどたどしく挨拶すると、萩尾丸の視線はそのまま源吾郎に向けられた。

 

「島崎君も元気かな? 昨日の事もあったし、昨夜はしっかり食べれたかい?」

「昨日はしんどかったんで、おじやで済ませました」

「タンパク質はきちんと摂ったのかな?」

「魚の身のほぐしたのとか、刻んだ厚揚げとかを入れて食べたんです。お肉とかの方が良かったんでしょうけど、昨夜はちょっと……」

「まぁ、食欲が無い時に無理に食べてもそれはそれで負担になるもんねぇ」

 

 源吾郎の昨夜の夕食を聞き出した萩尾丸は、訳知り顔でこちらを見つめている。タンパク質云々の件に拘泥していたのは、源吾郎が傷を負っている事を慮っての事であろう。妖狐や雷獣の肉体もタンパク質由来であるから、タンパク質を摂れば傷の直りも早くなるらしい。

 とはいえ、食欲が無い時に無理に詰め込むとそれはそれで負担になるのもまた事実である。

 そう言えば萩尾丸先輩。隣の雪羽を見ながら源吾郎は問いかけた。

 

「雷園寺君は昨夜どうだったんですか?」

「食欲がかなりあったから、彼の好きな物で夕飯にしたんだ。雷園寺君、お肉とか揚げ物とかが好きだからね。雷獣だからあんまりそういう物ばっかり食べていると良くないんだけど、たまには良いかなと思ってね」

 

 良かったじゃないか……雪羽を見ながら源吾郎は言った。雷獣は一応雑食であるが、妖狐や化け狸よりも草食性が強く、肉類を食べ過ぎると内臓に負担がかかるらしい。雪羽が妖狐やイタチ妖怪並みに肉類を好むのは源吾郎も知っていた。ある時などは「冷えたピザをつまみながらウィスキーを呑むと旨いんだぜ」などと言っていた時もあったくらいだ。雪羽の食い合わせの好みは中々に個性的だ。或いは、アライグマやカマイタチを従えていたから、彼らの嗜好に近いだけなのかもしれないが。

 フワッとしたパンケーキのフルーツソース和えも夕飯として振舞われたという話を雪羽は嬉々として教えてくれた。オシャンティーな物が夕飯だったと聞いた源吾郎であるが、特段羨ましいとは思わない。フルーツソースを和えたパンケーキ位なら自分でも作れるからだ。

 それよりも源吾郎には気になる事があった。

 

「萩尾丸先輩。先程まで何をなさっていたんでしょう」

 

 この問いを発するとき、源吾郎はやや緊張していた。夕飯の話をしていた時には、既に萩尾丸の殺気は和らいでいた。しかしそれでも萩尾丸が殺気を放っていた事には変わりない。日頃余裕ぶった態度を見せる萩尾丸が殺気を放つなどという事はかなり珍しい事なのだ。

 とはいえ、既に問いかけてしまったのだから後戻りはできない。

 

「紅藤様たちと一緒に、地下にいたんだ。いやはや、あの地下が拷問室として機能したのはいつぶりだったかな」

 

 萩尾丸は相変わらず笑っていたが、その笑みは獰猛な妖怪のそれだった。源吾郎は思わず雪羽の顔を見、勢い二人で顔を見合わせる形になった。

 青松丸に扮した偽者を捕らえた。萩尾丸は買ってきたものを自慢するような気軽さでもって源吾郎たちにそう告げた。

 

「厳密に言えば地元妖怪や術者にフルボッコにされたのを僕らが引き取った、という事だけどね。まぁ首謀者ではなくて末端の輩ではあるが、それでも無駄なんて何もなかったよ。第一に紅藤様の溜飲は下ったみたいだし」

 

 相槌を打つのも忘れ、萩尾丸の言葉を聞くのがやっとだった。紅藤たちが地下に籠って何をしたのか。萩尾丸は聞けば教えてくれるだろう。しかしその全容を聞く勇気が源吾郎には無かった。世の中には知らなくても良い事があるのだと思う事にした。

 

「久しぶりに紅藤様も荒ぶってらっしゃった訳だけど、それでもあのお方は()()()()()()よ。やつを、無闇に苦しめずに葬り去ったんだからさ」

「――――!」

 

 萩尾丸の言葉に、源吾郎の瞳孔が引き絞られた。紅藤が下手人を殺した。直截的な表現は無いものの、その事に源吾郎は動揺していたのだ。風変わりであるものの優しく穏やかな彼女に、殺しという行為が結びつくはずもない。

 

「どうしたんだ島崎君。まさか君を陥れた相手を憐れんでいるんじゃないだろうね」

 

 違います……否定の言葉は驚くほどに弱弱しかった。

 

「そうじゃないんです。その、僕たちに優しい紅藤様がそんな事をしたって聞いてびっくりしているだけなんです。みんなの事を大切になさっている優しい紅藤様が、そんな、恐ろしい事を……」

 

 紅藤が殺しをした。その事について源吾郎は罪悪感を抱いていたのだ。死んだ下手人を悼む気持ちは無かった。それよりも紅藤に殺しの罪過を背負わせてしまったという自責の念の方が強かったのである。

 萩尾丸はしかし、そんな源吾郎を見て呆れたように息を吐くだけだった。

 

「君が紅藤様を慕って信頼している事は僕もよく知ってるよ。しかし、あのお方の事を知りもしないで神聖視し過ぎなんじゃないかな。確かに今の君は紅藤様の直弟子、それも僕たちを差し置いて秘蔵っ子という扱いになっている。

 だけどまさか、君に見せる姿だけが紅藤様の全てだと思っていないよね?」

 

 呆れつつも笑みを絶やさぬ萩尾丸の言葉に、源吾郎は喉を鳴らすだけだった。萩尾丸はなおも続ける。

 

「紅藤様は自分の身内には優しいお方である事には違いないよ。だけど、大切な者を護るためにおのれの手を汚す事も厭わぬお方である事もまた事実なんだ。

 君もいずれは解るよ――大切な者を護り抜くために、手を汚さねばならない事もね。ましてや君は野望を抱き、最強の道とやらを進もうとしているんだから。野望の道は血塗られた道でもあるんだよ」

 

 萩尾丸の言葉を、神妙な面持ちで源吾郎は聞くほかなかった。いつの間にか、源吾郎は妖怪社会が平和だと思い込んでいたのだ。実際には源吾郎の浅はかな幻であり、その幻を護るために紅藤たちが動いているだけに過ぎないのだと。

 それに自分の出自を思えば、力を目指す時点で血塗られた道から逃れられないのだとも思い始めていた。玉藻御前も妲己や華陽夫人と名乗っていた頃は様々な所業でもって人間や妖怪の血肉を貪っていたという。しかし源吾郎が考えていたのは偉大なる曾祖母ではなく、桐谷家の事だった。彼らは玉藻御前と異なり生粋の人間だった。しかし術者として拘泥するあまり、共喰いに近親交配や生贄を用いた外法の術に飽き足らず、玉藻御前の血を取り入れる事すら考え出した輩である。同胞殺しも共喰いも辞さぬ者たちの血が、源吾郎には流れているのだ。

 病み上がりという事もあるが、久々におのれの出自を思うと憂鬱な気分になってしまった。

 

「ああそうだ。今日は三國君が春《はる》君……いや春嵐《しゅんらん》君を連れてこっちに来るからね。昨日の事について伝えるつもりなんだ。だから島崎君と雷園寺君――特に島崎君――には協力してもらう所があるから、そのつもりでよろしく」

 

 三國の来訪について、源吾郎はさほど驚きはしなかった。三國は第八幹部である以前に、雷園寺雪羽の保護者である。甥が負傷したとあれば、心配して駆けつけるのは当然の流れだろう。

 ところが源吾郎のすぐ傍で驚いたような声が上がったのだ。声の主は雪羽だった。だが不可解な事に、彼はやや不満げに萩尾丸を睨んでいたのだ。

 

「萩尾丸さん、昨日の事は叔父さんに連絡したんですか?」

「もちろんだとも」

 

 さも当然の事だ、と言わんばかりに萩尾丸は頷く。

 

「そもそも僕たちは君らを助け蠱毒を制圧するために会議を抜け出したんだからね。緊急事態と言えど、会議を抜け出した理由について他の幹部に説明するのは当然の事だと思わないかい」

「そ、それでも……」

 

 萩尾丸の言葉は源吾郎から聞いても正論だった。しかし雪羽は納得していないらしく、唇を震わせながら言葉を探っていた。

 叔父貴には連絡しなくても良かったのに。ややあってから出てきた言葉は思いがけぬものだった。

 

「萩尾丸さんもおわかりでしょうが、僕自身は特に大した事は無いんですよ。怪我も治りましたし毒にやられた訳でもないですし」

「大した事が無い、と敢えて力説する時点で大した事があると思うんだけどなぁ」

 

 萩尾丸は軽く流すものの、心なしか困り顔だった。

 

「大丈夫と自分で言う奴ほど大丈夫じゃないって言葉は君らでも知ってるだろう? それに三國君に昨日の事を連絡するのは、大丈夫か大丈夫じゃないかの問題ではないんだ。僕とて三國君と約束して君の面倒を見ているんだからね。何かあったら保護者である三國君に連絡するのは当然の事だろう?」

「ですがそれで、叔父貴に()()()心配をかけさせちゃったじゃないですか」

 

 雪羽はそう言うとうっすらと唇を噛んだ。

 源吾郎は呆然とそんな雪羽を見つめる他なかった。彼は無邪気に叔父に甘え、叔父に甘やかされていると思っていた。だから先の彼の発言に大いに驚いたのだ。



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雷獣来りて真相さぐる――ヤンチャはほどほどが良い理由

 源吾郎は雪羽と萩尾丸の顔を交互に見つめていたが、何をどう言えば良いのか解らなかった。言葉は出てくるだろうが、雪羽を納得させる事は出来ないと思っていたのだ。叔父に、保護者に迷惑をかけたくない。源吾郎自身が強くそう思った事は殆ど無いからだ。

 

「おやおや雷園寺君。聞き分けの無いワガママを言っちゃあいけないなぁ。まぁ、君位の子供なら、多少のワガママも可愛らしくて良いんだけど」

 

 笑みを崩さぬ萩尾丸の言葉に、源吾郎も雪羽もまず目を丸くした。雪羽の言動をワガママと評した事に源吾郎は驚いていたのだ。それはきっと雪羽も同じだろう。

 

「聞き分けを良くしようと思ったから、俺はああ言ったんだよっ!」

 

 萩尾丸を睨みつけ雪羽は鋭く吠えた。放電していない事が奇跡的であるほどの剣幕だった。

 

「叔父貴にはもう俺の事で心配してほしくないんだ。そもそも俺が萩尾丸さんの許で修行する事になったのも、俺が遊び過ぎていて、それがマズい事だって大人たちに咎められたからだし。

 それに叔父貴は今、月姉《つきねぇ》の事で頭がいっぱいなんだ。ずっと先だけど、二人の間には本当の子供が出来るんだよ。なのに、それなのに、俺の事なんかで叔父貴が心配するのは駄目なんだ」

()()()()()最大級のワガママじゃあないか」

 

 耳朶を紅くして力説する雪羽に対し、萩尾丸は笑みを浮かべながら言い切った。

 

「良いかい雷園寺君。君くらいの歳の子供はだね、妙な気兼ねなんかしないで親に甘えても構わないんだ。それに新たに生まれる二人の子供の事について君があれこれ気をもまなくても良いじゃないか。君がヤンチャするのと、三國君たちの間に子供が出来る事とは別問題なんだからさ」

「…………」

 

 萩尾丸のある種ドライな物言いに対して、雪羽も源吾郎も何も言えずにいた。門外漢である源吾郎はもとより、当事者である雪羽も面食らっているようでもあった。

 

「もしかして、これ以上迷惑をかけたら三國君に見捨てられるかもしれない……君の()()()心配事はそっちなんじゃないかな?」

 

 笑顔のまま、萩尾丸はえげつない事を言ってのけた。あの三國が、甥をベッタベタに甘やかしていた三國が雪羽を見捨てるだって……! 源吾郎は驚き目を瞠ったが、雪羽は微動だにしない。その面に苦い表情が広がるだけである。

 だがそれが答えそのものでもあった。

 

「安心したまえ雷園寺君。三國君は何があっても君を見捨てないだろう。ちょっとした事で引き取った甥を見捨てるような手合いだったら、そもそも君を引き取りはしなかっただろうからさ――解るよね」

「……解り、ましたよ萩尾丸さん」

 

 たどたどしく返事を返した雪羽は、萩尾丸を見上げながら言い足した。

 

「萩尾丸さん。昨日僕が言った事は、僕の母が蠱毒で死んだって事は叔父には言わないでくださいね。きっと、とても、驚いて困ってしまうと思うから」

「解ったよ雷園寺君。約束しようじゃないか……島崎君も、うっかり言わないように気を付けるんだよ」

 

 話を振られ、源吾郎はぼんやりしつつ頷いていた。雪羽の想いや考えに直に触れ、戸惑いが強くて仕方なかったのだ。甘える事に対して、両者のスタンスの違いはあまりにも大きすぎるのだ、と。

 

「島崎君。三國君と対面して色々と問いただされるかもしれないけれど、私たちもついているから心配は要らないわ」

 

 気付けば紅藤が源吾郎に声をかけていた。その声音は優しく、眼差しには心配そうな色が浮かんでいる。思案顔の源吾郎を見て、三國との対面を恐れていると思ったのかもしれない。

 そのように紅藤の考えをひとり解釈していると、彼女は微笑みながら言い添えた。

 

「今回の件は蠱毒が絡んだ事故であり、島崎君が悪意を持って雷園寺君を傷つけた訳ではないのですから。もちろん、島崎君も気を付けるべき所はあったと思いますが、ええ、強く糾弾されるべき事はしてないわ。もしも三國君がヒートアップしてきたら、私たちの方で説明しますから」

 

 紅藤たちはあくまでも源吾郎を庇いだてする方針のようだ。その事にありがたさと戸惑いを感じていると、今度は雪羽の視線を感じた。雪羽は少しだけ顔を上げて源吾郎を見ている。不機嫌そうな気配はなく、むしろ気遣うような笑みさえ浮かべていた。

 

「良かったですね島崎先輩。叔父貴は頭に血が上ると()()()()しがちなんだけど、紅藤様たちが先輩を庇ってくれるんなら心配ないよ」

 

 雪羽の言葉にどのような真意が籠められているのか、源吾郎には判然としなかった。彼はただ、雪羽の視線から目を逸らすのがやっとだった。

 

「心配して下さっていますが、僕は大丈夫です。言うべき事、言わないといけない事は僕の中で定まっていますから……」

 

 紅藤らの話によると、三國への事情聴取にて雪羽が参加するのは最初の数分だけなのだそうだ。ありていに言えば、三國と顔合わせをして様子を見て貰う為だけに参加する形になるという。込み入った話は雪羽抜きで行うという事だ。

 源吾郎はその時に、三國に言うべき事を言おうと思っていた。雪羽が途中で離脱するというのも、源吾郎が言いたい事を鑑みれば都合のいい話でもあったのだ。

 その話を聞いて、或いは三國は動揺し腹を立てるかもしれない。それでも言わねばならない事柄が源吾郎にはあった。

 

 三國たちとの会議は混沌とした研究センターの事務所ではなく、大会議室で行われた。新人である源吾郎はその部屋にはほとんど足を踏み入れた事が無く、ひどく新鮮な気分を味わっていた。会議室があるのか、と子供らしく驚いてもいた。もっとも、深く考えれば研究所であっても会議をせねばならない状況があるのはすぐに解る話ではあるけれど。

 萩尾丸や紅藤の予告通り、三國は側近の春嵐《しゅんらん》を連れてきていた。妻であり側近である月華がいないのは、彼女の体調を慮っての事であろう。どちらもクールビズ仕様のスーツ姿だが、それでもワイシャツの柄だとかベルトだとか小物等々で彼らの個性がくっきりと浮き上がっていた。

 

「紅藤様たちから話を聞かされた時は気が気でなかったが……元気そうで何よりだよ雪羽!」

 

 雪羽の姿を見るなり、三國は喜びの声を上げて両手を広げた。感情を包み隠さず露わにする雷獣らしい振る舞いだと源吾郎は思っていた。前々から思っていたが、やはり雪羽は叔父である三國に似ている。

 さて雪羽はというと、大げさな三國の態度に一瞬だけ面食らっていたが、すぐに気を取り直したらしく笑みを作って叔父に向き直る。三國の笑顔に実によく似ていた。

 

「見ての通り、俺は元気そのものだよ、叔父さん」

 

 あれだけ叔父に会う事を渋っていた雪羽だったが、いざ三國と対面してみるとそのような素振りはおくびにも出していない。余裕の笑みさえ浮かべているように見えたが、或いはそれこそが雪羽の強がりなのかもしれない。

 余談だが今の雪羽はきちんと修道服めいた白衣を着こみ、ついでに紅藤が用意した護符も右手首に巻いている。ふいに妖怪に襲撃されても、ある程度の威力までならば防護できるような出で立ちだ。

 

「引っ掻き傷とは言えそこそこ力の強い妖怪……それも蠱毒に侵蝕された相手に襲撃されたと聞いていたから俺も気が気ではなかったんだよ」

「気が気じゃあないだろうと思って、僕もずっと三國君には連絡も入れてたんだけどねぇ。雷園寺君の写真も見たでしょ?」

「連絡があったと言えども、やはり自分の目で確認しないと気が済まない性分なんですよ、俺は。しかも写真って寝てる所ばっかりだったじゃないですか」

「ははは、起きている時は撮影を嫌がったからねぇ」

 

 萩尾丸の説明に三國は渋い表情を浮かべた。雪羽は勝手に撮影されていた事に驚いていたが、すぐに気を取り直し三國に向き直る。

 

「引っ掻かれたのも腕だけだし、その傷ももう完全に治ってるんだ。結構前の……カマイタチのやつにバッサリ斬られた時の方が大事だったし」

「確かにその通りだな」

 

 カマイタチにバッサリ斬られた。その文言を聞いた三國は目をすがめ、雪羽の全身を観察していた。雪羽の様子を観察した三國の顔には安堵の色が浮かんでいる。しかし今度は側近の春嵐が眉をひそめた。

 

「お坊ちゃま。あんまりそう言う事を得意げに言う物じゃあありませんよ。力がある事を尊ぶ妖怪が多いのは事実ですが、そう言う話を嫌う妖怪も一定数いるのですから」

 

 春嵐の指摘に、雪羽はふてくされこそしなかったが微妙な表情となった。三國の信頼篤いこの風生獣を、雪羽は叔父や兄として慕いつつもやや煙たく思っている事を源吾郎は知っていた。雪羽自身が春嵐の事についてあれこれ打ち明けてくれていたし、何より源吾郎も春嵐のひととなりをうっすらと把握していた。

 正式な保護者ではないものの、折に触れて子供を指導しようとする年長者。その存在が心強くも時に厄介に思う心情は源吾郎もよく知っている。

 とはいえ、源吾郎自身は春嵐に対する悪感情は特に無い。むしろいい妖《ひと》だと思っているくらいだ。戦闘訓練の見学に時々足を運んで雪羽を応援する一方で、源吾郎の事も何かと気遣ってくれる、そんな妖怪だった。別にこっそりちょっとしたお菓子を貰ったから尻尾を振っているとか、そう言う事ではない。

 むしろ春嵐みたいなしっかりとした考えのある妖怪を側近にしているにもかかわらず、雪羽の乱痴気騒ぎを止める事が出来なかったのか。それが最大の謎である。

 

「それに前々から言ってますが、若いうちに傷を負ったり沢山の血を流したりするのはあんまりよくありません。妖力が多ければ傷はいくらでも再生するでしょうが、傷を負う頻度が多ければ、身体が成長する事に悪影響がありますからね。

 ましてやお坊ちゃまは、妖力こそあれど、まだ身体の方は成長途中ですし」

 

 春嵐の言葉に源吾郎は強く驚き、瞠目していた。妖怪の妖力と再生能力の相関関係についてはもちろん知っている。しかし、傷の再生を繰り返す事が若すぎる妖怪には悪影響をもたらすという話は初耳だった。

 

「でも春兄、血みどろになるくらい大怪我したのはまだ二、三回くらいだよ。それでそこまで悪影響が出るなんて大げさじゃないか……」

「簡単に言えば、お坊ちゃまくらいの年齢だと傷を負って再生ばっかり繰り返していたら、他の妖怪たちよりも立派に成長出来ないか、立派に成長するのに時間がかかるという事ですよ。

――要するに『かっこよくて逞しい男の人が好き!』という女性妖怪のハートを掴むチャンスを失ってしまう可能性もあるって事ですかね」

「そっか。それは大変な事じゃないか。それじゃ、俺これから気を付けるよ」

 

 先程まで恨めしげに春嵐を睨んでいた雪羽も納得の声を上げた。あまつさえ気を付けるという言質まで引き出した始末である。

 源吾郎はというとそんな春嵐と雪羽とを交互に眺めていた。春嵐の事を三國が参謀として大切にするのも納得だと思ったり、女妖怪の目を気にする雪羽のチョロさ加減に半ば呆れたりしていたのだ。

 それにしても……気付けば源吾郎は呟いていた。色々な考えが頭の中で巡り、それが言葉として飛び出してきたのだ。源吾郎はそのまま言葉を続ける事にした。独り言で片づけられる声の大きさではなかったし、源吾郎自身も質問したい事があったからだ。

 

「妖怪の妖力が生命力になる事は知っていましたが、まさか傷の再生や回復が、若い妖怪の成長に悪影響をもたらすなんて驚きました……僕は、そんな事は知らなかったので」

 

 春嵐の説明について、源吾郎は特にこだわりなく知らなかったと白状した。知らない事を知らないと素直に白状するのは、最近ではさほど恥ずかしいとは思わなくなっていた。紅藤や萩尾丸などと言った成熟した大妖怪と一緒にいると、おのれが未熟で無知である事をまざまざと思い知らされるからだ。

 知らないと言い放つ源吾郎に対して、驚きの視線を向ける者はいない。研究センターの面々はもとより、三國や春嵐、雪羽に至るまで半ば納得したような表情を見せるのみだった。

 

「知らなかったのはきっと、身内から教えられていなかったからだと私は思うんだ」

 

 穏やかな口調で応じたのは春嵐だった。身内から教えられていない。その言葉に半ば動揺する源吾郎に対し、彼の表情は相変わらず落ち着いている。

 

「島崎さんは今でこそ妖怪として振舞っているけれど、元々は人間として暮らしていたんでしょ。私は詳しい事は知らないけれど、ご家族は島崎さんが人間として暮らす事を念頭に置いて教育なさっていたんじゃないかな。島崎さんは人間の血を引いているし、何より半妖であるはずの兄君達や姉君は人間として暮らしているのだからさ」

「……はい。恐らくそう言った意図があったのでしょうね」

 

 人間。おのれに向けて無遠慮に放たれたその言葉を前に源吾郎は視線を伏せた。半妖であっても強い意志と妖力があれば純血の妖怪と変わらない存在になる事は可能である。しかし、人間の血を引き人間として暮らすように育てられた事実から逃れる事は出来ない。春嵐の言葉は、その現実を源吾郎に突き付けてきたのだ。

 春嵐の言葉は真実だと思った。振り返ってみればいくらでも心当たりがあるからだ。確かに兄姉たちは人間として暮らしている。源吾郎は幼い頃から妖怪としての生き方に強く関心を抱いていたが、身内から教えられる妖怪の知識は貧弱な物だった。しかも得られた知識が貧弱だったと最近になってから気付いたくらいなのだ。

 白銀御前の子孫の誰かが一人、紅藤の配下になる。この盟約を源吾郎の母は知っていた。しかし末息子である源吾郎が人間として育つ事を母は望んでいたのだろうか。

 今となってはその真相は解らない。よしんば解ったとしても、源吾郎が妖怪として生きていく事には変わりない。



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雷獣は細かな事情を語りだす

 面談に同席していた雪羽だったが、彼はものの五分ほどで解放された。青松丸の監督のもと、適性試験やビジネスマナーの座学などをこなすのだという。その後は昨日出来なかった資料の準備を少し行うのだそうだ。

 一転して退屈そうな表情を浮かべた雪羽は、青松丸に優しく誘導されながらも会議室を後にした。

 

「……雪羽のやつ、無理して明るく振舞ってましたね」

 

 閉じられた扉を見ながら呟いたのは三國だった。やや深刻そうな表情を浮かべている。しかし口調には驚きはなく、むしろ予想通りだと言わんばかりでもあった。

 

「そりゃあ無理もありませんよ。昨日の事が尾を引いているんでしょうね」

 

 即座に応じる萩尾丸の言葉は落ち着いていたが、何処か軽薄な雰囲気が漂っているように思えた。世間話をするようなノリだと感じられたのだ。

 三國は思う所があるらしく、顔をしかめた。

 

「甥はあれでも神経の細かい所があるんですよ。信じて下さらないかもしれませんがね。その癖妙に頑固な所があって、落ち込んだり凹んでいたりするのをギリギリまで隠そうとするところもありますし……」

「雷園寺君の性質についてはその通りだと僕も思うよ。繊細な所はさておき、それ以外は若かった頃の君にそっくりだもん」

 

 またも口を開いたのは萩尾丸だった。三國の意見に同調するのみならず、サラッと指摘までする始末だ。若い頃の事を引き合いに出され、三國は渋い表情を浮かべる。その顔つきや目の動かし方は、確かに雷園寺雪羽のそれに良く似ていた。まぁ、誰しも年長者に若い頃の事を口出しされるのはしんどい事であろう。

 

「しかも今回は島崎君に襲撃された事もありますし、何よりその背景に蠱毒が絡んでいました。それがあいつにはこたえたんでしょうね」

「…………!」

 

 物静かな口調で告げる三國を前に、源吾郎はそれこそ電流を流されたような驚きを感じていた。雪羽がショックを受けた原因。それは源吾郎に襲撃された事ではなく蠱毒の影響があったからだと、三國が言外に告げているように思えてならなかったからだ。源吾郎は口の中が急激に渇き始めるのを感じた。三國はこれから何というのだろうか。

 

「蠱毒は妖怪たちにとっても恐ろしい存在ですが、雪羽にとって蠱毒はそれ以上の存在ですからね。何せ義姉《あね》、いや()()()()()()()()()()()()()()()。しかもそれが自分のせいだと思っていますし」

 

 顔をしかめて告げる三國から源吾郎は視線が離せないでいた。雪羽の母が蠱毒によって殺された。この事実を()()()()()()()()事に源吾郎は密かに衝撃を受けていたのだ。この事は叔父の三國は知らない話だと、雪羽から聞かされた直後であるし。

 源吾郎は萩尾丸や紅藤たち、そして春嵐に視線を走らせた。

 

「三國さん。雷園寺のお母様の事をご存じだったとは……」

 

――紅藤様か萩尾丸先輩が、要らぬ気を利かせてこの話を告げたのだろうか?

 師範や先輩たちには失礼と思いつつも源吾郎は心中でそう思っていたのだ。三國は諦観を寂しく滲ませながら頷くだけだった。ただ、源吾郎の狼狽ぶりに少し驚いた素振りを見せてはいたが。

 当たり前だろう。さも当然のように三國は言い放つ。

 

「のっぴきならぬ状況に陥った甥を引き取るんだからさ、そりゃあもちろん何故そうなったのか、その辺をきっちりと聞いておくのが筋という物なんだよ。

 あの話は兄……雪羽の父親から聞いたんだよ。俺が雪羽を引き取るって聞いて相当に焦って、それで事情を話してきたんだ」

 

 変な所で父親ぶったんだよ、あいつは。そう言い捨てる三國の顔には、抑えようのない嫌悪の色が浮かんでいた。

 

「そりゃあまぁ、兄だって雷園寺家とやらに縛られて、先妻と後妻の親族たちに睨まれて身動きがつかないのは俺だって知ってたよ。しかし兄は、やつらの要求を呑んで雪羽を手放すしかできなかったんだ。見捨てたのと同じさ。

――だというのに、俺が引き取ると言った時にはいっちょ前にうろたえたんだぜ? お前みたいな力だけある未熟者が引き取って大丈夫なのかってな?」

 

 源吾郎は何も言えず、ただただ三國を見る他なかった。雪羽が心配していたような、ショートする気配はなく、むしろ冷静な態度を見せている。だがその言葉の節々には、雪羽の父やその背後にある雷園寺家への冷ややかな悪意がにじみ出ていた。

 自分は末弟で、雷園寺家に嫁いだ兄の他にも兄姉が何匹かいる。三國は悪意を滲ませた表情そのままに源吾郎たちに言い添えた。

 

「力はないけど未熟者を卒業した兄貴たち姉貴たちはだな、初めから雪羽を引き取る事なんて信じられないと渋りやがったんだよ。元々は兄貴らも姉貴らも入り婿の弟妹たちって事で雷園寺家に散々すり寄って尻尾を振っていたくせにだぜ? ああそうだよ。それこそ次期当主になるかもしれないって言う雪羽にも叔父叔母として好かれようとあれこれ画策してたんじゃないかな。

 それがだな、当主だった義姉が亡くなって長兄が再婚させられて次期当主に相応しい息子が生まれた所で手の平返しをしたんだよ。雪羽は雷園寺家の厄介者だ、()()()をわざわざ取り込むのは馬鹿のする事だってな。ああ本当に、兄弟とはいえ情けない恥知らずどもだよ」

 

 だから俺が雪羽を引き取った。そう言う三國は勝ち誇ったような笑みを見せていた。

 

「放っておけばそれこそどこの馬の骨とも解らん妖怪とか術者に引き渡しかねない状況だったからな……もちろん、雪羽の事は不憫に思っていたよ。だけど、情けない兄姉たちにムカついたというのもまごう事なき事実さ」

「三國様……」

 

 雪羽にまつわる長い物語を聞いていた源吾郎は、衝撃を受けつつも腑に落ちた感覚を同時に抱いていた。雪羽の三國に対する過剰なまでの遠慮。生誕祭の折に灰高になじられた時の三國の激昂。その理由がここではっきりと解ったためだった。

 源吾郎はまた、静かな怒りを見せる三國の姿に驚いてもいた。冷ややかな悪意を滲ませながら語る三國の姿はある意味彼らしくない。だがそれこそが、兄姉らへの怒りの深さを物語ってもいた。

 さて三國に小さく呼びかけた春嵐は、おずおずと三國を眺めている。その視線に気づいた三國が咳払いしていた。

 

「ああ、申し訳ありません。ちょっとヒートアップしちゃいました。いやはや、もう三十年以上前の事なんですがね、思い出しただけで腹が立ってしまいまして……」

 

 そこまで言うと三國は言葉を濁らせる。既に落ち着きは取り戻したらしい。隣にいた春嵐は、三國をちらと見てから微苦笑を浮かべていた。

 

「あの日の事は私もはっきりと覚えてますよ。何しろ三國さんは、『野暮用だから出かける』と言ってふらっと出ていったかと思ったら、まだ幼い雷園寺の坊ちゃまを連れて帰って来ていたんですから。

 寝耳に水どころの騒ぎじゃなかったですよ。私も月華様たちも三國さんと雷園寺家の関係については存じておりましたが、雷園寺家の甥を引き取るなんて話は一言も聞かされていませんでしたからね」

 

 驚いたと言いつつも春嵐の表情はあくまでも穏やかだった。過去の事だと割り切っているのだろうか。そんな側近を前に三國も苦笑いを浮かべた。

 

「仲間であるハルや他の皆に伝えなかったのは悪かったと思ってるよ。しかしハル。もし事前に雪羽を引き取る話をしていたら、お前は無茶な事は止めるようにって説得してたんじゃあないのかい?」

「…………三國さんはやると決めたらやるお方ですから。無闇に止める事なんてできませんよ」

「その間が気になるなぁ。何のかんの言ってやはり俺を説得するつもりだったんじゃないか。ま、俺もそう言う事だろうと思って誰にも言わずに動いた訳だけど」

 

 三國と春嵐のやり取りを眺める源吾郎の心中には様々な考えが渦巻いていた。まずもって、雪羽の父方の親族が三國以外にも大勢いるという事に驚いた。雪羽が身内の話をするとき、保護者である三國やその妻の月華、或いは春嵐などの三國の部下たちの事しか話題に上らなかった。源吾郎はだから、今の今まで雪羽の父方の親族は三國だけだと思っていたのだ。だが三國の話が真実ならば、他の叔父たちや叔母たちについて言及しないのは当然の流れだとも感じている。

 

「人間に置き換えるとだね、高校を出て就職したばかりの若者が、小学生になるかならないかの幼子を養子として引き取ったようなものだよ、島崎君」

 

 考え込む源吾郎に解説したのは萩尾丸だった。彼のその顔には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいる。

 

「しかもその若者は就職するまではヤンキー崩れの暴れん坊ときている……そりゃあ誰だって驚くし心配するだろう」

 

 三國たちの手前、頷くのは心の中だけに留めておいた。萩尾丸の解説のお陰で、三國の英断がどれほどの驚きをもたらしたのかはっきりと解ったのだ。衝動的に甥を引き取った三國の行為が善い事なのかどうか源吾郎には解らない。しかし三國らしい行動だと思った。

 

「まぁそんな経緯があって引きとった訳ですから、俺もしっかり雪羽を育てないと駄目だなと思ったんですよ。まずもって強さを得る事。それで雪羽の事をきちんと認めて安心させる事を重視しました」

「それで、今日の彼に至るって事だよね」

 

 萩尾丸の口調は相変わらず軽く、しかも笑い声さえ混じっていた。今日の彼が何を指すのかは明白だった。現に三國も春嵐も恥じ入ったような表情を見せているではないか。真の保護者である三國よりも、春嵐の方が深刻そうな表情であるけれど。

 

「強さを教えて自信を付けて、それで立派な妖怪に育てようと思ってたんだろうね。だけど実際には、プライドばかり高くて増長しがちな坊やになってしまったってところだね。しかも元々からして強くなる素養があったのに、三國君がせっせと鍛えたから無駄に強くなっちゃって、一層手に負えなくなったわけだし」

 

 更に萩尾丸は言い足した。雪羽がとんでもない存在に育ったという事を彼は言っている訳なのだが、やはりノリは軽い。他人事であると思っているというよりも、真相を知りつつ面白がっているという所だろうか。

 いずれにせよ性質の悪い話が展開されている事には違いない。

 

「……言い訳がましくなるかもしれませんが、最近では私どももどうにかせねばと思っていました」

 

 渋い表情を浮かべて言い放ったのは春嵐だった。

 

「遅かれ早かれ、雷園寺のお坊ちゃまは三國さんの許から離れ、外部機関で教育を受けさせようと思っていました。もう一人の保護者である月華様と一緒に、彼を受け入れて教育してくれそうなところをここ数年前から探してもいたんですね。

 ですが……中々良い所は見つからなかったんです。妖怪組織にしろ術者の組織にしろ、マトモな所はお坊ちゃまを受け入れようとしてくれませんでしたし、逆にすぐ受け入れようとするところは調べてみればきな臭い組織でしたし」

「灯台下暗しってやつだね」

 

 春嵐の密かな苦労話を聞いた萩尾丸はそう言って笑っていた。

 

「はじめから僕に相談していれば、月華さんはともかくとして春嵐君もそんなに苦労しなかったんじゃなかったかな。ほら、僕が妖材教育が好きなのは君らも知ってるでしょ?」

 

 萩尾丸の言葉に三國と春嵐は顔を見合わせているようだった。三國は三國で、春嵐と月華が共謀して動いていた事に驚いていたのかもしれない。



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半妖はおのれの出自を鑑みる

「本当に色々とご迷惑をおかけしました……」

 

 弱弱しさの滲む声音で謝罪したのは春嵐《しゅんらん》だった。

 

「本来ならば大事になる前に自分たちでお坊ちゃまをきちんと教育するべきだったのです。私もそれは重々解っていたのですが、何分力不足だったのです。そもそも妖力とか強さが私には足りていませんでした。お坊ちゃまを圧倒し心服させる力が私にあれば、そもそも内輪で解決できた内容かもしれないのです」

 

 おのれの心情を吐露する春嵐の声は案外とはっきりとしたものだった。自分の実力、妖力や戦闘能力が雪羽よりも劣っており弱いという彼の証言は事実なのだろう。春嵐とは何度も対面しているが、彼の放つ妖気は一般妖怪の範疇に収まっている。それに雪羽や源吾郎にあれこれと話しかけてくるが、戦闘関連のアドバイスが出てくる事は無かったのだ。

 

「春嵐さん。まぁそんなに思いつめなさんな」

 

 気軽な調子で声をかけたのはやはり萩尾丸だった。

 

「君は自分が弱いとか非戦闘要員だという事がネックだと思っているけれど、それを補って余りあるほどに賢いじゃないか。賢くて知性があるという事が、僕ら妖怪の最大の武器になるって事は君とて知ってるだろう。

 だからこそ、君は三國君の部下たちの中でも重宝されているんじゃないかな。それにそもそも、君が参謀として三國君を支えているから、古参幹部たちは三國君を第八幹部に選んだんだよ」

「そうだったんですか……」

「そっか、そうだったのか」

 

 三國と春嵐は揃って驚きの声を上げていた。三國は第八幹部の座にいるが、それでも自分が選出された理由を詳しくは知らなかったのだろう。八頭衆とひとまとめにされつつも、幹部たちの間に明確な序列があるのだと、源吾郎は妙な所で思い知らされた。

 そう言う物なんだよ。相変わらず軽い口調であるが、そこはかとない優しさが萩尾丸の声に込められている気がした。

 そう思っていると、萩尾丸は源吾郎の方に視線を向けた。

 

「春嵐君はもちろん雷園寺君の面倒も見ていたんだけど、今はむしろ対外的な活動が本業に近いんじゃないかな。今回の生誕祭の時も、実は出席せずに外部勢力との会談に出向いていたんだよ」

 

 そうだったんですね。源吾郎は小さく呟いていた。生誕祭の件に話が及んだ時には少し驚いたが、それと共に腑に落ちた気分でもあった。

 実を言えば、何故生誕祭の場に春嵐がいなかったのだろうとここ最近疑問を抱いていたのだ。そもそも雪羽が萩尾丸の許で修行をはじめたのも、彼が引き起こしたグラスタワー崩落事件のためである。諸々の思惑が絡んだあの事件も、そもそも春嵐がいなければ発生しなかった可能性は高い。

 萩尾丸によると、生誕祭の日に外部勢力が雉鶏精一派と面談会談を希望する事がままあるのだという。わざわざそのような日取りを選ぶ連中は雉鶏精一派をよく思っていないかカモにしようと虎視眈々と狙っている事が多い。主要な妖怪たちは生誕祭に出席しており、自分たちと相対するのはしょうもない妖怪たちだろうとたかを括っているのだろう。そう言う面々へのカウンターとして、春嵐はここ十五年ばかり動いているそうだ。

 それならば、生誕祭にて雪羽の行動を止めるのは難しい事であろう。源吾郎の考察している間に、萩尾丸は言葉を続ける。

 

「若い子はとかく強さも賢さも全部一番に到達しないとって思いがちかもしれないけれど、実際にはそんな事は無いんだよ。誰しも苦手な事や特別に得意な事があっても何一つおかしくない。苦手な所は誰かと補って協力すれば良いだけだし、その協力できる仲間を得る事こそが大切だと、僕は思っているんだ」

 

 そんな風に萩尾丸先輩が思っていたなんて……三國と春嵐に向けられた萩尾丸の言葉を前に、源吾郎は深い感慨を抱いていた。言葉の内容自体は、学校のホームルームなどでも耳にするような代物である。しかし萩尾丸が真面目な調子で言ってのけたために、その言葉には不思議さが宿っていた。

 源吾郎の知る萩尾丸は、概ね一人で何でもできる立派な妖怪だった。見る限り紅藤や灰高には太刀打ちできないようだが、それは相手が大妖怪の中の大妖怪であったり、老齢かつ老獪な鴉天狗だったりするからに過ぎない。萩尾丸はおおむね様々な事を迷いなくこなし、間違いとは無縁で優雅に仕事を行っているように源吾郎の目には映っていた。

 そしてこの言葉が、三國たちだけに向けられたものではない事も察していた。この話は源吾郎にも当てはまる事なのだ。そして恐らく、別室にいる雪羽にも。

 

「三國さんに春嵐さん。生誕祭の場ではきつい言い方をしましたが、あなた方が頑張って雷園寺君を養い育てている事は私も十分に解っているわ」

 

 次に口を開いたのは紅藤だった。彼女ははっきりとした笑みを三國たちに見せている。口調も優しげだったが、微かに憂いの色が混ざってもいる。

 

「幹部とか重役とか色々と大きなものを背負っておりますが、そもそもあなた方はまだ若くて、これから経験を積んでいくような妖怪たちですもの。ええ。私が百歳過ぎの若い頃に較べれば、あなた達は本当によく頑張っているわ。子供を育てるのも本当に大変な事ですし。私も……息子たちをきちんと育て上げる事が出来たのか、そう思う時もあります」

 

 紅藤の言葉に三國たちは驚いたように目を瞠っている。三國たちからしてもひとかどの大妖怪と見做される彼女が、若い頃について触れたり、自分の子育てについて言及したのだから。しかも彼女の場合、息子の一人は頭目の胡琉安であるから尚更だろう。

 

 

「さてそろそろ本題に入りましょうか」

 

 三國はそう言うと、座ったまま伸びをしている。ある意味怒りを発露していたし、疲れたり身体が凝ったりしているのだろう。伸びつつも控えめに欠伸をする姿は何となく猫に似ている。春嵐は相変わらず渋い表情を見せているが、三國は殆ど気にしていない。

 

「俺が気になっているのは二点です。島崎君が甥にとって安全な存在なのかと……蠱毒を彼に仕込ませた黒幕が誰であるかですね」

 

 話したい内容について挙げると、三國は視線を一度泳がせてから言葉を続けた。

 

「まずは簡単に話が片付く方から進めましょうか。まぁ要するに、島崎君が雪羽にとって安全な存在かどうか。それは是非とも確認したいのですよ」

 

 三國の視線は既に源吾郎を捉えていた。獣そのものの眼差しに晒されながら、源吾郎はため息をつきたくなった。表向きには三國は源吾郎が安全な存在かどうか確認したいと主張している。だが実の所、三國の中では既に答えは決まっているようなものなのだ。それが解ったから、源吾郎は窮屈な気分を味わってもいた。

 

「皆さん。俺も本当の事を言えば、甥が萩尾丸さんの許で四六時中修行を受けると聞いて最初はちと心配だったんですよ。萩尾丸さんが中々恐ろしい存在なのは俺もよく知ってますし、弟弟子の狐、島崎君も甥よりも強い妖怪だって聞いていましたからね。

 ですが甥の近況を聞いたり春嵐からの報告を受けてから考えが変わりました。何だかんだと言いつつも、良い環境で修行しているんだろうなって」

 

 そこまで言うと、三國は春嵐の方をちらと見やる。

 

「そう言えば春嵐は月華と一緒に甥の修行先を探してくれていたみたいだけど、なかなか見つからなかったって事は萩尾丸さんの所よりも良い所は無かったって事だろう?」

「まぁ、結論から言うとそうなりますね」

 

 話を振られて戸惑っているようだったが、春嵐は素直に応じた。

 

「単に若いだけの普通の妖怪であれば、しっかりとした大人の妖怪の許でもそれこそ術者の許であっても修行先・勤務先はいくらでもあるのです。ただ、雷園寺のお坊ちゃまは強すぎましたからね……戦闘慣れした妖怪ならさておき、一般生活を送るような妖怪たちの場合ですと、強すぎる妖怪を持て余してしまう危険性がありますね。

 萩尾丸様の場合は、萩尾丸様自身がお強いので、そう言う事はありませんが」

 

 それに……言い添える春嵐の視線もまた、源吾郎に向けられていた。

 

「お坊ちゃまが萩尾丸様の許で修行するにあたり、島崎さんが傍にいたというのも良かったと私も思いますね。雷園寺のお坊ちゃまの周りには、友達とか競い合える仲間とかがいない事も私は心配しておりましたので。そういう意味では、島崎さんの存在もお坊ちゃまにとっては良い刺激になっているのでしょう。同年代でほぼ互角の実力を持ち合わせている訳ですから。しかもお坊ちゃまにへつらう事も無いですし……」

「そうだよな。そう言う所では安心できるよな」

 

 春嵐の言葉に三國が軽い調子で同調している。予想はしていたが、源吾郎は胸騒ぎがしてしようがなかった。

 

「褒めてくださるのは嬉しいですが、いくら何でも僕を買いかぶり過ぎてませんか」

 

 源吾郎はだから、思っていた事を口にしたのである。三國や春嵐は源吾郎の事を雪羽の良きライバルだと思っているらしく、実力が拮抗していると思っているのだ。だがそれは過大評価だと源吾郎は思っていた。

 もちろん春嵐の言葉には事実も含まれている。妖怪的には源吾郎と雪羽は同年代の括りに入るのだろう。また、源吾郎が雪羽の取り巻きに堕する事は断じてあり得ないのも事実だ。

 

「春嵐さん。俺と雷園寺君が互角だって言うのは言い過ぎですよ。タイマン勝負では僕はずっと負け続けているんですよ。スタミナも速さも段違いですし」

「互角というのは全体的にお二人の能力を俯瞰してのお話です」

 

 源吾郎の主張に対し、春嵐は冷静な様子で切り返した。

 

「確かに島崎さんはタイマン勝負、力と力でぶつかり合う勝負は苦手なようですね。しかし妖術を行使する方面では、お坊ちゃまよりもはるかに勝っているではありませんか。お二人は同じ方面の力が伯仲しているのではなく、相手の苦手な事が得意であるという感じかと私は思ってます」

 

 確かにその通りかもしれないと源吾郎は思った。変化術や結界術云々は源吾郎の得意とするところであるが、雪羽は殆ど扱えないからだ。そうした術較べも萩尾丸の監督で行っていたが、その結果については実は源吾郎は頓着していなかった。タイマン勝負こそが二人の強さを測る指標だと信じて疑わなかったからだ。

 

「実力面だけじゃなくてさ、態度的にも甥と競い合って成長しあうには君の存在はとても適していると俺たちは思っているんだよ、島崎君」

 

 春嵐の話が終わった所で三國が言った。笑みを浮かべた彼がそう言うのは源吾郎も実は想定済みである――だからと言って、源吾郎が伝えるべき内容に変化は無いのだけれど。

 

「まぁ最初のうちは君に甥が迷惑をかけたって事で君自身も色々と思う所があったかもしれない。だけど最近はちょっとずつ雪羽とも打ち解けてきているんだろう? 俺もさ、仕事とか忙しいから直接雪羽の様子を見る事は出来なかったけれど、状況については萩尾丸さんとか春嵐からちょくちょく聞いてるんだよ。そこでだな、ちょっとずつだけど君と甥が親しくなっているとも聞き及んでいたんだ。

――だから()()()()()だって、俺は思っている」

 

 とうとうその言葉が出てきたか……源吾郎は戸惑いと心のさざ波を押し隠しながら三國を直視するほかなかった。源吾郎が雪羽にとって安全かどうか。その事実を三國ははじめから確認する気はなかったのだ。そう思ってその思いを押し付けて安心したいだけに過ぎないと、源吾郎には初めから解っていた。そうでなければ、雪羽を傷つけた張本人である源吾郎を前にここまで冷静に振舞ってはいられないだろう。

 源吾郎がなすべきは、その三國の思いを黙って受け取る事だった。その事も解っていた。しかし実行できるかどうかは別問題である。雪羽同様身勝手な思いだと、その考えが源吾郎の心中を覆っていた。叔父と甥だから考えが似るのか、それとも雷獣特有の考え方なのかは定かではないが。

 

「最初は君の事を危険な妖怪だとかって思っていた事は謝罪するよ。萩尾丸さんから妖力が強くて雪羽を瞬殺できるって聞いた時には俺も気が動転していたんだ。何せ八頭衆の面々に、甥が目を付けられていたんだからね……

 しかしよく考えたら、生誕祭のあの場で雪羽を助けてくれたのは他ならぬ島崎君だ。今回だって、雪羽を傷つけたものの途中からは襲わないように懸命にこらえていたとも言うじゃないか」

 

 気付けば三國は優しげな笑みを浮かべている。その笑みが歪み、泣き笑いの表情に見えたのは気のせいではない。

 

「島崎君。今回の事件は君にとっても不幸な事だったんだよ。無論雪羽も傷ついたが、その件に関しては君は悪くないと俺は思っている。君が悪意を持って甥を害したとあれば話は別だが……あの時は単に蠱毒に操られていただけだろう? 本来の君が、そう言う事をやる奴じゃあないって俺も信じているからさ。だから……」

「三國様。雷園寺君の保護者であるあなたまで身勝手な事を仰るのはやめて頂けませんか」

 

 お前は悪くないんだ。その事を認めろ。言外に迫る三國に対し、源吾郎は堪り兼ねて口を開いた。三國にしろ雪羽にしろ、おのれの身勝手な考えから源吾郎に善性を求めようと躍起になっていた。()()()源吾郎にはそれが耐えられらなかったのだ。蠱毒に取り憑かれながらも、自分にも邪悪な一面があると知ってしまったためである。

 だからこそ、結果はどうであれ源吾郎は主張せねばならない事があったのだ。

 

「三國様。俺にだって悪意はありますよ。雷園寺のやつに負け続けて悔しさだって募ってました。それに――俺は紛れもなく忌まわしい連中の子孫でもあるんですから」

 

 おのれにも悪意は宿っているし()()()()()()でもある。これこそが源吾郎の伝えたい事柄だった。



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若者よ世間は狭きと心得よ

 源吾郎のカミングアウトに、三國も春嵐も硬直していた。二人の若妖怪は、どう反応して良いのか迷っているらしい。或いは、突飛すぎる発言に驚いていると言った所であろう。

 

「忌まわしい連中の子孫だって。それは妙な事を言うじゃないか」

 

 そう言ったのは三國だった。もちろん驚いているのだろうが、その一方で笑みも浮かんでいた。驚きが高じて笑いに転じたという所だろう。

 

「半妖が自分の妖力に耐えかねて暴走してしまうとか、そんなアホな事が実際にあるなんて思ってるんじゃないよね? それとも、今更になって玉藻御前の事が怖くなったとか? 他の兄弟たちじゃあるまいし」

「……玉藻御前の血は俺にとって誉れです。それには変わりありません」

「だったら尚更おかしいじゃないか」

 

 おのれの裡に潜む妖狐の血を恐れているのか。その問いかけを源吾郎が真正面から否定すると、三國はいよいよ疑念を深めたようだった。

 

「妖狐の血を誉に思っているのならば残るは()()()()()になるが、幸四郎さんに何の問題があるというんだい? 俺もあの人の事は知ってるが、そう悪い人では無さそうに思ったが」

「父も無関係です。俺が恐れているのは母の父、祖父の系譜なんですよ!」

 

 源吾郎は三國たちを見据えたまま言葉を続けた。

 

「共喰いや近親婚や妖怪殺しで成り上がった挙句、玉藻御前の娘と自分の縁者を交配させ、その仔を利用しようとした――曾祖父や大伯父たちはそんな連中だったんですよ! 祖父は確かに曾祖父や大伯父たちとは違っていたそうですが、それでもそう言う家系に生まれた事には違いありません。三國様、春嵐さん。そう言う()()が僕の祖先にはいたのです」

 

 呪われた血統として源吾郎が恐れていたのは、母方の祖父・桐谷家の系譜だった。彼らは強さを求めるためだけに様々な禁忌に手を染め、挙句玉藻御前の娘と当主の息子らを交配し強力な手駒を得ようと画策した。これを忌まわしいと言わずいられようか?

 三國たちからの返答は無いが、源吾郎は構わず言葉を続けた。

 

「身内殺しの罪過は祖父も担っていたのでしょうね。祖母と共に暮らし始めてからも、生まれた子供を付け狙おうと祖父の身内が攻めてきたのですから……もちろん、祖父が大伯父や曾祖父を武力で退けたのは致し方ない事です。そうしなければ俺の母や叔父たちはまともに生きていけなかったでしょうし。ですがそれでも、おのれの目的のために兄弟同士で喰い合いをしたという一族である事には変わりありません。

 もっとも、曾祖父や大伯父は祖父との間に生まれた子供――俺にとっては顔も知らぬ叔父たちですが――をかどわかし、蠱毒のようなモノに仕立てるような輩でもありましたが」

 

 源吾郎はそこまで言って言葉を切った。祖父は妻子との安寧を護るためにおのれの父や兄たちと闘い、彼らを葬り去ったのだろう。だがそれだけではあるまい。紅藤の話では、蠱毒になった息子さえも手に掛けなければならなかったわけなのだから。

 そうして利用された源吾郎の叔父を斃したのが誰なのかは源吾郎は知らない。もしかしたら源吾郎の母親だったのかもしれない。だがいずれにしても、身内殺しの血が流れている事に変わりはあるまい。

 三國と春嵐は驚きつつも目配せし顔を見合わせた。

 

「春嵐。今の島崎君の話だけどどう思う? 本当の事だと思うか?」

「……恐らくは本当の話でしょうね」

 

 問いかける三國に対し、春嵐は言葉を探りながら応じた。

 

「確かに島崎君のお祖父様の話は私たちも詳しくは知りません。ですが嘘や作り話の類ではないでしょう。作り話にしては細かすぎますし、何より嘘としてあの話をでっち上げる事が島崎君の()()()()にはなりませんから」

「だけど……苅藻の兄貴やいちか姐さんからあんな話は聞かなかったぞ」

 

 唐突に出てきた叔父と叔母の名に源吾郎は瞠目した。三國の言い方からして、単に苅藻やいちかを知っているだけとは思えない。面識がある以上に交流があり、しかも叔父たちの事を多少は慕っていた。そんな状況が浮かび上がるような物言いだった。

 

「苅藻さんたちが、そしてあなた方が知らないのは無理もない事です」

 

 三國の言葉に応じたのは紅藤であった。

 

「白銀御前様と桐谷家の対立に関しましては、三百年近く前のお話になる訳であり、苅藻君が生まれる前には既に烈しい争いも終わっておりましたから。その後に生まれたいちかさんや、若いあなた方が知らなくても致し方ない事です。

――ちなみに島崎君がこの話を知っているのは、私が教えたからにほかなりません」

 

 紅藤の言葉に周囲の空気は一変したようだった。若妖怪である三國や春嵐はまぁ腑に落ちたらしい。一方萩尾丸はというと、何故か渋い表情を浮かべあからさまにため息をついていた。

 

「紅藤様。よりによって島崎君にそんな事を教えていたんですか?」

「仕方ないじゃないの萩尾丸。島崎君に自分のお祖父様の善さを教えるためにはどうしても話さないといけない事だったもの。三花さんの性格上、子供たちにはそう言う話はしないでしょうし」

 

 そうでしょ? 紅藤は源吾郎を見やって問いを投げかける。源吾郎は素直に頷いた。実家にいた頃、母から祖父の縁者について聞かされた事は無かったのはまごう事なき事実である。

というよりも、兄姉らも祖父の縁者については知らないはずだ。兄姉らはむしろ人間として生きる事を決めている。血みどろの因縁を語られても当惑し、心が乱れるだけに過ぎない。いや……オカルトライターな長姉はネタが出来たと喜ぶかもしれないが。

 

「しかし色々と解りましたよ。そう言う話を知っていたからこそ、島崎君は蠱毒の事とか、雷園寺君を傷つけた事にショックを受けていたんでしょうね」

 

 冷静さを見せつつ語る萩尾丸だが、やはりその声には呆れの色が濃い。彼はいつの間にか源吾郎を見据えていた。

 

「島崎君もさ、昨日の今日で気が動転していたのは解るけれど……まさかそんな事を言い出すなんて僕も予想外だよ」

「まぁまぁそれくらいにしましょうよ萩尾丸さん」

 

 萩尾丸の言葉に待ったをかけたのは何と三國だった。源吾郎は軽く驚きつつも彼の言葉を待った。

 

「俺も島崎君の祖父の事はほとんど知りませんでしたが、彼の素性とか性質については、今はもうそれほど心配していません。萩尾丸さんもご存じの通り、俺は苅藻さんたちの事も、島崎君の叔父たちのひととなりも知ってますからね。なので……」

「それは第八幹部としての言葉なのかな。それとも雷園寺君の養父としての言葉かな?」

 

 三國の言葉にかぶさるように萩尾丸が問いかける。第八幹部か雪羽の保護者か。三國の立場を敢えて問いかける所には何か意味があるのだろう。

 

「――もちろん、雪羽の叔父……保護者としての言葉ですよ」

 

 それなら良かった。萩尾丸は目を細め笑みを造った。

 

「君も若い頃とは違って地位や立場を気にする事が出来るようになってるからさ、それで僕や紅藤様に気兼ねしてあんな事を言ったんだと思ったら気の毒だと感じたんだよ。そうか。それなら僕は特に言う事はないね。

 それじゃあ三國君、ついでに島崎君に対して雷園寺君の養父として言っておく事はないかな? 本心からの言葉なら何を言ってくれても構わないよ」

 

 萩尾丸の申し出に三國はちょっと驚いていたようだが、何度か目をしばたたかせた後源吾郎に視線を向ける。琥珀色の瞳はやはり獣の瞳だ。

 

「今回俺に話した事だけど、雪羽には言ってないよな?」

 

 源吾郎が頷くと、三國の顔に安堵の色が滲む。

 

「君の出自の話だろうけれど、くれぐれも雪羽には言わないでくれよ。君も知っているが雪羽は身内関係の話にはかなり敏感な性質だからさ。

 まぁ、お堅い話はこれくらいにしておこうか。君の叔父たちに免じて、君の事はあれこれ言わないでおくよ。俺も苅藻の兄貴やいちか姐さんには頭が上がらないからさ……」

「そうなんですか。三國さんが叔父たちに頭が上がらないなんて」

 

 やや照れ臭そうに話す三國は、源吾郎の言葉を聞くとさもおかしそうに笑った。

 

「まぁ、その辺の話は実際に君から叔父上殿に聞いた方が良いんじゃないかな。君には相手にしてくれる親族たちがいるんだ。だから時々会って近況報告してやるんだ。良いな」

 

 三國に諭されるように言われ、源吾郎はやはり頷いていた。脳裏には苅藻の姿がおぼろに浮かんでいる。修行云々の話にかこつけて叔父に会いに行くのも一興だろうと思い始めていた。



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黒羽の使者は何を見る

 紅藤たちと三國たちの面談は未だに続くようだったが、源吾郎もまた席を外すように命じられた。三國は落ち着いて応対してくれたが、源吾郎が口走った呪われた血統云々の話は、蠱毒に憑かれたショックで取り乱したがゆえに出てきた言葉という事にされてしまった。いや俺は正気だったんだぜ。源吾郎は内心密かに憤慨してはいたが

それを口にする事はなかった。正気だと言えば言う程正気を疑われる事は源吾郎も心得ていたからだ。

 それに源吾郎がそう思っているだけで、自分はまだ本調子じゃないのかもしれないし。

 

 

 事務所に戻ると雪羽たちの姿が視界に飛び込んできた。大人しくデスクに向かって書き物をしていた雪羽であったが、源吾郎の姿に気付くや否や顔を上げて手を振ってきた。修道服の背後では尻尾も楽しげに揺れている。

 

「早かったじゃないっすか島崎先輩! 大丈夫だった?」

 

 妙にテンションの高い雪羽の許に、源吾郎はやや速足で近付く。普段のペースで動いていたら雪羽の方が駆け寄ってきそうなのを察知したためだ。

 

「うん。俺は大丈夫だよ。三國さんも優しかったし」

 

 子供だましの、当たり障りのない言葉が口から滑り落ちる。これに雪羽は疑問を持つだろうか? 源吾郎は少しだけ身構えていた。

 

「そっかぁ、良かったぁ」

 

 源吾郎の懸念は杞憂に終わった。良かったと言い放つ雪羽の面に浮かぶのは屈託のない笑みである。源吾郎の言葉を疑わず、素直に受け取った事がここでも明らかになった。

 源吾郎は安堵しつつも、雪羽も少し疲れているのだろうと思った。普段の雪羽であれば、源吾郎の心の揺らぎや演技を見抜いていたであろうから。雷獣は単純な嗜好の持ち主で深く考えるのが苦手であると聞かされていたが、その分直感力に長けている。雪羽もそんな雷獣の特徴を幼いながらも持ち合わせている事は源吾郎も既に気付いていた。

 

「雷園寺君も良かったよな。まぁ状況が状況だけど、三國さんに会えてさ。あの人も……立派なお、いや保護者だと思うよ」

 

 うっかり親と言いかけ、源吾郎は保護者と言い直した。疲れが残っているのは何も雪羽だけではないようだ。萩尾丸の言う通り、今の三國は実質的に雪羽の養父だ。しかし三國も雪羽も叔父と甥の関係であると頑なに主張している。雪羽の実父が健在であるから、気を遣っているのだろうか。

 

「先輩から見ても叔父貴は立派な保護者だって思うんですね。実はさ、俺に付き従ってたオトモダチとかからは叔父貴と俺はむしろ兄弟みたいだってよく言われてたからさ。そこんとこどうなんだろうって思ってたんだ」

「まぁ、そう思う人もいるって事だろうな」

 

 源吾郎はあっさりとした口調で流しておいた。三國は若くてヤンチャそうな気配を見せているから、雪羽の兄だと思えばそういう風に見えるのだろう。また妖怪は何百年も生きるから、百年近く歳の離れた兄弟というのもあり得る話だ。

 そもそも論として、源吾郎の中では父親と叔父と兄の区別は明確ではない。特に区別しなくても問題はなく、父も叔父も兄も「年長の親族男性」というくくりに入れておけば事足りたのだ。しかも長兄の振る舞いは父親のそれに近く、叔父の姿に実の兄以上に兄らしさを感じていた。

 そんな感覚を持つ源吾郎であるから、やはり雪羽の言葉は軽く流すのが無難なのだ。自分の親族男性たちの認識について話していたらそれこそややこしくなるわけだし。

 余談だが、母親や叔母や姉と言った「年長の親族女性」たちの方は明確に区別できている。母も叔母も姉もそれぞれ母として叔母として姉として源吾郎に接していたからだ。親族と言えども男女でそのような違いが出てくるのは不思議な話でもある。

 

「それよりさ、雷園寺君は何をやってたの」

 

 親族たちとの関係性を頭から振り払い源吾郎は尋ねた。源吾郎が面談に参加している間雪羽が何をやっていたか。素直に興味があったしそっちの話に移行したほうが良いような気もしたのだ。

 

「さっきまで適性検査をやってたんだ。それで今は勉強中」

 

 いやまぁ勉強って大変だぜ。ちょっと気の抜けた声を出しながらノートを源吾郎の近くに押し出した。白いノートの上には、明朝体めいた文字が行儀よく並んでいる。

 

「これ、雷園寺君が書いたのか?」

「俺のノートに俺以外の誰が書くって言うのさ? あ、でも雷撃を使ったら文字の印字も出来るけど、そう言うのはしんどくなるからあんまりやらないし」

 

 怪訝そうな表情を浮かべつつ返答する雪羽を前に、源吾郎の顔が引きつる。雷獣の新たな能力を知り素直に驚いていたのだ。雷撃放出に生体レーダや脳波への干渉だけでも大したものだ。それだけにとどまらず雷撃印字までできるとは……それがどう役に立つのかは解らないが。

 少し考えてから、源吾郎はノートの文字を指差した。気になった事は直接問うべきだと今更になって気付いたのだ。

 

「いや、そう言う事じゃないんだ。雷園寺君の文字、めっちゃ綺麗だからびっくりしたんだよ。女子の字って言っても遜色ない位だぜ」

「ああ、そう言う事だったのか。あはは。俺、先輩をびっくりさせるのに成功したな」

 

 雪羽が高笑いするのを見ているうちに源吾郎は安堵していた。普段通りの姿を見たからという事もあるが、それ以上に自分の意図した内容が相手に伝わった事を感じ取ったためでもあった。

 

「だけど字の綺麗さってのは男も女も関係ないよ。ていうか、俺らみたく貴族妖怪だと字が綺麗かどうかってのも結構大切なんだぜ? それこそ資料とか書類とかへのサインとか署名とかが大切になってくるわけだし……俺も昔、お屋敷にいた頃はじいやとかねえやから字の書き方は教えて貰ったんだ」

 

 お屋敷、とかじいやという言葉に源吾郎が面食らっていると、雪羽は得意げな笑みを浮かべて更に言い添える。

 

「島崎先輩だって無関係じゃないですよぉ。先輩だって、ゆくゆくは婚姻届けとかたくさん書くんじゃないんですか。そんなときに字が汚いと、奥さん候補がドン引きしちゃうかもですよ」

「確かにそれは大問題だな!」

「そうそう。先輩って奥さんいっぱい作るんだろうから、そう言う所も気を付けないと」

「確かにそうやな」

 

 妙な所で妙に二人で盛り上がっていると、それまで影の薄かった青松丸が咳払いをして自己主張をした。源吾郎は我に返った気分になり、ついでテンションもダダ下がりになった。彼はホッチキスで留めただけの冊子を源吾郎に見せつつ、困ったように微笑む。

 

「二人とも元気そうで何よりだけど、ひとまずは仕事……お勉強の方をやろうか。結婚とか婚約届けとかの話は君らにはまだ早いだろうし」

 

 そうですね……源吾郎は素直に頷き、青松丸から冊子を受け取った。

 オスの妖怪の場合、生後数十年程度で繁殖は可能になる。しかしすぐに相手の女妖怪とくっついたり子供を設けたりするようになるかと言えばそれは別の話なのだから。源吾郎らはある意味大人の話をしているつもりになっていたが、真の大人妖怪からすればやはり子供の戯言に見えたとしても致し方ない。

 

 

 昼休み。社員食堂から戻ってきた源吾郎は雪羽が起きていてこちらの様子を窺っている事に軽く驚いた。昼休憩の時、雪羽は食後突っ伏して寝ているか、手持ちの本を眺めてぼんやりしているかのどちらかである為だ。しかも彼も色々と疲れているであろうからなおさらだ。

 余談だが源吾郎が社員食堂に出向いたのは昼食を作る気力が戻っていなかったためである。人数的にも工場作業員向けの食堂だったが、源吾郎が利用しても問題はなかった。

 

「珍しいな雷園寺君。こんな時間に起きてるなんて」

 

 源吾郎の言葉に雪羽は軽く微笑むと、窓辺を見やってから口を開いた。

 

「何か普段以上に鴉が多いみたいで気になったんだよ。あいつらも繁殖期は過ぎてるのにさ」

「確かに……」

 

 鴉が多い。この指摘に源吾郎も素直に頷いた。研究センターから食堂に向かう道中で、源吾郎も鴉を複数羽見かけていた。彼らは空を飛んだり枝や屋根に止まったり啼き交わしたりと思い思いに過ごしていたが、中にはこちらを見ているような者もいた。嘴は太く盛り上がり啼き声も澄んでいたから、概ねハシブトガラスばかりなのだろう。

 

「そりゃあまぁ鴉なんてどこでもいるけれど、今日はやけに目立ったからさ……」

「得意のレーダーで調べたら、何処の誰なのか解るかもしれないぜ」

「確かにそうかも……」

 

 またしても世間話が弾みそうな瞬間を迎えていたが、何故か雪羽は途中で言葉を切った。不審に思い彼の視線を辿る。紅藤や萩尾丸たちが事務所に入って来るのが見えた。どうやら彼らは今の今まで打ち合わせを行っていたらしい。

 

「お疲れ様です、紅藤様に萩尾丸さん」

 

 何処からともなくやってきた青松丸が紅藤たちをねぎらう。お疲れ様です。源吾郎たちもこれに倣い、紅藤たちに挨拶をした。

 

「……打ち合わせの結果について、詳しい事は昼一にお話しするわ」

 

 紅藤はそう言って周囲を見やる。源吾郎と雪羽が互いに近くにいるのを見つけると、一呼吸置いてから言葉を続けた。

 

「今回の首謀者は、やはり八頭怪だと思っております。ですが……この雉鶏精一派に、というよりも八頭衆の中にも彼と通じている者がいるかもしれない。その可能性も浮上してきました。非常に残念な話ですが」

「あれだよ。獅子身中の虫という奴だね」

 

 裏切者が八頭衆の中にいるかもしれない。そう言った紅藤の顔は苦り切っていた。その一方で萩尾丸は道化めいた笑い顔を見せている。

 源吾郎の脳裏に浮かぶのは先程見た鴉たちだった。もしかしたら、何者かが鴉を通じて源吾郎たちを監視しているのではなかろうか。

 いや、鴉を使って監視しているのが誰かなどという事は明白だ。何しろ八頭衆には、鴉天狗の灰高がいるのだから。あの鴉は灰高の遣いなのだろう。



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虹色は黒羽を捕食する

 ナチュラルに残酷描写がありますのでご注意くださいませ。


 昼休憩が終わると、ミーティングの場所に紅藤を筆頭に皆が集まりだした。今回の蠱毒の件に関して、八頭衆の面々で話し合った事をもう一度おさらいするのだろう。

 今回は源吾郎や雪羽も同席する形になった。雪羽はさておき、源吾郎にしてみれば少し間を置いただけでまた会議に出席するようなものだ。しかしその事についてさほど気負ってはいなかった。雪羽と共にやっていた座学も中々に退屈で、飽き始めていた所だったのだ。

 緊張した面持ちの中、まず口を開いたのは紅藤だった。

 

「島崎君は最初、八頭怪に直接出会って誘惑されたのよね? 力を与えるとかそう言った類の事を」

「そ、そうです!」

 

 八頭怪の出会いについて問われ、源吾郎は一瞬戸惑った。それでも語尾に強い力がこもっているのは、おのれを虚仮にした八頭怪への憤慨と、それを跳ねのけた事への自負があったためだ。

 紅藤は淡く微笑むと何事もなかったかのように言葉を続ける。

 

「島崎君が誘いに乗らない事も、八頭怪の()()()だったのでしょうね」

「え……!」

 

 源吾郎は驚きのあまり声を漏らすも、紅藤は気にせず続けた。

 

「むしろ誘いを乗らなかった後の動きこそが本命だったかもしれないわ。もちろん、誘いに乗った場合の事も考えていたでしょうけれど。ともあれ八頭怪の手の平の上で転がされていたようなものでしょう」

 

 何から何まであいつの計略通りだったのか……源吾郎は思わずこぶしを握り締め、ついで牙を鳴らすかのように歯を食いしばった。八頭怪が途方もない存在である事は源吾郎も知っている。しかしそれでも、自分が計略のままに操られたとあっては黙ってはいられなかった。源吾郎だけではなく、雪羽も巻き込まれたのだからなおさらだ。

 

「だからこそ、適当な相手を見繕って青松丸に化けさせて蠱毒を渡すように仕向けたんでしょうね。からくりが解ればそう複雑な罠ではありませんが、それでも術中に嵌るように調整されている所はありますわね……私の部下の中でも、青松丸に化けさせたところとか」

 

 言われてみればそうかもしれないと、源吾郎も他人事ながら思っていた。あの時新しい護符だと言って持ってきたのが、青松丸だったからこそ源吾郎も応じたのだ。変化していたのが紅藤や萩尾丸だったら流石に源吾郎も怪しむだろうし。

 そう思っていると、本物の青松丸は気まずそうな表情を浮かべて首を垂れた。

 

「……島崎君に雷園寺君。本当にごめんね。大変な目に遭っちゃって」

 

 青松丸の口から出てきた謝罪の言葉に、紅藤と萩尾丸は驚いたり呆れたりしていた。

 

「青松丸。別にあなたは何も悪い事をしてないでしょ」

「紅藤様の仰る通りですよ、青松丸さん。今回の案件はいわばあなたにとっても貰い事故みたいなものですし。むしろ下手人とか八頭怪に対して怒ってください……平社員を気取ってますけれど、あなたは頭目の兄なんですから」

 

 頭目の兄。萩尾丸の言葉には奇妙な重みがあった。困惑したように笑う青松丸に対する眼差しも、心持ち鋭い。萩尾丸は野良天狗だったのだが、紅藤の許で頭角を現し一番弟子として幹部として雉鶏精一派を担っている。紅藤の実子で胡琉安の半兄でもある青松丸は、血統や地位に恵まれつつも研究員としての地位に甘んじている。萩尾丸と青松丸の関係性は兄弟弟子として表立った出来事は殆ど無い。しかし少なくとも、萩尾丸は青松丸の態度に思う所があるらしい。

 

「あ、あの……先輩にお師匠様。話、進めましょ」

 

 そうだったね。妹弟子であるサカイさんの言葉を受け、萩尾丸が気を取り直したようだった。

 

「まぁそれで、獅子身中の虫もいて、そいつが裏で画策しているのではないかという事なんだよね。何しろ僕ら八頭衆が集まって極秘の会議を行っている間に、島崎君は蠱毒を押し付けられたんだ。僕らが一か所に集まってすぐに動けない事を知っていなければそう言う事は出来ないからね」

 

 だからこそ八頭衆の中に八頭怪と繋がっている者がいる。そう言った萩尾丸の言葉には、普段の軽々しい雰囲気は一切ない。日頃炎上トークを行っている彼は、しかし常人以上に言葉の重みを知っているのかもしれない。源吾郎は不意にそんな事を思った。

 

「八頭衆のうちの誰かが裏切者だったとしても、それが誰かってある程度見当は付くんじゃないでしょうか」

 

 今まで黙って話を聞いていた雪羽だったが、やや声を張り上げてそんな事を言った。驚いたように瞠目する紅藤たちを見ながら、雪羽はニヤリと笑った。

 

「紅藤様も先輩方も、今日はやけに鴉が多い事にお気付きですよね? 僕も島崎先輩もついさっきその事に気付いたんですよ。きっと誰かが鴉を使って僕らを監視してるんですよ。多分、紅藤様たちなら鴉が誰の遣いなのかご存じだと思いますが」

「灰高のお兄様の事を言っているのかしら、雷園寺君」

 

 紅藤は即座に問い返す。言葉は丁寧であるが剣呑な気配が漂っていた。雪羽の顔からは笑みが消えている。何故剣呑な態度を見せたのだろうと源吾郎は思った。紅藤も灰高の事を警戒しているのか。それとも憶測で物を言った雪羽に憤慨しているのだろうか。

 前者であってほしい、というのが源吾郎の考えである。八頭衆に裏切者がいるとは思いたくない。しかし怪しい輩は誰かと言えばやはり灰高だろうと思っていたのだ。元々胡喜媚と対立していた妖怪であるし、前の生誕祭の時も紅藤を挑発し、一触即発の空気を生み出していた。

 あの時は丸く収まったが、紅藤に対して意趣返しを考えていたとしてもおかしくないだろう。そもそも彼は源吾郎の事も疎んでいた訳だし。

 紅藤は困ったような憂い顔を浮かべると、軽く息を吐いた。

 

「灰高のお兄様がこの件に一枚噛んでいるのか、それは私にも解りかねるわ……ただ、あの下手人の衣服には黒い鳥の羽毛が付着していました。下手人は鳥妖怪ではなかったから、何者かが遣いとしていた妖怪のものでしょうね。あれを調べれば何か糸口はつかめるのですが、生憎三國君の雷撃を受けて蒸発してしまいましたし……」

「鳥妖怪を配下に持つ者は結構多いですからね」

 

 茫洋と呟く紅藤に対し、萩尾丸は引き締まった表情で告げる。

 

「灰高様が怪しいと仰るのならば、僕の方でそれとなく探りを入れてみますよ。ええ。僕の部下にも諜報が得意な者もいますからね。もちろん念のために、他にも怪しい点が無いか調査しないといけませんが……もしかしたら、それこそ真琴様にもお力添えしていただくかもしれませんが」

「そうね、そうしましょうか」

 

 ひとまず獅子身中の虫については調査するという事で方向性が定まった。それから今度は青松丸が、紅藤たちを見やりながら意見を申し出る。

 

「紅藤様。萩尾丸さん。この際ですから雉鶏精一派の外部での協力者も少しずつ募りましょう。島崎君を……玉藻御前の末裔を僕たちが引き入れてから、八頭怪の動きはいつになく活発です。もしかすると近いうちにぶつかるかもしれませんし」

 

 そこまで言うと、青松丸は思案顔となった。

 

「とはいえ外部勢力を味方につけるのも難しいでしょうか。そもそもからして雉鶏精一派は、初代のイメージが憑き纏っているせいで危険な組織と思われがちですし」

「私たちが危険視されていたとしても、より大きな脅威に立ち向かわねばならないと知れば、手を組んでくれるはずよ」

 

 青松丸の生母である紅藤の言葉は、それこそ彼の不安を払拭するような力を持っているかのようだった。

 

「より大きな脅威とは言うまでもなく八頭怪よ。正確には八頭怪の背後にいるいにしえの者たちね。彼らは星辰が揃うまでは動けないけれど、その代理である八頭怪は自由に動き回っているんですもの」

 

 紅藤は難しい事を言っているようだったが、何故か何処かで覚えのある事を口にしているような気がしてならなかった。奇妙な既視感は源吾郎の心の中に引っかかるが、彼はすぐに別の事を考えだした。すなわち、誰の助けを得れば八頭怪を撃退できるか、である。

 孫悟空、牛魔王、哮天犬、八岐大蛇、鞍馬天狗……絶対的強者と言える大妖怪たちの名前が脳裏に浮かんでは消えていく。源吾郎も実力者たちの名前は知っていた。知っているだけで、親しいとか協力してくれるか否かは別問題だけど。

 

 

 

 関西某所。普段ならば妖怪たちも素通りしてしまうような大樹の屋敷の許に、一羽の鳥妖怪が向かっていた。半人半鳥の奇怪な姿で黒い羽を何枚かまき散らしてもいたが、彼はその事は気にせずに目的地へと飛び続けていた。正体がバレる事、目的地にたどり着く事への懸念は特に無い。奇妙な首飾りを持つ青年から、性能の良い護符を渡されていたからだ。その護符は強度の認識阻害の術を具え、尚且つ隠蔽された屋敷に繋がる鍵の役目も果たしている。

 もし誰かが彼の姿を見たとしても、本来の姿――黒い羽毛に覆われた、ごくごくありふれた鳥の姿だと思うに過ぎない。

 とにもかくにも任務を終えるのが先だった。任務の後に待つ報酬に目がくらんだ彼は、しゃにむに翼を動かしていた。空気を切り裂く音の合間に、かすかに鴉の啼き声も混ざっているようだったが。

 

 今でこそ彼は野良妖怪だったが、元々は組織勤めの妖怪だった。不祥事を咎められて退職し、食うや食わずの野良妖怪生活を送っていたのだ。アウトロー気取りだった彼は、半ば野良妖怪の暮らしを舐めてもいた。野良妖怪の生活は気ままだったが、その気ままさを楽しめたのは本当に短い間に過ぎない。今はただ、勤め人暮らしが懐かしくて仕方がなかった。あの頃は口うるさい上司はいたが、少なくとも収入と生命の保証はされていたのだから。しかも妙にプライドが高いせいで、転職も中々難しかった。

 そんな折にかつての雇用主――それも上司の上司である――からこの仕事を持ちかけられた時には、疑念や驚きよりも喜びの方が強かったのだ。間抜けな妖狐の若者を監視し、陰気な屋敷に住まう女主人とその食客に一部始終を報告するだけ。それだけで向こう五十年は遊んで暮らせるだけの報酬が貰えるのだ。

 もちろん、長命な妖怪にしてみれば五十年という期間は短いかもしれない。しかし若い彼には十分魅力的な報酬に思えたのだ。

 そうこうしているうちに目的地である屋敷に辿り着く。手筈通りに開いている窓を見つけ出し、そこからするりと入り込んだ。客人ならば正面玄関から入るのが筋なのだろう。しかしこの屋敷の主からは窓から入るようにと伝えられているので致し方ない。

 

「お仕事ご苦労様。大変だったでしょ」

 

 窓から入った先はこれまた豪奢な部屋だった。庶民妖怪である彼は豪華な部屋などアニメや漫画でしか知らないが……それでもここに居並ぶ物品たちが全て高級な品である事は何となく察しがついた。

 そもそもからして、屋敷の女あるじとその食客からして佇まいが違っている。女あるじは青緑のぴっちりしたワンピースを身にまとい、若い娘の姿に化身していた。それでも、相手の妖怪としての格の違いがこちらにはひしひしと伝わってくる。執事のように佇む食客と名乗る青年――首許にはあの七つの首飾りがあしらわれている――の方はまるきり実力が読めない。しかしかの女あるじの隣で自然体でいるのを見ればただ者ではあるまい。

 

「――それで、結果としてはどうだったかしら」

 

 女あるじは簡潔に問う。その瞳は鋭く、嘘を言った途端に射殺しかねない気配があった。嘘でなくとも不興を買うような事を言っても同じ末路を辿るかもしれない。

 彼は緊張し思わず彼女から視線を逸らせてしまった。彼はだから女あるじと食客の背後に控える第三の存在に気付いてしまう。それは人型を保とうとしていたが、鳥妖怪の羽毛や蹴爪、そして何故かタコやイカが持つような触手を具えた奇怪な姿をしていた。その癖面立ちはきちんと人型に化身した若者である。何となく女あるじに似ている気がしてそれが却って不気味だった。

 

「……ご期待に沿える結果とは言えないかもしれませんね」

「じれったい事を言わずに、結論を教えて頂戴な」

 

 彼の喉仏がごくりと動く。乾いていく唇を舌で湿らせながら彼は言葉を絞り出した。

 

「あの妖狐は確かに蠱毒に侵蝕されました。ですが、残念ながら大事には至らなかった模様です。すぐに彼の先輩格の妖怪が救助しましたし、何より妖狐自身の妖力が強すぎて、深くまで侵蝕しなかったみたいですし」

 

 女あるじは何と言うだろう。彼は重々しい気持ちで彼女の言葉を待った。蠱毒は妖狐を損ねるために使ったものである。しかし妖狐自身は多少は傷ついたもののピンピンしているではないか。その報告は女あるじの望んだものではないと、流石に彼も気付いていた。

 

「まぁ、あの子はあんななりでも玉藻御前の末裔だからね。チンケな術ではそうそうくたばりはしないとボクは思うよ。だからさ、君は別に()()()()()()()()()()()。この先の事も、ね」

 

 緊張する彼に声をかけたのは食客の方だった。首にぶら下げたアクセサリーは小鳥の頭のように見えて、何とも悪趣味だった。碧松姫ちゃん。馴れ馴れしい猫なで声を上げながら、食客は女あるじの方を見ている。

 

「碧松姫ちゃんだってさ、こんな展開になる事は大体予測できてたんでしょ?」

 

 まあね。鼻を鳴らしながら肯定する女あるじを前に、彼は静かに驚いてもいた。そんな彼の心の動きなどお構いなしに、女あるじは言葉を続ける。

 

「あんたの言う通りあの狐は凡狐じゃなくて玉藻御前の末裔だし、何よりあのメス雉が可愛がっているんですから。あの女は執着したものが損なわれるのを何よりも嫌う訳ですから……まぁ、妖怪仙人気取りのあのメス雉へのささやかな嫌がらせって所になるわね。向こうの狐の力量も大体解るし」

「雉仙女様の事をそう仰るなんて……!」

 

 思わず彼は呟いていた。女あるじはメス雉と言い捨てた妖怪女を名指しでアレコレ言ってはいない。しかし玉藻御前の末裔を従えているという情報から誰であるかを特定する事は簡単だ。

 だから彼は震えあがったのだ――末端だったとはいえ、彼も()()()()()()()()()()()()()()()()のだから。

 

「あーらら。君さ、未だに雉鶏精一派の面々の事が怖いのかな?」

「そうよ。雉仙女なんて怖れなくても良いのよ。私だって山鳥御前って名乗っているんですし。雉仙女と違って、私はきちんとコツコツ力も蓄えたし、何より血統が違うわ」

 

 多少の威圧を見せた女あるじたちを前に彼は言葉を失った。おのれがやはり取るに足らない庶民妖怪なのだと思い知らされ、歯痒い気持ちでもある。

 そう思っていると、食客の青年が助け舟を出してくれた。

 

「とりあえず、今日はこれくらいでお開きにしようか。うん。もちろん君には報酬を用意しているから。向こうの、隣の部屋に行くと良いよ。何分量が多いから、こっちまで運んでくるのが面倒でね……」

 

 食客の言葉に促され、彼は隣の部屋へと向かう。暗い紅色の絨毯の、ふかふかした感触が足裏に伝わってくる。

 彼は隣の部屋まで向かっていたが、そのドアノブを握る事は無かった。

 胸のあたりに衝撃を受け、そのままバランスを崩してしまったからだ。衝撃は鈍い痛みを伴い、また熱くねばついた感触も遅れてやってきた。何が起きたのかは解らない。立ち上がろうとするが足が思うように動かないし考えもまとまらない。

 気が付けば、鳥と触手と人を掛け合わせたような何かが彼の顔を覗き込んでいる。

――そこで彼の意識は途絶えた。

 

 

※※

「※グ=ソ……スの落とし子たるイルマ君の血肉になれるんだよ。これほど栄誉な事は無いんじゃないかなぁ……」

「八頭怪さん。もう彼には聞こえてないみたいよ」

「ははは。死人に口なしって言葉を忘れてたよ」

 

 山鳥御前と八頭怪の視線の先では、異形による捕食シーンが繰り広げられていた。喰われているのは鳥妖怪の青年であり、喰っているのはイルマと呼ばれた異形の若者だった。彼こそが道ヲ開ケル者と山鳥御前との間に生まれた息子である。生まれてからまだ一か月も経っていないが、既にミドルティーンの少年ないしは青年妖怪に近い姿に成長していた。道ヲ開ケル者が設けた子供は往々にして成長が速い。イルマも例外ではなかったようだ。

 

「まぁそれにしてもイルマ君も前途有望っぽいねぇ。ちょっと前に死んじゃったウィル君も良い線いってるかなって、文通しながら思ってたんだけどね」

「文通したくらいじゃあ何も解らないでしょうに」

 

 過去話を行った八頭怪に対して、山鳥御前は呆れたように言い返す。過去に死んでしまったウィル君なる人物よりも、我が仔であるイルマの方が優れているという矜持ゆえの反論だった――そこに愛情があるか否かは別問題であるが。

 

「ともあれ碧松姫ちゃん。君が協力してくれて本当に嬉しいよ」

「私も嬉しいわ」

 

 八頭怪と山鳥御前は食事を続けるイルマから視線を外し、笑いあった。ゆくゆくは異父姉にイルマを引き合わせる事になるだろう。そのような事を山鳥御前は密かに思っていた。




 イルマ君はウィルバー・ウェイトリーが元ネタです。
 但しこちらはマッマの山鳥御前がノリノリで彼を産んだ感じですね。もちろん手駒として利用するつもりです。
 敵役だし、これくらいぶっ壊れているのは多少はね?


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小鳥で始まる可愛い談義

 金曜日の朝。源吾郎はいつもの時間にホップを放鳥した。鳥籠の扉が開くや否や、ホップは一声啼き、扉の入り口で踏ん張ってから軽やかに離陸する。今までは源吾郎の手の平に一旦乗ってから離陸していたのだが。

 源吾郎はしばらく無言で飛び去るホップを眺めていたが、ややあってから小鳥の餌を入れている小箱を手許に引き寄せた。ふたを開けて取り出したのはおやつ用のペレットである。果物の成分が入っているそれは、ホップが唯一口にするペレットであった。あくまでもおやつ用である為にそう多く与える事は無いが、ホップの好物の一つである事には違いない。

 源吾郎はそのペレットをつまみ、手の平の上に数粒乗せた。手乗り十姉妹だったホップだが、蠱毒の一件があってから源吾郎の手の上に乗らなくなってしまった。少しずつ彼の態度も軟化してはいるのだが、それでもまだ源吾郎を警戒しているらしい。

 好物のおやつがあれば警戒心が薄まるかもしれぬ。それはある意味姑息で浅はかな考えなのかもしれない。しかしホップとの距離を縮めるのに丁度良い案はこれくらいしか思いつかなかったのだ。

 

「ホップ……」

「…………プ」

 

 ホップを驚かせないように小声で名前を読んでみる。ちらとこちらを一瞥してから、ホップは啼き返してきた。やはり前とは反応が違う。源吾郎は少しがっかりしたが、気を取り直して手の平とホップとを交互に見やった。

 

「プイッ、ピィッ!」

 

 ホップがふいに目を輝かせ、機敏な動きで方向転換を繰り返す。そう思っていると再びホップは羽ばたき始めていた。しかもこちらに向かってきている。源吾郎は占めたとばかりに笑みを浮かべた。やはり何のかんの言ってもホップも小鳥ちゃんである。お気に入りのおやつを発見し、そのまま源吾郎の手に飛び乗る算段であろう。

 中空を飛んでいたホップは高度を下げ、源吾郎の手の平付近までやってきた。よし止まれ。ほら止まれ。ホップの好きなおやつはいくらでもあるだろう……源吾郎の瞳は妙な熱を帯び始めていた。

 ところが、待てど暮らせどホップが降り立つ気配はなかった。ホップは確かに源吾郎の手の平付近を飛び回っている。ホバリング状態だった。その状況に首をかしげていると、ホップが動いた。何と彼は手の平の真上で旋回しながら、首を伸ばしてペレットを咥え始めたのだ。もちろん源吾郎の手の平の上には着陸せずに、である。

 

「ブ、ブプッ」

 

 くぐもった声を上げながら、ホップはそのまま飛び去って行った。皿状の巣が置かれた台座の上に降り立つと、嘴を動かして戦利品を味わっていたのだ。

 源吾郎は、それを呆然と見つめる他なかった。

 

 

「おはようございます、島崎先輩! まだ具合でも悪いんですか?」

 

 研究センターにやってきた源吾郎を出迎えたのは雪羽だった。朗らかに笑う雪羽からは湯気のように妖気が立ち上っており、源吾郎は少しだけ面食らった。蠱毒の一件があってからまだ日が浅いにもかかわらず、雪羽は心身ともに回復しきったらしい。それどころか、ここ数日彼の妖力は増えつつあるくらいだ。源吾郎などはそろそろ落ち着きを取り戻した所であるわけだから、雪羽のタフさ加減には恐れ入る。

 そんな事を思いつつも、源吾郎は愛想よく雪羽に笑いかけた。

 

「いや、具合は悪くないよ。ただちょっと……ホップがまだ塩対応なんだ」

 

 思っていた事を吐き出すと源吾郎はため息をついていた。ため息で脳細胞が死滅するとかいう知識が脳裏をよぎるがそれどころではない。

 雪羽は気づかわしげに源吾郎を見つめていた。

 

「そっか。それは気の毒だなぁ。先輩は小鳥ちゃんの事を大事にしてるみたいだし」

「弟みたいなもんだし、あいつには俺しか頼れる相手はいないからさ」

 

 源吾郎の言葉に雪羽は軽く驚きを見せている。クサいだのなんだのと思っているのかもしれない。しかし源吾郎とホップの結びつきが単純ではない事は真実なのだ。

 元々ホップは普通の十姉妹として、ルームメイトであるトップやモップと共に暮らしていくはずだった。それを源吾郎の薄皮を摂取した事で妖怪化した。その上元の飼い主の家を出て源吾郎の許にやってきたのだ。源吾郎がホップを養い、大切に扱わなければならないのは自明の話だった。

 

「弟みたいって随分入れ込んでますね」

 

 源吾郎の思いをよそに、雪羽はそう言って笑った。

 

「でも先輩って鳥が好きですもんねぇ。鳥の名前もたくさん知ってるし、それなら部屋で飼ってる小鳥ちゃんも大切にするなぁって」

「鳥の名前を知ってるのは、子供の頃に教えられたからさ」

 

 源吾郎と雪羽が行う座学の中には、鳥の名前を覚えるという物も途中から入っていた。恐らくは、紅藤たちが始末した妖怪、青松丸に化身していたという輩に付着していた羽毛の件があったからだろう。

 鳥の名前の件に関しては、源吾郎の方が多くの種類を知っていた。とはいえ、雪羽も共に図鑑や写真を見て覚えている最中だから、その差もいずれは埋まるだろう。

 

「俺は小鳥だけが好きなんじゃない。フワフワした生き物なら何だって好きだぞ。猫とかウサギとかモルモットとかもな。まぁ、今うちにはホップがいるから、あれこれと他の生き物を飼うのは難しいけど」

 

 縁あって十姉妹のホップを飼育している源吾郎であるが、実の所フワフワとした動物であれば何であれ関心を持っていた。中学生の頃、部員たちと共に保護した猫を飼いたいと思っていた事もあったくらいだ。親兄姉から猫を飼う事を反対されなければ、源吾郎はきっと保護した仔猫を喜んで引き受けていただろう。

 

「先輩って結構可愛い物好きだもんなぁ」

「可愛い物が好きで何が悪いんだ」

 

 可愛い物好き。そう言った雪羽がニヤニヤしているように見えて、思わず源吾郎は目を吊り上げた。女子力研鑽に励む源吾郎の事を雪羽はかつて変態呼ばわりしていた。だから今回も、馬鹿にされたのかもしれないと思ったのだ。

 

「良いか雷園寺。可愛い物好きは女子の専売特許じゃないんだぜ。そりゃあ確かに女子の方が可愛い物が好きな子は多いけどさ、最近はオッサンとかも可愛い物好きを自称し始めてるじゃないか。

 それにだな、可愛い物とかお洒落な物とか、女子に近い趣味を共有する事もモテ男への道なんだよ……俺は見た目で勝負できないから、そう言った戦略を持っているんだ」

 

 源吾郎の怒涛の主張に雪羽もたじたじとなっていたようだ。だが事実なのだから致し方ない。驚いたように目を丸くしていた雪羽だったが、頬を動かして笑みを作った。

 

「先輩、別に俺は先輩を馬鹿になんてしてないよ。先輩の事はさ、男の中の男だと思ってるよ。ちょっと変態ぽいけど」

 

 それに――息継ぎするように呟く雪羽の顔は真顔になっていた。

 

「可愛い物が好きとか、そういう事を素直に表現できるのは良い事だと思うし、羨ましいんだよな、正直言って」

 

 自分も可愛い物には興味がある。そう語る雪羽の顔は僅かに陰っていた。

 

「まぁ確かに俺は女の子には困らなかったけど、一応強くて硬派なイメージみたいなのがあっただろ? なのに可愛いのが好きだとかって解ったら周りが抱いてたイメージが崩れるかなとか思ってたんだよ」

「他の連中のイメージに左右されて顔色を窺うのはそれこそ漢らしくないぜ」

「だよなぁ……」

 

 源吾郎の言葉に雪羽も納得したらしく、晴れやかな笑みを浮かべていた。雪羽の事は大分気分屋であるように思える。だがそれも、切り替えが上手な雷獣の特性なのかもしれない。

 そんな事を思っていると、雪羽の翠眼が源吾郎をしっかと捉えていた。

 

「俺もちょっとずつ、自分に正直に生きていこうかなって思うんだよ。先輩みたいにさ」

 

 いやいや雷園寺。お前元から自分に正直だっただろ。そうでなけりゃあ生誕祭の時にウェイトレスに化身した俺をエロ目的で捕まえたりしなかったんじゃないか? そんなツッコミを、源吾郎は思わず心の中で行っていた。

 しかし雪羽はそんな事など気にせず言葉を続ける。周囲で揺らめく彼の妖気が一層濃くなった気がした。

 

「だからさ、また先輩とタイマン勝負やりたいなって思ってるんだ。そんなわけで先輩、早く元気になってくださいね」

「お、おぅ……」

 

 清々しいまでに身勝手な発言を目の当たりにし、さしもの源吾郎も戸惑ってしまった。元気になるまで待つ、というあたりには雪羽なりの配慮はあるにはあるのだろうけれど。

 身勝手な発言と思いつつも、実の所源吾郎はそれほど腹を立ててもいなかった。雪羽と言わず妖怪が大なり小なり身勝手な存在である事は既に知っている。というか源吾郎とて身勝手な存在でもある。おのれも身勝手であったからこそ、今こうして研究センターに所属しているのだから。

 快復したら再び戦闘訓練は始まるだろう。しかし前のように雪羽に立ち向かっていく自信はなかった。闘うのが怖かったのだ。別に雪羽の強さに怖気ついている訳でもないし、戦闘に不慣れなおのれに嫌気がさしている訳でもない。今再びおのれの裡に潜む残忍な本性が姿を現さないか。その事が恐ろしかったのだ。

 

「――戦闘訓練の方は、来週も見送る予定なんだけどね」

 

 ああだこうだと考えていた源吾郎のすぐ傍で声がした。いつの間にか萩尾丸がこちらに来て、源吾郎たちを見下ろしていたのだ。雪羽は驚いているというよりもやや不満そうな表情でもって萩尾丸を見つめている。

 だが萩尾丸は臆した様子を見せずに言い添えた。

 

「島崎君も雷園寺君ももうちょっと休んだ方が良いからね。雷園寺君。君だって元気になったと思ってるかもしれないけれど、単に気が張っているだけかもしれないしさ。明日明後日も、難しい事は考えずにじっくり静養したまえ」

「はい……」

 

 雪羽は神妙な面持ちで返事を返す。生誕祭の一件以降萩尾丸の許で暮らしている雪羽だったが、今週末は三國の許に返される事になっていたのだ。雪羽の心身の状態を慮っての処置である事は言うまでもない。

 

「力もあるし血の気も多いから勝負事とかにも興味はあるのは何となく解るよ。だけどまだ二人とも本調子じゃあない気がするんだ。それに立派な妖怪に育つには勝負だけじゃなくて勉強も大事だし」

「確かに仰る通りですね」

 

 本調子じゃない。そう言われて源吾郎は腑に落ちたような気分だった。雪羽との勝負を恐れているのもそのためだろうと思うと気が楽にもなった。それこそ、気休めかもしれないけれど。



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蛇の道は蛇、鳥の道は鳥

 昼休み。食事を終えた源吾郎はふらりと研究センターを後にした。何処に行くとかは特に誰にも言っていない。つかず離れずの微妙な距離で食事を摂っていた雪羽に対しても、だ。別に昼休みは自由時間であるから、勝手に帰ったりしない限り特に咎められる事も無い。それにわざわざ何処で何をするかとか報告はしていないし。

 そんなわけで源吾郎は気負った様子もなく歩き始めていた。向かう先は、会うべき相手は既に決まっている。

 

 

 ※

「あら島崎君。この前は何か色々大変な事があったみたいだけど……大丈夫?」

 

 若干戸惑いの色を滲ませつつも、鳥園寺さんはのんびりとした様子で源吾郎に問いかける。職場は違えど新入社員である彼女は、休憩スペースの一角でのんびりと休んでいた。自分の世界を満喫していたらしく、周囲には他の工員はいない。

 ちなみに彼女は術者の卵であり工員でもある柳澤と正式に交際しているらしいが、彼の姿も無かった。社内恋愛が地味に多い工場内であるが、流石に職場でくっつきはしないようだ。

 

「僕はまぁ大丈夫ですよ」

 

 源吾郎はぎこちなく笑い、ぎこちない動作で両手を上げた。別にホールドアップしなくても良いのだろうが、無意識のうちに傷ついた腕が癒えているという事を彼女に見せたかったのかもしれない。

 良かったわぁ。しみじみと呟く鳥園寺さんの声音に、若干おばさんめいたものを感じたのは気のせいであろう。

 

「島崎君は知ってるかどうか知らないけれど、こっちもこっちで大騒ぎだったのよね。雉仙女様の秘蔵っ子である島崎君が蠱毒にやられて、その元凶を捕まえるのに躍起になってるって感じでね。まぁ……その、みんなで頑張って犯人は捕まえたみたいだから今はまた平和になってるんだけど」

 

 紅藤たちに届けられた下手人を捕縛するのにあたり、アレイも参加していたのだと鳥園寺さんは告げる。その声には何故か多少の憤慨の色が見え隠れしていた。

 

「アレイが町のみんなと協力した事は別に怒ってないわ。雉仙女様を怒らせれば大変な事になるし、アレイが鳥園寺家の代表として動いてくれたって私も思っているもの。

 だけど、その事を私に何も言わないでこっそり抜け出していくのは……ちょっとね」

「お気持ちは解りますが、鳥園寺さんの身を案じての事だったのでしょうね」

 

 思いがけず鳥園寺さんをなだめなければならない状況になり、源吾郎は若干の戸惑いを感じていた。鳥園寺さんの気持ちはもちろん解る。しかしそんな行動を取ったアレイの考えも源吾郎には推測できる。

 

「失礼ながら、鳥園寺さんも戦闘や実戦は不得手と思われます。今回の件に関しては、鳥園寺さんを連れて行けば危険が伴うとアレイさんは考えなすったんだと僕は思うんですが……」

「それじゃあまるで私はお荷物の子供みたいな扱いじゃない」

 

 鳥園寺さんの声には若干の憤りと若干の諦観が混じっていた。図星なのだろう。何より今の彼女の態度は結構子供っぽい。口には出さなかったが源吾郎はそう思ってしまった。

 だが、鳥園寺さんはすぐに気を取り直したらしい。何度か瞬きと呼吸をゆっくりと繰り返し、源吾郎の方に向き直る。

 

「ところで、相談事は何かしら。わざわざここまで来たのって、私に聞いてほしい事があるからでしょ?」

「そうです、そうなんです」

 

 源吾郎の声は興奮のためか戸惑いのためか僅かに震えていた。拳を軽く握り表情を引き締めると、源吾郎は言葉を続ける。

 

「鳥絡みの相談事になりますが……お時間は大丈夫でしょうか」

 

 大丈夫よ。そう言いつつも鳥園寺さんはじろじろと源吾郎を見つめていた。

 

「言うて私も鳥の専門家じゃないから、もしかしたら望む答えは言えないかもしれないわよ? それに雉仙女様の方が鳥には詳しいんじゃないの? あの人、鳥類歴長いから」

「……紅藤様はお忙しいですし」

 

 

 源吾郎はそう言ったきりだった。だが鳥園寺さんは色々と察してくれたらしい。視線を動かして源吾郎に話すようにさりげなく促した。

 

「個人的な話で恥ずかしいんですが、使い魔のホップが……あの日を境に僕を怖がるようになったのです」

 

 源吾郎は単刀直入に悩んでいる事を口にする。蠱毒云々の話を省略できたのは、彼女もその騒動を知っているという確信があったからだ。

 鳥園寺さんは相槌を打つだけだった。特に何も言わず、源吾郎の言葉を待ってくれている。

 

「ホップは元々友達の飼い鳥だったのが、僕の薄皮をつついて妖怪化したというお話はご存じですよね? それ以来、僕に驚くほどベタ慣れしていたんです。

 しかしここ数日は僕を見て怖がるようになりました。まずもって手に乗ろうとしません。小鳥や……十姉妹が臆病な鳥が多いのは僕も知ってます。ですが元々ベタ慣れしていたホップがああなるとなると、やっぱり怖がられて嫌われてるのかなと思っちゃうんですよ。

 今日もおやつを手の平に乗せてみて、誘導しようと思ったんですが見事に失敗しました。ホップは手に止まることなく、欲しいおやつを持って行っちゃいましたからね……」

 

 長広舌を振るっていた源吾郎であるが、ホップの様子を思い浮かべて力なく笑った。ホバリングまでして源吾郎の手に乗ろうとしないホップの姿を、源吾郎は色々な思いで眺めていた。嫌われたのだというショックはあった。その一方でホバリングしながらおやつペレットをつまむホップの身体能力の高さに驚いていたし、その動きにはそこはかとない滑稽さもあるにはあった。

 

「……小鳥は、いえ多くの生物が一番強く抱く感情は恐怖なのよね。恐怖心を抱いた存在に対して警戒しちゃうのは生物の本能として致し方ないわ」

 

 生物教師が言いそうな事を鳥園寺さんは言ってのけた。日頃のほわほわした雰囲気はなりを潜めている。お嬢様でほんわかした雰囲気に惑わされがちだが、鳥園寺さん自身は賢く冷静な性質なのだ。そう言う事を思い知らされた気がした。

 

「特に小鳥は警戒心が強くて恐怖心を抱きやすいでしょうね。何しろ野生化では捕食される側だしね。あ、でも十姉妹は野生化には存在しないけど、それでも同じ話なのよ」

 

 十姉妹は飼い鳥の中ではある意味特殊な存在だ。インコや文鳥、カナリヤと言った他の飼い鳥とは違い、野生の十姉妹は存在しない。原種である野鳥を飼い馴らして累代飼育の末に十姉妹が誕生した。人の手によって生み出された十姉妹は、人の庇護下でなければ生きていけないのだ。

 そんな十姉妹を、妖怪として生きようとしている源吾郎が養っているというのも、思えば随分と不思議な話である。いずれにせよ、小鳥や十姉妹が神経質な事には変わりない話だが。

 

「具体的な解決案、というよりも劇的に現状を変える術は多分無いでしょうね。強いて言うならその問題を意識しないようにして、普段通りに接するように心がける事くらいかしら。島崎君ももう知ってると思うけれど、鳥ってものすごく頭が良いの。だから何が危険かすぐに判断できるし、危険だと思ったものもしばらく忘れないの。

 焦らずに、無理強いせずに普段通りにやってたら、また元通りになるんじゃないかしら。

 ただくれぐれも無理は駄目よ。餌で釣ろうと思って絶食させたり、羽を切ったりするのはもってのほかだからね。そんな事をしたら生命に関わるから」

「そ、そんな、それは流石にやり過ぎですよ……」

 

 羽を切ったり絶食させる。鳥園寺さんが口にした極端な例に源吾郎はへどもどした。鳥園寺さんはそんな彼を見ると、安堵したように笑みを浮かべたのだった。

 

「まぁ、おやつにミルワームを使うのもアリかもね。小鳥って虫が好きな子が多いから、ミルワームが手の上にあったら喜んで止まってくれるかもしれないわ。

 島崎君の所のホップ君は蜥蜴とかハエを襲ってたみたいだし、きっと喜ぶと思うけど」

「それは確かに仰る通りかもしれませんねぇ……」

 

 ミルワーム案について同意した源吾郎であるが、内心動揺していたしその動揺は声にも出てしまっていた。ホップはミルワームを喜んで食べるだろうが、源吾郎自身が虫を苦手とするという所がネックになるのだ。ホームセンターでミルワームは入手できるが。小さなカップにオカクズのような物と共に百匹以上収まった状態で販売されているのだ。ホップが一日二匹食べるとしても、使い切るまでに相当な日数はかかるだろう。その間に、茶色い頭部と黄土色の胴体の芋虫共がどうなるのか。それを考えただけでもテンションが下がる。

 

「まぁ、ミルワームって最近は生きたのを売ってるだけじゃなくてフレッシュな状態で缶詰にしているのもあるから、使い切るのを心配する事も……」

 

 更に恐ろしい事を言い募る鳥園寺さんだったが、彼女は何故か途中で言葉を切った。彼女は源吾郎から視線を逸らしていたが、その理由は明らかだった。何者かが近づいている事に気付き、そちらに注意が移ったのだろう。鳥園寺さんの顔には怯えや驚きの色は無いが、急に現れた存在、それも見知らぬ相手だから気になるのも致し方なかろう。

 しかしながら、源吾郎には誰がこちらに向かってきているのか明らかだった。くだんの妖物は修道服めいた裾も袖も長い衣装を身にまとい、ついで顔や頭もローブで覆い隠している。顔や表情は見えなかったが、源吾郎たちを見てニヤニヤしているであろう事は容易に推察できた。

 こちらに向かってきている妖物。それは雷園寺雪羽だった。

 彼は源吾郎たちの数メートル先まで近づくとやにわに立ち止まり、顔を覆っていたフードを下ろした。隠蔽の術はフードを下げると解除されるらしいのだが、きっと雪羽もほとんど人がいないからと思っての事だろう。

 

「島崎先輩! 急にふらっといなくなると思ったら……女の人と一緒にいるじゃないですか。流石っすね」

 

 やっぱりこいつ女子の事ばっかり考えてるじゃないか……雪羽に対して脳内でツッコミを入れた源吾郎は、やや鋭い眼差しでもって雪羽を見つめ返す。

 

「勘弁してくれよ雷園寺君。別に俺は、鳥の事について相談したくて会いに行ってただけなんだぜ。そもそも鳥園寺さんには彼氏だっているから、男の俺がちょっかいをかけたら大変な事になるだろうし」

 

 柳澤のむっつりとした顔を思い浮かべた源吾郎は、そのままじっとりとした眼差しを雪羽に向けた。

 

「まさか雷園寺、鳥園寺さんにちょっかいかけに来たんじゃあ――」

「そう言う事はしないから、さ」

 

 源吾郎の問いかけを半ば遮るような形で雪羽は告げた。

 

「彼氏なんぞよりもおっかないボディーガードがそこのお姉さんにはいるみたいだしさ。いくら俺でもそんな危険な橋を渡るような真似はしないよ。

 それにそもそも、人間の女子には興味ないし」

 

 人間の女子には興味がない。雪羽の言葉に源吾郎は軽く衝撃を受けてしまった。雪羽はドスケベであるという先入観と事実があったから、人間の女性にも関心を持っていると源吾郎は勝手に思い込んでいた。だが考えてみれば、雪羽はそもそも人間に対して関心の薄い妖怪だった。ある意味貴族妖怪らしいとも言える態度だった。ある程度力を持った妖怪は、人間を屈服させたり襲撃したりする事に意味を見出さないのだ。そう言った考えは、半妖である源吾郎もうっすら理解できる事柄だった。

 雪羽が鳥園寺さんに興味を持ったのではないか。この源吾郎の邪推は、源吾郎の裡に()()()()()()()が残っている証拠でもあった。

 

 雪羽が途中で乱入したものの、鳥談義はつつがなく終わった。鳥園寺さんが鳥妖怪を従える術者の次期当主と知ると、雪羽も雪羽で鳥妖怪について彼女にあれこれ聞きたがっていたからだ。

 ホップに関する質問は途中で打ち切られた形になったが、源吾郎はさほど気にはならなかった。雪羽が投げかけた質問への鳥園寺さんの答えは中々に興味深かった。端的に言えば黒い羽根を持つ鳥妖怪は、鴉や鴉天狗以外にも考えられるという話になる。また鴉天狗などはそもそも強くて知能も高いから、こそこそとせこい計略を働かせる真似はしないだろう、というのが彼女の見解だった。

 鳥園寺さんは化ける鳥妖怪の名を幾つか列挙し、手短であるがその特徴などを教えてくれた。化けるのは獣妖怪の専売特許ではないから化ける鳥妖怪もバラエティ豊富である。夜雀や青鷺火、山鳥などがその代表格だった。

 源吾郎もある程度は妖怪の事を知っている。だがこうして術者である鳥園寺さんから直々に教えてもらうのは中々に新鮮な物だった。

 

 

 ※

 夜。少しくつろいでから源吾郎はホップを籠から出してやった。ホップは相変わらず源吾郎を警戒している。しかし籠の外で遊びたいという欲求は健在だった。時間になると鳥籠の壁にへばりつき、胸や喉を膨らませて啼き始めるのだ。

 相変わらずホップは自由気ままに探索をしたり、籠の外にある巣に止まって破壊活動に勤しんだりしている。その間に源吾郎は身をかがめ、ティッシュを片手に床を掃除していた。

 ホップがまき散らした餌の殻をティッシュで集めていると、手の上に小さな衝撃が伝わってきた。おや、と思って目を動かすと、ホップが源吾郎の手許に着陸していたのだ。手にするティッシュが気になったらしい。首を伸ばしてティッシュを取ろうとしていたが、源吾郎の視線に気づくとそのままふわりと飛び上がってしまった。

 



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雷園寺雪羽の帰還

 何処か懐かしさを感じさせるチャイムの音が鳴り響く。雪羽はチャイムの音を聞きながら帰り支度を始めていた。同じく帰り支度を進めているのは源吾郎くらいであるが、それは気にしてはいけない事柄らしい。むしろ紅藤などは夜の休憩時間が始まったなどと言ってクリーム色のミックスジュースらしきものを飲んでくつろいでいる。

 夜の休憩ってなんかエロいよな。前に雪羽がそんな事を漏らすと、赤面した源吾郎に小突かれた事があった。源吾郎はハーレムを作ると公言したり恥ずかしげもなく女子に変化したりする男だが、妙に奥手な所があるのも事実だった。

 

「週末は三國様の所で静養するんだよな、雷園寺君」

 

 その源吾郎が雪羽に尋ねてくる。声や表情には、雪羽を気遣うような色が見え隠れしている。あの事件があってから、源吾郎の態度は一変していた。正気ではなかったとはいえ自分を傷つけた事に負い目を感じているらしい。それと――自分の過去の事とかを知ってしまったから尚更なのだろう。

 元々源吾郎も雪羽の事を警戒していたし、それほど友好的な態度を見せてもいなかった。だがそれは雪羽の過去の行動も関与していた訳だから、そこをとやかく言うつもりはない。

 

「うん。萩尾丸さんにも休むようにって言われてるからさ。正直な所、ワクワクしてるしドキドキしてる」

「そりゃそうだろう。あの萩尾丸さんと一緒に暮らしてるんだからさ、ただでさえ緊張していたと思うよ。俺だったら……その……」

 

 小声で話し、ついで源吾郎は周囲を窺うように声のトーンを落とす。紅藤の一番弟子であり第六幹部である萩尾丸の事を、源吾郎は少し苦手としているのだ。今もきっと、萩尾丸の耳に入らないかと様子を窺っているのだろう。

 

「まぁ、お土産とかそう言う気づかいは俺に対しては大丈夫だからさ。それこそ土産話とかで大丈夫だよ」

 

 雪羽が三國の許で静養するのは遠足か泊りがけの旅行であるように源吾郎は捉えているらしい。大げさだなぁ、と笑いつつも何となく彼らしいと思った。

 

「そう言えば先輩。先輩は休みの日はどうするんですか?」

「土曜日は自警団の自治活動があるから、そっちに顔を出す予定だよ。それ以外はまぁのんびり過ごそうかな」

「自治活動に参加って真面目ですねぇ」

 

 雪羽が言うと、源吾郎は真顔で首を揺らした。

 

「そりゃあ住んでる地域の皆に顔合わせして、協力するって大事な事だぜ。しかも今週は俺らの事で皆色々と協力してくれたみたいだし。そうでなくてもさ、俺らって強くなって他の妖怪たちを統率する身分になるだろうから、余計にそう言う事って大事だと俺は思うんだ」

 

 そこまで言うと、源吾郎は雪羽をまっすぐ見据えながら言い添える。

 

「だからさ、雷園寺君もそう言う事は大事だと思った方が良いよ。多分、ハルさんもそう言う事を言ってくれてると思うけど」

 

 源吾郎は春嵐の事をハルさんと呼ぶ事がままある。叔父の信頼篤い側近であり、雪羽にとっては教育係みたいな存在である。甘え上手というか、年長者にあれこれ言われる事に慣れている源吾郎は、春嵐の事も素直に慕っていた。

 ともあれ、源吾郎は時々こうして雪羽に物事を教えようとしたり、こうしたほうが良いと口にする事がある。さほど上から目線、という感じはしないけれど、案外教えたがりなんだなと雪羽は思っていた。先輩と自分が呼んでいるからなのかもしれないし、彼も弟分が欲しいと思っているのだろう、と雪羽は考えていた。

 

「先輩って時々俺の()()()()みたいな感じがするっすね。えへへ」

 

 ところが雪羽のこの言葉を耳にすると、源吾郎の顔色が一変した。恥じ入るような、うろたえるような表情がその面に浮かんだのだ。しまった、と思ったがもう遅い。

 

「お兄さんだって。冗談きついぜ雷園寺君。いや、お前が俺の事を兄のように思ってくれるのは嬉しい事かもしれないけどさ……お前の方が年上だし、()()()()()なんて出来ないぜ?」

 

 早口に言う源吾郎は明らかに焦りと戸惑いの色を見せていた。雪羽も戸惑ってしまった。お兄さんみたい、というのは完全に戯れで言った言葉である。源吾郎の真面目さはうっすらと気付いていたが、まさかここまで戸惑わせてしまうとは。

 

「雷園寺君。こっちも支度が出来たからそろそろ帰ろうか」

 

 雪羽が源吾郎にどうやって声をかけようかと考えていると、萩尾丸がふらっとこちらに近付いていた。彼は戸惑う源吾郎たちを一瞥したが、特に何も言いはしなかった。

 

 

「島崎君に何か言ったのかな?」

 

 萩尾丸が問いかけたのは車の中でのことだった。シートベルトを軽くいじりながら雪羽は素直に頷いた。

 

「お兄さんみたいだねって言ったら急にうろたえたんだ。別に困らせるつもりじゃなかったんだけど」

「ははは、雷園寺君は島崎君をお兄さん扱いしたのか。君も()()したなぁ」

 

 萩尾丸のコメントに、どう対応すれば良いのか解らなかった。雪羽は既に四十年近く生きているから、実年齢的には年上である。しかし源吾郎には人間の血が四分の三も流れている。純血の妖怪たちよりも寿命が短い分、半妖の成長は早いのだ。精神的な部分は源吾郎の方が自分よりも若干大人であろう事は認めざるを得ない。

 

「気にしなさんな雷園寺君。別に島崎君は君の言葉で気を悪くした訳じゃあないんだからさ。ただ、雷園寺君と島崎君とでは()という存在の捉え方が違うという話さ」

 

 弟妹たる年少者を保護し、正しい道に指導する責務を持つ。源吾郎は兄という存在をそのようにとらえているのだろう。萩尾丸の解説はこのような物だった。その概念は雪羽の持つ兄の概念とは大きく異なっていた。第一子である雪羽には兄はいない。むしろ自分が兄だった。

 自分と源吾郎の間に横たわる兄の概念の違いに驚きつつも、一方で腑に落ちた思いでもあった。源吾郎が末っ子である事、兄姉たちと相当に年齢が離れている事は雪羽も知っていた。

 だからホップの事を指して弟と言っていたのか……雪羽は口には出さずにそんな事を思っていた。

 

 

 叔父の三國に迎えられ、雪羽は亀水《たるみ》にある家に戻っていた。萩尾丸の屋敷で暮らし始めてからまだ一月も経っていないはずなのに、随分と久しぶりに戻ってきたような感覚だ。懐かしいような、寂しいような感覚が胸の中で渦巻いていた。

 

「何かめっちゃ久しぶりな感じがするよ、叔父さん」

「そうだな。俺もそう思うよ」

 

 三國は言いながら雪羽の肩を撫でる。二人が帰ってきた事は伝わっているらしく、出迎えるために叔母である月華や春嵐の姿があった。他の妖怪たちはいないようだ。三國は普段部下である妖怪たちを自宅に呼び集めている事が多いのだが、今回は雪羽を静かに休ませようと思い、彼らに声をかけていないのかもしれない。

 ちなみに春嵐がいるのはいつもの事だ。春嵐も春嵐で自宅はあるのだが、半ば三國たちと同居しているような存在である。もちろん雪羽にも影響のある存在だった。それこそ、源吾郎は春嵐のような存在を兄だと思っているのだろう。

 

「ただいま、月姉に春兄!」

 

 手を振りつつ二人に挨拶すると、月華たちはお帰り、と返してくれた。職場で時々会いに来てくれる春嵐は安心したような表情を浮かべ、約一か月ぶりに顔を合わせる月華は嬉しそうに微笑んでいる。

 

「雪羽君。前よりもうんと元気で逞しくなったんじゃないの?」

「そりゃあもう、萩尾丸さんの許で規則正しい生活を送ってるからさ」

 

 月華に対し自慢げに言うと周囲で笑いが広がった。元々妖力の多い雪羽であったが、萩尾丸の許で過ごすようになってから妖力が増えたり身体の調子が良くなっているのを自覚していた。萩尾丸の監視下もとい監督下にある雪羽は、今までとは異なり夜遊びも飲酒も出来ない状況にある。そもそも研究センターの仕事に馴染むのに気を張っているらしく、いつもよりも早めに寝るようになっていた。食事も萩尾丸が色々考えて用意してくれるから、前よりも健康的な暮らしになっているのだろう。

 つまるところ、健康や規則正しい生活は妖怪にとっても大切という事なのだ。

 

「そんなわけでさ、俺も紅藤様の所で色々勉強して色々覚えたんだよ。その事も皆に教えたいなって思ってるんだ」

 

 雪羽が言い切ると、三國が大きな手の平をその頭に乗せた。軽くポンポンと触れながら雪羽に告げる。

 

「まぁ雪羽。今日は休みなんだから仕事の事とか忘れてのんびりやれば良いんだよ。社畜じゃあるまいに、休みの日も仕事の事を考えるのはしんどいだろう?」

 

 三國の言葉に少し戸惑っていると、春嵐が助け舟を出してくれた。

 

「三國様。わざわざそんな事を仰らなくても良いのではないですか。休みたい気持ちと仕事の話をしたい気持ちが両立する事とてあるんですから。

 お坊ちゃまが仕事を頑張っているっていう話、私たちも興味があります」

「うん。私も雪羽君の働きぶりは気になるなぁ」

 

 月華と春嵐に雪羽は笑みを向けた。叔母である月華はもとより、春嵐も雪羽が研究センターでどのように過ごしているのか気になっているのは知っていた。

 何しろ春嵐は雪羽の処遇を知るや「島崎君とできるだけ仲良くなるように」と言い含めたくらいなのだから。もっとも、その言いつけ以前に雪羽自身が源吾郎に好印象を抱いているのも事実だ。長らく同年代の妖怪は取り巻きか酒の席で戯れる若い娘妖怪ばかりだったので、決してこちらに媚びへつらわない源吾郎の姿はかえって新鮮な物だったのだ。



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雷園寺雪羽の出会い

 犬や猫と言った普通の動物同様、獣妖怪にとってもグルーミングやブラッシングは重要な意味を持っている。

 特に、仲間内で行うグルーミングやブラッシングは信頼と親睦の象徴でもある。毛皮や尻尾は獣妖怪たちにとっても大切な物なのだ。さらに言えばグルーミングやブラッシングの間は無防備になる。する側もされる側も全幅の信頼と親愛を見せているという前提が、さも当然のように浮かんでくるわけなのだ。

 もちろん、そう言った前提のためにブラッシングやトリミングを生業にしている妖怪や術者もいるわけであるが。雪羽は萩尾丸に引き取られるまで、ここ最近は取り巻きや知り合った妖怪娘にブラッシングしてもらっていた。

 

 何故こうしてトリミング談義が始まっているのか。それは簡単な話である。雪羽は今、縁側の上に寝そべりブラッシングされているからだ。ひんやりとするシートの上に寝そべる雪羽は、変化を解き本来の姿を露わにしていた。

 本来の姿とはハクビシンと長毛の猫の合いの子のような姿である。大きさも猫程度なので本当に珍種の猫のように見えるだろう。ブラッシングの関係上本来の姿に戻らざるを得なかったが、雪羽は実は本来の姿をそれほど好いてはいなかった。柔らかな長毛に覆われたその身体には美しさこそあれど、恐ろしさや強さ、或いは威厳とは縁遠かった。むしろ可愛いらしさなるモノさえ漂っているくらいだ。だから雪羽は獣の姿になる時、敢えて巨大化して威厳を保つのが常だった。源吾郎との戦闘訓練でも、巨大な姿で挑むのはそのためである。

 とはいえ、今回は単にブラッシングを受けるだけなので威厳云々は無関係な話だったりする。ついでに言えば春嵐《しゅんらん》がブラッシングしてくれているので、尚更見掛け倒しの威厳は通用しない。

 

「……お坊ちゃまも楽しそうに仕事をなさっているみたいで何よりです」

「楽しそう、なのかなぁ……」

 

 首の後ろから尻尾の先までブラッシングされている間、雪羽は話通しだった。話の内容は萩尾丸に引き取られてからの日々の事である。ただやはりどうしても仕事の話に偏りがちだった。もちろん三國の許にいた時も、彼の職場に重役として出向いて「仕事」を与えられていたと思っていた。だがそれがままごとに過ぎない物だと最近になって知ったのだ。

 

「まぁ確かに島崎君との力較べとか技較べは楽しかったよ。向こうも結構真剣にやってくれるし、俺が出来ない事とか珍しい事もやってのけるのを見れるし。

 でも最近は座学が増えてるから、眠いし退屈だし大変なんだよ。まぁ、サボったりうたた寝したら島崎君にチクられるんだけど」

「座学も必要ですからねぇ」

 

 春嵐はそう言って、今まで手にしていたブラシを置き、別のブラシを手に取った。雪羽はそれを見て転がって腹を見せた。ブラシの交換は腹側のブラッシングを行うという春嵐の合図でもある。獣妖怪の毛皮は背中側よりも腹側の方が柔らかく傷つきやすい。しかも雪羽は胸や腹に過去の古傷が幾つかある。そのような事を考慮して、背中側よりも柔らかいブラシを使ってくれるのだ。

 春嵐自身は頑健な肉体で傷つく事は少ない。しかし相手が傷つく事にはかなり過敏だった。不死身だったり再生能力の高い妖怪の中には、そう言う考えが根付く事は割とよくある事らしい。

 

「力や技を習得するだけが妖怪の強さではありませんよ、雪羽お坊ちゃま。むしろ私たち妖怪は知識や知恵を得る事こそが大切なのですから」

「春兄《はるにい》……」

 

 そんな難しい事言ったらしんどくなっちゃうよ。心の中で雪羽は付け加えていた。春嵐はそんな雪羽の内心を知っているのかいないのか、ブラッシングを続けるだけだ。雪羽の腹の毛並みを見つめる春嵐は、やはり澄ました表情である。

 

「それにお坊ちゃま。座学なら人間の子供だってやってるんですよ。それこそ、島崎君だって……」

「確かにそれはそうだったよ」

 

 春嵐の言葉を遮るように雪羽は応じる。人間の子供が学校に通い勉学に励んでいる事は知識として知っている。源吾郎が就職するまでは学校に通っていた事も知っていた。雪羽がせがめば人間として暮らしていた日々を、源吾郎は教えてくれたからだ。

 

「高校とかで勉強するよりはまだ楽だって島崎君は言ってたよ。今はまだ仕事がある分、ずっと座り通し勉強し通しじゃないからって。後計算に電卓を使えるのも助かるって言ってたかな」

 

 雪羽の毛並みを整える春嵐の手がにわかに止まる。ふと見ると何かを考えこむような表情をこちらに向けていた。目が合うと僅かに笑みが広がる。

 

「今は大変かもしれませんが、じきに慣れていくと思いますよ。お坊ちゃまはまだ若いので順応性もありますし……」

 

 微笑みながら言う春嵐の言葉には僅かに陰りがあった。もう少し早く雪羽を学校なり何なりの教育機関に預ければ良かったと、春嵐は密かに思っているらしい。

 三國に引き取られたばかりの雪羽はまだほんの子供だった。しかし三國は雪羽を自分の正式な部下・職員と見做し職場に連れてきていたのだ。仕事の折に雪羽に寂しい想いをさせないようにという叔父の不器用な愛情故の事であったと悟ったのは最近の話である。

 春嵐を筆頭に部下たちはそんな三國の行いを内心では良く思っていなかったのかもしれない。しかし三國は強く第八幹部たちの中では最年長だった事もあり、中々意見が出来なかったのだろう。

 そう言った大人たちの思惑を知らずにのうのうと過ごしてきた雪羽は、やはり子供だったのだ。

 

「あ、でも春兄。まぁ大変な時もあるけど勉強も楽しいよ!」

 

 過去のおのれの行動を振り払うように雪羽は声を上げる。声は若干上ずり、小型犬の啼き声のようになってしまった。

 

「今その、鳥の勉強をやってるんだよ。おかしな事をしたやつと鳥妖怪が関与しているみたいだってことが解ったし、何より鴉共が俺たちのいる工場を監視してるんだよ。

 それで、鳥を調べるって事になってるんだ。あはは、よく考えたら紅藤様も青松丸さんも鳥なんだけどね。でもまぁ調べ学習するのは知識が身に着くって言われてるから……」

 

 言いながら、雪羽は窓の向こうに視線を向けた。叔父の三國は花壇の付近に屈みこみ、庭いじりを行っている。その傍らには一羽の茶色い鳥がじゃれつこうと様子を窺っている。鶏ほどの大きさの均整の取れた体躯の鳥であるが、頭部は茶色い猫のそれである。猫頭鳥《びょうとうちょう》という鳥妖怪である。春嵐と共に大陸からやってきた鳥なのだそうだ。

 

「ねぇ春兄。うちにいる鳥妖怪ってあのレンだけだよね」

「今の所そうですね」

 

 雪羽の問いかけに春嵐は頷く。妖怪は種族を超えてコミュニケーションが取れる生き物であるが、それでも同種族や近しい種族で組織を作るのが常だった。従って雷獣である三國の部下たちも、概ね獣妖怪ばかりである。妖狐や狸、猫又と言ったメジャーどころの種族は少ない。化けイタチやテン妖怪、送り狼と言った比較的マイナーな獣妖怪たちで構成されているのが特徴だった。

 

「やっぱりさ、灰高様や紫苑様、それと双睛《そうせい》の兄さんの所とかは鳥妖怪が多いよね」

「お三方とも鳥妖怪ですからね。鳥妖怪は鳥妖怪同士の方が気が合うのでしょう」

 

 首の下から生える長毛を撫でつけられながら、雪羽はあれこれと考えを巡らせていた。鳥妖怪な幹部たちの中で怪しいのは誰だろう、後でお返しに春嵐をブラッシングしようかな、などと言った事である。

 休日の昼下がりは、このように和やかに過ぎていったのだった。

 

 

「あらぁ、おかずが足りないわ……」

 

 夕刻。夕飯を作ろうと支度をしていた月華が小さく声を上げた。雪羽が帰ってきたという事で奮発して色々と作ってくれようとしていた所らしく、僅かにがっかりしたような声音だった。

 とはいえ夕方であるしまだ外は明るい。それにそもそも雪羽たちは妖怪であるから、夜出歩くのもそんなに抵抗は無かったりする。まぁ雪羽の場合、人間にバレたらややこしいので一時的に青年の姿に化身してやり過ごす事もあるにはあるが。

 

「俺が買いに行くよ」

 

 ピーマンを持ったまま悩む月華に対し雪羽はそのように申し出た。三國は料理を手伝おうとしていた所だし、春嵐は外回りの仕事で忙しそうに見えたからだ。

 それに昼間は寝たり遊んだりして気ままに過ごしていた。久々に帰ってきたのでちょっとした手伝いをしようと意気込んでもいたのだ。

 

「お坊ちゃま、私も付いて行きましょうか」

「大丈夫だよ春兄。春兄も忙しいんでしょ」

 

 言いながら、雪羽は右手首を春嵐たちに見せつけた。彼の手首には、薄紫の玉があしらわれたミサンガが巻かれてある。蠱毒の事件の後に紅藤から貰った護符である。妖怪や不測の事態から持ち主を護る為の心強い防具だった。

 

「紅藤様から護符も貰ったし、近所だから大丈夫だよ」

「その護符は貰ったんじゃなくて萩尾丸さんから買い取った物ですが……まぁ良いでしょう」

「とりあえず気を付けるんだぞ……一人で大丈夫か?」

 

 三國に問われた雪羽は満面の笑みで頷いた。雪羽も年齢的には子供に分類されるのかもしれないが、少なくとも一人で出かけられない程幼くもない。

 それに雪羽も何となく一人で出かけてみたい気分だったのだ。萩尾丸の許で暮らすようになってから、一人で出かけるタイミングがなかったためである。

 それにこの亀水の町の事は雪羽もよく知っている。三國の膝元であるから危ない妖怪も少ないし、襲撃されても紅藤の護符が護ってくれるはずだ。

 

 

 夕立のごとき豪雨に見舞われたのは買い物を終えた直後の事だった。運が悪いというのはまさにこの事であろうか。雷獣なので雨男である事は自覚していたが、まさかこのタイミングで雨に降られるとは。

 雪羽はレジ袋を見ながら少し考えこんだ。親切というよりお節介な店員が保冷剤を多めに入れてくれたのだが、それは幸運な事だったのかもしれない。野菜の他に鶏肉も購入していたからだ。

 幸運と言えばこの豪雨はどうやら通り雨らしい。雷獣の勘でそう言う事も解るのだ。雨脚は烈しいが、十分も待たずして雨もやむだろう。

――ちょっとレジとかが混んでいたって事にして、雨宿りしてから帰ろうか

 静かに雪羽はそう思い、雨粒をよけつつ目についた雑居ビルに足を踏み入れた。紅藤の護符にはご利益はあるのだろう。しかし空から落ちてくる雨水や地面を跳ねる泥水を弾くような権能は残念ながら持ち合わせていないらしい。

 そうなれば雨が止むまで待つほかないのだ。雷獣は多少雨水に濡れてもすぐに体調を崩す事はない。しかし泥水など汚水を浴びると一時的に能力が使えなくなってしまう事があるのだ。

 

 亀水《たるみ》は洒落た町をイメージしているだけあって、雑居ビル自体も小綺麗で好奇心を掻き立てる内装だった。

 

「……おや」

 

 入ってすぐの所に、何かの広告と思しきポスターが貼ってある。絵であるらしいのだが、何が書いてあるのかよく解らない。抽象的な絵という奴であろうか。

 矢印を発見した雪羽は、臆せずそちらに向かっていった。基本的に好奇心旺盛なのだ。

 案内の矢印に誘導された雪羽は、廊下を曲がってすぐの小部屋に落ち着いた。入り口には気取った書体で「Gallery」と書かれてある。それを見てああ成程と思った。一応雪羽もギャラリーが絵や彫像を飾っている所であると知っていたからだ。

 

「…………!」

 

 ギャラリー内にある絵を見ようとした雪羽は、受付スペースに座る青年に気付き、驚いて目を瞠った。特に面識のある相手ではない。しかし雪羽は彼が源吾郎の縁者であると悟ったのだ。

 妖怪は相手の放つ妖気や雰囲気で個体識別ができる。また獣妖怪であれば嗅覚が優れているため、匂いもまた個体識別や類推の手掛かりになるのだ。

 件の青年は源吾郎とは似ても似つかぬ姿だったが、雪羽はそう言ったものを手掛かりにして相手が誰であるか把握できたという事だ。

 

「……どうも、こんばんは」

「初めまして、こんばんは」

 

 驚いてまごまごしている間に目が合い、なし崩し的に挨拶を交わす。島崎源吾郎君のお兄さんですよね? そう尋ねようかと思ったのだがそれはまぁ直球過ぎるだろう。かといって自分の素性を明かして良いものか。雪羽は少しだけ悩んだ。

 

「見た所、僕の身内を知ってるみたいだね。自己紹介しても大丈夫だよ。そろそろ閉店間近だし、この天気だから急に入ってくる人間もいないだろうし」

 

 人間、と強調する彼の意図を雪羽はくみ取った。向こうも雪羽を妖怪であると見抜き、その素性を明かしても問題ない。言外にそう言っているらしかった。

 

「僕は島崎庄三郎。見ての通りしがない芸術家です」

 

 まぁ君らの業界では玉藻御前の末裔という事で有名かもしれないけれど。庄三郎青年はそう言って力なく笑った。雪羽の類推通り、彼は源吾郎の兄のひとりらしい。源吾郎の兄の一人が芸術家である事、恵まれた美貌や相対する人間を魅了する力などある意味妖狐らしい能力の持ち主である事も雪羽は知っていた。源吾郎から暇なときに聞かされていたからだ。

 

「俺……僕は雷園寺雪羽と言います。名前通り雷獣なんです。今は色々あって弟さんと一緒に働いてまして、いつもお世話になってます」

 

 源吾郎と世話になっている。そう言った時庄三郎はちょっと驚いたような表情を浮かべた。驚きといくばくかの喜びがないまぜになった表情だ。

 

「そうか、雷園寺君は源吾郎と一緒に働いているんだね。いつもありがとう。源吾郎はまぁちょっとややこしい所もあるから、君も色々と大変じゃあないかな?」

 

 ややこしい。庄三郎のその言葉を受け、雪羽の脳裏にここ数日の源吾郎の姿が浮かぶ。しかし笑みを浮かべて首を振った。

 

「いえいえとんでもないです。弟さんにはいつも良くしてもらってますよ。まぁその……驚く事とかもありますけど」

 

 それなら良かった。雪羽の言葉を受け庄三郎は穏やかに笑っていた。

 

「それにしても、僕と源吾郎が兄弟だってすぐに気付いたみたいだから驚いちゃったよ。兄弟だって聞いて驚く人が多いから。

――まぁ、互いに玉藻御前の血を濃く引いていて、それに振り回されつつも自分の夢に向かってもがいている所は似ているかも知れないけれど。僕と源吾郎の共通点はそこだろうね」

 

 口調こそ穏やかだったが、庄三郎の眼差しは何処となく昏い。源吾郎が玉藻御前の血について語るべき事が無数にある事は知っているが、庄三郎もまた別の意味で思う所があるのだろう。但し雪羽はそこまで込み入った事は聞かされていないから知らないが。

 

「ああごめんね。源吾郎の事を知ってるからって出会い頭に色々話しても困っちゃうよね……?」

「いえ、大丈夫ですよ。僕もお話を聞くのは楽しいですし」

 

 絵を見てもいいか、と庄三郎に許可を取り、雪羽はゆっくりと散策を始めた。縁あってギャラリーに来たのだから絵をきちんと見た方が良かろうと思ったのだ。壁に掛けられている絵は控えめに言って何かをぶちまけたようなブツにしか見えない。しかしじっくりと見ていれば何かが解るかもしれないと雪羽は思った。

 

 

「あ、どうもこんばんは」

 

 絵を眺めているともう一度雪羽に声がかかった。庄三郎ではない別の誰かだ。それは声で判っていたし、そもそも雪羽は誰かが近づいてきた事に察知もしていた。

 

「こんばんは、雷園寺と申します」

 

 次に雪羽の許にやってきたのは赤みを帯びた巻き毛が特徴的な若者だった。明らかに成人男性と判る庄三郎と異なり、今回の巻き毛君は少年と青年の間と言った感じである。

 ちなみに彼も妖怪である事は把握済みだ。匂いからして鳥妖怪であろう。だから雪羽も臆せず雷園寺の名を出したのだ。

 

「初めまして雷園寺君。僕は朱衿《あかえり》と名乗ってます。ここでギャラリーをする事になって、スタッフとして来てます。

 作家の島崎さんもおいでですけれど、何か気になる事とかあれば何でも質問してください」

 

 何でも質問してください。若々しい声と口調で朱衿がそう言うので、雪羽もお言葉に甘える事にした。

 

「朱衿さんって言うんですね……赤襟ウズラの話を思い出しましたよ。もしかしてウズラの妖怪ですか?」

「いや、僕は雉妖怪になりますかね。厳密には父は山鳥の妖怪だったらしいのですが。まぁ、母親の雉妖怪としての血が濃いので、対外的には雉妖怪という事にしています」

 

 これは失敬。ちょっと気取った調子で言いながら、雪羽は朱衿の姿をまじまじと見つめていた。思いがけぬところで雉妖怪に出会い、ちょっとだけ興奮していたのだ。

 

「雉妖怪ですか……そう言えば僕は雉鶏精一派に所属してるんです」

「雉鶏精、一派……」

 

 あっさりとおのれの所属を口にすると、朱衿は驚いたように目を瞠っている。小刻みに震えているようにも見える。相当驚いているようだ。

 それも無理からぬ話だろう、と雪羽は考えていた。朱衿は恐らく若い妖怪なのだろう。妖力もささやかでまぁそれこそ野良妖怪なのかもしれない。

 同じ雉妖怪の精鋭が運営する雉鶏精一派の縁者と出会ったと知り、そしておのれの境遇と比較して驚いているのだ。雪羽は素直にそう解釈していた。

 だから雪羽は、嬉しそうに言葉を続けたのだ。

 

「朱衿さん。もしよければあなたも雉鶏精一派に入りませんか? 色々と大変な事もありますけれど、胡喜媚様が作った組織というネームバリューは中々のものですよ。何せあの玉藻御前の末裔の一人も、修行のために就職先として選んだんですから」

「勧めてくれてありがとう、雷園寺君」

 

 雪羽の言葉が終わってから、やんわりとした口調で朱衿が告げる。

 

「雉鶏精一派の凄さは僕も知ってますよ。ですが、あすこには既に優秀な方が集まっています。それこそ雉妖怪の方もトップにいらっしゃるみたいですし。

 僕みたいなやつが今更雉鶏精一派に仲間入りしても、色々と迷惑になるだけでしょうし……」

 

 そこまで卑下しなくても良いのに……そう思った雪羽は彼に何か気の利いた言葉をかけようと思った。しかしまごまごしている間に朱衿はスタッフとしての仕事を再開してしまった。

 少しの間考え込んでいた雪羽は、ややあってから既に雨が上がっている事に気付いた。



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若妖怪たちの朝談義

 土曜、日曜と何事もなく過ぎていった。土曜日は地元住民(妖怪・人間の術者混合)のイベントがあったのでそちらに顔を出していたのだが、体感的に暇すぎず忙しすぎず、と言った塩梅だったと源吾郎は思っている。

 朝食、弁当作り、ホップの放鳥タイムと朝のルーティンをこなし、源吾郎は出社した。ホップは相変わらず警戒気味だ。本性が用心深い小鳥であるから致し方なかろう。しかしホップはホップで鳥籠の中を好んでいるから、外で遊ぶホップを捕まえる手間が無いのが幸いだった。彼なりに籠の外で遊ぶ時間の制限があるのだ。鳥籠の入り口を開けっぱなしにしておくと、時間になったホップがそこに自分で入っていくのである。小さいながらもホップは賢かった。

 

 

「おはようございます先輩。週末は楽しかったですかぁ?」

 

 研究センターの事務所に入るや否や、先客である雪羽が彼を出迎えた。やや間延びした口調であるが、英気を養い元気なのは妖気とかで伝わってくる。普段はくっきりした二重まぶたが僅かに垂れている。まだ眠そうな感じだった。

 

「楽しいというかなんというか、まぁ普通かな」

 

 数秒ほど土日の出来事を振り返ってから、源吾郎は律義に正直に答えた。平和で怠惰な土日だった。八頭怪がまた訪れたり雉鶏精一派の敵対勢力が殴り込みにかけてきたり野良妖怪に襲撃されたりなどと言った物騒な事は何一つ起きていない。

 しかし楽しいか否かで言えば首をかしげざるを得ない過ごし方だった。源吾郎の思う楽しい休日というのは、気の合う友達と遊んだり、可愛い女子とお洒落な所で話が出来たりすると言ったものである。

 飛び抜けて楽しい事があった訳でもなく、トラブルに巻き込まれた訳でもない。だから自身の休日を普通と称したのだ。

 もっとも、雪羽が何故そのような問いを投げかけてきたのか。おおよその理由は解っていた。

 

「そう言う雷園寺君は、楽しい休日を過ごせたみたいだな?」

「そうだなぁ……楽しかったというか嬉しかったって感じかな。久々に自分の家に戻れたから、結構のんびりできたよ」

 

 そう言う雪羽の面には柔らかな笑みが咲き広がっていた。雪羽が萩尾丸の許で暮らすようになってから一か月経ったか経たないかという所である。しかしそれでも雪羽はある意味大変な思いをしているだろうと源吾郎は思っていた。何しろ萩尾丸は強大な力を持つ大妖怪だ。彼が何かする事は無かろうが、それでも同じ空間で過ごすのは緊張するだろう。ましてや雪羽は素行の悪さを咎められ、再教育のために泣く泣く萩尾丸に預けられている身なのだから。

 萩尾丸の許で、雪羽がどのように暮らしているのか源吾郎は詳しく知らない。しかし恐らくは暴れたり逆らったりせず大人しく緊張しつつ過ごしているのだろうと思っていた。

 

「のんびりできたのは良かったじゃないか。自分の家だったら家族水入らずな訳だし」

 

 家族水入らず、と言った所で雪羽の両目が輝いたようだった。

 

「三國の叔父貴も俺が戻ってきたのをとっても喜んでくれたし、月姉も好きな料理を作ってくれたし。あと春兄も仕事の話とか色々聞いてくれてブラッシングもしてくれたんだ」

「ブラッシング、かぁ」

 

 毛並みの良くなった銀髪を撫でつける雪羽を見ながら、源吾郎は嘆息の声を漏らした。獣妖怪が親しい者同士でブラッシングしたり毛づくろいしあったりする習性がある事を源吾郎は知っている。

 源吾郎はまた、雪羽の本来の姿が長毛種の猫みたいな姿である事も知っている。雪羽はその姿が恥ずかしいみたいだが、源吾郎は実は彼の本来の姿を好ましく思っていた。何と言うか抱っこしたり膝に乗せて撫でるのに丁度良いと思える姿なのだ……雪羽には言わないけれど。

 

「それにしてもハルさんもいたんだ」

「春兄はもう四分の三くらい俺ん家のヒトだぜ? 何せずっと前から叔父貴と行動を共にしてるし。それこそ、俺が叔父貴に引き取られる前から、ずっとね」

 

 それじゃあ春嵐も雪羽にとっては家族みたいなものなのだな、と源吾郎はひとり納得していた。三國たちが親代わりなのであれば、春嵐はやはり雪羽の叔父や兄に相当する存在なのだろう。真面目で面倒見の良い彼に対して、兄らしさを見出しているのは源吾郎も同じ事だった。

 今日は叔父の三國に送ってもらってここまで来たのだと、雪羽は唐突に教えてくれた。三國の暮らす亀水からこの研究センターまではそこそこ遠い。厳密には山間のこの辺りは交通の便が悪く、電車やバスを使って移動するのには不向きなのだ。萩尾丸に迎えに来てもらうのも気が引けると思った三國の考えが手に取るようにわかる気がした。

 

「まぁ遠方だし、まだ自分でここまで行き来できる足が無いからなぁ。バイクは運転できるけど車の免許は無いし」

「仮に免許を持ってたとしても、その姿で運転したらマズいだろうに」

 

 車の運転について言及した雪羽に対し、源吾郎は遠慮なくツッコミを入れた。源吾郎はギリギリ成人男性に見える一方、人型に変化した雪羽は何処からどう見ても少年そのものである。年かさに見積もっても童顔の高校生というのが関の山だろう。

 すると雪羽は怪訝そうな源吾郎をじっと見つめ、不敵な笑みを見せた。

 

「そりゃあ俺とてこの姿だったらマズいのは解ってるよ。だけどな、大人の姿に変化する事くらい俺でも出来る」

 

 大人の姿に変化できる……? その言葉の意図を考えていた丁度その時、雪羽の姿が一変した。文字通り雪羽は青年の姿に変化していたのだ。先程の十代半ばの姿とは異なり、今の雪羽は人間で言えば二十歳前後に見える。面立ちは叔父である三國に似ていたが、雪羽の方が幾分線が細そうに見える。

 変化術を披露した雪羽を前に、源吾郎は素直に驚いた。

 

「おお。その姿だったら大人っぽく見えるじゃないか。変化できるんだったらその姿で通しても良いんじゃないのかい?」

「いやまぁそうもいかないんだよ」

 

 苦笑いしつつ首を振ると、雪羽はまた普段の姿に戻っていた。

 

「変化を維持するのも結構疲れるし、大人のふりをするのも中々難しいんだよ。それにさ、今のこの姿の方がオトモダチと接するにも女の子と遊ぶにも丁度良いんだよ。可愛い顔して中々強いなぁってギャップを魅せる事が出来るからさ」

 

 真面目に語る雪羽を前に、源吾郎は思わず笑ってしまった。いかにも雪羽が考えそうな事だったからだ。

 

「そう言えば先輩。大人と言えば土曜日に先輩のお兄さんに会いましたよ。三番目のお兄さんです」

 

 またも雪羽は話題を変えて話しかけてきた。源吾郎はその事にはツッコまなかった。話題を変えた事よりも、三番目の兄に会ったという事に驚いたからだ。

 

「庄三郎兄様の事か。出先で会うなんて珍しいなぁ。あの人は超人見知りでインドア好きだから、そもそも一人で外にいる事なんてほとんど無いのに」

「ギャラリーで見かけたんですよ。買い物帰りに雨に降られて、たまたま入った雑居ビルでギャラリーをやってたんですよ」

「…………」

 

 雪羽の話を聞きながら源吾郎は思案に耽っていた。庄三郎は「作品が展示されるなら作者は黒子でも構わん」という考えの持ち主である。従って積極的にギャラリーに顔を出す事はない。それでも出てこねばならない事情があったのだろうと源吾郎は思った。

 但し事前にその事が解っていれば、(彼女役として)源吾郎に協力を要請するはずだ。それもなかったから、きっと突発的に顔を出さざるを得なかった――そのような事を源吾郎は考えていた。

 

「庄三郎さんでしたっけ。少しだけお話しましたが大人っぽい感じでしたぜ。ああ言う人がお兄さんなんだなって思っちゃったんだ」

 

 庄三郎が兄らしい。実の兄を持たぬ雪羽の言葉に、源吾郎は思わず笑ってしまった。首をひねる雪羽に対し、源吾郎は臆せず言ってのけた。

 

「そうか。雷園寺君には庄三郎兄様も兄っぽく見えたのか。ははは、庄三郎兄様はそんなに()()()()()()人なんだけどなぁ。むしろあの人は末っ子気質が強いと思ってるんだよ。何せ俺が生まれるまで末っ子だったわけだし」

 

 源吾郎の言葉に雪羽は驚いて目を丸くしている。暇があれば他の兄の事について話すのも一興だと源吾郎は思っていた。




 雪羽君はやや童顔、源吾郎君は一見すると年齢が判りづらい面立ちだったりします。


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待ちわびるは戦闘訓練

 蠱毒の一件があってから休止状態になっていた戦闘訓練が再開する事となった。単なる技較べではなく、力較べの一騎打ちである。しかも萩尾丸が妙にそわそわしていたと思っていたら、今回は特別に観客が多いとの事だった。萩尾丸の部下たち、小雀の若妖怪たちだけではなく、何と八頭衆の幹部たちも数名見学に来る、という事なのだ。

 その話を聞いた源吾郎の心中には緊張が広がっていった。見知った若妖怪たちだけではなく、実力者である八頭衆も見学に来るのだ。緊張するなという方が無理な話であろう。

 だがその緊張感はある種の心地よさももたらしていた。しくじれば自分が間抜けに敗北する所を見せてしまうという事である。だが逆に、自分が雪羽を打ち負かす勇姿を見せる事だと思えたのだ。

 

 

「先輩、久しぶりの戦闘訓練だから、緊張しちゃってるんですか?」

 

 午前の休憩時間。仕事を中断して小休止していると雪羽が声をかけてきた。休み時間の合間に雪羽が源吾郎の許に来るのはもはや恒例行事となっていた。というか、雪羽が近づかなくとも源吾郎の方が近づいてくる事もあるくらいだし。

 源吾郎は、自分が雪羽の友達と呼んで良いのかどうか悩むときはある。しかし紅藤たちのような大人妖怪からは、源吾郎たちは仲良くじゃれ合う間柄であると認識されつつあった。

 

「緊張しているけれど、ちょっとワクワクもしてるかな。何せお偉方に俺のカッコいい所を見せられるかもしれないんだからさ!」

「先輩がそう言っているのを聞くと、俺も嬉しいよ」

 

 源吾郎の発言に、雪羽は素直に喜んでいた。戦闘訓練でカッコいい所を見せる。暗に雪羽を打ち負かしてやると言っているようなものである。しかし雪羽は気を悪くしたそぶりを見せなかった。

 源吾郎はだから、少しだけ罪悪感を抱いてしまった。その感情の揺らぎに気付いたらしく雪羽が言葉を続ける。

 

「そりゃあ俺だって先輩相手にまざまざ負けようなんて思ってないぜ。でもさ、そもそも先輩はあの事件があってから色々と怖がってただろう? 戦闘訓練どころか、俺と話すのも怖いって思ってたみたいだし……その先輩がタイマン勝負にまた関心を持ったって事は元気になったって事かなって俺は思うんだ」

 

 雪羽はそこまで言うと、意地の悪そうな笑みを浮かべて言い添えた。

 

「ほらさ、俺とのタイマン勝負が始まってすぐの時とかは俺をボコボコにするんだとかって言ってたみたいだし」

 

 おのれの過去の発言を雪羽に持ち出され、源吾郎は軽くうろたえてしまった。無論源吾郎は、自分がかつて雪羽をボコボコにしたいと言っていた事はきちんと覚えている。蠱毒の事件が起きる前の事だ。自分より妖力が少ないとされる雪羽にボロ負けし、悔しさと向上心から放った言葉だった。

 だがこれは、面と向かって雪羽に言ったわけではない。二人の性格上口にすれば乱闘に発展する恐れがあったからだ。しかもその頃はまだ雪羽と親しいとも言い難かったからなおさらだ。

 

「う、ううむ、それは出来心で言った言葉だよ。それにしても何で雷園寺君がその事を知ってるんだ?」

「萩尾丸さんが教えてくれたんだ」

 

 萩尾丸の名を聞いた源吾郎は、一挙に納得し更には安堵さえもしていた。萩尾丸ならばやりかねない事であるし、ボコボコ発言は春嵐が言った事ではないかと若干身構えてもいたのだ。

 

「まぁ、あの人が言ったって言うのはよく解るよ。萩尾丸先輩は、俺たちをからかったり煽ったりするのが楽しくてしようがない人だからさ。俺らの間で何かが起こるのを、密かに楽しみにしているのかもしれんなぁ」

「それは流石に勘繰り過ぎだと思うぜ」

 

 訝しげに語る源吾郎に対して雪羽がツッコミを入れる。雪羽の口調と物言いは落ち着き払ったものだった。

 

「先輩の言う通り萩尾丸さんは俺で遊んで愉しんでる所もあるっちゃあるけどさ……だけどあの人は、雷園寺家次期当主である俺をきちんと教育するって叔父貴たちとの約束に縛られてもいるんだ。だからその、無駄に煽ったりするだけとか、そういうことは無いと思うかな。俺に対してはね」

 

 萩尾丸が三國との約束に縛られている。雪羽のやや強い言葉に源吾郎は目を丸くしてしまった。現在、萩尾丸が雪羽の身柄を預かり面倒を見ているのは源吾郎も知っている。強い妖怪の権限として、真の保護者である三國から雪羽を取り上げただけなのだと思っていたが、あれもあれできちんとした約束が成立していたとは。

 源吾郎がそんな事をぼんやりと思っていると、雪羽が言葉を続ける。

 

「前も言ったけど、俺自身は別にボコボコにしたりボコボコにされたりするのは平気だしね。先輩は負けず嫌いだけど無闇に誰かにひどい事をするヒトじゃないって解ってるからさ。負けても別に恨んだりしないよ。だから遠慮せずに立ち向かってくれたまえ」

 

 おかしな語尾で締めくくる雪羽に対し、源吾郎は微苦笑を浮かべるのがやっとだった。雪羽は俺の性格を()()()()()()()ではないか。そんな考えがどうしても脳裏にちらつく。負けず嫌いで我が強い部分はその通りだ。だが雪羽はどうも無闇に源吾郎を「優しくて良い奴」と思いたがっている節があるのだ。

 そう言う部分が雪羽の身勝手な所だ。そう思いつつも、源吾郎自身も()()()()()()な妖怪である事は自覚している。さもなければ、わざわざ妖怪の世界に飛び込んだ挙句、最強の妖怪になり世界征服を目論むなどという野望を目指しはしないだろう。

 源吾郎は自分が礼儀正しく温和な若者に()()()事もおおむね知っていた。演劇の才を持つ彼は猫を被るのが上手かったし、何より年長者に従う事は苦ではない。そう言った所が源吾郎が良い子・良い奴に見える要因なのかもしれない。そう思われ続けるのはちとしんどい所もあるにはあるが。

 今のところ、源吾郎は師範である紅藤や兄弟子たちに大人しく服従しているように見えるだろう。それもまた、そうする事が源吾郎にメリットがあるからに他ならない。そう思えば源吾郎もかなり身勝手な手合いなのだ。

 

 その一方で、源吾郎を善良だと見做したがる雪羽の性質もあるのだろうと思っていた。かつて従えていた取り巻きの事を話す時、雪羽は彼らの事を()()()()()と称する事が常だった。調子の良い時だけ追従し、雪羽が糾弾されて再教育されるとなると手の平を返して縁を切った連中たちを、である。オトモダチという言葉には皮肉が籠められているのかと思った事もあったのだが、もしかすると素直にそう思っているだけなのかもしれない。源吾郎はそんな事を思った。それならば、源吾郎を善良だと思い込むのも致し方なかろう、と。

 雪羽はああ見えて同年代の仲間との関係性の構築が苦手なのかもしれない。同年代の面々との交流に度々苦労した源吾郎はそんな事を思った。但し、雪羽と源吾郎ではそうなった原因は異なっているのだけれど。

 源吾郎はそんな事をつらつらと考えていたのだが、見れば雪羽は少し心配そうな表情を見せていた。悩んでいるようにでも見えたのかもしれない。

 

「大丈夫。今回は三國の叔父貴が来てくれるみたいだけど、もし俺を目の前で打ち負かしても叔父貴は怒ったりしないよ」

 

 そう言うと、雪羽は微妙な表情を浮かべて言い添えた。

 

「――本当のことを言うとね、三國の叔父貴は先輩の事は悪く思ってなんかないんだ。むしろ、先輩に対して好感を持ってるくらいさ。若いのに見所があるとか、是非とも頑張ってほしいってよく俺たちにも言ってたよ」

 

 三國が源吾郎をよく思っている。その事を伝えた雪羽の顔には苦いものが見え隠れしていた。その翠眼に嫉妬の光が宿っている事を、源吾郎はこの時悟ったのだ。

 雪羽が嫉妬するのも無理からぬ話だろうと、源吾郎は密かに思った。親が他の子供を表だって褒めるのを聞いて、気を悪くする子供だって一定数存在する。ましてや雪羽は複雑な家庭環境を経て叔父の三國に引き取られた。彼は三國の事を敬愛し甘える一方で、三國に見捨てられないかと怯えているらしいのだから。

 

「三國さんが俺の事をよく思ってくださってたのか……」

 

 半ば独り言めいた源吾郎の言葉には、戸惑いの色が多分に含まれていた。雪羽の密かな嫉妬心に戸惑っているのではない。何故三國が自分を気に入っているのか。そこが不思議だった。

 思わず問いかけると、意外にも雪羽は応じてくれた。

 

「俺もよく解らないよ。まぁでも叔父貴も先輩の叔父さんたちの事は一目を置いていたから、そう言う事かもしれないし。

 あとさ、叔父貴は元々反体制派(ハンタイセーハ)だったんだよ。それで先輩の事も見所があると思っているみたい」

反体制派(ハンタイセーハ)、か……」

 

 ハンタイセーハ。やや間延びした声で反芻すると、それはまるで異国の単語のような響きを伴っていた。三國が反体制派である。この雪羽の主張については源吾郎も異存はない。確かに今の三國は雉鶏精一派の第八幹部であり、雷園寺家次期当主を名乗る甥を養育している。一般妖怪とは言い難い地位と権力の持ち主と言えるだろう。

 しかし彼の言動の一部からは、権力に対する彼なりの嫌悪が見え隠れしている時があった。三國が雪羽を引き取るきっかけになった話などがその最たるものである。雪羽が雷園寺家の次期当主に返り咲く事を三國は実は()()()()()()()()のではないか。あの話を聞いて以来、源吾郎はそんな考えをしばしば抱くようになっていた。

 もっとも、反体制派である三國が源吾郎をよく思うのはやはり謎である。半妖であると言えども源吾郎は玉藻御前の末裔であり、いわば貴族妖怪の末裔なのだから。

 

「まぁ島崎先輩。色々不安がらなくて本当に大丈夫ですよ」

 

 本当に、という部分を強調し、雪羽が声をかけてくる。それから修道服の袖をずらし、右手首の腕飾りを見せびらかしてきた。ミサンガ風のそれには薄紫の小さな珠が一つあしらわれている。紅藤から購入した護符だった。

 同じ護符は源吾郎も保持していた。腕時計をする事が多いので、源吾郎は足首に護符を巻き付けているのだが。

 

「俺も先輩も新しい護符を紅藤様から買い取っただろう。前の蠱毒の事があったから、今までのよりも効果が強い護符になってるんですよ。それこそ、俺たちの攻撃でも弾いて防ぎきるくらいの効果があるらしいんです。

 どうっすか先輩。タイマン勝負って言ってもスポーツ感覚で楽しめますぜ」

「何だ。そう言う事なら先に言ってくれよな」

 

 源吾郎は笑いながら雪羽の前で両手を叩いたりしていた。護符で護り切られた状態での戦闘訓練ならば、雪羽を傷つける心配も無かろう。そこで深く安堵し、そのために可笑しさがこみあげてきたのである。

 

「先輩は紅藤様直属の部下だから、そう言った事は既に知ってるかなと思ったんだよ」

「別にそうとも言い切れないけどな。護符を新調してから一週間経つけれど、特に今までと変わった事も無いし……雷園寺君は何かあったのかい?」

「俺も今まで通りかな」

 

 雪羽がそう言って頬に手を当てた時、彼の修道服の袖の部分に、青黒いまだら模様が出来ているのを発見した。聞けば万年筆のインクを補充している時にうっかりこぼしてしまい、インクの染みが出来たのだという。

 インクの染みを付けるとはまたうっかりしているものだ。源吾郎は呑気にそう思っていた。呑気な心地でいれるのは、雪羽の袖を汚すインクが青黒い色味だからだった。いかな嗅覚に優れていると言えども、赤いインクをこぼしていたとなれば一目見てぎょっとしてしまうからだ。



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思惑絡みて失言飛び出す

 戦闘訓練は昼休み明けに開始されるという事だった。昼休み明けに戦闘なんかやるのかよ……源吾郎はついついそんな事を思ってしまっていた。

 学生だった頃、体育の授業が五限目に配置される事がしばしばあった。すきっ腹を抱えて運動するのもまぁしんどいが、満腹に近い形で授業に臨むのもあんまり楽しい物ではない。そもそも昼食を消化している最中だから眠いわけであるし。

 源吾郎はもちろん、表立ってその事を抗議したりはしない。しかしにやにや笑みを浮かべる萩尾丸は、源吾郎の心中を見抜いているようだった。

 

「島崎君。今回は戦闘訓練だけどね、実際の戦闘が都合のいい時に起こるなんて思っているのかな?」

 

 神出鬼没と言っても過言ではない登場をした萩尾丸を見て、源吾郎はすぐには何も言えなかった。いや――人心掌握術を会得している萩尾丸であれば、源吾郎の目線の動きだけで何を思っているのか既に見通しているのだろう。

 源吾郎が視線をあちこちに向けているうちに、萩尾丸は言葉を続ける。真顔だった。

 

「良いかね島崎君。闘いなんてものはこちらの都合などお構いなしに始まる事なんて珍しくないんだよ。食後だろうが腹痛の最中だろうがボーイフレンド、いやガールフレンドとイチャコラしてようがそんな事は向こうの知った事ではないのだよ」

「萩尾丸さんの言うとおりっすよ、島崎先輩」

 

 雪羽は萩尾丸の言葉にしれっと付和雷同していた。その面には得意げな笑みさえ浮かんでいる。

 

「俺もヤンチャしている時とかさ、その辺の野良妖怪たちが徒党を組んでやって来るとかそう言うのを見た事もあるしね。それこそ、仲間とのんびりまったりしている時に襲撃してきた奴らだっていたよ」

 

 そこまで言うと雪羽は源吾郎にぬぅっと近寄ってきた。顔を近づけてくるから、彼の翠眼が何がしかの期待で輝いているのが見て取れた。

 

「先輩もちょっとずつ訓練して不測の事態に備えるようにした方が良いっすよ。先輩は確かに強いんでしょうけど、その辺りの経験が大分少ないみたいですし」

 

 雪羽の率直な指摘に源吾郎は喉を鳴らすほかなかった。おのれの経験がまだまだ足りない事、非情になり切れない甘さを多分に内包している事はしばしば萩尾丸たちから指摘されていた。しかし、それを雪羽に言われるとそれはそれで堪えるものだった。

 したり顔でそんな事を言う雪羽を見ていると、やはり彼は年上なのだと思える。そもそも妖怪は性別を問わず年長者が敬われ、生きてきた年数を誇示したがる習性がある。雪羽は妖怪としては相当に若いものの、実年齢的に年下である源吾郎を前にそのような習性が首をもたげたのだろう。

 源吾郎は年長者の年長者ぶった態度には慣れっこではある。しかし雪羽が兄っぽく振舞うのを見ると違和感で満たされてしまうのだった。

 

「まぁまぁ雷園寺君。ああだこうだ言っても島崎君も困ってしまうからね」

 

 そんな雪羽を制したのは何と萩尾丸だった。

 

「島崎君は確かに玉藻御前の末裔ではあるよ。しかし半妖である上にここに就職するまでは人間として育てられ人間として暮らすようにしつけられてきたんだ。妖怪としての生き方・闘い方を勉強して習得しているのは彼も解っている事だから、あんまりそこを行ってやらない方が良いよ。

 そりゃあまぁ、島崎君は既に中級クラスの妖力を保有しているからその事実を見落としてしまうのは仕方ないけれど」

「全くもってその通りですね」

 

 呟いたものの、それこそ強がりみたいな感じになってしまいばつが悪かった。妖怪としての生き方を模索中なのも事実だが、何より源吾郎は争いごとに慣れていない。人間でも中学・高校でチンピラと相争う手合いは存在するが、そうした闘争とも源吾郎は無縁だったのだから。何となれば女子ばかり多い部活に所属していた事もあり、「ちょっと変だけど割と安全な子」と思われていたくらいでもある。

 

「それはさておき二人とも。今日はお客さんが多いけれど、普段通りに闘ってくれれば良いからね。かっこつけようとか、そういう事は考えずにね」

「お客さんって、萩尾丸さんの部下たちだけじゃなくて八頭衆の人たちも来るんですよね?」

 

 そうだよ。雪羽の問いに萩尾丸は頷いた。

 

「本来ならば内々でやるような事なんだけれど、まぁこっちもこっちで色々あるからね。君らの実力を見るって事で来てくれる事になったんだよ。

 あ、でも八頭衆が全員集まる訳じゃないよ。今回お見えになるのは第四幹部の灰高様、第五幹部の紫苑様、第七幹部の双睛鳥殿……そして雷園寺君の叔父上殿だ」

「叔父貴……いや叔父さんも来てくれるんですね!」

 

 雪羽の顔は既に喜色満面となっていた。敬愛し頼りにする叔父に自分の晴れ姿を見て貰う事を夢想しているからなのかもしれないし、そもそも叔父が来てくれる事自体が嬉しいのかもしれない。いずれにせよ無邪気な反応だった。

 良かったじゃないか雷園寺……素直に雪羽の喜ぶさまを眺めていた源吾郎であったが、ややあってからやってくる八頭衆の面子に急に関心が向いた。

 

「萩尾丸先輩。灰高様もお見えになるんですね」

 

 様付けしたものの、灰高の名を呼ぶ源吾郎の声音は冷え冷えとしていた。萩尾丸の前だから取り繕ってはいるものの、灰高の事を疎んでいた。生誕祭の場で源吾郎の変化を解いた挙句、会議の場を引っ掻き回した老天狗への心証は、初対面の雪羽よりも悪かった。しかもこの度の蠱毒騒動で鴉を使って監視しているのだからなおさらだ。

 

「そりゃああの老いぼれの鴉ジジイも来るだろうね」

 

 源吾郎の言葉に反応したのは雪羽だった。しかも、灰高を老いぼれジジイ呼ばわりしながら。

 

「毎日毎日鴉を飛ばして俺たちを監視してるんだぜ。そりゃあまぁ、俺らの事は気になって出てくるだろうさ。あの老いぼれが何を考えているのかは知らんけど――」

「口を慎みたまえ、雷園寺雪羽君」

 

 萩尾丸はいつになく厳しい口調でぴしゃりと言ってのけた。雪羽は一瞬驚いて目を丸くしていたが、すぐに自分の非に気付いたらしくバツが悪そうに視線を落とした。

 

「炎上トークは一世紀にしてならず、という言葉を知らないみたいだね。君も僕の許で暮らしているから、炎上トークをやってみたいなんて思ったのかな? それとも、君の叔父である三國君が、常々そんな事を君に吹き込んでいるのかい?」

「…………」

 

 雪羽は何も言わず、指を絡めるのがやっとだった。萩尾丸は表情を和らげ、先程よりも優しい口調で続ける。

 

「灰高様に君らも思う所があるのは僕も何となく解るよ。しかしその不満だとか怒りをやすやすとぶつけて良い相手じゃあないんだ。雷園寺君。君の事は僕が護っているようなものだけど、灰高様相手では流石に僕も分が悪い――あの生誕祭での一件を忘れたわけではないだろう?」

 

 萩尾丸の問いに、雪羽のみならず源吾郎も戸惑いつつも頷いた。分が悪い。真正面から萩尾丸がそんな事を言うのは珍しい話だ。萩尾丸はおおむね鷹揚に構えており、おのれが強くて何でもできるのだ、というオーラを見せているのが常だった。だから源吾郎も、萩尾丸が強大な力を持ち負け知らずだと思い込んでいたのだ。

 だが実際には、源吾郎は萩尾丸が本気で闘っているのを未だ見た事は無かったのだけど。

 

「それに雷園寺君。灰高様は君を雷園寺家の当主に導いてあげようってわざわざ言って下さってもいるんだ。雷園寺家の威光は君の誉れであり、当主の座に収まる事こそが君の望みだろう? それならば、わざわざ灰高様の怒りを買うのは賢いやり方とは言えないね」

「は、はい……萩尾丸さんの仰る通りです」

 

 気を付けます。そう言った雪羽の顔は青ざめていた。雷園寺家の当主の座に雪羽が固執している事は源吾郎もきちんと知っている。玉藻御前の血を誇る源吾郎の気持ちが真実ならば、雷園寺家を誉に思う雪羽の考えも真実であろう。源吾郎は常々そう思っていた。

 しかしだからこそ、敢えて雪羽を雷園寺家当主に育て上げようともくろむ灰高や萩尾丸の態度にはそこはかとない不気味さと違和感を抱いてしまうのだけど。

 

「とはいえ、君らは今回戦闘訓練をするだけであり、八頭衆のお歴々はそれを遠巻きに観察するだけさ。であれば妙な事は起きないと思うんだけど……」

 

 そこまで言うと萩尾丸は何かを思い出したらしく源吾郎たちから離れていった。

 緊張の糸が解けた源吾郎は思わずため息をついた。それは雪羽も同じ事だったようだが、息をつくタイミングが重なったのが何ともおかしなものだった。

 

「まぁ、観察されるだけにしても、先輩にしてみれば八頭衆の皆にお会いできるのは良い事なんじゃないかな?」

「それもそうかもな」

 

 雪羽の言葉に源吾郎は静かに頷いていた。春に就職したばかりの源吾郎は、紅藤や萩尾丸以外の幹部たちと顔合わせしたのは二回だけである。入社してすぐの時と、あの生誕祭の場での事だ。

 流石に全員揃っている訳ではないが、ひととなりを今再びチェックするのに丁度良いだろう。

 

「今回来るのは灰高様と三國様の他に、紫苑様と双睛鳥様だったよな……まぁ、紫苑様は紅藤様の姪御さんだから大丈夫そうな気がするなぁ。双睛鳥様も、割合フランクな感じだったし」

「双睛の兄さんは、結構気さくだよ。俺の事も可愛がってくれるし。それに紫苑様は何も心配する事ないよ。紅藤様の事だって、ずっと伯母上様って慕ってるしさ」

「本当だな、それなら心配ないよなぁ」

 

 雪羽の説明を聞き、源吾郎は朗らかに笑った。双睛鳥についてはフランクなお兄さん妖怪とだけ思っていたが、雪羽も懐いているのならば優しい妖物(じんぶつ)なのだろうと推測していた。

 

「紫苑様は第五幹部だけど、よく考えれば胡琉安様の従姉でもあるお方だもんねぇ……それにあの方は俺が八頭怪に出くわした時に相談に乗ってくれたし」

 

 源吾郎は()()妖怪の紫苑の姿を思い返していた。華美な雰囲気の持ち主ではないが、控えめで気立てがよく感じのいい妖物(じんぶつ)であると源吾郎は評していた。胡琉安の従姉であるからあの地位に就けたのではないかと思われるが、それ以上に紅藤に可愛がられている所も大きいであろう。

 雪羽の指摘通り、紫苑は紅藤を叔母上様と慕っている。実際には紫苑の母親と胡琉安の父親が異母姉弟であるから、紅藤と紫苑は直接血縁である訳ではない。

 それを承知の上で叔母上と紫苑は慕い、紅藤は実の姪のように彼女を可愛がっているのだろう。紅藤は身内やそれに準じるものに甘い所があるのだから。




 紅藤様と紫苑様の関係について「叔母」「伯母」と二通りで記載されておりますが、誤変換ではありません。
 こちらについてはのちのち明らかになるのですが……カクヨムでは誰もツッコミを入れてくれないのです(汗)


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鴉柱と身内ばなし

 昼休み。源吾郎は集まっていた鴉たちが一斉に飛び交うのを目撃した。彼らはらせん状に飛び回り、高度を上げつつも研究センターから離れる気配は見せない。黒い鳥柱は、見えない巨大なミキサーのように源吾郎の目に映った。

 

「そろそろ八頭衆の皆様がお見えなんでしょうね。もちろん――あの鴉たちのボスもさ」

 

 雪羽はさも当然のように源吾郎の隣に並び立っていた。源吾郎と同じく訓練用の運動着に着替えていた。日頃着込んでいる修道服めいた衣装は身に着けていない。

 

「雷園寺君。その衣装で構わないのかい?」

「戦闘訓練だから良いんだよ。紅藤様の護符は、俺らが放つ攻撃でもびくともしないし」

 

 言いながら、雪羽は身に着けている護符を源吾郎に見せた。手首や足首に巻いている護符は、不可思議な術でもはや外せないようになっていた。正規の護符を外したがために蠱毒に侵蝕されかけた事故が起こらないようにという紅藤なりの配慮である。

 余談だが紐の部分は高い伸縮性を持たしているため、巻いている部分を圧迫し血行障害を起こさないようにもなっている。まぁ何というか至れり尽くせりである。

 しかし、雪羽が修道服を着こんでいない事への源吾郎の懸念は、防御力云々ではなかった。

 

「そうじゃなくてさ、その姿だったら君が雷園寺雪羽だって皆に知られるんじゃないか。それは大丈夫なのかい?」

 

 雪羽が身に着けていた修道服は、防具というよりもむしろ認識阻害に特化した物だった。あれを着込みフードで顔を覆えば、雪羽は妖怪であるという事しか解らなくなってしまう。雪羽は今まで修道服を着こみ、自分が研究センターで修行している事を押し隠していた。

 その雪羽が修道服を脱ぎ捨てて戦闘訓練に挑もうとしている。そこが源吾郎の気になる所だった。

 別に大丈夫だよ。雪羽は少し目を細めてから言った。

 

「そりゃあ昔は俺だって悪さしてこんな所でシコシコ修行してるってみんなにバレるのは恥ずかしいって思ってたよ。だけどさ、今はもうそんな事を言ってられない状況になってるし」

 

 そう言うと、雪羽は翠眼をこちらに向けた。

 

「俺と先輩が巻き込まれたあの騒動で、下手人を捕まえるために地元の皆が動いただろう。あの時萩尾丸さんが皆を焚きつけたって言ってたけど……多分その時に俺の事も話してたんじゃないかな。それにそもそも萩尾丸さんの部下たちの中には、この町で暮らしてる妖怪もいるだろうし。

 だからさ、もう下手に正体を隠し立てしても逆効果だと思うんだよ」

 

 確かに雪羽の言うとおりだと源吾郎も思っていた。あの日萩尾丸がどのような内容を周辺住民に連絡したのかは定かではない。しかし少なくとも錯乱した源吾郎が他の妖怪を襲ったという話くらいはしているだろう。一人で錯乱して一人で腕や尻尾を噛んでいただけであれば単なる間抜けに過ぎない話だし。

 雪羽がそこまで言うのならそう言う事だろうと思う事にした。少しだけ雪羽の事を心配していた源吾郎だったが、雪羽は雪羽なりに腹をくくったという事なのだろうから。

 

 

 タイマン勝負形式の時、戦闘訓練のルールはかなり緩いというかフリーダムだ。お互いに術を使い策謀を凝らし、相手を戦闘不能にした方が勝者となるというシンプルなものである。防具や武器の持ち込みの規制は特に無い。むしろ互いに護符を用いる事を運営側(紅藤たち)は推奨しているくらいだ。武器云々については特に何も言わないが……源吾郎たちは武器に頼る事は殆ど無いのでスルーされている案件でもある。

 一応この戦闘訓練では使い魔や配下と言った他の妖怪を使う事は明らかに禁止されていた。だがやはり源吾郎たちが行う事に影響が出る案件ではない。源吾郎は使い魔としてホップを養っているが、彼をおのれの戦闘に使う事は考えていない。そして雪羽は取り巻きたちと縁が切れてしまったのだから。もっとも、使い魔等の使用が許可されていたとしても、源吾郎はおのれの力で闘う所存だ。それはきっと雪羽とて同じだろうと思っている。

 

 新たな護符は性能が上がっているためにより強力な攻撃術であっても持ち主を護り抜けるようになっていた。要するに攻撃を受けても実質的なダメージにはならない。ダメージにならないという事は、攻撃を受けても特にデメリットにならない反面、相手に攻撃をぶつけてもメリットにならないのではないか。源吾郎はそんな疑問を抱いていた。

 しかし紅藤によると、新たな護符になった事により勝負の付き方も新たなルールが付加される事になった。攻撃を受けても肉体の損傷はないが、代わりに衝撃が伝わるからくりになっているのだそうだ。さらに言えば攻撃を受けた場合はダメージを受けたと見做され、戦闘不能になる水準まで攻撃を受けた側が負けになるという事らしい。

 確かに安全性は向上したが、ある意味今までと変わらないとも言えるだろう。

 

 

 まだ昼休みだったが、源吾郎は研究センターの外を出て訓練会場の近辺をぶらついていた。その傍らには、さも当然のように雪羽がくっついている。

 八頭衆の幹部たちはまだ到着していないようだ。しかし、萩尾丸の部下である若妖怪たちは既に集まり始めていた。重役出勤という四字熟語が脳裏をかすめる。役職的な案件もあって、若妖怪たちの方が先に集まっているのかもしれない。

 

「お、見ろよ。島崎君の隣にいるのは雷園寺殿じゃあないか」

「本当だ。しかもなんかくっついてるし。めっちゃ仲良さそうじゃん」

「あの二人が仲良いって意外だなぁ」

「そうか? どっちも貴族妖怪のボンボンだから、仲良くなると思うけど」

「貴族妖怪のボンボンだから、互いに張り合って喧嘩するんじゃないかって思ってたんだよ」

「そういや前も変態だのドスケベだの言い合ってたしなぁ」

 

 セッティングの傍ら紡ぎ出される彼らの言葉は、源吾郎の耳にばっちりと入っていた。それはきっと雪羽も同じであろう。

 集団行動する中学生よろしく雪羽は源吾郎に追従している。そんな雪羽の様子を源吾郎はちらと見やった。口許にうっすらと笑みが浮かんでいたが、顔は妙に火照っていた。

 

 ややあってから、ひそひそこそこそと話していた若妖怪たちが一斉に口をつぐんだ。その理由は源吾郎にもすぐに解った。年長の妖怪たち――八頭衆の幹部とその配下たちが訪れたからだ。周囲を威圧するように妖気を放っているのは三國だけであったが、姿を見るだけでも若妖怪たちは緊張したらしかった。

 さて第八幹部の三國派と言うと、雪羽の姿を見ると小走りにこちらに駆け寄ってきた。服装は見るからにクールビズ対応のワイシャツとスラックスであるが、走りにくいとかそのような事はまるきり度外視している。そんな三國に追従するように、獣妖怪の若者も小走りにこちらに向かってきていた。匂いと見た目で獣妖怪の男性である事は解ったが、見慣れた春嵐ではない。ゴボウのような尻尾を揺らし、歩を進めるたびに彼の周囲では小さなつむじ風が巻き起こっていた。

 

「叔父さんに堀川さん。今日は来てくれてありがとう」

「いつも戦闘訓練は見に行きたいと思っていたんだけどな、ちょうど仕事の調整が出来たんだよ。この前家に戻って休んだけれど、雪羽の元気な姿も見たかったしね」

 

 春嵐は外回りの営業があるから同席できなかった。三國がそんな事を説明するのを聞きながら、源吾郎はそっと三國たちから離れていた。別に後ろ暗い所がある訳ではない。しかし三國と雪羽の醸し出す身内らしい空気をおのれが損ねるのではないか、と彼なりに気を回していたのだ。

 

「おや、不思議な歩き方をすると思ったら玉藻御前の末裔・島崎君じゃあないかね」

 

 早々に立ち去ろうとした源吾郎であったが、背後から声をかけられたので歩を止めて振り返る。思わず驚いて声を上げそうになり、口許に手を当てようとして中途半端な所で動きを止めていた。

 源吾郎に声をかけてきたのは、第四幹部の灰高だった。彼はさも当然のようにそこにいた。生誕祭の時にあった時と同じく、その顔には余裕たっぷりの笑みが浮かんでいる。にこやかで穏やかな表情であるが、真意の読めない顔つきともいえる。

 側近と思しき女妖怪が、無表情ながらも鋭い眼光で源吾郎たちを観察しているのも、余計に灰高の不気味さを際立たせているように思えた。

 

「は、灰高様。お久しぶりですね。生誕祭以来ですがお変わりないようで」

「君も色々あったみたいだけど元気そうで何よりです」

 

 灰高の声は深みがあり口調も穏やかで優しげだった。しかしそこに彼の心情がこもっているのようには源吾郎にはどうにも感じられなかった。心にもないリップサービスを行っているのではなかろうか。そのような考えがどうしても浮かんでしまうのである。

 それはまぁ、雪羽同様源吾郎も灰高へのステロタイプがこびりついているからなのかもしれない。

 

「お気遣いありがとうございます。見ての通り、僕は元気そのものです」

 

 源吾郎の口から出てきたのは、中学生でも言いそうな言葉でしかなかった。もっと気の利いた事を言えば灰高をもう少し感心させる事が出来たのではないか。そんな考えを抱きつつ、源吾郎はそれとなく灰高が連れている女妖怪を観察した。

 驚くべき事に、灰高が従えている女妖怪は鴉天狗ではなかった。そもそも鳥妖怪ではない。引き締まった臀部から飛び出す尻尾は、明らかに彼女がイヌ科の獣妖怪である事を示していた。

 犬系統の天狗と言えば狗賓《ぐひん》天狗か白狼《はくろう》天狗のいずれかであろう。暗い灰褐色の毛並みから狗賓天狗であろうと源吾郎は密かに思った。

 灰高たちに愛想笑いを浮かべていた源吾郎であったが、その心中では様々な考えが脳裏を駆け巡っていた。

 鴉天狗は天狗の中でもとりわけ同族意識が強い。狗賓天狗などの位が低い天狗や山中の獣妖怪を従える事も珍しくないが……重臣や腹心はおおむね同族である鴉天狗になるのが決まりらしい。従って灰高が連れている狗賓天狗の女性も、灰高の部下の中ではそう高い地位ではないのかもしれない。そんな彼女をわざわざ連れてきたという所に何か意味があるのだろうか。このイベントに重臣を連れてくるまでもない、と言う灰高の考えの裏返しなのだろうか。

 とはいえ、源吾郎は灰高のツレを軽く見ている訳ではなかった。むしろ動物的な本能を揺さぶられ多少委縮してもいた。大妖怪の子孫と言えども狐は狐。上位の補色者である狼を前にすくんでしまうのも致し方ない所であろう。

 しかも向こうは油断ならない相手だと見做しているみたいだからなおさらだ。

 

「灰高のお兄様。お見えになっていたのですね」

 

 一人源吾郎が緊張を募らせる中で、その状況を打破するきっかけが唐突に生じてくれた。灰高をお兄様と呼び声をかけてきたのは確認するまでもなく紅藤だった。彼女は敷地の外にいながらも白衣姿だったが、ともあれ師範の姿を見て源吾郎は落ち着きを取り戻していた。何のかんの言いつつも、源吾郎は彼女を頼りにしていたのだ。

 源吾郎はさりげなく紅藤の方ににじり寄る。その動きを灰高たちは見ていたが特に何も言いはしなかった。

 

「お忙しい中お越しいただいたのに、挨拶が遅れて申し訳ありません」

「別に構いませんよ、雉仙女殿」

 

 相手が年長者であるからなのか、紅藤は丁寧な態度を崩さない。そんな彼女を前に灰高は鷹揚に笑っていた。

 

「お忙しいのは雉仙女殿とて同じ事ではありませんか。いやむしろ、私よりもあなたの方がここ一月ばかり大変だったと存じます。何しろ雷園寺殿の再教育を皮切りに、色々な事が立て続けにありましたようですし」

 

 灰高はそこまで言うと笑っていた。彼が鴉の姿をしていたら、それこそ相手を小馬鹿にしたように上半身を揺らしていただろう。そんなシーンが源吾郎の脳裏には鮮明に浮かんでくる。

――全くもって空々しい。言い方は悪いけど、雪羽が悪し様に言うのも仕方ない話だ。

 源吾郎もまた無言のままそんな事を思っていた。ちなみに雪羽たちはいつの間にか灰高がいる所からさりげなく離れていた。きっと三國か堀川さんが気を回して移動したのだろう。

 

「それよりも雉仙女殿。気難しい兄上であるこの私よりも、可愛がっている姪御どのの紫苑殿を放っておいて良いんですか。あなたの事です。内心は彼女が来た事を喜んでおいでなのでしょうから」

「その心配はございませんわ、灰高のお兄様」

 

 灰高の言葉を正面から受け、紅藤は涼しい顔で応じている。

 

「紫苑さんとは先程まで話し込んでいた所ですから。いいえ、むしろ話し込んでいたからお兄様への挨拶が遅れてしまったのです。兄よりも姪を優先する未熟者と詰っていただいても構いませんわ」

「雉仙女殿も面白いですな。私がそんな事で腹を立てるとは思っていないでしょうに」

 

 灰高は笑い声交じりに鼻を鳴らしている。

 

「頭目である胡琉安様を第一に思っているあなたであれば、頭目の従姉であり自分の姪に当たる紫苑殿に親しく接するのは当然の摂理でしょう。叔父叔母が甥姪を優遇する事例は他にもある訳ですし」

 

 灰高の視線は一瞬だけ三國たちに向けられた。確かに彼らも叔父と甥の組み合わせであるし。

 

「それに雉仙女殿。あなたは私を兄と呼び兄妹の関係でいようと思っておいででしょうが、鴉である私はあなたとはかけ離れた種族です。それに引き換え紫苑殿は山鳥の妖怪です。雉仙女殿とは直接血は繋がっておらずとも、同族と見做せるわけですし」

「紫苑さんは確かに山鳥の妖怪ですが、私は雉妖怪ですよ。そこは間違えないでくださいませ」

 

 紫苑と紅藤が同族と見做せる。その言葉に紅藤は思いがけないほど鋭く反応した。山鳥妖怪と雉妖怪。その部分を紅藤は殊更に強調していたのだ。

 

「確かに私の羽の模様を見れば、山鳥の妖怪かもしれないと思う方もいらっしゃるかもしれません。ですが私は雉妖怪ですわ」

「ああ、これは失敬。ついつい口が滑ってしまいました。申し訳ありません」

 

 灰高はそれほど悪びれた気配は見せていなかった。

 

「雉仙女殿。別に私はあなたが山鳥の妖怪だと言いたいわけではありませんよ。むしろ、紫苑殿は山鳥の妖怪だそうですがそれほど山鳥らしい感じはないと常々思っているほどですし。

 彼女は見た感じおっとりとしておりますが、その実勤勉ですし洞察力にも長けている。山鳥と言えば陰険で相手を陥れたり惑わしたりする事ばかり考えているみたいですが、彼女はそうでもなさそうですし」

 

 灰高の言葉に気を良くしたらしく、紅藤は何度か頷いていた。その顔には笑みが戻っている。

 

「ええ。紫苑さんは本当に気立ての良い娘だと思っているわ。元々は胡琉安様の身内という事で私たちが引き込んだという所もあるけれど、自分の立場をきちんと見定めて頑張ってくれているし……

 今回だって島崎君が蠱毒に侵蝕された事をとても心配していたの。あの蠱毒には、どうやら恐るべき邪神の成分も一部入っていたかもしれないってね」

「そうだったんですか、紅藤様……」

 

 紫苑が心配していた。その話を聞いた源吾郎は胸がじわりと暖かくなるのを感じていた。自分は何だかんだ言いつつも、色々な妖怪に心配されているのだ、と。

 さて灰高はというと、紅藤の言葉を聞いて興味深そうに息を吐いているだけだった。狗賓天狗の側近と目配せしていたが、その眼差しが妙に鋭かったのは気のせいだろうか。



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雷獣は狐の変化に何を見る

 戦闘描写および女体化描写があるのでご注意願います。


 戦闘訓練は午後十三時から開始される事となった。休憩時間は準備に充てられて無くなってしまったようなものであるが、それについてとやかく言う手合いは一人もいない。

 紅藤や萩尾丸は研究職・営業職として特に休憩とかを度外視して働いても苦にならない性質であるし、若妖怪たちはそもそも発言権が薄い。

 当事者である源吾郎はと言うと、若干緊張していたから休憩が無くてもどうという事は無かった。何故ここまで緊張するのかは解らないが、緊張しているのだから仕方ない。

 一方で対戦相手である雪羽からは緊張している素振りは全く見えなかった。叔父の三國たちと会ったからなのかもしれないし、自分の圧倒的優位を信じて疑わないからなのかもしれない。雪羽の真意は源吾郎には解らないが、ともあれ肝が据わっている事だけは事実だった。

 

 

 時間となり、源吾郎と雪羽は会場に入る事になった。ある程度の広さを持つ円周の中に入るや否や、薄青く光る膜が会場の外側を覆うように姿を見せる。その膜は一瞬で溶け込むように見えなくなった。

 紅藤様が結界を張ったのだ、と源吾郎はすぐに思った。もちろん賓客への安全確保だろう。訓練と言えども血気盛んな中級クラスの妖怪が二匹揃って暴れまわるのだ。妖狐と雷獣であるからどちらも好んで飛び道具を使うから、こうした対策が無いと観客たちも安全とは言えないのだ。

 

「準備は良いかな、島崎君」

「おう、もちろんだ」

 

 にこやかな笑みを絶やさぬ雪羽をねめつけながら源吾郎は問いかけた。準備は出来ているはずなのだが、まだ緊張はほぐれていない。雪羽はこの度獣の姿は取らず、普段見せている人間の少年の姿を取っていた。これもまた珍しい話だった。萩尾丸が部下たちを連れてくるときは、好んで大きな獣の姿を取って源吾郎と相争っていたのだから。

 それはさておき雪羽の今の態度は中々に様になっていた。お世辞にも洗練されていると言い難い訓練着を身にまとっているにも関わらず、である。そこはまぁ見目の良さとか落ち着いた態度とか見目の良さとかが絡んでいるのだろう。

 やっぱり美形はポテンシャルが違うなぁ……そう思いつつ源吾郎はポケットから護符を取り出して用意していた。前に人間の術者が営んでいたお店で購入した代物である。妖力に似たエネルギーの籠ったその護符を、人間の術者は簡易的な武器として用いるらしい。しかし自身も妖力を潤沢に持つ源吾郎は、これを変化術の補助具に使うつもりだった。

 雪羽は電流を操り源吾郎の思考に介入できる。彼の性格上源吾郎の考えを読んでいる訳では無かろうが、変化術の行使を妨害するには十分すぎる能力だった。

 変化術は使い手の思考と妖力が緻密に組み合わさって実現する術である。思考が多少妨害されても、妖力のブーストで発現を速めれば問題は無かろう。それが源吾郎の考えだった。

 

「制限時間は三十分。それでは、はじめ!」

 

 萩尾丸の鋭い声が鼓膜を震わせる。雪羽はすぐには動かない。源吾郎がどのように動くのか見定めているのだろう。もっとも、その割には緊張した様子は無さそうだけど。

 源吾郎はまず護符を放った。その数は三枚。いずれも変化術に用いるための物だ。ゆったりと宙を舞う護符を眺めながら、源吾郎は顕現させる変化のイメージを大まかに考えていった。護符が相手の攻撃から身を護ってくれると言えども、雪羽の使う妨害術に有効なのかどうかは解らない。だから手早く考える事にした。

 大きくて、丈夫で尚且つ雪羽の足止めが出来るやつを、と。

 

 顕現した変化のうち、二体は馴染みの存在だった。すなわち一対の角を持つ巨大狼と、火焔を吐くイヌワシの翼を持つドラゴンだった。

 そして三体目は植物的な羊だった。羊と言っても野生の猪ほどの巨躯の持ち主だ。だがそれ以上に緑がかった体色と、植物のツタカズラに似た触手が特徴的である。

 

「行け、襲え――!」

 

 幻影に下した源吾郎の指令は短く簡潔な物だった。珠彦との戦闘訓練で柴犬を繰り出して以来、源吾郎は何度も変化術・幻術を扱うようになっていた。回数を重ねるうちに、手早く見映えの良い幻術を繰り出す方法、これらを効率よく操る方法を源吾郎は体得していった。

 幻術を操るには、シンプルかつ的確な指令こそが最適である。源吾郎は幾度も幻術を操る事でその事を知ったのだ。なまじ術者の方から攻撃方法などを指定してしまうと、幻術はその動きに縛られてしまう。それよりも大局だけを示し、彼らに自由に動いてもらう方が良いのだ。

 そんな源吾郎の意図を組み、三体の幻影は三方から雪羽を攻撃する事となった。ドラゴンはさっと舞い上がって上空から様子を窺っている。その間に角を持つ巨狼は雪羽の背後に回り込んでいた。正面から迎え撃つはツタ状の触手を生やす植物羊である。

 雷獣である雪羽は素早く、尚且つ持久力も高い。その上雷撃を放って源吾郎の攻撃を相殺できるほどの攻撃力も持ち合わせている。雪羽の肉体そのものの防御力はどれほどかは定かではないが……正面切って闘うには厄介すぎる程雪羽は強かった。攻撃のゴリ押しでどうにもならない相手である事は、源吾郎も初回の訓練で痛いほど解っている。しかもスタミナもあり身体能力も高いから、誰かのように戦闘訓練の最中にバテて戦闘不能になる事もまず考えられない。

 ならばどうするか――動きを封じてから攻撃をぶつければ良い。源吾郎はそのように思っていたのだ。生憎自分はパワフルな雪羽を上回るだけの身体能力はない。彼の攻撃をかわしながら彼を追い詰める事は叶わないのだ。

 しかしそれならば、術を用いて雪羽の動きを止めれば良いのではないか? そのような考えに思い至った訳である。さしもの雪羽であっても、動きを封じられれば大人しく攻撃を受けるしか無かろう。源吾郎は身体能力も機動力も雪羽より劣ってはいる。とはいえ妖力の保有量そのものや攻撃力自体は雪羽よりも勝っているのだ。妖狐らしい策を用いれば自分とて勝ちをもぎ取る事が出来るのではなかろうか。

 幻術で雪羽の動きを封じる。いかにも妖狐らしい策を弄した戦術である。そう言った術に頼らねばならないおのれの弱さは少し恥ずかしかったが、それもこれも勝つためなら致し方なかろう。

 源吾郎は少しだけ、自分が大人になったような心持でいた。

 

「――へぇ、先輩も中々手数が増えましたねぇ」

 

 さて雪羽と言うと、相変わらず余裕そうな表情である。またそんな態度や表情も様になっているのが何とも言えない所である。

 雪羽はじりじりと近付く幻術たちを眺めていたが、ふいにゆらりと身体を動かした。既に放電が始まっている事に源吾郎はここで気付いた。

 

 

「あはは。やっぱり結局はそうなるんですかね、島崎先輩」

 

 数分後。散り散りになった幻術たちを見やりながら、源吾郎は雪羽の雷撃から逃げまどっていた。結果論として、源吾郎が繰り出した幻術たちは雪羽の足止めにはならなかったのだ。死角も含めた三方から繰り出してみたものの、殺し合いごっこを嗜んでいた雷園寺家次期当主にはほんのお遊戯みたいなものだったらしい。

 苦し紛れにチビ狐の大群を差し向けてみたものの、これも大体雷撃で打ち消されてしまった。

 結局は源吾郎が単騎で立ち向かうほかなかったのだ。応戦して狐火などを放つものの、バテるので連射は難しい。そうなるとやはり雪羽の方に形勢が傾いていったわけである。

 というか源吾郎も何度か雷撃をよけ損ねた。攻撃術を受けた、というシグナルはきちんと衝撃として源吾郎に伝わっていたのだ。あと数発受ければ源吾郎の負けになるのかもしれない。

――やっぱり今回も力及ばずか……

 源吾郎は心中でぼやき、奥歯を噛み締めた。無論この戦闘訓練は、分が悪い方が投降する事で終了も出来る。投降して深手を負う前に闘いを終えるのも英断の一つだと萩尾丸は前に言っていた。しかし今の源吾郎はそんな気分ではなかった。せめて少しでもあがいて雪羽を一泡吹かせてやりたいと思っていたのだ。

 

「…………」

 

 源吾郎は雪羽の隙を見て変化術を行使した。何かを顕現させたのではない。源吾郎自身が変化したのだ。

 

「…………!」

 

 変化を終えた源吾郎の姿を見て、雪羽の顔に驚きの念が浮かぶ。源吾郎はここにきて少女に変化してみせたのだ。この美少女変化には特段深い意味はない。別に魔法少女でもない訳だし、この姿になったから攻撃力がアップするわけでもない。とはいえ雪羽を驚かし、困惑させる事くらいならできるだろう。何せ雪羽は女子に興味津々な男子なのだから。まぁ女子に興味があるのは源吾郎も変わりないが。

 もっとも、生誕祭の折に雪羽に絡まれた挙句女装趣味の変態、と呼ばれた事への意趣返しの意味もあるにはあるが。

 

「雪羽君。どうしたの、私と闘うんじゃあないの?」

 

 女子っぽい口調を心掛けながら、源吾郎は少女の姿で雪羽に問いかける。口調はあんまりあざと過ぎないように心がけるのがポイントだ。声については変化でどうとでもなるし、そうでなくとも素でも裏声で女子っぽい声は出せる。

――これはしめたぞ。

 偽りの姿で偽りの笑みを浮かべながら、源吾郎は内心ほくそ笑んだ。雪羽の顔にはもはや笑みは無い。強い驚きと当惑がその面にははっきりと浮かんでいた。

 勝敗はさておき雪羽を驚かせることが出来た。その事に源吾郎は気を良くしていた。皮肉にもその様は、変化で相手をたぶらかす凡百の妖狐そのものだったのだが、源吾郎は全く気付かなかった。

 立て続けにおのれの胸や腹のあたりに何発か軽い衝撃が走る。能面のごとき表情の雪羽が雷撃を放ったのだと、源吾郎はその時気付いた。その時にはもう変化は解け、源吾郎は元の青年の姿に戻っていたのだ。

 

 

 結局のところ、今回も源吾郎は負けてしまった。やはり無表情で放った雪羽の雷撃が決定打になってしまったのだ。

 それにしても妙な事だと源吾郎は思っていた。雷撃を受けたのは結界越しではあったのだが、あの雷撃たちは本気で放たれたものではない事は源吾郎も気付いていた。それに雪羽の態度も何となくよそよそしい。

 源吾郎はだから、幹部たちのやり取りが終わったのを見計らって雪羽に近付いていった。普段は雪羽の方から源吾郎に近付いていく訳だから、普段とは逆の動きである。

 

「雷園寺君。やっぱり君は強いねぇ。俺も色々と考えて策を練ったんだけど……まぁあの体たらくさ」

 

 強いというおのれの言葉は、むしろ本心ではなく美辞麗句のように空々しい響きしか伴わない。雪羽もその事に気付いているのだろう。乾いた笑みを浮かべて源吾郎を見据えていた。普段は輝きいたずらっぽく光るその翠眼は、冷え冷えとした輝きを見せるだけである。

 

「そりゃあまぁ、俺は強くならないといけないもん。この戦闘訓練だって、あと六回は俺が勝ち越すつもりだよ。あと六回勝てば……そうすれば……」

 

 あと六回。その言葉で源吾郎は萩尾丸の言葉を思い出した。雪羽との戦闘訓練は、最低でも十回はタイマン勝負を行うという話である。他ならぬ雪羽が望んでいた事だとも言っていた。そんな事を源吾郎はふと思い出したのだ。

 雪羽の発言からするに、十回勝ち続ける事に対して、雪羽は何か意味を見出しているらしかった。それが何なのか源吾郎には解らない。萩尾丸なら何か知っているのだろうか。

 

「それにしても島崎先輩。あなたも中々えげつない事をなさるものですね。あなたが変化術に長けていて女の子に化けるのが得意なのは知ってましたよ。ですがまさか、戦闘訓練の最中にあんな姿になるなんて……」

 

 敬語で話しかけてくる雪羽を前に、ただならぬ事だと源吾郎は思った。相変わらずその顔その眼差しに表情が浮かぶのを押さえようとしている。しかし頬や耳は火照り、妙に興奮している事を示していた。

 

「やっぱり俺の変化術が効いたんですか。あの雷撃は割と優しい雷撃でしたからね」

「まさか島崎先輩が、ミハルそっくりの姿に化けるなんて、思ってもみなかったんだよ」

「……一体ミハルって言うのは何処のどなたなんですか?」

 

 雪羽の口から飛び出してきた名前の主が誰なのか、源吾郎は気取らず素直に問いかけた。普段であればガールフレンドの一人か、などと軽口を叩いていたかもしれない。しかし今の雪羽の様子から、そう言った事は危険だと判断していたのだ。

 

「ミハルは向こうの本家にいる()の事だよ。まぁ、言うて叔父貴の許に引き取られてから一度も会ってないけれど。でも今頃はあんな感じになってるだろうなって言うイメージと先輩の変化した姿が似通ってたからさ……」

「そう言えば、雷園寺君の弟さんたちや妹さんは本家にいるって話だったね」

 

 源吾郎の変化が雪羽の妹の姿に似ていたかもしれない。とんでもない発言に源吾郎も驚き戸惑っていた。だから別に言わなくても良い事を口にしてしまったのだ。

 雪羽は微妙な家庭事情を口にした源吾郎に対し怒りはしなかった。その代わり、冷え冷えとした笑みを口許に浮かべただけだった。

 

「弟妹達は俺と違って()()()()似ているからさ。母さんが死んだ後に結婚した()()()も、別に手許に置いて育てても構わないって思ったんだろうね。

 俺はミハルや弟たちよりも母さんに似ている所が多いからね。あの人もそれで俺だけ追い出したのかもしれない。そう思う時があるんだ」

 

 淡々と言ってのける雪羽の言葉に源吾郎は慄然とした。文脈からしてあいつとは雪羽の()()であの人とは継母の事であろう。雪羽は多くは語らないが、雷園寺家現当主である実父に対してどのような思いを抱いているのか、それを知るには十分すぎる話だった。

 或いはもしかしたら、保護者であり叔父である三國の考えが雪羽にも浸透しているだけなのかもしれないが。




 雪羽君、実は継母よりも実父への憎しみの方が強いみたいなんですね。
 弟妹に関しては同父母の弟妹のほか、異母弟妹もいます。

 結構ややこしい血縁関係ですね。


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妖怪もステロタイプを抱え持つ

 さて、源吾郎は雪羽の態度にしばしの間戸惑っていたが、気を取り直して萩尾丸の部下たちと共に椅子の片づけをする事にした。戦闘直後に源吾郎に話しかけてきた八頭衆の面々も、幹部同士で集まってあれこれ話し合ったり研究センターの外観を眺めたりとてんでばらばらの動きを見せている。

 そんな中で雪羽は灰高に捕まっていた。捕まっていたなどというのは聞こえが悪いが、そう表現するのが妥当であると思えてならなかった。

 雪羽は少なくとも灰高をよく思ってはいない。であればわざわざ雪羽の方から灰高に接近していったとは考えにくい。確かに灰高は雪羽が雷園寺家当主になる事を望み、応援しているとも言った。だからと言ってその事を踏まえて老獪な鴉天狗に媚を売るような真似をする手合いとも思えない。

 

「島崎君、今日は戦闘訓練お疲れっすー」

 

 パイプ椅子を何脚かたたんでいると気さくな声がこちらに投げかけられた。見ればすぐ傍に珠彦狐が作業をしていた。妖怪として生きる事を決意した源吾郎が初めてタイマン勝負を挑み、何やかんやあって友達になった妖狐の若者である。

 彼は相変わらずイタチのような顔に懐っこそうな笑みを浮かべていたが、源吾郎はそれを不思議な気持ちで眺めていた。屈託のない笑顔に見える半面、こちらを気遣うような気配が見え隠れしているように感じられたのだ。珠彦は俺が思っているよりも大人なのかもしれない。そんな考えさえ浮かんでいた。

 

「久しぶりだな野柴君。最近こっちも忙しくて会えなかったけれど、元気そうで何よりだよ」

「俺はもう元気そのものっすよ、おかげさまでね」

 

 源吾郎の言葉を受け珠彦は尻尾を振り回した。戦闘訓練の後に二尾になった彼は、興奮するとこうして尻尾を回転させる癖があった。

 しばらくすると珠彦は尻尾の回転を止め、やや身をかがめて源吾郎を見やった。今回ははっきりと気遣わしげな表情を見せているではないか。

 

「島崎君がここ最近大変な事になってるって知ってたっすよ。ボスの萩尾丸さんから教えて貰ったんすよ。あの人、話好きだから……」

 

 珠彦が源吾郎の事を心配している。その事を知った源吾郎の心中は嬉しさよりもむしろ申し訳無さで満たされていた。

 

「心配してくれてありがとう。見ての通り、俺ももう元気になったからさ」

「それは良かったっす。まぁ元気なのは解ってたけれど。さっきの戦闘訓練も、めっちゃすごかったし」

 

 すごかったって言われてもそんな事ないよ。俺、結局負け戦だったし……謙遜してそう言おうと思った源吾郎だったが、結局口には出さなかった。すごかったと言った時の珠彦が、とても寂しそうな表情をしている事に気付いたからだ。最近源吾郎と会っていないからとか、そう言った単純な事で寂しがっているのではないだろう事は源吾郎にも何となく解る。

 そんな事を思っていると、珠彦はそっとこちらに顔を近づけた。周囲を窺うような雰囲気を漂わせながら。

 

「それにしても島崎君。雷園寺さんは何処かで修行してるって聞いたけれど、まさかボスの許で修行してたなんて驚きっすね」

「あ、やっぱりそこは驚くんだな、皆」

 

 おそるおそると言った体で珠彦が言及したのは雪羽の事だった。萩尾丸の部下である珠彦であったが、自分のあるじが雪羽を密かに預かり稽古づけている事は今の今まで知らなかったのだ。雪羽自身がその事を隠したいと望み、周囲の大人妖怪がその意図を汲んだが故の事であった。ゆくゆくは雪羽も珠彦たちと共に仕事をする事があるのかもしれない。しかし貴族としての気位が高く、尚且つ同年代の妖怪と馴染む機会が無かった雪羽にしてみれば、萩尾丸の部下たちの中にいきなり溶け込むのは中々大変な事だったのかもしれない。特に小雀の若妖怪集団は、概ね庶民妖怪が多いから尚更であろう。

 

「その様子じゃ、島崎君は知ってたんだ」

「ま、まぁな」

 

 はっきりは断定せず源吾郎は言葉を濁す程度にとどめた。雪羽はもう自分の素性を隠す事をやめていた。しかしだからと言って源吾郎が雪羽の事を他の妖怪に吹聴するのは筋違いだろう。

 

「思えば八月とか見慣れない子を連れてるなって思ってたんすけど、あれが雷園寺さんだったわけっすよ。でも萩尾丸さん自身もこっちのオフィスにはあんまり来てなかったし……やっぱり雷園寺さんは殆どこっちで仕事をやってたんすね?」

 

 源吾郎は何も言わなかったが、珠彦にはおおむね答えは解っているみたいだった。

 

「島崎君。雷園寺さんとは上手くやってるの?」

 

 何を思ったのか、珠彦は源吾郎に対して質問を投げかけた。唐突かつ直球な質問に一瞬戸惑った源吾郎だったが、この問いは源吾郎にもこたえられるものだった。

 

「そうだなぁ……最初はまぁお互い距離を置いてはいたけれど、今はまぁつかず離れずって所かな。少なくとも向こうは悪くは思ってないみたいだし。俺も最初は……いや何でもないよ。雷園寺君も雷園寺君で頑張ってるし、案外悪いやつでもないんだよ」

 

 源吾郎の答えを聞き出した珠彦であったが、彼はすぐには何も言わなかった。黙って何かを考えこんでいるようだったのだ。

 だがややあってから、淡く微笑んで言葉を紡いだ。

 

「それなら良かったっす。実は雷園寺さんの事はちょっと怖かったんすけど、よく考えたら俺はあの人の事はそんなに詳しくないし。

 それに考えてみれば、島崎君と雷園寺さんは似てる所もあるから気が合うのかも知れないっすね」

 

 似ている所があるから気が合う。その言葉に源吾郎は軽く驚いてもいた。かれこれ一か月近く職場で雪羽と顔を合わせているが、お互い違う所ばかりに目が言っていたからだ。純血の雷獣と半妖の妖狐と言った塩梅に、血統や種族と言った根幹の部分がまず違う。戦闘スタイルや戦闘の心構えも真逆だし、好きな女子のタイプなども源吾郎と雪羽では対照的でもある。

 似ている所と言えばどちらも女子が好きでややスケベな事と、貴族妖怪としての矜持ゆえにプライドが高い事くらいしか源吾郎には思いつかなかった。

 

 

 昼下がりとも夕方とも言い切れない中途半端な時間帯に突入した。普段ならば眠くなったり集中力が途切れる所なのだが、今日ばかりは昼一で運動した事も相まって頭はすっきりと冴えていた。

 それよりも源吾郎はまた研究センターの事務所内で雪羽と二人きりになっている事に気付き、若干戸惑っていた。護符に護られている二人だ。まさか急にどちらかが狂暴化する事も無いだろうしあったとしても大抵の攻撃は護符が護ってくれる。それに今回は二人とも刃物を使っている訳でもない。だから別に身構えなくても良いのだ。紅藤や兄弟子たちも込み入った打ち合わせをしている訳でもない。ただ偶然が重なって二人きりになっただけなのだから。

 とはいえ何となく気まずいような緊張感が源吾郎の心中にはあった。源吾郎の変化が妹に似ていると言ってからというもの、源吾郎と雪羽は距離を置いたままだったのだ。

 

「…………」

 

 相手の様子を窺っていると、視線を向けている事が雪羽にバレてしまった。視線を逸らしてごまかそうとしたがそれももう通用しない。気付いたら雪羽はすぐ傍まで来ていたのだ。

 

「どうしたんです島崎先輩。俺に何かあるんですか?」

「……さっきは悪かったな、雷園寺」

 

 源吾郎の変化を見て気を悪くしたのだろう。そう思ってまず謝罪したのだが、雪羽はきょとんとした表情を見せていた。少ししてから何の話か思い出したらしく、はっきりとした表情がその面に浮かぶ。

 

「あ、もしかして先輩の変化の事ですかね。別に大丈夫だよ。ほらさ、先輩の変化がミハルに、妹に似たのは単なる偶然だろうし」

「そうだな。雷園寺家なんて奈良の奥地にあるって聞いてるし。そりゃあ確かに遠足とかで奈良に行った事はあるけれど、雷獣の名家があるって知ったのは本当につい最近だよ」

「島崎先輩。雷園寺家があるのは奈良じゃなくて大阪ですよ。山奥だけどあすこはギリギリ大阪府内なんですから……だから俺は大阪出身なんです!」

 

 雷園寺家の所在地について力説する雪羽を見て、源吾郎は明るい気持ちになった。普段の雪羽の態度と変わりないからだ。言うて長らく亀水《たるみ》で暮らしてるから大阪府民では無かろう、いやいや港町に連なる亀水に暮らしているからシティ・ボーイだのと二人はしばし他愛のない話をしていた。

 話をしている間に、いつの間にか話題は戦闘訓練の後の事になっていた。源吾郎は雪羽が灰高に捕まっていた事を思い出し、それとなく尋ねてみたのだった。

 

「灰高さんは俺の事を褒めてくださりました。まぁあの人は俺が雷園寺家の当主になる事を望んでいますし、俺が真面目にやってると思って気をよくしたんでしょうね」

 

 ある意味灰高らしい事だと源吾郎も思った。生誕祭の会合の時、雪羽のおイタと三國の態度を鋭く糾弾した灰高であったが、その一方で雪羽を雷園寺家の当主になるという野望をバックアップしたいという意見を示してもいた。あからさまに雉鶏精一派の繁栄に利用するつもりである事をちらつかせてはいたけれど。

 それよりも灰高は九尾の末裔である源吾郎を混沌の使いだと疎んでいるようでもある。だから雪羽が勝ち戦なのは彼にとっても都合がいいのかもしれない。

 そんな事を思っていると、雪羽があいまいな声を上げて言葉を続ける。

 

「そう言えば灰高さんは、()()()()()()()()()って言ってましたねぇ」

()()そんな事を仰ってたんですか、あの人は」

 

 山鳥。その単語にそこまで固執していたのか。源吾郎は呆れと若干の憤慨をその言葉に込めてぼやいた。

 

「実は戦闘訓練の前にも、山鳥がどうっておっしゃってたんですよ。紫苑様は山鳥妖怪だけど他の山鳥と違って陰険じゃないって」

 

 源吾郎が山鳥の話について覚えていたのは、山鳥が人を惑わすという習性を熟知していたからではない。山鳥と言った時の、紅藤の反応の強さが印象的だったからだ。

 そして眼前の雪羽も、山鳥が陰険という言葉に反応していた。

 

「何か昔に、山鳥女郎って言うメスの山鳥妖怪がいたって灰高様はおっしゃってましたね。山鳥らしい山鳥で、人や他の妖怪を化かすだけでは飽き足らず標的の骨の髄までしゃぶる相手だって言ってたよ」

 

 そう言いながら、雪羽は急におどけたような表情を作った。

 

「もっとも、山鳥女郎が怖いって灰高様が力説したのは、その山鳥が女で、俺たちが男だからなのかもしれんけどな」

「昔話まで持ち出して山鳥の事をあれこれ話すだなんて、灰高様も……」

 

 耄碌しているのだろうか。思わず出てきそうになった言葉を源吾郎はぐっと飲みこんだ。

 

「灰高様。よっぽど紅藤様や紫苑様の事がお嫌いなんだろうね。紅藤様は自分が山鳥に似ている事を気になさっているし、紫苑様なんかまんま山鳥妖怪じゃないか。いや待てよ……そもそも胡琉安様のお祖父様も山鳥妖怪だろうし」

「頭目の祖父さんが山鳥妖怪って何で解るのさ?」

 

 源吾郎の言葉に雪羽は首をかしげる。それを見ながら源吾郎は得意げに言葉を続けた。

 

「よく考えて見たまえ雷園寺君。山鳥妖怪の紫苑様は胡琉安様の従姉なんだぜ。従姉弟だったらさ、元を辿れば祖父母は同じ存在に行き着くものなんだ」

「ああ、確かに言われてみればそうかも」

 

 源吾郎の解説に雪羽は納得の声を上げている。

 

「ともあれ山鳥の妖怪に執着するのは変な話だよな。山鳥女郎って言う強烈なのがいて、灰高様はそいつが怖かったのかもしれない。だけど同じ種族だからって性格が同じってのは暴論じゃないか。

 現に雉妖怪で較べてみれば個性豊かな面々が揃ってるしさ。なぁ雷園寺君。峰白様と紅藤様が同じ性格だって言われて誰が信じると思うかい?」

 

 成程確かにその通りだ。雪羽は一つ頷くと、何かを思い出したらしく短く声を上げた。

 

「雉妖怪で思い出したけど、この前朱衿(あかえり)って名乗る雉妖怪に出会ったんだよ。でも紅藤様や峰白様とも雰囲気は全然違ったよ。大人しくって控えめな感じでさ……雉鶏精一派の話を出したら何かとっても恐縮しちゃってたし。野良妖怪だから暮らしも大変だろうって思ったんだけど、あんまし権力とかには興味無さそうな感じだったなぁ。

 でも純血の雉妖怪じゃなくて、山鳥の血も入ってるって言ってたかも。それだったら尚更、山鳥が危険だって言う灰高様の話は言いがかりめいてるなぁ」

 

 山鳥が危険である。灰高の言葉の意図はどのような物か源吾郎にも解らなかった。

 ともあれ山鳥や山鳥女郎について調べろという事なのだろう。源吾郎はそのようにひとり解釈していたのだった。




 山鳥は昔から人を化かす・惑わすと言われています。
 その一方で節が13以上ある尾羽には変化を見抜く力が宿るともされているんですよね。
 そう言えば玉藻御前の本性を見抜いたのも山鳥の尾羽ですし……あっ(察し)


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若狐 助言求めて街に出る

 土曜日に源吾郎は港町で事務所を構える叔父の苅藻に会う事を計画していた。

 別にこれは、今回も叔父の許で過ごす事が決まっている雪羽に張り合っての事ではない。源吾郎が雪羽と張り合っている部分は戦闘訓練のみ、それもタイマン勝負での勝敗の行方と限定的な物だった。

 そもそも源吾郎が叔父の許を訪ねるのも、雪羽とのタイマン勝負で勝利を得るための手掛かりを求めての事だった。ここしばらく会っていない叔父に姿を見せて近況を伝えるという目的も含んでいるのは言うまでもない。

 苅藻が腕の立つ妖怪である事は甥の源吾郎もよく心得ていた。二百歳強と比較的若い物の既に三尾を有しているし、術者として血の気の多い妖怪たちと渡り合っている実績もある。何より雪羽の叔父である三國さえもが彼に一目を置いているのだ。源吾郎がお願いすれば、雷獣と闘って勝つ方法を気前よく教えてくれるだろう。源吾郎は素直にそう思っていたのだ。もちろん代金は支払わねばならないだろうが、負け戦の悔しさを払拭できるのならば安い物である。

 

 余談だが源吾郎がそう言った目的で苅藻に会う事は雪羽も知っていた。週末の予定を彼に聞かれ、うっかり口にしてしまったためだ。自分を打ち負かすための対策として叔父に会いに行く。その事を聞いても雪羽は気を悪くはしなかった。それどころか叔父に会う事は良い事だと推奨したくらいだった。

 実母に死なれ実家を離れざるを得なかった雪羽は、身内との交流という物にひどく敏感だった。それまで親兄姉に構われて育った源吾郎は、今や彼なりに自立して悠々と過ごしている。しかし雪羽の目には、親族たちと距離を置きすぎているように映っているらしかった。

 そうでなければ、折に触れて「先輩には大事にしてくれる身内が大勢いるんだから」と言った言葉は出てこないだろう。

 かつて源吾郎は三國が雪羽の悪事を隠蔽しようとしているのを見て、叔父なのに甘やかすなんて……と嫉妬しまた羨望の念を抱いていた。しかしそれはとんでもない話だった。雪羽には頼れる肉親は三國しかいないのだから。

 

 

 叔父の経営する便利屋、もとい総合事務所の入り口には「本日貸切」と記された看板が吊るされていた。源吾郎はそれを一瞥すると、特に気にする素振りもなく入り口の扉に手をかける。源吾郎が来訪するから貸切になっているのだ。そのように計らってくれるであろう事を見越して、源吾郎は苅藻にアポを取っていたのだ。雷獣の少年を打ち負かす方法を教えて欲しい、と簡潔な依頼内容と共に。

 

「久しぶりだな源吾郎。約束の時間よりちと早い到着のようだが……お前らしいじゃないか」

 

 苅藻は扉の向こうに控えていたらしく、源吾郎を見て朗らかに笑った。約束の時間よりも早く来るであろう源吾郎の気性と動きを、この叔父は完全に見抜いていたらしい。

 源吾郎も気を許す叔父の笑顔につられて笑った。およそ数か月ぶりに再会した叔父と甥は、互いに笑い合っていた。

 そうしていると苅藻が今一度口を開いた。

 

「それにしても直接顔を合わせるのは久しぶりだな。連休前の入社祝いぶりじゃあないかな。まぁ会いに来ないと言っても変な噂も特に無いから元気にやってるだろうと思って安心してはいたよ。ほらさ、源吾郎ももうこっちの界隈では有名だろう? だから何かやらかしたり何かに巻き込まれれば、必ずやその噂は立つだろうし」

「本当はもっと早めに叔父上に会いたかったんだけど、色々と忙しくて時間が取れなかったんだ」

 

 別に構わないよ。源吾郎の弁明を苅藻はサラッと笑い飛ばした。

 

「源吾郎が仕事をこなすのに精いっぱいで忙しいって事は俺もちゃんと解ってるよ。何せこの春入社したばっかりなんだからさ、仕事も一から十まで全部が初めての事で覚えないといけない事なんだろ? ましてや源吾郎は一人暮らしも始めた所だから、尚更大変だろうに」

 

 一人暮らし。この言葉に源吾郎は一瞬反応した。苅藻が入社祝いを携えて源吾郎の牙城(アパート)を訪れたあの時は純然たる一人暮らしだった。

 しかし今は一人暮らしと言っていいのかどうか微妙な状況である。使い魔十姉妹・ホップの事を考えて研究センターの居住区にこっそり引っ越していたからだ。今や本宅となっている居住区の一室は、一応一人部屋という体になっている。だが紅藤や青松丸の監視下にある場所である事もまた事実だ。

 なお源吾郎の本宅が変化した事は身内らには報告していない。報告したら報告したで、小言とかが飛んできそうでややこしいと感じているためだ。

 叔父に新しい本宅の話をするべきかと考えあぐねている間に苅藻が源吾郎の名を呼び掛けてきた。声のトーンが今までとは違う。ハッとして顔を上げると、苅藻の顔からいつの間にか笑みが消えていた。真顔で源吾郎を見つめていたのだ。

 

「それにしても源吾郎。雷獣の打ち負かし方を教えて欲しいって話だけど、その前に幾つか質問しても良いか?」

「もちろん、大丈夫だよ」

 

 源吾郎が頷くも、苅藻は真剣な表情を崩さない。むしろそこはかとない苦みも混じっている。

 

「雷獣を打ち負かすっていうのは、お前がその雷獣と闘うって事だよな?」

「タイマン勝負なんで、まぁそんな感じかな」

「タイマン勝負なんかやるのか……」

 

 タイマン勝負。その言葉を耳にし自らも口にした苅藻は、苦り切った表情を浮かべていた。

 

「まぁそんな感じってさっきは言ってたけど、タイマン勝負だったらガチの闘い、殺し合いじゃないか……そんな事を仕事で命じられて、それで慌てて俺の許に来たって事なんだな?」

「いやいや叔父上。そんな殺し合いだなんて物騒な話じゃないですよ」

 

 苅藻の問いに源吾郎は思わず声を上げていた。雷獣を打ち負かしたい。源吾郎の相談事を苅藻は真摯に受け止めてくれた。しかし殺し合いだという前提で話を進めようとするのは流石にやり過ぎだ。

 

「別に殺し合いとか、悪さをする雷獣がいるからそいつをやっつけて欲しいとか、そんな殺伐とした話じゃないんだ。

 ただその……戦闘訓練って言うのを紅藤様の所でやってるんだ。俺は妖怪としての力に恵まれているけれど、妖怪としての術の使い方とか闘い方はてんで知らないからさ。

 それで最近は雷園寺と……雷獣の子供を相手にタイマン勝負をやってるんだけど相手がもうえげつないほどに強くてさ。俺もあれこれ考えてあいつを打ち負かしてやろうと思ってるよ。でもそれ以上に強いから俺一人で策を練っても良くない気がして……」

 

 苅藻は静かに源吾郎の言葉に耳を傾けてくれている。源吾郎はやや上目遣い気味に苅藻を覗き込んで言い添えた。

 

「三國さん――雷園寺君の叔父なんだけど――はさ、苅藻叔父上には頭が上がらないって言ってたんだ。それでもしかしたら、叔父上は雷獣の弱点とか色々知っていて、それでなのかなと思って今回相談に来たんだ。

 俺、叔父上が強い事は知ってるし」

 

 源吾郎の話が終わると、苅藻の面にははっきりと笑みが浮かんでいた。犬の仔猫の仔を見るような眼差しを源吾郎に向けているではないか。

 成程そう言う事だったのか。苅藻の言葉は朗々としたものだった。

 

「電話ではかなり切羽詰まった感じだったからどんな相談だろうと思ってこっちも身構えていたが、なかなかどうして可愛らしい相談じゃないか」

「可愛らしいなんて、そんな……」

 

 可愛らしいという言葉に反応する源吾郎を見やりながら、笑みのまま苅藻は言い添えた。

 

「源吾郎。三國君の事も甥っ子の雷園寺君の事も俺は知ってるよ。雷園寺君とはあんまり会う機会には恵まれないが、三國君とは結構交流があるからね。さっき源吾郎が言ったとおり、あいつが俺に気兼ねして頭が上がらないのは事実だ。

 だけど――妖怪としての強さで言えば()()()()()()()()()()()()()()。三國君が本気を出したら、俺なんぞすぐに殺されておしまいさ。というか、俺もそんなに強い妖怪でもないしね」

 

 三國は苅藻に頭が上がらないが、三國の方が妖怪としては強い存在である。相反するように思える事柄を、ごく当たり前の事のように苅藻は言ってのけたのだ。



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叔父が始める雷獣話――三國のヤンチャな過去話

 苅藻叔父さんと三國さんにも因縁があったというお話です。


 驚いて目を瞬かせる源吾郎の耳に、ひそやかな笑い声が入り込む。苅藻は源吾郎の姿を見つめ、事もあろうにくすくすと笑っていたのだ。

 

「そこまで驚かなくて良いじゃないかわが甥よ。雷獣の三國君が俺よりもうんと強い妖怪だって事は、深く考えずとも解る話じゃないか」

 

 三國が苅藻より強い。その事を当然のように語ろうとしている苅藻だったが、源吾郎はにわかに信じられなかった。無論三國が大妖怪の域にいる事は知っている。しかしそれ以上に実の叔父である苅藻を強者として尊敬し一目を置いていた。その信頼と親愛のために源吾郎は戸惑っていたのだ。

 苅藻はそんな源吾郎を見つめつつ、相変わらず笑みを浮かべている。

 

「そもそも雷獣と妖狐じゃあ身体能力からして違うんだ。君も雪羽君とタイマン勝負したのなら解るだろう? 雷獣は雷撃を放てるだけじゃあない。獣妖怪でありながら悠々と空を飛び回る事も出来るし、電流で何でも読み取ることができる。やつらが電流で読み取れるのはその場にある物質だけじゃない。相対する敵の思考や次の手も脳波から読み取れるはずだ。脳波も突き詰めれば電流の一種だからな。

 源吾郎。そんなわけでだな、雷獣はかなりハイスペックな生物なんだよ。そんな雷獣に妖狐が闘いを挑むって言うのはジェット機に普通車が喧嘩を売るみたいな話に似ているんだ」

「ジェット機と普通車って……」

 

 源吾郎は力ない声でツッコミを入れていた。最後の一文の例えはめちゃくちゃで何とも理解しがたいものである。しかし、雷獣の身体的能力的スペックが高いという話は納得できた。それはやはり源吾郎も雷獣である雪羽の事をよく知っているからに他ならない。タイマン勝負は四度行っているし、そうでない場面でも雷獣の身体能力というのをまざまざと見せつけられていた。

 それから苅藻は、背後にあるおのれの尻尾を意味ありげにゆすった。源吾郎のそれとは異なる、黄金色の毛並みに覆われた三尾である。親族の中で一番玉藻御前の毛並みに似ていると言われる色味だった。

 

「見てみろ源吾郎。俺の尻尾の数は何本ある?」

「三本ですね」

「それじゃあ三國君の尻尾は?」

「……七、八本はありました」

 

 源吾郎の二回目の返答はやや戸惑いの入り混じった物であった。雪羽絡みの事でこのところ三國に会ったり見かけたりする頻度は増えている。しかし尻尾の数までは注意が向いていなかった。最初に七、八本はあると思ったきりであり、それ以降は詳しく見ていなかったのだ。

 人間は一度に確認できる数が三か四が限界である、という通説が脳裏をよぎりもした。

 そんな源吾郎の考えをよそに、苅藻は言葉を続ける。

 

「一部の獣妖怪では、尻尾に妖力が蓄えられる事は源吾郎も知ってるだろう? もちろん雷獣の八尾と妖狐の八尾が同じ妖力を保有しているとは単純には言えない。

 けれど三尾である俺よりも八尾の三國君の方が、保有する妖力の量は多い事は明らかなんだよ」

 

 それから苅藻は意味深に微笑み、源吾郎に視線を移す。厳密には源吾郎の腰回りで蠢く四尾に。

 

「ついでに言えば、現時点でお前の妖力量は俺よりも上回っている。妖力の多さを強さだと思うのならば、既に源吾郎の強さは俺を超えているという事だよ」

 

 おめでとう。淡々と告げる苅藻を前に源吾郎は喜ばなかった。むしろその面には苦い当惑の念が広がるばかりである。妖力面でと限定的な話ではあるが、それでも自分が苅藻より上回っているという事がにわかに信じられなかった。

 苅藻は叔父である。自分よりも色々な事を知っていて出来る事も多い頼れる存在だった。その叔父を追い抜いているとはどうにも思えなかったのだ。

 

「……妖力の多さではその通りでしょうけれど、実質的な強さでは叔父上には敵わないよ。先輩の萩尾丸さんも、妖力だけで勝敗は決まらないって常々言ってるし」

「ははは、お前がそんな事を言うようになるなんてなぁ。やっぱり紅藤様の許で修行して、少しずつでも成長してるって事だな。可愛い甥っ子の成長を見る事が出来て俺は嬉しいよ」

 

 冗談なのか本気なのか解らない物言いの苅藻を見ながら、源吾郎は唇を舐めていた。かつての自分の考えを思い出しかけたからだ。年長者というのは頼りになるが、過去の未熟な考えを突き付けようとする事がかなり多い存在でもある。

 それよりも。源吾郎は叔父を見据えながら声をかける。

 

「三國さんが叔父上に頭が上がらないという理由について教えて欲しいんだ。やっぱり叔父上は術者だから、雷獣の弱点とか知ってそうだし」

「三國君が俺に頭が上がらない理由だな」

 

 苅藻が問いを反芻したので源吾郎は間髪入れずに頷いた。

 

「話しても構わないけれど、若干昔の話になるけど構わないかな? 俺も三國君とは付き合いも長いし、端折るとはいえ話すべき事も幾つもあるだろうからさ」

「構わないよ。むしろ俺も三國さんの事で色々と不思議に思ってた事があったんだ。若い頃は反体制派だったとか、それなのに俺の事を密かに気にかけてるとか、その辺が気になる所なんだ。まぁ、全部雷園寺から聞いた話なんだけど」

 

 三國が若い頃反体制派であり、反体制派だったから源吾郎の事を気にかけている。この話は考えるだに不思議な物だった。反体制派ならば、貴族妖怪の子孫たる源吾郎の事を敵視していてもおかしくないはずだ。あるいは、反体制派だったが考えが変わったという事なのだろうか。

 また、この情報をもたらしたのが雷園寺雪羽であるという事も意味深だ。雪羽は誰あろう三國の甥である。しかし彼は雷園寺家の次期当主を標榜し、三國もこれに乗っかる形をとっている。ますますもって反体制派らしくない態度だ。だからこそ、三國の心中がどのような物なのか気になったのだ。

 

「三國君は元々野良妖怪だったんだよ。今でこそ雉鶏精一派の第八幹部としての地位と権力を得ているけれど。まぁ、三國君は元々権力という物を白眼視していたから、実は雉鶏精一派に取り込まれるのも不本意な事だったそうだ」

 

 三國は元々野良妖怪であり、その頃から仲間の弱い野良妖怪を集めて組織を作ろうとしていたと、苅藻は説明を続ける。

 

「弱い妖怪が怯えず不安を抱えずに済むようにしたいと三國君はあの頃思っていたんだ。当時から三國君は力と才能に恵まれていたけれど、仲間や友達のように思っていた妖怪たちは弱かったり理不尽に晒されていたと感じて、義憤を感じ理想に燃えていたんだろうね。

 まぁアレだ。人間の世界で言えば学生運動に燃えていた若者という感じだな。ああ、源吾郎にはSNSで色々と思想を発信して啓蒙しようとしている学生と言った方が伝わるかもな。ともあれ三國君は頑張っていたんだよ。その態度は実に立派だった」

 

 今の苅藻の解説は、前に雪羽が教えてくれた反体制派だった頃の三國の事だと源吾郎は確信していた。立派だったと呟く苅藻の言葉には皮肉も含みもない。素直に若者に対する称賛の念がこめられていた。

 

「今いる三國君の部下たちも、ほとんどが野良妖怪時代に彼の意見に賛同した仲間たちなんじゃないかな。だから三國君の部下たちは若い子ばっかりなんだ」

「……確かに三國さんの所の妖怪たちは若いと思うよ。ついでに言えば妖狐とか化け狸みたいな妖怪じゃなくて、マイナーどころの妖怪が多い感じかな」

 

 雪羽が色々と話してくれるお陰で、三國がどのような妖怪を従えているのかを源吾郎も知る事が出来た。マイナーどころの妖怪が多い、というのが源吾郎の感想だった。鵺は都にもいる有名な妖怪であるが、有名どころは逆に鵺くらいだった。

 後はカマイタチの出来損ないだとか黒 (しい)だとか毛羽毛現(けうけげん)などといった、力も弱いし表立った勢力を持っていないような妖怪ばかりだった気がする。

 

「源吾郎。マイナーどころだなんてそんな事を言うもんじゃない」

 

 しばし考えこんでいた源吾郎は、急な苅藻の叱責にびくっと身を震わせた。見れば苅藻は真面目な表情で源吾郎を睨んでいる。眼差しにはかすかな怒りと呆れが浮かんでいた。

 

「軽い気持ちで言ったとしても、相手は侮辱として受け取るに十分すぎる言葉なんだぞ。源吾郎、お前は玉藻御前の看板を進んで背負っているのだろう。それなら言葉には注意したまえ。名門妖怪の末裔だからと言って失言は見過ごしてもらえるなんて思っていたら大違いだ。むしろお前の言動がお前の背負う看板を穢す事になりかねんからな」

 

 苅藻はそこまで言うと、僅かに表情を緩めて言い添える。

 

「お前とて賤しい半妖だと言われたらどうにもならんだろう? だがそんな事ばかり言っていたら、相手からそうやって後ろ指を指されかねんのだよ」

「気を付ける、気を付けますよ叔父上……」

 

 ついつい調子に乗ると失言してしまうのだな……おのれの癖を恥じ入りつつも源吾郎は叔父に視線を向けていた。

 

「ともあれ、三國君は理不尽に思った事は放っておけなかったんだよ。きっと彼の事は相当なヤンチャだって聞かされてるんじゃないかな。そういう感じに見えたのは事実なんだよ。実際彼は、権力を持ってそうな妖怪や密かに悪事を働く術者に歯向かう事も辞さない妖怪だったからね――俺たちが三國君と知り合ったのも、仕事上での事だったんだよ」

 

 そう語る苅藻の表情は懐かしそうであり、それでいて何処か楽しげでもあった。

 

「俺たちに対しては、三國君も割と好印象だったんだ。側近の春嵐君の入れ知恵のお陰で丸くなり始めていたからなのかもしれないし、もしかしたら半妖である俺たちの境遇をあいつなりに憐れんでいたのかもしれない。

 いずれにせよ、俺たちと三國君との交流が始まったんだよ。俺も弟分が出来た気がして嬉しかったが、妹は俺以上に喜んでいたよ……妹が、いちかが弟妹を今も密かに欲しているのは知ってるだろ?」

「そりゃあもちろん」

 

 苅藻の問いかけに、源吾郎はむっつりとしながら応じた。叔母のいちかが弟妹を欲している。この事について源吾郎は常々思う所があった。甥姪がいるのだから、甥姪を素直に弟妹と見做せばよかろうと。しかしいちかは頑として甥姪を弟妹と見做す事は無かったのだ。あくまでも甥姪たちには叔母として振舞い続けている。源吾郎などがうっかり姉のように接すると、割と厳しい様子で態度を改めるよう指摘するほどの徹底ぶりである。

 

「俺も最初は、三國を犬の仔みたいな弟分だと思ってたよ。あれでも俺らの方が五十以上も年上だし、ほんの子供だと思ってたんだ」

 

 源吾郎は相槌を打ちながら不思議な気分を抱いていた。苅藻と三國の間に横たわるのは、妖力の差だけではなくて年齢差もあるのだとこの時になって気付いたのである。

 だがそんな源吾郎の考えをよそに、苅藻は険しい表情を浮かべていた。

 

「三國のやつはだな、俺たちと親しくなるにつれていちかの事を女として見るようになり始めたんだよ。そりゃあまぁいちかは可愛らしい娘だから男妖怪がクラっと来るのは解らんでもない。しかしまぁあの小僧は妙に知恵を巡らせていちかをモノにしようとしていたからな。それで俺が灸を据えてやったんだ」

 

 灸を据える。やや物騒な言葉に源吾郎が目を瞠っていると、苅藻は薄い唇を引いてにんまりと笑った。

 

「手始めにあいつの気を逸らそうと思って若い娘に化けて近付いてやったんだが……俺の演技にコロっと騙されてすぐにのぼせ上っちまったんだよ。それでもいちかの事は狙い続けていた訳だしさ。

 まぁちゃんと後で変化を解いて叱責してやったんだけど」

「それで三國さんは頭が上がらないんですかね」

「その通りだよ源吾郎」

 

 苅藻は実に明るい調子で源吾郎の問いに応じた。源吾郎はここで、三國が苅藻に頭が上がらず一目を置いている理由を知った。それとともに、三國が源吾郎の変化を見抜けたのもそのためだろうかとも思っていた。




 苅藻さんも女子変化をマスターしていました。
 いちかさんは逆に青年に変化する術を知っていますね。

 ですが島崎君は自力で女子変化を習得したのです(白目)


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叔父が始める雷獣話――三國と雷園寺家の関係

 結局のところ、三國が苅藻に頭が上がらないのは個人的な弱みを握られているから、という事に帰結するようだと源吾郎は思った。

 それにしても一人の男として考えれば恐ろしくもあり色々と考えさせられる話でもある。まず三國の立場で考えれば中々に恐ろしい話であろう。無論色欲を募らせてよこしまな事を企むのは悪い事であるとは思う。しかしそれを気にしている娘の兄にその事を見抜かれた挙句、ああいう形で灸を据えられるとは。源吾郎は知らず知らずのうちに身震いしていた。

 苅藻が化身した娘というのは三國には非常に魅惑的な存在だったのだろう。美女に化身したとき、男が化身したほうが男を籠絡しやすいであろう事は源吾郎も知っている。実在する女として化身するのではなく、男が理想とする女に化身しやすいからだ。その事は、しばしば女子に変化する源吾郎もよく心得ていた。

 その一方で、苅藻の気持ちもおおむね理解できた。妹の身を案じていたがために、小生意気な弟分を懲らしめるために御自ら女に化身して三國を籠絡してみたのだろう。……やり過ぎ感は否めないが。

 

「それにしても因果な話ですね。三國さんも雷園寺君も叔父上や俺の変化に惑わされていたなんて」

 

 様々な考えが心中でせめぎあっていたが、まずは強く思った事のみを源吾郎は口にした。当初源吾郎は、グラスタワーの一件で雪羽と因縁が出来たと思っていた。しかし二人の因縁そのものは叔父の代からあったという事なのだ。その上三國も苅藻の変化に一杯食わされた過去がある。因果な話と評せずにはいられなかった。

 

「変化って……ああ、あの生誕祭での事かな」

 

 生誕祭。雉鶏精一派の割と私的なイベントの単語を苅藻がさらりと口にしたので、源吾郎は面食らってしまった。いや、よく考えれば外部の賓客も少数ながらいたのかもしれないけれど。

 今年の生誕祭で雪羽が引き起こした騒動は有名な話題である。苅藻はすまし顔で源吾郎にそう告げた。

 

「内容自体はウェイトレスに絡んで事故を引き起こしかけたって言う地味なものだけどさ、何分関係者たちが有名だからね……もらい事故で巻き込まれた源吾郎は言うに及ばず、雷園寺君とて名が知れている妖怪だ。雷園寺家の看板を背負っている事もあるけど、三國君の重役でもあるからね、彼は」

 

 雪羽が幼いながらも第八幹部の重役である事は事実だった。実際に横文字の長くて仰々しい役職(意味合いとしては総務部長らしい)を肩書として雪羽は持っている。萩尾丸の許で修行中の現在はその役職がどうなっているかは定かではないが。

 とはいえ、第二幹部の直弟子ながらも平社員である源吾郎とは大きな違いである。

 

「ニュースにこそならなかったけど、噂好きの若い妖《こ》たちはあれこれと話に尾ひれを付けたがってたからねぇ。そう言う話は俺の耳にも入っていたよ。やれ玉藻御前の末裔が男ながらもコンパニオンに化けてたとか、不祥事が積もりに積もっていた雷園寺君は、責任追及の後に行方をくらましたとかね……とはいえ、俺も彼らの噂を真に受けていた訳ではないよ」

 

 苅藻は笑みを絶やさぬまま言葉を続ける。

 

「特に雷園寺君のその後については色々な噂が立っていたからね。行方をくらませたその後についても、雉鶏精一派に粛清されてしまったとか、色々あって怪しい組織に引き渡されたとか、悪趣味な人間の許で見世物にされているとかね……しかし、源吾郎と戦闘訓練をやっているという事は、三國君の許から引き離されはしたけれど、雉鶏精一派で身柄を預かっているという事でしょ?」

「う、うん……」

 

 源吾郎はためらいがちに頷いた。一瞬ためらったのは、雪羽が自分の所在を隠そうと躍起になっていた事を思い出した為だった。しかし今では正体を明かして戦闘訓練に臨んでいる訳だし、雪羽との戦闘訓練に勝つために相談しているのだからと源吾郎は思い直したのだ。

 というよりも、庶民妖怪たちに自分が再教育を受けているという事を知られたくないと思っている雪羽の感性はいささか疑問が残る所だ。自分の所在を隠しているから代わりに妙な噂が立ちまくっているのだが、そっちに関してはどう思っているのだろうか。

 

「もちろん、雷園寺君は生誕祭の場で幹部たちに断罪されたんだ。元々からしてヤンチャな事ばっかりやってたんだけど、玉藻御前の末裔であるこの俺にちょっかいをかけたのが決定打になったみたいでさ。

 でもまだ雷園寺君は若いからって事で、保護者の三國さんから引き離されて萩尾丸先輩が面倒を見る事になったんだよ。だから戦闘訓練の相手にもなってるし、最近はほぼ毎日のように顔を合わせる形になってるんだ」

「そういう事だろうと思ってたよ」

 

 源吾郎の言葉を聞くや否や、苅藻はそう言って笑った。

 

「雷園寺君が変な所に売り飛ばされたとかそんなのは、全部ゴシップ好きの連中がでっち上げたに過ぎないなんて事は、俺はとうに解っていたんだよ。三國君の気質と言動を知ってる奴だったら、きっとしょうもない噂だって笑い飛ばすだろうさ。

 あの三國君の事だ。もし本当に噂通りの事が起きていたとすれば、三國君は必ず何がしかの行動を起こしていただろうさ。それこそ雉鶏精一派の制止を振り切ってでも特攻をかましていたかもしれない。しかし()()()()そんな事は起きてないだろ?」

 

 源吾郎は無言だった。だが内心ではその通りだとも思っていたのだ。というかあの会合の際も三國はかなり警戒し、戦闘も辞さない態度だった。あの時三國がひと暴れしなかったのは、彼以外の八頭衆の面々がオトナだったからに他ならないのだ。

 源吾郎の脳裏の中で、しばし生誕祭での三國の姿が浮かんだ。苅藻から若い頃の三國の考え方を教えてもらった源吾郎であるが……やはり疑問はまだある。

 

「叔父上。三國さんは反体制派だったという事ですが、雷園寺君が雷園寺家の当主を目指す事には肯定的なんですよ。それってどうしてなんですかね」

「……どうしても何も、それを雷園寺君が望んでいるからだよ」

 

 源吾郎が放った最大の疑問に対し、苅藻はごく自然な様子でこれを受け止めた。しかも何と言うか、幼子でも解る道理を語り聞かせるようなノリだった。

 

「雷園寺君は雷園寺家次期当主になる事をよすがにして生きているんだ。三國君もその事を知っているから、保護者としてあの子の意志を尊重しているんだよ。

 三國君は保護者だから、雷園寺家当主を目指すという彼の希望を潰す事だってできたんだ。しかしそうすれば雷園寺君の心が壊れてしまう……三國君はだね、おのれの心情よりも甥の希望を優先したんだ。結果はどうあれその判断は素晴らしいものさ」

 

 妙にしんみりとした様子を漂わせる苅藻を前に、源吾郎は目を瞠った。三國と雪羽の事しか苅藻は語っていないのだが、三國が雷園寺家をどのように思っているのかを暗に示しているからだ。

 

「やっぱり、三國さんは――」

「三國君は元々雷園寺家にはそれほど関心は無かったんだ。むしろ権力の象徴として敬遠していたくらいじゃないかな」

 

 源吾郎の疑問を先読みしたかのように、苅藻が告げる。

 

「そりゃあもちろん姻族だから細々とした行事には参加していたみたいだよ。だけど、兄姉たちが大勢いるから自分はそんなに出席しなくても良いって言ってたくらいだったからね。少なくとも兄が雷園寺家の婿だとか甥姪が雷園寺家の子供だなんて吹聴して回るような事はなかったよ。もしそう言った事が出来る手合いなら、そもそも野良妖怪として活動していた時にもっと()()立ち回っていただろうからね」

「……やっぱり、そうだったんですか」

 

 源吾郎の口からは、呟きが吐息のように漏れ出していった。三國は雷園寺家そのものはよく思っていない。そう言った認識が源吾郎の中にはあったのだ。

 三國の口から雷園寺家の事が語られたのは、蠱毒の一件があった直後の事である。雪羽を引き取るまでの経緯を語る三國の言動からは、雷園寺家や雷園寺家を奉る兄姉たちへの冷ややかな嫌悪と憎悪があからさまに漏れ出ていたのだ。きっとその思いは、雷園寺雪羽も気付いているか知っているはずだ。そうでなければ実父の事をアイツなどと呼びはしないだろうから。

 

「三國さんはヤンチャだったり色好みだったりするのかもしれませんが、立派なお方なんですね。自分の考えを押さえて、きちんと雷園寺君の夢を応援できるんですから」

()()()()()()()()という事だよ、源吾郎」

 

 感嘆する源吾郎とは対照的に、苅藻の言葉はあっさりとしていた。

 

「三國君も若かったしヤンチャな所も目立つ妖怪だった。だけど思いがけず雷園寺君を引き取る事になって、しっかりしないといけないと思い始めたんだろうな。

 源吾郎。誰しも護るものが出来たら強くなるものだし、強くならなきゃあいけないものなんだよ。今のお前には難しいかもしれんが、いずれ解る時が来るよ」

 

 護る者を持つが故の強さ。源吾郎にはそれが何か何となく解る気がした。使い魔のホップを見ている時に感じるものに近いのかもしれない。違っていたら恥ずかしいからと口にはしなかったけれど。

 

「それにもしかしたら、三國君は雷園寺家の連中に対して少し躍起になっていたのかもしれないね」

 

 思案に暮れていると、苅藻が思い出したように呟いていた。

 

「三國君が雷園寺君を息子のように思って愛情を注いでいる事は俺も疑わないよ。だけどもしかしたら、雷園寺家から追放されたあの子を雷園寺家の当主として育てる事が出来れば、兄姉たちや雷園寺家の連中を見返す事が出来るかもしれない。そんな考えがもしかしたら三國君の中にもあったのかもしれないと思うんだ」

「それも確かにあるかもしれませんね」

 

 甥を使って自分の意見の正しさを証明する。その行為は大人の行為とは言い難いかもしれない。しかしある意味三國らしい考えであるように源吾郎には思えてならなかった。

 

「とはいえ、雷園寺君は三國君のようにはなれなかったけどね。だがそれも仕方ない事なんだよ。妖怪は妖力や気質はある程度遺伝するけれど、三國君が持っていたカリスマ性なんかは遺伝で決まるような物じゃあないんだ。

 ましてや雷園寺君は……苦労したと言えども三國君に引き取られてからは割合安楽な地位にいたからね。雷園寺君は三國君を目指していたのかもしれないけれど、彼の立場では真の意味で三國君のような妖怪になる事は難しいんだよ。何しろ、集まってくる妖怪たちは、雷園寺君そのものではなくてその背後にある雷園寺家の看板や財力にばかり目が移ってしまうからね。

 三國君も雷園寺君もその事を見落としていたみたいだけど、それも仕方ない話だったんだ。二人とも必死だったからね」

 

 苅藻はつらつらと、三國の失敗について語っているはずだった。しかし彼の言葉にはそこはかとない優しさがこめられているようにも感じる。

 何だかんだ言いつつも、苅藻は三國たちを気にかけているのだ。源吾郎はそんな風に解釈していた。



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叔父が語るは雷獣話――強さと弱さは裏表なり

 ある意味残酷なお話なのでご注意くださいませ。


「そろそろ雷獣の種族としての弱点について話そうか」

 

 三國の物語について思いを馳せていると、苅藻がそんな事を言った。言うべき事を今の今まで忘れていて、ようやく思い出したと言わんばかりの口調だった。

 

「すまんね源吾郎。ほらさ、歳を取るとどうにも話が長くなってしまうんだよ。何だかんだあったけど三國君とは色々と交流があるし、雷園寺君の事もちと気になっていたからね。だけど今の源吾郎には直接関係のない話も多かったから戸惑っただろ?」

「ううん。別にそんな事ないよ叔父上」

 

 表向きかもしれないが、苅藻は長話になった事を気にしているそぶりを見せていた。しかし源吾郎の先の発言は本心からのものである。確かにまだ雷獣である雪羽を打ち負かすための糸口になる話には触れていない。しかし雪羽の保護者である三國の話は興味深かった。どのような過去を辿り、どのような考えを抱くに至ったかが解ったような気がしてならなかった。

 苅藻自体が話し上手というのも起因しているだろう。

 

「確かに雷獣は身体能力も優れ、高い戦闘能力を保有しているように思えるよね。しかし彼らとて弱点が無いわけじゃあないんだよ。

 まず雷獣たちの多くは直情的・直感的な個体が多いんだ。別に頭が悪いとか、そう言う事を言いたいわけじゃないんだ。深く考えるのは確かに苦手な連中が多いが、その分直感的に本質を見抜く能力が高いからね。まぁ何というか、空気を読むのが巧い脳筋タイプだと思ってくれれば良い。

 ついでに言えば、戦闘能力が高い雷獣、雷獣らしい雷獣ほど脳筋度合いが高いんだよ」

「それってやっぱり、雷獣の脳の仕組みが関係しているの?」

 

 雷獣が脳筋。その言葉を聞いた源吾郎の脳裏には、かつて萩尾丸から聞いた解説が浮かんだ。雷獣は鋭い五感と共に電流の動きを読む第六感を具えている。時に彼らは電流を詳しく読むために、視覚や聴覚を一時的にシャットダウンする切替能力を脳内に持つという。しかしこの能力は負荷が大きく、雷獣は深く思考を巡らせるのが苦手な種族になっていった、という話である。

 さて源吾郎がそのような事を思い出して問いかけると、苅藻は驚き感心したようなそぶりを見せた。

 

「おお、雷獣の脳の仕組みまで知ってるとは勉強熱心だねぇ……まぁ確かにそんな感じだと思ってくれれば問題ないよ。優れた能力は、ノーリスクで得られるものじゃあないって事なんだろうね。

 まぁともあれ、優れた感覚機能を得るために脳筋になってしまった訳だけど、これこそが雷獣の最大の弱点になるね。雷獣同士で集まっているだけならば、強いやつが強くて権力があれば良いって事で話は決まる訳だが、他の妖怪たちと渡り合うにはそれではどうにも分が悪いんだ。

 正直なところ、強い個体ほどそうした性質を持つがゆえに、雷獣が妖怪たちの支配者として君臨するのは難しいんだ」

 

 苅藻の言葉に源吾郎は目を瞠った。つい先程まで、苅藻は雷獣の生理的な特徴について語っていたはずだった。それが唐突に雷獣の妖怪社会での地位についての話になっていたのだ。話が飛躍していると思うほかなかった。

 

「少し考えてごらんよ源吾郎。支配者として、或いは巨大な勢力を持つ妖怪の種族は何だと思う? 我々妖狐を筆頭に、化け狸・天狗・鬼・河童などが出てくるんじゃないかな。だけどそうした支配階級の妖怪たちの中に――雷獣は()()()()んだ」

 

 気付けば苅藻は微笑んでいた。悪狐の孫らしい酷薄な笑顔に源吾郎はたじろいでいた。

 

「確かに雷獣の武力をもってしても、天狗や鬼に敵わないのは仕方あるまい。天狗なんてのは上位の個体は神通力をも保有するし、純粋な武力は鬼の方が勝るからなぁ。

 しかし源吾郎。武力面では雷獣は平均的な妖狐や化け狸よりも概ね勝っているんだぜ。しかし雷獣の繁栄度合いは、妖狐や化け狸のそれには及ばないだろう?」

 

 妖怪たるもの、支配者として君臨するには知性が必要なのだ。苅藻のその言葉は、源吾郎も予測していたものだった。妖怪として強くなるために大切な物として、ずっと紅藤たちからも言われていたからだ。

 

「別に雷獣が愚かだというつもりはないよ。ただ彼ら単体では支配者として君臨し続けるのは難しいという事さ。だから大妖怪クラスの雷獣であっても、他の種族の大妖怪と協力してその地位を護っているような物なんだ。それどころか、より高い地位にある妖狐や天狗らの保護下でその権勢を振るえるくらいだからね。

 簡単に言えば、コンビニの雇われ店長みたいなものって事さ」

 

 コンビニの雇われ店長。その例えは非常に解りやすかった。だが源吾郎はそう思うのがやっとだった。雷獣の弱点について苅藻は語ったに過ぎないのだろうが、とても残酷な話だと源吾郎は思っていた。朗らかな三國や明るく活発な雪羽の姿を思い浮かべると、胸のあたりが絞られるような気分になってしまう。

 

「――雷園寺君が当主の座を目指す雷園寺家とやらも、天狗や妖狐たちの助けを借りつつ名門妖怪としての威厳を保っているんじゃないかな」

 

 源吾郎の心中を見透かしたかのように苅藻が言い添える。残酷な現実が語られる事への衝撃はもう訪れなかった。その代わり源吾郎は腑に落ちた気分でもあった。雉鶏精一派の幹部たち、特に灰高や萩尾丸は雪羽の夢を積極的に応援していた。あの時も雪羽を通じてパイプが云々と言っていた。それは雷園寺家そのものだけではなく、その背後にいる天狗集団の事も示していたのかもしれない。

 

「その事って、三國さんは――」

「三國君は当然知ってるよ」

 

 全て言い切る前に、苅藻は源吾郎の問いに応じた。

 

「むしろ雷獣の限界を知っていたからこそ、躍起になって反体制派の活動に勤しんでいたのかもしれないね。自分が功績を造れば世間の通説が間違っていると証明できるんだからさ。まぁ結局のところ、三國君も紆余曲折あって組織勤めになったんだけどね。

 とはいえ三國君はまだ仲間に恵まれていた方さ。春嵐君みたいに忠実で損得抜きに寄り添ってくれる相手がいなければ、雉鶏精一派に加わる前に内部分裂してしまっていたか、変な妖怪組織との抗争で早死にしていたかのどちらかだったかもしれない訳だし」

 

 そこまで言うと、苅藻はにわかに真剣な表情を作った。

 

「そしてこうした雷獣の限界について、三國君は雷園寺君にも教えていると思うよ。いの一番に教えないといけない事だろうからね。何しろ雷園寺君は凡百の雷獣ではなく、支配者を目指しているんだからさ。そう言う事は知っておかないといけない事だと思うんだ。雷園寺家の当主に返り咲くとしても、三國君の後継者として雉鶏精一派の幹部になるとしても」

 

 そう言ってから、苅藻は少しの間目を細めた。

 

「まぁとはいえ、聞けば雷園寺君も修行中らしいもんね。いきなり三國君から引き離されて大変な思いをしているだろうけど、いつか何処かであの子も修行とか勉強とかはしないといけないだろうからね。

 とはいえ環境的には良かったんじゃないかな? 大天狗である萩尾丸さんに面倒を見て貰って、職場では妖狐である源吾郎と顔合わせ手合わせできるんだからさ。支配階級になる雷獣が付き合わざるを得ない妖怪たちと接触する勉強になっているという訳さ」

 

 雪羽の身を案じているかのような苅藻の物言いを聞いているうちに、源吾郎は三國の事を考えていた。雪羽は前に三國が源吾郎を密かに気にかけており、好意的に思っているという事を伝えてくれた。実の叔父を前に、似たような事が繰り広げられているのだ。

 叔父というものは他人の甥が気になるという習性があるのかもしれない。甥を持たない源吾郎はそんな事をふと思っていた。

 

「源吾郎の事だ。戦闘訓練の勝負の面ではピリピリしているだろうけれど、それ以外の所では雷園寺君とも結構仲が良いんじゃないかい?」

「まだ何も言ってないのに、なんでそこまで解るのさ?」

 

 半ば決めつけめいた苅藻の言葉に、源吾郎は疑問の声を上げた。源吾郎はまだ雪羽を友達と見做している訳ではない。しかし比較的良好な関係性を構築出来ているともいえる。少なくとも互いに警戒しあっていた初期や、変態だのドスケベだのと言い合っていた時期とは違う関係性ではある。

 しかしだからと言って仲が良いと言われるのは居心地が悪い。ましてや苅藻は源吾郎と雪羽のやり取りを見ていないのだから。

 苅藻はと言うと、そんな源吾郎の心境などお構いなしと言った様子で笑っていた。

 

「何でって、そりゃあ俺はお前の叔父なんだぜ。姉さんたちほど長い間一緒にいた訳じゃあないけど、それでもお前がどういう風に考えているかくらいは想像は付くんだからさ」

 

 確かに言われてみればその通りかもしれない。源吾郎は反駁せず静かに叔父の言葉を噛み締めた。



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術者は護符の仕様を見抜く

 それにしても。ため息のように緩く言葉を吐き出しつつ、苅藻は源吾郎を見やった。

 

「理由はともあれ源吾郎が積極的に妖怪とタイマン勝負をやりたいって言うとは成長したもんだねぇ。確かに源吾郎は負けず嫌いだけど、誰かを蹴落としたり踏みつけにしたり出来ない甘さ……いや優しさを持ち合わせているように思ってたからさ。

 やっぱり、雉仙女様の所での修行の成果かな?」

 

 苅藻の言葉に源吾郎は喉を鳴らした。苅藻の言葉は源吾郎の性質を的確に言い当てていた。負けず嫌いであるのは言うまでもない。だが負けず嫌いという性質を持つにもかかわらず、平和主義というか平和ボケした気質も持ち合わせているのも事実だった。それが源吾郎本来の気質なのか喧嘩の無い家庭環境によるものなのかは解らない。

 実際戦闘訓練で雪羽を打ち負かしたいというのも、おのれの強さを相手に知らしめる事が出来ればそれでいいと思っているくらいだ。過剰に暴力を振るったり、ひどく傷つけたりする事は源吾郎も望んではいない。

 とはいえそう言う本音を口にするのは何となく恥ずかしかった。無論優しさや他人を傷つけない心構えが美徳と見做される事は知っている。しかし、おのれの野望と照らし合わせた時に、()()()()の持ち主だと思われるのではないかと考えていたのだ。

 源吾郎はだから、全く別の事を口にしたのだ。

 

「タイマン勝負で術を使って闘うけど、別に傷ついたり傷つけたりするって言う感じの物騒な奴じゃないんだよ。紅藤様の計らいで、安全性の高い勝負になってるんだ」

 

 言いながら、源吾郎は片足を上げて靴下を少しずらした。足首にミサンガよろしく巻いている護符を叔父に見せたのだ。

 

「この護符が俺の身を護ってくれるんだ。どんな妖怪の攻撃もすべて防ぎきるってわけじゃあないらしいんだけど、俺や雷園寺が放つ程度の攻撃なら難なく防御できる仕組みなんだ。もちろん、雷園寺も同じやつを付けてるよ。向こうは手首に巻いてるけど」

「良い護符を付けてるじゃないか」

 

 苅藻はさも感心したかのように一言そう呟いた。源吾郎に足を降ろすように告げると思案顔で言い添える。

 

「かなり上等なものだって事はちらと見ただけでも解るよ。なるほどな、その護符が護ってくれると解っているから、源吾郎も安心してタイマン勝負ができるって事なんだな」

 

 そうなんだ! 源吾郎はやや食い気味に応じた。

 

「しかも戦闘訓練の時は当たった時に衝撃が伝わるような仕組みになってて、攻撃をかわし切れずに受けたって解るようになってるんだ。実際に攻撃を受けたって体でどれだけダメージを受けてるかってのを紅藤様たちが計算して、ダメージの多い方とか先に致命傷までのダメージを受けた方が負けるって言う感じかな。

 衝撃とかルールとかドッジボールに似てるって俺は思ってるんだけど」

 

 感心したように話を聞く苅藻を覗き込みながら源吾郎は言い添えた。

 

「叔父上、ドッジボールは知ってるよね?」

「もちろん知ってるよ。小学生とか中学生が休み時間とかに遊ぶアレだろ?」

「そうそうそのドッジボールだよ。前に雷園寺と話してたら、ドッジボールをやった事が無いって言ってたから……」

「あの子は同年代の友達もほとんどいないみたいだったからさ。取り巻き連中がいるにはいたが、そう言った連中と大人しくドッジボールに興じると思うかい?」

 

 苅藻は何故か物憂げな表情を浮かべている。源吾郎はそれを眺めながら小さく頷いた。雪羽の私生活について、源吾郎は踏み込んだ事まで知っている訳ではない。しかし苅藻の言う通り同年代の子供妖怪と無邪気に遊び呆けた日々とは縁遠かった事は何となく気付いていた。雪羽は叔父の意向により職場に赴いていたようであるし、何より源吾郎の学校生活について強い関心を示していたのだから。

 

「ドッジボールはさておき、雉仙女様も萩尾丸さんも色々と考えてらっしゃるみたいだね。何のかんの言っても雉仙女様は研究者気質だからね。色々と細工を考えるのが楽しいんだろうね。

 まぁともあれ良かったじゃないか。普通の訓練だったら妖力の出力を気にして闘わないといけないだろうけど、相手が傷つかないと解ったら気兼ねなく力をぶっ放せるってところだろうし」

 

 苅藻の言葉に源吾郎は薄く笑った。変化術は精緻を極める半面、狐火や結界術などの戦闘向けの術の行使は結構雑だったりする。攻撃術として妖力を使うのに慣れていないから調節が難しいのだ。但し源吾郎の場合はそもそも妖力の保有量が多いから、雑な出力でも中々の威力を有する攻撃になるという側面もある。

 そろそろ雷獣の肉体的な弱点について語ろうか。その言葉は源吾郎が待ちわびていた物でもあった。両目を輝かせ、苅藻の挙動を聞き逃すまいと源吾郎は密かに決意していた。

 

「戦闘訓練に直接役立つかどうかは解らんが参考になると思うんだ。

 まず雷獣は熱に……熱さに弱いのが特徴だな。雷獣が陸生妖怪でありながら飛行能力があるのは知ってるだろ? その力でもって、雷雲が発生する部分まで飛び上がる事が出来るんだ。雷雲とか雲がある所は上空数キロから十数キロになるから、地上よりも相当気温が低いんだ。そう言う場所に滞留できる雷獣だから、寒さには滅法強い。というよりも熱を逃がしにくい身体の仕組みになってるんだろうな。しかし耐寒性に特化している訳だから、どうしても熱さには弱いんだよ。南極のペンギンと同じさ」

「言われてみれば雷園寺は暑がりかもですね」

 

 源吾郎は雪羽の行動を密かに思い返していた。仕事の際も、冷房の風が良く当たる所にちゃっかり移動していたり、水筒には氷を詰めており、それを時々かじったりと思い当たる節が結構ある。何より雪羽という名前自体が寒さとかに関係しているではないか。雪と入っている訳だし。

 そんな事を思っていると苅藻は言葉を続けた。

 

「だからまぁ、ベタだが狐火で炙るというのも効果的かもしれないな。もちろん護符の護りがあるから雷園寺君が焼ける事は無かろうが、それでも一時的に彼の周囲の温度を上げる事は出来るだろう。熱くなればへばるだろうし」

 

 狐火で炙れば護符に護られていようとも周囲の温度が上がる。この解説に源吾郎は首を傾げた。引っかかる点を感じたのだ。

 

「叔父上、護符が護ってくれているのならばへばるほど温度は上がらないのでは?」

「よく聞け源吾郎。護符は確かに攻撃から身を護ってくれる代物だ。しかし護符の持ち主に向かってくる()()()()()()を弾いている訳じゃあないんだよ」

「…………?」

 

 訳知り顔で苅藻は問いに応じたが、源吾郎の心中にはますます疑問が膨らむばかりである。

 

「例えば護符はカマイタチの風を使った攻撃は持ち主には通さない。しかしそれと同じような理屈でその辺にある普通の空気も通さないとどうなる? 護符の持ち主は酸欠で倒れてしまうぞ。

 簡単に言えば、持ち主に無害な物質は弾かないようになってるんだよ。口で言っても実感しづらいだろうから、実際に試してみようか」

 

 苅藻はそう言うと周囲を見渡し、それから源吾郎からすっと離れていった。いったいどういう事であろう。その場に立ち尽くして様子を見ていると、苅藻は小さな洗い場に背を向けているのが見えた。

 ややあってから戻ってきた苅藻は、水を入れた霧吹きを手にしている。

 

「ちょっと暑いし霧吹きをかけてみようと思う。源吾郎、手を出してくれないか」

 

 促されるままに源吾郎は右手を差し出した。苅藻が霧吹きをかけると、源吾郎の手ははっきりと水気を感じた。水がかかるとひんやりとしていた。

 

()()()。この水は水道水だから、護符で護られているはずなのにちゃんと当たってるだろう」

「確かに。しかもちょっとひんやりするし」

「ひんやりするという事は、温度の変化も伝わるという何よりの証拠だな。もちろん伝わる温度の上下限も設定されているのかもしれないけれど。

 だが源吾郎の話したルールを考えれば、雷園寺君を狐火で炙る術を発動した所で源吾郎が勝つ可能性もあるって事だな。高火力の狐火で炙られればそれこそ致命傷になる訳だし」

「それは俺もそう思うよ」

 

 狐火の威力について言及された時に、源吾郎は得意げに頷いた。

 

「炙ったり燃やしたりする感じの狐火はあんまり使った事はないけど、狐火の威力については俺も十分知ってるよ。普段は弾丸みたいにして放出するけど、コンクリートの塊とか一瞬で粉みじんになるもん。萩尾丸さんによると対戦車ライフルの弾丸より強いって」

「そりゃあかなり強いなぁ。ぶっちゃけそれ一発でも雷園寺君に当たったら、部位が何処であれ致命傷判定になるんじゃないのかね」

 

 弾丸状の狐火も中々の威力である事は言うまでもない。護符なしでぶつかれば雪羽とて無事では済まないだろうしそれこそ致命傷になる可能性も十分にある。

 もっとも、雪羽はそのとんでもない威力の狐火弾丸を自前の雷撃で相殺する事が出来るのだが。場合によっては雷撃で軌道を逸らし、撃ち返す事だってできる位だ。源吾郎の術の威力も相当なものであるが、迎え撃つ雪羽の実力と力量も文字通り化け物並みであるという事だ。

 

「雷獣って実は他の獣妖怪に較べて打撃や切り傷みたいな外傷にちょっと弱いからね……空を飛ぶために骨が軽量化されている所もあるし、何より高速で飛び回っている時に攻撃を受けるとダメージが大きくなるって感じなんだよ。とはいえ、再生能力も高いからそんなに大した事にはならないんだけどね。雷獣の操る電流には、細胞を活性化させる力もあるんだ。妖力は消耗するだろうけど傷を癒す事は出来るんだろうね」

「聞けば聞くほど、雷獣って妖狐とか人間とは違うんだなぁ」

「そりゃあそうさ。別種の生き物だから」

 

 源吾郎は感嘆するも、苅藻は特別な事ではないと言わんばかりの口調で言い放つだけだった。しかしそんな彼も、何かを思い出したのか軽く声を上げた。

 

「雷獣とはちょっと違うけれど、大陸の雷神は動物の血とか汚物をかけられると一時的に神通力を失って落ちてしまうらしいんだ。雷獣は自身を雷様だと称している所もあるから、もしかしたらイケるかもよ」

「いやいやそれは流石にマズいと思うよ、叔父上」

 

 いたずらっぽく笑う苅藻に対し、源吾郎は困ったように眉を寄せるだけだった。



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玉藻の孫の会話術

 更新忘れてました(滝汗)


 ひとまずは狐火を焔のように展開させてみよう。それで雷園寺を打ち負かす事が出来れば……狐ながらも皮算用を始めた源吾郎を見ながら、苅藻が笑みを浮かべた。

 

「源吾郎。今回俺の話を聞いたからと言って無闇に期待したり絶対勝てると早合点しないようにな。あくまでも俺は弱点とか護符の仕様について口にしただけに過ぎないんだからさ。

 それに勝つ事ばかり妙に意識したら、普段以上のパフォーマンスが出ない可能性だってあるんだし……」

 

 苅藻はきっと親切心で言ってくれたのだろう。しかし源吾郎はその言葉を受けて冷や水をかけられたような思いだった。雪羽に勝つために助言を求め、源吾郎は苅藻の許を訪れたのだ。だというのに苅藻は勝つ事は確約できない、何となれば負ける可能性もあると言った。そのように源吾郎は捉えていたのだ。

 そんな源吾郎の心中は苅藻も見抜いていたのだろう。にたりと口角を上げると更に言葉を続けた。

 

「源吾郎。言っちゃああれだが別に雷園寺君に()()()()()()()()のだろう? 話を聞く限り、給料を減らされるみたいな切羽詰まった話でもなさそうだし。それに恐らくだが、お前が負けたのを見て紅藤様たちや他の妖怪たちに嗤われている訳でもないだろう」

 

 苅藻の言葉を前に源吾郎は戸惑い、そして若干の苛立ちも感じ始めていた。苅藻はきっとその事に気付いているであろう。しかし彼には源吾郎の気持ちは伝播しなかった。むしろ源吾郎を見つめ、妙に甘ったるい笑みを浮かべるくらいだ。

 

()()を受け入れて認める。それが一番()()方法なんだぞ源吾郎。そうしたって構わないし、そう言う判断をしたとしても誰もお前を責めはしないさ。

 確かに()()源吾郎じゃあ雷園寺君に太刀打ちできないのかもしれない。しかしだからと言ってそれが駄目だなんて決めつけなくても良いんだよ。別にその状況でも構わないじゃないか」

 

 最後の一文は、源吾郎の胸にぐっと突き刺さってきた。驚いて苅藻を凝視する。その動きを察していたかのように苅藻と目が合った。目が合うとともに、苅藻の笑みに甘みと毒気が増した。

 

「よく聞け源吾郎。お前にはきちんと才能があるし、今まできちんと頑張ってきたんだよ。残念ながら俺は源吾郎の詳しい仕事ぶりは知らないが……きっとお前の事だから真面目にコツコツ頑張って来たんだと思うよ。

 だからな、出来ない事を出来るようにしようと躍起になって苦しむのは辛いだろう? だったら一度そう言う考えを捨てて()()を素直に受け入れてみろ。雷園寺君には()()()では敵わないと思っても構わんのだよ。雷園寺君との勝負がどうであれ、お前の力量には変わりはないんだからさ……」

 

 苅藻の言葉は色々な意味で耳障りの良い物であった。先程まで抱いていた戸惑いも苛立ちもしばし忘れ、源吾郎はうっとりと彼の言を聞き入っていたのだ。確かに叔父上の言うとおりである、と。

 源吾郎は戦闘訓練にて雪羽と何度もタイマン勝負を行っている。今に至るまで負け戦であるが、その事が業務上の支障をきたす事は特に無かった。負け続きであるからと言って馬鹿にされる事ももちろん無い。ただただ源吾郎自身が負けて悔しいと感じ、その悔しさが昏い感情に育たないかと恐れを抱く程度である。本当にそれだけの話なのだ。それが源吾郎にとっては一大事なのだが。

 苅藻の放った甘言に酔い痴れたままだったら、或いは源吾郎はつかの間の幸せを得る事が出来たのかもしれない。源吾郎が玉藻御前の末裔ならば、苅藻もまた玉藻御前の末裔である。話し方や話の内容、仕草に至るまで相手の心を掴み操るためのテクニックが込められていた。

 しかし――源吾郎が苅藻の甘言に酔っていたのはほんの間だけだった。幸か不幸か源吾郎は我に返り、今再び闘志の焔が吹き上がるのを感じたのだ。苅藻の甘言から脱したのは極度の負けず嫌いゆえか大妖怪としての素養を持つゆえか。はっきりとした理由は定かではない。ただ一つ明らかなのは、源吾郎も大妖狐の血を引いている存在であるという事だけだ。

 

「叔父上。やっぱり叔父上の方が俺よりも()()()()()()()()()ように感じたよ。やっぱり半妖とクォーター、孫と曾孫の違いなのかな」

 

 一度言葉を切ると、射抜くような眼差しで苅藻に向ける。

 

「それにしても叔父上。まさか甥である俺を籠絡しようとするなんて……」

「籠絡とは人聞きが悪いなぁ」

 

 鼻を鳴らして言い返す苅藻の顔や口調には、毒気を孕んだ甘さは消えていた。日頃の見知った雰囲気をまとっている。

 

「源吾郎が根を詰めて自分を追い込んでいるように見えたから、ちょっとしたリップサービスをしたまでさ。可愛い甥っ子が、自分を慕う弟分が苦しんでいるのは心が痛むからさ」

 

 それはどうも。源吾郎はぶっきらぼうに呟いた。苅藻と源吾郎は、血縁上は叔父と甥の関係になる。しかし両者の振る舞いはむしろ兄弟のそれに近かった。源吾郎は苅藻を兄と見做して懐き、苅藻もそれを許容していた。むしろ末の甥が自分を兄のように慕うのを喜んでいる節があった。苅藻と言えば実妹のいちかを偏愛するシスコンぶりが目立つ叔父であるが、弟を可愛がりたいという欲求もあったのだ。他の甥たち(源吾郎の兄たち)が苅藻と若干距離を置いている事も要因の一つかもしれないが。

 まぁ要するに、両者の思惑が上手くかみ合って、兄弟のような関係性を構築しているのだ。

 

「とはいえ、俺の言葉くらいでお前が素直に納得するなんて思ってなかったけどな」

 

 苅藻はそう言うといたずらっぽく微笑んでいた。

 

「さっきの俺の言葉で納得して諦める事が出来るのなら、()()()()助言を求めて俺の許へわざわざやって来たりしないはずさ。今住んでる所は交通の便が少ないから、ここまで来るのも大変だろうし。それに何よりお金だってかかるし」

 

 それらの労力を度外視してまで訪れた事こそが、源吾郎の本気度を示している。苅藻のその主張はまさしくその通りである。

 交通の便についてはさておき、お金が動く事については源吾郎も神経質になっているからだ。無論サラリーマンなので給料はあるが、それでやりくりをせねばならない身分である。実家にいた頃は父や兄姉らにねだればある程度工面してもらったが、もはやそのような事は通じない。そしてそう言う環境下だったから、源吾郎は実は貯蓄は苦手だったりもする。

 

「しかしまぁ源吾郎。お前のやる気をくじくつもりはないが、多少思い上がっているという所はあるだろうね。もちろん妖力は他の連中に較べて多いし、妖術を使いこなす才覚もずば抜けているのかもしれない。

 だけどお前が妖怪としての術を、特に攻撃術を使い始めて半年も経ってないだろう? いくら妖力の多さという底上げがあってもだな、少し術を習得したばかりの初心者中の初心者が、サクッと他の妖怪を打ち負かすなんて言うのはやはりあり得ないんだよ。雑魚妖怪だの野良妖怪だの言ってる連中だってな、同僚とか下請け会社の社員として働いているのならば、何十年も妖怪生活をやってるわけだし。それに引き換え源吾郎は、妖怪生活を始めてまだ半年も経ってないじゃないか」

「まぁ確かにキャリアの違いは大きいかも……」

 

 言ってから、源吾郎はため息をついた。物心ついてからというもの妖怪としての意識を持っていた源吾郎であるが、クォーターである事もあり概ね人間として育てられ、人間として暮らし続けてきたのだ。

 もちろん、人間社会に紛れ込む妖怪たちとの接触や交流はあったが、彼らは大人しく小市民なので妖怪らしいやり取りは特に無かった。血気盛んな妖怪との接触は叔父たちによって阻まれていた事もあり、妖怪らしい活動は高校を卒業するまでできなかったというのが現状である。そしてそれが妖怪たちとの戦闘訓練で後れを取る理由になっている事も源吾郎はよく知っていた。半妖と純血の妖怪の場合、時の長さの感覚が同じと考える事は難しい。それでも源吾郎が妖怪としての経験値が少ない事には変わりない。

 

「それに雷園寺君は雑魚妖怪でも凡百の妖怪でもないんだよ。源吾郎も確かに才能のある妖怪だ。しかしそれは雷園寺君とて同じなんだよ。しかもあの子はもう四十年は生きている。妖怪としてはかなり若いが、それでも()()()()よりも年長なんだよ」

 

 苅藻の言葉を聞いていた源吾郎は、無意識のうちに息をのんだ。雪羽の実年齢が源吾郎よりも上回っている事は知っている。しかし長兄――源吾郎にとっては兄というよりも父親のように振舞う兄である――たる宗一郎を引き合いに出されるとその事が真に迫ってくるようだった。半妖でありながら人間として生きる事を選んだ長兄を何故引き合いに出したのか、その意図は解らないが。

 

「しかもあの子は戦闘慣れもしているからね。元々は内気で大人しいお坊ちゃんだったのかもしれないが、三國君に引き取られてから闘う術・力で他の妖怪を従える術を教えられたんだ。まぁ、雷園寺君の戦闘面での凄さはお前も身をもって知ってるだろうけれど」

 

 源吾郎は雪羽の事をしばし思い出していた。事あるごとに雷園寺家の次期当主になると豪語している彼は、上辺だけ見ればビッグマウスのイキリ小僧のように思える。しかしその能力や才能は他の妖怪たちと一線を画している事もまた事実だった。強いからイキっているのかもしれないが、もしかしたらイキれる程の力量を身に着けたという可能性もあるにはある。

 そんな事を思っていると、苅藻が静かな口調で問いかけてきた。

 

「なぁ源吾郎。それでもやっぱりどうしても雷園寺君に勝ちたいのか。勝ちたいというよりも、雷園寺君を打ちのめして泣く所が見たいのか。生誕祭の折で源吾郎と雷園寺君の間でトラブルがあったって話は俺もうっすら知ってるよ。その時に失礼な事をされて、その事で報復したいとか、そんな事でも思っているのか?」

「そ、そんなんじゃないよ叔父上」

 

 苅藻の言葉があまりにも深刻なので源吾郎は少し面食らってしまった。確かに生誕祭のグラスタワー事件では色々と大変な目に遭った。雪羽にもウェイトレスだと思われ連行されかけたし変態呼ばわりされたし碌な事は無かった。

 しかしだからと言って、その事で報復したいとかは思っていない。まぁ過ぎた事だし、というのが今の源吾郎の考えだったりする。

 

「別に俺は、雷園寺の事を強く嫌ったり憎んだりしてるわけじゃないと思う。そうは思うんだけど……やっぱり俺って負けず嫌いだからさ、負け通しだと悔しくなるんだよ。まぁ、悔しい位じゃあどうって事は無いんだけどさ。

 でもなんか、その悔しい思いがずっと残るんじゃないかって思う事があって、それが悪い気持ちにならないか心配なんだ」

 

 源吾郎は負けず嫌いである。そうでなければ身内の意向を押し切って最強の妖怪になると言い出したりはしないだろう。しかし一方で負け続きの悔しさがおのれの中で仄暗い悪意にならないか。そう言った心配も未だに胸の中にあった。

 

「そんな事を思っていたのか。だがそこまで考えてるって事は、別に雷園寺君の事を嫌ってるわけでもないんだろう」

 

 苅藻の訝しそうな問いかけに源吾郎は頷く。

 

「まあね。雷園寺のやつは確かに時々いけ好かない所はあるけれど……だからと言ってあいつを怪我させて良いって訳でもないんだ。雷園寺に何かしてしまったら、三國さんたちに申し訳が立たないよ」

 

 思わず放った源吾郎の言葉に苅藻はふわりと微笑む。

 

「ちゃんとその辺の事も考慮しているんだな。良い事だぞ源吾郎。三國君の事は俺も知っている。雷園寺君はあいつにとって息子同然の存在だからな。部下以上に大切にしている事には違いない」

 

 やっぱりそうだよな……苅藻の言葉を聞きながら源吾郎は思った。それから、苦い思いがこみ上げてくるのを感じつつ言葉を放つ。

 

「それに実を言えば一度やらかして……雷園寺を傷つけてしまった事があるんだ」

 

 源吾郎は言葉を繋ぎ合わせながら、雪羽を傷つけてしまった件について語った。今ここでこの話をしてもそれこそ叔父は戸惑うかもしれない。しかし語るべき話であるという思いが源吾郎を突き動かしていた。

 苅藻は相槌を打つくらいで特に何も言わなかった。苅藻も苅藻で内心驚き当惑しているのかもしれない。雷獣の少年との戦闘で勝ちたいという話を持ち掛けてきたと思っていたら、急にヘビーな話を持ち出してきたのだから。しかも苅藻は桐谷家と白銀御前たちとの争いについては知らないだろうから尚更だろう。

 

「――それはまぁ何というか、大変な事だったな。こんな言い方をするのは妙かもしれないが、源吾郎はよく頑張った」

 

 源吾郎は微妙な表情で苅藻を見上げるだけだった。苅藻も微妙な表情だったが、甥の視線に気づくと笑みを作った。

 

「だがまぁそんなに気に病む事はないと思うよ。雷園寺君も襲撃されたとはいえ大事には至らなかったわけだし、何より三國君もお前の事情を考慮して赦してくれたんだろう?」

「……雷園寺君はあの事件以降週末は三國さんの許で静養する事になったんですよ。元々はそんな事しなくても良かったのに」

「そんな事しなくても良かったかどうかは部外者には解らんだろう。源吾郎より年上とはいえ雷園寺君はまだ子供なんだ。修行の都合上萩尾丸さんの許で暮らさざるを得なくなっているかもしれんが、三國君たちが恋しくなる事もあるだろう。

 もしかしたらお前の襲撃が無かったとしても、ホームシックに陥っていたかもしれないし。雷園寺君自体は元気なんだろうから、そんなに気に病むな」

 

 源吾郎は小さくうなりながらも苅藻の言葉を吟味していた。週末に雪羽が実家(三國の家)に戻るのは源吾郎の襲撃でショックを受けたからだと思っていた。実際その側面は強いだろうが、苅藻の言葉も一理ある気がする。

 まずもって雪羽が妖怪として幼いのは事実である。全くの子供という訳ではないが、人間で言えばせいぜい中学生くらいだろう。そう思えば、いきなり実家を離れ世話係と言えども直属の上司の許で寝泊まりするというのは大変な事だ。むしろ一か月間弱音を吐かずに耐えた方だともいえる。源吾郎などは、二泊三日程度の修学旅行でも緊張とかストレスで疲労困憊になっていた口なのだから尚更そう思えた。

 源吾郎。苅藻が源吾郎に呼びかける。今日聞く中でも一番優しい声音だと源吾郎は思った。

 

「強くなりたいとかそういう事だけじゃなくてそんな事まで悩んでいたなんてな。中々相談できない事だから、しんどかっただろう。

 だけどそっちの件についても心配はないと俺は思うよ。傷を負った雷園寺君も確かに気の毒だが、雷園寺君も三國君たちとも和解出来ているんだろう?」

「和解したというか、俺は特に咎められなかったんだ。それどころか、三國さんも雷園寺も俺の事を善いやつだって思いたがってるくらいさ……もちろん、悪く思われるよりは良い事だとは思う。だけど勝手に善いやつだって思われるのはしんどいよ」

 

 島崎君は善いやつでしょ。そう言った時の雪羽や三國の顔は、思い起こせば鮮明に浮かんでくる。あの雷獣たちは論拠もなくそう思い込み、その思い込みを源吾郎に押し付けようとしたのだ。身勝手な話である。源吾郎にも悪心や邪心はある。血統的にも野望的にも善良な好青年とは縁遠い存在である。

 そもそも、善いやつだと思ってくれる三國たちを前に身勝手だと思う事そのものが、源吾郎が善性から遠い証拠なのかもしれない。

 

「源吾郎。そう言う風に悩む事って事は、お前自身そんなに悪いやつじゃあないって何よりの証拠だと思うけどなぁ」

 

 でも……と源吾郎は反駁しかけた。しかし苅藻はその暇を与えずにさらりと言い放ったのだ。

 

「昔から言うだろう。善い人ほど自分の善良さを自覚しないってな。悪いやつとか腹黒いやつはな、周囲から善いやつだと思われたからって悩んだりしないんだよ。都合が良いって思う位でさ」

 

 果たしてそんなものだろうか。源吾郎は苅藻を見ながらぼんやりと思った。




 源吾郎君はその野望からして「善良な好青年」とは言えないですね。
 ですが、何か割とのんびりした所が多いのも事実です。
 お坊ちゃま育ちだからかな?


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講義終わりて宿命話

 雷獣の弱点や源吾郎が戦士として乗り越えなければならない事柄などと言った主だった講義はおおむね終わった。あとは次回以降の戦闘訓練に向けて必要な道具を買うだけだった。

 既に戦闘訓練は四回目が終わった所だ。しかしそれで終わりではない事は源吾郎も解っていた。雪羽は十回タイマン勝負を行う事に拘泥していたからだ。もしくは十回未満であっても源吾郎か雪羽のどちらかが拒否すれば、二人のタイマン勝負は終了する。それはあり得ない話だろうと源吾郎は思っていた。源吾郎の闘志は未だに衰えていない。そして何より勝ち戦を続ける雪羽の闘志が潰える事はもっと考えづらい。

 余談だが源吾郎と雪羽のどちらかがタイマン勝負を拒絶した場合、戦闘訓練の相手は萩尾丸になるだけだ。無論彼は大妖怪であるのだが、源吾郎たちの力量に合わせて手加減してくれるとも言っていた。手加減があると言えども、萩尾丸と手合わせするのは考えるだけでも怖気がする。それは雪羽も同意見らしかった。

 

「叔父上、今日は色々と教えてくれてありがとう。とりあえず要りそうな物を買ってくよ」

「叔父孝行な甥っ子がいてくれて俺も嬉しいよ……値段を気にせず買っていけと言いたいが、流石にそれは難しいんだな」

 

 この際だからツケも考えてやるぜ。軽い調子で告げる苅藻に対し、源吾郎は苦笑しながら首を振った。

 

「ツケにしなくても大丈夫。俺、ちゃんと持ち合わせはあるから」

「そうかそうか。源吾郎ももう社会人だから、その辺はしっかりしてきたなぁ」

 

 慈愛に満ちた笑みを見せる叔父に対し、源吾郎は愛想笑いを返しただけだった。持ち合わせを用意しているのは事実だった。だがそれ以上に叔父に対してツケというか借りを作るのは避けたかったのだ。

 普通の家庭では、叔父叔母や祖父母と言った親族は親兄姉よりもお金のやり取りの融通が利くらしい。苅藻は源吾郎の事を可愛がってくれるが、ことお金に関しては結構きっちりしていたのだ。まぁ、お金に厳しいのは叔母のいちかも同じだが。

 

「とはいえ、持ち合わせが少なかろうと源吾郎だったら尻尾の毛を素材として売り出す事も出来るだろうに。高く売れるだろうなぁ。血統が申し分ないのは言うまでもないが、飲酒・喫煙とは無縁だろうし不摂生してる感じでもないしさ。それこそ、紅藤様の出す給料数年分の値打ちがあるかもな」

「そんな……尻尾は……」

 

 源吾郎はミニサイズに留めている四尾を腹側に巻き付け思わず抱え込んだ。

 妖怪の身体の一部が、術者などが使う素材になる事はもはや源吾郎も知っていた。場合によっては骨や革などと言った物騒な素材もあるにはあるが、何も素材になるのはそればかりではない。苅藻の言葉通り獣妖怪では尻尾の毛が素材になる事が多かった。妖怪の妖力は体毛にも宿り、採取するにしても肉体的な負担が少ないためだ。

 とはいえ、尻尾の毛の売買はそんなに盛んではない。術者は妖狐の毛を欲するが、お金のために尻尾の毛を刈り込む妖狐は少ないためだ。また、暴飲暴食が目立つ者・過度な飲酒や喫煙を行っている者・染色をしている者の場合、毛の質が悪くなるという事でそもそも業者が買い取りを拒否する事もあるくらいだ。というか人間の術者たちは折に触れて妖狐の若者たちに毛の染色を行わないようにとキャンペーンを行っているらしいが、そう言った事が事情が背後に隠れているのもまた事実だ。

 苅藻はしばらく源吾郎を黙って見つめていたが、ふいに息を吐きだして笑った。

 

「いやいや冗談だよ。尻尾の毛は妖狐の生命だもんあぁ。いくら質が良かろうとそんなやすやすと刈り取って売りに出すなんて出来ないだろうし」

 

 源吾郎は抱えていた尻尾を元に戻しながら思案に暮れていた。ゴールデン・ウィークの折に尻尾の毛を刈り込んだ事を思い出したのだ。その時は自分の毛が売れるという事を知らなかったので萩尾丸たちにそのまま上納してしまったのだが、かなり勿体ない事をしてしまったのかもしれない。

 そんな事を思っていると、苅藻は一枚のビラを手に取り、源吾郎に手渡した。

 

()()()()の案内が来てるんだ。妖手がちと足りないからっていう事で、妖を集めて欲しいって言われててね……昼食も出るし小遣い稼ぎになると思うんだが」

 

 かいぼりというのはため池の水を抜き、泥とか分解されかけた落ち葉などを取り除き、ついで増殖した外来魚や外来生物を駆除するあの作業である。但し苅藻の話によると、若干妖気が滞留している場所であるらしく、一般人ではなくて術者とか一般妖怪に声がかかっているとの事だ。

 源吾郎はひとまずそのビラを受け取った。小遣い稼ぎというものの日当は二万五千円とあった。結構もらえるんだな、というのが素直な感想だった。知り合いから時給八百五十円でバイトしているとかそんな話を聞いていたから余計にそう思った。

 

「ありがとう叔父上。一応紅藤様たちに確認してみるよ。一応就職してるし、こっちもお金が発生するみたいだから参加して良いのかどうか許可を取らないといけないし」

「まぁその日当だったら所得税は発生しないが……確認したほうが無難な事には違いない。お金が発生するもんな」

 

 苅藻の言葉を聞きつつも、源吾郎は実は紅藤たちは快諾してくれるのではないかと思っていた。妖怪社会は人間社会よりも副業についておおらかな所があるようだから。萩尾丸も前に副業は構わないみたいな事を言っていた。というよりも彼も自分で組織を運営しているから、ある意味副業しているようなものかもしれないし。

 もちろん源吾郎は月曜日にでもこの件を紅藤に問い合わせるつもりだ。快諾するだろうと思っている事と実際に快諾してくれる事とは別物である事は流石に源吾郎も心得ている。

 

 

 ※

 成程お前らしい道具の選び方だ。会計を済ませるや否や苅藻はそんな事を言った。源吾郎が購入したのはおおむね防御用の護符の類だった。込められた妖力がスムーズな結界の発動を促す物、不測の攻撃に応じて自動的に結界を展開するような物などである。特に自動的に結界を展開する護符は源吾郎にとってありがたかった。源吾郎自身も簡単な結界術を展開する事は出来る。しかし純血の妖怪を相手取って闘うには自前の結界術展開では遅すぎる。妖力の保有量や攻撃力は凡百の若妖怪では太刀打ちできない領域に至っている源吾郎であるが、それでもやはり彼は人間の血を受け継ぐ半妖だった。動体視力やそれに起因する反応は、純血の妖怪に較べて格段に劣っているのである。そして()()が勝負の分かれ目でもあった。カマイタチ程ではないにしろ速度に特化した雷獣が相手ならば尚更その差は浮き彫りになる。

 変わり種では縛妖索《ばくようさく》と呼ばれるロープ状の道具もひと巻き購入してみた。標的の妖怪にダメージを与える事なく捕縛するための道具らしい。装備している護符の護りに弾かれる可能性も考えられるが、使ってみるのも一興であろう。

 色々と買い込んでいた訳であるが、源吾郎が購入しなかったものもある。攻撃用の護符や道具である。

 術者の道具、特に人間向けの道具は何も防御用の物ばかりではない。むしろ攻撃用の護符や道具の方が多い位であろう。それはやはり人間と妖怪との決定的な力の差が大きい事にも起因するだろう。雑魚妖怪や弱小妖怪と呼ばれる者たちは、確かに妖怪としては弱い存在だ。しかし人間の脅威になりうるだけのポテンシャルの持ち主である事もまた事実なのだから。

 そういう事もあり、攻撃用の護符も苅藻は多く取り揃えていた。術者が念じるだけで付与されたエネルギーを放出して標的を攻撃するタイプの物もあれば、術者の力を増幅させるようなものもある。ついでに言えば防御用の護符よりも一、二割程度は安価だった。

 それでも源吾郎は攻撃用の護符は購入しなかった。それはやはり、玉藻御前の末裔としての矜持によるものだった。

 

「確かに攻撃用の護符の方が安いみたいだけど、今の俺にとっては無用の長物だよ。叔父上の話だとチンピラ崩れの野良妖怪を怖がらせるくらいの威力しかないみたいだし。それにまぁ……俺自身の攻撃力も高いもん」

「ははは、負けず嫌いなお前らしい言葉だな」

 

 苅藻は源吾郎が差し出した紙幣を数え、釣銭を用意していた。すぐに釣銭を渡すのかと思いきや、苅藻の手は一度釣銭から離れ、レジの横に伸びていった。レジの横に鎮座するお守りの類を二つ取り、何食わぬ顔で釣銭の上に乗せたのだ。

 

「良縁を招くお守りだ。これは俺からのサービスだ。このお守りについてはお代は良いよ」

 

 思いがけぬ苅藻の言葉に源吾郎は目を瞠った。術者にして商売人たる苅藻のケチ度合いは源吾郎もよくよく知っていた。もちろん今しがたある程度の額の護符を購入したばかりであるが……だからと言ってこういうサービスをするような事は滅多にない。

 

「そんな叔父上。珍しい事を仰るじゃないですか」

「折角の機会だから、()()()()にちょっとしたお土産を渡したくってな。ついでだからお前にも同じお守りを、と思った所だよ。源吾郎も何だかんだ言いつつも頑張ってるからさ。ちょっとくらい甘やかしてもばちは当たらんだろう」

 

 受け取った釣銭をしまいながら源吾郎は苅藻を見やった。鷹揚に微笑む苅藻を見ながら源吾郎は少し首を傾げた。

 

「さっきから思ってたんだけど、叔父上は結構雷園寺君の事を気にしてるんだなぁ」

「何だやきもちか源吾郎?」

「別にそんなんじゃないよ。叔父上が一番大切にしているのは叔母上だって知ってるもん」

 

 叔母のいちかを引き合いに出したのは半分冗談みたいなものであるが、苅藻が雪羽の事を気にかけているのが気になったのは事実だ。苅藻と三國の関係性は単純に良好と片付けて良い物ではない。確かに苅藻も三國を弟と見做して可愛がっていた事があったのだろう。しかしその三國はいちかに手を出そうとしたという。結果的には何も起きなかったが、苅藻の三國に対する心証は悪くなっているに違いない。何せシスコンの苅藻である。先も述べたようにいちかを一番大切に思っているのだろうから。

 ちなみにいちかはそんな兄を醒めた目で見る事が多いようだが、兄妹の関係性なんてそんなものである。

 だからまぁ、過去の遺恨もあるだろうに雪羽を気にする苅藻の姿勢は不思議に思えてしまったのだ。

 

「叔父上と三國さんが交流があったみたいだけど、雷園寺君とも何かあったの? それともやっぱり、身内だからそう言う話になっただけ?」

 

 源吾郎が問うと、苅藻は視線を泳がせた。過去の出来事や記憶を探り当てようとしているようだった。

 

「……三國君はな、雷園寺君を引き取ってすぐに俺の許に相談に来たんだ。訳あって甥っ子を引き取る事になったから、甥っ子の面倒の見方を教えて欲しいってな。源吾郎が知らないのも無理はない。お前が生まれるうんと前の話だからな」

 

 少年のような姿をしている雪羽だが、実はそれでも四十年近く生きている事は源吾郎も知っている。三國が雪羽を引き取ったのは三十年ほど前の話だというから、確かに源吾郎はまだ産まれてもいない。影も形もない存在だ。

 

「三國君も切羽詰まってたんだよ。兄姉たちや雷園寺家たちと比較的穏便に話を進めるために神経をすり減らしたみたいだからね。その上そうまでして引き取った甥は、三國君に馴染まずむしろ怯え切っていたんだから……見た目や妖気がそっくりだから身内だと判ったけど、それこそ三國君が何処かから子供を拉致してきたのかと思った位だからな」

 

 乾いてうっそりとした笑みを浮かべる苅藻を前に、源吾郎は驚いて息を漏らした。源吾郎の知る雪羽は、三國を唯一の肉親として慕う姿だった。時々物憂げな表情を見せたり物思いにふけったりしている所を見せるものの概ね快活で若干粗暴な所が見え隠れする少年だ。三國に怯える雪羽の姿はどうも上手く想像できなかった。

 だがそれでも、雪羽にもそういう事があったのかもしれないと源吾郎は思っていた。叔父である苅藻の言葉を信用していたし、何より三國の話や雪羽の何気ない仕草を見ていると思い当たる節がある気がしたのだ。

 

「三國君としても俺に相談するほかなかったんだろうな。兄姉たちの中には既に所帯を持つ妖もいたんだろうけれど、雷園寺家での一件があったから相談できなかったんだろう。

 それに三國君は、俺にも甥っ子や姪っ子がいる事を知ってたんだ。あわよくばその甥っ子たちが雷園寺君の弟妹がわりになるかもって思ってたらしいんだよ。その甥っ子たちというのは、言うまでもなく宗一郎君と双葉ちゃんの事だ」

「それで、さっきは兄上の名前を出したのか」

 

 源吾郎の声には嘆息が混じっていた。三國が苅藻やいちかに頭が上がらないのは少し前に知った話である。しかし雪羽の事で苅藻に相談していた事や源吾郎の兄姉と雪羽が友達になれないかと画策していた事は初耳だ。

 

「まぁ結局のところ、俺は三國君の相談を突っぱねたんだがな。

 しかし勘違いしないでくれ。別に三國君に意地悪して相談を突っぱねた訳じゃない。いちかをモノにしようとした件も無関係だ。あの一件で三國君はすっかり反省して、女性関係の方は落ち着いたからな。ついでに妹は俺の所業を知ってドン引きしたが、それもまた別の話だ。

 ともかく、俺が相談を突っぱねたのはある意味親切心からの事だよ。確かにあの時、俺と三國君にはそれぞれ甥がいた。しかし甥の面倒を見るという意味は三國君と俺では決定的に違っていたんだ。三國君は父親代わりになる事の心得を求めて俺に相談を持ち掛けてきた。それは――俺には伝えられない事だったんだよ。俺の甥っ子たちへの接し方はそんなんじゃあなかったからな。それこそ親戚のお兄さんという感じだっただろう」

「確かにそれなら……」

 

 源吾郎はそこまで言っただけだった。三國と雪羽は互いの関係性を叔父と甥である事を強調しているが、実際には父子と言っても問題ないであろう事は源吾郎も知っている。父親代わりとして甥を育てたい。その問いに苅藻が窮するのも解らなくもない。

 

「そんなわけで、俺も俺なりに雷園寺君の事は気になっていたんだ。最近はおイタもちょくちょく目立つようになっていたみたいだし。とはいえ春嵐君や月華さんが上手く立ち回ってたみたいだから自警団とかにしょっ引かれる事はなかったみたいだけど。

 それに今は雷園寺君があちこちでおイタをしてヤンチャしていたのも過去の話だろう。萩尾丸さんの監督下にあるんだからな。しかもライバル的な存在としてお前もすぐ傍にいるわけだし」

 

 全くもって因果な話だ。源吾郎は心の中で強く思わざるを得なかった。雪羽個人とのかかわりが出来たのは、あのグラスタワーの事件があったのがきっかけではある。しかしまさか、互いの叔父同士にも因縁のような物が絡んでいるとは。

 して思うと、訓練と言えども互いに闘志をぶつけ勝負を挑むのもある種の宿命なのかもしれない。そんな考えが源吾郎の脳裏に浮かんでいた。




読者の皆様へ:作中の表現は新入社員の副業を奨励する意図はございません。
副業を考える会社員の皆様は、必ず所属する会社に相談していただきたく思っております。
 また、作中での表現は2017年相当の物なので、現在の状況と異なる場合がございます。
 お手数ですがどうぞご理解のほどよろしくお願いします


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手の内を飛び出したるは焔なり

 月曜日。雪羽は源吾郎が差し出した良縁のお守りを見てまず首を傾げ、少し戸惑ったように源吾郎を見つめた。

 

「良いんですか先輩。お土産だなんて大げさだって前に先輩も言ってたじゃないですか。しかもお饅頭みたいなおやつじゃなくて、ちゃんとしたお守りみたいだし」

「そうは言っても受け取ってもらわんと俺も困るんだ」

 

 雷園寺のやつ妙にしおらしいな……源吾郎もまた困惑しつつも言葉を紡ぐ。

 

「俺が土曜日に叔父の許に行ったのも雷園寺君は知ってるだろ。その時に叔父が雷園寺君のために良縁のお守りを用意してくれたんだよ。もちろん、俺も同じやつを貰っているからその辺も気にしなくて良いよ」

 

 源吾郎の言葉は、雪羽を納得させようと放たれたものだった。ところが叔父と聞くや否や雪羽の困惑度合いは一層増したのだった。源吾郎が指す叔父というのが苅藻である事は解っているのだろう。解った上で、解ったからこそ戸惑っているらしい。

 

「叔父さんって……苅藻さんの事だよね。良いの、()()()()のために?」

「どうした雷園寺君、何と言うか君らしくないぞ。俺の叔父が……苅藻の叔父上の事が君は怖いのかい?」

 

 いっそお守りを押し付けたい衝動が脳内をよぎったが、源吾郎はそれを理性で押しとどめた。雪羽が苅藻に畏敬の念を抱くのも無理からぬ話かもしれぬと思い始めていたのだ。源吾郎にしてみれば、苅藻にしろ三國にしろ等しく甥を持つ年長者である。しかし雪羽の中ではそのような認識ではないのだろうと悟ったのだ。

 猫を被り平静を装っているから解り辛いが、雪羽は案外年長者を前に緊張しがちな性質であるらしい。ましてや苅藻は明らかに三國より年上であるし、過去の一件で三國は苅藻に灸を据えられている。三國の過去の痴情のもつれを雪羽が何処まで知っているのかは定かではないが、苅藻を畏れる気持ちが雪羽に伝わっていても何もおかしくはない。

 妖怪たちは強い者が幅を利かせる世界でもあるが、誰が誰よりも強いのか見定める事もとても大切な事なのだ。そしてその事は、雪羽の方が源吾郎よりも詳しく知っているのかもしれない。

 

「ま、まぁね……叔父貴からもあの妖《ひと》の機嫌を損ねないようにって言われてるし……何回か会った事もあるけど……」

 

 雪羽は結局言葉を濁すだけで決定的な事を口にする事はついぞなかった。それでも向こうは気が済んだのか、その瞳に安堵の色が浮かぶ。源吾郎は所在なく開かれた雪羽の手にお守りを置いた。雪羽からの拒絶は無かった。

 

「叔父は純粋に雷園寺君の事を心配していたんだよ。色々あったけど三國さんの事は弟のように思ってるみたいだからさ。三國さんの甥である君の事も、まぁ弟分とか甥っ子みたいに思ってた感じだし」

 

 雪羽の表情を観察しつつ、源吾郎は冗談めかした笑みを浮かべた。

 

「なぁ雷園寺君。それでも俺の叔父に負い目があるとかそんな事を感じるんだったらこうしようじゃないか。俺が君とのタイマン勝負に勝ったら、君はそのご自慢の毛皮を俺にモフらせてくれよ。抱っこもしたいから本来の姿でな!」

 

 本来の姿に戻った雪羽をモフモフしたい。源吾郎は常々そう思ってはいたが、この時はある種のジョークとして言い放ったのだ。「お前そんな要求するんかよ」「いやいや単なるジョークだってば」みたいな当たり障りのない流れに持って行けば、雪羽も少しは元気を取り戻すだろうという計算である。

 ところが雪羽の反応は予想とは異なっていた。翠眼を瞠りしばし瞬きを繰り返していたが、ゆっくりとした動きで頷き、口を開いたのだ。その面には僅かな気恥ずかしさと決意の色がないまぜになっている。雪羽が真に受けた事は明白だった。

 

「モフりたいんだったら普段の大きい姿の方が表面積も広くて良いかなって思うけど……先輩があっちの姿をお望みなら構わないよ」

「え、本当に良いの? 言っちゃあなんだけどさっきのはほんの出来心で言っただけなんだよ。別にまさか真に受けるとか……」

「大妖怪に二言は無いってやつだよ、先輩」

 

 へどもどしている源吾郎を見つめ、雪羽の面に笑みが浮かぶ。

 

「まぁその大人たちから見れば俺たちってまだ大妖怪とかでも何でもないかもしれないけれど、やっぱりそう言う心構えって大事だし。それにまぁモフらせるくらいなら俺も大丈夫。

 何と言うか、女の子を斡旋《あっせん》してほしいって言われたら流石に困るけどさ。前まではオトモダチも一緒に遊ぶ女の子もいたけど、今はもうみんなと縁が切れちゃったから」

「女の子なんて紹介してもらわなくても、自分でどうにか見つけるからそれこそ間に合ってるよ」

「あははは、先輩らしい意見っすねぇ。そう言う事もあって、苅藻様も良縁のお守りを渡してくれたのかもですね」

「いや、叔父によると良縁って女の子との縁だけじゃなくて、もっと広い意味だって言ってたかな。それこそ友達とか、仲間とか……そんなところも網羅してるって」

 

 雷園寺君に良い仲間がいなかった事を叔父は心配しているのかもしれない。源吾郎はそんな事を思ったがもちろんそこまで言いはしなかった。

 ともあれ雪羽もしおらしい態度は抜けて普段の快活な様子を見せている。源吾郎としてはそれで十分だった。

 

 

 今週、タイマン勝負形式の戦闘訓練は金曜日にあるのみだった。紅藤や萩尾丸が来客対応をせねばならなかったり工場の監査があったりしたために日程調整される事と相成ったのだ。普通の術較べならばいざ知らず、タイマン勝負形式となると青松丸が監督している程度では危険が伴うかもしれない。それが紅藤の考えだった。

 実際には木曜日がどうにか時間が取れそうだったのだが、天候がよろしくないという事で木曜日は地下で術較べを行う事になっていた。天気予報では木曜日は烈しい雨が降るという事らしく、雪羽が雨と泥水の飛び交う中でのタイマン勝負は嫌だ、と主張したのである。

 その主張が通った事を不思議に思う源吾郎だったが、別に雪羽がごねたとかワガママを通したとは特に思わなかった。雪羽もまた貴族妖怪や未来の大妖怪としての矜持を持つ妖怪である。それゆえの美意識の高さが現れているのだろうと思ったくらいだった。

 

 源吾郎も源吾郎で、タイマン勝負の期日が伸びるのは少し歯痒かった。しかし上がそのように判断を下すのならば致し方ないと割り切っていたのだ。源吾郎は確かに紅藤から次代の幹部候補として重宝されてはいる。しかし研究センター内でのヒエラルキーが最下位である事もまた真実だ。新入社員であり、妖怪としても未熟なのだから当然の流れであろう。

 また源吾郎はすぐに意識を切り替え、タイマン勝負が先延ばしになった事を前向きにも受け止めていた。実戦勝負が先延ばしになったという事は、その分練習に充てる時間が増えたという事と同義でもある。次の勝負に向けて技の準備をしておこうと思っていたのだ。次のタイマン勝負では狐火をメイン攻撃に据えようと思っている。使い慣れた弾丸状の狐火ではなく、燃え盛る焔のようなものに仕立て上げるつもりだ。源吾郎は今まで狐火を弾丸状に放つか、力を制御してライター代わりに使う位しか行った事がない。焔のような狐火を造り出すのはどのような感覚なのか、実戦までに知っておく必要があるだろう。緻密な変化術を用いる事の出来る源吾郎であるから、高威力の焔を出すのは造作ない話だ。だがその焔を繰り出すのにどれくらい消耗するのか。その辺りは見定めなければならない。

 源吾郎の戦闘能力が若干アンバランスなのは源吾郎自身も知っていた。攻撃力は高いものの、いかんせんスタミナと防御力に難ありなのだ。妖力そのものは純血の妖怪に劣る事はないのだが、肉体的な脆さや体力面は人間の血に引きずられている所があるらしい。

 ともあれどれほどの威力を持つ火焔を放出し、それに自分が体力的にどれだけ耐えられるかを見ておかねばならないのだ。

 鍛錬については雪羽と合同であるから、源吾郎がどのような技を使えるのか向こうには筒抜けになってしまう。手の内を知られるのは少し癪であるが、これもまぁ上の教育方針なのだから致し方ない。裏を返せば、源吾郎もまた雪羽の術を見て対策を練る事が出来るのだから。

 それに雪羽に攻撃方法を知られるのは何もデメリットばかりでもない。源吾郎の戦闘能力を目の当たりにして、雪羽が委縮する可能性とてゼロではないのだから。

 妖怪同士の闘いは強さや実力が物を言う部分が大きい。しかしそれ以前の気概や迫力やはったりが勝敗を決める要因になる事も十分あるのだ。

 

 

 地下室。青松丸がタブレットを片手に控える中、源吾郎は堂々とした足取りで前に進み出た。背後で見学する雪羽の事も忘れ、彼は五メートル先に置かれた標的に目を向けていた。

 標的は積み上げられたコンクリートブロックである。ホームセンター等で販売されているような標準的な代物であろう。寝かせた状態で五、六段積み上げられていたために、それなりの存在感を放っている。

 源吾郎はコンクリートブロックたちを睥睨し、無言で右手を持ち上げた。

 見据える先はコンクリートブロックの塊であり、思い浮かべるは勢い盛んな焔が吹き出すところである。火焔放射器・活火山・爆発……源吾郎の脳裏に様々な物が浮かんでは消える。ようやく焔のイメージが形を取り始めた。それとともに、源吾郎の指先の空気が揺らぐ。

 次の瞬間、源吾郎はまず頬や指先に熱さを感じた。強いて言うならばヤカンの蒸気を浴びたような、それよりも強力な熱気である。源吾郎はそこで、狐火を焔として顕現させる事に成功した事を悟った。

 それから、焔が爆発的な渦となってコンクリートブロックにぶち当たるのを文字通り目の当たりにした。焔のステロタイプである赤い焔ではなく、黄色と白色が所々入り混じった焔である。巨大な獣の頭部のごとき貪婪さ猛々しさを見せているが……発動させてから今に至るまで焔の立てる物音は殆ど聞こえない。だがそれこそが、焔の凄まじさを物語っていた。

 この光景が繰り広げられている間、誰も何も言わなかった。三者三様に、焔の姿を見入っていた。

 

「……、……っ」

 

 ずっと歯を食いしばっていた源吾郎の額から一筋の汗が垂れる。吐息が揺らぎ、それと共に焔の勢いが弱まった。

 どれだけの時間――何秒なのか何十秒なのか何分なのか――焔を顕現させていたのかは定かではない。だがそろそろ頃合いであろう。そう思った途端に焔の勢いは弱まり、数秒を待たずして鎮火した。

 

「いやはや凄いね島崎君」

 

 軽く息が弾むのを感じていると、青松丸が声をかけてきた。のんびりとした口調であるのが気になるが、それは彼の口癖なのだ。

 標的を見てごらん。青松丸に促され視線を動かし……源吾郎は絶句した。今まで狐火を振るっていた所に鎮座していたコンクリートブロックたちは姿を消している。いや、厳密にはドロドロに融けた何かが床にへばりついているくらいであろうか。灰色の床と同系統の色調なので注意しないと見失ってしまいそうだが。

 

「そのドロドロに融けているのは、君が焼き払ったコンクリートブロックだよ」

 

 源吾郎を一瞥し、青松丸が口を開く。彼は源吾郎ほどには驚いていなかった。

 

「確かにコンクリートブロックなんてものはそう易々と燃えたり融けたりする代物じゃあない。確か千二百度以上の熱でようやく融けるらしいんだ」

 

 島崎君はそれだけの威力の焔を放ったんだよ。淡々とした口調で青松丸が告げる。

 

「時間にして四十五、六秒くらいだね。もちろん焔だからかなりの熱はあるけれど、あの威力のままそれだけ持続させる事が出来るなんて……頑張ったね島崎君」

「やっぱり俺の焔って凄かったですか?」

「もちろんだよ。コンクリートブロックでさえああなったんだ。生き物が直撃すればひとたまりもないよ。その生き物の中には防御していない妖怪も含まれるよ」

 

 源吾郎ははじめ、自分の振るった焔の威力がどのような物か解らず半ば呆然としていたのだ。コンクリートブロックが融ける事は今さっき知った所である。従って、コンクリートブロックが融けたのを見たのも初めてだった。あまりにも現実離れした光景だったので、半ば茫洋としてしまっていたのだ。

 しかし今は違う。青松丸に焔の評価を下してもらい、自分がとてつもない術を使う事が出来たのを素直に喜んでいたのだ。青松丸は研究センターの中では影の薄い妖物であるが、源吾郎はきちんと彼にも敬意を抱いていた。紅藤の息子である彼は研究センターの中では割と高い地位に位置していたし、何より大人としての落ち着きと知識を彼も持ち合わせていたからだ。積極的に絡んでくるタイプの先輩ではないが、隙あらば煽ってくる萩尾丸に較べればうんと良い先輩だと思う位だ。

 

「青松丸さん。それじゃああの火焔が雷獣に当たったら――」

 

 一発で勝負がつきますよね。そう言いかけたまさにその時、気の抜けた拍手が源吾郎の鼓膜を震わせた。質問の最中に横槍を入れられたのだ。

 拍手の主は言うまでもなく雪羽だった。壁を背に座って見学を決め込むこの雷獣少年の存在を、源吾郎は今の今まで忘れていたのだ。足元には水筒が置かれており、雪羽は口許をもごつかせていた。暑さを感じて水筒の中の氷でもかじっているのだろう。

 

「いやはやびっくりしましたよ先輩! あんな凄い焔を……カッコいい術を使えるなんて」

 

 氷を飲み下すなり、雪羽はまず驚きの声を上げた。頬が火照っているのは何も暑さのためだけでは無かろう。彼が興奮している事は目を見れば明らかだった。澄んだ翠眼は光を宿して輝き、黒目も大きく広がっていた。

 

「ねぇ先輩。あの術も狐火なんですか? あれだけ威力があるんだったら、それこそ三昧真火《さんまいしんか》って言っても良さそうですね」

 

 雪羽は源吾郎の焔の凄さに圧倒されてそんな事を言ったのだろう。源吾郎はしかし、三昧真火の名を聞いて左の眉を吊り上げた。

 

「そんな、冗談きついぜ雷園寺君。何が悲しくて糞忌々しい姜子牙《きょうしが》の使った技の名を継承せにゃならんのさ。確かに世間では姜子牙は新しい国を作った英雄なのかもしれん。しかし玉藻御前の末裔たる俺にしてみれば忌まわしい怨敵だよ。というかそれって雉鶏精一派全体でも同じだろうに」

 

 源吾郎が三昧真火の名を嫌がったのは、すぐに術の使い手である姜子牙を連想したからだった。商王朝(殷王朝)が亡ぶ際に姜子牙は兵を率いて革命を起こしたとされているが……金毛九尾を筆頭に三妖妃たちに害をなした存在である事は言うまでもない。

 源吾郎が姜子牙を疎むのは割合個人的な考えであるが、胡喜媚が頭目だった雉鶏精一派でもその風潮は強い。紅藤はかつて自分の社用車に四不像《しふぞう》と名付けようとしたところ、姜子牙の騎獣であるという事で却下されたのだそうだ。

 

「そうか。言われてみてば先輩の言う通りかも。確かにそれはきまりが悪いよなぁ……」

 

 納得した様子を雪羽は見せているものの、何処となく軽い態度に源吾郎には見えた。それこそ縁あって雉鶏精一派に所属しているものの、本質的には外様《とざま》である事を示しているようにも思えた。

 

「いやさ、先輩が縛妖索《ばくようさく》を買ったって言ってたから、あんな派手な焔の術を三昧真火って呼ぶんじゃないかなって思っただけさ。そうしたら、俺の雷撃とか雷公鞭《らいこうべん》って呼べるしさ。

 三昧真火も凄いけど、雷公鞭だって凄いしさ」

 

 言うや否や、雪羽の右手が激しく放電を始める。その放電は一筋の柱となり、光る剣のような様相を見せた。昔のSF映画で見かけるアレにそっくりである。

 その様子を眺める源吾郎の顔には、はっきりと呆れの色が浮かんでいた。

 

「姜子牙に対抗して申公豹になったつもりかい? しかし雷園寺君、雷公鞭が申公豹《しんこうひょう》の武器というのは後付けに過ぎないんだぜ?」

「そんな細かい事は良いじゃないか」

 

 源吾郎の指摘を受け流す雪羽の言葉と態度は確かに雷獣らしい物だった。雪羽は顕現させた「雷公鞭」を消すと、真面目な面持ちで源吾郎に視線を向けた。

 

「まぁ何にせよ、苅藻様の所に相談に行ったのは正解だったみたいっすね。俺も正直、先輩があすこまで凄い技を繰り出すなんて思ってなかったから……」

「そうか……」

 

 鷹揚な先輩妖狐の体裁を保とうとしていた源吾郎であったが、雪羽の言葉を聞いて内心ではほくそ笑みが止まらなかった。

 あの気位の高い雪羽が、源吾郎の焔を見て驚嘆し通しである。源吾郎の力量が雪羽のそれを上回っている事の証拠ではないか。雪羽の態度を見ながら源吾郎はそのように思っていたのだ。




 雷獣が熱さに弱い→「せや、焔をぶつけたらええねん!」という結論に至ってますが、1200度の焔だったら誰でもやられると思うんですがこれは……

 余談ですが源吾郎君は勉強熱心なので、封神演義のバージョン違いには敏感ですね。雪羽君は多分……安能版の封神演義を読んだ口なのでしょう。


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野狐たちは顔を合わせて話たる

 さて金曜日となって待ちに待った戦闘訓練の時間と相成った。源吾郎が新たな技を編み出してから初の戦闘訓練であり、彼にとっては節目に当たる訓練でもあった。

 新技を皆に披露したいという源吾郎の思いとは裏腹に、この日集まった観客たちは少なかった。研究センターの面々が揃っていたり三國の配下が出席しているのは言うまでもないが、萩尾丸が連れてきた部下たちは僅か数名だけだったのだ。萩尾丸の部下たちと言えども彼らにも彼らの都合がある。それを気にせずとやかく言っても致し方ない。

 それに萩尾丸の話によると、小雀の若妖怪たちの中には源吾郎と雪羽のタイマン勝負に興味を失い始めている者も出始めているのだそうだ。 

 別に源吾郎の闘いぶりがショボいからではない。むしろ彼らの目には源吾郎も十分に()()()()存在に映っているくらいなのだという。その源吾郎を軽々とあしらい勝利をもぎ取る雪羽の存在は言うまでもない。要するに、自分より隔絶した妖怪同士の闘いは見世物としては面白いが……勉強して何かに役立てられるような代物ではないと判断する若妖怪たちがいるという事だ。ましてや、若妖怪の中には争いや闘いが苦手な者もいるのだから尚更だろう。

 そして萩尾丸が連れてきた部下たちというのは、妖狐が一匹とあとはハクビシンやアナグマ、或いはイタチっぽい妖怪たちの数匹だった。

 種族も見た目も体格もてんでバラバラな若い獣妖怪たちであるが、源吾郎は共通点をすぐに見つけ出した。何と言うか大人びて落ち着いたオーラを漂わせているのだ。まるきり子供丸出しな雪羽や少年らしさが色濃い珠彦たちとはえらい違いである。心持ち、珠彦たちよりも妖気も多そうな気もする。

 

「こんにちは、島崎君……」

「こ、こんにちは先輩」

 

 そんな事を思っていると、妖狐の若者がこちらに向かってきた。見知った顔ではないのでへどもどした源吾郎だったが、一応挨拶を返す。相手は珍しく黒狐であるらしく、背後で揺れる二尾は先端以外は黒々とした毛で覆われていた。

 無論二尾だから妖力は源吾郎よりも少ないだろう。しかしその若さで二尾に到達している事を思えば、彼もまた一定水準の才能を持つ妖狐なのかもしれない。

 二尾の妖狐は簡単に名を名乗ると、自分が玉藻御前の末裔を自称している事を口にした。目を丸くする源吾郎をよそに、彼は頬に笑みを浮かべながら言葉を続ける。

 

「末席ながらも僕も玉藻御前の末裔を名乗る妖狐の一人だからね。()()である島崎君とは仲良くしておきたいなと思ってるんだ。君が出世して地位と発言権を得た暁には、必ずや僕たちに何か働きかけるだろうからね」

 

 あ、まぁそれはどうも……社会人というよりむしろ学生みたいな声を出して、源吾郎は相手と握手を交わした。

 玉藻御前の真なる末裔の数は少ないが、玉藻御前の末裔を自称する妖狐たちの個体数は地味に多い。玉藻御前と縁深い雉鶏精一派もまた、こうした妖狐集団とは無縁では無い。というか萩尾丸などは面白がってそんな妖狐たちを進んで自分の部下として雇い入れているくらいだ。顔と名前は定かではないが、萩尾丸の部下の中にも自称・玉藻御前の末裔は十数匹はいるらしい。

 ともあれ黒狐の青年が若干の懸念を抱いているのは真実だろう。玉藻御前の末裔を自称する妖狐たちがのうのうと暮らせるのは、本物たち(特に白銀御前)がその存在を黙認しているからに他ならない。またそう言った考えを持つ本物たちとは異なり、源吾郎が彼らの存在をあまり良く思っていない事もまた事実だった。きっとその事は彼らも何処かで知っているだろう。ゆくゆくは雉鶏精一派の幹部となり、最強の妖怪を目指す男なのだから。

 であれば、自分の保身のために源吾郎と親しくしようと思ったとしても何らおかしな話ではない。

 そう思っていると、黒狐の青年は顔をほころばせ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

 

「ああ、別にさっきのはちょっとした冗談だよ。それでも君の親戚である桐谷さんたちにはお世話になってるし、同じ組織に勤務してるわけだしね」

 

 聞けば苅藻やいちかは彼が所属する「自称・玉藻御前の末裔」たちの会合に賓客として年に二度ほど出席するらしい。叔父たちは一応術者として顔を出すのだが、彼らが()()である事は会合では広く知られてもいる。

 そっくりさんというか偽物連中が集まる会合に事もあろうに苅藻やいちかが出席しているとは……その事実を知った源吾郎はめまいのような混乱を感じずにはいられなかった。苅藻達がその会合に出席し受け入れられているという事は、玉藻御前の末裔を自称する団体は()()の存在なのだろうか。関西圏、特に京都や阪神地区はどうも稲荷の連中が幅を利かせている。安倍何某と玉藻御前との因縁も相まって、稲荷に仕える狐たちは玉藻御前の子孫たちをとかく目の敵にしがちであった。そう言った事から、苅藻達も自称・玉藻御前の末裔たちと連携を取っているのかもしれない。とはいえ今はそれをあれこれ考察している場合でもないのだが。

 

「と、ともあれ今日はわざわざ観に来てくれてありがとうございます」

 

 しばし考えこんでいた源吾郎であるが、気を取り直して言葉を紡いだ。バッタもんと本物の違いを見せつける機会だと思ったからだ。

 

「実は今週は色々と新しい技を確立させましてね……今まで負け戦ばかりで情けない所をお見せしていましたが、今回はそうは行きませんよ。もしかすると、本部で働くと言った狐たちはこの度の決定的瞬間を見逃したと言って後で歯噛みするかもしれません」

 

 源吾郎はそこまで言い切ると、狐らしくニヤリと笑った。言葉自体はいつものように謙遜している体であるが、その実おのれの実力と新しい技を観客に見せつけたくてしようがない所だったのだ。

 また、自分が負け戦ばかりで大した事ないと思われているのではないか、という考えもあるにはあった訳だし。

 そのような源吾郎の考えを知ってか知らずか、黒い妖狐は淡く微笑んだだけである。

 

「島崎君。別に僕らは君の勝敗がどうであれ情けないなんて思ってないよ。

 そもそも君は雷園寺君に果敢に立ち向かっているけれど、()()()()()が僕らにしてみれば驚嘆すべき事なんだから」

 

 妖狐の視線が一瞬雪羽に向けられた。雪羽は雪羽で三國の部下たちと何事か話し込んでいる。

 

「雷園寺君は強いというのが僕らの認識なんだ。力量差が大きすぎるからね。全力で闘ってみたけれど力及ばず負けてしまったとか、そう言う次元じゃない。まず彼を相手取って()()()()()()()()()()。それくらいの差が僕らと彼の間にはあるんだよ」

 

 闘う前から勝負が決まっている相手は君にもいるはずだ――言い添えられた妖狐の言葉に源吾郎は頷くほかなかった。それこそ、師範である紅藤や萩尾丸などと言った兄弟子らに楯突きその地位を奪う事など考えられない事だからだ。

 雉鶏精一派の幹部である八頭衆の面々は発足から揺らいでいないものの、配下たちによる下克上や地位の奪取は認められている行為だった。何せ第一幹部の峰白からして、「私の地位が欲しければ私を殺してごらんなさい」などと公言しているのだから。極端な話、紅藤を打ち負かせば第二幹部の地位を得られるし、頭目以上の発言権を持つとされる峰白を殺せば雉鶏精一派を掌握する事にもなる。この事は源吾郎にももちろん当てはまっていた。

 ()()()源吾郎は、峰白や紅藤に対して下克上を働こうという気概は無い。相手が萩尾丸や三國と言った若手幹部であっても同じだ。それは彼らが自分よりも強いという事を受け入れているからに他ならない。

 

「まぁそれにしても島崎君も頑張ってるよね。戦闘訓練で立ち向かうだけじゃなくて、雷園寺君とも結構仲良くやってるってうちのボスから聞いたんだけど」

「え、ええと……まぁ先輩から見たら仲良く見えるのかもしれませんね。というか僕も雷園寺君も仕事上の付き合いですから……」

 

 やっぱり萩尾丸先輩由来の情報か。半ば呆れつつも源吾郎は作り笑いを浮かべて言葉を紡ぐ。源吾郎としては雪羽とどのように接しようか模索している所もあるが、大人妖怪には無邪気に仲が良さそうに見えるのかもしれない。雪羽も研究センター勤めに慣れてきたのか、隙あらば源吾郎に近付くようになっていたし。まぁ、彼の話も面白く目新しいので会話が楽しいのも事実である。

 妖狐の青年は目を細め、様子を窺うように言葉を添えた。

 

「雷園寺君は確かに自分に正直で何を考えているのか解りやすい妖《ひと》だとは僕も思っています。ただどうしても、島崎君みたく自然体にあの妖《ひと》と接するのは僕らには難しいんですよ。いかんせん自分に正直すぎますし、地位も力もありますんでね。

 きっと雷園寺君が僕らの職場で働くようになったとしたら、僕らではついついあの妖《ひと》の機嫌を取るような事しかできないかもと思っているんですよ。正直な所はね」

 

 自分たちは雪羽の存在を恐れている。その事を妖狐の青年は暗に伝えているのだと源吾郎はすぐに気付いた。源吾郎にとっては弟分なのか年長者なのか判然としない存在である雪羽だが、他の若妖怪が雪羽を恐れるのも無理からぬ事だと思っていた。

 その理由はやはり、彼の言う通り雪羽が強さと権力を兼ね備えているからだろう。

 雪羽の妖怪としての能力が著しく抜きんでている事は言うまでもない。四十を超えたかどうかという子供であるにも関わらず、既に中級妖怪の域に食い込んでいるのだから。しかもただ多い妖力を保有するだけではなく、闘いの心構えも力量もきちんと具えているのだから尚更だ。

 そして地位に関しても妖狐の青年の指摘通りである。現在は再教育という事で萩尾丸の秘書もとい雑用係という地位に収まっているが、元々は第八幹部の組織内では部長職相当の役職を得ていたらしい。規模や妖員の数は異なるが、研究センターの序列で言えば萩尾丸の地位とほとんど同じである。幹部職ではない上に三國の贔屓によってもたらされた地位であると言えども、普通の若妖怪が委縮するには十分すぎる地位だった。

 雪羽を引き取った萩尾丸は、自分の部下たちに引き合わせずにまず源吾郎に雪羽を引き合わせた。もしかしたら雪羽の意向だけではなく、部下の若妖怪たちの態度も考慮して、萩尾丸はそうした行動に踏み切ったのかもしれない。そんな考えが源吾郎の脳裏をかすめた。



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その焔 心の闘志に火をともす ※戦闘描写あり

 源吾郎と雪羽は互いの様子をうかがいながら、会場に足を踏み入れた。紅藤や萩尾丸は来客対応で多忙だったが、青松丸あたりから訓練の状況を聞いていたのだろう。前よりも会場である円陣が広がっている事に源吾郎は目ざとく気付いた。

 源吾郎も雪羽も飛び道具を使うのだから、やはり広い方が何かと役に立つ。もっとも、雪羽は新しい技を用意していた訳でもなく、単なる雷撃の術を黙々と練習していただけだが。

 

 号令と共にまず動いたのは雪羽だった。今回も彼は獣の姿ではなく普段通り人間の少年の姿である。ゆったりと手が動き、それと共に雷撃が生成される。銀色の矢に見える雷撃が源吾郎に向かって走るのは言うまでもない。

 源吾郎は無言で迎撃した。一尾を横薙ぎに振るうと火焔が広がり、雪羽の雷撃を呑み込んだのだ。最初の戦闘では、源吾郎の狐火の弾丸を雪羽が相殺した。今度はその逆の事が行われたのだ。

 

「ははは、これは単なる小手調べだよ」

 

 雪羽はそんな事を言って軽く笑う。ずっと戦闘訓練を重ねてきて気付いた事だが、雪羽はどうも遊んでいるような気配を見せる事が多いのだ。それは真剣に闘っている源吾郎とは違っていた。それこそが強者の余裕という物だろうか。だがそれは致命的なものである事に雪羽は気付いているのか。

 源吾郎もまた笑った。笑いながら狐火を放ったのだ。ずっと焔の形にする練習を続けてきた源吾郎である。最初は黄色がかった焔であったが、今雪羽を呑み込まんと渦巻く焔は蒼白い焔だ。火力も温度も前よりは上回っていた。直にぶつかれば致命傷判定は出るはずである。雪羽からの反撃を受ける前に相手に致命傷相当のダメージを与える事。それこそが源吾郎が勝利する方法だった。

 もっともこの技も大規模であるから、十数秒くらいしかもたない。しかし高火力の攻撃であるから十数秒もあれば決着はつくはずだ。

 

 とはいえ実の所、雪羽の様子は源吾郎には見えなかった。攻撃手段である焔によって、ある意味視界を遮られているからだ。今回も源吾郎の焔は大きなものだった。それは彼の自信と威信を示しているかのように。

 その蒼白い焔は、時々小さな爆発を起こしたり揺らいだりしていた。盛んだ、と思う位で特に気にも留めなかった。烈しい術であるから出力の関係で揺らぐことは多少あるだろう、と思ったくらいだった。

 一陣の風が吹き抜ける。焔によって空気が暖められているために生温い。そして僅かに焦げ臭い匂いを孕んでいた。

 

「――!」

 

 その数瞬後、源吾郎のすぐ傍で風船の割れるような鋭い音が響く。苅藻の許で購入した、自動防御型の結界が発動した音だ。厳密には発動して結界術が破られた音であろう。

 源吾郎は繰り出していた焔をそのままに頭上を振り仰いだ。

 一杯食わされた。源吾郎は密かに歯噛みした。きっと雪羽は狐火が放たれた瞬間に飛び上がり、焔の影響がない上空から雷撃を放ったに違いない。

 何処だ、何処にいる? 源吾郎は青空を眺めながら雪羽の姿を探した。それらしい姿は中々見つからなかった。

 それでも源吾郎は雪羽の存在をどうにか発見した。と言っても、その時には既に雪羽は源吾郎めがけて躍りかかっている最中であったが。読み通り上空から機会をうかがっていたようだ。

 黒い粉をまき散らしながら落下する雪羽は、いつの間にか大きな獣の姿に変化していた。雷撃を放つ気配はないが、両の前足は細かく放電し黄金色に輝いている。猫のような鋭い爪の先から放電は生じていた。獣の爪には血管が通っている。その事は雷獣も同じである。しかし血管の隣にもう一つ空洞の管があり、そこから放電が行われているのだ。

 雷獣の霊妙な身体の仕組みはさておき。源吾郎はとっさに尻尾で雪羽と自分から距離を置く事にした。雷撃仕込みの雪羽の雷獣パンチが尻尾に伝わる。ダメージは少ない。源吾郎は尻尾の表面にも結界を張る事が出来るからだ。

 そのままの勢いでもって尻尾から火焔を放ち、飛びのいて更に距離を取った。尻尾の火焔という曲芸じみた技は雪羽には当たらなかった。しかし向こうも火焔を警戒して距離を取ってくれたのでまぁ良かろう。

 

「……その姿で闘うのかい、雷園寺君」

 

 空中で器用に身をひねって着地する雪羽を見て、源吾郎は思わず声を漏らす。雪羽は回避する間に完全に変化を解いていた。威圧的な巨大な獣の姿ではなく、猫とハクビシンの合いの子のような、小ぶりな獣の姿を見せていた。これが雪羽の本来の姿である事は源吾郎も知っていた。一度生誕祭の折で見ていたからだ。

 戦闘訓練の際に、この本来の姿を見せるのは初めての事だった。

 

「ヴヴ、ヴミャアァァァ……!」

 

 源吾郎の問いに応じるは、言葉ではなく獣の咆哮だった。顔つきだけではなく啼き声まで猫のそれにそっくりである。若干だみ声で、獰猛さに満ち満ちていたが。

 別に雪羽の理性が飛んだわけではあるまい。妖怪というのは鳥獣の本性を持ち合わせるが基本的に優れた理性と知性の持ち主でもあるのだから。

 従ってあの咆哮は源吾郎に対する威嚇に過ぎないのだろう。

 

「勝負は勝負だもんな。その姿に戻ろうと容赦はしないよ!」

 

 源吾郎は言いながら今一度火焔を振るった。先程の巨大な火焔ではないが、それでも細長い燃える剣を連想させる代物だ。雪羽はしかし恐れげもなくそれを回避しただけである。

 

 

 源吾郎と雪羽の闘いは妙に長引いていた。長引いていると感じるのは、雪羽が決定打である雷撃を放ってこないためである。今までと違う事だ。雪羽は余裕ぶっている節があるが、ご自慢の雷撃は惜しげなく使うタイプである。そしてその雷撃が源吾郎を仕留める一撃になっているのだ。

 しかし逆に、源吾郎もまた雪羽を仕留められずにいた。もちろん雪羽が雷撃を使わないという異変には気付いている。だからこそ弾丸状の狐火や帯状の火焔でもって仕留めようとするのだが、難なく回避されてしまうのだ。

 動く雪羽の存在を見て照準を定める事は困難を極めた。スピードに特化した雷獣の素早さはやはり伊達ではない。ましてや雪羽は走り回るだけではなく飛び上がる事も出来るのだから。動体視力もとんでもなく高く、フェイントを仕掛けた所でひらひらとかわされるだけだった。

 追尾式の狐火も使ってみたが、こちらも全く無意味だった。追い詰められているように狐火から逃げたかと思いきや、やにわに方向転換して源吾郎めがけて突っ込み、源吾郎とあわや衝突寸前という所で上空に飛び上がってみせたのだから。一つ間違えれば源吾郎がおのれの術で自爆する所だったのだ。

 

「この、大人しくやられないか」

 

 源吾郎は言いながら小さな弾丸状の狐火を放る。理由はさておき、雪羽も雷撃を放てない程消耗しているらしい。だからという事で狐火で攻撃を仕掛けていた。だがそのほとんどは回避されたり弾かれたりして決定打にはならなかった。

 現に、雪羽に向かって放たれた狐火も、二発は回避され残りの一発は右前足で弾かれた。前足の先がうっすらと灰色に霞む。ダメージを受けたという護符からのシグナルだった。致命傷からは程遠いのは言うまでもない。

 

「雷撃を使えないからって、俺が大人しく仕留められるとでも?」

 

 雪羽は源吾郎の苛立ち交じりの言葉にかすかに笑う。獣そのものの顔なのだが、それが笑みなのだと源吾郎にははっきりと解った。

 

「そう言う先輩こそ、あの狐火をもう一度使ってみては? あ、でも今もチマチマとでもずっとぶっ放しているからもう余力が残っていないとか?」

「…………」

 

 源吾郎はもう一度狐火を放つ。それから目を瞠った。この狐火は雪羽の放った雷撃によって打ち消されたのだ。呆然とする源吾郎を見ながら、雪羽はまた笑った。

 

「まぁ、こっちはそろそろ雷撃も使えるようになったけどね!」

 

 言い放つなり雪羽は数発の雷撃を生成し、源吾郎の許に放った。どういう原理かは定かではないが、雷撃の軌道は放射線状にまず外側に逸れて動き、それから斜めに源吾郎に向かっていく。位置からして急所を狙っているのは明らかだ。

 

「ぐっ、うぅっ……」

 

 源吾郎は尻尾を展開して雷撃から本体を護った。いきんだために妙な声が出てしまったが、特に衝撃は無い。尻尾を護る結界の強度が、雷撃の力よりも上回っていたらしい。

 しかしその次の瞬間にはっきりとした衝撃が源吾郎のみぞおちに走った。護符が緩衝材を果たしていたが、それでも一瞬息が詰まったのだ。護符の護りなしにマトモに喰らっていたら、それだけで昏倒していたかもしれない。

 視界を下にずらす。白くて小さな獣が源吾郎のみぞおちに頭突きをかましていたのだ。しかもご丁寧に放電しており、白銀の毛皮は小さな稲妻で覆われている。

 みぞおちという急所への攻撃。しかも放電のおまけつきである。

 源吾郎は今回も負けたのだった。

 雪羽は身体を動かすと、源吾郎から少し距離を置いて着地した。小さな獣の姿はむくむくと巨大化し、半獣の姿を経てから見慣れた少年の姿に戻っていた。

 

 

「はぁー、暑かったぜ。もうすっかり秋だって言うのに。ビールが恋しくなるなぁ。チューハイでも良いけど」

「ビールとかチューハイが恋しいって、その姿で言ったらあかんやろ」

 

 訓練後。さも暑そうにぼやく雪羽に対し、源吾郎はツッコミを入れていた。彼が暑がっているのは事実であり、現に日頃ならフワッとした銀髪も汗で濡れて額や頭にへばりついている。見かねた紅藤から、この後シャワー室でシャワーを浴びるように勧められたくらいだ。

 源吾郎のツッコミに対し、雪羽は明るい笑みを見せていた。

 

「ああそっか。人間社会では子供はお酒は飲んだら駄目だって言われてるもんなぁ。別に俺は人間様のルールに従わなくて良いんだけど……あ、でも萩尾丸さんからはお酒は飲んだら駄目って言われてるし」

「そらそうやろ」

 

 萩尾丸からの言いつけを口にした雪羽はバツの悪そうな表情を浮かべていた。源吾郎はそれにもツッコミを入れてやった。割と投げやりな口調になってしまったけれど。

 つれない態度の源吾郎の顔を雪羽は覗き込む。イタズラを思いついた子供のような無邪気な笑みが浮かんでいた。

 

「先輩。先輩の事だからあのご自慢の狐火で向かってくる事は予測してたんだ。その対策をしていたのは言うまでもない事さ」

 

 雪羽はそう言うと、訓練着の間をまさぐり、何かを指でつまみ上げる。得意げに源吾郎に見せつけるそれは、何処からどう見ても黒く焦げた燃えカスだった。

 

「一応焔よけの護符を五、六枚用意していたんだけど、全部燃えちゃったんすよ。えへへ、そういう意味では先輩の火力はとんでもなかったよ。護符がすぐに使い物にならなくなったから、どうにか雷撃で防いでいたんだ」

「それで、頃合いを見て飛び上がったんだな」

 

 得意げに頷く雪羽を見ながら、源吾郎も静かに納得していた。雪羽がすぐに雷撃を使えなかったのも、源吾郎の焔を防ぐために雷撃を使い続けていたからだったのだ、と。

 

「実を言うと、今回はもしかしたらギリギリ危なかったかなと思ってたんだよね。今までと違って、遊び感覚でやってたら負けるなぁと思ってさ」

「……そこまで雷園寺君の事を追い詰めてたのか」

 

 源吾郎は強く驚き、それで呟いていた。とはいえ驚きを筆頭に色々な感情が強すぎて、声は却って平板になったが。

 確かに言われてみれば、今回はいつもの戦闘とは違っていた。今までは源吾郎が早々に策を失い一方的にやられていたが……今回は多少は拮抗できたともいえる。

 雪羽は頷き、源吾郎を見やる。翠眼がきらめき強い光を放っているようだった。

 

「妙な言い方だけど、先輩の強さが解って俺は嬉しいよ。今までは何か物足りないというか歯ごたえが無かったからさ……えへへ。次からは俺も本気を出せるかも」

 

 やっぱり雷園寺はバトルジャンキーじゃないか。というかこっちは散々苦労したのにあれでもまだ本気じゃなかったのか……雪羽の笑みに対し源吾郎は笑い返すも、愛想笑いというにも引きつったいびつなものに過ぎなかった。




 実はカクヨムでも「雪羽君強すぎィ!」と言われました。
 ですが、強いライバルとバチボコやり合うのって燃えませんかね?


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泥濘に沈みて妙案浮き上がる

 いつかの伏線回収です。


「ホップ、今日は一日中家を空けるけど、良い子でお留守番できるかな?」

「プッ、ププッ!」

「大丈夫だよ。ちょっと用事があるだけだけど、夜には帰るから」

「ピュイ、ピッ」

 

 土曜日の朝。出かける支度を済ませてから源吾郎はホップに声をかけた。蠱毒の一件で源吾郎を避けていたホップであったが、その態度も徐々に軟化しているようだった。今日だって源吾郎の声掛けに返事しているし、先程の放鳥タイムの時も逃げまどわず、手を差し出すと素知らぬ顔で乗って来てくれたのだから。

 今日は叔父が言っていたかいぼりの日だった。有償でのかいぼり参加については事前に紅藤に許諾も取ってある。それにずっと吉崎町でごろごろしていてもつまらないので丁度良いガス抜きになると源吾郎は思っていた。

 特に雪羽とのタイマン勝負では負け続きなので尚更だ。

 

 

「あ、よく見れば島崎君じゃないっすか。()()()()に参加してたなんて奇遇っすね!」

 

 主催者である河童の指示に従って並んでいる源吾郎に親しげな声がかけられる。声の主は珠彦だった。驚いたように目を丸くしていた彼であるが、源吾郎に再会してすぐに嬉しそうな表情を見せてくれた。

 

「お、野柴君も参加してたんだ。こんな所で会えるなんて」

 

 源吾郎はそれから、目を伏せつつ理由を言い添えた。

 

「最近ちょっと出費が増えて、叔父がここを教えてくれたんだよ」

「島崎君は一人暮らしだし、やりくりとか大変そうっすねー」

「ははは、まぁやりくりは気を付けようと思ってはいるんだけどな」

 

 照れ隠しに源吾郎は頭に手を添えていた。自分が貯蓄ややりくりが苦手である事は源吾郎も良く知っていた。末っ子であるがゆえに親族たちに甘えれば小遣いをせしめる事の出来る環境下に十八年間いたから致し方なかろう。

 それに兄たち(特に長兄)の言を脇に置き、お金を惜しげ無く使うのは美徳であるとも考えていたのだ。妖怪たちは人間の貨幣を用いる事があるが、長期間それを持ち続ける事はないという話を自分なりに都合よく解釈した末の事だった。

 実際には、妖怪たちが同じ貨幣を持ち続けないのは貨幣の価値がすぐに変動する事を知っているからなのだけれど。

 

「それに、たまにはこうして住んでる町の外に出て()()()()も良いかなと思ってさ」

 

 ガス抜きという言葉に、源吾郎はそう深い意味を込めたつもりはなかった。

 ところが、珠彦はその言葉を聞くとやや深刻そうな表情を浮かべてしまったのだ。

 

「確かに島崎君は今ガス抜きとか必要っすよ。今もきっと、雷園寺さんとの戦闘訓練の事とか考えてるんじゃないっすか?」

 

 丸っこい瞳を動かしながら告げる珠彦を前に、源吾郎は間の抜けたような声を上げてしまった。まさしく図星だったからだ。しかもそれを陽キャ気質の珠彦に見抜かれたから尚更戸惑ったのだ。

 源吾郎の戸惑いに気付いたらしく、珠彦はいたずらっぽく微笑んだ。

 

「勝負の結果とか、そんなに気にしなくても良いと思うっすけどね島崎君。雷園寺さんって、ほんの子供の頃から三國様に戦闘術の手ほどきを受けてるんでめっちゃ強いのは自然の摂理っすよ。で、それに立ち向かう島崎君も俺らにしたらめっちゃ強いっす。

……島崎君が普通の狐だったら、他の皆も応援してくれたかも知れないけれど」

 

 珠彦の最後の言葉は考えさせられるものだった。このところ雪羽の事で頭がいっぱいだったために気付かなかったが、他の若妖怪たちとの距離が広がっている事を今ここで悟ったのだ。いや、距離が広がったというのは源吾郎の錯覚に過ぎず、元から彼らとの距離は広いのかもしれない。

 島崎君が普通の狐だったら。その言葉にはそう言う意味が含まれているように思えてならなかった。

 

 

 集まった数十名の妖怪たちの中には、アライグマやヌートリアやアナウサギの妖怪もしれっと紛れ込んでいる。それを見て源吾郎は吹きそうになり、笑いをこらえるのが大変だった。このたびのかいぼりではザリガニ等の外来種を駆除するのが主だった活動だ。だというのに活動する側に外来生物が混入しているというのは相当な皮肉であろう。

 とはいえ源吾郎もまたアライグマ達を指差して「お前ら外来生物だな!」と言える身分ではない。玉藻御前の末裔である源吾郎もまた、外来種の子孫なのだから。玉藻御前はむしろ特定外来生物というか特定動物とか特定妖物に指定されそうな存在でもあろう。

 

 在来種も外来種も妖怪も人間も関係なく、かいぼり活動は黙々と進められた。主催者である河童チームは手練れの妖怪たちだったらしく、他のメンバー(ヒトや獣妖怪などの陸生生物たち)が活動しやすいように池の水は事前に大半が抜かれていた。あとはみんなで池底に入り、繁茂したホテイアオイなどと言った外来の植物を除去したり、浅い水の中で逃げまどう魚やザリガニどもを捕獲するだけで良い、という寸法である。

 妖怪たちが参加しているという事を除けば、妖怪的な要素の薄いイベントではある。それでも参加者たちは盛り上がっており、「あー、この虹色のタナゴは外来種なんかー。綺麗やのに駆除対象はかわいそうやな」だとか「ザリガニもウシガエルも肥ってるし。こりゃあ美味しそうだな」などと言った声が方々で上がっている。ごく普通の人間たちが行うかいぼりとよく似た情景が繰り広げられていたのだ。

 余談だが駆除される外来生物たちは食材として持って帰る事も可能なのだという。肉食性の獣妖怪たちの中には、ザリガニやカエルを食べる事に抵抗のない者たちも多い。それにどうせ駆除するなら食材として頂こう! という考えは合理的である。妖狐や狸といった明らかに陸生の獣妖怪の参加者が多いのもそのためだろう。現に珠彦も、ザリガニとかブルーギルとかジャンボタニシなどを食材を見る目で眺めている訳だし。

 源吾郎はそんな憐れな外来生物たちを食材として持って帰ろうとは特に思っていなかった。ザリガニもブルーギルも元を正せば巨大なエビや白身魚なのだろう。だが泥の中で泳ぎ回るその姿は、どうも食材には結びつかなかった。ただそれだけである。

 

 

 さて黙々と活動していた源吾郎であるが、もうそろそろ終了時刻が近づいている事に気付いた。というのも、先程まで池の中に入っていた面々の多くが既に陸上に上がっているのを目撃したからだ。数名の、夢中になって魚取りをしていた者たちも、池の縁に向かって歩いたり、既に陸に上がって泥水で軌道を描いたりしている。

――また集中しちゃって遅れちゃったかな

 源吾郎は少しだけ焦りを感じ、歩を進めた。泥水が跳ね飛ぶが気にしない。そのために汚れても良い服装で来ているのだから。

 まっすぐ進めば最短距離で岸に到着するだろう。源吾郎は素直にそう思っていた。

 

「――!」

 

 そうして進み始めた源吾郎だったが、その歩みは空しく止まってしまった。運の悪い事にぬかるみに足を取られたのだ。何か足許が軟らかいな、と思った時には既に事は終わっていた。源吾郎はそのまま腰のあたりまで泥の中に沈んでしまったのだ。もちろん、ぬかるみから脱出しようと苦し紛れに足を動かしてもみた。しかしぬかるみから脱する事は叶わず、余計に深みにはまりかけただけである。

――え、こんな所でぬかるみにハマるとかありかよ? しかもみんな岸にたどり着いてるし。もしかして俺、このまま一生この状態とか? いやいやいや、流石に死んでまうわ

 唐突に去来したピンチの中で、源吾郎の脳裏に様々な考えが浮かんでは消える。ある種の走馬灯のような物なのかもしれない。だがその中でも、何故か雪羽の言動も結構な割合で含まれていた。

 新しい護符を新調してから、雪羽はうっかりしていたのかインクで袖を汚していた。

 雷雲操る雷獣であるはずなのに、雪羽は雨天でのタイマン勝負は嫌がっていた。雨と泥水が飛ぶから、と。

 そしてあの護符は確か……

 

「狐の兄さん、大丈夫か? 今引き上げるからじっとしてろ!」

 

 ああだこうだと考えを巡らせているうちに、スタッフの河童が駆けつけてくれた。源吾郎は畑の人参のようにぬかるみから引き抜かれたのである。

 

 

「兄さんもうっかりしてたみたいだなぁ。池は急に深くなってる所があるから気を付けるんだぞ」

「はい、申し訳ないです……」

 

 源吾郎を救出したスタッフは、やや呆れた様子で源吾郎に注意を呼び掛けていた。他の妖怪たちは特に足を取られる事は無かったのに、何故自分はハマってしまったのだろう。考えながら、やはり自分が半妖だからなのだという結論に辿り着いていた。

 半妖だから。これは別に妖力云々の問題ではない。もっと単純な物理的な問題である。というのも、源吾郎の肉体は何のかんの言いつつも人間の成人男性と大差ない。成人男性よりは小柄と言えども、体重も六十キロ前後はある。

 一方珠彦たちのような純血の妖怪たちはそんなに重たくない。元が狐や狸であるから、体重も十キロに満たない連中も多いのだ。あの雪羽とて本来の姿は五キロもないらしいのだから。

 もっとも、そう言った事を考慮しても源吾郎が不用心だった事には変わりない。

 

 しかし、泥だらけになりながらも恥ずかしい思いをしただけで終わった訳ではない。週明けに行う雪羽との八回目のタイマン勝負にて、今回のおのれの経験が役に立つのかもしれないと思い始めていたのだ。

 無論この泥まみれの経験を活かすのは何となく恥ずかしい。しかし火術・縛妖索を用いた捕縛術・結界術や幻術さえも雪羽には見切られている。ダメ元で試してみるのも悪くは無かろう。





※本作での外来生物の取り扱いは実際と異なる場合がございます。外来生物の捕獲・駆除等については必ず調査・専門家への相談を行ってください


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泥臭きかな勝利の味は ※戦闘描写あり

 戦闘訓練のタイマン勝負は既に七回行っているが、源吾郎は目下七連敗中である。四回目と五回目の間に苅藻の許に赴き、アドバイスを受けたものの、それでも勝利を掴む事は叶わなかった。

 五回目では源吾郎は火焔術を主体にして攻撃をおし進めた。しかし雪羽はそれらをどうにかしのぎ切り、ついで陽動作戦で源吾郎を攪乱する事までやってのけた。

 六回目では縛妖索を用い、雪羽を捕らえる事に成功はした。しかし雪羽は自分の足に縄が掛かっている事は気にも留めず、逆に暴れまわって縛妖索の持ち手である源吾郎を翻弄した。

 七回目では結界術と変化術を用いて雪羽の攪乱を試みた。しかし雪羽の攻撃力が結界の強度を上回り、生半可な変化では電流を読む能力を欺けない事が解っただけだった。

 五回目から七回目までのタイマン勝負では、どうにか攻撃をぶつける事は出来た。だがそれでも、致命傷相当になる決定打を雪羽に与える事は叶わなかった。

 

 弁解じみた話になるが、特段源吾郎が弱いわけではない。源吾郎とて若妖怪としてはむしろ強い方に分類される方である。ただそれ以上に雪羽の戦士としての素養が高すぎるだけの話なのだ。

 雷園寺家の血を引く上に叔父の三國の特徴も色濃く受け継いだ雪羽は、先天的にも強さに恵まれた雷獣と言える。しかも三國に引き取られてからというもの武芸の手ほどきを受け鍛錬に勤しんでいたのだ。さらに言えば雷獣自体が戦闘能力の高い種族と来ている。ここまで条件が揃えば、強い妖怪として存在していても何らおかしな話ではない。

 常識的に考えれば、源吾郎程度ではおいそれと太刀打ちできない存在ともいえる。源吾郎は大妖怪の血を引く若者であるが、言うなれば彼の強みは()()()()なのだ。妖狐は知能は高いが戦闘に特化した種族でもない。ましてや源吾郎が妖怪として闘う術を身につけ始めてから半年も経っていないのだ。

 確かに九尾と雷獣では九尾の方が格上だろう。しかし流れる血のみで勝敗が決まるほど世間は甘くなかった。

 もちろん源吾郎もその事は解っていた。解っていたからこそ勝利をもぎ取る事にこだわっていたのだ。

 

 

――もしかしたら雷園寺は泥や汚れるのが弱点なのか? そんな手で勝っても恥ずかしいんじゃないのか

 土曜日の夜。日中の出来事を思い返しながら源吾郎は一人思案に耽っていた。先程からホップが鳥籠の中で何やら啼いているが、その声に返事する暇もない位だ。

 雪羽が泥や汚れを嫌うのはそれが弱点故の事――何ともばかげた仮説ではある。しかし考えれば考える程その仮説の信憑性は増すばかりだった。源吾郎が所有している妖怪図鑑にも、雷神は汚物等で身を汚されると神通力を失うとはっきりと記されてあった。かつて苅藻が源吾郎に教えてくれた事と同じである。

 もちろん、雷様たる雷神と雷獣は別の種族ではある。しかし妖怪である以上それぞれの心の中にある思い込みや先入観に縛られる事は往々にしてあるのだ。また、雷獣たちの中には雷神を崇拝し、自分たちと同一視する事もままあるらしい。

 雪羽は今もなお雷園寺家の名を背負う程に気位の高い妖怪である。であれば雷獣の上位互換たる雷神を崇拝し、そこまで行かずとも畏敬の念を抱いていたとしてもおかしくはない。そしてそこが付け入る隙なのだろう。

 それに泥や汚れが弱点であるか否かはさておき、泥に沈ませるというのも攻撃手段として有効であろう。

 

「ホップごめん。明日もちょっと忙しくなるわ。あ、でもちゃんと遊ぶ時間はあるから安心しろよな」

「プゥ~」

 

 声をかけながら鳥籠の中を見やった。ホップは止まり木で、不思議そうに小首をかしげている。

 

 

 八回目の戦闘訓練は昼前に行われる運びとなった。時間帯はさておき、今回は何と久々に来客が多い物だった。萩尾丸曰く「都合がついたから部下たちを多めに連れてきた」という事らしい。見た所、若妖怪集団である「小雀」のメンバーはほぼ全員引き連れてきていた。のみならず、妖力も多く年かさの妖怪たちも数名見受けられる。上位組織「荒鷲」のメンバーなのだそうだ。

 余談だが雪羽の身内としてやってきていたのは風生獣の春嵐と黒 の堀川さんだった。三國はやはり忙しいらしい。

 時間となったので、源吾郎は用心深い足取りで会場に入っていった。いつも護符だのなんだのを仕込んでいるが、今日はその()()()が何時にもまして多い。それらが駄目にならないように気を付けていたのだが、傍から見ればおかしな動きに見えるかもしれない。

 源吾郎とは対照的に、雪羽は軽快な足取りで会場の中に足を踏み入れていた。

 対照的。確かに源吾郎と雪羽は対照的だった。人間の血も混在する半妖と純血の妖怪。多彩な術を手数とする妖狐と戦闘と身体能力の高さが武器の雷獣……見た目や女子の好みさえも対照的な二人である。それでも、貴族妖怪としての矜持や目指すものはほぼ同じである。

 だからこそ今日まで源吾郎たちは互いをライバル視し、こうしてタイマン勝負で相争う事となったのだろう。源吾郎はそんな事を思っていた。

 

「ふふふ、島崎先輩。今日も楽しませてくれますか」

「そいつはどうかな」

 

 屈託のない笑みで問いかける雪羽に対し、ニヒルな(つもりの)笑みで源吾郎は応じる。そうしている間に試合が始まった。

 雪羽は早速雷撃を放ってきた。源吾郎はそれを難なくかわす。厳密には護符の助けを借りた結界術の変種だった。結界というのは対象物を閉じ込め、或いは攻撃を通さない効果を持つものが多い。しかし中には攻撃の軌道を逸らすような使い方もできるのだ。雪羽の雷撃のような、威力の強い攻撃にはむしろこちらの方が都合が良いくらいだ。防ぐ結界では破られれば終わりであるが、逸らすのならばその効果はまだ長生きする。しかも妖気のロスも普通の結界よりは少ない。

 

「先輩も狐らしくなりましたね」

「はは、俺はそもそも九尾の子孫だからなぁ」

 

 言いながら、源吾郎は腕を振るう。小さな粒子が舞い上がったかと思うと、その粒子一つ一つがチビ狐に変貌した。源吾郎の十八番である変化術である。チビ狐の数は数百に上る。単なるチビ狐ではない。妖術で標的を攻撃するように指示を下したチビ狐たちだった。現に彼らはちんまりとした武装をしている。

 雪羽は目を細めながらそれらを眺め、無言で浮き上がっていった。チビ狐らが動いたのはその直後の事だった。手にしていた槍を振るい、小さな狐火を放ち、護符のような札が飛び交う。下界を離れ上空を舞い上がる雪羽に対し、さながら暴徒のごとき動きでもってチビ狐たちは殺到しようとした……もっとも彼らには空を飛ぶ能力は無いらしい。雪羽が二メートルも浮き上がれば飛び道具を使うほか対抗でき無さそうだ。とはいえそれも源吾郎の想定内だ。

 鬱陶しそうに雪羽が雷撃を放つ。直撃したチビ狐は消滅したがそれは問題ではない。()()である源吾郎は討ち取られていないのだから。それにチビ狐には自然増殖する術も仕込んである。高威力の雷撃ならば話は別だが、牽制程度の雷撃であればむしろ増殖を促すだけなのだ。

 そして寄り集まっていたチビ狐たちは雷撃を合図に蜘蛛の子を散らしたかのように散開する。すぐに狙いにくくするようにしているためだった。

 もちろん、本体である源吾郎も雪羽に攻撃を仕掛けるのは忘れない。斜め上めがけて狐火を放った。気軽に放った一発であるが、その一撃の威力は言うまでもない。

 雪羽はそれを見切り、空中で回避しようとした。だが、その動きが不自然に止まる。奇しくも狐火の命中は免れたが、何かにぶつかったような動きだった。

 怪訝そうな表情を浮かべる雪羽は相変わらず浮遊している。しかしその動きは何処かぎこちなくでたらめなものになっていた。見えない何かにぶつかっているかのような、自分にぶつかる何かを手探りで避けているような動きである。

 

「そうか、結界を使ったな」

 

 雪羽の空中での妙な動きのからくりは、彼の指摘通り結界だった。チビ狐の大軍を放った時に、実は源吾郎は結界術も徐々に発動させていたのだ。雪羽は空中から攻撃する事が多いが、今回の技を使うには空中に浮いていてばかりでは都合が悪かった。そうでなくても、空中からの雪羽の攻撃には源吾郎も困っていた所であるし。

 恐らく雪羽がこの結界に気付けなかったのは、大量のチビ狐の存在と、結界の性質によるものだったのだろう。チビ狐が()()()()なのは言うまでもないが、結界もまた電流を受け流す性質を持たせていた。それらが功を奏したのだろう。

 

「そりゃあまぁ結界だって使いたくなるよ。てか、雷園寺君は地上戦でも十分強いじゃないか」

 

 チビ狐たちに取り囲まれながら、源吾郎は両手を広げた。標的が舞い降りてくるや否や、チビ狐たちは色めき立って狐火を放つ。威力は豆鉄砲程度でそうそう強くはない。しかし雪羽を不愉快にさせるには十分すぎる出来だったらしい。

 

「そのチビ狐も中々ややこしいやつだなぁ。何か雷撃をぶつけたら地味に増えたし」

 

 狐火ごとチビ狐を雷撃で退けた雪羽だったが、親玉たる源吾郎を見据えると残忍な笑みを浮かべた。

 

「――だけど、使い手である先輩を潰したらどうなるんですかねぇ」

 

 直後、雪羽の雷撃が二筋源吾郎にぶつかった。白銀の槍と化した雷撃は、源吾郎の眉間と心臓のある部位を()()()()()。タイマン勝負の判定では致命傷になる一撃である。そもそもからして雷撃は当たり所が悪ければ生命にかかわる。ましてや、相手の肉体を貫通する攻撃ならば尚更だ。

 

「…………」

 

 さて攻撃を受けた源吾郎は、眉間と左胸に風穴を開けながらゆっくりとくずおれた。一瞬の出来事だったから何が起きたのか解らなかったのかもしれない。表情はむしろ穏やかで、いっそ笑みらしきものも見えていた。

 一方の雪羽は、目を見開かんばかりに源吾郎を凝視していた。その面は今や強い驚愕に染まり、声も出ない程である。周囲の若妖怪たちもどよめいているらしいが、彼にはきっとその声も聞こえていないだろう。

 数えきれないほど顕現していたチビ狐たちの大多数も消滅し、唯の粒子に戻っていた。しかし雪羽はその事にも気付いていない。戦闘訓練の最中に源吾郎を本当に斃してしまった。その事に驚愕していたのだ。

 雪羽の術も源吾郎の術も、無防備な状態で当たれば致命傷になりうるほどの威力を秘めている。しかしそれでも無邪気にそんな技を繰り出してタイマン勝負が出来たのは、互いが護符で護られているという前提があったからだ。

 ()()()()()()()()()()()()()。雪羽のちょっと強い攻撃に源吾郎は急所を撃ち抜かれ、無残に屍を晒しているではないか。

 屍……? 地上から十数センチの所まで高度を下げた雪羽は、ここで違和感を覚えた。倒れている源吾郎からは血肉の匂いは漂ってこない。アレは()()()()()()みたいだ。雪羽は心中でそのように結論を下した。雪羽は他の妖怪を殺した経験はない。しかし過去の経験から、死の匂いがどのようなものか知っている。

 

「――くっ!」

 

 倒れていた源吾郎もまた幻術だった。狐火が死角から飛んできたのはまさにその時だった。いつの間にか源吾郎が倒れていた所には、藁の塊が転がっているだけだった。そしてその塊から離れた所に本物の源吾郎が立っている。

 

「ははは、驚かせて悪かったな雷園寺君。見ての通り、俺は無傷だよ」

 

 神妙な面持ちの雪羽に対して源吾郎は笑う。チビ狐を潰すべく自分を狙うであろう事を先読みし、おのれの姿の幻術を作っていたのだ。そうして本物の源吾郎はチビ狐に化け、紛れていた訳である。

 

「そりゃあ安心しましたよ先輩!」

 

 死角からの狐火も雪羽は回避していた。しかしバランスを崩したらしく、とうとう彼は地上に降り立った。

 源吾郎の言う通り地上戦にもつれ込む運びとなった訳である。源吾郎はここで、今一度変化術を行使した。対象は雪羽が踏みしめる地面の一帯である。粘性の高い泥に地面を変化させたのだ。

 

「え……何だ、動かんぞ!」

 

 泥になった地面は雪羽の足首をいい塩梅に呑み込んでくれた。無論雪羽も異変に気付いてはいる。足を引き抜こうとするも上手く動かないようだ。雪羽はスタミナもあるし力もあるにはある。しかしこの泥沼に脱出するには軽すぎたのだろう。

 うろたえる雪羽を眺めながら、源吾郎は白くて丸い物を放った。何処からどう見てもそれは鶏卵に見えた。これこそが、源吾郎の今回の最大の仕込みでもあった。

 雷撃や狐火とは比べ物にならない程ゆっくりと放たれるそれに対し、雪羽は身動きがつかぬまま雷撃で打ち破った。打ち破られ破裂した卵の内部からは、赤茶けた泥が飛び散り、雪羽の顔や胸にべったりと付着する。陶芸用の粘土を水で薄め、人工的に作った泥だった。

 この攻撃に驚き首を振って汚れを落とそうとする雪羽に向けて二発目を放る。雷撃を使われるまでもなく雪羽に当たり、泥水の中身がぶちまけられた。雪羽は雷撃を使わず、それどころか放電している気配もなかった。雷神はその身が汚れると神通力を失うという話があったが、何とそれは雪羽にも当てはまった事なのだ。

 そうこうしているうちに、雪羽は変化を維持する力さえ失ったらしい。その身体はしぼみ、白銀の毛皮を持つ小さな獣の姿に戻っていた。

 翠の瞳で恨めしそうにこちらを見つめる雪羽の姿に、源吾郎は一瞬だけ戸惑った。しかし一度深呼吸をすると狐火を錬成し、雪羽に向かって何発か放つ。勢いをつけたつもりではなかったが、狐火にぶつかった反動で雪羽の身体は吹き飛ばされた。吹き飛ばされたと言っても、雪羽も受け身を取って安全な体勢で着地してはいたけれど。

 

「よしっ、ここまで。今回の勝者は島崎源吾郎君だ!」

 

 萩尾丸の号令は、何故か普段以上に遠くから聞こえてくるかのようだった。




 実はこのタイトル、ダブルミーニングになっています。


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十番勝負は願掛けと共に

 ライバルとの戦闘で初勝利を得た主人公。
 しかして勝利の喜びに浸る間はあるのでしょうか。


 泥だらけの雪羽に源吾郎は近付こうかどうか一瞬迷った。タイマン勝負の後に、多少言葉を交わすのはいつもの事である。しかし今回はいつもと違い、源吾郎が勝利を収めたのだ。

 そうして迷っているうちに、雪羽の許にまず二匹の妖怪が駆け付けた。三國の側近たちである事は言うまでもない。

 

「大丈夫ですか雪羽お坊ちゃま」

「雷園寺殿。今回もよくぞ頑張りましたね……」

 

 雪羽への声掛けの内容は、そのまま彼らの個性を反映していた。せっかちな堀川さんはひたすらに雪羽の身の安全を気にしているし、春嵐の言葉には雪羽へのねぎらいと気遣いがこもっている。

 源吾郎は結局雪羽に近付かないでいた。雪羽自身も気が立っているであろうし、何より三國の側近たちが傍にいるからだ。

 三國の部下や側近たちが雪羽をどのように思っているのか。これは源吾郎も良く知っていた。彼らが雪羽を丁重に扱うのは、三國に対する気兼ねやゴマすりのためではない。彼らもまた、雪羽に愛情を抱いているらしい事は源吾郎も折に触れて感じていた。

 春嵐も堀川さんも既に泥まみれの雪羽を取り囲み、様子を窺いつつ話しかけている。そんな一団に近付いてきたのは紅藤だった。雪羽と春嵐たちを見つめるその面には、柔和な笑みが広がっている。

 

「春嵐さんに堀川さん。雷園寺君に関しては心配はいりませんわ。確かに島崎君から受けた攻撃によって一時的に妖気の流れが乱れたようですが、それは一時的なものに過ぎません。数十分休めば回復するでしょう。

 それに雷園寺君が被った泥も無害な物である事は把握しています。何しろ護符の護りを通過したのですから」

 

 紅藤はさらりと護符のからくりについて言及していた。堀川さんや雪羽の喉から嘆息の声が漏れている。紅藤はこれから何を言うのだろう。

 そんな事を思っていた丁度その時、斜め後ろから何かが飛びかかってきた。飛びかかってきたのは珠彦だった。思い切った行動を取ったのは珠彦だけであるが、源吾郎の近くには既に数匹の妖狐が集まり取り囲んでいた。そこにはチビ狐の変化術を得意とする文明の姿も、玉藻御前の末裔を語る黒い妖狐の姿もあった。

 

「お疲れっす島崎君!」

 

 テンション高く源吾郎をねぎらうのは珠彦だった。彼はあのタイマン勝負を見て興奮していたらしい。前は源吾郎も雪羽も強すぎて……などと言っていたのが嘘のようだ。

 

「さっきの勝負、凄かったしとっても面白かったっすよ」

「面白かった……?」

 

 珠彦の言葉に源吾郎は首をかしげる。源吾郎はおのれの勝利の報せを受けるまで、雑念も何もなく真剣勝負を繰り広げていた。面白い要素が何処にあったのか素直に気になったのだ。ましてや、珠彦たちは源吾郎の強さに今や恐れを抱いていると聞いたばかりだ。

 

「だって雷園寺さんの事を泥んこにして倒したじゃないっすか! あれは丁度漫才とかバラエティ番組みたいで面白いと思えてさ」

「そうそう。あの時の雷園寺さんの様子は傑作だったぜ」

 

 珠彦の返答にかぶさるように告げたのは文明だった。彼は源吾郎を見ながらチビ狐の使用料がどうという話も冗談めかして行っていたが、雪羽の話になるや否や満面の笑みを源吾郎たちに見せた。若者らしい爽やかな笑みとは程遠い、ゴシップ好きな俗っぽい笑みである。

 

「ずぅっと俺たちにいばりくさってたあの雷園寺さんが、あんな泥ごときで怯んで負けちゃうなんてさ、本当にギャグみたいだと島崎君も思わないかい? 俺なんかずっと見ながら笑いをこらえてたんだよ」

「俺はむしろスカッとしたよ。雷園寺のやつは今までずっと俺たちの事を雑草だの野良の雑魚だのと言って見下してたんだから。所詮は威張るだけしか能のない、本家から追い出された馬鹿に過ぎないのにさ。あのおつむの弱い雷園寺もさ、お狐様には敵わないって身をもって解ったんじゃね?」

「今度あいつが絡んできたら、俺らも島崎君みたく泥をぶっかけたら良いんじゃないかな。泥じゃなくて飲みかけの酒でもいっか。あいつ酒好きだし」

 

 文明の言葉に触発されたのか、他の妖狐たちもめいめいに思った事を口にし始めた。最初は源吾郎の勝利を讃えるために集まってくれたのだろう。しかし実際に口にされる内容を耳にした源吾郎は、ただただ戸惑うばかりだった。途中から源吾郎の功績ではなく雪羽への中傷にすり替わっていたからだ。

 源吾郎の心中は複雑なものだった。雪羽については今でも思う所はあるにはある。しかし頭が弱いとか馬鹿と言い募るのはいくら何でも言い過ぎだと思っていた。

 ()()()()()、妖狐たちがそのように言い募る気持ちも理解できてしまった。源吾郎もまた、雪羽と初めて顔を合わせた時はいけ好かないドスケベのクソガキだと思っていたのだから。ここに集まる妖狐たちの勤続年数は源吾郎よりも長い。そうなれば雪羽の嫌な面もたくさん知っているはずだ。

 ついでに言えば彼らは萩尾丸の配下たちの中でも末端の存在でもある。上役のような責務からは自由ではあるが、下働きゆえの苦労やストレスもあるに違いない。今回は単に、その矛先が雪羽に向けられただけだろう。

 そう思っていると、鋭く短い咳払いが響いた。見れば二尾の黒狐がわざとらしく口許に手を添えている。

 

「皆、島崎君相手だからってあんまりあれこれ言わない方が良いかもよ。ざわついていたら萩尾丸様や他の上役たちにも聞こえるかもしれないし」

 

 その言葉を聞くや否や、下卑た談笑に興じていた妖狐たちは一瞬で静まり返った。それから源吾郎に対し口止めする者も出てきた始末である。

 

 

「島崎せーんぱい」

 

 昼休み。斜め下からの雪羽の呼びかけを耳にした源吾郎はぎょっとした。雪羽は本来の姿を晒し、数メートル離れた所にいたためだ。

 雪羽は本来の姿を「まだ勇ましくない」と思い、半ば恥じている事は源吾郎も知っている。それなのに本来の姿を晒しているとはどうしたのだろう。

 

「どうしたんだ雷園寺。そんな姿のままでさ……まだしんどいのか?」

「やだなぁ、俺はもう元気モリモリですよ」

 

 そう言って雪羽は三尾を持ち上げ、ゆっくりと左右に振る。放電こそ起きなかったが、毛先から妖気が放出されるのを源吾郎は感じ取った。確かに普段通りだった。

 

「先輩。俺に言った事忘れたんですか? 勝負に勝ったら本来の姿でモフらせて欲しいって。それで、今回は先輩が勝ったんで約束通りモフらせに来たんですよ?」

 

 そう言った時には、もう雪羽の身体は浮き上がっていた。そしてそのまま源吾郎の膝の上に着地したのだ。着地した時の衝撃は少ないが、膝の上にはずっしりとした重さが感じられた。生き物の重みだった。

 

「さぁ先輩。存分にモフってくださいよ。あ、でもお尻とか変な所は触らないでくださいね。咬みますんで」

「そんな、変な所は触らないよ」

 

 雪羽は源吾郎の膝の上に乗り、のみならずその身体を源吾郎の腹側に寄せていた。源吾郎はそのために、手で触れないうちから雪羽の息遣いや心臓の動きなどを感じ取ることが出来たのだ。

 多少躊躇ってはいたが、源吾郎は手を伸ばして雪羽の背中をゆっくりと撫でた。フワフワした感触が指先に伝わる。しかしフワフワしている部分は表層だけであり、フワフワの下は存外しっかりした感触がある。筋肉が発達しているのだと源吾郎は思った。だが考えてみれば雷獣は空を飛び地上であれ空中であれ縦横無尽に駆け回る身体能力を持ち合わせる。それらを可能にしているのが筋肉と妖力なのだろう。

 

「どうしたんです先輩。何か元気がないみたいですけど」

 

 ぼんやりと手指を動かしていると、雪羽が身じろぎをして首を持ち上げる。その動きで空気が揺らぎ、雪羽の匂いが源吾郎の許に伝わった。その体臭は例えるならばキャラメル味のポップコーンに似ていた。

 雪羽の匂いはさておき。元気がないと指摘された源吾郎は少し戸惑ってしまった。確かにちょっと上の空になりながら撫でていた節はあるにはある。しかしそれを元気がないと解釈されてしまうとは。

 というかそう言う意味では雪羽も元気がない気もする。何がどうという訳ではないが、今こうして源吾郎の膝の上に鎮座する雪羽は妙にしおらしい態度を取っているように感じられた。

 

「折角俺とのタイマン勝負で勝てたんだから、もうちょっと喜んでも良いんじゃないんですかね」

「まぁ確かに雷園寺君に勝つ事を夢見てたけどさ……あんまり唐突過ぎてびっくりしちゃったんだよ。ただそれだけさ」

 

 源吾郎が言うと、雪羽が身を震わせて笑った。静電気が発生しているらしく、源吾郎はおのれの産毛が逆立つのを感じる。

 

「でも試合の後に狐たちが集まって、島崎先輩の事をもてはやしてたんじゃないの?」

「ま、まぁそんな感じだったかな」

 

 妖狐たちの事を引き合いに出され、へどもどしながら雪羽の問いに応じる。雪羽は輝く翠眼でこちらを見ていた。表情筋の少ない獣の姿を取っているためか、彼の表情は読み取れなかった。まさか妖狐たちの話した内容を把握しているのか。源吾郎は冷や汗が出る思いだった。

 

「ふーん。あいつらも元々は先輩を強いだの怖いだの言って腫れ物に触るような雰囲気を出してたのに、俺を打ち負かしたのを見て手の平を返したのかなぁ。まぁ、お狐様は庶民だろうと貴族だろうと()()お方が多いからねぇ」

 

 雪羽の言葉を源吾郎は無言で聞いていた。お狐様は賢い。その雪羽の評価には、皮肉が多分に込められていた。源吾郎は何も言えなかった。半妖とはいえ自分もお狐様の身分だからだ。というか地味に板挟みになった気分でもあった。

 

「俺の事はさておきだな、雷園寺君。君もちょっと元気がないように思うけど……」

「実はさ、さっきちょっと萩尾丸さんに注意されたんだ」

 

 源吾郎が目を丸くしていると、雪羽は口許を薄く開いて言葉を続けた。この時は何故か、雪羽が笑っているのだと源吾郎は気付く事が出来た。

 

「タイマン勝負は十回連続でやるって言ってたでしょ? 実は、そのタイマン勝負に願を掛けていたんだ。十連勝出来たら俺は雷園寺家の当主になれるってね」

「…………そうか、そうだったんだ」

 

 源吾郎は雪羽を撫でる手を止めた。タイマン勝負が十連続である詳しい理由は知らなかった。十回というのがキリが良いからなのだと思っていたが、まさかそんな事を雪羽が思っていたとは。

 だが、そう言われて腑に落ちる部分も大いにあった。タイマン勝負の回数が重なるごとに、雪羽もまた勝利を重ねる事に執着しているそぶりを見せていたからだ。

 それに雪羽が抱える、雷園寺家当主の座への想いが生半可ではない事は源吾郎も良く知っている。それこそ、源吾郎の玉藻御前の血統への誇りと同じ物であろう、と。して思えば、タイマン勝負にそう言った願掛けを行っていても何もおかしい事はない。

 

「勝ち戦ばっかりじゃない、負けるかもしれない事柄なのにそんな願掛けを載せるんじゃないって萩尾丸さんには言われたんだ」

 

 雪羽の述懐を源吾郎は黙って聞いていた。いかにも萩尾丸が言いそうな事である。もしかしなくても、雪羽は落ち込んでいるのだろうか。

 そんな源吾郎の考えに気付いたのか、雪羽が顔を上げる。やはり獣の笑みが浮かんでいた。

 

「あ、でも大丈夫だよ先輩。別に落ち込んでないし。それに萩尾丸さんに言われたんだよ。一度負けただけだから、また勝ちの実績を重ねれば良いだけだってね。

 雷園寺家に関しても、本家に戻って邪魔な連中を蹴散らさなくても、叔父貴の許にいたままの状態でそのまま雷園寺家当主を新たに名乗っても良いってね。萩尾丸さんに言われるまで、そんな方法は思いつかなかったよ」

「……萩尾丸さんは、あれで結構慣習に縛られないお方なのかもしれないな」

「本当だよな。俺たちよりもうんと長生きなのに」

 

 源吾郎はもう雪羽の毛並みを撫でるのを止めていた。萩尾丸の提案や彼の考え方について思いを馳せていたのだ。古い物事に縛られない、革新的な考えを持ち合わせているのはむしろ自分たちよりも萩尾丸の方なのだろう。というよりも、研究センターの主たる紅藤が革新的な考えの持ち主だったのかもしれない。

 そしておのれの血統や家を背負おうとする源吾郎たちの方が、むしろ保守的な考えの可能性がある。その事を思うと源吾郎は少し不思議な気持ちになった。それはやはり、年長者の方が保守的で若者の方が革新的というステロタイプに縛られているからなのだろう。




 今回のお話、ある意味残酷描写だったかもですね。
 ううむ、どうしてもこういう所を書いちゃうのが筆者の手癖でもあります。


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半妖の美点と強者の心得

 夕方。終業時間をとうに過ぎていたが源吾郎は帰り支度をしていなかった。萩尾丸から話があると言われた為である。先輩たちの言葉に従う事には苦痛は無かったし、そもそも残業にも馴染み始めていた源吾郎だった。だから話があると聞いて大人しく会議用のテーブルに向かったのだ。

 既にテーブルには師範たる紅藤や兄弟子たちの姿もあった。終業時間を超えているので飲み物を片手に休憩しているが……これも紅藤や兄弟子たちの普段の様子である。強いて言うならば、雪羽がこの場に居合わせない事が気になりはした。下座の椅子に腰を下ろすと、それを待っていたかのように姉弟子のサカイさんが飲み物を運んでくれた。

 

「初勝利おめでとう、島崎君」

 

 上座に座っていた紅藤が源吾郎を見据えて微笑む。源吾郎はここで、師範や兄弟子たちが、自分の今日の功績を讃えるために集まった事を悟った。

 ありがとうございます。たどたどしく礼を述べると紅藤は言葉を続ける。笑みを浮かべているものの、むしろ喜びよりも驚きの念の方が強そうだ。

 

「正直な事を言うと、こんなに早く島崎君が勝利を掴むとは私たちも思ってなかったの。雷園寺君も確かに若くて経験は浅いけれど、戦士としては申し分のない素養の持ち主だったから……」

「もっとも、雷園寺君もその事を知っていたから、多少は油断していた所もあるでしょうがね」

 

 おどけたように言い添える萩尾丸に鋭い一瞥を投げかけたのち、紅藤は平然とした様子で言葉を続けた。

 

「もしかしたら、早く勝利を掴めたのも半妖として、いえ島崎君に流れる()()()()()()()かもしれないわね」

「人間の血の……恩恵ですか」

 

 思いがけぬ言葉に源吾郎は目を丸くした。源吾郎は人間の血が四分の三混ざった半妖であるのだが、その強さの根源は妖狐の血によるものだと信じて疑わなかった。

 敢えて紅藤が人間の血の恩恵だと言ったのはどういう事であろうか。術者だった祖父の事を言っているのかもしれないと、源吾郎は解釈し始めていた。源吾郎の容姿は実の父に生き写しであるが、能力や気質はむしろ祖父母や叔父たちの傾向が強い。それならば合点がいく。

 ところが、紅藤が言い添えたのはそういう事ではなかった。

 

「島崎君もご存じの通り、人間と妖怪では成長速度や寿命が違うでしょ? 現に島崎君だって、年齢相応の姿をしている訳ですし。術の習得や成長の度合いが普通の妖怪よりも早かったという可能性もあると、島崎君を見ていて思ったの。

 半妖は純血の妖怪よりも弱いってよく言われるけれど、それが()()()()()()()()()()()()()()のよ。むしろ両者の長所を受け継いで、両親よりも強い個体が生まれる可能性だってあるらしいのよね」

「うーん。そう言う事もあるのかもしれませんね」

 

 文字通り狐につままれたような気分だったが、源吾郎は静かに頷いていた。

 

「特に両親の良いとこどりって言うのは、両親が違う種族だと時々あるって鳥園寺さんに教えて貰ったんですよ」

 

 鳥園寺さんは工場勤務の術者であるが、鳥絡みの件で源吾郎もよく相談を持ち掛ける事があった。源吾郎はそして、彼女の鳥類や生物学的な知識に敬服してもいたのである。だからこそ、異種族交配の仔は良いとこどりで生まれるという言を素直に信じてもいた。

 

「それはきっと雑種強勢の事ね」

 

 紅藤はすぐに源吾郎の言わんとする事を把握したらしい。やはり彼女もリケジョの親玉だけある。

 

「だけど島崎君の性質は雑種強勢とは違うわ。雑種強勢は第一世代の仔に当てはまる話ですからね。ですから雑種強勢があるとなれば、島崎君ではなくて親の三花さんたちに関連する話になるわ。島崎君はむしろ、先祖返りとか突然変異に近いのかもしれません」

 

 源吾郎は小さくうなりつつも頷いていた。自分が先祖返り、或いはある種の突然変異である事は何となく解っていた。兄姉たちは人間に近い存在である事を常に感じながら育っていたからだ。兄姉たちと源吾郎は同じ父母から生まれた存在であり、妖狐の血の濃さは理論上は同じであるはずなのに、である。

 

「ともあれ、技を磨いて研鑽する事も大切だけど、自分がどのような特性を持ち合わせているのか、それを把握するのも大切な事よ。島崎君は人間の血を引いている事を枷だと思っていたみたいだけど、人間の血にも利点はあるという事なの」

 

 紅藤はそこまで言うと、満足げに微笑んでからカップの桃茶で喉を湿らせていた。紅藤の講評は半妖という源吾郎の出自を慮っての事なのかもしれない。しかしそれ以上に、彼女が人間を好意的に見ている事の裏返しであるようにも思えた。

 妖怪、特に高位の妖怪は人間に対して中立な立場を取る事が多い。そんな中で、紅藤の言動の節々には人間を好意的に思うものが多分に含まれていた。源吾郎が半妖であるからそう言った態度を取っているという感じではない。むしろ源吾郎の出自とは無関係に人間に関心を持っているという風情だった。

 それは元人間の萩尾丸が一番弟子だからなのか、他の理由があるからなのかは定かではないけれど。

 

 

「そう言えば雷園寺君の姿が見えないんですが」

 

 頃合いを見計らい、源吾郎は思っていた事をぶつけてみた。雪羽がこの場にいない事はずっと不思議に感じていた。源吾郎の勝利を祝い讃える場であるから、雪羽には居心地の悪いひとときかもしれない。しかしだからと言って雪羽を爪弾きにするような真似をするとは思えなかった。

 

「雷園寺君ならもう帰ったよ。厳密には帰らせた、と言った方が正しいかな」

 

 源吾郎の問いに応じたのは萩尾丸だった。雪羽がこの場にいない理由は明らかになったが、源吾郎の心中では新たな疑問が浮かんでもいた。

 現在雪羽は萩尾丸の許で暮らしている。始業時は萩尾丸の車に乗せられて出社し、終業時も萩尾丸と共に帰るのが常だった。萩尾丸は実は転移術の使い手でもある。その気になれば片手間で雪羽を研究センターから学生街にある自宅に移動させる事も出来るのだ。しかし雪羽が転移術で帰宅する事は殆ど無かった。雷獣故に感覚が鋭い彼は、転移術の際に感じる()()()を嫌がったためだった。

 萩尾丸がここにいて雪羽が帰っているという事は、萩尾丸の転移術で戻ったという事に他ならない。揺らぎがもたらす気持ち悪さの嫌悪を我慢してまで帰ったという事だ。そして、そう言った心境になる事について源吾郎は十分に心当たりがあった。

 

「雷園寺君、僕の前では普通に振舞ってましたけど、やっぱり落ち込んでるんですかね」

「表面上は何事もなかったかのように振舞っていたけどね。そりゃあ雷園寺君とて負けた事に関して色々と考えているはずだよ、彼なりにね」

 

 萩尾丸は直截的な言葉は口にはしなかった。だが、雪羽が今回の勝負の結果に落ち込んでいるという事ははっきりと解った。やっぱり落ち込むよな……源吾郎はしんみりとした思いを抱えていたのだ。

 

「島崎君、島崎君。何も君まで辛気臭い表情を見せなくて良いだろう。君は念願かなって雷園寺君を打ち負かす事が出来たんだからさ。むしろ喜べば良いじゃないか。僕の部下である若狐たちだって、島崎君に一目を置いてくれたみたいだし」

「確かに、萩尾丸先輩の仰る通りだと僕も思います。しかし、雷園寺君があのタイマン勝負にあんな願掛けをしているなんて知りませんでした」

 

 源吾郎の呟きを聞くと、萩尾丸は軽くため息をついた。紅藤たちが目配せしているのを見、源吾郎は少しだけ身構えた。タイマン勝負の願掛けの事で、雪羽が萩尾丸に叱責された事を思い出したのだ。煽り好き炎上トーク好きの萩尾丸の事だ。まさか叱責される事は無いだろうが、厭味の一つや二つは言われるかもしれない。

 島崎君も願掛けの話は知っていたんだね。妙に物憂げな萩尾丸の言葉に、源吾郎は頷く。

 

「雷園寺君が願掛けをしている事を知って、それで君も戸惑っていたんだね。ああ、君は本当に優しい子だねぇ」

 

 萩尾丸の言葉に、源吾郎は思わず目を丸くした。その声には、源吾郎の優しさを揶揄したり皮肉ったりする気配が一切なかったのだ。素直にそう思ったから口にした。そんな感じの物言いだったのだ。

 

「優しいだなんて……ちなみにそれは誉め言葉ですか」

「優しさは人間社会のみならず、妖怪の世界でも美徳の一つです」

 

 萩尾丸が応じるよりも早く紅藤が断言した。

 

「上に立つには非情に徹する事も迫られる事は確かにあるわ。だけど、いざという時に冷徹になれる気構えは訓練次第で後から身に着けられるわ。だけど優しさを身に着けるのは……とても難しい事なの」

「まぁ僕なんぞは、島崎君の優しさに多少の危うさは感じるけどね」

 

 ややあってから、萩尾丸も問いに応じた。

 

「優しさを向けるのが、善良な相手ならば特に問題は起こらないだろう。だけど他者を利用してはばからないような相手にも優しくしちゃいそうだもんねぇ。コロっと騙されて利用されまくってボロ雑巾のようにポイ捨てされる気配がさ、島崎君からは見え隠れするんだよ」

「お坊ちゃん育ちだから甘っちょろい考えだって仰りたいんですよね。その甘さがマズい事は俺も何となく解ってますよ」

 

 源吾郎は少し語気を強めて言い返した。萩尾丸の言葉に若干苛立ちを覚えてしまった。自分の考えが甘い事は自分でも薄々気付いていたからだ。雪羽と初めて出会ったあの日、崩落するグラスタワーの脅威から彼を救ったのも源吾郎の持つ甘さゆえの事だったのだから。

 

「それに島崎君。甘かろうが何だろうがさておきだね、無闇に他妖《ひと》の辛さや苦しさをしょい込んでもしんどくなるだけだよ。

 君の考え通り、雷園寺君は確かに落ち込んでいるよ。だけどそれは雷園寺君自身の問題に過ぎない。君が何を思おうが、雷園寺君が立ち直るかどうかは雷園寺君自身にかかっているんだから。むしろいっそ、勝手に落ち込んでろって思っても問題ないんだよ?」

 

 萩尾丸。それまで黙って話を聞いていた紅藤が短く一喝する。

 

「島崎君はさておき、あなたが雷園寺君に対して『勝手に落ち込んでろ』というスタンスでいては駄目よ。そこは解ってるわね」

 

 もちろんですとも。大真面目な紅藤の言葉に対し、怯む様子もなく萩尾丸は頷く。

 

「今日はひとまず休ませて様子を見るつもりです。場合によれば明日有給休暇を取らせる可能性もありますし、三國君に連絡して一旦引き取ってもらう事もあるかもしれません。まぁ彼次第ですね」

 

 上司に対する報告という事で、萩尾丸の言葉は一応畏まったものだった。

 そう言う訳でだね、と告げるその時には、萩尾丸は普段の親しげな表情を見せていたが。

 

「まぁ僕自身は雷園寺君の世話係として色々とケアしないといけないだろう事も考えないといけないんだ。だけど今回の一件については、雷園寺君もすぐに立ち直るだろうと僕は思ってるよ。

 雷園寺君もあれで危うい所はあるにはあるけれど……今回の一件で立ち直れない程やわな子でもないだろうし。もしそうだとすれば、ずっと前に潰れていただろう」

 

 だが今回落ち込んでしまったのも、ある意味雷園寺君自身の問題でもある。淡々とした調子で萩尾丸は言い足した。

 

「雷園寺君にも言ったけどね、願掛け自体が悪い事でも何でもないよ。しかし、あのタイマン勝負で自分が負けるかもしれない事や、そうなった時の心の持ちようを考えていなかったのがマズかったと僕は思ってるんだ。

 島崎君は確かに戦闘慣れしていない素人と見做せるところもある。だけど現時点で妖力面でも強いし何より良い意味で執念深い。負けたからと言って、それこそめそめそと落ち込んだりしなかっただろう? そんな島崎君を見た上で勝ち戦を続けられると、というよりも負けた時の()()()を考えなかったのは見通しが甘いと言わざるを得ないんだ」

「雷園寺君にはそれが難しかったのでしょうね」

「そんな訳あるまい」

 

 源吾郎の言葉に対し、萩尾丸は鋭く否定の言葉を入れた。

 

「雷園寺君は雷園寺家の当主の座をかけて勝負していたつもりだろうけれど、それは君とて()()だったんじゃないのかい? 玉藻御前の末裔に縋っている君は、タイマン勝負の負けをきちんと受け入れる事が出来た。であれば、雷園寺君も同じように受け入れる事が出来たはずなんだ。

 いや、本来は負けを受け入れる事だって雷園寺君にも()()()()()んだよ」

 

 島崎君。萩尾丸はわざわざ言葉を切り、源吾郎に呼びかける。

 

「戦闘訓練の最中に、時々タイマン勝負ではない術較べを差し挟んでいただろう。あの術較べではおおむね君の方が優勢だったけれど、雷園寺君は落ち込むどころか悔しがる素振りも無かっただろう?」

「はい……確かに……」

 

 源吾郎は過去の記憶を探りながら頷く。タイマン勝負ばかりでは源吾郎の方が鬱屈を溜めるからという事で、途中から術較べも雪羽と行う事になっていた。これは明らかに源吾郎が有利に進む事を前提にした内容だった。というのも、雪羽は殆ど術らしい術を使えないからだ。

 従って術較べでは源吾郎の方が有利に進む事が多かった。しかしその事で雪羽が悔しがる事は確かに無かった。妖狐である源吾郎が、様々な術を使える事に対して素直に感心していただけだった気がする。それは源吾郎も同じ事だった。もっとも、術較べはお遊びであり、タイマン勝負の成績に固執していた部分もあるにはあったが。

 

「僕も最初から言っていただろう。タイマン勝負と言えど訓練に過ぎないから、負けても喪うものはないってね。それなのに、色々と勝手に背負って喪ったものがあると思い込んでいるだけに過ぎないのさ」

 

 その事に気付けば雷園寺君も元気を取り戻すだろう。妙に軽い調子で萩尾丸は雪羽の件を締めくくった。

 

「雷園寺君の事はそんなに心配しなくて良いって事だよ。それに僕の部下たちも島崎君の事を更に一目を置いてくれたみたいだし、それはそれで良かったんじゃないの」

 

 萩尾丸は雪羽の件から話題を変えたつもりらしい。同族たる妖狐たちに今回の勝利を讃えられ、一目を置かれているんだから島崎君もさぞや嬉しがっているだろう……萩尾丸はそのように思っているのかもしれない。

 そんな萩尾丸の考えとは裏腹に、先程の妖狐たちとのやり取りも源吾郎にとっては悩ましい物だった。ついでに言えば雪羽の件とも絡んでいるし。

 

「ま、まぁそうですね。野柴君とか豊田君とかは僕の事をすごいって言ってくれました。ですが、中には口さがない事を言う狐たちもいたんです。そりゃあまぁ、先輩たちの中には雷園寺君を良く思っていない妖《ひと》もいるって事は僕も解ってますが」

「あぁ、そっちの件だね。その件についても真面目な部下から報告が入ってたよ」

 

 真面目な部下とは玉藻御前の末裔を名乗っていた黒狐だろうか。源吾郎はぼんやりと思った。それにしても萩尾丸は思っていた以上に色々な事を把握しているようだ。把握しているうえで、知らないふりをして源吾郎に話しかけているのではないか。そんな疑惑さえ浮かんできた位だ。

 要するに一部の妖狐たちが雷園寺君を中傷していたんでしょ? 身も蓋もない直截的な萩尾丸の言葉に源吾郎は頷いた。もうちょっとオブラートに包んでよ……と思いながら。

 神妙な面持ちの源吾郎を見据えながら、萩尾丸も難しい表情を浮かべている。

 中傷するのは悪い事になるだろう。そのように前置きしてから、萩尾丸は言葉を紡ぎ始めた。

 

「しかし部下である妖狐たちが口さがなく言い募った気持ちも解らなくもないんだよ。知っての通り、彼らの大多数は庶民妖怪なんだ。僕の許で長く働く妖《こ》も多少はいるけれど、多くは十数年経てば他の職場に転職するのがほとんどだからね。要するに、庶民でずっと下働きに徹する妖《こ》たちばかりなんだよ。

 そういった妖《こ》たちにしてみれば、放逐されたとはいえ名家の生まれで、実力もあって、その上縁故入社で重役の座に座っている雷園寺君を見れば心がざわつくのは致し方ない話さ」

 

 萩尾丸の部下の大半は「小雀」に所属する若手妖怪たちである。実はこの「小雀」の構成員はかなり流動的だった。構成員たる妖怪の出入りが烈しいからだ。中には「小雀」のグループ長や上位組織の「荒鷲」に昇格する妖怪もいるらしい。しかし多くは十数年程度社会妖としての振る舞いを身に着け、別の妖怪組織に転職するという進路を辿るらしい。萩尾丸の部下として手許に残る妖怪は案外少ないのだという。

 言うなれば、社会妖(しゃかいじん)養成学校としての機能を具えた組織のような物だった。

 確かに、そのような働き方に身をやつしている妖怪たちにしてみれば、雪羽も源吾郎も恵まれ過ぎた存在に思えてならないだろう。

 

「話はそれだけじゃないんだよ島崎君。さっきのはあくまでも雷園寺君の地位について言及しただけなんだからさ」

 

 そう告げる萩尾丸の面には笑みが浮かぶ。皮肉と毒気にまみれた邪悪な笑みである。しかしあの萩尾丸ならばこういう表情をよく浮かべるのもまた事実だった。

 

「もしも雷園寺君が品行方正な好青年だったとしても、さっき言った地位のためにやっかむ輩は一定数出てきていただろうね。世の中には聖人君子を疎む手合いだっているんだからさ。

 しかし雷園寺君の行動は、元々からして品行方正とは言い難かっただろう? 今でこそ僕の許で大人しくしているが、酒と喧嘩と女に溺れてただれた生活を送っていたんだからさ。変な所で三國君を見習って、突っかかってきた僕の部下を迎え撃った事さえあの子はあったんだ。まぁその時は、向こうが雷園寺君の取り巻きをゴミパンダだのなんだの言って侮辱してきたんだがね。その事を思えば、若い妖狐たちが雷園寺君を悪し様に言うのも何となく解るんじゃないかな。

 しかも妖狐というのは、良くも悪くも選民主義的な所もある訳だし」

 

 源吾郎が無言で頷くと、萩尾丸は笑みを浮かべたままなおも言葉を続けた。

 

「まぁ、雷園寺君の悪評についても君が心配するような事じゃないって話だね。それよりも島崎君。君は自分の心配をした方が良いと僕は思うけどね。

 君は確かに真面目に頑張っているとは思う。だけど相手が庶民妖怪だからって油断しないようにね。尊大に見えたりいけ好かないと思われたら、ああして後ろ指を指される事とてありうるんだからさ……」

 

 源吾郎はふと、自分が元々は研修として別の部署を回る事が決まっていたのを思い出した。それは連休前の個人的な不祥事で先延ばしになった訳であるが、或いはその方が源吾郎にとっても良かったのかもしれない。

 そんな妙な考えが脳裏に飛来したのだ。



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第八幕:雷園寺雪羽の計略
有給休暇と狐の電話


 第八幕からは雪羽君視点で物語をお送りいたします。


「……くん、雷園寺君」

 

 雷園寺雪羽が目を覚ましたのは、間近で萩尾丸の声を耳にしたからだった。

 瞼を開けると佇立する萩尾丸が自分を見下ろしている。萩尾丸は既にスーツ姿で、これから出社するという風情だった。一方の雪羽は布団の間から顔と指先だけを出し、未だにベッドの上に横たわっている。

 

「見ての通り、僕はこれから出社するね。雷園寺君は今日はのんびり休みたまえ。有給消化もたまにはやらないといけないからね。ご飯も、朝と昼の分を用意しているから」

 

 にこやかな口調で萩尾丸は雪羽に話しかけていた。話しかけている体裁を取ってはいるもののその言葉は一方的な報告に過ぎない。食事の件はまぁ良い。しかし雪羽が今日有給を取るという事は初耳だ。初耳であり、他ならぬ雪羽自身の許しを得ていないではないか。

 

「ちょっと待って下さい、萩尾丸さん」

 

 雪羽は布団を跳ね飛ばしつつ半身を起こす。今まで寝ぼけていた雪羽の意識は既に覚醒していた。寝起きが良いのも寝付きが良いのも雷獣の切り替えの良さの恩恵によるものだ。

 

「有給を取るだなんて勝手に決めないでくださいよ。明日は休みたいなんて、昨夜僕が言いましたか?」

「確かに僕は昨夜、雷園寺君から明日は休みたいとかそう言う話は聞いてないねぇ。何せ食事とお風呂が済んだらすぐにベッドに直行して寝ちゃったんだからさ。

 昨日の言動はさておき、今日の雷園寺君はいつもよりも疲れ気味なんだ。君がそうして起きた所を見て、今日は休みだなって確信したよ」

「そんな、決めつけないでください!」

 

 自分の耳元で何かが爆ぜる音がした。気持ちが昂り思わず放電してしまったのだ。きっと青筋も浮かんでいるかもしれない。

 

「決めつけるも何も、()()()()なんだから仕方ないじゃないか」

 

 息巻く雪羽とは対照的に、あっけらかんとした調子で萩尾丸は言葉を紡いだ。

 

「いつもの雷園寺君ならば、僕が部屋に入ってきて声をかけるまで寝続けてるなんて事は無いじゃないか。雷園寺君、いつも朝は早いじゃないか。単に早起きするのが得意なのか、僕に寝顔を見られたくないのかは知らないけど。

 そんな君が今の今まで寝続けていたなんて、それだけでも普段と違う事なんだよ?」

 

 萩尾丸の言葉に雪羽は反論できなかった。ただただ萩尾丸を睨んで唇を咬むのみである。彼の言葉が真実であるのを、他ならぬ雪羽が良く知っていたためだ。

 雪羽の表情が揺らぐのを見ると、萩尾丸はやにわに表情を緩めた。それからベッドの横にあるサイドチェストの上に手をかざした。直後、何も置かれていなかったはずのサイドチェストの上に、ポイントカードや図書カードの類が何枚か出現していた。

 

「雷園寺君。別に休む事は恥ずかしい事でも何でもないんだよ。誰だってしんどい時とかはあるんだからさ。君にはそれが今日だったという話に過ぎないんだ。もう既に僕の方で有給の手続きは取っておくから気にしないで良いよ。きちんと説明しておくからね。

 島崎君だって、君の事を聞いてもからかったり馬鹿にしたりしないと思ってるよ。まぁ……万が一その事でからかってきたら、僕に相談すると良いよ」

 

 返事をしようとした雪羽だったが、その喉から漏れたのは吐息のような物だけだった。島崎君。萩尾丸の言葉に誘発されたのか、脳裏に源吾郎の姿がぼんやりと浮かんだ。雪羽が有給でずる休みした事について、源吾郎はからかったり詰ったりする事はないだろう。巧く説明できないが、そんな気がしてならなかった。

 そして何故か、源吾郎の事を思うと微かに胸が痛んだ。

 そんな雪羽の様子などお構いなしに萩尾丸は言葉を続ける。

 

「そんなわけで、今日は一日好きなように過ごすと良いよ。もちろん、羽目を外し過ぎたらいけないけれど、君も大分お利口さんになったみたいだから大丈夫だよね? 何なら外で遊びに行っても良いよ。図書館もその図書カードがあれば使えるし、買い物がしたければそこにあるポイントカードを持って行ったら良いからね」

「ありがとう、ございます」

 

 雪羽はのっそりと身を揺らし、サイドチェストに置かれたカード類に目をやる。雑貨屋や本屋、喫茶店の類のポイントカードがほとんどだった。ある意味萩尾丸らしいチョイスともいえる。

 

「それじゃあそろそろ僕も出るね」

 

 シロウさん。白くてふわふわしたかたまりが雪羽の足許にやって来たのは、萩尾丸がそう呼びかけた直後の事だった。

 ベッドの端に飛び乗ってきた白いかたまりは一匹の猫又である。フルネーム(?)は九十九シロウらしいのだが、萩尾丸からはもっぱらシロウさんと呼ばれる事が多い。

 三尾の猫又であるシロウは萩尾丸の屋敷に同居する妖怪であるが、実は萩尾丸の使い魔や部下ではないらしい。詳しい理由を雪羽も知らない。とはいえ猫又は妖狐や化け狸と異なりあくせく働く妖怪ではないので、居候として他の妖怪の許に居つく事も珍しくはないのだろうか。

 

「悪いけど今日は雷園寺君の傍にいてやってくれませんかね。シロウさんも色々と用事があるかもしれないんで申し訳ないですが」

 

 妙な丁寧な口調で依頼する萩尾丸に対し、シロウは尻尾を揺らして応じる。

 

「別に大丈夫ですよー。僕もまぁ、ご存じの通り暇やってますからぁ」

 

 独特の間延びした口調で応じるシロウに安心したような笑みを見せると、萩尾丸は本当に立ち去って行った。

 雪羽はにじり寄るシロウの背中を撫でながら壁掛け時計をちらと見やった。既に八時半を過ぎており、始業時間である九時まで三十分もない。どうやら萩尾丸はギリギリまで雪羽が起きるかどうか待っていてくれたらしい。

 恐らくは、今回は萩尾丸が転移術を使って研究センターに向かったのかもしれない。雪羽はぼんやりとそんな事を思った。

 

 

 スマホの着信が鳴り出したのは、遅い朝食を済ませた後の事だった。食欲はあったのだが、いかんせん食べるのに妙に時間がかかってしまったのだ。萩尾丸がそのさまを見ていれば、「やっぱり疲れていたんだよ、君は」と言ったであろう。

 誰からの電話だろうか。液晶の表示を見た雪羽は目を瞠った。島崎源吾郎からの着信だったのだ。

 一体何故島崎先輩が……? 一瞬戸惑った後、雪羽は電話を取った。もしかしたら、仕事の件で電話を寄越したのかもしれないと思ったからだ。雪羽は今は研究センターに所属しているも同然だ。であれば源吾郎とは同僚という関係にもなる訳だし。

 

「……もしもし、雷園寺だけど」

『もしもし島崎だよ。雷園寺君、今ちょっと大丈夫?』

 

 受話器越しの源吾郎の声には、明らかにこちらを気遣うような色がありありと浮かんでいる。仕事の事だろうか。そう思いつつ雪羽は頭を動かしていた。

 

「あー、うん。大丈夫だよ。俺も今さっき遅めの朝ご飯を終えてまったりしてたところだからさ。萩尾丸さんが用意してくれてたんだよ。

 それでどうしたんです? 仕事の件ですか?」

『あ、いや、別に仕事の方は大丈夫だよ。ただ……雷園寺君が大丈夫かなって思って電話をかけたんだ。アレだったら切るけれど』

「いや、別に俺は大丈夫だよ。有給だって消化しないといけないし、何か仕事かったるいわーって思ったから休んだだけさ」

『そっか……確かに社会人になったら有給ってあるもんなぁ。学校だったらしんどい時に休むのが普通だから、つい心配になっちゃって……』

 

 学校か……雪羽は胸の中でその単語を繰り返していた。人間として暮らしていた源吾郎は、度々雪羽に学校の話をしてくれた。また出社した時に面白い話をせがもうと密かに思っていたのだ。

 

「心配してくれてありがと。だけど本当に大丈夫だよ俺は。てか島崎先輩と話してたら元気が余計に出てきたぜ。

 それよりも先輩。先輩こそ()()()()に時間を割いて良かったんですか?」

『時間を割くなんて大げさだなぁ……単に暇だったから電話をかけただけだよ。だから気にしないでくれよ』

 

 ()()()()()()()()。源吾郎はその言葉を殊更に強調していた。しかし雪羽はそれが()である事を見抜いていた。雪羽の鋭い聴覚は、源吾郎の背後で小鳥が羽ばたいたり跳ねたり啼いたりする微かな物音も拾っていたのだ。ホップという源吾郎の飼い鳥が音の主であろう。

 要するに、休憩の合間を縫って自室に戻り、そこからわざわざ電話をかけているという事だ。今は研究センターの居住区で暮らしている源吾郎であったが、休み時間に居住区に戻る事は殆どなかったのだから。あったとしてもわざわざ上司の許可を取っているのだ。

 

「先輩って本当に良いやつですね」

『ちょっと、急にどうしたんだよしんみりした声で……そんな、俺の事を良いやつだって言わないでくれよ。恥ずかしいからさ』

 

 雪羽と源吾郎はそれから二、三言葉を交わし、そこで通話を終了した。

 本当に良いやつですよね。その言葉を源吾郎がどう受け取ったのかは定かではない。しかし雪羽の本心である事に違いない。

 

 実を言えば、元々雪羽は源吾郎の事を毛嫌いしていた。烈しい憎悪を抱いていた訳ではないが、いけ好かないやつと思っていたのはまごう事なき事実である。

 人間の血も多分に混ざった半妖であるという存在の癖に、玉藻御前の末裔であるというだけで大人妖怪にもてはやされているのが気に喰わなかった。

 人間として暮らせるようにと親族――実の父母だけではなく、実の兄姉や叔父たちもいた――達に教育されていたにもかかわらず、「ハーレムと世界最強を目指す」というくだらない理由で妖怪の世界に飛び込んだ事も気に喰わなかった。

 実の父母や兄姉たちからまっとうに愛されて育ったはずなのに、彼らの期待を裏切って勝手気ままに生きようとするその考えが、雪羽にはどうにも我慢できなかったのだ。しかもそんな身勝手な輩であるのに、紅藤を筆頭とした上司から可愛がられていると聞いて心がざわついた。大人が求めるものに応じるという義務を果たしていないのにぬけぬけと()()を受け入れてやがるのか、と。

 雪羽にとって、愛情というのはただ黙って受け取れるものではなかった。相手――親や保護者である事が多いだろうか――の期待に応じた時に与えられる報酬であるのだと、自身の経験からそう思っていた。雪羽は()()を得るために色々と頑張ってきた。叔父に対しては言うに及ばず、従えているはずの取り巻きや女の子たちにもそうした態度で接してきた。

 雪羽はだから、源吾郎と直接相まみえる事を密かに望んでいた。親兄姉の期待や思いを踏みにじり、好き放題生きる愚かな半妖が、想像通りの嫌な奴であれば良いと、切望していた時もあった。厭な奴であると嘲弄すれば溜飲が下ると思っていたのだ。

 しかしそうした源吾郎への仄暗い感情が、いわれなき妄想に過ぎなかった。雪羽は皮肉にも、源吾郎に実際に接してみてその事を悟ったのだ。何しろ源吾郎に抱いていた悪感情の大半は、雪羽の一方的な羨望や嫉妬に起因するものだったのだから。

 要するに、雪羽は源吾郎の境遇が素直に羨ましかったのだ。実の父母が健在で、保護者以外に構ってくれる親族という存在がいるという恵まれた境遇が。

 そしてそうした事を冷静に分析できるのも、源吾郎が実際には嫌な奴では無かったからなのだろう。そりゃあもちろん源吾郎にも改善すべきところや欠点はあるだろう。しかし実直で色々と解りやすい彼の気質には、雪羽も素直に好感を抱いていたのだ。

 

「島崎君、雷園寺君の事を心配してたねぇ」

 

 シロウが雪羽の膝の上に乗り、ぬるぬると動いている。尻尾の付け根辺りを軽く叩きながら雪羽は頷いた。

 

「やっぱり島崎君も昨日の事を気にしてるんだろうなぁ……らしいと言えばらしいよ。だけど俺、島崎君と電話して元気がもらえた気がするわ」

 

 萩尾丸の提案通り、昼からちょっと散歩でもしようか。雪羽は密かにそんな事を思い始めていた。



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その出会いは青天の霹靂なり

 普段着の上に月華から貰った上着を羽織った姿で雪羽は出かける事にした。もちろん、彼の隣には猫又のシロウも付き従っている。三尾だと目立つので余分な尻尾は隠しているけれど。

 変化が苦手な雪羽にと用意された認識阻害術の上着は、今まで修道服のような裾と袖が長く、次いで顔を覆うフードを具えたものだった。こんな上着だと目立たないかな……そう思っていると衣装が柔らかく薄手のパーカーに変化したのだ。しかもよく見れば淡い水色のヒョウ柄模様が浮き上がっており小粋な感じがする。

 この上着そのものがこうして変化する力を有しているとは……作り主である月華や春嵐の想いが伝わった気がして嬉しかった。その嬉しさは、微かな心の痛みを伴うものでもあったけれど。

 

 三國の部下たちはみんな、雪羽に良くしてくれている。しかしその中でも月華と春嵐は雪羽にとって特別な存在だった。

 月華は三國の妻であり、雪羽にしてみれば叔母にあたる存在だ。立場上雪羽は三國の養子だから義理の母親と言っても過言ではない。

 雪羽はしかし、月華を母親と思う事が出来ずにいた。どうしても本当の母親の事は忘れられなかった。それにそもそも月華が三國と結婚したのは、雪羽に母親代わりが必要だと三國に言われたからだった。もちろん、それまでも夫婦とほぼ同じ間柄だった事は知っているけれど。愛する男の養子のために結婚する。しかもその子供は自分を母親と思おうとしない。姉のように慕う事しかできない雪羽の事を、それでも月華は受け止めてくれた。

 春嵐は三國の血縁者ではないが、ずっと三國と雪羽の傍にいてくれる妖怪だった。叔父夫婦の許で暮らすという新しい生活に早く馴染めたのも彼の存在が大きかった。

 実を言えば、雪羽は自分を引き取った三國の事を密かに恐れていた。もちろん三國が父の末弟であり、数多くいる親族の一人である事は知っていた。しかし他の叔父たちと異なり顔を合わせる事が少なく、どんな妖なのかほとんど知らなかった。というよりも雷園寺家を出たあの日、雪羽はようやく三國があれこれ話すのを見聞きし、彼の性格を知ったという位だ。雪羽を護るためと言えど、穏やかな調子で話す父や叔父たちにすさまじい剣幕で食って掛かる三國の姿は恐怖しかなかった。

 もちろん雪羽はそれを見て泣き叫ぶようなみっともない真似はしなかったけれど。あの時は自分が雷園寺家を出ねばならない事をきちんと心得ていた。それが弟妹達を護る唯一の方法である、と。

 

「雪羽。あいつらが何と言おうと俺は雪羽の味方だ」

 

 半ば乱暴に三國から抱きすくめられても、雪羽はその言葉を信用できなかった。というよりも、自分が雷園寺家であるという事以外何も信じられない状況だった。

 優しく穏やかで、それでいて強かったはずの母親は、あっさりと自分たちを置いて逝ってしまった。

 父親は胡散臭い継母の言葉に従い、雪羽を手放す事を決めてしまった。

 自分たちにあれやこれやとお菓子やおもちゃをくれて優しくしてくれたはずの親戚の大人たちは、冷めきった眼差しを与えるだけだった――そんな中で何を信じればいいのだろうか?

 そうした心境だった雪羽を元気づけたのは、他ならぬ春嵐だった。彼が特段色々な事を働きかけた訳ではない。ただそこにいただけだ。時に雪羽の話を聞き、雪羽の行動を見守ってくれた。そんな春嵐に雪羽は心を開く事が出来た。落ち着いた物腰の彼は、雷園寺家にいた優しい使用人たちに雰囲気が似ていたのだ。

 元気づけられた雪羽は、やがて三國を正式な保護者として認める事が出来た。三國も懐き始めた甥の事を喜び、そして雪羽に色々な事を教えてくれたのだ。

 その中で雪羽が習得できたのは、奇しくも闘いの術だった。他の事――勉強やマネジメント術や諸々の難しい事だ――は殆ど身に着かなかったが、三國はともかく喜んだ。闘いを制する力こそが強さであり、妖怪として必要なものだと三國は教えてくれたのだ。

 雪羽が雷園寺家の当主候補として、強さと闘う術を追い求めたのはそれからだった。三國は雪羽が強くなっていくのを見て喜んでくれた。血の気の多い野良妖怪たちを打ちのめして取り巻きとして従えるのを見てはよくやったと褒めてくれた。雪羽は知らず知らずのうちに若かった頃の三國の言動を再現していたのだ。だからこそ三國も喜んでいたに過ぎない。

 その頃には雪羽は三國に全幅の信頼を置いていた。三國の言動が正しいと思い、周囲の妖怪たちが自分をどう思っているか気にしなかった。いや……実際には薄々解っていた。三國の周囲にいる妖怪たちの、雪羽に向ける眼差しや笑みに当惑の色が滲み始めている事に。強くなり三國の重臣のように振舞う雪羽を物憂げに見ていたのは春嵐だったはずだ。自分は愚かにも彼に励まされ彼を慕っていた事を忘れ、小うるさい世話係だと思って距離を置いていたのだ。それに聡いはずの春嵐が三國には強く意見できない事も見抜いていた。叔父貴が正しいというんだから俺のやっている事も正しいんだ。雪羽はそう思い続けていた。

 しかしそれは正しくなかった。正しいと思い込んでいた道を進みながら、自分は正しくない方に進んでいたのだ。叔父から引き離された事で雪羽はようやくその事を思い知った。

 

 強さだけ追い求めていてもどうにもならない事を思い知った。

 単に才能があるだけの阿呆だと思っていた半妖の若者は、大変な努力でおのれの才能に磨きをかけていた。

 その半妖は嫌味ったらしい輩だと思っていたけれど……実際は泣きたくなるほど良いやつだった。

――あ、駄目だ。また変な考え事に没頭しちゃったな。折角島崎先輩から電話を貰ったのに

 

 シロウが足許に絡んでくるのを感じ取り、雪羽は水に濡れた犬のようにぶるっと頭を振るった。最近どうにも考え事が多くてしようがない。しかも明るい考え事ではなく、過去の事を悔んだり、先の事を悩んだりしてしまうのだ。前までは、叔父たちと一緒に暮らしていた時はそんな事は無かった。もちろん、本家にいる弟妹達の事を忘れた事は無かったけれど。

――間違えたとしても問題はないんだよ。間違えた所からやり直せば良いだけなんだからさ

 雪羽が思い出したのは萩尾丸の言葉だった。悪たれ小僧に育った雪羽の教育係を担う萩尾丸の事は、雪羽も畏れていた。何もかもが自分どころか叔父の三國と較べても段違いだったのだから。妖怪としての強さも、格も、経験すらも。萩尾丸に逆らって暴れてやろうという気概など、彼の一瞥で砕け散った程である。

 マトモな社会妖《しゃかいじん》に雪羽を仕立て直すという任務を背負っているはずの萩尾丸だったが、しかしこうして雪羽に優しさを見せる事もままあったのだ。

 

 

 雪羽は今暮らしている学生街を抜け、隣接する大理町まで足を運んでいた。天神様こと菅原道真を祀っている天満宮にお参りに行くためだ。

 妖怪は邪悪なエネルギーで構成された存在であるから、神社や寺社に入る事は出来ない。人間たちの中にはこのように信じる者もいるが、これは全くの嘘、大嘘である。そもそも妖怪そのものと同じく、妖怪の保有する妖力に善悪は無い。心掛けや用途によって善悪のどちらかに転ぶに過ぎない。

 また、神社や寺社に祀られている者たちと妖怪が対立しているという事もほとんどない。一般妖怪は普通に神社や寺社に足を運んでいる。むしろ神社などで働く事が名誉な事であると思われているくらいなのだ。だからこそ、妖狐たちは稲荷に仕える者を善狐と呼んで区別する事があるのだから。

 雷獣もまた、妖怪の中では信心深い種族に当たる。特に雷神を崇拝する傾向が強く、雪羽もそんな雷獣の一匹だった。ちなみに菅原道真を信仰するのは叔父の影響であり、雷園寺家では別の雷神を崇拝していた。

 黄金色に輝く五円玉を賽銭として投げ入れ、静かに祈祷する。目をつぶっている間、色々な考えが浮かんでは消えていき、きちんとした言葉にはならなかった。それでも何となく気分がすっきりとしたのだ。隣のシロウも尻尾を上げたまま機嫌が良さそうだ。

 

「それじゃ、帰りますか」

 

 誰に言うでもなく呟くと、シロウが猫らしくニャア、と返事をしてくれた。昼過ぎの柔らかな日差しを浴びながら、雪羽とシロウの足取りは軽い物だった。

 少し元気になったし、まだ昼間だし帰りはちょっと寄り道でもしていこうかな。雪羽もすっかり機嫌が良くなり、頭の中は楽しい計画でいっぱいになっていた。

 そんな状態だったから、すぐ傍に誰かが近づいている事に気付かなかったのだ。

 

「あの、すみません……」

 

 すぐ傍にいる存在に気付いたのは、その存在に声をかけられたからだった。雪羽はまず首を傾げ、それから軽く驚いた。相手は一見すると男の子に見えた。雪羽よりも明らかに年下の子供である。人間で言えばせいぜい小学校高学年か、ぎりぎり中学生くらいだろうか。

 雪羽が驚いたのは、声をかけた少年が()()であると気付いたからだ。叔父に引き取られてから、雪羽は他の雷獣と顔を合わせた事がほとんど無かった。三國が主に雷獣以外の妖怪たちと交流があったからなのか、もっと他の理由があるからなのか定かではないが。

 それにこの雷獣の子供を前に、()()()()()()()()()()()()という相反する感覚を抱いていた。誰かに似ているというだけなのかもしれないが。

 

「俺に呼びかけたのかな。どうしたんだいボク」

 

 雪羽は軽く身をかがめ、おのれの目線を少年のそれに合わせた。何となくであるが、本家にいる弟たちの事を思い出させる子だった。

 

「妹とはぐれてしまったんです。見ての通り、僕はここの住民ではありませんからね。それでお兄さんに一緒に探して欲しくて……」

「そうか。そう言う事ならお兄さんも協力しよう」

 

 妹とはぐれた。この言葉に雪羽は即座に反応した。この幼い雷獣の戸惑いやどうにかせねばならないという気持ちは雪羽にも手に取るように解った。それはやはり――自分にも妹がいたからだ。

 ありがとうございます。礼を述べる少年は既にべそをかきはじめていた。雪羽は何も言わなかったが、少年は眉を下げ、目許を拭う。

 

「ごめんなさい。お兄さんの前でみっともない姿を見せちゃって……僕はもっとしっかりしないといけないのに……ゆくゆくは()()()()()()()()になるんだからって、お父様もお母様も言ってるのに」

 

 雷園寺家の跡取り。予想だにせぬ言葉を前に雪羽は絶句した。それから、この少年を見た時に抱いた不思議な感覚が何だったのか答えが見えてしまった。

 

「……俺の、お兄さんの事はマシロとでも呼んでくれるかな。君の名前は?」

「僕は雷園寺時雨と言います。大阪にある雷園寺家の()()です」

 

――やはりそうだったのか。少年の名を聞いた雪羽は驚きながらも腑に落ちていた。心の中に生じる衝撃を前もって予想していたので、今回はそんなに驚かなかった。

 雷園寺時雨。それは雷園寺雪羽の異母弟であり、継母が雪羽を追い出す決定打として利用した存在でもあった。




 新年なので毎日投稿です(謎)


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虚実まじえて兄弟「ごっこ」

 雷園寺時雨。その存在は雪羽にとっておのれの妖生(じんせい)を狂わせた元凶とも呼べる妖怪だった。

 雷園寺雪羽の心境はしかし、意外にも穏やかなものだった。もちろん今でも実父と継母への憎悪や恨み、そして雷園寺家当主の座への執着は胸の中にある。とはいえそれとこれとは別だった。

 いかな沸点の低い雪羽とて、おのれの想いを時雨にぶつけるのはお門違いだと解っていた。雷園寺家当主候補云々の話について、時雨はきっと何一つ知らないはずだ。何せ産まれて間もない赤ん坊に過ぎなかったのだから。大人のやり取りを見聞きしていたかどうかも怪しいし、見聞きしていたとしても憶えてはいないだろう。

 それに今は、いずれ当主の座を争うであろう異母弟について考えている暇はなかった。はぐれたという時雨の妹――雪羽にとっても妹に当たる存在になる――を早く探し出さねばと気負っていたからだ。さらに言えば、この兄妹の両親に遭遇してしまうのではないか。そんな懸念もあった。

 時雨については恨みや憎しみは無い。しかし、彼の父母――雪羽の実父と継母に当たるのだが――が相手ではそうは行かない。

 ある種の最悪の事態が脳裏をよぎりもするが、雪羽はそれでも平静を装う事を選んだ。不用意に時雨を怖がらせ、困惑させても何もならないからだ。

 そうして歩いているうちに、雪羽は気付けば時雨の手を握っていた。

 

「あ……」

 

 時雨の手の感触に気付き、雪羽は小さく声を漏らした。勝手な事をしでかした、という気持ちがあったからだ。出会ったばかりの子供の手を何の断りもなしに握るなんて、それこそ不審者の所業ではないか、と。

 雪羽は視線を落として時雨の顔を見やった。時雨の灰褐色の瞳には確かに驚きの色が浮かんでいる。

 

「ごめんね。つい……」

「僕は大丈夫ですよ、マシロさん」

 

 時雨はそう言うと顔を赤らめつつも微笑んだ。雪羽の手を振り払う事は無かった。むしろそれどころか、力を込めて握り返してくれたくらいだ。

 

「僕も不安だったし、こうしてお兄さんみたいな(ひと)に手を繋いで貰える事に憧れていたんです……姐やとか世話係の(ひと)とはそういう事は出来ないから」

 

 姐やや世話係。時雨の口から出てきた単語を耳にしても、雪羽は特段驚かなかった。雷園寺家には元々そうした使用人を大勢抱えている事を知っているからだ。雪羽はもちろん実の父母に養育されていたが、所謂姐ややじいやも何かと面倒を見てくれた事は覚えている。

 それに三國の部下たちも、ある意味使用人に似た振る舞いを雪羽に対して見せてくれいていた訳だし。

 

「……マシロさんみたいな()()()()がいたら良かったな」

「…………」

 

 時雨の思いがけない言葉は、雪羽を困惑させるのに十二分すぎる物だった。世の中は皮肉に満ち満ちている。そう思えてならなかった。何しろ、マシロもとい雪羽は、他ならぬ時雨の兄なのだから。厳密には異母兄であるが、妖怪の社会ではそう珍しい事でもない。

 時雨の言葉に共感したように、マシロは手を握り返すのがやっとだった。おのれの正体を明かすつもりはもちろん無い。繰り返すが雪羽は時雨には恨みはない。雷園寺家云々の話とは別に、もし時雨が生意気な事を言う悪ガキであったならば好感度は下がっていただろう。しかし時雨ははぐれた妹を探し、殊勝な態度を見せている。好ましく思う事はあれど何処を嫌うというのだろうか?

 それに時雨との出会いは雪羽にとって本当に予想だにしないものだった。もちろん、雷園寺家当主候補の座をかけて、いずれは異母弟と相争う事になるのは知っていたけれど。

 さらに言えば、雷園寺時雨が取り巻かれている状況も気になっていた。厳密には雪羽の実の弟妹達の状況であるが。三國に引き取られたあの日から、雪羽は一度も弟妹達に会えずにいる。しかし彼らが雷園寺家で平穏に暮らしていると信じて疑わなかった。弟妹達の安寧を護るために、雪羽は雷園寺家を出る事を選んだのだから。

 だからこそ、()()だと言い張る時雨の言動も気になってもいた。雪羽の弟妹は、時雨の兄姉に当たるのだから。さりとて、この少年が自分をからかって欺いているなどとは思っていないし思いたくもない。

 あのさ、時雨君……それとなく状況を聞き出そうと決意し、雪羽は声を絞り出した。情けないほどにおのれの声はかすれていた。

 

「さっき旅行に来ているって言ってたけど、お父さんとお母さんはいるのかな?」

「う、ううん……」

 

 雪羽の問いに時雨は一瞬丸く目を見開き、それから首を振った。

 

「お父様もお母様もここにはいません。二人とも当主としての仕事があるので、僕たちの旅行には同行できなかったんです」

「そうだったんだね」

 

 時雨の表情を見ながら、雪羽はしまったと密かに思った。時雨がうろたえたような、顔色をうかがうようなそぶりを見せたからだ。時雨の言葉に応じたおのれの声に、不機嫌なものがこもっていると思われたのかもしれない。もっとも、実際には雪羽の声に含まれていたのは不機嫌なものではない。そうした表現では生温い怨嗟と憤怒だった。やはりお前らには当主候補の仔と向き合う事が出来ないんだ。いや、向き合っていたとしても俺は認めないぞ。お前らの所業は決して忘れない。そんな考えが表情筋の裏で蠢いていたのだ。

 

「あ、でも松姉が一緒に付いて来てくれてるんで大丈夫ですよ! 姐やだからちょっと距離はあるけれど、それでも僕や妹に良くしてくれるし」

 

 松姉か……時雨の口にした姐やの名を、雪羽は口の中で反芻していた。松姉と聞いても特にピンとこない。雪羽の知らぬ使用人なのかもしれないし、それはそれで妙な話でも何でもない。元々からして雷園寺家に仕える妖怪たちの数は多かった。ましてや、雪羽が雷園寺家を出てからもう三十年も経つのだ。丁稚奉公的に若い妖怪の多くは一時的に留まるだけなのだから、新旧の入れ替わりもいくらでも起きているはずだ。

 時雨兄妹に同行している使用人について考察していた雪羽であったが、急にこの時雨は()()()()なのだ、という考えがこみあげてきてしまった。姉のように慕っている妖怪を、名前にちなんで松姉と呼んでいる。ただそれだけの事に過ぎないのに。

 

「見た限りその姐やは見当たらないけれど……まさかはぐれたのは時雨君の方じゃないだろうね?」

「ち、違いますよっ!」

 

 気付けば雪羽は意地の悪そうな笑みを浮かべていた。時雨はそれに臆する事なく正面から否定している。彼の威勢のいい姿は初めて見た。生意気だとか小憎らしいだとかそう言った感情は浮かばなかった。むしろ元気そうに見えて、一層時雨の事が好ましく思えたのだ。

 

「松姉と僕とで手分けして探してるんですよ! 深雪は、妹は気になった所があったらすぐに僕らから離れてふらふらし始めるんですから。

 お父様やお母様の前ではちゃんと良い子にやってるのに、僕や松姉の前ではおてんばばっかりするんだから……」

 

 時雨としては愚痴をこぼしているつもりなのかもしれない。しかし雪羽には幼い兄妹の楽しげな情景が浮かんでならなかった。やはり時雨と妹との関係を、かつてのおのれと弟妹達に投影しているのかもしれない。もっとも、弟妹達と一緒に暮らしていた雪羽は今ここにいる時雨よりもうんと幼かったが。

 

「手分けして探すっていうのを君と姐やのどっちが思いついたのかは俺には解らない。だけど君がこうして一人でウロウロしているのはあんまり良くないと思うけどなぁ……時雨君。君だって子供なんだよ。いかな妖怪と言えども、子供が一人でウロウロしていたら危ないじゃないか。

 ましてや君は、見ず知らずの俺について行こうとしているじゃないか。俺が、その、悪い事を考えていたらどうするんだ」

「マシロさんは悪い事を考えてなんかいないでしょ?」

 

 時雨の言葉は相変わらず無邪気なものだが、それ故に鋭く雪羽に突き刺さってきた。先のマシロのような兄が欲しい、という言葉と同じく、こちらの言葉にも皮肉や含みは一切ない。しかしだからこそ、その言葉の鋭利さが際立ったのだ。

 

「それにマシロさんは見ず知らずの妖じゃない気がするんです。何となく僕はマシロさんにずっと前に会って、昔から知ってる妖みたいに思えるんです。それでもしかしたら、マシロさんがお兄さんだったらって思った気がするんです」

 

 時雨もまた戸惑っているのかもしれない。彼の言葉が堂々巡りめいているのを感じながら雪羽はそう思った。

 やはりこの子は何も知らないんだ。雪羽は密かに確信した。

 変な話をしてしまったから、困りましたよね? 気づかわしげに告げる時雨に対して、雪羽は首を振った。

 

「別に構わないよ時雨君。妖怪なんて奴はね、どいつもこいつも身勝手な連中ばかりなんだ。そんな妖怪たちの中にあって、時雨君はよく頑張ってると思うよ。跡取りとしてもお兄ちゃんとしてもね。

 そんな風に頑張っている君なんだから、俺の事を()()()()()()()()()()甘える事くらい別に何ともないさ」

 

 この子はきっと甘えるのが下手なのだ。甘える事が弱みに繋がると思っているのだ。雪羽には時雨の当惑や思いが手に取るように解った。それは雪羽自身も跡取りであり、長男だったからに他ならない。源吾郎などは年長者の心の隙間に入り込んで取り入っているように見えた事もあったがそれは違った。源吾郎は末っ子であり、それ故に甘えるポイントを心得ていただけなのだ。

 今日だけは俺の事をお兄さんだと思っていいからね。マシロとしてそんな発言をした雪羽は、身にまとっている上着のお陰で自分の本性が隠蔽されている事をありがたく思った。

 何も知らない時雨には、自分が通りがかりの親切なお兄さんだと思って終われば良い。心の底から雪羽はそう思っていた。子供には知らなくても良い真実がある事、年長者がそれらを取捨選択すべきである事をぼんやりと思ってもいた。

 それから雪羽は、保護者たる三國たちが苛烈な真実に触れて雪羽が傷つかないように心を砕いていた事を悟った。自分にその立場が回ってきた事を感じながら。

 しかし雪羽がそうして心配りしている相手というのは、ゆくゆくは当主の座を争うであろう異母弟なのだ。誠に皮肉極まりない話と言っても過言では無かろう。



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雷園寺家の怨霊噺

 時雨の兄に()()()()()歩き始めたマシロこと雪羽は、自分の傍にいた猫又のシロウが姿を消している事に気付いた。シロウさん……雪羽の問いかけは空しく大気に吸い込まれ、時雨が不思議そうに首をかしげるだけだった。

 

「さっきまで猫と一緒にいたんだ。白い猫で、シロウさんって呼んでるんだけどね。一緒に暮らしている猫だから、一緒に散歩しようと思ってたのに……一体何処に行ったんだろう」

 

 時雨の妹を探しながらシロウも探すのは大変じゃないか。雪羽は内心ぼやき、ついで心の中で舌打ちしていた。もちろん、お行儀の良い時雨が一緒だから表向き笑みは絶やさぬままだけど。

 

「とりあえず姐やと合流しよう、な」

「はい、マシロ兄さん」

 

 ひとまず手を繋いだまま、雪羽と時雨は境内を後にした。玉砂利を踏むかすかな音が鼓膜を震わせる。雪羽は歩きながら物品の電流を読んでいた。もちろんすぐには見つかると思っていなかったし、めぼしい電流を見つけ出す事は出来なかったが。

 

 

 時雨君の暮らしをもっと教えて欲しいな。雪羽はごく自然に時雨に問いかけていた。妹の事で頭がいっぱいになっている時雨の緊張をほぐすとともに、雷園寺家の現状について探るためでもあった。

 そんな雪羽の思惑に時雨は気付いていないようだった。時雨は素直な子供であるし、雪羽は存外相手の心を探るのが得意なのだ。

 

「君は雷園寺家の長男で、両親や妹と暮らしているんだよね。でも他にも姐やとかじいやとかがいるんでしょ? その辺り、お兄ちゃんは気になるな」

 

 さりげない雪羽の言葉に、時雨は何の疑いもなく自分の家族の事を伝えてくれた。時雨には今回の旅行に同行する妹だけではなく、弟も一人存在する事、それこそ姐やとかじいやなどと言った使用人が親と共に教育係として接してくれる事を雪羽は知った。

 時雨は結局のところ、自分に兄姉がいるという話はしなかった。まさか弟妹達は――よろしくない想像が脳内で駆け巡りそうになったまさにその時、小首をかしげながら時雨が言い添えた。

 

「そう言えば、使用人とはちょっと違うけれどマシロ兄さんくらいの年恰好の妖《ひと》たちがいるんです。()()()()()()だって聞かされているんですが……」

「親戚も一緒に暮らしているんだね。雷園寺家は名家みたいだし、使用人たちもいっぱいいるから、そりゃあ親戚が身を寄せていてもおかしくないよね。その親戚たちってどんな妖《ひと》?」

「お父様の親戚だっていうお兄さんたちは三人いるんです。二人がお兄さんで、一人だけお姉さんです」

 

 実の弟妹達の安否を知った雪羽の心中は複雑だった。ひとまず本家にいて養育されているという事は喜ぶべきであろう。しかしその一方で、彼らの保護者に対する負の感情はいや増すばかりだった。

 雪羽の弟妹達が時雨の()()()()()である。何とも大人らしい、狡猾な言い回しではないか。無論実の親子なのだから、親戚とか親族という言い方はある意味正しい。それに時雨も弟妹達も互いに面識があるのだろう。時雨の方には彼らが異母兄姉であるという認識は無さそうだけど。

 当主候補として育てている時雨に、()()()()()()()がいると知られては都合が悪い。そのような考えが透けて見えるようだった。というよりも、先代当主だった雪羽たちの母親の存在を抹消したいだけなのかもしれない。もっとも、そうして維持する雷園寺家は既に雷園寺家ではないと雪羽は思っていた。自分の母とその血を継ぐ者が正しい系譜だと信じていたからだ。今の雷園寺家を支えているのは、平民上がりの冴えない雷獣の男と、不相応な野望に憑かれた分家の女に過ぎないのだから。

 やっぱり力を蓄えて、雷園寺家に巣食うまがい物たちを一掃しなければならない……思案に沈む雪羽は、繋いだ手の感触で我に返った。

 時雨はこちらを見上げていたが、彼もまた思案顔だった。何か言いたげな表情にも見えた。

 雪羽は慌てて笑みを作る。また自分の黒い感情が見えてしまったのではないかと内心気が気ではなかった。

 

「本当はお兄さんたちやお姉さんとも仲良くしたいんです。だけど中々上手くいかなくって……」

 

 大人びた口調ながらも、時雨の顔は明らかに寂寥の色で陰っていた。雪羽はすぐには何も言えなかった。思った事を発作的に口にすれば、おのれの境遇を悟られてしまう事が明らかだったからだ。

「親戚のお兄さんたちやお姉さん」が時雨と仲良くしようとしないのは当然の事であろう。母親が違うとはいえ彼らは兄弟なのだ。だというのに一方だけ当主候補・正妻の仔としてもてはやされ、自分たちは雷園寺家とは縁もゆかりもない居候として一からげにされているのだ。ましてや、正妻面している後妻は当主だった母親を謀殺したかもしれないのだ。弟妹達が時雨を良く思わないのは雪羽にもよく解かる。

――この子はきっと、現時点で既に二尾なのだろう。雪羽はそのように推察していた。尻尾を出しておらずとも、伝わってくる妖気で相手の妖力の大きさを推し量る事は、妖怪であればそう難しい事ではない。

 齢三十で二尾。それだけでも一定以上の才覚と妖力の持ち主であろうと雪羽は思った。もちろん雪羽よりは弱いだろうが、それはまた別の話である。何せ雪羽は物心ついた時には既に二尾であり、十五、六くらいの時に三尾になっていたのだから。

 種族によって尾が増えるペースは異なるが、雷獣の尻尾が増えるペースは奇しくも妖狐のそれに近かった。普通の個体は二尾になるまでに百年近くかかる。五、六十の若妖怪が二尾になるだけでも相当才能があると思われるくらいなのだ。まだ三十年しか生きていない時雨が既に二尾である。その事にきっと雷園寺家の連中はのぼせ上っているのかもしれない。

 だが、そうした事もまた、時雨が「親戚のお兄さんたち」と馴染めない理由に拍車をかけているに違いない。妖怪社会は強い妖怪が発言権を持ちがちだ。しかし強いだけで周囲が素直に従う訳ではない事を、雪羽はよく知っていた。

 その一方で、時雨が純粋に健気に思う気持ちも抱いていた。「親戚のお兄さんたち」を大人たちが半ばないがしろにしているであろう事は想像に難くない。しかし時雨はそうした思惑に迎合することなく、仲良くする道を模索しようとしているのだ。

 全くもって、あんなくそったれな連中からどうすればこんな良い子が生まれるものなのか。雪羽の脳裏にはそんな疑問さえ浮かぶ始末だ。

 そう言えば……雪羽が何も言えないままにいると、時雨が今再び口を開いた。何かを思い出したという風情であるが、その表情は昏いままだ。むしろ先程よりも陰っている。

 

「雷園寺家には恐ろしいお化けが出るかもしれないって、穂村お兄さんは言うんです……そのお化けは怨霊で、当主たちをいつか呪い殺すかもしれないって」

「怨霊だって! 雷園寺家にそんなのが出るのかい?」

 

 雪羽は思わず声を上げていた。雷園寺家の怨霊。弟の穂村が時雨に言い聞かせているというその話は、雪羽の心を大いにかき乱した。時雨が不安げに、そして気遣うような素振りを見せながらこちらを眺めている。怨霊の話を怖がっていると、素直に彼は思っているのだろう。

 

「怨霊の話は怖いし、あんまり穂村お兄さんには話してほしくないんです。穂村兄さんは本当の事みたいに話すけれど、多分僕を怖がらせようと思って作った話なのかもしれないんです。お父様もお母様も使用人たちも、そんな話は子供の作り話だって笑い飛ばすし……

 でも、その話を僕や深雪たちにした事がバレると、穂村兄さんは後で打たれるんです。それでも、穂村兄さんは……」

「雷園寺家には怨霊なんぞ出てこないよ!」

 

 気が付いた時には、雪羽は語気荒く時雨の言葉を遮っていた。時雨が驚いたように目を丸くしている。雷園寺家の怨霊の話はもう聞きたくなかった。穂村がどのような思いで異母弟にそんな話を吹き込んでいるかは想像がつく。それにしても折檻を受けても止めないとは。

 それに、雪羽や穂村たちがどう思おうと、雷園寺家に怨霊は出てこない。その事を雪羽は知っていた。もし怨霊が()()()()()()()のなら、雷園寺家も雪羽も今とは違う暮らしをしているだろうから。

 

「ごめんなさい、怖くて気持ち悪い話ですよね。僕、マシロさんがお兄さんだと思って、つい……」

「別に構わないよ。俺は怨霊もお化けも怖くなんかないからさ」

 

 半ば委縮して謝罪する時雨に対し、雪羽は鼻を鳴らして返答した。妖怪たちの中にも幽霊や怨霊の類を恐れる者は存在する。不思議な力を持つ生物である妖怪と、死せる存在である霊とは別物だからだ。

 そして雪羽はと言うと、霊的なものは怖れていない。怖れる事が出来ないのだ。死せる霊魂が何かを成すところを、雪羽は見る事が出来なかったから。

 

「良いか時雨君。妖怪であれ何であれ、悪さをできるのは生きている時だけだ。死んでしまったらもう何もできないんだよ。悪い事も、良い事もな」

 

 この言葉は確かに時雨に向けた言葉だった。それとともに、おのれに言い聞かせる言葉でもあった。死せる者は無力だ。生きている者が何を思おうとも、彼らが応える事は特に無い。だから怨霊だの霊魂だのは生きている者の他愛のない幻影なのだ――雪羽は常々そう思っていた。

 

「それに時雨君。君はゆくゆくは雷園寺家の当主になるんだろう。まだ子供だから怖いものが多いのも仕方ないけれど……いるのかどうかも解らない怨霊の影に怖がっていてもしょうがないじゃないか」

 

 雷園寺家の当主。雪羽はこの言葉を使って時雨を励まそうと試みていた。雪羽自身が雷園寺家の当主という言葉に縋り、それでおのれを保ってきたからだ。幼い弟もそうだろうと信じて疑わなかったのだ。

 ところが委縮した時雨は、喜ぶどころか一層困惑の色を見せたのだ。

 

「マシロお兄さんもそんな事を言うの……? 僕、雷園寺家の当主にふさわしいのかどうか解らないのに……でも、お父様もお母様も雷園寺家の当主になるように立派に育ちなさいって言うし……本当に僕で良いのかな?」

 

――お前がそんなつもりなら、当主の座をこの俺に寄越せ。

 仄暗い情念が雪羽の内部で囁いた。その囁きに耳を傾けた雪羽は、穂村が吹聴し時雨が怯える雷園寺家の怨霊が何であるか悟ったのだ。雷園寺家の怨霊。それはきっと()()()()()()()()()なのだ。

 雪羽の実弟である穂村は、もちろん先代当主たる母が非業の死を遂げたのを知っている。長男であり嫡男だった雪羽は放逐されたが、いずれは雷園寺家に舞い戻る。当主の座を簒奪(さんだつ)し、先代当主の仇を討つために。

 そういう話ならば、時雨の父母や使用人たちが笑ってごまかし、後で吹聴する穂村を折檻するのも話が通る。

 所詮は誰も彼も生ける者を恐れているという事ではないか。

 

 しかしその一方で、死せる者の儚さが雪羽には哀しかった。いくら噂が立ち上ろうとも、真なる怨霊が登場する事が無いのを知っているからだ。

 やはり誰にも言っていない事であるが、雪羽は今でも実母に逢いたいと思う事がある。それこそ怨霊になっていたとしても、冥府で腐り果てた女神のようになっていたとしても、現れてくれればと思っている。

 それでも母の霊が雪羽の許に訪れた事はない。夢に見る事はあってもだ。そして仇だったはずの雷園寺家は今もぬくぬくと繁栄し続けている。母は妖怪としても強い存在だった。その母が怨霊となったならば、それこそ雷園寺家はとうに亡びていただろう。しかしそんな事が起きないのを、雪羽は知っている。

 怨霊なんぞ出てこない。怨霊などは怖くない――強がりめいた雪羽のその言葉には、言いようのない喪失感と悲哀が込められていたのだ。

 



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白猫走りて妹見つかる

 雷園寺家の怨霊。その事を耳にした雪羽は色々と考察すべきとがあると思っていた。しかしのんびりと考えを巡らせている場合でもなかった。

 というのも、時雨と共に歩いている雪羽の許に、二つの影が猛スピードで迫って来ていたからだ。

 一つは白い猫……いや猫又のシロウその猫だった。雪羽が時雨と遭遇してから姿を消していたと思ったら、今更になってこちらめがけて突進してきているのだ。ばねのようにしならせる動きに注意が向いていたからすぐに気付かなかったが、よく見れば何かを咥えている。

 

「ああもう、待ってよ猫ちゃん!」

 

 もう一つの影は人間に変化した妖怪の娘だった。雪羽よりいくらか年上だが、少女と呼んでも十分通用しそうな見た目である。淡いクリーム色のブラウスと栗色のズボンと、割合に落ち着いた出で立ちだった。

 雪羽は状況が解らず首を傾げた。シロウはあの妖怪少女の物品をくすねた挙句、雪羽を見つけて走っている。その事しか解らなかった。

 

「ちょっとシロウさん……どうしたんですか一体」

 

 そうこうしているうちにシロウは雪羽の足許に辿り着いた。繋いでいた手を離し、雪羽はそのままシロウを捕獲した。抵抗されたらどうしよう。そんな懸念とは裏腹にシロウはあっさりと雪羽に捕まったのだった。どっしりと重い白猫又を胸元に抱き寄せると、そこでシロウは咥えていた物を放した。シンプルな模様の入った財布であり、ちょうどいい塩梅に雪羽の手の平の上に乗っかったのだ。

 さてそうこうしているうちに、シロウを追いかけていた妖怪娘もこっちに駆け寄ってきた。微かに漂う妖気は彼女が化け狸である事を物語っている。

 

「あの……ええと……ね、猫が」

 

 知り合いの猫が財布をくすねて申し訳ありません。そう言えばひとまず収まるであろう事は雪羽も解っていた。しかし困った事に声が詰まり、上手く言葉が出てこなかった。

 そんな雪羽の傍らに控える時雨は、やって来た化け狸の少女を見て親しげな表情を浮かべた。

 

「松姉、実は僕たち、深雪を探すのに松姉と合流したほうが良いって事になって、それで探してたんだ」

 

 時雨の言葉と態度で、雪羽は事の顛末を悟った。シロウが行方をくらませたのも、財布を咥えてこちらに向かってきたのも、時雨のツレである姐やをこちらに連れてくるために行われた事だったのだ、と。

 雪羽はだから、松姉と呼ばれた少女に、落ち着いた態度で財布を返す事が出来たのだ。松姉も松姉でシロウの意図が解ったらしく、雪羽はシロウの行動に腹を立てたりはしなかったのだ。

 そして当のシロウはと言うと、雪羽に抱え上げられたまま、得意げに尻尾を揺らしていた。

 

 

 名門クラスの妖怪一族は、同一の種族の中でも影響力が大きいのは有名な話だ。しかしだからと言って、一族に仕える妖怪たちも同種族ばかりとは限らない。むしろ異なる種族の妖怪たちも雇い入れるのが普通の事だった。

 名門妖怪たちの多くは、その土地を統括する役割を担っている事がほとんどだ。種族が異なっていたとしても、その土地にゆかりのある妖怪という事で名家に雇い入れられる事も多い。彼らに名家への忠誠心を植え付けるためではない。運よく忠誠を誓う妖怪が出れば出世するものの、若い一般妖怪の場合はある程度勤めあげたら別の組織に転職する事も珍しくはない。

 ともあれ雷園寺家にも雷園寺家に仕える妖怪たちは存在していた。分家からやって来た雷獣も十数名いたが、それ以上に若い狗賓天狗《ぐひんてんぐ》や白狼天狗《はくろうてんぐ》が多かった気がする。それこそ、隣接する地の天狗の大将から妖材《じんざい》が提供されていたのかもしれない。幼子だった雪羽は詳しい所までは解らない。しかし思い返してみれば、先代当主だった母はよく天狗らと交流していたようにも思える。

 

「すみませんマシロさん……深雪お嬢様を見失ったのは私の不手際ですのに……」

 

 松姉こと松子は、マシロと名乗る雪羽に対し、さも申し訳なさそうに頭を下げていた。姐やという事であるがかなり若い。雪羽よりは年上であろうが、それでも六、七十歳くらいの若妖怪であろう。化け狸らしく丸顔でやや童顔な所も相まって、少女っぽい雰囲気が強かった。

 俺の傍にいた姐やはずっと大人だと思っていたけれど、彼女みたいに若かったのだろうか……雪羽はそんな事を思いもしていた。

 

「いえいえ大丈夫ですよ。僕も今日は休みですし。妖探しの目は多いに越した事はありません」

 

 雪羽は通りがかりの好青年を装ってほんのりと笑った。雪羽は演技が巧いわけではない。それでも幸いな事に、松子が怪しむ事は無かった。

 それにしても、姐やに化け狸を採用していたのか。時雨や松子を見つめながら雪羽は密かに思った。化け狸は妖狐や天狗に並び繫栄している種族である。他の妖怪と違って突出した能力を持つ個体が少ない反面、多くの事をまんべんなくそつなくこなす事が出来るからだ。ついでに言えば忍耐強く実直さを具えた個体が多い。支配者としてその土地を統括するにも、逆の他の妖怪勢力の中核として働くにも適した種族であった。

 化け狸自体があちこちで働いているのはおかしな話ではない。しかし前述の通り、雷園寺家先代当主は天狗たちを優遇していた。それが今では化け狸の娘が次期当主の姐やとなっている。その辺りからも、雷園寺家が変わった事を雪羽は嫌でも感じてしまった。

 無論その事は胸にしまっておく事柄ではあるが。

 

「それにあなたもよく頑張っておいでだと思います。いくら良い子たちと言えども、お一人で旅行の引率をなさるというのは大変でしょうから」

 

 ともあれ雪羽は松子の頑張りを褒める事にした。慌てふためいているであろう松子を落ち着かせるためのリップサービスとしての意味合いがあるにはある。とはいえ松子が頑張っていると思っている事もまた事実である。

 

「そ、そんなマシロさん。頑張っているだなんて私にはもったいないお言葉です……それに、ゆくゆくは雷園寺家当主になられる時雨おぼっちゃま、そして時雨おぼっちゃまの妹君弟君の面倒を見る事を、旦那様と奥様から直々に仰せつかっておりますので」

 

 時雨がゆくゆくは雷園寺家の次期当主になる。傍らの狸娘はさも屈託のない様子で言ってのけた。彼女も時雨が次期当主の座に収まるまでのあれこれを知らないのだ。雪羽は静かにそう思うしかなかった。

 

「松姉! こんな所まで来て当主候補の話なんてしないで下さいよ。折角遠くまで来て羽を伸ばしているんですから」

 

 先を歩く時雨が振り返り声を上げた。合流したのだから松子の許に戻るのかと思いきや、彼は雪羽たちから少し離れ、先導するかのように前を歩いていたのだ。地面に降ろしたシロウがいるので、特段寂しくはなかろう。

 シロウと戯れようとする姿や先の物言いから、時雨がまだ子供であるという事を雪羽は思い知らされた。

 旅行。その事について聞いてみようと雪羽も思い始めた。雷園寺家当主云々の話は雪羽にしてみても愉快な話ではない。旅行についてはハプニング以外は彼らも楽しんでいるだろうから、この微妙な空気を払拭できるだろう。

 

「それにしても、この辺りは観光にうってつけなのではないでしょうか。学生街とか高級住宅地の近くなので、大理町もお洒落なお店とか建物が多いですからね。あと学生街の外れに梅林があるのが良いんです。僕は梅の花が好きなので……秋ですし、色々と見て回るには丁度良かったと僕は思います」

「え、ええ……そう、ですね」

 

 相手の緊張をほぐそうと旅行の話を振ってみたのだが、松子の返答は何とも歯切れの悪い物だった。何と言うか、むしろ一層困惑しているようにさえ見えた。

 そう思っていると、松子は実はこの辺りの地理には明るくないのだと打ち明けた。

 

「私も豆狸の一族なので、従兄弟の実家とか遠縁の親族はこの辺りにいるにはいるんです。ですが私自身は雷園寺家の膝元で生まれ育ちましたので、大理町近辺についてはさっぱりなんです」

「実は僕も、この辺りはそんなに詳しくはないんですがね。二か月ほど前にこの辺りに移り住んできたばかりでして、散歩して何があるか模索している最中ですね」

 

 雪羽の言葉は事実だったが、それでもおのれの素性がバレないように注意を払ってはいた。元々三國と一緒に亀水《たるみ》で暮らしていたのだが、萩尾丸の許で再教育されるという事になり、学生街の外れにある彼の屋敷に住む事になった。色々な事はぼかしてあるが嘘を言っている訳ではない。

 松子は雪羽をまっすぐ見つめていた。真顔なので迫力のある表情に見えた。

 

「旅行というものは家に着くまでが旅行なのです。私は……深雪お嬢様を見つけ出して、三人で無事に雷園寺家に戻れるように考えております」

 

 時雨たちにとっては骨休めなのかもしれないけれど、使用人の松子にとっては結構大変な事なんだな。雪羽は松子の言葉を聞きながらそんな事を思っていた。

 時雨は松子たちを気にしていないふりをして歩いていたが、一瞬だけちらとこちらを振り向いた。時雨の顔も何故か緊張が浮かんでいる。不思議な事に、彼の浮かべる緊張の表情と、松子が浮かべているそれは妙に似通っていた。

 

 

「こら深雪! 勝手にウロウロしちゃあだめだろう。しかも勝手に上がり込んで、お店の人を困らせるなんて……」

「お兄ちゃんがお父様みたいに怒っても、お父様みたいには怖くないもん」

 

 時雨の妹である深雪は、かれこれ数十分の探索で見つかった。何という事はない。学生街の少し外れにある雑貨屋と思しき所に滞在していたのだ。花山堂と名乗るそこは表向きは雑貨屋として打ち出していたのだが、果たしてどのような店なのか判然としなかった。少なくともスーパーやモールの中にあるような、妙に無機的な店とは違う。ハンドメイド作品や絵画が多く、若干ギャラリーの趣が漂っていた。しかも店内は和室であり普通に靴を脱いで上がり込む形を取る。趣味人の家に遊びに来たような感覚さえあった。

 そんなところに深雪は迷い込んでいたのである。時雨が言った通りおてんば娘には違いない。しかもちょっと無警戒な気もする。とはいえ店主たちは妖怪のようだが人の良さそうな面々ばかりであり、この幼い闖入者は茶菓子等々でもてなされていたのだ。

 そんな深雪に真っ先に駆け寄ったのが時雨である事は言うまでもない。

 

「本当に、ご迷惑をおかけしてすみません……」

「いえいえ大丈夫ですよ」

 

 兄の妹への叱責がじゃれ合いにすり替わる傍らで、引率者である松子が店主に頭を下げている。とんでもない大失態をしたという松子の表情とは裏腹に、店主はさほど怒っていない。むしろ雷獣の幼い兄妹の姿を、微笑ましそうに眺めている位だ。

 

「ここはまぁ、昔懐かしの家とか、優しいおばあちゃんのおうちにやって来た、というのをコンセプトにしてますからね。もちろん芸術品を扱っているので大人がお見えになる事が多いですが、お子さんが遊びに来ても楽しめるようにしておりますので」

 

 雪羽は店主と松子のやり取りを眺めたり、時雨と深雪のふざけっこが落ち着くのを見守っていたが、ややあってから少し動いた。部屋の奥、ドアに繋がっている所に雉妖怪の朱衿らしき姿を見た気がした。注視しても姿は見えなかったから気のせいかもしれない。だが朱衿は前もギャラリーで見かけたから、こういう所に出没してもおかしくは無かろう。

 松子たちの会話が途切れるのを見計らってから、雪羽は口を開いた。陳列されている小物を見た雪羽は、それらを購入して時雨たちにプレゼントしようと思い立ったのだ。妹を探して一人で頑張った時雨や、彼らを引率している松子を労いたいと雪羽は思ったのだ。それにここで何かを買えば、花山堂の利益になる訳であるし。

 雪羽が目を付けたのは繊細な切り絵細工の(しおり)だった。名家の子女たる時雨たちへのプレゼントというには余りにもささやかな物かもしれない。だが今の雪羽は……マシロは単に成り行きで時雨の兄になり切っただけの存在だ。そんなマシロが変に値の張る物を購入したとしたら、松子や時雨は委縮してしまうに違いない。



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妖狐は話に疑問を示す

 萩尾丸の予想通り、一日休んだ雪羽の心に出社しようという気概が蘇っていた。厳密には散歩の最中に異母弟妹に出会ったというちょっとした事件があったため、心休まる休日だったわけではない。しかしそうした出来事も、雪羽にとってはおのれを奮い立たせるスパイスになったのだ。

 源吾郎に負けた事というのは、放っておいても短期間で立ち直れる事柄だったのかもしれないが。

 

 

「おはよう雷園寺君。元気になったん、だよね……?」

 

 朝。出社して身支度を整えた雪羽の前に、待ち構えていたかのように源吾郎が現れた。笑みを浮かべているものの、用心深く雪羽を観察する素振りが見え隠れしている。雪羽が考え事をしているであろう事を察したのかもしれない。

 源吾郎も源吾郎で、案外相手の心の動きに敏感な所がある。それは彼の持つ甘え上手な気質と関連性があるのだろう。

 

「ああ、おかげさまで元気になったよ! 島崎先輩も何か俺の事を気にしてくれていたみたいだし、そこはちょっと悪かったなぁ」

「悪いとかそんな事はないよ」

 

 雪羽のおどけた言葉に、源吾郎は困ったような笑みを見せた。その仕草や表情こそが、源吾郎の言う「甘さ」なのだろう。最強の妖怪になって世界征服、という野望を持つ自分らしからぬ気質だと源吾郎は悩んでいる節があるようだが、雪羽は源吾郎の見せる()()は嫌いではない。

 無論源吾郎は負けず嫌いであるし、雪羽をライバル視している節もある。しかし争いごとが苦手で平和主義である事もまた彼の特性なのだろう。そうした気質を源吾郎は人間の血が多いからだと思っているみたいだが、それは恐らく違うと雪羽は思っている。人間にも残忍な性質を持つ者はいる。だから源吾郎の穏和さは彼や彼の親族に起因するものに違いない。

 源吾郎はまだ申し訳なさそうな表情で様子を窺っていたが、少し考えてから口を開いた。

 

「それじゃあ、昨日はゆっくり休めたの? 萩尾丸先輩からは休んでるだろうって聞かされてたんだけど」

 

 休んでいたかどうか。源吾郎の率直な問いに雪羽もちょっとだけ戸惑ってしまった。休むと言えば自宅とか寝室で静養したり寝て過ごしたりする事を考えるだろう。しかし雪羽の昨日の過ごし方はそれとは少し違っていた。起きる時間は普段より遅かったが、昼以降は外出していたのだから。

 

「仕事を休んでいたのはその通りだけど、部屋でじっとしてた訳じゃないんだ。萩尾丸さんからも外をぶらついても良いって言われてたから、お昼から散歩してたんだよ。大理町におわす道真公に今後の事もお願いしたかったからね」

 

 雪羽はここで一呼吸置いてから言葉を続けた。

 

「それでだな島崎先輩。本当に偶然なんだけど――出先で母親違いの弟妹に会ったんだ。()()()雷園寺家の跡取りと見做されている弟と、その妹にな」

「ま、マジで!」

「ああうんマジだよ、本当の話さ」

 

 雪羽の弟妹、それも雷園寺家次期当主と目される異母弟たちに遭遇した。雪羽の淡々とした説明に、源吾郎は案の定驚きを見せていた。源吾郎と雪羽の付き合いはそう長くは無いが、雪羽の兄弟関係が込み入ったものである事は知っている。恐らくは、やがて雪羽が次期当主である異母弟と相争うであろう事も。

 

「そんな事があったんならおちおち休んでいられなかったんじゃないのかい? それにしても遠方に住んでいるはずの弟さんに出くわすなんて……」

「旅行に来ているって時雨は言ってたんだ。あ、時雨って言うのは異母弟の名前な」

 

 旅行ねぇ……源吾郎は囁くように単語を反芻する。真面目な表情を浮かべていたその面には、いつの間にか笑みが浮かんでいた。

 

「学生街とか大理町も、港町と並んでお洒落で見所のある所だもんねぇ。日頃奈良の山奥に暮らしている雷園寺家の弟さんたちも、目新しい旅行になったんじゃないかな」

「おい! 雷園寺家は奈良にあるんじゃないぞ。県境だけどギリギリ大阪に位置するんだからな」

 

 雷園寺家は奈良にある。いたずらっぽい源吾郎の言葉に雪羽は思わず吠えた。吠えたと言っても実は怒っている訳ではない。怒っているそぶりに過ぎない。無論それは源吾郎も気付いていて、気付いた上で更に笑っていた。

 

「ま、まあ島崎先輩は姫路の出身ですもんね。大阪とは馴染みが薄そうなんでそう言う勘違いをするのはしょうがないかもですね」

「俺だって大阪くらい知ってるよ。大阪も奈良も学生の時に行った事あるし……それに雷園寺君の気質は明らかに大阪の男だしなぁ」

 

 やはり先の発言はちょっとしたネタだったのだ。その事が解ったので雪羽も源吾郎もしばし笑い合っていた。二人とも若いし、漫才的な掛け合いを楽しんでいたのだ。

 雪羽の笑いが治まると、源吾郎も笑うのを止めた。その時には源吾郎に顔には真剣さが戻っていた。

 

「それはさておきさ、そんなとんでもない話を俺にしても良かったの? 何と言うか、あんまり話したくない事柄になるだろうし」

 

 先程笑い合っていたのが嘘のようだ。源吾郎は少し黒目を動かし気遣わしげな表情を見せている。雪羽は静かに首を振った。

 

「別に良いんだよ。萩尾丸さんには既にバレてるし」

「あの人にバレてるんだったらしゃあないな」

 

 萩尾丸の名を出すと、源吾郎は半分納得したように視線をさまよわせた。源吾郎もまた、萩尾丸の事を畏れて一目を置く妖怪の一人だったのだ。

 余談だが雪羽が時雨たちと接触した事を萩尾丸が見抜いたのは、雪羽に時雨の妖気が残っていたためだった。妖怪同士が接触すると、相手に妖気が残る事がままあるらしい。仲良くしたいとか、もっと親しくなりたいという時にそうした現象が起きやすいのだ。

 

「それで……弟さんとの出会いは特に何事も無かったんだよな? もし何かあってひと悶着起こしたんだったら、こうして呑気に出社できないだろうし」

 

 もちろんだよ。源吾郎のいささか直截的な問いに対し、雪羽は鼻を鳴らした。

 

「確かにあいつとは、異母弟とは当主の座を巡って相争う運命にあるよ。だけどそれはあの時でもなければ今でもないんだ。物事には準備とタイミングが重要って事は俺だって知ってるよ」

 

 それに。雪羽は心臓がギュッと縮むのを感じながら言葉を続けた。

 

「変に思うかもしれないけれど、次期当主である時雨には恨みはないんだよ。あいつは何も知らないんだ。自分が次期当主になった真の理由どころか、自分に兄姉たちがいる事もな。もちろん俺が兄である事も知らなかったし、俺も敢えて教えはしなかったよ。時雨が混乱しても可哀想だし。

 それに時雨は思っていたよりも良い子だったんだ。おてんばな妹が自分たちとはぐれたから、姐やと手分けして探そうとしてたんだよ。俺はその時に時雨と出くわしたんだ。

 島崎先輩。時雨はまだほんの子供だったんですよ。俺よりも十個下ですからね。そんな子供が、はぐれた妹を探すために、見知らぬ土地で見知らぬ妖怪の助けを借りたんです。健気だと思いませんかね?」

「……確かに、兄は妹を可愛がる生き物だからねぇ。俺の叔父も長兄も、それぞれ自分の妹には甘くてシスコン気味なんだ」

 

 そう言った源吾郎の言葉は何処となくぼんやりとしていた。朝方だからぼんやりしているのだろうか。雪羽の怪訝な眼差しに気付くと、取り繕ったように源吾郎は笑みを浮かべた。

 

「まぁその……その話しぶりだと、雷園寺君も時雨君の妹探しを手伝ったって事だよな?」

「手伝ったという程大げさな事はやってないよ。俺はただ、時雨の話を聞いて、姐やと一緒に合流しようって提案しただけさ。

 何と言うか、時雨も色々と大変そうだったよ。雷園寺家の当主として自分が相応しいのかってあの歳で悩んでいたし、妹とか弟の面倒も見ないといけないって意気込んでいたしさ。本当に良い子だったよ――あのくそったれ共の息子だとは思えないほどにな」

 

 しまった、言い過ぎた。源吾郎の表情が強張るのを見て、雪羽は軽く反省した。時雨の話をしていただけに留まらず、思わず雷園寺家の当主夫妻の愚痴を、雪羽はこぼしていた。雪羽が実父を憎み継母を密かに恨んでいる事は揺るがない。しかし源吾郎に言い聞かせるには刺激が強すぎたのだ。円満な家庭で育った彼は、彼自身が思っている以上に純朴で善良な気質なのだから。

 

「時雨君、だっけ。雷園寺君の弟さんが良い子なのは何となく解るよ。だってさ、時雨君は雷園寺君の弟で、三國様の甥っ子でもあるんだからさ。ほら、子供って実の両親じゃなくて叔父さん叔母さんとか祖父母に似る事とかもあるだろう? 父親そっくりの見た目の俺が言っても説得力はないかもだけど」

 

 当惑と笑みをないまぜにしながら源吾郎はそんな事を言った。時雨が良い子なのは、雪羽の弟であり三國の甥にあたるから。源吾郎はリップサービスや冗談ではなく、本心からそう思っているらしい。源吾郎のその言葉はありがたくもあり困るものでもあった。

 

「まぁ確かに時雨も俺の弟に違いないわな。俺も、あの子を弟と呼べればと思ったりしたんだ……おかしいだろ?」

「おかしくないよ。雷園寺君も弟さんたちも色々と込み入った物があるんだろうし。

 それよりも雷園寺君。さっきの弟さんの話を聞いていて気になった事があるんだ。少し質問しても構わないか?」

「何だ質問って。ちなみに妹の深雪は無事に見つかったから安心したまえ」

 

 おどけたように雪羽が言うと、源吾郎は少し考えこんでからゆっくりと口を開いた。

 

「時雨君たちは旅行していたって話だけど、時雨君と妹さんと、後は引率の姐やだけだったんだよね?」

「そうだな。両親殿は雷園寺家の仕事とやらで忙しくて同行できなかったんだって」

「姐やってどんな(ひと)? やっぱり大人?」

「いや。俺よりちょっと年上って感じだったわ。まぁちゃんと働いてるから俺らよりも大人だろうけれど」

「時雨君には妹の他に弟もいるって言わなかったっけ? その弟は旅行にはいなかったのかい?」

「弟は数年前に生まれたばっかりでまだ幼いらしいんだ。あいつらも当主候補を育てながらぬけぬけと()()()を作ったつもりなんだろうな。それはさておき弟は留守だったんだろうね。なんせ産まれて数年の妖怪なんて赤ん坊みたいなものだからさ」

「だけどご両親は仕事があって旅行に同行できなかったんだろ? それなのに幼い子供を留守にするって――」

「それはまぁ、他の世話係が面倒を見てたんじゃないのか」

 

 何度も何度も質問を重ねる源吾郎に業を煮やし、雪羽は半ば遮る形で言い放った。昨日から雷園寺家の事ばかり考えていたせいか、どうにも神経が高ぶっていた。探るような源吾郎の言葉に苛立ちを感じるほどに。

 

「島崎先輩! さっきから回りくどい質問ばっかり投げつけてるけれど、一体どうしたんですか? 俺から何を聞き出したいんだ?」

 

 若干声を荒げてしまったが、源吾郎は特に怯みはしなかった。相変わらず何かを考えているような表情だった。

 

「ああごめん。別に探りを入れている訳じゃないんだ。ただ、時雨君たちの動きがなんか引っかかるなって思っただけでさ……」

「時雨たちは姐やに付き添われて旅行していただけだぜ。そこに何か疑問でも?」

「時雨君は雷園寺家の正式な当主だろう? 良くも悪くも時雨君の両親は彼を雷園寺家の当主に仕立てようと心を砕いているんだ。そんな二人がさ、俺たちよりもちょっと年長な姐や一人を引率に付けるだけの旅行をさせるって何かおかしくないか?

 普通の庶民妖怪だって、子供を遊ばせるのに親とか兄姉が見張ってる事なんて珍しくないのに……」

「あいつらの考えは一般妖(いっぱんじん)と違う。ただそれだけだろうさ」

 

 雪羽は鼻息荒く言い捨てた。すぐさま源吾郎の反論が飛んでくるかと思ったが、彼は物憂げな眼差しをこちらに向けるだけだった。

 

「そうだね。考えや教育方針は(ひと)それぞれだもんなぁ。俺も、色々気になって考えすぎてただけかもしれないし」

 

 俺の思い違いだったら良いんだけど。源吾郎が呟くのを雪羽は聞き取ってしまった。しかしその直後に始業ベルが鳴ったため、問いただす事は出来なかった。




 源吾郎君が探偵ばりに推理力を働かせていますね(爆)


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会合始まり待ちぼうけ

 一日休みを挟んで出社した訳であるが、業務をこなしている間に平和に時間は過ぎていった。午前中は座学や事務仕事がメインであり、午後からは地下室で術の鍛錬を行ったのである。

 ちなみに戦闘訓練は今週は無いらしい。源吾郎と雪羽のコンディションを考慮した上での話だった。とはいえ、こうした配慮がなされるのも今のうちだけらしいのだが。

 鍛錬は雪羽も好きだった。元々身体を動かす事は好きだったし、今は源吾郎の術を見学する事も出来る。源吾郎は自分とは全く異なる戦闘スタイルの持ち主ではある。それでも彼の遣う術を見るのは勉強になるし、何より面白かった。

 

「どうかな雷園寺君。俺の術の感想とかあったら教えてよ」

 

 的を射抜いた源吾郎がやにわに振り返り、見学していた雪羽に声をかける。今までになかった振る舞いに雪羽は一瞬だけ驚いた。しかしよく見なくても源吾郎は無邪気な笑みを浮かべており、他意は無いのだとすぐに思った。顕現させている四尾が小刻みに揺れており、何となく犬っぽい。狐だからイヌ科なのだけれど。

 

「まぁ凄いんじゃない。狐火は先輩の得意技だから威力が抜群なのは知ってたけど……結界を使って足止めをするなんてね」

「お、解るか。解るよな雷園寺君」

 

 雪羽の言葉に、源吾郎は頬を火照らせ目を輝かせた。ますますもって犬めいた懐っこさが彼の態度に現れている。前までの彼は、手の内を雪羽に知られる事を好まなかたのに。やはりこの前の勝負で初勝利した事が、源吾郎の心境にも何がしかの変化をもたらしているに違いない。勝利したから自分の強さを確信しているのかもしれないし、こちらに歩み寄ろうという気概を持ち始めたのかもしれない。雪羽にしてみれば、源吾郎の心境はどちらでも構わなかったのだが。

 

「……先輩って本当に強い妖怪なんだなって思いますよ。さっきのあれも、幾つもの術を同時に使ってるんだから」

 

 よしてくれよ。雪羽の呟きに源吾郎は照れ臭そうに笑った。日頃の雪羽の言動を知っている彼ならば、この言葉が世辞ではなく本心である事は見抜いているだろう。見抜いた上で恥ずかしがっているのかもしれない。

 源吾郎が普通の妖怪とはまるきり異なっているのは、背後で揺れる尻尾を見れば明白だった。源吾郎は既に尻尾を四本も有するのだ。三十で二尾だった時雨がもてはやされ、その歳には既に三尾だった雪羽は神童であると呼ばれるくらいの妖力量を、二十歳に満たない源吾郎は易々と上回っている。しかも人間の血を半分以上受け継いでいるにもかかわらず、だ。半妖は純血の妖怪よりも成長が速いという説もあるらしいが、その事を差し引いても源吾郎の才能は特異な物と言っても問題無かろう。

 実際問題、源吾郎の才能の一端に関しては雪羽も肌で感じていた。何せ初勝負から二か月足らずで雪羽を打ち負かす事が出来たのだから。お坊ちゃま育ちの源吾郎は妖怪として暮らし始めて半年を迎えたばかりで、今までは喧嘩らしい喧嘩もした事すらないという。雪羽を打ち負かした源吾郎は、そんな存在だったのだ。

 強さへの執着を棄てない限り、源吾郎は今後も強くなっていくのだろう。そうした才覚に恵まれているであろう事は、雪羽もとうに見抜いている。

 もしかしたら、その事を彼の身内も解っていたから、闘う術を教えず妖怪と関わらないように育ててきたのかもしれない。雪羽は唐突にそんな事を思っていた。

 

 

 平和にのんびりと業務が終わる。そのような予想が打ち破られたのは午後三時を少し回った時の事だった。萩尾丸のスマホに電話がかかってきたのだ。事務仕事をしていた雪羽は何気なく萩尾丸の様子を窺う。営業関係の電話かと思ったのだがどうやら様子がおかしい。電話口で丁寧な口調になるのはいつもの事であるが、何と言うか神経をとがらせ相手の様子を窺い言葉を選んでいるのがまざまざと感じ取れた。

 はい、それでは解りました……不気味なほど完璧な営業スマイルを浮かべた萩尾丸は、そんな文言と共に通話を終えた。黒光りするスマホの画面をしばらく眺め、彼は呆けたようにため息をついていた。あからさまに困り果てた表情の萩尾丸を、雪羽は驚きと若干の好奇心を抱きつつ観察していた。常に余裕綽々な彼らしからぬ表情と素振りだったのだ。

 

「紅藤様。灰高様から打ち合わせの招集がありましたので、すぐに向かいますね」

 

 灰高からの打ち合わせ。その単語を耳にした雪羽は、それで萩尾丸さんが渋い表情を浮かべていたのか、と納得していた。灰高というのは雉鶏精一派の幹部の一人である。第四幹部という地位は萩尾丸の第六幹部のそれよりも格上であるし、何より前に紅藤とサシでやり合う手前まで煽っていた御仁でもある。萩尾丸が緊張するのも無理からぬ話だった。

 

「私も一緒について行った方が良いかしら」

 

 紅藤の申し出は思いがけない物だったらしい。萩尾丸は驚いたように目を瞠っていたが、薄い笑みを貼り付けて首を振った。

 

「それには及びません。元より灰高様からは僕と三國君でと指名が入ってますし……それにしても、紅藤様が会合に積極的だなんて珍しいですね」

 

 いつの間にか萩尾丸は片頬に笑みを浮かべていた。師範たる紅藤をおちょくるような物言いであるが、それでも雪羽は少しだけ安心していた。萩尾丸の事を全面的に信頼している訳ではない。しかし彼が不安そうにするのを見るのは心がざわつく。

 さてそんな事を思っていると、萩尾丸は雪羽の許ににじり寄り、札を一枚手渡した。レシートよりも一回り大きいそれには、漢字とも梵語ともつかぬものが描かれている。

 それは転移術に使う媒体だよ。札を眺める雪羽の頭上に、萩尾丸の声が降りかかる。

 

「早く終わるに越したことはないんだけど、内容とメンバーの関係上長引きそうな気がしてね……多分こっちに戻ってこれるのは遅くなるかもしれないんだ。だから雷園寺君は仕事が終わったらそれで先に帰ると良いよ。もちろん残業して、僕の帰りを待っても構わないけれど」

 

 萩尾丸は打ち合わせの内容について手短に告げると、そのまま颯爽と研究センターを後にした。よほど急いでいるのか、彼もまた部屋を出てすぐに転移術を使ったらしい。彼の気配が一瞬で消えたのでそう思わざるを得なかった。

 雪羽は貰った護符を手にしたままだった。灰高が招集し萩尾丸と三國が参加する会合。そこで上っている議題は雷園寺家の事なのだという。もちろんその事に雪羽が戸惑っているのは言うまでもない。

 

 

 六時になった所で雪羽はタイムカードを切った。残業をするつもりは無かったが、さりとてすぐに帰ろうと思った訳ではない。残業代を付けずにそのまま萩尾丸が戻ってくるのを待つ心づもりだった。

 仕事を終えても雪羽が留まる事について、紅藤たちは快諾してくれた。そもそも研究センターの敷地内で暮らしているような彼女たちである。仕事の時間が終わっても事務所にたむろするのはよくある事だと割り切っていた。源吾郎や萩尾丸の話だと、紅藤は時々研究室の妙な所で寝落ちしている事もあるくらいなのだし。

 そんなわけで、雪羽は堂々と研究センターの事務所内で萩尾丸を待つ事が出来た。源吾郎はというと、身支度を済ませてそそくさと帰宅してしまった。研究センターの居住区に戻った事を「帰宅した」と言えるのであれば、の話ではあるが。

 

「雷園寺君。まだ萩尾丸先輩の事を待ってるの?」

 

 帰宅したと思っていた源吾郎が戻ってきたのは、六時半を回った時の事だった。白衣は着用せず、濃緑色のワイシャツとズボン姿だった。白衣の下はおおむねスーツだったはずだから普段着なのだろう。そんなに派手な服装ではないが、センスの良さそうな衣装だと雪羽はぼんやりと思った。

 

「先輩こそどうしたのさ。帰ったんじゃなかったの」

「帰ったんじゃなくて、ホップを遊ばせるために部屋に戻っただけだよ。でも、いつもよりも一、二時間早かったからあんまりホップは乗り気じゃなかったけど」

「先輩は小鳥ちゃんが、ホップ君の事が大好きですもんねぇ。それで、ホップ君とは仲直り出来たんですか?」

「ぼちぼちかな。まだちょっと用心している所はあるけれど、丸めたティッシュとか毛玉ボールを転がしたら喜んで飛びつくし。今日は手にも乗ってくれたんだ」

 

 源吾郎はそう言うと開いた右手をじっと眺めていた。確かにその手には小鳥の匂いが染みついている。

 ホップというのは源吾郎が面倒を見ている小鳥だった。名目上は使い魔らしいのだが、現時点ではほとんどペットの小鳥と変わらないらしい。元は普通の十姉妹だったのが妖怪化したらしく、そのため源吾郎が引き取って養っているそうだ。白い身体に所々まだら模様が入った、雀よりもなお小さいその小鳥を源吾郎が寵愛している事を雪羽は知っていた。

 そもそも源吾郎が研究センターの近辺に暮らすようになったのは、ホップの存在あっての事なのだというから相当な入れ込みようである。

 最近は蠱毒に侵蝕されかけた事もあり、ホップは源吾郎を警戒しているらしい。あまり多くは語らないが、源吾郎はその事で若干凹みもしていた。本当に色々と解りやすい青年である。

 だがそれにしても今の源吾郎の行動には引っかかるものがあった。先程彼は、わざわざホップを普段より早い時間に遊ばせたと言っていた。向こうが気乗りしていない事を解った上でだ。それは源吾郎らしからぬ態度だった。話を聞くだに、源吾郎はずっとホップが喜ぶ事について心を砕いている。ホップに振り回される事もあるが、それを楽しんでいる節もあるくらいだ。自分の都合で、いつもと違う時間に遊ばせる事などするだろうか。

 というよりも、この研究センターに戻ってくるためにいつもの予定を前倒しにしたのではないか。雪羽は今更ながらそんな事に気が付いた。

 

「それにしても珍しい事をするんですね先輩も。わざわざホップ君の放鳥タイムを前倒しにしてまでこっちに戻ってきたんだから……何かあったの?」

「雷園寺君が気になったからさ、戻ってきたんだよ」

 

 雪羽の問いに対し、源吾郎は即答した。気負った様子も何もなく、清々しいほどに正直な返答だった。

 

「萩尾丸先輩は先に帰っていても良いって言ってたけど、お前の事だから戻ってくるまで律義に待ってるんだろうなって思ってさ」

 

 源吾郎の指摘は図星だった。雪羽はもとより萩尾丸の帰りを待つつもりだった。残業ではないからぼんやり待っていても咎められはしないだろう。先に帰るのは申し訳ないと自分で判断しての事だが、正面から源吾郎に指摘されると何とも気恥ずかしい物だ。

 

「まぁ、ここでぼんやりしているのもなんだし、何か飲み物でも作るよ。ポットのお湯もきちんと使わないといけないからさ。雷園寺君は何が飲みたい?」

「それじゃあ生姜湯で」

 

 雪羽の言葉に頷くと、源吾郎はすっと立ち上がってゆっくりと歩き始めていた。歩く度に微かに揺れる白銀の四尾を、雪羽はぼんやりと眺めていた。




 毎日更新はこれで終わりです。


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甘えのコツと旅行の疑惑

 おまたせ。数分してから源吾郎は戻ってきた。来客時のお茶出しに使うトレイをちゃっかりと使っている。トレイの上に乗っているのは、薄く湯気を伸ばすマグカップが二つだ。一方が生姜湯である事は匂いで判った。もう一方は紅茶、ミルクティーの類らしい。

 

「まだ熱いけど大丈夫かな。雷獣は熱さに弱いみたいだけど」

「確かに猫舌だよ。だけどちょっとずつ飲むから大丈夫」

 

 確認がてらに質問すると、源吾郎は雪羽にカップを渡してくれた。淹れたてであるようなのだが、マグカップの表面は思ったよりも熱くない。もしかしたら術で温度を調整したのだろうか。源吾郎がそこまでやったのかは定かではないが、そういう事くらいならば出来そうな何かが源吾郎にはあった。

 雪羽に生姜湯を手渡した源吾郎は、さも当然のように隣に腰を下ろしている。トレイは前のテーブルの上に邪魔にならないように置き、両手で自分のカップを抱え持っていた。ご自慢の四尾は邪魔にならないように小さく縮めてあった。

 

「先輩は何を飲むんです?」

「ミルクティーだよ。妖怪向けのやつだから、俺も安心して飲めるんだ」

 

 雪羽の問いかけに源吾郎はこちらをちらと見やった。その面にはほんのりと笑みが浮かんでいる。雪羽はそれを眺めながら生姜湯を口にした。思っていたよりも熱くはなく、飲みやすい温度になっていた。あと甘みも強いのがありがたい。

 隣に座る源吾郎は、既に自分のミルクティーを飲み始めていた。温かい物を飲んでいるためか、普段以上に頬が火照って赤味を増していた。

 

「俺の事が気になるって、本気で言ってるんですか島崎先輩」

 

 もちろんだとも。即答した源吾郎の声には、やはり迷いはなかった。再びカップを両手で抱えている。源吾郎はしばらく表面から立ち上る湯気を眺めていたが、その視線はすぐに雪羽の顔に移った。

 

「こんな事を言ったらアレだけど、雷園寺君って結構真面目だし自分で色々抱え込みがちだろう? だからちょっと心配だったんだ。しかも休み明けだし」

「俺が真面目だって。それはいくら何でも買い被り過ぎじゃないか」

 

 むしろ真面目だと言い放つ源吾郎の方が真面目くさった表情を見せているくらいだった。それにそもそも源吾郎は雪羽の事を身勝手だの何だのと言い募っていたし、雪羽が元々ヤンチャである事も知っている。何をもって今、雪羽を真面目だなどと言ったのだろうか。

 

「ここに来るまでの事は流石に俺も知らないよ。だけどこっちに来てから雷園寺君は色々と頑張ってると思うよ。だってあの萩尾丸先輩に面倒を見て貰ってて、しかもあの妖に逆らわずお行儀よく暮らしているらしいじゃないか。週に一度三國さんの許で静養していると言ってもさ」

 

 萩尾丸の所で大人しく暮らしているから雪羽は真面目にやっている。それこそ大真面目に語る源吾郎に対して、雪羽は思わず笑っていた。源吾郎も萩尾丸を密かに畏れている事は雪羽も知っている。だからと言って、お行儀よく暮らしている事が真面目にやっている事と繋がるのだろうか。

 

「萩尾丸さんの許でお行儀よく暮らすのは()()()()の事だよ。そもそもヤンチャが過ぎた()()として叔父貴から引き離された事は先輩だって知ってるだろう。そうでなくてもあの妖《ひと》はえげつない位強いしさ。というか先輩だって萩尾丸さんの前ではお行儀良くしてると思うけど」

 

 雪羽の言葉に、源吾郎はすぐに言い返す事は無かった。図星だと源吾郎は思っているのだろう。実際の所、流石の源吾郎も萩尾丸の前では大人しく振舞っているのだから。

 源吾郎にしろ雪羽にしろ、今以上に強くなって他の妖怪たちの上に立つ事を望んでいる。しかし自分より強い者が誰なのか判断し、彼らに従う術も心得ていた。強者である事を見定めるのは雪羽も得意だが、強者に従い取り入る術はむしろ源吾郎の方が長けているようにも思う。

 

「節度を持ってお行儀よくする事と、遠慮して無理する事は別問題だと思うけどな。そりゃあ萩尾丸先輩がちょっと怖いって言う気持ちは俺もよく解るよ。三國さんや俺の叔父でさえ太刀打ちできない妖《ひと》なんだからさ。

 だけど――あんまり気を張って無理ばっかりしていてもしんどいと思うんだ。少しくらいあの妖に甘えてみても良いんじゃないの?」

「やっぱりその話になるのか……」

 

 萩尾丸に甘えてみる。こだわりなく放たれた源吾郎の言葉に雪羽は軽い呆れを感じてしまった。雪羽と源吾郎は似通った所が往々にしてある。しかしその一方で決定的に異なる所も同じくらいあった。年長者に節操なく甘えるという源吾郎の考えもその一つである。

 源吾郎は確かに強者になる事を望み、のみならずいずれは紅藤の座る幹部の座を奪い取る事さえ目論んでいるらしい。プライドが高く恐ろしく我の強い若者である事は言うまでもない。()()()その一方で、事あるごとに年長者に甘える姿を見せる事もまた事実だった。しかも紅藤や萩尾丸といった年長者たちは、源吾郎の甘えるさまを忌避せず、()()()許容し一層可愛がっていたのだ。

 雪羽には源吾郎の甘える姿というのが奇妙なものに見えてならなかった。源吾郎がそれこそ狡猾な性質であったり他力本願なヘタレであればまだ話は解かる。強者に媚を売り追従するだけの手合いはオトモダチの中にも大勢いたからだ。しかし平素の源吾郎は自分で努力する事に余念がないし、何より媚びているような気配が見当たらない。自己を保って活動するさまと、相手に頼って甘える姿。相反するはずの要素が、源吾郎の中では矛盾なく共存していたのだ。

 

「先輩はびっくりするくらい甘え上手だもんなぁ。俺、ずっとここで働きながら不思議に思ってたんだ。遠慮なく甘えてる割に、紅藤様たちからは嫌がられずにむしろ可愛がられているし……」

 

 雪羽は言葉を切り、それからじっと源吾郎を見やった。のっぺりとした凡庸な面立ちではあるものの、彼もまた玉藻御前の末裔には違いない。

 

「もしかして、あれだけ甘えまくっているのに変に思われないのは、それこそ籠絡の術でも使ってるんじゃないの? お狐様ってそう言うの得意だし」

「俺には籠絡の術なんて使えないよ。よしんば使えたとしてもそう言う事には使わない」

 

 籠絡の術。源吾郎は雪羽のその言葉に鋭く反応した。気を悪くしたらしく、声も視線もとげとげしい。籠絡術に長けた玉藻御前の血を引きながらも、源吾郎が籠絡術を良く思っていない事を雪羽は今更のように思い出した。とはいえ放った言葉は戻りはしないのだが。

 一人気まずさを噛み締めていると、源吾郎が再び口を開く。先程とは異なり穏やかな調子で。

 

「まぁあれだろ。俺の甘え上手が何処から来ているのか、そのコツとかが知りたいんだろう?」

「…………」

 

 あけすけな源吾郎の質問に雪羽は微妙な表情を浮かべた。源吾郎が節操なく甘えているのに咎められない謎は確かに気になっていた。だがそのコツを知りたいのかどうか、いざ正面切って問われるとよく解らなかったのだ。

 

「ううむ。本当ならそのコツとかを教えられたら良いんだろうなぁ。だけどそれは難しいんだよな。何と言うか、赤ん坊の頃から兄姉たちに面倒を見られるのが当たり前だったから、意識して甘えてる事って少ないんだよ、実は」

「確かに先輩は末っ子だったもんなぁ。それだったら甘え上手にもなるよな。本家でも妹のミハルとか弟の開成《かいせい》なんかは甘えっこだったからなぁ……」

 

 源吾郎が甘える行為に作為的なものが無いというのは盲点だった。だが彼の生い立ちを考えると腑に落ちる話でもある。源吾郎は末っ子であり、兄姉たちとの年齢差も大きい。その兄姉らによってたかって面倒を見て貰っていた事は雪羽も知っている。何しろ源吾郎自身、長兄である宗一郎の事を実父以上に父親らしい存在であるなどと言っていたのだから。それに雪羽にも弟妹がいたから、彼らが無邪気に年長者に甘えがちである事は何となく知っている。雪羽は甘えてくる弟妹たちを時にあしらい時に受け止める側だった。

 雷園寺君は長男だもんな。源吾郎はもごもごと呟いていたが、やがて何かを思いついたようだった。

 

「そんなわけで甘えるコツを伝えるのは難しいけれど、年長者の習性を教える事は出来るよ。良いか雷園寺君。年長者というのはだな、年少者が不完全だったり弱みを見せる事を嫌だと思う事はないんだ。年長者は経験を積んでいるからな。年少者が未熟な事や弱みを見せる事は()()()()だと割り切っているんだよ。むしろ、教育熱心な性質だったら弱みとか未熟さに対して可愛げがあると思う位さ。

 雷園寺君は多分、不祥事の果てに萩尾丸先輩に引き取られた事に引け目を感じてるんじゃないの? だからその、お行儀良くして弱みを見せないようにと思っているのかもしれない。そう言う考えは一旦脇に置いた方が楽になると思うぜ」

 

 源吾郎はそこまで言うと、ニヤリと妖狐らしい笑みをその面に浮かべた。

 

「そもそも雷園寺君は今までヤンチャでやりたい放題やってたんだ。だからさ、萩尾丸先輩の許で暮らしている時に多少甘えたくらいでは心証が悪くなる事は無いと思うけど」

 

 源吾郎の思いがけぬ皮肉っぽい言葉に面食らった雪羽だったが、不思議と怒りの念は湧かなかった。品行方正なお坊ちゃんは言う事が違うなぁ。そんな事を言いながら二人でしばし笑っていたのだ。

 何がどうという事ではないが、少しだけ気が楽になったのは気のせいでは無かろう。

 

 

 

 萩尾丸が戻ってきたのはそれから更に一時間後の事だった。やはり転移術を使ったらしく、彼の気配は唐突に出現したのだ。

 戻りました、と紅藤に報告していたかと思うと、萩尾丸は迷わず雪羽たちの許に歩を進めた。まるで雪羽がそこで待っているのを知っているかのような足取りである。

 

「ただ今戻って来たよ雷園寺君。帰っても構わないと言ってたけれど、()()()()僕が戻ってくるのを待っていたんだね」

 

 休憩スペースで待ち続けていた雪羽の姿を見ても、萩尾丸は驚いた素振りは一切見せなかった。予想していたと言わんばかりの物言いである。ついでに言えば隣に控える源吾郎を見ても、さほど驚いていなかった。

 

「まぁあんまり遅かったらここで寝泊まりするか、島崎先輩の所に泊めて貰おうかと思っていたんですけどね。ええ、別に僕は大丈夫ですよ。ちょっと勉強とかもしてましたし」

 

 やや口早に雪羽が言い募るが、萩尾丸はそれを黙って聞いているだけだった。萩尾丸はうっすら笑みを浮かべていた。それこそ仔狐や仔猫のじゃれ合う様を見るような眼差しである。

 ちなみに源吾郎の許に泊るというのは冗談半分に飛び出してきた言葉だった。源吾郎は即座に拒絶するだろうと思ったのだが、真面目な調子で「一応予備の布団は用意しているんだ。ただ、ホップが怖がらないように大人しくしていて欲しい」と雪羽に告げたのだ。

 

「それで萩尾丸さん。雷園寺家の話って何だったんでしょうか」

 

 雪羽は身を乗り出し、萩尾丸に質問した。普段通りの姿を見せているが、所々から倦み疲れた気配が漂っている。妙な話で無ければいいのだが、と雪羽は半ば縋るような思いを抱いていた。

 

「別に大した話じゃあないよ。ほらさ、僕らは雷園寺君を通じて雷園寺家と雉鶏精一派の間にパイプを通そうって話を前にやってただろう。その辺りの段取りがどうなっているのかって、灰高様にせっつかれたんだ」

 

 そこまで言うと、萩尾丸はうんざりしたような表情を浮かべた。

 

「灰高様は少し焦っているご様子だったけど、別にまだ段取りを進める状況ではないと思うんだけどね。何せ僕が雷園寺君を引き取ってからまだ二か月くらいしか経っていないんだよ。僕ら妖怪は何百年も生きるんだ。一か月二か月なんて、ほとんど一瞬の事だというのに。

 いやもう大変な会合だったよ。灰高様はせっつくし、三國君は雷園寺家なんぞ放っておけって言ってはばからないしさ。それこそ僕があの会合のパイプ役になったみたいなものさ」

 

 萩尾丸の言葉に、雪羽も源吾郎も神妙な面持ちを見せるだけだった。もしかしたら萩尾丸は面白い事を言ったつもりだったのかもしれない。しかしそれを笑う程雪羽も図々しくはない。

 そんな事を思っていると、萩尾丸が言い添える。

 

「もっとも、灰高様は縁者や配下が雷園寺家と関わっているから、そういう事もあって焦っているのかもしれないけどね。あのお方もあのお方なりに雉鶏精一派の運営と繁栄のために心を砕いてらっしゃるんだ。それで最近も、部下や眷属を使って雷園寺家の様子も見ているみたいだし」

 

 そう言えば雷園寺君。一呼吸置いたかと思うと、萩尾丸は改めて雪羽に呼びかけた。萩尾丸は注意深く周囲を眺めながら、勿体ぶったように口を開く。

 

「君は先日、旅行中の雷園寺時雨君と妹の深雪ちゃんに会ったって言ってたよね? 灰高様はずっと部下を使って雷園寺家の動向を探っていたみたいなんだけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()よ。それどころか、時雨君たちは今も雷園寺家で当主になるべく勉強中だって部下から報告が入っているらしいんだ」

「ですが萩尾丸さん! 俺が出会ったのは確かに弟妹たちでしたよ!」

 

 雪羽は昨日、旅行中だという弟妹達に遭遇した。しかしその旅行は雷園寺家の公式なものではなく、時雨たちは今も雷園寺家にいると見做されている。一体どういう事であろうか? 思いがけぬ情報を前に、雪羽の脳内で様々な考えや憶測が浮かんでは消える。

 やっぱり俺の読み通りだ……隣でそんな呟きが聞こえたが、声の主が誰なのか気にする暇など今の雪羽には無かった。



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結界内での話し合い

 会合を終えた萩尾丸は未だに事務所内にたむろする面々に軽く挨拶をすると、今日の業務は終わりだとばかりに帰り支度を始めた。雪羽がそんな萩尾丸に回収され、一緒に帰る事になったのは言うまでもない。

 

「島崎君も僕が戻ってくるまで居残ってたみたいだね」

 

 車に乗り込み、助手席のシートベルトを雪羽が着用した所を見計らい、萩尾丸はぽつりと呟いた。雪羽は萩尾丸の言葉に頷いただけだった。厳密には源吾郎は居残っていた訳ではない。一旦帰宅し、それからわざわざ戻ってきたのだ。

 だが雪羽はそこまで事細かに説明はしなかった。それを説明するには疲れ切っていたし、ともあれ居残っている事には違いなかったからだ。

 あの子らしい事だ。運転を始めた萩尾丸はまたも呟いた。源吾郎に対するあの子という呼び方は、それこそ萩尾丸らしい発言だった。萩尾丸は若妖怪含め多くの妖怪を従えており、彼自身も既に三百年以上生きている。そのためか若い妖怪を子供扱いする事が常だった。雪羽の保護者であり、大人妖怪の枠組みに入っているはずの三國の事でさえ、ヤンチャさが抜けぬ若者であると見做している節があるのだ。生後百年に満たない若妖怪である源吾郎や雪羽などは、ほぼほぼ無条件で子供扱いされるのは言うまでもない。

 

「実はね雷園寺君。昨日は君が休みだったから、島崎君は少し寂しそうな素振りを見せていたからね。一日ぶりとはいえ、君が元気に出社したのを喜んでいるんじゃないかな」

「島崎先輩が寂しがってたんですか」

 

 雪羽は反射的に呟いていた。それが問いかけなのか事実確認なのかは自分でもはっきりとしなかった。とはいえ寂しがっていたのならば先程の彼の態度も納得がいくものだった。

 結局のところ、源吾郎も自分の気持ちに従っていただけなのか。そう思うと不思議と愉快な気持ちが沸き上がり、雪羽は笑みを浮かべていた。

 

「それじゃあ萩尾丸さん。昨日僕がいないって事で、島崎先輩もずっと寂しいって言ってたって感じなんですかね。先輩は結構甘える事に抵抗が無いというか、まるっきり甘えん坊ですし」

「いや、別にそんなあからさまじゃあなかったよ。僕とか紅藤様に雷園寺君の事を一度聞いただけだったんじゃないかな」

 

 源吾郎の状況について語る時、萩尾丸は笑いをかみ殺しているような物言いだった。

 

「雷園寺君。確かに島崎君が甘え上手なのは僕らも知ってるよ。末っ子育ちのお坊ちゃま育ちだからさ。本人が気づかないだけで甘えん坊な所もあるのかもしれない。だけどのべつまくなし甘えているような甘ったれじゃあない事は君とて知っているんじゃあないかな」

「……確かにそうですね」

 

 雪羽は小さな声で応じ、萩尾丸から顔をそむけた。流れる景色に視線を向けたような動きに見えているのかもしれないが、実際には自分の言動が恥ずかしくて萩尾丸が直視できなかったのだ。

 萩尾丸の指摘は的確であるし、源吾郎が単なる甘ったれではない事を雪羽も知っている。雪羽もひととなりを見抜く眼力は持ち合わせている。三國の許で妖事面談を任されていた事もあるし、彼自身も野良妖怪の()()()()()を従えていた事があったからだ。源吾郎の気位の高さは、生誕祭に初めて出会ったあの日から既に解っていた。二、三度打ちのめした所で屈服したり心が折れる手合いではない事は、射抜くような眼差しが物語っていた。

 もちろんその読みは当たっていた。そうでなければ負け戦が続く雪羽とのタイマン勝負を辛抱強く続けたりはしなかっただろう。僅か八回の勝負で源吾郎が雪羽を打ち負かす事が出来たのは、もちろん彼の能力と才覚と努力の賜物ではある。しかしそれ以上に折れなかった心の強さというのも大きいはずだ。

 雪羽は軽く身を震わせていた。才能と言い精神面と言い、源吾郎は今後も強くなっていくであろう事が明白であると気付いたからだ。その割に無邪気でお人好しな所が目立つ気もするが、そこはやはり育ってきた環境によるものだろう。

 

 

 遅い夕食は出来合いの物で済ませる事になった。普段ならば萩尾丸が用意するか、屋敷に来ている彼の部下――萩尾丸の家である屋敷に、彼を慕っている妖怪が滞在する事がままあるのだ――が作ってくれるかのどちらかだったりする。しかし今回は遅い時間帯であり、奇しくも誰かが萩尾丸の屋敷に訪れている訳でもなかった。猫又のシロウは猫らしく転がっているだけだったし。

 若干味が濃くて脂っこいだろうけれどたまには良いんじゃないかな。萩尾丸は若干神経質そうな声音でそんな事を言っていた。再教育という名目で雪羽の面倒を見ている萩尾丸であるが、雪羽の健康管理というのも萩尾丸の仕事の一つだった。三國の許で野放しになっていた頃は、不摂生が重なっていたのではないかと思っているらしく、一層食事面には色々と気を配っているらしかった。健康診断にもギリギリ引っかからないし健康体なんだけどな……と思いつつも雪羽は萩尾丸の意向に従うほかない。それでも萩尾丸に引き取られてから前よりも元気になった気もするし、動きにもキレが出てきた気がするから結果オーライなのだけれど。

 そんな事を思っていると、萩尾丸が唐突に結界を展開させた。猫又のシロウが驚いたように半身を起こしていたが、何事もなかったかのように耳を動かして伏せている。結構上等な結界だな。電流探知能力で結界を探った雪羽はぼんやりと思った。

 雪羽自身は結界術を使えないが、結界術にも様々な種類がある事は知っている。単純な物は攻撃や外にいる生き物を弾くだけの権能しかない。だが高度なものになると認識を誤魔化したり、結界の内部で何が起きているか解らないような物もある。ややこしい話であるが結界がある事が気付かれないような結界さえあるのだ。

 そうした結界の中でも、萩尾丸が使った結界は、認識阻害も含まれたやや高度な物だった。

 とはいえ何故このタイミングで萩尾丸が結界術を行使したのか。雪羽にはその意図が掴みかねた。雪羽が逃げるのを阻止したり、或いは外部からの敵襲に備えるためのものではない事は明らかだ。雪羽が萩尾丸に反抗する意思が無い事は既に明らかであるし、そもそも外敵除けの結界は屋敷全体にかけられている。

 

「雷園寺君。今回僕は灰高様に呼ばれて打ち合わせに出向いた訳だけど、君もその事で何か言いたい事があるんじゃないのかな」

「あ、それで結界を……」

 

 萩尾丸の唐突な問いかけに、雪羽はそんな事を漏らしていた。二人の会話が、雪羽が話した事が外部に傍受されないように結界を展開した。その事が萩尾丸の言葉で明らかになったと雪羽は思っていた。

 何でも良いから話してごらん。言外に促された雪羽だったが、言葉が上手くまとまらなかった。久々の出勤で疲れているからなのかもしれない。とはいえ、雪羽の脳裏には、異母弟妹たる時雨や深雪の姿が鮮やかに浮き上がっていた。

 

「言いたい事はもちろん色々ありますよ。あるんですけどあり過ぎてまとまらないんです」

「無理にまとめなくても良いよ。思っている事を口にしていくうちに考えがまとまっていくだろうからさ」

 

 萩尾丸はどうあっても雪羽から意見を聞きだしたいようだ。圧倒的な力を持つにもかかわらず、ゆっくりと追い詰めていく様はいかにも萩尾丸らしい。そんな考えが雪羽の脳裏に浮かんでしまった。

 だが雪羽は意識的にその考えを振り払う。どうにも今日は神経が昂り、そのせいで変な方向に考えが向いているのだと思った。萩尾丸が雪羽の意見を聞きたいのは、雪羽が当事者であるからじゃないか。そのように思いなおす事にしたのだ。

 

「萩尾丸さん。叔父は時雨の事を、弟の事について何か言っていませんでしたか?」

「特に何も言ってなかったよ。確かに三國君も、君と同じく雷園寺家の当主は君が相応しいと思っている。だけどあの子もあの子で雷園寺家が擁する当主候補がまだ子供である事は知ってるよ。それに雷園寺君に何かした訳でもないし。だから別に、時雨君をピンポイントで疎んでいるとかそういう事は無いと思うけどね」

「そうだったんですね」

 

 雪羽は思わず安堵の息を漏らしていた。三國は雪羽以上に雷園寺家現当主とその妻の事を憎んでいる。雪羽の前ではひた隠しにしているが、雷園寺家そのものを良く思っていない事も雪羽は知っていた。その三國の憎悪や悪感情が、時雨に向けられているのではないかと気が気ではなかったのだ。

 もちろん、雪羽は三國の事を信頼しているし、保護者として敬愛している事には変わりない。三國とて雪羽の父親代わりになろうと心を砕き、実の息子のように思っている事も知っていた。だから叔父の憎むものを自分も同じく憎むべきだと思っているし、そうする事が()()なのだと考えていた。

 だがそれでも、時雨の事を三國が憎んでいたらどうしようかと戸惑っていたのだ。雪羽にとって時雨は当主の座を争う相手ではある。しかし時雨に相対した時に沸き上がってきたのは、不当な当主候補への憎悪ではなく弟に対する情愛だったのだ。

 もちろん立場上兄を名乗る事はずっと先の事になるはずだ。ついでに言えばその時には勢力争いの対抗馬として名乗りを上げるわけだから、兄弟らしい交流を行う事はどうあがいても不可能だ。

 そうした事は雪羽にも解っていた。解った上で兄として接したいと思ってしまったのだ。

 

「三國君が時雨君を悪く思っていないと知って、安心しているみたいだね」

 

 心中を見透かすような萩尾丸の言葉に、雪羽は素直に頷いた。思っている事が顔に出ていたのだろう。甘えるのが苦手な雪羽だったけど、この時はおのれの思いをストレートに伝える事にした。どのみち意地を張って否定しても、その考えを補強するだけに過ぎないだろうから。

 

「萩尾丸さん。僕自身は時雨の事は悪く思っていないんです」

 

 自分が時雨についてどう思っているか。その話をする決心は既についていた。考えてみればその話は源吾郎に対しても行ったばかりである。同じ事を言えば良いだけなのだ。そう思うと少し気が楽になった。もしかしたら、源吾郎が聞いた話は萩尾丸の耳に入っている可能性もある訳だし。

 

「確かに弟とは雷園寺家当主の座を争う未来が待ち構えているのは僕も知ってます。僕自身、雷園寺家当主の座は諦めていませんし……雉鶏精一派としても僕を雷園寺家当主にしたいと思っておいでなのでしょうから。

 弟も、時雨も雷園寺家次期当主に選ばれている事には変わりありません。ですがあいつは何も知らない子供なんです。しかも妹を探そうと奮闘していましたからね。ええ、全くもって健気な奴でしたよ。面と向かって弟と呼べたらどんなに良かったか。そんな事さえ思いましたからね」

 

 言いながら、雪羽は視界がぼやけるのを感じた。よりによって萩尾丸の前で涙を見せるなんて。眠いから顔をこすっているだけだというふりをして涙を押し隠し、笑顔を作って言葉を続けた。

 

「だけど安心してください萩尾丸さん。別に僕は、弟を見て雷園寺家次期当主の座を狙う事をやめたとか、そう言う訳じゃあありません。次期当主としてぶつかり合うにしても、きっとずっと先の事になるでしょうからね。その時には俺も弟も立派な大人――それこそ萩尾丸さんみたいな大人です――になっているはずです。時雨も異母兄がいたと知っても、その頃には動揺しないでしょうし。

 それに相争って勝負がついたとしても、だからと言って憎み合ったりいがみ合ったりする関係になる訳じゃないと僕は思うんです」

 

 勝負がついた後の関係性。その事を語る時に浮かんだのは源吾郎の姿だった。雪羽と源吾郎はそもそも親しい間柄では無かった。業務上同じ職場で働く事になったから、仕方なく相手の存在を受け入れるという感じだったのだ。

 タイマン勝負の時とて、源吾郎は彼なりに闘志を露わにし、負けたら負けたで悔しがりつつも雪羽に向かって言った位だ。

 しかしそれでも源吾郎が心中ではぐくんでいったのは雪羽に対する憎悪ではなく、仲間意識と相互理解だったのだ。結局の所源吾郎は雪羽を打ち負かしたのだが、彼の心中を慮って気を遣ってくれるほどである。

 そう言った事から、勝ち負けが決まっても禍根を残さない可能性もあるかもしれないと雪羽は思い始めていたのだ。もっともそうした関係性は、源吾郎の人の好さによって生じただけの事なのかもしれないけれど。そしてそれに縋ろうとする雪羽も、子供っぽくて甘い考えの持ち主なのかもしれない。

 

「確かにそう言うあっさりした関係に帰結するのが理想的だろうね」

 

 意外にも萩尾丸は雪羽の言葉を聞いて嗤う事は無かった。肯定もせず否定もせず穏やかにそんな事を言っただけだった。このところ萩尾丸の態度は妙に優しい。優しくされるのは有難いが、妙な優しさは萩尾丸らしくなくて違和感があった。

 そんな事を思っていると、今度は萩尾丸の方から話題を振ってきた。

 

「ところで雷園寺君。君は昨日時雨君たち兄妹に会ったと言っていたよね。だけど灰高様の報告では時雨君たちは本家にいたという事になっている……そこについてはどう思うかな?」

「その事については、むしろ萩尾丸さんの意見が僕は聞きたいです」

 

 萩尾丸の問いかけに雪羽は質問で返した。のみならず挑むような眼差しを萩尾丸に向けたのだ。挑発めいた雪羽の言動に対しても、萩尾丸の表情は揺らがない。しかし口を開くそぶりも見せなかった。

 

「昨日僕が出会ったのは確かに雷園寺時雨と雷園寺深雪でした。まさか旅行に出ていると言っていたあの二人が替え玉で、僕とは縁もゆかりもない妖怪だと仰りたいんですかね。

 そもそも、萩尾丸さんは僕に親族の妖気が染みついていると断言なさっていたじゃないですか」

「雷園寺君。君が出会った時雨君たちとやらが、替え玉ではなく本物であると僕も思っているんだよ。もっとも、僕は君と違って彼らに出会っている訳ではないけどね」

 

 それでも君に染みついている妖気は君の親族の物だよ。断言する萩尾丸を前に雪羽は安堵していた。やっぱり本家にいる方が替え玉なんですね。雪羽の問いに萩尾丸は頷いてくれていた。

 萩尾丸が雪羽と同じ意見を持っている。その事はかなり心強かった。その一方で、疑念が胸の中で膨らんでいった事もまた事実だったけれど。

 

「それにしても萩尾丸さん。それなら何故弟たちは影武者を立ててまで旅行をしていたんですかね。しかも灰高さんの話では、その事を雷園寺家自体は知らないみたいですし」

「まぁ色々考えられるけれど……その旅行とやらを時雨君自身が考え付いた事柄だからなんじゃないかな」

 

 思案に暮れる雪羽を見ながら、萩尾丸は言葉を続けた。

 

「子供の考えた事だろうから、策略とか陰謀とかが隠れている訳ではないだろうね。ただ単に、雷園寺家にいるのがしんどいから、ちょっと気晴らしに遠くに行こうと思っただけなんじゃないかな」

 

 萩尾丸はそこまで言うと言葉を切り、雪羽の瞳をじっと見つめた。

 

「雷園寺君。君は今さっき時雨君の事を『何も知らない子供だ』と言っていたよね? 時雨君は雷園寺家の次期当主になる事について君みたいに意気込んでいたのかな」

「正直なところ、弟からはそんな雰囲気は無かったですね」

 

 正面から問いかけられた雪羽は、時雨の事を思い出しながら即答した。気弱そうな時雨は、むしろ雷園寺家次期当主の肩書はむしろ重荷だと認識しているようだった。その事を雪羽が告げると、萩尾丸は一層笑みを深めた。企みを好む天狗らしい笑顔だったが、それを見て雪羽は少し安心もしていた。

 

「だったら尚更プチ家出というかちょっとした逃避行と言った線が濃厚になるね。それでも無断で出掛ければ大騒ぎになるだろうから、幻術を使って替え玉を用意したって所かな。今の雷園寺家には狐狸妖怪の使用人も多いと聞くし、合点のいく話になるねぇ」

「萩尾丸さん。その話は灰高様や叔父貴になさっているのでしょうか」

 

 一人で納得している萩尾丸に対して、雪羽は質問を投げかける。時雨が本家にいると思い込んでいる灰高にこの事が知られたらややこしい事になりそうだ。その事は若妖怪である雪羽も何となく把握していた。若妖怪であるから、ややこしい事態を収束させる術を持たないのも事実だけど。

 すると萩尾丸は首を横に振るだけだった。

 

「完全に裏が取れている話ではないから僕は何も言ってないよ。繰り返すけれど、僕自身が時雨君たちに会った訳じゃあないからね。

 それにきっと時雨君たちの旅行もほんの数日の頃だろう。誰にも知られないようにこっそり旅行を楽しんで、気付かれないうちに本家に戻って今までの生活を続けていくつもりだと僕は思うんだ。

 そりゃあもちろん気になる所はあるだろう。だけど何かトラブルが起きている訳でもないのに騒ぎ立てたらそれはそれでややこしい事になるからね。そうでなくても雉鶏精一派は雷園寺家にとっては外様であり、ついでに言えば脅威になりかねない存在を擁しているんだからさ……だから雷園寺君も、そんなに気にしなくて良いんだよ」

 

 そうしたやり取りを行っているうちに、萩尾丸はいつの間にか結界を解除していた。食事は互いに済んでいる。雪羽は急に眠気と疲れを覚えたが、それは何も食後だからというだけではないはずだ。



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枕辺に召喚されしは哮天犬

 筆者は西遊記とか封神演義とかが好きだってはっきりわかんだね。


 雪羽は自室のベッドに潜り込んでいた。眠ろうと思っているのだが、いつもと異なり眠気が中々やってこない。雷獣の雪羽は、実は普段はかなり寝付きの良い方だ。寝床に入って目をつぶっていればそれですぐに寝てしまう程だ。雷獣特有の切り替えの早い脳の構造が関与しているのかもしれない。

 もちろん身体的にも精神的にも疲れていて眠りを欲していた。しかし妙に頭は冴えていて、そのせいで中々眠れそうになかったのだ。やはりそれは、時雨の件を耳にしたからなのだろうと雪羽も解っていた。

 

「…………」

 

 横向きに寝ている雪羽の胸と腹の間で、柔らかなかたまりが蠢く。いつの間にか猫又のシロウが寝室に入り込み、当然のように雪羽の隣で丸くなっていた。猫なのでそういう事はままある話らしい。シロウが忍び込んできた時雪羽は目を閉じていたが、電流で彼の接近を読んでいたので特に驚きはない。

 雪羽としてもシロウが近づいてきたのは有難かった。緊張している時や寂しい時は手許にフワフワしたものがあった方がやはり落ち着くのだ。

 シロウの意図は雪羽には解らない。しかし雪羽の考えを解った上での動きであるように思えてならなかった。ともあれ雪羽は、近くにいる猫又の感触で眠気を感じ始める事が出来たのだ。

 

 

「こんばんは、おにーさん」

 

 真夜中の来訪者は、本当に雪羽にとって予期せぬものだった。むしろ寝入っていた雪羽が、闖入者の声掛けに気付けたのが奇跡的と呼んでも良いくらいだ。考え事のために眠りが浅かったためなのか、或いは闖入者の持つ奇妙な作用のためなのかは定かではない。しかし奇妙な気配と微妙に神経に障る物言いが、雪羽を目覚めさせてしまったのだ。

 半ば反射的に半身を起こす。照明をつけるなどという事は行わない。雷獣である雪羽にしてみれば、暗がりで視界が利かない事は問題のうちに入らない。電流を読むという雷獣特有の第六感の鋭さは、視覚や聴覚の比ではないからだ。ついでに言えば電流を読む精度は、むしろこうした暗がりの方が増すくらいなのだから。

 

「…………?」

 

 電流を読もうとした雪羽の顔には、当惑と驚愕の色が即座に広がった。声の主はそこにいる。しかしどのような存在か読み取る事に失敗したのだ。雪羽は日頃よりおのれの第六感を頼りにしていた。それ故に衝撃が大きかったのだ。

――雷獣の、電流を読む力は確かに便利なものだ。しかしその力に依存するだけでは一流の雷獣にはなれない。それをよく覚えておくんだ

 三國がかつてそんな事を言っていたのを、混迷する意識の中で雪羽は思い出した。まだ子供だった雪羽は、その言葉がどういう意味を持っているのか解らなかった。俺は強いから平気だ、といった塩梅に軽く流していたに違いない。

 だがその叔父の言葉を、雪羽は身をもって思い知っていた。今や相手に恐怖さえ抱いていたのだ。いや、こんな所でビビってる場合じゃあないだろう。落ち着け、落ち着け! 自分を鼓舞しながら、雪羽は断片的な記憶をかき集めた。電流を読む事に馴染んでいる雷獣にしてみれば、電流が読めない事は不安をあおる。しかしこういった出来事は初めてでは無かろう、と。そうだ。雪羽はかねてよりおのれの電流探知が通じない相手に出会っていたはずだ。それも一度ではない。

 研究センターの若手職員であるサカイ先輩の電流は、常に読み取る事が不可能だった。隙間に潜むというすきま女の特性故の事であろう。

 紅藤や萩尾丸たちの電流が読み取れない事は無かった。しかし彼らの場合はステルス能力を使えないのではなく敢えて使わずに電流を読み取らせているのではなかろうか。特に萩尾丸などは、自分の屋敷に備蓄している酒類や諸々の物品(子供の教育によろしくないと判断した物)に対して、雪羽に探られないように術をかけているらしいのだから。

 それに何より――仔狐・若狐と呼びならわされる源吾郎とて電流探知を欺く結界術を行使していたではないか。

 心臓の辺りに手を添えながら、雪羽はそんな事をつらつらと考えていた。状況は特に変わらないが、恐怖心や焦りは大分薄まった。

 部屋の照明がひとりでに灯ったのは、雪羽が落ち着きを取り戻した直後の事だった。

 相変わらず電流の流れは解らないが、視界が明るくなったので闖入者の姿を目で捉える事が出来た。そいつは若者の姿を取っていた。癖のない黒髪に灰色のチョッキと白色のワイシャツに、黒いスラックスといういでたちである。夜中の寝室という場所である事に目をつぶれば、まぁ爽やかなサラリーマンにも見えなくなかろう。

 しかし――彼の首許を飾る異様なアクセサリーが、彼が何者であるかをはっきりと示していた。彼は灰色の小鳥の頭を七つ連ねた首飾りを下げていたのである。七つの小鳥の首飾り。これこそが彼の忌まわしさを如実に物語っている。

 雪羽の許に訪れていたのは、雉鶏精一派の怨敵・八頭怪だったのだ。

 

「雷園寺雪羽君だね。キミは確か夜遊びが大好きだって聞いてたから、夜中でもまぁいっかと思ってやって来たんだけど……おねんねの最中だったんだね。ああ、そう言えばおイタが過ぎて天狗の許で調教されている最中だったもんねぇ」

 

 白皙の面に名状しがたい笑みを浮かべ、八頭怪は言葉を紡ぐ。雪羽の恐怖心は一挙に薄れ、代わりに途方もない怒りが去来してきた。彼は明らかに雪羽を仔猫扱いしていたし、それ以上に八頭怪の存在を好ましく思っていなかった。

 

「そんな下らん事を言いに来たのか八頭怪! 妖が気持ちよく寝ている時に押しかけやがって非常識だぞ……やっぱり、妻子を棄てて逃げるような屑には常識ってものはないのかね」

 

 八頭怪が何も言いださないのを良い事に、雪羽は思っていた事をよどみなく口にしていた。妻子を棄てて、の下りでは雪羽の言葉には隠しようもない嫌悪と憎悪が滲んでいる。無理からぬ話だ。何せ雪羽は八頭怪を個人的に憎んでいるのだから。但しそれは、八頭怪が自分と叔父の所属する雉鶏精一派と敵対しているからではない。九頭駙馬と呼ばれていた彼が、旗色が悪くなると知るや否や、妻である万聖公主や彼女との子を見捨てて敗走したという行為が気に喰わなかったのだ。ついでに言えば、実姉である胡喜媚を疎み抜いたところも嫌いだった。

 ダメ押しとばかりに雪羽は言い添える。

 

「どうやってここまで入ってきたのか解らんが、こんな所まで押しかけてただで済むと思うなよ。そもそもここは大天狗の萩尾丸さんの屋敷なんだ。不法侵入者であるお前なんか、あの妖がフルボッコにしてくれるだろうさ!」

 

 良くもまぁすらすらと言葉が出てくるものだ。雪羽は言い終えてからふと奇妙な感覚に囚われていた。感情の起伏が大きいのはいつもの事であるが、今日はそれが極端な気がする。しかもよりによって萩尾丸をダシに使うなんてらしくない。

 とはいえそれで八頭怪を退けられるのなら構わんだろう。そのような考えさえ脳裏に浮かんでいた。

 

「言いたい事はそれだけかな、ニャンコの雪羽君」

 

 ややあってから八頭怪が口を開く。八頭怪は怯んでもいなければ腹を立てている素振りも無い。紅色の唇を歪ませて僅かに笑みを作っていた。但し黒々としたその瞳には、いくばくかの好奇と侮蔑の色が浮かんでいたけれど。

 

「ふふふふふ、動画デビューできそうなニャンコちゃんに知性なんて求めていなかったけれど、所詮は哺乳類なんだなって感じだよ。ドヤ顔で萩尾丸君の事を引き合いに出してくれたけどさ、まさかボクがあんなのに気兼ねするとでも? 

 良いかい雪羽君。萩尾丸君なんてのは所詮あのメス雉の腰巾着、彼女にくっついておこぼれにあずかっている金魚のフンに過ぎないんだよ。まぁ、ペットの身分になっているキミからすれば、大した天狗様なのかも知れないけどね」

 

 歌うような八頭怪の言葉に、雪羽は身震いした。萩尾丸を単なる腰巾着、紅藤をメス雉などと言って、まるで小物や雑魚妖怪であるかのように表現した事に度肝を抜かれたのだ。萩尾丸がマネージャーとして紅藤に仕えているのは事実だ。傍から見れば非凡なセンター長の小間使いのように見える事もあるかもしれない。しかしだからと言って、萩尾丸が取るに足らぬ妖怪である事とは同義ではない。萩尾丸自身も膨大な妖力と豊富な経験を持つ成熟した大妖怪だ。彼自身も妖怪組織を束ねる長であるし、その気になれば地方都市の妖怪たちをまとめ上げるだけの力量はあるだろう。その彼を一番弟子と呼びならわす紅藤の強さは言うまでもない。

 雪羽は目をすがめ、八頭怪の様子を慎重に窺っていた。どういった意図で彼がそのような発言をしたのか、それだけでも見定めておこうと思ったのである。所謂ビッグマウスは、自分の自信の無さゆえに発せられる事もままあるのだ。雪羽の傍にいたオトモダチはそういった傾向が強かったし、自分もビッグマウスやハッタリに頼った事はあるにはある。

 ところが八頭怪の笑みには余裕の色が色濃く滲んでいた。本心から紅藤たちを取るに足らない存在だと思っていると言わんばかりだった。

 どうかその読みが間違いであれば良いのに。雪羽はそんな事を思うほかなかった。

 

「ああごめんね雪羽君。別にボクはあの辛気臭い連中についてああだこうだ言うために来たんじゃあないんだよね――キミの話を聞きたくて、ここに来たんだよ」

 

 八頭怪の視線が雪羽に注がれる。八頭怪は一人だけなのだが、複数の相手から凝視されているような錯覚を雪羽は抱いた。八頭怪だから瞳も八対あるという事なのだろうか。

 

「雷園寺雪羽君。キミには叶えたい願い事は無いかな? いや、キミにはどうしても叶えたい願い事があるよね」

 

 そう来たか。八頭怪の問いかけに対し、雪羽は案外冷静な気持ちを保つ事が出来た。八頭怪が相対する者の願い事を聞き出し、そして叶える。彼の言動については前もって知っていたからだ。

 もっとも、八頭怪は忌まわしき邪神の遣いである。願いを叶えて貰った相手には、遅かれ早かれ破滅が待ち受けるという。のぼせ上って彼に願いを口にしたところでゲームオーバーなのだ。

 雪羽はだから、願い事を彼に託すつもりはさらさらなかった。八頭怪の性質を教えられていたし、何より――本当の願いは誰にも叶えられない事を知っていた。

 

「雪羽君。ふふふ、すました顔をしていてもボクには解るんだよ。キミには叶えたい願い事が一杯あるってね。欲張りさんだねぇ。でも、そういう子はボクは好きだけどね」

 

 八頭怪はそこまで言うと、一度言葉を切った。それから軽く身を乗り出し、こちらに顔を近づけてきた。八頭怪と自分との間には距離があったと思っていたのだが、いつの間にか八頭怪の顔はすぐ傍にあった。気が動転しているせいで、相手との距離感を掴み損ねたのかもしれない。

 

「一番大きな願い事は、雷園寺家当主になる事だろうね」

 

 雷園寺家の当主になる。自身がずっと意識し続けてきた事を口に出され、雪羽はうっかり頷きそうになった。だがここで、こぶしを握り締めて踏みとどまる。源吾郎の話を密かに思い出していたのだ。彼もまた八頭怪とサシで対面したという。その時に願い事を叶えてやると言って唆されたのだが、自力で彼を退けたのだと教えてくれた。あのお坊ちゃま育ちの妖狐ですらできた事だ。であれば自分も出来ぬわけがなかろう。雪羽はそう思っていたのだ。

 そうは思いつつも、八頭怪を退ける言葉は思いつかなかったが。

 

「まぁ雪羽君。キミが頷けばボクから直々に力を授けて進ぜよう。その力があれば、キミは安心して雷園寺家の当主になれる事請け合いさ。メス雉のペットであるアホ狐も、目障りな君の弟も、その力で排除してしまえば良いんだよ」

 

 八頭怪の白皙の面にはいつしか満面の笑みが浮かぶ。甘みを漂わせた、しかし邪悪な気配を隠し切れない笑顔である。隠せないのではなく隠していないだけなのかもしれないが。

 だからこそ雪羽は返答する決心がついたのだ。

 

「――お前の力なんて要らないね。こちとらそんなのに頼らなくても間に合っているんだ」

 

 八頭怪が何か言い出すのを待たずに、雪羽は畳みかけた。妙な塩梅に頭が回り、彼を退けられそうだ。そんな考えが浮かんで雪羽は微笑んでいた。その笑みが八頭怪の見せた笑みに似ている事には気付かずに。

 

「俺は雷園寺家次期当主を約束された男だぞ。何処の馬の骨とも解らん下郎から力を貰えるからと言って尻尾を振ると思ったか?」

 

 下郎。その言葉を口にしたところで雪羽はさっぱりした気分になっていた。紅藤や萩尾丸が恐れるこの妖怪を、自分の力で退ける事が出来そうだ。その思いにまさに酔い痴れていたのである。

 ところが八頭怪もまた笑うだけだった。

 

「ふふっ、あはははは……ニャンコちゃん。キミがそういう事はボクもちゃーんと解ってたよ。あのアホ狐だって同じような事を言ってボクを拒絶したんだからね。

 だからまぁ、今回はボクがキミに直々に力を注入してあげるよっ!」

 

 言うや否や、八頭怪を取り巻く空気が一変した。首飾りの頭部の二つ三つが急速に膨らみ、ついで雪羽の方へと伸びていったのだ。それに気付いて逃れようとした雪羽であったが……逃れる事は叶わなかった。一つの頭は布団に入って左足首を、もう一つの頭は右腕を咥え込んでいたのだ。奇妙な事に痛みは無かったが、びくともしない。

 

「さぁさぁニャンコちゃん。仔猫が注射嫌いなのはボクも知ってるよ。だけどチクっとするだけだから我慢してね」

 

 呑気な獣医みたいな言葉で八頭怪が微笑んでいた。しかし複数の頭を繰り出し雪羽を拘束する姿は、禍々しいことこの上ない。しかも正面から伸ばした第四の首は、嘴の間から玉虫色の粘液を滴らせている。何かは定かではない。が、触れるとマズい物である事は本能的に悟った。

 その嘴が、雪羽の胸元に掲げられていたのだ。衝撃に備え、雪羽は目をつぶった。

 

 衝撃はやってこなかった。それどころか、間延びしたような時間が流れるのみである。雪羽はそれから、遠くで犬の遠吠えを聞いたような気がした。そう思っている間に、間近で犬の唸る物凄い怒声を耳にしたのだ。犬の声の間からは、名状しがたい何者かの啼き声も聞こえていたが。

 

「畜生、畜生! 何で哮天犬《こうてんけん》のやつがこんな所に来ているんだっ!」

「グルルルルル…………」

 

 雪羽が再び目を開いたのは、八頭怪の腹立たしげな声を聞いたためだった。おのれを拘束する頭と粘液を滴らせた嘴はいつの間にか離れていた。

 八頭怪は驚愕と苛立ちに顔を赤く染めている。彼の視線の先にいるのは細身の黒い犬だった。大きな犬だと思ったが、八頭怪は哮天犬だと呼んでいた。孫悟空に噛みついて昏倒させたという犬であると思えば、確かにあの黒犬も頼もしい感じがする。

 

「仕方がないね雪羽君。キミに構ってあげたいのはやまやまなんだけど、ボクはどうしても犬は苦手でね……」

 

 お前に構ってもらうなんて願い下げだ。そう思っている間に八頭怪は二対の翼を展開し、そのまま窓の向こうへと飛び去って行った。窓は開いていないし開ける素振りを見せなかったのだが……尋常ならざる光景の前では些事だろう。

 獲物のいなくなった哮天犬なる黒犬は、雪羽を見やると軽く尻尾を振っていた。それから輪郭がぼやけ、煙のようになって消えてしまった。不思議な事に、哮天犬だった煙は雪羽の手首――手首に巻いた護符の玉の中へと吸い込まれていったのである。

 

「大丈夫か雷園寺君! 侵入者の気配を察知してこっちに来たんだが――」

 

 煙が護符の中に吸収されたまさにその時、扉を打ち破らんばかりの勢いで萩尾丸が駆け込んできた。普段の彼らしくない、やけに焦った様子を見せている。少し前から雪羽の部屋に入ろうと奮起していたが、何がしかの術のせいで入れなかったのだと萩尾丸は言っていた。

 八頭怪がやって来たが、哮天犬が何処からともなく現れて追い払ってくれた。雪羽はその事を伝えるのがやっとだった。危機が去り、屋敷の主である萩尾丸もやって来た。雪羽の中で張りつめていた物が急激に緩み、半ば失神する形で意識を手放してしまったのだ。




 最強の妖怪は誰か? そう問われたら哮天犬を推したい猫蔵でした。


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明るみになった隠しコマンド

 朝。八頭怪の襲撃を受けた雪羽であったが、疲労困憊という心境を抱えている訳では無かった。むしろ妙に目が冴えているくらいである。気付けにとマムシパウダー配合の薬湯を飲んだ事もさることながら、早朝から荒天である事も関連しているのだろう。

 雷獣は晴天の時は大人しく、荒天の時に活発になるという伝承が世間にはある。雪羽は雷獣であるが、それが本当なのか確信できなかった。雪羽にしろ叔父の三國にしろ荒天であれど元気に空を駆け回り暴れまわる事はあるにはある。だが彼らは天候に関係なく概ね活発な性質だ。

 或いはいもしかすると、低気圧や気圧の乱高下のために、雷獣の気が立って荒っぽくなっているだけなのかもしれない。そもそもからして雷獣は気性の荒い個体が多い物だ。ついでに言えば感覚も鋭敏である。低気圧等によるストレスで荒っぽくなったり神経が高ぶってもおかしくは無かろう。雷獣と荒天の関係性について、雪羽はそのように思っていた。

 もっとも、今回雪羽が気を張っているのはそれだけでもないのだが。

 

「紅藤様たちから聞いたよ。八頭怪のやつ、雷園寺君の所にも来たらしいな」

 

 静まり返りつつも慌ただしい空気の漂う事務所の中で、雪羽に近付いてきたのは源吾郎だった。その瞳には驚きの念が混ざっていたが、ある種の奇妙な仲間意識のような色も浮かんでいた。源吾郎は既に雪羽を同僚と見做している。今更になって仲間意識を持つ物だろうか。そんな疑問を抱いていた雪羽だったが、源吾郎の瞳を見ているうちにはたと気付いた。源吾郎もまた、八頭怪に誘惑されたのだと。

 ちなみに今事務所にいるのは雪羽と源吾郎だけだった。紅藤たち大人妖怪は作業と打合せ資料作成のために別室に詰めていた。昼前には顔を出すと言っていたが、もう少し時間がかかるかもしれない。雪羽たちは棚の整理とか試薬・試料の在庫確認を言い渡されているだけで、実質放置されているようなものだった。事態が事態だけに、業務を割り振るどころでは無かったのだろう。センターの中で若手であり、雪羽たちの監視役になりがちなサカイさんですら招集されているのだ。中々に大事である。

 

「怖かっただろうなぁ。俺が出くわした時は夕方だったけど、雷園寺君の所には真夜中に来たんだろう。萩尾丸さんも、雷園寺君が寝てる所だったって言ってたし」

「……萩尾丸さんがあそこまでうろたえているのは初めて見た気がするよ」

 

 怖かっただろうなぁ。呼びかけとも問いかけともつかぬ言葉を敢えて無視し、雪羽は呟いた。八頭怪との遭遇は、もちろん怖いし不安だったし腹立たしい出来事でもあった。しかしそうした気持ちを肯定してしまいそうで口には出せなかったのだ。

 雪羽にしてみれば、八頭怪襲撃後に見せる萩尾丸の態度もまた衝撃的だった。萩尾丸と言えば、大妖怪としての余裕をいついかなる時も保っている。少なくとも雪羽の前での萩尾丸はそんな妖怪だった。その彼が若者のようにうろたえ、雪羽に瑕疵がないかどうか血眼になって問いただしていた。雪羽自身には特段外傷も何もないのだが、萩尾丸の態度は雪羽の不安をあおった。子供である自分とは異なり、大人には落ち着きと安定したものを持っていて欲しい。雪羽自身をヤンチャな仔猫扱いし、叔父の三國ですら一目を置くような大天狗であればなおさらだ。無意識のうちにそのような事を雪羽は考えていたらしい。大人に()()を求める事が愚かしいと知っているはずなのに。

 

「そりゃあ、今回の件でうろたえたのもやむ無しだろうねぇ」

「先輩は萩尾丸さんがうろたえた事には驚かないの? 甘えん坊なのに意外だなぁ」

 

 思っていた以上にとげとげしい声が口から出てきて、雪羽は我ながら驚いてしまった。しかし、萩尾丸がうろたえているという事をごく自然に源吾郎が受け止めている事に違和感を抱いたのも事実だ。年長者に甘える事に違和感がないという源吾郎の性質を知っているから尚更だ。

 源吾郎は雪羽の言葉に気を悪くした様子はない。雪羽を見下ろす瞳はあくまでも落ち着いたものである。俺が甘えん坊なのと萩尾丸先輩がうろたえるのとは別問題だけどなぁ。そう言う源吾郎の頬には僅かな笑みが浮かんでいた。

 

「確かに萩尾丸先輩も紅藤様も大人だと思うよ、俺らと違って。だけどあの妖《ひと》たちが完全無欠なお方って訳じゃないだろう? だからその……俺たちみたいに戸惑ったりうろたえたり取り乱したりする事はあると思うんだ」

 

 その通りなのだから同意すれば良いのだろう。だが雪羽はぼんやりと源吾郎を見上げるのがやっとだった。自分と源吾郎とは似通っている所が多い。その半面で決定的に異なっている所も多かった。種族や出自、戦闘スタイルと言った解りやすい物もあれば、思想や考えのあり方といった、普段ならば意識しない物もある。

 特に年長者への接し方や年長者そのものをどう思っているのか。その辺りの違いはかなり大きいと雪羽は感じていた。互いの境遇が全く異なっている事はもちろん知っている。知ってはいるがいざ彼の考えを耳にすると戸惑ってしまうのも事実だった。

 

「そうだ。これ……」

 

 若干気まずい空気が流れる中で源吾郎が動いた。薄紫の玉が目立つストラップを手にしていた源吾郎は、雪羽にそれをこだわりなく渡したのだった。護符の一種である事は雪羽も既に見抜いていた。そうでなくとも紅藤の妖気が漂っていたのだから。

 

「前に俺が付けていた護符だよ。今付けている分よりも効果は弱いし気休めにしかならないかもしれない。だけど、無いよりはましなんじゃないかなと思ってね。

 紅藤様が新しい護符を作ってくださるまで、持っておくと良いよ」

「お、あ……ありがとう」

 

 気の抜けた声を放ちながら、雪羽は源吾郎から護符を受け取った。急な事だったし色々な考えが巡っていたから雪羽の声は不明瞭な物だった。しかし淡く輝く護符の玉を眺めているうちに気分も落ち着いていた。それから雪羽は、紅藤の作った護符を源吾郎が二つ持っているのを思い出したのだ。元々一般向け(?)の護符を身に着けていただけの源吾郎だったのだが、蠱毒の一件があってからグレードアップした護符を紅藤に与えられたのだ。もちろん研究センターに勤務する雪羽も同じものを受け取り身に着けていた。

 古い護符は新しい護符よりもスペックが低いのでお払い箱になっていた訳であるが、源吾郎は捨てずに取っておいたらしい。むしろそれどころか、この護符もこの護符で有効活用していたようだ。源吾郎は何も言わないが、護符自体に小鳥の香りが染みついているのが明らかな証拠だった。よしんばホップの鳥籠のどこかに吊り下げていたのだろう。源吾郎ならやりそうな事だった。

 

「島崎先輩。この護符って小鳥ちゃんを護るために使ってたんですよね?」

「やっぱりバレたか」

「そりゃあ解るさ。小鳥ちゃんの匂いがぷんぷん漂ってるんだからさ」

 

 やっぱり雷園寺も鼻が利くんだな。源吾郎はそう言って笑っていたが、すぐに真剣な表情に戻った。

 

「その護符も最初に貰った分だし、物が物だから捨てるのも忍びないからね。まぁでもホップのことは大丈夫だよ。確かに雷園寺君の読み通り、その護符はホップの鳥籠――ホップがいたずらしないように外側に付けてるんだけど――にくっつけていたんだ。だけどそれこそ気休めみたいな使い方だと思う。元々からしてあの居住区は紅藤様が護ってらっしゃるんだから」

 

 それにさ。源吾郎の視線は雪羽の手首に向けられていた。雪羽は右手首に護符を巻いていた。だがその護符はもうない。朝目を覚ました時には、連ねた玉たちは全て軽石のようにもろくなっていた。護符の効能が完全に消失し、使い物にならなくなっていると萩尾丸は言っていた。

 

「八頭怪のやつは確かに俺や雷園寺君を狙っている。実際に襲撃にあったしね。だけど流石にホップの事までは狙わないと思うんだ……そう思いたいって言う俺自身の願望もあるけれど。だからちょっとくらいホップの傍に護符が無くても大丈夫かなと思ってね」

「成程そういう事か。それなら有難く受け取っておくよ……いや、レンタルするって言った方が良いかな」

 

 島崎先輩も大分気を遣っているなぁ。雪羽はぼんやりとそう思った。護符をありがたがる源吾郎とは異なり、雪羽はさほど護符に拘泥している性質では無かった。雪羽は妖怪としては子供であるが、その妖力の保有量は同年代のそれを遥かに凌駕している。それ故に高い戦闘能力と攻撃力を発揮できていた。しかし妖力の恩恵はそれだけに留まらない。肉体を護る防御力や傷ついた身体を癒す再生能力もやや高いのだ。ついでに言えば雪羽自身が物理的に傷を負う事をあまり恐れていない。

 それ故に、護符の有用性をあんまり考えた事は無かったのだ。とはいえ今回は、その護符が雪羽の身を護ったのだが。

 

「それにしても雷園寺君。あの時哮天犬が出てきて八頭怪を追い払ったって言ってたよな。まさかあれも紅藤様の()()()だったなんて」

「そうだなぁ、まぁどっちかって言うと仕込みというか隠しコマンドみたいなやつらしいねぇ。とはいえ、萩尾丸さんも知らなかったみたいだけど」

 

 雪羽を襲わんとした八頭怪を退けたのは哮天犬《こうてんけん》と呼ばれる黒い犬だった。この哮天犬には、九頭駙馬だった八頭怪の頭を一つ咬みちぎったという逸話がある。ついでに言えば二郎真君という仙人としても武神としても名高い男に仕えている犬だ。いかなは八頭怪と言えども恐れをなして退散するのは致し方なかろう。

 但し、あの夜雪羽の許に訪れた「哮天犬」は本物ではない。その正体は紅藤が護符に込めた()()の一つだったのだ。本人曰く「持ち主に最大の危機が訪れたときのみに発動する術式」との事だそうだ。但し術式の発動による負担は極めて大きく、発動後の護符は軽石を連ねたブレスレットに成り下がるのだ。

 件の隠しコマンドの話を聞いた時、研究センターの面々は一様に度肝を抜かれた。表向きは「ちょっと強い中級妖怪クラスの攻撃を無効化、オプションで耐薬品・耐毒物性能付き」という仕様の護符であると聞かされていたからだ。

 だが驚いていたのもつかの間の話である。紅藤様ならそう言う仕込みを行っていそうだという件が、ごく自然に浮上してきたのだ。雪羽もその通りだと思っていた。紅藤が研究者気質で凝り性な所は雪羽とて知っている。一般の大人妖怪が複雑だと思っている術式を組む事は彼女には造作の無い事なのかもしれない。

 

「危険な妖怪を追い払うのに哮天犬を再現したというのが、いかにも紅藤様らしいなぁ」

 

 源吾郎はそんな事を呟いた。何処か遠くを探るような眼差しだった。

 

「何せ哮天犬は二郎真君の飼い犬で、強さは折り紙付きだからね。哮天犬自身も斉天大聖孫悟空の足に咬みついて引き倒した事もあるし、何より胡喜媚様や九頭駙馬だった八頭怪の頭を咬みちぎった実績もある。紅藤様が好んでお使いになるだろうさ」

 

 哮天犬と紅藤様らしさとやらについて語る時、源吾郎はさも愉快そうな笑みを浮かべていた。こう見えて源吾郎は真面目にあるじたる紅藤の事を尊敬している。定めた対象には忠実という妖狐らしい性質の現れと言えばそこまでであるが。

 そのように考えていた雪羽は、ふとある事に気付き猛烈な違和感を抱いた。

 

「島崎先輩。哮天犬は確かに八頭怪の宿敵だけど……胡喜媚様を襲った犬でもあるんだよな? そんなのを部下を護る術式に組み込んで良いのかな?」

 

 雪羽の質問に、源吾郎は肩をすくめた。あからさまに当惑した様子を見せてはばからない。

 

「胡喜媚様がご存命だったら気を悪くなされるかもしれないと俺も思うよ。だけどあのお方もお隠れになって三百年近く経つんだ。だから別に良いんだろうね。もっとも、胡喜媚様を敬愛なさっている峰白様が知ればやっぱり良い顔はしないだろうけれど」

 

 何か気になる事でも? ひととおり質問に答えてから、今度は源吾郎の方が問いかけてきた。

 

「気になるも何も、紅藤様はそもそも胡喜媚様に仕えていた妖怪の一人なんだぜ? そんな紅藤様が、胡喜媚様の()になるような存在に頼るなんて、その……」

 

 不敬だし忠義にもとる事ではないか。最後の言葉はすんでの所で呑み込んだ。術式のモチーフに、哮天犬という胡喜媚の敵を使った。そうした事実は確かにある。しかし表立って断言するのはよろしくない事は雪羽も心得ていたのだ。

 

「確かに紅藤様は胡喜媚様にお仕えしていたよ。だけど、胡喜媚様の事を良く思っていないのもまた事実なんだ。ほら、灰高様だってその事をダシにして紅藤様を詰っていたじゃないか」

 

 そう言えばそんな事もあったかもしれない。記憶をまさぐった雪羽はぼんやりと思った。

 考えを巡らせている雪羽に対して、源吾郎は畳みかけた。

 

「雷園寺君。君は俺の事を真面目だとか何だって思っているだろうけどさ、雷園寺君だって案外生真面目というか頑固な所はあると思うんだけどね。

 だからその、紅藤様が自分のあるじだった胡喜媚様の事を良く思ってないって事で、色々と変に思ってるんだろ? 俺は別に、そういう事はあってもおかしくないし、心の中で思うだけだったら別に構わないと思うんだ。そりゃあ確かに俺たちは紅藤様の部下や弟子に当たるのは事実だよ。だけど何かを思ったり何が好きで何が嫌いかとか、そうした心の動きの自由は与えられているんだからさ」

 

 源吾郎はここで言葉を切り、ニヤリと笑った。妖狐らしい、そこはかとない邪悪さの滲む笑みである。

 

「自分と全く同じ()()が欲しいだけだったら、それこそ洗脳術とか自我の上書きとか、そう言う術を繰り出してくるかもしれないじゃないか。紅藤様も萩尾丸先輩も、見ての通り大妖怪だ。そんな術の一つや二つ、その気になれば使う事だってできるだろうさ」

「…………」

「もっとも、紅藤様はそうした術を嫌っておいでだから、俺たちにそんな事をなさるとは思わないけどね」

 

 いつの間にか源吾郎の面に浮かぶ邪悪な笑みは消えていた。伏し目がちに語る彼は、普段の気の良さそうな雰囲気を漂わせている。

 確かに。ややあってから雪羽も頷いた。雪羽の教育係である萩尾丸もまた、無理に雪羽を従わせる真似は殆ど行わない。反抗する気概が失せる程に萩尾丸が強いという点もあるにはある。しかしある程度は雪羽の自由にさせている部分もあるにはあるのだ。動物に芸を仕込もうと鞭を振り回すタイプではない。むしろ仔猫がじゃれるのを楽しんで眺めているようなタイプだったのだ。仔猫扱いされるのが時々悔しく感じる事はあるにはあるのだが。

 あ……と源吾郎が声を上げる。その視線は雪羽から逸れていたが、すぐに雪羽に目配せした。

 

「ま、世間話はさておき俺らも仕事というか棚整理をやろうや。後でぼんやりだべってるってバレたら、それこそ萩尾丸先輩に厭味を言われるかもしれないし。それに、雷園寺君は棚整理とか得意だろ?」

「あ、うん……」

 

 何ともわざとらしい源吾郎の物言いに釈然としないものを感じつつ、雪羽は頷いた。だがすぐに、源吾郎の発言の意図が判明し、ついでおかしさがこみあげてきた。磨き上げられたリノリウムの床の上に、一匹のネズミが鎮座していたのだ。情報処理係であるという真琴の遣いに違いない。そうでなければ源吾郎たちを前にあそこまで堂々としてはいないだろうから。

 そのネズミ一匹に源吾郎が緊張しているのが、雪羽には面白く感じられたのだ。



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散らばる羽毛と妖力の珠

 昼休みは丁度いい塩梅に雨が上がっていた。もっとも空は灰色の雲が分厚く垂れこめており、いつ降り出してもおかしくないぞと下界の生物たちに知らしめていた。

 雪羽はそんな空を眺めつつ研究センターへと足を運ぶ。工場棟にある購買所からの帰りだったのだ。研究センター内は妖数(にんずう)が少ないため、敷地には自販機すらないありさまだ。飲食物を購入する際は、一旦建物を出て工場棟に入らねばならないのだ。従業員数が多い工場棟は食事の提供も充実していた。社員食堂らしきものもあったくらいなのだから。

 

「ん……」

 

 弁当(もちろん妖怪用)の入ったエコバッグを半ばブラブラさせながら歩いていた雪羽だったが、地面に視線を向けて思わず立ち止まった。黒い物が散らばっているのが視界に映ったためだ。落ち葉では無かろう。

 少し近付いた雪羽は、散らばっている物を見て思わず眉をひそめた。黒い羽だったのだ。大きさや匂いからして鴉の羽だ。もちろん鳥だから羽が抜ける事もある。しかし散らばっている羽の数は異様に多い。何かに襲われて羽を散らしたか、或いは……不穏な考えがどうしても浮かんでしまう。

 こんな時にこんなものを見るんじゃなかった。軽く後悔しながら雪羽はその場を立ち去った。そう言えば今日は鴉の姿も少ないし啼き声も聞こえない。烈しい荒天だから何処かに隠れているのだろう。

 

 

「雷園寺君がお弁当を買うなんて珍しいなぁ」

 

 雪羽が弁当を広げるのを見た源吾郎は、さも驚いたような声音でもって呟いた。源吾郎は雪羽のはす向かいに腰を下ろしており、自分で作ったらしい弁当を持参していた。マメな源吾郎が弁当を作る事も、互いに近寄って昼休憩を取る事も今となっては珍しい事でも何でもない。

 

「今日は朝から忙しかったからねぇ。萩尾丸さんもお昼を用意する余裕なんて無かったんだ」

「いつもは萩尾丸さんが作ったお弁当を持ってきてるもんなぁ。萩尾丸先輩って根っからの仕事妖みたいな感じがするけれど、料理とか弁当作りもそつなくなさるなんて……やっぱりすごいお方だよ」

 

 源吾郎は半ば嘆息の混じった声で呟いた。そんな事を言いつつも源吾郎とて自炊しているのだが。ともあれ源吾郎は萩尾丸に畏敬の念を抱いている事には変わりない。

 

「まぁ、萩尾丸さんって妖の面倒を見るのが案外好きだからさ。俺の料理を用意するのも結構楽しんでなさってるみたいなんだ。それとまぁ、俺自身も料理を教えて貰ってる。玉子焼きくらいなら一人でできるようになったからな!」

「玉子焼きが出来るのか……」

 

 挑むような雪羽の口調に、源吾郎はほのかに笑っていた。彼は今まさにマウスの天ぷらを箸で摘まんでいる所だった。中々に手間のかかるマウスの天ぷらも作れる彼にしてみれば、雪羽の自慢も子供っぽく聞こえたかもしれない。今更ながらその事に気付き、雪羽は気が気ではなかった。

 まぁ、料理は出来ておいて損はないもんな。源吾郎は単にそう言っただけだった。おかずを口にして咀嚼している間、源吾郎は雪羽の手首を眺めていた。

 厳密に言えば、新たに作ってもらった護符を、源吾郎は食い入るように眺めていたのだ。

 

「やっぱり護符が気になるんですか、先輩?」

 

 雪羽は言いながらゆったりと右手を動かした。紫色の玉が一つと、それよりも一回り二回り小さな玉を幾つも連ねた代物である。ミサンガと数珠の中間みたいな姿のそれは、雪羽がかつて身に着けていた物とよく似ていた。

 しかしこの護符は前回の護符とは決定的に異なっている。小さな玉の中には三つほどひときわ輝く玉があった。全体的に透明な玉なのだが、内部に小さな稲妻が蠢いているのだ。

 稲妻が内部で見えるこの玉の正体は、雪羽の妖気を玉にしたものだった。

 

「前のやつも良い護符だったと俺も思うよ。だけど今回のは今回ので凄いよなぁ。何せその辺の椅子とかから雷園寺君の妖気の残滓を集めて玉に生成したんだろう。やっぱり研究センター長の実績は伊達じゃないよなぁ」

 

 妖怪が体内に宿す妖力や妖気は一種のエネルギーである。しかしこれを特殊な形で体外に放出すると玉のような塊になる事もあった。そうしてできた玉は妖珠だとか妖力珠と呼ばれている。紅藤が護符を作る際も、自分の妖気を玉状にしているとも聞いている。

 実際問題、おのれの妖力を玉として大概に放出するという芸当を出来る妖怪の存在は限られてくる。妖怪にとって妖力・妖気は生命力の一つであり、無闇に放出すれば生命に関わる事も少なくない。そうでなくても保有する妖力が減少するのだから弱体化は逃れられない。

 自身の妖力を玉として放出する行為。それは中級妖怪程度の雪羽や源吾郎ではまねできない芸当だった。仮に出来たとしても大幅な弱体化や妖気の減少に由来する体調不良を招くだけだろう。

 とはいえ実際には雪羽の妖気を基にした玉が、妖珠が護符の一部を構成している。この玉たちは源吾郎が指摘した内容で作られた物だった。雪羽が気付かぬ間に放出していた妖気の残滓を集め、増幅させて錬成して玉としてこしらえたのだそうだ。

 度が過ぎた妖気の放出が、妖気の主たる妖怪の体調を損ねる結果を招く事は事実である。しかしその一方で、普通に活動している場合でも妖怪は妖気を放出している事も事実だった。自然に放出される妖気は微弱な物であるが、力の強い妖怪であればその妖気がその場所に留まる事もままあるらしい。そうした妖気の残滓に着眼し、この度雪羽の妖気が玉として護符の一部を構成する事となったのだ。

 

「うん。前の隠しコマンドももちろん仕込まれているけれど、俺由来のこの玉は、いざという時に消耗した妖力の補填をしてくれるんだって」

 

 そうらしいなぁ。雪羽の言葉に源吾郎はやや間延びしたような声で応じる。相変わらず雪羽由来の妖珠をじろじろと眺めている。

 妖怪が自身の妖力を増やす行為の一つとして、外部から妖気・妖力を取り込むという物がある。エネルギーである妖気を直接体内に取り込むから妖力が増えるというのは感覚的に解りやすい話であろう。

 しかしながら、この方法はリスキーな方法である事もまた事実だった。弱い妖怪がたくさんの妖気を取り込んだからすぐに強くなると言った安直な事はまず起こりえない。妖気を取り込むと言っても、取り込める妖気の保有量には上限があるためだ。上限を超えて取り込めばやはり生命に関わる。また、妖気の量に問題が無くても取り込んだ妖気と相性が悪ければそれもそれで生命に関わる問題に発展しかねない。

 紅藤が密かに作った雪羽由来の妖珠は、そう言った問題を解消している代物だった。元を正せば自分の妖気になるのだから拒絶反応も起こりようがないし、妖力の補填も有事の際にしか発動しないように調整されているのだから。

 八頭怪に襲撃された事もあってか、相当に凝った造りの護符だったのだ。

 

「先輩。もしかして羨ましいんですかね?」

 

 雪羽はなおも護符を眺める源吾郎に質問を投げかけてみた。源吾郎ははじめぎょっとしたように目を見開いていた。だが何度か視線をさまよわせてから口を開いた。何かに恥じ入るような、そんな表情である。

 

「まぁ……正直に言えば羨ましいかな。俺のにはそう言うからくりは無さそうだし……」

「あはは、先輩はやっぱり素直ですねぇ」

 

 雪羽が笑うと源吾郎は更に恥じ入った様子で身を縮めた。元々血色の良い方であるが、その頬は火照りに火照り耳まで赤くなっている。気恥ずかしさと若干の恨めしさの籠った眼差しを相変わらず雪羽に向けている。やっぱり先輩にも子供っぽい一面はあるんだな……源吾郎を見ながら雪羽は呑気に思っていた。実年齢で言えば雪羽の方が二十年ばかり年長ではある。しかし半妖である源吾郎の方が心身の成長は早いらしく、言動は年長者のそれに見える時もあるにはあるのだが。

 二人の微妙な年齢差はさておき、源吾郎が見せる素直さや子供っぽさを雪羽は好ましく思っていた。とかく源吾郎は解りやすい男だった。もちろん多くの()()()()()と接してきた雪羽であるから、相手の考えを察して動くという駆け引きも曲りなりには出来る。しかしそうした物に倦み疲れていたのだと最近気付いた。

 

「でも別に、紅藤様が雷園寺君をひいきしているとか、そんな事は思ってないよ。そのからくりだって、単に雷園寺君には必要で俺には必要なかったんだって紅藤様も仰ってたし。俺もその通りだと思ってるよ。

――確かに雷園寺君は強いよ。俺だって結構戦闘訓練でてこずったしさ。でもなまじ強いから危ない所まで無理しちゃうもんな」

「言うて俺も無理ばっかしてる訳じゃないぜ」

「雷園寺君はそう思ってるのか」

 

 意味深な言葉を口にしつつ源吾郎はひっそりと笑う。寂しそうな笑みだった。源吾郎の目には自分がそんなに危うく見えるのだろうかと雪羽は思った。

 源吾郎は特段手を抜くのを好む手合いではない。むしろ訓練にしろ鍛錬にしろ全力を出して頑張ろうとする性質だ。鬼気迫るものを感じた事も何度かある。だがその一方で、自分が人間の血を引くがゆえに脆弱な所があるのもよく心得ていた。雪羽との戦闘に臨む時も防御面の弱さやスタミナの無さをどうにかカバーしようとしていたし。

 そう言った面もあるからこそ慎重さも持ち合わせている。雪羽はそのように解釈していたのだ。

 

 一旦話は変わるけれど。源吾郎は軽く前置きをしてから今再び口を開いた。

 

「昨日灰高様たちとの間で会合があっただろう。それでその後に雷園寺君の弟さんたちが秘密裏に旅行していたって話になってたみたいだけど、あれってどうなったのかな」

「ああ、あの話だな……」

 

 そう言えばそんな事もあったなぁ。昨日の事なのに遠い昔の事のように思えてしまい、雪羽はおのれの考えに身震いしていた。八頭怪襲来のショックが大きかったのもあるにはあるのだが。

 

「俺も萩尾丸さんも、こっちに来ている方が本物で、本家にいる方が替え玉か何かだって言う意見で一致しているよ」

 

 まぁ、俺は最初から何か怪しいと思ってたんだけどな。そう言う源吾郎の面は僅かに笑みで緩んでいた。

 

「もっとも、替え玉とか影武者とかでなくても変化術の可能性もあるけど。雷獣には難しいかもしれないが、それこそ妖狐とか化け狸だったら簡単に出来る話だし」

「…………」

 

 妖狐や化け狸。雪羽はそこで時雨一行の事を思い返していた。当主の妻は妖狐や化け狸を好んで従者として侍らせていたし、姐やの松子も化け狸だったではないか。

 それで弟さんはどうするの。ややあってから、探るような声音で源吾郎が尋ねてきた。雪羽は荒く息を吐き、源吾郎を見据えて応じる。

 

「どうするもこうするも特に何もしないよ。そもそもまだ確証が得られないかもしれないって事だから、灰高様にも報告はしてないって萩尾丸さんも言っていたし。

 理由はさておき、時雨は本家から少し離れたくてこっそり姐やや妹と一緒に遠出をしているだけなんだ。替え玉なり分身なりを用意しているって事は、バレずにきちんと戻ってくる段取りも考えているはずだと思うんだ。こっそり出かけてこっそり戻ってくれば、向こうも大騒ぎなんてしないはずさ。

 そうした段取りがあるのに、変に俺たちがでしゃばったら、それこそ迷惑が掛かるんじゃあないかな。そうでなくても俺らは八頭怪とか他の連中にも狙われている訳だし」

 

 だから俺は、時雨たちが何事もなく雷園寺家に戻るのを待っているだけなんだ。雪羽が放った最後の言葉は、雪羽の願望そのものであったのは言うまでもない話だ。



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パワーバランスも会議の手札

「萩尾丸さんがお困りになるなんて相当な事だよな……」

 

 源吾郎と入れ違いに事務所を去った紅藤を見て、雪羽はそう呟くほかなかった。源吾郎やサカイ先輩からは違った意見が出てくるかもしれない。だがそれでも、うろたえる萩尾丸というのは雪羽にとっては珍しい物だったのだ。

 

「やっぱり萩尾丸先輩も立場があるし、今回もその辺りをつつかれていた感じだったかな」

 

 具体的な話を教えてくれた源吾郎は、やけにあっけらかんとした様子だった。状況が読みこめていないというか、若干他人事のように思えているのかもしれない。少なくとも、萩尾丸を蔑ろにしているとか彼の困った様子を面白がっているというそぶりは見られなかった。

 

「萩尾丸先輩の立場、かぁ……」

 

 源吾郎の言葉をオウム返しし、雪羽は思いを巡らせた。萩尾丸の立場。灰高の遣いである鴉たちや紫苑の部下たちとの関係性。はっきりと解った訳ではないが、ややこしい物を抱えているであろう事だけはおぼろげに掴めた。

 

「簡単に言えば萩尾丸先輩は板挟み状態になってるんだよ。萩尾丸先輩自身は、紫苑様の部下が勝手に掃除をした事を良くない事だって思っておいでなんだ。だってあの鴉たちは灰高様の遣いなんだ。灰高様がどれだけあの鴉たちに心を配っているかは俺には解らないけれど、それでもあのお方に喧嘩を売ったと見做されてもおかしくはない。実行犯は紫苑様の部下だけど、研究センターで起きた出来事だから」

 

 灰高に喧嘩を売った。それが大事である事は雪羽もすんなりと理解できた。

 大妖怪揃いの八頭衆であるが、その中でも灰高が強い妖怪である事を雪羽はもちろん知っていた。何しろ大妖怪中の大妖怪・雉鶏精一派最強とされる紅藤に対して、真正面から挑発したくらいなのだ。ついでに言えば雪羽を雷園寺家次期当主に推し進める事に賛成している妖怪でもある。

 あれこれ考えていると、源吾郎が更に言葉を続けた。

 

「萩尾丸先輩だって立派な大妖怪、立派な勤め妖だと俺は思ってるよ。だから俺たちだったらどうにもならない事とかでも涼しい顔で解決なさっているだろう。

 だけど今回は紫苑様の部下が相手だから色々とやり辛いみたいなんだよ。何せ紫苑様は胡琉安様の従姉に当たるお方なんだからさ。実力だけじゃなくて血縁関係とかも絡むと、どうしても萩尾丸先輩は分が悪くなってしまうんだ。特に名のある天狗の子弟でもないし、元々は人間だったって事もあるらしいし」

「そっか……」

 

 源吾郎の解説に雪羽は素直に驚いていた。家柄の後ろ盾が無いから交渉ごとに苦労する事がある。こうした悩みを萩尾丸が抱えているなどとは夢にも思っていなかったのだ。叔父の三國ですら平伏する萩尾丸の事は十二分に強いと思っていたし、何より雪羽自身が名門妖怪の生まれだったからだ。雷園寺家の看板を背負い続けている彼には、家柄という武器が無い状況をうまく想像できなかったのだ。

 ついでに言えば、八頭衆の幹部たちのパワーバランスについても雪羽は実は無頓着だった。誰も彼も三國よりも強くて年長の面々ばかりだったから、叔父貴より強い妖怪という事でひとくくりにしていたのだ。

 

「今回萩尾丸先輩が相手をしていた面々は特に性質が悪いみたいなんだよ。紫苑様の側近か何かは知らないけれど、自分が紫苑様の配下である事をちらつかせて、自分たちのやった事を正しい事だって萩尾丸さんに認めさせたがっているんだ。それで、らちが明かないから紅藤様の助けを借りたという事さ」

 

 萩尾丸が困ったり紅藤の助けを借りたりするなんてますます普段の彼らしくない。雪羽は無遠慮にもそんな事を思い始めていた。しかし昨晩から今日にかけて、八頭怪襲来の件で皆オロオロしたりバタバタしたりしているのだ。雪羽だって平常心とは言い難いわけだし。

 そんな事をあれこれ考える雪羽の顔を覗き込むと、源吾郎はうっすらと微笑んで言い添えた。

 

「自分が付き従っている相手の地位や肩書を振りかざす手合いは、むしろ雷園寺君の方が俺よりも詳しいんじゃないかな。今はいないみたいだけど、雷園寺君の周りにも()()()が大勢いたんだからさ」

「腰巾着なんて言い方はよせよ!」

 

 源吾郎のにやにや笑いが気に入らなかったのか、はたまた腰巾着と言い放った時の冷え冷えとした口調に心がざわついたのか。気付けば雪羽は声を荒げていた。

 雪羽の声に源吾郎は一瞬怯んだような表情を見せた。源吾郎の意外と穏和な気質を思えば特におかしくない反応である。その先彼がどうするか雪羽には解っていた。きっと戸惑いつつも何も言わずに終わるのだろう。

 ところがそうはならなかった。源吾郎はその面に寂しげな笑みを浮かべつつ今一度口を開いたのだ。

 

「雷園寺君はあいつらの事を()()()()()だと思っているのか? 威勢がいい時だけ付き従って、旗色が悪くなったら見限って顧みないようなあいつらをさ」

「それは――」

 

 何故こいつは今になってこんな事を言いだすのだろう。雪羽の脳内にはそんな疑問が浮き上がってきた。疑問と言えば、そもそも雪羽自身が源吾郎の言葉に過剰に反応している事も疑問なのだが。

 源吾郎の言うオトモダチとは、雪羽がかつて従えていた妖怪たちの事だ。周囲からは「取り巻き」「悪い仲間」と呼ばれていた若妖怪たちである。雪羽はオトモダチを大勢抱えていたし、面白おかしく遊ぶという点では彼らは忠実だった――少し前までは。

 付き従うだけ付き従って、旗色が悪くなれば見限る連中である。その事はもちろん雪羽も知っていた。オトモダチも所詮は雪羽の力に平伏して逆らわないだけである事、利益を求めて媚びているにすぎない事は解っていた。()()()雪羽の事を慕っている妖怪は誰もいない事も解っている。不祥事を起こし再教育を受ける事となったあの日以来、彼らと顔を合わせた事が無かったのだから。

 オトモダチの腹の底を知っていたにもかかわらず、雪羽は源吾郎の言葉に心がざわついていた。それが何故なのかはよく解らない。もしかしたら、自分とオトモダチと()()()()()()()()()()と思って源吾郎が腹を立てているのかもしれない。そんな考えさえ首をもたげる始末だった。

 

「ね、二人とも。お喋りは良いけど喧嘩しちゃだめだよ。ほら、もうすぐお師匠様とか萩尾丸さんたちも戻って来るし」

 

 二人のやり取りに横槍を入れたのはすきま女のサカイ先輩だった。彼女の口調は柔らかい物であったが、源吾郎も雪羽も表情を一変させた。

 

「すみませんサカイ先輩。そうですよね。そろそろ打ち合わせも終わる時間でしょうし」

「べ、別に僕らは喧嘩してた訳じゃあないんですけれど……」

 

 わざとらしく腕時計を確認しながら応じる源吾郎に続き、雪羽も軽く弁明した。サカイ先輩は研究センターの中では若手の研究員と見做されている。しかし源吾郎も雪羽も彼女に対して一目を置いていた。源吾郎には年長者の前で従順に振舞うという習性が染みついているだけに過ぎない。しかし雪羽は純粋にサカイ先輩を強者と見做し、若干の畏れの念を抱いていた。彼女には電流探知能力が通用しないためだ。

 そんなわけで様々な思惑はあるものの、源吾郎も雪羽もサカイ先輩を敬っていた。サカイ先輩は後輩に力や威厳を示すタイプではないが、それでも彼女の顔を立てている事には違いないだろう。

 

 

 紫苑が派遣した「清掃係」の話も、紅藤の介入によって良い塩梅に落ち着いたらしい。萩尾丸の前では威勢よく振舞っていた鳥妖怪たちも、流石に紅藤の前では態度を改め行儀が良くなったそうだ。そもそも紅藤は大妖怪であるし(萩尾丸ももちろん大妖怪なのだが)、何より紫苑の叔母・胡琉安の生母という立場も強かったのかもしれない。

 

「紫苑ちゃんはこの前こっちに来た時に掃除の件を持ちかけてくれたのよ。伯母上様もお忙しいでしょうし私の部下で良ければ……って感じでね。でもまさか、灰高のお兄様が寄越しているかもしれない鴉を狙うなんて思ってなかったわ」

 

 事務所に戻ってくるなり紅藤はそんな事を告げた。萩尾丸や青松丸を従えて入室してきた彼女であるが、その顔は物憂げに曇っていた。何と彼女は紫苑の部下が退治した鴉の事を気の毒に思ってすらいたのだ。思っているどころかあの鴉には気の毒な事をしたと口にしたくらいである。

 

「今後はこうした事があれば事前に軽く確認しておいた方が良さそうですね」

 

 即座に意見を述べたのは案の定萩尾丸だった。彼は普段通り表情の読めぬ笑みをその面に浮かべていた。未明から朝にかけて焦ったり戸惑ったりしているのが嘘のようである。大妖怪だからそうした状態から立ち直るのが速いのだろうか。或いはもしかすると、大妖怪だから心の戸惑いを押し隠し、平静を装うのが上手なのかもしれない。

 

「別に紅藤様を悪く言うつもりはございませんよ。ですがわざわざ姪が申し出てくれたという事で気が緩んでいた所もおありだったのではないですか」

「そうね。全くもって萩尾丸の言うとおりだわ」

 

 柔らかな口調と言えども萩尾丸は遠慮なく思った事を口にしていた。炎上天狗だのなんだのと周囲から言われている訳であるが、そうした舌鋒の鋭さが紅藤に向けられる事も珍しくない。雪羽も初めは驚いたものであるが、紅藤と萩尾丸の関係はむしろ良好な物であるというから恐れ入る。紅藤は大妖怪のためかおおらかな性格であり、部下や弟子が自分に意見し逆らう様をいっそ楽しんでいる節があった。一方の萩尾丸は、言動はさておき紅藤に対して忠義と恩義の念を持ち合わせているらしかった。

 

「まぁ、()()くらい外部に委託せずとも自分たちで始業前にちょろっとやれば何とかなるという事だね」

 

 萩尾丸は源吾郎たちに視線を向けると、得意満面と言った様子で言い放った。青松丸やサカイ先輩は頷いているものの、雪羽は少し戸惑って源吾郎に視線を走らせ、勢い彼に目配せする形になった。

 掃除がどのような意味を持つのか。そこが雪羽の気になる所だったのだ。言葉通り掃き掃除や拭き掃除などの類ならばどうという事はない。それこそ工場棟の工員たちとて出来る話だ。

 もしかしたらここでの掃除とは外敵の排除という物騒な意味合いを孕んでいるのではないか――そのような考えがどうしても脳裏をかすめてしまったのだ。

 

「……特にサカイさんは掃除が上手だもんねぇ。昔は仕事終わりとかにふらっと出向いてボランティアがてらにやってたんじゃないの?」

 

 意味深な笑みと共に、萩尾丸はサカイ先輩に話を振っていた。やっぱり掃除って物騒な方の意味じゃないか。思わず雪羽は源吾郎と顔を見合わせていた。

 

「ま、まぁあの頃は私も若かったですし……それに萩尾丸さん。ここはお師匠様の縄張りですから、私たちが掃除しないといけないような、わ、悪いモノは来ないと思いますが……」

 

 それもまぁ違いないか。至極まっとうなサカイ先輩の指摘と萩尾丸のとぼけたような返事に、周囲の場が一瞬緩んだ。何処となく漫才的なやり取りになったので、一同は大なり小なり笑いをこぼしたのだ。無論それは年若い雪羽や源吾郎も例外ではない。

 さて唐突に沸き上がった笑いが治まると、萩尾丸は真面目な表情で雪羽を見やった。

 

「そう言えば雷園寺君。今週末は三國君の許に戻らないって言ってるらしいね?」

「萩尾丸さん! どさくさに紛れて俺の考えを術で読み取ったんですね!」

 

 唐突な発言、質問というには断定的すぎるその言葉を前に雪羽は面食らってしまった。無論萩尾丸の言葉は事実である。午前中の中休みに、雪羽の身を案じた三國から電話があったのだ。「八頭怪に出くわして怖い思いをしただろう。だから今日にでも家に戻ってくれば良い。萩尾丸さんへの掛け合いは俺がする」そのように三國は言ってくれたのだ。だが雪羽はこの申し出を敢えて突っぱねた。

 面食らう雪羽とは裏腹に、萩尾丸は落ち着いた調子だった。

 

「ははは、君みたいなお子様の考えを読み取るためだけに術なんて使わないさ。実を言えば昼休みに三國君から連絡があったんだ。ねぇ雷園寺君。三國君は大層心配していたんだよ。八頭怪に襲撃されて心細いだろうに、()()()は戻らなくても平気だと言い張っているってね。場合によっては僕が君にそう言わせていると思われてもおかしくないんだけどなぁ」

 

 見慣れた笑みを浮かべながら萩尾丸はつらつらと言葉を紡いだ。僕は叔父貴の息子じゃなくて甥ですよ……そのようなツッコミが反射的に浮き上がって来たが、雪羽は口には出さなかった。三國にとって息子同然の存在である事、息子と同等の手続きを経た養子である事を踏まえての発言であろう事は解っていたからだ。それにその事は今回掘り下げる内容とは違う。

 雪羽が単に強がっているだけなのか否か。萩尾丸は単純にそれが知りたいだけなのだ。とはいえ知った上で最終判断を下すのは萩尾丸であるのだが。

 

「八頭怪に襲撃されたからこそ、萩尾丸さんの許に留まろうと僕は思ったのです」

 

 雪羽は呼吸を整えてからゆっくりとおのれの意見を述べた。若狐である源吾郎は言うに及ばず、紅藤や萩尾丸たちと言った年長の妖怪たちも軽い驚きを見せていた。

 

「あの時八頭怪は明らかに僕を狙っていました。あいつがすぐにまた僕を狙うのかどうかは解りません。ですが、週末になったからと言って安直に叔父の許に戻って、叔父たちを危険にさらしたくないんです。もうすぐ叔父には()()()()()が出来るんですから」

 

 本当の子供。その言葉を雪羽は半ば無意識のうちに強調していた。萩尾丸が感心したように息を吐くのが聞こえる。雪羽は彼を見据えながら言葉を続けた。

 

「萩尾丸さんはとても強い妖怪ですから、むしろ萩尾丸さんに僕が護られていると思った方が、むしろ叔父貴も安心すると思うんです。だから今週末は……いえ時雨が無事に雷園寺家に帰った事が確認できるまでは萩尾丸さんの許に留まろうと思っているんです」

 

 雪羽はそこまで言い終えると、静かに萩尾丸の顔を仰ぎ見た。萩尾丸は思案する素振りをわずかに見せ、微笑みながら頷いた。

 

「そうか。君の事だからまた強がっているのかなと思ったけれど、きちんと考えた上での話なんだね。雷園寺君。君の考えは僕の方から三國君に伝えておくからね」

 

 週末は三國の許に戻らず萩尾丸の家に滞在する。この申し出はあっさりと了承された。手ごたえがないどころか拍子抜けしてしまった位だ。



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封書もたらすかつての「仲間」

 夕方六時。タイムカードを押して帰り支度を終えると、待ち構えていたかのように萩尾丸が近づいてきた。様子を見るに、彼はまだ帰る素振りは無い。雪羽を転移術で家に戻そうと思っているのだろう。

 

「今日は遅くなるから先に戻ってくれるかな」

 

 言いながら、萩尾丸は事務所のドアを示した。原理は定かではないが、萩尾丸はああして特定の場所から別の離れた場所に移動できるような術を即座に構築できるのだ。

 有無を言わさぬような圧に若干たじろいでいると、萩尾丸は優しげな笑みを浮かべて言い添える。

 

()()()については気にしなくて良いよ。新調したその護符は、君が嫌がる揺らぎの影響も軽減するようなからくりがあるからね」

「それって本当ですか?」

「本当だとも。騙されたと思ってあのドアを抜けてごらん」

 

 促された雪羽は荷物をまとめ、言葉通りにドアを抜けた。よく解らない景色が見えたと思ったら、そこは既に萩尾丸の屋敷の中だった。もう転移したのか……そんな感想を抱くほどに、ごく自然な転移だった。ちなみに普段は、二日酔いに似た違和感と不快感を雪羽は抱いてしまう。これもまた感覚が鋭敏な雷獣故の事であった。

――という事は、これからは仕事が終われば好きな時間に屋敷に帰れるって事だな。

 転移術への違和感が無くなった事について、雪羽は素直に喜んでいた。今までは萩尾丸を待って帰宅せねばならなかった。学生街から吉崎町の研究センターまで通う足を持っていなかったためである。さりとて毎度毎度転移術を使って二日酔いのような感覚に苛まれるのも面白くない。

 自分への利点にばかり注目していた雪羽であるから、転移術に抵抗を持たなくするという仕掛けが()()()()()()()()有利な物であると気付くまでに、若干の時間を要したのだった。

 

 

「シロウさん。何でわざわざ先回りして転がってるんですか……」

 

 午後六時半。普段よりも早い時間に帰宅した雪羽は、屋敷内の掃除を一人で行っていた。屋敷には萩尾丸の部下である妖怪が来訪している時もしばしばある。しかし今日は萩尾丸も彼らも忙しいらしく、そうした妖怪たちの姿は無かった。代わりに居候である猫又のシロウが屋敷にいる位だ。彼も猫又として(?)地元の地域猫が安全に暮らしているかどうか見回る事もあるらしい。だが概ね屋敷のどこかにいるか、散歩をする雪羽にそれとなく同行するかのどちらかだった。

 そして今回は、掃除を行う雪羽の傍にまとわりついている。お猫様とはそう言う生き物らしいのだ。ちなみにシロウは掃除機の音を聞いても涼しい顔だ。猫と言えば騒音が苦手というイメージがあったが、彼は猫又であるから平気なのだろうか。

 シロウについては萩尾丸の居候(部下ではない)であり猫又という事しか雪羽は知らない。だが三尾あるという事は猫又として相当に経験を積んでいるのだろうと思われた。猫はすぐに化けるという伝承にある通り、猫が妖怪化して猫又になるにはそう多くの年月を要さない。妖狐や雷獣が二尾になるまでに百年近くかかるのとは大きな違いだ。しかしその一方で、三尾以上の猫又になるまでが長いのだそうだ。猫又が二尾の個体が異様に多いのはそのような種族的背景があるらしい。

 

「いやそのぉ、萩尾丸さんから大変な事があったって聞いてたからね。本当は雷園寺君だって、広い屋敷で一人っきりじゃあ寂しいでしょ?」

「…………」

 

 雪羽は視線を落とし無言を貫いた。へそ天していたシロウはきっと、雪羽の本心を見抜いているであろうけれど。

 一人っきりでいて寂しい。あからさまに寂しいと感じる事は少なかったが、ふっと言いようもない感覚に陥る事はある。自分がこうしてここにいる事が正しいのか、元々自分とは何なのか。そんな考えが去来する事があるのだ。きっとそれが寂しいという感覚に近いのだろう。雪羽はぼんやりと思った。そうした感情は、総じて妙に落ち着いた心境の時にやってくるのだから。

 島崎先輩は寂しいと思う事があるのだろうか。雪羽は何故か源吾郎の事にも思いを馳せていた。いや、彼も寂しさを抱える事もあるだろう。次の瞬間には断定めいた考えに疑問はすり替わる。紅藤の敷地内に暮らしているとはいえ、源吾郎もあれで一人暮らしを敢行しているのだ。親兄姉の多い賑やかな環境で育ち、かつ甘えん坊な源吾郎の事である。本人は否定するかもしれないが、案外寂しがり屋な所もあるのかもしれない。

 

「早く帰れたのは良いけれど、屋敷にいても退屈だからびっくりしちゃってさ。それでちょっと掃除とか始めたんだ」

「雷園寺君は活発だもんねぇ」

 

 今回のシロウの指摘には雪羽は素直に頷く。活発というと動物みたいな感じであるが、雪羽はそもそもアウトドア派である。三國の許で暮らしていた頃は体力と時間が許す限り夜遊びを敢行した日々を送っていたのだ。世間で言う所の健全なアウトドアとは言い難いが、少なくともインドア派ではない事だけは確かな話だ。

 もっとも現在は謹慎中であり、萩尾丸の監視もあるため夜遊びは行っていないのだが。とはいえ屋敷の中でじっとしているのも性に合わないので、こうして掃除とかを勝手に行う事がままあった。料理を習得すれば料理の下ごしらえなどを行うようになるのかもしれない。

 午後六時を過ぎているから、夕刻から夜に移ろう時間帯ではある。普段ならば夕方の散歩を行おうか、という考えも浮かんでいたかもしれない。しかし今日ばかりはそう言った気持にはなれなかった。何せ八頭怪に襲撃されてから二十四時間も経っていないのだ。用心する事はごく自然な流れであろう。仮に萩尾丸がこの場にいれば、屋敷に留まるように言いつけたかもしれないし。

 だが一方で、屋敷の内部、要は室内の清掃に飽き始めていたのも事実だった。雷獣の特性という事も大いにあるが、雪羽は若干飽きっぽく移り気な所も持ち合わせている。

 またしても先回りして転がるシロウを一瞥し、雪羽は庭掃除を行う事を思い立った。庭掃除は屋内の掃除とは一味違うし、そろそろ落ち葉も気になる季節である。しかも庭だから屋敷の外に出ている訳でもない。妙案だと、雪羽は密かにほくそ笑んだ。

 

 室内にいた時はずっとくっついてきたシロウであったが、流石に庭に出てくる事は無かった。代わりに庭に面する窓に陣取り、雪羽の様子を観察している。シロウがどのような力を持つ妖怪なのかは雪羽にもよく解らない。しかし萩尾丸の屋敷に住む者同士関心を持っている事だけは明らかだった。

 雪羽は時々シロウを見やるだけで、落ち葉掃きに専念していた。別段何がどうという訳ではないが何となく楽しい。今日は色々あったし、気晴らしにはもってこいだろうと思った。飽きるまでやっておいても問題なかろうなどと思っていた。段々暗くなり始めているが、夜の闇が雷獣の活動を妨げる事はない。獣ゆえに夜目が効くし、そもそも電流を読み取る能力があれば何も見えなくても概ね問題はない。

 

「……?」

 

 さてそのように庭掃除に励んでいた雪羽であるが、敷地を隔てる柵の向こうに誰かがいる事に気付いた。漂う妖気と電流探知により、彼らが獣妖怪である事を雪羽はすぐに知った。箒を木の傍らに立てかけた雪羽は、思いがけぬ喜びを覚えてほおを緩ませた。相手が面識のある妖怪、それも()()()()()の二人であると知ったからだ。一人はカマイタチの少年でもう一人はアライグマの妖怪だった。夏の生誕祭の折に、雪羽と共に同行していた若妖怪である。

 雪羽には彼ら以外にもオトモダチがいた。しかしこの二人とは特に長い付き合いでもあったのだ。

 

「おう、お前らじゃないか。久しぶりだな……」

 

 二人の妖怪に名前で呼びかけたのち、雪羽は柵越しに彼らの許に近付いた。本来であれば門扉に向かって敷地の外に出て彼らを出迎えれば良かったのかもしれない。しかし思いがけぬ再会に興奮した雪羽は、そこまで考えを巡らせていなかったのだ。

 

「雷園寺の若君もお元気そうで何よりです」

「ええ。俺たちも雷園寺様があの天狗に軟禁されていると聞いて心配していたんですがね」

 

 カマイタチもアライグマ妖怪も笑みを浮かべていた。しかし以前と違って雪羽様と呼ばず、雷園寺の名字で呼びかけている。そんな彼らの言動に若干引っかかるものを感じてはいた。それでも雪羽は久々に出会った二人に対し無邪気な笑みを向けていた。次期当主問題であれこれ悩んでいた事も、そもそも彼らが一度雪羽を見限るような言動をした事もこの時ばかりは忘れていた。あいつらも大妖怪たちに睨まれてああ言っただけに過ぎないんだ。そんな風に解釈していたのである。

 雪羽もまた詰めの甘い所があったのだろう。それ以上に退屈さと心細さを心中に抱えていたのも大きい所だ。

 

「軟禁だなんて大げさだなぁ。俺はちょっと真面目な社会妖《しゃかいじん》になれるように勉強しているだけさ。ちゃんと日中は仕事をしているし、週末には叔父貴の許に帰れるから心配しないでくれよ」

 

 雪羽の言葉に、二人の若妖怪は顔を見合わせたようだった。それからおずおずとこちらに向き直る。

 

「仕事ってもしかしてあの変態狐と一緒に働いているんですか?」

「変態狐とは酷い言い草だなぁ。流石に島崎先輩も怒るかもしれないよ?」

「雷園寺の若君、本当に丸くなりましたねぇ……」

 

 カマイタチの少年がしんみりとした口調で呟いている。何となくであるが寂しそうな口調に思えた。面白おかしく過ごしていただけの相手だとしても、変化があると思えば複雑な気持ちになるのは致し方ない話だろう。

 とはいえ彼らも雪羽の事を心配してくれていたのだ。それは有難い事だった。源吾郎に引き合わせれば彼とも親しくなれるかもしれない。取り留めもなく、尚且つ可能性の低そうな事柄さえ脳裏に浮かんでしまった。

 あ、そうそう……密かに感慨にふけっていると、思い出したようにアライグマ妖怪が声を上げた。

 

「雷園寺様。今日は雷園寺様に手紙を届けに来たんですよ」

「手紙だって……? そりゃあまた大げさだなぁ」

 

 思いがけない言葉に雪羽は軽く笑った。アライグマ妖怪の大真面目な表情と、手紙を届けるという他愛なさのギャップが妙に面白かったのだ。手紙など寄越さずとも電話とかメールで連絡できるのではなかろうか……その事を告げるとカマイタチと共に首を振った。

 

「えっとですね、僕たちは今雷園寺様から離れているんですが、そこで大人の妖怪たちと知り合ってそこで働いているんですよ。まぁ俺らもまだ若いし下働きみたいなものなんですけどね。

 実は今回の手紙も、ボスから雷園寺様に渡すように直々に言われているんです」

「この手紙、雷園寺の若君にとってはまたとない朗報でしょうね」

 

 カマイタチの少年が言い切るや否や、アライグマ妖怪は手にしていた封筒を雪羽に手渡した。事務用の武骨な茶封筒である。封はなされていたが切手は貼られていない。あらかじめ雪羽に渡す事を想定しているようだった。

 オトモダチから受け取った封筒であるが、奇しくも抱え持つような形となっていた。サイズもごく一般的な郵便物の範疇に収まる封筒に過ぎない。しかし何故か、雪羽には非常に重たく感じられたのだ。

 

「それじゃあ、俺たちも今日はこの辺で帰りますね。遅くなるとボスたちも心配するんで」

「また今度お会いしましょうね、雷園寺の若君。良ければまた一緒に遊びたいですね。何せあなたには、()()()()()()()()()()()()()()()()が巡っているんですから」

「おい! あんまりべらべらと喋ったらだめだろう」

 

 俺に雷園寺家次期当主のチャンスが巡っている? 一体何の話であろうか。カマイタチが放った言葉は意味深であったが、雪羽がそれを問いただす暇は与えられなかった。彼らは雪羽が封書を持っているのを確認すると、そのまま風のように姿を消してしまったのだから。

 

 

 庭掃除を早々に切り上げた雪羽は、あてがわれた自室に戻っていた。どうという訳でもないのだがごく自然に机に向かい、椅子に腰を下ろした。

 細工用のカッターで封を開け、中の用紙を取り出す。重たいと感じたのはやはり錯覚だったのだろう。中から出てきたのはA4用紙二枚だった。一枚はパソコンでタイプした文章をプリントアウトしたものであり、もう一枚は簡略化した地図がプリントアウトされているだけだった。パッと見た感じでは、特に怪しむような点は薄い。

 しかし――一枚目の文章に目を通した雪羽は絶句した。様々な考えや思い、感情が目まぐるしく浮かんでは消え、雪羽の中で暴風よろしく渦巻いていた。雷園寺家次期当主になれるチャンスが巡ってくる。カマイタチの少年はそう言っていた。しかし、()()()こんな事があるとは――

 

 封書には雷園寺時雨の一行を拉致した事が淡々と記されていた。その上で雪羽に彼らを()()()()()()()()を付与すると書かれてあったのだ。

 もちろん他にも色々な事が記されてはいた。しかし今の雪羽には、時雨が何者かに拉致された事、その下手人が雪羽に時雨を殺害するよう暗に仕向けている事しか解らなかった。



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雪羽の選択

 ターニングポイントなので敢えてシンプルなタイトルなのです。


 その封書の言葉を信じるならば、この度雷園寺時雨を拉致した妖怪たちもまた、雷園寺家にゆかりのある妖怪なのだという。厳密に言えば先代当主に仕えていた過去を持ち、雪羽が雷園寺家次期当主になる事を望んでいるのだそうだ。

 先代当主は邪心のある女に謀殺された。しかもその女は罰せられるどころかしゃあしゃあと仔を産み次期当主の母親の座に収まろうとしている。()()()()()を持つ雪羽は母親の無念を晴らす権利と義務がある。よこしまな女と優柔不断な男の間に生まれた()()()()()()()()()を粛清し、堂々と雷園寺家に舞い戻れば良い――そう言った旨の文言が、件の封書には記されていたのだ。

――勝手な事を。

 

 憤怒と焦燥と困惑と悲憤が渦巻く中で、雪羽はそう思うのがやっとだった。雷園寺家には多くの使用人がいる事は、今も昔も変わらない。時雨を次期当主に据えるという風潮を良く思っていない手合いは確かにいるだろう。しかしまさか、雪羽を次期当主にと考える妖怪たちの中で、このような過激な手段に出る者が出てくるとは。

 雪羽の、そして先代当主の支持者であると彼らは謳っているが、自分たちとは無関係な存在だろうと雪羽は思っていた。雪羽は雷園寺家の当主の座を狙っていたし、いずれは異母弟と相争う覚悟はできていた。しかし――拉致した上で殺すなどというやり方を望んだ覚えはない。

 雪羽は迷わずスマホを取り出した。他言無用と封書にはあるものの、そんなものは知った事ではない。身代金目当ての誘拐事件でも、警察に連絡するのがセオリーではないか。もっとも、雪羽が連絡を入れたのは妖怪社会の警察ではなくて叔父の三國だったのだが。

 

『……もしもし。雪羽お坊ちゃまですか』

「もしもし……あれ、この声は春兄《はるにい》? どうし……」

 

 三國だと思って電話をかけたら春嵐が出てきたので面食らってしまった。疑問が脳裏をひらめくが、電話をかけ間違えたのだと思いなおした。いずれにせよ、雪羽の保護者・理解者である事には変わりないのだから。

 お坊ちゃま……? 電話の向こうで春嵐が怪訝そうな声を上げていた。

 

「相談があるんだ春兄。弟が、時雨が誘拐されたんだ。よく解んないけれど、俺を雷園寺家の当主にしたいって言う妖怪が主犯らしくって……やつらは俺が、おとうと、を――」

 

 異母弟を殺すように仕向けている。その言葉を雪羽は言い切る事が出来なかった。何かが在る訳ではないのに喉から胸にかけて詰まっているような感覚に襲われたのだ。雪羽は代わりに声にならない音を漏らすほかなかった。それは呻き声だとか、嗚咽と呼ばれる代物になるのだろう。

 

『お坊ちゃま……』

 

 どれだけそうしていたのかは解らない。気が付いたら春嵐が呼びかけていた。穏やかな、しかし雪羽への気遣いが見え隠れする声音だった。

 

「ごめん春兄。俺――」

『いえ。取り乱すのも無理はありません。弟を妖質《ひとじち》に取られていると知ったんですから。それにお坊ちゃまは今や三國さんそっくりに育っておいでなのですから』

 

 相変わらず春嵐の声には心配の色が濃かった。しかし雪羽とは異なり、彼の声には冷静さが滲み出ていた。装っているものなのかもしれないが。

 

『萩尾丸様は傍に居らっしゃらないのですね?』

「うん。仕事とか打ち合わせが忙しいみたい……萩尾丸さんにも相談するつもりだよ。だけどいないからまず叔父貴に相談しようと思って」

『……萩尾丸様に相談する事は私も賛成です。あのお方は私どもよりもうんと冷静なお方ですし、色々な事に経験を積んでおります。必ずや、雪羽お坊ちゃまがなさろうとする事を手助けしてくれるでしょう……』

 

 ゆきは。電話口の向こう側で力強い声が響く。ごそごそという音がしたのち、もう一度声の主、三國が呼びかける。

 

『この前雷園寺家の件で打ち合わせをしたばっかりだが、まさかそんな事になっていたとはな……だが安心するんだ雪羽。俺は、俺たちはお前の味方だから』

 

 

 夜。やっと帰宅した萩尾丸の許に雪羽は飛びつくように駆け寄った。その手に件の封書があるのは言うまでもない。

 雪羽の腹は決まっていた。連中の思惑はさておき、拉致された時雨たちを助け出すつもりだ。とはいえその大役を一人で出来るとは思っていない。だから世話係であり大妖怪である萩尾丸の助けを借りるのだ。

 萩尾丸が雪羽の申し出を突っぱねるという考えはない。元々彼は雪羽を用いて雷園寺家のパイプを構築しようと考えている。正式な当主候補たる時雨の窮状を萩尾丸は見過ごすわけがなかろう。雪羽は妙に冴えた頭でそのように考えていたのだ。

 

「萩尾丸さん、とても大事なお話があります」

 

 時雨を拉致した。その旨が記された封書を突き付けながら雪羽は手短にそう言った。

 

「――そう言う訳で、僕や僕の母の支持者を名乗る妖怪が弟たちを誘拐したのです。やつらは僕が異母弟を殺す事を望んでいますが、僕はその手に乗るつもりはありません」

「つまるところ、攫われた時雨君たちを救出したいって事で合ってるよね?」

 

 もちろんです。妙にのんびりした口調の萩尾丸に対し、雪羽は即答する。

 

「時雨の……弟の救出に力を貸して下さりますよね?」

 

 雪羽の言葉は懇願でも命令でもなくもはや()()に近いニュアンスを孕んでいた。そもそも萩尾丸に雪羽が命令するという事自体が滅多にない事だ。何しろ萩尾丸は雪羽の教育係であり、妖怪としても格上なのだから。

 もちろんさ。萩尾丸もまた手短に応じた。その瞳その面はあくまでも冷静沈着で、感情の揺らぎは見られない。春嵐の言ったとおりだった。

 

「君は時雨君たちを助ける事だけを考えているだろうけれど、彼らを拉致した下手人たちを捕縛して真相を確かめる事までは流石に気が回っていないだろう? ましてや君が助けようと思っているのは弟一人だけじゃあないはずさ。そんな大仕事を、君一人に背負わせようなんて思ってないよ。

 安心したまえ雷園寺君。時雨君一行の救出と下手人の捕縛、僕も部下と共に協力するよ」

 

 萩尾丸はその面に爽やかな笑みを浮かべていた。何はともあれ萩尾丸の協力を得られたのだ。雪羽も顔の表情筋が緩み、幾分だらしない笑みが頬に浮かんだ。

 それにしても……萩尾丸は視線をさまよわせ、静かに言葉を紡ぎ始めていた。その笑みは先程の爽やかな笑顔とは何かが違う。

 

「今回の一件で雷園寺君が活躍できれば、本家も君の事を放っておく事は出来ないだろうねぇ……対面の指定日は日曜日の夜になっているだろう? 流石にそれまでに時雨君が拉致されている事は雷園寺家にも知れ渡るだろうねぇ。君も知っている通り、雷園寺家は時雨君を次期当主として大事に育ててきたんだ。その彼が拉致されて……あまつさえ殺されそうになっている。これはもう雷園寺家最大のピンチと言っても過言ではないだろうね」

 

 雪羽は口を挟まずに、萩尾丸の言葉を聞いていた。大人しい雪羽の態度に気を良くしたのか萩尾丸は言葉を続ける。

 

「雷園寺君。僕が君を通じて雷園寺家にパイプを作ろうとしている事、僕や三國君の手中に雷園寺家のキーパーソンがいると知らしめようとしている事は君とて知っているだろう? それにしても、その()()()()()()()がこうして転がって来るとは……」

「弟の生命を何だと思っているんですか!」

 

 冷徹に、そして若干の面白おかしさを滲ませて呟く萩尾丸に対し、雪羽はとうとう吠えた。雷園寺家との関係を意識している萩尾丸が、時雨の救出に賛同してくれる事は雪羽も解っていた。何となればその事で彼を利用しようとも思っていたくらいだ。

 しかし――雷園寺家に恩義を売るための功績と異母弟たちの生命を()()()()()()()()()()。そう思うと我慢ならなかったのだ。

 冷静に萩尾丸に交渉するという建前は崩れ去り、その奥にあった雪羽の本音がむき出しになった。

 

「萩尾丸さん。俺はですね、雷園寺家との関係とか、次期当主になれるチャンス云々とかは()()()()()()()()()。ただ異母弟たちを助けたいだけなんですよ。母親が違おうが面識がほとんど無かろうかそれもどうでも良いんです。()()()()()()()()()()()()()んですから。あいつは後継者争いの事はまだ何も知らないんですから尚更です。

 それに……俺のせいで誰かが死ぬのはもう見たくないんです……」

「君の本音は解ったよ」

 

 気付けば萩尾丸は穏やかな笑みを浮かべていた。一瞬だが申し訳なさそうな表情を見せたような気もする。

 

「元より僕は部下を率いて時雨君を助け出し、実行犯を捕縛するつもりだったんだよ。雷園寺君が連中の誘いに乗らないであろう事も初めから解っていた。

 だけど、君がどれだけ冷静さを保っていられるかが僕は心配だったんだよ。あまりにも君が取り乱すようだったら、君は参加させずに君の代理をこちらで用意するつもりだったからね」

「それこそ島崎先輩を僕に変化させて身代わりにするつもりだったんでしょうか」

「いや……あの()には荷が重いだろうね。確かに島崎君は演技上手だと思うよ。だけどあくまでも舞台演劇や、日常生活のシーンを再現できる程度なんだ。今回みたいな切羽詰まった状況下では難しいだろうね……あの妖に協力してもらうなら、むしろ兵士の一人として配置したほうがまだ効果があるよ」

 

 雪羽はおそるおそる萩尾丸の様子を窺っていた。もしかしたら自分の出る幕はない。そのような言葉が出るかもしれないと思ったのだ。

 

「雷園寺君。君は彼らの誘いに乗ったふりをして時間稼ぎをしてくれれば良い。十分も十五分も時間稼ぎは行わなくても大丈夫だ。向こうが完全に油断し、こちらの準備が整えばそれで全てが終わるんだからね。だから別に、時雨君たちを取り返して何処かに逃げようとか、ましてや下手人たちを自分独りで打ちのめそうなどと考えなくて良いんだ。そう言った事は僕たちがやるからね。

 そのためには君も一芝居打たねばならないけれど……その話は一旦後にしよう。よく考えれば、まだ夕食も済んでないしね」

 

 夕食。その言葉を聞いた雪羽は、まだ自分たちが夕食を済ませていない事に気付いた。しかしだからと言って空腹を思い出したわけでもないが。



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大妖怪たちの作戦会議――雷獣は天誅を欲す

 結局のところ、時雨救出計画について、夕食後に多くを語り合う事は無かった。仕事終わりの夜であり、雪羽が精神的に疲労している事も考慮された結果だった。

 とはいえ全く何も話が進まなかったわけでもない。萩尾丸は言葉を選んで告げるべき事は告げてくれたからだ。明日の早い時間帯にこの案件について打ち合わせをすると言ってくれたのが雪羽には心強かった。

 その一方で、不穏な発言もあるにはあった。今回の拉致事件について、姐やの松子が一枚噛んでいるのではないか。そのような可能性もあるという話だ。

 あの少しどんくさくて善良そうな狸娘が、弟拉致という恐ろしい事件に加担しているとは、雪羽には思えないし、思いたくもなかった。

 

 

 打ち合わせの会場は赤石北部にある三國のオフィスだった。三國は雪羽の保護者であり、色々な意味で今回の事件のキーパーソンとなる事、萩尾丸の職場では無関係の一般妖怪も大勢いる事を考慮した上で、三國のオフィスが選択されたのだ。

 集まる妖数《にんずう》が多いという事もあり、打ち合わせは第一会議室で行われる段取りが決まっていた。

 ある若妖怪と共に萩尾丸に連行された雪羽は、ヒゲを切られた猫のような所在の無さで周囲を見渡していた。このオフィスは萩尾丸に引き取られるまで数十年間滞在していた職場である。本来雪羽にとっては馴染みのある場所だった。重役クラスの妖怪たちが議論するこの会議室の椅子に雪羽が腰を下ろした回数も数えきれないほどある。

 それでも雪羽が緊張し、ツレである若妖怪と共に身を寄せ合うほかなかった。理由は二つだ。拉致された時雨たちの事が気がかりでならなかった。それに何よりこの場に集まった妖怪たちの放つ妖気、それらが合わさって醸し出される空気に圧倒されていたのだ。この場には第四幹部の灰高、第六幹部の萩尾丸、そして第八幹部にして雪羽の叔父である三國が居並んでいた。彼らがそれぞれ信頼できる側近を数名連れているのは言うまでもない。そして恐ろしい事に、灰高の側近も萩尾丸の側近も、三國と互角かそれを上回るような妖力の持ち主だったのだ。

 ある意味自分のテリトリーとはいえ、雪羽が借りてきた猫のように大人しくなるのは致し方ない話だった。自分はほんの仔猫に過ぎないのだと、隣の若狐と目配せするのがやっとだった。

 ちなみに雪羽の傍らにいる若妖怪とは、妖狐の青年・島崎源吾郎である。

 

 そうこうしているうちに萩尾丸が言葉を紡ぐ。雪羽の許に雷園寺家次期当主たる雷園寺時雨が拉致された旨を伝える封書が届けられた事、下手人たちは雪羽の支持者を自称し、時雨を雪羽に殺害させる事を目的にしているらしい事を簡潔に伝えた。

 そこまで言い終えてから、萩尾丸はやにわに三國に視線を向けた。

 

「――念のために聞いておくけれど。三國君、君はこの事件に絡んでいる……なんて事は無いよね?」

「この打ち合わせは()()を言う場所ではなかったはずですが?」

 

 萩尾丸の直截的すぎる問いかけに、三國は目を剥いて睨みつけている。放電していないのは、自分よりも強い妖怪たちが居並んでいるからだろう。しかしそれでも、叔父が静かに憤っている事は雪羽には伝わった。

 

「俺が事件の主犯と繋がってなどいない事は、少し考えればお解りになるでしょうに。そもそも俺は、雷園寺家次期当主殿が影武者を立ててこっそり旅行していた事を今朝知ったばかりなのですから。それは灰高様も同じでしょうが」

 

 三國はそこまで言うと、まなじりをやや釣り上げて言い足す。

 

「それにですね、俺たちは雪羽の支持者たちとやらと繋がってもいないんですよ。元々からして雷園寺家とは関係が薄かったですからね。それに義姉を、雪羽の母親に忠実だった者はむしろ俺の事を良く思っていないはずです。俺も若かったからですね、事あるごとに義姉さんには楯突いていた事もありましたから」

 

 雪羽の母親。そう言った三國の顔には寂しげな翳りが生じていた。三國と雪羽の母親の間に何があったのか、雪羽は多くを知っている訳ではない。三國はその件についてほとんど語ろうとしないからだ。少なくとも三國が雪羽の母親に敬意を表していた事だけは知っているし、それだけで十分だった。

 ともあれ叔父の嫌疑は晴れたのだろうか。雪羽の心配は杞憂だった。萩尾丸は既にいたずらっぽい笑みを浮かべて笑いかけているのだから。というよりも疑わしげな表情を作っているだけだったようだし。

 

「気を悪くしたなら謝るよ、三國君。もっとも、僕たちも君がそう返答するだろうことは薄々解っていたからね……雉鶏精一派の中で新参の部類に入ると言えども、君もかれこれ四、五十年は一緒に働いているんだからさ。

 ははは。本当は僕も君がシロである事は解っていたよ。君自身は実は雷園寺家の権力に()()()()()()()()()事も、幼子を人質に取って本家を脅すようなみみっちい真似をするわけがないとね。

 仮に君が雷園寺家にテロ行為を働くなら、それこそ本家に殴り込みでもかけるだろうしね」

「全くもって仰る通りです」

 

 三國は割合落ち着いた表情で萩尾丸の言葉に同調する。雷園寺家への殴り込み。確かに叔父ならばやりかねない事だと、雷園寺雪羽は静かに思っていた。仲間に対しては優しく穏やかに振舞うように心がけているが、本来は烈しい気性の持ち主である事も雪羽は知っている。

 その間にも萩尾丸と三國は二、三度言葉を交わしていた。救出作戦に協力するのか否か。萩尾丸はその最終確認をしているらしかった。既に答えは決まっているのではないかと雪羽は思っていたのだが。そもそも救出作戦に関与しないのならば、この場に顔を出す事も無いだろうし。

 しかしそれでも、三國たちが救出作戦に参加すると聞いた時には雪羽は安堵した。

 

「萩尾丸さん。確かに俺は雷園寺家の現当主やその後妻については色々と思う所はありますよ……雪羽の前なのでアレコレ言うのは控えますが。しかしだからと言って次期当主を狙うのは筋違いだと俺も思いますよ。次期当主はまだ子供で、大人たちの思惑なんぞまだ何も知らないんですから。というか次期当主なんてまだ赤ん坊なんじゃないかってイメージが付きまとってるくらいですし」

 

 言いながら、三國は何度か雪羽に視線を送っていた。時雨は手許にいる雪羽よりも幼いという事を言外に語っているようだった。

 その三國は比較的穏やかな表情を浮かべていたが、釣り上がったまなじりと薄く開いた口許に獣らしい荒々しさが今再び浮き上がった。

 

「いずれにせよ、今回の事件は腹立たしいものだと思っています。何せ子供を巻き込んでいるんですからね。しかもそれに義姉だとか雪羽の名目を借りているのが尚更腹立たしい所です。次期当主を自らの手で殺すなんて事、雪羽が望むわけがありませんからね。

――そう言う輩にこそ、()()()()や天誅を下すのが相応しいと僕は思います。きっと雷園寺家当主だった義姉も同じ考えでしょうね」

 

 神の怒り。天誅。臆せず過激な言葉を放った三國は今度こそ放電していた。雷の力を神聖視し、雷神を崇拝する()()()()()発言であると雪羽は思っていた。

 放電しながら鋭い妖気をまき散らす三國を前に居並ぶ妖怪たちから若干のどよめきが広がった。とはいえ恐れおののく気配は薄く、むしろ見世物を眺めるような気楽さもあるにはあったが。但し隣席の源吾郎だけは本気で驚き尻尾の毛を震わせていたが。

 

「君の主張は良く解ったよ三國君。だから君と君の部隊には後衛を担ってもらおうか」

 

 笑みをたたえた萩尾丸の言葉に、三國は虚を突かれたような表情を見せ、隣席の春嵐に視線を向ける。三國たちが何か言い出す前に、萩尾丸は言葉を続けた。

 

「君が今回の救出劇に一番積極的な事、戦力として申し分ない事は僕たちもきちんと解っているよ。しかし君が冷静に立ち回れるのか。それが懸念事項なんでね」

 

 萩尾丸はそう言うと、さり気なく雪羽に視線を向ける。

 

「正直な話、雷園寺君が冷静に立ち回れるかどうか自体も僕としては不安が残るんだ。そうした不安があるのに、更に不安事を抱えるのはどうかと思うだろう。

 まだこれが、単なる悪人の摘発で好き放題暴れられるのならばまだ良い。しかし今回は子供らの生命が掛かっている訳だし……そうでなくても三國君は好き放題暴れまわった前科があるからね」

「遊撃部隊の件は雪羽が生まれる前の、うんと昔の話ではないですか。あの頃は僕もまだ若かったですし……」

「話が脱線しましたよ、三國さん」

 

 ばつの悪そうな表情で三國が呟き、春嵐がそれを軽く指摘する。三國の武勇伝は雪羽も知っていた。ある時などは悪徳組織に自家用車で突撃し、壁に横穴をぶち空けるという奇襲でもって敵の妖怪たちを圧倒したのだという。映画やドラマのワンシーンみたいでカッコいいと雪羽は素直に思っていた。しかしそれは雪羽や三國の考えに過ぎず、他の妖怪たちはまた違う考えだったようだ。

 

「ともあれ三國君。君と君が指揮する部隊は事後処理に回ってもらおうと思うんだ。君らが動くのは時雨君たちの無事を確保できた後で良い。刃向かってきた下手人たちの制圧とか、騒動を聞きつけて集まってきた野次馬たちの牽制が主だった仕事になると僕は考えている。

 何しろ雷獣の名家・雷園寺家の子息が拉致されたんだからね。僕らが気を付けていたとしてもその情報が何処かからリークする恐れだってある。下手人たちが犯行声明を出す可能性もあるだろうしね。そこで無関係な妖怪たちが群がってきたら混乱を招く。その辺りの処理を行ってほしいんだ」

 

 萩尾丸はここで言葉を切ると、意味深な笑みを浮かべて言い足した。

 

「――パパラッチや野次馬だけではなく、()()()()も集まってくるかもしれないからね」

 

 それは確かに同感です。三國はため息とともに言葉を吐き出した。

 

「雷園寺家の面々はもとより、兄姉たちも一族郎党かき集めてやって来るに違いないでしょうねぇ。あいつらは雷園寺家に取り入る事に余念のない連中ですからね。そうして雷園寺家の当主や有力者に気に入ってもらえば自分たちの格が上がると思い込んでいる訳ですし。実際には闘いも何も知らない腰抜けの癖に」

「思惑は違えど、三國君の親族たちも時雨君を救出したいという考えを持っていると思って違いないもんねぇ。場合によっては彼らも戦力と見做せるんじゃないかな?」

「戦力ですって? 実の兄姉と言えども、僕は彼らに戦力を求めてなどいませんよ。それこそ無闇に動き回って場を混乱させるだけでしょうし……そもそも俺は今回の件でも雷園寺家に恩を売るつもりは無いですし、むしろ俺の声掛けに兄姉たちが従うとも思えないんですがね……」

 

 三國は終盤では声を潜めて呟いていたのだが、ややあってから萩尾丸と雪羽に視線を向けた。

 

「萩尾丸さん。ともあれ今回の僕の立ち回りは理解しました。後衛としておかしな輩が近づかないように目を配り、雪羽や他の部隊のサポートに回れば良いんですよね」

「そんな感じでお願いするよ、三國君。くれぐれも冷静に立ち回って欲しいんだ」

「ええ、解っていますとも」

 

 三國が頷くのを見て、萩尾丸の目に僅かな安堵の色がともった。

 三國と彼の率いる部隊の役割が決まり、話がひと段落したようだ。そして今萩尾丸の鋭い視線は、雪羽の隣に腰を下ろす源吾郎に向けられている。

 何故この若狐を連行したのか。それが次の議題なのだろう。



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大妖怪たちの作戦会議――若狐は納得す

「そう言えば、今回の作戦にはそこの仔狐も加わるんですよね、萩尾丸さん」

 

 萩尾丸の視線の動きに気付いた灰高が、ここでようやく口を開いた。仔狐というのは言うまでもなく源吾郎の事である。玉藻御前の直系の末裔であり、既に中級妖怪の域にある彼の事を仔狐呼ばわりした事に、雪羽は軽く驚いてしまった。

 

「ええ。紅藤様から正式に許可も頂いておりますので」

 

 雪羽はそれとなく隣席の源吾郎に視線を向けた。詳しく観察するまでもなく、源吾郎は強い緊張状態に陥っていた。色白ながらも日頃は血色の良さが特徴的なのだが、今回ばかりは頬も青ざめ唇さえも白っぽく変色している始末である。ついでに言えば発言の節々や三國の言動に大げさなほど反応し、ぶるぶると震えていた。

 震える彼の背後では、白銀の毛並みに輝く四尾が針金のように鋭く直立していた。縮められず本来のサイズ――一本一本は全長一メートル半にも及ぶのだ――のまま生えているのだから、本体の緊張ぶりとは裏腹に尻尾の壮麗さが目を引いてしまう。もっとも、緊張のあまり変化がおろそかになり、尻尾のサイズの調整すらままならない状況にあるだけなのだが。

 源吾郎がここまで緊張しているのも無理からぬ話だろう。雷園寺君の異母弟が拉致されたから、その救出に君も協力してもらう。シンプル過ぎる解説と共に連行され、大妖怪たちの居並ぶ会合に出席されているのだから。

 社用車での移動の間に、萩尾丸は何がしかの説明を源吾郎に行っていたのかもしれない。しかし運転時間は二十分程度と短い物であったから、源吾郎が萩尾丸の言葉をきちんと咀嚼し理解できたかどうかは怪しい。というより雪羽自身も萩尾丸が何を語っていたのか判然としない所なのだから。

 

「島崎君には僕の部隊の補助員として参加してもらおうと思っているんです。そうですね……メインの救出部隊ではなく、サブの制圧・事後処理部隊の補助員に使う予定です。皆様も、僕が()()()()を行う際に後始末のために若妖怪を使う事があるのをご存じですよね? 今回は島崎君にもその役割を担ってもらおうと思ったんです。まぁ初陣ですので、指揮官の指示で動いてもらう事になりますが」

 

 萩尾丸は一度言葉を切ると視線を動かした。まず源吾郎を見やり、それから集まっている妖怪たちを見渡したのだ。

 

「サブの部隊に投入いたしますので、救出作業そのものに影響を与える心配はないでしょう。ですが彼の存在が下手人の反抗心を弱める作用をもたらすのではないか。そのように僕は考えているのです――何せ彼は玉藻御前の直系の子孫ですからね。よしんば向こうがそれを知らずとも、彼が強い妖怪である事には違いありませんし」

 

 源吾郎自身が、下手人たちが反抗する事に対する抑止力になる。その言葉を雪羽は不思議な気持ちで聞いていた。とはいえ源吾郎の能力を過小評価している訳ではない。萩尾丸や三國、そして彼らの側近たちも今回の救出劇に参加するのだ。大妖怪ばかり集まっている部隊の中では源吾郎の強さもさほど()()()()()のではなかろうか。そのように雪羽は思っていたのだ。

 

「成程、それでそこの仔狐を敢えて連れてきたという事ですね。良い使い方ではありませんか」

「九尾の末裔を手駒として扱える……犯行グループはさておき、雷園寺家や三國さんの縁者たちなどにそれを知らしめるうってつけのチャンスですもんねぇ。萩尾丸さんらしいお考えではありませんか」

「まぁ確かに島崎君も強いもんな。訓練とはいえ雪羽との戦闘で勝利した事もある訳だし」

 

 萩尾丸が思わせぶりに黙ると、他の妖怪たちが口々に意見を述べていた。雪羽は黙って彼らの言葉に耳を傾けるだけだった。源吾郎は確かに有能な妖怪なのかもしれない。しかし彼を使役できる権限を周囲に知らしめるのは別問題だろう。雪羽は素直にそう思い始めてもいたのだ。

 

「さて皆さん。島崎君を作戦に加える事に異存はありませんか? あれば何でも仰って下さい」

「萩尾丸さん……」

 

 異存が無いか。そう呼びかけた萩尾丸に対し、一人の妖怪が声を上げた。他ならぬ源吾郎その妖《ひと》だった。彼はご丁寧に手を挙げ、意見がある事を周囲にアピールしているではないか。

 

「僕自体は救助部隊に加わる事に異存はありません。紅藤様と、萩尾丸先輩からのご命令ですからね。ですが、その……」

 

 質問を投げかける源吾郎の言葉は途中でしりすぼみになっていた。直截的な事は言っていないものの、救出作戦の妖員として選抜され、投入される事に戸惑っているであろう事は伝わってきた。

 

「こんな事に関わるのは初めてだろうから、戸惑うし怖いんでしょ? 大丈夫だよ。君が動かねばならないのは時雨君たちの救出が終わってからの事だからね。相手が刃向かってきた時の妨害とかが出来ればと思ってはいるけれど、その場で妖気を垂れ流して相手を威圧するだけでも良いんだからさ」

 

 君の妖気であっても普通の妖怪相手では十分威圧出来るはず。萩尾丸は暗にそのように主張しているらしかった。

 源吾郎は神経質そうに組んでいた指を眺めていたが、思い切って顔を上げた。

 

「僕の妖気ごときで相手への威圧になるのでしょうか。というよりも、僕はこの度の救出作戦で足手まといになる気がしてならないのです」

 

 か細い声で絞り出されたその言葉こそが源吾郎の本音であろう。雪羽は密かにそう思っていた。時雨が拉致されたこの事件を、源吾郎は重大な事件であると彼なりに受け止めている事は雪羽にも解っていた。だからこそ源吾郎は憐れなほどに緊張し恐れおののいているのである。自分のしょうもないヘマが取り返しのつかない事態――要は時雨たちが死ぬ事だ――を招くであろう事を恐れている事もまた明らかだった。

 

「君がこうした場に慣れていない事は僕も初めから解っているよ。()()()()()後衛部隊に投入すると言ったんだ。島崎君。今回は君自身に妖質《ひとじち》を救出しろと無茶ぶりをしているんじゃあないんだ。妖質《ひとじち》の無事が確保された後に、それでも下手人たちが暴れるならばそれを制圧すれば良いだけの話さ。それも指揮官の指示の上でね。

 君も日々の修行と鍛錬で、拙いながらも妖怪としての闘い方を身に着けているだろう? その力を存分に振るえば良いんだ」

「…………」

 

 源吾郎はすぐには何も言わなかった。半信半疑と言った表情で、萩尾丸と雪羽とを交互に眺めている。

 

「島崎君。今回君にもこの救出作戦に参加してもらう事になったけれど、参加する事()()()()に意義があると僕たちが判断したからさ」

 

 萩尾丸は真面目な表情で断言した。源吾郎は相変わらず緊張した面持ちである。

 

「組織の頂点に立つ妖怪、絶大な権力を持つ妖怪にはリスクが憑き纏う事を、君には是非とも実感してほしいんだよ。島崎君。今回は雷園寺君の縁者が標的にされたけれど、こうした事は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事でもあるんだよ」

「俺の周囲でも起こりうる事、ですか――」

 

 源吾郎は目をしばたたかせ、はっとしたような表情で萩尾丸を見つめ返していた。萩尾丸は澄ました表情で頷き、言葉を続ける。

 

「そうだとも。一般妖怪の間ですら小競り合いやトラブルはままあるんだ。それなのにどうして貴族妖怪や組織の幹部クラスの妖怪が平和に暮らせると思うんだい? 権力を持つほど影響力は増すし、影響力が増すほど敵対者も増えると心得るんだ。

 そして敵対者は必ずしも堂々と立ち回るとは限らない。むしろ相手の弱みを掌握し、そこを突くという動きを取るのが常だろう。今回のようにね。島崎君とて権力を持って有名になれば、君を陥れ傷つけるためだけに、君の妻子たちや信頼する部下を狙う輩が出てくる事があるかもしれない。その事を今のうちに知っておくのは大切な事なんだ」

 

 自分の身内を狙う輩がいずれ出てくるかもしれない。その鋭い言葉に源吾郎はまたも顔を伏せた。萩尾丸の真意を知り、彼なりに思う所があったのだろう。もしかしたら、親兄姉が自分のために狙われる事があるのではないか。そんな事を思ったりしているのかもしれなかった。

 数秒ほどしてから源吾郎は顔を上げた。顔色は戻っていないものの、その表情にはもはや迷いはなかった。

 

「解りました萩尾丸先輩。出来る範囲になりますが尽力いたします」

「納得してくれて良かったよ」

 

 萩尾丸はそう言うと、今度は救出作戦を源吾郎に敢えて教えた理由について言及していた。源吾郎には知らせずにおく事も考えたものの、萩尾丸や雪羽――特に雪羽――の態度の違いに戸惑い、不必要な心配をさせるのではないか。そのように萩尾丸は考えたらしい。また思いつめた雪羽が源吾郎に事のあらましを語り、そこから情報がリークする事も危惧していた。いっそ源吾郎にも打ち明けて救出作戦に巻き込めばこういった懸念は解消される。そのような意図から若狐源吾郎も救出作戦の一員に加わったのだ。

 もっともこれらの話については、妖怪たちは話半分に聞いているようだった。話している最中に三國の許に電話がかかってきたからだ。三國と春嵐は電話対応のために退出してはいるものの、半ば怒号とも呼べる三國の声は部屋の中からも丸聞こえだった。




 救出作戦の参加にガクブルしている島崎君ですが、一年前までは割とガチで普通の高校生だったんで仕方ないですね。
 この作品、メンタル面での成長がかなり重要視されてますからね……


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大妖怪たちの作戦会議――天狗は大いに笑う

「……皆様、聞き苦しい所をお見せして、お聞かせして申し訳ありませんでした」

 

 三國が戻ってきたのは退出してからおよそ十分後の事だった。慇懃な口調で体裁を保ってはいるものの、彼が強い興奮状態にある事は誰の目から見ても明らかだった。まずもってその声は獣の唸り声とほとんど変わらなかった。第一変化が半ば解け、半獣半人の姿をさらけ出していた。顔などは完全に獣と化し、巨大な化けイタチの様相を見せていた。変化を解いた三國の本来の姿はグズリという大型のイタチに似ているのだ。この姿は甥である雪羽の本来の姿と若干異なってはいるが、そもそも雷獣の姿は個体によってまちまちであり、違う血族ともなれば全く違う姿をしている事も珍しくはない。雪羽のネコ科獣的な姿は、それこそ雷園寺家の血統によるところが大きい。

 春嵐は半ば獣と化した三國に何事か囁き、それからさり気なく手を添えて二の腕をさすっている。それと共に三國も落ち着きを取り戻し、普段の人間の姿へと徐々に戻り始めていた。

 

「雷園寺家当主から直々に電話がありましてね」

「そういう事だろうと思ってたよ、三國君」

 

 雷園寺家当主からの電話。気軽な調子で返答する萩尾丸を尻目に、雪羽は心中が波立つのをひしひしと感じていた。雷園寺家当主とは雪羽の()()()()()父親であり、三國の長兄に当たる雷獣である。もっとも、雪羽はとうに実父への情愛など持ち合わせていないが。

 さて三國はというと、苦り切った表情を露骨に見せ、それから言い捨てた。

 

「今しがた犯行グループからの犯行声明を雷園寺家も受け取ったみたいなんですよ。それで慌てふためいた当主殿はわざわざ俺に電話を寄越したんですよ。雪羽が()()()()()を傷つけたり殺したりしないように説得してほしいとね」

 

 全くもってふざけた話です。三國はそう言うと盛大に舌打ちした。春嵐が困ったように眉をひそめただけで、三國の言動を非難する妖怪は誰もいない。

 

「雪羽が自分の息子を殺さないように説得してほしいと現当主が言ったんですよ? 確かに雪羽は雷園寺家当主の座を欲してますし、俺自身も雪羽が次期当主にふさわしいと信じています。しかしですね、くそったれ共の口車に乗って弟を殺すような手合いだと皆さんはお思いですか?

 そもそも現当主殿にしてみれば、()()()()()()()()()()()()んですよ。息子たちの……子供たちの事を何一つ見ていないと言ったも同然の話だと思いませんかね」

 

 三國は同情を求めるように大げさなジェスチャーでもって萩尾丸たちに訴えかけていた。しかし何かに気付いたらしく、その顔には唐突に笑みが浮かぶ。邪悪で何か厭な気分になるような笑顔だ。実の叔父・最愛の保護者であるはずの三國に対して、雪羽は反射的にそう思ってしまった。

 

「いえ、あの男には時雨の事も息子ではなくて、単なる次期当主だと思っているだけかもしれませんがね。聞こえはいいですが、自分の地位を護るための道具に過ぎないんですよ、息子の存在なんて」

「そ……そんなんじゃないよ叔父さん!」

 

 その面にありったけの憎悪と悪意を滲ませながら言葉を紡ぐ三國に対し、雪羽は思わず吠えた。甥に言葉を遮られるとは思っていなかったらしく、三國は毒気を抜かれたような表情を浮かべた。

 

「現当主は……あの人だって時雨の事を心配していると思うんだ。曲がりなりにも父親で、時雨は……実の息子だから」

「しかし、雪羽……」

 

 雷園寺家当主が、雪羽の父親がどのような想いなのか。真相は雪羽にも解らない。しかし雷園寺家当主が()()()()()()()()()()()()()()()。雪羽はそう思いたかった。そうでなければ()()()()。そんな気持ちさえ雪羽は抱いていたのだ。

 

「それで三國君。長い間電話していたみたいだけど、雷園寺家当主殿には何か意味のある返事をしたのかな? その……一緒に救出作戦に加わろうとかさ」

「地位に執着するしか能のない腰抜けが加わった所で、それこそ足手まといになるだけではありませんか」

 

 足手まとい。その言葉で源吾郎がぶるっと震える。だが誰も気にも留めない。もちろん三國も意に介さず言葉を続けた。

 

「萩尾丸さん。今回の誘拐事件は単純な身代金目的とかじゃあないんですよ。雪羽を使って目的を果たそうとしているんですよね。それを真に受けて俺に雪羽を説得しろというような手合いですよ。父親として自分で説得するというのならまだしも……そんな奴を参加させてどうなるというんですか」

「解ったよ三國君。雷園寺家にどうして欲しいかこの後僕から連絡を入れておくよ。きっと君の事だから、『お前らが来たら雪羽君が次期当主を殺しかねない』とかって脅しを入れただけで、マトモな返答を行っていなさそうだからね……」

 

 にこやかな萩尾丸を前に、三國は小さく言い返そうとしていた。しかし雪羽や他の妖怪と目が合うと唇を舐めてそのまま沈黙を通しただけである。きっと図星だったのだろう。それに説得とやらで雷園寺家のお偉方がやって来たとしても、余計に戸惑って混乱してしまうだけだと雪羽自身も思っている。三國や春嵐、或いは萩尾丸や源吾郎みたいに味方になってくれるというのならば話は別だけど。

 そう思っていると、笑みをたたえた萩尾丸の視線が雪羽に真っすぐ向けられていた。

 

「雷園寺家の面々にはどういった塩梅で動いてほしいのか。それは雷園寺君に決めて貰ったら良いんじゃないかな」

「お……僕がですか?」

 

 その通りだと萩尾丸は頷く。

 

「今回はただ単に妖質として時雨君たちが捕らえられているだけじゃないんだ。わざわざ時雨君たちの生殺与奪を君に握らせている形になっているでしょ? であれば、雷園寺家の面々も君の顔色を窺う事になる。そう思わないかな雷園寺君」

 

 時雨の生命のみならず、雷園寺家の動きすらも今の雪羽が掌握しうる状況にある。その言葉に雪羽は驚き喉を鳴らした。

 

「だからね、雷園寺家には遠慮なく要望をぶつければ良いんだ。君の言葉一つで、彼らは救出部隊に加勢する事も出来るし、本家で僕らが救出するさまを大人しく眺めるよう留める事も出来る。全ては君の言葉次第だよ」

 

 噛んで含ませるような萩尾丸の言葉を雪羽もまたゆっくりと頭の中で咀嚼する。脳裏には雷園寺家の面々が浮かんでは消えていた。後妻や異母弟たちとの暮らしを選んだ現当主、我が仔を使って雷園寺家に侵蝕した継母、そして彼らに仕える妖怪たち……本当に彼らが、俺の言葉一つで従うのか? その事を考えているうちに、心臓の鼓動が早まるのを感じた。

 

「私も萩尾丸さんの言うとおりだと思いますよ。それにしても雷園寺家も因果な事に巻き込まれましたね。大切な次期当主を護るために、わざわざ放逐した前妻の子供の言葉に従わねばならないんですから……だけど雷園寺君は今まで冷遇されてきたんですよね。であれば本家の面々を顎で使ってもばちは当たりますまい」

「雪羽、本家の連中には黙って指を咥えていろって言っても良いんだぞ。あいつらはお前の事を信頼していないし、お前の事を何一つ思っていないんだからさ……俺たちがいるからそれで構わないだろう?」

 

 黙り込む雪羽の両側から、全く真逆の意見が飛んできた。意見を述べたのはそれぞれ灰高と三國であるが、どちらも彼ららしい意見だと思うのがやっとだった。

 隣の源吾郎は心配そうに雪羽を見つめている。気の利いた言葉は出てこないらしく、それに気付いているから心底恥じているような表情だった。

 萩尾丸さん。自分の中で考えをこねくり回した雪羽は、萩尾丸を見据えて言い放った。灰高や三國の主張は理解できた。しかし雪羽にも雪羽なりの考えがある。

 

「雷園寺家の面々がこちらにやって来るのを押し留める権限は僕にはありません。彼らも僕らと同じように異母弟の安否を気にしているのでしょうから。

 ですが、こちらに雷園寺家の部隊がやってくるのと、僕が彼らの協力を求めている事とは別問題です。僕の事を信頼していない面々からの協力は願い下げです」

 

 叔父よりも冷静な口ぶりと言えども、幾分高圧的な主張になったのではないか。言い終えてから雪羽は軽く反省した。とはいえ誰も何も言わない。萩尾丸も相槌を打っていただけである。この場で一番昂奮しているであろう三國も、興味深そうに話を聞いているだけだった。

 雪羽も若干冷静な気分になり、周囲を見渡しながら言い添えた。

 

「僕は僕の事を()()()()()()()()妖怪の説得にしか応じない。萩尾丸さん。雷園寺家現当主にはそのように伝えてください。もっとも、僕自身も初めから時雨を助け出すつもりですから、説得するような事柄なんてありませんがね……まぁその時は僕の協力者に回ってくれるのでしょうが」

「成程ね。君も中々頭が回るみたいじゃないか」

 

 萩尾丸の誉め言葉とも取れる言葉を前に、雪羽はほのかに笑みを浮かべた。とはいえ実際の所、雷園寺家当主がそうした妖材《じんざい》を雪羽の許に送り込むという見込みは薄いであろうと雪羽は踏んでいた。今の雷園寺家には雪羽の味方はほとんどいない。強いて挙げるならば穂村たちと言った弟妹になるだろう。しかし体面を気にする現当主の事だ。彼らを敢えて雪羽の許に送り込む事はないはずだから。

 お前たちの助けを俺は欲してはいない。雪羽は雷園寺家に対して暗にそのように主張しているも同然だった。

 

「――雷園寺家がやって来ることは押し留めないが、協力者は自分を信頼している者に限るって事だね。解ったよ、その旨は当主殿に僕から連絡しておこうか」

 

 ありがとうございます。雪羽が礼を述べると、萩尾丸は余裕たっぷりの笑みを見せていた。

 

「三國君と雷園寺君。これからやって来る雷園寺家の面々について、君らは特に心配する事は無いからね。現当主殿を筆頭に雷園寺家には雷園寺君や三國君を極力刺激しないようにと僕の方から説得しておくからさ。

 それに雷園寺君。君には()()()()()たる島崎君が味方に付いている。だから安心したまえ。しかも雷園寺家の面々もやって来てその事を知るから、雷園寺家の当主の座を狙う君には尚更都合がいいと思うんだ」

 

 萩尾丸の後半の言葉は謎めいたものだった。萩尾丸は先程、源吾郎を手駒と見做す発言をしたが、今回もその延長線上の事柄なのかもしれない。しかしその割には、雷園寺家とか雷園寺家の当主という言葉を殊更に強調しているきらいもある。

 そうした疑問を抱いたのは雪羽だけではなかったらしい。灰高の部下らしい鴉天狗の男などは、慇懃な口調で萩尾丸に質問を投げかけていた。

 一種のおまじない、験を担ぐようなものですよ。萩尾丸の言葉は更に謎めいていた。

 

「まぁ確かに九尾の狐にはよろしくないイメージも憑き纏っているかとは思うのです。秩序だった世界に混沌と破滅を招くですとかね。具体的に言えば王のそばに侍り、堕落させて国を亡ぼすとかそう言った所でしょうか。実際問題、島崎君の曾祖母もそう言った遊びに興じていたらしいですし」

 

 ですが。萩尾丸は一呼吸おいてから言葉を続ける。

 

「九尾の狐が王を堕落させ王国を亡ぼすのは、そもそもその王が王としての器を持ち合わせていないからに過ぎないのですよ。()()()()を堕落させ国そのものを亡ぼすのも、言ってしまえば革命を促し新しい国を立ち上げる原動力になっているとも言いかえる事が出来ます。紅藤様の受け売りですが、渾沌の中に秩序あり、破壊の先に新たな創造ありとも言いますからね。

 ついでに言えば九尾の狐は王の善悪に関わらず王のそばに侍る事が多いのですが、()()()()の前ではむしろその王国の繁栄をもたらす存在になりうるのですよ。

 ですからね、雷園寺家を王国と見立て、そこの雷園寺君を王子だと見做してみてください。島崎君がもたらすものが何であるか、すぐに解るのではないでしょうか」

「成程……中々面白いご意見ではありませんか」

 

 九尾と王に関する考察に対して、まず灰高がそう言って笑った。

 

「確かに私は前に、九尾の子孫たる島崎君を見て『混沌と破滅をばらまくような妖狐』と申し上げました。その事に対する返答を、今ここで聞く事が出来るとは……」

「そのようにお思いになれば、九尾の子孫もあながち悪い存在ではないでしょう」

 

 不敵に笑う灰高に対し、萩尾丸もまた会心の笑みを浮かべながら言葉を紡いでいる。さて唐突に話題の当事者となった源吾郎はというと、大それた話に驚きじっとりと周囲を見渡すのがやっとのようだった。




 実は萩尾丸先輩の「九尾は善良な王に寄り添い、繁栄をもたらす」という言葉は、結構前に灰高さんが放った「九尾の狐は混沌をもたらすのではないか」という言葉への当てつけめいた返答だったりします(爆)
 炎上天狗のセリフがキレッキレでほんと草


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大妖怪たちの作戦会議――鴉たちの諜報員

 張りつめていた会議室の空気がにわかに緩んだ。雪羽は唐突にそう思った。雷園寺家をどう動かすか定まった訳だし若狐である源吾郎の使い道もはっきりとしている。何より雷園寺家絡みという事で一番ピリピリしていた三國が曲りなりにも落ち着きを取り戻している。こういった事があって、萩尾丸たちと言った大人妖怪は安心しているのだろう。

 もっとも、周囲の空気を気にせず緊張し続けている妖怪も二匹ばかりいる。源吾郎と雪羽だ。むしろ源吾郎はある意味重要な役割を担っていると知り、余計に緊張しているようだった。普段なら玉藻御前の末裔である事を認められ、その事に言及されれば喜んで調子づくであろう。そう言った意味では彼らしくない振る舞いだ。

 いや――時雨の生命が懸かっているという事実を受け止めた上でのこの態度なのだ。それはそれで彼らしい振る舞いだ。むしろ深刻に受け止め緊張している源吾郎を見てこちらがいくらか安堵したくらいだった。

 

「それじゃあ皆さん、雷園寺家の事についてもこんな感じで良いですかね?」

 

 司会進行役を担っている萩尾丸が声を上げる。萩尾丸はにこやかで穏やかな表情を見せていた。その笑みの裏で、話をどのように進めようかと冷徹に分析しているのかもしれないけれど。

 

「恐れながら、雷園寺の動向についてご意見があります」

 

 多分次の話題に進むのだろう。そう思っていた矢先、一人の女妖怪が声を上げた。声の主は狗賓《ぐひん》天狗だった。何となく見覚えのある顔だ。他の妖怪たちの中では強い部類には入らない。それでも三國とほぼ同等の力があるように思えた。

 どうぞ、と萩尾丸が狗賓天狗に発言を促す。彼女は眼鏡の奥を光らせながら再び口を開いた。

 

「雷園寺家に協力を仰ぐのであれば、救出部隊の増援よりも、むしろ下手人の調査に回っていただいた方が効率的かと思うのです。

 雷園寺家の次期当主を拉致したという事は、雷園寺家に恨みがあり因縁が深いという事です。そう言った妖物《じんぶつ》については、私どもよりも雷園寺家の方が確実に詳しいでしょうから」

 

 一緒に拉致されているとされる使用人についても怪しい所が無いか調査すべきである。冷徹な口調で狗賓天狗は言い添えていた。雪羽は複雑な気持ちでその言葉を聞いていた。雷園寺家が下手人の調査に回った方が良い事は解かる。しかし狸娘の松子を疑ってかかるような物言いが何となく嫌だった。

 

「雷園寺殿」

「えっ、俺」

 

 そうした意見を述べていた狗賓天狗がおもむろに雪羽に声をかけた。雪羽はびっくりして周囲を見渡したが、彼女の眼差しは真剣そのものだった。下手な事を言えば捕食される。そんな空気も漂っている。

 

「先程雷園寺殿は自分の信頼している相手からの説得に応じると言ってましたよね。信頼している相手というのは、やはり()()()()()の事になる。そう考えて相違はありませんね?」

「…………」

 

 狗賓天狗の問いかけに対し、雪羽は無言だった。というよりも驚いて声が出なかったのだ。弟妹の主張は受け入れる。おのれの考えを見透かされていると雪羽は感じたのだ。狗賓天狗と言えども天狗の一種であるし、何がしかの術で雪羽の心中を見抜いたのではないか。心臓の鼓動が早まるのを感じながら雪羽は思った。

 しばし沈黙を貫いていた雪羽だが、ややあってから素直に頷いた。向こうは確信をもって問いかけているのだと悟ったためだ。

 やはりそうでしたか。呟く狗賓天狗の顔には渋いものが僅かに浮かんでいた。

 

「雷園寺殿。気持ちは解りますが次期当主を救出する前に実の弟妹達に会うのは控えた方が良いかもしれません。彼らはむしろ、あなたの心に()()をもたらすでしょうから」

 

 冷徹な彼女の言葉に、雪羽は息を詰まらせた。実の弟妹達、彼らの言葉が時雨救出の妨げになるかもしれない。そのような解釈がある事を雪羽は考えてもいなかったのだ。

 雪羽の戸惑いに気付いたらしく、狗賓天狗は言葉を続ける。

 

「前置きは抜きにしてお話しましょう。雷園寺殿の弟妹達が、次期当主の救出に賛成しない可能性がある。何となればあなたを唆して()()()()()()()()方向に持っていく恐れもあるのではないか。そこが私は心配なのです」

 

 狗賓天狗の説明は丁寧で、それでいて簡潔な物だった。無論雪羽も彼女の言葉をしっかりと聞き、頭の中で理解しようとしていた。難しい事を言われたわけではない。しかし――中々理解できなかった。心と頭が理解を拒絶していた。

 

「神谷さん! お言葉ですが憶測と想像で物を言うのはやめて頂けませんか!」

 

 険しい口調で吠えるのは叔父の三國だった。雪羽の正式な保護者である彼は、雪羽が抱える疑問や戸惑いをたがわず言葉にしてくれたのだ。幾分烈しさを伴ってはいるのだが。

 

「穂村たちは……雪羽の実の弟妹達は先代当主の子供たちなんですよ! あのくそったれ共とは違うんです。先代当主だった義姉の子供たちで、雪羽とは母親の同じ弟妹に当たるんですよ。そんな子たちが、実の兄である雪羽を困らせるなんて有り得ません」

「実の弟妹が実の兄を困らせる事は有り得ない……三國君の口からそんな言葉が出てくるなんて」

 

 これは傑作だなぁ。萩尾丸は寸劇でも見たような表情と口調で言ってのけた。

 

「ねぇ三國君。君がついさっき電話越しに口論していた相手は誰になるのかな? 相手は雷園寺家の現当主だけど、それ以前に君の()()()だろう?」

 

 ねちっこい萩尾丸の問いかけに、三國は猛獣よろしく喉を鳴らすだけだった。三國にも大勢の兄姉がいるが、いずれも同じ父母から生まれているという。萩尾丸の指摘は正しかった。

 

「父母の違う半兄弟は言うに及ばず、実の兄弟であっても分かり合えない事がある。そう言った事は三國君だっていやという程知っているんじゃないかな」

 

 萩尾丸の言葉は不気味なほどに優しげだった。三國は反駁せずに黙り込んだままだ。もう唸ってなどいない。それどころか雪羽も春嵐ですらも何も言えなかった。

 

「それにだね、雷園寺君は次期当主と別居しているけれど、彼の弟妹は次期当主たちと同居しているんだ。彼らが本家でどのような扱いを受けているかはさておき、異母弟である次期当主を良く思っていない可能性だってあるんだよ」

 

 確かに。雪羽は小さな声で呟いていた。時雨のせいで長兄たる雪羽は追放され、自分たちは父の親族と見做されて冷遇されている。彼らの今の境遇を考えれば、そのように思って時雨に悪感情を抱いていてもおかしくはない。現に実弟である穂村などは、ありもしない怨霊の話を時雨に吹き込んでいるのだから。

 

「兄である雷園寺君を慕っている事。異母弟の時雨君を憎んでいる事。この二つは相反する要素ではない。何となれば実の兄への想いが強ければ強いほど、異母弟への憎しみも強まっている可能性もある。そんな弟妹達が雷園寺君に接触したら――神谷さん。あなたの懸念はそういう事ですよね」

「萩尾丸さんの仰る通りです」

 

 不気味なほど爽やかな笑みをたたえた萩尾丸の言葉に、神谷は小さく頷いた。恭順と、感謝の念を込めながら。三國は何とも言えない表情で視線を動かしている。そうこうしているうちに、雪羽は今度は萩尾丸に呼びかけられた。

 

「そんなわけで雷園寺君。悪いけれど君の弟妹達に来てもらうのは今回やめておこうか。彼らが悪いとは僕たちは言わない。だけど君と考えは違うだろうし、そんな彼等の話を聞けば、却って混乱するかもしれないから……」

「萩尾丸さん。僕はその、本家の連中が()()()()()()()()()()()()だろうと思ってああ言っただけなんです。穂村たちは父の親戚という事になっていて、時雨たちも異母兄姉だとは知りませんからね。体面を保つ事に腐心している現当主とその面々ですから……その……」

「大人を見くびってはいけないよ、雷園寺君」

 

 萩尾丸は雪羽を嗜めていた。だがその口調は存外優しいものだった。

 

「確かに雷園寺家も体面を保つ事に心を砕いている節はあるにはある。しかし今回は体裁を気にせず動く時であると雷園寺家は解釈しているんじゃないかな。犯行グループの事だから、既に時雨君には兄姉たちがいる事も伝えているだろうし。

 それに雷園寺君。切羽詰まれば馬が角を生やす事だってあるんだよ。その事を思えば君の弟妹を君の許に送り込む事など容易い話じゃないか」

 

 雪羽は小さく首を揺らして頷いた。源吾郎が横目でこちらを見ていた気がするが、場に圧倒されているのか特に何も言ってこなかった。

 

 

 多少の話の脱線はあったものの、雷園寺家の件についても話は一段落した。結果的に雷園寺家には本家で待機し、身辺に怪しい妖物(人物の可能性もあるが)の調査に回ってもらうように指示を出す事と相成ったのだ。雪羽の当初の意見とは大幅に異なっているものの、それが一番穏当であろうというのが大人妖怪たちの見解である。萩尾丸は雪羽に敢えて了承を求めたが、雪羽には頷く事しかできなかった。

 

「それでは最後の議題に移りましょうか。思っていた以上に時間もかかってしまいましたが」

 

 最後の議題。その言葉を口にした萩尾丸は若干緊張しているようだった。萩尾丸の事だから、露骨に表情を顔に出したりはしていない。しかし雪羽には萩尾丸の緊張が判ってしまった。

 

「灰高様。今回の救出作戦に関してですが……」

「私や私の配下にも協力を要請する。そう言う事ですよね?」

 

 全て言い切る前に、遮るように灰高は告げた。萩尾丸もそんな灰高に大人しく頷いていた。こうした態度こそが灰高と萩尾丸の関係性を如実に物語っていた。

 ついでに言えば先日灰高の遣いが紅藤の敷地内で殺傷されている事も明らかになっている。いかな萩尾丸と言えども、灰高に交渉するのは気まずいのだろう。

 

「この会議に参加している時点で無関係とは言えませんよ。そもそも私は参加は任意であるとお伝えしました。その上でこうして出席なさっているのですから、今回の救出作戦に参加する意思があると、そのように解釈しております」

「そりゃあもちろん、雷園寺君絡みの事は私も関係していますからね。直接的な教育や監督はあなた方に任せているとしても、外部調整という役割が私にはありますし」

 

 そうです。萩尾丸は短く、念押しするように強く言い放った。

 

「灰高様も雷園寺家とのつながりを得る機会が見つからないか、内心焦っておいでではないのですか。ですから今回の事件は――」

「萩尾丸君。主だった救出部隊は君と三國君たちで編成すれば事足りるのでは無いですか? ましてや君の手許には九尾の末裔がいるのですから。仔狐と言えども、ね」

「まさか、救出作戦に参加なさらないと仰るおつもりですか? この会議に参加している以上、知らぬ存ぜぬでは通せませんよ」

 

 萩尾丸の語気が若干強まる。萩尾丸の焦りと緊張の色が目に見えてその顔に浮かんでいた。一方の灰高は表情を崩さない。何となれば人を喰ったような笑みさえ見せていた。

 

「そう焦らなくて良いじゃないですか萩尾丸さん。別に私は参加しないと申している訳ではありません。それに慎重なあなたの事ですから、私どもが()()()()()()()()()()()()()()()を既に確保なさっているのではないですか」

 

 救出部隊の増援を行うのではなく、()()()として参加する。灰高は妖怪たちに対してそう言ってのけた。

 

「十分に兵力があるのであなた方に任せておいても良いと思ってもいたんですよ。ですがあなた方は雉仙女殿の敷地を勝手に掃除させる事を許可したような迂闊さがありますからね。今回の案件に関しても、若いあなた方に任せっきりというのはいささか不安です。なので監視と情報収集を担おうと思っているのです。

 もちろん、決行の前日までに有力な情報を得る事が出来れば、その事もお伝えいたしますので」

 

 萩尾丸たちが油断ならないから情報係として救出作戦に参加する。灰高の主張はいささか高圧的なものに感じられた。しかし萩尾丸は平身低頭し、丁寧な口調で礼を述べている。

 そんな萩尾丸の姿が奇妙で滑稽で、そこはかとなく哀愁が漂っている。雪羽はぼんやりとそう思っていた。



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つかの間の安息 若妖怪の世間話

 灰高とその配下が監視役に回る。そこまで決まった所で今回の打ち合わせはお開きになった。

 正午を少し過ぎた頃合いであり、若干昼休憩に食い込んでいる時間帯だった。口には出さないが、雪羽は内心その事に驚いていた。打ち合わせは一時間足らずの短い物だったのだ、と。もっと長い間あの重苦しい打ち合わせを行っているように思えたのだ。

 

 打ち合わせが終わった一行が向かったのは社員食堂だった。三國の部下、黒 である堀川さんが主だって運営しているこの食堂は、素材も味も良いという事で他の部下や外部の妖怪たちからも人気である。雪羽自身もしっかりとした味付けは好みだったし、何より今は懐かしさが勝った。

 雪羽の隣に座るのはもちろん源吾郎だった。量り売りのおかず数種類とご飯を選んだ彼は、さも嬉しそうに料理を頬張っている。普段より食べる量は少ないようにも思えるが、それでも普段の元気を取り戻したようだった。

 

「お疲れ様。まだ打ち合わせの段階でこんな事を言うのもなんだけど……頑張ってくれたと思うよ」

 

 テーブルの周囲を睥睨しながらそう言ったのは萩尾丸だった。天狗らしい上から目線の物言いに違いない。しかしその言葉の節々には優しさのような物が滲んでいる。その萩尾丸はというと卵とか野菜が挟まったサンドイッチを二つ三つ注文しているだけであった。大妖怪はさほど食事を必要としないと言われているが、彼の隣に座る三國の昼食とはかなり対照的でもあった。

 

「曲がりなりにも灰高様も協力して下さる事という言質を頂いた訳だし、正直言って僕も安心したよ。利害が絡むからあのお方が僕らの邪魔をする可能性は低いとは思っていたけれど、万が一という事もあるからね」

「灰高様が協力せずとも、俺らでどうにかできたとは思いますがね」

「三國さん……いくら何でもそこまで言わなくても……」

 

 萩尾丸の言葉に三國は鼻を鳴らし、それから慌てた様子で春嵐が困ったような表情を見せる。萩尾丸は叔父に何か嫌味を言うのかもしれない。雪羽は軽く気構えた。だが萩尾丸は以外にも穏やかな笑みを見せ、思いがけぬ事を口にした。

 

「とはいえ最後までほぼほぼ無事に打ち合わせが終わって何よりだと思っているよ。それもこれも、三國君が堪えてお行儀よくしてくれていたお陰さ。

 血の気の多い若者だと思っていたけれど、君も成長して立派な大人になったと思うよ……そうだろ()()()

 

 お行儀良く、大人らしくなった。雪羽と源吾郎が呆然とする中で、萩尾丸はそんな誉め言葉を放ったのだ。雪羽ではなく三國に対して。三國は確かに妖怪としては若い。だが彼の事を雪羽は大人だと見做していた。本家から放逐された雪羽を、保護者として父親代わりとして三十年間面倒を見ているのだから。

 

「ここでその事に言及なさるとは……」

 

 一方の三國は複雑な表情を見せていた。照れと気恥ずかしさとがないまぜになったような表情だ。かつて三國は萩尾丸の許で教育指導を受けていた事があるという。丁度今の雪羽のように。と言ってもそれは昔の話、それこそ雪羽が生まれる前の話らしいけれど。

 萩尾丸が三國などよりもうんと年長である事、そもそも妖怪が望めば何百年も何千年も生きる事は雪羽も知っている。それでも保護者と自分が同じ指導者の世話になっていたという話を聞くと不思議な気持ちになる。

 

「萩尾丸さん。そりゃあまぁ俺とて大人になりますよ。萩尾丸さんからすれば俺もあなたの部下みたいな若妖怪に見えるのかもしれませんが……大人としての責務は、俺だってちゃんと解ってます」

「うん。君もちゃんと頑張ってる事は解ってるよ。君は今まで頑張って来たし、これからも頑張っていくつもりだろう。何度も言ったかもしれないが、僕の若い頃よりもうんと立派にやってると思うよ」

「あなたに褒められると何か落ち着かないですねぇ……」

 

 三國は何となくばつの悪そうな表情を見せていた。雪羽は食事に集中するふりをしながら叔父から視線を逸らせた。三國も萩尾丸に頭が上がらないのは知っている。それでも雪羽の叔父は堂々とした保護者だったのだから。

 ついでに言えば、萩尾丸が若い頃、というのも興味深く不思議な物だった。八頭衆の幹部の一人、紅藤の一番弟子として立ち働く萩尾丸であるが、しかし謎めいた部分も多い事もまた事実だった。私生活はどのようなものなのかすら雪羽はまだ掴めていない。大人妖怪として存在する彼の若い頃というのは、雪羽にとっては全くもって謎だったのだ。

 ところで雷園寺君。萩尾丸の事についてあれこれ考えていると、その萩尾丸から声がかかった。

 

「今回の救出作戦には君の弟妹達は呼べないけれど、そこはまぁ作戦に集中するための事だと思って勘弁してくれるかな」

「そういう事なら大丈夫ですよ、萩尾丸さん」

 

 雪羽はそう言ってふっと息を吐いた。弟妹達の今の姿を思い浮かべようとしたがどうにも上手くいかず、最後に会った時の、幼子の姿しか浮かばない。あの時赤ん坊だった時雨が既に少年になっているのだから、穂村たちはそれよりも年長である事は言うまでもない。もしかしたら兄である雪羽よりも大人びた少年少女に育っている可能性すらあるのだ。妖怪の成長速度には若干の個人差があるのだから。

 

「元より弟妹達が戦力になるとは思っていませんからね。僕と違って強さも妖力も一般妖怪と変わらないはずです」

 

 幼子だった弟妹達は三人とも一尾だった。あれから三十年経っているが、未だに一尾であろう。雪羽にはそのような確信があった。彼らが雪羽みたいに強い妖怪に育っていたら、あの時時雨がその事について何か言及するはずだ。

 それに雪羽とて、普通の妖怪がそんなにすぐに二尾や三尾に育たない事は知っている。貴族妖怪は傾向的に強い妖怪が生まれやすいと言われているが、それでも五十年足らずの若妖怪が三尾や四尾まで育つというのは珍しい話だ。

 つまるところ、既に三尾である雪羽や四尾である源吾郎の方がむしろ異端なのだ。

 

「特に穂村は雷獣としての力がほとんどありませんからね……()()()()()()()()()()()()()、あんまり闘うような手合いでも無かったですし」

 

 そう言った雪羽の口許にはやるせない笑みが浮かんだ。稲妻にちなんだ名を与えられたにもかかわらず、すぐ下の弟は雷獣としての能力に恵まれなかった。何と言う皮肉であろうか。

 ともあれ穂村は雷獣らしい雷獣とは違っていた。力は弱いがその分落ち着き払っていて、難しい事をあれこれ考えるのが得意だった。むしろ鵺の要素が強いのだと大人たちが言っていた気もする。

 或いは――そうした気質だったからこそ、異母弟である時雨に怨霊噺を吹き込んだのかもしれないが。

 

「説得要員云々は建前で、本当は弟妹達に会いたかっただけなんでしょ」

「……そうなります、ね」

 

 直截的な萩尾丸の言葉に、雪羽は素直に頷いた。萩尾丸の言葉は問いかけというよりもむしろ事実確認に近かったからだ。この大天狗がこうした物言いをする事は雪羽もよく知っていた。萩尾丸が雪羽を敢えて操る事はしない。だが雪羽も知らない雪羽の事を知っているのではないか。そう思わしめる所がしばしばあった。

 

「雷園寺君。君の弟妹に、いや君の親族たちに会う機会はすぐにやって来るからね。この度の拉致事件が()()()すれば、雷園寺家本家に出向くつもりなんだ」

 

 どのみち雷園寺家に雉鶏精一派として接触を図る事になる。萩尾丸の説明を雪羽はぼんやりと聞いていた。あまり気持ちの良い話ではなかったが、萩尾丸の言葉は嫌でも耳に入ってきた。時雨の救出を雉鶏精一派の功績として雷園寺家に恩を売る。あからさまな大人の駆け引きを隠そうとしない萩尾丸の態度には辟易していた。しかも直截的ではないにしろ不吉な結末にも言及していたのだから尚更だ。

 

「三國君たちは雷園寺君の保護者として同行するのは言うまでもないけれど……島崎君にも同伴してもらおうか。いざという時の護衛としてね。ふふふ、九尾の子孫である島崎君が雷園寺君に憑いている。それだけでも本家の面々も分家の面々もびっくりだろうねぇ」

 

 雷園寺家に源吾郎も同行させる。萩尾丸のこの言葉に源吾郎自身はひどく驚き目を丸くしていた。別にそういう事を狙って島崎先輩と仲良くしている訳じゃあないのに……雪羽はそう反駁したかったが、流暢に語る萩尾丸に突っかかる気力は無かった。

 

 

「三國さんとこの社員食堂、めっちゃ美味しかったなぁ」

「それは良かったぜ」

 

 食後。雪羽と源吾郎は廊下に微妙に配置された休憩スペースに控えていた。打ち合わせが終われば研究センターに帰るという話なのだが、萩尾丸が三國や月華たちと話し込んでいるので待たねばならなかったのだ。

 もっとも、「食後すぐに車に乗ったら酔うかもしれないからさ」という萩尾丸の謎の気遣いによるものでもあったが。

 さて隣の源吾郎についての話に戻ろう。打ち合わせの際には蒼ざめ血の気が失せ切っていた源吾郎であったのだが、社員食堂で食事を摂ってからは血の気も戻っていた。普段通りとまではいかないが、肌もほんのりと色づいている。ついでに言えばふさふさした四尾からも熱っぽい妖気が漂っていた。ご飯を食べれば元気になる。きわめて原始的な話だが、そういう事は結構大切だ。

 ちなみに源吾郎も社員食堂のメニューを堪能できたのは、実は昨晩萩尾丸から連絡があったからなのだそうだ。とはいえその時は、外出があるから弁当は作らなくて良いと言われただけらしいのだが。時雨が拉致された事、その救出作戦に加わる事について、源吾郎は出社してから知った形になる。

 

「普段通りじゃあないけど、先輩も元気になって良かったよ。先輩っていつも元気だからさ……」

「雷園寺君が安心してくれて何よりだ」

 

 源吾郎はそう言ったものの、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

 

「本当は雷園寺君を励ましたり勇気づける事が出来れば良いんだろうなぁ。一番不安なのは雷園寺君だろうからさ。でも何を言えば良いのか思いつかないんだよ」

「……大丈夫。一番不安なのは俺じゃなくて時雨たちなんだから」

 

 励ますつもりで雪羽はそう言っていた。源吾郎は何も言わず、驚いたように目を見開くばかりだった。彼は確かに演じるのは得意なのだろう。しかし嘘が苦手な事も雪羽は既に知っている。

 

「それにしても萩尾丸さんたち、打ち合わせが終わったのにまだ叔父貴たちと話し込んじゃうなんて……まぁあの妖《ひと》は天狗だからそんなにしんどくないのかな」

「萩尾丸先輩は幹部だし大人だから、俺らが考える以上の事まで気を配らないといけないんだろうさ」

 

 空気を変えようと放った呟きに源吾郎が乗っかる。仔狐・若妖怪として蚊帳の外である事をはなから認めているような言葉に雪羽は少しだけ面食らった。子供っぽい所もあれば大人びた所も持ち合わせている。末っ子だから耳年増でませているだけなのかもしれないが。

 気になってた事があるんだけど。今度は源吾郎が雪羽に問いかけていた。

 

「三國さんには怖くて聞けなかったから代わりに聞きたいんだ。あ、でも雷園寺君も知らなかったら無理して答えなくても良いけど」

「仰々しい前振りだな。どんな質問だ?」

 

 改めて尋ねると、源吾郎は少し考えてから呟いた。

 

「雷園寺君は三國さんに引き取られたけどさ、どうして他の弟妹達はそのまま本家に留まっているんだろうって思ったんだ」

 

 ある意味無邪気なこの問いに、雪羽の心が波立った。無論源吾郎は気付いていて、ゆえに怯えたような表情を浮かべた。

 

「いや、詳しい事を知らないからあんまり決めつけるのは良くないかもしれない。だけどその……三國さんらしくないと思ったんだ。雷園寺家の本家も色々とややこしい事になっているのに、実の甥っ子とか姪っ子をそのまま放っておくようなお方には見えないからさ。ましてや、自分が引き取った甥の弟妹たちなんだから」

「あの時叔父貴は、何故俺しか引き取らなかったか。そう言う事だろう?」

 

 源吾郎は即座に頷いていた。雪羽はここで、自分の声が普段以上に重く低く響いていた事に気付いた。

 

「叔父貴は穂村たちを引き取らなかったんじゃない。()()()()()()()()んだよ」

「……」

 

 雪羽の言葉に源吾郎は何も言わなかった。だが、全てを察したであろう事はその目を見れば明らかな事だ。




 三國さんは人間基準で言えばかなり若いです。なのでその……雪羽君を引き取る時も兄姉たちと色々一悶着あったんだろうなって感じですね。

 そう言えばパラレルワールドでは、雪羽君とオリ兄君を無理くり強奪して逃走してましたね……(遠い目)


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血縁相食む意趣返し

「そうだとも。叔父貴は穂村たちを見捨てた訳じゃないんだよ」

 

 気付けば雪羽は言い足していた。三國が雪羽の弟妹を見捨てたのではないか。何も知らないと言えども源吾郎にそう思われたのが癪だったのだ。不穏分子と見做された雪羽だけを引き取る。あの時の三國にはそうする事しかできなかったのだから。

 大人の事情ってやつさ。随分とぼやけた言い方だったが、源吾郎は物分かりの良い犬みたいな表情でこちらを見つめている。

 

「本当は、叔父貴だって穂村たちも引き取りたいって思っていたんだ。母さんの子供たちである穂村たちが大切にされるか解らないし……何より兄弟が離れ離れになるのは良くないって思っていたからさ」

 

 雪羽の脳裏には、あの日の情景がおぼろに浮かんでいた。

――恥知らずが。今いる子供の面倒もろくに見れないくせに、女にすり寄られて無責任に子供を作りやがって……義姉さんの仔を蔑ろにするくらいなら、全員俺に寄越せ。お前だってそれが望みだろう?

 後に叔父だと知ったその雷獣は、そんな言葉を吐きながら猛り狂っていた。幼子ながらも当事者としてその場にいた雪羽は、しかし弟妹達の目があったから取り乱す事は出来なかった。怯える開成《かいせい》を抱きしめ、事の成り行きを見守っていたのだ。穂村はあの頃から落ち着いていたし、末妹のミハルは幼すぎて、何が起きているのか解らなかったのだ。

 

「雷園寺家にも体面や外聞もあったし、叔父貴も子供を養育できるかどうか怪しいと思われていたんだ。だからその……俺だけ叔父貴が引き取って穂村たちは本家に残すって事になったんだよ」

 

 源吾郎は曖昧な声を出していた。納得はしたが、それを言葉にするのは難しい。そんな風に思っているようだった。

 

「俺は……それでも良かったんだ。あの時は叔父貴がどんな妖《ひと》か知らなかったし、大人たちは約束してくれたから……俺が大人しく雷園寺家を出れば、穂村たちの面倒はきちんと見るって。叔父貴は穂村たちを引き取れなかった事、結構気にしてたみたいだけど」

 

 源吾郎は何も言わなかった。彼の事だから、迂闊に何か言ってもマズいと思ったのかもしれない。

 

 

 研究センターに戻った雪羽たちを待ち受けていたのは、通常業務ではなくてさらなる打ち合わせだった。紅藤も一応出席してはいたが、主催者は当然のように萩尾丸だった。議題は件の救出作戦の延長であるのは言うまでもない。

 

「雷園寺時雨君を拉致し、彼を異母兄である雷園寺雪羽君に殺害するように命じる……犯行グループは雷園寺家先代当主の支持者だと言っているみたいだけど、雷園寺君に傅くつもりは毛頭も無いだろうね」

 

 紅藤に灰高たちや三國たちとの打ち合わせのあらましを伝えたのち、萩尾丸はそう言った。営業マンらしい笑みがその面には浮かんでおり、雪羽はやはり心がざわついた。

 

「そんなのは当たり前の事じゃないですか! そりゃあ確かに雷園寺家次期当主の椅子は欲しいですよ。ですが……こんな……」

 

 まぁ落ち付きたまえ。萩尾丸はぴしゃりと言ってのけた。猫の仔をあしらうかのような物言いである。

 

「単刀直入に言おう。下手人は確かにかつての雷園寺家の関係者なのかもしれない。しかし君や君の母親に敬意や忠誠の念を持っている訳ではないんだ。むしろ先代当主とかかわりがあった事を逆手に取り、雷園寺君を傀儡にしようと目論んでいるのだろうね」

「それでわざわざ、次期当主とされる時雨君を雷園寺君に殺させようとしているんですね」

 

 冷静な口調で問いかけるのは青松丸だった。大人しく内気な妖物であるが、萩尾丸の弟分と見做される事もあってか、特段取り乱した様子はない。

 息子の言葉に紅藤も納得したように頷いた。

 

「単に時雨君を雷園寺家次期当主にしたくないだけであれば、自分たちで暗殺者を用意して時雨君を暗殺するなり何なりすれば良いものね。その方が確実ですもの。

 ()()()()()()をすれば、わざわざ素人の子供を暗殺者に仕立てるメリットは特に見当たらない訳ですし」

「そもそも雷園寺君を暗殺者に仕立てるというもくろみ自体が失敗していますからね」

 

 紅藤の言葉に、萩尾丸が即座に返す。

 

「皆さんもご存じの通り、下手人は遣いを出して雷園寺君に接触し、異母弟を殺すように唆しました。雷園寺家次期当主に繋がるであろう事を餌にすれば乗って来ると向こうは思ったんでしょうね。実際には、弟への情が次期当主への執着を上回ったんですがね。

 だからこそ僕らの方で緊急の打ち合わせを行い、どのように対処するか作戦を練っている訳ですが」

 

 雪羽はここで自分に視線が絡みつくのを感じた。視線の主は源吾郎だった。やけに緊張した面持ちで、自分や萩尾丸を盗み見ていた。組まれた指はせわしなく動き、唇をもごもごさせている。何か言いたいけれどそれをためらっているような仕草に見えた。

 

「――もっとも、下手人たちの提案に雷園寺君がどのような反応を示したとしても救出作戦を組み、打ち合わせを行う事には変わりありませんがね。仮に雷園寺君が当主の座に目がくらみ、下手人の言うがままに時雨君を殺そうと思ったとしても、ね」

 

 源吾郎の視線は一度だけ往復し、萩尾丸に向けられた。萩尾丸は笑みを深めている。爽やかな好青年らしい、だからこそ不気味さとよこしまさが見える笑顔である。

 

「その時は僕の方で雷園寺君の行動を制限するつもりでしたのでご安心ください。まぁ、雷園寺君は時雨君を救出する事を既に選択していますので、要らぬ話だったかもしれませんが」

「り、リスク管理は大切な事だと、わたしも思いますよ」

 

 選択も何も、時雨を救出する一択に決まってるだろう……雪羽はとっさにそう思ったものの、心中でぼやくだけに留めておいた。サカイ先輩が先に口を開き、しかも萩尾丸の意見に賛同していたからだ。

 話が横道に逸れてしまったね。しれっとした表情で萩尾丸はそう言った。自分で話題を逸らしたのではないか。そんなツッコミを入れる者は誰もいない。

 

「今しがた、暗殺者としては雷園寺君は不向きという話が出ていたよね。合理性のみで見れば確かにそうなるね。妖力も豊富で戦士としての素養はあれど、殺しを行う覚悟があるとは思えないもん。雷園寺君の事だ。今まで他の野良妖怪と闘った経験はあったとしても、殺しの経験はまだ無いだろうし」

 

 殺しの経験が無い。萩尾丸の推測は図星だった。雪羽はヤンチャな妖怪で、確かに自分に突っかかって来る妖怪たちと闘った事は幾度もある。しかし彼らの生命を奪う事は無かったし、そもそも考えた事すらなかった。自分に歯向かってくると言えども、二度、三度攻撃を受ければ降伏して逆らわなかったからだ。

 それに――誰しもあっけなく死ぬ事を雪羽は嫌という程知っていたのだから。雪羽は誰かが死ぬのを見る事を嫌悪し、恐怖していた。怨霊を怖がる事は出来ないにもかかわらず。

 

「だけどね、連中が思うままに洗脳し傀儡に仕立て上げるには()()()()()んだよ。誰しも未経験だった事を行うのは、最初の一歩を踏むのは勇気とか覚悟とかがいるからね。殺しなんて経験ならば、どれほどの精神的武装が必要なのかは言うまでもないよね?

 しかも相手は異母弟で、雷園寺家の後継者でもある。連中も雷園寺君が雷園寺家の正式な後継者に強い感情を――実際には憎悪ではなくて情愛だったんだがね。ああしかし、どちらであっても変わりは無いだろう――抱いている事は知っている。その上で殺させるんだ。雷園寺君はもう()()()()()()()()。真実はどうなのかさておき、雷園寺君はそう思うに違いない。もうそうなれば連中の手に堕ちたも同然さ」

 

 少年兵を作るやり方と全く同じさ。萩尾丸は反応の薄い周囲に対してそんな事を付け加えた。源吾郎はまたも蒼い顔をしている。しかし他の面々は平然としている。紅藤や萩尾丸は言うに及ばず、青松丸やサカイ先輩まで取り乱した気配はない。狙われているのが彼らの身内では無いからなのだろうか。

 ねぇ萩尾丸。頬杖をついて考え事をしていた紅藤が、柔らかな声音で呼びかけた。

 

「雷園寺君には酷な話になるとは思っているわ。だけど今回の件について、下手人たちは単に雷園寺君を傀儡にするだけで留まるとは思えないの」

「というと?」

 

 萩尾丸が問い返すと、紅藤は思案するような表情で雪羽たちに視線を向けた。薄く瞼を伏せ、それから決心したように口を開く。

 

「――もしかしたら、雷園寺君を基にして蠱毒を作ろうとしているんじゃあないかしら」

「――!」

「そんな……!」

 

 蠱毒。忌まわしくも思いがけぬその単語に、雪羽は息を詰まらせた。のみならず、源吾郎までもが驚いて声を上げている。

 源吾郎は可哀想なほどに怯えの色を見せていた。彼自身も蠱毒に侵蝕されかけたのだから無理からぬ事であろう。しかし雪羽自身も源吾郎の様子を見守る余裕はなかった。蠱毒を作る。紅藤のその言葉が心を鷲掴みにして放してくれない。心臓の鼓動が早まり、うっすらと吐き気も覚える始末だ。この打ち合わせが一時間早ければ、堪えきれずに嘔吐していたかもしれない。

 

「雷園寺君に殺させるにしろ、拉致してから殺させる日までブランクがあるでしょ。そこが何故かしらって引っかかったのよね。普通の身代金目的の誘拐や拉致事件でしたら、条件に見合う金品の用意をさせるために時間に余裕を持つ事はおかしくもなんともないのですが……

 もしかしたら、蠱毒を錬成するための下準備をしているのかもしれないわ」

「成程、蠱毒ねぇ……」

「強いのが出来そう……」

 

 蠱毒錬成説。聞くからに物騒でおぞましい話ではある。しかし萩尾丸は感心したように相槌を打つばかりだった。

 

「その可能性は十二分に考えられますね。雷園寺君と次期当主の時雨君は同じ種族であり、しかも異母兄弟でもありますからね。どちらも力を持つ雷獣で互いに血の濃い間柄ですから、喰い合いをさせて蠱毒にする素体としてはもってこいなのでしょうね。

 しかも雷園寺家の先代当主はそもそも蠱毒によって生命を落としている……ええ、中々洒落の利いた意趣返しではありませんか。

 単なる犬猫でさえ、蠱毒の術で犬神や猫鬼という恐ろしい蠱毒に仕立て上げる事が出来るんだ。元から妖力のある雷獣を基にすれば、相当強いのが作れるだろうね。もっとも、普通の蠱毒でさえ御する事は難しいから――」

「……の、外道が――」

 

 外道。押し殺したような低い声が耳朶を打った。相変わらず軽い調子で話していた萩尾丸が一旦口をつぐむ。視線が雪羽の顔に向かい、それから横に逸れた。外道と言ったのは雪羽ではない。源吾郎だった。



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平静戻らず妖狐は激する

――この外道が。静かな怒りを発露した源吾郎の様子を、雪羽は密かに窺っていた。隣に控えているから様子を見やすいという事もあるにはある。しかし源吾郎の横顔に何がしかの異様さを感じ取ったのも事実だ。

 雪羽と時雨。異母兄弟であり親族でもある二人を――雪羽の母親と時雨の母親もまた血縁関係のあるのだ――蠱毒の素体と見做しその上で一方を殺させる。何をどう考えても鬼畜の所業である事には変わりない。ましてや雪羽は実母を蠱毒によって殺されているのだから。

 従って、犯行グループの意図に源吾郎が義憤を燃やすのは何らおかしな話ではない。実際雪羽とて腸の煮えくり返りそうな思いを抱えているのだから。

 異様なのは、源吾郎の眼差しだった。義憤といくばくかの嫌悪の混ざった彼の眼差しは、()()()()()()()()()()()()()のだ。

 或いはそれは雪羽の目の錯覚だったのかもしれない。萩尾丸に呼びかけられた源吾郎は、普段の表情に戻っていたのだから。

 

「犯行グループの大まかな動機も判った所だし、君らの役割分担について話そうか。島崎君。もちろん君は当日僕の後方部隊に混じってもらう事になっている。だけど決行の日が訪れるまでに、一つ台本を書いて欲しいんだ」

「台本……ですか?」

 

 萩尾丸の言葉に源吾郎は目を丸くした。あからさまに驚いており、いっそ少年らしい表情だった。

 源吾郎の表情の揺らぎなど意に介さず、萩尾丸は続ける。

 

「当日、雷園寺君には誘いに乗った体で現場に乗り込んでもらうんだ。もちろんすぐに僕らも動き出すけれど、その間のつなぎ……時間稼ぎが必要だからね。状況が状況だ。いかな雷園寺君とてアドリブで演技をするのは難しかろう」

「……アドリブは役者であっても難しいと思いますが」

 

 島崎君。萩尾丸はあくまでも冷静な眼差しを向けている。鼻を鳴らして応じた源吾郎は何処となく斜に構えた気配を見せているが、その事すら萩尾丸にはどうでも良いらしい。

 

「君は演劇部の中では優秀な役者だったんだよね。だけど君の事だから、台本の一、二本くらいは書けるでしょ? 何、難しい話ではないよ。演じる時間はせいぜい十分程度だし、リテイクとかチェックは僕や青松丸君がやるからさ。とりあえずト書きでも台本形式でも良いから後で書いてくれないかな」

 

 解りました。源吾郎はそう言ってからちらと雪羽に視線を向けた。雪羽が役者としてどこまで動けるのか。そうした事を値踏みしているような眼差しである。

 それと島崎君。萩尾丸は源吾郎の様子をしばし見守ってから言い添えた。

 

「もし今回の救出作戦の件で仕事に身が入らないようだったら有給を使ってもらっても良いからね。君ももう入社して半年が経っているんだ。だから二日くらい有給を使ったとしてもばちは当たらないだろう。

 うん。今日も半日休暇って事でこの後帰っても構わないからね」

「……お気遣いのほどありがとうございます、萩尾丸先輩」

 

 有給。休んで良い。唐突な言葉に源吾郎は驚いていたらしい。彼は確かに思案するような表情を見せていた。しかしややあってから落ち着きを取り戻したようで、その面には狐らしい笑みが浮かんでいる。

 

「ですが僕は大丈夫です。どの道仕事をすると言っても、作戦を練ったり台本を考えたりするのが仕事になりそうですし。

 それに――休んだら休んだで部屋から出てはいけないとか、そうした行動制限が僕に課せられるんじゃあないですか?」

「あら島崎君。流石にそこまでやらないわよ。いくら部下とはいえ、そこまでやるのは職権乱用に当たりますし」

 

 源吾郎の返答はいささか生意気な物だった。だからこそ、紅藤が口を挟んだのかもしれない。ここまで源吾郎が皮肉っぽい言葉を放つのは、萩尾丸にとっても珍しい事に違いない。それでも彼は特に戸惑った素振りは見せなかった。のみならず、さも面白そうに笑っているくらいだ。

 

「ははは、成程ね島崎君。君なら多分そう言うと思っていたよ。良かったじゃないか雷園寺君。お友達の島崎君が今日も明日も出勤してくれるんだからさ」

 

 お友達の島崎君。萩尾丸は特に深い意味を持たせずにそんな事を言ったのだろう。だが雪羽の心中は複雑だった。救出作戦の折に源吾郎が参加するのは彼が九尾の末裔である為だ。そんな話をつい先程聞いたからなのかもしれない。雪羽としては源吾郎と気が合うから親しくしているだけに過ぎず、特に打算など無いというのに。

 気付けば源吾郎への話は既に終わっており、萩尾丸はサカイ先輩に声をかけていた。

 

「サカイさん。僕が君に対して心配する事は、思わず()()()()()()()という事だけなんだ」

「は、はい……そこは気を付けますね」

 

 食べ過ぎに注意。萩尾丸の指摘にサカイ先輩はうつむきがちに応じた。なまじ見目の良い美女に化身しているのだから、何とも可愛らしい注意事項に見えなくもない。もっとも、すきま女たる彼女の食事とは、敵妖怪の精神や負の感情等なのだが。

 

「後々処刑される連中だとしてもだね、捕縛する前段階で廃人にしてしまうのは悪手だと思うんだ。特に首謀者や共犯者がそんな状態になったら動機とか協力者の有無とかを聞きだせなくなってしまうし。だからもし食べるのなら、つまみ食いレベルにしておくか、末端の有象無象に留めておくくらいにしてほしいかな」

「それこそサカイさんには現場に漂う邪念ですとか、蠱毒の錬成のための術式とかを食べて貰うのも良いかもしれないわ。末端の者たちも犯罪に加担している事には違いないけれど、それで廃人にされるのはちょっとやり過ぎだと思うわ」

「先走って動くとそれはそれで警戒されそうだし……まぁサカイさんは場慣れしてるからその辺の判断はサカイさんに任せようか」

 

 サカイ先輩の動きについての話し合いは、妙な和やかさを伴ったものだった。和やかであるからこその不気味さを孕んでいたのは言うまでもない。

 萩尾丸が最後に声をかけたのは青松丸だった。紅藤の息子であり、萩尾丸の弟分にもあたる青松丸であるが、実は彼は今回の救出作戦に直接参加する事はないそうだ。

 

「青松丸君。予定としては君には紅藤様と共にこの研究センターを護ってもらうつもりなんだ。僕らが出向いている間に変な輩がこちらを叩きに来ても良くないからね。だけど状況によっては君にも増援を頼むかもしれないから、それだけは念頭に置いていて欲しい」

 

 青松丸に向ける言葉は、源吾郎やサカイ先輩に向けた言葉よりも若干丁寧さが宿っていた。萩尾丸は首をわずかに動かして今度は紅藤に視線を向ける。

 

「……紅藤様。状況によってはご子息の青松丸君に協力していただく事も考えております。その事をご了承いただきたいのです」

 

 畏まった萩尾丸の言葉を受け、紅藤はふっと笑った。

 

「萩尾丸ったら緊急事態なのに畏まっちゃって……青松丸を救出作戦に使うのに、別に私の許可は要らないわよ。萩尾丸には私の弟子たちを使う権限が初めからあるのですから。それに青松丸だってあなたの頼みとあれば断ったりなんてしないわ」

「そうかもしれませんが、青松丸君にも立場という物がありますから……」

 

 若干歯切れの悪い口調で言いつつ、萩尾丸は青松丸を見やった。

 

「青松丸君は紅藤様の息子であり、胡琉安様の半兄ですからね。状況が状況ならば、八頭衆を飛び越えて頭目の側近中の側近になっていたお方でもあるんですよ。そりゃあまぁ僕ごときが勝手に扱っていい御仁じゃあないですよ」

「萩尾丸さん、何もそこまで言わなくても……」

 

 妙な力説をする萩尾丸を前に、青松丸は何とも居心地が悪そうな表情を見せていた。雪羽はもちろん青松丸の出自や正体を知っている。係長職と言えどもいち研究員という出自にそぐわぬ控えめな地位に青松丸が治まっている理由は、他ならぬ彼の態度が雄弁に物語っているように思えた。

 

 

 短い打ち合わせが終わると、唐突に戦闘訓練を行うと萩尾丸に言い渡された。

 

「二人とも気が張ってるみたいだし、気分転換になるんじゃないかな」

 

 萩尾丸はそんな事を言って笑っていた。とはいえ気分転換を欲している状態なのか、雪羽にはよく解らなかった。無論雪羽たちに選択権は無いからこれから戦闘訓練を行う事には変わりないのだが。

 源吾郎とタイマン勝負を繰り返した戦闘訓練だったが、今日のそれは何もかもがいつもと違っていた。まず外で行うのではなくて地下室が会場だった。かつては拷問部屋の機能を具え、今では術の鍛錬で使うあの部屋である。

 いや、会場が違う事などは些事であろう。普段と決定的に異なっていたのは雪羽たちの心境だった。断れないから頷いたものの、雪羽たちは乗り気ではなかった。源吾郎などはあからさまに当惑の色を見せてしまった位だから相当だ。源吾郎はそもそも負けず嫌いな性質であるし、おのれの戦闘能力を高めたり周囲に見せつけたりするのが大好きな青年なのだから。

 雪羽も露骨な態度は見せなかったが、正直な所乗り気ではなかった。時雨の生命は決行日まで確保されていると言われたものの気が気ではなかった。作戦や計画がある事は解っている。しかしここでくさくさしている場合ではない。そんな気持ちが募ってしまうのだ。

 だが雪羽は考えを変え、戦闘訓練に向き合う事にした。戦闘訓練での動きも、犯行グループと渡り合う時に役立つであろうと思ったためだ。相手になる源吾郎が強い事は雪羽も知っている。かつてのオトモダチとは違い、格段に歯ごたえのある相手なのだから。

 

 

 一応意気込んで行った戦闘訓練であるが、五分も経たぬうちにあっけなく終了した。地下室だから派手な術は使えなかったのだが……雪羽がこの度圧勝してしまったのだ。互いに派手な事はやっておらず、体術を行使した取っ組み合いに近いものあった。

 源吾郎ももちろん逃げたり防戦したり捕まったら抵抗したりしていた。しかし途中から雪羽の気迫に押されている感じだった。

 そこまでだ。監督者の一人である萩尾丸は、ゴロゴロと転がる雪羽たちを見下ろしながら静かに告げた。転がるのをやめて源吾郎と距離を取る。源吾郎は目が回ったらしくしばらくの間肩で息をしていた。呼吸が落ち着いてからも、その顔には悔しさの色は浮かばない。むしろ負けたにもかかわらず安堵の色さえ浮かんでいた。

 

「やっぱり二人とも冷静じゃあないね。雷園寺君は必要以上に殺気立ってたし、島崎君はもうそれどころじゃあないって感じかな。

――ともあれ、君らがどれくらい冷静なのか、或いは取り乱しているのかはっきりと解って良かったよ」

 

 冷静さを測るために戦闘訓練を行った。萩尾丸の発言に雪羽は驚いて目を丸くした。そうした意図があるとは夢にも思っていなかったのだ。

 しかし次の瞬間、ぼんやりとしていた源吾郎が顔を上げ、萩尾丸を睨みつけた。その眼差しその面には、()()()露わにしていた憤怒と嫌悪の色が包み隠さずに浮き上がっていたのだ。

 

「取り乱しているかどうかなんて、俺たちの様子を見れば一目でわかる事だろうが!」

 

 事もあろうに源吾郎が吠えたのだ。純血の妖狐ならばこの段階で獣の様相を見せていてもおかしくない程の剣幕である。

 おやおや。萩尾丸は間延びしたような声を上げる。それこそがスイッチだった。

 

「萩尾丸さん! あんたは一体どういう気持ちでさっきの打ち合わせを行っていたんですか。雷園寺の兄弟同士で蠱毒を作るのが洒落の利いた意趣返しだなんて、何であんなに()()()()()言ってたんですか! あんただって、雷園寺が蠱毒の件でトラウマを持っている事ぐらいご存じでしょうに」

 

 源吾郎の剣幕に対し、誰も何も言わなかった。雪羽は純粋に驚いていたのだ。萩尾丸や紅藤も驚いていたのかもしれない。

 耳朶まで赤くした源吾郎は一息つくと、それでも憤怒の眼差しを萩尾丸に向けつつ言い添えた。

 

「あんなくそったれな計画を立てる犯行グループとやらも外道でしょうけれど、萩尾丸さん、あんただって同じ穴の狢だと俺は思ってますよ。当事者の前であんな恐ろしい計画をさも楽しそうに話せるなんて――外道中の外道が」

 

 先程よりも若干落ち着いた、しかし侮蔑の籠った源吾郎の言葉に雪羽は尻尾を震わせた。彼は先程外道だと言い捨てていた。その外道というのが、まさか萩尾丸に向けた言葉だったとは。

 

「外道である事は認めよう島崎君。何せ僕は六道輪廻を外れ、天狗道に入った身なのだからね。ふふふ、おめでとう島崎君。君はいくらでも僕を()()と呼んでも構わないよ」

 

 そう言う萩尾丸の顔にはほのかな笑みが浮かんでいた。妙に儚げな笑みに、流石の源吾郎も呆気に取られているようだ。

 その次の瞬間には、萩尾丸の笑みは嘘のように消えていた。真面目な表情で源吾郎を見下ろしている。

 

「前に言っただろう。君らが歩む野望の道は血塗られているとね。外道中の外道にならずしてその道を歩けるとでも?」

「萩尾丸、いくら何でも言い過ぎだと思うわ……」

「すみません、僕も少し気が立っていたのかもしれません」

 

 見かねた紅藤が萩尾丸を嗜める。萩尾丸の言動の意図は今の雪羽にはよく解らない。しかし、激昂する源吾郎の姿を見た雪羽は、少し前よりもむしろ()()()を取り戻していた。パニック状態の時に自分よりも慌てふためく相手がいれば冷静になる。その話が脳裏をかすめた。




 実はカクヨムにアップしたとき、「萩尾丸先輩ゲスすぎ」と言う感想が来ないかとちょっとドキドキしたのは内緒です。
 源吾郎君の(意外と)珍しいガチギレシーンですね。
 そりゃあまぁ雪羽君にいらん事された時も多少は腹を立てていましたが……でもグラスタワー事件ではそれほど腹を立てていなかった説がここで浮上するわけでもあるのです。


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若妖怪 外道の術を考察す

 そうこうしているうちに土曜日を迎えた。決行日はいよいよ明日である。

 自室で眠っていた雪羽は、普段よりも早い時間に目を覚ました。萩尾丸の許で暮らすようになってから早起きが習慣化してきたきらいもあるが、ここ最近は事情が違う。おちおち寝ていられないのだ。体力を温存するためにじっくり休めと大人たちからは言われているし、きちんと寝ろとも言われている。とはいえ特に支障はない。夜通し遊び呆けていた時とは異なり気だるさはないし、ここ数日は妖気がおのれの身体に満ち満ちているのを感じている。パフォーマンス的には問題ない。雪羽は自身をそう判断していた。

 布団に戻る気にもなれず、雪羽はそっとベッドから抜け出した。向かう先は本棚である。萩尾丸から借りた呪術や妖術の類の本――もっとも本格的な内容ではなく、人間向けの書店でも手に入るような代物だが――をひっつかみ、ページをめくって目を通した。

 救出作戦に向けて動く傍らで、蠱毒についてあれこれ調べていたのだ。雪羽の母親は蠱毒で殺されていたのだが、雪羽はしかし蠱毒の事をほとんど知らなかった。知らなかったというよりも知ろうとしなかっただけなのだが。

 今ここで蠱毒について調べたとしても、付け焼刃の知識にしかならないだろう。

 それでも雪羽は蠱毒についてのあれこれを、多少は知る事が出来た。特に彼が興味を抱いたのは犬神や猫鬼についてだった。前に萩尾丸が言ったとおり、蠱毒の殆どは複数の小動物を喰い合わせて錬成するという。しかし犬神や猫鬼の場合は犬や猫を一匹用いるだけでも作る事が出来るそうだ。飢えと怨嗟とを抱かせたうえで首を刎ねる。死ぬ寸前の執着によって憐れな動物は恐ろしい蠱毒に変貌するという寸法だ。

――何だ。蠱毒というのは素材が一匹だけでも作れるんじゃないか

 雪羽は密かにそう思った。奇妙な笑いさえこみ上げてくる始末だ。

 犬神は日本産の呪詛という事もあり、記述は多岐に渡った。人工的な錬成方法のほかに、いかにして犬神が誕生したのか。そう言った事もその本には記されていた。

 雪羽はだからその記述を見つけてしまった――犬神のルーツは、平安時代に射殺された鵺の遺骸の一部であるという記述を。

 ()()()()()()()()()()。この記述は雪羽にとって天啓だった。もちろん雪羽は鵺ではない。しかし鵺とは全く無関係な存在ではなかった。雷獣は鵺の近縁種であり、それこそ雷獣の先祖は鵺であるとされているのだから。現に三國は鵺である月華を妻にしているし、雪羽の実弟である穂村などは雷獣でありながら()()()()()の姿を見せているではないか。

 断片的に与えられた情報が一つに繋がっていく。雪羽はそんな感覚を抱いてしまった。

 

 

 源吾郎がやって来たのは九時前の事だった。元々萩尾丸は自分の部下たちを集めて十時から救出作戦の打ち合わせを行おうとしていたので、源吾郎はそれよりも早く来たことになる。そもそも源吾郎は件の打ち合わせのメンバーに指名されていなかったのだが。休日だし無理に来なくても良いよ。萩尾丸は単にそう言っただけだったのだ。

 

「先輩……」

「おや島崎君じゃないか。おはよう。よく来たね」

 

 来訪した源吾郎の姿に雪羽は気圧されていた。妖狐ながらも鬼気迫る気配を漂わせていたのだ。雪羽や萩尾丸を前にしているから威圧的な表情や素振りは見せていない。むしろほんのりと笑みを浮かべているくらいだ。それでも全身からは、平素とは異なる雰囲気が放たれていたのだ。それこそ獣じみた雰囲気さえ今の源吾郎は持ち合わせていた。

 

「島崎君。君は後方部隊で初陣だから別に打ち合わせに参加しなくても良かったんだけど……今日はどうしたのかな?」

 

 呆然とする雪羽を半ば押しのけ、萩尾丸は半歩前に進んでいた。雪羽とは対照的に、源吾郎の姿を見ても特段うろたえたり驚いたりする素振りは萩尾丸には無かった。

 

「確かに僕は後方部隊になるんでしょうね。ですがその……雷園寺君がきちんと演技できるかどうか、そこが気になったんです。きっと今日も、最後の練習でもする所でしょうから」

 

 そこまで言った源吾郎の眼球、黒目があからさまに動いた。上目遣い気味に萩尾丸を見つめているのだが、その顔には僅かに笑みが浮かんでいる。若干皮肉っぽい笑みではあるが。

 

「それに萩尾丸先輩の事です。もし僕に来て欲しくなかったのならば、屋敷自体に術をかけて僕がたどり着けないようになさる事も出来たのではないですか?」

 

 源吾郎の笑みと言葉は随分と挑戦的な物だった。あの日、あの救出作戦の打ち合わせ以降、源吾郎の萩尾丸への態度は前とはがらりと変貌してしまったのだ。表向きはしおらしく従順に振舞ってはいるが、時折こうして皮肉や憎まれ口が顔を覗かせるのだ。萩尾丸の言動に納得していないと言わんばかりに。紅藤や他の先輩たちがその事を指摘しないから尚更だ。

 萩尾丸はしばらく無言で源吾郎を見下ろしていたが、その面には笑みが浮かんでいた。

 構わないよ、お入り。萩尾丸は何のこだわりもなく源吾郎を迎え入れてくれた。

 

「ふふふ、君が来るであろう事は僕もうっすら解っていたからね。だからこそ無理に来なくて良いと言ったんだ。君の事だ、初めから土曜日も最終調整に入るために動くつもりだったんだろうからさ」

 

 源吾郎ははっとしたような表情で目を見開き、それから小さく頷いた。

 

「僕たちの方は大丈夫だよ。最終準備の妖員が一人増えた所でとやかく言う手合いはいないからね。お昼も用意するし、適当な時間になったら送迎してあげよう」

「お気遣いありがとうございます。ですがお昼はお弁当を用意しましたので」

「それでも足りなかったら言うと良いよ」

 

 そこまで言うと萩尾丸は踵を返し、源吾郎に入るように促した。

 ここで雪羽は源吾郎と目が合った。萩尾丸が喋っていたせいでまだロクに言葉は交わしていない。目線を合わせた源吾郎は、雪羽に向かって笑みを見せていた。

 

「日頃は張り合って競い合っていても、いざという時に気を許せる兄弟分がいるというのは良い事だよ」

 

 萩尾丸の声が聞こえたのは、雪羽が源吾郎に笑い返した丁度その時だった。普段とは異なり、呟くようなささやかな声音だった。

 

「雷園寺君も島崎君も、早い段階でそう言う相手が見つかったみたいで何よりだよ。いっそ()()()()()()()()。僕にはそう言う相手はいなかったから」

 

 萩尾丸の声には一抹の寂しさと過去への郷愁がふんだんに籠っていた。

 

 

 九時半から十三時を少し回った間まで、救出作戦の最終調整が萩尾丸の指揮のもと行われていた。源吾郎の懸念通り演技の練習も行われたのだが、意外にもその練習は一回だけだった。もう大体動きも覚悟も定まっているから練習はこれで最後にするのが良いだろう。そう言ったのはやはり萩尾丸だったのだ。むしろこれ以上練習すれば、却って雷園寺君の負担になりかねない。そんな事さえ言ってのけていた。

 その代わり臨場感は今までとは比べ物にならなかった。萩尾丸の部下、それも金翅鳥に所属する化け狸の女性が、幻術を用いて当日の現場を再現してくれたからである。負担になるなんて……と思っていた雪羽だったが、それでも寸劇を終えた後はどっと疲れを感じてしまった。

 その他には犯行グループのメンバー構成であるとか、外部との連携についての打ち合わせだった。雪羽や源吾郎もこれに参加していたのだが、話をぼんやりと聞く程度に留まってしまった。それでも青松丸が真琴と連携して情報を集めている事、犯行グループには雪羽のオトモダチの他に何故か人間の術者も構成員として存在している事などは耳にして、頭の中でその意味が咀嚼できた。

 

「蠱毒を錬成する日取りについては、まぁ中途半端に意識しているって感じであるように僕には思えるなぁ」

 

 話の途中で萩尾丸はそんな事を言った。

 

「十月は五行の水に当たり、指定時間の二十二時も水に当たる。雷獣の特性を伸ばしつつ蠱毒に据える……そんな事を考えていそうだね」

 

 そんな事を言う萩尾丸の面に、興味深そうな笑みが広がる。五行属性の関係性の中に、水生木がある。水により木が長じ栄えるという事だ。雷に縁のある雷獣は、五行属性としては木に当たる存在なのだ。

 

「とはいえ、こじつけめいたところはあるかもしれないけどね。向こうも聞きかじりの連中ばかりだろうし、そもそも蠱毒を作るのに良い日なんて無いんだからさ」

「萩尾丸先輩」

 

 良い日。その言葉に反応した源吾郎がふいに声を上げた。

 

「明日は友引らしいんですよ。友引ってその……良い事がある時には良いんでしょうけれど、縁起が悪い事には良くない日ですよね、お葬式とか」

「確かに最近は良くも悪くも友が引くって意味はあるねぇ。だけど友引の本来の意味とはちょっとかけ離れているね。

――友引は元々()()()()()()()()()()とか、そう言う意味が含まれているんだ。まぁ、その辺りは向こうもさほど気にしてはいないだろうけどね」

 

 勝負の決着がつかない。それはつまり相討ちという事になるのだろうか。萩尾丸はそこまで気にしなくて良いと言い放ってはいる。しかし雪羽には何がしかの意味があるように思えてならなかった。



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脱皮待ち 与えられるは平穏か

 静かな部屋の中、物音と言えば尻尾が空を切る音くらいだった。昼食後、遅い休憩を与えられた雪羽は源吾郎を伴って自室に戻っていた。はじめはタブレットで動画を見て気を晴らすつもりだった。ところが雪羽も源吾郎もそんなものには興味を持てる状態ではなかった。

 尻尾を乱暴に振り回しているのは源吾郎だった。雪羽が普段使うベッドに腰を下ろした彼は、四尾のうちの一、二本を床やベッドサイドに叩きつけていたのだ。もちろん威力は殆ど無く、物的被害も特に生じてはいない。せいぜい毛が抜けて舞い上がるのと、見ている側が気になってしまう程度の事だ。

 ややあってから源吾郎は尻尾を振り回すのをふいに止めた。今度は尻尾を手繰り寄せ、一尾を抱きかかえるような形で膝の上に乗せたのだ。

 そこから彼が始めたその行為は、毛づくろいや尻尾の手入れと呼べるような丁寧な物では無かった。源吾郎ははじめ、手繰り寄せた尻尾をひたすら揉んでいたのだ。多少雑な動きではあったが、その動きはフミフミだった。獣妖怪ならば誰でも行った事がある手慰みの動きだ。源吾郎がフミフミを行う事自体は不自然な事ではない。不安を覚えた時、誰かに甘えたいけれど甘えられない時に行われるものなのだから。

 ところが源吾郎の動きはフミフミでは済まなかった。尻尾の毛を手櫛で梳くような動きを取り始めたのである。手櫛というにはやはり雑で単調な動きだった。何せ――微かな音と共にフワフワした毛が抜け始めたのだから。獣妖怪の中でも、ストレスや神経が張りつめて尻尾の毛を抜く事はままある事らしい。

 

「先輩、今日の先輩は何というか……若い獣の匂いがしますねぇ」

 

 源吾郎がおのれの尻尾を乱暴に扱っているさまは見ていられなかった。雪羽はだから、彼の気を逸らせようと口を開いたのだ。

 獣の匂いがする。雪羽のその言葉には多少の好奇心と疑問しかなかった。獣妖怪はおおむね鋭い嗅覚を保有している。匂いで相手の状態を探るのは日常茶飯事なのだ。男も女も老いも若きもそんな感じである。

 ともあれ雪羽の思惑通り、源吾郎の関心を尻尾から雪羽の言葉にシフトする事には成功した。顔を上げた源吾郎は顔をわずかにしかめていた。雪羽の言葉を不快に思ったと言わんばかりの表情である。

 

「獣臭いだって。俺、ちゃんとお風呂にも入ってるけど?」

 

 語気強く言い放つ源吾郎を前に、雪羽は彼の出自や境遇に想いを馳せた。源吾郎は妖狐として振舞い、純血の妖怪に負けないほどの強さの持ち主だ。しかし彼は半妖で、しかも長らく人間として暮らしていたのだ。獣の匂いという言葉への反応を見て雪羽はその事を思い出した。嗅覚の鈍い人間の間では、体臭で相手の状況を判断する文化は殆ど無いのだ。

 妖怪として生きようと源吾郎がとうに決意を固めている事は雪羽も知っている。だがそれでも、人間として生きてきた時の考えが顔を覗かせる事もあったのだ。

 

「あ、いや違うんだよ島崎先輩。別にその……そう言う意味じゃなくて……」

 

 へどもどしながら雪羽は言葉を紡いだ。どうした訳か上手く言葉が出てこない。自分は特に口下手でもないはずなのに。

 とはいえ源吾郎に謝罪の念を伝える事には成功したらしい。むっつりと機嫌の悪そうな彼の表情が一気に変貌したからだ。源吾郎は今や申し訳なさそうに雪羽を見つめていた。

 

「そうだよな。よく考えたら雷園寺君は雷獣で獣妖怪だもんな。鼻も利くみたいだし」

「それにしても先輩。尻尾の毛、そんなに雑にむしってるけど良いの?」

「むしってるんじゃないよ。換毛期だから抜けるんだ」

 

 雪羽の問いに源吾郎はあっけらかんと応じた。もう既に穏やかな様子を見せてはいる。しかし平素の呑気さを見せているかと言えばそれはまた別物のように思えた。何しろ源吾郎は未だに妖気を漂わせているのだから。

 

 

「成長期に入ったような物だろうね。島崎君の場合は、肉体的というよりも妖力的・精神的な成長の方に入るだろうけれど」

 

 萩尾丸は源吾郎を見るなりそう言った。どうにも源吾郎の様子が気になった雪羽は、こっそり萩尾丸に様子を見て欲しいと頼み込んだのだ。もっとも、雪羽が全て言い切る前に萩尾丸は動き始めていたのだが。

 当の源吾郎はというと、雪羽のベッドの上に寝そべっていた。食後で眠くなったためだろう。或いは食べ過ぎて気分でも悪くなったらしい。しかし萩尾丸がやって来ると、瞼を開いて彼の様子を窺っていた。萩尾丸に向ける源吾郎の眼差しは、普段に較べればやや虚ろだった。

 寝転んだまま先輩である萩尾丸を睨む。普段の源吾郎であれば考えられない行為でもあった。ところが萩尾丸は気を悪くしたそぶりは見せず、興味深そうに眺めるだけだ。居住まいを正せと指摘する事も無い。

 

「解りやすく言えば()()する時期が来たという事なんだ。芋虫でも蛇でもザリガニでも脱皮するだろう。妖力的な方面で同じ事が()()にも起こっているんだ。島崎君に雷園寺君、僕の言っている事は解るよね?」

「はい…………」

「ええと、まぁ何となく」

 

 萩尾丸の言葉に源吾郎が静かに頷いた。少し遅れて雪羽も返答する。そもそも源吾郎の様子を見て欲しいと言って萩尾丸を呼んだのだ。それなのにどうして萩尾丸さんは俺にも呼びかけているんだろう。そんな疑問が脳裏をかすめたのだ。

 

「痛みや苦しみを伴わない成長は無いんだよ。ましてや君らが目指すのは大妖怪で、一介の戦士では無くて大君主なのだからね」

 

 大妖怪。大君主。萩尾丸のやや大げさな言葉に源吾郎が反応したのが雪羽には見えた。虚ろだった瞳に光が戻ったのだ。のみならず、ゆっくりと半身を起こしてもいた。

 その様子を横目で眺めながら萩尾丸は解説を続けた。妖怪の事、妖怪の持つ強さの事だ。

 妖怪が保有する妖力は一種のエネルギーである。実際に生命力として用いられ、時に妖術の行使に充てられる事もあるのだから。

 しかしながら、妖怪にとっても過剰な妖力は毒になる。妖気の循環が停滞したり逆に早まったりするのも体調不良を引き起こす原因となるらしい。

 それ故に妖怪に生じる脱皮――要は妖力が大幅に増加する事だ――もまた、妖怪の心身に負担がかかる事なのだという。負担の発現は増える妖力の度合いやその妖怪の体質によってまちまちであるらしい。とはいえ、何がしかの自覚症状がある事には変わりないし、それこそ外的な負荷が特に若妖怪の脱皮を促す事さえあるというのだ。

 そう言った意味でも、源吾郎は今まさに脱皮の最中であるのだと萩尾丸は断言した。さもありなん、と雪羽は密かに思っていた。源吾郎の振る舞いや様子は普段とは明らかに異なっていたからだ。妖気を無闇にばらまくような手合いでは無かったし、何より先程までイライラした様子で尻尾の毛をむしってもいた。

 そして今の源吾郎にのしかかる外的な負荷も明らかだ。明日の事、時雨の救出作戦が上手くいくのか。それが源吾郎にとって精神的な重圧である事は言うまでもない。

 

「辛いだろう、しんどいだろう島崎君」

 

 今やベッドの上で胡坐をかく源吾郎に萩尾丸は問いかける。相変わらず面白がっているのか、源吾郎の身を案じているのか雪羽にはよく解らなかった。

 

「それこそが君の望んだ野望の対価であり、今後もこういう事が何度もあるんだよ……まぁしんどい時に厳しい事ばっかり言ってもしょうがないよね。大丈夫だよ島崎君。あと二日の辛抱だからね。君なら乗り越えられるはずだ。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 萩尾丸の言葉に、源吾郎も雪羽も目を丸くした。彼の言葉は意外にも優しい響きを伴っていたからだ。源吾郎が驚いていたのはわずかな間だけだった。彼はおとがいを撫でると、その面に笑みを浮かべた。いくらかふてぶてしさの滲む、そう言った意味では若者らしい笑顔だった。

 

「僕は大丈夫ですよ萩尾丸先輩。ええ、大丈夫です」

 

 それは良かった。そう言った時の萩尾丸には朗らかな笑みが浮かんでいた。しかしすぐに、やや改まった表情をその顔に浮かべた。

 

「だけど、今日は休みだし早めに帰ろうか。しんどい思いをしているのは僕も解っているからさ。急な事だし初めての事だろうけれど、()()()()よく頑張ってると僕は思っているからさ」

「……やっぱり半妖だから、余計にしんどいのかな?」

 

 雪羽がそんな事を呟いたのは、萩尾丸の言葉が終わった直後の事だった。源吾郎が妖狐として振舞おうとしている事は雪羽もよく知っている。しかしそれでも、彼が半妖である事や人間の血を引くのだと雪羽は意識してもいた。何しろその風貌は、彼の父である島崎幸四郎にそっくりなのだから。強いて言えば、若い頃の幸四郎よりも源吾郎の方が懐っこくて表情豊かという違いはあるだろうが。

 

「雷園寺君。今回みたいな脱皮現象は何も半妖の専売特許じゃないさ。君みたいな純血の妖怪とて起こり得る話だよ。

――()()()()()、強い妖怪は周囲から尊ばれるんだ。彼らが膨大な力を持ち、大きな影響を与えるからではない。大妖怪に至るまでに苦難と辛苦を重ね経験を積んできた。その事にこそ周囲の妖怪たちは尊敬するのだよ……今の君らには難しい話かもしれないけれど」

 

 

 昼下がり。小一時間ほどまどろんだりぼんやりしたりして時間を潰していた雪羽たちだったが、気晴らしがてらに二人で学生街の散策を始めていた。

 救出作戦の前日なのに外をぶらつく。雪羽たちのこの行為を咎める者はいなかった。むしろ萩尾丸から気分転換に良いと推奨されたくらいなのだ。

 

「金木犀が咲いてるなぁ」

「うん。匂いがめっちゃ漂ってくるねぇ」

 

 道路に面する庭に植えられた金木犀を見ながら、源吾郎と雪羽は短く言葉を交わす。数時間前まで苛立ったり疲れたりした様子を見せていた源吾郎だったが、今ではすっかり元気を取り戻し、ついでに普段の穏和さを取り戻してもいた。萩尾丸から脱皮の話を聞いたからなのかもしれない。

 

「それにしても雷園寺君。萩尾丸先輩の屋敷には猫又がいるって話だったけど、見かけなかったなぁ」

 

 モフモフ出来たかもしれないのに……やや残念そうに告げる源吾郎を見て、雪羽は少しだけ笑った。普段の彼らしい言動だったからだ。しかし雪羽もまた、シロウの不在が気になってもいた。

 

「俺もよく覚えてないけれど、昨日あたりからいないみたいなんだ。シロウさんは萩尾丸さんの部下じゃなくて居候だからぶらっと出歩いても特におかしくないんだろうけどね。それでも丸一日屋敷を出てウロウロしているなんて珍しいし……あ、シロウさんって猫又の名前な」

 

 シロウさんは何処に行ったんだろうか。そんな事を考えている間に、雪羽は時雨と初めて会った時の事を思い出してしまった。あの時もシロウが地味に活躍していた。引率係だった狸娘・松子の財布を咥えて逃亡という形で、雪羽たちと彼女を引き合わせる事に成功したのだ。

 今時雨たちは犯行グループによって拉致されている身分だ。調査によると時雨のみならず深雪も松子も一応無事ではあるらしい。もっとも、松子はむしろ犯行グループの面々に迎合したような態度を取っているという不穏極まりない情報も一緒に入っているのだが。

 初めから連中に加担していたのか、生命惜しさに屈服したのか。どちらなのか現時点では解らない。しかし財布を追いかけて走っていた松子の姿を思うと心がざわついて仕方がなかった。

 

「……雷園寺君。まだ明るいし何処かに寄ってこうか」

「そうだな……まぁ俺は、夜だろうと遊べるんだけど」

 

 何かを察したらしい源吾郎の提案に、雪羽は即座に応じる。明るい日中ではないと遊べない。暗に出てきた源吾郎の考えを人間らしいと思いながら。

 

 

 雪羽たちが萩尾丸の屋敷に戻ったのは四時前の事だった。小一時間ブラブラと出歩いていた事になる。

 萩尾丸は他の妖怪たちは帰ってきた二人を出迎えはした。しかし何かをすべきと言った指示を受ける事は無かった。若妖怪二人はもうあとは明日に備えてつかの間の休息を取ればいい。上はそう思っているらしかった。

 だから雪羽たちは、特に遠慮することなく自室に引き戻る事が出来たのだ。

 

「俺はもうすぐ帰るけど……雷園寺君は気が晴れた?」

「大丈夫だよ、俺は」

 

 持ってきていた荷物を探りながら源吾郎が問う。雪羽は笑いながら手を振った。正直な所気が晴れたとかそう言う気分ではない。しかし源吾郎にいらぬ心配はかけたくなかった。萩尾丸の言う通り、彼が頑張っている事は雪羽も解っていたのだから。

 

「それにしてもごめんな。雷園寺君にも心配かけちゃってさ。イライラした所とか、不安ばっかり募らせている所を見せまくってたから申し訳ないよ」

「別に、そんな事気にしなくて良いのに。俺だって、先輩が不安に思うのは仕方ないと思ってるんだからさ」

 

 申し訳なさそうに謝罪する源吾郎に対し、雪羽は軽い口調で言ってのけた。この度の救出作戦を前に、源吾郎は強く困惑し不安を抱いている。成功するのか、失敗してしまわないか。その事が怖くて仕方ないのだ。彼がそう思う事は致し方ないし当然の流れだと雪羽たちは思っている。源吾郎はそれまで平和な暮らしを営んできたのだから。

 萩尾丸たちの思惑はさておき、源吾郎が救出作戦に関与している事は雪羽にしては有難い事だった。互いになすべき事を知っていて、それ故に不安に思っている事を打ち明けられるからだ。もっとも、今の雪羽には不安はない。なすべき事は既に定まっている。

 雷園寺君は不安じゃないの? 唐突な源吾郎の問いに雪羽は頷いた。

 

「俺はもう大丈夫だよ。やるべき事をやると心に決めたからな。それに蠱毒の事も聞きかじりだが調べてみたんだよ。蟲とか小動物を共喰いさせる方法もあるけれど、そうじゃない方法もあるみたいだな、犬神とか」

「犬神、か……」

 

 源吾郎が怪訝そうに眉を吊り上げた。雪羽はここで笑みを深め、雷獣と犬神との結びつきについて語り始める。

 

「犬神は喰い合いをさせなくても作れる蠱毒らしいんだよ。一匹の犬の怨念を使い、首を刎ねればお手軽に出来るって事さ。先輩も知ってると思うけど」

「首を刎ねるのにお手軽も何も無いだろうに」

 

 じっとりとした口調と眼差しで源吾郎がツッコミを入れた。ノリが悪いなぁ。そんな事を思いながら雪羽は続けた。まだ話の本質には至っていないのだから。

 

「それで島崎先輩。犬神の記述を見ていたら興味深い話があったんだ。犬神のルーツについて何だけどね、実は犬神って平安時代に討伐された鵺の遺骸の一部から出来たって話なんだよ。他にも猿神や蛇神も生まれたらしいけどね。

 先輩。俺が雷獣だからこの話は無関係だと思ってませんかね? まさか! 良いですか先輩。鵺は雷獣の先祖なんですよ。鵺の遺骸から蠱毒が生まれるのならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()はずなんだ。しかも()()()()()()()()し」

「雷園寺、お前まさか――!」

 

 源吾郎の目が大きく見開かれた。今や彼の身体は小刻みに震えている。やっと俺の話の意図が解ったみたいだ。雪羽は満面の笑みを浮かべ続けた。

 

「ははは、これこそ三方良しってやつじゃあないか。俺は時雨を助け出す事が出来るし、連中も蠱毒を得る事が出来るんだからさ。あ、でも心配しないでくださいね島崎先輩。連中の事は蠱毒になった直後に喰い殺したり呪い殺すつもりですので……蠱毒なんて代物が、生半可な術者に唯々諾々と従うものではないって事は、先輩もご存じですよね。

 ましてや雷園寺家の面々は怨霊の幻影に怯えている……ありもしない怨霊に、この俺がなるんですよ」

()()()()萩尾丸先輩の言ったとおりだな」

 

 源吾郎が小さな声で呟く。先程とは異なり落ち着いた声音だった。言った通り? 一体何が……そう思っている雪羽の手許に、柔らかい物がぶつかってきた。源吾郎が放ったらしいそれは、小さな巾着袋だった。お守りの類だろうか。雪羽は反射的にそれを手にしていた。

 

「雷園寺。さっき萩尾丸先輩は脱皮の時にしんどくなったり情緒不安定になるって言ってただろう。それは何も俺一人がそうなっているって話じゃあないんだよ。雷園寺、あんただってそんな状況の真っただ中にあるんだ……」

「…………」

 

 雪羽はお守りを握りしめていた。縮緬の布はしっかりしているが、中は妙に柔らかい。不思議な感触だった。そしてその感触を確かめているうちに、心中で渦巻いていた熱やさざ波が収まっていくのを感じた。

 

「そのお守りの中には、感情の揺らぎを押さえるための粉が入っているんだ。効果が強いから長期間持っていると良くないらしいけれど、丸二日くらいなら大丈夫だって萩尾丸先輩は言ってたよ。

 散歩する前に萩尾丸先輩にこれを渡されて、雷園寺君の様子を見るようにって言われたんだ。俺もさっきまで持ってたけど、大分効果があるって俺も感じたよ。不安とか苛立ちとかが大分マシになったからさ」

 

 雪羽は源吾郎とお守りを交互に眺めた。散策の際、源吾郎は落ち着きを取り戻していたように見えた。しかしそれがお守りの効果だったとは。

 

「騙し討ちだと罵ってくれても構わない。だけど雷園寺、明日の救出作戦にはあんたがそれを持っておく必要があるんだ。蠱毒になって、怨霊になるのが()()()()()()()()なんかじゃあないだろう? 生きて、弟たちもちゃんと助けて、その上で雷園寺家の正式な次期当主になるのがお前の望みだろ?

 鵺が犬神のルーツだなんてくそくらえだ。そんなこと言ったら、殺生石だって犬神になったって話があるんだからさ……」

 

 そこまで言うと源吾郎は唐突に俯いた。震えながらも涙をこらえているように雪羽の目には映った。

 確かに自分は今までばかげた考えに取り憑かれていた。その事に気付いた雪羽だったが、源吾郎をなだめる言葉はついぞ見つからなかった。

 

 ともあれ、明日の夜に全ての決着がつく。冷静さを取り戻しつつある雪羽に解るのはその事だけだ。




 雪羽君の主人公みがすごい……
 実際カクヨム読者からも主人公では? と言われてますからね。


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廃屋の導く先は畜生道

 まさかの性描写注意の回です。
 こんな形で性描写が出てくるとは夢にも思っていませんでした。


 雪羽が萩尾丸の屋敷を出たのは午後二十一半の事だった。指定された廃工場へは徒歩十五分ほどの距離である。だがどうしても気持ちがはやり、少し早い時間に出発したという物だ。

 急いては事を仕損じる。そうした事の無いように準備に準備を重ねてきたのは言うまでもない。一番上には認識阻害と防具の役割を果たすうわっぱりを羽織っているのだが、その下には幾つもの護符を仕込んでいた。紅藤が持たせている護符が効力を発揮しなかった時、紅藤の護符でもどうにもならない事への対処として。

 普段の雪羽ならばそんなに護符は要らないよ、と突っぱねたかもしれない。しかし今回は状況が状況だ。何より源吾郎が叔父の苅藻から取り寄せたものまである。何がどう必要なのか、雪羽はその辺は詳しくない。だから萩尾丸に助言を仰ぎ、必要な分を忍ばせておくことにした。

 神社や仏閣のお守りはお守り同士で喧嘩する事があるらしいが、今回雪羽が持つ護符ではそういう事はないそうだ。

 萩尾丸も既に精鋭を率いて動き始めている。源吾郎も後衛部隊に配置したらしい。

 だがそれでも――雪羽が大切な任務を背負っている事には変わりない。

 

 夜道を静かに歩く間、雪羽は白い猫を見た気がした。ここ数日行方の解らないシロウなのかどうかは解らなかった。元々地域猫の多い場所だから、シロウ以外にも白い猫派いる筈だ。

 その猫を追いかけるように、雉か山鳥の妖怪だという朱衿が小走りに追従する。鳥妖怪なのに夜に出歩くのか。雪羽はそう思っただけだった。

 

 

 指定された場所はがらりとした廃屋だった。歩けば音が響くようなだだっ広い場所で、単なる住居の成れの果てでは無さそうだ。元々は工場だったのかもしれない。

――何処だ? 時雨と深雪は何処にいる……?

 雪羽は立ち止まり、目を動かして左右の様子を確認した。もちろん補助として電流で周囲を確認するのも忘れない。幸いな事にステルスでの妨害はなされていないようだ。特に電撃を封じるような術も施されている気配はなかった。

 これは好都合だ。雪羽の面に歪んだ笑みが浮かぶ。犯行グループの間抜けさというか、ある種の驕りが見えた事が嬉しくてならなかったのだ。それこそが、こちらの付け入る隙であると心得ているからだ。雷獣の雷撃。それこそ鬼に金棒、天狗に羽団扇のような物ではないか。萩尾丸の言ったとおり、安直に蠱毒を作ろうとしている訳だから、上も下も愚か者ばかりという事だろう。

 

「雷園寺雪羽だ! お前たちの指定通りやって来てやったぞ。憎き異母弟を、偽りの次期当主の座にありついた雷園寺時雨を殺すためにな」

 

 構成員たちが蠢く闇の向こうへと雪羽は声を張り上げた。台詞そのものは台本の言葉によるものであるが、今の自分の動きが演技なのかどうなのか判然としなかった。時雨を殺す。欺くための言葉と言えども心が痛んだ。それだけが雪羽に解る真実だった。

 闇の一角が揺らぎ、何かが雪羽に向かって投げつけられた。雪羽の動きと相手の動きがちょうどよくマッチしたのか、投げつけられたそれは雪羽の足許に転がる形と相成った。それは細長く、しっかりとした質量と硬さのある物のようだった。形よりもそれそのものから何がしかのオーラが立ち上っているのが雪羽には見えた。その色は昏い紫で、禍々しい毒気やら呪詛やらを内包しているようだった。

 それから――それが短剣か短刀の類であると雪羽は察した。

 

「お忙しいのに来てくれてありがとうね、雷園寺のお坊ちゃん」

 

 暗かった闇が遠のき、周囲がパッと照らされた。妙に芝居がかった演出であるが、恐らくは闇に紛れていた構成員たちが用意した照明のスイッチをオンにしただけの話だろう。

 闇が取り払われ、視界が明瞭になる。電流で周囲を探知していると言えども、周囲を確認するには明るい方が雪羽にも都合が良かった。雷撃が使えないという事は電流探知も使えなくなるのではないか? そのような懸念があったからだ。

 ともあれ構成員たちはあちこちに控えていた。廃屋の壁の影に潜んだり、錆びたドラム缶の背後に隠れていたりしていたのだ。見知らぬ顔もいたし、()()()()()として付き従っていた旧知の妖怪たちもいた。人間の術者と思しき連中は、何故かビデオを用意しており、ニヤニヤしながら雪羽を見つめていた。

 

「君なら必ず来てくれると思ったよ」

 

 そう言って微笑んだのは、雪羽から見て真正面に立つ者だった。人間の姿に変化しているが、その身体は妖気で満ち溢れている。化け蛇の類だ。雪羽は相手の本性を看破していた。蒼白い面や目許にある鱗のような紋様は爬虫類の特徴だ。何より相手は蛇臭かった。

 

「さて、君にはその宝剣を与えて進ぜよう。その宝剣には私から直々に祝福の加護を施しているんだ――手に取るがよい。君にさらなる力を与えてくれるはずだ」

 

 禍々しい毒気と呪詛が祝福だと? 全くもって笑わせる。雪羽は笑いそうになるのをこらえ、視線を足許に移した。宝剣と呼ばれた短剣から立ち上る毒気は、雪羽の知る祝福とは似ても似つかぬものだ。しかし、眼前の蛇男が漂わせている妖気と相通じるものはあった。

 雪羽はコンマ数秒の間逡巡していた。手に取っても大丈夫なのか。そのような疑念があったのだ。あの時の源吾郎のように侵蝕されるのではないか。いや、そうした事も見越して護符で武装しているのではないか。何よりここは時雨を殺す意思を見せねばならない。少なくとも、萩尾丸たちが援軍を率いてやって来るまでは。

 意を決し、雪羽は宝剣を手に取ろうとした。

 丁度その時だった、雪羽に向かって何者かが駆け寄ってきたのは。

 

「え……」

 

 演技中である事を忘れ、雪羽は間の抜けた声を上げてしまった。駆け寄ってきたのは一匹の狸娘だった。時雨たちを引率していた世話係の松子だ。

 だが、その様相は前に会った時とは一変していた。あの時の彼女は素朴で気立ての良さそうな娘として時雨たちに付き従っていた。その面影は今は何処にもない。殆ど下着にしか見えない布切れを身にまとい、しかも露出した肌は妙にぬめっていた。そのぬめりは汗だけではなく、媚薬交じりの香油によるものであると雪羽は悟ってしまった。

 何より決定的に違うのは、松子の顔つきと目つきだった。発情したメスの目つきなどという生易しい物ではない。充血しぎらついた瞳には、あからさまな渇望がくっきりと浮かんでいた。いっそ狂気じみたものが。松子はメスとして雪羽の存在を渇望していた。若くて、力溢れる一匹のオスの獣としての雪羽を。雷園寺家のもう一人の次期当主だとか、若妖怪の戦士と見做すような気配は微塵も感じられなかった。

 

「……メス狸か。こらえきれずにやって来ましたか」

 

 蛇男の声には若干の呆れと嘲笑が滲み出ている。先日の練習では想定していなかった出来事に、雪羽は内心面食らっていた。しかしお守りの粉のお陰で冷静に状況を分析する事は出来た。

 青松丸が集めた情報によれば、松子は犯行グループの意に沿う動きをしているという話ではなかったか。今は雪羽に媚びているのだが、それもまぁ犯行グループ的にはおかしな動きではないという事だろうか。雪羽に時雨を殺させるのが最終目的なのだから。

 

「ええ、もうずっとお待ちしておりましたわ雪羽様!」

 

 おかしな抑揚でもって言い切ると、松子はそのまま雪羽に抱き着いてきた。逃れる事は出来なかった。のみならず、雪羽の両腕は半ば反射的に松子の背に回り、抱きしめ返すという始末である。柔らかな松子の身体の感触と、上等な美酒に似た香油の匂い――雪羽はふいに、女遊びに耽っていた時の事を思い出した。今はそんな事に想いを馳せている場合ではないのに。

 

「雪羽様。あなた様こそ雷園寺家の当主にふさわしいお方。そうです、私は最初からそう思っておりました。なので、なので私を妻にしてください! 愛人でも妾でも構いません……んっ」

 

 こいつは何を言っているんだ……雪羽は疑問を口にする暇すら与えられなかった。動かず硬直している事を良い事に、松子はおのれの唇を雪羽の唇に合わせていた。どれだけそうしていたのかは解らない。松子が少し距離を取ったのだけは解った。

 トロリとした眼差しで雪羽を見据える松子の唇が蠢き、言葉を紡ぐのを雪羽は見た。唇は二人の唾液でだらしなく濡れていたのだ。

 

「ですから雪羽様。どうか私があなたの女である事を知らしめて欲しいのです。皆の前で――そしてこの私に。あのみそっかすを始末するのはその後にしてくださいませ」

 

 松子が何を求め、これから二人で何を成そうとしているのか。雪羽には嫌でもはっきりと解ってしまった。それは雪羽たちを取り囲んでいた構成員たちも同じ事らしい。松子の言葉に周囲が沸き立ったのだから。

 

「あのメス狸、エロい格好してるくせに俺たちに見向きもしないと思ったら、そういう事だったのか」

「まぁ、ユキハってやつもイケメンだからしゃあなくね?」

「おっしゃ、まさか妖怪同士の殺し合いだけじゃなくておねショタまで撮影できるとは。狸女は野暮な感じだが、相手が美形ショタだから高く売れるなぁ」

「……オスとメスが盛りあっているくらいで何をはしゃいでいるんだね君たちは」

 

 沸き立つ面々に対し、蛇男はやはり呆れたような声を上げていた。そしてその視線は、雪羽と松子に注がれていた。誠に蛇らしい、熱を感じさせない眼差しである。

 

「まぁ良いでしょう。お坊ちゃま。あなたは誉れ高き雷園寺家の跡取り息子です。色に狂ったメス狸とまぐわったとしても、冷静さを失ったり精気を抜かれる事はないはず。むしろそこのメス狸の気を取り込む事すら出来るでしょう。

――ええ、存分に楽しむと良いでしょう」

「何という寛大な処置……誠に感謝いたします」

 

 異常な状況にもつれ込む。その事を蛇男はあっさりと許諾したのだ。その言葉に謝辞を述べたのは松子だった。周囲の嘲笑と好色な眼差しの絡む中、雪羽はやはり押し黙ったままだった。冷静にすべてを受け入れたふりをして、相手の隙をつくためだけではない。色々な事があると事前に伝えられていた。時雨だけ生き残っていて、後の二人は無残な屍になっているかもしれない。そんな話も聞かされていた。

 しかし――残忍な儀式に色欲が混じるとは夢にも思っていなかったのだ。

――本当に何が起きているんだ。雪羽は静かに目を閉じ、電流探知術を行使した。探るのは周囲の状況ではない。松子の頭の中だ。雷獣の探知術は、相手の脳波を読み取る事すらできる。深層心理まではいかずとも、リアルタイムで考えている事を察知する事ならばできるのだ。策を弄しているみたいで好きな術ではないが、今こそ使うべきなのだと思っていた。

 

『……雷園寺君。私の考えを読んでいるのね』

「……!」

 

 察知した松子の思念に雪羽は面食らった。松子の思念は予想以上にクリアな物だったからだ。雪羽をオスとして求め、情に狂い色に渇望するメスの振る舞いとは正反対の代物ですらあった。

 

『どうか堪えて。今は色に狂ったオスとメスになり切ってやり過ごすの。あいつらの思うがままに、取るに足らないケダモノだと思わせて。そうやって、()()()()()()()()()()()

 

 時間を稼ぐ。雪羽は翠眼を大きく見開いた。まさか――彼女も()()()()()()()()()()()のか。その疑問に呼応するように、またしても松子が思念を伝える。

 

『時雨お坊ちゃまはあいつに変なものを仕込まれて正気を失っているの。深雪お嬢様とも隔離されている。今飛び出したら大変な事になる。でも、時間が経つにつれて仕込んだものが悪くなるのなら……解らない』

 

 松子の思念は途中から途切れ途切れになっていった。だが彼女は、雪羽が時雨を助け出すためにここにきている事を知っているらしい。何故その事を彼女が知っているのか。もしかしたら真琴と青松丸の指令で動いているネズミと接触したのかもしれない。だが――それも今あれこれ考える事ではない。

 ひとまず雪羽がなすべきは時間稼ぎだ。雪羽の背後には萩尾丸の率いる軍勢がある。叔父である三國たちもその軍勢に加わっている。それまでは松子の言う通り、雪羽は堪えなければならない。ただそれだけの話だ。



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禽獣抱くは情念のくびき

 救出作戦の要は陰と陽が対になって行われるものである。表立って動く陽動作戦と、闇と影に紛れつつ動く隠密作戦の二つである。

 雪羽が行っているのは陽動作戦だった。傀儡に仕立てるにしろ蠱毒の錬成にしろ、相手は雪羽がこちらの思うように動く事を、すなわち異母弟の時雨を殺す事を望んでいる。その誘いに乗った雪羽が何も知らぬままにやって来た――そう思わせるのが雪羽の役目だった。主賓たる雪羽がやって来ている間、犯行グループの注意は雪羽とその異母弟にのみ向けられる。それが萩尾丸たちの読みだった。

 今でこそ萩尾丸の許で再教育を受けて真面目に過ごしている雪羽ではあるが、その事実を知る妖怪はまだ少ない。雉鶏精一派の重役だった雪羽は、積もりに積もった不祥事が咎められ、相応の処罰を受けた。多くの妖怪はその先を知らない。何処かで亡霊のようにさまよっているか、地下街や見世物小屋に引き渡されているとでも思っているのだろう。

 しかしそれは、今回の救出作戦にはむしろ都合が良かった。完全に無頼の輩となったと周囲は勝手に思ってかかるからである。であれば時雨を殺し、雷園寺家次期当主の座をもぎ取ろうとする。そうした行為にも説得力が増すであろう、と。

 実際雪羽は出かける前に、特殊な術と布でもって、おのれにまとわり憑く妖怪たちの妖気を取り去ってきたところだ。野望に憑かれた一介の野良妖怪になったと思わせるために。

 

 雪羽は犯行グループの面々とやり取りし、向こうに気を許したと思わせる。その間に隠密部隊が動くのだ。影に紛れて動くと言えども、むしろこちらの動きの方が重要である。何しろ――実際に時雨たちを助け出すのは彼らの働きなのだから。

 彼らは連中が雪羽に注意を払っている間にこの会場に忍び込む。認識阻害の術を使ったり、或いは下っ端の構成員に化けたりするのだろう。そうして密かに時雨たちを安全な場所に移動させる。そうした一連の流れが終わってから、犯行グループを一網打尽にする。大まかな計画はそう言ったものだった。

 もっとも、周囲には結界が張られているから、そちらを対処するのが先なのだが。幸いにも結界は雪羽以外の全てを弾く物でもないらしい。妖力が一定以下を下回る者や、全く妖力を持たない生き物の出入りは殆ど自由にできる物だった。それこそ――ネズミが出入りするには不自由しなかったらしい。もっとも、犯行グループ側に逆探知される恐れもあるので、仔細の細々した所まで調査するのは難しいであろうが。松子が寝返ったふりをして救出作戦の成就を望んでいる所まで見抜けなかったのはそれゆえであろう。

 ともあれ陽動作戦で雪羽が気を惹き、その陰で結界内に侵入し、時雨たちを保護する。救出作戦はそうやって進む段取りであった。ちなみに雪羽に対しては、時雨たちの安全が確保された段階で萩尾丸から念話で連絡が入る事にもなっている。

 どちらにも計画や台本は一応用意されていた。とはいえ計画自体には敢えて()()を持たしてもいるのもまた事実だ。戦況を確認し、相手の戦力や動向を窺っていると言えども、事態は流動的に変化するためだ。だから状況に応じて策を替え方針を変えて動くべしとも言われていたのだ――特に隠密行動のグループには。

 そして雪羽にも、骨子となる台本はあるが適宜状況を判断して動くようにという通達は下っていた。

 だから松子の色仕掛けに見せかけた時間稼ぎを前にしても、雪羽はそれに応じるような動きを取れたのである。無論イレギュラーな出来事には変わりない。しかし予想外の事が起きるかもしれないと初めから言われていたし、時間稼ぎ自体は今回の雪羽の行うべき事の要だった事には変わりない。

 

 

 そろそろ偽者の雷園寺家次期当主を連れてくるんだ。焦れたような口調で蛇男が言ったのは、松子が雪羽の足許に跪いた直後の事だった。

 雪羽は弾かれたように蛇男を見やる。偽者の雷園寺家次期当主。異母弟である時雨の事を示しているのは言うまでもない。

 

「オタノシミの最中申し訳ありませんね。てっきり獣の交接は私どもよりもあっさり終わると聞いていたんですが……こちらにも段取りがありますからね。それに、慾が高まっている方が仕上がりが良くなるんですよ」

 

 蛇男の顔に恍惚とした笑みが浮かぶ。蠱毒としての仕上がり云々を口にしているのか……喉のひりつきと吐き気が去来するも、雪羽はそれを抑え込み、涼しい顔で蛇男を睥睨した。

 

「それにしても美しい。()()()()に、先代当主様によく似ておりますね」

 

 先代当主。雪羽はその言葉に反応してしまった。ニシキタツミと名乗るこの蛇男が、雷園寺家に関わりのある蛇である事は調査済みではあった。だから先代当主の事を、つまりは雪羽の母の事を知っていても何らおかしくはない。

 雪羽の心を動かしたのは、先代当主と口にした時の蛇男の表情だった。恍惚とした笑みの合間に、そこはかとない郷愁とありもしない感情の残滓を読み取ったためである。こいつが母さんにそんな思いを抱くはずがない。そう思っている間にも蛇男は言葉を続ける。

 

「父親は田舎出の雑種だったみたいですが、君だけは母親の血が色濃く出たようですね。喜ばしい事ですよ、お坊ちゃま」

 

 時雨はまだだろうか。蛇男の言葉を聞き流しながら雪羽は思った。というよりも、意識的に蛇男の言葉に耳を傾けないようにしているだけなのだが。もちろん、頃合いを見て質問を投げかけられるようにスタンバイしている訳でもあるが。

 それにしても浅はかで、それ故に不幸に見舞われたお方でした。蛇男は雪羽の前で、雪羽の母の事をそう言ったのだ。浅はか。その言葉に雪羽は反応してしまった。

 

「ああ、お坊ちゃまは何もご存じないようですね。あのお方は雷園寺家の血が濃くなる事を疎み、わざわざ雷園寺家とは縁もゆかりもない雑種の下男を夫に迎え入れたんですからね。

 雷園寺家は、というよりも雷獣の名家は一族で縁組する事が多いので、そりゃあ確かに血が濃くなる事、その弊害は大なり小なりあるでしょう。ですがそうだとしても、それならそれで別の名のある一族から婿を取ればよかったんですがね。

 本家でそんな事をやってのけたから、分家の賤しい連中に付け入る隙を与えてしまったんですよ。分家の連中は、あのお方の婿候補を差し出そうと思っていた訳ですから」

 

 ()()婿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。蛇男は奇妙な笑みをたたえながらそんな事を言ったのだ。

 

「……思ったんですよ。血筋も何もない雑種でもあのお方に選ばれたんです。であればこの私とてあのお方に選ばれるチャンスはあったとね」

「……雷園寺家当主の、当主を操る座が欲しい。それがお前の目的か」

 

 雪羽はここで口を開いた。台本にあった言葉だったのかどうか判らない。だがそれはどうでも良かった。粘性を持つ蛇男の持つ執念の在処を雪羽は知りたかった。雷園寺家当主の父親。それが蛇男の欲していた物なのだろうと雪羽は思っていた。そうでなければ雪羽の母に夫として迎えれられるのではなどという戯言は口にしないだろう。

 蛇なんぞが雷獣とつがいになれないはずなのに。

 

「ふふ、ふふふ……お坊ちゃま。お坊ちゃまは存外うぶな考えの持ち主なんですね。私は別に雷園寺家当主の座なんて興味ないんですよ」

 

 蛇男は一呼吸おいてから言い添えた。

 

「私が欲しかったのは、()()()()()()()()だったんですから。あのお方の心と魂を……」

 

 蛇男の瞳は気付けばガラス片のように輝いている。そのきらめきに雪羽は怯み、ぞわりとした感覚を抱いた。そもそも雷獣は鵺より生まれた存在。であれば蛇の夫がつがいになる事も出来るはず。そう語る蛇男の身体から、妖気が立ち上るのを雪羽は見た。

 

 

「連れてきましたぜ、ボス」

「うむ。ご苦労……」

 

 じゃらり、と鎖のこすれる音が鼓膜を震わせる。それから、獣そのものの唸り声が響いた。

 奇しくも時雨たち兄妹を連れてきたのは雪羽のオトモダチだった。時雨を連れてきたのはカマイタチであり、半信半疑と言った様子で深雪を伴って姿を現したのはアライグマ妖怪である。

 時雨は鎖に繋がれ、その一端をカマイタチが引く形を取っていた。

 仕込み。松子が思念で伝えたその単語を雪羽は思い出した。時雨が、眼前の幼い雷獣が既に正気ではない事は一目瞭然だ。繋がれた鎖はピンと張りつめ、人型を保っているものの前屈みぎみに時雨は歩を進めていた。見開かれた両目は血走り、口許からは小さな牙が顔を覗かせ、間断なく唸り声が放たれている。その時雨の身体からは、先程雪羽にと投げ渡された宝剣、そして蛇男のそれと同質のオーラが立ち上っているのが見えた。

 深雪の方はごく普通に手を引かれてやって来ただけである。尋常ならざる状況下でありながらも、彼女は泣き騒ぐことはなかった。むしろ呆然として泣く事も忘れているという感じであろうか。

 

「ボス、この子まで連れてくる必要があったんですか……?」

 

 アライグマの妖怪が首を傾げた。蛇男は悠然と笑って頷く。

 

「言いませんでしたか。その子は偽者の次期当主の実妹であると。であればきちんと()()になるんですよ。あなたが心配せずともね」

 

 こいつら、俺に時雨のみならず深雪まで殺させるつもりか――雪羽はざわつく心を押さえながら母親の違う弟妹達を眺めていた。

 

「緊張なさってますか、お坊ちゃま。そりゃあそうでしょうなぁ。何せこれから偽者の次期当主を粛清し、あなたこそが次期当主となる資格を得るんですから」

「……ロス、アイツハ妹タチノ敵。コロサナイトドウニモナラナイ、ボクハ敗ケナイ……」

 

 血走った、しかし虚ろな瞳で時雨が何事か呟いている。子供とは思えないほどに低く昏い声で。

 カマイタチが左腕の先端を刃物にして振るう。銀色の筋がひらめき、時雨を繋いでいた鎖が切断された。




【悲報】主犯の蛇男氏、重度のヤンデレであった事が発覚
 男で敵キャラで蛇野郎がヤンデレって需要があるのか知りませんが……そうなったんだから仕方ありません(開き直り)


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紫電ひらめく修羅の狂乱

 兄弟対決です。
 暴力表現・残酷描写注意です。


 闇深い夜空の中、夜鷹のか細い啼き声がそこここで聞こえていた。国によっては悪魔の笑い声と見做されるその声が。

 夜鷹たちは散り散りになる事なく、その場を何度も巡回していた。というよりも、ある一角を巡回する化鳥に夜鷹たちも追従していたのだ。その一角の直下では、蛇妖怪やら何やらが集まり、雷獣の兄弟を蠱毒にするべくいかがわしい儀式が執り行われている最中でもある。

 化鳥は人間の青年と鳥を融合させたような姿を取っていた。異形・妖怪の類である事は言うまでもない。人としての部分は身なりの良い衣装に包まれていたが、二対の翼をはためかせ、半ば滑空するように空を飛ぶ姿はその化鳥が異形である事をはっきりと物語っていた。もっとも、件の化鳥の最大の特徴は二対の翼ではなく首許だったのだが。首許には丸い珠のような物を七つ連ねた奇妙な首飾りがあしらわれている。丸い物は玉ではなく、よく見れば小鳥の頭部を模していたり、或いは小鳥の頭部そのものであったりした。

 二対の翼に小鳥の頭部のような七つの首飾り。見る者が見れば、この化鳥が何者であるかは一目瞭然であろう。そう。彼は大いなる邪神、道ヲ開ケル者の御使いとして暗躍する一人だった。

 

 円弧を、或いは螺旋を描くように遊弋する化鳥が首を下に向ける。儀式の会場たる廃工場の周囲は、いつの間にか妖怪たちが取り囲んでいた。狐狸妖怪と言った地上の獣たち、或いは天狗道に至ったとうそぶくような手合いだ。いずれにせよ化鳥にしてみれば取るに足らない存在だ。妖力の多寡にかかわらず、鳥妖怪は哺乳類由来の妖怪を馬鹿にする傾向が強い。生得的に空を飛ぶ種族であればなおさらだ。

――知恵を巡らせたつもりだが、所詮は畜生に過ぎんわけだ。道ヲ開ケル者の御使い、その力を持つ俺の策略と力には叶わなかったという事だ

 取り巻く夜鷹の啼き声が一層大きくなる。化鳥の口許には裂けるような笑みが浮かんでいた。

 横恋慕していた雷獣女の仔を使って蠱毒を作る。そんな目論見を抱く蛇男に手を貸したのがこの化鳥に他ならなかった。化鳥は知っていた。件の雷獣の仔の背後には大妖怪がいる事を。そしてこの大妖怪たちが蛇男の策略を潰しにかかる事を。

 だからこちらも先に手を打った。だから今、眼下では滑稽な光景が繰り広げられているのだ。大妖怪とうそぶく連中は、結界を破る事すら叶わず右往左往しているではないか。それこそがこの化鳥に託された力によるものだった。

 

「とはいえ万が一って事もあるし、俺も俺で会場に控えていた方がいいな」

 

 化鳥は誰に言うでもなくゆっくりと高度を下げた。視界の端に白と茶色の柔らかな塊がちらと映った。白い方は猫のように見え、茶色の方は鶏のような山鳥のように見えた。

 

 

 じゃりりりりっ、と奇妙な音が廃工場に響く。鎖の拘束を解かれた時雨は、雪羽めがけて走ってきたのだ。灰褐色の瞳は奇妙な情念に揺らぎ、背後では毛の逆立った二尾が見え隠れする。

 雪羽は丸腰で疾駆する時雨を受け止めようとした。弟を傷つけるつもりは毛頭ない。だが向こうは正気を失い、雪羽を斃すべき敵だと思っているらしい。どうしたものか。雪羽は悩んでいた。自分が傷つかずに済むにはどうすればいいのか悩んでいるのではない。時雨を無傷で取り押さえるにはどうすればいいか。その事について悩んでいたのだ。実は時雨の手には抜き身の短剣――雪羽が蛇男に投げ与えられたものと同じものだ――が握らされていたが、それすらも問題では無かった。紅藤様の護符が俺を護ってくれる。そう信じて疑わなかったからだ。

 雪羽はだから、割合無防備な様子で時雨を受け止めようとした。熱湯を浴びせられた猫のごとき絶叫が時雨の喉からほとばしる。銀色の刃が光を受けてきらめく。それこそ稲妻のように。

 

「……っ!」

 

 時雨の動きを止めようとした雪羽が顔をしかめた。風生獣の毛を編み込んだ防具が、二の腕の辺りで切り裂かれた。白い布の裂け目はどろりとした紅色に彩られている。これは俺の血だ――流血を認識してから、雪羽は切り傷の痛みをじわりと感じた。

 正直なところ、物理的な苦痛よりも驚愕の方が大きかった。あの日からずっと付けている紅藤の護符の優秀さを雪羽はよく知っていたからだ。あの護符は源吾郎の放つ高威力の狐火ですら防御せしめる代物だった。直撃すれば雪羽とて即死は免れない程の威力のそれを。

 何故だ――飛びのいて時雨から距離を置き、少しの間考え込む。そこで彼は萩尾丸の言葉を思い出した。

――紅藤様から頂いた護符は確かに役に立つ。だけど万能の効果を持つと思ったら大間違いだからね。中級妖怪の攻撃を防ぐ程度に留めてあるし……何せプロ仕様になっている。そこの所を心得るんだ。でないと文字通り痛い目に遭うよ

 要はあの短剣の攻撃は護符の護りに阻まれないという事なのだ。その事に気付くと、雪羽は不思議と落ち着きを取り戻していた。

 元より雪羽は防具や結界で身を護りながら闘う手合いでは無い。雷獣としての身体能力の高さゆえに、防御よりも攻撃や回避に力点を置いていたからだ。それに今のは少し斬られた程度に過ぎない。俺は過去にカマイタチに胸から腹までバッサリやられた事もあるんだぞ。この程度で怯んでいられるか。

 幸か不幸か、雪羽は闘いに……流血に慣れていた。だからこそ自身の出血の驚きを抑え込み、静かに闘志を燃やす事が出来たのだ。

 その事に察したらしく、蛇男が短剣を顎でしゃくる。

 

「ようやく闘る気になりましたかお坊ちゃま。それならば宝剣を取り給え。蛇の道は蛇、宝剣に打ち克つのはやはり宝剣を持つ者ですからね」

 

 雪羽は蛇男を一瞥してから短剣を手に取った。おのれも侵蝕されないか。そのような心配はあった。しかしここで妙な動きをしても疑われるだけだ。それに何より、いかな雷獣と言えども素手で刃物を持つ相手に立ち向かうのは無謀だと感じてもいたのである。

 柄を握りしめ、空いている左手で鞘を投げ捨てる。短剣の柄から呪詛めいた妖気が立ち上る。それとともに、熱い物を触れたような痛みが手の平に広がる。侵蝕しようとするものにおのれの手が抗っているのだ。そのように雪羽には感じられた。

 今再び時雨が躍りかかってくる。既に何かに侵蝕されているためか、その動きはひどく直線的だった。しかし素早い事には変わりない。雪羽は手の平の痛みを無視しながら短剣を振るう。

 周囲で様子を見守っていた衆愚が声を上げる。殺し合いが始まったのだと喜んでいるのだろう。しかし雪羽は相手の刃を受け流すために振るったに過ぎないのだが。

 

「良いですぞお坊ちゃま。やはり私が見込んだだけありますね。その偽者も今や殺意に取り憑かれています。闘わなければ、殺さなければ死ぬのはお坊ちゃまの方ですよ」

 

 悪趣味な。そう言う風に()()()()のはお前だろうに。雪羽は内心毒づきながらも、向かってくる時雨と向き合うほかなかった。

 

 

 宝剣同士が絡み合い、ぶつかり合うたびに紫電がひらめいた。

 時雨に引き合わされてからどれ位たったのか、雪羽には判然としなかった。長い時間が経っているように思えるが、そんなに時間は経っていないのかもしれない。萩尾丸たちはまだ来ていないからだ。彼らが来ていたら局面は変わっているだろう。

 内心雪羽は焦っていた。文字通りケダモノのように迫りくる時雨に対して防戦に徹するほかなかったのだ。戦闘不能になってはいないものの、切り傷や刺し傷もいくつか負ってしまった。

 本来ならば、時雨のような幼い下級妖怪相手にここまでてこずる事はない。雪羽自身は既に中級妖怪であり、尚且つ雷獣としての術や素手で闘う術を心得ている。流石にナイフの扱いまで熟知している訳ではないが……ナイフ程度の武装では雪羽の脅威にはならないはずだった――敵を単に打ちのめせば良いのであれば。

 雪羽がてこずっているのは、なるべく無傷で時雨を打ち負かそうと思っているからに他ならない。動きを見るに、時雨はまだ闘いの術を心得ている訳ではないらしい。しかし全力で暴れ狂う時雨を抑え込むのは至難の業だった。

 はじめは宝剣を弾き飛ばせばどうにかなると思っていた。しかし時雨の右手は単に宝剣を握っているだけでは無かった。握った状態で布を巻かれて固定されていたのだ。途中で宝剣を手放したり、弾かれたりしないように。

 失神させるという事も出来なかった。失神させるために殴りつけたもののためらいのために威力が少なかったのか、或いはどちらかが死ぬまで闘いは終わらないという状況に追い込まれているのかは定かではないが。

 雷撃も威力が高すぎて使えず、結界の仕様上飛び上がって空中戦にもつれ込む事も出来なかった。

 万事手詰まりか――雪羽の胸元を時雨の宝剣が通り過ぎたのは、そう思っていたまさにその時だった。

 宝剣に込められた力は強力なもので、防具であるはずの修道服も紙切れのように切り裂かれてしまった。痛みはない。首の付け根と胸の合間だったので、流石にこれはまずいだろうと雪羽も思っていた。尋常ならざる状況に興奮し、本能が痛覚を押し流しているだけなのかもしれないが。

 雪羽たちの間をゆったりとした風が通り抜ける。時雨の髪や逆立った尻尾の毛が風になびく。雪羽の胸元からは、白い煙かもやのような物がさあっと漂い、時雨の方に向かって流れていく。

 切り裂かれたのは雪羽の肌ではなく、萩尾丸から渡されていたお守りの一つだったのだ。

 時雨は少しの間咳き込んでいた。吹き付けたものにむせたのだろう。そのすきを見て雪羽は自身の宝剣を投げ捨て時雨を押さえ込んだ。驚いた事に、ケダモノのような狂乱ぶりはもはや無かった。小刻みに震えこそすれ抵抗する気配も素振りも一切無かった。

 雪羽はここで、時雨がひたと見上げている事に気付いた。焦点の戻った灰褐色の瞳は大きく見開かれていたが、正気に戻っている事はすぐに解った。その表面がじわじわと涙で潤む。恐怖の涙なのだと、雪羽は思った。

 

「兄さん……」

 

 大丈夫だ。俺は本当はお前を助けに来たんだ。怖がるな。雪羽はそう伝えたかった。しかし時雨が更に口にしたのは思いがけぬ事だった。

 

「ごめん、なさい……僕の事、きらいだしにくんでいる、よね……あの蛇が言ったんだ。僕らはいらない子だって……だから僕の事は殺しても良いよ。でも……深雪と松姉にはわるい事をしないで。お願いだから……」

 

 時雨の懇願は全て言い切る前に途絶えてしまった。時雨は苦しげに身をよじり、烈しく咳き込んだのだ。二、三度咳き込んだ後に、口や鼻からどろりとしたものが溢れ出た。血と……何かが混ざった物だった。

 

「――勝負が着いたようですね。さっさと止めを刺しなさい」

 

 蛇男の声が頭上から降りかかる。その声には包み隠さぬ嘲りの色と、嘘くさくコーティングされただけの憐れみの色が滲んでいた。

 

「ここで兄弟の情が首をもたげたんですかね。それはそれでまぁ美味しい展開ではあるんですが……お坊ちゃま。本当に可哀想に思うなら一思いに殺すのが()()()()であるとお伝えしましょう。まごまごしているうちにも苦しむだけですからね。

 元より彼は私の仕込みを受けています。妖力の多さにもよりますが、()()()()あと十分くらいでしょうね」

 

 雪羽は愕然としながら蛇男の言を耳にしていた。周囲の面々もこれには驚いたらしく、何事か口々に語っているのがぼんやりと聞こえる。初めから殺すつもりだったのか……雪羽は歯を食いしばった。口の中で血の味が広がるがそんなのは構わない。

――糞が。俺がどうしようと時雨は殺させるつもりだったのか。死なせないように、助けるために俺はわざわざここにやって来たんだ。俺の前で、俺のせいで誰かが、親兄弟が死ぬなんて赦せない。

 雪羽の尻尾がゆらりと逆立つ。ふいにおのれの身体が熱を帯び始めたのを感じた。汚泥のような物を吐き続ける時雨の冷たさに呼応しているかのように。

――そうだ。あいつの言う結末なんか()()()()()()ぞ。時雨は()()()()()()()()。そのために代償を支払う事になっても……

 

 直後、雪羽はおのれの裡に籠っていた熱が白銀の光として立ち上るのを見た。雪羽自身の雷獣としての妖力が放出されていたのだ。それは当然のように時雨を包み込んでいった。その間に時雨に取り巻いている毒気のような物を駆逐していくのが雪羽には見えた。

 妖気を時雨に分け与え、呪詛を打ち消している間、雪羽はおのれの臀部が焼け落ちるような感覚を抱いた。妖気が放たれるとともに、雪羽の尻尾がじりじりと削れ消失していったのだ。既に一本は燃え尽きた線香のように消え失せ、別の一尾も三分の二まで削れ落ちていた。

 

「そんな、まさか――」

 

 蛇男が驚いたような声を上げる。周囲はずっと騒がしいが、彼らの声は意味を成す体で雪羽には届かず、ノイズのようだった。

 妖気の放出は終わった。身体の一部をごっそりと喪ったような感覚を抱きながらも、雪羽は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。時雨の生命を侵蝕していた呪詛を、おのれの妖力でもって駆逐したのだから。

 時雨は既に意識を手放していた。本来の姿らしい、灰褐色の猫そのものの姿に戻っている。呼吸は規則正しく、その身には生き物としての熱が戻っていた。

 妖力の半分以上を文字通り代償にしつつも、雪羽は時雨を護り抜いたのだ。

 安堵した次の瞬間、雪羽は自身に何かが入り込む感覚を抱き、思わず胸を押さえた。驚いて胸を押さえたものの、入って来た物はあっさりと雪羽に馴染み、どうかしていった。

 気が付けば、雪羽は一尾半ではなく三尾に戻っていた。



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雪羽の激昂

 雪羽君ブチギレ&大暴れ回です。
 相変わらず暴力表現注意ですね。


 ロシアンブルーの仔猫に似た時雨の毛並みを雪羽はそっと撫でた。見た目以上に密集した柔らかな毛皮は、幼いながらも雷雲のある寒冷な場所に適する雷獣の特性を具えている事を物語っていた。

 その時雨の身体をそっと抱え上げる。時雨の身体は軽かったが、その身に熱は戻っているし腹や胸が上下して規則正しく呼吸している事も明らかだ。

 雪羽は迷わず松子の許に向かった。時雨を彼女に渡すために。深雪はいつの間にか松子の傍に居た。幸いな事に彼女は呪詛の毒牙にかかっていないようだ。

 

「お、お兄ちゃーん!」

 

 その時雨を半ばひったくるような形で受け取ったのは深雪だった。眠っているために動かない兄を力強く抱きしめている。今まできょとんとしていた深雪の表情が歪み、涙がぼとぼとと落ちていく。

 

「深雪お嬢様……」

 

 松子は困ったような表情で時雨と深雪を交互に眺めている。だが小声で深雪を諭すと今度は彼女が時雨を抱え上げた。壊れ物を持つかのような慎重な手つきであり、彼女の時雨たちへの忠義や愛情が本物である事が見て取れた。

 雪羽はその様子を眺めながら上着を脱ぎ捨てた。上着の内側に張り付いていた護符がはためいたが、上着から剥がれ落ちる事は無かった。

 

『その上着を使ってください。防具としてある程度の攻撃にも耐えられますし、何よりフードで顔を覆えば認識阻害の効果もある』

 

 雪羽は電流探知の能力を応用し、直接松子に伝える。松子はハッとしたような表情を浮かべつつも、雪羽の放った上着を手に取り、その身を覆い始めた。

 

『……弟妹達を頼みます。松子さん、あなたは冷静に動いていた。であれば安全な所に身を隠す事が出来るはずです。時雨と、深雪と一緒に』

「雪羽、さん……」

 

 松子の声には戸惑いの色がありありと浮かんでいた。雪羽は無言のまま思念の伝達を伝える。

 

『今度は俺一人で()()()()をします。巻き添えを受けないように逃げてください。すぐに仲間たちがあなた達を助け出すはずですから』

 

 松子はしばし無言だった。だが唇を引き結び決然とした表情が浮かぶ。泣き疲れた様子の深雪に手を添え、なだめるようにそっと撫でた。次の瞬間には深雪の人型の姿が揺らぎ、小さな仔猫に変貌したのだ。白い毛皮の上に散った小さなまだら模様が印象的な、白いベンガル猫のような姿だった。

 時雨よりもなお小さい仔猫の深雪を松子は抱え、そろそろと雪羽から遠ざかっていく。どうか、お気を付けて――去り際に彼女がそう言った気がした。

 

「あのメス狸、逃げるつもりか……!」

「くそっ、俺らを騙してたのか。とっちめるぞ」

「逃げれる訳が無いのに、全くもってアホな奴だ」

 

 松子が時雨たちを連れて逃げようとした動きは、もちろん犯行グループの面々も気付いていた。フードを被っているものの、単に「素性は解らないが妖怪が一人そこにいる」事は認識できてしまう。隠れる、相手から姿を消すという所までの権能はあの上着には無かったのだ。

 犯行グループに属している連中が三人ばかり、松子を追いかけようと動き始めた。本性が獣という事もあり、松子の動きは機敏で素早い。とはいえ、追いかけようとしている連中も妖怪なのだ。

 雪羽は即座に雷撃を錬成し、松子を追いかける妖怪たちに向けて放った。とっさの行動であるから雷撃の威力などお粗末なものだ。しかし、碌に善悪を考えずに追従するだけの野良妖怪たちを威嚇するには十分だった。

 放たれた雷撃は妖怪たちの足許に着弾した。銃声のような音と共に地面が抉れ、かけらがはじけ飛ぶ。それらに驚いた妖怪の一人がすっ転ぶのが雪羽には見えた。

 

「待てやオラ。お前らの相手はそこの狸女じゃなくてこの俺だろうが」

 

 ヤンチャだった時の事を思い出し、ドスの利いた声で言ってやる。転んだ連中も含め、松子たちを追いかけていた妖怪の注意が雪羽に向けられた。

 

「……三人がかりで女のケツを追いかけるとは相当なドスケベ共だなぁ」

「ドスケベだと! 雷園寺、まさかお前にそんな事を言われる日が来るとは。ブーメランぶっ刺さってるんじゃないか」

 

 嘲弄交じりの雪羽の言葉に、一番若い妖怪が喰い付いた。さもありなん。彼はかつて雪羽に付き従っていたオトモダチなのだから。

――良いぞ。その調子だ

 妖怪としての力がみなぎって来るのを感じながら、雪羽はしかし冷静に松子の様子を観察していた。走り続ける松子と思しき物の姿は薄れ、そうしてふっと消えた。松子自身もまた術を行使したのだろう。

 あれでもう彼女たちは、弟妹達は大丈夫だ。雪羽は密かに安堵した。松子ならば窮地を脱する事が出来るはずだ。そのように雪羽が思い始めたのは、彼女の意図を知った後の事だ。犯行グループに与し雪羽にメスとして媚びる振る舞いを見せながらも、内心冷徹に状況を把握していたのだから。

 

「おい、嘘だろ。あのメス狸が姿を消したぞ」

「どうする……? ボスは……?」

「いや逃がしたらあかんやつやろ」

「――一体どういうつもりです、お坊ちゃま」

 

 犯行グループの面々がどよめく。やはり彼らとしても松子の逃亡は予想外の物だったらしい。そりゃあそうだろう。主犯格の蛇男とその側近らしい数名は本物であるようだが、後は妖怪にしろ人間の術者にしろ寄せ集めの有象無象に過ぎない。何しろ雪羽に付き従っていたオトモダチ、野良の雑魚妖怪などまでいるのだから。

――こちとら木曜日から会議を重ね、対策を練って来たんだ。ただ単に集まっているだけの下郎共に何が出来るというのだ?

 あれこれ思考を重ねるうちに、おかしさがこみあげてきた。雪羽の顔にはいつしか笑みが浮かんでいた。相手への侮蔑と、自身への優越感が入り混じった笑みである。こんな笑い方をしたのは、萩尾丸の許に引き取られて初めての事だった。

 蛇男が半歩前に進み出た。雪羽に呼びかける声は若干かすれ、その歩みも何処かおぼつかない。彼も彼で消耗したのかもしれない。

 そう思っているうちに蛇男は再び口を開いた。

 

「あのメス狸が……いやまがい物の連中を逃がしたのは一体どういう了見ですか? お坊ちゃま、彼らは雷園寺家に寄生する――」

「誰の許しを得て発言しているんだ、下郎」

 

 蛇男を見据え、雪羽は静かに問いかける。浮かんでいた笑みもおかしな気持ちも既に失せている。真顔のまま、雪羽は言葉を続けた。

 

「俺の事を見くびり過ぎなんだよ下郎共! 次期当主の座をちらつかせておだてれば部下として取り入れて貰えるなんて考えはドブに捨てちまえ。

 俺は、俺だって自分の部下くらい自分で選ぶ。貴様らなんぞお呼びじゃねえよ」

 

 言い放つや否や、雪羽の中で爆発的に膨れ上がる物を感じた。それは雪羽の裡に宿る妖気と――純粋な怒り、憤怒だった。

 元より雪羽は犯行グループを赦すつもりは無かった。その気持ちは実際に対面した所で変わらなかった。いや違う。決して赦さない、何が何でも一矢報いる、この俺の手で制裁を加えてやりたい……より強い怒りの念が雪羽の中で生じたのだ。

 何をどう考えても外道の所業だった。時雨は確かに雷園寺家の公式な次期当主である。見方を変えれば次期当主の座を狙う雪羽の競争相手、ライバルになりうる存在だった。しかしそれはあくまでも遠い未来の話に過ぎないし、そうでなくても時雨を害してまで次期当主の座に就きたいとは思っていなかった。ましてや時雨はまだ子供で、雷園寺家の事情を全て知っている訳ではないのに。

 だというのに連中はどうだ。雪羽を雷園寺家次期当主に仕立て上げるという名目で、時雨を(もちろん妹の深雪も)心身ともに傷つけただけではないか。恐らく時雨は既に全てを聞かされているのだろう。雪羽が押し隠し、「全てを知るのは時雨も大人になってからで良いんだ」と思っていた事さえも。

 

 周囲に視線を走らせ、雪羽は地面を蹴った。ネコ科の獣めいた咆哮がほとばしり、その身に雷撃を纏わせながら。

 萩尾丸からの連絡がまだ来ないとか、そう言った事は既に雪羽の頭の中から抜け落ちていた。俺が、俺たちが一体何をしたというのだ。ともあれ連中に手ずから制裁を加えなければ。そうした事で頭がいっぱいだったのだ。

 

 

 廃工場の周囲が不自然に明滅する。うっすらと漂う生臭いオゾン臭が、外でも落雷があった事を物語っていた。無論これは雪羽の仕業ではない。雪羽自身は単に雷撃や徒手空拳で犯行グループの面々を捌いているだけなのだから。

 しかしそれでも、天が俺の味方をしている。道真公の思し召しなのだと思ったとしてもそれこそばちは当たらないだろう。

 遠慮も何もかなぐり捨てた雪羽の反撃に、犯行グループの連中は当然のように困惑していた。虎やライオンと言った猛獣でさえ、猟犬の反撃に戸惑い隙が生じると言われている。ましてや捕食者としての矜持も強さも無く、唯々諾々と従うだけの連中であれば無理もない事だろう。

 雪羽はまずへたって動けない連中から攻撃を仕掛けていった。大方戦意を喪失しているような連中ばかりだったから仕事は楽だった。卑怯であるとか残忍であるとは思わなかった。彼らの方がよほどえげつない事をしでかそうとしていたのだから。

 人間の術者がどうと倒れる。雪羽はその傍らにあった機材にも雷撃をぶつけ、完膚なきまでにスクラップにしてやった。ハード面ソフト面共に。

 件の機材が何を撮影していたのか、何を撮影する予定だったのか。その事を思うと生理的嫌悪に根差す怒りが込み上げてきたのだ。人間たちの中には、妖怪が術を行使する様子や闘う様子を特殊な機材で記録し、動画や写真として観察する事がままあるという。通常は学術用・研究用として用いられ、撮影内容もいたって健全な物である事がほとんどだ。だが、中には妖怪が傷つけられたり殺されたりするさまを面白おかしく撮影し、昏い欲求を満たすために用いるケースもあるのだという。

 今回もそうした目的のために撮影を行う予定だったのだろう。汚物でも見るような眼差しで機材を一瞥してから、雪羽はさっと飛びのいた。

 

――あいつ……あんなところに隠れているのか……

 雪羽は電流探知能力も用いて次なる標的を探した。当たり前の話だが、雪羽が暴れれれば暴れる程攻撃すべき標的は減っていく。戦闘不能になった連中が増えていくからだ。

 しかしまだ全滅には至っていない。というよりも雪羽の雷撃の前に倒れたのは手ごたえの無い連中ばかり。蛇男は言うに及ばず、側近らしい若干腕の立ちそうな妖怪たちも仕留めるには至っていなかった。

 やはり相手も手練れだからなのか。ここは大人しく萩尾丸たちが来るのを待った方が良いのだろうか……雪羽は一息つき、そんな事をつらつらと考え始めてもいた。雷獣としての妖力もスタミナにも恵まれている雪羽であるが、流石に疲れを感じ始めていた。だからこそ、油断していた訳でもあるが。

 

「――!」

 

 雪羽に向かって何かが放たれる。白っぽい鎖状、或いはロープの塊のような物だった。子供だましか。雪羽はそう思いながら雷撃を放つ。狐火のような焔系統の攻撃ではないにしろ、雷撃も雷撃で対象物を熱したり爆撃したりする事は可能だ。

 ロープの塊はそれで焦げて融けて千切れ、雪羽の足許にだらしなく落ちた。

 だが次の瞬間、雪羽はぐらりと視界が揺れるのを感じた。何かが足に巻き付き、強い力で引き倒したのだ。気付いたのは倒れた直後の事だった。

 頭を護るように前に出した右腕にも何かが絡みつく。左のふくらはぎと右腕に絡みついたそれがぴんと引っ張られるのを雪羽は感じた。

 

「――好き放題暴れてくれましたなぁ、雷園寺のお坊ちゃま。ですがもう、おイタもここまでですよ」

 

 嘲るような声が雪羽の鼓膜を震わせる。顔を上げた先にいたのは蛇男だった。雪羽の取り巻きだったカマイタチも無事らしく――とはいえその顔は鼻水を垂らした泣き顔ではあるが――震えながらも蛇男の傍に佇んでいた。

 畜生、糞が――雪羽は起き上がり、蛇男に躍りかかろうとした。しかしそれは叶わなかった。起き上がろうとしたまさにその時、雪羽に絡みついた二本の紐らしきものがより強く引っ張られるのを感じたのだ。

 

「無駄ですよ。今あなたを捉えているのは蜘蛛精の糸なのですからね。蜘蛛の糸は鋼鉄よりも強靭で伸縮性に優れている事を、お坊ちゃまはご存じなかったのですか?」

「…………」

 

 蜘蛛の糸の強靭さについては雪羽も知っていた。幼い頃、テレビで蜘蛛の糸の強さを説明していたのを見た事がある。曰く鉛筆程度の太さがあれば、空を駆けるジャンボジェットを絡め取る事さえできるという事だ。

 雪羽に絡みついているそれは流石に毛糸ほどの太さしかない。しかしそれでも、雪羽の動きを制するには十分すぎる代物だった。雪羽は雷獣として速さも体力も優れている。しかし本来の姿が大型の猫程の獣に過ぎず、ゆえに()()が足りないのだ。

 

「あのメス狸にまがい物を託して逃がしたつもりでしょうけれど、逃げられない事には変わりありません。隠れていた部下が、今こうしている間にも連中を探しています」

 

 すました顔で蛇男が告げる。雪羽は真正面からそれを見据えて吠えた。

 

「ああそうかい。だがそれでこの俺がビビると思ったか。良いかオッサン、俺は一人でノコノコここに来たんじゃあない。俺のバックにどんな連中がついているのか知れば、ビビッてとぐろを巻くしかないんじゃないか? というかそのまま財布になっちまえ。あいつらは――松子さんも弟妹達も貴様らに捕まるもんか。救出部隊に保護してもらう方が先だろうよ」

 

 毒づく雪羽の言葉を受けながらも、蛇男は涼しい顔だった。のみならず静かに笑ってさえいるではないか。強がっているのか何なのか……雪羽はいよいよ不気味さを覚えた。

 

「ははは、雷獣はアホばっかりって聞いてたけど、本当にそう思うぜぇ」

 

 耳障りな羽音と共に、一羽の鳥妖怪が舞い降りてきた。蓮っ葉な口調で喋ったかと思うと、さも当然のように蛇男の隣に控える。二対の翼に不気味なほどフォーマルな衣装、そして七つの首飾り。その鳥妖怪はひどく特徴的な姿を見せていた。

 

「いいかい小僧。お前がお前の飼い主や保護者に泣きついて救出部隊を編成していたのは()()()だって知ってるんだよ。そうじゃなきゃあ、今頃連中がなだれ込んで計画を台無しにされている……だから()が手ずから結界を張って手助けをしている。

 そういう事ですよね、タツミさん」

 

 鳥妖怪はそう言ってから蛇男の方に視線を向けた。まんざらでもない表情を見せて蛇男も頷く。

 

「ええ、本当に。()()()殿にはお世話になっております」

 

――まさか、本当に八頭怪が関与していたとは……! 雪羽は愕然とし目を瞠った。夜鷹の、死者の魂を捉えるという鳥たちの啼き声が幽かに聞こえ、雪羽はいよいよ震え上がるほかなかった。




 実は雪羽君、過去にも「誰の許しを得て~この下郎が」と言う発言を行っています。その時と今の情景を比較してみるのも一興ですね。


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伏兵現れ戦局傾く

 今度は残酷描写注意です。
 最後の方は流血描写もあります。


「雷園寺君だったっけ。まさか、対策をしているのが自分たちだけだと思ってたのかい? 残念だったなぁ。俺らだってその辺はしっかりやってたんだよ」

 

 啖呵を切るように威勢よく言い放ち、八頭怪と呼ばれた化鳥は高笑いした。首許を飾る首飾りが上下に小刻みに揺れるのが見える。特に雪羽から見て左端の一つの頭は、嘴まで揺らして動くのが見えた。

 

「とりあえずタツミさん。ちゃちゃっと殺ってぱぱっと仕上げちゃいましょ」

「ですが――」

「何? もしかして段取りとか日取りとかそんな糞つまらんことでも考えてるの? 駄目だよ、今の社会ビジネスはスピードって言われてるでしょ? 俺だってあのお方の御使いだけどね、でもだからこそ暇じゃあないんだよ。この坊やも捕まってる所だし、逃げた狸たちを追いかけてここでサクッと儀式を終わらせた方が良いと思うよ。結界の外には大天狗とか雷獣とか色々集まってるんだからさ」

 

 八頭怪は半ばまくしたてるように言い、蛇男は思案顔で首をかしげている。しびれを切らした八頭怪が片手をすっと上げ、蛇男の胸元を指し示す。その先からは玉虫色の光が灯り……蛇男の方へと流れて吸収していった。

 

「全くもう、職人気質なんですかねタツミさんは。星辰とか方角とか日取りとかそんなのを考えるのも大切な時もありますが……決める時は決めるってやらないと駄目な時もあると俺は思うけど。そして今が丁度その時でもあるんだ。

 ほら、俺の力も分けてあげたからさ。そこに転がっている弟君にもう一度仕込みをやれば? 知ってるよ。涼しい顔で堪えていたけれど、実は結構消耗してたって事もね」

「……お気遣い痛み入ります」

 

 蛇男は神妙な面持ちで八頭怪に一礼すると、傍らにいるカマイタチの方に向き直った。

 

「さぁあのまがい物を捕まえて引き立てるのです。八頭怪様のお言葉通り、結界はまだ生きています。あのメス狸の事ですから、よもや結界の外まで逃れる事は叶わないでしょう。

――雷獣の兄妹は生け捕りですが、メス狸の方の生死は問いません。ええ、()()()()になっても構いませんよ?」

 

 蛇男の有無を言わさぬ言葉に、怯え切っていたカマイタチは頷こうとしていた。雪羽はそれを見るや怒りが沸き上がり、半身を蠢かせながら唸り声をあげたのだ。

 

「てめぇっ、俺の力とか地位に心酔して長らく腰巾着のように付き従って来た癖に、そこの蛇野郎の言う事を聞いて弟妹達を捕まえるつもりか! この後こいつらが何をしようとするのか、お前だって知って――」

 

 面罵の最中に横っ腹に衝撃が走る。雪羽は一瞬息が詰まった。その次の瞬間には呼吸する事は出来たが、鋭い痛みと共に腹が痙攣して仕方がない。誰かに無防備な腹を蹴られたのだとその時思った。

 

「仔猫ちゃーん。誰が俺たちの会話に入ってい良いって言ったんだい? いやね、もっと痛い目に遭いたいんならそれでも構わないけれど」

 

 雪羽を蹴ったのは八頭怪だった。彼が一番雪羽に近い所に佇立していたし、何より今も雪羽の横腹を靴先で突きながら微笑んでいるのだから。内心のゲスぶりをむき出しにしたような、嗜虐的な笑みが、八頭怪の面には浮かんでいた。

 

「あ、タツミさん。もしかして気を悪くしちゃったかな。あれでしょ、この子ってタツミさんがずぅっと慕ってた雷獣の女あるじの息子だからさ……好きな女に生き写しの息子をいたぶるなんてとか思っちゃってる? ()()かな?」

「そんな事は無いですよ、八頭怪殿――むしろ良い眺めだと思ってますよ」

 

――糞が。糞共が。雪羽は密かに毒づいた。もっとも、痛い目に遭うのは御免だったので、心の中で毒づくだけに留めているが。蛇男が正気をかなぐり捨てた輩である事はとうに解っていた。だがそれでも毒づかずにはいられなかった。

 そうしている間に、カマイタチの少年は姿を消していた。雪羽はその事に気付き、うろたえた。雪羽とあのカマイタチであれば、妖怪としての格も強さも雪羽の方に軍配が上がる。しかしそれは、あのカマイタチが取るに足らない弱い妖怪である事と同義ではない。

 普通の妖怪、年若い一般妖怪の中ではあのカマイタチはむしろ強い妖怪に当たる。オトモダチになる前、互いに血の気が多かったあの頃に雪羽の身体をバッサリと斬りつけたのは他ならぬ彼だ。何より雪羽が大暴れした後だというのに、戦闘不能にならずに今も動けるではないか。それもこれも、他の雑魚妖怪と違って雪羽の攻撃をやり過ごせたという事に他ならない。何せカマイタチなのだ。スピードも殺傷能力も普通の獣妖怪よりは一段上である。

 その彼に狙われているとなれば、普通の狸娘に過ぎない松子などひとたまりもない。

 即座に思考を巡らせた雪羽は、一声吠えると変化を解き始めた。雪羽の身体は銀色の毛皮で覆われ、みるみるうちに縮んでいく。人型よりもはるかに小さな、猫に似た本来の姿に雪羽は戻ろうとしていた。日頃は威厳が無いとか弱そうだと思って疎んでいた姿である。しかし、本来の姿に戻ったからと言って非力な存在になる訳ではないし、状況によっては人型よりも()()()場合とてある。

 特に――人型の状態で行われた拘束から逃れようとする時などに。

 本来の姿に戻った雪羽は、蛇男も八頭怪にも目もくれず、そのまま飛び上がろうとした。確かに絡新婦が放った糸によって腕と足――前足と後足を絡め取られてはいた。しかし雪羽自身が本来の姿に縮む事により、その拘束が僅かに緩んだのだ。

 

「キュッ、ブギュゥ!」

 

 だが、雪羽が飛び上がれたのはほんの一瞬の事だった。何かに引っ張られるような感覚と共に地面にしたたかにその身を打ち付けられたのだ。地面に叩きつけられた衝撃に思わず呻いてしまう。元々あった拘束は緩まず、本来の姿である雪羽の手足を捉えている。のみならず、首許や尻尾の先にも拘束の糸が巻き付いていた。

 

「雷園寺家の御曹司だかなんだか知らないけれど、雷神のパシリなんかうちらには敵わない。トモミだってそう思うでしょ?」

「そうそう。なんてったってあたしらのご先祖様は雷神を返り討ちにして煮物にして食べちゃったんだもん。アケミ姉さんの言うとおりっしょ」

 

 雪羽の左右から若い女の声が降りかかってきた。おのれを拘束する糸の主、蛇男の言う所の絡新婦であろう事は雪羽にも解っていた。現に彼女らは、雪羽に絡みつく糸たちをおのれの手で握っていたのだから。

 アケミ、トモミとそれぞれ呼ばれていた絡新婦たちは成程美女の姿に擬態していた。男を籠絡し捕食するという性質を鑑みれば当然の事なのかもしれない。もっとも、絡新婦と呼ばれている割にはへその出たチャイナドレスというエキゾチックな出で立ちではあったのだが。その露出したへその先から、毛糸ほどの太さの糸が何本か出ているのが雪羽には見えた。

 畜生、この虫けら共が……雪羽は顔をあげ、怨みの籠った眼差しを向ける他なかった。もう暴れられなかった。雪羽の意図を察した絡新婦の姉妹が、これ見よがしに首や尻尾に巻き付けた糸を締め上げていたからだ。前足と後足に巻き付いた糸よりも頑丈な代物である事にはとうに気付いている。下手な動きを雪羽がすれば、より強い力で締め上げるつもりなのだろう。強く締め上げられたら糸が肉に食い込み……千切れる事とてあるだろう。尻尾がちぎれてもまだどうにかなる。しかし首を落とされれば雪羽とてどうにもならない。

 

「二人ともありがとう。やはり朱先生の縁者というだけあって、雷獣の扱いには慣れてますね……ですがその、少し拘束を緩めてやってくれませんか。このままだったら無駄に消耗してしまいます。八頭怪殿もお膳立てしてくれてますから、あんまり状態が悪くなるのも困るんですよ」

「でもタツミさぁん。結局の所激ヤバな術を使ってこの猫ちゃんは自分の言いなりにするんですよねぇ。だったら先に締めといた方が楽じゃないっすか? というかあたし、この子とあの弟妹で鍋パやりたいんすけど。姉妹丼ならぬ兄弟鍋って美味しそうじゃないっすか。ぶっちゃけ、タツミさんだって似たような事をするつもりみたいですし」

「トモミってば食べる事ばっかり考えてるし……気持ちは解るけどタツミさんのいう事も一理あると思うよ。向こうの弟の方は雷園寺家への嫌がらせとしてぶち殺しても構わないと思うけど、こっちの子は術の仕込みをしないといけないみたいだし、うちらが好き勝手にやってもマズいと思うよ。てか、向こうのお坊ちゃんと違ってこっちは不摂生三昧だったから多分美味しくないと思うよ。肉も内臓も劣化してるんじゃないかな?」

 

 蛇男と絡新婦たちのやり取りは何とも言えない物だった。だがそれでも、拘束が緩んだ事には変わりない。喉を締め上げていた糸が、尻尾に喰らい付いていた糸が緩くなったのは有難かった。未だに拘束されているけれど。

 

「ま、そんなわけで仕切り直しと行きましょう。お坊ちゃま。もうすぐまがい物が戻ってきます。その時はきちんと殺ってくださいね」

「ふざ……けるな……!」

 

 笑みを浮かべる蛇男に対し、雪羽はきっぱりと言い捨てた。

 

「この糞蛇野郎! てめぇの魂胆はもう俺には解ってるんだよ。俺らを……俺を使って傀儡にして、母さんの血を引く俺を自分のモノにしようって腹積もりだろう。その上で俺を蠱毒に仕立てようとしていて、それで俺に弟妹を殺させようとしやがって。蠱毒を作るのに共喰いが必要だとか、そんな糞下らん事をでっち上げたなこの野郎が」

「……どういう意味ですかね、お坊ちゃま」

 

 すっとぼけたように首をかしげる蛇男を見るや、雪羽の中で何かが爆発した。その爆発はまさしく雷鳴のごとき絶叫としてほとばしった。術で封じられているのか雷撃を放つ事は叶わなかったが……それでも絡新婦たちも八頭怪すらも雪羽の咆哮に度肝を抜かれたらしい。

 

「良いか糞ったれ共が。蠱毒なんてのはな、共喰いさせなくても十分に作れるんだよ! 初めから俺が狙いだったなら時雨たちを……弟妹達を巻き込むな! 怨霊だろうと蠱毒だろうと傀儡だろうとなってやるよ! それであいつらが助かるんだったらな。

 だが覚悟しとけよ。俺は雷園寺家次期当主だ。貴様らみたいな下郎が、この俺の主になれるかどうかよくよく考えて……ぐっ!」

 

 威勢よく啖呵を切った雪羽であったが、やはりその言葉は物理的に中断させられた。八頭怪が雪羽を黙らせにかかったのだ。猫のような姿に戻った雪羽に、抵抗もままならぬ雪羽を踏みつけてきたのだ。

 

「全くこの糞猫は……躾がなってない上にマトモに物事を考える脳味噌も育ってないみたいだなぁ。良いか、君の弟妹の生き死には君が決める事じゃない。そもそもテリトリーの中に上がり込んだに過ぎない君が、全ての決定権を持っていると思うなんてちょっと図に乗り過ぎなんじゃない?」

 

 ()()()()()()()()()なんだよ。八頭怪の足に力がこもる。背骨が軋み、肉や臓物にじわりと圧が掛かっていった。雪羽ははっきりと苦痛を感じていた。八頭怪に単に足蹴にされているだけなのに。紅藤の護符すらも問題にならない程の力でもって雪羽を攻撃しているという事なのだろう。

 

「痛いんだろう、苦しいんだろう? 俺がちょっと力を込めて踏んづけただけでこの様なんだからさ。しかもあのメス雉の護符も大して役に立ってないみたいだし……

 いいかい雷園寺雪羽君。お粗末な哺乳類脳しか持ってない君にも解るように言ってやるよ。君はもうタツミさんの意のままになるほかないし、君の弟妹達も死ぬ。まぁ、可愛い可愛い弟君たちは君が殺すかタツミさんたちが殺すかのどっちかみたいな違いはあるけどね。解ったら大人しく言う事を聞くんだね。そっちの方が楽になるんだよ、お互いにね。

 そもそも、八頭怪たるこの俺がバックについているという所で詰んでたんだよ。君も君の飼い主であるメス雉たちもね」

 

 そこまで言うと、八頭怪は一度足をどけてくれた。良心の呵責によるものでは無かろう。そんなものがあれば、初めから雪羽を足蹴にしないはずだし。

 雪羽は呼吸を整え、目をすがめた。呼吸を整えている間に、痛みが潮のように退いていく。雷獣の能力が、無意識のうちに痛覚を遮断しているのかもしれなかった。だがそんな事は雪羽には些事である。拘束され、八頭怪たちに囲まれた中でも、雪羽はただひたすらに現状を打開する方法を模索していたのだ。

 奇しくも雪羽の感覚は、電流探知能力に傾いていた。電流を読む能力は雷獣はいつでも使っている。しかしもしかすると、痛覚を遮断したがゆえに電流探知能力が一層鋭敏になったのかもしれない。

 雪羽はここで周囲の電流を探知し……静かに目を瞠った。八頭怪の電流を読み取った彼は、ある事に気付いたのだ。

 雪羽は裂けた口から舌を出し、獣そのものの笑い声を上げた。蛇男の、絡新婦たちや八頭怪の視線が雪羽に向けられる。発狂したとでも思っているのかもしれない。上等な事だと雪羽は思った。

 

「はーっはっはっはっ。ははは、何が八頭怪たるこの俺が、だよ。笑わせるぜ()()がよぉ。良いか鳥頭。俺は前に八頭怪に会ってるんだ。電流探知で感じたあんたの電流は、本物の八頭怪のそれとは違うんだよ。

 あんたと八頭怪がどういう関係なのかは知らんけど、偽者の雑魚妖怪の癖に堂々と八頭怪を名乗ってドヤ顔をキメてるなんて、さぞや……」

 

 雪羽の言葉はまたも遮られた。鼻面に自称八頭怪の蹴りがめり込んだからだ。不意打ちだったから中々きつい。頭の中がシェイクされるような感覚が襲ってくる。容赦も何もない蹴りが、雪羽の腹や頭に向けられる。頭を蹴り上げられた時に、思わず吐血してしまった。口の中を切っただけに留まらず、牙も何本か折れていた。

 

「え……八頭怪殿は八頭怪殿じゃあなかったんですか……? しかし八頭怪殿は我々にお力添えすると仰っていたような」

「てかさ、猫ちゃんいじめるのに力を使ってたらマズくない? それこそ時短のためにって来てくれたのに」

「いやもううちらの話とか聞こえてないみたいだし」

 

 八頭怪ではない。蹴られる前に言った雪羽の言葉に、蛇男も絡新婦たちもうろたえていた。しかし一番うろたえているのは自称八頭怪であろう。彼は雪羽への攻撃を続けながらも憎々しげな言葉を放ち続けているのだから。

 

「これだから下等な哺乳類は嫌いなんだよ! 雷獣が何だって言うんだ糞が。哺乳類なら哺乳類らしく分をわきまえて地べたを這いずり回っておけばいいくせに……何が雷神の眷属だよ。いい気になりやがって。死ね、死ねよ糞哺乳類が」

「死ぬのはお前の方だよ、陰キャの夜鷹君!」

 

 聞きなれた声がする。だがまさかそんな事は無かろう。何せあの声は――雪羽がそんな事を思っていた。気付けば自称八頭怪の攻撃が止まっている。熱くてドロリとしたものがこちらに降りかかってきている。血を浴びていると気付いた雪羽だったが驚かなかった。自分自身も血みどろだと思っていたからだ。

 

「くそ、放せ猫又野郎! ぐっ、ぎぃ……」

 

 眼前で繰り広げられる光景に雪羽は呆然とするほかなかった。自分をいたぶっていた自称八頭怪の首許に、巨大な化け猫がかぶりついていたのだ。雪羽に降りかかって来ていたのは返り血だったのだ。

 先程までの余裕はどこへやら、白い三尾の化け猫に襲撃され、自称八頭怪はなすがままだった。化け猫は猫が小鳥を仕留めるかのような動きでもって獲物を徐々に弱らせている。獲物の悲鳴も流れる血の量も次第に少なくなっている。

 あれはシロウさんなのだ。猛虎のごとき勢いと形相を見せる化け猫を前に、雪羽はそう思うのがやっとだった。萩尾丸の居候である猫又が何故ここにいるのか……そのような疑問が雪羽の脳裏に去来してはいた。

 だがそのような事はやはり些事だった。次の瞬間に、雪羽の周囲に雷撃がほとばしり、一拍遅れて獣妖怪が舞い降りてきたのだから。雷撃は正確に蛇男と絡新婦たちを狙い撃ち、昏倒させていた。

 雪羽の許に舞い降りてきた獣妖怪は二匹だった。一匹はグズリのような姿をしており、もう一匹は青い毛皮の小さなユキヒョウのような姿をしていた。彼らの姿を見て雪羽は安堵した。やって来たのが叔父の三國と春嵐だからだ。

 春嵐は何故か右往左往して雪羽に近付かなかったが、三國はまっすぐ雪羽の許にやって来てくれた。

 

「よく頑張ったな雪羽。大丈夫だ、忌々しい結界は破れた。萩尾丸さんたちも他の妖怪たちも一斉に押し寄せてきている。安心しろ、時雨君たちもすぐに保護されるだろう」

 

 そう言って三國は不器用な様子で雪羽に鼻面を寄せてきた。妖怪たちの喧騒とピリピリとした妖気が雪羽にも伝わって来る。そこまで考えた所で雪羽の意識は途絶えた。猫又のシロウが何かを吐き出した。それは首の千切れかけた小鳥に過ぎなかった。



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半妖なじられ出自を思う

 久しぶりに源吾郎君視点です。
 内容はまぁ……タイトルの通りですね。


 萩尾丸の編成した救出部隊の一つ、後衛部隊第二班は比較的若い妖狐たちで編成されたグループだった。

 もっとも、若いと言っても相対的な話である。構成員の殆どは二尾であり、生後百年を超えた妖狐ばかりだった。百歳と言えば妖怪の中では若者の部類に入る。とはいえ凡庸ながらも経験を積んで堅実に力を蓄えているが故の落ち着きと思慮深さを彼らは具えていた。後衛の事後処理と言えども、幼い妖怪たちの生命に関わる仕事である事には変わりない。指揮官である萩尾丸はそう言った事も考慮して妖選《じんせん》を行っていたのだ。要するに、能力が高いが未熟な若妖怪ではなく、標準的な能力ながらもある程度経験を積み、冷静に行動できる妖狐たちを優先的に選んだのである。

 そうして編成された構成員の中に、一人だけ()()がいた。その妖狐は第二班の構成員の中では最年少でありながら、既に四尾に到達していた。能力が高く、それでいて未熟な妖狐である。

 件の妖狐の名は島崎源吾郎という。雉鶏精一派の第二幹部・紅藤の秘蔵っ子であり、尚且つ本当の玉藻御前の末裔の一人として名高い妖狐の半妖だった。

 

 

「ひっ……来るな、来ないでくださいお願いします……」

 

 へたり込み、鼻水と涙を垂れ流す標的を源吾郎は見下ろしていた。未だに周囲を照らし続ける照明が、四尾を具えた源吾郎の影を色濃く造り出していた。標的である人間の術者の男に、その源吾郎の影が重なる。

 雷園寺雪羽は既に彼の叔父である三國が保護しており、そのまま病院に搬送されていた。時雨たち一行も救出部隊によって保護済みである。源吾郎たち後衛部隊が行っているのは、残党狩りと物的証拠の収集だった。源吾郎は初陣ながらもその仕事を真面目にこなそうと思っていた。

 

「来ないでと言ってはいそうですか、と素直に返事すると思ってるんですか? 別に取って喰う訳でもないんですし、大人しく従った方が身のためですよ」

 

 源吾郎はため息のような声音でまず標的を説得した。相手は人間だし、手荒な事をせずに説得できれば良いと思っていたのだ。

 しかし――卑屈な表情で震える男の姿を見ているうちにふつふつと怒りが湧いてきた。お前何()()()()してるんだ、と。

 

「仕事云々はさておいて、あんたの事は赦せないんだよ」

 

 冷え冷えとしていた源吾郎の両目に、にわかに憤怒の焔が灯った。そうだ。こいつらは雷園寺の兄弟を、子供妖怪たちを嬉々として虐げて悦に入っていた連中なんだ。こいつ自体は末端で責任も罪も薄いのかもしれない。しかしだからと言って容赦する理由にはならない。

 源吾郎は意を決し、相手の腕を掴んだ。引き立てて確保するために。

 特段妖怪らしい事をしている訳ではない。妖狐の半妖である為に腕力は普通の成人男性と大差ないのだから。強いて言うならば、四尾を顕現し妖気を放出しているくらいであろうか。

 ところが術者の男は地面に尻を付けたまま、むずかり泣きじゃくり始めた。幼子のように。

 

「ゆ、赦せないだなんて、ひどい事を言わないで下さいよぉ。僕はですね、か弱い人間としてあいつらに、恐ろしい妖怪共に脅されて従っていただけなんですから。島崎さん、あなただって解るでしょう、人間がか弱くて、妖怪たちの横暴にはどうにもならないって。人間であり、尚且つ妖怪でもある島崎さんならば、僕の気持ちは解りますよね?」

「言うに事欠いて被害者面してるんじゃねえよクソダボが!」

 

 源吾郎の中で何かが弾けた。弾けた結果がこの恫喝だったのだ。術者の男は涙で濡れた瞳で源吾郎をひたと見つめている。先程の言葉も相まって、単に強者に媚びる恥知らずにしか見えなかった。

 生理的嫌悪を伴う義憤が源吾郎を突き動かしていた。

 

「いやいや従ってたから罪に問われないなんて思うとはド厚かましいにも程があるんだよ。振り込め詐欺も麻薬密売だろうと、何も知らない末端の馬鹿共まで情け容赦なく逮捕されている事くらい、テレビを見りゃあ解るだろうが! 捕まりたくないから嘘泣きして俺に見逃してもらおうって思ってる事くらいお見通しなんだよボケが。

 それにだな、俺にはお前の気持ちなんて解らないし解りたくもないな。雷園寺の兄弟を、子供を殺し合わせるようにけしかけて、その光景を手を叩いて喜んでいたような糞共の気持ちが解るくらいなら、死んだ方がマシじゃ!」

「……フン」

 

 ひとしきりまくしたて終えると、源吾郎は一息ついた。烈しい憤怒のせいで若干息が上がってしまったのだ。呼吸を整えている間も、もちろん男の様子に気を配ってはいる。彼はそこで、男の表情が一変した事に気付いた。情けない涙は既に引っ込んでおり、醒めた目つきで源吾郎を見上げていたのだ。むしろその彼の瞳にありありと侮蔑の色が浮かんでいた。

 

「チッ……半妖で人間として暮らしてきた期間が長いから話が通じるかと思ったけれど、所詮は()()()()()()()()()()()畜生だったって事ですかね。まぁそんなもんだろうと思ってたけどな。なんせご先祖様が血に飢えた淫売で、しかもそんなご先祖様に憧れているような手合いなんだからさ。しかもてめぇは元々人間様として育つようにって両親から育てられてたんだろう。それなのに妖怪として生きようとするなんて……忌々しい、混ざり者の裏切り者め」

「…………!」

 

 舌打ちと共に紡がれた男の言葉にたじろぎ、源吾郎は気付けば半歩ばかり退いていた。横っ面を張り倒されたような、心臓を無遠慮に握りしめられたような衝撃を源吾郎は受けていた。術者の男は単に源吾郎を詰っただけに過ぎない。だがその事に源吾郎はショックを受けていたのだ。

 源吾郎はだから、自分の斜め後ろから狐火が飛来してきた事に気付かなかった。

 

「ひっ、うわわ……」

 

 飛んできた狐火は男の右足の真横に着弾した。花火のように派手に光って広がっているように見えたために、男は情けない悲鳴を上げていた。妖狐たる源吾郎には、件の狐火が全くの見掛け倒しである事は見抜いていたのだが。

 

「そうだとも。僕らは人間様の話が通じない畜生なのかもしれないね……君ら人間様からしてみれば」

 

 落ち着いた調子の声音と共に、誰かが源吾郎の傍に歩み寄って来る。振り返ってみてみると、その誰かは二尾の黒い妖狐だった。萩尾丸の部下の一人であり、今は源吾郎と同じく後衛部隊第二班に投入されていた。余談だが彼は玉藻御前の末裔を自称しており、今回の救出作戦にはそうした自称・玉藻御前の末裔も複数存在していた。

 彼は今一度狐火を作り、今度はそれを自身の手許でフワフワと弄んでいた。

 

「あのさ、君はもう歩けないのかな? それだったら足なんて要らないよね?」

「何を勝手に……」

 

 男は恐怖と驚きと僅かな怒りで顔を赤く染めながらすっと立ち上がった。立ち上がった術者の男はそのまま護送されていった。源吾郎の許にやって来た黒狐ではなく、彼が術で顕現させた屈強な体躯の兵士によって。

 先輩妖狐が見せた鮮やかな手腕の一部始終を、源吾郎は呆けたように見つめる他なかった。だがしばらくすると肩に手を添えられ、その感触で我に返った。黒狐は朗らかな笑みを源吾郎に見せていた。

 

「ご苦労様。人間だから妖怪よりも捕まえるのが()だって、島崎君は思っちゃったのかもしれないね」

「…………そうかもしれないですね、先輩」

 

 職歴的にも妖生経験的にも先輩格に当たる黒狐の言葉に、源吾郎は素直に頷いた。黒狐もまた訳知り顔で頷き言葉を続ける。

 

「とはいえ、仮に残党を捕縛するんだったらむしろ妖怪を狙った方がやりやすかったかもしれないね。僕ら妖狐は言うに及ばず、妖怪たちの方が君の強さや血の意味を知っているだろうからさ」

 

 今度は源吾郎は何も言わなかった。人間ではない畜生。人間の世界に背を向けた裏切り者。術者の男の言葉が、源吾郎の頭の中でこだましていた。自分の生き方を、自分そのものを否定された。そのような考えがどうしても浮かんでしまう。

 

「島崎君。あいつに何か言われたのかもしれないけれど、そんなの気にしない方が良いよ」

 

 そんな源吾郎の心中を察したかのように、黒狐が言った。驚くほど優しい声音だったので、収まりの悪さを感じながら。

 

「ああいう手合いは単にその時の流れとか状況に合わせて生きているだけに過ぎないんだよ。だからそんな奴の言った事なんて気にしなくて良いんだ。萩尾丸様も紅藤様も、君が半妖だという事は特に気にしていないんだからさ。

……確かあいつは僕らとは話が通じないと言っていたよね。だけど残念ながら話が通じない相手が存在するというのはまごう事なき事実だったんだ。実際には、あいつが君の説得を聞かなかっただけなんだけどね。

 いや、そもそも話を聞いて素直に悔い改めるような手合いだったら、こんなテロまがいの行為に参加しないだろうけどね。ふふふ、あの男も身辺を洗ったら余罪がザクザク出てくるだろうさ」

 

 育ちの良い、上品なお坊ちゃまにしては頑張った方だと思うよ。黒狐のこの言葉を、源吾郎は複雑な気持ちで受け止める他なかった。相手が妖狐として源吾郎の言動を肯定してくれたのは有難かった。しかし()()()()()()()()()()である雷園寺雪羽が、今回の救出作戦で大活躍したのを源吾郎は知っている。

 もちろん源吾郎と雪羽の役割が違う事は解っている。それでも、おのれが世間知らずのお坊ちゃまに過ぎない気がしてならず、じりじりとした焦燥感を抱かずにはいられなかったのだ。




 ダボとは関西圏で用いられる方言であり、アホやドアホよりも強い罵倒を意味します。その上にクソを付けている訳ですから……源吾郎君ガチギレしてますねこれは。
 と言うか雪羽君に絡まれた件については、実はそれほど腹を立てていなかったのでは? と言う疑惑さえ浮かんできました。


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天狗は妖狐に助言を託す

作者「強くなるには精神力が大切ってそれ一番言われているから」


 救出部隊として働いていた源吾郎たちが解放されたのは日付が変わったあたりの事だった。

 仕事が終わったという事を各班の班長から言い渡され、そこで解散するという形である。構成員たち――多くは妖怪だったが、中にはそれこそ人間の術者もいた――の足取りはそれぞれだった。自家用車で来ている者もあれば、手近な宿舎に向かう者もいたのだ。

 もちろん源吾郎も終わった後はどうかするという算段は決めていたのだが……そんな事はすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていた。従って、散り散りに行動する妖怪たちの中で、呆然と立ち尽くす事となった訳である。

 

「お疲れ様、島崎君も大変だったでしょ?」

 

 そんな風に立ち尽くしていた源吾郎に声をかけたのは米田さんだった。生誕祭の場でウェイトレスとして雇われ立ち働いていた彼女は、今回の救出部隊の構成員――それも源吾郎と同じく後衛部隊・第二班である――として当然のように組み込まれていた。

 雉鶏精一派の正式なメンバーではない彼女が何故救出部隊の構成員になっているのか。その理由は定かではない。しかし萩尾丸は外部からも優秀な妖員《じんいん》を集めていたらしいので、彼女もそう言った妖怪の一人だろうと踏んでいた。

 それに――彼女の兵士としての、戦士としての勇敢さ有能さは疑いようのない物であった。米田さんは機敏に忠実に残党狩りをこなしていった妖怪の一人だったのだ。

 

「あ……ええと、お、お気遣いありがとうございます」

 

 頬が無駄に火照るのを感じながら、源吾郎はたどたどしい口調で礼を述べるのがやっとだった。そうしたおのれ自身の態度に多少の憤りを感じはしたのだが。

 米田さんはしかし、そうした源吾郎の態度を指摘する事はなく穏やかに微笑むだけだった。

 

「米田さん。僕は大丈夫ですよ。殆どゴミ拾いみたいな事しか出来ていないんですからね。文字通りの意味ですけど。それよりも救出部隊の先輩たちとか、それこそ雷園寺のやつが一番大変な思いをしたはずです」

 

 雷園寺。雪羽の名字を口にした源吾郎は、その面に渋い表情を浮かべていた。元々は結界が破られた後に、反抗する妖怪たちを取り押さえる仕事を源吾郎たち後衛部隊は担っていた。そう言う手はずだったのだ。

 しかし実際には、結界が破られ現場に突入した段階でほとんどの面子は戦闘不能になっていた。そうでなくとも戦意喪失状態に陥っていたのだ。それらが雪羽の仕業である事は明白だった。結界が破られるまで、内部で暴れられる妖怪と言えば雪羽しかいない。それに所々に残る雷撃の後は、雷獣が暴れまわった事の何よりの証拠だったのだから。

 とはいえその雪羽も無傷という訳では無かった。意識を失う程の重傷を負い、そのまま保護者たる三國の手で病院に運ばれた事は源吾郎も知っていた。重傷を負った雪羽そのものは見ていない。しかし現場に残された血痕や散らばった毛の束たちが、彼の受けた惨状を物語っていた。

 源吾郎は知らず知らずのうちに歯を食いしばっていた。ほのかに血の味がしたのは気のせいでは無かろう。

 

「雷園寺君、ご弟妹と彼らの付き妖《びと》だった狸の娘を助けるために闘ったそうよ」

「あいつならそうするだろうと思っていました」

 

 米田さんの言葉に源吾郎は即答していた。貴族妖怪の子息として、おのれの家柄に対する雪羽の想いが生半可ではない事を源吾郎は知っている。だが、雪羽の持つ兄としての弟妹への情がそれを易々と上回る事もまた事実だった。

 源吾郎には弟妹はおらず、現時点では甥姪もいない。しかし兄が弟妹を護ろうとする気持ちの強さは嫌という程知っていた。源吾郎は末っ子だが、彼には兄がいるからだ。

 米田さんは軽く目を伏せ、それから呟いた。考え込むような表情を見せながら。

 

「あの生誕祭の場では、血の気の多いヤンチャな坊やだと思っていたけれど……あの子も見ないうちに成長したのね」

「そう……ですね……」

 

 源吾郎はそこまで言うと俯いた。口内の血の味が強まっていく。その事は気にせずに、ただただ雪羽について色々と思いを馳せていた。戦闘訓練の場で、雪羽は自分に対して()()()()()()()()()()()のだ。そんな考えが唐突に脳裏をよぎった。

 

 

「もう遅いし、部屋まで送っていくよ」

 

 源吾郎に対してそう言ったのは、兄弟子である萩尾丸だった。普段通りにこやかな笑みを見せてはいるが、その裏で苦虫を噛み潰したような心境になっているであろう事を源吾郎は察していた。

 

「ありがとうございます。ですが僕は電車で帰りますんで」

 

 電車で帰る。源吾郎の言葉を聞くや萩尾丸はうっそりと笑った。

 

「電車だって。島崎君、とうに終電も行ってしまった後だよ。というか君については初めから僕が車で送るって言う話だったんだけどなぁ……」

 

 まぁ良いや。自ら話を切り上げ、萩尾丸は今一度源吾郎を見た。

 

「僕の事は気にしなくて良いよ。元より紅藤様に相談したい事も出来たしね。青松丸君も結局参加してくれたから、その事のお礼も言わないといけないし」

「…………」

 

 この後打ち合わせをやるのか。若干の驚きを感じつつも、源吾郎は特に何も言わなかった。大妖怪とはとんでもないモノなのだと思うのが、疲れ切った彼に出来る事だった。

 何せ萩尾丸は、ここ数日救出作戦の指揮官として働き詰めだったのだから。

 ともあれ源吾郎は萩尾丸の車に乗る事にした。これからまだ仕事をこなすらしい萩尾丸のためにも。

 

「初めての実戦はどうだった?」

 

 萩尾丸がそんな問いを投げかけてきたのは、二人で車に乗り込んだ直後の事だった。何となく後部座席に腰を下ろした源吾郎は、運転席の方に視線を向けた。質問の意図は気になった。しかし結局の所何を言っても同じなのかもしれない。そう思い直していた。

 

「どうって言われても……一言では言い表せませんよ」

 

 源吾郎の口から出てきたのはぼんやりとした言葉だった。本来ならばやりがいがあるだとか勉強になっただとか、そう言った優等生的な言葉の方が良いのかもしれない。しかし源吾郎は初陣で疲れ切っていたし、何より感じた事を今ここで上手く言葉にまとめられそうになかった。

 

「ふふふ、一言で言い表すのは難しいよね。君には()()()()()は初めての事だからね」

 

 萩尾丸は頓着せずに笑っているようだった。それどころか源吾郎の心中を見抜いているかのような物言いですらあった。

 

「情けないとかふがいないとか自分を卑下しなくて良いからね。島崎君、他の妖《こ》たちだって初陣は君と似たり寄ったりだったんだから」

「それは米田さんもでしょうか?」

「僕は彼女の事は詳しく知らないけれど、きっとそうだろうね」

 

 ここで何故米田さんの名前を出したのだろう。源吾郎はぼんやりと思った。それはやはり、同じ妖狐として彼女に憧れているからだった。いや……憧れとは別の感情もまた、彼女に対して抱いている訳であるが。

 

「雷園寺のやつ、弟さんたちを助けようとして頑張ったみたいですね」

 

 源吾郎はここで話題を替え、それから時雨一行が保護された時の事を思い出した。引率者だった狸娘の松子は、時雨たち兄妹を抱えて廃工場の一角に身を潜めていたのだ。隠れた先は既に雷獣が暴れまわったためにスクラップと瓦礫にまみれていた。しかし、彼女は防具――それも雪羽の物だ――に護られていたので無事だった。

 救出部隊に保護された松子は、人目をはばからずにさめざめと泣いていたという。裸同然の姿だったとも伝わっている。いずれにせよ、彼女も被害者であり、囚われた先で言葉に出来ないような思いをした事は想像に難くない。

 悲しいかな、源吾郎は詳しい所まで知っている訳ではない。しかし類推は出来た。松子が雪羽の防具で身を護っていた事、幼い雷獣の兄妹がほぼ無傷で保護された事。他ならぬ雪羽が彼らを護り抜いた。そのような結論を下していたのだ。

 

「本当にすごい事ですよ……雷園寺のやつ、本当は僕よりもうんと強い妖怪なんだって思い知りました。犯行グループの連中も、ほとんど独りでやっつけてましたし」

「全ては雷園寺君が自分で考えてやった事なんだ。だけど……だからこそ()()()所があの子にはあるんだ」

 

 萩尾丸の言葉に源吾郎は怪訝そうに眉を吊り上げた。皮肉っぽい気配はなく、むしろ物憂げなニュアンスを伴っていたのだから。

 

「もちろん雷園寺君も今日はよく頑張ったと思っているよ。仕込まれた呪詛を打ち祓い、死に瀕していた時雨君の生命を救ったのは、他ならないあの子なんだから」

「何ですって!」

 

 思いがけぬ話に源吾郎は思わず声を上げていた。特に外傷はなく無事、時雨は意識を失っているものの生命に別状はない。源吾郎は雷獣の兄妹の状況についてそのように聞いていた。だがまさか、そんな事情が隠れていたとは。

 

「時雨君の身に何があったのか、我らの雷園寺君がどのように弟を救ったのかについてはまた明日にでも教えるよ。今伝えても、島崎君も頭に残らないだろうしね。

 それよりも雷園寺君の危うさについて伝えておくよ。島崎君、君らが現場に踏み込んだ時には、犯行グループの面々は戦意喪失していただろう?」

「はい。雷園寺君は、闘って連中をのしてましたからね」

 

 それが彼の危うい所なんだ。萩尾丸は幼子に言って聞かせるような調子で源吾郎に伝えた。

 

「あの時の雷園寺君を()()()と称する人もいるだろうね。だけど僕にはそう思えないんだ。あの時の雷園寺君は……単に頭に血が上って、我を忘れて暴れていただけに過ぎないんだ」

「そんな……」

 

 容赦のない萩尾丸の言葉に、源吾郎は声を漏らした。

 

「もちろん彼が囮になってくれたお蔭で、時雨君たちは追撃されなかったのかもしれない。だけどあまりにも無謀過ぎたんだ。自分が殺されるかもしれないというリスクすら、あの時の雷園寺君の頭には無かったんじゃないかな。いくら弟を助けても、自分が死んでしまったら元も子も無いのにね」

 

 萩尾丸の言葉は容赦がなかったが、十分にあり得る話だと源吾郎も思っていた。蠱毒の調査をしていた折に、犬神であれば犠牲が一匹で済むと雪羽は知り、狂喜していたのを源吾郎は目の当たりにしていたのだから。あの時だって、彼は弟妹が助かるなら俺は生命をなげうっても構わない。暗にそう言っていたではないか。

 

「雷園寺君は確かに強い。何せ雷園寺家の子息で、若くして大妖怪になった三國君の甥でもあるんだからね。しかも僕が引き取るまでの三十年間、三國君の許で戦闘の手ほどきも受けていたんだから。だけど――精神《こころ》も経験も彼の持つ強さに全く()()()()()()()()んだ。ただでさえ、特に強い雷獣は頭に血が上りやすく冷静さを欠きやすいからね。だから雷園寺君は危ういんだよ」

 

 そうした性質のために、強い雷獣ほど天寿を全うできずに短命である事が多い。萩尾丸の言葉に源吾郎は身震いしていた。雪羽がふとした拍子にいなくなってしまうのではないか。そんな妄想が浮かんでしまったからだ。

 島崎君。気付けば萩尾丸は静かな調子で呼びかけていた。

 

「雷園寺君はそんな感じの子だから、別に君はあの子と比較して落ち込まなくて良いんだよ。君の目に映るあの子の勇猛さは、死と隣り合わせの危うさに過ぎないんだから」

 

 だけど。そこで萩尾丸が微笑んだのだと源吾郎は思った。

 

「ともあれ君ら二人が仲良くなったのは良い事だと僕は素直に思ってるよ。君にしろ雷園寺君にしろ、()()()()()で釣り合う相手と巡り合うのは難しい事だから……強いだけの妖怪ならごまんといる。未熟な妖怪だって、若い妖たちは大体そんなものさ。だけど、精神が未熟でそれでいて強い妖怪なんて……」

 

 言葉尻を濁す萩尾丸を前に、源吾郎はおのれの強さを思った。

 源吾郎も雪羽も、既に中級妖怪レベルの強さの持ち主である。妖狐であれ雷獣であれ、普通の妖怪であれば中級妖怪に至るまでに数百年の歳月がかかる。若干才能がある個体であってもゆうに百年は要するだろう。そこに至るまでに経験を積み、心身ともに成熟している事は言うまでもない。

 しかし、若く幼いながらも強大な力を持つ源吾郎たちには、そうした物は無いのだ。

 

「似通った所がありつつも、気質とか境遇は真逆だもんね。でもだからこそ、互いに支え合うような関係が出来たんじゃないかな。気が合うだろうとは思っていたけれど、思っていた以上に打ち解けるのが早くて驚いたよ……

 ともあれ今後も雷園寺君の事をよろしく頼むよ。あの子も今は君に大分心を開いているみたいだし、だからあの子が危うい方向へ進もうとするストッパーに君がなれるかもしれないんだ。島崎君は割合用心深い所もあるしね」

 

 唐突な萩尾丸のこの言葉に、源吾郎は不明瞭な声で応じるのがやっとだった。萩尾丸はきっと、疲れ切った源吾郎が寝ぼけてそんな声を出したのかもしれないと思っている事だろう。




 米田さんと源吾郎君のラブロマンスを書きたいなぁ……でも、米田さんは源吾郎君を男して認識してくれるのでしょうか……


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夢見の先のエリザベスカラー

 気付けば雪羽は巻方の屋敷にいた。雪羽が生まれ、十歳のころまで暮らしていた実家である。その後は……悲しい事件があって亀水に住む三國に引き取られていたのだが、その時はその事をすっかり忘れていた。

 広い中庭にいて、雪羽は弟妹たちと存分にふざけ合い、じゃれあっていた。雪羽に一番絡んでくるのは、二番目の弟の開成だった。弟妹の中で一番気が弱く甘えん坊であるから少し心配していたのだが、長兄たる雪羽にこうしてじゃれついてくる姿を見てひとまず安心していた。態度や表情にも堂々としたものが見えたのだから。

 すぐ下の弟である穂村は、少し離れた所で雪羽たちの様子を眺めている。末妹のミハルに至っては、庭の草花を眺めるついでにこちらに目を向けるという始末である。雪羽としては穂村やミハルともじゃれ合いたかったのだが――微笑みながら見つめ返すだけに留めた。兄であるからこそ、弟妹達の気持ちは尊重したかったのだ。穂村は雷獣らしからぬ冷静さを持ち合わせていたし、ミハルは思春期を迎えていたから、兄と遊ぶのをためらったのだろう。

 それに――雪羽は満ち足りていた。久々に弟妹たちに会えたわけであるし、縁側では()()()()()()雪羽たち兄妹を見守っている。

 長らく望んでいた家族の団欒を雪羽は楽しんでいた。丁度その時だった、雪羽の許に誰かが駆け寄ってきたのは。

 開成やミハルよりもなお幼いその雷獣を見て雪羽は戸惑った。

 その雷獣は雪羽のもう一人の弟の、異母弟の時雨だったからだ。兄さん、兄さんと時雨ははっきりとした声で呼びかけている。何故ここに時雨がいるんだろう。ああそうか……雪羽が考えを巡らせる間に、周囲にいた弟妹達の姿や屋敷の光景がぼやけ、霧散した。

 

 

 雪羽はここで目を覚ました。そしてすぐに、今まで自分が見ていたモノが夢であると受け止める他なかった。雪羽の実母と異母弟である時雨が同じ場に並ぶ事など()()()()()のだから。

 薬品と妙に清潔な匂いが鼻に付く。何度か病院送りになった事のある雪羽は、すぐに自分が病室にいるのだと悟った。

 首周りには何か変なものが巻き付いている。ぼやけて見えるそれの向こう側には雪羽自身の両前足の先が見えた。どうやら変化を解いた本来の姿で寝ていたようだ。

 

「雪羽! 目が覚めたんだな!」

 

 深みのある、聞きなれた野太い声が耳朶をうつ。いつもより重たい首を巡らせて様子を窺う。案の定、そこには三國たちがいた。

 雪羽の叔父にして父親代わりの雷獣は、泣き笑いの表情を雪羽に向けていた。その彼の両脇には、鵺の月華と風生獣の春嵐も控えていた。種族さえも違うが、彼らもまた雪羽の保護者に違いない。

 

「あ……俺……」

 

 保護者達に視線を向けた雪羽は、自分も人型に変化しようとした。四肢を突っ張らせて立ち上がる雪羽の許に三國が駆け寄り、頭頂部の耳の間を撫でて制した。

 

「落ち着け雪羽。月華か春嵐が先生を呼んでくるから、な。肋骨にひびが入っていて、それが今丁度落ち着いたところなんだよ」

 

 肋骨にひび。そうだったのかと雪羽は他人事のように思っていた。そう言われてみれば何となく胴体が痛む気もする。雪羽はここでハッとした。俺はここで寝ていた訳だけど、弟妹達は――

 安心しろ。いっそ命令に近い口調で三國が言い足す。

 

「時雨君たちは大丈夫だ。もう元気だよ。雪羽が目を覚ますうんと前に起きて、ちゃんとご飯も食べてたからさ。深雪ちゃんは全く無傷だったしな。あの中で一番重傷だったのは雪羽だったんだ」

「時雨……無事だったんだ」

「そうだぞ雪羽。だから心配するな。あの子らは今隣の病室で休んでる。雪羽にも会いたがっていたぞ」

 

 雪羽はここでぺたりと身を伏せた。時雨たちが、弟妹達が無事である。その知らせを聞き、心底安堵していたのだ。何せ雪羽が最後に時雨を見たのは、松子に抱えられた意識の無い姿だったのだから。おのれの不可思議な力で呪詛を祓った事は覚えている。だがその後がどうなったのか。気が気でならなかったのだ。

 そうしているうちに病室の扉が開いた。時雨が入ってきたのかも。雪羽は反射的にそう思っていた。だが実際に入ってきたのは、何処となく猿を思わせる赤ら顔の先生――病院だから医者であるのは言うまでもない――と、男物の入院着を抱え持つ、驚くほど長身の女性看護師だった。

 

「いやはや、これはまた驚異の回復を遂げましたねぇ、雷園寺の大きいお坊ちゃん」

 

 猿顔の先生もとい医者は、赤らんでいる顔を更に赤くしながら笑った。笑った時に唇がめくれ、鼻の半ばあたりまで覆い隠しているのが見えた。この時雪羽は既に人型に戻っていて、三國や春嵐の助けを借りて入院着を身に着けた。看護師や月華がその最中を見ないようにしてくれたのは地味にありがたい。

 それにしても、猿医者の雪羽への呼びかけが独特だと思った。そういう事が考えられるほどに雪羽も意識がしっかりしてきていた。

 

「その歳であの傷じゃあ、それこそ丸一日は目を覚まさないかと思っていたんですがね。ともあれ、回復が早いのは良い事ですよ」

「そりゃあ当然ですよ先生。雪羽は俺の身内なんですから」

「ええ。ええ、確かに。三國さんが大きいお坊ちゃんのお父さんですものねぇ」

「ちょっと先生……!」

 

 上背のある看護士が頓狂な声を上げ、上半身をかがめて猿医者に耳打ちしている。医者は手にしていたカルテらしき資料と雪羽と三國に順繰りに視線を向けていた。

 

「ああ失礼しました。三國さんと大きいお坊ちゃんは……」

「父親で構いませんよ」

 

 雪羽のお父さんと呼ばれた三國であったが、彼は激することなくむしろドヤ顔で父親であると頷いていた。三國が雪羽の父親を名乗っても何も間違いはない。雪羽を引き取った後に、養子縁組の手続きを行っているからだ。

 それに三國自身も、雪羽を息子と見做し自分も父親と見做されたいと思っている事を雪羽は知っていた。

 医者はこの調子だと二、三日後には退院できる事、退院した後は日常生活に戻れるが無理や烈しい動きは当分控えるようにと伝えた。そして三國たちを見やると、立ち上がって看護師と共に立ち去った。

 

「……叔父さん、さっきのお医者さんお猿みたいだったね」

「お猿みたいじゃなくてお猿そのものなんだよ、あの先生は。確か狒々とか猩々とかだったんじゃないかな。

 まぁそんなに驚く事じゃないよ。この病院は緑樹様の部下たちが勤務している所なんだからさ」

 

 へぇ、と息を漏らしながらも雪羽は納得したような気分だった。緑樹と言えば雉鶏精一派の第三幹部である。彼自身は表立った行動をさほど好まぬ性質であったが、組織内外での影響力が大きい妖怪である事は雪羽も知っていた。酒呑童子を母方の祖父に持ち、白猿を父に持つ彼が大妖怪であるのは言うまでもない。鬼や猿妖怪が彼を慕って組織を作るのも、祖父や父親の影響を考えれば致し方ない事であろう。

 雪羽が今いるこの病院は「阪神きんくま病院」と言い、やはり緑樹の部下である鬼が院長を務めているのだそうだ。そう言った事もあり、医者や看護師、スタッフは鬼や猿妖怪、或いはそれ以外の人型の妖怪が多く在籍しているとの事であった。

 獣妖怪の患者に情け容赦なくエリザベスカラーを巻くのもまた、人間や人型妖怪の特徴である。冗談めかしたこの話は他ならぬ三國の言だった。

 三國や月華の説明に耳を傾けていると、控えめにドアがノックされる音が耳に届いた。応対すべきかどうか悩んでいるうちに、春嵐が立ち上がってドアの方に向かってくれた。

 

「やぁおはよう雷園寺君。言うて昼近いけれどまぁ良いか」

「あ、ありがとうございます萩尾丸様。お忙しいのに何度もご足労頂いて……」

「気にしないで良いんだよ春嵐君。今は僕が主だって雷園寺君の面倒を見ているんだからさ。それに今丁度主治医の先生に目が覚めたって教えてもらった所だし」

 

 やって来たのは萩尾丸だった。彼ははじめ声をかけてきた春嵐に対して二言三言言葉を交わしていたのだが、その後は流れるような足取りでもって雪羽の前に姿を現した。

 

「雷園寺君。昨日の救出作戦では思いがけず君に負担を強いる形になってしまって本当に申し訳ないよ」

「…………!」

 

 雪羽の真正面にやって来た萩尾丸がまず行ったのは謝罪だった。それもかなり真剣な調子での謝罪であるから、雪羽も驚いてすぐには何も言えなかった。

 

「こちらの不手際と言う他ないよ。八頭怪、いや八頭怪の力を借りた鳥妖怪が結界を張り直した後からは、もうこちらの計画も半分は潰えたような物だったからね。そのとばっちりを雷園寺君たち兄弟は被ってしまった訳だし」

「お……僕は大丈夫ですよ萩尾丸さん!」

 

 雪羽が思わず叫んでしまったのは、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべる萩尾丸に驚いたからだった。ついでに言えば三國たちも無言で二人のやり取りを見ていた事も拍車をかけていた。もっとも、萩尾丸と雪羽の保護者である三國たちの間では、既に今雪羽と行っているようなやり取りは終わっているのかもしれないが。

 

「先生からも思っていたよりも回復が早いと言われてますし、僕はこれでも病院送りには慣れてるんですよ。病院食が美味しかったらいう事はないんですが、そんな訳で僕は元気ですよ」

「病院送りに慣れているなんて、自慢げに言う事ではありませんよ雪羽お坊ちゃま」

「まぁまぁハル君。確かに雪羽君が大けがとかしないように私たちは気を付けないといけないよね。でも、それでも病院のお世話にならないといけない時もあるから仕方ないんじゃないかな?」

 

 雪羽の主張の後ろで、春嵐と月華が何か意見交換を行っていた。雪羽はそうした事は特に気にせず、萩尾丸の方をひたと見据えていた。自分の病院送りの遍歴よりも気になる事があるのだから。

 

「萩尾丸さん。僕ら兄弟がとばっちりを受けたってどういう事ですか。叔父からは時雨は元気になったって聞いたところですが……」

 

 雪羽の問いかけは途中からしりすぼみになっていた。時雨は既に回復しているという三國の言を疑っている訳ではない。しかし萩尾丸はより詳しい事を教えてくれるのではないか。半ば恐れながらもそんな事を思ってもいた。

 

「元気になったという三國君の言葉には間違いはないよ。時雨君は今朝早朝に意識を取り戻したからね。精密検査も受けたらしいけれど検査結果は異常なしという事だよ――()()()()()()

 

 思わせぶりに言い添えた萩尾丸は、雪羽たちを一瞥してから言い添えた。

 

「身体的には時雨君は殆ど回復しているんだ。だけど後遺症として記憶障害があるみたいでね」

「記憶障害って、あの記憶喪失の事ですか!」

 

 気付けば雪羽は軽く身を乗り出していた。記憶喪失は雪羽も一応知っている。昔はよくアニメとかドラマでも記憶喪失になった人の話が放映されていた。日常生活は出来るけれど自分が何者なのか解らなくなるというアレの事だろう。

 まさか時雨が記憶喪失になっているなんて。それじゃあ時雨自身の事も何も解らないのだろうか。だけど叔父貴は時雨が俺に会いたがってるって言ってなかったっけ……色々な考えが渦巻く中で萩尾丸が言葉を続けた。

 

「雷園寺君。記憶喪失にも色々な種類があるんだよ。自分の身にまつわる全ての事を忘れてしまうケースもあるけれど、うんと限定的な、特定の出来事だけを忘れているケースも多いんだ。限局性健忘とか選択性健忘って言うらしいんだけどね。

 時雨君の場合は後者になるんだ。今回の事件で自分の身に降りかかった事について、一部思い出せないみたいなんだよ」

「記憶喪失って、そういう事だったんですか……」

 

 雪羽は萩尾丸の説明に素直に驚いていた。気になってそれとなく周囲に視線を向ける。今この場で驚いているのは雪羽だけのようだ。三國たちは既にこの話を聞かされているのかもしれないと思った。

 そうしている間にも萩尾丸は言葉を選び解説を続けていた。特定の記憶が抜け落ちる記憶喪失は、限局性健忘はいわば心を護るため機構の一つなのだという。こうした症状は災害・事故・事件・虐待・監禁などと言った心的外傷に誘発されて生じる出来事である訳で、時雨が発症しても何らおかしくないという話だった。それもそうだと雪羽は思った。時雨が一番恐ろしい目に遭ったのは言うまでもない。何せ姐やや妹と共に拉致された挙句呪詛を仕込まれて殺されかけたのだから。

 

「……時雨が恐ろしい時の記憶を思い出せないのは良い事なのかもしれませんね。あいつはとても怖い思いをしたんです。記憶だけでも無かった事になったのなら、それはそれで良いと思うんですが」

「成程兄らしい意見だね雷園寺君。君の気持は解るけれど……残念ながら忘れたからそれで良いという話でもないんだ」

 

 雪羽の言葉をやんわりと否定する萩尾丸であったが、普段の皮肉っぽい気配はなりを潜めていた。

 

「ショックで記憶が抜け落ちている状態にあると言ってもね、それがずっとそのままとは限らないんだ。むしろ何かのきっかけで記憶がフラッシュバックする事さえあるだろうからね。

 まぁその辺りは僕たちや雷園寺君ではなくて、時雨君の家族や周囲の面々が気を付けないといけない事なんだけど」

 

 それにだね。萩尾丸は雪羽を見下ろしながら言い添えた。

 

「時雨君は事件に関わる出来事の全てを忘れた訳じゃあないんだ。事件に関する出来事で、思い出せる事と思い出せない事がまだらに存在しているらしいんだよね。そうだね、時雨君は呪詛を仕込まれて雷園寺君と殺し合う事になったんだけど、そのシーンは記憶には無いんだ。だけど拉致されてすぐの事とか、兄である雷園寺君が自分たちを助けてくれた事はしっかり記憶に残っているみたいなんだよね」

 

 そうだぞ雪羽。黙って萩尾丸と雪羽のやり取りを聞いていた三國が、ここで口を挟んだ。

 

「自分たちを助けてくれたのは雪羽だって、その事は時雨君もちゃんと心得ていたんだよ。だからこそ時雨は雪羽に会いたがっているんだ。お礼が言いたいってね」

「そうだったんだ……」

 

 一番恐ろしい記憶は封印しているが、雪羽が助けに来た事は覚えている。萩尾丸や三國から聞かされた事実を、雪羽はゆっくりと噛み締めるほかなかった。




 エリザベスカラーって布製の物もあるって猫動画を見て知りました。


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虚実しりぞき兄弟ばなし

 一番恐ろしい事を忘れているのに、俺の事は覚えているのか。いっそのこと、事件の事も俺の事も全部忘れていれば良かったのに。

 脳裏に昏い考えが唐突に浮き上がり、雪羽はぎょっとした。何を覚えていて何を忘れているのかなんてものは、雪羽の都合では無くて時雨の都合に他ならない。それを、自分勝手に考えるなんて悪い事ではないか。()()()()

 おのれの邪悪で恐ろしい考えを振り払おうと、雪羽は萩尾丸を見やり、口を開いた。

 

「それにしても萩尾丸さん。萩尾丸さんはかなり詳しい事までご存じなのですね」

「一応、僕も三國君たちも時雨君のお見舞いをしたからね……厳密には僕らは雷園寺家の縁者とは違う。だけどまぁ、今後の事とかで雷園寺家にはお世話になるし、お見舞いが出来たんだ」

 

 雪羽はここで、実は時雨たちが隣の病室で療養している事を知った。確かに耳を澄ませると、隣室から声や物音が聞こえるような気もする。

 

「あのお猿さんがな、雪羽と一緒に時雨君とか深雪ちゃんの事も診ているんだよ。同じ雷獣で歳も近いからって、相部屋にされそうになってたんだよ。まぁ、俺らが頼み込んだら個室にしてくれたんだけどな」

 

 三國はそう言って目をすがめて横に視線を向けた。壁を隔てた隣室を窺っているようだった。実際雷獣は電流の探知が出来るので、壁の向こう側の様子を読む事は難しくない話でもある。

 

「同じ部屋だったら、雷園寺家の親族たちと顔を合わせないといけなくなるから大変だろう? そうでなくとも、時雨の所には兄貴たちも姉貴たちもぞろぞろやって来て様子見をやってるんだからさ」

 

 呆れたように三國は告げたのだが、考えるような素振りを見せて三國は言い添えた。

 

「雪羽。親戚たちの見舞いはさっきまで全部俺が追い払っていたんだ。あばらを折る重傷で意識も戻ってなかったしな……だけど雪羽。もしかしたら兄貴たち、いや叔父さんたちや叔母さんたちとかいとこ連中に会いたいかな? それならそれで」

「親戚? 良いよ別に。叔父貴とか月姉や春兄がいるから」

 

 親族や身内は三國たちだけで充分。雪羽のその主張に三國は嬉しそうに笑みを深めていた。それでこそ我が息子、我が甥だ。口には出さねどそう思っている事は雪羽も何となく察していた。

 実際問題、雪羽にとって三國以外の叔父叔母は殆ど他人に近い存在だった。雷園寺家にいた時はいざ知らず、三國に引き取られてからは彼らと顔を合わせた事すらないのだから。

 この度の救出作戦では、雪羽の叔父叔母、いとこにあたる雷獣たちも数十匹ばかり後衛部隊として集まっていたのだという。雪羽の仕事を助けるためではなく、雷園寺家の正式な当主である時雨のために。

 

「ひとまず見舞いは三國君たちと……雉鶏精一派の面々だけにしておこうか。どの道雷園寺君は近いうちに雷園寺家の面々と顔合わせをするんだ。回復しきっていないこの時期に見知らぬ親族が見舞いに来ても負担になるだろうからね。

 それに雷園寺君。会いたくない相手が来たら寝たふりでもしてやり過ごしていても構わないんじゃないかな」

「それは妙案ですね、萩尾丸さん」

 

 萩尾丸の気の利いた提案に雪羽は素直に感心した。三國も笑っていたが、生真面目な春嵐の笑みは苦笑いだった。

 

 

 雷園寺家次期当主と目される雷園寺時雨が雪羽の病室にやって来たのは、萩尾丸の寝たふり発言の直後の事だった。彼は丁寧にドアを三度ノックし、きちんと名乗った上で入っても良いかどうか尋ねてきたのだ。

 隣室からの来訪者には、むしろ三國たち大人妖怪の方が困惑していたようだ。それでも時雨は結局病室に入ってきた。雪羽が入ってくる事を認めたからだ。

 お互い回復すれば雷園寺家本家で顔合わせする事は決まっている。だがそれでも、雪羽もまた時雨に会いたいと思っていた。萩尾丸や三國から無事である事を聞かされていたが、元気な姿をこの目で見たいと思うのは兄として当然の事なのだから。

 

「雪羽()()()()()……!」

 

 雪羽の姿を見るや、時雨は真っすぐ歩み寄ってきた。その声も口調もまるきり幼い。笑みをたたえたその面と無邪気な瞳を前に、雪羽は僅かに胸の奥が疼くのを感じた。それに気付かないふりをして、雪羽もまた時雨を迎えた。身体を動かしてベッドに腰掛け、近付いてきた時雨を抱きとめたのだ。弟の背に回した腕に力が籠る。()()()()時雨を迎えた事を雪羽はもちろん喜んでいた。だがそれ以上に、回復して元気になった時雨の存在を脳裏に焼きつけたかったのだ。

 駆け寄ってきた時雨の頬は上気して桃色に染まり、抱きしめたその身体はしっかりと暖かい。あの晩とは大違いだ。元気になった時雨がここにいるのに、雪羽の脳裏にはあの晩の……蒼ざめた肌に冷えていく身体を横たえた時雨の姿が浮かんでしまう。違う、時雨は元気になったんだ。記憶を上書きして、それこそ忘れないと……時雨が嫌がらない事を良い事に、雪羽は時雨を抱きしめ続けていた。動いた拍子に脇腹が僅かに痛み、雪羽は思わず顔をしかめた。

 

「よく頑張ったな、時雨」

 

 不思議そうに見つめ返す時雨に声をかけ、頭を撫でてやった。気の利いた言葉が出てこないおのれの頭と口がもどかしい。時雨はしかし、兄の言葉と触れ合いに目を細め、屈託なく喜んでいた。その証拠に、満足げな仔猫の甘え声がその喉から漏れているし、背に回した左手には、時雨の尻尾が添えられていたのだから。

 獣妖怪にとって、尻尾で相手の身体に触れるのは親愛の情を示す行為なのだ。

 

「お兄ちゃんは大丈夫だったの? さっきまでずっと寝ていたんでしょう?」

「俺は……兄ちゃんは大丈夫。昨日は色々あって疲れたから、それで寝坊しただけだよ。時雨、兄ちゃんの事は心配しなくて良いんだよ」

「でも、大けがをしたってお父様や叔父さんたちが……」

「大人は大げさに言ってるだけだよ。な、時雨。兄ちゃんは元気そのものだろう」

 

 疲れていたから寝坊した。雪羽が重傷だというのは大人が大げさに言っているだけの事。これらはちょっとした嘘だった。本当に雪羽は重傷を負っていて、大人たちが心配するのも当然の事であるのは雪羽もうっすら察していた。雪羽自身は喧嘩や殺し合いごっこに明け暮れていた身分である。手ひどくやられた事も何度かあった。だがそれでも――半日も目を覚まさなかったのは今回が初めてだ。

 斜め後ろからさざめくように声が聞こえる。三國が心配そうに雪羽の名を呼び、月華や春嵐がなだめているようだった。

 嘘をつくにあたって、雪羽の心中には罪悪感は無かった。()()()()()()()()だと解っていたからだ。世の中には知らなくても良い真実、知ったら傷つくだけの真実がある事を雪羽は知っている。それならば当たり障りのない嘘でやり過ごせばいいのだと雪羽は思っていた。ましてや相手は年端も行かぬ子供なのだから。

 だからこそ、あの時雪羽は通りがかりのお兄さんとして時雨の妹探しを手伝ったのだから。

 さて目の前にいる時雨は、探るような目つきを雪羽に向けていた。彼もまた雷獣であり、しかも雷園寺家の血を引く存在だ。電流で雪羽の状態を探っているであろう事はすぐに解った。

 笑みが浮かんでいたはずの時雨の表情が僅かに歪む。

 

「……ごめんなさいお兄ちゃん。僕のせいで色々困ったんだよね?」

 

 時雨はとつとつと言葉を紡ぎ出した。自分と妹で謀ったプチ家出のせいで事件に巻き込まれた事について時雨は責任を感じていた。のみならず、自分の存在そのものが、雷園寺家の当主だった雪羽を追い詰めた事についても、思う所があったらしい。

 

「良いんだよ時雨。お前は何も悪くない。悪いのはあの糞蛇共で、後は……」

 

 自分たちを隘路に追いやった()()()()()について言及しようとして、雪羽は言葉を詰まらせた。雷園寺家の現当主である男と無理やり妻の座に収まった女のために、今のこの状況が出来てしまった。雪羽自身はその男女――雪羽の実父と継母に当たる男女なのだが――を今でも憎んでいるし恨んでもいる。しかしそれを時雨にぶつけるのははばかられた。()()()()()()()()()()であり、時雨は何も知らないはずだから。

 時雨は雪羽の顔を見上げ、それからまた抱き着いてきた。縋るように添えられた時雨の両手が忙しく動く。フミフミの動きだった。時雨が、弟がこの俺に甘えているんだ……! 当惑と、それ以上の歓喜に雪羽の身体が震えた。

 

「お兄ちゃんは本当に優しいね。僕、お兄ちゃんに会ってからたくさん助けてもらってるし……」

「そりゃあそうさ。兄が弟を助けるのに理由なんて要らないだろう。別に俺は、()()()()()()()()()()()さ」

 

 助けてもらった。あの晩の狂乱の舞台の事を時雨は言っているのだろう。雪羽は純粋にそのように思っていた。だからこそ当たり前の事をしただけだと堂々と告げた。本当に、あの時雪羽は時雨の生命を助ける事しか考えていなかったのだから。雷園寺家次期当主云々の事すら、その時は頭に無かった。

 時雨はハッとしたような表情で雪羽を見つめ返していた。

 

「……怖い事がある前に、妹の深雪を一緒に探してくれたのも雪羽お兄ちゃんだったよね。僕、あの時心細かったから嬉しかったよ」

 

 そう言って時雨が静かに微笑む。雪羽は声を上げるのも忘れて時雨の顔を凝視していた。確かにあの時、雪羽ははぐれた深雪を探すのを手伝った。だが認識阻害の上着を羽織り、マシロと変名を使って素性を隠しての事だ。それなのに何故俺だと解ったのだろうか。

 松姉が教えてくれたの。時雨のたどたどしく断片的な言葉を聞くうちに、雪羽は事情が大体解ってきた。時雨の呪詛を祓った雪羽は、松子が味方である事を確認した上で、認識阻害の上着を彼女に貸し与えたのだ。後になってから、認識阻害の上着がマシロと名乗る妖怪の着ていた物と同じだったと松子は悟ったのかもしれない。

 

「ごめんな時雨。兄ちゃん、時雨たちを騙していたのかもな。でもあの時はそうするしかなかったんだ」

「お兄ちゃん……」

 

 時雨は不思議そうにこちらを見つめている。弟はこの後何というのだろうか。雪羽は少し身構えていた。

 だが時雨が何か言う前に、誰かが更に病室に入って来るのが見えた。それからすぐに、小さなものがこちらに向かって駆け寄って来る。

 

「お兄ちゃん! こんな所にいたの! おとーさまもおかーさまも来てるよ!」

「深雪……」

 

 時雨の許に駆け寄ってきていたのは妹の深雪だった。手足は雷獣本来の毛皮や爪が露わになった半獣の姿を見せているが、動きや声は元気である。

 突然やって来た妹を前に時雨は表情を一変させる。雪羽に対してはあどけなく甘えていた彼が、妹の前では申し訳なさそうな大人びた表情を作ったのだ。それからゆっくりとぎこちなく首を巡らせている。

 

「時雨さん。入院なさっているんですから遊んでないで休まないといけませんよ」

 

 時雨の視線の先を辿った雪羽の表情が強張った。雷園寺家現当主とその妻が、雪羽の実の父親と継母が病室に入り込んでいるのを目撃したからだ。



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禍福伴う親類のくびき

「お兄ちゃん……」

 

 甘えと若干の不安の籠った深雪の声に反応する時雨の姿は実に兄らしい物だった。時雨はやって来た深雪を半ば抱きとめるような形で腕を回していた。ちょうど、親鳥がひな鳥を護るように。

 

「そうだね深雪。お母様の言うとおりだよ」

 

 呟くような声音で告げると、時雨はゆっくりとした動きで彼の母の方に向き直った。雷獣らしからぬ緩慢な動きは、兄だと知った雪羽と別れる事の名残惜しさなのだ。そのように雪羽は思いたかった。

 深雪はそんな時雨の様子は特に気にせずに、しれっと手を繋いで並び立っている。白っぽい一尾はピンと立ち上がり、小刻みに揺れている。兄と合流出来た事を無邪気に喜んでいるらしい。そんな深雪の尻尾に時雨の一尾が沿うように近付いたのが雪羽には見えた。

 

「時雨さん、深雪さん。病室に戻りましょうね」

「はい……」

「うん! おかーさま」

 

 兄妹の母親が時雨の手を取り、そそくさと雪羽の病室を後にした。継母は細長い四尾を床に着くのではないかという程に垂らしていた。だがそれよりも、雪羽は継母の背にしがみつく小さな毛玉が気になった。時雨たちは実は三兄弟であり、一番下に産まれて二、三年の末弟がいるという。あの毛玉みたいな雷獣がそうだったのだろう。

 病室のドアが閉まる音が静かに響く。時雨たち兄妹とその母親は立ち去っていた。しかし時雨の父親に当たる雷獣は立ち去る気配はなく、変わらずそこにいた。

 自分にとっても父親に当たるその雷獣を、雪羽は目をすがめつつ眺めていた。すらりとした体躯と柔和そうな笑みが特徴的な、しかし何となく風采の上がらぬ男である。垂らした尻尾は三本のみ。奇しくも雪羽と同じ本数だった。ある程度力のある妖怪なのだろうが……大妖怪と呼ぶには()()すぎる。

 おのれの抱くイメージと実際の姿との大きな違いに、雪羽は軽く戸惑ってもいた。入り婿ながらも現当主としての地位に居座る雷園寺千理《らいおんじせんり》は勇ましさと冷徹さを併せ持つ男である。雪羽はそのように思っていたのだ。

 

「……ついさっきトイレに行きたいと言い出しましてね。中々戻ってこないと思っていたら、どうやらこちらにお邪魔していたようなのですよ。雪羽君も静養中だというのに、申し訳ありません」

 

 現当主の言葉は柔らかく丁寧な物だった。大天狗に八尾の雷獣、そして鵺。大妖怪が居並ぶ事もあって畏まっているのかもしれない。或いは本心から申し訳なく思っているだけなのかもしれない。

 いずれにせよ、雪羽君と呼びかけた時の他人行儀な気配は雪羽もしっかりと感じ取っていた。()()()()に向けた呼びかけとは何となく違った。もっとも、雪羽も雪羽で現当主が父親であるという認識は薄いのだが。

 ふざけた事を。鼻を鳴らしながら言い捨てたのは三國だった。座席や現当主の位置関係上、三國の表情は雪羽には見えなかった。しかしそれ故に、嫌悪と嘲りに歪んでいるような気もした。

 

「お前の息子はついこの間勝手に家出して、それで今回の事件に巻き込まれたんだぞ。だというのにトイレに行ってから中々戻らないなんてふざけた事をぬかしやがって。ちょっとの隙に子供が何処かへいなくなるという心配はしなかったのか。どうなんだよ、雷園寺家の当主殿よぉ」

 

 三國の声には明らかに怒気が籠っていた。荒っぽい三國の怒りを間近に感じつつも、雪羽はしかし穏やかな気持ちだった。三國なりに時雨の身を案じている事が解ったからだった。

 まぁまぁいきり立ちなさんな。困ったような笑みを浮かべて現当主は三國をいさめていた。三尾で、実力的には三國に劣る筈の雷園寺千理の顔からは、三國への畏れの念を見出す事は出来なかった。むしろ余裕めいたものさえ漂っている。

 

「良いか三國。私たちだって時雨に何かあってはならないと気を配っていたんだ。だから実際について行かずとも電流で時雨の行き先を探って様子を窺っていたんだよ」

「それなら別に良いが」

 

 それにね。現当主は何故か笑みを深め、言い足した。

 

「元より時雨が雪羽君の所に向かうだろう事は想定済みだったからね。だから敢えて泳がせたんだ。家内の前では、時雨もそんな事を言えないだろうからさ。

 そもそも私としても()()()と話がしたかったから」

「成程。そういう事だったのか千理の兄貴。そっちの事情はよく解ったぜ」

 

 現当主の言葉が終わるや否や、三國はそう言った。先程までとは打って変わり、非常に明るく朗らかな声音である。もしかしたら満面の笑みでも浮かんでいるのかもしれない。

 しかし雪羽には解っていた。見せている笑みは単なる仮面に過ぎないであろう事を。

 直後、ガタリと烈しい音がすぐ傍で響く。三國は勢いよく椅子から立ち上がっていた。

 

「どの面下げて雪羽に会いに来たんだこの野郎!」

 

 三國は二歩ばかり雷園寺現当主に近付くと遠慮なく怒鳴りつけた。それこそ雷鳴か、猛獣の吠え声のような声音と剣幕である。

 

「そもそも貴様は雪羽を……()()()()を棄てたんだろうが! 旗色が悪くなったから雪羽に泣きついて、後から何食わぬ顔でやって来るとはどういう神経をしてるんだ千理の兄貴よ!」

 

 三國は一息つくと、獣じみた笑い声を上げて言い添えた。

 

「いやまぁ、千理の兄貴が恥知らずなのは知ってたけどな。そうでなけりゃあ、雷園寺家の当主でございなんて面なんざ出来ねぇよ。ただ単に雷園寺家の女に仔を生ませただけのたね……」

「みーくん」

 

 嘲笑と侮蔑の入り混じった三國の言葉が途中で遮られた。のみならず、彼の身体にはひも状のものが巻き付いている。所謂縛妖索の類だった。妖怪と闘うための道具になる訳であるが、無傷で相手を捕縛できるので、妖怪たちが所持している事も珍しくはない。源吾郎も縛妖索を携えて雪羽と闘った事もあるのだから。

 雪羽のみならず、当の三國も戸惑った表情を見せていた。一体何が起きたのか。誰がこんな事をしたのか。

 だがすぐに、縛妖索を放った相手は判明した。三國に絡みつく縛妖索の一端を握っていたのは月華だった。

 これはどういう――問いただそうと三國の唇が動く。それを遮る形で月華が口を開いた。

 

「お義兄様とここで喧嘩するなんて駄目でしょう。病院にも雷園寺家の皆にも迷惑がかかるし、何より子供に悪いわ」

「月華…………」

 

 先程までの憤怒は何処へやら、三國はしおらしい表情で目を伏せていた。三國は妻である月華に頭が上がらないのだ。月華はそのまま現当主に三國の非礼を詫び、それから三國を拘束していた縛妖索をほどいた。

 

「ねぇみーくん。もうすぐお昼が近いでしょ。私ね、お腹が空いてきたの。下に食堂があったから一緒にお昼を摂りましょう。みーくんだって、お腹が空いていたからイライラして千理お義兄様に当たっちゃったのかもしれないし」

「俺はまだ……あ、いやそうだな……」

 

 唐突な月華の申し出に三國は目を白黒させていたが、応じる事に決めたらしい。夫の手を取った月華が、周囲を見やりながら再び口を開いた。

 

「あの、そんな訳で私たちは失礼しますね。すぐに戻ってきますから」

「大丈夫ですよ二人とも。どうぞごゆっくりなさってください」

「雷園寺君の事は僕と春嵐君がついているからね。三國君も昨日から大変だったんだから、夫婦水入らずで休息したまえ」

 

 萩尾丸と春嵐の言葉を受けながら、三國と月華は仲良く病室を出ていった。

 表向きは昼食を取るために病室を出た事になっている。だがそれが建前に過ぎない事は雪羽にも解っていた。現当主と三國がこれ以上居合わせれば乱闘に発展するであろう事を見抜いての処置だったのだ。雪羽としては三國が現当主をボコボコにするところを見たかったが、そんな事をしたら雷園寺家を敵に回す事も十分解っている。何より時雨たちが悲しむかもしれない。

 

「そう言えば三國は月華ちゃんと正式に夫婦になったんですね。何人かいたうちのガールフレンドの一人にあの娘がいたのを覚えていますが……良い妖《ひと》を妻にしたと思ってます。春嵐君も相変わらず三國の傍に居るみたいですし、弟は仲間に恵まれている」

 

 雷園寺千理は病室のドアを見やり、そんな事を呟いていた。三國の恫喝を真正面から受けていたとは思えないほどに、穏やかな態度である。

 雷園寺家の現当主殿。雪羽は実父の顔を見据えながら声を出した。どうにもとげとげしい口調になってしまったが。

 

「俺に話があると言っていましたが、一体何の話なんですかね?」

 

 現当主に対して雪羽は問いかける。ねめつける様なおのれの視線は、それこそ叔父の三國によく似たものなのかもしれない。

 お礼が言いたいんだ。穏やかな声で現当主はそう言った。

 

「三國や大天狗様から聞いたんだ。雪羽君が身を挺して時雨たちを救ってくれたってね。特に時雨には致死性の呪詛が施されていたという話だったし……

 今の時雨の姿を見ただろう。ああして元気にしているのは、ひとえに君のお陰なんだよ」

「その言葉は()()としての言葉ですか、それとも()()()()()()としての言葉ですか?」

 

 雪羽の問いかけに千理は一瞬たじろいだようだった。雪羽としては父親としての言葉だと即答して欲しかった。

 だからこそ、雪羽もため息をついて言葉を続けた。

 

「言っておくけれど、俺は別に雷園寺家の次期当主を救うために動いたんじゃあない。雷園寺家の機嫌を取って、自分が次期当主になるチャンスを作った訳でもないんだ。

 ただ単に()()()()()()()()から動いただけなんだよ。あいつらは雷園寺家をダシにして弟を殺そうとしたんだよ、しかも俺の目の前でな! それが気に入らなかったんだよ。当主殿。()()()()()()()()()()()()()()()()()()を死ぬほど嫌っている事はあんたが一番よく知っているんじゃあないのかい」

「雪羽君……」

「確かに、時雨とはいずれは雷園寺家の当主の座を狙って争う事になるのは解っているよ。だがな、今はまだそんな時期じゃあない事くらい俺だって解ってる。だからこそ、偶然出くわした時には俺は素性を明かさなかったんだ。時雨は兄姉たちがいる事を知らなかったし、そんな事を唐突に教えても戸惑うだけだろうからな。

 俺だって、何事もなく時雨が本家に戻る事を望んでいたんだ。なのに、それなのに……」

 

 雪羽はいつの間にかシーツを掴んでいた。その手の上に春嵐の手がさり気なく添えられる。春嵐自身は力の無い妖怪だと言っているが、こうして寄り添ってくれると心が落ち着く事には変わりない。幼い頃は三國よりもむしろ彼に懐いていたくらいなのだから。

 

「とりあえず、あんたは父親としての役目を果たせ。それが出来なかったから、放逐した息子が野望を抱いたり、正式な跡取りとして育てている息子が家出して変な事に巻き込まれたりしたんだ。時雨たちはあんたの息子で……俺の弟にもあたるんだからな。ないがしろにしたら俺が赦さないからな。そうでなくても、あんたは穂村たちを息子じゃあなくて親類扱いしているみたいだし」

「……穂村たちはもう、私の実子である事は明るみになったよ。今回の事件でね。今後は実子として扱っていくつもりだ」

 

 雪羽はまだ色々と実父に対して言いたかった。ところがその時、ずっと静観していた萩尾丸が動いたのだった。

 

「雷園寺千理様。この度はお忙しい中有難うございます。雪羽君なのですが、目が覚めたばかりで若干情緒不安定な状態にあります。身内として積もる話もあるでしょうが、今回はこれでお引き取り願えますか。ついでに親族の方たちにも、面会は控えるようにお伝えいただきたいのです」

「そうですね、大天狗様。思えば雪羽君も今しがた目を覚ましたばかりですし……私も退散いたしましょう」

 

 最後に現当主は雪羽の名を一度呼び、それから病室を後にした。その呼び声にどのような意図があったのか、雪羽には定かでは無かったが。

 

 

 雷園寺家現当主に言いたい事を一部とはいえぶつけた雪羽は、心中の落ち着きを取り戻していた。取り戻したからこそ、自分が雷園寺家現当主に失言・暴言を行ったと悟ってしまった。

 萩尾丸たちを前に雪羽は焦った。別に現当主に対して悪い事を言ったとは思っていない。だが対外的・組織的な部分ではまずい事になったのではないかと思ったのである。雪羽は元々雷園寺家の妖怪であるが、現在の所属は雉鶏精一派にある。雉鶏精一派は雪羽の存在を使って雷園寺家とパイプを作ろうとしていたのだが……その雪羽が雷園寺家に喧嘩を売っては元も子もなかろう。しかもそのような事で心を砕いている萩尾丸も同席しているのだから。

 

「すみません、萩尾丸さん。僕、ちょっと言い過ぎましたよね?」

「別に構わないよ」

 

 雪羽の謝罪に対し、萩尾丸はやけに優しく受け流すだけだった。皮肉も煽りも一切ないので却って不気味なほどだった。

 

「雷園寺君だってまだ子供だし、いつも冷静に対処できるかって言われたら難しいだろうからね。まぁ、三國君はもうちょっと落ち着いてもらった方が良いんだけど。病み上がりで目を覚ましたばかりなら尚更ね。

 それにね雷園寺君。時雨君を助けたかったから、死ぬのが気に入らなかったから助けたというのは()()()()()()()()だと、向こうも受け取らざるを得ないんだよ」

「それって……」

「どういう事ですか、萩尾丸さん」

 

 意味深な萩尾丸の言葉に、春嵐も雪羽も問いかけを発した。時雨におのれの妖力を分け与えて時雨を死の淵から救った。雪羽はそのように解釈しており、詳細なメカニズムについては特に考えていなかった。

 しかしその一方で、他者を回復させる術が極めて高度な物である事も雪羽は知っている。

 

「雷園寺君があの回復術を行使できたポイントは三点あるんだ。

 まずは雷獣の得意技である雷撃そのものに、病気の治癒・浄化の作用を付加しやすいという特性がある事だね。もしかすると、雷獣の中にもむしろそうした術が得意な妖もいるかもしれない。何せ人間の中にも、帯電する体質を利用して重病人を癒す事が出来た事例があるんだからね。雷撃術・帯電術に長けた雷獣が出来ない事は無いだろうね。

 次に雷園寺君たち兄弟の血がそこそこ濃かった事も良い方に作用したんだ」

「血が濃いですって」

 

 萩尾丸の次なる要因について言及したとき、雪羽は思わず声を上げた。

 

「それは妙な話ですよ。僕と時雨は母親が違うんですから」

「確かに母親が違うのはその通りだね。だけど調べてみたら、君の母親と時雨君たちの母親は従姉妹同士だったんだ。そうでなくても、雷園寺家は名家として能力を護るために近親婚が多かったみたいだしね。だからその……母親が他人同士の異母兄弟よりも君らは血が濃いんだ。というか母親側から見ればはとこに当たる存在でもあるしね」

「…………」

 

 自分らの母親が従姉妹同士で、異母弟であるはずの時雨がはとこでもある。血縁の錯綜に想いを馳せていると、萩尾丸はなおも言葉を続けた。

 

「最後に重要だったのは、あの時雷園寺君が()()()()()()()()()()()()()()()()という所なんだ。雷園寺君に春嵐君。妖怪が術を使うのに大切なのは妖力のエネルギーだけじゃない。どういった術を使うかというイメージや、意志の強さも同じくらい大切なんだ」

 

 妖術を使うのに意志の強さが大切である。雪羽はぼんやりと頷いた。半ば直感的に動く事の多い雪羽にしてみれば、それほど意識していない領域だったからだ。だが、それこそ妖狐の源吾郎などは変化術や結界術は色々とイメージする事があるとか何とか言っていた気もする。

 

「難しい術ほどそれを行使するためのイメージや意志の強さが重要になって来るからね。正直な話、時雨君を何が何でも助けたいと思っていたからこそ、雷園寺君は回復術を成功させる事が出来たんだ。

 仮にだね、あの時雷園寺君が『ここで弟を助けたら雷園寺家に恩が売れる』という気持ちや『助ける事が出来るだろうか』という迷いがあったなら()()()()()()()()()()()。気持ちが分散してしまうからね。そして分散した状態でも術を行使できるほどの妖力は雷園寺君には無いわけだし。

 雷園寺家の望んでいた事云々を忘れて目の前の事柄に集中していたからこそ、誰にとっても最善の結果が出たという事なんだよ」

「要するに、助けたいと思ったから時雨が助かったんですよね」

 

 雪羽はそう言うのがやっとだった。目が覚めたばかりだし、難しい事はよく解らない。雷園寺家云々の件は萩尾丸たち大人妖怪がいい塩梅に計らってくれるだろう。何より時雨や深雪が無事で良かった。雪羽は今一度そう思うのだった。



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一段落して世間話

 本当に良かった。それが源吾郎の第一声だった。源吾郎がやって来たのは昼下がりから夕方の中間位の時間帯である。昼前から昼過ぎまで雪羽の許に見舞いや様子見として雉鶏精一派の妖怪たちが出入りしていたのだが、それが途切れてしばらく経ったころでもあった。

 雪羽は萩尾丸から差し入れてもらった本を読んでいるつもりだった。気付けばベッドに身を預け、うとうとしていたのだ。とはいえ源吾郎がやって来たのは足音で前もって気付いていたから、寝ている姿を見せる事は無かったが。

 

「ああ、まぁ俺はちょっと張り切り過ぎてアレだったけど、二、三日休めば大丈夫だって先生も言ってるんだ。はは、治りが早いって先生もびっくりしてたんだぜ」

「そっかぁ……雷園寺君は強いもんな。それに純血の妖怪で妖力も一杯あるから、けがの治りも速いのかも」

 

 半身を起こして元気さを見せると、源吾郎は静かに笑っていた。数日前までピリピリした空気を纏っていた彼であるが、今は嘘のように穏やかだ。元より源吾郎は穏やかな気質である事を雪羽は良く知っていた。

 とはいえいつも通りという訳でもなさそうだ。衣装は抜かりなくお洒落に決めていたが、疲労の影が見え隠れしていた。普段の彼はそう言う方面でも装って取り繕う性質であるから、よほど疲れているのだろう。しかもよく見れば眼鏡をかけている。見た目がどうとか言って普段はコンタクトを入れているらしいのに。

 源吾郎が持ってきた差し入れは、小さなベビーカステラかパンの詰め合わせだった。ベビーカステラは大体狐色なのだが、詰め合わせのそれは橙色とか桃色とかうっすらと色がついていてカラフルだ。よく見れば柔らかな緑色をした物もある。

 

「これ、果物のジャムとか野菜を練り込んだカステラらしいんだ。下の売店で買ったんだよ。雷園寺君、俺と一緒で甘いものが好きだろうからさ……牙も何本も折れたって聞いたから、柔らかい物の方が良いかなと思って」

「そこまで気を回してくれたのか。悪いっすね島崎先輩。牙の方も大丈夫。既に差し歯だか入れ歯だかで埋め合わせは終わってるし、そもそも俺の妖力なら新たに牙も生えるから問題ないって言われているんだ」

 

 言いながら雪羽は口を見せて笑った。源吾郎も萩尾丸たちから雪羽の事を色々と聞いたのだろう。モテないだとかカッコよさが足りないだとか思い悩む事もあるらしいが、細かな所まで気付き、彼なりに気配りできるのは美点だろう。

 

「それよか先輩の方は大丈夫? 先輩の事だから、もっと早く来るかなと思ってたんだけど……」

 

 話題をスライドさせると、源吾郎はあからさまに申し訳なさそうな表情を浮かべた。あ、しまったと雪羽は思ったがもう遅い。雪羽も源吾郎も本調子ではないのだ。だから雪羽も神経が高ぶっていつも以上に思った事を口にしてしまう。それにもしかすると、源吾郎も機嫌を損ねるかもしれない。源吾郎は基本的には穏和な青年である。しかしその一方で烈しい感情のうねりの持ち主でもある。よもや雪羽に激する事は無いだろうが……それでも失言は失言だろう。

 俺は大丈夫だよ、それこそね。そう言った源吾郎は力なく微笑むだけだった。

 

「本当は早めに向かおうと思ってたんだ。だけど昼前に目が覚めて、そこから支度していたらこんな時間になっちゃったんだよ。救出作戦の数合わせで参加しただけなのにこの体たらくとは情けないだろう? 先輩たちはきちんと仕事をこなしたのにさ」

「そんな事ないって」

 

 自嘲の色が滲む源吾郎の言葉を、雪羽は即座に否定した。彼なりに頑張っていた事は既に萩尾丸から聞かされていたのだ。そもそもからして先輩の働きぶりと自分のそれとを比較する事()()が前提としておかしい。源吾郎もまた強い妖怪に分類される。単純な強さで言えば彼の言う先輩たち――百歳前後の二尾の妖狐たち――を凌駕しているだろう。だが先輩たちの方が経験値が圧倒的に高いのは言うまでもない話だ。そもそも源吾郎にしてみれば今回の実戦が初陣だった訳だし。

 そう言う所を度外視して先達たちとおのれを比較する源吾郎の姿は、ストイックと呼ぶべきなのか無謀と呼ぶべきなのか雪羽には解らない。向上心が高そうで個人的には好きな態度ではあるのだが。

 

「それでさ、俺が入ってた第二班は玉藻御前の末裔を名乗る狐たちが多かったんだ。米田さんとか穂谷先輩とかさ。先輩たちは俺と一緒で玉藻御前の末裔が雷園寺君の側に憑いているって事を示すための要員でもあったんだけど、むしろ普通の野狐よりも先輩たちの方が強かったよ」

 

 玉藻御前の末裔である妖狐は源吾郎だけであるが、玉藻御前の末裔を自称する妖狐は数多くいる。萩尾丸の部下たちにもそうした妖狐は一定数存在していた。というよりも、萩尾丸がわざわざ見つけ出して雇い入れているらしい。源吾郎の言った穂谷という妖狐も萩尾丸の部下の一人である。

 この度自称・玉藻御前の末裔が救出部隊に投入されたのも、ひとえに萩尾丸の妖選によるものだ。玉藻御前の末裔が雪羽の側に加勢していると伝えるという側面は源吾郎一人で伝わるであろうと雪羽は思っていた。しかし初陣である源吾郎が不測の事態で参加できない事も見越して、萩尾丸は自称・玉藻御前の末裔も投入したのだろう。

 もっとも、彼らが同年代の野狐よりも有能で経験豊富であるという原始的な理由もあるだろう。他ならぬ源吾郎が彼らの実力を認めているのだから。

 源吾郎はプライドが高く、こと玉藻御前の末裔という看板を背負う為には一切の妥協を許さない若者である。しかしその一方で、他の妖怪の実力や有能さを素直に認める柔軟な心の持ち主でもあった。それは或いは源吾郎の末っ子気質によるものなのかもしれない。

 

「確かに第二班の狐たちって二尾ばっかりだもんなぁ。島崎先輩。俺も昔オトモダチから聞いたんだけどさ、『妖狐の二尾は大人ばかり』なんて言葉が普通の妖怪たちの間ではあるらしいんだよ。俺は三尾だからもう大人やんって思ってたけど、本当は()()()()()()じゃなかったんだよ。年数を重ねて大人になるころに尻尾が増えるって事だったんだ」

 

 妖狐の二尾は大人ばかり。雪羽は昔、尾の数が多くなれば大人になるのではと思っていた。だが実際には逆の意味だった。尾が増えるから大人になるのではなく、大人になるほどの年数を経ているから尾が増えるという事だったのだ。何せ、普通の妖狐や雷獣であれば百年ごとに一尾増えるのだから。もちろん、もっと時間がかかる場合とてある。

 従って、幼少の頃より尾をたくさん持つ妖怪への言葉では無かったという事だ。

 

「うん。確かに一尾の野狐たちよりも二尾の野狐たちの方が大人って言うか普通に年長だもんなぁ。第二班の皆も普段会う野柴君たちよりも落ち着いてたし、俺にも親切にしてくれたし。

 やっぱり先輩たちはああいう仕事に慣れてるって感じだったよ。人間にしろ妖怪にしろ残党狩りもめっちゃこなしてたし。雷園寺君。意外と米田さんがそういうの慣れてるみたいだったから、驚いちゃったよ……」

「米田さんはフリーの使い魔やってるって事になってるけど、実質傭兵みたいな仕事にも足を突っ込んでいるらしいからね」

 

 米田という野狐の娘の事は雪羽も多少は知っていた。いつの頃からか生誕祭の短期バイトで働くようになっていたし、ヤンチャだった頃から彼女の噂は度々耳にしていたからだ。雪羽はかつて彼女にちょっかいを賭けた事があったのだが、見事に肘鉄を受けた事は地味に忘れたい過去だったりする。

 米田さん、と言った時の源吾郎の表情に雪羽は気付く。萩尾丸の部下ではない彼女の事を敢えて口にした不自然さ、その不自然さをもたらした背景を目ざとく感じ取った雪羽は、口許に笑みを浮かべた。何となく漂う重苦しい空気を払拭する、うってつけの方法を見出したのだ。

 

「島崎先輩。もしかしなくても米田さんの事が好きなんですよね? 気になっちゃってるんですよね?」

「なっ……雷園寺……」

 

 源吾郎の反応はあからさまで、しかも見ていて面白いほどだった。目を見開いて雪羽を凝視するのだが、その顔はみるみるうちに赤みを増していく。答えは明らかだった。だが、源吾郎は小さく頷いて口を開いたのだった。

 

「うん。まぁそういう事になるんだろうな。あの日からずっと米田さんの事は気になってたんだよ。でも職場も違うし住んでる場所も違うから、あんまり会う機会も無かったし……そもそも向こうはまだ俺を仔狐扱いしてるっぽいんだよな」

 

 それでも何とか連絡先をゲットする事は出来た。源吾郎ははにかみつつそう言い添えていた。自分から吹っ掛けたとはいえ、源吾郎の態度を見ているうちに少し気の毒になってしまった。

 

「米田さんか……まぁ良いんじゃないの。先輩の事だからもっと可愛い系のお嬢様を引っかけるかと思ってたけれど。まぁでも先輩も野望とか血統とか出自とかあるし、そう言う意味では米田さんは先輩と釣り合うんじゃないかな。色々と実戦経験もあるし、肝も据わってて芯の強そうなお方だしさ」

 

 雪羽の言葉に源吾郎の顔があからさまにほころぶ。実に判りやすい反応である。というか好きな娘が出来て舞い上がっているのが見え見えだった。

 雪羽はだから、その道の先達(?)として助言を与えたくなってもいた。

 

「島崎先輩。今回は連絡先を貰ったって事で安心してるみたいだけど、適宜に押して好意をアピールしないと駄目っすよ。今のままだったら可愛い仔狐ちゃんで終わっちゃいそうだし。まぁその……向こうに彼氏とか亭主とかいないかどうか探ってみて、フリーだったらそれとなく想いを伝えないと進展しないと思うよ、俺は」

「やっぱりそうだよな……」

 

 雪羽の言葉に、源吾郎はしおらしく頷いていた。頷きつつも、その顔には何故か思いつめたような表情が浮かんでいた。

 

「まぁ、ちょっとずつやってみるよ。ドスケベの雷園寺君と違って俺はそっち方面には不慣れだからさ。それにほら、俺ってまだ社会妖《しゃかいじん》一年目だろ? 米田さんの方が明らかに甲斐性はありそうだけど、流石にまだ結婚は早いかなと思うんだ……」

「結婚って流石に話が飛躍し過ぎやろ。というかしれっと俺をドスケベ呼ばわりしよって!」

 

 雪羽は思わずツッコミを入れた。妙に生真面目な奴め。そう思いつつも実の所そんなに腹は立っていない。むしろ何故か愉快な気分だった。源吾郎にもそんな気持ちが伝わったらしく、すまんすまんと言いながら笑っている。

 笑いあっているうちに、雪羽も少し元気になった気がした。笑いが免疫に良いという話が人間社会にあるらしいので、もしかしたら実際に元気になったのかもしれない。

 

 

 二人が元気を取り戻し、ついで興奮が静まった所を見計らい、雪羽は目覚めてから見聞きした事を源吾郎に伝えた。伝えるべき事は多岐に渡っていたが、やはりどうしても時雨たち兄妹や松子の今後についての話が大半を占めていた。主犯の蛇男がこじらせたストーカーだった事よりも、やはり時雨たちやその付き妖だった松子がどうなるかについて、雪羽自身が強い関心を抱いていたからに他ならない。

 それに雪羽は、時雨の言動について源吾郎に是非とも質問したい事柄があったのだ。

 

「とりあえず、時雨君と深雪ちゃんが無事でよかったなぁ」

 

 源吾郎はそう言ってぐっと口をつぐんだ。時雨たちの無事を喜んでいる事には違いない。しかしそれ以上に色々と思う事があり、それをぐっと押し込めようとしているみたいだった。幼い子供が巻き込まれた事件に対する憤慨、雪羽が重傷を負ってしまった事への心配。そんな思いが彼の中にあるのだろう。

 

「まぁその……なし崩し的に時雨たちには俺が異母兄である事は解ってしまったんだよ。もっとも、本家で居候扱いされていた穂村たちも、今日から居候じゃなくて現当主の子供たちって言う扱いに戻るらしいんだけど。それが良い事だったと言えるのかなぁ……そもそもあいつらが穂村たちをそんな扱いをする事がいけなかったわけだし」

 

 雪羽は遠くを見やり、雷園寺家に想いを馳せていた。事件は一段落したが、むしろ時雨たちや穂村たちにとっては()()()()が大変なのだ。長兄として雪羽がその辺を取りまとめたい気持ちはある。しかし三國の許に引き取られた彼は今や部外者なのだ。

 まぁその辺も大人たちに任せるとしよう。そう思い直した雪羽は、思い切って源吾郎に疑問をぶつけてみた。

 

「そんな訳で島崎先輩。俺が時雨を助ける事が出来たのは、『どうしても時雨を助ける』って言う思いが強かったかららしいんだ。その時に、俺の妖気が時雨の中に入って、それでいい感じに悪いモノを駆逐して時雨の弱った身体を回復させたんだよな。

 でも、一つだけ気がかりな事があるんだ」

 

 気がかりな事って? 不思議そうに首をかしげる源吾郎に対し、雪羽は続けた。

 

「時雨のやつ、俺が異母兄だと解った上でめちゃくちゃ懐いてくるんだよ。前に深雪を探している時は頑張って大人っぽく振舞ってたのにさ、俺の前ではお兄ちゃん、お兄ちゃんって言って甘えてきたんだよ……」

「母親が違うとはいえ、弟に懐かれて甘えてきたんでしょ。雷園寺君も満更でもなかったんじゃないのかね」

「そりゃあまぁ嬉しいけどさ……俺ら雷園寺家の当主の座を狙って相争う身分だぞ。変に親愛の情が湧いたら、それはそれで辛い思いをするかもしれないしさ。

 それに時雨には俺の妖気が入り込んで、それでまぁ色々と作用があったんだ。あいつを生かすにはそうするしかなかったけれど、もしかしたら俺の妖気が時雨の心とか自我を上書きしたんじゃないか気が気じゃないんだ」

「要するに、雷園寺君が無意識のうちに洗脳とか心を操る術を使ってしまったんじゃないかって思ってるって事?」

 

 何故か微妙な表情を浮かべる源吾郎に対し、雪羽は力強く頷いた。

 

「時雨は怪我とか後遺症はないけれど、心の傷とかそんなんが残ってるからさ。さっきも言ったけど。事件の事も所々思い出せない所もあるし、()()とか()()()()()()()を過剰に怖がるとも言ってたし。だからその……」

「心配はいらないと思うよ、雷園寺君」

 

 思案と言葉を続ける雪羽に対し、源吾郎はやけにはっきりした調子で言ってのける。その顔にはいつの間にか笑みが浮かんでいた。

 

「俺は籠絡術とか専門外だけど、雷園寺君は弟にそんな術を掛けてしまった訳じゃないと思うよ。もしそうだとしたら、それこそ事件の記憶をさっぱり消してしまうとか、そんな感じになるんじゃないかと思うし。

 時雨君が雷園寺君にベタ甘えだったのは簡単な話さ。時雨君自体が長男で一番上だったから、()()()()()()が解らなかっただけだろう」

「甘え方の、加減……?」

 

 雪羽が繰り返すと、源吾郎はさも得意げに頷いた。

 

「雷園寺君もそうだけどさ、基本的に一番上は誰かに甘えるのが苦手なんだよ。下がいれば尚更ね。本人もお兄ちゃんだから、お姉ちゃんだからって言う気概を背負って生きているみたいなもんだし。日頃は弱みを見せずに生きようって思っちゃうんだろうね。

 それで、そうして日々暮らしているから、何処まで甘えていいのか、引き際とかを見極めるのがお兄ちゃん・お姉ちゃんには難しいんだろうね。そういう事もあって、時雨君がベタ甘えしているように思って戸惑ったのかもしれない。雷園寺君も元々はお兄ちゃんだった訳でしょ? 末っ子だった俺と違ってさ」

 

 兄弟の気質について、源吾郎はさも生き生きした調子で語っている。思いがけぬ仮説であるが、雪羽にも思い当たる節はあるにはあった。源吾郎は妖《ひと》が甘える心理に妙に詳しそうだし、何より()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()からだ。

 

「末っ子とか、そうでなくても兄姉がいる場合はまた話が違うんだけどね。上がいるとどうしても構われたり甘やかされたりする事が多いから、どういう時に誰に甘えればいいかとか、そう言う判断が本能的に出来るようになるんだよ」

「甘えるタイミングの見極めか。先輩はそんなのめっちゃ得意だもんなぁ」

 

 雪羽が言うと、源吾郎は眼鏡の位置を治しながら明るく笑った。ともあれ時雨のベタ甘えの謎も判明し、雪羽としてはまたしても安心した所でもある。




 長男・長女は甘えるのが下手で、末っ子は甘え上手なんですよね(ド偏見)
 そんな訳で源吾郎君は甘え上手ですが……実はあまり甘えん坊でも無かったりします。


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百鬼夜行はオフィスの中で

 雷園寺時雨拉致事件解決から二日後。雉鶏精一派本部の会議室に大妖怪たちが集まっていた。八頭衆と呼ばれる幹部クラスの妖怪たちの大部分とその重臣・側近に相当する妖怪である。更にそれらのメンバーに加え、頭目である胡琉安も出席者の一人だった。

 この度の議題のメインはあくまでも雷園寺時雨一行救出作戦の顛末と反省会である。しかしそれらの内容を語るにあたり、どうしても胡琉安――雉鶏精一派のトップであり胡喜媚の孫である――に耳に入れて貰いたい事柄があったのだ。欲を言えば、その上で彼の意見も欲しい所である。だからこそ、救出作戦に直接関係の無い幹部たちも共に居並んでいる訳でもある。

 そうした事もあって、会議室の内部は張りつめた空気で充満していた。八頭衆はいずれも大妖怪揃いである。その上曲者揃いでもあり、互いに友好的とも言い難い。議題の重さも相まって、こうした空気になるのは致し方なかろう。 

 

「――皆様、これでお揃いでしょうか」

 

 各々の指定席に腰を下ろす妖怪たちを確認し、今回の進行役が皆に声をかける。進行役は萩尾丸の隣席に控える豆狸の女性だ。狸というとひょうきんなイメージが先行するかもしれない。しかし彼女、今宮紅葉の実力と妖力は大妖怪に準じる。狸ゆえに戦闘自体は不得手らしいのだが、それでも若手の大天狗や鬼をあしらう事くらいは苦も無くやってのける。それにやはり術の行使や他の妖怪をまとめる統率力は目を瞠る物だった。

 彼女の襟元に縫い留められたバッジの中に描かれているのは、金色と五色の絢爛な姿の巨大な鳥。萩尾丸の部下の中でも最高位の『金翅鳥《こんじちょう》』に属する女傑、それも萩尾丸が最も信頼を置く部下でもあった。

 そしてこの度、雷園寺時雨の救出作戦に彼女も尽力したのは言うまでもない。

 

「本日は、第八幹部の三國様が欠席しております。そのため、私どもが代理で出席する所存でございます」

 

 一番下座で声を上げたのは、風生獣の春嵐だった。三國が今回の会議に出席できないのは萩尾丸はとうに解っていた。事件解決からわずか二日、甥である雪羽が目を覚ましてからまだ一日しか経っていないのだ。入院中の雪羽を妻と共に見舞いに行っているのかもしれないし、集まった親族たちと親族会議があるのかもしれない。

 それらの事があるからこそ、第八幹部の代わりとして春嵐が出席しているのだから。但し、彼は一人ではなく妖怪娘を一人ともなっていた。テンかイタチの妖怪だろう。もしかしたらはぐれ管狐かもしれない。春嵐も若い妖怪になるが、彼女はもっと若そうだ。それこそ萩尾丸が若妖怪として雇い入れるような年齢だろう。

 

「あの、彼女は私の補佐として連れてきました。書記を兼ねて貰うだけなんですけどね。前々から次世代の若手を育成しなければと思っていたのですが、これまで中々着手できなかったので……」

「そういう事ならば別に構いませんわ。大丈夫です、安心して会議に出席して下さい」

 

 若手の育成という言葉に喰い付いたのは案の定紅藤だった。萩尾丸はというと真面目に語る春嵐におかしさと一抹の哀愁を感じてもいた。トップである三國が若い妖怪であるがゆえに、春嵐はより若い妖怪たちを次世代として育成しなくてはと気負っているのだろう。何せあの組織の中では春嵐や三國、月華などは()()の妖怪になるのだから。百五十年生きた程度の()()()に過ぎない彼らが。

 また、今まで春嵐が若手妖怪の育成に手が回らなかった理由についても想像は付く。好き放題ヤンチャし放題の雪羽に手を焼いていたのだ。その雪羽は今萩尾丸が預かって再教育を施している。今まで浪費していたエネルギーを、他の妖怪の育成に回す事が出来るという訳だ。

 若妖怪の少女をちらと見やる。大妖怪たちが居並ぶ席上において多少緊張しているようには見える。しかし春嵐がわざわざ選抜して連れてきているのだ。だからきっと、彼女も才覚のある妖怪なのだろう。萩尾丸は静かにそう思った。

 

 

「――先程ですが、雷園寺家一行が無事に本家に到着したという連絡が入りました」

 

 灰高の連れてきた部下の報告で、一瞬だが空気が緩むのを感じた。救出作戦は時雨たちが無事に帰還した事で本当の意味で終了した事になる。そう言う意味で妖怪たちが安堵した。

 プロジェクターには幼獣の兄妹の画像が映し出されていた。時雨と深雪の兄妹である。両名とも人型と本来の姿の両方の画像が並んでいる。どちらの姿にせよ、時雨たち兄妹が幼い子供である事には変わりない。

 

「救出対象だった時雨君も深雪ちゃんも特に目立った外傷はありませんでした。昨日は精密検査も含めて入院していた訳ですが、二人とも特に異常は無かったため、退院できた次第です。もっとも――時雨君に関しましては、部分的な記憶障害と刃物やイタチに対する恐怖症を併発している訳ですが」

「子供があんな事件に巻き込まれた訳ですし、やはり心に傷を負ってしまうのは仕方ないですよね」

「可哀想な事ではありますが……そこは雷園寺家の方々にケアしていただく他ないでしょう」

「深雪さんの方はさておき、時雨さんは呪詛を、それも致死性のものを仕込まれていたんですよね? それでも特に異常が無かったなんて凄いですね」

「雷園寺雪羽殿が彼を死の淵から救ったんですよ。雷園寺家次期当主への執着ではなく、弟妹への情愛のなせる業です」

 

 時雨の容体について報告がなされると、妖怪たちはてんでに思った事を口にする。幹部クラスの妖怪たちが集まるとよく見られる光景だった。

 萩尾丸は黙って彼らの言葉に耳を傾けていた。脳裏には時雨の姿が浮かぶ。とりわけ鮮明だったのは、病室で雪羽と再会したときの姿だ。無邪気に甘える時雨とそれを受け止める雪羽。彼らの姿はまさしく仲睦まじい兄弟のそれだった。

 正直なところ、萩尾丸は複雑な心境だった。結果的に時雨と深雪が無事と言っていい状態になった事は無論喜ばしい事だ。だが、その結果に至るまでの事を思うと忸怩たる思いがこみ上げてならない。仕込みが行われる前に時雨たちを救出する計画だった。だがその計画は大いに狂い、そしてこの度の結果となったのである。

 八頭怪が……彼に与していた者がいた事。それこそが番狂わせの大きな要因だった。八頭怪とその眷属ならば致し方ないという者もいるかもしれない。しかしそれでは済まさない妖怪も八頭衆の中には存在するだろう。他ならぬ萩尾丸自身がそうだったからだ。

 

「雷園寺君が力を発揮して時雨君を救ったのは僥倖と言えるでしょう。ですが、そもそもそうせざるを得ない状況をもたらしたのは私どもの見通しの甘さによるものでもあります」

 

 萩尾丸の言葉には悔恨の念が籠っていた。それだけではなく、若干の恐怖だとか、他の幹部たち――特に灰高である――の様子を探るような思いや考えも入り混じっていた。

 会議室は先程までとは一転し、重々しい空気に包まれる。そう思っているのは萩尾丸だけかもしれないが。

 そんな中で一人の妖怪がゆるりと動いた。第一幹部の峰白は、口許にだけ笑みを作って萩尾丸を見据えていた。そうしてそのまま口を開いたのだ。

 

「萩尾丸。あなたの見通しの甘さとやらが引き起こした出来事について教えてくれるかしら?」

「はい。そちらに関しましてはレジュメを用意しておりまして――」

 

 自分も資料を手許に控えつつ、救出作戦の反省点について説明した。報告書と銘打っているものの、急ごしらえのお粗末な代物だった。あくまでも今回の会議のために用意した物であり、もちろん内容を精査してきちんと作り直すつもりでもある。

 今回の救出作戦において萩尾丸が犯したミスは二点である。まずは八頭怪の眷属が拉致に関与していた事を見落としてしまった事。そして、役者として用意した雷園寺雪羽を御する事が出来なかった事だ。

 誰も彼も真剣な面持ちで萩尾丸のミスに耳を傾けていた。萩尾丸自身も真剣だった。何故あんな事になってしまったのか。考えているうちにふとある考えが首をもたげる。獅子身中の虫。内通者が情報を改竄していたのではないか。

 だが、疑心暗鬼の考えを打ち破ったのはまたも峰白の言葉だった。

 

「八頭怪が関与していた事が解らなかったから、敵の情報を実際より楽観的に見積もってしまったのよねぇ……実際に情報を集めていたのは誰?」

「私です」

「私も両勢力の監視を行っていました」

 

 峰白の問いに、真琴と灰高はほぼ同時に即答した。灰高はあの時の会議で諜報員になって協力してくれていた。情報処理班に当たる真琴に関しては、青松丸の方から情報収集を要請していたらしい。

 峰白は二人とその側近などを眺めている。他の妖怪も二人に視線を向けている。

 そんな中、真琴と灰高は順に情報収集の方法やそれの弱点について説明した。峰白は適宜相槌を打ち、二人の情報収集のやり方が正当な物だった事を認めた。八頭怪やその眷属の介入で真偽があやふやになったのも致し方なし、と。

 

「……中には私を疑っている方もいらっしゃるかもしれませんね」

 

 内通者云々の疑惑について言及したのは灰高その妖だった。峰白や紅藤の視線をも受けつつも、彼の表情や口調は堂々としており揺るがない。自棄になって口にしたという気配は一切無かった。

 

「ですがよくお考えください。私は外部勢力と雉鶏精一派との均衡を保つ役割も担っているんですよ。その私どもが、どうして一大勢力である雷園寺家と対立するような行動をするでしょうか? 私どもももちろん、双方の被害が最小限になるように事件を収束させるのが目的でした。だからこそ情報を収集し、計画の立案に力添えしたのですよ。

 偽の情報を与えたとしても、雷園寺家の次期当主を危険にさらすだけで私どもにはメリットはありません。むしろ雷園寺家を敵に回す事になるでしょうから」

「そうよね。灰高はずぅっと外部勢力との調整を担っていたものね」

 

 峰白の言葉に萩尾丸も頷かざるを得なかった。萩尾丸もまた、雉鶏精一派に長い間所属している。だから灰高がどのような経緯で雉鶏精一派に参入したのか、どういったスタンスで動いているのかは萩尾丸もよく知っていた。

 それ故に、彼の今の言葉が嘘ではない事、信用するに値すると見做すほかないと判断したのだ。

 

「それで次は、雷園寺君を制御できなかった件になるわね。そっちの担当は……萩尾丸だったかしら」

「いかにも私です」

 

 峰白の視線を受け、萩尾丸は短い言葉で応じた。峰白は萩尾丸の顔を値踏みするように眺めまわしてから笑みを浮かべた。

 

「そうだったわよね萩尾丸。雷園寺君の事は、生誕祭直後から引き取ってあんたが面倒を見ていたもんね。それで、今回あの子を制御下に置く事が出来ず、負傷させてしまったのね」

 

 その通りです。一旦頷いてから萩尾丸は言葉を続けた。

 

「もちろんこちらでも制御できているつもりでした。興奮を鎮めるための符も渡しておきましたし、雷園寺君が時雨君を救出した直後も、結界を破るまでに時間がかかるから無理をしないようにと伝えました。どちらも無駄になってしまったんですがね」

 

 言いながら萩尾丸はため息をついた。雪羽には念話の一種で連絡を取っており、立ち向かわずに逃げろと一応命じてはいた。しかし雪羽はその命令には従わなかった。というよりも、萩尾丸がそうした連絡を投げかけている事に気付いていなかったのだ。興奮していたがために聞き逃したと思われる。或いは感覚器の遮断や調整を行う雷獣の機構が作用していたが故の失態でもあった。

 

「焦っていた事もあるでしょうけれど、文字通り天狗になっていたように私には思えるわ。萩尾丸。もしかしたらあんたは雷園寺君が自分の言うとおりに動いてくれると信じ切っていたんじゃあないの?」

「その事は……否定できません」

 

 峰白の問いかけに萩尾丸は頷いた。雪羽の再教育を請け負ってはや二ヶ月。ヤンチャな暴れん坊ながらも源吾郎などの影響で丸くなり、御しやすくなったと萩尾丸は思い込んでいたのだ。雷獣はその名の通り特に獣性を残す妖怪であるというのに。

 実を言えば、雪羽の再教育や日々の世話に萩尾丸はそれほど手を焼いていなかった。ヤンチャであると言われていた事は知っている。しかしかつて三國を再教育した事のある萩尾丸にしてみれば、雪羽は元気のいい仔猫みたいなものだった。引き取った雪羽はあの頃の三國よりも幼いものの、三國よりもお行儀が良くて賢かった。持て余し気味のエネルギーを仕事や戦闘訓練で上手く発散出来ていた、貴族妖怪の子息としての覚悟を抱いているのだと萩尾丸は勝手に納得してもいたのだ。

 その結果があの体たらくだった訳なのだが。

 

「――強い妖怪って言うのは本当に()()なものね」

 

 峰白は事もなげに言ってのける。強いだけの妖怪を辟易するきらいが彼女にはあった。突然変異的に妖怪として生れ落ち、幼い頃は後ろ盾のない雑魚妖怪として生き延びてきた過去が峰白にはある。それ故に強者へ向ける視線は手厳しい。

 

「雷園寺君もあの歳であの強さだから、自分が闘えばどうにかなるって思ったんでしょうね。退き際を見極めて逃げるべき時は逃げる判断をしなければ長生きできないのにね。まぁ、雷獣って強い連中はそんなのばっかりだけど。

 そして萩尾丸。あんたも強者の意識にいつの間にかシフトしたみたいね。自分は強いから、相手がきちんという事を聞く。無意識とはいえそう言う風に思っていたんじゃないの?」

 

 峰白の鋭い指摘に返す言葉も無かった。お姉様。若干切迫した紅藤の声が投げかけられる。

 

「安全教育に関しましては、今一度私どもの方で行います。今回は緊急での会議という事もありますし、対策書や報告書も後日萩尾丸に提出させます」

「まぁ、雷園寺君の監督は紅藤の管轄でしょ。私は単に強さに縋っている所が見え隠れしたからちょっと口を挟んだだけだしね」

「ご指導ありがとうございました、峰白のお姉様」

 

 口を閉ざした峰白に紅藤が一礼する。それから、彼女は萩尾丸に視線を向けて口を開いた。

 

「萩尾丸。そろそろ()()()()の話をなさったらいかが?」

 

 胡張安。胡喜媚の息子だった妖怪の名を、ごくごく自然な調子で紅藤は口に出したのだ。紅藤がマイペースで大雑把な性格の持ち主である事は萩尾丸も把握している。しかしだからと言って急に胡張安の名を引っ張り出すのはいささか性急であろう。何せ今まで雷園寺時雨の救出作戦について話していたのだから。

 もちろん周囲の妖怪たちは戸惑ってあれやこれやと話し合っている。胡張安を知る者と知らぬ者がこの会議室に混在していた。知っている者は驚きに顔を火照らせており、知らぬ者は無邪気に疑問を口にしている。

 彼らの戸惑いや驚きも無理からぬ話だ。だが、今回の救出作戦に胡張安が絡んだであろう事も事実なのだから致し方ない。

 急に話を振りますね。若干落ち着きを取り戻した萩尾丸がぼやく。紅藤はけろりとした表情で言い添えた。

 

「でもこの話に一番絡んでいるのは萩尾丸でしょ。それに、あなたの家にいるシロウさんが八頭怪の眷属だった鳥妖怪を喰い殺したからこそ、結界を破る事が出来たんですから」

「確かに九十九シロウがあの場で結界を操っていた鳥妖怪を斃して結界を破ったのは事実です。ですが、それは僕の功績だと言い張るつもりはありません」

 

 一言一句聞き取れるように萩尾丸はおのれの主張を口にした。九十九シロウという猫又が八頭怪に与する夜鷹を喰い殺し、強固な結界を破った。これは確かに事実である。それ故に手遅れになる事無く雷獣たちを保護できた事も事実である。

 しかし、それらの事柄をおのれの手柄にするつもりは萩尾丸には無かった。猫又のシロウは救出作戦のメンバーではなく、およそ()()()()()()()だったからだ。

 元よりシロウは萩尾丸の屋敷に居候しているだけである。萩尾丸の正式な部下でも使い魔でもない。しかもあるじを持たずに自由に生きる気質の強い猫又であるから、従わせようと思った事も特に無かった。シロウ自身も子孫にあたる地域猫を護るという彼なりの仕事を請け負っていたし。

 

「彼は単に僕の屋敷をねぐらの一つにしている猫又に過ぎません。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、彼は居候に過ぎず、そもそも僕の部下ですらないのです。従って彼があの場に現れたのも彼自身の意志であり、僕の指示や指揮で動いた訳でもありません。全くの偶然なのです」

 

 一段落したところで萩尾丸は呼吸を整え、それから今一度口を開いた。

 

「それから、胡張安様のお話に移りましょうか。先程猫又のシロウが夜鷹に奇襲を加えて結界を破ったという話を紅藤様からお聞きしたと思いますが、彼に()()()()()()()()()()()からこそ、あの奇襲は成功した物なのです。何せ我々でも破壊できぬ結界が張り巡らされていたんですからね。猫又であるシロウが潜り込む余地は無かったのです」

「その……胡張安、様が協力したというお話ですが、一体どういう事でしょうか」

 

 下座の方で疑問の声が上がる。質問を投げかけたのは春嵐の隣に座る妖怪娘だった。大妖怪たちが集まる中で緊張しているのだろう。十月だというのに額には汗が浮かんでいた。

 彼女を一瞥し、萩尾丸は言葉を続ける。

 

「胡張安様の母親は雉鶏精一派の初代頭目である胡喜媚様である事は皆様もご存じかと思われます。あのお方には()()()()()()()()()を具えていたと言われております。そしてその能力は、実の息子だった胡張安様にも受け継がれていたようなのです。

 胡張安様は恐らく、()()()()()()()()()()()し、それにより結界にほころびをもたらしたのだと僕は考えております。シロウはそのほころびの中に潜り込み、そうして敵を仕留めたのでしょう。胡張安様も八頭怪の実の甥にあたりますからね。八頭怪の使う術や、それを無効化する術を知っていてもおかしくは無いでしょう」

 

 ダメ押しとばかりに、萩尾丸は紅葉に命じて物的証拠を見せつけた。物的証拠とは現場に落ちていた数枚の鳥の羽である。後衛部隊として派遣された源吾郎が拾ったものだ。山鳥がどうと言われていた事が気にかかっていたのだと彼は証言していた。

 

「こちらの羽毛ですが、調査した所、胡張安様のものに相違ないという事でした。こうした証拠のために、胡張安様があの夜我々に関与したと判断しております。もっとも、その真意については不明ですが」

 

 胡張安は何のためにシロウに力を貸したのだろう。どよめきを聞きながら萩尾丸自身も静かに思っていた。胡喜媚の息子でありながら雉鶏精一派に嫌気がさして逃げ出した妖怪。それこそが胡張安である。だからこそ紅藤は息子として胡琉安を造り出し、頭目に据えたのだ。無論胡張安もその事は承知している。むしろ雉鶏精一派には干渉して欲しくないと公言していたくらいだ。全ては二百年前の事なのだが。

 胡張安様が味方になってくれるのではないか。どよめきの中でそのような声が上がるのを萩尾丸は聞いた。事はそう簡単な物では無かろう。萩尾丸は反射的にそう思った。何せ二百年にわたりこちらに尻尾を掴ませずに細々と活動していた妖怪なのだから。無論、萩尾丸も唐突な胡張安の動きは気になってはいるのだが。



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若妖怪 平穏あじわい社交の準備

「世の中平和が一番やなぁ」

 

 昼過ぎの研究センターの一室で、源吾郎がそんな事を呟いていた。昼休憩が終わって小一時間ほど経っている。次の中休みまでまだ時間はあるし、昼食が程よく消化されて眠気を誘う時間帯でもある。ついでに言えば雪羽たちを監督する大人妖怪たちもたまたま席を外している所だった。

 だからこそ、源吾郎も若干油断してそんな事を言ったのかもしれない。のんびりした気質を持ち合わせる源吾郎であるが、基本的には真面目で空気を読むのもそこそこ上手い。新入社員という身分であるから、上司や先輩たちの前では無駄口を叩かないように気を配っている素振りさえあった。しかし今は雪羽と源吾郎しかこの場にいない。だからこそ仕事とは無関係な事を口にしても大丈夫だと判断したのだろう。

 もっとも雪羽もそんなに理屈っぽい事を考えていた訳ではない。おっさんみたいな口調で放たれた源吾郎の言葉に、雪羽はただ無邪気に笑っていた。

 

「雷園寺君。何で笑うのさ」

 

 案の定というべきか、源吾郎がこちらを向いて問いかけた。若干怒ったような、むしろ困ったような表情を浮かべている。その表情を見た雪羽は不意に嬉しさがこみあげてきた。いつもの源吾郎だ。そんな事を思っていた。

 

「いやさ、平和が一番だなんて事を先輩が言うのが面白くってさ……島崎先輩は、本当は最強になって妖怪たちのトップに君臨したいんでしょ? これから色んな妖怪と闘って一番強いって証明しないといけないのかもしれないのに」

「平和は争いの後に作り上げる物だって、昔兄上から教えてもらった事があるんだよ、雷園寺君」

 

 からかい半分の雪羽の言葉に、源吾郎は即座に言い返す。真面目さを装いつつも若干ドヤ顔気味なのがやはり彼らしい。

 雪羽もうっすらながら知っている。源吾郎が玉藻御前に憧れて野望に取り憑かれている事を。人間として育つように教育されたにもかかわらず妖怪として()()()()()事も。野望とは裏腹に実際にはひどく穏和で平和主義な気質である事すらも。

 最強の妖怪として頂点に立つ事と、争いごとを好まず平和を好む事は源吾郎の中では矛盾なく成立しているのだろう。兄弟喧嘩も知らず、人間として暮らしていた時も特に問題事を起こさず暮らしていたというのだから。

 それに雪羽自身、源吾郎の案外平和を愛する気質は好ましく思ってもいた。彼なりに雪羽に対して親愛の情を示すのは、そうした性質によるものだろうから。

 そう思っている間にも源吾郎は言葉を続けた。

 

「それにだな、雷園寺君だって色々な事が落ち着いて良かったって内心では思ってるだろうに。弟さんたちはもう普段通りの暮らしに戻ってるだろうけどさ、俺も雷園寺君もちょっと前まで大変だったじゃないか。体力も妖力もあるからすぐに退院できたみたいだけど、その後は野次馬とかゴシップ好きの連中に囲まれたりしてさ……その事を思えば、平和な方が良いじゃないか」

 

 じっとりとした源吾郎の視線に雪羽は僅かに頷く。弟妹達の事を言われると雪羽は弱かった。彼は弟妹達――同父母弟妹であれ異母弟妹であれ――の平穏な暮らしを何より望んでいたのだから。それに、源吾郎がそのような事を言うのも無理からぬ話だと知っている。

 雷園寺時雨が拉致された事件からはや三週間。未だに慌ただしいながらも日々の暮らしは雪羽たちの許に戻り始めてもいた。結局のところ、雪羽は入院三日で退院できた。割合重傷だったものの、妖力が多いために回復が早かったためだ。退院後しばらくは三國の許に返され、そこから研究センターに通う日々が一週間ほど続いた。今は再び教育係である萩尾丸の許に戻っている。表面上は今まで通りの日々になっていた。

 死者を出さずに事件は解決したし、犯人は種族を問わず然るべき処罰を受ける事と相成った。とはいえ、事件の影響はあちこちで尾を引いていた。雷園寺家も雉鶏精一派も。

 雪羽も、事件の影響を色濃く受けた事は言うまでもない。退院する前から妖怪警察の面々から事情聴取を受け、彼らが退いたかと思うと妖怪社会のマスコミや記者に面白おかしく問いかけられる始末である。

 ダメ押しとばかりに工場に勤める工員たちも事件解決の話を聞き出そうと雪羽や源吾郎に群がって来てもいた。雷園寺時雨の拉致事件は、実は解決するまでは情報は秘匿されていた。下手に情報がリークして時雨たちの生命を脅かしてはならないからだろう。しかし時雨たちが保護されて安全が確保されると状況は一転した。雷園寺家の次期当主が拉致され、それを異母兄である雪羽の勇敢な動きで救出したという出来事は白日の下に明るみになってしまったのだ。既に事後と言えども、この事件が多くの一般妖怪や術者の人間が関心を寄せたのも致し方ない話だった。雷園寺家は関西の雷獣一族の中では名門として知られていたためだ。また、異母兄弟という雪羽たちの関係性やその背後で蠢く後継者争いなどもまた、暇な庶民連中の関心を集める助けになってもいた。

 当主の座を得られるという甘言を退け、ライバルになる筈の異母弟を助けた英雄。世間的に雪羽はそう思われているらしかったが、雪羽としては割合どうでも良い事だった。時雨たちを……弟妹達を死なせたくない。そうした個人的な思いで雪羽は動いただけに過ぎないのだから。雷園寺家次期当主の野望を抱えているとはいえ、それと時雨の救出を結び付ける群衆の動きに雪羽は内心辟易していた。

 それに何も知らない外野たちがああだこうだ言っているのに耳を傾ける余裕は、正直な所雪羽は持ち合わせていなかった。雷園寺家との正式な話し合いに向けて、雪羽たちも準備しなければならないからだ。

 雷園寺雪羽の身柄を確保している事を担保とし、雷園寺家とのパイプを構築する。そのような考えを打ち出したのは、幹部である灰高と萩尾丸だった。彼らにとっても、雪羽が雷園寺家の次期当主になる方が都合が良いのだ。雪羽は既に雉鶏精一派の傘下にある。その彼が雷園寺家の当主になれば、雷園寺家もまた自動的に雉鶏精一派の息がかかった勢力になるためだ。

 そして今回の事件もまた、雪羽を次期当主に推し進めるのに有利な()()になると萩尾丸たちは判断していた。発端から事件解決に至るまでの全てを精査すれば、雷園寺家の次期当主に()()()()()のは時雨では無くて()()()()()とゴリ押しが出来る。萩尾丸たちはそのように考えているらしかった。

 そもそも時雨が拉致されたのは、安全な本家から無断で(しかも事態が発覚しないように幻術を用いて多くの妖怪たちを混乱させた)家出し、外を出歩いていたからである。次期当主として婚約者さえ既に決まっている時雨の暮らしは確かに窮屈な物であろう。さりとて、その現実から目を逸らし従者と共謀して逃避行を行うというのは次期当主の器とは言えない行動であるらしい。

 一方の雪羽は、私利私欲を忘れある意味因縁の相手である時雨を助けようと尽力した。妖力は護符のお陰で戻ったものの、それでも妖力の過半数を消費して時雨の生命を救った事には変わりない。その行為は勇敢で誇らしい物である言っても過言ではない。特に勇猛さを誇る雷獣であれば喜ぶ内容に違いない――萩尾丸などは、具体的にそのような事を思っているらしかった。

 雷園寺家と交渉するにあたり、萩尾丸たちがそう言った内容で相手に揺さぶりをかける。正直な所雪羽にしてみれば気持ちのいい話では無かった。やっている事や吹聴しようとする話の内容はそれこそマスゴミ連中と変わらないのだから。

 しかしそれでも萩尾丸たちの動きに逆らえない事も雪羽は知っていた。雪羽自身がどう思っていたとしても、所詮は経験の浅い若妖怪に過ぎない。保護者たる三國さえ大人しく従う他ない大妖怪相手に、雪羽が逆らえる訳がなかった。それに雷園寺家の次期当主になるというのは雪羽の願いでもある。いびつな形とはいえ乗っかるのは悪い話でもないと言い聞かせていた。

 それに雪羽には自分の事以外にやりたい事、やらなければならない事を抱えてもいた。狸娘の松子の処遇についてである。彼女は拉致事件に巻き込まれた被害者に違いないが、時雨たちを引率していたという事で咎められる立場にもあったのだ。所謂監督不行き届きの咎があると。犯行グループの集団に騙されなければ拉致されなかったはず。そもそも時雨の脱走計画に乗らなければ恐ろしい事件に巻き込まれなかったのだ、と。

 松子にばかり責任を押し付けようとする当局の態度はどうにかならないのか。雪羽は密かにそう思っていた。彼女にも問題はあったのかもしれない。しかしあの日までうまく立ち回ってくれたからこそ、弟妹達の生命は繋がったのだ。松子を罰しようとする妖怪たちは何も知らないし何も見ていないのだ。必死の思いをこらえて色狂いのメスになり切った彼女の想いも、時雨たちを抱えて身を隠し、どうにか護り切った姿も。雪羽はだから、彼女の罪を軽くするために嘆願書をしたためてもいた。雪羽はあの時現場にいた妖怪の一人である。だから松子が何を感じ、なぜあのように振舞ったのかが解る。時雨たちを生かすために動いていた事も知っているのだから。

 萩尾丸の側近である化け狸、今宮紅葉が松子や雪羽の嘆願書の件に好意的なのがまだ救いだった。彼女によると、松子は徳島の蚊帳釣り狸の血を引いており、そこそこ才覚のある化け狸であるという事らしい。雪羽や源吾郎と比較はできないが、それでもある程度妖力を持っていたからこそ窮地を乗り切れたと、紅葉は冷静に考察していた。

 

 雪羽はあれこれ考えていたのを中断し、今一度源吾郎に向き直る。この度の事件に巻き込まれ、色々と苦労したのは源吾郎も同じ事だった。

 そして源吾郎は、雪羽が雷園寺家の次期当主にふさわしい存在である事を示すために利用されようとしている。その事を思うと急に申し訳なくなってきた。

 

「ん、どうしたの雷園寺君。急にごめんなんて言ってさ」

 

 源吾郎が不思議そうに目を丸くする。雪羽は思っていた事を口にしてしまったらしい。

 

「いやさ……今度先輩も俺と一緒に雷園寺家に行くでしょ? よく考えなくても、先輩も色々と()()()()()()()感じがして申し訳ないなって思ってさ。まぁ確かに九尾の狐みたいな大妖怪がバックに付いているっていうのはインパクトがあると思うよ。でも、俺は()()()()()で先輩と親しくしているんじゃあないし」

 

 この度の救出作戦には源吾郎も雪羽側の存在として参加していた。奇しくも同僚という立場になっていた訳であるが、やはり大妖怪の子孫である源吾郎が、雪羽の仲間にいるという事を印象付けたいという戦略があるにはあった。

 その事について源吾郎は何も言わないが、内心面白く思ってはいないだろうと雪羽は考えていた。穏和な言動の目立つ源吾郎であるが、その実プライドが高く気位の高い若者である事は雪羽も知っている。玉藻御前の子孫である。その看板を背負っている事への誇りと矜持を抱いている事もだ。元より雪羽は源吾郎が自分に平伏する事は有り得ないと知っていた。戦闘訓練を盛んに行っていたあの時、負け戦を重ねつつもなお、源吾郎の闘志は潰えなかったのだから。

 源吾郎はしかし、微笑んだまま静かに首を振った。

 

「良いよ雷園寺君。俺、その事は気にしてないからさ。俺の血統を利用しようとしているのは上の判断だって俺も判ってるし、大妖怪の子孫だったらそういう事も往々にしてあるだろうって思ってるからさ。

 それに三國さんと叔父たちもそもそも交流があったみたいだし、そう思えば俺たちも何だかんだで交流があるのは不自然じゃないと思うよ」

 

 一度言葉を切ると、源吾郎はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 

「最初は仕事上の付き合いだからしゃあないなって思ってたんだ。だけど、雷園寺君と気が合うって思うのは嘘じゃないよ」

 

 俺も。雪羽は半ば反射的に応じていた。短い言葉ながらも色々な思いを込めている。それが伝われば良いと思っていた。

 

 

 業者に作ってもらった名刺が源吾郎と雪羽の許に届いたのは夕刻になってからの事だった。雷園寺家への出張に間に合わせて作ったのは言うまでもない。もちろん、今後出張や外回りに使う事も考慮しての事だった。

 

「名刺交換のやり方もこれから教えるけれど、その前に記載内容に間違いが無いか確認するようにね」

 

 名刺交換のやり方について教授するのは萩尾丸の役割だった。やはり幹部であり営業マン的な業務をこなす彼であるから、名刺の扱いには慣れているのだろう。こなれた社会妖なら青松丸も該当するとは思うのだが。

 ちなみに、源吾郎と雪羽では新たに名刺が作られた理由は大きく異なっている。源吾郎は新入社員だったからまだ自分の名刺が無かったのだ。一方雪羽は三國の許で人事部長相当の役職を持っていた。従ってその時の名刺もあるのだが……萩尾丸の許で再教育されるに当たり、三國での職場の地位は剥奪されていたのだ。それ故にかつての名刺も使い物にならず、新たに作り直しと相成ったのだ。

 

「すごい、名刺があるだけで社会妖《しゃかいじん》って感じがするわ」

 

 源吾郎はケースに入った名刺を一枚取り出してあからさまにはしゃいでいる。年かさの兄姉がいるから名刺の事は知っているはずだ。それでも妖生初の自分の名刺を前に、ちょっと興奮したのかもしれない。

 雪羽も自分のケースに視線を落とす。三國の許で使っていたカラフルでギラギラしたデザインとは程遠い、殺風景と言えるほどにシンプルな名刺だ。職場名・名前・電話番号・メールアドレスが明朝体で記載された、白地の縦長の名刺である。

 源吾郎に倣って雪羽も一枚取り出す。「雷園寺 雪羽」という記載の上に何かが書かれてある。役職の無い源吾郎には記載されていない物だった。

 しかし雪羽の名刺に記されていたのは役職ではない。「()()()」という文字がフルネームのすぐ上に記されていたのだ。しかも所属は萩尾丸の組織ではなく紅藤の研究センターの方だ。

 確か俺の身柄って萩尾丸さんが預かってるんじゃあなかったっけ。そう思いながら雪羽は質問した。

 

「萩尾丸さん。僕の、研修生って言うのは何でしょうか?」

「雷園寺君は今、再教育の一環で研究センターで働いているでしょ? 年齢的にまだ若いし、新入社員とはちょっと違うから研修生って事にしているんだ」

 

 萩尾丸の返答に源吾郎が首を傾げ、臆せず質問を投げかける。

 

「確かあの時雷園寺君は萩尾丸先輩の秘書って言う扱いだって聞いたんですが」

「紅藤様がね、雷園寺君の身柄は研究センターに入れて欲しいって仰ったんだ。ははは、あのお方は僕の上司に当たる訳だから、あのお方のワガママは聞き入れる他ないんだよ」

 

 紅藤の発言をワガママと言いつつも、萩尾丸は何故か面白そうに笑っている。

 

「島崎君に雷園寺君。この際だから言っておくよ。紅藤様は実は雷園寺君に()()()()()()があるとお考えなんだ。雷園寺君は幾何とか電気工学とかそっちの方面に強くて……所謂理系肌みたいだしね。もちろん、島崎君を自分の配下として、研究員として迎え入れたのは事実さ。だけど他に適性のある妖を部下にしたいと思うのは人情なんじゃないかな」

「理系かぁ……確かに言われてみれば……」

 

 小声で呟く源吾郎の顔には、驚きと若干の悔しさが見え隠れしているようだった。




 実は雪羽君の方が源吾郎君よりも研究職としての適性は高い模様。
 がんばれ源吾郎君……!!


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幼獣うごめく会合の裏

 十一月初旬。とうとう雷園寺家と雉鶏精一派との話し合いの日が来てしまった。雷園寺家の次期当主は誰になるのか。今回の事件の功労者である雪羽の、雷園寺家での処遇について。これらが会合の内容そのものだった。

 会場は雷園寺家本家である事もまた言うまでもない。雪羽の身柄は叔父共々雉鶏精一派に属しているが、雉鶏精一派は雷園寺家から見たら外部勢力に過ぎないのだから。

 雉鶏精一派サイドでの出席者はそこそこ多かった。第二幹部・第四幹部・第六幹部・第八幹部の四つの勢力の中から出席者がいる位なのだから。当事者である雷園寺雪羽の出席は言うまでもない。彼の保護者として三國が、教育係として萩尾丸も今回の会合のメンバーに入っている。灰高の部下もちゃっかりメンバーの中に入っていたし、そもそも萩尾丸も三國もそれぞれ信用できる側近を伴っている訳でもある。

 そして、雷園寺雪羽には九尾の子孫が憑いている。その事を示すため()()に、源吾郎も出席者に含まれていた。地位的には新入社員の若妖怪であるにも関わらず。

 雪羽は言うまでもなく緊張していた。雷園寺家は雪羽の生家に違いないが、もうかれこれ三十年も足を踏み入れていない。三國の方針で彼らと連絡を取った事すらない。だから雷園寺家は、雪羽にとって既によその家と言っても同然の場所だった。

 しかもそこで、雷園寺家の次期当主についての重大な会合が開かれる。緊張するなという方が無理だった。孤軍奮闘するのではなく、身内や仲間――三國たちや教育係の萩尾丸、そして源吾郎だ――が傍に居る。それでも緊張しないかどうかとは別問題だった。

 

 

「先輩、先輩は()()()を頼まなかったんですか? 妖狐なのに」

「あれだぜ雷園寺君。妖狐が油揚げを好きって言うのはステロタイプだからな。出されたら食べるってレベルだからな、俺の油揚げへの執着は。むしろ唐揚げとか、マウスの天ぷらとかの方が俺は好きだけど。雷園寺君だってさ、雷獣の好物がトウモロコシだからってずぅっとトウモロコシばっかり食べてるわけじゃあなかろうに」

「いや、トウモロコシは俺的にいつでもイケるけど。プチプチ食べるのも癖になるし。言うてマウスの天ぷらも妖狐の好物なんでしょ?」

「あはは、まぁ違いないか」

 

 午前十一時半過ぎ。雷園寺家に訪問する前に立ち寄った妖怪向けの定食屋にて、雪羽と源吾郎は互いに注文した料理を見て二人で面白がっていた。雪羽はきつねうどんを注文し、源吾郎は肉うどんだったのだ。妖狐の好物と言ったら油揚げ、というイメージとは異なるであろう源吾郎のうどんのチョイスが雪羽に妙に面白く感じられたのだ。とはいえ、冷静に考えれば肉うどんというのも妖狐の好物になるのかもしれない。妖狐は狐と同じく肉食性の強い雑食であるのだから。妖狐の好物として有名なマウスの天ぷらは、源吾郎も週に一、二度作るほど好きだという事らしいし。

 ちなみに雪羽が甘いもの好きであるのは事実だ。もちろん肉類も育ち盛りの雪羽は好きであるが、今日は何となくきつねうどんの気分だった。抜けた牙も生えてきた事だし、多少熱い物も普段通り口にする事が出来るようになっていた。

 

「島崎君も雷園寺君も、結構可愛らしい物をランチで選んだね。まぁ金額的な意味だけど」

 

 雪羽たちとは対岸に位置する場所に腰かけていた萩尾丸がさも面白そうに声をかけてきた。雪羽と源吾郎をそれぞれ仔猫と仔狐だと思っている彼は、折に触れて彼らの可愛らしさを見つけ出そうと躍起になっている。それもある意味天狗の性なのかもしれないが、そう割り切れるほど雪羽もオトナになり切れていなかった。

 というかこの定食屋自体がリーズナブルな価格帯であろうし、そんな事を言っている萩尾丸は最も安価であろう素うどんを頼んでいる訳なのだが。刻みネギの盛り合わせを追加注文しているが――妖怪向けの定食屋なので、料理にはネギ類は混入していないのだ――、まさかそれを贅沢と言い張る事は無かろう。

 何と言ったら良いのだろうか。雪羽はちらと源吾郎に視線を向けた。彼は空腹に耐えきれないと言わんばかりの様子でうどんを食べ始めている。萩尾丸の発言には思う所はあるが、雪羽も源吾郎に倣う事にした。

 きつねうどんの上に鎮座する油揚げは、舌に絡まるような甘みと出しの風味が混ざり合い、何とも美味だった。

 洋服を汚さないように気を付けるんだよ。何処からか雪羽たちに注意の声がかかる。雷園寺家での大切な会合という事で、雪羽も源吾郎もきちんとスーツを着用していたのだ。源吾郎に至っては新品の一張羅らしく、むしろ服に着せられていると言った趣さえあるくらいだった。

 

 

「それにしても先輩、まさかこんな事になるなんてねぇ」

「うん。俺らが子供扱いされてる事はうっすら知ってたけどさ」

 

 雷園寺家の屋敷の一室で身を寄せる雪羽たちは、今置かれている状況に驚き、思わずぼやいてしまった。

 会合が始まって二十分も経たぬうちに、雪羽たちは子供らが待機する控室にそれとなく誘導されてしまったのだ。最初はもちろん雪羽も出席していた。雷園寺家の次期当主になりうる存在として紹介されていたし、この度時雨を救出した事も伝えられた。

 だが話が込み入った物になる手前でこの仕打ちである。腹は立たなかったが複雑な気分である事には違いない。

 控室にいる子供妖怪の数は二十名ばかりだった。面識があるかどうかすら解らないが、雪羽の親戚にあたる子供らであろう事だけは解った。雷園寺家サイドとして、本家はもとより分家の面々も集まっていたのだから。何らかの理由で子供も連れてきて、やはり会合への出席は難しいという事でここに集められたのだろう。

 子供ら同士では面識があるのだろう。小さなグループを作って遊んだり、用意されている菓子を手に取ったりとまぁまぁ自由に振舞っている。

 しかしそれでも雪羽に近付く子はいなかった。視線を感じるものの、源吾郎共々遠巻きにされているような感じだ。雪羽の置かれている状況、雪羽自身の強さ、そしてツレである源吾郎の存在。そうした物によって、親族たちは様子を窺っているだけに留まっているのだろう。集まっている親族たちは見る限り一尾ばかり。一方で雪羽は三尾だし、源吾郎に至っては四尾を具えている。()()()()ほど相対する妖怪の強さに()()だ。萩尾丸がそう言っていたのを雪羽は密かに思った。今はまさに、その言葉ががっちりと当てはまる状況ではないか。

 半ば晒し者となっている雪羽の傍らに控えるのは源吾郎だけだった。雪羽の強さを真正面から受けて怯まない、稀有な若妖怪。雪羽に立派な妖怪が憑いているという事を示すためだけに連行された彼は、しかし雪羽以上に落ち着いていた。

 

「何というか次期当主の話も色々込み入ってそうだもん。それに雉鶏精一派の方だってきちんと判断できる大人とか、雷園寺君の保護者も出席している訳だから、難しい話はそっちでやって欲しいって事だろうね。

 雷園寺君、何も次期当主云々の話は雷園寺君と君の弟さんだけで出来る話じゃないんだぜ。大人たちを前にして、雷園寺君が冷静に話し合えるかって言われたら難しいと思うよ。そりゃあ、俺だって同じだけど」

「……それにしても先輩、めっちゃ落ち着いてますやん」

 

 雪羽は思わず嘆息していた。そんな彼を見て、源吾郎はさも得意げな笑みを浮かべたのだ。

 

「ははは、俺が何年末っ子業をやってたと思うのさ。子供扱いされるのには慣れてるんだぜ俺はさ。というか、兄上たちなんかまだ俺の事は仔狐だって思ってるだろうし。こちとらもう就職したって言うのにさ」

 

 やっぱり先輩は末っ子だな。流石に口には出さないものの、雪羽はそう思わざるを得なかった。苛烈な野望を抱く半面、未熟者扱い・子供扱いを異様なほど自然に受け入れてしまう側面が源吾郎にはあった。恐らくはこれまでの境遇に起因するものなのだろう。年長の、しかも保護者並みに面倒見のいい兄などがいたのだろうから。

 

「まぁ、ここに集まってる雷獣たちも、親族たちの顔合わせみたいな事をしないといけないって事で大人たちに連れてこられたのかもね。顔合わせが、血縁とか妖脈《じんみゃく》に絡んだものが世渡りに重要だって事は俺たちだって知っている。若ければ余計にね。そうだろう雷園寺君?」

「そりゃそうだ」

 

 血縁やコネの類の重要さは、雪羽も源吾郎もよく心得ていた。むしろ貴族妖怪に連なる物として、平素からそれを利用している立場でさえある。雪羽は元々第八幹部の重臣として思うがままに振舞っていたし、源吾郎は玉藻御前の末裔だったからこそ、半妖ながらも紅藤の直弟子の座に収まったのだから。

 そうしたコネやコネがもたらす利益を他の妖怪たちも使うであろう事は明らかな話だ。雪羽の周囲には彼の血筋や能力に惹かれてオトモダチが集まって来ていたし、玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちもごまんといる。自称・玉藻御前の末裔たちの会合に源吾郎も招待されたそうだ。律義な源吾郎はこの申し出に少しの間逡巡し、しかし結局参加する事になったという。

 そんな事を考えていると、源吾郎が雪羽を軽くつついていた。

 

「とりあえず俺たちも俺たちで大人しく会合が終わるまでここで待つしかないよ。まぁその……俺も雷園寺君もカチッとしたスーツ姿だから滅茶苦茶浮いちゃってるけどさ」

「俺らが浮いてるのはそれ以外の要素もあると思うけど。まぁ別に良いか」

 

 雪羽がぼやいた直後、源吾郎が何かに気付いたのか小さく声を上げた。その視線は雪羽を外れ、控室の隅の方に向けられている。

 

「それよか雷園寺君。折角だし弟さんに会いに行けば? あの隅っこの、狸の子と一緒にいる子たちって、時雨君と深雪ちゃんじゃないの」

 

 源吾郎が指し示した方を見やり、雪羽は短く頷いた。彼の言う通り、時雨と深雪の姿がそこにはあった。雷園寺家の次期当主とその妹。この部屋の中では最高位の地位を誇るはずの雷獣の兄妹は、しかし敢えて部屋の隅に陣取っていたのだ。まさか他の子に追いやられた訳ではあるまい。状況から察するに、自分から進んであの場所に落ち着いたという感じだった。

 そして源吾郎の指摘通り、彼らの傍には化け狸が一人侍っている。松子ではない。時雨と同年代と思しき少年だった。付き人だった松子の処遇は、庭掃除への異動という事で決着がついた。もっとも、彼女もカウンセリングや精神的な療養が必要だったために、そもそも仕事どころでは無かったそうだが。

 

「そうだな。ちょっと時雨たちの所に行ってみるわ」

「俺もご一緒させていただくよ」

 

 雷獣の決断は稲妻のごとく素早い物だ。時雨の周りに余計な親族たちがいないから近寄ってみよう。雪羽はそのように思い、思った時には既に動き始めていたのだ。あの時は時雨の父母の横槍が入り、兄弟の交流は中断されてしまった。しかし今回はそのような事は起こりえない。何せ時雨の父母は今まさに会合に出席している最中なのだから。

 意気揚々と歩を進めた雪羽だったが、歩み始めたまさにその時、誰かが雪羽の方を叩いてきたのだ。

 誰が……いや源吾郎の仕業か。訝りながら振り返った雪羽の背後には、いつの間にか雷獣の少年少女が三人――少年が二人で少女が一人だ――控えていた。肩を叩いたのは鵺めいた風貌の少年だった。重たげな黒髪と赤褐色の瞳、そして鱗に覆われ爬虫類めいた様相を見せる足許や一尾が特徴的である。

 異母弟である時雨の許に向かう事も忘れ、雪羽は少年たちを凝視していた。長らく三國の許で暮らしていた雪羽は、雷園寺家の親族たちの顔をほとんど覚えていない。しかし、今彼の許に集まっている少年たちは()()だ。彼らは雪羽の弟妹、それも()()()()()()()()()()()()なのだから。

 

「久しぶりだね雪羽兄さん。こんなに早く会えるなんて嬉しいよ」

 

 鵺めいた風貌の実弟、雷園寺穂村(らいおんじほむら)はそう言ってほのかな笑みを見せたのだった。そしてその傍らには、弟妹の開成やミハルが控えていた。



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第九幕:血染めの白狐 災禍の犬神
雷園寺家の兄弟たち


 雷園寺雪羽、弟妹達と対峙する――!


 俺は雷園寺家の次期当主である。日頃所かまわずその事を公言する雪羽であるが、雷園寺家次期当主への執着が強まったのは、雷園寺家を出た()の事だった。先代当主の長子として生れ落ちてからずっと、雷園寺家の次期当主として育てられてきたにも関わらず、である。

 その事実を知った者は、あの頃の雪羽はまだ幼かったからだと思うようだった。もちろんそれも要因の一つだ。三國に抱えられて雷園寺家をあとにした雪羽は、まだ乳歯が抜け始めるかどうかという幼子に過ぎなかったのだから。

 だが――幼獣だった雪羽は、実は雷園寺家を放逐されたからこそ次期当主の座に執着したのだ。自分だけ雷園寺家をあとにし、弟妹達が雷園寺家に残される。その異様な状況こそが執着のきっかけだった。雪羽は弟妹達を護るために雷園寺家をあとにする事を受け入れた。だがその裏で、一人で()()を立てたのだ。死んだ母さんのために、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。薄汚い思惑を持つ大人共を払拭し、弟妹達と共に穏やかに過ごすのだ、と。

 従って、雷園寺家()()()()()()()()()()()への情愛は雪羽の中で一体化したものだった。だからこそ、雪羽は時雨を迷いなく救い出す事を決意したのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 さて実の弟妹である穂村たちに取り囲まれた雪羽は、苦々しい気まずさがこみ上げてくるのを感じていた。実の弟妹達に会える事は喜ばしい事ではある。しかしあの時の雪羽は、異母弟である時雨に会おうと思っており、いわば不意打ち的に穂村たちと顔を合わせたのだ。卑俗な言い方ではあるが、浮気相手の許へ向かう所を本妻に見られた男のような、そんな状況だと雪羽は思っていた。彼自身はそんな状況に陥った事は無いけれど。

 

「穂村……」

 

 すぐ下の弟の名を呼ぶおのれの声はやけにぼんやりとしていた。彼らの顔を見ているうちに、のうのうと異母弟に会おうとした事が悪い事のように思えてしまったのだ。血の濃さで言えば穂村たちの方が勝っている。ましてや彼らは雷園寺家現当主の子供であるという事を伏せられ、不当な扱いを受けていたのだから。時雨に対して不満や恨みを抱いていてもおかしくはない。

 そんな訳で雪羽はもじもじしていたのだ。正面に穂村が、左右を取り囲むように開成とミハルが控えている。記憶の中の彼らは幼子だったものの、今の彼らは自分より若干年下、下手をすれば同い年位の少年少女に見えた。彼らとの年齢差は小さく、末妹のミハルでさえ雪羽とは六歳差に過ぎない。百年近く生きてようやく大人と見做される妖怪にしてみれば、ある程度成長すれば十年未満の年齢差など小さなものである。雪羽たちは子供の部類に入ると言えども、それでも三十年以上は生きている。五年程度の年齢差は()()()に較べれば小さなものだ。

 それに穂村を筆頭に弟妹達は大人びてもいた。特に穂村は細身ながらもすっと背が伸びていたし、ミハルは女の子という事でおしゃまな感じを抱かせた。弟妹達の中で一番甘えん坊で気弱だった開成も、活発で好奇心旺盛な少年と言った風情を見せている。叔父の許で甘やかされて育った雪羽とは異なり、弟妹達は本家で半ば冷遇されつつも生き延びてきたのだろう。雪羽は疑わずそう思っていた。

 思えば雷園寺家次期当主という肩書や叔父に寵愛されることに目がくらみ、本来の目的を忘れていた時もあった。気まずさと共に雪羽の心中に羞恥心も滲む。それこそ、どの面を下げて会いに来たのかという話ではないか。

 

「あの、雷園寺雪羽さんのご弟妹ですよね?」

 

 逡巡している雪羽の傍らで声が上がる。ついでにふわふわしたものが足許に触れる感触もあった。声の主も、ふわふわの感触をもたらしたのも源吾郎だった。彼は雪羽よりも半歩ほど前に進み出ていた。邪魔にならないように縮めていた尻尾の一尾が細長く伸び、さも当然のように雪羽の足許に添えられている。

 ぼんやりする雪羽に替わって穂村たちに声をかけ、ついでに気付けとばかりに尻尾で雪羽をさすったのだろう。

 そう思っている間にも、源吾郎は動き始めていた。

 

「初めまして。僕は島崎源吾郎と申します。兄君である雷園寺雪羽さんとは職場で知り合いまして、今では互いに研鑽し、また幸運な事に友誼を結んだ間柄でもございます。ええ、僕自身は見ての通りの妖狐に過ぎませんが、この度は彼の付き添いとして同行した次第です」

「くぷふっ」

 

 営業マンもかくやという源吾郎の弁舌を聞いた雪羽は思わず吹き出してしまった。源吾郎には悪いが今の彼は何とも面白かったのだ。雪羽に対して話しかける源吾郎は、大体播州弁交じりの砕けた物言いである。こんな慇懃な物言いは先輩や上司が相手でも中々聞く事は出来ないだろう。

 しかし一方で、友誼を結んだという言葉は雪羽としても嬉しくあった。

 そんな事を思っている間に口を開いたのは穂村だった。彼の口許にも笑みが浮かんでいたが、驚きを押し隠そうとしているような笑みだった。

 

「島崎さん、妖狐に過ぎないなんてご謙遜を……僕たちもあなたの事はご存じなんですよ。玉藻御前の直系の子孫、それも特に強大な力を持つ存在なのですから」

「とはいえ見ての通り半妖なのですがね」

「むしろ半妖でこんだけ尻尾あるって逆に凄いと思うけどなぁ」

「島崎さんのお父さんってあの妖怪学者の島崎博士でしょ? 私、博士の本とかエッセイとか好きだから、その姿の方が親しみがあるの」

 

 穂村だけではなく、開成やミハルの関心も源吾郎にシフトしていた。玉藻御前の真なる末裔。その上半妖。更に人間である父親は術者ならずとも妖怪に多少は関わりのある人物。どれを取っても源吾郎は妖怪たちの関心を呼ぶ要素で構成された存在と言っても過言では無かろう。

 そして雪羽は、穂村たちが源吾郎に関心を向けつつも妖怪として若干警戒し様子を窺っている事も見抜いていた。雷獣の力に乏しい穂村は言うに及ばず、開成もミハルも普通に一尾しかない。既に三尾ある雪羽よりも()()()()()妖怪なのだ、弟妹達は。だが――生後五十年未満の若妖怪である事を踏まえれば、むしろ彼らの方が普通の妖怪なのだけど。繰り返すが、半世紀も生きていないのに二尾以上ある事自体が()()なのだ。だからこそ雪羽は危険視され、雷園寺家から体よく放逐されてもいた。

 また、穂村たちは源吾郎の事を一方的に知っているのだろう、とも雪羽は思った。島崎源吾郎の事は、妖怪たちの間でも既に有名になっていたのだから。玉藻御前の末裔という時点で耳目を集めてしまうのだ。半妖ながらも力が強く、しかも先祖と縁のある雉鶏精一派に就職したとあれば、注目せずにはいられないだろう。

 

「……さて皆さん。僕はちょっと軽食を取りに行きますね。折角の兄弟のご対面となった訳ですし、僕が変にでしゃばっても良くないですからね。

 そんな訳で雷園寺君、折角弟妹達に会えたんだから頑張りたまえ」

 

 源吾郎は気を利かせてこの場から離れようとしていた。最後に雪羽の肩に手を添えて声をかけてきたのだが、その時の言葉はちょっとおどけた雰囲気が出ておりいかにも彼らしい。

 ところが、源吾郎のみならず末弟の開成もまた動き出そうとしていた。若干慌てたような表情さえ見せながら。

 

「雪羽兄さんに島崎さん。おやつなら俺が取りに行くけれど。えへへ、実はさっきまで親戚の子たちのおやつ配りとか俺とミハルでやってたんだ。つい……いつもの癖でね」

「開成たちのやってた事は別にまぁ悪い事ではないと僕も思うよ。だけど僕らは今や雷園寺家現当主の子供だって事が明らかになっただろう。それなのに今まで通りに丁稚みたいな事をしていたら、却って分家の雷獣たちは戸惑っちゃうんじゃないかなぁ?」

「穂村兄ちゃんはそう言うけどさ、そんな風に割り切るのって難しいよ」

 

 いつの間にか穂村と開成の間でちょっとしたやり取りが始まっていた。どちらの言い分が正しいのか雪羽には解らない。穂村は慎重に物事を考えていて、開成は典型的な雷獣らしい考えだ。長兄である雪羽はそう思うのがやっとだった。雪羽も雷獣らしい雷獣、雷獣の中の雷獣だ。難しくあれこれ考えるのは苦手なのだ。

 

「本家の皆様も、お集まりのようですね……」

 

 そんな風に思っていると、傍らで誰かが雪羽たちに呼びかける。焼き菓子の微かな香りを漂わせながら。お菓子を運ぶという問題が、思わぬところで解決しようとしているのだと雪羽はこの時悟った。

 一人の雷獣が雪羽たちの許に近付き、人数分のお菓子を運んできてくれたのだ。自分は分家筋の雷獣に当たり、本家の子女たちに敬意を示すのは当然の事だ。そんな事を言いながら。

 分家筋と言われても、その雷獣が誰なのか雪羽には解らなかった。解ったのは相手の少年は自分よりもやや年上である事、二尾である事だけである。そこそこ力があってそこそこ賢い相手のようだった。

 彼が用意した盆は、当然のように開成が受け取っている。スイートポテトの類だったが、雷獣好みにトウモロコシの実が練り込まれている。

 

「あの妖《ひと》は誰?」

「時雨の従兄に当たる妖《ひと》だよ」

 

 雪羽の問いに穂村は即答する。時雨の、という所を殊更に強調していた。

 

「時雨の母親とあの妖《ひと》の親のどっちかが兄弟らしいんだ。僕たちは時雨の異母兄だけど、先代当主の実子だからないがしろに出来ないって判断したんだろうね。ふふふ、力もあって賢いなんて珍しいよ」

「…………」

 

 穂村の大人びた言葉に雪羽はしばし何も言えなかった。ともあれあの二尾の雷獣も雪羽たちの親族に違いない。その事しか雪羽には解らなかった。

 

 

 ともあれ一行は丁度良い一角を見つけて腰を下ろし、歓談する事となった。異母弟である時雨たちから若干遠ざかった場所に位置する事になったのは気のせいでは無かろう。

 穂村たちの視線はただただ雪羽に向けられている。ひたむきな眼差しだった。

 

「お前たちも大変だっただろう。ごめんな、兄ちゃんがふがいなくて」

 

 三十年ぶりの再会という事もあって言いたい事は色々あった。しかし思いがあり過ぎて却って言葉が出てこない。時雨の時と同じかそれ以上だった。だが色々な事が申し訳なく感じられた。弟妹達の辛苦に寄り添う事が出来なかった事。それどころかそんな事も忘れて増長し阿呆になりかけていた事。そうした事が申し訳なかったのだ。彼らを差し置いて真っ先に時雨に会いに行こうとした事すらも雪羽には後ろめたかった。

 穂村はゆっくりと首を振り、その面にほんのりと笑みを浮かべた。少し寂しげな笑みだった。

 

「僕らは大丈夫。父親の親族って事で雷園寺の血を引くとは思われていなかったけれど、それでもそんなに粗末には扱われなかったから。もしかしたら、先代の事を知っている妖たちも末端にはいたのかもしれないし」

「そうそう。俺らの事は穂村兄ちゃんの言うとおりだよ。まぁ、半分居候みたいな感じだったから、使用人たちと一緒に仕事とかするようになってたけどね。ちっちゃい時からそんな感じだったし、俺としてはそれが当たり前かなって思ってたから、そんなに苦じゃないよ。今は時雨君も、俺らが兄姉だって解ったみたいだし」

「時雨君は素直な良い子だったもんねぇ。私らは表立ってあの子らを弟扱いできなかったけど、いびられたりしなかっただけ幸せだと思うの。あの子、私らと歳も近いし力も強いから」

 

 そうだったんか。弟妹達の言葉を順に聞き、雪羽は感慨にふけっていた。不当な扱いを受けていたとはいえ、弟妹達はそれほど不幸や苦難を味わっていた訳ではない。そう思うと安心できた。一方で、これらが自己申告に過ぎず真相は明らかではないという所にモヤモヤしたものを抱きはしたが。

 

「それよりもさ、雪羽兄ちゃんの方こそ大変だったでしょ?」

 

 今度は開成が質問する番だった。心配そうにこちらを見つめる彼の顔は、昔の気弱な少年のそれだった。

 

「俺たちのためとはいえ、雪羽兄ちゃんは物騒な三國叔父さんに引き取られたんでしょ。あの妖《ひと》、ケチだしテロリスト予備軍だし怖い感じの妖《ひと》だって皆言ってたし……雪羽兄ちゃんこそ本当に大丈夫?」

「ケチでテロリスト予備軍とはえらい言いようだなぁ」

 

 呆れと笑いを交えて雪羽が言うと、開成は怯んで首をすくませていた。雷園寺家に残った穂村たちにしてみれば、三國は得体のしれない存在に思えるのも無理からぬ話なのかもしれない。雪羽は冷静にそう思っていた。三國も雷園寺家現当主の縁者である事には変わりない。しかしそれ以上に雷園寺家の面々とは疎遠だった。雪羽を引き取ってからは、意地になって雷園寺家と接触しなかったような気配すらあるくらいなのだから。

 反体制派だった事も親族たちと疎遠だったので子供らにお年玉とかを与えなかったのもまた事実だ。それにしてもその事実がこのように尾ひれが付いて伝わるとは。三國の恩寵を受ける雪羽としては複雑な心境だった。

 

「叔父貴……三國さんは良い妖《ひと》だよ。俺にも優しくしてくれるし。そりゃあ、お前たちと同じで最初は怖かったけどさ。あとケチでテロリスト予備軍とかっていうのはあくまでもデマだからな。叔父貴は雷園寺家と距離を置いていただけだし、今じゃあちゃんと組織勤めで真面目にやってるんだからさ。

 それに、今回だって時雨の救出作戦に積極的に参加してくれたんだぞ」

 

 しまった。時雨の事を口にしてから雪羽は思った。穂村たちは時雨の事について複雑な心境を抱いているに違いない。雷獣と言えど無神経が過ぎた発言だと雪羽は一人反省する。

 

「時雨君の事件、あれは本当に……俺らじゃあどうにもできなかったもんなぁ」

 

 雪羽の言葉にまず反応したのは開成だった。年長で兄らしく振舞う穂村が真っ先に何か言うだろうと思っていたから、雪羽は少し驚いた。

 

「雪羽兄ちゃんが直々に犯人たちに名指しされて、しかもあんな事をしろって言われるなんて……本当に怖いよなぁ。でも、俺らもまだ子供で、しかも雑魚妖怪だから現場に向かっても何もできないって言われたし」

「雑魚妖怪だなんて、俺はそんな事は思ってない!」

 

 開成の卑下するような言葉に、雪羽は即座に反応した。一尾しかない穂村たちの妖力は少なく、現時点では下級妖怪程度に過ぎないだろう。口さがない者であれば、確かに雑魚妖怪呼ばわりする者もいるかもしれない。しかし繰り返すがこれくらいの年齢であれば下級妖怪・弱小妖怪である事は何らおかしな事ではない。開成たちとてあと二百年もすれば立派な大人妖怪になる筈なのだから。

 

「雪羽兄さん」

 

 穂村が声を上げる。先程までとは異なり、妙に思いつめた表情を浮かべていた。雪羽も思わず真顔になる。この事件に関して、最も思う所がある存在であろう。雪羽はその事を知っている。雷園寺家の怨霊の話を聞かせ、異母弟にして次期当主である時雨を怖がらせたのは誰あろう穂村なのだから。

 彼の思い詰めた表情の裏には、後ろめたさと恐怖の色がありありと浮かんでいた。

 

「兄さんは時雨に会っているから色々な事を知ってると思う。僕が元々時雨の事をどう思っていたかについてもね。だから、だからそれを踏まえてはっきりと言うね。

 僕は……僕はどうしても時雨を弟として受け入れる事が出来なかったんだ。雷園寺家の次期当主にあいつがなるって事もね。僕は、雪羽兄さんにどうしても雷園寺家を継いで欲しかったから。時雨にあんな事を言って怖がらせたのも、そういう事だったんだ」

 

 ()()()()()()()()()。穂村は一呼吸おいてからそう言った。

 

「母さんが死んで雪羽兄さんも戻ってこなければ、僕は雷園寺家から不要な存在になるかもしれない。その事が一番怖かったんだよ。雪羽兄さんも、開成も、ミハルも知ってるだろ? 僕が単なる()()()()()だってね。雷園寺家の、本家の血を引きながらも雷獣の力をほとんど持っていないんだから」

「穂村……」

 

 雪羽は呟くのがやっとだった。すぐ下の弟がそんな事で悩んでいるとは思いもしなかったのだ。雷獣としての能力に乏しい事は、雪羽も本家にいた頃から知っていた。しかしまだあの頃は互いに幼く、それが深刻な事だとは思いもよらなかった。

 ましてや穂村は鵺に近く思慮深い気質の持ち主だ。だからこそ余計に思い悩むのかもしれない。何より穂村もまだ子供なのだ。いくら賢さ聡明さに恵まれようと、おのれを取り巻く環境をそんなものだと割り切るには幼すぎるのだ。

 

「雪羽兄さん。それでも僕はあの事件に関わってはいない。誓って言うし、警察にも調査されて身の潔白は証明してもらったからね。だけどこの事件は僕への()なのかもしれない。そう思えてならないんだ」

「穂村兄さん、また思いつめる悪い癖が出ちゃったね。しかも久々に会う雪羽兄さんの前で……」

 

 見かねたようにミハルが呟く。口調は若干蓮っ葉で、ある意味大人っぽい物言いでもあった。

 

「心配しないで雪羽兄さん。穂村兄さんはね、本当は雷園寺家の子供だって周囲に知られて喜んでいるの。雷園寺家の子供であるって事を利用できるってね。私も、利用できるものは利用したほうが良いかもって思うし……」

「ミハル、穂村。それってもしかして……」

 

 もしかして、穂村やミハルたちも雷園寺家の当主の座を狙っているのか。雪羽はそう思い、身構えた。驚きのために瞳孔が大きく見開いているかもしれない。

 そんな長兄を見やりながら、しかしミハルはゆっくりとかぶりを振る。

 

「ううん。私たちは当主の座は興味ないよ。ただ、やっぱり雷園寺家でずっと暮らすには窮屈だから、もう少ししたら独立しようって思ってるの。単なる雷獣ってだけだったらしんどいけど、雷園寺家現当主の子供って言う肩書があれば良いかなと思ってね」

「何だ、そういう事だったのか。穂村にミハル。そういう事なら俺とか叔父貴に相談してくれよな。何かあったら協力するぜ」

 

 雷園寺家の子供として認知された穂村たちは、やはりそれぞれ戸惑ったり抱える物があったりしていた。しかし明るい展望もあるにはある。そう思うと雪羽は兄として安堵し嬉しく思えるのだった。

 

 大人たちで進められた会合は三時間ばかり続いた。その結果、雪羽もまた雷園寺家の次期当主候補として認められたのだ。

 結局のところ、萩尾丸がかつて言っていたような事柄が本家にも通された形になったのだ。幼い時雨のプチ家出騒動と、雪羽のわが身をなげうっての救出劇。雷園寺家の子息だった雪羽は雷園寺家に貢献したという事で、雷園寺家の次期当主になる権限を与えられたのだ。

 一方で、時雨の振る舞いは雷園寺家次期当主らしからぬ身勝手な物であると判断されはした。とはいえその事だけで雷園寺家次期当主の座を剥奪されたわけでもない。まだ彼は幼いし、成長すれば次期当主に相応しいか否かはっきりするだろう。大人たちはそのように判断したのである。

 結局の所は、二人が成長したあかつきに決まる事となった。次期当主に相応しい存在になった方が雷園寺家を継ぐ。先延ばしのような雰囲気があるという者もいたが、雪羽としては満足しきりだった。正式に雷園寺家の次期当主候補になる事が出来たのだから。

 

「良かったじゃないか雷園寺君。願掛けなんざしなくても、実力で雷園寺家次期当主の椅子を抱え込む事が出来たんだからさ」

 

 萩尾丸の運転していた社用車に向かう道すがら、源吾郎はそう言って雪羽に笑いかけた。願掛けと言われ、雪羽はちょっとだけ不思議な気持ちになった。戦闘訓練で源吾郎に十回勝てば雷園寺家の当主になれる。雪羽は確かにそんな願掛けをしていたのだ。少し前に源吾郎に敗けて、その事でひどく落ち込んでもいたのだ。

 そうした過去の心の動きを思い出し、雪羽は明るく笑った。不確かなものに大事な物の願掛けをするんじゃあないよ。萩尾丸の忠告は、今なら素直にそうだと思えた。

 屋敷の駐車スペースに辿り着いた雪羽は、敷き詰められた砂利が踏みしめられる音を聞いた。ふと視線を向けると、雷獣の少年が同年代の狸妖怪を連れているではないか。雷園寺時雨とその付き妖になった楓太とかいう狸の子だ。結局控室では、雪羽は時雨に話しかける事は無かった。実の弟妹である穂村たちと話し込むのに夢中になっていたのだ。時雨は来なかったし、彼としても来づらい所だったのだろう。

 

「時雨じゃないか。どうしたんだ」

 

 雪羽は源吾郎に目配せしてから時雨に近付く。源吾郎が妖気を引っ込め、ついでに尻尾まで隠すのが見えた。入院していた時もそうだが、時雨はまたこっそり抜け出して雪羽の許にやって来たのだ。雷園寺家の屋敷だから妙な事は起こらないと思いたい。ついでに言えば今は源吾郎も傍に居る。有事の際は二人で切り抜けようとも思っていた。

 さて時雨はというと、近付いた雪羽を見上げてにっこりと微笑んだ。屈託のない子供の笑みである。

 

「雪羽お兄ちゃん。今日は親戚の人とかお兄ちゃんたちとかがいて話せなかったけど、また会えて嬉しいよ」

「うん、俺も……兄ちゃんも嬉しいよ」

 

 雪羽はそう言って時雨の頭をそっと撫でた。僕たち兄弟だからまた会えるよね。そりゃそうさ。そうでなくても雷園寺家の事で繋がってるんだからな。

 そんな事を話しているうちに、年若い雷獣がやって来て、時雨たちを屋敷に戻るように言いつけていた。時雨と同じく二尾で、あの時雪羽たちに軽食を持ってきた雷獣の若者だった。

 

「雪羽兄ちゃん、またね!」

「おう、また今度な時雨! 時間があったら一緒に遊ぼう、な!」

 

 去っていく時雨に手を振りながら雪羽は叫んだ。ここまで晴れやかな気持ちになるのは久しぶりの事だった。




 雪羽君、後々の事を思って異母弟の時雨君を突き放した方が良いのでは……と悩んだりしているんですが、結局弟が可愛すぎて「優しいお兄ちゃん」として接しそうですね。
 それはそうと実弟の穂村君はブラコン&ヤンデレをこじらせている模様。
 憧れのお兄ちゃんだから仕方ないね。


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ギャラリーの怪異

 のっけから流血描写注意です。


 十一月の落日は早い。もう既に中旬を通り過ぎ下旬に向かっているのだから尚更だろう。

 灰白色の壁に囲まれたギャラリーの中にも夜の訪れはもちろん来ていた。窓辺は作品の鑑賞に邪魔にならぬよう、人工物のツタが生きた植物のように絡んでいるかに見せかけてはいる。しかしその向こう側に広がるのは、青紫の夜空である。

 

「ふぁ……」

 

 人気のないギャラリーでその画家は誰はばかる事無く欠伸をした。通常このギャラリーは夜の八時まで営業している。しかし今日は展示物の入れ替えという事もあり、夕方の早い段階で店じまいを行っていた。

 今日まで動物を使った展示を行っていた造形作家は早々に片づけを終え、アシスタントや作品たちと共に既にギャラリーを去っていた。従って今欠伸をした画家は、明日から作品たちを展示する画家になる。

 欠伸などしてはいたものの、実際にはギャラリーに声がかかった事について誇らしさと喜びとを半々の分量で抱いていた。何せ若くしてギャラリーデビューを果たす事が出来たのだから。

 彼は今月二十一になったばかり。現役の美大生だったのだ。門外漢たちは詳しく知らぬだろうが、芸術家の道は険しい。芸術を志す者は概ね美大や芸大に通う。しかし美大や芸大を出たからと言って芸術家に慣れるわけではない。デザイナーやイラストレーターなどと言った所で手を打つ者の方が多いのだから。ひな鳥どころか卵レベルである美大生がギャラリーから直々に声がかかる事などは一層珍しい事だ。

 だからこそ彼はこのギャラリーの懐の深さというのを感じてもいた。芸術の形は無数にある。その事は彼もギャラリーのあるじも承知している。しかし今日まで展示していた造形作家と自分のジャンルの違いを思うと頭がくらくらするような思いだった。

 造形作家が気合を入れて、過去作から最新作まで陳列していたから余計にそう思ったのだろう。初めは彫像だったのに、フェルト細工や針金細工、果ては()()()()()()()()()()()()()()()動物を表現しようとしていたのだから。芸術の深みにはまった者、それも多芸多様な表現法を持つ者らしい展示群だと彼は若いながらも思っていた。

 彼自身が抱く作品たちは、キャンバスにアクリルガッシュで描いた抽象画に過ぎないのだから。強いて言うならば、愛犬の抜け毛を使った筆を一部使用しているという事だろうか。あの頃は道具も自作でこしらえたいという妙なこだわりを発動していた時でもあった。とはいえ、犬筆である事は特にアピールポイントではないのだけど。

 靴音が聞こえたかと思うと、誰かが展示室に入ってきた。買い出しに行ったギャラリーのあるじが戻ってきたのだろう。まず彼はそう思った。だからこそ、何となく視線を向けた時に首をひねったのだ。

 さも当然のように押しかけて来たその若い男は、見覚えのない人物だったからだ。客として入り込んだのだろうか? しかしギャラリーの入り口には「準備中のため本日は閉店しました」とある筈だ。わざわざそれを無視して突入する輩がいるのだろうか。それに……男の佇まいや気配にただならぬものを画家は感じていた。

 

()()()()を知らぬか、そこの人間よ」

「な、何を言って……」

 

 その言葉が男へ向けた問いかけなのか、単なる独り言だったのか。若き画家には解らなかった。男が臆せず刃物を懐から取り出したのだから。もはやそれどころでは無かった。

 文化包丁の濁った輝きに画家はたじろぎ、後ずさる。壁にかけようとした作品が音を立てて倒れていく。

 それから――大理石の床に鮮血が飛び散った。



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世間話は事件の香り

 十一月も下旬に差し掛かった土曜日。源吾郎はちょっとした手土産を携えて庄三郎の活動拠点であるアトリエに訪れていた。

 

「やあ源吾郎。君からこっちに来るなんて珍しいね」

「いや……まぁ兄様はあんまり外に出るのは好きじゃないだろ? だから時には俺の方から遊びに来ても良いかなって思ってさ」

「そっか。わざわざ気遣ってくれるなんて、源吾郎も大きくなったね。さ、上がって。いつも通りゴチャゴチャした所で悪いけど」

 

 大丈夫、ケーキも持ってきたし。源吾郎は紙袋を提げた右手を軽く上下させて応じた。庄三郎の動きとともに、アトリエの内部に籠っていた匂いが漂ってくる。アクリル絵具と、メディウムとかいう溶剤のツンとくる匂いだ。常人よりも嗅覚の鋭い源吾郎はこれらの匂いをばっちり嗅ぎ取ってはいた。しかしこれでも、庄三郎は源吾郎が来ても良いように配慮してくれていたらしい。換気して少しでも絵具類の匂いを外に追い出そうとしている事もまた、空気の流れや匂いで解ったのだから。

 画家、特に油絵具を使う類の画家もまた、ガソリンのような臭気に慣れ、あまつさえそこで食事を摂る事に疑問を抱かなくなるという。庄三郎はそこまで極端では無かろうが、それに近い所が見え隠れしているように源吾郎には思えた。

 

「それにしても今日はどうしたの? 僕の所に足を運ぶなんてさ」

 

 さてそうこうしているうちに、庄三郎と源吾郎はリビングらしき場所に辿り着いた。来客を予期していないであろうローテーブルの上は雑然としていた。食べ終わったカップ麺の残骸が割りばしと共にあり、その隣には絵具が混ざり合って濁った色水を貯える味噌容器が当然のように鎮座している。庄三郎は気だるげに、しかし慣れた手つきでそれを隅に追いやっていた。

 源吾郎は無言で紙袋をテーブルの上に置く。

 

「どうって……ちょっと兄上に会いたくなったんだ。それだけだよ」

「それなら真っ先に宗一郎兄さんに会った方が良かったかもね。宗一郎兄さんは、ずっと僕らの事を色々と気にかけてるし」

「年末休みには実家に戻るから、その時で良いかなって思ってるんだ。それに宗一郎兄様の方は、週に二、三度は連絡してくるしさぁ」

 

 源吾郎が急に兄に会いたくなったのは、雪羽の存在や彼に絡む事柄が原因だった。元より雪羽からは「先輩は親兄弟と距離を置き過ぎだ」「先輩の所は家族の仲が好いんだから、会いに行った方が良い」などという事を折に触れて言われていた。彼の主張が世間的にも正論である事も、雪羽の境遇も源吾郎は知っているし理解してはいる。しかし内心ではクドクドと繰り返される彼の主張を煙たく思ってもいたのだ。そもそも自分と雪羽とでは境遇が違うのだから、と。しかしその考えが変わる出来事があった。

 色々あって雪羽の付き添いとして雷園寺家に赴いた。そこで雪羽が弟妹達と再会し、打ち解ける様を目の当たりにしたのだ。あの時の雪羽の幸せそうな姿は、源吾郎の心に鮮明に焼き付いていた。

 やっぱり兄弟って良い物だな。雪羽と彼の弟妹達の姿を見た源吾郎はそう思い直し、急に兄らが恋しくなったのだ。実に単純な話であるが。敢えて庄三郎に会いに行ったのも自分で考えての事だった。長兄の宗一郎とは何だかんだ言いつつも連絡を取り合っているし、姉の双葉には盆休みに顔を合わせたばかりだ。また誠二郎は妖怪の社会から完全に距離を置いている訳だし。何より庄三郎の良い所は、他の兄姉たちに較べて源吾郎への小言が格段に少ない所だ。庄三郎の持つ末っ子気質の強さ故の事だった。兄姉たちからは庄三郎は年長の方の末っ子と呼ばれてもいた。

 

「年末に戻って来るんだったら、母さんたちも安心するだろうねぇ。源吾郎、仕事の方は順調なのかな? 友達は出来た?」

「うん。色々あって研究センターに研修に来ている子と仲良くなれたよ。雷園寺って言う雷獣の男子だけど……庄三郎兄様は知ってたっけ?」

 

 友達。その言葉で真っ先に浮かんだのはやはり雪羽だった。就職してから源吾郎が知り合いになった妖怪たちは他にもいる。萩尾丸の部下で、尚且つ同族にあたる珠彦や文明などがそうだ。しかし、そうした若狐たちよりも雪羽の方が親しくて近しい存在なのだ。種族も完全に異なり、しかもファーストコンタクトは変態・ドスケベと言い合ったほどに最悪だったにも関わらず。

 萩尾丸たちは、源吾郎たちの関係性が良好な物に落ち着くのを見越していたのかどうかは解らない。初めからそうなると解っていたと言外に告げているようにも見えたし、予想以上に仲良くなった事に驚いているようにも感じられた。

 ともあれ源吾郎は雪羽の名を挙げ、知っているかどうか尋ねたのだ。数か月前に雪羽は庄三郎に会ったと話していた。しかし庄三郎は他者への関心が極度に薄い所があるので、雪羽の事を忘れている可能性もあると思っての事だ。

 

「雷園寺君でしょ。雷獣のお坊ちゃんのさ。うん、あの子の事は覚えてるし知ってるよ」

 

 庄三郎は割合はっきりした口調で応じた。その事に若干面食らっている間にも、彼は言葉を続ける。頬を緩め、何となく嬉しそうな表情で。

 

「あの子も芸術家気質だろうね。一目見てそう思ったよ。きっと絵筆を持たせたらいい物を作りそうだってね」

「た、確かに雷園寺君は絵が上手だよ。何でも、雷獣だから物の距離感を測るのが上手で、そのお陰で絵も上手なんだろうね」

 

 蛇の道は蛇。兄の言葉に源吾郎はそんな事をふと思った。オタクにしろ芸術家にしろ、同好の士を見抜く嗅覚は優れているのだ。雪羽が絵心を具え手先が器用な事も、彼自身芸術に多少の興味がある事は事実である。

 しかしそこで妖《ひと》を判断するとはいかにも兄らしい。無邪気にそんな事を思った源吾郎は、庄三郎が真顔になったのにすぐに気付かなかった。

 

「それにね源吾郎。あの子はこの前起きた大事件の当事者だって報じられてたじゃないか。大変な事件だったんでしょ? 雷園寺って言うのもどうやら雷獣の名家という事らしいしさ」

「庄三郎兄様、どうしてその事を――?」

 

 源吾郎は眉を上げ、驚愕に目を見開いた。雷園寺家が絡む大事件と言えば、雷園寺家の次期当主が拉致され、あまつさえ殺されかけたあの事件である。次期当主の異母兄で雷園寺家に執着する雪羽があの事件に巻き込まれたのは言うまでもない。犯行グループは雪羽の雷園寺家次期当主への執着を餌に、異母弟を殺させようとしたのだから。

 幸いにも死者を出さずに事件は解決したが……妖怪社会に衝撃を残す事件として大々的に報じられたのは言うまでもない。上流階級である貴族妖怪の間に生じた大事件であり、尚且つ昼ドラ的醜聞(スキャンダル)をも孕んでいたのだから。

 しかしそれは妖怪社会の中での話だった。妖怪の存在を知らず、妖怪に関わらない(と思っている)()()()()()()()()この事件は全くもって()()されている事柄のはずだった。せいぜい、違法なビデオを撮影しようとしていた人間たちが、その現場で逮捕された、現場である廃工場は()()()()()火の不始末で()()が起きてしまった。そのような、何という事の無い(?)事件に置き換えられているはずだった。

 ()()()()()、庄三郎が雷園寺家次期当主拉致事件を知っていると知って驚き戸惑ったのだ。庄三郎は半妖であるものの、()()()()()暮らしていたからだ。オカルトライターとして妖怪の知り合いもいる長姉とは異なり、源吾郎の兄たちは三人とも人間としての生活を確立している。

 

「どうしてって、そりゃあ知り合いの妖怪の子に教えてもらったから知ってるんだ。ほら、僕だって一応半妖で、しかもご先祖様は玉藻御前でしょ? それに妖怪たちの中には人間として暮らしているヒトたちだって大勢いるし。僕や兄さんたちみたいにね」

「成程、そういう事だったのか」

 

 妖怪に教えてもらったのならば知っていても何もおかしな話ではない。源吾郎は素直にそう思っていた。庄三郎はそんな源吾郎に笑みを見せ、言葉を重ねる。

 

「そう言えば源吾郎、源吾郎もその事件現場に立ち会って、人質の救出とか犯人の捕縛に勤しんだんでしょ? 玉藻御前の末裔も救出部隊のメンバーにいて大活躍したってその子は教えてくれたんだけど……」

「大活躍だなんてとんでもない。それに兄上、あの事件の事はあんまり思い出したくないんだ」

 

 ケッタクソ悪い事件だったからね。忌々しさが募り、源吾郎の言葉には吐き捨てるような鋭さがあった。

 兄の前だから若干言葉は荒くなってしまった。だがあの事件が忌々しく、後味の悪さとやるせなさをもたらした事は真実だ。何せ幼い子供が事件に巻き込まれ、あまつさえ殺されそうになった事件だったのだ。被害者たちは命に別状はなかったものの、精神的なショックや傷を負った事には変わりない。雪羽に至っては暴行を受けて重傷を負ったのだから。雪羽自身は異母弟妹を救い、その上で手ずから犯人たちに制裁を加えられたから万々歳だなどと言っているが、源吾郎はそう思う事が出来なかった。

 とはいえ悪い事ばかりでもなかった。雪羽は念願かなって弟妹達との再会を果たし、ついで雷園寺家の次期当主になる権利を正式に与えられたのだ。弟妹達との交流と雷園寺家次期当主の座。同時に手に入れるのは難しいだろうと思われたものを雪羽はおのれの手で掴み取る事が出来た。その事は雪羽にとって喜ばしい事なのだろう――そもそもの発端である事件が起きたからこその結果だというのが皮肉な話ではあるが。

 ともあれ雪羽は、彼の内面はあの事件の前後で()()()()。活発でヤンチャな気質は今も健在だ。今まで露わにしたり醸し出したりしていた悪ガキめいた雰囲気が抜けきってしまったのだ。斜に構えたような気配もなく、言動の節々に毒気を感じる事も今はない。雪羽の内面は()()()()変わったのだ。もしかしたら、事件を前にして気を張っていた事への反動で、一過性のものなのかもしれないが。

 

「事件と言えば源吾郎。君も社会妖《しゃかいじん》として忙しいけれど、きちんと新聞に目を通したりニュースに耳を傾けたりしてるかい? 最近また物騒な事件が()()()であったけど、その事は知ってるかな」

 

 事件の話はうんざりだと言った所なのに、また事件の話を被せてきたな。源吾郎は内心辟易してしまった。だがそれを口にする事は無かった。庄三郎がやけに切羽詰まったような、いっそ弟に助けを求める様な表情を浮かべているように見えたからだ。

 物騒な事件の事は源吾郎も知っている。人間社会の方で起きた事件だ。色々とセンセーショナルすぎる要素が強いために、連日マスコミは報道していた。件の事件の報道には辟易していた源吾郎だったが、暇さえあれば報道しているのだからどうしても耳に入る。

 しかし――あの事件は近場ではないはずだが。

 

「雷園寺家の拉致事件がケッタクソ悪いって言った直後に、それを上回るほどケッタクソ悪い事件の話をするのはどうかと思うけど。庄三郎兄様、流石の俺でも怒るよ? というかあの事件はこの辺で起きた事件でもないしさ」

「僕が言いたいのはその事件じゃないよ源吾郎。思い違いをしたみたいだね」

 

 鼻息荒く言い放つ源吾郎に対し、庄三郎はため息交じりに応じた。それからテーブルの隅の小山をまさぐり、新聞の切れ端を源吾郎に突き付けた。「大学生」「通り魔」「軽傷」……名刺ほどの大きさの記事の見出しには、そうした単語が用いられていた。

 

「参之宮南部のギャラリーで、美大生の男の子が包丁で切りつけられる事件があったんだ」

「そんな事件が……!」

 

 源吾郎は思わず声を上げた。その事件については知らなかった。いや、もしかしたら報道されていたり記事になったりしたのを見聞きしたのかもしれないが、見落としていたのだろう。今一度新聞の見出しを見ると「通り魔か? 大学生が刃物で切りつけられ軽傷」とある。見出しを見る限り、犯人は捕まっておらず被害者である美大生の若者も一命を取り留めたのだろう。ニュースでは様々な出来事や事件をひっきりなしに報道している。そうした情報に押し流された事件なのかもしれなかった。

 

「芸術家が、それも庄三郎兄様の後輩かもしれない人が襲撃されたんだよな。そりゃあ、兄様が不安になっても仕方ないか」

「僕が心残りなのはそれだけじゃないんだ。もちろん、ケガをしたその子の事も気の毒に思っているけどね」

 

 源吾郎の呟きに、庄三郎は鋭く反応した。彼は一度瞬きして眼鏡の位置を調整すると、源吾郎を真正面から見据えた。

 

「率直に言おう。この事件は妖怪が絡んでいる。というか妖狐が犯人なんじゃないかと僕は思っているんだ。源吾郎、君が力を貸してくれればと僕は思っている。それが難しければ、話を聞くだけでも構わない。これからの話は、()()として、妖狐として聞いて欲しいんだ。

 知っての通り、僕は源吾郎ほど妖怪には詳しくない。だからその……何故妖狐が人間の若者を襲ったのか。その辺りの事を一緒に考えて欲しいんだ。ちゃんと知ってる事、僕が思った事は包み隠さず話すから」

 

 妖狐が人間を襲ったのかもしれない。庄三郎の思いがけぬ言葉に、源吾郎は驚いて目を丸くするほかなかった。



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狐の話術も年の功

 そう言えばここに来て妖怪退治をテーマにしているなと気付きました。


 邪悪な妖怪から無辜の民を護るために闘う退魔師たち。決定的に相容れぬ存在ゆえに対立する妖怪と人間。最近の物語ではそう言う傾向の話は減少しているようであるが……妖怪もの・妖怪退治ものではこうしたストーリーラインを構成している事がままある。

 ()()()()()()()、妖怪が人間を襲う事件は少ない。どちらかと言えば妖怪同士で相争う事の方が多いだろうし、そもそも妖怪同士での争いごとも、庶民妖怪であればそう多くはないはずだ。

 そもそも妖怪が邪悪という前提自体が間違っている。無論妖怪の中にも悪事を働く者もいる。しかしそれはその個体の心がけや行為によるものに過ぎない。妖怪は善とも悪ともつかぬ存在なのだ――より厳密に言えば、善も悪も心の中に具わっている存在だ。その辺りは実の所人間と変わりはない。人間たちと、違う種族同士では善悪の尺度は違っていたとしても。

 それに妖怪が種族的全体的に人間と敵対しているというのも正しくはない。妖怪というのは人間や普通の禽獣よりもはるかに強力な力を保有した生き物だ。仮に人間に敵意を抱く者ばかりであれば、人間はとうに滅ぼされているか、妖怪たちに隷属しているかのどちらかになるだろう。

 全体的に見れば、妖怪たちの人間への態度は中立に近い。人間の暮らしを利用しつつも深入りや介入は行わない。絶妙に無関心でそれでいてつかず離れずの距離を取る。それが妖怪たちの人間への関りだった。

 とはいえ、種族ごとでも人間への関わり方は微妙に異なってくる。より人間に無関心な種族、比較的人間に友好的な種族が存在するという事だ。

 例えば雪羽や三國のような雷獣は、人間に対する関心が薄い種族になる。元より雷獣は深山幽谷を住まいとし、時に天空を駆けて遊ぶ生き物だ。地べたで這いずるように暮らしている人間様とは住む世界が文字通り異なるのだ。各地で高位の神である事が多い雷神を崇拝している事もあり、彼らはまた気位も高かった。力の弱い人間への関心が薄いのも致し方ない事なのだろう。妖怪たちからは悪ガキの暴れん坊として恐れられていた雪羽も、実は人間への関心はかなり薄い。

 一方で、妖狐は化け狸らと並び特に人間に友好的な種族であった。妖狐と人間の関わりの深さについては、伝承や歴史を紐解くまでもない話だ。良くも悪くも人間と関わった話はごまんとあるのだから。稲荷神の使いとして、或いはごく普通の妖怪として、妖狐は割合人間の近くに在り続けた。もちろん中には人間に悪意を持つ個体もいるにはいる。だがそうした妖狐は少数派だと源吾郎は思っていた。

 

――何故そんな事をしたのか解らない。妖狐が人間を襲ったという事件に対する、源吾郎の率直な感想はそのような物だった。妖狐に限らず妖怪が人間を襲う。その原因となる要因として挙げられるものは複数ある。捕食のため、脅かすための手段の一つ、単なる反撃、そして――私怨や怒りによるものだ。少なくとも今回は捕食や脅かす事が目的では無かろう。人間を捕食する妖怪もそう多くはないし、捕食目的であれば軽傷では済まないだろう。また妖狐は変化術や結界術が得意な個体が多く、包丁を持ち出して脅かすなどという野暮な事はしない。

 やはり何かが、人間側に何かがあったのではないか。源吾郎はついそう思い始めていた。

 

「……ごめんね源吾郎。同族が人間を襲ったっていう話を聞くのはしんどいよね?」

「大丈夫だよ。妖狐だって悪さをした同族を喰い殺す事だってままあるんだからさ。同族だからとかそう言う贔屓はしないよ俺は。その狐が悪い事をしたかどうかが問題なんだから。とはいえ、色々と引っかかる事件ではあると思うな。そりゃあ、妖狐とて悪いやつとか人間に悪さをするやつだっているとは思う。だけど包丁を出して襲い掛かるなんて、妖狐らしくないし」

 

 源吾郎の言葉を聞いた庄三郎の瞳が、一瞬迷いに揺らいだ気がした。だがすぐに取り繕い、真意の解らぬ笑みを弟に見せた。魅了の力に呪われた、ある意味妖狐らしい微笑みである。

 

「実は僕も狙われる可能性があってね。だから源吾郎、前向きに検討してくれて嬉しいよ。犯人を取り押さえてどうにかするまでは荷が重くとも、君ならきっと僕たちを護ってくれるだろうって思ってるからさ」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ兄上!」

 

 ローテーブルが揺れ、味噌容器内部の濁った色水の表面が波立つ。妖狐が人間を襲った。その妖狐が自分も襲撃するかもしれない。提示された二つの事柄は脈絡が無く、それでいて衝撃的だった。源吾郎はだから戸惑って叫んだ。

 

「大事な事から話してくれているんだろうけれど、どうして兄上が襲撃されるって解るんだよ? やっぱり玉藻御前の末裔だから?」

「玉藻御前の末裔は関係ない。ただ……今度ちょっと大きなギャラリーに出席しないといけなくてね。そこでは色々な作家も集まって出展するんだけど、あの妖狐が殴り込みに来る可能性が高いんだ」

「そんな……そんな事が解ってるのに何でギャラリーに出ないといけないのさ? 兄上もさ、いつもなら十回に七回くらいは作品を出すだけだ顔を出したりしないのに」

 

 源吾郎は眉根を寄せ、庄三郎に疑問をぶつけていた。芸術家という職業上、庄三郎がギャラリーに作品を出展せねばならない事は源吾郎も知っている。だが普段は他人との交流を疎み、作品だけを出展して対応する事が多かった。出席しなければならないと言っているが、そもそも庄三郎がそのように気負う事自体も珍しい。

 しかも今回は、妖狐が襲撃するかもしれないという確証を彼なりに持っているにもかかわらず、である。

 

「付き合いというものが僕にもあるんだよ。君だって解るはずだ源吾郎。人脈とかコミュニティとの関りが大切だって事くらいはさ。そりゃあ僕も若かったから、そんなのに関わらなくても自分の絵の力だけで暮らせると思ってたよ。だけどまぁ……もう二十代も半ばだし、そんな青臭い考えで生きていける程あの業界は甘くないって悟ったんだ」

 

 庄三郎の言葉に源吾郎はぐうの音も出なかった。人脈やコネの類が重要な事、それで優遇される代わりに果たさねばならない義務がある事は源吾郎もよく知っている。何せ()()()が玉藻御前の末裔という最大のコネを使って妖怪社会を謳歌しているのだから。むしろ、縁故入社と言えど就職した源吾郎の方が、眼前の兄よりもそうした物には敏感なはずだ。

 それにさ。庄三郎はうっそりとした視線を源吾郎に向けた。こちらを見透かすような眼差しと、それでいて口許に浮かんだ笑みが印象的だった。

 

「源吾郎。君はたった今、一人の妖狐が美大生を襲い、そして今後も他の芸術家を襲うかもしれないって話を知ったんだ。君の言うように僕が出席しなければ僕の安全は確保されるだろうね。だけど……僕以外の誰かが襲撃されるかもしれない。源吾郎。その事を()()()上で何もしないという選択肢を君は()()()かな?」

 

 問いかける庄三郎の黒々とした瞳を見据えながら、源吾郎は舌打ちしたい気分になっていた。話を聞くだけで良いと言いながらも、源吾郎を誘導しようとしている意図を感じ取ったからだ。

 

「いつになく回りくどい言い方をするじゃないですか、兄上。自分たちが妖狐に襲われるのが嫌だから助けて欲しい。そう思っているなら素直にそう言えば良いじゃないか。

 庄三郎兄様は知ってると思うけど、別に俺は正義の味方なんてものを目指しちゃあいないし、人間の味方でもないよ。あ、でも初めから妖狐サイドの意見でも構わないって兄上も言ってたか」

 

 源吾郎も暴力とか痛ましい事件に心を痛める様な感性の持ち主ではある。しかし博愛の精神から見ず知らずの他者を助けるような考えは持ち合わせていない。正義の味方になるなどと言えば論外の話だ。何せ源吾郎の野望は世界征服だとか好みの女子を侍らすとかであり、むしろ()()()()物なのだから。

 というかそうした事は庄三郎も知っているはずだ。高校を卒業する前に、一緒に活動しないかと庄三郎に持ちかけた事もあった訳だし。あとでその事が発覚し、長兄である宗一郎にこってり絞られたのは苦い思い出でもある。

 

「うん。本当の事を言えば源吾郎に協力してもらえればと思ってるよ。だけど、今回の事件は単純に妖狐が悪さをして人を傷つけているっていう話じゃあないからね。源吾郎。君はきっとこれから僕が話す事を聞いて、戸惑ったり腹を立てたりするかもしれない。色々な話を受け止めるにはまだ若いし、感受性も強いだろうからさ……場合によっては協力したくないって言うかもしれないだろうし」

 

 とりあえず事件の内容や庄三郎が思っている事を教えてくれ。源吾郎はやや素っ気ない口調で言った。

 

「よく考えたら、俺はまだ美大生が襲われてケガをしたって話しか聞いてないんだ。判断材料が薄すぎるよ。話は全部聞く。俺が腹を立てるのかどうか、兄上の申し出を断るのかどうかはその後さ」

 

 源吾郎は言ってから、紙袋からカップケーキを取り出した。クリームやバターを使った濃厚な味わいの品である。話す前に甘い物でも口にしてお互い落ち着こうという腹積もりだった。

 ところが、庄三郎はカップケーキを一瞥すると気遣うような眼差しを源吾郎に向けた。

 

「源吾郎。君は話を聞いてからそのカップケーキを食べた方が良いと思う。正直な所気の悪くなる話だろうからさ」

 

 意味深な言葉に源吾郎は首をひねった。その間に庄三郎は自分の分をちゃっかり確保していたのだが。

 

 

 話を聞くまでカップケーキは口にしない方が良い。庄三郎の忠告は的確な物だったようだ。多少の義憤とそれを上回る気持ち悪さを抱きながら、源吾郎はふとそう思った。どう思う? 静かに問いかける庄三郎を見ながら、しれっと渡されたギャラリーの絵葉書を裏返す。こんなものは長々と眺めたくなかった。

 

「……こいつはもう()()()()()()()()()()。俺はそう思う。他の狐たちだってそう思うはずだ。というか悪趣味とかいうレベルを突き抜けてるぞあいつ。いっそ鬼畜外道の所業だ」

 

 庄三郎と裏返した絵葉書を交互に見ながら源吾郎は思った事を吐き出した。感想などという上品な物ではない。もはや悪態や毒舌のような物だった。ちなみにあいつというのはこの度被害に遭った美大生の岡本の事ではない。彼の()にギャラリーに作品を展示していた造形作家だった。彼の作品の中には、狐の毛皮を使ったものがあったのだ。剥製なのかぬいぐるみをモチーフにしたのかは定かではない。架空の合成獣という風情で見映えよく作られてはいたものの、素材が何であるか――源吾郎は絵葉書の粗い写真を一瞥しただけでそれが()()だと判ってしまった――解る者にしてみれば、それはグロテスクで醜悪な代物に過ぎない。

 庄三郎の話によると、岡本青年を襲ったのは()()()であり、しかも「()()()()」という言葉を発していたらしい。下手人は作品の夫である事は確定であろう。

 

「しかし源吾郎……」

「まさかこんなやつの事を擁護するって言うのかい、庄三郎兄様!」

 

 源吾郎の言葉に、庄三郎は首を振る。

 

「そんな訳じゃないし、源吾郎の怒りもよく解るよ。それによく落ち着いて聞いてくれ。そもそも動物を使った芸術が残酷だと炎上した事は過去に何度もあるんだよ。小魚ミキサーも野良犬を繋いで餓死させるモニュメントとかが有名なんじゃないかな。最近は、飼い鳥の死骸と羽毛を使った作品が展示されたとかで炎上していた事もあったからね。だから源吾郎。僕らの側でもああいう作品はおかしいって思う人はいるんだよ。芸術家としても、人間としてもね」

 

 だけどね源吾郎。庄三郎の眼差しと口調が僅かに強まった。

 

「今回被害に遭った岡本君には非が無いんだ。あの子はただ、あの造形作家と同じギャラリーで展示する予定だったに過ぎないし、あそこにあの時居合わせたのは本当に悪い意味で偶然が重なっただけなんだ。あの子は――僕とかあの造形作家と違って――コネとかじゃなくて実力でオファーが掛かった子だし、愛用していた犬の毛の筆だって、抜け毛から地道に作っただけなんだ。真面目にやってて誰にも迷惑をかけていない子が被害に遭ってしまったんだよ、今回は。そしてこのままだったら、他の罪のない誰かが襲われるかもしれない」

 

 庄三郎の声は悲しげだった。被害者である岡本青年に非が無い事も源吾郎は解っていた。彼はただ運悪くあの場に居合わせただけなのだから。

 

「そりゃあもちろん、被害者である岡本さんが悪くないのは俺だって解る。気の毒だって事も解ってるよ。包丁で切りつけられれば誰だって怖いだろうし、何よりあの人は抵抗している間に絵を一枚犠牲にしたんでしょ?」

「本当に岡本君は気の毒だよ……」

 

 岡本青年の負った傷は幸いにして大きなものではない。しかしむしろ精神的なショックの方が大きいくらいだった。どういう状況なのかは定かではないが、切りつけられた後に彼は犯人めがけて手近にあった絵で殴りつけるという暴挙に出ていたそうだ。それで犯人は大いに怯んで逃走したわけだが、代わりに絵が犠牲になった。芸術家がおのれの創作にどれだけの想いを込めているか。それは語るまでもない話だ。

 さらに言えば、「俺を襲ったのは狐のバケモノだった」という証言もほとんど信じて貰えず、警察の調査でも犯人があぶりだせない事もまたストレスとしてのしかかっているらしい。

 とはいえ、絵で殴りつけるという暴挙でもって軽傷で済んだというのもまた庄三郎の考察だった。彼が愛用していた絵筆には()()()()を使っていたのだが、そこに込められた犬の念があるじの敵を追い払ったのであろう、と。或いはその愛犬も、何がしかの神性を持つ犬の子孫ではないかとさえ庄三郎は言ってもいた。

 

「確かに罪もない人間や妖怪を襲うのは俺たちの中でも悪事だと見做されてはいるよ。だけど、今回の場合は正当な行為とまではいかずとも情状酌量される可能性はあるかな」

 

 妖怪社会にも法規や掟はもちろんある。しかし加害者にそうするだけの正当な理由があるならば、その事も加味される事は珍しくはない。仇討ち等もある程度は容認されるという事だ。

 それに、妖狐は穏やかであるが怒りや恨みで凶行に走る事もまた事実である。

 

「まぁその……妖狐ってそういう事をする手合いもいるからね。仔狐を串刺しにされて殺されたのを知った親狐が、犯人である人間の子を同じように串刺しにして殺したって伝承もあるし。俺らの曾祖母だって、子孫の毛皮のコートを作った下手人を、胡喜媚様と一緒に亡き者にした訳だしさ」

「しかし源吾郎。妖狐なら誰しもそうするとは限らないでしょ? 狐忠信を思い出してごらん。彼は両親の革で作られた初音の鼓の持ち主を恨んだり憎んだりしなかったでしょ」

「…………」

 

 言いくるめられたと思い、源吾郎は苦い表情で口をつぐんだ。源吾郎も庄三郎も等しく妖狐の血が流れているし、妖狐の血を引く縁者に育てられている。妖狐の伝承には二人とも詳しかったのだ。

 

「それでどうするの源吾郎? こんな事情だから、無理に関わらなくても良いよ。君だって君の生活があるだろうし」

「……確かに、こんな事情があるって事なら介入したくないと思ってたよ。要するに剥製なんぞを作ったやつが悪かったんだからさ」

 

 源吾郎は渋面を浮かべながら言葉を紡ぐ。庄三郎の表情は揺らがない。拒絶するであろう事を見越しているかのようだった。

 手を貸そうじゃないか。源吾郎がそう言った時、庄三郎が驚いたように眉を動かした。

 

「都合よく俺を丸め込もうと情報を隠していたら、参加しないつもりだったよ。兄上から教えてもらった事はネットで調べれば拾える情報でもあるもん。というか兄上もネットとかから拾った情報を教えてくれたしさ。

 でも――庄三郎兄様は都合の悪い事も俺に教えてくれた。それなら俺も手を貸すのが筋って奴だろうさ」

「ありがとう、源吾郎」

 

 礼を述べる庄三郎の言葉は、演技でも何でもなく心からの言葉だった。



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野狐に稲荷に路傍の狐

 やっぱりあのカップケーキはくどい味だったなぁ。脂っこいものがみぞおちに溜まっている感覚を抱きながらふと源吾郎は思った。

 芸術家を害する妖狐を捕縛する。ある種の妖怪退治めいた庄三郎の依頼を、源吾郎は正式に受ける事と相成っていた。正直言って気分の良い依頼では無かった。同族である妖狐を退治する事に躊躇っているのではない。庄三郎の言う通り、若く罪もない人間が被害に遭っているのは気の毒だとは思う。だが――容疑者の抱える事情を、彼が抱いているであろう怒りや憎悪を思うとやるせなかった。

 とはいえ、嫌な事件だから手のひらを返して関わらないなどと言うつもりは無かった。ただ、自分一人で解決するには手に余る事件のように思えたのだ。包丁を使って相手を襲撃したという話から察するに、下手人はそれほど強い妖狐ではないのだろう。なのでもしかしたら、頑張れば源吾郎単体でも相手を打ち負かし捕縛する事くらいなら出来るかもしれない。しかし、周辺の人間たちを巻き込まずに事を収められるかと言えばそれはまた別問題でもある。

 つまるところ、源吾郎は今回の妖狐の事件について誰かに協力を仰ごうとすぐに思ったのだ。自立心の強い源吾郎であるが、しかし彼は他者に力を借りる事への抵抗感も薄い。それはやはり、兄姉や叔父叔母と言った年長者に構われて育ったが故の性質なのかもしれなかった。

 それに一人で無理をしてはいけないと、紅藤たちからも言われている所である。雷園寺家の拉致事件後、研究センターでは安全教育が強化されるようになっていた。救出作戦に参加した雪羽が、大暴れの果てに重傷を負ったためである。

 状況が状況だったとはいえ、雪羽はあの時無理をしてしまったのだ。()()()()()、源吾郎と雪羽は若いながらも一定水準以上の強さを持つ妖怪である。だからこそ他の弱い妖怪に較べて無茶をしてしまう危険性がある。紅藤や萩尾丸はそのように判断を下していたのだ。

 そんな事もあり、最近は源吾郎たちの戦闘訓練もお預け状態だった。来週からは少しずつ訓練を再開するらしいのだけど。

 

「島崎君。そう言う案件なら素直に桐谷さんたち、君の叔父上殿や叔母上殿を頼ったら良いと私は思うけれど。あの方たちはその道のプロだし、何より島崎君の親族だからね」

 

 夕暮れ時。源吾郎の話を聞いた化け狸の住吉の返答はこのような物だった。その顔にはうっすらと苦笑いさえ浮かんでいる。

 源吾郎は吉崎町にある妖怪向け交流センターに足を運んでいたのだ。芸術家襲撃事件を兄から聞かされた事、下手人が妖狐である事を語ったのも言うまでもない。源吾郎はその上で、自分と共に協力して動いてくれる妖怪の斡旋を彼に依頼したのだ。言うなればパートタイムで使い魔の雇い入れを依頼したという事である。術者や妖怪の許で働く使い魔職の妖怪の中には、日雇いやパートタイムで働く者もいる。米田さんはそうして日々の暮らしを立てているとも言っていたし。

 住吉氏の言葉が親切心からの物であるのは源吾郎も解っていた。使い魔を雇うにも賃金を支払わねばならないからだ。しかも業務内容が悪事を働いた妖怪の捕縛であるから、賃金は高いのは言うまでもない。

 苅藻やいちかは源吾郎の身内だから、金銭面でもちょっとは手心を加えてくれるのではないか。住吉はそうした事を考慮して、叔父たちの事を口にしてくれたのだ。もちろん源吾郎だって、苅藻に頼るのが一番である事は解ってはいる。可能であれば彼だって真っ先にそうしていたのだから。

 

「僕も叔父に依頼するのが一番だとは思ってます。兄も初めは叔父に依頼を持ちかけたみたいなのですね。叔父が術者として生計を立てているのは兄も知っていますから。ですが兄は、結局叔父への依頼を取り下げてしまったのですよ。まぁその……依頼料がネックだったみたいなのですがね」

「まさか島崎君、桐谷さんへの件はお兄さんの事で気兼ねしているのかい?」

「気兼ねですかね。ある意味そうなるかもしれませんね。僕としても、兄が断っていると知った上で叔父に同じ依頼を持ちかけるのも気が重いですし」

「そう言う気兼ねは正しい気兼ねには私には思えないよ」

 

 ため息とともに吐き出された住吉氏の言葉には、源吾郎への呆れの念がありありと込められていた。厳密には源吾郎と庄三郎の二人に対しての呆れだろうか。

 

「君も歳の離れた兄弟の末っ子だから、お兄さん方に強く出るのは難しいのかもしれない。だけど時には間違っている事をそれとなく指摘する事も必要だと思うんだけどなぁ……」

「まぁ兄も兄で気兼ねしている所はあるでしょうね」

 

 弁明じみた言葉だろうか。呟いてから源吾郎は思った。庄三郎は苅藻の提示した依頼料にしり込みをし、苅藻への依頼を取り下げた。これはやはり、自分一人で依頼料を工面しようと思ったからの事に他ならない。例えば兄姉らに依頼料を借りるという妥協案があれば、また違った選択をしたのかもしれない。詮無い話だが源吾郎はそんな事を密かに思ってもいた。

 

「とはいえこっちもこっちで依頼料がかさむからね。紹介するのは簡単だが、新社会妖《しんしゃかいじん》である島崎君にも負担がかかると気の毒だし……」

 

 住吉氏はしばらく視線をさまよわせて思案顔を浮かべていたが、何かを思いついたらしい。文字通りのたぬき顔に人好きのする笑みをたたえ、心持ち源吾郎の方にずいと顔を近づけた。

 

「そうだ島崎君。妖材《じんざい》が欲しいのなら上司である萩尾丸さんに相談してごらん。あの妖《ひと》だって広く妖材《じんざい》を取り扱っている事は君だって知ってるだろう。島崎君の場合だと、それこそ社割が適用されるかもしれないし」

「萩尾丸先輩の、妖材《じんざい》ですか……」

 

 目を丸くしながら呟きつつも、その手があったかと源吾郎は思い始めていた。

 雉鶏精一派の第六幹部である萩尾丸は、多くの妖怪を配下として従えている。だが住吉氏の言う通り、妖材(じんざい)派遣業が本業であるのも事実である。特に小雀に属する妖怪たちの多くは、萩尾丸の配下でありながら()()でもあったのだ。働ける年齢になった若妖怪を雇い入れて教育と訓練を施し……最終的には他の妖怪組織や術者に斡旋して()()する。萩尾丸の業務はそのような側面を具えていたのだ。

 生きた妖怪を商品扱いしている。そう言うと妖身売買《じんしんばいばい》のようないかがわしさが付きまとうかもしれない。しかし萩尾丸は出荷先についてもきちんと規約を設けているため、妖怪たちが酷い目に遭う事は基本的には無いらしい。それに萩尾丸の許で働き続けたい妖怪たちはそのまま雇い続けている訳でもあるし。

 話を聞くだに萩尾丸は配下の貸し出し(これも公序良俗に反しない事という前提がもちろんある)も行っているし、外部との連携も抜かりなく行っている。して思えば萩尾丸に相談するのも一つの手のように思えた。プライベートでの案件を先輩社員に打ち明けられるかという問題があるにはあるけれど。

 いずれにせよ、萩尾丸に相談を持ち掛けるのは悪い事では無さそうだ。源吾郎はそう思い始めていた。態度や言動に若干難のある妖物《じんぶつ》であるが、萩尾丸が妖怪としても社会妖《しゃかいじん》としても優秀である事は源吾郎も認めていた。それに雷園寺家の事件があって以来、源吾郎たちに少し優しく接してくれてもいるし。

 そんな事を思っていた源吾郎は、交流センターにまた誰かがやって来たのを目ざとく感知した。自動ドアの開く音と空気の流れを感知したためだ。それと、野良妖怪と呼ぶにはお行儀よく気品ある妖気も。

 

「こんばんは住吉さん。ちょっと疲れたんで小休止に来ました」

 

 爽やかな声音で住吉氏に語り掛けるのは妖狐の若者だった。源吾郎の銀白色とは違う、純白の二尾である。生物学的には()()であるその若者を見た源吾郎は、しかし()()ではないとすぐに悟った。

 源吾郎は妖狐の中でも野狐に相当する存在である。だが眼前の若者は違う。稲荷に仕える妖狐なのだ。狐としての本能でもって、源吾郎はその事を感知したのだ。

 

「……おや、君は確か島崎君だよね」

「お、あ……お初にお目にかかります、稲荷神の眷属殿」

 

 小首をかしげる白狐を前に、源吾郎は丁重に挨拶をした。丁寧すぎて芝居がかっていると思われたかもしれない。いずれにせよ、相手の不興を買うのはまずいだろう。そんな考えが源吾郎にはあった。

 源吾郎は日頃、妖狐の若者たちには気さくに接するのが常だった。しかしそれは、相手が自分と同じ野狐だった場合のみの話である。相手が稲荷神に仕えているのなら話は別だ。丁重に接しなくてはならない、不興を買ってはならないと源吾郎はどうしても思ってしまうのだ。

 源吾郎が稲荷に仕える狐たちに対して下出に出るのは、やはり先祖の関係性が大きく影響している。先祖である玉藻御前は陰陽師の安部何某に正体を見破られ、それが殺生石と化す原因に繋がった。そして陰陽師の安部何某は、六代ほど遡れば葛の葉稲荷に辿り着く。要するに、野狐の筆頭格だった玉藻御前は、稲荷の子孫である陰陽師に敗れたのだ。そうした歴史的背景があるからこそ、源吾郎も稲荷に仕える狐たちに畏怖の念を抱いていたのだ。関西圏は稲荷の勢力が強いから尚更である。

 そんな訳で、源吾郎は緊張し慇懃な口調になっていたのだ。だが一方で、近場の小峠神社に勤務しているというその白狐も、若干緊張し戸惑っているようだった。

 

「そんな、島崎君。君にそこまで丁重な態度を取られるとくすぐったいよ。稲荷の眷属なんて、入社試験をパスすれば誰だってなれちゃうんだからさ。それよりも、君は玉藻御前の末裔って言う看板がある訳だし」

「ご謙遜が過ぎますよ。僕自身は単なる野狐なんですから」

 

 表向きにこやかな笑みで応じた源吾郎であったが、その心中は複雑だった。稲荷神の眷属に連なる妖狐たちが文字通りエリートである事を知っているからだ。彼の言う入社試験もそこそこ厳しい上に、稲荷の眷属になってからも狐たちは様々な規約に縛られた生活を送る事になる。規約違反者への処罰も厳しく、破門や妖力の剥奪も珍しくない。だからこそ稲荷に仕えるという職は妖狐たちの憧れの的でもあるのだ。

 

「それにしても島崎君。今日はこの交流センターに来ているなんてどうしたの?」

 

 不意に白狐に問いかけられ、源吾郎はへどもどしてしまった。別にやましい事をしている訳ではない。だが稲荷神の眷属、それも大人の妖狐に出会ってびっくりしてしまったのだ。

 私に相談事があったんだ。白狐の問いに応じたのは、化け狸の住吉氏だった。源吾郎がぽかんとしている間にも、彼は代わりに事情を話し始めていた。

 

「島崎君のお兄さんは画家として活動なさっているのだけど、この度画家を襲撃する妖狐が現れたらしくってね……その妖狐を捕縛して他の画家たちを護って欲しいという依頼を島崎君は受けたんだ」

「芸術家を襲う狐ですか?」

 

 住吉氏の話を聞いた白狐が片眉を吊り上げる。先程まで源吾郎たちに見せていた柔和な表情は消え失せ、冷たい怒りをたたえた表情を見せてさえいた。

 

「あの……何かご存じなのですか」

 

 白狐の変貌ぶりに戸惑いつつも源吾郎は問いかける。白狐は重々しく頷いた。

 

「――芸術家を襲っているというその狐。恐らくは僕と同じ稲荷に仕える狐かもしれないんだ」

 

 稲荷に仕える狐。源吾郎はハッとして白狐を仰ぎ見た。事件の話を聞いて急に憤慨した理由もここでしっかりと解ったのだ。稲荷神に仕える妖狐たちは、普通の野狐たちよりも戒律違反や規約違反に厳しい。処罰の中には私刑や極刑ももちろん存在する。領主の飼い鳥を喰い殺した下手人を生きたまま喰い殺したという話さえ伝わっているくらいなのだから。

 

「四星稲荷に勤務していた妖狐の一人が、結婚したばかりの奥さんを亡くしたとかで情緒不安定になっているという話が上がっていたんだ。痛ましい話ではあるよ。車に轢かれたという事で……まぁその、悲惨な事になっていたというし、何より亡骸は親族が引き取る前に何者かに持ち去られてしまったみたいだからね」

「それって、もしかして……」

 

 ()()()()と言っていた妖狐。狐の毛皮を使った造形物。交通事故……これらの断片的な言葉が一つの線で繋がっていく。そのような感覚を源吾郎は抱いていた。

 さながら名探偵のような行いなのかもしれない。但し当の源吾郎は、疑問を解いたところで晴れやかな気持ちになりはしなかったけれど。

 

「僕は小峠神社の管轄だから詳しい事は知らないけれど……でも多分神戸方面の稲荷の眷属たちが調査を開始しているんじゃあないかな。妖怪であると言えども、稲荷神の眷属として就職した所で、僕らは神の使いとしての仕事を果たさねばならない。私情と言えども無闇に生き物を傷つけるのはやはり罪に問われるからね」

 

 冷徹な口調で言い放つ稲荷の白狐を、源吾郎は静かに見つめていた。兄に依頼されて引き受けた事件ではあるが、何やらとんでもない物が背後に控えてそうだ。そんな事を思ってしまったのだ。



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つきまといたるは半妖の性

 久方ぶりの戦闘訓練は、源吾郎と雪羽のタイマン勝負では無かった。萩尾丸が連れてきた部下の妖狐である穂谷と勝負するという形だったのだ。しかもその前に、受け身などと言った主だったフォームの練習をひととおり行うと言った塩梅である。

 更に言えば、勝負と言っても普段の戦闘訓練とはルールは大分異なっていた。タイマン勝負というよりもスポーツ性の強い訓練だったのだ。体術のみで挑む事、敷地の外に押し出されたり足裏や尻尾の先以外が地面に触れた方が負けと言うルールが設けられていた。レスリングに似ている。源吾郎はルールを聞いてまず思った。

 戦闘訓練がこのような形に落ち着いた背景には幾つかの理由があると、源吾郎は踏んでいた。訓練相手である穂谷は二尾であり、妖力面では源吾郎たちよりも格下だ。彼自身、雪羽や源吾郎に挑むには勇気がいると言っていた。だからこそ敢えてハンデを用意し、妖力の差が大きいながらも同等に闘えるように仕向けたのだろう。

 さらに言えば、危険度がぐっと下がるこのスポーツ的な訓練は源吾郎としても有難い所だった。もちろん、最強の妖怪になるという野望は揺るがない。しかし雷園寺家の事件に直面してからというもの、闘いや血生臭い事から距離を置きたいと思っていたのだ。多くを語らないものの、雪羽も密かにそのように思っているらしかった。

 

「まぁその……島崎君にしろ雷園寺君にしろ血筋の良い強い妖怪でしょ。見ての通り、僕は二尾でそんなに強くないから、お手柔らかによろしく頼むよ」

 

 訓練着姿の穂谷先輩は、源吾郎たちを見ながら穏やかな口調でそう言っていた。先輩と言いつつも、驕らず謙虚で停止性な物言いだった。文化部出身だった源吾郎は格闘技の類は身に付けてはいない。しかしレスリング的な物をやってみるという所で楽しそうだと思い始めてもいた。それは源吾郎の持つ野望故のものなのか、或いは単純に若妖怪ゆえに興奮しただけなのか、源吾郎自身には解らなかったが。

 

 へたり込んだ源吾郎はまず呼吸を整え、それから穂谷先輩の方に視線を向けた。スポーツ的な訓練だから楽しく行えるなどとはとんでもない。この訓練もこの訓練で体術のみの真剣勝負みたいなものだった。晩秋の冷えた空気も何処へやら、源吾郎の全身は駆け巡る血で火照っていた。特に顔周りに熱が籠っている。

 結局のところ、源吾郎は転がされてしまった訳なのだが。体術の方面だけで言えば、穂谷先輩は何枚も上手だったのだ。源吾郎のみならず、雪羽に対しても。

 

「お疲れ様。島崎君はちょっと受け身が苦手みたいだから、その辺の練習は重点的にやった方が良さそうだね。そっち方面も雷園寺君の方が手慣れている感じはしたけれど」

 

 ホコリを払う源吾郎に対し、穂谷はそう言って微笑んだ。丁寧な物腰と穏和そうな風貌が特徴的な妖狐である。大人しそうな青年に変化している事も相まって、源吾郎はついつい楽勝だなどと思ってしまっていた。その結果がこの体たらくなのだけど。

 穂谷が体術も心得ている事くらい、よくよく考えれば解る話でもあるのだが。

 

「今回は稽古づけて頂いてありがとうございます」

 

 源吾郎はひとまず礼を述べた。自分の言葉が皮肉っぽく聞こえやしないだろうか。萩尾丸や彼の部下たちの視線がある中で、そんな事を思いもしていた。幸いな事に、源吾郎に特に注目する手合いはいなかった。訓練の折、穂谷は機敏な動きでもって源吾郎を転がしたり雪羽を押さえ込んだりしていた。しかしそれらの動きは、同僚である妖怪たちにはそう珍しい物ではなかったらしい。

 

「それにしても、穂谷先輩も中々容赦が無くて驚きました」

「そうかい。もし今回の訓練で凹んだのなら謝るよ」

 

 謝る。そう言いつつも穂谷は笑みを浮かべていた。むしろ面白い物を見聞きしたと言わんばかりに笑みを深めているではないか。

 

「島崎君たちも若いし負けず嫌いだから、負けたり恥ずかしい思いをしたら悔しがったり凹んだりするって事は僕も知ってるよ。だけど、今回の訓練については上からの命令でもあるからね。致し方ない事だと思って受け入れて欲しいな」

「別に僕は凹んでも無いですし悔しくも無いですよ」

 

 いくばくかの虚勢と本音を交えて源吾郎は言い返す。救出作戦の折に、穂谷が救出部隊の一員としてキビキビと働いていた所を源吾郎は既に思い出していた。犯人の言いがかりにうろたえる源吾郎とは異なり、時に相手を殴ったり押さえ込んだりしたうえで、彼は任務を遂行していたのだ。

 その事を思えば彼はかなりの手練れなのだ。他の若妖怪たちの様子を見る限り、彼らのまとめ役のような立場にいるようだし。

 凹んでないのなら良かったよ。穂谷は朗らかに笑っていた。毒気も含みも無い、爽やかな笑顔だった。

 

「島崎君。君の動きには()()があるんだよ。その辺りを意識すればより有利に立ち回る事が出来ると僕は思ったんだ。

 確かに僕ら妖怪は、妖術を使って対抗してくる事がほとんどさ。とはいえ体重差やそれに起因する物理的な破壊力も馬鹿には出来ないからね」

「待って下さいよ先輩。僕は別に肥ってませんってば。むしろ就職してから一、二キロは()()()んですから」

 

 源吾郎には重みがある。屈託のない穂谷の言葉に源吾郎は思わず言い返してしまった。小柄でありつつもずんぐりとした身体つきである為に、肥っているのではないかと思われる事がしばしばあったのだ。まぁ確かに中肉中背に近い体格ではあるが、その辺は源吾郎の密かなコンプレックスの一つではある。

 もっとも、穂谷は源吾郎の体型について言及したのではない事は頭では解っているのだが。源吾郎は小柄ながらも人間の成人男性に相当する重量を持つ。一方穂谷や珠彦と言った若い妖狐たちの重量はホンドギツネと大差ない。ホンドギツネは大きな個体でも六、七キロ程度に過ぎず、人間との重量差は十倍近いものである。その事を踏まえれば、人間に近い肉体を持つ源吾郎は有利になるかもしれない。そのような事を穂谷は言いたかったのだろう。

 

「ごめんよ島崎君。君が人間らしい部分を持っているという事を気にしているっていうのをすっかり失念していたよ。僕はただ、雷園寺君と島崎君は対照的だなと思ったりしただけなんだ。雷園寺君は体術の心得もあるけれど、君みたいな()()()()()からさ」

 

 源吾郎は無言で穂谷の言葉を聞き、それから雪羽を一瞥した。雪羽の攻撃に重みが無い。これもまた種族的な体格差を考えれば無理からぬ話であろう。実際問題、雪羽は物理的に軽いのだ。本来の姿が大型の猫程度の獣である雪羽の重量は五キロにも満たないのだから。雪羽自身は雷撃や優れた身体能力でおのれの軽さをカバーしてはいる。その辺りも、源吾郎とは対照的だった。

 元より雪羽が源吾郎とは好対照な存在である事は解りきっていた。半妖と純血の妖怪と言う出自も真逆であるし、家庭環境や気質などもまるきり異なっているのだから。

 それはさておき。穂谷は片手でおとがいをさすりながら今再び口を開いた。

 

「少し気になった事があるんだけどね。島崎君、訓練とはいえ今日はやけに力んでいたように思えたんだけど、何かあったのかな? もしかして、僕が玉藻御前の末裔を名乗っているから、それでちょっとライバル意識とか、闘志を燃やしちゃったのかな」

「違います。そんなんじゃないんです」

 

 小首をかしげる穂谷を前に、源吾郎は首を振って即座に否定した。この度の戦闘訓練にて、穂谷を打ち負かそうと闘志を燃やしていた事は真実だ。しかし、その事と穂谷が玉藻御前の末裔を名乗っている事とは無関係だった。

 

「今度の土曜日に、兄から依頼を受けて妖怪退治をする事になったんですね。いや、妖怪退治じゃあなくて悪さをする妖怪を捕まえて懲らしめると言った方が良いですね。ともかく、画家を襲って傷つける妖怪がいるらしいんですが、どうやら下手人が妖狐らしくてですね、それで妖狐を取り押さえるにはどうすれば良いかなって思いながら、今回先輩に挑んでいたんです」

「妖怪退治かい。島崎君、それはまた大仕事だねぇ」

「あ、でも先輩。妖怪退治……じゃなくて悪い妖怪を取り締まると言いましても、別に人間側に寝返ったとか、妖怪の敵になるとかそんな訳じゃあありませんので」

 

 目を丸くする穂谷を前に、源吾郎は慌てて言い足した。妖怪退治などと言う単語を口にしたおのれが半妖である事、端的に言えば悪い意味での人間性を具えているのだと思い知らされた。

 おろおろと慌てふためく源吾郎とは対照的に、穂谷はしかし落ち着いた笑みを絶やさないでいた。

 

「そんなにうろたえなくて良いじゃないか、島崎君。この度悪さをする妖怪を取り締まる役割を担ったからと言って、君が妖怪たちと対立するわけじゃあないって事は解っているんだからね。それにそもそも画家であるお兄さんやその周辺の人たちを護るために立ち上がったんだから、そんなに後ろめたく思わなくても良いんだけどなぁ」

 

 まぁとはいえ……穂谷は目を細め、ここに来て含みのある笑みを源吾郎に見せていた。

 

「島崎君もまだ若くて、ちょっと学生気分が抜けてないなって思ったかな。ふふふ、何のかんの言いつつも妖怪と人間が何となく共存して共闘する事もある事は君だってもう知ってるでしょ? それなのに妖怪退治だなんて漫画やアニメとかでしか使わない言葉を使っちゃうんだからさ」

 

 それはまさしくその通りであるし、自分の発言もいささか軽率な物だった。穂谷の指摘を耳にした源吾郎は、ひとりつつましく反省していた。

 

「何と言いますか、ちょっと込み入った話になるんですね。ですが話だけでも聞いていただければ嬉しいんですが……」

 

 込み入った話。その単語を耳にした穂谷の表情が引き締まる。

 

「込み入った話なら、僕よりもむしろボスとか紅藤様に相談なさった方が良いんじゃないかな。いや、萩尾丸さんを呼んでこようか?」

「あ、大丈夫だよ二人とも。僕はここにいるからさ」

 

 噂をすれば影という言葉通り、いつの間にか萩尾丸が源吾郎たちのすぐ傍に姿を現していた。

 今の時間帯は中途半端だから、話を聞くのは就業時間が終わってからでも大丈夫だろうか。そのように問いかけてきた萩尾丸に対し、源吾郎と穂谷は揃って頷いた。

 一連のやり取りが終わる間際、源吾郎はふと視線を感じた。視線の先には雪羽がいたが、その時にはもうこちらを見ている訳でもなかった。



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雷獣こじらせ妖狐たじろぐ

 午後の中休み。センター事務所のデスクでぼんやりしている源吾郎の許に、雪羽はさも当然のように近付いてきた。島崎せんぱーい。間延びしたその声は妙にねっとりとした気配を孕んでいる。それが源吾郎には猫の要求啼きのように思えてならなかった。実際問題、雪羽の真の姿は猫に似ているし。

 

「どうしたんだ雷園寺君」

 

 突っ伏しかけていた源吾郎は即座に身を起こした。子供じみた笑みを浮かべた雪羽は、さも当然のように源吾郎の隣に腰を下ろす。左手にふわりとした物が触れ、絡みつこうとする。雪羽の細長い一尾だった。毛並みの良い尻尾の感触を味わいつつも源吾郎は敢えて雪羽の尻尾の動きを無視した。勝手に尻尾を触れば嫌がる事を知っているからだ。だというのに、雪羽は最近尻尾を絡ませてくる。

 またか。内心そう思いつつも、その考えを表に出さぬよう雪羽と向き合う。

 雷園寺家の事件が解決してからというもの、雪羽は()()()()()()()()。特に顕著なのが、源吾郎に対して絡む時の態度である。何というか、ベタベタと源吾郎に甘えるようになったのだ。特に訓練や仕事の際に悔しかったりしんどい思いをした時などに。

 幼児退行を起こしたり、雪羽の自我や精神が変質し崩れてしまったのではないか。源吾郎はまずそのように思った。源吾郎の知る雪羽らしからぬ行動なのだから。彼はプライドが高く、堂々とした妖怪だった。間違っても誰かに、特に仔狐である源吾郎にこうして甘えてすり寄るような男ではなかったはずだ。

 だが、精神の変質し雪羽が幼くなってしまったと単純に言い切る事も出来なかった。子供っぽい、幼げな態度を見せるのは源吾郎と相対している時だけだったのだから。仕事中や萩尾丸たちの前では普段通りの顔を見せていた。むしろ以前よりも真面目に振舞っているくらいだ。

 だから雪羽は()()であるし、ある意味理性も保っている。その上で源吾郎に甘えてくる。そうとしか思えなかった。

 実際源吾郎のこの考察は間違いではなかった。雪羽が妙に甘えてくる。この事についてこっそり萩尾丸たちに相談した事もあったためだ。萩尾丸は明るく笑いながら「雷園寺家の事や三國君たちの事もあって、雷園寺君はあの子なりに気を張ってるんだ。島崎君には気を許せると思って甘えているだけだから、まぁそんなに気にしなくて大丈夫だよ。時間が経てば、また普段の雷園寺君に戻るだろうからさ」と言うだけだったのだ。

 要するに、職場や私生活でも緊張したり気を使ったりしている反動が源吾郎に向けられているのだ、と。普段ならば保護者である三國に甘える所なのだろう。しかし三國も雪羽にばかり構っている余裕はないという。雷園寺家の事件があってからというもの親戚づきあいを再開せねばならないし、何より妻の月華の事もある。出産予定は来年の初めであるが、初産であるしお腹も目立ってきた事であるから、夫としては気が気でないのだろう。

 雪羽もああ見えて相手に遠慮する部分もかなりあるから、三國たちに甘えたいのをこらえているのかもしれない。そしてその代わりとして源吾郎に甘えだしたのだ。萩尾丸の考察はこのような物だった。

 源吾郎はだから、甘えてくる雪羽を可能な限り受け止めてなだめる事になった。無論戸惑いはある。だがそれは源吾郎が末っ子であり、自分に甘えてくる存在の相手をした事が無かった事によるものだった。ついでに言えば雪羽は長男気質であり、他人に甘えるのが苦手な所がある。だから甘えられずに遠慮してしまうか、無遠慮にベタ甘えしてしまうかの両極端に振りきれてしまうのだ。

 第一子だから甘えるのが苦手なのだ。因果な話だと源吾郎は思いもした。入院していた雪羽を見舞った折に、()()()()()()()()()ベタ甘えしてきたと相談を持ち掛けられた事をふと思い出したのだ。長男・第一子として育てられていた時雨には兄姉に甘える経験が無く、それ故に甘える距離感が掴めずにいるのだろう。あの時源吾郎はそのように雪羽に解説したのだ。

 だがまさか、その事が今度は源吾郎に降りかかって来るとは。源吾郎は雪羽と接しながらも感慨にふけっていた。雪羽に甘える時雨の姿と、源吾郎に甘える雪羽の姿には、そう大きな違いは無いように源吾郎には思えた。そう言った意味でも、雪羽と時雨は()()()()()()()なのだ。そんな事さえ源吾郎は思う時があった。

 

 ともあれ源吾郎は雪羽に向き合った。甘えてじゃれついてくるのも休憩の短い間だけだ。それに戸惑いこそすれど源吾郎は特に不利益を被っている訳でもない。

 それに今回は久々に戦闘訓練もあった訳だし、雪羽も思う所があるに違いない。ぐっと幼く見えるその顔には、若干剣呑な表情も見え隠れしているし。そう思いながら源吾郎は問いかけた。

 

「そんなに拗ねた顔をしなさんな、な。折角のイケメンが台無しだぜ」

「やだなぁ先輩。褒めても何も出てこないですよ」

 

 源吾郎の言葉に雪羽はあっさりを顔をほころばせた。リップサービスだと思われたのだろうか。だが源吾郎の言葉は本心からのものでもあった。人型に変化した仮の姿とはいえ、雪羽が美形である事は源吾郎も認めている。長じれば貴族妖怪に相応しい、優美で力強い青年になるであろう事も解っていた。しかしその割には、雪羽は自身の見た目に無頓着な所がある。源吾郎にはそれが惜しかった。美形である雪羽への嫉妬心が無いと言えば嘘になるけれど。

 何であれ、雪羽が笑ったのを見て源吾郎はちょっとだけ気が楽になった。雪羽は見た目通り妖怪としても幼いが、見た目以上に幼い部分も持ち合わせている。萩尾丸がこの前そのように言っていた事も源吾郎はしっかりと覚えていた。

 

「それにしてもどうした? 穂谷先輩にのされて悔しかったんだろ? それとも、俺が先輩と仲良くしているように見えて拗ねちゃったのか?」

 

 雪羽の考えを想定し、今回拗ねた原因について源吾郎は尋ねてみた。大方先の戦闘訓練で穂谷にのされたのを悔しがっているか、穂谷と源吾郎が話し合っているのを見て仲間外れにされたと思っているのだろう。

 いずれにしても雷園寺ならばありそうな事だと源吾郎は思っていた。雪羽が源吾郎と同じかそれ以上に負けず嫌いである事は十二分に知っている。戦闘訓練で源吾郎に負けた後、ガチ凹みして一日会社を休んだくらいなのだから。今回も対戦相手やルールは異なると言えども、拗ねる位に悔しがってもおかしくはない。

 また、雪羽は萩尾丸の従える若狐たちに馴染んでいない事も源吾郎は知っていた。あからさまに不仲だったり反目している訳ではないにしろ、雪羽に友好的な若狐は少ない。雪羽もその事を知っていて、お狐様はお高く留まっていると思っている節があった。

 穂谷は雪羽を見下すタイプではないし、妖狐である源吾郎には狐同士の付き合いもある。とはいえそれと雪羽が面白く思わなかったのとは別問題なのだろうが。

 

「違うよ先輩。まさか、俺がそんな幼稚な事で拗ねると思ったんですか? 穂谷さんは何か色々と手練れだって事はあの時俺も思い知ったしさ、先輩が狐の穂谷さんと仲良くするのも普通の事だと思うよ」

 

 それよりも。雪羽はまなじりを吊り上げて言い足した。周囲が何となくピリピリする。放電こそしていないものの、昂った雪羽から妖気が放出されていた。

 

「ギャラリーの画家を妖狐が襲撃して血を集めているって事件がありましたよね」

 

 思いがけぬ言葉に源吾郎は目を丸くした。芸術家襲撃事件は、今源吾郎が最も関心のある出来事である。何せ兄の庄三郎も標的になるかもしれないのだから。穂谷と相談していたのもその事件の事であるし。

 雪羽は得意げに、しかし獣らしい笑みを源吾郎に向けていた。

 

「先輩。まさか俺が何も知らないなんて思ってませんよね? 妖怪向けのニュースでも報道されてましたし、多分こっちよりも詳しい話が出ているんじゃあないですかね。

 それでもって、先輩のお兄様が標的にされるかもしれないって事くらい俺も知ってるんですから」

 

 そうか、雷園寺もあの事件を知ってたのか。源吾郎は驚いてばかりだったが、やがて一人で納得し始めてもいた。源吾郎の住む吉崎町は、事件の起きた参ノ宮からは距離があり、市町村も違う。しかし雪羽の暮らす学生街は、参之宮からはほど近いのだ。

 傷害事件であるからまだ事件は大きく報道されていないのだろう。であれば、近隣住民である雪羽の方が事件について詳しいのも理にかなっている。

 

「……あの事件は兄から聞かされたんだ」

 

 源吾郎は伏し目がちに頷き、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「多分雷園寺君の方が詳しいだろうから詳細は省くけれど、末の兄が標的になる可能性も十分にあるんだ。兄もまぁ上手く立ち回ってくれればとは思ってはいるけれど……兄が被害に遭わないように俺は動くつもりなんだ。それで、穂谷先輩ともその事で相談しようとしてたんだ。込み入った話だから、夕方改めて萩尾丸先輩たちにアドバイスを貰う事になったんだけどね」

 

 それがどうした。敢えて淡々と源吾郎は問いかけてみた。雪羽は何故か悔しそうな、泣きそうな表情を浮かべてその問いを絞り出した。

 

「なぁ先輩。何で俺にも相談してくれなかったんだよぉ……」

「何、それは別に……」

 

 戸惑いつつも、源吾郎は言葉を探った。雪羽に相談しなかったと言っても。別に彼を除け者にするような意図はもちろん無い。そもそもこの案件について、研究センターの面々に話したのは穂谷が初めての事だった訳だし。

 

「先輩。先輩と俺は()()()()でしょ? 雷園寺家の事で、時雨や弟妹達が大変だった時、先輩は俺の傍で色々と励ましてくれたじゃないか。なのに、それなのに先輩や先輩のお兄様が大変な時に何も言わないなんて……」

 

 ()()、か――雪羽の放った単語に一抹の()()()()を感じ、源吾郎は思わず唇を噛んだ。

 断っておくが、雪羽が源吾郎の事を友達と見做しているのを疎んでいる訳ではない。源吾郎もまた、雪羽の事を友達だと思っている。

 問題なのは、雪羽の言う友達の意味合いが源吾郎のそれとは大幅に異なっている事だった。

 友達。雪羽はかつての自分の取り巻きたちとの関係性すら、その言葉で片づけてしまう節があるのだ。取り巻きたちが雪羽の友達であるとは源吾郎には思えなかったし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。源吾郎にとっての友達とは、かつての演劇部の仲間たちや学校で親しかったクラスメイトみたいな関係を示していた。それらと比較すると、雪羽と取り巻き連中との関係性は余りにも歪で不健全だった。

 もちろん雪羽が強い妖怪として君臨し、彼らを支配していたという節もあるだろう。しかしそれ以上に、雪羽は割を食っていたはずだ。力と地位と財力があるというだけで雪羽にすり寄り、良いように利用していただけではないか。嫌な言い方であるが、男も女も雪羽を密かに搾取していたのではないか。源吾郎はそのように思えてならなかったのだ。

 グラスタワーの件で、一緒にいた若妖怪たちが一切合切の非を雪羽に押し付けた。源吾郎が見たのはそれだけだった。しかし、雪羽の話を聞いているうちに、彼と取り巻きの関係性が段々とはっきりしてきた。

 妖怪娘に高級な鞄を自腹で買わされ、しかもその鞄はすぐに売りに出されたという。「病気の兄弟への治療費にしたの」と言ういじらしい主張に雪羽はほだされたそうだが。

 雷園寺家の子息で大妖怪であろうと挑発され、雪羽は玉ねぎやチョコレートを食べさせられた事もあるという。危険物を口にして平然としている雪羽を誉めそやしたと言うが、後で雪羽が体調を崩したのは言うまでもない。

 そんな連中ですら、雪羽は今でもオトモダチと呼んではばからなかった。源吾郎たちの前では「あいつらが俺の事を利用していたのは知っている」「俺だってあいつらへの情なんてないからさ」などと割り切ったふりをしているが、それが本心ではない事を源吾郎は知っていた。

 次期当主拉致事件には雪羽の取り巻きたちも数名関与していた。その事に雪羽がショックを受け、心を痛めている事も源吾郎は知っている。異母弟妹を殺す事に加担しようとしていた彼らに対してまで、雪羽は雷園寺家の子息として嘆願書をしたためてすらいたのだ。

――雷園寺。お前が俺の事を友達だと思っている事は嬉しいよ。だが、取り巻きたちの事さえも友達と呼ぶ事は認めない。あいつらはお前に寄生し、甘い汁を吸い、時にお前を笑いものにして搾取しただけじゃないか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 源吾郎はだから、雪羽が友達と公言する度に苦い思いを抱いていた。友達とは思えないような連中を友達だと思って接していた雪羽の愚かしさがやるせなかった。それ以上に雪羽の心に付け込んであれこれと良い思いをしてきた取り巻き連中を忌々しく、腹立たしく思っていた。

 源吾郎があれこれと雪羽の身辺を慮るのは、それこそ雪羽が源吾郎にとっての友達だからなのかもしれないが。

 

「落ち着け雷園寺。俺も雷園寺君の事は友達だと思ってる。その事には変わりない」

 

 源吾郎は雪羽の瞳をしっかと見据え、静かに告げた。自分に言い聞かせているような感覚も抱いていた。雪羽の顔に僅かに安堵の色が浮かぶ。源吾郎は更に続けた。

 

「さっき言ったように、夕方萩尾丸先輩たちに相談するつもりなんだ。犯人は稲荷に仕える狐らしくて、同業者たちも捜査に乗り出しているみたいだからさ。雷園寺君、君も差し支えなければしれっと参加したら良いんじゃないかな」

「差支えなんてないさ!」

 

 源吾郎の言葉に、雪羽は元気よく応じた。その後ろを青松丸が通り過ぎ、振り返って微笑ましそうな視線を源吾郎たちに向けていた。




注意:本文中に動物がチョコレートや玉ねぎを食べる描写がございましたが、あくまでも作中の表現です。
 多くの動物にとって、チョコレート・玉ねぎは危険な物質であり、摂取すると生命に関わる恐れがあります。絶対に真似しないでください(筆者より)


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夕刻あつまり捕物談義

 終業時間後。萩尾丸は約束通り打ち合わせを開いてくれた。雪羽もくっついてきたのもさることながら、さも当然のように研究センターの面々はさも当然のように全員が集まっている。

 少ししてから、何処からともなく先輩妖狐の穂谷も顔を出した。聞けば萩尾丸の転移術によってここに連れてこられたのだとか。

 

「穂谷君。仕事で忙しいだろうに悪いねぇ」

 

 そんな穂谷にねぎらいの言葉をかけたのは萩尾丸だった。確かに穂谷の上司ではあるが、彼を召喚したのは他ならぬ萩尾丸だろう。源吾郎はそんなツッコミを心の中で放っていたが、特に誰も気にしていない。

 しいて言うならば、隣にくっついて寄り添う雪羽が、若干緊張しているように見えたくらいだろうか。

 

「いえいえ大丈夫です。これもまぁ仕事の一環ですし……」

 

 穂谷はにこやかな笑みを浮かべ、源吾郎を一瞥した。

 

「それに僕自身、本当の玉藻御前の末裔である島崎君に直々に相談を受けましたからね。玉藻御前の末裔を名乗る以上、島崎君の力になりたいと思うのは当然の事です」

「あ、ありがとうございます……」

 

 源吾郎はひとまず穂谷に礼を述べた。とはいえ内心複雑な気持ちだった。玉藻御前の末裔を名乗る穂谷が、本物である源吾郎に恩を売る。そうした意図が見え隠れしている事に気付いたからだ。さらに言えば、大人妖怪たちはそれを容認している事も。

 穂谷の意図がどのあたりにあるのか源吾郎にはよく解らない。だが実際の所、穂谷がこうして源吾郎に色々と力添えしてくれるのをありがたく感じてもいた。玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちも彼らなりに努力している事については、源吾郎もきちんと知っている。そしてやはり、源吾郎が末っ子気質である事もまたここで作用しているのだ。野望とは裏腹に年長者に従う事への抵抗が源吾郎にはほとんど無い。それどころかすぐに兄代わり・先輩として受け入れて慕ってしまう程なのだ。

 要するに、源吾郎は穂谷を先輩妖狐として彼なりに敬っている訳である。

 その穂谷は源吾郎から視線を外し、雪羽をちらと見やった。

 

「雷園寺君。君も元気そうで何よりだよ。いやはや、今日の訓練ではちょっとやり過ぎちゃったかなと思ってね。僕もその、いつもの癖が出ちゃってね」

「僕は全然大丈夫ですよ。えへへ、むしろ穂谷さんに稽古づけて貰って嬉しかったです。この前の雷園寺家の事で、俺もまだまだだって思い知りましたから。なのでその、今後もよろしくお願いします」

 

 穂谷の言葉に雪羽は明るくはきはきと応じていた。源吾郎に甘えてまとわりついていた姿とは別人と思えるような態度である。しかし尻尾はゆらゆらと揺れており、演技ではなく本心である事を物語っていた。

 そもそもからして雪羽は戦闘慣れしている。だからこそ今回の訓練でも何がしかの得る物を感じたのだろう。

 

「雷園寺君と島崎君の訓練に関しては、僕たちの方でも適宜カリキュラムを組もうと思っているから安心してくれたまえ。

 それより島崎君。今日は戦闘訓練の話じゃなくて、もっと差し迫った話があるんだろう?」

 

 あ、はい……半ばまごついた声を上げていると、穂谷がホチキスで留めた冊子を配り始めた。

 

「僭越ながら、僕の方で資料を用意いたしました。と言っても、ネットとかマスコミで報じられている物がメインですがね」

 

 ひととおり配り終えてから穂谷は冊子の内容について軽く解説していた。もし違う事件の資料を持ってきていたら謝ります。茶目っ気たっぷりに穂谷は言い添えていた。源吾郎は愕然としながら穂谷を見つめていた。やっぱり先輩は先輩だなと敬服していたのだ。

 本来、こうした資料は言い出しっぺである源吾郎が用意すべきなのだろう。だが、その事に源吾郎は今気づいたところだったのだ。

 

「そうですね、もしかしたらご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが。穂谷さんの資料もありますし、どういう事なのか説明しますね」

 

 源吾郎は一度資料に視線を落とし、それから顔を上げて紅藤たちに説明を始めた。

 

「確かに難しそうな話ですね、先輩」

 

 ひととおり説明を終えるや否や、すぐ傍で話を聞いていた雪羽が口を開いた。神妙な面持ちながらも、何処か納得したような表情さえ浮かんでいる。

 

「何と言うか気が進まないって雰囲気を醸し出してましたけど、そう言う事情があるのならそうなるよなって俺も思っちゃったよ」

「そう言う事情って言うか、何かもう色々と込み入っているからなぁ」

 

 先輩って優しいんですよ。そんな事を言う雪羽からわざと視線を逸らし、源吾郎はため息をついた。人間を……画家である兄を護るために立ち向かわねばならない。しかし人間たちに害をなしているのは源吾郎の同族だ。同族との直接対決を恐れているのではないか。雪羽はそのように思っているのかもしれない。

 源吾郎はそれよりも、事件の錯綜ぶりにばかり目が行っていた。出来事そのものを抽出すれば、下手人が画家を斬りつけてその血を搾り取ろうとした猟奇的事件に過ぎない。しかし下手人の動機や彼の怒りを買ったであろう画家の仕打ちを思うと、下手人をきっぱりと悪だと言い切れなかった。無論彼のした事は罰せられるべきではあるが。

 さらに言えば、下手人が稲荷に仕える妖狐であり、民間勤めやフリーランスの野狐ではない事もまた気がかりな所だった。源吾郎はつまるところ一介の野狐に過ぎない。しかも悪事をなした野狐の筆頭格・玉藻御前の縁者でもある。阪神地区と言う事もあり、稲荷の眷属たちを下手に刺激するのではないか。源吾郎は妖狐なりにそんな心配もしていた。何せ遠足の折に伏見稲荷へ参拝した時も、ドキドキし通しだったのだから。

 

「思ったんだけどさ、この事件って苅藻君とかいちか君に相談したらどうかね。その方がわざわざ僕らに助けを求めるよりも色々と良いと思うんだけど」

 

 じっと話に耳を傾けていた萩尾丸が問いかける。訝しげな表情を見せているのは致し方ない話だ。無論彼の言葉にも一理ある。苅藻達の術者としての活動は長く、こうした事件であってもそつなく解決に導いてくれるだろう。

 源吾郎はしかし、苦笑いしながら首を振った。

 

「僕もそれが出来れば一番だと思ってます。ですが兄は一度叔父に相談して、その上で依頼を取り下げているみたいなんですね。なので僕が同じ内容で依頼を持ちかけるって言うのは筋が通らないかなと思いまして……」

「筋が通るとか通らないとか、そんな事を気にしている場合でもないと思うけどね」

 

 源吾郎の弁解に、またしても萩尾丸が口を挟む。はっきりとその声に呆れの色が滲んでいた。

 

「そもそも君は叔父である苅藻君にもべったり甘えている節があったし、苅藻君だってそんな君の事を甥として可愛がっているじゃないか。だからその、実の叔父に対してそんなに気兼ねする必要はないと思うけれど。あくまでも以来の取り下げ云々はお兄さんの考えであって、君の考えとは違うんだからさ」

「ごもっともな意見ではありますが、今回は兄の意向を尊重した形ですね」

「どうしてお兄さんの意見などを尊重したんだい?」

「それは……」

 

 萩尾丸に問われ、源吾郎は言葉を詰まらせた。もちろん理由はあった。判官びいきめいた考えで兄の味方をした。叔父に頼めばどの道お金を支払う羽目になる。自分も妖怪として修行しているから、その力を兄に見せたかった。語るべき理由は、きちんと源吾郎の内部にある――それを萩尾丸たちが納得するか否かは別として。

 その事が解ったのだろう。萩尾丸は呆れたようにため息をついた。ため息自身がパフォーマンスであるかのように。

 

「まぁ、君らの事だからお金を渋ったとかそう言う所なんだろうね。庄三郎君も……いや島崎君の末のお兄さんも要領良く立ち回るタイプじゃあないしね」

「庄三郎君も、島崎君のお兄さんも生活が大変なのかもしれないわ」

 

 見透かしたように萩尾丸が告げ、紅藤は少し庄三郎を慮るような事を口にしていた。源吾郎は実のところ、萩尾丸の言葉に頷きかけていた。

 島崎庄三郎と言う青年が、優美で妖艶な美貌の裏に、途方もない不器用さを抱え持っている事は、源吾郎も嫌と言う程知っていた。何せ彼は美貌と……魅了や相手を従える能力の持ち主なのだ。良い暮らしをするには十分すぎる能力と言えるだろう。だが現実には、庄三郎はこれらを玉藻御前から受け継いだ呪いだと疎み抜き、呪いに影響されないような暮らしを自ら選んだのだから。

 そう言った意味では、実は庄三郎こそが兄姉たちの中で()()()()()()()()()()()()()()でもあった。ベクトルは違えどおのれの能力に拘泥し、おのれの信じる道を進もうとしているのだから。

 

「……とはいえ今更苅藻君へ助けを求めるのは悪手だろうね。あの子の事だ、可愛い甥っ子に依頼を取り下げられたって事で多少は拗ねているかもしれないからね。だからまぁ、こちらでどうにかするほかないだろうさ」

 

 ふいに萩尾丸と目が合った。よく見れば彼は優しげな笑みを見せている。こちらでどうにかするほかない。協力してくれると言っているのだ。その事結論に源吾郎が行き当たるまでに多少の時間を要した。

 

「ありがとうございます萩尾丸さん。ですが良いんでしょうか? 今回の案件は、仕事絡みと言うよりも僕の身内の案件になりますし……」

「先輩、俺だって身内の案件を萩尾丸さんたちに解決してもらったんだぜ! だから別に大丈夫だってば」

 

 申し訳ないと思いつつ呟いた源吾郎にまず応じたのが雪羽だった。その両目はギラギラとした光を宿している。身内の案件と言っても、雪羽が対峙したそれと源吾郎が庄三郎から聞かされたものとでは色々と段違いだ。

 源吾郎はしかし、雪羽に気圧されて何も言えずにいた。

 

「雷園寺君の言う通りですし、気にしなくて大丈夫なのよ、島崎君」

 

 おっとりとした笑みを浮かべながら紅藤は言った。彼女は何かを懐かしむように目を細め、言葉を続ける。

 

「元より雉鶏精一派は親族経営の側面が強い所もございます。それに島崎君もあなたのお兄様も玉藻御前の子孫に違いないわ。だから私たちが力添えするのは自然な事だと思っているの」

 

 親族経営の側面が強い。紅藤のこの言葉には説得力しかなかった。彼女は第二幹部の地位を護っているが、頭目である胡琉安の生母に当たる存在でもある。彼女の息子で胡琉安の半兄たる青松丸とて、望めば上の地位に就く事も可能だったという。

 更に言えば、第一幹部の峰白は胡琉安の正妻の座に収まろうと画策していた時期もあったそうだ。結局の所峰白がその気にならなかったので件の計画は白紙になったが……いずれにせよ、雉鶏精一派が身内を重視するという事には変わりない話だ。

 

「と言っても、この前の時とは別の意味で案を練らないといけないけどね」

 

 妙に緩んだ空気に釘を刺すように萩尾丸が源吾郎たちに告げた。



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名門の威光と立場のくびき

「単刀直入に言って、島崎君がお兄さんを護るために現場に出向く事には問題は無いよ。脅威が迫るのを知った上で動くのは、ごく自然な事なんだから」

「そりゃあ当然の事っすよ。兄弟は助け合わないといけないんですから。ましてや、先輩の所は家族全員仲が良いみたいだし」

「島崎君。野狐で玉藻御前の末裔である君が事件解決に介入する事について心配しているみたいだけど、むしろ積極的に介入しても問題ないと僕は思うんだ。むしろ稲荷の眷属に恩を売り力を知らしめるチャンスになるんじゃないかな」

 

 萩尾丸の言葉が終わるや否や、雪羽と穂谷は順におのれの意見を述べた。雪羽は少し興奮気味で、穂谷は落ち着いた調子で。家族、特に兄弟の情に対して雪羽が強い執着を持っている事は源吾郎も知っているし、穂谷は穂谷で政治的・社会的な部分について詳しいだろう。

 

「ただね、今回は人間たちが多く集まっている所でしょ。だからね、無闇に闘って下手人を取り押さえれば良いって言う話ではないんだ。

 人間たちが巻き込まれるのは最悪の事態だし、そうでなくても人間たちを脅かし、その事で彼らがパニック状態になる危険性もあるからね」

 

 そこが雷園寺家の事件とは違う所だ。萩尾丸はそう言ってから一度言葉を切った。それから彼は、正面から源吾郎を見据える。

 

「妖怪や異形の者を人間が畏れる――その意味を半妖の島崎君は知っているはずだよ。知らない訳ないよね?」

「はい……」

 

 源吾郎は静かに頷いた。言葉を紡いだその傍から、唇や舌先が乾いていく。今でこそ大妖狐の末裔として、妖怪として生きている源吾郎であるが、元々人間として生きてきた時期もある。と言うか就職するまで人間として暮らしていた。

 だからこそ、萩尾丸の言葉は十二分に理解できた。人間が異形の者を畏れる事を。廣川部長との間に生じた十姉妹脱走事件、術者である人間たちの源吾郎への評価。そして、雷園寺家次期当主拉致事件に加担していた人間が放ったあの言葉。それらを思うと源吾郎は気が重くなってしまった。

 

「人間たちに気を遣って動かないといけないなんて、随分とまだるっこしくてややこしい話ですね、萩尾丸さん」

 

 砕けた調子で言い放ったのは雪羽だった。彼らしい意見だと源吾郎が思っている間にも、彼は言葉を続けた。

 

「この前みたいにこっちも武力行使で下手人をボコボコに出来たらって思ってたんですけどね。今回は一尾で、そんなに強くなさそうですし。前は強いやつもいたんで()()()()()()()()が、今回は――」

 

 何気ない調子で告げる雪羽を前に、源吾郎は顔を引きつらせた。この前と言うのは雷園寺時雨たちの救出作戦の事を示していると解ったためだ。雪羽自身もフルボッコにされた挙句数日とはいえ入院生活を余儀なくされた。それを、単純に後れを取ったという言葉で済ますとは。

 

()()()()()なんだよなぁ、雷園寺君」

 

 さも呆れたように告げたのは萩尾丸だった。こちらもフランクな物言いであるが、芸人の言葉をもじっているらしかった。

 

「何度でも言うけれど、前回の救出作戦だって君が大暴れしたのはあんまり良くない事だったんだよ。状況が状況だったとはいえ、君だって危険な目に遭った訳だしさぁ」

 

 萩尾丸の言葉に、雪羽は首を縮める。爪切りに抵抗する猫のようだった。

 

「それに強くない相手だったら、尚更武力行使は良くないんだよね。過剰防衛で済むならまだしも、下手をすればこちらに傷害罪が適応される可能性だって出てくるんだしさ。もちろん、建物とか絵を巻き添えにしたら、その分罪科が増えるんだよ」

「…………」

 

 妖怪社会も実力主義だのなんだのと言っている割には、案外法による秩序があるんだな。見当違いながらも源吾郎はそんな事を思っていた。過剰防衛や傷害罪と言った言葉が萩尾丸の口から出る事、雪羽がそれを聞いて渋い表情を浮かべている事は、彼ら妖怪たちの中にもそうした法規があるという事に他ならない。

 余談であるが、救出作戦の折に雪羽は大暴れし、犯行グループの面々に攻撃を加え戦闘不能にさせた。この行為は罪に問われず、()()()()として処理されていた。あの状況下で攻撃を行う以外の行動が出来たのか否かが争点だったそうだが、当時の状況と照らし合わせ、どうにか正当防衛と見做す事が出来たのだそうだ。結界術や認識阻害術を使えない雪羽には、敵をやり過ごし隠れるのは難しいであろう、と。

 もっとも、危険を顧みず暴れ回った事は自身のみを護るという観点では()()()であったという事で、雪羽は萩尾丸たちから安全教育を受ける羽目になったのだが。

 人間社会の法規や法律は、妖怪社会のそれよりも厳しい所があるからね。そう言って嗜める萩尾丸の声は、普段の聞きなれた調子の物だった。

 

「郷に入っては郷に従えって言葉があるだろう。雷園寺君、君とてその言葉は知っているはずだし、大切にしなければならない言葉だよ。君はもはや、()()()雷園寺家の次期当主になるかもしれないと思われているんだからさ」

「仰る通りですね、萩尾丸さん。以後気を付けたく思っております」

 

 雪羽は急に表情を引き締め、改まった表情で萩尾丸に告げた。先程のフランクな態度と言動が嘘のような姿である。だが源吾郎は雪羽の変わり身の早さを目の当たりにしても驚かなかったし、ましてや滑稽だと笑う事は無かった。

 雪羽は今や正式な雷園寺家の次期当主候補である。その事の重みを彼は知っていて、ゆえに雷園寺家の話が彼の中でスイッチだったのだ。

 さて萩尾丸はと言うと、お行儀良くなった雪羽を満足げに眺め、それから人間の術者とそれに協力する妖怪の関係性について言及していた。妖怪と渡り合う力のない人間に妖怪が力を貸す。傍から見れば一方的に思える関係性であるが、意外にもウィンウィンの関係が成立しているのだそうだ。

 人間と組む際の妖怪サイドの利点。それは人間社会で悪事を働く妖怪の取り締まりが、彼らだけでの時よりも円滑・穏便に進める事が出来るという部分だった。もちろん妖怪たちだけでも、悪事を働く妖怪の捕縛や取り締まりは可能だ。しかし――妖怪の被害に怯える人間をなだめ、或いは取り締まる側の妖怪が敵ではないと示すには人間が立ち会っていた方が遥かに良いのだとか。

 

「そんな訳で、強くて力があるからと言って、それでゴリ押しするのはあんまり良い解決法とは言えないんだよ。ゴリ押ししたがために、解決すべき内容が余計にこじれる事だってあるんだからね」

「最善は、やはり闘ったり争わずに事を収める事だと私は思うわ。実際問題、抜きんでて強くなった妖怪であればそうする事も可能なのよ。もちろん……そこに至るまでの鍛錬にて闘いや流血沙汰を潜り抜けなければならないというパラドックスもありますが」

 

 萩尾丸と紅藤の言葉を、源吾郎は神妙な面持ちで聞いていた。ゴリ押しは良くない。真なる強者は闘いや争いを行わずに物事を解決できる。それらの言葉は途方もない説得力を伴っているように感じられた。二人の地位や力量が説得力を担保しているのだ。源吾郎はそう感じていた。

 

「まぁ、島崎君の挙動について僕はそれほど心配していないんだ。君は積極的に闘おうというタイプではないからね。若いから感情の起伏が大きい所もあるけれど、概ねお行儀が良くて大人しい方だし……」

 

 積極的に闘わない。お行儀が良くて大人しい。源吾郎の行動や気質を現した萩尾丸の言葉に、源吾郎は複雑な気持ちになった。何というか、必要以上に大人しい良い子であると言われている気がして恥ずかしかったのだ。

 だが萩尾丸の眼力に狂いはなく、事実を口にしているという事もまた源吾郎は把握している。闘う事、自分から攻撃する事が実は苦手。この指摘は正しい。易々と放つ狐火が持つ威力のえげつなさや尻尾を振るった攻撃などの派手さに若妖怪たちは目を奪われがちであるが、源吾郎の攻撃術は見る妖《ひと》が見れば雑な物でしかない。それこそ妖力にものを言わせたゴリ押しなのだ。それはやはり攻撃術を覚えたばかりという事もあるが、源吾郎自身に相手を攻撃したいという欲求が薄い事もまた大きな要因であろう。人間として育った事もあり、源吾郎は真の闘争を知らない。負けず嫌いでありながら生々しい争いを好まない。二つの相反するはずの性質は、矛盾せず源吾郎の中で両立していたのだ。

 ちなみに戦闘訓練では心置きなく闘志を燃やす事が出来たのだが、それは相手を傷つける事が目的ではないと解っているからである。語弊はあるが、人間の若者がスポーツに興じる感覚に似ているかもしれない。

 

「島崎君。君は当日その会場にいて……自然に振舞っていれば問題ないと僕は思っているんだ。身内だから君のお兄さんの傍に居ても何ら不自然じゃあないし、何かあったとしてもそれこそ結界とか術を使って誰かを護る事もできそうだしね。

 ついでに言えば、助太刀に来た雷園寺君が妙な事をしないか、目を光らせてくれそうだしね」

「萩尾丸さん。僕も現場に出向いて良いんですね?」

 

 雪羽は弾んだ声で萩尾丸に尋ねる。尻尾がやや大ぶりに揺れている。妙な事をしでかさないかと言われた事など気にせず、素直に純粋に喜んでいた。源吾郎の案件を手助けできるのがよほど嬉しいのだろう。それに彼も庄三郎と面識がある訳だし。

 もちろん構わないよ。萩尾丸は実にあっさりとした様子で、雪羽の参加を認めた。これには雪羽のみならず源吾郎も驚いてしまった。

 

「現場に向かうのは土曜日でしょ? その時は雷園寺君も三國君の許に戻っているだろうし、むしろその時の君の行動を縛る謂れは僕には無いはずだよ。

 それに君は、本家とは別の所に暮らしているとはいえ雷園寺家の縁者に違いない。稲荷の縁者たちも、君の血筋や家柄を考えればそんなに疎まないだろうね。敵対していた雉鶏精一派に所属しているという事を差し引いてもね」

 

 雪羽の表情はいよいよ喜色に満ち満ちていた。大切な友達である源吾郎を助ける事が出来る、しかも雷園寺家である事を公にできる。嬉しい事が二つも並んでいるのだ。単純な雪羽が喜ぶのも無理からぬ話であろう。源吾郎はしかし、萩尾丸の若干含みのある物言いが気になってはいたのだが。

 

「とはいえ人間たちの前では素性を隠して、それこそ人間の退魔師だって事にして潜り込んだ方が良いだろうね。雷園寺家の威光という物も、残念ながら妖怪社会に疎い人間たちには届かないのだから。雷園寺君は人型に変化できるけれど、本性を隠す事に無頓着だからさ」

「その辺りは僕がフォローしますのでご安心ください」

 

 源吾郎は雪羽をちらと見やり、萩尾丸に告げた。確かに、雪羽は変化術にかなり無頓着だ。獣である本来の姿から今の人間の姿になっている訳だから、人型の術を行使する事は可能なのだろう。だが――人間に上手く擬態しようという考えを彼は持ち合わせていないようだった。人の姿になればそれでええやろ、と思っているのが丸わかりなのだ。

 しかしだからこそ、雪羽が普段の姿では無く、人間の退魔師とやらに変装した姿も気になっていたのは事実である。変化術をアシストする護符を用いたり、それこそ叔母である月華に頼めば雪羽とて別の姿に変化できるだろう。そうした上でどんな姿を取るのか。それが源吾郎には興味があった。

 

「萩尾丸さん。仮に雷園寺君が雷園寺君だと判明しても、そんなに大事にならないかもしれませんよ」

 

 ここで話の流れを変えるような発言をしたのは穂谷だった。萩尾丸はおのれとは異なる意見を耳にしつつも、嫌がったりせず興味深そうに首をかしげるだけだ。

 穂谷によると、雪羽の能力や気性を畏れていたのはむしろ妖怪たちだけである事、血の気の多い若妖怪を従えていたために人間の術者たちからは逆にありがたがられていたのだという。雪羽自身は人間を襲う事は無く、人間にちょっかいをかける様なチョイ悪妖怪をコントロールする立場にあった。だからこそ術者たちの中では危険視されていなかった。穂谷はそのように解説を締めくくった。

 雪羽は過去の事を思って恥ずかしがっていたが、源吾郎はまず狐につままれたような気分になり、それから面白さがこみ上げてきた。雪羽が行っている事は変わらないのに、妖怪と人間ではまるきり評価が違うなんて。

 

「何と言うかさ、これでひとまずは安心なんじゃないですか。僕だって雷園寺家の子息として力添えできるし、萩尾丸さんだって普段通り部下の妖たちを派遣して手助けして下さるんですよね?」

「出来る物ならそうしたいんだけど……」

 

 無邪気に問いかける雪羽に対し、萩尾丸は渋い表情で応じるだけだった。この萩尾丸の表情に、雪羽のみならず源吾郎も驚き戸惑った。色々あったとはいえ、萩尾丸は拉致された雪羽の異母弟の救出部隊を編成し、無事に事件の収束に導いた妖怪だ。妖狐、それも一尾の弱い妖狐が人間を襲おうとしているのを阻止するだけなのに、何故あのような表情を見せるのだろうか。

 バックに稲荷の関係者がいるでしょ。絞り出された萩尾丸の言葉には、いくばくかの諦観が混ざっていた。

 

「ああ別に、稲荷の眷属が犯人を擁護しているとかそういう事じゃあないよ。むしろ彼らも下手人の捕縛を目的として動いているくらいだ。狐は仲間意識が強い分、掟破りや犯罪者には厳しいからね。神職に就いた稲荷の眷属ならば尚更ね」

 

 稲荷の眷属と雉鶏精一派はかつて敵対していた。その言葉が脳裏をかすめる。玉藻御前を討伐した陰陽師は葛の葉を先祖に持つ。そして雉鶏精一派が玉藻御前に縁深い組織である事は言うまでもない。

 しかし今回は稲荷の眷属たちに喧嘩を売る訳ではない。向こうも下手人を捕えようとしているのであれば、同じ目的を持っている事になるはずだ。であればこちらも堂々としていてもばちは当たるまい。何とも萩尾丸らしからぬ物言いだと源吾郎は思っていた。

 

「萩尾丸さんほどの大天狗がそんなに気弱な事を仰るとは……」

「大天狗だなんておだてないでくれ。僕はあくまでも雉鶏精一派の構成員であり、紅藤様の走狗《イヌ》に過ぎないんだからさ。名のある八大天狗などのお歴々とは違うんだ」

 

 大天狗である萩尾丸が稲荷の眷属に気兼ねしている。その構図は何とも不思議な物だった。天狗、特に大天狗と言えば妖怪社会でも支配階級に食い込む存在である。相手の強さにもよるが、まずもって妖狐に脅かされるような存在ではない。

 仏道においては御仏の敵であるとも守護者であるともされるから、その辺りのスタンスは天狗ごとに違うのだろう。ともあれ天狗は妖力のみならず、影響力も大きな存在である事には変わりないはずだ。

 

「良いかい二人とも。確かに僕は様々な術を修め、周囲からは大妖怪と見做されているかもしれない。しかし、雉鶏精一派に所属しているという事しか後ろ盾は無いんだよ。当然、よりどころとしている血統や先祖も無いから、その辺りが僕の弱点でもあるんだ。雉鶏精一派の名を出して平伏する相手ならば問題ない。だが、特に恐れを抱かない相手や敵愾心を持つ相手とは相性が悪いんだよ。

 特に稲荷の眷属は年長者が多いからね。若い妖《こ》たちならばまだしも、上層部は未だに雉鶏精一派を警戒勢力と見做している訳だし……」

 

 萩尾丸は息を吐いていた。今回の事件では流石に上層部が動く訳ではないらしい。しかし、下手人である狐は何がしかの邪法を参考にしているとされており、そのために他の勢力の影響が無いか、当局でも警戒しているのだという。

 そういう状況下ならば、雉鶏精一派の面々に警戒する可能性も十分にありうる。それが萩尾丸の意見だった。雉鶏精一派の初代頭目である胡喜媚の幻影を彼らは怖れているのだ、と。胡喜媚は残忍で冷酷な妖怪であったが、問題はその出自だ。彼女の先祖を何代か遡ると、あの道ヲ開ケル者に辿り着く。それ故に考えの古い妖怪の中には雉鶏精一派も邪神の手先と見做している者もいるという話だった。

 

「本当は、ギャラリーの主催者なり画家たちなりが術者に連絡していたら一番良かったんだけどね。だけど島崎君にその話が回って来たって事は、そういう対策がなされていなかったんだろうねぇ……

 ここでああだこうだ言ってもどうにもならないからね。妖選《じんせん》についてはもう少し時間をくれるかな。誰に依頼しようか、誰を見繕って現場に派遣しようか考えているから。少なくとも、サカイさんには手伝ってもらうよ。隠密に長けているし、君もそろそろ後輩に積極的に関わっていく時期だからね」

 

 島崎君。萩尾丸は源吾郎をしっかりと見据えていた。

 

「色々とややこしい事情も絡んでいて大変だとは思うんだ。だけど、君は特に闘う事は考えなくて良い。お兄さんを危険にさらしたくなければ、傍に居てそれとなく護っていればいいんだから。

 今回は稲荷絡みの事件だから、君のお兄さんをピンポイントで狙うという事は考えづらい。だけどこの間みたいに万が一って事もあるだろうから……」

 

 思案顔の萩尾丸を源吾郎は凝視していた。まるで()()()()()()()()()()()()()()()というような物言いだ。それが源吾郎の心に引っかかった。



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語られたるは知らざる秘密

 研究センター内の居住区。自室でもあるその一室にて、源吾郎はホップを鳥籠から出して遊ばせていた。諸事情によりいつもの放鳥タイムよりも若干早い時間帯ではあるが、幸いな事にホップは気にせず飛び回り、楽しそうに遊んでいる。

 その姿を見る源吾郎もまた、密かに安堵の息を漏らしていた。ホップを遊ばせる前に、実は庄三郎に連絡を入れていたのだ。今回源吾郎たちが話し合った結果の報告と、ギャラリーの方で術者や退魔師の類を雇い入れていないかの質問が主な会話の内容だった。

 予想通りと言うか、ギャラリーの方は――主催者にしろ作家たちにしろ――退魔師などと言った方面には連絡を取っていないらしい。岡本青年ははっきりと「狐のバケモノに襲われた」と言う証言を残しているというのに。

 人間たちは妖怪の事を信じない者たちの方が多いんだよ。あの会議にて萩尾丸がそう言っていたのを源吾郎はぼんやりと思い出した。もっとも、その代わりなのか、人間の警備員を雇い入れているらしいが。

 その一方で、源吾郎が動いてくれた事についてはいたく感謝している様子だった。雉鶏精一派が、源吾郎の所属する組織や上司たちも巻き込む形になるとは、源吾郎自身も思ってもみなかった事だったのだ。

 

『君も仕事で大変だろうに、僕らのために色々手配してくれてありがとう。でも、あんまり気負ったり無理しなくて良いからね』

 

 電話の終盤、笑い声交じりに庄三郎がそう言っていたのを思い出した。無理をしなくて良いとは弟を気遣っての事であろう。だが、萩尾丸にも似たような事を言われ、その事で少しだけ苦い思いをした。

 

『良いかい島崎君。現場に出向くにあたって無理は禁物だよ。君は出来る事だけに集中して、なすべき事をすれば良いんだ。庄三郎君を、お兄さんを護る事だけを考えればいい。他の人を助けられないと思ったら見捨てても構わないんだ。変に気持ちが揺らいで、護るべき相手を護れなかったら身も蓋も無いだろう?』

 

 ぎり、と歯を食いしばる源吾郎の手に小さな衝撃が走った。十姉妹のホップが手の上に着陸したのだ。さっきまで別荘である皿巣の上で遊んでいたと思っていたのに。

 

「どうした、ホップ」

「ピピッ」

 

 源吾郎の呼びかけに小首をかしげ、ホップは嘴の先で手の皮をつつこうと奮起している。ひところは源吾郎に怯えて寄り付かなかったホップであるが、いつの間にかその恐怖心も無くなったらしい。いつからホップの態度が元通りになったのか、源吾郎には思い出せなかった。戦闘訓練や雷園寺家の事件絡みのごたごたでそれどころでは無かったからだ。

 やがてホップは指先に嘴を向けた。源吾郎の指の皮をつつき、ほんの少しの薄皮を捕食する。それがホップのルーティーンであるらしかった。源吾郎の妖力で妖怪化した彼は、だからこそ源吾郎の妖力を摂取したがるのかもしれない。

 捕食と言えば恐ろしげであるが、実際には妖気のやり取りも源吾郎のダメージも微々たるものだった。ホップの保有する妖力は、それこそ雀の涙レベルでしかない。弱小妖怪に過ぎないのだ。口さがない者ならば雑魚妖怪と言い切ってしまうであろう。

 薄皮を捕食するホップの嘴がせわしなく動く。それを眺めながらも、源吾郎が思うのは妖狐襲撃事件の事だった。稲荷の眷属であるというその下手人も、実は元々は単なる狐だったらしい。のみならず、作品になってしまった彼の妻も。血を集めているというのも猟奇的な邪法と見做されているが、自身の妖力を高める方法とも解釈できる気もする。

 

「なぁホップ。ホップももうちょっと育って妖力が増えれば……俺や雷園寺や先輩たちみたいになるのかい?」

「プ……ピィ?」

 

 独り言めいた源吾郎の問いに、ホップは呼応するように啼いた。ホップは十姉妹の姿だし人語を発した事はまだない。それでも、話しかければ理解しているような言動を見せていた。

 

「やぁ島崎君。また戻って来たみたいだけど……時間とか大丈夫?」

「大丈夫ですよ萩尾丸先輩。僕も今は居住スペース住まいですし、帰ってからの用事なんて食事くらいなんですから」

 

 七時二十五分ごろ。一度自宅に戻っていた源吾郎は、今一度萩尾丸たちが居残る研究センターの事務所に舞い戻っていた。気になる事があれば一時間後にでも聞きにおいで。雷園寺君や他の妖がいたら言いづらい事とか話しづらい事もあるだろうから。解散間際に放たれた萩尾丸の言葉に、源吾郎は素直に従ったがための行為である。

 庄三郎が他の妖怪に狙われる恐れがある。その事を示唆するかのような萩尾丸の物言いが気にかかったのだ。庄三郎は人間として暮らす事を決めているし、何より源吾郎のような突出した妖力を持ち合わせている訳でもない。確かに魅了の力や相手を御する能力を持ってはいるが、それも人間にしか効力を発揮しないはずだし。

 

「それよりも、先輩たちの方は大丈夫でしょうか」

 

 萩尾丸とその周囲に視線を走らせながら源吾郎は問いかける。居合わせるのは萩尾丸と青松丸だった。紅藤の姿は見当たらない。きっと彼女は自室で休んでいるか、別室で機械や何かを弄っている最中なのかもしれない。

 大丈夫だよ。そう言った萩尾丸の顔は喜色で輝いていた。

 

「妖選《じんせん》の方についても目途が付き始めているんだ。僕の職場の()()()の妖《こ》で、人間の術者と協力している化け狸君が相棒の術者と一緒に依頼を受けてくれそうでね。それに何より、第七幹部の双睛鳥《そうせいちょう》君も力を貸して下さるそうだ」

「双睛鳥様、ですか……」

 

 双睛鳥。名を聞いた源吾郎は彼の妖相やどんな妖怪だったかをさっと思い返して思い浮かべた。双睛鳥の名は大陸に棲むという伝説の鶏の名にちなんだものだ。だが、彼自身は大陸系統の妖怪ではなく、むしろ欧州の妖魔であるというう。確かコカトリスの一種だったはずだ。

 

「大丈夫なんですか。確か双睛鳥様ってコカトリスの一種だったと思うんですが」

 

 問いかける源吾郎の声は僅かに上ずっていた。バジリスクやコカトリスの持つ性質を源吾郎は知っているのは言うまでもない。彼らは毒性を持つ妖魔なのだが、特に目に宿る邪眼が特徴的だったはずだ。彼らと目を合わせたもの、視線を向けられたものは石化するか毒気にやられて死ぬ。コカトリスと言うのはそう言う妖魔だったはずである。

 その辺については大丈夫だよ。萩尾丸の声は落ち着き払ったものであり、源吾郎をなだめる様な気配さえ伴っていた。

 

「確かに彼の眼にも邪眼の名残は残っているよ。とはいえご先祖様みたいに、視線だけで敵を殺すような毒気はもはや持ち合わせていないんだ。あの子の持つ眼の能力は……むしろ催眠や暗示の類に近いかな。相手の見た者や認識を書き換える様な力だから、ご先祖様のそれよりも弱体化しているとも言えるでしょ。

 それにそもそも、普段はその眼の力が無差別に発揮されないように眼鏡をかけてくれている訳だし。あの手の能力は、ガラス越しになるだけで威力を失うからね」

 

 双睛鳥が比較的(?)無害なコカトリスであるという話を、源吾郎は不思議に思いながら耳を傾けていた。ガラスや水晶が邪眼を無効化するという伝承は源吾郎も知っている。しかし、コカトリスに毒気の能力が無い個体がいるとは初耳だ。

 もちろん双睛鳥の能力もある種のマインドコントロールであり、恐ろしい能力である事には変わりはない。しかし本家本元である即死の邪眼と較べれば、いささかダウングレードの気配も否めない。

 

「元よりコカトリスや、その先祖であるバジリスクは変異が起きやすい種族なんだよ。弱点を克服し、生存のためにより良い姿や能力を得ようと進化している……双睛鳥君やあの子の一族の能力もその一つさ」

「それでも能力と言いますか、毒気は弱まっているんですよね? その方が都合が良いんですか?」

 

 不思議そうに問いかける源吾郎に対し、萩尾丸はその通りだと即答した。はっきりとその顔に笑みを浮かべながら。

 

「元々の能力だったら危険視されて討伐される可能性があるんだ。だが、邪眼が致死性の物では無くて尚且つ比較的簡単に対処できるとなれば、それだけでも討伐されるリスクが下がるんだ。まぁ、それはそれでいいように利用される可能性も生まれるんだけど。

 まぁ、そんな感じで双睛鳥君が参加してくれることになったから安心したまえ。いざという時は、彼が人間たちの認識をあやふやにしてくれるから。他の鳥類組は胡張安殿の件を調査するので忙しかったり、ちょっと僕では声をかけづらかったりしていたんだけどね」

「鳥類組って……それって幹部の方の大半が当てはまると思うんですけど」

「大半言うて鳥類が五名で哺乳類が三名でしょ。大体半々だし、鳥類組とか言っても問題ないと思ったんだけどね」

 

 ここで黙って話を聞いていた青松丸が疑問を口にし、萩尾丸がその質問を捌いていた。この二人は年齢も近くやはり兄弟分と言える間柄らしい。但し源吾郎と雪羽のような関係とは異なり、どちらが兄貴分でどちらが弟分であるかは明白なのだが。

 そんな事を思っていると、青松丸が源吾郎に視線を向けた。

 

「島崎君。確か島崎君は質問があったんだよね。良ければ僕たちに教えてくれるかな」

「はい」

 

 青松丸の問いに源吾郎は頷いた。兄弟子たちに視線を走らせつつ、臆せず自分の疑問を口にする。

 

「みんなで打ち合わせをしていた際に、萩尾丸先輩から『末の兄は他の妖怪に狙われる可能性がある』と暗に言われた気がするんです。話の文脈からそう思っただけなので、僕の思い違いかもしれませんが」

「思い違いも何も、僕はそのつもりで島崎君にそう言ったんだよ」

 

 萩尾丸はあっさりと、源吾郎の疑問に応じた。むしろ彼の方がやや不思議そうな様子でさえある。

 

「庄三郎君は君の実の兄でしょ? であれば半妖だし、玉藻御前の末裔である事には変わりない。それに上の兄姉たちと違って妖狐としての能力も持ち合わせているからね。そこが何か気になるのかな?」

 

 確かにその通りですけど……呟きながら、源吾郎は言葉を練った。

 

「兄が狙われるかもしれない、と言うのが不思議でならないんです。仰る通り魅了の力とかその手の異能は兄も持ち合わせています。しかし、あの能力は人間にしか効果を発揮しないので、妖怪たちにとってはそれほど有用であるとは思えませんが」

「それはあくまでも、庄三郎君が望んだからその程度になっているだけさ」

 

 兄が望んだから……? 禅問答めいた言葉に源吾郎は首をひねる。その間にも萩尾丸の解説は続く。

 

「良いかい島崎君。庄三郎君とて妖怪化できるポテンシャルはあったんだよ。彼自身がそれを望まなかったから、誰かに強要されなかったからこそ、彼は今普通の画家として暮らせているだけに過ぎないんだよ。

 能力が能力だから、場合によっては君以上のバケモノに育っていた未来だってありうるんだよ」

「それは末の兄が妖怪として生きる道を選んだ場合の話ですね。ですがもうその道を選ぶ事は無いと思うんです」

「いやはや、庄三郎君の年齢を考えればそうとも言い切れまい」

 

 上の兄姉たちと違ってね。萩尾丸は丁寧にそんな事さえ言い添えた。

 

「君が今十八だから、あの子は二十五、六だったと思うんだ。島崎君。人間社会では二十で成人だと見做されているけれど、大学とか大卒の新社会人の事を思えばさ、完全に大人になるまでにはもう少し歳月を要すると思わないかい?

 ましてや君も庄三郎君も半妖で、誤魔化しているとはいえ人間よりも歳の取り方が遅いんだからさ」

 

 つまりはまだ若者や子供なんだよ。庄三郎君も君もね。言外に萩尾丸がそう言っているように源吾郎には思えてならなかった。完全に大人になった上の兄姉ら三人と異なり、庄三郎は未だ若者の域に留まっている。外部からの影響で生き方を変える可能性はまだあると、萩尾丸は告げた。

 島崎君。改めて呼びかけられた源吾郎は思わず居住まいを正した。

 

「君は高校時代から雉鶏精一派に興味を持っていて、それで高校を卒業して晴れてここに就職したよね。紅藤様の盟約の事があるからいずれはこうなると思っていたんだけど、僕としては高校卒業のタイミングはマズいと思ったんだよね。

 紅藤様の許に弟子入りして、と言うより妖怪としての道を十八で選ぶのは――()()()()とね」

「早すぎるですって! そんな、僕は……」

 

 齢十八で妖怪の世界に飛び込んだのは()()()()のではないか。源吾郎の脳裏には常にそのような考えが憑きまとっていた。だが家庭環境を思えば致し方ない話でもある。両親や兄姉に構われて……言い方は悪いが監視されつつ育ったのだから。末息子に甘い父はさておき、母や兄姉らは源吾郎が人間として暮らしているか、変に妖怪としての暮らしに興味を持たないか、常に目を光らせている節があった。

 もちろんそれが未熟な源吾郎を護るためだという事は解っていた。だからこそ早く大きくなって独立したいとも思っていたのだが。

 慾を言えば、もっと早い段階で紅藤の許に弟子入りしたかったし、妖怪としての生き方を学びたかった。現時点でも源吾郎は強いが、それでも純血の妖怪たちに後れを取る部分もあるし。

 

「言ったでしょ。半妖は人間よりも歳を取るのが遅いってね。ましてや君は特に玉藻御前の血が濃いんだ。大学を出て人間社会で勤め人生活を体験してアラサー位になっていたとしても問題は無いはず。むしろ半妖だし精神的にも社会的にも大人になってるから好都合だと思ったんだけどね。

 僕としては()()()()()()()()()()()()()()()()()()かなと思ってたんだ。少なくとも大学を出たくらいが許容範囲ともね。ほら、理系で大卒だったら研究職に就いても何も不自然じゃないでしょ?」

 

 萩尾丸の言葉に、源吾郎は僅かに首を動かしただけだった。三十手前だの大卒だのと言われても、まだ二十代ですらない源吾郎にはピンとこなかったのである。

 

「まぁ、若いうちに島崎君を雇い入れたのも致し方ない話ですよ。母様の話だと、島崎君も欲求不満みたいなものを抱えてたみたいですし。高校生だったし、思春期でちょっと昂っていたのもあるんでしょうね。

 それに島崎君のご両親も、高校卒業後なら構わないと仰ってましたから」

「それも一理あるけどねぇ……」

 

 青松丸の出した助け舟に、渋々ながらも萩尾丸が乗っかっている。源吾郎はここぞとばかりに口を開いた。

 

「萩尾丸先輩。僕を雇い入れるのが早かったなんてイケズな事は言わないで下さいよ。そもそも、早かったからと言って悪い事があるとは――」

「早ければ良いのなら、親兄姉や親族たちから無理やり引き離されても構わなかった。そういう事かな?」

 

 萩尾丸の言葉に源吾郎は目を丸くした。彼は源吾郎の言葉を遮った上に、いつになくきつい語調で問いかけてきたからだ。

 

「ふふふ。そりゃあもちろん僕とてやろうと思えばそれ位の事は出来るよ。何となれば、禍根を残さないように君らの親族を皆殺しにして、その上で子供だった君を紅藤様に献上する事くらいは容易い事さ」

「萩尾丸さん! 島崎君には刺激が強すぎますよ」

 

 親族を皆殺し。それが自分には出来る。萩尾丸の過激な発言に、思わず青松丸が横槍を入れる。しかし源吾郎は思案しながら話の続きを待っていた。あくまでも源吾郎の言動が、この言葉を引き出しただけに過ぎないと知っていたからだ。

 

「だけど――それじゃあ()()()()()()()()って事は僕らも知っていたからね。

 雷園寺君がいるだろう? あの子は諸般の事情で叔父の三國君が面倒を見ているね。あの子が情緒不安定で、精神的に若干脆い部分がある事は君も知ってるでしょ?」

「ですが萩尾丸先輩」

 

 雪羽のいない所で話を進めたのはこのためだったのか。萩尾丸をねめ上げながら、源吾郎は思った。

 

「雷園寺君は叔父である三國さんや保護者達に可愛がられて育ってますよ」

「そうだとも。それでも、()()()()()()()色々あるって事なんだ。むしろ雷園寺君の場合は保護者が愛情を注いでいるから()()()()で済んでいるとも言えるかな」

 

 幼いうちに引き離して育てたとしても、都合のいい手駒が育つだけでしかない。萩尾丸は淡々と言い放った。精神面情緒面での成長は歪になるし、社会妖(しゃかいじん)として使い物になる代物とは言い難い、と。

 

「確かに僕は妖材(じんざい)の育成を仕事にしているけれど、使い潰すしか使い道のない手駒を作るなんて事はやってないからねぇ。ましてや君は玉藻御前の末裔で、それだけで相当な価値があるんだ。それを、駒にするだけなんて()()()()()()使い方はやりたくないんだよ。ましてや、紅藤様は自分の後釜に据えようと思っているみたいだからね。そうなれば一層、精神的な部分は重要になる。

 もちろん、両親の許で育つのが必ずしも最適という訳でもない。だけど島崎君の所はご両親もしっかりしていたからね。きちんと育つだろうと思っていたんだよ」

 

 果たして十八で妖怪の世界に飛び込んだのが早すぎたのかどうか。源吾郎には今の所よく解らない。しかし、遅すぎる事は無かったのだと思っていた。



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揃いし役者に思わぬ珍客

 秋の日は釣瓶落としと言うのだが、平日の勤務時間はあっという間に過ぎていった。ついさっきギャラリー襲撃事件の件で萩尾丸たちに相談を持ち掛けたと思っていたのだが、いつの間にか金曜の晩になっていたのだ。

 時間が経つのは早いのう。オッサンみたいな事を思わずにはいられなかった。

 

「いよいよ明日ですよね、島崎先輩」

 

 帰り支度を進める源吾郎の真横から声がかかる。雪羽が話しかけてきたのだ。彼もデスク周りを片づけて帰り支度をしているのだが、その両目は源吾郎の方に向けられている。ついでに上機嫌らしく、伸びあがった三尾は小刻みに揺れていた。

 雪羽もこの度の襲撃事件を阻止するべく、人間の退魔師に扮して現場に紛れ込む運びになっていた。この仕事について、雪羽はいつになく前向きに取り組もうと思っているらしい。若干浮かれているようにも思えたが。だがそれは純血の妖怪と人間の血が濃い半妖と言う違いではなく、雪羽と源吾郎の個性の違いではないかと思っている。

 元より雪羽はヤンチャな気質の強い少年であり、バトルジャンキーではないかと思われる所があるからだ。負けず嫌いと言いつつも荒事や本物の闘争を前に尻込みしてしまう源吾郎とは決定的に違う所だ。

 

「何というか、雷園寺君は明日を心待ちにしているみたいだね。休憩時間も邪法とかについて俺にご教授してくれたしさ」

 

 ついつい皮肉っぽい口調になってしまい、源吾郎はしまったと思った。演じるのが好きな源吾郎であるが、皮肉で相手を当てこするのは好きではない。それに相手は雪羽である。感情の起伏はかなり大きな性質だから、ここで揉めるとややこしい。

 とはいえ、雪羽に聞かされた邪法云々の話に辟易していたのも事実である。源吾郎自身、怖い話とか血肉舞うようなおどろおどろしい話は苦手なのだ。雪羽はその手の話をむしろ愛好している素振りもある。最近は孤独な少年が召喚した邪神を姉に見立て、広い屋敷で暮らすという漫画にハマっているらしい。源吾郎の倍以上の歳月を生きている雪羽だから、好みの漫画や読んだ本の数が幅広いだけなのかもしれない。しかし、雪羽が怖い話や不気味な話も好むというのは違和感があるというか意外だと思ってもいた。ヤンチャで粗暴なバトルジャンキーと言うイメージが強いからなのかもしれない。

 

「心待ちって言うのが気に障ったなら謝るよ」

 

 幸いな事に、雪羽は腹を立てたりしなかった。むしろしおらしい態度で源吾郎にそう言う程だ。

 

「ええと、心待ちって言うのは、先輩のお兄さんにも会えるから嬉しいって思ってただけなんだ。しかももしかしたら、お兄さんや先輩の困りごとに対して、俺が何か出来るかもしれないって思ってさ」

 

 庄三郎に会えるから嬉しい。いかにも素直で子供っぽい意見だと源吾郎は思い、そして苦笑した。雪羽の言葉が幼稚だと思った訳ではない。兄の庄三郎には、会う事を有難がるほどの存在だろうか。そんな事を源吾郎は思っていただけである。もっとも、庄三郎が怠惰でマイペースな若者に見えるのは源吾郎が弟と言う立場だからであり、他の面々には違った風に見えるのかもしれない。

 

「まぁ、厳密には雷園寺君は退魔師に扮してやって来てくれるわけだから、俺の知り合いの退魔師って事になる訳だけどね。それはさておき雷園寺君。今回の事件に協力するのは君にとって辛い事じゃないのかい? 俺は()()が心配なんだけど」

「辛いって、何が?」

 

 無邪気な様子で質問を返され、源吾郎はちょっとだけたじろいだ。それでも意を決し、おのれの意見を口にする。

 

「下手人の事だよ。やっている事は悪事に違いないけれど、境遇としては雷園寺君と同じ、いや近い物があるだろう? 大切な、愛する妖《ひと》がいなくなっちゃったんだからさ……」

 

 源吾郎は言葉を濁らせた。この事件について、いの一番に雪羽に相談しなかったのはこのためだったのだと密かに思っていた。

 雪羽が身内を大事に思っている事、身内を蔑ろにする態度に激する事は源吾郎も十二分に知っている。だからこそ、今回の事件に立ち会うのは辛いのではないかと源吾郎は思っていた。悪事に対する義憤と、愛する者を喪ったという下手人の悲哀。この二つの出来事を前に雪羽は板挟みになるのではないか、と。雪羽は幾分繊細だし、見た目通り子供なのだから。

 言われてみればそうだね。数秒ほどしてから雪羽が応じる。その口調には浮かれた気配はなく、いっそ冷徹な響きを伴っていた。雪羽の笑みもまた、口調と共に変質している事に源吾郎は気付いた。

 

「下手人の狐の事も気の毒だとは思ってるよ。かみさんがいなくなったのはそりゃあ辛い事だろうさ。だけど――だからと言って身勝手な事をする免罪符にして良いって訳じゃない。少なくとも俺はそう思う。()()()()()()()()()()()()。この事件にね」

「強いな、雷園寺……」

 

 雪羽の返答を聞いた源吾郎は、自分が全くもって見当違いな心配をしていたのだと悟った。自分の考えの浅さにちょっと恥じ入ってもいた。もしかしたら本心を隠すために、敢えて浮かれた態度を見せていたのではないか。そんな推論まで浮かぶ始末だった。

 そう思っていると、雪羽は急に相好を崩し、明るく笑って言い添えた。

 

「あ、でもこれは萩尾丸さんとかには言わないでくださいね。子供なのに調子に乗っているとかってあの妖《ひと》は言いそうだからさ」

「萩尾丸先輩もそんな事は言わないだろうに」

 

 土曜日。源吾郎が会場に到着したのは九時ごろの事だった。オープン自体は十時からなのだが、島崎庄三郎の弟と言う事ですんなりと通る事が出来た。スタッフとは違うものの、画家の関係者と見做されたのだろう。

 入場許可が下りると、源吾郎はすぐに兄の許に近付いた。それこそが今回の任務(?)なのだから。

 庄三郎は案の定、控室の隅の方で待機していた。なるべく目立たないようにと画策しているようだ。周囲には関係者やパトロンなどが贈呈した花束や鉢植えが既に置かれており、兄の目論見はとうに潰えているようでもあるが。

 それでも、弟の姿を見つけると笑顔で出迎えてくれた。

 

「おはよう源吾郎。忙しいだろうにありがとうね。遠方だし大変だったんじゃないの?」

「兄上、言うて電車に揺られてきただけだから大丈夫だよ。まぁ……まとまった貯金が出来れば車を買わないとって思ってるけどね」

 

 言いながら、源吾郎は周囲の気配を読み取り始めた。源吾郎とて曲がりなりにも妖怪の血を継いでいる。妖怪がいるかどうかを感知するくらいの事はごく普通に出来た。むしろ、妖気の感知は他の若妖怪に較べて得意な方でもあるらしい。半妖ではあるものの、保有する妖気が多いからなのかもしれない。

 ぽつぽつと妖気らしいものは感じ取れた。だがこれは特におかしな事ではない。普通に人間たちが集まっていると思われる所でも、妖怪が一定数紛れ込んでいる事があるからだ。感知したのは見知らぬ妖気だった。事件とは無関係にギャラリーに紛れ込んでいるか、或いは稲荷の眷属なのかもしれない。

 妖気の探知を打ち切った源吾郎は、兄の方に向き直った。

 

「そうそう。今回は知り合いの退魔師の子にも声をかけているんだ。兄上の護衛としてね。まだ来てないみたいだけど、十時ごろにこっちに来るんじゃないかな。来たら後で紹介するよ」

「源吾郎、君って退魔師の子と知り合いになってたんだ」

 

 知り合いの退魔師が来る。源吾郎のその言葉に庄三郎は素直に驚きを見せていた。

 

「源吾郎って半妖だけど妖怪っぽさが強いしご先祖様がご先祖様だからさ、退魔師って言うのは天敵かなと思ってたんだけど……と言うか雷園寺君じゃないんだね」

 

 兄上も雷園寺君に会いたかったのか。そう思いつつ源吾郎は言葉を濁すだけにした。雪羽は何を思っているのか、退魔師に扮した姿と言うのを源吾郎に伝えていなかった。とはいえ合流した時にそれとなく合図を送ると言っていたのでまぁ問題は無いのだが。

 ともあれ雪羽の姿を見てから考える事にしよう。源吾郎はそのように割り切っていた。元より雪羽も人間たちを刺激せぬように変化すると言っているのだから。

 

 

「島崎庄三郎さんですよね! 初めまして~僕は退魔師の梅園幸夫と申します。今回は、島崎源吾郎君の依頼で来ました~」

 

 退魔師の梅園幸夫なる人物、もとい妖物《じんぶつ》がやって来たのは午前十時きっかりの事だった。無論彼が雷園寺雪羽の変化である事は言うまでもない。律義に彼は源吾郎にちょっとした合図を送ってくれたのだから。

 だが――一瞥しただけで源吾郎は中の人が誰であるか判ったのだが。

 宮司や神官めいたコスプレ的衣装は普段着と明らかに違うし、暗い灰褐色の髪や眼鏡の奥にある黒っぽい瞳も雪羽の本来のそれとは違う。ついでに言えばやや大人っぽい姿になっており、源吾郎と同年代ほどに見えた。しかし、変化して違う所はそれくらいなのだ。それ以外は、顔つきも体格も普段とほとんど変わらないのだ。

 おいおい雷園寺。お前それで変化とか言っちゃうんかよオイ……変化にこだわりを持つ源吾郎はちょっと問い詰めたくなってしまったが、とりあえず庄三郎との挨拶や名刺交換が終わるのを待った。

 

「兄上。ちょっと梅園君と話したい事があるんで」

 

 それらが終わってから、源吾郎は梅園幸夫の手首を掴み、人気のいない所に彼を引っ張っていった。奇しくもその光景は、かつて自分と雪羽が初めて出会った時の光景に似ていた。

 

「ちょっと、どうしたんですか先輩。怖い顔なんかしちゃってさ」

 

 廊下のちょっと窪んだ所に辿り着くや否や、雪羽は質問を投げかけた。不思議そうに小首をかしげながら。源吾郎は周囲に認識阻害の術をかけた上で言い放つ。

 

「変化って言うからもっと別人っぽくなってるのかと期待したけどさ……まんまやんけ!」

「まんまとは手厳しいっすね先輩。でも見てくださいよ。ちゃんと大人っぽい姿にしてますし、髪色とか目の色だって調整してるんですから……」

 

 それ位の事は仔狐だってできるんだけどなぁ……源吾郎はそう思ったものの、更にツッコミを入れるべきかどうか悩んでいた。あんまりこんな所でエネルギーを消耗している場合でもないからだ。それに雪羽も変化が得意では無い事は知っている。今回も服とか眼鏡とかに込めた術式で姿を変えているようだし。

 

「ま、先輩みたいに変態的な技術が無くても、ちょこっと調整したくらいでも同一妖物じゃないって見做される事ってあると思うんです。昔やってたアニメでもそんなこと言ってましたし」

「……そういう事にしておこうか。多分、兄上も君の姿を見て大体察しがついていると思うけど」

 

 それじゃあ兄上の許に戻るか。源吾郎はそう思って術を解き、庄三郎の許に戻った。絵の紹介や案内を他のギャラリーのメンバーに任せ、庄三郎はちゃっかり展示ブースの奥に隠れるように佇んでいた。隠れるようにと言っても、ちょうど彼の作品の傍に位置する所であるから、その気になれば案内役もできるだろう。

 見知らぬ中年男性が兄の作品を凝視している。ただそれだけのことだったのだが、源吾郎にはその姿が嫌にくっきりと見えていた。

 

「ごめん兄上。梅園君が緊急避難路を教えて欲しいって言うから、それでちょっと案内してたんだ」

 

 話でっち上げたなこいつ。梅園幸夫のじっとりとした視線を受けた気がしたが、源吾郎は気にせず兄に告げる。そうだったんだ。兄がそう言った時、作品を見ていたはずの中年男がこちらを向いた。

 彼は庄三郎や源吾郎に舐める様な視線を寄越し、それから歯が見えるほどに笑った。妙に狐めいた笑みだった。

 

「庄三郎! お前は俺への依頼を蹴ったみたいだが、それで今度は弟の源吾郎に頼ったんだな。ははは、可愛くて生意気な甥っ子共よ。まさかそれでもこの俺がここにやって来るとは思ってなかったんだな」

 

 この人は苅藻の叔父上じゃないか。馴れ馴れしく、名指しで庄三郎に声をかける男の姿を見て、源吾郎は即座に悟った。しかもご丁寧に、会話が漏れぬように認識阻害の術を周囲にかけているし。

 気付けば苅藻の姿は、見知らぬ中年男ではなく、見知った叔父の姿に戻っていた。庄三郎の驚きよう、怯えようと来たらそれはもう気の毒なほどだ。

 だからこそ、源吾郎はさり気なく彼の隣に控えたのだ。苅藻が源吾郎たちを害する事は無いと思いたい。しかし敢えて姿を現した叔父の意図までは定かではないからだ。



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不穏なりしは見えざる守護者

「苅藻叔父さん……どうして……」

 

 苅藻の作った簡易結界の中で、庄三郎は小さな声で呟いた。相変わらず兄は驚き、そして怯えている。そもそも彼は兄姉らの中でも妖怪を怖れる傾向が強かった。それは親族である叔父たちも例外ではなかった。もっとも、今回彼が怯えているのはもっと別の理由によるものだろうけど。

 

「そういう事だろうと思っていたけどな、庄三郎」

 

 震えて源吾郎にくっつきそうな勢いの庄三郎を見つめながら、苅藻はにやりと笑った。そこそこ整った面立ちである為か、中々に凄味のある笑顔である。

 

「お前の事だ、大方俺の提示した金額を支払うのを渋って、それで弟の源吾郎に泣きついたんだろう。源吾郎なら親族たちの中でも妖怪絡みのトラブルに対応できそうだし、何より弟だから報酬を渋っても問題ないもんなぁ。そうだろ庄三郎? 我が甥よ」

「一体何がしたいんですか、苅藻の叔父上」

 

 嘲弄的な叔父の言葉に応じたのは、庄三郎では無くて源吾郎だった。兄の怯えようを見ているうちに、叔父の言葉に耳を傾けるうちに黙っていられなくなったのだ。

 

「この会場に来るだけならまだしも、妙にでしゃばって兄上を怖がらせるなんて、一体どういうつもりなんだよ。大人げないじゃないか!」

「ちょっと落ち着いてくださいよ先輩」

 

 源吾郎の啖呵に横槍を入れたのは何と梅園幸夫もとい雪羽だった。源吾郎に腕を伸ばす彼は、当惑したような表情を浮かべていた。

 

「親しき仲にも礼儀ありって昔から言うじゃないですか。それに俺は、先輩たちと叔父上殿が喧嘩するのを見に来た訳じゃあないんですから」

「…………」

 

 雪羽の説得に、源吾郎は毒気を抜かれぼんやりとしてしまった。それでも気にせずに、雪羽は言葉を続けた。いや、苅藻に対して様子をうかがうような一瞥を投げかけてはいたが。

 

「先輩。苅藻さんは先輩たちをからかったり、怖がらせたりするためにやって来たんじゃないんですよ。先輩たちの事が心配で、それでわざわざ様子を見に来てくださった。そういう事だと俺は思ってるんですから!」

 

 ほうっ、と源吾郎の口から息が漏れる。苅藻の行動の真意はさておき、雪羽の言い分は十分に理解できるものだったからだ。叔父や兄と言った年長の親族は、弟妹や甥姪といった年少の親族を可愛がるべきだ。そうした考えに雪羽が囚われている事を源吾郎は十二分に知っていた。彼自身も叔父である三國に可愛がられて育ったわけだし、兄として弟妹達を、実弟実妹のみならず異母弟妹さえをも可愛がろうと意気込んでいたのだから。

 親族の間には愛情と絆があるべき。この考えは雪羽の理想であり、願望そのものであった。その事をつい自分以外の相手に押し付けようとする節があるが、それもまた致し方ない事だと源吾郎は半ば受け入れていた。物事をドライに割り切るには雪羽は幼すぎるし、何よりその願望の切実さを知っているのだから。

 さて苅藻はと言うと、ニヤニヤ笑いを浮かべながら三人の若者たちをしばし眺め、短い笑い声を上げた。苅藻の挙動に鋭く反応したのは雪羽だった。

 

「すみません苅藻さん。勝手に苅藻さんのお考えを推測して、口にしてしまって……でも、苅藻さんも心配に思っておいでならその事を島崎さんたちに素直にお伝えしたほうが良いと思ったんです。やっぱり、子供は大人の言葉にすぐに戸惑っちゃいますし、何でそんな事を言ったんだろうって後悔なさるかもしれませんから……」

「はははっ。君の言葉も一理あるね、雷園寺雪羽君」

 

 退魔師・梅園幸夫に扮した雪羽の正体は、やはり苅藻には看破されていたらしい。敢えてフルネームで呼びかけたのはそのためであろうか。

 

「久しぶりだね雷園寺君。元気いっぱいのヤンチャ坊主かと思っていたけれど、中々どうして立派な事を言うようになったじゃないか。ふふふ、君も今や正式な雷園寺家の跡取り候補だもんね。大妖怪の子息らしい風格が出始めたんじゃあないかな」

「そんな……」

 

 苅藻のリップサービスめいた言葉に、雪羽は当惑して顔を赤らめてさえいた。ヤンチャだった頃は大妖怪の血を引いている事や雷園寺家の次期当主である事に笠を着て、誇らしげに吹聴さえしていた雪羽である。しかし()()()雷園寺家の跡取り候補になってからは、そうした吹聴癖はなりを潜めていた。不思議な事ではあるが、それもまた彼の心境の変化によるものなのだろう。

 さて雪羽はと言うと、素直に自分が雷園寺雪羽である事を告げ、ついで訳あって別人に扮しているだけだと苅藻に説明した。

 それらの説明が終わると、ねめ上げる様な視線を向けながら苅藻に問いかけた。

 

「苅藻さん。庄三郎さんや島崎先輩のために本当の事を仰って下さい。本当はお二人の事が心配なんですよね? 苅藻さんは他ならぬ、お二人の叔父なんですから」

 

 自分の考えを押し付けたくて仕方が無いはずの雪羽の言葉は、しかし穏やかで丁寧な物だった。苅藻に多少遠慮しているのだと、源吾郎はややあってから気付いた。源吾郎にとって、苅藻は兄のように気軽に接する事が出来る存在である。だが雪羽にしてみれば、保護者たる三國すら気兼ねするような妖物なのだ。叔父貴が偉いと認めているからこの妖《ひと》は偉い。雪羽の脳内にはそんな図式があるらしかった。

 

「ふふっ。本当にごめんね雷園寺君。君みたいな素直で良い子をここまで混乱させてしまって」

 

 柔らかく笑う苅藻の言葉と表情は、柔らかな慈愛に満ち満ちたものだった。その優しさや慈しみは実の甥ではなく雪羽に向けられたものであるのは言うまでもない。両親や親戚の年長者が、身内よりも身内の友達にばかり優しいというのは妖怪社会でも見られる光景なのだろう。

 

「だけど雷園寺君。気になる事はあると言えども実際にはそんなに心配してもいないんだよ。()()()()()()()()()。さっき甥たちに言ったように、庄三郎が俺の依頼を蹴った時点で、源吾郎に助けを求めるだろう事は解っていたからね。

 そして源吾郎の事だ。この件に関しては既に上にも……師範である紅藤様とか萩尾丸さんにも相談して、力添えなりなんなりをしてもらってるんだろうしさ」

「……案件が案件なので、萩尾丸先輩は表立って動くのは難しいって言ってたけどね」

 

 源吾郎が思わず言うと、得心が行ったと言わんばかりに苅藻は笑った。

 

「確かに今回は稲荷の眷属が起こした不祥事だから、玉藻御前の側にいる雉鶏精一派は公式に動くのは難しいだろうね。雉鶏精一派も雉鶏精一派で、反体制・反秩序の過激派組織だと思われていた時期もあった訳だし。峰白様や萩尾丸さんはそれを払拭し、健全な妖怪組織だと認められるように尽力なすっている訳だけど」

 

 とはいえ、それでも妖狐の下手人を捕縛するには問題は無いのだ。苅藻はきっぱりとそう言った。元より稲荷の眷属たちも包囲網を作っているし、彼ら自身も術者たちとも連携を取っている。包囲自体は初めから出来ているのだ。

 雉鶏精一派は派手に動く事は出来ないが、それでも部下からの依頼を受け入れた手前、何もしない訳ではあるまい。現に、萩尾丸は第七幹部の双睛鳥に協力を要請し、萩尾丸が面倒を見ていた妖怪に声をかけていると言っていたではないか。

 

「だからね、特段俺が手を貸さなくとも何ら問題ないという訳だ。それどころか、源吾郎も雷園寺君も、()()()()()()()()出る幕は無いかもね。君らの上司も多分その事は承知なさっているはずだ。その上で、プロの仕事を見て学んで欲しいって思ってるんじゃないかな。

 まぁ俺も、今回は庄三郎の絵を買いに来たわけだしな。それだけじゃあ勿体ないから、もちろん他の画家の絵も見てぶらつくつもりなんだけど」

「え、買ってくれるの……!」

 

 庄三郎が驚いて目を丸くしている。苅藻が庄三郎の絵を買うためにここに来た。その事は源吾郎にも予想外の事だった。雪羽とてそうだろう。

 

「そんなにいろいろ買う訳じゃあない。だが庄三郎も大変そうだしその足しになれば良いかと思ってな。ははは」

 

 苅藻はしばし明るく鷹揚な笑顔を見せていたが、ややあってから真顔に戻った。源吾郎も雪羽も、その表情を見て緊張してしまった。

 

「それに実を言えば、気がかりな事があってな」

「気がかりな事ですか? 今さっき()()()()()()と……」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 苅藻との問答を終えた源吾郎は、文字通り狐につままれたような気分になった。だが、さっきから苅藻がやけに狐狩りと言う単語を連呼していたのを思い出す。妖狐が妖狐に語って聞かせる単語では無いだろうと思っていたのだが、まさかそんな意味合いがあったとは。

 きっかけになった造形作家、そいつの周辺に気を付けた方が良い。何かを窺うような声音で苅藻はそのように断言した。

 

「下手人は確かに人間を憎んでいるという事だが、それなら無差別に画家を襲うんじゃあなくて、初めから妻の遺骸を持つ造形作家だけを狙えば良いだけの話だ。或いは……問題の作品を買い取って供養すればそれで話は終わるはずだ。

 いくら怒りと憎しみで我を忘れていると言えども、下手人とてその事は解っていたはずだ。やらなかったのではなくて()()()()()()のではないか。俺はそんな風に思ってもいるんだ。造形作家自身が何がしかの力を持っているか、何がしかの力を持つ者が、造形作家に憑いているかのどちらかだろう」

「それって、所謂守護天使とか守護霊みたいなものでしょうか」

 

 凶行に及んだ妖狐すら手出しできないナニカが憑いている。その言葉に反応したのは雪羽だった。守護天使と言う言葉は何とも可愛らしくて子供っぽい響きを伴っている。

 

「そんな上等な物じゃないさ。敵の敵は味方だなんて法則は、論理学の世界にしかないんだぜ? 何かはまだ解らんが、そいつの方が下手人よりもはるかに禍々しく厄介なはずだ。三人ともゆめゆめ気を付けたまえ。油断は禁物だ」

 

 気取った口調で苅藻は言い終えると、先程まで変化していた中年男性の姿に戻っていた。それじゃ。気安い口調を投げかけ、そのまま源吾郎たちから遠ざかっていく。彼の構築した結界は既に解除されていた。



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災禍見据えて雷獣吼える

「……ごめんね二人とも。初めから僕が苅藻の叔父さんにきちんと依頼していれば君らを巻き込まずに済んだのに」

 

 苅藻の姿が見えなくなってから、兄の庄三郎はさも申し訳なさそうに呟いた。妖怪絡みの話になると察知した源吾郎が、即座に認識阻害の術を展開させる。この手の術は源吾郎としてはそれほど妖力を消耗しない。更に言えば今回は派手に闘う展開が訪れる事はまずない。

 だからこそ、自身の妖力の消耗を気にする事は無かったのだ。

 

「巻き込んだなんてとんでもありません。庄三郎さん。僕らは僕らの意志でここに来たんですから」

 

 庄三郎の言葉に真っ先に応じたのは雪羽だった。その声は若干上ずり、チワワかポメラニアンの遠吠えのようだった。そして明るい日中であるにもかかわらず、彼の瞳孔は黒々と開いていた。何故だか解らないが若干興奮しているようだった。

 

「苅藻さんがあんな事を言った時はヒヤッとしましたけど、それでも、苅藻さんが苅藻さんなりに二人を気にしていると知って僕は安心しました。お金に困ってる庄三郎さんの絵を買って下さるみたいですし……先輩には何に気を付ければいいか教えてくださったじゃないですか。

 うちの親族は……大人連中が糞みたいな連中で、まぁその糞まみれなので」

 

 雷園寺のやつ、結局それが言いたかっただけだろ。源吾郎はとっさにそう思ったが、もちろん口には出さなかった。

 身内に関する事柄に、雪羽が過剰反応するのは源吾郎も十二分に知っていたからだ。そして、親兄姉や親族に構われる源吾郎の境遇を羨み、密かに妬んでいたという事も。源吾郎はかつて、雪羽がただただ叔父の三國に甘やかされているのを見て、密かに嫉妬した事があった。状況が状況と言えども、今思えば実に浅はかな事だったと断言できる。源吾郎は叔父の一人や二人が厳しかろうとどうという事は無いが、雪羽には頼れる肉親は三國しかいなかったのだから。

 雪羽が今ここでおのれの親類への想いをぶちまけるのは適切な事ではないのかもしれない。しかし雪羽は今ここで言いたかったからこそぶちまけたのだろう。そのように思っていたから、源吾郎は特に何も言わなかった。それに自分は雪羽の言動を注意できるほど立派な存在でもないし。

 

「まぁその……家庭環境とか親戚関係も妖《ひと》それぞれだもんね。身内と言っても他人みたいなものだし、集まれば色々あると思うんだ」

 

 なだめるように告げたのは兄の庄三郎だった。その声音は優しくて落ち着き払ったものだった。何より雪羽に寄り添うような、大人びた物言いだった。ああ、やっぱり兄上は俺よりもうんと大人なのだ――当たり前すぎる事を、奇妙な感慨と共に源吾郎は抱いていた。

 

「ええと、ごめんね雷園寺君。何というかありきたりな事しか言えなくて」

「そんな事ないです庄三郎さん……と言うか、僕こそ何かすみません」

 

 ハッとしたような表情で雪羽が唐突に謝罪した。慌ただしい雪羽の表情の変化に面食らっていると、彼は眼鏡のつるや落ち着いた色味の髪に指を這わせながら告げた。

 

「ええと、その……名前とか見た目とか普段と違うんですけど、僕は雷園寺雪羽なんです。今回は人間も多いし色々とややこしいんで、人間の退魔師に化けてただけなんです。騙すつもりは無いんです」

「ふふっ、別にそっちも気にしてないから。大丈夫だよ雷園寺君」

 

 変装も何もバレバレやったやん……そんな風に源吾郎は心の中でツッコミを入れる傍ら、庄三郎の対応はやはり柔らかな物だった。初めから雷園寺君だろうと解っていたんだ。その言葉に雪羽はあからさまに驚いていた。

 

「前に会った時、雷園寺君も色々話してくれてたでしょ。その時に弟と仲良くしてくれているんだなって思ってね。そんな子だから、きっと弟の手助けに来てくれてるんじゃないかって僕は思ったんだけど」

 

 庄三郎の紡いだ言葉に、源吾郎も思わず感嘆の息を漏らしていた。変装がバレバレであるという事には触れずに、それらしい事を雪羽に伝えたのだから。

 頷く雪羽の表情はやけに凛としていた。

 

「ええ。本当に弟さんには……源吾郎さんには良くしてもらっています。僕にも()()()()()()()してもらえますし」

「そうだったんだね。それは良かったよ。源吾郎は末っ子でちょっとワガママな所があると思ってたから、雷園寺君に色々と迷惑を掛けていないかって心配していたんだけどね……」

 

 そんな、とんでもないですよ……雪羽と庄三郎のやり取りを、源吾郎は渋い気持ちで聞いていた。実の兄、それも末の兄にワガママだと言われた事は別にどうでも良い。()()()()()()()()()()()。雪羽の放ったその言葉が源吾郎には辛かったのだ。

 源吾郎の思う優しい人と、雪羽の考えるそれとは大きな差があるためだ。

 機嫌が悪くても嫌がらせを仕掛けない。ちょっとしたおやつや飲み物を渡す時に見返りを求めない。そんな態度でさえ雪羽は優しいと感じてしまうらしかったのだ。オトモダチと言う名の取り巻き連中との関係性を知っていたのでおよそ察しは着いていた事ではあるが……雪羽に優しさを見出されるたびに、源吾郎はじっとりとした気持ちを感じずにはいられなかった。

 

「ともあれ、叔父上は少し拗ねちゃって、俺らにツンデレをかましただけだって明らかになって良かったと思うよ」

 

 おのれの心中に立ち込める気持ちを払拭しようと、源吾郎はそんな事を言った。

 

「……急に兄上の絵を買うなんて、ツンデレムーブをかましていた割には羽振りがいいなぁ」

 

 苅藻がやって来てから数分後。源吾郎はギャラリー展のパンフレットを眺めながら隣の雪羽に呟いた。庄三郎はこの場にはいない。お手洗いに向かっていたからだ。源吾郎や雪羽の前では年長者らしく振舞っていたが、やはり緊張したらしい。

 パンフレットから視線を外し、隣の雪羽を眺めながら言葉を続ける。

 

「しかも来年とはいえ三國さん夫婦に出産祝いと……雷園寺君には次期当主候補決定のお祝いまで出すみたいだし……いやその、叔父上だって三國さんたちと交流があったから、そう言うお祝いを出すのは当然だと思ってるよ。だけど出費に出費が重なったら叔父上でもしんどいんじゃないかなって思ってさ……」

 

 雪羽の視線を気にしつつも、源吾郎は言葉を紡いだ。叔父の苅藻がどのようにお金を使うのか、その事についてとやかく言うつもりは無い。ただ今回は、ケチな苅藻の割には羽振りの良さが目立ち、不思議に思っただけだ。

 

「先輩もお金のやりくりとか気にするんですね」

「そりゃあね。一応一人暮らしだし」

 

 お金のやりくりと源吾郎が言った時、雪羽の表情は屈託のない物だった。雪羽自身はお金の心配とは無縁そうに源吾郎には見える。特に現在は萩尾丸の許で再教育を受けているので尚更だろう。お金の管理は萩尾丸がしていたし、萩尾丸の許で暮らしている間は、特に雪羽は出費の心配をしなくて良いのだから。

 

「苅藻さんが特に大丈夫なら大丈夫って事じゃないですかね。特段、その手の話はなさってなかったみたいですし」

 

 雪羽はそう言って視線をさまよわせていたが、源吾郎の方に向き直るといたずらっぽい笑みを浮かべて見せた。

 

「案外、萩尾丸さん辺りが苅藻さんに小道具の発注とか仕事の依頼とかをなさったのかもしれませんね。苅藻さんもいちかさんも、大昔は萩尾丸さんの許で術の手ほどきを受けて、それで一人前の術者に育ったみたいですし」

「…………」

 

 雪羽の大胆な仮説を前に源吾郎は言葉がすぐに出てこなかった。いかにも露骨な話であるが、その通りかもしれないと思っていたためだ。正式な弟子と言えるのかどうかは定かではないが、苅藻やいちかが萩尾丸の許で術者としての勉強をしていたのは事実であるらしい。源吾郎や雪羽が生まれる遥か昔の事であるが、そもそも萩尾丸は源吾郎の母よりも年上である。

 それに、萩尾丸は源吾郎たちの知らない事を多く知っているみたいだし、自分たちに知られないようにあれこれと手を回すのも得意だった。そのように思うと、雪羽の仮説も信憑性が増す気がしたのだ。

 

「とにかく先輩、苅藻さんのお金の出所はひとまず脇に置いて、これからどうするかを考えましょうよ」

「お、おう、うん……」

 

 弾んだ声音で雪羽に言われ、源吾郎はちょっとだけ面食らってしまった。雷獣である為か、雪羽は気持ちの変化がやや早い所がある。そうと知っていても、いざ触れてみると驚いてしまう事も多々あった。

 彼は手にしていたスマホの画面を源吾郎に突き付ける。「芦屋川満 事故」と言うワードでの検索画面だった。芦屋川満って誰だったか……そう思っていると雪羽がおもむろに口を開いた。

 

「狐の毛皮を使って作品を作った造形作家がきな臭いって苅藻さんも言ってたでしょ? それで気になって調べてみたんだよ。そうしたらこんな結果が出たって訳」

 

 認識阻害の結界が生きているのを良い事に、雪羽はスマホ画面を近づけて笑った。普段の彼らしからぬうっそりとした笑顔である。だがそれよりも――画面を躍る文字の方が源吾郎は気になった。

 芦屋川満そのものについては、資産家の子息だとか何だとかで羽振りの良い芸術家のボンボンであるらしい。だがその周囲の人間たちが問題だった。何というか、彼に近しい人物、特に才覚のある同業者が()()()()()()()()()()()()()()()というのだ。それも今年の下半期に入ってから。

 何かが造形作家に憑いている。禍々しくて厄介な存在だ――苅藻の言葉が源吾郎の脳裏で蘇る。

 

「それで……らいおんじ、いや梅園君はどう思うのさ」

「どうもこうもあるまい」

 

 源吾郎の問いかけに、雪羽は何故か憤慨したように鼻を鳴らした。

 

「こりゃあ完全に何かが、いやそれこそ蠱毒の仕業だろうね」

 

 蠱毒。そう言った雪羽の瞳が奇妙な塩梅にぎらついた。

 

「蠱毒は何も相手を取り殺すだけじゃあないんですよ。扱いようによっては、蠱毒はあるじに富をもたらす事だってできるんですから! とはいえ、その富も相手を陥れた上で得られる物なんですけどね」

「……そのくらい、俺だって知ってるよ」

 

 嬉々として、それこそモノに憑かれたような気配で話す雪羽に対し、源吾郎は冷静に言ってのけた。蠱毒ならば厄介だと苅藻が言うのも無理からぬ話だ。そのように納得していた源吾郎であるが、それでもなお雪羽は言葉を続けた。

 

「多分なんですけど、今回の蠱毒は犬神かもしれませんよ。苅藻さんも、下手人の狐が手出しできないって言ってたじゃないですか。犬神なら、お狐様も怖がるのは当然の流れですよ。蛇や金蚕(きんさん)とかなら、お狐様たちだってどうにかなるでしょうけれど。猫鬼(びょうき)は狂暴すぎて手に負えませんし」

「そもそも蛇や虫けらだろうとも、蠱毒である時点で普通の妖怪には手に負えない存在だと思うんだけどなぁ」

 

 そう言ってから、源吾郎は思わず身震いした。自身が蠱毒に侵蝕された時の事を思い出したからである。

 

「ま、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。猫みたいだとかハクビシンみたいだって言われるけれど、俺はあくまでも雷獣なんだ。犬っころなんて敵でも何でもないよ」

 

 雪羽は源吾郎の姿を見、やけにゆっくりとした口調で言い放ったのだった。雪羽の言葉は、彼の心情を反映したものではなくむしろ彼自身を鼓舞するための、恐怖を押し流すための言葉であるのだと源吾郎は解釈していた。

 ともあれ敵を知らなければならないだろう。そう思っていると、ようやく庄三郎が戻ってきた。



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鵜の目 鷹の目 不穏な視線

 お手洗いから戻ってきたという庄三郎は、妙に晴れやかな表情をしていた。半ばくっついていた源吾郎と雪羽は、互いに顔を見合わせてからちょっとだけ距離を取る。仲良くくっついていたのが恥ずかしいわけではない。自分たちが調べていたものを庄三郎に伝えるのはやめておいた方が良い。そのような思いがあったからだ。

 源吾郎は周囲に目を配らせ、認識阻害の術を続行させておいた。当たり障りのない会話になると思うのだが、妖怪と半妖二人が集まっているので、妖怪絡みの話に転んでもおかしくないからだ。

 

「二人とも待たせちゃったかな。いやはや、このところ冷えるしちょっとお腹がね」

「ははは、男だったら急に下る事もあるもんね」

 

 若干下ネタに近い事を敢えて言って、源吾郎は笑って見せた。平素ならばそうした話を振る事はまずない。しかし相手が兄であるし、まぁ許容範囲だろうと源吾郎も思ったのだ。実際問題、お腹の弱い男子が多い事はまごう事なき事実なのだから。

 待たせた、と言っている所からも庄三郎はちと緊張冷めやらぬ所なのだろうと源吾郎は踏んでもいた。源吾郎たちは何となく護衛に回っている訳であり、三人で連れだって何処かへ行くという訳でもないのだから。

 

「別に大丈夫ですよ、庄三郎さん」

 

 はきはきとした口調で応じたのは梅園幸夫もとい雪羽だった。先程までの興奮はなりを潜め、秀麗な見た目も相まって爽やかな好青年と言った風情である。

 

「こんな事を言っちゃあなんですけど……庄三郎さんを待っている間に、僕らも色々と敵情を探る事が出来たんです」

「そうだったんだね」

 

 話の雲行きが急に怪しくなったではないか。そう思っている間にも、雪羽は言葉を続けてしまった。

 

「事の発端になった造形作家のバックには、どうやら犬神が憑いているみたいでしてね」

「犬神、ねぇ……」

 

 庄三郎が訝しげに片眉を上げる。やっぱり美形はそんな表情でも様になるんだな。源吾郎がそんな事を思っている間にも、調子づいた雪羽は喋り始めていた。

 

「そうですよ犬神ですよ庄三郎さん。あ、もちろん狼とかと同一視されて神聖視されているようなモノホンの神様みたいなやつでもなければ、哮天犬様みたいな正義の猟犬でもありませんよ。苅藻さんだって、禍々しい気配を感じるって仰ってましたもん。

 アレですよアレ。呪いによって生まれた……蠱毒の一種ですからね。今回のやつは」

「雷園寺!」

 

 源吾郎はたまらず吠えた。余計な事をのたまい過ぎだ。そのような思いを込めてきっと睨んでも、雪羽はどこ吹く風と言った雰囲気だ。源吾郎と異なり、雪羽は相手の敵意や悪意を受け流すのが得意な節がある。或いは、源吾郎だから大丈夫とでも思っているのだろうか。

 

「報連相は大事って職場で散々言われているけれど、何も兄上に犬神の話をしなくて良いだろうが。ただでさえ、兄上は妖狐に襲撃されるかもしれないってビクビクしているのに」

「差し迫った脅威の正体が解るのなら、リスク回避のために伝えるのが優しさだって俺は思っているんだけどね」

 

 ややきつい口調で言い募ったものの、当の雪羽は困ったように肩をすくめただけだった。だが雪羽なりに庄三郎を思いやり、優しさを見せている事は源吾郎には伝わった。その優しさと思いやりの表出が、源吾郎のそれとは真逆なだけなのだ。

 

「ははは、気遣ってくれてありがとう。源吾郎君も雷園寺君も。大丈夫だよ、僕は怖い話とかその手の話には慣れているからさ」

 

 庄三郎は鷹揚に笑っている。彼も彼なりに源吾郎たちを気遣っているのだ。もちろん、怖い話をさほど怖がらずむしろ愛好する気質であるのも事実なのだが。

 

「動物の毛皮や剥製を使った造形作家に犬神が憑いているなんて……何というからしいと思いませんかね? しかも、彼らのライバルはことごとく不幸に見舞われている訳ですし」

「小説の題材としては中々に興味深い話だね。僕もあの人の事は知っていたけれど、まさかそんな秘密があったとは夢にも思っていなかったよ」

 

 犬神が、蠱毒が憑いているとして、芦屋川何某は何処でそれを手に入れたのだろうか。源吾郎は目を細めながら思った。

 蠱毒や呪詛としての犬神を持つルートは大きく分けて二通りある。自らの手で造り出すか、先祖から継承されるかのどちらかだ。ごくまれに、憑き物を持つ術者から押し付けられたり譲り受けたりする事もあるらしい。

 いずれにせよ、芦屋川の犬神は継承されたものでは無いだろうと踏んでいた。雪羽の調査によると、芦屋川の身辺で奇妙な事が起きているのは今年に入ってからだという。親から受け継いだのであれば、初めから彼の傍らに犬神がいる事になる。それこそ、幼少のみぎりより呪詛や怨嗟を背負った子供と見做されているはずだ。それが犬神のもたらすものだったとしても。

 それならば芦屋川が自ら犬神を造り出したという可能性はどうか? かつて雪羽は犬神を「首を刎ねればお手軽に出来る」などと言っていたが、もちろん犬神はお手軽に出来る物ではない。俗っぽい話になるが動物愛護法に違反する案件であるし、そもそも()()()にそれをこなせる人間がいるのか、と言う話である。

 だが……芦屋川は元々動物の剥製を加工した作品を手掛けているし、それ故にこの度の妖狐襲撃事件が発生しているのだ。そうなれば或いは……源吾郎は自身の想像に怖気を感じ、ぶるっと震えてしまった。

 

「庄三郎さん。とにかく安心してください」

 

 雪羽だけは元気よく、庄三郎と源吾郎を交互に眺めながら言い放った。

 

「お狐様だろうと犬神だろうと俺の目が黒いうちは庄三郎さんたちを襲撃するなんて事はこの俺が許しません。やつらが牙を剥いてきたら――この俺が相手になりますんで。俺は、俺は大丈夫ですよ庄三郎さん。お二人はお狐様の血を引いているから犬が怖いかもしれませんが……俺はあくまでも雷獣ですからね。怨念と欲望に冒されたケダモノなんぞ、この俺の敵じゃあない」

 

 そう言う雪羽の両目には、やはりぎらついた光が宿っていた。敵の存在が明らかではないのに、雪羽は闘志の焔をふつふつと沸き立たせているではないか。俺は怨霊なんぞ怖くなんかないんですよ。夢見心地で、或いは譫言めいた調子で雪羽はそんな事さえ口にしていた。

 蠱毒の一種であり、雷獣とも縁のある犬神など怖くない。その言葉が雪羽の()()()()()()事は源吾郎も察していた。雪羽も犬神や蠱毒を本当は怖れているのだ。その恐怖を悟らせないために、恐怖を押し流すためにそう言っているにすぎない事を、源吾郎は理解していた。何せ雪羽の母は蠱毒によって斃れ、異母弟すらも蠱毒の餌食になりかけたのだから。頼もしい子だね、と言わんばかり微笑む庄三郎が何も知らないのが救いだと、源吾郎はぼんやりと思っていた。

 

「雷園寺……」

「先輩。いざという時は庄三郎さんと一緒に逃げてくださいね」

 

 これはマズい方向に転がっているぞ……大真面目に告げて、それからひっそりと微笑む雪羽を見ながら源吾郎は思った。庄三郎を護るために源吾郎と雪羽はこの会場に赴いているのは事実だ。だが雪羽の中で、その目的が「犬神と闘う事」にすり替わってはいないだろうか? そうでなくても犬神や蠱毒などは、生半可な強さの妖怪が闘った所で取り込まれるか侵蝕されるかがオチだというのに……

 

「あ……」

「あれ、着信……?」

 

 興奮した雪羽をどのように説得しようか。そのように源吾郎が悩んでいたまさにその時、ポケットに収めていたスマホが震えて着信を知らせた。見れば雪羽のスマホにも。

 画面には無料通話アプリへの通知が記されていた。画面を確認すると、萩尾丸からメッセージが入っているではないか。

 

『独断専行は命取り・目的を忘れるなかれ 色々と新事実が発覚して動揺しているみたいだけど、慌てればその分目的の遂行から遠ざかるだけだ。くれぐれも落ち着いて行動するように。君らだけで動いている訳じゃあないからあまり気負わない事』

「な、何これ……」

 

 メッセージ自身は簡潔な短文だったが、今の源吾郎たちの状況をピンポイントで捉えたアドバイスそのものだった。先輩であり教育係でもある萩尾丸の粋な計らいなのだろう。だが源吾郎の心中に浮かんだのは感謝の念よりもむしろある種の恐怖心だった。何せアドバイスの内容がピンポイント過ぎたのだから。

 

「先輩のメッセージも俺と同じだね」

「何かさ、何処かから俺らの様子を監視しているみたいなメッセージやな」

 

 源吾郎がぼやくと、雪羽は諦めたように息を吐いた。

 

「実際監視してるんだろうね。萩尾丸さんは言うて大天狗でしょ? 遠くを見通す千里眼とかも会得なさっているはずだよ」

 

 千里眼かぁ……雪羽の言葉に源吾郎は大いに納得していたのだった。

 

 萩尾丸からの通知は決定打をもたらした訳ではなかった。だが源吾郎と雪羽の心を落ち着かせるのに一役買ってくれたのた。いささかショック療法的な傾向を帯びてはいたが、それも込みで萩尾丸らしいともいえる。

 冷静さを取り戻した源吾郎たちは、改めて妖怪たちも警戒網や包囲網を構築している事を認識した。稲荷の眷属らしい妖狐たちはさる事ながら、人間の術者と使い魔たる妖怪たちのコンビやグループも、一般客に混じって確認できた。また、存在は確認できなかったが、第七幹部の双睛鳥も会場のどこかにいるらしい。

 結局のところ、源吾郎と雪羽は交互に庄三郎の傍に着く事にしておいた。一方がツレとして庄三郎の傍に居る間、もう一方は会場内をぶらつきつつ、周囲の偵察を行うという運びである。偵察の最中に包囲網を構成する妖怪たちともごく自然に意見交換は出来たので、庄三郎に二人してくっついておくよりも良かったと源吾郎は思っていた。

 現時点では、まだ下手人の動きは特に無い。標的を品定めしている最中なのだろうか。残念ながら、源吾郎の探知能力や雪羽の電流感知力をもってしても、下手人と思しき妖狐をあぶりだす事は出来なかった。あまりにも人や妖怪が一か所に集まっているからだ。更に言えば対象はそれほど強い妖力を持っていないから尚更であろう。

 

 気付けば時間も過ぎていき、昼時を迎えていた。何度目かの巡回を終えた雪羽がこちらに戻って来る。交代の時間だ。その前に昼食だろうか。そう思いつつも源吾郎は口を開いた。

 

「梅園君。何かめぼしい物はあった?」

「特に普段通りかな。そっちは?」

「兄上も普段通りなんだけど……」

 

 庄三郎は相変わらず目立たないように奥まったところで控えていた。今回のギャラリーのパンフレットに視線を落としている。午後になったら他の作家の絵を見に行こう。源吾郎にはそのように言っていた。

 と、その庄三郎に向かって一人の人物が歩み寄ってきた。庄三郎と同年代か、二つ三つ年上の男である。自身が注目され、偉大な存在だと信じて疑わぬようなオーラが漂っていた。もっとも、妖怪である源吾郎と雪羽は、彼から立ち上る獣臭さにもばっちり気付いていたのだが。こいつが芦屋川だ。源吾郎と雪羽は確信した。

 

「島崎君、だよね」

「はい、芦屋川さん……」

 

 気軽と言うか気安い芦屋川の呼びかけに、庄三郎は顔を上げて応じた。読んでいたパンフレットはきちんとたたんで脇に置いている。

 

「君がやって来るなんて珍しいなぁ……ま、そんな所でぼんやりしててもアレだからさ、ちょっと俺の所においでよ。新作も出したし、君の作風とかそんなのも気になるからさ」

「あ、ありがとう……ございます」

「照れなくて大丈夫だって」

 

 兄上は照れているんじゃなくて戸惑っているだけなのでは……源吾郎はそう思ったがそれは口にはしなかった。しかし、無言を通したかと言えばそれは別の話だ。芦屋川さん! 彼は半歩進み出て彼に呼びかけていたのだ。

 

「僕と友達も一緒に行っていいですか? あ、僕は島崎源吾郎と言います。こう見えても島崎庄三郎の弟なんです。こっちの子はツレの梅園って言いまして……実は梅園君の方が美術や芸術に興味があるみたいでして」

 

 アドリブながらも言葉を紡ぎ、ついでに雪羽にも庄三郎について行くという旨をアイコンタクトで伝えた。

 芦屋川は値踏みするような眼差しを源吾郎たちに向けていたが、ややあってから朗らかな笑みを見せた。

 

「島崎君の弟さんにお友達なんだね、君たちは。面白い子だね、ついて行きたいだけならわざわざ断りを入れなくても良いのに」

 

 芦屋川の言葉を受け流しながらも、源吾郎と雪羽は周囲に意識を向けていた。射抜くような視線を、殺気とも敵意ともつかぬ気配を感じ取っていたのだ。

 いよいよ正念場が目前に迫っている、と言う事なのだろうか。




 萩尾丸先輩は大天狗だし、千里眼ぐらい多少はね?


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白狐は乱舞し犬神あらわる

 残酷描写注意です。


「ふふふふふ。どうかな島崎君、俺の作品の出来栄えはさ」

「……素敵な作品だと思いますよ。色々と芦屋川さんがイメージなさって、それを表現しようとしている事がこちらにも伝わります」

「そう言えば島崎君も心象風景の表現がメインだったっけ。ははは、抽象画の領域になるみたいだけど、絵の具をぶっつけてそれで絵になるのならばたいしたものだよ。俺なんかはさ、イメージを三日三晩練り上げて、その上でそれに見合う素材を調達したりしているんだけどさ……それが中々大変なんだけどなぁ」

「その生みの苦しみもまた、創作の楽しみだと僕は思ってます」

 

 ああこいつ気に喰わないな。庄三郎と話し込む芦屋川満の姿を見るなり、源吾郎は即座にそう思った。忌々しく禍々しい犬神が憑いている・もしくは積極的に利用しているというステロタイプがあったからなのかもしれない。もっと単純に、芦屋川と言う名が蘆屋道満を想起させたからなのかもしれない。

 もちろん源吾郎とて、初見で相手を嫌なやつだと判断してはいけないという事を知っている。ついでに言えば蘆屋道満は葛の葉の生き胆を狙っただとか安倍晴明とライバルだったという話は多く残っているが、玉藻御前との接点は特に無い。

 源吾郎は少しの間、芦屋川を疎む理由について理屈をこね回して考えていた。そしてややあってから気付いた。芦屋川を嫌なやつだと思っている理由は、犬神や蘆屋道満の連想などとは無関係である事、もっとシンプルな事であると。

 要するに、芦屋川の態度そのものが気に入らなかったのだ。兄である庄三郎に対してあからさまに見下したような態度を見せ、隙あらばマウントを取ろうとするその姿勢に、源吾郎は密かに憤慨していたのだ――()()()()

 庄三郎が、傍目には恵まれた者・持てる者に見えるであろう事は源吾郎にも解っていた。庄三郎に芸術の才がどれほどあるのか源吾郎には解らないし、金銭的にも割とギリギリの生活を送っている事は源吾郎も知っている。しかし庄三郎には玉藻御前からとんでもない遺産を受け継いでいる。それは類まれなる美貌である。

「人は中身こそが大事」と言う建前がある一方で、「ただしイケメンに限る」「イケメン無罪」などと言った残酷な言葉もある世の中だ。とんでもないイケメンである庄三郎にもそれは適用されていたのだ。ともかく庄三郎は、見目が良いというだけで下らない輩に絡まれ、マウントを取られがちであるという事だ。それこそ先祖のように狡猾に立ち回る事が出来れば、マウントを取る相手を手玉に取る事が出来れば状況は違うだろう。だが庄三郎は恐ろしいほどに愚直で純粋すぎるのだ。それが源吾郎にはもどかしく、何とも腹立たしい所でもあった。

 そのようなおのれの心の動きを見ながら、兄の為に自分が腹を立てている事に気付き、僅かに驚いた。

 源吾郎もまた、庄三郎が受け継いだ玉藻御前の能力に、やるせない嫉妬心を抱いている者の一人に過ぎない。それに自分は、他の面々に較べて親兄弟から距離を置いている方だと思っていた。その自分が、こうして兄の事を思って憤慨しているとは。自分にも多少は身内の情があるんだなと源吾郎は思っていた。

 隣の雪羽にその事を話せば、きっと「何言ってるんですか先輩。兄弟や親子で情があるのは当然の事っすよ」と一笑に付されるだけだろうけれど。

 

 ひとまず源吾郎と雪羽は、「何も知らない庄三郎の弟とその友達」といった体で作品をぼんやりと眺めていた。事件の発端となった新作を源吾郎は直視できなかった。同族だから。その代わりに狸とかアライグマとか或いは小鳥などで作ったと思しきものを眺めていたのだが、やはり良い気分ではない。

 雪羽も無言であったが、源吾郎よりは幾分気負った様子は感じられなかった。同族の作品が無いからなのかもしれないし、死生観が源吾郎のそれと異なるからなのかもしれない。誰かが目の前で死ぬ事を恐れる半面、死んでしまった者に対しては何処か割り切った部分を見せる事があるのだ。

 この死生観の違いは、別に純血の妖怪と人間として育てられた半妖の差とはもちろん異なる。妖怪の価値観は人間のそれと異なる部分はあるが、似通っていたり相通ずる部分があるのもまた事実なのだから。

 ぼんやりしながらも、二人で敵襲が来ないかどうかの確認ももちろん怠らない。先程の殺気は本物だったし、割とすぐ傍で放たれた者であるから。

 ただやはり、源吾郎程度の索敵能力であれば上手く感知できないのもまた事実だった。狐の剥製と今回の事件の繋がりは稲荷たちでも共有しているのであろう。殺気の主よりも、稲荷の眷属と思しき狐たちの気配の方が濃厚だったからだ。それこそ、森で木を隠しているという状況なのかもしれない。

 

「……まぁそんなに気負わない事っすね、先輩。状況を見て動くだけですよ」

 

 源吾郎の心の動きを悟ったのか、雪羽がぽつりと呟く。源吾郎は小さく頷いた。雪羽の言葉は簡潔な物だったが、今の源吾郎には頼もしい物だった。ヤンチャであったがために戦闘慣れしている雪羽は、やはり周囲の状況を察するのが得意なのだと源吾郎は思っている。

 実を言えば、戦闘訓練でも冷静に立ち回っているのはむしろ雪羽の方なのだから。

 

「みっちゃーん。お待たせ~」

 

 硬直し、張りつめた空気が漂っているように思われたその場が動いたのは、一人の人間がこちらに近付いたためだった。その人間は若い女性だった。十八の源吾郎よりは年上であろうが、芦屋川よりは明らかに若かった。もしかすると二十代前半か、二十歳を少し過ぎた程度なのかもしれない。

 みっちゃん、と言う呼びかけは芦屋川に向けた物であろう。彼の下の名はミツルであるのだから。であれば彼女は芦屋川の恋人か、婚約者のような存在なのだろう。人間たちは解らぬであろうが、彼女には芦屋川の気がしっかりとまとわりついているのを源吾郎は感知した。親しい間柄にある者同士の気が、対象になる相手にまとわりついて混じり合うのはよくある事だ。妖怪同士はもちろん、人間や動物でも珍しくない現象である。

 

「おう、やっと来たんだな奈美。良いじゃんか、おしゃれもきちんとしてさぁ」

「だってぇ~みっちゃんのハレの舞台なんだもんー」

 

 奈美とかいう娘がやって来るや否や、芦屋川は庄三郎との会話を打ち切り、彼女をそのまま迎え入れた。庄三郎は困ったような、うっそりした表情で少し距離を置いている。

 何と言うかあの女の人、何処となく猿っぽい感じがするな。キャッキャとはしゃぐ奈美の姿を、源吾郎もまた醒めた眼差しで眺めていた。奈美にしろ芦屋川にしろ人間であるから、彼らを見て猿だと思うのは特におかしな話ではない。猿だと思った時に、いくばくかの居心地の悪さを感じたのは、源吾郎の裡にある狐の性ゆえの事であろう。

 犬猿の仲という言葉があるが、これはイヌ科である妖狐にも地味に当てはまる節はある。更に言えば、高位の猿妖怪である白猿や狒々、猿神の類は好んで犬を喰い殺すという。パワーバランスはさておき、犬と猿は天敵同士なのだ。

 

「赦せん、赦せんぞ貴様らぁーっ!」

 

 遠くから怨嗟の絶叫がほとばしったのは、芦屋川と奈美が戯れようとしたまさにその時だった。芦屋川と奈美、そして庄三郎はぼんやりと立ち尽くしているようであったが、その間に源吾郎は状況を把握するべく首を巡らせていた。声の主が五、六メートル先にいた事、妖狐の脚力で疾駆しこちらに向かってきている事を悟ったのだ。

 

「え、な……何……?」

 

――標的は猿っぽい娘の奈美だった。走りくる狐男の手許がギラリと輝くのを源吾郎は見た。

――畜生!

 源吾郎は考える間もなく動いていた。瞬時に読み取った狐男の軌道を、おのれの身をもって妨害したのだ。一、二歩の跳躍で奈美と言う娘の前に進み出ると、そのまま彼女を突き飛ばそうとした。思いがけぬ事に奈美はよろめき、ついで源吾郎も背後に結界術を展開している関係もあり、二人してその場に倒れ込む形となってしまった。

 

「ちょっと。あんた一体何をして……」

「ごめんなさいごめんなさい! ですが今危なかったんです。その……き、じゃなくて通り魔が貴女を狙っていたんで……」

 

 仰向けのままもぞもぞと動く奈美に対し、源吾郎は早口に弁明した。彼女が驚き、戸惑って源吾郎に恐れをなすのも無理からぬ話だ。何せいきなり若い男が飛びかかってきて、成り行き上とはいえ押し倒してきたのだから。源吾郎とてもっとスマートに事を運びたかった。だが相手の身の安全を思えばやむおえない話だった。人間が妖怪に襲撃されればひとたまりも無いのだから。

 背後への衝撃は無かった。その代わり、叫び声や怒号がほとばしっている。放せ、現行犯だ、凶器は取り上げた……様々な妖怪たちの声があちこちで上がり、混ざり合っていた。源吾郎がそっと振り返ると、果たして一人の妖狐が他の妖狐たちに取り押さえられている最中だった。グループ長と思しきやや年長の妖狐に、恭しい様子で梅園幸夫が刃物を差し出しているのが見える。梅園幸夫も、雪羽もあの時動いてくれていたのだ。

 

「通り魔ですって? あはっ、あなたもお上りさんっぽいし、こうしたギャラリーでの作品の種類は知らないか……」

 

 いつの間にか奈美は立ち上がっていた。呆然とへたり込む源吾郎に対して笑みを浮かべている。立ち上がろうとする源吾郎に手を貸し、それから彼女は言った。

 

「あのね、アート作品は絵とか造形だけじゃないのよ。ああしたパフォーマンスアートもあるの。ふふっ。今回の作家さんは無名だったから、敢えてパンフにも載せないで、ゲリラライブ的にやってくれたのね。私らはそれに惑わされただけなのよ」

 

 それじゃ。そう言って何事もなかったかのように去っていく奈美の姿を、源吾郎は字義通り狐につままれたような表情で眺めていた。あれは、背後で展開されている逮捕劇はパフォーマンスでも何でもないはずだ。

 

「安心したまえ。あれは単に我々が人間たちに()()をかけているだけだ」

「お、叔父上……」

 

 いつの間にか源吾郎の傍らには苅藻がいた。変化していた中年男の姿では無く、苅藻本来の姿で。ついでに言えば黄金色の三尾がぞろりと伸び、毛先から妖気が放出されている。

 苅藻の傍には他にも術者や彼らと共に働く妖怪の姿もちらほら見えた。面識のない者たちだが、苅藻にしてみれば見知った相手なのかもしれない。

 

「君や雷園寺君、そして稲荷の面々が動いている間に結界も構築しておいたんだ。妖力を持たない人間や、無関係な妖怪たちを退けるためにね。今回起きているのが、妖怪の襲撃と言う人間たちには理解しがたい現実をぼやかす暗示と共にね。

 源吾郎にしてみれば、さっきの娘さんの言動は不可解に思えるだろう。だが、そう言ったからくりなんだよ。ちなみに暗示は事が終われば解除されるようになっているから心配はいらないよ」

 

 果たして、俺はこれからどうするべきか。源吾郎は捕縛劇の全貌を見ながら密かに思った。下手人である狐男の抵抗も、稲荷の眷属たる妖狐の奮闘も山場を迎えていた。下手人は諦めて捕縛されようとしているからだ。

 端的に言って、もう源吾郎の出る幕は無さそうに思える所だった。稲荷の眷属が身柄を確保したのだ。後は彼を然るべき場所に護送されるだけだろう。もしかしたら、源吾郎や雪羽は稲荷の眷属たちの活動を手伝った事について何か話があるのかもしれない。

 縛妖索を持ち出す妖狐たちを源吾郎は眺めていた。自分が何かを忘れている事に気付かないまま。

 

「ちょ……これは一体何なんだ! 畜生、奈美ちゃんは変な事を言ってさっさとどっかに行っちまうし、俺の作品の前で変な事になってるし……」

「…………!」

 

 結界でけぶる向こう側から姿を現した人物に、源吾郎は瞠目した。仏頂面で周囲を睥睨するのは、芦屋川満その人だったのだから。単なる人間で、しかし犬神が憑いているという疑惑のある彼だ。

 何故彼がここにいるんだ……? 源吾郎はもちろん動揺した。しかし動揺したのは源吾郎一人ではなかった。雪羽は言うに及ばず、稲荷たちも若い術者たちも多少なりとも動揺していたらしい。

 そしてそれが、一瞬の隙だった。

 

「貴様、貴様がわがつまを……!」

 

 大人しく捕縛されていたと思っていた白狐が力を振り絞り、自身を取り押さえていた妖狐たちを振り払ったのだ。その際に身体は膨れ上がり、伯蔵主よろしく白い毛並みを針状に変化させていたから、再び取り押さえる事は難しかったのだろう。

 狐そのものの姿になった彼は、芦屋川満の喉笛めがけて躍りかかった。

 復讐に狂う白狐が芦屋川の喉笛を噛み切った。そんな血生臭い予想が皆の脳裏を駆け巡ったが、実際に起こった事は違っていた。

 血みどろになって倒れ伏したのは白狐の方だった。彼の牙が芦屋川に触れるまさにその瞬間、彼の影から犬の輪郭をした黒い塊をした犬が飛び出してきたのだ。白狐は逆に黒犬の牙に捕らえられ、三度ばかり振り回されたのちに床に叩きつけられた。空気の少ないボールのように白狐はバウンドし、生々しい血の跡を床にまき散らしたのだ。咥えられた腹の傷は思いがけぬほど鋭く、桃色の柔らかな物まで露わになる始末である。

 

「お……()()()()……()()()()……」

 

 口から血泡を吹き出しながら、白狐は黒犬に問う。犬と呼ぶには禍々しい姿、幾重もの何かが融合し、犬としての体裁を保っているだけの黒いそれは、その顔にあからさまな笑みを浮かべて白狐を見下ろした。

 

「ふん。連れ合いを亡くした妄執に駆られているから少しは旨味も出るだろうと思ったが……所詮は清廉なお稲荷様の眷属か。はっ、全くもって面白みのない輩だぜ」

 

 ()()()()()()()()()。源吾郎は尻尾の毛が逆立つ思いを抱きながら、はっきりとそう思った。



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外道コンビの種明かし ※残酷描写注意

 黒犬が登場したまさにその瞬間、周囲の面々は凍り付いたように動きを止めてしまった。動けば狩られる、喰い散らかされる。その事を本能的に伝えられたかのように。

 そのかわり、黒犬の全体像ははっきりと、明確に源吾郎の視界に飛び込んできた。いつかのように時間が引き延ばされたような感覚を味わっていた。五感が、特に視覚と聴覚と嗅覚が鋭敏になっているのはそのためだろう。

 鋭敏になった感覚の大部分は、黒犬の観察に向けられていた。黒犬だけがその場に輪郭を持ち、鮮やかにはっきりと源吾郎の目に映っていたのだ。ゆえに解った。それが忌々しいモノ、全力で逃れるべきモノである事を。それでも身体は動かず、目を伏せる事すら出来なかった。

 大きさ()()()()は大したものではない。ホンドギツネサイズの白狐の横っ腹を咥えて切り裂いたほどであるから、大型犬サイズである事には変わりはない。だが裏を返せばその程度の大きさに過ぎなかった。牛馬ほどの大きさであるとか、並外れた大きさの持ち主ではなかったのだ。

 しかし、大きさだけで妖怪の強さが決まる訳()()()()事は源吾郎も十分知っていた。この黒犬が蠱毒の類、所謂犬神である事は既に見抜いている。全体的には犬の形をしているし、動きや態度からしても、それは自身が一つの個体として振舞っていた。だが、幾つもの怨念や怨霊の類が寄り集まって融合し、それらが漏れ出そうになっている所は、幸か不幸か源吾郎には解ってしまったのだ。それはかつて源吾郎が蠱毒を目の当たりにしたからなのか、自身もまた蠱毒に縁深い系譜だからなのかは定かではないが。

 

「あ、あああぁ……」

「しっかりしろ!」

 

 ふいに周囲の動きを認識する。犬神から視界を横に逸らすと、白狐を取り押さえようと奮起していた稲荷の眷属たちの姿が飛び込んできた。彼らはへたり込み、ぶるぶると震えながら悲鳴にならない悲鳴を上げていた。どちらも半ば変化は解けかけており、狐色の一尾に至っては今にも失神しそうだった。やや年かさの、銀色の二尾が前足で一尾の肩を叩き、どうにか失神しないように目を配っている。

 救護班を配置しろ、負傷者の確保が先だ……! 誰かが野太い声で叫んでいるのが、遠くから聞こえるようだった。負傷者ってまさか、他にも襲われた妖怪がいるのだろうか。あの妖狐が引き裂かれたのを源吾郎は見たきりだったが。

 

「けっ、安心しろ。てめぇらみてぇなつまらん連中を喰いに来たわけじゃないんだよ。言っただろう。お稲荷様の眷属は面白みも旨味も無い、つまらん連中だとな」

 

 黒い犬神の鼻面は、腹を裂かれた白狐に向けられていた。のみならず、血を流しながらべったりと伸びる彼の許に歩み寄る始末だ。

 こいつもそうだ。犬神の前足が、血で染まる白狐の脇腹を押さえつけた。人間どもをこの狐を唆したのはこの俺だ。犬神は臆面もなくそう言ったのだ。

 

「こいつの連れ合いは人間の操る車によって生命を落とし、更に人間の手によって毛皮だけにされた。であれば人間の血を集め、それに連れ合いの骸を浸せば蘇る――こいつは俺の()()()()をそっくりそのまま信じ切ったんだよ! はははっ。ほんっとうに馬鹿の所業だよな。賢いはずのお狐様が、そんな子供騙しに引っかかるとはな」

「そんな……それは……」

 

 押さえつけられた白狐が僅かにもがき、言葉を紡ぐ。琥珀色のその瞳に、絶望の色が濃く浮かぶのを源吾郎は見た。犬神に襲撃された時ですら見せなかった色だ。

 

「てめぇらが畏れる犬神様だから、そんな事が出来るとでも思っていたのかよ? バッカじゃねぇの? インスタントラーメンじゃあるまいし、そんなんで元に戻るかよ? つーかさ、この際だから話すけど、俺は元々お前を喰い殺すつもりだったんだぜ? 連れ合いを亡くしたって事でうまい塩梅に正気を失っていたお前に、人間を襲わせる事で、より旨味を増してやろうと思っていた所さ。家畜は肥らせてから喰うのが鉄則って昔から言われているからな? 人間みたいな劣等種であっても、そもそもてめぇ自身が雑魚妖怪だから、ある程度は力の足しになるんじゃないかと思ってたんだけどな……ほとんど襲えてないじゃないか。残念なこった」

 

 そう言うと犬神は一度白狐の腹を踏みつけてから白狐から離れた。旨味もなさそうだから喰いはしない。勝手にくたばれと言い捨ててから。白狐はもう何も言わなかった。重傷を負っているという事もあるが、既に彼は心に致命傷を負ったも同然なのだろう。

 それにしても、犬神の邪悪な魂胆には源吾郎もいい加減吐き気を催してきていた所でもあった。ネット上には「他人の不幸でご飯が美味しい」などと言った厭な文言がある。だが今の犬神の所業に較べれば、それらの文言が可愛く大人しく見える程だったのだ。

 

「それにまぁ、今の俺にはあるじがいる訳だしな。あるじに仕えるのは忠犬の役目だって昔から言うだろう」

 

 それにだな。犬神は茫洋とする芦屋川を見ながら言い添えた。

 

「今回のあるじと俺はかなり相性が良いんだよ。やっぱり創作内容が創作内容だからだろうな。そうだろ相棒? 金のねぇド貧民の癖に才能とやらで大きな顔をするアホどもを陥れ、あんたの前で不愉快な動きを見せるハエ共を破滅させたのは他ならぬこの俺さ」

「そんな……あのアクセサリーにあんたは宿っていたのか……それで……それで……」

 

 犬神は芦屋川と向き合っていた。普通の犬畜生らしく尻尾を振りながら。禍々しい妖気と外道めいた言動に目をつぶれば、飼い主に懐ききった忠犬にも見えなくもない。

 しかしそれにしても、芦屋川自身は何も知らなかったらしい。アクセサリー云々を口にしているという事は、血によって継承されたのではなく自ら造り出した訳でもなく、他の誰かから譲り受けたという事なのか。

 芦屋川は血みどろの白狐を見、それから目の前にいる犬神に視線を戻す。その顔にはありありと驚きの念が浮かんでいた。そりゃあそうだろう。自分が単なる人間、単なる芸術家として活動していたと思っていたのに、このようなとんでもないモノに憑かれていたのだから。

 

「俺が良い感じに有名になって、ついでに目障りなライバル連中が良い感じに散らばったのも、全部全部()()()()()()だったんですね!」

 

 いやっほう! やったぜ……芦屋川の歓喜の声は空々しく、いっその事ある種の呪詛のように聞こえてならなかった。芦屋川は何と、犬神を受け入れてしまったのだ。あまつさえ犬神の所業に狂喜乱舞しているではないか。

 こいつはいけ好かない輩なんかじゃない。れっきとした()()()ではないか。源吾郎は密かに、芦屋川満の認識を改めていた。

 

「それにしてもお犬様。あの狐畜生が俺の作品を狙っていたんですか」

「そーだよ相棒。てかまさか、妖怪共に囲まれて、それで何も聞いてなかったとか?」

「そうじゃないけどさ。ねぇお犬様。お犬様ならきちんと害獣駆除に勤しまないと。生きてたらまだ俺と俺の作品を狙うかもしれないよ? それに害獣と言っても毛並みが良さそうだから……」

「人間風情がふざけた事を抜かすなっ!」

 

 芦屋川を一喝したのは、三尾の妖狐だった。彼は怒気と妖気をまき散らしながら、言い足した。

 

「そこの男は罪を犯したと言えども、我ら稲荷の管轄にある。この者の罰は我らで判断し、よって生殺与奪も我らに委ねられたも同然の事。それを、どこの馬の骨とも知らぬ人間が介入すべきではない!」

 

 どうやら稲荷たちは白狐を見殺しにするつもりは無いらしい。今気づいたのだが、犬神が去ってからというもの、件の白狐を数名ばかりの妖怪や術者が取り囲んでいる。人間の術者はさておき、妖怪の方はやや力を持った存在のようだ。救急対応を行っているのだろう。間に合うのか否かは源吾郎には解らないが。

 

「どこの馬の骨とは、狐みたいな畜生から聞けるとは思わなかったぜ」

「……死にゆく者を無理に延命させるなんてお笑い種だぜ。罰を与えるって事はさ、場合によっては殺すかもしれないって事だろ? だったら二度手間だと思うんだがなぁ……」

「……貴様らとは話し合っても無駄なようだな」

 

 妖狐はそう言って顔をそむけた。源吾郎はすきま女のサカイ先輩の気配をすぐ傍で感じていた。姿は見せていないが、彼女もこの場のすぐ傍に控えているという事なのだろうか。

 

「あーあ。こっちとしても稲荷の連中と話すと肩が凝るぜ。本当に、面白みも旨味もねぇ煮ても焼いても喰えねぇ奴らだな」

 

 それよりも。犬神は身体を伸ばして一度欠伸をすると、稲荷の眷属や他に集まっている妖怪・術者たちから視線を外した。値踏みするように探る視線の先には雪羽がいた。梅園幸夫としての体裁を保ってはいるが、何も言わずその場でじっとしているだけだった。雪羽とて犬神を心底怖れているのだ。源吾郎はそう思うのがやっとだったし、ましてや怖がってやがると糾弾するつもりなどなかった。自分だって怖かったし、この状況が打開されるのをただただ身を伏せて待つばかりなのだから。

 その犬神の視線が、今度は源吾郎にも向けられる。

 

「でも別に良いか。そこの糞狐はうっちゃるにしても、もっと喰えそうなやつがいるんだからさ」

 

 犬神の両眼が輝き、そして口許が笑みのように広がっている。まさかこいつ、俺や雷園寺の事を獲物として認識したのか。源吾郎は心臓の上を押さえ、動悸が速まるのを感じていた。

 蠱毒はそれ単体でも強い存在であるが、他の蠱毒を取り込む事によりさらに力を増す。術者の中には蠱毒同士を喰い合わせて錬成させるものもいるのだから。

 何処かで見聞きした文言が、源吾郎の脳裏をよぎる。自分が狙われているのも、苅藻が犬神に察知したのも、母方の祖父の因業によるものではないか。そのように源吾郎は思い始めていたのだ。



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外道祓うは化鳥の仕業

「そうだなぁ。あすこの半妖とか雷獣の小僧とかが喰いでがありそうだな」

 

 芦屋川満から少し距離を置いた犬神は、臆面もなくそう言ってのけたのだ。自ら噛み裂いた白狐の方には既に妖怪らが群がっているが、そっちはもはや眼中にないらしい。

――こいつ、やっぱり俺と雷園寺の事を狙っていたのか。

 源吾郎は静かに確信した。威嚇する猫のように尻尾の毛を逆立てるも、そこからどうすればいいのか見当がつかない。未だ怯える雪羽の傍に近付いた方が良いのか、それとも狙われているからくっつかない方が良いのか……思考が上手くまとまらない。やはり時間がゆっくり過ぎているような感覚を、源吾郎は未だに抱えていた。苅藻の警告があったのに、雪羽がその存在を示唆してくれたのに、気構えが出来ていなかったのだ。

 もしかすると、腹を裂かれた妖狐を見て、血が飛ぶのを見て怯んでしまったというのだろうか。相手は初対面で、何となれば兄である庄三郎を襲っていたかもしれないというのに。

 

「半妖と言うのは俺の事かね、犬神殿」

 

 未だ四つん這いでおろおろする源吾郎の頭上に言葉が降りかかる。苅藻だった。すっと伸びた足が影法師のようであり、しかし何故か源吾郎を庇いだてするように佇んでいるようにも見えた。

 自分たちでどうにかできるだろう。そう言ったはずの叔父が、自分のすぐ傍に居たのだ。

 

「はははっ。犬神殿。狙うならこの俺を狙え。雷獣の子供ももう一人の半妖も喰いでなんてある訳が無い。あんなのは妖力ばかり多いだけの雑魚なんだからな」

 

 苅藻の言葉を聞いているうちに、何かが源吾郎のふくらはぎに当たった。足先で突かれたのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。だが、源吾郎は急に我に返った気持ちになり、手足に力が戻った。苅藻の意図は読めていた。俺に構わず逃げろ。雪羽君と共に安全を確保しろ。言葉に出さず、叔父はそのように伝えたのだ。

 急に立ち上がって動いても怪しまれる。そう思った源吾郎は、ひとまず四つん這いのまま歩を進めた。白い床は鮮血を吸わず、そのせいか生臭く鉄錆の臭いが未だに濃い。血の跡を避けつつも、源吾郎が向かったのは梅園幸夫の、雪羽の許だった。雪羽を元気づけられる。そんなおこがましい事を思った訳でもない。だが二人なら持ちこたえられそうな気がした。

 実際に護るべき庄三郎の許に向かわなかったのは、彼が結界の外側にいる事を把握していたからだ。苅藻や他の妖怪たちは、白狐が襲撃してきた瞬間に結界を作り、妖怪や関与している人間たちだけをその中に閉じ込めたという。人間たちに騒ぎをもたらさず、尚且つ白狐を確実に捕縛するために。

 源吾郎の兄である庄三郎はもちろん半妖であるが、彼もまた人間と見做されて結界から弾かれたのだろう。但し彼にはあの暗示は聞いていないらしく、こちらに不安げな視線を送っていた。のみならず、結界に干渉しようと手を伸ばしている始末だった。

 兄上こそ、どうしてそれこそ逃げないんだ。雪羽が僅かに安堵したのを見ながら、源吾郎はそう思うのがやっとだった。

 

「……はぁ、三大悪妖怪の孫で蠱毒とも縁のあるお前さんも、中々どうしてつまらん事を言うもんだなぁ」

 

 瞬間、苅藻の許から矢のような物が飛び出してきた。攻撃術用の護符を使ったのだと源吾郎は思った。苅藻は半妖であるものの、術者であるから攻撃用の護符を使う事にもためらいはないのだ。何せ訓練やお膳立てされた戦闘ばかりではないのだ。殺らなければ殺られる。そうした状況がある事も苅藻は源吾郎以上に知っている。

 だからこそ、苅藻は源吾郎を弟子に取らなかった訳でもあるのだが。源吾郎は、妹のいちかと違って非情に徹する事が出来ない、と。

 苅藻の放った矢は犬神を貫く事は無かった。犬神は悠然と身震いしただけで、件の矢は腐蝕し、ボロボロの灰になって崩れ落ちただけだった。忌々しげな苅藻の舌打ちと、私たちも加勢する、と気炎を上げる若妖怪の叫び声が耳に入り込んできた。

 その一方で、ほとんど力のない一尾たちの数名が、結界をすり抜けて何処かへ逃亡する姿も見えた。犬神と言う存在を目の当たりにして逃げたのだろう。神聖な存在とされる稲荷の眷属と言えども、犬を怖れる狐の本能には抗えなかったのかもしれない。

 

「――だがまぁ、あの女狐の子孫と言うだけあって息をするように嘘をするもんだなぁ。本当はお前こそが雑魚で、もう一人の半妖どころかあの雷獣よりも弱い癖に」

「嘘だ……」

 

 犬神の言葉に雪羽が何故か呟いていた。苅藻が源吾郎や雪羽より弱い。その言葉は源吾郎にも信じられなかった。妖力の保有量では、確かに源吾郎の方が既に苅藻よりも上回っているのは事実である。何せ四尾と三尾なのだから。だがそれでも、同じ三尾の雪羽とは保有量的にも互角だと思っていたのだ。三國との関係性も加味した上で、犬神の言葉は雪羽にはショッキングだったのだろう。

 もちろん強い弱いは妖力の保有量の話であって、実際に勝負したとなれば苅藻が確実に勝利するであろう事は言うまでもないが。

 

「しかもお前、身内の半妖と雷獣小僧を助けるためにそんな嘘をついたんだろう。解るぜぇ~、お前の心の動きはよぉ」

 

 犬神はそう言うとぐっと身構えた。残念だったな、と言いながら。

 

「犬神は確かに常に飢えている。獲物を求めて生き汚く蠢いているとでも思っているんだろう。だがな、俺とて何を順番に食べたいかを決める権利はある筈さ。

 はははっ、半妖のオッサンよ、てめぇも喰われたければきちんと喰ってやるさ。てめぇもてめぇで九尾の女狐の孫でありながら、蠱毒とも縁が深い珍しいやつだからな。だが、そっちの半妖と雷獣を喰うのが先だ。その方がてめぇも旨味が増しそうだもんなぁ……はははっ、そこで無能な仲間と共に指を咥えて待っておれ!」

 

 源吾郎たちの周囲で狐狸妖怪が吹っ飛ぶのが見えた。若妖怪の数名が、源吾郎と雪羽を護るように取り囲んでいる事に今気づいた。視野狭窄が極まって、源吾郎は犬神しか見えていなかったのだ。

 

「に、逃げるんだ、島崎君に雷園寺君……」

「俺らに構うな! 俺らは仕事でやってるが、君らは……」

「ここで逃げる訳ねぇだろうが、このドサンピン共が!」

 

 ここであろう事か雪羽が吠えたのだ。ギリギリの所で変化は保っているが、それでも銀色の三尾が露わになっていた。

 

「おい犬っころ。お前は一体どういう了見なんだ! 叶いもしない願いを叶えるなんてちらつかせた挙句、無関係の人間とか狐を大勢巻き込みやがって……怨念なんぞわざわざこしらえなくても、犬神様なら嗅ぎ付けて見つけ出す事くらい出来るだろうが! 駄犬は駄犬らしく分を弁えろ。ついでに苅藻さんに変な言いがかりと付けやがって。訴えられても知らんからな」

「雷園寺……」

 

 源吾郎もまた尻尾を伸ばし、雪羽をなだめようとした。放出した妖気はピリピリしており、傍に居るだけでもしびれを感じる物だった。飛ばされた狐狸妖怪たちのダメージは大した事ではないらしく、体勢を立て直してやはり源吾郎たちの脇を固めている。

 

「雷獣の小僧。お前も中々旨味のありそうなやつだな。他の有象無象とはやはり違う」

 

 犬神はそう言って口許を長い舌で舐めている。

 

「叶いもしない願いか……それに縋る愚かさを糾弾できるご身分なのかい雷獣君よ? 絶望の果てに、邪な存在におのれの存在を売り渡してでも真の願いを叶えて欲しい。てめぇが生まれてこの方一度もそう思わなかったとは言わせんぞ。はははっ。俺には解るんだよ。はっきり見えるんだよ」

 

 雪羽はぐぅ、と唸ったきり何も言わなかった。俯いて目を伏せ、心臓の上を右手で掴みながら。犬神の口撃は雪羽の急所を容赦なく突いたのが源吾郎には解っていた。

 雷園寺雪羽は、雷園寺家の次期当主の座を得る事が野望であると公言している。しかしそれは彼の真の願いではない。彼の真の願いは……雷園寺家の先代当主に、早世した実母にもう一度会う事なのだ。そんな話はもちろん源吾郎は聞かされていない。それでもその結論を類推する事は容易かった。

 

「それに俺が言った事は、そこの半妖連中が蠱毒の因果とは逃れられないと言った事は言いがかりでも出まかせでもないんだぞ。その辺も俺にははっきり見えるんだからな。皮肉だな小僧。蠱毒で親を殺されたてめぇが、身内同士で喰い合いを繰り返し蠱毒を錬成していたような連中と親しくなるとはなぁ」

 

 犬神の言葉に、源吾郎も絶句するほかなかった。自身も蠱毒に関与している。母方の祖父の系譜について、他ならぬ犬神に言い当てられてしまったのだから。何もなければ誰にも言わなかった事だというのに。特に――蠱毒によって実母が死に異母弟が殺されかけた雪羽には。

 

「まぁ良い。久々に顕現したせいかちと疲れてきたしなぁ。そろそろ腹ごなしと洒落込むとするか。てめぇら安心しろ。憎しみも怨みも悲しみも愛情も、俺の中に入ればぜーんぶ一緒くたになるんだからな。怖れる事は無い」

「畜生! この外道が!」

「畜生に外道とは誉め言葉だなぁ。まぁ、俺たちは六道輪廻を外れ、現世を彷徨う定めにあるんだがな。他のものが俺を殺そうとも、生半可な輩では俺の骸に取り込まれるだけだ。歩く地獄とはまさにこの俺、犬神様のための言葉だろうな」

 

 犬神はそう言ってにたりと笑い、源吾郎の許に一歩、歩を進めた。

 

「ぐっ……な、何故だ……!」

 

 ところが犬神はそのまま源吾郎たちの許に向かってくる事は無かった。歩いた瞬間によろめき、その場にべちゃりと崩れるように倒れたからだ。何が起きたのだ、まさか罠なのか。周囲は驚きと共に犬神の挙動を窺っていた。源吾郎と雪羽、周囲の若妖怪は言うに及ばず、苅藻でさえその面に驚きの色が浮かんでいるではないか。

 

「神の名を冠していても、所詮は祟り神・邪神に過ぎないって事がはっきりしちゃったね。全く、舐めプなんかしているから、足許をすくわれるんだよ」

 

 すぐ傍で若者の声が響く。ややフランクで、それでいて相手を心底見下したような声音だった。犬神の姿を見た源吾郎と、その声を聞いた雪羽は互いに顔を見合わせた。倒れ込んだ犬神は、崩れ落ちた先から黒っぽいゲル状のものをまき散らしている。怨霊怨念の集合体ゆえに、こうした事が起きてしまうのかもしれない。

 だがそれ以上に、源吾郎が注目していたのは犬神の全体像だった。犬神の身体のあちこちに羽毛が刺さっているのだ。黄色い風切り羽は毒々しい蛍光色であり、その羽軸の鋭さは五寸釘のようでもあった。

 そして、苅藻や源吾郎たちの目の前に、一羽の鳥妖怪が姿を現していた。青年姿ではある物の、半ば変化が解けていた。両腕は黄色い羽毛に覆われた翼になっており、脚は逞しい蹴爪を具えた鳥の脚そのものだった。

 

「双睛鳥《そうせいちょう》の兄さん……!」

 

 感極まったように雪羽が呟く。確かにと源吾郎も思った。双睛鳥をこちらに寄越していると萩尾丸も言っていたし、彼の物言いややや洋風の面立ちは流石に源吾郎も覚えていた。但し今回は、魔眼を抑える偏光眼鏡を付けてはいなかったが。

 彼はちらと源吾郎たちの方に首を向けたが、すぐに笑みをたたえたまま犬神に向き直る。

 

「僕としては都合が良かったんだけどね。毒を打ち込むための時間稼ぎになってくれたんだからさ。ああ、それでも大したものだよ。予定ならもっと早めにダウンしてくれるかと思っていたんだけど。

 毒を使うのは僕も気が進まない話だよ。何せご先祖様は毒性が強すぎたせいで乱獲や討伐の憂き目にあったんだからね。とはいえ上の命令もあるし、僕としても前途ある若者がむざむざと喰い殺されるのは見ていられないからね」

 

 隣にいる雪羽の顔に、安堵の色が広がるのが見えた。双睛鳥は若者のような容貌の鳥妖怪ではある。しかし彼もまた第七幹部であり、強大な力を持つ妖怪なのだと源吾郎は実感していた。それこそ雪羽が兄として慕う程には。もしかしたら三國にとっても兄のような存在なのかもしれない。

 

「それで犬神君。君はあちこち獲物を探して……時に獲物が美味しくなるように小細工を弄していたみたいだけど、自分が獲物になるのはどんな気持ちかな?」

「なっ、糞、糞が……この俺が貴様みたいな鶏野郎に喰われる訳が……」

 

 歌うように言いながら、双睛鳥の姿がゆっくりと変化していく。軋む様な音を立てながら、その姿は半人半鳥から、完全な妖怪の姿に変わっていったのだ。オスの七面鳥よりも二回り大きい、黄色い羽毛の化鳥。蛍光色に輝く雄鶏の姿をベースにしつつ、毒蛇のような尾と翼の先端にコウモリのそれに似た鉤爪を具えているのを源吾郎は見た。双睛鳥のその姿は、まさしく伝承のコカトリスそのものだったのだ。その名の為であろう、彼の姿はむしろ神々しくさえ感じられたのだ。

 

「あ、心配しないで犬神君。僕は君みたいにがっつかないし、ごちそうを独り占めしようなんて思ってないんだよ。ふふふ、ちょっと早めのランチに、皆もう飛び出したくてうずうずしているさ!」

 

 言うや否や、双睛鳥は弾かれたように飛び上がり、犬神の背に荒鷲よろしくまたがった。その周囲には、彼の宣言通り鳥妖怪たちの姿が露わになる。青鷺に夜雀に雉妖怪、そしてフクロウやミミズクと思しき巨大な鳥妖怪たちは、双睛鳥と共に犬神をつつき回し、犬神を構成していた怨念や何やらを平らげてしまったのだ。

 最後の核として、痩せ衰えた一匹の犬が残る。だがそれも、見慣れた触手――サカイ先輩の触手だった――が絡め取り、捕食してしまった。

 そこにはもう、禍々しい犬神の残滓すら残っていなかった。



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若者にオジサン心は難しい

 総勢十羽程度の鳥妖怪たちは、仲良くごちそうを平らげるとしばしの間思い思いに振舞っていた。嘴を広げて欠伸をしたり、羽毛を逆立てて汚れを払ったり羽繕いをしたり、はたまた仲間の襟元の羽毛を整えたりと言った塩梅である。

 その様子はまさに、飼育小屋で食後の余韻を楽しむ鶏たちや、公園でまどろみ仲間と戯れる鳩のような和やかさを醸し出していた。数の暴力でもって邪智暴虐の犬神を喰い殺し、その身から溢れんばかりの妖気を放出している事に目をつぶれば。

 だが、人間たちの領域であるこのギャラリー会場でくつろいでいるのも、そう長い間でもなかった。

 

「……あー。やっぱりちょっとこってり風味だったかな。一部しか食べていなかったとはいえ、結構ボリュームはあったかも」

 

 おやつかランチを食べ過ぎたと言わんばかりの物言いで呟いたのはやはり双睛鳥だった。巨大なコカトリスの姿を見せていた彼であるが、首を伸ばして二度羽ばたくと、その姿はもう普通の人間の姿と変わらなかった。そしてご丁寧に偏光眼鏡をきちんと掛けている。

 双睛鳥の変化を皮切りに、鳥妖怪たちは次々と変化していった。化け鶏も巨大すぎる夜雀も雉妖怪も燐光が怪しい鷺妖怪、そして猛禽そのもののフクロウ妖怪も……みんなそれぞれ人間の姿に変化した。双睛鳥と共に犬神を喰い殺したのだから、もちろん彼らは双睛鳥の部下や協力者なのだろう。鳥妖怪の殆どは見慣れぬ面々だった。

 だが、そんな中にも見知った顔は二羽ばかり、二名ばかり存在した。一人は巨大な化け雉姿の青松丸。そしてもう一人は、紅藤が姪として可愛がる、第五幹部の紫苑だったのだ。

 成程、大人数で寄ってたかってと言えども、犬神を捕食できたのはこの面子だったからなのか。源吾郎は彼らの犬神への猛攻を思い出しながら、そのように一人で納得していた。蟲や蛇の毒を鳥妖怪がものともせず、それどころか薬味程度の刺激にしかならない事は源吾郎も知っていた。更に言えば、集まっている鳥妖怪たちの殆どが強大な力の持ち主だ。何しろ第五幹部と第七幹部まで揃っているのだから。

 兄弟子である青松丸もまた、鳥妖怪たちの面子の中で場違いな存在では無かった事に、源吾郎は密かに驚いていた。平素は研究センターの中位の座に甘んじている彼であるが、やはり紅藤の息子であり胡琉安の半兄なのだと思い知らされた。

 

「さて、そろそろ結界の解除と行きたいのですが……負傷者の護送がまだですね」

「大丈夫です! び、病院への転移と手配はわたしの方で済ませましたので!」

 

 術者の呟きに対し、何処からともなく声が聞こえる。そう思っていた矢先、サカイ先輩が床から吹き出すように姿を現した。床を敷き詰める素材の隙間にでも潜んでいたのだろう。

 稲荷の眷属たちの中でリーダー格と思しき三尾の妖狐は、突如現れた彼女に驚く素振りを見せずに口を開く。

 

「このまま彼を病院まで転移してくれるのか……傷が悪化しないような術まで掛けてくださって、貴女には何と礼を申し上げればいいか」

「じ、妖命救助《じんめいきゅうじょ》は何にも勝る事ですから。それに、術を解除したらショック死してしまいますよ。い、意識があるのも一時的に痛覚を遮断しているからですし」

「なに……私はもう……」

 

 上司であろう妖狐とすきま女の話を聞いていた白狐が、急に身を動かした。妖怪たちの応急処置の賜物か、裂けていたはずの傷が塞がっているように見えた。腹部は生乾きの血がこびりついているが、吐血したはずの口許は綺麗に拭われている。

 

「つまはもういない……それなら私も……」

「しっかりしろ! そんな事でお前の妻が喜ぶと思うのか!」

 

 白狐の言葉も彼を叱責する言葉も、ドラマのワンシーンでよく見かける言葉ではあった。もっとも、源吾郎はドラマのワンシーンを眺める様な気軽さで彼らのやり取りを見ていた訳ではない。源吾郎には白狐の気持ちを完璧に理解する事はもちろん不可能だ。だが、誰かを愛する事の凄絶さを垣間見た気がした。

 サカイ先輩が慌てた様子で白狐に手をかざす。白狐が錯乱したと思ったのだろう。白狐は意識を失ったらしく、襟巻のようにだらりと床に身を投げ出した。そこからサカイ先輩の転移術が行使されるのが見えた。

 

「……私は彼と共に病院に向かう。出向く先が変更になったものの、概ね予定通りの動きではあるかな。さて諸君、大変なのは重々理解しているが、現場の事後処理を頑張ってくれたまえ」

 

 その言葉と共に、稲荷の眷属であるという二人の妖狐が姿を消した。ここで術者たちが安堵した様子で結界を解除したらしい。

 先程逃亡したと思っていた妖狐たちが戻ってきたのはその直後の事だった。彼らはレジ袋を両手にぶら下げ、顔を赤くしながらこちらに向かって駆け寄ってきていた。白いレジ袋なので中身は見えないが、液体を購入してきたのは音で解った。

 妖狐の一人が汚れていない床に荷物を置き、半ば喘ぎながら妖怪たちに告げた。

 

「あの……魔除け毒気祓いに桃のジュースを買ってきました。遅くなって……すみません。濃度が濃い目なのも見つからなかったですし、炭酸入りとかも多くて……」

「それにしても、あの犬神は……?」

「犬神ならもういないよ。君らが買い出しに行っている間に退治されたからね。でもまぁ……折角だし桃ジュースを頂こうか。魔除けになるからね」

 

 術者に従っていた妖怪が言うまでもなく、目端の利く妖狐が関係者に紙コップを配っていた。もちろん、状況が飲み込めず立ち尽くしている源吾郎や雪羽に対しても。この会場自体が飲食厳禁ではない事が幸いしたと源吾郎は思った。

 

 魔除けと言う名の桃ジュース摂取が終わった頃、源吾郎たちの許にやって来たのは兄弟子である青松丸だった。庄三郎は出向こうかどうしようか様子を窺っており、苅藻に至っては双睛鳥や彼の仲間である鳥妖怪たちを捕まえて何事か話し合っている。

 

「青松丸先輩。まさか先輩までお見えになっているとは……」

「状況が状況だったからね、萩尾丸さんにこっちまで運んでもらったんだ」

 

 青松丸はそう言うと少し困ったように微笑んだ。雪羽が周囲を見やり、犬神の事かと問いかけた。青松丸はごくあっさりとした様子で頷き、言葉を続けた。

 

「君たちも知っている通り、双睛鳥さんには初めから萩尾丸さんは協力していたんだ。あの子やあの子の部下たちは犬神や蠱毒とは相性が良かったんだけど、万が一仕留め損ねたらいけないからね。

 それで僕や紫苑様が後発部隊としてここに飛ばされたという事なんだ。確かに萩尾丸さんならお一人で犬神を仕留められるはずだよ。だけど萩尾丸さんは雉鶏精一派の顔として対外的に広く知られているから、今回稲荷たちが多い場では表立って動けなかったんだ」

 

 表立って動けない。そう言った時に源吾郎と雪羽は互いに目配せしてしまった。何処かから監視していたとしか思えないメッセージの事を思い出したためだ。もしかしたら青松丸も、件のメッセージの事は知っているのかもしれない。

 青松丸によると、紫苑もこの状況を聞いて数名の部下と共に自ら出陣してくれたらしい。

 

「山陰地方ではフクロウが犬神を食べるという伝承があるからね。それで紫苑様も、わざわざミミズクの妖怪にお声がけをして下さったんだ。萩尾丸さんは母様の、紅藤様の姪御殿と言う事で大仕事に巻き込むのは気が引けると仰っていたけれど、まぁ結果オーライだったと僕は思っているんだ」

 

 確かに……雪羽が呟くのを源吾郎は見ていた。蠱毒にも種類があり、ベースになった生物によって相性の善し悪しがあるのだ。簡単に言えば、蛙や蝦蟇ベースの蠱毒は蛇ベースの蠱毒が天敵、と言った塩梅である。とはいえ、犬神の天敵がフクロウであるというのは源吾郎も初耳だった。

 雪羽が納得した様子を見せているのは、もしかしたら前回蠱毒の事を調べた時に、犬神とフクロウの関係性について記されているのを見たからなのかもしれない。

 それはそうとミミズクの妖怪と言えば印象的な事があった。数か月前に灰高が遣いとして研究センターに寄越していた鴉たちを掃除したのは、確か紫苑の部下でミミズクの妖怪だったはずだ。今回訪れているのがその妖物なのかは定かではないが。

 

「源吾郎に雷園寺君……!」

 

 兄の庄三郎がやって来たのは、青松丸が立ち去ってからすぐの事だった。結界の外にはじき出されていた彼は、もちろんあの白狐や犬神に襲撃されておらず無傷だった。だが、源吾郎たちに相対するその表情には切羽詰まった物が浮かんでいた。

 普段とは異なる表情にただならぬものを感じた源吾郎は、だから問いかけずにはいられなかった。

 

「大丈夫だよね、兄上」

「僕は大丈夫だよ。君が助けた女の子もね」

 

 でも……庄三郎は小さな声で呟き、整っているその面を苦々しく歪めた。

 

「本当にごめん。あんなに大変な事になっているのに、僕は何も出来なかった。妖狐だけじゃなくて、あんなバケモノもいたなんて……」

 

 悔しげに告げる兄の姿に、源吾郎は驚いてすぐに言葉が出てこなかった。今回の事件で庄三郎が何もしなかった事を、そのように彼が捉えているとは思ってもいなかったからだ。元より兄は自分の手に負えない事だからこそ、源吾郎や苅藻を頼ったのではないか。

 

「良いんですよ庄三郎さん」

 

 呆然とする源吾郎に替わって声を上げたのは雪羽だった。

 

「庄三郎さんは人間として暮らしていて、僕たちみたいに闘う術を持っている訳じゃあないんですから。僕たちが今日ここに来たのもそのためです。どうかご自身を責めないでください」

「――俺も雷園寺君の言うとおりだと思うよ、庄三郎」

 

 いつの間にか源吾郎たちの傍には苅藻がやって来ていた。妙に優しげな眼差しでもって庄三郎たちを見つめている。源吾郎や雪羽にも視線を走らせていたが、今一度庄三郎を見やると言い足した。

 

「そもそも自分では手に負えないからこそ、俺や源吾郎を頼ったのだろう? お前の事だ、自分で出来る事は自分でやって来た事は俺だって知ってるよ。今回は自分ではできない事だった。だから誰かに頼ったとしても恥ずべき事ではない。

 とはいえ庄三郎。弟の身が心配だった気持ちも俺には()()()()よ」

 

 最後の一文を言った時の庄三郎は、いつになく物憂げな表情を源吾郎たちに見せていた。

 

「叔父上、叔父上はやっぱり俺たちを助けるつもりで動いてくれたんですか?」

「結果的にそうなるが、論理だって動いた訳じゃあないんだよ」

 

 苅藻は既に拗ねたりツンデレムーブを見せたりしている訳ではない。素直に自分の考えを口にしているであろう事は源吾郎にも伝わった。

 それでも歯切れの悪い言葉になっているのは、苅藻自身が自分の思いや考えを探り直しているからのように思えた。

 

「妹はもう十分に独り立ちしたし、俺を頼る事も放っておいて窮地に立たされる事も少なくなった。兄として喜ばしくも寂しい部分もあるけれど。だが、弟分である甥たちはそうでもないからな」

 

 結論の見えない述懐を終えると、苅藻は源吾郎を真正面から見据えた。叔父ながらも心の内側を覗き込むような眼光の鋭さに源吾郎は一瞬怯んでしまった。

 

「源吾郎。お前もいずれは()()()()()()()()()()()()()はずだ。いや――解らないといけないだろうな。お前はもはや親兄姉や学校と言った箱庭で護られた仔狐ではないのだから」

 

 苅藻はそう言うと、今度は雪羽に視線を向けた。

 

「ピンとこないというのなら、雷園寺君に聞いた方が良いかもしれないね。雷園寺君ならば、俺の言った事は汲み取ってくれるだろうから」

「そんな……」

 

 照れたのか何か知らないが、話題を振られた雪羽はばつが悪そうな様子で目を伏せた。

 苅藻はその後源吾郎たちの活躍を褒めてくれた。とっさの判断とはいえ、源吾郎は奈美と言う女性を凶刃から護り、雪羽は襲撃犯を取り押さえて武器を取り上げたのだ。彼らの初動があったからこそ、被害はまだ少なくて済んだのだと苅藻は言ってくれた。日頃の訓練の賜物でもあろう、と。

 誠に勿体ない話ではあるが、源吾郎は苅藻の称賛を半ば虚ろな気持ちで聞いていた。事件現場に居合わせた事で疲れている事もあったし、何より先程の言葉にばかり意識を取られてしまっていたのだ。



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幕は下がりて因果を思う

「ともあれ一件落着だ。これで君らも安心できるだろう……」

 

 獣の唸り声のような奇妙な声と、女の甲高い絶叫を源吾郎たちが耳にしたのは、まさしく苅藻が安堵の言葉を漏らしたまさにその時だった。

 周囲に漂っていた、桃ジュースの残滓たる甘い香りに、吐瀉物の名状しがたい臭いが混じったのを源吾郎は感じ取った。酸っぱく饐えた……そして何かが腐敗したような、獣妖怪からしても悪臭だと感じ取るような臭いである。

 ともあれ源吾郎と雪羽は驚き、首を巡らせて何が起きたのかを思わず確認した。一人の男が倒れ伏し、その周囲に肉色の吐瀉物が広がっていた。その彼の傍らに、若い女が座り込んで背や肩をゆすっている。戸惑いの涙と汗が、彼女のメイクを滲ませているのが源吾郎には見えた。

 

「みっちゃん、満、どうしたの! 起きて、誰か、誰か救急車を――!」

 

 どうやら状況を見るに、倒れているのは芦屋川であり、懸命に彼を起こそうとしているのは奈美と言う娘だった。大騒ぎしているのが功を奏し、彼らの周りにも人間たちが集まっている。発作か、急に倒れるなんて、とりあえず救急車だ……何も知らない人間たちは、ただただ芦屋川が倒れたという横たわる結果を前に動いていた。

 

「あいつは確か、犬神を持っていた男だったな」

 

 異変に気付いた苅藻が静かに言う。驚きも憐れみも何もない、ひどく落ち着いた物言いだった。驚き動揺して言葉も出ない源吾郎たちとはあまりにも対照的だ。

 庄三郎だけが、視線を往復させたのち口を開く事が出来た。

 

「叔父さん。何で芦屋川さんは……倒れたんですか」

「何でも何も、犬神がいなくなったからだよ」

 

 野狐禅のような言葉だと思っている間に、苅藻の面に笑みがさあっと広がった。玉藻御前の血を思わせるような笑みだと、他ならぬ玉藻御前の曾孫である源吾郎は思っていた。

 

「あの犬神はね、犬の怨念を核に餌食になった犠牲者や、かつて犬神を使役していた術者の亡霊などが寄り集まった存在だったんだよ。芦屋川だったっけ、彼も犬神を使役している間、知らず知らずのうちに犬神に心を喰われていたんだろうね。もっとも、それだけ犬神に依存して願いを叶えさせていたというだけの話なんだが。

 それで今回、君らの上司たちが寄ってたかって犬神を退治して食べつくしてしまっただろう。それでまぁ、急に心とか精気が激減したからああして倒れたんだよ。犬神がついていた時は、心を喰われていても特段影響はなかったんだけどね」

 

 良くて数週間の虚脱状態、悪くて廃人だろうな。芦屋川のその後について、苅藻は事もなげに言ってのけた。庄三郎たち三人は、苅藻の言葉を神妙な面持ちで耳を傾けていた。源吾郎の心中では色々な考えが渦巻いていて、それを言葉にするのは難しかった。

 芦屋川の言動は度し難いものであったし、彼がそれこそお咎めなしであったらそれはそれでモヤモヤしていた所だろう。嬉々として犬神を受け入れたがための自業自得、因果応報と言う物だと源吾郎の理性は訴えていた。しかし、それでも心の片隅では、運命の苛烈さに戸惑ってもいたのだ。

 

「どうしたんだね君たち」

 

 苅藻の視線は源吾郎と雪羽の二名に向けられていた。呆れたような、しかし何処か優しさの滲む表情で苅藻は問いかける。

 

「もしかして、この度の元凶になったあの男の末路を憐れんでいるのかな? 源吾郎にしろ雷園寺君にしろ、優しくて素直な子だからさ。だが、知らないと言えども犬神を受け入れ、あまつさえ――」

「俺は憐れんでなんかいません」

 

 苅藻の言葉を遮って言い放ったのは雪羽だった。伊達眼鏡の奥にある瞳が興奮でギラギラと輝いている。

 

「あんなモノに頼った相手を憐れんだり擁護するつもりは俺には毛頭ありませんよ。ただ――」

 

 切り捨てる様な歯切れの良さで雪羽は言い放つ。だが、その次の言葉を口にするときには、その歯切れの良さは既に失われていた。むしろ半ば口ごもりながら、それでも自身で言葉を探ろうとしている。

 

「俺もああなっていたかもしれない。そんな考えが浮かんだだけです。あ、もちろん俺は蠱毒なんぞに手を染めたりしませんよ。あんなのには金輪際関わりたくありませんから。

 でも僕にも力があって、その力を笠に着て好き放題やっていた事があったから……」

 

 言い終えると、雪羽は身を縮めるような素振りを見せていた。雪羽はおのれの所業について振り返り、恥じているんだ。源吾郎は即座にそう思った。

 雷園寺……未だ彼が梅園幸夫に扮している事さえ忘れ、声をかけずにはいられなかった。源吾郎は知っている。雪羽が単なる悪ガキではない事も、再教育を受けながらマトモにやり直そうと頑張っている事も。そして、思いがけないほど繊細な心の持ち主であるという事も理解していると思っていた。

 だがそれでも、雪羽がこうして自身の身を顧みる姿を見ていると、源吾郎も何とも言えない気持ちになってしまった。

 戸惑い縮こまる二人の若妖怪を、苅藻は静かに見下ろしていた。大丈夫だ。ややあってから放たれたその言葉は力強かった。

 

「そうか。力と言うか思い通りになる環境に触れて、それで堕落して破滅するんじゃないかって心配していたんだね。だけどね雷園寺君。君はもう大丈夫だって俺は思っているよ」

「本当ですか……?」

 

 苅藻に問いかける雪羽は、心持ちおどおどしているようだった。いっそ罰を求めているかのようにさえ見えてしまう。苅藻はそんな雪羽や源吾郎に鷹揚な笑みを見せている。

 

「まぁ確かに君もヤンチャ放題だった時もあったみたいだけど、でも今は違うでしょ。それが良くなかった事だって君はきちんと知っている。三國君たちだってその事で反省しているし、何より今は萩尾丸さんの許で勉強中の身だ」

 

 勉強中とは含みのある言葉だ。雪羽の隣に立つ源吾郎はそんな事を思っていた。元より萩尾丸の許での再教育と言うのは、雪羽と三國への懲罰に他ならない。雪羽は自由気ままに振舞う事を制限され、三國は最愛の甥を取り上げられたのだから。

 とはいえ、再教育が文字通り教育と勉強の場である事もまた事実だった。何のかんの言いつつも、萩尾丸が雪羽を大切に扱っているであろう事は源吾郎にも解っていた。仕事に慣れさせるためと言う名目で萩尾丸の傍で働いている雪羽であるが、まだ手許で教える必要性があると萩尾丸が判断を下したからなのだろう。妖力面で言えば雪羽は強い。既に中級妖怪であるし、それどころか実戦の心得さえ具えている。それでも、萩尾丸が部下として抱えている若妖怪たち、珠彦や文明、或いは穂谷先輩などと較べれば格段に幼さが目立つのだから。

 そう言う意味では、敢えて源吾郎の傍に雪羽を配置したのも、互いに影響を及ぼす事を見越しての事だったのかもしれない。源吾郎と雪羽の存在が互いに影響をもたらしている事は言うまでもない事であるし。

 そんな事を思っている間にも、苅藻は言葉を続けていた。

 

「だから雷園寺君。そんなに心配しなさんな。君はもう道を外れたり間違ったりしないだろうからさ。仮にそうなったとしても、今の君にはそれを正してくれる妖《ひと》がいるんだから」

 

 お前だってそうだぞ源吾郎。少しぼんやりしていた源吾郎にも、苅藻は呼びかけていた。

 

「お前もまぁ……野望があると言えども普段は真面目に仕事をこなしているんだろう? 俺とて根無し草だけど、それでも妖の噂はすぐに入って来るからさ。お前に関する噂は少ないみたいだから、噂にされるような事はやらかしてないはずだ。

 そこの雷園寺君とも、あれから大分仲良くなったみたいだし。三國君も喜んでいるはずさ」

「確かにそうかも」

 

 苅藻の言葉に、源吾郎は手短に応じた。仕事を真面目にこなしているのは事実だし、浮いた噂が出来ないように気を付けているのも事実だ。

 雪羽と友達になったのもまごう事なき事実だ。色々あったけど、よくもまぁ短期間でここまで仲良くなれたものだと、源吾郎は半ば感嘆しながら思ってもいた。萩尾丸や紅藤は、もしかしたら二人を仲良くさせようと画策していた部分はあるかもしれない。それでも実際に仲良くなるか否かは、源吾郎と雪羽自身の問題でもある。

 

「とりあえず一件落着だな。三人ともお疲れ様。見た所、今はもう人間にしろ妖怪にしろ悪意のある連中はいないだろうし、俺らがでしゃばらなくても大丈夫だろう」

「本当にありがとうございました、苅藻叔父さん」

「……あの白い狐はどうなるんでしょうか?」

 

 庄三郎が苅藻に礼を述べた後、雪羽は白狐の安否について口にした。初対面であるはずの白狐の身を案じている所が、何と言うか彼らしい。

 そんな雪羽に対し、苅藻は困ったように微笑むだけだった。

 

「彼については稲荷たちの方で裁く事になっているよ。俺らの意向ではどうにもならない領域だな。治外法権みたいなやつだ。

 だがもちろん、その前に傷を治して心身が回復するのを待たないといけないけれど。すきま女のお嬢さんが応急処置を行ってくれたと言えども、腹を破かれたんだからな……後はまぁ運次第、これも俺らではどうにもならない所だよ」

「……助かってくれればいいですね。と言うか個人的には助かると思うんです。ハラワタがまろび出たくらいじゃあすぐには死なないって三國の叔父貴も言ってましたし」

「三國君の言葉は自分の実体験も入っているからな。雷園寺君もあんまり真に受けないように。と言うかあの子は妖力が物凄い多いから、他の妖怪よりも傷の治りが速すぎるんだよ」

 

 途中から真面目なのかとぼけているのかよく解らない雪羽の言葉に、苅藻は呆れもせず真面目な調子で返答している。ハラワタ云々が実体験とは……源吾郎も気になりはしたが、深く追求するのは何となくはばかられた。

 

「それじゃ、俺はそろそろお暇するよ。絵を買ったりしないといけないからね。ああでもその前に、お昼だから何か奢ろうか。君らもお腹が空いてきた頃だろうしね」

 

 言われてみれば時刻はもう正午を過ぎていた。白狐の襲撃も犬神の顕現も昼日中に起きた事件だったのだ。妖怪が夜中に暴れるという伝承もあるが、それもあてにならない話だろう。

 源吾郎たちはともかく三人で顔を見合わせた。お昼と聞いても、もうお昼なのかと思っただけである。空腹は忘れていた。と言うよりも、あの光景を見た後に食欲は湧いてこないだろう。そもそも源吾郎も庄三郎も妖狐の血を引いている。妖狐はイヌ科獣らしく多少は食い溜めが出来るから、一食くらい抜いてもそんなに問題はない。

 結局のところ、お腹が空いてきたと言ったのは雪羽だけだった。彼は流血沙汰にも慣れているし、雷獣だからなのだろう。雷獣は機動力の高さとパワフルさが特徴的であるが、その分代謝が高い。と言うよりも機動力の高さを維持するために、より多くの食事を必要とする種族でもあるのだ。

 だから雪羽が空腹を訴えたのも、まぁそんなに不自然な事でもなかったのだ。



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雷獣と半妖、そして人間の術者たち

 月曜日。普段より早めに出社してしまった源吾郎は、割り当てられた場所の掃除を一通り終えると、敷地内をぶらつき、空いているベンチに腰を下ろした。

 事務所自体には相変わらず紅藤や萩尾丸は出社している。しかし上司らは何となく忙しそうだし、何よりじっとしていたい気分ではなかったのだ。もしかしたら、昨日は部屋に籠ってゴロゴロしたりホップと遊んでいた反動があったのかもしれない。

 ベンチの周辺とか工場棟の出入り口にも、仕事前の工員たちが小さく固まってたむろしていた。それを眺める源吾郎の隣に、さも当然のように雪羽がいるのは言うまでもない。

 源吾郎自身はツレの有無にかかわらず、気が向いた時にセンターの敷地内をぶらつくのが常だった。しかし雪羽は一人でぶらつく事は滅多にない。源吾郎がぶらつくのを見計らって付いて行く事がほとんどだ。源吾郎に対しては打ち解けた様子を見せたり、過去には取り巻きを従えてふんぞり返っていた雪羽であるが、意外と人見知りな気質なのかもしれない。口には出さないが源吾郎はそう思っていた。

 

「土曜日は大変でしたね、島崎先輩」

「あれはまぁ大変だったよ。俺たちだけじゃあ対処できない案件だったし」

「一尾の化け狐だけだったらどうにかなったでしょうけれど、犬神なんかは……」

「本当に、犬神はねぇ……」

 

 会話はそう長くは続かなかった。雪羽の顔は早くも思案の色が濃く浮かんでいる。源吾郎だって同じ事かもしれない。だが致し方ない事だった。あの時犬神に恐怖し、どうにもできなかった事は事実なのだから。

 それに――犬神はすぐに双睛鳥《そうせいちょう》たちが捕食してくれたが、犬神の言葉は源吾郎たちの心の中に未だに残っている。いずれにせよ自分達は蠱毒と因縁があるのだ、と。

 思案顔だった雪羽は、ふいに明るい表情を作って口を開いた。

 

「ところで先輩、昨日はどうだったんですか? 連絡とか、全然無かったけれど」

「どうって、特に何もないよ。強いて言うなら朝方まで末の兄の部屋に滞在したって事くらいかな。部屋に戻ってからはゴロゴロしたり、ホップを遊ばせたりして自堕落に過ごしたんだよ。悪かったな雷園寺君。連絡を寄越さなくって。もしかして寂しかったのか」

「やだなぁ、別にそんなんじゃないっすよ」

 

 寂しかったのか。冗談半分に問いかけると、雪羽の面に笑みが咲き開く。きっと源吾郎が冗談をかましたと思っているのだろう。それでも彼の笑顔は無邪気で、源吾郎は見ていて安堵した。()()()()笑顔の方が雪羽には合っている。源吾郎は一人勝手にそんな事さえ思っていた。

 

「俺も先輩と似たり寄ったりですよ。休みの日だったんで叔父貴の許に帰ってたんですけど、寝たり本を読んだり動画を見たりしてたかな。大した事はしなかったのに、何か疲れちゃってたから。でも春兄《はるにい》も事情を知ってるから結構優しくしてくれたんだ」

「結構って、春嵐《しゅんらん》さんは基本的に優しいやんか」

 

 疲れていたのは自分だけじゃなかったんだな。雪羽の顔をまじまじと眺めながら源吾郎は一人感慨にふけっていた。雪羽の顔には疲労の色は無い。その辺りはやはり妖怪、雷獣である為に体力の回復が早いのだろう。或いは保護者の一人である春嵐に甘える事が出来たのも要因の一つかもしれない。

 春嵐に関しては、源吾郎も好感を持っている妖怪の一人である。優しくて理知的なその姿は何とも兄らしかった。生真面目で子供妖怪が羽目を外す事に苦言を呈する辺りも、源吾郎の長兄に似ているのだが。

 昔の事を思い出したんだ。両手を組み合わせて呟く雪羽の声は、先程と異なり小さなものだった。十代半ばの少年しか見えない雪羽の口から「()の事」と出るのを聞くのは何とも不思議な感覚だった。だが雪羽はこれでも源吾郎の長兄よりは年上だし、何より子供だって「懐かしい」とか「昔は」と言うではないか。そのように源吾郎は思い直した。

 

「あの時犬神が言っていた通りだったんだよ。俺さ、母さんが戻って来るには、もう一度会うにはどうすればいいか、そんな事ばっかり考えて、調べてた時があったんだ……叔父貴の許に引き取られたばかりの話だけどね」

「それで、雷園寺君は怖い話が好きなんだな」

 

 的外れな事を言ってしまったか。源吾郎は密かに悔やんだが、雪羽は気にする素振りさえ見せない。

 

「俺の怖い話が好きなのはさておきだな、今回の事件は他人事じゃあないって思ったんだよ。あの白狐はさ、好きだったかみさんを取り戻そうとしてあんな事をやってただろう。やり方は間違っていたかもしれないけれど、あの狐の気持ちも俺には解るからさ……」

 

 雪羽の述懐に対し、源吾郎は何も言わなかった。肯定であれ否定であれ、雪羽の心に沿う言葉を発する事は不可能だと解っていたからだ。雪羽もひととおり話せば落ち着くはずだとも思っていた。

 ともあれ、あの事件で過去の自分の考えを思い出してしまったのだろう。そのように考えていた丁度その時、雪羽が思いがけない事を口にした。

 

「それにあの時()()()も来てたでしょ。それで、芋づる式に子供の時の、叔父貴に引き取られたばかりの時の事を思い出したんだ」

「待ってくれ、話が飛躍していないか?」

 

 源吾郎は思わずここで質問を投げかけた。白狐の動機を知った雪羽が、実母に死なれて間がない頃の事を思い出すのはまだ解る。だがそこで、()()紫苑の名が出てくるのか。それが源吾郎には疑問だった。もちろん源吾郎とて、紫苑が雉鶏精一派の第五幹部である事くらいは知っている。だが、雪羽や三國と交流があったかどうかは定かではない。勤めて間がないから、その辺りの関係性に源吾郎が疎いだけかもしれないが。

 質問を受けた雪羽はきょとんとした表情で源吾郎を見つめ返すばかりである。その彼を見つめながら、源吾郎は言葉を紡いだ。

 

「いやさ、紫苑様がお見えになった事と雷園寺君が子供の頃に思っていた事がどういう繋がりがあるのかなって不思議に思っただけだよ」

「……()()()()()を叶えてくれるおまじないを、紫苑様は俺にこっそり教えてくださったんだよ」

「何だと……!」

 

 僅かに顔を近づけた雪羽の言葉と表情に、源吾郎は面食らってしまった。願いを叶えるおまじない。字面だけで言えば可愛らしくてメルヘンチックな物であるが、その内実はとんでもない話である。死んだ実母を蘇らせる。それこそが雪羽の本当の願いなのだから。

 死せる者の完全な蘇生。これは妖怪ですら成し得ない難業なのだ。そうでなければ、紅藤はとうに胡喜媚を復活させている事だろう。死霊を操るネクロマンサーも、キョンシーの術もアンデッドの使役も、完全に死者を蘇生させる術とは言い難い。

 源吾郎はとんでもない表情を浮かべていたのだろう。だが雪羽は困ったように微笑んでいただけだった。

 

「先輩、そんなに怖い顔をなさらなくて良いじゃないですか。おまじないの内容とやらはもう忘れましたよ。そう言う話を紫苑様から教えてもらったって事しか、今は覚えてないんです。ああ、でもその話を結局大人たちに話しちゃって、しこたま叱られたのは覚えてますけどね。あの時は春兄だけじゃなくて、月姉《つきねえ》も物凄い怒ってたからびっくりしたよ」

 

 雪羽はそう言って舌の先をぺろりと出した。茶目っ気たっぷりの態度であるが、何処となく不穏な気配がするのは考え過ぎだろうか。

 

「まぁその……雷園寺君としたら災難だったね。それにしても、どうして紫苑様はそんな話を雷園寺君に伝えたのかな」

「それもこれも紫苑様の親切心だったのかなって、俺は思うんだ。叔父貴の許に引き取られた時の俺って、結構うじうじした子供だったからさ。でもやっぱり、子供が暗い事を思って悩んだり、うじうじしているのはフケンゼンだって大人は思うでしょ? それでおまじないの話をして、紫苑様は俺を励ましてくれたのかもって思ってるんだ」

 

 所謂サンタクロースの話と同じかもな。そう語る雪羽に対し、源吾郎はひとまず頷いた。何かが違う気がするが、それを上手く言葉に出来そうになかった。

 その替わりに、自分も雪羽に伝えねばならない事がある。源吾郎はそのように思い始めていた。犬神に過去や素性を暴かれたのは雪羽だけではない。源吾郎も()()だ。呪われた血統、蠱毒に手を染めた先祖の話を、あの時犬神は嬉々として語っていたではないか。

 

「雷園寺君。俺の事は怖くないのか?」

「怖いって……先輩の事が? どうしてさ」

 

 本題や前提をすっ飛ばした源吾郎の問いかけに、雪羽は不思議そうに首をかしげていた。自身の先祖が蠱毒に関与していた。その事は出来れば雪羽には伏せておきたかった。だが雪羽もあの時犬神の言葉を聞いていたのだ。表面上は普通に接していても、何がしか思う所があるのかもしれない。であれば洗いざらい話した方が良いのかもしれない。そう思い始めていたのだ。

 

「犬神のやつが暴いたのは、何も雷園寺君の――」

 

 思い切ってカミングアウトに踏み切った源吾郎であったが、しかし途中で言葉を切った。自分たちの傍に誰かが近づいてきているのを悟ったからだ。近付いてきたのは何と一組の男女だった。朝からカップルかよ……とは思わなかった。よく見れば女性の方は鳥園寺さんだったからだ。もう一人は確か柳澤と言う名の術者だったはずだ。やや強面である事と、ペットのインコを可愛がっている事が印象的だった。

 

「おはよう。島崎君に雷園寺君。もしかして取り込み中だったかしら?」

 

 挙げた手をひらひらと振りながら声をかけてきたのは鳥園寺さんだった。どうしたんだろう……そう思っている間にも彼女は言葉を続ける。

 

「悠斗さん……じゃなくて柳澤さんがね、島崎君たちとちょっと話したい事があるって言ってたの。まだ始業時間までかなりあるけれど、大丈夫かな?」

 

 源吾郎の視線は鳥園寺さんから離れ、隣にいる柳澤に移った。それから雪羽の顔をちらと覗き込んでから、再び鳥園寺さんたちを見た。

 

「話って何でしょうか?」

 

 土曜日の話だよ。柳澤は短く、しかし断言するように告げた。土曜日と言えばあの話だろうか。そう思っている間に柳澤は続けた。

 

「島崎君も雷園寺君も、土曜日は港町のギャラリーホールで妖狐の襲撃を阻止すべく動いてくれていただろう。実はあの時、俺も相棒と共に駆り出されていてね」

 

 そうだったんですか。源吾郎と雪羽は顔を見合わせ、思わず頓狂な声を上げていた。そう言えば柳澤も術者だし、年齢的にも仕事に駆り出されていてもおかしくない。ぼんやりと考えながらも、源吾郎は言葉を紡いでいた。

 

「柳澤さんもご協力して下さっていたんですね。すみません、あの時は色々と気が動転していて全く気付きませんでした」

 

 別に構わないよ。そう言う柳澤の表情は思いがけず優しいものだった。近くに鳥園寺さんがいるからなのだろうか。邪推に近い考えが源吾郎の頭の中にふわりと浮かんでもいた。

 

「聞けばあの事件では島崎君のお兄様も狙われる可能性があったんだろう。君らはそのお兄様を護るためにあの現場に出向いていたんだから、俺の存在に気付かなくても仕方のない話さ」

 

 自分は術者として今回妖狐襲撃事件の現場に投入されたのだが、源吾郎や雪羽たちの活躍にはやはり感動した、二人とも才能のある若者だと思った。柳澤の話はおよそそのような物だった。叔父である苅藻からも似たような話は聞いたばかりであったが、他人である柳澤に褒められると何となく気恥ずかしくもあった。

 それから若干世間話にもシフトし、柳澤と鳥園寺さんが現在婚約している事なども源吾郎たちは知る事となった。「朝から二人でいる所を見せちゃって悪いかしら?」と鳥園寺さんは冗談めかして言っていたが、悪い気など起こりはしなかった。鳥園寺さんたちも人間で年頃だし、結婚とか婚約とかしてもおかしくないと思っただけだった。

 

 そうこうしているうちに、始業時間が間近に迫ってきた。鳥園寺さんたち人間の術者を見送り、自分たちも研究センターに戻る時間だった。

 柳澤に話しかけられたのはびっくりしたが、そのお陰で源吾郎は自身の血筋の話についてカミングアウトせずに済んだ。いずれは話さねばならない事ではあるが、今はまだどう話そうかうまくまとまっていない。そう言う意味では良かったのかもしれないと源吾郎は思った。

 もっとも、雪羽は源吾郎が話そうとした事を覚えているらしく、「さっき先輩が話そうとした事は何だったんですか」と尋ねられたが。

 時間がある時にまた話すよ。源吾郎はそう言って場を取り繕い、その話はそこで終わりにした。



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縁故ともなうくびきと恩寵

 月曜日の朝はまずミーティングから始まる。週初めのルーティーンは、もう既に源吾郎も雪羽も把握していた。新参の雪羽でさえ、研究センター勤めを始めて三か月近く経っているのだから。

 

「おはよう、島崎君に雷園寺君」

「おはようございます」

「おはようございます、先輩方……」

 

 事務所に戻る廊下の先で出くわしたのは三、四人ほどの妖狐たちだった。そのうちの一人は黒い二尾が特徴的な穂谷先輩である。後の妖狐たちは、顔と名前ははっきりとしないが見覚えのある一尾たちだった。いや、よく見れば金色の毛並みを誇る二尾も一人いた。萩尾丸の部下で、源吾郎の戦闘訓練を見学する面々だったはずだ。

 それにしても、何故穂谷先輩たちがここにいるのだろう。思いがけぬ存在を前に、源吾郎は多少面食らってしまった。しれっと源吾郎の斜め後ろに回り込む雪羽も、恐らくは同じような気持ちなのかもしれない。

 紅藤たちの行うミーティングに自分たちも出席するのだ。何のこだわりもなく穂谷は告げ、それから何故か源吾郎たちに申し訳なさそうな表情を見せた。

 

「土曜日はごめんね。相談を受けたし、島崎君絡みの事だから僕も参加したかったんだ。だけどあの日はどうにも外せない用事があったから……」

「別に、そんなの構いませんよ」

 

 源吾郎の言葉は若干上ずり、その声には戸惑いの色が濃く滲んでいた。土曜日にあの現場に穂谷が出席できない事は初めから知っていた。それこそ初期の打ち合わせの時にその話が出ていたのだから。

 妖狐襲撃事件の前に外せない用事を入れていたのなら、そちらを優先すべきだと源吾郎も思っている。或いはもしかしたら、穂谷が実際に外せない用事を抱えているか否かは別問題として、あの妖狐襲撃事件に彼は参加すべきではないと上が判断したのかもしれない。彼もまた玉藻御前の末裔を名乗る妖狐なのだから。しかも雷園寺家次期当主拉致事件での救出部隊での働きぶりや、戦闘訓練での立ち回りを見るに、かなり優秀な妖狐であるように思えたし。

 結局のところ、源吾郎たちに声をかけてくれたのは穂谷だけだった。

 萩尾丸が部下として抱える妖狐たちと、源吾郎との間にある距離感は、未だに縮まっていなかった。妖狐たちが萩尾丸の部下である事に対し、源吾郎は萩尾丸の後輩・弟弟子に相当するという立場の違いの為であろう。或いは、年齢的には若妖怪・子供妖怪に分類されるはずなのに、中級妖怪に匹敵する妖力を源吾郎が保有しているからなのかもしれない。何せ百歳未満の若い妖狐は大抵が一尾であり、六十、七十くらいで二尾になった個体でさえ才能ありともてはやされるのだから。二尾程度ではいかな妖狐でも下級妖怪と見做される訳であるし、尾の数が増えれば増える程、保有する妖力量の差は広がっていく。

 妖狐たちと源吾郎との関係性は、源吾郎と雪羽との関係性とは全く異なっていた。いや、雪羽と親しくなってから、妖狐たちと一層距離が出来てしまったのではないか。そんな考えが浮かぶ事すらあった。雪羽が研究センターにやってくる前や、戦闘訓練で雪羽打倒を目指していた頃などは、まだ珠彦や文明と遊ぶ機会に恵まれていたのだが。或いは単に事件に事件が重なってそれどころではなくなっただけかもしれないが。

 不思議な事に、こうした源吾郎の対妖関係について、上司たちは特に何も言わなかった。特に萩尾丸などは妖材育成《じんざいいくせい》に力を入れているし、妖狐たちと雪羽の両方を育成・監督している立場であるにも関わらず、である。

 そもそも源吾郎も、最近は若妖狐たちと自分との関係について深く考えていた訳でもない。しかしよそ者を見るような眼差しを妖狐たちに向けられた事で、ふとその事を思い出したのだ。

 その事も萩尾丸に相談してみようか。或いはその前に、珠彦たちと掛け合って一緒に遊ぶのも良いかもしれない。雪羽の隣で、源吾郎はぼんやりとそう思っていた。

 

 ミーティングでは、想定通り土曜日の事も言及していた。人間を襲撃した白狐と犬神に魅入られていた芦屋川がそれぞれ病院送りになるという惨事であったが、曲がりなりにも生命に別状が無いのが救いであろうか。特に白狐に関しては意識が戻り、のみならず事情聴取が出来る程に回復しているらしい。

 白狐の回復が早かったのは、ひとえにサカイ先輩の活躍によるものなのだと萩尾丸は解説してくれた。白狐が犬神に腹を裂かれたあの瞬間に、サカイ先輩は出血や細菌等の感染を防ぐべく妖術を使ったらしい。原理については文系だった源吾郎にはいささか難しいモノであったが、要するにすきま女としての特性を上手く応用した結果と言う事はどうにか把握できた。

 

「ともかく、土曜日は皆頑張ってくれたと僕は思っているよ。想定外の事があって君らは不安に思ったかもしれないけれど、それでもなすべき事を成してくれたと思ってる。本当にお疲れ様。月曜日の朝に言うべき事じゃあないかもしれないけどね」

 

 萩尾丸の口から出てきたのは、何とねぎらいの言葉だけだった。いつも自信たっぷりに源吾郎たちを煽ったり皮肉をかましたりする事が常であるというにも拘らず、である。源吾郎は毒気を抜かれたような思いになって、萩尾丸を見つめていた。サカイ先輩は気恥ずかしそうに身を縮めるだけである。雪羽は訝しげな表情を見せていたが、ややあってから笑みを浮かべて口を開いた。

 

「萩尾丸さんが素直に僕らを褒めてくれるなんて珍しいですね。ここ最近、僕らに優しくて、却ってむずかゆいです」

「飴と鞭を使い分けているだけだよ、雷園寺君」

 

 無駄口めいた雪羽の言葉に、萩尾丸は軽く笑いながら返した。

 

「君らも訓練や仕事とは別次元の所で色々と苦労しているからね。あんまり厳しくしすぎてもしんどいだろうからさ。

……それに今回は、事は収まったとはいえ若干後手後手に動いた部分もある訳だからね。まぁ、双睛鳥君とその部下数名は最初からこちらで配置していたんだけど、まさか犬神まで出てくるとは思っていなかったから。僕たちの調査不足でもあるよ」

「そんなに気にしないで、萩尾丸」

 

 悔しささえ滲ませる萩尾丸を優しくなだめたのは紅藤だった。

 

「稲荷の眷属が動く案件だから表立って動けないのは初めから解っていたでしょう。それに私たちだって忙しかったですし、島崎庄三郎君を護り被害を最小限に防ぐという当座の目的は果たせたんですから」

 

 紅藤はここで一度言葉を切ると、眼鏡の奥にある瞳を輝かせながら問いかけた。

 

「もしかして、稲荷の眷属たちは私たちの介入に不満を持っているのかしら?」

「いえ、そう言う訳ではないはずですが」

 

 問いかけに応じる萩尾丸の言葉は、若干歯切れの悪い物だった。思案顔のまま、彼はゆっくりと言葉を続ける。

 

「正直なところ、その辺りは今後の打ち合わせ次第という感じですね。と言うか、向こうも向こうでそれどころでは無かったようですが。何せ外様である我々よりも、身内である容疑者の容体が安定するか、意識が戻るか否かについての方が重要ですからね」

 

 稲荷の眷属たちとの対談の日時は未定であるが、その準備として、今日の午後に雉鶏精一派の内部にて打ち合わせを行うのだと萩尾丸は言い足した。場所は雉鶏精一派の本社会議室であり、出席者は第五幹部の紫苑と第七幹部の双睛鳥、そして研究センターからは萩尾丸と青松丸であるらしい。

 

「本当は鳥類ばかりで打ち合わせを進めて欲しかったんだけど、僕が出席したほうが会合がスムーズになるって紫苑様たちから言われてしまったからね。

 そう言う訳だから、僕と青松丸君は午後からこっちには不在なんだ。半日足らずだからどうという事は無いけれど、くれぐれも気を引き締めて業務に励んでくれたまえ。まぁその……僕らはいないけれど管理者が不在という訳ではないからね」

 

 気を引き締めて、のくだりを口にした時は源吾郎と雪羽を、管理者と告げた時は萩尾丸は紅藤ではなくサカイ先輩を見ていた。後輩が出来たんだから彼らの監督は任せるよ。サカイ先輩に釘を刺しているように源吾郎には思えてならなかった。

 萩尾丸さん。さも何かを思い出したという調子で青松丸が口を開いた。

 

「僕らの用事はさておきですね、今日は午後から――丁度僕たちが打ち合わせを行っている時ですね――来客予定があったはずですが」

「ああ、()()()()の事だね」

 

 来客予定を指摘する青松丸に対し、萩尾丸はさらりとした口調で告げる。桐谷所長が誰であるか源吾郎にははっきりと判っていた。源吾郎の叔父、桐谷苅藻の事だ。所長と呼ばれているのは、ひとえに彼が事務所の長であるからだ。

 

「言うて桐谷所長は来客と言うか単に納品に来ただけなんだけどね。ほら、毎年年末に工員向けの簡易護符を発注してるでしょ。あとちょっとした道具とか備品の発注もね。年末と言うにはちと早いけれど、最近何かと物騒だし、そっち方面でも具えておいた方が良いかなと思ってね」

 

 萩尾丸の言葉に源吾郎は思わず視線を彷徨わせた。何故か穂谷達妖狐の様子を窺ったりもしていたのだが、結局の所雪羽と目配せする形に落ち着いたのだった。

 苅藻と萩尾丸の関係性について、源吾郎は何も知らない訳ではなかった。紅藤は弟子にしようと目論んでいた事は知っている。未熟な若狐・仔狐だった頃に萩尾丸の許で術を覚え、その上でいちかと共に独立して術者になった事も知っている。だが、研究センターに度々苅藻が物品を納品していた事は初耳だった。表情を見るに、雪羽も同じ考えであるようだった。

 

「萩尾丸さん! やっぱり萩尾丸さんは苅藻さんと、桐谷所長と繋がっていたんですね」

 

 翠眼を輝かせた雪羽は、頓狂な声を上げながら説明を続けた。苅藻は源吾郎たちを助けるために姿を現し、あまつさえ庄三郎の絵を購入した。そうした気前のいい振る舞いは、護符等の購入と言う萩尾丸の資金援助によってもたらされたものではないか。雪羽の推理はそのような物であった。

 そうかもしれないと源吾郎も素直に思っていた。フリーの術者ゆえに儲けについてはかなりシビアなのは源吾郎もよく知っている。何よりタイミングが合い過ぎている。

 ところが、萩尾丸はその言葉を聞くと笑いながら首を振るのみだった。

 

「やだなぁ雷園寺君。僕の方から苅藻君に依頼を投げかけたらややこしい事になるって、この前言ったばかりじゃないか。確かに僕も苅藻君とは長い付き合いだけど、それでもあれは身内での話だったんだから。ちょっと大事になったけど。

 そもそもね、甥たちから依頼を受けていようが受けていまいが苅藻君が動くであろう事は僕には解っていたんだよ。君らも知っている通り、苅藻君は甥たちに甘いからね。むしろ苅藻君はただ働きするんだろうなと思ったから、それで必需品の発注を彼に僕が割り振っただけの話だし。

 ともあれ、桐谷所長の対応を島崎君と雷園寺君にやってもらおうか。名刺交換とかも教えたし出来るよね?」

 

 頷きながらも、源吾郎の顔には緩んだ笑みが浮かんでしまった。仕事の場と言えども、叔父と対面するのである。兄のように慕っていた叔父に対し、名刺交換と言う形式ばった動きをする。それが面白くてならなかった。

 紅藤やサカイ先輩も挨拶に顔を出す。苅藻の来訪に関しては、そんな話の流れで締めくくられたのだ。

 

「朝から長い打ち合わせに付き合わされてお疲れさん。若いのに大変だったろう」

 

 打ち合わせ終了から十分後の中休み。だらっと休もうとした源吾郎たちに、二尾の妖狐が声をかけてきた。二尾と言っても穂谷先輩ではない。彼は萩尾丸の許で何か話し込んでいた。あの時源吾郎たちを凝視していた、金毛の二尾である。よく見れば穂谷より若く、そしてチャラそうな気配を漂わせていた。しかしその顔には友好的に見える笑みが浮かんでいる。

 

「雷園寺君に島崎君……だったっけ。ジュースでも奢るよ。さ、自販機売り場についておいでよ」

「良いんですか?」

「ありがとう……ございます」

 

 ジュースを奢るからついてこい。二尾の言葉に当惑しつつも、源吾郎と雪羽は従う事にした。仕事の労をねぎらうために、上司や先輩が缶ジュースを奢るという事はままある事だと源吾郎も知っている。それに何となく有無を言わせない圧を感じ取ってもいたのだ。

 

「……君らも若いのによく頑張っているよね。いや、若いというよりは()()()()()って呼んでも良い位の歳だけどさ」

 

 二尾に促されて各々ジュースを購入したのを見るなり、彼はそう言った。ご丁寧に周囲に認識阻害の術をかけた上で、である。口調は丁寧であるし、その顔には笑みも一応浮かんではいる。だが源吾郎や雪羽に対する侮蔑と言うか、静かな怒りの念が見え隠れしているように思えてならなかった。

 全くもって()()()()だねぇ。彼のその言葉には、はっきりと皮肉が籠っていた。

 

「土曜日の事件とやらに、俺たちも知り合いが関与したって事で、穂谷さんと一緒に俺らも打ち合わせに参加したんだよ。だけどまぁ……所詮は身内だけで解決できるような案件だったのに、あそこまで上層部が大真面目になるなんてねぇ。

 ははは、やっぱり幹部候補生は俺たち野良の雑草とは違うって事だよな」

「…………」

 

 抑えろ雷園寺。源吾郎は無言のまま、雪羽を見やった。源吾郎たちの前では幾分丸くなったように見える雪羽であるが、それでも感情の起伏は烈しいし怒りっぽい若者である事には変わりない。野良妖怪のあからさまな挑発に雪羽が乗ってしまわないか。それが気が気ではなかった。

 まぁ、源吾郎たちの将来を嘱望されているという身分について、庶民妖怪が嫉妬するのも致し方ない所もあるのだろうが。

 もっとも、そんな事を解っていても、相手の言動を不愉快に思うのは源吾郎も同じ事なのだが。

 

「――白川君。彼らがお子ちゃまだと思うのなら、わざわざ絡んで嫌味を言わなくても良いじゃないか。それこそ君だって、わざわざお子ちゃまに絡んでいるという所で()()だと思われかねないからさ」

「穂谷さん……!」

 

 白川と呼ばれた二尾が驚いて瞠目する。視線の先には確かに穂谷がいた。呆れたような眼差しで二尾と源吾郎たちを交互に眺めている。認識阻害の術は既に解除されていた。

 

「白川君からすれば、確かに島崎君も雷園寺君も上から寵愛されているように見えるかもしれないね。実際問題僕らとは比べ物にならない程の潜在能力の持ち主だし、血筋だって申し分ないからね。

 だけど彼らはただ上から甘やかされている訳ではないんだ。期待されている分、二人も僕ら以上に背負わなければならない物も抱えているんだからね。だから僕たちが嫉妬するのはお門違いってやつなんだよ」

 

 解るでしょ? 穂谷の言葉に誰も何も言わなかった。表向き白川に向けて放たれた言葉であるが、源吾郎や雪羽に対する問いかけでもある。そのように源吾郎は思えてならなかった。




 クッソ今更ですが、源吾郎君も雪羽君も縁故入社です。
 貴族だから仕方ないね。


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術者は名刺に思いを馳せる

 桐谷所長こと桐谷苅藻が研究センターにやって来たのは、一時半を少し回った所であった。昼休憩が終わって間もない時間帯であり、昼食を消化するのにいくらか眠くなる時間帯でもある。

 だからこそ、この時間の苅藻の来訪は源吾郎としても有難い所であった。この刺激が眠気を吹き飛ばしてくれると思ったからだ。

 

「こんにちは、護符と備品の納品にお邪魔しましたー」

 

 研究センター事務所の入り口をノックした苅藻は、そう言って紅藤たちに自分が来た事を知らせていた。やや間延びしてはいるがよそ行きの丁寧な口調である。ビジネスシーンであるから当然のことなのだが、それを聞いていた源吾郎は不思議な気持ちになっていた。

 源吾郎にとって苅藻は叔父であり、世間で言う所の兄に似た存在だったのだから。

 そんな風に源吾郎は物思いにふけってしまい、その間に紅藤と雪羽が動いたのだった。

 

「納品書頂きますね」

 

 そう言って動いたのは雪羽だった。研究センターにやって来て三か月ほどしか経っていない雪羽であるが、注文書や納品書の管理をサカイ先輩から徐々に引き継いでいたのだ。

 納品書等の管理を源吾郎ではなく雪羽が受け持っているのは、研修生ながらも社会妖経験があった事、そこで元々は書類の管理も行っていた事を萩尾丸たちが考慮しての割り振りなのかもしれない。実際問題、雪羽は大雑把な言動が目立つのだが、書類の管理や整理整頓は得意であったし。

 

「いつもありがとうございます、桐谷さん」

 

 受領書に雪羽が判を押しているのを眺めつつ紅藤が苅藻に挨拶をする。サカイ先輩も作業中であったが頭を下げていた。

 いつもお世話になっています。やはりビジネスライクな口調で告げる苅藻に対し、紅藤は源吾郎たちを見ながら言葉を続けた。

 

「桐谷さんもご存じかと思いますが、研究センターに新人が二人配属されました。島崎と雷園寺なのですが、改めてご紹介しますね」

 

 紅藤はそこまで言うと、未だに座っている源吾郎や受領書の処理を終えた雪羽にちらと視線を向けた。源吾郎たちと苅藻は前々より面識のある間柄ではある。源吾郎は苅藻の甥であるし、雪羽の事に関しても、三國が絡むので交流があったのだろう。とはいえ、研究センターの職員としての紹介はまだだった。

 源吾郎は自分のデスクに引き戻り、引き出しの中を探った。名刺入れは引き出しの中にしまい込んでいたからだ。源吾郎の名刺は、雷園寺家本家を訪れる時に新調してもらったものだった。しかしそれ以降は特に出番も無かったので、かさばるし無くしてはいけないとばかりに引き出しに突っ込んでいた。研究員であり、入社一年目と言う事もあって外部の社員に会う事は殆ど無かったためだ。

 

「そんな所に押し込んでたら駄目じゃないですか、先輩」

「そうは言ってもしゃあないやん」

 

 名刺入れを掴みだした丁度その時、雪羽がやや呆れた様子でこちらを窺っていた。彼は白衣のポケットを探り、これ見よがしに名刺入れを取り出していた。こういう事があるから名刺入れも持っておかないと。説教じみた雪羽の言葉を、源吾郎は素直に受け止めていた。()()()の事は雷園寺の方が慣れているな。源吾郎はただそのように思うだけだった。雪羽は幼いものの、三國に引き取られて以来叔父の職場に出入りしており、尚且つ妖事《じんじ》や書類関連の仕事に携わっていたという。立場的には源吾郎とほぼ同じ扱いであるが、そうした方面でも学生だった源吾郎とは経験値が違うのだ。

 桐谷さんには先輩が真っ先に自己紹介しないと。雪羽は源吾郎の背を押していた。苅藻はその様子を、さも楽しそうに眺めていたのだった。

 

 名刺交換の後、苅藻と源吾郎たちは事務所の隅にある応接スペースに向かう事となった。苅藻の来訪が、単に納品に来ただけではない事は紅藤もサカイ先輩もある程度察していたからである。苅藻の対岸に座るのは源吾郎と雪羽の二人だった。

 

「……こうして面と向かって名刺を貰うと、源吾郎も大きくなったんだなってしみじみと思うよ」

「まぁ、俺も……僕ももう就職しましたからね」

 

 苅藻は源吾郎たちの名刺を眺めながら感慨深そうに呟いていた。幼い弟のように思っていた末の甥が既に社会妖《しゃかいじん》になっている。その事実に苅藻も色々と思う所があるのだろう。妹のいる苅藻であるが、密かに弟分を欲していた事を源吾郎は知っていた。

 しばし源吾郎の名刺を眺めていた苅藻であるが、ややあってから今度は雪羽の名刺に視線を向けた。

 

「雷園寺君は十年くらい前に名刺は貰った事はあるけれど、前のに較べて随分とシンプルな名刺だねぇ。三國君の所にいた時は、もっとド派手でキラキラしてたと思ったんだけど」

()()あって、今は島崎君と同じく研究センターの所属になっているんです。島崎君と違って研修生と言う扱いですね」

 

 苅藻の手許に並ぶ二枚の名刺は、それぞれ源吾郎と雪羽の名刺だった。研究センター用の、紅藤たちが使用している物と同じデザインだ。名前と役職、そして住所などと言った必要最小限の情報が白地の紙に印字された極シンプルな物である。デザインがそもそもシンプルなので、源吾郎と雪羽の名刺もほとんど同じものだった。厳密に言えば、雪羽の名刺には研修生と身分が明示されているという違いはあったのだが。

 かつて雪羽が持っていた名刺。それは雪羽が叔父の許で働いていた時の名残であろう。三國は身内可愛さから雪羽を要職に就けていた。源吾郎が第二幹部の秘蔵っ子(平社員だが)であるならば、雪羽は第八幹部の重臣だったのだ。

 しかしながら、雪羽の名刺が新調されたように、彼の立場も過去のそれとは異なっている。夏にあったグラスタワー事件で再教育の処遇が下された時に、第八幹部の重臣と言う地位を雪羽は剥奪されていた。その上で萩尾丸が彼の身柄を預かり、再教育と称して研究センターに通わせているのだ。

 萩尾丸が身柄を確保しているから、雪羽は本来第六幹部の配下に相当する。しかし紅藤から研究職の才能ありと言う判断を下され、研究センターの研修生と言う身分が与えられたのだ。元々雪羽の扱いは萩尾丸にゆだねられていたのだが、紅藤はその萩尾丸の上司に相当する。才能を見出され、研究センターのメンバーに入れたいと言われれば萩尾丸も頷くほかなかったのだろう。雪羽が理系分野に強く、初めから研究職として採用された源吾郎よりも()()()()()()()()()を有しているのはまごう事なき事実なのだから。

 

「雷園寺君も今年は色々大変だっただろう。まぁ、三國君から引き離されたのは君の所業によるところもあるけれど、それでも新しい職場とか新しい仕事仲間ってそれだけでもストレスがかかるもんね。とはいえ真面目にやってるみたいで安心したよ」

「ストレスの方は大丈夫です。週末は叔父の許に戻っていますので」

 

 優しげな苅藻の言葉に、雪羽は少し畏まった様子で応じていた。叔父の許にいる。その言葉で源吾郎は先日の土曜日の事を思い出していた。騒動が十分に収まってから、雪羽の許には三國と春嵐が迎えに来たのだ。日曜日はそのまま叔父の家でごろごろしていたというし。

 雷園寺君。優しげな笑みをたたえつつも、苅藻は決然とした様子で雪羽に呼びかけた。

 

「噂で聞いたけれど、雷園寺家の次期当主候補として本家から認められたそうだね。おめでとう。雷園寺君の事はちっちゃい毛玉みたいな時から知っていたけれど、君ならいずれ次期当主の座を掴めると思っていたよ」

「桐谷さん。僕が次期当主だなんて気が早すぎますよ。あくまでも僕はまだ次期当主()()に過ぎなくて、もしかしたら異母弟の時雨が次期当主になる可能性だってあるんですから」

 

 次期当主と言う言葉を聞いた雪羽は、顔を赤らめつつ苅藻に反論した。雷園寺家にて雪羽の処遇が決まって以来、雪羽はもはや雷園寺家次期当主と吹聴する事はついぞなくなった。次期当主候補と、()()の部分を殊更に強調するようになったのである。かつては異母弟と相争い、押しのけてでも次期当主の座を掴む――そのように思っていたに違いない。だが実際に異母弟の時雨に会い、その気持ちが随分と軟化したのだろうと源吾郎は思っていた。身内への情の深い雪羽の事だ。次期当主の座を狙う敵と言うよりも、庇護すべき弟であると時雨の事を認識しているのだから。そうでなければ「時雨が俺にベタ甘えで却って心配」だの「いずれは相争うから突き放して接したほうが良いのかもしれない。でもやっぱり甘やかしちゃうんだよな」だの「穂村たち弟妹と時雨が仲良くできるか実は不安なんだよ。でも押し付けるのはいけないよな」だの言いはしないだろう。

 

「まぁまぁ雷園寺君。君は若いんだから、現状が良くなった事を素直に喜んでいればいいんだよ。現当主殿や三國君の年齢を考えれば、どちらが次期当主になるかと言う事を決めるのは早くともあと百二、三十年後の事だろうしね。

 それはともかく、僕の方からささやかながらも次期当主候補に決まった事への祝い金を、年明けに君に渡そうかなとも思っているんだ。そっちの方も三國君や萩尾丸さんに許可を頂けたからさ」

 

 ありがとうございます! 雪羽は目を輝かせて苅藻に礼を述べていた。驚くほどの喜びように源吾郎は少し面食らってしまっていた。お金を貰える事が嬉しいのだろうか。下世話な考えが脳裏をよぎり、源吾郎は軽くかぶりを振った。

 そもそも雪羽は現在、萩尾丸の監督下にいる。萩尾丸が彼に衣食住を提供しているのだが、裏を返せば金銭面の管理もなされているという事だ。そうでなくても再教育の最中であるから、雪羽のお金の使い方には目を光らせているだろうし。

 そもそも雪羽は三國に甘やかされて育っているためか、それほどお金に執着しない性質でもあった。だからこそ、祝い金を貰うという喜びぶりが源吾郎には不思議でならなかったのである。

 そんな事を思っていると、苅藻の視線が源吾郎に向けられた。

 

「源吾郎……いや島崎君。君には祝い金みたいなお祝い事は無さそうだけど、もしかしてお年玉とかそんなのが欲しかったりするかな?」

 

 苅藻の言葉はビジネスマンとしての言葉ではなく、叔父として甥である源吾郎に向けられたものだった。祝い金を喜ぶ雪羽を眺めていただけだったのだが、苅藻の目には羨ましがっているように見えたのだろうか。

 だからこそ、自分も甥として返答すべきだ。そんな風に源吾郎は思っていた。

 

「別にお年玉とかは大丈夫ですよ、叔父上。僕はもう就職していますんで、お年玉とかお小遣いはもう打ち切りだって親兄姉たちとも決めているんです。場合によっては、両親に僕がお年玉を渡した方が良いかもしれないと思ってるくらいなんですから」

「おお、しっかりした考えじゃないか。それはそれで安心したよ」

 

 感心したような叔父の言葉に、源吾郎はうっすらと笑みを見せた。就職したらもうお年玉やお小遣いは貰わない。昨年末に源吾郎は両親や兄姉たちとそのように取り決めていたのだ。お年玉事情に両親のみならず兄姉たちも絡むのは、源吾郎が彼らからもお年玉をもらっていたからに他ならない。それらが貯蓄となっていたかどうかは別問題であるが。

 それよりも……源吾郎は上目遣い気味に苅藻を見やり、静かに口を開いた。

 

「叔父上こそ……桐谷所長こそ大丈夫なんですか? 今回は弊社の方で多めに発注を受けたと言いますが、色々と出費も重なったみたいですし」

「まぁ俺もフリーランスだから気楽なものだよ。でもそう思うんだったらまた遊びに来てさ、護符とか何やらを買って欲しいなぁ」

「ええ! そういう事なら買いに行きますよ! 僕も丁度桐谷さんから祝い金を頂ける訳ですし。でもその……弟妹達にお年玉をあげたいんで、手元にはあんまり残らないかもしれないんですが」

 

 源吾郎の問いかけにより生じた話の流れが面白い方向に進み、三人でしばし笑い合っていた。弟妹たちへのお年玉を渡す資金が出来たから、雷園寺は叔父上からの祝い金にあそこまで喜んでいたのか。笑いながらも源吾郎は密かに納得もしていた。

 ひとしきり笑い終わると、苅藻は真面目な表情を浮かべていた。

 

「何というか前置きが長くなったけど、土曜日は本当にお疲れ様。多分、紅藤様たちからも似たような事は言われているかもしれないけれど」

「いや……大丈夫ですよ桐谷所長。桐谷所長として思う所があれば、僕たちにぶつけて欲しいんです。僕も、僕らも話したい事はありますんで」

 

 わざわざ面談めいた状況にもつれ込んだのは、苅藻も土曜日の件で源吾郎たちに伝えたい事があったからだろう。源吾郎はそのように思っていた。

 紅藤たちと似たような話になるかもしれないと苅藻は言っていたが、それは違うはずだ。源吾郎の叔父としての言葉、一術者としての言葉を苅藻は持っているはずだから。それに何より、苅藻もまた現場に居合わせた術者の一人なのだし。

 一体どんな話になるのだろう。源吾郎は軽く居住まいを正したが、雪羽もまた真面目な表情に戻っていた。



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うわさは天下の回りもの

 桐谷苅藻は今一度、源吾郎と雪羽を交互に眺めた。その表情は真剣そのもので、一人の術者、一人の大人としての圧を源吾郎は感じていた。

 

「今こうして元気に出社してるって事は、君たちは特に何もなく大丈夫だったって事だよね」

「はい。その代わり、昨日は叔父の家でずぅっとごろごろしていましたが」

 

 問いかけに答えながら、雪羽は気恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。恥ずかしがるのなら別にそこまで詳しく言わなくて良いのに。源吾郎は思わずそんな事を考えていた。

 しかし雪羽に構っている場合でもない。源吾郎も苅藻を見据えて口を開いた。

 

「僕も大丈夫でしたよ、桐谷所長。とはいえ、土曜日はあのまま兄の家に立ち寄って泊り込んだんですがね。兄も妖狐の襲撃とか犬神の出現に怯えていたみたいだし、何より俺自身が心配だったから……」

 

 源吾郎はそう言って両手を軽く丸めた。土曜日の夕方、源吾郎は庄三郎のねぐらに押しかけていったのだが、それはもう源吾郎の独断によるものだった。不安だから、怖いから一緒にいてくれとは庄三郎は一言も言わなかった。しかしそのままついて来た源吾郎を追い払う事は無かったから、あの行為は単なるワガママではなかったのだと思っている。

 それに源吾郎自身、庄三郎を心配していたのは事実だった。半妖ながらも兄の精神構造は殆ど人間のそれと同じであるし、何より食生活が貧弱なのだから。

 

「やっぱり島崎画伯……先輩のお兄さんも怖い思いをなさったでしょうね。あの人は殆ど人間と同じなんですから」

「雷園寺君の言う通り、庄三郎君はむしろ人間に近い存在だからね。庄三郎も庄三郎で、祖母の能力を受け継いでいる事には違いないが、そこはまぁ深く追求しなくてもいいだろう。あの子は源吾郎と違って、能力を積極的に使いたがらないからね」

 

 と言うよりも、源吾郎の兄姉たちはいずれも人間に近いのだと苅藻は付け加えた。むしろ源吾郎が能力的にも意識的にも妖狐に近いのは、先祖返りの突然変異である、と。最近になって知った事であるが、半妖は源吾郎が思っているよりも個体数は若干多いらしい。但し、必ずしも妖怪の親の能力を受け継ぐわけではないので、人間として育てられ人間として生涯を終える事がほとんどなのだそうだ。人間の血が濃ければ濃いほどその傾向は強いのは言うまでもない。源吾郎の母や叔父たちは殆ど妖怪と変わらないが、それもまた玉藻御前やその娘の血が強すぎたからこその話なのだそうだ。

 だが源吾郎が意識を向けたのは、苅藻が何気なく放った能力と言う単語だった。庄三郎はつとめて人間として生きようとしていた。だが、源吾郎と同じく玉藻御前の能力を受け継いでいる事には変わりない。相手を魅了して意のままに操る。変化術などよりもよほど傾国の妖狐らしい能力である。

 その能力を土曜日に兄は使ったのだ。淡々と源吾郎が告げると、苅藻が僅かに驚いたような表情を浮かべた。源吾郎はそのまま言葉を続けた。苦い表情が広がっていくのを感じながら。

 

「会場の人たちに『自分は用事があって弟と一緒に帰らなければならないし、日曜日も出席できそうにない』って言う暗示を兄はかけたんですよ。白狐や犬神の騒動に関しては皆さんが誤魔化してくれましたが、自分がギャラリーを休む口実は作らないといけませんからね。そのお陰で、兄も日曜日はゆっくり休めたみたいですけれど」

「庄三郎君があの能力に頼るとは、よほど疲れたんだろうね。源吾郎たちの事も心配していたし。しかしそう言う能力の使い方は何ら問題ないと俺は思うよ」

「叔父上、桐谷所長はそう思っておいでなんですね。僕はちょっと問題と言いますか、思う所はあるんですけどね」

 

 一体何が()()だって言うんだい。苅藻の質問を源吾郎は正面から受け止めた。

 

「いやその……あまりにも勿体ないと思っただけですよ。兄があの能力をひどく怖れているのは僕も知ってるよ。だけど、兄の部屋に立ち寄って、料理を作りながら思ったんですよ。悪用するのは悪い事かもしれないけれど、もうちょっと()()してもばちは当たらないし、もう少し()()()()()だって出来るんじゃないかってね。

 弟として、同じ玉藻御前の能力を受け継いだ者として僕はそう思ったんです」

 

 組み合わせた指の間に力が籠るのを源吾郎は感じていた。庄三郎が普段は能力を一切使わない事、土曜日に能力を使った時も密かに罪悪感を抱いていた事を源吾郎は知っていた。無論庄三郎は表立ってそんな事は言わないが、弟だから解ってしまうのだ。

 

「そう言ってもだな源吾郎。庄三郎にも庄三郎の考えがあるんだからそっとしておいてやれ」

 

 指導者らしい物言いで源吾郎をなだめた苅藻であったが、直後に浮かんだのはいたずらっぽい笑みだった。

 

「なぁ源吾郎。そう言えばお前は変化術が得意だよな。そしてお前は自分の見た目について、『父親に似ているし女子ウケが悪い』と言うコンプレックスを抱えていたよな。だけど、お得意の変化術を遣えばそんなコンプレックスも払拭できるし、のみならず女の子に不自由しない身分になるんじゃないのかい? 女の子に容易く変化できるお前の事だ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「それは…………」

 

 そんな事をするくらいなら尻尾を全部引っこ抜いた方がマシだ。そこまで思った源吾郎であったが、その言葉はぐっと飲みこんだ。叔父の苅藻の質問ではなく、術者で取引先の桐谷所長の質問だったからだ。それに、()()()()()()()などと言う過激な言い回しを雪羽が()()()()()()()事も知っていたからだ。

 言い澱んで上目遣いになっただけであったが、源吾郎の考えている事は苅藻にも伝わったらしい。舐めるように源吾郎を眺めていた苅藻の顔に、にわかに笑みが浮かんだのだ。

 

()()()()()だよ源吾郎。その気持ちがあるなら、庄三郎が何故能力をさほど活用しないか解るはずだ。

 良いかい二人とも。能力に慢心し、力に溺れる事は誰だってできる。だが力に振り回されずに適切に使う事の方が難しいんだ。難しいけれど、妖怪たちはその事を学ばなければならないんだよ。特に――君らみたいに権力を欲し妖《ひと》の上に立つ事を望んでいるのなら尚更ね」

 

 二人とも解るだろう。諭されるように苅藻に言われ、源吾郎と雪羽は互いに顔を見合わせた。雪羽の顔に、気まずそうな決まりの悪そうな表情がはっきりと浮かんでいた。雪羽も大分更生したものの、しかしだからこそ痛い所を突かれた気分になったのかもしれなかった。

 

「それはそうと、二人とも思っていたよりも強くなってて何よりだよ。白狐が襲い掛かってきた時に相手を取り押さえたり狙われていた女の子を庇って被害を最小限に食い止めてくれてたもんね。

 それに何より、犬神が出現した時もそれほど取り乱さなかったじゃないか。一尾の白狐はさておき、犬神なんてものは普通の妖怪でも恐ろしい存在だからね」

 

 犬神に言及した苅藻を見つめ、源吾郎は重々しく頷いた。あの会場には稲荷の眷属たる妖狐たちをはじめ、妖怪や術者たちがある程度揃っていた。それでも、犬神の存在を前に立ち尽くし、恐慌状態を抑えるのがやっとだったのだ。稲荷の眷属や術者と協力する妖怪たちと言えども若妖怪や一般妖怪が目立ったから、致し方ないと言えば致し方ないだろうが。

 

「犬神ですか。怖いというよりも厭な存在でした」

 

 ぽつりと言葉を漏らしたのは雪羽だった。あの場で犬神や蠱毒は怖くないと豪語していた雪羽であるが、そうしたビックマウスを振るうつもりは無いらしい。雪羽にしてみれば保護者たる三國が一目を置き兄として慕う存在であるわけであるから、まぁ当然と言えば当然だろうが。

 

「ご存じの通り、僕は雷獣なので単なる犬や狼みたいな連中は怖くはありません。成長すればライオンとかユキヒョウみたいになるかもって言われてもいますからね。

 ですが、あいつは蠱毒って事で怨念の塊みたいなやつでしたし、何より相手が気にしている事や思っている事をピンポイントで狙って口撃を仕掛けてきましたもんね……あれは堪えましたよ」

 

 目を伏せて物憂げに告げる雪羽に対し、そりゃあそうだよ、と苅藻は言っていた。

 

「蠱毒にしろ犬神にしろ、怨念の集合体みたいなモノになっている場合が多いもんね。あの犬神も色々と混ざり合っていたから、その分他人の願望とやらを嗅ぎつける嗅覚が発達していたからね。犬だけに」

「やっぱりお狐様たちは犬神が怖かったんでしょうね。自分は狐で相手は犬だったんですから」

「……あれだけ禍々しい奴だったら、犬であろうとなかろうと怖いさ。雷園寺君たちは流石にあれに立ち向かいはしなかったけれど、それで良かったんだよ」

 

 苅藻は静かに微笑み、周囲には微妙な間が出来ていた。雪羽も源吾郎も犬神について思いを巡らせていたのだ。雪羽は蠱毒について思う所が大きいだろう。彼の境遇、妖生の転換点には蠱毒が憑き纏っていたのだから。

 

「それにしても、桐谷さんは犬神が潜んでいる事にお気づきになられたんですね。他のお狐様や術者たちは気付かなかったみたいなのに」

 

 ややあってから雪羽が口を開いた。誰も気づかなかった犬神を見つけ出したのがすごい! と無邪気に称賛している感じではない。稲荷の眷属や術者たちが気付かなかった犬神に、何故苅藻が気付いたのだろう。そのように不思議がっているようなニュアンスだった。

 

「そりゃあやっぱり……俺らも蠱毒に縁が深いからなのかもしれないな。犬神のやつも言ってただろ?」

「お、叔父上!」

 

 自分たちが蠱毒と縁が深いのかもしれない。何のこだわりもなく言ってのけた苅藻に対し、源吾郎は声を上げずにはいられなかった。呪われた家系の事、母方の祖父の系譜が蠱毒の邪法に手を染めていたであろう事は雪羽にカミングアウトしなければと思ってもいた。しかしこんな風にさらりと叔父が言ってのけるなどとは夢にも思っていなかった。と言うよりもカミングアウト云々の事を若干忘れかけてもいた訳であるし。

 どうした源吾郎。上ずって切羽詰まった声を上げる源吾郎に対し、苅藻は不思議そうに首をかしげる。

 

「どうしたも何も……叔父上はどうしてそんな事をさらりと言えるんですか? 犬神のやつが本当の事を言ったのかどうかはさておき、ショッキングな話じゃないですか。先祖が、それも自分の祖父とか伯父に当たる人たちが喰い合いとか殺し合いをやって蠱毒の術を行使しようとしていたなんて、そんな事を叔父上は知ってしまったんですから」

 

 怪訝そうな雪羽の表情に気付き、源吾郎はここで一旦言葉を切った。

 自分たちの身内が喰い合いを繰り返し、自身の身をもって蠱毒の邪法を行っていた過去がある。その事を知ったにも関わらず、()()叔父上は平然としているのだろう? 源吾郎の脳内にはそのような疑問が渦巻いていた。紅藤からこの話を聞かされた時、源吾郎はひどく動揺した。苅藻は源吾郎よりもうんと長い年月を生きているが、先祖である桐谷家の抗争は知らないと紅藤が言っていた。だから源吾郎のようにショックを受けても何もおかしくはない。或いは、源吾郎たちのために冷静に取り繕っているだけなのだろうか。

 様子を窺うと、苅藻は目をすがめて源吾郎を見据えていた。怪訝そうな、そして若干の不機嫌さを滲ませた表情だった。

 

「源吾郎。その口ぶりじゃあ()()()()桐谷家の所業について知っているみたいだな? 俺の方が驚いた、と言いたいところだけれど、大方紅藤様にでも教えてもらったんだろうな」

 

 苅藻の鋭い指摘に、源吾郎は頷かざるを得なかった。桐谷家の所業について源吾郎は事細かに言い過ぎたのだ。それで却って源吾郎が知っている事に苅藻は気付いたようだった。

 

「ですが叔父上。叔父上は母上や他の叔父上と違ってその事は知らないと紅藤様は仰ってましたけれど」

「全く知らないと言えば言い過ぎになるけれど、何と言うか……自分事として知っている訳ではないと言われれば事実になるかな。両親や姉さんや兄貴たちがが糞ジジイや糞伯父連中と闘っていたその現場には、幸か不幸か俺は居合わせなかったんだからさ。でも話だけは聞いた事があったんだよ。姉さんとか兄貴たちからな」

「…………」

 

 源吾郎はしばらくの間無言だった。知らないと思っていた事を叔父の苅藻が知っていた事に、軽くショックを受けてもいたのだ。

 

「そう言う訳だから、俺の事は気にしないでくれ。犬神のやつに何か言われて、それでショックを受けたとかそんな事は無いからな。それに、誰かが躍起になって隠したがる後ろ暗い噂ほど、今回みたいに妙な塩梅に露呈してしまう事だってあるんだからな。今回は運が悪かったんだ。それだけだよ」

 

 苅藻の言葉を聞きながら、源吾郎は俯いてしまった。苅藻は多分鷹揚に笑っているだけなのだろう。そして雪羽がどんな表情でこちらを見ているのか、それが怖かった。もしかすると、拉致事件の主犯である蛇男とか犬神と同列だと思い始めているのかもしれない、と。

 

「島崎先輩」

 

 そんな風に思っている源吾郎の耳に、雪羽の声が入り込む。顔を上げて視線を向けると、雪羽は何とも言えない表情を浮かべていた。それでも気を遣っているらしく、源吾郎と目が合うと笑みをその顔に作ったのだ。

 

「俺の親族も……現当主とか雷園寺家の親族連中は糞ばっかりだって思ってましたけど、先輩の親戚にも糞みたいな輩がいたんですね」

 

 やっぱりそう思うよな。源吾郎がそう思っていると、雪羽があからさまに笑みを作った。ぎこちないものの、笑っている事を伝えようとしている。そんな笑顔だった。

 

「ですけど先輩、親とか親戚が糞でも、糞っぷりが子供とか孫に遺伝するなんて、俺はこれっぽっちっも思ってませんから。島崎先輩。俺だって雷園寺家の現当主はどうしようもない糞だって思ってますけれど、その息子の……俺の弟でもある時雨は糞なんかじゃないって思っているんですから……あいつが、あいつらが良い子なのは先輩もご存じですよね。だからその、俺は大丈夫です。その辺は気にしないんで」

「ありがとう、雷園寺君」

 

 身内の事になるとあからさまに糞とか言い出すよな雷園寺君は……そう思いつつも少しだけ元気を取り戻せたのも事実だった。



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幕間:白狐の悔悟と見つかりし希望

 市内某所。妖怪向けの総合病院のイヌ科妖怪専門病棟の一室に、その白狐は収容されていた。全身の毛が白い事を除けば、大きさもフォルムも通常のホンドギツネとほとんど変わらない。

 その白狐は、人間の成人男性が悠々と眠れるベッドの上に横たわっていた。腹部の毛は広範囲に刈り込まれ、薄ピンクの地肌が露わになっている。外科手術・縫合手術の名残であった。彼の首周りには、当然のように円錐形のエリザベスカラーも巻かれていた。動物扱いされている気がしてならない。エリザベスカラーを嫌がる獣妖怪や鳥妖怪は多いものの、医者によっては積極的に取り入れる者もいる事は事実なので致し方ない。元々彼は、動物だった者が後天的に妖怪化したという事が広く知られていたから尚更である。

 余談であるが、小柄な獣妖怪であっても人間用のベッドに寝かされるのは、回復した後に人型を取る事をも考慮しての事である。彼も一尾で獣上がりではあるものの……人型を取る事は出来ていた。妖力を消耗した現在はどうなのか解らないが。

 

 だが、それらの事柄について白狐はもはやどうでも良かったのだ。上司や半妖の術者から差し入れられた新聞の記事を眺め、そしてため息をつくだけだった。自分は本当に――取り返しのつかない事をしたのだと。

 事の発端は妻の死だった。人間の運転する車に撥ねられてこの世を去ったのだ。元より彼とて人間への復讐や死んだ妻の復活などと言った大それたことは考えていなかった。ただ遺骸が人間の手に渡ったと聞き、それを取り返したいと思っただけだった。妖怪によって死生観や弔い方は違うという。しかし彼も妻も動物としての狐だった。できれば土に還したいと思っていた。

 そのためにまずあの造形作家に近付いたのだが、彼の傍らには――

 あれは悪い夢だったのだ。白狐はかぶりを振った。

 それにしても妻の死の真相は衝撃的だった。妖怪であっても、車に撥ねられれば場合によっては死ぬ。だがそもそも妖怪は普通の動物に較べて格段に交通事故に遭う可能性は低い。何となれば人間よりも低いとも言われているのだから。

 それなのに、妖狐で稲荷の眷属だった妻は交通事故に遭った。しかしその事にもきちんと理由があった。彼女は人間の子供を庇い、身代わりになって車の餌食になったのだ。

 こんな話は無かろうと、白狐は思うのがやっとだった。妻は人間を助けるために生命をなげうったというのに、自分はその人間を傷つけていただけなのだから。しかも犬神に籠絡され、騙されてしまうとは。動物から不思議な力を得て妖怪になり、その上で神に仕えていたというのにこの体たらくとは。しかもあの場で死ぬ事もままならず、こうして生き恥を晒している。

――こうなっては死んだ方がマシではないか。ギリ、と白狐は牙をかみ合わせた。妻に会うにはその方が手っ取り早いだろう。だが死を望んだものはまず地獄に堕ちるとも言われている。元より自分は罪を犯した訳であるから……

 そんな風に考える白狐の思考を打ち切ったのは、控えめなドアのノック音だった。担当の看護師が、来客の旨を伝えたのだ。入室しても構わないと白狐はそっけなく言った。やって来るのは上司とか警邏の妖狐たちである。元より拒否権は無かったからだ。

 

 案の定、入出してきたのは上司だった。白狐が勤務していた、四星稲荷の狐宮司である。一尾や二尾ばかりが勤務する四星稲荷の狐たちの中で、彼は唯一の三尾だった。三尾と二尾の力量差は極めて大きいために、まとめ役・教育係として頼もしい存在でもあった。

 狐宮司は白狐に挨拶し、病室の様子をぐるりと一瞥していた。ほんのりと笑みを浮かべているが、全体的に物憂げな表情である。彼もまた、白狐が罪を犯した事に心を痛めているのだ。いや――面倒見の良い彼の事だ。末端とはいえ部下の苦悩に寄り添えなかった事を悔やんでいるのかもしれない。

 

「気分の方はどうだね?」

「……まあまあです。昨日と同じですよ」

 

 極刑の報せを持ってきてくれるのであれば晴れやかな気分になる所なのに。割と真剣にそう思っていた白狐であるが、その事は口にしなかった。君の罪科はそこまで重くないと、狐宮司に言い含められていたからだ。

 もちろん彼もお咎めなしと言う訳ではない。稲荷の眷属の座を剥奪されるのは当然の事として、妖力も多少は剥奪されるかもしれなかった。尻尾を抜くという処罰も妖狐の社会の中にはあるのだが、一尾である白狐にこの刑が科せられるのかどうかは解らない。

 

「宮司様。そちらの方は……?」

 

 今回の来訪は普段とは違っていた。狐宮司が一人の男を伴っていたのだ。おぼろげであるが見覚えのある顔だった。確かあの場に居合わせたような気がする。狐宮司と同じく三尾で、それでいて妙に人間臭い男だった。人間に接し過ぎて人間の匂いがまとわりついているのではない。内部から人間の匂いを放っているような、そんな漢だった。

 

「彼は術者の桐谷苅藻君だ。まぁその……玉藻御前の末裔でもあらせられるお方なのだけど、君の事でいくらか提案があるそうでね」

 

 狐宮司は渋い表情でツレの男を説明し始めた。玉藻御前の末裔である桐谷苅藻。白狐も彼の名前は聞いた事があった。半妖であり、父親が人間であるらしい事や、兄たちが関東や岡山と言った場所――殺生石が飛散した地だ――にある寺院や神社で働いているという事などを連鎖的に白狐は思い出したのだった。

 

「――彼が気を取り直してくれたのは良かったよ」

「いやはや、宮司殿にそう仰っていただいて何よりです」

 

 病棟の廊下を、三尾の妖狐と三尾の半妖が連れ立って歩いていた。先程白狐の見舞いを済ませ、その帰りの道中である。妖狐の方は四星稲荷の宮司であり、半妖の方はフリーの術者として働く桐谷苅藻だった。

 稲荷の眷属として罰を受けた後は、寺に入って亡くなった奥さんの菩提を弔えば良いのではないか。苅藻の提案はおよそそのような物だったのだ。ありていに言えば出家の提案である。苅藻の兄の一人は僧侶として活動しているし、そのつてを頼る事だって可能だと踏んでいたのだ。

 

「通常、仏門に出家した者は神職に戻る事は出来ないとも言われているが……我々稲荷の場合はその辺りの融通が利くからそう言う意味でも良かったと思っている」

「まぁ何と言いますか、狐の幸せはそれぞれの狐の中にありますからね。稲荷の眷属になろうと仏門に入ろうと、或いは野狐として暮らそうとも当狐《とうにん》が満足していたらそれで良いんではないですかね」

「いやはや、玉藻御前の末裔らしい言葉ですな……恐らく私の幸せは、稲荷神社の中にあるという事なのかもしれません。私はもとより、親兄弟も稲荷の眷属としての職務を果たしていますから」

 

 それはそうと、狐宮司は声のトーンを落として言い添えた。

 

「彼も現実を受け止めて前向きに進むきっかけが出来たのは良かったと思うよ。本当に今回はありがとう」

「いえいえ」

 

 そうした短いやり取りの後に、二人は黙り込んでしまった。

 罰を受けた後、白狐はその妻の菩提を弔う。それは彼の妻ではなく彼自身の安寧に繋がるのだと二人には解っていた。

 妖怪の世界でも死後の世界は明らかになっていない部分の方が多いのだから。転生する事が解っていたとしても、それを自身でコントロールする事、前世の意識を保有したまま転生する事などは凡百の妖怪には()()()()()。天界におわす神々ですら、自ら転生する時は記憶を失うという程だ。

 だからこそ、死せる者を見送るという行為は、やはり遺された者のためにあるという側面が妖怪たちの間でも強くなるのだ。



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閑話:年末妖怪物語
松ぼっくりは師走の報せ


 グラスタワー事件の巻き添えを喰らって以降、下半期は何かと事件や騒動に巻き込まれる日々が続いていた。源吾郎がそんな風に思えるのは、平和な日常という物が戻ってきているからだった。

 妖狐襲撃事件も色々あったものの丸く収まった。八頭怪が何かやらかさないか未だ警戒中であるが、少なくとも彼や他のトンチキな妖怪連中が源吾郎たちを襲い掛かってくる事も特にない。

 普段通りの日常は平和で、それこそが良い物だと源吾郎は思っていた。たとえ懐っこさを通り越してやや図々しくなったホップに、尻尾の毛をダイナミックに毟り取られたとしても。

 だからこそ、職場のオフィスに生じた小さな変化は、源吾郎にとって鮮明な驚きをもたらしてくれたのだ。

 

「おっ……」

 

 自分のデスクに向かった源吾郎は、今までなかったものがそこにあるのを発見したのだ。それは小さなクリスマスツリーだった。高さは十センチ足らずであり、濃い緑色に着色した松ぼっくりをツリーに見立てた物だった。飾りとして赤色や青色、或いは橙色や黄色いビーズがくっつけられてもあった。先端には星型の飾りも付けられていたし、根本もペットボトルの蓋を模様付きのマスキングテープでデコレーションした物となっており、中々に気合が入っていた。

 ツリーのミニチュアは、昨晩までデスクには無かった代物である。であれば何者かがこれを源吾郎のデスクに置いたのは明らかだ。よく見れば、右隣の雪羽のデスクにも、似たようなツリーが鎮座していた。主たる飾りのビーズの配色は異なっていたけれど。

 

「おはようございまーす、先輩」

「ら、雷園寺君か」

 

 ミニチュアツリーの存在に釘付けになっていた源吾郎の斜め後ろから雪羽はやって来た。既に白衣を着こんでおり、源吾郎よりも少し前に出社している事は明らかだった。萩尾丸は出社が早い事もあり、同居している雪羽も出社が早かった。

 雪羽は源吾郎とミニチュアツリーに視線を向け、にっこりと微笑んだ。含みの無い、全くもって子供らしい無邪気な笑顔である。

 

「先輩。飾っておいたミニツリーに気付いてくれたんですね。へへへ、どうです出来栄えは」

「やっぱりあのツリーを作って置いたのは君だったのか」

 

 トンチンカンな返しになってしまっただろうか。そう思いはしたが杞憂だった。雪羽は雷獣らしく細かい事を気にしない節も見受けられる。機嫌がいい時は一層その傾向が強かった。

 雪羽は笑顔のまま頷き、ミニツリーの作り主である事を認めた。

 

「もう十二月ですし、ちょっとクリスマスっぽい物でも用意しようと思いましてね……ちっちゃいんで場所も取らないですし、ちゃーんとクリスマスっぽさも出てますでしょ」

「ナイスだな雷園寺君。可愛いし綺麗だしクリスマスっぽいぜ」

 

 喜んでくれて良かった。笑みを深める雪羽から視線を外し、今一度ミニツリーをしげしげと眺めた。先程まではツリーの出現に気を取られてしまい、そのディティールまで観察していなかったのだ。

 じっくりと観察した源吾郎は思わず感嘆の息を漏らした。大した出来栄えだったからだ。ビーズの配置も同系色の色が一か所に偏らないように気を配っているようだ。また、ビーズは木工用の接着剤で固定しているのだろうが、その接着剤が必要以上にはみ出しているという事さえない。

 そしてツリーの頂点を飾る星であるが、これは驚くべき事に市販のビーズやスパンコールの類ではなかった。アルミホイルか金属色の色紙かは定かではないが、ともかくそうした物を星型に切りだして作ったものであるらしかった。星の直径は五ミリ足らずであるにもかかわらず、である。

 

「これ全部雷園寺君が作ったのか。凄いなぁ。手先が器用だって事は知ってたけど、まさかここまでとは……」

「言うて飾りのビーズは市販のやつだけどね。流石にそこまでは作れないからさ」

「そらそうやろ」

 

 源吾郎のツッコミに雪羽は笑い、源吾郎自身もつられて笑っていた。ビーズを作る発言には若干面食らってしまったが、考えてみれば手先の器用さを誇る彼らしい発言でもある。この手芸細工のみならず、手先の器用さを雪羽は仕事でも地味に発揮していたからだ。元より雪羽の字は綺麗だし、整理整頓や書類の扱いも上手だった。パンチ穴の開ける場所がズレる事も無いし、ホッチキスで綴じる時もそうだった。

 雷獣は空間を把握する能力に長けているらしいから、転じて整理整頓が上手と言うのもうなずける。しかしこうした細々とした作業を得意とするのは、種族の特性ではなく雪羽個人の気質ではないかと源吾郎は思ってもいた。

 

「でも先輩。島崎先輩の力を借りたらビーズとかガラス玉のお洒落なやつも作れるかなって思うんですよ。狐火とか使えばイケそうじゃないですか」

「……そりゃあまぁ俺の狐火ならガラスだって柔らかくなるだろうけどさ。ただ出力の問題があるんだよね。まだ何というか、ちっちゃくてそこそこ火力がある状態を維持するのが難しいんだよ。それなら素直にガスバーナーで炙った方が良さそうな気もするし」

 

 ガスバーナーはもちろん研究センターには常備されている。大学の研究室でも、火種を付けるのはマッチなどでは無くてチャッカマンなのよ、といつか鳥園寺さんは言っていた。もっとも、ビーズ造りなどでガスバーナーを使うのは良くないだろうが。

 

「ともかくありがとうな雷園寺君。俺、こういう可愛いの好きだからさ。それにもう十二月だし、クリスマスの季節だもんなぁ」

「先輩に喜んでくれて何よりだぜ」

 

 雪羽はそう言うと、にやりと改めて笑みを作った。先程まで笑っていた雪羽であるが、それまでの笑みとは異なっていた。何処となく含みのある笑みだったのだ。

 

「やっぱりさ、先輩も若いですしクリスマスは楽しみなんでしょ? 女の子たちだってクリスマスには色めき立ちますし……」

「やっぱり雷園寺君は雷園寺君やな。平常運転ぶりが確認できて安心したよ」

「言うて先輩だってクリスマスはテンション上がってたんじゃないんですかぁ?」

「そりゃあテンションは上がるだろうさ。イベントとかある訳だし、子供の頃はプレゼントとかが貰えたからそれが嬉しかったな」

 

 ついつい子供の頃の話まで持ち出してしまい、源吾郎は軽く後悔していた。先輩ってば子供っぽいですね~、と雪羽に言われるのではないかと思ったのである。雪羽の見た目は十代半ば程であり、実際精神年齢もそれくらいであるらしい。しかし実年齢で考えれば源吾郎の倍以上の年月を生きている。のみならず源吾郎の長兄よりも年上だった。

 立場的には源吾郎が先輩で多少兄ぶっても問題は無い。だが実際には雪羽の方が年長者ではあるのだ。紅藤たちは気にしていないのだが、源吾郎にしてみればその辺りが地味に引っかかる部分でもあった。雪羽も多分気にしているからこそ、時折年長者ムーブを源吾郎にかますのかもしれない。

 そんな風に多少身構えていた源吾郎であったが、雪羽は源吾郎を子供っぽいと評する事は無かった。むしろ毒気の抜けたような表情で源吾郎を見つめ返しているだけだった。

 

「そうだよな……子供ってやっぱりクリスマスプレゼントは喜ぶよな。俺もちっちゃい時は嬉しかったし、弟妹達も喜んでくれたらって思ってるんだ」

 

 聞けば雪羽は、お年玉のみならずクリスマスプレゼントも弟妹達に用意しようと画策しているらしい。クリスマスプレゼントに関しては、値の張るものはちょっと厳しいので、それこそミニツリーとかになるかもしれないそうだが。

 やっぱり雷園寺は兄なんだな。源吾郎は半ば驚き、半ば納得した気分で雪羽を見つめ返していた。年長の兄が弟妹達にお小遣いやお年玉等々を用意する事は源吾郎も良く知っている。兄たち(特に長兄)がそうだったからだ。雪羽は弟妹達への情に深い所がある事も解っていた。

 しかし雪羽の弟妹はたくさんいるし、その上弟妹達の歳もかなり近い。それでも弟妹達に何かしてあげようとする雪羽の姿を前に、源吾郎は感慨にふけっていた。やっぱり兄はそういう物なのだな、と。

 源吾郎には弟妹はおらず、従って兄と言う立場になった事は無い。それでも兄の性や習性は良く知っていた。



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唐突! 妖怪たちのクリスマス談義

 雪羽がこっそり飾ったミニツリーに関しては、その存在は萩尾丸たち上司に容認される事となった。流石に萩尾丸や紅藤のデスクにもミニツリーを飾るなどと言う事をしでかした訳ではない。それでも飾っておいて問題は無いか、雪羽はわざわざ萩尾丸に尋ねたらしかった。

 そうした事柄まで子供のように素直に尋ねていたという雪羽の姿に、源吾郎は少しだけ驚いてもいた。ミニツリーは小さいし彼の事だから、何食わぬ顔で飾っていても良いかと思うのでは……と源吾郎は考えていたのだ。

 

「良いよそれくらい。君らみたいな若い子にしてみれば、クリスマスも一大イベントの一つになるみたいだからねぇ」

 

 萩尾丸の言はおよそこのような物だった。こちらを見てニヤニヤしている部分も含めて彼らしい言い草だと源吾郎は思った。

 日本に在住する妖怪であるからと言って、日本の慣習のみに捉えられている訳ではないのは当然の話だ。ハロウィンだのクリスマスだのと言った欧米由来の文化もまた、妖怪たちは一応受け入れてはいる。ただ、世代によって温度差が違う訳なのだが。

 妖怪たちの間でも、人間同様「若い」「年寄り」と言った概念があるのは言うまでもない。但し、人間とは想像もつかない年数の単位でもって仕切られているのだが。何せ首都と聞いて何処を連想するかによって、若いのか大人なのか判断する妖怪さえいるのだから。その基準で行けば、()()()()以降に生まれた妖怪たちはことごとく若者に振り分けられてしまうのだ。

 

「今年はクリスマスが土日に重なるみたいだから、島崎君たちもわざわざ有給を消費しなくても良さそうだね。ふふふ、特に雷園寺君は三國君の所に戻るから、家族水入らずでクリスマスを過ごせるだろうし。良いクリスマスの過ごし方じゃないか」

 

 さも愉快そうな萩尾丸の言葉に源吾郎はぼんやりと頷く。クリスマスが男女のくっつく一大デートイベントと化しているのはあくまでも日本の風潮に過ぎず、欧米ではむしろ家族で過ごす事が多い。高校生か中学生だった頃に、そんな話を聞いたのを源吾郎は思い出していた。

 なお源吾郎の場合、クリスマスは家族からプレゼントをもらうだとか、平日ならば部活の面々でちょっとしたクリスマス会を開くだとか、そんな風にクリスマスを過ごしてきた。部活の仲間には女子も多くいたが、仲間意識が強かったために却って互いに恋愛感情が絡む事は絶無だった。

 まぁ色事とかは雷園寺の方が豊富だろうな……若干の諦観と羨望の念を抱えながら、源吾郎はちらと雪羽を見やった。萩尾丸の言葉に思う所があったらしく、雪羽は気恥ずかしそうな笑みを静かに浮かべている。

 そんな雪羽の気持ちを知ってか知らずか、萩尾丸は言い添えた。

 

「二人はそれぞれ()()()クリスマスを過ごしてくれると思っているけれど、くれぐれも羽目を外さないように気を付けたまえ。人間たちもそうかもしれないが、妖怪たちも結構年末年始に摘発されたり捕縛されちゃう子が出てきちゃうから。まぁクリスマスとか忘年会で気が大きくなってやらかしたり、お酒の席でのトラブルだったりするみたいなんだけどね」

 

 とはいえ、二人ともお酒絡みのトラブルは大丈夫だろうね。萩尾丸の言葉に源吾郎は思わず首をひねった。源吾郎が酒のトラブルを誘発しない事は解りきっている。そもそも未成年だから飲酒は出来ないし、源吾郎自身も飲酒などするつもりもない。ところが雪羽は違う。妖怪も未成年の飲酒が規制されているのかどうかは解らない。だが、雪羽が酒の席でやらかした事は源吾郎も知っている。ウェイトレス・宮坂京子として働いていた源吾郎に絡んだ挙句、幹部たち揃い踏みのグラスタワー事件を引き起こした元凶は雪羽その妖《ひと》なのだから。と言うかその事件で、酒絡みのトラブルがあったために、雪羽は保護者から引き離され、萩尾丸の許で再教育を受けている訳であるし。

 その事を知っているはずの萩尾丸が大丈夫と言い切るのは何故だろうか。それが源吾郎には謎だった。もっとも、当事者である雪羽もまた不思議そうな表情を浮かべている。

 

「雷園寺君。君も護身用に紅藤様が手ずからお作りになった護符を身に着けているでしょ? あれにはちょっとした細工を施してあって、君はお酒を摂取できないようにしてあるんだよ」

「そうなんですか!」

 

 雪羽は驚愕のあまり目を丸くしていた。身に着けている護符の、お酒を飲めないようにしているという細工については、雪羽は今の今まで知らなかったらしい。源吾郎も初めて知った事柄である。と言うよりも、萩尾丸は屋敷に雪羽を住まわせるにあたり、妖術で所持しているお酒を見つけ出せないようにしているとも言っていなかっただろうか。

 それにしても用意周到な所は紅藤や萩尾丸らしい気がする。妙に納得していると、にこやかな笑みをたたえながら萩尾丸は言い足した。

 

「何、そんなに難しいからくりじゃあないんだ。雷園寺君が飲もうとしたお酒は、そのままお酢になるってだけだからね。中間物質を口にしないようにその辺は調整して下さっているから安心したまえ」

「そんな、お酢なんて苦手ですよ……」

 

 雪羽は注射を嫌がる猫のような表情で小刻みに首を振っていた。護符の作成に携わったのは紅藤であろうが、飲酒防止の機構を考えたのは萩尾丸に違いないな、多分これも雷園寺に対する懲罰の一種なのかもしれないが、色々と的確で恐ろしいからくりではないか。そんな考えが源吾郎の脳裏に浮かんでは消えたのだった。

 獣妖怪は酸っぱいのは苦手だもんねぇ。他人事のように萩尾丸は言うと、やや厚手のパンフレットを源吾郎たちに差し出した。クリスマスケーキのカタログだった。カタログなのにページ数がかさむのは、妖怪向けのケーキだからなのだろう。

 

「ほら、口直しにこのカタログでもご覧。工場棟に食堂が入っているでしょ。そこに料理を仕入れている工場がケーキを割安で販売してくれているんだ。

 妖怪向けの料理だから、二人とも安心して食べれるはずだから、気に入ったのがあれば注文すると良いよ」

 

 妖怪向けの料理。何も知らない人間がその言葉を聞けば身構える者もいるだろう。しかし実際には味や脂肪分が薄めになっているだけであったり、チョコレートや柑橘類、或いはレーズンなどの危険な食材を使わずに仕立てているという意味に過ぎない。やたらと血生臭いとか、人肉が入っているなどと言うありがちなホラー漫画のような代物ではないのでその辺りは安心である。

 さてカタログを受け取った源吾郎と雪羽は、二人で仲良くカタログを見る事となった。雪羽は猫用のケーキはちらと見るだけで、特に関心を寄せている風ではなかった。

 

「おや雷園寺君。猫用のケーキはそんなに興味ないの?」

「うーん。確かに俺や時雨たちは猫っぽい姿かもしれないけどさ、猫じゃなくて雷獣なんだよ。身体の作りとか食べ物の好みとかは猫とは違うんだよ。俺たちは甘いものは好きだけど、猫はそもそも甘みは感じないらしいし」

「あ、確かに……」

 

 真顔で淡々と告げる雪羽を見て、源吾郎は静かに納得してもいた。猫が甘みを感じないという話も、源吾郎は一応知っていた。それに雪羽の本来の姿は猫に似た所もあるが、爪の構造や食べ物の嗜好などの仔細な部分は確かに異なっている。雪羽は実は生魚や完全に火が通っていない肉類は苦手だった。これは獲物や食料に雷撃を加える習性のある雷獣の特徴の一つでもあるらしい。そんな雷獣の中でも雪羽は特に生モノが苦手らしいのだが、それは育ってきた環境によるところもあるようだ。

 そんな事を思っていると、雪羽はやにわに笑みを見せた。

 

「それにさ、猫用だったら猫缶とかの方が美味しいんだよ。ホームセンターとかでも手頃な値段で売ってるしさ。うん、あれはお酒のお供に丁度良かったぜ」

「言うてそこでお酒の話になるんかよ。雷園寺君らしいな全く!」

「ま、まぁ最近じゃなくて昔の話だから、な。先輩まで堅物みたいな話をしなくて良いでしょうに」

 

 源吾郎が思わずツッコミを入れると、雪羽はそう言ってから朗らかに笑った。カタログを渡した所で萩尾丸も立ち去っていたので、源吾郎たちは気兼ねせず笑い合えたのだ。

 今日の雪羽はいつもより陽気だった。それはきっと、午後から叔父の三國がこの研究センターに挨拶に来るからなのだろう。笑いながら源吾郎はそう思っていた。



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妖怪の仔と半妖の出自

 雪羽の叔父である三國は、予定通り午後に研究センターにやってきた。それも午前二時を回ろうという時間帯にである。丁度良いタイミングに来てくださったものだと、源吾郎は密かに思っていた。午後一時であれば昼休憩が明けて間がない時間帯であるし、三時頃であれば中休みの時間に重なるからだ。

 とはいえ、その辺の時間管理を三國が調整して行ったのかどうかは定かではないが。

 

「紅藤様に萩尾丸さん。今年は僕も甥も何かとお世話になりました」

 

 側近や部下である春嵐や堀川さんを従えた三國は、萩尾丸たちに深々と頭を下げている。責任を伴った、ビジネスマンらしい態度だった。そんな三國の姿を、ある種の感慨を抱きながら源吾郎は見つめていた。今まで見た中でも、今見せている三國の姿は余りにも穏やかで大人びたものだったのだ。

 雪羽の話や実際に三國本人に相対した時の挙動のために、三國は荒々しくて怒りっぽい妖怪と言うイメージが憑きまとっていたのである。

 

「三國君。あなたも年末と言う事で忙しいでしょうに、挨拶に来てくれてありがとうね」

「とんでもありません。これから忙しくなるからこそ、挨拶が必要だと思ってこちらに参りましたので」

 

 静かに微笑む紅藤に対し、三國はそう言って明るい笑みを見せていた。その間に春嵐が焼き菓子の包みらしきものを青松丸に渡している。焼き菓子だと解ったのは、包装紙のロゴと源吾郎の嗅覚によるものだ。

 

「三國君。君の所も今年は色々とごたついて大変だっただろう。雷園寺君の、雷園寺家の一件もそうだけど、よく頑張ったと僕は思ってるよ」

 

 やや気取った、それでいて優しさをにじませた声音で告げるのは萩尾丸だった。褒められて何処か居心地の悪そうな三國に対し、萩尾丸は更に言葉を重ねる。

 

「――して、奥方どのの具合はどうかな?」

 

 奥方どの。その言葉に三國はツレの妖怪二人と一瞬互いに顔を見合わせていた。どうしたのだろうか。まさか月華さんに何かあったのだろうか? 他妖事《ひとごと》ながらも、源吾郎は少しだけ心配になってしまった。

 

「月華は……いえ妻もそろそろ出産が近いので、きちんと静養しております」

 

 そう告げる三國の表情は明るく、源吾郎もそれを見てホッとしていた。隣では何かを察した雪羽が、ニヤニヤしながらこちらを見ているではないか。

 

「医者《せんせい》によりますと、子供たち――双子らしいんです――も順調に育っているとの事ですね。妖力も多すぎず少なすぎずって所ですし、妻自身もすこぶる元気ですから。ええ、もう少ししたら緑樹様の部下が運営している産院に入院する予定です」

 

 三國は照れながら、しかし明るく晴れやかな表情で今の状況を伝えてくれた。源吾郎は三國が妖力について言及した所に少々の興味と疑問を抱いていた。話の流れからして、月華のお腹の仔の妖力についての話であろう。しかし少ない場合はさておき多くとも問題になると、案に告げていたのが気になった。

 源吾郎は妖怪の血を引いているし、妖怪としての自我を具えている。だが実態は人間として育てられた半妖なのだ。妖怪の事はもちろん知っているし勉強している最中でもある。しかし妖怪の生態の細々とした部分は、知らなかったりうろ覚えの部分もまだまだあったのだ。

 三國はそれから、雪羽は自分たち一家の年末の動きについてもさらりと触れた。雪羽はあの事件をきっかけに、雷園寺家の子息と見做され()()()次期当主候補となっていた。次期当主候補であるから本家とのつながりももちろんできたのだが、今回は年末年始に本家に戻る必要はないとの事であった。

 雷園寺家がらみの事件が解決した後に叔父と共に本家を訪れたのがつい最近の事であるし、何より雪羽の叔母に当たる月華の身を慮っての事だそうだ。

 もっとも、雷園寺家本家自体も事件のあおりを受けて色々とごたついているだろうから、年末年始と言えども呑気に来客を迎え入れられる状況ではないのかもしれないが。

 

 雪羽は年末に僕の家に戻る事になりますが。三國は息子同然に――実際養子として引き取っているので、手続き上は息子なのだ――扱っている雪羽を見やりながら言い足した。

 

「その間、僕らも妻や産まれてくる仔にかかりきりになってしまうと思うんですね。それで、今年の年末は姉が一人僕の家に来てくれるって事になっています」

「叔父貴の姉さんって……天姉さんだったっけ」

 

 三國に問いかけたのは雪羽その妖《ひと》だった。叔母が年末にやって来るというのは雪羽も前もって聞かされた話なのだろう。しかしそれでも、その顔には若干の疑問の色が浮かんでいた。三國と兄姉たちの関係性を思えば無理からぬ話ではある。

 

「姉さん、じゃなくて叔母さんな。あくまでも俺と天姉さんは姉弟だから、俺は姉さんって呼んでるだけだよ。優しい天姉さんの事だ、お前にとやかくいう事は無いだろうが、年下の甥に気安く扱われたと思って気を悪くしてもかなわんからな」

 

 納得しているとはいいがたい、微妙な表情の雪羽をそのままに、三國は言葉を続けた。天姉さんと呼んだ妖物は、三國の六番目の姉なのだそうだ。十人前後いる兄姉たちの中でも、一番三國に年の近い姉との事だった。それでも三十歳くらいは離れているそうだが。

 

「末の姉で年が近くて割と交流もありましたし、何より比較的穏やかな性格でもありますからね。フリーのSE(システム・エンジニア)として働いている事もあって、自炊にも慣れてますし……姉が来て食事の用意もしてくれるのなら雪羽も安心できるんじゃないかなと思いまして」

「天ねえ……天叔母さんって穏やかな妖《ひと》なの? 前にチラッと見たけどさ、めっちゃバリキャリって感じだったけど」

「それはまぁ仕事での顔だろう。オフィスでは辣腕でプライベートはほんわかキャラなんてのは雷獣あるあるだぜ我が甥よ」

「それにしても三國さん。三國さんも、ご兄姉たちと和解なさったんですね」

 

 兄姉たちと和解。屈託のない、朴訥な様子でそう言ったのは青松丸だった。三國はぎょっとしたような表情を浮かべ、青松丸と紅藤とを交互に眺めていた。青松丸自身は、妖怪的にも職場の身分的にもそう目立つ妖物《じんぶつ》ではない。

 そんな青松丸はしかし、第二幹部たる紅藤の息子とであり、その上頭目の半兄でもあった。研究センター勤めである為に、半弟である胡琉安《こりゅうあん》と頻繁に会っている訳ではない。しかし不仲であるという噂は聞かないから、互いに兄弟として良好な関係を築いているのだろう。

 二代にわたって兄弟間でのごたつきを目の当たりにし、時に渦中の妖物となっている三國がうろたえるのも、無理からぬ話だった。

 ま、まぁアレですよ。三國は視線を泳がせながら呟いた。

 

「まだ完全に和解したというのは難しい所はあるにはあります。ですがもう、大の大人が変な事で意地を張っていがみ合っている場合ではないと、僕も兄姉たちも思い知らされましたからね。

 それに僕たちももはや、雷園寺家や兄姉たちと絶縁した状態を維持するなんて事は出来ませんし、ちょっとずつ兄姉や他の甥姪たちとも交流しないとと思っている所なんですよ。末の姉も丁度僕の家の事を心配していましたし、それに彼女はあんまり雷園寺家の事にも関与していないんで、却って頼りやすいんですよ、現時点では」

 

 三國はそれから兄姉だという雷獣たちの名をいくつか挙げ、雷園寺家との関りに少しだけ触れていた。三國の長兄は雷園寺家の現当主に据えられている事に変わりはないが、他の兄姉たちの思惑自体はバラバラであるという事を、源吾郎はこの時知った。もちろん雷園寺家にすり寄ろうとする者や、正式な次期当主である時雨をプッシュする者もいるらしい。だが少なくとも一枚岩ではないらしい。

 前に誰も雪羽を引き取ろうとしなかったという話を三國から聞かされていた源吾郎であるが、その時の印象とは大分違っていた気がした。

 

「赤ちゃんの妖力が多いと何が問題か、だって?」

 

 夕方。就業時間が終わってから、源吾郎と雪羽はあれやこれやと世間話をしていたのだ。と言うよりも、今回は雪羽が年末年始の過ごし方について源吾郎に熱心に話していたという方が正しいかもしれない。これまでにも年末年始の過ごし方については二人の間で話題に上る事はあった。しかし、三國が直接家の事に言及したので、改めて考えたくなったのかもしれなかった。

 源吾郎はそこで、妖怪である雪羽にあの質問をぶつけたのだ。

 さて質問を受け取った雪羽と言うと、そんな事を今更聞くのかと言いたげな表情を見せていた。吹き出しかけてさえいたくらいである。妖力の多い子供が生まれる時に起こる問題と言うのは、割と妖怪社会では当たり前の事なのだろうか。ほんの少しだけ源吾郎は恥ずかしくなってしまった。

 思っていた事が顔に出たらしく、雪羽は申し訳なさそうな表情を見せて解説を始めてくれた。

 

「簡単な話ですよ島崎先輩。俺ら妖怪の持つ妖力は生命力みたいなものって言うのはご存じですよね? お腹の中の赤ちゃんの場合、妖力は母親から供給されているんですよ。赤ちゃんに母体の妖力が吸い取られているって言い換える事もできるんですよ。

 赤ちゃんの妖力が多ければ、その分吸い取られる妖力も多いって事でして、母親の負担も大きいって事になりますね」

「そうか……ありがとう雷園寺君。よく解ったよ」

 

 お腹の仔に生命力である妖力が吸い取られる。それは本当に大変な事だと、源吾郎は心の底から思っていた。源吾郎も雪羽も男の身であるから、仔を産む事はまずない。だからこそ色々と想像をたくましくし、大変な事だと受け止めてもいた。

 神妙な面持ちの源吾郎に対し、雪羽は澄ました表情を浮かべた。

 

「もっとも、月姉も叔父貴と同じくらい妖力を持ってらっしゃいますし、お腹の仔の妖力量もまぁ普通らしいんで、そんなに心配は要らないんですがね」

 

 雪羽はここで月華たちの話から離れ、生まれつきの妖怪の強さについて解説を始めた。妖力の強さは親や親族たちの遺伝であるのだが、生まれて間もない頃の妖力の多寡は、母親の妖力の多寡と関連性が高いという事だった。

 

「もちろん赤ん坊の頃だから、妖力の多さと言ってもべらぼうに差がある訳じゃないさ。お狐様にしろ雷獣にしろ、十歳未満で()()()()()()()()()で大騒ぎになるくらいなんだぜ。生まれてすぐ八尾や九尾が生まれる事は流石に無いよ。

 でもさ、それでも二尾とかすぐに二尾になる仔が産めるって事は、それだけ妖力を吸い取られても平気って言う指標にもなるんだよ」

「…………」

 

 赤ん坊の時の妖力差という物も興味深い話だった。生まれてすぐの個体で九尾が出現するのは有り得ない。そう断じる雪羽の言葉には奇妙な説得力も伴っていた。何せ()()で生まれた源吾郎ですら、こんな仔は滅多に生まれないと言われたくらいなのだから。雪羽は何尾で生まれたのかは知らないが、少なくとも三國に引き取られた時には既に二尾だったらしい。

 そして雪羽にしろ源吾郎にしろ、周囲から年齢不相応の妖力の持ち主だと思われてもいた。

 

「ですから島崎先輩。男妖怪……特に俺らみたく強い力を持つ男妖怪は結婚相手に注意しないといけないんですよ。妖力の少ない女妖怪と結婚してしまったら、相手に負担をかける可能性もある訳ですからね。何せ強い仔を産めるかどうかは母親の健康状態に委ねられますが、強い仔になるかどうかは父親の血も関係していますから」

「結婚て……何か急に重い話なったな」

「そりゃあ重いとも。血を繋ぐのは貴族の責務なんだからさ。そういう先輩だって、玉藻御前の一族を先輩の代で終わらせるつもりじゃあないんでしょう?」

 

 雪羽の眼差しの鋭さに気圧され、源吾郎は思わず黙り込んでしまった。ドスケベで女遊びが好きだった雪羽であるが、実の所結婚や家庭を持つという点については割と真面目に考えている節があった。そうでなければ血を繋ぐのは貴族の責務、などと言う言葉は出てこないだろう。

 一方の源吾郎は、まだそこまで考えてはいなかった。社会妖一年目と言う事もあるし、学生気分も抜けきっていなかった。力と地位を持てば女の子が寄ってくるかもしれないと安直に思っている節もあった。

 その辺りは実家に帰ってじっくり考えよう。源吾郎はゆっくりと瞬きをしながらそう思っていた。考えてみれば、自分が三尾として産まれたという所も不思議な話である。何せ二尾しか具えていない母から三尾の仔が産まれたのだ。源吾郎を産んだ事で母も消耗し、数か月ほど育児の傍ら静養していたという話もあるが、その辺の話は源吾郎の知らない事柄もまだまだあるはずだ。何せ当時の源吾郎は赤ん坊で、その頃の記憶はなかったのだから。



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小鳥のお宿は何処にある

 十二月二十四日。クリスマスイブと言う事でまぁ大半の日本国民(妖怪含む)が浮かれるとされるこの日、源吾郎は地元民と共に妖怪向け公民館に集まっていた。地元のキッズ向けのクリスマス会に地域住民として参加していたのだ。

 こうしたイベントについては、源吾郎自身も参加する事に意味があると十二分に心得ていた。対外的にも野望を持つ若妖怪である事は知られている。紅藤や萩尾丸の庇護があるのは事実だが、だからと言って地域妖怪との交流を蔑ろにしていいという事ではない。ましてや、この土地のお偉方(妖怪)の多くは、源吾郎の叔父や叔母と面識があるのだから。

 そんな社会的思惑はさておき、クリスマス会自体は中々に楽しい物だった。仕事中は会う事の無い子供妖怪らとも交流できたし、地元の面々が集まってワイワイ楽しむ空気は、源吾郎にも伝わっていたからだ。

 惜しむらくは、同年代の若者、特に若い妖狐の出席者が少なかった事であろうか。源吾郎は実は、同年代の同族たちとさほど交流していない事を気にし始めてもいたのだ。別に雪羽と一緒にいる事に不満がある訳ではない。だが――ふとした折に二尾である白河先輩の言葉と眼差しを思い出してしまうのだ。

 年末は数日ばかり実家に戻るし、職場では研究センターの面々に囲まれる日々だ。そうなるとこうした休日こそが、同族たる妖狐たちとの交流のチャンスだと源吾郎は意気込んでしまったのである。

 まぁ恐らくは日が悪かったのだろう。源吾郎はそう思う事にした。何せクリスマスイブである。近所に住む文明狐もクリスマスで浮かれていたみたいだし、他の若妖狐も大体そんな感じだろう。

 と言うか源吾郎だって、あわよくば米田さんに会いに行こう……などと言う下心を持っていたくらいである。米田さんの方が忙しくて都合がつかないという事だったので、その辺はうやむやになってしまったが。

 

「島崎君もお疲れさまー」

 

 参加者に配られたクリーム饅頭(ちなみに源吾郎の饅頭は妖狐用である。人間には人間ようが配られていた)を眺めていると、鳥園寺さんが気さくな笑みを浮かべながらこちらにやってきた。その傍らには、彼女の使い魔であるアレイも控えている。鳥園寺さんも源吾郎同様、クリスマス会に出席した数少ない若者の一人だった。もっとも、鳥園寺さんは単独ではなく、婚約者である柳澤と一緒だったのだけど。

 しばらくぶりね。そう言ってこちらを見つめる鳥園寺さんの笑顔は、屈託のない少女のそれに見えてならなかった。源吾郎よりも四、五歳ばかり年上ではあるのだが、おっとりふんわりしたお嬢様と言う雰囲気が彼女を若々しく見せていた。

 

「同じ敷地で働いているけれど、何か最近はお互いに話をしたり、顔を合わせる機会がめっきり減っちゃったわよね。だから、島崎君を見たらなんか懐かしくなっちゃった」

「お嬢と島崎どのは同じ敷地で働いていると言えども、部署や職種が全く違うではないか。接点が薄くなるのは致し方なかろう」

 

 妙に懐かしがる鳥園寺さんに対し、アレイが静かに指摘を入れている。とはいえ確かに鳥園寺さんと面と向かうのは久しぶりの事だと源吾郎も思っていた。別に疎遠になっていた訳ではないのだが。

 

「それに僕も、職場の方で色々と立て込んでましたからね」

「立て込んでいたって言うか、何か物騒な事件もあったもんねぇ」

「……ええ。あれには本当に困りましたよ。無事に……無事に解決したのが不幸中の幸いですが」

 

 感慨深げに呟く鳥園寺さんに対し、源吾郎もひっそりとした口調で応じた。物騒な事件と言うのは雷園寺家の事件であろう。多くを語らず追求しなかったが、源吾郎はそのように解釈していた。解決までは秘匿されていた事件ではあったものの、名家の子女が狙われたという大事件である。妖怪の社会に関わりつつある鳥園寺さんが知っていても何らおかしな話ではない。

 

「島崎君。そう言えば今日は島崎君一人なんだね。この頃いっつも雷園寺君と一緒にいるイメージがあったから」

 

 雷園寺君といっつも一緒ですか。話題の変わった鳥園寺さんの言葉を、源吾郎は思わず反芻していた。雪羽とは何かと行動を共にする事が多くなっていたのは自覚していたが、面と向かって言われると何となくむず痒い。

 

「まぁ彼は吉崎町じゃなくて神戸に住んでますからね。休みの日は実家と言うか叔父の家に戻っているんで、わざわざこっちに出向く事は無いですね。吉崎町は田舎なんで」

「島崎君ったら、言うじゃないの」

 

 唐突な源吾郎の田舎発言に、鳥園寺さんは面白そうに笑っていた。源吾郎の出身は白鷺城の膝元である。港町を擁するエリアから見れば田舎扱いされる場所なのかもしれないが、それでもあの周辺はきちんと栄えている。源吾郎はそのように思っていた。

 

「ともあれ雷園寺君も年末年始は忙しいですからね。今日も多分、叔父の家で色々と張り切っているのが目に浮かびますよ」

「やっぱり島崎君と雷園寺君って仲が良いのね」

「……そうですね」

 

 鳥園寺さんのしっとりとした言葉に、源吾郎はゆっくりと息を吐きながら頷いた。雷園寺君と仲が良い。その言葉を噛み締めながら色々と思いを巡らせていたのだ。雪羽と和解し仲良くなった事そのものは良い事だと源吾郎も思っている。しかしそこに至るまでの道のりは思いがけぬほどに短かかった事に驚いてもいた。グラスタワー事件から始まり、戦闘訓練や八頭怪の謀略や雷園寺家の事件やらがあったものの、雪羽とは出会ってまだ四ヶ月ほどしか経っていないのだから。内気な若者であれば、クラスの中に気心の知れた仲間を未だに作れないほどの月日でしかない。

 しかも出会ったきっかけや第一印象は互いに最悪か、それに準じるものですらあった。その事を思うと、雪羽とあそこまで親しくなれたのも不思議な物だった。まぁ、源吾郎としても自分を畏れず色々な意味で正面からぶつかり、またこちらがぶつかって来るのを受け止められる相手が出来た事は僥倖だったのだが。

 

「それはさておき島崎君。私ね、島崎君にちょっと確認したい事があるのよ」

 

 さて鳥園寺さんはと言うと、若干真面目な表情になって源吾郎の顔を覗き込んだ。確認したい事って何だろうか。彼女の真面目な気持ちが伝染し、源吾郎もまた真顔になった。喉の渇きを感じ、思わず生唾を飲む。

 

「……確認したい事ですか?」

 

 そんなに畏まらないで。私と島崎君の仲でしょ。どういう間柄かは思い浮かばなかったが、鳥園寺さんはにわかに相好を崩した。ホップの事が気になったのだと、鳥園寺さんははっきりと言った。

 

「もう年末でしょ。島崎君だってこの休みに実家に戻るでしょうから、その時にホップちゃんはどうするのかなって、ちょっと心配だったのよ」

「そういう事だったんですね」

 

 心配そうな表情を見せる鳥園寺さんに対し、源吾郎はちょっとだけ安堵していた。彼女が何を心配しているのか解かったためだ。それとともに、いかにも鳥園寺さんらしい心配事だとも思った。ついでに言えば源吾郎がこの年末に実家に戻る事が決定事項であるような物言いも何となく面白い。研究センターの面々も雪羽もやはり、源吾郎が年末は実家に戻るだろうと思っているらしかった。実際実家に戻るつもりなのだが。

 

「……ホップはこの際留守番させようかと思っているんです」

 

 源吾郎はゆっくりと返答した。年末の動きについて実はまだ詳しく考えていた訳ではない。それを悟られるのが気恥ずかしくて、だから考えながらしゃべっていた。

 演劇部に所属していたために、こうして日々のシーンで演じるのも源吾郎は得意なのだ。

 

「ホップを連れて実家に戻るのは難しそうですからね。長旅の上に冬場ですし、弱ってしまっては大事だと思いまして」

「そこは島崎君の言うとおりだと思うわ。十姉妹は比較的寒さに強い種類になるけれど、ホップちゃんにとっては初めての冬でしょ? やっぱり若鳥とか老鳥は暑さ寒さに弱いからね。

 それに、電車やバスで長時間移動する事そのものもストレスになるでしょうし……」

 

 そうですよね。源吾郎はまたも頷いた。脳裏には、ホップを連れて廣川千絵の部屋を訪れた時の事が浮かんでいた。ホップは大人しくキャリーケースの中でじっとしていた気がする。言われてみれば見知らぬ場所や環境下に警戒し、若干怖がっていたようにも思えてならなかった。

 

「でもね島崎君。まだ島崎君の考えは()()と思うのよ。

 年末にホップちゃんをお留守番させるって言ってたけれど、実家には()()()()滞在するつもりなのかしら?」

「長くても二泊三日ですね。何なら一泊二日でも良いかなって思ってるくらいです」

 

 その考えが甘いのよ。鳥園寺さんは軽く目を伏せてから言い切った。源吾郎の場合、ひとたび実家に戻ったら二泊三日の()()滞在では済まないだろうと鳥園寺さんは言い切ったのだ。年末年始で三が日があるのもさることながら、源吾郎が末っ子である事もまた大きいのだと鳥園寺さんは力説した。或いは、島崎君は兄姉たちの説得を振り切って自分のねぐらに舞い戻る事が出来るのか、と。

 

「島崎君の所は末っ子だし、しかもご両親から見たら大分歳の離れた子供になるんだから……年末年始に三が日の大事なひとときを、小鳥ちゃん()()()で早々に実家を離れるなんて事は、島崎君のご家族は承知しないと思うのよ。

 多分そんなこんなで五、六日くらいは島崎君も実家に滞在する事になっちゃうと私は思うのよ。だからその間、ホップちゃんは何処かに預けていた方が良いわ」

「やっぱり何処かに預けないといけませんよね……」

 

 ホップを置いたまま五、六日家を空けても大丈夫か。そのような愚問を源吾郎が口にする事は無かった。小鳥は絶食に極めて弱い。一日餌を与え忘れただけでも餓死するのだ。二泊三日と言うのも、そう言った意味では危ない橋を渡るような物であろう。もちろん餌も清潔な水も多めに用意する事にはなるが、飼い主が不在なので何が起こるかも判らない訳であるし。

 

「……俺の場合、家を空けないといけない時はペットホテルを利用しているんだ」

 

 源吾郎の呟きに応じたのは術者の柳澤だった。先程まで誰かと話し込んでいたようだが、それが終わったので鳥園寺さんの許に戻って来たらしい。悠斗さん! 鳥園寺さんは妙に甘い声を出して彼の許ににじり寄る。柳澤はそんな鳥園寺さんの背中や肩をそっと撫でていた。どちらも満更でもない様子で、実に幸せそうだった。

 

「ちなみにこの年末休みもマリンは行きつけのペットホテルに預かってもらう予定なんだ。マリンには悪いが、俺たちも年末年始は忙しいから……」

「ペットホテルですか。僕も相談したほうが良いですかね」

 

 ペットホテルに小鳥を預ける。先程まで思い浮かばなかった案だった。ペットホテルで預かるのは犬や猫ばかりと言ったステロタイプが源吾郎の中にあったからなのかもしれない。

 ところが、鳥園寺さんと柳澤は互いに顔を見合わせ、それからゆっくりとかぶりを振った。

 

「島崎君。誠に残念ながら、今から年末の予約を取るのは難しいと思うんだ。と言うかもう予約が埋まっているはずだよ。俺とて十二月の頭に予約を入れたけれど、もう少し遅かったら予約が埋まっていたって言われたからね。

 それに、小鳥自身の健康診断書が必要な所もあるから、動物病院の診断書が無かったら難しいかもしれないよ」

「島崎君。そもそもホップちゃんは小鳥だけど妖怪化しているんでしょ? ペットホテルに預けている間に、鳥籠をめんで逃げ出しかねないし……」

 

 これってもしかして八方ふさがりでは? 源吾郎がそう思い始めていた時、鳥園寺さんが慌てたように言い足した。

 

「ごめんね島崎君。何かこう色々と心配させるような事を言っちゃって。でもね、それこそ上司に相談してみたら良いかもしれないわね。雉仙女様なんて鳥類の専門家の権化のようなお方だし、その上医学にも精通なさっているんですから」

「そうですね。個人的な事を話したら公私混同になるかもって思ってたんですけど……ちょっと相談してみますわ」

 

 やっぱりこういう事もきちんと前もって考えておくべきだったな。自分の考えの見通しの甘さを反省しつつも、鳥園寺さんのアドバイスには感謝していた源吾郎であった。

 

 夕方。紅藤の許を訪問した源吾郎だったのだが、ホップの件を相談しても公私混同だと笑われたり咎められたりする事は無かった。源吾郎が留守の間は青松丸が面倒を見る。そう言った取り決めがトントン拍子で決まったのであった。

 青松丸が面倒を見てくれる。先輩に手間をかけてしまうと思う一方で、源吾郎はひどく安心してもいた。青松丸とホップは前に対面した事があるのだ。生誕祭の翌日、源吾郎がへばって動けない時に、他ならぬ青松丸がホップの面倒を見てくれたのだ。ホップはあの時青松丸に馴染んでいなかったが、少なくとも怖がっている素振りは無かったと思う。相手への恐怖心が無いというのも、余計なストレスをかけないという点では良い事だった。

 

「紅藤様に青松丸先輩。本当にありがとうございました」

「良いのよ島崎君。あなただって年末は私用があるのは仕方ない事だもの」

「それにホップ君も島崎君の大切な家族だもんね……何か気を付けないといけない事があれば、前もって教えてくれるかな」

 

 礼を述べる源吾郎に対し、紅藤も青松丸もにこやかに応じてくれたのだった。



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鉢合わせたるは来訪者

 所変わって雪羽君視点です。
 叔母さんがやって来るって事なので折角ですし……


 明日から年末休みだけど、もう今日は大掃除も終わっているから実質休みが始まったみたいなものだよなぁ。雷園寺雪羽はそのように思っていた。

 その雪羽は既に、萩尾丸の手によって三國たちの暮らす一軒家に送り届けられていた。日頃は再教育のために萩尾丸の屋敷にて寝起きしなければならない身分であるが、休暇中は三國の許に戻されていたのだ。もちろんこの年末年始の休暇も例外ではない。

 そうでなくとも、叔母に当たる月華のお産がそろそろ近付いており、雪羽としても気が気ではなかった。一番大変なのは、当事者である月華とその夫である三國なのだけれど。

 

「あ……天姉、じゃなくて天叔母さん」

「おお、雪羽君じゃないか。お帰り。しばらくぶりだね」

「雪羽お坊ちゃまも早く帰って来れて良かったですね」

 

 玄関から入ってすぐのリビングにひとまず向かった雪羽は、春嵐が先客をもてなしているのを発見した。彼女は三國の姉・天水《てんすい》だった。実のところ、雪羽は三國以外の叔父叔母の名前や顔は殆ど覚えていない。しかし、今回は天水が来訪すると事前に聞かされていたから、彼女が三國の末の姉であろうと判断し、声をかけたのだった。

 穏やかに微笑む春嵐に笑い返した雪羽は、そのまま天水をしげしげと観察していた。若い女性の姿ながらも、大人らしい、落ち着いた雰囲気を彼女は漂わせていた。末の姉と言ってもやはり三國よりも年長である事には変わりはない。もちろん月華よりも年上だ。

 青みがかった濃灰色の髪をポニーテール気味にまとめており、身にまとっている衣裳もカジュアルながらもきちっとした印象を与えてもいた。弟である三國に会いに来たというよりも、義妹である月華や甥の雪羽のサポートをしに来たからだと思うと、彼女のきっちりとした出で立ちもうなずける。

 そして尻尾の数は二尾だった。カワウソのような、根本は太くて先端はやや細くなっているような尻尾がずるりと伸びている。彼女から殆ど妖力を感じなかったのはそのためであるらしかった。まぁ二尾も二尾でそこそこの力を持っている訳なのだけど。

 

「天叔母さん。随分早く来てくださったんですね。びっくりしましたよ」

 

 天水の様子をひととおり観察してから、雪羽は思っていた事を口にしていた。叔母がやって来るのは明日以降だろうと雪羽は思っていたのだ。今日は仕事納めの日であり、世間的に年末休みに入るのは明日からであると思っていた。

 別に叔母が早くやって来た事を咎めたり、嫌だと思ったりしている訳でも何でもない。

 

「そりゃあ月華ちゃんや雪羽君の事が気になったからね」

 

 天水は雪羽の呟きに即座に反応し、さも当然のように言葉を紡いだ。その顔にはほんのりと笑みが浮かんでいる。

 

「もちろん今日も仕事だったけれど、社会妖ならば有給を駆使すれば休みなんてねん出できる。雪羽君だって知ってるだろう?」

「俺、今年度の有給は全部使い果たしちゃったから……」

 

 図らずも雪羽の有給事情を聞き出した天叔母さんは「そうだったのかい」と言って明るく微笑んだ。話し方も仕草も中性的で、何ともざっくばらんでサバサバとした雰囲気の持ち主である。

 そして有給の使い方に関しては、真面目に計画的に使う事もできるんだなと雪羽は思っていた。その上で過去を顧みて反省してもいた。雪羽は休みたい時に有給を使うというスタイルを貫いていたからだ。本来ならば家族の用事や急な病気などの際に使う訳であるが、雪羽は頑健な体質の持ち主であり、言うまでもなく独身だった。三十日ばかりある有給休暇は、ほぼことごとく夜遊び等々に消費していた訳である。

 もちろん、今はそのような事は出来ないし、行おうとも思わないのだが。

 

「まぁ雪羽君もまだ若いもんね。と言うか君くらいの歳だったら遊び呆けていてもおかしくないんだ。だからその……羽目を外さなければ別段大丈夫だと私は思うけどね」

「あはははは。天叔母さん。俺はもう羽目を外したりしないよ。雷園寺家の次期当主候補に正式に決まったもん。弟妹達にも示しがつかないし」

 

 口早に雪羽は言うと、春嵐と天水を交互に見やりながら今再び口を開いた。先程の話の流れを変えたかったし、何より先程から気になる事があったからだ。

 

「ところで春兄。叔父貴……三國叔父さんと月姉は何処にいるの? 天叔母さんを呼んだのは叔父貴なのに」

「安心しなよ雪羽君。君と弟たちは単に入れ違いになっただけだからさ」

 

 雪羽の問いかけに即答したのは天水だった。彼女はドアの辺りに視線を向け、微笑みながら言い足した。

 

「そもそも私も雪羽君が帰ってくる前にここに到着したからね。弟も月華ちゃんも出迎えてくれたよ。まぁ、私を呼びつけたのは弟なんだから当然の事だけど。

 それで今、弟は月華ちゃんと一緒に寝室に戻ったよ。月華ちゃんが休みたいって言っていたからね」

 

 弟が月華ちゃんを大分気にかけているのは、私よりも君の方が詳しいだろう? 一呼吸おいてから天水はそう言った。甘酸っぱいような、苦々しいような思いを抱きながら雪羽は頷く。

 

「見ての通り月華ちゃんも大変な時期だし……夫として妻の様子が気になるのは無理からぬ話と言う奴さ。

 年長の姉さんたちなら子供もいるからそっち方面でも月華ちゃんにアドバイス出来るかもしれないが、私はそれも出来ないから……」

 

 子供にはちと難しい話だったかな。天水はそう言ってごまかすように微笑んだ。天水は子はおらず、それどころか独身で特段付き合っている妖怪がいるというわけでは無いらしい。確かに彼女は三國の姉ではあるが、二百歳未満であり年齢的にはやはり若者に振り分けられる。従って彼女が独身であろうと特におかしな事は無いのだ。むしろ三國はかなり早く所帯を持った方だと言えるかもしれない。

 

「ともあれ、弟もこれを機に私ら兄姉とも交流するようになってくれれば良いんだけどね。兄さんたちも姉さんたちも、弟の事はそれなりに心配しているんだ。確かに三國は良いやつだ。仲間思いだし良き夫良き父親になろうと努力している。雪羽君だって立派に育て上げたんだからさ」

 

 そう言われると恥ずかしいですねぇ。冗談めかしてそう言いかけた雪羽であったが、その言葉は天水の眼差しを前に霧散してしまった。

 

「――だけど、三國はちと排他的すぎるんだ。博愛主義的な仲間思いとは違うからね。お人好し過ぎて割を喰うのも問題だけど、無闇に敵と見做して孤立するのも問題なんだよ」

 

 この妖《ひと》は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。雪羽は目を見開き、静かにそう思った。長兄である雷園寺家現当主におもねり、三國を異端視する顔のない雷獣共、そして――雪羽を見放し顧みなかった叔父叔母たちである、と。

 

「そうはいっても叔母さん。敵と敵として認識しなければやっていけないと、三國の叔父貴は俺に教えてくれたんですよ」

 

 雪羽お坊ちゃま! 春嵐が慌てたように声を上げる。天水はそちらを見やって微笑んでから、今一度雪羽に向き直る。雪羽に顔を向けた時には笑みは消えていた。

 

「敵を敵として認識する、か。であれば雪羽君。()()()()()()()は、異母弟である雷園寺時雨君になるという事かな?」

 

 雷園寺時雨。もう一人の次期当主のフルネームを聞いた雪羽は、ぐぅっと喉を詰まらせた。確かに彼とは、異母弟とはゆくゆくは次期当主の座を巡って相争う運命にある。だが雪羽の中では時雨は敵などではない。母親は違うが()()()()()だ。

 雪羽が言葉を詰まらせているのを良い事に、天水は言葉を続けた。

 

「他の弟妹達、穂村君とかミハルちゃんが雷園寺家の次期当主の座を狙っていたらどうするんだい? ()()()()()()()()()()()()()()()?」

「……卑怯ですよ天叔母さん。弟妹達の事を持ち出すなんて」

 

 雪羽はそう言うのがやっとだった。天水は何も言わなかった。だが心の中で解っただろう、と雪羽に問いかけているかのようだった。

 

「穂村たちにしろ時雨にしろ俺の大切な弟妹だ。打倒すべき敵じゃない。俺が打倒すべきなのは、雷園寺家の現当主だ。それとあいつを祭り上げている老害共だけだよ」

 

 天叔母さん。天水が無言を貫くのを良い事に、雪羽は静かに呼びかけていた。自身の顔に笑みが広がるのを感じながら。

 

「あ、でも安心してください。すぐに現当主を雷園寺家からたたき出すとか、そんな事じゃありませんから。あんな屑でも穂村たちや時雨たちの父親です。特に時雨や深雪ちゃんたちはまだ小さくて、無邪気にあいつの事を慕っていますからね……ですが五十年後、百年後ともなれば状況は変わるでしょう。

 時雨たちだってあいつの過去の所業を知って軽蔑し、見限ってくれるに違いありません。あいつを雷園寺家次期当主の座から引きずり下ろし、取り巻き連中を一掃するのはそれからでも遅くない……俺も三國の叔父貴もそう思っているんですよ」

 

 雷園寺千理よ、育てていた息子らに軽蔑されて雷園寺家から追い出されて、惨めな末路を迎えるが良い……遠い未来におのれが成すであろう事を思いながら、雪羽ははばからずに高笑いしていた。

 

「雪羽お坊ちゃま……」

「雪羽君」

 

 そんな雪羽に対し、春嵐と天水はほぼ同時に呼びかけていた。何か言いたげな様子を見せていた春嵐だったが、天水に目配せすると小さく首を縦に揺らす。その仕草を一瞥し、天水がここでようやく口を開いた。

 

「雪羽君が千理兄さんの事を烈しく憎んでいる事はよく解ったよ。まぁ確かに、私も千理兄さんのやった事には色々と思う事はある。だけど……雪羽君が千理兄さんの事をそんな風に言うのはちょっと勘弁してほしいんだ。あれでも私や三國の兄だからね」

 

――千理兄さんは()()()()()であり、雪羽君にとっては()()に当たるんだよ。天水は内心ではそう思っているに違いない。その事を察知した雪羽は鼻を鳴らしながら言い添えた。

 

「俺には父親なんていないんだ。強いて言うならば三國の叔父貴が父親みたいなものさ」

 

 元より父の方から自分を手放したんだ。今更誰が何を言おうとも、あの男を父親だとは認めない。そんな事を思う雪羽を、天水は静かに眺めている。何処か哀しそうな眼差しだった。

 

「雪羽お坊ちゃま」

 

 次に口を開いたのは春嵐だった。気遣うように、しかし意を決したように雪羽を見つめ、語り掛けてきた。

 

「今日は業務ではなくて大掃除だったんですよね。恐らくはお坊ちゃまもお疲れで、それで気が立っているのでしょう。夕食までまだ時間もありますし、部屋で休んだ方が良いのではないでしょうか」

「――うん。そうするよ春兄」

 

 春嵐の言葉に小さく頷き、雪羽はリビングを後にした。部屋で頭を冷やせと春嵐にたしなめられたようなものだ。反発せずに従ったのは、叔母も春嵐も穏やかな様子でこちらを眺めていたからであるし、自分も言い過ぎたと反省していたからだった。




 天叔母さんは元々(地名にちなんで)天六とか天茶って名前にしようかなって思っておりました。ですがなんかしっくりこなかったので、「天水」担った次第です。


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当主の真意に手を伸ばす

 自室に戻った雪羽は、そのまま倒れ込むような形でベッドにダイブした。しばらく猫のようにゴロゴロと転げまわり、そのまましばらく眠ってしまおうと思った。夕食の前に眠るという事は普段行わない事であるが、それでも誰かが起こしてくれるだろう。そう言う期待に雪羽は少し甘えてもいたのだ。

 ここは再教育の場ではなく、正式な保護者である三國の家なのだ。そう言う甘えも許されると雪羽は解釈してもいた。

 だが眠気は訪れなかった。気分が昂っていたのだ。のみならず、脳裏には弟妹達の顔がやけにはっきりと浮かんでくる。穂村たちと言った母を同じくする弟妹は言うまでもなく……時雨を筆頭とした異母弟やこれから生まれるであろう三國の子供らもまた、雪羽にとっては弟妹だった。

 兄である雪羽との再会を待ち望んでいた穂村。次期当主の座を相争う未来に在りながらも、自分を優しい兄だと慕ってくれる時雨。幼い頃は気弱だったのだが、逞しく快活に育った開成……弟妹達の事を一人一人雪羽は思い返し、静かにため息をついていた。彼らには幸せに過ごしてほしい。月並みな事しか思い浮かばなかったが、雪羽の切実な思いである事には変わりはない。

 この年末は弟妹達の傍にいる事が出来ないのがちと残念であるが、月華がお産を迎えているのだから致し方ない。月華とお腹の仔の事ももちろん心配であるし、本家の弟妹達には早ければ五月の連休に会えるだろうし。

 雪羽はのろのろとベッドの上を這い、スマホを手に取った。源吾郎に連絡を入れようとは思わなかった。互いに忙しいだろうから、あんまり連絡は入れられないし入れてあっても返事が遅れるかもしれない。前もって雪羽と源吾郎はそうした話をしておいたのだ。

 その源吾郎はもう既に荷物をまとめ、白鷺城近辺にあるという実家に戻っているはずだ。末っ子である源吾郎の事だから、親兄姉に甘えながら過ごすのだろう。だがそれこそが源吾郎の家族サービスであるのだ。聞けば源吾郎の兄姉らも何かと面倒見が良さそうだし、歳が離れているので源吾郎は未だに仔狐扱いされてもいるらしい。そんな源吾郎が戻って来るのを、彼の親族らも心待ちにしているのは言うまでも無かろう。

 

「あ……」

 

 手慰みに調べ物でもするか、しょうもない動画でも見て過ごそうか。そう思っていたまさにその時、スマホが低く震えた。着信の報せである。

 この年末に一体誰からだろうか……詐欺とかなら怖いしなぁ。そう思いつつも雪羽は画面を弄る。そして誰から連絡が入っているのかを見て、その瞳が大きく見開かれた。

 着信は、弟の雷園寺穂村からの物だったのだ。

 

「……もしもし穂村。兄ちゃんだよ。どうしたんだこんな年末に」

『こんばんは雪羽兄さん。急に電話かけちゃってごめんね。驚いたかな』

 

 そりゃあ驚いたよ。雪羽の声には、早くも喜色が混じり始めていた。年末の夕方に電話をかけてきたのだから、何かあったのではないか。一瞬だけそのような心配がよぎったのだ。だが、穂村の声を聴いているうちにその心配も綺麗に霧散した。穂村もまた、喜びに弾んだ声音で電話をかけていると解ったからだ。

 

「それにしてもどうしたんだい穂村? 何、兄ちゃんは仕事も終わったし休みだから暇だ。話したい事なら何でも話すと良いぞ」

 

 雪羽は腹ばいになったまま、しかし三本の尻尾で敷布団を叩きながら穂村との通話を続けていた。

 

 その日の夕食は鍋だった。雪羽は弟妹達との電話でやはり話し込んでしまい、ダイニングに向かった時にはもう既にスタンバイされている所だったのだ。客人にして三國の姉である天水、同居妖である春嵐は言うに及ばず、家主である三國とその妻の月華も揃っていた。

 

「おう雪羽。呼んでも来なかったから、どうしたんだろうって思ってたんだよ。鍋だし、もうちっと待っても来なかったら先に食べようかって話してたところだったんだ」

 

 雪羽にそう言ったのは三國だった。食卓に遅れた雪羽をしかりつける事は無く、ただただ笑みをたたえて雪羽に視線を向けている。三國は雪羽には優しくて甘かったのだ。

 

「ごめん叔父貴。料理の手伝いもほっぽっちゃって……」

「料理なんて良いんだよ雪羽。今日は俺と天姉さんで準備したんだからさ! それにしても、仕事ばっかりの天姉さんが料理もちゃんとできるって知って感動しちゃったぜ」

「仕事ばっかりと言っても、コンビニとかがすぐ傍にある所ばっかりでもないから、どうしても料理とかもやらないといけないの。と言うか今回は鍋だから、切ったりゆでたり出汁を取ったりしただけだし……」

 

 三國と天水は姉弟でそんな事を言い合っていたが、やはり言葉が途切れると雪羽の方に視線を向けた。何のかんの言いつつも大人妖怪たちの関心は雪羽に向けられているらしい。

 

「実はさっき、穂村たちから電話があったんだ。それでちょっと話し込んでいて遅くなっちゃったの。ごめんね」

「穂村たち……あのチビ連中から電話があったのか!」

「それは良かったね雪羽君。雪羽君、ずっと穂村君たちの事気になってたみたいだから……」

 

 雪羽は自分の席に着き、穂村たちとどんな話をしていたのかを三國たちに伝えた。要はお年玉をもらった事へのお礼と近況報告である。親族たちが本家に集まっている事以外は特に変わった事もなく、向こうも向こうで平和との事だ(もっとも、それこそが雪羽としては嬉しい報告なのだが)

 次期当主候補の対立や異母兄弟と言う事もあって若干ぎこちないものの……穂村たちと時雨たちも徐々に兄弟姉妹として打ち解けつつあるのだという話でもあった。特に開成が時雨を可愛がり、深雪は異母姉のミハルに懐いているのだという。

 無論そうした報告も嬉しかったが、穂村以外の弟妹達、特に時雨の声を聞けたのが雪羽にとっては嬉しい出来事だった。

 

「そんな訳で、弟妹達も元気に仲良くやってるみたいだから、俺も安心して年末を過ごせるよ」

「そっか、それは良かったな雪羽」

 

 機嫌よく微笑む三國の隣で、月華があっと短く声を上げる。箸を置いたその手は、膨らみの目立つ腹部に添えられていた。

 

「今赤ちゃんが動いたわ。赤ちゃんも、お父さんやお兄ちゃんたちに会いたいんですって」

 

 かくして、鍋を囲んだ食卓は和やかに進んでいったのだった。

 

 夜過ぎ。雪羽は入浴を終えてさっぱりした気分でダイニングをうろついていた。そのまま自室に直行しても良いのだが、喉が渇いたので何か飲もうと思っていたのだ。寝る前は身体の水気が抜けてしまうのは、妖怪でも同じ事なのだ。

 鍋を囲んでいたテーブルはすっかり片づけられており、その余韻は匂いだけだ。だが、客人である天水が椅子に腰かけ、持参したらしい炭酸ジュースをちびちびと飲んでいた。雪羽君。目が合うと天水は微笑み、こちらに小さく手招きした。

 雪羽は普段使っているコップを棚から取り出し、天水の対面に腰かけた。

 

「もちろんこれはお酒じゃなくてジュースだから、安心して飲みたまえ」

「本当にお酒じゃなくて良かったよ。俺、今は萩尾丸さんの術でお酒は飲めなくなっているからさ……」

「おいおい。さっきのは冗談で言ったんだよ。まさか本当に飲んでたなんて……」

 

 天水はちょっと困ったような表情を浮かべ、結局苦笑いを見せた。雪羽も笑ってみたものの、頬が何となく引きつってしまった。雪羽がこれまでお酒を飲んでいた事も、萩尾丸の術で飲もうとしたお酒が酢になる事もまぎれもない事実なのだが。

 

「それはそうと雪羽君。ちっちゃくてフワフワの毛玉だって思っていたけれど、本当に立派な雷獣に育ったねぇ」

「言うて俺はまだ子供ですよう」

「まぁ年齢的にはまだ子供かもしれないけどさ。私が知ってるのは、本家にいた頃の雪羽君だから……」

 

 ()()()に較べれば見違えるようだよ。天水の言葉を、雪羽は黙って聞いていた。耳を傾けながら、遠い過去の事を思い出してもいたのだ。雷園寺家の本家にいた時の事をだ。両親が揃っていて、兄弟たちの数は今よりもうんと少なかったが、それでも幸せな日々だった――もっとも、あの頃は幸せという物が何なのかすら知らないような子供だったのだけど。

 そしてあの頃は、もはや雪羽たちの記憶にしかない。既に何もかもが変わった後で、もはや戻れない日々でもあった。

 

「今の雪羽君は、随分と三國そっくりに育ったんだね。毛並みとか目の色とか、後は妖気とか雰囲気は君の母親に似ているのかなって思ってたけどね」

「叔父と甥が似る事って珍しくないんですよ、天叔母さん」

 

 雪羽はやや食い気味に天水にそう言った。注がれた炭酸ジュースをぐっと呷り、更に続ける。

 

「それに、叔父貴は叔父貴の生き方ややり方を俺に教えてくれましたし、俺も俺で叔父貴みたいな妖《ひと》になろうと思って育ってきたんだ。だから天叔母さん。叔父貴に似ているって言われて嬉しいな」

「そう……まぁそう思うよね」

 

 天水は何故か少し戸惑ったようでもあった。だが雪羽に追求させる暇を見せずにそのまま笑みで応じたのだ。弟はあれでカリスマ性もあるし、何と言ってもカッコいいんだから。妖《ひと》を惹きつけるものをあの子は持っているからさ。そんな事を言いながら。

 

「それで雪羽君。君は三國程とは言わずとも、強さも受け継いだんだよね」

「はい! 叔父貴はずっと俺に、闘う事とか強くなる事とかも積極的に教えてくれましたからね」

 

 強さに関しては引けを取らないぜ……久しぶりに自身の強さについて思いを馳せて良い気分になっていた雪羽であったが、その気持ちは長続きしなかった。強さに慢心し、増長する事は妖怪らしからぬ態度である。グラスタワーの一件で大妖怪たちに釘を刺された事を思い出したからだ。

 それ以来雪羽は萩尾丸の監督下で真面目に過ごしている。だがどうしても、かつての傲慢な考えが首をもたげる事があったのだ。今回とてそうだった。

 そんな雪羽の心境の変化に気付いているのかいないのか、天水は微笑みながら言い足した。

 

「ふふふ。流石に私も雪羽君が強くなるって事は昔から解ってたよ。君の母親は、それはもう強くて見事な雷獣だったからね……途中から三國の許で暮らす事になったけど、三國がべらぼうに強いのは私たちも知ってるよ。

 元より雪羽君は強い雷獣になる定めだったのかもしれないね。母親からは妖力を、叔父からは闘い方や闘志を受け継いだんだから」

「――それに俺は、必ずや雷園寺家に舞い戻る。そう心に決めているんだ。強くなるのは当たり前の事だし、俺は強くならなければならないんだよ」

 

 雷園寺家の先代当主、そして彼女の子供らであり俺の弟妹達のために――雪羽は半ば興奮し、その身を震わせていた。のみならず小さく放電さえしていた。天水は特に怯む様子もなく、醒めたような眼差しで甥を眺めているだけだった。

 

「そうだった。そうだったね雪羽君。君の心はもう、雷園寺家の次期当主の座を掴む事でいっぱいだったんだよね。穂村君たち弟妹のために――そして現当主への復讐のために、かな?」

 

 天水の言葉に雪羽は軽く首を傾げた。最後に呟くように放たれた言葉が奇妙なニュアンスを伴っていたからだ。雷園寺家現当主への復讐のために。そう言った時天水は声のトーンを落とし、しかも疑問形だったのだ。

 雪羽君。コップを握りしめながら天水が呼びかける。その表情は真剣そのもので、笑みは既に消えていた。

 

「君がこれからやろうとする事を、私は止めたりはしない。いや……止められないと言った方が正しいかもしれないね。

 雪羽君。別に私は千理兄さんを……雷園寺家の現当主を追い落とそうとする君らの目論見を止めないし、咎める事もしないよ。ただね、これだけは言っておきたいんだ。千理兄さんは、君の父親は、雪羽君が心底憎んだり軽蔑したりしていると知っても絶望する事は()()()()とね。もちろん、千理兄さんとて雪羽君が自分をどう思っているかくらいは知っているはずさ」

「息子を勝手に棄てておいて、それでも父親として認められると思うのはムシのいい幻想ってやつですよ」

 

 雪羽はそう言って、ふっと鼻で笑った。思いがけぬほど乾いた笑いだったために、自分でも驚くほどに。

 それでも心の中で想いと考えが駆け巡り、それが口をついて流れ出てきた。

 

「それにしても現当主殿も俺の気持ちを知っているとはね。となると天叔母さん。現当主殿はそれでも何も思っていないって事なんでしょうか」

「まるで千理兄さんが棄てた雪羽君の事をもはや顧みない輩だとでも言いたげな口ぶりだな」

 

 天水はいつの間にか前のめり気味になり、雪羽の顔をじっと眺めていた。ただならぬ叔母の雰囲気に、雪羽は一瞬気圧される。それでもその気持ちをぐっと飲みこんで、天水を見つめ返した。

 だってそうじゃないか……言い募ろうとした雪羽の言葉はそこで遮られた。

 千理兄さんはそれでも雪羽君を()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そのような事を天水は言い放ったのだから。

 

「別にだな、私は面と向かって千理兄さんの真意を探った訳じゃない。そもそも私だってあの日から雷園寺家から遠ざかってもいたからね。

 だけど……あの事件があってから千理兄さんや雪羽君を見て、そう思うようになったんだ」

 

 雷園寺千理がこの俺に対して身内の情を抱いているだと……? その言葉はにわかには信じられなかった。だからこそどのような話なのか、聞きたいという欲求が膨らんでいったのだ。

 年末の夜はまだ始まったばかりだった。




 また文字数が長くなっちゃったよ……
 と言うか千理さんって入り婿なのに当主として三十年間その地位を護っているんですよね。ただ者じゃないというか切れ者なのではと最近思い始めています。


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その推論は優しさに向かう

 雪羽君視点はこれで終わりだぜヒャッハー!
 よく考えたら5000文字×3で濃厚なお話に仕上がってるんですよね。
 流石第二の主人公だな、雪羽君!!


 親族たちが集まった雷園寺家の本家を、二人の雷獣が足早に立ち去ろうとしていた。厳密に言えば、早足で進んでいたのは一人だけである。もう一人は幼子であり、足早に進む雷獣――三國に抱えられていたのだから。

 先代当主の息子だった雪羽の処遇をどうするか。雷園寺家にとっても重々しく重苦しいその打ち合わせはもう終わった。と言うよりも三國が強制的に終わらせたようなものだ。俺が引き取る。そう言って雪羽を抱え込んだのだから。

 他の弟妹達を引き取る事が出来なかったのは心苦しいが――しかし雪羽を引き取る事が出来たのは良かった。あのままではこの子はどうなっていた事か……三國は腕の中に収まる甥の頭をそっと撫でた。母親譲りの翠眼はキラキラと輝いていたが、表情はやはり暗い。不安がっているようにも見えた。

 

「大丈夫だよ、雪羽……今日から俺が、叔父さんがお前のお父さんになるからな」

 

 そうだ。俺がこの子の親になるのだ。三國は静かに決意していた。雪羽の母は死に、雷園寺家の傀儡である父は再婚した挙句にこの子を放り出した。とりあえず自宅に戻ってこの子を落ち着かせよう。部下たちにも、月華にも説明せねばならないし。

 ともあれもう雷園寺家には用は無い。

 

「――もう行くのかい、三國」

 

 だからこそ、行く手をふさぐように佇む雷獣の姿に、三國は驚き目を剥いたのだ。

 しかもその雷獣は雷園寺千理だった。雷園寺家の当主の座に収まる男であり、三國が抱える雪羽の実父なのだから。

 

「この期に及んで何の用だ千理の兄貴。まさか、父親の情とやらが急に目覚めたとか、そんな事を言うんじゃあなかろうな」

 

 そうではない。唸り声を上げる三國とは対照的に、千理は穏やかな口調で否定した。

 

「互いにそうすると決めたらもはや覆せないのは解っているだろう? 私は君の行動を止める手立てはないし……逆もまた然りだ。

 ただね、その子を君が引き取るにあたり、言っておきたい事があってね」

 

 勝手に言ってろ。そう言わんばかりに三國は千理の隣を通り過ぎる。だが、千理も千理で弟の行動を気にしていないらしく、すでに口を開いていた。

 

「三國。君は弟妹達の中でも雷園寺家への恩恵に()()()だったよね。その君が、よりによって雪羽を引き取るとは……」

 

 それとこれとは話が別だろうが。そんな思いと共に千理を睨みつける。千理は口許にうっすらと笑みをたたえていた。穏やかでありながら、腹立たしさを掻き立てる様な、そんな笑顔である。

 

「その子は雷園寺家から放逐されると言えども、それでも雷園寺家に連なる雷獣である事には違いない。()()()()()()()()。その子を引き取り、育て上げる()()をゆめゆめ忘れぬように」

「糞がっ……! 千理の兄貴、テメェはそんな事を言う為だけに俺たちを追いかけてきたのか」

「おじさん……」

 

 腕の中の幼子が、雪羽が不安げに声を上げる。三國は一瞬そちらに視線を向け、それから再び千理を睨んだ。

 

「そんな事を宣っていたとしても、結局は雪羽を棄てる事には変わりないんだろう。雷園寺家なんかくそくらえだ。千理の兄貴、後々になってから息子を手放した事を後悔しても知らんからな」

()()()()()()()()()()()()()()

 

 糞野郎が。短い罵りの言葉は二重の響きを伴って千理に向かって投げかけられた。三國を倣い、幼い雪羽もまたその言葉を口にしたからだ。

 

「そうだとも。私はもう迷わないし後悔しない――我が息子を頼むぞ、弟よ」

 

 背を向けた千理が何事か呟いたようだが、その言葉はもう三國にも雪羽にも届かなかった。敷き詰められた玉砂利の上に、山茶花の花びらが散っているのが印象的だった。千理がいた所からは、そして何故か血の香りが僅かに漂ってもいた。

 かくして雷園寺雪羽は三國に連れられて雷園寺家をあとにした。雪羽が再び雷園寺家を訪れたのは、それから三十年後の事である。

 

 大丈夫かい。一人過去を思い出していた雪羽は、天水の呼びかけでふと我に返った。叔母の一人である天水は、何故か申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

 

「すまないね。千理兄さんの事を急に言えば、君だって戸惑う事は解っていたよ。だけど……私だって君らに対しては申し訳なく思ってもいたんだ。言い訳がましくなるけれど、当時の私には君をどうにかする力なんて無かったから」

 

 力と言うのは何の事だろうか。雪羽は密かに思った。妖力や武力ではなくて、権力や財力をも示しているのではないか、と。

 ともあれだ。天水は真面目な表情に戻って言い添えた。

 

「千理兄さんは確かに雪羽君を手放さなければならなかった。だけどそれは、雪羽君を疎んで棄てたからじゃあない。むしろ、雪羽君の身を()()()()の事だったのかもしれない。実際に、三國は雪羽君を護り抜き、大切に育て上げてきた。そうだろ雪羽君」

「…………」

 

 天水の言葉に、雪羽はすぐに応じる事は出来なかった。気を抜けば腑に落ちそうな話ではある。だがそれ以上に疑問や反論したい点もいくつかあったのだ。

 もちろん、三國が保護者として雪羽を護り、三十年も養育してくれた事は事実だ。だが、千理の意図を叔父が知っているようには思えなかった。三國はずっと千理の事は息子を棄てた糞野郎だと思っているみたいだし、実際千理と相対した時に怒りを露わにしていたではないか。雷園寺家の当主に居座るだけの能無し、子供を増やすだけでマトモに面倒を見る事すら出来ない屑である、と。これらは千理の真意を知っていれば出てこない言葉たちだ。

 更に言えば、現在雪羽は三國から引き離されて再教育の最中でもある。これはまぁ三國ではなく雪羽自身の所業によるものなのだけれど。

 

「先代当主が、君の母親が不審死を遂げたのは知ってるだろう? 実はね雪羽君。あの時は雷園寺家の内部も安全とは言い難かったらしいんだ。それこそ、雷園寺家の次期当主として育てられていた君だって、生命の危険があったくらいにね。

 だからこそ――千理兄さんは雪羽君を外に出す事を決めたんだろうね」

 

 その一方で、と天水は話の流れをそれとなく変えていた。

 

「結局のところ、君は末弟の三國が引き取った事になったんだけど、それが結果的には良かったんだ。千理兄さんの身内や、ある意味信頼のおける存在でありながら、雷園寺家への権力闘争に対して無関心。そしていずれは強くなるであろう雪羽君を畏れずに扱えるほどの強さ……三國はそれらの条件を満たしていたからね。まぁ確かに荒っぽい所とか若すぎた事とかは不安要素だったと思うけれど、それでも策謀を巡らせる雷園寺家の分家の面々や、年長の兄さんたちに託すよりは安心できたんじゃあないかな」

 

 天叔母さん。考察をつらつらと重ねる天水を見据え、雪羽は声を上げた。

 

「現当主がそんな事を……でも天叔母さん。叔父貴は多分、現当主がそんな事を思っていたなんて知らないと思うんだ。だってその……叔父貴は今でも……」

「うん。三國は千理兄さんの考えは知らないだろうね。意地の悪い言い方をすれば、千理兄さんは何も知らない弟を利用したという事にもなる」

「叔父貴を利用するなんて。でも、何で叔父貴にもその事を伏せていたのさ? 叔父貴だけでも良いから、本当の事を伝えても良かったんじゃないの?」

「残念ながら、それは私にも解らないよ」

 

 天水は呆れたような諦めたような表情で長く息を吐いた。

 

「三國はあれで優しい所があるからな。事情を話せば千理兄さんの一家の事を……雷園寺家の事を必要以上に気に掛けると思ったのかもしれない。もしくは単純に、事情を知ったとしても三國が激怒するのが解っていたから伏せていただけなのかもしれないしね。ただまぁ……あの時冷静じゃあなかったのは三國だけじゃないんだよ。千理兄さんだって、十二分に取り乱していたはずだし。

 或いは、弟や息子に憎まれ恨まれても構わない。むしろその事こそを千理兄さんは()()()()()のかもしれない――その可能性だってあるかもしれないね」

 

 いずれにせよ、愚かしい事だと言わざるを得ないけどね。天水は深く考え込む様子を見せながらそう言った。いっそ哀しげでもあった。雷園寺千理の実妹である彼女が、雷園寺千理の事をどう思っているのか。雪羽は少しだけ気になってしまった。

 

「ともあれそんな風に考えたら腑に落ちないかい? この前時雨君が拉致された事件を別にして、君は雷園寺家の面々と不必要な接触を迫られる事なく暮らす事が出来ただろう? それは三國が雷園寺家の面々との交流を断ち切っていて、しかも断ち切るだけの力量を持ち合わせていたからに他ならないんだ。

 三國は三國のやりたいようにやっていただけではあるけれど……君はその三國から護られていたんだよ。雷園寺家絡みの、そして私ら親族間のごたごたからね」

「うん……そうかもしれないよね」

 

 雪羽はゆっくりとした動作で頷いていた。三國が雪羽を護ろうとしている事は十二分に知っている。だからこそ三國は闘う術を教え、強い妖怪として雪羽を鍛えてくれた。雪羽がヤンチャをするたびに良い感じに周囲を収めてくれたのも、三國や月華たちだった。まぁヤンチャや不祥事は行ってはいけない事であるし、その懲罰を今雪羽は受けてもいる身分なのだけど。

 

「でも俺、ヤンチャすぎて不祥事ばっかりだったから、今は罰として叔父貴から引き離されて再教育の最中なんだ。まぁ最近は萩尾丸さんも、週末とか連休は叔父貴の家に戻してくれるし、そもそも今の俺の処遇も自業自得だし」

 

 三國よりも強い妖怪に身柄を確保されている。その事を話すつもりが、ついつい長い話になってしまった。しかも内容が内容なので恥ずかしいことこの上ない。天水はまたもため息をつき、しかしそれでも言葉を探りながら口を開いた。

 

「不祥事ねぇ……まぁ確かに君も色々とヤンチャだったみたいだもんね。流石に私らも、雉鶏精一派の方で正式に処罰が下ったと聞いた時にはあちゃー、と思ったね。

 だけどさ、そうして過去を顧みて反省しているんだったら大丈夫だと思うよ。雪羽君がヤンチャだったかもしれないけれど、今はもう真面目にやろうとしているんでしょ?」

「少しずつ、だけど……」

「だったら上等じゃないか。君の世話係だって大天狗様だし、ついでに九尾の子とも仲良くなったんでしょ。島崎君だったっけ、九尾の子は真面目な良い子だって聞いてるから、私はそっち方面ではもう心配していないんだ」

 

 肩の荷が下りたと言わんばかりに微笑む天水を前に、雪羽もほんのりと笑みを浮かべていた。親族の間では噂が広まるのもあっという間なのだなと思いながら。萩尾丸が教育係であるという事はさておき、九尾の子孫である源吾郎と親交を深めている事まで知られているとは。だがよく考えれば、源吾郎と雪羽の関係性は救出作戦の折に大々的に打ち出されてもいた。繁栄の象徴でもある九尾の狐、その子孫が雷園寺家次期当主たる雪羽に憑いている、と。天水も救出作戦に参加していただろうから、その時に知ったのかもしれない。

 ありがとう、天叔母さん。雪羽はひとまず感謝の言葉を述べ、今一度天水を見やった。

 

「ねぇ天叔母さん。どうして現当主がこう思っているかもしれないって事をわざわざ俺に伝えたのかな? 何だかとっても不思議な話だったから」

「――君は色々と変わってしまったけれど、それでも優しい気持ちだけは昔から変わっていなかったからね」

 

 天水はそう言って僅かに目を伏せた。過去を懐かしむような表情がその面に浮かんでいる。元々雪羽は、荒々しく乱暴な子ではなかった。子供らしい活発さを見せる事もあるものの、むしろ繊細な子ではなかったか。天水はそう言っていた。

 

「やっぱり貴族の生まれだから小さい時から落ち着いているんだなって、私は妙に感心しちゃったりしていたんだよね。すぐ上の兄さんたちや、弟の三國とは結構派手にじゃれあったり喧嘩したりしていたからね。

 雷園寺家にいた雪羽君はそんな感じじゃなかったんだ。そりゃあもちろん子供らしくはしゃぐ時もあっただろうけれど、ずっと弟たちや妹の気を配って、喜ばせようとしていた優しい子だったんだ。その事は私も知ってるよ」

「……」

 

 天水の言葉を聞く雪羽は、相槌こそ打てど無言のままだった。過去の事とはいえ、手放しに褒められて気恥ずかしかったのだ。三國よりも年長の叔母であるのだから尚更だ。島崎先輩ならばこうした事にも慣れているのかもしれない。緊張のあまり、妙な事さえ考える始末だった。

 

「それでね雪羽君。君にはおよそ三十年ぶりに再会したんだけど……優しい所は昔と同じだって確信したんだ。千理兄さんから聞いたよ。あの日病室で時雨君と再会したとき、本当の兄弟、いや……仲睦まじい兄弟みたいに振舞っていたってね。時雨君の事は、次期当主の座を狙うライバルだとかそんな事を抜きにして、兄としての情をあの子に向けていたんだろう?

 しかもそれだけじゃなくて、君は弟妹達にプレゼントとかお年玉の工面もしてくれたみたいだし。三國君の許でお金とかの融通が利く身分じゃあないのにわざわざ、ね」

 

 だから雪羽君。天水の力強い呼びかけに、雪羽は居住まいを正した。妖力云々を抜きにしても、天水からは強さを感じ取っていた。大人としての強さなのだと雪羽は思っていた。

 

「君が憎しみとか怒りとかに囚われずにいて欲しいって、叔母として思ってしまったんだ。ましてや月華ちゃんももうすぐ子供を産んで……君の許には新たに弟妹が出来るだろう? ただそれだけだよ。エゴに過ぎないと言われればそれまでだけどね」

「そんな事は無いよ、天叔母さん」

 

 雪羽はそう言って静かに微笑んだ。視界を潤ませる涙が、喜びの涙なのか悔悟の涙なのか……雪羽には解らなかった。



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兄弟半妖 家路をたどる

 ここからは源吾郎君のターンだぜ!!


 時間は僅かに遡る。十二月二十八日の夕方。島崎源吾郎はキャリーケースの取っ手をひしと掴みながら、列車の中で揺られていた。参之宮から乗り付けたものの、時間が時間だったので座席に座る事は叶わなかったのだ。

 源吾郎はしかし、周囲の人たちに迷惑にならぬよう身を縮め、不満も特に感じずに立ち続けていた。既に夜が近い時間帯でもあるから、車内が混んでいるのは致し方ない。それに自分は若いし半妖でもあるし、立ちっぱなしでもそれほど問題はないからだ。

 更に言えば源吾郎が乗車しているのは新快速である。参之宮から赤石を抜けるまではほぼ各駅停車に近い快速とは異なり、神戸を抜ければほとんどの駅を素通りするので姫路まではあっという間である。

 新快速に乗れてよかった……その感情は早く実家に戻れることへの喜びなのだと、源吾郎は軽い驚きと共に悟った。齢十八で実家を出たのは源吾郎自身の意志だった。勤務地が遠いという事もあるが、それ以上に仔狐扱いされたり親兄姉たちの干渉から逃れるためでもあった。その辺りは雪羽とは完全に違っていた。彼の場合は、外的な要因のために親や保護者から引き離されてしまったのだから。

 その雪羽も、今はもう既に三國の許に戻っているはずだ。教育係である萩尾丸が雪羽を家まで送り届けた事は源吾郎も知っていた。彼もまた年末年始はべったり三國の許で過ごし、年始の仕事初めから萩尾丸の屋敷に戻る事が決まっていた。雪羽が三國の許に戻れる事で狂喜乱舞したのは言うまでもない。過去の境遇ゆえに家族との結びつきを大切にしたい思いが強かったし、何より雪羽はまだ精神的には子供なのだから。

 車内に流れるアナウンスを聞きながら、源吾郎はぼんやりと窓の外を眺めていた。外は既に暗く、ガラスの向こう側に広がる景色よりも、源吾郎自身の像の方がやけにはっきりと見えてしまう。暗いガラスはある種の鏡の役目を果たすのだ。

 ロングコートとマフラーで暖を取る、大人しそうな風貌の青年。薄暗いガラスの像はそんな風に源吾郎の姿を映し出していた。半妖と言えども三大悪妖怪・玉藻御前の血を引く異形には思えないような、ごく平凡な姿だった。

――俺が玉藻御前の子孫だって思うヒトはいないだろうなぁ

 同じ車両に詰め込まれた乗客を見ながら、源吾郎は密かにそう思っていた。玉藻御前の末裔だとは思われていない事に落胆せず、安堵の想いを抱えながら。

 仕事中や他の妖怪たちと会っている時と異なり、源吾郎は人間の姿に擬態していた。漂う妖気をご自慢の四尾ごと押し隠しているのだ。普通の人間や妖力が極端に少ない妖怪であれば、源吾郎を見ても単なる人間だと思うだろう。仮に本性がバレても、実はそんなに大した事にはならなかったりする。妖怪は血気盛んな連中ばかりではないし、人間に擬態している者はみだりに攻撃してはいけないという不文律があるからだった。

 そうと解っていながら源吾郎がいらぬ警戒心を抱いてしまうのは、単に彼が臆病だったからと言うだけではない。今年は源吾郎の身辺で妖怪絡みの出来事や事件が色々と起きた年でもあった。その事件の厄介さや恐ろしさを思い知っているからこそ、どうしても臆病風に吹かれてしまったのだ。

 

 駅を出て家路に向かう丁度その時、進む先に黒い人影が佇立しているのを源吾郎は目ざとく発見した。いつかの時とは異なり、謎の九尾様などではない。人間にほぼ近い存在であると、源吾郎はその嗅覚や相手の気から察知していた。半妖であるが故に、嗅覚や気を探知する能力は純血の妖狐たちよりもやや劣る。とはいえ、どちらの能力も十分人間離れした代物である事には変わりない。

 

「宗一郎兄様!」

 

 源吾郎はキャリーケースの取っ手を強く掴み、声を上げながら人影の方に向かって行った。人影は長兄の宗一郎だったのだ。人影のように見えたのは黒いロングコートを背広の上に着こんでいたからだ。それとは対照的に手には食材の入った白いレジ袋を提げている。

 その宗一郎は、ともすれば息子のように扱っていた末弟の姿と声を認めると、頬を火照らせたまま微笑んだ。

 

「お帰り源吾郎。こっちには今着いたところかい?」

「お帰りって……まだここは家の中じゃないよ。でも、こんな所で兄上に会えるなんて凄い偶然だなぁ」

 

 源吾郎の言葉に、宗一郎は声を出して笑っていた。寒くないように首許をマフラーで温めているも、やはり頬の赤みがやけに目立った。

 

「ははは。確かに偶然って奴だろうな。僕だって母さんたちに頼まれて買い物をして、それでこれから帰ろうと思っていたからね。何、源吾郎の姿だって()()()()見かけただけだよ。とはいえ、合流出来たのは都合が良いな」

 

 あ、兄上は()をついている。長兄の話を聞いていた源吾郎はすぐに気付いてしまった。宗一郎は偶然源吾郎が帰って来るのを見かけたのではない。源吾郎がここを通るまで()()()()()()()()()()()のだ。その真相を源吾郎は察知してしまったのだ。

 宗一郎の頬の火照りは源吾郎に会った興奮と喜びに染まっているだけではない。寒さにさらされたが故の物なのだろう、と。

 源吾郎はしかし、真実に気付きつつも気付かないふりをする事にした。宗一郎の考えや思いは源吾郎にも手に取るように解る。息子のような末弟を心配しつつも、重く深く心配している事を悟られたくはないのだろう。さもなければ素直に「源吾郎が来るまで待っていた」と言うはずだろうし。

 

「それにしても、年末と言えども全員揃うのは珍しい事だから嬉しいよ」

「兄上たちも姉上ももう戻ってるの?」

 

 頓狂な声を上げて源吾郎が尋ねると、宗一郎はゆったりと頷いた。当然のようにその面には笑みが浮かんでいる。

 

「今回は庄三郎がきちんと戻ってきたからなぁ。あいつ、自営業で一番身軽なはずなのに、製作だのなんだのと言って実家に戻らない事が多かったんだよ。連絡を寄越しても源吾郎みたいにマメに返事もしてくれないし……とりあえず一安心だよ」

 

 画家って自営業の一種になるのか……宗一郎の言葉を聞きながら、源吾郎はほんの少し首をかしげてもいた。まぁ宗一郎は根っからのサラリーマン、それもお堅い総務か人事の仕事に就いているから、画家と言う職業についてそのように解釈してしまう物なのかもしれない。

 源吾郎はそれよりも、庄三郎の心境が気になってもいた。恐るべき妖狐の能力を受け継ぎながらも、しかしそれ故に世捨て人みたいな生き方を選んだ庄三郎は、そもそも他人と関わる事を好まない性質であった。それは身内に対しても多少は働いており、美大生だった頃から親兄姉たちとは距離を置いて暮らしていたのだ。他ならぬ宗一郎とて、庄三郎からは中々連絡が返ってこないと言っていたではないか。

 弟である源吾郎とは比較的積極的に交流を図る庄三郎であるが……それは源吾郎が弟であり、尚且つ庄三郎の魅了の力が効かないからであるらしかった。源吾郎が生まれるまでは末っ子だった庄三郎であるが、兄姉らには彼なりに遠慮したり、素の自分をさらけ出せない部分もあるらしかった。

 まぁ末の兄の思惑については今考えるべきでは無かろう。源吾郎はそこで考えをいったん打ち切った。どの道家に戻れば庄三郎に会える訳だし、彼とて話したい事があれば源吾郎に打ち明けるだろうから。

 そう思っている間に、宗一郎は再び口を開いていた。

 

「あとは双葉と誠二郎はもう既に職場の忘年会は終わっていて、それで仕事納めの今日からこっちに来れたみたいでな。忘年会があると、どうしても夜遅くなるだろう?」

「そりゃあそうだろうね。双葉姉様も誠二郎兄様も良い歳だし。あ、でも誠二郎兄様はギリ二十代だったか」

「そう言えば源吾郎。君の所は忘年会はあるのかい?」

 

 ぐっとこちらを向いて問いかける宗一郎に対し、源吾郎は半ば反射的に首を振った。

 

「ううん。今年は特に無いんだ。まぁ何というか……うちの職場も今年の年末は色々と込み入った事があってね。忘年会は抜きにして、その代わりに新年会を豪勢にやろうって事になってるんだ」

 

 詳しい事情は話さなかったが、源吾郎の言葉には嘘はない。

 元々確かに、紅藤たち研究センターの面々も、忘年会は予定していたのかもしれない。しかし研修生である雪羽の事を考慮して忘年会を取りやめにしたような物だった。雪羽の養母である月華がいつ子供を産んでもおかしくない状況下であるから、雪羽もそれどころでは無かろう。これが忘年会取りやめの直截的な理由なのだ。

 上の、恐らくは紅藤か萩尾丸の下した判断に源吾郎は異存はなかった。義理の息子として月華の事を雪羽がひどく気にしていた事は源吾郎も知っていたし、上がそう判断するのならばやむなしと思って受け入れてもいたのだ。

 それに考えてみれば、源吾郎も源吾郎で、実家に帰る事やその間ホップをどうするかなどで頭が一杯でもあった。飲み会のような場を苦手とするわけでもないが、集まる面子が研究センターの面子ともなれば、場の雰囲気も大体想像できてしまう訳であるし。

 そんな風に呑気に考えていた源吾郎であるが、隣を歩く宗一郎はいつの間にやら思案顔となっていた。

 

「そうか、まぁ源吾郎の所の上司たちは……結構ベテランと言うか()()()()()()()()()()もんなぁ。そりゃあ年末だから忘年会、と言うルーチンにも飽きてらっしゃる可能性もあるだろうし」

 

 妖怪の許で働いている事を知りつつも、宗一郎は()()と言う単語は使わなかった。通行人に聞かれる事を考慮しての事であろう。もっとも、源吾郎がこっそり認識阻害の術を使っているので、誰かに聞かれたとしても取り留めもない雑談として処理されるはずなのだが。

 結構なベテランで長く働いている。そのように紅藤たちの事を評した事に、源吾郎は密かに感嘆していた。物は言いようだな、と。

 宗一郎はそれから、窺うような眼差しでもって源吾郎の瞳を覗き込む。光る筈のない黒目が光ったようにも見えた。

 

「ともあれ源吾郎。新年会では無礼講と言う事で盛り上がるかもしれないが、くれぐれもお酒に手を出さないように。君は社会人と言えどもまだ未成年なんだからね。

……田舎の職場だから、或いは上司の方から飲むように勧められるかもしれないが……」

「そこんとこは大丈夫だよ、兄上!」

 

 既に来年の事、新年会の事を心配し始めている宗一郎の言葉を遮り、源吾郎はポメラニアンよろしく声を上げた。

 

「実はその……本社の方でお酒絡みのトラブルがあってね。それはもう研究センターの上司たちもバッチリ知ってるから、俺らがうかうかお酒を飲むなんて事は紅藤様も萩尾丸先輩も承知しないはずさ」

「そうか。それなら良かったよ」

 

 思わず雪羽のグラスタワー事件の事をチクってしまった源吾郎であったが、宗一郎が安心したような表情を浮かべたので胸をなでおろしてもいた。だがまぁあの一件で研究センターの面々が若妖怪の飲酒や乱痴気騒ぎを警戒している事には違いない。

 そうでなければ雪羽の護符に、飲んだ酒が片っ端から酢になるなどと言うまだるっこしい細工などしないだろう。もしかしたら知らないだけで、源吾郎の護符にもそうした細工が施されているかもしれないし。

 さてそうこうしているうちに、二人は実家の門前までたどり着いていた。門灯は橙色に輝き、暖かく兄弟を出迎えているようだった。




※源吾郎が未成年:物語の舞台が2017年であるため、18歳の源吾郎は未成年と見做される。宗一郎が未成年と言ったのはそのためである(筆者註)

 紅藤様は下戸なんですぐに寝てそうです(偏見)


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人妖混じりし団欒の夜

 開いた玄関から宗一郎と源吾郎の兄弟を出迎えたのは、父親の島崎幸四郎だった。ばたばたとした足音と共に、二番目の兄・誠二郎も姿を現す。満面の笑みをたたえて出迎える父の姿に、源吾郎は一瞬度肝を抜かれたような思いを抱いた。玄関で出迎えるのは母親か長兄であろうと思い込んでいたからだった。

 だが、と源吾郎は即座に考えを改める。もう夜の良い時間であるし、母の三花は夕食の準備を進めているのだろう。それに宗一郎は源吾郎と共に帰路を辿っていた訳であるし。

 

「ただいま父さん。途中でばったり源吾郎と出くわしてね。それで話ながら一緒に帰ったんだよ」

「そうか。それは良かったじゃないか」

 

 父親と長兄は言葉と笑顔を交わしていた。話している間は、もちろん父の視線は長兄に向けられている。しかしすぐに、末息子たる源吾郎をしっかと見やった。かさばるキャリーケースを引いている事だし、源吾郎は宗一郎が上がり込むまで待っていたのだ。

 

「ああ、本当に久しぶりだな源吾郎……すっかり逞しくなって……」

 

 のっぺりとした面を興奮で火照らせ、幸四郎は感極まったように語り掛けていた。およそ八か月ぶりに息子を出迎える父の図と言うにはちと大げさな気もするが、そういう物なのだと源吾郎は割り切るほかなかった。

 元より幸四郎は末息子の源吾郎を痛く気にかけ、ほぼほぼ甘やかすように接してきたのだから。源吾郎も父親の寵愛を受け入れた上で、時にそれを利用する事さえあった。何故幸四郎がここまで源吾郎を可愛がるのか、その根源的な理由までは源吾郎は知らなかった。孫ほどに歳が離れているからなのか、容姿が自分に似ているからなのか、或いは妖狐の血をもっとも色濃く継いでいるからなのか。その辺りは定かではない。

 源吾郎に解るのは、幸四郎に猫かわいがりされて甘やかされる事を、父と自分以外の家族も承認しているという事だけだった。母親はもとより、兄姉たちですら源吾郎が父親に特別可愛がられているのを容認しているのだ。兄姉らは源吾郎が父に寵愛される事に対して嫉妬や怨嗟の念は無かった。彼らにとっても、源吾郎は幼くて可愛い仔狐に過ぎなかったのだから。

 もっとも、世間で言う厳しい父親と言う役割は長兄の宗一郎が担っていたので、源吾郎もただただ甘やかされて育っていた訳でもないのだが。宗一郎こそが源吾郎の父親であると見做される事もままあったが、それは年齢差だけではなく宗一郎の()()によるところも大きかったのである。

 さて宗一郎がリビングへ向かうのを確認してから、源吾郎もそれに続く事にした。車輪を拭くためのタオルをコートから取り出し、たたきの上に広げる。

 そうしてキャリーケースを持ち上げようとした丁度その時、未だに玄関にいる幸四郎がゆらりと動いた。

 

「源吾郎。荷物は父さんが運ぶから、な。母さんも双葉たちもリビングで待ってるから、先に行って顔を見せてやるんだ」

 

 幸四郎の火照った頬にははっきりと笑みが浮かんでいた。突然の事に戸惑いつつも、これもこれで父らしいと源吾郎は思いはしたが。

 だが、その父の動きを制したのは誠二郎だった。そしてそのままキャリーケースの取っ手を大きな手で掴み、軽々と持ち上げたのだ。工場勤務で時に重労働も伴うという事もあり、誠二郎は細身ながらも膂力は十分にあった。

 

「父さん。急に荷物を持って腰でも()()()()()大変だからさ……あ、でもそんなに重くなかったかも」

「誠二郎兄様。荷物言うても着替えとかそんなのを入れているだけなんだ。五、六日は滞在するからちょっと多めに持ってきちゃったんだけど」

 

 五、六日は滞在する。この言葉に父と兄が反応したのは言うまでもない。幸四郎はあからさまに喜色を浮かべていたし、誠二郎はほっとしたような表情を見せていたのだ。もちろん、両者の気持ちの違いは投げかけられた言葉にもはっきりと表れていた。

 

「宗一郎兄さんも喜ぶだろうね。源吾郎の事だから、三が日が明けないうちにねぐらに戻るんじゃないかってやきもきしていたみたいだし。

 だけどな源吾郎。別に俺たちや父さんたちに付き合って、ずっとべったりいなくても良いんだよ。源吾郎も源吾郎の用事があるだろうし、それこそ友達との約束とかがあるんなら、そっちを優先しても良いんだから……」

 

 誠二郎は源吾郎を見下ろしながらつらつらと語りかけていた。普段の、控えめで寡黙な雰囲気とは打って変わっての長広舌である。それでも押しつけがましい感じが無かったのは、ひとえに彼の控えめな気質ゆえの事であろう。

 源吾郎は誠二郎の顔を見つめながらにっこりと微笑んで頷いた。

 

「兄上も気遣ってくれてありがとう。うん、俺は大丈夫だよ。むしろずっと家にい過ぎって母様に叱られちゃうかもしれないかもって、それ位しか心配事は無いからさ」

「まさか! 流石にそんな事は無いだろ源吾郎!」

「母さんが源吾郎を追い出すなんて事は無いに決まってるさ。もしそんな事があったら父さんが説得するからな。安心しろ源吾郎」

 

 源吾郎の冗談は受けたらしく、父も兄も軽く吹き出していた。全くもって朗らかな笑い声である。

 母親に追い出される云々は冗談ではあるものの、源吾郎は正月休みの最終日の前日までは実家に逗留しようと考えていた。ホップについてはその間青松丸と紅藤が面倒を見てくれる事であるし、特段年末の予定は入れていない。

 強いて言うならば雪羽あたりが初詣や遊びに誘う可能性も視野に入れている。だがそうなる可能性はかなり低いであろうと源吾郎は見積もっていた。何せ月華のお産がすぐ傍まで控えており、雪羽はその事を相当気にかけていたのだから。その上彼は、家族との団欒や繋がりを重要視しているのだ。その考えを源吾郎に伝え、更にはそれとなく押し付けてくる事も日常茶飯事だったのだから。

 

 両親と五人の兄弟が珍しく揃った食卓を彩るのはとんかつなどのフライだった。もちろん付け合わせのキャベツやブロッコリーなどの温野菜類もきちんと添えられていた。

 やったとんかつやん。しかもジャガイモのフライもあるし……! 源吾郎は夕食のメニューを前にテンションが上がっていた。狐の好物はネズミの天ぷらと言われるように、妖狐は揚げ物が好きな個体が多いのだ。そうでなくとも源吾郎は食べ盛りであるし、何より「おふくろの味」は久しぶりなのだから。

 もちろんそれは、宗一郎以外の他の兄姉らも同じ事かもしれないが。

 ともあれ、歓喜と感慨の狭間にて一家が揃う夕食が始まったのだった。

 

「源吾郎が逞しくなったってお父さんも言ってたけれど、本当になんかシュッとした感じになったわよねぇ」

 

 感嘆の声を漏らしたのは、母の三花だった。チキンカツを食べる箸を止め、末息子の姿をしげしげと眺めている。その母の眼差しに驚きの念が籠っている事に気付き、源吾郎は密かに喜んでいた。玉藻御前の孫娘である母が肝の据わった妖物である事、滅多な事では驚かない事は源吾郎も良く知っていた。

 だからこそ、他ならぬ源吾郎の姿によって母を驚かせることが出来たと知り、無邪気な優越感に浸ってもいたのだ。シュッとしたって、痩せたんじゃあないだろうな源吾郎。長兄たる宗一郎は、神経質そうに眉を上下させつつ末弟の様子を窺っていたのだが。

 

「宗一郎兄様ぁ。確かに春から一、二キロくらい体重は落ちたけど、別にまぁそんなに痩せた訳じゃないから大丈夫だって。元々からして標準体重に近いって言うか……ちょっとずんぐりしているように見えちゃってたし」

「ずんぐりしているのは骨格の影響で、源吾郎自身はそんなに肥ってないでしょ? 何かこう贅肉とかなさそうだし。何なら確認してあげよっか?」

「双葉姉さん。どさくさに紛れてその発言はマズいと思うんだけど」

 

 宗一郎の問いに答えただけの源吾郎であるが、他の兄姉である双葉や誠二郎も思った事などを口にしている。兄上たちも姉上もめっちゃ俺に関心を持ってるやん……源吾郎は嬉しいというよりもちょっとだけ戸惑ってしまった。姉の双葉が、源吾郎を含めた弟たちで遊ぶ事を楽しむ性質であると知っていたにもかかわらず、である。

 それよりも誠二郎が積極的に絡んでくるのもまた新鮮だった。と言うのも、三人の兄たちの中でも、二番目の兄である誠二郎との接触が一番少なかったためだ。別段不仲と言うわけでは無いのだが、微妙な年齢差や立ち位置が、二人に微妙な関係性をもたらしているのかもしれなかった。更に言えば、誠二郎は兄姉らの中でもいっとう人間の血が濃かった。妖狐の血を色濃く受け継ぎ、幼少期より妖怪としての自我を育んできた源吾郎と接点が薄いのも無理からぬ話であろう。

 

「ともあれ源吾郎。お前も実家を出て一人で頑張って暮らしているんだな。本当に、父さんは嬉しいよ」

 

 父親の言葉に、源吾郎ははにかんだように笑い返すのがやっとだった。笑い皺の出来たその目元に、光る物を見てしまったのだから尚更だ。

 思わず浮かんだ嬉し涙に気付いていないのか、幸四郎はなおも言葉を続ける。

 

「まだ源吾郎の事はほんの子供だって思っていた節があったけれど……やっぱり社会に出たから、ぐっと大人っぽくなったな」

「そうだよね父さん! えへへ、俺も就職したし、そりゃあまぁ大人っぽくもなるだろうさ」

 

 社会妖になって大人っぽくなった。他ならぬ父親の言葉に、源吾郎は無邪気に良い気分になっていた。末っ子の仔狐扱いが慣れていたと言えども、ずぅっと子供扱いされるのは性に合わない。

 だからこそ、笑顔のまま源吾郎は深く考えずに言葉を紡いだのだ。

 

「こんな事自分で言うとアレかもしれないけれど……俺もここ数か月は成長したなぁって我ながら感じる事もあるもん。社会人として、んでもって妖怪としてね」

 

 妖怪として。社会人云々の事を言及していただけにも関わらず、その言葉すら源吾郎は口にしていた。もちろん、その時兄姉たちが、特に長兄がどのような表情になっているのか、全く気にも留めずに。

 笑顔ともドヤ顔ともつかぬ表情のまま、源吾郎は言葉を重ねる。

 

「職場では戦闘訓練もやってるんだ。他の妖怪と闘う訓練なんだけど、そのお陰で使える妖術も妖力そのものも増えたかなって思ってるんだ。

 でも最近は同僚? の……雷獣の子とやり合う事が多くてね。そいつがまた強くて中々大変なんだよ。言うて二回くらいは俺が勝ったけど」

 

 雷獣の子と言うのはもちろん雪羽の事である。いつの間にか研究センターの研修生になっていたし、処遇は違えど同じ場所で働いているから同僚みたいなものである。呑気にそう思っていたまさにその時、源吾郎は鋭い視線が向けられている事にようやく気付いた。

 視線の主は長兄の宗一郎だった。眼鏡の奥にある瞳は大きく見開かれている。信じられないようなものを見る様な眼差しだった。

 

「戦闘訓練に妖怪と闘うだって……源吾郎、お前はそんな危ない事を職場でやってるのか?」

 

 末弟への気遣いと、妖怪らしい振る舞いに対する恐怖のために、宗一郎の声は震えていた。人間は妖怪を怖れると言うが、妖怪の血を受け継ぐ半妖とてそういった傾向はある。ましてや、源吾郎や雪羽などは普通の妖怪たちですら実力者だと一目を置き、恐れをなしているくらいなのだから。

 水を差されたような気分になりながらも、源吾郎は頷いた。

 

「宗一郎兄様。言い方は物騒かもしれないけれど、戦闘訓練なんてのはそんなに物騒な物じゃあないんだよ。言うて力較べとか……スポーツみたいなものさ。俺の、俺たちの身の安全に関しては、上司たちも危なくないようにって色々と配慮して下さっているしさ」

 

 宗一郎の目の色が先程とは変化する。得体のしれないモノへの恐怖を押しとどめ、どうにか納得しようと奮起しているのを、源吾郎は見て取ったのだ。

 その事に気付いた源吾郎は、のっぺりとした面に妖狐らしい笑みを浮かべて言い添えた。

 

「闘うなんて、源吾郎には必要のない事だ――宗一郎兄様はそう言いたい所でしょうね。兄様は家族の中で一番俺が人間として育つ事を望んでいたみたいだからさ。

 でもね宗一郎兄様。俺の事はもう昔みたいにあれこれ心配しなくても大丈夫なの。大丈夫だし……今更兄上たちや姉上がとやかく言って、俺の生き方が変わるとでも思う?」

 

 渋面を浮かべる宗一郎の顔に僅かに笑みが広がるのを見、源吾郎はうっそりと満足していた。

 源吾郎は知っている。長兄の宗一郎が源吾郎を息子のように扱っていた真の理由を。異形・妖怪としての源吾郎を最も恐れ、()()()()()()()()()()()()()()()()から。それこそが父親のように振舞う宗一郎の真意だったのだ。

 ずっと独身で仕事に没頭しているように見える宗一郎であるが、少年時代は無邪気に()()()の生活が出来ると彼は思っていた。要するに好きな女性と結婚し、子供を設けて家族を作るという暮らしの事だ。もちろん宗一郎も妖狐の血は流れていたのだが、気質も自我も人間に近いから、どうにでもなると宗一郎は考えていたそうだ。実際問題宗一郎は優秀な若者であり、勉学も青春もおのれの思うとおりになっていたのだから。

 その青写真をぶち壊したのが、他ならぬ源吾郎の存在だったのだ。生まれつき三尾を具え、妖力を放ち、しかも妖怪としての自我の持ち主である。同じ父母から生まれた弟ながらも、ソレが異形そのものに思えたのは無理からぬ話だろう。生まれた直後などは、本当に狐と人が融合したような姿だったとも言われているのだから。

 もしかしたら自分の子も、弟みたいに異形の仔になるのではないか……そんな考えに宗一郎は取り憑かれてしまったのだ。それ以降は女性との交際や結婚を諦め、何かと源吾郎に構うようになったわけである。弟が人間として育てば大丈夫かもしれない。そんな考えが宗一郎の脳裏にあったそうだ。

 十八年にわたる長兄と末弟の関わりの裏には、異形に対する恐怖心と自分本位な願望によって成り立っていたのだ。源吾郎がその事を知ったのは高校性になってからの事だった。

 断っておくが、宗一郎の真意を知ったからと言って、源吾郎は別に憤慨した訳ではないし、今も別に腹立たしく思ってはいない。人間が妖怪を怖れる事は嫌と言う程知っていたし、その頃は宗一郎も若いどころか青少年だったのだ。生真面目な気質も相まって、思いつめてしまうのもやむなしと言った所だろう。

 それに何より源吾郎も何だかんだで長兄の事は保護者として兄として慕っていた。思惑は不順だったのかもしれないが、それでも兄は自分の事を気にかけてくれていたのだから。そもそも源吾郎は、徹頭徹尾妖怪として生きるという目標をぶち上げ、現在それを成している。宗一郎の自分本位さを糾弾できない程に、源吾郎も身勝手に生きてきたのだ。だからその点では()()()()だった。

 

 さて自分が逞しくなった理由を述べ、ついで兄を言いくるめた事で源吾郎は気をよくしてはいた。だからこそ、低くどっしりとした声でおのれを呼ぶのを聞いた時、少しばかり驚いてしまった。宗一郎がまた呼びかけたのかとまず思ったからだ。

 だが声の主は、長兄ではなく父親だった。

 

「源吾郎。折角家に戻って兄さんたちに会ったんだから、生意気な事を言って困らせるもんじゃない。お前だってもう仔狐じゃあないんだから、解るよな」

「……はい」

 

 源吾郎は軽い衝撃を受けながら頷いた。父の口調は穏やかであったが、父にたしなめられた事こそが源吾郎にとっては驚きだったのだ。

 幸四郎はほんのりと笑みを浮かべながら言い添える。

 

「何。源吾郎の進路や今後の生き方については、去年の親族会議できちんと決まっただろう。その事について父さんも母さんも異存はないから、源吾郎だって別に堂々としていればいいんだ。その方が、お前が目指している大妖怪らしいだろう」

 

 父の言葉に、源吾郎はまたも頷いた。しおらしく反省する息子の態度に満足したのか、父は今度は宗一郎に視線を向けたのだった。

 

「宗一郎。君も何かと源吾郎の事を気にかけてくれて、父さんでは出来なかった事を色々とやってくれた事には感謝しているよ。だけどな、源吾郎の事は必要以上に心配しなくて大丈夫だと、父さんは思っているんだ。

 確かに源吾郎は、宗一郎たちと違って妖怪として生きていこうとしている。だけど野放図に生きているんじゃなくて、信頼できる相手の許で働いていて、そこで色々なルールを学んでいるんだ」

 

 そうだろ母さん。話題を振られた三花はその通りだと頷いていた。

 

 未だ残っているフライに手を付けるのも忘れ、源吾郎は幸四郎の言葉に静かに耳を傾けていた。

 幸四郎が源吾郎の父である事はもちろん知っていた。だが、父親としての、或いは一家の長としての威厳を目の当たりにしたのはこれが初めての気がした。

 しかしだからこそ、玉藻御前の孫娘を妻として娶り、異形の血を色濃く受け継いだ息子を息子として受け入れる事が出来たのだ。そのように源吾郎には思えたのだった。




 パッパである幸四郎さん、半妖の三花さんと結婚して、(血は薄くなったとはいえ)半妖の子供らを受け入れて父親として接していたんですよね。
 なので源吾郎君視点ではぼんやりおっとりとした大人に見えても、実は結構しっかりした人なのでは……と思いました。
 ともあれ幸四郎さんの威厳を書く事が出来て満足です。


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親子狐の半妖談議

 源吾郎の寝室は、彼が実家を出るまでに自失として使っていた部屋があてがわれた。ちなみにこれは、末の兄である庄三郎と相部屋でもある。

 兄との相部屋になる事については異存はなかった。実家にいた時から、そもそも自室は相部屋同然の物だったのだから。男の兄弟が多く、尚且つ末っ子であるからそういう物なのだと幼い頃から思っていた。

 余談であるが、誠二郎は長兄の宗一郎の部屋で休み、長姉の双葉はひとり空き部屋をあてがわれていた。兄弟の数は多くとも、男女で部屋を分けるという方針は揺るがないのだ。

 

「この部屋も久しぶりだけど……なんかホッとするかも」

「そりゃあ、源吾郎は去年まで実家暮らしだったもん」

 

 さて、団欒を終えて部屋に向かった源吾郎は、一緒にやってきた庄三郎と言葉を交わしていた。既にリラックスし始めている源吾郎とは異なり、庄三郎は緊張しているらしく何となく落ち着かない様子だ。

 

「源吾郎。君が成長したって事を伝えたり、皆に認めて欲しかったのはよく解かるよ。だけど、流石に戦闘訓練を引き合いに出すのはマズかったみたいだね。宗一郎兄さんがびっくりするのも致し方ないよ」

「ううむ……兄上の言うとおりだよ」

 

 庄三郎の忌憚なき指摘に、源吾郎は唸りながらも頷いた。やっぱり調子に乗っていたのだ。冷静さを取り戻した源吾郎は、指摘されるまでもなくそう思い始めていたからだ。平素、雪羽に対して「こいつちょっと調子に乗ってるなぁ」と思って笑ったり呆れたりした事もままあったが、自分もどっこいどっこいではないか。

 

「まぁその……普通に会社員生活をやってるって言っただけでもね、父さんも母さんも兄さんたちも皆安心するって僕は思うんだよ」

 

 近況報告として、それはいくら何でもショボ過ぎないか……半信半疑で話を聞いていると、そんな心中を察したかのように庄三郎は微笑んだ。

 

「会社員生活に順応できるって、それだけでもうとてもすごい事なんだよ源吾郎。君も知っている通り、僕にはそう言うのは無理だからさ。しかも、源吾郎はそれを十八から始めているんだよ。兄さんたちや姉さんたちだって、社会人になったのは大学を出てからだから二十二、三の頃だし……」

 

 庄三郎の言葉に、源吾郎はまたも唸った。彼の言わんとしている事は十二分に伝わってきたのだ。会社員生活に順応している。その事を純粋に凄い事であるという言葉と気持ちは、庄三郎が放ったから()()途方もない説得力を伴っていたのだ。

 何せ彼は芸術家として暮らしており、会社勤めを行った事は無いのだから。不定期ながらも何故か途切れない絵の収入で普段は喰い繋ぎ、それが危うくなったら単発バイトにのっそりと繰り出して収入を得る。末の兄は二十二で美大を卒業したのだが、それからはずぅっとそのような暮らしを続けていたのだ。

 彼の気質上、庄三郎が会社や社会の歯車として生きる事は難しいというのは源吾郎にも解っていた。或いは庄三郎が能力を使えば、働かずとも誰かから金品を巻き上げる事とて可能であろう。だがそう言った目的で、庄三郎が能力を濫用しない事は源吾郎にはやはり明らかだった。それこそ、源吾郎がイケメンや美青年に変化しないのと同じ事である。

 庄三郎はその気になれば()()()()()()能力を持ち合わせているのだが……その能力をもってしても、()()()()()()()()()()()()()事は出来なかった。皮肉な話だが、世の中と言うのはそういう物なのだろう。

 末の兄の綱渡り生活について、源吾郎が出来る事は何もない。自分が何を言った所で、彼の暮らしを変える事は不可能だと解っているからだ。

 だが、源吾郎ももう就職し、安定した収入を得た身分である。資金援助と言う大それたことは出来ないが、お年玉を渡すくらいならばできるだろう。老いた両親は言うに及ばず、不器用な末の兄のお年玉も、心づけながらも源吾郎は用意していた。上の兄姉たちには用意していないのが若干心苦しいが……兄姉らは兄姉らでやはり就職しているから大丈夫だろう。

 とはいえ念には念を入れて、庄三郎と二人きりの時に、彼の分のお年玉は渡す事にしておくが。

 それにさ源吾郎。何かを思い出したのか、庄三郎はぱぁっと明るい笑みを浮かべ、源吾郎に言い足した。

 

「会社勤めって話だけだったら味気ないって思うんだったらさ、それこそ雷獣の子と……雷園寺君と仲良くなったって言えば良かったんじゃないの? さっきの戦闘訓練がどうとかっていうのも、あの子の事でしょ?」

「うん、うん。庄三郎兄様の言うとおりだよ」

 

 源吾郎は二度頷いてそう答えた。雪羽とバチボコに戦闘訓練を繰り広げていた事も、色々と事件やら何やらがあったものの彼と仲良くなった事もまぎれもない事実だった。そもそも庄三郎は、あのギャラリーの場で、源吾郎と雪羽が協力して事件に臨んだ事も知っている。

 

「ねぇ源吾郎。雷園寺君は元気かな? 前に会ってから、もう一か月くらい経ってるし」

「……あ、うん。あの子も元気に仕事をやってるよ」

 

 庄三郎の問いかけに、源吾郎はややたどたどしく応じた。いかな雷獣の雪羽の話題が出たとはいえ、こんな質問を投げかけられるとは思っていなかったからだ。

 

「まぁでも……俺と違ってあいつはこの年末年始は忙しいんだ。育ての親に当たる妖が、もうすぐ子供を産むって事でさ」

 

 そう言ってから、源吾郎はふとひらめいて先程の言葉を訂正した。

 

「要するに、雷園寺君には弟妹が新しくできるんだよ」

「そりゃあ大事だよ」

 

 弟妹の誕生。その言葉に庄三郎は納得したように頷いていた。源吾郎も末の兄が納得した事を彼の様子を見て理解していた。庄三郎は源吾郎の兄なのだ。だから、母親が新たに子を産む事、弟妹が出来る事がどのような事なのかを知っている。

 

「雷園寺君は家族思いの子だもんね……あ、僕より年上なのに子、なんて言っちゃったらマズかったかな?」

「別に大丈夫だよ兄上。妖怪と半妖じゃあ成長速度が違うもん」

 

 そう言った後も、庄三郎と交わす話の中心に雪羽の存在が陣取っていた。共通の知り合いだから自然な事であろう。

 更に言えば、雪羽は庄三郎の絵を購入する。そのような事まで約束していたらしいのだ。源吾郎はその事を知らなかったので面食らい、雪羽の顔を思い浮かべてしばし苦い表情を浮かべてしまった。

 

「あら源吾郎。お風呂なら今丁度双葉が上がった所だから、今は誰もいないわよ。他の子らが入る前にサクッと入っちゃいなさいな」

 

 夜過ぎ。一階リビングに舞い戻った源吾郎は、入浴するでもなくそわそわと周囲の様子を窺っていた。その彼に声をかけたのは、母親の三花である。そして彼女の言葉通り、お風呂上がりの双葉が洗い髪をタオルとドライヤーで乾かしながらウロウロしている。お風呂上りと言ってもスウェット姿なので、特に問題はない。

 

「俺は最後に入るよ。やっぱりその……抜け毛とか凄そうだし」

「そこまで気が回るようになったのね。やっぱり成長したじゃない」

 

 母親の言葉に源吾郎は照れたように笑う。父親と長兄は何処にいるのか。ややあってから源吾郎は三花に問いかけた。

 

「お父さんと宗一郎ならお父さんの部屋にいるわ。ほら源吾郎。さっき雷獣の子の事を話に出したでしょ。多分三國君の所の雪羽君の事だと思うんだけど。そうしたらお父さん、あの子に会った時の写真があるって事を思い出しちゃって……それで今書斎に籠っちゃったのよ。

 あの子に会ったって言うのも宗一郎たちもうんと小さい時だったから、探すのにかなり時間がかかるんじゃないかしら」

「雷園寺君の、ちっちゃい時の写真がうちにあったなんて……!」

 

 思いがけぬ言葉を耳にした源吾郎は、思わず感嘆の息を漏らしていた。三國と苅藻や幸四郎の計らいで、雪羽と宗一郎たちが顔合わせした事は源吾郎もうっすらと聞き及んでいる。しかしまさか写真などが残っているとは。

 幼い頃の雪羽がどういう感じなのか。写真があると聞けば急に気になってしまうのもまた人情であろう。良い感じのイケメンに育っているので、きっと可愛らしい子供雷獣だったはずであるし、本来の姿も可愛い仔猫に違いない。そのように思いを馳せていた。

 ところで源吾郎。優しくも、好奇心に満ちた母の呼び声で源吾郎は我に返った。

 

「お父さんや宗一郎に謝りたいんでしょ。でもそんなに焦らなくて大丈夫。明日になればまたお父さんたちとも顔を合わせるでしょうし、そもそもお父さんも宗一郎もそんなに気にしてないわ」

「母上……」

 

 三花の言葉に、源吾郎はしんみりとした気分になっていた。謝るという具体的な所までは流石に考えてはいない。しかし父や長兄と話がしたい。漠然とそのような思いを抱えていたのもまた事実である。

 

「父さんが父親としての……何というか大黒柱としての威厳みたいなのを感じたから、俺もちょっとびっくりしちゃってさ。母様たちは玉藻御前の子孫で凄いって思ってたけど、父さんは普通の人間だってずっと思ってたから」

()()()()()()()()()()()()()()()。それはあくまでも源吾郎の思い込みに過ぎないわ」

 

 源吾郎のつっかえながらの呟きを、三花は鼻で笑った。

 

「もちろん、源吾郎の視点から見たあの人はごく平凡な人間に見えるかもしれないわね。宗一郎とか双葉の時と違って、あの人も源吾郎には割と甘いし。それに源吾郎も子供だったから、幸四郎さんの姿と言えば、家でくつろいでいる姿とか、そんなのばっかりだったものね」

 

 確かに幸四郎は、特別な能力を持った人間ではない。一呼吸おいてから三花はそのように前置きした。

 

「でもね源吾郎。術者じゃないとか能力が無いからって幸四郎さんが普通の人間であるという事とは繋がらないのよ。源吾郎。幸四郎さんはあんたを含めた()()()()()……半妖であり妖怪の血を引いている事も込みで()()()()()()()()()()()()()()()()()()のはあんただって解るでしょ。普通の人間だったら、子供が異形の血を引いていると解れば恐れをなしてその子を打ち棄てたとしてもおかしくないの」

 

 三花の言葉に、源吾郎は頷かざるを得なかった。やはりまぎれもない事実だと思ったからだ。

 幸四郎は源吾郎たちの父親であり、父親としての責務を果たしていた。源吾郎に対しては孫のように甘やかし、いっそ世間で言う祖父と孫のような関係性だったのかもしれないが、それでも保護者として、実の父親としての役割はきちんと押さえていた。

 また、異形の仔に恐れをなして親が打ち棄てるという話も、そう言う事もありうるのだと思わざるを得なかった。そうでなくとも親が子を棄てるという事件はニュースで報じられているではないか。それに何より、純血の妖怪であるが雷園寺雪羽は実の父親に棄てられ、だからこそ叔父の許で暮らす事になったのではないか。

 三花の提示した二つの事柄は、源吾郎の心を大きく揺さぶる説得力を伴っていた。しかしその心の揺さぶりの大きさこそが、父の度量の大きさでもあると源吾郎は思ってもいたのだ。息子として、一人の男として源吾郎は幸四郎の事を見直していた。

 だが、三花の主張はそれで終わりではなかった。

 

「そもそもとして、夫として一緒にいても構わない、子供を産んで育てても大丈夫。そんな風に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んですからね、幸四郎さんは。

 つまらぬ男だったり、間違っても私に子供産ませて利用しようと目論む男だったとしたらどうなるか……源吾郎だって解るでしょ?」

「……はい……それはもう……」

 

 先程とは異なる意味で心に揺さぶりをかけられ、源吾郎はしどろもどろに頷いた。幸四郎と三花の結婚生活とその先に続く家族生活は、完全に両者の合意によって成り立っている。その事をいささか過激な内容を示唆しつつも三花は言ったのだ。

 その事は源吾郎だって解っていた。幸四郎が三花を襲い、隷属させるなどと言う事はまずもって()()()なのだから。もしそのような事を幸四郎が実行しようものならば――実行する前に幸四郎は闇に葬られていただろう。目の前の母狐とその弟妹達が、人一人を苦も無く喰い殺す事が可能である事も、源吾郎には解っていた。何せ三花は半妖と言えども玉藻御前の孫娘である。二尾ではあるものの、人一人を撃退するには十二分すぎる。

 それに何より、母は祖父と大伯父たちの争いを目の当たりにし、それでも生き延びてきたのだ。敵と判断した相手を葬るにあたり、非情に徹する事もできるのではないか。源吾郎はそのように思っていたのだ。

 要するに、気に入らない相手であれば、幸四郎を殺す事とて出来た。ただそれだけの話である。

 

「まぁ僕は子供なので父さんと母様の間に何があったのかは知りません。ですがその……父さんも母さんも恋愛結婚で、愛し合ったんだろうなって事は解りますよ」

「まあね。どっちかって言うと、幸四郎さんの方が私にベタぼれって感じだけどね。それもそれで、私の両親と……源吾郎のお祖父さまとお祖母さまに似ている感じではあるんだけど」

 

 口早に言った源吾郎は、そのまま顔を伏せた。源吾郎とて子供ではないから、夫婦や家族が何であるかは知っている。しかし、父母の事に言及するとなると急に恥ずかしくなってしまったのだ。

 ともあれ夫婦仲が良好だった事だけは源吾郎にも解る。まぁ確かに末息子を甘やかしつつ妻である三花に甘えている節もあるにはあったが……その愛情表現を受け入れた三花も満更でもなかったのだろう。そう思う事にしておいた。

 

「そんな訳で源吾郎。あんたも女の子にアプローチするときはあんまり無茶な事はしないようにね。女の子の怒りを買って、その子の眷属と共に喰い殺される可能性だってあるんですから」

「初手から物騒な話じゃないですか……」

「まぁ、妖怪って女の子も強いから、そう言う事もあるんじゃないの?」

 

 気軽な調子でそう言って、テーブルに腰を下ろしたのは長姉の双葉だった。無理くり襲おうとした女の子に逆襲されて喰い殺されるかもしれない。いささかどぎつい三花のアドバイスに驚いた素振りは一切無かった。そこはオカルトライターとして年功を積んでいるからなのか、はたまた男女の違いなのか。幼く修行の足りない源吾郎には解りかねる所ではあった。

 

「あとね源吾郎。宗一郎は妖怪の子が産まれたらどうしようって不安がっていたけれど、その時はあんたが叔父として、妖怪の血が濃い甥っ子姪っ子を導いてあげればいいのよ」

 

 先程とは打って変わり、三花は優しい口調で源吾郎にそう言った。毒婦の孫娘らしい笑みも霧散し、ただただ優しい母の笑顔である。

 

「源吾郎だって末っ子で、宗一郎たち兄姉や苅藻たちに面倒を見て貰ったでしょ。あんたもいつまでも仔狐じゃあないし、いつかは甥っ子姪っ子が産まれるかもしれないんだから」

「ごめんね源吾郎。あんたには可愛い甥っ子とか姪っ子を見せてあげたいと思ってるんだけど、中々相手が見つからなくて……」

「姉上は姉上のペースで頑張れば良いと思うよ。それよか兄上たちが全く恋愛の気配が無いのが、漢として気になる所なんだよなぁ……」

 

 三花の言葉をやり過ごし、源吾郎は密かにため息をついた。兄姉たちの年齢差を思えば、源吾郎には甥姪がいてもおかしくない頃なのだ。長姉の双葉は十六歳上であるし、誠二郎や庄三郎はそれぞれ九歳上、七歳上である。それでも甥姪が一人もいないのは、兄姉たちが揃いも揃って独身だからに他ならない。

 妖怪の子を持つかもしれないと恐れている宗一郎や、能力のせいで無性愛者《アセクシャル》になってしまった庄三郎は仕方がない……と源吾郎は思う。それでもまぁ、兄姉たちには玉藻御前の血を次世代に繋ぐ意欲は無いのか。そんな不安とか懸念が脳裏をよぎる時がたまにあったのだ。

 もっとも、そんな込み入った話を兄姉たちにしようとは思わない。いざとなれば自分が頑張って玉藻御前の血を継ぐ仔を大勢残せばいいだけの話だ。相手が見つかれば後は簡単な訳であるし。

 源吾郎。母の三花がもう一度源吾郎に呼びかけていた。やや畏まったような、緊張したような面持ちで。

 

「多分源吾郎が子供を持つのはうんと先の事になるかもしれないけれど。源吾郎自身が妖怪の血が濃くても、源吾郎の子供は先祖返りを起こして、()()()()()()が産まれるかもしれない。その可能性も忘れないで頂戴ね」

「え、俺の子供が人間に近いだって。そんな事ってあるの――?」

「十分あり得るわ。半妖の要素って言うのは割と不安定だもの。それは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()変わらないわ。

 と言うよりも――源吾郎はもう、()()()()()()()()()()()と心に決めているでしょうけれど」

 

 確信めいた、或いは決めつける様な母の言葉に源吾郎は絶句していた。三花の言葉は()()だったからだ。学生だった頃や、就職して間がない頃は、人間の女の子と交際するのも悪くはないと源吾郎は思っていた。しかしその意識は徐々に変質していた。

 今でも人間の女子を見て可愛い、とか美人だ、と思うには思う。しかし彼女らを見ても生々しい欲求は浮かばなかった。ときめいたり恋心を抱くようになったのは、同族の異性、つまるところ妖狐の女性のみになっていたのだ。密かに源吾郎が思いを寄せている米田さんだって純然たる妖狐だ。

 だがそんな事は、源吾郎はまだ何も言っていない。それなのに三花は言い当ててしまったのだ。

 

「何でそこまで解るんですか」

 

 簡単な話よ。優しげな母の眼差しに、妖狐らしい気配が宿っていた。

 

「やはりそれは、源吾郎の意識と身体が()()()()()()()()()()という証なの。ほら、半妖は人間の父親と妖怪の母親の間では生まれるけれど、その逆では滅多に生まれない事は源吾郎でも知ってるでしょ。その事が解るからなのか……妖怪の男は人間の女に対して欲情したりしないのよ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。人間の血が濃い女の子は妖怪の男との間に仔を成す事は難しいし、逆に妖怪の血が濃い男の子は、人間の女には関心を持たなくなる。源吾郎にも、そう言った仕組みが働いた。それだけの話よ」

 

 よどみない説明を聞かされ、源吾郎はここで腑に落ちたような気分になっていた。若い男子妖怪たちの言動を見ていたら当てはまる事ばかりだったからだ。職場の若妖怪たちは人間の女子とつるむ事は殆ど無かったし、何よりドスケベであるはずの雪羽は、人間の女子に対してほぼ無関心だった。

 雪羽の場合は人間全般に無関心なだけかもしれないが……そうした所で妖怪の本能が働いているのかと、源吾郎は妙に感心した訳でもある。




 拙作の世界観では、人間父×妖怪母でないと繁殖が難しい……と言う感じになっています。
 まぁ色々と理由は説明していますが、妖怪父×人間母の組み合わせの半妖が多いカウンターだったりしますね(笑)


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昔日写してポートレート

 昔の写真を見ると恥ずかしいよねって言う話です。


 母の言う通り、父親の幸四郎も長兄の宗一郎も翌朝まで怒りなどを持ち越しているわけでは無かった。と言うよりも、幸四郎はそもそも昨晩の一件で腹を立てていなかったのではないか。そう思う程のえびす顔を源吾郎たちに向けていたのだ。

 

「遅かったわねお父さん。探し物をやっていたのは知っていたけれど、ちょっと心配になったのよ」

 

 気遣うような素振りで告げる三花に対して、幸四郎はハハハと声を出して笑っていた。成熟した大人の鷹揚な笑みにも、或いは無邪気な子供の笑みにも見えたのが源吾郎には不思議だった。

 ちなみに宗一郎の方はやや気まずそうな表情を浮かべており、一層父親の笑みが際立った。

 

「母さん。探し物の方は実は夜中に終わっていたんだよ。でも夜遅かったから少し寝過ごしちゃってな……」

「お父さんもあんまり無理しないで。言ってくれれば私だって手伝ったのに。お父さんの書斎の探し物レベルだったら、術を使えば十何分かで片付くでしょうし」

「そんな、母さんだって昨日は双葉や誠二郎たちを出迎えるのに大忙しだったろう。源吾郎とも色々と話したい事もあったみたいだし、あくまでも父さんが探したいって思っただけなんだから……でも有難う。母さんがそう言ってくれると嬉しいよ」

 

 父母のやり取りは他愛のない物であったが、その言動の節々からも仲睦まじい物をひしと感じ取っていた。夫婦仲が良いのは子供である源吾郎にしてみれば無論有難い事ではある。しかし見ているうちに何故か気恥しくなってしまった。

 こっそりと兄姉らの様子を窺ってみる。兄姉たちは特段恥ずかしがるでもなく、平然とした様子で父母のやり取りを眺めているだけだった。一層自分がまだ子供であると言われているような気がしてしまい、源吾郎は少し気まずかった。

 

「源吾郎が雷獣の子の話をしてただろう。多分雷園寺君の事だと思うんだけどな。宗一郎たちが小さかった時に、雷園寺君と引き合わせた事があって、その時の写真を父さんは昨晩探していたんだ。なに、三十年も前の事だから、探すのもちょっと難儀しちゃってな」

 

 やっぱり雷園寺と上の兄姉らは面識があったんだ。またしても鷹揚に笑う幸四郎の姿を見て源吾郎はぼんやりと思った。

 それでな源吾郎。父はしかしすぐに写真を見せようとはせず、何故か源吾郎を見据えて呼びかけたのだ。

 

「その写真を探している最中に、源吾郎がちっちゃかった時の写真も見つかったんだよ。本当に、生まれたての時から生まれて一、二か月も経ってない時の頃の写真とかな」

「俺の……生まれたての時の写真?」

 

 源吾郎は思わず父の言葉を反芻した。雪羽の写真を探していたという話からこの話題になった事を、半ば不意打ちのように思っていたのだ。

 その通りだと、幸四郎は頷いている。その頬を笑みで緩ませながら。

 

「源吾郎だって、自分がちっちゃく生まれた事とか、元々は狐みたいな姿で生まれたって事は知ってるだろう。だけど、本当に生まれたばっかりの写真を見る機会は少なかったなぁって思ってな。

 年末で宗一郎たちも集まってるし、折角だからみんなで赤ちゃんだった頃の源吾郎の写真を見てみないか?」

 

 なぁ母さん。子供らに呼び掛けていたのが一転し、父は鷹揚な様子で母の顔を見つめている。母の三花は源吾郎を一瞥してから頷いた。

 

「……そうね。源吾郎には昨夜お父さんの事とか妖怪の生き方について少し話した所なの。それにしても懐かしいわ、源吾郎が産まれてすぐの頃の写真なんて……ここ二十五年ほどは、もう本当にあっという間だったから」

 

 父の提案に母も満更でもない様子だった。微笑む母の顔は何処か初々しく、それこそうら若い娘のように見えて、源吾郎はやはり不思議な感覚になってしまった。

 

 源吾郎は産まれた時から妖狐の血を色濃く受け継いでいる事は親族たちに知れ渡っていた。

 しかしそれは、単純に狐と人が融合した姿で生れ落ちたとか、赤ん坊の頃から三尾を保有していたという点だけで論じられている話ではなかった。

 と言うのも、妊娠から出産までの期間すらも人間に近かった兄姉たちと明らかに異なっていたのだから。日にちの若干のずれはあれど、兄姉たちは曲がりなりにも十月十日で生まれたという。だが源吾郎は、妊娠してから半年強で生れ落ちたのだという。狐の面影を多分に残す姿は人間の赤子よりもはるかに小さく、それこそ犬の仔のようでもあったと家族も言っていた気がする。従って、源吾郎は早産の未熟児であるとされていたのだ、()()()()()

 もっとも、源吾郎が兄姉らよりも早く誕生し、尚且つ小さかったのも妖狐としての血が濃かったが故の事であったそうだ。妖怪化していると言えども、妖狐と言うのはそもそもからしてキツネより分化した存在である。その生理的な機構はアカギツネやホンドギツネのそれに近い。妊娠期間や産まれる仔の大きさなども例外ではない。

 半妖であっても、産まれる仔が妖怪に近ければ生まれた時の姿などが妖怪のそれに似る事は珍しくはないという。ましてや源吾郎の母は玉藻御前の孫娘に当たるのだから。

 ともあれ常人とは幾分かけ離れた出生ともいえる源吾郎だったが、それでも半妖として丈夫な青年に育った事には変わりはない。強いて言うならば、小学校や中学校の授業の一環として「わたしが産まれた時の事」と言った課題を仕上げる際に、事情をでっち上げて()()()()()()()()()を用意せねばならないという苦労があった事くらいだろうか。

 そんな風に思案に耽っている源吾郎の傍で、歓声がにわかに沸き立った。いつの間にやら幸四郎はアルバムを開いていたのだ。声の主は長姉の双葉である。彼女は源吾郎の傍にいたはずなのだが、その眼は写真に向けられていたのだ。

 

「ちっさ……!」

「そうだよ源吾郎。源吾郎は本当に小さかったんだぞ」

 

 源吾郎が驚きの声を漏らすと、すかさず父がその言葉尻を捉えた。相変わらずその顔には笑みが浮かんでいるが、慈しむような色味がその面には浮かんでいた。

 

「小さいからお乳を飲む量もちょっとだけだったしなぁ。母さんや苅藻さんたちは狐の血が濃いだけだから大丈夫だって言ってくれたけど、父さんも宗一郎たちも気が気じゃあなかったんだよ。まぁ、何か月か経ったころには普通の赤ちゃんと同じ位の大きさになったから一安心したんだけどな」

「そうそう。小さすぎるから、却って抱っこするのも難しかったしね」

「宗一郎兄様が、俺を抱っこしていた事もあったんだ……」

「そりゃあるとも」

 

 源吾郎の言葉に、宗一郎は当たり前だと言わんばかりに頷いた。

 

「母さんも父さんも手いっぱいで、源吾郎を満足に抱っこ出来ない時が初めのうちはあったからね……しかも子供だった弟連中は、源吾郎に物凄い興味を持って、隙あらば触ろうとしていたからさ。子供が不用意に赤ちゃんを抱っこしたりこねくり回したりしたら危ないから、それで僕が抱っこする事も度々あったんだ。誠二郎にしろ庄三郎にしろ、流石に僕から赤ちゃんを奪い取るなんて真似はしなかったからね」

 

 やっぱり宗一郎兄様は()()()()()だったのだ。抱っこ事情を語る宗一郎を見ながら、源吾郎は静かに思った。末弟たる源吾郎に対しては若い父親のように接する一方で、年長の兄として他の弟たちを導いていたのだ、と。

 そんな宗一郎は長姉の双葉にはやや甘い所はあるが、それはまぁご愛敬であろう。双葉は宗一郎と歳も近く、尚且つ妹なのだから。男という生き物は妹には甘い。源吾郎には妹はいないものの、そうした事は嫌と言う程知っていた。

 そんな中、宗一郎はじっとりとした視線を誠二郎らに向け、やや呆れた調子で口を開いていた。

 

「別にだな、庄三郎が関心を持って触りたがったのは解ったよ。源吾郎ほどには無いにしろ君も狐の血が濃かったみたいだし、何より初めての弟だったんだからね。

 だけど……誠二郎は堪えろよなぁって正直思ってたところはあったかな。庄三郎と違って、弟とかちっさい赤ちゃんなら見慣れてるだろうってさ」

「そうはいっても兄さん。俺と庄三郎は二歳違いなんだから、庄三郎が赤ちゃんだった時なんてうろ覚えだったんだよ。それに源吾郎は尻尾も生えててフワフワしていたんだよ。狐の血が濃いと言っても、庄三郎には尻尾なんて無かったし」

 

 妙に生き生きとした様子で言い返す誠二郎の姿はこれまた新鮮だった。源吾郎と異なり、宗一郎と比較的歳が近いために、世間で言う所の兄弟のやり取りに近いのだなと源吾郎は感じていたのだ。

 

「あら誠二郎。庄三郎には尻尾が無かったんじゃなくて途中で()()()のよ。まぁ、誠二郎もまだ小さかったから、その時の事は覚えてないでしょうけれど」

 

 尻尾が落ちる。妖狐的に物騒な事を言ってのけて笑ったのは姉の双葉だった。

 源吾郎は思わずおのれの腰のあたりに手を添えたが、兄と自分とは違うのだと強く思って心を落ち着かせた。余程の事が無い限り、普通の狐では尻尾は落ちぬ、と。

 中国の伝承では、人と狐の間に生まれた半妖の狐は、人間として育てるために尻尾を切り落とすのだという。この伝承は事実でもあり間違いでもあった。

 妖狐にとって、尻尾とは妖力を蓄える大切な機関である。ある程度成長した妖狐ならばいざ知らず……赤ん坊の場合であれば、尻尾を切り落とすとなると生命の危険にさらされる恐れもあるのだ。そもそも、尻尾を切り落とすだけで相手の負担なしに妖力を減らす事が出来るのならば、それこそ源吾郎はとうに尻尾を切り落とされ、何も知らずに人間として育てられる事になっただろう。

 しかしその一方で、半妖の赤子の尻尾が自然と落ちる現象が確認されているという。人間に近い要素を持つ半妖でも、母親の妖気の影響を受け、妖怪としての特徴を具える事も珍しくない。狐の血を引くならば、それが尻尾として現れる事となる訳だ。そうした尻尾は妖力が通っておらず()()()な物なので、生まれてすぐに臍の緒よろしく本体から抜け落ちてしまうという事なのだそうだ。もちろん半妖だからと言って必ずしも尻尾が生えている訳ではないらしい。少なくとも、上の兄姉三人には尻尾があったという話は聞かない。

 庄三郎は中途半端に妖狐の血が濃かったので、そうした現象に見舞われたのだろう。そのように源吾郎は考察していた。源吾郎は源吾郎で妖狐の血が濃すぎたので、尻尾は抜けずに健在であるわけだが。

 源吾郎。庄三郎の抜けた尻尾について父や兄姉が盛り上がる中、母の三花が源吾郎に呼びかけていた。

 

「確かに源吾郎は他の兄弟たちと違って、狐の血が……いいえ先祖である玉藻御前の血を濃く受け継いで生まれたの。生まれた時から既にちゃんとした尻尾を三本も生やしていたし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。私たちが人間として育て、尚且つ宗一郎の思惑を知った上でね」

 

 源吾郎は怯んだ犬のように喉を鳴らした。母の、見透かすような眼差しにたじろいだからだ。

 

「でもね、私は別に驚いてもなんともないわ。源吾郎が妖怪として育つであろう事は、()()()()()()()()()()()事だもの。それこそ、源吾郎が生まれる前からね」

 

 生まれる前からその事が解っていたのか……源吾郎は瞠目し、母の顔を眺めていた。一瞬だが、脳裏に雪羽たちの一家の姿が浮かぶ。父が雷園寺君の写真を見つけたと言っていたからかもしれないし、雪羽の保護者である月華がもうすぐお産を迎えると知っていたからかもしれない。

 源吾郎はお腹の中にいた頃からとかく妖力の多い子だったから、自分もその分食事を多く摂っていたのだ。あっけらかんとした様子で、三花は過去の事を源吾郎に語って聞かせたのだった。

 

「それに私の母も……あなたのお祖母様もこう言っていたのよ。『玉藻御前の野望と力は、玉藻御前自身が倒れたとしても途絶える事は無い。その力と意思を受け継ぐ者はいずれ現れる』ってね。何でも母は、祖母と袂を分かつ寸前に、その話を聞かされたみたいなの。

 だからもしかしたら……源吾郎がその玉藻御前の力と意思を受け継いだのかもしれないわね」

 

 しんみりとした母の言葉に、源吾郎もまた神妙な面持ちで頷くほかなかった。

 源吾郎は異形の血を色濃く受け継ぎ、しかもそれ故に異形として生きる運命をたどっているのかもしれない。それはそうと父母も兄姉らも源吾郎を息子として弟として受け入れて可愛がってくれている。その事実は揺るぎないものとして横たわっている。その事だけは若い源吾郎もはっきりと把握できたのだ。



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かつて辿りし異類への恋路

 昼食後。外では太陽が天高くおわす時間帯であるが、源吾郎は部屋に引き戻るやそのままごろりと床に寝そべった。ご自慢の四尾まで伸ばしているので、さながら打ち上げられたヒトデのような有様である。

 実家と言えども昼日中にこのような自堕落な姿を見せる源吾郎だったが、特段罪悪感は無かった。同じ部屋をあてがわれた兄の庄三郎も、ジャイアントパンダよろしく寝転がっていたのだから。

 

「源吾郎も、一杯写真を見たから疲れちゃったんでしょ」

「……うん。ちょっと情けないけど」

「良いじゃないか源吾郎。君は普段仕事で頑張ってるのは僕らも知ってるんだからね。それに僕は、製作の時以外はいつでもこんな感じだからさ」

「それはそれで問題だよ、兄上……」

 

 柔らかく微笑む庄三郎に対し、源吾郎は軽くため息をついてしまった。放っておけば庄三郎は何処までも自堕落に暮らすであろう事を知っていたからだ。それでも体調を崩さないのは、やはり頑健な半妖の体質のお陰なのかもしれないが。

 

「そりゃあまぁ、年末だからって赤ちゃんの写真を寄ってたかって見られたら、気恥ずかしかったり驚いたりするよ。僕だって同じさ。父さんや宗一郎兄さんが、臍の緒と一緒に保管している尻尾を見てみようなんて言い出すしさ……」

 

 ううん、とかうんうん、などと言った半分唸り声に近い声音で源吾郎は頷いていた。家族で集まって昔の写真を見るのは確かに楽しかった。だが、庄三郎の指摘通り気恥ずかしさやくすぐったさも源吾郎の心の中にはあるにはあった。人の頭部を持つ仔狐と言う、異形そのものの姿で生れ落ちた事は源吾郎も聞かされていたから知っている。別段その事について思う事は無かった。初めから異形として産まれた事を知らしめたのだと思うと愉快な事だとも思っていた。

 だが、父母や兄姉らの意見はどうであろうか。犬の仔みたいで可愛かっただの、尻尾はフワフワでぬいぐるみみたいだっただの、そんな意見ばかりだったのだ。家族らが異形である自分を受け入れ、立派な青年になるまで育て上げてくれた事には感謝している。それでも文字通り仔狐として可愛がられた過去があると解ると何ともおさまりが悪い。物心ついたころより仔狐扱いには慣れていると思っていたにも関わらずだ。

 

「それにしても、母上や叔父上たちはさておき、父さんも兄上たちも姉上も俺が文字通り仔狐だって解っても全然動じなかったんだな。俺が言うのもなんだけど、それはそれで凄いかも」

「僕もある意味狐に……と言うかご先祖様に近かったからさ。それで父さんたちも耐性が付いたんじゃないかな」

「あー確かに。兄上も色々あったみたいだもんなぁ」

 

 源吾郎の言葉に、庄三郎は何も言わずにうっそりとした笑みを見せるだけだった。虚ろに見開かれた瞳の昏さに、源吾郎は思わず身を震わせる。源吾郎に較べれば人間の血が濃いと言えども、それでも庄三郎は兄姉らの中では妖狐の特性が最も強い。そしてその能力に苦しめられた半生である事も源吾郎は知っていた。

 何せ保育園児の頃は信頼していた保育士に拉致されかけた事があるし、小学校低学年の頃には、悪心を抱いた子供ら――男児が大半だが、中には女児もいたらしい――に悪戯を仕掛けられた事もあるくらいなのだ。しかも恐るべきことに、これらは源吾郎が生まれる前の――要は庄三郎もまだ六、七歳の児童だった頃に降りかかった出来事でもあるのだ。その頃になれば、自分の容貌や能力が特異な物である事、それらが元凶である事はうっすらと解っていたに違いない。

 実際庄三郎は、源吾郎が産まれるまでは内気でおどおどとした陰気な子供だったらしい。と言うよりも、極度の人間不信に陥り精神を病む手前まで来ていたともいう。玉藻御前が他者を思うがままに操る能力を持て余し、逆に使い手の精神を腐蝕させていた。何とも皮肉で残酷な事実であろうか。

 しかしその庄三郎が持ち直したきっかけと言うのが、弟である源吾郎の存在でもあったのだ。理由は定かではないが、源吾郎は庄三郎の持つ魅了や制御の力が通用しなかった。それは実の兄弟だからなのか、妖狐の血がより強い存在だからなのかは解らない。ともあれ源吾郎の存在に庄三郎は救われたらしいのだ。源吾郎としては自分の心に従って兄らに接してきただけに過ぎないのだが。

 源吾郎に解るのは、妖狐の血がやや濃くて歳が近いがために、庄三郎が源吾郎に絡んでくる事が多いという事だけだった。

 

「源吾郎自身は確かに狐っぽかったけれど、僕みたいに厄介な能力は持ち合わせては無いなかったでしょ? もしかしたら、君の事だからご先祖様の力を十二分にコントロール出来ていただけなのかもしれないけれど……」

 

 庄三郎はそこまで言うと、いたずらっぽく微笑んだ。

 

「ごめんね源吾郎。魅了の力を厄介だなんて言ったら君は嫌だったかな?」

「そんな事は無いよ、庄三郎兄様。兄様が魅了の力で苦しめられてきたのは俺もよく知ってるよ。それに俺が魅了の力を持っていないのは本当の事だもん」

 

 寂しげに笑う庄三郎に対し、源吾郎もまた笑い返した。放った言葉は全て本当の事であり、源吾郎の本音でもある。

 まず、四尾を保持する源吾郎であるが、魅了や洗脳と言った系統の術を使う素養は持ち合わせていなかった。妖狐、特に若い妖狐では特定の術に特化していたとしても、他の系統の術が使えない、苦手であるという事は珍しくはない。源吾郎の場合、得意な術は変化術や結界術の類になるのだ。

 また、源吾郎自身も魅了とか洗脳の術を使えたとしても濫用はしないだろう。そのように漠然と思っていた。兄である庄三郎がその能力で散々苦しんだのを知っているし、何より紅藤や萩尾丸たちの叱責が恐ろしかった。源吾郎の上司たる大妖怪二名が、洗脳術の類を嫌悪し、或いは()()()術であると軽蔑している事はもちろん知っている。

 もっとも……萩尾丸クラスの大妖怪であれば、凡百の妖怪程度であれば言葉一つで従える事は出来る訳なのだが。雪羽や源吾郎は言うに及ばず、雪羽の保護者であり、強大な力を持つはずの三國ですら、萩尾丸の前では平伏するほかないのだから。

 

「まぁなんにせよ、僕と源吾郎は大分狐の血が濃く出てしまったんだよ。宗一郎兄さんたちは人間に近いのに、なんか不思議だよね」

 

 不思議でも何でもないさ。自分たちは上の兄姉らよりも妖狐の血が濃い。その事を不思議がる庄三郎に対し、源吾郎はとっさに言い返していた。

 

「若い両親から生まれた子供は骨髄が満ち満ちていて、年老いた両親から生まれた子供の骨髄は少ないって言う話を庄三郎兄様は御存じないんですかね? あれは俺たちの曾祖母である玉藻御前様が仰られた言葉なんだぜ。蘇妲己として、胡喜媚様や王鳳来様と共に紂王に侍っていた時の言葉なんだけどさ。

 庄三郎兄様。俺たちが産まれた時と言えば、母様はともかくとして父さんもお世辞には若いとは言い切れん歳になってただろう? だからその……俺らには骨髄が……人間としての髄液が少ないのかもしれんな。

 でもそれだったら都合が悪いから、その少ない髄液を()()するために、母様が持つ()()()()を多く受け継いだのかもしれない。()()()()()()()()()()()()()()んじゃあないかな」

 

 封神演義の伝承をも引っ張り出した源吾郎の考察に、庄三郎はさも感心したように息を吐いていた。源吾郎はそれを見て心からの笑みを浮かべた。自論を展開し、それに相手が納得する様子を見るのは気持ちの良い事ではないか。相手が兄姉であればなおさらである。

 

「成程ねぇ。源吾郎の言葉には説得力があると思うよ。しかも成り行きはどうであれ僕らのご先祖様が見出した法則でもあるんだからねぇ。

 でもさ源吾郎。それなら誠二郎兄さんはどうなのかな? 誠二郎兄さんは僕ら兄弟の中で一番人間に近いけれど……僕と兄さんとは二歳しか離れていないんだけどなぁ」

「それはその……誠二郎兄様はそれこそ人間としての髄液を多く受け継いだんじゃないのかい? んでもって、そんな感じだったからこそ、庄三郎兄様も俺も狐としての髄液を多く受け継いだのかもしれないし」

 

 口早に源吾郎は言って、気まずさから笑ってごまかしてもいた。言い訳に走ったと思われたかもしれないが、実際にその通りなのだから致し方なかろう。

 と言うよりも、源吾郎の中には上の兄姉三人と末っ子二人という兄弟たちの区切りがあり、二番目の兄である誠二郎と大きい方の末っ子である庄三郎の年齢差をそれほど考えていなかったというだけの話でもあるのだが。

 

「源吾郎。ちょっと父さんと一緒に散歩しないか」

 

 ノックされたドアの向こう側から顔を覗かせたのは、父親の幸四郎だった。父がわざわざ部屋を訪れた事、特に前触れもなく散歩に誘われた事に源吾郎はまず驚いた。

 

「可愛い末息子ももう一人前になったし、それこそ男同士の会話と言うのをやりたいと思ってな。なに、源吾郎を父さんがちょっと借りるって話は母さんにも宗一郎にも通してあるから」

「大丈夫だよ父さん。父さんが俺と散歩したいって言うなら付き合うからさ」

 

 言いながら、源吾郎は着替えて支度をするから少し待っていて欲しいと父親に告げた。元より父親の散歩に付き合うつもりだった。楽しそうだからとかつまらなさそうだからと言う自分の意志を優先したのではなく、父が望んだからそれに沿うべきであろうと源吾郎なりに考えていたためである。

 それでも実のところ、源吾郎は内心ワクワクしてもいた。源吾郎も一人前。男同士の会話。父が何気なく放ったこの言葉に源吾郎は気を良くしていたのだ。源吾郎は長らく仔狐として親兄姉や親族たちに扱われていた。だが先程の言葉は、源吾郎を仔狐ではなく一人前の青年、大の男として見做そうとする父親の意志の表れであるように思えたのだ。

 父親が俺を仔狐としてではなく、一人の男として見てくれている……! プライドの高い源吾郎がのぼせ上り高揚するのは致し方ない話だった。ましてや、一家の長としての威厳を父がきちんと具えている事を昨晩知ったばかりなのだから。

 

 幸四郎と共に出向いたのは、白鷺城の堀の向こう側にある公園だった。春になれば白鷺城を背景に桜並木が美しい道を具えているのだが……もちろん年末なので桜たちも枝を落として寂れた様子を見せている。

 幸四郎も源吾郎も慣れた様子で歩を進め、四阿の中に入った所で長椅子に腰を下ろした。何気なく父の隣に腰を下ろしたのだが、視線の先には池が見えた。枯山水を現したような……と言うのはいささか大げさであるが、幾分和風で風情のある池だった。冬場なのでやはり魚の影は見えず、水鳥の姿も特にない。年末の昼下がりと言う、張りつめつつも何処かうら寂しい心情を反映しているかのようだった。

 冬曇りの寂しい気持ちを払拭しようと、源吾郎は父の顔を見て問いかける。

 

「父さん。こんな所で話って何かな」

「父さんと母さんがどうやって知り合って、何で結婚したかについてだよ」

「……え?」

 

 思いがけぬ返答に源吾郎は間の抜けた声を上げていた。父の微笑みには照れくさそうなものが浮かんでいたが、しかしふざけたような気配はない。

 何故急にそんな話を……? 疑問が脳裏をかすめつつも、源吾郎はその一方で納得し始めてもいた。ある意味男同士の会話という物に相応しい話であるようにも思えたからだ。

 或いはもしかしたら、源吾郎に好きな狐がいるという事を父親も何か察しているのではないか。そんな風にも思えたのだ。少なくとも、母は源吾郎が妖狐の娘と結婚するのではないかと思っていたようだし。

 

「そうだな源吾郎。父さんと母さんの結婚のきっかけはな、滑落事故だったんだよ。滑落事故から始まる恋ってやつだな。今風に言えば」

「滑落、事故……」

 

 急に始まった父親の語りに、源吾郎は重要そうな単語を反復するほかなかった。そう言えば長姉の双葉が時々滑落の事を口にしていたのを急に思い出した。滑落、と口にした時の、長姉の妙に恍惚とした表情と共に。姉上は何かを知っていたのかもしれない。そう思いながら源吾郎は父の言葉を待った。

 

「源吾郎。お前はもしかしたらうまくイメージできないかもしれないけれど、父さんだって若かった頃はあるんだからな。あ、でも今日は散々昔の写真を見てきたから、ちょっとは父さんの言う事は解るよな?」

「もちろんだとも」

 

 やっぱり子供扱いされたかも。そう思って口を尖らせる源吾郎に対し、幸四郎は叱るでもなく嬉しそうに目を細めるだけだった。

 そうして父は若かった頃の事を話し始めてくれた。長兄の宗一郎は、父が二十八の時に生まれた子供であるという。だからこれからの話は、父が二十代半ばから後半の頃の話だった。

 その頃の父は大学院を出たばかりの若者だったという。若かったので気力体力も満ち満ちており、そして向こう見ずで無鉄砲な所も持ち合わせていたそうだ。

 

「……フィールドワークに勤しむあまり、足許が不注意になってしまってな。滑ったか弱った地盤を踏み抜いたのかは覚えていないが、ともかく崖下に滑落してしまったんだ」

 

 いやぁもう大変だったよ。昔の事を懐かしんで笑う父の姿を、源吾郎は無言で眺めていた。

 

「後で判ったんだが転げ落ちる時に骨も何か所も折れちゃってたから動く事もできなかったんだよ。もちろん当時は携帯何て便利な物もないし……あの時ほど死を間近に感じた事は無かったかな」

「そりゃあ……もう……」

 

 大変どころか生命の危機にさらされていたじゃないか……源吾郎は心中でツッコミを入れていたのだが、上手に言語として放出する事は出来なかった。それくらい衝撃が大きかったのだ。

 それに絶体絶命だったのかもしれないが、今こうしてその話を幸四郎本人が行っている事もまた事実である。死にかけてたやん、などと言った野暮なツッコミを入れるよりも、いかにして父が生還を果たしたのか、そこにどのように母の存在が絡むのか、それを聞く事が先決であろうと源吾郎は思っていた。

 

「とはいえ、あの時は死ぬのは怖くなかったんだよ。と言うか父さんもちょっと自棄になっていた所もあったんだよな。言うて好きだった女性に振られたなんて言う他愛のない理由ではあるんだけど。

 まぁ……家族の事はその時は思い浮かばなかったかな。両親にしろ兄弟たちにしろ――源吾郎にとってはお祖父さんやお祖母さんと伯父さんたちだな――僕の事は真面目に仕事をせずにふらふらしているやつっていう認識だったからね。まぁ流石に葬儀には出てくれるだろうなって思ったけれど」

 

 その時に出会ったのが源吾郎の母さんだ。先程まで纏っていた仄暗い雰囲気を払拭し、幸四郎は明るく弾んだ口調で告げた。

 

「何をしていたのか定かではないけれど、ちょうど父さんが落ちた近辺に母さんがいて、父さんの事を見つけてくれたんだ。何か色々と手当てしてくれたのは覚えているんだけど、気が付いたら病院のベッドの上にいたという事なんだ。しかもその後も、母さんとか母さんの弟である苅藻君とかがマメに見舞いに来てくれたんだよ。入院生活はずっと静かな物だって思っていたから驚いたけどね。まぁその時は、母さんも苅藻君も父さんは殆ど見ず知らずのヒトだった訳だし。

 でも――それでもその時から父さんは母さんに惚れてしまったんだよ」

 

 母さんに惚れた理由は解るだろう? 問いかける幸四郎の言葉と顔は、往時の恋心の熱気によって潤んでいた。

 

「母さんが何故父さんを助けたのか。それはもしかしたら単なる気まぐれだったのかもしれない。だけどな源吾郎。あの時の母さんはまさしく救いの女神だったんだよ。母さんのお陰で父さんは助かったし、何より生きる気力さえも蘇ったんだから。母さんの境遇や正体なんて問題じゃあなかったんだ」

 

 要は壮大な吊り橋効果のようなものがあったのかもしれない。源吾郎はやや冷静にそんな事を思っていた。もっとも、恋の引き金は吊り橋ではなく滑落であり、色々な意味でドキドキしていたのが男性サイドと言うのは珍しいのかもしれないが。

 

「母さんも何度か見舞いに来てくれていた事を良い事に、退院してからも何度か母さんに会ってみたり、折に触れて母さんにもっと会おうと父さんも画策したんだよ。実を言うと、その時は結婚するとか、夫婦になるとか、そこまで踏み込んだ事は考えていなかったんだ。ただただ母さんに会って、一緒にいればそれで満足出来たからな。

 でも……会うたびに母さんの事を色々と知りたくなったし、ずっと一緒にいたいと思うようになったんだ。途中から、父さんの方もちょっとストーカーめいた感じになってしまったんだけど」

「ストーカーって、それはそれでマズいんじゃないの」

 

 源吾郎は思わず呆れて本音を口にしてしまった。父が母に惚れ込む気持ちは話を聞いていて解らなくもない。しかし付きまとってストーカーになったのだという所まで聞かされると何とも言えない気持ちになってしまった。

 確かにマズかったのかもしれないなぁ。幸四郎はしかし、末息子のツッコミに鷹揚に笑うだけだった。

 

「初めは母さんもあしらっていただけだったんだけど、母さんの弟妹達が父さんの事を警戒し始めてな。あんまり鬱陶しく憑き纏うのなら、喰い殺してしまえば良いだろうって話さえ持ち上がったらしいんだ」

「えぇ……」

 

 源吾郎はもはや突っ込む気力さえなかった。恋する父のストーカー行為も大概であるが、そんな父を喰い殺そうと画策する叔父たちも中々である。とはいえ、叔父たちの出自や境遇を思えばそれ位の事をやってのけそうなのでそれはそれで物騒な話である。何せ彼らは玉藻御前の孫なのだから。

 そうした話題が持ち上がっているのを教えてくれたのは、母の末弟である苅藻君だった。幸四郎は鷹揚な笑みを崩さずにそう言った。

 

「苅藻君は優しい妖だったから、父さんに最終通牒として警告してくれたんだよ。これ以上姉に接触しようとしたら、兄姉たちは容赦せずにあなたを殺しにかかる。自分たちは玉藻御前の血を引く半妖であり、純朴なあなたが想像も出来ないような残虐な事だって平然とやってのけるってね」

「苅藻の叔父上がそんな事を……父さんはどうしたの?」

「別に構わない。三花さんがそうしたいのならそうすれば良い。父さんはそう言ったんだ」

 

 父親の顔に浮かぶ笑みは、いつの間にか儚げな笑みに変化していた。

 何処か物憂げで寂しそうな表情のまま、父は言葉を重ねていく。

 

「元より母さんが助けてくれなければ朽ち果てていた身に過ぎないんだからね。勝手にのぼせ上った父さんを喰い殺す事が母さんの望みなら、それもやぶさかではないと思ったんだよ。

 それに――父さんの家族は僕にそれほど関心を持っていなかったから、人知れず姿を消しても特段迷惑にならないだろうってね」

 

 母さんが優しくなったのはそれからだったんだ。一緒にいたいという僕の意志を尊重してくれて、恋人を経て夫婦になったんだ。母さんの弟妹達も父さんと母さんの結婚には反対しなかったから、きっと母さんが説得してくれたんだろうな。

 幸四郎の、三花との出会いとなれそめの物語はこのような形で締めくくられた。滑落事故で二人は出会い、幸四郎の猛アプローチに三花も絆されて交際したという事になるのだろう。付きまとうのを止めなければ喰い殺す。そう言われて喰い殺されても構わないなどとそうやすやすに言える事ではないはずだ。しかしだからこそ、母も父の純粋さに心が動いたのかもしれないが。

 祖父母との出会いほどには無いにしろ、ともあれ父母の出会いと結婚も中々にドラマチックな話だった。身内の欲目でも何でもなく、それが源吾郎の素直な感想だった。



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若妖怪は年明けに集う

 気が付けば大晦日も元日もあっという間に過ぎていった。もちろん源吾郎は食客としてぼんやり過ごしていた訳ではない。若き労働力として大掃除を手伝ったり、母や長兄の買い出しに駆り出されたりと、そこそこ充実した休みを送っていたのだ。

 家族たちと協力して年末年始を過ごしていたのは何も源吾郎だけではない。雷獣の雪羽とて同じ事であった。叔父夫婦の家で休暇を取っている彼もまた、家族のために何くれとなく雑事をこなしていたのだという。そして彼の養母である月華は大晦日に産気づき、元日の未明にかけて双子を出産したのだという。男児と女児が一人ずつで、母子ともに健康とのこと。月華と双子たちは五日程度入院せねばならない訳であり、今も産院で静養している最中なのだそうだ。

 休暇の間、源吾郎は雪羽と直接会っている訳ではない。それでも相手方の事情を知っているのは向こうから連絡が入って来るからだった。互いに休暇中は多忙であるから連絡は最小限にして負担が掛からないようにしておこう。年末休みの前に源吾郎と雪羽はそのように取り決めていたのだ。その取り決めに従いつつ、雪羽は割とマメに源吾郎にメールを入れていたのである。源吾郎の事を今となっては親しく思い、それ故に自分の現状を伝えたくて仕方がない。そんな彼の気持ちはメールの文面からも伝わっていた。

 のみならず、雪羽は年賀状まで源吾郎にあててしたためていたのだ。元日に実家に届いたから、それこそクリスマスの前後に投函したであろう事はうかがえた。しかもゴム判子を使っているもののほぼ手書きである。全くもって雪羽のマメさや用意周到さには恐れ入るばかりである。

 雪羽は確かに三國の許で甘やかされ、悪ガキと呼ぶにふさわしい振る舞いを行っていた時もあるにはあった。だが、雪羽の本性は()()()()()()()()()()()()事は源吾郎も知っている。雪羽は確かに強い妖怪であるし、その強さに相応しい地位に収まる事の出来る器の持ち主なのだと、源吾郎も素直に認めていた。

 何故源吾郎がそのように思っているのか。それは雪羽が初めから悪心を抱く妖怪ではないと悟ったからだった。今の雪羽は萩尾丸の再教育や源吾郎たちとの接触もあり、数か月前よりもうんと落ち着いた若妖怪に変貌していた。それは萩尾丸が雪羽を好ましい性格へと変質させたからではない。今源吾郎たちに見せている雪羽の性格の方が、本来の彼の性格なのだ。むしろ繊細で穏和な自身の心を護るために、そして他者に影響されやすい気質を具えたがために、あのヤンチャな悪ガキになっていたに過ぎないのだ、と。

 前々よりそのような気配は伺えたのだが、宗一郎たちと出会った時の頃の話を聞いて、やはり元は大人しい良い子だったのだと思うようになっていたのだ。むしろ幼かった頃の宗一郎が途方もないごんたくれで、事もあろうに雪羽の尻尾を引っ張って遊んでいたという話にはのけぞらんばかりに驚いたのだが。

 

 さてそんな雪羽なのだが、今朝は珍しく電話が入ってきたのだ。今日で三が日も終わりだし、折角だから一緒に初詣をしないか、と。源吾郎は少し考えてから、正式な返事は後で構わないかと雪羽に告げた。

 別段、初詣と称して雪羽に会う事には乗り気だった。明日になればどのみち職場で顔を合わせるのだが、それとこれとは別である。

 但し、会うにあたり懸念が二つばかりあった。親兄姉らから許可が下りるか否かと、家に帰る段取りについての事である。その二つがひとまず懸念として脳裏に浮上したのだが、まぁ大丈夫であろうと思い直す事にした。源吾郎とて年末年始の家族サービスは彼なりに行ったつもりである。家に戻る時間は予定よりも遅くなるかもしれないが、最悪タクシーを使えばどうとでもなるだろう、と。

 

「――そんな訳で、同僚の雷園寺君から初詣のお誘いが来たんだけど、行っても大丈夫かな?」

「別に良いのよ源吾郎。明日から仕事だから、仕事に障らないように気を付けてね」

「雷園寺君は同僚と言うより源吾郎の友達でもあるんだろう? 良いじゃないか、新年から気心の知れた相手と初詣も楽しいぞ」

 

 朝。源吾郎のややおずおずとした申し出を、両親は二つ返事で快諾してくれた。あまりにあっさりとしていたので源吾郎がむしろ拍子抜けするほどに。

 良いの? 俺、家族サービスをほっぽって遊びに行くけれど。半ば焦りつつ源吾郎が問うと、双葉が箸を止めてさもおかしげに笑みを向けてきたのだ。

 

「お父さんもお母さんもオッケー出してくれてるんだから、別に気にしなくて良いじゃない。ていうか私や誠二郎も、この休みの間にちょくちょく遊びに出かけたりもしたけれど、お父さんたちもお兄ちゃんも何も言わなかったんだから大丈夫よ。

……ま、源吾郎も末っ子で甘えん坊だから、家に戻って家族とべったり過ごしたいんだなぁって私は思ってたんだけど。庄三郎は元々出不精だし、ギャラリーもまだ閉まってるから出かけたがらないのは解るけど」

 

 姉の言葉に微妙な笑みを見せていると、兄の誠二郎が助け舟を出してくれた。

 

「姉さん、源吾郎だって曲がりなりにも独立してるんだから、まだまだ子供みたいだって思わせるような言い方をしたら嫌がるんじゃないかな? 多分だけど、源吾郎は父さんたちや俺らに気を遣ってずっと一緒にいてくれたんだと思ってたんだけど」

「ま、まぁ誠二郎兄様の言うとおりだよ」

 

 そうでしょ、と言わんばかりにこちらを見やる誠二郎に対し、源吾郎は慌てて頷いた。久々に家族に会えたのが嬉しくてべったりと過ごしてしまったのか、普段離れて暮らしているから家族サービスをせねばならないと思っていたのか。正直な所源吾郎にもどちらなのかはっきりしなかったけれど。

 

「そんな訳で、夕方までにはこっちに戻って来るつもりなんだ。それで荷物をまとめて今日中に帰るから」

 

 夕方から夜にかけてなら、電車についての心配もいらないだろう。源吾郎がそう言いかけたまさにその時、宗一郎から提案が降ってきた。

 

「源吾郎。帰りは僕が車で送ってあげるよ」

 

 長兄の申し出に、源吾郎は目を丸くした。そんな源吾郎に笑みを見せながら、宗一郎はゆっくりと言葉を続けた。

 

「流石に高速は混んでいるかも知れないけれど、車の方が電車よりも早く帰れるだろうからさ。源吾郎と雷園寺君は単に戦闘訓練だけじゃなくて仲が良いって聞いたから、きっとお互い積もる話もあるんじゃないかな。だからさ、今日は時間とか気にせず楽しんでもらえたらと僕も思ったんだ」

「お兄ちゃんってば、本当は源吾郎を車で送りたいだけでしょうに。まぁ源吾郎。そんな訳だから、帰りは車で送ってもらえば? あんただって電車代が浮く訳だし、ウィンウィンになるわよ」

 

 宗一郎の言葉に双葉は目ざとくツッコミを入れている。もちろん、源吾郎に長兄の意図を伝えた上でそれに乗るように促しているのだが。

 ありがとう兄上。感謝の意を示す源吾郎の笑みは引きつってしまった。正月休みの最後まで末弟の面倒を見てやりたい。面倒見のいい宗一郎らしい考えではないか。もちろん、源吾郎としても有難い話である事には変わりないのだが。

 

「宗一郎兄様。もし俺の住んでるアパートが何処か解らなかったら、近場の適当な所に降ろしてくれても構わないからね。吉崎町に入れば……そこから先は歩いて戻れるし」

「大丈夫だよ源吾郎。君の暮らしているアパートなら僕もちゃんと覚えてるよ。念のためにカーナビも入れたしさ」

 

 兄さんちょっと待ってよ。何処まで源吾郎を送り届けるのか。その話がまとまりそうになっていた丁度その時、庄三郎が切羽詰まったように声を上げた。もちろん、宗一郎は不思議そうに首をかしげている。

 

「源吾郎だけどね、アパートじゃなくて職場の研究センターに送り届けた方が良いと思うんだ。今はアパートじゃなくて、研究センターの中にある社宅暮らしらしいからさ」

 

 気を利かせたつもりの庄三郎の言葉に源吾郎は絶句した。源吾郎がこっそり研究センターの居住区に引っ越していた事は、親兄姉たちには伝えていなかったからだ。引っ越したとはいえアパートは別宅として時々利用しているし、伝えたら伝えたで兄姉らから質問責めになるだろうと思って伏せていたのである。

 庄三郎が何故その事を知っているのかは定かではない。しかし宗一郎が驚いている事だけは明らかだった。

 目が合うと、思案顔の宗一郎がゆっくりと口を開いた。

 

「……そうか。今は研究センターの傍で暮らしているんだね。源吾郎、研究センターの場所は流石にうろ覚えだから、道順とか教えてくれたら嬉しいな。

 それにしても、僕たちに何も言わず引っ越していたなんて……まぁ別に構わないんだけど」

「まぁ兄上たちに姉上。あのアパートも別宅として時々使ってますんでね。ほったらかしにしている訳じゃあないんだよ」

「源吾郎も考えれば狐だものね。ねぐらが複数あった方が落ち着くのかもしれないわ」

 

 狐になぞらえた母親の言葉に、源吾郎も兄姉たちも妙に納得してしまったのだった。

 

 昼前。源吾郎は参之宮北部の小さな広場にて雪羽と落ち合った。鳩が集まる事からハト山とも呼ばれる場所でもあるが、流石に鳩の姿は無かった。いかんせん人が多いからだ。もしかしたら源吾郎や雪羽よろしく人に変化した妖怪たちも紛れているのかもしれない。とにかく大通りは人の波がゆるゆると出来ており、それ故に鳩も野良猫もこれを敬遠して何処かに避難しているらしい。

 人の波は丹塗りの見事な大鳥居を潜り抜け、その先にある社に向かっている。生田さんは昔から参拝客が多いのだ。

 

「明けましておめでとう、雷園寺君! いやはや一週間ぶりだなぁ」

「こちらこそおめでとう」

 

 社に向かう人の波はさておき、源吾郎は見つけ出した雪羽に向き合い、互いに新年のあいさつを交わした。文面でのやり取りや時に電話のやり取りもあるにはあったが、やはり対面で言葉を交わす喜びは格別だ。互いに気心も知り、術較べのみならず様々な事でぶつかり合える存在であるから尚更に。

 源吾郎は目を細めながら雪羽の様子を観察した。雷獣が寒さに強いというのは真実らしく、彼はやや軽装だった。もちろん周囲の服装に合わせてコートなどを着込んではいるが、秋物と言って遜色ないほどに薄っぺらい。首許はマフラーではなくて水色のバンダナかスカーフをラフに巻いているだけでもあった。

 雪羽は嬉しそうに頬を火照らせていたが、その顔には若干の疲労の色も見え隠れしていた。休暇と言えども彼も彼で家族サービスなり何なりがあった事は容易に察する事が出来た。

 雷園寺君。雪羽に呼びかけながら、話す内容を考えながら源吾郎は口を動かした。

 

「君もこの年末年始は忙しかっただろうに、年賀状まで書いてくれてありがとうな。まさかそんなのを用意してるなんて思わなかったから驚いちゃったよ。

 俺なんかは、『会社のヒトには年賀状を送らなくて良い』って言う紅藤様の言葉を真に受けちゃったからさ」

「驚いてくれて何よりだぜ。やっぱりサプライズは驚いて、それで喜んでくれると嬉しいからさ」

 

 源吾郎の言葉に、雪羽はにやりと笑った。いたずらっぽい、それでいて人好きのする笑顔である。源吾郎ももちろん彼のこの笑顔が好きだった。

 

「だけど先輩は気にしなくて大丈夫なんですよ。初めから弟妹達に、穂村たちとか時雨たちに年賀状を送るつもりだったんで。先輩に送ったのもまぁオマケみたいなものに過ぎないし」

「新年早々よう言うわ」

「それよか戌年だからって事で犬の絵でしたけど、先輩は大丈夫でした? 俺らは雷獣だから、別に犬だろうと狼だろうと怖くないんだ。でも先輩はお狐様だし……」

「ははは、俺も別に大丈夫だよ。まぁチワワとかポメみたいな小型犬は苦手だけど」

 

 雪羽の言葉に源吾郎もまた笑った。源吾郎へ送った年賀状が単なるオマケに過ぎない。それが雪羽の()()()()()()事は源吾郎も解っていたのだ。

――昨年は仕事面のみならず、プライベートでも何かとお世話になりました。今年もお互い切磋琢磨していきたい所存です。

 雪羽のしたためた年賀状にはそのような旨の記述があったのだ。やや格式ばった文章ではあるものの、本心からのメッセージだったのだと源吾郎は信じている。

 

「それよか雷園寺君。月華さんも無事に赤ちゃんが生まれたんだってな。おめでとう。本当に良かったな」

「うん! 男の子と女の子の兄妹なんだよ。医者《せんせい》とか叔父貴たちによると、男の子の方が鵺の血が濃くて、女の子の方が雷獣の血が濃いんだってさ。子供たちの名前は……今叔父貴が考えてる所。春兄《はるにい》とか俺も案を出してるんだけど、やっぱり自分の子供には自分で考えた名前を付けたいって言ってるからさ」

「赤ちゃんの名前は父親が考えるって相場が決まってるもんなぁ」

 

 言いながら、源吾郎はその頬に笑みを浮かべていた。猫の仔やレッサーパンダの仔のような赤ん坊を抱っこする月華の姿や、赤ん坊の名前をああでもない、こうでもないと考える三國の姿などが脳裏に浮かんだからだ。

 雪羽ももちろん春嵐や三國の姉と一緒にその家族の輪の中にいたのは言うまでもない。源吾郎のそれとは違うが、彼も家族との幸せなひとときを過ごしていた事には変わりない。

 

 二人は人ごみの多い生田さんに向かうのは断念し、楠公さんに向かう事にした。参之宮からは多少歩かねばならないが、どちらも妖狐と雷獣であるから歩くのは苦ではない。それよりも遅々とした足取りの流れに乗るよりは幾分良いだろうと判断したのである。

 

「生田さんは縁結びの神様だけど、楠公さんは家内安全だからねぇ。ふふふ、俺が今一番求めている所なんだよ。それに叔父貴や春兄は月姉《つきねえ》が無事に赤ちゃんを産めるようにって楠公さんに何度かお願いしていたらしいから、そのお礼も兼ねているんだ」

 

 相変わらず雷園寺は信心深いなぁ。楠公さんに向かう理由について語る雪羽の姿を見ながら、源吾郎は密かに感心していた。雷獣は直情的・直感的な個体が多いのは事実だ。だがその一方で信心深く、雷神などを頼りにする者も多い。或いはもしかしたら、理論に濁らぬ考えの持ち主であるから、素直により強い者に身を委ねたり信仰を捧げる事が出来るのかもしれないが。

 今更めいた話にはなるが、妖怪たちが神社や寺院には出入りできないという風説は全くの大嘘である。それらの施設と妖怪たちは対立していないし、むしろ神仏の眷属として勤務できるのは妖怪たちにとっても誉れであるくらいなのだから。

 

「雷園寺君の事だから、天神様にお参りしに行くのかとも思っていたんだけど……」

「天神様へのお参りはもう済ませてあるよ」

「成程、そう言う事だったんだな」

 

 初詣と言って一つの神社や寺院に詣でる家もあれば、正月の間に複数の神社を巡る家もある。どうやら雪羽は後者であるようだった。源吾郎も後者に当たるのだけど。

 

 楠公さんへの道のりは二人だとあっという間だった。源吾郎も雪羽も近況報告や世間話が思いがけず弾み、むしろ気が付いたら到着していた……と言う塩梅だったのだ。源吾郎も雪羽がどのように年末年始を過ごしたのかを知る事となった。案の定と言うべきなのかどうか、彼も彼なりに叔父夫婦の助けになれるように色々と働いていたらしい。日中なのに疲れているように見えたのはやはり気のせいではなかったのだ。三國の姉や春嵐たちもいると言えども、それとこれとはまた違っていたのだろう。

 また、雷園寺家現当主から年賀状が届き電話でのやり取りをしたという話は意外な物だった。次期当主拉致事件が解決してからというもの、雪羽たちと雷園寺家の絶縁状態は解消されてはいる。しかしながら、急に現当主から雪羽に直接そんな風に連絡が来るとは。

 素直に驚きの色を見せると、雪羽は何とも言えない表情で笑っていた。

 

「本決まりじゃあないにしろ、俺だって雷園寺家の次期当主になる権限が与えられたでしょ? だからその……現当主殿だって俺の事を放っておけないと思って連絡を寄越したんだろうね。次期当主にならなかったとしても、俺が雷園寺家に連なる存在である事には変わりないんだからさ」

 

 雪羽が現当主の事を父親と呼ぶ事はついぞ無かった。源吾郎は相槌だけを打って、無駄口を叩かずに話に耳を傾けるだけだった。雷園寺家の一員として三十年ぶりに認められた雪羽であるが、実の父親である雷園寺千理の事を未だに憎んでいる事を源吾郎は知っている。それに三國の許で過ごした日々の方が今となっては長いから、憎しみ云々を抜きにしても身内と言う感覚が薄れているのかもしれない。

 それでも雪羽の言葉には今までのニュアンスとは微妙に異なったものを感じていた。それが何なのか気になりはしたが……源吾郎はその事にはあえて触れなかった。雷園寺家の事柄について、源吾郎が口を挟むものではないと解っていたから。

 その一方で、雪羽は島崎家に幼い頃の雪羽の写真が残っている事に驚いていた。大昔の事を引き合いに出されて嫌がるのではないか。源吾郎の脳裏にはそんな懸念があるにはあったのだが、雪羽はむしろ喜んでいた。昔の事ながらもそうして記録として留めてくれているのだ、と。

 さて二人で大楠公にお参りをした後は、社の境内に連なる屋台を何とはなしに見て回った。源吾郎も雪羽も食べ盛りの若者であるから、買い食いの方がお参りよりも楽しく感じるのは無理からぬ事であろう。もちろん、二人とも獣妖怪であるわけだから、チョコレートやネギ類などを使った料理は買わないように注意を払っていた。

 まぁ、源吾郎はいざという時のための散薬を念のためにと母に持たされていたし、紅藤から貰った護符には有害物質を無効化する権能があるから、うっかり食べてしまったとしても大丈夫なのだろうが。

 雪羽はベビーカステラやいちご飴を買い、源吾郎はポテトフライや唐揚げを購入した。ポテトフライの屋台の男性は気前のいい人物であり、ポテトに塩を振らないでほしいという源吾郎の申し出を特に言及せずに受け入れてくれたのだ。

 ひとまず購入した物を抱え持ち、源吾郎たちは落ち着いて食べられそうな場所を探した。生田さんほどではないにしろ、楠公さんも人の流れがそこそこある。境内の中に留まる事は出来ずに、外へと流れるように促されたのだ。

 だがやはり、そこは大きな社を抱えているだけの事はある。と言うのも、境内の外に連なる通りには、それとなく簡易ベンチが点々と置かれていたのだから。源吾郎たちはそれらのベンチの一つに腰を下ろした。軽装の若者二人であるから、そんなに場所を取る訳でもない。

 

「それにしても先輩、屋台で買ったもので好みがはっきり分かれましたね」

「でも雷園寺君は焼きトウモロコシは買わなかったんだね。あれば買うと思ったんだけど」

「トウモロコシはもう家で十分に堪能したからさ……トウモロコシ団子とかね。雷獣がトウモロコシが大好きなのは先輩も知ってるでしょ。だからトウモロコシ料理も豊富なんだよ」

「何だ、そう言う事だったのか」

 

 雪羽の言葉に源吾郎はしばし笑っていたが、ややあってからポテトフライと唐揚げのカップをベンチの上に置き、それから雪羽を見やった。

 

「さて雷園寺君。俺はポテトと唐揚げを買ったんだけどさ、一人で食べるにはちと多いから君も一緒にどうかな? ポテトの方は塩を振らないようにってお願いしたから、君も安心して食べられるはずだよ」

「良いの? それじゃあ俺のベビーカステラも何個か摘まんでも良いよ」

「ありがとうな雷園寺君。お言葉に甘えさせていただくぜ」

 

 後でお金払おうか? 雪羽の分のポテトと唐揚げをカップに分けようとした時にそんな言葉が降りかかり、源吾郎は思わず手を止めた。視線をずらして雪羽を見やると、彼は真剣なまなざしで源吾郎を見ているではないか。

 

「お金だなんて大げさだな。ポテトだって唐揚げだって言うて百円とか二百円くらいの物だしさ。俺は大丈夫だよ」

「……先輩って()()()優しいよね。何の()()()もなく俺に優しくしてくれるでしょ。お礼とかお金とか、本当に良いの?」

 

 何を言ってるんだ。源吾郎はそう言いかけてその言葉を呑み込んだ。先程までとは異なり、雪羽が所在なさそうな表情を浮かべている事に気付いたからだ。

 源吾郎の脳裏で様々な情景が浮かんでは消えていく。幼かった宗一郎や双葉と共に写っていた、幼子だった雪羽の姿。取り巻きである雑魚イタチとゴミパンダを従えてへらへら笑っていた雪羽の姿。そして――取り巻きをオトモダチと頑強に言い張り、裏切られたにも関わらず彼らの行状と未来を案じる雪羽の姿を。

 それから、雷園寺とオトモダチとの関係性についても思い出してしまった。雪羽はただ強大な力をもって弱小妖怪たる彼らを従えていたのではない。雪羽はきちんと彼らに見返りを与えていたのだ。それは金品だったり雪羽自身が道化として貶められる事だったりした訳であるが……いずれにせよ友人関係と言うにはいびつな物であった事には変わりはない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。雪羽がそのように思っているのであろうから。

 だからこそ、見返りを求めない源吾郎の姿に雪羽は優しさを見出しているのだ。優しすぎて先輩が怖いよ、などと言ってのける事さえあったのだ。見返りを求めずに相手のために動く事など、源吾郎にとっては()()()()()()()()()

 でもそれを、正面から正す事は源吾郎にも出来なかった。

 

「良いんだよ雷園寺君。お金の事なんて、俺はもう就職しているんだから都合も付くしさ。それに何と言うか……別に俺は雷園寺君に何かしてもらいたいなんて言うスケベ心で動いているんじゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 お前は間違っているんだ雷園寺。お金や、()()()()()()()()()()離れていくような手合いをお友達と称する事が()()()()()()()()()()。そんな奴は友達でも何でもない。見返りやお金を餌にしなくても、お前の事を気に入ってくれる本当の友達は出来るはずなんだから――源吾郎の主張はとめどなく溢れてきていたが、雪羽を見ながらそれを喉元で押さえ込んでいた。源吾郎には解っていた。雪羽が本当は自分以上に繊細な気質である事を。ましてや今は叔母のお産が終わったという事もあり、気を張っている所であろう。そんな時に強い言葉で言い募るのは悪手だと思っていた。

 そうだなぁ……ひたとこちらを見つめる雪羽を見つめ返しながら、源吾郎は慎重に言葉を紡いでいった。雪羽の思案顔を見ていると、彼の幼い頃に撮影されたポートレートに重なるように思えてしまう。

 

「……雷園寺君。もし俺に何かお礼がしたいのならさ、俺に色々な事を教えて欲しいんだ。職場では君が俺の事を先輩って呼んでくれてるけれど、本当は雷園寺君の方が年上で、妖生経験も豊富だと思ってる。何より戦闘慣れしてるじゃないか。俺だって強くなりたい。だから戦闘のコツとか妖怪としての心得を教えてくれよ、な。

 お金なんぞ貰うよりも、俺はそっちの方がよほど嬉しいよ」

 

 源吾郎が言うや否や、雪羽の表情がにわかに変化していった。物寂しげな表情から、花開くような笑みが蘇ったのである。

 

「あはは、先輩ってば面白い事を言うじゃないか。潜在能力とか妖力の多さで言えば、本当は俺なんかよりもうんと強いのに……でも先輩はまだ力を使い慣れてないし、何より優しいから中々力を振るうのが難しいのかもね」

「そこまで俺の弱点が解るのか……やっぱり雷園寺君は強いなぁ」

「まぁ萩尾丸さんの受け売りでもあるんだけどね。でも俺も、先輩が力を振るう事に慣れて躊躇わなくなったらとっても強い妖怪に化けると思ってるんだ。だってさ、現時点でも普通の狐たちはビビッて近付かないじゃん」

「ははは、そこまで言われるとなんか逆にくすぐったいな」

 

 源吾郎が笑うと、雪羽も目を細めて笑っていた。無邪気な少年の笑みとは違う、文字通り妖怪じみた笑顔である。

 

「――と言っても、先輩が強くなる間に俺だって強くなりますからね。俺だって負けず嫌いですよ。やられっぱなしは性に合わないし」

「何というか雷園寺君らしい言葉が聞けて嬉しいよ」

 

 二人の若妖怪は互いに顔を見合わせてしばし笑い合っていた。そうして今一度、目の前にいる雪羽が得難い友であると再確認した瞬間でもあったのだ。



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閑話 異界の門を預かりし者

 市内某所のとある屋敷。世間ではまだお正月気分が抜けきらぬ所であるが、この屋敷ではそう言った事は無関係であると言わんばかりの空気を醸し出していた。

 それもそのはずである。ここの住民たちは盆暮れ正月を気にする手合いでは無い。と言うよりも世間で流通している暦を気にしていない、と言った方が正しいであろうか。現在この土地で使われている暦はグレコリオ暦と呼ばれるものである。このグレコリオ暦が採用されたのは明治の初期、要は百五十年程度しか使われていない暦なのだ。

 もちろん寿命の短い人間であれば、グレコリオ暦がカレンダーの暦だと思う事は無理からぬ話だろう。しかし、人間よりもはるかに長い年月を生き続ける妖怪となれば話も異なってくる。百年などと言う歳月は、妖怪であれば苦も無く過ごしてしまうような年月に過ぎないのだから。

 要するに、この屋敷の住民たちは人間などではなく、グレコリオ暦以前の暦を知っている妖怪の類であるという事なのだ。もっとも彼らは人間や妖怪たちが使っていたような暦を有難がる手合いでは無いし、若干一名は妖怪と無邪気に呼んで良い存在なのかどうかすら定かではないのだが。

 さて、異形たちの中でも特に浮世離れした面々が集まるこの屋敷の中では、一体何が繰り広げられているというのだろうか。

 

「イルマ、お客さんが来るって話があったのにブラブラと……どこをほっつき歩いていたの?」

 

 屋敷の女あるじである碧松姫は、赤絨毯で敷き詰められた部屋にやってきた異形を見るや、呆れたように問いただした。応接室の中央には丸い猫足のテーブルが配置されており、その上にはアフタヌーンティースタンドが鎮座している。応接室の重厚な雰囲気も相まって、中々に優雅なティータイムでも始まりそうな気配である。

 但し――スタンドの上に載っているお菓子の類が、蟲やら爬虫類やらと言った人間基準で言う所のゲテモノ、更には何がしかの生物――もしかしたら妖怪のモノも含まれているかもしれない――の鮮血滴る肉片や臓物であるわけなのだが。

 もちろんそうした物に臆する者は誰もいない。イルマと呼ばれた異形は言うまでもなく、女あるじの碧松姫《へきしょうき》や食客の八頭怪、そして――客妖《きゃくじん》として相対する妖怪でさえも。

 

「そんなに怒らないで下さいや、碧松姫様。下界の様子をちょっくら偵察していたんですよう」

 

 異形の青年たるイルマは、ややもっさりとした口調で碧松姫の問いに応じた。この土地の訛り、要は関西弁とは異なるニュアンスの物言いであるのは、彼の生まれつきの癖のようであった。碧松姫が目的のために道ヲ開ケル者と交わった果てに生まれた存在であり、異形の中の異形であるとも言える存在であろう。

 女あるじの碧松姫や、八頭怪にしてみれば目的を果たすための道具に過ぎないのだけれど。

 

「下界の偵察に行っていたのね。イルマ君、お正月早々頑張ってるんだね、お疲れ様」

 

 屈託のない口調で言ってのけるのは客妖だった。もちろん彼女もイルマの素性については知っている。知った上で無邪気に彼の行動を微笑ましく思い、ねぎらいの言葉をかけていたのだ。彼女自身はある意味普通の妖怪ともいえるのだろうが、肝が据わっている事には変わりはない。

 何しろ碧松姫は彼女の母親であり、したがってイルマは彼女の異父弟に当たるのだから。手駒として碧松姫に利用され、それでもなお碧松姫に忠義を誓っているという点でもイルマと相通じるところがあった。

 イルマが彼女に心を開き、親しげに姉さんと呼ぶのもそのためだったのかもしれない。

 

「お正月、確かにお正月って言ってたよ。ああ、神社とかお寺とかいう色々な物を祀っている所に、人とか、獣の化けたのとか、いーっぱい集まってたよ。何か犬の絵が多くて、それがちょっと怖くて嫌だったけれど」

「今年は戌年らしいからねぇ、犬の絵が多いのも仕方ないよイルマ君」

 

 イルマの妙にたどたどしく癖のある言葉に指摘を入れたのは、食客である八頭怪だった。地球上での暑さ寒さならば特段苦にはならないらしく、相変わらずスラックスにワイシャツ、そしてその上に濃紺のチョッキを身にまとった、冬場にしてはやけにあっさりとした出で立ちである。

 七つの小鳥の頭で首許を飾る彼の正体は、道ヲ開ケル者の遣いであり尚且つ子孫でもあった。イルマに対して多少優しさを見せているのは、イルマが道ヲ開ケル者の落とし子であるからに他ならない。

 

「イルマ君。この国では十二年おきにこの年はコレ! って言う畜生が割り当てられているんだよ。それでさ、今年は何と犬畜生が割り当てられているんだよね。そんな訳で、今年は犬畜生共が大きな顔をしてのさばっているかもしれないからさ、イルマ君も碧松姫ちゃんたちも気を付けてね! ボクも、犬畜生には碌な目に遭わなかったからさ」

 

 八頭怪はそう言うと、首飾りの端っこをそっと撫でていた。

 

「そうは言っても八頭怪様。八頭怪様の頭を食いちぎったのは、凡犬駄犬ではなくて恐るべき哮天犬《こうてんけん》だったんですよね。であれば、イルマも八頭怪様もその辺の駄犬を畏れる必要はないんじゃないの?」

「頭を食いちぎったって碧松姫ちゃーん。火の玉直球ストレートで言っちゃったねぇ」

 

 へらりと笑う八頭怪であるが、その顔には渋いものが浮かんでいた。碧松姫の言葉は事実だったからだ。

 八頭怪は元々九頭駙馬《きゅうとうふば》と呼ばれていた。姉である九頭雉鶏精《きゅうとうちけいせい》と同じく九個の頭を持ち、尚且つ龍王の許に婿入りしていたからだ。かつての大陸では、王女への婿の事を駙馬と呼ぶ時期があったのだ。

 それはさておき、哮天犬は八頭怪にとって忌まわしい敗北と敗走を思い起こさせる存在に他ならなかった。邪神の力を有し、尚且つ龍王にまで認められるほどに強かったにもかかわらず、無様に血を流しながら逃れる他なかったのだから。

 しかも、それ以来哮天犬以外の犬にさえも恐怖心を抱くようになったのだから何とも忌々しい話である。 

 だが――八頭怪や彼の親族と犬との因縁は浅からぬものであるのもまた事実である。イルマの異母兄であるウィルバーは、犬に喰い殺されて生命を落としている。そもそも大前提として、道ヲ開ケル者は常に鋭角ヨリ出ヅル狗と相争っているではないか。鋭角のアレは地球上の犬とは異なるのだが。

 

「まぁでもイルマ君の異母兄に当たるウィル君はさ、ご存じの通り犬に食い殺されちゃったわけだし、イルマ君も気を付けるのに越した事は無いよ。狂犬病とか感染症もあるだろうからね」

 

 それに――忌々しさと面白さとをないまぜにしたようないびつな笑みを浮かべ、八頭怪は言葉を続ける。

 

「実際の哮天犬の野郎がやってこないにしても、哮天犬を模した術式を組み込むアホがいるからね。例えば仙人気取りのメス雉とかさ」

 

 仙人気取りのメス雉。その言葉に碧松姫とその娘は反応していた。碧松姫はあーっ、と大げさに声を上げている。客妖である娘の方はそんなに派手な動きはないが、それでも身じろぎをしたのだった。

 

「それって紅藤の事でしょ。あいつ、単なる野良の雑魚妖怪だった癖に……まだ胡喜媚様の威光に縋りついて、それで権力を得てふんぞり返っているんでしょ。忌々しいったらありゃしない」

「あのメス雉はそう言う所ばっかり変に知恵が回るからねぇ……でもさ、あいつの部下たちは付け入る隙が十二分にあるはずさ。特にペットの仔狐とか、哺乳類の癖にスカイフィッシュ気取りのチビ雷獣とかさ」

「八頭怪様の仰る通りだとは思いますわ。ですが……」

 

 思案顔で告げたのは、客妖である碧松姫の娘だった。

 

「八頭怪様は既にあの二匹に接触を図っていて、それで既に警戒されているんですよね。であれば、そのような状態なのにすぐに動くのは悪手ではないでしょうか」

「それもそうだよねぇ……」

 

 やはり星辰が揃うのを待つべきなのかもね。そんな風に八頭怪が呟いたその時、応接室の隅で控えていたイルマがすっと動いた。

 

「どうしたのイルマ。せわしないわね」

「ネズミがいたんです、碧松姫様……」

「ネズミね。ああ、それなら構わないわ」

 

 それなら好きになさい。ひらひらと手を振る碧松姫の姿に、イルマは静かに微笑んだ。屋敷の中をうろつくネズミの駆除、と言うよりも捕獲と捕食の許可を得る事が出来たからだ。

 少しだけ失礼します。そう言ってイルマはその身をにゅるにゅると縮ませ、触手と鱗にまみれた不可思議な姿でネズミを追跡した。

 ネズミ自体はあっさりと捕食できた。だが――ネズミに付着していたごくごく小さな生き物を取り逃がした事に、若きイルマはついぞ気付かなかったのである。



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第十幕:若妖怪たちの顔繫ぎ
新年妖怪言い放題


「金曜日の夜の事は花金って言うらしいね。雷園寺君と島崎君は若いから、もしかしたら馴染みの薄い言葉かもね」

「……そう言う言葉があるって事は存じてます」

「僕も。子供の頃に聞いた事があるなぁってレベルだけどね」

 

 研究センターの面子が揃う新年会は、一月五日の夜に開催された。金曜日の夜であり、多少遅くなろうとも酒が入ろうとも特段問題はないと上が判断したがための日取りだった。場所は吉崎町の中心部にある居酒屋である。職場の近くが会場として選ばれたのは、ひとえに若妖怪たちの……特に源吾郎の事を慮っての処置であるらしい。源吾郎自身は運転免許を取得してはいる。しかし自家用車はまだ手許には無かった。今の所はママチャリ等でどうにかなっているのだが、もう少し蓄えが出来てから購入するつもりである。

 と言うか今回も、雪羽と共に萩尾丸の車でここまで輸送されてきたわけであるし。

 萩尾丸の口から花金が出てきたのは、単純に今がまさにその状況であると思い至ったからに過ぎない話だ。しかも彼の眼前には、あつらえたように仔狐たる源吾郎と幼獣たる雪羽がいるのだから。

 年長者が若者に昔語りを行いたがる。人間社会ではよくある事らしいが、妖怪社会でももちろん珍しい事でも何でもない。いやむしろ、妖怪社会の方が人間社会のそれよりも多いのではなかろうか。妖怪は人間よりもはるかに長命であるのだから。現に萩尾丸だって、源吾郎にしてみれば実の親より年長の上司にあたる。それはきっと、隣に座る雪羽にも当てはまる事なのだろうが。

 

「まぁ君らになじみの薄い言葉なのはしょうがないよね。かれこれ三十年ほど前に盛んに言われていた言葉なんだからさ。雷園寺君はまだほんの子供だったろうし、島崎君に至ってはまだ生まれてなかったもんね。むしろそれでも知っていたから感心だよ」

 

 まぁ俺には年長の兄姉がいるし。源吾郎はそう思いながら頷いておいた。末っ子で未だに仔狐扱いされてしまう源吾郎であるから、どのように振舞えば波風を立てず、尚且つ可愛がってもらえるのかはよく解っていた。ましてや今回の相手は萩尾丸である。従順で可愛い仔狐を演じていた方がメリットがあると源吾郎は判断していたのだ。

 

「そりゃあ僕だってさ、人間とか若い妖《こ》たちを相手にしないといけない時もあるからね、今の暦とかにもきちんと順応してはいるよ。でもやっぱり、若い頃は今の暦じゃなくて所謂旧暦だったし金曜日とか月曜日とかももちろん無かったからさ……時々不思議な感覚を僕も抱いちゃうんだよね」

「……言うて今の暦になったのって百五十年前ですぜ、島崎先輩。叔父貴だって昔の暦なんてほとんど知らないし」

 

 何故かドヤ顔で告げる萩尾丸の言葉に、雪羽が源吾郎の方を向いてぼやいた。雪羽の保護者である三國は百五十を迎えたかどうかの若妖怪である。明治初期の産まれであろうから、年代的にも年齢的にも若妖怪に分類されてしまう。

 そんな三國に養育されてきた雪羽にしてみれば、萩尾丸は途方もない歳月を生き抜いた大妖怪であり、彼の言う過去は化石じみた大昔の出来事という物なのだろう。そこは源吾郎も同意見であるのだが。

 だからこそ、源吾郎も小さく頷いて同意を示したのだった。

 

「……萩尾丸。お酒の席だからって調子に乗って、昔の事とかを言ってマウントを取ったら嫌われちゃうわよ? そもそも、今のグレコリオ暦になるまでに暦なんて何度も変わってるのよ。だからその、私が馴染みのある暦と萩尾丸や青松丸が馴染みのある暦だって多分違うかもしれないし」

「ははは、紅藤様の仰る通りでして」

 

 紅藤にたしなめられると、萩尾丸も若干大人しくなった。ゆうに六百年以上生きている紅藤は、妖怪たちの間でも長い年月を生きた存在であると見做される。それこそ、萩尾丸を自分の息子と呼んでも遜色のない年齢差を保持しているのだ。

 なんだかんだ言いつつも、大天狗である萩尾丸も、紅藤の前では数少ない弟子の一人であり、忠実な部下に過ぎないという事だ。

 

「まぁその……僕としては土日が来るのを待ち遠しく思っているような若人たちがどうしても軟弱に見えましてね。いやはや、僕もヤキが回ったのかもしれませんが」

「そんな、私よりも三百歳近く萩尾丸の方が若いのに、ヤキが回っただなんて言わないで頂戴。そんな事ばっかり言ってたら、私もさっさと隠居しちゃうわよ。

 冗談はさておき、私も休日とかはあんまり気にしないという所には同意見ですけれど。青松丸もそうだろうけれど」

 

 そうでしょ? 母親であり師範である紅藤に唐突に話題を振られ、青松丸は目を丸くしつつも頷いていた。しかしその視線はすぐに紅藤たちからそれて、源吾郎や雪羽を見やったのだ。

 

「まぁ僕らは研究職ですからね……それはそうと、お正月休みはどうだったかな? サカイさんも島崎君も雷園寺君も昨日から元気に出勤しているし、仕事の休みは取れたと思うんだけど」

 

 青松丸はそう言うと、暗い赤褐色の瞳を源吾郎たちに向けた。言いたい事を言い放題に言ってのけた萩尾丸とは異なり、若い後輩たちを気遣うような優しい言葉である。彼は立場的に萩尾丸の弟分に収まっているそうだが、萩尾丸とはえらい違いである。

 

「はい。僕も実家でのんびり過ごす事が出来ました。両親も、兄姉たちも普段通りでしたし」

「僕の所は月姉《つきねえ》が……叔母が子供を産んだんでちょっとバタバタしましたけれど、僕も叔父たちも無事にお正月を迎えました。

 明日か明後日に叔母と弟妹達も退院して、家に戻れるんですよ」

「わ、私は独り身だから気ままに年末年始は過ごしちゃいました。私も、本当は年末年始とか、騒がしいイベントは好きなんですよ。その裏で、皆の心の隙間が出来て、それで()()()が増えるから……」

 

 年末年始の過ごし方の返答については三者三様であった。特に新たに弟妹が産まれた雪羽などは、さも嬉しそうに頬を火照らせているではないか。

 その一方でサカイ先輩の休みの過ごし方も中々にユニークである。イベント好きであるというのは意外に思えたが、心の隙間だの()()()()()()()()()()というくだりで源吾郎は何となく言わんとしている事を察してしまったのだ。

 それはさておき、源吾郎は表情を引き締めて青松丸を見つめ返した。

 

「青松丸先輩。年末休みの間、ホップの面倒を見てくださってありがとうございました」

「良いんだよ島崎君。ホップちゃんだって君の家族なんだし、島崎君は島崎君で実家の都合があったもんね」

 

 源吾郎の言葉に、青松丸は穏やかな笑みを見せていた。

 先程の話の通り、源吾郎は正月休みの間は実家に滞在していたのだ。その間、使い魔兼ペットのホップの世話を、青松丸と紅藤に依頼していたのである。妖怪化していると言えども、ホップはまだ小さな十姉妹に過ぎない。慣れない環境下に一週間近く晒してしまう事、そもそも寒風吹きすさぶ中を連れ歩く事自体が危険であろうと判断したが故の選択だった。

 結局のところ、青松丸は何くれとなくホップの面倒を見てくれた。源吾郎のスマホに撮影したホップの様子を転送してくれたわけであるし、源吾郎が放鳥させる時間に放鳥させてくれてもいたらしい。

 そんな訳で、ホップは何も不安を感じずに、飼い主不在の一週間を過ごしていたらしい。もっとも、青松丸はミルワームやブドウ虫と言った芋虫の類もホップに与えていたらしく、その辺りを源吾郎がどのようにフォローするかがささやかな悩みだった。

 青松丸もホップも鳥類であるから、芋虫の類は大好物である。しかし源吾郎は芋虫の類は苦手であり、したがって今までもホップには与えずに過ごしてきた。

 とはいえ自分も観念して、ミルワームを購入すべきなのかもしれないが。そこはホップと協議(?)して決定せねばならない案件であろう。

 

「はい、こちら彩りシーザーサラダと取り皿でございます」

 

 源吾郎とさほど歳の変わらぬ店員が、丸盆の上にサラダと取り皿を運びにやってきた。萩尾丸が声を上げたのは、店員がサラダをテーブルの中央に置いた直後の事である。

 

「ほら雷園寺君。取り皿を受け取って僕たちに配っておくれ」

「え、俺?」

 

 驚きのあまり、雪羽はタメ口に近い内容で萩尾丸に質問を投げかけている。ところが、驚いているのは何も雪羽だけではなかったのだ。

 

「雷園寺って……まさかあの雷獣の名家の御子息……?」

 

 震えて上ずった声を上げるのはサラダと取り皿を運んできた青年だった。萩尾丸はそんな彼の姿を見ると、人畜無害そうな爽やかな笑みを向け始めた。

 

「気にしないで大丈夫だよ相沢君。確かに君らの中では雷園寺君は有名妖《ゆうめいじん》なのかもしれない。だけど僕らにしてみれば丁稚の可愛い()()みたいなものだからね。()()()()()()()()()()()()

 

 相沢青年は、頷く事も忘れて気の抜けた声を発するだけであった。

 ともあれ、雪羽は取り皿を彼から受け取って、萩尾丸の言いつけ通り皿配りを行う事と相成った。

 

「……相沢さん、でしたっけ。あのヒトは人間みたいだったんですが」

「そうだね。雷園寺君の事を知っていたから、きっと術者の卵かその縁者なんだろうね。妖怪向けのこのお店で働いているんだし」

 

 妖怪と関わる事を生業とする術者たちであるが、誰もかれもが悪妖怪の摘発や妖怪絡みのトラブル解決に携わっている訳ではない。むしろ、妖怪向けの施設や店舗に就職しているだけと言う人間も多い事は源吾郎も今ではきちんと知っている。

 それこそ、鳥園寺家の当主になる事が決まってしまった鳥園寺さんだって、工場勤務の身分なのだから。

 

「それにしても、何で俺……じゃなくて僕にお皿運びなんかを急に頼んだんですか?」

 

 少し間を置いてから雪羽が問う。唐突に命じられた事に不満を持っているのか、少し恨めしそうな表情を見せている。雪羽の事を可愛い仔猫と称した萩尾丸は、その眼差しを見てもたじろぐことはもちろん無い。

 

「島崎君は最初におしぼりとかお箸を僕たちに配ってくれたでしょ。であれば君にも何か頼まないとって思ったんだ。今となってはこの研究センターの中で君と島崎君が最年少だからね」

 

 最年少と言う所を殊更に萩尾丸が強調していたのを源吾郎は聞き逃さなかった。お茶出しや手土産の配布など、細々とした雑務は年少者が行う事。これこそが研究センター内のルールであった。少人数ながらもヒエラルキーがはっきりと決まっている研究センターらしいルールであると源吾郎は思っていた。研究センター内は特に年功序列ではない。それでも妖怪としての特質上、年長者が上位に控え年少者の地位は低いという流れになっていた。

 そんな中で、研究センター内で源吾郎と雪羽の地位が最下位である事は言うまでもない。源吾郎は昨年の春に入社したばかりの新人であるし、雪羽に至ってはおイタの懲罰で萩尾丸に確保され、彼の一存で研究センター送りになっているだけなのだから。

 若い者が新年会でも雑用をやれ。ある意味パワハラじみたものなのかもしれない。だが()()()()はサラダを取り分けろ、と言う主張よりは幾分()()なのではないかと源吾郎は思っていた。年少者・あるいは地位の低い存在と言うのは性別に依存している訳ではないためだ。源吾郎や雪羽の存在のために、すきま()のサカイ先輩はこれまで行っていた雑事を()()に託すことが出来たのだから。

 

「僕の所で寝泊まりしている時と同じだよ、雷園寺君。ちゃんと色々やってくれているじゃないか」

 

 優しげな口調で萩尾丸はそう言ってから、何かを思い出したようにすうっと目を細めた。

 

「それにね雷園寺君。君は今年からは、生誕祭ではスタッフとして参加してもらう事が決まっているからね。もちろん、三國君たちの許可は貰っているよ」

「生誕祭で……俺がスタッフなの……?」

 

 雪羽は翠眼を丸く見開いて萩尾丸を見つめていた。半年以上先の事を言われてもそりゃあ確かに戸惑うだろう。

 雪羽が驚いている事は見ての通りであるが、源吾郎は萩尾丸の妙に律義な部分にひとり感心していた。現在、雪羽の身柄は萩尾丸が確保している。グラスタワーの事件があった折に、懲罰の一環として三國から雪羽を取り上げ、その後の諸々を萩尾丸が管理しているのだ。

 その際に雪羽の扱いに関しては「心身の損壊及び殺害を行わない限り何を行っても構わない」と言った取り決めを三國に押し付けているらしいのだが……実際には萩尾丸も結構雪羽をどう扱うかについて三國にあれこれ問い合わせているようだった。

 生誕祭の折に雪羽をスタッフとして働かせるという案件について、敢えて三國の名を出したのも萩尾丸がわざわざ問い合わせたからなのかもしれない。立場上、三國が萩尾丸の申し出に頷かざるを得なかったとしてもだ。

 さて萩尾丸はと言うと、驚く雪羽をさも愉快そうに眺めながらゆったりと頷いていた。

 

「そうだとも雷園寺君。元々君は三國君の甥っ子として、もてなされる側にいたのは僕も知ってるよ。三國君も三國君で、君を有能な妖物として見せびらかしたかった事も僕は知っている。

 しかし雷園寺君。そうして君を生誕祭の場で野放しにしていたら碌な事にならないって言う事が昨年()()()()判明したからね。もちろんその事は君も知ってるでしょ?」

「…………」

 

 雪羽は黙って視線をテーブルに落とした。答えられないのでは無くて答えたくないだけである事は源吾郎には痛いほど解っていた。グラスタワー事件は源吾郎の心にショックを与えた代物であるが、それは雪羽にとっても同じ事だったのだ。

 

「ははははは、ウェイトレスだとかウェイターに絡んできた君の事だ。そう言ったおイタがよろしくないって事を知るためにも、君自身がウェイターとして働くというのは良い勉強になるんじゃあないかな。

 それに君はまだ若いから、僕らみたいな幹部や重臣たちの話を聞いていても、退屈に思うかもしれないし」

「……確かに萩尾丸先輩の言う通りですね」

 

 生誕祭の場でウェイターとして立ち働く事も教育の一つなのだ。萩尾丸のその言葉に、源吾郎はいたく納得していた。納得したからこそ、未だ動揺する雪羽に励ましの言葉をかける事が出来そうだと思っていた。

 

「まぁ気を落としなさんな雷園寺君。今年はそんな感じかもしれないけれど、君が真面目に働くのを見たら、萩尾丸先輩も許してくれるかもしれないからさ。

 雷園寺君、君はもうヤンチャはやめて真面目にやるって心に決めたんだろう? だったら大丈夫だって俺は思ってるからさ」

「先輩……」

 

 雪羽の首が動き、静かにこちらに視線を向ける。潤んだ翠眼はいっそ幼げだった。だが源吾郎は雪羽の次の言葉を聞く事は出来なかった。その前に萩尾丸が口を開いたからである。

 

「ちなみに、島崎君も今年はスタッフ枠だからね。島崎源吾郎本人としてウェイターになっても構わないし、去年みたいに宮坂京子とか他の姿で()()()()()()に扮してくれても構わないからね」

「え」

 

 源吾郎も今年の生誕祭はスタッフ枠である。無情なる萩尾丸の宣言に、源吾郎の喉から妙な声が漏れてしまった。

 萩尾丸の言葉と源吾郎の反応がおかしかったのか、にわかにテーブルがざわつき、笑い声がほとばしった。雪羽も先程までの表情は何処へやら、身体を震わせて笑っていた。調子の良い奴め。そう思いながらも源吾郎も場の空気に飲まれて笑い始めたのだった。




 若手社員がおしぼりとか取り皿の準備をしろって言われる……言われない?


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鳥籠ながめてお泊り会

 新年会が終わり、源吾郎は住処である研究センターの居住区に舞い戻っていた。行きしなと同じように、萩尾丸が車で送ってくれたのだ。雪羽と共に。

 一緒に輸送された雪羽はと言うと、何と今回は源吾郎の部屋に泊まっていくという事であった。急な申し出ではあるものの、源吾郎も特にこだわりなく受け入れた。雪羽が源吾郎の部屋に泊まるのは今回が初めてではない。昨年の秋も二度ほど雪羽を止めた事があるのだが、お行儀よくしてくれる事は源吾郎も既に知っている。

 愛鳥であるホップを無闇に怖がらせる事も無いし、そうした点でも懸念点は殆ど無かったのだ。

 

「急な申し出なのにありがと、島崎先輩」

 

 雪羽はそう言って床の上に胡坐をかいた。腰の付け根から伸びた三尾はおのれの胴にゆるく巻き付いており、そのうちの一本に手を添えていた。座った猫が身体に尻尾を巻き付ける仕草そのままである。

 

「別に俺は大丈夫だよ、雷園寺君」

 

 周囲の様子をうかがう雪羽の姿に神経質そうなものを見出した源吾郎は、柔らかな声音で応じてやった。

 

「雷園寺君は前も何度か俺の部屋に泊まったでしょ。君と俺の仲だ、緊張せずにくつろいでくれよな」

「うん……それにしてもさ、萩尾丸さんも割とあっさりとここに泊まるのを許可してくれたよな。と言うよりも、良いから島崎君の所に泊まっていきなよ、って俺に促したくらいだぜ。何というか、俺たちに好きなようにさせるふりをして、自分の思惑通りに動かそうとするところがあるよな、萩尾丸さんって」

 

 そう言って雪羽は歯を見せて笑った。この度雪羽が源吾郎の許に泊り込む事も、もちろん萩尾丸から許可を貰ったうえでの事である。源吾郎も雪羽が申し出て萩尾丸が承諾する所は目の当たりにしていた。

 

「まぁここは俺の部屋だけど、紅藤様の居住区でもあるからね。外泊するにしても安全な所だと萩尾丸先輩も判断なすったんじゃないかな。

……万が一の事があれば、青松丸先輩や紅藤様が駆けつける事もあるらしいし」

「プ……ププ?」

 

 源吾郎の呟きと共に、ホップが小さく啼いて応じた。ホップは既に眠っていると思っていたのだが、或いは雪羽の気配や二人のやり取りで目を醒ましたのかもしれない。

 ホップの事はさておき、この居住区が源吾郎たちにとって安全な場所の一つである事はまごう事なき事実だった。何せこの居住区は、紅藤と青松丸もまた暮らしている場所であるのだから。八頭衆どころか雉鶏精一派内でも最強と目される紅藤の管轄下なのだ。敵妖怪が攻め込んでくるという異常事態はまず起こらないであろう。

 それにグラスタワー事件直後とは異なり、源吾郎も雪羽ももはや互いに気心が知れた間柄になっている。その事を萩尾丸がきちんと把握しているのも言うまでもない。何となれば、雷園寺家の事件の折に源吾郎が繁栄の象徴として雷園寺雪羽に憑いていると周囲に知らしめたくらいなのだから。

 

「そっか。確かに紅藤様もご子息の青松丸さんも、研究センターの近くに作られた居住区で暮らしてらっしゃるって話だったもんねぇ。それで、島崎先輩もその居住区の一室を間借りしてるって事なんだね」

 

 そう言う事さ。源吾郎が頷くと、雪羽は頬を緩めていたずらっぽく笑った。

 

「あはは、先輩もやっぱり甘えん坊なんですね。仔狐じゃないって家族の皆に知らしめるために実家を離れたのに、わざわざ上司が暮らしている居住区に身を寄せるなんて」

「べ、別に俺は、一人暮らしが寂しくなったからってショボい理由でここに居を構えている訳じゃあないんだぞ」

 

 言い返してから、源吾郎は我に返って二、三度深呼吸して気持ちを落ち着かせた。別に本気で腹を立てた訳では無い。しかし雪羽に甘えん坊と言われてしまい、ついついムキになってしまったのだ。

 源吾郎自身はそれほど甘えん坊ではないのだが、雪羽は源吾郎を甘えん坊だと見做す事が往々にして見受けられた。源吾郎の甘え上手の技能と甘えん坊な気質を混同しているためなのか、雪羽自身が甘えん坊で寂しがり屋だからなのかは定かではないが。

 用心深く鳥籠の中を窺いながら、源吾郎はそちらを指し示した。ホップはすでに起きてしまっており、鳥籠に内側からへばりついている。

 

「てか雷園寺君。元々俺は別のアパートで一人暮らしをやってたって事は知ってるんじゃなかったっけ。

 単刀直入に言うとだな、ホップを拾って飼い始めたから、向こうのアパートからこの居住区に引っ越したんだ。別に俺一人だったら、職場から家まで離れてたって特段問題は無いんだよ。だけど……ホップに何かあってもいけないから」

「そっか、そう言う事だったんですね、島崎先輩」

 

 ホップの安全を考えて引っ越した。源吾郎のこの主張を雪羽は笑い飛ばす事は無かった。それどころか、真剣な表情を浮かべてこちらを見据えているくらいだ。

 

「先輩は小鳥ちゃんの事を大切にしてますもんね。であれば、安全に暮らせるように思うのは当然の事だと俺は思うよ」

「解ってくれて嬉しいぜ、雷園寺君よ」

 

 源吾郎はそう言って微笑む一方で、場の空気が重たくなったのを肌で感じてもいた。大切な相手の幸せを願い、そして大切な相手を護る事。その事を雪羽が常日頃からかなり真剣に考えている事は知っている。

 特にホップの場合、源吾郎が弟みたいだと言っていた事もまた大きいのかもしれない。雪羽にも弟妹達がいるのだから。

 無論、雪羽の考えがどうであれ、源吾郎がホップの事を大切な弟分であると思っている事もまた事実だった。友人が飼育していた飼い鳥だったホップは、源吾郎の存在によって妖怪化し、しかも源吾郎の許にやってきたのだから。友である廣川千絵の為にも、何よりホップ自身の為にも、源吾郎はホップを大切に育てなければならない。源吾郎とてそう思っていたのだから。

 

「今回の帰省の時も、青松丸さんがホップの面倒を見てくださったからね。鳥園寺さんからはホップは鳥妖怪だからペットホテルに預けるのは難しいだろうし、そもそも予約はうんと前から入れておかないと埋まってるって教えてくださりましたし……

 まぁでも、紅藤様や青松丸さんもホップの事を可愛がってくださるんで一安心だよ。今の所ホップは元気そのものなんだけど、何かあった時にも相談に乗ってくださるでしょうし、場合によっては診断してくれるかもしれないからさ」

「そりゃそうだろうね島崎君。紅藤様は雉仙女って呼ばれているんでしょ。鳥類で尚且つ妖怪仙人なんだから、確かに小鳥ちゃんの様子を見るのは簡単な事だろうね。それにあのお方は俺にも優しくしてくれるし」

 

 雪羽はそう言うと、何となく照れたような、それでいて少し寂しそうな表情を唐突に浮かべた。悪ガキとしてヤンチャを働いていた雪羽であるのだが、時折こうしてしおらしい態度が表出する時があるのだ。そうした態度こそが、彼の本来の繊細な心根を示しているように思えてならなかった。

 一方で、源吾郎には実の所紅藤が雪羽に優しい理由を何となく察してはいた。そもそもとして紅藤は若い妖怪に親切で優しいのだ。萩尾丸と言うパワハラの権化のような大妖怪が傍にいるから余計に際立つのかもしれない。

 それに、紆余曲折はあったものの、雪羽はいつの間にか研究センターの研修生と言う身分を獲得していた。雪羽再教育のどさくさに紛れ、紅藤も雪羽を研究センターの妖員《じんいん》と見做してしまったのである。雪羽が実際にセンター長の地位を受け継ぐのかどうかは現時点では解らない。しかし一方で研究者としての素質も源吾郎以上に持ち合わせているのも事実である。色々と将来有望だと紅藤も思っていて、それで余計に優しくしているのかもしれなかった。

 

「雷園寺君ってば新年早々しんみりしちゃってるなぁ。何だよ、新年会の場では結構テンションも高かったじゃないか」

「新年会の場でテンションが高かったから、その反動でしんみりしちゃったのかも」

 

 でもさ! 雪羽は腕と肩を軽く回すと、明るい笑みをたたえて源吾郎の方を見やった。

 

「先輩と色々と話をしていたら、そのしんみりした空気も吹き飛ばせるかもしれないかなって思ってるんだ。先輩と話してると、色々と面白い時とかあるし」

「その言い方だと俺自身が面白いみたいなニュアンスになるんだけどなぁ……まぁ良いけど。言うて雷園寺君も面白い時があるからな!」

 

 源吾郎の言葉がウケたのか、雪羽はここで思わず吹き出し始めていた。

 やっぱり雷園寺も何か俺に話したい事があって、それが解っていたから萩尾丸先輩も雷園寺が俺の部屋に泊り込むのを許可したのかも。

 無邪気に笑う雪羽の姿を眺めながら、源吾郎は静かに思っていた。正月休みの最終日に顔を合わせて世間話をしたものの、その時では語りきれなかった事はお互いあるはずだ。家に帰る時間を気にせずに語り合うのもまた一興であろう。源吾郎はそう思っていたのだ。

 鳥籠を見やると、ホップは既につぼ巣の中に引き戻っていた。

 雪羽がこの部屋に泊り込むのは初めての事ではない。しかし今宵は長い夜になりそうだ。そんな予感が、源吾郎の胸の中でわだかまっていた。




 二人とも関西出身なので、油断すれば漫才風になっちゃうのです。


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モフ始めと唐突なる妖術実験

(モフ始め何て言葉は辞書には)ないです。


「あはーっ、良いお風呂だったぜ島崎先輩。お風呂までありがとうございます。極論、家に戻った時に朝風呂でも良いかなって思ってたんだけどね」

「今の季節、朝風呂はあんまり良くないんじゃないの? お湯も冷えてるし、風邪でも引いたら大惨事だぜ」

 

 雪羽と共に居住区に戻ってから三十分後。そのままでもアレなので、源吾郎と雪羽は順に入浴を済ませたのだ。話し合うにしてもそのまま寝るにしてもお風呂にだけは入っておこうと源吾郎は思ったためである。

 源吾郎が上がった後に入れ違いで雪羽も入浴したのだが……タオルで水気を拭った雪羽は、何故か変化を解いて本来の姿に戻ったのである。しかもきちんと肌着とか服を着こんでいたのを見ていたから、余計に彼の動きが奇妙な物に見えてならなかった。

 

「それよか雷園寺君。どうして変化を解いて本来の姿になったんだい? 雷園寺君は確か、寝る時も人型を保ったまんまだったはずでしょ?」

 

 優しく捕まえてモフモフしてみたい。唐突に湧き上がった欲望を押し隠しつつ、源吾郎は雪羽に問いかけた。白銀の毛皮を纏う、猫ともハクビシンともつかぬこの姿こそが雪羽の、雷獣としての本来の姿なのだ。普段は人間の少年の姿であるのだが、その姿は人型と呼ばれるものである。変化の一種であり、妖怪が人間に擬態するための姿でもあった。

 獣妖怪、特に若く幼い個体の場合、活動中は人型であっても休んだり眠ったりするときは変化を解いて本来の姿に戻る事がほとんどだ。実を言えば、源吾郎も眠る時は変化を解く妖怪の一人に分類される。変化術は得意なのだが、寝る時まで変化を使うのはしんどいし尻尾が凝りそうだと思っているのだから。

 だが雪羽は違っていた。彼は眠る時や休む時でも人型を保ったままで過ごすと言っていたし、実際その通りであったのは彼をこの部屋に泊めた時に源吾郎も目の当たりにした。むしろ人間のように人型で過ごし、本腰を入れて闘う時のみ獣の姿に戻る。それが雪羽のスタイルであった。もちろん、急に失神したり大怪我をした際はやはり本来の姿に戻ってしまうが、それは例外中の例外だ。

 入浴後に本来の姿に戻った雪羽を見て、源吾郎が不思議がったのはつまりはそう言う事が理由だったのだ。しかも、前回この部屋に泊り込んだ時は、普段通り人型のまま布団に入って寝ていたのを目の当たりにしたのだから。

 

「いやその……前に泊まった時に思ってたんだけどさ、人型だったら場所も取るし、先輩も予備の布団とか用意しないといけないのがちょっと申し訳ないからさ……この姿だったら場所も取らないし、座布団とかクッションでも大丈夫だよ」

「そこまで気を遣わなくて良いのに」

 

 妙に気遣いモードに入った雪羽に対し、源吾郎はため息で応じた。

 

「別に前だって布団とか場所とか用意したから別に今回も大丈夫だよ。しかも、前と違って今は真冬だぞ。身体が冷えたら大変じゃないか」

「やだなぁ先輩。俺が……と言うか成長した雷獣が寒さに強いのは先輩も知ってるでしょ? ちゃんと今は冬毛だし」

「あ、確かに」

 

 気の抜けた様子で源吾郎が言うと、雪羽は得意げに背中の毛を逆立ててついでに三尾を立ち上げて先端だけ揺らした。尻尾の動きは機嫌の良い時の猫の動きそのままである。

 冬毛と言うのも、言われてみれば前に本来の姿を見た時よりも毛が密集しているように見える。寒さに強く暑さに若干弱いという雷獣の特性も、以前苅藻に教えてもらった所である。だからこそ狐火で炙るという技を源吾郎は考えだしたりしたのだが。

 

「やっぱりさ、俺らは時に雷雲の許まで飛び上がる事があるから、ゼロ度とか氷点下一桁くらいだったら風邪をひいたりとかそんな事は殆ど無いんだよ。

 それにね先輩。三國の叔父貴なんかはね、敵対組織の抗争があった時に春兄と一緒に拘束されて、業務用の冷凍庫に一晩放り込まれた事もあったんだ。それでも叔父貴は文字通り涼しい顔で冷凍庫の中をやり過ごして……ついでに冷凍庫の中に入っていた冷食を食べ散らかして連中をびっくりさせたんだって。あ、もちろん後で敵対組織の連中はフルボッコにしたらしいよ。

 だからね、俺も多分、業務用冷凍庫にぶち込まれても二、三時間くらいなら大丈夫な気がするんだ」

「そもそもなんで業務用冷凍庫に放り込まれるような事態になったのさ。むしろそこが気になるよ」

 

 翠眼を輝かせながら三國の武勇伝を語る雪羽に対し、源吾郎は割と真面目なトーンでツッコミを入れてしまった。要するに雷獣は寒さに強いという話なのだろうが、いかんせん冷凍庫に放り込まれたという話題が強すぎる。

 しかし何というか、いかにも三國らしいエピソードである事に変わりがないのが何とも悩ましい所である。若き大妖怪である三國には、これ以外にも大暴れしたというエピソードに事欠かないのだ。ビルに自家用車ごと突っ込んだという話が代表例であろう。萩尾丸でさえも、元々は戦闘能力の高さに感心していたが、あまりにも無茶苦茶な戦法ばかり使うので闘いの場から彼を()()()という位であるし。

 して思えば、そんな三國に育てられた雪羽がヤンチャな悪ガキに育ってしまったのはある意味自然の摂理なのかもしれない。何となれば叔父よりもまだ()()なくらいではなかろうか。

 それはそうと。源吾郎は話を一旦脇に置き雪羽を見やった。

 

「雷園寺君たちが寒さにめっちゃ強いのは解ったよ。冬場でも戦闘訓練では動きは良かったもんね。むしろキレが増していたような気もするかな」

「先輩は何か寒がりですもんね。お狐様も、雷獣ほどではないにしろ比較的寒さに強いって思ってたんですけど」

「言うて俺は半妖だよ。毛皮だって尻尾の所しかないし……純血の妖狐の皆よりも寒がりなのかも」

 

 源吾郎はそう言ってまたしてもため息をついた。源吾郎の意識や自我は妖狐のそれに傾いている。だがどうしても、折に触れて自分に人間の血が混ざっている事を思わざるを得ないシーンに直面してしまうのだ。同年代の人間と比較した場合、源吾郎の身体能力は決して劣ってなどはいない。だが、純血の妖狐と比較すれば劣っていたり鈍かったり弱かったりする部分が見受けられる。他の妖怪たちは研究センターの面々も含めて特に気にしたりからかったりはしないが、源吾郎はそれが時に気になってしまうのだ。

 そう言う所を含めたコンプレックスこそが、源吾郎の()()としての側面でもあった。

 

「それはそうと雷園寺君。別に君が変化を解く必要はなかったんだよ。二人でも十分寝るスペースもあるしさ。とりあえず、ちょっくらこっちに来てくれよ」

 

 猫に似た本来の姿の雪羽に向けて源吾郎は手を伸ばす。雪羽は鼻先をヒクヒクと動かしていたが、何かに察したらしく口許に笑みを浮かべた。

 

「えへへへへ。島崎先輩。実は俺、先輩が俺をモフモフしたいって事は解っていたんすよ。先輩だってでっかいモフモフをぶら下げているのに、他の妖《ひと》のモフモフへの執着が凄まじいなって前々から思ってたし。

 一宿の恩義ですし、まぁ新年なのでモフ始めってやつですよ」

「バレたか」

 

 自身の思惑を言い当てられた源吾郎は、いたずらっぽく微笑んで舌を出した。モフモフした小動物を撫でたり抱っこしたいという欲求が源吾郎の中にあるのは事実なのだから。

 但し、今回は単純に雪羽をモフモフしたいと思っているだけではないのだが。

 

「そう言ってくれるのなら、お言葉に甘えて雷園寺君のモフモフ具合を堪能しちゃおうかな。本当は、ちょっとした術の練習をやってみようとも思ってたんだけどね」

「術の練習?」

 

 近付いてきた雪羽が訝しげな様子でねめ上げてきたので、慌てて言葉を付け足した。

 

「何、危ない術とかじゃあないよ。単に変化術とかの補助をやってみたいなって思っただけだよ。ほらさ、雷園寺君って人型になる時の変化とかぎこちないし、なんか色々消耗してるなって思ったから……」

「よく解んないけれど、俺は大丈夫だよ」

 

 そこまで言うと、雪羽はそのまま源吾郎の懐に文字通り飛び込んできた。動きは素早かったが、それでも雪羽もいろいろ調整してくれたらしい。ぶつかられた感触や衝撃は特に無かったのだから。

 座り込む源吾郎の膝元に収まった雪羽の毛皮を、源吾郎はそっと撫でた。実は前にも雪羽の毛皮を撫でた事があるのだが、その時は感触を味わうまでには至っていなかった。戦闘訓練の直後、それも雪羽に初勝利した時の事だったからだ。あの時は雪羽に勝利した事に驚き、ついで集まっていた妖狐たちの雪羽への中傷めいた言葉にショックを受けていたのだから。

 

「あー、やっぱりフワフワしているなぁ。いやもう、本当に良い毛並みだぜ雷園寺君」

 

 背中の長い毛を撫でながら、源吾郎は思わず本音を漏らしていた。月並みな表現になるが、雪羽の長毛は絹のような手触りであった。毛足が長く、毛皮そのものが輝くような銀白色であるから尚更そう思うのかもしれない。

 

「へへへ、お狐様である島崎先輩にそう言われたら嬉しいな。先輩だっていい感じのモフモフなんですから」

 

 撫でられている雪羽も満更ではない様子であり、猫のように背を丸めて伸びあがり、源吾郎の手の平におのれの毛や背中を押し付けてくる。

 モフモフを堪能する、と息巻いていた源吾郎であるが、実際の所派手に抱っこしたり色々な所を触ったりするのは何となく恥ずかしかった。どうしても普段の人型の姿が脳裏をちらつくからだった。同性であり男である事は解っているし、なんなら今は人型ではなくて獣の姿だ。それでも、人の姿をしていた者の身体のあちこちを触れるのは何となく奇妙な感覚に囚われてしまう。

 

「先輩ってば控えめっすね。もっとワシワシやっても大丈夫ですからね。春兄とか、いつもずっとブラッシングしてくれますし、俺がちっさかった頃は何かと抱っこしてくれたんですから」

「それはその……春嵐さんは雷園寺君のお兄さんみたいな妖だからだろうに」

 

 尻尾をくねらせながら、雪羽は春嵐の事までも引き合いに出していた。春嵐は風生獣であるが、三國とは兄弟のように支え合っている事は源吾郎も知っていた。もちろん、雪羽とも関わりの深い妖物である。三國と月華が保護者であるならば、春嵐は親戚のお兄さんと言ったポジションであろうか。とかく礼儀正しく穏和な青年であり、源吾郎も素直に慕っていた。

 さて背中や尻尾の付け根などをひととおり撫でてモフモフ具合を堪能した源吾郎は、それとなく雪羽を床の上に誘導した。大人しく雪羽も床の上に向かうあたり、動物である犬猫とは違うのだなと妙な事を思いはしたが。

 

「それじゃ雷園寺君。術の実験をやってみるよ。君も君で人型になる所をイメージしてみてよ」

「はいよ」

 

 雪羽の短い返事を聞くや、源吾郎は雪羽の肩のあたりに手をかざした。実はあの時は単純にモフモフしていただけではない。雪羽の妖気の流れがどのような物か探ってもいたのだ。

 妖怪が保有する妖気は、さながら血液のように身体の中を巡回している。その流れに干渉する事により、様々な事が起きるのを源吾郎は身をもって知っていた。

 そして今回、それを雪羽を相手に行使するのだった。

 源吾郎の手の平から妖気が溢れ出す。煙のような妖気が雪羽の身体を包み込んだ直後、雪羽の変化が完了していた。本来の小さな獣の姿から、普段見慣れた人型の姿に戻っていたのだ。

 

「あ……もう変化が終わったんだ?」

 

 源吾郎の術を受けた雪羽は、文字通り狐につままれたような表情だった。今再び胡坐をかき、手許や腕を眺めながら変化が完了した事を確認していた。

 変化術において、本来の姿から人型にシームレスに切り替わる事は妖狐や化け狸では珍しい事ではない。それこそ一尾でも変化とはそんな風に行っている。源吾郎とてそうだ。

 だが雪羽の変化は異なっていた。人型から本来の姿に戻るのは割合スムーズなようだが、獣の姿から人型に戻るまでに、色々と時間とか手間とかが掛かっているように見えたのだ。何せ大型の獣の姿に膨れ上がり、半獣の姿を経て人型になるのだから。二つの姿に行き来するのに、中間形態が雪羽には必要であるらしかったのだ。

 

「おっしゃ。成功したみたいだな。目論見通りだぜ」

 

 だが少し妖気を多く消耗してしまったか。若干頭がふらつくのをこらえながら、源吾郎は雪羽に解説した。今回は源吾郎も妖気を放出し、雪羽の変化がスムーズに行えるような実験を行ったのだ。結果として雪羽は中間形態を挟まずに人型になった。雪羽自身も特に負荷がかかった様子は無いし、そうした方面でも実験は大成功だ。

 

「前に俺が宮坂京子に変化していた時を覚えているかな。あの時、灰高様に妖気を打ち込まれて、妖気の乱れがあったから変化が解けちゃったんだよ。そうした作用を逆手に取れば、もしかしたら()の事が出来るんじゃないかなって思ってね」

「成程……まさかそんな事をヒントにして、妖術を考えるなんて」

 

 雪羽は思案顔で源吾郎を眺めている。成程とは言ってはいるものの、しかし完全に納得したという表情ではなかった。

 

「ですけれど先輩。今回は俺自身に妖気を流し込んだんじゃあないですよね。結構な量の妖気が放出されたのは俺も気付きましたけど……」

「雷園寺君自体に妖気を流し込んだりしないさ。それはやはり危険だからね」

 

 やっぱり雪羽は色々と察していたんだ。相手の勘の良さに感心しながら源吾郎は説明を続ける。

 

「俺が妖気を流し込んだのは、雷園寺君の身に着けている()()の方なんだ。護符だって術式の他に、妖力とかそう言った類のエネルギーが込められていて、それを使って色々な事をやるでしょ。妖怪に直接妖気を送り込むのは確かに危険だけど、護符ならその危険性も無いからね」

「そっか……先輩ってやっぱり妖術とかそっち方面の才能がすごいよなぁ」

 

 ここでようやく雪羽も何が起きたのかを察したらしい。彼の素直な称賛の言葉に、源吾郎は思わず照れ笑いを浮かべてしまった。

 

「そんな、雷園寺君にそこまで表立って褒められると恥ずかしいよ。そもそも妖狐は若いうちは使える術や得意な術に偏りがあるって話なんだけどね、俺は変化術とか妖術に偏っているんだよ。その代わり、攻撃術の方はとんと苦手なのは雷園寺君だって知ってるだろう。攻撃術を極めるのは漢の浪漫だとは思うんだけど、世の中と言うのはままならないよね」

「確かに……」

 

 雪羽はまだ何か言いたげな様子でニヤニヤしていたが、それ以上何か言う事は無かった。

 そんな雪羽を眺めながら、源吾郎は妖力や妖術の不思議について思いを馳せていたのだ。

 妖力と言うのはそもそも妖怪に具わっているエネルギーに過ぎず、妖力そのものに何がしかの属性や得意分野が具わっている訳ではない。その気になれば一人の妖怪であっても様々な術をまんべんなく覚え、行使する事も()()()()()()なのだという。

 しかし実際には、妖怪が得意とする術は種族や個体によって大きくばらついている。例えば雪羽は種族的にも個体的にも攻撃術に特化しているが、所謂妖術の類は殆ど使えない。妖怪のたしなみとして変化術は用いる事は出来る。しかしそれ以外の術はからっきしであり、身を護るための結界術ですら、彼単体の力ではままならないという事だ。源吾郎などは、それこそ息をするように結界術や認識阻害術を展開できると言うのに、である。

 本来は何にでも使える妖力の可能性が偏る理由は、ひとえに使い手である妖怪たちの心のありようや意識に起因するものである。何かの折に、萩尾丸がそう言っていたのを源吾郎は思い出した。



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開幕! 真剣妖怪しゃべり場

 真剣十代しゃべり場って番組が昔あったんですよ……(歳がバレるぞ)


「それでさ先輩。米田さんとはあの後どうなんです?」

「あの後って……何だよ急に」

 

 人型変化実験もつつがなく終わり、源吾郎と雪羽はごくごく普通に世間話に興じていた。話題はバラバラながらも、盛り上がるのは至極当然な事であった。妖怪的に考えればほぼほぼ同年代であるし、力のある貴族妖怪と言う部分でも共通点が多いのだから。

 それでいて、考え方や得意分野などが真逆であるのもまた、話し合うのには互いに刺激になって興味深さや面白さを引き出していたのだ。

 

「それにしても、どうして米田さんの事を聞き出したりするのさ?」

 

 とはいえ、唐突に米田さんの事を聞かれても源吾郎は困るばかりである。おろおろしながら問いかけてみても、雪羽はニヤニヤ笑いを浮かべて見つめ返すだけだった。宮坂京子に絡んだ時の、悪ガキらしい笑顔だ。だがそれを見ても懐かしさを感じるだけで、源吾郎は実の所腹立たしさや忌々しさは感じてはいなかった。

 

「どうもこうも無いっすよ」

 

 笑顔から一転、雪羽は澄ました表情をその面に浮かべた。

 

「先輩は前に言ってたじゃないですか。友達として、俺に妖怪としての生き方を指南してほしいって。お金とかプレゼントをもらうよりもそっちの方が嬉しいって。ふふふ、もちろん今回はその一環ですよ」

「お、おう……」

 

 源吾郎は緩やかに頷くほかなかった。雪羽の主張には一理あったからだ。妖怪としての生き方を指南する。源吾郎としては戦闘の手ほどきを受ける事が出来ればそれで良いと無邪気に思っていた。だが、雪羽は元々チャラ男だった。要するに女の子をよく侍らせ、女遊びに耽っていた手合いなのだ。であれば、色恋についての経験値も雪羽の方が源吾郎よりも多いのは別におかしな事でも何でもない。

 それでどうしたんです? 思案に耽っている間にも、雪羽は上目遣い気味に源吾郎を覗き込んでいた。

 

「どうって言われても、特に何もないよ。米田さんも年末年始だから仕事とかで忙しいって言ってたし。俺も俺で、お正月休みは家族サービスで頭が一杯だったもん」

「彼女と連絡は取ってるの?」

 

 雪羽に問われ、源吾郎は即座にかぶりを振った。

 

「クリスマスの前に予定がどうなのかは聞いたけれど、後はそれっきりかな。さっきも言ったように、米田さんも米田さんでお忙しいって事なんだ。俺らと違って正社員じゃないし、それこそ傭兵の仕事がメインだったら仕方ないよ。

 そんな訳で、俺みたいな仔狐が迂闊に連絡を入れて、米田さんの気を煩わせたらいけないなって思ってね。それで連絡は入れなかったの」

「えーっ! そんなんじゃダメダメだよ島崎先輩!」

 

 源吾郎の弁明に、雪羽は大げさに声を上げた。翠眼をぐるりと剥き、あり得ないぞと言わんばかりの雰囲気を出しながら。

 

「休日だったからこそ、気後れせずに連絡を入れるチャンスじゃないか。先輩の事だから、電話番号だけじゃなくてアドレスとかアプリとかもちゃんと聞いてるんでしょ」

 

 源吾郎は敢えて答えなかったが、彼の問いはまさしく図星だった。雪羽はじっと源吾郎を見据え、推理する探偵よろしくおとがいを撫でた。

 

「もしかしたら、まだ未熟な仔狐だから米田さんにアタックするのは時期尚早だ。島崎先輩、本当はそんな事を思ってません?」

「今日の雷園寺君、やけに勘が鋭くないかい?」

 

 俺の勘が鋭いのはいつもの事さ。なんてったって雷獣なんだから。そう笑って咳払いした雪羽は、ふいに真剣な表情をその面に浮かべた。

 

「島崎先輩。先輩は米田さんの事が()()()好きなんですよね。遊びの恋とかじゃなくて、彼女をモノにしたいって……奥さんにしたいって思う位には本気なんでしょ? だったら、変に尻込みなんてしてないで、サクッと想いを伝えないと」

 

 奥さんまでは大げさだろう。そう思いはしたものの、源吾郎はツッコミを入れずに無言を貫いた。米田さんを好いているのは本当の事なのだ。夫婦云々のプランはまだ大まかに考えている訳ではない。それでも、米田さんが彼女になって互いの事が解れば、そうした関係になるのも自然な事であろう。そんな風に源吾郎は思っていたのだ。

 源吾郎の考えを見透かしたかのように、雪羽が言い添える。

 

「先輩が正直な思いを伝えて、それで米田さんに受け入れて貰えば万々歳じゃないか。それにもし、米田さんが先輩を拒んだとしても、それはそれで仕方のない事として流せば良い事ですし」

「拒まれるって、サラッと()()()を言うなよな、雷園寺君」

 

 雪羽の言葉に反応し、源吾郎は思わず目を吊り上げてしまった。そりゃあもちろんフラれる可能性だってある事は源吾郎も解ってはいる。しかしだからと言って、尻込みをしていると解った上で源吾郎に伝えるのは如何なものなのか。と言うかその瞬間を想像してしまい、少しだけ凹んでしまったし。

 酷い事、か……雪羽は妙に気の抜けたような表情でその言葉を反芻していた。

 

「まぁ確かに、好きになって恋人になりたい相手にフラれるっていうのはショックだろうね。先輩ってば玉藻御前の曾孫なのに、そっち方面は全く不慣れなんですから」

 

 だけど――そう言った時の雪羽の表情がにわかに一変した。源吾郎は気圧されたが、それでも雪羽の顔から視線は外せなかった。

 

「フラれるなんてのは単なる()()()()に過ぎないよ――その相手を喪ってから、ああだこうだと思いを募らせる事に較べれば、ね」

「雷園寺……」

 

 雪羽のこの持論を前に、源吾郎は言葉など出てこなかった。彼の言葉は正しく、尚且つ恐ろしいまでの説得力を持ち合わせていたのだから。この手の言葉の重みは雷園寺でなければ出せぬものだ、たとえ俺が同じ事を言ったとしても、重みもへったくれも無いだろう。雪羽の境遇を知っている源吾郎は、そう思うしか術はなかったのだ。

 そう思っていると、源吾郎の手許に暖かな物が触れた。雪羽がそっと手を添えていたのだ。源吾郎が視線を動かすと、ゆっくりと源吾郎の手を握りしめようとしている。力づくではない、ひどく繊細な動きだった。

 

「俺は知ってるんだよ。米田さんが野良妖怪としても優秀な戦士として周囲から評価されていて、だからこそ他の若い妖たちよりも危険な仕事をこなしているって事をね。へへへ、俺とてただただヤンチャして遊びまわっていた訳じゃあないんだぜ!

 危険な仕事をこなしているって事は、その分生命に係わる事に隣り合わせでもあるって事なんだ。極端な話、()()()米田さんに会えたとしても、()()()もう会えない可能性だってあるんだぜ?」

 

 だから本気で好きだったら想いを伝えるべきなんだ。先程の提案を、念押しとばかりに雪羽はもう一度口にした。

 

「仔狐だろうと未熟だろうと良いじゃんか。米田さんなんて俺よりも年上なんだから、先輩が仔狐だって言うのは初めから知ってるだろうし。

 それに先輩だって、フラれたからって恨んだり腹を立てたりして、変な事をしでかしたりしないでしょ。先輩は強いし心持ちもしっかりしてるから、凹んだとしてもまた持ち直すと思うんだ」

「……全くもって雷園寺君の言うとおりだよ」

 

 怒涛のごとき雪羽の主張を耳にした源吾郎は、ゆったりとした口調で彼に向かってそう言った。考えは若干重たいものの、雪羽はちゃんと源吾郎のためを思って色々な事を伝えてくれたのだ。その気持ちが嬉しかった。

 それに、源吾郎も米田さんと会う機会は非常に得難い物であり、だからこそそれを大切にせねばならないと再認識する事が出来た。

 源吾郎は漠然と、米田さんには二月になれば会えるから大丈夫だろうと呑気に考えていただけに過ぎなかったのだから。二月には裏初午と言う行事がある。玉藻御前の末裔を自称する妖狐らの集まる会合なのだが、今年は新規会員として源吾郎も参加する運びとなっていた。

……正式な玉藻御前の末裔が自称・玉藻御前の末裔たちの会員になるというのは奇妙な話であるが、そうなる事が既に決まっているのだから今クドクドと考えてもしょうがない所でもある。

 ともあれ、源吾郎は実に平和で牧歌的な考えばかり行っていた事が今回明らかになったのである。誰も彼も命懸けで生きている。今日会えた相手が明日になっても会える保証なんてどこにもない。そんな、ごく当たり前の事を雪羽は源吾郎に伝えてくれたのだ。

 

「俺はまだ本気で好きになった妖《ひと》はいないけど、そんな相手がいたら大切にするよ。不幸な目にならないように何だってするし、それこそ、俺の()()()()()()事だってやるつもりさ」

 

 気が付けば雪羽はおのれの恋愛観について、幾分気取った口調で話していた。見た目が幼い少年なので多少滑稽な光景に見えなくもないが、源吾郎は雪羽を笑ったりはしなかった。彼の言葉の重さがいかほどの物か、源吾郎は知っていたからだ。

 現に雪羽は、異母弟である時雨の生命を一度救っているという。雷園寺家の当主云々の事を度外視したどころか、文字通りおのれの妖力を削って時雨に分け与えたくらいなのだから。

 普段のややお調子者めいた言動ゆえに気付きづらいが、雪羽も雪羽なりに物事を真剣に考えている男なのだ。

 

「それにしても、早速雷園寺君から妖生《じんせい》についての指南を受けるとは思わなかったよ。色々とびっくりしたり一人でシミュレーションして凹んじゃったりしたけれど、勉強になったよ。ありがとうな、感謝するよ」

「えへへへへ。先輩のお役に立てて何よりっすよ」

 

 しんみりした空気もいったん収まり、雪羽はまた明るい笑みを見せてくれた。

 そんな雪羽を見ていた源吾郎は、お礼がてらにとある事を思い立ち、雪羽に提案してみたのだ。

 

「お礼代わりにさ、俺もちょっくら相談に乗るよ。雷園寺君、そもそも急に俺の所に泊まったのって、俺に何か話したい事があったからじゃないの」

 

 源吾郎の申し出に、雪羽は驚いたように目を見開いた。若干迷ったように視線を動かしていたが、ややあってから観念したように頷き、口を開いたのだ。

 

「そうだな……しいて言うなら先輩と幸四郎さんがお正月休みどんな感じだったか教えて欲しいなって思ってるんだ。俺もさ、そろそろ()()()()とかも真面目に考えないといけないし」

 

 雪羽はそう言うと、溜まっていたモノを吐き出すかのようにゆっくりと深呼吸を行ったのだった。



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重く深きは雷獣の愛

「父親の、事ねぇ……」

 

 雪羽の言葉を反芻し、源吾郎は静かに考えを巡らせた。表立って彼が父親の事を考えるなんて極めて珍しい話だった。

 それもこれも、雪羽の幼少期から今日に至る境遇が原因である。元々雷園寺雪羽は雷園寺家の嫡男として生を享け、実の父母の許で育っていた。しかし、先代当主だった母の死後、彼は雷園寺家から放逐されており、それ以降は叔父である三國許で養育される事となったのだ。

 雪羽の言う父親とは誰の事なのだろうか。源吾郎は雷獣たちの顔を思い浮かべながら思案した。彼が父親呼ぶ可能性のある雷獣は二人である。実の父である雷園寺千理と、叔父であり養父でもある三國のどちらかだ。

 恐らくは養父の三國の事だろうな。源吾郎は流れるようにそう思い始めた。実際問題、三國は雪羽の父親として振舞おうとしてきたし、養父である事には変わりない。二人はあくまでも叔父と甥であると言っていたが、それは雪羽が三國の事を叔父貴と呼び続けたからに他ならない。

 三國を叔父ではなく父親と見做す。雪羽がそのような意識改革を行った理由についても源吾郎はきちんと察していた。新たに弟妹が出来たからなのだろう、と。しかもその子たちは三國の実子でもある。本当の意味で三國は父親になったのだ。もちろん、雪羽の父親であろうと三國はこれまで努力してきたのは言うまでもないが。

 

「とりあえず、幸四郎さんとのやり取りとか教えてくださいよ」

「やり取りって……それ言うたら雷園寺君はやっかんだり羨ましがったりするんじゃないのかい?」

 

 父とのやり取りを話すようせっつきだした雪羽を、源吾郎は注意深く観察していた。実を言えば、父親に可愛がられている事については極力雪羽に話さないように心がけていたのだ。その話をして、雪羽の気分を害すると思っていたからだ。

 だから今回だって、せっつかれたとはいえすぐに話そうという気にはなれなかったのだ。ましてや、雪羽は感情の起伏がただでさえ烈しい所があるのだから。

 

「そりゃあ先輩の事は羨ましいっすよ。幸四郎さんは優しい人だし、その人に息子として可愛がられてるなんてさ……」

 

 やっぱり予想通りやん。そう思っている間にも雪羽は言葉を続けた。

 

「それにさ、俺だって幸四郎さんが元気になさっているかどうか、個人的にも気になったしね。あの人は俺にも優しかったから……」

 

 そういう事か。またしてもしんみりしている雪羽を見ながら、源吾郎は意を決して口を開いた。

 

「父さんなら、父も元気にやってるよ。相変わらず俺の事を仔狐みたいに可愛がってくれて、でもやっぱり一家の大黒柱で、玉藻御前の孫娘である母と夫婦になったんだって言う貫禄の持ち主だったよ。それで俺も年頃だって思ったんだろうね、父と母の馴れ初めについても教えてもらったよ」

 

 源吾郎はここでいったん口をつぐんだ。白鷺城にほど近い公園の四阿で、父が源吾郎に語って聞かせる姿を思い出したからだ。確か父と母が結婚したのだって、母に惚れ込んだ父が地味に執念深くアタックしたからに他ならない。

 して思えば、源吾郎も米田さんに即座にアタックすべきなのだ。改めておのれの恋の身の振り方について思いを馳せてもいた。

 それからちらと雪羽を見やる。父と末息子の仲睦まじい話を聞いたにもかかわらず、雪羽は嫌な顔はしていなかった。興味深そうに瞳を輝かせているだけで。

 

「もしかしたら、父さんはそろそろ孫の顔が見たいなんて事も思ってるのかもしれないんだよな。そう思ったら、やっぱり俺が頑張るべきなんだろうなとも思ったし。そりゃあまぁ順番から言えば兄たちが所帯を持つのが先だろうって思いもするけどさ、兄たちは兄たちで揃いも揃って女っ気なんて無いんだからさ」

「まぁ、先輩と先輩のお兄様たちだったら考えも違うでしょうしね」

 

 唸るような声で雪羽の言葉に源吾郎は頷いた。不思議な事に、今回の言葉は少しばかり大人びた響きを伴っているようだった。

 

「ですが先輩、幸四郎さんや三花さんに孫の顔を見せたいって思ってるんだったら、()()()も米田さんに伝えたら良いかもですね。もちろん、先輩と米田さんがうんとなかよくなってからの事だろうけれど……先輩が半妖だって事は米田さんもご存じですし」

「それはそれで名案だな。ははは、雷園寺君。やっぱり君は頭が冴えているし切れ者じゃあないか」

 

 気を良くした源吾郎の言葉に、雪羽は何処か気恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。

 

「俺の父親の事はこの辺にしておいてだな。雷園寺君。そろそろ君の話に移ろうじゃないか」

 

 源吾郎は表情を引き締めて、今一度雪羽に向き直った。

 

「正直なところ、父親の事を真面目に考えるって言った時は俺も大分驚いたんだ。何と言うかその、雷園寺君の所は色々あったからさ」

「ぼやかさなくても大丈夫なのに」

 

 源吾郎の言葉に、雪羽は静かに微笑んでいた。その雪羽を見つめながら、源吾郎は言葉を続ける。

 

「やっぱりさ、三國さん夫婦にも子供が生まれたんでしょ。それで、三國さんたちの事を叔父じゃなくて父親だと思うようにしようって雷園寺君も思ったのかな? 野分君と青葉ちゃんだったっけ、あの子たちも、本当はいとこだけど立場上は雷園寺君の弟妹になるみたいだし」

 

 そんなんじゃあないっすよ、先輩。源吾郎の言葉を聞くや否や、雪羽は吹き出すように笑い始めたのだ。

 

「先輩なら叔父貴の事についてだろうなって思う事は俺も初めから解ってましたよ。ですが今回俺が言った父親は叔父貴の事じゃあないんです。

 俺が言いたいのは()()()()()()()()()()()()()の事ですよ」

「そんなっ……」

 

 そっちの方だったのか。そう思った源吾郎であったが、驚きと衝撃が大きすぎて言葉が出てこなかった。雷園寺千理は確かに雪羽の父親ではある。だが、その実父を憎み抜いているはずの雪羽が、敢えて彼の事について言及するとは。

 こわごわと、源吾郎は雪羽の様子を窺った。怨敵であるはずの父の名を口にした雪羽の顔は、しかし穏やかな物だった。

 安心してください。雪羽は念押しするかのようにそう言ってのけてもいた。

 

「現当主の話をするからと言って、別に物騒な事を話すつもりはないからさ。ただ俺も、知らなかった事をこの前の休みで知る事になって、それで驚いて戸惑ったりしたから、先輩にも聞いてほしいって思っただけなんだ」

「そう言う事なら俺より萩尾丸先輩に相談した方が良いんじゃないの? あの妖、呷り散らしてくるところはネックだけど、真面目な事にはきちんと相談に乗ってくれそうだし」

「萩尾丸さんにももう相談済みだよ。だけどあの妖《ひと》は、もっと俺に揺さぶりをかけるような事を言うだけだったからさ」

 

 それは難儀な話だ。じっとりと輝く翠眼を眺めながら、源吾郎は静かにため息をついた。

 ため息をつき終わったのを見計らい、雪羽は口を開いた。

 

「知らなかった事って言うのはだな、現当主である父親が、俺を雷園寺家から放り出した時にどう思っていたのか……そもそも現当主は俺の事をどう思っているのかって事だよ。

 俺の所に、叔父貴の姉である天姉さんが来てるって話は先輩も知ってるでしょ。推測かもしれないけれどって事で、天姉さんに教えてもらったんだ」

 

 雷園寺千理は、息子である雪羽を愛していたからこそ、雷園寺家から放り出したのかもしれない。天姉さんなる叔母から知らされたという衝撃的な推測を、雪羽は淡々とした口調で源吾郎に告げたのだった。

 

「先輩もご存じの通り、俺は雷園寺家の次期当主候補でしょ? 今は時雨がいるから次期当主候補だったけれど、時雨が産まれる前までは、次期当主になる事が初めから決まっていたんだ。

 だからこそ――あの時あのまま雷園寺家にいれば身の危険にさらされる。そんな風に考えて、それでわざわざ雷園寺家から放り出したんじゃないかって。天姉さんはそう教えてくれたんだ。父一人の力では子供たちを護り抜く事は出来なかったって」

「そうか、それで――」

 

 それで雷園寺は三國さんに引き取られたんだな。そう言いかけて、源吾郎はぐっと言葉を呑み込んだ。千理のそのような思惑に乗って三國が動いたようには思えなかったからだ。幼かった雪羽を叔父である三國が引き取ったのは事実だ。だが、彼は雷園寺家現当主を含む兄姉らに対し憤り、ふがいない腰抜けだと言ってはばからない所がある。次期当主拉致事件の解決直後などは、雪羽の病室で鉢合わせした千理に物凄い剣幕で恫喝したくらいなのだから。

 

「ちなみに、三國さんはその事を知ってるの?」

「知らないよ」

 

 源吾郎の問いに、雪羽は首を振って即答した。

 

「あくまでもこの話は天姉さんの推測だからね。叔父貴はもちろん知らないし、天姉さんだって現当主がそう思っているんじゃないか、そう思っていて欲しいって事で俺に伝えた話に過ぎないんだから。まぁ、天姉さんは三國の叔父貴には本当の事を話したら良かったのにって言ってたけどね」

 

 成程な。そう思いながらも源吾郎は相槌を打つだけに留まっておいた。物語の中であれば、確かにドラマティックな展開としてありがちな物だと評する事が出来るだろう。だがこれは物語でも何でもなく、雪羽の境遇に違いないのだ。

 門外漢である源吾郎が、迂闊に何かを言えばそれは冒涜になる。何に対する冒とくなのかは解らないが、そんな考えが脳裏をかすめたのだ。

 その替わり、萩尾丸はどう思ったのかについて源吾郎はそれとなく尋ねてみたのだ。

 

「予想通りかもしれないけれど、萩尾丸さんは俺の話を聞いても全然驚かなかったんだ。あの妖《ひと》はあんな感じだって先輩も知ってるでしょ。俺が話を切り出すうんと前から、それこそ初めから現当主の思惑を知っているって言われても多分俺は驚かないよ。まぁ、その事についてははぐらかされちゃったんだけど」

「何というか、めちゃくちゃ萩尾丸先輩らしいよな」

 

 源吾郎の言葉に、雪羽は二度三度頷いた。

 

「しかもさ島崎先輩。萩尾丸さんは天姉さんが推測した事よりももっと掘り下げた事を俺に教えてくれやがったんだぜ。俺の実の弟妹達、穂村や開成やミハルを雷園寺の子供じゃなくて自分の親族だってオブラートに包んで身分を隠したのも、()()()()()()()()()の手段だったかもしれないってね。

 それと――俺や叔父貴に真相を伝えないで、自分を恨んで憎むように()()()()のも、現当主()()の思惑かもしれないってさ」

「そんな……」

 

 源吾郎はまたしても驚きの言葉を漏らした。雷園寺千理の優男めいた姿が脳裏をよぎる。雪羽を直視するのが何となく怖くて、視線を彷徨わせながらも言葉を紡いだ。

 

「現当主殿がそんな事まで考えていたなんて……疎遠だったと言えども、三國さんは自分の弟で、雷園寺君に至っては実の息子じゃないか。それなのに……恨みや憎しみを受ける事を望むなんて」

「何かね、それこそが自分の()だと思っているんじゃないかって。萩尾丸さんはそう言ったんだ。先代当主の死に衝撃を受けたのは何も俺たち兄妹だけじゃない。むしろ、夫である現当主だって大きな衝撃を受けたに違いないってね。愛する妻を喪い、大切な息子を手放さないといけなくなったからね。

 現当主はおのれの不甲斐なさを恥じてもいて、それで()()()()()()()()()んじゃないか――萩尾丸さんはそのように考察なさったんだよ」

 

 雪羽の面には静かな笑みが広がっていた。恐ろしいほどに静謐で、それ故に恐ろしくうら寂しげな笑顔だった。

 

「俺への恨みや憎しみこそがお前の力になる――漫画なんかじゃあ結構エモい話になるのかもしれないけれど、現実世界でそんな事があったらたまったもんじゃあないよな」

 

 そう言ってから、源吾郎はある事に気付き短く謝罪の声を上げた。

 

「ごめん。さっきの言葉は軽率だったよね。雷園寺君は、雷園寺君の弟妹達もその事で相当苦しんだはずなのに、漫画のしょうもない筋書きとごっちゃにしてしまって」

 

 別に構わないよ。雪羽はそう微笑んで手をひらりと振った。

 

「俺はもう萩尾丸さんからもっとえげつない事を聞いているから平気さ。もし俺が、長じて母の仇を取ったとしても、雷園寺千理の死に様は俺の望んだようなものではないだろうってね。雷園寺千理は、きっと俺や他の子供らの成長ぶりに満足し、喜んで息子である俺に討ち取られるとね。そしてその時に、雷園寺千理は俺の事をどう思っていたのかその()()を知るだろうってね。

 その前に父親の真意を知る事が出来たのは()()な事じゃないか。そんな風に萩尾丸さんは仰ったんだよ。しかも普段の軽いノリでね」

「軽いノリで言われると、それはそれで困るよな……」

 

 雪羽が付け加えた最後の言葉に、源吾郎も困り果てて眉を下げた。軽いノリで深刻な事を話す萩尾丸の姿は容易に思い浮かんでしまう訳であるし。

 

「本当に、困るし訳が解んないよ……」

 

 気付けば、雪羽も眉を下げていた。

 

「今更父親が俺の事を愛していたのかもしれないって言われてもさ、これまでの考えを改めて素直にそうですかって受け入れるのは難しいって先輩も思うでしょ。

 それに、愛しているのに突き放すなんて事が()()()()()()()()()? 愛ゆえに突き放そうとして、俺は盛大に()()しちゃったって事は先輩も知ってるよね?」

「時雨君の事だよな?」

 

 源吾郎の問いに、雪羽は頷いた。

 

「時雨とはゆくゆくは次期当主の座を巡って相争う事になるから、優しい所は見せないで、敢えて距離を置いた方が良いって頭では思っていたんだ。でも、そんな事俺には出来なかった。やっぱり時雨は弟だし、可愛いし、素直に俺の事を慕ってくれるからさ……正月休みにも何度か電話しちゃったし……時雨は俺の事を優しいお兄ちゃんだって思ってくれているからさ……」

「時雨君は可愛かったもんな。そりゃあ可愛がりたくなるのも当然だぜ」

 

 思考の堂々巡りに陥りそうになった雪羽に対し、源吾郎は無難な言葉を投げかけておいた。

 だが心中では、雪羽に対して口にする事は出来ないが、全くもって別の事を考えていたのだ。結局のところ、現当主殿も雪羽も()()()()()()()()()()()()()()()、と。雷園寺千理が息子への愛情を隠して生きていけたのは、彼が大人で当主としての責務を背負っているからなのかもしれない。

 そんな事を、源吾郎は静かに思っていたのだ。

 いずれにせよ、雷獣たちの愛が重い事には変わりはない。



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天狗は相乗効果を懸念する

 祝日交じりの三連休明け。平日が仕事で土日が休みと言ういつものペースが戻ってきたのだが、今日は朝から本社の方で集会があるとの事だった。

 集会と言っても大げさなものではない。新年の挨拶のために、八頭衆を含めた幹部陣と要職に就く妖怪たちが招集されているだけの話だ。

 源吾郎などは地位的には新入社員に過ぎないが、当然のようにこの挨拶には招集されていた。別に大妖怪の子孫だからだとか、ゆくゆくは研究センターの長になるからと言った忖度があったわけでは無い。

 強いて言うならば、源吾郎であれ雪羽であれ研究センターの所属であったからだろう。紅藤が率いる研究センターの妖数は、他の幹部が擁する組織に較べて圧倒的に少ない。そのため、何かあれば全員を出席させる事が出来るのだ。

 

「あ、先輩。先輩も良いスーツ着てるじゃないっすか。えへへ、それはそれで様になってますね」

「冗談はよしてくれ」

 

 本社に向かうという通達を受け、社用車の方へと向かう道中。やたらとテンションの高い雪羽にそう言われ、源吾郎は気恥ずかしそうに言い捨てた。雪羽は素直に、様になっていると思ってくれたから誉めてくれたのだろう。だが源吾郎には、むしろスーツの方が本体よりも立派なだけだと思っていた。

 このスーツは就職するにあたり、昨年の春に新調した物である。世間には就職活動に臨むにあたりリクルートスーツを持つ若者もいるらしいが、源吾郎はリクルートスーツなどは持ち合わせていない。高校生であれば、学生服がリクルートスーツの代わりにもなるからだ。

 

「あれだぞ雷園寺君。馬子にも衣裳って言うだろう。今の俺こそがまさにそれなんだよ。衣裳に着られているって言葉も世間にはあるんだからさ……」

「馬子にも衣裳だなんて……先輩も言うじゃないか。玉藻御前の直系の末裔である先輩が馬子だったら、俺とか他の妖怪たちはどうなっちゃうんだよ」

「それは単なる言葉の綾だろ。と言うか、雷園寺君は普通にイケメンだから、良い物を着たらそれこそ様になってると思うんだよなぁ……全くもって羨ましい限りだぜ」

 

 そう言って源吾郎は僅かに話題を逸らし、ついでため息をついた。お偉方への挨拶と言う事で、雪羽もまたスーツを着込んでいるのは源吾郎と同じだ。

 ただ、源吾郎と異なりスーツ姿がそれこそ様になっていた。スーツ自体も仕立てが良いわけであるが、雪羽の場合は彼自身の見た目も良い。しかもスーツ自体も彼の容貌や姿が映えるように仕立てられているから尚更だろう。子供がスーツを着た時に滑稽に見えるというありがちな事態は見事に回避されていた。それどころか、スーツ姿の雪羽は両家の子息のような品の良さと優雅さを魅せているくらいなのだ――黙って真面目な表情を保っていればの話だが。

 やっぱり見た目よな……源吾郎は妙な敗北感を抱きつつ、隣の雪羽をしげしげと観察していた。おのれの容貌にコンプレックスを抱く源吾郎ではあるが、雪羽の見目の良さに嫉妬するような幼稚な精神の持ち主ではない。ましてやグラスタワー事件の直後と異なり、互いに気心の知れた仲間になっているのだから。

 とはいえ、それでも雪羽の美貌にほのかな羨望を抱く事もまた事実だった。しかも雪羽自身はおのれの見た目におよそ無頓着で、従ってそれほどお洒落に気を遣っていないのだから尚更勿体なく感じてしまう時もあるのだ。

 

「二人とも、新年の挨拶に出席できるなんて良かったんじゃないかな」

 

 ふいに萩尾丸がこちらを見やり、源吾郎と雪羽に声をかけてきた。二人と限定した所や敢えて源吾郎たちに視線を向けた所から、彼らを対象に声をかけたのは明らかだった。

 

「島崎君も雷園寺君も、去年は色々あっただろうけれど、それを頑張って乗り越えて、少しは立派になってくれたみたいだからさ。ほら、君らも大妖怪の系譜に連なっている訳でしょ? であれば幹部や重臣の皆に立派な姿を見せるのも営業活動として必要じゃあないかなと思ってね」

「全くもって萩尾丸さんのお言葉通りです」

「あ、確かにそうかもですね」

 

 萩尾丸の指摘に雪羽が凛々しい声音で応じ、少し遅れてから源吾郎も追従する。源吾郎も雪羽も、現時点では平社員相当の身分しか持ち合わせてはいない。しかしながら、大妖怪に連なる存在であり、それ故に組織内では注目の若手なのだ。良い意味でも、悪い意味でも。

 特に雉鶏精一派は縁故上等な組織であるし、源吾郎たちはおのれの血統や縁故を最大限に利用しようと目論んでいた。源吾郎は玉藻御前の曾孫であるからこそ紅藤の寵愛を受けている訳であるし、雪羽に至っては雷園寺家の御曹司にして第八幹部の養子であるのだから。

 どちらも長じれば雉鶏精一派の要職に就くであろう事は、他の妖怪たちには明白な事であるらしかった。

 

「念のために言っておくけれど」

 

 萩尾丸はもったいぶった様子で言葉を切り、笑みを深めて源吾郎たちを眺めていた。

 

「挨拶と言えども仕事の一環だから、くれぐれもお行儀よく良い子に振舞っておくんだよ。雷園寺君なら知ってると思うけれど、新年の挨拶には八頭衆の皆はもちろんのこと、普段顔を合わせない彼らの重臣や要職に就いた妖怪たちも集まっているからね。

 強い妖怪たちの中には、気難しかったり若者の節操のない振る舞いを嫌ったりするものもいるんだ。って言うか、僕が相当に若い子たちに寛容なだけなんだけどね。

 ともあれ、二人とも()()()()()()注目されちゃっているんだから、新年早々悪目立ちする事だけは控えてくれたまえ」

 

 萩尾丸先輩って寛容だったかしら。源吾郎がぼんやりとそんな事を思っていると、ふくらはぎの辺りに何かがぶつかった。隣を歩く雪羽の荒ぶった尻尾だった。

 雪羽は頬を赤くして、萩尾丸の方を睨んでいる。あからさまに怒りを露わにしている訳ではないが、戸惑ったような表情ではある。

 

「そんな、萩尾丸さんこそ新年早々ひどい事を仰るじゃないですか。そりゃあまぁ、俺はある意味前科持ちみたいなものですよ。ですけれど、俺はもう真面目にやるって、女の子とかお友達と乱痴気騒ぎ流行らないしヤンチャも辞めるって心に誓った事は、萩尾丸さんだってご存じですよね?

 何せ萩尾丸さんは、ヤンチャばっかりしていた俺を真面目な妖怪にするために、俺の教育係になったんですから」

 

 おおっ、雷園寺も言うじゃないか。切羽詰まった様子の雪羽の言葉に、源吾郎は密かに驚嘆していた。自分たちが悪さをするという前提で話を進めていた事は、源吾郎としても不愉快な所だったのだ。それを雪羽は真正面から指摘したのだ。よくぞ言ってくれたと心の中で雪羽に讃辞を送り、その一方で萩尾丸がどのように応じるのか、源吾郎は密かに様子を窺っていた。

 さて萩尾丸はと言うと、雪羽の言葉を聞いてもさほど戸惑った様子は見せなかった。相変わらず、その顔には余裕めいた笑みがうっそりと浮かんでいるだけである。

 

「もちろん、雷園寺君が過去の事を反省し、過去と訣別して真面目にやろうとしている事は僕だって知ってるよ。だけどそれは、僕が教育係として常日頃から接しているから、君の変化に気付いて、良い方向に動いているって解るだけなのかもしれないんだよ。他の皆はそんなにすぐに妖《ひと》が変わるなんて思っていないだろうし、何せ悪評なんてものは良い評価よりも浸透しやすく払拭しにくいんだからさ」

 

 それにだね。萩尾丸の視線は、事もあろうに源吾郎の方に向けられたのだ。

 

「相乗効果と言うのは生き物の間でも起きる可能性があるんだよ。雷園寺君や島崎君単体であれば、お行儀よく大人しく振舞ってくれるかもしれない。だけど、二人が一緒だったらそうとも限らないじゃないか」

「そんな、僕たちはもうしょうもない事で揉めたり喧嘩したりなんかしませんよ!」

 

 巻き添えで自身の事にも言及され、源吾郎はたまらず声を上げた。源吾郎と雪羽が一緒にいるから、相乗効果で妙な事が起きるかもしれない。半ば決めつけるように言われたのだから、どうにもこうにも黙ってはいられなかった。

 

「萩尾丸先輩。昔の、会ったばかりの時と今とじゃあ状況は違うんですよ。僕と雷園寺君は同僚で……それで友達同士でもあるんです。この前だって一緒に楠公さんにお参りに行きましたし、何度か僕の部屋に雷園寺君を泊めた事だってあるんですから。

 それなのに、萩尾丸先輩は僕らが妖目《ひとめ》をはばからずに喧嘩するとお思いですか?」

「先輩……」

 

 感極まったような雪羽の声が聞こえた気がするが、残念ながら彼の表情を窺う余裕はなかった。源吾郎もまた、先程の雪羽と同じく萩尾丸がどんな顔をするかに意識を向けていたのだから。

 喧嘩する事を懸念しているなんて一言も言ってないだろう。笑い交じりに萩尾丸は応じた。

 

「君らが本当に仲良くなったのは僕とてもちろん知ってるよ。ただいかんせん君らは浮かれやすい気質の持ち主だし、しかも互いに張り合う所があるだろう。新年の挨拶と言う普段とは違う場で、どちらかが浮かれだして片方もそれに引きずられるなんて事になったらややこしいと思っただけさ」

「……萩尾丸。まだ会場にもついていないんだから、島崎君と雷園寺君をからかったりしないで頂戴」

 

 萩尾丸の物言いに見かねたらしく、紅藤がたしなめてくれた。スーツ姿である弟子たちとは異なり、彼女は大陸の女道士めいた衣裳に身を包んでいる。雉仙女と呼ばれているから妖怪仙人らしく装っているのだろう。ある意味彼女らしい衣裳だと源吾郎は思っていた。青松丸たちも彼女の服装について特に何も言わないので、いつもの事なのかもしれない。

 

「まぁちょっと、島崎君と雷園寺君に注意喚起を行っておいたんです。島崎君は新年の挨拶会には初参加ですし、雷園寺君は再教育中ですからね」

 

 やっぱり大げさすぎるんじゃあないかしら。妙にしおらしい萩尾丸の言葉に対し、紅藤は事もなげにそう言った。

 

「確かに無礼を働いたり、或いは八頭衆やその配下である誰かの不興を買ったら、いくばくかの懲罰とかがあるのは私も知っているわ。でもそんなのもたかが知れているでしょ。良くて厳重注意ですし、()()()()始末書案件とか減給処分()()なんですから」

 

 昔に較べれば、今の雉鶏精一派の皆は温厚で、血生臭い事もうんと減ったんですから。嬉しそうに、或いは何処か清々したと言わんばかりの様子で紅藤は言葉を紡ぐ。

 

「不興を買ったからと言って()()()()首が飛ぶなんて事も、飛ばされた首の持ち主の血肉が肴になるって事も、今の雉鶏精一派ではまずありえない事ですもの……胡喜媚様がご存命だった頃は、そう言う事も特段珍しくありませんでしたからね。ええ、ええ。胡喜媚様を悪く言うつもりはありませんが、雉鶏精一派も良い組織になりましたわ」

 

 首が飛ぶって物理的な意味の方だったのか……恍惚とした表情の紅藤を、源吾郎は愕然としながら眺めていた。

 と、そんな源吾郎の背中の辺りに柔らかな物がふわりとぶつかった。やはり雪羽の尻尾だった。但し今回は荒ぶっておらず、源吾郎の様子を窺って触れていたようだ。

 

「……新年会の挨拶も小一時間で終わるし、お行儀よくやろうな」

「せやな」

 

 お行儀良く、と言った雪羽の声は僅かに震えていた。もちろん、彼の言葉に頷く源吾郎もまたその身をかすかに震わせていたのだが。



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妖怪集いて近況を知る

「新年明けましておめでとうございます。さて、今年は戌年ですね。戌と言う字は大陸では草木が枯れ果て、全てが一旦滅びるという意味であるようです。ですが、我らが第二幹部の受け売りにはなりますが、滅びがあってこそ新しいものが栄える下地になる事もまた、事実なのです。

 それに、動物としての犬はあるじに忠実で勤勉、更には安産の象徴でもありますから――」

 

 新年の挨拶にてまずマイクを握ったのは、やはり頭目である胡琉安《こりゅうあん》その妖《ひと》であった。九頭雉鶏精・胡喜媚の孫にあたる彼の佇まいは、確かに堂々としたものである。

 しかしその言動には、年相応の緊張や焦りが見え隠れしており、源吾郎は目ざとくそれを感じ取ってもいた。

 胡琉安はおよそ二百歳ほどである。源吾郎や雪羽は言うに及ばず、サカイ先輩や第八幹部たる三國よりも年長の妖怪だった。妖怪年齢としては、心身ともに成熟した一人前の妖怪と言っても遜色のない存在だ。

 だがそれでも、源吾郎には頭目が若々しく見えてならなかった。それが源吾郎が日頃より接する年長の妖怪が紅藤や萩尾丸など――どちらも胡琉安より年長である――であるからなのか、はたまた雉鶏精一派の頭目と言う事で胡琉安に必要以上に威厳を求めているがためにそう感じてしまったのか、その理由は解らなかった。

 いずれにせよ、源吾郎自身も単なる仔狐に過ぎないのを棚に上げている事だけは明らかなのであるけれど。

 ともあれ、胡琉安からの挨拶はおよそ十分程度で終わった。 

 胡琉安に次いでマイクを受け取ったのは、進行役として控えていた第一幹部の峰白である。彼女は紅藤と異なりかっちりとスーツを着こなしており、成程デキるキャリアウーマンと言った雰囲気を漂わせていた。キャリアウーマンなどと言う可愛い物に収まるかと言えばそこは疑問はあるのだが。

 

「胡琉安様。挨拶として有難いお言葉を頂きまして感謝しております。

 さて引き続きまして、第八幹部・三國さんより慶事のお知らせがございます」

 

 さぁどうぞ。峰白に促されるや否や、三國が春嵐と共に会場の中央に躍り出た。リモコンか何かで操作したのであろう、彼らの背後ではプロジェクター用の白い幕がするすると垂れていく。

 

「皆さん、改めまして新年明けましておめでとうございます! 私事ではありますが、今年の元日に我が家に新しい家族が増えましたので……そのご報告を致します。報告の場を設けてくださった皆様には本当に感謝しています」

 

 妻である月華が一男一女の母になった事、養子である雪羽の弟妹に当たる事などを三國は皆に伝えると、手許のリモコンをポチポチと操作した。「それでは、皆さんに僕の新しい家族の写真を見て頂きましょう!」と言う陽気な声と共に。

 

「あ……」

 

 しかしながら、プロジェクターに写った画像を見た三國は、何故か驚いたように硬直してしまった。

 奇妙な間と、三國の戸惑った様子に源吾郎は首を傾げた。ふと見れば、今回の紹介について詳しく知っているであろう雪羽もまた、戸惑っているように見えた。

 別に、写真そのものはおかしな点は何一つない。三國夫妻と、子供である雪羽や彼の弟妹達が一緒に写ったポートレートである。赤ん坊である野分と青葉は月華の胸元に抱かれ、その左右に三國や雪羽が寄り添っている。強いて言うならば家族として春嵐や彼が連れているという猫頭鳥も一緒に写り込んでいる訳であるが……彼らも三國にしてみれば家族なのだから、特におかしな事では無かろう。

 本当に、いたって真面目なポートレートだった。だからこそ、三國や雪羽が何故戸惑ったのかが一層不審だったのだ。

 

「――こちらは、この前の週末に撮影したものです」

 

 呆然とする三國に代わり、春嵐が涼しい顔で解説を始めていた。

 

「左側の青灰色の毛並みでアライグマみたいな姿の子が男の子で野分《のわき》君と言いまして、右の金褐色の毛並みでイタチみたいな姿の子が、女の子の青葉ちゃんです。

 月華様はお子様たちと共に先日退院なさった所ですが、月華様も子供たちもすこぶる元気ですのでご安心くださいませ。

 まだ二人とも小さすぎるので、本社に連れてきてお披露目はまだまだ先になりますが」

 

 春嵐がそう締めくくった所で、何故か幹部たちからどっと笑いが漏れてきたのだった。雪羽は神妙な面持ちでそれを聞いていたようであるが、ややあってから気恥ずかしそうに俯いてしまった。

 

 ひととおり挨拶は終わったのだが、源吾郎たちはすぐに戻れるわけでは無かった。萩尾丸がここぞとばかりに他の妖怪たちの許に出向いて話し込み、それが終わるのを待たざるを得なかったからだ。ちなみに紅藤と青松丸はこれから胡琉安や峰白と共に各部署へのあいさつ回りを行わねばならないので別行動である。

 

「挨拶が終わったのに、また更にそこからちょっとした打ち合わせとか話し合いをやるなんて……やっぱり萩尾丸先輩は働き者だよなぁ」

 

 源吾郎がぼやくと、雪羽もその通りだと頷いた。

 

「しかもさ、萩尾丸さんって年末年始も本当に挨拶回りとか大妖怪たちの宴席の幹事とかやってたらしいよ。俺が言うのもなんだけど、本当にバケモノみたいなお方だぜ」

「違いないね」

 

 雪羽の言葉に源吾郎が頷いた丁度その時、三國の一団がこちらにやってきた。側近にして兄弟のように親しい春嵐が傍にいるのはいつもの事である。だが、もう一人見慣れない女妖怪も三國たちの傍にいた。三國や春嵐も大人妖怪としては若い部類に入るのだが、彼女はその二人よりもうんと若そうだった。流石に雪羽や源吾郎よりも年長であろうが、いっそ少女と呼んでも遜色ないほどに。

 叔父さん! 雪羽は三國の姿を見ると喜びの声を上げた。本心から喜んでいる事は、伸びあがって先端だけピクピクと震える三尾を見れば明らかだった。雪羽の感情は時に尻尾の動きにも反映されるのだが、猫の尻尾での感情表現とおよそ似通っていた。これは雷獣に共通する特徴なのか、雪羽特有のものなのかは定かではないが。

 三國も甥である雪羽に笑い返したが、すぐに視線は源吾郎やサカイさんに向けていた。

 

「明けましておめでとう。サカイさんに島崎君。昨年は僕の甥の事で色々とお世話になって、本当に感謝しているよ。もちろん、今年も家族ともども君らとは何かとお世話になると思うんだけど……」

「こちらこそおめでとうございます。三國さんの所も、奥様の事でお忙しいでしょうし」

 

 三國の挨拶にまず頭を下げたのはサカイ先輩だった。普段とは異なりはきはきとした物言いである。源吾郎も何か言った方が良いだろうかとは思った。だが上手く言葉が思いつかず、おめでとうございますと言って頭を下げただけだった。

 

「三國さんの所も、可愛い赤ちゃんが産まれて良かったですね」

 

 ややあってから、源吾郎の口から言葉が飛び出してきた。可愛い赤ちゃん、と言うのは源吾郎の偽らざる本音だった。野分も青葉もまだ変化が出来ないから小さな獣の赤ん坊の姿をしていたが、それが一層愛らしく感じられたのかもしれない。源吾郎はフワフワした動物が大好きなのだから。

 

「そりゃあ叔父さんと月姉の子供なんだ。可愛いのは当たり前じゃないか」

 

 三國に向けて放った感想にまず食いついたのは雪羽であった。彼自身思う所があるらしく、放電した状態の尻尾を源吾郎にぺちぺちとぶつけてくる。護符による作用のためか、放電の段階で調整しているからなのか、特段痛みは無かったが。

 興奮するなよ雷園寺君……眉を下げながら語る源吾郎の姿を見ながら、三國たちは笑みを深めていた。

 

「島崎君。雪羽もこっちに戻ってきた時はな、ちゃあんとお兄ちゃんをやってくれているんだぞ。野分も青葉も可愛い弟と妹だってな」

「……雪羽お坊ちゃまも大きくなって、立派に育ったんだなぁって僕もしみじみと思っている所なんですよ。野分君たちを見ていると、どうしても引き取ったばかりのお坊ちゃまを思い出しまして」

 

 三國の言葉の後に、感極まった様子で春嵐が呟く。案外涙もろい性質なのか、ハンカチを取り出して目元を押さえ始めている。雪羽もまた、気恥ずかしそうな、ばつの悪そうな様子で春嵐の様子を眺めていた。

 そ、それにしても。新年早々しんみりした空気が漂う中、それを払拭したのはサカイ先輩のやや早口気味な呼びかけだった。三國たちの視線を受けると気恥ずかしそうなそぶりを見せたが、それでも彼女は言葉を続ける。

 

「三國さんが見せてくださった家族写真、結構いいお写真でしたね」

「あ、写真……?」

 

 写真の事を指摘され、三國はここで目を丸くしていた。先程の紹介の時もそうだったが、何故か写真の事で当惑したような素振りを見せている。

 

「実はですね、元々は別の写真をお見せしようと三國さんはご準備をなさっていたんですよ」

 

 戸惑う三國に代わって解説したのは春嵐だった。生真面目そうなその面に、いたずらっぽい笑みを浮かべながら。

 

「ただ……()()()()を施した代物をご用意なさっておりましてね。そりゃあもちろん三國さんも雪羽お坊ちゃまも大喜びで舞い上がっているのは僕も知ってます。ですがその、お偉方が集まる場で写すのはちょっと気が引けましたので、こちらで()()()()()おいたんです」

「そう言う事だったのか、ハルぅ。そんな、俺に何も言わないでそんな事をするなんてイケズじゃないか」

「三國さんの為を思っての事なのですから」

 

 三國と春嵐のやり取りを聞いていた源吾郎は、彼らから視線を外して雪羽を見やった。三國が用意していたという写真デコ済みの写真がいかなるものなのか、純粋に気になったのである。

 

「デコった写真? そうだねぇ、女の子がやってるプリクラみたいな感じだよ」

「そんな感じなんだ……ぷふっ」

 

 割と真顔で言ってのける雪羽を前に、源吾郎は思わず吹き出してしまった。それならば春嵐が差し替えを敢行するのも無理からぬ話であろう、と。

 

 写真の謎が判明してからも、三國たちと源吾郎たちはしばしの間歓談を楽しんでいた。その間に、三國は連れてきていた獣妖怪の少女の事を紹介してくれた。

 彼女は飯綱美咲と言い、種族としては管狐になるそうだ。三國たちの部下の一人なのだが、優秀さが目立つので現在春嵐が力を入れて教育しているとの事であった。

 今後はもしかしたら源吾郎たち研究センターの面々とも接触があるかもしれないので、今回挨拶会に同席したのだ、と。

 

「……それにしても、萩尾丸さんは戻ってこないですね。島崎君や雪羽を放っておいて話し込むなんてあのお方らしくない」

「萩尾丸様なら双睛鳥様と何やらお話していたみたいですが」

 

 そうなの。飯綱の言葉に三國はまたも目を丸くしていた。春嵐も心当たりがあるらしく、双睛鳥の様子が普段とは違うと三國に伝えていた。具合でも悪いらしく、また顔半分を布で覆っているのが印象的であった、と。

 一体何があったんだろうか。何となく胸騒ぎがした源吾郎は、雪羽やサカイ先輩の方に視線を向け、目配せしあっていた。

 だがそうしてもぞもぞしている間に、萩尾丸がこちらに戻ってきたのだ。双睛鳥を引きつれて。

 

「ああ、待たせてしまって申し訳ないね」

 

 開口一番、萩尾丸は謝罪の言葉をサカイ先輩たちに告げた。源吾郎はしかし、萩尾丸の言葉などはほとんど聞いていなかった。彼の言葉や佇まいよりも、その隣にいる双睛鳥の姿に度肝を抜かれていたからだ。

 春嵐が言及していた通り、双睛鳥は目元を布で覆っていた。それは包帯などではなかった。手ぬぐいのように幅広で、尚且つ表面には奇妙な紋様がびっしりと描かれていたのだから。漢字ともアルファベットともひらがなともつかぬそれは、しいて言えば文字化けした羅列のようであった。

 双睛鳥自身の蒼ざめた肌の色も相まって、顔を布で覆う姿は異様で、いっそ禍々しく思えてしまった。

 

「――見ての通りだが、双睛鳥君に少し緊急事態が起きてしまったようでね。それでその件について彼と相談していたんだ」

 

 緊急事態。萩尾丸の口にした言葉を耳にするや、源吾郎は心臓がギュッと縮むのを感じていた。




 作中では2018年になったばかりです。


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偏光眼鏡と恐怖のプラシーボ

 あまりの事に、源吾郎は不安げに双睛鳥と萩尾丸を交互に眺める事しか出来なかった。双睛鳥《そうせいちょう》の目元を覆い隠す布の紋様の禍々しさに面食らっていただけに留まらず、あの萩尾丸が緊急事態だと言ってはばからないのだから致し方ない。

 それはもしかしたら、心の底から萩尾丸の事を信頼している事への裏返しなのかもしれない。見当違いな考えがふっと脳裏に浮き上がり、源吾郎は思わずかぶりを振った。萩尾丸に対して仔狐のように懐いているわけでは無い。だが、萩尾丸が優秀な妖怪であり、いざという時には頼りになる。そのように思っていた事は否定できなかった。

 

「双睛の兄さん。もしかして、新年早々目を悪くされたんですか?」

 

 思案に暮れる源吾郎の隣で声を上げたのは雪羽だった。やや上ずった頓狂な声ではある。しかし、兄と慕う双睛鳥の身を案じている事は、その表情から明白だった。

 目の病気か。源吾郎は腑に落ちた思いで雪羽の言葉を反芻していた。いかな妖怪と言えども、目の怪我や病気は大事である。妖怪たちの中でも再生しにくい部位であるからだ。特に鳥妖怪は獣妖怪や人型の妖怪以上に視力に頼っているから、尚更であろう。

 自分はコンタクトを入れているから気を付けないといけないだとか、最近は瞼の腫れる()()()()にかからなくなったなどと、源吾郎は割合呑気に考えを巡らせていた。

 

「心配してくれてありがとう、雷園寺君。だけどね、別に僕は目の病気じゃあないんだよ」

 

 雪羽の推測を打ち破ったのは、他ならぬ双睛鳥その妖だった。普段の軽い口調で語りかけてきたのだが、その声には倦み疲れたようなものを源吾郎は感じ取ってしまった。

 それじゃあどうしたんです。当然のように問いかける雪羽に対し、双睛鳥はばつの悪そうな様子で後ろ頭に手を伸ばす。

 

「それがだね……普段付けている偏光眼鏡が壊れてしまったんだよ。レンズの所が粉微塵になってしまって、もう使い物にならないって言う有様さ」

 

 偏光眼鏡が粉微塵に壊れた。その言葉に、源吾郎はちらと雪羽やサカイ先輩の顔を盗み見た。二人とも一変し深刻な表情を浮かべているではないか。

 

「ふふふっ、あの眼鏡が僕の目に宿る能力を押さえ込んでくれているって事は君たちも知っているでしょ。だから本当は、僕なんぞ暗がりに引きこもって出てこない方が良いんだろうけどね。

 しかし、壊れてしまった偏光眼鏡を新調しないといけないし、眼鏡も眼鏡で作るまでに時間がかかるから、その間は萩尾丸さんたちのお世話にならないといけないし……」

 

 きょとんとした様子で話を聞いていた源吾郎であるが、双睛鳥の説明を聞いているうちに、彼も事の重大さをじわじわと思い知った。

 双睛鳥はコカトリスであり、やはりその眼には魔力が籠っていた。もっとも、伝承にある様なバジリスクやコカトリスと異なり、死をもたらすような邪眼ではなく、むしろ暗示や認識の改竄などと言った、よりマイルドな物であるが。

 普段はその能力をみだりに使わないように眼鏡をかけているのだと、かつて萩尾丸に聞かされたのを思い出していた。双睛鳥がその能力を濫用するなどとは思っていない。だがそれでも、能力にはおのれの意志で制御できない力も存在する。その手の能力であるならば、萩尾丸がうろたえるのも無理からぬ話だ。

 何しろ双睛鳥は、八頭衆の第七幹部に収まっているのだ。第八幹部である三國と互角か、それ以上の力があってもおかしくない訳なのだから。

 

「ねえ双睛鳥君。不測の事態に備えて予備の眼鏡も持っていたんだよね。それはどうしたのかな?」

 

 萩尾丸の問いかけに、双睛鳥はゆっくりと首を揺らした。

 

「はい、僕とて最初は予備の眼鏡を使っていたんです。流石に予備まですぐに壊れないだろうし、週明けに新しいのを買えば良いと思っていましたからね。

 ですが……予備の方も今朝になってお釈迦になっちゃったんですよ」

「そうだったんだね。さっきは済まないね。君を責める様な事を言ってしまって」

 

 双睛鳥の言葉を聞くと、萩尾丸は素直に謝罪の言葉を口にした。双睛鳥の様子をうかがう彼は、すぐには次の言葉を発する事は無かった。ただただ双睛鳥の顔を眺めたり、遠くに視線を向けて何やら思案する様子を見せたりしていた。

 

「どうしたんです、萩尾丸さん」

「いや、立て続けに壊れるなんて妙だなって思ってね。仏滅とかも何日か前にあったけれど、あんなのは月に何回もやって来るから特に気にしなくても良いし」

「日が悪いとか、そんな事を萩尾丸さんでも考えるんですね」

 

 仏滅と言ったのが気になったのか、双睛鳥が口許に笑みを作っていた。生後数十年から百歳前後の比較的若い妖怪は、案外仏滅や大安などの日を気にする事が多い。誰かがそう言っていたのを源吾郎はふと思い出した。

 源吾郎自身は、それほど日を気にする事は無いのだが。

 

「まぁでも、日が悪かったからと言うよりも悪い日になってしまったというのが僕の正直な感想ですね。ふふふっ、何と言うか言葉遊びみたいですけれど」

 

 そう言って乾いた笑いを見せていた双睛鳥だったが、三國に視線を向けると居住まいを正した。

 

「ごめんね三國君。君の所はおめでたい事があったのに、勝手に悪い日だとか何だとかって言ってしまって」

「そんな事ありませんよ、双睛の兄さん」

 

 眉を下げた三國は、物悲しげな様子で双睛鳥に視線を向けている。

 

「兄さん。何かあれば俺の事も頼ってください。俺と兄さんの仲なんだ。だから――」

「三國君。萩尾丸さんともきちんと話もついているし、今回は大丈夫だよ」

 

 三國の申し出を、双睛鳥はそれとなく遮った。やんわりとした口調であるが、それでいて有無を言わせぬ何かがその言葉には宿っている。

 

「単に幹部職の同輩としてじゃなくて、三國君がこの僕の事を仲間として慕ってくれているのは本当に感謝しているよ。だけど今回は気持ちだけ受け取るよ。それで、それだけで僕は十分だから。

 それよか三國君。僕なんぞよりも君の身内の事を気にかけた方が良いってば。先だって赤ちゃんが生まれたって今しがた皆に紹介した所でしょ。哺乳類の赤ちゃんはしばらくの間手がかかるって言う話だし、月華さんだって今一番大変な所なんだからさ。もちろん、雷園寺君だって色々頑張ってる所だし」

「双睛鳥様も、大変な事が起きましたのにお気遣いありがとうございます」

 

 双睛鳥の言葉は、三國を気遣っているとともに双睛鳥自身を卑下するような、何処か自虐的なニュアンスが伴っていた。その言葉に目ざとく応じたのは、やはりと言うかなんというか春嵐だった。

 

「万が一、三國君たちの手助けが必要って事になればその時はきちんと連絡するからさ。だから三國君たちは気にしないで、ね」

 

 念押しとばかりに双睛鳥はそう言ったのだった。

 

 そんなやり取りがあってから、源吾郎たちは萩尾丸に連れられて研究センターにようやく戻れることになった。偏光眼鏡が壊れたという双睛鳥を伴って。

 源吾郎たちは一旦着替えるようにと萩尾丸から言い渡され、支度をするためにいったん散り散りになった。スーツなどと言った堅苦しい衣裳で研究室の仕事などやってられないからだ。そんな源吾郎たちを尻目に、萩尾丸は連れ帰った双睛鳥をミーティング会場として使う長テーブルの方へとそれとなく誘導していた。

 

「島崎君と雷園寺君は、普段の白衣に着替えたらまたこっちに戻っておいで。

 それとサカイさん。双睛鳥君のために()()()()()を淹れて欲しいんだ。彼の好物だからね」

 

 萩尾丸の最後の言葉に、源吾郎はいくばくかの疑問を感じて雪羽と目配せをした。大体お茶出しの役割は源吾郎か雪羽のどちらかに回る事になっているはずなのに、と。それにしてもレモネードなどもあるのだな……すぐに返事をして給湯室に向かうサカイ先輩を見送りながら源吾郎はそう思った。レモネードと言うか、源吾郎は実はそれほど()()()は好みではない。匂いからして苦手意識があったのだ。もちろんこれも、半妖であり妖狐の血が濃い事に由来するわけなのだが。

 

「器は紙コップでも良かったんですけどね……でも、もう彼女も作ってる最中ですかね」

「紙コップだなんてしみったれた事を言わなくても良かろうに」

 

 事もなげに告げる双睛鳥を見ながら、萩尾丸は苦い表情で告げた。

 

「同じ組織内と言えども、今の君は研究センターへのお客サマなんだよ。その大切なお客様に、紙コップでレモネードを出すだなんて非常識な事を僕たちがすると思うかね? ましてや君は幹部職なんだからさ」

「幹部職言うても下っ端の若手ですけどね。それよりも、()()コップを使って飲んでも良いんですか? 僕が口を付けたものなんぞ、たとえ洗ったとしても気色悪くて廃棄せざるを得ないんじゃないですかね」

「話を聞く限り、妙な所に気を回すほどに()()はあるようだね、双睛鳥君」

 

 双睛鳥の言葉に、萩尾丸が皮肉を織り交ぜて応じた。萩尾丸が皮肉を言うのは珍しい事では無い。最近は少しなりを潜めていたようだが、基本的には相手を鼓舞するために、或いはからかうために皮肉を言う手合いなのだ。

 だが今回の言葉には、押し殺した()()のような物が見え隠れしていた。

 

「先輩。そろそろ俺たちも行きましょ」

 

 気が付いたら雪羽が源吾郎の袖をつついていた。戸惑ってはいるが、ただならぬ雰囲気を察している。雪羽はそんな表情を浮かべていた。

 萩尾丸もまた、思い出したように源吾郎と雪羽にふと視線を向けている。

 

「ほら二人とも、そろそろ着替えて仕事が出来る準備を整えたまえ。準備が整えば、君らも招集するって今しがた言った所だろう。それに、いくら君らが幹部を目指していると言えども、僕らの話を聞いて理解するには若すぎるだろうし」

「はい、すみません……!」

 

 源吾郎と雪羽の言葉は図らずともシンクロしていた。

 

 さて白衣を着こんだ源吾郎は、何気なく視線を床に向けた。何か見慣れない物が、視界の端に映ったような気がしたからだ。

 それは黄色い羽毛だった。卵の黄身のような、橙がかった黄色ではない。黄色い蛍光ペンのような色味の羽毛だった。羽軸も全体も柔らかそうだが、似たような羽毛を源吾郎は見た事があった。

 

「先輩、その羽は拾ったら危ないかもっすよ!」

 

 羽毛を凝視していた源吾郎の隣から声が飛んでくる。声の主は雪羽だった。やや切羽詰まった様子で、源吾郎と羽毛とを交互に見つめている。

 あれは双睛鳥の羽毛だ。雪羽の放った言葉は、源吾郎の考えと寸分違わぬものだった。

 

「この前さ、双睛の兄さんが羽の毒で犬神のやつを仕留めていたのを先輩だって知ってるでしょ。だからさ、迂闊に触るのは危ないと思うんだ。特殊な処分法とかも必要かもしれないから、後で萩尾丸さんたちに聞いてから動こうぜ」

「お、うん……」

 

 まくしたてる雪羽の言葉に、源吾郎はぼんやりとした口調で応じた。羽毛を見、雪羽の言葉を聞きながら、色々な考えが源吾郎の脳裏を巡っていた。自分たちは護符を付けているけれど、それでもこの羽に触れるのは危ないのだろうか。双睛鳥の羽毛が抜け落ちているのは偶然なのか、それとも……と言った塩梅である。

 しかしのんびりまったりと思案に暮れる暇は与えられなかった。せっかちな雪羽が痺れを切らし、源吾郎の白衣の袖をぐっと掴んだからだ。いつかの時と違い、雪羽はそれ以上は何もしなかった。だが源吾郎に進むように促すにはそれで十分だった。

 細身の少年ながら、雪羽の膂力がいかなるものであるか、源吾郎も十分知っていたからである。

 

「――と言う訳なんだけど、二人とも解ったかな」

 

 招集をかけられた先で、源吾郎と雪羽は今後の動きについて萩尾丸から説明を受けた。双睛鳥の偏光眼鏡を発注するべく、港町にある工房に向かうという話だった。そこはドラゴンだの半獣人だのと所謂西洋の魔族たちが経営している所であるらしいが、そこは今回は特筆すべきところではない。

 それよりも、偏光眼鏡が発注後いつできるのか、それまでの間双睛鳥はどうするのか。そちらの方がウェイトの大きな話だった。

 偏光眼鏡自体は、予備のワンセットも含め発注後一週間から十日で出来るとの事であった。それについては特に不審な点はない。源吾郎も学生時代は眼鏡をかけていたのだが、やはり注文してから出来上がるまでに一週間ほど要していた。

 或いは――特注品であると考えればいっそ早く仕上がる物と言っても良いのかもしれない。からくりはさておき、先祖から授かった恐るべき邪眼を封じる力があるのだから。

 そして当の双睛鳥はと言うと、偏光眼鏡が出来るまでの間、研究センターの居住区の一室を借りてそこで業務を進めるという事だった。昔の作家よろしく、缶詰状態になって仕事をするとの事だそうだ。

 仕事に必要な機材については特に問題はない。ラップトップとかタブレットなどは双睛鳥が持っているし、この後部下に連絡してこちらに運んでもらう事になっているらしいのだ。

 ただ、双睛鳥が籠る部屋には、強力な結界を張っておかねばならないとの事だった。これは双睛鳥()()の申し出であるのだけれど。

 

「そんな訳で、研究センターの中を間借りしちゃう事になって本当に申し訳ないよ……君らには、必ず後で何かお礼をするからさ」

「そう言うのは別に良いんだよ、双睛鳥君」

 

 うっすらと口許に笑みを作った双睛鳥に対し、萩尾丸はにべもなくそう言った。

 

「それよりも、部屋なら居住区に空き部屋があるから使って良いって紅藤様から確認が取れたんだ。場所を教えるからそっちに向かって、そこで仕事の準備でも始めておいたら良いんじゃないかな。

 君も君で去年は良く働いたから、機材が届くまでの二、三時間ほどは休んでいてもばちは当たらないだろうし」

 

 萩尾丸さん……腰を浮かしながら、双睛鳥が何かを言いかけた。全て言い切る前に、案の定萩尾丸が再び口を開いたのだけれど。

 

「何、結界の方は君が入ったのを見届けてから僕が張っておくから安心したまえ。それに紅藤様も夕方前にはこちらにお戻りになるだろうし、その時には紅藤様がより頑丈な結界を張ってくださるはずだ。

 とはいっても、僕の結界でもその辺の妖怪が突入する事は無いだろうから不安がらなくて良いからね……それじゃあ、()()()()()()()

 

 萩尾丸の言葉は優しげで、それでいて何処か違和感のある物だった。

 その違和感が何であるのか、源吾郎は探りきる事が出来なかった。ふらふらと歩き始めた双睛鳥のすぐ傍で、何か奇妙な空間が沸き上がったからである。仄暗いうろのような空間を前にしても、双睛鳥は怯えたり驚いたりはしなかった。視界が塞がっているから気付いていないのかもしれない。

 そう思っている間に、双睛鳥の身体は飲み込まれるようにその空間の中へと入り込んでしまった。源吾郎が声を上げる間もなく空間自体が姿を消し――それと入れ替わりに佇立するサカイ先輩の姿がぬぅっと浮き上がってきたのだ。

 

「萩尾丸先輩、双睛鳥様を空き部屋にお運びいたしました!」

「ナイスタイミングだよサカイさん」

 

 サカイ先輩が短くはきはきと報告し、それを受けて萩尾丸はニコニコと微笑んでいる。双睛鳥が臆せずに謎の空間に入り込んだ理由が、ここで明らかになったと源吾郎は思った。双睛鳥は初めからサカイ先輩の術だと解っていたのだ、と。

 さて妹弟子のファインプレーに喜んでいた萩尾丸であったが、その笑みはすぐに消え去ってしまった。源吾郎たちに向けるのは、ほぼ真顔と言っても良い表情である。

 

「双睛鳥君は取り繕ってはいたけれど、思った以上に深刻な状態だったなぁ。

 まぁ、あの子も薬を飲んでくれたから、三時間後くらいには効き始めて、今の()()()()()から良くなるはずなんだけどね」

「危険な状態って……そんなにマズいんですか?」

 

 物騒な言葉を耳にした源吾郎は、思わず声を上げていた。若干上ずった源吾郎の問いかけに、萩尾丸はゆっくりと首を揺らした。肯定して頷こうとしたけれど、それを躊躇っているかのような動きだった。

 

「言っておくけれど島崎君。危険な状態と言うのは別にだね、双睛鳥君自身が毒気にやられているとか、無差別に毒なり暗示の力なりがまき散らされているという事では無いんだよ。

 と言うよりも、そう言う意味での危険性は無いんだ。双睛鳥君の毒気や邪眼の効果を抑える護符は無事だし、そもそも彼自身もそうした力を抑え込む術をきちんと知っているからね」

「だったら……()()危険なのでしょうか?」

 

 ()()()()()()。源吾郎の問いかけに対して、萩尾丸はきっぱりと返答した。

 

「話せば長くから今は手短に言うけれど……双睛鳥君はだね、あの偏光眼鏡をかけているからこそ、自分が無害な鳥妖怪になれると思い込んでいるんだ。それが立て続けに壊れた今、自分がそこにいる()()で悪影響をもたらすのかもしれない。そんな風に思いつめているという事なんだ。

 所謂プラシーボ効果の、負の側面と言った所だろうね」

 

 萩尾丸はそこまで言うと、何を思ったかほんのりと笑みを浮かべた。

 双睛鳥の羽毛が落ちているのを僕たちは見た。源吾郎の隣では雪羽がそんな報告をしている。

 鳥類は強いストレスにさらされると毛引きを発症する。自室にある鳥類の飼育本に記された一文が、先程見かけた双睛鳥の羽毛と共に源吾郎の脳裏に浮き上がったのだった。




 毛引き症は飼い鳥、特にヒナから人の手で育てられた手乗りの鳥が発症しやすいそうですよ。


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化鳥囚われるは古の業

 バジリスクからコカトリスが進化したような物なので、コカトリス自体も柔軟に進化したのではないか。そうした解釈が猫蔵の中にはあるのです。


「ここからはちょっと、昔の話をしようか。君らにとっては産まれる前の遥か昔の出来事になるだろうし、僕にとっても最近の事と言うには昔の出来事を、ね」

 

 双睛鳥《そうせいちょう》にまつわる話をする際に、萩尾丸はそのように前置きした。第七幹部たる双睛鳥は妖怪や魔物としては若者の部類に入る。人型に変化した姿も青年ないし若者の姿であるし、何より若妖怪である雪羽が兄さんと呼んでいるのだから。三國自身も双睛鳥を兄さんと呼んでおり、雪羽にしてみてもやはり親戚のお兄さん、と言った年齢差なのだろう。

 とはいえ、やはり双睛鳥も萩尾丸も妖怪である事には変わりないのだ。八頭衆の中で最年少である三國ですら既に百五十年は生きているという。双睛鳥は三國と同年代か、彼よりも年長なのだろう。

 その事を思えば、源吾郎が産まれた頃などと言うのはごく最近の事になってしまうのだろう。かれこれ四十年は生きている雪羽でさえ、子供扱いされてしまうのだから。

 ふと見ると、萩尾丸は雪羽の方に視線を向けていた。

 

「雷園寺君。これから僕が話す事は、もしかしたら君も多少は知っている内容かもしれないね。だけどサカイさんも島崎君も深くは知らない事だろうから、退屈に思うかもしれないけれど耳を傾けてくれるかな」

「退屈だなんてとんでもありません」

 

 萩尾丸の言葉に、雪羽は礼儀正しい様子で応じた。

 

「確かに叔父貴と双睛の兄さんは仲が良くて、僕も兄さんの過去の事は多かれ少なかれ知っている所はあるにはあります。でもそれでも、僕が知らない事だってたくさんあるって思うんです。

 そうでなくても、大人って子供に知らせたくない事を隠すのが得意なんですから」

 

 そこまで言うと、雪羽はほんのりと口許に笑みを浮かべていた。

 そんな雪羽の姿を、源吾郎は感慨深く眺めていた。大人は知られたくない事を子供に対して隠し通すのが得意である。それは源吾郎も同意見だった。だが今回は、その事やそれを雪羽が言及した事を興味深く思っていた。

 何せ雪羽は、雷園寺家現当主の真意という物を、つい最近知ってしまったのだから。

 それじゃあ話を始めるね。居並ぶ妖怪たちの顔をざっと一瞥し、萩尾丸は手指を組んだ。

 

「今でこそ双睛鳥君はこの雉鶏精一派の一角を担う存在なんだけど、元々は別の組織に所属していたんだ。いや……所属していたというよりも飼われていたと、道具として保有されていたと言っても良いかもしれないね。

 まぁその組織は当時から結構えぐい事をやっていたし、我らが雉鶏精一派にも楯突いて来たからさ、峰白様と一緒に強制家宅捜索を敢行したんだ。それでその時の()()()の中に双睛鳥君もいたんだ」

「……」

 

 強制家宅捜索に押収。どちらかと言えば事件絡みのニュースでしか聞けないような単語を耳にした源吾郎は、思わず頬を引きつらせた。と言うか妖怪である双睛鳥を押収物扱いするとは。

 それとなく視線を走らせて他の二人の様子を探る。雪羽も驚いたらしく、戸惑ったような何とも言えない表情で萩尾丸を見ていた。サカイ先輩は特に驚いた様子はないが。

 

「表立ってえげつない事をやっていた連中は大体血祭りにあげておいたんだけど、末端の妖怪とか向こうがこちらに()()()として用意していた連中とかはとりあえずこちらで生きたまま確保しておいたんだよ。末端の連中は殺すまでの事はしてないだろうし、若い妖も多かったからこちらで手なずけておけば兵力の増強になると峰白様は踏んでいたからね。

……まぁ、連中も間抜け揃いだったよ。僕にお目こぼしをしてもらおうとして用意していた贈答品が、えりすぐりの妖怪の美女なんてものだったんだからさぁ! ま、女好きだったら多分目論見は成功していたのかもしれないけれど」

 

 途中で脇道に逸れた話を口にしつつ、萩尾丸はさもおかしそうに笑っていた。源吾郎は笑ったりしなかった。先の贈答品だったとかいう妖怪の美女の話は、もしかすると萩尾丸なりの笑い話だったのかもしれない。確かに萩尾丸は女性には興味がないが……敵対組織のしくじりを笑い話として解釈するのは難しかった。少し前に殺すとか血祭りにするなどと言った物騒なワードを耳にしたところなのだから。

 もちろん、野望のために闘う身としてそうした事にも慣れなければならないと思ってはいるが。

 

「……萩尾丸、さん。そう言う事があって、双睛の兄さんは雉鶏精一派に仲間入りしたんですよね。僕も、兄さんが別の組織に飼われていたって事は知ってたんだけど」

 

 ああだこうだと考えている源吾郎の隣で、雪羽が質問を投げかけてくれた。しかもちゃんと双睛鳥に関する事に軌道修正してくれている。ナイスタイミングだぜ雷園寺君。源吾郎は心の中で雪羽に感謝していた。

 そうだよ雷園寺君。萩尾丸も萩尾丸でその通りだと頷いている。

 

「双睛鳥君もあの頃は小さかったんだ。君らと同じかそれより幼かったから、本当に子供だった訳なんだ。鳥系統の魔物、鳥妖怪の一種だから中ビナと呼んでも差し支えないかもね」

 

 中ビナ。こだわりなく放たれた萩尾丸の言葉に、源吾郎はしばしの間考えを巡らせていた。自分や雪羽も仔狐だとか仔猫と呼ばれる事が度々あり、その延長として中ビナと言う言葉を使ったのであろう、と。

 それから関連性がある訳ではないが、ホップの姿が脳裏をかすめた。引き取った時のホップは生後数か月で、それこそ中ビナと呼ばれる月齢だったからなのかもしれない。

 

「彼は――敢えて過去の名で呼ばせてもらおうか――ヴィペール・ジョーヌはヒナの頃から連中に利用されていたんだ。彼の眼に宿る魔力はせいぜい暗示や認識の改竄程度ではあるけれど、それでも敵を混乱させ、生命を奪うには十二分な代物だったんだよ。彼に場を攪乱させて、他の兵士が敵を討ち取れば良い訳だからね。

 そしてヴィペール・ジョーヌは理解していたんだよ――自分が黄ばんだ毒蛇として利用されている事も、自分が何に加担しているかもね。ああそうさ。彼は聡い子だった」

 

 いつの間にか萩尾丸の顔には笑みは消えていた。特に聡い子だった、と言ったくだりなどでは、その両目に昏い光が宿っているように見えてならなかった。

 

「闘うだけに留まらず、相手を殺さねばならない。精神にかかる負荷が如何ほどのものか、君らには解るよね?」

「殺しなんて……誰かが死ぬのを見るなんて()()うんざりですよ」

「……はい。そりゃあもう大変な事だと僕も思います」

 

 萩尾丸の言葉にまず反応したのは雪羽だった。彼が他人の生死にひどく敏感なのは源吾郎もよく知っている。何せ時雨を拉致した下手人たちを相手に大暴れした時も、生命まで奪う事は無かったのだから。

 一方の源吾郎も、双睛鳥がやらされていた事の重大さを感じ取っていた。戦闘訓練を重ね、幾つかの事件に立ち向かった源吾郎は、おのれが争いを好まない気質である事に気付き始めていた。確かに戦闘訓練などでは闘志をむき出しにして立ち向かう事は出来る。しかしそれはスポーツの一種と見做しているからに過ぎなかった。

 実際の闘いでは戸惑ってうろたえてしまうし、打ち負かした相手を痛めつけたいという欲求も源吾郎の中には無い。

 

「経験を重ね覚悟を決めているはずの兵士でさえ、殺しの重責に耐え切れずに精神を病む事は珍しくない。ましてや、覚悟どころかおのれの意志すら定まっていないような子供ならば、ね」

 

 萩尾丸は物憂げな視線を源吾郎たちに向けると、そのまま一度言葉を切った。眉間の辺りを揉みほぐしていたかと思うと、その動きを止めてから再び言葉を続けた。

 

「ヒナの頃から利用されていただけでも度し難い話なのに、利用していた連中は、ヴィペール君の存在を、能力もろとも忌まわしい物だと見做して扱っていたらしいんだよ。毒性などを恐れていたのかもしれないが、それなのにその力に頼るなんて図々しいにも程があるでしょ。

 そんな事があったから、ヴィペール君はおのれの裡に宿る能力に自責の念すら感じているんだ。実に可哀想な事だよ。邪眼や毒を持つのはバジリスクやコカトリスならば致し方のない事だし、ましてやあの子は一族の中でも毒性が弱い方向に進化した存在なんだからさ」

 

 コカトリスとしての特性を双睛鳥が忌み嫌っている。萩尾丸の言葉に源吾郎は素直に納得していた。それとともに、何故双睛鳥が妙に卑屈な態度を取っていたのか。その謎も氷解したようなものだった。

 更に遡れば、犬神を討伐した折も毒の羽で相手を弱らせる事は不本意だと言っていたではないか。

 

「……彼を組織に迎え入れるにあたり、もちろん心のケアの方は僕らも力を入れたつもりなんだ。だからこそ彼に双睛鳥という新しい名を与え、毒を抑える護符や邪眼の能力を封じる偏光眼鏡を用意したという事なんだよ。それらのものが免罪符に……彼の心の支えとなっていたんだ。護符とか偏光眼鏡に頼らずとも、自力で毒や邪眼の魔力を抑え込めるようになったとしてもね」

 

 そう言う事だったのか。源吾郎と雪羽は納得の息を漏らしていた。妖怪と言うのはやはり精神的な物に左右される存在である。おのれの恐ろしい力を封じていたものが使い物にならなくなったとあれば、気が動転して引きこもるのも無理からぬ話であろう。

 と言うよりも、今の双睛鳥はかつての黄色い毒蛇と呼ばれていた時の暮らしを再現しているに過ぎないのだそうだ。組織の連中はコカトリスのヒナを恐れ、薄暗い部屋に押し込めていたのだから、と。だからこそ双睛鳥も進んで引きこもったのだと萩尾丸は付けくわえたのだ。

 

「それにしても、双睛鳥って言うのは後から付けられた名前なんですね」

 

 源吾郎が呟くと、その通りだと萩尾丸は頷いた。

 

「組織の連中からはヴィペール・ジョーヌと呼ばれていたからね。直訳すれば黄色い毒蛇と言う事なんだけど……あんまりいい名前では無かったんだよ。薄汚れているとか、陰険な輩と言う意味合いもあるからね。

 知っての通り、双睛鳥は双睛をもじった名前なんだ。大陸にいるとされる鳥たちの神であり、邪悪な物を打ち祓う存在でもあるんだけどね。双睛も瞳に特徴があるからさ、ちょうど目に魔力を宿す彼に丁度良いって事で、青松丸君が考えてくれたんだよ」

「……良い名前ですね。本家本元の双睛様がどう思われるかが気にはなりますが」

 

 双睛、或いは重明の鳥と呼ばれる神鳥の事を思いながら、源吾郎は素直に思った事を口にした。双睛は鶏に似た姿の神鳥であるらしい。普通の鶏とは異なり一つの眼球の中に二つの瞳を持つために双睛と呼ばれているそうだ。啼き声は鳳凰に似ており、猛獣や悪妖怪を退ける能力を持つとも言われている。

 姿を見せる事は少ないものの、伝承をひもとく限りでは神聖な存在と言っても過言では無かった。そんな存在の名を易々と借りてしまっても大丈夫なのか。源吾郎はそんな懸念をふと抱いたのだった。

 萩尾丸はしかし、源吾郎の様子を観察してからふっと笑みを見せた。

 

「本家本元の双睛鳥様の事を気兼ねしているのかい、島崎君。それならきっと大丈夫だよ。彼が双睛鳥と名乗るようになってからかれこれ百年近く経っているんだ。向こうが思う所があるならば、とうにこちらに乗り込んでいてもおかしくないだろうに。

 それに島崎君。やんごとない身分の者たちは、下々の者たちの動きにいちいち目くじらを立てたりしない物なんだよ。君らの一族だって、玉藻御前の末裔を名乗る狐たちの事を容認しているじゃあないか」

「う……はい」

 

 萩尾丸の言葉に、源吾郎は目を白黒させながら頷くのがやっとだった。



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鳥獣の親しむ仲には理由あり

 双睛鳥の過去話が終わると、一旦解散し今度こそ通常業務に戻る運びと相成った。あと少しで昼休憩にかぶさるという時間帯であるが、この後どうするかはすぐには決められないというのが萩尾丸の意見だった。

 どうするか、と言うのは偏光眼鏡を発注するべく工房に午後から向かうか否か、と言う事である。

 要するに、工房に向かうか否かは双睛鳥が目覚めた時の状況次第と言う事だと萩尾丸は言ったのだ。

 萩尾丸らしからぬ、強引さに欠いた歯切れの悪いやり方だ。無言のままに源吾郎はそう思っていた。彼は大天狗であり、自身が莫大な力を保持している事を十二分に自覚していた。そうした力を要所要所で振るい、他の妖怪を従えたり物事を押し進めていたではないか。萩尾丸に対して、源吾郎はそのように考えていたのだ。

 もちろん、偏光眼鏡を作るにあたり双睛鳥が動けないのであればどうしようもない事は源吾郎にも解っていた。双睛鳥自身は鳥類基準で言えば視力が低く、それをカバーするための役割と偏光眼鏡が担っているのも知っていたからだ。

 

「そんな訳でね、双睛鳥君が目を覚ましてから外出できるかどうか直接聞いてみるよ。彼が目覚めるころには紅藤様や青松丸君も戻ってきているだろうからね。行けそうだったらそのまま港町の工房に向かえば良いし、まだ気持ちが整っていないって言う返事だったら明日の朝一になるかな。

 ただ、今日向かうとなるとちょっと遅くなるから、その辺りも工房に連絡を入れておかないといけないんだけどね」

「萩尾丸さん。今日出向いたら遅がけになるのって、車で向かうからですよね?」

 

 萩尾丸の言葉に疑問をぶつけたのは雪羽だった。驚いたように萩尾丸の片眉が跳ねるのを源吾郎は見た。冷静に、時に腹立たしいほどに余裕たっぷりに振舞う萩尾丸にしてみれば中々珍しい態度だった。

 そうだけど。応じる萩尾丸の声には、疑問の色がありありと浮かんでいた。

 

「車で向かうから遅くなるとかそんな事を悩む羽目になるって僕は思うんですよ。特に、萩尾丸さんは転移術を会得なさっているんですから、それを使えば……」

「転移術はそんなに便利な物じゃないんだよ、雷園寺君」

 

 雪羽が全て言い切る前に、萩尾丸はバッサリと言い放った。ご丁寧に、呆れた様子を示すかのようにため息をついたうえで、である。

 

「転移術と言うのは向かう先を知っていればそこに対象を送り込んだり自分が移動できる術ではあるけれど、世間にはその術に対抗するための術式だって存在しているんだ。考えてみたまえ。勝手に転移術だって事で、自分の部屋に上がり込む輩がいたらたまったものではないだろう?」

 

 そう言うと、萩尾丸は雪羽のみならず源吾郎をも鋭い眼差しで眺めた。源吾郎は頬を引きつらせながら頷いた。本宅である居住区と別宅であるアパートは、一応女の子や友達がいつやって来ても良いように綺麗に整えているし、あやしい書籍や物品は目に触れないように厳重に保管している(そもそも本宅にはそう言った物は置いていない。紅藤の膝元と言う事もあり気まずかったからだ)。しかしだからと言って、勝手に上がり込まれたら確かに困る。

 視線を横にずらせば、やはり雪羽も切羽詰まった様子で何度も頷いているのが見えた。

 

「もちろん、あの工房にも転移術お断りの術式は組み込まれているだろうね。事前にアポを取って術式を解除してもらうのもそれこそ手間になるし。かといって、工房のすぐ傍の何でもない所に転移するのもスマートなやり方でもないと思ってね。その時はその時で、僕らがその場所に急に現れた形になってしまうから、それを誤魔化さないといけないだろう?

 そうなると、やはり車とか電車で向かうのが一番なんだよね。妖力の消耗も少ないし」

「はい」

「はぁ……」

 

 念押しとばかりに放たれた萩尾丸の言葉に、源吾郎と雪羽はそれぞれ返事した。源吾郎としては付け加えられた最後の一文が興味深い物だった。自分達とは比べ物にならない程の妖力量を保有する萩尾丸が、妖力の消耗を気にするのは何とも不思議だった。その辺りを考慮するのが経験を積んだ妖怪なのかもしれない、確かに妖力を消耗すれば自分も動けなくなったし。そんな考えが源吾郎の心中にふっと浮き上がってきたのだ。

 

「僕が引率者として双睛鳥君を連れていく事は確定しているんだけど、島崎君と雷園寺君もその時は一緒について来てくれるかな。君らもそろそろ各業界で名が知られるようになりつつあるから……工房の店主にも紹介したくってね。君らとは直接接点が出来るわけでは無いにしても、向こうの店主と僕は知り合い同士だし、君らも顔を覚えて貰ってデメリットは無いはずだよ」

 

 はい。ここでも源吾郎たちは返事をした。先程とは異なり、雪羽の返事は間延びした物では無かった。その横顔をちらと見ても、やはり真剣な表情になっている訳であるし。

 

「サカイさん。君は研究センターに残っておいてくれるかな。と言っても、今日出発するにしても紅藤様が戻られてからになるからそんなに気負わなくても大丈夫だけどね」

「は、はい……!」

 

 萩尾丸に話を振られ、サカイ先輩もまた短く返事を返す。留守番と言うか研究センターで内勤であると告げられた彼女は、心持ちホッとしたような表情を浮かべていた。すきま女ゆえに、他の場所に業務に出向かなくて済んだと喜んでいるのかもしれなかった。

 

「ひ、ひとまずは、私も双睛鳥さんの様子には注意を配っておきますね。ご存じの通り、私は、あの妖の能力に干渉されずに、様子を見る事だって出来ますから」

「ありがとうサカイさん。君も後輩が出来たからやる気を出してくれたみたいだね。僕としては嬉しい限りだよ」

 

 萩尾丸はそう言うとここで笑みを見せた。普段とは異なる、含みも何もない純粋な笑顔は、源吾郎にしてみればひどく新鮮な物に映ったのだった。

 

 昼休み。持参した弁当を平らげた源吾郎は、特に出歩くでもなくその場でぼんやりとしていた。出歩く用が無いからだ。それに真冬の食後と言う事もあり、眠気がじわじわと源吾郎の五体を包み込んでいた。休憩が終わるまでまどろんでいても問題は無かろう。と言うか紅藤などは昼休憩などに寝落ちしているのはよくある事だし。

 

「寝ちゃうんですかぁ、せんぱーい」

 

 そんな源吾郎の意識を現世に縛り付けたのは、後輩たる雷獣の少年の声だった。突っ伏していた顔をゆるゆると上げ、声の主たる雪羽を源吾郎はねめ上げた。さながら、不機嫌な犬のような表情に違いない。

 一方の雪羽は元気そのものと言った風情である。翠眼は相変わらずキラキラと輝いており、眠気に侵蝕されている気配は見当たらない。

 

「先輩の事なので、鳥園寺さんの所に何がしか相談するのかなって思ったんだけど。鳥園寺さんは鳥の事に詳しいでしょ? だからその、双睛の兄さんが塞いでいる事とかさ」

「鳥園寺さんは有給を取っているから今日は工場にはいないんだよ」

 

 バッサリと言い切ってから、源吾郎もむくりと半身を起こした。雪羽の声を聴いているうちに、幸か不幸か眠気が霧散してしまったのだ。

 鳥園寺さんは有給を取っている。その言葉を聞いた雪羽の表情が変化した事に源吾郎は目ざとく気付いた。そこで思った事を口にしたのだ。

 

「そう言えば、雷園寺君も鳥園寺さんと何かと会いたがるよなぁ。君は人間に興味はないって思っていたけれど……」

「言うてあの人は先輩の知り合いでもあるし、何より話が合うんだよ」

 

 疑問混じりの源吾郎の言葉に、雪羽は即座に言い返した。若干ムキになった様子を見せながら。腹を立ててしまったのだろうか。そのような源吾郎の考えは杞憂だった。と言うのも、次の瞬間には雪羽の面にいたずらっぽい笑みが浮かんでいたのだから。

 

「鳥園寺の姐さんはさ、あれでも結構ノリの良い所があるって先輩も知ってるでしょ? だからその、俺もあの人と話してたら結構面白いなって思う所があるんだよ。きっとあの人だって同じだよ。先輩は意外と真面目一辺倒だしさ」

「…………」

 

 付け加えられた余計な一言には何も言わず、じっとりとした視線を向けるだけにしておいた。それに源吾郎が妙に真面目な事も、鳥園寺さんに意外とノリのいい部分があるのもまぎれもない事実だ。もっとも、それは雪羽がヤンチャでチャラかった要素を持っていたり、鳥園寺さんが妙な方向の知識を蓄えたりしているという事の裏返しでもあるのだが……そこはそっとしておいた方が賢明な部分である。

 俺ってやっぱり真面目なのかな。呟いてから、源吾郎はそれとなく話題をスライドさせた。

 

「それにしても、双睛鳥さんも色々と抱えてなさってたんだね。何というか、フランクで親しみやすそうなお方だって勝手に思っちゃっていたけれど。

 あ、でも雷園寺君はやっぱり色々知ってたのかな? 三國さんとの繋がりもあるだろうし」

 

 いいや。源吾郎の問いに雪羽は首を振った。

 

「俺だって初めて知った話もたくさんあったよ。確かに叔父貴と双睛の兄さんは仲が良かったし、双睛の兄さんが別の組織でいろんな仕事をやっていた事も聞かされてはいたよ。

 だけど、込み入った事までは知らなかったから……叔父貴たちは知っていたけれど、敢えて俺には言わなかったんだろうね。俺はまだ子供だったから」

 

 遠くを見つめる雪羽の眼差しは何処か寂しげだった。

 

「でもさ、今回の話を聞いて腑に落ちた所もあったんだ。雷園寺家の当主を目指さなくても良いって何で双睛の兄さんが言っていたかとか、何で叔父貴が双睛の兄さんを何かと気にかけているかとかね。

 それまでは単に、雷獣の叔父貴とコカトリスの血を引く双睛の兄さんが()()()()()があるからなのかなって思ってたんだよ」

「似ている所って?」

 

 思わず源吾郎が尋ねると、雪羽は軽く首をかしげながら言葉を続けた。

 

「個人的というよりも、雷獣とコカトリスって種族的に似てるなぁって思う所があるんだ。雷獣は鵺から進化しているから、姿かたちの特徴が()()()()()()でしょ。それで……コカトリスはバジリスクって言う毒蛇から鶏みたいなのに進化してるしさ。しかもコカトリスはコカトリスで()()()()に進化しているし。進化したからこそ、双睛の兄さんみたいに()()()()()一族も生まれたって話だったしさ。双睛の兄さんはよく言ってたんだ。毒気が強いとその分討伐の憂き目に遭いやすいってね」

「うーむ。言われてみればそうだなぁ……」

 

 異種族同士でもスムーズに交流できるのが妖怪であるが、しかしそれでも同族や似た特徴を持つ者同士で仲間になりたがる事もまた事実である。実際問題、妖狐は妖狐でつるむ傾向にある訳だし。

 雪羽の説明を聞いていたら、確かに雷獣とコカトリスとは似通った所があるのかもしれないと、源吾郎も思い始めていた。

 だが雷獣はさておきコカトリスの事はそう詳しくはない。なのでスマホを取り出して少し調べてみる事にした。

 幾つかの記事を見ていくうちに、源吾郎はある記述を発見した。バジリスクやコカトリスの弱点は()()()であるという話だった。イタチには彼らの毒性が通用せず、相討ちと言えどもコカトリスを斃す事が出来る、と。三國は雷獣と言う獣妖怪であるが、本来の姿はグズリに、ありていに言えば()()()()()()によく似ているではないか。

 その事について源吾郎が質問すると、雪羽は妙に面白がりながら応じた。

 

「双睛の兄さんはコカトリスとしての特徴が薄まっているから、イタチやイタチみたいな妖怪を前にしても弱る事は無いんだろうね。むしろ相手には自分の毒が効かないから、傍にいても大丈夫だって思えるのかもしれない。

 そうか……そう言う事もあって、叔父貴と双睛の兄さんは()()()()のかも」

 

 やはり自分たちには、まだまだ勉強の余地がある。感心した様子で頷く雪羽を眺めながら、源吾郎は静かに思った。




 三國ニキは雷獣なのですが、雷が浄化のイメージだと思うと、毒への耐性がかなり高そうな気がするのです。


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竜への手土産 妖毛セット

 紅藤たちが戻ってきたのは、午後の二時をわずかに回った時の事だった。思ったよりも早く戻ってこられたのだと、源吾郎は無言のままに驚いていた。仮に今日工房に向かうとなるとおそがけになる。萩尾丸のこの言葉から、三時から四時の間に戻ってくるのだろうと類推していたのだ。

 そしてその事に驚いていたのは何も源吾郎だけではない。若妖怪である雪羽は言うまでもなく、甲斐甲斐しく出迎える萩尾丸の面にも、僅かな驚きの色が見えていたのだから。

 

「紅藤様。新年早々の挨拶回りありがとうございました。それにしても早いお戻りでしたね」

「挨拶回りと言いましても、私たちにしてみればそんなに深い意味はありませんもの」

 

 恭順な態度と共に語り掛ける萩尾丸を前に、紅藤は無邪気な様子で微笑んでいる。道士服に合わせたやや濃い目のメイクが若干崩れ始めていたが、それでも紅藤の持つ威厳のような物は損なわれていなかった。

 そもそもとして、大妖怪である萩尾丸が紅藤に相対するときに見せる態度こそが、紅藤の妖怪としての実力を物語っているのだから。

 

「あ、でも安心して萩尾丸。私たちが早く帰れたのは、峰白のお姉様が事情をくみ取ってくれた事と、帰りは転移術で戻ってきた事が上手くかみ合ったからに過ぎないんですから。

 萩尾丸も心配がっていたみたいですし、私が戻ってきた方が何かと安心できるでしょう」

「本当は青松丸君一人でも何ら問題ない状態だったら嬉しいんですがね……まぁ、世の中はままならぬものですよ」

 

 紅藤の会話に応じつつも、萩尾丸はしれっとそんな事を言ってのけた。油断していたら煽りトークになるんだな。源吾郎はまずそう思ったのだが、その割には萩尾丸の表情は何処か寂しげでもあった。しかも煽られたはずの青松丸は、特段気にせず微笑んでいるのだから尚更だ。

 

「それで萩尾丸。これから双睛鳥さんと一緒に工房に向かうのね?」

 

 ええそうです。紅藤の問いかけに萩尾丸はゆったりと頷く。

 

「双睛鳥君も、今日のうちに発注しておきたいしその手はずを整えたいと強く希望しておりましたからね。彼の状態が安定しているうちに、手早く出向いて手早く帰りたい所ではあります」

 

 そこまで言ってから、萩尾丸は源吾郎と雪羽の方をちらと見た。

 

「――ですが、今回は島崎君と雷園寺君にも同行してもらおうと思っております。顔合わせの一環ですね。二人とも玉藻御前の末裔と雷園寺家の次期当主候補ですから、そうした事も必要になって来るでしょうし。

 紅藤様。二人を同行させても構わないでしょうか」

 

 萩尾丸が最後の一言を口にしたところで、源吾郎と雪羽は思わず目配せをした。元より萩尾丸は源吾郎たちも伴って工房に向かう気満々だったのだ。無論それはそれまでの紅藤たちとのやり取りでも明らかにしているであろう。

 それでも敢えて、面と向かって紅藤に許可を取るあたりが何というか天狗らしい。そんな風に源吾郎は思っていた。

 

「二人を同行させる事には異存はないわ」

「はい。僕も紅藤様と同じく大丈夫だと思います」

 

 萩尾丸の問いに対し、返答したのは紅藤だけでは無かった。彼女の隣に控える青松丸も、源吾郎たちに視線を走らせてからおのれの意見を口にしたのだ。

 

「うふふ、工房ってヴィーヴルのセシルさんの所でしょ。ええ、彼女もドラゴンの一族に違わず宝飾品や魔道具に詳しいですから……」

「紅藤様。紅藤様がセシル様の所の工房に興味がおありなのは僕もよーく存じています。女同士で魔道具の領域では話が盛り上がるでしょうからね。ですが今回ではなくて、お時間のある時に会いに行けばよろしいかと」

 

 興味津々と言った様子で工房について語る紅藤に対し、萩尾丸はややたしなめるような口調でもって応じていた。今回会うドラゴンって女性なのか。ああでも、獣妖怪や鳥妖怪にも雌雄の区別はあるのだから、女ドラゴンと言う存在もおかしくはない。そんな事を思っていると、紅藤が言葉を紡ぎ始めていた。少女めいた屈託のない笑みはなりを潜め、幾分真剣な表情で萩尾丸を見つめている。

 

「あのね萩尾丸。私が彼女の所に出向きたい云々は別に良いのよ。今回は双睛鳥さんの件で出向かざるを得なくなったという事ですけれど、セシルさんたちのための手土産は用意しているのかしら?」

 

 紅藤はそこで言葉を切ると、源吾郎たちの方に向き直る。その面には柔和な笑みが広がってはいるものの、ただならぬ気配を源吾郎は感じ取っていた。

 

「セシルさんは優秀な魔道具職人にして宝石の鑑定家でもありますが……それ以前にやはり彼女もドラゴンの一人ですからね。商売であると解っていても、自分の蓄えた財宝が減るのはどうにも我慢ならない気質からは逃れられないの。

 ましてや、彼女は宝石の眼を持つ種族になるわ。宝石の眼は彼女たちの、ヴィーブルたちにとっての生命とも同じですから、他のドラゴンたちよりも神経質になるのは致し方ない話なの」

「……要するに、双睛の兄さんの眼鏡を新調するのに、こっちもお宝を用意しないといけないって事ですよね?」

 

 やや切羽詰まったような表情で声を上げたのは雪羽だった。彼は神経質そうにネクタイを弄ったり値の張りそうな腕時計を眺めたりしていたが、数秒も経たぬうちに目を伏せてため息をついた。

 

「島崎君に雷園寺君。セシル様に支払わねばならない物については、君らが心配する事は何もないんだよ。雷園寺君の言う所のお宝は、僕の方できちんと用意しておいたんだから」

 

 言いながら、萩尾丸はビジネス鞄の中からある物を取り出した。白くて四角く柔らかそうなひとかたまりはすぐに何かは判らなかったが……ややあってから源吾郎はそれが何であるか判ってしまい、思わず頬を引きつらせた。半年以上も前に処理して忘れ去っていたそれを、こんな所で見るとは思っていなかったからだ。

 それは何でしょうか萩尾丸さん。雪羽の無邪気極まりない質問を受けると、萩尾丸はさもおかしそうに笑みを深めた。

 

「これは島崎君の尻尾の毛だよ。昨年の五月に刈り込んだそうだから、毛足の長い冬毛では無いんだけどね。とはいえ彼由来の妖力が籠っているから、丁度良い素材になるんじゃないかな」

 

 驚きの声を漏らす雪羽を尻目に、源吾郎は何とも言えない気持ちで萩尾丸の手許を眺める他なかった。柔らかそうな白いひとかたまりに見えなかったそれも、目を凝らせばチャック付きのケースにぴっちりと押し込められているのがおぼろに見えてくる。昼休憩が終わってから、萩尾丸がふらりと席を外していたような気がするが、まさかこれを用意していたとは。

 妖怪の身体の一部が魔道具の素材になるのは紛れもない事実である。血生臭い話であるが、妖怪の骨や毛皮、或いは血液などを利用したという例は枚挙にいとまがない。それこそ、セシルと言うドラゴンの持つ宝石の眼とて身体の一部と解釈できるだろう。

 特に体毛の場合であれば、相手の妖怪を殺傷する事がないため、提供する側も受け取る側も気軽にやり取りできると言うメリットがある。あの源吾郎の毛だって刈り込んだだけのものに過ぎないのだから。

 それでも、源吾郎は苦々しい思いで刈り込まれたおのれの毛を眺めていた。人間同様に、抜け落ちたり刈り込まれた体毛を眺めるのはいかな妖狐とて良い気分のするものではない。ましてやA6サイズのチャック袋に満タンになるまでに詰め込まれているのだ。用意した萩尾丸のそこはかとない執念すら感じられて、一層不気味だった。

 ついでに言えば、刈り込んだ毛そのものに源吾郎は複雑な感情を抱いてすらいたのだ。何せぱらいその一件で起こした不祥事のけじめとして、尻尾の毛を刈り込んだのだから。チャック袋に収まった源吾郎の尻尾の毛は、かつての源吾郎の罪科のあかしと言っても過言では無かったのだ。

 

「それが手土産なのね……良いじゃないの萩尾丸」

 

 詰め込まれた尻尾の毛を眺めていた紅藤は、屈託のない様子で声を上げた。紫の瞳を輝かせ、源吾郎本体と源吾郎の毛を交互に眺めてもいた。

 

「昔から妖狐の尻尾の毛は筆に使うのに良いと言われているものね。しかも、島崎君自身が豊富な妖力の持ち主ですし……」

「何と言っても島崎君は玉藻御前の末裔ですからね。ええ。それだけでも文字通りブランド品と言っても問題ないでしょう。玉藻御前の血統である事は僕たちも把握済みですし」

 

 何処か勝ち誇ったような笑みを浮かべる萩尾丸を、源吾郎は不思議な気持ちで見つめていた。源吾郎の血統は確かにはっきりとしたものである。しかし母方の祖父と父の二度にわたり人間の血が混ざった半妖なのだ。妖狐としての自我を具え、普通の妖狐とは段違いの強さを持つ源吾郎であるが、時々自分が半妖である事が気になってしまうのだ。

 そんな風に思い悩む源吾郎はさておき、萩尾丸は言葉を重ねていた。

 

「それに毛の質も申し分ありませんでした。島崎君はお酒にも煙草にも手を出しませんし、不摂生な暮らしに堕している訳でもありませんからね……妖力が多ければ不摂生でもやり過ごす事は出来ますが、それでも妖気の質が変わる訳ですし」

「萩尾丸先輩。不摂生はさておいて、僕が酒や煙草に手を出せないのはご存じではありませんか。何せ僕は未成年なんですから」

 

 そうだったっけ。源吾郎の言葉に萩尾丸はとぼけたような口調で応じるだけだった。妖気の質が妖怪の健康状態に左右される事は源吾郎も既に知っている。しかし源吾郎が飲酒や喫煙に手を出していない事を引き合いに出すのは違うのではなかろうか。そのように源吾郎は思ったのだ。何せ源吾郎は未成年なのだから。

 物心ついた頃から妖怪としての自我を育んできた源吾郎であるが、人間として育てられたために人間の法規に従わねばならない存在でもあるのだ。

 

「まぁ確かに煙草は狐狸妖怪は嫌がる手合いは多いけどね……でも妖怪たちの中には子供なのにお酒に手を伸ばしたりしちゃう妖もいるなぁと思ってね。雷園寺君、君だってそう思うでしょ?」

「はは、ははは……萩尾丸さん。それを俺に質問しちゃうんですか?」

 

 萩尾丸に話題を振られた雪羽は、苦笑いを浮かべながら口早に質問するのみだった。源吾郎の未成年発言の返答であると思っていたから彼も少し油断していたのだろうか。或いは話の流れは読めていたとしても、後ろ暗い事であるからうろたえただけなのかもしれないが。

 

「さて、冗談はこれくらいにしておいて、そろそろ双睛鳥君の支度を整えないとね」

「萩尾丸さん、僕も手伝いますよ」

 

 散々源吾郎と雪羽の心を言葉でかき乱した萩尾丸は、すまし顔で言い放った。手伝うと言った雉妖怪の青松丸を伴って、萩尾丸は一旦研究センターの事務所を去っていく。源吾郎は雪羽と共に、それをぼんやりと眺めるだけだった。



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昔がたりは友妖のあかし

 再び着替えてかっちりとしたスーツ姿になった源吾郎と雪羽であるが、事務所に戻ってみると自分達しかいなかった。萩尾丸は青松丸と共に双睛鳥を連れ出す準備に取り掛かっている所だ。そして紅藤は、挨拶用の道士服から普段着である白衣にそれこそ着替えている最中なのだろう。

 ちなみに、すきま女であるサカイ先輩の姿も見えなかったが、彼女は度々姿を隠す事があるので特に気にはしなかった。

 萩尾丸が手土産として源吾郎の尻尾の毛を使うとは……ぱらいその一件を思い出しつつ、源吾郎はため息をついた。そりゃあもちろん、源吾郎の血統や能力の高さを鑑みれば、尻尾の毛と言えどもプレミア品に化ける可能性はあるのだろうけれど。

 

「それにしても、週明けからきついっすね先輩」

「そりゃあそうだけど、仕方ないんじゃないかな。双睛鳥さんの事だって不可抗力みたいなものだし、俺たちだって顔繫ぎをそろそろやっていかないといけないんだろうしさ」

「先輩。別に俺だって、顔繫ぎとかがきついって思ってるわけじゃないよ。それこそ、叔父貴の所にいた時だって、他の妖怪組織の許で顔繫ぎとか顔合わせはガンガンやってたんだからさ……俺がきついなって思ったのは、萩尾丸さんの煽りトークの方さ」

 

 雪羽は表情を多彩に変えながら言葉を紡いだ。叔父の許で働いていた時の事は自慢げな笑みを浮かべていたのだが、萩尾丸の名を出した時にはしおらしく物憂げな表情になったのだ。

 

「煽りトークは萩尾丸先輩の得意技って言いたいところだけど、最近俺たちに優しかったからさ、余計に堪えたよな」

 

 あの時萩尾丸は、それとなく雪羽が過去に不摂生を行っていた事に言及していたのだ。普段の萩尾丸ならばそれ位の事は言ってのける所はある。しかしここ数か月ばかり、萩尾丸の言動は若干ソフトな物になっていた。新たな家族が増えるという事でそわそわしている雪羽の身を慮っての事であろう。

 何故か不思議そうな表情でこちらを見つめる雪羽に対し、源吾郎もまた萩尾丸の言動に度肝を抜かれた事を説明する事にした。

 

「雷園寺君も過去の事をほじくり返されてしょんぼりしているみたいだけど、俺だって刈り込んだ尻尾の毛を手土産にするって言われてビビったんだぜ? 処理に困って萩尾丸先輩に渡してはいたけれど、あんな形でご対面するとは……」

 

 源吾郎の面に渋い物が広がっていく。そして何故か、それに呼応するかのように雪羽は訝しげな様子で首をかしげたのだ。

 

「萩尾丸さんが尻尾の毛を手土産にするって事で、何でそこまでうろたえてるのさ。そりゃあ確かに抜け毛とかは自分のでも気持ち悪いって思う妖《ひと》もいるけれど、先輩は抜け毛を丸めて小鳥ちゃんのオモチャにしたりしてるんでしょ?」

「あの毛はな、()()()()()()()があった後に刈り込んだ奴なんだ」

 

 源吾郎は口早に言い捨てた。これで話は終わると思っていた。源吾郎の起こしたぱらいそでの不祥事は、第八幹部の重臣だった雪羽も知っているはずであるし、源吾郎も多くは語るつもりは無かったからだ。

 しかし雪羽は納得した様子を見せなかった。どういう意味だろうかと一層首をかしげるばかりであったのだ。

 

「何だ雷園寺君。君だって元は第八幹部・三國さんの重臣として働いていた身分だろう。去年のゴールデン・ウィークでのぱらいその件は、君だって知ってるはずじゃないか」

「そりゃあ()()()()()()()()()。苅藻さんのスパイとして、ぱらいその悪事を先輩が暴いたって事くらいね。しかもあの時って先輩も入社したばっかりだったみたいだから、とんでもない()()じゃないか。何故か大きく取り上げて貰わなかったみたいだけど」

 

 羨望といくばくかの嫉妬の色を見せながら語る雪羽を前に源吾郎は絶句した。雪羽が知っている内容は真実ではなく、萩尾丸がでっち上げたそれらしい話の方だったからである。

 実際には苅藻がスパイを放ったわけでは無いし、ぱらいそ摘発も源吾郎の快挙でも何でもない。源吾郎が一人で勝手にぱらいそに入れ込んでのぼせ上がった末の()()()に過ぎない。その事は研究センターの面々に打ち明けて始末書まで書いている。始末書は第二幹部である紅藤に提出したから、他の幹部たちにも情報が回っているはずだった。

 違う、違うんだよ……眼差しの鋭い雪羽を前に、源吾郎は小さくかぶりを振った。

 

「そうか、雷園寺君にはそんな風に伝わっていたのか。君も幹部に近い存在だから、てっきり本当の事は知っているのかと思っていたんだよ」

 

 あれは快挙でも何でもなく、個人的な不祥事に過ぎないんだ。源吾郎は臆せず雪羽にそう言った。

 

「良いか雷園寺君。君が知っているぱらいそ摘発の話は、萩尾丸先輩が即興で作った話なんだよ。末の叔父はぱらいその摘発に関わっていないし、だから俺をスパイとして送り込んだわけじゃあないんだ。ただ単に、俺があすこでフラフラしてて、その時にたまたま摘発に巻き込まれただけなんだよ。しかも……あいつらの甘言に乗って紅藤様たちを裏切ろうともした訳だし」

 

 雪羽から視線を逸らし、源吾郎は息を吐いた。その手はいつの間にか心臓の上に添えられていた。それでもまだ言葉を絞り出さねばならない。

 

「ぱらいその一件があって尻尾の毛を刈り込んだって言うのはそう言う事なんだよ。あの時は萩尾丸先輩だけじゃなくて、叔母とか鳥園寺さんもいたからさ……妖怪たるもの、時にはけじめをつける事が必要なんだ。雷園寺君だって解るだろ?」

 

 成程ね。ここでようやく雪羽が納得の声を漏らした。その声は思いがけぬほど柔らかい。表情も穏やかで優しげな物だった。嘲ったり馬鹿にしたりするような素振りは見受けられない。

 

「先輩にしてみれば、そう言う曰く因縁のある代物になるんだね。そうか、それならテンションも下がるよなぁ……萩尾丸さんも、そうした事を解った上で手土産にするなんて」

「それはそれ、これはこれって切り分けて考えてらっしゃるだけかもしれないけどね。しかし、雷園寺君が本当の事を知らないのには驚いたよ。君とて当時は要職に就いていたんだから、俺の不祥事は三國さん経由で伝わっていると思ったんだけど」

「ううん。そもそも叔父貴も真相を知らなかったんじゃないかな」

 

 不思議がる源吾郎を見やりながら、雪羽は軽く肩をすくめた。

 

「多分だけどさ、萩尾丸さんたちも先輩が不祥事を起こしているってみんなに知らせてもメリットがないと思ってて、それで俺たちには伝えなかったんじゃないかな。もしかしたら、叔父貴なんかは本当の事を知っていて、俺にはそれが伏せられていただけかもしれないけどね」

 

 雪羽はそこまで言うと、ふいにその面に獣めいた笑みを浮かべた。

 

「でもさ、島崎先輩の事はその頃から既に話題に上がっていたからね。本当の玉藻御前の末裔で、それに見合うだけの能力と才覚の持ち主だってね。それでいて、上司や先輩たちには従順な優等生と来ているんだからさ……そんなイメージを紅藤様たちも崩したくなかったんでしょうね」

 

 優等生か。雪羽の瞳を見つめながら、源吾郎はふっと息を吐いた。獣めいた笑みを見せる中、雪羽の瞳は嫉妬と羨望に染まってギラギラと輝いていた。その事は源吾郎にも解っていたが、特段恐ろしいとは思わなかった。

 雪羽が源吾郎の境遇や職場での待遇を羨ましく思っている事は、源吾郎も既に知っているからだ。

 

「ですが先輩。本当の事をわざわざ俺に伝えたりして良かったんですか」

 

 雪羽が静かに問いかける。先程とは打って変わり、毒気が抜けたような表情と物言いだった。

 

「俺、本当の事は島崎先輩に言われるまで知らなかったんだ。だからさ、先輩もわざわざ言わなければ……真面目な良いやつってイメージは変わらなかったはずなのに」

「俺が真面目な良いやつだって? 勘弁してくれよ雷園寺君」

 

 穏やかで素直な雪羽の眼差しにたじろぎつつ、源吾郎は言葉を紡ぐ。

 

「何度でも言うけれど、俺は君が思っているほど良いやつなんかじゃあないよ。野望の事では身内である叔父たちからも呆れられているし、そもそも俺は身勝手で怒りっぽい性格でもあるんだぞ。そりゃあまぁ、実家にいた時は人間として暮らさないといけなかったし、母親や兄の目があったから猫を被って大人しくやってたけどさ。

 それにさ、戦闘訓練でも何度君をボコボコにしてやりたいと思ったか、雷園寺君は知ってるかい? それが俺の本性なんだよ」

 

 それにだな。雪羽を見据えながら源吾郎は更に言い添えた。

 

「俺も俺で、雉鶏精一派に入社してから不祥事の合った身分には変わりないんだ。その事を雷園寺君に伏せたままでいるのは、何と言うか()()()()()()()気もしてね」

「あはは、何と言うか先輩らしい意見ですね!」

 

 そこって笑うポイントだったのだろうか。源吾郎は小首をかしげ、しかし敢えて難しい表情を作った。

 

「とはいえ、この事は君と出会ってすぐの頃は打ち明けようなんて毛の先程にも思わなかったけどな」

「あー、確かに。最初のうちは、先輩も俺の事をかなり警戒していましたもんね」

「そりゃそうさ。なんてったって……」

 

 こちとらホテルの一室に連れ込まれそうになったんだからさ。誤解しか招かないような文言を言い放とうとした源吾郎だったが、すぐに慌てて言葉を切った。ついでに業務中らしく真面目な表情を繕うのも忘れていない。

 事務所の扉が開き、先輩妖怪たる萩尾丸と青松丸が戻ってきたのだ。

 

「さて二人とも。僕と双睛鳥君は準備が整ったから、君らも車まで向かうよ」

 

 萩尾丸のこの言葉に、雪羽は弾かれたように萩尾丸の許に駆け寄った。そして彼が左手に提げていたビジネスバッグを受け取ったのだ。萩尾丸が右手で大きな車輪付きのキャリーケースを御しているという事もあるのだろう。

 だが源吾郎は、雪羽がそもそも萩尾丸の秘書、つまりは鞄持ちと言う名目で引き取られ再教育されている事を静かに思い出したのだった。

 それにしては雪羽も幾分重そうにビジネスバッグを持っているが、それは気のせいなのだろうか。



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いざ向かいたるは竜の工房

「萩尾丸先輩。双睛鳥さんってそのキャリーケースの中に入ってらっしゃるんですよね」

 

 社用車へ向かう道すがら、源吾郎は萩尾丸に思わず質問を投げかけていた。

 源吾郎の視線は萩尾丸ではなく、彼の引いているキャリーケースに向けられている。奇抜なデザインや装飾のないシンプルなそれは、しかし犬猫などの動物を運ぶキャリーケースとは似ても似つかぬ代物だった。四角く黒い箱に、持ち上げるための取っ手とキャスターがくっ付いているだけなのだから。強いて言うならばトランクケースや旅行用のキャリーバッグに似ているのかもしれない。

 しかしそれ以上に気になったのは大きさだった。双睛鳥を入れるには()()()()()代物だったのだ。直方体のケースは、源吾郎の目測で中型犬が入るか否かと言うサイズである。一方の双睛鳥は、普通の七面鳥よりも二回りばかり大きな鳥妖怪なのだ。人型であるにしろ本来の姿であるにしろ、このような狭い箱に彼が収まるとは到底思えなかった。

 もちろんだとも。萩尾丸は当然の事だと言わんばかりに頷いた。それから鋭い眼差しで源吾郎を見つめ返し、何か疑問でもあるのかい、と問いただしたのである。

 

「思っていたよりも小さいのでびっくりしたんです。僕は前に双睛鳥さんの本当の姿を見た事があるんですが、とても大きかったのが印象的だったので」

 

 源吾郎の脳裏に浮かぶのは、やはり犬神を喰い殺した時の双睛鳥の姿だった。あの恐るべき犬神を抑え込んだ彼の勇姿は偉大であり、その身体は巨大な物だった。もしかしたら、本来の姿はもっと小さなものなのだろうか。そんな考えも少し遅れてから浮き上がってきた。雪羽などは大型の獣に変化する事がままあるのだが、本来の姿はやや大きい猫程度のサイズなのだから。

 

「……そこにいるのは島崎君だね」

 

 萩尾丸が口を開く前に、源吾郎の言葉に応じる声が聞こえてきた。双睛鳥の声は、さも当然のようにキャリーケースの中から聞こえてきた。

 

「大丈夫だよ島崎君。このキャリーケースは見た目のわりに広いからね。むしろ暗くて結界もしっかりしていてオガクズも敷いてあるから僕的には快適なんだ」

「見た目のわりに広いって事は、やっぱり妖術を使って調整なさっているんでしょうか」

「その通りだよ」

 

 今度は源吾郎の問いに応じたのは萩尾丸だった。返答は短いものであるが、その声は控えめな喜色に満ちていた。よく解っているじゃないか。萩尾丸が内心でそう思っているであろう事が、源吾郎にもうっすらと伝わってきた気がした。

 

「君も知っていると思うけれど、双睛鳥君は鳥としては結構大きいでしょ? 車で向かうとしてもかさばるからさ、ケース内の空間をちょっとだけ弄って、双睛鳥君も楽々入れるスペースを用意しているんだ。

 もっとも、あんまり広すぎても暴れたり羽ばたいたりして危険だから、身動きできるかどうかっていう程度の広さでも問題ないんだけどね。多分その辺は、島崎君の所にもホップ君がいるから大体解るんじゃあないかな?」

「ああ……はい」

 

 キャリーケースの表面を撫でる萩尾丸を見やりながら源吾郎は頷いた。彼の部屋にもホップ用のキャリーケースがあるからだ。もちろん、十姉妹を入れるためのものであるから、うんと小さなものではあるが。

 萩尾丸さん。囁くような双睛鳥の声が、またしても箱の中から聞こえてきた。身じろぎでもしているのだろう、爪が床面を引っ掻く音と、中に敷かれているというオカクズと彼の羽毛がこすれるかすかな音が聞こえてきた。

 

「安心してください。工房に到着するまで僕は暴れませんよう。暗くて、何処から何処までが自分なのか解らないんで、それが今は気持ちいいんです」

「それは良い事だよ、双睛鳥君」

 

 萩尾丸はそう言って、ゆるゆると息を吐き出していた。

 

「知っての通り結界で内部と外部の影響をある程度遮断しているのだけれど、揺れや振動については少し我慢していただきたいんだ。僕も少しは()()()から」

 

 大丈夫です、と双睛鳥は小声で応じるのを聞くと、萩尾丸の視線は源吾郎や雪羽にいったん向けられた。

 

「君らも……特に島崎君は車酔いとかは大丈夫かな? 前に雷園寺家に向かった時も、特に車酔いに苦しんだ様子はなかったし」

「車酔いは大丈夫ですよ。僕ももう子供じゃないですし。食後すぐだったらちょっとしんどいかもしれませんが」

 

 子供じゃない、と源吾郎が宣言した丁度その時、隣を進む雪羽がこちらを向いてニヤリと笑った。源吾郎が子供ではないと言ったのがよほど面白かったのだろう。何せ源吾郎も雪羽も、上司のみならず先輩たちからはひとからげに仔狐と仔猫扱いされているのだから。

 源吾郎も別に腹を立てた訳ではないが……雪羽の言動をそのままスルーするつもりも無かった。

 

「何だよ雷園寺君。萩尾丸先輩に俺だけ名指しされたからってニヤニヤしなくて良いだろう。油断してたら君だって酔うかも知れないじゃないか」

「俺は雷獣なんで大丈夫ですよ。三半規管だって、地べたを這い回るだけのお狐様なんぞよりも強いんですからね」

「むむ、言われてみればそうやな」

 

 雷獣は三半規管が強い。上から目線の気配も感じなくはないが、ともあれ雪羽の主張には頷かざるを得なかった。その通りだと思わしめるものがあったからだ。戦闘訓練の折に雪羽が上空から襲い掛かって来る事も、逆に源吾郎の攻撃を回避するために回転――それも横回転だけではなく()()()()()()()すらもあるのだ――するなどと言う事もあるのだから。

 そもそもからして雷獣は、幼い頃から宙に浮き、縦横無尽に空を飛ぶ存在なのだ。個別に術を会得しなければ空を飛ぶ事はおろか宙に浮く事さえできない妖狐とは、身体的な構造が異なるのもおかしな事では無かろう。

 

「ははは、島崎君も雷園寺君も新年早々仲良しだね。車の中ではそんな風に好きにしゃべってもらって構わないよ。君らも多分、急な出張が入ったから緊張しているだろうしね」

「……本当に、雷園寺君にも友達が出来て良かったなって僕は思ってるよ。一人が好きな妖《ひと》もいるけれど、やっぱり若いうちは何でも話し合える友達がいたら大分違うだろうからさ」

 

 源吾郎のやり取りを見ていた萩尾丸が朗らかに笑い、それに続いて双睛鳥もしんみりとした様子で感想を口にした。二人とも大人であり、割合真剣な源吾郎たちのやり取りも子供じゃれ合いとして見られているのだ。源吾郎は今一度その事を実感したのだった。

 

 人間社会ではグローバル化が進み始めているのだが、それは妖怪や魔物たちの世界でも同じ事である。もしかしたら、人間たちよりも先だってそうした事が進んでいるのかもしれなかった。

 従って、日本国内に欧米出身・欧米原産の魔物たちが移住しているというのも特段おかしな話ではない。源吾郎もかつてぱらいそにてオークの男と相対した事はあるし、そもそもからして源吾郎の先祖たる玉藻御前も、大陸からやってきた妖怪に他ならない。

 特に阪神地区は国際色豊かな港町を擁しているのだ。異人館などもある事を鑑みれば、特に欧米からやってきた異形にしてみても、港町は居心地が良いのかもしれない。

 だがそれにしても、女ドラゴンと顔を合わせるとは。源吾郎はまだ見ぬ工房の店主の事について思いを巡らせていたのだ。冬場と言う事もあるだろうが、早速喉と舌が乾き始めている。

 

「どうしたんです島崎先輩。何か緊張なさってるみたいですけれど」

 

 隣に座る雪羽は、こちらを向いて源吾郎に問いかけた。キャリーケースの中にいる双睛鳥は助手席に陣取っており、いきおい源吾郎と雪羽は後部座席に仲良く並ぶ形となっていたのだ。雪羽曰く、きちんと上座・下座の席順に対応しているのだとか。

 さてニヤニヤ笑いを浮かべる雪羽を見ていた源吾郎であるが、右手で頬を撫でネクタイを正すような仕草をしてから頷いた。

 

「そりゃあ緊張するさ。俺たち、じゃなくて僕たちは単なる同行者だけどさ、店主がドラゴンだなんて何かおっかないだろう? 多分従業員も、向こうのヒトたちばっかりだろうし」

 

 源吾郎の発言は素直な物だった。萩尾丸や双睛鳥と言った八頭衆の幹部の手前と言うのもあるにはある。だがやはりドラゴンに会うとなると緊張してしまうのだ。別に闘う訳でもないし、萩尾丸たちの話からしてごく普通に意思疎通が可能な相手であろうと類推出来たとしても、である。

 向こうのヒトなら俺は大丈夫だぜ。雪羽はそう言うや否や、歯を見せて笑った。

 

「叔父貴は元々海の向こうの……フランスだかドイツだがイタリアだったかは忘れたけれど、ともかくそっち方面から来たヒトが経営していた農園で働いていたんだぜ。そこで一杯マンドレイクを引っこ抜いてたくさんお金を稼いで、それで反体制活動の資金源にしてたんだ。だからね、今でもその時一緒に働いていたオークのおやっさんとか獣人――要は俺たち獣妖怪と人間の中間みたいなヒトたちだな――達とかとも交流があるんだぜ。もちろん俺もそういうヒトたちには慣れてるよ。英語も話せるし」

「英語は僕も多少はイケるけど。それでドラゴンは?」

 

 それはまだだよ。雪羽はきっぱりとした口調で答えた。少し腹を立てているようにも、何か恥じ入っているようにも聞こえる声音だった。

 やっぱり雷園寺も緊張しているんだな。そう思っていた丁度その時、萩尾丸とバックミラー越しに目が合った。

 

「何だい二人とも。工房の女あるじたるセシル様がドラゴンであると聞いて怖気付いてしまったのかい? らしくないなぁ。君らは大妖怪になり、その上で大君主になる事を目標にしているんだろう。それに何より紅藤様にお仕えして、常日頃よりあのお方の傍にいるじゃないか。考えてみたまえ。紅藤様とてある意味ドラゴンみたいなものなんだからさ」

 

 ハンドルを握りつつ笑っている萩尾丸を一瞥し、それから源吾郎たちは互いに顔を見合わせた。ややあってから、雪羽は何かに気付いた素振りを見せたのだ。

 

「そう言えば、()()()()()()()()()()()()()()()だって事が最近解ったって聞いたんだ。しかも、ティラノサウルスみたいなおっかないやつの近縁種らしいぜ!」

「あ、確かに。買ってもらった図鑑の恐竜たちも、羽毛が生えていたのがあったもんなぁ」

 

 源吾郎は目を泳がせつつ言葉を紡ぐ。まだ生物学や進化云々に詳しくない源吾郎であるが、流石に羽毛恐竜の話は知っていた。源吾郎が小学生か中学生の頃に、恐竜図鑑の類も親が購入してくれたからだ。図鑑の類に関しては、もちろん長兄や長姉が幼い頃に買い与えられたものも揃っている。しかし特に恐竜に関する記述は、旧いものと新しいものでは大きく異なっていたのだ。

 ドラゴンと言うのは概ね爬虫類に属する魔族に当たる訳であり、骨格を見れば恐竜の一種とも呼べる存在もいるのかもしれない。であれば鳥妖怪である紅藤に近しいという萩尾丸の主張も頷けるものだった。

 

「種族的な近しさだけじゃなくて、気質じたいもセシル様は紅藤様と似通ってらっしゃるからね。だからこそ、紅藤様も折に触れてあすこの工房に遊びに行きたいと思っておいでだし、セシル様も喜んで迎え入れているんだろうね」

 

 出不精で研究に意欲を出す。それどころか研究にしか目が向かない傾向にある。セシルの持つ気質、特に紅藤と相通ずる所がある点について、萩尾丸は幾つか例示して源吾郎たちに伝えてくれた。

 

「まぁセシル様の場合、不思議な力を持つ宝石の眼を盗まれるといけないから、引きこもりがちになるのは致し方ないんだけどね。もっとも、セシル様自体もお強い訳だし、他の従業員たちもそれなりに力を持ったヒトたちばかりだから、何かあっても自分で対処できるとは思うんだけど……

 ともあれ、セシル様はそれほど恐ろしいお方では無いから、そう言う意味では君らも驚くかもしれないね」

「セシル様は万事のんびりしておりますもんね。やはり強くて長い年月を生きた方たちって、ガツガツした野望から縁遠くなってますよね」

「それは違いないね、双睛鳥君!」

 

 のんびりとした双睛鳥の言葉に、萩尾丸は再び笑い始めた。さも愉快だと言わんばかりの笑い声に、源吾郎は僅かに戸惑ってしまったのだが。



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異形ながめて地下街巡り

 まるで自分が本当の仔狐に戻ったみたいだ。雪羽の背中や揺れる尻尾を眺めながら、源吾郎はそんな事を思った。仔狐気分を感じるのは、期待と不安が入り混じり、そのせいで胸が高鳴っているからだ。遠足などと言う健やかで退屈な冒険とは違う。薄暗い神社の裏手を覗き込むような、或いは喧騒から離れた路地裏を通り抜けるような、そんな状況を何となく想起させた。

 とはいえ、今の源吾郎は一人で無責任に遊んでいるわけでは無い。これでもれっきとした仕事の最中である。この道行きに必要な妖員は萩尾丸と双睛鳥だけであり、源吾郎たちは単なるオマケとして付いて来ていたとしても。

 と、ここで雪羽が身をひねって源吾郎の方を振り仰いだ。チェシャ猫よろしく微笑む雪羽の姿は文字通り輝いていた。雷獣というのは暗い中ではぼんやりと光を放つ事があるらしい。これが雷獣自身の意志によるものである事を源吾郎は知っていた。いくら暗い部屋の中にいると言えども、眠っている時には光らないのだから。

 

「意外と楽しそうに歩いてますね島崎先輩。先輩の事だから、俺たちがいても怖いなぁって思ってるかなってちょっと心配してたんですけれど」

「その心配は余計なお世話ってやつさ」

 

 源吾郎はやや乱暴に言い捨てて、ついでに鼻を鳴らしてやった。一片たりとも不安を抱かなかったと言えば嘘になる。しかし、ニヤニヤ笑いを浮かべる雪羽に対して素直に応じるのは何となく気恥ずかしかったのだ。しかも雪羽は雪羽で、何か興奮しているようであるし。

 

 萩尾丸の宣告通り、工房へ向かうためのドライブは小一時間ほどで終わっていた。参之宮の中心街からやや外れた駐車場に車を停め、そこからは徒歩で工房に向かっている最中だったのだ。セシル女史が運営する工房は地下街の奥にあり、車で直接向かう事は到底難しい場所にあったためだ。

 従って、萩尾丸たち一行は地下街の内部を伸びる通路を粛々と進んでいる最中だったのだ。曰く歩いて十分足らずで到着するとの事であるが、仄暗いトンネルめいた地下道は、いつまでもいつまでも続いているような気がしてならなかった。

 源吾郎にしてみれば、この地下道は初めて通る道だった。妖怪や魔物たちのための通路である事は、道の両脇にたむろする異形たちの姿を見るまでもない。地下道の床や壁からは、染みついた妖気が思い出したように放たれていたからだ。もっとも、源吾郎は妖気が漂っているなぁ、と呑気に思う位であるのだが。それは萩尾丸や双睛鳥、そして雪羽とて同じ事であろう。

 通路の両脇にたむろする異形たちは、地元の妖怪や力の弱い魔物たちなどが散見された。シートの上に小物を並べただけの簡素な店を出して商売にはげむ者もいれば、子供ら同士で寄り集まり、壁に落書きをしたり()で売られている物品をいそいそと眺めたりしている者たちもいた。

 中にはまだ少女と思しき妖狐の女が、まだ目も開かぬ仔狐を胸に抱き、授乳さえしていたのだ。源吾郎はその姿をしばし目撃してしまい、ややあってから気まずさを覚えて視線を逸らした。たむろする異形たちは人型の個体が極端に少ない。妖狐などの獣妖怪も、何故か直立する獣の姿でいる事がほとんどなのだ。

 実を言えば、源吾郎が妖狐の母子を凝視してしまったのもそのためだった。幼い仔狐は言うまでもなく、母親の若妖狐も直立する狐の姿だったのだ。毛皮の上に簡素ながらも服を着ていたために、若いママ妖狐が仔狐を抱っこしているだけなのだと思い込んでしまったのである。

 狐娘を見てしまった事の気まずさを払拭すべく、源吾郎は雪羽を見据えて言い放った。

 

「ただ、この道は初めて通る道だし、色んな妖《ひと》が多いからちょっとびっくりしたってのはあるけどね」

 

 言いながら、源吾郎は地下道の周囲をぐるりと見渡した。獣妖怪や魔物などの異形たちは、相変わらず思い思いに振舞っている。しかし源吾郎たちに近付く事は無かった。彼らとてこちらの様子を窺っているであろう事は解っている。だが、源吾郎たちの視線に気づくと目を逸らし、見ていなかった体を通すが常だった。

 もっとも、これも互いの力量差を鑑みれば無理からぬ話であろうが。萩尾丸や双睛鳥は言うに及ばず、一行の中で()()()()雪羽でさえ、一般妖怪基準で考えれば十二分に強い存在なのだから。

 

「そっか、ちょっとびっくりしたって程度なんだね。先輩ってばお坊ちゃま育ちだからさ、こういう所は苦手かと思ったんだけど」

「お坊ちゃま育ちは雷園寺だって同じだろうに」

 

 出自としては本当に貴族のお坊ちゃまじゃあないか。そう思った源吾郎であるが、他の異形たちの手前その言葉は飲み込んだ。若くして強大な力を持つ事、好奇な出自を持つ事が時に要らぬ悪意をもたらす事を源吾郎は既に心得ていたのだ。

 自分はさておき、雷園寺は見た目からして良い所のお坊ちゃまだもんなぁ。未だぼんやりと輝く雪羽の姿を眺めながら源吾郎は言葉を重ねた。

 

「雷園寺君。俺は確かに白鷺城下で生まれ育ったけれど、参之宮界隈には学生時代の頃から何度も足を運んだ事はあるんだぜ。それこそ、メトロ何々みたいな地下道や地下街だって、末の兄に連れられて遊びに行った事もあるくらいだし」

 

 やや鼻息の荒い源吾郎の言葉に、雪羽は感心したような表情を見せた。

 

「末の兄って庄三郎さんだよね」

「そうだよ。言うて庄三郎兄様自体も、頽廃的な物とか雰囲気が好きで、ギャラリーに顔を出した帰り道に俺を連れて立ち寄るって感じかな。ま、大人の社会勉強みたいな感じがして、俺も地下街巡りは楽しんでたんだ。他の兄たちじゃあ地下街なんぞに俺を連れていってくれる事なんてまずないからさ」

「やっぱり先輩って可愛がられてますね。父親である幸四郎さんだけじゃあなくてお兄様たちまで……妬けちゃいますよ」

「雷園寺君には可愛がられているだけのように見えるかもしれんがな、その可愛がりの中にも愛の鞭はあったんだよ。特に宗一郎兄様とかさ」

 

 さもさも羨ましそうに頬を膨らませる雪羽に対し、源吾郎は笑いながら切り返した。頬を膨らませておどけた様子を見せる雪羽であるが、源吾郎の境遇を本気で羨ましく思っている事は知っていた。父母が健在で兄姉らと一緒に暮らしている。源吾郎にとっては当たり前の暮らしこそが、雪羽が渇望してやまない物なのだから。

 だからこそ、この手の話の際は源吾郎も言葉を選んでかわさねばならないのだ。

 

「雷園寺君。言うて兄姉たちとてずぅっと俺にべったり構ってたわけじゃあないんだぜ。兄姉たちと俺じゃあ――人間の尺度で言えば――大分歳が離れていたし、だからライフサイクルとかも違ってたんだよ。姉上とか誠二郎兄様は、俺がまだ小学生とか中学生の時には独立してたしな。

 一番俺と接触があったのは一番上の宗一郎兄様だけど、むしろあの人は保護者以上に保護者だったからなぁ。あれだ、それこそ雷園寺君の所の春嵐さんみたいな感じだよ」

 

 いい塩梅に伝える事が出来たようだ。雪羽の表情を見ながら源吾郎は会心の笑みを浮かべた。春嵐と聞いた時に、雪羽が一瞬顔を引きつらせたのだ。

 雪羽にとっての教育者と言えば、やはり春嵐になるだろう。三國の側近として公私ともに傍にいる彼であるが、三國の甥である雪羽に対しては「親戚のお兄さん」に近い立ち位置で接している事は源吾郎も知っていた。ついでに言えば、甥に甘い三國夫妻に変わり、教育指導的な部分に力を入れようとしている所も窺えた。雪羽が彼の事を口うるさくも頼りになれる存在として認めている事は、彼の態度から見れば明らかな事だった。

 そう言った細かい事はさておいて、源吾郎もまた春嵐の事を年長者として素直に慕っていたのだが。

 

「春兄か……確かに春兄も『教育上良くないです』とか『子供にはまだ早いです』とかって言ってたなぁ。叔父貴と月姉がいちゃつき始めたら、それとなく俺を違う部屋に誘導するのも春兄だったし」

 

 まぁ確かに夫婦のいちゃつきは幼子には刺激が強いだろう。しかしそこまで話す必要はあるのだろうか。心中で渦巻く考えはおくびに出さず、あくまでもすまし顔で源吾郎は言葉を続けた。

 

「流石にうちの両親は唐突にいちゃつき始める事は無かったけれど、宗一郎兄様も春嵐さんと同じ事は言いがちだったかな。

 あ、でもな雷園寺君。俺は春嵐さんの事は良い妖《ひと》だなって思ってるよ。真面目で優しいしさ。うかうかしてたら俺も注意される事もあるけど」

「ははは、春兄は俺にだって優しかったんだぜ。まぁ、最近は俺もおイタしまくってたから小言ばっかり喰らってたけどさ」

 

 源吾郎の言葉に、雪羽はそんな事を言って笑っていた。おイタしている自覚があるんじゃないか雷園寺君よ。そう言って源吾郎も笑おうとしたのだが、萩尾丸がこちらの様子を窺っている事に気付き、居住まいを正した。

 

「ま、まぁそんな訳で、兄とか兄的立場のヒトって割と真面目なやつも多いって事さ。言うて庄三郎兄様は割合マイペースで、兄らしい感じの兄じゃあないんだけどね。そこが俺としては有難い所もあるんだけど」

 

 無難な事をつらつらと述べ、源吾郎は言い切ったのだと思い込んでいた。だが雪羽がまだ何か言いたげな表情をしている事に気付くと、一度瞬きしてから言い足した。

 

「雷園寺君。君も兄と遊びたいんだったら一度誘ってみたらどうかな。君はもう俺の友達だって事は兄上たちも知ってるし、特に庄三郎兄様は、君が芸術の心得もあるって知ってるだろうから」

 

 遊びに誘うのは良いけれど、あんまりグイグイ行くのは兄上も苦手だから気を付けるように。花のような笑みを浮かべる雪羽に対し、源吾郎は念押ししておいた。

 と、ここで思いがけぬ相手から言葉が掛かった。萩尾丸のキャリーケースの内部から、双睛鳥が感慨深げな声を上げたのだ。

 

「庄三郎君の話をしていたんだね。あの子は昨年の末に僕もチラッと見たけれど、元気そうにしてたよね。元気なのって大切だもんね」

「え、あぁ、確かに末の兄は元気にやってるみたいですがね」

 

 双睛鳥の言葉に、源吾郎はたどたどしく応じた。庄三郎の事を気遣うような物言いに少しばかり驚いていたためだ。考えてみれば、双睛鳥や雉鶏精一派の面々が庄三郎の事を知っているのは妙な話ではない。源吾郎と同じく、庄三郎もまた玉藻御前の末裔なのだから。

 更に言えば、庄三郎は他の兄姉らとは異なり妖狐としての能力を色濃く受け継いでもいる。結局の所妖怪の世界を選ばなかったものの、妖怪たちが注目するのも無理からぬ話だろう。源吾郎はそう思う事にしたのだった。

 

 目的地である工房はもうすぐだ。先頭を進む萩尾丸の宣言はいささか唐突なもののように思えてならなかった。元より歩いて十分ほどであると聞かされていた。しかし地下街を歩き始めて何分くらいだったのか、源吾郎にははっきりとしなかった。ずっと長い間歩いているようにも、あっという間に到着したようにも思えた。

 それもこれも、見慣れぬ地下街の景色に目を奪われたり、道中雪羽と雑談を交えて歩を進めていたりしたからなのかもしれなかった。そうでなくとも、体感時間は餅のように伸び縮みしやすい代物なのだから。

 とはいえ、実の所そんなに歩き続けたのではないだろう事も何となく解っていた。ふくらはぎが張る感覚が特に無かったからだ。

 それはそうと、一行は工房の入り口と思しき所までたどり着いていた。入り口と断言できないのは、本当に入り口かどうか確証が付かないからだ。壁とは異なり扉らしき入り口はあるのだが、特に看板らしい物は見当たらない。その代わりに、一人の男性が扉の前に陣取るように仁王立ちしているだけである。これまでの獣めいた異形たちとは異なり、ほとんど人間と変わらぬ姿の男性だった。牛乳パックを半ば潰すような形で握りしめ、ストローを斜めに噛むような形で咥えているという事くらいしか取り立てた特徴は見当たらない。

 だが、その彼は萩尾丸たちの姿を見るやゆらりと動いたのだった。



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吸血鬼との地下街談義

「おうおう。あんたらが、雉鶏精一派の御一行サマだな」

 

 門前で控えていた男の言葉に、源吾郎はびくっと尻尾を震わせてしまった。付き添いとはいえ仕事としてここに出向いているつもりだったのに、まさかこうも砕けた調子で出迎えられるとは。

 その上、声の主である牛乳パックの男からはそこはかとない()を感じ取ってもいた。見た目に関しては、長身痩躯の男性と言う比較的ありふれたものである。強いて言うならば、日本人やアジア人ではなく、西洋人めいた風貌と暗い赤毛であるという所が特徴であろうか。服装に関しても特におかしなところはない。源吾郎たちとは異なりスーツではなくラフな衣裳ではあるが、仄暗く猥雑な地下街の事を思うとある意味相応しい衣裳にも思えた。

 彼の圧と言うのは、見た目ではない部分から感じ取った物に他ならなかった。雰囲気や佇まい、そしてその身に宿す妖力。それらを感じ取ったからこそ、源吾郎はたじろいでしまったのだ。

 

「はい。私どもが雉鶏精一派でございます。あなた方の玉座におわすセシル女史には、既にアポを入れておいたはずなのですが」

「店長が玉座におわすだって? 萩尾丸の旦那もリップサービスがお上手で」

「……セシル様、いえ工房の皆様には新年早々ご迷惑をおかけします……」

 

 源吾郎がたじろいでいる間にも、萩尾丸は件の男性に話しかけていた。赤毛の男は困ったような素振りを作って肩をすくめている。うちの店長は宝石と研究に没頭している引きこもりに過ぎないよ。であればうちのボスと同じではありませんか……萩尾丸はキャリーケースを右手に提げたまま、実ににこやかに話し込んでいる。

 源吾郎と雪羽は、互いに目配せしながらそれを眺める他なかった。会話に入り込む余地が無かったのだ。

 

「それにしても旦那。今回もこの辛気臭い地下街を、ツレと一緒に歩いてこられたんですか」

 

 もちろんですとも。さも当然のように頷く萩尾丸の顔に、にわかに疑問の色が灯った。

 

「と言うよりも、こちらに歩いて出向くほかに方法はありましたっけ? 我々が転移術で急に押しかけるのは失礼にあたるでしょうし、さりとて急用ですから、迎えに来ていただくのも忍びないですし」

「相変わらず、萩尾丸の旦那は真面目ですなぁ」

 

 赤毛の男はそう言って笑った。笑った時に、ほのかに血の臭いが漂った。

 

「いやね、この工房は店長がお気に召すようなくそ真面目な求道者連中は中々やってこないのに、店長どころか俺たちでさえ辟易するような手合いばっかりなんですよ。しかも持ち合わせも無いので冷やかし感覚ですね。何となれば、店長を討伐しようと息巻く命知らずもいるみたいですし。

 とはいえ、こちらには実害は殆ど無いんですけどね。それが何故なのかは、聡明な萩尾丸の旦那ならばお解りかと思うんですが」

 

 それにしても。潰れかけの紙パックを握りしめたまま、男は視線を源吾郎と雪羽にスライドさせていた。

 

「萩尾丸の旦那とVIP待遇を受けている双睛鳥どのはさておいてだな。ツレの坊やたち二人は、この地下街の()()()()()住民たちの洗礼を受けなかったみたいだな」

 

 赤毛の男は皮肉を言っているのだ。源吾郎はその事に気付きつつも、小さく頷いた。

 

「ええ、彼らは遠巻きに僕たちを眺めているだけでして、特に何もされませんでした」

 

 源吾郎の言葉に雪羽は頷き、やはり言葉を紡ぐ。

 

「僕と島崎君は見ての通りまだ子供……いえ単なる若者に過ぎません。ですが、大妖怪たる萩尾丸さんとつかず離れずの距離で歩いていたんですね。なので、僕らも萩尾丸さんのツレだと思って、彼らもちょっかいをかけなかったんだと思うんです」

 

 雷園寺のやつ、何のかんの言っても口が上手いなぁ。さらりと自分が子供扱いされた事は一切気にせず、源吾郎は静かに感心していた。先程の言葉は厭味にならない程度に謙遜し、尚且つあるじたる萩尾丸の事を立ててもいる。雪羽は確かに少年ではあるが、ある意味源吾郎以上に世慣れした所があるのだ。

 当の萩尾丸が黙って様子を見守る中で、赤毛の男はさもおかしそうに顔をほころばせた。

 

「ふふふ。君らが良い所のボンボンだって事は、さっきの意見からでも十二分に伝わったよ。もっとも、狐の島崎君の方は初対面だけど、雷園寺君の事は前も見た事があるからさ……」

 

 地下街の妖怪たちが源吾郎たちに対して無関心を決め込んだのは、源吾郎たちの方が彼らよりも圧倒的に強いからだ。赤毛の男は淡々とした口調でそう告げた。

 

「あの住民たちは普段は思い思いに過ごしているんだけどな、ネギをしょったカモを仕留める時だけは、とんでもないチームワークを発揮して成し遂げてしまうんだよな。しかもこんな所で生活しているから、図々しい事この上ないし……

 ここだけの話、俺だって彼らに見くびられかける時がある訳だしさ。適当に一匹捕まえて少しでも生き血を吸ってやったら流石にやつらの態度も変わるだろう。だけど、毛むくじゃらの畜生共の生き血を吸うなんて、考えただけでぞっとするぜ!」

 

 このヒト吸血鬼だったんだ。源吾郎は目を瞠り、ついで半歩だけ後ずさった。日本で生まれ育った源吾郎は、本物の吸血鬼に会うのは初めての事だった。だからこそ、危険なのかもしれないと思って警戒し、恐怖心を抱いたのである。

 大丈夫だ、狐の坊や。そう笑う吸血鬼の口許からは、鋭い牙が見えたような気がした。

 

「通行料代わりにあんたらの血を吸うとか、そんな事も無いっての。俺にしてみれば、あんたらも十分獣臭い訳だからさ」

「えぇ……」

 

 獣臭い。面と向かって放たれた吸血鬼の言葉は、思いがけぬ鋭さでもって源吾郎に突き刺さってきた。血を吸われない事を素直に喜ぶべきなのかもしれない。しかしそれでも、吸血鬼の言葉は源吾郎にはいささかエッジが利いたものだったのだ。

 人間として育てられたがために大衆云々の話には慣れていないためなのか。それとも、獣臭いという言葉でもって、「毛むくじゃらの畜生」と一からげにされた者たちと一緒くたにされたという事が、大妖狐の末裔として我慢ならなかったのか。自分の事ながら、どうしてショックを受けてしまったのか、源吾郎には少し解らなかったのだ。

 さて雪羽はと言うと、笑いながら軽口を叩くだけだった。もっとも、その面には獣らしい獰猛な笑みが広がっていたのだが。

 

「まぁまぁ、若者をからかうのはその辺りにしてくれませんかね」

 

 物理的に輝いている雪羽の髪がふわりと舞い上がった所で、萩尾丸が助け舟を出してくれた。萩尾丸の視線はニヤニヤ笑う吸血鬼ではなく、何故か源吾郎たちに向けられていたのだ。

 

「獣臭いって言われた事くらいで凹んだり腹を立てたりしなくて良いだろう。本当の事なんだろうしさ。それにだね、彼は仮に君らが獣臭くなくても血を飲もうとは思わないよ。妖怪の血肉を取り込む事で強くなれるのは事実だけど、あまりにも妖力が多すぎると、却って負担にしかならないからね」

「そうだよ坊やたち。あんたらは十分に強いんだぞ。二人とも血筋の方も申し分ないみたいだしさ。それこそ、この地下街で蠢く有象無象共を取りまとめ、長として君臨する事だって訳ないんだぜ。

 どうだい? そういう仕事がやってみたいって言うのなら考えてやるけれど」

 

 あんたらは十分に強い。その言葉に一瞬頬を緩ませた源吾郎であるが、おのれの裡にある理性を総動員して冷静な表情に戻った。

 源吾郎は既に、自分が並の妖狐とはかけ離れた強さを持つ事を知っていた。吸血鬼の言葉もリップサービスではなく、本心が多分に入り混じっている事も。地下街云々の件も彼の言う通りであろう。力を振るうだけであれば、同年代の妖狐たちは手出しできないのだから。

 しかし、思うがままに力を振るい、お山の大将に収まる事がおのれの目標や望みではないのだ。その程度で満足できるのならば、わざわざ親族を説得して紅藤の許に弟子入りするなどと言う回りくどい事はやっていない。

 ちらと様子を窺うと、雪羽も雪羽で神妙な表情を浮かべるだけだった。彼の場合は源吾郎とは事情が少し違う。雷園寺家の権威に笠を着て、おのれの武力と権威で周囲を圧倒していた時があるにはあったのだ。それは権力者として相応しくない代物だったのだが、今の雪羽はその事もきちんと心得ている。だからこそ彼は、源吾郎以上に力に溺れる事を警戒し、恐れてもいたのだ。

 敢えて地下街のあるじにならないかと持ち掛けたのはどういう意図があるのか。源吾郎たちをテストしていたのか、それとも単にからかっていただけなのか。その辺りは源吾郎には解らなかった。ともあれ萩尾丸の前であるから、迂闊な言動は行わず、困ったような笑みを浮かべるだけに留めておいたのだが。

 ちなみにイマドキの吸血鬼と言うのは、特に人間や他の生物を襲って血を飲むわけでは無いそうだ。病院等から消費期限の切れた血液を確保するルートという物があるし、それでも口寂しい時は、スーパーで売っている牛乳などで代用しているのだという。だから牛乳パックを飲んでいたんだな。源吾郎は合点の言った気持ちになっていた。

 

 そうしたやや砕けた問答の後に、吸血鬼の男は工房に萩尾丸たちを案内してくれた。

 

「わぁ……」

「工房を通り越して博物館みたいやな」

 

 壁と同化しているかのような扉をくぐった源吾郎たちは、思わず声を上げた。多少猥雑ながらも何処か幻想的な地下街の様子を見ながらここまでやってきた源吾郎であるが、工房の中もまた外とは隔てられた別世界のようだった。

 濃いセピア色の壁やタンスや棚を照らすのは橙色の柔らかな光だった。天井の中央には洋風のシャンデリアが吊るされているのだが、それとは別に中空には火の玉らしきものも浮かんでいる。

 しかし特筆すべきは棚やテーブルの上に置かれているものたちであろう。調度品・骨董品と呼んでも遜色の無さそうな魔道具の類や、いかにも年季の入った魔導書などが割合無造作に置かれているのである。ある種の宝石らしきものも源吾郎は見てしまった。もっとも、大切に管理されているのではなく、乱雑なテーブルの隅に四つ五つ転がっているのであるが。それこそ、理科の実験で作るミョウバンの結晶か、プラスチックでできた透明なビーズ玉のように。

 もしかしたら宝石では無くて本当にガラス玉とかビーズ玉なのかもしれないが、いかにも魔女、或いは魔導士の巣窟と言った風情であった。

 

「それじゃあ、店長の許に案内するよ……付いて来てくれ」

 

 吸血鬼の男はそう言うと、源吾郎たちに背を向けた。五歩もせぬうちに屈みこみ、床の辺りを探り始める。かと思うと床の壁が半畳ばかりずれ、四角くて黒い空間が口を開けたのだ。彼はごく当たり前のようにその中に入っていった。

 この工房は地下街にあるが、更に地下室があるのか。生唾を飲みながら、源吾郎は思わず感慨にふけってしまったのだ。

 とはいえぼうっとしている暇はない。萩尾丸と雪羽は既に地下階段の方に向かっている。源吾郎も少し慌てて雪羽に追従する形となった。

 



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地下に佇むはドラゴンの魔女

 赤毛の吸血鬼に先導された一行は、萩尾丸を先頭に進む事となった。源吾郎は最後尾であるが、別に一行の序列とか年齢差とは無関係である。地下街の店舗に、更に地階に続く階段がある事に驚き、動くのが遅れたからに過ぎなかった。

 ちなみに雪羽とは異なり、源吾郎の尻尾は毛足が長くボリューミーではある。だがその尻尾が後に続く者の邪魔になるだろうという懸念は無かった。そもそも源吾郎は尻尾を隠す事を難なくやってのけるし、そうでなければ適当な大きさに縮めているからだ。現に今も、毛皮のアクセサリー程度の大きさに縮小させている訳だし。

 

「……この地下道は凄いっすね。地下にある、ガス管とか水道管に干渉しないような造りになってるみたいだし」

「凄いってそっちかよ」

 

 さも感心したような雪羽の言葉に源吾郎は思わずツッコミを入れていた。だが、電流でもって場所を探り、見えざるところをも視る能力を持つ雷獣らしい感想だとも思っていた。階段は狭く急勾配であり、尚且つ薄暗い。それでも雪羽は危なげもなく歩を進めていた。これも雷獣の力によるものであろう。

 先導する萩尾丸はどうだろうか。暗がりではあるものの、彼もまた特に危なげもなく歩を進めているらしい。

 今でこそ大妖怪・大天狗である萩尾丸だが、元々は人間だったという。従って五感は獣妖怪のそれよりは鈍いそうだ。だからこそ源吾郎は少し心配になっていたのだが、その思いはある種の杞憂に過ぎないようだ。

 

「島崎先輩。階段はもう終わりましたよ」

 

 そうこうして言う売りに、雪羽が小声で耳打ちする。しかもご丁寧にこちらを見ながらである。半妖である源吾郎が、それこそ気遣われていたのだ。

 階段を降り切った所は通路になっていた。今再び橙色の照明で照らされており、何となれば階段よりも明るい。安全な通路の方が危険そうな階段よりも明るく照らされているのは何故なのだろう。その事が気になりはしたが、それよりも壁に飾られているレリーフに、源吾郎は目が向いた。

 はがき二枚分の大きさのそれは、ほぼほぼ等間隔に並んでおり、それぞれ異なった情景が描かれていた。いずれにせよ、ドラゴンや人が描かれている事には変わりない。中にはドラゴンが描かれていないレリーフもあるにはあるのだが、そこには代わりに異形の女性の姿が描かれていた。半人半蛇の、そしてコウモリの翼を持つ女性である。

 昔話の挿絵のように簡素ながらも目を惹き、それでいて凄味のある絵ばかりだった。

 例えば二枚目の絵などは、ドラゴンが人を丸呑みにしている絵柄なのだ。間抜けな犠牲者はもう足しか見えず、周囲にはほぐれた藁束が散らばっている始末である。

 また、半人半蛇の女性が登場する者では、追いすがる男に背を向け、翼を広げて飛び立とうとしている所であった。いかにもドラゴンと言った風情の仔の手を引き、もう一方の手には宝石を握りしめている。宝石を握りしめているという所は、執念深く強調されてもいた。

――いずれにせよ、ドラゴンであらせられる店主殿らしいチョイスのレリーフだな。

 静かにレリーフたちを眺めながら、源吾郎は心の中で呟いていた。飾られたレリーフたちの示す情景や物語が、全てヴィーヴルと言うドラゴンにちなむものだと解ったからだ。

 水を飲む時は宝石の眼を護るために取り外して脇に置く。宝石の眼を奪った盗人は、あらかじめ用意した九つの藁束に身を隠す――ヴィーヴルは九つの藁束を食べきる前に死んでしまうからだ――が、愚かにも居場所を探り当てられて喰い殺されてしまう。

 或いは宝石の眼を奪われると、奪った相手に従わねばならないという。だからこそ半人半蛇の姿に変わり、盗人に夫として従ってもいたのだ。とはいえそれも、おのれの生命たる宝石を取り戻すまでの束の間の事であるが……

 源吾郎がこうしたヴィーヴルの伝承を知っていたのは、もちろん事前に下調べしたからである。ネットで拾った情報が付け焼刃である事は源吾郎も知っていたが、さりとて何も知らぬよりはマシであろう。詳しい事は、また後で書籍を当たれば良いのだろうし。

 但し、ネットで調べた情報とレリーフの物語は決定的に異なっていた。レリーフは、あくまでも()()()()()()での物語だったのだ。だからこそ、怒れるドラゴンは藁束に隠れた盗人を喰い殺している訳であるし、羽衣天女よろしく宝石を見つけ出して自由の身になっているのだ。

 とはいえ、それはごく自然な事なのだと源吾郎は受け止めていた。誰であれ、おのれの種族に思い入れがある。強く主張せずとも自分の種族が第一・一番だという気持ちは誰にだってあるからだ。妖狐たる源吾郎も、雷獣である雪羽もそうした気持ちを抱えて日々暮らしている訳だし。

 

 工房のあるじたるセシルは、通路の奥にある部屋に控えていた。応接間と作業場が融合したようなその部屋は、上階よりも広そうだとぼんやりと思った。

 さてセシルの姿であるが、レリーフにある様なドラゴンそのものの姿とも、半人半蛇でコウモリの翼を持つ半裸の女性の姿とも異なっていた。異形らしさを最小限まで抑え込んだ、人間の女性に近い姿を取っていたのだ。とはいえ、萩尾丸をも見下ろすほどの上背の持ち主であるのだが。性別を感じさせぬすらりとした体型も相まって、いかにもドラゴンらしいと源吾郎は思った。鳥妖怪や爬虫類妖怪のメスが人型になった場合、ほっそりとした体形になるか、筋肉質なアスリート体型になるかのどちらかである事が多いという。これはやはり、哺乳類とは異なり仔を授乳する機能を持ち合わせていない事に起因するのだそうだ。

 長い影を揺らめかせながら佇立する彼女は、まさしく昔話に登場する魔女のようだった。それでも、人間由来の魔女とは異なる事を、要はドラゴンであるという自身の素性をその出で立ちからほのかに示していた。

 アカデミックドレス風のローブは濃緑色から暗い藍色に緩やかに色を変えており、時折照明の光を受け、大きな鱗のように輝いていた。

 また、黒々として妙に筋張ったマントが、彼女の肩口に無造作に掛けられてあった。彼女自身はケープやスカーフを纏っているような表情であるが、畳んだコウモリの翼にも見えなくはない。コウモリの翼を持つドラゴン。確かにヴィーヴルの姿に綺麗に当てはまるではないか。

 その彼女の視線が、源吾郎たちを捉えた。僅かな微笑をたたえるセシルの顔は、やはりその二つの瞳が印象的だった。笑顔とは対照的に赤褐色の瞳は怪しいほどに輝いていた。ヴィーヴルが宝石の瞳を持つドラゴンである事を、思い知らされたような気分でもあった。

 すぐ傍には雪羽もいるはずなのだが、彼がどんな表情をしているのかまでは解らなかった。と言うよりも、雪羽の姿が視界に入らなかったと言った方がより正確であろう。源吾郎の視線と意識は、ヴィーヴルのセシルに注がれていたのだ。

 

「セシル様。新年早々お邪魔しております」

 

 奇妙に静謐な空気を打ち破ったのは、他ならぬ萩尾丸の声だった。さほど声を張り上げている訳ではない。だが彼の言葉ははっきりと源吾郎の耳に届いた。

 それとともに、周囲の視界が広がったような感覚を抱いた。と言うよりも、事ここに来て自分の意識がセシルのみに向けられているという事を悟ったくらいだった。源吾郎はだから、雪羽が隣で笛のような声音で息を呑んだ事にも気付いたし、彼女の傍にあるテーブルの上に、幾つもの眼球と思しき物――見た目は眼球そのものであるが、血の臭いは漂っていない――が入ったガラスの器があるのも発見してしまった。

 そうした状況の中でも、セシルは超然とそこにいた。但しその顔に浮かぶのは今まで見せていた怪しい微笑ではなく、客妖《きゃくじん》を迎え入れるための笑顔、営業スマイルであるのだが。

 

「いやいや大丈夫だよ萩尾丸さん。こっちはずぅっと暇な身分なんだ。だからこうしてお客サマとして来ていただくだけでもありがたいんだよ。ああ、それにしてももう新年だったんだね。道理で店員たちが浮足立っていた訳だ」

 

 萩尾丸はさも当然のように日本語で話しかけていたが、対するセシルも当然のように日本語で応じている。訛りや妙なアクセントの違いも無く、ごくごく流暢な日本語であった。

 長命な妖怪や魔物であれば、母国語以外の言語を二つ三つマスターしている事は珍しく無いのは源吾郎も知っている。日本在住の妖狐であっても中国語を覚える事は推奨されていたし、そもそも仙狐になるには世界中の鳥の言葉を覚える事が必須であるわけなのだから。

 それでも、セシルが日本語で応対している所には、源吾郎は不思議な感慨と感動めいたものを抱いていた。それは彼女が日本人離れした容貌で、しかも浮世離れした魔女めいた雰囲気を漂わせていたからなのかもしれない。

 そう言う意味では、紅藤と気の合う存在であるというのはその通りなのだろう。種族や出身地は異なれど、世俗とは隔絶した所に意識がある所などが実に似通っているではないか。その傍らに、世俗の雑事をこなす小間使いが控えている事も。

 

「今回はヴィペール君、いいや双睛鳥君だったかな。何か新年早々大変な事になってしまったんだよね。何でも愛用の眼鏡が壊れてしまったとか」

「ええ、ええ。そうなんですよ」

 

 萩尾丸はここでようやくキャリーケースを床に置いた。それから雪羽の方に向き直り、彼の方にそれとなく手を伸ばす。雪羽はぼんやりとした様子で首をかしげていたが、やけにゆっくりとした手つきでビジネスバッグを差し出した。

 

「彼にしてみれば、あの偏光眼鏡は手放せぬ物でしたからね。もちろん予備もあったのですが、それも日を待たずして破損したという事でして。不審な事この上ありません」

 

 ここで一旦言葉を切ると、萩尾丸は正面からセシルの顔を覗き込む。

 

「破損した眼鏡についても用意しておりますので、そちらも後で見て頂きたいのです。破損した要因について、そこに何かあるのであれば視て頂く必要がありますので」

「何かの心配をしなければならないとは、雉鶏精一派の皆も大変だね。それもまた……力のある者の宿命と言うものかもしれないか」

 

 そう言ってセシルは笑っていたが、その笑みは何処か乾いていて、そして切なさも多分に含んでいた。

 

「眼鏡を壊した犯人が判るかどうか、それも後できちんと見てあげる。だけどその前に、双睛鳥君に出てきてもらわないといけないかな」

 

 仰る通りですよね。萩尾丸は身をかがめ、キャリーケースの入り口をふさぐ留め具を外した。

 

「さて双睛鳥君。気付いていると思うが工房に到着して、今まさにセシル様の許に僕たちはいるんだ。出てきてくれるかい」

「……出てきても大丈夫ですか」

 

 キャリーケースを開けた事を告げられたものの、双睛鳥はやはりと言うべきかすぐには出てくる事は無かった。その代わりに放たれた問いは、いかにも弱弱しい口調だった。声の調子からして、先程まで眠っていたという感じでもなさそうだ。

 源吾郎はキャリーケースや萩尾丸を眺め、或いは雪羽と顔を見合わせたりしていた。さて工房の女あるじたるセシルはと言うと、さも優しそうな笑みをたたえて口を開いたのだ。

 

「大丈夫だよ双睛鳥君。実はね、私はもうこの部屋の中に結界を施しているんだ。ふふふ、気の利く部下たちにその手配を済ませているからね。

 だから出てきても大丈夫だ。君の眼が、君の持つモノがこの場にいる誰かに牙をむく事は()()()()()。この私が言うんだから、間違いでは無いよ」

「ありがとうございます。それでは失礼しますね」

 

 直後、解放されたキャリーケースから、双睛鳥の姿がゆるゆると姿を現した。その光景はキャリーケースから動物が出てくるというよりも、むしろ卵から巨大なヒナが誕生するシーンに酷似していた。何しろ双睛鳥の身体の方が、キャリーケースの三倍ほどの大きさはあるのだから。

 遠近感が狂ったような光景を、源吾郎は瞬きを忘れて眺める他なかった。幸いな事に、双睛鳥自身はキャリーケースから抜け出す事に手間取らず、この光景を眺めるのも短時間で済んだのだが。

 姿を現した双睛鳥は蛍光イエローの羽毛とコウモリの翼と蛇の尾を持つ、コカトリス本来の姿そのものだった。だがそれも一瞬の事であり、肩こりをほぐすかのように翼を動かしたかと思うと、その姿は一瞬にして青年の姿に変じていた。人型の、源吾郎にとってはもはや見慣れた姿でもある。とはいえ、コカトリスとして最大の武器である両目は、用心深く紋様の入った布で覆い隠していたのだが。

 

「あのぅ、皆さんそろそろお掛けになった方が宜しいかと思うのです。ええ、お客さんですし、飲み物もお出しいたします」

 

 あ、そうだったね……工房の隅で一部始終を見ていたらしい従業員から声が上がる。セシルはそこでハッとしたような表情を作り、萩尾丸たちに座るように促したのだった。



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宝石の眼は千里を写す

 改めて、萩尾丸一行とセシルはテーブルを挟んで相対する事となった。源吾郎たちの前に鎮座するのは、湯気と香りを立ち上らせるお茶である。茶器の側面には大陸風の図案が記されており、その中で湯だった菊の花が静かに開いている。

 大陸の工芸茶が出された事に、源吾郎は静かに驚いていた。てっきり紅茶が出されると思っていたからだ。ドラゴンであるセシルを筆頭に、この工房に控える者たちは欧州の出身かそちらにゆかりのある面々ばかりだったからだ。この工芸茶を持ってきたのも、ワイバーンの亜種だという羽毛に覆われたドラゴンの若者だった訳だし。

 ちなみに妖怪や魔族向けの紅茶やコーヒーは、人間向けのそれと異なりカフェインを除去し、無効化している物が流通している。従ってカフェインに弱い獣妖怪が飲んでも大丈夫な代物になっているのだ。

 緊張しないで大丈夫だよ、二人とも。ふと顔を上げるとセシルの声が聞こえてきた。湯気の向こうで彼女は微笑んでいる。先程の魔女めいた雰囲気はなりを潜め、屈託のない子供のような笑顔だった。

 

「二人とも、さっきはごめんね。萩尾丸さんと双睛鳥君はさておき、君らは初対面だったり数えるほどしか会った事が無かったりしたから、少し()()()をしちゃったんだ。試すような真似に気を悪くしたのなら謝るよ」

 

 申し訳なさといくばくかの茶目っ気を出して語るセシルの姿を、源吾郎はぼうっとしながら眺めていた。テストとはアレの事なのだろう――初めてセシルを見た時に、彼女しか視界に入らなかった事を思い返し、静かに判断を下していたのだ。

 恐らくは相手を視る事によって発動する暗示や魅了術の類なのかもしれない。自分はそういう物に耐性があると思っていたが、まだまだではないか。穏やかな表情の裏で、源吾郎はおのれの未熟さに歯噛みしていた。

 

「いえいえ大丈夫ですよセシル様。私どもは気にしておりませんので」

 

 セシルのささやかな謝罪に応じたのは、我らが大天狗の萩尾丸だった。

 

「貴女が見知らぬ相手を警戒し、用心する事は僕も知っておりますから。それに、この島崎や雷園寺も、今回のテストは彼らなりに勉強になったと思っているんです」

「そう言って頂くと嬉しいな」

 

 そう言うと、セシルはそれとなく手指を伸ばし、今一度源吾郎たちに声をかけた。

 

「そんな訳だから、緊張せずにお茶をどうぞ。地下街とはいえ外は寒かったでしょ」

 

 菊花茶《きくかちゃ》ですよね。口を開いたのはやはり萩尾丸だった。彼も工芸茶が振舞われた事には驚いていたらしく、わざわざ自分たちのために用意してくれた事に驚きと感謝の意をセシルに伝えていた。

 そんな萩尾丸の言葉に、セシルは相変わらず穏やかな笑みを崩さない。

 

「あなた方は雉鶏精一派に所属していて、どちらかと言えば中華系の魔物……いや妖怪な訳でしょう。それに世間では新年らしいから、少しでも縁起の良さそうなお茶の方が良いと思ってね。何か薬効もあるそうだから。

 まぁそれに、近所には大陸と言うか中国方面のヒトたちもたくさんいて、このお茶自体はお手頃価格で部下が買ったモノだからね」

 

 宝石商のセシル女史が言うお手頃価格は、自分たちの考えるお手頃価格とは違うのかもしれない。そんな事を思いつつも、源吾郎はここで少し菊花茶に口を付けた。思っていた以上に甘みが強い。だが、口当たりはまろやかで飲みやすい。

 萩尾丸はその間にセシルと歓談を楽しんでいた。挨拶の延長であり世間話未満であろう言葉を交わし、手土産である源吾郎の毛を彼女に渡していたのだ。

 その時、源吾郎たちはテーブルの上に置かれた瓶入りの眼球たちが何であるかを知ったのだ。言うなればそれらは全てセシルの義眼だった。ヴィーヴルはそもそも宝石の眼を取り外すからこそそれを盗まれてしまう。ならばその対策として、あらかじめ義眼をこちらで用意していたらどうか? そうした考えのもとに用意されたのだという。

 しかもセシルの魔力の高さゆえか、宝石の眼と言うヴィーヴルの性質ゆえか、これらの義眼たちで物を視る事が可能なのだそうだ。何となれば、気分に応じて義眼を使う時もあるのだという。

 この説明には源吾郎は大いに驚き、隣の雪羽と思わず顔を見合わせるほどだった。自分達とは全く異なる習性を持つ存在である事は解っていた。しかし、完全に理解できたか否かは全くの別問題なのだ。源吾郎でさえコンタクトを入れる事をしんどく思う事がたまにある。雪羽に至っては目薬を差す事すら苦手なほどなのだ。従って、セシルの義眼の件には驚く事しか出来なかった。

 

「セシル様。こちらが例の、双睛鳥君の偏光眼鏡ですね」

 

 さてそうこうしているうちに、萩尾丸とセシルは本題に入っていた。萩尾丸は破損した偏光眼鏡を取り出し、セシルに差し出したのだった。

 もちろん二組の偏光眼鏡の持ち主は双睛鳥である。だが一時的に萩尾丸が預かっていたようだった。双睛鳥自身、移動中はキャリーケースの中に引きこもっていた訳であるし、萩尾丸も萩尾丸で偏光眼鏡の件について思う所があったようだ。

 偏光眼鏡が相次いで破損したのは単なる事故などではない。その事はもちろん源吾郎もぼんやりと解っていた。同じ事を萩尾丸が思っているのは言うまでも無かろう。いや、より深い考えを彼ならば持っているはずだ。

 

「これは……」

 

 二組の偏光眼鏡を目の当たりにしたセシルも、流石に驚きの声を上げていた。レンズは完膚なきまでに破損していたのだ。流石に粉微塵と言う程ではない。それでも割れて砕け、無数の破片に成り下がっているのである。

 セシルの視線は、端に座る双睛鳥にすぐ向けられた。彼はもうあの布を顔に巻いてはいない。その彼も、セシルと目が合うと緊張したように身を強張らせていた。そのこわばりは、源吾郎たちとは違う意味を持つのかもしれないが。

 

「目の方は大丈夫……だね。双睛鳥さん。付けている時にこんな事になったのならば、いかな君とてただ事ではないだろうからさ」

 

 セシルから放たれた言葉は、一も二もなく双睛鳥の身を案じる物だった。鋭角すら呈するレンズの欠片を眺めながら、源吾郎は思わず身震いしていた。付けている時にレンズが砕け散れば、それがガラスであろうと樹脂であろうと目へのダメージは相当な物だろう。運が悪ければそれこそ失明していた可能性だってあるだろう。

 妖怪は保有する妖力が多ければ、通常の動物では考えられない再生能力を発揮する事もまぁある。それでも、脳に近い器官である眼球を再生させるのは難しい事だ。

 ともあれ恐ろしい事だ……かつては眼鏡を愛用し、今でも時に眼鏡をかける源吾郎は、そのように思っていたのだ。

 

「はい、セシル様。僕の目は特に問題はありません。朗報と言うよりも()()かもしれませんがね」

 

 状況を説明する双睛鳥の顔には自嘲的な笑みが浮かんでいたが、すぐに真顔に戻った。真横からの萩尾丸の視線を感じたためらしい。

 

「一つ目は少し外しておいた間に破損してしまいまして、予備の方は寝ている間にああなってしまったのです。壊れる前兆などありませんでした。いや……そもそもこうなる事を予想していなかった僕にも非があるのでしょうが」

「そんな事ありませんってば双睛鳥様!」

 

 眼鏡破損を想定できなかった自分に非がある。そのように語る双睛鳥の姿に堪えかねて、源吾郎は思わず声を上げた。セシルや双睛鳥、そして萩尾丸の視線が源吾郎に向けられる。

 

「普通に暮らしているのであれば、眼鏡が、それもレンズがこんな風に砕け散るなんて事を考えたりしないはずですよ。現に僕も、就職するまでは眼鏡をかけてましたけれど、割れた事なんて無かったですし……」

「まぁ落ち付きたまえ島崎君」

 

 静かに声をかけて諫めたのは萩尾丸だった。 責ではない、そこはかとない優しさを含んだ声音である。

 

「普通の事では無いのは、僕たちやセシル様だってお解りなんだよ。だからその、改めて君が吠えたてるまでも無いんだ。セシル様に念のため視て頂いて、それからどういう事なのか教えて頂く段取りを考えているんだから、ね。

 それに島崎君。君の言う割れなかった眼鏡と言うのは、きっと樹脂製のレンズの眼鏡の事だろうね。ガラス製に比べてあれは割れにくいから」

 

 そこまで言った萩尾丸であったが、双睛鳥の眼鏡のレンズがガラス製か樹脂製かはついぞ口にはしなかった。彼の関心は既にセシルに向けられていたのだ。

 

「もちろん、この眼鏡の破損には何者かの思惑が絡んでいる事には違いないわ。それがきちんと見えたからね」

 

 もう既にセシル様はそこまで見ていたのか。源吾郎はまたしても驚いてしまった。もっとも、萩尾丸も双睛鳥もそこまで予想していたらしく、源吾郎や雪羽ほど驚いた様子は見せていない。

 セシルはしかし、萩尾丸や双睛鳥を見やると申し訳なさそうに頭を揺らした。

 

「だけど、その思惑――呪詛と呼んでも遜色は無いのだけれど――でもって眼鏡を破損させた相手が誰であるか、それはすぐには特定できそうにないんだ。生半可な術の使い手であればすぐに特定できるんだけどね。役に立てなくて申し訳ないね。それこそ、新しい眼鏡を新調する間にこれを預かっておいて、それで調べて行けば……手がかりがつかめるのかもしれないけれど」

「いえいえ。ここまで親身になってくださるとは。私どもとしても嬉しい限りです」

 

 さも申し訳なさそうな様子のセシルに対し、萩尾丸は笑顔を見せていた。

 

「セシル様のお力をもってしても特定できない相手となれば、却って何者が裏で手を引いているかは明らかですからね」

「雉鶏精一派も難儀な組織だよね。萩尾丸さんの話を聞く限り、敵が多いみたいだし。その中で組織運営を続け、あまつさえ着実に繫栄させていくなんて……私にはちょっとできないよ」

「言うて上層部は、おのれの願望を叶えるために奔走しているようなものなのですがね。とはいえ、九頭雉鶏精《きゅうとうちけいせい》の縁者である事を掲げる限り、厄介な敵は何処までも憑き纏うのは致し方ない事でもありますよ。初代頭目の胡喜媚《こきび》様は、大妖怪中の大妖怪・金毛九尾の義妹だったんですからね」

「しかも道ヲ開ケル者の子孫であり、実弟である九頭駙馬《きゅうとうふば》とも敵対していたらしいもんねぇ」

「……やはりセシル様でも、そこに行きつくのですね」

 

 九頭駙馬。八頭怪がかつて呼ばれていた名を耳にした萩尾丸は、静かな口調で問いかけていた。セシルは萩尾丸たちの様子を眺めながら、おずおずと頷いている。

 

「九頭駙馬は、いや今は八頭怪だったっけ。彼の名は私らみたいな西洋出身の魔物たちも知っている手合いはチラホラいるからね。特にここは港町だし、()()()()()()()たちとも多少は接触があるしね……」

 

 八頭怪ってそこまで有名だったのか。源吾郎が驚いて目を瞬いていると、セシルは源吾郎たちの顔を今一度眺めてから、重々しい様子で口を開いた。

 

「もちろん、今回の思惑が八頭怪の仕業なのかどうか、私もすぐには答えられない。だけど、用心するに越した事は無いよ。特にそこの仔狐君に雷獣君。君らの先には様々な物が待ち受けているのが視えてしまったから。悪い物ばかりでは無いのだけれどね」

 

 セシルの厳かな言葉に、源吾郎と雪羽は揃って頷くほかなかった。



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天狗語りし妖物講座――妖狐の妖術・変化術

 セシルの工房に一行が滞在したのは、おおよそ一時間程度の事だった。偏光眼鏡作成の打診もさることながら、双睛鳥自身の視力検査も行っていたためである。

 双睛鳥はコカトリスの一族の産まれであり、その眼には魔力の宿った魔眼に違いない。しかし実のところ、ひどい弱視の持ち主でもあったのだ。それもこれも、幼少期に受けた仕打ちによるものなのだが。

 彼を所有していた組織は、敵を屠る補助具として彼を使用するとき以外は、薄暗い所に押し込んで保管していたのだという。ヒナ鳥のころからそんな扱いだったがために、未だに彼の眼は見る機能を上手く構築できずにいるのだという。横縞に覆われた部屋で育った猫が、縦縞を視認できぬように。

 それにそもそも、眼鏡やコンタクトを新調するにあたり、視力検査は必須である事は源吾郎も知っている。間が開いたら度が進んでいる事もザラなのだから。

 双睛鳥の視力検査が終わってからは、作るまでの納期だとか、納品先についての事務的なやり取りが進められていった。今回は工房まで源吾郎たちが出向いたものの、新たに出来上がった偏光眼鏡は研究センター宛てに発送してくれるのだそうだ。

 それもこれも、セシルたちが双睛鳥の身を案じての事である。

 もちろんこうしたやり取りで主だって発言していたのは萩尾丸であり、そしてまた当事者たる双睛鳥だった。源吾郎と雪羽は付き添いに過ぎず、大人しく座して上司たちの会話を聞くだけだ。

 

「今回はありがとうございました、萩尾丸さん」

 

 そうしてあらかた偏光眼鏡手配の段取りが終わり、そろそろ工房を後にするだけになった。そのように源吾郎が考えていた丁度その時、セシルが改めて礼を述べたのだ。先程までとは異なり、その声音は無邪気そのものだった。宝石の眼を持つ魔女、ドラゴンの女あるじの関心は、手土産たる源吾郎の尻尾の毛に向けられていたのだ。

 

「今ちょっと見てみただけだけど、この尻尾の毛も素材として興味深いね。ささやかながらも妖気を放って自己主張していて、だけどそんなに禍々しい感じはしないもの」

 

 セシルの言葉を聞くや、雪羽がわざわざ眼球を動かして源吾郎を見やり、うっすらと笑みを見せた。先輩の事を言われてるっすよ、とでも言わんばかりの表情だ。

 

()()の妖気が残っていたんですね」

 

 萩尾丸は問いかけているが、何処かすっとぼけたような表情と口調だった。

 

「魔道具として加工するにあたり、残留していた妖気を抜いておいた方が良かったですかね。妖気が残っていると、やはり後々作る魔道具にも癖が出てしまうでしょうし」

「大丈夫だよ萩尾丸さん。私自身は呪物クラスの素材や魔道具であっても御する事は出来ると思っている。それに較べれば、この尻尾の毛の妖気は何とも可愛らしい物だもの」

 

 可愛らしい。その言葉を耳にした源吾郎は思わず目を伏せて俯いた。そう言われる事は慣れているはずなのに。堂々としていればいいのに。

 そうして密かに葛藤する源吾郎の耳に届くのは、萩尾丸の闊達な笑い声だった。

 

「やはり妖気の雰囲気や質も、本人の気質や心持ちによって大きく影響されますからね。その尻尾の毛も例外ではないという事でしょう」

 

 萩尾丸先輩……源吾郎は思わず顔を上げ、萩尾丸を睨みつけてしまった。源吾郎が可愛い仔狐に過ぎないと、彼が断言したも同然だと思ったのだ。

 もちろん、萩尾丸は源吾郎の射抜くような眼差しを前にしても怯みもたじろぎもしなかった。のみならず、萩尾丸は源吾郎の妖気に禍々しさがない事、端的に言えば癖はある物の無害である事の理由について語ったのだ。大妖狐の血が四分の一まで薄まっている事や両親の意向で人間として育てられた事、特に源吾郎は末子だったために、親兄姉に保護されて育った事こそが要因であろう、と。

 お坊ちゃま育ちであるから、妖力は強いものの悪妖怪のような凶暴さは持ち合わせていないのだ。源吾郎の少し恥ずかしい気質が、セシルにも明らかになってしまったのだ。

 

「まぁ、妖気を持ちつつも危害を加えないって言うのは作り手としてもエンドユーザーとしても優しい素材なんじゃないかね」

 

 源吾郎の尻尾の毛についてそのように評したのは、この工房に萩尾丸たちを導いてくれた吸血鬼の男だった。

 

「この工房にやって来る客は呪物すれすれの扱い辛いブツを好む連中が多い気もするけれど……たまには万人向けの魔道具とかを扱っても良いと思うんですがねぇ」

 

 ロックが解除された社用車に乗り込んだ源吾郎は、シートベルトを締めるなり思わずため息をついてしまった。外はもう暗く、地下街を出る前と後ではそう代り映えがしないと思ってしまったほどだ。むしろ、店でにぎわう地下街の方が、極彩色の明かりがてんでに灯されて明るいほどではないか。

 

「三人ともお疲れ様。特に島崎君は疲れちゃったみたいだね」

「萩尾丸先輩」

 

 運転席から声が掛かる。声の主たる萩尾丸の座席を睨みながら、源吾郎は低い声で呼びかける。

 

「俺は……僕は誰が何と言おうと妖怪として生きているつもりですからね。確かに両親は僕を人間として育てようとしましたし、兄らも、特に長兄は僕が人間として育つ事を望んでいました。もちろん、僕はその事をきちんと知ってますよ」

 

 源吾郎はそう言ってから、その面に笑みを浮かべた。先祖たる玉藻御前らしい、邪悪で狡猾な笑みを。この笑顔を直視できるのが雪羽だけなのを残念に思いつつも。

 

「ですが――俺はその事を承知したうえで妖怪として生きる事を選んだんですよ? ご先祖様の意志と野望を、この俺が再演するために。そしてその意志は、もはや親族たちでは覆せないんですから。両親や兄姉たちも、この前の正月休みに俺に再会して、その事を思い知ったはずですよ」

 

 大仰な言葉を吐きながら、源吾郎は喉を鳴らして笑った。誰も彼も可愛い仔狐だの人間暮らしが長くて無害だのと思っているようだが……三大悪妖怪の直系の子孫であるという事を思い知って欲しい。そんな気持ちが源吾郎の中でむくむくと湧き上がっていたのだ。

 

「思い知るも何も、君が可愛い()()()()()である事は、君のご家族も初めからご存じだろうに」

 

 萩尾丸はしかし、源吾郎の言葉に楽しそうに応じるだけだった。大妖怪の子孫を相手にしているような気負った気配はない。とはいえ、彼も彼で強大な力を持つ妖怪であるから致し方ないのだろうが。

 島崎君。萩尾丸の呼びかけに源吾郎は背筋を伸ばす。先程とは異なり、大妖怪らしい威厳の伴った言葉だった。

 

「仔狐から君が脱却したい事は解っているし、君にも十分才能がある事は僕も知っているよ。ただね、もう少し堂々と振舞っていた方が、より大物らしく見えるんじゃあないかな。君も若いから難しいかもしれないけれど、血筋と才能は本物なんだからさ」

「……」

 

 源吾郎は押し黙り、ただただ瞠目するばかりだった。萩尾丸のこの言葉は、先だって父親から投げかけられた言葉によく似ていた。

 

「あの尻尾の毛ですが、セシル様はどういった魔道具をお作りになるんでしょうかね」

「やっぱり筆だろうね」

「その筆で、術者のヒトは護符とかを作るんでしょうね」

 

 簡潔な萩尾丸の問いの後に、源吾郎もすぐに質問を重ねていた。禅問答と言う言葉がうっすらと脳裏をかすめていく。

 君の妖力と護符ならば相性はとても良いだろうね。萩尾丸のその言葉に源吾郎も賛同していた。のみならず、話を聞いていた雪羽も。

 

「島崎先輩って現時点では攻撃術よりもむしろ妖術とか護符とかを使ったスタイルを得意としてますもんね。戦闘訓練の時だって、妖術に頼らないで闘う事自体まず無いみたいだし」

「そりゃそうだとも。結界術にしろ変化術にしろ、妖術を使わなければ君とまともにやり合う事は叶わないんだもん。狐火の攻撃術も威力はあるけれど、君の速度には敵わないし、ましてや腕力勝負では完全に分が悪いからね」

 

 妙に感心した様子の雪羽に対し、源吾郎は落ち着いた口調で解説した。

 雪羽の指摘はその通りだった。特に指定がない限り、戦闘訓練では妖術を駆使して立ち向かうのが常だった。もちろんメインの攻撃術は狐火などであるが、その補助として用いる妖術の方が、むしろ源吾郎の得意な領域になる。

 また、半妖ゆえに源吾郎は防御力も素早さも純血の妖狐よりも劣ってもいた。その弱点をカバーするためにも、結界術は戦闘訓練では欠かせなかったのだ。

 無論半妖としての弱点は攻撃面でも大きい。源吾郎の腕力は、せいぜい成人男性のそれと同程度なのだ。十キロ足らずなのに人間を圧倒するほどの機動力を持つ獣妖怪たちに較べれば格段に弱いのは言うまでもない。

 

「そもそも妖狐の強みは、腕力や武力と言ったパワー系の能力ではなくて、相手を攪乱させる術や、それを行使するための知略の面なんだよね。島崎君、君のご先祖様である玉藻御前とて、本来は武力を用いた闘いは得意では無かった事は知ってるでしょ? 前にも話したと思うけれど」

 

 曖昧な返事をしていると、萩尾丸は更に言葉を続ける。その顔が笑みで歪んでいるであろう事が、目の当たりにしなくても感じられた。

 

「それに島崎君の場合、種族的な特性に加えて個人的な気性もある訳だからね。だってさ島崎君。君の行動の中には()()という選択肢は元から無かったじゃないか。物心ついてから就職するまで、君は暴力と武力でもって相手に立ち向かった事はあったかな?」

「……無かった、ですね」

 

 萩尾丸の指摘に、源吾郎は素直に応じるしかなかった。そもそも闘う事、暴力を振るう事に慣れていない。これこそが源吾郎が戦闘術を苦手とする真の理由だったのだ。

 

「ですが萩尾丸さん。それは俺が人間として――」

「人間として育てられたからと言うのは()()()()()()()よ」

 

 源吾郎の反駁を、萩尾丸はぴしゃりと遮った。

 

「人間であったとしても武力で物を言い暴力で物事を解決する手合いがいる事は君も知っているだろう。凶暴な犯罪者とか、身近な例だったらチンピラとか不良少年みたいな手合いとかさ……だから島崎君が闘う事に消極的なのは、その身に宿る人間の血の為ではないんだよ。むしろ()()()の気性と、育てられた環境の方が大きいだろうに」

「やっぱりそうですよね」

 

 言ってから、源吾郎は静かに息を吐いた。争いを好まぬ気質に育った要因として、過去を振り返れば思い当たる事ばかりだった。

 玉藻御前の末裔であり、尚且つ親族らの中でも強大な妖力を持ち合わせて誕生した源吾郎であるが、その半生は極めて平穏なものだった。人間の少年として振舞い、ごく普通に学生生活を送っていたのだ。

 もちろん学校に紛れる妖怪や勘の良い一部の人間には本性が見抜かれていたが、単にそれだけだった。源吾郎の力や玉藻御前の血を狙う者に追い回される事も無ければ、誰かに因縁を付けられて相争う事も無かった。争いとは無縁の、平凡な学生生活だったのだ。

 更に言えば源吾郎は末っ子であり、兄姉たちとは歳が離れていた。第二の父親のように振舞う長兄を筆頭に、兄姉らは源吾郎を仔狐として扱っていたのだ。源吾郎はだから、兄弟喧嘩を行った事もほとんど無かったのだ。七歳上の末の兄に突っかかる事はたまにあったが、それすらも兄弟喧嘩と呼べる代物では無かった。

 

「島崎君。闘いの心構えが出来ていないからと言って凹まなくても良いじゃないか。変化術や妖術を得意とするところは、それこそ玉藻御前に似通っているんだよ。先天的に憧れのご先祖様に近い能力を獲得している事を喜んでもばちは当たらないよ。

 それにね島崎君。変化術は直接的な攻撃術ではないにしろ、ある意味()()()()でもあるんだよ」

「強力な術……変化術がですか?」

 

 その通りだよ。目を丸くする源吾郎に対し、萩尾丸は運転したまま応じる。

 

「島崎君に雷園寺君。我々妖怪が行使する妖術は、全て使い手の心の動きによって制御されているという話は知っているよね。変化術は、特に使い手の心や精神力に左右される妖術の一つになるんだよ。

 何しろ自分とはかけ離れた姿のモノに変化したり、自分とは全く違うモノ・そこにはいないはずのモノを分身として顕現させる術なんだからね。想像力はさることながら、変化しつつも『自分は自分である』という意識をしっかり持っていないと使えない物でもあるんだ」

 

 萩尾丸はここでいったん言葉を切った。それから密やかな笑い声を上げてから言い添える。

 

「場合によっては、変化術の行使中に自分の存在があやふやになってしまう恐れさえあるって事なんだ。変身した姿に没入するあまり、それに()()()()本来の自分を見失ってしまうって事さ。ふふふ、狐が狐憑きに遭うような物だろうね」

 

 変化術ってそんな術だったんだ……無邪気に驚き感心する雪羽の隣で、源吾郎もまた深い感慨と共に萩尾丸の言葉を反芻していた。但し、雪羽とは異なりただ単に驚嘆しているだけでは無かった。

――良いか源吾郎。変化術は疲れ切っている時や、気持ちが落ち着かない時には使わないようにするんだぞ。特にお前はまだ子供だから、万全のコンディションではないと()()()()

 変化術を覚え始めて間がない頃、叔父の苅藻が時たま口にしていた事を、源吾郎は密かに思い出していたのだ。



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九頭龍で繋がりし二つの種族

「みんなお疲れ様。新年早々大変だったでしょ」

 

 研究センターに戻ってきた源吾郎たちを、紅藤は待ち構えていたかのように出迎えてくれた。まだ定時を迎えるまでには若干の猶予があった。だがこちらに向かって微笑む紅藤の姿に、強い安心感を抱いたのもまた事実だった。

 それはきっと、紅藤が既に普段着である白衣を着用して出迎えてくれたからなのだろう。白衣姿の紅藤は、もはや源吾郎の中では日常の光景に欠かせない物にすり替わっていた。

 ただいま戻りました。萩尾丸は紅藤に視線を向けながら挨拶を返す。普段通りの厳かな声音ではあるが、師範である紅藤への尊敬と親愛の色が隠されているようにも源吾郎は感じられた。

 

「恐らく一番疲れているのは双睛鳥《そうせいちょう》君でしょうね……外回りや商談は僕にしてみればいつもの事ですし、島崎君と雷園寺君もまだ若いですし、明日に響く事は無いでしょう。帰りの車では、途中から仮眠を取ってましたからね」

 

 付け加えられた最後の一文に、源吾郎と雪羽は顔を見合わせて小さく呻いた。帰りの車の中では、源吾郎たちは初めのうちは確かに起きていた。と言うよりも尻尾の毛の事とか変化術の事とかの話を聞いて、あれこれ考えたり思いを巡らせたりしていたのだ。だがそれでも、途中で寝てしまっていた事は事実だった。がっつり眠っていたわけでは無い。気が付いたら意識が飛んで、研究センターに到着していたという塩梅だったのだ。だから萩尾丸に起こされた時も、それこそ狐につままれたような気分を味わっていた。

 上司の運転する車の中で眠りこけた源吾郎の事を、雪羽は特に糾弾しなかった。その時雪羽もまた寝起きの状態で、目覚めてはいたけれど気まずそうにしていたからだ。自分と同じく雪羽も寝ていたのだと、源吾郎はこの時悟ったのだ。

 

「島崎君も雷園寺君も疲れちゃったのよ、ね」

 

 車の中で寝ていたと聞いても、紅藤は怒りもしなかったし驚きもしなかった。その面に浮かぶ笑みはあくまでも慈愛に満ちている。

 

「二人とも妖力自体は同年代の妖たちよりも抜きんでて多いけれど、それでもまだ若い事には変わりないでしょう。セシル様にお会いしたり、慣れない地下街を通ったりして疲れちゃったんじゃないかしら。若い妖だと、場の妖気にあてられる事だってあるんですから」

「そうですね。そう言う事にしておきましょうか」

 

 萩尾丸はそう言うと、半歩ほど前に進み出て首を巡らせた。青松丸やサカイ先輩を探しているようだった。

 

「とりあえず紅藤様。双睛鳥君を部屋に戻そうと思っているのですが――」

「お戻りですね萩尾丸さん! わ、私がお手伝いします」

 

 萩尾丸の斜め前に姿を現したのはサカイ先輩だった。唐突に姿を現した形になるのだが、よくある事なので誰も大げさに驚いたりはしない。いや、雪羽の尻尾が逆立ち、倍ほどの太さになったくらいであろうか。

 雷獣の雪羽は、周囲の事物を電流で常にサーチしているらしい。便利極まりないこの能力に頼っている節があり、電流でサーチできない存在を前にすると不安になってしまうのだそうだ。サカイ先輩の挙動は電流で読み取る事が出来ないらしく、だからこそ雪羽はサカイ先輩に畏敬の念を抱いていた。

 

「ありがとうサカイさん。君もあの部屋の場所とか道順は知ってるもんね。それはそうと青松丸君は?」

「あ、青松丸先輩は試薬の調整中です。そ、それで二十分ほど手が離せないみたいなんです」

「青松丸君も間が悪いなぁ……まぁ、後で手が空いたところを見計らって彼の許に向かいますけれど。とりあえず、僕とサカイさんは双睛鳥君を部屋に送り届けますので」

 

 萩尾丸はそう言うと、キャリーケースを提げたままサカイ先輩を伴って一旦事務所を後にした。そのまま双睛鳥が静養する部屋に向かうのかと思っていたら、彼は何かを思い出したかのようにふと足を止めた。

 彼は半身をねじり、源吾郎と雪羽に顔を向けていた。

 

「言い忘れていたけれど、セシル様の工房に出張した事は議事録と教育訓練を書いておくようにね。今日はもう遅いから、明日提出してもらっても良いんだけど」

「はい、議事録と教育訓練ですね……?」

 

 疑問形ながらも、源吾郎は萩尾丸の言った事を反芻していた。年長者の言葉であるから応じなければならない。長年末っ子として育った習性によるものだった。

 ややあってから、雪羽の翠眼がこちらに視線を投げかけている事に気付いた。端麗なその面はしたり顔になっているではないか。

 

「へへへ。今回の議事録は先輩にお任せしちゃいますね。議事録と教育訓練ですねって、今さっき先輩が言ったんですから」

 

 雷園寺はそんなに議事録を書きたくなかったのか。そんな事を思いつつも、特にその事には言及せずに源吾郎は受け流した。何のかんの言いつつも、雪羽とああだこうだと問答する元気はなかったのだ。

 

 終業時間もとっくに過ぎ、既に夜の七時を回っていた。

 源吾郎は六時過ぎにタイムカードを押していたが、退社せずにそのまま研究センターの事務所内にいた。研究センターでの緊急ミーティングが終業時間のまぎわに行われたのももちろんある。だがそれ以降の時間は源吾郎の意志で居残っていた。

 要するに、課題として与えられた教育訓練報告書を作成し、更には議事録の作成に取り組んでいたのだ。

 もうすぐ社会妖《しゃかいじん》二年目になろうとしている源吾郎は、未だに議事録などのビジネス文書の作成は不慣れだった。もちろん、学生だった頃にも読書感想文だの日記だのと言った作文は行わねばならなかった。むしろ文系肌だったからそれらの成績は悪くはなかった。

 だが、ビジネス文書と学校で通用する作文は全く違っていたのだ。

 

「もう明日でも良いかなぁ……」

 

 ディスプレイに映る、書きかけの議事録を眺めながら源吾郎は思わずぼやいた。教育訓練報告書は既に提出済みである。どちらも明日提出しても構わないと言われていたのだから、それでも構わないじゃないか。そんな風に思うと、頭からやる気とか気力と言った類がずるりと抜け出していくようだ。

 

「今日書き切っても、明日に回してもどっちでも良いんじゃないですかね」

 

 ひょうきんな少年の声が降りかかってきたのは、帰宅した後の動きをあれこれ考えこんでいるまさにその時だった。声の主はもちろん雪羽である。源吾郎と同じく既に教育訓練を提出した彼の片手には、湯気の立つ紙コップがある。生姜湯か何かは定かではないが、完全に休憩モードだった――就業時間後に休憩するという事に異常さを感じなければの話であるが。

 

「どうしたんだい雷園寺君。君だってもう仕事は終わっただろう?」

 

 おどけた様子の雪羽に対し、源吾郎はやや湿っぽい視線を投げかけていた。こちらに対して冷やかしに来たのかもしれない。そんな事を思ってもいたのだ。

 

「へへへ。先輩が議事録を書いてらっしゃるみたいなんで、ちょっとはお手伝いしようかなって思いましてね」

 

 さも楽しそうに笑っていた雪羽であったが、何かを思い出したのか一瞬真顔になった。それから、コップが不用意に揺れないように意識しつつ、空いている方の手を口に添えて話し始めた。

 

「と言うか先輩。教育訓練も書いたんですから、議事録もそれを参考にすれば良かったんですよ」

「ああ、その手があったのか。それじゃあ、残りの分はそれで明日にでも仕上げようかな」

 

 言いながら、おのれの身に活力が戻って来るのを源吾郎は感じていた。教育訓練は既に萩尾丸に承認を貰うために提出している。しかしこれも元々はパソコンで作成した物であり、データそのものはパソコンの方に存在しているのだ。

 なので、教育訓練の紙自体が手許に無くても、内容を参照する事は造作も無かったのだ。

 

「すまんな雷園寺君。議事録作成を手伝いに来てくれたみたいだけど、さっき言った通り残りは明日やろうってたった今決めたんだよ。だからその……無駄骨だったかもしれないね」

「別にそんな事は無いっすよ」

 

 雪羽は特にこだわりのない様子で、源吾郎の隣に腰を下ろした。イタチのようなしなやかな動きであるが、本来の姿が猫やハクビシンに似ている訳なので、そんなにおかしな事でも無いだろう。

 

「双睛の兄さん事で色々あったから、その事でちょっと話したいなって思ってたんですよ。むしろそっちの方が本命だし」

「確かにそうだよな。雷園寺君は特に、双睛鳥さんの事もお兄さんみたいに慕ってるしさ」

 

 双睛鳥を兄と慕うのは、むしろ雪羽の保護者たる三國なのかもしれない。だがそれは源吾郎たちに取って些事だった。

 新たな偏光眼鏡が新調するまで、双睛鳥は研究センターの一室に籠り、そこで仕事をする事と相成った。源吾郎と雪羽は、缶詰状態になった双睛鳥に直接関与するわけでは無い。むしろこの件で関与する事は二人には無いと言い放たれているくらいだった。

 双睛鳥の面倒を見るのは青松丸とサカイ先輩、そして紅藤で事足りるのだ。双睛鳥は一人で安息できる事を欲しているから、君らが働きかける必要性は特に無い――萩尾丸の言葉は正論だと源吾郎も思っている。しかしあまりにも突き放したような物言いであるように感じてならなかった。

 お前たちは蚊帳の外だから関与するべきではない。暗にそう言われているような鋭ささえ感じてしまったのだ。

 

「青松丸さんたちが双睛の兄さんの面倒をきちんと見てくださるって事は俺も解ってるよ。だけど、あからさまに放っておいて良いなんて事、萩尾丸さんが言うなんて……何かびっくりだよ」

「あくまでも、僕は君らの事も慮ってああ言ったに過ぎないんだけどね」

「萩尾丸先輩!」

 

 噂をすれば影とはまさにこの事であろう。雪羽が萩尾丸の名を言った丁度その時、萩尾丸その妖がこちらに通りかかってきたのだ。まだ仕事中であるらしい事は、それとなく小脇に抱えた紙ファイルで十分察する事が出来た。

 

「君らだって、自分の仕事とか生活の事で頭が一杯だろう。だというのに、双睛鳥君がこっちで急遽缶詰状態になるって事くらいでああだこうだと考えて悩むのは仕事効率的にもよろしくないと思ってね。それで君らには、双睛鳥君の事は気にしないで良いって僕は言ったんだ」

 

 特に雷園寺君。萩尾丸の視線は、三尾ともピンと立てた雪羽に注がれた。

 

「君は新しい弟妹達の事で頭が一杯で、ただでさえそれどころじゃあ無いだろう。しかも島崎君と違って研究センター内に寝泊まりしている訳でもあるまいし」

 

 雪羽の視線は萩尾丸と源吾郎の間で何度か往復していた。うっすらと開いた唇の隙間からは、思案するような獣の唸り声が小さく響いている。

 

「……確かに、萩尾丸さんの仰る通りですね」

 

 雪羽の言葉に、研究センター住まいであるはずの源吾郎も頷いた。双睛鳥が静養するエリアには、源吾郎も立ち入る事は出来ない。そう言った意味では雪羽と同じ状況だったのだ。

 そんな事を思っているうちに、萩尾丸の顔を見ているうちに、源吾郎の脳裏に別の疑問が湧き上がってきた。宝石の眼を持つドラゴン・セシルの発言に引っかかるものがあったからだ。

 

「萩尾丸先輩。双睛鳥さんの事とは別に、お尋ねしたい事があるのです」

「良いよ。僕が解る範囲での答えになるとは思うけれど」

 

 萩尾丸が頷くのをお行儀よく見届けてから、源吾郎は再び口を開いた。

 

「セシル様は八頭怪のやつをご存じだと仰っていましたよね。その時に、深海ヨリ来ル者がどうと仰っていたのが気になってしまいまして」

「どうして気になったのか、教えてくれるかな」

 

 そうですね……萩尾丸に促され、源吾郎はおとがいを撫でつつ言葉を脳内で組み立てていった。気になる事は大きく分けて二つだった。

 

「深海ヨリ来ル者が何者かって言うのがまず気になったんですよ。セシル様の言い回しの一つなのかもしれませんが、僕にしてみれば初耳でしたので。そいつらがどうして八頭怪を知っているのかも気になりますが、そもそも彼らが何者なのか知らなければ、何とも言い難い所ですし。

 それにそもそも、八頭怪はとある龍宮に身を寄せていて、そこで龍王の跡取り娘の入り婿になったんですよね。だったらむしろ龍たちと繋がりがあると思ったのですが……」

「確かに、龍宮に住まう龍たちと深海ヨリ来ル者は異なる種族と言って良いだろうね。しかしどちらも海や水辺に暮らしている存在に違いないんだ。だから両者の間で交流もあるし――交配している事すらあるんだよ。

 特に深海ヨリ来ル者は、異種族交配を好み、おのれの血を分散させる事にそれこそ血道を上げているからね。そうやって彼らは仲間を増やしているんだ。もちろん、龍宮に住まう龍王たちとの縁組だってやってるだろうさ」

 

 あれですよね。萩尾丸の説明が一段落したのを確認し、雪羽が口を挟んだ。

 

「萩尾丸さんやセシル様が言う深海ヨリ来ル者って、半魚人みたいな蛙みたいな連中ですよね。それで、深海の宮殿に眠る彼らの神を――()()()とかいうヘンテコなタコのお化けみたいなやつを信仰しているっていう話ですよね」

 

 その通りだよ雷園寺君。やや興奮気味にまくしたてていた雪羽に対し、萩尾丸は薄く微笑んでいた。

 

「八頭怪……もとい九頭駙馬《きゅうとうふば》は道ヲ開ケル者の血を引いているって話は何処かで聞いた事があるんじゃあないかな。そして雷園寺君がさっき言った九頭龍もまた、道ヲ開ケル者の子孫にあたるんだ。

 九頭駙馬はかつて、碧波潭《へきはたん》に居を構える万聖龍王《ばんせいりゅうおう》の許に婿入りしたと伝わっているんだ。恐らくは、その万聖龍王自体が、深海ヨリ来ル者の縁者だったのかもしれないね」

 

 これは長い夜になるのではなかろうか……萩尾丸の解説に耳を傾けながら、源吾郎は静かにそう思っていた。




註:本文の描写は物語としての演出です。サービス残業を推奨する意図はございませんのでご注意くださいませ(筆者より)


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異説西遊記――万聖龍王、おおいに悩む

 龍王たちが支配する龍宮は、水のある所であれば何処にでもあると言われている。有名どころは四方の海を支配する四海龍王であるが、龍王が支配するのは海底都市だけではない。河川に居を構える龍王ももちろん存在するし、中には古井戸の中におのれの龍宮を作る龍王もいるのだ。

 一口に龍王と言えども、彼らの間にも序列はあった。収めている土地の広さや龍王そのものの神通力の多寡などと言った部分で決められるものである。

 だがそれでも、揺るがない基準が存在していた。四海龍王が龍王たちの中で最高位の存在であるという事だ。玉帝の臣下でもある彼らは、龍王の中の龍王だったのだ。だからこそ、多くの龍王たちは四海龍王を敬い、そして彼らと縁故を持とうと心を砕いてもいた。

 

 さてそんな龍王たちの中に、万聖龍王という名の龍王がいた。大唐からはるか西方に位置する碧波潭《へきはたん》に龍宮を構える万聖龍王《ばんせいりゅうおう》は、その名の通り永きに渡り碧波潭のあるじとして龍宮を護っていた。当時すでに万を超える歳月を生きており、それは妖怪はもちろんの事、龍王であっても珍しい事だった。

 しかし、万聖龍王が特異な龍であったのはそれだけでは無かった。彼は、四海龍王を敬ってなどはいなかったのだ。万聖龍王は長命の龍王であり、四海龍王よりももちろん年長だった。彼にしてみれば、四海龍王さえもぽっと出の若造に過ぎなかったのだ。

 その上万聖龍王が信仰するのは玉帝ですらなかった。万聖龍王は万聖龍王で、自身の神を信仰していた。九頭龍《くとぅるー》。瑠璃の宮殿で夢を見ながら何かを待つ大いなるもの。それこそが万聖龍王の――彼の父祖が信仰している者だったのだ。

 彼は龍王だった。しかし純血の龍ではない。()()()()()()()の血を受け継いだ存在であり、その血を残そうと画策する者のひとりだったのだ。

 もっとも、そうした事は四海龍王たちもきちんと把握していた。特に用心していたのは西海龍王であった。碧波潭は大唐から見れば西方に位置し、従って万聖龍王はおのれの管轄下にあると西海龍王は考えていたのだ。

 だからこそ、跡取り候補たる万聖公主の許に、末息子である玉龍三太子を婿入りさせようと考えていたのだった。

 

 万聖龍王の住まう龍宮の一角。普段は龍宮城らしく落ち着いた威厳に満ち満ちたその場所は、にわかに賑やかさで満ち満ちていた。

 それはやはり来客があったからだ。しかもただの客龍ではない。四海龍王の一人である西海龍王と、三太子の玉龍が賓客だったのだ。もちろんこの父子単体で訪れている訳ではなく、護衛や家臣、腰元などを伴っているのは言うまでもない。

 目的はもちろん玉龍と万聖公主の顔合わせ並びに見合いである。万聖公主と玉龍は若い家臣らと共に別室に通されており、応接間では万聖龍王と西海龍王が相対する形となっていた。

 

「西海龍王様。わざわざご子息を伴って、こんな辺鄙な所にお見えになるとは……ご足労賜ります」

「いえいえ。わが愚息は万聖龍王様のご令嬢、万聖公主様の婿になりますゆえ、龍王と言えども婿入り先に足を運ぶのが筋かと思いまして」

 

 互いに丁重な物言いではあるものの、要は腹の探り合いだったのだ。これが政略結婚である事は、万聖龍王も西海龍王も承知の上の事だ。深海ヨリ来ル者の系譜に連なる万聖龍王に対し、末息子を差し出す事で管理下に置く。それこそが西海龍王の目論見なのだろう。万聖龍王もまたその事は解っていた。ただ、婿を貰うという事でおのれを支配下に収めようとするやり口は気に入らなかったのだが。

 それにしても。西海龍王は周囲に目を走らせ、ふと疑問を口にした。

 

「……万聖龍王様は、万聖公主様を跡取りになさるんですね。ご子息が大勢いらっしゃるので、てっきりそのご子息の中から跡取りを選ぶのかと思いましたが」

「子供らの中では万聖公主が最年長ですからね。だから娘を跡取りに選んだのです。ただそれだけの事ですよ」

 

 口早に万聖龍王は応じ、西海龍王の目をしっかりと見据えた。

 

「西海龍王様。あなた様とて跡取りとして摩昂太子様を選んでいるではありませんか。それは摩昂太子《まこうたいし》様が優秀だったからではなくて、太子たちや公主たちの中で最年長だったからではありませんか。

 我が碧波潭の場合、万聖公主が最年長になります。だからこそ、娘を跡取りとして教育し、婿を貰って跡を継がせようと思ったのです」

 

 言い終えてから、万聖龍王はウロコが逆立つのを抑え込んでいた。言い逃れめいたこの言で、西海龍王が納得してくれるかどうかが気がかりだったのだ。

 数多くいる息子らではなくて、一人娘である万聖公主を跡取りにした理由。それは単純に彼女が長女であるからでは無かった。子供たちの中で、最も龍の血を色濃く引いているからに他ならない。別に、龍王として龍王の血が濃い娘を贔屓しているわけでは無いし、深海ヨリ来ル者の血を引く息子らを軽んじている訳でもない。

 ただ、息子たちには息子たちの役割があると、万聖龍王は思っているだけなのだ。深海ヨリ来ル者は、基本的に旺盛な繁殖力と繁殖欲の持ち主である。しかも、その能力と意欲は同族のみに向けられるわけでもない、特にオスの場合は。

 そんな訳で、深海ヨリ来ル者の血が濃い息子らには、ゆくゆくは他種族の女妖怪たちと婚姻してもらおうと万聖龍王は思っていたのだ。

 惜しむらくは、大勢いる息子らが未だ幼く、繁殖どころか婚姻にすぐにはこぎつける事が不可能な事であろうか。その辺りは万聖龍王をもってしても、時間が解決すると言う他なかった。深海ヨリ来ル者は無限の寿命を持つ半面、心身の成熟がひどくゆっくりとしたものなのだ。それに万聖龍王自身も、大人になるまでに時間はかかったし、龍の婦人を妻に迎え入れるまでにも更に時間がかかったのだから。

 唯一政略結婚に使えそうな万聖公主だって、まだまだ龍としても深海ヨリ来ル者としても幼いのだ。何せ婿候補として西海龍王が連れてきた玉龍自体も、若者と言うよりも子供みたいな龍に過ぎないのだから。

 

「玉龍だったか……西海龍王の太子と言えども身の程を知らぬ生意気な小僧めが」

 

 夜。賓客が帰った後、万聖龍王は自室で酒を呷っていた。万聖公主と玉龍の顔合わせ、或いは見合いの結果は既に腰元から聞かされていた。

 結果は良好な物だった。どちらも互いに悪感情は抱かず、好印象を抱いたのだという。むしろ玉龍が万聖公主に惚れたようだったとも腰元は言っていた。そして、そんな玉龍に対して、万聖公主も満更ではなさそうだった、と。

 

「何が気に入らないんです父上。玉龍の王子様は、姉上と仲良くなって、結婚すれば良いじゃないですか。お、おらたちにも優しくしてくれたし」

 

 今にも杯を投げそうな万聖龍王に対し、おずおずと意見したのは彼の息子の一人だった。確か六番目の息子だっただろうか。万聖公主よりも二、三百歳も若く、従ってまだ爬虫類の子供のような姿の持ち主でもある。

 無邪気で愚鈍な息子の言葉に、万聖龍王はため息を吐いた。

 

「お前たちにはそう見えたかもしれんがな、あれはそう言う単純な話では無いんだよ。四海龍王の連中は、我らに玉龍を与えて行動を縛ろうとしているんだぞ。大いなる九頭龍を崇拝する我々を縛り付けようとは、全くもって――」

「あなた。それ以上はお話にならないで」

 

 次に万聖龍王に声をかけたのは、彼の妻だった。万聖公主や大勢いる息子らの母である彼女は、万聖龍王とは異なり純血の龍であった。従って彼女は、万聖龍王の妻でありつつも、四海龍王たちも敬わねばならぬと考えていたに違いない。

 

「郷に入っては郷に従えと言う言葉があるでしょう。九頭龍様をあなたが信仰しているのは知っているけれど、まだあのお方は眠り続けたままだと言いますし……せめてあのお方が目覚めるまでは、四海龍王の皆様に従っているように見せた方が宜しいのではなくて?」

「うむ、うむ……その方が良いのかもしれないな」

 

 妻の冷静な言葉に、万聖龍王は耳を傾けていた。恐るべき九頭龍を信仰する彼も、妻には頭が上がらないのだ。

 かくして、一悶着起こりかけたものの、万聖龍王もまた娘婿に西海龍王の三太子、玉龍を迎え入れる事について前向きに受け入れる事となった。よくよく考えてみれば、その方が深海ヨリ来ル者の系譜を繫栄させる事が出来るではないか。おのれの血と、龍王の中の龍王である四海龍王の血が孫の代で合流するのだ。万聖公主の子供らは、四海龍王の系譜になるからには、彼らも万聖龍王たちの一族を蔑ろには出来ないだろう、と。

 だが万聖龍王は知らなかった。それでもなお抱いていた、四海龍王に対する反骨心を。そしてその反骨心を、九頭鳥――彼こそがのちの九頭駙馬《きゅうとうふば》である――が嗅ぎ付けていた事を。

 

 そして物語は流転する。



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肝脳絞りし妖狐の推論

 木曜日の昼休み。昼食を終えた源吾郎は手早く弁当箱を片付け、その代わりとばかりにテーブルの上にノートと数冊の文庫本を並べて置いた。ノートの表紙には試験用とも打ち合わせ用とも記されておらず、文庫本はまるきり小説だ。

 いずれにせよ、源吾郎が仕事で使う物では無かった。源吾郎自身も退社してからの余暇時間だとか、出社する前の隙間時間などにこれらの小説を読み、そうして思った事や感じ取った事をこのノートに記していたのだ。

 現在の業務とは直截的に関連性が無いからこそ、昼休憩の時間を狙ってこれらの物を出したのだ。仕事中であれば、それこそ萩尾丸に遊んでいないかと言われかねない訳であるし。

 まるっきり仕事に無関係であるのならば、そもそも職場に持ち出さなくても良いのではないか。だが今回ばかりはそうは問屋も卸さない所だった。

 

「雷園寺君」

「どうしました、先輩」

 

 相手の挙動を見守ってから、源吾郎はゆったりと声をかけた。声をかけられた雪羽は、当初は不思議そうな様子を見せていたものの、テーブルの上に並ぶものを見て納得したような表情になった。テーブルに並べたものは、雪羽にも見覚えがある物ばかりだからだ。何せ小説の文庫本は、雪羽から借りたものなのだから。

 

「調べ物もあらかた終わったし、小説を返すよ。ありがとうな、雷園寺君」

 

 文庫本を両手で捧げ持ち、源吾郎は立ち上がって雪羽に手渡した。文庫本の表紙や背表紙には「クトゥルー」「ラヴクラフト全集」などと言った文言が躍っている。

 文庫本を受け取った雪羽は、おのれの許に戻ってきた小説と源吾郎の顔を交互に見やりながら僅かに首を傾げた。

 

「思っていたよりも早く返してくれるんですね。ページ数も多いし和訳と言えども癖があるから、先輩と言えども読み切るまでには十日ぐらいかかると思ってたんだよ」

「別に全部読んだわけじゃないさ。あくまでも調べ物の資料として使っただけなんだからさ。それに雷園寺君だって、貸した本が早く戻ってきた方が嬉しいだろう?」

 

 源吾郎はそう言って笑い返していた。雪羽はこれで納得してくれるだろう。笑顔の裏でそんな事を思っていたのだ。

 ところが、雪羽は含みある笑みを浮かべただけだった。

 

「小説を調べ物の資料呼ばわりとは、先輩も中々合理的で狸みたいっすね」

「ふふっ。言うて今の俺は研究職なんだ。狐も狸も関係なかろうに」

 

 洒落の利いた雪羽の指摘に対し、源吾郎は思わず吹き出しそうになった。化け狸に理系が多い事、()()の字が似通っている事をもじったジョークであるとすぐに解ったからだ。

 ちなみに妖狐は文系の個体が多いらしいが、それは別に化け狸たちに対抗しているわけでは無いだろう。

 

「でも本当に、ここまで早く返してくれるなんて思ってなかったよ。何ならあの漫画も貸出したら良かったかな?」

 

 雪羽はそう言うと、悪戯を思いついた子供のような笑みをその面に浮かべた。それとは対照的に、源吾郎の面には渋い表情が浮かぶ。彼の言う漫画の内容は知っていた。孤独な少年がふとした事から邪神を召喚してしまい……その邪神を姉と見做して一緒に暮らすという物語だ。

 貸し出してやる、と言って雪羽が見せてくれたそれは全年齢向けではあったものの、いささか扇情的なシーンが多かったような気もする。

 

「あの漫画は尚更要らんよ。あれは山羊の女神が出てくるだけで、九頭龍も深海ヨリ来ル者も全然絡んでなかったじゃあないか」

「こんな所でも真面目なんだなぁ……」

 

 面食らったような表情を雪羽が見せたので、今度は源吾郎が含み笑いを浮かべながら言い添えた。

 

「――まぁ、雷園寺君が好きそうなお話だなぁって思ったけどね」

「バレちまったか、まぁね。あれは俺も大好きなんだ……あんなの読んでるって事は、叔父貴たちに、特に()()にバレるとマズいんだけど」

 

 そうだろうなぁ。照れくさそうに語る雪羽に対し、源吾郎は心の中だけで頷くにとどまった。邪神が姉となり、幼くして父母を喪った少年に寄り添う物語を何故雪羽が好むのか。その真の理由は源吾郎には解っていたのだから。

 それにしてもドスケベで悪ガキだった雪羽であっても、自分が所持して読んでいる本を保護者達に知られたくないなどと言う可愛い事を思うのだな、そもそもそう思うのならば件の本を買わなければ良いだけなのではないかしら。そんな事を源吾郎はぼんやりと思っていたのだった。

 

「それはさておき雷園寺君。本を貸してくれたお礼にさ、君にも見てもらいたいものがあるんだよ」

「見て貰いたいものって何?」

 

 雪羽が問いかけるのを見計らい、源吾郎は手許に残ったノートをめくった。雪羽が首を動かし、僅かに瞠目するのが源吾郎には見えた。

 開かれたノートを覗き込みながら、源吾郎は僅かに眉根を寄せた。自分のノートであるから、もちろん何を書き記したかは把握している。考え考え書いたにしても、汚らしく書きなぐった物だ。そんな考えが頭の上に重く湿っぽくのしかかってきて、だから源吾郎は顔をしかめてしまったのだ。

 九頭駙馬《きゅうとうふば》、万聖龍王《ばんせいりゅうおう》、四海龍王、そして深海ヨリ来ル者。これらの単語を含んだ文章たちは、ノートの罫線にお行儀よく収まってなどいなかった。ヘロヘロにのたくった文字もあるし、罫線をはみ出して躍り出ている文字もある。しまいには間違えたり適当な漢字で妥協している部分や、諦めてカタカナで記してある部分もあるくらいだ。

 

「先輩、これは……?」

 

 訝しげな声が雪羽の口からまろび出る。やっぱり字の汚さや書き殴りぶりにうんざりしているだろうな。そう思いながらも源吾郎は口を開いた。

 

「前に萩尾丸先輩がさ、八頭怪と深海ヨリ来ル者と関りがあるって事を仰っていただろう。万聖龍王も深海ヨリ来ル者の縁者かも知れないって話を聞いて、そこから色々と調べてみたんだ」

 

 源吾郎は顔を上げ眼球を動かして、視線をノートから雪羽の顔へとスライドしていった。雪羽は無言のまま、ノートを凝視している。

 気まずくなった源吾郎は、ここでふわりと笑った。

 

「悪いな、随分と見苦しいだろう。これを書いている時は誰かに見せるって言う事までは意識していなかったから、思うままに書き散らしちまったんだよ。清書する気力も無くってこのまんまだったんだけど……」

「別に、字が汚いとかそんなのは気にしてないよ。それよか調査結果とやらについて教えてよ。見た感じ、何かとても面白そうな事が書いてあるみたいだからさ」

 

 字の汚さ云々はさておき、雪羽は源吾郎の記したノートの内容に食いついてくれた。源吾郎はその事に深く安堵しながら、解説を始めるのだった。

 

 かつての八頭怪たる九頭駙馬は、万聖龍王の娘の許に婿入りし、金光寺の宝を盗んで血の雨を降らせた。その数年後、悪事が露呈し哮天犬に頭を一つ咬み落とされ……八頭怪となって碧波潭を後にした。八頭怪について、西遊記にて記されているのは僅かにこの事である。或いは、そもそも万聖龍王の娘婿は玉龍であり、九頭駙馬は横恋慕・ゲス不倫によって万聖公主の夫になったという話が細々と知られているという程度であろうか。

 西遊記の話だけをひもとけば、単なるゲス不倫男が悪事をしでかし、哮天犬に襲撃されつつも逃げ延びたという話に過ぎない。

 だが源吾郎たちは知っている。八頭怪は恐るべき邪神・道ヲ開ケル者の遣いであり眷属である事を。

 そして新たな事を知った。九頭龍を祀る異形の民・深海ヨリ来ル者と八頭怪に繋がりがある事を。萩尾丸はあの時、万聖龍王が深海ヨリ来ル者に関与しているのではないかと言っていた。

 もちろん源吾郎とて、萩尾丸の言葉を鵜吞みにしたわけでは無い。そもそも彼は九頭龍や深海ヨリ来ル者についてはほとんど知らなかった。だから最初は、深海ヨリ来ル者について調べておこうと思った程度だったのだ。

 そうして調べているうちに、ふとある事に気付いてしまったのだ。これまで疑問だった万聖龍王の振る舞いが、深海ヨリ来ル者の眷属であると考えれば当てはまるであろうという事に。

 西遊記については原典に近い物も精読した事のある源吾郎は、そこに記される万聖龍王とその周辺について疑問視している部分があったのだ。

 息子たちも大勢いるにもかかわらず、何故敢えて娘である万聖公主を跡取りとしたのだろうか? 万聖公主には元々玉龍と言う婚約者がいたのに、何故そこに九頭駙馬が割り込む形となったのだろうか……完全ではないにしろ、万聖龍王が深海ヨリ来ル者の眷属であると思えば疑問は解決するのではないか。そのように源吾郎は思ったのだ。

 九頭駙馬は道ヲ開ケル者の御使いであり、深海ヨリ来ル者は深海に眠る九頭龍を信仰しているという。一般妖としては九頭龍も道ヲ開ケル者もひとからげに邪神として考えてしまうだろう。しかし、九頭龍よりも道ヲ開ケル者の方がより高位の存在であるらしい。何となれば九頭龍もまた、道ヲ開ケル者の子孫であると、参考資料には書いていたではないか。

 そうなれば、万聖龍王とて九頭鳥――婿入りする前の九頭駙馬はこう呼ぶほかなかろう。そもそも駙馬には入り婿と言う意味があるのだから――を喜んで迎え入れたに違いない。或いはそれこそ、九頭龍の遣いであると言った可能性すらあるだろうし。

 そしてそんな危険な邪神と繋がっているからこそ、龍王の中の王たる四海龍王も、おのれの太子を差し出して万聖龍王と縁組し、彼らを支配下に置こうとしたのではないか――西遊記と暗黒神話。二つの伝承をひもといた源吾郎は、この辺りまで推察を行っていたのだった。

 

「まぁ、俺の調査結果は現時点ではこれくらいかな」

「現時点でって、それでも結構まとめてるじゃないか」

 

 称賛のため息を漏らしながら、雪羽はノートと源吾郎とを交互に眺めていた。

 

「しかもよくよく見れば、何となく小説仕立てにしてるしさ」

「最初は気付いた事を断片的に書いていただけなんだけどね。それだと何か味気なくって……」

 

 源吾郎はそう言うと、照れたように頬に手を添えた。せいぜい作文どまりのそれを小説仕立てと言われて少し気恥ずかしかったのだ。

 源吾郎自身は確かに国語や作文は得意だった。だが、彼が学生時代手掛けていたのは演劇の脚本である。同じ物語を記すと言えども、小説と脚本が異なったものである事は流石に知っている。

 雪羽はしばらくノートを眺めていたが、ややあってから顔を上げ、それから源吾郎の肩に手を添えた。その動きは存外優しい物で、手の平のぬくもりが白衣越しに人割と伝わってきた。

 

「まぁ先輩。先輩もあんまり根を詰めない方が良いと思うけどな。何かその、めちゃくちゃ悩んでああだこうだ考え抜いたってのが字を見るだけでも解るからさ」

「なーに。俺は大丈夫だよ」

 

 ねぎらい気遣うような雪羽の言葉に対し、源吾郎は軽く笑って応じていた。

 別にこれは強がりでも何でもない。あと二日仕事をこなせば休みが来る。休みになれば米田さんに会える……その事を思うだけで、源吾郎の心は気力に満ち満ちていたのだ。




 次回、デート回です。


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狐の憩いは初デート

 土曜日は港町に出向く予定が入っていた。それもただブラブラ遊ぶだけではない。米田さんに会うという、源吾郎的には大イベントが控えているようなものだった。

 念願かなっての米田さんとのデート、と声に出して言いたいところであるが、大々的にデートと言い切るのは少し気が引けた。互いに想い合っている相手が会う事こそがデートであるという、妙にかたくなな考えが源吾郎の中にあったからだ。

 源吾郎は既に米田さんに対して想いを寄せているのだが、向こうがどのように思っているのかは現時点では解らない。少なくとも源吾郎の誘いに応じてくれたのだから、それは僥倖と言うべきであろう。

 もっとも源吾郎も、狡猾にも自称・玉藻御前の末裔たちの事を知りたいという建前を用意したうえで米田さんを誘ったという側面もあるのだが。

 

「緊張するだろうけれど、普段通り自然体にやってたら良いと俺は思うよ。島崎先輩」

 

 金曜日の夕刻。別れ際に雪羽はそう言っていたずらっぽい笑みを源吾郎に見せていた。源吾郎自身も、米田さんに会う事を正直に打ち明けていたのだ。もちろん、何がしかのアドバイスを雪羽から貰う事も期待しての事である。

 

「ま、あんまりグイグイ押し過ぎたら嫌われちゃうだろうからさ、控えめに慎重にアプローチするんだな。なんせサシで米田さんに会うのは初めてでしょ。大好きだとか、奥さんになってくれとか交尾したいとかさ、初手からそんな事を言ったらドン引きされちまうからな。その辺は気を付けないとね」

「例えが極端すぎないかね、雷園寺君」

 

 呆れたような源吾郎の言葉に対し、雪羽はただただ身を震わせて笑うだけだった。

 

「流石に俺だって、出会ってすぐに付き合ってくれとか結婚してくれなんて迫る様な図々しい真似はやらないよ。まぁその……今度の裏初午の集まりの事を話したりとかさ、ちょっとブラブラと買い物をしたりするくらいだよ。

 もちろん、米田さんが他に何かしたいって仰るのなら、それを優先するけれど」

「買い物って、さては双睛の兄さんの為に何か良い物を買おうって目論んでいるんじゃないんですかい」

「流石に米田さんに会う時はそんな事はしないよ。でもそれらしい物についてあらかじめ目星を付けておいて、次の日に買いに行こうかなとは思ってるけどね」

 

 米田さんと会う事で浮かれている源吾郎であったが、研究センター内で静養している双睛鳥の事を忘れた訳でもない。

 若妖怪である源吾郎と雪羽は、確かに双睛鳥と接触する事は出来ない。面倒を見ているのは青松丸と紅藤であるから、双睛鳥についてそれほど気にしなくて良いのだと、萩尾丸からも直々に言い含められてもいる。むしろ君らは余計な事を考えず、業務に徹すれば良いのだと言われているくらいだった。

 とはいえ、素直にはいそうですかと頷く事は源吾郎には出来なかった。弱った第七幹部の姿は余りにもショッキングな物だった。それに、双睛鳥を直接励ます事が出来なくとも、青松丸を労いたいと源吾郎は思っていた。年末年始の休暇では、源吾郎の使い魔であるホップの面倒を見てくれた恩義もある訳であるし。

 雪羽の考えもまた、源吾郎とおおよそ同じような物だった。むしろ双睛鳥への個人的な思い入れは源吾郎よりも強いであろう。保護者である三國がそもそも双睛鳥と仲が良く、雪羽も幼い弟か従弟のように可愛がられていたらしいのだから。

 そんな事をあれこれと思案していた源吾郎は、間延びしたような声で言い足した。

 

「雷園寺君。もしかしたら俺、仕事の事ばっかり米田さんに話しちゃうかもしれないんだ。趣味の事とかホップの事とかもあるっちゃあるけれど、最近ずぅっと仕事の事ばっかり考えてるからさ……それってやっぱりマズいかな?」

 

 上目遣い気味に雪羽を見やりながら源吾郎は尋ねた。源吾郎の持つ当たり障りのない話を突き詰めてみると、どうしても研究センターでの日々が、要は仕事の話に行き当たる事に気付いてしまったのだ。

 仕事の話ばかりする男を、女性がつまらなく思うであろう事も源吾郎は知っていた。女子力研鑽のために読んでいる女性向けの雑誌やコラムにもそのような記載があったからだ。

 雪羽は首を傾げ、思案する素振りを見せてから口を開いた。

 

「それはまぁ女の子によりけりだよ。チャラチャラした、遊ぶ事しか考えてないような娘だったら仕事の話は面白く思わないだろうね。それを表に出すかどうかは別としてさ。

 でも……相手が仕事熱心な女《ひと》だったら、却って興味を持って話を聞いてくれるかもしれない。もちろん、先輩が何処まで仕事の話をするかにもよるけれど」

「米田さんはどっちになるんだ」

 

 気付けば源吾郎は身を乗り出していた。がっついているように見えたのか、雪羽の笑みに当惑の色が混じり始める。だが、米田さんの事は源吾郎よりも雪羽の方がよく知っているはずなのだ。

 

「米田さんは……どちらかと言えば後者になるんじゃないかな。そもそもあの妖《ひと》自体、俺たちよりも仕事熱心なお方だろうしさ。だから先輩が仕事の話を多少しても大丈夫だと思うよ。あんまり愚痴っぽくならなければの話だけどね」

「その辺は俺とて心得ているよ」

 

 源吾郎が言うと、雪羽はにっこりと微笑んだ。

 

「時間が許せば俺もこっそり先輩の事を見守りたいんだけど……生憎そんな余裕は無いからさ。とりあえず頑張れや!」

 

 見守るって高みの見物をしたいだけなんじゃないのか。そんな事が脳裏をよぎった源吾郎であるが、それはおくびには出さずにただただ微笑むだけに留めておいた。

 

 土曜日の午前。休日でも、或いは休日だからこそ人ごみの多い参之宮の駅を抜けた源吾郎は、やや小走り気味に歩を進めていた。もちろん誰かにぶつからぬように配慮して進んではいるが、狭い間をするすると進む姿はやはり狐らしさがあるだろう。

 今回も待ち合わせ場所はハト山だった。参之宮には他にも待ち合わせスポットがあるらしいが、判りやすさで言えばハト山は断トツなのだ。

 周囲を見やり、ついで源吾郎は腕時計を見やった。待ち合わせの時間よりも二十分近く早い到着だった。僻地からバスや電車を乗り継いで向かった源吾郎であるから、微妙な時間の調整は難しかったのだ。それにこれは大切なデートなのだ。遅れるよりは早く着いた方が大分マシであろう。

 ドキドキするけれど、落ち着いて米田さんが来るのを待とう。駅前で見つけた観光パンフレットを広げつつ、源吾郎は待つ事にした。

 

「島崎君」

 

 優しげな声が頭上から降りかかってきた。聞き覚えのある、何となれば今一番聞きたかったはずのその声を耳にした源吾郎は、事もあろうにその場でびくっと身を震わせてしまった。米田さんが来るのはまだだろうと思い、パンフレットを眺めるのに没頭していたのだ。

 源吾郎は一人だと、案外こうして自分の世界に入り込んでしまいがちなのだ。

 お待たせ。柔らかな声音で語り掛けるのを聞きながら、源吾郎は顔を上げて彼女を見た。眩しいものを見たような気分になって、源吾郎は思わず目を細めかけた。あの米田さんが、俺に会うためだけにここにいる。そう思うだけでも心臓がどうにかなりそうだった。

 しかも米田さんは私服姿だった。普段は後ろで束ねているだけの金髪のセミロングをこなれた感じにまとめており、両耳を赤い花――椿か山茶花かは定かではないが――をモチーフにしたイアリングで飾り立てているのがまず見えた。

 冬場なのでロング丈のトレンチコートに身を包んでいたのだが、キャラメル色のコートは品よく落ち着いており、米田さんの雰囲気にぴったりだった。

 俺も服装には気を付けたけれど、米田さんの前では野暮なちんちくりんに見えないだろうか……そんな懸念が首をもたげた丁度その時、米田さんが今一度口を開いた。

 

「もしかして、ずっと長い間私を待っていたのかしら?」

「そんな事ありません。僕は少し前に来たばかりですから」

 

 源吾郎はそう言って、口許にささやかな笑みを浮かべた。待ち合わせの際にはこのような問答がある。その事を源吾郎は知っていたからこそ、即答する事が出来たのだ。

 実際には米田さんが来るまでには多少待っていた気もする。だがそれはいちいち口にするまでもない事だった。それにパンフレットを読むのに夢中で、時間の経過を半ば忘れていた節もあるし。なおパンフレットは乱雑に折りたたみ、既にポーチの中に押し込んだところでもある。

 

「それよりも米田さん。今回は僕のためにご足労頂きありがとうございます」

 

 立ち上がった源吾郎が言うと、米田さんは顔をほころばせて笑った。源吾郎を気遣うような、何処か控えめな笑顔である。

 

「あらあら島崎君。そんなにお堅くならなくて良いのよ。今回はお仕事とかそんなのは無関係なんだから」

「すみません、いつもの癖でつい……」

 

 気恥ずかしさを笑いで誤魔化す源吾郎に対し、米田さんは優しげな笑みを崩さなかった。むしろ一層笑みが深まったように見えた。

 

「島崎君の方こそ、今日は時間を取ってくれてありがとうね。新社会妖《しんしゃかいじん》で何かと忙しいでしょうし、そもそも吉崎町からここまで来るのも結構大変だったでしょ」

「いえいえ、そんな事は無いですよ」

 

 労い気遣うような米田さんの言葉に、源吾郎は元気よく返事をした。

 

「まぁ確かに吉前町は山間の町ですからね。交通の便が悪いなぁって思う時はありますよ。ですがそれも見越した上で動く事には慣れっこなので、本当に大丈夫です。それにお金が貯まれば車を買うつもりですし」

 

 車を買う。そう言った源吾郎はついつい遠くに視線を向けていた。源吾郎は一人暮らしの新社会妖《しんしゃかいじん》である。自家用車を持てるほどの資金を蓄えるにはあと数年は必要だろうと踏んでいた。

 とはいえ、源吾郎は免許を持っているからまだ良い方だ。雪羽などはそもそも運転免許すら持っていないのだから。

 しばしの間車の保持について思いを馳せていた源吾郎であったが、ぎこちない様子で米田さんに今一度視線を向け、それからゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「それにですね、米田さんとはかねてより個人的にお会いしたいと思っていた所だったんです。だから、今回米田さんが僕のために時間を作ってくれて、本当に嬉しいんですよ……!」

 

 そうだったのね、島崎君。米田さんは落ち着いた声音で源吾郎に呼びかけていた。

 

「それだったら年末年始は悪い事をしちゃったかしら。でも、年末は私も本当に仕事が立て込んでいて、それでちょっと時間を取れなかったの」

「それって――」

 

 やっぱり年末だから悪いやつが跋扈していて、それを摘発するのにお忙しかったんですか。喉元から飛び出しかけたその言葉を、源吾郎は即座に飲み込んだ。いたずらっぽく微笑んだ米田さんが、思わせぶりに指をおのれの唇に当てるのを見たからだ。

 

「とりあえず喫茶店に入りましょ。寒い中で立ち話もなんだし、良さそうな所を知ってるから、ね」

 

 さらりと話題を変えた米田さんに、源吾郎は物わかりの良い生徒よろしく返事を返した。挨拶から思わず色々と話したり米田さんの事を探ろうとしてしまったが、よくよく考えれば今ここでがっついて焦る必要は無いのだ。

 少なくとも、今日は一日予定を空けている。互いに時間が許す限り、米田さんと源吾郎は一緒にいる事が出来るのだ。その間にゆっくりと、自分の事を知ってもらえばそれで良いのだ。それとともに、米田さんの事も少しずつ知れば良いのだ。

 そんな風に思っていたから、米田さんと並ぶ源吾郎の足取りは軽やかな物となっていた。



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若狐 がっつく余りに空回り

「あ、おいし……」

 

 米田さんと落ち合った源吾郎は、彼女に導かれるままに喫茶店に入っていた。

 ウェイターが運んできたキンカン湯を一口飲むと、源吾郎は思わず声を漏らしていた。実のところ、源吾郎は普段は柑橘類の類は進んで口にする手合いでは無い。人間の父と祖父を持つ半妖ではあるのだが、妖狐の血が濃いために酸味の強い物が苦手なのだ。

 これは獣特有の特質と言うよりも、特に肉食獣で見られる傾向なのだという。確かに妖狐たちはミカンや柚子の類を好む個体は少ないが、化け狸は時々ミカンを食している。雪羽に至ってはミカンを喜んで食べている所は何度か見た事もある。肉食性の強い妖狐とは異なり、化け狸も雷獣も雑食性が強いという動物的な違いによるものだろう。

 そんな源吾郎であったが、今回は何となくキンカン湯の気分だった。柚子茶と言うのもあったのだが、そちらは何となく酸味が強そうなのでキンカン湯をチョイスした次第である。冬の味覚と言う感じでもあるし。

 そして注文したキンカン湯は想定通りに、いや想定以上に甘いものだった。蜂蜜が含まれているであろう事、隠し味に多少すりおろした生姜が入っているであろう事を、飲みながら源吾郎は感じたのだった。

 気に入ってくれたのね。正面から女性の声が聞こえてきた。鈴を転がすような美しく凛とした声の主は、もちろん米田さんである。ハッとして源吾郎が顔を上げると、湯気の向こうにある米田さんが微笑んでいるのが見えた。

 

「はい……このキンカン湯、とっても美味しいです!」

 

 源吾郎は普段よりもやや大きな声で告げた。もちろん米田さんの呼びかけへの返答ではあるのだが、立ち働くウェイターやウェイトレスに伝える意図もあった。美味しい飲み物を提供してくれたのは喫茶店のスタッフである。デキる男を目指している源吾郎は、もちろんその事も見逃してなどはいない。

 米田さんは微笑んだまま、ゆっくりとマグカップを傾けていた。ホットミルク(ミルクと言っても牛乳ではなく山羊ミルクであるが)で口許と喉を湿らした彼女は、湯気の向こうでしっとりと微笑んでいる。

 

「うふふ。良かったわ島崎君。私と会ってから、ずっと何か緊張しているみたいだったから」

「すみません。気を遣わせてしまいましたよね……」

 

 源吾郎はそう言って笑い返した。しかし頬の筋肉が引きつっているのを感じてしまう。違う。こんなはずじゃあないんだ。いびつな笑顔の裏で自問自答してみるも、何かが変わる気配はなかった。

 それでも源吾郎は喉を鳴らし、伝えるべき事を伝えようと決意する。

 

「でも米田さん。さっきもお伝えした通り、僕は米田さんにお会いできて本当に嬉しいんです。年末は僕も実家に戻らないといけませんでしたし、米田さんだってお忙しかったみたいですし……」

「島崎君は、年末はご実家に戻っていたのね?」

「ええ、そうです」

 

 関心を示したかのような米田さんの声音に、源吾郎は臆せず頷いた。

 

「お盆休みは実家に戻らなかった事もあって、両親や兄姉たちが戻って来るのを心待ちにしている事は流石に解っていましたからね。

 特に父は末息子である僕を何かと気にかけてくれていますし、長兄などは保護者気分で僕の事を心配していましたから……」

 

 年末休みの過ごし方について言及した源吾郎であったが、ここで米田さんに親兄姉の事を口にする事への抵抗は一切無かった。源吾郎の親族について米田さんが知っている事が解っていたからだ。昨年の夏は源吾郎の姉である双葉の開いた対談に出席していたし、父である幸四郎とも面識があるようだったから。

 父や長姉の事を知っている米田さんならば、源吾郎が家族からどのように扱われているかはおおよそ察しはついているであろう。そんな風に源吾郎は考えていたのだ。

 

「それじゃあ島崎君は、ご家族と一緒にお正月を過ごしたって事なのね。ええ、とっても良い事だと思うわ」

「これも家族サービスの一環ですので。でも、有意義な正月休みでもありました」

 

 米田さんの声は特に柔らかな物であったが、口にした言葉から一般的な事として褒めてくれたのだろうと源吾郎は早合点していた。だからこそ、実家に帰ったのは家族サービスだとちょっとお堅い事を言ってみたのだ。

 

「米田さんは年末年始はどうされていたんです?」

「どうって言われてもねぇ……普段と変わらずずっと仕事ばかりやっていたかしら。普段通りの、どうって事ない過ごし方よね」

 

 事もなげに告げる米田さんの顔を、源吾郎は半ばぼんやりしながら眺めていた。仕事の話をすれば敬遠されるだろうか。そんな事を雪羽に尋ねた事が脳裏に鮮明に浮き上がってもいた。

 だが今回は、むしろ米田さんの方が仕事の話をしているではないか。そうなれば、源吾郎が仕事の話をしても聞いてくれるかもしれない。

 ごめんね島崎君。米田さんが唐突に謝ったのは、ちょうどその時だった。

 

「休みの日なのに仕事の話なんかしちゃって。退屈だったかしら」

「そんな事ありません。僕だって――」

 

 仕事の話をしちゃいそうですし。その言葉を源吾郎は飲み込んだ。仕事の話もおいおい行うかもしれないが、それ以上に気になった事があったのだ。まずそれを訊いてみようと思い直したのである。

 

「お仕事と言っても、流石に年末年始の間中では無いですよね? やっぱり米田さんも、ご実家に帰省したりご家族にお会いしたり――」

「私はずっと一人よ。特にここ五十年ほどはね」

 

 源吾郎の言葉を遮るような形で米田さんが応じる。その声は淡々としていて、そして乾ききっていた。口許に浮かぶ笑みの意味に戸惑いながらも、源吾郎は言葉を重ねる。

 

「お一人だったんですか?」

「野良妖怪ならよくある事よ。それに、私ももう百年くらい生きてるし……それなら五十年前から一人でもおかしくないでしょ?」

 

 しまった、深入りし過ぎてしまっただろうか。はぐらかすような米田さんの言葉を受け、源吾郎はおのれの言動の迂闊さを密かに反省した。家族の事について話したくないのだと、或いは今の源吾郎に語って聞かせる時期ではないと思っているであろう事を悟ったためだった。

 それに確かに、生後五十年ほどの妖怪が独りで生きていくというのもおかしな話ではないというのも、源吾郎は大体解っていた。純血の妖怪はおおよそ百歳程度で肉体的に大人と見做され、二百歳を迎えたあたりで心身ともに大人の妖怪であると認められるらしい。しかしながら、妖怪たちはそれよりもうんと若い頃から仕事に励みだすのだ。例えば萩尾丸が従えている珠彦や文明などの若狐たちは六、七十の若狐であるし、雪羽などに至っては四十年しか生きていない子供に過ぎないではないか。

 どの道妖怪は寿命が長いし人間のように厳格に学校に通う事が定められていないから、ある程度育てば働いたり野良妖怪になったりするのだろうと、源吾郎は源吾郎なりに解釈していたのだ。

 更に言えば、動物などが変化して後天的に妖怪になった個体は、生まれつきの妖怪よりも若干大人びている事が往々にしてあるというし。もちろん、それが米田さんに当てはまるか否かは別問題であるけれど。

 

「それにしても……お一人だったんですね」

 

 これ以上詮索しないつもりだったにもかかわらず、源吾郎の口からは呟きがまろび出てしまった。米田さんは怒りもせず、小さく頷き口を開いただけだった。

 

「私はどうも、一人でいる方が性に合うみたいでね。前も言ったとおり、組織とかしがらみ何かに縛られるよりも、自由でいる方が肌に合っているの」

 

 米田さんの言う前がいつの事だったのか。源吾郎はすぐに思い出せずに視線を彷徨わせてしまっていた。米田さんの顔に視線を戻した時、彼女は源吾郎をじっと見つめていた。

 

「だからね、私は寂しくないから大丈夫よ。島崎君は優しい子だから、私が寂しい思いをしていないか、心配してくれているのかもしれないけれど」

「いえ米田さん。貴女が平気だと仰るのならば、僕もその言葉が真実だと信じます。ただ――」

 

 源吾郎は何度か瞬きをした。最後の瞬きで米田さんに焦点を当てたのだが、そのせいで派手に眼球が動いたような気がした。そんなのは些事だと脇に押しやり、源吾郎は浮き上がった質問を素直に口にした。

 

「ずっとお一人だったなんて本当ですか? 米田さんは、その……とっても魅力的なお方ですから……」

 

――会って間がない女性を相手に、一体俺は何を聞き出そうとしているのだ! 内なる声の容赦ない叱責を前に、源吾郎は顔を火照らせつつ目を伏せた。米田さんの過去に、男の影が無いか。源吾郎はそのような事を詮索しようとしていたのだ。

 全くもって愚かしく、つまらぬ男の所業ではないか! 心中でおのれを面罵しつつ、源吾郎は愕然としていた。男が気になる女性の過去を、要は他の男に心身を赦した経歴は無いか。そんな事を気にするのは阿呆の所業だと源吾郎は常々思っていたのだ。

 元より源吾郎は、ハーレムを構築するなどと豪語するような手合いだ。おのれが気に入った娘がいたならば、自身に惚れさせた上で自分の女にする。過去の事なんかは気にしない。そのような豪胆さを持ち合わせていたのではないか。ましてや、米田さんはまだ自分に気があるかどうかすら解らないし……思いがけず噴出したおのれの度量の小ささに源吾郎は落胆していた。

 幸いな事に、米田さんはそんな源吾郎の心中に気付いていないらしい。目が合うと照れたように笑みを浮かべ、特にこだわりもなく口を開いた。

 

「魅力的だなんて……島崎君も言うじゃない。でもね、私も恋愛事にはあんまり興味が持てなくって、そう言う事にはあんまり関わらなかったのよ。仕事とかに一生懸命だったの。そもそもからして玉藻御前の末裔を名乗る道を選んだから、それだけでもライバルが多かったものね」

「確かにそうですよね……」

 

 玉藻御前の末裔を名乗り始めたがために、他の野狐とは異なる苦難があり、それを乗り越えるために努力していた。米田さんの述懐を、玉藻御前の真なる末裔である源吾郎は耳を傾けていたのだ。

――思い出したぞ。俺は元々玉藻御前の末裔を名乗る連中が集まる裏初午がどんな会合なのか、それを訊くという名目で米田さんに会っていたはずなのだ。

 そして源吾郎はここで、当初考えていた米田さんとの会話のネタを思い出したのだった。



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ナレギツネそして山野のキツネ

「そうだ米田さん。僕、本当は米田さんから色々と教えてもらうつもりだったんです。玉藻御前の末裔を自称する狐たちの事とか、彼らが集まる裏初午の事ですとか」

 

 当初の目的を思い出した源吾郎は、やや取り繕うような口調で米田さんに問いかけた。元より源吾郎は、玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちが各地に点在している事は知っている。二尾の穂谷など、実際に玉藻御前の末裔を名乗っている妖狐と仕事の上で接触した事もある。

 しかしそれでも、彼らの実態について詳しく知っているわけでは無かった。それは源吾郎が妖怪として暮らし始めて間がなく、源吾郎自身が若いからに他ならない。

 確実に言えるのは、玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちや組織(?)の方が、源吾郎よりも長い歴史を重ねている事だった。

 

「玉藻御前の末裔を名乗る妖狐が大勢いる事は僕も今では知ってます。定期的に会合をなさっているという事は、やはり自称している狐たちも組織だった集団と言う事になるのでしょうか」

 

 自称・玉藻御前の末裔たちは彼らの手によって独自の組織や派閥を構築している。源吾郎は特に疑問を持たずにそのように考えていた。妖狐がコミュニティを構築しやすく、組織での結束が固いという種族的な特性は、もちろん源吾郎も知っている。

 そうした妖狐らの気質の最たるは稲荷の眷属であろう。だがもちろん、民間勤めである野狐たちも、稲荷の眷属と負けず劣らず結束の固さを見せる事が往々にしてある。もっとも、そうした気質が軽度の選民主義や排他的な思想に直結するという負の面も持ち合わせているのだが。

 ともあれ、玉藻御前の末裔を名乗る面々も、そうした考えを抱えているのは当然のことに違いないと思っていたのだ。

 米田さんは思案するように首を傾げ、少ししてから口を開いた。

 

「そうねぇ……島崎君の言ったとおり、外から見れば玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちって、一つの大きなグループであるように見えるのかもしれないわ。

 でも本当は一枚岩じゃあないのよ。公式の団体の中にも流派とか派閥とかが幾つもあるし、非公式の団体もあるみたいなのよね。もちろん、公式・非公式に関わらず団体に属しないモグリの輩もいるんですけれど」

「思ってたより複雑なんですね……」

 

 思案しつつ語られた米田さんの言葉に。源吾郎は思わず言葉を漏らしていた。

 公式も非公式も、玉藻御前の末裔を僭称しているだけなのだから全員非公式で良いだろうに。内心そんな事を思っていた源吾郎であるが、空気を読んで口にはしなかった。

 玉藻御前の末裔を名乗る者たちが横行する事実に思う所のある源吾郎であるが、真なる玉藻御前の末裔たちが彼らの存在を黙認している事は流石に知っているからだ。一族の中で最強の存在たる白銀御前が彼らの存在を許さないのであれば、そもそも玉藻御前の末裔を名乗る妖狐などは一匹たりとも存在できないはずなのだから。

 一族の長ともいえる祖母がそうしたスタンスを貫いているのだ。だから末孫である源吾郎もそれに倣うべきなのだ。現に叔父や叔母は、自称玉藻御前の末裔と交流しているみたいだし。源吾郎は妖狐的な考えでもってそう思う他なかった。

 

「でもね島崎君。そんなに複雑に考えなくて大丈夫よ。島崎君が会った事のある自称・玉藻御前の末裔たちは、全員公式団体に所属している狐たちだから、ね。萩尾丸様の許で働いていたりする狐たちでしょうから」

「言われてみれば、穂谷さんたちも萩尾丸先輩の部下ですね」

「萩尾丸様は、組織内での立ち位置やパワーバランスにかなり敏感なお方だからだと思うの。自称・玉藻御前の末裔を部下に引き入れるにしても公式団体に所属している狐を選ぶとか、そうじゃなかったら公式団体に入るように進めるとかなさっているんじゃあないかしら」

「萩尾丸先輩ならばやりかねない話ですね」

 

 納得の色をふんだんに込めて、源吾郎は言葉を紡いだ。妖材教育《じんざいきょういく》の鬼(天狗だけど)たる萩尾丸は、手掛けている妖材《じんざい》に()()()()を付ける事に心を砕いている事は源吾郎も知っている。非力な妖怪にはビジネスマンとして生計を立てる術を教え込み、才能のある妖怪にはその才能を更に伸ばすように仕向ける。それが萩尾丸の妖材教育《じんざいきょういく》のスタンスだったのだ。

 そうなれば、玉藻御前の末裔を名乗っている妖狐たちを、より付加価値のある存在へと導こうとするのは何らおかしな話ではない。むしろ自然な流れともいえる。

 

「あのお方が組織の事とか名家のネームバリューとかそれに伴う責務の事とかに恐ろしく敏感な事は僕たちもよくよく存じております。妖怪の世界は確かに実力が物を言う世界ですが、だからと言って力を持つ者が好き放題に振舞う事は赦されないと、萩尾丸先輩は折に触れて僕たちに話すのです。

 才能や身分、或いは権力には責務が憑き纏うのだとね」

「そうなのね。島崎君と雷園寺君は、職場でそんな話を聞かされて過ごしているのね」

「雷園寺ですって! 僕は別に、あいつの名前は口にしていなかったんですが……どうして解ったんですか?」

 

 源吾郎は目を丸くしつつ米田さんに問いかけた。思いがけず雪羽の名前が出てきた事に、素直に驚いていたのだ。

 一方の米田さんは、相変わらずその面に笑みを浮かべている。

 

「島崎君はさっき、()()()って言ってたでしょ。萩尾丸様が島崎君と一緒くたにそう言う話をする相手と言えば、雷園寺君だろうなってすぐにピンと来たわ。ほら、あの時雷園寺君って、色々あって萩尾丸様の許で修行する事がトントン拍子で決まってもいた訳だし」

 

 そう言う事だったのか。源吾郎はいたく納得し、その面にふんわりとした笑みを添えた。

 雷園寺君は元気かしら? 何故ここで雪羽の事を尋ねたのかは解らない。しかし米田さんの声には気遣うような色が濃く滲んでいる。

 

「ええ。雷園寺君は元気にやってますよ。昨日だって久しぶりに戦闘訓練があったのですが、いかんせん強くて苦労しましたよ。上司たちの意向でお互い妖術は使わずに体術のみでぶつかり合ったんですが……それでも歯が立ちませんでした。

 もっとも、雷園寺君は戦闘能力の高い雷獣なので、ある意味致し方ないのかもしれませんがね」

 

 よく知る雪羽の話が題材だったためか、源吾郎はにわかに饒舌になっていた。戦闘訓練で負け戦だったという話はそれほどカッコいい物では無かったが、事実なのだから致し方ない。雷獣の雪羽は雷撃という強力な攻撃術の持ち主である。しかし、その攻撃術に頼らずとも十二分に強かったのだ。

 だがもしかしたら、嘘でもいいから自分の方が圧勝したなんて事を言った方が良かったかしら。全てを話し終えてから、源吾郎はそんな事を思いもした。とはいえ、今更そんな事を考えても遅いのだが。

 米田さんは源吾郎の話に耳を傾けていたが、ややあってから静かに微笑んだ。そうだったのね島崎君。まず米田さんはそう言ってから言葉を続ける。

 

「雷園寺君ともあれから打ち解けて、それで職場でも仲良くしているんでしょう。出会いが出会いだったから少し心配だったけれど、良かったわ」

「雷園寺君と僕が仲良くなったってどうして解ったんでしょうか?」

 

 思いがけぬ米田さんの言葉に、源吾郎はまたも目を丸くした。先程自分は、雪羽が元気な事と彼との戦闘訓練では苦戦するという話しかしていない。年明けに一緒に遊んだとか、互いに毛皮や尻尾をモフったりするくらいには気を許しているだとか、仲の良さを示唆するような事はまだ話してはいない。

 

「戦闘訓練で負けたって割には、そんなに悔しがったり腹を立てたりしているって感じじゃあなかったもの。

 それに――雷園寺君の妖気が、島崎君の身体に少し残っているみたいだから」

「そっか、それでですか……!」

 

 米田さんの推論に、源吾郎は今度は納得の声を漏らした。

 普通の動物同様、妖怪にもマーキングという概念はある。但し匂いだけではなく放出されている妖気も用いられる事がままあるのだ。一方的に相手の所有権や隷属を示す事もまれにあるのだが、基本的には親愛の情や仲間意識をアピールするための行為なのだ。そもそも、親しくない妖怪に妖気を付着させられても、自身の妖力で弾いて定着する事はまずない。もっとも、マーキングする相手が対象よりも格段に強ければ、無理に妖気を付着させる事もできるらしいが。

 雪羽の源吾郎に対するマーキングが、仲間意識に起因する事は言うまでも無い。高い戦闘能力を保持する雪羽であるが、実はその妖力の保有量は源吾郎よりも少ない。妖力面では弱い雪羽が、源吾郎に対して無理くり妖気を付着させる事は理屈上不可能なのだ。

 それにしても、雷園寺の妖気がまだ残っていたとは。妖狐ながらも源吾郎は狐につままれたような気分だった。そもそも彼は、雪羽が妖気を放出しているという事に無頓着な所があるのだ。

 とはいえ、マーキングに関しては源吾郎も雪羽に対して行っている節はあるだろうな。そんな事を思いながら源吾郎は口を開いた。

 

「ええ。米田さんの仰る通りです。最初こそ出会いが出会いだったんで色々と思う所はありましたが、まぁ何やかんやあって僕も雷園寺君と仲良くなれました。彼もあの一件で反省して、真面目に仕事をこなしていますからね」

 

 あの一件とは、もちろんグラスタワー事件の事である。元々雪羽は悪ガキとして悪さをしていた訳なのだが、あの事件が決定打となって罰を受ける羽目になったのだ。

 雪羽のあれこれを思い出しながら、源吾郎はしんみりした気分になっていた。

 出会って間がない頃は鼻持ちならぬ悪ガキだと思っていたが、とんでもない才能の持ち主ではないか。源吾郎は素直に雪羽の事をそんな風に評していた。雪羽は元々悪ガキとしてその才能を持て余していたらしい。だがその身に流れる貴族妖怪の血と、大妖怪たる叔父から受けた戦闘の手ほどきは本物である。力に溺れ享楽を求める態度を改めれば、前途ある立派な若者に化けるのは自明の理だった。

 実際の所、力や権威がもたらす影響のリスクについて、今では雪羽の方が源吾郎よりも深く真面目に考えている節すらあるくらいなのだから。むしろ過去の悪評を払拭せねばならぬと意気込んでいるくらいである。源吾郎は考えもしない事だった。源吾郎にはそもそも悪評と呼べるもの自体が無いのだから。

 そこまで考えていた源吾郎はハッとして米田さんの方を見やった。彼女がミルクを飲むのを見届けてから、慌てて口を開く。

 

「そんな訳で僕は雷園寺君と仲良くやってますけれど、やっぱり米田さんは彼に思う所とかおありですよね?」

 

 思わず雪羽の事で盛り上がってしまった源吾郎であるが、米田さんにしては面白くない瞬間だったのではないか。グラスタワー事件の情景を思い出しながら源吾郎は思っていた。

 当時の雪羽はまさに悪ガキそのもので、しかも女の子に手を出そうとするドスケベ小僧だったのだ。男である源吾郎でさえ、宮坂京子に扮していた時は雪羽の挙動に憤慨したものだ。女性である米田さんにしてみれば、憤懣やるかたない物ではないか。そんな懸念が源吾郎の中にあった。

 現時点でも、雪羽が更生しつつある事を認めている妖怪たちは少ない。雷園寺家の事件解決後からちょっとずつ雪羽のイメージは変わっているのかもしれないが……それでも若妖怪たちと雪羽の間の距離は大きなものだった。雪羽が若妖怪の中でも強すぎる事も大きな要因であろうが。

 別に私は大丈夫よ。米田さんはこだわりのない様子で首を振った。

 

「あの子がヤンチャ放題だって事は、私も昔から知ってるもの。確かに、向こうが殺す気でこちらに襲い掛かってきたらどうにもならないわ。でもね、あの子がそんな事をするとは思わない。

――本当に()()も辞さない相手は、目や立ち振る舞いを見ただけでも判るものなのよ」

 

 源吾郎はヒュッと喉を鳴らしただけで、すぐに言葉を吐き出す事が出来なかった。ともあれ米田さんは雪羽を、単にヤンチャな仔猫だと思っているだけに過ぎないようだ。せめてそうだったんですね、とでも言えば良かったのだ。

 だが源吾郎は、殺しという言葉についつい反応してしまったのである。ついでに言えば、その時米田さんの瞳が猛獣のように光った所も視てしまった訳であるし。

 米田さんって本当に強いんだろうなぁ。源吾郎は彼女を見やりながらそう思うのがやっとだった。彼女は二尾であり、妖力の保有量という面で見れば源吾郎や雪羽よりも()()()()()

 だが、妖怪の強さは妖力の保有量でのみ決まるわけでは無い事を、源吾郎は既にきちんと把握していた。むしろ勝負は妖力の量よりも経験が左右する部分もかなり大きいのだから。

 米田さんは傭兵として働く事もあり、戦士としても兵士としても優秀なんだぜ。かつて雪羽が教えてくれた言葉を、源吾郎はここに来て思い出したのだった。

 

 しばし話の流れが雪羽の事に傾いていたのだが、米田さんはきちんと裏初午の事について軌道修正してくれた。玉藻御前の末裔を自称する妖狐たちは、他の妖狐に推薦されて公式団体に仲間入りする事になるのだそうだ。

 そして二月の裏初午は、言うまでもなく公式団体が運営する会合であるという。社会妖デビューを果たした源吾郎も裏初午に参加するというのは、要は公式団体への挨拶になるという事だろう。

 

「普通の妖狐だったら、テストとか面談とかでその団体の自称・玉藻御前の末裔である事が認可されるのよね。私や穂谷君たちもそんな感じだったのよ。

 だけど島崎君は本当に玉藻御前の末裔だから、団体の中では特別枠になるでしょうね。桐谷さんたち兄妹の前例もある事ですし」

「そう言えば叔父と叔母はその会合で来賓として呼ばれているって話でしたが、確かに特別枠にするしかないですよね。何せ本物なので」

 

 裏初午に集まる妖狐たちは玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちである。ある意味偽者揃いなのだ。そんな中に本物を会員として取り込むのは妙な話である。

 源吾郎に関しては苅藻達の甥である事は明らかなので、そんなに形式ばらなくても大丈夫だと米田さんは言ってくれた。というよりも、玉藻御前の曾孫の一人が、妖怪社会の中に飛び込んだという事は既に妖怪社会の中で広く知れ渡っている事なのだ。

 

「まぁ、会合と言っても各会員の定例報告と……あとは仲間同士での親睦を深めるって言う意味合いが強いかしらね。妖狐って結構仲間でつるんで行動する事が多いけれど、玉藻御前の末裔を名乗る狐って単独行動が好きな妖狐も多かったりするの。

 もしかしたら、そうした事を見越して組織が作られた側面があるのかもしれないわ」

「確かに妖狐って、集団行動が好きですもんね」

 

 言ってから、源吾郎は脳裏にかすかな違和感を覚えた。昔読んだ動物図鑑の、キツネの項目について何故か思い出していたのだ。キツネはイヌ科に属している。肉食であるが果物なども食べる。適応力が高く賢い。イヌ科にしては珍しく、群れを作る習性は()()()()――そのような博物学的知識である。

 違和感の正体について源吾郎はさほど注意を払わなかった。米田さんが口を動かすのを察したからだ。

 

「あとね、時々本当に外部からお客さんを呼んで講演する事もあるの。そのお客さんは妖狐とは限らないんだけどね。でも妖怪の生態とか妖術の研究とかの講演がメインだから、結構興味深くて面白いのよ」

「講演まであるんですか。でも面白いって仰るなんて、米田さんは勉強熱心なのですね」

 

 源吾郎はそう言ってから、印象に残った講演は何かと米田さんに尋ねた。その問いには深い意味は無かったのだが。

 

「そうね……『ナレギツネから紐解く妖狐の自己家畜化説』って言う講演が私は印象的だったわ。妖狐の生活史や歴史を研究している博士の講演だったの。話を聞いていた妖狐たちが腹を立てて、とんでもない騒ぎになった事でも有名なんだけどね。ブーイングだけじゃあなくて、丸めたレジュメとかを博士に投げつけたりする狐たちもいたくらいだったし」

「そんな大騒ぎでしたら、嫌でも印象に残りますよね」

 

 過激すぎる講演に、源吾郎は目を白黒させていた。そんな会合に出席しても大丈夫なのだろうか。そもそも自分は本物だけど、人間の血が濃い半妖でもあるし……米田さんは先の源吾郎の言葉には何も言わず、しかし静かに語り始めていた。何処か物憂げな表情を浮かべながら。

 

「妖狐たち、特に両親や先祖代々妖狐として存在していた妖狐たちの特徴は、近年人の手で家畜化された狐たちと()()()()()()()()()――簡単に言えばそんな話だったわ」

「それで自己家畜化ってお話が出ていたんですね。高校生の時に聞いた事があるんです。それこそ人間も、自分で自分を家畜化した動物だって。ええと、確か保健体育とかの授業でそんな話になった気がするんですが……」

 

ここで一呼吸おいてから、源吾郎は言葉を重ねた。

 

「確かに妖狐の皆さんにしてみれば不愉快なお話かもしれませんね。そりゃあまぁキツネを飼いならそうと研究した人間がいる事を僕だって知ってはいます。ですがそれと自分たちが同じだというのを、気高いお狐様たちが納得できるかどうかは別問題ですし」

「あら、島崎君は割と冷静に受け止めるのね?」

「人の手で飼いならされた狐どころか、そもそも僕には人間の血が流れていますからね」

 

 いたずらっぽい米田さんの言葉に対し、源吾郎は力なく微笑みながらそう言った。人間の手で育てられた狐という意味では、源吾郎も大いに当てはまるのだ。何せ父親が人間なのだから。更に言えば妖狐の血を受け継いだ母も半妖であるし、兄姉たちに至ってはほぼ完全に人間になっているではないか。

 とはいえ、純血の妖狐と半妖ではまた事情が違う。そう思い直した源吾郎は米田さんに静かに問いかけた。

 

「米田さんは、その講演を聞いてどう思われたんでしょうか?」

「――とっても興味深い話だって思ったわ」

 

 即答と呼んでも遜色ないスピードでもって米田さんは応じた。笑みを作ってはいるものの、物憂げな雰囲気がまたぞろ戻ってきているではないか。

 

「他の皆は認めたくなくて大騒ぎしてしまったけれど、冷静に考えれば当てはまる所があって、私は腑に落ちた気分なの。

 島崎君。妖狐って集団での結束が強いし人間にも友好的でしょ? そうした特徴って、ナレギツネって呼ばれている家畜化されたキツネにも十分当てはまるのよ。

 博士が言ったのはそれだけじゃないわ。頭骨や毛皮の色みたいな身体的特徴にも注目していたの。妖狐にはキツネ色だけじゃなくて色んな毛の色があって、後は頭骨が、頭の骨が普通のキツネより小さく太短い特徴があるんですって。それもやっぱり、家畜化されたキツネや、都市部に棲むキツネの持つ特徴なのよ」

「…………」

 

 源吾郎は瞠目し、相槌を打つのも忘れて米田さんの話を聞いていた。米田さんの説明は解りやすく、だからこそ件の講演の内容が源吾郎の頭の中にもするすると入って来てくれたのだ。

 米田さんは息を吐き、まつ毛を揺らしながら呟いた。

 

「本当のことを言うと、博士の講演は私にとってありがたい物だったわ。

 どうして自分が他の妖狐と()()のか。その事をはっきりと知る事が出来たからね」

 

 自分は妖狐の一族の出身ではなくて、普通のキツネから妖怪化した存在なのだ。声のトーンを変えぬままに米田さんは言い足した。後天的に動物や人間が妖怪化する事例はあるにはある。妖狐たちの中にもそうした個体がいる事は源吾郎も知っていた。

 

「キツネだった時の事はあんまり覚えてないわ。まだ仔狐と若狐のあいだだった頃に妖狐になって、それからは親代わりの妖狐たちに妖狐として育てられたから……」

 

 後天的に妖怪になった存在を別の妖怪が保護する。それは自然な事だと源吾郎も思っていた。そもそも源吾郎だって、後天的に妖怪化した十姉妹のホップを、使い魔として養っている身分である。

 

「自分は妖狐になったけれど、他の妖狐たちとは何かが違う。それが何でなのか長らく解らなかったの。だけど、あの博士の講演でその理由が解ったのよ。やっぱり普通のキツネと妖狐として代を重ねた妖狐は違うんだってね」

「米田さん……」

 

 遠くを探る様な眼差しを向けていた米田さんに対し、源吾郎はただ静かに呼びかける事しかできなかった。

 彼女の事をもっと知りたい……デート中の男が思うにはごく平凡な考えが、源吾郎の脳裏にもやはり浮き上がっていたのだった。




 伝承の妖狐と現実のキツネの違いって何だろうと思っていた結果に辿り着いたのが自己家畜化説でした。
 実際問題、大人しいキツネ同士を交配させる事により、イヌのようなキツネが誕生しているとも言いますし。


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それは次につながる縁となるか

 源吾郎と米田さんのデート的な出会いは、もちろん喫茶店での語らいだけでは終わらなかった。喫茶店には一時間以上滞在していたのだが、その後は腹ごなしにと港町をぶらつき、別の店で昼食に洒落込んだのだ。

 ここでお昼にしましょう。そう言って米田さんが誘ってくれたのは港町の本筋から少し離れた場所にある妖怪向けの大衆食堂だった。

 洒落た港町の中にありながらも下町の雰囲気を見せるその大衆食堂を目の当たりにした源吾郎は心底安堵していた。もし米田さんが誘った先が、オンスタグラムなどと言った若者向けSNSで「映える」と誉めそやすような雰囲気の店であったら、源吾郎は気後れしていたかもしれない。或いはテーブルマナーの厳しそうな高級レストランであったら――もっとも、初めて二人っきりになった若い男女がそんな所に向かうとは源吾郎も到底思えないのだけれど――委縮して食事を楽しむ事などできなかっただろう。

 源吾郎はもちろん、玉藻御前の直系の末裔である。しかし彼が曾祖母のように贅沢な暮らしをしているわけでは無い。実家は確かに裕福だったのかもしれないが、母や長兄は無意味に華美な暮らしを好んではいなかった。ましてや今の源吾郎は一人暮らしのサラリーマンである。贅を凝らした暮らしなどは夢のまた夢だったし、そもそもそれ以外に考えるべき事が山ほどあったのだ。

 要するに、妖狐界の貴族の血を受け継ぐ源吾郎であるが、食の好みは全くもって庶民狐と変わらぬという事だった。何となれば子供っぽいとも言われる事さえある。

 

「とっても良さそうな所ですね、米田さん」

「私の行きつけの一つでもあるんだけど……気に入ってくれて嬉しいわ」

 

 微笑む米田さんの姿は嬉しかったが、源吾郎は実はこの時複雑な気持ちになってしまっていた。昼食にと米田さんが選んでくれた大衆食堂が良さそうな所だと思っているのは本心の事だ。

 だが、何処に向かうかはほぼ全て米田さんに委ねている事に、源吾郎は今更ながら気付いたのだ。このご時世では、デートの折に全てを男が主導するという考えはもはや古いのかもしれない。年齢差のある二人であれば、性別とは別に年長者がリードする形になるのも致し方ない事なのかもしれない。そもそも源吾郎にしてみれば、デートはこれが初めての経験なのだし。

 しかしそれでも、惚れた娘に対してはカッコいい所を見せたい。そんな気持ちが源吾郎の中でくすぶっていたのだ。

 

「ほら島崎君。お腹も空いたでしょ」

「はい……」

 

 とはいえ、あれこれ難しく考える事と、空腹を感じるか否かはまたしても別問題ではあったのだが。

 

「やっぱりラットは、いや大黒ネズミはマウスと違って食べ応えがありますねぇ……!」

 

 入店してから十分余り。源吾郎たちは既に昼食にありついていた。妖狐や化け狸たちでそこそこにぎわっていた店内であるが、料理が届くのは思っていた以上に速かった。やっぱり食堂って凄いなぁ。源吾郎は妙な所で感動してもいたのだ。

 米田さんが傍にいる関係上、源吾郎は感情の振れ幅が普段より大きくなっていた。

 さて源吾郎が頼んだのは大黒ネズミのフライ定食だった。大黒ネズミというのはもちろんラットの事なのだが、大黒様になぞらえて大黒ネズミとメニューにはあったのだ。

 そのフライを一口かじり、そのボリューム感に感動していたのである。

 妖狐の好物の中にはネズミの天ぷらやフライ、唐揚げなどが存在するのだが、源吾郎もまた当然のようにネズミの揚げ物は好物だった。

 実家にいた頃は実はそれほど頻繁に口にするものではなく、むしろ入学式や卒業式などの特別な晴れの日に、母が作ってくれるようなものだった。だからもしかしたら、味そのものよりも佳き日に食べる料理という紐づけが源吾郎の脳内に出来ていたのかもしれない。

 もっとも、何故母がマウス料理をそう頻繁に作らなかったのか。その理由は今でははっきりと解る。食材としての冷凍マウスは、他の食肉よりも段違いに高価である為だ。もちろん実家にいた頃からマウスは高いのよ、と母は言っていた気がするが、それを自分事として思い知るようになったのは実家を出た後の事だった。

 もちろん冷凍ラットもホームセンターで取り扱っている事は知っているが、ラットの方が大きいためか、冷凍マウスに輪をかけて高価だった。そんな事もあり、この度源吾郎は大黒ネズミのフライを注文したという事であった。

 大黒ネズミの味はマウスとほとんど変わらないような感じだった。しかしそのボリュームたるやマウスの比ではない。大黒ネズミ一匹で、一度にマウス五、六匹を平らげているような気分すら感じていた。

 これこそ贅沢や……源吾郎の心はしばし大黒ネズミのフライで一杯になっていた。ちなみに大黒ネズミのフライはワンコインではないが、定食なのでリーズナブルである。

 

「米田さん。このお店も本当に良いですね」

 

 源吾郎は薄いみそ汁を二口ばかり飲んでから米田さんに声をかけた。ちなみに米田さんが注文したのは鶏づくし定食である。鶏のから揚げやとり天は言うに及ばず、肝や砂肝のソテーに鶏肉のミンチボールが入った卵スープと、文字通り鶏肉がふんだんに使われた料理だった。ご飯と箸休めのサラダもセットになっているが、それでも肉肉しいメニューである事には変わりない。

 そんな料理を前に、米田さんは旺盛な食欲でもって黙々と平らげていたのだ。食べる事への執念めいたものを見せる彼女に少し気圧された源吾郎であったが、それもほんの一瞬の事だった。というのも、米田さんの本職(?)が傭兵である事、元々彼女は動物のキツネから変化した妖狐である事を思い出した為である。傭兵などと言うのは肉体労働の極みのような職業だし、イヌ科の獣が食べれるときに食べるという習性がある事は源吾郎も知っている。というか源吾郎だって、食い溜めめいた事を行う事もあり、食い溜めの後は一食くらい抜かしても問題無かったりする事があった。

 食べる手を止めた米田さんがこちらを向いたのを見計らい、源吾郎は言葉を続けた。少しだけ周囲を見やり、店員が聞き耳を立てていないか注意を払う事も怠らない。

 

「あ、もちろんさっき入った喫茶店も良かったですよ。ですけど、このお店はご飯も美味しいですし、何かホッとしますね」

 

 源吾郎の言葉に、米田さんはうふふ、と静かに微笑んだ。

 

「島崎君が気に入ってくれて嬉しいわ。私も、どっちかって言うとこういう所の方が気軽に入れるから、お気に入りなの」

 

 そうなんですか、そうなんですね……迂闊に飛び出してきそうになった言葉を呑み込み、源吾郎は軽く首をかしげるだけに留めておいた。最初に入った喫茶店もまた、彼女に相応しい場所のように思えたからだ。しかしそれを口にすべきなのかどうかは判断しかねた。

 その代わりとばかりに、源吾郎は米田さんの料理に視線を走らせた。

 

「そうですね……確かに米田さんも夢中で召し上がってましたもんね」

「ええ。やっぱり食事は大事だもの。特に私は肉体労働を専門にしてるから……」

 

 食べっぷりについて指摘するのはマズかっただろうか。そんな考えも脳裏をよぎった源吾郎であったが、米田さんを見る限りそうした懸念は杞憂だった。

 

「うふふ。私も大黒ネズミの料理は好きなの。だけど今日は鶏肉を食べたい気分だったから、鶏つくし定職を選んだの」

「鶏料理も美味しいですもんねぇ……」

 

 源吾郎は定食に手を付けつつ、互いに好みの食べ物だとか普段の食生活についていつしか話し合っていた。いつの日か米田さんのために手料理を振舞う事が出来たなら、それはどんなに幸せな事だろうか。そんな事を源吾郎は思っていた。

 

「米田さん。こんな時間まで僕に付き合って頂いてありがとうございます」

「良いのよ島崎君」

 

 楽しいひとときというものは永遠には続かない。始まりがあれば終わりが存在するのは致し方ない事だ。

 源吾郎と米田さんのデート的な物は、夕方前の午後四時を回った所で静かに終わりを迎えていた。大衆食堂で食事を済ませた二人は、そのまま港町を散策し、ついでちょっとした買い物に洒落込んでいたのだ。道中百貨店の中で行われている小さな展覧会を覗いてみたり、おもちゃのような建物の中でひっそりと行われていたギャラリーを冷やかし半分に眺めたりもしたのだけれど。

 そうしてぶらついた二人は、朝に合流したハト山で解散する事になった。ハト山は待ち合わせスポットとなっているだけあって駅からのアクセスも良好である。尼崎にしろ吉崎町にしろ、電車でねぐらに戻るには避けて通れない場所でもあったのだ。

 さて、別れ際に礼を述べた源吾郎であったが、それに対して米田さんは柔らかく微笑んでいた。本来は柔和な妖物《じんぶつ》なのかもしれない。そんな事を思わせるような表情だった。

 

「最初は島崎君も緊張していたみたいだけど、楽しんでくれたみたいで私も嬉しいわ」

「そんな……」

 

 米田さんの言葉に、源吾郎は思わずうろたえてしまった。米田さんが満足している事に素直に喜べばいいだけなのかもしれない。しかし今日はどうにもままならなかった。妙に気持ちが昂っているし、それでいて自分の思いを上手く表現できずにいる。

 断っておくが、源吾郎はコミュニケーションが苦手な若者ではない。六年間演劇部で活動し、しかも女子ばかり多い部内で副部長の座まで勝ち取った力量の持ち主だ。虚実が混じる場合があると言えども、コミュニケーションはむしろ得意な方だと思っていた。だが、そうした源吾郎の武器も、米田さんの前では全く効果を発揮しないのだ。

 いや、ここは雷園寺のアドバイス通り、素直に振舞った方が良いのかもしれない。笑顔の米田さんを見つめながら、源吾郎は一秒も満たぬ短時間で判断を下した。

 

「……僕ってば仕事の話ばっかりしてしまいましたので、米田さんは退屈に思ったりしなかったか、それが少し心配だったんです」

 

 相槌を打つだけの米田さんに対し、源吾郎はなおも言葉を続けた。もう少し、女の人が喜びそうな事とかが出来れば良かった――源吾郎のこの言葉に、米田さんの表情が揺らいだ。

 

「島崎君。私ね、君の仕事の話もとっても面白いって思ったのよ? 私の気を惹くためじゃあなくて、本当に仕事を頑張ろうと思っていて、それで仕事が楽しいって思ってるって事が伝わってきたから……」

 

 源吾郎の口からは間の抜けたような息が漏れ、唇は笑みというにはいささかいびつな形に歪んでしまった。米田さんはもう笑ってはいなかった。真面目な、真っすぐな瞳をこちらに向けている。

 

「でもね島崎君。頑張ってるのは良い事だけど、あんまり頑張り過ぎて無理をしたり……危ない事に足を突っ込まないように気を付けるのよ。もちろん、島崎君には紅藤様や萩尾丸様がいらっしゃるから大丈夫だと思うけれど」

「……米田、さん」

 

 気遣ってくれているんですね。ありがとうございます。そんな言葉を源吾郎は吐き出せずにいた。米田さんが、またしてもうら寂しそうな表情を見せた事に気付いてしまったからだ。

 しかも彼女の表情は、一瞬の後に変化していた。源吾郎が知っている、余裕のある年上の妖狐としての笑みが彼女の顔に舞い戻っていたのだ。

 

「島崎君。私も今日はとっても楽しかったわ。だからね、()()()()は仕事の事とかも気兼ねなく私に相談しても良いのよ!」

「あ……はい。ありがとう、ございます……」

 

 今度という事は、また彼女と会う事が出来るという事なのだ! 明るく微笑む米田さんを前に、源吾郎はまたしても心臓の拍動をはっきりと感じ取っていたのだった。



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キツネの運ぶ手土産談義

 月曜日。週初めの憂鬱さなどとは一ミクロンも無縁である事をまざまざと見せつけながら、源吾郎は颯爽と研究センターに出社した。居住区暮らしなので出勤時間など微々たるものなのだが、そこはまぁ良いだろう。

 片手に提げていた紙袋をこれ見よがしにテーブルの上に置く。百貨店のロゴマークが入ったやや大ぶりの紙袋の中に入っているのは、米田さんとデートした時に購入した物たちだった。内訳は柚子とキンカンのジャムやぶつ切りにしたウミヘビの干物、それから皆に配れる個別包装のクッキーなどとバリエーションに富んでいる。

 これらは静養中の双睛鳥への心づけと、研究センターの面々へのちょっとした手土産として購入した物だったのだ。休日に遠出をしたものが手土産を携えてやってくる事は、新社会妖である源吾郎も知っている。兄姉たちからそう言う話は聞かされていたし、部活の仲間内でもそんな事をやっていた事があるからだ。

 

「おはようございます島崎先輩。へへへ、何かとっても嬉しそうやん」

 

 快活な声と共に雪羽が姿を現した。探す手間が省けたと喜ぶ半面、ニヤニヤ笑いを浮かべる雪羽を見ていると何処か気恥ずかしくなってしまった。嬉しそうな理由は雪羽も解っているだろうし、源吾郎がこれから何を言うかも雪羽は勘づいている事だろう。

 その雪羽の視線は、源吾郎から外れて紙袋に向けられた。今一度源吾郎と目を合わせた時には、雪羽は少し驚いたような表情を浮かべている。

 

「これは何ですか、先輩?」

「何って、ちょっとしたお土産だよ」

 

 雷園寺の分ももちろんあるからな。そう言って紙袋からクッキーの箱を取り出そうとした。そんな源吾郎を見ながら、雪羽は軽く吹き出している。

 

「ぷふっ。週末は米田さんとのおデートを楽しんでたと思っていたのに……まさかお土産を持ってくるなんて予想外だよ。あれでしょ、確か参之宮の辺りをぶらついたんだっけ」

「その通りだけど……」

 

 おかしがる雪羽を見ながら、雪羽と源吾郎での参之宮の認識の違いを唐突に悟った。亀水在住だった雪羽にしてみれば、参之宮は近場の範疇に入るのだろう。一方の源吾郎は白鷺城下の出身である。実は白鷺城から参之宮の距離は、参之宮から他府県であるはずの大阪よりも遠い。源吾郎はだから、無意識のうちに参之宮を遠くにあると思っていたのかもしれなかった。

 照れくさくなった源吾郎は咳払いすると紙袋の中からジャムの瓶を取り出した。キンカンのジャムと柚子のジャムである。午前中に米田さんと共に入った喫茶店で購入した物だった。それぞれお湯に入れて溶かせばキンカン湯と柚子茶が楽しめるという代物である。

 

「何、このジャムは元々双睛鳥様を元気づけるために良さそうだと思って買ったんだよ。それで、よく考えれば雷園寺君も果物とか甘いものが好物だったから、それで君の分も用意したんだよ」

 

 源吾郎はそこまで言ってから、気遣うような眼差しを雪羽に向ける。

 

「とはいえ、俺が個人的に気に入って買っただけだからさ、もしかしたら雷園寺君の口に合うかどうかは判らないんだ。蜂蜜で甘みを付けてあるとはいえどっちも柑橘類だしさ」

「柑橘類言うてもキンカンジャムと柚子のジャムだろう? レモンじゃあるまいし、俺は平気だよ。むしろ美味しそうだなって思ってるくらいさ」

 

 俺がミカンとかを喜んで食べるのは知ってるでしょ? 何故か少し得意気に微笑む雪羽を見て、源吾郎は安堵していた。

 もちろん、雪羽がジャムを受け取らない時の選択肢も考えていた。その時は二セット分そのまま双睛鳥に渡すか、一セットは研究センターに寄贈しようと思っていたのだ。併設する工場には自販機があるものの、研究センター内ではインスタントコーヒーや紅茶などと言った、お湯を注いで作れる飲み物の基が大体常備されていたためだ。

 そして、そう言う事も考慮してクッキーなども購入していた訳だし。

 それはさておき、源吾郎は雪羽の返事が素直に嬉しかった。自分が美味しいと思ったものを、雪羽も良さそうだと喜んでくれたからだ。いささか子供じみた考えかもしれないが。

 そんな事を思っていると、雪羽がじっとこちらを見つめている事に気付いた。先程までとは異なり、何処か神妙な面持ちである。

 

「そう言えば先輩、さっき双睛の兄さんの為にキンカンジャムとかを買ったって言ってたけれど、他にはどんな物を買ってるの? その紙袋だと、他にも色々買い込んでいるみたいだけど」

 

 雪羽の視線は紙袋に注がれていた。何も言わずともそこまで解るとは。雪羽の洞察力の高さに感心しつつ、源吾郎は頷いた。

 

「後はウミヘビの干物とかが良い感じに売ってたから、それも少し買ったんだ。双睛鳥様は蛇もお好きだから。もちろん、紅藤様や青松丸先輩へのお礼も兼ねているんだけどね」

「紅藤様たちへのお礼って?」

「お正月休みに帰省している間、ホップの面倒は青松丸先輩が見てくださったんだ。本当はもっと早くお礼をしたかったんだけど、双睛鳥様の事もあってそれどころじゃあ無くなったからさ」

「やっぱり先輩は律義だなぁ」

 

 雪羽はそう言って笑っていたが、しばらくすると何処かホッとしたような表情を浮かべた。どうしたのだろうと思っている間に、彼はその理由を口にし始めている。

 

「実はさ、俺も双睛の兄さんの為にちょっとした物を用意していたんだ。それでさ、先輩が用意した物と被ってないから良かったなって思ってたところ」

「まぁ別に物が被ってもそんなに不都合はないと俺は思うけど。それで、雷園寺君は何を用意したの?」

「邪眼除けのお守りさ。亀水にも色んなお店があるからね」

 

 雪羽が用意したという物品の名を耳にした源吾郎は、思わず片頬が引きつるのを感じずにはいられなかった。双睛鳥は魔力の宿るおのれの眼を忌まわしく思っている訳であるが、しかしだからと言って邪眼除けなどをプレゼントするのは如何なものであろうか。

 訝る源吾郎の眼差しに気付いたのか、雪羽は敢えて朗らかな笑みをこちらに向けた。

 

「まぁ確かに驚かれるのも無理はないかもですけれど……双睛の兄さんは案外邪眼除けはお好きなんですよ。自分というよりも、周りの妖のためにご用意なさっているのかもしれませんし、何より舶来ものだとブローチとかアクセサリー仕立てなんで普通にお洒落だしね」

 

 雪羽はそこまで言うと、ほんのりと笑みを浮かべて言い添えた。

 

「よく思い出してよ島崎先輩。双睛の兄さんは、あの偏光眼鏡を新調するために、セシル様の工房に出向くようなお方なんだぜ。だからさ、表立って宝石とか金ぴかの光り物を好まなくってもさ、趣味の良いアクセサリーとかに心惹かれたりなさる訳なんだよ」

 

 成程ね。源吾郎はそう言って納得する事にした。考えてみれば、双睛鳥の事は雪羽の方が源吾郎よりも多くを知っているのだ。親戚のお兄さんのような存在だったとも言っていたではないか。双睛鳥が喜ぶだろうと雪羽が判断したのだら、その判断については狂いはなかろうと思う事にした。

 雪羽はヤンチャな所があり、悪ガキだったところもあったのかもしれない。しかし陰湿な嫌がらせや厭味を言うような手合いで無い事は、源吾郎もよくよく解っていた。

 それはそうと、金ぴかの光り物とかはそれこそ雪羽や三國が好みそうな代物だよな。そんな考えが脳裏をかすめたが、源吾郎はそう思うだけで特に口にはしなかった。

 源吾郎はみんなに配る用のクッキーもある事を雪羽に伝えた。もちろんこっそり雪羽にジャムを渡す事もできたのかもしれない。しかし師範や上司を差し置いてそう言う事をするのは気が引けたのだ。

 ちなみにクッキーはやはり妖怪向けであり、獣妖怪たちが食べても大丈夫な代物である。人間が食べたら味が薄いと思うかもしれないが、そこはまぁ致し方ない所だ。

 クッキーについては先に配布しておこうか。そんな事を思った源吾郎を雪羽が引き留めた。何処か興奮した様子の彼は、翠眼をぎらつかせて頬を火照らせながら源吾郎を見つめている。

 

「島崎先輩。クッキー配りなんて後でもできるだろう。それよか俺、先輩からとっておきのお土産をまだ受け取ってないんですよ」

 

 とっておきのお土産とは何の事であろうか。割と素直に悩んでいた源吾郎に対し、雪羽は間髪入れずに言い足した。

 

「お土産はお土産でも土産話がまだじゃないですか! 米田さんとのおデートの結果はどうだったんです?」

「そうだ、それをすっかり忘れとったわ!」

 

 米田さんとのおデート。気取っているような様子で放たれた雪羽の言葉に、源吾郎も鋭く反応した。もちろん、源吾郎は先日のデートの結果は雪羽に伝えるつもりだった。単に話題を共有するためではない。色恋に詳しい雪羽の意見を仰ぐ事を目的としていたのだ。要するにフィードバックだ。

 訳知り顔で雪羽は源吾郎を見つめ、流れるように言葉を紡いだ。

 

「まぁ、先輩の様子からして良さそうな感じだって言うのは何となく察しているんだけどさ。でもやっぱり、先輩の事だからあれこれ詮索されるより自分で話したいよね?」

「ははは、男女の恋愛に詳しい雷園寺先生にお話を伺えるのなら、それは嬉しい事さ!」

 

 おどけたように源吾郎が言うと、雪羽もつられて笑い始めた。

 そうして源吾郎は、デートの結果について話し始める事となったのだ。



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雷園寺講師の恋愛講座

「それでは島崎君。一昨日の戦果についてこの僕に教えてくれたまえ」

 

 普段とは異なるもったいぶった口調で、雪羽は半ばおどけながら源吾郎に問いかけた。おどけている事が解っているから何処か滑稽な印象を与えるが、それでも雪羽の振る舞いは様になっていた。黒板を指し示すための指示棒とか、短い乗馬鞭でも持っていたら、それこそバイトの塾講師とか家庭教師にも見えるかもしれない。

 初めてのデートだからどんなのが正解か解らないけれど……言いながら、源吾郎は静かに言葉を紡いだ。

 

「合流したのが朝の十時ちょっと前で、そこからかれこれ五、六時間ぐらいは一緒にいたんだ。いや、米田さんがこの俺に付き合ってくれたと言った方が良いかもしれない」

「初デートで一緒に一泊するなんて事はまず無いだろうから自然な流れだわな。でも良かったじゃないか、六時間も大好きな米田さんと一緒にいる事が出来てさ」

 

 にやりと笑う雪羽に対し、源吾郎は照れ笑いを返すのがやっとだった。わざわざ一泊と口にするところとかニヤニヤとした表情とかから、雪羽の好色さを感じ取ってしまったからだ。そりゃあ若くて血の気が多ければそうした事にも興味はあるだろうけれど。源吾郎だってもちろん興味はあるし。

 

「――それで島崎先輩。一緒にいる間は何をなさっていたんです?」

「まず喫茶店で暖を取ったんだ。そこで俺はキンカン湯を頼んで、そこのキンカン湯が美味しかったからキンカンジャムと柚子ジャムを買ったって訳。ふふふ、お洒落なお店だと思っていたら、ジャムとかクッキーとかケーキも売っていたんだ。良い所だったぜ」

 

 店員の妖《ひと》も感じのいい妖《ひと》だったなぁ……源吾郎はしばし思案に耽っていた。本職は研究職である源吾郎だが、生誕祭の折にはウェイターかウェイトレスとして立ち働かなければならない。そう言う目線で、ついつい飲食店の店員たちを眺めていたのだ。

 雪羽はその話に関心を示しているのか否か判らない調子で、先を進めた。

 

「後は米田さんがお気に入りだって言う食堂でお昼を摂って、それからブラブラと港町の買い物を楽しんだって感じかな」

 

 反省点はもちろんあるよ。呟いた源吾郎は視線を落とし、いきおい俯く形になった。

 

「喫茶店にしろ大衆食堂にしろ、米田さんがここに行きましょうって決めてくれたところだったんだ。俺はデートプランを練りきれていなかった。何処へ行こうかって考えていた気もするんだけど、米田さんを前にしたらそんなの吹き飛んじゃって……」

 

 全くもって情けないよな。その言葉は自分に向けた言葉だったのかもしれない。しかし顔を上げてみると、雪羽は軽く首を振るだけだった。嘲りの色もその顔には無い。

 

「情けなくも何ともないって。先輩の事だから、米田さんに会えた事が嬉しくて、浮かれちゃっただけなんだからさ。心配しないで島崎先輩。何事も経験だって、紅藤様や萩尾丸さんも仰ってるじゃないですか。先輩は女の子とおデートする経験が無かったからうろたえただけで、回を重ねればきっと洗練されるはずだと俺は思うよ。ははは、先輩って本当は賢いんでしょ?」

「賢さがどういう物か解らないのに、賢いかどうかなんて判断は付けられんだろうに」

「そう言う意見が出る事こそが賢さの表れですってば。考え無しのアホだったら、賢いって言われて浮かれるだけですし」

「…………」

 

 話の流れが変わった事に、源吾郎はどう反応して良いか解らず少し戸惑ってしまった。雪羽はもちろんそんな心境を汲み取ったようで、笑いながら言葉を紡ぐ。

 

「あはは、ちょっと話がズレちゃったか。で、米田さんとはどんな話をしたの?」

「仕事の話とか、玉藻御前の末裔を名乗る狐たちの話かな。雷園寺君の話通り、米田さんは仕事の話も興味を持って下さったんだ」

 

 源吾郎の顔はほころんでいたが、雪羽は逆に何か考え込むような表情を見せていた。

 

「玉藻御前の末裔を名乗る狐たちか……先輩の恋愛話云々を抜きにして興味あるかも。でもなぁ、その話はその話で長話になりそうだし、今は流しておくか」

 

 そう言った雪羽であったが、源吾郎はむしろ雪羽の態度にこそ興味を持っていた。玉藻御前の末裔を名乗る狐たち。そうした面々を、それこそパンダのような珍獣でも見たかのような表情で雪羽は口にしていたのだから。

 

「まぁうちは祖母が気にしない性質だからさ、自称・玉藻御前の末裔も大勢いるって事さ。中には玉藻御前にお仕えしていた妖狐たちの子孫とか、割と由緒正しい狐もいるらしいんだけどね。

 それはそうと雷園寺君。雷獣たちの中には雷園寺家みたいな名家の出身だって名乗るやつっているのかな?」

「そんな不敬な輩、いる訳がないだろう!」

 

 しまった、と源吾郎が思った時には雪羽の表情は一変していた。猫のように瞳孔が大きく黒々と広がり、滑らかな銀髪が逆立っている。肌の表面や髪の間で生じた小さな放電を、源吾郎は目の当たりにした気がした。

 

「……他の家の事は知らないけれど、少なくとも雷園寺家ではそういう事は赦されていない。仮にそんなやつがいたら、すぐに誅殺されるだろうね」

 

 口早に雪羽は言うと、ぎり、と牙を噛み締めたようだった。

 

「雷園寺家の()()()()()()雷園寺千理でさえ、一部の雷獣たちからは雷園寺家の者だと認められていない程なんだぜ? 先代当主の夫で、きちんと次期当主候補を造るという大役を担ったにもかかわらず、な」

 

 雪羽はきっと、雷園寺千理氏を……実の父親である現当主の事を雷園寺家の者だと認めていない側の雷獣なのだろう。源吾郎はそんな事を思ったが、もちろん空気を呼んで口にする事は無かった。

 

「ま、そんな訳だからさ、雷園寺家の雷獣だって名乗るのは本家と分家の連中だけさ。偽者連中が入り込む余地なんて無いんだよ」

 

 先程と同じような説明ではあるものの、雪羽の声にはいくらか穏やかさが戻っていた。

 

「さっきは悪かったよ雷園寺君。実家の事で、君が色々と思い悩んでいる事は俺も知っていたはずなのに……それこそ考え無しだったよ」

「別に良いの。先輩は少し浮かれていただけだから」

 

 源吾郎の謝罪に対し、雪羽は朗らかな様子で受け止めていた。

 

「多分俺も……浮かれているというか何かちょっと油断して、それで思っていた事が顔に出ちまったんだと思う。だから先輩も、その事に気付いて質問しちゃっただけなんだろうし」

 

 そういうのって油断になるのだろうか。元より雪羽は考えている事が顔に出やすい性質だし……そんな思案を重ねていた源吾郎であったが、それはそうだという事で結局流す事にした。

 

「それじゃあおデートの話に戻ろうか」

 

 雪羽はそう言いつつも、何処まで話したっけ……と視線を彷徨わせていた。仕事の話をしたというあたりだと源吾郎が助け舟を出すと、雪羽は何度も頷いていた。

 

「そうだった、そうだったよ。仕事の話とか、仲間の話とかで盛り上がったんだよな。二人とも狐だし、仕事好きだからそりゃあ盛り上がっただろうね」

「それで雷園寺君。君としてはどう思う? 俺のデートは成功したのかな?」

 

 源吾郎が尋ねると、雪羽はとびきりの笑みをその面に浮かべた。

 

「初デートとしては上首尾だと思うよ。米田さんも、きっと先輩の事を憎からず思っているんじゃないかな。そうでなければ、初めて二人っきりで会うのに五時間も六時間も一緒にならないってば。

 ましてや米田さんは不定期労働者でもあるんだからさ」

 

 上首尾だと思う。雪羽のこの言葉が源吾郎の中では何度も反響しているかのようだった。文字通り浮かれた源吾郎に対し、雪羽は少し首をかしげながら言い添える。

 

「もちろん、女の子が媚びて貢がせようと思って男の言いなりになる事はあるだろうけれど、米田さんと先輩の事を思ったらそう言うのも無いだろうしね。まぁその……先輩も好きな女の人に頼まれたら、ついつい欲しい物を買っちゃいそうな気配はするけれど」

「それは金額によりけりだよ」

 

 雪羽の言葉に、源吾郎はきっぱりとした口調で言ってのけた。

 

「懐具合でどうとでもなる様な物だったら買ってあげるかもしれないかな。だけど、俺もそんなに持ち合わせがある訳じゃあないから……」

「天下に名だたる九尾の末裔とは思えない言葉っすね。でも、思ったよりも用心深そうだから安心したよ」

「九尾の末裔とかは関係ないだろうに。確かにその通りではあるけれど、今の俺はサラリーマン、それも平社員なんだからさ」

 

 違いないね! 源吾郎の絞り出すような言葉に、雪羽も結局納得の色を見せてくれた。彼も貴族妖怪ではあるものの、教育係である萩尾丸に生活を管理されている身分である。何かと金銭的にままならぬ事は彼も解ってくれるだろう。

 次のデートの約束は済んでいるのか、そう言うのは早めに切り出した方が良い。恋愛講座はひとまずそうした話でしめとなった。始業時間まであと十数分あったのだが、今日は月曜日でミーティングがあるためだ。



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大妖怪も科学技術を尊び使う

 雷園寺講師の恋愛講座、もといデートの戦果についての報告が終わった所で、源吾郎と雪羽はミーティングに臨む準備を手早く進めた。と言っても、仕事用のノートを携えて事務所奥にある長テーブルに向かうだけであるのだが。

 表向きにはミーティングは始業時間に開始する事になってはいる。だが実際には、始業時間よりも数分ばかり、場合によっては五分ほど早めに始まる事も珍しくない。それは研究センターの妖数が少ない事と、上席者たちが早めにスタンバイできる環境下である事が主だった要因であろう。

 何せセンター長である紅藤は研究センター内に暮らしているようなものだし、息子の青松丸も同じような状況である。萩尾丸は比較的遠方から研究センターに通っているが、出社時間は比較的早い。サカイ先輩は神出鬼没であるからそもそも時間に縛られていないような部分も感じられる。

 そうした動きに対して、源吾郎も雪羽も既に順応していた。もっとも、ミーティングの準備と言っても大それたものではない。ノートと筆記具を用意して集まるくらいのものだ。計画の資料については今はサカイ先輩が用意している訳だし。

 しかし今回は少し様子が異なっていた。テーブルの上にラップトップが鎮座していたのだ。一人一人にあてがわれているデスクトップとは異なり、測定器や小型マイクロスコープなどに接続して使うためのラップトップである。

 

「えっとね、双睛鳥《そうせいちょう》さんもリモートでミーティングに参加なさる予定なの。だ、だから、島崎君か雷園寺君はその準備をしてくれる、かな?」

 

 二枚貝のように閉じられたラップトップについて説明したのはサカイ先輩だった。彼女は資料配りをしており、紅藤や萩尾丸はそれらを受け取って内容を確認している。萩尾丸の手許には、さも当然のように広げられたメモ帳があった。

 

「はい、僕がすぐに準備します!」

 

 サカイ先輩の言葉に雪羽が勢いよく応じる。ラップトップを開いて電源を入れると、彼は思い出したように源吾郎の方に向き直る。

 

「今日は俺が大方準備はするけれど……そうだ先輩。先輩はLANケーブルを持ってきてください」

 

 いつになくキリッとした雪羽の姿に、源吾郎は少し気圧されていた。もちろん返事をしてコード類を収めた小物入れに向かった源吾郎だったのだが、その反応には若干のタイムラグがあったのだ。

 雪羽はLANケーブルを受け取ると、慣れた手つきで一方をラップトップの側面に接続し、それから内線電話の一つを引き抜いてそちらに他方を接続させた。これでラップトップもインターネットに接続されたのだ。

 

「リモート、か……」

 

 源吾郎が呟くと、雪羽が振り返ってこちらを向いた。ラップトップは既に起動しており、のみならず何がしかのウィンドウが開かれている。もちろん雪羽が操作して起動させたものだ。きっとリモートでのミーティングに使うためのソフトかアプリなのかもしれない。

 

「双睛《そうせい》の兄さんが、偏光眼鏡が無かったら俺たちの前に顔を出したくないって言うのは先輩だって知ってるだろう? でももしかしたら偏光眼鏡が届くかもしれないし週初めなんだから、リモートで参加なさるのはごく自然な事だと思うけれど」

 

 雪羽の言葉は少し刺々しかった。それを感じ取った源吾郎は、手をひらひらさせながら言葉を紡ぐ。

 

「違うってば。俺とて双睛鳥様が参加なさることについては何も言ってないだろうに。そうじゃなくてさ、パソコンのリモート機能なんて使われるんだなぁって思っただけさ」

「……何だ、()()()()で驚いていたんですか」

 

 ラップトップをそれとなく指し示す源吾郎の姿に、雪羽はにやりと笑った。

 

「そりゃあリモートだって必要とあらば使うでしょうとも。そういう機能がきちんとパソコンに具わっているんですから。あれだよ島崎先輩。パソコンがおかしくなった時とか、システム屋さんに直してもらうのだってリモート操作が役に立つ時とかもあるんだし」

「そういう物なんだなぁ」

 

 そういう物だとも。源吾郎の間の抜けた呟きを雪羽は抜け目なく拾い上げていた。

 日頃よりヤンチャだの脳筋気味だのと見做されている雪羽であるが、しかしその一方で機械の扱いに精通しているという側面を持ち合わせていた。雷獣が雷撃や電流になじみの深い種族であり、尚且つ彼の育った環境によるものなのだろう。実際雪羽の叔父叔母たちの中には電気系統の職に就いている者も数名いるらしいし、雪羽自身も幼少のころよりコンピューター――三十年ほど前の事であり、当時はまだパソコンという単語は使われていなかった――に触れる機会があったというのだから。

 源吾郎とてパソコンの類はヒト並には使う事は出来るのだが、雪羽ほど積極的にパソコンを活用しているわけでは無い。年代的に、源吾郎はむしろスマホなどの方が馴染みが深かったのだ。

 リモートなどとカッコつけて言っているけれど、要は離れた所の様子を見、そしてこちらの声などを所定の場所に伝えるという事では無いか。それならば妖術を多少駆使すれば行えるのではなかろうか。源吾郎はふとそんな事を思っていた。

 妖怪たちにとって、人間界に流布している科学技術は自身を脅かす脅威でも何でもない。一般の妖怪、特に人間社会に姿を見せる妖怪は科学技術に適応して生きているし、上位の妖怪にしてみれば科学技術は妖術の()()()()に過ぎない。

 だからこそ、萩尾丸や双睛鳥にしてみれば玩具みたいなパソコンを頼ってリモートを行う事が、何とも不思議な事に思えたのだ。

 しかし源吾郎の考えとは裏腹に、打ち合わせの段取りが進んでいく。

 もう既に雪羽はリモート会議の準備を終わらせたらしい。ウィンドウの画面には、双睛鳥の名と共にSNSのアカウントめいたアイコンが表示されている。

 アイコンは顔写真ではなく、コカトリスをヒヨコ風にデフォルメしたイラストだった。可愛らしくも魔物らしさが感じられる、センスの良さを源吾郎は感じていた。

 

 ミーティングは概ね普段通りだった。打ち合わせの日程や来客の予定などと言った事柄が語られたのだ。なお打ち合わせや来客対応は萩尾丸や青松丸などの上席者が行うため、源吾郎たちは直接的に関与するわけでもない。

 ただ一点だけ、普段とは異なる内容がこの度のミーティングには織り込まれていた。双睛鳥の偏光眼鏡が本日ないし明日には到着する。萩尾丸の口からそのような報告がなされたのだ。

 

「知っている妖もいると思うけれど、セシル様は運送便を用いてこちらの研究センター宛に届くように手配を進めてくださっているんだ。今しがた、メールで送り状の連絡も入ったからね。

 多分大丈夫だとは思うんだけど、工場棟の方に紛れ込む可能性もあるから、その辺りは皆で気を付けて欲しいんだ」

「確かに研究センターと工場棟は同じ住所らしいですもんねぇ」

 

 萩尾丸の言葉に訳知り顔でそんな事を言うのは雪羽だった。やはり雷園寺は俺よりも年長の妖怪なのだな。源吾郎は静かにそう思っていた。源吾郎のデートの様子を評し、慣れた手つきでリモートの段取りを進めていたのを見たからそう思うのかもしれない。

 

「それにしても、セシル様も運送便をお使いになられていたんですね」

 

 源吾郎のその呟きには、特に深い意味は無かった。純粋に、浮世離れした魔女のような雰囲気のセシルが、運送便で偏光眼鏡を届けるという一般妖怪めいた選択をした事について驚いていただけだ。

 多くの魔物を従え、ドラゴンであるが魔女として魔術に精通している彼女の事だから、魔法なり妖術なりを使ってこちらに送り届ける事もできるのではないか。そんな風に源吾郎は思っていたのだ。

 

「妖術で全てを解決できるほど、世間は単純では無いのだよ、島崎君」

 

 源吾郎の呟きを拾ったのはやはり萩尾丸だった。驚いて目を瞠る源吾郎の姿を、彼はさも面白そうに眺めているではないか。

 

「妖術を習得すれば出来る事の幅が広がる。紅藤様や僕が、過去に君にそう言った事も確かにあるかもしれないね。だけど島崎君。使える力や妖術があったとしても、特に何も考えずに使いたい時に使えば事足りる様な物では無いんだよ。ある程度術を使いこなすようになったら、その術を使うべきなのか、使わず別の手で切り抜けるべきなのか判断しなくてはいけないからね。どうでもいい術だったとしても、それを使う事で消耗する事には変わりないんだから」

「確かにそうですね」

 

 解るよね、などと萩尾丸は丁寧に問いただしはしなかった。しかし消耗、という言葉を聞いただけで源吾郎には十分だった。源吾郎は半妖であるがために、純血の若妖狐よりもスタミナ面・体力面で劣っている。その自覚があったからだ。

 

 運送便の運転手が研究センターにやってきたのは、午後の中休みの前後の事だった。朝の打ち合わせで言っていた通り、双睛鳥の偏光眼鏡が届いたのだ。

 セシルの工房から届けられたそれは、ティッシュペーパ―の箱よりも小ぶりな段ボール箱だった。段ボール箱と言っても、よくある薄い褐色の不愛想なデザインのものではない。全体的にお洒落な箱だと源吾郎はまず思った。木目調の模様がプリントアウトされており、箱の中程には工房の名前と思しき横文字が記されている。フランス語であろう事は源吾郎も何となく察していた。そうした箱であったから最初は木箱の類だろうかと源吾郎は思ったほどだった。段ボールの割には頑丈な造りであるように思えたし。普通の段ボールではなく、セシルが工房にて使うために特注している者なのだろう。

 そしてその箱の上部には、ワレモノ注意のロゴマークもきちんと印字されていた。妖怪たちは術を使うべき時を判断する。それは大妖怪とて同じ事である。萩尾丸がミーティングの際に言っていた言葉が、源吾郎の頭の中で反響していたのだった。



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化鳥、邪眼を封じて大いに喜ぶ

 源吾郎は受け取った段ボール箱をすぐさま青松丸に手渡した。双睛鳥の静養している部屋には、源吾郎や雪羽では出向く事が出来ないからだ。青松丸に手渡した事には深い意味はない。雉妖怪であるがゆえに、青松丸が主だって双睛鳥の面倒を見ていたから。強いて言えばそれくらいの事だろうか。

 

「先輩、双睛の兄さんの眼鏡が届いたんですね」

 

 青松丸が事務所を出て何処かへ向かうのを見届けている間に、休んでいたはずの雪羽がこちらに歩み寄っていた。源吾郎は雪羽の声を聞きその表情を見て首を傾げた。

 

「見ての通り青松丸先輩にお渡ししたところ。それはそうと雷園寺君。どうしてそんなに焦っているの?」

「焦るも何も、双睛の兄さんが自分のオフィスに戻る前に、プレゼントを渡さないといけないじゃないか」

「ああ、それでね」

 

 プレゼント、という単語と雪羽の切羽詰まった表情は何処かちぐはぐな感じがしてしまったが、源吾郎はそれでも納得していた。源吾郎がお土産としてウミヘビの干物だとか柑橘類のジャムだとかを購入して用意していると言った時に、雪羽もこれに張り合うかのように邪眼除けのお守りを買ったのだと言っていたではないか。

 

「さっ、先輩ものんびりしてないで準備しなよ」

 

 雪羽はそう言うと身をひるがえして事務所を後にした。邪眼除けのお守りとやらはどうやらロッカー室に置いているのだろう。一方の源吾郎は、敢えてロッカー室に戻る必要は特に無かった。研究センターの皆にクッキーを配ったり雪羽に柑橘類のジャムを渡したりしたので、双睛鳥や青松丸に渡すための物品もデスク付近に置いていたためだ。

 

「研究センターの皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 

 双睛鳥が研究センターの事務所にやってきたのは、青松丸が段ボール箱を届けに向かってから十分足らずの事だった。源吾郎と雪羽が最後に彼を見たのはセシルの工房での事だった。こうして双睛鳥と対面するのは一週間ぶりの事である。セシルが新調した偏光眼鏡をきちんとかけている事は言うまでもない。

 一人きりの部屋で静養しつつ仕事に励んでいたという双睛鳥は、思いのほか元気そうだった。頼みの綱である偏光眼鏡を手に入れたという安堵感もあるだろうし、何より肌艶がよく血色も良い。

 

「ご迷惑だなんて……双睛鳥君。あなただって若いんだからそんなに気を遣わなくても良いのよ」

 

 普段よりもお堅い様子の双睛鳥を眺めながら紅藤はそう言った。もちろん優しげな眼差しを若手幹部に向けてはいるのだが、口許には笑みの形を作っていた。特に若いんだから、という部分を強調していたように聞こえたのは、源吾郎の気のせいでは無かろう。

 そうだとも、と萩尾丸も紅藤に同意するような形で頷いている。萩尾丸が、こうして無条件で紅藤の意見に賛同するのは珍しい事だった。研究センター内では営業や経営的な方面を任せられている萩尾丸は、紅藤の発言に対して何かと意見を述べたり進言する事が常だったからだ。或いはそれこそが萩尾丸の役目であり、紅藤の望んでいた事なのかもしれないが。

 

「今回の件はあくまでも不可抗力であり、双睛鳥君ではどうにもならなかった事柄でもあるんだからさ。困っている時に誰かに頼るのは自然な事なんだよ。僕や紅藤様だって、何かあれば他の妖に力添えしてもらう他ないんだからさ。

 それに、普段マイペースに過ごしていた青松丸君も、今回ばかりは年相応の仕事を行う事が出来たから、それはそれで良かったと思っているんだよ」

 

 そうだろう青松丸君。萩尾丸は弟弟子にして師範の息子たる青松丸の名を出し、それだけではなく青松丸に直接声をかけてさえいる。やっぱり近い種族ですし、などと青松丸は当たり障りのない事を言っているが、源吾郎はこの一連の流れにはそこはかとない違和感を覚えていた。

 別に青松丸の言動に違和感を覚えたわけでは無い。どちらかと言えば、萩尾丸の言動に違和感を覚えていた。いや、今回だけではない。ここ最近、萩尾丸は何かと青松丸にも絡んでいく事が増えた気がする。絡むというか、源吾郎や雪羽に対してするようにそれとなく青松丸を煽る事が増えたではないか。

 萩尾丸は紅藤の一番弟子であり、研究センターの中では第二位の地位に収まっている。元々は紅藤も実の息子を要職に就けようと思っていた訳であるから、外様だった萩尾丸はその青松丸を押しのけて今の地位を獲得したともいえる。そして青松丸も、萩尾丸が上にいる事については異存はないらしい。

 そう言う事を知っていたからこそ、源吾郎は萩尾丸の挙動が奇妙に思えたのだ。例えば第三位である青松丸が野心を思い出し、第二位の萩尾丸に敵愾心を燃やすのであればまだ解る。妖怪たちの中でも序列争いはあるし、研究センターの序列に関しても力量で決まる部分があるからだ。源吾郎と雪羽がかつて烈しく相争ったのも、互いの序列がはっきりしていなかったからという側面もある訳だし。

 しかし今回は、萩尾丸の方から青松丸に絡んでいるのだ。源吾郎が見る限り、研究センター内で序列争いが起きるような気配は特に無い。それにそもそも幹部職である萩尾丸の方が青松丸よりも上位の存在だ。

 青松丸自身も真面目に業務に励んでいるにもかかわらず、萩尾丸は隙あらば彼を煽ろうとするのだ。しかも源吾郎や雪羽に対して煽る以上の鋭さが込められているようにも感じられる時さえあった。

 気付けば雪羽も源吾郎に目配せをしている。最近の青松丸への萩尾丸の態度に違和感を抱いているのは、何も源吾郎だけでは無かったのだ。

 

「そうそう。雷園寺君と島崎君が君のために色々と用意してくれているらしいんだ。双睛鳥君も忙しいかもしれないけれど、少しだけ付き合ってくれるかな」

「用意って、僕のために……?」

 

 萩尾丸の言葉に、双睛鳥は素直に驚きの色を見せていた。偏光眼鏡の向こう側にある瞳も大きく見開かれている。

 ここで源吾郎と雪羽は前に進み出た。二人とも、この時既に双睛鳥に渡す品をそれぞれ紙袋に収めて用意していたのだ。

 勢いあまって雪羽は源吾郎を半ば押しのける形となったが、源吾郎は慌てず騒がず雪羽の挙動を見守る事にした。研究センターの中では最も新参である雪羽だが、双睛鳥との付き合いは源吾郎よりも長いのは言うまでもないためだ。

 

「俺は、いえ僕は邪眼除けのお守りを用意しました」

 

 雪羽はここで言葉を切った。双睛鳥が受け取るのを見届けてから言い添える。

 

「双睛の兄さんが静養なさっている間、僕には何も出来なかったので……本当に、元気になってくださって良かったです……」

 

 雪羽の言葉には本心からの響きが伴っていた。それこそ、病弱な従兄の回復を心から喜ぶ幼い親族のように。だが雪羽は用が済むと、普段の抜け目ない表情を垣間見せつつ源吾郎を促したのだった。入れ違いざまに雪羽が少し後ろに戻り、押し出されるような形で源吾郎が前に進み出る。

 双睛鳥様。源吾郎はそう言って紙袋を差し出す。ぎこちない動きだというのは自分でもはっきりと感じ取っていた。

 

「ぼ、僕はウミヘビの干物と柑橘類のジャムを用意しました。双睛鳥様は蛇もお好きですし、柑橘類も好みだとお見受けしましたので……

 実は柑橘類のジャムはキンカンジャムと柚子ジャムの二種類でして、どちらも喫茶店ではお湯で溶かしてキンカン湯とか柚子茶になるんです。僕はキンカン湯が気に入りましたので、それでもしよろしければと思いまして……」

 

 そこまで言いながら、源吾郎は周囲の視線を感じた。双睛鳥は忙しい。そんな話を聞かされていたにもかかわらず、長々と弁明めいた事を喋ってしまったではないか。双睛鳥はしかし、気にした様子は見せずに源吾郎の紙袋を受け取ってくれた。

 

「二人とも、本当にありがとうね」

 

 双睛鳥はゆっくりと、しかし一言一句噛み締めるように言った。この言葉が源吾郎と雪羽に向けられたものである事は言うまでもない。

 彼は少しの間泣き出しそうな表情になっていたが、それをこらえてひょうひょうとしたような表情を見せていた。その双睛鳥の顔は、源吾郎が見知った表情だった。

 

「それにしても僕も新年早々アレだよね。雷園寺君や島崎君みたいな若い妖《こ》に、こんな風に気を遣わせてしまうなんて」

「双睛鳥君も思い悩まなくて良いんだよ」

 

 双睛鳥の言葉にツッコミを入れたのは萩尾丸だった。彼は源吾郎たちを眺めてにやにやと笑っている。

 

「雷園寺君たちだっていい加減空気を読むとか目上の相手を敬って慮る事を勉強しないといけない年頃だから、そう言う意味でもいい勉強になったのかなって僕は思っているんだよ。

 それに双睛鳥君。君も君でこの妖たちに慕われているって事がはっきり判ったんだ。これは素直に喜ぶべき事じゃないか」

 

 そうですね。慕われているという言葉に反応し、双睛鳥は静かに頷いていた。それから双睛鳥は、雪羽と源吾郎を交互に見やりながら言葉を紡いだ。やはりというべきか、雪羽に向けた言葉の方が多かった。三國が兄と慕う双睛鳥は、もちろん雪羽の過去の姿を知っていた。慢心増長し悪ガキとして振舞っていた時もさることながら、三國に引き取られたばかりの頃の事も。今こうして会ってみると、やはり雷園寺君も成長したんだね。しめの言葉は全くもって年長者らしい言葉だった。

 もちろん双睛鳥は源吾郎の事についても褒めてくれた。雪羽に較べて言葉数が少ないのは、付き合いが短いから致し方のない事だろう。そんな風に源吾郎が思っていると、双睛鳥の口から思いがけぬ言葉が飛び出してきた。

 

「――島崎君、芸術活動をなさっているお兄様は元気かな?」

「芸術活動を行っているって……末の兄の事ですかね?」

 

 兄の事について言及した双睛鳥に対し、源吾郎もまた疑問形で応じてしまった。

 源吾郎には兄が三人いるが、芸術活動に関りがあると言えば庄三郎で間違いない。上の兄二人は民間勤めのサラリーマンなのだから。

 ここに来て、何故兄の事について言及したのだろう。源吾郎は素直にそんな疑問を抱いていた。源吾郎と異なり、兄姉らは完全に人間として暮らしている。特に兄たちは積極的に妖怪に関わる手合いでは無い。妖怪サイドの方でも、兄らは人間とほぼ同じであり、妖怪社会に影響をもたらさないと見做しているはずだ。

 そんな風に考えていた源吾郎は、昨秋に起きた白狐襲撃事件の事を思い出した。あの時あの場には、源吾郎も庄三郎も、そして双睛鳥も居合わせたではないか。それなら双睛鳥が末の兄を気にかけるのも自然な事だと思い直したのである。

 

「はい。末の兄なら元気にやっているはずですよ。前に会ったのはお正月休みでしたが、まぁ普段通りでしたので」

 

 源吾郎はそう言って、照れたような笑みをほのかに浮かべた。普段通りと言ってはみたものの、庄三郎は製作を行っている時以外は概ね怠惰に暮らしている事を弟として知っているからだ。或いは、製作にとんでもないエネルギーを放出するから、製作を行っていない時には充電中になっているだけなのかもしれないが。

 そんな事を思っていると、双睛鳥は微笑みながら口を開いた。

 

「それは良かったよ。あの子もあの子で色々と()()で苦労していたみたいだからさ……」

 

 しんみりとした様子で放たれた言葉に、源吾郎は瞠目し、ついで尻尾の毛が僅かに逆立ってしまった。双睛鳥が庄三郎の事を敢えて言及した理由は、先程放たれた言葉で明らかになったようなものだ。そしてもしかしたら、あの時の襲撃事件にて手を貸してくれたのも、そうした事があったからなのかもしれない。そんな考えさえ浮かんだほどだった。

 

「ご自身も大変な事に見舞われたのに、兄の事までお気遣いいただきありがとうございます。双睛鳥様、末の兄は大丈夫です。兄も兄であの能力で色々と苦労したみたいですが、どうにか折り合いを付けて生活している事は僕たちも把握していますので」

「島崎君がそこまで言うのなら安心したよ。君も家族思いの良い子だもんねぇ」

 

 双睛鳥はそこまで言うと、受け取った紙袋を一旦デスクの上に置き、それから小脇に抱えていた段ボール箱から封筒を取り出した。事務用の茶封筒であり、その表面にはやはりフランス語が短く記されている。

 

「紅藤様。遅れましたが偏光眼鏡と共にこちらも一緒に入っていたんです。紅藤様宛に……研究センターの皆様に宛てたもののようなのでお渡しいたしますね」

「セシルさんが私たちに宛ててくださったのね。萩尾丸、何か心当たりはあるかしら?」

「僕も心当たりはありませんね。強いて言うならば、セシル様が個人的に何かを渡したいと思ったから同封したとかでしょうか」

 

 封筒を受け取った紅藤と、その紅藤に質問を投げかけられた萩尾丸は、揃って首をかしげていた。

 ともあれ、封筒に何が入っているのか、確認するほかないのは明らかだ。



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大妖怪も怪力乱神語らざる

「双睛鳥君。念のために聞いておくけれど、さっき紅藤様にお渡しした封筒は納品書入りじゃあないよね?」

 

 思案していた萩尾丸は、双睛鳥《そうせいちょう》に視線を向けて問いかけた。その問いに双睛鳥は力強く頷く。

 

「はい。納品書の封筒は別にあるのは確認済みです。僕が発注しましたので、僕の方で処理しますんで」

 

 双睛鳥はそう言うと、もう一つの茶封筒を紅藤や萩尾丸たちに見せた。「納品書在中」の文字が、日本語で印字されている。萩尾丸も紅藤も納得し、或いは何処か安堵したような表情を見せていた。

 それじゃあ中身を確かめるわね。紅藤は周囲に伝えるかのように言い放った。それから彼女は双睛鳥に視線を向け、優しく微笑む。

 

「双睛鳥君。折角だからあなたもここで、セシルさんが何を下さったのか見ていくのはどうかしら。私宛、研究センター宛だったとしても、あなたにも何か関わっているかもしれませんから」

「は、はい。実はそうしようと思っていた所でして……」

 

 控えめに微笑みながら、しかし照れくさそうに双睛鳥は後ろ頭を掻いていた。どうやら彼の側近である鳥妖怪ないし鳥型魔物の女性が、双睛鳥を迎えるために社用車でこちらに向かっているとの事だった。もしかしなくても萩尾丸が双睛鳥を彼の勤務地に送り届けるつもりだったのかもしれない。しかし送迎のために双睛鳥の部下が動いているのであれば、それに身を委ねるのが一番であろう。

 そうした細々としたやり取りが行われている間に、紅藤は封筒を開けて中身を取り出していた。こうしてみていると、紅藤は中々にマイペースな妖怪であるらしい。源吾郎はふと、そんな事を思ってしまっていた。

 封筒の中に入っていたのは二種類の物品だった。一つはフランス語であろう横文字が印字された手紙であり、もう一つはポチ袋に収まったナニカであった。カードの類であろうか。

 紅藤がまず手に取ったのは手紙の方だった。

 

「これはどうやら、セシルさんから私たちへの預言かしらね。まぁそこまで大仰な物ではなくて、アドバイスや助言の類かもしれませんけれど。

 まぁ簡単な事が書いてあるみたいだし、これから読み上げるわね」

「それってフランス語ですよね。紅藤様。紅藤様ってフランス語はお解りなんですか?」

「そりゃあ解るに決まってるじゃないか、雷園寺君」

 

 いくらか頓狂な雪羽の言葉に応じたのは萩尾丸だった。その面には、相手を小馬鹿にしたような表情が既に浮かんでいる。良くも悪くも見慣れた彼らしい表情だ。

 

「僕たち妖怪は何百年と……何となれば千年以上生きていく事が出来るんだよ。その間は遊び呆けて暮らしている訳じゃあないんだよ。経験を積み知を蓄える事こそが大妖怪の生き様だって、君には前々から教えているじゃないか。

 ましてや、言語を三つ四つ覚えるなんて事は、比較的簡単な事になる訳だしね」

 

 他言語の習得って簡単な物なのだろうか。萩尾丸の言葉に、源吾郎は無邪気に疑問を覚えていた。学生時代に英語の授業設けた源吾郎であるが、確かに英語で四苦八苦していた生徒もいたような気がする。

 萩尾丸さんの言葉にも一理あるかな。のんびりとした口調で言ったのは青松丸だった。

 

「実はね、その言語が読めなくても読んで中身が理解できるように解読するための術というのもあるにはあるんだ。だけどその術を習得する方が、他の国の言語を覚えるよりも()()()からね。そうなったら素直に英語とかフランス語とかを覚えた方が手っ取り早いって訳なんだ」

「……どちらにしても、妖怪仙人になるには世界の言語を習得する事が必要ですからね。島崎君と雷園寺君も、その辺りは少しずつ勉強しましょう、ね」

 

 雷園寺って妖怪仙人目指していたっけ……紅藤のあっけらかんとした言葉に、源吾郎と雪羽は思わず目配せしていた。そもそも、源吾郎と異なり、雪羽は最強の妖怪を目指しているのかどうかすら定かでは無いし。

 紅藤の視線は再び手紙に戻っていた。

 

「それじゃあ改めて読み上げるわね。『敵は思いがけぬ所に存在する。場合によっては、まさかと思う相手・心底信頼していた相手が該当する可能性もあるから心せよ。或いは――用心していた相手、思いがけぬ相手が心強い味方になる可能性もある』……ですって」

 

 手紙の内容を日本語で読み上げた紅藤は、深く息を吐いて手紙をテーブルの上に置いた。手指を動かして手紙を畳んでいるのだが妙に動きがぎこちない。手先がかすかに震えているように見えたし、何より彼女は手紙を見ようとはしなかった。

 

「これはまた、ありがたいお言葉ですね」

 

 紅藤が手紙を畳み終わったところで萩尾丸はそう言った。その言動に、源吾郎は驚いて萩尾丸の顔をまじまじと凝視したのだ。普段の皮肉めいた雰囲気はその言葉には込められていない。だからこそ驚いたのである。

 何せあのありがたいお言葉とやらには、具体的な事など何一つ書かれていなかったのだから。単なる一般論の延長を聞かされたのだと、源吾郎などは思っていたのである。それはきっと、隣の雪羽も同じ事だろう。

 そして萩尾丸もまた、源吾郎たちが怪訝そうな表情を浮かべている事に気付いたようだった。

 

「島崎君に雷園寺君。どうしたんだい二人とも。セシル様のお言葉が不満だったと言いたそうな顔をしているね」

「そんな……」

「不満があるなんて言ってないっすよ」

 

 思っている事を言い当てられ、源吾郎も雪羽も慌てて口を開いた。ややぶしつけな態度を取った源吾郎たちに、萩尾丸はいつもの余裕たっぷりの笑みでもって応じるのみだ。

 

「そもそも今回は双睛鳥君の偏光眼鏡を作るという依頼のみをセシル様は受けたんだ。あくまでもこの預言はサービスに過ぎないんだよ。無償のサービスだから手を抜いているなんて思わないでくれたまえ。きちんと価値のある物に対しては、きちんと対価を支払わなければビジネスは成り立たないんだからね。

 もっとも、セシル様もその辺は気になさらないだろうから、きっと店員たちが気を回したのかもしれないけれど……」

 

 ビジネスだと言われると、源吾郎たちはぐうの音が出なかった。ビジネス云々については萩尾丸の方が深く知っているし関わっている。それに何より、彼自身も紅藤が廉価で護符などをばらまこうとしている事に悩んでいる事は知っていた。

 もちろんその事もあるでしょうけれど。萩尾丸の主張に横槍を入れたのは紅藤だった。

 

「セシルさんのようなお方であってもね、解る事や知り得る事、そして出来る事には限界があるの。もちろん私にもそうした限界や制約はあるんですけれど。

 人間の言葉の受け売りになりますが、『怪力乱神を語らず』と昔から言う訳ですし」

 

 紅藤の言葉に源吾郎は思わずうなってしまった。怪力乱神を語らず。この言葉はもちろん源吾郎も知っている。しかしまさか、紅藤の口からポリシーとしてその言葉が出てくるとは予想外だった。紅藤はそれこそ語られざる怪力乱神に属する側だと思っていたからだ。

 

「私、紅藤様の仰りたい事は解りますよ!」

 

 茫洋とする源吾郎の耳に、サカイ先輩の声が響いた。

 

「私、ご存じの通り隙間女なので、色々な隙間は見てきたんです。や、やっぱり、自分には解らない物を見たり触れたりすると、それだけで発狂する事もあるんですよね。私は多分正気だけど、だけど発狂したりおかしくなったりしたモノは、人間とか妖怪とかいっぱい見てきました……」

「ええ、ええ。全くもってサカイさんの言う通りよ」

 

 たどたどしい口調ながらも物騒な事を言ってのけるサカイ先輩に対して、紅藤は同意するように頷いた。

 

「やはりどれだけ力や経験を積んでいたとしても、限界はどうしても存在するものなのよ。その限界を無視して無理をしてしまったからこそ、胡喜媚様もお隠れになった訳ですし」

 

 確かにそうだ。源吾郎は心臓を掴まれるような思いを抱きながら頷いた。源吾郎の曾祖母である玉藻御前も、その義妹である胡喜媚も現世にはもういない。女媧に仕え女媧の許で修行していた彼女たちでさえ、破滅からは逃れられなかったのだ。

 

「それに力のある存在が、無闇に他の者たちに介入する事も本来ならば難しい事なのよ。力が大きければ大きいほど、良くも悪くも影響が出る訳ですし……」

 

 そう告げる紅藤の顔は、何処か物憂げなものだった。力の事について、真剣な話を解説しているからだろうか。

 そんな紅藤に対して、実の息子である青松丸が呼びかけていた。

 

「紅藤様。手紙の事と内容の考察は後にして、こちらのポチ袋の中も見てみましょうよ」

 

 いつの間にか、青松丸はテーブルの上に置かれていたポチ袋を手に持っていた。それを受け取った紅藤は、用心深い手つきでもってポチ袋を開き、中に入っている者をゆっくりと取り出した。

 あ、とかおお、という声がにわかに上がる。それは名刺サイズの小さな細工絵だった。工房に続く廊下に飾られていたレリーフのようであったが、照明の下で螺鈿細工のように淡く輝いている。

 木の葉の上にうずくまるヒヨコの姿。それが名刺サイズのキャンバスの中に表現されていたのだ。構図自体はシンプルなのかもしれないが、木の葉もヒヨコもかなり精密に描かれているようだった。螺鈿細工《らでんざいく》めいたものなので描くと表現して良いのかどうかは定かではないが。

 

「栞がわりに作ってくださったのかしら。でもこっちの方が豪勢な事には違いないわ。セシルさんってばご自身の鱗を使われたみたいなんだから」

「鱗だなんて、そんな……」

 

 紅藤の言葉に、冷静な萩尾丸さえも驚きの声を上げている。

 皆と一緒にヒヨコの絵を見ていた双睛鳥が、何かに気付いたらしく口を開く。

 

「こちらには『いずれ巡り合うかもしれない』と、下の方に書いてありますね」

「巡り合うかもしれない……木の葉の上にうずくまるヒヨコが何だって言うんです?」

 

 双睛鳥の言葉に疑問を示したのは雪羽だった。確かに、ヒヨコの絵を見せられて意味深な言葉を添えられていたら、雪羽みたいに疑問を抱くのは致し方ない事だ。

 しかし、この絵にも何か意味があるのだと源吾郎は素直に思っていた。何せセシルは、おのれの鱗を使って作った物なのだから。

 木の葉の上のヒヨコか。これもちょっくら調べないといけないかも。源吾郎は静かにそう思っていたのだった。



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寓意に隠れし赤えりウズラ

「雷園寺君。これは一見すると単なるヒヨコに見えるかもしれないけれど、君がイメージしているヒヨコとは違うんだ。要はこのヒヨコは鶏の子供では無いんだよ」

 

 ヒヨコ発言をした雪羽に対し、双睛鳥《そうせいちょう》は穏やかな口調でそう言った。雪羽がイメージしているヒヨコとは違う。敢えて双睛鳥が言ったのはどういうことなのだろうか。

 源吾郎ももちろん気になったし疑問は抱いていたが、敢えて口出しはしなかった。木の葉の上に隠れるヒヨコについては、休憩時間にでも調べようと思っていた所だ。しかし、双睛鳥が何か知っているのであればその手間は省ける。

 自分で調べる事を放棄して怠けるつもりではない。双睛鳥の口からきいた方が、自分で調べるよりもより確証性の高い内容を得られると判断したまでの話だ。昼休みに調べると言っても、所詮はインターネットで内容を探る程度に過ぎない。より突っ込んだ事を調べるには図書館に出向かねばならない訳であるし、食堂に置かれた本はビジネス書の類か、小説の類だったのだ。

 それに年長者の話の方が、下手なネットの情報よりも頼りになる事は、源吾郎もよくよく知っていた事でもあったのだ。

 

「このヒヨコはヤマウズラ……いやエリマキライチョウのヒナだと僕は思うんだ」

 

 螺鈿細工のごときヒヨコの絵を見ながら、双睛鳥はよどみない口調でそう言った。その通りだと思わしめるような雰囲気を漂わせてはいるが、聞き慣れない鳥の名前だとも源吾郎は思った。

 

「エリマキライチョウ……雷鳥って事は、あのサンダーバードの事ですか」

 

 またも雪羽が声を上げる。雷鳥という名がお気に召したのか、その眼には興奮の色が灯っていた。

 

「雷鳥とサンダーバードは別物だって事は、雷獣である雷園寺君だって知ってるだろう?」

 

 興奮気味の雪羽にツッコミを入れたのは萩尾丸だった。その顔には僅かに呆れの色が浮かんでいる。

 

「サンダーバードは北米に生息する鳥系統の幻獣だけど、エリマキライチョウというのは幻獣ではない普通の鳥を指しているだけに過ぎないんだ。そもそも僕たちがライチョウと呼んでいる鳥は、英語圏ではターミガンと呼ばれていて、サンダーバードではない。更に言えばサンダーバードは巨大な猛禽類に似た幻獣であるけれど、ライチョウは雉の仲間だからね。全くもって別物なんだよ。そんな感じだよね、双睛鳥君」

 

 萩尾丸はそこまで言うと、双睛鳥の方に視線を向けた。怒涛の説明にタジタジとなってしまった源吾郎たちと、萩尾丸とを交互に見やりながら彼は頷いた。

 

「ま、まぁ萩尾丸さんの仰る通りですよ。だけど、雷園寺君たちがサンダーバードとターミガンをごっちゃにしちゃった事は特に気にしていないから大丈夫。雷園寺君たちは()()()ですからね、鳥類の分類についていささか覚束ないのも致し方ないでしょう。僕だって、哺乳類の分類はうろ覚えの所があるんですから」

 

 双睛鳥はフォローしてくれたらしいのだが、萩尾丸の言葉よりもある意味鋭い物だった。表情からして他意は無いし、悪意も無い事は明らかだ。しかし哺乳類という言葉を敢えて使った所で、双睛鳥たちと源吾郎たちの分断をほのめかしているように思えてならなかった。

 それはもしかしたら、センター長である紅藤が鳥類であるからこそ、余計にそう思うのかもしれないが。

 

「だけどね雷園寺君。君の言葉はある意味的を射たものだとも言えるんだ。君の言うサンダーバードは北米の幻獣だけど、このエリマキライチョウも北米の鳥だからね。君たちの知る日本のライチョウとは別種なんだ」

 

 成程そう言う事だったのか。双睛鳥の言葉を聞いた源吾郎は、腑に落ちた思いを抱いていた。似たような名前や種類の動物であっても、国や地域を隔てれば別種である事は源吾郎もよく知っている。

 これはキツネにも、更には日本国内に生息する妖狐たちにも当てはまる事だ。本州に棲むキツネはホンドギツネのみであるが、北海道にはキタキツネが、海の向こうの大陸にはアカギツネが生息している。そして妖狐たちは、アカギツネ由来とホンドギツネ由来、そしてキタキツネ由来の系統の者たちが日本には混在しているのだという。

 もっとも、妖狐として妖怪化していれば、アカギツネ由来やホンドギツネ由来と言った異なる系統同士でも子孫を残せるので、それほど神経質に区別する妖狐たちは少ないそうだが。

 実際に、アカギツネ由来である玉藻御前も、日本ではホンドギツネ由来の妖狐との間に娘である白銀御前を設けたのだから。子孫である源吾郎は、だからホンドギツネの血もわずかながら受け継いでいるのだ。

 

「これは赤えりウズラの物語のワンシーンを示した。双睛鳥君。話はそれで終わるんじゃあないかな」

 

 なおも解説を続けようとする双睛鳥に対し、萩尾丸はそう言ったのだった。赤えりウズラの物語。桃太郎や西遊記のように、すぐにこんな話と思い浮かぶわけでは無い。しかし、全く知らない話でも無いような気がした。

 萩尾丸の視線は、気付けば源吾郎や雪羽に注がれていた。

 

「赤えりウズラの話はシートン動物記の話の一つだよ。うん、ここまで解れば、君らだけでも後々の事は調べられるんじゃあないかな」

 

 半ば一方的に萩尾丸は言うと、視線を窓の向こうに転じた。

 

「ほら、双睛鳥君にももうお迎えが来たみたいだしね。思っていたよりも早い到着だけど、彼女も双睛鳥君の事が心配でしょうがなかったんだろうね」

 

 赤えりウズラ。このタイトルの物語から木の葉の上にうずくまるヒヨコの姿に辿り着くまでには、結局図書館の世話になる事となってしまった。インターネットでの情報は、源吾郎が思っていた以上に役に立たなかったのだ。もちろんシートン動物記の中にある物語として紹介されているページはあるにはある。しかし、詳しい物語の内容について触れる事は出来なかったのだ。

 市街地の栄えた所にある夜の図書館で、赤えりウズラの話を探り当てる事が出来たのは僥倖だったのかもしれない。椅子に腰を下ろしてページをめくりながら、源吾郎は静かにそう思っていた。

 木の葉の上にうずくまるヒヨコの描写は物語の冒頭に記されていた。ヤマウズラ――シートン動物記の中ではエリマキライチョウはヤマウズラと記されていたのだ――の家族を狙うキツネをやり過ごすシーンでの話である。母鳥は傷ついたふりをしてキツネの気を惹き、その間にヒナたちが思い思いの場所に隠れるという場面だった。

 その中で、隠れ場所を見つけられなかったヒナが、即興で黄色い木の葉の上にうずくまった、との事だったのだ。

 そしてそのヒナこそが、長じて赤えり息子と呼ばれる存在になるのだ。

――赤えりウズラの話は解ったけれど、何故セシル様は意味深な言葉と共にこの赤えりウズラの絵を用意なすったんだろう。

 源吾郎は無言のままにそんな事を思い、本を片手に立ち上がった。隠れていたものと巡り合う。そんな寓意が込められているのだろう。だがそれ以上の事は今の源吾郎には解らなかった。

 ひとまず本を借りて家に戻ろう。源吾郎はそう思った。本を読みこめば何か解るかもしれないし、運が良ければ紅藤や青松丸に相談する事もできるかもしれない。そんな風に源吾郎は考えていたのだった。

 

 翌日。いつものように出社した源吾郎の許に、これまたいつものように雪羽が親しげな様子で近付いてきた。

 昨晩図書館で発見し、読みこんだ赤えりウズラの話をしよう。源吾郎はそう思っていたが、雪羽が口を開く方が僅かに早かった。

 

「おはよう島崎先輩。何となく疲れた感じに見えるけどどうしたのさ」

「別に、どうって事ないよ」

 

 気遣わしげな雪羽の視線を前に、源吾郎は僅かに首を傾げた。疲れているように見えたとは少し驚いたが、雷獣というのは総じて勘の鋭い種族であるし……そう思い直して源吾郎は言葉を続けた。自分が疲れているかどうかよりも、もっと伝えるべき事があるではないか、と。

 

「それよりも雷園寺君。双睛鳥様や萩尾丸先輩が仰っていた赤えりウズラの物語を調べたんだよ。ネットでは良い情報が見つからなかったけれど、図書館に出向いたらちゃんと本もあったからさ」

「調べたって、いつ調べたんです?」

 

 仕事終わりに図書館に直行したんだ。事もなげに源吾郎が言うと、雪羽は何故か驚いた表情を見せていた。感情表現が豊かな少年である事は知っていたが、いささか大げさではなかろうか。

 

「先輩ってば本当に研究熱心というか仕事熱心だよなぁ……というか、その本の事だって俺に相談すれば融通したのに」

 

 雪羽は多少恨めしそうな表情をしていた。源吾郎が頼らなかったからという事で少し拗ねているらしい。別に良いんだよ。源吾郎はつとめて穏やかな口調で雪羽をなだめた。

 

「俺自身が気になったから調べただけに過ぎないんだからさ。それに雷園寺君。いくら君が読書家だと言っても、流石にシートン動物記までは手許にある訳じゃあないんだろう?」

 

 源吾郎の問いに雪羽は黙り込み、翠眼をゆらゆらと彷徨わせるだけだった。

 雪羽は現在萩尾丸の許にて再教育されている最中であり、平日は萩尾丸の屋敷にて謹慎中の身分だ。屋敷の中では自室をあてがわれ、多少の自由も認められているらしい。それでも彼が所持している物には制限がある事には変わりない。初期に較べて制限が緩まったと言えども、罰として雪羽は萩尾丸の許に引き取られたのだから。

 そんな状況の雪羽や、彼の保護者である三國たちの手を煩わせるのは、源吾郎の望むところでは無かった。

 ともかく赤えりウズラの話をしようじゃないか。源吾郎はそう言って、雪羽と自分自身の気持ちを切り替える事にした。

 

「セシル様が作ったレリーフでは、ヒヨコが木の葉の上に乗っかる絵だったでしょ。あのシーンはさ、物語の冒頭で確かにあったんだ。一家がキツネに狙われている時に、ヒヨコの一羽は隠れる所が無くて、それで黄色い木の葉の上に乗っかって難を逃れたんだって。

 それで、そのヒヨコこそが物語の主人公である赤えりウズラって訳さ」

「そう言う話だったのか……あ、でもそれならうろ覚えだけど読んだ事があるかも」

 

 源吾郎の言葉に、雪羽は頬のあたりを撫でつつ呟いた。赤えりウズラの物語は概ね過酷な自然と猟師との闘いの物語であった事、かつて源吾郎が幼い頃に読んだのはかなり省略された物語だと気付いた事などが、源吾郎の頭の中で駆け巡っていた。しかしそれは特に口にはしなかった。現在雪羽と話すにあたり、特に告げるべき内容でも無いからだ。

 

「要するに、セシル様は優秀な妖材《じんざい》が何処かに隠れていて、俺たちはそんな妖材《じんざい》と巡り合うかもしれない。そんな事を予見なさったのかもしれないって思ったんだ」

 

 成程ね。源吾郎の言葉に雪羽は納得したように頷いた。しかしややあってから、思案顔で言葉を並べ始めたのだ。

 

「隠れている優秀な妖材《じんざい》、か……何か手紙にあった預言の方も大分大仰な物だったけれど、こっちもこっちで気になるよな。それにしても、あのレリーフは赤えりウズラだったんだね。赤えりって()()()()()()()()()()()ような気がするけれど、一体何処で聞いたんだろう?」

 

 不思議がる雪羽の言葉に、源吾郎は答える術は持ち合わせていなかった。

 

参考文献:少年少女シートン動物記1 オオカミ王ロボ/名犬ビンゴ/ほか

(偕成社 白木茂:訳、今泉吉典:解説)



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第十一幕:若狐の社交デビュー
週末は若狐たちのために


 週末の昼下がり。源吾郎は港町の遊戯施設の中にいた。遊戯と言ってもゲームセンターやカラオケなどが混在しているだけに過ぎない。それこそ、子供や若いカップル、家族連れなども遊びに来るような、いたって健全な場所だった。

 ちなみに源吾郎はそんな遊び場にたった一人で来ていたわけでは無い。若い妖狐の青年たちと一緒だった。ついでに言えば彼らは萩尾丸の部下である。もちろんというべきか、源吾郎と比較的親しかった野柴珠彦や豊田文明も一緒だった。

 一行はしばし遊び戯れていたのだが、それにも少し疲れたので、小休止がてらに飲食コーナーに立ち寄り、しばし飲食を楽しんでいたのだ。実のところ、この展開は源吾郎にしても有難い事であった。仲間たちに付き合ってゲームやカラオケを行い続けるには、源吾郎の懐具合はいささか寂しかったからだ。

 源吾郎は確かに大妖怪の子孫、それも三大悪妖怪として名高い玉藻御前の曾孫ではある。しかし彼の社会的なステータスは平社員に過ぎず、従って手取り額も相応の物だった。先輩格に当たる若狐たちは、源吾郎を気遣って奢ってやると言ってくれたのだが、源吾郎は気持ちだけ受け取る事にしていた。大妖怪の血を引くという矜持ゆえの事だ。

 とりあえずダラダラ食べてダラダラ飲んで時間を潰すのもアリかも。そんな事を思いながら、源吾郎は注文した唐揚げをつまんでいた。その横にはポテトフライのカップもある。唐揚げ程度ならばもはや自分で作れるようになっている源吾郎ではある。だが時にはこうして出来合いの物を食べるのも悪くないと思っていた。

 

「それにしても島崎君。俺らと一緒に遊びたいって言うなんて、とっても珍しいっすよー」

 

 おどけた調子で言うのは、二尾を具える珠彦だった。彼は笑いながら源吾郎のポテトフライの手を伸ばした。源吾郎はだから、ポテトのカップを取りやすい位置に動かしてやった。唐揚げはともかくとして、ポテトに関しては他の仲間がこうして食べる事を見越していた。見越したうえで注文していたのだ。

 そりゃあそうさ。源吾郎はそう言ってにやりと笑う。獣の笑みを意識していた。

 

「半妖だとか人間の血が混ざってるだとかってみんなは思うかもしれないけれど、俺とて妖狐の端くれなんだ。最近はタマたちとは少し距離が出来ちゃったし、でもそのままじゃあいけないなって思って……」

 

 説明が進むにつれて、源吾郎の顔からは笑みが消えていた。何故一緒に遊んでいるのか説明せねばならない。しかし遊びの場だから堅苦しい内容は相応しくなかろう。そんな二つの考えに挟まれ、源吾郎はしばし言葉を詰まらせたのだ。

 

「半妖なんて言うのはしゃあないやん。生まれなんてのは変える事もできないんだからさ。てかさ、そんだけ強かったら半妖って言っても誰も信じないと思うぜ?」

 

 妖狐の少年がそう言って、周囲はどっと笑いに包まれた。まるで源吾郎が半妖であろうと純血の妖狐であろうとどちらでも良いという物言いではないか。半妖である事が時々コンプレックスになる源吾郎は、呆気に取られていた。

 だがすぐに、横にいる文明が口を開いた。抜け目なく唐揚げを失敬したようだったが、源吾郎は敢えて見ないふりをした。

 

「まぁ確かに、前よりも俺らと距離が出来た事にゃあ変わりないよな。ここ二ヶ月くらいさ、戦闘訓練とかで俺らが来た時も、俺たちよりも雷園寺のボンボンと一緒にいる事が多いじゃないか」

 

 文明の言葉を皮切りに、他の妖狐たちも頷きながら言葉を紡ぐ。

 

「一緒というよりもむしろべったりくっついてるって感じがしたけどな、俺は」

「そう思うと島崎君も凄いっすね。雷園寺君って言えば、島崎君も仕事中にパワハラまがいの事を受けたんすよね。それでも仲良くなったなんて……」

 

 源吾郎と雪羽が友達同士になっている事は、ここにいる妖狐らには周知の事実である。彼らも時々戦闘訓練の見学のために、研究センターに連行されているのだから。そして雪羽は、若妖狐たちが見ている事などお構いなしに、源吾郎の傍にすり寄るのが常だった。源吾郎も無碍に追い払う事は無いから、確かにべったりしているように見えるだろう。源吾郎にしてみても、甘えん坊な仔猫に頼られているような気がして満更でも無かった。

 源吾郎が雪羽と仲良くしている。その事実を口にした若狐たちの表情は、濃い驚きで彩られているようだった。信じられない事だ。口には出さねどもそう思っているであろう事は源吾郎もうっすらと察してしまった位だ。

 だがそれも致し方ない事なのかもしれない。雪羽は確かに源吾郎に打ち解けていた。だが萩尾丸の部下である若狐たちにはほとんど関心を示さず、雪羽の方から働きかける事はまずなかった。若狐たちも若狐たちで、遠巻きに雪羽の様子をうかがうだけであったし。

 実のところ、源吾郎もそれほど若狐たちと親しいわけでは無い。しかし雪羽と若狐たちとの間に距離があるのを見ると、他妖事《ひとごと》ながらも何とも言えない気持ちになってしまうのだった。

 

「まぁ確かに、グラスタワー事件の時は俺も腹立たしい気分になったさ。だけど、雷園寺君も本当は結構良いやつだからさ……」

 

 皆も仲良くしてみたらどう? 思わず飛び出しかけたその言葉を源吾郎はぐっと飲みこんだ。若い妖狐たちが、若妖怪の多くが雪羽に恐れをなしている事を源吾郎はうっすらと知っていたためだ。

 それは雪羽が、元々からして素行の悪い少年だった事も起因しているだろう。だがそれ以上に、雪羽が保有する膨大な妖力や妖気に若妖怪たちは委縮しているのだ。最近になって源吾郎はその事に気付いたのだ。妖術がほとんど使えない雪羽は、本性が気付かれても問題のない場所では妖気を垂れ流しているのが常なのだ。

 ちなみに源吾郎も雪羽の放つ妖気には気付いている。ああ、妖気を放出しているんだなと思う程度であるが。そんな風に感じられる事もまた、源吾郎が普通の若妖怪から逸脱しているという証拠にもなる訳だった。そもそも源吾郎は、四半世紀も生きていないにもかかわらず四尾なのだから。

 

「みんなは雷園寺君の事を怒りっぽい暴れん坊だと思ってるんでしょ。まぁ実際その通りかもしれないけれど……あいつは立派な戦士だと俺は思ってる。それだけじゃない。上に立つ素養だって、俺以上にあるかもしれない」

 

 押しつけがましくならぬように気を配りつつ、源吾郎はそれでも雪羽の良い所を若妖狐たちに告げた。物理的な戦闘能力の高さよりも、雪羽の精神性に源吾郎は一目を置いていた。弟妹達のために雷園寺家の次期当主に返り咲く。雪羽が次期当主の座を目指すのは他者の為だったのだ。私利私欲で野望を抱いた自分とはえらい違いではないか、と源吾郎は常々思っていた。

 若妖狐たちは、源吾郎の言葉を受けてしばしざわついていた。世辞ではなく本心で言っていると気付いたから、尚更面白がってああだこうだ良いっているのかもしれなかった。

 

「島崎君。そんなに雷園寺君の事を大事に思っているんだったら、それこそあいつと遊んだほうが楽しいんじゃないのかい?」

 

 ごく自然に飛び出してきたその言葉に、源吾郎は笑いながら首を振った。

 

「雷園寺君と遊ぶってのは考えてなかったなぁ。あいつも週末は忙しいし、何より仕事でずっと顔を合わせているから……」

 

 源吾郎のこの言葉もまた本心からの物である。雪羽が今忙しい身分である事はまごう事なき事実である。萩尾丸の許で再教育中というのもあるのだが、三國夫妻の許には双子の赤ん坊もいる。週末ごとに三國の家に戻される雪羽も、兄として赤ん坊たちの面倒を見ているのだというからもちろん忙しいわけだ。

 それに源吾郎も雪羽も、休日にわざわざ会って遊ぼうという事はあまり考えていなかった。それは同じ職場でずっと顔を合わせているからなのだろうと源吾郎は考えていた。時には休憩時間にじゃれあって過ごす事もあるし、互いの事もその間に話したりする訳なのだから。

 

「なぁみんな、雷園寺君の話はこれくらいでいいだろ? 俺は今日()()であるみんなと親交を深めたかっただけだし、いない妖《ひと》の話をあれこれするのも野暮だろうからさ」

 

 源吾郎はそう言ってから、カップの中にあるポテトを二本ばかりつまみ上げて口に含んだ。思っていた以上に目減りが早いが、ポテトを咀嚼している間にそれもまた些事であるように思えた。

 

「はははっ。島崎君が何で急に俺たちと遊びたくなったか、それは大体見当はついていたんだよ」

 

 源吾郎の言葉に、明るい茶髪の妖狐が笑う。確か仲間内では拓馬と呼ばれていたはずだ。戦闘訓練の折に直接話す事は殆ど無いが、源吾郎は彼の事を半ば一方的に知っていた。拓馬は玉藻御前の末裔を名乗る妖狐の一人だったからだ。

 萩尾丸はマメな性格なので、妖狐の部下たちの中で誰が玉藻御前の末裔を名乗っているのかいちいち教えてくれるのである。

 

「あれだろ。今度参加する俺たちの会合に、裏初午に島崎君も初めて顔を出すんでしょ。それで、お狐様たちとも交流を深めておこうって焦ったんじゃないの?」

「む……う、うん」

 

 半ば恥じらいながら源吾郎が頷くと、拓馬は目を細めて微笑んだ。何処となく線の細いイケメン風の彼の笑顔は、源吾郎にとっては何処かむず痒い物だった。

 

「島崎君ってば雉仙女様とか萩尾丸様の許で修行をしてて、ついでに雷獣の雷園寺君とも仲良くなってるからさ、あんまりそんな所は気にしてないのかなって思っていたけれど……」

「そうは言っても俺だって妖狐だぜ。だからまぁ、妖狐仲間である君らとも仲良くしたいと思ってるしさ」

「ま、まぁそんなに緊張しなくても大丈夫っしょ」

 

 思いつめたように見えたのか、文明がそう言って明るく笑った。

 

「俺は玉藻御前の末裔を名乗っていないから外様かもしれないけどさ、穂谷先輩が島崎君に一目を置いているのは俺らだって知ってるんだぜ。あの妖《ひと》は俺らのまとめ役だし、真面目な妖《ひと》だからなぁ……」

「それに穂谷さんだって玉藻御前の末裔を名乗ってるし。ははは、島崎君はむしろ俺らよりも穂谷さんとか米田さんとくっついていた方が嬉しいんじゃないのかい。俺らと違って意識高そうだし」

「ちょ、ちょっと。何でここで米田さんの名前が出てくるんだよ!」

 

 米田さん、という名に源吾郎が反応したのを見届けるや、若妖狐たちの中でどっと笑いが沸き上がった。もしかしたら、拓馬はやや年長で優秀な妖狐として米田さんの名を挙げただけだったのかもしれない。

 しかしこの源吾郎のリアクションで、米田さんをどう思っているのか皆に知られる事となってしまったのだった。



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妖狐はおのれの系譜を思う

 週明け。普段通りに源吾郎が出社すると、雪羽がそそくさと近付いてきた。源吾郎にとっても雪羽にとっても、普段通りの朝の光景である。雪羽は既に源吾郎の事を仲間のように思っており、出社したのを見届けるや近付いてくるのが日課になっていた。そしてそんな雪羽を出迎えるのが、源吾郎の日課であると言っても良い。

 

「おはよう雷園寺君。ははは、やっぱり週明けだからしんどいんだろう」

 

 気軽に挨拶を返した源吾郎であるが、その両目は注意深く雪羽の様子を窺っていた。いつも元気な雪羽であるが、流石に週明けは彼もテンションが低い事が多いためである。週末や休日は三國の許に戻る事が認められているのだが、月曜日になると萩尾丸の屋敷に戻らざるを得なくなる。萩尾丸の許で過ごすというのも大変なストレスのかかる事であろうから、テンションも下がるであろうと考えていたのだ。

 そのように気遣う源吾郎の前で雪羽は微笑んだ。

 

「大丈夫ですって島崎先輩。俺だって、月曜になれば仕事に戻らないといけないって事くらい知ってるんですから。

 それに土日はチビたちの姿を見て、それで元気をもらったんだ。だから俺は大丈夫」

 

 雪羽の笑みが一層深まるのを源吾郎は見た。彼も彼で、土日は叔父一家の許でしっかり休めたし、幼い弟妹達との触れ合いも十分にできたのだ。その事が解ったので源吾郎もほっとしていた。

 そんな風に思っていると、雪羽は興味深そうな眼差しを源吾郎に向けた。

 

「俺の事はさておき、島崎先輩はどうだったんです? 米田さんとも親交を深める事が出来たんですか?」

 

 まぁな。あからさまに野次馬根性を丸出しにしている雪羽に対し、源吾郎は落ち着き払った口調で頷いた。前回の初デートの件について相談したためか、雪羽は源吾郎が米田さんと会っているのか、何処まで進んでいるのか隙あらば聞き出そうとしてくるのだ。

 何かと聞き出そうとする雪羽の事が若干暑苦しく思う源吾郎であったが、それもまぁ致し方ない事なのだろうと半ばあきらめてもいた。親しい相手に対して、雪羽は物理的にも心理的にも()()を詰めようとするタイプである事は源吾郎も既によく知っている。パーソナルスペースと呼ばれるものが雪羽は極端に狭いのだ。

 それに何より、米田さんの事について相談を持ち掛けたのは源吾郎の方なのだ。その後について雪羽が関心を抱くのはおかしな事でも何でもない。源吾郎が逆の立場だったら、やはりあれこれ問いただすであろうし。

 

「米田さんとなら日曜日に会う事が出来たんだ。といっても、前と違って会って話したのは一時間足らずだったんだけどね。別れ際に、俺がどれだけ名残惜しい思いをしたか、雷園寺君には解るかな?」

「ははははは。島崎先輩ってば時々詩人みたいになるんだなぁ。とはいえ良かったじゃないか。短い時間だったとしても、二度目のデートにもこぎつける事が出来たんだからさ。

 それにね、時間が短かろうと頻繁に顔を合わせた方が、無駄に間を置いた長時間のデートよりも効果的だって世間では言われているし」

 

 雪羽はそう言うといたずらっぽく微笑んだ。その笑顔は年相応の子供らしさを具えており、それでいて何処か世慣れした雰囲気を漂わせてもいた。

 そう言えば雷園寺は女の子と付き合ったりはしないのだろうか。そんな考えが脈絡もなく源吾郎の脳裏にふっと浮かんできた。雪羽自身はそもそも女の子と遊ぶ事には色々と慣れているようであるし、次期当主候補になってからはオトモダチだった女の子たちから時々連絡が入るようになったのだという。しかしそれでも、雪羽が誰かと交際しているという話は耳にしない。

 きっと自分の事で忙しいし、何より雪羽は自分と違ってまだ()()なのだ。源吾郎はそう思って勝手に納得していた。

 それから四尾のうちの二本を蠢かせ、近寄る雪羽をそれとなく制した。

 

「雷園寺君。そろそろ萩尾丸先輩の所に行きたいんだけど、良いかな?」

「べ、別に、構わないけれど……」

 

 萩尾丸の名を出すや否や、雪羽の面に渋い表情が浮き上がっていった。おのれの教育係である萩尾丸を雪羽は畏れているのだ。もっとも、雪羽が渋面を見せるのは何もそれだけでは無いのだが。

 

「先輩ってば月曜日の朝から、それも仕事が始まる前に萩尾丸さんの所に向かおうと思うなんて、度胸があるぜ。まぁ、先輩はそう言う振る舞いも笑って許してもらえるような何かがあるんだろうけれど」

「何とも大げさな話だなぁ」

 

 

 羨望とも呆れともつかぬ表情で瞳を輝かせる雪羽を見やり、源吾郎は静かに微笑む。相談したい事があるんでね。源吾郎は包み隠さずに雪羽に打ち明けた。

 

「内容的には、本当は紅藤様にご相談しようと思っていたんだ。だけど紅藤様は先週から少し気が立っておられるみたいだし、それで萩尾丸先輩に()()()に話を聞いてもらおうと思ってね」

「紅藤様の代わりとして萩尾丸さんを選ぶだって。そりゃあ大した話だぜ」

 

 雪羽はそう言うと、驚いたと言わんばかりに肩をすくめた。実際に驚き呆れているのはその表情からも明らかだ。

 

「確かに紅藤様は色々と物識りなお方ではあるよ。だけどそれは萩尾丸先輩だって同じ事なんだ。考えてみれば、今回俺が相談する事は萩尾丸先輩でもお答えできると思ったから……」

 

 何とも言えない表情で源吾郎を見つめていた雪羽であるが、ややあってから口を開いた。

 

「それで、先輩はどんな相談事をするつもりなの?」

「ご先祖様の……金毛九尾の過去の事さ」

 

 怪訝そうな表情になる雪羽をそのままに、源吾郎は言葉を紡いだ。源吾郎の曾祖母、玉藻御前とも蘇妲己《そだっき》とも呼ばれた事のある金毛九尾が大妖怪だった事には変わりはない。元々は女媧《じょか》の許で修行に励む千年狐狸精だったのだから。玉藻御前の名で知られるようになった頃には、三大悪妖怪の一体として名を馳せるようになったではないか。

 無論源吾郎はその事を知っている。だが彼が知りたいのはそれよりもさらに昔の事だった。

 

「実は俺さ、米田さんと会っただけじゃなくて萩尾丸先輩の許で働いている狐たちとも遊んだりしたんだ。あれだ、野柴君とか豊田君とかあの辺の狐たちとね。そうしたら、皆何世代も続く妖狐の家系の狐たちだって事が解ったんだ。

 知っての通り、俺にも立派なご先祖様がいるけれど……玉藻御前は四世代前の先祖に過ぎないし。だからその、ちょっと気になってね」

「気になるも何も、金毛九尾って天地開闢《てんちかいびゃく》の頃に陰の気が凝って生まれた存在じゃあなかったっけ。それだったらさ、別に玉藻御前に親とかご先祖様とかがいなくてもおかしくないし、世界の始まりの頃からいたんだったらそれはそれで凄い事だと思うけどな」

「……雷園寺君も、絵本三国妖婦伝《えほんさんごくようふでん》の事は知っているんだな。ははは、君も案外勉強熱心なんだな」

 

 源吾郎の口から出てきたのは世辞であり、その面に浮かぶのは苦笑いに近い愛想笑いだった。金毛九尾の直系の子孫である源吾郎もまた、もちろん絵本三国妖婦伝の事は知っている。そこに記された来歴についてもだ。

 しかし源吾郎はより突っ込んだ事をも知っていた。金毛九尾の異常な来歴は、あくまでも後世の妖狐たちがそれらしく付け加え、人間たちにもその通りだと思わせたものに過ぎないという事を。他ならぬ王鳳来《おうほうらい》からその事を聞き出したのだから。

 雪羽がその事を事実だと思って信じているのもまた、ある意味彼らしい事だと思っていた。雪羽は意外と読書を好むところがあり、従って色々な書物の知識を蓄えている側面もあるにはある。しかし古代の伝承や物語となると、出鱈目な物や荒唐無稽な物まで無邪気に信用している節があったのだ。

 源吾郎は敢えてその事は指摘せずに、そのまま萩尾丸の許に向かう事にした。指摘する事で費やす時間と労力が惜しかったのだ。雪羽も雪羽で、機器の日常点検を行うと言って源吾郎の許からすっと離れていった。

 

 萩尾丸の姿はすぐに見つけ出す事が出来た。何という事はない。休憩時に使うデスクでビジネス誌の類を広げ、気付けとばかりにコーヒーに口を付けていたのだ。萩尾丸は元々が人間だったために、人間向けの飲食物であっても気にせず口にするのだ。妖狐や雷獣などと言った獣妖怪と異なり、ネギ類で貧血になる事も、コーヒー等のカフェインで神経を過剰に刺激される事も無いのだろう。

 人間向けの食事に対して、気構えなく飲食できるのは羨ましい事だ。源吾郎の脳裏にはそんな考えさえ浮かんでいた。源吾郎にも人間の血が混ざっているが、妖狐の血が濃いために、完全に人間向けの食事を摂る事は危険な場合がある。源吾郎ほどの妖気があれば、実はネギやチョコ類の持つ毒による害からすぐに回復する事も出来るのだが……危険な成分が入っていると解った上で飲食するのは楽しい食事とは言い難い。

 さてお目当ての萩尾丸を見かけた源吾郎であるが、声をかける事にためらいを感じてしまったのだ。難しい表情で紙面に視線を走らせているのを目の当たりにしたからなのかもしれなかった。

――朝っぱらの、始業時間前から萩尾丸さんにお会いしようとするなんて、先輩も肝が据わってらっしゃるなぁ

 笑い声交じりの雪羽の声が、源吾郎の脳内で反響したような錯覚を抱いた。セシルからの意味深な予見を受け取ってからというもの、紅藤は確かに何処か浮足立っているような雰囲気を見せていた。しかしそれは紅藤だけでは無かった。萩尾丸や青松丸だって、何処か落ち着かない様子を見せていたのだ。

 もっとも、萩尾丸は落ち着いた素振りを作るのが得意だったし、青松丸は初めからのんびりとした気質ではあるのだけれど。

 緊張してしまったから出直そうか。そう思っていたまさにその時、何気なくこちらを向いた萩尾丸と目が合ったのだった。



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万年生きたる往古の狐

「玉藻御前の先祖がどのような存在だったか知りたいだって?」

 

 観念した源吾郎から事情を聞いた萩尾丸は、さも不思議そうに声を上げた。何故今更そんな事を聞くのか。言外にそう言われているような気配を感じ取れぬほど源吾郎も鈍感ではない。

 だからこそ、源吾郎は言葉を紡ぐほかなかった。

 

「ご存じの通り、僕は玉藻御前の……いえ華陽夫人や褒姒、蘇妲己だった頃の曾祖母の来歴はある程度知っています。女媧様の許で義妹たちと修行なすっていた事も、かつては曾祖母の一族がいた事も」

 

 視線を彷徨わせつつも、源吾郎は言葉を続ける。

 

「先日、野柴君たちに会いました。もうすぐ裏初午もありますしその手の話も話題に上ったのですが、その時に彼らは代を重ねた妖狐たちであると知ったんですよ。庶民狐でありつつも、七世代、八世代と妖狐としての系譜を遡れるのです」

 

 ここまで言って、源吾郎はぐっと唇を噛んだ。

 

「――ですが僕が遡れるのは四世代までです。妖狐としての系譜は玉藻御前で途切れてしまうのですよ。確かに曾祖母と祖母は強大な力を持つ妖狐ですが、貴族として考えた時に、四世代までしか語れないのは何とも心もとない気がしたんです」

 

 思いがけずため息をついた源吾郎の脳裏には、雷園寺雪羽の姿が浮き上がっていた。雷園寺家に至っては既に十何世代も脈々と続いている名家中の名家なのだという。そんな貴族中の貴族たる雪羽が傍にいると思うと、源吾郎はどうも気後れしてしまうのだ。

 だが、そんな源吾郎の心中を知ってか知らずか、萩尾丸は顔を歪ませて笑ったのだった。

 

「おやおや島崎君。君は九本の尻尾が生え揃うよりも先に、()()になってしまいそうな勢いを見せているじゃあないか。九尾の仔と思って養った矢先に天狗になりにでもしたら、いかな紅藤様とておったまげるだろうね」

 

 妖狐が天狗になる事はあるのだろうか。そんな事を思っている間にも、忍び笑いと共に萩尾丸は言葉を続けていた。

 

「良いかい島崎君。玉藻御前の血筋という物が、妖狐たちに留まらず多くの妖怪たちにとっても最高級ブランドであるというのは君だってよぉく知っているだろう。九尾の狐はまぁそこそこの個体数はいるけれど、君のご先祖様ほどに大それた事を行った手合いはいないだろうからね。

 君の曾祖母は中国や印度で混乱をもたらし、わが国では三大悪妖怪として鬼神たちと共に都の者たちに畏れられるほどになったんだ。だというのに島崎君。その事実を踏まえたうえで、玉藻御前の先祖や来歴が如何なるものか知りたがっているんだね?」

 

 傑作だ。実に傑作だ。爆笑せんばかりの萩尾丸の言葉を、源吾郎は半ば無表情に聞いていた。彼がそう言うのは何となく解っていた気がしたのだ。

 

「君ってば雷園寺君が来てからはいくらか分別のある若者に成長してくれたかと思ったんだけど……いやはや中々に強欲な所があるじゃないか。ふふふふふ、君は九尾じゃあなくて天狗でも目指しているのかな」

「そりゃあ僕は強欲ですとも」

 

 いたたまれなくなった源吾郎は、思った事をそのまま言い捨てていた。しかしその言葉は、それこそ天狗にならんとする者が具える様な傲慢さとは縁遠い響きを伴っていたけれど。

 君が強欲なのは別に構わないよ。萩尾丸は軽い調子で源吾郎の言葉を受け取った。先程まで笑っていた様子とは異なっているのに、不思議と先程までと今の言動との間には矛盾や破綻らしきものはない。

 

「一般妖怪に甘んじるのならいざ知らず、君はいずれは多くの妖怪を従える身分を目指しているんだろう。であれば強欲で傲慢であっても何ら問題ないさ。僕としても、面倒を見る部下が聞き分けの良い大人しい妖《こ》ばかりだと退屈するからさ」

 

 萩尾丸はまたしてもニヤニヤ笑いを浮かべていた。源吾郎はそれを見て息を吐き、今再び雪羽の事を思った。教育係、それも仕事が終わった私生活を監督する相手がこんな塩梅であるから、雷園寺も色々と思い悩む事があるだろう、と。

 唯一の救いは、萩尾丸が無理やり相手を従わせる事に喜びを見出すタイプではないという事であろうか。そもそも萩尾丸は途方もない妖力の持ち主であるから、生半可な相手が反抗する事などまず無いのだが。

 或いはもしかすると、萩尾丸は自分の強さを知っていて、周囲の妖怪が自分に平伏するのが自然な事だと思っているのかもしれない。だからこそ、大人しく言う事を聞く妖怪よりも、多少反骨心があって逆らうかもしれない妖怪の面倒を見る事に喜びを感じるのではないか。そんな仮説が源吾郎の脳裏に浮かびもした。

 

「そろそろ本題に入ろうか。君をからかうのも中々面白いけれど、さりとてそれで時間を割くのは勿体ないもんね」

 

 何とも奔放な萩尾丸の言葉に、源吾郎は素直に頷くだけだった。そうしたほうが事がスムーズに進むと解っているからだ。源吾郎が何を知りたいか。それを手短に確認すると、萩尾丸は今再び口を開いた。先程とは異なり、思慮深そうな眼差しと真剣な面持ちで。

 

「……これはあくまでも僕の推論になるけれど、君の曾祖母は、金毛九尾は元々は普通の妖狐だったのかもしれないね。もしかしたら、普通のキツネが妖怪化した可能性もあると僕は思っているんだ。

 彼女が行ってきた所業や子孫については記録があるのに、彼女の先祖や来歴についての記録は殆ど無いでしょ。であればそう考えるのが自然かなと思ったんだけどね。いや、そもそも島崎君だって、僕の言ったとおりだと心の中では思っているんじゃあないかな?」

「金毛九尾ではないにしろ、九尾の狐の伝承は昔からたくさんあります。もしかしたら、その中にご先祖様の来歴について記されたものがあるかもしれないと思ったんです……」

 

 萩尾丸の問いに対する源吾郎の言葉は、素直な気持ちから出てきたものでは無かった。萩尾丸に少しばかり反駁したくて、過去の伝承があるなどと口走ってしまったのだ。蘇妲己だった頃の九尾の活動よりも古い伝承がある事そのものは、やはり事実なのだけれど。

 

「金毛九尾が元々は単なる狐だったとしても、やはり大昔からいた妖狐になるのではないかと僕は信じたいのです。流石に、天地開闢の頃に陰の気が凝ったものが僕のご先祖様だという話は信じてはいませんが」

「この世で最古の妖狐は狐祖師《こそし》様だって相場が決まっているだろう。いや違ったね。狐祖師様は……既に妖狐ではなくて上位の神様にランクインなさっているものね」

「こ、狐祖師様の名がここで出てくるとは……」

 

 深い驚きのために、源吾郎の言葉はしりすぼみになっていた。

 狐祖師。その名が示す存在の事はもちろん源吾郎だって知っている。この世で初めて仙道を修めた妖狐、もとい狐神の事だ。この世で初めて仙狐《せんこ》になった存在であるから、現存する妖狐たちの中で最古の存在と言っても過言では無かろう。

 ただ悲しいかな、源吾郎はその狐祖師がどれほど長い年月を生きているのか知らなかった。その辺りはぼやかされていたからだ。とはいえ、狐祖師が数百年、数千年生きた()()の存在ではない事はおぼろに解る程度であるが。

 気付けば萩尾丸はスマホを取り出し、何やら調べ物をしていた。源吾郎が居合わせるその前で。何をなさっているのですか。そう言って問い詰めようとしたまさにその時、タイミングよく萩尾丸は顔を上げた。

 

「島崎君。残念ながら、この僕もキツネという生物種がこの世に登場したのはいつのころなのか、はっきりとした答えを提示する事は出来ないんだ。しかし、今調べた所によると、アカギツネなどは遅くとも十三万年前には存在していたらしいんだ。或いは……イヌ科の先祖からキツネが分化していったのは、七百万年前の事ともされている。

 狐祖師様がアカギツネだったのかどうかは定かではないけれど、若く見積もっても十三万年は生きてらっしゃるという事だ。事によれば、七百万年も妖狐として、或いは狐たちの神として活躍なさっているという事だ」

「…………」

 

 源吾郎は黙って萩尾丸の言葉に耳を傾ける他なかった。万年単位での年齢考察に言葉を失っていたのだ。無理からぬ話だ。源吾郎は今年の春で十九になる若者に過ぎず、紅藤や萩尾丸のように数百年生きた()()の妖怪に対しても、とても長生きしているという感想を抱いているようなものなのだから。

 というよりも、話し手である萩尾丸にしてみても、実感の湧かぬ話であろう。萩尾丸は確か源吾郎の母よりもいくらか年長であり、三百年ほど生きているという事であるから。

 

「そう言えば島崎君。玉面公主様のお父上は、確か()()狐王様だったよね。その名からして万年生きた狐という事だけれど、キツネの先祖について考えれば、あながちおかしな名前ではないという事だね。

 そして島崎君。君の先祖である金毛九尾は、大陸では()()狐狸精とも呼ばれていた。その事は君も知っているよね?」

「…………は、はい」

 

 源吾郎は頬が火照ったり冷えたりするのを感じながら、ただただ頷くほかなかった。玉藻御前は八万年生きたという伝承もあるにはある。そんな事が脳裏をかすめたが、その事は敢えて口にはしなかった。萩尾丸の前でそんな事を口にしたら、話は余計にややこしくなると思ったからだ。いや、ややこしくなりはしない。単に源吾郎が言い負かされるだけなのだから。

 

「金毛九尾、玉藻御前が何歳だったかについても諸説あるのは僕も知ってるよ。だけど、千年狐狸精と呼ばれていた事や夫だった万年狐王様との関係性を考えてみると、やはり君のご先祖様は数千年生きた()()()の妖狐だったんじゃあないかなって思うんだよね。娘の玉面公主様だって、離婚する際に夫の許に置かざるを得なかったわけだし」

 

 所詮は君の先祖は千年狐狸精に過ぎず、万年狐王や狐祖師の足許にすら及ばないのだ。萩尾丸がそんな事を口にしたような気がして、源吾郎は思わず項垂れてしまったのだった。

 

「やっぱり、俺のご先祖様って……」

「喜んだり落ち込んだり朝からそんなに慌てなくて良いだろう、島崎君」

 

 萩尾丸の言葉に源吾郎が顔を上げたのは、その声にいくらかの優しさが含まれていたからだった。

 

「島崎君。ご先祖様が最強の妖狐で無かったとしても、そこまで凹まなくて良いじゃないか。そもそも妖怪の威光や権力は、必ずしも血筋に左右されるとは言い切れないんだよ。

 もっと言えば、一代で権力を築き上げた妖怪だってこの世にはごまんといるんだ。よく考えてみたまえ。峰白様や紅藤様は、血筋の後ろ盾が無かったにもかかわらず、雉鶏精一派の中で最高幹部に上り詰めているじゃないか」

 

 もちろん、僕もそう言う妖怪の一人にカウントされるんだろうね。そう言って笑う萩尾丸の顔は、もはや源吾郎にとっては見慣れたものだった。



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大妖は一世代でも成立す

 雪羽がしれっと源吾郎たちの傍に近付いている事に気付いたのは、萩尾丸の視線が微妙な動きを見せたからだった。すなわち、源吾郎から一旦離れ、中空――少なくとも源吾郎にはそのように思えた――に意味深に向けられたからである。

 

「……気付かれてしまいましたか」

 

 萩尾丸にその存在を気付かれた雪羽は、あからさまにばつの悪そうな表情を浮かべていた。

 

「別に良いんだよ、雷園寺君。僕たちは聞かれて困る様な話をしていたわけでは無いんだからね。むしろ、君も一緒に聞いた方が色々と勉強になるかもしれないね。例えば――島崎君のご先祖様の事とかね」

 

 そう言うと、萩尾丸の視線が再び源吾郎に注がれた。雪羽はもはや源吾郎の隣に控えていた。そうするのが自然な事だと言わんばかりの、堂々とした態度である。

 別に源吾郎は、そうした雪羽の態度について特に何も思わなかった。萩尾丸の事だ。今回の話し合いで雪羽に近付いて欲しくないのであれば、術なりなんなりを行使して雪羽を遠ざける事だって出来るはずなのだから。それに源吾郎自身、雪羽がくっついてくる事には抵抗は無かったし。

 

「僕たちはね、さっきまで島崎君の曾祖母である金毛九尾の来歴について少し話していたんだ。金毛九尾はおおよそ数千年生きた妖狐であって、彼女以上に永い年月を生きた妖狐や……狐神がいるって話をね。

 少なくとも、世界の始まりの頃に陰の気が凝って生まれた存在ではないって事さ」

「あ、そうだったんですね」

 

 萩尾丸の解説に、けろりとした表情で雪羽は応じるだけだった。丸い瞳をくりくりと動かすその姿をじっとりと眺め、源吾郎はため息をついた。

 

「雷園寺君さぁ、君ってば読書好きな割には大陸の伝承とか適当に覚えている節があるよね? 俺、結構前からそれが気になってしょうがなかったんだよ」

「島崎君。そんなにいきり立たなくても良いだろう」

 

 まぁまぁ落ち着きたまえ。萩尾丸はやや大げさに両手を上げ、源吾郎の動きを制した。

 

「雷園寺君が大陸の伝承について詳しくないと思うのならば、君が直々に教えればいいじゃないか。島崎君。勉強熱心にして妖怪博士の末息子である君が、大陸の伝承に多少詳しい事は僕もよく知ってるよ。

 それに、間違っている事や知らなかった事は、そうと解った時点で正せば良いだけの事なのだから、ね」

「…………」

「…………」

 

 淡い笑みと共に放たれた萩尾丸の言葉は、源吾郎たちの間に何とも言えない余韻をもたらしていた。先程までとは一転し、雪羽は恥じ入ったように視線を床に落としていた。頬は紅色に赤らんでおり、強い羞恥心が熱い血潮と共に駆け巡っているのだと、源吾郎は思った。

 間違っている事を正す。この言葉の鋭さに、雪羽は貫かれたに違いなかった。

 

「萩尾丸先輩って、結構お優しい所もあるんですね」

 

 源吾郎の口から思った事が飛び出すと、雪羽は短く声を上げつつこちらをじろりと睨んだ。強い驚愕の色が雪羽の瞳には浮かんでいたが、源吾郎は何も皮肉や当てこすりを言ったわけでは無い。

 間違っていたとしても、知らなかったとしても、そこから正せば良い。その言葉に、源吾郎は純粋に萩尾丸の優しさを見出していたのだ。

 さて萩尾丸はというと、僅かに驚いたような表情を見せてから微笑んだ。

 

「ふふふ。僕の言動に優しさを汲み取ってくれるとは。島崎君、君もやっぱり同年代の妖《こ》と接するようになってから、少しは成長したみたいだね。

 そうだとも。雷園寺君の事は大切に面倒を見ているつもりだよ。三國君たちから預かっている訳だし、きちんと育てば立派な逸材になる訳だからさ……」

 

 そうでしょ雷園寺君? 話を振られた雪羽は、微妙な表情を浮かべつつも頷いた。そんな雪羽の肩に、源吾郎は思わず手を添えた。雪羽はしっかり研究室用の白衣を着こんでいたが、彼のぬくもりは源吾郎の手に伝わってきた。

 萩尾丸先輩は本当に雷園寺の事を大切にしていると俺は信じている。だから安心しろ――心の中で、源吾郎はそんな事を呟いていた。

 何のかんの言いつつも萩尾丸がきちんと雪羽の面倒を見、適切に教育している事は源吾郎には解っていた。雪羽の態度や元気そうな姿、或いはその妖気を見ればすべて明らかな事だ。

 そして萩尾丸がそうしてまめまめしく面倒を見るのは、その根底に情愛があるからだ。そのように源吾郎は信じていたし、そう思いたかった。教育好きは天狗の本能なのかもしれないが、萩尾丸が存外情に篤い所があるのではないか。そんな風に思う時がたまにあるのだ。それに、情もなく無機的に再教育を施されているだけだったとしたなら――あまりにも雪羽が気の毒すぎる。そんな考えも源吾郎の中にあったのだ。

 ああ、ちょっと話が脇に逸れてしまったね。それぞれしんみりとしている若妖怪たちをよそに、萩尾丸はとぼけたような口調で言ってのけた。

 

「それでね雷園寺君。ご先祖様の来歴を今一度おさらいした島崎君は、少し落ち込んでいるらしいんだよね。ご先祖様である玉藻御前は……金毛九尾は高々数千年()()歴史を刻まぬ存在で、自分はあくまでもその四世代目に過ぎないとね。

 さて雷園寺君。君も何か島崎君に言ってやってくれないかい。忖度は要らないよ。素直に、思った事を口にするだけで良いんだ」

 

 萩尾丸に促された雪羽の視線は、即座に源吾郎に注がれた。翠眼が揺らぎ、そして放電している訳でもないのに銀髪もかすかに揺れている。

 

「先輩、まさかそんな事で落ち込んじゃったって……マジかよ」

 

 言葉を絞り出した雪羽は、そう言って深く息を吐いていた。その顔は今や驚きよりも戸惑いが色濃く表出しているではないか。

 

「四世代目って言っても、ご先祖様の事を思えばそんなに凹まなくて良いって俺も思うよ。結局ご先祖様の玉藻御前は何千年()生きた大妖怪なんでしょ。だったらそれはそれで凄い事だって俺は思うし。

 てかさ、歴史の長さだけで言ったら、先輩の家系の方が雷園寺家よりも勝ってるくらいだぜ。雷園寺家は俺の代で十五世代目だけど、言うて二千と……二、三百年くらいだからさ」

「二千年も家系が続いているって言うのも凄いやん」

「いやだからさ、先輩の家系はその倍近い歴史があるって事だろうに。てか玉藻御前もその娘もめっちゃ長生きしてるんでしょ。玉藻御前は殺生石になっちゃったけど、その娘で先輩の祖母にあたる妖《ひと》は……若く見積もっても九百年は生きているんだろうし」

 

 絞り出すような雪羽の言葉に、源吾郎は応じなかった。別に彼の言葉を無視していた訳ではない。祖母である白銀御前について思いを巡らせていただけだ。

 実の祖母である白銀御前の事を、源吾郎はしかし多くを知るわけでは無かった。世俗を疎む彼女の気質故に、子孫である源吾郎たちの前に姿を現す事がほとんど無かったからだ。子供たちの事は夫と共に敵から護りつつ養育していたのだが、孫である源吾郎たちにはほぼ無干渉だった。

 白銀御前が九百歳くらい。雪羽がそう言った事を耳にして、祖母の年齢すら知らない事を源吾郎は思い知った。

 

「……もっとも、どちらの家系も妖怪的には極端なんだけどね。島崎君の所は初代と二代目が大分遅くに仔を設けたのは解ってると思うけれど、雷園寺家は逆に世代を重ねるのが()()()()んだ」

「そうなんですかね」

 

 ぼんやりとした声音で呟くと、萩尾丸は力強く頷いていた。

 

「二千数百年で十四代もあるという事は、代々の当主が百五十年足らずで後退しているっていう事になるんだよ。仮に百五十で当主の座を受け継いだとしても、それでも三百歳だ。隠居するには早すぎる歳だと思わないかい?」

 

 そこまで言うと、萩尾丸はこちらをぐっと凝視した。その通りだと肯定するほかなかった。話し手である萩尾丸自体は三百歳を超えているではないか。妖怪が三百歳程度で隠居などとはとんでもない話だ。

 

「まぁ、雷園寺家の話はこの辺りにしておこうか。話せば長くなる事柄だからね。済まないね、話があちこちにブレてしまって。どうにも僕は、色々な事を話したがる性質であるらしいからさ」

「別に大丈夫ですよ、萩尾丸先輩」

 

 微笑を浮かべつつ告げた源吾郎の言葉は、世辞ではなく本心からのものだった。教育好きな天狗の話が長くなる事は大体解っていた。そもそも源吾郎は末っ子だったから、兄姉や叔父たちなどの長話に付き合わされる事もままあった訳であるし。

 萩尾丸は軽く咳払いし、源吾郎と雪羽とを交互に見やった。

 

「君たちは血筋を誇る生まれだから、どうしてもそれが気になって仕方ないのは解るよ。だけど血筋や家柄が良いから無条件に出世できるとか、そう言う血統を持たない野良妖怪は一生ド貧民のままだとか、そんな単純なものではないんだよ。

 良いかね二人とも。そう言った物は一代で作り上げる事だってできるんだ。自分の実力や地位は言うに及ばず、血筋や家柄すらもね。現に紅藤様がそれを成し遂げたじゃないか」

 

 要は玉藻御前の子孫ではなく、島崎源吾郎という大妖狐として名を残す事も、自身が始祖として血と家柄を残す事も出来るのだ。二人を眺めながら萩尾丸はそう言った。俺が玉藻御前の子孫という肩書ではなく、島崎源吾郎という個人の大妖狐として名を残す事が出来る。その話に源吾郎は全身の血が熱くなるのを感じていた。

 血潮の中を巡る興奮は、源吾郎の尻尾の毛先をも震わせていたのである。

 

「そうしている妖怪の事は、雷園寺君の方が詳しいんじゃないかな。ほら、三國君などがその典型じゃないか。彼自身は野良妖怪に近い雷獣だったけれど、彼自身の活動で名を知らしめ、今では雉鶏精一派の幹部に座しているじゃないか。

――しかもそこまでやってのけるのに、()()()()()()()であるという後ろ盾を一切使わずに、ね」

「それはその通りですね」

 

 視線を泳がせつつも、雪羽は萩尾丸の言葉を受け止めていた。

 彼の叔父である三國が、しかし雷園寺家の権力に無関心である事は有名な話である。確かに事の成り行きで次期当主たる雪羽を引き取りはしたが、それはあくまでも幼子を手放す行為に憤慨したからに過ぎない。雪羽を雷園寺家の次期当主に育て上げようとしているが、それも雪羽自身が次期当主になる事を望んでいるからだ。

 だからもしかすると、雷園寺家とは無関係な存在しとして三國が雪羽を育てていた可能性とてあるのかもしれない。今となっては詮無い事とは思いつつも、そんな考えが源吾郎の脳裏に浮かぶのだった。

 とりあえず。萩尾丸は今一度声をかけた。

 

「家柄とか先祖の功績というのはあくまでも過去の話に過ぎないんだ。君らは若いし惜しむ過去なんてほんの僅かなんだから、むしろ今や未来に目を向けて精進したまえ、良いね」

 

 話はあちこち脱線していたし、そこからの締めくくりも若干雑だったのかもしれない。それでも萩尾丸は話し上手だったから、納得のいく話に落ち着いたように感じられたのだった。



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密かな決意と昔日の夢

「紅藤よ。私が言うのもなんだが、お前もその姿にすっかり馴染んだようだな」

「ええ。その通りですわお師匠様。わたくしの本当の姿は、雉ではなくてこちらの姿ではないか。ときどきそう思う事もあるのです」

「そうか……」

 

 紅藤の言葉に、師匠である男は一瞬だけ哀しげな表情を浮かべた。その事に気付いた紅藤もまた、知らず知らずのうちに表情を曇らせる。本当の事を言ったまでであるし、多分お師匠様も喜ぶのではないか。そんな風に思っていたのだ。

 しかしそれは自分の思い上がりだったのかもしれないと思った。

 不思議な術を使うこの師匠と行動を共にして十年近く経つ。単なる雉だったはずの紅藤は人の姿を得、師匠から知識と生き抜く術を与えられていた。色々な事を知ったと思っていたけれど、実は自分は何も知らないのかもしれない。

 お師匠様……不安になって呟くと、師匠は気恥ずかしそうにかぶりを振っただけだった。

 

「何でもない。ただな、私が行った事が本当に正しかったのか……紅藤のためになった事なのか。そう思っただけだ」

「お師匠様のなさった事は、わたくしのためになっている。そう思いますわ」

 

 紅藤は胸元に手を添えて言い切った。師匠が自分の事で、紅藤に対して行った事で悩んでいる。その事だけは紅藤にははっきりと解った。

 だからこそ、次に紅藤が言うべき事もまた、解っていた。

 

「お師匠様。わたくしはお師匠様の傍にいてしあわせですわ。おそらくわたくしは、普通の雉として一生を終えるだけだったのかもしれないのですから」

「幸せ……か。そうか、紅藤は幸せなんだな」

 

 師匠の言葉は輪郭が薄れたような、ひどくぼんやりとした物言いだった。

 

「だが紅藤よ。物の怪に変じた事によって幸せを感じている事もあるだろうが、唯の雉であった時では知らなかったような苦難をも背負わせているのかもしれない。そう思うと気がかりなのだよ」

 

 そう言った師匠の瞳は妙にぎらついていた。

 

「紅藤よ。前だってお前は徒党を組んだ物の怪の賊に捕まりかけて、危うい目に遭った所ではないか。しかも、私の言いつけで薬草を取っている最中だったな」

「あの時の事は大丈夫です。わたくしの事は、峰白のお姉様が助けてくださったのですから……」

「峰白のお姉様、か」

 

 紅藤の言葉に、師匠は軽く鼻を鳴らした。

 

「人であれ獣であれ、それこそ物の怪まで殺して喰らうという化け物の事を、お前は姉と呼ぶか……ああ、しかしアレは雉天狗と呼ばれてもいたな。敢えてそう呼ぶという事は、お前と同じく元は雉だったのかもしれない。であれば、お前がアレを姉と呼ぶのも道理が通る……か」

 

 吟味するように呟く師匠を眺めながら、紅藤は峰白と出会った時の事を思い出していた。

 目もくらむような毒々しい色調が、峰白の姿と共に鮮明に浮かび上がる。粘っこくドロリとした紅色。おかしな光沢を見せる脂ぎった桃色。そしてそれらよりも控えめながらも、それ故に自己主張を行っている黄ばんだ白色――山中の緑とはそぐわぬ色彩を伴って、峰白はそこに佇んでいたのだ。紅色や桃色に覆われていたのは、彼女が妖怪たちを屠ったからに他ならない。肉片となって散らばったのは、紅藤を獲物と見做し、狩ろうとした異形たちだった。

 結果的に、紅藤は峰白に助けられたのだ。それが他の異形を喰い殺すという物騒な手段だったとしても。紅藤自体は喰い殺される事はなかったし、それどころか言葉を交わす事も出来たのだから。

 

「だが紅藤よ。峰白はお前を助けた訳ではないだろう。アレがお前を喰い殺さなかったのは、単に腹が満たされていた()()ではないか。お前を狙っていた物の怪を、都合七匹も腹に収めたのだからな」

「……そうだったのですか」

 

 紅藤の言葉には僅かに失望の色が滲んでしまった。もしかしたら峰白を仲間にする事が出来るかもしれない。そんな淡い期待を抱いていたのを紅藤はこの時思い出した。だが――返り血の紅色と肉片の桃色に塗れた峰白の姿は、確かに美しくも恐ろしかった。

 

「お師匠様が仰るのであれば、その通りですよね……わたくし、本当は峰白のお姉様もお師匠様の門下に入ればと思っていたのですが」

「紅藤、お前は実に純な心の持ち主よなぁ」

 

 呟く師匠の表情は実に複雑な物だった。優しく微笑んでいるようにも、涙や怒りをこらえているようにも思えたのだ。いずれにせよ、視線は紅藤に向けられている事には変わりない。

 

「それはやはり、元はお前が山野で遊ぶ単なる雉だったからなのだろうかね。お前を従えてからというもの、他の物の怪たちも従えたり弟子にしたりしているが……あやつらの方が色々と考えを巡らせているように思えるのだ」

 

 何処か困ったような師匠の言葉に、今回は紅藤も素直に頷いた。紅藤は彼に従う異形の一人であるが、師匠は彼女以外にも何匹もの異形を従えていた。旅路の中で出会った物の怪たちである。生粋の異形である彼らが師匠に従っているのは、ひとえに師匠の方が強く、しかも食事や寝床に困らないからだ。

 だが――素直に師匠の事を慕っているのかと言われれば、それは断言するのが難しかった。呑気で朗らかな物の怪は師匠を慕い、紅藤の事も姉弟子と見做してくれる。しかしそうでない者も少なくない。

 

「紅藤。私は弟子たちの中でもお前が一番気に入っているよ。私が最初に従えた物の怪であるという事もあるかもしれないが……私によく尽くしてくれているもんなぁ」

 

 だからこそ心配なのだ。師匠はその時はっきりと言った。

 何が心配なのですか、お師匠様。この時紅藤は、素直に問いかけていたのだ。何とも愚かしく、物を知らぬ小娘だったが故の問いかけという他なかろう。

 

※※

「――大丈夫ですか、紅藤様」

 

 自身に呼びかけてくる声に、紅藤はふっと我に返った。半ば寝ぼけていたか、そうでなくともぼんやりしていた事をこの時悟った。手許にあるのは週明けのミーティング用の資料であり、自分に声をかけているのは萩尾丸だ。

 紅藤の一番弟子、実の息子のように――或いは息子以上に忠実な彼は、気遣わしげな眼差しをこちらに向けていた。

 

「もうすぐ始業時間ですよ。他の皆はミーティングの準備を整えた所ですが……」

 

 のろのろと視線を彷徨わせ、時刻を確認する。確かに、始業時間まであと五分を切っていた。ぼんやりしていた自分の事は棚上げし、紅藤は萩尾丸を見やった。

 

「あら本当ね。でも萩尾丸。あなたの事だから、もう少し早めに声をかけてくれるかと思ったんだけど。珍しいわね」

 

 すみませんね。紅藤の言葉に萩尾丸は微苦笑を浮かべながら詫びた。

 

「本来ならばそうした方が良かったのでしょうが、いかんせん僕も部下たちに捕まっておりましてね。話し込んでいたら少し遅れてしまったでしょうか」

「別に大丈夫。いつも前もって準備をする萩尾丸が、こうしてギリギリに動いたのが珍しいなって思っただけだもの。それに今は、萩尾丸だって私よりも島崎君や雷園寺君に構ってあげた方が良いでしょうからね」

「ま、まぁ……そう言う事ならばこちらとしても助かります」

 

 萩尾丸は未だにぎこちない笑みを浮かべていた。その姿を見ているうちに、紅藤は萩尾丸と出会ったばかりの時の事を思い出していた。今でこそ立派な大天狗になっているが、彼とて少年だった頃はもちろんある。拾った直後の頃は、それこそ今の雪羽と同じくらいか、それより若干年長だったくらいではなかろうか。

 裏を返せば、現時点で仔狐や仔猫のような源吾郎たちも、二、三百年経てば今の萩尾丸のような風格を具えた大妖怪に育つのだろう。その姿を上手く思い浮かべる事は出来なかったけれど。

 それにしても。ゆったりと声を掛けながら、萩尾丸は紅藤の姿をじっくりと観察していた。紅藤の身を案じつつも、こちらの様子をうかがうような、そんな眼差しだった。

 

「紅藤様も大丈夫ですか。このところ気を張ってらっしゃるようですし……何なら僕に丸投げしていただいても良いんですよ? 全てを丸投げされると流石に困りますが、少しくらいならば……」

「いいえ、私は大丈夫よ」

 

 萩尾丸の言葉を遮り、紅藤は椅子から腰を上げた。

 紅藤は既に、過去の仲間たちに、同じ師匠の許で修行に励んでいた妖怪たちに会う事を心に決めていた。昔日の、何も知らぬがゆえに幸せだった過去の事を思い出したのは、きっとそのためなのだろう。



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上司の居ぬ間に二尾来る

 午前十時過ぎ。月曜日のミーティングも、特に波乱もなく普段通りに終了した。研究センターの面々は既に本日の業務に勤しむべく持ち場に戻りつつある。

 もちろんそれは、新入社員である源吾郎と研修生である雪羽も例外ではなかった。

 今日の仕事の割り振りは既に萩尾丸たちから伝えられていた。であれば源吾郎はそれに従うだけである。しかし源吾郎は研究室内の雰囲気がいつもと違う事に気を取られてしまい、しばしぼんやりしていたのだ。

 

「どうしたんです島崎先輩。紅藤様と萩尾丸さんがいないんで寂しいんですか?」

 

 笑いを押し殺したような声とともに、ふくらはぎに柔らかな物が添えられた。声の主はもちろん雪羽だ。さも当然のように源吾郎の隣に佇立し、ニヤニヤ笑いと共にこちらを覗き込んでいる。ぶつかってきた柔らかな物は雪羽の一尾だった。相手の気を引く時に尻尾を当てたり巻き付けたりする行為は、尻尾のある妖怪ならばよくある事である。

 

「んだよ雷園寺。俺が年がら年中寂しがっているみたいな言い草じゃないか」

 

 そう言うや否や、源吾郎も一尾を雪羽めがけて振るった。雪羽は相変わらず笑っているのだが、水草が流れに身を任せるかのように源吾郎の尻尾を回避している。あからさまに回避しているという素振りではないから、地味に苛立ちが募る動きだった。

 そうした無駄な何往復かが過ぎた所で、源吾郎は尻尾の動きを止めた。ここで雪羽ともめても利はないと悟ったためである。というか後で紅藤たちに知られたら、源吾郎が叱責されるのは明らかな話だ。

 

「……いやさ。普段より研究センターが広いように感じてさ。それでちょっとぼんやりしてたんだよ」

 

 素直に思った事を告げると、雪羽は源吾郎と研究センターの一室に視線を走らせる。既にニヤニヤ笑いは消えていて、思案顔になっていた。

 

「言うて先輩も研究センター勤めになって一年近いもんな。そりゃあ雰囲気が違うとか、そう言うのに敏感にもなるか」

 

 思案顔のまま雪羽は言った。昨年の春、四月に入社しているから、四月になれば研究センターに所属して丸一年になる。とはいえ、雪羽も昨年八月からここで仕事を行っているので、半年近く研究センター勤めなのだが。

 

「ほら雷園寺君。今日は珍しく朝から紅藤様と萩尾丸先輩が出張なさってるでしょ。だからこの研究センターが広く感じられるのかもしれないんだ」

「…………それはまた興味深い話やな」

 

 雪羽は少しばかり間を置いてから返答した。思案顔だった彼は、僅かに怪訝そうな表情を見せている。

 

「でも先輩。今さっき俺らのいる空間を調べてみたけれど、広くしたり狭くしたりするような術は使われてないと思うよ? まぁ……俺の探知能力を欺くような術が掛けられているのかもしれないけれど」

 

 さっきの間はそう言う事だったのか。雪羽を眺めながら源吾郎は静かに思った。雷獣は優れた五感の他に、電流で物の位置関係や距離、広さ等々を読み取る事が出来るという。雷獣としての能力に秀でた雪羽も、もちろんこの能力を持ち合わせていたのだ。

 

「雷園寺君がそう言うのなら、そんな術は使われていないんだろうね」

「そりゃあそうだろうさ。まぁ確かに萩尾丸さんが狭い箱の内側を広げる様な術を使っていたから、広い部屋を狭くする術も使えるのかもしれないよ。だけど、わざわざそんな術を使う理由が見当たらないし……」

 

 何やら話が妙な方向に転がっているではないか。そう思った源吾郎であるが、しばし彼も雪羽の柳眉が動くのを見つめていた。空間を操る術の考察については一理あるためだ。

 小さな空間の中を広げる術は、それを会得した妖怪や妖怪仙人や仙人などが必要に応じて使うという。先だって眼鏡が破損した双睛鳥《そうせいちょう》を輸送する際に、小さなキャリーケースの中に彼の巨体を収めていたではないか。

 小さな空間を広げられるのであれば、逆に大きな空間を縮める事も理論上は可能なのだろう。しかし、そうした事を行う話はあまり耳にしない。小さな空間を広げる術と異なり、使用する意義が薄いからだろうと源吾郎はすぐに思った。

 特に日本は、ただでさえ狭いのだから。

 

「な、雷園寺君。色々と考察してくれたのは有難いが、ちと術の事から離れようや。もしかしたら、妖術が好きな俺のために、わざわざ空気を読んで考察してくれたのかもしれないけどさ」

 

 源吾郎はそう言って、雪羽の気を引こうと大きく手を広げた。それと共に四尾も放射線状に広がり、ついでに雪羽の足や三尾にやんわりと触れた。

 

「ええとだな、俺が言いたいのはそう言う事じゃなくて……心理的というか妖気の圧的な意味で、今日は特に研究センターの中が広く感じられたって話さ。ほらさ、紅藤様も萩尾丸先輩も大妖怪だから、存在感とか妖気の圧がおありだろう?」

 

 源吾郎の言葉に、雪羽はまず驚いて目を丸く見開く。それから源吾郎を凝視し、何を思ったのかひっそりと笑い始めたのだ。

 

「へえーっ。島崎先輩も妖気の圧とか感じるんすね。萩尾丸さんたちの前でも割と涼しい顔をしているから、そう言うのに鈍いのかと思ってたんだよ」

「涼しい態度をしているって事こそが、俺の()()()()ってやつだろうね。弱い妖怪ほど、他の妖怪の妖気に敏感だって言うしさ」

「ははは、言うじゃないか~」

 

 四尾を持ち上げて不敵に笑う源吾郎に対し、雪羽もさもおかしそうに笑みを深めた。久々に自分の強さを誇示した気もするが、別に相手が雪羽なので問題はなかろう。実際に妖力の保有量だけでは源吾郎の方が勝っている。それに雪羽だって面白がっている訳であるから、これは無邪気なじゃれ合いに過ぎない。

 

「要するに、お二人の存在感と妖気の圧が凄かったって事さ」

「ははははは、やっぱり先輩ってば寂しがり屋って事なんじゃ……」

 

 結局雷園寺は俺の事を寂しがり屋だと思いたがっているな。ツッコミを入れてやろうと思っていた源吾郎だったが、口を開く事はついぞ無かった。

 事務所の入り口ドアが動き、そこから何者かが入り込もうとしている事に気付いてしまったからだ。源吾郎は尻尾の毛を逆立てんほどに驚いたが、業務中ではないかと気を取り直して居住まいを正す。見れば雪羽も同じような反応だった。

 

「――何だ何だ二人とも。狭いだの狭くないだのと話しているのが廊下の先からも聞こえると思ったら、君ら自身もおしくらまんじゅうでもやって遊んでいたのかい。ははは、君らが仲良しなのは俺も知っていたけどな」

 

 ドアを押し開けた声の主は、軽い口調でそう言いつつ、源吾郎と雪羽の二人に視線を向けた。明るい金色の二尾の持ち主であるが、髪色は普通の人間と同じく黒々としている。狐らしい細面と何処かチャラそうな風貌には源吾郎も見覚えがあった。

 

「……どなたがお見えになるのかと思ったら、白川先輩じゃあないですか!」

 

 やってきた妖狐は白川だった。未だに萩尾丸の抱える部下たちの顔と名を全て把握している訳ではないが、彼の事は流石に源吾郎も覚えていた。今年に入ってからも戦闘訓練等々でちょくちょく顔を出しているし、何より昨秋に出会った時の事があまりにも印象的だったからだ。彼はにこやかな様子で源吾郎たちにジュースを奢り、二人が油断した所で思い上がるなと毒を吐いたのだ。口蜜腹剣《こうみつふくけん》とはまさにこの事であろう。

 それは雪羽も同じだったらしい。白川の姿を認めるや、彼は何とも言えない表情を見せたのだ。だが諸々の感情を抑え込み、涼しい顔で彼を見つめ返す事になったのだが。

 

 紅藤と萩尾丸が不在なのは、二人が出張しているからである。流石にミーティングには出席してくれたのだが。いつものように八頭衆との……内部での打ち合わせではなく、外部の妖怪と接触を図るためなのだという。

 紅藤と過去に交流があった妖怪の許に出向いているという話も耳に入っていたが、詳しい所までは解らなかった。源吾郎が解るのは、自分に割り振られた業務を普段通りこなせば良い事くらいだ。

 ちなみに今回の出張とは別に、八頭衆での打ち合わせは後日行われるそうだ。というよりも、幹部たちの都合が合う日を組んでいたら、結果的に対外的な出張の方が先になってしまったという事情らしいのだが。

 そんな訳で、今日研究センターに留まっている面々は青松丸とサカイ先輩、そして源吾郎と雪羽の四名だった。青松丸はいざという時に紅藤の代行になるという地位の持ち主であるし、サカイ先輩も若手と言えども業務そのものには慣れているだろう。

 それでもこの面子だけでは心もとないと思い、萩尾丸が敢えて妖員《じんいん》を一人融通していたのだ。源吾郎たちもその話は知っていた。萩尾丸の部下で誰がやって来るかまでは知らなかったけれど。

 

「……しばらくぶりですね白川先輩。紅藤様と一緒に研究センターを留守にするから、妖材を融通して下さると萩尾丸先輩から話は聞いていたのですが、その妖員は白川先輩だったんですね」

 

 いっそ無邪気で愚直すぎる源吾郎の言葉を受けて、白川先輩はふっと鼻で笑った。

 

「先輩だからって尻尾を振らなくて良いぞ。君の事だ、どうせ穂谷さんが来てくれたら良かったのに、だなんて思ってるだろうからさ」

 

 白川先輩の言葉に、源吾郎は声を詰まらせた。どのような意図でもって発せられた言葉だったのか。源吾郎は必死でそれを探っていたのだ。顔特徴だけを見れば、笑い交じりのジョークであるようにも感じられた。しかし、白川先輩は過去に源吾郎たちに痛烈な言葉を浴びせかけているのだ。笑いの裏に敵意と憤怒を忍ばせていたとしてもおかしくはなかろう。

 更に言えば、白川先輩の言葉が図星だったからこそ、余計にうろたえたという側面もあった。

 

「白川先輩。白川先輩って玉藻御前の末裔を名乗っておいでなのでしょうか。或いは、これから名乗る予定がおありだったりとか……」

 

 何でやねん。関西妖らしい白川先輩のツッコミには、偽らざる呆れの色が浮かんでいた。

 

「そりゃあ確かに、穂谷さんとか他の若狐たちなんぞは玉藻御前の末裔を名乗っている手合いはいるにはいるぜ。だけどな、野狐だからって皆が皆玉藻御前の末裔を名乗る訳じゃあないって事は君だって解るだろう」

 

 先程よりもワントーン低い声で、白川先輩はつらつらとそう言った。やはり先程の発言は彼なりにおどけていたものだったのだと、源吾郎はここで悟った。

 そして白川先輩は視線を動かし、珍獣でも眺める様な眼差しを源吾郎に寄越した。

 

「そもそも島崎君。君は玉藻御前の末裔を名乗る狐たちが跋扈するのを嫌がっていたんじゃあないのかい。何、俺だって君の事は玉藻御前の末裔で幹部候補生として一目を置いているんだ。そんな御仁につまらない事で目の敵にされるのは御免こうむりたいんでね」

 

 そこまで言うと白川先輩は軽く笑った。源吾郎の隣にいる雪羽も、なぜかつられて笑い声をあげている。

 源吾郎は笑わなかった。真面目な表情で白川先輩を見やり、ゆったりと首を振りつつ口を開いた。

 

「はい。確かに僕も、玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちがいる事に思う所はありました。今は違います。もう毛嫌いなんかしていません。実際に会って話してみたら、皆頑張ってる事が解りましたからね。穂谷先輩の事を先輩狐として僕が慕っている事も、白川先輩はご存じでしょうし」

 

 そこまで言った所で、源吾郎の口許にとうとう笑みが浮かんだ。とはいえ、それは自嘲的な笑みだったのだが。

 

「そもそも、玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちの存在は、僕たち親族の間では黙認……いえ半ば容認されているんです。祖母や母や叔父たちがそうしたスタンスなので、僕一人が何か思ったとしても、それが覆る事なんて無いんですよ。何せ一族の中で最年少で、末席の仔狐に過ぎないんですから」

 

 仔狐。そう言った源吾郎は深々とため息をついていた。自分が仔狐扱いされるのは、何も両親や兄姉たちの間だけではない。叔父たちや叔母などの母方の親族たちからもそう思われているのだ。

 もちろん妖力の保有量だけで見れば、四尾の源吾郎は一族の中でも抜きんでた存在と言えるだろう。しかしだからと言って発言権が大きいかと言われれば、それはまるっきり別問題だったのだ。

 

「成程なぁ……まぁ、島崎君の所は親が教育熱心で、それこそ仔狐の頃からきちんと躾を入れていたという事だもんな。まぁ、人間として育てようとしていたって話も聞くし、その辺りもあるんだろうかね」

 

 親と言っても父親はもっぱら俺を甘やかして溺愛していたけれど。そんな考えがふっと浮かんだ源吾郎であったが、その事は敢えて口に出す事はしなかった。父親に甘やかされた源吾郎であるが、父親的な厳しさというものは、長兄がしっかりと請け負っていたのだから。

 見れば白川先輩も支度に入っている。きちんとした白衣を着こみだした彼の姿を見ながら、源吾郎も業務モードに入ったのだった。



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雉妖怪の今昔がたり

 マイクロピペットのくだりは筆者の実体験だったりします(隙自語)


 青松丸の指示を受けた源吾郎は、先輩たちが実験に使う試薬を調整していた。業務自体は特段難しいものではないはずだ。定量の精製水に、これまた指定の分量だけ液状の薬品を入れる。それだけの事だ。

 ついでに言えば、出来上がる試薬も使用する薬品も、今回に限って言えば妖体《じんたい》に無害なものだった。

 実を言えば、研究センターにて扱う試薬や薬品の類は無害な物ばかりではない。

 故意に飲むなどといった行為は論外であるにしろ、皮膚についただけでも有害な成分が体内に浸透していくだとか、発がん性があるとされる試薬もあるくらいだ。ちなみに妖怪は人間や普通の動物よりも頑健な生き物ではあるが、細胞で構成されている種族の場合、がんを発症する可能性はあると考えても問題はない。

 中には妖気に反応して熱を帯びて沸騰したり、触れた相手の妖気や生体エネルギーを吸い取ってしまうような薬品もあるそうだ。

 もっとも、新人である源吾郎や研修生になったばかりの雪羽はそうした試薬を取り扱う機会はまだ与えられていない。とはいえ……中学生のころなどに危険な薬品だと思っていた塩酸や硫酸が可愛く思える様な試薬のラインナップが、この研究センターには揃っていた。

 だからという訳ではないが、源吾郎は僅かに気が緩んでいたのだ。この手の試薬調整は初めての事では無い。高温に弱いから冷やした状態で行うべきという事であるが、そこまで神経質になる事もない。小さな発泡スチロールの中に冷却用の氷を満たし、その中に試験管を刺していればそれで十分だ。現にそうした状態で源吾郎は調整を進めていた。

 後は薬品を五ミリリットル測り取って試験管に入れるだけである。あと五回マイクロピペットを動かせば調整は終わるのだ。源吾郎は無邪気にそう思っていた。彼の右手には、もちろんマイクロピペットが握られていた。溶液を吸い取る目盛りは一〇〇〇を示している。千マイクロ、つまりは一ミリリットル分を一度に吸い取るように調整していたのだ。

 

「あっ……」

 

 薬品を二度マイクロピペットを用いて吸い上げて試験管に入れ、三度目を吸い上げた時の事だ。源吾郎が間の抜けたような声を上げたのは。

 薬品を吸い上げるのに失敗してしまったのだ。吸い上げる際にいつも以上に勢いがついてしまったのだろうか。チップの中に吸い上げられた液体は一度目や二度目よりも明らかに少ない。しかも吸い上げる時に若干跳ねたのか、チップ内部に小さな水滴がついているのも見える。

 まずかっただろうか。これはどうすべきか。源吾郎は首をかしげて思案した。このまま試験管に投入するのはもちろん論外である。さりとてこれを薬品の瓶に戻してしまっては不純物が混入する恐れもあるかもしれない。勿体ないが、流しに液を棄てる他ないのだろうか。

 幸い、源吾郎のしくじりを見ていた者は誰もいないようだった。青松丸やサカイ先輩は厳しく叱責する事は無いだろうが、雪羽に見られていたらそれはそれでややこしい。

 そんな風に安堵し、またしても源吾郎は油断していたのかもしれない。

 

「島崎君、君は一体何をやっているんだい?」

 

 だから源吾郎は自分に近付いていた妖狐に気付かなかったし、声を掛けられた時には大いに驚いたのだ。

 傍らにいたのは萩尾丸の手引きで派遣された白川先輩だった。しっかりと白衣を着こんでいる姿が様になっている。洗っても取れなかった薬品の染みが所々残っており、長年使いこんできた気配が見え隠れしていた。

 白川先輩の眼差しは鋭く、そして冷え冷えとしていた。昨秋のあの日、源吾郎と雪羽を「良い身分のお坊ちゃま」と言い捨てた時よりも眼差しはきつく感じられるほどに。

 

「何って……試薬を作っているんです。青松丸先輩に言われましたし、これはそんなに危ないやつじゃあないから……」

 

 源吾郎の弁明を半ば聞きながら、白川先輩はあからさまにため息をついた。何が気に障ったのだろうか。いや……俺はまだ中途半端に吸い上げたマイクロピペットをそのまま握っているではないか。それを咎めるつもりなのか。でもこれじゃあ証拠隠滅なんてできないし。

 

「島崎君は文系で実験の方面には明るくないと聞いていたが、まさかこんな事をしでかすとは……」

 

 源吾郎は思わず身を縮めてしまった。ついで若干上目遣い気味に白川先輩の表情を窺う。捨てられて途方に暮れた仔犬のような表情に近いものだ。いや、源吾郎は妖狐だから仔狐と言った方が正しいであろう。

 色々とあざとい表情かもしれないが、実の所源吾郎は意図してこんな態度を見せた訳ではない。半ば反射的にそうした仕草を見せてしまっただけだ。

 それこそが、彼が末っ子として扱われ、一族の仔狐という地位に長らく収まっていた事の証拠になるのかもしれないが。

 

「マイクロピペットをチマチマ使っていたみたいだけど、五ミリリットル分を測り取るつもりだったんだろう?」

 

 源吾郎は何も言っていないにもかかわらず、白川先輩は解っているかのように言ってのけた。実際問題その通りだったのだが。だから源吾郎は素直に頷いた。少し呆気にとられ、反応が遅かったけれど。

 

「良いかい島崎君。こういう時にはマイクロピペットを使うのは適切ではないんだ――」

 

 その言葉と共に、白川先輩のレクチャーが始まった訳である。結局試薬は作り直しになったのだが、マイクロピペットの特性が、源吾郎の脳裏に叩き込まれる事となったのだ。

 

「白川君は理系肌の妖狐なんだ。だからきっと、萩尾丸さんも今回敢えて彼を僕たちの所に寄越したのかもしれないね」

 

 昼休み。青松丸に午前中の事を報告すると、彼はのんびりとした口調でそんな風に言った。話題に上がった白川先輩はこの場にはいない。工場棟の食堂で食事を摂っているとの事だった。

 試薬調整の後に知った事なのだが、白川先輩はこの研究センターや併設する工場棟で働いていた事もあるらしい。サカイ先輩が研究センター入りする前の事であるから、十年以上前の事だ。源吾郎は結構前の事だと思っているが、当事者にしてみればごく最近の事なのかもしれない。

 

「……白川先輩は僕らの事を良い身分のお坊ちゃまだとか、そんな風に言っていた事があったんですけれど、もしかしたら僕が研究職だからってのもあったんですかね?」

「あ、でも島崎先輩。俺は白川さんに『研究職としては良い線行っている』って言われたんすよ」

 

 腑に落ちた様子で呟く源吾郎の言葉に、雪羽が横槍を入れていた。青松丸にちょっと世間話をしようと源吾郎が向かった所に、雪羽も偶然を装って近くに控えていたのだ。いつもの事なので源吾郎も特にその事を指摘したりしない。

 余談であるが雪羽は単体で工場棟の食堂や自販機に出向く事は殆ど無かった。ヤンチャな悪ガキのわりに、内気というか内弁慶な部分を彼は持ち合わせてもいた。もっとも、人間で言えば十代半ばの子供なのだから、そうしたややこしい感性の持ち主であっても何らおかしな事は無いのだが。

 

「そうなんだよなぁ、雷園寺君は理系方面というか研究職方面の方も強いよなぁ。メカとか電気とか幾何とかが得意分野だって言ってた割には、化学とかそっち方面にもかなり強いじゃないか。詐欺だぞ詐欺」

「やだなぁ先輩。そんなショボい事で吠えてたら色々と台無しだぜ? そう言う事柄って根っこで繋がってるから、一つが解れば芋づる式に解る様な物なんだってば」

 

 おどけたように話す雪羽の顔を、源吾郎は目を細めながら眺めていた。雪羽の存在は時々謎めいているように源吾郎には感じられたのだ。もちろん解りやすい部分もあるが、彼の気質は何もそれだけではない。その事が解らなかったから、源吾郎も無邪気に単純なやつだと思っていた時もあった。

 しかし実際には源吾郎以上に繊細な側面も持ち合わせているし、脳筋であるように見せかけて聡い部分もある。もしかしたら、ヤンチャな悪童ではない、彼本来の性格が顔を覗かせる頻度が増えているのかもしれなかった。

 少なくとも解るのは、自分とは異なる部分も多いという事くらいであろうか。

 そんな風に雪羽の事を考察していると、青松丸がおっとりとした様子で口を開いた。

 

「島崎君は文系だったみたいだから、確かに最初の十年くらいは普通の研究者とか理系の子たちより苦労するかもしれないね。だけどそれ以上に勉強熱心だから、その辺もうまく乗り越える事が出来るんじゃないかなって僕は思っているんだ」

 

 吟味するように青松丸は言うと、次に雪羽に視線を向けた。

 

「それに引き換え、雷園寺君は確かにゴリゴリの理系肌だよね。三國君たちも、どちらかと言えば君を管理職として育てていたみたいだから……やっぱり生まれつきの素質なのかな」

 

 どうなんでしょうねぇ。紅藤の手で研究センターの研修生という身分を与えられた雪羽は、すっとぼけたようなように応じて首をかしげるだけだった。

 

「やっぱり雷獣ってそっち方面に強い個体が多いらしいですね。一番得意なのは雷撃を扱う事ですけれど、そこから派生した特技を持つやつもいる訳ですし。俺や親戚たちが機械に強いのもそのためですね」

 

 雪羽はそこまで言うと、はたと何かを思い出したような表情を浮かべた。

 

「後は……医療というかケガとか病気を治す系統の仕事に就く雷獣もいるらしいんすよ。細胞とか神経の間には弱いけれど電流が流れているじゃないっすか。所謂電気治療ってやつですかね。

 実はそう言う使い方ってかなり難しいんだけど。でも、雷園寺家の現当主はそう言う術を習得しようとしていて、実際に少しなら使えるって聞いたんだ」

「ほう……」

「――そう、だった、んだ」

 

 雷園寺家の現当主が回復術のような物を会得している。雪羽のこのカミングアウトは、重要な意味があるように思えてならなかった。何より目がぎらついているではないか。

 源吾郎がその意味を探ろうとする前に、タイミングよく青松丸が口を挟んだ。

 

「二人ともまだまだこれからだし、少しずつ頑張っていけばいいと僕は思っているんだ。紅藤様や萩尾丸さんも、君らには期待を寄せているんだからさ。

……あ、しまった。きょうびむやみに『頑張れ』なんて無責任に言うのは良くないんだよね」

「大丈夫ですよ、青松丸先輩」

「平気ですって。俺、これでも打たれ強いんですから」

 

 先の発言に対し、妙にこちらに気を使う青松丸に対し、源吾郎と雪羽はそう言って笑った。それよりも青松丸先輩。源吾郎は青松丸の顔を見やり、思っていた事を口にした。

 

「青松丸先輩こそ、今は大変な時期なのではありませんか? 紅藤様たちが落ち着かないのもありますが、ここ最近、萩尾丸先輩が妙に圧をかけてらっしゃるみたいですし……」

「大丈夫だよ島崎君。僕はそう言うのには慣れているんだ」

 

 ですが……淡く微笑む青松丸に対し、源吾郎は尚も言葉を重ねた。萩尾丸はこの場にはいないのだから、別に忖度しなくても良いのに。そう思っているまさにその時、青松丸が語り始めたのだ。

 

「僕と萩尾丸さんの関係は、ちょうど君たち二人の関係と()()()()なんだ。もっとも、僕たちの場合はどっちが兄でどっちが弟なのかはっきりしているけどね」

 

 萩尾丸と青松丸の関係性が、自分と雪羽の間にあるそれと同じである。思いがけぬその言葉に、源吾郎は驚いて視線を彷徨わせた。雪羽と青松丸を交互に眺めているうちに、雪羽と視線を絡み合わせる形にもなった。

 

「いや、僕たちの関係はむしろ峰白様と僕の母である紅藤様の関係に近いと言った方が良いのかな。あのお二方が、()()()()()()振舞っているのは君たちも知ってるでしょ」

 

 そうですね。源吾郎と雪羽は揃って頷いた。紅藤が峰白を姉として慕い、峰白が紅藤を妹と呼んでいる姿は源吾郎も知っている。

 萩尾丸さんは僕にとっては()のような存在なのだ。青松丸は静かにそう告げた。その声には昔を懐かしむような響きが伴っている。

 

「出会った時はお互い子供だったから、余計に兄弟とか仲間みたいな感覚があったのかもしれない。ともあれ萩尾丸さんが、すぐに僕の兄のように振舞ってくれた事には変わりないよ。そうして僕はあの妖《ひと》の弟分に収まったからね。萩尾丸さんの方がいくらか年上だったし、昔からしっかりした気質の持ち主だったからね」

 

 その通りだと源吾郎は思っていた。元より萩尾丸は、紅藤に拾われた小妖怪に過ぎなかったという。今でこそ実子である青松丸を差し置いて紅藤の右腕となっているが、それは生半可な気質であれば実現できぬ事であろう。

 もっとも、ライバルだったはずの青松丸が、極端に内気で穏和な性格だったのも、萩尾丸が順調に出世した要因の一つなのかもしれないが。

 

「多分だけど」

 

 いたずらっぽい笑みを口許に漂わせながら、青松丸は呟く。

 

「島崎君と雷園寺君の面倒を見ているうちに、君らのやり取りを眺めているうちに、萩尾丸さんは昔の事を思い出したんじゃあないかな。それで自分が若かった頃を懐かしく思ったり、島崎君たちの事が()()()()感じられたのかもしれないね」

 

 俺たちの事が羨ましいだって! 源吾郎はまたも驚いて目を丸くした。あの萩尾丸が、所詮は仔狐や幼獣に過ぎぬ自分たちの事を羨ましく思うとは。その謎の答えについても、青松丸は気前よく明らかにしてくれた。

 

「ほらさ、二人はもう基本的には仲良しになっているけれど、それでも時には競い合ったり張り合ったりしてるでしょ。萩尾丸さんだって、本当は僕と張り合ったり競い合ったりしたかったんだよ。ただ、僕は()()()()()()じゃあなかったから……」

 

 そう言って微笑む青松丸の顔には、自嘲的なものが色濃く浮かんでいた。源吾郎はここで、彼が胡琉安の半兄である事を思い出してもいた。多くを語る事はないが、青松丸も時にはおのれが背負う物の重たさに音を上げたくなる時があるのかもしれない、と。

 しかしその一方で、若い頃の青松丸が、兄貴分に収まった萩尾丸に対して張り合う所は上手くイメージできなかった。現に二人がそれぞれ収まっている地位こそが、二人の気質の違いを雄弁に物語っているではないか。

 それにしても青松丸さん。雪羽が丸い翠眼を動かしながら青松丸に問いかけた。

 

「言い方は悪いですが、萩尾丸さんは青松丸さんの兄貴分になれたからこそ、今日第六幹部としての地位を護っていると僕は思うんです。だというのに、今更張り合って相争うとなると、その地位が危うくなると萩尾丸さんはお思いにならないんですかね?」

「――幹部としての地位だけじゃなくて、対等に相争う相手も欲しい。萩尾丸さんはそう思っておいでなんだ。ただ強いだけじゃあ孤独だからね」

 

 青松丸の意味深な言葉に、源吾郎は神妙な面持ちで耳を傾けるだけだった。最後の一文のために、無邪気に萩尾丸が強欲であると決めつける事は出来なかった。



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半ドン狐は曇天に思う

 水曜日。未だに紅藤や萩尾丸は何かと調べ物で忙しいようだが、源吾郎は有給を使う事にした。週末に叔父が会いに来るという連絡を受けたのが、有給取得に踏み切ったきっかけでもあった。二月初旬にある裏初午についての話という事であるから、アパートの別宅に叔父を迎え入れようと思っていたのだ。ところが別宅の方は時たま出向く程度であるから、これを機に綺麗にしておこうと思ったのだ。

 そう言う準備をするのならば、ここで思い切って有給を取ったら良いのではないか。源吾郎の脳内では、そんな風にきちんとまとまった考えがあったのだ。

 ちなみに叔父たちには、源吾郎がこっそり研究センターの居住区を本宅にしている事は知らせていない。よしんば知らせていたとしても、本宅に職場関係者ではない妖怪を招くのは源吾郎としても抵抗があった。

 とはいえ一日丸々休むのは流石に気が引けたので、半日有給を申請していた。午前中は出社して、午後からは休みというスタイルである。上司たちも忙しそうだし、自分も自分で半日は仕事をしたと思えるし、何より午後からは休みなので休んだと思える。良い事づくめのように源吾郎には思えたのだ。

 

 正午を三十分ほど回った頃。休暇があと三十分足らずでやって来る事に源吾郎がそわそわしていると、雪羽がごくごく自然にこちらに近付いてきた。通常であればこの時間帯は昼休憩の時間である。雪羽も食事を摂ったばかりであろう。

 円弧を描くように源吾郎の周囲を巡回していた雪羽であるが、小さく呟いてから納得したような表情をひとり見せていた。

 

「あ、そうか。先輩は半休だからこの時間に働いているんすね」

「そうそう、そうだとも。そう言う決まりだからね」

 

 雪羽の言葉に、源吾郎は頷きつつそう言った。研究センターの勤務時間は九時から十八時である。午前と午後に十分休憩を一回ずつ挟み、昼休憩は十二字二十分から四十分設けられていた。勤務時間は八時間である。

 しかしこれは、半日出勤の時には勝手が異なっていた。半日出勤の際は勤務時間は四時間のみだ。そのため例えば午前の出勤の場合は、昼休憩を取らずに四時間通しで働かねばならない。

 源吾郎は雪羽を見やりながら、怪訝そうな表情を浮かべた。半日出勤の仕組みについては、雪羽もきちんと知っているはずだと思ったためである。何せ雪羽の方が、自分よりも社会妖経験は長いのだろうから。

 

「今思ったんだけどさ、雷園寺君だって半休のルールは知ってるんじゃないの」

「まぁね。言うて俺が使うのは、どっちかって言うと有給の方だけどな」

 

 半休よりも有給を使う。気取った物言いと態度も相まって、雪羽らしい主張だった。そして雪羽の発言はその主張だけに留まらない。

 

「先輩だって、半日休むなんてみみっちい真似なんかしなくてさ、一日休んでも良かったんじゃないの? 先輩は殆ど休まないから、有給にも事欠かないでしょ」

「丸一日休んだら、それこそ雷園寺君が寂しがるだろうに」

 

 ひとつ冗談を口にしてから、源吾郎は口許に笑みを浮かべた。雪羽もつられたのかそれとも面白いと本気で思ったのか、その面に笑みが浮かぶ。

 

「真面目な話、今は紅藤様も萩尾丸先輩たちも頑張ってらっしゃるから、そんな中で一日休むのは気が引けたんだよ。今回だって、週末に叔父が会いに来るって話だから、別宅の片付けのために休みを取ったようなものだし」

「ははは、やっぱり先輩ってお狐様なんだなって思いましたよ」

 

 源吾郎の言葉に、雪羽は感慨深げに呟いた。

 妖怪は人間などからひとからげに妖怪と見做されがちであるが、もちろん種族ごとの特性や特質が具わっていた。妖狐の特性の中には忠義の心がある。おのれが認めた相手に忠義を尽くそうとする心がけの事だった。

 源吾郎は大妖狐の血統と力でおのれの欲望に忠実に生きる事をモットーにしていたが、実の所彼の持つ忠義の心は、研究センターの面々に向けられていたのだ。雪羽がその事を指摘したのは言うまでも無かろう。

 

「それにしても、お昼なのにお昼ご飯を食べずに仕事なんてきつくないっすか? 俺、そう言うのが嫌だからフルで有給を取る事が多いんだけど」

「何だ、君はそれを心配していたのか」

 

 気づかわしげな雪羽の表情に、源吾郎は合点がいったような気分になっていた。雷獣は哺乳類妖怪の中でも代謝率がかなり高い。従って雷獣は他の獣妖怪よりも大食漢であり、しかも消化器官の都合上小鳥のように少しずつ回数を分けて食べねばならないのだという。ましてや雪羽は肉体的にも育ち盛りである。その彼にしてみれば、昼食の時間が遅れるというのは多大なるストレスになるのだろう。思えば休憩時間なども、ちょっとした物を飲食しているくらいなのだから。

 その辺りの感覚は、それこそ子供雷獣らしい悩みや懸念ともいえるだろう。

 だがその懸念は、妖狐の半妖である源吾郎には当てはまらないのだが。

 

「俺は大丈夫だよ雷園寺君。ご存じの通り妖狐だからね。狐は……というかイヌ科の肉食獣は、多少は食い溜めが出来るから、毎度毎度ご飯にありつかなくても大丈夫なんだ」

 

 納得と当惑の色を交互に見せる雪羽を眺めながら、源吾郎は腹の辺りをちらと見やった。

 

「それに今しがた空腹の波が抜けた所だしね。もっと言えば、食べたい時に食べる様なライフスタイルだったら、俺なんぞ一気に肥っちまうかもしれないんだよ。体型からしてあれだしさ」

 

 まぁ就職してからは少しは絞ったんだけど。心の中でそんな事を思っていると、雪羽はようやく納得したらしく、朗らかな笑顔を源吾郎に向けたのだった。

 

「そう言う事なら大丈夫そうっすね。ははは、何というかお狐様らしいし、島崎先輩らしい言葉っすね」

 

 源吾郎が別宅に向かったのは、昼の二時前の事だった。昼食を摂ったりホップの様子を眺めたりしている間に小一時間ほど経っていたのだ。

 手早く昼食を作り、まったり昼食を摂り、そしてのんびりとホップの様子を観察する。別宅に向かうまでの源吾郎の挙動はこのような物だった。

 ちなみに、ホップは源吾郎の存在に目ざとく気付き、せわしない様子でこちらの様子を窺っていた。ホップなりに普段と違う事を感じ取っているらしかった。確かに源吾郎はこの時間帯にいる事は滅多にない。厳密に言えば土日はいる事もあるのだが。

 籠から出て遊んだりしないだろうか。そう思った源吾郎がたわむれに籠の入り口を開けてみたりもしたが、ホップがそこから飛び出してくる事はついぞ無かった。ただただ、黒々とした瞳で飼い主の様子を窺っていただけだったのだ。

 はからずとも、ホップが規則正しい生活を送っている事を源吾郎は知る事となったのである。

 

 ちょっとしたお掃除セットをバッグに詰め込み、ママチャリでもって町内を疾駆した源吾郎の姿は、幸いな事に白眼視される事は無かった。というよりも、彼を目撃したヒトがほとんどいなかったと言った方が正しいであろうか。

 平日の昼日中と言えば、ほとんどの人間が仕事だの学校だのに出向いている最中であろう。もちろん主婦や主夫もいるかもしれないが、彼ら彼女らとて買い物や家事などで忙しいであろうし。

 加えて言えば、今にも雨が降りそうな曇天である事もまた、町内に人が少ない要因だったのかもしれない。鳥たちの姿は、鳩や鴉や雀の類はあちこちで見かけたのだけど。

 久しぶりに訪れた別宅――元々はここで居を構えていたのだが――のアパートは、思っていた以上に小ぢんまりとしていた。研究センターの本宅とほぼ同じ面積であるのだが、こちらの部屋の方がいくらか広く感じられた。別宅として使用するにあたり、ほとんど物を置いていないからだ。元々一人暮らしだからと家電も棚も小規模なものを用意していたのだが、今ではそれらの多くも本宅に移動させていたから尚更であろう。

 

「うーむ、思っていたよりも侘しいなぁ」

 

 異常がないか視線を走らせているうちに、源吾郎は思わずそんな言葉を口にしていた。夏に珠彦や文明と共にここで遊んだこともあったが、その時はこの部屋が侘しいとは夢にも思わなかった。

 或いは今が真冬で、しかも灰色の雲に覆われた曇り空であるから、尚更そう思うのだろうか。

 とりあえず、そこここに積もったホコリの掃除でもするか。なすべき事を手早く決めた源吾郎は、空気を入れ替えるために窓を開けた。

 ベランダの傍には雀たちがたむろしていたらしい。甲高く大きな声を上げると、集まっていたはずの雀たちは四方に散った。その遠くでは鴉の啼き声も聞こえる。

 真冬であると言えども、一月ももう下旬を迎えている。鳥たちは来るべき春に備えて集まっているのかもしれない。湿っぽくもひんやりとした冬の空気を感じながら、源吾郎は静かにそう思っていた。




 主人公を一人暮らしにしようとすると、どうしても18歳以上にしちゃうんです。そんな訳で源吾郎君も18歳です。ちなみに親とか兄とかがアパートの保証人になってそうです。


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若狐 黄昏時に化かされる?

 気付けば窓の外が大分と暗くなっていたので、源吾郎は面食らってしまった。別宅に訪れたのは昼下がりの事である。夕焼け色を通り越して、暗い藍色に染まった窓向こうの景色を目の当たりにして、こんなに時間が経っていたのかと思ったのだ。

 しかし、源吾郎の驚きはさほど長続きはしなかった。スマホで時間を確認して、今が正確に何時ぐらいなのか把握したからだ。何という事はない、まだ五時半を回ったばかりだった。夜と呼ぶには早すぎる時間ではないか。

 つまるところ、源吾郎はこの部屋に来てせいぜい三時間ほどしかいないという事だ。狭くて家具もほとんどないアパートの一室の掃除、それもホコリを払う程度の事ならば、そこまで時間を費やす事は無いのかもしれない。

 しかし源吾郎がアパートの中で行っていたのは掃除だけではなかった。アパートに置いていた本に手を伸ばしてしまったというのもあるし、何よりこのアパートの中である種の変化術を行使してもいたのだ。

 研究センターの居住区に引っ越すにあたり、源吾郎はアパートに置いていた家具や家電の大半を向こうに移設してもいた。このアパートに物が極端に少ないのはそのためだ。

 元よりアパートに置いてある家具は少なかったのだが、いくら何でもこれではあまりにも殺風景すぎる。部屋のあるじである源吾郎の目から見ても、ここで暮らしていると言われれば首をかしげるレベルだった。

 ましてや、苅藻は一度この部屋に訪れた事さえあるのだ。それも源吾郎がまだここで暮らしていた時に。このままであれば苅藻が怪しむのは明らかだ。

 だからこそ、源吾郎はかつて自分がこの部屋で暮らしていた時の状況を変化術の類で再現できるか試していたのだ。もちろん、実際に機能するような家具や家電を変化術で再現するのは源吾郎でも難しい。しかし、そこに在るように見せるだけであれば出来るだろう。そのように源吾郎は踏んでいたのだ。幸いな事に、スマホにはかつてここで暮らしていた時の写真も何枚か存在していたし。

 思い立ったら吉日とばかりに源吾郎は即座に行動に移った。もちろん、納得のいく変化術は最初の一発や二発ですぐに出来たわけでは無い。しかし何度か繰り返しているうちに、かつて暮らしていたレイアウトを再現する事が出来たのだ。そこまでに費やしたのは小一時間程度である。

 これならば苅藻の叔父上も違和感は抱かないだろう……大体のコツを掴んだとみるや、源吾郎は内心ほくそ笑んだ。変化術で物体をこしらえる術は、単純に難しいとか簡単だと言い現わせるものではなかった。動物などの分身を顕現させる術とは確かに異なっていた。異なっていたからこそ、簡単な部分も難しい部分もあったと言えば良いだろうか。

 それでも源吾郎は、おのれの術の出来栄えや自身が術を行使できた事実に酔いしれ、満ち足りた気持ちになっていた。島崎君は今でも十分に強い。半妖とは思えないほどの才能の持ち主じゃあないか。萩尾丸が抱える部下たち、特に妖狐たちの声が脳裏にこだまする。

――ああそうだ。俺は才能に満ち満ちているんだ。やっぱりこれも、生まれ持った才能よな……

 過去に受けた称讃を思い出しながら悦に入っていた源吾郎であったが、その至福のひとときも長続きはしなかった。凡狐たちの称讃や声の面影はすぐに薄れ、研究センターの面々や親族・家族の姿がより鮮明に浮かんできたからだ。

 彼らは確かに源吾郎に才能がある事は認めていた。しかし、源吾郎が慢心して才能がある事をひけらかす事は決して許さなかった。のみならず、お前は未熟な仔狐なのだと、言葉と態度で示していたくらいだ。そうした者たちの中で一番態度が柔らかいのは雪羽であるが、それは彼が源吾郎と同年代の若妖怪であるからに過ぎない話だ。ましてやその彼とて、戦闘訓練では源吾郎を翻弄しおのれの優位を見せつける始末だ。

 いや違う。源吾郎は息を吐いて首を振った。師範や上司、そして親族たちの態度が厳しく見えるのは、ひとえに自分の野望によるものなのだ。少し冷静になった源吾郎はその事をきちんと思い出したのだ。

 最強の妖怪として君臨する。それこそが源吾郎の野望である。そしてその野望を叶える事は、今の源吾郎では夢のまた夢の事なのだ。何せ最強の妖怪を、最も強い妖怪を目指しているのだから。才能があるだけの若造が、すぐに最強になれるほどに世間は甘くない。そもそも先ほども言ったように、雪羽との戦闘訓練でさえ源吾郎は苦戦するようなレベルなのだ。

 だが、戦闘訓練で雪羽相手に苦戦するのは致し方ない事だと、紅藤たちも思っているらしい。それはやはり、彼らは年長者として強くなる事の大変さやその道のりの険しさを知っているからだ。というよりも、それでも十何度かに渡る戦闘訓練で、源吾郎が二、三度は勝利を収めた事に驚いてすらいるらしい。妖力の保有量ばかり多い、闘いを知らぬお坊ちゃまの割には頑張っているではないか、と。

 紅藤たちは、特に萩尾丸は源吾郎の強さや才能に対して厳しい評価を下しているように思う。しかしその一方で、彼が才能を持っている事自体は認めてくれているのだ。

 

「あぁ……半休だけどいい塩梅に疲れたぜ」

 

 源吾郎は長い欠伸をし、誰に言うでもなく呟いた。自分の身の振り方について、あれこれ考えるのはやめだ。頭の中で源吾郎はきっぱりとそう思っていた。慢心してはならないのは言うまでもないが、さりとて卑屈になり過ぎるのも良くない。自分はまだまだだという気持ちは持ち続けておかないといけないが、保有する力の恐ろしさに無自覚なのも問題である……紅藤たちの教えは概ねそのような物だったはずだ。それをアウトラインとして知っていれば上出来であろう。この手の事は、考えを巡らせれば巡らせるほどドツボにはまりそうな気もするし。

 とりあえず家に帰ろう。そう思い立った源吾郎は、身の回りの物を軽くまとめて立ち上がった。明日ももちろん仕事が控えている。そうでなくとも夕食の準備やホップの放鳥などと言った日常の出来事も待ち構えていた。

 源吾郎はだから、今は別宅となり果てたこのアパートを後にしたのだ。その足取りは軽く、こだわりもためらいも無かった。

 それどころか、帰る前にスーパーによるべきか否か、そんな事を考え始めていたくらいなのだ。

 

 やっぱりスーパーに立ち寄ったのは正解だったな。ママチャリの籠に収めた荷物を一瞥し、源吾郎はほくほく顔だった。

 基本的に、源吾郎がスーパーで買い物をするのは仕事終わりの夜か土日などの休日に限られている。元より源吾郎は会社勤めであるから、スーパーに向かう時間も就業時間外になるのは致し方ない話だ。

 従って平日に向かう際は夕方を大分過ぎた時間帯となる訳であり、品揃えも薄かったりお買い得品が既に売り切れていたりする事も珍しくはない。

 だが今回は、いつもより三十分ばかり早くスーパーに辿り着く事が出来た。三十分の時間差というのは流石に大きく、品揃えも源吾郎が普段通う時よりも充実しているように思えた。その分客足も多く若干込み合っていたのだが、それは特に問題ではなかった。源吾郎は若く、尚且つ半妖なのだ。体力面や身体能力はそれでも人間の成人男性よりも優れている。込み合っている合間を探し出し、素早くお目当ての品を買い物かごに入れる事など造作の無い事だった。

 源吾郎はゆるゆるとママチャリを漕いでいた。タイヤの前輪に取り付けられたライトが、蒼白い光を放ちながら行き先を照らしている。

 特に急ぐ道ではなかった。既に夜の帳が周囲に降りているかのようであるが、時間としてはまだ六時を過ぎたぐらいに過ぎない。むしろ普段よりも時間帯としては早いくらいだった。ついでに言えば、早めに居住区に戻ったら、工場棟に勤務する行員たちと出くわすのではないかという懸念も源吾郎は抱いていたのだ。

 もちろん、彼らに出くわしたからと言って何か問題がある訳ではない。だが彼らは源吾郎が半休である事を知らないだろうから、フラフラしていると思われるのではなかろうか。そんな懸念が源吾郎の心中にはあったのだ。

 急がずにゆっくりと自転車をこいでいたから、源吾郎は周囲の景色などを眺める余裕があった。

 だからこそ源吾郎は気付き、関心を持ってしまったのだ。道の向こう側で意味ありげにうずくまる女性と、それを取り囲むように佇立する影たちに。

 それらの一群は、折しも田園と田園の合間にある、ひどく寂れた場所に留まっていた。源吾郎の暮らす吉崎町は、故郷とは異なり農業が盛んな場所である。スーパーを構え住宅が立ち並ぶエリアや、研究センターなどと言った工場が集結するエリアもあるにはあるが、大部分は田畑が広がっているばかりなのだ。もちろん、田園の間には神社やお寺も鎮座している。

 気付けば源吾郎は自転車を止めていた。彼が視界に収めている一団は異様な風体であるが、源吾郎以外に気付く者はいないようだった。それが何故なのかは解らない。というよりもその事について源吾郎は特に思いを馳せていなかった。

 あれは一体何だろう。源吾郎はこの時、幼子のごとき好奇心の虜になっていたのだ。彼らの様子が気になり、少し近付いてみようと思ってしまったのだ。自転車を邪魔にならないように脇に置き、用心のために買い物袋を左手に提げながら、源吾郎は一段の方に歩み寄っていた。

 人間の目には、件の一団は遠目には黒々とした塊にしか見えなかったのかもしれない。しかし源吾郎は半妖である。純血の妖狐ほどではないが多少は夜目が利く。ついでに言えば聴覚も普通の人間よりは鋭かった。

 源吾郎はだから、少し近付いたところで一団の様子が解り始めたのだ。彼らが顔すら覆えるようなロングコートを身にまとっている事と、その口から何やら奇妙な文言が唱えられている事を。

 一体何なのだろう。源吾郎の好奇心の中に、疑念とも恐怖ともつかぬ感情が混入し始めていた。入り込んだ不純物は、水の上に落とされた墨汁のように広がり、その水面に歪な渦巻き模様を描くほかない。

 引き返した方がいいと思いつつも、源吾郎の動きは止まらなかった。見えない何かに操られていたなどというつもりはない。あくまでも源吾郎は源吾郎の意志で歩を進めようとしていた。怖いもの見たさゆえの事だった。

 好奇心は猫を殺すと言うが、狐にもそれが当てはまるというのか。妙に強気で幼稚な考えさえも、源吾郎の脳裏に浮上していたのだ。

 

「ガァッ、ギャアッ!」

 

 斜め上からの奇怪な鳴き声に、源吾郎は大いに驚嘆した。無様に声を上げる事はなかったが、それでもその場に立ち止まり、硬直したようにその身が震えた。用心深く隠していた四尾はそのまま顕現し、驚きのせいで毛先まで鋭く逆立っていた。

 一体何だったのだ。源吾郎はここで正気に返ったような気分になっていた。源吾郎を驚かせた奇怪な声の主は、意外にも謎の一団ではなかった。

 声の正体は、悠々と空を舞う鴉どもだったのだ。既に夜の闇に同化しているかのような黒い翼が、そこここではためく気配が源吾郎には感じられた。

 なぜ自分が鴉に脅されたのか、それは全く解らなかった。だが既に源吾郎の奇妙な探究心は消え失せていた。さっさとこの場から退散しよう。その考えだけが源吾郎の脳裏にあったのだ。

 

「……邪魔だてが入ってしまったわね。今回は私たちも切り上げましょう」

 

 ママチャリの方に向かうその刹那、謎の一団の方から意味のある明瞭な声が聞こえた。聞き覚えのある様な声に感じられたが、源吾郎はついぞ振り返って確認する事は無かった。

 鴉の中には灰高の遣いも存在している。その考えだけが、いつまでもいつまでも頭の中で渦巻くだけだったのだ。



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叔父狐 洞察力で術あばく

 源吾郎の叔父・桐谷苅藻がやってきたのは十時五十分ごろの事だった。十一時には自宅アパートにやって来ると言っていたから、早すぎず遅過ぎぬ常識的な時間帯に訪れたと言えるだろう。

 ちなみに源吾郎は十時前からアパートに入っていた。叔父を出迎えるための諸々の準備を行うためである。妖術で一通り家具があるようにセットするのもさることながら、忙しい時にやって来たであろう叔父を歓待しようと思ってもいたのだ。

 歓待と言っても、紅茶や柚子茶などと言った暖かい飲み物を出すくらいなのだが。それでも社会妖として、来客を出迎える心得は持っておいた方が良いだろうと源吾郎は思っていたのだ。

 さて苅藻はというと、その手に小さな紙袋を提げただけのラフな出で立ちで源吾郎の前に姿を現したのだ。服装は私服めいていたが、実の所動き易く目立ちにくい、ある意味実用的な出で立ちである事は源吾郎の目から見ても明らかだった。

 

「こんにちは、叔父上。苅藻の叔父上だって忙しいのに、わざわざありがとう」

 

 苅藻の姿を見た源吾郎は、にっこりと微笑んで出迎えた。その笑顔もその言葉も、本心からの物であるのは言うまでもない。

 

「ふふふ、中々熱烈な歓待ぶりじゃあないか。可愛い甥っ子の源吾郎よ」

 

 源吾郎の言葉を耳にした苅藻もまた笑顔を見せていた。右手をゆらりと持ち上げ、手土産として紙袋を持参している事を源吾郎に示していた。

 

「俺については気にしなくて大丈夫だからな、源吾郎。可愛い甥っ子の為ならば、時間でも用事でもいくらでも捻出できるからさ。ついでにちょっとしたお茶請けも用意しておいたし」

 

 そこまで言うと、苅藻は源吾郎の顔をじっと見つめた。

 

「それにしても源吾郎。前に会った時は少し瘦せているように思えたが、また少し丸みが戻って来たみたいだな。ははは、安心したよ」

「前よりも丸くなっただって……!」

 

 源吾郎はそう言うと、おのれの両手を頬のあたりに添えた。最後に苅藻に会ったのは昨年の十一月の事であるから、およそ二、三か月前の事である。そこから丸くなったと言われ、源吾郎は恥ずかしくなってしまったのだ。肥ったのではないか、と案に言われた気持ちになったのである。

 

「叔父上。これでも肥らないように気を付けているんだ。だというのに、丸くなったなんて言うのはひどいじゃないか」

「俺は一言も肥ったとは言ってないだろう」

 

 口を尖らせる源吾郎に対し、苅藻はさもあっけらかんとした様子で言い返す。

 

「前に会った時は痩せていたように感じたから、その事でちと心配だったんだよ。源吾郎は新社会妖になったばかりで、しかも一人暮らしを始めたばかりだったからな。確かに巣立ったばかりの仔狐も、巣穴の中にいた時よりは多少は痩せる事は俺だって知ってるよ。しかし、その程度が極端すぎたら……」

「苅藻の叔父上が、俺の事を心配して下さってるのは十分に伝わったよ」

 

 山野のキツネを例に挙げて話を始めようとする苅藻に対し、源吾郎はすっと腕を伸ばして促した。

 

「叔父上。とりあえず上がってくださいな。確かにこの部屋は狭いけれど、だからと言って玄関で立ち話って言うのもあれだし」

「それもそうだな」

 

 源吾郎の言葉に、苅藻はその通りだなと頷いた。手にしていた紙袋を源吾郎に手渡すと、一旦背を向けて靴を脱ぎ始めた。もちろん、気を回して靴ベラを叔父に渡すのも忘れない。

 今回の源吾郎の言葉は、叔父に対する親切心だけで構成されているわけでは無かった。早く叔父を自室に誘導したいという意図があったのだ。

 おのれの妖術がきちんと叔父の目を欺けるのか。その事を早く知りたいという気持ちもあるにはあった。だがそれ以上に、あまりにも長く妖術を維持し続ける事が出来るかどうか、その辺りが少し不安でもあったのだ。

 今こうして玄関で出迎えている間も、家具家電を顕現させる妖術は行使され続けている。うかうかしていると妖術が切れるのではないか。源吾郎の脳裏にそんな懸念があったのだ。

 そうこうしているうちに苅藻も靴を脱ぎ終わった。ここぞとばかりに源吾郎は、苅藻を誘導したのだった。

 叔父をローテーブルの前に座らせた源吾郎は、飲み物の準備のためにコンロに向かった。本宅から持ってきたヤカンに水を入れて沸かし始めたのだ。ちなみに苅藻が所望したのは柚子茶だった。甘酒とか妖怪用の紅茶を選ぶのではないかと源吾郎は一瞬面食らってしまった。苅藻も源吾郎と同じく半妖であるが、源吾郎と異なり妖狐の血は二分の一である。柑橘類の類は苦手なのではないかと勝手に思っていたのだ。

 もっとも、源吾郎はそこまで深く考えてはいなかった。むしろ単純に、叔父が柚子茶を選んだのを嬉しく思っているくらいだった。何せ柚子茶のジャムは、米田さんとの初デートで購入した物である。源吾郎も気に入って飲んでいる物を叔父が飲みたがっている事が、素直に嬉しかったのだ。

 

「どうぞ叔父上。柚子茶が出来たよ」

 

 源吾郎は柚子茶を盆に載せて運んできた。苅藻は源吾郎ではなくて部屋の周囲を眺めていたが、甥の存在に気付くとにやりと微笑んだ。源吾郎が渡そうとする前に手を伸ばし、自分の方にあった湯呑をさっと取ってしまったのだ。

 

「叔父上、焦って取らなくても、俺がきちんと置いてあげたのに」

「良いじゃないかわが甥よ。というか客と言っても俺は叔父なんだ。そんなにお前も畏まらなくても良いだろうに」

「そうかもしれないけれど、こうしたお茶出しとかも仕事でやっていかないといけないからね。その時の癖みたいなものかな」

 

 そう言う事か。源吾郎の主張に苅藻は頷き、今度は持参していた紙袋に手を突っ込んだ。重みで大体察していたが、やはり苅藻が持参した手土産はお茶請けの類だったらしい。

 苅藻が湯呑の隣に並べたのは、個包装の酒饅頭だった。大きさは子供の拳ほどであり、表面は白くてきめ細やかなのが包装紙越しでも明らかだった。

 

「源吾郎の事だから、クッキーとかマフィンとかそんな洋風のやつの方が喜ぶかなって思ったんだけどな。でも今回は酒饅頭で良かったみたいだな。柚子茶にも合いそうじゃないか」

 

 目を細めて微笑む苅藻を前に、源吾郎は胸の奥がじんわりと暖まっていくのを感じた。飲み物を用意した源吾郎と茶請けの菓子を用意した苅藻。ただそれだけの事であるが、二人には叔父と甥の、或いは兄貴分と弟分の見えない絆のような物がある。源吾郎はそんな風に思っていたのだ。

 血縁上は苅藻は源吾郎の叔父にあたる。しかし源吾郎にしてみれば苅藻もまた兄のような存在だった。実の父よりも年長ながらも半妖であるがゆえに若々しく、実の兄(特に長兄)よりも源吾郎の妖怪的な要素に寛容に振舞ってくれる。だからこそ、苅藻の事を源吾郎は兄のように慕っていたのだ。少し年の離れた従兄のような存在にも似ているのかもしれない。

 

「そうだね叔父上。それじゃあ俺、早速頂いちゃおうかな」

 

 だけどその前に盆を片付けておかないとな。そう思って立ち上がった丁度その時、苅藻の口が開いて声が漏れ出した。

 

「だから源吾郎、甘いものもあるし暖かい柚子茶もお前が用意してくれたんだから、妙に気を張らずにお前もリラックスすれば良いじゃないか」

 

 放たれた苅藻の言葉に、源吾郎は首を傾げた。彼の言葉の意図が掴めず、それ故に不可解な言葉に思えたのだ。

 苅藻はそんな源吾郎の姿を獣の瞳でじっくりと見定め、意味深な笑みを浮かべながら言い足した。

 

「源吾郎。お前がもはやこのアパートで寝起きしている訳ではない事は俺にはお見通しなんだ。それを隠そうとして何やら術を行使しているみたいだが、流石にそんな事をやっていたらお前だって疲れるだろう?」

 

 苅藻の言葉に、源吾郎は思わず盆を取り落としかけた。家具や家電を顕現させる術には自信があった。だというのに、まさかこんなにも早く見抜かれてしまうとは。

 何で、何で解ったんだ。その疑問を源吾郎は口にはしなかった。渇きかけた唇が幽かに震えるだけだった。しかしそれこそが、苅藻の指摘に対する答えに他ならない。

 ここで苅藻の笑みが僅かに変化した。悪戯を見つけた化け狐の表情から、憐みの乗った表情にすり替わったのだ。

 

「安心しろ源吾郎。俺はいちかや宗一郎君と違って、お前の暮らしについてとやかく詮索するつもりはないから、な。お前が真面目に仕事に励んでいる事は、前会った時に十分に理解しているからさ」

 

 優しげな叔父の言葉に耳を傾けながら、源吾郎は静かに妖術を解除した。そこに在ったはずの家電や家具が姿を消した分、部屋は広くなったように見えた。それでも苅藻は動じなかったけれど。

 

「俺がここを別宅にしている事は、母上から聞いたんですか?」

「まぁ、それも要因の一つだわな。だが源吾郎。姉さんからそんな話を聞かされていなくとも、今の部屋の状態を見れば一発で解ったけどな。お前がもはや、ここで暮らしている訳ではないって事くらいはな」

「一発で、ですか」

 

 ぎこちない源吾郎のオウム返しに、苅藻はその通りだと頷いた。

 

「この部屋には生活臭がなさすぎるじゃないか。良いか源吾郎。どれだけ物が少ない部屋だろうとな、そこでヒトが暮らしていたら、相応の気配や生活臭がそこには染みつくんだよ。ははは、伊達に便利屋家業に身を置いている訳ではないって事さ」

「ははは、叔父上にはまだまだ敵わないよ……」

 

 苅藻の指摘を前に、源吾郎はそう言って力なく微笑んだ。

 源吾郎はその後、自分が今は研究センターの居住区を本宅としている事、そうなるに至った理由について包み隠さず苅藻に話した。

 もしかしなくても、そうした事は苅藻も知っている事かもしれない。しかしそれでも、便利屋として真実を見抜かれたのだから、こちらも真実を語らなければならない。そんな風に源吾郎は思っていたのだ。




 頑張って妖術を使ってごまかしたのに、洞察力で見抜かれる源吾郎君はほんと草


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玉藻狐の会合話

「それじゃあ源吾郎は、自主的に紅藤様の住まいに居候しているって事なんだな」

 

 その通りです。話のあらましを聞いた苅藻の問いかけに、源吾郎は力強く頷いた。もちろん、何故研究センターの居住区に引っ越したのかについても説明済みである。源吾郎の安全を保障するという意味合いももちろんあるが、むしろ使い魔である十姉妹妖怪のホップを護るためである、と。

 そのホップは今朝も元気な姿を見せていた。ただやはり何かを感じ取っていたらしく、せわしない様子の源吾郎を見て、何度も胸を震わせて啼いていたのだが。

 身内びいきになるかもしれないが、ホップは普通の十姉妹よりも賢いし、学習能力も高いのではないか。ホップと遊んだりホップの世話をしている時に、源吾郎はしばしばそう思うようになっていた。もしかすると、そろそろ曜日の概念をも理解し始めているのではないか、と。

 

「雷園寺君は謹慎処分の一環として萩尾丸さんに引き取られたという話だったけれど、源吾郎は違うって事で良いんだな?」

「そうだとも叔父上。というかさ、俺は雷園寺のやつとは違うって事は叔父上だってよく知ってるでしょ」

 

 苅藻の言葉に、源吾郎は少しばかりいきり立った。紅藤の許に居を構える源吾郎の理由が、萩尾丸の許に強制的に引き取られた雪羽のそれと同じなのではないか。あからさまに苅藻がそう思っているであろう事が透けて見えたためである。

 いきり立つ源吾郎を見るや、苅藻はあからさまに表情を変えた。

 

「源吾郎。確かに俺の言い方が気に障ったのかもしれんな。だが雷園寺君についてはそんな風に乱暴に言うんじゃない。仮にも同じ職場で働く仲間、それも気を許している友達なんだから、な」

 

 叔父にたしなめられて、源吾郎はばつの悪い表情を浮かべるのがやっとだった。

 あの時源吾郎は、単純に雪羽と同列に見られ、自分も謹慎処分を受けていると思われた事に腹を立てていただけなのだ。だから雷園寺のやつ、などと荒っぽい事を言ってしまった訳でもある。

 しかしその雪羽を、単に打ち負かすべきライバルであると見做すだけの時期はとうに過ぎていた。いつの間にか気心の知れた友達という関係を、源吾郎は雪羽との間に構築していたのだ。源吾郎は既に雪羽を何度か本宅に泊めた事もあるし、一緒に初詣に行った事さえあるくらいだ。相当仲のいい間柄と言っても遜色は無かろう。

 

「それにな、俺だって雷園寺君の事は心配していたんだよ。俺にしたら、あの子も甥っ子みたいなものだからさ。ましてや、あの子もあの子で色々と複雑な事情もあった訳だし」

「そう言えば、三國さんは叔父上や叔母上の弟分みたいな存在だって、前に教えてくれましたよね」

 

 そうだとも。苅藻が頷いたのを皮切りに、二人の間に生暖かい沈黙が漂った。三國と雪羽。お互い兄弟分のように思っている雷獣について思いを馳せているであろう事は明らかだった。

 

「ともあれ、雷園寺君も元気で真面目に業務に励んでいるって事で何よりだよ。源吾郎もあの子とすっかり打ち解けて仲良くなってるみたいだしさ」

 

 叔父の言葉に源吾郎は頷き、彼の瞳に浮かぶ感情の色を読み取ろうとしていた。やはり三國は苅藻にとっての弟分らしく、感慨深そうな色がその瞳にははっきり浮かんでいるではないか。

 

「三國のやつも、随分と立派になってたよ。正直なところ、あいつの事はまだまだヤンチャな若造だと思っている節があったんだ。だけどあいつはきちんと大人になっていた。良き夫、良き父親としてな」

 

 そこまで言うと、苅藻は深く息を吐いた。苅藻のその言葉に、源吾郎は何故か一松の寂しさを感じ取ってしまっていた。だからこそ、特にこだわりもなく言葉を紡いだのだ。

 

「弟分だった三國さんが先に所帯を持ったから、叔父上も先を越されたって思っているんですかね?」

「何を言うんだわが甥よ」

 

 源吾郎の軽口に苅藻はすぐに反応した。その頬に浮かぶ笑みは乾いていた。

 しばらく源吾郎の顔を眺めていた苅藻であったが、ややあってから何かを悟ったように頷く。

 

「……まぁ、源吾郎もまだまだ若狐だもんな。結婚だとか、子供を持つとか、それが真実どういう事なのか、まだはっきりと解るのは先の事だよな」

 

 またしても仔狐扱いされたではないか。そんな風に思っていると、苅藻は昏い瞳で言い足した。

 

「特に俺たちは半妖だからな。どれだけ妖狐の血が濃かったとしても、その事からは逃れられん。妖狐との間に仔を設けたとしても、やはりその子は混ざり者になってしまう訳だし。

 その事を考慮して、独身を護って子孫を残さないという道もある訳だしな。兄貴たちが神仏に仕える道を選んだのもそう言う訳なのかもしれん。俺はまぁ……家庭的な性格とも言い難いだろう」

 

 苅藻の言葉を、源吾郎はただむっつりと聞いていた。半妖の子孫が半妖と見做される事は源吾郎ももちろん知っている。源吾郎の場合であれば、純血の妖狐との間に仔を設けたとしても、血の濃さは八分の五に留まるのだ。父母が人間と妖狐だった半妖よりも、少し妖狐の血が濃い程度の存在に過ぎない。

 ともあれ源吾郎は、暗に苅藻に責められていると感じてしまったのだ。おのれの妖生設計《じんせいせっけい》の考えが甘すぎる、と。

 甥のそんな考えが叔父には伝わったのだろう。苅藻はにわかに表情を和らげて言葉を続けた。

 

「何、さっきのは俺や兄貴たちの考えに過ぎないよ。源吾郎、お前はお前の考えでどうすれば良いか決めればいいんだよ。もちろん、相手がいる事だから独断専横はいけないけどな。

 それに俺たちだって、急に考えが変わって所帯を持つ事になるかもしれんしな」

 

 源吾郎はまだ若いから、来るべき時に備えて色々と考えればいいんだ。その言葉で、苅藻は先の話を締めくくったのだった。

 

「それじゃあ、そろそろ裏初午の話をしようか」

 

 話題はとうとう裏初午の事にシフトした。苅藻の、いつも以上に真剣な表情に戸惑いつつも、源吾郎も表情を引き締めていた。

 実のところ、裏初午に臨むにあたり、源吾郎はそこまで気構えてなどいなかったのだ。玉藻御前の末裔を自称する妖狐たちが集まるという事であるが、せいぜい互いの安否や活動の確認がメインであり、時たま賓客の講演会がある。その程度に考えていたのだ。だから高校や大学などで行われるシンポジウムのようにつつがなく終わるであろうと、源吾郎は無邪気に認識していたのだ。

 更に言えば、源吾郎は雉鶏精一派に属する妖狐たちグループの一人として参加する事が決まってもいる。既に見知った妖狐たち――面倒見のいい穂谷先輩や朗らかな拓馬などだ――と行動を共にすれば良いのだから、新入りと言えども気を張る事は特に無い、と。

 もっとも、米田さんとより親密な関係を構築できるのではないか、という期待も源吾郎の心中にあったので、裏初午はただただ嬉しいイベントという認識が勝っていたのもまた事実でもあった。

 

「今年はなぁ……普段通りとはちと違う事になるって既に話が持ち上がっているんだよな。何せ源吾郎、()()()玉藻御前の末裔であるお前が参加する訳だからさ」

「真なる玉藻御前の末裔……やっぱり俺って()()()()なんだ」

 

 言いながら、源吾郎は心臓が力強くうねるのを感じた。心臓は、期待と緊張で暴れまわっているようなものだ。

 そんな甥の様子を見ながら、苅藻はなだめるように口を開いた。但し、その眼差しやその表情には呆れの色も見え隠れしていたけれど。

 

「玉藻御前の末裔を名乗る狐たちにしてみれば、やはりどうしても俺たち本物の存在は気になってしまう所なんだろうね。しかも生まれつき力が強く、他の兄弟姉妹と違って初めから妖怪として生きようとしているだろう? そうなると、お偉方も気になって会合に出席なさろうとするんじゃあないかな」

 

 苅藻はそこまで言うと、にわかに茶目っ気のある笑みを浮かべた。

 

「それは俺やいちかが初めて参加した時も似たような感じだったけどな。そんな訳で、今回は若菜様もいらっしゃるだろうけれど……ともあれ源吾郎。君はお行儀よくやっていれば大丈夫だ。流石に俺たちが傍についてやることは出来ないが、それでも先輩たちが傍にいるんだから、さ」

 

 叔父として、玉藻御前の末裔としてのアドバイスを受けた源吾郎であるが、しかしその大部分は半ば聞き流していたようなものだった。というよりも、話の中ほどで出てきた名前に気を取られてしまったのである。

 

「俺はお行儀よくやるから大丈夫だよ……それよか叔父上。若菜様って誰の事なんです? 玉藻御前の末裔を名乗る狐の中の、最高責任者何ですか?」

「いいや。若菜様は玉藻御前の末裔を名乗っているお方()()()()よ」

 

 源吾郎の予想に反し、苅藻は即座に首を振った。源吾郎が訝っている間に、苅藻は言葉を続ける。

 

「若菜様は、かつて玉藻御前や白銀御前に……お前の曾祖母や祖母にお仕えしていた妖狐なんだよ。だから玉藻御前の末裔だとは名乗っていないんだ。とはいえ、俺たちや玉藻御前の末裔を名乗る狐たちの中では重要な存在なんだけどね」

「そ、そんな……」

 

 玉藻御前に仕えていた妖狐が今度の会合に出席する。源吾郎は思わず手許の湯呑を握りしめた。思いがけぬ話に目がくらみ、一瞬意識が遠のきかけたのだ。



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訓練に思案巡らせ狐は挑む

 十分ばかり続いていた戦闘訓練も、そろそろ勝敗が決まりそうな状況へと移っていた。防戦気味だった源吾郎が明らかに押されだしたのだ。それは雪羽の猛攻が勢いを増したという事とも同義である。

 呼吸が上がり、ついで結界術が緩んだ。見えない結界の表面が、さざ波のように揺らいだのを源吾郎は目の当たりにしたような気がした。これはまずい。

 そしてこの揺らぎや隙を見逃す雪羽ではなかった。緩んだ結界を新たに構築し直すよりも早く、雪羽が源吾郎に体当たりしてきたのだ。急所になりそうなところを受け流す事は出来たが、雪羽そのものを回避する事は出来なかった。

 向こうが雷撃を纏っていなかったのが僥倖だ、と思うのがやっとである。雷撃や電撃の類は、運が悪ければ触れただけで戦闘不能や生命の危機に陥るためだ。そうでなかったとしても動けなくなるわけだし。

 

「ぐっ……」

「まだまだぁっ!」

 

 ゴロゴロと地面を転がりながら、源吾郎と雪羽は互いに吠えた。特技の雷撃を放つ素振りは見せないが、それでも危機が去った訳ではない。

 むしろここからが闘いのクライマックスと言えるだろう。転げまわりながらも互いに掴み合い、相手に有効打を加えようと腕や尻尾を振るっているのだから。妖術を使った闘いから肉弾戦にシフトしただけに過ぎないのだ。

 くんずほぐれつを繰り返しながら、源吾郎は腕や脚で雪羽の攻撃を受け流し、弾くのがやっとだった。それこそ狐火の妖術をおのれの身体から放出すれば、そこで決着はつくだろう。しかしそれは出来なかった。そこまで大規模な狐火を放出するほどの妖力は既に残っていなかったのだ。

 ついでに言えば、尻尾を用いた攻撃も今回は有効打とはならないであろう。全長一メートル半ある源吾郎の尻尾は、中距離ないしはこちらに近付いて来る相手に対して使う時こそ最も効力を発揮する代物である。従って、既に取っ組み合いを行っているような場では却っておのれの尻尾が邪魔になってしまうだけなのだ。

 だからこそ、苦手だと解っていても肉弾戦にもつれ込むほかなかったのだ。

 源吾郎にしてみれば、肉弾戦で雪羽に反撃する事はおろか、相手の動きを防いだり躱したりする事も中々に難しかった。人型を保つ雪羽の姿は、一見すれば小柄な少年に過ぎない。しかし彼の動きや威力は、普通の人間の少年のそれとは段違いだった。人型を保ちながらもその動きは何処か動物的であるし、受け止めるたびに彼の膂力を思い知るくらいだ。まさしく人の形を保ちながら、獣の機動力と腕力を行使しているようなものである。

 荒い息を吐きながら、源吾郎は雪羽の押しをこらえていた。真冬であるはずなのに外気に触れている顔の皮膚が火照ってしようがない。その事に気付いたまさにその時、源吾郎の呼吸が僅かに乱れた。

 雪羽の腕が源吾郎の鎖骨付近に迫ったのと、源吾郎が力を抜いて右腕を地面に投げ出したのはほぼ同時だった。雪羽の動きを度外視し、源吾郎はゆっくりと右手で地面を二度叩いた。これはタップアウトであり、自分の負けを認める意思表示でもあった。

 

「そうか……今回はここまでだ」

 

 遠くから萩尾丸の声が放たれた。それほど大きな声ではないにしろ、彼の呼びかけは源吾郎の耳にはっきりと届いた。霊妙なる大天狗の術ゆえの事なのか、源吾郎自身が萩尾丸の声を聞こうと集中していたからなのかは定かではない。

 おのれの上にのしかかっていた圧がさっと遠ざかる。源吾郎を組み敷いていたはずの雪羽は、身をひるがえしてその場に立っていた。腰から垂れる三尾が風にそよぐように揺れている。血色のいい指先は濃い桃色に染まっていたが、雪羽自身の呼吸には乱れはない。ずっとこうして静かに立っていたと言わんばかりのたたずまいだ。

 

「先輩、だいじょうぶ?」

「――平気だよ、俺は」

 

 雪羽の視線と声が降りかかる。未だに興奮と呼吸の乱れが収まらぬ源吾郎ではあったが、それでも半身を起こした。雪羽の声には嘲りも慢心もない。純粋に源吾郎の様子を案じるものだった。親しみの念さえ籠っていた。それでも、弱みを見せたくないという源吾郎の強がりが揺らぐ事は無かったが。

 立ち上がった源吾郎は少しの間無言だった。心臓の拍動と皮膚の裏を駆け巡る熱い血が収まるのを待っていたのだ。涼しい顔でこちらの様子を窺っているであろう雪羽とは大違いである。

 所詮は俺も半妖なのか。あらかた落ち着きを取り戻した源吾郎は、密かにそんな事を思っていた。概ね妖狐として妖怪として振舞う源吾郎であるが、自身に人間の血が流れている事を時折思い出すのだ。今回のように、戦闘訓練の直後などには。

 

「二人ともお疲れ様。よく頑張りましたね」

 

 柔らかく穏やかな声が投げかけられる。源吾郎はここで、自分たちの傍に近付いて来る者たちがいる事に気付いた。

 視線を探れば声の主はすぐに見つかった。第八幹部であり雪羽の叔父である三國と、彼の側近である風生獣の春嵐《しゅんらん》は、いつの間にやら源吾郎たちの傍に近付いていたのだ。先程呼びかけたのは春嵐である事は、声や口調からして解っていた。

 先程まですまし顔だった雪羽の面は、早くも喜色に彩られた。叔父貴に春兄《はるにい》! その口から漏れ出た呼び声は、まさしく見た目相応の無邪気な物だ。

 

「ははは。戦闘訓練を見るのは久しぶりだけど、中々見事な闘いぶりだったからびっくりしたぜ。いつも見てるから知っているような気はしたけれど、やっぱり成長したんだなぁってさ」

 

 上機嫌と言った様子で三國は言い放ち、豪快な様子で笑っていた。雪羽はちゃっかりそんな三國の許に駆け寄り、褒めてくれと言わんばかりにすり寄っている。春嵐や源吾郎、場合によっては萩尾丸たちの目があるにも関わらず、である。

 三國も三國で甘える雪羽の頭を撫で、背や肩に手を添えていた。この時雪羽は、全くもって甘える仔猫のような表情と仕草を三國に見せていたのだ。

 妖《ひと》の目を一切気にしない両者の触れ合いを、源吾郎は無言で眺めていた。驚きの念は無い。烈しい気性とはっきりとした感情表現、そして相手への惜しみない愛情表現。三國や雪羽の持つ雷獣らしい気質を、源吾郎も既に把握しているのだ。だからこそ驚きの念は無かったのだ。

 ただ、三國の雰囲気が変わった事には気付いていた。これまでは兄弟のようにも見えた三國と雪羽の両者は、今となってはきちんと()()()()の姿に見えるのだ。

 

「雪羽が強いのは俺も知ってたよ。だけどそれでもさ、さっきの闘いを見て思ったよ。雪羽も俺の知らない所で強くなって、闘いの腕を上げたんだってな」

「そりゃあもちろんさ!」

 

 若干の湿っぽさを伴う三國の声とは裏腹に、雪羽の声は明るく弾んでいた。

 

「だって俺は母さんの――雷園寺家先代当主の息子で、しかも叔父貴から闘う術を教わったんだもん。俺は強くなるよ。これからどんどんとね」

 

 そうだったなぁ。三國がそう言った時には、密着していたはずの両者には若干の距離が出来ていた。雪羽は叔父との触れ合いに満足したらしい。

 

「お前の母親は、ミシロ義姉さんはそりゃあもう立派な雷獣だったからな。雪羽、お前は子供たちの中でもあの妖の血を濃く受け継いだんだ。だからお前にもその強さが受け継がれているんだ――だって父親はカス野郎だしさ」

 

 昏い目つきで付け加えられた三國の一言に、源吾郎の喉がヒュッと鳴ってしまった。雪羽の強さを褒めるにあたり、彼の母を称賛し、それと共に彼の父を貶めたのだ。しかも雪羽の父は三國の実兄でもある。

 他妖の事情であると言えども、三國の言葉に源吾郎は戸惑った。親族を貶めるという行為にショックを受けていたのだ。しかも源吾郎は、類推と言えども雪羽の父が何故息子を手放したのかについてを知っている。三國はその事を知らないから、未だに息子を棄てた兄の事を赦せないでいるのだろう。必死にそう思ってみても、源吾郎の戸惑いは収まらなかった。

 果たして雪羽はどんな顔をしているのだろうか。雪羽の顔に視線を向けようとした源吾郎は、すぐに三國と目が合ってしまった。

 源吾郎を見つめる三國は微笑んでいた。雪羽の父であり自身の実兄をカス野郎呼ばわりしたとは思えないほどに、穏やかで優しげな笑顔だった。

 しまざきくん。自分が三國に呼びかけられていると気付くのに、源吾郎は若干の時間を要した。返事というにはお粗末すぎる声の後に、三國は言葉を続けた。

 

「君は本当に強くなったね。苅藻の兄貴たちの事は知っているから、君にも才能はあるって事は知っていたけれど……」

「あ、ありがとう……ございます」

 

 礼を述べた源吾郎であるが、その声は戸惑いのためにたどたどしかった。傍らにいる雪羽が気を悪くしたりしないか。よせばいいのにそんな考えが脳裏をかすめたりしたのだ。

 この時、ちょうど雪羽の顔が見えた。源吾郎の心配とは裏腹に、雪羽はあっけらかんとした表情で三國と源吾郎の様子を眺めているだけだったのだ。

 

「島崎先輩。先輩ってば今日の戦闘訓練は、少し緊張してたんじゃあないっすか」

 

 訓練後。二人で着替えている時に雪羽はこちらをちらと見やって問いかけてきた。源吾郎は雪羽の翠眼を眺めながら、ゆっくりと頷いた。

 

「うーん。緊張していたと言われればその通りになるのかな。それ以上に色々と考え事とかもしていたし。まぁ、上の空って程じゃあないけれど」

「成程ね。そう言う事だったのか」

 

 源吾郎の言葉は歯切れの悪いものだったが、雪羽は納得してくれたようだった。こうした雪羽の気質は、こういう時には非常にありがたい物だと感じられた。雪羽は細かい所まで気にしない節があるし、それでいて勘の鋭い所がある。源吾郎の言葉で色々と察してくれたのかもしれない。

 

「裏初午だっけ? 玉藻御前の末裔を名乗るお狐様の会合ってもうすぐなんでしょ」

「うん……」

 

 源吾郎は言いながら、思わず目を伏せた。裏初午に臨むにあたり、源吾郎は実の所緊張し始めていた。玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちと交流する事は別にどうという事はない。今回、玉藻御前と娘の白銀御前に仕えていた老齢の大妖狐が出席する。その事に対して緊張していたのだ。玉藻御前の元従者と雉鶏精一派の一員という事で友誼を結ぶのは良い事だとか、苅藻やいちかが初めて出席した時も彼女は顔を出していたなどと、紅藤や萩尾丸は言ってくれたのだが。

 

「それに今回は、八頭衆の妖《ひと》たちも結構集まっていたからさ。その事もあって緊張しちゃったんだよ」

 

 源吾郎が言い添えると、雪羽は大げさだぞと言わんばかりに肩をすくめた。

 

「結構集まったって言っても、灰高様と双睛《そうせい》の兄さんと三國の叔父貴がやって来ただけだぜ? 紫苑様とか他の幹部たちはお忙しいから俺たちの戦闘訓練を見る事は出来ないって話だったし」

「でも灰高様がお見えになってただろ。しかも紅藤様や萩尾丸先輩とも話があるみたいだし」

「この前打ち合わせなさったところなのに、また打ち合わせをなさるんですね」

 

 雪羽は驚いて目を丸くしていた。灰高が本日研究センターで紅藤たちと打ち合わせする事は、事前にミーティングで源吾郎たちにも伝えられていた。それでも、驚かないかどうかと言えばまた別問題になるのだけれど。

 

「いやはや、大妖怪って言うのは打ち合わせとかそう言うのが大好きですよね」

「うん。でもさ、俺らも出世すればそんな感じになるんだろうね。雷園寺君だって雷園寺家の当主を目指している訳だし」

 

 そこまで言うと、源吾郎と雪羽は互いに顔を見合わせてため息をついてしまった。

 日頃より強い妖怪になりたいと願っている源吾郎であったが、この時ばかりはしばらく今のままでいい、などと思ってしまったのである。



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輝くは鴉天狗の瞳なり

 戦闘訓練後。白衣姿になった源吾郎と雪羽が事務所に戻ってみると、既に紅藤や萩尾丸の姿はそこには無かった。その代わりというべきなのか、二人を出迎えたのは青松丸だった。

 

「今日も戦闘訓練お疲れ様。冬場だからしんどかったんじゃあないかな。

 ちなみに紅藤様たちなら、もう灰高様と打ち合わせを始めている所なんだけれど……」

「もう早速打ち合わせに入ってらっしゃるんですか!」

 

 青松丸ののんびりとした説明に、雪羽が頓狂な声を上げた。彼は日頃より元気いっぱいというか感情表現が大ぶりな所がある。従って驚いた時にはこうして大げさなリアクションを取る時がままあった。いや……こうして素直に思った事を表に出すのは、ここ二、三か月前くらいからの事であろうか。

 ともあれ雪羽の動きは目立った。それこそ、遠くで別の作業をしていたサカイ先輩さえも視線を送るほどに。

 三対の瞳に注視されている事に気付くと、流石に雪羽も落ち着きを取り戻した。視線を上下左右に動かしたのち、それでも雪羽は言葉を続ける。

 

「もちろん、僕だって紅藤様たちが打ち合わせをなさる事は知ってましたよ。ちゃんとミーティングは聞いていたんですから。ですけど、こんなに急に始めるとは思わなかったので驚いたんです」

 

 ふいに雪羽がこちらに視線を向けてきたので、源吾郎も頷いておいた。元より灰高は源吾郎たちの戦闘訓練を見、それから紅藤たちの打ち合わせに臨んだのだ。戦闘訓練を終えた源吾郎たちが通常業務に戻るための支度にかかった時間は十分から十五分足らずである。その間に紅藤たちは打ち合わせに臨んだのだ。

 

「お、お師匠様も灰高様もお忙しいから、時間を無駄にしたくなかったんだってわたしは思うの」

「ひゃっ! サカイさんじゃないっすか!」

 

 気が付けばサカイ先輩は源吾郎たちのすぐ傍に来ていた。雪羽の言葉が気になり、先輩として意見を述べてくれたのだろう。もっとも、話題の中心になっていた雪羽はというと、尻尾の毛を逆立てて驚いてしまっているのだが。サカイ先輩は概ね大人しくて源吾郎たちに優しいのだが、彼女の神出鬼没ぶりには驚かされる事がままあった。

 特に雪羽によると、彼女の挙動は電流探知で読み取る事が出来ないのだそうだ。雪羽がサカイ先輩に一目を置き、時に畏れているような素振りを見せるのはそのためでもあった。

 さて青松丸はというと、確かにその通りだと何度か頷いている。

 

「そうそう。一口に打ち合わせと言っても、幹部全員の日程を調整するって言うのは難しいからね。萩尾丸さんは紅藤様や僕たちにある程度日程を合わせてくださる事はあるけれど、他の方だとそれも難しい場合もあるし……」

「だけど皆で集まった打ち合わせは先週ありましたよね?」

「たった一度の打ち合わせで完全に決まる事なんて殆ど無いんだよ」

 

 いっそ無邪気で子供じみた雪羽の問いかけに、青松丸はため息を交えつつ返答した。温和でのんびりした気質の青松丸であるが、流石に雪羽の言動の幼稚さに呆れかえり、或いは多少の苛立ちを覚えたのかもしれなかった。

 

「特に今回は、雉鶏精一派に対して……」

 

 青松丸はそこまで言うと、ハッと表情を引き締めて口をつぐんでしまった。その動きに源吾郎は不審なものを感じたが、青松丸は気にせずに再び口を開いただけだった。

 

「ま、まぁ込み入った事を君たちに話しても戸惑っちゃうだけだもんね。ひとまずは、強い妖怪であったとしても組織の内外を問わずに打ち合わせや会議で物事を決めなければならない事がある。その事だけでも心に留めておいてほしいんだ、今はね」

 

 源吾郎と雪羽の顔を見下ろしながら青松丸は尚も言葉を続ける。

 

「特に、島崎君も雷園寺君も()()()()事を望んでいるでしょ。僕らから見れば君らはまだまだ若いけれど、交渉事とか会議の場でのコミュニケーションとかについて思いをはせるのも良い事だと思っているんだ」

「はい」

「確かにそうですね」

 

 最後に言い添えられた青松丸の言葉に、源吾郎は素直に納得していた。横に控える雪羽も同じような感じだった。何せ自分たちの抱える野望の先にある物について青松丸は言及したのだ。組織の頂点に君臨するには、何も腕っぷしや武力だけではどうにもならない事は、源吾郎は嫌と言うほど思い知っていた。もっとも、源吾郎()()の力量であれば、組織の長になる事すら難しいのだけれど。

 後で萩尾丸に呼ばれるけれど、知っている事を話せば良いだけだから緊張しないように。打ち合わせの話について、これが最後だとばかりに青松丸は言い添えた。

 緊張しないように善処します。口ではそう言った源吾郎であるが、内心では既に緊張し始めていた。紅藤と灰高が同じ場に居合わせる。過去に二人が相争う寸前までこぎつけたあの光景を思い出し、そっと身震いしていたのだ。実の所紅藤の放った妖気にあてられて失神したために、あの時の光景は断片的にしか覚えていない。しかし恐ろしく緊迫した一幕だった事だけは今でも覚えている。

 それに雪羽はともかくとして、源吾郎が何故件の打ち合わせに呼ばれるのか。その辺りは何となく察しがついてもいたのだ。

 

 とうとう源吾郎たちも打ち合わせに参加せねばならない状況へとなった。別室で打ち合わせを進めていたはずの萩尾丸が事務所に顔を出し、御自ら源吾郎と雪羽を小会議室に来るようにと促したのである。

 やはりあの時の話だよな……半休の夜に目撃した物を思い返しながら、源吾郎は静かに歩を進めていた。一方の雪羽はというと、何故呼ばれたのか皆目見当がつかないらしい。怪訝そうな表情を浮かべてはいたものの、源吾郎に並んで会議室へと向かったのだった。

 小会議室の扉が開かれる。紅藤と灰高が長テーブルを挟むような形で腰を下ろしているのが源吾郎には見えた。灰高は見せつけるかのように穏やかな笑みを浮かべている。源吾郎のいる場所からは紅藤の表情は見えなかった。しかし頬杖をついてやや前のめりに座っているのを見ると、心がざわついた。

 

「灰高様。島崎君と雷園寺君の両名を連れてまいりました」

 

 先導していた萩尾丸が灰高に告げる。普段とは異なる畏まった声音だった。かけたまえ。灰高の天狗らしい言葉を受けて萩尾丸が紅藤の隣に着席する。源吾郎と雪羽は少し考えこんでから、空席を見つけて座る事にした。

 案の定というべきか、紅藤も萩尾丸もその面に緊張の色を滲ませていた。微笑んでいるのは灰高だけである。と言っても、それが心からの笑みなのかは定かではないけれど。

 

「しばらくぶりですね。島崎君に雷園寺君」

 

 源吾郎たちが着席するなり灰高は二人に声をかけた。その面には笑みが浮かんでおり、口調自体も柔らかなものだ。しかし源吾郎の緊張はほぐれなかった。何か裏や含みがあるのではないかと勘繰ってしまったのだ。それも無理からぬ事だった。相手は紅藤に喧嘩を売った事もある老獪な鴉天狗なのだから。

 ついでに言えば、萩尾丸も紅藤も緊張し、何かを押し殺すような表情だったのも源吾郎の胸騒ぎに拍車をかけてもいた。

 お久しぶりです。たどたどしく挨拶を返すと、灰高は目を細めてゆっくりと頷いていた。若妖怪の礼儀正しい様子は、老齢の妖怪にとって気分の良い物の一つなのだ。たとえ相手が緊張を押し殺してその仕草をしていたとしても、だ。

 

「ふふふ。雷園寺君も島崎君も元気そうで何よりだよ。しかもただ元気なだけじゃあなくて、妖怪としてきちんと成長している事をこの目で見定める事が出来ましたからね。ええ、ええ。私も安心しましたよ」

「ありがたいお言葉を頂戴いたしまして嬉しい限りです、浜野宮様」

 

 恐ろしく慇懃な物言いで頭を下げたのは雪羽だった。灰高の言葉を脳内で吟味するあまりぼんやりとしていた源吾郎であるが、彼も雪羽を倣って頭を下げた。

 ヤンチャ小僧というイメージの強い雪羽であるが、時には源吾郎以上にビジネスマンらしい態度を見せる事もまた事実だった。実際源吾郎よりも年長であるし、曲がりなりにも社会妖《しゃかいじん》経験ははるかに長い。目上の相手に対してどう接するべきかは、彼なりにきちんと心得ているのだろう。

 もちろん、灰高が三國の行動を監督し、時に指摘を入れるという関係性も、雪羽が灰高に恭順な態度を見せる要因の一つになっているだろう。

 

「雷園寺君。一時は一体どうなるかと私も心配しておりましたが、今では立派に貴族の子弟としての風格が出ていますね。昨秋にはあなたも晴れて雷園寺家次期当主候補として認められた訳ですし……やはり、萩尾丸さんの教育の賜物でしょうな」

 

 滅相もありません。灰高に視線を向けられた萩尾丸は即答した。やはり普段の尊大さはなりを潜めていた。

 

「元より雷園寺君は優秀な妖材《じんざい》だったのです。雷獣たちの中でも名家の出身ですし、幼少の頃より叔父の許で戦闘の手ほどきを受けて育ったんですからね。

 僕が……私どもが行ったのは、あくまでも力を持つ者の心構えを教え、上手く正しく活用する方法を導いたに過ぎません。初めから、彼は九尾の末裔たる島崎君と互角以上にやり合う力量はありましたからね」

「中々殊勝な事を仰るのですね。萩尾丸君。あなたの事ですから、雷園寺君が真面目に育っているのは自分の再教育プログラムが上手く運用しているからだと自慢の二つや三つはなさると思ったんですが……」

 

 ほっほっほ、と笑う灰高の声は、鴉天狗でありながら何処かフクロウの啼き声を想起させた。源吾郎はちらと雪羽の横顔を盗み見、さも当然のように雪羽と目が合った。萩尾丸は気まずさと気恥ずかしさを織り交ぜた表情で灰高を見つめている。その顔は何故か普段よりもうんと若々しく見えた。

 

「紅藤殿も萩尾丸君も、これからが楽しみな時期なのでしょうね。念願かなって九尾の末裔を配下に引き入れただけに留まらず、雷獣の神童たる雷園寺君をも監督下に収める事が出来たのですからね。

 若くて優秀な妖材《じんざい》ですから、目をかけて自分の忠実な部下や後任になるように手塩にかけて育てるのはごく自然な事だと私は思いますよ。私自身、浜野宮家を護っていた時は息子たちや娘たちを育てるのに力を入れておりましたから」

 

 機嫌よく歌うように灰高は言葉を重ねていく。源吾郎はしかし、彼が何を言いたいのか未だに掴めていなかった。雪羽や源吾郎が優秀な妖怪であると繰り返し口にしてはいるのだが、それで嬉しさがこみ上げてくるわけでも無かった。

 灰高はもったいぶったように頷くと、思い出したように紅藤たちに視線を向け、それから源吾郎を見据えた。

 

「ですので紅藤殿。貴女が寵愛してやまない九尾の末裔たる島崎君の話を聞くべきだと私は思うのです。()()()彼が見たものが何であるか。それを聞き入れたあかつきには、私の主張が正しいのか否か、はっきりとするのですからね」

 

 源吾郎はこの時、灰高の瞳が歓喜と期待にぎらつくのをはっきりと目の当たりにした。



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外様鴉の誘導尋問

 あの夜とは半休を取得した日の事である。灰高が多くを語る前に源吾郎は既に悟っていた。それはきっと、他の面々も同じ事であろう。何あの時、あの異様な光景を目の当たりにした事を源吾郎はすぐに報告したのだから。

 あの時の事は源吾郎としても印象的だった。半休であるはずの源吾郎が職場に舞い戻ってきたにもかかわらず、紅藤たちが驚かなかった所などが特に。

 

「緊張しなくて大丈夫ですよ、島崎源吾郎君」

 

 気が付けば灰高が源吾郎に呼びかけていた。フルネームで呼ばれた事にまず驚き、彼の笑顔を認めた所で警戒心が湧き上がってきた。老紳士のような人畜無害そうな笑みを浮かべているが、そう言った手合いではない事を源吾郎なりに把握しているつもりだった。何せ紅藤を煽り、激昂を引き起こしたような相手なのだから。

 

「あなたはただ、あの夜見たものを正直に語れば良いだけなのです。幼子でも出来る、非常に簡単な事です。しかもあなたは九尾の末裔ではありませんか。物を語り、解りやすく伝えるのは得意なのではありませんか?」

「は、い……?」

 

 反射的に頷いたものの、源吾郎の声には疑問符が乗っかっていた。九尾の末裔であるから話が上手。灰高が出したその等式が源吾郎の中ではうまく結びつかなかったのだ。

 とはいえ、源吾郎は実の所コミュニケーションには自信があった。何しろ演劇部に通算六年間在籍していたのだから。しかも単なる部員の一人などではない。中学の時も高校の時も副部長の座に上り詰め、その上演劇の才があると周囲に言わしめたほどの実績の持ち主だ。

 過去の輝かしい日々を思い出した源吾郎の心は僅かに緩んでいた。その緩みに気付いたかのように灰高が言葉を重ねる。

 

「それにですね島崎君。あなたが真実を語る事こそが、あなたの師範である雉仙女殿のためになるのですよ。あなたの忠義の心が、既に雉仙女殿に向けられている事は私にも解ります。その師範が今、間違った考えに囚われようとしているのです。島崎君。あなたの証言が雉仙女殿の妄想を打ち砕き、正しい考えに彼女を導く事が出来るのですよ。

 秘蔵っ子の愛弟子としては、またとない名誉な事ではありませんか?」

 

 会議室の中には奇妙な沈黙が横たわるのみだった。灰高が余裕たっぷりに微笑みながら源吾郎を見つめているのが見えた。というよりも、今の源吾郎に見えるのはそれだけだった。

 紅藤様が間違った考えに囚われている――? 灰高の放ったその言葉が、源吾郎の頭の中で渦を巻いていた。彼が何と言ったのか分かった直後、血液の温度が五度ほど上昇したような気がした。もちろん心臓の拍動は速まり、それと共に喉と唇が渇き始めていた。寒さなど感じない。むしろ空気を乾かしているようなエアコンが動いている事が恨めしかった。

 

「落ち着くのよ、島崎君」

 

 ここでようやく紅藤が口を開いた。優しげな、源吾郎を気遣う声音だと思いたかった。彼女ははっきりとこちらを向いていた。紫の瞳を見ていると、不思議と心が落ち着いた。紅藤は妖怪を操る術を忌み嫌って使う事はまずない。しかし今回ばかりは、源吾郎の心を和ませるために何かしてくれたのだと思いたかった。

 

「灰高のお兄様の言う事は気にしないで。島崎君、あなたは知っている事を正直に話せば良いの。あなたが正直に話してくれる事は、私たちも十分解っているから……」

 

 紅藤様。頷いた後に源吾郎は師範の名を呼んでいた。喉奥の違和感は未だに居座っているが、気持ちは大分落ち着いていた。灰高も紅藤も似たような事を口にしているにもかかわらず、である。

 それでも受け止め方がまるで違ったのは、信頼する相手であるか否かの違いが大きいのであろう。

 灰高は尚も微笑んでいる。源吾郎は目を伏せ、呼吸と気持ちを整えてから言葉を紡ぎ始めた。

 

「浜野宮様に紅藤様。そして萩尾丸先輩。これから俺が、いえ僕があの夜見聞きした物をお話しますね。

 前もって断っておきますが、これからの話は全て僕が見聞きした話です。虚偽をさしはさむ事がない事を誓います」

 

 源吾郎は唇を湿らそうとして、舌まで乾いている事に気付いたのだった。

 

「僕がそれを目撃したのは先週の水曜日の夜の事です。ええと、大体一週間前の事ですね。時間は……六時前から六時半の間だったと思います。あの時僕は半日休暇を取っていて、それで普段より早くスーパーに出向く事が出来ましたので。

 そうです。あの時僕はスーパーから自宅に、紅藤様が提供して下さった居住区に戻る最中だったのです。浜野宮、様も僕が今はこの研究センター内で暮らしている事はご存じでしたっけ?」

 

 源吾郎は一旦ここで言葉を切り、灰高をちらと見た。その通りだと言わんばかりに灰高は頷いている。源吾郎は息を漏らしつつ言葉を続けた。

 

「そいつらがいたのは田んぼと田んぼの合間の畦道でした。詳しい住所までは解りませんが。暗かったですし、僕自身、まだ完全に土地勘があるとも言い難いので」

「島崎君。あなたが詳しい場所を知らずとも、こちらは特に問題はありませんよ」

 

 源吾郎の言葉に対し、灰高はにこやかな様子でそう言った。

 

「あなたとは異なり私自身、多少はこの土地に対する土地勘もございます。実を申せば、今の島崎君のお話だけでも、おおよそどのあたりの話なのか、類推出来ているくらいなのです」

「昨年の夏から鴉を使っておいでですし、灰高のお兄様にしてみればここもお兄様の庭のようなものと言えるでしょうね」

 

 灰高が言い終えるや否や紅藤がぼそりと呟いた。皮肉の籠った物言いに、源吾郎の尻尾がびくっと震えた。無言を貫いて様子を窺っていた雪羽もだ。

 だが、当の灰高はそんな事など意に介さず、源吾郎に話の続きを促した。源吾郎も、紅藤たちの態度を気にせずに話し続ける他なかった。

 

「その畦道で、あなたは不穏な事をする集団を目撃した。それで相違ないですね」

「はい、その通りです」

 

 何処か念押しするような気配を感じ取った源吾郎であったが、それでも素直に頷いていた。考えてみれば、ここまでの話は既に紅藤たちには行っているのだ。話を聞く相手が変わっただけで、同じ事を行っているだけではないか。そのように源吾郎は思い始めてもいた。

 

「そしてその集団の中にはあの女――第五幹部の紫苑殿がいたのではありませんか」

 

 源吾郎の言葉を待たぬ灰高の発言に、周囲の空気が一変した。灰高の言動は異様そのものだった。先程までは節々に不穏な気配を漂わせながらも、彼は聞き手に回っていた。それが今になっておのれの意見を持ち出したのだ。

 しかもあの場にいたのは紫苑ではないかと、その場にいない妖怪を名指しする始末である。

 源吾郎は何も言わなかった。何も言えなかったと言っても問題は無かろう。灰高の唐突な言葉に強く驚いていたのだ。そうでなかったとしても、源吾郎は灰高の言葉を否定する手段を持ち合わせていなかった。あの時あの場にいたのが紫苑だったのか、源吾郎には解らないのだから。

 

「――やはり結論ありきで話を進めようとなさっていませんか、灰高のお兄様」

 

 おろおろする源吾郎の鼓膜を震わせたのは紅藤の声だった。その声音は普段の物とは、先程源吾郎に掛けられたものとは全く異なっている。感情の乗らない冷え冷えとした声だった。地の底から聞こえる亡者の声だと言われても頷けそうな代物でもあった。

 

「お兄様は何故紫苑の事を疑ってかかるのですか? 彼女は胡琉安様の従姉なのですよ。私どもの中でも頭目の縁者と言っても過言ではない彼女が――」

「胡琉安殿の従姉というよりも、むしろあなたの姪であるという事の方が大きいのではありませんか?」

 

 臆面もなく灰高は紅藤の言葉を真正面から受け止めた。紫苑は胡琉安の従姉で紅藤の姪である。確かにこの二つは事実である。胡琉安はそもそも紅藤の息子なのだから。

 身内びいきはいけませんなぁ。空々しい様子で灰高が告げる。雪羽が身を強張らせてびくっと震えたのは気のせいでは無かろう。

 

「雉仙女殿。それこそがあなたの最大の弱点ですよ。あなたが優秀な御仁である事は認めております。ですが、一度目をかけて身内だと思ったものに対してはいささか判定が甘くなっているのではありませんか?」

 

 灰高はここで首をぐっと動かした。彼の視線は紅藤や萩尾丸たちではなく、端に座る雪羽に向けられていた。

 

「そう言えば、雷園寺君の身柄も第六幹部の秘書から第二幹部の研修生に変更されていたようですね。雉仙女殿、これもあなたの思惑によるものでしょうね。あなたに忠実な萩尾丸さんが、勝手にこのような事をなさるとは思いませんし」

 

 雪羽がまたしてもびくっと震え、萩尾丸も気まずそうに沈黙を貫くだけだった。

 研修生と言えども雪羽が正式な研究センターのメンバーになった事、書面上での彼の監督者が紅藤になった事は今となっては公にされている事柄でもあった。源吾郎たち研究センターの面々や工場棟の工員たちはもちろんの事、他の雉鶏精一派の妖怪たちにも知れ渡っている話だ。

 元々は雪羽も萩尾丸の配下として引き取られてはいた。しかし雪羽に研究職の適性ありと紅藤が判断した結果、いつの間にか彼の身柄は研究センターの所属になっていたのだ。

 こうした雪羽を巡る処遇については悪い事でもおかしな事でも無いと源吾郎は素直に思っていた。雪羽が機械や幾何数学を筆頭に理系方面に強い事は認めざるを得ない事実だったからだ。そもそも再教育が始まってからというもの、雪羽は研究センターに勤務しており、平日は萩尾丸の屋敷に帰る日々を送っている。書面上の監督者が萩尾丸から紅藤に変更しても、彼の暮らしには大きな違いはないようだったし。

 だからこそ、灰高がその事を指摘した事に源吾郎は驚いていたのだ。それは当時者たる雪羽とて同じだろう。

 

「とはいえ、雷園寺君の処遇については別に深く追求するつもりはないんですがね」

 

 だったら何故敢えて口にしたのか。そんな考えが源吾郎の脳裏に反射的に浮かぶ。もちろんツッコミを入れたりなどはしなかったけれど。

 

「しかし雉仙女殿。紫苑殿もまた所詮は外様なのですよ。胡琉安様の従姉であると言えども、あの女に胡喜媚様の血が流れている訳ではないでしょうに」

「だからと言って、そこまで彼女を疑い抜く論拠はあるのですか」

 

 紅藤がまたも口を開いた。紫の瞳はギラギラと輝き、のみならず妖気がうっすらと漂い始めている。このままではまた彼女がキレる。そう思った直後、源吾郎は自分がこの場に呼ばれた目的という物をはっきりと確信した。

 源吾郎の言葉こそが、師範たる紅藤を安心させるものになりうる、と。

 この考えは灰高の言葉の受け売りのようでそれが何とも腹立たしかったが、ともかく今はそれどころではない。

 源吾郎はだから、身を乗り出して口を開いたのだ。

 

 

「紅藤様に浜野宮様! ひとまず俺の話を聞いてください。お二人のご意見の、どちらが正しいかは俺の、いや私の証言で決まるはずですから」

 

 悲鳴じみた源吾郎の叫びに、場の空気がにわかに緩むのを感じた。具体的に言えば、紅藤から放たれていた妖気の何割かが霧散したのだ。

 静かになった会議室の中で、源吾郎は言葉を練り上げていった。思わずああ言ったものの、自分の主張が紅藤を安心させ灰高を納得させる事が出来るのか。今更になってその不安がのしかかってきたのだ。



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質疑揺らいで狐はまどう

「要は、僕が見たあの怪しい一団に紫苑様がいらっしゃったかどうか。それこそが問題なのですよね」

 

 大妖怪たちを眺めながら源吾郎は確認するように問いかける。灰高の頭が頷くように動き、萩尾丸が目で発言を促すのが見えた。

 

「あの一団に紫苑様がいらっしゃったかどうか……それは僕には()()()()()

 

 流石にうろたえてどよめくのではないか。そう思ったものの会議室は静かなままだった。それでも紅藤たちが源吾郎の主張を吟味しているであろう事は何となく解る。

 申し訳ありません。沈黙に耐えかねて源吾郎がぽつりと漏らした。

 

「ですが、あの時の事について、僕からはそう申し上げる他ないのです。怪しい集団を見つけたのも偶然だったのですが、途中でマズいと思って引き返しましたからね。なので、あの中に僕の知っている妖怪がいたのかどうか、そこまでは解らないのです」

「島崎君。折角だから引き返した時の事も今一度僕たちに伝えてくれないかな」

 

 促すように源吾郎に言ったのは萩尾丸だった。もちろん彼にもあの時の事は話している。だから灰高に未だ伝えきれていない事も覚えているのだろう。

 

「実は、マズいと思ったのはその一団を見ている時に鴉がやって来たからでもあるんです。鴉は僕を見て啼き声を上げたんです。外はもう六時過ぎなので暗くなっていましたが、鴉はそれでも飛んでいました」

 

 源吾郎はここで一旦言葉を切り、手許に視線を落とした。

 

「その鴉が普通の鴉なのか、浜野宮様の遣いなのかは判りませんでしたが」

「いや、その鴉は確かに私の放ったものだよ」

「私もそう思うわ。いかな島崎君が人間に擬態していたと言えども、普通の鳥獣があなたに働きかける事は考えられないもの」

 

 やはりあの鴉は灰高の遣いだったのか。ぼんやりとした類推が、灰高と紅藤の言葉によってしっかりとした輪郭が形作られた。

 他にもあるんじゃないの。萩尾丸がさらに促す。

 

「些末な事、君がしょうもないと思って見落としそうな事であっても良いんだ。紅藤様も浜野宮様も、君の僅かな証言からであってもすぐに何かがお解りになられるはずだから、ね」

 

 萩尾丸のいっそ熱烈なその言葉に、源吾郎はまず気圧された。しかし次の瞬間には決意を固めたのだ。紅藤たちにさえまだ言っていなかった事がある。それを告げるべき時が今なのだ、と。

 

「……聞き覚えのある声でした」

「聞き覚えのある声というのは、()()()の声ですね?」

「は、――」

 

 女の声、という部分に反応し、源吾郎は頷きかけた。だがそこで灰高の意図に気付く。誘導はまだ続いているのだ、と。

 

「で、ですが浜野宮様! 確かに俺は()()()の声を聞いて、それで()()()()()()()と思ってしまいました。しかし、だからと言ってそれが紫苑様であると結び付けるのはおかしいと思うんです!」

 

 おのれの証言を口にした源吾郎は、そのまま自分の意見も灰高にぶつけた。源吾郎の意見もまた、上司たる紅藤と同じだ。紫苑に嫌疑をかけるのはおかしい、と。

 

「ま、まあ落ち着きたまえ島崎君」

 

 興奮を鎮めようとするかのように声をかけてきたのは萩尾丸だった。冷静なままなのか困惑しているのか判然としない顔つきである。

 

「浜野宮様も申し訳ありません。どうも島崎君も、この会議室の空気に呑まれてしまったようでして……」

 

 そしてそのまま萩尾丸は灰高に謝罪したのだ。彼はあくまでも紅藤サイドの妖怪であるというのに、だ。いや、灰高が老齢な大妖怪であるからこそ、不仲である事に目をつぶり相手を立てただけなのかもしれないが。

 私は一向に構いませんよ。謝罪を受けた灰高は、しかし鷹揚に頷くだけだった。

 

「私も私で配下や鴉たちに調査を命じておりますからね。もちろん、必要とあらば私が知っている事を提供する事も可能です。もっとも、所謂生データの状態なので、体型だっているとは言い難いのですが」

「であれば浜野宮様。あの時俺が見た一団が何をやっていたのか、大方見当はついてらっしゃるのではないですか?」

 

 灰高も調査を進めている。この言葉に源吾郎は食いついた。

 

「声と言えば、その女の人の声が聞こえる前に、その一団が何事か唱えているのを耳にしたんです。集まっていたのも目の当たりにしました。浜野宮様であれば、やつらが何をなさっていたのかご存じって事ですかね?」

 

 気付けば源吾郎は質問で質問に応じ、のみならず灰高を睨みつけてもいた。両者の目が合い、しばしの沈黙が周囲を走る。

 その灰高が笑みを見せ、口を開いたのは数秒後の事だった。体感的にはもっと長い時間が経ったようだったけれど。

 

「八頭怪の眷属、或いはその同類となるモノがあの地に封じられている。もしくはあの地から召喚する事が出来る。彼らはその()を信じ、集結していたのでしょうね」

「なっ……」

「そんな……」

「まさか、近場で……」

 

 紅藤に雪羽、そして源吾郎が驚きの声を漏らした。八頭怪の同類と言えば、暗黒神話を彩る邪神や奇怪な異形共である。凡百の妖怪であっても太刀打ちできないようなブツが近所に封じられていたとは――源吾郎の額には、今や脂汗さえ浮き上がっていた。

 その直後、驚きおののく面々を見ながら灰高は笑ったのだ。呵々大笑のその笑いは、まさしく鴉の啼き声そのものだった。

 

「安心してください。八頭怪の仲魔がこの地に封じられているというのはあくまでも()()ですよ。あいつらはその真偽などを気にせずに真に受けたのでしょう。そして私が監視している事に気付かずにあんな事をしでかした……あくまでもそれだけの話に過ぎません」

 

 何だガセだったのか。奇怪な異形の脅威が嘘であると判明し、源吾郎は少しだけ安堵した。それは雪羽も同じだったらしい。目線があった時に、互いに目だけで笑っている事に気付いたのだから。

 しかし、会議室に広がる緊迫した空気は薄まる事は無かった。むしろ一層緊迫し、殺伐さや剣呑さが増したようでもあった。

 

「灰高のお兄様。何故先のお話がガセであると()()できるのでしょうか?」

 

 簡単な事ですよ。剣呑さを隠さぬ紅藤の問いに対し、灰高は穏やかな表情で応じる。

 

「その噂を用意したのは()()()なのですから。雉仙女殿、聡明な貴女の事だから、私から直接聞き出さずともおおよそ察しはついていたのではないですか?」

 

 不穏分子をあぶり出すために必要な事だったのです。灰高はそう言って両手を広げた。巨大な鴉が飛び立とうとしているように源吾郎には見えた。

 そんな灰高に冷ややかな笑みを見せるのは紅藤だった。

 

「灰高のお兄様も随分と幼稚な事をなさるのですね。もしかしたら、お兄様もそろそろ後任に仕事を任せて引退なさったらよろしいのではなくて? 灰高のお兄様が、長い間働いておいでなのは私も存じておりますし」

「本格的な隠居も悪くないですね。とはいえ、隠居するにしても()()()()()の件を片付けてからになるでしょうがね」

「……結局のところ、灰高のお兄様がなさりたいのは紫苑を貶めて失脚させたいって事だけでしょ。不穏分子なんて単なるでっち上げよ」

「落ち着いてください紅藤様!」

 

 言い募らんとする紅藤に対し、萩尾丸が半ば遮るように声を上げた。流石にその声には焦りの色が滲んでいる。

 

「紅藤様。お気持ちは解りますがこの会議室には島崎君たちもいるんですよ。またこの前のような事をなさるおつもりですか」

「……そうね。確かに萩尾丸の言うとおりだわ」

 

 諭すような萩尾丸の言葉に、紅藤は小さく頷いていた。内心はさておき、表面上は落ち着きを取り戻したのだと源吾郎が思った。下界の民を小馬鹿にする鴉よろしく、灰高がさらなる煽りを行わなければの話であるが。

 

「浜野宮様に紅藤様。お二人の意見はよく解りました。現時点では平行線をたどり、妥協点すら見いだせない事も。島崎君の証言は残念ながら決定打にはなりませんでしたが、参考になる点は非常に多かったのではないでしょうか」

 

 萩尾丸はそこまで言うと、打ち合わせはこの辺りで終わらせようと申し出たのだ。

 

「件の一団が何者であるか、浜野宮様の仰った妖物《じんぶつ》が本当にクロなのか。それは現時点では判断しかねる所です。ですから……私どもの方でも調査を進めたいと思っているのです。その上で意見交換を行いましょう」

「萩尾丸さんがそう仰るのならば、今回はこの辺で切り上げましょうか」

 

 一貫して様々な種類の笑みを見せていた灰高であったが、この瞬間だけはその笑みが揺らいだようだった。まだ物足りない。そう言いたげな表情が灰高の面に浮かんだのである。

 

「確かに萩尾丸さんは妖脈《じんみゃく》が広いですからね。さぞや良い情報を仕入れる事が出来るでしょうね」

「ひとまずは真琴様に引き続き協力を要請しようと思っております。彼女とその眷属たちは信用に値しますからね」

 

 萩尾丸の言葉に灰高は頷き、それから思案するように目を伏せた。視線を上げた時には、既にその両眼は鋭い眼光を放っていたのだが。

 

「研究センターの皆様。くれぐれも怪しい勢力や八頭怪の息がかかった者には気を付けるようにしてくださいね。恐らくは、この私が言っても説得力も何もない、と思っている手合いもいるでしょうけれど」

 

 灰高の言葉に、源吾郎は心中を見抜かれたような気がして居心地が悪かった。しかし何というか口調が優しく、しかも親身になっているような気がしてならなかった。違和感というには生温いそれに戸惑っている間にも、灰高は言葉を重ねる。

 

「……もっとも、あなた方ならば意外と大丈夫かもしれないとも思うんですがね。サカイさんでしたっけ、あのすきま女は八頭怪やその眷属に太刀打ちできる可能性を秘めておりますし、何より雷園寺君は一度胡張安に助けられているではありませんか」

 

 灰高の話は半ば一方的な物だった。話の内容が異質過ぎて源吾郎たちは上手く反応できなかったのだ。

 

「本来ならば雷園寺君と胡張安の繋がりが何処で出来たのかも知りたかったのですが……今日の打ち合わせはこの辺りで終わらせた方が良さそうですものね」

「そうねお兄様。申し訳ありませんが、私もかなり疲れましたので」

 

 かくして、不穏な空気を残したまま紅藤たちと灰高の打ち合わせは幕を下ろしたのだった。



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大天狗は真意を示す

 打ち合わせが終わるや否や、会議室を真っ先に出る事となったのは源吾郎と雪羽だった。これは普段では考えられない話である。普段であれば源吾郎か雪羽に打ち合わせ後の後片付けを命じられるからだ。

 だが今回に限ってはそのような事は無かった。というよりもむしろ、さっさと会議室を出ろとばかりに押し出されたような物でもあった。もちろん源吾郎たちに拒否権は無い。大妖怪の子弟・貴族妖怪の御曹司と言えども、研究センターでの地位は新入社員と研修生に過ぎないのだから。

 

「あーあ。結局の所俺は単に呼び出されただけになっちゃったのか」

「あの状況じゃしょうがないよ」

 

 後ろ頭に両手を添えてぼやく雪羽に対し、源吾郎は優しい口調でそう言った。

 

「あのまま話が続けば、また紅藤様が妖気と怒りを爆発させていたに違いないもん。前だって、生誕祭の時だって似たような事があっただろ? 俺だって、意識が飛ぶなんて事はそうそう体験したくないし……」

「そう言われればしゃあないよな。俺だって意識が飛ぶのはあんまりなぁ……酔っぱらって意識を手放すのは気持ちいいけれど」

 

 子供の癖に酔いどれ親父みたいな事を言うなよな。呆れたように源吾郎がツッコミを入れると、雪羽はへらりと笑うのみだった。人を喰ったような態度ではあるが、その笑みを見て源吾郎は安堵してもいた。会議の場では緊張していたようだが、普段の彼に戻ったのだ、と。

 

「それにしても雷園寺君。胡張安様と君との間に繋がりがあるって話だったけど、それって本当なのかい?」

「それが、俺にもさっぱり解らないんだよ」

 

 源吾郎の問いかけに、雪羽は当惑した様子で肩をすくめるのみだった。先程の冗談を言い合っていた時の雰囲気は綺麗に霧散しているのは言うまでもない。

 

「そもそも俺は、胡張安様が胡喜媚様のご子息で……二代目頭目の胡琉安様のお父上であるという事しか知らないんだぜ? 姿も妖となりも知らないような相手に対して、何をどうすれば繋がりが出来るんだって話だよ」

 

 そこまで言うと、雪羽は視線を彷徨わせつつ言葉を続ける。

 

「でも、そんなだけど、胡張安様は一度俺を助けたらしいんだってね」

 

 ここで雪羽は言葉を打ち切った。話が終わったというわけでは無い。まだ話の続きはあるが、続けるべきか否か悩んでいる。それは彼の横顔を見れば明らかだった。ついでに言えば、雪羽が逡巡している理由さえも。

 それでも雪羽は再び口を開いた。

 

「時雨たちが拉致されて殺されかけた事件があっただろう? あの時犯行グループのアジトには結界が張り巡らされていたんだけど、その結界を綻ばせたのは胡張安様の御業によるものだって言われているんだ。何でも胡張安様は時間を操る力を持っていて、それが結界に作用したってね」

 

 雪羽の口調は後半に行くにつれてぼんやりとしたものとなっていた。現に彼は今、おとがいに手を添えつつ思案顔を浮かべているではないか。結界を綻ばせた結果と時間を操る術の因果関係について悩んでいるのだろう。そんな風に源吾郎は思っていた。

 

「多分だけどさ、時間を操るって事はその術が行われる前にその空間とかを変質させる事が出来るんじゃないかな。それを結界が張られている場所で行えば、結界に綻びや穴をあける事が出来るのかもしれない。

 そうなったら、後はその穴から入り込めば良いだけだもんね。実際に、あの時は猫又のシロウさんが入り込んで、結界を強化していた鳥妖怪をやっつけてくれたんだろう」

「お、おう。そんな感じらしいんだよ。それにしても、先輩が色々と推理してくれるなんて。嬉しいけれどちょっとびっくりしたわ」

「何だよ雷園寺。俺が推理したからって驚かんでも良いだろ。まぁ確かに理系方面は苦手だけどさ」

 

 そんなやり取りを続けている間に、源吾郎も雷園寺時雨拉致事件のあれこれを思い出し始めていた。胡張安があの時結界を綻ばせた事が判明したのは、現場に彼の羽毛が落ちていたからなのだという。

 結果的に胡張安の行動が時雨たちを救出する一手となった事には変わりない。しかし胡張安の意図が何処にあるのかは全くの謎である。胡張安は雉鶏精一派の前に姿を現したわけでは無いし、だから何故彼が行動を起こしたのかは全く解らないのだ。

 胡張安様の意図は何処にあるのか。彼は今どこで何をなさっているのだろうか。源吾郎は静かに思案を巡らせていた。推理力を雪羽に褒められ驚かれたから、というのもまぁあるにはあるのだけど。

 考えを巡らせている間、源吾郎の脳裏にはドラゴンの鱗で彩られたヒヨコの絵が浮かんでいた。宝石商たるドラゴンの魔女・セシルが紅藤のために作った細工絵である。あの絵には今後巡り合う誰かの事を暗示していたはずだ。そしてあの絵が示すシーンというのは……

 何か糸口が掴めてきた。そのように思った源吾郎であるが、そこから先に考えを進める事は出来なかった。というのも、源吾郎はうっかり事務所を通り過ぎそうになり、それを雪羽に引き留められたからだ。

 元より希薄な考えだったのだろう。ああだこうだと胡張安について考えていた事については雲散霧消してしまった。

 

「ご、ごめんね島崎君に雷園寺君! わたし、急に出かけないといけなくなっちゃって」

 

 事務所に戻った源吾郎たちを出迎えたのはサカイ先輩だった。普段と異なる出で立ちに源吾郎は首を傾げ目を瞬かせた。隣の雪羽と顔を見合わせたのは言うまでもない。サカイ先輩はツナギ姿というか……特番の探検隊などが着込んでいるような衣裳を身にまとっていたのだ。豊穣を象るというその身を覆うために、丈の長い衣裳を好む彼女にしては至極珍しい服装だった。

 

「萩尾丸先輩に頼まれたの。お師匠様のために精の付く御馳走を用意してほしいってね。た、ただ今は真冬だから冬眠しちゃってるし、天然モノを狩るとなればすこーし遠出しないといけないかもしれなくって……」

 

 サカイ先輩の話を聞いているうちに、源吾郎の頬は引きつり始めていた。紅藤への御馳走を用意する。サカイ先輩が受けた以来の内容自体は何の変哲も無い物であろう。依頼主は萩尾丸であるわけだし。しかし他ならぬサカイ先輩の発言によって、件の依頼に憑きまとう不穏な気配を源吾郎は感じ取ってしまったのだ。

 サカイ先輩自体がすきま女という妖怪であり、時と場合によっては敵の心身を食い荒らし屠る事さえ辞さない存在であるという事実もまた、不穏さを補強する材料になってもいた。

 

「と、冬眠している天然モノって、まさか熊でも狩って来いって頼まれたんですか?」

 

 雷園寺! 怒鳴りこそしなかったが、源吾郎は雪羽の顔をきっと睨みつけた。何だってまた不用意な発言をするんだ。怒りと言い募らんとした意欲は、雪羽の顔を見ているうちに静かにしぼんでいった。笑みを作った雪羽の頬もまた、かすかに引きつっている事に気付いたからだ。

 ようするに、ふざけているのではなくて場を和ませようと解りきった冗談を口にしただけだったのだ。

 サカイ先輩はというと、不思議そうに雪羽の顔を眺めながら問いに応じた。

 

「わたしが用意するのは熊なんかじゃなくて蛇よ。ほ、ほら、お師匠様は蛇が大好きなのは二人とも知ってるでしょ」

 

 背の高いサカイ先輩に見下ろされ、源吾郎も雪羽も頷いた。紅藤が食材として蛇を好むのはもはや周知の事実である。時折マムシボールやマムシパウダーも手ずから作る事があるから、もしかしたら彼女の私室には漢方薬よろしく干物になったマムシなども常備されているのかもしれない。

 

「そ、それにこのところお疲れだから、殺し甲斐のある蛇が欲しいんですって。今の季節だと、蛇たちは冬眠しているし痩せてるだろうから……」

 

 殺し甲斐のある蛇。この言葉に源吾郎は怯んでしまった。殺しという言葉が源吾郎を怯ませた。世間話、ちょっとした買い物の延長のようにサカイ先輩が言ったから尚更だ。彼女たち、紅藤やサカイ先輩にとってはその程度の認識なのかもしれない。その事は頭の中で解っているはずなのに。

 

「無駄に物騒な言葉を使ってはいけないよ、サカイさん」

 

 源吾郎たちの背後で声がした。振り返ってみるといつの間にか萩尾丸が事務所に戻ろうとしている所だったのだ。少し戸惑う源吾郎や雪羽を尻目に、彼は前に進んでサカイ先輩に向き合う。

 

「僕はあくまでも活きの良いやつと言ったまでなんだけどね。僕や青松丸君の前ではああいう言葉でも問題ないが、島崎君たちはまだ若いから過激な言葉にショックを受ける可能性だってあるんだ。君なら解るよね?」

 

 サカイ先輩を諭すかのような萩尾丸の言葉を、源吾郎はじっとりと聞いていた。過激な言葉にショックを受けるだなんて、そしてその事を萩尾丸が心配しているだなんて……源吾郎はそんな風に考えていたのだ。

 

「それじゃあ行ってらっしゃい。もしかしたら遠くまで行かないといけないかもしれないけれど、近場で調達できればそれに越した事はないからね」

 

 萩尾丸の言葉にサカイ先輩が頷くと、彼女は源吾郎たちの脇を通り抜け、そしてそのまま何処かへと姿を消した。すきま女だけあってその神出鬼没さは健在だったのだ。

 

「紅藤様は少しやけ食いをなさりたい気分になっているだけなんだ。ふふふ、ストレスが溜まればやけ食いしたくなるヒトがいるって事は君たちも知ってるだろう。特にご婦人方はさ」

「あ、はい。確かにそうですね」

「女の子とか特にそうっすね」

 

 簡潔ながらも核心を突いた萩尾丸の説明に、源吾郎も雪羽も頷いた。やけ食いの対象が殺し甲斐のある蛇というのは普通の事では無いだろうけれど。

 

「このところ紅藤様も神経を使ってらっしゃるからね。セシル様から頂いた預言から始まって、昔の仲間を回ったりもした訳だし。もちろん、今回の浜野宮様との打ち合わせが決定打になった所はあるけれど」

 

 そりゃあそうでしょうとも。鼻息荒く言い放ったのは雪羽だった。

 

「だって萩尾丸さん。浜野宮様は紫苑様を疑ってかかるような事を、よりにもよって紅藤様の前で宣ったんですよ。可愛がっている姪っ子の事をあんなふうに中傷されたら、そりゃあ誰だってブチギレますよ」

 

 雪羽の言葉には重みが伴っていたし、雪羽自身も興奮しているようだった。彼自身叔父に養育され、叔父に可愛がられて育ったから尚更だろう。

 萩尾丸はしかし、その雪羽の言葉を受けて頷く事は無かった。

 

「もちろん、紅藤様がショックを受けるのは致し方ない話さ。紫苑様とは直接血が繋がっていないにしろ、血縁上は姪という事で可愛がっていたからね。あのお方の中では、実の息子である青松丸君や胡琉安様と同格の存在かもしれない」

 

 しかし――萩尾丸は物憂げな表情でもって静かに言い足した。

 

「浜野宮様の先の言葉は単なる中傷で片づける事も出来ない。僕はそう思っているんだよ」

「萩尾丸さん! それってまさか、浜野宮の鴉が言った事が真実かもしれないって、そう思っているって事ですか」

 

 現時点では断定できないよ。いきり立つ雪羽に対し、萩尾丸は落ち着いた様子で応じるのみだった。



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天狗らは化け山鳥を警戒す

 萩尾丸が紫苑の事を疑っている。この言葉に、源吾郎ももちろん動揺していた。実のところ、源吾郎と紫苑との関りはまだ薄い状態ではある。しかし彼女が紅藤の姪に当たる存在である事、柔和な雰囲気の妖物《じんぶつ》である事は知っていた。

 その彼女が、老獪な灰高や経験を積んだ大妖怪たる萩尾丸に警戒される存在であるとは。その事はにわかに信じられなかった。

 だが、源吾郎自身がその思いをぶつける事は無かった。未だ興奮冷めやらぬ雪羽が再び口を開いたからだ。

 

「萩尾丸さん。紅藤様の姪である紫苑さんを疑っているなんてあなたが公言しても良いんですか? 萩尾丸さんは大天狗で組織を束ねてもいるけれど、それ以前に紅藤様の忠実な部下だったんじゃないのかよ。なのに、それなのに紅藤様に歯向かうようなお考えを持っているなんて……」

「僕が紅藤様に忠義をもって仕えている事には変わりないよ。そして、僕があのお方に忠実である事と、あのお方と異なる意見を持ち、時に疑念を持つ事は相反する事でも無いからね」

 

 雪羽の疑念を、萩尾丸はきっぱりと一刀両断した。鋭い眼差しと言葉に、雪羽の三尾が針金のように硬直する。しかし実のところ、源吾郎の尻尾も緊張で逆立っていた。

 

「いいかい二人とも。あるじに対して耳障りの良い言葉のみを放つ部下なんぞは良い部下じゃあないんだよ。イエスマンばかり固めているトップが辿る末路がどのようなものか、賢い君たちなら知っているだろう?」

 

 萩尾丸の言葉に、源吾郎と雪羽はそっと顔を見合わせた。やはりというべきか、雪羽の顔には気まずそうな表情が浮かんでいた。これまでの事を顧みて、静かに恥じているのだろう。

 まぁさっきの話は君らにはまだちょっと早かったみたいだね。萩尾丸は妙ににこやかな表情でそんな事を言っていた。源吾郎は特に何も思わない。萩尾丸が源吾郎たちを子供扱いし、それでいて遠い将来の事を話すのはよくある事だからだ。

 源吾郎はだから、臆せず萩尾丸を真っすぐ見つめ続ける事が出来たのだ。

 

「萩尾丸先輩。僕は先輩が仰る事を信じます。ですから、そろそろ何故紫苑様が怪しいと思っておいでなのか、僕たちに教えて頂けませんか」

 

 源吾郎が促すと、萩尾丸は困ったような笑みをその顔に浮かべた。

 

「島崎君。あくまでも僕は浜野宮様の仰る事を頭から疑ってかかるのは早計だと言っただけであって、紫苑様が疑わしいと決めてかかるのも、それはそれでちと気が早いとは思うんだけどね……」

 

 まぁ良いや。萩尾丸が小声で付け足したのを源吾郎は聞き逃さなかった。萩尾丸は涼しい顔でいるけれど。

 

「セシル様から頂いた手紙を覚えているかな。『敵は思いがけぬ所に存在する。場合によっては、まさかと思う相手・心底信頼していた相手が該当する可能性もある』と記されてあったと思うんだけどね」

 

 あ、はい……萩尾丸の言葉に、源吾郎はいささか気の抜けた返事でもって応じた。雪羽は思案顔を浮かべていたが、おずおずと口を開いた。

 

「萩尾丸さん。その手紙の言葉とやらがあったから、紫苑様を怪しいと思っておいでって事なんですか。そんな、単純に他妖《ひと》の言葉を信じるなんて……」

 

 雪羽は最後まで言い切らず、終盤ではただ口をもごつかせるだけだった。萩尾丸がセシルの言葉を鵜呑みにしたのではないか、それは大天狗とは思えぬほどに浅慮な事なのではないか。雪羽はそう思っており、そう言いたかったのだろう。源吾郎は雪羽の横顔を見ながらそう思った。

 

「それに信頼していた相手や意外な相手が怪しいと言うのなら、紫苑様だけを疑うのはおかしくありませんか。幹部の方なら、紅藤様や萩尾丸さんが信頼なさっている相手は他にもいらっしゃるでしょうし。それこそ、浜野宮様だって何かときな臭いじゃないですか。今回だって紅藤様や俺たちを困らせるような事を言ってたしさ」

「浜野宮様は八頭怪共とは繋がっていない。もちろんまだ断言はできないけれど、そんな風に考えて問題ないと僕は思っているんだ」

 

 雪羽の言葉に対し、萩尾丸はきっぱりと言ってのけた。確かに灰高と紅藤の意見が対立する事はある。元より灰高は外様であったし、雉鶏精一派の内部において今もなお発言権を保有している。そのような前置きを述べてから、萩尾丸は言葉を続けた。

 

「浜野宮様の事だ。そもそも雉鶏精一派にて内部抗争を起こそうとお考えであれば、わざわざ八頭怪や邪神を崇拝しているような連中をこっそりとけしかけるような事はなさらないだろうさ。あのお方はきちんとした身元であらせられる外部勢力との繋がりもあるし、何より紅藤様の事を恐れてはいないのだから」

 

 萩尾丸の言葉には一理ある。源吾郎はそのように思ってしまっていた。灰高への疑念や忌避感を抱いている源吾郎をして、彼が敵ではないと思わしめるほどには。

 

「それにね、実を言えば紅藤様は既に薄々感づいておられるんだ。自分たちが、真に誰を警戒すべきかという事をね。君らだって、紅藤様がこのところ妙にそわそわしたり、イライラしている事は知ってるだろう。

 あの方はいわば、悩みの渦中にいると言っても過言ではないんだ」

「そうですか……」

「確かに……」

 

 源吾郎と雪羽の口から、小さな呟きがまろび出る。紅藤の様子が普段とは異なる事にはもちろん気付いていた。ただでさえマイペースな妖物《じんぶつ》ではあったが、最近の彼女の様子はそれで片づけられるようなものではなかった。ぼんやりと物思いにふけっているように見えたかと思えば、何か焦燥感を抱いているようなそぶりを見せる。源吾郎たちの前では取り繕っているようだったが、それでも普段とは異なっていた。

 だが確かに悩むのも無理からぬ話だろう。源吾郎はそう思い始めていた。何せ紫苑は紅藤の姪である。紫苑自体も紅藤を叔母として慕っていたし、紅藤が彼女を姪として可愛がっていた事は言うまでも無いのだから。

 仲間や身内を大切にする気持ちの強い紅藤にしてみれば、相当なストレスになっている事は想像に難くなかった。

 

「実を言えば、僕がそんな結論をはじき出したのはつい最近の事だったんだ」

 

 紅藤の心中について考えていると、萩尾丸がそんな風に切り出した。紫苑が怪しい。この推論に至ったのが最近であるという言葉に意外なものを感じ、源吾郎は少し前のめりになってしまう。

 

「紅藤様が、僕をお供に連れてかつての仲間に会いに行った事があるのを覚えているだろう? 残念ながらかつての仲間全員に出会ったわけでは無いんだけどね。

 その時に僕は知ったんだ。紅藤様の妹弟子の一人に山鳥妖怪がいるという事をね。しかも彼女は、元々は悪事を働いていたのを打ち負かされて、それで紅藤様のかつてのあるじに仕える事になったらしいんだ」

「悪事って、どんな事をなさっていたんでしょうか」

 

 源吾郎が問いかけると、萩尾丸は笑みを浮かべつつ言葉を続けた。

 

「彼女はメスの山鳥だったから、人間の美女に化身して人間を惑わせて精気を吸い取ったり喰い殺したりしていたみたいなんだよね。まぁ、途中からはその辺の野良妖怪なんかも餌食にしていたらしいけれど。

 ふふふ、ある意味君ら妖狐の一部もやってのけるような事をやっていた。そんな風に解釈すれば良いんじゃないかな」

「萩尾丸先輩。僕が言うのもアレですが、妖狐は何もスケベな事ばっかりやっている訳ではないんですけどねぇ……」

 

 玉藻御前の曾孫たる源吾郎のツッコミに、しばしの間笑いが広がっていた。緊迫していたはずの雰囲気にそぐわぬ笑いであったが、それで場が和むのであればそれでも良かった。

 しかしややあってから、雪羽が何かに気付いたと言わんばかりに声を上げた。

 

「その山鳥妖怪って、もしかして山鳥女郎の事でしょうか」

 

 恐らくね。短く即答する萩尾丸の声音には、驚きの念が籠っていた。

 

「それにしても、僕が産まれる前に行動していたような比較的古い妖怪で、今では何処にいるのかすら判らないというのに、雷園寺君は知ってたんだね。その山鳥妖怪だって、この前の打ち合わせでは会えなかったし何処で何をしているのか解らなかったんだけどね」

「結構前に、浜野宮様が教えてくださったんですよ」

 

 雪羽は何処か自慢げな様子で言い、萩尾丸はその言葉に黙って耳を傾けていた。成程ね……と萩尾丸は小さく呟いたのである。

 

「その山鳥妖怪は、姉弟子である紅藤様の事を良く思っていなかったそうなんだ。確かに彼女は、悪事を働いていたのを調伏されて、半ば強制的にあるじ――当時の紅藤様のあるじでもあるのだけど――に従わされていたというのもあるだろうけどね」

「そうなりますと、その山鳥女郎と紫苑様との間に何らかの協力関係があるって事ですかね」

 

 またも質問を投げかけたのは雪羽だった。萩尾丸は思案顔のまま首を揺らしただけだった。その動きだけでは肯定とも否定とも判断しかねる動きだ。

 

「同じ種族の妖怪というだけで、そんな風に考えるのは一般的には暴論になるだろうね。だけど、話の流れから雷園寺君がそう思ったとしても致し方ないかな」

 

 紫苑が山鳥女郎そのものであると考えるのは流石に無理がある。しかし紫苑自体も謎の多い存在である事もまた事実だと、萩尾丸は言った。

 

「確かに彼女は胡琉安様の従姉である事、そこから遡って胡張安と紫苑様の母親が異母姉弟である事は明らかなんだ。だけど、それ以外の事はほとんど解らないんだよ。紫苑様の母親も、胡張安の異母姉で純粋な山鳥妖怪であるという事くらいしか情報も無いしね」

 

 萩尾丸はそこまで言ってから、何かに気付いたような調子で言い足した。

 

「もしかしたら、それこそ認識をあやふやにして周囲にその事を考えさせないようにしているのかもしれないね」

 

 何せ化け山鳥の十八番は、相手を化かす事なのだから。そう語る萩尾丸の顔もまた、何処か妖怪めいた凄味を秘めていた。

 そんな中で、源吾郎は紫苑が自分に働きかけてきた時の事を静かに思い返していた。別の所属という事もあり、紅藤の姪と言えども紫苑と直接言葉を交わした頻度は少ない。しかし彼女とのやり取りはいずれもしっかり覚えている。

 最初の接触はアパート住まいの頃の事だ。夕暮れ時に夜雀に襲われていたあの時、源吾郎を助けてくれたのは紫苑だったではないか。

 紅藤と灰高がにらみ合った緊急会議の後に、困った事があれば相談すると良いと、紫苑はあの後申し出ていた。

 そして――八頭怪に源吾郎が出会ったあの時だ。八頭怪が去った直後、源吾郎の前に姿を現したのは紫苑ではなかったか。紅藤の姪という事もあり、源吾郎はあの時素直に八頭怪の事を報告したのだが……

 駄目だ、全く解らん。紫苑とのやり取りを思い出していた源吾郎だったが、かぶりを振って思考を中断させた。

 紫苑は疑うべき相手なのか否か。その事を深く考えるのが何故か源吾郎としても恐ろしかったのだ。



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若妖怪 労苦を前に何思う

 ひとまずだ。それぞれ思案に暮れる源吾郎と雪羽に対し、萩尾丸は静かに言い放つ。

 

「紫苑様の件に関してはそんな感じかな。もちろん、僕の方でも遣いを送って調査するし、真琴様とも連絡を取って情報を集める予定ではあるのだけどね。

 だから君たちがこの案件について何か起こすべき行動というのは特に無いから安心したまえ。ただ……この事を心に留めてくれていれば御の字ってやつさ」

「要するにさ、紫苑様の仰る事とかは鵜呑みにせずに疑ってかかれって事ですか?」

 

 雪羽は翠眼をぐるりと動かして萩尾丸を仰ぎ見た。疑ってかかれ。そう言った彼の言葉はそれこそ疑念で彩られていた。

 

「そこまで極端にならなくても良いけれど、用心するに越した事は無いって話かな。もしかしたら、浜野宮様や僕の考えが単なる思い過ごしであって、紫苑様は何ら後ろ暗い事は無いのかもしれないし」

「ですが……」

「まぁええやん雷園寺。この話はこれくらいにしておこうよ」

 

 言い募らんとする雪羽に割り込んだのは源吾郎だった。もちろん源吾郎だって、紫苑が怪しい存在であるという話に心がざわついた。萩尾丸の言葉をそのまま信じていいのか解らなかった。疑念を抱き混乱しているのは源吾郎も同じだ。

 だが、このまま疑念についてほじくり返していても現時点では答えは出ない。それどころか思考の堂々巡りというか、ドツボに嵌りそうな気がしたのだ。

 疑い出したらキリが無いのだ。或いはもしかしたら、目の前にいる萩尾丸とて何か企んでいる可能性だってあるかもしれない。そんな考えに取り憑かれる事が源吾郎には恐ろしかった。

 

「……強くなろうとする者の宿命という物に、君らも巻き込まれてしまったんだろうね」

 

 静かに源吾郎と雪羽の様子を眺めていた萩尾丸がここで口を開いた。その声音は落ち着いており、そこはかとない優しさと憐みの念が籠っていた。

 すまないね。次に言い放たれた短い文言は、何と謝罪の言葉だったのだ。

 

「雷園寺君と島崎君が、それぞれ既に組織の長になる事を目指している事は僕たちも知っている。僕らも君らの能力や向上心を利用している事も否定はできない。

 だけどそれでも、君らには何かと負担を掛けてしまっていると思えてならないんだ。それが君らの目指すものの先にある以上仕方のない事なのかもしれない。とはいえ君らがまだ若い事を思うと、何とも申し訳なくてね……」

 

 さも申し訳なさそうに萩尾丸は源吾郎たちを見下ろしていた。その眼差しやその言葉に源吾郎は戸惑ってしまった。萩尾丸が優しげな態度を見せると、源吾郎はどうしても戸惑ったり心がざわついたりするのだ。それはもしかすると、余裕のある時は人を喰ったような態度ばかり見せる萩尾丸の日頃の言動故の事なのかもしれないが。

 

「本来であれば、君らもこういう難しい事には首を突っ込まずに、無邪気に自分の事だけ考えて暮らしていても咎められないような年頃だというのに、ね」

 

 萩尾丸先輩も時にはこんな事を言うんだ……普段のビジネスマンらしからぬ物言いを正面から受けた源吾郎は、まずそんな事を思っていた。隣にいる雪羽も、何とも神妙な面持ちを浮かべているではないか。

 

「やはりね、子供のうちは子供らしく過ごすべきだと僕は思うんだよ。まぁこれも、最近思い始めた持論で若い頃はそんな事なんて考えていなかったんだけどね」

 

 思い出したように言い足した萩尾丸の言葉に、源吾郎は密かに納得し始めていた。萩尾丸の過去の言葉を思い出したからである。源吾郎が十八で紅藤の許に弟子入りしたのは()()()()。いかな優秀な妖材《じんざい》であったとしても、子供のうちは子供らしく過ごすべきなのだ……そう言った事を萩尾丸はかつて源吾郎に伝えていたのだ。

 特に島崎君。萩尾丸の声と視線は、いつの間にか源吾郎に向けられていた。

 

「元より君は人間として育てられ、人間として暮らしてきただろう。もちろんそれは、君のご両親や親族の意向によるものだというのは僕も知っているけれど。

 僕が思うに、君は人間として暮らしていたとしても()()()以上の幸せを得る事は出来たはずなんだ。いや違うね。人間としての暮らしを選んでいたとしても、才能を活用して名声を得る事だって君は出来たかもしれないね」

 

 人間として暮らす。萩尾丸の言葉に源吾郎の瞳孔がぐっとすぼまった。妖狐として、妖怪として生きる事こそが源吾郎の生き様であり全てだった。萩尾丸とてその事は解っているはずではないか。

 しかし、源吾郎が言い返す暇は与えられなかった。それよりも先に萩尾丸が言葉を続けたからだ。

 

「妖怪として生きる暮らしが、人間のそれよりも過酷なのはもう既に君も解っているだろう? しかも君は単なる妖怪ではなく、組織の長になるような大妖怪を目指しているのだから尚更ね。

 君がここで働き出してからまだ一年足らずだけど、君の妖《ひと》となりというか性格は大体掴めているよ。

 島崎君。君は根が素直だし順応性と協調性も高い子なんだ。しかも上のヒトにすんなり可愛がられやすいしね。だから人間として……或いは野望とは無縁な妖怪として暮らす事も十分出来たはずなんだ。()()()()()()()()()、ね」

 

 話を聞くうちに、源吾郎は思わず唇を噛んでいた。

 萩尾丸がおのれの美点を伝えてくれた事は源吾郎もきちんと解っている。しかし野望を放棄してもやっていけるという文脈で出てきた事柄なので、素直に喜ぶ事が出来なかった。

 ふと腕に何かが触れたのを感じた。雪羽の手指だった。縋るような眼差しを源吾郎は雪羽に向けていた。彼ならば今の俺の気持ちを解ってくれるはずだ。そんな風に思いながら。

 雪羽は源吾郎と目が合うとゆっくりと微笑んだ。翠眼がやけにぎらついた歪な笑顔だった。

 

「島崎先輩。今回ばかりは萩尾丸さんの言うとおりだと俺は思うんだ。別におもねったり忖度している訳じゃない。この俺の……雷園寺雪羽としての本心さ」

 

 雪羽の声は低く、その眼差しは昏い光を放っていた。ついでに言えば源吾郎の腕に添えられた手指に力が籠る。すぐ傍にいる雷獣の少年が、仄暗い怒りの念を抱えながら源吾郎を見つめている事は明らかだった。

 

「そもそも先輩が人間として育てられた事は、そのまま人間として平穏に暮らす事こそが幸四郎さんたちの望みだった事は俺だって多少は知ってるよ。だけど、島崎先輩は親兄姉の思いや願いに背を向けて、後足で砂をかけたような物なんだぜ。ここに……雉鶏精一派にいるって事は()()()()()なんだぞ」

 

 そうだな。源吾郎の返答は至極あっさりしたものだった。と言っても、この四文字に色々な思いが籠っていたのだが。

 ふいに、雪羽と顔を合わせて間がない頃の事を思い出していた。グラスタワー事件の記憶も生々しく、互いに警戒しあい、相手の挙動を虎視眈々と窺うような日々だった。その頃の雪羽は、源吾郎に対してそこはかとない嫌悪と敵愾心を抱いていたはずだ。あまりいい思い出ではないはずなのに、思い返してみると懐かしさを伴っていた。

 後になって知ったのだが、雪羽は源吾郎の境遇を羨ましく思っていたのだ。そしてそれと同じくらい、自由奔放に生きる(ように見える)源吾郎を腹立たしく思ってもいた。

 それは雪羽の境遇を思えば無理からぬ話だ。幼い頃に母が死に、理由はどうあれ父に棄てられて弟妹達と離れ離れになってしまったのだ。父母が健在で兄姉らとも一緒に暮らしていた源吾郎の事を羨み、嫉妬し憎むのもごく自然な事であると源吾郎も解っていた。

 源吾郎はだから、雪羽の言動の中に家族への執着の強さを見出す事がしばしばあった。雪羽はまた、家族や親しい者と自分の意見が食い違ったり異なったりする事をひどく忌み嫌っていた。彼自身はそうならないように心がけていたし、親しい者たちと異なった意見を打ち出しながらも平然としている者に腹を立ててもいた。

 こうした雪羽の癖は源吾郎も既に知っていた。知った上で事を荒立てないように流していたのだ。源吾郎にしてみれば、親しかろうと肉親であろうと意見が異なるという事は当たり前の事なのだから。雪羽は源吾郎と意見が食い違うのを恐れる時があったが、源吾郎は雪羽が異なった意見の持ち主でも、それは仕方がないと思っていたのだ。

 今回雪羽が興奮しているのも、源吾郎が奔放におのれの生き様を決めた事を再確認したからなのだろう。源吾郎はそんな風に考えるだけだった。

 

「雷園寺君。この話は君とて他人事じゃあないんだよ」

 

 萩尾丸が声をかける。丁度良いタイミングだと源吾郎は思った。紅藤すら信頼を置く大妖怪であるし、そもそも若手妖怪を育成している身分であるから、そうした所は抜かりないのだろう。

 

「君が雷園寺家の当主の座を目指しているのは、三國君に強制されたからではなくて、自分の意志で当主になりたいからなのだろう?」

「そうですよ、もちろんですとも!」

 

 半ば食い気味に応じる雪羽に対し、うっすらと笑みを浮かべながら萩尾丸は続けた。

 

「三國君は縁あって雷園寺家の血を引く君を引き取ったけれど、君が雷園寺家の子息である事を利用する気なんて持ち合わせていなかったもんねぇ。そもそも、雷園寺家の威光を笠に着る事を思いつくのであれば、それこそ野良妖怪として活動していた時から利用していたはずさ。雷園寺家の姻族としてね。()()()三國君の兄姉たちは、大なり小なり雷園寺家の恩恵を受けている訳でもあるし」

 

 雪羽を引き取って育てている三國が、雪羽の血筋や地位を利用するつもりは一切無い。この事については源吾郎もよく知っている事柄だった。三國が雷園寺家の権力や威光にそもそも無関心である事は、彼の言動を見ていれば明白だ。叔父の苅藻に至っては、むしろ雪羽の心を護るために、雪羽が雷園寺家の次期当主を目指す事を容認したと言っていたくらいなのだから。

 前にも言ったと思うけれど。萩尾丸が静かに言葉を続ける。

 

「雷園寺君。君の父親はね、君がこれ以上危険な目に遭わないように敢えて雷園寺家の外に放り出したのかもしれないって話しただろう。雷園寺家とは無関係な存在として育ってほしい。そんな思いが彼にはあったのかもしれないよ。

 しかも君を引き取ったのは三國君と来ている。大勢いる親族たちの中でも、とりわけ雷園寺家の権力に無関心な彼が、ね」

「雷園寺千理は、いずれ俺に討ち取られる事も覚悟の上だ。萩尾丸さん。前にその話をなさっていた時とは内容が違う気がするのですが?」

 

 雪羽の問いかける眼差しと声音は、やはり尋常ならざるものだった。そしてそれこそが、雷園寺千理に対して抱く彼の気持ちを如実に反映しているように源吾郎には思えた。

 

「大人は一つの事柄に対して、それがのちにどうなるのか、複数の可能性や結末を同時に考える物なのだよ」

 

 凄味のある雪羽の表情を前に、萩尾丸は全くもって動じなかった。せいぜい仔猫が牙をむいたと思っているのが関の山であろうか。それに雷園寺家とは無縁に育ってほしいって言うのは単なる願望かもしれないしね。そんな文言さえ、気楽な調子で言い足す始末である。

 雪羽もまた、気付けば何とも言えない表情を萩尾丸に向けていた。もしかすると俺もこんな表情なのかもしれない。源吾郎はそう思える余裕が心の中に生まれていたのを感じた。

 そうした二人の姿を見た萩尾丸は静かに笑った。

 

「ははは。その顔を見る限り、君らの持つ野望は筋金入りのようだね。ある意味君たちらしいと言えば君たちらしいんだけど」

 

 萩尾丸はここで言葉を切り、そして真面目な表情を作った。

 

「――とはいえ、しんどかったり辛かったりしたら、時には誰かに甘えたり休んだりしても良いんだよ。才覚や能力ももちろん大切だけど、それも心身ともに健康であってこその事だからね。

 それにそもそも、君らはここ半年ばかり、色々な事件や出来事に巻き込まれてしまっている訳だし。しかもあんなのは序の口に過ぎないんだからさ」

「ええと、僕は大丈夫ですよ萩尾丸先輩」

 

 気付けば源吾郎は声を上げていた。萩尾丸が存外自分たちを心配している事を知り、何故か焦ってしまったのだ。

 

「本当にお気遣いありがとうございます。ですが心配なさらずとも、僕たちもそんなに頑張り過ぎない程度に頑張りますんで」

「萩尾丸さんも色々と気苦労が多そうですし、俺も屋敷ではお行儀よく過ごしますね」

 

 源吾郎と雪羽の言葉に、萩尾丸は微笑んだ。今度は作り笑いではなく、本心からの笑みだった。



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胡張安の思惑 すきま女の出自

 難しい話はこの辺りにしようか。萩尾丸はそう言うと、源吾郎と雪羽とを交互に見やった。

 

「島崎君。君は親元を離れて一人暮らしを始めたばかりだから、やはり心細かったり不安に思ったりする出来事があったりするんじゃあないかな。だけど紅藤様や青松丸君も同じ敷地に暮らしている訳だし、困った時には青松丸君とかに頼るというのも手だと思うんだ」

 

 青松丸の名を口にした萩尾丸は、僅かに困ったような表情を作って言い足した。

 

「もしかしたら、実の兄のように彼に頼るのは少し難しいかもしれないけれど」

「いえいえ。そんな事はありませんよ」

 

 やっぱり萩尾丸先輩は俺の事を恐ろしいほどに把握していらっしゃる……笑顔の裏で源吾郎はそんな事を思っていた。

 源吾郎の思う()とは、保護者や父親代わりの役割を担う存在だった。兄たちとの年齢差が大きく、しかも長兄が何かと源吾郎の面倒を見ていたがために、源吾郎の中ではそんな考えが育ってしまったのである。

 青松丸に頼るという話をした時に、敢えて実の兄を引き合いに出したのは、そうした源吾郎の思考の癖を萩尾丸が把握していたからなのだろう。もしかしたら、萩尾丸は萩尾丸で弟分である青松丸にもっとしっかりしてほしいという気持ちもあるのかもしれないが。

 それにそもそも、源吾郎は一人暮らしを始めてはいるが寂しいとか心細いという気持ちに陥った事はまだ無かった。

 元より源吾郎は、思春期を迎えた頃から早く独立したいと思っていた。別に家族と不仲だったわけではない。ただ末っ子の仔狐として、両親や兄姉に構われる事が多かったのだ。仔狐はいつまでも仔狐のままではない。いずれは成長し、牙と自立する意思を持つようになるのだ。源吾郎はだから独立した。実家という巣穴を抜け出して、新しい住まいを持つようになったのである。

 だから一人暮らしは開放感あふれるものであり、そこに寂しさを見出す要素は何一つなかったのである。ついでに言えば長兄などは度々源吾郎に連絡を入れてくるわけであるし。むしろ兄の方が弟離れできていない始末ではないか。

 そうした事まで萩尾丸が察したのかどうかは定かではない。だが萩尾丸の視線は源吾郎から外れ、雪羽に向けられていた。

 

「雷園寺君。君については健康管理も含めて僕がしっかり様子を見ているんだけれど……それでも何かあれば遠慮せずに言ってくれたまえ。君も中々音を上げないタイプだと解ったからさ」

 

 面と向かって言われても、萩尾丸先輩に直接言うのはやはりハードルが高いのでは? 無言のままに源吾郎はついついそんな事を思ってしまった。だが雪羽は素直に頷いているだけである。納得したのか、納得したふりをして胸の奥で様々な思いをうごめかせているのか、源吾郎には定かではなかったが。

 だが雪羽も源吾郎と同じくしんどい思いをしているであろう事だけは解っていた。いや、しんどさやストレスは源吾郎以上であろう。ここ半年ばかりで、彼の身にも様々な事が降りかかっている。グラスタワー事件の処遇については自業自得なので仕方がない。しかしその後の出来事は、雪羽の身ではどうにもならない事件ばかりだったではないか。それが雪羽のストレスになっているであろう事は想像に難くない。

 雷園寺家の次期当主候補になった事、そして三國夫妻の間に子供が誕生した事。これらは雪羽にとっては喜ばしい事であるのには変わりない。しかし()()()()であっても環境の変化はストレスになるのだ。そう言った意味では、雪羽は現在強いストレスにさらされていると言っても過言では無かろう。

 他に何かあるかな。教師よろしく問いかけた萩尾丸に、雪羽が即座に反応する。興奮しているのか翠眼がギラギラと輝いていた。

 

「さっきの打ち合わせでは話題に上りませんでしたが……胡張安様と僕との繋がり云々って話がどうも引っかかるんです。とはいえ、僕もさっきその事を思い出したんですけどね」

「胡張安か。ああ、君が気になったのはそっちの話なんだね」

 

 前半は真面目に後半はおどけた様子で告げる雪羽に対し、萩尾丸の表情は複雑な物だった。胡張安とは胡喜媚の息子であり、本来であれば二代目頭目として雉鶏精一派の長として君臨していてもおかしくない妖物である。だが実際には胡喜媚が存命の頃から行方をくらまし、雉鶏精一派をもってしてもその消息を掴めぬ所である。二百年前に一度接触したのが関の山だったとも紅藤たちは語っていたではないか。もちろん、萩尾丸も胡張安に対しては色々と思う所があってしかるべきだろう。

 そんな萩尾丸の気持ちを知ってか知らずか、雪羽は口を尖らせつつ言い添えた。

 

「そもそも僕は、胡張安様と何がしか繋がりがあるって事を浜野宮様に説明するためにあの時呼び出されたんですよね。でも途中で打ち合わせは打ち切られたので、今回はその話までこぎつけなかった訳ですけれど……」

 

 雪羽はそこで言葉を切ると、上目遣い気味に萩尾丸の顔を覗き込んだ。

 

「とはいえ僕も何が何だか解らないんですよ。胡張安様が結界に働きかけてくれたから、時雨たちが救出できたって事は解ってます。だけど何で俺に力を貸してくれたのか、その辺は俺にも全然解らないんです……」

「すまないね雷園寺君。胡張安の事は、彼が何を考えていて何をしでかすかについては、流石の僕にも解らないんだよ」

 

 おのれの考えをぶつける雪羽に対し、萩尾丸はただただそう言うだけだった。申し訳なさそうな表情を浮かべてはいるが、胡張安と言い放った時の語気は鋭かった。萩尾丸が胡張安に対して何がしか思う所があるのは明らかだ。

 

「僕たち雉鶏精一派が胡張安と最後に接触したのは二百年ほど前の事なんだ。もちろん君らが産まれる前の事だね。いや、それどころか双睛鳥君や三國君もまだ産まれてなかったか。

 それはさておき、雉鶏精一派と胡張安の間には、互いに干渉しないという協定を結んでいるんだ。というよりも、胡張安がそう言う協定を結べとごねた節もあるんだけどね。その代わりに紅藤様との間に子供を設けるという条件を飲んだんだから、胡張安も胡張安で中々良い性格をしているとは思うけどね」

 

 萩尾丸の笑みが皮肉気に歪む。まぁ確かに、自分を放っておいてほしいという理由だけで、好きかどうか判らない相手との間に仔を設けようなどとは普通の妖怪は考えないであろうから。

 もっとも実際には、胡琉安は人工的に作られた妖怪であり、胡張安はあくまでも父親という名義と妖力の一部を紅藤に提供したのみである。それならば実際に仔を設けるよりも抵抗感は少なかった……と言えるのだろうか。

 源吾郎は若すぎるので、その辺りの感覚はどうにも理解できなかったのだが。

 

「とはいえ、今更手のひらを返して雉鶏精一派に媚びを売るとも考えられないんだよね。彼にそう言う考えがあったのなら、もっと前にこちらに接触を図ってきたとしてもおかしくないし」

 

 少なくとも、雉鶏精一派に恩を売るためにあの時行動を起こしたわけでは無かろう。萩尾丸は思案しながらそんな言葉を絞り出した。いかにもビジネスマンらしい物言いだな。源吾郎はそんな風に思い、半ば辟易してしまった。

 

「そりゃあもちろん雷園寺家だって、雉鶏精一派の中では意味のある妖怪組織であると言えるような存在には違いないよ。だけどそれでも、雉鶏精一派に自分がメリットのある存在であると知らしめるのであれば、もっと別の相手に対して働きかけると思うんだよ。僕たち八頭衆やその直属の配下とか、それこそ九尾の末裔とかにね」

「萩尾丸先輩! 誰だってそんなに理詰めにビジネスライクに物を考えると思ったら大間違いですよ!」

 

 九尾の末裔。その言葉を耳にした源吾郎はたまりかねて声を上げた。胡張安の思惑はやはり謎である。だがそんな打算に塗れた考えを持って動いたとは考えたくなかった。

 

「そんな小難しい事なんて無かったと僕は思うんです。ただ単に、純粋に助けたかったから助けたとか、そんな事じゃあ駄目なんですかね?」

「君はそれで納得しても構わないよ」

 

 萩尾丸の言葉は優しげであるが、皮肉っぽい気配が見え隠れしていた。

 

「だがそれだと彼が何故雷園寺君に力を貸したのか、その理由が明らかにならないんだよ。表立って動きを見せなかった胡張安がこうした動きを見せたというのは、僕たちとしては受け流せない案件になるのだよ」

「……妖が動くってそんなに難しい事なんですかね。雷園寺君を助けたかったとか、八頭怪のやつの企みを妨害したかったとか、そんな単純な話じゃあないんですかね」

 

 八頭怪。源吾郎がその名を口にした時、萩尾丸と雪羽の眉が動いたのを源吾郎は見た。胡張安が八頭怪を明確に忌み嫌っているのかどうか。それは源吾郎には解らない。しかしその逆は知っていた。源吾郎と対面した八頭怪は、明らかに甥に対する嫌悪の意志を示していたのだから。

 

「胡張安が八頭怪の企みを妨害したかった、か。それも興味ぶか――」

 

 口許に笑みを浮かべ、萩尾丸が言葉を紡ぐ。だが最後まで言い切る前に、源吾郎たちの注意は萩尾丸から逸れてしまった。使いに出ていたサカイ先輩が戻ってきたのだ。出かける前との違いは、その両手に箱を抱えているだけである。しかし音もなく気配もなく姿を現したので度肝を抜かれてしまったのだ。

 サカイ先輩は故意に源吾郎や雪羽を驚かせたり怖がらせたりする事を行うような妖物ではない。ただ少し人見知りで後輩たちが自分をどう思うかに無頓着な所があるだけだ。だから彼女が何もない所から姿を現して、源吾郎や雪羽が勝手に驚く事がままあるだけの話である。

 

「ただ今戻りました! え、ええと、真冬だったんですけれど、ペットショップで活きの良いのを見繕う事が出来ました。萩尾丸さんも確認されますか?」

 

 箱を前に突き出しながら語るサカイ先輩に対し、萩尾丸は首を振った。

 

「別に確認までは良いよ。君の事だから、きちんと良いのを選んでくれたのは解っているし……それよりも紅藤様の所に行っておいで」

 

 サカイ先輩は短く返事をすると、そのまま研究センターの隙間にその身を入り込ませ、そのまま視界から消え去った。箱の中身が憐れな蛇である事は源吾郎にも解っていた。そのために彼女は使いに出されたのだし、何より箱からは匂いが漂っていた。

 萩尾丸はしばしの間サカイ先輩が消えた方を目にしていた。それから源吾郎たちの方に視線を戻す。

 

「彼女、サカイスミコが妖怪としても異質な存在である。君らは心の中でそう思っているんじゃあないかな」

 

 源吾郎と雪羽は思わず顔を見合わせた。サカイ先輩に関してはまさしくそのように思っていたためだ。だが、その事については深く追求しようと思った事はない。彼女はすきま女であり、自分とは全く異なる種族なのだ。そう思って納得していたのだ。

 

「どうやらね、彼女は鋭角ヨリ出ヅル者の血を引く存在なのかもしれないんだよ。本家本元の鋭角ヨリ出ヅル者は、僕たちとは別の世界に暮らしていて、こちらの世界に干渉するには制約があるらしいんだ。

 しかし彼らは八頭怪の親玉と、道ヲ開ケル者と対立していて、彼らの親玉は道ヲ開ケル者と互角の力を持つともされているんだ。

 もちろん、こうした事柄が、サカイさんに直接関わっているとも言い難いんだけどね」

 

 意味深な、謎めいた萩尾丸の言葉に対し、源吾郎はただ相槌を打ちながら耳を傾ける他なかったのだった。

 ともあれ自分の周囲には、味方であるか否かはさておき色々な面々が集まっている。その事を把握するのでやっとだった。



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幕間:大妖狐たちの世間話

 時は少し進んで二月初旬。初午の日が近づいているという事で、洛中と言わず洛外と言わず妖狐たちは浮足立っていた。稲荷神に仕える妖狐たちにとって、初午が大きな意味を持つのは言うまでもない。

 だがその一方で、稲荷神に仕えていない野狐たちの一部にとっても、この初午は待ち遠しくも緊張する一日として認識されていたのだ。玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちは、裏初午と称して初午の日に集結して会合を開くのだから。

 洛外某所の屋敷にいる、この二体の妖狐たちもまた例外ではなかった。

 彼女らはどちらも玉藻御前に縁深い存在だった。一方は玉藻御前の娘であり、他方は玉藻御前に仕えていたのだから。

 八尾を具える玉藻御前の従者と六尾を揺らす玉藻御前の娘。一般妖怪が見れば卒倒しかねないような力量と地位を持ち合わせた二体の妖狐は、しかしのんびりと縁側に腰かけていた。

 

「……ごめんなさいね若菜お姉様。私も急に押しかけるような真似をしてしまいまして」

 

 まず口を開いたのは六尾の方だった。彼女の名は白銀《しろがね》という。妖《ひと》によっては白銀御前とも呼ばれる彼女こそが、玉藻御前の娘その妖《ひと》だった。銀白色の六尾を持つ彼女は、三十前後の成人女性の姿を取っていた。普段はもっと若い姿を取る事もあるのだが、今回は相手が相手なので、敢えてこの姿になっていたのだろう。

 

「別に大丈夫ですよ、姫様」

 

 若菜と呼ばれた女妖狐は、白銀御前に対して鷹揚な笑みを見せていた。背後では八尾にまで増殖した尻尾がゆらゆらと揺れている。

 女妖狐、それも玉藻御前に仕えていた妖狐というだけあって、若菜もまた和風美人と言った雰囲気の持ち主だった。但しその容姿は向き合う白銀御前よりもずっと年かさで、ともすれば親子に見えるかもしれない程である。

 妖狐は美女や美男に化身して標的を籠絡すると伝えられているが、老齢の妖狐にしてみればそのような事すらも些末な事になるのかもしれない。実際問題、若菜も白銀御前も千年以上生きた大妖狐であり、子孫を持つ身なのだから。特に若菜などは、孫や曾孫だけに留まらず、五、六世代先の子孫もいるという話であるらしい。

 それに見た目の年齢がさておき、若菜の持つ威厳や気品は一切損なわれていないではないか。

 

「姫様が私の許にお見えになる事は大体想像はついていましたからね。もちろん、話の内容も」

 

 まだ何も伝えていない白銀御前に対し、若菜は静かにそう言った。白銀御前も特に驚く素振りは見せていない。長い年月を生きた妖狐は、妖力や妖術だけではなくて神通力も身に着ける。身に着ける神通力は妖狐によって異なるが、中には未来を見通す能力を得る者もいるという。その事を思えば、相手の考えている事を見抜く事など容易い物である。

 もっとも、今回白銀御前が持ち込んだ話というのは、そのような術を使わずとも看破できるような代物でもあったのだが。

 

「今回の話題は、他ならぬ私の末孫の事です。厳密に言えば娘の末息子に当たるのですが」

「源吾郎君、だったかしら。確かにあの子の名前は若い狐たちの間でも聞くようになりましたわ。玉藻御前様の血を色濃く受け継いでいて、早熟ながらも才能に恵まれているってね。そう言えば、今年からあの子も裏初午に参加すると連絡が入っておりましたし」

 

 その通りですね。白銀御前は小さく頷いた。

 

「末孫は昨年の春より雉鶏精一派に属し、そこで妖怪としての鍛錬を重ねておりますからね。私がかつて雉仙女殿と交わした盟約により、彼はあのお方の弟子になったのです」

「それでこのところ彼の話が話題に上がり始めていたのね。もちろん、あの子が産まれた時も、半妖でありながら高い妖力を持つ妖狐だって事でちょっとした騒ぎになっていたような気もしましたが……」

 

 若菜はそこまで言うと、指折り数える仕草をし、それから軽く首を傾げた。

 

「ですが姫様。源吾郎君が産まれたのって、本当に()()()()の事だと思うんですけれど……雉鶏精一派に属していると言っても、あの子はまだ仔狐なんじゃあないかしら?」

 

 若菜お姉様の仰る通りです。白銀御前は表情を変えずに告げた。

 

「末孫が生まれたのは()()()()()()の事ですからね。私たちがつい最近だと思うのも無理からぬ話です。それに末孫の父親は人間ですから、純粋な妖狐よりも成長は早いですし」

 

 それならやっぱり最近の事ですわね。そう告げる若菜に白銀御前も頷いた。白銀御前にしてみれば、娘の三花が人間と結婚したのも少し前の事のように思えるのだ。末孫が誕生したのがつい最近の事だと感じても何らおかしな話ではない。

 若菜の横顔を眺めながら、白銀御前は一昨年の秋に会った時の源吾郎の姿を思い出してもいた。祖父も父親も人間という事もあり、成長速度自体は人間のそれに近かったように感じられる。実年齢はまだ二十歳足らずであるが、純粋な妖狐に換算すれば大体六、七十歳くらいであろうか。大人というにはまだまだ若いが、完全な仔狐というほど幼いわけでもない。

 

「姫様。私ね、源吾郎君に会うのが楽しみなのよ」

「楽しみ、ですか? あの末孫に会う事が……」

 

 鷹揚に微笑む若菜の言葉に、白銀御前が眉を寄せた。かすかな動きではあるが、感情のうねりを伝えるには十分すぎるものだった。

 何せ先程まで、二人の間には和やかな空気が流れていたのだから。

 

「あの子は姫様の、そして玉藻御前様の子孫であり、しかもあのお方の血を一番強く受け継いでいる訳なのでしょう。しかも生まれて間がないのに妖力の保有量も普通じゃあ考えられないという事ですし……」

 

 老齢の大妖狐であったとしても、血統に恵まれた若き実力者には興味を寄せられるのだ。特に若菜は玉藻御前に仕えていた時期もあるから、尚更その傾向が強いのかもしれない。

 

「それにしても、若菜お姉様と私がこうして話が出来るなんて、不思議な気持ちが致します」

「それは姫様が私たちから距離を置いているからですよ」

 

 しんみりした様子で呟いた白銀御前に対し、若菜はあっけらかんとした調子で応じた。白銀御前は驚いて目を見開いている。その瞳には僅かに怯えの色もあった。

 

「ですがお姉様。私は元々母とは袂を別ったのです。若菜お姉様は最期まで母の傍に仕えておりましたし……もちろん、母が行った事を、私は許容するどころか受け入れる事すら出来なかったのですが」

 

 無闇に無駄な事まで口走ってしまった事に気付き、白銀御前は深く息を吐いた。ここで若菜の不興を買えば、白銀御前は容易く殺されてもおかしくはない。尻尾の数からも解る通り、今では若菜の方が白銀御前よりも妖狐としては強い。しかも彼女は玉藻御前に忠実に仕えていたではないか。それこそ、実の娘である白銀御前以上に娘らしい存在だった。白銀御前は、そんな若菜の事を姉のように気安く思っていたが、それも遠い昔の事だ。

 

「良いんですよ、姫様。私たちにも過去は変えられないんですから」

 

 若菜はしかし、白銀御前に襲い掛かる事は無かった。それどころか穏やかな笑みをたたえ、ただそう言っただけだった。その笑みは何処か寂しげで、それでいて何か決然たるものを秘めていた。

 

「玉藻御前様もこうなる事は薄々お解りだったのです。そして……いずれは世代を経て玉藻御前様の成そうとした事を復刻させるものが現れるとね。こちらの話は、恐らくは姫様もご存じかもしれませんが」

「ええ、存じております。自身が滅びても、わが野望が潰える事はない。別れ際に、母は私にそう申しておりましたから」

「それでね姫様。私にはその野望を持った子がどんな子なのか見定める役目を担っているのです。そのための準備も進めておりましてね。この話は、もしかしたら姫様はご存じなかったかもしれませんが……」

 

 玉藻御前の子孫の中で、野望に燃える若狐を見定める。これは玉藻御前自身に託されたものなのか、若菜が自主的に抱いたものなのかは定かではない。

 だがそれでも、若菜が源吾郎に会う事を心待ちにしている理由がこれであるのだと、白銀御前ははっきりと認識したのだった。



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夢見狐の目撃譚

 自分は宇宙の何処かにいるのだ。まず源吾郎が思ったのはそんな事だった。全くもって突拍子もない考えであるが、周囲の光景を見るだにそう思う他なかった。

 古びた廃トンネルよりもなお暗い闇と、その周囲にお情けとばかりに散らばっているビーズ玉のような輝きの集合体。その中に源吾郎は佇んでいたのだ。二本の足で立っているような気分だったが、果たして本当に立っているのか解らなかった。そもそもその空間に上下の区別があるかどうかすら怪しかった。

 自分が立っているのか浮いているのか。そんな事などは数秒後には些事となってしまった。それ以上に目を惹く光景が、源吾郎のすぐ傍で繰り広げられたのだから。

 

 それはありていに言えば、獣同士の争いだった。とはいえ普通の獣同士の争いではない。場所が場所であるし、二種の獣は普通の禽獣――一方は獣というよりもむしろ鳥に近かったのだ――というにはあまりにも異形めいた姿を呈していた。

 鳥めいた姿のそれは、八、九個余りの頭部と二対の翼を具えていた。一方はコウモリの翼のようであり、他方は昆虫の翅のようだった。宇宙の闇を切り裂くような鋭い声を上げ、玉虫色の羽毛をひるがえしながら敵に対して攻防を繰り広げている。

 異形の鳥が敵対している相手は、一見すると狼のように見えた。もちろんこちらも普通の狼ではない事はすぐに判ってしまった。全体的には狼の形に整えられているのだが、実際の所は無数の鋭角の集合体である。立体に見えるCGのキャラクターが、幾つものポリゴンで作られているのと何となく似ている。源吾郎はそんな風に思った。そいつの毛皮は狼らしからぬ青紫で、同じ色の粘液をそこここに滴らせていた。

 鋭角の狼が大きく口を開く。薄水色の粘液で覆われた牙や捻じれた矢印のような黒紫の舌が露わになる。そして狼の喉が震え、咆哮が轟いた。重くずっしりと響く声でありながら、時空を軋ませ切り裂くような奇妙な力を持ち合わせているようにも感じられた。

 

 傍観者たる源吾郎をそっちのけで、二体の異形はぶつかり合い、互いを喰らい合おうとしている最中であった。複数の頭を持つ化鳥は羽毛をまき散らしながら鋭角の狼を突き殺さんとし、鋭角の狼は貪欲な顎でもって化鳥を噛み殺そうとしていた。

 姿同様、彼らの闘い方も異様な物だった。化鳥に胴体を貫かれそうになった狼の身体は何の前触れもなく二つに分かれた。いや、空間を切り裂いて化鳥の背後に移動していたのだ。化鳥の方も狼に幾つもの首を食いちぎられて食い荒らされたかと思うと、数秒を待たずして逆再生するがごとく元通りになってしまう。

 どうやら鋭角の狼は空間を切り裂いて移動する事ができ、複数の頭を持つ化鳥は自分と周囲の時間を巻き戻す事が出来るらしいのだ。

 異形かつ異能。この二体の闘いは、どちらが勝利するのかは解らない。しかしどちらも途方もない能力を持ち合わせており、それらがただ闘っているだけでも周囲に影響をもたらしているであろう事だけはぼんやりと解った。というか源吾郎も巻き込まれる恐れとてあるかもしれない。

 そんな事をぼんやりと思っている間に、ふと気配を感じた。この恐るべき闘いを見守っている存在が、源吾郎以外にもいる。その事にこの時源吾郎は気付いたのだった。

 それらは源吾郎や獣たちから離れた所に控えていたようだった。しかしそれでも彼らの姿はいやにはっきりと確認する事が出来た。

 中央には玉座や脇息のような物があり、その周りを取り囲むようにして何者かが踊り狂っているではないか。それがどういうジャンルの踊りかは源吾郎には解らない。人間たちの、いや地球上に住まう生き物たちが知っている踊りとは異なった物なのだ。解らないなりにも、源吾郎の脳裏にはそんな考えがおぼろに存在していた。

 何も持たず、或いはフルートや太鼓の類を持ちながら踊り狂う面々の姿そのものも奇怪なものだった。影や煙のような者もいれば、巨大な粘菌やスライムが立ち上がったような者もいる。獣のようでありつつも、無数の触手を具えているような者もいた。

 見た事もないような姿の面々ばかりだというのに、その中に見覚えのある者を源吾郎は見つけ出した。見つけ出してしまった。

 それは楽器を持たず、尖った口吻を開いて赤子のような啼き声をあげていた。

 それは四足の獣のようであり、その毛皮は闇を纏っているかのような銀黒色を呈していた。

 それの身体の後方からは触手のような物が伸びており、その数は確かに九本で――そこまで視認したとき、源吾郎の視界が明確に揺らいだ。自分が何かに咥え上げられ、持ち上げられて何処かに運ばれているようだった。

 源吾郎の襟首を咥え上げているのは大きな獣だった。銀白色の毛に覆われた太い前足が視界に入り込む。その獣は源吾郎を包み込むように、巨大な九尾を展開しているらしかった。

 相手が九尾様だと知って源吾郎は少しだけ安堵した。だから見てしまったのだ。円陣を組んで踊る異形たちの群れを。その中にいる黒い獣の顔を。獣の顔は嫌にのっぺりとしていたが、紅く光る物が源吾郎の瞳にはっきりと映った。それがやつの眼であると源吾郎は直感した。

 だが深く考えていたのはそこまでである。そこから先は闇が遠ざかり、そもそも意識の輪郭が薄れていったのだから。

 

「――はっ、はああっ」

 

 無意味に息を漏らしながら源吾郎は瞼を開いた。視界にまず映るのは見慣れた天井だった。橙色の常夜灯が部屋の中をぼんやりと照らしている。源吾郎は布団の中にいた。首をねじれば部屋の様子がある程度見える。鳥籠は部屋の隅に鎮座しており、中にいるはずのホップが動く様子はない。姿は見えないが、つぼ巣の中で寝ているのだろう。

 あれは夢だったんだな。一通り部屋の様子を確認してから、源吾郎は安堵の息を漏らした。先程まで見ていた夢の情景が、妙にありありと浮かんでくる。自分は宇宙の中にいて、異形の鳥と異形の狼の闘いを見つめていた。いや、異形はそれだけではなかった――

 そこまで思考を巡らせ、源吾郎は考えるのをやめた。片頭痛が起きた時のような痛みを抱いたからだ。部屋がひんやりしている事にこの時気付いた。布団の中はおのれの体温で暖まっているが、今は二月の初旬である。一番寒い時期ではないか。

 そう言えば今は何時くらいだろうか。源吾郎は手を伸ばし、布団の中でスマホを弄った。午前二時四十分だった。丑三つ時とは言い難いが完全に夜中である。

 妙な夢のせいで中途半端な時間に目覚めてしまったのだ。源吾郎はそう思い、今一度寝に入る事にした。

 今日は裏初午である。玉藻御前の末裔として、玉藻御前の末裔を名乗る狐たちとの顔合わせを果たすのだ。そんな大事なイベントが控えているのに、妙な夢の事を考えている場合では無かろう。

 源吾郎は眼を閉じて、静かにそんな風に考えていたのだった。



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狐めざめて現に向き合う

 宇宙空間らしき場所を見た奇妙な夢の事について、源吾郎はあれこれ思いをはせる暇は無かった。寝過ごしてしまったからだ。

 本来であれば、源吾郎は港町にある萩尾丸の職場に直行する手筈だった。萩尾丸は妖狐の部下も大勢召し抱えている。その中には玉藻御前の末裔を名乗る者たちもいる。源吾郎もその中に混ざり、社用車にて現地に向かう予定だったのだ。

 しかし今朝はどうだ。普段より早く出発せねばならないというのに、普段よりも小一時間以上遅い時間に目覚めてしまったではないか。研究センターへの勤務であればまだ間に合う。だが電車を乗り継いで港町に向かうとなれば完全に遅刻してしまう。そしてその事で焦ったのもよろしくなかった。焦りによって判断を見失い、なすべき行動を鈍らせる作用があるのだから。

 それでも源吾郎は為すべき事をピックアップした。第一にホップの世話、ついで自分の食事である。身支度は二の次三の次だった。

 何にもましてホップの事を最優先したのは言うまでもない話だ。妖怪化したと言えどもホップは普通の十姉妹と大差ない。半日、いやほんの数時間であっても食事や水を切らせば落鳥しかねぬ存在だった。

 放鳥タイムを設けずに日頃の世話だけ行う予定であったが、そうは問屋は卸さなかった。源吾郎の焦りに気付いているのかいないのか、ホップは鳥籠の中に入る源吾郎の手にまとわりつき、遊ぼうと誘い続けたのだ。のみならず、一瞬の隙をついて鳥籠から抜け出す始末である。

 もちろん源吾郎はホップを鳥籠に戻そうと画策したのだが……結局気付けば普通に放鳥しているのと同じ事と相成った。しかもホップは源吾郎に捕まったりなどせず、自ら鳥籠に戻る始末だ。ここまでくれば笑えてしまう。

 

 このままでは遅刻してしまうのだろうか。簡素な朝食を取りながら、源吾郎は静かに現状を分析し続けていた。まだ部屋着であり、ここから更に着替えなければならない訳である。男だから(それに今回は女子変化する訳でもないし)メイク云々はひとまず気にせずとも問題はない。とはいえ身だしなみは整えておいた方が良いのは明らかだ。ましてや今回は妖狐たちの交流も兼ねた出張であり、源吾郎も若妖狐として注目されているのだから。

 とはいえ、身綺麗に整えていたとしても遅刻したらぶち壊しである。そしてこのままでは遅刻は確定であろう。吉崎町から港町に出るまでにはいくらか時間はかかるし、山間の田舎町なので電車の本数も少ない。

 そこまで考えを巡らせていた源吾郎は、遅刻を回避する方法を思いついた。

 きちんと身支度を整えた上で紅藤か萩尾丸に事情を話し、転移術で港町の職場に送ってもらう。それこそが源吾郎の思いついた秘策でもあった。

 これが上策であると素直に思っている訳ではない。寝坊したから遅刻した。いかな甘え上手な源吾郎とて、そんな事を無邪気に上司に伝えられるほど厚かましくはない。紅藤ならば笑って許してくれる気もするが、萩尾丸はきっとこの事をしばらく引き合いに出して弄んでくるに違いない。

 さりとて丁度良い案がそれ位しか思い浮かばなかったのだ。源吾郎自身は転移術を会得してはいないのだから。

 

「……これで良いか」

 

 ひととおり支度を終えた源吾郎は、鏡でおのれの姿を確認してから呟いた。着込んでいるのは一張羅と言っても過言ではないスーツである。通勤用とは別に長兄が用意してくれたこのスーツについては、大切な時に着こむものだと源吾郎は区別していたのだ。実際問題、通勤用の物よりも質は良く、値の張る物でもあったし。もっとも、様になるビジネスマンになるためには、源吾郎本体の質が上がらねばならないのだけれど。

 鳥籠の壁にへばりつくホップに優しく声をかけてから、源吾郎はドアを開けて居住区を後にした。研究センターに向かう時間としてはかなり早い。しかし萩尾丸は既に事務所にいるだろう。彼がいなかったらいなかったで、紅藤に直接送ってもらうという手もあるだろうし。

 そんな風に思っていた源吾郎であったが、扉の向こうに誰かがいるというのは全くもって想定外の事だった。

 

「おっ。島崎君だな。よしよし、きちんと支度をしてるから、しんどいとか元気がないとかそんな訳じゃあないみたいだし」

 

 親しげに話しかけてくる妖狐の男を前に、源吾郎は固まってしまった。何が起きているのか解らなかったのだ。態度や発言を見るに、向こうは源吾郎の事を良く知っているらしい。しかし源吾郎には彼が誰なのかはっきりと解らなかった。工場の職員として雇われている若妖狐たちと違うのは、大人びた風貌と見事な三尾から明らかだ。もしかして不審者? 不穏な考えが源吾郎の脳裏に浮かんだが、それもすぐに打ち消した。源吾郎の部屋の前と言えども、そもそもここは紅藤のテリトリーでもあるのだ。八頭怪や邪神に連なる手合いならばいざ知らず、生半可な妖怪がここを強襲する事は起こり得ないだろう。心情的にもセキュリティ的にも。

 だからこの妖《ひと》は不審者じゃあないのだろうな。三尾の妖狐が再び口を開いたのは、ちょうどその時だった。

 

「ははは。急に来たからびっくりしてるんだな。まぁ良い。詳しい事はおいおい話すから。君はひとまず部屋の戸締りをしたまえ」

 

 そう言うと三尾は一旦手を放してくれた。言われたとおりにドアを施錠すると、三尾は源吾郎に手を伸ばす。意図は解らなかったが源吾郎も手を伸ばした。直後、三尾は源吾郎の手をしっかと握りしめ、ぐいとこちらに引き寄せたのだ。妖狐と言ってもやはり純血の妖怪である。その力の強さに源吾郎は少しばかり驚き、感心してもいた。

 引き寄せられた事でよろめいた源吾郎だったが、すぐに体勢を立て直す。それを見届けていた三尾は手を放してくれた。

 三尾が掴んでいた手首を撫でながら、源吾郎は周囲に目を走らせた。自分たちが研究センターの敷地内ではなく、駐車場にいる事に気付いたのだ。既に妖狐たち十数名が集まっており、それぞれ社用車に乗り込もうとしているではないか。今自分がいるのは、まさしく萩尾丸の職場の一角だったのだ。

 

「ボスの、いや萩尾丸さんの仰る通りだったよ」

 

 狐につままれたような気分で妖狐たちを眺める源吾郎の肩を、先程の三尾がそっと叩いた。当惑する源吾郎に対し、三尾の男妖狐は訳知り顔で微笑んでいる。

 

「島崎君は寝過ごして遅れてくる可能性があるから、その時は対処してほしいって密かに言われていたんだ」

「そう言う事だったんですね……」

 

 消え入りそうな声で呟き、気恥ずかしさのあまりに源吾郎は俯いた。恥を忍んで萩尾丸に頼らねばと思っていた源吾郎であったが、まさか向こうもその事をあらかじめ把握していたとは。

 羞恥心が血を熱し、二月の風を受けつつも源吾郎の頬は紅潮していたのだった。

 

「――島崎君。気持ちは解るけど朝からため息つかなくたって良いじゃんか。脳細胞が死滅するぜぇ?」

 

 社用車の後部座席にて。流れる景色を眺めていた源吾郎に隣席の若妖狐が声をかけてきた。山代拓馬という名の若妖狐もまた、この度の裏初午の出席者だった。萩尾丸の部下たちの中では比較的若く、従って源吾郎とも少しばかり講習があったのだ。この前も珠彦や文明たちと共に一緒に遊んだ仲でもあるし。

 

「うん。まぁ結果オーライなんだろうけどさ、何か恥ずかしいやんか」

「恥ずかしいって寝過ごした事が? それとも萩尾丸さんに見抜かれていた事?」

「……どっちも。でも強いて言うなら萩尾丸先輩に見抜かれた方が恥ずかしいや」

 

 元より萩尾丸に頼るつもりだった事は棚上げし、源吾郎はぼそりと呟いた。運転手を務める三尾によると、萩尾丸は今回源吾郎が寝過ごすであろう事をとうに把握していたのだという。しかもそれは千里眼などと言った妖術などを使わずに、推論によって導き出した結果なのだそうだ。

 だからこそ、信頼できる部下にして玉藻御前の末裔を名乗っている三尾に転移術用の護符を渡し、寝過ごした源吾郎をタイムラグ無しにこちらに連れてきた――からくりとしてはそんな所だったのだ。

 結局の所遅刻するという醜態は免れた。しかし萩尾丸に行動パターンを読まれていた事に源吾郎は恐怖し、またおのれの不甲斐なさを感じる他なかったのだ。というかそこは嘘でも妖術で源吾郎の様子を見たから寝過ごしている事が判ったと言ってほしかった。

 そんな風に恥じ入っていた源吾郎であるが、若狐の拓馬はむしろ優しげな眼差しで源吾郎を見つめていた。

 

「まぁしゃあないんじゃないかな。萩尾丸さんにゃあ俺たちじゃあ敵わないって解りきった事だし」

「そうだったとしても、やっぱり恥ずかしいのは恥ずかしいよ」

「やっぱ上を目指す妖《ひと》は違うんだなぁ。雷園寺を見ててもそう思うけれど」

 

 絞り出すような源吾郎の声に、拓馬は思わず声を上げている。呆れというよりも、何処か諦めの念が籠ったような声音だった。山代は上を目指してはいないのか? 玉藻御前の末裔を名乗る野狐の青年を凝視しながら、源吾郎はそんな考えを抱いてしまった。

 

「それに島崎君も最近働き詰めだったし、その疲れがどっと押し寄せてきたんでしょ。ボスだってその事はご存じだろうし、しゃあないやん」

「働き詰めって言うか、検査とか選別の手伝いに派遣されていただけなんだけどな」

 

 源吾郎は今一度窓辺に視線を向けた。流れていく景色を眺めながら、ここ一週間ばかりの仕事の事を思い出しながら。

 実を言えば、一月末から二月初旬にかけては、研究センターでの内勤がメインではなかった。工場にて量産している製品の検査や不良品の選別を急遽行わねばならず、妖手としてそちらに源吾郎は派遣されていたのだ。この手の、クレーム対応後に発覚した選別対応などは、若手の妖員が対処せねばならない事が往々にしてあるらしい。もちろん雪羽も選別・検査の応援妖員として使われたのは言うまでもない。

 

「あー。ああいう単純作業って得意か不得意かって分かれるよな。俺なんか途中で寝ちゃって穂谷さんとか白川さんに注意された事もあるぜ。島崎君は大丈夫だったん?」

「どうにかね。というか雷園寺が案外真面目にやってて驚いたくらいさ」

 

 しばしの間、源吾郎と拓馬はちょっとした雑談に花を咲かせていた。思っていた以上に拓馬との会話は弾んだ。互いに若狐、それも玉藻御前に縁のある存在であるからなのかもしれない。拓馬自体がコミュニケーション力が高く、源吾郎の気持ちを汲み取ってくれたところも大きかった。

 そうして話していたまさにその時だった。源吾郎のスマホが震えたのは。

 

「あ、電話だ」

 

 反射的にスマホを掴み、画面を見やる。電話を掛けてきたのは雪羽からだった。

 電話に出ても構わないよ。出るべきかどうか悩んでいると、ハンドルを握る三尾が助け舟を出してくれた。バックミラー越しに彼と目が合った。

 

「雷園寺君から電話がかかって来てるんだろう。あの子の事だから、しょうもない電話を掛けてくる訳でも無いだろうし……どの道僕らだけだから遠慮しなくてもいいよ」

「ありがとうございます」

 

 三尾の厚意に甘え、源吾郎は電話に出る事にした。雪羽からの電話という事は、もしかしたら仕事がらみの話かもしれない。そんな考えも脳裏をよぎったのだ。

 

『もしもし島崎先輩。俺だよ、雷園寺だ』

「おはよう雷園寺君。今俺は車の中だよ。朝から電話なんて珍しいじゃないか」

 

 無邪気に通話する雪羽に対し、源吾郎は小声で応じた。先輩妖狐たちの手前、中学生や高校生みたいにはしゃぎながら雪羽と通話するのは気が引けたのだ。源吾郎は雪羽と仲が良いが、彼らは雪羽と友好的とは限らないからである。

 

「それはそうとどうしたんだい雷園寺君。仕事の件で、何か伝えそびれた事とかあったかな?」

 

 前置きをすっ飛ばして本題に入った。雪羽がわざわざ電話を寄越すという事は、研究センターでの仕事やそれに準じる話だろう。そんな風に源吾郎は思っていたのだ。

 ううん、違うよ。ところが雪羽は、軽い調子で源吾郎の問いを否定した。

 

『いやさ、島崎先輩ってば今朝の三時ごろに俺にメールを寄越してたでしょ? 何か変な夢を見たってさ。それがちょっと気になって電話しただけ』

「メールだって!」

 

 思いがけぬ雪羽の言葉に、源吾郎は思わず頓狂な声を上げていた。四方から妖狐たちの視線が集まり、源吾郎はひとり気まずさを感じはした。

 だがそれでも、思いがけぬ内容である事には変わりはない。よりによって奇妙な夢の事を、この度の遅刻未遂の遠因について雪羽にメールを寄越していたとは。

 

「あ、ごめん雷園寺君。多分寝ぼけてメールを打ってしまったんだな。実を言えば、君にメールを送ったという記憶は無いんだよ」

『別にその件は大丈夫さ。俺だって起きた時に先輩からメールが入ってるって気付いただけだもん』

 

 受話器から聞こえる雪羽の声には笑い声も混じっていた。人懐っこい仔猫のような笑顔を浮かべているのだろう。実際に見ていなくとも、その顔は脳裏にくっきりと浮かんでくる。

 それでさ。そんな風に思っていると雪羽が呼びかける。先程までと違って真剣なトーンだった。

 

『変な夢ってどんな夢を見たの? 寝ぼけていたのか何か知らんけど、わざわざ俺に報告してきたんだ。知る権利ってやつさ』

「変な夢と言っても所詮は変な夢だぞ」

 

 妙な所で喰いつくじゃないか。雪羽の言葉に半ば気圧されつつも、源吾郎は告げた。

 

「他人の夢の話を聞いても面白くないって昔から言うじゃないか」

『そうかもしれないけれど、俺は気になるんだよ。島崎先輩。寝ている時の夢ってさ、意識とか魂とかが別の世界にリンクしている事もあるって言うんだぜ』

「ゴリゴリの理系肌である雷園寺君から、そんなオカルト丸出しな話が飛び出してくるとは……」

 

 半ば呆れながら源吾郎はそんな事を呟いた。研究センターの研修生として引き抜かれた雪羽は、研究職の才能ありと紅藤たちに見做されている。雷獣ゆえに電気工学や幾何を得意とするからだ。もちろん、他の理系分野にも源吾郎に較べれば強かった。

 その雪羽が、まさかそんな非科学的な事を言うとは。ここはやはり先輩として、研究職の在り方を教育すべきではないか。呆れと共にそんな思いが源吾郎の脳裏に湧き上がってきたのだ。

 

「良いか雷園寺君。夢って言うのは脳味噌が寝ている間に行う情報整理みたいなものなんだぜ。起きている間の記憶とか感情とかを整理しているだけに過ぎないんだ。

 確かに意識が別世界にリンクするだとか、そう言う話は姉上が喜ぶだろうけどさ……俺たちは研究職じゃないか。()()()()な話をするなんて君らしくないぞ」

 

 一息に源吾郎が言うと、受話器の向こうから笑い声が沸き上がった。あからさまに面白がっているような気配が漂い、しかもそれを隠そうとしない笑いだった。

 

『やだなぁ島崎先輩。非科学的だなんて言葉は、()()()()俺たちみたいな研究職は軽々しく使っちゃあ駄目な言葉だって知らなかったんですかね。鳥姐さんも、鳥園寺さんもそんな事を仰ってましたよ。

 それにさ先輩。さっき脳味噌がどうって仰ってましたけど、その脳味噌だって宇宙と同じ位複雑だって、生物学の偉い先生が言ってるんですぜ。だからその、夢で見たナニカって言うのは深い意味があると思うんだけどなぁ』

 

 スマホを握りしめながら、源吾郎は観念したように息を吐いた。科学的な話をしてみたつもりだったのだが、逆に雪羽にやり込められてしまったのだ。

 興味津々といった様子の雪羽に対し、源吾郎は素直に夢の内容を語ったのだった。

 自分が寝過ごした事を萩尾丸が知っているのは、もしかしたら雪羽とのやり取りがあったからなのだろうか。宇宙空間での奇妙な闘いの夢を語りながら、源吾郎はふとそんな事を考えてもいた。



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会合向かいし狐のはなし

 車で揺られる事小一時間ほど。裏初午への会場には思っていたよりも早く到着したんだな。源吾郎はぼんやりと、半ば無邪気にそんな事を思っていた。途中から高速に乗って進んでいたからなのかもしれない。会場は京都の何処かであると聞いていたから、かなり遠い所だと思い込んでいた。校外学習で京都に出向いた事はある源吾郎であるが、京都は遠方のイメージが付きまとっていた。校外学習では電車やバスで向かうからなのかもしれない。

 駐車場の一角に車が停まり、源吾郎をはじめとする妖狐たちは車から降りるように促された。既に他の妖狐たちも到着しており、そこここに妖狐の姿があった。

 源吾郎が車を出たのは仲間内では最後の事だった。新参者だから遠慮していた、というわけでは無い。源吾郎の座席の位置と、先輩妖狐たちほど機敏に動かなかったというのが要因だった。遠慮はしていなかったが、要領を得ずにまごついた側面は十二分にあった。

 

「おい、はぐれんなよ島崎君」

 

 そう言って狐らしく微笑んだのは拓馬だった。源吾郎とは精神年齢的な意味で近いためか、こちらを弟分と見做すような言動がやや多い。源吾郎としても不愉快ではない。むしろ末っ子気質が未だ抜けきらぬ源吾郎にしてみれば、年長者や先輩と接する方が気楽な位である。ただ、最近は若妖怪と言えば後輩格の雪羽と接する事が多かったので、拓馬の言動や態度は何処か懐かしささえあった。

 

「はぐれないってば山代君。俺ももう小学生とか中学生じゃあないんだし、いくら妖狐たちが一杯いるからってさ……」

 

 源吾郎はだから、親しげな笑みを浮かべながら拓馬にそう言ったのだ。雉鶏精一派に所属する妖狐たちは、もちろんひとかたまりになって歩を進めている。他の妖狐たちもそんな感じだった。

 

「まぁ島崎君。ここに集まっているのは俗にいう野狐たちばかりだけど、はぐれ者を喰い殺すとか、そんな事はしないだろうから安心すると良いよ」

 

 そんな事を言ったのは二尾の穂谷先輩だった。半妖である源吾郎はもちろんの事、純粋な若妖狐である珠彦や拓馬よりやや年長である事は、二尾の妖力と落ち着いた物腰からも明らかである。喰い殺す。穏やかな笑みと共に放たれた言葉を前に、源吾郎はどのように応じれば良いのかと思案してしまった。

 実際問題、妖狐は他の妖狐を喰い殺す事があるのは源吾郎も知っている。妖力を増やすためであるとか、残虐な衝動に駆られての凶行である場合ももちろんある。だがそれ以上に、妖狐たちによるリンチの一環で罪狐が喰い殺される事もままあるのだ。

 そんな事をつらつらと思っていたから、源吾郎はどうにも冗談だと受け流す事が出来なかった次第である。

 

「ましてや君は、半妖とはいえ本当の玉藻御前の末裔なんだからさ。丁重に扱われこそすれ粗末な扱いを受ける可能性は低いと思うけどね。しかも野良妖怪じゃなくて雉鶏精一派に所属している訳だしさ」

「ですよね穂谷先輩」

 

 穂谷先輩の言葉に、源吾郎は気を良くして尻尾を振り上げた。まだ縮めたままではあるものの、隣を歩く拓馬に一尾が当たってしまった。拓馬は腹を立てている素振りは無いが、呆れたような眼差しを源吾郎に寄越している。

 その様子を静かに観察していた穂谷先輩が、かすかに微苦笑を浮かべていた。

 

「とはいえ、お行儀よく振舞っていたらの話だけどね。島崎君は基本的には真面目な子だけど、少し調子に乗っちゃう所があるから、そこが気がかりなんだよね」

 

 善処します。尻尾を垂らしながら源吾郎はそう言った。

 源吾郎はここで、叔父の苅藻とのやり取りを思い出していた。苅藻といちかもまた、玉藻御前の孫としてこの会合に参加するらしい。もっとも、彼らは源吾郎とは所属が違うから、席順も異なっているだろうけれど。

 余談であるが源吾郎の母や年長の叔父たち、そして兄姉たちはこの裏初午に出席しないらしい。年長の叔父二人はそれぞれ関西の地を離れて住職や神官となっており、野狐とは言い難い存在であるからだ。母の三花は父と結婚するまでは出席していたそうだが、結婚後は(一応)人間として暮らしているため、子育て等々が落ち着くまでは出席しない旨を伝えているらしい。そして兄姉たちは妖狐たちからも完全に人間と見做されているため、特に出席しなくても良い事になっていたそうだ。

 また、出席の見合わせについては理由があれば他の野狐たちも認められているという。もちろん、可能であれば毎年出席する事が推奨されているようだが。

 案外流動的な会合なのだな、と源吾郎は思っていた。完全に組織立った稲荷の眷属たちの会合ではなく、民間の野狐たちが主催する会合ゆえの事なのだろうなと、源吾郎はぼんやりと思っていたのだった。

 

「ふーむ。右も左も狐だらけですなぁ」

「そりゃそうだろ島崎君。たまーに君みたいな半妖もいるって噂もあるけどさ、いくら何でも狸とかイタチとかが玉藻御前の末裔って名乗ってたらつまみ出されるぜ?」

「とはいえ管狐とかオサキ狐の連中なんてさ、分類上はイタチ科でむしろカマイタチ何かと近縁種なのに、殺生石から先祖が産まれたなんて言ってるんだぜ? それに玉面公主様だって、玉藻御前様のご息女で純粋な妖狐なのに、ハクビシンの妖怪だとかヤマネコの妖怪だって言われてるしさ……しかもあのお方は牛魔王様と結婚したから、後の子孫たちは牛妖怪の血を引いちゃってるし」

「何でそこで玉面公主の名前が出てくるのさ」

 

 それまでのんびりまったりと狐問答を続けていた源吾郎と拓馬であったが、玉面公主の名を出すや否や、拓馬がびっくりしたように声を上げた。彼もまた尻尾を振り上げたので、源吾郎のふくらはぎに柔らかくぶつかる。

 

「何でって、玉面公主様は玉藻御前の娘さんなの。だから俺とあのお方は親族なんだよ。厳密にはお祖母様の異父姉だから、俺にしたら大伯母に当たるのかな。俺も詳しくは知らないけれど、大陸には他にもお祖母様の異父兄姉がいて、それぞれ長として一族を護っているんだってさ。玉面公主様も、西遊記では猪八戒に殺されたなんて書かれているけれど、本当は猪八戒に攻撃すらされなかったみたいだし、今でも実家で牛魔王様と一緒に一族を護っているんだってさ」

 

 拓馬は感心したように息を漏らしていた。やはりそこは庶民上がりの野狐ゆえの振る舞いと言えるだろう。

 とはいえ、そう言う源吾郎とて就職するまでは一般市民として育てられたのだからとやかく言う資格は無い。それに祖母の異父兄姉たちとの接触した事すらないのだ。玉面公主の孫の一人・はとこに当たる雪九郎に縁あって顔合わせした事があるくらいだろうか。

 大伯母の玉面公主の話をしていた源吾郎は、ふと大陸にいるという親族たちの事に思いを馳せていた。最強の妖怪を目指すにあたり、いずれは彼らとも接触せねばならないのだろう。その時に自分はどう思われるのか。そこが心配だった。友好的に接してくれるのならばまだ良い。だがそう上手く事が進むほど世間は甘くなかろう。

 もしかしたら、大陸の親族たちは源吾郎が誕生した事を知らないのかもしれない。知っていたとしても、まだ巣穴から離れられない仔狐だと思っているのかもしれない。そんな風に思い直しもした。

 高位の妖怪たちは、各地にアンテナを伸ばして情報収集に勤しむものではある。しかし数百年単位の年月を生きている者たちは、どうしても時間間隔が麻痺してくる傾向にある。源吾郎が産まれてからまだ二十年も経っていないし、妖怪として暮らし始めてやっと一年経つという所であるのだから。

 

「何かスケールの大きな話になっちまってたけど、狐が多いって話をやってたんだよな」

 

 源吾郎は声は出さずに頷いた。会場に向かう妖狐たちの視線を感じていたからだ。拓馬の言うスケールの大きな話に面食らっているのか、真なる玉藻御前の曾孫であると気付いたからなのかは定かではないが。

 集まっている妖狐たちについて、源吾郎は実はある事に気付き始めていたのだ。

 

「何というか、普段以上に狐姿の妖狐が多いなって思ったんだ。それで、狐が多いって言ったんだよ」

 

 周囲を一瞥してから、耳打ちするかのように源吾郎は告げた。

 そうなのだ。集まっている妖狐たちは狐姿の者がチラホラいた。直立する狐の姿で進む者もいるが、中には全くの四足歩行で進む者もいる。

 また狐姿の妖狐の多くは一尾であったが、中には二尾や三尾の妖狐ですら、狐姿で進んでいる者さえ確認できた。

 ちなみに源吾郎や拓馬たちが寄り集まっている雉鶏精一派のグループは、全員狐の尻尾を出した人型を保っている。

 それは仕方のない事だよ。狐姿の妖狐に気を使っているらしく、拓馬も小声で応じる。

 

「ここには強弱大小さまざまな妖狐たちが集まるんだ。妖怪たちのたまり場には、必然的に妖気とか妖力が渦巻くから、力の弱い妖狐たちは、気圧されて獣姿に戻っちゃうわけ。人型に変化しているだけでも消耗しちゃうからね」

 

 拓馬はそこまで言って、源吾郎の頭頂部から足先、そして尻尾の先をまじまじと眺めた。

 

「あ、だけど島崎君は半妖だから、人型が本来の姿だったんだよな」

 

 思い出したような拓馬の言葉に源吾郎は頷く。妖狐を自称する源吾郎であるが、実際には人間の血を四分の三受け継いでいる半妖である。誕生して間がない頃は人面狐のような異形そのものの姿だったそうだが、人間の肉体に妖狐の尻尾が映えた姿に落ち着いた。半妖である為に、源吾郎の外観は人型の妖怪のそれに近いのだ。

 もちろんというべきか、変化術を使えば狐の姿に変化する事も可能ではある。とはいえ源吾郎は狐に変化する事は殆ど無かった。獣の骨格や動きには慣れておらず、上手く動く事が出来ないためだ。そこは純血の妖怪である珠彦たちや雪羽とは異なる所であろう。彼らは獣の姿で生まれ、後天的に人型での振る舞いを学んだのだろうから。

 要するに妖力の消耗を防ぐために本来の姿に戻っているんだな。源吾郎の呟きに、拓馬はひっそりと笑う。

 

「ま、島崎君にはピンとこない事柄かもしれないね。君ってば元々からして強いわけだしさ」

「やっぱり、俺って山代君たちから見たらそんな感じなの?」

 

 敢えて強いという単語を使わなかったのは、やはり他の妖狐たちの眼を気にしての事だった。強すぎる事を慢心し、吹聴するのは愚か者のする事だ。源吾郎はその事をきちんと心得ていたのである。

 さて拓馬はというと、源吾郎の言葉を聞くやため息をついた。瞬きするたびに、呆れの色が濃く滲むようである。

 

「そらそうだろ。だってさ、あの雷園寺君の妖気に気圧されないどころか、毎度毎度戦闘訓練とやらでバチボコやり合ってるじゃないか。俺らくらいの普通の妖狐とかだったら、まずあいつに立ち向かおうなんて思わないんだよ。解るだろう?」

 

 念押しするように言われ、源吾郎は大人しく頷くのがやっとだった。

 妖《ひと》づきあいも中々に難しい物だ。源吾郎の脳裏にそんな考えが浮かぶ。慢心し過ぎてはいけないと思っていたが、自分の感性や強さへの認識は、普通の妖狐たちとは既にかけ離れている。

 紅藤や萩尾丸は強い事に胡坐をかかずに謙虚になれと常々伝えていた。しかし一般妖怪たちに対して嫌味にならぬような振る舞いについてはレクチャーしてくれない。この会合が終わったら、萩尾丸先輩にその事を訴えても良いのではなかろうか。

 そんな事を思っている間に、源吾郎たちは会場の入り口までたどり着いていた。



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その集い 恋路もテストも兼ね備え

 入り口では受付係の妖狐が三名ほどスタンバイしており、会場に入る妖狐たちはそこで名刺を渡したり芳名帳に名前や所属を書いたりしていた。玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちの集まりという事で、その辺りはきっちりしているらしかった。

 本物たちではないにしろ、公式に認められた団体だから、参加者の身元確認もきちんと行っているのだろう。源吾郎はそんな事を思った。そして受付係も玉藻御前の末裔を名乗る妖狐なのか、或いは単なる職員でこの会合には無関係なのか、どうでも良い事だろうにそんな事がついつい気になってしまった。

 そんな事を思っているうちに、源吾郎の所属する雉鶏精一派一行の番となった。萩尾丸の重臣に当たる六尾の女狐を先頭に、受付に通るべく三列に並ぶ。年功の高い物や役職を持つ者が先頭に並び、役職のない一般社員や年功の浅い者は後ろに並ぶという編成だ。源吾郎は最後尾だった。一般社員、それも入社一年目であるから致し方ない。

 一行は芳名帳の記載ではなく、名刺を職員妖狐に渡すという事で受付を通る事にした。そちらの方がスムーズであるし、皆それぞれ名刺を持っていたからだ。

 というよりも、源吾郎はここで拓馬などと言った一般社員であっても、萩尾丸の部下であれば名刺を作ってもらっている事を知った。

 だが考えてみれば、萩尾丸の運営する組織は妖材派遣《じんざいはけん》である。社外の妖怪や人間との接触は避けられない事を思うと、名刺を全員に持たせるのはごく自然な事なのかもしれない。

 さてそうこうしているうちに、源吾郎が名刺を渡す番となった。受付係は両手で名刺を受け取り、源吾郎の顔と名刺とを交互に眺めていた。受付係の妖狐たちも、三尾ないし四尾のベテラン妖狐である事に、源吾郎はこの時気付いた。

 源吾郎自身、四尾としての妖気を保有しているためか、他妖の放つ妖気の圧に鈍感な所がある。もちろん、三國や萩尾丸といった大妖怪クラスの妖気は流石に感じ取る事は出来るのだが……そう言った所こそが、若妖狐たちから「ズレている」と言われる要因になるのかもしれない。

 

「島崎源吾郎さん、ですね」

 

 視線を名刺と源吾郎の顔の間を何往復もしていた受付妖狐が口を開く。そうです、と源吾郎は即座に頷いた。やっぱりこの狐《ひと》も俺の事を知っているんだ。源吾郎は単純に嬉しくなっていた。

 

「ええ、島崎さんの親族なら私も存じてますよ。噂には聞いていましたが、学者の()()()に生き写しですね。確かまだ執筆活動に余念がないとかで……」

 

 知ってるって()()()かい。源吾郎は心の中でツッコミを入れてしまった。

 どうせならば玉藻御前の真なる末裔、直系の曾孫である事について言及されたかった。しかし父も父で妖怪社会の中ではある程度知名度があるから、まぁ致し方ない事なのだけれど。

 そんな事を思っていると、まとめ役である六尾の女性妖狐から声を掛けられてしまった。源吾郎は受付の妖狐に今一度頭を下げ、小走り気味に歩を進めた。拓馬はニヤニヤしながらこちらを見ているし、穂谷先輩もちょっと困ったような笑みでもってこちらを眺めているではないか。

 

 裏初午の会合は、学校で行われる行事と異業種交流会をドッキングしたようなものなのだな。穂谷先輩の説明を聞きながら、源吾郎はそんな風に思った。すなわち、最初はお偉方の挨拶とありがたいお話が待ち構えており、その後は集まった妖狐たちの交流会へと変化する。これが主だった会合の流れだと穂谷先輩は教えてくれた。

 もっとも、時には賓客を招いた講演会や、悪事を働いた悪狐の公開処刑などと言ったイレギュラーなイベントをさしはさむ事もあるそうだ。その話を聞いて、源吾郎は米田さんとのデートの時に聞いた話を思い出していた。妖狐とナレギツネの相関関係。この事に関する演説も、穂谷先輩の言うイレギュラーな行事に該当するのだろう、と。

 

「むしろどちらかというと、交流会の方が若い狐《こ》たちにはメイン行事になるかもしれないね。特に島崎君は社会妖《しゃかいじん》になったばかりだから、研究センターの外部にいる妖狐たち、それも玉藻御前に関わる妖狐たちと仲良くなっておいて損は無いと思うんだ」

 

 素直に源吾郎が頷くや否や、すぐ傍で笑い声が沸き上がった。笑っていたのは若い女狐たちである。彼女らは若く、拓馬と同年代かそれよりもやや上、と言った塩梅だった。当然のように一尾ばかりである。

 

「穂谷先輩ってば本当に真面目ですねぇー」

「そうそう。うちらだって子供じゃあないんですし、交流って言って単なる名刺交換だけじゃあないんですよ」

「こらこら、稲田さんに飯村さん。あんまりはしゃがないの。島崎君は真面目な子だから、君らの言葉に戸惑ってるじゃないか」

 

 狐娘たちの名を呼んで、穂谷先輩は彼女たちを嗜めた。源吾郎は穂谷先輩が言うほど戸惑ってはいなかった。むしろ彼女らの意味深な言葉が気になってもいたのだ。単なる真面目な交流だけではない。という事は()()()()という事なのだろうか。しかし考えてみれば、ここは玉藻御前の末裔を名乗る者たちの会合である。本物の玉藻御前の気質や、妖狐たちがその末裔を騙っている事を鑑みれば、何か裏があっても何らおかしな話ではない。源吾郎はそう思い始めていた。

 

「ううむ、穂谷先輩。僕だって真面目ですけど、とはいえ単なる子供でも無いんです。なので、稲田先輩たちが仰っていた事、僕にも詳しく教えてくださいな」

 

 真面目な調子で源吾郎は伝えたのだが、隣にいる拓馬はニヤニヤしながら源吾郎の脇を突くのみだった。

 そうした後輩狐たちの様子に、呆れの眼差しを向けていた穂谷先輩であったが、それでも決心がついたらしく、口を開く。

 

「表向きは交流と品良く言ってはいるけれど、男女の妖狐が親しくなるための側面がある事もまた事実なんだ」

 

 真面目な気質はむしろ穂谷先輩がそうなのだろう。尻尾の毛を逆立て、冬場だというのに顔を赤くする穂谷先輩を見ながら、源吾郎はそう思った。

 

「純粋に仕事での妖脈を構築したり、気の合う仲間を探したりする妖狐ももちろんいるんだよ。だけど若い狐《こ》の中には、飯村さんたちみたいに集団見合いの一種だととらえる狐もいる事は事実さ。ああ、イマドキの言葉で言えば街コンとか、恋愛マッチングみたいな物かな」

 

 街コンなどはまだ縁遠い源吾郎ではあったが、穂谷先輩の伝えたい事は概ね理解できた。元より人間が行うお祭りの中にも、若い男女が懇意になる事を暗に狙ったようなものもあると聞いた事があるし。その辺は狐も人間も変わらぬという事であろう。

 穂谷先輩は尚も説明を続ける。

 

「半妖で、人間として暮らしてきた期間の長い島崎君にはピンとこないかもしれないけれど、キツネって今の時期が丁度恋の季節でしょ」

「その事は存じてます!」

 

 勢いごんで源吾郎は言い放ったが、それがどういう意図だったのか自分でも解らなかった。とはいえキツネの()()()が冬場であり、春に仔狐を産む事は源吾郎も知っている。繁殖期が定まっていない、というよりも年中繁殖期の人間とは確かに違う。

 

「もちろん、代を重ねた妖狐とかの場合は、動物のキツネと違って冬場だけ恋の季節になる……なんて事でもないけどね。でもやっぱり、獣の本能が僕たちにも残っているから、冬になると伴侶が欲しくなる妖狐も多くなるみたい。

 それに、動物のキツネから妖狐になった妖《ひと》たちは、僕らよりも獣の本能が強いしさ」

「獣の本能が、強い……」

 

 キツネから後天的に妖怪化した妖狐。獣の本能が強い。その言葉に源吾郎は心臓を波打たせた。米田さんにアプローチするチャンスを得た。そんな考えが脳裏に舞い降りてきたのだ。彼女はキツネから妖怪化した妖狐と言っていたではないか。夫となる男狐を求めていても何らおかしくはない。というか二度ほど源吾郎とデートしてくれているではないか。

 源吾郎の興奮は目に見えて明らかな物だったのだろう。拓馬を筆頭とした若い男女の妖狐は、笑いながら言葉を紡いでいったのだ。

 

「あははっ。そんな訳だから、島崎君も若い狐から声が掛けられるかもしれないね」

「そうそう、しかも妖力も多いし本当の玉藻御前の末裔だから、女の子にモテモテになるかもね」

「おいおい二人とも。そんな風に島崎君をからかったら可哀想だろ。こいつは実は米田さんに片想い中で、どうにか彼女をモノにしようと画策している最中なんだからさ」

「山代さん!」

 

 本当の事を言われ、源吾郎は思わず声を荒げた。拓馬たちはふざけたような笑みを浮かべ、穂谷先輩は困ったように肩をすくめた。

 もちろん、雉鶏精一派の妖狐たちは他にも十数名存在する。しかし彼らは源吾郎や拓馬たちよりも年長なので、若狐たちの騒ぎには介入などしない。せいぜい「お前ら羽目を外し過ぎるなよ」という念の籠った視線を投げかける程度だ。

 その視線に一番敏感なのは穂谷先輩である。彼は周囲を一瞥すると、軽く咳払いした。それだけで拓馬たちを含む一尾の妖狐は大人しくなった。一尾と二尾の力量差も、やはり絶対的なものなのだ。

 言い忘れていたけれど。穂谷先輩は先程よりもやや低いトーンで言葉を紡ぎ始める。

 

「この裏初午ではね、何年かに一度会員をふるい分けるテストが開かれるんだよね。不定期開催なんだけど、新規に玉藻御前の末裔を名乗る妖狐の力量を知るためだとか、長らく会員になってる妖狐たちがたるんでいないか確かめるためだとも言われているんだよね。

 ただ今回は、そのテストが行われると僕は思うんだ」

 

 穂谷先輩は源吾郎を真っすぐ見据え、言葉を続ける。拓馬たちはもはや無言だ。緊張した様子で、源吾郎や穂谷先輩を見つめているのが解った。

 

「そして島崎君。君は新参妖狐に該当するでしょ。しかも玉藻御前の末裔で……半妖ながらも実力面でも有望と見做されるだろうし。テストが開催されて、それに君が参加するであろう事はほぼほぼ確定事項だろうね」

 

 断定するかのような穂谷の言葉に、源吾郎は頷く事も忘れて聞き入っていた。その額に浮かぶ汗は、緊張の汗そのものだった。



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九尾の末裔、大いに注目される

 やっぱりこうなってしまうのか。壇上に呼び出された源吾郎は、興奮と緊張で尻尾の先まで固まってしまった。

 裏初午主催者である、お偉い妖狐からのありがたいお言葉が終わるや否や、会合初参加の妖狐たちの名が読み上げられ、新たな仲間という事でお披露目される形となったのだ。

 新たな仲間たちは、八割がたが百歳未満の若狐だった。だが中には、数百歳生きたであろう年かさの妖狐もチラホラと見受けられる。新たな仲間という事であるから、自分のような若狐ばかりかと思っていたので、源吾郎は少し不思議な気持ちになってもいた。

 だが悠長に不思議がっている場合でもない。壇上に登った源吾郎の心はそのまま緊張に塗りつぶされてしまった。横に並ぶ若狐たちが抱く緊張が伝染したのかもしれない。しかも一緒に紹介される新しい仲間の顔触れは、皆ことごとく面識のない妖狐たちだった。

 その上、席に座る妖狐たちからの視線が、情け容赦なく源吾郎たちに注がれている。その眼差しは必ずしも暖かな物とは言い切れず、好奇の眼差しであったりこちらを値踏みするような色が滲んでいたりしたのだ。友好的な眼差しなどは殆ど無かった。

 何を緊張しているんだ俺は。元々演劇部として活躍していたのではないか。そんな風におのれを鼓舞している間に、他の妖狐たちの自己紹介は終わっていた。順番として、源吾郎の自己紹介は最後になっていた。これは源吾郎が新参者の中でも最年少だった事と、ついで真なる九尾の末裔だったからという事が絡み合った結果なのかもしれない。

 

「はい、それでは最後の方は島崎源吾郎さんです」

 

 初めまして。そう言おうとした源吾郎であったが、司会進行役の妖狐(彼も玉藻御前の末裔を名乗っていた)の言葉はそこでは終わらなかった。

 

「ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、島崎さんは本物、要は真なる玉藻御前の末裔でございます。そうですね、毎度主賓としてご参加して下さっている桐谷苅藻様・いちか様ご兄妹の甥にあたりまして、玉藻御前の直系の曾孫に当たるお方になります。

 元々はご両親――しかもお父上は人間ですからね――の意向によって人間として暮らしていたそうなのですが、高校卒業を機にこちらの世界に足を踏み入れたようですね」

 

 司会進行役の長広舌は何処までも続くような気がしてならなかった。だがそれでも終わった。何処からともなく咳払いが聞こえたからだ。音源の方に、源吾郎は何とはなしに視線を向ける。その妖狐は老婦人の姿をしていた。

 マイクを握っていた司会進行役は一瞬硬直し、気まずそうな表情を浮かべていた。

 

「――失礼しました。私とした事がついつい話が長くなってしまいましたね。それでは島崎さん、どうぞ」

 

 マイクを渡された源吾郎は、一歩ばかり前に進み出た。他の、既に自己紹介を済ませた妖狐たちと同じように。しかし群衆の様子は他の妖狐たちの時とは違っていた。

 

「あいつか、あいつが本物の玉藻御前の末裔なのだな」

「桐谷兄妹の甥と聞いているが……確かに妖気や仕草は似ている気もする」

「見た目は人間の父親に似たらしいぞ」

「だろうなぁ。若狐が狐姿に戻っているというのに、彼は人型を保っているじゃないか。妖狐も人間の血が混ざると極端に人間に近付くから無理からぬ話か」

「だがあの妖気とあの四尾は、人間由来とは無関係だろうに」

「苅藻兄さん、やっぱり皆源吾郎の事をめっちゃ注目してるみたいよ」

「そらそうだろうなぁ……」

 

 小声ながらも、群衆は思い思いの事をてんでに口にしていた。幸か不幸か苅藻やいちかの呟きも源吾郎は耳にする事が出来た。

 玉藻御前の末裔として注目され、そして自分たちとは違う事を露わにされようとしている。その事による圧を、源吾郎はこの時確かに感じ取っていた。

 源吾郎はマイクを握りしめ、自己紹介を始めた。

 

 自分の席に戻った源吾郎は、半ば倒れ込むように椅子に腰を下ろした。隣席の拓馬が首を伸ばし、「お疲れ様」と労ってくれた。

 

「どないしたんや島崎君。さっきは堂々と自己紹介をしてたって言うのに、今は干物になりそうなくらい疲れ切ってるじゃないか」

「だって皆、俺の事めっちゃ注目してくるんだもん。そりゃあ疲れるよ」

 

 おどけたように問いかける拓馬に対し、源吾郎は力なく微笑んだ。先程は妖狐たちのひそひそ話が気になった源吾郎であるが、その辺りが許容されているのがありがたいと思い直していた。

 

「山代君だって自己紹介した時の事を思い出してごらんよ。きっと緊張していたはずだぜ」

「結構前の事だから忘れたよ。というか、俺は本当に凡狐だから、それほど注目されたわけでもないし」

 

 拓馬はそう言って、縮めていた一尾を持ち上げる。持ち上がった一尾はすぐにクタリと下に落ちた。

 自己紹介の折に、妖狐たちが必要以上にこちらに注目していた。これは確かに源吾郎が緊張した要因の一つである。しかしもう一つ、疲れる要因があった。

 それは壇上に上がっていた妖狐たち、言うなれば新しい仲間たちの源吾郎へ見せた態度。それもまた源吾郎の神経を緊張させ、精神を疲労させたものだったのだ。

 仲間などと言う柔らかく優しげな言葉を使ってはいたものの、彼らの源吾郎への態度は友好的な物なのでは断じてなかった。

 一尾の若妖狐たちはまだ良い。彼らは源吾郎の妖力の多さに委縮していただけなのだから。畏怖の念はあっても嫌悪や敵意の念は、少なくとも彼らからは感じられなかった。

 問題は年かさの妖狐たちの方である。彼らも彼らで、あからさまに敵意をむき出しにして源吾郎に接してきたわけでは無い。むしろ口調は丁寧で、源吾郎に向ける顔には笑みすら浮かんでいた――表面上は。

 だがそれでも、笑みの仮面の裏に押し隠した感情に、源吾郎は気付いてしまったのだ。もしかしたら、向こうも向こうで隠すつもりなどはじめからなかったのかもしれないが。

 

「まぁ島崎君。これもある種の通過儀礼なんだ」

 

 ひょいとこちらを向いて、そう言ってくれたのは穂谷先輩だった。彼は心底親しげな笑みを浮かべてはいる。しかしそれは、雉鶏精一派の一員として源吾郎の事を知っているからに過ぎない。そんな考えが脳裏をよぎってしまった。

 

「今日一日はしんどいかもしれない。だけどこれを通り抜ければ、君も僕らの仲間として迎え入れられるんだから、ね」

「はい。励ましてくれてありがとうございます」

 

 穂谷先輩の優しい言葉に、源吾郎はほんの少しだが元気づけられた。何のかんの言いつつも、源吾郎は素朴で単純な思考回路の持ち主なのだ。

 そうこうしているうちに、十分の小休憩が入るというアナウンスが会場内に流れた。穂谷先輩の言う通り、会員たちの力量を測るテストは実施されるらしい。参加者の選抜や組み分けについては休憩後に発表されるとの事だった。

 なお、先程自己紹介を行った新参者たちは全員参加であると前もって伝えられた。テストが何なのかは定かではないが、意気込まねばならぬ。休憩のアナウンスを耳にした直後ではあるが、源吾郎は軽く意気込んでいた。

 

 小休憩の最中。手洗いを済ませた源吾郎は、自席に戻るべく元来た道を進んでいた。その源吾郎の歩みが唐突に止まる。進む先に落とし物があるのを見つけたからだ。落ちていたのはハンカチのようだった。

 四つ折りのまま落ちていたハンカチを反射的に拾い上げる。

 ハンカチと言えども、源吾郎が普段使っている物とは全く別物である事は明白だった。元より千代紙のような繊細で色鮮やかなハンカチだと思っていたが、手触りからして普段使っている物とは違う。シルクとかそう言う奴ではないか……源吾郎はハンカチを握りしめないように、そして落とさないように気を付けながら手にした。

 もちろんこれは落とし物として、運営の妖狐に届け出るつもりである。参加者だけではなくて運営サイドの妖狐たちもこの会場にいる。彼らにこれを預ければ、裏初午が終わるころにはきちんと持ち主の元に届くだろう。そのように思っての事だった。

 

「……拾ったようだな」

「ちゃんと気付いたみたいだね、これは」

「……?」

 

 一瞬であるが、遠くで笑い交じりの囁き声が聞こえてきた。誰かが見ていたのだろうか。まさかネコババするとでも思われたのだろうか。少し不安になった源吾郎であるが、声のした方を振り返ってみても特に誰もいなかった。

 気のせいだったのかな。そう思い直し、源吾郎は運営妖狐を探す事にした。



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妖狐は推理し会合続く

 割り当てられた自分の席に戻った源吾郎の姿を、先輩妖狐たちは首を伸ばして観察していた。無理もない。源吾郎は小休憩までに戻って来れなかったのだから。だからもしかすると、穂谷先輩や拓馬たちなどは、源吾郎が何処かでフラフラしているか、はぐれたと思っていたのかもしれない。

 

「島崎君。時間通りに戻ってこなかったから、心配していたんだぞ。今朝の事もあるし……」

 

 案の定、穂谷先輩は源吾郎を見据えながらそう言った。遅刻未遂の事は既に先輩妖狐たちに知れ渡っていたのだが、面と向かって言われるとやはり恥ずかしい。

 

「先輩方には気をもませてすみません。ですが実は、自販機からこっちに戻る道中で、ハンカチが落ちているのを見つけたんです。それで、係の狐に届け出ておこうと思ったんですが、中々係の狐《ひと》も見つからなくって、それで戻るのに遅れてしまったんです」

 

 それでも源吾郎は、自身が遅れた理由について説明を行った。落ちていたハンカチを拾って届ける。これが正当な理由になると思っていたのだ。何せ源吾郎はぼんやりしていた訳でもないし、わざとサボろうと画策していた訳でも無いのだから。

 

「落とし物を拾って届けてたんなら仕方ないよな」

「島崎君って案外真面目そうな所があるもんね。確かに、落とし物を見つけて届けたって言われても確かにーって思ったもん」

「真面目って言うかそれも通り越して堅物って感じもあるけど」

 

 拓馬たちを筆頭とした若狐たちの言葉に、源吾郎は頬を緩めた。彼らは源吾郎の主張を受け止め、尚且つ肯定的な意見を口にしているからだ。おのれの正当性を認められると嬉しいのは、誰だって同じ事である。

 そんな源吾郎の耳に、かすかなため息が聞こえた。穂谷先輩が、困惑を笑みで押し隠したような表情でこちらを見ている事に気付いた。

 

「飯村さんたちの言う通り、落とし物を拾って届けたのは……社会妖《しゃかいじん》として当然の事だとは思うよ。だけど係の狐《ひと》を探すのに手間取っていたのなら、あらかじめ誰かに連絡を入れておいた方が良かったかな」

 

 穂谷先輩はそこまで言うと、一度口をつぐんだ。数秒ほど源吾郎の様子を窺い、それからもう一度口を開く。

 

「君ももう働き出して一年近く経つんだ。僕ら全員とまではいかなくとも、誰か一人の連絡先くらいは知ってるでしょ。というか君とは連絡先を交換した記憶もあるし」

「そ、そうでしたね」

 

 たどたどしく源吾郎は応じた。穂谷先輩の主張はまごう事なき正論だったためだ。遅れると解ったら、というよりも普段と異なる事があれば前もって上席者に連絡を入れる。それが社会妖としての振る舞いという物だ。

 更に言えば、源吾郎は穂谷先輩と拓馬の連絡先は知っていた。だから二人のどちらかに、少なくとも連絡を入れておくべきだったのだ。とうに戻ってきた後であるから、そんな事をつらつらと考えるのは詮無い話ではあるけれど。

 ところが、話はそれでお開きには無からなかった。

 

「――なぁ皆ぁ。島崎君はまぁ無事に戻ってきましたけれど、うち、何か裏とかがあると思いますねん」

 

 発言者は六尾の女狐だった。林崎ミツコという名の彼女こそ、萩尾丸の側近の一人であり、この度の出張で源吾郎たちを取りまとめる役割を担っていた。六尾であるから妖力の保有量も段違いであるし、妖怪としての経験値も豊富だろう。何となれば、萩尾丸よりも二百年近く年長であるとも噂されていた。

 

「うちらはほぼ毎年この裏初午に参加しとるでっしゃろ。その時に、運営係の妖狐がすぐに見つからん、なんて事は無かったと思うんやけどなぁ」

 

 林崎女史の言葉に、周囲の妖狐たちが顔を見合わせて頷き合う。違和感丸出しのエセ関西弁のイントネーションはさておき、彼女の言葉にはもっともらしい響きが伴っていた。

 そう言えば林崎さんって関東で生まれ育ってて、それで敢えて関西弁を使うんだったっけ。源吾郎が呑気にそんな事を思っていると、ミツコは源吾郎を見つめながら続けた。

 

「見ての通り、玉藻御前の末裔を名乗る妖狐たちはぎょうさんおる。島崎君みたいな年頃の仔狐かて、そんなに珍しくはあらへんはずや。

 だけど、島崎君だけはちゃう。あんたは本物の玉藻御前の末裔で、しかも一族の中でも妖力が多いもんなぁ。雉鶏精一派に所属した事も相まって、何か仕掛けて試したろうって思う妖狐が出てきてもおかしないわ」

 

 ミツコはそこまで言うと、何かを思い出したような表情をその面に浮かべる。それから、源吾郎の叔父叔母も、かつて似たような事を体験したのではないかと告げたのだ。

 それには源吾郎も首をひねった。少し前に苅藻を部屋に招いたところであるが、そんな話は聞いていないからだ。敢えて甥に待ち構える試練を教えなかったのか、或いは昔の事だから忘れてしまったのか。今度叔父上や叔母上に会ったら聞いてみよう。そんな風に源吾郎は思ったのだった。

 

「そらもちろん、普通の凡狐がうちらにちょっかいをかける事なんて考えられへんよ。狐だけやのうて、普通の妖怪たちとて、うちらが雉鶏精一派の所属や言うだけで、恐れおののく所はあるからなぁ」

 

 ミツコの細められた両目には、鋭い光が宿っていた。

 

「だから()()()()()、そんじょそこらの連中に収まらんような連中になるやろな。うちらや島崎君にちょっかいをかけるとすれば、な。もちろん、うちらはそう言う連中と相手どらなあかん時もある訳やし」

 

 源吾郎は知らず知らずのうちに頷いていた。強くなる事がどういう事なのか、組織の長として君臨する事がどのようなものなのか、源吾郎なりに既に理解し始めていたのだ。

 強大な力と組織を束ねる権力。こうした物は確かに魅力的だ。だがこれらを手に入れたら、負の側面も憑き纏う。力があるからこそ自分よりも強い者に付け狙われる懸念が生じ、権力を得れば末端の者の行動まで気を配らねばならない。研究センターで過ごすうちに、源吾郎はその事を知ってしまったのだ。しかももう後戻りはできない。

 

「ま、でも安心し。島崎君含め、ここにおる雉鶏精一派の妖狐たちの事は、うちが責任をもって護り抜いたる。萩尾丸さんともそんな風に約束を交わしとるから、な」

 

 ミツコの言葉は心強い物であったが、耳を傾けていた男狐たちは源吾郎も含めて微妙な表情を浮かべていた。萩尾丸、と言ったミツコの顔に浮かぶ恋情を読み取ってしまったからだ。萩尾丸の側近の一人であるミツコは、上司である萩尾丸に恋心を抱いているそうだ。

 もっとも、萩尾丸は女性に興味がないので、ミツコになびく事はまず無いのだが。

 何とも言えない気まずさを感じていた源吾郎であるが、狐娘や女狐たちの表情が、男狐とは違っていた事に気付く。気になった源吾郎は、すぐ傍にいる飯村という狐娘にそっと問いかけた。

 

「ねぇ飯村さん。もしかして萩尾丸先輩って女性陣に人気なの?」

「そりゃそうよ! イケオジだし甲斐性もあるしそれでいて女子たちを変な目で見ないんだから……彼女とか奥さんになれないって解ってても、ついつい憧れちゃう女性《ひと》はいると思うよ」

「そう言う感じなんだね。ううむ、僕は男だから、その辺りはよく解らないけれど」

 

 そうこうしているうちに、新参者プラスアルファをふるい分けるというテストの説明が始まった。とはいえどのようなテストが行われるのかはまだ解らない。テスト内容を明かすよりも先に、今回のテスト参加者の選出の方が先に行われたからだ。

 テストの参加者は、先程紹介があった新参者全員と、無作為に選ばれたと思われる妖狐たちとを合わせた四十名だった。もちろん源吾郎は新参者として参加する事が決定していた。他の新参者ではない妖狐の参加者については、どのような基準で運営が選んだのかは定かではない。くじ引きや抽選だったのかもしれないし、何がしかの協議で決まったものなのかもしれない。ともあれ苅藻やいちかは選ばれなかったようだ。

 読み上げられる名は初めて聞く者ばかりであった。だがその中に、米田さんが入り込んでいるのは、源吾郎は聞き逃さなかった。

 玉藻御前の末裔として活動実績のある妖狐も、今回のテスト参加者に選ばれる事はあると聞いていたが、まさか米田さんも選ばれるとは……彼女とのただならぬ運命的繋がりを感じ取った気がして、源吾郎はニヤニヤし通しだった。

 そんな源吾郎の様子を、隣に控える妖狐の少女が静かに眺めていた。雉鶏精一派の妖狐たちで今回のテストの参加者は、源吾郎と笹塚という狐娘の二名だけなのだ。



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定めしテストは宝玉集め

 傍らにいる妖狐の少女は笹塚といった。父母もその両親、或いはその先の先祖も妖狐という事であり、ある意味由緒ある妖狐の……厳密には野狐の一族の少女である。

 その一尾はやや褐色の強いキツネ色であり、髪色も大体同じような色調だった。本来の姿は普通のホンドギツネかアカギツネにそっくりなのだろう。つかず離れずの距離を保つ彼女を見やりながら、源吾郎はそんな事を思った。

 妖怪である妖狐と言えども、一尾たちの本来の姿は普通のキツネと大差ない。変化が現れるのは二尾以上だと言われている。尻尾の数が増えるのは言うに及ばず、妖力の影響で身体も大きくなる傾向にあるそうだ。

 集まった面々を係の妖狐が確認する傍らで、笹塚がため息をつくのが聞こえてきた。狐娘ではあるものの、笹塚は飯村や稲田などと言った他の狐娘とは異なる雰囲気の持ち主である。飯村さんたちは割と押しの強そうな狐娘だったのだが、笹塚はどちらかというか控えめで大人しそうな少女だった。それこそ、中学校や高校などでは、教室の片隅で静かに本を読んでいそうなタイプである。

 もしかしたら、飯村さんたちよりも見た目的にも若く、本当に十代中ごろの少女に見えるから余計にそう感じるのかもしれない。

 

「本当に、この選抜って公正にやっている物なのでしょうか」

 

 笹塚がやにわにそんな事を言い出したので、源吾郎は面食らってしまった。どういう事なのかと考えているうちに、彼女は言葉を続ける。

 

「実は私、玉藻御前の末裔を名乗りだしてまだ十年くらいしか経ってないんですよ。ですが、このテストに参加するのはもう三度目なんですよね。新入りの紹介を兼ねている一回目はまだしもですけれど……そんなに同じ狐ばかり選抜されるものなのでしょうか。三十年、四十年玉藻御前の末裔を名乗っているのに、最初の一回しかこのテストに参加しなかったって狐もいるんですよ?」

「うーむ。確かにそこは不思議ですね」

 

 源吾郎はそう言うだけに留めておいた。この場でとやかく言うのは悪手だと思ったのだ。他の妖狐たちが集まっている場でもあるし、何より笹塚がごね始めたら色々とややこしそうな気配がしたのだ。それに源吾郎も、何をもって選抜が行われたのかは解らない訳だし。

 それよりも、彼女が何だかんだでテストに三度も参加している事の方が気になりもした。どんなテストの内容だったのか。それを眼前の彼女から聞き出せるかもしれない。そんな考えさえ源吾郎の脳裏に浮かんできたのである。

 だが結局のところ、源吾郎は笹塚に問いただす事は無かった。そんな暇は与えられなかったのだ。

 

「さーて、皆様準備は整ったご様子ですので、これからグループ編成を行おうと思います」

 

 司会進行役の妖狐がマイクを握りしめ、一角(テストに参加する妖狐たちが読み上げられている間に、椅子の一部が撤去されていたのだ。なので壇上に集まっている訳ではない)に集まっている妖狐たちにそんな風に宣言したのだ。

 未だに種目について語られていないのは、やはり当局の思惑によるところなのだろうか。或いはこれから説明してくれるのか。そんな風に思っている間にも、妖狐は言葉を続ける。

 

「四人一組で一つのグループとさせていただきますが、グループの編成はくじ引きで決定いたしますね。くじには一から十までの数字が書かれておりまして、同じ数字を引き当てた者同士がグループになる運びです」

 

 気が付けば小さな箱を持った妖狐が姿を現していた。箱は紅白の市松模様が入った直方体のもので、上には丸い穴が開いている。商店街などで福引を行う時に使う箱にそっくりだ。

 

「今回は玉藻御前にお仕えしていた若菜様もご覧になっている事です。今年の裏初午は、皆様にとっても特別な一幕となるでしょうね」

 

 妖狐たちがくじ係の元へ列をなして向かっていく間に、司会進行役がそう言って笑みを漏らした。若菜様。その名を聞いた源吾郎は、彼女の姿を思い出す。

 若菜の姿は源吾郎に強烈な印象を与えていた。ゆうに八尾を具える彼女は、老婆の姿にてこの会場に出席していたのだ。八尾の大妖狐、それも玉藻御前に仕え、かつて白銀御前が姉として慕ったほどの女狐であるから、あるじを偲んで妖艶な美女の姿を取るのではないかと思い込んでいたのだ。

 若菜も千年以上生きてきたのだから年老いているのだ、とは思わなかった。そもそも妖怪は普通の動物や人間などとは異なる存在だ。妖怪は不老不死ではないが、寿命というのがとんでもなく長い。ついでに言えば妖力を増すほどに老いや病から遠ざかるとさえ言われているのだ。そう言った妖怪の特性を知っているからこそ、若菜が年老いているわけでは無いのだと思った訳である。

 そうなると、敢えて老いた姿でもって他の妖狐たちの前に姿を現しているとしか考えられないが、何故そうするのかは源吾郎には皆目解らなかった。解ったのは、若菜が威厳を具えた妖狐であるという事だけだった。

 永い年月を生きた妖怪は、妖力の多寡に関わらず野望を忘れて油の抜けきった妖生を送るようになってしまうのかもしれない。最終的に、源吾郎の脳裏にはそんな考えが浮かんだのだった。自分もいずれはそうなってしまうなどと言う事は想像できなかったが。

 

「島崎さん。ぼーっとしてるけれど大丈夫ですか?」

 

 隣から呆れと気遣いがまじりあった声が飛ぶ。声の主は隣にいる笹塚だった。右手が僅かに挙げられており、源吾郎に触れようかどうか迷っているかのようだ。

 

「大丈夫ですよ笹塚さん。僕は新入りなので、最後にくじを引いた方が良いかなと思って、それで皆が引き終わるのを待っていただけなんです。笹塚さんも先輩ですし、お先にどうぞ」

「別にそういう所で気を使わなくても良いと思うんですけどね、私は」

 

 そんな事を言いつつも、笹塚は少し安心したらしく、くじ引きの列に並んだ。源吾郎もその後ろに並びつつ安堵の息を漏らす。新入りなのでくじ引きは最後の方が良いという主張は、実の所口から出まかせのようなものだった。だがそれを笹塚は素直に信じてくれたではないか。

 

「ねぇ島崎さん。こういう時って私らは確実に別々のグループになっちゃうんですよ。前に先輩たちと一緒にテストに選抜された時もそうだったもの」

 

 笹塚が僅かに首をねじり、源吾郎に対して囁きかける。そうだったんですか。源吾郎が声を漏らすと、彼女の顔に得意げな笑みが浮かぶのが見えた。大人しそうな風貌らしからぬあからさまな笑みだ。いや、内気で大人しい者ほど、時に烈しい感情の発露を見せる事がある。その事を源吾郎は知っていた。

 

「私らには単なるくじ引きに見せかけているけれど、きっと力のある偉いお狐様たちは、くじそのものに術を掛けていて、それでいい感じにグループのメンバーが出来上がるようにしているのかもしれませんわ……多分、ですけどね」

 

 照れ隠しのようにそう告げる笹塚の言葉に、源吾郎も静かに頷いた。

 源吾郎が引き当てたくじに記されていた数字は「六」だった。一方の笹塚は「四」である。同じ数字を持つ者同士がグループになる。そのルールから行けば、源吾郎と笹塚は別のグループになる事は明らかな事だった。

 その事を互いに確認しあうと、二人はそのまま係の妖狐の指示に従って動いた。既にくじを引いた妖狐たちは、同じ数字を引いた者同士で集まり始めている。源吾郎たちもその中に加わらねばならなかったのだ。

 

「それじゃあ、島崎君。また後でね」

「はい、笹塚さん。笹塚さんもご武運を」

 

 源吾郎の言葉に、笹塚さんは頬を綻ばせて笑っていた。気取ったような源吾郎の言葉は彼女には滑稽に聞こえてしまったのだろうか。そんな考えが源吾郎の脳裏に閃いた。そんな事を考えている場合ではないと解っているのに。

 

 数字の六を引き当てた六班(仮)は、源吾郎も含め男狐が三人と女狐が一人という組み合わせだった。そして班内で唯一の女狐は、何と米田さんその狐だったのだ。源吾郎のテンションが密かに爆上がりしたのは言うまでもない。

 しかし、米田さんとの再会を喜んでばかりもいられなかった。というのも、班分けが完了したのを確認した司会進行係が、マイクを握って説明を始めたからである。

 

「はい、これで十個のグループが出来ましたね。この度皆様に行って頂きますのは、グループ対抗の玉集めですね。やはり我々妖狐と玉は切っても切れない間柄にある訳ですし」

 

 確かにその通りだな。司会進行役の言葉に、源吾郎は静かに頷いていた。稲荷神社でも玉を咥えた狐の石像が作られているし、妖狐が口の中に宝玉を隠し持っているという伝承さえあるのだから。

 厳密には、妖狐の口の中に宝玉などがある訳ではない。あくまでも妖気が凝集すれば玉のような形になる事はあるらしい。とはいえ、生命エネルギーたる妖気が凝集したり身体の外から放出されたりしたら生命に関わる恐れもあるのだが。

 

「ルールは簡単です。制限時間内に出来るだけ多くの玉を集めて頂くだけでございます。玉の集め方については、対戦相手の生命を奪わない限りは特に不問です。試験会場に隠されている物を探し出すもよし、相手の持つ玉を奪い取る事ももちろん可能です」

 

 ざっくりとした、しかし物騒なワードの盛り込まれた司会進行役の言葉に、源吾郎の喉がか細く鳴ってしまった。ルールが単純なのは良い事ではあるが、やはり対戦相手と相争う事も織り込み済みなのが何とも妖怪らしいではないか。

 

「それでは、皆様を試験会場に案内いたします。動きやすい服装に着替えたい方は、その時に着替えて頂いて構いません。準備が整い次第、皆様に玉を配布いたしますので」

 

 司会進行役はそう言うと、源吾郎たちに背を向けて歩き始めた。

 そう言えば運動着みたいなのも持ってこいと言っていたような気がしたが、それはそういう事の為だったんだな。半ば腑に落ちたような思いで源吾郎もまた歩き始めた。四班に配属された笹塚と目が合う。彼女は早速緊張したような、何とも言えない表情を浮かべていた。



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源吾郎、半妖狐に出会う

 日頃より戦闘訓練に用いている訓練着に着替えた源吾郎は、他の妖狐たちが既に着替えを終え、スタンバイしている事に面食らってしまった。初参加の面々だけではなくて二度目三度目の参加者がいるからなのかもしれないし。或いは、純血の妖狐、それも玉藻御前の末裔を名乗るだけの実力者揃いであるから、服装ごと変化術で変化させる事も出来るのかもしれない。源吾郎はそんな風に考えて密かに納得していた。

 そうやって周囲の事を観察しているように気取っていた源吾郎であったが、自分と同じく着替えに時間がかかっていた男狐が一人いた事に、ついぞ気付く事は無かった。

 ともあれ準備が整ったと当局から判断が下ったらしい。運営係と思しき妖狐たちが、腕で抱えられるほどの布袋を携えてこちらに向かって来た。受験者の妖狐たち一人一人に順繰りに丸い物を手渡している。これが司会の言っていた玉だな。そう思っている間に、源吾郎の元にも玉が渡された。

 手渡された玉は、姫リンゴほどの大きさと真珠のような色合いと光沢が特徴的だった。玉の中央には貫通孔があり、そこにやや長めの紐が通されて両端は結ばれていた。巨大なペンダントのような佇まいだった。

 ペンダントみたいだし首にかけるのか。未だ手中にある玉を見ながら源吾郎はぼんやりと思った。実際に、妖狐たちを見ると首に提げている者もいるではないか。

 

「玉については自由にお持ちいただいて結構です。首に提げても良いですし、腕にぶら下げても構いません。この玉がポイントになりますので、ご自身の玉は大切にお取り扱いくださいませ。

 なお、テストの最中にリタイアしたと判断した参加者に関しましては、運営にて簡易スペースの方に誘導いたしますのでご了承願います」

 

 源吾郎が首をかしげていた丁度その時、司会進行役が解説を入れてくれた。源吾郎も他の先輩妖狐を倣って玉を首に提げた。腕にぶら下げても良いなどと司会進行役は言っていたが、そんな事をしている妖狐は特に見当たらない。

 中には訓練着どころか、二足歩行の狐や完全な狐の姿に戻り、その上で玉を携行する者さえいる位だった。

 そうした周囲の様子を確認してから、源吾郎はそれとなく第六班のメンバーを観察する。一尾から三尾までいるのだが、いずれも人型を保っていた。米田さんははっきりと戦闘服を着こんでいて、その上で配られた玉を首に提げている。源吾郎と目が合うと、静かに微笑んだ――ような気がした。

 

「それではテスト開始します。終了の合図があるまで、各自会場内で自由に動いて構いません」

 

 健闘を祈る。いかにもバトル物のドラマやアニメでありがちな台詞を放ったかと思うと、司会進行役は姿を消していた。何とも狐らしい振る舞いである。

 さてこれからどう動くべきなのか。源吾郎は首にぶら下げた玉を撫でつつ今再び周囲を観察する。首を巡らせる動きは用心深く、瞳には猜疑の色を濃く浮かべながら。

 既にテストは始まっていた。だから他の班の妖狐たちがやってきて、玉を奪おうとするのではないか。いや、玉を狙うのは他の班員だけではないかもしれない。そんな風に源吾郎は警戒していたのだ。何せ今回のテストは玉を集める事なのだから。もちろん玉は会場内の何処かに隠されてもいるそうだが、他の参加者の玉を奪っても構わぬと運営も言っていた訳だし。

 ところが、源吾郎の予想とは裏腹に妖狐たちが襲い掛かって来る気配は無かった。もちろん他の班の狐たちの動きはあるにはある。四十名が並んでひとかたまりに集まっていたのが、四人一組の小さなかたまりに分裂したという、きわめてささやかで大人しい動きに過ぎなかった。

 島崎さん、でしたっけ。柔和そうな声と共に源吾郎の肩に手が添えられる。

 源吾郎に呼びかけたのは一尾の男狐だった。小柄な源吾郎よりも背が高く、その面には柔和な笑みが浮かんでいる。不思議な感覚、漠然とした違和感を抱いた源吾郎は軽く首を傾げた。妖力に反し、相手が年かさの妖狐であるような気がしたのだ。通常、妖狐で一尾と言えば年長でも百歳を超えた程度の若狐である。しかし、源吾郎に呼びかけた男狐は、血気盛んな若狐には到底見えなかった。変化した姿は二十代前半ほどの青年姿ではあるのだが。

 

「初めてだから緊張しているんだね。だけど大丈夫。テストは始まったけれど、皆すぐに玉集めをやる訳じゃあないんだ。その前にやっておくべき事とか、決めておくべき事があるからね」

「そう、なんですか……?」

 

 源吾郎は一尾をまじまじと見やりながら呟いた。ここで源吾郎は、一尾の青年が新参者ではない事に気付いた。新たな玉藻御前の子孫を名乗る物たちが紹介されたのだが、その中に彼の姿は無かった。むしろ新参者は、こちらの様子を窺う三尾の男狐の方だ。

 そうだとも。一尾は源吾郎のたどたどしい言葉に頷いた。快活さが見え隠れするような仕草である。

 

「まずは自己紹介と、誰をリーダーに据えるかを決めないといけないでしょ。島崎君、このテストはチーム戦でもあるんだよ。もちろん、個人個人でどれだけ玉を集めたのかを競う側面もあるにはある。だけど個人戦だったならば、わざわざ班を作る必要なんてないでしょ? 元より僕たち妖狐は仲間で行動する事が重んじられているんだからさ」

 

 一尾の言葉に源吾郎は素直に頷いた。三尾の男狐が源吾郎たちを見て鼻で笑っている。そして米田さんは、単なるホンドギツネから妖怪化したという彼女は、静かに三人の男狐の様子を眺めているだけだった。

 

「――それじゃあ皆さん、ひとまず自己紹介しましょう。もしかすると、既に顔や名前をあらかじめご存じの方もいらっしゃるかもしれませんがね。その後で、誰がリーダーなのかを選んだらいいのではないかと僕は思うのです」

「それでお前さんはリーダーシップとやらを発揮してるのかい。はん、()()()()がご苦労なこった」

「……!」

 

 嘲笑交じりの三尾の男狐の言葉に、源吾郎は目を丸くした。その視線はすぐさま一尾の男狐に向けられる。三尾の半妖風情という言葉は、源吾郎ではなく一尾の青年に向けられたものだ。文脈からしてそう考えるのが一番自然だった。

 

「まぁまぁ落ち着いてください北斗さん。初参加という事で気が立ってらっしゃるんでしょうけれど、開始早々に仲間割れなんぞ起こしてもメリットはありませんよ。それに、半妖だとか何とかって出自を引き合いに出しても詮無い事でしょうに」

「そうよね。いずれにせよ私たちが野狐である事には変わりありませんもの」

 

 一尾の男狐が三尾をなだめた直後、黙って状況を静観していた米田さんが口を開いた。その顔にはうっすらと笑みが広がっていたが、ひっそりとした物憂げな笑顔でもあった。

 この中でリーダーに相応しいのはやはり彼女ではないか。源吾郎は確信した。米田さんがリーダーたる資質を持つ事が頼もしく、そして何故か誇らしくもあった。何故そう思うのかは解らないし、そう思っている間にも皆が自己紹介を行う段となっていたのだ。

 

 さて一悶着あったものの、第六班は自己紹介を終えリーダーを決定する所までこぎつけた。米田さんがリーダーに収まったのは、源吾郎の想定通りだった。若い女狐ではあるものの、冷静で公正に動けそうだと男狐たちが判断したためである。源吾郎は第六班の中でもちろん最年少だったのだが、米田さんはその次に若い妖狐だったのだ。最年長は半妖だという一尾の江田島と名乗った狐で、三尾の北斗はそれよりも十歳二十歳程度若いと言った塩梅である。

 

「え、江田島さんも半妖だったんですね。それじゃあ、僕と同じ――」

「確かに僕も半妖で、妖狐と人間の血を受け継いでいるよ。だけど、血の濃さが君と僕とでは違うんだ。僕の父は半妖だけど、母は純血の妖狐だからね。まぁ、母は母で普通のキツネから妖狐になったんだけど。ともかく島崎君とは真逆だね」

 

 確かにその通りだ。江田島の見下ろすような視線を受けながら源吾郎は思った。源吾郎は妖狐の血を四分の一しか持たないが、江田島には妖狐の血が四分の三も流れているのだ。それに、半妖の父と妖狐の母という江田島の父母の組み合わせも、人間の父と半妖の母という源吾郎のそれとある意味真逆ともいえる。

 江田島は目を細め、静かに笑っていた。

 

「だけど不思議だよね。妖狐としての強さって言うのは血の濃さとは関係ないのかなぁ? 二百歳を超えても一尾のままなのは、四分の一とはいえ人間の血が入っていたからなのかと思ってたんだよ。

 しかし島崎君。君は妖狐の血を四分の一しか持たないのに、僕たち以上に妖狐らしいじゃないか。やっぱり大妖怪の血は生半可な事では抑えられないって事なのかな?」

 

 江田島の言葉は喜色に満ちていた。しかしそれは仲間を見つけたという喜びではなく、興味深い観察対象・実験対象を見つけた愉悦に起因するような物言いだった。

 或いは、喜んでいるように見せかけて源吾郎に嫉妬心を抱いている可能性すらあった。しかも彼も、先祖には()()()()という名の知れた女妖狐がいるのだから尚更だ。広島を取り仕切るボス妖狐の子孫に生まれながらも玉藻御前の末裔を名乗っているのは、やはり彼なりに事情あっての事なのかもしれない。

 もしかすると、あからさまに源吾郎を白眼視する北斗よりも厄介な相手かもしれない。前途多難が過ぎないかこのテスト。江田島に愛想のよい笑みを浮かべつつも、源吾郎の内心では不安や懸念がうごめき続けていたのだった。



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野狐三尾は半妖に語る

 試験会場は屋外に位置しており、和風庭園よろしく木々が植わり小山らしい物もあった。遠方には橋の欄干が見えたから、小川や池すらあるのかもしれない。随分と大掛かりな施設である。やはり玉藻御前の末裔を名乗る団体の規模が大きいという事なのだろうか。それとも、そのように見せかけているだけで、全ては幻術に過ぎないのかもしれない。

 

「どうした源吾郎。ぼーっとしてるみたいだが」

 

 隣から声が投げかけられ、源吾郎は弾かれたようにそちらを向いた。いつの間にか並んで歩いている三尾の妖狐・北斗が胡散臭そうな表情でこちらを眺めている。北斗は浅黒い肌と精悍で少し粗暴そうな雰囲気の持ち主であった。妖狐というよりも山犬や狼の妖怪と言った方がしっくりくるほどに。それでいて腰から生える三尾は淡い金色から白銀の、優美で繊細な毛並みを誇っている。

 ぼーっとなどしていませんでした。いや、仰る通り考え事をしていたのです。相反する返答が脳内で渦巻く中で、北斗は言葉を続ける。

 

「全く、テストと言えどもいつ誰が襲ってくるか解らん状況下なんだぞ。ぼんやりして俺らの足許を引っ張るんじゃねえぞ、半妖のお坊ちゃま」

「すみません、北斗先輩」

「ま、俺はあんたの先輩になったつもりは無いんだけどな」

 

 そんな風に言いつつも、内心は満更でも無いのだろう。北斗の顔が笑みで緩むのを源吾郎は見逃さなかった。何かと源吾郎を半妖だの芋臭いガキだのと言ってはばからぬ手合いではあるが、根はそんなに悪辣では無いのかもしれない。源吾郎はそんな風に彼の事を思っていた。

 

「それはそうと、他の班の妖狐たちの玉を奪うんじゃあなくて、まずは隠されている玉を探す方にシフトするとはな。我らがリーダーは何とも穏健な判断を下したもんだ。なぁ、米田のおひいさんよぉ!」

 

 馴れ馴れしく気安い北斗の言葉に、源吾郎はぐっと眉根を寄せた。北斗の言動が他の妖狐に較べて粗暴で何処か馴れ馴れしい事は既に解っている。しかし、米田さんに対してそんな言動を行っているのを見聞きしていると心の表面が波立って仕方がなかった。何でだ。何であんたは俺の米田さんにそんな気軽な口を利いているのだ――と。不快感の正体は嫉妬と憤怒だったのだ。

 米田さんは一度だけ振り返り、北斗を一瞥してから口を開いた。その時にはもう前を向いていたし、先を進む足取りにも迷いはない。

 

「他のチームも似たような判断を下しているから、別に私が特別穏健だという訳ではないと思うわ。

 まぁそれに、今回は他の妖狐たちと相争う気分ではないって言う、個人的な理由もあるんですけれど」

 

 源吾郎の位置では米田さんの背中しか見えない。しかし、この時彼女が微笑んだように源吾郎には思えてならなかった。

 北斗は興味深そうに唸り、頬を撫でながら言葉を続ける。

 

「気分ではない、か。おひいさん。あんたの口からまさかそんな言葉が出てくるとはねぇ。米田玲香は冷静で冷徹な傭兵で、それこそ鉄の乙女ともあだ名されている事くらい、俺とて知ってるよ。

 なぁあんた。もしかしたら一緒の班になった仔狐に気兼ねして――」

「私がどう思っているのか、そんなに気になるの?」

 

 米田さんはここで歩を止めて、ご丁寧にも振り返って北斗の方を向いた。立ち止まってから振り返るまでの動きが、源吾郎の目にはひどくゆっくりとしたものに見えた。だがそれは、ある意味源吾郎にとっては僥倖だった。彼女の尻尾がピクリと跳ね上がる所や後ろで束ねた金髪が揺れる所、そして美しい横顔をじっくりと眺める事が出来たのだから。

 もっとも、向き直った米田さんが浮かべる表情には、さしもの源吾郎も尻尾の毛を逆立てる他なかったが。

 

「北斗さん。あなたは島崎君の事をこの私がどう思っているのか、それが気になるだけでしょう。そうね、彼とは面識がある事には変わりないわ。お互い阪神地区で働いているし、何より彼の叔父である桐谷苅藻さんに師事していた事もあるからね」

「かつて仕えていた師匠の甥だったら、そりゃあ可愛くもなるわな。さしずめ弟みたいな存在ってやつかねぇ」

「別にそういう事でもありませんけれど」

 

 北斗の軽口に対し、米田さんはため息をつきつつ応じる。先程の冷徹な表情が揺らいでいるように思えるのは気のせいだろうか。

 

「それにね北斗さん。私は弟なんてものはもう欲しくないの」

 

 そうだったんですか。北斗と米田さんの奇妙な問答は、ここでどうにか終わったようだった。米田さんの隣にいた半妖狐の江田島が大きなため息をつく。

 

「班分けのチーム編成は僕たちではどうにもならない事は知っていましたけれど、まさかここまで自己主張の強い方ばかり集まるとは思っていませんでしたよ」

 

 そう言う江田島先輩も自己主張強そうなんだけどな。源吾郎はそう思ったが、空気を読んで何も言わなかった。

 

 いつの間にか、二手に分かれて玉を探すという方法に我らが第六班はシフトしていた。班員が四名いるから別にそうなっても構わない。そう思っていた源吾郎であるが、いざ二手に分かれてみると何とも言えない気持ちに襲われた。端的に言って憂鬱な気分さえ覆いかぶさってきた。

 その理由はどうという事はない。組んだ相手が北斗だったからだ。いや違う。本当のことを言えば――米田さんと組めなかったのが残念でならなかったのだ。二尾の米田さんは一尾の半妖である江田島と組み、源吾郎たちとは別の方角に進んで玉を探し始めているのだ。

 

「北斗さん、本当にこの組み合わせで良かったんですかね」

「良かったも何も、もうニコイチになった所なんだからしゃあないだろう」

 

 にべもなく北斗はそう言ったかと思うと、ふいにその顔に笑みを浮かべて言い足した。

 

「――向こうは一尾の半妖と二尾だから心配なんだな? だが安心しろ。米田さんだけじゃあなくて、江田島のやつもああ見えて中々の手練れみたいだから、あの二人でも心配は無かろう」

 

 それにだな。源吾郎が言い募る前に北斗は笑顔のまま言葉を紡いだ。

 

「実を言えば、俺もお前には色々と話したい事があったんだ。だからそう言う意味ではこの組み合わせは良かったと思っている」

 

 色々と話したい事。北斗のこの言葉に源吾郎は尻尾の毛を逆立てた。これまでの彼の態度からして、友好的な内容ではないだろうと察していたからだ。さりとて、半妖である事についてあれこれほじくり返す訳でも無かろう。そうなれば話題は限られてくる。

 

「北斗先輩も、米田さんの事を狙ってらっしゃるんですよね?」

 

 もう少し探りを入れつつ問いかけようと思っていたのに、口から出てきたのは極めて直截的な言葉だった。しかも北斗は無言を貫いている。腹の中に抱えている物を吐き出せと言わんばかりに。

 

「そう言えば、米田さんに俺の事をどう思っているか敢えて聞き出そうとしてましたもんね。それって北斗先輩も米田さんの事が――」

 

 いの一番に出てくる言葉がそれかい。源吾郎の言葉を遮った北斗は、大口を開けて笑い始めた。可笑しくて笑っているというよりも、何処か皮肉げな雰囲気が漂っているのは気のせいでは無かろう。

 

「第六班として俺たちが集まった時から薄々察してはいたが、まさかお前がそこまで色ボケたガキだとは思わなんだ。確かに今はキツネにとっての恋の季節にゃあ変わりないが、やっぱり人間様の血を引いた半妖って事なんだな」

 

 人間の血を引く。この言葉を聞いて源吾郎は渋い表情を浮かべた。裏初午に参加してからというもの、普段とは異なり半妖である事を他の狐たちに指摘されてばかりである。その上北斗は人間を、年中色欲に取り憑かれた浅ましい存在であると言外に告げたようなものだった。

 その事に源吾郎は軽く衝撃を受け、そして衝撃を受けている自分自身に対して驚いてもいた。その身に流れる人間の血の事など忘れて妖狐として振舞っているというのに。しかも先祖たる玉藻御前は、淫蕩な女狐だったとされているではないか。その直系の子孫たる自分が、単なる野狐に色ボケ小僧と呼ばれて戸惑う必要などないはずなのに。

 そんな事をつらつらと思っていると、北斗の表情がにわかに緩んだ。からかった子供が戸惑うのを目の当たりにし、慌ててフォローするような表情だった。

 

「安心しろ源吾郎。別に俺は米田さんを狙ってなんぞいないからな。そもそも俺にはもう女房がいるんだよ。気立ての良い、家庭的な女狐さ」

 

 それにな。北斗はじろりと目を動かし、源吾郎の顔をじぃっと覗き込んだ。

 

「米田さんみたいな娘は俺の好みじゃない。確かに美人で頭の切れる娘かもしれんが、家庭的な温かみが感じられんからな」

 

 そんな……源吾郎は反論しようとし、ここで思いとどまって口をつぐんだ。女性が家庭的であるべし、という時代錯誤的な考えを、まさか妖狐から聞くとは予想外だった。源吾郎の中では、妖怪たちの方こそ男女の役割に縛られない存在であると思っていた。

 雉鶏精一派などは、幹部職を含む役職に就くにあたり、性別による制限は特に見当たらない。男女の別なく有能で強ければ役職に就けるという風潮である事は明らかだった。何せ雉仙女の紅藤は、研究センターの長であり、尚且つ第二幹部という重役中の重役なのだから。他の女妖怪たちだって、有能であれば重要なポストについていたし、上層部からも珍重されている。妖怪社会全体がそういう物だと思っていたのだが、実はそうでも無かったという事なのだろうか。

 そして米田さんが家庭的な雰囲気を持たぬという事についてである。これについては源吾郎は特段問題視していなかった。その時は源吾郎が家庭的な雰囲気とやらを作り出せば良いと思っていたためだ。幸い源吾郎は料理の心得もあるし、家事もある程度は覚えている。苦手な所は互いに補い合えば良いのだと源吾郎は思っていた。

 

「だがまぁ、確かに米田さんに惚れ込んでしまう男狐は多いみたいだぜ? もっとも、その裏で彼女をモノに出来ずに涙ぐむ連中が大勢いたって事になるけどな」

 

 お前みたいな野暮な半妖の仔狐じゃあ釣り合う相手ではない。そんな事をわざわざ伝えたいのだろうか。源吾郎の眼差しは、いつしかじっとりとしたものを孕み始めていた。

 とはいえ北斗もその事に気付いたらしい。またしても頬を緩ませふっと笑い、静かな調子で言葉を紡ぎ始めた。

 

「ああすまんすまん。この話はこれくらいにしておこうか。すまんな源吾郎。お前さんも初参加だから気が立っているんだろうけれど、それは実は俺にも当てはまる事だったんだよ。

 何せ俺も玉藻御前の末裔を名乗る公式な集まりに参加するのは今年が初めてだし、しかも第六班の面々は、俺以外全員良い所の子女ばかりなんだからさ」

「北斗先輩以外、全員が良い所の子女、ですか……」

 

 源吾郎は目を丸くして北斗の言葉を反芻する。その様子を眺めながら、北斗は言い足した。

 

「ああそうだよ源吾郎。何せお前さんは玉藻御前の直系の曾孫で、江田島君は広島のおさん狐の子孫だろう。そして米田さんを引き取った米田家は、稲荷に仕える妖狐を輩出するという事で有名な家なんだよ」

 

 米田さんが、米田家が稲荷に仕える妖狐を輩出する名家だって……? 思いがけぬ北斗の言葉に、源吾郎はただただ当惑するのみだった。



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