ロドスに落ちたトランスポーターがケルシー先生に慰めてもらう話 (性戦騎士)
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ロドスに落ちたトランスポーターがケルシー先生に慰めてもらう話

 

 

 お祈りメール、というものを知っているだろうか。

 

『ローン様。お世話になっております。ロドス・アイランド製薬です。

 先日はロドス・アイランド製薬への直々のご足労ありがとうございました。二次試験での面談結果を下に社内にて慎重に検討させていただきましたが、今回の採用は見送らせていただくことになりました。弊社には多数のご応募を頂いており、非常に残念ではありますが、ご理解頂ければ恐縮です。

 末筆ながら、ローン様のこれからのご健勝をお祈り申し上げます』

 

 こんなヤツだ。

 うん、つまり俺が受け取ったメールのことだ。

 

 

 俺はトランスポーターだ。経歴はそこそこで、ロドスの中に少しパイプがあるくらいには頑張ってきた。いや、アイツはパイプなんて言えねぇか。

 まあそんなモンがなくとも、腕っ節で言えば相当だと自負がある。俺の道を阻んだ傭兵はウルサスだろうがヴイーヴルだろうが全員ぶっ倒してきた。

 

 俺は非感染者だから落とされてしまったのだろうか?いやでもそういうのは不問とするんじゃ……あれ?不問とするのは経歴だけだったか?

 だがそうだとしても、その落とし方は感染者と非感染者の差を助長することになる。あり得ないだろう。

 

 何が悪かった?何故落とされた?

 仮面男は人手不足がどうとか言ってたじゃん。コータスちゃんだって歓迎するとか言ってたじゃん。もうほとんど受かったと思って元の職場辞めちゃってるんだよ俺。

 

 トン、とガラスのコップをコースターに置いた。アスパラガスとベーコンのバター炒めをツマミに、またビールを流し込む。

 

「これからどうすっかなあぁ……」

 

「ライン生命はどうだ」

 

「馬鹿言ってんじゃねぇ、アレは真っ黒だろ」

 

「冗談だ。ビールを一つ」

 

「あいよ!」

 

 店長が中華鍋を軽快に振って皿に盛り付けた後、ビールを注ぐためか俺の前からは離れて行った。

 数ヶ月もすれば、俺はこの店で項垂れる金すらなくなる。他の所で良い感じの働き口を見つけるか、それともまたトランスポーターに戻るか。

 

「あー、ぜってぇ受かったと思ったんだけどなぁ」

 

「落ちたのか」

 

「まぁな──ってさっきから誰だお前!?」

 

 えっ、いやなにこれどういうこと!?まあ顔見知りではあるけど何の脈絡もなかったぞ!?っていうか割と最初から居たよなお前!あっ、俺のバター炒め食うなよ。

 

「忘れたか?」

 

「誰がお前のことを忘れられんだよ。あ、いやここ最近は確かに顔見てなかったな。ケルシー、お前今何してんの?」

 

「以前と変わらない。ただ組織の歯車をしている」

 

「かーっ、失業者になんてこと言いやがる!安定した職業なんざ俺が求めて止まないモンだっつーのによ」

 

 ビールを呷った。全く、これだからデリカシーのない研究者気質のヤツは困る。俺の気持ちなんか考えてないんだよアイツらは。

 まあいいけどな。って、バター炒め食うなっつってんだろ!

 

「なあ、今回俺が落ちたのってどこか分かるか?」

 

「さあ、分からないな」

 

「ロドスだよ、ロドス!俺、腕っ節は自信あったのによ、面接でも好感触だったのによ、落とされちまってよぉ……!」

 

「ロドスか。あそこは確かにお前にとって狙い目なんだろうが、腐っても大企業だ。すっぱり諦めることが一番だろうな」

 

 諦めるなんてできっかよぉ、クソが。

 ……ベーコン減りすぎじゃね?いやまあ、アスパラ好きだから良いんだけどよ。

 

「お前の働いてるとこは──」

 

「断る」

 

「……まあ期待してなかったから良いけどよ、なに、俺のこと嫌いなの?」

 

「ノーコメント。んくっ、んくっ……ふぅ」

 

「けっ、答えてんのと一緒じゃねぇか」

 

 研究者気質とは言え、これでもかなり改善された方か。少なくとも初対面の頃じゃ、酒なんか飲まねえヤツだったしな。

 

「そういえば、リュドミラはどうしている」

 

「まあ、最近自立し始めたな。月一でいいっつってんのに週一で帰ってきやがるのはどうかと思うが」

 

「いいじゃないか、それくらい」

 

「はあ?お前、俺はまだまだ現役だぞ?介護でもすんのかってくらいに俺の世話を焼きに来やがるのはどうかと思うね」

 

「……由々しき事態では、あるな。お前が失業したことも含めて、かなりの大問題だ」

 

「うん、まあ、それは言って欲しくなかったっす」

 

「リュドミラには、渡さない」

 

 どうにかして雇われなきゃなぁ。今のところはアイツも騙せちゃいるが、正直いつそれが崩れんのか分かりゃしねぇ。

 家の家賃もどうすんのか悩む。元居た職場は金払いが良かったからなんとかなっていたが、俺は結局収入ゼロのクソ野郎になっちまった。

 

「あの頃に家でも買っときゃ良かったな」

 

「なんだ、住む家にすら困っているのか?」

 

「働き口が見つかれば、ンなことにはならねぇがな」

 

「見つかるのか?」

 

「……ぷはぁ、酒がうめぇな!」

 

 そんな無粋なこと聞いてくれるなよ、マジで。

 

「おっちゃん、ビールお代わり!」

 

「あいよ!」

 

「ああ、私も頼めるか」

 

「任せな!」

 

 ベーコンとアスパラガスを一緒くたに箸で摘んで口へと運ぶ──のは俺じゃなくて隣の席に座ってるヤツだ。だからそれは俺のだって何度言えば分かるんすかねぇ。

 

「それで、真面目にどうするつもりなんだ」

 

「まあ、実家のあるサルゴンに帰るか、最悪リュドミラの世話になるしかないのかもしれねぇ」

 

「それはダメだ」

 

「どゆこと?」

 

 俺が悪いのかな、全然分かんねえや。

 今俺が戸惑ってる理由の候補として挙げられるのは三つだ。

 俺が持ってるのがクソみたいな理解力だからなのか、コイツが難解なことを言ってるのか、それともコイツの返事がイカれてんのか。

 

「今なんて?」

 

「ダメだと言った。特に後者は許されない」

 

「それはそうか」

 

 でもそこまで断言するか?

 

「なあ、ローン。私の家に住まないか?」

 

「どゆこと?」

 

 よーしわかった3択の答えは3番です!

 えっ、なに俺が悪い訳じゃないよね?俺ってもしかして失業のショックでイカれちゃった系の人だった?

 ンな訳ねぇだろふざけんな。

 

「最近龍門に家を買ったんだが、全く利用してなくてな。このまま腐らせるにはかなり惜しい」

 

「なるほどお前が神か」

 

「そう褒めるな」

 

「マジで神だよお前。お前のこと実は厄介な依頼人だと思ってたけど撤回するぜ!」

 

「殴られたいのか?」

 

「いいや、全然──ぐぼぉ!?」

 

 な、ん、で殴ったんだよ……!チキショウ、俺のどこに非があるってんだ、精々が厄介だって言っただけじゃねえか!

 いやここで怒れば気難しいコイツのことだ、『ならいい、また他を当たろう』とでも言って救いの手をすぐに引っ込めやがるはずだ!さりげなく、乗り気な風に装っていくしかねえ!コイツに頭は下げたくねえ!

 

「2LDKの、良い物件だったんだがな。40階建ての36階にある日当たりのいい角部屋なんだが」

 

「なんでもするんで住まわせてください!」

 

 もう頭下げたくねえとか抵抗があるとかそんなんどうでもいいから住みたい!すげぇ良い物件じゃん!

 

「龍門の中心地にあり、交通の便もいい。近衛局が近くにある影響で治安もかなり良い」

 

「数々の無礼申し訳ありませんでした!」

 

 もう、俺はコイツに居る企業で働きたいんだけどなぁ!俺も龍門のいいとこ買いたいぜコンチクショウが!

 

「あいよ、ビール2杯!……どうした、兄ちゃん」

 

「職を失くしたそうでな、私の家に住まわせてやろうかと提案しただけだ」

 

「ほお。そうだな……そんなら、俺の──」

 

「注文していいか」

 

「お、おい?」

 

「黙ってろ。バター炒めのお代わりを頼めるか」

 

「おう、分かった」

 

 なんだよコイツ、どうしておっちゃんを威圧してんだ馬鹿か!でも怒れない!何故なら俺の立場が圧倒的に下だから!

 

「それで、お前はもう飲まないのか」

 

「……お前、悪酔いしてねえか?」

 

「なんだ、私の酒が飲めないのか」

 

「飲みます飲ませてください」

 

「早く飲め、ほら」

 

 くっ、ビールは美味いなクソが。

 それにしても、なんか変だな。コイツが自分から人に喧嘩を売る訳がねえし、おっちゃんがなんか変なことでも言おうとしたか?そんな風には、俺には見えなかったがな。

 それに、今の酒も強引だったしよ。別に俺は構わねえけど、喉に引っかかった魚の小骨みてえに気にはなる。

 

「へいよ!おっかねえな、嬢ちゃん!」

 

「失せろ」

 

「おい何言ってんだお前!?」

 

「あーあー、良いっての。俺は理解あるおっちゃんだから。それに常連に春が来たとなりゃあ尚更な!」

 

「春?」

 

「よし飲めさあ飲めグイッと飲め」

 

「おぼぼぼぼぼっ!?」

 

「はっはっはっはっ!」

 

 おっちゃんの笑い声が頭の中で変に響く。

 コイツ前に医療用語の話とかしてなかったか!?アルコール一気の危険性わかってんのかお前!てかなんで今そんな強引に俺の口にジョッキをあてがってんの!?力強くない!?

 

「ごほっ、ごほっ!……殺す気かよ!?」

 

「そんなわけがないだろう」

 

 ツン、と前を向く様だけ見れば、ちゃんと理知的なんだけどなぁ。あぁクソ、服洗わねえと。あともし殺意無しに俺を殺しかけたってんなら俺はもうお前に近づかねえからなバッキャロー。

 

「……それで、その、どうするんだ」

 

「あん?何の話だよ」

 

「わ、私の家に住むかという話だ」

 

「……なんで吃ってんの?」

 

「さっさと答えろ!」

 

「なんで大声出すんだよ怖えよ!?」

 

 おっちゃんも驚いて──ないな!なんで腕組んで悠々と頷いてんだよ!この状況で落ち着いてられることある!?

 

「だから、答えろと、言っているだろう……!」

 

 襟首引っ掴まれて顔が近い。よくよく見れば、酒が入ってる証拠に顔が赤い。こんなに酒に弱いとは思わなかったが、これこのまま進めて大丈夫か?冷静な時に話した方が、後々出て行けなんて言われても良くねえし。

 

「酒の勢いで答える訳にはいかねえだろ?」

 

「飲め」

 

「がぼぼぼばっぼぼぼ!?」

 

 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!この体勢で尚且つ口塞がれたら俺は死ぬから!いや俺じゃなくても人なら大体死ぬから!

 どうすりゃいいの!?俺はどうすりゃいいの!?軽はずみに判断しちゃいけねえってのは常識だよ!?

 

「住みたいのなら、そういえばいいだろう……?何故そんな常識に囚われているんだ」

 

「常識の範疇で生きてんだよこちとらァ!」

 

「ふむ、まだ足りないようだな。ビールを一杯」

 

「おう!任しとけ!」

 

「おっちゃんは拒否してくれよ!?」

 

 あっ、ちょっ、揺らすなって。出ちゃうから。俺は判断力失わずに酔えるタイプだから、割と今のマトモな状態でも飲んでるっちゃ飲んでるから。

 

「分かったって。返せって言われても、働き口が見つかるまでは返さねえからな」

 

「ああ、勿論だ──良かった

 

「何がだ?」

 

「あいよ!」

 

「完璧なタイミングだな。さあ飲め」

 

「えっ、ちょっ、おぼぼぼぼっぼばば」

 

 死ぬからやめろ!?

 

 

 

 

 

 頭が、ガンガンする。

 歩くために前に出した足が空振って、肩を組んでるケルシーがより強く引き寄せた。クソ、結局こんなになるまで飲ませやがって。アルハラだぞお前、分かってんのか。

 

「もう廊下まで来た。後は少し歩くだけだ」

 

「おう、分かった……頭痛え」

 

「そうか」

 

 お前なぁ、「そうか」って……お前なぁ。

 

「なあ、ケルシーよぉ」

 

「なんだ?」

 

「俺、仕事失くしちまったよ」

 

「……ああ、そうだな」

 

「元の会社には流石に戻れねぇよ」

 

「ああ、分かっている」

 

「……一年先の未来が見えなくなっちまったよ」

 

「そう、だな。靴は脱げるか?」

 

「おぅ」

 

 鬱陶しい。靴を脱いだ。ついでに靴下も脱いだ。酒臭えジャケットは……なんだ、脱がしてくれんのかよ。ありがてぇ。

 

「殺風景だな、おい。俺の人生みてえだ」

 

「私は、そうは思わないがな」

 

「俺がそう思えなきゃ意味ねぇよ」

 

 ああ、マジで体が熱い。お、ケルシー気が効くじゃねえか。あん?でも俺がこの家借りんだから煩わせていいモンなのかこれ。

 あー、頭が痛い。酒なんて飲むんじゃなかった。ヤケになっちまったらそれこそ終わりだってのに。

 

「ケルシー、すまねえがちょっと脱いで良いか」

 

「熱いのなら私が脱がせてやるが」

 

「いや、そりゃ悪いだろ」

 

「そんなにフラフラで、何を言っている」

 

 ああ、すまねえな。

 本当に、申し訳が立たねえよ。

 

「リュドミラを育て始めてからは、俺もちゃんとするって、決めたはずなんだけどな……どこでしくったのか、俺自身にすら分かんなかった」

 

「……」

 

「常識って、何だろうな……もう分かんねえや」

 

 ケルシーの手が俺を押して、俺の体はベッドに転がった。天井の模様が捻れて、それが小さい頃のリュドミラの顔になった。いつもは笑顔で俺と話すリュドミラの、憎悪に染まった顔。

 チェルノボーグから連れ出した俺は、リュドミラの思い込みを解すとこから始めた。一時は超絶反抗期になって何度か殺されかけたが、今ではそんなことは一切なくなった。

 

 それでも思い出す。親の仇を憎悪するリュドミラのことを、俺は今でも思い出している。

 そうあっちゃならねえって思ったんだ。リュドミラはもっと笑っているべきだって、あの頃の俺はそう思ったんだ。

 

 だから努力した。実力のない、依頼達成率もそこそこ低いトランスポーターを止めた。俺はそれから自分を鍛えて、会社にも入って、真面目に生きてきた。

 

 何故だか、寒い。

 さっきまでは熱かったのに。

 

 ……暖かい何かが、俺に触れた。

 

「ローン、お前は良くやった。本来なら、お前はロドスに入っていたはずだった」

 

「何だよ、それ」

 

 ほんと、笑っちまうよ。

 

「慰めんの下手だな、お前」

 

「ああ、そうだな」

 

 だからお前、返事がおざなり過ぎんだろ。

 

「今だけは、忘れさせてやる」

 

「……あぁ?」

 

「今だけは私を見ていろ、ローン」

 

「……ケル、シー?お前、何言って……」

 

 何かに口を塞がれた。

 そんで、何かが流し込まれた。

 体が熱くなってきた。さっきまで寒かったのが嘘みてえに、俺の全身が茹だるように熱い。

 

「今だけは、何もかも忘れていい」

 

 ケルシー……?

 

「だから、今だけは」

 

 さっきから、何をして……

 

 

「私にお前を刻ませてくれ」

 



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ロドスに入職したトランスポーターがケルシー先生を慰める話

 

息抜きに書いた。反省はしている。



 

 

 頭が痛え。

 

 最初に思ったのはそんなことだった。ガンガン俺を苛む頭痛は、二日酔いのかほりを際限なく漂わせていた。

 

「んぅ……」

 

「ああ、すまねえ。起こしちまったか?」

 

 懐を探って煙草を出そうとする。ん?あれ、昨日飲み過ぎちまったかな、服着てねえや。どことなくべったりすんのは風呂に入らねえで寝ちまったからか?

 ってか全部どうでもいいくらいに頭が痛い。

 

「……今何時だ?」

 

 時計を見る。あれ?ないな、どこにやったんだ?

 

「時計は、こっちの机の上だ」

 

「おう、ありがとな」

 

 なるほど、8時42分か。

 今日の予定は──って俺、職失くしたんだったな!何もねえや!強いて言うなら就活か?つってもまずは履歴書書かねえとな。

 ああ、面倒だがやるしかねえか。トランスポーターの資格って割と正式名称が長えから手が痛くなるんだよな。

 

「私も、そろそろ起きなければ」

 

「それがいい」

 

 ケルシーと目が合った。

 

 

 

 

 

「なん、どうえええぇぇぇッッ!!!???」

 

 

 

 

 

 

 

 ちびっこがその赤い目を俺に向けた。

 膝下まで伸びている長髪はいっそ非現実的なまでに真っ白で、短くない付き合いながら変わらないそれが羨ましい。

 

「おお、これまた老けたものだな……」

 

「俺もそろそろ四十路だからな、しゃあねえさ」

 

「実は遠回しに妾のことを煽っておるな?」

 

 現前のこいつはワルファリン。

 ここ、ロドスアイランドにて働く医療オペレーターだ。

 艦内に居る俺の知人は両手の指で数えることができるくらいに少なく、その中でも一等古い付き合いのこいつとは入職した時から世話になってる。

 

 そう、俺はロドスに採用されることとなった。俺に採用通知を送る時に手違いが発生して書類が入れ替わり、俺の受け取ったお祈りメールは入れ替わったその人のもの、()()()()()()()()()

 実際どうなのかはよく分からない。俺が本来採用されていただとか、書類が入れ替わっただとか、そんなものはロドスに入ったばかりの俺にゃ分からん。

 それに、俺と入れ替わった()()()の書類はどうしてか全て燃やされたらしい。俺の見立てによるとそれの犯人は、俺と古馴染みの気難しくて厄介なフェリーンだな。間違いない。

 

「失礼する、ワルファリン……どうやら立て込んでいるようだな。また今度出直すことにしよう」

 

 ドアが開いて、その件の人物は足を踏み入れようとした。

 だがそれは俺を見た途端に固まって、すぐに廊下へと戻っていく。

 

「今なら別段構わないが」

 

「それでは、失礼した」

 

 ワルファリンが引き留めるための言葉を発しようとも、ケルシーはここに止まる気がないようだった。

 ドアの閉まる音が室内に響く。

 

「……このところ、そなたを見かけるとケルシー先生はいつもその場を離れたがる。いい加減に何をやらかしたのか吐いてしまった方が身のためだぞ」

 

「俺は何もしてねえよ」

 

 ジト目が辛い。

 

「俺は何もしてない。ただ、俺は……」

 

 俺はきっと。

 

「ケルシーに何かをするべきだったんだろうな」

 

 その〝何か〟ってのが何なのか俺は知っていた。ケルシーがそれを待っているのだろうと俺は分かっていた。

 だが俺は突然発生した二択の問題にノータイムで答えられるほど愚かじゃない。そんでもって馬鹿になれない。

 

 俺はちゃんと答えなきゃいけねぇのに、答えられてねぇんだ。今だってケルシーを追いかけもせずクソみてえな思考にリソースを割いてる。その時点で俺の選ぶべき答えってのは一つだけなんだろうけどな。

 

「お前の言うことは、妾には分からない。だが、そなたのことを少しは信頼している。ちょびっとだけな。ちょびっとだけだからな!」

 

 あーはいはい、分かったから。

 それで何が言いたいんだよ。

 

「確か明日にそなたの検査があっただろう?」

 

「ああ」

 

「応援しておるぞ」

 

「何が?」

 

 えっ、何が?

 

「上手くやれ」

 

 ちょっ、次の仕事行く前に教えてワルファリン先生!?俺は何を頑張ればいいんだ!?ワルファリン先生、ワルファリン先生──!?

 

 

 

 

 気不味い。

 

 押し潰されそうな程張り詰めた雰囲気が部屋の中に充満する。

 俺と対面しているケルシーの目が人でも殺しそうなほど強く睨みつけている。何を睨みつけてるのか、って質問はしないで欲しい。

 ケルシーの手に持つクリップボードがみしっと音を立てた。やっぱりお前俺より力あるんだろそうなんだろ。

 

 検査のために招かれた診察室の中には、本来そこに居るはずだった補助役の医療オペレーター、つまりワルファリンの姿が見えなかった。

 ワルファリン先生は機器の準備だけ完璧にして俺の検査をバックれやがったらしい。これは教育委員会に訴えて良いレベル。懲戒免職を要求する。

 

 ワルファリンを連れ戻せばいいとも思うが、問題なのはそれが()()()()()()()()()()()()()()()という点だ。こいつはロドスでもかなりの上役らしく、ワルファリンの連行は他が進めて、ケルシーは俺の検査をすることになったらしい。

 俺の検査は鉱石病治療を掲げるロドスにとっていの一番にするべきことで、プロファイル編集などのためにも急務だ。ケルシーは逃げられない。

 

 覚えとけ、ワルファリン先生。

 後で血液奢ってやる。

 

 

 俺も覚悟を決めよう。

 

 

「なあ、ケルシー」

 

「なんだ」

 

「どうして、俺をずっと避けてるんだ?」

 

 先鋒の攻撃がヒット、ケルシーが顔を顰めた!

 一瞬にして、室内の緊張は一段階上に到達した。一触即発、剣呑な雰囲気が俺の背筋を凍りつかせる。だがそれに怯むほど俺も耄碌しちゃいない。

 

「言っただろう、あの朝に。私はもうお前に近付かない。私は二度と勝手な事情で権限を振るわない。忘れた訳ではないはずだ」

 

「あの時はお前の雰囲気に押されて何も言えなかった。お前を制止する言葉も出せなかった。それも、悪かったと思う」

 

 なあ、ケルシー。お前も自分の勢い任せにそんなことを言っちまっただけなんだろう?確かにケルシーは罰されるべきかもしれないが、被害者の俺がいいって言ってんだからいいだろ。

 

「二度としないってのは、確かに必要とも思う。だが俺と同じ部屋に居ることすら拒むことかよ。近づかねえなんて言ってたってそれは違うだろ?」

 

 クリップボードが嫌な音を出して、罅割れた。

 まさか地雷を踏んだか?そう思ってはみたが、ケルシーにとって触れられたくないことはその真意にあるはずだ。近付かせない、再犯しない、それの先に何かあるはずだ。

 

 やがて、ケルシーが口を開いた。

 

 

「お前は、何も分かっていない」

 

 

 クリップボードが真っ二つになった。

 わーお、ジェットコースター。やっべふざけてる場合じゃない、俺はいつのまにかケルシーの地雷を念入りに踏みつけてたらしい。

 どの言葉に反応していた?それとも文全体か?分からん。

 

「お前にとって私はただの一友人で、だからお前は私を許した。二度も同じことはしないと信頼して私を受け入れた」

 

「それが、どうしたって言うんだ」

 

「……お前は、お前自身がどんなに私を絶望させているのかすら知らずに、ただ私の行いは間違っていると糾弾している。ああ、これほど怒りを覚えることはそうないだろう」

 

 こいつは、俺が思っていたより余程参ってるな。

 

「これが不当な怒りだとは、分かっている。お前は私のことを正当に責めていて、私が個人的且つ一方的な感情でその和を乱していることなど分かっているんだ」

 

「和なんてモンは要らねえよ。ただ俺はお前の様子がおかしくて気になっただけだ」

 

「その行動が私を苦しめるとも思わずに、か」

 

「もっと酷いことになって、そん時オレが部外者に扱われてたら嫌だからな」

 

「……自分勝手だな、ローンは」

 

 言葉に詰まる。ケルシーの怒りが悲しみに上書きされたように感じたからだ。ピリつく感覚が一瞬だけなくなれば誰だって気づく。

 

「はあ……どうしてそこまで捻くれちまったかな」

 

「間違いなくお前のせいだろう」

 

 ケルシーが腕を組んで、もう言うことなんて何もないとでも言うように顔を背けた。これでも俺より生きてるはずなんだけどな。

 

 まあ、いいか。

 

「ケルシー、俺がお前の感情を知ったのはあの朝だ。俺の察しが悪くて今まで苦しめてたってんなら俺は謝る。すまなかった」

 

「……」

 

「でもな、その、子供の恋愛みてえになるんだが……お前の感情を知った後で、またちゃんとお前に向き合いたい。俺はまだお前に惹かれてない。だから……」

 

「言っただろう」

 

 ケルシーが何やら覚悟を決めて、俺の方を向いていた。

 

 

「お前は何も分かっていない」

 

 

 繰り返された否定の言葉がちょっとばかし俺の心に突き刺さった。ケルシーは嘘だとか意地だとかでそれを言ってるんじゃない、そう分かってしまったからだ。

 何も言わなくなった俺を見て鼻を鳴らす。ケルシーは席を立ち、俺の背後にまで回った。

 

「私はな、ローン。お前のことを愛している」

 

 あの朝に聞いたことだった。二日酔いの頭痛に顔を顰めながらリビングに出た俺を待っていたのは、これ以上ないくらい完璧な謝罪と、そして情熱のカケラもない愛の告白だった。

 

 とん、と俺の肩に手が置かれた。

 

「だから私はお前を求める」

 

 囁くような声でケルシーが言った。俺を襲うくらいなんだから当然だろ──とは言えなかった。俺は酒のせいで、襲われたって事実しか分かっていなかった。

 ケルシーのその言葉に込められた欲望は長年来の友人を襲うに足るほどの大きさで、それを正確に理解した俺の身は否応なく竦んで動かなくなった。

 

「お前は分かっていない。私がどれだけ我慢しているのか、私がどれだけ自制心を動かしているのか、何も分かっていない」

 

 ぐうの音も出なかった。俺はまだケルシーの気持ちを軽く見ていた。どこか子供の恋愛と同じだろうと見ていた俺は明確に間違っていて、ケルシーが怒りを覚えるのも当然だった。

 

「お前と同じ部屋に居るだけで、私は雑念を幾つも増やすことになる。二人きりなど、まるで襲ってくださいとでも言っているかのようだ。診察室には丁度ベッドがあるのだからな」

 

 首筋をケルシーの指が伝う。ケルシーにそう言われるのが男として嬉しくない訳でもねえんだが、だとしてもさっきの数倍にまで膨らんだ恐怖がその嬉しさを覆い隠した。

 

 今のこの状況がようやくハッキリ見えた。俺は捕食される寸前の料理だ。ケルシーが俺の背後に回り込んだのは、つまりナイフとフォークを持ったってことを意味してるんだろう。

 

 ゆっくりとケルシーの腕を掴む。不安になった俺がつい無意識にしてしまった行動で、ケルシーの手も一瞬だけ硬直したように見えた。

 

「そういう行為が私に火をつけるのだと、何故分からないんだ……!」

 

 吐息が首にかかりこそばゆい──うおゎっ!?

 

「な、何してんだ、お前……」

 

 暖かい、少しザラザラとした何かが俺の首を撫でている。それは少しだけ濡れていて、動く度にケルシーの髪が俺の頭に触れる。

 感覚で分かる。俺の首筋を伝うコレは、ケルシーの舌だろう。

 

 流石にこれは気持ち悪さが勝った。ケルシー自身が気持ち悪いと感じた訳じゃないが、その行為が最高に嫌だった。

 俺の首を舐めるケルシーの頭をどうにか掴んで押さえ──何すんだお前やめろ!?

 

「味は手の平と首で違うようだな」

 

「これ以上舐めたら殴るからな」

 

「分かっている」

 

 感想とか要らねえんだよ。恥ずいとかじゃなくて普通に怖気立つわこんなモン。

 

「分かっているから、そうしたんだ」

 

 声のトーンが一つ下がった。まただ。またケルシーの感情がぐちゃぐちゃになった。

 

 振り返った先でケルシーは、俺に掴まれている腕から血を流していた。

 

 そして掴んでいない手の指先、もっと言えば爪から血が滴り落ちている。よく見れば、腕に出来ている傷は、何本かの線で出来ていた。

 俺に掴まれた方の手を引っ掻いたのか?それも、出血するほどに。

 

「何してんだ、お前」

 

「……」

 

 何も言わずに懐からアーツユニットを取り出し、腕に向けて撃った。

 緑閃光のような淡い緑色が輝き、指先の血が少しだけ付着したアーツユニットを、またケルシーはどこかへ仕舞った。

 

「お前に近づくというのは、こういうことだ」

 

 その言葉には諦念が滲んでいた。

 

「お前は私を拒絶しなくてはならない。私はお前から離れなくてはいけない。それが自然で、そして合理的な反応だ」

 

 今、分かった。

 ケルシーが舌を這わせたのは俺に拒絶してもらいたかったからだ。俺はケルシーの言葉でようやくそれが分かった。

 

 そうだ、一つだけ覚えていることがある。俺がケルシーの家にまで行って、そんで一言だけずっと頭に響いている。

 

『私にお前を刻ませてくれ』

 

 ケルシーは俺とあれきりにするつもりだったんだ。自分の抱える感情も欲もあの夜だけのものにして、俺には近づかない。

 それがケルシーの予定していた未来だった。

 

 だが俺はそれを無遠慮に踏み躙った訳だ。

 リュドミラにも言われていたんだ、お節介焼きな部分を直せと。そう簡単に直るもんじゃねえって考えはやっぱり正しかったみてぇだな。

 

「……もう、私に近付くなよ」

 

 ケルシーが俺の手を振り払おうとした。だががっちり掴んだ俺の手はそれっぽっちの動作で外されるほどじゃない。

 

 はっ、誰が離すかよバーカ。

 

「ローン、この期に及んで何が言いたい」

 

 どうやら察しが悪いのは俺だけじゃねぇみたいだな、ケルシーさんよ。

 俺のこの期に及んで言いたいことなんかどう考えても一つだけだ。

 

「俺はお前に近付くに決まってんだろ、馬鹿野郎」

 

「どうして、お前は……っ!」

 

「俺がお前の友人で、俺が親の責務を終えたからだ」

 

「何の、ことだ」

 

「俺がまだ親だったら、そりゃお前とは距離を取っていただろうな。なんてったってリュドミラにそういうのは早い。正直今でも早い。彼氏連れてこないでほしい」

 

 来たら殴る。どんな優男だろうが一発は殴る。

 

「でもな、リュドミラはもう大人になった。俺は子供に対して責任を負うことがなくなった。だから、ちょっとくらい間違ってたっていいんだよ、ケルシー」

 

 俺は規範になる必要がなくなった。ケルシーが間違っていようが無理して罰する必要はない。潔癖に生きるなんてのは、子供には言えねえが面倒だ。

 

「生憎だが、俺はお前を嫌ってない。まだ友人として親しくしたいってのが素直な感情だ」

 

「だが、それでも……お前は私に犯されたんだ」

 

 そりゃ何かしらの形で罰は欲しいけどな。

 

「私はお前を弄ぶために採用契約を蹴ったんだ。お前を追い込んで、私がそれを救って。だがそれは余りにもぞんざいな計画で、上手く行くはずがなかったんだ」

 

 俺が前の会社を辞めちまったから、つい魔が差したってことか。

 

「……元から、ロドスには入れたくなかったというのもある。お前は外部のトランスポーターで、巻き込みたくなかったんだ」

 

 ロドスに来た俺はワルファリンに会って、そんでアーミヤちゃんに会って、そこでようやくケルシーがバベルに所属していたことを知った。

 バベルの仕事は報酬こそ良くてもそこそこ厄介で、依頼がケルシーの方から出てたって言われた時には納得したもんだ。

 

 あの頃、俺は前の職場を辞めてバベルに来ないかと誘われていた。リュドミラがまだ独り立ちしていなかったから断ったが、ケルシーが居ると知っていれば、逆に俺は独り立ちさせる名目で龍門を離れたかもしれない。

 絶対に泣いただろうけどな、リュドミラじゃなくて俺の方が。

 

「上手く行ってしまったことこそが誤算だった。上手く行ってしまえば私の抑えが効かなくなることなど分かっていた」

 

 ケルシーは俺がロドスに入って欲しくなくて、欲の部分では俺がそれで困ったらいいな、なんて考えていた。そしてその欲は実現出来てしまった。

 夢物語が現実になってケルシーは抑えられなかった。だがそれは人として最悪の行為で、頭の中で終わらせるべき妄想だった。

 

「だからお前はそれで終わりにしたかった訳だ」

 

 またその最悪な行為をしてしまわないように俺から距離を取った。だがそんな心境を俺は一ミリも理解せずにこうして部屋の中に居る。

 

 だから、ケルシーは俺に警告した。

 自分のことを理解させ、昂った情動は自傷行為で鎮めた。それはきっとケルシー自身のためじゃなくて、俺のためなんだろう。

 

「お前が誰かに奪われることさえなければ、私はきっと満足していられる。もうお前は随分と歳を食った。唯一の懸念も、恐らく心配は要らないだろう」

 

「そりゃ俺は結婚できねえだろうな」

 

「だから、もういいんだ」

 

 はあ?そんな訳ないだろ。

 もういい、なんて言葉で諦められることじゃないってのは恋愛だとかに疎い俺でも知ってることだ。

 

「最後に私はお前に欲望の限りを尽くした。お前がまだ私のことを友人として見てくれるだけで、どうしてか救われたような気がする」

 

「やめろ、それは本音じゃねえだろ。お前は俺を好きになっちまったんだから、それで終わってるはずがない。救われたなら、そんな悲しそうには笑わねえさ」

 

「……もしそうだったとしても、私は嘘を吐くだろう。そう言って自分を納得させることが一番丸く収まるだろうからな」

 

 丸く収まる、だって?お前の感情を精一杯押し殺しておくことが一番最良の選択肢だって言ってんのか?お前はバカみてえに傷ついて、俺がそれに心を痛めて、それがか?

 本当にそうだって言ってんなら──最高にバカな野郎だ、お前は!最高にバカでアホらしくて、ンなこと絶対許さねえに決まってんだろうが!

 

「お前は、俺の話を聞け!俺はお前の感情なんざ全部受け入れるっつっただろうが!お前が我慢してるのを知って、俺がどうとも思わねえ訳がねえだろうが!お前が我慢する必要なんかねえんだしよ!」

 

 馬鹿みてえな話なんだ。ケルシーが必要のない我慢をして、我慢させた俺は嫌な気持ちになって、それで仲も悪くなる。最悪だ。そんなことには絶対させねえよ。

 

「お前は俺を惚れさせる努力をしろ!遠慮なくな!そんでもって俺がどう思うかは俺の勝手だ、お前はただ自分の感情に従え馬鹿野郎!研究者!アホ!」

 

「……そうか。お前はそういう男だったな。まさかあれだけのことをされてそんなことを言うとは、私はお前のことを低く見誤っていたようだ」

 

 ケルシーは苦笑しながらそう言った。

 ……なんか不安になってきたな。

 

「なあ、酒のせいで具体的な内容を全く覚えてねぇんだけど、お前俺に何した?」

 

 ケルシーは納得したような顔で、視線を逸らした。

 おいちょっと待て。

 

「俺はお前に何をされた?」

 

「…………」

 

「おい」

 

 ちょっと、ケルシー?ケルシー゠サン?

 

「二言はないな?」

 

「待て俺はそこらへん甘かったかもしれん、説明しろ、おい、ベッドに向かうのをやめろ、そしてこの手を離せ!開き直るのはもうちょっとだけ待ってからにしろ!」

 

「……唆るな」

 

「このシチュエーションまで楽しんでんじゃねぇよ!?おまっ、アレだからな!?出るとこ出るからな!?」

 

 俺にそんなギラついた目を向けるな……っ!

 

「くはっ、くははは……っ!」

 

「怖えよその笑い方!?あっ、やめろ、覆い被さるな!!待って、本当に待って、ほらここ診療室だから!」

 

「愛している、ローン」

 

「ばっ──馬鹿じゃねぇの!?この状況で誰が告白すんだ!ちょっとキュンとした俺の純情を返せ!」

 

 なんでこうなったんだよ!

 クソッ、ああもう、馬鹿野郎が!

 

「俺がお前を嫌いになっても知らねぇからな……ッ!」

 

「好かれているのに嫌うなどお前が出来るはずもないだろう」

 

「さっきと発言が正反対じゃねえか!」

 

「ああ、お前は私を信頼させたんだ。誇るといい」

 

「それがこんな信頼じゃなきゃ──脱ぐな!」

 

「無理だ」

 

 ケルシーが久しぶりに笑った。

 いつも通り、憎らしいくらいに整った笑顔だ。

 

 そんな風に笑えるんなら、いっつも笑っとけよ。

 

 

 

「もう、我慢なんてしないからな」

 

 

 

 バーカ、最初からそのつもりだっての。

 もっと笑えよ、ケルシー。

 

 



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ロドスに馴染んだトランスポーターが昔馴染みに食べられる話

 
投票真っ二つに割れてて笑う
 


 

 

 

 

 

 

 

 源石灯が無機的な光で室内を照らす。

 窓から見えるのは黒く塗りつぶされた景色。

 感じるのは、夜になって低くなった空の温度。

 

 そして、元から冷えている妾の心。

 

 

「臆病な女が居た」

 

 

 一人分の声だけが診察室に響く。妾以外に動くものがないのだから当然だろう。当然で、自然で、予想されていた未来だ。

 だからと言ってそれに何も思わない訳ではない。長く生きていれば予想のつく答えだってあるが、丸付けをする時にはいつだって少しの安堵──いや、感慨を感じるものだ。

 

「臆病な女というのは正確でない。かと言って、間違いでもない」

 

 診察室の椅子に腰掛ける。女が座っていた場所だ。

 向かう机に置かれた機材の電源はついていない。だから液晶は真っ暗で、緋色の何かが二つ、ぼんやりと見えている。

 

「女は豪胆だった。人の機微を見抜く観察眼を持っていた。だがある男に関しては、臆病だった」

 

 床を蹴って椅子を回す。そうして妾の前に来たのは患者のために用意された椅子だ。それはつまり、男が座った場所ということだ。

 立ち上がって、今度はその椅子に座る。背凭れのないスツール、僅かに残っているように感じる温もりはどうしてだろう。

 

「女は隠れていた。女は接していた。女は機会を逃さなかった。女は現を抜かしていたがあまり、機会を勝ち取ることができなかった」

 

 立ち上がり、スツールを蹴飛ばした。

 金属質な音が響く。

 

 診察室の奥に一台だけ置かれているベッドに腰掛けた。シーツは剥ぎ取られていて、代わりのものは用意されていなかった。妾に後始末でもさせる気なのか、ケルシー先生は。

 

「女は二人居た」

 

 ぽす、と音を立てて妾の体が横になる。部屋中に残っていた微かな血の匂いとは別に、それよりもキツい匂いが鼻をつく。

 

「男は気付かなかった。女はそれでいいと思っていた。それなのに、片方の女が男をその手に収めた。収めることが出来てしまった」

 

 妾はいつからこんな風になってしまったのだろう。こんな汚らしいはずの残り香を愛おしく思ってしまうなど、どうして。

 そんなことを思っているのに、妾の体は正直に反応する。ブラッドブルードに生まれたのなら、生粋の人でなしに生まれたのなら、そんなもの要らなかったろうに。

 

 ああ、男に選ばれなかった理由を種族のせいに出来てしまえれば、どんなに楽なのだろうか。

 

「……妾は、どうすれば良かったんだ」

 

 ぽつりと呟いた。

 

 

 一人分の声だけが、診察室に響いた。

 

 

 

 

 

 

 目を覚ました。時計の針を確認すれば、日付が変わってしばらく経っている、かなりの深夜だった。

 ここは、俺の部屋か。どうしてこんな真夜中に起きるんだ? 寝たのがいつだったかも分からねえ、記憶が少しだけ混濁してるな。

 

 だがまず確認すべきことは──この隣から聞こえる寝息は何だってことだ。誰のものだ? いやそれ以前にどうしてこんなことに……って、ああ、思い出した。

 俺はケルシーとサシで話し合ったんだ。ワルファリンがセッティングしてくれた機会だったよな、さんきゅ。そんでもって俺の説得は成功して、ケルシーが、ケルシーが……

 

「うわ、思い出しちまった」

 

 本当に、どうしてこんなことになったんだろうな。

 

「気持ち良さそうに寝やがって」

 

 ケルシーの満足気な顔が腹立つ。お前、俺を犯したんだからな? 少しは罪悪感を持ってくれよ。

 持ち過ぎたってんなら、俺が超過分をぶっ飛ばしてやっからよ。

 

 いや、たぶんもう無理だわ。ぶっ飛ばすの。

 

 ベッドから抜け出して、冷蔵庫の中から水を取り出す。バタン、と音がしてもケルシーが起きてくる様子はなかった。

 どうにもあのベッドに戻る気が起きない。添い寝程度で今更だろとは俺自身でも思うが、俺は超がつくほど純情なんだ。仕方ねえだろ。

 

 ケルシーを心配する必要はもうない。そんで、俺の方ばっかりに複雑な感情が残っちまったわけだ。

 これからどうすればいいのか分かんねえし、どうなんのかも予測できねえ。ただまあ、ケルシーを立ち直らせて後悔だけはしてない。

 まあ、なるようになるか。

 

 さて、と。目が覚めてきた。こういう時、酒でも入ってなければ寝つきが悪いのが俺だ。着替えて少し散歩にでも行こう、そうすりゃまだなんとか眠れるはずだ。

 

 

 うし、準備完了。

 

 

「さて、どこに行くか……ん?」

 

 開けたドアのすぐそばで、壁に寄りかかって座り込んでいる白髪のちびっこが居た。

 

 きい、ぱたん。

 

「えっ、今何が起きた?」

 

 咄嗟に閉めたドアの前で一生懸命頭を働かせる──が、どうにも答えが出ねえ。そもそも情報の処理ができてない。

 ちょっと確認すっか。

 

 がちゃっ。

 

「……」

 

 いるわ。確かにいる。

 見つめていると、座ったままのワルファリンが俺の方を見上げた。

 

「あ、ども」

 

「……」

 

 何も言わねえ。なんだこいつ。

 

「ちびっこ」

 

「……その呼び方はやめろと、言っただろうに」

 

「お、反応した」

 

 なんだよ、ビビらせやがって。

 ばたん。扉を閉める音が廊下に響く。

 

 どうやら俺とこいつ以外、廊下に人は居ねえらしい。

 

「今日は世話になったな。ありがとよ」

 

「ああ。どうやら、助けになったようだな。それはそれは、大層喜ばしいことだ……」

 

「そんならどうしてそんな顔してやがんだ?」

 

 隣に座る。背もたれのドアが硬い。

 

「大したことではない。そなたとケルシー先生の間柄に比べればな」

 

「だから、さっきから何だってんだ? 何が気に入らねえんだ?」 

 

「なんでもないと言っているだろう」

 

「そりゃ無理だって分かってんだろ」

 

 小さな頭にチョップを入れる。

 突然殴られたことに怒ったワルファリンは、むすっとした顔で恨めしげに俺の方を睨んだ。

 

「ああ、こりゃいいな。ポーカーフェイスで装われるよりずっといい」

 

「そなたは……まったく。変わらんな」

 

「老けたっつってたのはどこの誰だ?」

 

「外見と内面は違う話だろう」

 

「つまりお前の内面は変わっちまったってのか?」

 

 ワルファリンが俺の方を見て、俯いた。

 泣きそうな顔だった。

 

「変なことを言った。忘れてくれ」

 

 絶対無理に決まってんだろ。

 何年の付き合いだと思ってんだよ。

 

「さっさと吐いちまった方が身のためだぞ」

 

「妾に言わせれば、お前のためだ」

 

「……何だって?」

 

「何でもない」

 

「お前、そういうの良くねえぞ!」

 

「知らん」

 

「んだとぉ!?」

 

 振り上げた拳。

 ちびっこは呆れた顔で俺の方を見る。な、なんだよ文句あんのかよ……あ、この手は戻しますねサーセン……

 

「ローン」

 

「な、なんだよ」

 

「妾のことはどう思う?」

 

「どうって……」

 

 まじまじと見つめ直す。こいつはどうやら、懊悩(おうのう)ってやつをしているらしい。へぇ、あのワルファリンがなぁ。

 

「おい、失礼な目で妾を見るな」

 

「しゃーねぇだろ。こんなお前見たことねぇんだからよ」

 

 そう言うと、ちびっこは視線を切って俯いた。

 

「見たことない、か」

 

「何を気にしてるかは知らねぇが、俺に言えることは──って、おい!?」

 

 ちびっこが脱兎の如く駆けていく。

 その背には必死ささえあるように見えた。

 

「何なんだよ、あいつ……」

 

 

 取り残された俺は、大人しく眠る気分にもなれないまま立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 端整な顔が不機嫌そうに歪む。

 

「それで私に相談した、と」

 

 午前6時。あの日とは違って、俺もケルシーも早くから起き出していた。つーか俺はあの後寝られなかった。

 

「朝から聞く話の内容ではないな、全く」

 

「うぐっ、すまねぇ」

 

 椅子に座ってコーヒーを飲むケルシー。ワルファリンとの関係で言えば俺よりずっと深いはずで、更に言えば俺よりずっと思慮深い。

 相談相手としては適格だったが、いかんせん聞く時を間違えちまった。

 

「本来ならば、今頃私はローンの寝顔を使っていたはずだと言うのに」

 

 おいおいなんだよ何にも間違えてなかったじゃねぇか。マジで俺ナイスプレー。

 ……最悪、朝から()()だもんな。いや、うん……否定はしねぇが、なんつーか…………長く生きすぎると、ああなっちまうのかね……って、んなっ!?

 

「ぅおい!? 何してんだお前!?」

 

「聞くほどのものでもないだろう。始業時間が迫っているためにその準備を行うことは至極真っ当であり、咎められる覚えはないが」

 

「咎めるわ! 俺の目の前で堂々と着替えてんじゃねぇ!! 見せつけんな!!」

 

「散々見ただろう。何を気にしている」

 

「何もかもをだ! ……ったく、もういいから、さっさと着替えてくれ。俺はコーヒーでも淹れ直す」

 

 マジでこいつはよぉ……俺に散々情緒語っておいて、人の気も知らねえのは一体どっちだってんだ。配慮ってやつなら俺のほうがまだマシだぞこの野郎。

 

「ローン」

 

「んだよ」

 

「お前はウルサスに住んでいた」

 

 何言ってんだお前。

 

「住んだことなんてねえぞ」

 

「学問を修め、礼節を知った。娯楽を嗜んでは端金を方々で費い、身なりが良く気心も知れた女と結婚した」

 

 何が言いたいのかはまだ分からなかったが、大事なことなんだろう。着替えてる最中に話すことじゃねーってくらいには大事なんだろう。たぶんな。

 

「その時だ。充足していたその頃に、その劇薬は現れた。それはごく少量しか流通していない違法な薬物だった。永く楽しむ術はなく、また手を出せば確実にリスクが自身を蝕むのだと分かっていた。だがやはり効果は絶大であり、破滅と引き換えであったとしても妥当とされるものだった」

 

「……それで?」

 

 続きを促す。

 

「お前はそのリスクある一時の快楽に、身を委ねるだろうか。──いいや、ありえないな」

 

「俺が答えるわけじゃねえのかよ」

 

「退屈な問いを投げかけるつもりはない。……本題だ。もし、その薬物を流した先で、その快楽に委ねる者を見てしまったら。そしてそのリスクが想定よりずっと小さなものであったなら。お前は何を思う?」

 

 そいつは、難儀だな。

 

「確信ある答えは出せねえが、覆すってのも中々力が必要だ。つっても早々に諦められるものでもねえんだろう。まあ複雑だろうな」

 

「そうだろう? つまりはそういうことだ」

 

 何言ってんだこいつ。

 いや、あー、複雑な思いを抱えてるのはワルファリンで間違いないはずだ。んで、それなら俺はどこだ?

 

 順当に考えるなら、ドラッグの利益ばかりを得たヤツか?

 

「……俺が羨ましくて嫌味でも言いに来たってか?」

 

「いいや、違う」

 

 じゃあ、俺は説明した野郎か?

 ドラッグの危険性を過大に伝えた、と。

 

「どうしてもっと正確にリスクを伝えてくれなかったのかと問い詰めたい、ってな感じか」

 

「違う」

 

「わっかんねえ! 誰がどうだってんだ!」

 

「それを話せば、わざわざ例えた意味が何もかもなくなるだろう」

 

 クソッ、マジで分からねえな。

 

「もう一つ、話しておくか」

 

「……んだよ」

 

 いつも通りの服に着替えたケルシーが、切っ先鋭く視線を寄越した。

 

「報連相は重要だ。それが如何に仕事と関係のない私事を極める内容であろうが、その他問題と切り離せば実に効果的なものとなるだろう。そして、その上で聞こう」

 

 ケルシーが俺を睨む。

 具体的な言葉を何一つ告げないままに。

 

 俺への怒りを溜め込んで、言った。

 

 

「何故、私に相談した?」

 

 

 俺は、その意味が理解(わか)れなかった。

 

 

 

 

 

 相談っつー安直で安全だったはずの行動は禁止されちまった。であれば俺に出来ることはもう、足りねえ頭で考えるしかないわけで。

 ロドスに配属されたばっかりの俺にはぽっかりとスケジューの空いた時間が一日に何度もある。

 その度に頭を悩ませた。

 

「分かんねえ」

 

 それでも、結論は出なかった。

 ディナーでも、と誘ってくる猫を押し退けて帰った俺の部屋。例え話も交えて考えてみたが一切分からなかった。

 

 そんな部屋の中で電話のコール音がした。

 

「……ローンだ」

 

『なんだ、元気がな──』

 

「リュドミラじゃねえか!! 元気にしてるか!? 飯は食ってんだろうな!!?」

 

『訂正。元気は有り余ってるみたいだな』

 

 電話してきたのはリュドミラだったらしい。悩みをも吹き飛ばす大天使。天使(サンクタ)じゃねえけど。

 

 いやあ、娘ってのはアレだな、声だけでもかわいいモンだな! これ、離れて生活するようになってから週一くらいで実感してるかもしんねえけどな!

 

「それでどうしたんだ? 何か不都合でもあったのか?」

 

『久しぶりに声が聞きたかっただけだ』

 

「おう、そうか! リュドミラの声は俺もずっと聞きたかったぞ!」

 

 紛うことなく俺は親バカの類なんだろうが、それで何が悪い。子供が嫌いな親なんざ全員嫌いだ。

 適度な愛情でいい……? い、いや、リュドミラは、リュドミラにとっての適度はこれくらいだから……

 

 しばらくお互いの近況を報告して、心配事に脱線した。

 

 リュドミラの声は聞いてるだけでセラピー効果でもあるんじゃねえかってくらいかわいいんだが、それ故に害虫が寄りそうで心配が止まらねえ。脱線は仕方ねえ。

 

 そうして、いい具合になったところを締めくくればいつも通りだ。今度会えることを期待して通話を切る。

 

 だが今日はいつも通りにならなかった。

 

『そういえば、電話をかける前は落ち込んでいたようだったが。何かあったのか?』

 

「あー、いや、なんつーか……おう」

 

『私には話せないことか?』

 

「いや、そういうわけじゃねえんだが」

 

 電話越しにゃ伝わらねえだろうが、微妙な顔になる。ケルシーからは相談したことを責められちまったんだ、どうにも進退窮まってる。

 

 だが、相手はリュドミラだ。

 しくじっちまった。

 

『そうか。私に、隠し事を……』

 

 暗く濁っていく目がありありと脳裏に浮かぶ。

 捻くれていた頃の、誰が相手でも噛みつきそうなあの顔がフラッシュバックする。

 

 クソッ、俺は親だってのに。

 

「すまねえ、分かったよ。話そう」

 

 相談することで何か不利益でもあるのかもしれない。たとえばデリケートな話で、広めてはいけないものなのかもしれない。

 だがそんなものはリュドミラより大切なものじゃねえんだ。俺の信頼なんて、リュドミラからさえあればいい。

 

 二者択一なら、俺はもう迷わない。

 

 

 

 

 

『待ってくれ。ケルシーと恋仲になったのか?』

 

「いや、違う。違うんだが、ちょっと複雑な関係なんだよ」

 

『……また今度詳しく聞かせてもらうからな』

 

 

 

 

 

『大体事情は分かった』

 

「おう」

 

『ケルシーが言わんとするところも理解したし、その同僚が何を思っているのかも分かった』

 

「マジかよ!?」

 

『──不愉快だな』

 

「……へっ?」

 

 一瞬俺に言ったのかと瞠目する。

 だが、リュドミラはちゃんとしたいい子だ。俺自身が理解できていないことでは怒らないし、怒る相手を見極めようとしてくれる。

 うむ。やっぱリュドミラは最高だな。

 

 バカみてえな思考をしていると、端末の向こう側からため息をついたような気配がした。

 

『なんでもない。ただ、そうだな……』

 

 何かを悩んでるが、どうやら全てを俺に伝える気はないらしい。ケルシーの言葉を疑ってたわけじゃねえが、助言をもらうことそれ自体が良くはないみてえだな。

 やがて吟味を終えたリュドミラが告げる。

 

『何を思っているのかではなく、何がしたいか。それを聞けばいい』

 

「何が、したいか」

 

 噛み締めるように繰り返した。

 ワルファリンはどうして俺の部屋の前で座り込んでいたのか。どういう経緯であの場から逃げ出したのか。何に悩み、何故俺に寄りかかろうとしたのか。

 その答えが、これで分かる。

 

「ありがとな、リュドミラ」

 

『いいさ。だが、くれぐれも、恋人なんて作ってくれるなよ。今のローンに彼女でも出来ようものなら、ショックが大きすぎる』

 

「そりゃ酷えな。まあ、リュドミラに彼氏が出来たら紹介してくれ。まず俺が審査する」

 

『ああ、そうだな。そうしてくれ』

 

「それじゃまたな、リュドミラ」

 

『そうだな、ローン。愛している』

 

「俺もだよ」

 

 ぷつ、と通話が切れた。

 充足感を振り切って立ち上がる。

 

 リュドミラが示してくれたものは本来俺が見つけるべきだったのかもしれねえ。つーかその方が良かったんだろう。

 だがそれでもワルファリンのことが気掛かりでしょうがなかったんだ。許してくれ、ケルシー。

 

 ワルファリンのそれはきっと俺が蒔いた種なんだろう、となんとなく思う。

 だから俺にはそれをどうにかする責任があるわけだ。

 そんでもって責任を果たすのは、親として──リュドミラの親として、当然の務めだからな。

 

 

 探せばすぐワルファリンは見つかった。

 何やらデータを弄っていたが、ワルファリンに用があると言えば、ケルシーの裁量で先に上がることとなった。

 

 それなりの時間だがまだまだ医療部は動いているらしい。この分だと夕食も食ってねえだろうからと食堂に向かう。

 

 仕事は大変だろう、体を壊すことはないのか? 食事は摂ってるんだろうな?

 道すがら問いかけたが、返ってきたのは沈黙だった。

 

 食べ終えて今度はバーに行く。

 渋っていたが、強引に手を引いて連行した。

 

 ここのマスターは空気が読める男だ。

 俺とワルファリンの様子を見てすぐ、個室を案内した。上品な酒を嗜みながら秘密の話ができる、そんな場所へ。

 

 L字の椅子に腰を落ち着けてしばらく日常会話で場を繋ぐ。ようやく観念したようで、ワルファリンは少しずつ喋るようになってきた。

 

「どうだ、今日の日替わりカクテルは。美味いか?」

 

「少し甘すぎる」

 

「そりゃ残念だ」

 

 上品な酒の良し悪しは上品な輩にしか分からない。高いのを頼んでもどうせ分かんねえから、俺は一番安いものを飲んでいる。ナッツが美味え。

 

「それじゃ、そろそろ本題に入るとするか」

 

「ああ。いい加減妾もそれを聞きたかったところだ。何のために連れ回してくれたのか、とな」

 

 貴重な時間奪ってすまん、ってのは最初に言ったじゃねえか。割とねちねち言うよなお前って。

 

「単刀直入に言おう。お前は、何がしたい?」

 

「……」

 

「お前は一体何を諦めたんだ?」

 

 考えるまでもなく、ケルシーがドラッグに喩えたものは恐らくそれだろう。それさえ分かればワルファリンの気を楽にする手伝いくらいはできる、はずだ。

 

「分からないな」

 

「……何がだ?」

 

「今の妾がどうすればいいかなど、とうに分からなくなってしまった」

 

 今朝と同じように、悲しげに俯く。

 自身が甘すぎると評したカクテルを飲んでさえ、その顔は苦々しいもののままだった。

 

 その追い詰められたような表情が、少しだけバベル時代のワルファリンと重なった。混ざった感情が醸し出す、かつてのリュドミラのような雰囲気。

 

「懐かしい、な」

 

「懐かしいっつったって、一年かそこらだろ?」

 

「そんなものか。それで、どうして今それを?」

 

 ちょうどよく俯いていたモンだから、つい撫でちまった。

 

 そう笑って誤魔化す。

 本当はそんな顔をしてほしくなかっただけだ。だがまあそれは完全に俺のエゴで、余計なお世話だろう。

 

 撫でていた手を離すとワルファリンの雰囲気は変わっていた。ウニのように棘だらけなものから、纏わりつく蛇のような雰囲気に。

 

「──始まりは、あの時。引っ付いた子供の頭を豪快に撫でる男を見て、『あの男がそうか』と。そう思ったんだ」

 

 ぽつりぽつりと、ワルファリンが話を始めた。

 

「あの女が慕情を抱く男だ。興味が湧かない道理はなかった。話しかけて、その話が弾んで、気持ちの良い男だなと思った。妾を子供扱いしたことも不思議と嫌ではなかった」

 

 あの男。誰のことだろうか。

 あの女。誰のことだろうか。

 

「あの女が向ける鬱屈した感情に辟易として、けれどそれが優越感になった。隠れているあの女が、今話している妾を羨ましく思っているかもしれないなどと、そう思った」

 

 具体的な話だ。

 全容はカケラも見えて来ないが。

 

「それは事実だったのだろう。気付けば妾にキツく当たるようになっていた。男と親しく接するのは、頭を撫でられるのは、妾を罰したことへの意趣返しのつもりだったが──いつのまにか、それは逆転していた」

 

 小悪魔ワルファリンってか?

 大して間違ってねえな、悪魔(サルカズ)だし。

 

「何か変なことを考えてはいないか?」

 

「何でもねえよ。続きを話してくれ」

 

 ワルファリンは疑わしそうに俺を睨んでいたが、すぐにまた話し始めた。

 

「しばらく経って、ある日のことだ。男はバベルに寄っていた。だが妾は何も聞いていなかった。妾が預かり知らぬところで、男は他の女と会っていた。それがただの仕事であっても、妾は言い知れぬ焦りと混乱を感じていた」

 

 自嘲するような笑みを浮かべる。

 

「あの女──ケルシー先生が感じるそれと全く同一であると分かったのは、それからすぐのことだった。ただの仕事で、嫌がらせだったはずの行為が、(こと)(ほか)妾にとって大切な時間だったらしい」

 

 バベル。ケルシー。慕情。

 何だか知らねえけど、胸が騒ぐ。

 

「諦めてやるつもりだったんだ。妾は酷い理由でその男を好きになった。横恋慕などするつもりもなかったし、ケルシー先生が素直になればそれで良かった。だがいつまで経っても隠れたままだった。いっそくっ付いてしまえと思いながら、しかし別の部分では男が独りだということに安心していた」

 

 待て、待てよ。

 その話振りだと、お前が好きな相手は……。

 

「まだ必要か? 妾が何を思い、何がしたかったのかはもう理解できただろう? だからこそ分かるはずだ、妾がもう理性と感情の袋小路に居ることを」

 

 ワルファリンは俺のことを、好きなのか?

 

 ケルシーが好きなのは、紛れもなく俺だ。バベル時代からそうだったというのも聞いた。であれば、本当の本当に、ワルファリンが俺のことを好きだって?

 

「嘘だ、ありえない」

 

「それではなんだ、接吻(キス)の一つでもしてやれば信じるのか? ──冗談だ。引いたか?」

 

 二の句が告げない。そんな状態の俺を見て、ワルファリンはけらけらとおかしそうに笑った。

 

 どこか振っ切れたようだったが、解決したわけじゃねえのは明らかだ。明らかに無理して笑っているのが見てとれた。

 

 オーケー、分かった。

 こんな時は最悪と比較するんだ。

 

「ケルシーよりはずっと理性的だ。そうだ、ケルシーよりはずっとマシだ。よし。引いたわけじゃねえ」

 

「ケルシー先生より、か。妾をそう喜ばせて何がしたい?」

 

「冗談じゃねえさ。俺を罠に嵌めて、酔いつぶして、強姦したあいつに比べればな」

 

 今度はワルファリンが何も言えなくなった。文字通りの絶句で、見事に驚いていた。そりゃそうなるよな、誰だって。

 

「そ、その上で近づいたのか……? もしや、そなたは真正のアホか……?」

 

「今そのことは関係ねえだろうが!?」

 

 ケルシーの話だろ!?

 

「流石にそこまでの勇者とは思っていなかった。ちょっぴり引いたぞ」

 

「まずそんなことをしたケルシーにドン引きしろよ!」

 

彼奴(あやつ)はそなたのことならそれぐらいやりそうだと納得したが?」

 

 アイツ割と信用されてねえのな!?

 

「はーっ、はーっ……そんで、どうすんだよ」

 

 ちょいと興奮しすぎたっつーことで水を飲んで、ワルファリンに向き直った。

 

「何の話だ」

 

「何がしてえのかって話だ。俺はお前のことが放っておけねえからな。さっさとすっきりさせる──のは難しいかもしれねえけど、どうにかしてやりたい」

 

 責任を持ってどうにかする。思った通りワルファリンの問題は俺が深く関わってるモンだったわけだから、どうにかしてやる他ないだろ。

 具体的な手段は何一つとして浮かばねえけどな。

 

 だがそれは俺の方だけで、ワルファリンは色々考えついていたらしい。いや、だからこそ迷っていたのか。

 

「まず一つ、そなたと結ばれたい」

 

「……おう」

 

 反応に困る。

 

「次に一つ、ケルシー先生とそなたをくっつけたい。つまりは、道理に従って元通りにしたい」

 

 ワルファリンに我慢させんのは、嫌だな。

 

「最後に一つ。そなたを愛したい」

 

「なんだ、それ。一つ目と何が違うんだよ」

 

「そうだな。三つ目のものは、ある意味一番我儘な選択肢だろう」

 

 我儘? 一つ目のものと同じように、ケルシーより後のくせに掻っ攫うことが、か?

 

「順を追って話そう」

 

 ワルファリンが指を一つピンと立てる。

 なんつーか、研究者っぽい仕草だ。それが調子を取り戻してるってことなら最高だと言ってやるが。

 

「一つ目は、後ろめたい案だ。ケルシー先生に対して申し訳ない。きっと何故自分は諦めなかったのだと後悔することになるだろう。だが、それを選びたいという気持ちも弱くはない。難儀なものだ」

 

 選びたい気持ちは強いが、選びたくない理由が大きいってとこか。ワルファリン自身が出し抜いたことを納得できねえんなら、まあナシなんだろうな。

 つーか俺の意思どこ行った。選ばないみてえだから深くは聞かねえけど。

 

「二つ目は、無難だな。今まで通り妾だけが我慢していればいい。焦がれることはあっても、一番自分に納得がいくのはこれだろう」

 

 選びたくない気持ちはあるが、選ぶべき理由があるってとこだな。

 

「三つ目は、我儘だな。そなたには一旦ケルシー先生に応えないでいてもらう。その上で、妾からのアプローチを許してもらう」

 

「するってえと、どういうことだ?」

 

「妾とケルシー先生で、競争をすることになるだろう。どちらがそなたを手に入れられるか、とな」

 

 悪くはない案だと思うけどな。

 ワルファリンの顔はあまり肯定的でない。

 

「それのどこが我儘なんだ?」

 

「では聞くが、行列に横から割り込んで、誰が先に入店するか公平なゲームで決めよう、と言う者が我儘でなくて何と言う?」

 

 その二つは同じか? 俺からすりゃ、全く別のものに思えるんだが。

 まあ、ワルファリンが納得できないんだったら仕方ねえとは思うけどよ。

 

 ワルファリンの説明を頭の中で吟味する。

 だが、俺の意見は変わらなかった。

 

「俺は断固として二番目を拒否したい」

 

「そうか、妾から好かれたいか。仕方がないヤツだ」

 

「自尊心高えなおい!? 俺はお前に我慢なんてしてもらいたくねえし、色々間違ってると思うからだっての!」

 

「そう言っておいて告白すれば振るのだろう。恋愛弱者は理想が高すぎるのが困りものだな」

 

「その通りだが、まあ、その通りだな……」

 

「ざ〜こ♡」

 

「!?」

 

「それでは気を取り直して──とは言ってみたが、実際残る選択肢は三つ目くらいだな?」

 

「お、おう。俺もそれがいいと思う。つーか俺はワルファリンのことを子供としてしか見てねえから、一番目は普通に無理だ」

 

 グラスを傾ける。

 ちょうど、それで空になった。

 

 途中から、結論が出る前からワルファリンは元気そうだった。それが俺と話していたから、と考えるのは流石に自惚れだろう。

 言えなかった恋心を打ち明けたことで楽になったか。

 

「ケルシー先生と妾で取り合い、か」

 

「ハッキリ言われるとむず痒くて仕方ねえな」

 

「妾も同じようなものだ。全く気恥ずかしい」

 

 そう言って笑うワルファリンは、もう大丈夫だろうと確信を持てるほど清々しい顔をしていた。

 ああ、その顔の方がずっといい。

 

「さて、それじゃあもう話は終いか」

 

「そうだな」

 

「それ飲み終わったら会計でいいか?」

 

「ああ、問題ない」

 

 ワルファリンが持つグラスも、もう少しで空になる。

 ケルシーには怒られちまったがなんだかんだで収まりがついたと、少し安心した。

 

 ワルファリンが明日から笑って過ごせるように、なんてヒーロー意識はねえけど。それでも、そうなったらどんなに良いことか、とは思うんだ。

 

「おい、頬に何かついているぞ」

 

 思考を止めると、ワルファリンが俺のそばに寄って手を伸ばしていた。

 

「あん? おお、」

 

 すまねえな。

 そう発音するには、邪魔なものがあった。

 

 狭い個室の中に繰り返し水音が響く。頬に添えられていた手はいつのまにか頭の後ろにまで伸びていて、逃げられない。

 暖色の明かりに照らされたワルファリンの頬は、それで誤魔化しが効かないほどに紅潮していた。

 

 ロドスのバーは普通オペレーターしか利用しないこともあって、防犯設備がいい加減だ。例えば内からかけられた個室の鍵はロドス全艦のマスターキーでしか開けないし、その個室の中に防犯カメラは存在しない。

 

 ようやく口と口が離れた。

 子供だちびっこだと今まで言ってきたが、濃厚なキスで腑抜けた俺が抗えないくらいには、ワルファリンの力は強かった。

 

「いくら妾が後から好きになったとは言え、このまま号砲が鳴ってスタートでは余りにもアンフェアだろう?」

 

「お前、何して……っ!」

 

「ケルシー先生にこうされたと言っていたからな」

 

 妖艶な緋い瞳が俺を貫く。

 陶器のように、いや、ひょっとするとそれよりも真っ白なワルファリンの肌と、対照的な紅色。

 

 

 

 

「妾にも刻んでくれ。なあ、ローン?」

 

 

 

 

 美しいと思ってしまったのは、秘密だ。

 

 

 

 

 




 
長いしケルシー先生じゃないしたぶん分かりにくいし久しぶりの更新だし、良いところがない。
妾ちゃんがかわいいということを除けばな。


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ロドスで生活するトランスポーターがケルシー先生と語らう話

 

 

 

 

 

「よう、ローン。調子はどうだ?」

 

 

 仕事が終わり一息ついているとそんな声が聞こえてきた。

 同業のヤツらはほぼ全員が出払っていて、だから今の俺には誰も声なんてかけるはずはねえんだが。

 まあ、声からして誰なのかはわかってるけどな。

 

 振り向いて目に入ったのはドクターだ。

 覆面の不審者こと、ロドスの戦術指揮官。

 

「おう、まあそれなりってとこだ。……あーっと、ドクター。あんまし格式張った話し方は得意じゃねえんだが、それでもいいか?」

 

「その方が俺も気楽でやりやすい。是非そうしてくれ」

 

「そうかよ、ありがとな」

 

 ドクターについてはロドスで生活してりゃ嫌でも耳に入ってくる。

 その噂は大多数が好意的なもので、残りが単なる噂話。

 それだけじゃねえのかもしれねえが、ケルシーが顔を顰めながらも評価してたからな。

 たぶん凄えヤツなんだろう。

 

「そんでドクターはどうしてここに? 俺はもう仕事が終わるからな、用を手伝うくらいなら出来るぜ?」

 

「それなら付き合ってもらおうか。ロドスの食堂には裏メニューってのがあってな、それでも食べながら話そう」

 

「なんだ、依頼か?」

 

「そう構えなくてもいい。ただの食事だ」

 

 上司とサシで飲み食いする。

 正直言って苦手な話だ。

 龍門の時の上司は粋なヤロウだったから良かったが、その前の職場は酷かった。

 

「そんなに警戒されるなら最初から言っておくか。俺はケルシーについて話が聞きたくて誘っただけだ。野次馬根性だな」

 

「ああ、そりゃ確かに聞きたくもなるわな」

 

 俺だってあのケルシーが野郎を好きになったって聞けば気になって仕方がねえはずだ。

 アイツは数字だとか理想だとかに恋焦がれるようなタイプで、恋愛の話題なんて出せば唾でも吐きかけられちまうようなヤツだ。

 ……そういうヤツだった。昔は。たぶん。

 

「それにしてもケルシーの話か」

 

 ふと思い返す。

 最近ようやく落ち着いては来たが、少し前はずっと濃い日々を送ってたってモンだ。

 ケルシーについてより知った日々だった。

 

 ロドスの採用試験を受けたあの日から始まって、落ちたことをリュドミラに誤魔化して、ケルシーに襲われ、そんでもってロドスに連れてかれて。

 そんでケルシーを慰めてやって、ワルファリンの相談に乗ってやって。

 

 おう、それで、ケルシーの話か。

 

「そういや聞いてねえな」

 

「何のことだ?」

 

「いつから俺に惚れてたのか、どうして惚れたのか。それは聞いたことねえんだよ。どんだけ惚れてんのかはもう十分分かったけどな」

 

「ほーん。それはいいことを聞いた。今度バーにでも誘おうか、その時にまた聞くからな」

 

「おう。基本いつでも空いてるぜ」

 

 端末を差し出す。

 別にメールくらいなら社内用のモンを使えばいくらでも送れるが、俺はそいつでプライベートな会話をしない主義だ。

 トランスポーターの経験からか、指令内容は勘違いだとか齟齬がないように何度も確認しねえと落ち着かない。

 だから分けてるってわけだ。

 

「酒の誘いはこいつで頼む」

 

「分かった。彼女ができたら教えてくれよ、隠蔽の手伝いくらいはできるからな」

 

「おいおい、俺がそんなクズに見えるかよ? もしそんなことになったらきっちり説明してやるさ」

 

「さてはローン、それが何を引き起こすのか分かってないな?」

 

 ドクターがぐっと声のトーンを下げた。

 そうなったらどうなるって、失恋して落ち込むんじゃねえのか?

 

「答えは一つだ。ロドスが崩壊する」

 

「はあ?」

 

「崩壊する」

 

「……ああ、なんだよそういうことか!」

 

 ちょっとばかし時間はかかったが理解した。

 そう深く考えることでもねえんだ、これは。

 

「おう、そういうことだ。分かってくれたか」

 

「ドクターは冗談も芝居も上手えな!」

 

「あっはっはっは」

 

「あっはっは」

 

 あっはっは。

 

「絶対彼女作るなよ、お前」

 

「えっ、お、おう……」

 

 いきなり冷静になるなよ。

 びっくりしちまうだろうが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドクターと離れてから少し。

 俺はケルシーと星夜を眺めていた。

 

 冷えた外の空気が頬を撫でる。

 欄干の向こうには月に照らされたテラの大地が幻想的な雰囲気で佇んでいる。

 どちらからともなく俺たちはグラスを持って、綺麗な音を響かせた。

 

 どんな設計士が建築したのかは分からねえが、なんともまあ成し遂げたモンだ。

 これほど雰囲気のいいバルコニーは初めてかもしれねえ。

 夜の静けさがより一層際立てている。

 

「綺麗だな」

 

「ああ、そうだな」

 

 俺の言葉に頷いたケルシーはどこか不満そうだ。

 ここ最近は忙殺されて話す機会がなかったからか?

 

 それとも、こうか。

 

「雰囲気は最高で手にした酒も最高だ。そんでもって景色も綺麗なんだが、一つだけ配慮が足りてねえ」

 

 何を言い出したのか、とケルシーが首を傾げた。

 

「お前の目には映らねえから分かんねえのも仕方がねえな。……景色より綺麗なモンを俺の目の前に置いちまったらそいつだけに視線が行くんだよ、ケルシー」

 

 気障ったらしいセリフだ。

 シラフでこれを言うヤツは頭のネジが飛んでるな。

 酒が入っていたとしても、言いたくはない。

 

 だからまあこれは、こんなに良い場を提供してくれやがったケルシーへの礼だ。

 

「顔が真っ赤に染まってんのは酒のせいだ。そうだろ?」

 

「……いいや、ただの酒じゃない」

 

 小さく口に含んで嚥下する。

 いつになく妖艶な風に、ケルシーが言う。

 

「お前と飲む酒だからだ。私の全ては、お前と飲む酒のせいだ」

 

「おいおい、たかが酒にどれだけの罪悪を背負わせるつもりだよ」

 

「罪なのはお前もだろうに」

 

 いけねえなぁ。

 今夜はどうにも酒の回りが早い。

 顔が熱くて熱でも出てるみてえだ。

 

 どうやらそれはケルシーも同じようだけどな。

 

「……このままでは本題を忘れてしまいそうだな。何か聞きたいことがあるんだろう、ローン」

 

 ケルシーが顔を手で仰ぐ。

 頬の熱を覚まそうとしてるんだろうが、顔はずっと赤らんだままだ。

 

「気をつけることだ、今の私ならきっと何だって話してしまうだろうからな。PRTSの権限は流石に渡せないが、口座番号くらいならば話してしまうやもしれん」

 

「情報管理どうなってんだよ!?」

 

「冗談だ」

 

「……本当かよ」

 

「ローン、お前が実際に聞きさえしなければ冗談のままだ」

 

「絶対に聞かねえからな覚悟しろよ」

 

「ちなみにオススメは理想の告白(プロポーズ)だ」

 

「聞かねえよ」

 

「そうか」

 

 どことなく悄気た雰囲気を出す。

 そんなモン聞くと思ったら大間違いだぜ、ケルシー。

 

「プロポーズすんなら自分で考えて実行するさ。予定調和も悪かねえけどよ、それじゃ一味足りねえ。それともなんだ、ロマンチックは嫌いか?」

 

「……お前となら、悪くない」

 

「そうかよ。ありがてえことだ」

 

 フォークと皿がぶつかる。

 清涼な風がケルシーとの間を抜けて行く。

 二人の空気がどこかへと流れていく。

 

 高級な場所でのマナーは大体覚えた。

 それが必要になる依頼も時としてあったからだ。

 最初の頃は夜なべして頭に詰め込んだが、今では自然に動けるくらいにまでなった。

 まさかプライベートで使うことになるとは思わなかったけどよ。

 

 ケルシーの方を伺う。

 食事のペースだとか、相手の機嫌だとか、そういうことまで考慮してのマナーだ。

 事前にプログラムした命令通りに動けばいいってモンじゃねえ。

 

「なあ、ケルシー」

 

「なんだ」

 

「お前は何処を目指してんだ?」

 

 ケルシーの手が止まった。

 これは雰囲気をぶち壊す発言だろう。

 そう思っても、俺の口は止まらなかった。

 

 本当はどうして好きになったのかを聞くつもりだったんだ。

 どうして俺なんだって聞いて、そんなことかよって言って、笑ってるケルシーでも見てやるつもりだった。

 

 薄い闇のベールにかけられたバルコニー。

 ケルシーの口は真一文字に閉じられていて、唯一動くものはただ俺の口だけだった。

 

「俺はずっと前のお前と今のお前しか知らない。バベルに居た頃を知らないんだ。だからただの噂程度だが、随分と良い思い出があんだって聞いた」

 

「それがどうした」

 

「例えばの話だ。俺がもしお前の旅路の道連れになったとして、俺はそれを見ることが許されるのか?」

 

 俺は昔のケルシーを知っている。

 だから今のケルシーがどこか違うってことを分かっている。

 それは雰囲気であって、所作であって、色々な部分がとにかく違う。

 

 それはきっとケルシーが目指している何かが深く関係している、ように思う。

 それが答えだと断言はできねえけど、俺の感覚が正しければケルシーはバベルの頃から変わってねえんだ。

 

 

 それなら、俺はいいのか?

 

 ケルシーの隣に居座ったとして、そんな大事な期間を丸ごと離れていた俺に同じ方向を見させてくれるのか?

 

 それを、ケルシーは許せるのか?

 

 

 気になってはいたんだ。

 言い出す勇気だけが致命的に欠けていて、それは今夜だって同じはずだった。

 口からこぼれ落ちた。

 

 それはきっと悪いことじゃねえんだ。

 心の準備は出来てねえんだが、この際だ。

 最後まで聞いてやるさ。

 

「ああ、その通りだ」

 

 ケルシーがゆっくりと口を開いた。

 

「私は許せないだろう。彼女との日々に一欠片だって関わりを持っていない者が眺望を共にするなど……冗談にもならない。私の全てを、そう易々と他人に取り分けることが許せるものか」

 

 目の奥にどろりと溜まった執着の感情。

 ケルシーは俺と同じかそれ以上に、バベルを大切に思っている。

 それが悲しいことだとも寂しいことだとも俺は思わない。

 いや、バベルが崩壊したことに関しては残念だが、そういう思い出がある分には良いことに決まってる。

 

 つーことは、だ。

 俺はケルシーの隣に立てねえよ。

 それこそドクターあたりが適当で、部外者の俺にその席を楽しむことはできない。

 

「ただ、これはお前の観点だ」

 

 ……それ以外の事実があるってのか。

 俺がお前に関わってもいい、その証拠があるってのか。

 

「私とお前は確かに接していない、接していないが──一方的な観察はずっと行っていた。ローンが訪問する際には必ず監視カメラを穴が開くほどに見つめていた」

 

「自首なら警備部でやってくれ」

 

「私の日々にローンは存在していた。それがどれだけ一方的であれど、私はその事実のみを認めている。他の誰が許さずとも私だけは許してやる。お前はもはや私を形作る一要素なんだ」

 

 ケルシーが小さく笑みを浮かばせる。

 俺の顔を見て、さも嬉しそうな顔をして。

 

「つまり、どういうことだよ」

 

「お前は私の隣に立ってもいいということだ。いつでも空いている、ローンが望むならばいつだって座らせてやる」

 

 クソッ、バレてんなぁ。

 俺だって真剣に悩んで気遣ってやってたってのに。

 

「その椅子、ジェットコースターばりの安全装置が付いてねえか? 絶対に外せねえようなヤツが」

 

「さあな。座ってみれば分かるかもしれないが」

 

 ケルシーが不敵に笑う。

 

 ああ、そうだ。

 こいつはこういう笑い方をするヤツだった。

 

 風がまた間を抜けていく。

 冷えた夜の空気が熱を冷ます。

 

「なあ、ローン」

 

 ケルシーが夜空を眺めた。

 つられて俺も星の海を見上げる。

 星々が空を埋めるテラの空は、どこまでも続いてんじゃねえかって錯覚するくらいには深くて遠い。

 

「月が綺麗だな」

 

 空に月は見えない。

 ケルシーの席からなら見えるってわけでもない。

 雲に隠れているか、バルコニーから見える景色が北側なんだろう。

 

 そう高い教養を身に付けているってわけじゃねえんだ。

 その目がいつのまにか俺の方を向いていたことで、ようやく気が付いた。

 

 迂遠な言い回しは苦手だ。

 本音を隠して語る話に何の意味がある。

 相手に認識を委ねることのどこが謙虚だ。

 ただの甘えだ。

 きっちり分かるように話せ。

 

 そう思ってきた。

 俺の人生には衝突が多かったが、分かり合えることだって多かった。

 全部俺の言葉が本音だったからだ。

 そのことに俺は自信を持ってる。

 俺がそういう人間なんだって胸を張れるくらいには、俺はその直接的な言い方を使ってきた。

 

 それでも、今日だけは。

 今日だけはその縛りを緩めたい。

 

「月が綺麗か。ケルシー」

 

 グラスを手に取った。

 夜空とケルシーから逃げるように、暗い紅色のワインを見つめる。

 歪んで見えない向こう側の目が微かに細められたように思えた。

 

 直接言うには覚悟が足りねえ。

 直接見るには度量が小せえ。

 

 だから俺は目を塞いで口を開いた。

 

「夜を待てば、俺にも見えるかもしれねえな」

 

 ケルシーは何も答えなかった。

 俺の答えが予想の内にあったか、それとも答えられなかったか。

 怜悧な顔が告げるものは余りにも少ない。

 俺はこいつの胸の内を理解するのは随分と前に諦めちまった。

 もう何もわからねえんだ。

 言葉以外に信じられるものは、記憶の中にある火傷しそうなほど熱い体温と、目に映っていた暗い肉欲の炎。

 

 

 

 ただ、そんな定かじゃねえことばかりの中で、一つだけ分かっていることがある。

 

 

 もし俺に月が見えたとしたら。

 

 

 きっとそれは世界の何にも代え難いほど、綺麗なものだということだ。

 

 

 

 

 

 

 どうにも俺の頭は雰囲気に流されやすいらしい。

 気障で仕方がねえ台詞の羅列を頭の中から追い出して、ケルシーの顔を見つめる。

 

「さっさと本題を切り出したらどうだ。私もお前も、時間は有限に相違ないだろう?」

 

「今のが本題かもしれねえだろ?」

 

「そこまでデリカシーがない男に親が務まるものか。第一、私がどれだけお前を見ていたと思っている。推察できて然るべきだろう」

 

 またこいつは歯の浮くような台詞を平然と言いやがって……それが悪いなんて言うつもりはねえけど、小っ恥ずかしいんだよクソが。

 

「つーか、その理由だ」

 

「具体的に言ってもらおうか」

 

「お前が俺を見てる理由だクソバカ」

 

 デリカシー云々言ってるけどよ、俺からしてみればお前だって研究者気質が抜けてねえぞ。

 別に直せだなんて言うつもりは毛ほどもねえけど。

 なんつーか、それは嫌いじゃねえから。

 

「……古来より、生物に始まりと終わりは不可分だ。最も代表的なもので言うなれば生と死であり、それは数ある哲学の題目の中でも間違いなく一番に卑近であると言える。そしてそれこそが、進化を続ける生物の不完全である所以だろう」

 

 長えな。

 ケルシーの話が長い。

 いつものことだけどよ。

 

「ガリア帝国はテラを支配できるほどの大国であると、かつてリンゴネスの人々は謳っていた。実際に世界中の人々がガリアの言葉を話し、ガリアの文化は目覚ましい発展と普及を遂げていた。しかし一つの失敗を鍵に衰退の一途を辿り、今では完全な滅亡を遂げている」

 

「次はリターニアの話か?」

 

「いいや。今話していたことはつまり、この世界には不完全であることが終わりを連れてくるという一種の法則についてのことだ」

 

 最初からそう言えよ。

 ……なんとなく、分かってきた。

 こいつが今とんでもない長話をぶっ込んできた理由がわかってきた。

 

「不完全なものが完全になる可能性。それは確かに存在しうるかもしれないが、しかし私はこう考える。完全となる可能性を欠いているからこそ不完全なのだと。濫觴が不完全であるのならば、必ず結末が訪れるのだと」

 

「お前緊張してんだろ」

 

「……」

 

 ケルシーの目が小さく見開かれる。

 すぐに持ち直したみてえだが、俺には分かる。

 今のは図星だった。

 

「さて、もう一つ。私はお前に出会ってからの約二十年間、不断にその恋慕を隠していた。初めの十年は戸惑い、抑圧し、調子を掻き乱すお前に呪詛さえ吐いていた。忌々しいものだと嫌っていた。それでもその感情は私の中で消えなかった」

 

 突然カミングアウトするには重すぎんだろうが。

 初めの十年ってことは俺がめちゃくちゃお前の依頼受けてた頃だぞ。

 リュドミラの学費稼がねえといけなかったし。

 

「ようやく受け入れ、そして諦めたのは私がバベルで活動していた頃の話だ。いや、違う。抵抗する必要がなくなったんだ。お前を諦めることが出来ると確信していたから、私は心の枷を一つ外した」

 

 逃げ切ったってわけか。

 なんつーか、現実感がねえな。

 急に二十年だかの話をされても、俺の中ではほんの少し前まで付き合いのある研究者としてしか見てなかったからな。

 

「なあ、ローン。何故現在に至るまで想い続けることが出来たのか、分かるか?」

 

「冷めなかったから……って答えじゃねえんだよな。だったら分かんねえよ、そもそもそれに理由なんてモンがあるのか?」

 

 人が人を好きで居続けることに理由なんてものがあるのか?

 

「答えは完全だからだ」

 

「なんだって?」

 

 完全ったって、意味が……

 

 

「私が、完全無欠に、その体も心も在り方も、お前の全てを愛しているからだ」

 

 

 ケルシーが言い切った。

 言い切りやがった。

 

 酒の勢いだか何だか知らねえが、とにかくそれは真っ直ぐ俺の耳まで届いた。

 そんで俺の脳を揺らしやがる。

 

「全てって、お前」

 

 言葉が上手いこと出てこねえ。

 次に何を言えばいいのかさっぱり分かんねえ。

 

 それは間違いなく本音だった。

 若造が口にする全てとは重量が違う、命でも賭けてんじゃねえかと思うほどにズッシリとその告白は伝わった。

 

 洒落た言い回しには慣れていた。

 生まれ故郷のサルゴンで富裕層のある女と関わりがあったからだ。

 今ではもうオバサンだが、アイツと過ごした青春は正にそんな気障ったらしい言葉ばかりだった。

 

 だから、その言葉は新鮮だった。

 一分の冗談やお世辞すら介在しない、純粋すぎる好意の暴力。

 馬鹿みてえに俺のことを好きなんだって伝わってくる。

 感情丸ごと込めたみてえな力強さで心臓を直接揺さぶってくる。

 

 夜の冷えた空気がありがてえな。

 けどよ、顔の熱さがいつまでも取れねえんだ。

 まともにケルシーの顔を直視できる気がしねえんだよ。

 

「今宵の風は妙に冷えているようだ」

 

「……酔い覚ましにはぴったりだな」

 

 軽口を叩いて小っ恥ずかしい雰囲気を流そうとする。

 立ち行く時は俺たちに何も与えず、何も奪わない。

 

 既に二度も同じ夜を経験した俺とケルシーが、朧に霞む宵の中、視線を合わせては離す。

 どうにもそれが初々しい恋人のように思えて、顔の熱さが更にしつこく存在を主張する。

 

 ランプは付けない。

 つーか、付けられない。

 

 赤みがかった顔を直接見てしまえば、もう酒のせいなんてことは言えなくなっちまうからだ。

 ほんの少ししか減っていないグラスを見てしまえば、それが酒のせいだなんてことがありえねえんだって分かっちまうからだ。

 

「愛している」

 

「……月の話じゃなかったか?」

 

「迂遠な物言いを専売特許としていることは認めるが、偶にはこのような言い方も悪くはないだろう?」

 

 あー、はいはい。

 負けだ、今回ばかりは俺の負け。

 火照りが治らねえんだよ、馬鹿野郎。

 

 俺とケルシーが同時にフォークを皿に置いた。

 酒は、これ以上顔が熱くなっても困るからな。

 

「聞きたかったことは、もういいのか?」

 

 椅子にかけていたジャケットを羽織る。

 向かいに座ったままのケルシーがそう聞いた。

 

 振り返ると、如何にも学者然とした部屋が俺を見返していた。

 呼ばれた時はここで何かやるのかと身構えたモンだが、今日はただの食事に終わったようで何よりだ。

 ここはバルコニーがあるように宿舎からは少し離れていて、俺の自室までちょいと距離がある。

 早めに帰らねえとな。

 

「ああ、俺が聞きたかったことは全部聞いたさ。随分と話し込んで遅くなっちまったし、さっさと帰って寝ることに……」

 

 あ、あれ、どうなってんだ?

 バルコニーより幾分か暖かい部屋の中、どうしてか冷や汗が止まらなくなった。

 

「なあ、ケルシー」

 

「どうした」

 

「ドアの建て付けが悪くてよ、開かねえんだ」

 

「果たして建て付けが理由だろうか?」

 

 耳元にかかる吐息。

 いつのまにかバルコニーから俺の背後に移動したみてえだな、どんな手品を身に付けたんだ?

 

「もう帰ってしまうなどと寂しいことは言ってくれるなよ?」

 

「い、一旦落ち着いた方がいいんじゃねえか?」

 

「言ったはずだ。二人きりの空間では自制することも難しいほどの欲情に襲われてしまうことなど、既に伝えているはずだ。それにも拘らずのこのこと訪れたんだ、そうされる覚悟はとうに出来ているんだろう?」

 

 ケルシーの手が俺の腕を掴む。

 

 逃げ場はない。

 助けはどうしたって来ない。

 

 仕方ねえだろ、俺も気になったんだよ。

 俺のことを好きになる理由なんてどこにあんだって思って聞きたくなっちまったんだよ。

 

 なあ、だから許してくれよ。

 

「駄目だ。観念しろ」

 

 ケルシーが俺を抱き寄せて、口を塞ぐ。

 舐るようなキスが頭を揺らす。

 

 突き飛ばされた先で俺を受け止めてくれたのは革製のソファ。

 おいおい、良い値段しそうだな。

 ……これを汚すのかよ?

 

 ケルシーは再度俺の口を塞ぎながら、服をズラして覆い被さった。

 ケルシーの腕が顔の横に置かれて。

 酸欠になりそうな頭で、俺もケルシーを抱きしめ返した。

 

 

 

 俺はクズだった。

 それをリュドミラに救われた。

 俺は生きていても良いんだって、それを肯定してくれた気がしたんだ。

 

 ケルシーは恩人だ。

 一番欲しい時に救いの手を差し伸べてくれた。

 リュドミラに俺が必要じゃなくなって、俺の生きる意味が失われたその時に。

 

 

 怖いんだ。

 全部終わったその先に、俺がいる意味なんてないんだろうって思ってから、ずっと。

 リュドミラもケルシーも、ワルファリンだって、本当は俺なんか要らねえんじゃねえのかって思うんだ。

 

 

 

 なあ、だから許してくれよ。

 

 この関係をずっと、続かせてくれよ。

 

 生きていていいって、ずっと。

 

 俺を許し続けてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 願いは口から漏れて、すぐに塞がれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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ロドスで働くトランスポーターが昔の道連れと再会する話

 
久々に感想貰ったから息抜きに書いた。
 


 

 

 

 

 トランスポーターってのは自由な仕事だ。

 

 人種、国籍、年齢。

 三つに加えて、トランスポーターはその他凡そ全ての条項に制限がない。

 運送さえ出来れば、後は信用を得るだけだ。

 それも資格を取ればどうにかなる。

 

 もちろんそれだけで自由ってわけじゃねえ。

 たとえば、期限を守れば運送方法は自由だ。

 歩こうが走ろうがどうでもいい。

 その期限だって品物の大きさだとかに応じてきちんと取ることもできる。

 その判断は資格の受験で学んでるから、正式なトランスポーターは判断ができる。

 

 そんで、実はもっと自由なものがある。

 それはトランスポーターが受注する依頼内容だ。

 俺が以前受けたその依頼はその自由さを最大限に利用したものだった。

 クソ面倒だったが、受注率100%依頼達成率99%に泥をつけるわけにはいかなかったからな。

 

 そのクソ面倒な依頼主が、こいつだ。

 

「やあ、ローン。元気にしてたかい?」

 

 助手席のそいつは何が嬉しいのか泰然と微笑んでいる。

 普通何もなくてそれだってんなら人生楽しそうで何よりなんだが、こいつの場合は勝手が違う。

 

「俺は最近悩みの種が一つ……いや、二つ増えたところだ。お前の方はどうなんだよ、モッさん」

 

「私の名前も忘れるくらい疲れてるみたいだね。いいよ、自己紹介しようか」

 

「要らねえよ。どれだけ一緒に居たと思ってんだ、モスティマ」

 

「これからを含めるなら数十年かな」

 

「断る。お前ほど気難しい子供もそう居ねえ」

 

 微笑んでる顔は楽しいからじゃない。

 効率が良くてウケがいいから、ってだけだ。

 

 子供の頃からこいつは()れやがってた。

 子供っつっても会ったのはたった十年弱くらい前のことだが。

 

 モスティマは勝手に結んだ約束を勝手に履行扱いにして、そしてそのまま消えた。

 それまでの月日を蔑ろにするような、後を引かない最後だった。

 

 リュドミラのやつも悲しがって——は居なかったが、それでも調子が狂ったのは本当だ。

 

 もう二度とごめんだ。

 朝起きて、今の今まで一緒に行動してたやつが煙のように消えるなんて経験は。

 

「手厳しいね。でも、君はまだトランスポーターなんだろう?」

 

 前方、地面から突き出た源石にオリジムシが(たか)っていた。

 何も言わずハンドルを切る。

 

 その言葉の意味が分からないほど、俺も鈍感じゃない。

 最近自分で自分の感覚が信じられなくなりつつあるが——主に(フェリーン)悪魔(サルカズ)のせいで——流石に分かる。

 分からなくちゃいけないことでもあるからな。

 

「黙って居なくなったこと、まだ怒ってるんだね」

 

「当たり前だ」

 

「ふふ、変わらないなぁ」

 

 俺が変わらない、か。

 若者からすりゃ俺はどんどん歳を取ってるように見えるはずなんだけどな。

 

 そういやワルファリンからも言われたんだったか。

 外見と中身は別だ、なんてことも含めて。

 その通りではあるけどよ、それだけじゃねえと思うのは俺だけなのか?

 

「女の子と話している時に他の子のことを考えるのは失礼なんじゃないかな」

 

「さっきも言ったろ。悩みの種なんだ」

 

 頭ん中が透けてんのは昔っからのことだった。

 正直あの二人のことは知られたくねえし、何から何まで話すつもりはないけどな。

 

「それで、お前は今何の配達中だ? 見た感じ荷物なんてないみてえだけど」

 

「見た感じ、じゃなくて荷物なんてないよ。食料と水と着替えくらいさ」

 

「どうやって何もねえ荒野を移動してたんだよ!? それにまだ距離も相当離れてんだけど!?」

 

「今までは使い切りのテント。これからのことは、ローンが居るからそれでいいさ」

 

 路頭に迷う、いや野垂れ死ぬ一歩手前じゃねえか!?

 俺が通りがかってマジで良かったな!?

 

 過ぎたことに慌てる俺とは対照的に、変わんねえ落ち着きっぷりのモスティマ。

 一発殴ってやろうか。

 

「計画くらいちゃんと立てろって前々から言ってんだろうが……」

 

「行く先々で問題起こして折角の計画を全部水の泡にするトランスポーターがそれ言うんだ?」

 

「起こしてねえよ! 起きるだけだ!」

 

「それならそういうことにしておくよ」

 

 余裕ありげに振る舞いやがって、生意気なのは本当に相変わらずなんだな。

 

 その相変わらずな生意気さがちょっと嬉しいのは慣れすぎだ。

 そうなったらもう手遅れだな。

 俺と同じだ。

 

「そういや、リュドミラとは連絡取ってるのか?」

 

「取ってるように見える?」

 

 ンなこと言われたって、見ても分かんねえ──と思ったが、俺まだまともにこいつのこと見てねえな。

 

 

 つって隣に目を向けて、そんで。

 

 

 

 釘付けになった。

 

 

 

「お前……こんなに成長してたのか……」

 

「ふふん、どうだい?」

 

 こいつと初めて会ったのは、たしか三十を超えてからのはずだ。

 それで俺はまだ四十になってねえ。

 

 

 なってねえのに、なのに、こんなに。

 

 

 呆気に取られた俺を見てモスティマが笑う。

 まるでその反応を待っていたとでも言うように上機嫌で、その一つ一つが成熟した証明だった。

 

「感想が欲しいな?」

 

「……自分が変わらなくなると時間の流れに気づけなくなるってのは本当みてえだな」

 

「ちょっと、そこは大人になった私を感じてドギマギするべきだろう?」

 

「笑わせんなよ。運転してる最中に危ねえだろ」

 

 子供が成長した程度で大袈裟だな。

 いずれ大人になるなんてことは世界のどこでも変わんねえ常識だし、それが目の前で起きたところで気にすることでもねえよ。

 

「ああ、もしかして必死に取り繕ってるのかな? 私のことを子供として見る必要なんてもうないのにね」

 

 取り繕う? 俺が?

 

「ははっ、良い冗談だな」

 

「笑わせるつもりはなかったんだけど、ローンが楽しそうで何よりだよ」

 

 変わらない微笑みの下に少しだけ怒りの感情が見えた。

 

 嫌味ったらしい言葉はこいつなりのコミュニケーションだってのを俺は知っている。

 特別親しい相手にしか言わねえってのも含めて、な。

 

 だからそれを聞いて、少しだけ嬉しくなった。

 俺はまだモスティマにとって親しい相手で居られてんだな。

 

「後会を約束してもねえやつがいきなり現れやがったんだ。そりゃ楽しくもなるさ」

 

 ちょっとばかし素直な言葉に、待ってましたとばかりにモスティマの頬が緩む。

 

 なんだなんだ、笑うことじゃねえだろ。

 ……もしもこいつが同じように感じてたってんなら、そりゃ万々歳ではあるんだけどよ。そんな気性か?

 

「そう不満そうにしなくてもいいだろう? 折角の逢瀬なんだ、堪能しようじゃないか」

 

「逢瀬ねぇ」

 

 逢瀬と来たか。

 連想して二人の顔が浮かぶ。

 

 甘い言葉とは不釣り合いなはずだった二人との関係は、ある日を境にして一転しちまった。

 それはモスティマが消えた時よりもずっと劇的で思いもよらないことだった。

 

 

 胸のあたりがグルグルして、胸焼けでも起こしたみてえに気分が悪くなる。

 

 不満と、後悔と、焦燥と、怒り。

 

 俺の頭ん中を占拠している連中はいつだってその主張を止めない。

 まるでいつまでも自分から動けない俺を罵っているかのように。

 

 

 深く深く、心の中を空っぽにするつもりでため息を吐いた。

 空にするってのは生憎と失敗しちまったが、一度落ち着くことができた。

 

 昔の不満やらで生まれた色々な感情なんかが全部取っ払われて残った感情。

 それは、自分でも上手く認識できないままに、口からこぼれ落ちた。

 

「モスティマ。久しぶりにお前と会えて良かったよ」

 

 今度こそ、モスティマは目を丸くさせた。

 俺がこんな風に萎びるなんてありえねえだろうからな。

 子供の前では──リュドミラやモスティマの前では、こんな姿見せたことなんてなかったんだ。

 大人になった今ならいい、てなわけでもねえけどよ。

 

 いけねえな。

 感傷的になっちまってる。

 

「ふふ、そっか。それはよかった」

 

 心底嬉しそうな顔を道の先へと向け、モスティマは何かを呟いた。

 

 いきなり変なことを口走った俺に引いてるのか、それとも別のことでも考えてるのか。

 俺に知る術はない。

 

 

 

 

 少しの間揺られる。

 

 

 

 

「暗くなってきたな。ここらで車中泊にするか」

 

 昼下がりにロドスを出たんだから、数時間もすれば空が藍色に染まるのは当たり前だ。

 今や綺麗な夜の(とばり)が降りている。

 

「二人きりで泊まるのは初めてだね」

 

「お前がいた頃は……ああ、いつもリュドミラと一緒に居たからか」

 

「素晴らしい親子愛だよ、本当に」

 

 どこからか飯を取り出しながらモスティマが茶化す。

 

 揶揄い混じりな言葉にイラっときたが、俺はこいつの過去なんざ知らねえから黙っておく。

 言い返したい気持ちは十分にあったけどな。

 

 昔、俺とリュドミラの前で愛だとか情だとかは必要ないなんて嘯いていた。

 本心なのかどうなのか分からなくて何とも言えないまま相槌を打ったことを覚えている。

 

「……私も人だからね。不要だなんて言いつつ、きっと本当は少しだけ羨ましかったんだ」

 

 羨ましい、か。

 子供ってのは基本、親からの愛を受けて育つモンだ。

 それはきっと成人してからすら変わらないことだ。

 そう知っていたから俺は、リュドミラを——リュドミラとモスティマを、放っておけなかった。

 モスティマの方は大人になりつつあったが、それでも少しくらいは親代わりになろうと思ったんだ。

 

「ある日。それをくれるお節介焼きな人に会ったんだ」

 

 おう、なんだ。俺の話か?

 

「私はずっとその愛が欲しかったけれど、その人に限っては違ったんだ。子供になんて見られたくなかった」

 

「……俺じゃねえヤツとの話か?」

 

「いいや、ローンの話だよ」

 

 

 理由が分かるかい?

 

 

 さも可笑(おか)しそうに笑うモスティマの顔は暗くてハッキリ見えなかった。

 何が可笑しいのか全く理解できねえが、危険な何かをその声から感じる。

 

 伸ばされた白い手が俺の頬に触れた。

 

「寄り添うように仄暖かい愛ではなく、抱きしめるように燃え上がる愛。ああ、私はそれが欲しいんだよ」

 

 そう告げた口が、そのまま俺の方に近づいてきた。

 

「……拒まれちゃったか」

 

 頬に添えられていた手を払いのけ、肩を掴んで押し戻した。

 

 何を考えているのか分からない。

 ひょっとするとこれはただの冗談なのかもしれない。

 

 だが冗談だったとしても——俺がそれを許すとでも思ったか。なあ。それは俺への最大級の侮辱行為だって分かっててやってんのか?

 

 俺は信条を声高に叫んできた。モスティマは俺の考えをずっとよく知っていた。そんな中で俺がその誘いに乗ると考えてたってなら、俺は……

 

 モスティマに視線を向けると、鈍色のナイフが月光に閃いた。

 なんだ、どうして今それを持ってやがる?

 

「命拾いして良かったね」

 

 いつのまにか脱いでいた上着を着直しながら、モスティマはナイフを懐に仕舞っていた。

 

「お前、まさか」

 

 思考が追いついた。

 俺を試してただけってことか?

 襲われそうだったらそれでぶっ刺すつもりだったのか?

 

「『お前は女なんだから、行きずりの相手と野営する時は警戒しろ』って。ローンが言ったことだろう?」

 

「そりゃ、言ったけどな。俺くらいは信用しろよ」

 

「子供に手を出す畜生になってさえなければいいんだ。ローンにとっては簡単なことだろう?」

 

「そいつはそうだが」

 

 釈然としない。

 俺の顔を鏡で見ればそう書いてあるだろう。

 モスティマに試されんのはもう慣れたが、今回ばかしは信じて欲しかったってのが実際のところだ。

 

「お前の容姿は整ってるだろうし、随分とませてんのも事実だ。でもその一切合切を無視して子供だって言ってやれんのが親だ。そんで、俺だ」

 

「……分かってるよ」

 

 意味深な間を空けてモスティマが言った。

 分かってんなら、まあ、いいんだ。

 俺はモスティマの居場所になってやりたいが、それを許すか許さねえかはモスティマの選択だからな。

 

 俺は選ばない。

 用意するだけだ。

 そんで後ろからずっと見守ってやれれば最上だ。

 

 

 親代わりなんて居ない方がいい。

 子供が拒んでんならなる気はねえよ。

 

 

 

 翌日目を覚ました俺は予定通りに出発し目的地に着いた。

 燃料の補給を済ませて、幾つかの配達も終えて、チェックインしておいたホテルに帰る。

 

「うし。何の憂いもないな」

 

 またここで一泊してロドスに帰れば、次の日の夕飯時には着く。そういうプランだった。

 

 俺は堅実なトランスポーターだ。

 無理な仕事は説得の後調整してどうにか間に合うくらいにするし、行き詰まったと思ったならそれ相応に無茶な手段を取る。

 

 ってなわけで目下のことが片付けば、仕事のことなんて考えなくて済む。

 だから俺が考え始めたのはプライベートな心配事だ。

 

 

 ベッドは倒れ込んだ俺を柔らかく包んだ。

 

 

 思考の矛先が向いたのは絶賛お悩み中の二人について——ではなく、とんでもない期間雲隠れしていやがったモスティマのことだった。

 

 始まりは十代半ばのあいつをラテラーノで見かけたことだった。

 色々と事情がありそうだってんだから思わず一日連れ回した。

 ラテラーノに届ける依頼があって、それを終えてすぐだったから時間も金もあった。

 更にリュドミラが通っていた龍門の学校が長期休暇中だったってこともそうだ。

 リュドミラはちょいと不満そうだったが、否やは言わなかった。

 

 そんで、ラテラーノを離れる日。

 モスティマは俺に一つの依頼をした。

 

 

 

 コンコンコン、とノックが鳴る。

 

 

 

 起き上がりつつ思考を巡らせる。

 俺をホテルまで訪ねてくるってことは依頼か?

 知り合いのトランスポーターが偶然今この都市に居るってのは流石にねえだろうし、だとすれば……

 

 果たして、その人物は知り合いのトランスポーターだった。

 間違いじゃなかったが、いや、まあ、間違いじゃなかった。

 

 そいつの名前はモスティマだった。

 

 今さっき挙げた選択肢にモスティマがなかったのは、この都市に着いてすぐどこかへ消えていたからだ。

 きっとまた何年も顔を見せねえんだろうと思って諦めちまってた。

 

 はぁ。こいつは全く、人の心を弄びやがって。

 

 心の中でため息を吐いた俺とは対照的な笑顔でモスティマが口を開く。

 

「やあ、ローン。お願いがあるんだ」

 

「内容次第だ」

 

「一晩泊めてくれない?」

 

「なんだそりゃ。誰かに追われでもしてんのか?」

 

 流石に金に困ってるわけじゃねえだろう。

 そこまで行き当たりばったりな旅をしているわけではないだろうし。

 

 澄ました顔でモスティマが言う。

 

「諸事情で持ち合わせがなくて、ね。顔見知りも居ないから困ってたんだ」

 

「お前、俺が居なかったらマジでどうするつもりだったんだよ」

 

「でも居たじゃないか。それならそれでいいのさ」

 

 そういうモンでもねえだろうがよ。

 俺がそう言うと、モスティマは何のことやらってな様子で適当に流しやがった。

 

 そうあしらわれたなら俺もそれ以上は言わない。

 なんだかんだ致命的なミスは犯さねえヤツだし、結果だけを見れば俺より余程安全な道を通ってる。

 ただ、途中まではそれが綱渡りにしか見えないってだけだ。

 俺が口出しするまでもない。

 

 ってことは、俺が金を貸すのはこいつの頭ん中で確定的だってわけだ。まあその通りなんだが釈然としねえな。

 

「……ん?」

 

 ポケットの中に感触がない。

 いやいや、財布は確か裏ポケットに突っ込んでたはずだ。

 そっからどこかへやった覚えはない。

 だとすればスリか? いや、それに気付かないほど疲れてたってわけでもねえし、考えにくいな。

 

 

 となればどこかで落とした──あっ。

 

 

「すまん、モスティマ。悪いが他を当たってくれ」

 

「どういうことだい?」

 

 間違いなく配達中に落とした。

 もちろん普通に移動していればまず気付くだろうが、今回はルートが災いした。

 

 思わず顔を覆う。

 あのバカ共の真似事なんざするべきじゃなかった。

 屋根の上なんて、いくら配達先の位置がわからなくなっちまったって走るモンじゃねえってのに。

 

「何を言ってるのかよく分からないな。金を貸してくれだなんて言った覚えはないよ?」

 

「それならどう言ったんだよ」

 

「泊めてくれって言ったんだよ。この部屋に私を入れるだけでいい」

 

 マジで言ってんのか?

 

「打つ手がないならなおさらそうするしかないだろう? それじゃ、邪魔するね」

 

「おい、モスティマ」

 

「よいしょ、っと。早速だけどシャワーを借りてもいいかな? 汗でベトベトしてさ。早くどうにかしたいんだよ」

 

 俺のバッグの横に荷物を下ろして、どうやらマジのマジにそう言ってるらしい。

 この部屋は一人用だ。ベッドは一つしかない上、部屋自体二人で使うとなればかなり狭い。

 

「なあ」

 

 流石に無理だ。

 どうにか工面してやるから。

 

 そう言おうとして開いた口はそれ以上言葉を紡がなかった。

 それは俺がモスティマのことを知っていたからだった。

 

 

 きっとこの行動には何か意味があるんだろう。

 こうしなければいけない理由がどこかにあるんだろう。

 

 

 そう考えれば、俺がここで断ることは良くないんじゃないかと、そう思ってしまった。

 

 

 

 水の流れる音が聞こえてきた。

 

 冷蔵庫からビールを出してプルタブを開く。

 嫌な大人になるってのは屈辱だ。

 だから酒でも飲んで気を紛らわせるしかない。

 

 

 

 必要ってんなら、俺にくらいは相談したって良かったんじゃねえのかよ。

 

 結局何も言ってはくれねえんだな。

 

 

 

 俺には、無理なのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が都市を埋める。

 源石灯の淡い光が微かに窓の外に見えて、それだけだ。

 

 スプリングが軋む音。

 

「あのなぁ、お前」

 

「一緒に寝ると言ったのは君からのはずだけど?」

 

「誰がそれを本気にするんだよ、馬鹿野郎。お前がいいならいいけどよ」

 

 小さく漏れた笑い声。

 

「ああ、ローンは変わらないね」

 

「それ言ってんの二回目だぞ」

 

「変わらなさすぎるんだよ」

 

「悪いか」

 

「……いいや、まったく。眩しいくらいに結構なことさ」

 

「本当かよ」

 

「疑ってるのかい? 目を合わせてみれば分かるかもしれないね」

 

 寝返りを打つ音。

 

「どう、何か分かったかい?」

 

「昔から、お前の顔には何も書いてねえんだ」

 

「それならこんなのはどうかな?」

 

 衣擦れの音。

 

「触ったら分かるだろう? 熱でも出てるみたいに顔が熱いんだ」

 

 息遣いの音。

 

「本当に欲しいものは唯一手に入らないものだった、なんてね。どこかで一度くらいは聞いたことがありそうなフレーズだ」

 

「誰だって思うことだろ」

 

「へえ、それじゃローンが望むものは何なんだい?」

 

「モスティマ、お前だ」

 

 息を呑む音。

 

「冗談だ」

 

「……冗談になってないな」

 

「悪い」

 

「謝らないでよ。謝ったら、お終いだろう」

 

「俺は始めたつもりなんてねえよ」

 

「つれないなぁ。悲しいよ、ローン」

 

 弱い力で服を叩いた音。

 

「言わせないなんて、ずるいなぁ」

 

 暗闇に溶けるモスティマの声。

 

「全部本当なんだ。昨日話したことは全部本当なんだよ」

 

「分かってる」

 

「まだ私はローンの子供なんだね。何年空けたって意味なんてなかったんだ」

 

 感情を抑えつけたような声。

 

「我慢に意味はなかったんだ」

 

 涙を必死に我慢するような。

 

「どれだけの夜を一人で過ごしたと思ってる? どれだけの国を逃げるように回っていたと思う? どれだけの人混みを見て、どれだけその中にローンを探したか、知ってるかい?」

 

 俺には分からない。

 モスティマのその感情をわかってやれない。

 

「分かってるよ。私のことをそう見てしまえば、ローンはもうローンじゃなくなるんだ。分かってる」

 

 俺がモスティマの親代わりをやめるのはいつだってできることだ。根無草のトランスポーターらしく公平性を持って接すればいい。

 

 だが、モスティマを子供として見ないってのは話が別だ。

 それは脊髄反射みてえなもので、オンオフを切り替えられるものじゃない。

 

 どれだけ時間を空けたって。

 どれだけ大人らしくなったって。

 

 俺はずっとモスティマのことを庇護すべき子供だと思い続けるだろう。

 

「こんなことなら出会わなければよかったのに、なんて……思いたくなかったよ」

 

 出来ることなら俺だってどうにかしてやりたいさ。

 

 無理なんだ。

 林檎を見て「赤い」と思うように、モスティマを見て「子供」だと思っちまうんだ。

 それはどうにかなるモンじゃねえんだよ。

 

 それにどうにかしてやりたいって思うこの感情だって、モスティマが子供だからだ。コイツを守りたいと、尊重してやりたいと、そう思ってしまうからだ。

 

「反応すら、してくれないんだね」

 

 暗い部屋の中にモスティマの顔が溶けている。

 溢れる涙すら闇夜に沈む。

 

 目元を拭って、髪をくしゃくしゃにするくらい強く頭を撫でて、抱きしめた。

 

 それら全てが否定の言葉だった。

 モスティマにとって、子供扱い(大切に扱われること)それ自体が、辛いことだ。分かっていて俺はそう接することしかできない。

 

「分かったよ」

 

 モスティマは掠れるような声でそう言った。

 肩が微かに震えている。

 

『君はなんて傲慢で自分勝手なんだろうね』

 

 いつかの日、そう言われたことを思い出した。

 三人で動くことにようやく慣れてきた頃合いだったか、真っ暗闇の街をバックにモスティマの背中が見えていた。

 

 ぐっすり眠っているリュドミラに蹴られて目が覚めた俺は、偶然その影に気付いたんだ。喉でも乾いたのか、そう問いかけても返ってきたのは沈黙だった。

 青い目が光っていた。何が楽しいのかと聞かれて、俺は分からないと答えた。何を求めているのかと聞かれて、分からないと答えた。何がしたいのかと聞かれて、分からないと答えた。

 

 今なら分かる。俺は俺の存在価値を二人に見出していただけで、だから答えを出せなかったんだ。馬鹿みたいな答えだ。そんなことで俺の価値が上がるはずもないのにな。

 

 その頃の俺は俺が正しいだなんて思っていた。モスティマの意思は尊重していたが、それ以外はてんでダメだった。馬鹿が馬鹿みたいな答えすら間違えていたってワケだ。

 

「……泣いてる?」

 

 モスティマは夜目が利くようだった。

 ついさっきとは反対に、モスティマの手が俺の頬に触れる。ようやく俺は俺が泣いていたことに気付いた。

 

「私は、ただ」

 

「心配すんな。お前は関係ない」

 

 これはただの自己嫌悪だ。

 だからモスティマの心配するようなことじゃない。

 

「そんなはずないだろう?」

 

 震えた声に芯が通ったような気がした。

 俺を掴むモスティマの手がより力を増した。

 

「勝手なんだ。そして愚かだよ。ローンは家族という関係をどれだけ大切に思ってる? ローンが思うような親はそういない。そして、守られるばかりで何も返さない子だって、そういないさ」

 

 絞り出すような声から、吠えるような声に変わっていた。どうやら俺はまた間違えたらしい。ささくれだった心は突き放したことへの言い訳になんてならない。

 

「モスティマ、悪かった」

 

「そんな謝罪(モノ)に何の意味がある? 私の怒りを、何度も繰り返して擦り切れた下らない文句なんかで冷ませるだなんて、そう思い上がってるのなら、今すぐに改めた方がいい」

 

 そんなものは親じゃない。

 暗い部屋の中で僅かに光った双眸に射抜かれる。澄んだ淡い水色の輝きはそう叫んでいた。

 

「関係ない、と言ったね。私が原因じゃないことは分かってる、分かってるけど、それなら私は家族じゃないみたいだ。家族じゃないから関係がない、そうなんだろう?」

 

「それは……」

 

「それなら、私は。私は君にとってどんな存在なのかな。……子供として見ているんだろう? 君の、大切な、子供として。何の関係もないなんて言うのなら、私は君の心のどこに居座ればいい?」

 

 何も言い返せる言葉がなかった。

 子供扱いする癖して家族としては扱わず、そんな俺の態度は全く瞭然としていなかった。

 

「私は他人でいたかった。君と対等な他人でいたかった。それは本当のことなんだ。ずっと渇いていて、耐えられないくらいなんだ。……だから、それを否定するなら、さ」

 

 モスティマの目元がきらりと光る。

 

「せめて特別な存在だって、言ってよ」

 

 

 ああ、モスティマのおかげで目が覚めた。

 

 

 ケルシーやワルファリンのせいで、俺の目はどうやら曇りきっていたみたいだ。

 そうか、そうだよな。

 何を忘れていたんだろうな、俺は。

 

 誰かに愛される資格はない。

 誰かを愛せるほどの情熱もない。

 

 子供を拾って、育てて、それに何の意味がある? リュドミラの価値はリュドミラのモンだ。モスティマの意味はモスティマにしかない。

 子供がどれだけの偉業を成し遂げたって、親の成果にはならない。

 

 俺は二十年前から一ミリだって変わってない。

 変われてなんかいなかった。

 

「モスティマ。今日はもう、寝とけ」

 

 自己嫌悪で胸の中が気持ち悪い。

 

 俺のために涙を流す必要はない。モスティマのお眼鏡に適うようなヤツが見つかるかは分からねえが、俺をさっさと忘れちまうのがいい。

 

「……うん。おやすみ、ローン」

 

「ああ、おやすみ」

 

 

 

 

 朝起きると、モスティマは消えていた。

 代わりに失くしたはずの財布が置いてあった。

 

 ポケットに突っ込んで、下敷きになっていた紙切れを見つけた。どうやらモスティマの連絡先らしいナンバーが書かれている。

 

「どうせ繋がらねえくせによ」

 

 昨日は、感傷的になりすぎたな。

 もっと上手く躱せたなら、ああまで怒らせることも、悲しませることもなかったってのによ。

 

 支度を終えて、部屋を出る。

 ドアのすぐ前に赤髪のリーベリが立っていた。

 

 ソイツは俺に真っ直ぐ銃口を向ける。

 

「爆破されたくなかったらモスティマを突き出しなさい」

 

 友好的な笑顔を浮かべながらハンズアップ。どうやらモスティマは随分と生きるのが上手くなったみたいだ。

 

 そういや、追われてるのかと聞いた時にアイツは答えなかったな。全く、子供の成長ってのは早いモンだ。見ないうちに色々と学習してんだから。

 

「3、2、1」

 

 引き金を押さえる指に力が入る。

 

 

 

 

 

 死ぬかと思った。

 

 

 

 

 




 
感想貰ったら書くとか、そんなんじゃないんだからねっ!
 


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