【完結】セイウンスカイは正論男に褒められたい (つみびとのオズ)
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第一章 青空とアルビレオ
はじまりの気持ち


 褒められたい。そんな子供じみた動機だって、子供ならなんの問題もない。だから小さい頃の私の行動には、いつもそういう理由がついて回っていた。頑張っていて偉い、いろんなことを考えていてすごい、そうやって褒めてもらえるのは当たり前のように嬉しかったし、じいちゃんは特に褒めてくれたから私はますますいい気になった。けれど──。

 

「入学おめでとう──」

 

 ──スピーカーの音を耳が拾ってしまい、私の微睡は蜘蛛の子を散らすように飛んでいく。机から顔を上げた時に最初に目に入ってきたのは、窓の外に広がるキレイな青空だった。

 ここは無人の教室。そして私が本来いるべきなのがスピーカーの先、トレセン学園入学式の会場。とどのつまり、やる気のないウマ娘たる私セイウンスカイは、初日からサボりを決め込んでいるのだ。

 

「日進月歩──是非とも──」

 

 生徒会長にして七冠ウマ娘、最強の皇帝シンボリルドルフさんのありがたいスピーチも、今の私には心地よいそよ風のよう……そう、また眠くなってきたような……。再び瞳を瞼に閉じ込めながら、思考は緩やかに滑っていく。どうせ私なんていなくても、入学式はつつがなく進行しているし、とか。だから気にするな、そのままサボってしまえ、とか。きっとこれからも、予想通りで、期待以上なんかには、とか。滑って、滑り落ちていく。まるでそのまま眠ったら、奈落の底まで落ちていきそうなほど、だった。

 

「何してるんだ、こんなとこで」

 

 後から振り返れば。あくまで後からの話で、その時は見知らぬ男が叩き起こしてきた以上ではなかったけど。

 

「見ない顔だな、新入生だろう? なんで入学式に出てないんだ!」

 

 この正論男は最初から、私を掬い上げていたのかもしれない。鬱陶しくて暑苦しくて、それでいて私より本心を隠しがちな、私のトレーナーさんは。

 

 

〜セイウンスカイは正論男に褒められたい〜

 

 

「いきなり入ってきて、どちらさまですか〜?」

「俺か? 俺はここのトレーナー、チーム<アルビレオ>のトレーナーだ。君は?」

 

 話題を逸らしたつもりなのに、真正面から受け止められた。太い眉と白い歯が、大きな声と合わせて大体の人物像を印象付けてくる。既にわかる、苦手なタイプだと。

 

「ごあいさつどーも、私の名前はセイウンスカイです。まあ、これきり会うこともないでしょうけど」

 

 そう言って、席を立つ。眠気も飛んでしまったし、学園の中をうろちょろしてみようかな。入学式に今更出るのはやっぱり居心地が悪いし。とにかくこの教室からは出てしまおう、そのつもりだったのに。

 

「セイウンスカイか。いい名前だな、覚えておこう。俺は走りそうなウマ娘の名前は覚えておくことにしてるんだ」

「……なにそれ、本気で言ってますか」

 

 走りそう、だなんて。

 

「ああそうだ。トレーナーとして、自分の目には自信があるぞ」

「あなたのチームはなんだか暑苦しそうで、私としてはごめん被りますけどね」

「そうだな! <アルビレオ>の練習はそれなりにハードだと自負している!」

 

 こりゃだめだ、と再確認する。一瞬彼の言葉に惑わされたけど、ハードさを自慢するチームなんてまっぴらごめんだ。のんびりゆるゆる、ゆるーいチームがあれば……そうだ。

 

「そうだ。トレーナーさんなら他のチームにも詳しいんじゃないですか? 教えてくださいよ、練習の楽そうなチーム」

「それなら<アルゲニブ>なんかは、そういう話を聞くな」

 

 すんなり答える。みすみす他のチームを紹介するなんて、この人は自分が何をやっているのかわかっているのだろうか。……まあ、いいか。どうせ私なんて、どこに行ったって。

 

「ありがと。それじゃ、ばいばーい」

「待て」

「……なんですか。別に私がどこに行ったって、いいじゃないですか」

「一つだけ言っておこう。セイウンスカイ、諦めるな」

 

 ……なんで。

 

「なんですかそれ。藪から棒に、知ったようなことを」

「トレーナーとして、自分の目には自信があると言っただろう」

「要するに勘と大して変わらないじゃないですか。さっきからずっと」

 

 なんで。いい名前だとか、走りそうだとか。諦めてる、とか。

 

「君は強くなれる。これはそのためのアドバイスだ」

「初対面の人にそんなこと言われても、説得力なんて」

 

 私が諦めたものを。私が諦めたことを。なんでこの正論男は、そう言い当ててしまうんだ。そんなふうに全てを見抜いた上で、私に期待なんかされてしまったら。

 

「俺は俺の目を信じている。君は『走る』と」

 

 その期待すら、裏打ちされてしまうじゃないか。消えたはずの、遠いはずの、届かないはずの、諦めたはずの。

 とうの昔に、終わったはずの。

 

 

 なんてことない日だった。強いて言うならその日も青空だった。すっかり近所の人気者になっていたと思い込んでいた幼い私は、今日も褒められるような立派なことをしようと意気込んでいた。先に言っておくとするなら、これは誰かが悪い話じゃない。取るに足らない言葉で過剰に傷ついた私自身も含めて、大した話ではない。ただ、私が聞いた会話はこうだった。

 

「セイちゃん、いつかはトレセン学園に行ってしまうのかねえ」

「どうだろう、あそこはとんでもなく厳しいって聞いたよ」

「さすがに大変かねえ、可愛い子だけど」

 

 いつも優しくしてくれる近所のおばあちゃんたちの会話だった。ひょっとしたらその会話だって、優しさから来たものかもしれない。私に聞かせるつもりだってなかった、そんな会話。けれど幼い私にとっては、忌避すべき冷たい現実だった。

 微笑ましく、可愛らしい。それが私への賞賛の正体で、私は私が思っているほど素晴らしくなんてなかった。あまつさえ自分のことを天才だとすら思っていた。幼少期の無根拠な傲りに、ヒビが入った。ああでも、それだけならよかったのだ。結局私は私自身で、己の幻想にとどめを刺すことになる。

 その話を聞いた時の私はまだ、自分のことを信じていた。トレセン学園に入れば引っ張りだこだとか、私と無縁のものに縁を感じていた。そして夢見る少女は、見知らぬ街へと飛び出した。どこに居ても私は優秀でチヤホヤされて、スカウトまでされてしまうかもしれないと。皆が私を愛する場所を作ってくれていただけで、世界は私を愛してなどいなかったのに。

 そこから先は、何も起こらなかった。街をうろちょろして、当たり前のように他のウマ娘を見て。私程度のものなんか、ありふれていることを実感して。遠くの河川敷まで来て、幼い思考で最後の望みを託した。走って、走って、河川敷という小さなコースを何周も走って。この走りを見れば、私に才能があると誰かが言ってくれるんじゃないかって。この現実が変わるんじゃないかって。ずっと頑張れば、一日中頑張れば、なんて。

 何も起こらなかった。だから私はその日初めて、諦めることを覚えた。

 ぐしゃぐしゃになりながら家に帰った時、皆が心配して駆け寄ってきた。そこにあった心配というものは、その日まで私が受けてきた賞賛と本質的には同じものだ。その日までの私は、周りに心配をさせ続けていたのと何ら変わらない。ここまで言語化できるようになったのは最近のことだけど、この気持ちはその日からずっと抱えている。

 その次の日からの私。ダメなりに手のかからない、誰にも迷惑をかけない私。それが、今の私の原点だ。

 

 

 去るつもりの踵を返して、振り向いて。目の前の男の方を向く。その強い瞳からは目を逸らしてしまう。

 

「目を逸らしたな。やっぱり諦め癖がついている」

「……暑苦しくて、まともに見てられませんよ」

 

 限界だ、と思った。どうしてエスパーの如く、私の全てを見抜いてしまうのか。そう、今度こそこの場を離れなければ。つくづく苦手なタイプの男だと思った。

 

「じゃ、今度こそ。もう入学式も終わりそうですし、私も帰らなくちゃ。さよーなら」

 

 そう言い捨てて、なりふり構わず全力ダッシュ。気づけば校門の外まで出てしまっていたが、そうでもしないと追いかけてきそうな気がした。これ以上あの調子で来られたら、こちらも余計なことを口に出していたかもしれない。ずっと昔に閉じ込めたはずの言葉。大人びたふりをする私が、一歩も進めていないことを示すもの。

 

「褒めて、ほしい」

 

 そんなみっともないこと言えない、なんて羞恥心と。褒めるに値しなかったらどうしよう、なんて自尊心が。二人がかりでひしめきあって、その言葉を塞ぐ。大人になれないのに大人のふりをするというのは、そういうことだから。

 

 

 寮に帰ってベッドに飛び込むと、いやに疲れがのしかかってきた。理由は紛れもなく、あの正論男。休憩を中断させ、ずけずけとものをいい、そして……そこまで思い返して、気づく。

 

「私、あの時割と嬉しかったのか」

 

 ぐるり。制服姿で天井を見上げて、小さくため息をつく。主に、嬉しがってしまっていた私自身に。結局私がトレセン学園に来たのは、どこかで自分に期待して欲しかったからだ。全部の幻想を捨てたふりをして、それでもどこかでウマ娘らしい『夢』を追い求めてしまっている。言い訳をすれば、じいちゃんが応援してくれたというのはあるけれど。

 

「頑張れ。スカイ、お前ならやれる」

 

 それがじいちゃんの口癖。あの日泣きながら家に帰ってきた私から、本当の事情を聞き出したのがじいちゃんだった。そうしてそれからも、変わらず私に頑張れって言ってきたのがじいちゃんだった。才能とかではなくて結局孫可愛さだとは思うけど、私をずっと元気付けてくれたじいちゃんがいる。それが私をトレセン学園へ向かわせる理由となった。……あるいはそういうことにして、私は私を諦めきれなかった。そうだとしたらどうすればいいんだろう? 勇気を出すのは、怖い。幼い頃の私のように、残酷な現実を目の当たりにすることもあるから。

 

「……そういえば」

 

 あの正論男も、言ってることを分解してみれば「頑張れ」みたいなものかもしれない。なるほどそれがじいちゃんを思い出させたから、なんとなくドキッとさせられたのか。いやいやしかし似ても似つかないような、案外要素を抜き出したら似てるような、でもあの男は苦手だし……うーん。

 そんな感じの無意味な自己問答は、大体眠気の合図。今はまだ夕方だから、この時間から寝ても明日の朝にはならないだろう。明日から早速、トレセン学園での授業が始まる。次起きた時にその準備だけして、もう一回しっかり眠って。そうしようと、そこで意識を手放した。

 

「……ん……」

 

 予定通り深夜に目が覚める。お風呂には入らないとしても、シャワーくらいは浴びなければ。ゆっくりと起き上がると、自然に外の光に目が移る。……夜空、だった。

 都会でも強く光れる星は一握り。多くは街の灯りに照らされれば、見えなくなってしまう程度の光。夜空に光る星々が場所によって見え方を変えるのはそういう理由だと、昔どこかで見たことがある。つまり私が今見ている空は、僅かな力強い星しか見せてくれてはいない。私はどちらだろう、そんなことを考えてしまう。これから出会い、競い合う沢山のウマ娘。皆が自分を信じていて、それでもその中で明暗は別れる。明るく光るか、暗く闇に紛れるか。私はどちらだろうと、思う。

 

「頑張れ。スカイ、お前ならやれる」

 

 そうじいちゃんは言っていた。皆のようには自分を信じきれないけど、私が代わりに信じるものだ。

 

「セイウンスカイ。君は『走る』ウマ娘だ」

 

 ……って、なんでここであの男の言葉まで思い出すんだろう。それでも確かに、私の中にその言葉が息づいていた。正直不安だらけだったこれからに、二重の光が差していた。明日から、うまくやっていけるかな。口元には出てこなかったけど、心に自然と浮かんだ笑みがあって。……と。夜空に耽っている場合じゃないな。さっさとシャワーを浴びて、準備を済ませなきゃ。思考を打ち切り、微かな灯りを。部屋と、心の奥底に点けた。

 温かいシャワーを無心で浴びて、湯気と共に曖昧模糊なイメージが立ち上る。ありふれた自己紹介や、顔も知らない同級生。一生懸命……はガラじゃないし、そこそこの気持ちで挑む授業。そしていつか立ち向かう、トゥインクル・シリーズ。もちろん不安でいっぱいだけど、浮かんでくるものは決してそれだけではなくて。身体を洗い終えてさっぱりした時には、再び心地よい眠気が私を包んでいた。授業の準備など忘れてそのまますぐに寝てしまう。湯気や眠気や布団だけじゃない、暖かいものが私を包んでいた。

 予定調和を崩した、波乱の幕開け。そのせいで新しい日常に、少しだけ期待してしまったということ。その変化のきっかけは小さすぎて、その時の私は気づいていなかった。けれど確かに、密やかに。トレーナーさんから貰った、初めてのものだったと、今なら思うのだ。

 

 

 大人になれないと諦めてしまった、一人の少女がいて。

 不器用な大人になってしまった、一人の男がいて。

 そんな二重星(アルビレオ)は、やがて数多の星を巻き込んで。

 白鳥(キグナス)となり、飛び立つのだ。果てのない青空へ。




初日は二話投稿です。
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ファースト・アンド・セカンド・コンタクト

 初日は特に問題もなく進行した。入学式にいなかったことでとやかく言われたりもしなかったし、そもそも誰もかれもが自分のことで精一杯のようだった。強いて何かを挙げるならせいぜい授業中にうとうとしてしまったくらいで、これは私にとっては当たり前のことだし。初日からしっかり授業が始まるトレセン学園の方に問題があるんじゃないか、とか。ドキドキワクワクのスクールライフなんてやられたら心臓がいくらあっても足りないから、私はこれでいい。……未知数なものがないわけじゃないけど。主に私じゃなくて、私以外に。そう、あれは二時間目の休み時間のことだった。

 

「こんにちは、セイウンスカイさん。私の名前はキングヘイロー、以後お見知り置きを」

 

 机に寝そべっていたら、近くのウマ娘がそんなふうに話しかけてきた。一見礼儀正しいんだけど、なんとなく並々ならぬものを感じて。なんとなくどう返答するか考えあぐねていると。

 

「あれ……まさか本当に寝てるのかしら? うーん、顔が見えないわね」

 

 なんと彼女は傲慢にも、私にシンキングタイムすらくれないらしい。私の周りをうろちょろうろちょろ、礼儀正しいと表現したのは訂正しようか。

 

「……起きてますよ〜」

「どひゃっ!?」

 

 素っ頓狂な声を上げて、キングヘイローは飛び退く。そんな声を聞いたこっちもびっくりだよ、まったく。

 

「もう! 起きてるなら返事ぐらいしてくれてもいいんじゃないかしら?」

「初対面の子にいきなり挨拶されて、普通はそんなノータイムで返事できないですね」

「……順序が良くなかったかしら。それはその、謝るわ」

 

 そんなにすぐに謝られてもそれはそれで困るけど、そんなことを言ったら更に謝られそうなので控えておく。ともかく。

 

「えーと、キングヘイローさんだっけ? 私はセイウンスカイといいます……って、もう知ってるか」

「当然! 一流のウマ娘とは、ライバル候補の知識も完璧なのよ!」

「そりゃ光栄ですねえ、一流の方に覚えていただけているなんて。それで私に探りを入れにきたって感じですかな」

 

 そう聞くと、キングヘイローは一瞬動きを止めて。

 

「……そう、そうよ探り! 覚悟しておくことねスカイさん、私に打ち倒されるその日を!」

 

 ははあ。さては何も考えてなかったな、この人。雌雄を決するべき相手との会話なんて、情報戦に等しいと思ってたけど。尊大そうな雰囲気を醸し出してる割には案外お人好しなのかも。まあ、私としてはどっちでもいいことだ。

 

「それじゃあえーと、キング」

「……な、なにかしら!?」

「なにも? 呼び捨てにしても良いのか試しただけ」

「え、ええ! それは大歓迎、じゃなくて、受けて立つわよ!」

 

 回想終了。そんなこんなで、まず一人。私が平穏無事に生活を終えられるかどうか、それについての懸念材料が増えたのだ。そして、もう一人は今。私の、私たちの目の前に居る。同じ教室にいた時からそのオーラは感じていたけれど、それより尚鮮明に。

 頭ひとつ抜けた実力で、ターフを駆けている。

 

 

「はあっ、はあ……すごいね、噂通りだ」

「ありがとうございます」

 

 ざわざわ、ざわざわ。徐々に日が落ちてきた練習コースで、二人のウマ娘が併走を終えた。放課後のトレセン学園では、併走トレーニングは日常茶飯事らしい。とはいえそこにある数々の異常性が、私含めた多くの観客を呼び込んでいた。

 あまりにも歴然とした決着。勝者は息を切らせてすらいない。

 そして勝ったのは入学したばかりのウマ娘。初日から本格的なトレーニングをし、それに耐えてみせた天性の肉体。

 何よりそこでお淑やかに微笑んでさえいる栗毛の少女の名は──グラスワンダー。私たちのクラスで、最も注目されているウマ娘だ。

 

「むうぅ、流石ねグラスさん……」

「うん……って、キングじゃん」

「何よ、私が居たらいけないの」

「それもそうか。キングは相変わらずの敵情視察?」

 

 ナチュラルに私の横にいた事にびっくりしたんだけど、それを言っても不毛な気がした。なんとなく。

 

「当然! 私は一流として、どんな壁も乗り越えなければならないの」

「へえ、立派だねえ」

「スカイさんも、少しはしゃきっとした方がいいと思うわよ!」

「そうは言っても、あれ見てよ」

 

 そう言って、私は未だターフから去らぬ一人のウマ娘を指す。にこやかに周囲に手を振り続けるグラスワンダー。なんとなくゆる〜っとした雰囲気で、私と波長が合う気がする。

 

「……グラスさんは、特別よ。本物の一流なのよ」

「なにそれ。一流なのは、キングじゃなかったの?」

「私は、そうありたいけど」

 

 声のトーンが一気に下がる。ひょっとして、私は何かまずいことを言ってしまったのかもしれない。人には誰だって触れられたくないことがあるというのに。昨日の私のように。

 

「ごめん、いいよ今の。忘れて、キング」

「……ごめんなさい」

「謝るのはこちらの方。私たちそんなに仲良くないのに、下手に踏み込んじゃったね」

 

 そう自分で言って、まるでこの先仲良くなる前提みたいな発言だな、とも思った。そこまでは口に出さないけど。

 

「そ、それより! グラスワンダーさんよ。私たちは、あれに勝たなきゃいけないのよ」

 

 キングが話題を無理矢理切り替える。いつのまにか『私たち』になっているのはこの際おいておくとして、真正面からは勝てないとは思う。けどそれはつまり、策を練ればやりようはあるということでもある。

 

「よしキング、今日は帰ろうか。その代わりLANEのアカウント教えて」

「え!? い、いきなり何を」

「そんないきなりでもないでしょ、初日からこんだけ話してるんだし。それより、今晩までに作戦立てるから」

 

 作戦。今の私がそれなりに尊んでいるものの一つ。頭を使って出し抜くとか、搦手を使って追い込むとか。トレセン学園に来て初めての相手として、あのグラスワンダーは申し分ないだろう。

 

「じゃ、これで連絡取れるね。出来上がったら送るから、後はキングがやり遂げられるか次第。それでもいい?」

「……当然よ。勝つためなら、手段は選ばない」

 

 彼女がそう言い切ったのは少し意外だった。流儀とか礼儀とか、そういうのを気にするタチかと思ってたのに。まあ、嫌いじゃない。むしろ気が合う。最初の印象よりは似たところもあるのかも?

 

「それじゃ、私はそろそろ帰ろうかな。キングはどうする? このままここに居るより、明日の方がまだグラスワンダーさんに近づきやすいと思うけど」

 

 気づけばグラスワンダーは、観客に構わず再び自主トレーニングを始めている。雰囲気は私と似ていたけど、そういうところは私とは違いそう。

 

「私はもう少し、もう少しだけ見ていくわ」

「そ。じゃあごゆっくり、私はおいとまさせていただきます」

「……スカイさん」

 

 私の背中に、もうすっかり聞き慣れた声が投げかけられる。それだけ親しみを感じておいて、振り向かないのも失礼だろう。ぐるり。向き直ると、彼女と初めて目が合った。

 

「また、明日。会いましょう」

「そうだね、また明日」

 

 日和見主義の私から、ついつい何かを引き出してまうキングヘイローという少女。私に波乱をもたらす存在なのは、確かなんだけど。

 初めての友達。そう言い切ってしまうのは、まだくすぐったかった。

 

 

 次の日の朝。ばっちりキングには作戦を伝えたし、残りの私の仕事はそれを眺めているだけでいいはずなんだけど。うまくいくか少し心配だし。上手くいかなかったら私の責任でもある気はするし。そんなこんなで、今日もしっかり教室へ向かう。新しい習慣というものはこうやって作られていくのかもしれないな、そう思った。

 

「あ、キングおはよ〜」

 

 扉を開けると、自然と見知った顔が目に入ったので挨拶する。それに気づいた彼女は……こちらを睨みつけてから席を立ち、にじり寄ってくる。

 

「ちょっと、スカイさん」

「なに? 顔が怖いよ〜」

「とぼけないで。本当にあれが『勝つための作戦』なの」

「キングにはぴったりだと思うけどな」

 

 そこに嘘はない。つもり。

 

「それなら、信じるけど」

「ありがと。応援はするから、頑張ってね〜」

「……他人事だと思って」

 

 そんな会話をしているうちに教室は人数が増えてきた。残りはお昼休み以降ということにして、自分の席へと移動する。キングには言ってないけど、上手くいかなかった時のサブプランもある。まあそこまで行かないことを祈ってるけど……おっと。

 こつ、こつ。規則正しい靴音と共に、一人のウマ娘が教室へ入ってくる。グラスワンダーさん、今日の標的だ。こうして意識してグラスワンダーさんを見ると、なんというかやっぱりオーラが違う。クラス中が縮こまっている気さえする。一見おっとりした雰囲気の彼女に近寄り難い何かが感じられるとすれば、それは彼女が身に背負う期待の裏返し。責任と覚悟。いつかの私にはなくて諦めたものだ。

 ちらりとキングの方を見遣ると、なんだか緊張しているみたい。それを見てなんだか不安になってきたな、とは思ってしまったが。仮にこちらにお鉢が回ってきてもそこまで悪い話ではない。あるいはトップクラスのウマ娘に対する、ミーハーな憧れかもしれないけど。少しグラスワンダーさんに興味を惹かれていたのは、誤魔化せない事実だった。

 

(一人で気ままにゆるゆると、みたいなのが理想だった気がするんだけど)

 

 自分に向けて小さなため息。夢への活力に満ち溢れたこのトレセン学園に、早くもアテられてしまったのかもしれない。小さな変化が私の中に積み重なっていく。あの正論男から始まって、次はキングヘイロー。そしてその次は……わかんないけど。

 予感は連なる。何かを、形作るかのように。

 

 

 ふう。やっぱり人の話をずっと聞くのは疲れるなあ。そんなこと言ってたら授業なんて受けられないんだけど、それはそれ。昼休みということは、いよいよ作戦決行の時間だ。さて、どれどれ……。

 

「グ、グラスワンダーさん! 私とその、一緒にお昼を食べないかしら!?」

「ええ、喜んで〜。キングヘイローさん、でしたよね」

「そ、そうよ! 言っておくけどグラスさん、私貴女には」

「お話もいいですが……とりあえず、食堂へ行きませんか?」

「……そ、そうね! そうと決まれば早速」

「はい、参りましょうか〜」

 

 ……大丈夫かな。やっぱり不安になってきたので、こっそり二人の後ろから食堂へ行く。泣きながらキングが帰ってきたりしたら洒落にならないし。いやそれは流石にないか。

 

「トレセン学園、聞いていた以上のところですよね〜」

「……」

「それでも私たちももうその一員。早く慣れねばなりませんね」

「……」

「キングちゃんは、どうですか? 学園には慣れましたか?」

「へっ!? わ、私!?」

 

 食堂に行くまでの道のりで、既に危うさ最高潮。こりゃ私の出番も近そうだ。一応二人は並んで歩いているけれど、歩調や耳の動きやその他諸々がまるで違う。佇まいが堂に入っているグラスワンダーさんと、一生懸命規則正しく歩いているキング。それにしてももうキング「ちゃん」とは、侮りがたしグラスワンダー。

 

「私はと、当然慣れたわよ! 一流として!」

「……流石、と言うべきでしょうか」

「……そう、ね。グラスワンダーさん、貴女なら当然知ってるでしょうね」

「私には、窺い知ることしかできませんが」

 

 目の前の会話の雰囲気が少し変わる。さっきまでより、遠く感じる。

 

「……着いたわね」

「そうですね、続きは食事をしながら」

 

 そう言って、二人は食堂へ入っていく。私は数歩遅れて。まだ、立ち並べない。

 

 

「お待たせしたわね、グラスさん」

「いえいえ、ではいただきましょうか」

 

 離れた位置から聞き耳を立てる。先程の少しの掛け合いが、二人の間の空気を解きほぐしたらしい。昨日の私がキングの心に踏み込まなかったのとは正反対だと思った。彼女たちの繋がりは、むしろそこから始まっていた。

 

「お母さまは、向いてないって言ってたの」

 

 そう、二人の会話は再開される。キングのお母さんの話から。私があの時避けた話だと思った。それをグラスワンダーさんには話している。そのことに、少し胸がちくちくした。

 

「そう、ですか。あれだけ素晴らしいウマ娘だったんですから、その発言も重いですね」

「ショックだったわ。一番私を見てた人が、私に期待してないってことだもの」

「でも、キングちゃんはトレセン学園に来たんですよね」

「……そうね。諦めたくなかったから。絶対に」

 

 諦めたくない。そのワードが、弾丸のように私の頭の中へ届く。キングは自分が期待されてないと知って、それでも諦めなかったんだ。私はそんなふうにはなれなかったのに。今までどこか子供っぽく見えていた彼女が、自分よりも大きく感じられた。

 

「ありがとうございます。そんな大切な話を聞かせてくれて」

「いいのよ。このくらいは当然の権利として与えてあげる。その代わり、今度は貴女の話を聞かせてくださるかしら? グラスさん」

「ええ、喜んで……と言いたいところですが、その前に」

 

 そう言ってグラスワンダーさんはあらぬ方向を見て……いや、これは。

 

「こっちに来てもいいんですよ、セイウンスカイさん?」

 

 策士策に溺れる。あえなく私はグラスワンダーさんの前に引き摺り出されることになる。キングの方は私が着いてきていたことに結構驚いていた。むしろ君が気づいてないのはどうなの? とは思った。

 

 

 そうしてキングの横に座らされ、尋問されるまでもなく今回の作戦をぺらぺらと喋り出す私。とはいえ中身は単純で、『昼食に誘って本人しか知らない情報を聞き出してきたら』くらいのものだけど。

 

「──それではキングちゃんが昼食に誘ってくれたのは、セイちゃんの差し金と」

「グラスワンダーさん攻略のため、私にやったみたいに色々情報を聞き出したら、と提案させていただきまして……いよいよ喋り始める、というところであえなく私自身がお縄についた次第です……」

「そんな堅苦しくならなくても、グラス、でいいですよ? 大丈夫、今回は怒ってませんから」

 

 それ自体は本当な気がするけど、次嵌めようとしたらタダじゃおかないって警告な気もする。絶対そうだ。

 

「スカイさん、私がうまくやれるか心配だったんじゃないの? それで着いてきたのかしら」

 

 ぎくっ。案外鋭いな、キング。

 

「まあご覧の通り、私はちゃんと話を聞き出すところまで成し遂げたわよ! これが一流の証! おーっほっほっ!」

 

 そこまで上機嫌なら、こっちも怒ってはいないらしい。それならそれでよし。私は改めて、栗毛の少女の方に向き直る。柔らかい雰囲気と、頑健な内面を併せ持つ。その瞳を見据えるのにすら、少し勇気が必要だ。

 

「グラスちゃん。聞かせてよ、君の話」

「もちろんですよ、セイちゃん」

 

 少し強引に距離を詰めて。またこれも私の変化、かもしれない。二人の会話を聞いたから、また少し。

 

「グラスちゃんはさ、どうしてトレセン学園に来たの? どうして、走ることを決めたの」

「私は、そうしたかっただけですよ〜」

「そうしたかった。それだけを理由に、頑張れるのかな」

「少なくとも、私はそうしてきました。……これでもここまで、それなりに努力を重ねてきたつもりですよ? 昔は日本語だってうまく喋れなかったんです」

「それって……」

「これでもアメリカ生まれなんですよ? 日本文化に憧れて、武道や茶道も身につけました。そして日本にまでやってきました。『大和撫子』が、私の憧れなんです。だから」

「なるほど。自分を貫けるのが、グラスちゃんの強さなんだね」

 

 期待を背負えど、覚悟は常に己と闘っている。憧れと夢に殉じる覚悟。それは焔の如く、彼女の中に宿っている。それは、私とは違うもの? そのはずだけど、私の中でも何かが揺れていた。

 

「セイちゃんは、どうしてここに来たんですか?」

「私、かあ。そうだよね、キングもグラスちゃんも喋ったし」

「そういえば私も、スカイさんのこと聞いてないわね」

 

 じっと周りが見つめる。……けど。

 

「話したいのは山々なんだけど、もう昼休み終わっちゃうよ? ほら」

 

 そう時計を指差してやる。私が時間を気にするなんて、大嘘吐きもいいとこなんだけどね。

 

「本当じゃない! とりあえず教室に帰りましょう、グラスさん!」

「そうですね〜、参りましょうか。ほらセイちゃん、逃げたらだめですよ?」

 

 やっぱりグラスちゃんには敵わない。この場をごまかすことには成功したけど、サボりは失敗だ。……こりゃ近いうちに、結局話すことになっちゃうかもな。二人の動機と比べると、みっともなくて情けないけど。

 三人で、今度は並んで駆けて行く。今目指すのは教室だけど、いつかはその先へ。どこかにそんな未来が見えた。私は初めて、未来を夢見た。これもまた一つの変化だったと、後から見れば言えるだろう。結んだ糸を揺らしてみれば、共振が広がっていくように。小さな繋がりの集まりが、私を変えてゆく。

 そしてそんな繋がりは、これからもっと。もっと多く、もっと強く。青空さえ埋め尽くすほどに、光は満ち溢れている。




次回は明日の20:00更新です。
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『チーム』

 新しい環境に放り込まれても、時間をかければそのうち慣れる。私の場合は一週間くらいでなんとかなった。教室へのルートも覚えたし、扉を開けるのにも緊張しない。そんなちょっとした変化を、このクラスのみんなが経験している。当たり前のことだけど、それは何か素敵な気がした。急いでいたら見過ごしてしまいそうな、きらきら光る一粒の青春。それをみんなが持っている。

 

「あらセイちゃん、おはようございます〜」

「グラスちゃんおはよー」

「今日もいい天気ですね〜」

「そうだねえ」

 

 グラスちゃんともだいぶ打ち解けた。というか私達、それなりに波長が合う。穏やかとかゆるゆるとか、そういう感じのアレが。

 

「相変わらずしゃきっとしないわね、あなた達……」

「キングもそんな肩肘張らなくてもさ、のんびりしてみることを覚えてみたら?」

「そうですよ〜、この前だって固くなり過ぎて」

「よ、余計なお世話よ!」

 

 キングとグラスちゃんと私。三人での会話は新しい日常の一ページになって久しい。それに朝の教室を見渡すと、私達以外にも取り留めのない会話が溢れている。なんかいいなあ、こういうの。ちょっとした環境音は昼寝を快適にしてくれるしね、なんて。

 そうしているとチャイムが鳴って、皆が自分の席に帰っていく。私も慣れた手つきでノートと教科書を広げる。こんなことにいちいち喜びを感じていたら、キリがないんだろうけど。変化が馴染んでいく感覚は、何ものにも代え難い。そう思った。

 

 

「そういえばグラスさん、スカイさん」

「何?」

「何でしょう」

 

 これまたすっかり慣れた三人での食堂。今日話題を切り出したのはキングだった。

 

「二人もそろそろ、どこのチームに入るか決めたのかしら?」

「キングちゃんはそういえば、さっきの休み時間に加入届を書いていましたね」

「そう! 一流は決断の早さも一流なのよ!」

 

 ああ、その話か。私たちトレセン学園のウマ娘は、トゥインクル・シリーズに挑戦するためにチームへの加入を必要とする。チームを代表するトレーナーの元で指導を受けたり、同じチームのウマ娘と合同トレーニングしたり。トゥインクル・シリーズへの参加条件というのもあるけれど、チームに所属する恩恵は大きいし、早く決めるに越したことはない。それにしてもキングはもう決めたんだ、流石。そしてグラスちゃんは……。

 

「私は、チーム<リギル>に入ることに決まりました」

 

 グラスちゃんも、チームを決めた。ということは残るは私だけ。そんなことより大事な情報が、今グラスちゃんの口から飛び出したけど。

 

「<リギル>って……いいえ、グラスさんなら当然と言うべきかしら」

「ありがとうございます、キングちゃん。<リギル>のトレーナーさんから声をかけていただいたので、運が良かったです」

 

 チーム<リギル>。七冠ウマ娘シンボリルドルフを筆頭に、学園の有力ウマ娘が軒並み集う『最強』のチーム。勿論トレーナーさんもそれに見合った優秀な人で、そのトレーニングはとても実践的らしい。それはつまりトレーニングがきついということで、私には縁がないチームということでもある。最強を掲げるという点でも、二重に。

 

「すごいなあ、グラスちゃんは」

「まだスカウトしてもらっただけですから〜。それに期待されるということは、その期待に応えねばならないということ。今まで以上に、日々是鍛錬、ですね」

 

 そこで闘志を燃やせるのが、グラスちゃんの本当にすごいところだ。私には期待を背負う感覚すらわからない。

 

「そういうスカイさんは」

「いや〜、私は」

「チームに入らないと、レースにも出られませんよ?」

「それはもちろん、知ってるけどさ」

 

 悩んでいるというより、考えることを避けている。そんな指摘が飛んでこないのは友達故の優しさというやつか。でもこの二人に相談しても、真面目な回答しか返ってこない気がする。練習のキツい真面目なチームを選ぼうという回答しか。

 

「私、セイちゃんと走るの楽しみにしてますから」

「あはは、ありがとー」

「いい、スカイさん。最後に勝つのはこの私、キングヘイローよ! ……だから、ちゃんとレースに出れるようにくらいはしておきなさいな」

「キングもありがとー」

「相変わらず締まらないわね……」

 

 なんとか躱したけど、二人からの圧を感じる。早くどこかのチームを探さないと絶交されてしまいそう。まあ、それに。『一緒に走りたい』、そう言われて悪い気はしないから。それはきっとうっすらかけられた、期待に近いものだから。

 

 

 放課後学園内を散策すると、そこかしこに募集のチラシが貼ってある。やる気に満ち溢れていて、見ているだけで眩しくて目がやられそう。しかし何の情報も集めてないから、何を基準に選べばいいやら。……と、そこで少し前の記憶に行き当たる。そうだ、適当に会話をしすぎて忘れていた。あの正論男から聞き出した、練習が楽なチームの名前。確か名前は……。

 

「チーム<アルビレオ>、加入募集してまーすっ!」

 

 溌剌とした声が、校舎の外から聞こえて来る。当然知らない声だけど、問題はそのチーム名。そう、聞き覚えがあるぞ。確か練習が楽だと聞いたチームの名前はア……なんとかだったはず。そこまでは確かに覚えていて、<アルビレオ>という名前は初めて聞いた気がしない。ああ、これこそ運命かも! 善は急げと、入部を呼びかけているウマ娘の方へ向かう。グラスちゃんと同じ栗毛だけど、少し明るい髪色かも。そして雰囲気もそんな感じ。そんなふうにちょっと観察した後、私は彼女に話しかける。……つもりだったんだけど。

 

「あ、もしかしてあなた、私たちのチームに興味ありますかっ!?」

「あ、はい。まあ一応」

「ありがとうございますっ!」

 

 あちらから先に、若干食い気味に。でも勧誘なんてこれくらいじゃなきゃやっていけないか。

 

「私は高等部のナリタトップロードといいます。以後よろしくお願いします! よければ貴女の名前も聞かせてもらえますか?」

「私は中等部のセイウンスカイです。以後よろしくかは、まだわかんないですけど」

「わわっ、そうですよね。すみません、つい」

「いえいえ。よろしくお願いしますね、ナリタトップロード先輩」

 

 まともにトレセン学園の先輩と話したのは初めてだけど、話しやすいしいい人そう。もし同じチームに入るとしたら、そういうのも重要だろう。

 

「じゃあ、スカイちゃんがよければ、ですけど。チームの部室に案内するから、そこでトレーナーさんから話を聞いてみてください!」

「ぜひぜひ。よろしくお願いします」

「やったっ! と、こちらこそよろしくお願いします!」

 

 丁寧に入部に誘い込まれてる気もするけど、歓迎されるのは悪くない気分。そうやってちゃんと乗せられてしまっているのだから、我ながらセイちゃん、ちょろい。そうしてしばらくトップロードさんに連れられて、連れられて。着いたところは。

 

「トレーナーさーん! 加入希望の子、連れてきましたよー!」

 

 薄暗い、小さな、空っぽの部屋。このチームのトレーナーが待ってるはずだったんだけど。トップロードさんの声が空しく響く。……雲行きが怪しくなってきた、かも。

 

「ご、ごめんなさいスカイちゃん。多分すぐにトレーナーさん帰ってきますから」

「いえいえ、どうせ暇ですしお気遣いなく」

 

 とはいえ必死におろおろしているトップロードさんを見ると、ここで帰ってしまうのはあまりにも酷だ。少し退却も考えたけど、私は鬼にはなりきれないや。

 

「えーとそれじゃあ、とりあえず座ってもらって、私が代わりに説明するしか……あ!」

 

 そこでトップロードさんの動きがぴんと止まり、こちらに向かって手を振る。いや、これは私じゃなく、私の後ろに向かってだ。それはつまり、待人きたりの意。このままずっと来なかったら考えものだったけど、すぐにトレーナーさんが来て良かっ──。

 

「久しぶりだな。セイウンスカイ」

 

 そこで私の思考はフリーズする。聞き覚えのある声。恐る恐る振り返ったら目に入ってくる、あの太い眉。そして何より、「久しぶり」。

 

「歓迎するぞ、セイウンスカイ! チーム<アルビレオ>に!」

 

 ようやく忘れかけていたのに。これ以上ないくらい嫌な形での、正論男との再会だった。

 

 

「──と、一応<アルビレオ>がどんなところかって説明はこんな感じです。結局トレーナーさんの気まぐれも多いんですけどね」

「あはは、説明ありがとうございます……」

「それにしてもトレーナーさん、スカイちゃんと面識があったんですね! チームメンバー集め、トレーナーさんもやる気あったってことですよね?」

「俺は少し話しただけだ。それで来てくれたのなら、セイウンスカイの方にやる気があったってことだろう」

「なるほど! スカイちゃん、これから一緒に頑張りましょう!」

 

 まずい。状況証拠は完璧だ。前にこの正論男と少し話して、それで興味を持って彼のチームに入ろうとした。誰がどう見たって聞いたって、この状況じゃそれしか考えられない。そして私は同時に、とんでもない勘違いに思い至った。

 

「あのー、トレーナーさん? この前あなたから聞いた練習の緩いチームって、なんて言いましたっけ」

「ああ、それなら<アルゲニブ>だな。ウチとは名前が似てるが、ウチの方がチームとしては上だ! 勝手ながらそう自負している」

「ああ……ありがとうございます」

 

 最後のピースが嵌まる。ア……というのは覚えていたとおり。けど<アルビレオ>に聞き覚えがあったのは、他ならぬこいつの自己紹介があったから。そんな微妙な記憶を頼りにした結果、最悪のルートに辿り着いてしまった。

 

「それはそうとセイウンスカイ、よく来てくれた」

「今更ですけど、ちょっと喋っただけなのに。名前、覚えてたんですね……」

「当然だ。走りそうなウマ娘の名前は覚えておくと言っただろう」

 

 そう言われて言葉に詰まる。嘘じゃなかったんだ、なんて言いそうになる。この人がそういう人じゃないことくらいは、既にわかっているのに。

 

「それじゃあスカイちゃん、これ、加入届です!」

「え。その、まだ入ると決まったわけじゃ」

「いいやセイウンスカイ、この部屋に入ったからにはもうチームメイトだ」

「なんですかそれ。流石に横暴でしょそんなの!」

 

 とは言ったものの、部屋の扉はトレーナーさんが。後ろからはトップロードさんが。この男の執念に燃えた感じの目も怖いし、トップロードさんの訴えかけるような瞳も逃げづらい。……少し考えた。考えたけど。

 こりゃ、ダメだ。

 

 

 帰る頃には日が暮れていた。結局私は「晴れて」チーム<アルビレオ>に入ることとなった。そうしないと帰れない状況だったから致し方ない。トップロードさんはいい人だけど……。やっぱり苦手だ、あの男。あの様子じゃトレーニングもキツそうだし、どうしたもんか。うまくやるしかない、そう考え直して寮への歩みを進める。きっとこの脚も明日からは、走ることに使うのだろう。いつかのあの日、諦めることを覚えたあの日以来に。

 のんびり、ゆるーり。今の私が尊んでいるそういったものとは別に、どこかで私が欲しているものがある。認めてほしい、期待してほしい。そして、褒めてほしい。私自身が諦めて止めてしまった、昔の私の欲求だ。だからそれはずっと子供のまま。大人にならなくちゃいけない私は、それを表に出してはならない。

 夜風が吹き抜ける。水面が月に照らされる。少しの間物思いに耽っているだけで、夕暮れは夜へと変わっていた。時間の流れは、常に何かが変化しているということを示している。私だって、変わってゆく。それ自体が良いか悪いかは、まだわからないけど。

 怖くはない、気がした。




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違うこと、同じこと

 結論から言えば、チーム<アルビレオ>の練習はキツかった。それも愚直に何度も同じことを繰り返すタイプ。私が苦手なものの一つ、根性論で出来ている。私の他にも何人かチームメイトは居るけれど、トップロードさん以外はみんなトレーニング終わりにはヘトヘトだ。私含めて。これも新しい日常になるとしたら、嫌だなあ……。

 

「今日のトレーニングはここまで!」

「みなさん、お疲れ様です! ゆっくり休んでくださいね!」

「みんな! 明日も頑張るぞ!」

 

 そうして今日も、日の暮れてきた頃にトレーニングが終わる。夕焼けに照らされながら息を切らせているのは、ある意味青春って感じはする。けど暑苦しい方の青春だ。私が求めるのはもっとこう、爽やかで健やかなやつ。

 

「大丈夫ですか? でもスカイちゃん、素質ありますよ!」

「はあ、はあ……。そ、そうですか?」

「そうだな。だからスカイ、これからもトレーニングだ」

「はあ、そうなりますか」

 

 トレーナーさんが暑苦しい言葉をかけて、トップロードさんが労いの言葉をかける。そんな感じの飴と鞭で、このチームは回っている。私もそれにいいようにされてるのかもしれないけど、やっぱり根性ばっかりのトレーニングは苦手だ。というか周りを見る限り、これに着いてこれてる子は少ないような……まあ、いいか。適度な距離感を保って緩くやっていこう、なんて思う。そういうことにしないとやってられない、とも。

 

 

「とにかく、セイちゃんもチームが決まって良かったです」

「まあ、それはそうかも」

「身体も出来上がり始めたみたいですし〜」

「げっ、なんか嫌だなあ」

 

 のんびりとした陽気が包む教室の中、お互いのんびりとしたグラスちゃんとのお話。放課後が潰れた今となっては貴重な休み時間の、心を癒す些細な会話。グラスちゃんの言う通り、私の身体は筋肉痛や肩凝りやら、もうひどい。そんな状況で練習すりゃ確かに身にはなるだろうけど、かなり非効率だとも思う。

 

「そういえばグラスちゃんはどう? やっぱり大変かな、<リギル>」

「そうですね〜、トレーニングは綿密に計画されていますし、手を抜くわけにはいきません」

 

 綿密に、かあ。それはそれでキツいんだろうけど、同じキツいトレーニングでも<アルビレオ>と大きく違うところはそこだ。すなわち、理論の有無。

 

「それに、昨日の自分を常に越えねばならないのが、<リギル>ですから。そういう意味でも大変ですね」

「うひゃあ、しんどそう」

 

 理論的なのは羨ましいけど、やっぱり私には遠い世界だ。それでもやっていけてるんだから、グラスちゃんはすごいなあ。半ば呆気に取られていると、くすくすと笑いながらグラスちゃんが付け加える。

 

「あと、もう一つ」

「まだあるの」

「トレーナーさんの指示には絶対服従。それが<リギル>の決まりです♪」

 

 自分のトレーナーに不満たらたらな私の心を見透かすように、柔かにぴしゃり。それ、すっごく大変だと思うよ……。

 

 

 そんなグラスちゃんの言葉を胸に、今日も今日とてトレーニング。部屋に向かうと、薄暗い空間が私を出迎える。相変わらず埃っぽくて狭苦しくて、ちょっと苦手。そこには先客がいた。ぎこぎこ音を鳴らしながら椅子に座っている。トレーナーさんだった。

 

「珍しいなスカイ、今日は君が一番乗りだな」

「こんにちはトレーナーさん。確かに珍しいかもね」

 

 それを言うなら、チーム部屋でゆっくり寛いでるトレーナーさんも珍しいと思ったけど。いっつも力が有り余ってる感じなのに、今は座って雑誌を読んでいる。この人にも趣味とかあったのか。

 

「何読んでるんです?」

「ちょっとした趣味の本だ」

「だから、その趣味を聞いてるんですよ」

「……釣りだ」

 

 釣り。トレーナーさんの口からそんなワードが出てくるとは。多分信じられないようなものを見る目で、私はトレーナーさんを見ていた。

 

「なんだその目は。言っておくが、柄じゃないなんてのは聞き飽きて──」

「そんなことありませんよ! それより、こっちで有名なスポットとか教えてくれませんか?」

 

 びっくりしてついつい食いついてしまう私。トレーナーさんもびっくりして返答する。

 

「まさか、君も」

「それはこっちの台詞ですって。トレーナーさんも釣り人だったとは、セイちゃんびっくりしちゃいました」

 

 本当にまさかまさかである。トレーナーさんと初めて話が通じた。噛み合わないとばかり思っていたけど、何があるかわからないものだ。

 

「──ふーむ、なるほど……」

「そうなんですよ、釣りには作戦ってものが必要なんです。もちろん場所や天候や狙いに応じて臨機応変に、それが醍醐味なんですから」

「参考になるな……スカイの教え方が上手い」

「指導者たるトレーナーさんに褒めてもらえるとは、光栄でございますなあ」

 

 そんな感じで小一時間盛り上がってしまった。後からトップロードさんが来て、二人で楽しそうにしているのは初めて見たと言っていた。「スカイちゃん、すごくいい笑顔でしたよ」なんて。なんだか恥ずかしいけど、トレーナーさんに対する苦手感はこの日以降少し薄れたのも事実で。もちろんやっぱり、性格は合わないけどね。

 そうやって、なんだかんだという感じで。今の生活、今のチーム。完璧じゃなくてもそう悪くないかな、なんてことを私が思い始めた、その矢先のことだった。

 

 

 今日も何事もなく過ぎ去った授業の後。放課後、ルーティンと化したトレーニングに向かおうとした時。

 

「スカイさん、隣のクラスからお呼ばれよ」

「え、何かしたかな私」

「知らないわよ……あなたのチームメイトらしいから、チームの話じゃないかしら」

 

 確かにそうだ。教室の前に待っているあの子は、チームメイトの一人。ショートヘアの真面目な子で、いつも一生懸命トレーナーさんの無茶な掛け声に応えていたのを覚えている。それなのに今日はなんだか元気がない感じで、ちょっと不穏だ。とはいえ無視するわけにもいかないし……。

 

「教えてくれてありがとキング。ちょっと話してくるよ」

「今更だけど、貴女チームに入って変わったわね」

「ああそれ、グラスちゃんにも言われた。身体が出来上がっていくって、正直不気味だよね」

「身体じゃなくて……まあいいわ、とりあえずいってらっしゃいな」

 

 それもそうだと思い、教室の外へ向かう。言い渡された言葉はこうだった。

 

「わたし、<アルビレオ>を抜けることにしたんです」

 

 それを聞いた時の私の表情は、果たしてどんなものだったのだろう。

 

「わたしじゃ、練習についていけなくて。もう無理です、限界です。しんどい、です」

「……そっか」

「だけどトレーナーさんにも、トップロード先輩にも言える勇気は、なくて。卑怯だと思います。でも、セイウンスカイさんにお願いするしか思いつきませんでした」

 

 わからなくもない話だ。あの練習についていけてない子がいるのは分かっていた。だからこれも時間の問題。いくら憧れが強くても、応援や期待が間近にあっても。あの人たちは眩しくて、自分とは違うって思ってしまう。そういうのはよくあること。そうして諦めた一人が、他ならぬ私だから。

 

「わたしの代わりに、わたしの脱退届をお願いできませんか」

 

 そう言って彼女は、くしゃくしゃの脱退届をこちらに差し出す。その端に、涙の跡が付いていた。ここで私がかけるべき言葉はなんだろう。何も言わずに受け取って、それで終わりにしてしまうべきかもしれない。あるいはそんなこと言わないでよ、と彼女の気持ちを鎮めて復帰させるべきかもしれない。この状況に対してはっきりした正解があるとすれば、そのどちらかを示すことだろう。だけど。

 

「お疲れ様。私もわかるよ、その気持ち。非効率的な練習だなーって思うもん」

「そ、それは」

「ああいいよ、気を遣わなくて。気を遣わなくていいから、私に頼む理由が知りたいなって」

「……それは」

「練習に不満を持ってて、脱退届を出しても自分のことを止めたり怒ったりはしなさそう。それでも私自身は釣られて辞めそうにない、そう見えたから。だから私に頼みに来たんでしょ?」

 

 私の正直な気持ちを話すとすれば、こうなるのだろう。気持ちはとてもよくわかるけど、私はなんとなく同じじゃないや、と。やっぱり私には、正論より曖昧が似合っている。

 

「……すみません」

「謝らなくていいよ。もちろんトレーナーさん達にも。こういうのは誰が正しいとかじゃないんだから」

「私は、正しくないです。セイウンスカイさんのこと、都合よく使おうとして」

「それも含めて、謝らなくていいの。誰だってそういうのはあるからさ。なんで辞めそうにないと思ったのかは、ちょっと気になるけどね」

 

 そう問うと、彼女はおずおずと口を開く。飛び出したのは予想外の発言だった。

 

「セイウンスカイさん、頑張ってましたから。しんどくても、頑張り続けてて」

「私より君の方が、ずっと真面目だったと思うけど」

「うまく説明できないんですけど、違うんです。何か、しっかりした芯があるというか。だから、その」

 

 芯、かあ。私にそんなものあるのかな?

 

「いまいちしっくり来ないけど。なにかな」

「セイウンスカイさんには、頑張り続けて欲しいです」

「……わかった」

 

 そうか。私、頑張ってたように見えたのか。自分では上手く手を抜いていただけのつもりだった。これからももちろん、そのつもりだった。けれど、彼女は私に頑張ってほしいと言っている。期待、している。

 

「じゃあ、わたしは失礼します」

「うまく説明しとくから。気にしちゃダメだよ」

「……ありがとう、ございます」

 

 そうして去ってゆく背中の荷物を、少しでも減らせていたなら。そう、思う。

 

 

「そう、ですか……ありがとうございます、スカイちゃん」

「いえいえ、私はお伝えしただけですから」

 

 トレーニング前の小さな部屋。窓から入る一筋の光だけが照らす静かな場所で、トップロードさんに彼女のことを伝える。この人はそういう人だと分かっていたけど、こう分かりやすくショックを受けられるとちょっと罪悪感。

 

「あっ、ごめんなさい! こんなことじゃダメですよね、トレーナーさんには私が伝えておきます」

「トップロードさんがやりづらかったら、別に私が伝えますけど」

「スカイちゃん、ありがとうございます。でも」

 

 そう言って、トップロードさんは私の手を取る。汗が滲んでいたのは、どちらの手も同じだった。

 

「辛いことを一人に閉じ込めさせてしまうのは、嫌なんです」

「……そうですね。思ったより、私も辛かったかもしれないです」

「だから分担しましょう。そんな大層なことじゃないかもしれませんが、だからこそです」

「トップロードさんって、いい人ですね」

 

 純粋な賞賛が口から漏れる。きっとこの人は、心の底から正しさを実行できる人。それは時に眩しすぎて誰かの眼を焼いてしまうとしても、正しさを諦めてほしくないと思った。私にそんなことを言う権利はないから、心の中に留めておくのだけれど。

 

「いい人、ですか。そうだったらいいな、とは思いますけど」

「いい人ですよ。自信持ってください」

「ありがとうございます、スカイちゃん」

 

 多分トップロードさんにも、トップロードさんなりの悩みがあって。あの子が言うほど眩しいだけの存在じゃない。そう、今更気づいて。あの子もいつか気づけたらな、そうも思った。

 

「よし! 練習を始めるぞ!」

 

 しばらく後にトップロードさんが呼んできたトレーナーさんは、びっくりするほどいつもと変わらなかった。多分トップロードさんから脱退の話は聞いてるはずなんだけど、それくらいでは動じないということか、はたまた。

 トレーニングもいつも通り。いや、人数が少なくなった分キツくなった。ひいひい言いながらコースを走って、階段ダッシュして。相変わらずの根性トレーニングだけど、本当にこれしか知らないのだろうか。ともあれ今日もお開き、となったところで。

 

「みんなお疲れ様! 俺は今日部室でやることがあるから、みんなは着替えたらそのまま帰っていいぞ。荷物は先に取っといてくれ」

 

 夕日をバックにトレーナーさんが言う。やることってなんだろう? とはいえそんなことを気にするより、まずはシャワーを浴びたかった。つまり、チームの部屋より更衣室にしか目がなかった。だから私がシャワーを浴び終えた後、部室に忘れ物があることに気付いたのも仕方のないことだった。

 

(トレーナーさん、もう帰ったかな)

 

 部屋の壁に向けて聞き耳を立てるべきか迷ったが、そんなところ見られたら恥ずかしいので止めておく。普通に入って、まだ帰ってなかったら一言断って、忘れ物だけ取らせてもらおう。そんな感じで。

 

「失礼しまーす……」

 

 返事はない。明かりもついてない。それならさっさと忘れ物を──。

 どしん。そう思って少し動いたら、目の前の何かにぶつかった。いやこの感触は、何かというより誰か。もっと言うなら。

 

「おお、スカイか」

「トレーナーさん、明かりくらいつけましょうよ」

「すまない、忘れていた」

「忘れてたって、何してたんですか?」

「ちょっとな」

 

 そうやって答えを濁すのは、なんとなく親近感。だからそこは問い詰めないでおく。

 

「トレーナーさん。理由がなんにせよ、暗いところに一人でいるのはよくないですよ?」

「俺は大人だからいいんだ」

「大人ですかあ。私とは違いますね」

 

 他にもたくさん違うところがある。だけど、似ているところもある。

 

「セイウンスカイ」

「なんですか?」

「頑張れ。努力は無駄にはならない」

「なんですか、急に」

「諦めるなってことだ」

 

 またいつもの根性論。頑張れば出来るから諦めるな、そんな正論。けれど今なら思うのは、彼もまた正しくあろうとしてるだけかもしれない、ということ。

 

「トレーナーさんは、大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。心配要らない」

「そっか。それなら私も、心配は止める」

「心配してくれてたのか?」

 

 その言い回しはずるい。

 

「まあ、ご想像にお任せします。それよりそろそろ帰りましょ」

「……そうだな」

 

 ずるかったので、誤魔化してやった。そうして二人で、真っ暗だった部屋を出る。澄んだ夜空が、私たちを出迎えた。

 

「トレーナーさん、何処まで着いてくるんですか?」

「暗いところに一人でいるのはよくないからな。寮までは着いていく」

「なるほど」

 

 そういう軽口を言えるくらい元気が戻ったのなら何よりだ。トレーナーさんはいつも暑苦しいのだから、偶には暗いのもいいかもしれないけど。

 

「トレーナーさん」

「なんだ」

「私、頑張りますよ」

「そうか。努力は裏切らないぞ!」

 

 正しくあろうとする彼の言葉は、きっと本心を覆い隠している。肝心な答えは濁すし、いつも自分が言うべきことを言おうとしている。それはきっと、どこかの芦毛のウマ娘と同じ。尊んでいるのは正論じゃなくて平穏だけど、私たちは似たもの同士だと。改めて、そう思う。

 

「それじゃ、見送りありがとうございました」

「ああ。明日も頑張るぞ、スカイ」

「もう明日の話ですか? 明日の話は明日でいいじゃないですか」

「それもそうだな。じゃ、また明日」

「はい、また明日」

 

 来た道を帰る彼がこちらを振り返らなくなるまでずっと、私は手を振っていた。




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新たなる好敵手

 変化は続くもの。何かが変わって安定したなら、またその後に何かが変わる。繰り返す日常だって、毎日全部ぴったり同じじゃない。時折ハレの日があって、そこからまた。だから今日も──。

 

「キングヘイロー、一着でゴールイン! 見事なデビューを果たしました!」

 

 ──今日という日もまた、変化のきっかけとなる。ターフの上で輝かしく笑う彼女自身にとっても、そこに憧れを見る私たち観客にとっても。

 

「キングちゃん、流石ですね」

「そうだね。グラスちゃんのデビュー以来、ずっと私も私もって息巻いてたもんね」

 

 そう言うと、私の横にいるグラスちゃんは少しおかしそうに笑った。キングに見られたら怒られそう。いや、グラスちゃんなら躱しちゃうか。

 

「私も負けてはいられませんね〜」

「来週レースだっけ。いやはや大変ですなあ」

「はい。いつかはキングちゃんとも走ることになるかもしれませんね」

「そりゃ、そうじゃない? 二人とも強いし。GⅠとかで、派手にバチバチやっちゃってよ」

「セイちゃん」

 

 げ。グラスちゃんがちょっとマジトーン。軽々しくGⅠとか言ったのがまずかったかな。そう思ったのは束の間。すぐに、言の葉は開かれて。

 

「私は、貴女とも。そう、思っています」

 

 それは宣戦布告。それは信頼の証。それは、覚悟が花開くが如く。私と走りたい。そんな彼女の言葉には、何もかもが込められていて。互いを見据え、数瞬の逡巡。きっと私にはまだ足りない。彼女が魂に焚べているそれほど、決意を固めるものが足りない。けれど私は口を開く。それくらいは、できる。

 

「……うん。ありがとう」

 

 その先は、これから言えるようになるよ。キングやグラスちゃん。そしてまだ見ぬライバルに向けて、いつか。だけど、必ず。0が1へと変わるのは、初めの大きな第一歩。

 見上げてみれば、その日の青空もキレイだった。

 

 

 次の日の教室は、当然キングのデビューの話で持ちきり。……だとよかったんだけど。

 

「ねえ聞いた? 編入生だって。今日このクラスに来るんだって」「編入生って、特別実力を認められて入ってくるんだよね?」「すごい子なんだろうなあ」

 

 聞き耳を立ててみれば、クラスは別の話題で一色。私も確かに気になるけど、今はとりあえず……。

 

「なんでなのよ」

「まあまあ、そういうこともあるんじゃない? あれだったら言ってきたらいいじゃん、私の話してーってさ」

「おばか! そんなみっともない真似、一流の私に相応しくないでしょう!」

「恥ずかしいから?」

「……もう!」

 

 そんなふうに、かわいそうなキングを適度にからかってやるのが先だ。編入生の子ともそれなりにうまくやっていけたらな、とは思うけど。そんなことを考えていると、また一人教室に入ってきた。グラスちゃんだ。

 

「おはようございますキングちゃん、改めてデビューお疲れ様でした」

「ぐ、グラスさん……!」

「どうしたんですか? なんであれそんなに喜んでもらえたなら光栄ではありますが」

「はっ! べ、別に喜んでなんか」

「キングはもうちょいポーカーフェイスを覚えた方がいいよー。グラスちゃんにも説明すると、教室の誰も自分の話をしてないから、この子拗ねちゃって」

「スカイさん! 私は拗ねてなんか」

「はいはい」

 

 グラスちゃんがデビューした時はそれで話題が一色だったし、キングにだってそれこそその権利はありそうなものだけど。逆に言えば、それだけ『編入生』というワードは強烈なのだろう。そんなことを口に出しても慰めにもならないので、黙っておく。そののちグラスちゃんとキングが喋っているのを横目に、私は一人別のことを考えていた。周りの皆が実力を示し始めていること。鳴り物入りの実力者が、新たに編入するということ。ならば、それならば。

 私の、セイウンスカイというウマ娘の実力は、一体。その問いは、かつて幼い私が世界に問いかけたものと似ている。私が諦めることを覚えたあの日。あの時は誰も私に答えを返さなかった。誰も私に期待の眼差しなんて向けていなかった。

 けれど今は違う。キングもグラスちゃんも、私と走りたいと言ってくれている。自分に自信を持っている彼女たちのその言葉は、裏を返せばそのまま私への期待になる。そして何より、この学園で最初に私に期待を寄せた人のこと。暑苦しいのも根性論も、意地っ張りな正論も何もかも、やっぱり苦手だけど。

 トレーナーさんの期待に、応えたい。そして、願わくば。「よくやったな」と、あの頑固者の口から褒め言葉を引き出せれば、それはとっても愉快なんじゃないかって。そんなことを思うのだ。

 

「ねえスカイさん、聞いてるの?」

「え、ごめん。聞いてなかった」

「もう。始業のチャイム、鳴ったわよ」

「セイちゃん、真剣に何か考えてましたね〜」

「まさかあ。私に限って真剣なことなんてないよ」

 

 そう言って自分の席に着く。クスッと笑って去っていくグラスちゃん。なんだか私、嘘が下手になってるかもな、なんて。それも変化かもしれないとも、思った。

 そして程なくして、編入生の紹介が始まる……んだけど。その顔を見た瞬間、思考がフリーズする。いやいや、確かにこのトレセン学園にはどんな癖の強いキャラが入ってきてもおかしくないとは思うけどさ。

 

「みなさん、コンニチハ! アタシの名前はエルコンドルパサー! よろしくお願いシマース!」

 

 ハイテンションな挨拶。大袈裟な身振り手振り。そして何より、その覆面はなんですか……? そんなここにいる人全員の疑問も意に介さず、エルコンドルパサーさんは自己紹介を続ける。

 

「アタシが目指すのは世界最強のウマ娘! そのためにアメリカから日本にやってきまシタ! だから……グラスワンダー!」

 

 びしっ。そうやってエルコンドルパサーさんは初対面の人を呼び捨て、指差し。これがアメリカ流か。いや、グラスちゃんもそういえばアメリカ生まれだった気がするな。なら波長は合うのだろうか。今のところまるっきり別物に見えるけど。

 

「手始めにこのクラス最強のアナタを超えて、アタシの最強を証明してみせマス」

「……それは、臨むところですね」

 

 その会話は、クラス全体に緊張感を走らせる。なるほど、そういう負けず嫌いなところは噛み合うのか。そんなふうに他人事風に聞いてたんだけど。

 

「でも、このクラスにいるのは私だけじゃないですよ? 私には他にも負けられないライバルがいるつもりですので」

「それは興味深いデス! あとでその子たちのこと紹介してくだサイ!」

 

 そこまで言って、とりあえずエルコンドルパサーさんは自分の席に着く。ライバルの紹介って、まさか。その後の波乱を予感しつつ、今は『ライバル』という言葉を噛み締める。ライバル、私たちはライバル。そのフレーズは荒々しくて刺々しいのに、咀嚼するたびに心が澄んでいく気がした。

 

 

 お昼は結局、私とキングとグラスちゃん、そしてエルとで一緒に食べた。最初はだいぶトンチキな子だと思っていたけど、喋り方と謎の覆面以外は割ととっつきやすいこともわかった。むしろグラスちゃんの底知れなさがより鮮明になったというか。いや、デスソースを自分の皿にかけられたら私でも怒るかも。グラスちゃんを怒らせてはいけない……肝に銘じておくことにした。と、それはともかく。

 

「頑張れ! あと十周!」

 

 今はいつものようにトレーニング。いつものように同じコースを何度も走っているところ。関係ないことでも考えないと、やってられないよね。同じことをやっていても日に日に楽になっているのは、きっと成長の証ではあるけどさ。

 

「よし! 今日はここまでだ!」

「みなさん、お疲れ様でしたー!」

 

 トレーナーさんはともかく、毎度あれだけ走った後に元気に締めるトップロードさんはすごいと思う。私は体力が残ってても、あんなに元気は出せないや。

 

「スカイちゃんも、お疲れ様です」

「ありがとうございます、トップロードさん」

「本当、見違えちゃいましたね! 私も負けてられないなあ……」

「あはは、そうですかね?」

 

 練習はやっぱり苦手だけど、私の中に芽生えた気持ち。走りたい、ライバルと走りたい。それが私を変えているのかもしれない。……そうだ。

 

「ねえ! トレーナーさん!」

「どうした、スカイ」

 

 チームの部屋に向かう途中から、翻ってこちらへ歩いてくるトレーナーさん。距離が近づく一歩一歩、僅かなその時間で私は心を整える。

 

「トレーナーさん、あのね」

 

 そこで、一呼吸。私が伝えるべきことは決まっているけど、伝え方はどうするべきか。また少し、悩んで。

 

「……私、デビューしたい。……なんちゃって」

 

 私の気持ちを、決意を伝える。最後に誤魔化してしまったけど。これだけトレーニングを積んできて、トレーナーさんの期待に今なら応えられる。そのつもりだった。

 

「スカイ」

 

 けど。

 

「まだだ、デビューはまだダメだ」

 

 どうして、なんで。そう言うより先に、私の口から出た言葉は。

 

「ですよね」

 

 いつもの諦めだった。それきり、笑って私は会話を閉じる。「まだ」、そう言った本当の意味には気づかずに。

 

 

「セイちゃん、今日も元気ないですね」

「そうかな? 私は気まぐれだからねー」

 

 あの日以来、私はデビューの話を考えなくなった。それがやっぱり態度にも出てしまっているのだろうか。自分にはわからない。いつものようにしているつもりでも、他人からしか見えない変化がある。

 

「そういえば、また編入生が来るみたいですよ」

「そうなんだ。またエルみたいな濃い子かなあ」

「仲良くできたらいいですね〜」

「……そう、だね」

「やっぱり、不安ですか?」

 

 不安、かあ。そうなのかな、この心のもやもやは。新しい子が私にとって脅威となる。それはライバルとしてだとしたら、きっと喜ぶべきことなんだろうけど。今の私はそれを喜べない。

 

「良かったら、その子と話してみるのはどうですか? 不安な相手とはまず仲良くしてみる、私の時にキングちゃんにそう仕向けたのは誰でしたっけ?」

「誰だったかな、覚えてないや」

「今度は私が仕向ける役をやりましょうか? セイちゃんのためなら大歓迎、ですよ♪」

 

 そうして見事に外堀を埋められて。

 

「誘ってくれてありがとうございます! 私、スペシャルウィークって言います!」

「よ、よろしくスペシャルウィークさん。私はセイウンスカイです……それにしても、すごい量だね」

「はい! 私、ついつい食べすぎちゃうんです……えへへ」

 

 それにしたって限度はある。私の五倍は食べてそう。これはまた、キャラが濃いなあ。

 

「スペちゃんはさ、どうしてトレセン学園に来たの?」

「す、スペちゃん!? あわわ、都会の子は積極的だべ〜!」

「方言出てるよ、落ち着いて。よかったら、私のことも気軽に呼んでほしいな。……それより、どうして来たのか教えてよ」

「あ、はい! あのね、私には夢があるの」

 

 そうしてスペちゃんは、赤裸々に夢を語る。お母さんのために、自分のために。『日本一のウマ娘』になるって決めてここに来たこと。そしてこっちに来て最初に見たウマ娘、サイレンススズカさんに憧れたこと。誤魔化しも躊躇いもなく、まっすぐに夢を語っていた。

 

「なるほど。ありがとう、スペちゃん」

「ううん、聞いてくれてこちらこそありがとう! それならセイちゃんは、どうして走るのかな」

「私、かあ」

 

 私は、走るのかな。そのためにはデビューしなきゃいけない。みんながもう当たり前みたいにしているそれが、私には出来ていない。

 

「私は……また今度話すねー、それじゃお先に失礼」

「え!? 待って、待ってよー!」

 

 その後スペちゃんは当然のように、チーム<リギル>への加入テストを受けていた。エルと一緒に。スズカさんに憧れたから、スズカさんと同じチームに入りたい。そう言えるのは立派だと思った。……テストではエルに負けてニ着だったけど、結局<スピカ>というチームでスズカさんと一緒になれたらしい。スズカさんと同じチームに入り、スペちゃんは見事に最初の夢を叶えたことになる。すごいなあって、思う。スペちゃんとエルがそれぞれのチームからデビューしたのは、程なくしてのことだった。

 残るは、私だけ。追い立てられているのに、逃げ場は無くなってきているのに。私はまだ、踏み出せないでいた。




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Make debut

 師走という言葉がある。誰かの師匠が走り回るくらい忙しい、という意味だったと記憶していたけど、どうやらそれはただの当て字らしい。なんで十二月のことを師走と呼ぶのか、それはもう誰にもわからないとか。理由も意味もわからなくても、馴染んでいるからそのままにしている。なんとなく、定着している。今の私みたいな言葉だと、少し思った。

 寒空の下、寮の部屋で暖を取る。今年も終わる間際になっても、結局私はデビューしていなかった。チームに所属していて、学園にも慣れて。気ままにゆるくやろう、なんて私の当初の目的は達成されている。だから、問題ない。そう言い切ることはできた。同じクラスのウマ娘が皆同時にデビューするわけじゃない。それは知っていたし、私が焦る理由は何もない。キング、グラスちゃん、エル、スペちゃん。皆が鎬を削るのを、横からのんびり応援する。その方が、現実的かもしれない。だって。

 

「だって、私は期待なんか」

 

 口に出してしまったそれは、これまで何度心で思い描いたものだろうか。幼い頃のあの日から、何度も。ここ暫く忘れていたぶん、その言葉はより痛かった。

 

 

「お疲れ様です! スカイちゃん、最近いつにも増して頑張ってませんか?」

 

 冬休みだってトレーニングはある。これも日常。理由も意味もわからなくても、なんとなくやっているもの。

 

「そうですかね? 私目標とかないですし、トップロードさんほど頑張ってはないですよ」

「いえいえ、私はそんなっ」

「それなら私こそそんな、ですよ」

 

 私なんかより、他の誰かの方が素晴らしい。それが当たり前だ。たまに練習外でトップロードさんを見かけると、大体誰かに頼りにされている。人柄もあるのだろうけど、それを受け止められるのは強さだ。私にはないもの。

 

「今年のトレーニングも後数日! みんな、頑張るぞ!」

 

 相変わらずのトレーナーさん。トレーナーさんはあの時以来、デビューの話をあちらから振ってくることはない。私が持ちかけたのを忘れているのか、あるいは。

 

(もう一度、私が話を出すのを待っている?)

 

 ふと、その可能性に思い当たる。いやいやまさか。私が一回断られた話をもう一度持ち出すなんて、私自身だってあり得ないと思う。そもそも一回断ったのは、トレーナーさん自身じゃないか。その時とその後で何か変わるの? 変わると思ったから、あの時は断ったの? 私みたいなやつに、何か変化があるなんて、期待して──。

 

「……あ」

「……どうした、スカイ」

 

 私が上げた小さな声に、トレーナーさんが反応する。まるで予感していたみたいに。最初から、期待していた、みたいに。

 

「トレーナーさん、お話いいですか」

「ああ」

 

 あの時掴みきれなかった、私の気持ちの正体。ライバルに勝ちたい、その焦りだけじゃ誰にも勝てないんだ。これから先に待つ苦難を越える、努力への意志。自分の価値を、相手と対等なものとする覚悟。この男の根性論を肯定するみたいで、少し癪だけど。けれどなにより。

 

「私、デビューしたい」

 

 私は、あなたの期待に応えたい。

 

「良く言ったな。それが聞きたかった」

「私、前と言ってること変わってませんよ?」

「俺にはわかる。俺は君のトレーナーだからな」

 

 そのあとトレーナーさんが手早く持ち出して来たのは、なんと既に用意されていた私のデビュー戦の詳細。「後はスカイの了承を得るだけだ」って、トレーナーさんはエスパーか何かかって思ったけど。私がこのまま言わなかったらどうするつもりだったんだろう。……まあ、いいか。過ぎたことを考えるのは、私の柄じゃない。

 賽は投げられた。後は、場にあるものをいかに活用するか。それが私の役割で、私の領分だ。

 

 

 冬風が吹き抜ける中山レース場。何度もみんなのレースをここから眺めてきた、もうそれなりに馴染み深い場所だ。けど今日は一つ違う。今日ターフに立つのは、私。そこが決定的に違う。

 五番人気セイウンスカイ。フルゲート十六人だての、大外枠。決して大本命ではない。ちょっと前の私なら、ここで期待されてないって嘆いてたところだけど。

 

「セイちゃーん、頑張ってー!」

「スカイさん、負けたらただじゃおかないわよ!」

 

 精一杯の応援をしてくれる、スペちゃんとキング。そしてその横でじっと、私を見据えるグラスちゃんとエル。こんな私が期待されてないなんて、そんなことは言えないや。

 

「……あ」

 

 そしてみんなとは少し離れたところに、トレーナーさんたちチームの皆がいた。腕組みして太い眉を微動だにさせないトレーナーさんは、本当いつも変わらないなって思う。まあ、見ててよ。

 

「各ウマ娘、揃ってゲートに入ります」

 

 ──あなたの期待に応えてみせるから!

 

「スタートしました!」

 

 がこん! とゲートが開く。待ち侘びたように一斉に、私も周りのウマ娘も飛び出す。まずは前目につけて……。

 

(……わぁ)

 

 レース中ってことを覚えてなきゃ、そこで立ち止まってしまったかも。芝の上を思いっきり駆ける感触。風を切るひんやりとした感覚。何もかもが、嬉しくて。

 

(私、走ってるんだ)

 

 皆と同じように、走り出せたんだ。その実感が私に活力をくれる。これならどこまでも走れそう! 第二コーナーを回ってもうすぐ第三コーナー。うん、これなら!

 

「そおりゃあぁ!」

「第三コーナーで先頭に立ったのはセイウンスカイ! そのままぐんぐん差を広げていきます!」

 

 突き放す。今までの練習も悩みも、とりあえず今日は今日のために注ぎ込もう。

 

「セイウンスカイ、一着でゴールイン! 五番人気セイウンスカイ、なんと二着に六バ身差をつけての勝利です!」

 

 だって今日は、こんなにいい日なんだから!

 

 

 観客席からは歓声が上がっていた。私はそれを文字通り浴びていて、初勝利を何度も噛み締める。なんだかみんなが私に「走っていい」って言ってくれている気がした。これから先に、期待してくれてる気がした。

 

「あ、トレーナーさん」

 

 ライブを終えて控室に戻ると、トレーナーさんが待っていた。私の方から声をかけるなんて、今日の私はテンションが上がり過ぎてどうかしてしまっているのかも。

 

「お疲れ様、スカイ」

「うん。勝ったよ」

「そうだな。次はジュニアカップだ。これからも練習を怠るな!」

 

 そう言って、トレーナーさんは去っていく。相変わらずだなあ、と思った。私は結構喜んじゃってるけど、トレーナーさんはそうじゃないのかな。私が強いのはわかってたから予想通り、みたいな。それは確かに信頼の形で、嬉しくはあった。でも。

 

「もうちょっと、褒めてくれたって」

 

 褒められたい、なんて。子供っぽい願い。子供っぽいから、諦めた願い。かつて別れを告げた気持ちが、私の中で少し芽吹く。変化とは、何かを捨てて新しくするばかりじゃない。時には古いものを思い出させるのだと、そういうことなのかもしれない。

 

 

 続くジュニアカップでも私は勝った。開幕から逃げを打って、そのまま全員引き離して五馬身差の圧勝。私ってやれるじゃん、そんな風に考えたって無理はないと思う。トレーナーさんは相変わらず褒めてはくれなかったけど、私はあれよあれよという間にクラシック有力候補の一角となった。それはつまり、次の弥生賞。

 

「グラスちゃんありがとう! 次の弥生賞、頑張ってみる!」

「私もー。よろしくね、スペちゃん」

「頑張ってくださいね、二人とも」

「ちょっとグラスさん、私も出るわよ!」

 

 キングヘイロー、スペシャルウィークとの対決。キングはいつも通りだけど、スペちゃんは寝不足なのか目の下にクマができている。……私も他人の心配をできる状態じゃないけど。ジュニアカップの後から、膝裏の違和感が抜けない。まるで不安が形になったみたいに、響いている気がする。

 

「グラース! アタシたちも次のニュージーランドトロフィーで対決デス! もちろん勝つのは! そう!」

「はいはい、お手柔らかにお願いしますね〜。負けませんよ?」

「最後まで言わせてクダサーイ!」

 

 エルもやってきて、テーブルはわちゃわちゃしてきた。でもいよいよ、私たちの直接対決が始まるんだ。少し前まで一歩引いて見ていた場所に、今は私も居る。それはとても嬉しい。緊張するし、怖いところもある。けど、嬉しい。だから。

 

(負けないよ、二人とも)

 

 そう、心の中で宣言する。きっとそう思っているのはキングもスペちゃんも同じだと、そんな確信があった。

 

 

「今日は初めての重賞だな、セイウンスカイ」

「それ発破ですか、脅しですか?」

「無論発破だ! スカイならやれる」

「またまた、根拠のない」

 

 弥生賞の日はあっという間にやってきて、もうすぐコースに向かわなければいけない。珍しくトレーナーさんが地下バ道にやってきたのはなんだかんだで心配なんじゃないの、なんて思う。重賞ともなれば、背負う重圧は桁違いだ。そしてそれは今日出走するウマ娘全てに言えることで、だから皆が絶対に負けられないと思っている。それでも勝負は残酷で、誰か一人しか勝つことができない。けれど。

 

「勝ちますよ、今日も」

「その意気だ」

 

 たとえ何があろうと、勝利を目指さなければ勝利は得られない。負け知らずで迎えた三戦目、その点において私はキングやスペちゃんより経験が少ない未熟者。けれど未熟であることを、勝てない言い訳なんかにしたくない。だから、私はあらためて宣言する。今日も勝つ、と。

 

「じゃ、行ってくるよ」

「行ってこい!」

 

 ばん! 私の背中を強く叩くトレーナーさん。押し出されるように飛び出し、運命を決めるターフへと駆けてゆく。

 

「期待してもらってるとこ悪いけど、私は今日もゆるっといくよー」

 

 ゲートインすると、歓声が私を迎える。キング、スペちゃんに次ぐ三番人気。私がここまで来れるなんて。期待して、もらえるなんて。ついつい気にしないふりをしてしまうけど、応えなきゃ、って思う。

 そうしていると一際大きな歓声が。スペちゃんがゲートに入ったんだ。

 

「お手柔らかにねー」

「は、はい!」

 

 ありゃりゃ、ガチガチだ。でもスペちゃん、走り出すと雰囲気変わるもんね。油断はできない。そういやキングは……。

 

「スカイさん。一番人気は私が貰ったわ」

「そうだねー。流石キング」

「……人気で勝っても意味ないのよ」

 

 そう言って、キングは口をつぐむ。やっぱりキングは強い。前のレースの負けを、今の糧にしている。今日は負けない、そういう執念に変換している。

 

「各ウマ娘、ゲートイン完了しました!」

 

 おっと、いよいよだね。友達との、ライバルとの初めての対決。恨みっこなしとか、そんな甘っちょろいこと言ってられない。

 

「本日のメインレース、弥生賞! 一斉にスタートしました!」

 

 恨まれようがなんだろうが、私が勝つ!

 

「セイウンスカイ、ハナを進む!」

 

 ジュニアカップと同じく、私は逃げの一手を打つ。気ままに走って、場を支配する。私にはこれが一番合っている。キングもスペちゃんも、終盤の切れ味は私以上。ならば話は簡単。終盤に入る前に、既に勝負を決めてしまえばいい!

 後ろから誰かが迫ってくる。けれど焦っちゃいけない。この少し速めのペースなら、今追いつこうとする子は無理してるだけで脅威じゃない。勝負は次、第四コーナーを越えた先。

 

「第四コーナーを回って坂を登る! セイウンスカイ、依然先頭です! おっとここで!」

 

 ……来た! この足音、気迫、振り返らなくたって分かる!

 

「スペシャルウィーク! スペシャルウィークが迫ります!」

 

 この坂が正念場。登るだけで精一杯、でもそうなっても大丈夫なようにここまでリードしてきたんだ。負けない、負けたくない。いや、勝ちたいんだ! もう少し、坂を登りきればすぐそこに──。

 だから、ギリギリだった。ギリギリ、だけど。

 

「スペシャルウィーク! 並んだ並んだ! そのまま差し切ってゴール! 一着はスペシャルウィークです!」

 

 ギリギリ、負けた。私にとっては、初めての敗北だった。

 割れんばかりの大歓声を浴びるスペちゃんは、眩しくすらあって。

 

「流石ね、スペシャルウィークさん」

「……キングもお疲れ様。いやー、今日は仕方ないね」

「スカイさん、貴女」

「キング、人のこと心配してる場合? それに、皐月賞はすぐそこだよ」

 

 でもキングが心配したように、もしかしたら私の顔は結構みっともない表情をしてたかもしれない。初めて。初めて、悔しいって思ったから。次は負けないって、思ったから。

 皐月賞。そこでもう一度、私とキングとスペちゃんで。これから何度もぶつかり合う、今日はその緒戦に過ぎない。そうだとしても、やっぱり悔しいけど。次を見据えられなければ、未来はないのだから。

 

 

 弥生賞の次の日、私は夜まで自主練をしていた。トレーニングが休みなのにトレーニングするなんて、昔の私からは考えられない。けど私の頭の中は、「どうすれば勝てるか」でいっぱいだった。皐月賞までそれほど時間はない。私にそれなりの素質があったとしても、それだけじゃ勝てなくなる。それが昨日の結果だ。今の私が勝つために、足りないものは──。

 

「こんばんは、セイウンスカイ。脚は大丈夫なのかしら?」

「……はい。どちらさま、でしょうか」

 

 不意に私に話しかけてきた、知らない声。そちらを振り向いてみると、やっぱり知らない顔。茶色の長髪を湛えた、綺麗な女の人だった。

 

「自己紹介がまだだったわね。私はチーム<デネブ>のトレーナーよ。弥生賞の結果を受けて、貴女に話があるの」

「話、ですか」

「単刀直入に言うわね。貴女は<アルビレオ>には向いていない。うちのチームに来れば、もっと伸びる」

「それ、引き抜きですか? 私なんかを?」

「そう受け取ってもらって構わないわよ」

 

 いつかの私がリフレインする。このチームのトレーニングには理論がない。根性論なんて、私には似合わない。そう言っていた、昔の自分を。いつのまにか居心地の良さで、私はそれを誤魔化していた。

 

「<デネブ>の指導は理論と技術を重視する。座学の成績は見たわ。貴女のような頭の回る子なら、そういった方が向いていると思う。それにセイウンスカイ、これは<アルビレオ>のためでもあるの」

「チームのため、ですか」

「私もチームを率いる一人のトレーナーとして分かることがあるわ。たとえどんな形でも、チームメイトが勝利すれば嬉しいものよ」

「理論だなんだと言っといて、情に訴えかけるのは卑怯ですよ」

「……ごめんなさい」

 

 でも、それはこの人の本心なんだと思う。心から私のことを思っての発言。それはなんとなくこの短いやり取りでもわかった。この人もまた、私に期待してくれている。

 

「俺は俺の目を信じている。君は『走る』と」

 

 あの正論男と、同じように。

 

「本当、見違えちゃいましたね! 私も負けてられないなあ……」

 

 ああ、トップロードさんのことも思い出しちゃった。それからチームメイトのみんなのことが、次々に思い出されて。

 

「セイウンスカイさんには、頑張り続けて欲しいです」

 

 あの日チームを辞めていったあの子のことも、私の脳裏を掠める。ああ、参っちゃうな。

 

「急かしてしまったみたいね。すぐにとは言わないわ。けど皐月賞を見据えるなら、なるべく早く回答を頂戴。貴女のためにも、<アルビレオ>のためにも」

「……わかりました」

 

 そうして、<デネブ>のトレーナーさんは去っていく。私のしっぽと、心がそこに残されて。孤独に揺らめいている。合わないチームから乗り換える、それが勝つために必要なこと。言い訳ならいくらでも考えられた。面倒だとか、そこまでして勝ちたくないとか。けどそれはもう、私から出てくる言葉じゃなかった。今の私から出てくる、ただ一つの否定の言葉は。

 

「私、<アルビレオ>にいたいよ」

 

 そう、夜空にだけ告げて。春の大三角の先端に、スピカが煌めいていた。まるで、このままじゃまた勝てないと、私に言い聞かせるように。




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ターニングポイント

 ベッドから起きて寝ぼけ眼を擦る。ピントの合わない視界に、朝の日差しが突き刺さる。脳みその奥まで入ってくる光は、曖昧な私の意識を覚醒へと導く。うん、ちゃんと早起きできた。温かい寝巻きからひんやりとした制服に着替えると、気持ちも引き締まる気がした。

 

「お、珍しいね。あのセイウンスカイが早起きとは」

「おはようございます、ヒシアマさん。ちょっと今朝は早めの用事があって」

「おはよう、スカイ。昨日も遅かったし……あんまり無理するんじゃないよ」

「分かってますって。そもそも私は、頑張ったり無理するタイプじゃないですし」

「なら、いいんだけどね」

 

 もっとも私がそのつもりでも、頑張ったり無理したりしちゃってるみたいだけど。「頑張ってますね」「頑張り続けてほしい」「諦めるな」……やれやれ、チームのみんなは私をなんだと思っているのやら。私にはわからない。だから確かめなきゃ、いけないよね。寮の玄関まで来ると、まだ春になりきらない空気が私の指先に触れる。この扉を開いた先にある世界は、未知のものだと告げるように。

 

「どうなる、かな」

 

 そんな独り言と共に、私はゆっくりと扉を開けた。

 

 

 何度も何度も繰り返した道。朝からあんな小さくて薄暗くて狭苦しい部屋にいるだろうあの人のところへ、私は駆けてゆく。やっぱり朝って寒いなあ。いつもなら布団でぬくぬくしてるのに、今は脚をぐるぐる回してる。熱っているのは身体だけ。手先はかじかんで、心はびくびくしている。この先のゴールが安心させてくれるかさえわからない。それでも、だ。

 

「おお、スカイ。朝練か? 感心だな!」

「おはようございます、トレーナーさん。私は朝練なんかしませんよ。それより大事な、お話があるんです」

 

 舞い散る埃を朝日が光の粒子みたいに照らす、いつもの部屋。相変わらずの太い眉、白い歯、暑苦しさ。<アルビレオ>のトレーナーさん。私がどんなに揺れ動いても、この人は変わらないなら。

 

「なんだ。言ってみろ」

「……うん。実は──」

 

 お願い。いつものように、私を導いて。

 

「──と、そういう話が持ちかけられたんだ」

 

 話した。チーム<デネブ>からの引き抜き打診のこと。皐月賞でのライバルたちは、更に強くなるだろうこと。そして私自身がどうしたいのか、私では決められなかったこと。トレーナーさんは、黙ってそれを聞いてくれた。誰かに吐き出せただけでも、救われた気がした。

 

「私、勝ちたいよ。勝ちたいけど、それってどこまで手段を選べばいいのかな」

 

 チームのみんなだって、移籍してもきっと応援してくれる。それが分かるからこそ、私は答えを出せなくて。

 

「みんな善意で、私に期待してるからの行動なのに。私はどれかを選んで、それ以外を裏切らなきゃいけなくて」

 

 <デネブ>のトレーナーさんだってそうだ。私のことを想っての、私の勝利のための行動だ。私は期待されたいとばかり思っていて、期待された後の重荷のことまで考えが及んでいなかった。プレッシャー。逃げ続けてきたそれに、初めて逃げ場なく直面する。

 

「ねえ、トレーナーさん。私はどうすればいいのかな。……私には」

「セイウンスカイ」

 

 わからない。そこまで言ってしまう前に、トレーナーさんが口を開いた。

 

「心配するな。俺を信じろ!」

 

 それだけ、勢いよく言い切って。ぽん。私の肩に軽く手を置いて、トレーナーさんは部屋を出ていく。心配するなって、信じろって。あなたみたいにそれが苦もなくできるなら、問題なんて何もなかったけどさ。

 まあ、善処するとしますか。頼ってしまったのだから、信じよう。……そのつもりだったんだけど。

 

 

「セイちゃん」

「うん」

「セイちゃん、聞いてる?」

「うん」

「セイちゃん! 聞こえてないでしょ! 呼ばれてるよ!」

「うわっ、なにさスペちゃん。大声出しちゃって」

 

 いや、うん? ここは教室、今は休み時間、そして私は──。

 

「セイウンスカイさーん! お伝えしたいことが」

「ほらセイちゃん、たづなさんが呼んでるよ」

「あ、ほんとだね。ごめんごめん」

「……大丈夫?」

 

 それには答えられない。大丈夫じゃない、そんなのは自分が一番よくわかっている。私は結局、他人を頼ってしまった。自分にとって重大な決断を、自分で決められなかった。けれど、それに救われた。本心をそのまま安易に言えば、私はきっと私自身を裏切る結果を齎してしまう。私はまだ子供だから。どうしようもない、くらい。

 と、呼ばれた方に行かなきゃ。理事長秘書の駿川たづなさん。いつもと同じ緑色の服と帽子だけど、いつもと違う真剣な表情だった。

 

「セイウンスカイさん、大切なお話があります」

「は、はい」

「セイウンスカイさんには、今日からチーム<デネブ>でトレーニングを受けてもらうことになります」

「そう、ですか。ありがとうございます」

「大丈夫ですか? 急な変更ですが、各チームのトレーナーさんたちにかけ合うことも」

「いいえ、大丈夫です」

 

 皐月賞が控えているのにそんな時間はない。私のために決まったことを、私の意志でめちゃくちゃには出来ない。それがこの場で私ができる、『大人の対応』というものだ。

 一礼して去っていくたづなさんを見送りながら、私は先ほど伝えられた言葉を舌の上で転がしていた。トレーナーさんは、私の言葉を聞いて。私の意志もおそらく察して。その上で、「俺に任せろ」と言った。私はそうやって、大人に責任を押し付けた。だから、せめてその結果は呑み込まねばならない。

 トレーナーさん、あの後すぐ<デネブ>にお願いしに行ったんだな。どんなことを言ってくれたんだろう。「ウチのスカイをよろしく頼む」とか。「期待の新人なんだ」とか言ってくれたりして。頭なんか、珍しく下げてたのかな。……ああ、でも。もうそんな言葉も、聞く機会もないんだな。結局、褒めてもらえなかったな。お別れだって、言ってないな。

 ぷい。誤魔化すように、滲んだ視界を窓の外に向ける。青空だけが、私の顔を見ていた。

 

 

 運命の時というと大袈裟だけど、それくらいの気持ちでその日の放課後を迎えた。今日の私が向かうのは慣れ親しんだ道じゃなく、初めて向かうチーム<デネブ>の部屋。そしてあっという間に、それが新しい日常になる。それも変化。今まで何度も受け入れたもの。だから拒んでも仕方ない。拒むべきものじゃない。それを再認識して、一歩。また、一歩。新たなる道を、私は進む。

 

「ここ、かな」

 

 <デネブ>の部屋の前に来ると、扉の外から話し声が聞こえる。片方は聞いたことある、<デネブ>のトレーナーさんの声だ。もう片方は誰だろう? トレーナーさんと一対一で話すなら、トップロードさんみたいなチームのリーダーかな? そんなことを考えていると、あちら側からノックののち扉が開けられる。声の通り、<デネブ>のトレーナーさんだった。

 

「こんにちは、セイウンスカイ。今日からよろしくお願いするわね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「ちょうどよかった。うちのチームのリーダーを紹介するわ。入って」

 

 促され、部屋の中へ。清潔で整然、一目でわかる<アルビレオ>との違い。ちゃんと椅子もテーブルも綺麗に置かれているし。と、そこで目に入ってくる、一人のウマ娘。

 

「あ、あのっ! セイウンスカイさん、よろしくお願いします!」

 

 私より、いや今までここで見た誰より歳下っぽい。一生懸命な感じが可愛らしいと思ったけど、会話の流れから察するに、この子が。

 

「彼女はニシノフラワー。チーム<デネブ>のリーダーよ」

 

 やっぱり。人は見かけによらないなんて言うけど、この子もそういう類だな。

 

「こちらこそよろしくね、フラワー。スカイ、でいいよ」

「は、はい! えっと、スカイさん! 私、スカイさんを精一杯サポートしますからっ」

「この子、貴女が来るって決まってから今までずっと、貴女のためのトレーニングを考えようって頑張ってたのよ」

「あわわっ、それは」

 

 私のためのトレーニング。その言葉でより、私がこのチームに歓迎されていることを再確認する。トレーナーさんもフラワーも、私を知らないなりに知ろうとしてくれている。ならば、私はそれに応えるべきで。いや、応えたくて。期待されているのだから。

 

「そろそろ時間ね。トレーニングに行くわよ、ニシノフラワー、セイウンスカイ」

「はい!」

「はい。頑張ります」

 

 頑張れって、言われたから。このチームで私がやることは、頑張ること、それだけだ。

 

 

「そこまで! セイウンスカイ、貴女は膝裏を痛めないよう、暫くは他の子より多めに休憩を取りなさい。ニシノフラワー、セイウンスカイの脚の状態をチェックしてあげて」

「はい!」

「はーい」

 

 なるほど確かに、<デネブ>のトレーニングは理論や技術を重視している。今までなんとなくで走ってたやり方にたくさん名前がついていてびっくりした。こうやって二人チームを組ませて小さなチームごとにトレーニングメニューが分かれているのも特徴的かも。私の相手がフラワーなのにも多分理由がある。少しでも会話した経験がある子をあてがって、私がチームに早く慣れられるようにしているんだと思う。

 

「スカイさん、大丈夫ですか? 疲れたら無理しないでくださいね」

「ううん、ありがとフラワー。前のチームに比べたら楽勝だよ」

「前のチームはそんなに厳しかったんですか……?」

「何も考えてないだけだよー」

 

 根性論のトレーニングより、こっちの方がよっぽど性に合っている。<アルビレオ>やそのトレーナーさんへの不満なんて、今ならいくらでも言えそうだ。

 

「スカイさん、本当に大丈夫ですか? 不安なことがあったら、いつでも言ってください」

「不安そうに見えたかな」

「あの、そうじゃなかったらすみません」

「いいよ。多分当たってるから。……そろそろ休憩終わりだね」

「あ、はい! 行きましょうか」

 

 立ち上がってトレーニングに戻っていくフラワー。私は遅れて立ち上がる。ああ、ダメだなあ。私以外のみんなは、私のために一生懸命なのに。私だけは、私に本気になれない。一番私に期待していないのは、私だ。

 ねえ、トレーナーさん。あなたはこれも分かってて、私を移籍させたのかな。それとも私に期待しすぎて、私のちっぽけさは見抜けなかったかな。

 その日からのトレーニングは、確かに効果的で効率的で、私の身体を仕上げていった。膝裏の違和感も取れて、何もかもが順調だった。正反対に沈んでいくのは、私の心だけ。

 けど、そんなある日のことだった。私の心は、予想外の方向から揺らされることになる。

 

 

「グラスさん、大丈夫なの?」

「心配してくださってありがとうございます、キングちゃん。大丈夫……と言いたいところですが。大事には至りませんが、しばらくは走れませんね」

「グラス……アタシ、アタシ……」

「やっと対決、というところでしたのに、エルには申し訳ないことをしましたね。でもいつかまた、一緒に走りましょう」

 

 グラスちゃんが怪我をした。その話はすぐに教室中に広がった。練習中に違和感があったので検査したら、骨が折れていたらしい。早めの検査のおかげで大事にはならなかったけど、いくつかの大事なレースを諦めなくちゃならない。そういうふうに、いろんなところから聞こえる。直接は聞けない。私の、友達なのに。どうにもならないくらい、私は自分のことでいっぱいいっぱいだった。

 

「グラスちゃん、私たちにできることがあったら、なんでも言ってね!」

「ありがとうございます、スペちゃん」

 

 スペちゃんもキングも、皐月賞を控えているのは同じ。私だけが追い詰められている言い訳になんかならない。しちゃいけない。何か言わなきゃ。そう思って、振り絞る。

 

「グラスちゃん、その」

 

 グラスちゃんの目を見る。恐る恐る。そこにはまだ闘志が燃えていた。諦めないって意志を感じた。やっぱり、強いなあ。

 

「その。頑張ろう」

 

 そう言って、私はグラスちゃんに手を伸ばす。グラスちゃんはそれを握り返す。微かに汗が滲んでいて、そこで初めてわかる。グラスちゃんも、平気なわけがない。

 

「はい。頑張りましょう、セイちゃん」

 

 みんな、強いだけじゃない。辛くて、苦しい時もあって。グラスちゃんも、怪我は悔しい。涙さえ流したかもしれない。運命を呪いさえしたかもしれない。それでも前へ進もうとしたから、今ここにグラスちゃんはグラスちゃんのままでいる。なら、私も。

 私も、そうありたいって思う。期待されているセイウンスカイというウマ娘がいて、私はその期待に応えられるセイウンスカイでありたい。

 努力は裏切らない、だっけ。なら私を押しつぶしそうなこの重圧も、努力で跳ね除けてみせよう。いつのまにか染み付かされた根性論を、私自身で実証してやろう。そうすれば。

 それは何よりも強く、勝利への助けとなる。そう、祈りにも似た決意を秘めた。

 




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羽ばたけ、 白鳥(キグナス)

 その日の青空はキレイだった。視界に収まりきらないほどの絶景と、絶え間なく形を変えるわたぐも。いつ見ても、今見ても飽き飽きしない。足元に広がる緑もきっとキレイだけど、今は下を見たくない。それは蹄鉄で踏み締めるだけでいい。ここからゴールまで、ずっと。

 

「本日のメインレース、皐月賞。まもなく開幕です!」

 

 ずっと、前だけを見ていよう。

 

 

「スカイさん、またタイム更新です! これなら皐月賞もきっと」

「ありがとうフラワー。でも油断はできないよ……なんて、せっかく応援してくれたのに水差すのもよくないか」

「いえ、流石ですね。それに、スカイさんなら勝てると思ってるのは、本当ですから」

 

 ついに今週末に皐月賞を控えて、私は最後の仕上げに入っていた。身体は万全だし、迷いは決意に変えた。フラワーのおかげで、<デネブ>にもすっかり慣れた。そして私は、その変化を受け入れられた。

 

「ありがとう、フラワー。今度何かお礼をしなくちゃね、色々付き合ってくれたお礼」

「いえ、そんな。私はただ、チームのリーダーとしてやるべきことをやってるだけですし」

「えー、それならこれまでの関係は全部ビジネスだったんだあ」

「えっ!? そ、そんなことはないですよ! あのあの、個人的にも」

「冗談だよ。フラワーは純真だねえ」

 

 フラワーはしっかりしているけど、年相応なところもある。大人ぶってる子供の私とはまた別で、しっかりした意味で大人びた子供なのだろう。ついついからかってしまうけど、私じゃ敵わないな、という時もある。これも最近の変化でできた縁。得難いものの一つ。

 

「みんな、今日のトレーニングはここまでにしましょう」

 

 そうして今日もまた、トレーナーさんがそう告げた。刻一刻と、皐月賞は迫っている。理由は色々あるけれど、今の目標はただ一つ。皐月賞で勝つことだ。もう迷わない。今日もそれを再確認する。……と、そこでトレーナーさんがこちらを向いた。

 

「セイウンスカイ。後で渡すものがあるから、チームの部屋まで来てくれるかしら」

 

 なんだろう? わからないけどはいと答える。<デネブ>のトレーナーさんのことも、もうそれなりに信頼しているから。

 そうして解散した後トレーナーさんと部屋に向かうと、彼女は自分の机の引き出しから丁寧に何かを取り出す。そして、丁重な手つきでそれを持ってくる。これは……。

 

「今日届いたの。セイウンスカイ、貴女の勝負服よ」

「勝負、ふく」

 

 そうか。皐月賞はGⅠレースだから、勝負服を着て走るんだ。改めて、丁寧に畳まれたそれを見る。薄い色合いが私の毛色に似ている。雲みたいな色合いだな、なんて思ったりして。

 

「正真正銘、貴女だけのための勝負服よ。受け取って」

「そう言われると、逆に受け取りづらいですね」

 

 私がここまで走ってきて、GⅠの大舞台にまでやってきた証。私に唯一無二のものがあって、期待されていることの結晶。たらり、とあぶら汗が流れて、カーペットに落ちた。

 

「そう言われても、私も渡さないわけにはいかないの。……あれだけ必死に頼まれた手前、ね」

「へ?」

 

 つい素っ頓狂な声が出てしまう。頼まれたって。

 

「ああ、言い忘れてたわね。この勝負服、頼んだのは私じゃなくて──」

 

 その続き。多分聞いてから思わずの行動だったんだけど、半ばひったくるみたいに勝負服をトレーナーさんの手から取っていったのは、かなり申し訳ないな、と後で思った。

 

 

 ワアァァァァ────。

 

 ……と、そこまで思い返していたけれど、大歓声が私を現実に引き戻す。戻ってきた瞬間焦点が合ったのは、やっぱりキレイな青空だった。新品の勝負服に身を包んで、この中山レース場に今、私はいる。その現実は、先ほどよりも鮮明に、痛烈に。

 少しだけ視線を落としてみると、色とりどりの勝負服を着たウマ娘たちがレースに向けて息を整えていた。その中にある二つの見知った顔。スペシャルウィークとキングヘイロー。彼女達の勝負服姿もまた初めてだな、と思った。……そのうちの一つが近づいてくる。

 

「スカイさん、ごきげんよう。今日は勝たせてもらうわよ」

「わざわざお嬢様直々にご挨拶とは、光栄なことで。ところでキング、その服似合ってるね」

「へっ!? ほ、褒めても手加減なんかしないわよ!」

「知ってるよ、だから純粋に褒めただけ」

「……もう! 貴女は本当、マイペースなんだから!」

 

 こちらとしては、こんなに緊張する場で話しかけてきたキングの方がよっぽどマイペースであると異議を申し立てたい。そんな余裕があるくらい、今日の彼女は調子がいいってことなんだろうか。でも私だって負けない。自分でもわかるほど、コンディションはいい。万全の準備。完璧な仕上がり。気分だって悪くない。はず、なのに。

 

「スカイさん、大丈夫?」

「……なにが?」

「脚、震えてるわよ。それにそろそろゲートに入らないと」

 

 なんで、こんなにも。なにもかもが、こわいんだろう。

 

「武者震いじゃない? 先行っててよ」

「……待ってる、わよ」

 

 キングを見送り、そのままゲートを見る。目を逸らしたくなる。逸らせない代わりに、視界は思考で濁っていく。

 スタンドから向けられる期待がある。けどそれはコインの裏表のように、簡単に反転しうる。否。コインに準えるなら、それはそもそも同質のものなのだ。かつての私、幼い私の受けた賞賛が、私への心配と同質であったように。

 だから私がここで証明できるもの、してしまうものも、正反対に見える二つが一つになっている。確かに万全だ、確かに完璧だ、確かに何もかもが順調だ。なら、それなら? その状態でもし負けてしまうなら、私の限界はそこだということになってしまう。上には上がいて、私自体は平々凡々。そんな、私という器にはぴったりの結論がそこで口を開けている。ゲートという形で。

 

「セイウンスカイ、早くゲートに入りなさい」

 

 係員さんが私にそう言っている。嫌だ、そう叫びそうになる。必死に堪えて、でも前には進めなくて。結果が出てしまうのが、ピリオドが打たれてしまうのが。前を向いているはずなのに、前が見えないほどに。

 

 ──イ!

 

 戦略、作戦、それらを積み重ねても確実な結果は得られない。ならば最後は自分を信じるしかなくて、そこで自分を信じられないとしたら。やっぱり私に走りの才能はないのかもしれない。そうだ、そうなんだろう。

 

 ──スカイ!

 

 今までがうまくいきすぎただけ。運には揺り戻しがあるんだから。これからは良くてそこそこの順位を繰り返して、ほどほどに練習する。余った時間は釣りにでも当ててしまおう。よく思い出してみれば私はそういうキャラじゃないか。そう、そういうことにしよう。

 そうやって諦めなきゃ、前には進めない。それが私だった、はず──。

 

「セイウンスカイ!!」

 

 今日初めて私を振り返らせたのは、懐かしい人の声だった。

 

「セイウンスカイ!!」

 

 あははっ、ひっどいなあ。久しぶりに顔を見たと思ったら、随分人相が変わっちゃってるじゃん。その眉毛、人生で一度もしわくちゃにしたことなさそうだったのに。トレーナーさん、今日が初めてじゃないの? そんな顔ができるなんて、<アルビレオ>にいた時は教えてもらえなかったなあ。いつもみたいに「努力しろ」とか「頑張れ」とか「諦めるな」とか、元気付けるのがあなたの役目だったのに。

 

「セイウンスカイ!!」

 

 さっきから震えた声で、何度も何度も私の名前だけ。それじゃ応援じゃなくて、神頼みみたいじゃないですか? せっかくレースを見に来てくれたんだから、しっかり応援してくださいよ。

 ほら、そんな不安そうに眉を顰めて。ちゃんと見えてます? 私の勝負服。<デネブ>のトレーナーさんから聞いた時はびっくりしましたよ、あなたがデザインを頼んだって話。私に向けて、あなたが込めた願いの結実。このひらひらも雲みたいな素敵な色合いも、あなたが考えたとするとくすぐったいけど。しっかり見えてる? あなたの願った勝負服と、あなたが信じたウマ娘がそれを着ている姿。……ああ。久しぶりすぎて、聞きたいことがいっぱい思い浮かんじゃった。何か大事なことを考えてた気がするのに、ね。

 芝の上を一歩ずつ、前へと進む。足から伝わる感覚も、もう怖くない。今日は今日だ。それで全てが決まるわけじゃない。私は私らしく、気ままに向かえばいい。なんてったって、それが最高の私だから!

 

「ゲートイン完了。各ウマ娘一斉に」

 

 だから。

 

「スタートしました!」

 

 しっかり見ててよ、トレーナーさん。

 

「セイウンスカイ、今日は二番手につけています」

 

 まずは作戦通り。今日はハナを譲って、後方のスペちゃんのマークを切る。すぐ後ろのキングにもプレッシャーをかけなきゃいけないからペースは落とせないけど、脚を使い切ったらスパートで追いつかれちゃう。他の子だって油断できない。一筋縄でいく相手なんていない。けど。

 だん、だだん。蹄鉄が芝を踏み抜く音が、何重にも重なって。それを聞いて私は、楽しいって思えていて。走ってよかったなって、当たり前のことを考えて。負けたくないって、期待に応えたいって。それも確かにあって。

 第四コーナー手前、後ろからスペちゃんの気配がする。仕掛けてくるつもりなんでしょ? でも、それは!

 

「大外からスペシャルウィークが猛追! しかしここでセイウンスカイ、一気に外に出る!」

 

 読み通り、だよ! 外を使って一気に前へ! スペちゃんの前に躍り出て蓋をしながら、キングもかわしてハナへ。ここからが最後の勝負どころ! 中山レース場の心臓破りの坂は、スペちゃんの苦手とするところ。ばっちり研究してきたんだから。そしてそれは、ここで勝負を仕掛ければ私にも優位が残っているということ。あの末脚を有効には使わせない!

 

「セイウンスカイ、二バ身のリードをキープ! 懸命にキングヘイローが追っている! スペシャルウィークももう三番手まで上がってきている!」

 

 作戦はここまで。あとは抜かせない、その気持ちだけ。キングもスペちゃんも、追いつくのは時間の問題だけど。その時間が来るまでに、ゴールまでに私が耐えればいい。つまり、最後は!

 

 

「セイウンスカイ、粘って粘って……」

 

 根、性、だぁぁ───!!!

 

「ゴールイン!」

 

 駆け抜けた瞬間、目に入ったのはキレイな青空だった。

 

「セイウンスカイ、おめでとーっ!」

 

 呼吸は荒れ放題。青空以外は霞んで見える。それでも確かに、私の名前を呼ぶ声がたくさん聞こえる。たくさんのお客さんが、私の走りに何かを見てくれた。その紛れもない証明。私、勝ったんだ。私が、一番だったんだ。

 

「ありがとーっ!!」

 

 気づけば大きく手を振りながら、観客席に向かって叫んでいた。あの正論男みたいに、うるさい大声で。

 

 

「セイウンスカイ、おめでとう!」

「スカイさん、本当にすごかったです!」

 

 地下バ道に向かうと、<デネブ>のトレーナーさんとフラワーが出迎えてくれた。この二人も自分のことみたいに喜んでくれて、なんだか気恥ずかしい。まあこれからもよろしくやっていきたいな、なんて──。

 

「本音を言えば<デネブ>に残ってほしいところだけど、そうもいかないのよね」

 

 ──トレーナーさんは今なんと? フリーズした私を見ながら、彼女はまた一言。

 

「皐月賞までの集中トレーニングのため、<デネブ>と<アルビレオ>の提携の予行演習のため、一時的にではあっても貴女のトレーナーが出来て嬉しかったわ……って、セイウンスカイ、どうしたのその顔」

「なんですか、その話」

「あれ、もしかして聞いてない?」

 

 <デネブ>のトレーナーさんが目を丸くする。まさか、まさか。

 

「……それ、誰が私に聞かせる予定の話でしたか?」

「<アルビレオ>から持ちかけてきて、セイウンスカイには伝えておく、と彼が言っていたけれど……まさか」

「まさか、ですね」

 

 二人で思いっきりため息をつく。なんだか今までで一番息があった気がする。息を合わせられた原因には、全く感謝する気が湧かないけど。

 

「それでフラワーもついてきたのよ。貴女と仲良くしてたんだから、やっぱり寂しかったんじゃない」

「ちょ、ちょっとトレーナーさん!」

「あらあら、ごめんなさい」

 

 この二人もいい関係だな、と思う。確かにこれでお別れはちょっと寂しい。

 

「ありがとね、フラワー。でも大丈夫、提携するって話なら、合同トレーニングなんかもありますよね?」

「ええ、その予定よ。というより、やっぱり<アルビレオ>のトレーニングをそのまま貴女に受けさせるなんて腑に落ちないもの。積極的に介入させていただくわ」

 

 それは結構ありがたいかも。それになにより、縁が消えない。

 

「だってさ、フラワー。嬉しい?」

「う、嬉しい、です……」

「私も嬉しい。これからもよろしくね」

 

 そう言って、小さな少女に手を伸ばす。フラワーの両の掌が、花弁みたいに私の手を包んだ。この縁も、これからも続く。

 

「……じゃ、私は行くとこが出来たので」

「まだ帰ってないはずよ。今後のチームの連携について、打ち合わせをする予定だったから」

「ありがとうございます」

 

 そうして、私は駆け出す。まず思いっきり文句を言ってやるつもりだったから、個人的には怒りの表情を浮かべていたと記憶しているんだけど。

 後で<デネブ>のトレーナーさんが言うには、さっきゴールした時と同じくらい、青空みたいに晴れやかな笑顔だったんだって。

 

 

「おお、スカイ! 頑張ったな」

「あの、トレーナーさん。私がまず聞きたい、問い詰めたいのはですね」

「よくやった。ありがとう、スカイ」

「……ばか」

「それでなんだ! 聞きたいことがあるなら聞こう!」

「……はぁ。じゃあまずは、勝負服のことから──」




第一章 青空とアルビレオはここまでとなります。
次回は明日20:00更新です。
幕間を一話挟んで、その後二章に入ります。
ひとまずここまで読んでくださりありがとうございました。
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ニシノフラワーによる「ステイ・ウィズ・ミー」

 私が頑張っている理由があるとしたら、それは早く大人になりたいからでした。なんでも知ってる大人。誰かに頼られるような大人。実力さえあれば飛び級だってできるトレセン学園は、そんな私の夢を応援してくれている気がして。でも実際に入ってみてわかったのは、私はいくら頑張っても、子供だということ。最初からわかっていたはずの結果さえまだ受け止めきれない、自分。きっと待っていてくれているのに勇気を出せない、自分。

 スカイさんが元のチームに戻ってからの私はそうやって、ずっとずっと悩んでいました。大人な他の人たちはみんなとっくに解決した、取るに足らないはずの悩みでした。

 

(ねえ、スカイさん。私、どうしちゃったんでしょうか)

 

 子供の私だけが、悩み続けていました。

 

 

「お疲れ様です、トレーナーさん」

「お疲れ様、ニシノフラワー」

 

 ぽかぽかとした春の陽気がふきだまりを作っている放課後、私はいつもチーム<デネブ>の部屋にいます。今日もトレーナーさんと練習メニューの確認です。トレーナーさんが私のことを頼ってくれるのは嬉しいけれど、たまに私でいいのかな、そう思う時もあります。力不足じゃないか、気を遣わせていないか。他にもいろんなことを心配してしまいます。きっとその何倍も、トレーナーさんは私を心配してくれているのでしょうけど。

 

「はぁ……。フラワー、貴女やっぱり」

 

 いつも通りに二人で確認を進めていると、トレーナーさんがため息を一つ。やっぱりって、なんでしょうか。私、何か間違えてしまったでしょうか……。そんな私の考えを見透かすかのように、トレーナーさんは違うの、と話を切り出します。

 

「ああいや、一つ頼まれてくれないかしら、と思ってね。フラワーにしかできない仕事よ」

「なんでしょうか? 私でよければ」

 

 謙遜のしすぎは良くない。それは知っていても。私にしか、と言われるとつい、私でよければ、と返してしまって。なんだか最近こんなふうに、自分の嫌なところばかり見えてしまう。そう思うことすら、きっと良くないはずなのに。

 

「ありがとう。それじゃ、お願いしたいのは──」

 

 後から思い返せば、きっとその提案は私のことを考えてくれたからこその頼みごと。人に言い出せない、それどころか自覚してすらいなかった悩みの種。それに自分で気づけるよう、トレーナーさんは道を示してくれた。それに気付くのはもう少し後。私が成長した後、だけれど。

 

 

「えーと、このあたりでしょうか」

 

 トレーナーさんから渡された地図を片手に、学園のはずれをうろうろ。私が任された仕事というのは、この先の連携に向けて<デネブ>を代表して挨拶をしに行くことです。つまり、チーム<アルビレオ>。スカイさんのチームへ、一人で出向くことなんですけど……。

 たどり着いた目的地らしき場所は、小さな小屋でした。看板にはアルビレオの文字。うん、間違い無いですね。明かりがついているし、誰かが中にいるみたい。スカイさんだったら、どうしよう。

 どくり。少しだけ湧いた考えが、私の中でどんどん膨らんで。手をかければすぐ開くはずのドアノブが、とても遠い。怖がる理由なんて何も無いはずなのに、立ち尽くしてしまいます。すると私の代わりに、向こう側からドアが開かれました。出てきたのは、知らない栗毛の人でした。すこし、ほっとしてしまいます。

 

「えっと……どちら様、でしょうか……?」

「あっ、すみません! 私はニシノフラワーといいます! えっと、チーム<デネブ>から、今後のことをお伝えに、あと挨拶に」

 

 そんなふうにぼうっとしてしまって。名乗ることさえ忘れてしまっていました。なんとか口から出てきた言葉もぐちゃぐちゃで、焦っているのが丸わかりです。

 

「なるほど、そういうことなら歓迎します、フラワーちゃん! あっ、私の名前はナリタトップロードです!」

 

 けどそんなことは気にせず、にこやかにこちらに手を差し伸べるトップロードさん。優しい人だな、と思いました。大人ってこういうのかなあって、少し眩しく見えました。

 それから部屋の中に案内されて、とりあえずトップロードさんから<アルビレオ>の説明を受けて。お返しに<デネブ>のこともお喋りしました。双方のチームの良し悪しとか、それを踏まえてこれからどう協力すべきかとか。チームのリーダー同士実のある会話ができて、トレーニングが始まる頃にはすっかり打ち解けていました。

 

「あ、ごめんなさいフラワーちゃん。もうトレーニングの時間ですね」

「いえ、気にしないでください。色々参考になりました」

「それにしても本当、しっかりしてますね! スカイちゃんから名前と話は聞いてたんですけど、噂に違わぬというか」

 

 え。スカイさんが、私の話を? それを聞いてまた心の中に、何かが膨らんでいくような感覚。やっぱり答えは出せなくて、言葉にならなくて。そんな私にトップロードさんが助け舟を出します。

 

「あ、せっかく来てもらったんですし、トレーニング見ていきませんか?」

「えっと、その。そんな、いいんでしょうか」

「<デネブ>のトレーナーさんは、今日いっぱい時間をくれたんですよね? それならすぐに帰らなくてもいいじゃないですか!」

「そ、それはそうなんですけど」

「それに。スカイちゃんもきっと、フラワーちゃんに会いたがってると思います」

 

 その言葉で、やっぱり揺れて。私はそのままトップロードさんに丸め込まれてしまいました。こういうのも大人だとしたら、私はまだまだ敵わないなあ……。

 

 

 陽気はまだまだ残っているけど、少し日が落ちてきたグラウンド。そこに向かってゆく私は、もしかすると少し駆け足だったかもしれない。はあ、はあって、息の切れる音が聞こえたから。

 

「フラワーちゃん、速いです……」

「すみません、トップロードさん」

「褒めてるんですよ! 制服って走りにくいですけど、それでもフォームが綺麗だったので」

 

 その言葉でやっと気づく。私、やっぱり走ってたんだ。そんなことにも気づかないなんて、どうしちゃったんだろう。そんな疑問に答えを出そうとした、瞬間のことだった。

 

「あ、フラワーじゃん。久しぶり」

「あ……スカイ、さん」

 

 あっさりとした再会でした。そもそもほんの数日会ってないだけで、再会というのも正しくはないかもしれません。それでもその時、私の中で何かが変わった気がして。きっとそのことには意味があるのだと思います。

 

「嬉しいなあ、わざわざ会いにきてくれたんだ」

「あのすみません、そういうわけじゃなくて」

「冗談冗談。フラワーは真面目だし、そんな理由で<デネブ>のトレーニングをサボったりしないでしょ」

 

 久しぶりに喋ってみても、スカイさんは変わらない。そんなふうに思えました。

 

「スカイ! まだトレーニング中だぞ!」

 

 奥の方から大きな声。あの人が<アルビレオ>のトレーナーさんでしょうか。その声を聞いてぴくんとスカイさんの耳が動きます。

 

「呼ばれちゃった。後でまた話したいことあるし、良かったら待っててくれると嬉しいんだけど」

「はい、私は構いませんけど」

「ありがとフラワー。じゃ、もうちょっと頑張りますか」

 

 そう言い残して、スカイさんはグラウンドの中心へと駆けていきます。他のチームメイトの方々に囲まれて、軽く笑みを浮かべていました。元気そうで良かった、そう思うはずなのに。なんだかそれだけでは、しっくりきませんでした。そのまま、<アルビレオ>の練習を眺めながら。私はずっと、何かを考えていました。けれど少しも、考えはまとまりませんでした。

 

 

 夕日が落ちて、星が僅かに見える空。青空は橙に染まって、やがて黒へと変わっていきます。結局そこまで考え続けても、自分が何に悩んでいるのかすらはっきりしなくて。トレーニングを終えたスカイさんがこちらにやってくるのに気づくのも、少し遅れてしまいました。

 

「あっ、お疲れ様ですスカイさん」

「ありがとう。いや、本当疲れるよね。<デネブ>の効率的なトレーニングが恋しいなー、なんて」

「今トレーナーさんと一緒に、<アルビレオ>との合同トレーニングを組み立てているところです。もう少し、お待たせしてしまいますが」

「なるほど、流石だね。<デネブ>のトレーナーさん、元気してる?」

「はい。今日<アルビレオ>を見に来たのも、トレーナーさんの指示です」

「それは良かった。それじゃあ、フラワーは元気?」

 

 その問いを聞いて、私は言葉に詰まってしまいます。今の自分はどうしているのか。悩んで、悩んでしまう。そう悩むこと自体がきっと元気とは呼べないのでしょうけど、そのことにも気づかなくて。するとスカイさんが、はっと思いついたように。

 

「そうだフラワー、明日暇かな? 一応学園も休みだし」

「えっ、えっと……。暇、だと思います」

「そっか、なら一緒に散歩しない? 朝からのんびり、二人でさ」

 

 突然の提案でした。いつも暇な日は勉強していて、一人で遊んだこともありません。私にも息抜きというものが必要なのでしょうか。確かに今抱えるもやもやは、そうすれば晴れるかも。

 

「はい、私でよければ」

「やった。じゃあまた明日、寮の前まで迎えにいくねー」

 

 それだけ伝えると、スカイさんはグラウンドから走り去っていきました。私はしばらく、まもなく日がすっかり落ちるまで、そこに立っていました。私の外側は動けなかったけれど、自分自身の内側の何かは、少し形を変えていました。どきどき、していました。

 

 

 次の日の朝はすぐに来ました。よく晴れた青空が、窓の外から私を待ち構えている気がしました。制服じゃなくて、私服に袖を通して。隣のベッドで寝ているブルボンさんを起こさないように、そうっと部屋を出て。

 

「いってきます」

 

 誰もいない玄関で、誰かに向けてそう言いました。そして自分自身で、その声を聞きました。やっぱり少し控えめだけど、いつもよりはっきりしているように聞こえました。

 がちゃり。そうして、扉を開きます。外に向かって、踏み出します。

 

「おはよう、フラワー」

「おはようございます、スカイさん」

 

 約束通り、スカイさんが外で待っていました。あくびを噛み殺して、寝ぼけ眼を擦っていました。そういえばスカイさん、朝は弱かったような……。今日は朝の待ち合わせでよかったのでしょうか。

 

「それじゃ、行こうか。今日目指すのはあっちの河川敷だよー」

「はい、わかりました」

 

 そして、二人でゆっくりと歩き出します。ゆっくり、歩幅を合わせて。どこかへ向かうことより、その道のりを楽しむような。初めての経験でした。私の不安がどんどん取り払われてくような、そんな気持ちになりました。私のことを気遣って、スカイさんは散歩に誘ってくれた。そこで、そのことにようやく気づきました。スカイさんはやっぱりすごいなあって、思ってしまいました。トレーナーさんも、トップロードさんも、スカイさんも。私は誰かに心配してもらうばかりだったと、その時にわかってしまいました。だから、やっぱり。やっぱり私は、まだまだで。

 河川敷までたどり着くと、スカイさんは川の方にちらりと目を向けて。私も釣られて、そちらを見ます。川は太陽の光を跳ね返して、きらきら光っていました。

 

「綺麗ですね。こんな綺麗なものが、こんなに身近にあったなんて。私、考えたこともありませんでした。……やっぱり、スカイさんはすごいですね。大人、ですね」

 

 いくら勉強したって、知識ではわからない経験があって。それはどんなに頑張っても、時間でしか解決できなくて。たった一日だって長く感じてしまうことこそが、私が子供な証でした。少しの間チームにいただけのスカイさんが、私にとっては長い間に感じられていた。チームが提携を始めるまでの少しの間会えなくなっていたことが、私にとっては落ち着かなくて、焦ってしまうほど、耐えられないほどに。相手の言葉を待つこともできず、私は続けます。

 

「スカイさん。私、きっと寂しかったんですね。子供だから、ちょっとのお別れにも不安になってしまって。頭ではわかっているつもりなのに、気持ちが待てなかった。だから、不安だったんです。私が、まだまだだから」

 

 目頭がじんわりと熱くなります。早く大人になりたい、そんな私の夢はきっと。子供の大それた夢で、達成なんて不可能で。それなら私は、私がやるべきは。

 諦めること。それしか、ないのかな──。

 

「フラワー。ありがとう、教えてくれて」

 

 ──そう思った時でした。スカイさんが立ち止まって、私に向かって目を向けて。いつもより少し、真剣な表情で。私の眼を見ていました。

 

「すごいよフラワー。それだけ自分のことを見つめられて、嫌になっても目を逸らさなくてさ。『自分が子供だから』、なんて結論出せる子供はなかなかいないよ? 私だって出来ないよ」

「でも、それは。私はそれじゃダメなんです。頑張って勉強して、確かに頼られることもあります。けど私は、大人になりたいんです。スカイさんみたいな、本当の意味で頼れる人に」

 

 そう言うと、スカイさんは少し考えて。ゆっくりと口を開きます。少し、声のトーンを下げて。

 

「私が大人、か。そうだとしたら、それは何かを捨てたから、諦めたからだよ。子供の頃から持っていたものが成長したからじゃない。本当の意味で大人になるなら、むしろ私みたいになっちゃダメだよ、フラワー」

「そ、それは……」

「……悪いね、今日はフラワーを元気付けなきゃいけなかったのに。ほらやっぱり、私はまだまだだよ」

 

 そして。そうして、スカイさんはくるりと前を向いて歩き出します。私にはきっとわからない、スカイさんの経験の話。それに対して言うべきことは、何もない気がしました。

 

「スカイさん」

 

 でも。

 

「スカイさんは、ダメなんかじゃないです!」

 

 でも。私が言いたいことはありました。初めて、自分からそれを引き出せました。

 

「私はスカイさんのこと、尊敬してます。皐月賞、本当にすごかったです。<デネブ>のトレーニングにすぐに慣れたのも、スカイさんの力です。それに今日だって、私のために朝から散歩に連れてってくれて。私だけじゃないです。色んな人が、スカイさんのことすごいって思ってます。きっと力をもらってます。だから」

 

 そこで気がつく。頬を一筋、滴が伝っていました。

 

「だから。自分を卑下しないでほしいです。それは、それは。それはきっと、スカイさんを応援してる人みんなが……がっかりしちゃうと思います」

 

 ぽん、ぽん。いつのまにかスカイさんはまたこちらへ戻ってきていて、優しく私の頭を撫でます。こんなことで泣いてしまう私は、やっぱりまだまだ子供です。

 

「叱られちゃったな。うん、やっぱりフラワーはすごいや」

「そう、ですか……?」

「そうだよ。それこそ自分を卑下しないでほしいな。私、フラワーには期待してるんだから」

「私に、ですか」

「そう! 頼りにしてるよ、フラワー。もちろん私以外にも、君を頼りにしてる人はいると思うな」

 

 頼り。それなら私、大人に近づけているのかな。今日は人を心配させたし、泣いてしまったし。ちっとも大人にはなれていない、そんな気もしてしまうけど。

 スカイさんが言うなら、信じよう。そう思いました。

 

「今日はありがとう。……私の方が教わっちゃった」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 

 気がつけば太陽は真上に上り、爽やかな青空を照らしていました。すっかり話し込んでしまったようです。

 スカイさんにとっての私は、頼れる人。期待している人。そのことはとっても嬉しい。スカイさんを包む大きな輪のうちに、私もしっかり入っているということだから。

 けれど、今日気づいたことはそれだけではなくて。私もまた、誰かから包まれている。今までは子供だから、心配されているだけ。そんなふうにもどかしく思っていたけれど。そこにある意味合いは、ちょっと違っていました。そう、誤解を恐れず言葉にするならば。

 愛。誰かの愛が集まって、他の誰かを包んでいる。そしてその愛の輪は人を守り、育て、いつか。

 今はまだ、小さな蕾でも。




次回は明日20:00更新です。
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第二章 ライバルと友達
独りじゃない


 晴れた空、白い雲。その下に光る水面。そして水中にはたくさんの影が見えて、それをこれまたたくさんの人が待ち構えている。さて、私が今いるこの場所は一体どこでしょう。なんて、そんな勿体ぶることでもないか。

 

「スカイ! 釣具借りてきたぞ!」

「お、ありがとうございますトレーナーさん。しかし人の金で釣りができるなんて、長生きするもんですなあ」

「俺も釣りは好きだ、問題ない」

 

 それは知ってる。トレーナーさんが、皐月賞の勝利を祝って何か奢ってやるなんて言うから、私は釣り堀を所望した。ほんとは気長に川釣り海釣りと洒落込みたいところでもあったけど、トレーナーさんは釣り初心者だし。それにせっかく人の金で釣りに行けるなら、釣り堀みたいな有料スポットの方がいいよね。

 

「うお! スカイ、どこもかしこも入れ食いだぞ!」

「当たり前でしょ、釣り堀なんだから」

 

 オーソドックスなニジマス釣りでこんなにはしゃげるのは結構羨ましい。皮肉抜きにそう思う。それにトレーナーさんが喜んでくれるなら、奢りにここを選んだ意味があるというものだ。私じゃなくてトレーナーさんを喜ばせるのは、なんだかあべこべかもしれないけど。

 

「おっ、早速釣れたぞ! こんなに簡単に釣れるとは……」

「もう一回言いますけど。当たり前でしょ、釣り堀なんだから。セイちゃんのぶん、残しといてくださいよー」

 

 私にとって皐月賞は、私だけの勝利じゃないから。だから、あなたにも喜んで欲しい。そして喜んだついでに、喜ばせた人のことをまた少し褒めてくれるなら、なんて。

 

「うお! また釣れた!」

「トレーナーさん、釣り堀は釣った分だけお金払うんですからね。私がやっと今から釣り始めるのに、もうこんなに釣られたら遠慮しなきゃじゃないですか?」

「心配いらない、今日は俺の奢りだ!」

 

 随分上機嫌。なら、遠慮なく。ぴっ、と竿をしならせて大きな堀に糸を垂らす。ものの数秒で手応えが返ってきて、ぐいっと引き寄せた。暴れる竿の先端には、生きのいいニジマスが一匹。なるほど、確かにこりゃ入れ食いだ。

 

「流石だな、スカイ」

「どーも。まあトレーナーさんにはまだまだ負けられませんね」

 

 のんびり釣る、というよりかなり忙しない感じはある。けれど、これはこれで悪くない。そう思った。人の感覚は不思議なもので、自分とは異質であっても意外と受け入れられる。たとえば私と釣り堀。たとえば、私とトレーナーさん。

 ひっきりなしに人と魚が動き回る釣り堀で、トレーナーさんと並んで糸を垂らして。時折私に気づいたファンの人が、挨拶してくれて。サインも頼まれたりして、その時は釣りを中断して。改めて、ああ私、勝ったんだって。その日はそんな日だった。

 

「流石に釣りすぎたな……」

「でも美味しいですよ。食べきれなかったら私がもらってあげますから」

「うん、美味い。自分で釣った魚は美味いというのは本当だな」

「トレーナーさん、釣り好きでしたよね……?」

「まあそうなんだが、稚魚しか釣れたことはない。だからその、今日は楽しかったな」

 

 本当に初心者だったのか。トレーナーさんが弱みを見せるのは珍しい気がする。強気で頑固で正論と根性論ばっかり言ってる時は、ここまでかわいげないのに。ぷっ、と笑いがこぼれてしまう。

 

「……初心者で悪かったな」

「違います、違いますよ。もう、そんなことで不貞腐れないでください」

 

 意外とこの人も、子供っぽいところがあるのかも? まだまだ私はトレーナーさんのことを何にも知らない。それについては、これから。

 

「スカイ、これからも頑張るぞ」

「はい、トレーナーさん」

 

 これから。私たちは、もっと上へと行ける。

 

 

「ふぃ〜、疲れた……」

 

 寮の共同浴場で、誰にも聞こえない程度に疲れをこぼす。息抜きしても体力を使うなんて、この世の中は理不尽だと思った。帰り際に「明日からまたビシバシ行くぞ!」と言われてしまったから、今日休めていない私は実質休みなしということになる。トレーナーさんは私より体力ないはずなのに、あの元気はどこから出るのやら。

 明日から、か。明日から目指すものは、決まっている。皐月賞の勝ちは、私を実力者として世間に知らしめた。それはつまり、これから世代を引っ張っていくうちの一人として。私たちの世代の最強を決めようとすれば、必ず名前が上がるウマ娘たちがいる。

 グラスワンダー。エルコンドルパサー。スペシャルウィーク。キングヘイロー。そして私、セイウンスカイ。私がその中にいる。少し前は考えもしなかったことだ。それなりに走って、それなりにちやほやされて。それでよかった私は、いつのまにかそれ以上に手が届きそうになっている。そして私自身も、それを求めている。

 本気で勝ちを求めて得た勝利は、私にとって劇薬だった。今でも余韻が残っている気がする。いつまでも過去を振り返れる気がする。かつての私は、苦々しい過去を捨てて諦めて、今の私になったのに。これも変化だろうか? 望ましいものなのだろうか? これは誰かに聞けることじゃない。自分で答えを確かめるしかない。

 そんな何もわからない今、確かなことがあるとすれば。私は未だ、勝利に酔っていた。初めての感覚を手放せず、切り替えれずにいた。その栄光は、あくまで幕開けに過ぎないのに。次の勝負は既に始まっている。頭ではわかっている。ウマ娘の祭典たる日本ダービーまで二ヶ月もない。クラシック一冠目を取った私には、次が期待されているだろう。期待は私を休ませてはくれない。頭も私を駆り立てようと、ひっきりなしに動き回っている。

 けれど、今だけは。そう、心はぬるま湯を求めていて。今の私の肢体のように、温かさでふやけ切るのを望んでいて。勝負事においては難儀な性格なのかもしれない。一つの玩具で何度も繰り返し遊ぶ子供のように、私は一つの勝利を舌の上で転がし続けている。飲み込めなければ、糧には出来ないのに。きっとライバル達は、敗北を糧にして更に強くなるのに。勝者故に、私はそれが出来ないでいた。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 じんわりと浸かり続けているうちに、すっかり人のいなくなった浴場で独り。私はこの場に絶対居ない人に問いかける。今日はいくらでも直接言えるタイミングがあったのに、つくづく私は臆病だ。

 

「私、やっぱり才能ないのかな」

 

 でも、言えない。今ここでしか、言えない。勝ち続ける能力こそが才能だとすれば、それは走る力だけでは測れないだろう。もう聞き飽きた根性論も、正論の一つなんだ。勝利への渇望が、私には足りない。私一人では、あっという間に足を止めてしまう。

 けど、そうではない時もあった。もっと上へと行ける。そう、トレーナーさんの前では思えた。きっとそんな心の持ちようも、勝ち続ける力になれる。私は臆病で、一人ではそう思うことができない。不安が迫っても、それに立ち向かっていけない。だけど、独りじゃなければ。

 今の私に出せる答えは、そこまでだった。

 

 

 結局何だか寝付けなくて、次の日の授業中はうとうとしてしまった。まあそれはいつものことではある。そしてこうやってみんなで昼食を食べるのも、いつものこと。

 

「スペちゃん、大丈夫ですか? なんだか授業中も集中出来ていなかったような」

「そうかな、あはは……」

「まったく。スペシャルウィークさん、そんなことでダービーでも腑抜けていたら、承知しないわよ!」

 

 スペちゃんを気遣うグラスちゃんと、叱りつけるキング。まあどちらも本質的には一緒で、スペちゃんが心配なのだろう。

 

「そーだよスペちゃん、授業は集中しなきゃ」

「スカイさんは他人のこと言えないでしょう!」

「厳しいなあ、キングは。ダービーに向けて気合い十分だね」

 

 まあ見ての通りのキングはともかく、スペちゃんの異変も少し注視すればわかる。ご飯が少ない。スペちゃんにしては、だけど。多分このダイエットが、スペちゃんが集中できない理由。そしてダイエットの理由はおそらく……。

 

「スペちゃん! 今気付きマシタ、アナタダイエットしてマスね! ズバリ、ダービーに向けて!」

 

 おっと、エルに先に言われた。結局エルはニュージーランドトロフィーでも勝ったんだっけ。さっき後ろのテレビに『四戦四勝の怪鳥、エルコンドルパサー』とかなんとか流れていたような。

 

「えっ、えへへ……。実は、そうなんだ……」

「やっぱり! エルのコンドルの如き眼は誤魔化せないデース!」

「エル? あんまり乙女の体重をとやかくいうものではありませんよ〜?」

 

 グラスちゃんからものすごい殺気が。エルも流石に察知したのか、慌てて話題を転換する。

 

「そ、そう! アタシ、次はNHKマイルカップに出マス! みんなにも見てほしいデス!」

「ふふっ、私の分までエルには頑張ってほしい……などというのは傲慢ですが。頑張ってくださいね」

 

 さっきまでのやりとりなどなかったかのように、グラスちゃんが笑いかける。そう、グラスちゃんは本来なら、ニュージーランドトロフィーからNHKマイルカップへのローテーションを通る予定だった。けれど練習中の怪我が今でも治っていなくて、結果的に両レースを諦めることになった。そして、エルとの対決もまた。

 

「はい。アタシ、勝ってきます。グラスが居たって勝てたってお客さんみんなが思うくらいに、強烈に」

 

 ここまで負けなしのエルコンドルパサー。きっと次の勝負を迎えるたびに抱えるプレッシャーは大きくなるのに、それでもエルは走っている。どうしてそんなに強くあり続けられるんだろう。なんとなく、答えはわかる。一つは自分に対して、まだまだこんなもんじゃないと思えているから。私と違って、満足してしまっていないから。そしてもう一つは、きっと。

 

「はい。いつか、今度こそ。エルと走れるのを楽しみにしています」

 

 今のエルは、グラスちゃんの想いを背負って走っているから。独りじゃないから。それはもしかしたら、私が思い悩むそれと同じ原動力かもしれない。つまりエルは案外寂しがり屋なのかもね、なんて。私と似て。一人でも生きていけるふりをしているのに、独りじゃ立ち止まってしまいそうな、私と似て。

 

「私も、頑張らなきゃ」

 

 小さな声でそう聞こえた。エルとグラスちゃんのやりとりから、何かを受け取った声。それを発したのはスペちゃんか、キングか。

 あるいは、私自身か。

 

 

 それから数日が過ぎた。まだ数日だけど、決戦の日にはまだ遠いけど。私はそう自分に言い聞かせて、まだ何も変わっていない。

 

「ごきげんよう、スカイさん」

「ごきげんよー、何か用?」

「別に。……いいじゃない、用がなくても」

 

 日差しでほんのり暖まった机に突っ伏していると、キングがやってきた。そういえば、キングはどうしてそんなに頑張れるんだろう。そう思い巡らせて、いつかの会話が頭に浮かぶ。お母さま、だったか。それがキングにとっての原動力なら、反骨精神のようなものだろうか。私には到底無理な気がした。今だって正面から近づく決戦に、目を背け続けているから。

 

「キングはさあ、すごいよねえ」

「何よ、急に」

 

 ふと口から漏れる賞賛。いや、これは羨望かもしれない。自分自身にないものを、求めているだけ。それを持つ他者を、羨んでいるだけ。

 

「いつでも頑張っててさ、落ち度がないように過ごしてるっていうか。完璧でさ、ほんと私なんかとは」

「……馬鹿にしてるのかしら」

 

 キングの顔が静かに歪む。いつか彼女のお母さんのことを聞いた時より、仄暗く。

 

「ど、どうしたのキング」

「私が完璧? あなたはじゃあ何者なの?」

「私? 私はただの」

「それなら完璧な私が、ただの取るに足りないウマ娘の貴女に負けたのかしら。……最近特に腑抜けてると思ったけど、ここまでだったとは驚きね」

 

 見え透いた挑発。けれど小賢しい私はそれに乗るより先に、その奥の意図に気づいてしまう。

 

「流石、お嬢様は優しいね。腑抜けた私を心配して話しかけにきて、それでもだめなら発破をかけて奮い立たせようって魂胆か。それって君にとってなんの得があるの?」

「これは、得とかじゃないでしょう」

「いいや、損得の問題だよ。ライバルが消えるなら、少なくともキングの順位はひとつ上がるよ? それが得じゃなかったらなんなのさ」

 

 明らかに頭に血が上っている。これじゃキングの思う壺だ。それでも私の口は、後ろ向きな言葉ばかりを並べてゆく。どうしても前に進めない。

 

「はあ。スカイさん、少し頭を冷やしてきなさいな。というより冷やしにいくわよ。ほら、ついてきて」

「……え? ちょ、ちょっと待って」

 

 ぐい、といきなりキングが私の手を引っ張る。予想外すぎてあっさりと、私はそのまま引きづられていく。そして、たどり着いたのは。

 

 

「スペ〜、そろそろ目隠し取っていいぞー」

 

 そう拡声器に伝えるのは、チーム<スピカ>のゴールドシップさん。そしてそれを飛び込み台の上から聞いているのは、スペちゃん。そんな光景が繰り広げられているのは、トレセン学園のプール。

 

「キング、なにあれ」

「知らないわよ!」

 

 ここまで連れてきたキングもこんなことをやってるとは知らなかったらしい。そもそも私、泳ぐの苦手なんだけど。

 

「ひぃやああぁぁぁ〜!!」

 

 ……あ、スペちゃんの悲鳴が聞こえた。本当に目隠しさせられてそこまで登らされた、って感じの悲鳴だ。それにしてもなんでこんなことしてるんだろう。その疑問に答えるように、ゴールドシップさんが再び喋り出す。

 

「ウマ娘は度胸! ばーんと飛び込めー」

 

 度胸、か。その言葉は、心臓の近くで瞬いた。今の自分に足りないピース。せっかくキングがここまで連れてきてくれたんだし、これも何かの巡り合わせだとすれば。

 

「じゃ、私も行ってくるよ」

「えっ!? ちょっと、スカイさん!?」

 

 キングが驚いてる。それならこれがきっと、私にとっての正解だ。するすると飛び込み台に登って、まだ怖がってるスペちゃんの側へ。

 

「行かないなら私が行くよー」

「へっ?」

 

 うんうん、スペちゃんも驚いてる。でも本当は、私が一番驚いてる。ふわふわと掴みどころのない素振り、そのためだけにありもしない度胸を振り絞る自分に。

 

「いざという時には度胸がたいせつー」

 

 そんな言葉は自分に一番聞かせてやりたい。そう思いながら、くるっと私は落ちていった。

 ゼロへの距離は、長く、長く感じられた。結局私、なんで飛び込んだんだろう。何もかもが怖いし、勇気を出す理由なんて見つからない。それは水面がいくら近づいても変わらない。停滞を好んで、度胸なんてかけらもない。一連の行動は嘘ばっかりだ。

 思考はそこまでで、私は水面に突き刺さる。ざばん、と派手な音がして、叩きつけられた身体はびりびりと痺れた。小さな水泡を吐きながら、濡れた頭を水中から引き抜く。なんだったんだろう、これ? びしょびしょの姿でプールから上がると、キングもそんな顔をしていた。なんだったんだろう、って。そんな顔。

 

「す、スカイさん、貴女……」

「どうしたのキング。顔真っ青だよ」

「そりゃそうなるわよ! あんなに元気なかったのに、急に人が変わったみたいに動き出して、飛び込んで」

 

 驚きすぎて本音が出ている。やっぱり私の元気がないことを気にしてたんじゃないか。確かにそれは間違いなかったんだけど、なんでそんな私が度胸試しみたいなことができたのか。今、ここだからわかることがある。それはきっと。

 

「まあ、キングにびっくりしてもらえたなら、何よりだよ」

 

 キングの驚く顔。心配してくれた私の友達が、我を忘れるほどびっくりしてくれる。私はきっと、それが見たかった。それは幼い私が褒められたいって一生懸命だったのと、同じようなものだった。期待を寄せられて、それを上回りたいって。どこまでも子供染みているのかもしれないけど、今の私なりの、期待への応え方。

 きっと誰もが、そうやって何度も折り合いをつけていく。寄せられた期待と、自分のやりたいこと。どこかで妥協して、それでも諦められないものがあって。……漸く、皐月賞を飲み込める。そこから生まれる期待も不安も、逆に利用してやるんだ。何にだって縛られず、空に浮かぶ雲のように。そう決めた。だから、道は開けた。

 

「ありがとう、キング。おかげですっきりしたよ」

「なんだか腑に落ちないけど」

「ダービーも、私が獲るよ」

「……それだけ元気になったなら、充分ね」

 

 こん、と拳を合わせる。私はやっぱり、独りじゃない。




二章 ライバルと友達 開幕です。
次回は明日20:00更新です。
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変化とゆらぎ、そして変わらないものたち

 脚だけでは勝てない。技術だけでは勝てない。気持ちだけでは勝てない。心技体が揃っていなければいけない。いかにもトレーナーさんが好きそうな結論だけど、今の私に見えている結論も同じものだった。そうしてこの瞬間も、その全てを伸ばすためにある。

 

「セイウンスカイ、次はうちの子たちと併せをやってみなさい」

「はーい、わかりました」

 

 <デネブ>のトレーナーさんに軽く返事をして、汗も乾かぬうちにグラウンドへ戻る。今日は<アルビレオ>と<デネブ>の合同練習。その目玉が私の特訓というのは、少しむず痒いかもしれない。<デネブ>の方が人数が多いし、トレーニングに幅が出るのはいいことなんだろうけど。あからさまに両チームのメンバーが私に注目しているのは慣れないな、と思った。でもきっとそれくらい跳ね除けなきゃ、ダービーじゃ勝てない。

 

「──で、トップロードさんの今のフォームはこんな感じなんですけど」

「なるほど、確かにそれならもうちょっと、踏み込みを深くした方がいいかもしれないですね……参考になります、フラワーちゃん」

 

 少し離れたところからはそんな会話も聞こえる。トップロードさんとフラワー、結構気が合うのかな? 二人が仲良くなるきっかけが私の存在だったとするなら、嬉しいような、なんだか恥ずかしいような。……と、気を緩めてる場合じゃない。私は私に集中しなくちゃならない。私自身を疎かにしてしまえば、それは誰かの期待を裏切ることと同義だ。私は独りじゃない。だから、期待を裏切るわけにはいかない。予想はどんどん裏切っていきたいけどね。

 独りじゃないと気付いてから、私はまたトレーニングに向き合えるようになった。皐月賞前に戻っただけにも見えるけど、着実に進んでいる実感がある。観客全員を驚かせるのが、新たな目標だ。それは今までなかったものだ。トレーナーさんの不安を裏切れた皐月賞の先に、初めて褒めてもらえたあの日の先にあるのが、紛れもなく今の私。スペちゃんにもキングにもない、私独自の強み。張り合えるもの。それを見つけられたのだから、この変化もまたいいものだった。

 だん、と大地を蹴る。また一日、決戦に近づく。

 

 

 練習を終えてチームの部屋に戻ると、小さな明かりの下でトレーナーさんが書類の山と睨めっこしていた。そういえば今日は<デネブ>のトレーナーさんが練習を主導してたから、この人はここに篭りっぱなしだったのか。

 

「お疲れ様です、トレーナーさん」

「おお、スカイ。お疲れ様」

 

 見るからに忙しそうなのに、わざわざこちらに向き直って挨拶するトレーナーさん。いつもの暑苦しい表情も崩してないけど、若干疲れが見える気がする。いったいそんなに頑張って何をしてるんだろう、そう思ってちらりと彼の手元を覗いてみる。ははあ、これは。びっしりと並べられた文字列が指しているのは、どれもレースにおける技術や理論の話。真新しい赤インクが色んなところに書き加えられていて、なるほど今日はこの勉強に費やしていたらしい。

 

「トレーナーさん、ついに根性論とお別れするんですか」

「いいや、これはあくまでサブだ。努力を重ねて、闘志を燃やす。そんなウマ娘が一番強いと俺は思ってる。……ただ、な」

「ただ、なんですか?」

 

 まあトレーナーさんの言うことにも一理あるのは事実だ。努力は大事だし、勝ちたいって思わなきゃ勝てない。それはやっぱり正論。若干かなり、耳が痛い話だけど。けれど今のトレーナーさんは、それだけではないらしい。私の問いに、少し考えてから答えを返す。

 

「それだけじゃないとも思っただけだ。色んな手が使えるのは悪いことじゃないだろう」

「なるほどなるほど、それを一人のウマ娘に教わったと」

「そうは言ってない」

 

 やれやれ、相変わらず頑固なトレーナーさんだ。でも私も他人のことはいえない。私に起こった変化のうち、いくらかはトレーナーさんによるものだから。でもあなたがそれを明言しないのならば、私だって隠しても許されるだろう。

 

「ねえ、トレーナーさん」

「どうした」

「私、勝てるかな」

 

 私から歩み寄れるとしたら。きっとこういった回りくどい形。不安を口にし、あなたの期待を確かめようとする。揺るがないと信じているからこそ、弱い自分を見せてしまう。そしてそれすらポーズに過ぎなくて、本当の自分はどこにも出てこない。難儀で、卑怯な性格だ。

 

「もちろんだ! 君は『走る』、そう信じている」

「私、期待に応えるのは苦手なんですけど」

 

 私なりの期待への応え方。それは驚かせること。つまり、ある程度不安に思ってもらわなきゃ成立しない。不安を裏切り、予想を超える。そうしてやっと期待に応えられる。だから、そうやって真っ直ぐなのはやっぱり苦手だ。期待が純粋であればあるほど、応えられなかったらどうしようって不安が増える。だからいつもやる気ない素振りをして、努力や根性は苦手で。本当はちょっと、憧れているのかもしれないけど。

 

「君は皐月賞を勝った。ダービーでも有力候補だ」

「それはどうでしょう。私の評判、知ってます? 皐月賞はフロック、まぐれだって。次はスペちゃんだって」

「そんなものは一部の意見だ。いいかスカイ、諦めるな」

「また、正論ですか」

 

 ダービーに向けての特集は、色んな雑誌や新聞で組まれ始めている。そこにあったフロックという言葉が、私に対する世論。だからそれを受け入れて、逆手に取ってびっくりさせてやろう。それが私なりの結論。トレーナーさんが言うように、それは一部の意見ではある。だから気にする必要はない、それは正論かもしれない。でも。

 

「正論でみんなが納得できるなら、苦労しませんよ。それに私はいいんです。期待と不安への折り合いの付け方、もう見つけましたから。この前評判は、私の強みです」

 

 私には正論は似合わない。むしろそれすら超えてこの正論男をびっくりさせてやろうと、そう決めたのだから。

 

「折り合い、か。諦めとは違うんだろうな」

「はい。セイちゃんも大人になったってことです」

「ならよかった。期待してるぞ」

 

 ……初めてトレーナーさんを言い包められたかもしれない。これは私の成長の証? 口ばかり上手くなっても仕方ないけど、それなりに自分の芯が出来てきたということ。いや、そうじゃないかも。むしろ変わったのは、トレーナーさんで。

 

「でもこれだけは言っておく。スカイ、俺は君に期待している」

 

 最初に会った時は、死ぬまで調子を変えなさそうに見えたのを思い出す。あれからほんの数ヶ月で、この人の色んな面が見えた。正確には、見えるようになった。見せてくれるようになった。私が彼に弱みを見せるように、彼も私に弱みを見せている。なら、どうやって私はトレーナーさんの同一性を認識しているのか? それは簡単だ。簡単だけど、ついさっきわかったことだ。

 

「うん。しっかり見ててね、トレーナーさん」

 

 私への期待。それだけはずっと、変わっていないから。何度もゆらぐ私へ示された道標。たとえフロックと言われようと、そちらに流されないように灯された灯台。これがある限り、私は本命じゃなくたって闘える。私が逆境に対して、「驚かせたい」と言えるのは。言えるようになったのは。

 きっと、あなたのおかげだと。いつか伝えられたらいいな、そう思った。

 

 

 五月になった。日本ダービーが近付いているのもそうだけど、月日の巡りは様々な変化をもたらす。春の陽気というには少し暑くなってきたり、釣れる魚が変わったり。誰にでも関わる変化と、個人的な変化が入り混じっている。とはいえここ最近で一番大きな変化は、やっぱりNHKマイルカップだった。エルはここでも快勝し、最早敵なしといった感じ。そこまではよかった。そこまでは私も、テレビの中のエルを他人事のように見てたんだ。だけどそのあとのインタビューで、エルの所属するチーム<リギル>のトレーナーさんが言った一言が、聞いていた皆に衝撃を与えた。

「次は日本ダービーに出走する」。そうエルのトレーナーさんは言った。エルコンドルパサーは無敗のまま、ダービーに挑戦する。楽には勝てないな、そう口から漏れたのを覚えている。けれどもっと深く突き刺さったのは、その後のエルの言葉だった。エルがダービーに向けての宣戦布告を行った相手は、スペちゃんだった。スペちゃんには負けない、そう言っていた。確かにそれは順当な発言だ。現状、ダービー最有力なのはスペちゃん。それが世間の評価。そしてそこに迫るのが、エル。突如現れた刺客たるエルコンドルパサーは未知数だけど、きっと上位人気に食い込む。そしてその分一段落ちるのが、私。それはわかっている。理屈ではわかっている。けどそれをテレビで聞く私は、掌を握りしめていた。悔しいって、思っていた。期待薄でもどんとこい、そんな考えが初めてゆらぐ。

 

(負けて、られない)

 

 スペちゃんとは、弥生賞でも皐月賞でも鎬を削った。なら私たちは互角のはずだ。スペちゃんのライバルは、エルじゃなくて、私だ。人気がなんと言おうと、私はそれには縛られない。そう思った。そんなふうに強く闘志を燃やす自分に、気付いた。焦っているようにすら、感じた。今までだってそう思っていたはずなのに、殊更強く感じてしまう。期待や人気をひっくり返すという点では、私の今の位置はいいもののはずなんだけど。私はそう定義した、人気を気にするより利用してやるって決めたはず。それでも意識してしまうなら、私は折り合いをつけきれていないのだろうか。私がこの数日でつけた自信は、偽りのものだったのだろうか。虚勢に過ぎず、また閉じこもってしまうのだろうか。それは嫌だった。それこそ期待を裏切ってしまう、だから前へと進みたい。けど、進むためには? 決心を取り消さなければ、正しく進めないとしたら?

 テレビはもう次の番組に切り替わっていた。切り替えきれないのは、私だけだった。一度したはずの決心が、新たなる変化で歪んでいく。対応すべきなのか、貫くべきなのか。悩んで、悩んで。ライバル達は強い、改めてそんな当たり前を実感する。また、後戻りしてしまいそうになる。内容が全く頭に入ってこない画面を、ただ見つめて。かつての自分なら、そこで立ち止まっていただろう。正解の見えない問いなんて嫌いだし、感情に振り回されるのだってまっぴらごめんだ。それが私だった。

 けれど。気付けば私は、無我夢中で走り始めていた。頭で考えるより先に、外へと飛び出した。ジャージに着替えて、他のチームの練習で埋まっているコートを横切って。自主練に励むなんて、本当今の私はどうしてしまったんだろう。そう思いながら、川沿いの一本道を走り抜ける。誰が見ていようと、見ていなくても関係なく。かつての私は、誰かに見てもらうためだけに色々なことをやっていたけど。誰かに褒めてもらおうとしていたその行動は、あくまで他人のための行動で。今わけもわからず走っている私は、確かに自分のために行動している。それは変化。けれどそれが出来るのは、独りじゃないとわかっているからこそ。がむしゃらに進んでも導いてくれる誰かがいる。言語化できない動機を与えてくれる誰かがいる。期待してくれる、信頼してくれる。勝負を仕掛けてきてくれる。だから私はこの学園で、ここまで来れたのだと。他人がいるからこそ、自分の意志を見つめられたのだと。その日の夜までひたすら走り続けて、少しだけ答えを見つける。シンプルだけど、長々しい答えだった。

 

「やっぱり、走るのは楽しい」

 

 走りたい。それが私自身の気持ち。だから色んな理由をこじつけて、私は走ろうとしているんだ。たとえばライバルのため。トレーナーさんのため。チームメイトのため。ファンの期待のため。前評判を見返してやるため。勝った喜びを噛み締めるため。自分の行動で、驚く誰かを見るため。今まで複雑に入れ違ってきた全部に通じるものがあるとすれば、全てが走る理由だった。私は子供だから理由を絞りきれないのかもしれない。時には思ってもないことを言ってまで、自分の心を隠してしまう。でも、それだけきっと大切なんだ。私にとって走ることは、大切なことなんだ。

 ならば、走ろう。理由はなんであれ、走りたいのなら。

 




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三強

 ダービーもいよいよその日が迫ってきて、出走者や枠番が確定した。私は六枠十二番。悪くない。そして人気投票の中間発表も。私は三番人気。これも悪くない。

 

「セイウンスカイ、時間よ」

 

 そんなふうに控室でうんうん頷いていると、<デネブ>のトレーナーさんに呼ばれた。ちなみに私が今何に呼ばれたかというと、ダービーに向けての記者会見である。そして何故<デネブ>のトレーナーさんがここにいるかというと、あの男が恥ずかしがって記者会見を拒否したからである。恥ずかしいからとは言ってなかった気もするが。提携チームは便利屋じゃないと思うんだけど、それを引き受けるこの人は結構お人好しなのかもな、と目の前の女の人に目配せした。

 

「……なによ。一応私は横に立ってるけど、何か聞かれたら貴女が答えるのよ」

「えー、ひどい。監督責任は」

「それは貴女のトレーナーにあるはずのものね」

 

 それは確かにその通り。それにしても、やっぱり緊張しちゃう。まるでスターになったみたいだな、なんて考えてしまうけど。もしかしたら本当にスターなのかもしれない。夢と希望を与えるのが、スターウマ娘。そして一生に一度きりのクラシック戦線は、それを最も鮮やかに演出する。そしてそこに私は飛び込んでいる。テレビや雑誌に名前や姿が挙げられるようになって、道を歩いてたらファンの人に声をかけられることもあった。やっぱりもしかしたら、スターみたいなものなのかも。私たちのライバル関係は、もはや私たち自身には想像できないくらいの注目の的になっている。そんな栄光のクラシック三冠への挑戦の場に名を連ねられるなんて、ましてや勝ちを狙えるなんて。私には思ってもみなかったことで、きっと私だけじゃ無理だったことだ。

 

「セイウンスカイさん! ダービーに向けての意気込みをどうぞ!」

 

 壇上に上がると、早速そんな感じの質問が。他にも何人か同じことを聞いてきてる。そんなに色々聞かれても対応しきれないや。トレーナーさんをチラリと見ると、口をにこりと固定させていた。ひどーい。それにしても何を言えばいいのやら。元気いっぱいなのはスペちゃんかエルがやってるだろうし、差別化が必要だ。そう少し悩んで、吐き出す。

 

「皐月賞勝ったのに、三番人気なんですよねー」

 

 そう、さも残念そうに口にしてみる。確かにそれに悩んだこともあった。やっぱり期待されてない、それを証明する事柄とも言えなくもないから。でも、私に期待してくれている人もいる。それに私の戦績を不安視する人も、ひっくり返してしまえばいいんだ。さながらコインの裏表のように、プラスとマイナスは一体なんだから。

 

「でもこれって、私が勝てばみんなびっくりするってことかな? ならセイちゃん、頑張っちゃいますね♪」

 

 そう軽ーく言ってのけると、記者の人たちがにわかに盛り上がってくれた。呆気に取られたような表情と、急いでペンを走らせる音。それを聞いて、見て。私の身体にぞくぞくと走り抜けるものがあった。うん、やっぱり。こうやって、予想を裏切って。そうするのは気持ちいい、楽しい。なら走る時にそうすれば、もっと楽しいはずだ。この感覚は私の武器になる、そう思った。

 

 

「お疲れ様です、トレーナーさん、スカイさん」

「ありがとうフラワー。いやー、緊張して全然喋れなかったよ」

「そうかしら? そうは見えなかったけど」

「そういう素振りを見せないのも、トリックスターってやつですよ」

 

 トリックスター。最近私を説明する時、よく枕についている言葉だ。捉えどころのない振る舞いで、皆を惑わせるキャラクター。そういうものをそう呼ぶらしい。悪くない響きだ、と思っている。

 

「でも、よかったです。さっきのスカイさん、本当に楽しそうに喋ってました」

「まあ、そうかもね。フラワーには結構、悩んでるところを見せちゃってたかもね」

「それでも、今のスカイさんは違いますから」

 

 フラワーが言うなら間違いないかも。皐月賞を糧に、私は進んでいけている。期待だけじゃなくて、不安さえ力に変えられるようになっている。もちろん勝てるかなんてわからない。スペちゃんもエルも強敵だ。どちらかといえば分が悪いだろう。それでも怯まないことこそが、私の一番の成長だ。ライバルとは、高めあうものだと。誰か一人しか勝てないからこそ、誰もがそれを求める、勝利という栄冠。それを私も望んでいる。一生に一度きりの今を、後悔しないために。

 

「私は負けないよ、フラワー」

「はい、応援しています」

 

 また一つ、期待を心に刻んで。背負う期待も見返すべき不安も、全てが一瞬にかかっている。その時は、近い。

 

 

 ダービーが間近に迫っても、当の私たちは仲良く昼食を囲み続けていた。友達なんだから当たり前ではあるけど、数日後にはばちばちやり合うのににこやかに話すというのは少し怖いところもある。

 

「ほら見てよセイちゃん、この雑誌!」

「アタシとスペちゃんと、セイちゃんの写真が表紙デス! ダービー特集はアタシたちで一杯デース!」

「まあ今更そんなこと言えないけどさ、自分の写真が雑誌に載るのって、恥ずかしくない? テレビに映るのもむずむずする」

「ふふっ、みなさん頑張ってくださいね〜」

 

 和気藹々。ひょっとしたらこの会話、側からみればそれなりに豪華メンツなのかな? ダービー三強に、今は怪我してるけど実力は折り紙付きのグラスちゃん。……あと一人は、実は最近会話していない。ダービーを控えて自分なりに悩んでいるのだとしたら、当の私たちが気にかけても逆効果なのだろうけど。僅かな沈黙が時折挟まるのは、皆が彼女を心配している証拠ではある。そしてそれを取り繕おうとして、私は最近話題を切り出すことが多くなっていた。

 

「そういや知ってる? クラシック三冠にそれぞれ求められる、必要な条件。自分が出るのに、私覚えられなくって」

「皐月賞は最も『速い』ウマ娘が勝つ、菊花賞は最も『強い』ウマ娘が勝つ、ですね。セイちゃん、これくらいはたとえ出走しない私でも知っていますよ」

「そしてダービーは、最も『運のある』ウマ娘が勝つ、デース! アタシ実は、今朝自販機でジュースを買ったら二本目が出てきマシタ!」

 

 おお、さすがエル。と言っていいのだろうか。私は運がいいことなんて……おや。

 

「おっ、当たった。アイス、もう一本だって。私も運、あるかもなー」

「セイちゃんもエルちゃんも、私どうしたら……ああっ!」

 

 慌てたスペちゃんが手元のコップを倒してしまう。こりゃ、運がない。

 

「スペちゃん、大丈夫ですか?」

「ありがとうグラスちゃん、でも私もうダメかも……」

「コップが落ちなかった分、幸運ですよ♪ 何事も捉え方、ですから〜」

 

 こういうやり取りに関しては、やっぱりグラスちゃんが一番強いな、と思った。そうやって運を手繰り寄せるのも、確かに強さの一つなのかもしれない。

 そして、もし。もしここにキングがいたら、なんて言っただろうか。そんなことを考えてしまう。「一流の私なら当然!」って、何かしら幸運を引き当てるだろうか。それとも「キングが選んだ道が、幸運そのものなのよ!」とかわけのわからない理屈を並び立てるだろうか。どちらも十分あり得そうに思えたけど、どちらの言葉も今は聞こえない。キングの背負うもの、それをまだ私はちゃんと知らない。強気に見えて案外お人好しで心配性なあのお嬢様が、今どんな悩みを抱えて独り闘っているのか。わからない、わからないけど。ただ心配だった。

 

 

「お疲れ様! 今日はここまで!」

「お疲れ様でした、みなさん!」

 

 今日もトレーナーさんとトップロードさんが仲良くトレーニングを締める。私はいよいよ大詰めで、今日も我ながら大変頑張った。汗を夕日にかざしていると、トップロードさんがやってきた。

 

「お疲れ様です、スカイちゃん! 最近色んなところでスカイちゃんのことを見かけて、私もうすごく……すごく嬉しくって! ダービー頑張ってください!」

「うわっ、トップロードさんにも見られてましたか」

「何処に行っても見かけますよ! クラシック三冠は、それだけ重要なレースなんですからっ」

 

 目をキラキラさせるトップロードさん。もしかしてこの人も、クラシック戦線に結構夢を持ってるタイプなんだろうか。学年は私より先輩だけど、まだデビューはしていないトップロードさん。なら、そういう意味では私が先輩なところもあるのかな。

 

「確かに、そうなんだろうなあって思います。皐月賞の時もすごい盛り上がりでしたし」

「ですよねっ! でも、それだけプレッシャーだろうなって、そう思うこともあるんです。私の番が来たとして、その時私は期待に応えられるだろうかって。……すみません。スカイちゃんを励ましに来たのに、これじゃ私のお悩み相談になってますね」

「いえいえ、トップロードさんの弱音なんてたまにしか聞けませんし。ラッキーだと思っておきますよ」

 

 みんな、自分の弱音は隠してしまう。たとえば私もそうしてきたし、たとえばトレーナーさんにもそういうところがある。それを誰か信頼できる他者に漏らして、人はその時だけ弱さを見せる。その時以外は、強くあらねばならないから。だからトップロードさんに私が弱音を吐いてもらえるなら、それは信頼の証となるもの。ちょっと嬉しいのは事実だ。

 

「そうだ、お詫びと言ってはなんですけど。私もスカイちゃんの悩みを聞きますよ! ダービー前に晴らしておきたいものがあるなら、言ってみてください!」

 

 改めて、この人はいい人だなあって思う。そうなると、私だって吐き出さなきゃ失礼な気すらしてしまう。ちょうど、一つ悩みはあったし。友達の話だ。

 

「私の友達、ちょっと前から悩んでるみたいなんです。独りで悩んでいるみたいで、でもその原因がわからなくて、手出しできなくて」

 

 意地っ張りだけど私のことを何かと気にかけてくれていた、私の友達の話。

 

「きっと、悩みを打ち明けられるほど仲良くないからなんですよね。私が信頼されきってないから、あちらからは言えない。そして私からも、言えない」

 

 ダービーを控えた時の悩みとしては、随分と甘っちょろい話かもしれない。それでも気がつけば、そのことばかりがぽつりぽつりと。けどそれを聞いたトップロードさんの表情は真剣で、柔らかくて。この人に話してよかったと思えた。そしてトップロードさんが示したのは、意外な回答だった。

 

「それはですね、逆なんじゃないかなって、思います」

「逆?」

「そう、逆です。仲が良いから打ち明けられないんですよ、きっと。相手のことを想うから、言えないことだってありますよ。スカイちゃんだって友達には言えなくても私になら言えること、今言ってくれたじゃないですか」

「それは、トップロードさんを信頼してるから」

「はい、それはありがたいことだと思います。けど、信頼の形が違うんです。適度な距離感だから言えることだってあります。いつからか隠し事もできないくらい仲良くなることだって、あります」

「そう、でしょうか。私には結局、それなり以上の友達を作れないのかと思ってました」

「それこそ逆です。それなり以上だからこそ、その子が悩んでることすら心配になっちゃうんですから」

 

 そう、なんだ。私とキング、それなり以上の友達なのかな。そんなことを言い当てられるのは、少し気恥ずかしいような。でもそうだとしたら、私はどうすべきなんだろう。どうやったら、友達の悩みを取り除く力になれるだろう。

 

「──ひょっとしたらその子も、ダービー出るんじゃないですか?」

「鋭い、ですね」

「ならスカイちゃんの悩みを解決する方法は、簡単です」

 

 ぱん、とトップロードさんが手を合わせて。これぞ名案、そう言わんばかりに。

 

「一緒に走ってみて、その後聞いてみたらいいんです。勝負の後なら、なんだって言えちゃうんですから」

「そういうものでしょうか」

「多分、ですけど……」

 

 軽くずっこける。最後に不安は残したものの、トップロードさんの言っていることは間違いではないと思った。なら、それでいいか。とりあえず走ってから考えてみる、それはとってもわかりやすい。

 

「ありがとうございます。おかげですっきり走れそうです」

「お役に立てたなら、何よりです! 観客席から、スカイちゃんが最初にゴールするところ、見てますね!」

 

 そう言って爽やかに笑うトップロードさん。この人の期待も背負うのだ、そう思った。

 

 

 けれど、ダービー当日。本人と言葉を交わすことなく、私は彼女の真意を知ることになる。

 

「ようやく、私を見たな」

 

 ハナを切る彼女が私の方を振り返る時、その眼はそう叫んでいたから。




次回は明日20:00更新です。
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『最高の決着』

 広く。広く。青空は今日も広がっていた。スタンドからはこれ以上ないくらいの大歓声が聞こえる。せめてそれから耳を塞ごうと、どこまでも広がる青空に目を向けようとするけれど。代わりに私の視界を覆うのは、輝かしい黒色。

 

「信じられません! ダービーを制したのは二人! エルコンドルパサーとスペシャルウィークだ!」

 

 掲示板に映し出される同着の二文字。「これ以上ないくらい互角の勝負」、そこに私はいなかった。

 

 

「着いたぞ、スカイ」

「ありがとうございます、トレーナーさん。それにしても運転できたとは」

「運転できると担当ウマ娘の送迎には便利だからな! とはいえ、よっぽどのレースじゃないと車を出したくはないが」

「あはっ、そうですよね。初心者マーク貼ってますし」

 

 日本ダービーのように大きなレースとなると、出走ウマ娘は専用の入り口から直接控室に向かうことになっている。なので今朝はトレーナーさんに車で送り迎えしてもらう、というわけ。皐月賞の時は<デネブ>のトレーナーさんに送ってもらったから、この人の車に乗るのは初めてだ。……案の定、荒っぽい運転だったけど。初心者だというのなら目をつぶってあげよう。

 

「じゃあまあ、トレーナーさんも頑張って運転してくれたことですし。私も頑張らなくっちゃな」

「スカイ、一つ言っておく」

「なんですか?」

 

 聞かなくても大体わかるけど。この感じは応援とかじゃない。

 

「油断するなよ。君のライバルは、一筋縄ではいかない」

 

 やっぱりいつもの正論だった。でも私は知ってる。これはこの人なりの、期待の表れだと。だからこれだけ言ってくれれば十分。今は、だけど。

 

「ご忠告、感謝です。じゃ、行ってきますね」

「ああ。行ってこい!」

 

 いつもの通りの大きな声と態度に送り出されて、私は向かう。東京優駿、日本ダービー。すなわち、私たちの戦場へと。

 

 

 控室で一呼吸置いて、心を落ち着けて。静かだったけど、心臓の鼓動がその分よく聞こえる気がした。そしてあっという間にそんな時間は過ぎ、私は勝負服に着替えてターフへ向かう。目的地が近づくと、実況の人がこんなことを言っているのが聞こえた。

 

「ウマ娘の祭典、日本ダービー。今日は十五万の観客が、その結末を見届けようとここ東京レース場に詰めかけています!」

 

 十五万ってどれくらいなんだろう。それだけすごいレースなんだということはわかる。そして今から私は、そこで走る。勝ちを狙いにいく。本バ場入場はもう始まっていて、出走者の紹介がまた耳に入ってくる。まず飛び込んできたのは、聞き覚えのある名前だった。

 

「弥生賞三着、皐月賞二着。いざ頂点へ! キングヘイロー!」

 

 よかった、まずそう思った。その名前を聞いてほっとした。会話を避けられていたから心配していたけど、キングはいつものキングだと思った。だってレースに出てきている。たとえば皐月賞の時の私は、レースからさえ逃げようとしていたから。そうでないなら、よかったと思うのだ。

 

「皐月賞の雪辱は果たせるのか! 奇跡を起こせ、スペシャルウィーク!」

 

 スペちゃんの名前も呼ばれた。一番人気、今日の大本命。彼女が果たすのが皐月賞の雪辱と言うのなら、私が一番負けられない相手。絶対、勝つんだ。決意を込めて、一歩、二歩。

 

「皐月賞ウマ娘、悲願の二冠へ! トリックスター、セイウンスカイ!」

 

 そうして、私の番。スタンドからの大歓声が私に向けられる。平静を装ってはみるけど、どうしても身体の中から熱がぼうっと湧いてくる。これはきっと、武者震いってやつなのだろう。もちろん怖い。もちろん不安だ。けど私は、ここに居られている。ダービーだって取ってみせると、貪欲に勝利を望んでいる。

 観客席をよく見ると、<アルビレオ>と<デネブ>のみんなが一緒になってこちらを見ていた。トレーナーさんたちも仲良く並んでいる。私は一番人気じゃないかもしれないけど、私を一番だと思ってくれている人はいるんだ。なら、負けないよ。スペちゃんにも、そして。

 

「さあ、最後にやってきました! 一枠一番、ここまで五戦五勝! 無敵の怪鳥、エルコンドルパサー!」

 

 エル、君にも負けるつもりはないよ。実は私はエルのことをあまり知らない。そのマスクの裏にどんな気持ちが隠れてるのか、見当もつかない。それはエルから見た私も似たようなものかもしれないけど。私も大概隠し事をしてしまいがちだから。けど、この戦いを通して。君の目を、私に向けさせてみせる。エルは言ってたよね、スペちゃんには負けないって。なら、私にはどうかな? もちろんやってみなくちゃわからない。けど、それはやる価値があるって意味だ。

 

「さあ各ウマ娘、いよいよゲートに入ります!」

 

 ゆっくりと、周りの皆がゲートへ向かっていく。私も行かなくちゃ。大丈夫、怖くない。いつものように逃げを打って、ペースを掴む。いつも通りにやればいい。

 

「ゲートイン完了。さあ、今年の日本ダービー、いよいよ開幕です!」

 

 そうして間も無く。がこん、といつもの音が鳴った。ここで勝つのは、もっとも『運のある』ウマ娘。

 勝利の女神よ、私に微笑め。

 

 

 そうして一斉にスタートする。どこどこと大地を蹴る蹄鉄の音は、いつ聞いても心地よい。けれど私は、それを横並びで聞くのはそんなに好きじゃないんだ。まずは──! 

 

「さあ、まずは誰がハナを取るのか! 外から行ったのはセイウンスカイ!」

 

 今回も逃げさせてもらうよ。足音は後ろから聞くに限る。競り合うより追いかけるより、私は追われて逃げる方がいい。でも、そうやって踏み出した時だった。

 

「キングヘイロー、果敢に行く! ハナを取って行ったのはなんとキングヘイロー!」

 

 えっ? 自分の耳を疑った。でも私の眼は、確かに前を征く一人のウマ娘を映していた。何度も見慣れた姿だった。けれど、ちらりとこちらを振り向くその眼は。

 

「ようやく、私を見たな」

 

 そう叫ぶ瞳は。初めて見たものだった。

 

「キングヘイロー、二馬身のリード! セイウンスカイは二番手につけています!」

 

 圧倒的ハイペースで逃げるキング。私にハナを譲らない、そのための走り。これを強引に追い越すのは得策じゃない、そう思って少し後ろにつける。そっちがそう来るなら、私はそれに対応する。そうやって努めて冷静にいなくちゃいけない。でなくちゃ勝てない。そのはずなのに。

 どうしても、さっきのキングの眼がチラつく。見えたのは薄く開かれた瞳だけだった。口元だってはっきりしないし、顔の全体なんて全くわからない。それでも、その感情が突き刺さる。それほどまでに、私はキングのことをよく知っていた。知っているはず、だったのに。

 どうして私は、彼女の抱えていたものに少しも気づけなかったんだろう? そんなことを考えてしまう。そんな場合じゃないはずなのに、ざわついてしまう。心臓が圧迫される感覚は、決してこのハイペースだけが原因じゃない。でも、それでも! 

 

「セイウンスカイ、徐々に進出! キングヘイロー、懸命に逃げます!」

 

 それでも、負けられない! スペちゃんやエルに勝つためには、ここでペースを握らなきゃ! そう、自然に浮かぶ思考があった。そこでまた、キングと眼が合う。互いを見据える。今度は彼女の口元まで見える。歯を食いしばって、揺れる瞳が私を必死に捉えようとする。そして、そこでやっと。そうまでして、やっと。

 私はやっと、彼女が私を恐れていたのだと気づく。

 

「セイウンスカイがここで満を辞して先頭に立った! キングヘイローは下がっていく! ここでいっぱいか!」

 

 すれ違う瞬間。彼女の顔を覗く勇気は、今の私には残されていなかった。キングが作ったハイペースは、先頭に代わった私が引き継がなきゃいけない。そうしなきゃ、追い越されてしまう。そうしなきゃ、せめて彼女に向き合えない。けれどこれは勝負の世界。私が弱みを見せたなら、他の誰かがそこに食らいつく。何度も聞いた、地面を裂いて砕くような蹄鉄の音。来る。私を抜きに、来る! 

 

「その後ろから間を割ってスペシャルウィーク! スペシャルウィークが上がってきた! スペシャルウィークと、セイウンスカイか!」

 

 やっぱり。けどここは坂道、スペちゃんの苦手な──! 

 

「並ばない並ばない! あっという間だ! あっという間にかわした! スペシャルウィーク! 先頭はスペシャルウィークです!」

 

 ──スペちゃんは、皐月賞よりずっと強くなっていた。きっとあのピッチ走法も、皐月賞の経験を踏まえて特訓したのだろう。それはわかる。私だけじゃない、みんな成長しているに決まっている。でも、私だって。

 

「全力の、はずなのに」

 

 絶え絶えの呼吸から、それでも漏れ出る言葉があった。どんどんと差をつけられていく。だからそんな言葉さえ届かない。これだけ必死に走っているのに。勝ちたいって、全身がそのためだけに動いているのに。悔しい、諦めたくない。今だけは、諦めたくない。そう思った。

 

「くっそおおおおおお!!」

 

 だから、なけなしの力を振り絞って叫んだ。なりふり構わないから、この気持ちだけはどうか壊さないでください、そう願った。だけど。

 だけど、勝負に慈悲は要らない。私の横を、ものすごい勢いで一人のウマ娘が掠めて行った。

 

「やはり、やはり来た! やはりここで来ました、エルコンドルパサーです!」

 

 三強の対決はそこで終わり。そこから先にあった大迫力の競り合いは、スペちゃんとエルだけの、二人だけの世界。私は後ろに沈んでいきながら、掲示板に滑り込むのが精一杯だった。

 二人の対決は写真判定にもつれ込むほどだったらしい。私は見れていないから、よくわからないけど。ふと目を向けた青空は、やっぱり今日もキレイだった。ずっと見ていたら泣いてしまいそうなほど。だからほどほどにして、歓声を巻き起こしている掲示板を見遣る。

 

「信じられません! ダービーを制したのは二人! エルコンドルパサーとスペシャルウィークだ!」

 

 結果は、同着だった。きっとこれはものすごいことで、ある意味では最高に良い結果だ。いい勝負だったんだ。スペちゃんとエルは、いいライバルだったんだ。抱き合ってまで健闘を讃えあう二人を見て、純粋にそう思った。悔しいと思えていなかった。やっぱり私は敗北に慣れていないのだろう。呆れるほど贅沢な悩みだ。そんな甘さが、私を停滞させていたかもしれないのに。

 そのあとスペちゃんとエルから握手を求められた時、私は自分の気持ちを隠せていただろうか。それもわからなかった。そもそも自分の気持ちが、どこにあるのかも。

 

 

 地下バ場に、こつりこつりと足音が響く。私一人のものだ。他の子がいなくなった後にようやく歩き出しているから、ここには私しかいない。もう少し歩けば、チームの誰かやトレーナーさんが出迎えてくれるかもしれないけど。今は、独りになりたかった。

 けれど少し進んだところに立ち塞がる影がある。誰なのかはだいたい見当がつく。数刻前まではまるでわかっていなかった彼女の気持ちも、今なら少しはわかるから。いつもは強気な顔を崩さないお嬢様は、みっともなく泣いていた。また、初めて見る顔だった。悔しさを露わにして、隠そうともしないで。悔しいかさえわからなくなっている今の私とは対照的だと思った。そんな誰にも見せたくないだろう顔を、彼女は私に晒していた。暴走気味にハナを進んで、後半は見事なまでに失速して大敗。そんな走りをした後なんて誰にも会いたくないだろうに、キングヘイローはそこにいた。その理由も、だいたいわかる。

 今回のキングの走りは、失策と言ってしまっていいだろう。勝てるわけがない超ハイペース。けれどペースは作っていた。作ってしまっていた。その影響を最も受けたのは、私だ。私はハナを取られて他人のペースを握れないどころか、逆にペースを握られたウマ娘の典型のような結末を迎えた。それほど末脚に自信がない以上、引き離されては勝負が出来ない。そうして無理矢理キングに付き合った結果、息を入れるタイミングを失った。だからきっと、キングはこう言いたいのだろう。

 

「貴女が負けたのは、私のせいだ」

 

 けれどもし君の流している涙に一厘でもその感情が混じっているとしたら、キングヘイローというウマ娘は優しすぎる。私にはそんな価値はない。私は君を、本気でライバルとして見ていなかったかもしれないのに。キングはずっと私を見ていたのに。私が君を見ていないことに気づくほどに、見ていたのに。スペちゃんやエルが私に手を伸ばしたように、私はキングに手を伸ばせるだろうか。ライバルとして見ていたと、今更表せるだろうか。友達としてしか、彼女を見ていなかったくせに。

 何も言わず、何も言えず。ゆっくりと彼女の横を通り過ぎる。キングも何も言わない。それとも私と同じで、何も言えないのかもしれない。どちらでもよかった。私のことを見損なうなら、それでもいい。それがいい。せめて気持ち良く、君が袂を別てるなら。

 訣別とはそういうこと。私たちは、独りだった。




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※お知らせ

この度、この作品の表紙イラストを描いていただきました!

【挿絵表示】


素敵なイラスト、ロゴデザインはくるみるみさん(Twitter ID @sakusenbest)です!ありがとうございます!
これに見合う作品になるよう、日々精進していく所存です。頑張ります。


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誰もいない夜

 いつもの昼寝が長すぎたわけじゃなかった。恐ろしい悪夢から逃れようとしたわけでもなかった。ただ、何度か目を見開いて。まだ夜なんだ、そう思った。朝が来れば全てが元通りなんて、もう信じられるはずがないのに。待っているだけじゃ何も変わらないって、散々学習したはずなのに。無意味に河原を周り続けながら、誰かの助けを盲信的に待っていたあの日と、何も。

 よろよろと上体を起こす。全身には昨日の疲労が色濃く残っていた。しばらく歩きたくさえありません、そう脚が言っているような気がした。せめてちゃんと眠りにつけていたなら、今もう少しマシだったかもしれない。ウマ娘にとって己の身体は資本であり、その管理だって大事なことだ。それでも私はベッドから起き上がり、寝巻きのまま顔を洗いに洗面台に向かった。明かりをつけて鏡を見ると、酷い顔が映っていた。手入れせず布団に潜ったから髪の毛はぐしゃぐしゃで、冷水を叩きつけても顔つきはやつれたままだった。年頃の女の子なのだから、これだって管理しなきゃいけないことなのだろう。それでも、私は。

 私の心は、何も許してはいなかった。休むことすら、耐えられないと。

 はじめての夜だった。

 

 

 ぎぃ、と扉が開く音。昼間は必ず誰かがその音に耳を立てるだろう寮の広間だけど、今は誰もいない。私一人だけの独壇場、そう言えば聞こえはそれなりに良かった。寮長のヒシアマさんすら寝ているから、今ここにいるのは私一人。やがて日が昇るまでの僅かな時間に過ぎないけど、今は、今だけは独りだった。

 視界は暗さに慣れてきていて、明かりをつける必要は感じられなかった。寝静まっている皆と同じように、私の身体もこの闇に溶け込んでいる。けれど心の動きだけが、私を独り際立たせている。似たようなことはきっと今のこの寮だけじゃなくて、全ての夜にありふれているのだろう。こうやって広々としたソファを占有して、無為に時間を過ごすようなことは。あるいは今この瞬間さえ、どこかで私と同じような人はいてもおかしくない。けれど同じであることは、独りであることを否定する材料にはならない。たくさんの誰かと同じ空間にいても私が独りなように、同じ状況であることだけが担保してくれるものは何もない。踏み出して繋がりを持たなければ、誰もが独りのままであり。何より独りを望んでいるのなら、踏み出す理由はどこにもない。

 スマホの画面を開いてみる。鮮やかなブルーライトが、痛々しく目に突き刺さる。LANEには数日分の未読が溜まっていた。大体みんな私がめんどくさがりなのを知っているから、取り留めのない会話を個人的に送ってくる子はいないけど。過去の通知を消すだけ消そうかと一瞬思い、やめた。少しでも誰かの言葉を見てしまえば、たとえ文字列でもそこにある繋がりを認識してしまう気がしたから。何より彼女との繋がりを再認識するのは、今の自分には耐えられない。私には、君の抱えた気持ちを測り切ることはできない。この先ずっと。永遠に、踏み出せない。

 一つため息が漏れた。自然と身体がうずくまった。閉じ込められているのか、自分から閉じこもっているのかわからなかった。ゲートがいつまでも開かず、大事なレースは始まらずにお流れ。昨日はそうであったらよかったのだろうか? 狭いところは嫌いだけど、それ以上に取り返しのつかない感覚が全身に蔓延っていた。私一人の我慢で全てが贖えるなら、それでいいとさえ言えてしまいそうなほど。私なんかが何をしようと、変えられる結果じゃないとわかっているのに。それこそ傲慢だ。あのレースの勝者はスペちゃんとエルで、私にもしもはない。「ハナを取れていたら」それだってどうかわからない。取れなかった以上無意味な仮定で、取れたところでようやく勝機が見えるか否か。あの二人が私より強かった、それがまず目に入る結論。私がやるべきはこの敗北を糧にして、前に進むこと。踏み出すこと。たとえばあの正論男なら、当たり前のように次のレースを見据えているだろう。くよくよしても仕方ないって、いつものように正論を吐く。私にだってそれくらいはわかる。きっとそう告げられたら、わかってますよと返す準備はできている。でも、でも。

 

「仕方ないじゃないですか」

 

 そう、届かない弱音を。届かないとわかっているから、誰にも聞かれていないとわかっているから吐き出せた一言だったのに。ぴろん、と。それをすかさず掬い上げるかのように、開いたままのスマホから通知音が鳴った。メッセージの送り主と内容を見て、またため息が出そうになる。こんな夜更けに「起きてるか?」って、普通そんなわけないじゃないか。私が返信サボり魔なことだって知ってるだろうに。スマホを拾い上げて、少しの間をおいて。悩んだからか、あるいは単に気取られないためか。どちらにせよ私は、五分くらいの後「なんですか?」と返す。既読自体はすぐにつけてしまっていたと気づくのは、だいぶ後のことだった。

 

「おお、起きてたか!」

 

 ノータイムで返ってくる。どんな顔でこんな時間にそんなことを宣っているのだろう。テキスト上じゃ顔なんて見えないのに、あの太眉と白い歯が飛び出してきそうな気がした。逆に私の文章から、トレーナーさんは私の表情を読み取れるのだろうか? ポーカーフェイスには自信があるつもりだけど、この人には見透かされているような予感もした。まさか私の泣き言を察知して連絡してきたなんて、そこまでは思わないけれど。

 

「たまたまですよ」

 

 私の手付きは拙くて、その程度のメッセージにもやっぱり時間を要した。次の返信までの僅かな時間、どうしてこの人は連絡してきたんだろう、そんなことを今更考えていた。

 

「そうか。いやなに、少し眠れなくてな」

 

 眠れなかったから連絡した。それ自体は納得してやるとして、たとえ恋人同士でも許されないような時間帯だと思うけど。けれど彼に眠れない理由があるとしたらはっきりしていて、それはきっと私と同じ理由。同じ理由で同じ時間に、同じように独りなら。そこまで一致したのなら、手を伸ばすのも致し方ないのかもしれない。

 

「悔しいですけど、次を考えなきゃ始まりませんし」

 

 けれど、私に伸ばせる手はこういう手だ。あくまで相手の望む答えを、妥当な言葉を引き出すためのもの。全ての流れを打ち切って「助けて」と打ち込めるほど、私に勇気と強さはない。また素早く返信が来る。きっとトレーナーさんは、そのまま思ったことを書いている。私は必死に、覆い隠そうとしているのに。

 

「そうだな、悔しい。でも君の口からそれが聞けてよかった」

 

 覆い隠そうとしているのに。

 

 

「いやー、完敗ですね。みんなに応援してもらったのに」

「スカイちゃん、お疲れ様です」

「ありがとうございます、トップロードさん。ご期待には沿えなかったですけど」

 

 昨日のダービーを終えて。長い長い地下バ道を抜けた後、彼女とすれ違った後。たくさんの人が出迎えてくれたのは覚えている。

 

「スカイさん、お水持ってきました。本当に、お疲れ様です」

「ありがとフラワー。いやー、疲れた疲れた」

 

 そうやって、努めてやり切ったという振る舞いをした。実際全力だったし、文句なしの結末だ。最高の決着だったんだ。観客席から湧き起こっていた大歓声が、それの証明だった。

 だから、悔いはない。そうでなきゃ、何もかもを汚してしまう。勝者の栄光も、敗者の苦悩も。そう希ったのを、覚えている。

 

 

「何がよかったんですか?」

 

 思考時間はだんだん短くなる。今すぐ問い詰めたくなる。心を剥き出しにしたくなる。棘を孕んだとしても、耐えられなくなる。私は悔いてはいけない。その資格はない。あの闘いの場に、私はいなかったのだから。空のように高いところを地面から眺めているだけで、近くにいたライバルのことは見てすらいなかった。いるべき場所を履き違えていた。そう私は考えていて、それは誰にも見せていない。否定されないとしても、不安を見せたくなかったから。せめて誰かの中の私だけは、壊さないように。

 

「俺も悔しいからだ。そういう気持ちを一人で抱え込むのは、嫌だからな」

 

 やっぱりずるい、そう思った。嫌な思いをしたくないのは自分だけ、そんなふりをして。私より上手く、本心を隠して。あくまで正論に見せかけて、私の弱さに正当性を持たせようとする。あなたの中の私は、どうなっているのだろう。そこまで弱さを見抜いていて、どうして尚期待できるのだろう。気づけば私はキーボードから画面を切り替え、キーパッドを叩いていた。数回のコール音の後、繋がる。

 

「どうした、スカイ」

 

 いつもより酷く落ち着いた声だった。

 

「埒が開かないな、と思って。そもそもトレーナーさんも苦手でしょ、ああいうコミュニケーション」

「どうしてそう思うんだ」

「いつも楽しそうに大声出してるからです」

「その通りだな。声に出した方が何事もスッキリする。思ってるだけより健康だ」

「そうですか。耳が痛い話ですね」

 

 相変わらずの正論。そんなもので後押しできるのは、正道を行きたいと思っている人だけなのに。私のようなひねくれものがそれを正面から受け取っても、ますます塞ぎ込むだけだ。不器用な人だなあ、と思う。本心を隠すのに使うのが正論や根性論だけじゃ、隠しているのがバレバレだ。

 

「スカイ。さっきも言ったが、よかったと思ってる。君が悔しがっていて」

「自分だけじゃなかったから、でしたっけ。トレーナーさんはそんなに悔しかったですか?」

「負けたら悔しいし、勝ったら嬉しいさ。自分の担当ウマ娘なんだからな」

「意外ですね。私のデビュー戦とか、そんな喜んでくれましたっけ」

 

 そう問うと、彼は少し硬直して。

 

「……あまり他人には見せないようにしてるんだ。その、本人を差し置いて喜びすぎるのも良くないかと」

 

 思わず頬が緩んでしまいそうな答えだった。それを私に言ったら今まで隠してきた意味がないだろうとか、今更そんな恥ずかしがる心が残っていたのかとか、なんだやっぱり嬉しかったんだ、とか。

 

「それは一理あるかもしれません。ところでそういう気持ちは抱え込まず、声に出した方がいいと聞きましたが」

「耳が痛いな」

「トレーナーさん、自分に論破されてたら世話ないですよ」

「そうだな。だから今言ったんだ。今なら君しか聞いてない」

 

 一本取ろうと思ったのに、すぐさま返された気分だ。私の負け、そういうことかもしれない。

 

「そうですねえ。じゃあ私が今から喋っても、トレーナーさんだけが聞いてくれますか?」

「いいぞ。どんとこい」

「仕方ないなあ」

 

 そうして私はゆっくりと。何度も渦巻く思いを、言の葉に乗せて打ち上げ始めた。

 

「私も、勝ちたかったんです。相手が強くても、怖気付きたくはなかったから。やる前から諦めるなんて、もう嫌だったから」

 

 だけどそれは、私だけが持ち得る感情じゃなかった。

 

「その気持ちが私にも向きうるなんて、思ってもいませんでした。誰かと勝負してるつもりで、私は他の誰かからの勝負を避けていた」

 

 だから私は、勝負の場にいなかった。

 

「私に勝ちたいって思ってた子がいたのに、私はその子を見てなかった。私はその気持ちを、台無しにしたんです」

 

 それが理由だ。私が悔いてはいけない、涙を流してはいけない理由。

 

「だか、らっ……」

 

 そのはずなのに。頬を伝うものに気づいた私は、それを止めることに精一杯になる。ほんの一厘だって、彼女を想う資格はないのに。今更優しさを見せたって、何もかもが遅いのに。

 そこから先、言葉にはならなかったけど。聞いてもらえたことは、よかったのだと思う。

 

 

「……すみません、聞かなかったことにしてください」

「それでいい。君はまだ子供だ」

「それならいつか大人になる時、この弱さは捨てなきゃいけないですね」

「違う。捨てずに育てるんだ。この敗北にだって意味はある。スカイ、一つ言っておこう」

「もう何個も言い聞かされましたけど。もう一つだけ聞きましょうか」

「君は紛れもなく、ダービーの出走者だ。あの場にいた。全ての観客が、君の走りを保証する」

 

 何も言い返せなかった。しばらく待つと、おやすみ、と言い残して電話は切れた。もうすぐ日が昇るというのに。授業を休んで一日ふて寝しろとでも言うのだろうか。それは数時間前なら名案だったけど、今なら授業中にうとうとしてやる方が良いように思えた。繋がりを頼る勇気はまだなかったけど、断ち切る勇気も消えていたから。……さて、猶予は短い。もうすぐ待ち侘びた朝が来る。夜更かしして改めてわかったのは、朝は全てを切り替えてなかったことになんかしてくれない。地続きになっている変化の積み重ねが、たまたま朝に結実したように見えるだけ。月が時間をかけて沈み、朝日と入れ替わるように。それでも日進月歩の如く、踏み出すことが何かを生み出すのだと。諦めなければ、努力は裏切らないと。

 登りゆく太陽によって象られる青空が、私の眼にそれを見せていた。




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空の先、天の向こう

「おはよう、キング」

 

 そこまでは、言えるようになった。

 

「おはよう、スカイさん」

 

 そこまでは、返ってくるようになった。そこまでは、割とあっさりと戻せた。けれどそこまで止まりで、私たちの会話は途切れる。今はそうなっている。でもゆっくりとした変化は、まだ終わってはいない。

 この先へ行こう。敗北を糧にすることが、私たちが強くなるためには必要だ。

 

 

 ダービーから数日。話題の移り変わりは早いもので、教室を包む空気は瞬く間に様変わりしている。具体的にはちょっと暑い。そう、夏が近づいているのだ。

 

「夏休みかあ、トレーナーさんからは何も聞いてないなあ……」

 

 昼食も半分ほど食べ終わった頃、今日の話題を切り出したのはスペちゃん。夏休みかあ。いかにも青春って感じはするけど、私もトレーナーさんからは何も聞いてないや。そもそも何を聞くんだろう?そんな疑問はすぐに解消された。

 

「グラース! <リギル>の夏合宿、来ますよね!? リハビリ、アタシが手伝ってあげマース!」

「はい、ありがとうございます〜。夏が明けるころには、包帯も完全に取れるはずですし」

 

 なるほど、夏合宿。でもそれって夏休みとは真逆だなあ。一日中練習なんて、よっぽどの物好きだと思う。いやでも、うちのトレーナーさんは物好きかもしれない。うげえ、と口から漏れそうになる。

 

「合宿かあ。私のチームもありそうだなあ」

「セイちゃんも? いいなあ、私もトレーナーさんに聞いてみようかなあ」

「いいなあ、ね。スペちゃんはまだまだ強くなりたいんだ」

 

 そして、それは私も類に漏れない。もっと強くなって、次は必ず。いつかの勝利を掴むために、かつての敗北を無意味にしないために。

 

「……うん。でも、それだけじゃないよ。きっとチームでの合宿って、とっても仲良くなれると思うの。トレーナーさんやスズカさんやチームのみんなと、もっと」

「なるほど、そういう目的もありか。それなら私も、もうちょっと楽しみにしておこうかな」

 

 仲良く。その言葉が少し引っかかる。そしてそれは視界の端にいた彼女も同じだったみたい。ぴくり、耳が動いた。

 

「……キングのチームも、合宿あるの?」

 

 すかさず聞いてみる。さりげなくを装って。仲良く、したくて。

 

「……今悩んでいるところなの」

 

 少し曖昧。だけど会話は繋がっている。もちろん、ここで満足してはいけないけれど。まもなく昼休みは終わり、食堂からみんなで教室へ帰る。その道すがら、またキングに話しかけてみる。何度も試みて、諦めない。

 

「どう悩んでるのかは知らないけどさ、行ってみたらいいんじゃない? 踏み出してみるのは大事だよ」

 

 それは多分、私自身にも言い聞かせていることだった。ここ数日ずっと、私が続けている変化そのもの。そして願わくば、皆がそうあって欲しいと。もっと強く、もっと上へ。だって、私たちはライバルなんだから。今更でもいい。回り道でも構わない。それでもゴールを目指したい。そう思うのはおかしいことなんかじゃない。今の私は、自信を持ってそう言える。

 

「……貴女、変わったわね」

「どうも、お嬢様」

 

 変わった。それはどこからだろうか。初めてキングと出会ったあの日からだろうか。それとも一度訣別を告げた、ダービーの日からだろうか。後者だとしたらきっと、キングからの私はとんだ情緒不安定に見えていることだろう。短期間で態度を変えすぎだ。けどそれは、彼女には見えないところで悩んでいたというだけ。キングを見ていなかった私と同じ。そうやって過去の過ちさえ、メッセージに変えてやる。君なら気づくよね、そう信じている。

 

「それで、私にも変われと言っているのかしら? 貴女のように。貴女の真似をして」

 

 立ち止まり、翻る。キング、みんなが見てるけど。でも今度こそ、向き合わなきゃ失礼かな。そう思った私も、同じように立ち止まって。

 

「好きにしたらいいよ。キングはキングなんだから」

 

 そう、私なりの激励を込めて。あるいは挑発だとしても、それが彼女を引き上げるのならば。それだって、いつかのキングが私に向けてやったことだ。それこそ真似っこかもしれないけど、好きにしたらいいということは無理に違いをつけるって意味じゃないんだから。同じところがあって、違うところがあって。寄り添えど重ならない、だから補い合えるのだと。

 

「そう。……授業、始まるわよ」

「そうだね」

 

 気づけばチャイムが鳴っていた。それに気づくのが遅れるくらい、私は集中していた。そういうことかもしれない。そうして久しぶりのまともな会話も、授業が始まれば打ち切られてお流れ。けれど、まだ。一つ何かが終わっても、その先にはやはり続くものがある。願い、信じている。

 

 

「それでは、大事なお知らせがある! 夏合宿についてだ!」

 

 そしてその日のトレーニング終わり。皆の前で狙い澄ましたように、トレーナーさんは夏合宿をやると宣言した。とりあえず説明を順に聞いて行くと、海の見える民宿に泊まるらしい。トレーナーさんを唆したら海釣り出来ないかなあ。泳ぐのは嫌だし。

 

「ちなみに合宿も<デネブ>との合同だ! 今トレーニングメニューを共同で考えている!」

 

 それなら少しは安心。共同と言えば聞こえはいいが、おそらくトレーナーさんの無茶を<デネブ>の二人が修正する感じなんだろうな。あちらのトレーナーさんとフラワーには足を向けて寝られない。合宿中は昼寝の位置どりにも注意しなくちゃ。

 とはいえ、そうか。説明を聞く中で、胸の内に湧き上がる何か。チームのみんなからも同じものが伝わってくる気がする。細部には差があるだろうけど、軸にある感情はきっと一緒。楽しみなんだ。もっと、強くなれるのが。

 けれどそうして粗方の説明が終わったあたりで、トレーナーさんが一言サラッと言ってのけた。おかげで大体の説明は吹っ飛んでしまったと思う。

 

「さてそれじゃ、今日付けで加入してくれた新しいチームメイトを紹介するぞ! こっち来てくれ、キングヘイロー!」

 

 え。今、なんと? 自分の耳を疑う他なかった。だってそんなの、何もかもがあり得ない。けれど確かにその呼びかけに応じるように、こつん、こつんとグラウンドに近づく足音が聞こえた。やがてその音は砂を踏み、私たちの横をすれ違う。そして、目の前に現れる。あり得ないことなどあり得ないと、証明する。

 

「多くの方は初めまして、私の名前はキングヘイロー。……今日付けで、チーム<アルビレオ>に加入しました」

 

 いつもの顔と、いつもの声だった。私の知っている、キングヘイローというウマ娘だった。変化は時に、前触れなく強引だ。私がゆっくりと距離を詰めていて、キングの側からもいつか動きを引き出せればとは思っていた。けれど今は舌を巻くしかなかった。彼女は時に、驚くほど強いのだと。だから侮れない、ライバルなのだと。ダービーの時とは少し違う眼差しから、今度はそれを読み取った。

 

 

「ねえキング、色々聞きたいことがあるんだけど」

 

 自然とそのあと、二人きりになった。日が暮れて空が真っ暗になっても、私はジャージ姿のままだった。周りにもあからさまに気遣いをさせてしまった気がする。もちろん、ずっと待っていたキングにも。だから私は、償いをしなきゃいけない。あちらからも歩み寄ってきたのなら、今度はこちらから。

 

「何かしら。少しだけなら権利をあげてもいいわよ」

「じゃあお言葉に甘えて、まず一つ。悩んでたってこのこと?」

「そうね。練習に参加するのは夏合宿からになるわね」

「なるほど。後悔してない?」

 

 そう聞いたのは、かつて私も同じような悩みを抱えたから。結局私は移籍しなかった。インターバルを与えられ、その上で二つのチームのいいとこ取りが出来てしまった。けれど彼女は違っていて。仮だとか体験だとかそういう肩書きは似合わないとばかりに、電撃的に決断した。<アルビレオ>がそうまでして入りたくなるチームかは、ちょっと疑問が残るところだけど。それでも僅かな迷いはあったのか、若干の間の後の答えだった。

 

「……するわけにはいかないでしょう。別れを告げたからこそ、私は背負わねばならないの」

 

 たとえ迷い発した決断でも、その覚悟には迷いがない。それが彼女らしさ。キングヘイローというウマ娘の強さなんだ。

 

「流石の一流お嬢様、ってとこかな」

「私らしい、と言いたいのなら。褒め言葉と受け取っておくわ」

「うん。やっぱり流石だよ」

 

 自分らしさ。それは誰でも取り柄にできるものじゃない。見つからなければ始まらないし、見つかってもいいものばかりとは限らない。諦め癖とか臆病さとか、自分が嫌になってばかりの可能性だってある。探すことそのものが、自傷行為に等しくさえ。でも、だからこそ。泥を素手で掘り進めるような底無しだからこそ、彼女は怯まず往くのだと。やがて浮かんで来たどの星々より、今は君が眩しく見えた。

 

「じゃあ気を取り直して、次の質問いこうかな」

「待ちなさい。質問は少しだけ、そう言ったはずよ」

 

 ぴしゃり。誤魔化しが効かないというか、融通が効かないというか。相変わらず扱いの難しい性格をしているなあ、そう思った私に予想外の言葉が告げられる。

 

「これ以上質問したいなら。その前に私から貴女に質問させてもらえるかしら? 釣り合いを、取るためよ」

 

 やっぱり。やっぱり、相変わらず。扱いの難しい性格だと、そう思った。

 

「質問、ねえ。答えられることなら答えるけど、そうじゃないのはノーコメントだよ?」

「少しは我慢しなさい。先に貴女が質問してきた以上、私にも色々と聞き出す権利があるわよね?」

「わっ、そんなこと言って。あんなことやこんなことを無理矢理聞き出すつもりでしょ、このへんたい」

「おばか! ……私が聞きたいのは、前聞きそびれた程度のことよ」

 

 なんだろう。本当に見当がつかなかったので黙っていると、呆れた顔でキングは続ける。

 

「貴女は、どうしてトレセン学園に来たの? ほら、昔聞いたじゃない。いつかの昼休み」

「あったねえ、そんなこと。話したいのは山々だけど、昼休みが終わっちゃうとかなんとか言って」

 

 まだここに来てすぐの時。多分みんなと今ほどは仲良くなかったし、キングともそうだった頃。キングとグラスちゃんを焚きつけようとして、見事に失敗した時のことだ。

 

「よく覚えてるじゃない。話したいのは山々なら、私が話す権利をあげるわ」

「ほんとはそんなに話したいわけじゃなかったとか、多分今ならわかると思うんだけど」

「今でも、そうなのかしら。人の気持ちは変わるものよ」

 

 そう来たか。意固地で頑固なキングにそんなことを言われては、私も我が身を顧みる他ないやもしれない。

 

「キングって、時折鋭いね」

「時折は余計よ。それに私だって、昔とは変わっていると思うもの」

 

 変化。それはねじれても連なっている。やり直しは効かず、避けられない理不尽でもある。

 

「そっか。なら後で、私からも質問させてよ。同じ質問」

 

 それでもその先に、私たちはいて。絶え間なくゆらぎ、時には相互に干渉して。

 

「ええ。私は構わないわよ」

 

 だから。だから私たちは、変化を受け入れて。

 

「なら私も勿論、構わないかな」

 

 だから、この先へ行ける。青空がどこまでも続くように、天使の輪がいつまでも朽ちないように。

 未来へ一歩、踏み出すのだ。

 




いつも読んでくださる方、ありがとうございます。
ストックが尽きてしまったので、次回からは隔日更新になります…大変申し訳ありません。
なるべく早く次回以降を用意できるよう、しっかり完結できるよう努力しますので、どうかお待ちくだされば幸いです。
一区切りと言うにはまだ半端なところですが、ここまでの話について感想評価をくださると、大変モチベーションに繋がります…もらえたらとっても嬉しいです


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かけがえのないインターバル

 キングヘイローがチーム<アルビレオ>に入ったその日から、彼女が練習に参加し始める夏合宿が始まるこの日まで。その時間はあっという間に過ぎて、まさに光陰矢のごとし。一日一日はあんなに長くゆったりしているのに、振り返って見る時の流れはいつも一瞬だ。それだけ無駄が多いということかもしれない。ゆっくりとした変化ばかりで、何にもならない回り道ばかり過ごしているのかもしれない。でもきっと、そのうち一日だって欠けていたら。多分今の私にはなれないんだと、月並みながらそう思う。

 

「それにしても、暑いなあ」

 

 電車を乗り継いで合宿所まで行くらしいんだけど、最初の駅までは各自で集合。寮の前までトレーナーさんが車を出して送ってくれたりはしないらしい。まあ<アルビレオ>と<デネブ>の二チームの合同ともなれば車はいくら大きいのを用意しても狭すぎるし、そもそもあの運転初心者トレーナーさんにおっきなレンタカーを操れるとも思えない。それはそれとして、暑い。なんで夏場に外に出なきゃいけないんだろう。電車は速いし涼しいし便利だけど、駅まではこうして歩かなきゃいけないのはなんとなく矛盾を孕んでいる気がする。夏合宿なんかなかったら、夏休みはずっとエアコンの効いた寮で過ごしてたのになー。行かない選択肢を選べなかったあたり結局私も毒されていて、だからこれから始まる時間にわくわくしてしまっているのだろうけど。

 足取りは弾み、尾は揺れる。夏が、始まる。

 

 

「あっ、スカイさーん!」

 

 駅に着いて改札まで行くと、そんな感じでフラワーが手を振ってきた。ぶんぶんと大きい身振りを見ると、年相応というか。思わず笑みがこぼれてしまう。普段の彼女とは印象が違うのも、それだけ夏合宿を楽しみにしているからだろう。

 

「おはよう、フラワー。まだフラワーしか来てない?」

「はい。早く来すぎちゃいました」

「なるほど。それなら私もちょっと早かったかな? やる気満々みたいに思われちゃうなあ」

「いいと思いますよ、やる気満々で」

 

 そう言ってフラワーはふふっ、と口元を押さえる。そういう彼女もやる気満々なのだろう。トレーニングメニューだって専用のものを考えてきて、他にもたくさんの準備をしている。さながら大一番のレースのように、その努力が報われる瞬間が今日なのだ。

 

「そっかあ。フラワーがそう言うなら、そういうことにしとこうか」

「はい。もちろんスカイさんには菊花賞に向けて、特別メニューを組んできましたから」

「菊花賞、ね。確かに夏合宿で一番大きな目標を立てるとしたら、そこになるよね」

 

 クラシック三冠最後の頂、菊花賞。特筆すべきはその距離で、皐月賞や日本ダービーよりもスタミナが求められる。多くのウマ娘はここで初めて3,000mを走ることになり、そして極限状態まで追い込まれる。ただ脚を動かすだけでも負担になってくる距離で、レース展開を把握すること。余裕を奪われ、限界を試される。その上で、最速でゴールを駆け抜けること。それが要求されるからこそ、菊花賞で勝つウマ娘はこう言われている。もっとも『強い』ウマ娘だと。

 上等だ。

 

「はい。私も、スカイさんに勝って欲しいですから。その、本当は今は同じチームじゃないですけど」

「……ありがとう。うん、すっごく嬉しいよ。それに同じチームだから応援するってなると、一つ問題が出て来ちゃうしね」

「それは、どういう……?」

 

 きょとんとしているフラワー。そういや当然、そことそこは初対面か。うーん、仲良く出来るだろうか。

 

「ああ、実は<アルビレオ>に新メンバーが入ることになってさ。この夏合宿から。その子が、私の同期。クラスメイトでもあるね」

 

 そう言うと、目を丸くして驚いている。今日の彼女は表情豊かだなあ。

 

「えっ、そうなんですか! そうとわかってたらその方にも菊花賞用のメニューとか、あと歓迎会とか」

「やっぱりうちのトレーナーさんから聞いてなかったか」

「聞いてないです……。確かにスカイさんの菊花賞特別メニューとか、私が勝手に考えてたことではあるんですけど」

「ほほう、フラワー特製と。それはセイちゃんも頑張らないとですねえ」

「あっ、今のは」

 

 また露骨に慌てふためく。かわいいなあとも思いつつ、トレーナーさんはそれくらい伝えておきなよ、とも思う。私だけ贔屓されたんじゃ、せっかく入ってきたキングが拗ねて辞めちゃうぞ。きっと「一流の私を差し置いて、スカイさんだけ特別待遇ってどういうつもり!」とか。いやでもフラワーにはキツく当たらないか。

 

「一流の私を差し置いて、スカイさんが一番乗りってどういうこと!」

 

 それでも実物のキングがそう言うのなら、似たようなことも言うか……あれ? すんなり受け止めてしまったけど、今聞こえたのは幻聴じゃない。くるり、と後ろに振り返ると。噂をすればなんとやら、だった。

 

「あっ、キングじゃん。おはよー」

「おはよう、スカイさん。集合時間はまだ先なんだけど、どうして貴女がいるのかしら」

「なにそれ、私だってたまには早く来てもいいんじゃない?」

「……それはそうだけど。私が一番だって決まってるわけじゃ、ないけど」

 

 そんなすぐにしおれないでほしい。まるでこっちが悪いみたいだし、それに。

 

「あの、ごめんなさい……」

「へっ?」

 

 キングの「へっ?」に合わせて、おずおずと私の後ろから出てくるフラワー。うん、なんたって今日の一番乗りはフラワーだからね。その目の前で一番に拘るのはちょっと大人気ないぞ、キング。多分私で隠れてフラワーのことは見えなかったから、気づいてなかっただろうというのは置いといて。

 

「あの、私はニシノフラワーと言います……ごめんなさい」

「えっえっ、ちょっとスカイさんどういうこと」

「あーあ、セイちゃんはしりませーん」

 

 今度はキングが慌てる番。フラワーかキングのどちらかが泣きそうになったら一応止めようかなんて思いながら、そのまま二人の自己紹介を眺めて。それが落ち着いたあたりで集まってきた、チームメイトやトレーナーさんたちと合流して。「おはようございます」って言い合って。そうして、電車に乗った。みんなで。

 

 

 ごとん、ごとん。最初の方は静かに横滑りする電車も、街を離れて乗り換えるほど乱雑に揺れるようになっていく。車体はより小さく、景色も緩やかに変わっていく。世界の車窓から、なんて大層なことを言わなくてもいい。これくらいで私には充分だ、外を眺めながらそんなことを考えていた。ようやく朝日が真上にやって来て、呼び名を変えそうな頃だった。

 

「スカイちゃん、外に何かありますか?」

「あっ、トップロードさん。いえー、ただ眺めてた感じです」

「すみません、邪魔しちゃいましたね」

「そんなことないですよ、お話ししましょう」

 

 そう言うとトップロードさんは隣に座ってきて、私に追従するように窓の外を見る。お話ししようって言ったのに、彼女はしばらく外に見入っていた。そうなるのも無理もないと思う。見知らぬ土地、まだ見ぬ世界。そんなのどうしたって、心は躍ってしまうから。やがてトップロードさんの口から一つ、言葉が漏れた。澄んだ青のような、単純だけど純粋な言葉。

 

「綺麗、ですね……」

「不思議ですよね。きっとなにか芸術的だったり、そういうわけじゃないはずなのに」

 

 そう返す私も、きっとこの綺麗に魅せられている。それも含めて、不思議だった。

 

「ほんとに、不思議ですね。私、キラキラしてなきゃ、期待に応えなきゃ、そう思う時が結構あるんです。……でも、それだけじゃない。こうやってふと見た時に素敵なものだって、たくさんあるんですよね」

「期待ってきっと、誰でもそれなりに背負ってますから。でもそれに応えられるのは一握り。なら、他にも素敵なことがあっていいはずですよ」

「そう、ですね。もちろん私は、やっぱり応えたいって思っちゃいますが」

「それだって悪いことじゃないですよ。トップロードさんのいいところの一つ、です」

 

 そしてきっとトップロードさんの期待への応え方は、私のものとも違うのだろう。同じように期待を背負い、同じように応えたいと望んでも。そこに差異がある。だから私たちは、他の誰にもなれない。他の誰かが自分に成り代わることもない。自分の勝利は自分のものだと、誰もが胸を張って言える。当たり前だけど、大事なことだ。

 

「ありがとうございます。そういえばスカイちゃん、私決めたことがあって」

「はて、なんでしょうか」

 

 そう問うと、トップロードさんはすーっと深呼吸。よし、という感じで宣言する。

 

「私、デビューすることにしました。今年の冬くらいを目標に。そういう意味では、スカイちゃんの後輩になります」

 

 晴れやかに笑っていた。

 

「後輩、ですか。私もまだまだひよっこですし、そもそもトップロードさんが後輩って、ちょっとくすぐったい気はしますけど」

「私も正直、変な感じというか。いざ決めたのに、実感が湧いてないというか。このまま走り始めていいのかな、とか。思うことはあります」

「わかります、それ。周りのみんなの決心が眩しくなる時」

「はい。でも、負けたくない相手ができたんです。勝ちたい、相手が」

「自分だって、ってやつですね。先輩風を吹かせてみると、それがライバルってものになります」

 

 ライバルがいるから。それはきっと、私たちが走る原動力の一つ。他人の強さを目の当たりにして、それでも自分がって思えること。きっとそんな自信が生まれたから、今の私は飛び立てていて。それはトップロードさんも同じなんだ。自分も一緒に走りたいって、思えたんだ。

 

「はい。ライバル、私にも出来たんです。それに、です。まだきっと、ずっと先の話になると思いますけど」

「あんまり先のこと、考えすぎてもなんですよ?」

「それは、そうなんですけど。でも、でもですよっ。……あ〜、ちょっと恥ずかしいです」

「そこまで言われたら、逆に気になっちゃうじゃないですか」

 

 そう私が言ってしまうと、すっかり堪忍した様子で。彼女は私に告げた。まっすぐと、私を見据えて。

 

「私、スカイちゃんとも走りたいんです」

 

 私に向けて、そう告げた。より澄んだ青のようだった。

 

「なるほど。私としては大歓迎です。もちろん、手加減はしませんけど」

「それはこちらこそですよ、スカイちゃん!」

 

 そうやって、互いだけを見ていて。きっとこうして相見えられるのは、一人だけじゃない。心を込められるのは、一人きりじゃない。たとえばどこか他の場所で合宿している同期のみんなだって、この夏で何度も互いを想い合い、牙を研ぐだろう。そうして全てを見据えるからこそ、勝利さえ瞳に捉えられるのだと。まもなく砂浜を写し込む車窓も、私たちにそう告げている気がした。

 随分長い道のりだった気がする。ひょっとしたらこの日を待ってた間より、ずっと。でも届いた。どんなに永くても、ゴールはその先に待っている。多分同じことを、夏合宿を終えた時にも思うのだろう。違うのは、目指す場所。そして通ってきた時間だ。二ヶ月後の私はその二ヶ月があるから、今よりも先を見ることができる。だから今のうちからすぐに、そこを目指すことはできないけれど。 

 これからの時間がたとえ刹那でも、たとえ那由多でも。まだ見ぬ未来を見せてくれることに、変わりはない。




次回更新も、書けた次の20:00に出していけるように、と思います。
感想評価、ありがとうございます。とっても嬉しいです。
なんとか期待に応えられるよう頑張りますので、どうかよろしくお願いします。


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スタートライン

 朝七時の起床から一日が始まる。早い。眠い。もとより慣れないところじゃ寝れないなんて性分ではなかったから、睡眠不足にはなっていないんだろうけど。叩き起こされはしないとはいえ、トップロードさんとフラワーがみんなを起こして回る。そうして最後にトレーナーさんがとびきり大きな声で「おはよう!」と言ったあたりで、眠気は無理やり吹き飛ばされてしまう。

 そのあとは外に出て、全員でラジオ体操。<デネブ>のトレーナーさん曰く、ラジオ体操というのはとてもよく考えられたメニューらしい。別にトレーナーさん方は肉体労働なんてしなくていいのに、わざわざ二人とも率先して参加していた。まああの暑苦しい男の方はいかにもそういうのが好きそうだから、そこまで驚きはなかった。

 ちなみに我々ウマ娘の方はというと体操への態度はまちまちで、フラワーみたいに真面目にきびきび動いてる子もいれば、トップロードさんみたいに楽しそうにやってる、トレーナーさんの同類みたいな人もいる。ちなみに朝弱サボり魔の私を差し置いて一番辛そうなのは、ものすごく肩肘張ってるキングヘイローというウマ娘です。もちろん慣れないメンバーといきなり共同生活、というのはあると思うけど。特にフラワーとの会話は、なんとなく初日のあれを引きずってるみたい。多分お互い真面目だから、打ち解けさえすれば、という感じ。

 何はともあれそうやって合宿の一日は始まって、その後朝ごはんを食べたら九時頃からもうトレーニングが始まる。日によってその内容は変わるけど、共通しているのは時折一時間の休憩を挟みながら日が暮れるまで動き続けること。当然、わかってたことだけど、しんどい。<デネブ>の考え抜かれた理論派のトレーニングと、<アルビレオ>の限界まで追い込む根性派トレーニング。それらが混ざってしまったので、いいとこ取りでもあり悪いとこ取りでもあるような。いいところは綿密なところで悪いところは綿密すぎて手を抜けないところだから、結局これもコインの裏表に近いかもしれない。だからまあ、それなりに受け入れられるのだ。

 そうして今日も夜になる。慣れてしまえばなんということはない、とまでは言えないにしても、身体はそれなりにこの厳しいトレーニングに適応していた。とどのつまり、仕上がってきているというやつ。菊花賞に向けて、まだまだやらなきゃいけないことは山積みだけどね。夕陽に染まる海と、それを背景に息を切らせているもう一人の菊花賞挑戦者を視界に入れながら。そう、決意を見据えた。

 

「おつかれ、キング。今日の夕食も楽しみですねえ」

「はぁっ……はぁ……。私は、もう少し」

「あれ、キングも居残りするの? 出し抜こうと思ったのに」

「張り合うなら歓迎よ」

「それはそれは。私としては、やっぱり一人で走りたい気分かもしれないけど」

 

 そう言ってみると、キングは少し困ったような表情を浮かべる。そして私がそれを見て突然砂浜を走り出すと、さらに困ったような声が聞こえた。

 

「ちょっと、スカイさん!?」

「ほらほら、走るんでしょー? それとももうちょい休憩したかった?」

「……もう! 望むところよ!」

 

 そうやって、二つの影が駆けてゆく。ここなら夜まで走っても門限はない。夕食は食べ損ねるかもしれないけど、一日くらいなら、あと道連れがいてくれるなら。悪くない、そう思った。

 

 

 街から離れた場所では、星がよく見える。普段は電灯にかき消されてしまう煌めきが、ここなら輝いていられる。すっかり真黒と化した空を見上げて、そんなことをふと思う。トレセン学園に来たばかりの時も確かこんなことを考えたなと、それも思い出した。あの時と夜空の見え方が違うのは、場所や時間の問題だけじゃない気がした。最初はじいちゃん一人の後押しで、私はトレセン学園に来た。それから友達が出来て、トレーナーさんやチームの仲間に会って。そして今はなんと私にファンがついてすらいる。沢山の人が、私に期待している。けれど周りがそうやって変わるように、私自身もきっと変わっているのだろう。

 

「砂の上に座ったら、服が汚れてしまうわよ」

「あれだけ走ったから、もうとっくに砂まみれだよ。キングも座ったら? 星、綺麗だよ」

 

 キングに見えるよう、自分の隣を指差してみる。若干の躊躇いのあと、指差した場所より少し離れたところに彼女も座り込んだ。ぽつりぽつりと、程なくして会話が始まる。キングが<アルビレオ>に入った日の延長戦だった。

 

「何考えてたの」

「まあ、色々と。キングにはあの時話したでしょ、私がここに来た理由」

「おじいさまのため、だったかしら」

「そう。じいちゃんが私に期待してくれたから。だから、一歩を踏み出せたんだって」

 

 だからきっと、私は最初から独りでは立ち上がれなかったのだろう。期待が怖いのに、本当に期待されなきゃ諦めてしまう。難儀な性格だ。

 

「やっぱり、それは少し羨ましいわね。私も貴女に言ったけど、お母さまは期待してはくれなかった。きっと、今もね」

 

 そうして、キングは逆なのかもしれない。期待をもぎ取るため、見返すために孤独を選ぶ。そうやって彼女は始まった。いくら周りが彼女に期待しようとも、決して得られていないただ一人の目を向けさせるために。それもやっぱり、難儀な性格だ。

 

「でも思ったんだ。私は今、それだけで走ってるんじゃないって。もちろん最初の理由は忘れない。けど、もっと強くなってるんだって」

「それが、今日の話題かしら」

「ご名答。だってまだ話足りなかったし」

 

 そう、これは延長戦。繋がりはすべて、どこかからずっと続くものだから。そして私たちは、まだ続いているその先を目指すのだから。

 

「ねえ、キング。今更だけど、さ」

 

 だから、私たちはそのために。未来のために、大事なことは絶対に曖昧なままで終わらせてはいけない。

 

「ダービーの話、しようよ」

 

 だから、今。漸く、本当に踏み出すのだ。

 

 

「終わった話にするつもりだと、思っていたけど」

「それは私もかな。キングと同じチームに入って、色々話して、合宿もして。ちゃんとキングの目論み通り、それなりに元通りにはなったから」

「……そうでしょう。過ぎたことじゃない」

「でもさ。それじゃダメなんだよ」

 

 それで終わらせてはいけない。そう、私は思っている。本当に踏み出すには、まだ足りないと。だって。

 

「だって私たちは、菊花賞に挑むんだから。ダービーをなかったことにして、クラシック三冠を語るわけにはいかない」

「敗北からの反省、かしら。それなら今の夏合宿こそ、既にそれを体現しているわね」

 

 キングの言うことも正しい。敗北を糧にする、それは作戦や練習の見直しにも言えることだ。けど、それだけでもない。納得の話。心の話。そんな精神的なものを重視するなんて、トレーナーさんにアテられてる気もするけれど。

 

「それともちょっと違ってさ。……私は、全てを無駄にはしてほしくない。あのダービーに向けて、キングが抱えていたもの。それが全部誤りだったとは、言いたくない。私をライバルにしてくれた、あの君が。根本から間違っているなんて、思いたくないよ」

 

 そう、告げる。あの日言えずに通り過ぎた言葉。あの日聞けずにすれ違った言葉。今からでも、遅くはないんだ。そして君もそう思ってくれたなら、互いに勇気を出せたなら。

 

「……ごめんなさい。それでもあの日の私は、きっと」

「私のことを邪魔したって? 勝負ってのはそういうものじゃない? 他全員の一着を邪魔しなきゃ、勝つことなんかできないんだから」

「ごめんなさい。わかっているの。だから、私はレースに向いてないんだって。自分が勝とうとしたことすら、後悔してしまうから。……でも、仕方ないじゃない」

 

 そうして、振り絞られる声があって。嗚咽が混じっているようにも聞こえたけど、星の方に眼を向けておいた。

 

「仕方ないじゃない、友達なんだから! 勝ちたいわよ、みんなライバルよ! でも、友達じゃない。勝ちたいって気持ちと同じくらい、私にとってはそれが大切だった。向いて、ないのよ」

「向いてない、か。それなら私も一緒。友達とライバルの折り合いなんてつけられてなかったし、そもそも誰も私がトゥインクル・シリーズで走れるなんて期待してなかったもん」

 

 彼女の言葉は、きっと何処にでもありふれている。勝敗は敗者を傷つけるんじゃないか、誰しもそれに思い悩む。大切なライバルだからこそ勝ちたいのに、かけがえのない友達だからこそ慮りたい。でも、そんな優しさが間違いであるべきだろうか? 勝負の世界がどんなに過酷だとしても、その気持ちごと捨てるべきじゃないはずだ。

 

「それでも、私は走ってる。私の走りは、私にしか出来ないから。私らしさは、私にしかないから」

「私らしさ。それはきっと、一番大事なものね」

「そうそう。そしてそれはもちろん、キングもでしょ? その優しさは、キングらしさなんだよ」

 

 顔は見ないまま、その言葉を託した。私の知ってるキングヘイロー。意地っ張りで、割とお節介で。そして一際優しい、大事な友達。彼女になら、そのまま伝わると思ったから。沈黙。静寂。言の葉を切り揃える僅かな時間。そのあと、再び強い口調だった。

 

「やっぱり、私は貴女に勝ちたい。それも絶対に嘘じゃないわ」

「でも、負かしたらそれなりに後悔しちゃうんだね」

「かもしれないわね。一流とは時に傲慢でなくてはならないの。矛盾を抱えても、貫くために」

「流石、キングヘイローだ」

 

 ふふっ、と隣で微かに笑う声。いつもの高笑いは何処へ行ったのだろうか、なんて思いはしたけれど。上を向いているのは、確かだった。

 

「スカイさん、次のレースは京都新聞杯でしょう? スペシャルウィークさんと、当然私も出るわ。負けないわよ」

 

 勝気な調子のキング。これももちろんキングらしさで、それ自体は大変結構なんだけど。それはそれとして、訂正しないといけない。若干申し訳ない。

 

「あー、ごめん。私はそれ出ないや。私は京都大賞典の方出るんだよね。みんなとの対決はお預け」

「は!? ちょっと、どういうことよ」

「まあ、私もさ。ダービーを踏まえて色々考えたってこと、かな。……今度は私の話、聞いてくれる?」

「はあ、仕方ないわね。キングに語る権利をあげる」

 

 そうして攻守交代。ダービーの敗北から学べるのは、敗者全員の権利だ。

 

 

「私、ライバルに拘ってたんだ。スペちゃんとエルが私より上の人気を取ったから、絶対に見返したいって。ひっくり返せば、みんなびっくりするって。……それで、キングのことを見てなかった」

「ええ。失礼な話よね」

「ほんとにね。勝つってことはきっと、全員を相手するってことなのに。スペちゃんとエルは、私もみんなも見ていたから、勝てたのに」

「でも、スカイさん。私はそれほど、貴女が他人を見てないとは思わないわよ」

「そう、かな」

 

 私がキングに言葉をかけたように、キングも私に言葉をかける。互いをそれなり以上に知っているからこその、激励と賞賛。

 

「そうでなきゃ、皐月賞で貴女が勝ってるわけないじゃない。私は貴女にまだ一度も勝ってないのよ? それでも、貴女は私に声をかけ続けた。きっと少し違うだけなのよ」

「うーん、何が違うんだろ」

「自分じゃ気づかないかもしれないけどね。貴女も結構、甘ちゃんよ」

 

 すとん、と腑に落ちる音がした。キングをライバルとして見れていなかった、あの時の私。そしてそれを今更話に持ち出す、今の私。結局キングのことをとやかく言えないくらい、引き摺っていたのだろう。

 

「そっかあ。キングがあまりに挙動不審だったから、心配しすぎてそれどころじゃなくなってたのか」

「挙動不審は余計よ。もっとも私のそれとは、似て非なるものなんでしょうけど」

 

 それもきっと正しい。私たちが全く同じであるわけがないのだから。各々の十数年の変化を積み重ねた上にいる私たちは、さまざまな理由を絡み合わせてこうなっている。たとえば不安の原因ひとつとっても、自信のなさに起因する私のものとキングのそれは、同一性を持たないだろう。

 

「似て非なる、か。案外誰とでも自分との共通点を見つけられそうな気もするけどね。みんな似たようなもんかも」

「それでいいじゃない。どこかが一致するとしても、完全には一致しないなら」

 

 それは個々の関係にも言える。誰かと仲良くできるなら、他の関係は要らないなんてそんなことは言えないのだ。全ての関係は、僅かな差異から価値が生まれている。キングも、フラワーも、トップロードさんも、そしてトレーナーさんも。

 

「まあ、そういうこと。話が逸れたけど、それで京都大賞典を選んだんだ。一旦自分を俯瞰してみたくてさ」

「ライバルに拘っていたからこそ、そうではない目線を持ってみる。新しいことに挑戦するのは、より強くなるために必要なことね」

「でしょ。だからさ、キングも次試してみたら? スペちゃんに勝ちたいって、絶対思ってるだろうけど」

「他人を気にせず走れ、そういうことかしら」

「うん。だってそれって、最高に自分らしさを活かすってことじゃない?」

 

 口から出まかせにも聞こえなくもないけど、割と本当に思ってることだ。キングはもしかしたら、気持ちをコントロールしたら変わるんじゃないかって。そういう意味では、根性とか気力が大好きな<アルビレオ>に入ったのは良かったのかもしれない、と今更ながら。

 

「一応、参考程度に受け取っておくわ」

「うん。最後に決めるのはキングだよ」

 

 その言葉で、会話は途切れる。満天の星空を、二人で見遣る。はくちょう座の周りには、沢山の星がきらきらと瞬いて。息を呑むほどの美しさって、こういうものなのだろうか、なんて。この時間は、今までの全ては。無駄じゃないって、そう思えた。

 

 

 ぐきゅる、と互いにお腹を鳴らしながら、少しだけ夕食をすっぽかしたのを後悔しながら。砂と泥だらけのジャージ姿で、暗い道のりを二人で帰った。互いに言葉はなかったけど、それはもう気まずさ故じゃなかった。……ああ、でも。あと少し。ふと、立ち止まって。

 

「そうだ、キング」

「なによ。早く帰るわよ」

「これこそ、本当に今更なんだけどさ」

「また勿体ぶって。早く言いなさいな」

 

 そう? じゃあ、お言葉に甘えて、息を大きく吸って。

 

「……ダービー、悔しかったなーーーー!!! くっそーーーー!!!!」

 

 腹の底から。心の底から。漸く。キングもそれを聞いて、深呼吸の後。

 

「菊花賞は、私が絶対獲るんだからーーーー!!!!!」

 

 そう、叫ぶ。光る夜に響く互いの声は、どちらも初めて聞いたくらいに大きなものだった。

 

「……じゃ、帰ろっか」

「ええ。明日も早起きだもの」

 

 そして、同時に踏み出した。




次回も書けた後の20:00に出します。
感想評価、是非よろしくお願いします。
本当に励みになります。
頑張ります。


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『ライバル』

 九月になった。つまり夏合宿は終わったし、新学期が始まった。夏合宿最後の日は練習抜きで色々変なことをやってた気がするけど、最終日だからって私も抵抗なく乗っかってしまっていたような。焼肉パーティで率先して肉焼き役を務めていたのは記憶に新しい。いくらフラワーも手伝ってくれたとはいえ、そんな面倒そうな仕事を引き受けてしまうとは。そして今もそんなに後悔していないのだから、やれやれセイちゃんったらどういう風の吹き回しですか、という感じである。

 他に夏合宿ラストの忘れられないイベントといえば、トレーナーさん主催の暑苦しい決意表明合戦。チームメイトの前で今後の目標を叫ぶ、というもの。ちなみに<デネブ>のトレーナーさんは乗り気じゃなかったので、フラワー含めた自分のチームメイトを率いてその時間に片付けとかをやってくれていたらしい。本当に申し訳ない。私もそちらを手伝えれば絶対にその方が良かったのだけど、「スカイ! まずはお前からだ!」とかトレーナーさんが言ったから。いや普段だったら逃げてただろうに、結局それに乗せられた自分自身の責任だろうと言われると、やはりぐうの音も出ません……。まあ何はともあれそうやって決意表明をしたわけで、その内容についてキングが突っかかってきてそのまま次に壇上に上がったりして、あれよあれよと流れができてしまって。そうしてみんなが叫び終わった後、最後に喋り出したのはトップロードさんだった。

 

「私、デビューを決めました!」

 

 って。輝いて響く声だった。

 

「不安なこともありますし、怖いこともあります。でも、楽しみです!」

 

 とか。自然と拍手が巻き起こって、特にトレーナーさんは手を叩く音が大きかったように思う。私もやっぱりぱちぱちと鳴らしていた。もちろんここに来る時の電車の中で、既に聞いていた内容には相違ないのだけど。そこに込められた想いは、より一層強く感じたから。この夏を通した、確かな変化を見た気がしたから。

 そしてそれはきっと私も同じだと、自信と決意を胸に重ねたから。だから、また前を見て。

 それが二日前の出来事で、一日だけ休んで今。新学期最初の日、体育館での始業式。今の私は、そこにいる。サボりも居眠りもせず、真摯に会長さんの話を聞いている。やっぱりおかしくなってしまったんじゃないか、私。過ぎた時間に願いを馳せて、新たな時間に祈りを澄ませる。それは立派なことだけど、私はそんな立派だったっけ、みたいな。過去にあるのは後悔で、未来に望むのは平穏で。私という存在は、そうするつもりだったはずなんだけど。そんな思考に、会長さんの声が混じる。

 

「勇往邁進。君たちトレセン学園の生徒全てが、これまでもこれからも成長していけることを願っている」

 

 そしてそれを受けて私が思ったことは、割と単純明快で。

 これも成長、変化の一つ。やはり踏み出しているのだと、そういうことだった。

 

 

「みんな、久しぶり!」

「はい。私もスペちゃんに久しぶりに会えて嬉しいです〜。やっぱりエルだけじゃ、寂しい時はありましたから」

「ちょっとグラス! アタシじゃ力不足デスカ!?」

 

 今日は始業式だけで、授業はない。つまりお昼にはもう寮に帰れるんだけど、やっぱりいつものみんなで食堂に集まっていた。まあ周りを見れば大体他もそんな集まりみたいだし、考えることは皆同じというやつか。

 

「はあ……。相変わらずね、あなたたち。まあ私も、スカイさんと話すのは飽きてきたところだからちょうどいいけど」

「あらキングちゃん、夏はセイちゃんと一緒だったんですか?」

「あっ、それは」

「そうなんだよグラスちゃん、なんと夏合宿に合わせて移籍してきてさ。セイちゃんのことが恋しくてたまらないんだって」

 

 キングが激しい抗議の目を向けてきているが、別にチーム移籍は頑張って隠すほどのことでもないだろう。いや、それ以外の部分に抗議したいのかもしれないけど。

 それにしても夏合宿を終えて、やっぱりみんな見違えた気がする。暫く会っていなかった分、その差はくっきりと。もちろん、一日一日の努力の積み重ねなのだろうけど。私だって負けてられない、そう思った。

 

「それより、スペシャルウィークさん。今度の京都新聞杯、私が勝つわよ」

 

 咳払いののち、キングがびしっとスペちゃんに宣言した。空気がぴりりと引き締まる。この夏、キングもまた変わった。今までは私くらいしか知らなかったそれを、この瞬間皆が感じ取る。

 

「……うん。負けないよ、キングちゃん」

「もちろん。貴女もそうでないと張り合いがないわ」

 

 互いに全力で。全力の戦いこそ、ライバルの証明だから。

 

「ふふっ、私たちも負けてられませんね。京都新聞杯より前に、毎日王冠がありますから」

「あっ、グラスちゃん、それって……」

「はい。スズカ先輩も出走するそうですね」

「アタシも出マース! スペちゃん、応援よろしくお願いしマスよ!」

「あら、スペちゃんはエルじゃなくて私を応援してくれますよね?」

「ええっと、それは……」

「冗談ですよ〜。スズカ先輩を差し置いて、なんて言えませんから」

 

 そんなやりとり。人気者だなあ、スペちゃんは。私も応援に行きたいのは山々だけど、あいにくその日は予定がある。この感じだと、友達は誰も応援に来ない気もするけど。そもそも私にも同日にレースがあるなんて、みんな知らないんじゃないか? 

 

「心配しなくても、私は見にいくわよ。チームメイトなんだから」

「おお、お嬢様に慈悲を賜るのはとても光栄でございます。というか鋭いねキング、ひょっとしてエスパー?」

 

 はぁ、とため息を吐かれた。まあ京都大賞典に出ることは言っていたから、それくらい察知するのは当たり前か。ともあれしっかり見られるのなら、手は抜けないや。まあ、抜くつもりなんて最初からないけどね。夏を終えて最初のレース。菊花賞に向けての試金石。相手はいつものライバルじゃなく、シニア級の強豪ウマ娘たちみたいだけど。それは負ける理由にはならない。諦める言い訳にはしない。どんな相手でも、って。そんな強がりを、たまには吐いてみようじゃないか。

 きっとこれも私の変化。踏み出した、その先。

 

 

 そうして、その日はすぐにやってきた。しんとした控室。体操服に着替えて、私はそれなりにリラックスしていた。七人だての四番人気。そもそも今日全国の注目はどちらといえば、ここ京都じゃなくて東京の毎日王冠に向いている。それくらい注目されていない方が、驚かせ甲斐があるというものだろう。こんこんと、扉が叩かれる。うっすら見える影の大きさからして、あれは。

 

「スカイ、入っていいか」

「いいですけど。トレーナーさん、どうしたんですか?」

 

 もうとっくに観客席に行ったものだと思っていたけど、何か用事でもできたのだろうか。招き入れるとすぐに、答えはわかった。

 

「さっき毎日王冠の結果が出た。サイレンススズカの勝利だ。異次元の大逃げだと、そう実況が言っていた」

「それはそれは。スペちゃんは喜ぶけど、グラスちゃんとエルは悔しいだろうなあ」

「そこでだ。スカイに二つ、伝えたいことがある」

 

 はて。まあそんな他人事だけでわざわざここまで来ないだろうとは思ったけど、こんな土壇場でなんだろうか。

 

「一つ。今日は絶対に勝つぞ!」

「そりゃもちろん。勝つつもりがないなら走りませんよ」

「そうだな。俺は君を信じている」

 

 時折こうやってストレートに伝えてくるから、トレーナーさんは油断ならない。何回も聞いたフレーズだとしても、それだけで心の模様が変わるのがわかるから。

 

「そりゃどうも。で、もう一つはなんですか?」

「二つ。サイレンススズカにも負けるな」

「……意味がよくわかりませんね」

 

 それは別のレースの話じゃないか。どうやって勝てというのやら。流石に説明が足りないと思ったのか、トレーナーさんは言葉を付け足す。

 

「あちらでは異次元の逃走劇が見られたらしい。鮮烈で、記憶に残るような。つまり今日逃げを打つなら、それに並ばなきゃいけない」

「トレーナーさん、結構無茶なこと言ってません? 私がそんなスーパーウマ娘に見えます?」

 

 でも、言いたいことはわかった。それくらいこの人は、私に期待しているのだとも。予想は裏切れど、期待は裏切っちゃいけない。それにそう言われたら、おいそれと負けたくなんてない。誰にだって、負けたくない。

 

「……そこで、一つ考えたことがある。作戦だ」

「なにそれ。トレーナーさん、作戦なんてガラでしたっけ。それについさっき考えたようなの、ほんとに作戦って呼べるんですか?」

「それでも君の強みは戦略だ。スカイならできる、俺はそう信じている」

「……また」

 

 信じられたなら、応えるしかないのに。この人はつくづく、少しずるいところがある。

 

「じゃあ聞きましょうか、トレーナーさんの作戦とやら。負けたらトレーナーさんのせいかもしれませんけど」

「ああ。まずは──」

 

 私たちの作戦。それなら尚更、負けられないのだ。

 

 

 芝を踏み締めると、バ場はそれなりに重かった。体力勝負になるなら、私はそれなりに不利だろう。シニア級のウマ娘が立ち並ぶ中、私はダービーでバテてしまっていた「実績」がある。特に要注意なのは、一番人気のメジロブライトさん。屈指の長距離レースである春の天皇賞を勝った、折り紙付きのスタミナ自慢。今日も当然のように一番人気だ。

 

「今日のメインレース、京都大賞典。いよいよ各ウマ娘がゲートに入ります」

 

 私もゲートに入る。久しぶりのゲートは、やっぱりいつも通りに緊張する。ゲートは平等に開いているのに、ゴールはただ一人のためにしか存在しない。それを私の脳裏に刻み込む奈落の穴が、今日も開いている。けれど、それは。

 

「スタートしました!」

 

 それが、私たちの走る理由の一つ。ゲートが開く特徴的な音とともに、勝利を目指して駆け出した。

 

「さあ、まずは激しい先頭争い! おっとセイウンスカイ、一気に抜け出した!」

 

 だん、と踏み込みハナを取る。ここまでは大体いつも通り。三十六計逃げるに如かず、いやそれはちょっと意味が違うかな? でも、ここから! 

 

「おっとセイウンスカイ、早くも五バ身六バ身と差を広げていきます!」

 

 逃げ、逃げ、大逃げ! 観客席が沸いてるのが聞こえる。いやあ、走るのも驚かせるのも、最高に楽しいなあ! 前にも後ろにも誰もいない。このままどんどん突き放す。風を切って、気ままに進む。これじゃ気ままじゃなくて暴走、なんて言われそうだけどね。

 

「向正面に入って、セイウンスカイ依然独走! ただ一人コース中頃まで来ています! 二番手との差はおよそ二十バ身ほども開いています!」

 

 いやあ我ながら、だいぶ頑張っちゃってますねえ。「作戦通り」と言えばそうなんだけど、こんなやたらしんどい作戦はトレーナーさんじゃなきゃ思いつかなかったかも。とはいえ。

 

「セイウンスカイ、坂を上る! 後続がだんだんと差を詰めてきています!」

 

 とはいえ、それだけで勝てるほど甘くはない。私の脚の回転が遅くなってきたのを見逃さず、後ろから迫ってくる足音たち。坂道はもちろん平地より体力を使うし、ここまで爆走してきたセイちゃんとしてはよたよた歩かないように取り繕うので精一杯。やれやれなんてざまだろう。こんなみっともない姿を見せてしまったのだから、トレーナーさんには責任を取ってもらわないと。

 もちろん、勝った後。

 

「残り400m! 二番手との差はもう少しだけ! セイウンスカイ、ここまでか!」

 

 さあ、ここからが真骨頂。目立つ動きで餌を装い、ぎりぎりまで引きつけて。

 

「……おっとセイウンスカイ! ここで更に逃げ足を伸ばす!」

 

 食い付いたその一瞬を逃さない。待つ時間もこの瞬間も、全てが勝利のための布石。

 

「メジロブライトここで追い込んでくる! しかしセイウンスカイ、逃げ切るか!」

 

 ……ここまでやってこれだけぎりぎりなのだから、やっぱり私の勝負は作戦ありきなのだろうけど。作戦勝ちだと言い換えたら、とってもいい気分だ。誘って引きつけて、食い付いたところを狙い澄ます。うん、これぞまさしく。

 

「セイウンスカイ! セイウンスカイ、ゴールイン! セイウンスカイ、僅かに押し切ったか!」

 

 これぞまさしく、釣り師の計略(アングリング×スキーミング)ってね! 

 

 

 走り終えて、こつんこつんと地下を歩く。いつぞやの再現のように、一人のウマ娘が待っていた。

 

「おめでとうスカイさん。最初は当てつけかと思ったけど」

「大逃げのこと? それならキングがわざわざ地下バ場に迎えに来たのも、あの時の当てつけかな」

 

 せっかく勝ったところなんだから、ほんとに当てつけだったらかなり酷い話だと思うけど。

 

「まさか。これで菊花賞に向けての準備が整ったライバルを、讃えに来たのよ」

「それはありがとうございます。……うん、今日はばっちり策がハマったしね」

「貴女あんなの練習してたかしら? 肝が冷えたわよ」

「そりゃさっきトレーナーさんに伝えられたばかりのやつですから。まあそれで驚かせられたなら、策士冥利につきますなあ」

「呆れた。そんな急拵えとはね」

 

 それはまったくもってその通り。まあそれが通じたのは、ひとえに私に合った作戦だったということなのだろう。伊達にトレーナーさんも私のトレーナーさんをやってるわけじゃないな、みたいな話。そう思ったのは、作戦だけの話じゃない。

 

「キング、さっき走って気づいたことなんだけどさ」

「権利を……なんて言わなくても喋りそうね。何かしら」

 

 もう一つ、気づきがある。私の気持ちの話。踏み出したことで新たに見えた、更なる変化の話。

 

「私、かなり負けず嫌いみたい。それもだいぶん、欲張りな」

「あら。今日はライバルなんて気にしないんじゃなかったの?」

 

 それはその通りで、夏合宿の時にキングに言ったことだ。あえて誰のことも考えず走ろうと、自分を俯瞰してみようと。けど。

 

「そのつもりだったんだけどね。でもライバルが出ないレースとなるとさ、やっぱり他の人と走るんだよ。というより、それもまたライバルみたいなものなんだって。たとえば今日あっちで走ってたスズカさん。私はそんな遠くの人にも、負けたくないんだって」

「本当、随分と欲張りね」

 

 誰とでも、気ままに。そんなふうに思っていた。けれど本当は、誰であっても、だった。やっぱりこれも、コインの裏表に近い。

 

「うん。私はやっぱり、ライバルに勝ちたい。キングにも、スペちゃんにも。でも菊花賞だって、それだけで走るんじゃない。私は、全員に勝ちたいんだ」

「なるほどね。大変そうだけど」

「確かにね。でもそれが、一番になるってことじゃないかな。レースの一番、その日の一番。もっともっと、大きな一番だってさ」

「言うようになったじゃない。あのやる気のないスカイさんと同一人物とは思えないわね」

 

 本当に、自分でも変わったと思う。もちろんだらだら休むことは、相変わらず好きなんだけど。そして今の気持ちは、それと別のところにあるわけでもない。きっとどちらも私。セイウンスカイというウマ娘だ。

 

「来週は頑張りなよ、キング。スペちゃんは強敵だけど」

「あら、応援してくれるのかしら」

「一応チームとしての義理がありますからねえ。そこまでは応援してあげる。……だけどさ」

「菊花賞は敵同士。当然ね」

「ちょっとキング、セリフ取らないでよ。まあでもその通り。菊花賞は、私が勝つ。待ってるよ」

 

 そう言って、彼女に手を伸ばす。すぐにあちらからも伸びてきて、固く掌を握る。やがて離れる。

 いい勝負をしよう、と。それが宣戦布告だった。

 未来は既に始まっている。

 

 




お待たせしました……。
次回も書けた次の20:00に出ます。
そろそろ第二章も大詰めですが、引き続き応援してくだされば幸いです。
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『友達』

 こつ、こつ。僅かに私の足音が響くだけの、静かな通路だった。この空気は一週間ぶり。レース前の緊張や不安と、一人きりで戦うこの独特の空気。まあ、今日の私は当事者じゃない。それにこれから、彼女の独りを破ってしまう。極めてお節介な行為だと思う。でも、それでも。それでも私は、そのドアをノックする。きっと今だから、確かめられることがあるから。

 

「入っても、いいかな」

 

 それは、私だけにとってじゃなくて。

 

「いいわよ。キングの部屋に入る権利をあげる」

 

 私と君の、両方にとって。扉は既に開かれているのだから。

 

「そこ、座っていいわよ。もっともすぐに時間が来てしまうけど」

「それではお嬢様、お言葉に甘えさせていただきます。……なんて、ちょっと聞きたいことがあるだけなんだけど」

 

 レースが始まるまでの、ごく短い時間だ。そこで私たちに出来ることは少ない。だけどそれは小さくはないし、全てをひっくり返すものですらあるかもしれない。何故か。答えは簡単だ。

 

「何かしら」

 

 なぜなら。なぜならこの極小の刹那は。

 

「今しかできない夏合宿のリマインド。あれ、覚えてる?」

 

 全てが、那由多の連鎖の果てにあるから。過去を一瞬に込めて走るからこそ、私たちは夢を駆けることができる。夢とは微睡の狭間のわずかな時間にあって、それでいてそれまでの積み重ねから写しとるものだから。それゆえに今過去を改めて振り返ることが、本物の夢に近づく一歩になる。たとえば夏合宿。たとえばダービー。たとえば、それよりもっと前。

 

「……覚えてるわよ。"周りを気にせず走ってみたら"」

「うん。覚えててくれて嬉しい。あのさ、やっぱり思うんだ。キングにとっての、『周り』について」

「今日で言うならスペシャルウィークさんね。もちろん手加減はしない。そういうことなら、私は周りを気にしていない」

 

 それはきっと間違いない。強がりや意地じゃなくて、キングは今度こそライバルとの折り合いをつけている。『友達』が、その刃を曇らせることはない。それ自体は、間違いない。……でも。ここに至って、私はもう一つの『周り』を見つけていた。

 

「キング。多分それだけじゃないんだ」

 

 まだ。まだ彼女が本当に振り切れるには、まだ。

 

「……そろそろ時間ね。"それだけじゃない"、気には留めておくわ。……ありがとう」

「うん、頑張って」

 

 まだ。時間が足りない。やっぱりこの僅かな時間では、出来ることには限りがある。けれど、そこで終わりじゃない。これも積み重ねて、更に進もう。だって、そうやってここまで来たのだから。

 道は続いていく。

 

 

 がこん! 

 

「秋の日差しをいっぱいに受けまして、十六人のウマ娘が一斉にスタートしました!」

 

 芝2,200m、京都新聞杯。私はそれを観客席から見守っている。このレースも、ほんの一瞬。それまで重ねてきたトレーニング時間に比べたら、数分で終わるレースは本当にちっぽけだ。それなのに、これほどまでに大きなものはない。観客にとってもそうだし、何よりそこでひた走るウマ娘たちにとっては。

 

「二番人気キングヘイロー、今日は好位から少し後ろにつけています!」

 

 少し抑えて冷静にレースを進めるキング。けれど後方よりは前目に付けているのは、やはりそこから迫り来る脅威があるから。今日も一番人気、夏を越えて更に手強くなった私たちのライバル──。

 

「第三コーナーを登って後方から早くも動き出したのはスペシャルウィーク! スペシャルウィーク、中団まで一気に押し上げてきた!」

 

 スペシャルウィーク、やっぱり君は強い。多大な期待を背負い、それよりも重い自らの夢まで抱えて。どれ一つ取りこぼさず、全速力で走り抜けようとするのだから。でも。

 

「スペシャルウィーク、キングヘイローの直後だ! 四コーナーに入るところで、キングヘイローとスペシャルウィークが並んだ!」

 

 でも、キングも負けてない。私のライバルたちは、並び競い合うたびに強くなれる。あのダービーから、チームを移籍して。そして練習に励んで、時には星の下で語らって。だからキングも強い。スペちゃんもキングも、私のライバルはとっても強い。

 

「キングヘイローか!? スペシャルウィークか!? スペシャルウィーク、キングヘイローを躱せるか!」

 

 キングとスペちゃんは、互いをちらりと見て。そこからはひたすらに、前だけを見ていた。全身全霊、精も根も尽き果てるまで。きらきらの汗とどろどろの靴が、どうしようもなく輝かしくて。

 

「キングヘイロー先頭に立っている! キングヘイロー頑張っている! しかしスペシャルウィークか! 最後の最後で差し返した! スペシャルウィーク、ゴールイン!」

 

 そうして、大歓声が巻き起こる。おめでとう、スペちゃん。キングは残念だったね。それぞれ抱える思いは違って、この勝利と敗北にも、すぐには結論が出ないだろう。でも、これだけは言える。これは間違いなく、いい勝負だったってこと。その事実だけでも、この瞬間に価値はあった。得難くかけがえのない、綺羅星のような価値が。

 うん、居ても立っても居られない。キングが"ちゃんと"周りを気にしなかったか、それも聞いてみたいし。なにより、なによりも。いずれ相見えるのなら、私には必要な行為がある。いち早く観客席を抜けて、地下バ場へ。目指すのは当然、来たる菊花賞の好敵手、スペシャルウィークとキングヘイローだ。

 

 

「お疲れ様、二人とも」

「あっ、セイちゃん!」

「慰めに来たのなら結構よ、スカイさん」

 

 地下バ場で対面したのは、土で汚れた二人のライバル。だけどそれが何故か、とても眩しい。でもそれを見た私の感情は、決して羨望じゃない。奮い立ち、昂る。

 

「いいや、ここに来たのはキングを慰めるためじゃないよ? もちろんスペちゃんにおめでとう、みたいなのを言いに来たわけでもない」

「ならスカイさん、貴女は何をしにここに来たのかしら」

 

 私がここに来たのは、もちろん君たちに言いたいことがあるから。打ち勝つべきライバルというだけなら、宣戦布告がふさわしいのだろうけど。もう一つ、私には伝えなきゃいけないことがあった。ちょっとだけ、息を吸って、吐いて。二人の眼を見て。

 

「菊花賞。最高のレースにしようよ」

 

 ライバルとして、友達として。私たちは競い合い、協力するのだ。最高を創り出すために。

 

「……うん、もちろん!」

 

 ある者は勝利を積み重ね、その先の夢に手を伸ばす。

 

「当然よ。次こそ、私が勝たせてもらうわ」

 

 ある者は敗北を乗り越えて、それでも夢を握りしめる。

 

「ありがとう。楽しみにしてるよ」

 

 そしてある者は、そんな二つの煌めきを見据えて。また強く、強く夢を想う。私たちの夢は一つ。道は違えど、友達だから。

 これ以上ないくらいの最高。皆で、そこまで駆け抜けよう。

 

「……ところで、スカイさん」

「どうしたのキング。スペちゃんが見てるから、変なことはしないでよ」

「おばか! そうじゃなくて、私はどうだったかしら」

 

 なるほど。キングはやっぱり、レース前のアレを気にしてる。『周り』の話。とはいえそれについて話すなら、私より適任がいるだろう。

 

「ふむふむ。ところでスペちゃん、今日のキングはどうだった?」

「えっ、私!? セイちゃん、なんのことかわからないよー!」

「そんな特別な話じゃないよ。走ってる時、何か変だったかなって」

 

 そう、大事なのは走っている間。その間彼女が、『周り』を気にせずにいられたか。忘れられていたか。それはきっと、キングとあの激戦を繰り広げたスペちゃんなら、わかること。少し考えた後にスペちゃんが言った答えは、やっぱり鋭かった。

 

「それなら、二つ。いつもとなんとなく違ったから、変だったかも」

 

 うん、キングは変わっていた。さまざまを越えて、前走った時とは見違えた。そういう意味では、変で当たり前。

 

「でも、これもなんとなくだけど。今日のキングちゃんは、いつもよりキングちゃんらしかったと思うよ。だから、変じゃない」

 

 そしてそれも、その通り。変化はどれだけ重なれど、本人らしさをより鮮明にするもの。変わって、変わって、だからこそ変わらないものが見えてくる。つまり変じゃないのも、やっぱり当たり前。

 

「……なんだかピンとこないわね」

「こういう変化は、中々自分では気づかないものだからね。だから私たちには、友達が必要なんだよ」

 

 たとえライバルを気にしないとしても、友達だからと容赦しないとしても。それでも繋がりは切れなくて、なんだかんだでその繋がりに救われてしまう。だから、無理に意識しなくていいんだ。遠慮も出来なければ無視もできない、それが気の置けない仲、ってやつなんだから。

 

「それにしても、うん。確かに私から見ても、今日のキングは『周り』を気にしてなさそうだね」

「奥歯に物が挟まったような言い方ね」

「そりゃ、言って気付かせるのも良くないし。自分では気付きにくいと言った手前だけど、後は自分で考えなよ」

「なによ、それ」

 

 ちょっと不満そうなキングヘイロー。それでもそれ以上追求してこないのは、きっと彼女なりの信頼の示し方。私なりの信頼の示し方は、そのまま彼女を放っておくこと。きっと来たるべき時には自らで気づけると、それが信頼。そしてそうやって、互いに互いを信頼しているのなら。ありきたりで、陳腐ですらありそうな答えだけど。

 それが、友情だ。

 

 

 その日の夜、久方ぶりに眠れなかった。いつかのそれとは違って、高揚感によるものだったけど。まだ菊花賞前日でもないのに、こんな調子では身体が保たない。一刻も早く意識を切り替えねばならないという点では、なるほどあの日の夜に似ているかもしれない。だから。だから多分、あなたに電話をかけるのは、必然で。

 

「おう、どうしたスカイ」

 

 そうやってあなたが応えるのも、必然なのかもしれない。

 

「夜分遅くにすみませんね、どうにも眠れなくって」

「そうか。俺は勉強していた。徹夜で勉強なんて久しぶりだ」

「学生の私ですらしてないですけど。トレーナーというのは大変な職業ですねえ」

 

 大人故の苦労、の一つだろうか。大人のふりをしているだけの私は、大人と子供のいいとこ取りをしてしまっている。たとえば今夜こうやって、子供のように大人を頼る。たとえば今夜こうやって、大人のようにあなたに頼られたい。そうしてやっぱり、どちらにせよ。あなたのその頑固な口から、褒められたい。

 

「今日のキングの負けは俺の責任だ。新入りでも、いやだからこそ。俺は結果を出させてやらないといけない」

「なるほど、それで勉強していると。でもチームの誰かが負けたら責任取らなきゃいけないなら、次の菊花賞は困りますねえ」

「……あっ」

 

 つくづく融通の効かない性格だ。キングと私の両方を応援するんだから、トレーナーさんの責任はとても重い。どっちかが勝っても、どっちも負けても。どちらにせよ大人として苦労しなきゃいけない。私たちが付けたライバルと友達の折り合いより、ある意味ではもっとシビアなもの。そういう意味では不器用すぎて、対応するための大人らしさが足りないのかも、なんて。

 

「それでトレーナーさんは、キングと私のどっちに肩入れするんですか?」

「どちらも、だな。優劣をつけるわけにはいかない」

「それが大人の対応、ってやつですかね。私としては、本音が聞きたいですけど」

「今のが本音だ」

「またまた、それならもっと上手く誤魔化してくださいよ。いつもの正論じゃないですか」

 

 優劣はつけられない、なんて正論。いつも通りそういう言葉は、この正論男の感情を覆い隠すもの。もう慣れっこだ。だからたまにはその先の、聞いたことのない言葉を聞きたい。あなたに、私を頼ってほしい。それとほんのちょっとだけ、意地悪してみたい悪童の如く。

 

「本音、か」

「はい。今なら、私しか聞いてませんよ?」

「そうだな。今なら、君だけだ」

「はい。だから、今だけです」

 

 今だけ、気を抜いてほしい。これは純粋に、あなたを慮って。私がいつまでもなれない大人というものは、とても大変みたいだから。電話が切れたかと思うほどの沈黙の後、聞き馴染んだ声が聞こえてきた。少しだけ、知らない声音が混じっていた。

 

「俺は、キングに勝ってほしい。もちろんまだ浅い付き合いだ。あの子が俺をどう思ってるかもわからない。でもそんなことはどうでもいい。チーム移籍願いを出してきた日のキングヘイローに、俺は覚悟と根性があると思った。それを信じたい」

「その日のこと、詳しく聞きたいですねえ」

「それはダメだ。俺と彼女の問題だからな」

 

 でもその話ぶりから、それだけでわかることはある。微かだけど、確かなもの。キングのチーム移籍は彼女にとってとても大事な決断で、このトレーナーさんはそれを尊重したんだ。そして、だから当然。トレーナーさんは、キングヘイローの勝利を願っている。

 

「なるほど。なんだトレーナーさん、ちゃんとした本音があるじゃないですか。安心しました」

「そうだな、だがもう一つあるぞ。今しか言えない、本音だ」

「付き合いますよ、ここまで来たら」

 

 そう告げてやると、やっぱりちょっとだけ黙りこくった後。多分それなりに勇気を出して、トレーナーさんは喋り始めた。

 

「さっきのは本当だ。本音だ。その上でこれも本音だ」

「勿体ぶりますね」

「ああ、だが言うぞ。……スカイ、俺は君に勝ってほしい」

 

 多分予測できた答えだった。このトレーナーさんが片方だけ応援なんて出来るわけないって。正論だろうが矛盾だろうが、やっぱりこの人は不器用だから。それでも、その言葉は暖かい。ほんのりと、胸に灯りが瞬いて。

 

「皐月賞の時、正直不安だった。きっと君なら勝てると信じていたのに、それでも不安だった。でも、君は勝った」

「だいぶ昔の話ですね。あれからお互い歳をとりましたとも」

「ダービーの時、どうしようもなく悔しかった。君が一緒に悔しがってくれたから、立ち直れた」

「それはお互いさまですから。私だって独りじゃきっと、あそこにずっとそのままいました」

「そして、菊花賞だ。クラシック三冠の最後、その近くまで君は来ている。それならば、最高の結果を見せてほしい。これまでを踏まえた、最高を」

 

 最高、か。つい数時間前に私が使ったフレーズだ。それをあなたも見ているとしたら、悪い気はしない。皐月賞より、ダービーより。全てに勝ちたいと言うのなら、それくらいの目標を立てても構わない。むしろ、上等だ。

 

「それはそれは。それにしても、だいぶ赤裸々な話でしたけど」

「これは俺と君との問題だからな。今だけ、言わせてくれ」

 

 なるほど筋は通っている。今日くらいは許してやろう。

 

「そういえば、トレーナーさん。前の京都大賞典の作戦、ありがとうございました」

「即席だったが、スカイのおかげだ。ばっちりハマった」

「あれは私だけの手柄じゃないですよ。『私たち』の、作戦です」

「……そうだな」

 

 なんだかさっきまでのを引きずってか、今日のトレーナーさんは随分と素直だ。このままずっとからかっても飽きなさそうだけど、今日はしっかり眠くなってきてしまった。

 

「積もる話もありそうですが、ちょっとセイちゃん、眠くなってきましたので。トレーナーさんのおかげですね。ありがとうございます」

「そうか。俺はもう少し、勉強しておく。明日からも頑張るぞ!」

「はーい。では、おやすみなさい、トレーナーさん」

「おやすみ、スカイ」

 

 そうやって、穏やかに通話は途切れて。私は布団の中で、ゆらりゆらりと夢へ運ばれる。夢は変化の結実の一つ。積み重ねを脳が整理する時に発生する、万華鏡のような記憶の濁流。それはあるいは一瞬で、あるいは無限にすら広がる。体感時間を含めた全てのものがあやふやで、それ故に一度目覚めれば殆どの内容を覚えていない。だけどそれも必要な時間。積み重ねと変化において、一瞬すら無意味な時間はないのだ。なら私ももちろん、それを無駄にはできないのだと。

 ライバルと友達、皆と作る最高のために。

 そして、いつか大人になるために。




めちゃくちゃ遅くなり申し訳ありません……。
次回、第二章クライマックスです。
それ以降はちょっと更新状況を改善していきたいです。
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始まれ、私たち

 窓から差し込む柔らかな朝の日差し。それをまぶたで受け止めて、ゆっくりと目を見開く。布団から少しずつ身体を出して、陽光の方を見てみれば。今日もやっぱり。何千と経験した目覚めの刻でいいものも悪いものも見慣れているけど、こういうハレの日はやっぱり。

 やっぱり、青空はキレイな方がいい。なんと言っても、最高の一日の始まりなんだから。

 

「おはようございますトレーナーさん、寝坊してないですか?」

「もちろんだ! 先にキングを拾ってから、そっちに行く」

「今日はバチバチにやりあうってのに、仲良く一緒の車に乗るのかあ。私はいいけどキングは怒るかも」

 

 ここトレセン学園から、今日の舞台京都レース場まではそれなりに遠い。つまり私とキングとそれを送り迎えするトレーナーさんは、それなりに早起きしてそこへ向かう。もちろんメインレースが始まるのは午後なんだけど、それをただ待っているなんて考えられなかったから。そしてそれは多分、私たち三人に共通する気持ち。きっと、同じものを見ているのだ。

 

「菊花賞はもっとも『強い』ウマ娘が勝つと言われている。知ってるな」

「そりゃもちろん。まあどこの記事やテレビ番組を見ても、大体そのフレーズ使ってますからね」

「研究はバッチリというわけだな。期待している」

「はい。じゃ、迎え待ってます」

 

 ぴっ、と。そうして電話越しの短い会話は終わる。もっとも『強い』、か。随分御大層な文句だと思うけど、そんなのももう三度目だ。もっとも『速い』、もっとも『運のある』、そしてもっとも『強い』。かつての二戦、同じような重みがあるレースで、既に勝利も敗北も経験している。ここに一分たりとも誇張がないと、既に私は知っている。そしてその上で、今の私は怖気付いていない。期待も不安もひっくり返すトリックスターは、強さも弱さも見せるわけにはいかないんだから。今の気持ちは、そう。

 最高が、楽しみだ。それでいい。それがいい。

 

 

「おはようキング。隣、座ってもいいかな」

「ええ、それくらいはね。ちなみにダメと言ったらどうするつもりなのかしら」

「キングを車から引き摺り下ろすのはかわいそうだから、その膝の上に座るしかないですね」

「……丁重にお断りさせていただくわ」

 

 トレーナーさんが出してくれた迎えの車の後部座席には、既にもう一人の菊花賞出走者が待機していた。姿勢良く座ってぴったり動かず、一見何事にも動じない、みたいな雰囲気を醸し出しているお嬢様。だけど忙しなく右往左往する両の耳が、隠せない緊張を表してしまっている。やれやれ、このままの彼女と京都まで仲良く並んで座っていたら、こちらまであたふたしてしまいそうだ。だからこれから彼女に伝えるのは、あくまで自分を守るため。

 

「ねえ、キング」

 

 決してかつてのように、ただ友として心配するだけではなく。

 

「なにかしら」

 

 あるいは誰かのように、ライバルを恐れることもなく。

 

「今日の菊花賞は、最高のものにしよう」

 

 ライバルで、友達だから。互いに最高を追い求め、その上で君に勝ちたい。それが私の結論。

 

「……ええ、そうね」

 

 そして、君もそうであったなら。願わくば、皆がそうであったなら。案外お人好しで、存外負けず嫌いな私は。きっと、それを求めている。強く、求めている。

 

「よーし、乗ったかスカイ」

「おっとすみません、ドアまで開けたところでキングと話し込んでいました」

 

 そしてトレーナーさん、もちろんあなたにも。私があなたに求めることは、結構たくさんある。たとえばもうちょっとだけ暑苦しいのを抑えてほしいとか、もっとセイちゃんに負けないくらい釣りが上手くなって欲しいとか。あるいは偶の本音をまた見せてほしいとか、褒められたいとか。まあ、でも今は。とりあえず、今日は。

 見ててよね。

 

「セイちゃん無事乗りました〜、安全運転で出してくださーい」

「一流のドライビングを期待しているわよ」

「よし、任せろ! 最近は運転も練習しているからな!」

 

 閉じた空間が駆動音と共に揺れ出す。エンジン音がぶるるとなって、拍動と合わせてまるで生き物のよう。この車も走るのは私たちと同じか、なんてことを思う。速く走るという行為に理由があるとしたら、本来は何かを届けたり運んだりするためだ。たとえばこの車は、私たちを京都まで送り届けるために今走り出した。その点我々ウマ娘を見てみれば、何も持たず運ばずぐるぐるコースを回っている。レースに興味がない人からすれば、果たして何故こやつらは走ってるのだろう、なんて思うのかもしれない。ひょっとしたら私だって、そう思う側についていたっておかしくない。何かを諦めたあの日、その先の全てを諦めていたら、きっと。

 そうならなかったのは、じいちゃんが後押ししてくれたから。そしてトレセン学園に入って、トレーナーさんに会ったから。それだけでもなくて、高めあう存在と出逢えたから。仲間がいるから。あなたがいるから。だから終わらない。終われない。変化はどこまでも果てしないんだって、今日もそれを示してやろう。

 今日掲げる、最高の二文字。それはきっと、過去の全てを超えるため。あのダービーで遠くに見た最高の決着。それすらも、今度は置き去りにする。私が仕掛ける大謀は、それくらいの大望なのだ。

 

「それにしても、人気投票の結果……。こうなるのは当然、ではあるのでしょうけど」

「スペちゃん、私、キングで三番人気まで独占だね。いつかの皐月賞を思い出しますなあ」

「そう言えば聞こえはいいけど、実際にはスペシャルウィークさんが断然一番人気よ」

 

 相変わらずおっかなびっくり運転するトレーナーさんの後頭部を見ながら車に揺られていると、キングがまた話しかけてきた。人気、か。キングの言わんとすることはわかる。ダービーでスペちゃんと同着のエルは今回不在。そうなれば夏を超えて抜きん出た実力を持っているのはスペシャルウィークである。それが世間一般の評価、というやつだ。何よりキングは既にスペちゃんと一回走っていて、よりその焦りは強いはず。もう勝てないんじゃないか、そんな焦り。でも。

 

「でも、負けるつもりはないんだよね」

「当然ね。最高を目指すというのなら、負けるつもりで走るわけにはいかない」

 

 でも、そういうことだ。既に緊張が解れていることは、キングの耳を見ればわかる。ううん、もう見なくてもわかる。

 

「そうだね。まあ私もせいぜい頑張るとしますか」

「相変わらず、やる気のない『フリ』は得意ね」

「そりゃ曰く、私はトリックスターですから。やる気がなくてもうっかり勝っちゃうんだよね」

「……本気で言ってるのかしら」

「確かめる方法は一つだよ」

「上等ね」

 

 こつん。いつかの再現の如く、拳を突き合わせる。ライバル相手に対抗心を燃やし、友達と言葉や心を交わす。だから、やっぱり。私たちは、独りじゃない。

 

 

 数時間車に揺られて、辿り着きまするは京都レース場。少し冷たいけど優しい秋風と、それによって彩られる旧き都の艶やかさ。なんて、そんな旅情を楽しむ感じの日ではないんだけど。トレーナーさんの運転は結構丁寧になっていて、それなりに快適だった、ということにしておこう。つまり窓を開けてなきゃ若干狭くてイヤだった、という事実は秘密にしておくという意味である。キングと同じレースに出るたび後部座席を独り占めできなくなるとしたら、それも結構辛い現実だ。なんちゃって。

 

「運転ご苦労様でした、トレーナーさん」

「これくらいどうということはない! 今日の主役は君達だからな」

「ええ、もちろん。トレーナーには、私の一着を特等席で見届ける権利をあげる」

「それは楽しみだ! もちろん、キングには期待している」

「……そう! 期待してもらわなきゃ困るわ! なんてったってこの私は、キングヘイローなんだから!」

 

 そのままいつもの高笑いをするキング。とんとん拍子でテンションを高め合うこの二人、結構波長が合うのかも? 空元気と大仰なセリフを振り回しがちなところは確かに似ている。そんなことを考えていたら、藪から棒にトレーナーさんが。

 

「……もちろん、スカイにも期待しているぞ」

「なんですか、急にこっち向いて」

「言っておくべきだと思ったからだ。そうでないと不公平だからな」

 

 不公平、ねえ。またまた正論か、とは思ったけど、これは多分本心。どっちも応援したいけど、勝てるとしたら一人だけ。いつかあなたと二人で話した、難儀な大人の悩みごとだ。それに対して私ができることは、せいぜい話を聞いてあげることか、それ以外は。

 

「でも、うん。ありがとうございます。なら私も、期待に応えたいところですね」

 

 期待に応える。当たり前のようで、私には結構難しいこと。期待されるのにはやっぱり慣れないし、諦めてしまう方が楽に思える。それはやっぱり、今もそこまで変わらない。だけど、少しは変わっている。だからきっと、私は今ここにいる。

 

「二人とも、頑張ってこい!」

「はい」

「ええ」

 

 そうして、送り出される。いつもの大声、いつもの青空。それに送り出されるのなら、今日はいつものようにやろう。もっとも私らしくすることが、最高への近道だから。

 決着の時は近い。最後の一瞬まで、できる限りをやり続けよう。

 

 

 そうして、しばらく時間が経った。車の中で凝り固まった身体をほぐして、控室でうとうとして。そうしてやがて、勝負服に袖を通す。多分キングもスペちゃんも、そうしていたことだろう。うとうとはしてないかもしれないけど。

 

「さあ京都レース場、本日のメインレース! 今年のクラシック戦線のフィナーレ、菊花賞です!」

 

 いつまでも見ていられそうな、キレイな青空の下。全ての出走者が芝の上に勢揃い。うん、もれなく私もその中にいる。心臓の中で煌々と燃え盛る焔。足元から頭のてっぺんまで、ぎゅるぎゅると血のめぐる音がする。そうなれば私に出来ることは限られてくる。走ること、勝つこと。今までの全てを、今日この時に込めるんだ。

 

「いよいよね、スカイさん」

「朝ぶりだね、キング。私としては、今更キングと話すこともあんまりない気がするけど」

「あら、スペシャルウィークさんと話したかったかしら? 私はさっき話してきたけど」

「どうだった?」

「頑張ろうね、ですって。いつもみたいに」

「そっか。それなら今日のスペちゃんも手強そうだね」

 

 いつも通りなら、スペちゃんが勝つ。私たちのパワーバランスはそんな感じだと、下馬評は告げている。それなら私の仕事は、それをひっくり返すこと。これも、いつも通り。

 

「じゃ、一言言ってこようかな。一番人気へ二番人気から、愛を込めて」

「それなら先に、三番人気から二番人気へ、一つ伝えておくわ」

「なんでしょうか、お嬢様」

「『周り』を見ない。今ならちゃんと、意味がわかるわ」

「……そっか」

 

 なら、よかった。これ以上言葉を交わす必要はない。また後で。誰が勝つとしても、私たちはその先に変化を見るのだから。

 そして。ざりざりと、私は別の方角へ歩を進める。この戦場に在る、微かで僅かな束の間。その最後を締め括るなら、やはり君とがいい。

 

「やっほー、スペちゃん」

 

 ごきげんよう、私のライバル。

 

「あっ、セイちゃん! 今日は頑張ろうね!」

「えー、どうかなあ。3,000mって長すぎるし、逃げウマの私にはそもそも不利なんだよね」

 

 そう、それは事実。なんでも菊花賞の逃げ切り勝ちは、長らく出ていないらしい。その上で私は逃げを選ぶのだから、まさに無謀。いくら策謀があると言い張っても、だ。

 

「……それでも、セイちゃんは諦めてない」

「流石スペちゃん。鋭いね」

 

 諦めてない。私自身すらなかなか認められなかったそれを、君は真っ直ぐ見抜いてしまう。澄んだ瞳と星のような心が、それを成し得ている。そしてそれは、君の強さの秘訣でもある。私にはないもの。他の誰にもないもの。紛れもない、一番の一つ。だけど。

 

「うん。セイちゃんは強いから。諦めてないから。なら私も、負けるわけにはいかないよ」

 

 そう、君が言う通り。私にも、私の強さがあるのだろう。だから皆が期待している。だから皆が私と走りたいと言ってくれる。だから、私は今。

 

「ありがと。なら、最高のレースにしようか」

「もちろん!」

 

 ぱん。互いの手を重ねて。

 ざり。蹄鉄を切り返して。

 どくん。それを区切りに、ゲートへ向かって。

 ぱぁん。やがて、ファンファーレが鳴り響いて。

 かちり。それぞれの合間にある瞬間で、一つずつ心のスイッチを切り替えて。

 しん。ここにいる全員が、足並みを揃えて。

 がこん。そうして今日も、踏み出した。




21:00に書き上がったので21:00に更新しました
嘘ついてすみません…次回も21:00の書き上がった時になります
次回こそ、菊花賞終わります!
感想評価、是非よろしくお願いします。
本当に励みになります。


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最高は、一つじゃない

 疾く、疾く駆けよ。芝を踏み、土を蹴って。颯の如く、駆け抜けよ。誰にも、一度も、追い付かせないように。

 

「さあまずはセイウンスカイ! セイウンスカイが行った!」

 

 どかどかと鳴る蹄鉄全てを置き去りにして、踏み込む。早くも先頭、というやつだ。つまりこの時点で、私の作戦はバレバレ。いつもの逃げを打ち、レース全体を支配する。そのペースメークで他の全員を迎え撃つ。もちろん、それは長距離になるほど難易度の高い戦法。レースを引っ張るスタミナと、レースを把握する脳みその維持。どちらかが欠ければその時点でおじゃんの無謀な作戦なことまで含めて、バレバレだ。だから誰もが思う、「こいつのペースに惑わされるな」。誰もが考える、「どうせ逃げ切るなんてできない」。なら私に出来るのは、その先入観を利用してやること。

 

「さあ第四コーナー一周目、セイウンスカイが先頭に立った! ここまでは大方の予想通り!」

 

 予想通り、上等だ。たとえ全てを予想されたって、私はそれを裏切ってやるんだ。風を切って、前には青空以外何もなくて。由緒正しいクラシック三冠最後の一つ、もっとも過酷な条件で限界を競う菊花賞、なんだけど。

 ああ、楽しいなあ! 

 

「ようやく落ち着いてきたスペシャルウィーク、中団の少し後ろに位置しています。セイウンスカイは逃げる逃げる! 京都大賞典の再現なるか!」

 

 おっと、実況さんにもバレちゃってるか。スペちゃんもそこに居るってことは、やっぱり私にはそんなに釣られてくれてない。キングも……スペちゃんよりはちょっと前かな? それでも隊列は縦長で、私が抜きん出る形になる。ハイペースを作って、追手を誘う作戦。きっとそのあとマイペースを混ぜ込んで、ってところまで、私の手の内はバレている。京都大賞典で見せた、私とトレーナーさんの作戦。今日私がやろうとしているのはそれだと、既にみんながわかっている。タネも仕掛けもバレた手品は、なんの価値も持たない。つまり今の私は、皆の目を引くだけの愚かなピエロに過ぎない。……一見、ね。

 ピエロと呼ぶなら大歓迎、だって私はトリックスター。皆を沸かせて、最後には驚かせる。そんなものは言い換えで、いつものコインの裏表。そう、そんな事例は他にもたくさんある。今までだってあったように、この瞬間にもいくらかある。たとえばタネも仕掛けもバレきった、使い古しの手品(マジック)だって。

 本当に、捉え切れるかな? さあ、魔法(マジック)をかけてあげよう。

 

「京都レース場の第二コーナー、ここで各ウマ娘一息つきたいところです!」

 

 うん、ここまで来れば。私は一気にペースを落とす。身体の下からてっぺんまでに、びりびりと疾り抜ける大地の感覚。逆に頭から感じて全身をすうっと癒してくれる、秋風の気配。最初のハイペース、誰だって私がこのまま行かないことはわかっていた。だから離されすぎないようにしつつ、自分のペースを守っていた。そしてここでペースを落としても、私が回復し切るわけがない。京都大賞典の時と同じ走りをするには距離が長い。どこかで必ず綻びが出る。そこに付け入るのが、皆の勝機だ。でも、それは先入観。

 

「セイウンスカイはマイペースに走っている! ここまで理想的な展開です!」

 

 わかる。観客席が、テレビ画面の先の誰かたちが。徐々にどよめき出すのが、わかる。逃げウマには厳しい距離で、既に明かした奇抜な作戦で。それで勝てるわけなんて、そう思っていた人たちが。その不安が期待に反転するのが、わかる。付け入る隙なんてあるのだろうか。このまま本当に、最後まで行ってしまうんじゃないか。歴史的瞬間を目撃できるんじゃないか、と。うん、私自身も半信半疑だ。私が自分について半信まで持ってけるなんて、結構すごいことなんだけど。これは感覚的なものだから、他の誰かにわかるものじゃない。手品を魔法に変えたギミックがあるとすれば、たった一つの気持ちの問題。

 今日の私は、最高だ。負ける気が、しない。

 

(ふーっ……)

 

 息を、十分整えて。少しだけ、上を見て。とってもキレイな青空が、私を待っていて。だん、と。そこに向かって、駆けてゆく。スタンド前が近い第三コーナーの下り、そろそろ後ろから追いかけてくる子の足音も前から聞こえる歓声も大きくなるはずなんだけど。不思議と聴こえるのは、三つの音だけ。私を動かす心臓の音。私が踏み締める蹄鉄の音。私が生きているって思える、呼吸の音。

 この青い世界にいるのは、私だけだ。誰にだって、追い付かせやしない。

 

「セイウンスカイ逃げ切りなるのか!? セイウンスカイ先頭だ! セイウンスカイ、逃げた逃げた逃げた!」

 

 疾れ、疾れ、もっと、先まで! ロングスパートは全身を痛めつけるし、これでも最高速ではキングにもスペちゃんにも敵わない。私には君たちと同じ走りは出来ない。でも。

 

「外を通ってスペシャルウィーク! キングヘイローも内から上がってきました! しかしセイウンスカイ、逃げ切りか!」

 

 君たちにも、私と同じ走りは出来ない。影さえ踏ませない、私の「最高」。だから私たちは競い合える。自分も貴女も最高なのだと告げること、それが私たちの存在証明。

 ……皐月賞は、我ながら最高のレースだったね。私が初めて勝った重賞。スペちゃんへのリベンジ戦。キングと私とスペちゃんで、仲良く三着までを分けあった。トレーナーさんの泣きそうな顔も褒め言葉も、やっぱり忘れられないや。

 ……ダービーは、紛れもなく最高の決着だった。スペちゃんとエルの同着。二人だけの世界。歴史的なことだと思うし、それを成し遂げたレースが最高じゃないはずない。あのあとキングと二人でだいぶ引きずって、くよくよなよなよしたけれど。ようやく乗り越えた後なら言えるのは、あの時があるから今があるってこと。心の底から悔しいって、今なら言えるよ。

 ……でも、でもね。最高って、今まで何度も言ってきたけどさ。最も高いと書いて最高だから、普通は一つだけしかないものだとは思うんだけど。それに比べると非論理的で感情的で、「正論」とは程遠いかも知れないんだけど。……っと、今できる考えごとはここら辺までかな。

 

「逃げ切った逃げ切ったセイウンスカイ! 菊花賞で長らく出ていなかった逃げ切り勝ち! セイウンスカイ、まさに今日の京都レース場の上空とおんなじ青空!」

 

 とりあえず言えるのは、今日は最高だってこと! 

 

 

 スタンドからの大歓声。光る電光掲示板。とってもキレイな青空。どれもが私に、「最高」を告げていた。それに浸る私のもとに、スペちゃんが話しかけてくる。

 

「おめでとう、セイちゃん」

「ありがと、スペちゃん。今日は勝たせてもらっちゃったね」

「……うん、すっごく悔しい」

 

 悔しい。それをあけすけに言えるのは、やっぱりスペちゃんって感じ。きっと本当に悔しくて、それでもそれを隠さない。きっとこれがスペちゃんなりのライバルへの礼儀。あるいは、友達への信頼。

 

「まあ、今日の私は最高だったからね」

「最高、か。そういえばセイちゃんってちょっと前からそれを言ってたけど、結局どういう意味だったの?」

「えー、それ聞いちゃう? 無粋な気がするんだけどな」

「ごめん、私にはわからなくて……」

 

 本当はわかってると思うけどな。スペちゃんは謙遜しがちだけど、私たちの中で一番鋭いと思う。とはいえそれを言語化できないのなら、私なりに手助けしてやるのが友達というものだろう。少し思考を並べ立て、整理してから。君と私自身のために、言葉を開く。

 

「最高ってさ、一番ってことだよね。だから私はこの菊花賞を、一番いいものにしたかったんだ。他のどのレースよりも」

「それは……すごい走りをするってこと?」

「それもあるかも。とにかく、どのレースよりもすごいものにしたい。でもさ、さっき気づいんだけど」

「他のレースも最高な気がしてきた、とか」

「あー、やっぱりわかってるじゃん。そう、決められないんだよね、最高。どれもいい気がしてきて、ここまで気持ちよく勝っても他のがダメって思えない」

 

 そういうこと。散々最高は一つだと言ってきたけど、最高ほど一つに絞れないものはない。今日見つけたもう一つの、コインの裏表。そこまで言ってみせると、スペちゃんは少し考えてから口を開く。正解に辿りつく。

 

「なら、最高は一つじゃない。全部最高……なんてのは、欲張りすぎかな……」

「あははっ、流石スペちゃん」

「あー、食い意地張ってるってことー!?」

「そうじゃないそうじゃない、そうやって核心を言い当てられるのが、流石なんだよ」

 

 最高は、一つじゃない。非論理的に見えるのに、当たり前の結論。あの皐月賞も、あのダービーも、今日の菊花賞も。他を超えなきゃ最高になれないと思ってたけど、そんな選択肢は選ばなければいいのだ。

 

「セイちゃん」

 

 不意に、汗ばんだ手が差し伸べられる。

 

「今度は、負けないよ」

 

 そして、私はそれを掴む。

 

「もちろん」

 

 これからも、最高を増やすために。私たちは、ライバルで友達だ。

 

 

「ちょっと、スカイさん!」

 

 地下バ場に戻ってさあライブの準備をしよう、というところだった。キングに呼び止められる。そういえば、忘れていたかも。

 

「おつかれキング、今日は『周り』を気にせず走れた?」

「……ああ、そのことね。気にせずに走れたわよ、"お母さま"のことは」

「そっか。それならよかった」

「それでこの結果だから、世話はないのだけど」

 

 確かに今日のキングは五着で、彼女としては悔いの残る結果だったのだろう。……というか、そういう目で彼女の顔を見ると。

 

「あれ、キングもしかして泣きそう?」

「……うるさいわね。走ってる間は忘れられても、走り終わったら後悔する。やっぱり私はそうなのよ」

 

 泣き出しそうにふるふると震えながら、それでも彼女の言葉に迷いはない。それがキングヘイローの強さなのだと、何度も思ったそれにまた重ねた。

 

「うん。でもキングはそれでいいんだよね。それがキングの、『最高』」

「なにかしら、それ。お世辞かしら」

 

 いつもの私ならそうかも。でも今日は、本気でキングを褒めたい気分。

 

「ううん、さっきスペちゃんと話して思ったこと。最高って、一つじゃないんだよ。それはレースだけじゃなくて、私たちも。スペちゃんもグラスちゃんもエルも、もちろん私もキングも。みんなそれぞれの良さがあるから、それぞれの最高がある」

「綺麗事じゃない。現に私は今日だって」

「『私らしさ』って言ったのは誰だっけ?」

 

 そう言って、入り口の方へ。君のいる方へ歩いていって、二人で外の光に照らされる。

 

「『私らしさ』があるならさ。その人なりの『最高』がある。だから、私たちは誰かを否定しない。競い合っても、それで相手を認められる」

「否定、しないって」

 

 そう、そうなんだよ。誰も君を否定しない。だから、君は走っていい。だから。

 

「だからさ、キング。『向いてない』、なんてことないよ。……それが私からの、君へのエール」

「……なによっ、それ……! 私がそんな、そんなこと言われてっ……!」

 

 いつか見た泣き顔より、ほんの少し綺麗な顔。あーあ、由緒正しい良家のお嬢様を泣かせてしまった。けれど私は残酷にも、追い討ちをかける。

 

「私はキングに走って欲しい。一緒に走りたい。これからも、さらなる最高のために。ライバルとして、友達として」

 

 私たちは重ならない。私たちは誰かの代わりにはなれない。だけど私たちは補い合えて、だから私たちは一緒にいる。高めあうことで、最高を創り出し続けられる。最高が一つじゃないのは、私たちが独りじゃないから。時には喧嘩するとしても、時には自分には手の届かないものを相手の中に見てしまうとしても。別々の存在だから、私たちは私たちなんだ。

 

「いいっ、いいじゃない……! そこまでっ、言うならっ……!」

「『私と走る権利をあげるわ』、でございますか?」

「……おばか」

 

 そうして、しばらくの間。いつかと同じように、泣きじゃくる彼女を目の当たりにして。いつかと違って、ずっとそばにいた。

 

「……ありがとう」

「どういたしまして。キング、これでひとつ貸しね」

「はあっ!? 何よそれ!」

「冗談、冗談」

 

 なんとか時間をかけて、ツッコミを入れるくらいの元気は戻ったみたい。なら帰ろうか、と思った時、キングが唐突に大声を出した。

 

「そういえば、スカイさん!」

「うわっ、急に何?」

「貴女、さっきの優勝タイム見たかしら?」

 

 優勝タイム、か。そういえばスペちゃんと喋るのに夢中でアナウンスも何も聞いてなかったかも。そう告げるとキングは呆れた顔で告げる。3:03:2。菊花賞のレコードタイム、らしい。……耳を疑った。3,000mにおける世界レコードだというのには、更に。

 

「今日の貴女は、紛れもなく『最高』だった。過去の全てのウマ娘より、貴女が一番速かった。最高は一つじゃないというのにも一理あるけれど、最高とは常に更新されゆくものでもあるのよ」

「なるほど、ね。教えてくれてありがとう、キング」

「どういたしまして」

「私今、すっごく嬉しいよ」

「……どういたしまして」

 

 全てに勝って、一番になりたい。そんな私の大望は、確かに達成されていた。本当に、夢のようだ。「最高とは常に更新されゆくものである」としたら、これから先これも超えられていくのだろうけど。それも含めて楽しみだ。私はいつだって、追われる方が性に合っている。

 

「でもね、スカイさん」

 

 そこで、キングがまた仕切り直す。顔を見れば涙の跡はあれど、いつもの強い瞳だった。いつもの、キングヘイローだった。

 

「今日、貴女は最高のレースをした。対して私は五着、惨めなものね」

 

 それは先ほどのリフレインに似て、まるで違う。言葉に込めた決意は、羨望とはかけ離れている。

 

「でも、私は私らしく在る。貴女でも誰かでもない、私でいる」

 

 挑み続けることが、彼女の強さ。泥に塗れても、また立ち上がれる。

 

「そう、今日は負けね。でも──」

 

 だからこの言葉は、ある種袂を分つもの。互いの『私らしさ』を認めることは、誰でもないということで。独りじゃないからこそ、己の最高を見ていられる。

 

「──明日は、どうかしら?」

 

 訣別とはそういうこと。最高は、一人じゃない。




不規則投稿ですみません……。
第二章 ライバルと友達 これにて完結です!
だいぶ遅くなってしまいましたが、お付き合いいただきありがとうございました!
これで起承転結の「承」までです。
次回幕間を一話挟んだ後、第三章 杞憂とデクレタム に入っていきます。
ここでお詫びのお知らせなのですが、投稿の不規則さを鑑み、第二章を区切りとして、二週間充電してこようと思います……。
しっかり諸々整えて、更新頻度を上げるために一旦休む、という形です。
絶対完結させたいので、どうかご容赦ください……。
個人的にはこの二章まででかなりまとまった、と思っているのですが、それはそれとして完結まで持っていきたいので……。
もしよろしければ、ここまでの一区切りとして、感想評価をくだされば、充電中大変励みになります……。
よろしくお願いします!


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キングヘイローによる「ロード・トゥ・ライトニング」

 逡巡する光景があった。タイムラインはダービーの直後、控室に戻った時。小さな空間で、そこにいるのは私とトレーナーの二人だけ。あの時の、私と。あの時の、トレーナー。

 

「……キング、あれはどういうこと」

 

 その言葉からその光景は始まる。赤縁の眼鏡を瞳孔と共に揺らしながら、冷ややかな口調で私に問いかける女性の姿。艶やかな黒髪はすっぱりと首元で切り揃えられ、眼と合わせて彼女の意志の強さを覗かせる。それが当時、私のトレーナー「だった」人。新進気鋭のチーム<サドル>のトレーナー、だった。

 

「もう一度聞く。さっきのダービー、あの『逃げ』はいったい何」

 

 そして、トレーナーは私に問うていた。決して低くない四番人気で挑んだダービーは、ライバルに気を取られての暴走でペースを乱し大敗。それがキングヘイローにとっての日本ダービーで、それはきっとトレーナーもわかっていた。……きっと私の涙痕さえ、わかっていた。何もわかっていなかったのは、その時の私だった。

 

「……あれは、私の判断よ。勝つためなら、手段は選ばない」

 

 一つ。私には、誰の気持ちもわかっていなかった。

 

「それで負けていたら、世話はない。理由はそれだけ?」

 

 一つ。私を慮る彼女の気持ちは、わかっていなかった。

 

「次は勝つ。それで、いいじゃない」

 

 一つ。自分自身が焦る理由すら、わかっていなかった。

 

「……今回の敗因だって、次に活かさないと勝てない。キング、そのまま次に行っちゃだめ」

「なんで、なのよ」

 

 そうして、何もかもがわからないまま。私の感情は、爆発した。本心と虚勢と激情の差も、一つとしてわからなかった。

 

「なんで貴女は、いつもそんなに冷静なのよ。私は負けを見つめたいなんて思えない。でも貴女が言うことが正しいのはわかる。だから、ここまで耐えてきた。負けても折れないって決めてきた。……でも、いつまでそうすればいいの」

「……キング」

「負けて、負けて、また負けて! 貴女はそれを分析して私に伝えて、私はそれを踏まえてまた走って! ……それでも、届かないじゃない。それならもう、いいじゃない」

 

 私の叫びだけの空間だった。私を見る顔が戸惑いを浮かべていたのは、覚えている。そこに私が、最後の一言を叩きつけたのも。

 

「私と一緒に、悔しがってよ」

 

 そう吐いた弱音が、心からのものかさえわからなかったけど。突き刺さってしまったのは、記憶している。どうにもならないくらいの亀裂だったと、突き刺した後に思ったことまで。そこで会話は途切れた。貴女が悔しがってくれないという認識が、真実かなんて確かめないまま。事務的な会話だけで帰路につき、別れのあいさつにもなんの感情もこもらず。いつもあった彼女の敗因分析も、その日はひとつも聞かないで。

 そこで、道は途切れた。

 

 

 回顧する光景があった。タイムラインはあの敗北の後、何度も何度も重ねた夜全て。すぐ横で寝ているルームメイトには話せない悩みだった。それを独り、うわばみのように食んでいた。一息で呑み込むことに固執して、いつになっても誰かに見せれる顔にはならなかった。必死に目を瞑るふりをして、布団の中にだけ吐き出せていた。そうして、今の私と同じように。過去を見遣り、それ越しに現在を見ていた。その時思い返していたのは、トレーナーとの出会いだった。そうしている間はまだ、彼女が私のトレーナーだった。

 

「キングヘイロー、私のチームはどうかな」

 

 そうチーム<サドル>のトレーナーに声をかけられたのは、トレセン学園に入ってすぐのことだった。その頃の私は、一刻も早くチームを決めようと息巻いていた。幸い引く手あまただった。母親の血からくる期待が、私に求められていたから。だから多分、誰でもよかったはずだった。だけどもし、その中からあえて彼女を選んだ理由があるとしたら。

 

「私は新人トレーナーだけど、それを負ける理由にしたくない。だからあなたのような有力なウマ娘の力が欲しい。勝つためには、遠慮なんてしていられないから」

 

 その誘い文句が、私にとっては殺し文句に等しかったのかもしれない。単に有力だと言われて嬉しかったのか、あるいは勝つためには手段を選ばないという点に親近感を覚えたのか。そうでもないとしたら、あと一つとっかかりとして思い浮かぶ点はあった。理由を外部に求めたくないという、彼女の姿勢そのものだった。負ける理由も、勝つ理由も。とはいえそんな実力主義に魅力を感じたのだとしたら、結局ありきたりな理由ではある。言語化してみれば、他の誰でもいいような気がする。それでも彼女の言葉は、他の誰のものより私に突き刺さっていた。だから自分は、彼女でなければ駄目だった。理由はそれだけでよかった。それまでは、それでよかった。

 それなのに。その時の私が考えていることは、ダービーの日の会話だった。それきり途切れた、彼女と自分の最後の会話だった。あなたは一緒に悔しがってはくれないのだとか細く叫んだ私は、本当は別のものを否定していた。彼女が常日頃からやってくれている敗因分析をこれっぽっちも活かせない、一人の馬鹿で哀れなウマ娘。彼女が私にふさわしくないのではなく、私が彼女にふさわしくない。有望な新人トレーナーという存在に、咎より深い重りを着けているのは、私。そこまでわかっていて、その時点で結論は導き出せて。それなのに導かれた答えを口に出す段になって、私はやっぱり弱かった。

 結局、そのままだった。

 そこから、道は先へと進まなかった。

 

 

 変遷する光景があった。タイムラインは夏合宿について同期と話したあと、正確には彼女の言葉を受けた直後。踏み出すことが変化だと、挑発と激励を受けた直後。放課後、久方ぶりにチームの部屋へ向かった。トレーナーはそこにいて、あるいは私を待っていたかもしれない。私が散々悩んで口にする言葉の内容さえ、待ち構えていたかもしれない。そういう意味で彼女は、どこまでも私のトレーナーで。

 

「トレーナー。……別のチームへの移籍を、希望しに来たわ」

 

 その時までそこに確かに存在した関係を断ち切ったのは、私の側なのだろう。けれどそれも含めて決意だと、その時からの私は思っている。私が本当の意味で甘さを捨てれたのは、その時が初めてだったはずだから。一見綺麗に噛み合っていたけど、その歯車の中に互いを削る摩擦を見つけてしまった。互いにとってかけがえがないからこそ、その歯車はぶつかり過ぎてしまうのだとしたら。大事だけど、離れるべき。そんな一見矛盾した結論が、やはり導き出されるものだった。そうしてきっとその結論は、トレーナーも一致していて。

 

「……何処に行くか、当てはあるの」

「チーム<アルビレオ>よ。負けたくない相手がそこにいるから、その一番近くに行きたいの」

「そう。これ、チーム変更届。名前だけ書いてくれたら、変更手続きまではトレーナーの仕事。あなたは新しいチームのトレーナーに挨拶することだけ考えればいい」

 

 だから、受け入れてくれる。拒んでは、くれない。けれどそこで拒むことを相手に求めるのでは、どこまで行っても私は甘えたままになってしまう。それは、その時点で既にわかっていた。なれば、私に取れる手は一つだった。たとえ泥の中を進むようなものだとしても、私たちにはそれが正解だった。

 

「……いままで、ありがとう」

 

 そうやって、私も結末を受け入れる。自分からの提案なのに相対する彼女よりも受容に時間がかかったのは滑稽かもしれないけど、それは気にならなかった。無様さや愚かさは、いくら被っても気にならなかった。ようやく事象を呑み込めたこと、ようやく前へ踏み出せたこと。私に内在する世界が変化したことこそが、なによりも重要だった。そして、「かつての」チーム部屋を後にした。どれだけゆっくり扉まで歩いても、あちらからの別れの言葉はなかった。それでよかった。

 

「話は聞いている。キングヘイロー、歓迎するぞ! チーム<アルビレオ>に!」

 

 そして地図のとおりに「新しい」チーム部屋まで歩くと、大声で小さな部屋を占拠する男性がいた。太い眉が斜めに吊り上がっていて、いかにも威勢が良さそうだった。そこから始まる暑苦しさ全開の自己紹介を聞いて、果たして本当にあのセイウンスカイがこのチームでやっていけているのか、などと心配になったのを覚えている。けれどこちらにこう問われたことも、はっきりと覚えている。

 

「キングヘイロー。君は何故、このチームに来た」

 

 そして、自分がどう答えたのかも。

 

「当然。私はスカイさんに勝つために、手段は選んでいられないの」

 

 勝利のために、よりそれを手にするのに近いチームを選ぶ。すなわち勝利のために、自分と相性のいいチームを選ぶ。すなわち勝利のために、ライバルとより近い関係を選ぶ。すなわち勝利のために、今までと同じ道を、選ばない。私の発した言葉は、そういう意味だった。それだけの覚悟が、祈られていた。

 

「……そうか。あいつは強いぞ」

「そう。トレーナーのお墨付き、というわけね」

「だが、だからこそ歓迎しよう」

「あら、私がチームの柱を負かしてしまっても?」

「それも大歓迎だ。できるものなら、な」

 

 幾許かの会話から、セイウンスカイとそのトレーナーの信頼関係が読み取れた。私がその時何も思うところがなかったと言えば、きっとそれは嘘になるだろう。だから私は、嘘は吐かない。かつて進んでいた道を横目で見ながら、それでも新たなゼロ地点を選ぶ。そうやって再確認を重ねて、私はチーム<アルビレオ>に移籍した。

 そこには、別の道があった。

 

 

 想起する光景があった。タイムラインは夏合宿後、皆が一歩踏み出した後。<アルビレオ>にそれなりに馴染んで、菊花賞が近づいていて。そんなトレーニングの始まりにも終わりにも慣れてきて。そのタイミングで私には、一つ気になるものがあった。その相手とは殆ど関わりはなく、むしろ避けられている可能性すらあったのだが。

 

「みなさん、今日もお疲れ様でした!」

 

 そう彼女、ニシノフラワーが締めるのが、<アルビレオ>と<デネブ>の合同トレーニングのお約束。そしてその時の自分にとって気になるものは、まさにその少女のことだった。けれど夏合宿初日の一件から、なんとなく彼女とはぎこちない関係のままだった。そうやってぎこちない関係を継続したくないというのも、意識する理由の一つだった。

 撤収が告げられて、それでもニシノフラワーは練習用のコースに残ってトレーナーたちと会話していた。各チームのトレーナーとの連絡事項の確認にそうやって時間を割くように、彼女は深くチームに貢献していた。ニシノフラワー自身が所属するチーム<デネブ>だけでなく、外部の存在であるチーム<アルビレオ>に対しても。かけがえのない、中枢を担う歯車のように。それなのに、誰とも摩擦を起こしていなかった。それも多分、意識する理由の一つだった。

 そして、他にも理由があるとすれば。すっかり暗くなった空の下、ニシノフラワーはようやくトレーニングの後処理を終えたようだった。とは言っても考え込んでいるばかりで、手助けできるようなことは何もなかったのだが。けれどそうして思考をやめて顔を上げた少女に近づいて、自分が話しかける理由があるとすれば。

 

「お疲れ様。ねえ、フラワーさん。ひとつ質問いいかしら」

「あっ、はい。えっと、キングヘイローさん、もしかして私を」

「別にいいのよ、私の勝手だから。それより、貴女」

 

 皆の期待を全て受け止めようとする彼女。そして誰とも摩擦を生もうとしない彼女。彼女について、気になる点があるとすれば。

 

「貴女、今の立場に不満はないの」

 

 彼女自身が道を選べているのかと、そういうことだった。

 

「どういう、ことでしょうか……?」

「たとえば、チームを移籍したいと思ったことは?」

「私は<デネブ>のリーダーですから」

「スカイさんから聞いたわ。一時期貴女のチームにいて、その時から仲がいいって。それならそのあと、一緒にチームを移ればよかったんじゃないかしら?」

「それは、えっと」

 

 詰問のようになってしまっていた。けれどその時の自分は、それだけ焦ってしまっていた。目の前の少女がかつての自分と同じように道を違えていたら、それをどうにかしないといけない気がしていた。あるいは、単に自分と重ねていた。自分は彼女ほど優秀でないと、わかっていたはずなのに。だから選べなかった道があるのだと、本当は知っていたはずなのに。それでもニシノフラワーは、数刻の思考を挟んだのち。答えを、ゆっくりと返してくれた。

 

「私は確かに、スカイさんが<デネブ>から居なくなって。その時寂しかったんだと、今は思います。もしその時ちゃんと寂しいと思っていたら、キングさんの言うようにチームを移っていたかもしれません」

「でも、貴女はそれを選ばなかった。選べなかっただけかも、しれないけど」

「はい。そしてそれは多分、<デネブ>のことが大事だったからです。チームのみんなも、トレーナーさんも。私にとっては、それも大事だったんです」

 

 大事なものが二つ。だから、選べなかった。そうだとしたらそれは残酷な板挟みで、やはり解消すべきはずなのに。彼女の口調は、それを望んでいなかった。私にも、それが正解な気がした。

 

「貴女、見た目より欲張りなのかもしれないわね。……私には、無理だったもの」

「無理、とは」

「私には、優劣をつけるしかなかった。<アルビレオ>に来る前のトレーナーは、私のことを心の底から考えてくれていた。彼女に落ち度はなくて、私が噛み合わなかっただけ。そして私が彼女より、勝利を優先してしまっただけ。……どちらも大事なんて、言えなかった」

 

 大事だった。かけがけがなかった。それでも、私はチーム<サドル>を捨てた。それは事実としてあって、決意と覚悟を塗り固めても消すことはできない。どうにか美化して昇華して、思い出として閉じ込めるだけ。私が選べなかった道の先に、未来は存在しないのだから。

 きっと、それが本当に最後の一つ。全てを選べた彼女が羨ましかったから。一つしか選べなかった自分が憎かったから。それが、自分がニシノフラワーを気にしてしまった理由だ。みっともなく歳下に弱音を吐いて、一度は定めたはずの道が揺らいでいた。今選んでいる道も間違いで、またやり直さないといけないんじゃないか。そうだとしたら途方もなくて、私はいつまでも一歩目のまま。積み重ねられず、成長はない。何度も卵を割るところからやり直す雛鳥など、物珍しさ以外に価値はないのに。どうしようもない。私はもう、どうしようも──。

 

「無理なんかじゃ、ないです」

 

 ──強い否定の言葉を彼女の口から聞くのは、それが初めてだった。今後あるとも限らないが、彼女の強さを見れたこと。それはきっと私と彼女の関係において前進の意味を持っていたと、少なくとも私はそう思っている。そして、彼女は続けた。否定の後に、私を肯定する言葉を。

 

「まず、一つ。キングさんが本当に一番大事なもの以外を捨ててしまうとしたら、私に話しかけることなんかないです」

「きっと貴女が羨ましかっただけよ。捨ててしまったから、捨ててない人が」

「それならなおのこと、捨てられてないです。きっとそれがまだ大事だから、覚えていてしまうんです」

「未練なんてみっともないものよ。きっとそれが私にあるのなら、足枷になっているだけ」

「それが、もう一つ。前のチームのことを考えてしまうのは、きっとまだ大事だからです。もちろん未練とか、割り切れないとか、いくらでも悪く見てしまうことはできますけど」

 

 まだ、大事。考えてみれば、当たり前のことだった。思い出にして鍵をかけて、風化させまいと仕舞っていた。それほどまでに丁重に扱っている限り、私はそれを捨てられてなどいなかった。捨てずに、ここまで来れていた。つまり、私はまだ。

 

「私はそれを、諦めていない。そういうことかしら」

「……はい。多分、そうだと思います」

 

 なるほどそれなら道理は通る。全ての道を選ぶことは、私には出来ないとしても。諦めが悪いこともまた、翻せない私らしさだから。そうこの時気づいたことはきっと、未来にずっと繋げられるのだろう。

 

「ありがとう、フラワーさん。……本来なら、歳上の私が相談に乗るべきなのでしょうけど」

「いえ、こちらこそ。キングさんと仲良くできたならって、ちょっと思ってたので」

「こちらこそ。これからも、よろしくね」

 

 すっかり帷の下りた夜空を背に、会話はそこで区切られた。けれどそれは区切りであって、当然完全な断絶は意味しない。そしてそれは、今までの全てにも言えることだった。

 そこから、来た道を振り返った。

 

 

 そうして、顕在する光景があった。タイムラインは菊花賞の後、言い換えるなら今この瞬間。興奮冷めやらぬレース場の外で、私は人を待っている。呼び出したのは先程、敗北が確定した後だった。けれど返答はあった。それは彼女もこのレースを観に来ていたということで、それは。

 

「久しぶり、キングヘイロー」

「ごきげんよう、トレーナー」

 

 それは、彼女も私の思い出を捨てていないということ。赤い縁の眼鏡も、首を隠さないようさっぱりと切られた黒髪も。鋭い眼光も、かつて見慣れたものと変わらなかった。彼女は変わらず、チーム<サドル>のトレーナーだった。

 

「元トレーナー、でいい。でもまずは、お疲れ様。とは言っても、今のチームメイトやトレーナーから散々労いの類は言われた後だろうけど」

「そうね。今日も負けてしまったから」

 

 結局私は、負けている。チームを変えてその上で苦悩して、それでも負けている。そこから脱却するにはやはり、敗北を糧にするしかない。かつて目の前の女性と共にやってきたことだ。今の自分のやり方とは、趣は違っているのだろうが。

 

「でも、いい顔してる。負けは負けだけど、キングは成長してる。私には、わかる」

「なによ、それ」

「元トレーナーとして、キングのことはそれなりにわかる」

「……おばか」

 

 その肩書きを振り回されたら、私には成す術がない。なんだかんだと言ったって、彼女は私をきちんと見ていてくれていた。それを実証する言葉。そして同時に、今の私の道を肯定する言葉。それを投げかけられることこそが、彼女が私を大事にしていた証なのだろう。なら、私がそれに応えられるとしたら。

 

「……あの時は、ごめんなさい」

 

 途切れていた会話を、諦めずにまた浮かび上がらせることだけ。きっとその断絶は区切りに過ぎなくて、いつからでも未来に開いていけるから。

 

「今となっては、あれでよかった。だから、謝ることじゃない」

「でもあの時、謝れなかった。それは事実なの」

「そうだね。そして私がそれを止めなかったのも、事実」

「……そうね」

「なら、どちらにも落ち度はない。その時点を回顧しても、今となって逡巡しても」

 

 少し話せば、分かり合える距離だった。だけどその距離を繋ぐには、時間が足りなかった。今なら、足りていた。足りていたから、私の元トレーナーは次の言葉を述べる。道の先を、描いていける。

 

「だから、このまま進むといい」

「……戻ってきてほしいとか、言わないわけ」

「その道は、もう試した道だから。キングにとっての『このまま進む』は、色んな道を試すこと」

「おかしくないかしら、それ」

 

 選んだ道を切り替えることは、とても普通に道を進んでいるとは言えない。私が今までそうしてきたのは、事実なのだけれど。そんな私の疑問は、やはり切って捨てられた。

 

「キングにとっては、おかしくない。一つをじっくり分析するよりも、手段を選ばず道を広げていくほうがいい。多分、あなたにとっては」

「それ、結局大変じゃない?」

「多分大変。でも、キングなら出来る。途切れ途切れの道でも、あなたなら繋いでいける」

 

 私らしさがあるから、私だからこそ。そう私を見ていてくれている人が言うのだから、私には他に道はない。すべての道を繋ぐという、大それた道しか選べない。

 

「……ありがとう、トレーナー」

「元、だから。そうだ、最後にお願い」

「何かしら」

 

 しばらく話し込んでしまったけれど、これが最後の会話になるということか。けれどそれも今途切れるだけで、時間が経てばまた繋がる。そうであるなら、最後の言葉も納得して受け止められるだろう。珍しく言葉を選んでいる様子の元トレーナーが、やがて話し始める。そこにあったのは、更なる未来の話だった。

 

「今、チーム<サドル>はそれなりに順調。一人抜けた穴も埋まって、前より強いかもしれない。いつかはGⅠだって、夢じゃない」

「なにそれ、嫌味かしら」

「だから、キングにはひとつお願いがある」

 

 そう言って、彼女はふらつかせていた両手を身体の側面にぴったりと付けて。鋭い眼光がこちらを捉える。言葉で表現するならば、それは「敵視」と呼べるものだった。

 

「いつか、私たちがGⅠに手が届きそうになった時。そんな最高の、ギリギリのタイミングで」

 

 そうしてそんな敵意の塊から、告げられる言葉は。

 

「私に思わせて。『一番いて欲しくない奴が、前にいた』って。私を、悔しがらせて」

「……それは」

「簡単じゃないよ。でもキングならできる。あなたはGⅠを取れる器だと、私は信じている。最初から」

 

 もちろん全力で阻止してみせるけどね、とそのあと付け加えたけれど、彼女が私にかけた言葉は本物だった。敵対する関係からしか言い表せない、本物の激励。私が彼女を悔しがらせる、いつかの意趣返し。当たり前のように、彼女から私にも道が繋がっていた。途切れてなど、いなかった。

 

「当然、じゃない」

 

 そして私にできるのは、その道も繋いでやること。何度も諦めず、幾度も道を迷おうとも。途切れたように見える道を全て繋ぐことが、私だけに歩める旅路だ。

 

「だって私は一流のウマ娘、キングヘイローなんだから!」

 

 そう、高らかに宣言しよう。いつものように、されど悩みつつ。どんな道を選択しても私らしいのだと、その基準さえあればいい。選んだ道が途切れているのなら、それを繋いでいこう。繋げば一つの道になり、きっと積み重ねることが出来る。

 たとえ大地と天空のように、それぞれがどうしようもなく乖離していても。

 それさえ結ぶ雷光の如く、全てをひと繋ぎにして歩んでいこう。

 そこにあるのが、私の征く道だ。




大変お待たせしました。更新再開していきます。
ここから折り返し、ある種の本番に入っていきますが、応援くだされば幸いです。
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第三章 杞憂とデクレタム
星雲相墜つサイレントデイ


 春と秋は似ている。暑い時期と寒い時期の間にあることとか、どちらにせよ天皇賞があることとか。つまり何が言いたいのかというと、私とトレーナーさんが春ぶりに「ここ」に来ているのもある種当然、みたいな話だ。

 

「トレーナーさん、今日はいくらでも釣っていいですよ」

「何を言ってるんだ。釣り堀で釣りすぎると後でお金を払う段になって困る」

「おお、それに気づくとは。前回の教訓が生きてますね」

 

 ひらひらと水面に落ちる紅葉。それが作る波紋の下には、相変わらず所狭しとニジマスが泳いでいる。そんなここはもちろん、春以来にやってきた釣り堀だ。十一月の初日になってようやく、私はトレーナーさんからの菊花賞祝いを頂くことになり、例のごとく行き先に釣り堀を指定した、というわけ。当然トレーナーさんの奢りだけど、むしろ安上がりな女の子だと感謝してほしいくらい、なんて。釣具を受付から貰ってこちらに走ってきたトレーナーさんに、そんなことを考えながら一つ聞いてみる。ちょっとした推測。

 

「そういえばトレーナーさん、キングとはどこ行ったんですか?」

「……キングと出かけたこと、スカイに伝えた記憶がないぞ」

 

 ほら、的中。そこでしらばっくれることを出来ないのが、トレーナーさんが不器用たる所以である。とはいえ二股とかそういう関係でもなんでもないので、私の質問も単なる好奇心によるものなのだけど。

 

「そりゃ、言ってませんから。でも予想はできます。トレーナーさん、私だけ贔屓とかできないでしょ。菊花賞に<アルビレオ>から出たのは、私だけじゃないんだから」

「そうだな。……とりあえず、釣りを始めるぞ」

「いいですけど、誤魔化すの下手ですね」

 

 ちゃぽん、ちゃぽん。二人の釣り糸がほぼ同時に水面に落ち、ほどなくして手応えが返ってくる。川釣り海釣りならのんびり並んで会話しながら、なんてシチュエーションは作りやすいのだけど、釣り堀となるとやはり休む暇はない。

 

「おっ! 釣れた!」

「よっ、と。こっちもですね」

 

 それでも竿を振って引いて獲物が手に入るという、釣りの原則的な楽しさは保たれている。忙しなくても入れ食いでも、釣りは釣り。二度目の釣り堀で思うのは、案外こういうのも悪くない。トレーナーさんの奢りなら、だけどね。

 

「で、キングとはどこ行ったんですか? 気になるじゃないですか。そんな人に言えないようなところに行ったんですか?」

「そうだな、隠すことではないな」

「そうですよ、単純な話です。別にどんな話をしましたか、とか、そんなとこまでとやかく聞きません」

「……それは、ありがたいな」

 

 まだ釣り糸の先端で暴れるニジマスの口から針を抜きながら、その間ですかさずトレーナーさんに追撃。とはいえ実際本当にそれくらいの意味合いの質問で、菊花賞の後のキングがどうだったか、ということはあまり気にしていなかった。あのレースの翌日からの彼女がかつてとは明確に変わっていたのは、私でも感じ取れたから。それでも念のため元気づけのためのお出かけなんかが欠かせないとしたら、つくづくトレーナーというのは大変な仕事である。そのことを他の担当に突っつかれるのも含めて。そんな同情にもならない同情をしていると、ようやくトレーナーさんが話し始めた。

 

「有名なオーケストラの演奏会、だった」

「なるほど、それはそれは。流石キング、というべきか」

 

 やっと話に出てきたそれを聞いて、トレーナーさんが話を渋っていた理由にもなんとなく察しはついた。良家のお嬢様の要求と庶民の私の要求じゃ、レベルが違う。この場合のレベルとは、金額的な問題である。自分もコンサートなど聴きに行ったことはないからわからないが、少なくとも釣り堀よりはだいぶ高級だ。キングのことだから結構いい席を取らせただろうし、それにもちろん嫌な顔をしないトレーナーさんまで想像できる。気を遣ってとかではなく、多分この人は本当に嫌な顔をしないはず。素敵なものを見たあなたは、まるで子供みたいに目を輝かせてしまうから。

 

「それが、昨日だ」

「昨日ですか。二日連続で女の子を取っ替え引っ替えとは、トレーナーさんもなかなかやり手ですねえ」

「……そうだな」

 

 そしてその後になって二人を並べてしまうことに、やっぱりこうして悩んでしまっている。片方だけのフォローは良くないと、不器用な大人がとった手段。そして双方同じ扱いをするべきだなんて、無茶な正論を通そうとしてしまう。それはこうやって私が突っついてしまえば、すぐに解けてしまうような正論。やれやれ、難儀なトレーナーさんだ。

 

「何で元気なくすんですかトレーナーさん、せっかくのお出かけなのにセイちゃん悲しいです」

「元気はある。まだまだ努力が足りないと思っただけだ」

「努力、ですかあ。相変わらず好きですね、そういう熱血」

「当然だ! 諦めないことが、やはり勝利への近道だからな」

 

 けれど、こうやって頑固で変わらないから。だから私は、あなたを信頼しているのだろう。私たちは互いの影響を受け、けれど本質は変化しない。限りなく重なり、されど同一にはならない二重星。

 ぽちゃん。再び水面に落ちる波紋も、やはり干渉し合うのだ。

 

 

 やがて手が疲れてきたあたりで、バケツいっぱいのニジマスと共に移動する。釣り堀併設の食事スペースも、春ぶりだ。なんだかんだとトレーナーさんと私は自重せずに釣り続けたので、これから大量の焼き魚を二人で食すことになる。これでもウマ娘の私はこれくらいの量なら食べ切るつもりだけど、トレーナーさんの財布は大丈夫なのだろうか? テーブルでトレーナーさんを待ちながらそんなことを考えていたのだが、焼き魚の山を手に帰ってきたトレーナーさんの言葉はこうだった。

 

「これだけ釣れば、少しはキングに負けないな」

 

 ……本当に、難儀な性格だ。

 

「そうですね、キングとおあいこです。ありがとうございます」

「ああ! 俺も楽しかったぞ!」

 

 自分で連れていって自分でキングと戦っていたら世話はないのだが、それだけチームメイト同士に優劣をつけたくないということなのだろうか。私たちが身を置いている世界はむしろその対極で、勝敗を互いの存在に刻むために走っているのに。たとえば今日も、そう。周りのテーブルは食事をする人たちでそれなりに埋まっていたけれど、皆の視線は一つの場所に釘付けだった。私とトレーナーさんも含めて。備え付けの大きなテレビ。そこに映し出される、今日のメインレースの特集。

 

「十一月一日11R、『一』づくしの今日の東京レース場のメインレース、天皇賞(秋)! それを目前に控え、既に観客席は大盛り上がりを見せています!」

 

 テレビの中の実況の人は、そう画面越しにまで届きそうな大声で現地の興奮を伝えていた。ウマ娘にとってのレース、それはさまざまな意味を持つ。もちろん走るのは楽しいし、そうでなきゃ走る意味はない。けれど同じくらい、私たちは雌雄を決することに拘る。多分そうでなきゃ、やっぱり走る意味はないから。

 

「今日の天皇賞、エルコンドルパサーが出るんだったな」

「はい。エルには二度と負けたくない相手がいるので」

 

 焼き魚の山を少しずつ処理しながら、自然とトレーナーさんと天皇賞の話になる。レースの話。勝ち負けの話。トレーナーさんがトレーナーである限り、私たちウマ娘がウマ娘である限り。どんなに並び立つことを願っても、勝者は一人だけ。そんな何度も直面した現実を、今日は横から二人で眺めていた。やがて本バ場入場が始まり、最後の一人になって一際大きな歓声が聞こえた。先ほどまでの誰よりも、出迎える声は大きい。今日の一番人気は、エルじゃなくて。

 

「さあ、最後に登場したのは、サイレンススズカ!」

 

 一枠一番一番人気、サイレンススズカ。かつてのチーム<リギル>、エルやグラスちゃんのチームの先輩であり。今はチーム<スピカ>、スペちゃんのチームメイトで、憧れだ。そんなスズカさんと私の接点は殆どない。けれどそのほとんどないうちの少しの接点を作った人がいるとしたら、それは今横にいる人。私のトレーナーさんだ。

 

「なるほど。エルコンドルパサーにとっては、毎日王冠以来のサイレンススズカへのリベンジというわけだな」

「はい、だから燃えてましたよ。私にとっての毎日王冠といえば、京都大賞典の同日って感じですけど」

「あの時か」

 

 そう、食事の合間に二人で確認する通り。きっとあちらは私のことなどまだ何も知らないけれど、私はスズカさんのことをそれなりに認識している。異次元の逃亡、未来に繋がる夢を見せる走り。同じ「逃げ」でも、私とは違う。だからこそあの京都大賞典では、私なりの逃げを見せた。東西逃げウマ並び立つ、そう言わせてみせるために。そしてそんな意識のきっかけは、紛れもなくトレーナーさんの一言だった。「サイレンススズカに負けるな」、この人はそう言ったのだ。

 

「はい、トレーナーさんもご存知のあの京都大賞典です。スズカさんに負けないよう、ひいひい言いながら走りましたとも」

「そうだな! あの時のスカイはサイレンススズカに負けていなかった!」

「そんな急に大声出さないでくださいよ。だから個人的に、スズカさんのことは気にしてるんですよね」

 

 ウマ娘が、他のウマ娘を気にする。その言葉は色んな意味を持つだろうけど、主だった一つは──。

 

「私、いつかあの人と走りたいです」

 

 ──滾り昂る闘争本能。欲深く獰猛で、されど眩しいくらいに前向きな、私たちが走る理由の一つ。やっぱり私は、全てに勝ちたい。そんな言葉の後の沈黙は、互いの魚を食べる手すら止まるほどのものだったけど。トレーナーさんはやがて喋り出す。少し嬉しそうに。

 

「そうか。なら、もっとトレーニングだな」

「はい。頑張らないといけませんねえ」

 

 こうして素直に返すのは、我ながら随分変わってしまったというか。けれど多分、ある意味では素直になっただけ。やりたいことをやりたいと言えることは、ありふれた幸せの一つだろう。

 

「さあ、十二人のウマ娘がゲートに入りました! サイレンススズカを捕まえることは果たしてできるか!」

 

 ……と、そうこうしているうちにゲートイン。果たして今日のサイレンススズカは、どのような走りをするのだろうか。皆が彼女に期待しているからこその、断然一番人気。期待と不安はコインの裏表ではあるけれど、そんな私の理屈なんて吹き飛んでしまいそうなオーラさえ感じる。伏兵贔屓としては、エルを応援したい気持ちもあるかな、なんて。テレビの外で私含めた大勢が見守っていて、テレビの中でも観客席は満員御礼。一番人気の重みとは、どれほどのものなのか。勝って当たり前とさえ言われてしまいそうな状況で、なおも驚きを与えられるとしたら。

 

「今、ゲートが開きました!」

 

 それを与えられる存在の一人が、サイレンススズカ。常識や限界さえ置いていくような、異次元の逃亡者だ。

 

「サイレンススズカがすーっと上がって先頭! 二番手にはエルコンドルパサー!」

「エルはスズカさんを突き放させない作戦、だね」

「そうだな。スカイでもそうするか?」

「そうですねえ、逃げ対決で競り合うのは嫌ですからね。でも、逃げはどこまでも自分のペースなんですよ」

 

 そう私が言ったのを知ってか知らずか、画面内のスズカさんはどんどんエルを突き放していく。突き放させないと後続が狙いを定めても、それすら気にせず逃げることができてしまえば。俗に言う大逃げ。私の場合はそれは一種の釣りとして使うものだけれど、スズカさんの場合は違う。最初に引き離し、最後までトップスピードを保ってしまう。同じ逃げウマの私には、その異常さが他の人よりもよくわかる。

 

「まもなく三コーナー! これだけの差が開いています!」

 

 誰よりも速く風を切り、何バ身も差を付けて。サイレンススズカの脚色は衰えない。誰がどう見ても絶好調で、後は「誰が勝つか」ではなく「どう勝つか」だった。どれほどの驚きを以て、このレースを終えるのか。期待は裏切らず、予想は遥かに超えてゆく。悔しいけど、私の目指すような走りだ。ああ、本当にすごいなあ!

 

「あれに勝つのなら、本当に大変だな」

「……はい」

「だが俺は君を信じている。いつか必ず」

「うん。なら、私もそう思う」

 

 トレーナーさんと二人で圧倒されながら、それでも私の勝ちたい気持ちは変わらなかった。それはトレーナーさんも同じ。「信じている」、だなんて。何度か聞いたけど、やっぱりその言葉はくすぐったい。でもそうやって、チームメイトを贔屓してこそのトレーナーさんだ。時には二人のチームメイトに優劣を付けたくなくて悩むこともあるけど、それも含めて。この人はきっと、チームメイトが最高の存在でいて欲しいのだと。そういうことなら、やっぱり嬉しい。応えないと、そう思う。

 

「サイレンススズカが飛ばしに飛ばしている! もう何バ身離しているのか! 会場の盛り上がりは最高潮に達しています!」

 

 レースは中盤で、更に加速するスズカさん。この後に失速するなんて有り得ないように見えた。つまり逃げウマの死角である最終コーナー以降のスパートを彼女は克服し、最初から最後まで加速し続ける。そんなことを考えるうちにも、先頭を走るスズカさんは更に踏み込んで。

 

「おーっと、更に加速した!」

 

 速度を増すたびに、呼応するように更に巻き起こる大歓声。独壇場という表現が相応しかった。テレビカメラの範囲ではもう後続を収められず、スズカさんだけが画面いっぱいに映し出されていた。更に更にスピードを上げて、大ケヤキを超えて出てくるところまで。

 だから。

 だから、誰もが見ていた。

 だから、誰もが気づいた。

 だけど、誰もが願ったのは。

 

「サイレンススズカ、サイレンススズカに故障発生です──」

 

 目に映るものが嘘であってほしい、それだけだっただろう。




第三章 杞憂とデクレタム 開始です。
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薄弱伝心のスターリースカイ

 秋の天皇賞、一着でゴールしたのはエルだった。彼女はテレビの真ん中で、楯を両手で抱えていた。映えある栄冠がそこにあること、それは誰もが疑いようのないものなのに。誰も、嬉しそうな顔はしていなかった。仕方のないことだった。だって「必ずアナタに勝ちます」と、エルが勝利を誓った相手には。二度と勝負すら挑めない可能性が、重々しく首をもたげていたのだから。

 サイレンススズカ、レース中に故障発生。既にネットにも速報が上がり始め、私たち観客もそれを現実だと認めざるを得なくなる。あり得ないはずはないと理屈ではわかっているけれど、自分の目では確かめたくなかったこと。テーブルに座って意気揚々と画面越しに見物していた私もトレーナーさんも他の人たち全ても、思うことは同じだった。嘘であってほしかった。

 杞憂であって、ほしかった。

 

「……スカイ、大丈夫か」

「私なんか心配して、どうするんですか」

 

 冷えた焼き魚を空しく見つめていると、トレーナーさんが沈黙を破る。私なんか、だった。私たちはどうやっても、画面の先の悲劇に干渉は出来なかった。カメラがその光景から外れていくのを見て、良かったとさえ思ってしまっていた。それは文字通り、目を逸らすことに過ぎないのに。だから私の方なんか見て心配しても、それは見たくないものから目を逸らしているだけ。もちろん目を逸らさないことを選んだとして、出来ることなど何もない。だからそれが正解。せめて自分に出来ることをするのが、当たり前の正論だ。だけど。

 

「私のことなんて心配しても、何にもなりませんよ。トレーナーさんだってわかるはずです。今大変なのは、私じゃなくて」

 

 そうやってぶつけてしまうのが、私にとっての正論。私はテレビでそれを見ていただけだ。スズカさんとの関係は薄くて、それはこれから紡いでいきたかったものに過ぎなくて。だから「故障」というものも、ただ恐ろしくて理不尽なものにしか見えていない。それが絶ってしまった未来の話など、何も知らない私にはわからない。今自分が見た以上の絶望なんて、それが誰かにのしかかっているなんて。耐えられない。たとえ、紛れもない現実だとしても。

 

「……私じゃなくて、スズカさんです」

 

 そうでなければ、あるいは。あるいはリベンジに燃える一戦で、こんな結末を迎えてしまったエル。あるいは憧れの先輩の一戦とそこで起こった事件を間近で見ていた、グラスちゃんとスペちゃん。彼女たちほどには、私は何も理解していない。何も理解してやれない。私なんかより、よっぽど。だからトレーナーさんから手を差し伸べられても、今の私はそれを払い退けてしまう。理由はわからない。自分なんかがここまで焦ってしまっている理由は。それをわかる人がいるとすれば。

 

「スカイ。そうだとしても、君が落ち着いていないのはわかる」

 

 そう言えるのは、トレーナーさんしかいなかった。

 

「そうですね。何でこんなに、怖いんでしょうか」

 

 得体の知れない恐怖が、身体を覆っていた。蝕むように、蔓延っていた。

 

「スズカさんとそんなに関わりがあったわけじゃないです。エルやグラスちゃんやスペちゃんほどには」

 

 それでも脳裏に焼き付いた、大ケヤキの先の残像。

 

「だから、そんなに慌てふためくはずないんです。そんな資格は、私には」

 

 恐怖も焦燥も、何もかもが不相応。それはわかっているのに、感情に制御が効かない。どうしようもない発露に身を任せ、子供のように喚いてしまう。それは私がやるべきことじゃない。私が今やるべきことがあるとすれば、それは──。

 

「私はきっと、みんなを元気づけなきゃいけないのに」

 

 ──それが自らの感情の根幹だと、多分その時漸く気づいた。あの場にいた友人に、私は何かしてやりたい。だから私がショックを受けている暇はない。そんな焦りだった。そこまで聞いて、トレーナーさんはゆっくりと口を開く。私を待っていてくれたのだと、そのことにもその時気づけた。

 

「レース中の故障は、ショッキングな出来事だ。……それを見てしまったら、誰だって怖い。俺だって怖い。でも、スカイは誰かの力になりたいんだな」

「エゴ、ですけどね」

「それでいい。俺はそんなスカイを誇らしく思う」

 

 この人はこんな時でさえ、私のことを元気づけてくれるのか。褒めてくれるのか。そうして、立ち上がらせてくれるのか。私なんか、なのに。……ああ、でも。

 

「そうやって期待されたなら、私もその期待に応えないといけないね」

 

 私だから出来ることがあるのなら、私なんかとは言っていられない。スズカさんの安否については祈るしかないというのはどうにもならないことで、そのことから来る不安や恐れもやはりどうにもならないとしても。

 辛い時に寄り添ってやるのが、友達だ。

 

 

 それからなんとか、時間をかけて。ついでにニジマスの山も、一つ残らず平らげて。夕日も沈み、星が瞬く夜が来て。電車を乗り継ぎ、いつもの寮への帰路に着いて。あらゆる点で時間をかけて、私の気持ちを落ち着かせる。スズカさんへの心配は、やはり完全に収まりはしない。むしろ動悸は激しくなっている気がする。でも、それは信じるしかない。スズカさんは無事でまた走れるのだと、私の願いの一つとして。願いや夢は信じなければ、叶うことなどあり得ないから。

 

「多分サイレンススズカは、緊急入院の措置を取られているはずだ。今は彼女が目覚めるのを待っている」

「はい。私も待ってます」

 

 二人で歩く夜の道は、何度目かの経験だった。こんなに緊迫した帰り道は、初めてだったのだろうけど。秋の天皇賞で起こった異常事態は、二人とも忘れられないだろう。けれど前を向く。そしてより深く沈んでしまった人にも、前へとその目を向かせられたなら。最後には一番底まで沈んでしまった存在まで、きっと手が届くはず。

 

「では、ここら辺で。電話、しなくちゃいけませんから」

「……スカイ」

「なんですか?」

 

 トレセン学園が近づいてきて、けど私はこれから寮に帰らずみんなに電話をするつもり。トレーナーさんとは今日はここでお別れだ。本来なら釣り堀の感想トークでもしていたのだろうけど、そういう状況では無くなってしまった。深刻だとしても、私たちには手の届かない状況。それが空間を支配している。けれど、それだけじゃない。

 

「スカイなら、誰かの力になれる。俺は信じている」

「……大げさかもしれませんけど。私も、そうだったらいいと思います」

 

 仲間のためになりたい。焦りばかりの感情でも、それだけは嘘じゃない。それはわかった。唯一だけど、紛れもない道しるべ。

 二人の会話はそこまで。だけど私の夜は、ここからだ。

 

「私からLANEを送るなんて、珍しいんだけど」

 

 誰もいない校舎裏で、壁に寄りかかりスマホをいじる。まずはそうやって、メッセージを送ってみる。スズカさんのレースをその目で見ていた友人は三人いて、その距離感も様々で。その中で私がまず、メッセージを送る相手として選ぶなら。程なくして既読がついて、彼女からの返信が返ってくる。

 

「そうですね、セイちゃん。私に何か御用ですか?」

 

 きっと、私たちの誰よりも強いグラスちゃん。だからこそ、助けは必要だ。何とメッセージを送るべきか、数瞬迷ってそのあと。結局私はキーパッドに画面を切り替えて、知っているけどなかなか打ち込まない彼女の電話番号を入力する。「声に出した方がいい」というのは、いつかトレーナーさんが言っていたことだ。おそらくグラスちゃんは、自分の中で納得をつけれる人間。だからこそ、言葉にするものさえ形を整えてから口に出す。そうして自分の弱さを、自分で乗り越えることができる。それがグラスちゃん。だけど今くらいは、彼女に寄り添いたい。誰にも依らない存在だと、知っているからこそ。

 

「こんばんは、グラスちゃん」

「こんばんは、セイちゃん。セイちゃんから連絡なんて、本当に珍しいですね」

「うん。……今日のあれ、私もテレビで見てたから」

「やっぱり、そういうことですか。スズカさんのこと、まだスペちゃんから連絡はありません。心配、ですね」

 

 スズカさんが心配だというグラスちゃんは、さりげなく既にスペちゃんとも連絡を取っていた。それならきっとエルの複雑な心境も、既に彼女は聞いてやっている。スズカさんのことをもっとも慮れるのはスペちゃんやエルで、その二人の話を一番近くで聞けるのはグラスちゃんだ。あのレースからの観戦距離そのままに、そういう繋がりが出来ていた。うん、だから私はグラスちゃんに連絡をした。グラスちゃんの話を聞けるのは、きっと私の役割だから。だから、私は君にこう問う。

 

「グラスちゃん」

「はい、なんでしょう」

「私は、グラスちゃんも心配だよ」

 

 私さえショックを受けるほどの出来事が、より近い君にとって痛くないはずがない。強いということは、不安や恐怖を持たないという意味じゃない。その痛みに耐えるだけ。

 

「……ありがとうございます、セイちゃん」

「ううん。私は今から、多分すごくひどいことを言うから。心配しているから、とはいえ」

「はい。なんでしょうか」

「もし、スズカさんが二度と走れないとしたら。グラスちゃんは、どうするの」

 

 他者を励まし、他者がそれを乗り越えたとして。励ました当人は、いつものように痛みを乗り越えられると信じていたとして。本当に君は、耐えられるのか。万一が、起こってしまった時に。それが一番の気がかりで、これ以上ないくらい残酷な問いかけ。何もなければ一番なのに、私が思ってしまう不安。おそらくグラスちゃんも考えてしまう、もしも。

 それが杞憂とは、誰も言い切れない。

 

「レース中の故障は、ただでさえ命に関わること。もう一度元のように走れるかは、わからない」

「そう。グラスちゃんは脚を怪我したことがあるから、多分そういう不安は人より強く感じるはず。でも、誰にも言ってない」

「そう、ですね。言えば、それは不安を煽ることになります。スペちゃんやエルに、そんな言葉はかけられません」

 

 だから、抱え込もうとする。それは臆病な私のそれとは違う、優しさ故の行動だけど。少しだけ似通っているから、私にも理解できる。

 

「なら、今言ってみない? 声に出した方が、何事もすっきりするよ」

 

 不安な思考。恐れや悲観はどうしても、ない方がいいことだ。けれど人の考えは理屈じゃない。どうしたって、考えない方がいいことが浮かんでしまう時はある。そういう時に必要なのは、きっとそのまま吐き出すこと。これはひょっとしたら私らしい考え方じゃないのかもしれないけど。

 

「セイちゃん、本当に変わりましたね」

「やっぱりそうなのかな。でもそのおかげで君から弱音を引き出せるなら、私は嬉しいよ」

「……今日は、私の負けですね」

 

 おお、まさかグラスちゃんに口で勝てるとは。なんて、それもあるいは変化や成長かもしれない。私たちは、まだこれから先へ進む。ここで未来が絶たれるなんてあってはならない。だからきっと、私たちが不安を抱えてしまうのは。

 

「なら、聞かせて。グラスちゃんの気持ち」

 

 私たちがまだ未熟だから。だからこそ、未知に怯えるのだ。いずれ、それすら超えゆくために。

 

 

 そうして小一時間、グラスちゃんの弱音を聞いた。普段のグラスちゃんからは想像もできないくらい、とりとめがなくてぐずぐずの言葉だった。スズカさんの故障から目を覆いたくなって、身体が動かなくなってしまった己の弱さ。レースを止めるわけにはいかないと走り切ったエルや、スズカさんを助けるために観客席から飛び出したスペちゃんと、自分自身を比べてしまったこと。自分自身の不幸なら、それを越えようとして心に火を灯せるのに。他者の不幸を咀嚼する方法が、どうしても自分にはわからなかったこと。グラスちゃんはぽつぽつと、ただそういった弱音を話してくれた。そしてそれを全部聞いて、私はただ。

 

「ありがとう、話してくれて」

 

 ただ純粋に、そう思った。アドバイスの類は示せなかったけど、私に示せるのはそういった繋がりの再確認。弱さを知っても君を嫌いにはならないという、当たり前のこと。告げて、少しの沈黙があった。もしかしたら少し、電話の先では涙が流れていたのかもしれない。けれどそれを隠したとしても、私はそこには踏み込まない。どちらにせよ、グラスちゃんのことはわかるから。察することも、きっと思いやりの一つ。

 

「……ありがとうございます、セイちゃん」

「さっきも言ったけど、こちらこそ。……スズカさんと走りたいのは、実は私もだからさ」

「スズカ先輩、また走れますよね」

「そりゃもちろん。みんなまたスズカさんが走れるって、信じてるから。もちろん、不安なのが悪いわけじゃないけどね」

 

 不安は信頼と相反する感情だけど、どちらも誰かを想うが故。だからその気持ちそのものを、罪になんかしてほしくない。そういうことだったと、思う。

 

「明日、スズカ先輩のお見舞いに行きます。<リギル>の元チームメイトとして、憧れの存在ですから。……セイちゃんのおかげで、少し素直な気持ちでお見舞いに行けそうです」

「どういたしまして、だね」

「それに、セイちゃん」

 

 と、そこで少しグラスちゃんの語気が変わる。いつもの、グラスちゃんに。

 

「お見舞いに行って、スズカ先輩が元気に出迎えてくれたら。私の不安が取り払われたら、次は」

「次は、その先だね」

「ええ。今年の有馬記念、勝つのは私です」

 

 一見唐突な宣戦布告。けれどこれは、当然の帰結。私たちが互いを支える理由の一つには、悔いのない戦いをすることも含まれている。友達だけど、ライバルだから。それもやっぱり、当たり前のこと。それが当たり前だから、私たちは未来へ踏み出せる。

 

「負けないよ」

「こちらこそ」

 

 見上げればそこに広がっている星空は、一見静謐を湛えていたけれど。

 その煌めきは焔の如くごうごうと、世界中の誰もの心を躍らせる。

 だから私たちの戦いがその下で始まることは、きっと最高の一つであって。

 そんなふうに思わせてくれる星空も、多分。青空と同じくらい、キレイなのだろう。

 

 

 グラスちゃんとの電話が終わって、すっかり暗くなった夜道を今度こそ帰っている時だった。ぴりりりり、と。今度は私の方に、電話がかかってきた。本当に電話をかけてきた相手に見当がつかず、誰だろうか、そう思いながら着信を確認する。……正直、やられたなあと思った。全く予想していないのに、言われてみれば納得しかない。

 

「夜分遅くにどうも、お嬢様」

「こんばんは、スカイさん」

 

 ずばり、電話口に出たのはキングヘイロー。他の同期の話は散々したのだから、キングの話もしなくちゃ不公平だったな、などと思った。

 

「それで、ご用件は何でしょうか? 察するに秋の天皇賞のあれを受けて気が気じゃなくて、スペちゃんからエルからグラスちゃんまで連絡して、グラスちゃんには通話中で連絡がつかなかったから、一つ飛ばして私のことも心配しにきたとか」

「いやに具体的だけど、当たってるのが悔しいわね」

 

 ここら辺、本当に心配というだけで全員に連絡できてしまうのは流石キング、という感じだ。私には出来ないことだけど、そういう君がいるから。君がそれをやってくれたなら、最後のつっかえも下りる。

 

「うん、でもありがとう。私の話を聞いてくれるのはキングだったか、って感じ。まあでも、そういう人がいるってだけで十分かも」

「なによそれ。一流の私に悩みを話す権利をあげようと思ったのだけど?」

「絶対スペちゃんとかにそんな態度取らなかったでしょ。私だけひどーい」

「おばか。まあでも、本当に心配なさそうね」

 

 それはその通り。キングが他の子に連絡をしていたと知れただけで、私はほっとした。実のところエルやスペちゃんには、声をかける勇気はなかったから。私には誰か一人に出来るだけ寄り添うのが合っていて、それが今回はグラスちゃんだった。他の二人にまで気を回せるほど、私は器用じゃない。だからそういうことをキングがしていたというだけで、平たく言えば救われていた。それに、なにより。

 

「まあ、私には次の目標があるからね」

「それは多分、私の目標でもあるわね」

「その通り。次の有馬記念、グラスちゃんにもキングにも負けないから」

 

 こうして、未来を見据えるには。全てのライバルを、視界に捉える必要がある。だからやっぱり、キングとも話せてよかった。

 

「グラスさんも貴女も、強敵ね。だけど、こちらこそ負けるつもりはない」

「上等だよ。……まあだから、トレーニングは頑張らなきゃね、お互い」

「そうね。そういう意味では、こんな夜に電話したのは邪魔だったかしら」

「ううん。すごく助かった、ありがと」

「……そう。おやすみなさい」

「おやすみ」

 

 ぴっ。それでやっぱり、会話は終わった。今日は夜になってから三人も会話をした。トレーナーさんと、グラスちゃんと、キング。それだけの人と話さないと、落ち着けない日だった。そんな会話の中心は、弱音や不安ばかりだった。今日あったことは、決していいことじゃない。でも、それでも前に進むことはできる。時にはそんな苦しみを分かち合うことが、これからを行くにはとても大切だ。きっとスズカさんもそうやって、この先に未来があるはずだ。だから今日も不安に飲み込まれず、私たちは踏み出してゆく。……そこでタイミングを見計らったかのように、LANEの通知が来た。スマホを開いていなかったら多分気づかなかったから、これも少しだけキングのおかげ。私は普段滅多に開かない同期五人のグループ会話に、スペちゃんが投げかけた一つのメッセージ。

 

「スズカさんが、目を覚ましました!」

 

 それは、誰もが信じていたけれど。

 それでも誰もが「よかった」と、その言の葉を見て思っただろう。

 それだけで、十分だった。




不定期になりますが、出来るだけ間が開かないように頑張りたいと思います。
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芽吹け紡げよスターティングワン

 天高く、ウマ娘肥ゆる秋。なんて言っても私たちは食欲に任せて太るわけにはいかなくて、やはりレースのためのトレーニングに身を捧げる毎日なんだけど。あれからスズカさんはリハビリに日々勤しんでいるらしく、その様子はスペちゃん越しに毎日のように伝え聴いている。私はやっぱりどちらかと言えば部外者で、エルやグラスちゃんほどにはその話題に気持ちを寄せれるわけではない。だけどやっぱり、よかったと思う。大切な友達の、大切な人。だから本当に、よかった。もちろんいつかは私だって、スズカさんと仲良くなりたいし。……まるっきり縁がないのにお見舞いにまで行くのは、どうしても憚られてしまったのだけど。まあ、それはそれ。

 ともかく今は、秋。厳密に言えば、秋の日の放課後。練習中。つまりここまでの回想にどういう意味があったかといえば、概ねサボりか暇つぶしである。いや、有マ記念に向けて諸々頑張らなきゃいけないのは、その通りなんだけど。こと今のチーム<アルビレオ>においては、もう少し手前にもう一つ大事な一戦があるのだ。チーム<デネブ>にも相変わらず協力してもらいながらの、それくらいに大事な一戦。そりゃあ年末の中山ほどじゃないんだろうけど、それは単なる規模の話。ほら、未来の主役は目の前に。今日だって、誰よりもひたむきに真摯にトレーニングに勤しんでいるその人。

 

「……はい! もう一本、走りますっ!」

 

 満を辞して。そんな形容ができそうな、ナリタトップロードさんのデビュー戦。それが今の、「私たち」の最優先事項だ。

 

「……スカイさん、大丈夫ですか?」

「ああごめん、ちょっとぼーっとしてたかも」

 

 なんて、そんな人の心配ばかりしていられないのもまた事実。フラワーに心配というか、注意されてしまった。腑抜けてないかーって感じで。さて、なんと言い訳しようか。そもそもぼーっとしていたと白状してしまったような。などと考えていると、フラワーの方から話を広げてきた。

 

「トップロードさんのこと、見てたんですよね」

「……まあね。やっぱり気になるよ」

「去年のスカイさんはどうだったんですか?」

「どう、とは」

「デビューする時のことですよ。それって、他の人へのアドバイスになるかもしれないじゃないですか」

 

 そう言われてみれば、という感じだった。私には微妙に思いつかなかった。他人へのアドバイス、かあ。いつも誰かのことを考えてるフラワーならではの、やはりこれもアドバイス。それにしても、私の場合はどうだったかと言われると。

 

「……うーん」

「どうしたんですか?」

「いや、あんまり参考にならないかもなと思って」

 

 こういう経験は、大体みんなの中で成り立ちが違うものだろうし。たとえば私はトレーナーさんに一回デビューを空振りさせられたけど、トップロードさんはそんなことない。トレーナーさんが人を見て判断を変えてるというのは、今更ながら意外ではあるんだけど。私の時は、気持ちの問題だった。けどそれはやっぱり、トップロードさんにそのままは当てはめられない気がする。そんな悩み悩みの私に対して、フラワーはあくまで提案をしてくる。これも彼女なりのアドバイス、だった。

 

「私は、もし私なら、ですけど。スカイさんのデビューの話、聞けたら嬉しいって思います。……私もまだ、デビューはしていないですけど。やっぱり、不安はいっぱいですから」

 

 その言葉を引き金に、胸に去来する回顧録。そういえば、デビューの時は色々悩んだ。強くて眩しいみんなが、自分を置いていくんじゃないかという恐れ。自分が期待を背負う立場になることへの、裏返しの不安。結局今となっては、その時の見え方はコインの一側面でしかなかった。みんな私が思うほど強いばかりじゃないし、私自身にも思ったより、強いところと弱いところがあった。それは今になってわかること。でも、あの時はわからなかったことだ。となるとつまり、フラワーの言いたいことは。

 

「同じ悩みかは、わからないけど。私も不安だったよって、言ってあげることはできる」

「はい。スカイさんなら、それができると思います」

「そっか。フラワーが言うなら間違いないね」

 

 それだけ評価されるのは、少しくすぐったいけれど。今の私は、昔よりは素直に期待を受け止められている。そして、それに応えたいと言う気持ちも。そしてその気持ちはどちらかというと、もっと昔の幼い私に近いもの。変化は時に温故知新。過去と現在と未来さえ混ざり合って、ここに私は出来ている。

 

「……ニシノフラワー! 少しこちらへ来てくれる?」

「あっ、トレーナーさんに呼ばれちゃいました」

 

 練習の合間の会話なんて、唐突に打ち切られるためにあるようなもの。フラワーに言われた通りトップロードさんと話すのも、ちゃんとトレーニングが終わった後の方が良さそうだ。なんて本題のついでに、ふと思うのは。

 

「にゃはは、フラワーもサボりが板についてきたね」

「……もう! でも確かに、スカイさんの影響かもしれませんね」

 

 なんてこと。フラワー、昔よりおしゃべりになったね、なんてね。これもやっぱり変化の一つだとして、果たしていい変化と言えるものなのやら。そんな私の心配に反して、君は朗らかに笑いながら。

 

「私がこんなにお節介になったのは、スカイさんの影響、ですから!」

 

 そう、めいっぱいの笑顔を残して。ふわりと尾を揺らしながら、フラワーは向こうへ走っていく。本当に、いつの間にそんなずるい言い回しができるようになったのやら。ずる賢いウマ娘に影響を受けたというのも、なるほど説得力があると言うべきか。まあ何はともあれ、私のやることは決まりだ。フラワーから受け継いだお節介のバトンを、トップロードさんに渡す。

 そうやって受け継ぐことで、人はかけがえのない誰かになれる。未来に向けて、変わってゆける。

 

 

 練習を終えた皆を見下ろす、カラスも鳴き始めた秋茜の空。そんな濃く深い橙を見上げているトップロードさんがいた。そのまま見ていたら彼女の方が吸い込まれそうなくらいに、ずっと空の奥を見ていた。邪魔しちゃ悪いかな、なんて思いつつ。

 

「お疲れ様です、トップロードさん」

「あっ、お疲れ様です! スカイちゃん、有マ頑張ってくださいねっ」

 

 思いつつも恐る恐る声をかけてみると、ちょっとびっくりしているような返事が返ってきた。やっぱり声をかけてはいけなかったかも。だって、その言動の通り誰かの心配をできるような人の挙動じゃない。ぴんと手足が張ってるし、耳は忙しなく動いている。

 

「それを言うなら、じゃないですか。トップロードさんも、頑張ってください」

「……はい」

 

 表面的には元気だけど、滲み出る緊張はやはりというべきか。少しつつけばそのままバランスを崩して倒れてしまいそう。いつも活力に溢れている印象の強い人だからこそ、今はそこに落ちる影がくっきりと表れている気がした。……いやむしろ、今まで見ていたその姿は、コインの一側面に過ぎなくて。この人にもやはり、表裏一体の裏がある。それなら、私がやるべきことは。

 

「トップロードさん、このあと時間ありますか?」

「はい……? あります、けど」

「それは良かった。なら、ご迷惑でなければという感じなんですけど」

 

 ぱん、と両の手を合わせて。思えばトップロードさんは、色々なことで親身になって助けてくれた。チームから抜ける子が出たあの時も、キングとの距離に悩んでいたあの時も。自分だって思い悩むたちなのに、いつでも受け止める側に立ってくれる。私にとって一番の、素敵な先輩だ。そんな人に、私がやるべきこと。私がしたい、恩返しは。

 

「トゥインクル・シリーズの『先輩』として。今から私を、頼ってください」

 

 いつもの反対。いつもの裏返し。人の関係性だって、表裏は全く決まっていない。だから助けられてばかりの私だって、誰かの力になれるはず。それは多分、このチームに入ってからわかったこと。そして<アルビレオ>に入った理由の一つには、あの日のトップロードさんの精一杯の勧誘がある。ならこれも先輩のおかげ。私にはこの人に返さなくちゃいけないものが、まだまだたくさんある。トップロードさんは、言葉なくこちらを見つめていた。瞳は揺れて、尾も揺れて。心の揺らぎが表に出ているようだった。そんな彼女に、私は言葉を連ねる他なかった。それが、一番だった。

 

「いつかトップロードさん言ってたじゃないですか。『辛いことを一人で抱え込ませたくない』って。こうも言ってましたね。『適度な距離感だから言えることもある』とか」

「そんなこと、言いましたっけ」

 

 日も落ちてだんだん暗くなってきたけど、その表情くらいは見えますよー。「痛いところ突かれたな」って顔。そういうことを言えるのに、そういうことを言われるのには慣れてない顔。人を頼るのが苦手なのは、私も全く他人のことは言えないのだが。まあそういう相手には、無理矢理手を伸ばすべきだと相場は決まっている。これもトップロードさんから教わったこと。……そうやって言われたことのおうむ返しでちくちくやろうかなんて思っていたところで、一ついいアイデアが浮かんだ。

 

「はい、言いました。……そして、こうも言いました」

 

 まだ、空は黒色にはなっていない。たとえそこまで暗くなったとしても、星空の下というのもオツなものだろう。

 

「『一緒に走った後なら、なんだって言える』。『スカイちゃんとも、走りたい』。……なら、今からやるべきは一つです」

 

 そこまでもったいぶって、私は誰にでもわかる結論を宣言する。トップロードさんも同じ答えに至るだろうというくらい、わかりやすい結論。二人で、同じことを考えていた。

 

「走りましょう。今から、です」

 

 しんと声が震えて響く、誰もいないグラウンド。練習メニューはとっくに終わった、ほんの少しのオーバーワーク。その時間と空間を二人で共有できるのなら、それはやはり。未来のライバルを互いに見据えて、また一つ走ることを重ねるのであれば、やはり。

 

「……はい! 初めての勝負、ですね!」

 

 やはりこれも、「最高」の一つ。それはこの先も光のように溢れていくのだと、互いに言葉と未来を紡いでいこう。

 誰かと。みんなで。私たちで。

 

 




頑張ります。
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迷え走れよストレイガールズ

 併走というものは、そもそも何のために二人並んで走るのか。すっかり夜の色になってしまった練習用のターフに向かいながら、いつかの授業で聞いたそんな話を思い返していた。たとえば私が今からトップロードさんと走る意味、みたいな。ちなみに教わった理屈としては、競り合うことで競争心が刺激されていいタイムが出る、みたいなことらしい。けれどそれなら今からの私たちには当てはまらない。もう他はみんな帰ってしまってタイムなんか測ってくれる人はいないし、私は競り合うのキライだし。いつも逃げを打つのはそういう理由もある。でもそれなら、私は何故。

 

「……じゃ、やりましょうか。ここに石ころが一つあります。上に投げるんで、地面の上に落ちたらスタートです」

「はい。ありがとうございます、スカイちゃん」

 

 何故、今からトップロードさんと併走をするのか。どうして私は、その選択をしたのか。表層的な理由はあるけど、根本的な理屈が自分でもわからない。でもその理屈がわかるより前に、もう走ってしまうことになりそうだ。はっきりさせたい気持ちもあるけれど、時間はそれを許さない。それに、なんとなくそれでいい気がした。これもやっぱり、理屈がない。でも、とりあえず。「じゃ」とだけ告げて、握っていた石を大ぶりに投げる。真上に広がる星たちに向かって。放物線を描いたそれは、程なくして地面に落ちる。ふわり、ウッドチップに受け止められる。すとんと落ちる、響くことのない微かな音だった。いつものゲートの開閉音に比べたら、作られる波紋もゼロに近い。だけど。

 だん、と二人同時に地面を蹴る音は。そこに重なりひろがるうねりは、ゼロじゃない。

 

 

 併走というものは、何のために。走り始めた後、やはり私はそんなことを考えていた。「走った後ならなんだって言える」というのはトップロードさんの弁だ。今私の横で、ひたむきに駆けるその顔の。ちらりとそちらを見てみたけれど、こちらと目が合うことはなかった。そんな余裕は彼女にはなかった。いや、捨てていた。いつもは丸く見開かれている瞳は、獲物を捕らえるための鋭さを身につけていた。いつもは快活に開かれ大きく声を出す口元は、ただ酸素を的確に吸収するために小さく固定されていた。それを一瞥した私もまた、脚と視線を未来に据えて。やはり今は、何も考えなくていい。併走の理屈は、走ることで当たり前のように見えてきていたから。それが本能にある限り、私たちは走ることで道を切り拓けるのだと。

 

「はーっ……はーっ……」

「トップロードさん、なかなかやりますねっ……!」

「はあっ、ありがとう……ございますっ」

 

 もちろんお世辞じゃない。コースの半分くらいまで走ってきたわけだけど、気を抜いたらすぐに追い抜かれてしまいそうなくらい。恐れ多くもクラシック二冠バの私についてこれるのなら、客観的に見て相当な能力を持っているはず。だけど己がいくら秀でていようとも、油断ならないライバルがいるのがトゥインクル・シリーズ。だからきっとこの人は、不安を抱えずにはいられない。どこまでも努力し続けて、それに見合った期待を背負って。そしてそれ故に、期待の裏返しの不安を抱いてしまっている。ターフを踏み締める蹄鉄の音は、互いの足元からそれぞれのリズムを鳴らす。それはあるいは心に宿る拍動に近く、だから私たちはその走りから何かを読み取ることができる。そんな私たちにとっての当たり前を、今日もまた、見つけた。

 気づけばそろそろ2,000mのコースも終わりが近い。互いに息を荒げて、ジョギングしながらの語らいみたいなものはなくて。真剣に獰猛に、前だけを見てひた走る。それが併走というもの。それが私たちにとっての、走るということだから。かつてトップロードさんのが言った通り、さっき私が言った通り。

 

「もうっ、少し……!」

「はっ、はーっ……」

 

 やっぱり、走るのは楽しい。私にとっては何度目かで、トップロードさんにとってはまだ新鮮な感情かもしれないけれど。そんなありふれたものを今共有できていたらいいなと、同時にゴールを駆け抜けながら思った。強く強く、ターフにぎしりと二人の足跡を刻みながら。ここで走ったのは私たちだけじゃない。今まで沢山のウマ娘が、この道で走りに夢を乗せてきた。思い思いに願いを込めた、自分だけの夢を。みんな同じコースを走るのに、みんな同じような悩みを抱えるのに。それでもみんな、違う夢がある。だからやっぱり、私の話はトップロードさんの参考になるかはわからないのだけど。それでも、強く願うのは。横で肩を大きく上下させながら、汗と土だらけのジャージに青い笑顔を光らせるその人に想うのは。

 

「ありがとうございました、スカイちゃん!」

 

 誰のものでもないその夢が、どうか煌めきますように。

 

「……はい。お話しする前に、いつもの調子が見れてよかったです」

 

 この先いくら悩み迷えど、あなたがあなたでありますように。そんな、やっぱり当たり前だった。

 当たり前だけど、特別だった。

 

 

「さて、お疲れ様でした」

「はい、スカイちゃんもですよ」

 

 夜のターフに二人きり。門限には遠いけど、大体誰もいない時間。少し肌寒い風がふわりと体の隙間を吹き抜けて、星が散らばる夜空へ消えてゆく。きらきらの粒がよく見える、よく晴れた空だった。晴れやかな気分だった。どこまでも、澄んでいた。今ならなんだって話せるくらいに、だった。やっぱりそれも、いつかトップロードさんが言った通りだった。今横で佇む人からのアドバイス通り。それなら、次は。

 

「じゃあ、満を辞して。なんて、そんな大したことは言えないですけど」

「はい」

「トゥインクル・シリーズの先輩として。お話し、しましょうか」

 

 次は、私の番。まだ夜はこれから。まだ今日は終わらない。宵闇はいくら広がれども、私たちを閉じ込めない。レーンに二人で寄りかかり、私はゆっくりと口を開く。デビューの頃の私の話。懐かしいというほど昔じゃないはずなのに、遠い記憶を辿る感覚。あるいはそれを誰かに受け継ぐことが、私自身の成長を表しているのかもしれない。あの頃から変化していると、私は私に示しているのだ。

 

「私、結構デビュー遅かったんです。トップロードさんも知ってると思いますけど」

「はい。トレーナーさん、結構心配してましたね」

「ああ、そうなんですね……あの人には一回止められましたけどね。デビューが遅い理由の一つはトレーナーさんですよ」

 

 そう言ってみると、トップロードさんはやや意外そうな表情。やや、というのがミソで、やっぱりトレーナーさんがそういう人なのはバレてるみたいだった。こちらを試すように本心を隠すくせに、その実いつでもびくびくしてる人。まあ、それはさておき。

 

「でも、そうやって一度止められたこと。多分いい意味はあったんですよね。私にとってのタイミングは、多分遅くてちょうどよかった。……トップロードさんは、どうですか?」

 

 私にとってのデビューもまた、恐れや不安を孕んだものだった。同期のデビュー、前を向くその姿。どこまでも輝くそれに対して、自分は勇気が出せなかった。諦めそうになっていた。そんな状況に追い込まれ、逃げ道を失くしそうになって。だからこそ、私はデビューした。負けたくないと、初めてその時思えたから。そう、走るだけならトゥインクル・シリーズに挑む必要なんてない。勝ちたいから、私たちはデビューする。だから、きっと。

 

「トップロードさんも、今デビューしたい理由があると思うんです。きっとそれはどんな恐れや不安よりも、優先したい理由で」

「……はい」

「なら、先輩として言えるのは。その気持ちが嘘じゃないなら、絶対大丈夫だよってことくらいです」

 

 悩むことはある。後悔することもある。夢が叶わないことも、やっぱりある。それでも私たちが歩んだ道は、どこにだって間違いがない。それはきっと、これから歩む誰かだって。そこまで告げて、一息吐く。ふう、と互いの息の音がする。重なったのがなんだかおかしくて、ちょっとだけ笑い声が漏れてしまう。釣られてトップロードさんも、ぷすっと。そうなると連鎖して、二人でけらけら笑ってしまう。すっかり帷の降りた空間に、笑い声だけがこだましていた。最初あった緊張は、すっかり夜に溶けていた。ひとしきり笑い合ったあとに、トップロードさんがまた言葉を並べる。空に、再び音が響く。

 

「確かにスカイちゃんの言う通り、怖くて不安です。でも、私がデビューしたいのは嘘じゃないです。胸を張って、そう言えます」

「なるほど。ちなみに、その理由は」

 

 デビューしたい理由。ある種根源的なその問いには、答えるのにやはり少しの思考時間を要した。けれどしっかりと返答があったことこそ、彼女の迷いのなさを示している。そう思った。

 

「一緒に走りたい、相手がいます。期待に応えたい、気持ちもあります。……こう言ってしまうと、ありきたりに聞こえちゃいますけど」

「そんなことないです。そう思ってる自分と相手が唯一無二なんですから」

「はい。……とは言っても、相手はとっても自信たっぷりだったり、ものすごく真剣だったり。本当に私がその相手に相応しいのかとかは、やっぱり考えてしまうんですけど」

 

 なるほど、それは私も似たようなことを考えていた気がする。どうしても他人はきらきらして見えて、自分は逆に頼りなく見えてしまう。だけどそんなことはないと、私は知っている。どんな不安より明瞭に、私たちを証明してくれるものがあるから。まだトップロードさんは知らないことだ。それは、つまり。

 

「走ってみれば、わかりますよ。だってライバルなんですから。その人たちと一緒に、トゥインクル・シリーズを走るんですから。悩んでも悩まなくても、すぐにわかります」

 

 もうすっかり夜は始まってしまっていて、話し相手の顔だってはっきりは見えないくらいだったけど。その言葉を聞いた時の彼女が一番いい顔をしていたと、私はそう記憶している。大いに悩み迷えども、答えや結論はシンプルな方がいい。

 私たちは走りたい。誰かと。みんなで。私たちで。

 

 

「いよいよだな! トップロード、行ってこい!」

「はい、トレーナーさん! 私、頑張ります!」

「一生懸命、ほどほどに、ですよ。……というよりトレーナーさん、私のデビューの時はこんなに応援してなかった気がするんですけど」

「スカイの時はその方がいいと思ったからだ。だが今日のトップロードは一番人気だからな。期待に押しつぶされないよう鍛えた方がいい」

「なんかうまく丸め込まれた気がしますけど、そういうことにしときましょうか」

 

 私たちがそんな会話をガチャガチャやっていたのは、トップロードさんの控え室。デビュー戦ながらトレーナーさんの言う通りトップロードさんは一番人気で、いきなり大きな期待を背負ってしまったという感じである。私としてはまだ一番人気など取ったこともないので、想像のつかない世界と言えるかもしれない。そういや秋の天皇賞の時も、スズカさんと違って私は、なんて考えたっけ。それはともかく。

 

「大丈夫ですか? トップロードさん。結構目がぐるぐるしてますけど」

「あうっ、そうですか……。正直、緊張しているかもしれません」

「そりゃ、無理もないですよ。レース前って、これからずっと緊張するもんですからね」

「そう、ですね。ありがとうございます。やっぱりスカイちゃんは、頼りになる先輩です」

「トップロードさんにそういうこと言われると、なんだかくすぐったいですねえ」

 

 散々先輩風を吹かせてしまったけれど、今になってちょっと恥ずかしく。トップロードさんに教わったことの方がよっぽど多いし、この数日で返せたのはほんの少しだけ。それでも私たちは、これからも続いてゆくから。

 

「ほら、時間ですよ」

「……はい! いよいよ、ですっ」

「行ってこい!」

「行ってきます!」

 

 そうして、二人がかりで背中を押して。いよいよトップロードさんのトゥインクル・シリーズが始まる。新しい世界が、幕を開けるのだ。

 ……ちなみに、レースの結果はというと。

 

「惜しかったな。クビ差二着。次は勝てるぞ!」

「はい。……でもやっぱり、勝ちたかったですね」

 

 惜しくも二着に破れ、初戦から白星とはいかなかった。そういう結果。もちろん誰だって自分が無敗神話を築けるなんて思ってはいないけれど、負けは悔しい。とはいえそれも当たり前のこと。本気でやっているから、負けたら悔しいんだ。悔しさで歪むトップロードさんの口から、また言葉が繋げられる。凛とした口調で。まだ、迷えども。

 

「次は、勝ちます。もちろん、勝てるとは限りません。それは、これから先ずっとです」

 

 迷えども、挑み続ける。それは祈り。

 

「でも、勝ちたいって思います。負けを無駄にしたくないって、ずっとずっと走りたいって」

 

 迷えども、走り続ける。それが夢。

 

「……だって今日、とっても楽しかったですから!」

 

 迷えども、そう笑えるのは。それこそきっとこの人の一番の強さだと、私はそう思うのだ。

 そうしてまた一つ、始まった。




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綺羅満つ感謝とストラテジストパスト

 晴天の霹靂。あるいは驚天動地。はたまたそれとも空前絶後。……なんて、名前に引っ掛けた言葉にするほど大それたことではないんだろうけど。それでも確かに驚くべき知らせが、私の元に伝えられた。新聞も雑誌もテレビもそう言っていたから、多分間違いない。

 

「有マ記念一番人気は、セイウンスカイ」

 

 十二月も半分以上が過ぎた頃だった。何度目かの大一番で、いよいよもって。私にとっては初めての、最高の期待だった。

 

「おはようございます、セイちゃん。人気投票の結果、出ましたね〜」

「おはよーグラスちゃん。いや、正直びっくりしてるよ」

「……ふん! 人気が実力と結びつくとは限らない。スカイさん、それは覚えておくことね」

「キングもおはよー。……まあ、それはもちろん」

 

 その日の朝の教室は、相変わらず寒いはずなのになんとなく熱気を感じた。心当たりは大いにあって、もう直ぐに控えた有マ記念の話題がそこかしこから聞こえてくる。年末の大一番、集大成になるレース。ウマ娘たるもの、それについて盛り上がらずにはいられない、といった感じで。……そしてその話題の中心に、このクラスから出走する私たちの存在があるらしいこともわかる。クラシック戦線でもそうだったけれど、注目を浴びるのはやはり慣れない。むずむずする。何より今回は、先に述べた通り。

 

「一番人気、かあ」

 

 京都大賞典以来の、シニア級の先輩方との一戦だ。もっともクラシックを走り切った私たちにとっては、これからはこれがスタンダードになるのだけど。とはいえそのシニア級の初戦で、初めての一番人気。初めて尽くしで流石のセイちゃんもてんてこ舞いである。

 

「セイちゃん、浮かない顔ですね」

「そうかな? 私はいつもこんなぼやっとした顔だよー」

「適当なこと言わないの。もっとシャキッとしなさいよ、貴女」

 

 誤魔化し方もキレが悪い。グラスちゃんにもキングにも、私の不安は見破られている。そう、不安だ。こうしている間にも、耳をぴくぴくと揺らす周りの声。そこに混じってくる、私への期待。

 それらの裏側にあるのが、私の持つ不安。もう本当に今更で、自分でも飽き飽きする理由だけど。

 

「一番人気で負けたらどうしようとか、思ってるんじゃないでしょうね」

「……それはもちろん、思いたくなんかないけどさ」

 

 キングが私に言っているのは、自分の二の舞になるなという意味だろう。期待を背負い、あるいは期待を向けられないで。どちらにせよ期待に拘泥し、もがき苦しんだかつての彼女。

 そして私が思うのは、そうやって誰かの前例を見て敗北を恐れることそのものが、その誰かに対して失礼ではないかということ。レースに絶対はない。出走者全員が心の底から勝ちたいと思っている。そこに「一番人気だから」などという理由づけをしてしまうことこそが、なによりもよくないことだとわかっているのに。

 

「ごめんね。キングやグラスちゃんには、言っちゃいけないことだから」

「ライバルなら、ということですね」

「私も深入りしすぎたかもしれないわね。……ごめんなさい」

「ううん、ありがと。でもやっぱり、緊張するのはホントかな」

 

 そう、この不安はグラスちゃんとキングには吐き出せない。吐き出してはいけない。理由は単純で、グラスちゃんの言う通り。ライバルだから、彼女たちに私をそのまま応援させるわけにはいかない。人気という仮初の序列は、あくまで事前の期待値でしかない。私たちは互いに、己の勝利を優先するべきなのだ。

 

「緊張、ですね〜。私ももちろん、一番人気は緊張します」

「グラスさんはしょっちゅうじゃない。まあでも、何度目でも緊張するものよ。そもそもレースなんて、慣れてしまったら終わりじゃない」

「慣れたら終わり、か。それは確かに」

 

 流石キング、時折鋭い。緊張しない奴が、本気でレースにひりつかない奴が。そんな調子のウマ娘が、他の誰にも勝てるわけがないということ。出来るだけやる気なさげに振る舞いがちな私としては耳の痛い話だが、やはり認めざるを得ない話だ。

 ……それくらい会話を重ねたあたりで、きんこんかんとチャイムが鳴って。

 

「あら、もうこんな時間。そろそろ席に戻りましょうか」

「あーあ、最近あんまり寝付けないんだよね、授業中」

「……しっかり授業は受けなさい」

 

 そうして、日常はまた一つ区切られる。変わり映えのないように見えても、一つずつ変わっていく。

 私の緊張もいつか、更なる形に変わっていくのだろう。そんな確信めいた予感を、ふわりと空に浮かべた。

 

 

 とはいえそう簡単に、悩みや不安が解決するでもなく。されどやっぱり時間は進むので、今日も今日とて放課後はトレーニングである。チーム<アルビレオ>においても有マの人気投票はかなりの話題になっていた。チームメイトは皆私とキングを何かと気にかけて併走やらに付き合ってくれるし、これもやはり期待の表れなのだろう。

 でもトップロードさんはもうすぐ二回目のレースがあるんだから、そんなに私たちに構ってる場合じゃないと思うんだけどね。確かよりによって有マと同日にあるはずだ。けれど当然それを年末の大一番より楽しみにしている人もいるのだろうし、そういう「一番人気」だけじゃない事例は枚挙にいとまがない。

 だから一番人気は、当然それだけで勝負が決まるわけじゃない。どうしても、そのことを考えていた。冬の空はすぐに青から色を変える。急かすように夕日は沈みゆく。風はどんどん冷たくなり、立ち止まっていたら身震いしてしまう。だから私は身体を動かしながら、なんとか心にも折り合いをつけようとする。期待と不安の折り合い。いつものことで、いつも難儀すること。そういう意味では永遠に解決しないのかもしれない。

 

「スカイ! あと一周、いや二周だ!」

「はーい、トレーナーさん。トレーナーさんのスパルタも、この一年変わりませんでしたね」

「当然、努力と根性が何よりも大事だからな!」

 

 えっほえっほと坂路を走りながら、そんな軽口を合間に叩く。まあ私がそう言うほど、トレーナーさんが変わってないわけではないのだが。キツい練習には変わりないけど、ひたすらコースをぐるぐるしてた頃に比べたら理論的なものが使われている。併せとか前は滅多になかったし。トレーナーさんなりの成長というやつだ。

 だからみんな変わっている。何かを通して、経験して。私もきっとこの有マ記念で、また変わる。ううん、今日この日だって、昨日よりは。そういう意味合いを込めて、一つだけこっそり誓いを立ててみる。誰にも言わない秘密の誓い。

 

「……さ、頑張りましょっか!」

 

「一番人気」へのプレッシャーは、自分一人で立ち向かおう。これまで私が変わってきたことを示すため。誰かのおかげでここまで来れたから、その人たちにありがとうって言うため。この重圧を跳ね除けられれば、私は更に先へいける。一番だって予想さえ超えて、私は。

 

「ああ。頑張るぞ!」

 

 私はあなたに、褒められたい。これからもずっと、期待のその向こうへ。だってトレセン学園に来て、最初に期待してくれたのがあなただった。だって私が走り出す時、最初に支えてくれたのはあなただった。ウマ娘というのはいろんな事情で走るもので、私もその類に漏れずたくさん抱えて走っているけれど。

 あなたはとっくに、そのうちの一つになっているのだから。期待されて、褒められたい。そんな子供じみた欲求は、あなたにしか見せられない。けれどあなたが見てくれるから、私はそれを否定しない。ここまで、そうやって走ってきた。

 ここまでの成長。皆に頼ってしまう私から、皆に応える私へと。そんなありふれた変化を願い、やがて消えゆく夕空を見た。遠くて、澄んでいた。

 

 

 そんなトレーニングはほぼ毎日あるのだけど、当然休みの日もあった。お出かけも何もない、本当の本当に休みの日。ちなみに今日、この日のことである。自室の小さな机に向かって、のんびりノートに課題を書き連ねていって。たまに椅子の座りが悪くなって、むずむずしてきた身体を揺らしたり。それでも時間はたっぷりあって、私はなかなかのんびりできている。つまり私の好きな時間だ。それだけでも十分、ではあるんだけど。

 

「休みの日でもレースのことばかり考えるとは、私もすっかり仕事人間ですなあ」

 

 なんて。そんな独り言は天井でつっかえて、窓の外には出ていかない。今は私だけが喋って、私だけが聞いている。まるで小さな鳥籠のように、小さな私は閉じ込められて囀るだけ。そう、閉じこもりたい気分だったから。狭いのはキライだけど、たまには。

 レースのことを、考えていた。それはもちろんこれから走る有マ記念とその先であり、それはもちろんこれまで走った菊花賞とその前のこと。私はなんで走るんだろうなんて、漠然とした青々しい悩みを、今なら。総決算となるレースを目の前にして、それなりにふさわしい仰々しさだ。

 走る理由として浮かぶことは、当然一つには絞られない。まず最初にあったのは、幼い私の諦めだけど。その時励ましてくれたじいちゃん。それを引きずってトレセン学園に入った私。そんな私を見出したトレーナーさん。そしてそこから連なる繋がりが、今の私の走る理由。

 じいちゃん。トップロードさんたちチームメイト。同期のみんな。フラワー。<デネブ>のトレーナーさん。<アルビレオ>のトレーナーさん。ぱっと浮かぶだけでもこれくらい。一人気ままに、なんて学園生活を思い描いていた入学初日からは、随分遠くへ来てしまった。どうせ私なんか、そう思っていた頃より随分色々なものを背負ってしまった。

 臆病で諦めがちな私を応援してくれている。こちらに向けて勝ちたいと言ってくれている。どんな気持ちであれ、期待してくれている。それがどうしても嬉しいのは、それこそ否定しようがない。……一番人気だって、そういうことだ。不安だなんだと言ったって、やっぱり、どうしても。

 

(嬉しい、よねぇ)

 

 声には出さなかった。やっぱりこれは、一人で解決すべき気持ちだから。止まらない不安も、舞い上がってしまう感情も。青空にだって、見せてはいけない。私の、私だけの。希少ではないと思った。けれど、誰のものでもないとも思った。キングやグラスちゃんがそれをいつも独りで抱えていた、その理由がなんとなくわかった。一番の期待を背負うことは、とても大切で、抱きしめたくなるような。たとえ、胸が張り裂けるとしても。

 そんなふうに強く、痛く思うほど。

 かけがえのない、悩みだった。

 

 

 お昼は超えた。昼ごはんは寮の近くのコンビニで買った。学食の方がコスパも味もいいんだろうけど、なんとなく今日は学園とは離れていたかった。そうして、あくまで一人で考えたかった。いつかの夜とは違って、私は私から独りを選択していた。それも成長なのかもしれない、そう思った。

 コンビニ弁当を買いに行くだけでも、いつもの私の世界とは少しズレてくる。休日らしいそれなりの人通りの街並みをゆけば、芦毛の毛並みを見るだけでピンとくる人もいる。顔まで見ればそこらの子供だって気づいてしまった。やれやれ有名人になったなと、改めてそんなことを実感した。そこに期待があるのだろうと、それも含めて。

 ぱちん、と割り箸を割って、買ったばかりのハンバーグ弁当の蓋も開ける。ちなみにウマ娘にとって割り箸を割るのはそれなりに高度な技術を要するため、トレセン学園食堂においてはプラスチック箸が大体よく使われている。

 私が慣れていたのは、じいちゃんのおかげだろう。どこかに出かけるとなれば、使い捨ての箸でないとなくしてしまった時が大変なのだ。そんな経験が多いのは、私の場合はじいちゃんがきっかけ。釣りも含めて、幼い私を色んなところに連れていってくれたのがじいちゃんだった。

 今思えば、私がひとり立ちするための練習も兼ねていてくれたのだろう。あの日、私が諦めることを覚えたあの日。あの日まで、私の世界はその小さな脚で辿っていけるところまでだった。そうしてそこから出ていくのは、どうしようもなく怖かった。そんな時に手を差し伸べてくれたのが、じいちゃんだった。

 ちまちまとまだ温かいコンビニ弁当を摘みながら、ふとそんな過去に思いを馳せる。過去、か。じいちゃんはどうしてるんだろうなんて、まだトレセン学園に来て一年ちょっと経ってないのに懐かしがることじゃないよね、まだまだ学生の身分は長いんだし。それでもそれくらい遠くに感じてしまうのは、やはりそれだけ私が変化したということだろうか。

 先程並び立てた、「走る理由」。そこにいる人の中では、きっと今は私から一番遠くなってしまったのだろうけど。テレビなりで私の走りを見てくれていて、私にとってはちょっと負い目もあるご近所さんにも嬉しそうに報告してたりして。そうだったら嬉しい。そうでないと、私の走る理由は一つ欠落してしまう。

 改めて、私は私の期待を噛み締める。ファンのみんな、周りのみんな、トレーナーさんに、じいちゃんまで。やっぱり私は、その全部に応えたい。最初から最後まで、全部に。今までいっぱい出来た繋がりへの、私なりの恩返し。たとえばじいちゃんには、自慢の孫になりたい。たとえばトレーナーさんには、褒められたい。たとえばフラワーには、いつかの手本になってやりたい。たとえば。そんなふうにつらつらと、いくらでも並べてしまえるのは。

 並び立つのはきっと、一番人気への私なりの応え方。心に秘めた、誰にも言えない誓い。正確に言えば少し気恥ずかしくて、直接は言えない決意表明。私にはどうにも、期待を誑かす方が向いている。それでも。

 それでも自分の気持ちにだけは、やっぱり嘘はつけないんだ。

 すっかり弁当は食べ終わったけど、そんな考えごとであまり味はわからなかった。それどころか先程まで尊んでいた一人の部屋もなんだかむず痒くて、気づけば私はまた外出の準備をしていた。まだ昼間だ。まだ空は青い。まだ、これから走るにはいい天気だ。そんなことばかり考えていた。悩みが消えたわけじゃない。不安もまだ残っている。だけど期待を背負っているから、私はそれを理由に走るのだ。

 ──拝啓、じいちゃんへ。電話するのは恥ずかしいから、こっそり心の中で言います。

 トレセン学園に行けって言ってくれて、ありがとう。

 




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最後の饗宴とスウィーティーホロウ

 その日にトレーニングがないことは、前日のうちから通達があった。私とキングとトップロードさんの本番を二日後に控える超直前のタイミングでお休みというのは、一度気持ちを落ち着けるみたいな意味合いでもいいことだと思うし、それはもちろん大歓迎なんだけど。

 トレーナーさんが言うには、今回のお休みは<デネブ>のトレーナーさんの提案らしい。つまりチーム合同で行われる「お休み」であり、それはもはや「お休み」ではなく。十二月二十七日の二日前、十二月二十五日にトレーニングを返上してでも行うイベントといえば。

 豪勢なディナーを皆で囲む。つまりそれは、クリスマスパーティであった。

 ……<デネブ>のトレーナーさん、そういうの結構好きだったんですね……。

 

 

「ほら、早く行くわよ!」

「ちょっと待ってよキング、焦らないでよ。それとももしかして、結構楽しみだったり」

「……なによ。楽しみにしてちゃ悪いわけ」

「べっつに〜?」

 

 授業が終わって放課後になった瞬間、そんな感じで私は暖房の効いた心地よい教室から引き摺り出された。いや、ちゃんと行きますよ? わざわざ二チーム合同で貸し切った家庭科室に行けばいいんですよね? キングの"かかり"っぷりにはちょっと引き気味だけど。

 

「家庭科室ってどっちだっけ」

「一階の南棟ね。そんなことより、もっと早く! 『廊下は静かに走りましょう』よ!」

「はあ。今更だけど、お嬢様はなんでそんなに急いでるんです? パーティって夕ご飯なわけだし、その時まではどっかで寝っ転がっててもいいんじゃないの?」

 

 改めて、昨日の練習終わりに伝えられた今日のクリスマスパーティの概要を思い返す。<デネブ>のトレーナーさん主導で行われる、チーム<アルビレオ>とチーム<デネブ>の合同でのクリスマスパーティ。家庭科室でご馳走をみんなで食べましょう、の会。つまるところ、ご飯をわいわい食べて解散する以外のイベントはない。だからこんな早くに会場たる家庭科室に行ってもなんの意味もない。……と思うんだけど。

 そんな疑問を私より早足ながら私に速度を合わせてくれているキングにぶつけてみると、返ってきた答えは知らない情報だった。あちゃー、みたいな表情のおまけ付きだった。

 

「まさか貴女、いや貴女なら見てるわけなかったわね。チームの連絡用LANEに、昨日帰ってからトレーナーが載せてた話なんだけど」

「……ひょっとして、練習終わりに言い忘れたことがあったりとか」

「そういうこと」

「まあ見てなかった私は他人のこと言えないんだけどさ、トレーナーさんって定期的にどっか抜けてると思いません?」

「……貴女の言う通り、お互い様、でしょうけどね」

 

 そう呆れた風のキングが「抜けてる」率は一番高い気がするのだけど、私は努めてそんなことは口にしない。我ながら友達想いの優しいウマ娘だなあ、などと思いました。

 閑話休題、そういうわけでキングが(ついでに私も)今家庭科室に急いで向かっているらしい。二人でゆらゆら、耳と尻尾を同じリズムで揺らしながら。揃える必要のないはずの足並みも、同じリズムで踏み締めながら。そのまま私の横にいる女の子は、やっぱり私の知らなかったことを教えてくれる。こんな小さなことだって。うん、君も優しいねえ。

 

「確かに今日の本番は、夜のお食事会だけど」

「うん。なら今向かってるのは、その前の時間のため?」

「そう。その準備も、私たちがするのよ。<デネブ>のトレーナーさん主導でね」

「え。その準備って、つまり」

 

 言われてみれば確かに納得で、だけど若干口にするのを躊躇ってしまうような本題。けれどキングはほどなくして、私たちが今家庭科室に向かう目的を述べる。いや、まさか。

 

「料理よ。食事の準備なんだから、料理をするのよ!」

「……クッキングヘイロー?」

「おばか! 私だけじゃなくて、貴女もよ!」

 

 まさか、だけどやっぱり。茶化してやる場合でもなく、私も巻き込まれているらしい。

 いや、料理? それも<デネブ>のトレーナーさんが主導? 思ったよりこのクリスマス会に入れ込んでますね、あの人。でもクリスマス料理なんて派手で手間のかかりそうなものを、私たちで? 言っちゃなんだけど、女の子の集まりなら料理ができるなんてのは古いステレオタイプではないでしょうか? でも当の主導者が女の人だった。まあそれはともかく、そんなことより。

 え、料理しなきゃいけないんですか? 

 

「スカイさん、貴女今『料理しなくちゃいけないんですか?』とか思ってるでしょう」

 

 ぎくっ。ああ神様、どうしてこのすっとこお嬢様はこう時折鋭いのでしょうか。

 でもだって料理なんて根気と時間の必要なもの面倒くさいし、それなら後で行って「いやー知りませんでした」みたいな顔でご馳走にありつくだけありついた方が、セイちゃん的にはベターだったなあ。

 

「どうせ『面倒くさい』とか。『後で料理だけ食べたい』とか。思ってるんでしょう」

 

 ぎくぎくっ。こういう時だけ妙に私を手玉に取ってくるキングヘイローというウマ娘を、なんらかの罪でしょっ引けないだろうか。そんな私の悪巧みは、内心の自由に留まりけり、という感じで。ここまでずばずば言われてしまえば、私としてはどうしようもない。万事休すとはこのことだ。

 

「ほら、行くわよ。貴女一人じゃ行かないんじゃないかと思ったから、わざわざ私が引っ張ってるの」

「なにそれ、本当は一人で行くのが寂しいだけなんじゃないの」

「……おばか」

「あ、図星だ。にゃはは、じゃあ今回はこれでおあいこということで」

「はあ。じゃあ、今更逃げないでよ」

「まあ、仕方ないねえ。他ならぬキングの頼みなら」

 

 そうやって、なんとか一矢報いてみて。だけどやっぱり、痛み分け以上にはならなくて。互いを互いに追い越し合うなら、どちらかが一方的に抜きん出ることはない。相変わらず早足に、同じリズムで駆けながら、私と君はそうやって語らっている。こんな小さな会話でも、確かな繋がりがそこにあった。イベントとイベントの合間にある道のりも、私にとっては必要な時間の一つなのだろう。そう、思った。

 それはそれとして、目的地についてからまた思ったのは。

 

「ほら、入るわよ」

「ねえキング、やっぱり」

 

 その先は言わせてもらえなかったので、慎ましやかに思うだけなんだけど。

 やっぱり、料理しなきゃダメですか……? 

 

 

「よく来たわね、セイウンスカイ、キングヘイロー」

「スカイさんもキングさんも、授業お疲れ様です!」

 

 家庭科室に入って、いの一番に私を出迎えたのはそんな二つの声だった。声の主はもちろん<デネブ>のトレーナーさんと、<デネブ>のリーダーたるニシノフラワーである。二人とも白いエプロンと頭には三角巾を既に着けていて、よく見れば彼女らの後ろにはおそらく人数分のそれがあった。はあ、私ももれなく着なければならないのか。

 

「にしても、お二人を除けば私たちが一番乗りですかね。たとえば我が<アルビレオ>のトレーナーさんとか、こういう時に率先して来てくれたりとかは」

「それについてはあらかじめ連絡があったわ。『有マに向けての作業が残っているから、一人の時間が欲しい』とね」

「なるほど。それでトレーニングに出来てしまう穴を埋めるために、貴女はクリスマスパーティを企画した」

 

 キングの言うとおりの成り行きなら、なんとなく辻褄は合う。それで納得しようと思ったのだけど、それだけではないのだろう。たとえば今<デネブ>のトレーナーさんの横にいるフラワーは、やたらと手をもじもじさせているし。あとは、たとえば。

 

「それもあるわね。……でも」

「でも?」

「……私、もしトレーナーになれなかったら、トレセン学園の食堂で働きたいと思ってたの」

 

 たとえば、この人も。少し茶色がかったロングヘアは、今日は三角巾の中に隠れていた。そんな戦闘態勢からも、やる気が満ち溢れている。それにしても、あなたともそれなりに長い付き合いな気がしますけど。

 そんな話、初めて聞きましたね……。

 なんて、やっぱりまだまだ知らないことはたくさんある。誰かについて、たとえば一年で全てを知ることなどできっこない。そしてそれはもっと知るための期間を伸ばしても変わらないことだ。どれだけの時間をかけても、人を知り尽くすことは叶わないことだ。

 なぜかと問われれば、理屈は簡単。人は常に変化しているから、常に知らないことが生まれる。常に成長しているのは、きっと大人になってでも。誰かと関わり繋がる限り、私たちはどこまでも広がっていけるのだ。

 

「さて、では早速着替えてもらうわよ。メインディッシュにオードブル、締めのデザートまで。材料は午前中のうちに私が運び込んで置いたから、あなたたちは指示の通りに材料を片付ければいい。簡単ね」

「頑張りましょうね、スカイさん、キングさん! 私、クリスマスのご馳走なんて作ったことないから、すっごく不安ですけど……頑張ります!」

 

 すみません、お二人とも。簡単ね、と言われてもそんな気はしませんし、不安です、な口振りにはとても聞こえません。そんな共感を呼ぼうとキングと顔を見合わせようとしたが、残念なことにもはや彼女は躊躇っていなかった。この人も、スイッチが入るとノリノリになるタイプである。

 

「……やあってやろうじゃない! 一流のウマ娘は、料理のテクも一流! それがこの私、キングヘイローなんだから!」

 

 そのままおーほっほっほ、と付け加える必要性を感じない高笑いを付け加えて。これで料理に乗り気な人は三人で、いや多分最初からずっと3:1だったのを見ないふりしてただけなんだけど。とどのつまり、私にできるのは降伏の姿勢のみである。まあ、そもそも。

 和気藹々、気合十分。よく知る人たちがそうやって盛り上がっているのを見て、心が高鳴らないほど薄情ではない。もしかしたら昔はそれを目指していたかもしれないけれど、今はそうじゃない。

 私には、みんなが必要だ。だから、私も。

 

「じゃ、私もやりましょっかねえ」

 

 そう言って、腰を上げた。それは重いつもりだったけど、動かしてみれば羽が生えたみたいだった。白鳥の羽は、星の繋がりでできていた。

 ……とはいえやっぱりというか、なんだけど。

 

「さて、ならそろそろ担当料理を決めていこうかしら。早めに来てくれたから、必然的に手間と時間のかかる料理を皆には任せることになるけれど」

「私は構いません。トレーナーさんの期待に応えられるように頑張ります!」

「当然、私も。一流にふさわしい割り当てを頼むわよ!」

「じゃあ、まあ。文句は言いませんけど」

 

 なんとなくこの時点で、今更引き返せないだけで、嫌な予感はしてたんだけど。

 

「ありがとう。なら、まずはセイウンスカイ」

「はい」

 

 何故か真っ先に指名された時には、もう手遅れだったんだけど。

 

「あなたには、これをお願いするわ」

 

 そう言って、トレーナーさんは背後のテーブルに山ほど積まれた料理本の一つを開く。開かれたページに写っていたものは、私でも見覚えのあるものであり。つまりそれくらい、メインどころの料理というか。

 

「8号ホールのショートケーキ。クリスマスケーキの担当。それがあなたの仕事よ、セイウンスカイ」

 

 およそ私に想像できる中で、一番の大役だった。

 ……やっぱり、料理しなきゃダメですか……? 

 




クリスマスは二話に分かれます
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刻々拍動とスティルチルドレン

 古の時代から新しいものごとというものは、人をことごとく悩ませるものである。特に私のような、不真面目な人間にとっては。

 

「うえ……これほんとに私がやるんですか」

「そうよ。あなたなら出来ると思ったから」

 

 そう私がぐちぐちと指差したものは、先程<デネブ>のトレーナーさんが目の前に持ってきたケーキの材料一式。あなたなら出来るって、この大量の粉とか道具とか、一つも今まで見たことないんですけど。

 

「無理そうだったらヘルプを頼むつもりだけど、できればやり遂げてほしいわね」

 

 そう言ってコック長もといトレーナーさんは、傍をちらり。その先にいるフラワーは食パンを何やら型でくり抜いているし、キングは一心不乱におにぎりを握っている。ちなみにさっきまで「なんで私がおにぎりなのよー!」と嘆いていたのだが、それでも既に己の仕事に取り組んでいる。

 そうなればやはり、私だけ逃げ出すわけにはいかない。少なくともそう思い、若干消極的な決意を固める。……いやでも、私だけ大変じゃないですか?

 

「じゃあ私も、自分の料理に取りかかるから」

「ちなみにトレーナーさんは、何を作るんですか」

「鶏の丸焼きよ。昨日下拵えはしたから、あとは詰めたり焼いたりだけど。メインディッシュは、他人には任せられないわ」

 

 言って、きびきびと<デネブ>のトレーナーさんはどこか──すなわちチキンの調理──に向かっていく。なるほどそれに比べたら、私に与えた仕事は任せてもいいもの……なのだろうか? 料理など詳しくないから、さっぱりやっぱりわからない。

 あるいはそれくらいこの人が私を信頼してるとか、期待してるとか。そんなことも少し考えて、それを打ち消せるほどの材料はなくて。ならばこれにも応えたいと、願いを一つ閃いた。

 

「よし、頑張りましょっか!」

 

 そしてもう一つ。意外な仕事を成し遂げたなら、あなたも驚いてくれるかもしれない。おそらくまだ一人トレーナー室で書類と格闘している、私のトレーナーさん。ちゃんとデザートには間に合うかな? 

 それは私にはどうしようもないことだけど、だからこそ私は私のことができる。私なりのやり方で、あなたにできないことができる。なんて、そんな大げさなことじゃないかもしれないけどね。

 それでも今日の私にできることは、言い訳できないくらいに決まってしまった。いややっぱり、作りながら泣き言を言うかもしれないけど。だけど頑張る。うん、いつものトレーニングと同じ。手に何やら持ってひたすら待つのも、だいたい似たような経験がないわけじゃないし。

 そんな感じで、色々考えたり。

 それでも結論は決まっていて、その思考は一瞬で過ぎ去る程度のものだったり。

 そして私は、ぱんぱんとエプロンを叩いたりして。

 そっと、気持ちを切り替えた。

 

 

 まずは土台を作らなきゃいけない、とレシピには書いてあった。スポンジケーキ作り、というやつだ。私が小さい頃にも、たまーにケーキを食べさせてもらえることはあった。

 その丸い形が当たり前のように崩れないのを見て、「どうしてケーキは丸く出来上がってるんだろう」と考えたことがあったんだけど。実際作ってみる段になると簡単な話で、型にはめて焼けばいい、というだけらしい。何事も便利な道具があるということである。

 とはいえ今回用意された型は見たことのない大きさだ。それは当然、それだけ大人数で食べるから、ということだろう。などと適当な思考と共に、作業を進めていく。

 こうして実際にやってみると調理工程とはなかなかどうして面白いもので、全ての工程に意味があるのがわかる。

 たとえば型にクッキングシートを敷いておくことは、生地と型の間に隙間を作り抜き取りやすくする意味がある。

 たとえば今のうちからオーブンを予熱しておくことは、後で実際にオーブンを使う時にしっかり最初から熱が通るようになる意味がある。

 そういうことは素人ながらわかって、納得がいく。納得がいくというのは、理論がしっかりとしているということ。……うん、<デネブ>のトレーナーさんが料理が好きな理由がわかるな、これは。というより料理が好きだから、<デネブ>のトレーニングは理論を重視しているのかも? 

 そんな横道にそれた疑問も交えつつ、とりあえずまずは下準備。型にクッキングシートを敷いて、小麦粉を振るっておく。オーブンを予熱する。あとはスポンジケーキを作った後のために、あらかじめホイップクリームを作る時用のボウルを冷やしておく。などなど。やることは多い。

 なんとも序盤から忙しいが、後のための仕掛けのようなものだ。そう思えば我ながらめげずに大量の作業をこなせた。ひょっとして、向いてるかも。

 などなどと、時間は緩やかに進み。

 

「遅くなってすみません! ちょっと頼まれごとをしてしまってて……」

「遅いですよ、トップロード先輩!」

「わっ、キングちゃんごめんなさい! ……そのおにぎり、すっごく綺麗ですね!」

「……と、当然! 一流のおにぎりとはこのことなんですから!」

 

 そんな会話が聞こえるように、トップロードさん含めて他の子が家庭科室に集まってきた。その様子はチーム<アルビレオ>とチーム<デネブ>のまさに混合であり、そしてみんな来た順番に<デネブ>のトレーナーさんの指示で各々の作業を始めていく。キングやフラワーのところで手伝ったり、サラダとかの新しい料理を作ったり……それはいいんだけど、いいんですけど。

 私のところには一人も応援が来ない。正確には<デネブ>のトレーナーさんも相変わらず一人でチキンやその他のメインディッシュに近いものを作っているようだけど、あの人は好きでやってるんじゃないか。いや私も案外料理は嫌いじゃないみたいだけど、一人でやるのは大変な気がしてきた。

 とはいえたとえば今やってる生地作りなんかは、手伝えばなんとかなるものでもないし。まずは卵と砂糖を混ぜて、そこにさらにバターを混ぜて。これが終わったら電動のハンドミキサーに持ち替えて、更に混ぜる。正確には高速設定で混ぜた後に速度を落としてもう一度らしいが、とにかく混ぜる。二人で混ぜて二倍の速度になるとはどこにも書いていなかった。先程までは理論を感じたのに、ここにあるのは純粋な根気の問題な気がする。まるで<アルビレオ>の練習みたいな。私の苦手なやつじゃないか。

 やれやれとボウルの中身を混ぜ続けていたところで、とんとんと肩を叩かれた。後ろを振り返ってみれば、もちろん見慣れた小さな姿があった。エプロン姿は見慣れていないかもしれない。

 

「どうですか、スカイさん?」

「わっ、誰かと思えばフラワーじゃないですか。自分の持ち場を離れたら、サボりで言いつけちゃうよ〜」

「からかわないでください。……ちょっと他所を見てくるからって他の子に任せたのは、ほんとですけど」

「おやおや、まあ今回は見逃してあげましょう」

 

 そうフラワーと話すと、少し息抜きになった気がする。気づかないうちにかなり集中していたようだ。こんなひたすら根性で続けるようなことにも集中できちゃう人間になっちゃったか、私。

 そんな私の心の内を見透かすように、ふふっと笑ってフラワーは言葉を紡ぐ。そんなことばかり上手くなって、私みたいな悪い大人にならなきゃいいけど。

 

「スカイさん、楽しそうですね。ちょっと心配してたので、安心しました」

「楽しそうに見える? 悪戦苦闘の極み、だけどね」

「はい。本気で嫌々やってたら、トレーナーさんに抗議するつもりでしたから、私」

「そりゃ過激だ。そうならないなら、良かったのかな」

「もちろんです。スカイさん、普段から弁当とか作ってみるのはどうですか? 楽しいですよ、お弁当作り!」

「うーん、前向きに検討しておきます……」

 

 やはりフラワーも料理愛好家の類であったか、というのはさておき。他の人からもそう見えるのなら、私は結構向いてるのかもしれない。料理そのものというより、何かを作り上げることだと考えると筋は通る。策を練り上げ、理屈を捏ねる。そういうことはやっぱり楽しい。

 でも、それだけでもなくて。

 

「まあでも、昔の私なら多分すぐにやめてたよ」

「そう、ですか?」

「うん。だって私が目指してたのは、一人気ままに楽して生きることだからねー」

 

 物事に含まれる要素は、一側面だけではない。どうしてもコインの裏表のように、楽ありゃ苦ありのバランスがある。以前の私なら、その片方しか受け入れられなかった。たとえば料理の工程を見るのは楽しくても、実際自分でやる根気はなかった。

 そうでなくなったのは、トレセン学園での生活があったから。私は数々の繋がりから、「セイウンスカイ」を変化させていた。誰かのおかげで、私自身の力でもある。そんな成長が、今の私にこうさせている。今の私は、こうしたいと思えている。

 

「さて、そろそろ生地をオーブンに突っ込めるかなあ」

「お疲れさまです!」

「ありがと。それにしても、結構体力使うもんだね」

 

 ボウルで生地を混ぜて、小麦粉を加えて更に混ぜて、バターも加えて更に更に混ぜて。本当に根気の要る仕事だった。まあでも、<アルビレオ>のトレーニングに比べたら楽勝だ。これもひょっとしたらトレーナーさんのおかげと言えるかもしれない。

 何はともあれ、ようやく。出来上がったどろどろの生地を、最初に用意した型に流し込んで。これまた最初に温めておいた、オーブンの中に突っ込んで。ようやく。

 

「ようやくひと段落、だね」

「焼き上がるまで、ちょっと休憩した方がいいですよ」

「フラワーみたいに、ね」

「あはは、そうですね……。でも、根を詰めすぎないのは大事ですよ?」

「そうだね。じゃあ今度は私がフラワーのところにちょっかいかけに行こっかな」

「それは、あの。緊張して、集中できる気がしないので……」

「冗談だよ。これ以上フラワーをサボらせるわけにはいかないしね」

「……もう」

 

 というわけで、オーブンで焼くこと三十分。その三十分の潰し方は、別のところに求めるところにした。今ひらひらと手を振って見送ったフラワーとは、別のところ。

 

「キングちゃん、追加で炊き上げました! これでお米は全部、ですっ!」

「ありがとうございますトップロードさん! ……たったの十合、一流が全部『握って』見せるわーーっ!」

 

 ……うん、別のところ。なんだか私とは、別の意味で根を詰めている気がするし。ちょっと流石に面白そうで、ちょっかいのかけがいがありそうだし。そう思ってそちらに歩き始める前に、少しだけ窓の外を見て。

 聖夜はまだ、始まってすらいなかった。




クリスマスもう一回くらい分かれそうです
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乙女たちと担い手たちのスキャット

「すごい……すごいですっ、キングちゃん! こんなにたくさん、こんなにばーっと……。しかも、すごく形もきれいです、このおにぎり!」

「おーっほっほっ! そうです、そうなんですトップロード先輩! 私はおにぎり一つ一つにも手を抜かない、真の一流ウマ娘! そう、その名は!」

「キング、ヘイロー-っ! ……よーし、私も負けてられないですね!」

 

 うわ、キングコールに乗っかってる。こりゃトップロードさん、重症だな。ちなみに乗っけてるお嬢様はもう手遅れだ。そんな感じで見たところ、二人ともすっかり出来上がってしまっている様子。そんな危険なハイテンションたちにちょっかいをかけようとしているセイちゃんの未来やいかに。なんて、面白そうだから首を突っ込むだけですけど。

 女三人寄れば姦しい、とも言いますし。まだ姦し足りないだろう、などと思いながら声をかけに行く。……と思って近づいたあたりで、逆にあっちから声をかけられた。相変わらずお米をんしょんしょと握りながら、である。

 

「あらスカイさん、自分の仕事は大丈夫なのかしら? 私は当然、一切問題ないわよ! 何故なら! 私は!」

「キングヘイローだから、だねー。ちなみに私はセイウンスカイですが、それでも今のところは問題ないよ」

「スカイちゃんも、お疲れ様ですっ! 実はこっそり、たまーにそっちを見てたんですけど……あれって、ケーキですよね!」

「そうなんですトップロード先輩、スカイさんは<デネブ>のトレーナーさん直々にホールケーキを作るよう頼まれていて。……一応今のところ問題がないのなら、心配は杞憂だったみたいだけど」

「おやおや、心配してくれてたんだ。でもキングが素直にそんなこと言うなんて珍しいね。雪でも降るんじゃない? ……って、今の季節じゃありえない話じゃないか」

「……たまには、ね。ほら、今日はクリスマスでしょう。いつも同じ時間を過ごせることの得難さを、再確認する日。……だから、たまには、よ」

 

 そんな知識がすらすらと出てくるのは、流石良家のお嬢様、といったところか。でもそこから語られた言葉は、素朴でなんだかくすぐったい。たとえば宗教的な意味合いとかは私にはさっぱりわからないだろうけど、キングの言うようなクリスマスは私にもわかる。多分、今までも自然とそうあろうとしていたものだから。みんなのために、ケーキを作る。いつものみんなで、いつもと違うことをする。なんとなく、素敵なことだと思った。この時間とこの繋がりが、きらきらして見えた。

 やっぱりキングは、私とは違うことを知っている。もちろん私はキングのことを多少知っているし、キングも私のことを結構知っている。でも全部は知らない。どちらかがどちらかを掌握することはできない。だから、互いに競い合えるのだろう。

 そんな会話のわずかな切れ間に、ふと口をはさむ人がいた。彼女もまた、素直な気持ちを口にする。いつもは頼れる先輩で、ときどき私たちを追いかける後輩。だからトップロードさんの言葉は、青く、青く響く。

 

「……やっぱり、キングちゃんとスカイちゃんの関係って、いいですね。憧れちゃいます」

「トップロード先輩には、そういう方はおられないのですか」

「いるはずですよ? 一緒に走ってくれる、ライバル。でも、本当にそうなれるかはわからないじゃないですか」

 

 トップロードさんが抱えた疑問は、あるいは私たちも抱えていたもの。期待されてデビューして、それでも期待通りにいくとは限らないのがトゥインクル・シリーズだ。現にトップロードさんは、デビュー戦を落としてしまった。ぎりぎりだけど、そのぎりぎりの差は三女神様にすら揺らがせない絶対のもの。蓋然性のみが絶対だからこそ、レースに絶対はない。それは勝てるチャンスがだれにでも平等だ、という意味ではあるけれど。

 そうではないもう一つの可能性。それはやはり、見過ごせない。勝利を見据えているからこそ。

 

「これから先、ライバルと勝負して。もしその結果、歴然とした差が開いてしまったら。……それでもライバルだと、私は言い続けられるでしょうか」

 

 気づかないうちに、全員の手が止まっていた。真剣な話だった。あるいは今日この日にはそぐわないのかもしれないけれど、今日だから話せる悩みかもしれない。なんて、私はそれなりにトップロードさんの悩みを聞いたことがあるのだけど。それと重なる話もある。つまり何度もぶつかって、迷い続ける悩み事なのだろう。

 ……とはいえ、今日は前とは違う。それならやっぱり、今日だから。今日だから、「彼女」も話を聞いている。だから、彼女が口を開く。いつもと違う口調で。いつもと同じ、「彼女らしさ」で。

 

「トップロード先輩。……少し、いいでしょうか」

「はい。なんでしょう、キングちゃん」

 

 凛と、キングはトップロードさんに向きなおって。少し米粒が散らばったエプロン姿でも、その佇まいは際立って見えた。綺麗だな、なんて。

 

「私はそこのスカイさんに、一度も勝ったことがありません。クラシック三強などと呼ばれたのも昔のことで、次の有マは十番人気です。デビュー前の期待にはもう応えられないのかと、怖くなる時はあります。今でも、です」

「……それは」

「ええ、それは今トップロードさんが持つ不安と同じものです。もちろん私は全力を尽くそうとしたつもりです。それなりの結果も出ています。けれど、今の私はスターダムにはいないのでしょう」

「きっと、辛いですよね」

 

 キングの口から弱音のようなものを聞くのは、あのダービーの後以来だった。あの時私に話したように、今はトップロードさんに話している。そして、その言葉で導けるものもあるのだろう。だからきっと、彼女は勇気を出して。声の震えさえ抑えて。自分じゃない誰かのために、自分の言葉を振り絞っているのだ。

 

「……でも、それは今だけです。辛酸を舐めるのは、今の私です。その先にいる、未来の私ではない」

「それが、キングちゃんの走る理由」

「今は泥に塗れた敗者だとしても、明日はどうかわからない。……そういうことよ、スカイさん。貴女に負けっぱなしでいるつもりはないわ」

「それはどうも。まあでもそういうことらしいですよ、トップロードさん。私も初めて聞いたかもしれません」

「……なんだか最近、後輩にアドバイスをもらってばっかりですね、私」

「そりゃ、今は私たちが『先輩』ですからね。それでもいつか一緒に走る時は、手加減なしですよ」

「はい! 楽しみにしてます!」

 

 すっかり元気になったというか、私が来る前に戻ったというか。でもそれは私が来たから気落ちしたのではなく、私がいたから吐き出せたことだ。あとキングも。そうやって悩みを言える誰かがいるというのは、当たり前のように見えて素晴らしいことなのだろう。この繋がりが、これからも続きますように。そういったところで、私なりにこの会話に結論をつける。

 そう、あっという間に三十分、すなわちあのおっきなスポンジケーキが焼きあがる頃合いだ。見ればいつの間にかおにぎりづくりは再開しているし、そのうちまた高笑いが始まりそう。

 というわけで、そそくさと退散。翻って自分の持ち場に戻るとき、窓の外の夕焼けが目に沁みた。

 

 

 さて、ケーキ作りは後半戦である。私の目の前にあるのは八号サイズのホールのスポンジケーキ。ちなみに八号とは直径24㎝であり、だいたい十二人ぶんらしい。<アルビレオ>と<デネブ>を合わせれば大体それくらいである。正確には少しだけ一人当たりが小さくなりそうだけど。

 まずこのせっかく焼き上げたスポンジケーキを横から真っ二つにする。見たことない長さのナイフらしきものが用意されていたが、ここで使うらしい。これ<デネブ>のトレーナーさんの私物ですか? いや、家庭科室の備品だと信じたい。……うお、これ切るの大変だな。

 そうしたら次はいよいよホイップクリーム作りである。ショートケーキなんだからホイップクリームは欠かせない。女子力ゼロの私でもそれくらいは分かる。……わかってはいたんだけど、用意されている材料がこれまた多い。一人で食べる量じゃないのに、なんで一人で作らなきゃいけないんでしょうか。ともあれ気合いだ。これも覚悟を決めるしかない。

 ちなみにホイップクリームを作る手順はどんなもんかというと、結局混ぜることらしい。材料が全部混ざるまで冷やしながらとにかく混ぜる。つくづく今日思うのは、料理が肉体労働だということ。トレーニングが休みの代わりに運動させられているといわれたら信じてしまいそうだ。電動のハンドミキサーがあるとか私がウマ娘だからとか諸々で楽をしている気がするが、楽してこれなのか、と言わざるを得ない。

 

(まあでも、たまにはいいかもね)

 

 なんて、声に出したら<デネブ>のトレーナーさんやフラワーに耳をそばだてて聞かれてしまいそうなつぶやきを心の中で。時間もかかるし、根気も必要だし。楽じゃないんだけど、だから楽しいのかも。人生を楽することだけに捧げるつもりだった私としては、悔しながらという感じではあるが。

 

「……よし」

 

 確かな手ごたえ。ホイップクリームが出来上がれば、いよいよ盛り付けといったところだ。まずはホイップクリームを半分にしたスポンジケーキの上に塗り付ける。べちゃーっと。これは若干おおざっぱなんだけど、その次が急に繊細になる。ショートケーキの主役、いちごの登場である。

 半分に切られたいちごを、ぐるりと一面に並べていく。ちなみにいちごはあらかじめ切ってあるものが用意されていた。用意してくれた<デネブ>のトレーナーさんには頭が上がらないような、そもそもその人に押し付けられた仕事のような。

 ふう、それにしてもいちごの並べ方にはセンスが出そうな気がするな。まあセイちゃんはそんなおしゃれなセンスがないので、円形に並べるとか隙間なく中心を埋めるとかの教科書通りを律儀にやるだけですが。あとはクリームでいちごのでこぼこを平べったくしてやれば、めでたく中心部分の完成。この上にさっき切ったもう片方の生地を乗せて……っと。

 

「あら、よくできてるじゃない」

「そりゃどーも、ですね。コック長からお褒めの言葉をいただければ、私のケーキも浮かばれるというものです」

 

 だいたいそこまでできたあたりで、<デネブ>のトレーナーさんが様子を見に来た。自分の料理は当然終わらせてきたみたい。というより、他のみんなは大体終わっていた。盛り付けをしながら、こちらにあるケーキをちらり、ちらり。……あれ、結構注目されてます? 

 

「どうかしら。これだけ注目を浴びながら繊細な作業をすれば、いい練習になるんじゃないかしら」

「まさか、それで私にショートケーキを」

「単純に器用そうだったから、というのはあるけどね」

 

 有マ記念、一番人気のプレッシャー。なんとここで判明したことは、今日もそれに向けてのトレーニングの一環だったということ。そう考えれば筋は通らなくもないけれど、若干強引というか、精神面のトレーニングみたいなのを<デネブ>のトレーナーさんが提案してくるのは珍しいというか。

 そんな疑問点は、<デネブ>のトレーナーさんの言葉ですぐに解消されることとなる。新たなもやもやの発生とともに。

 

「……まあ、一応弁明しておきたいのだけど」

「はい」

「貴女のトレーナーからわざわざお願いされなければ、私一人でこんな無茶ぶりをすることはないから」

「……ああ、全部腑に落ちた気がします。のんきにのこのこ現れたら、一言言ってやりたいかもですけど」

「それはお任せするわ」

 

 というわけで、今日の私の苦労は偏にトレーナーさんの指図によるものだったらしい。自分は一人で<アルビレオ>の部屋にこもって、料理なんかしてないくせに。というかあの人絶対料理とかできないはずだ、絶対そうだ。それなのにいっちょ前に担当ウマ娘には指図して、抗議しようにもここにはいないし。

 ……ああ、もう。今日くらい別にほっときゃいいのに、他人のことなんか考えて。今日のあなたは何も考えずにご馳走を食べてればいい。チキンとかおにぎりとか、ケーキとか。

 

「大丈夫そうね。……貴女、料理に興味とか」

「フラワーにも言われましたよそれ。前向きに検討はします。まあなにはともあれ、今日はありがとうございました」

「こちらこそ、これからもよろしく」

 

 それだけ言って、最後の仕上げに取り掛かる。全体にクリームを塗って、ケーキを真っ白にする。丁寧に、想いを込めた。おいしくできますようにって。これからもうまくいきますようにって。

 このケーキのように、綺麗なものは積み重ねでできている。最後にいちごを上にのせる瞬間が、確かに一番目立つけど。その下にある土台がなくちゃ、いちごはただのいちごにしかならない。

 クリームを等間隔に絞って、表面のデコレーションを形作っていく。周りの目を引いていて、なるほど確かに緊張する。それでも大丈夫、ここまで来たら失敗はしない。今までの準備があるからこそ、最後の最後で失敗なんてしない。

 ……だから、急にがらがらと扉が引かれても。そこに現れた人影にいの一番に挨拶してやるくらいの余裕は、私のなかにちゃんとあった。

 

「こんばんは、トレーナーさん。ぎりぎりクリスマスパーティには間に合った、って感じですね」

「こんばんは、スカイ。なにか、手伝うことはあるか」

「仕事を終えてまた仕事とは、呆れるほど勤勉ですねえ。……でも、そう言うと思ったので」

 

 そういって私は、ひとつ指をさす。扉から入ってきたばかりのあなたにも見えるように。あなたがこちらに来て、それを間近で見られるように。

 

「このケーキにいちご、乗せてくれませんか?」

 

 これで、完成だ。




次はほんとに終わると思います
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終焉より開闢へのセイントナイト

「それでは、<デネブ><アルビレオ>合同のクリスマスパーティを始めます。みんな、グラスを持って」

 

 そう音頭を取るのは、当然<デネブ>のトレーナーさん。エプロンを外して見慣れたスーツ姿になったのに、今日一日でこの人の印象はすっかり変わってしまった。いやはや、人は見かけによらないというか。

 

「乾杯!」「かんぱーい!」「乾杯」

 

 そしてそのまま、なんとなくまとまったような散らばったような乾杯の合図と共に。クリスマスパーティが始まった。聖夜の晩餐。みんなで行う一大イベント。

 あるいは、私たちの繋がりのための。

 

「いつもお疲れ様です」「いえこちらこそ、あなたとは一度じっくり喋りたかったんだ!」

 

 わいわい、がやがや。立食パーティというものは、皆で立ちながら料理を囲んで談笑するものである、のだろう。今の状況はまさにそれで、<デネブ>と<アルビレオ>のみんなが混ざり合っておしゃべりしながら、ご飯を食べながら。キングの言っていた通り、これがクリスマスの団欒、いつもの繋がりに感謝を伝える時間なのだろう。ならば私もその作法に則るならば、ただ黙々と食べるわけにはいかない。

 

「お疲れ様です。<アルビレオ>代表として、<デネブ>のトレーナーさんに感謝申し上げに来ました」

 

 そんな理由か、あるいは私らしい気まぐれか。立ち並ぶ料理にも流石に興味をそそられる腹の空き具合ではあったが、パーティが始まってそんなご馳走にも目もくれずまず私が向かったのは<デネブ>のトレーナーさんのところだった。なんと言っても今日のMVPであるわけだし。

 たとえばあのチキンも、フライドポテトも、あの……名前のわからない料理も、あとおにぎりも、そして私の作ったショートケーキも、とにかくこの人なしでは作れなかったのは間違いない。そんなこんなで挨拶に行くと、ため息混じりに返答された。

 

「好きでやってることに、感謝される筋合いはないわね。……と言うと冷たく聞こえるけど、好きでやってることだから気にしなくていいのよ」

「そう言われるとそうなんですが、まあやっぱり気になっちゃいまして」

「それならあなたが代表してるらしい、チーム<アルビレオ>の本当の代表に気を配ってあげたら? ほら、あそこでちびちびサラダを食べてる」

 

 そう言われて彼女の視線の先を見ると、そこにいたのは我らがトレーナーさん。ええ、食欲ないんですか、せっかくのご馳走なのに。

 

「せっかくのご馳走なのに、あんなふうに食べられたら私としてはショックだから。セイウンスカイ、よろしく頼むわね」

「はいはーい、セイちゃん喜んで承ります」

 

 <デネブ>のトレーナーさんの言うことには全く同感で、果たしてあの正論男はなにをしょぼくれているのだろう。それじゃあキングとトップロードさんの作ったおにぎりひとつたべられないんじゃないか? ケーキなんてもってのほかだ。それは困る。今日料理人の端くれになった者として、作った料理は食べてほしい。

 ずん、ずん。そんな思いやらなんやらを胸に、真正面に目的地へ向かう。あちらは相変わらずしょぼくれていて、こちらに気づく様子もない。本当に、やれやれだ。黙々と輪に加わらず食べるんだか食べないんだかの食事に留めるなんて、クリスマスパーティに対する冒涜ではなかろうか、なんて。

 

「どうしたんですか、トレーナーさん」

 

 そうやって、私は。

 

「おお、スカイ」

 

 私はまた、歩み寄る。

 油断するとすぐに正論で心を隠す、頑固で真摯なトレーナーさんに。

 こうやって私が話しかけると、すぐに返事をしてくれるあなたに。

 空の変遷に従って、部屋の明かりは対照的に強くなる。眠るべき夜にはまだ遠い。今日という日であるのだから、尚更。

 クリスマスの本番は、まだまだ始まったばかりだ。

 

「トレーナーさん、元気ないですねえ。おつかれですか?」

「そんなことはない。これくらいで疲れていては、トレーナー業は務まらないからな」

「はあ、またそんなこと言って。本当に元気な人は、サラダばっかりちまちま食べないんですよ」

「野菜は大事だ。俺も君たちを見習って、健康管理には気を遣っている」

「なんか今日のトレーナーさん、ああ言えばこう言うって感じですね」

 

 元気がないと見せかけて、妙に今日のトレーナーさんは口が回る。具体的にはくだらない言い訳が多い。まったく、誰に似たんだか。私相手に口八丁で勝負とは、かなりいい度胸しているなという感じだが。

 

「そんなことはない。俺はいつも通りだ」

「はい、『そんなことはない』二度目。トレーナーさん、知ってますか。何か後ろめたいことがある人は、語彙が少なくなってすぐ否定するんですよ」

「……そうなのか」

「なんちゃって、今私が考えました。でもそこでうっかり素直に納得しちゃうあたり、やっぱり今日のトレーナーさんは変じゃないですか」

「参ったな」

 

 あっさり陥落。張り合いがないと言えば張り合いがないのだが、この融通の効かなさがトレーナーさんらしいというのもその通り。なので、私的には満足だ。あとは、トレーナーさんの悩みを根こそぎ暴き出して──。

 

「よし、スカイ。食べるぞ。俺は今から大量に食べる。スカイと競争だ」

 

 ──え。この人は急に何を言い出したのでしょうか。人が変わったように壁にもたれかかっていた背中を持ち上げ、今にもパーティの中心へ踊り出さんとするトレーナーさん。私は完全に面食らって、なんとか口を挟もうとするばかり。

 

「なんですかいきなり、競争って」

「食べた量での競争だ。今日の俺は腹が減ってるから、いくらでも食べれるぞ」

「いやいや、いくら私が食の細そうなか弱い女の子に見えたとしても、れっきとした育ち盛りのウマ娘なんですけど。人間が大食いで勝てるわけないでしょ。そもそも意味がわかりません、何の意味がある競争なんですか」

「なんだ、諦めるのか?」

 

 ぐう〜〜、こいつ! 元気がないからちょっかい、もとい励ましに来たのに! クリスマスパーティは大食い競争の場でもなんでもないとか、そんな常識的な判断もあらかた吹っ飛ぶ。完全にトレーナーさんのペースだ。やられた。そしてやられたとわかっていても、私の返せる返事は一つしかない。曲がりなりにも勝負を仕掛けられた以上、「諦める」なんて選択肢は。

 

「……やってやろうじゃないですか。ただし、他の人の食べる分がなくなって怒られない程度に。あと、もう一つ」

「あと、なんだ?」

「ちゃんと、クリスマスケーキのぶんのお腹は残しておくこと。私とトレーナーさんで作ったケーキ、ですからね」

 

 「諦める」ことはありえない。そんな思考が当たり前のように紡げたことは、きっと私にとってはじめてのもの。トレーナーさんが私にくれた変化の一つで、はじまりだった。

 すっかり遠くなった気がする、あなたと出会ったあの日のこと。それを昨日のことのように思い出せるのも、クリスマスの魔法かもしれない。

 

 

「スカイさん、トレーナー! 一流のおにぎりの味はいかがかしら! 私が丹念に塩を振り、具を込め……」

「うん、おいしいよ。流石クッキングヘイロー」

「おばか! そろそろ忘れてきてた駄洒落を繰り返さない!」

「しかし本当にうまいな、このおにぎりは。俺もおにぎりぐらいなら作ったことはあるが、もっと雑なものしか出来なかったぞ」

「おーほっほっほっ! そうよ、ただのおにぎりと侮っちゃいけないの! 形のバランス、そして立体に満遍なく塩を振るテクニック……これぞ一流なのよ!」

 

 とりあえず私たちが最初に食べ始めたのは、キングとトップロードさんの作っていたおにぎり。いや、クリスマスパーティとしては結構外れた食品なんですけど。あれから色々レギュレーションのようなものを取り決めて、普通に全種類の料理を食べよう、ということになった。普通とは言ったが、十人以上のためのご馳走の山。全種類ちゃんと食べる、となると結構大変である。

 

「……何個食べます?」

「あと、五個だ」

「上等。ま、私はへっちゃらですけど」

 

 ちなみにキングは全部のお米を完璧に使い切っておにぎりの山を築いたらしいが、<デネブ>のトレーナーさんはまさかそこまでやるとは思っていなかったらしい。やり遂げたキングの根性、恐るべし。というわけでおにぎりは若干余り気味なので、私たちが少し多めに食べるぶんには大歓迎だ。

 つまり、ここが大食い競争の分水嶺である。他の料理はそんなにがつがつ食べるわけにはいかないし。

 

「……なんとか食ったな」

「ふう、ごちそうさまでした」

 

 あっという間ではあったのだが、この時点でほぼ勝敗は決しているみたい。隣の人の脂汗を見ればわかる。おにぎりを十個も食べて、ここからチキンやらポテトやらカロリーの高そうなものを果たしてトレーナーさんは食べられるのか? 流石に心配になってきた。

 

「トレーナーさん、大丈夫ですか? やっぱり変ですよ、さっきから」

 

 はしっこで縮こまってたかと思いきや、急に私に大食い勝負を仕掛けて、案の定の結果。そこに至るまでの言動も、何から何までいつもらしくないような。そんな私の疑問に対して、ようやくトレーナーさんは観念した様子で。

 

「居ても立っても居られなかったんだ」

「なんですかそれ。それでここまでの奇行の説明をつけるつもりですか?」

「今日、色々な書類を見た。過去の有マ記念の記録も、有マに向けてのたくさんの手続きも。特別なレースは多々あれど、年末の中山は別格だ。それは知っていたが、改めて実感したんだ。……俺のチームから、二人もそれに出走する」

 

 その言葉を聞いて、ぴくぴくと反応する耳が二組。私と、側で聞いていたキング。トレーナーさんが忙しなかったのは、そのことがあったからだった。トレーナーさんも、緊張している。言われてみれば当たり前のことだった。私のレースは、私一人で走るものではないのだから。

 

「……そういうことなら。私のおにぎりでよければ、いくらでもやけ食いしていきなさいな」

「そうか、ありがとう。応援しているぞ、キング」

「トレーナーさん、私も応援してくださいよ。……あ、私は他の料理食べてくるから」

「えっ、スカイさん貴女」

 

 いや、なんで二人してそんなじとっとした目で見るんですか。私には<デネブ>のトレーナーさんが作ったチキンとか、フラワーが作った名前もよくわからないお洒落な料理が待ってるんですよ。おにぎりだけでクリスマスパーティを終えるなんて、ちょっと残念すぎるでしょう。

 というわけで、なんとか退散。言うに及ばず、逃げました。いや、これからは逃げてもいいでしょう。セイちゃん逃げウマですし。それでなんとか、ゆったり美味しい料理を食べることができた。

 フラワーが作っていたのは、カナッペ、というものらしい。くり抜いた食パンをトーストして、その上に色とりどりの具材が載せてある。うーん、流石フラワー。チーム最年少ながら、一番女子力を感じる。<デネブ>のトレーナーさんが任せたわけだが、この小さな彩りはフラワーの趣味の花畑にも似ていて、適材適所の仕事配置といった感じ。

 

「あの、どうですかっ、スカイさん」

「ああフラワー、これ、すごいね。すっごくかわいい盛り付け。いや、焼き魚しか能のない私からしてみれば雲の上のような存在だね」

「何言ってるんですかスカイさん。スカイさんは今日、一番すごい料理を作ったんですから」

「……そうかな」

「そうですよ」

 

 そう言われると、そうなのだろうか。ちなみにトレーナーさんが最後にいちごを載せたあと、完成の感慨に耽る間もなく家庭科室最大の冷蔵庫に我がクリスマスケーキは仕舞われた。なので全体へのケーキのお披露目は先送りになっているのだ。それはつまり、また柄にもなく緊張しているということである。

 けれど、それこそトレーナーさんの与えた試練、というのも確かで。一番人気のプレッシャーというものが、本当にこれでなんとかなるものなのかはわからないけれど。それくらいあなたが私のために考えてくれたというのなら、私はそれに応えたい。期待に応えて、あっと言わせて。そして私の子供じみた欲求は、きっと暖かく満たされる。褒められたいって、胸を張って言える。

 

「……さて、みんな。そろそろデザートを出すから、机の上に残ったものを食べてしまってちょうだい」

 

 と、そんな声が聞こえた。<デネブ>のトレーナーさんの声だ。見ればキング印のおにぎりさえ、ほとんど完売といった感じ。結構な量を用意していたはずだけど、ウマ娘の食欲恐るべし、といったところか。私も最後に一つ残ったカナッペを、ぱくり、と口に入れた。

 

「ごちそうさまでした、フラワー」

「はい、お粗末さまでした。次は私が、スカイさんのケーキ、頂いちゃいますね」

「うーん、お手柔らかにお願いしますね」

 

 フラワーの口に合うだろうか。いや、そんな間違った手順はしていないのだけれど。クリームを塗っていちごを載せただけ。そりゃそう他人に一言で切って捨てられたらむっとするだろうけど、自分で言う分にはそんなもんかという気もする。……でも、だ。

 

「さ、これが今日、クリスマスを祝うショートケーキ。作ってくれたのはみんなもよく知るチーム<アルビレオ>のエース、セイウンスカイよ」

 

 そう紹介されて、ケーキがいよいよ皆の前に出てきて。ぱちぱちと、拍手で出迎えられて。それはきっと祝福されていた。それはきっと皆に期待されていた。素敵な、ドレスで着飾った花嫁のように。

 その結実を見て。

 それを成し遂げたのは私なのだと、改めて実感して。

 そうなれたら、私もそう花開くものになれたらと。

 そう、思った。

 

 

 ケーキは無事、美味しかった。最初に<デネブ>のトレーナーさんが言った通り、一人当たりは若干小さかったけど。いちごは多めにあったので、一人当たりのいちごはちゃんと確保されていた。みんなが美味しい美味しいと言ってくれると、自分のことのように嬉しかった。努力が報われる、それは嬉しいこと。それも当たり前だけど、実感して初めて意味のあることだ。

 そういえば、「努力は裏切らない」って、トレーナーさんの口癖だったっけ。最初の頃はそんな言葉も、鬱陶しいくらいに思っていたけど。今では私を支えている。あなたに、私は支えられている。そういった日頃の感謝を込める日なのだと、またそのことを実感した。

 ……って、あれ。

 

「あれ、トレーナーさんは」

「あの人ならさっき、『まだやることがあるから先に寮に帰る』って言ってたわ。片付けなら準備と同じく私が指揮を取るけど」

「……すみません、私も先帰っていいですか」

「もちろん。行ってらっしゃい」

 

 なら、決まりだ。そう<デネブ>のトレーナーさんと、他のみんなに後を任せて。私は一人、こっそりと聖夜の下を行く。正確には、二人。前を行く人影は、すぐに見つかった。トレセン学園を出てすぐ、だった。

 

「トレーナーさん、こんな遅くに一人で帰っちゃ危ないですよ」

「どうした、スカイ。俺はもう寮に帰るところだぞ。実はまだ、やり残したことがあってな」

 

 そうけろりとした、けれどくたびれた表情で言うトレーナーさん。まったく、それはこちらの台詞だ。ともあれ立ち止まらせることには成功したのだから、その後にやるべきは単純だ。

 

「寮まで、送ってあげますよ」

 

 そう言って、私はトレーナーさんの後ろから、隣へ。まずは一つ目の仕掛け。先程までのパーティとは打って変わって、聖なる夜は静かな空を見せていた。冷たい空気も、今なら神秘的に思えた。そんな今なら、これくらいはしてもいい。

 

「トレーナー寮は君らの寮ほど遠くない。そもそも子供が大人を見送るなんて、あべこべだ」

「なら、今日のトレーナーさんは子供です。ご馳走を食べて、いっぱい笑って。迷子にならないようお見送りまでされて、サンタさんからのプレゼントも貰っちゃう」

 

 そう言ってやると、呆れたような、呆気に取られたような。さっきのパーティじゃ、自分がそんな無茶な理屈を並べていたくせに。ともかくそんな表情が、私の見たいトレーナーさんの顔だ。仕掛けに引っかかった顔。そうしたら、二つ目の仕掛けの出番だ。

 

「……プレゼントって」

「なんだトレーナーさん、期待してるんですか。子供ですねえ」

 

 今度は少しむすっとする。手を差し伸べて、それでも最後はそちらから手を伸ばさせる。それが二つ目の仕掛け。そしてそれもやっぱり、見たい顔。今まで見てきた大人のあなただけじゃなく、私はその先も見ていたい。

 だから私は、こつんと軽く、地面を蹴って。

 そして私は、ひらりと白く、あなたの前に立ち止まり。

 きっと私は、にかりとはにかみ、制服のポケットから包みを取り出す。

 それが私の、最後の仕掛け。

 

「メリークリスマス、トレーナーさん」

 

 うん、その顔。

 その顔が一番、見たかった。

 

「……これは」

「中身ですか? ルアーですよ、セイちゃん一押しのメーカーのやつです」

「そういうことじゃなくて」

「あ、根がかりとかですぐに失くさないでくださいよ。いくらトレーナーさんが初心者だからって、それは流石にショックです」

 

 有無を言わさず、みたいな喋り方、結構楽しいかもしれない。ぐいぐいとお腹に包装の下のパッケージの角を押しつけてやると、流石のトレーナーさんも受け取らざるを得ないらしい。うん、女子のプレゼントくらいきっちり受け取れる男になりなさい。なんちゃって。

 

「その、なんで」

「なんでって、クリスマスだからですよ。まあ多分誰からも貰ってないだろうと思って、びっくりさせたかったって感じかな」

 

 トップロードさんはそんな発想しない感じの天然だし、キングはなんかそういうの案外躊躇いそうだし。というわけで今回は、私セイウンスカイがその穴埋めをしてやったというわけである。まあ私も、昔ならそんな気安く人にプレゼントなんてあげなかったんだろうけど。心境の変化、というやつかもしれない。

 

「さっきも言いましたけど、今日のトレーナーさんは子供でいいんですよ。クリスマスプレゼントに飛び上がって喜んだら、このまま寮に着くまでくだらない話をしてあげますし、帰ったらすぐに寝ていいんです。たまには休んでください」

「俺は大人だ。君らが頑張ってる時に」

「今日は、子供です。たまには、子供もいいじゃないですか」

 

 そう、特別な日とはそういうこと。いつも頑張って、それを今日だけは忘れていい日。だからいつものみんなで集まっても、いつもと違うことができるのだ。

 たとえばがんじがらめの大人でも、その日だけは何もかもを忘れられるような。きっとそうやって重荷を下ろせるから、人は更にその先へ進んでいける。大人になったって、成長が止まるわけじゃないんだから。

 

「そうだな。今日は少し、頑張りすぎたかもしれないな」

「トレーナーさん、いつも元気いっぱいですからね。そうじゃなかったらすぐ気づきます。きっとみんな気づいてて、心配してますよ」

「心配をかけてしまったか」

「それも今日なら、いいんです。いつもみたいに頑張りを隠さないのも、子供らしさってことですよ」

 

 それが今日のトレーナーさんの異常の根本。ずっと抱えていたレースへの不安が、ハレの日とばかりに破裂しそうになっていた。いつもは隠して暑苦しく振る舞うけれど、今日の空気がそれをむき出しにした。そしてそれは多分、私たちの方も同じことだ。それをクリスマスを通して、少なからず消化できた。今日じゃなきゃ話せなかったことだ。だからやっぱり、これも正解だ。

 ふうっと、二人で息を吐く。白い跡を引いたそれは、聖なる夜に溶けてゆく。やがて、トレーナーさんは語り出す。今日まで抱えた、彼の不安を。

 

「有マ記念、相手はあのグラスワンダーだ。復帰戦の不調もあって四番人気だが、俺は間違いなく人気以上の実力があると見ている」

「なるほど。たとえ一番人気でも、油断はできない」

 

 まあ、それは今更だけど。今更だけど、肝に銘じなきゃいけないことだ。それにしても、グラスちゃんか。やっぱり、ライバルは近くにいる。それは何度も立ち塞がり、時には打ち倒せないこともある壁だ。けれど私たちは勝ちたいから、その壁にぶつかってゆくのだろう。

 

「勝てるか、スカイ」

「おやおや、トレーナーさんらしくないですね。いつもは『スカイなら勝てる』って言ってくれるのに」

「……すまない」

 

 本当に今日は素直だ。あまりいじめないであげよう。

 

「勝てるかは、わからないです。もちろんいつもそうです。私は才能がそんなにあるわけじゃないし、期待だってされていなかった」

 

 でも、ここまで来た。一番人気さえ掲げられるくらいに、今の私は成長した。

 

「だからこそ、勝ちますよ。だってそうすることが、今背負った期待に応える方法ですから」

 

 才能がないからこそ。期待されていなかったからこそ。それを超えて寄せられた期待は、私の実力そのものだ。なら、もっとそれを超えたい。もっと驚かせたい。

 そしてそれはもちろん、トレーナーさんのことだって。だってトレセン学園に来て最初に期待してくれたのは、紛れもなくあなたなんだから。

 

「そうか。応援しているぞ!」

「おっ、元気が戻りましたね」

「ああ。スカイには負けてられないな!」

 

 負けてられないなって、まだこの人は大食い競争を引きずっているのだろうか。けれどこれで、トレーナーさんは回復したみたい。もう少し子供でいてくれてもいいんだけど、やっぱりこの正論男に融通は効かないか。

 

「じゃ、ここまでですね」

「わざわざすまないな。ありがとう、スカイ」

 

 トレーナー寮まではあっという間。別にここから先はウマ娘立ち入り禁止とかはなかった気がするけど、私にも寮の門限がある。クリスマスはここまで。また明日からはいつものトレーニングだし、明後日には有マ記念だ。

 

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 

 だから、暫しのお別れ。そう言葉を交わして、私たちはそれぞれの場所へ帰る。きっとまた明日、これからも何度も会う。けれどそれはいつも同じじゃなくて、変化と成長をそこに連ねている。

 私たちの未来には、何が待っているんだろう。そんな青臭くてくすぐったい問いかけが、心の芯から吹き抜けた。

 聖夜は終わる。

 けれど、夜空の先は広がっている。

 どこまでも。

 どこまでも、蒼く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そらがおちてくる。

 だれかが、そらがおちてくるといった。みんながあわてて、だけどこわがることしかできなかった。

 けっきょく、そらはおちてこなかった。ありえないことをこわがるなんて、ばからしいことだ。きっと、そういうはなし。

 でも、もし。もし、そらがおちてきたら。ありえないとおもっていたことこそが、まちがいだったら。どこまでもそらがひろがっているなんて、うそっぱちだとしたら。

 ──空が堕ちてくる。

 変化には終わりがある。成長には限りがある。世界を閉ざす絶望がある。

 それを、私に知らせるために。




ここまでで、大きな一区切りになります。(三章はまだ続きますが)
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たとえば曇天が永遠に続くのなら、空の綻びが顕になることはないだろう

 空は曇天、バ場は若干荒れ模様。今日のメインレース、いや今年のメインレースたる有マ記念のステージはそんな状態だった。決していいコンディションとは言えないのだろうけど、むしろそれが当たり前なのだと思う。最善最高が最良のタイミングで毎回訪れるなんて、その方が出来すぎていて嘘くさい。

 私は、芝を踏み締めていた。既に本バ場入場を済ませて、大歓声に迎えられた。一番人気で、「きっと勝つだろう」と多くの人が思っている。それが、今日の私。最高に期待されている、私。けれど上を見上げれば広がる曇り空は、そんな私に綻びをもたらすかもしれない。たとえ全力を尽くしたとして、それでも勝てるとは限らないのだと。それは予感にはならないとしても、確かに頭の片隅にある思考だった。

 脚が震える。寄せられた期待が今までで一番大きいように、私の緊張も最高潮だった。以前の私なら、怖気付いてしまいそうな。あの皐月賞を思い出した。完璧に仕上げて、それでも勝てなかった時。そうしたらそこで、私の限界が定まってしまう。だからあの時私は立ち止まりそうになった。諦めそうになった。それより先に進めたのは、トレーナーさんのおかげだった。

 ふん、と腹筋に力を入れてみる。日頃のトレーニングで鍛えたそれは、私にとってもっともわかりやすい成長の証だ。トレセン学園に来てすぐの頃は、トレーニングなんてほどほどで済ませてやるつもりだった気がするけど。あのトレーナーさんに捕まって、いつのまにかこんなところまで連れてこられてしまった。年末の中山、今年を代表するウマ娘が集う中での一番人気。それもきっと、あなたのおかげだろう。

 胸に秘めた心臓の鼓動は、わかりやすく大きく、速くなっていた。緊張だけじゃない、私を動かすいのちの拍動。私は、未来へ動いている。どこまでも広がる空の果てまで、そんなところまで走っていけるように。そのために、ここまで来れている。もちろん一人では走れない。チームメイトやライバルや、みんなと競うからこそ走れているのだ。

 そして瞳で、この世界を見据える。この小さな眼で見えているだけでも空は広くて、ターフは長い。遠いゴールの先までは、まだ私には見えないほどに。けれどきっと、まだ先がある。まだ、私たちは走ることができる。今日だって、その先だって。そんな煌めき輝く道が、私たちの目の前に広がっている。永遠に続いて欲しいとさえ願ってしまえるほど、それは眩しくて暖かい。

 だから、私は。ぐっと、蹄鉄で地面を慣らしてみる。軽く屈伸して、来るべき時のために身体をほぐす。どくん、どくん。聞こえるはずはないけれど、胸が高鳴るのが、わかる。そして。そして、私は。

 

「一番人気セイウンスカイ、いよいよゲートに入ります」

 

 そして私は、ここまで来た。相変わらず狭苦しい、けどすっかり慣れてしまったゲート越しに、私の瞳に映るものは。2,500mの芝と、その上に広がる空だけだった。

 

「……スカイさん、今日こそ勝たせてもらうわよ。人気薄、上等じゃない」

「今日も、なんて言えないけど。なら私も、負けないよ」

 

 今日同期で走るのは、私だけじゃない。私を含めて三人が、シニア級の強豪にこの大一番で立ち向かう。それだけの能力がある、そう認められた証。そのうちの一人がキングヘイロー。クラシック三冠を巡る戦いで、私と彼女は何度もぶつかった。だけど、たった数回で勝負は決まらない。いやきっと、ずっと競い続けるのだ。今日も、その一つ。これだけのレースであっても、私たちにとっては通過点に過ぎない。

 ……そして、同期はもう一人。翻って、そちらを見る。一見いつもと変わらない柔らかい雰囲気だけど、それだけではないのが、わかる。それはきっと、普段の彼女を知っているから。だからこそ私にわかるのは、普段の彼女ではないということ。そんなふうに見つめてしまっていると、彼女もこちらの視線に気付いたようだった。ゆっくりと振り向き、こちらに声をかけてくる。大和撫子然として、されど蒼く闘志を燃やす。彼女の名はグラスワンダー。"怪物"と呼ばれた、私のライバルだ。

 

「今日はよろしくお願いします、セイちゃん」

「うん、よろしく。グラスちゃんとは初めて戦うね」

「そうですね。怪我もあり、機会に恵まれませんでした。けれどずっと、追いつきたいと思っていました」

 

 グラスちゃんと私は、未だ対戦経験がない。だからキングとは違ってこれが初勝負。もちろん普段の会話でグラスちゃんのことは色々と知っているけれど、レースでなければ見えないこともある。たとえば今のグラスちゃんの言葉は、きっと今だから聞けるものだ。

 

「追いつきたい、か。悪いけど、追い抜かせるつもりはないからね」

「ええ。全力の相手を討ち倒してこそ、私たちは前へ進めますから」

「そりゃあ大層な表現と言いますか。でもグラスちゃんが言うと、誇張って感じはしないね」

「もちろん。……セイちゃんも、そうでしょう?」

 

 そう言われると、そうなのかもしれない。けれどグラスちゃんの覚悟は、私とはまた別種のもの。長期の怪我から復帰して、人気に対して勝ちきれない日が続いて。それが今のグラスちゃん。ジュニア級であれほどグラスちゃんに注目していた視線の先は、今は他の子に向いてきている。たとえば、私とか。だからグラスちゃんがこの勝負に賭けているものは、私とは別のもの。

 それでもグラスちゃんの言う通り、私と君が同じだと言うのなら。

 

「まあ、そうかもね。色んな理屈は違うかもだけど、勝ちたいって思ってる」

 

 初めて、追われる立場になったとしても。

 もがいて、追い抜く立場になったとしても。

 

「ええ。私たちに必要なのは、その気持ちだけです」

「上等だね。負けないよ」

「はい、こちらこそ」

 

 そして、改めて前を向く。やはり視界に映るのはゲートとその先にある芝と空だけの世界だけれど、先程までより多くのものが見えている気がした。目には映らないけれど、見えている気がした。準備が整った、ということかもしれない。

 なら、他にやることといえば。

 

「各ウマ娘、いよいよゲートに収まりました。今年最後のGⅠ、有馬記念! さあ」

 

 その「さあ」を待ってか待たずか。がこん、と独特の音がする。視界が、無限に開けていく。

 

「ゲートが開いた! スタートを切りました!」

 

 次の一歩。次に繋がるその一歩に、今までの私の全てを込めた。

 さあ、走り出そう! 

 

 

 有マ記念、今年の集大成。きっと全てのウマ娘とそのファンが、私たちを見守っている。十六人のウマ娘が、一斉にスタートを切る。誰一人として出遅れない、流石の優駿たち。けれど私もその一人。そしてその中でも一際期待された、一番人気! 

 

「まずは先頭争い、セイウンスカイがハナを取っていきます!」

 

 中団からするっと前に出て、いつもの先頭へ。ライバルたち全員を突き放し、最初から最後まで抜かせない。それが私のレース。今日だって、そのつもり。私らしく、翻弄して、あっと言わせて。それは今日この日だって変わらない。

 だん、だだん。重なり合う蹄鉄の音が気持ちいい。吹き抜けていく風が心地いい。走るのって、こんなにも楽しい。何度走ったって、この気持ちだけは変わらない。変わることがあるとしたら、前よりどんどん楽しくなるってことだ。走るたびに。もっと先に、手が届くたびに。

 

「スタンドの大歓声を受けながら、セイウンスカイ依然先頭! 後続をぐんぐん突き放し、五バ身、六バ身と差を広げていきます!」

 

 正面スタンドに入って、耳に受けるは湧き上がる歓声。私たちのレースに魅せられて、私たちは夢を与えていて。その証明。気持ちは更に昂って、世界はよりキレイに見えてくる。今日も紛れもなく、「最高」だ。

 ……と、そんなふうにゴールする前から満足していてはいけない。それなりに「逃げ」を嗜んできた私から言わせてもらえば、逃げと一口に言っても様々の戦法がある。

 たとえば大逃げで突き放し、後続を最後まで引き離し続ける。たとえば常に正確なペースを刻み、トップスピードを維持することで捩じ伏せる。強い「逃げ」とはこういうもので、私とは違うものだ。才能が足りない。力が足りない。だから私には出来ない。けれど。

 けれど私にならできるのは、策を弄したペースメイクの逃げ。引き寄せ釣って翻弄し、ラストでもう一段スパートをかける。波乱を起こす、トリックスターの「逃げ」。きっとこれも私らしさ。私なりの、強さ。

 だから今日も、それに則ろう。コースの分析、レースの掌握。最終直線に全てを賭ける誰かがいるなら、私の仕事は最終直前までに全てを終わらせることだ。

 そう身体に今一度命令し、それに呼応して踏み込む脚に反射する感覚。……うん、やっぱりここらへんのバ場が一番走りやすい。走ってみてやはり予想通りだったのは、今日のターフは少し荒れているということ。具体的には内枠のあたりが少し状態が悪い。それは走りながらでも横目に見えているから、私はそれを避けてコースの真ん中あたりを走っている。

 本来なら、逃げはどれだけスタミナをロスせずに最終直線を迎えられるかに勝敗がかかっている。すなわち道中もハイペースを維持しながら、最後も決して露骨に失速してはいけない。そのためには走るコース選びが他の作戦より重要になってくる。控えず常に体力を消耗するのだから、出来る限り脚に負担をかけられない。それに影響するのが、バ場や距離の問題だ。かつての菊花賞で、私の逃げ切りがあり得ないと言われた理由もそのスタミナ管理の問題にある。

 

(……っ、と!)

 

 くくん、とヨレそうになる脚を軌道修正する。前を塞がれる心配もなく出来るだけ走る距離を削っておきたい逃げウマにとって、内ラチ側を走りそうになることはそこまで悪い判断ではない。本来なら、の話だが。

 

「セイウンスカイ、先頭をキープしたままコースの正面を進みます。バ場状態の良いところを選んで走っていますね」

 

 そう、その通り。今日の内ラチ側は荒れている。荒れた地面を走ることは、無視できない体力の消耗を引き起こす。もちろんそれを避けて大回りにコースを回ることも、最良とは言えないのだが。それでもどちらかを選ばなければならない。もっとも欲しい、勝利のために。

 

「向こう正面に入ってセイウンスカイ、リードをぐんぐんと広げていきます! 後ろに潜むウマ娘たちは、追いつくことができるのか!」

 

 更にペースを上げる、上げる! 脚を早回しして、ぐんぐんと追い風を受けて。序盤のペースメイクは完璧だ。もちろん私はこのままのペースを維持できるほど強いウマ娘じゃない。だからこうやって小細工を仕掛けて、か弱く支配を試みるしかない。……でも、それがうまくいけば。

 

「残り1,000mを通過! ここでセイウンスカイ、一気にペースを落とします! 後続との差がぐんぐん詰まっていきます!」

 

 掌握。支配。掌の上。うまくいけば全てのウマ娘を、手玉に取れる。私にとってのレースは、そんな大それた策略を実行に移すためのもの。だから引き離す。だから引き寄せる。ほら、もう後ろとの差は一バ身もない。それも含めて、計画通り。

 

「最終コーナーに入って、先頭はセイウンスカイ! しかしリードは一バ身もありません! 背後からエアグルーヴ、メジロブライトが迫っている! セイウンスカイ、二の足三の足を使うことができるか!」

 

 そんな実況に応えるように、私は大地を強く蹴る。引き離してペースを掴み、引き寄せて敵を翻弄する。そして最後に残した余力で、ギリギリのリードを守り切る。私にしては随分泥臭い作戦だけど、もうすっかり慣れたもの。今まで走ってきて確かに確立した、私とトレーナーさんで考えた作戦。これが決まれば勝てるとさえ言える、私たちが遂に辿り着いた必勝の策謀。

 京都大賞典で初めてやってのけた時からしっくりくる、この作戦。作戦名も決まっている。それこそ初めての時から、だ。

 

「いよいよ最終直線です! セイウンスカイ先頭! セイウンスカイ先頭!」

 

 作戦名は、釣り師の計略(アングリング×スキーミング)、なんてね! 

 脚が軋んでいる気さえする。心臓が破裂しそうな気がする。身体全体が、止まればその瞬間ばらばらになりそうな気さえする。それでも、まだ前に進んでいる。私はここまで来た。私たちはここまで来た。期待されなくても、才能がなくても。それでも自分のことを信じていいのだと、みんなが教えてくれた。そして捻くれ者の私は、みんなと一緒にいれるくらい素直になれた。

 だから、私はここまで来た。そしてこれからも、私たちは進んでいける。クラシックを終えてシニアも超えて、その先に、誰かの夢になることだってできる。だから、だから──! 

 懸命に走っていた。確かに全力だった。私の全てを、込めていた。それはきっと、間違いないはずだった。

 最後の坂を登っている時だった。僅かな一瞬だった。

 

「──やっと追いつきましたよ、セイちゃん」

 

 そう、耳で聞こえた。眼では一瞬しか捉えられなかった。視界に入ったその影は、あっという間に後ろから、遥か先へ。声の主はそれでもわかった。聞き慣れた、けれどこうして聞くのは初めての。入学当初からクラス一の有望株と称され、けれど怪我での長期療養と復帰後の不振があった。それでも彼女は常に勝利を渇望し、一寸たりとも揺るがない闘志を宿していた。それは知っていた、だからこそ勝負の段になっても油断などなかった。

 けれど。

 

「外からグラスワンダー! 外からグラスワンダー来ている! グラスワンダー、セイウンスカイをあっという間にかわした!」

 

 "怪物"グラスワンダーの復活。一番人気、最有力ウマ娘であるセイウンスカイの勝利の方程式を、真正面から討ち倒す。そんな「最高」の形で、凱旋は高らかに告げられた。

 どんどんと、離れていく。それでも、走るのを止めるわけにはいかない。2,500mを全力で駆け抜けた脚からは痺れるような感覚が伝わる。それでもまだ、限界まで走らなければわからない。作戦の通り、脚はまだ残っている。まだ、追いかけている。私は、完璧に走ったはずだ。

 そのはずなのに。

 

「グラスワンダー、グラスワンダーです! ジュニア級の頂点に立ったウマ娘は、やはりシニア級でも強かった! グラスワンダー、復活です!」

 

 追いかけても、追いつけない。一着と四着の間にある、人気などでは測れない差。走ってみなくては、やはり結果はわからない。ああ、負けてしまったんだ。ゴール板を越えて数分後、ようやくその事実を飲み込む。観客席からは、名勝負を讃えるたくさんの声が聞こえた。その声は、私にも向けられていた。けれどもちろんグラスちゃんに対してのそれが、一番大きかっただろう。勝者とは、そういうものだ。

 レースの余韻がある程度おさまった後、自然と同期で集まった。まだターフの上だから、その熱気は完全に消えたわけではないのだけど。

 

「お疲れ様、グラスさん、スカイさん。そしておめでとう、グラスさん」

「ありがとうございます、キングちゃん。セイちゃんも、お疲れ様ですね」

「……もちろん、これで終わりなんて思わないことね。次、あるいはその次。最後に勝つのは、このキングなんだから」

「はい。もちろん何度でも、全力でお相手いたします。……セイちゃん?」

「……ああ、ごめんごめん。いや、いい勝負だったね。お互いやりきった、って言うか」

 

 いい勝負だった。互いに全力を出し切った、そんなレースだった。今まで不調に苦しめられていたグラスワンダーの、本領を発揮するようなレースだった。私だって、そうだ。グラスちゃんの本気とは少し違うけど、策を弄してペースを掴む。そんな走りで、事実キングはやり込められたみたいだし。だから、やりきった。

 あえて一言で表現するのなら、悔いはない。年末の集大成を形容するのなら、これ以上ない表現だと思う。

 だけどグラスちゃんの言葉は、私の予想に反するものだった。

 

「そう、でしょうか。セイちゃん、本当にやりきったと思いますか?」

「……どういうこと?」

 

 意図がわからない。彼女が私に疑問を呈する、その意図がまずわからない。これまでの全てをかけた最高の勝負に疑問を呈する、その意図が。

 

「最後の直線。私は、もう一回セイちゃんが伸びてくると思っていました。今まで見てきたセイちゃんなら、そう来ると思ったからです」

「最後は私も、脚を残してたよ。その上で、負けちゃった。全力だし、悔いはないよ」

「……そういう意味では」

「もうグラスちゃん、せっかく勝ったんだから」

 

 彼女の言葉の、意図がわからない。彼女は私に何を見ているのだろう。何を望むのだろう。何を期待しているのだろう。私は今回の決着に、文句なんてつけてないのに。何故勝者の側が、勝負の是非さえ問うてしまうのか。

 

「はっきり言えば、私は納得していません。……セイちゃん、また走りましょう。けれど、貴女にはそれまでにやらなければいけないことがあります」

「なにさ、勝ったからって説教?」

「ちょっとグラスさん、スカイさん」

 

 キングが私たちの間に割って入る。確かに私とグラスちゃんの会話は急激に険悪になっていて、それはこの場にはふさわしくない。全てを賭けて走った後の場は、清々しく爽やかでなければならない。そう思って、私は素直に謝る。取り繕うような言葉を添えて。

 

「と、ごめんキング。それにグラスちゃん。うん、グラスちゃんの言うことがわかったよ」

「いえ、こちらこそごめんなさい。けれど、セイちゃんには」

 

 多分グラスちゃんは、私が彼女の言葉を理解しきれていないことも見抜いている。けれどその上でそう言って、彼女は私の眼を見据える。レースの直後だと言うのに、その青い瞳には焔が燃えていた。そして、燃えるような言の葉を紡ぐ。

 

「セイちゃんには、私のライバルでいて欲しい。……私からお願いできるのは、それだけです」

「ライバル、もちろんそのつもりだけど。それくらいならお安い御用」

「はい、お願いします。……では、そろそろインタビューがありますので〜」

 

 最後の一瞬だけ、いつものグラスちゃんに戻って。そのままグラスちゃんはターフを後にする。「納得していない」勝負についての感想を語るために。きっとそんなこと、インタビューでは言わないのだろうけど。だからあれは私たちの前だけの本音だ。私に対してだけ、思うことだ。

 ふと、空を見上げる。どんよりとまではいかないけれど、そこに広がるのはまだ曇り空。けれど明日は晴れるだろう。同じように明日になれば、あらゆることが変わるだろう。そのはずだ。グラスちゃんの言う何かも、きっといつかの私にはわかって、解決できる。そうで、あるはずだ。

 けれど、そうでないとしたら。

 一抹の不安がよぎる。得体の知れない、言葉にならない。だけど心のどこかに巣食うもの。それを掘り出すことも解き明かすこともできない今、私に願えることがあるとするならば。

 杞憂であって欲しい。

 それだけだった。




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天空は万物を睥睨せど、人は黙するそれにただ祈るのみ

 クリスマスが終わって、すぐに有マ記念だった。そしてそれもあっという間に終わって、四日後には大晦日。さらに大晦日から一日も経たずにお正月なのだから、年末年始というのはなんとも忙しいものである。いや、やろうと思えばずっと寝て過ごすことの出来るラインナップなんだけど。

 

「ふぃ〜、寒いなあ」

 

 なのに私は、いや私たちは年始早々から外に駆り出されている。もちろん自分の意志ではなく、<アルビレオ>のチーム全員に下されたトレーナーさんからの命令だ。ああ、やだやだ。何故人はこんなに寒い一月の初日に、わざわざみんなで出掛けるのか。でもたとえばトップロードさんとか乗り気な人が結構居たので、このイベントは遂行されることになったのだけど。

 ちなみに有マ記念と同日、トップロードさんのデビュー後二戦目は無事勝利に終わった。けれどそれで上機嫌のところを有マの負けで気遣う側に回させてしまったのだから、私としては少し罪悪感を感じずにはいられないのだが。まあ、それはキングと一緒においおい反省するとして。

 

「……あれ、みんなはどこだろ」

 

 おかしい。そう気づいたのは小一時間待ってようやくだった。集合時間は過ぎたのだが、一行に誰一人現れない。チームメイトも、あの見た目だけでうるさい気がするトレーナーさんも。うーん? 考えてもピンとこない。どうしようか、このまま帰ってしまおうか。それも悪くないな、とは思うのだけど。

 

「まあせっかくですし、一人で初詣しちゃおっかな」

 

 なんて、誰も聞いてないんだけど。一人言い訳をして、神社の中へ入っていく。そんな私の尻尾と耳に向けて、視線がちらり、ちらり。いやまさか振袖とか、セイちゃんそんな目立つ格好はしてないですよ? ただいつも通りの普段着で、強いて言うならコートとマフラーを着けてるくらい。

 まあそんな私が注目されてしまう理由があるとしたら明白で、ここにいるのが「セイウンスカイ」なのはバレバレだった。くそう、チーム合同ならこんなに注目を浴びることもなかったのに。

 

「セイウンスカイさん、いつも応援してます!」「これからも頑張ってください!」「セイウンスカイちゃん、あの、私大ファンで……!」

 

 人通りは多い、そして注目の的がある。そうなってしまうと瞬く間に私の周りに人溜まりが出来上がる。ああ、一つずつ応対できるだろうか。……あの有マ記念を終えても、私には皆が期待してくれている。この状況はその証左だ。けれどそれでは一番にはなれなくて、私は投票の結果僅差で「年度代表ウマ娘」の座を逃した。クラシック二冠を制したけれど、一番人気には応えられなかったから。そう言われた気がした。

 もちろん、エルが選ばれたことに文句なんてつけようもないけど。世界最強を目指すという彼女の言は、いよいよ伊達ではなくなってきた。ダービーで一度走ったきりだけど、もう一度戦えたらいいな、と思う。

 

「セイちゃーん、こっち向いてー!」

「はいはーい、なんですか〜?」

「うわっ!? ……えーと、ほんとに向いてくれるとは思ってなくて……」

「そんなに驚いてくれたのなら、私もとっても嬉しいかな、なんてね♪」

 

 そうやって精一杯の笑顔を見せてみるのに、私の心にはまだしこりが残っていた。もう一度、その先。そこに進むために必要なもの。グラスちゃんが私に突きつけた、ナイフのようなあの言葉。

 

(次に戦う時までに、やらなければいけないこと、か)

 

 今までだって、何度も壁にぶつかってきた。だけど、それを乗り越えてきた。もちろん自分だけの力じゃない。チームメイトや、トレーナーさん。私が今ここにいれるのは、周りの人たちのおかげだ。それはわかっている。

 けれど、とも思う。今私の目の前にある壁は、朧のように掴めなくて。けれど先は見えなくて、だからそのまま進めば取り返しのつかないことになる。壁だと無理矢理形容するなら、そんな形に近いと思った。だから正しく表現するのなら、これは私にとっての壁ではないのかもしれない。

 負けた。けれど折れていない。まだ勝ちは狙える。勝ちを期待してくれる人がいる。そして、次へと歩み始めている。なら、それでいいんじゃないか? そう思ってしまうのは私の弱さなのだろうか。変化や成長、期待と不安。今の私はそれらを織り込み済みだ。それらを越えたから、ここまで来た。なのに、その先にまだ壁があるのだろうか? 

 あるいはそう己に問うことこそが、得体の知れない不安の原因かもしれないけれど。それでも問うのはやめられない。答えを求めるのはやめられない。まだまだ周囲から激励の言葉をかけられながら、それでも心に雲が張る。

 たとえ、どれだけ他人の言葉があろうとも。

 私の心の内側までは、届かない気がした。

 

「ではみなさん、これからも末永くセイちゃんをよろしくお願いしますね〜、なんちゃって」

「はい! シニアでも、またあの『逃げ』が見たいです!」

「私も! セイウンスカイさんの走りは、本当に魅力的でっ」

「はいはいそこまで。ご愛顧、誠にありがとうございます」

 

 ファンの人たちをなんとか振り払い、私は境内をひたり、ひたり。もちろん元旦の神社なんてとても人が多いので、そのうちに紛れればなんとか追っ手に区切りをつけることはできた。

 出店が立ち並び、人々は行き交う。その様を見て、そういやトレセン学園のファン感謝祭もこんな感じだったか、などと思い出す。確か次は春、天皇賞の直前にあるはずだ。ちなみに春の天皇賞と言えば、有マ記念の直後にトレーナーさんから告げられた私の次の目標でもある。イベントは目白押し、というわけだ。これから先、その先だって。

 それにだってもちろん備えるし、それなりにわくわくだってしている。なのになんなのだろうか、今抱える不安というものの正体は。先程から、いやあの有マからずっと、私はそれに取り憑かれている。そこにあるのは形容さえできない、ぶ厚く仄暗い靄だけ。

 空はまだ晴れているけれど、空と私の間に何かが挟まっている。はっきりとは見えないのに、しっかりと視界を覆う何かが。そんなことしかわからなかった。

 ……さて、そんなことより、だろう。何故だか他のみんなは一人たりとて来ていないが、今日はチーム<アルビレオ>の初詣、というイベントのはずである。ならば私が代表して、何かお願い事をしてやらねばならない。やれやれ、手間のかかるチームである。

 神社で初詣となれば、流石の私も幼い頃の経験がある。まだ自分は才能に満ち溢れていると思っていた頃の私だ。そんな私だったから、神様にお願いすることだって決まっていた。そしてじいちゃんに手を引かれて連れていかれた先で、一通りの作法を教わったのだ。

 そして私はその記憶の通りに、ゆらりゆらりと歩を進める。まず手水所へ行き、ひしゃくを使って心身を清める。この心、というのが重要らしく、そのためには両手だけでなく口も水で濯がないといけない。

 確か昔の私は、これをすれば神様に褒められるのだ、と小さな手を丁寧に水で清めていた。多分今の私がそうしているのも、その残滓のようなものなのだろう。新年を迎えても、何年が経とうとも。人は変化しようとも、どこかで過去と繋がっている。なら今の私の悩みも、きっと今までのどこかに解決の糸口があるのだろう。そんなことを思いながら、祈りを込めて手水所を後にする。

 そうなれば、あとは拝殿に向かうのみ。それなりに大きな神社で、それなりに大きな拝殿だった。ここに願うことがもし決まっているのなら、私の抱えるものはどんなにか楽だっただろう。わからない。空を切る感覚だけで、何も掴めない。それなのに、何かがあることだけはわかる。たとえ全能の神であっても、知らないことはどうにもできないものだろう。

 けれど私はそこへ歩を進める。集まる人だかりはここまでで一番多くて、少しずつしか賽銭箱の方へは進めない。まったく、どうして私一人でこんな苦労をしなければいけないのだろうか。そんな愚痴をこぼす隙間さえない密集状況。それでも少しずつ歩けば、漸く賽銭箱の前にたどり着いた。さて、何を願おうか。

 幼い頃の私は、初詣の前から願い事を決めていた。「もっともっとすごくなって、トゥインクル・シリーズでデビューする」そんな当時としては現実を知らない大それた願い事を、あけすけに神に祈れていた。

 そしてきっと今は、その願いが叶ったといっていいのだろう。あの頃思い描いていた通りの姿なのかは、わからないけれど。人はどうしても成長する。けれど変わらないものもある。そんな何度も反芻した事実を証明するものの一つが、今の私なのだろうとも思う。それでも、だった。

 成長を実感し、その歩みに今までの重みを乗せることができたとしても。それでも私は、まだどうしようもなく子供なのだろう。無邪気に褒められたいとだけ願っていたあの頃と、何も変わらずに。

 そんな私の思考は濁流の如く。一瞬で流れるけれど、止まる気配はさらさらない。だから強引に打ち切って、改めて拝殿を眺める。真正面に見えるのは大きな扉だった。

 確か神社の建物は私たちが今見ている拝殿の後ろにまだ本殿があって、拝殿はその窓口に過ぎない、だっけ。幼い私にじいちゃんが教えてくれたことは、朧げになりながらもまだ覚えている。やっぱり未来は、過去の先に続いている。それなら。

 ちゃりん。お賽銭を投げ入れて、垂れ下がった鈴をちりちりと鳴らして。かつて教えられた通り、二度のお辞儀を深々と重ねて。ちなみにお賽銭は豪勢に百円だ。これくらい入れれば、チームと自分の両方をお願いしても許されるだろう。

 ぱん、ぱん。私なりに考えて考えて、それでも時にはわからないことはある。たくさんある。そういう時に、人は何かに祈るのだろう。人事を尽くして天命を待つ、というやつだ。

 声なく空に響かせる、大切な、大切な願い事は。

 

(これからもたくさん走って、期待に応えられますように)

 

 そんな私の、未来に繋ぐ願いごとと。

 

(いままで通りみんなと、一緒にいられますように)

 

 きっと私たちみんなの、過去から届く願い事だった。

 未来は今から描き出すもので、過去は今を作り上げたもの。だから今を生きる人でさえも、離れた時間に想いを馳せることができる。どちらも今の自分自身に、そこから一秒進んだ先の自分自身にも、深く深く関わるからこそだ。一年の初日からその一年全てを予見するなんてできっこないけど、そう願うことそのものに意味があるのだろう。

 なんとなく、そう思った。それもまた新しい発見。たとえば幼い私がいくら初詣に出向いてもわからなかったけれど、今の私ならわかること。それも成長だ。

 うん、少し気持ちは晴れた気がする。未だ消えない鈍色の霞。昔の私なら、きっとその先に進むのを諦めてしまっていただろう大きな迷い。だけど今の私なら、諦めないという選択ができる。恐怖に瞳が震えても、前を向く顔を逸らさないことができる。これまでやってきたように。これからも歩み続けられるように。

 人の流れは相変わらずごった返していて、参拝を終えた後に出ていくのも一苦労だった。ウマ娘として少し大変なのは、そんな人混みで尻尾にうっかり触れられるとびくっとなってしまうことである。いや、痴漢とかじゃありませんよ? それくらい大賑わいで、初詣というものは沢山の人のお願い事が詰まっているんだなあというだけで。

 なんとか抜け出したあと、目の前に沢山立ち並んでいたのはおみくじ屋さん。「屋さん」という表現が正しいのかはわからないが、出店のようなものではあるはず。

 参拝して気持ちが神妙になっているところに漬け込んで、気が乗ってる客からおみくじ代を頂戴する。そんな悪徳な出店だ。なんて罰当たりな冗談は心のうちに留めておいて、私もこつこつとそちらへ歩いて行く。なんとなく気持ちは高揚していて、着て来た冬着も若干汗ばんでいた。いや、さっきの人混みが暑すぎただけかも? まあ、それはともかく。

 

「すみません、おみくじひとつお願いします」

「はい、ではこちらを振ってください」

 

 がしゃがしゃ、がしゃがしゃ。振って振って、きっと願いや祈りを込めて。信心深いとかそういうことはかけらもない私だが、こういった行為に儀式的意味合いがあることはわかる。  

 多分お金を払ってはいあなたの運勢はこうです、と言われるのとは違うから、ある程度自分の力が関わるから、普通の占いとは一味違うのだろうけど。

 ……ほどなくして、おみくじの番号を示す棒が出て来た。巫女さんがそれを読み上げる。そういや巫女さんって、こういうイベントの時だけバイトで募集してるんだっけ。グラスちゃんとかひょっとしてどこかの神社でやってたりして。私はいいや、正月から仕事したくないし。

 

「はい、十七番ですね、こちらをどうぞ」

「ありがとうございます」

 

 まあそういうわけで、おみくじをうやうやしくいただいて。少し人の少ないところに移動してから、恐る恐る開いてみる。そりゃそれなりに緊張しますよ、一年の運勢なんて言われたら。えっと……わお。

 

「大吉」

 

 まさかまさかというか、日頃の行いの賜物というか。適切な表現が思い浮かばないが、なんと、大吉だった。いや、素直に喜ばしいことだろう。もちろんそれだけで喜びすぎてもいけないのだが、頬が綻んでしまうのも無理はない。うん、仕方ない。

 とはいえそれだけではいけない。おみくじというものは運勢をただ書いてあるだけのものではなく、多方の行動における指針のようなアドバイスのようなものも書いてある。待ち人とか、失せ物とか、恋愛とか。これも流石に大吉と言った感じで、大体いいことが書いてあった。どこまで信用するかは本人次第なものではあるが。

 けれど総評として、おみくじに一番大きく書いてあった文言。それが一番、私に勇気をくれた。神社のものなので堅苦しい言葉遣いだったけど、私らしく言い換えてやると、こうだ。

 

「決して焦らず、今まで通りゆる〜く歩むべし」

 

 少し砕きすぎただろうか。とはいえそういうことならば、私はやはり、私なりにやるしかない。有マからずっと揺らいでいた気持ちが、何かの支柱を見つけた気がした。……そうなってもやはり、グラスちゃんの言葉は気になるけど。

 グラスちゃんの人を見る目は、鋭い。私たち同期の中では、一番か二番を争うくらいに。ちなみに対抗バはスペちゃんだ。そんなグラスちゃんが私に感じた違和感は、きっと確かに正しいはず。なにせ私もずっと感じている。歪な感覚。取り返しのつかないところまで、ぎりぎりに迫っている感覚。

 それでも私にできることがあるとすれば、いままで積み重ねて来たものを信じること。期待されたいと願ってトレセン学園に来て、いつか諦めた褒められたいなんて願いまで思い出して。それでもそれを捨てずに積み上げて、クラシックでは二冠を果たした。そして、そこから先へと走り出している。みんなのおかげだ。そして、私自身が打ち立てた成果だ。

 境内の人の流れを逆向きに歩いて、私は初詣を終える。神頼みのおかげと言えば身もふたもないのだが、今日で少し何かが見えた気がした。この先に進むための手がかりとなりうる、何かが。

 未来は刻一刻と迫っている。過去は秒刻みに手元から離れていく。けれど今現在があるから、私たちはそれらを結びつけられる。結び繋げて連ねることができるのなら、私たちはきっとどこまでも舞い上がることができるのだ。今は、そう信じていた。目を背けられない恐れになんとか立ち向かうために、そう希っていた。

 ……ちなみに、なんで初詣に他の誰も来なかったのかというと。

 

「ええ、トレーナーさん腰痛めたんですか!? いやすみません、全然LANE見てなかったです」

「そうなんです、それで今日はお流れに。……ちなみに一応後日ということになってるんですけど、スカイちゃんは」

「いや、流石に二回も行かないですよ。若干申し訳ないですけど」

 

 と、いうことらしい。行って帰ってチーム部屋でのトップロードさんとのエンカウントで、ようやく気づいた真相であった。後で私も見舞いに行こうかとかそんな気持ちの余裕も生まれていたので、一人でこの寒い中初詣に行かされた恨みつらみを吐くこともなかった。

 まだ、余裕はあった。

 だから、それでよかった。




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閉じよ天蓋、全てが終わるその時まで

「あけましておめでとうございます、セイちゃん」

「アタシもあけおめ、コトヨロデース! 初夢にマンボが出てきました!」

「二人とも、あけましておめでとー。エル、それは実はとんでもない初夢かもよ」

「えっ!? そうなんデスか!?」

「スカイさん、新年早々大嘘を吐かない。……みなさん、あけましておめでとう」

「キングちゃんも、あけましておめでとうございます〜」

 

 正月休みが明けて、トレセン学園も新学期。そうなればクラス中で年明けの挨拶が行われていて、放っておけば溢れてしまいそう。もちろん私たちも類に漏れずといった感じで、いつものメンバーで今年初めてかつ相変わらずの掛け合いをしている。正確には、一人足りないけど。

 

「ええ、おめでとう、グラスさん。……私が最後かと思ったけど、一人足りないわね」

「スペちゃんデスね! キングは同じ寮だから、一緒に来るかと思ってました」

「なんで私がそこまで面倒見なきゃいけないのよ。一流には一流の登校というものがあるの」

「なにそれ、キングも適当言ってない? まあ初日から遅刻なら流石に心配だけど……っと、来た来た」

「ええ、来ましたね〜」

 

 ここからでも、その慌てた表情はよく見える。廊下の外から教室の中へ、チャイムぎりぎりにやってくるその子がよく見える。ギリギリセーフ、だね。

 

「みなさん、あけましておめでとうございます! 今年もスペシャルウィークをよろしくお願いします!」

 

 そう教室に入るなり思いっきり叫ぶという奇行については、ギリギリアウトかもしれないけど。なんかスペちゃん、今年はますます気合い入ってるなあ。

 そうなるともちろん、私も負けてられないのだけど。いや、あんなふうに大宣言するところに張り合おうという意味ではないのだけど。クラシック三冠を獲り合ったライバルとして、スペちゃんと私はこれからも良き仲を継続していきたい。もちろんスペちゃんもそう思っていてくれたら嬉しいけれど、待っていてくれるわけがない。必死に走って、それでも並んで。それが、私たちの関係だろう。

 だから私は、このままではだめなんだ。それはわかる。それだけはわかる。けれど、それだけだった。暗雲とまではいかない薄雲は、絶えず青空を遮っている。いつか消えるだろうか。膨らみ続けてけれど触れない、そんな不安は私を決して満たさない。

 ただ、抱えてゆくだけ。ようやく鳴り響くチャイムと共に、私たちはそれぞれの席へと帰って。

 独りに、なった。

 

 

 そして新年最初の授業なんてのも、うとうとしていればあっという間に昼休みまで時間はすすむ。そして私たちの昼食といえば食堂で集まるというのも、やはり年を明けても変わりなく。スペちゃんが一人だけこんもりとご飯を盛っているのとか、しばらくぶりに見ると懐かしさも感じられたり。

 新年でも変わらないそんなルーティンの中で唯一法則性のないものといえば、会話を切り出すのが誰からかということ。そして、その話題の切り出し方でその日の会話は大きく変わる。

 ではたとえば誰がどんな話題を出すのかというと、私だってたまにはくだらない話題を提供することもあるし、エルもどっちかというとくだらない寄りの話題が多いかな、という感じで。そしてグラスちゃんとキングの話が真面目よりとはいえなかなかノンジャンルなので、私たちの中で切り出す話題が一番実のある話? な子といえば。

 

「あの、そういえば! みんなにすぐに報告しようと思ってたんだけど、私すっかり忘れちゃってて」

「あらどうしたんですか、スペちゃん」

 

 実は、それはスペちゃんなのである。こんな感じでスペちゃんは私たちの中でも一番真面目な子なので(ちなみに一番不真面目なのは当然私だ)、スペちゃんが話題を切り出すと真面目な話の展開になることが多い。まあ大前提として、誰が話題を切り出してもそれを嫌がる人がいない、みたいな仲なのはあるんだけどね。

 とはいえ、そんなこんなで。グラスちゃんが促すと、スペちゃんは意気揚々と話し始める。跳ねる耳、揺れる毛先。うん、今年もスペちゃんは元気いっぱいだね。

 

「実は、<スピカ>で新年会をやったんです! それもスズカさんも一緒に! リハビリが順調で、ギプスも取れて、それで」

「ちょっとスペシャルウィークさん、もう少し落ち着いて喋りなさいな」

「スズカさん、ギプス取れたんデスか!? やっぱりアタシの初夢初マンボ、吉兆デシタね!」

「こらこら、エルも落ち着いて。……でも、チーム<リギル>としても。スズカさんがまた走れるようになるのは、嬉しいことです。スペちゃん、また走れるのを楽しみにしていますと、伝えておいてくれませんか?」

「うん! スズカさん、きっとグラスちゃんがそう言ってたって聞いたら喜ぶと思う!」

「エルもよろしくお願いしマース!」

「うん! 二人ともありがとう!」

 

 なるほど、スペちゃんの盛り上がりはそういうことか。きっとそれで昨日は疲れ果てて、今日は寝坊しそうになったに違いない。それにしてもスズカさん、相変わらず後輩たちに慕われてるなあ。なんて、遠巻きに眺めつつ。

 

「よかったね、スペちゃん」

「……うん、セイちゃんもありがとう」

 

 私に言えるのはそれくらい。やっぱりスズカさんのことを知らない私に、尽くせる言葉は殆どないけれど。

 その一言に込めた気持ちは、嘘でも誇張でもない。私の本心。言葉にできないとしても伝えたい、きっと心に秘めたもの。

 私はまだ、スズカさんのことをよく知らない。だから、これから先知ることができる。そのチャンスは、スズカさんの手で掴み取られた。ならば私も、いつかその場所に追いついて。だから私は、これからも走り続けるんだ。

 最強最速の「逃げ」を相手に、私の「逃げ」を見せてみたい。たとえば、そんな動機。あるいは同期のみんなが憧れるその人に、私も親しくなってみたい。たとえば、そんな動機。我ながら柄にもなくミーハーだけど、そういう動機で私はスズカさんのリハビリを応援する。

 

「私はスズカさんのことはあんまり知らないけとさ。スペちゃんがそれだけ大事にしてる憧れなんだってことは、もう十分知ってるから」

 

 そしてもしかしたら、そんな動機。親愛なる君のことだから、私はそれがうまくいってほしい。そんな笑っちゃうくらい単純で、だけど揺るがせないくらい純粋な気持ち。だから多分、これは今の私の道標になるものだ。

 

「それに、次の春の天皇賞。スペちゃんも出走考えてるって、聞いちゃったからね」

「うん、トレーナーさんもそう言ってた。……セイちゃんとは、菊花賞以来だね」

「そう。だからそれまでにスペちゃんには、心身共に健康になっててもらわないと。そうじゃなきゃ、張り合いがない」

「……うん。もちろん、だよ」

 

 もっとも、それは私にも言えることだ。私もその日までに、霞がかった何かを打ち消さないといけない。

 実はそれについて、一つわかりやすい手はある。私の中の迷いを見出した張本人に、なりふり構わず聞いてしまうこと。たとえばこの場でもいい。後でもいい。グラスちゃんは多分、まだ私がそれを解消できていないと知っている。

 だから多分、話せば聞いてくれるのだけど。それでも私はその手段を選ばなかった。私がそうしない理由は二つある。一つはやはり、自分で解決すべきという気持ち。頼るばかりではなく、頼られる私になりたい。もっと私は、成長したい。その点ではグラスちゃんが上を行っていて、私はまだまだ子供なのだろう。けれど、そこで終わりじゃないはずだ。

 そしてもう一つ。それに思考を移すタイミングで、ちょうどその彼女が話題を切り出した。昼空に涼しげな陰を落とす静かな茶飲み話として、だけど皆が聞き入る話題として。そんな彼女の態度から、私が導き出すもう一つの理由がある。

 

「そういえば、今年のウインタードリームトロフィーも素晴らしかったですね。<リギル>からも、多くの先輩方が出走していました。……本当に、素晴らしかった」

 

 グラスちゃんは、何気なしにその話題を切り出す。けれど私には、いやおそらくこの場の全員にわかるのは。その言葉は、憧憬や羨望などではないということだ。グラスちゃんの視界は、既に遥か高みまで開けている。その目の前にあるもの全てを、見据えている。

 それが、私がグラスちゃんに聞けないもう一つの理由だ。彼女は既に、あまりにも多くのものを抱えている。彼女が勝利を願うのは、前回の自分が超えられなかったもの全て。そのために、彼女は強く在る。

 スズカさんが故障したあの日、私はグラスちゃんと電話で話をした。あの時決壊したようにとめどなく言葉を流していたのも、きっと紛れもなくグラスちゃんだ。グラスちゃんは強いけれど、だからこそぎりぎりまで抱え込んでしまう。他の誰かの不調さえ捉えてしまえるその眼は、きっと見ようと思えば何もかもを見えすぎてしまう。

 それなら、背負うべきでないものまで背負わせられない。それが、私の結論だ。

 

「ドリーム・シリーズのレースの一つ、新年を祝うウインタードリームトロフィーね。ドリーム・シリーズのレースなんて滅多に観れないものだけど、錚々たるメンツだったわね」

 

 と、グラスちゃんの発言にキングが補足説明を入れる。ドリーム・シリーズとはその名の通り、夢のレースが繰り広げられる舞台。私たちが今競い合うトゥインクル・シリーズで相応の成績を残したウマ娘だけが、秘密裏に招待されるものらしい。つまりそこにあるのは、世代を代表するウマ娘同士の、世代を超えた勝負。まさに、夢の舞台だ。

 

「はい〜。おかげで<リギル>では、新年会のタイミングが無かったのですが」

「あ、それは私もだよ。<アルビレオ>で初詣に行くって言ってたのに、トレーナーさんが連絡もなしに、腰痛めたからって日程ずらして」

「それは貴女がLANEを見てないからでしょう、おばか」

 

 うわっ、キングが拳を飛ばしてきた。私は隣に座っていたので更に隣のエルのところまで思わず逃げる。そこまで全力で逃げなくてもいいじゃない、とキングに呆れられた。遺憾だ。あのげんこつはちょっと本気だったでしょ、絶対。

 そんな一瞬のわちゃわちゃの後、また会話が再開される。スペちゃんからだった。今日はいつにも増して元気に見えるね、うん。

 

「ドリーム・シリーズかあ……。<スピカ>でも新年会で観たんだけど、すごかったなあ……」

「アタシはいつか、あそこで走りマスよ! みんなもあれを見て、そう思いませんデシタか!?」

 

 そしてそれを引き継ぐのはエル。そういえばエルの目標は、「世界最強」だったっけ。そうなれば世代の最強としてドリーム・シリーズに名乗りを上げるくらいは通過点なのかも。けれど多分エルの言う通り、それを狙ってる子はここには多い。グラスちゃんは当然として、スズカさんと一緒に走りたいスペちゃんも。

 そして、他にもいておかしくなかった。

 

「そうね。一流に最もふさわしい場があるとしたら、ドリーム・シリーズはそうであってもおかしくない」

 

 ほら、キングも。そうすれば私の中に生まれるのは、なんとなく置いていかれていく感覚。私は、どうなんだろう。何気なく会話を重ねているが、ここにあるのはハイレベルなウマ娘の集まりだ。私含めて。ならばその目標は高めあい、競い合うものであってもおかしくないのだろうけど。けれど、私は。

 そんなふうに考えていた時だった。キングはまだ、言葉を続ける。流れに反して、されど自分らしく。キングらしい、言葉で。

 

「……でも、私はまだまだね。貴女たちと今の段階で同じ目標を持つには、私には積み上げてきたものが足りない」

「キングちゃん、それは」

「慰めは不要よ、スペシャルウィークさん。これはただの事実。たとえば私は貴女より弱いなどと思ってはいないけれど、戦績の上では歴然とした差がある。それだけのこと」

 

 それはきっと、言い方次第では弱音になるはずの言葉なのに。キングのそれは違った。ただ彼女が見ているものは、他の誰かとは違うということ。それを伝えていた。たとえばグラスちゃんが目の前全てを捉えて見るのとは違って、キングは自分の視界を極限まで絞っている。一つ一つの物事に、己が全身全霊を割いている。それが、キングの戦い方なのだろう。もちろん私とも、違う。

 

「……なるほど。キングは流石だね」

「スカイさん、貴女も首を洗って待っていることね」

「おお、怖い怖い」

 

 ふと漏れた賞賛に、返されるのは鋭い言葉。けれど彼女はこう言いたいのだろう、「それまでは、私たちはライバルだ」と。グラスちゃんも言っていた言葉だ。私たちはどこまでも、競い合うライバルで友達なのだろう。

 

「さて、そろそろ食器を下げましょうか。スペちゃん、その量一人で持てますか?」

「うわっありがとうグラスちゃん! でも平気、慣れてるから! ……とぉっ!?」

「はい、キャッチ。スペちゃん、無理は禁物だよ」

「ごめんセイちゃん、ありがとう」

「セイちゃん、ナイスキャッチ、デス!」

「まったく、スペシャルウィークさんったら……エルコンドルパサーさんも、見てる暇があったら手伝いなさいな。一人だけ五倍は食べてるんだから、この子」

 

 さて、そうして新年最初の昼休みは終わりだ。久しぶりにみんなと話して、少し肩の荷は下りた気がした。初詣の時は一人の時間を有意義に感じたけれど、やっぱり誰かと過ごす時間が必要な時もある。そのバランスで私たちは成り立っているのだろう。

 だから、私もそのバランスを取らなければいけない。この先の道を一人で進む時と、誰かと共に進む時。たとえば次の春の天皇賞は、当然トレーナーさんたちチームのみんなに支えられるだろうけど、最後にものを言うのは私一人の力だ。私が、頑張らなければいけない。

 けれどそれだって、今までやってきたことのはずだ。やっぱりそれでは私に足りないものの解答にはならない。それでは、この先にはいけないのだろうか。

 ウインタードリームトロフィーを観た時、私はそれを遠くに見てしまっていた。そのことは今日言い出せなかった。「あれはすごいけど、私たちは私たちで頑張ろうね」そう言うことはできなかった。みんなは、もっと違う視点を持っていたから。みんなと同じで私も未来を見ていたはずなのに、どうして同じように「私もあそこで走りたい」と思えなかったのだろう。

 それはキングが出した結論と、果たして同じような理由だろうか? 目の前に集中するため。そんな前向きな理由だろうか? 自問自答を繰り返し、それでもあるのは歩んだという感覚だけ。それが前に向けてなのか後ろに向けてなのかはわからない。結局その日もどこまでも、得体の知れない不安が残った。

 その日からのトレーニングも順調にこなせた。授業の感覚もすぐ取り戻した。ありふれた日常は、いつものように戻ってきた。

 私だけが、どこかへ行っていた。

 




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甘き黒きに沈溺し、されど其は天頂に廻るを求めるが故

 バレンタイン・デイ。その名を聞けば誰もがときめく、心を込めたチョコレートと共に、甘い甘い恋の想いを伝える日。……なーんてのは大昔の話で(いやそもそもバレンタインのチョコレート自体が由緒正しくもなんともない風習らしいけど)、今や義理チョコから始まり友チョコやらなんやらバリエーションはたくさん。一貫しているのは女の子が誰かにチョコを渡すという点だけで、それ以外はなんでもあり。いやはや、この催しを最初に考えた人は商売がうまいですなあ。

 というわけでバレンタインとは年頃の女子のためのイベントであり、そうなればつまりはウマ娘集うトレセン学園でも重要なイベントとなるわけである。学園中どこを見渡してもチョコを渡すか渡されてる、そんな光景が当日は予想されるのだ。

 ちなみに、こんなふうにバレンタインを遠目に見ているつもりの私セイウンスカイはどうなのかというと、やはりというべきかチョコレートを用意する人間になってしまったのだが。いや、正確に言えばさせられたのだ。故にこうしてトレセン学園近くのデパート前で待ち合わせをしている。事の始まりは三日前、つまりバレンタインの六日前に遡る。今週末がバレンタイン、そんなタイミングだった。

 

 

 まず最初にその話を持ち出したのは、トップロードさんだった。しかも私一人に対して。トレーニングの合間、私がからからの喉を潤しているタイミングだったのに、そんなことを気にもせず藪から棒に。

 

「今度のバレンタイン、トレーナーさんにチョコを渡しませんか」

 

 むせた。吹き出しはしなかったけど、むせた。何故なら純情乙女のセイちゃんには、バレンタインにチョコをあげるなどという一大イベントの経験はなかったからである。それも誰かと合同でなんて、なおさら経験のないことである。なので私はすかさずというか、とりあえず浮かんだ疑問をぶつけた。

 

「ええそれ、どういう意味ですか」

「そのままの意味ですよ? 日頃の感謝を込めて、チームを代表して義理チョコを」

「なんで私が巻き込まれてるんですか」

「だって、みんなからもらったほうが嬉しいじゃないですか! でも流石に、数は絞らないといけないし。私は毎年、食べるのが大変なので……」

 

 その発言で私は即座に、トップロードさんがバレンタイン慣れしている方の人種だと察知する。チームでも慕われているし、確かクラスの委員長やってるらしいし。そりゃ、モテますわ。まあ、それはそれとして。ちょっと考えて、私は答えと一つの問いを同時に投げかけた。

 

「……まあ、いいですよ。私とトップロードさんで、ですか? 実はもう一人くらい、当てがあるんですけど」

 

 私が乗っかったのには、気分転換を含めたそれなりの打算があるのだけど。それはさておきそういうわけで計画に加わった私は、早速一つの提案をする。立案トップロードさん、進行私セイウンスカイ。となれば残るはあと一つ、実行役が必要だと思われた。

 

「あと一人くらいなら、別に増えてもいいと思います。あんまり増えると渡すチョコも増えちゃいますが、合同でという形なら。……で、誰でしょうか」

「それはせっかくなら、きちんとした贈り物とかそういう高級品に詳しい人がいいと思いまして。実際にチョコを選ぶタイミングでのリーダーですね」

「ははあ、なるほど。……で、つまり?」

 

 あれ、ピンときてないか。この人は思いのほか察しが悪いというか、私の持って回った言い回しが悪いというか。しかしそうなると逆に、軽いサプライズにしてもいいかもしれない。二人ともにとって、だ。

 

「まあ、買いに行く日に呼んでおきますから。その時のお楽しみ、ということで。後で買い出しの日、教えてください」

「あっスカイちゃん、なんでそこで隠すんですか!」

「にゃはは、たまにはトップロードさんをからかいたい時もありますよ〜」

 

 かくして、計画は実行に移されたのである。ちなみに該当約一名には、「十一日十時にトレセン学園近くのデパート前で」としか伝えていない。トップロードさんが来ることとか、そもそもの集まりの目的とか、そういったことは何も。

 先に言ったように私がこの計画に乗っかったのも、それなりに真面目な事情はある。相変わらず晴れることのない、未来を塞ぐような不安についてだ。だから、何か意味のあることをしたかった。トレーナーさんにプレゼントをするのは、前のクリスマスの再現に過ぎないかもしれないけど。それでもこの不安は杞憂だと、そう証明できるに越したことはないから。

 そしてそれはそれとして、別の思惑はあるのだけど。だけどそれは、今日の話だ。今日今からの、これからの話。間近に近づくバレンタイン、それに向けての話。これはチョコレートを送ることそのものではなく、その日そのものに込められた想いの話。

 バレンタイン・デイは、たとえどれだけあり様を変えようと。

 乙女たちのときめく日だと、そう決まっているのだから。

 

 

「おはようございまーす、スカイちゃーん!」

「あっトップロードさん、こっちですよー」

 

 そうして今日、バレンタインの三日前。私とトップロードさんともう一人は、こうして待ち合わせをしているわけである。今トップロードさんが来たところだ。大体十分前きっかりといった感じで、この人の真面目さが垣間見えるというか。

 ちなみにそれに比べて不真面目な私が、どうして彼女より先に待ち合わせ場所に着いているのかというと、だが。

 

「スカイちゃん、今日は早いですね! やる気たっぷりって感じです!」

「いや、そーいうわけでもないんですけど。ほら言ったじゃないですか、もう一人」

「言いましたね、結局誰なんですか?」

「それはいずれわかるとして、多分あの子はめちゃくちゃ早く待ち合わせに来ると思ったんですよ。だけどそれで誰もいないままだったら、そのまま帰っちゃうかもしれない」

「ええ、それは困りますね」

「まあこれは私が待ち合わせ場所と時間しか伝えてないから、それで不安になってしまわないかという話なんですけど」

「……なんでそんな無茶振りしてるんですか!?」

 

 無茶振りと言われるとその通り。まあでも、多分あの子なら来てくれるし。今日何が必要かもよくわかってないし伝えてないけど、多分それも用意してくれるし。それくらいには、彼女のことは信頼している。良くも、悪くも? 悪いのは私の性根か。まあ、ともかく。

 

「あ、来たっぽいですよ。おーい、こっちこっちー」

 

 そうやって手を振る先にあるのはいつも見慣れたその姿……? いや、何あの服。記憶にある限り彼女の私服姿を見たのは夏合宿くらいだけど、その時はもっとラフな格好だった。あれは重ね着というやつか、いやもっと高尚にコーディネートというべきか。

 更にあちらから近づいて来たので見てみると、その手首にはアクセサリがあったり、首にはブローチを付けてたり。なるほど、これが今日の遅刻の理由か。いや、ちゃんと五分前には到着できているのだけど。これだけのおめかしをしながら時間にも間に合う、流石「一流」だ。

 そう、何を隠そう、私の呼んだ助っ人とは。チーム<アルビレオ>のお嬢様担当、キングヘイローその人である。まあ、そんな隠すつもりもなかったんだけど。そこはトップロードさんが律儀にクエスチョンマークを浮かべてくれるのが悪い、うん。

 

「おはよ、キング」

「おはよう、スカイさん……って、トップロード先輩!?」

「おはようございます、キングちゃん! えっと……すごく、すっごく綺麗ですよ!」

「それは当然! です! なにしろスカイさんが用件も告げずに待ち合わせの連絡だけして来たので、服装だけでもどんな状況でも粗相のないようにと! 何を考えてくるかわかりませんものね、スカイさんは!」

「えー、そんな理由なのー? 私はてっきり、愛しのセイちゃんとのデートだからって張り切っちゃったのかと思ってたけど」

「お、ば、か! ほんとにそんな用事で呼びつけたのなら、今すぐ帰るわよ!」

「まあまあ落ち着いて、ちゃんと真面目な話もするからさ。実はこれは元はと言えば、トップロードさんの発案なんだけど」

 

 そう言って気性難真っ盛りのキングを若干強引に宥めながら、私とトップロードさんで今回の企画についての説明をする。日頃の感謝を込めて、チームを代表してトレーナーさんにチョコレートを渡す。私たち三人で。そして今日はそのチョコレートの買い出しに、このデパートまでやって来たこと。順に説明すると、キングは大体納得しつつも。一つ、疑問を口にした。至極真っ当な疑問。

 

「……で、何故私が呼ばれたのかしら」

「そうですね、私もちょっと気になります。スカイちゃんの人選の意味、というか」

 

 何故、か。そう疑問が浮かぶのも無理はない。なにしろキングは<アルビレオ>においては新参者で、言ってしまえばトレーナーさんとの付き合いも浅い。それなのにチームの代表の一人として出てきていいのか、という考えはあるだろう。私にもそれくらいはわかる。

 わかっていて、私は君がふさわしいと思ったんだ。

 

「そうだね、どこから説明しようかな……なんて、もったいぶるのもそろそろやめとこうかな。まず前提としてキングはさ、<アルビレオ>では新入りなわけじゃない?」

「そうよ。新入りがでしゃばることにならないわけ、それ」

「まあ一見、そうだけど。そもそもでしゃばりだなんて思うような子、<アルビレオ>にはいないと思うし」

「それくらいは分かってるわ。それでも、意図としてそぐわないでしょう。日頃の感謝、という意図に」

 

 そう言うだろうことも、多分わかっていた。わかっていて、私はキングを呼び出した。何故か。それはきっと、私がキングのためになりたいから。それをストレートには言えないから、いろんな理由はつけてしまうけど。

 

「……見方を、変えればいいんだよ」

「見方?」

「そう、物事の見方。何事も表裏一体、コインの裏表なんだから」

「意味が良くわからないけれど。私があえてチームの代表なんて立場を取ることに、何かしら有意なことがあるのかしら」

「そうそう、その通り。要はさ、これまでだと仲良くないのなら。それじゃ自分は相応しくないと、そう思うのなら」

「……なるほど。その逆」

「そう。これから仲良くなるのなら、これ以上のイベントはないと思わない? そもそもトップロードさんと私だって、チョコレートに込める想いは違うんだから」

 

 その私の言葉を聞いて、うんうんと頷くトップロードさん。だから多分、その通り。

 たとえばチームリーダーのトップロードさんにとっては、トレーナーさんへの感謝とはこのチームそのものを包括したもの。きっとチーム<アルビレオ>結成から今この時までを見てきたトップロードさんだからこそ、想う気持ちがあるはずだ。

 そしてたとえば私にとっては、トレーナーさんへの感謝とは……少し、言葉にするには恥ずかしいくらいのもの。第一印象では散々なことを思ってしまったのだから、尚更だ。だけどこのトゥインクル・シリーズを走る上で、たくさんの大事なものをトレーナーさんからはもらってしまった。だから多分、それを伝えたくて。そしてこれから先も、あなたなら道を示してくれると信じて。きっとそう想って、私はチョコレートを渡そうと決めたのだろう。

 そして、キングにもキングなりの気持ちがある。私たちとは違うからなんて、それを否定の理由にする必要はない。むしろきっと違うから、この場には君が必要なんだ。

 

「キングがこれからも<アルビレオ>でうまくやっていきたいなら、きっとこれは意味のあることだよ」

「……否定できないわね」

「なんで否定する必要があるのさ」

「私は自分の考えを簡単には取り下げたくないの。まあその上で、今回は貴女の言い分に納得するわ」

 

 なんだか奥歯に物が挟まったようなというか、悔しさ全開というか。まあそれもキングらしさだ。そこまで私が捻じ曲げる必要はないし、そのままでいいこともあるに決まっているのだから。

 

「……じゃ、これで無事キングちゃんも参戦ということで!」

「すみませんトップロード先輩、私としてもどうしても気になって」

「わわっ、いいんですよキングちゃん。スカイちゃんは時折、何を考えてるか隠す癖がありますからね〜」

「うわっ、トップロードさんも私をなじるんですか。セイちゃん、ショックです……」

「ああごめんなさいスカイちゃん、そんなつもりじゃ」

「……そういうところよ、スカイさん」

「いやはや、反省せねばなりませんなあ」

 

 話はようやくまとまって、私たちは足並みを揃えて一歩ずつデパートの中へ入っていく。その合間にも会話は絶えなくて、まさしく姦しいといった感じ。けれどそうやって皆が同じ方向を向く中で、それでも皆見えているものは違う。どこかは重なりどこかは補えるから、私たちは一緒にいるのだと。

 そしてキングの次なる言葉も、そんな思考と重なっていた。立ち止まりおもむろに翻って、彼女は私に声を託す。

 

「スカイさん、一つだけ」

「なに、キング。一つなら、いいよ」

「私は正直、今日ここに来るか迷っていたわ。だって私はきっと、それどころじゃない。クラシックで勝てなくて、そのままシニアに突入する。より厳しくなる戦線で、どうにか勝つ方法を見つけなければいけない。どんな道を通っても、あらゆる手段を使っても」

「……じゃあ、どうして来てくれたの」

「あなたが私を呼んだのも、同じ理由だと思ったからよ。あの日グラスさんに指摘された、あなたが克服しなければならないもの。それをなんとか探すために、貴女は行動を起こそうとしていた。……もっとも、もっとストレートに話し合いか何かだと想っていたけどね」

「なるほど、そこまでお見通しかあ。流石キング、ってとこかな。やっぱり君はすごいよ」

「貴女も、立派なものよ。自分をみくびるのは、止めた方がいいわ」

「それはお互い様」

「そうかもね。否定はしないわ」

 

 私がキングを呼んだ、正確にはトップロードさんの誘いを受けるところから、ずっと心の隅で考慮していたこと。考慮せずにはいられなかったこと。今私が抱える、得体の知れない不安の正体。それを取り払うきっかけを誰かから掴めたら、というのが、私が独りで悩み抜いた後に出した結論だった。

 結局私は誰かを頼るしかない。今までそうして来た中で、それが染み付いてしまっていた。だけど直接は言えない難儀な性格なので、こうしてプライベートな時間を共有する方法を取った。トップロードさんと、キング。<アルビレオ>でも特に私と親しくて、いつも力になってくれた二人。

 そうやって誰かを素直に頼ってしまうのも、昔の私からすれば考えられないことなのだけど。そんなふうに変われたからこそ、私はここまで来た。ならやっぱり素直に、これから先も誰かの手を借りて。みんなで、一緒に。

 

「まあでも、私のことは気にしなくていいから。勝手に二人の方を見て、盗んじゃうからさ」

「よく言うわね。そもそも私を誘ったのも、半分くらいはこちらのことも気にしてたでしょうに」

「……さあ、どーだか」

「まあいいわ、それについては追及しない。……でも、それにしても」

「まだ小言? お嬢様、それじゃ将来嫁の貰い手がつきませんよ」

「おばか。……そうじゃなくて、やっぱり貴女はすごいわね。そう思っただけよ」

「何それ、なんか怖いんだけど」

「裏も何もない、褒めただけよ。たまにはいいでしょう、バレンタインはそういうイベントなのだから」

 

 キングはそう、少し照れ臭そうに言い残して。呆気に取られた私を置いて、何してるんですかー、とこちらにぶんぶんと手を振るトップロードさんの方へと歩いていく。

 ……そっか、キング、私を褒めてくれたのか。やっぱりすごい、って。いつも認めてくれていると、言葉で見せてくれたのか。それは、あのプライドの高いお嬢様にはなかなか珍しいことかもしれない。あるいは私の不調に発破をかけるための、そんな意図だからこその滅多にない発言の可能性もあるけれど。

 それでも、その言葉は本物だ。彼女のことが私にはわかるから、私にも彼女のことがわかる。そう、まさしく彼女の言う通り、今日はバレンタインに連なる日。当日だけじゃなくその準備からだって、その気持ちは抑えられない。

 バレンタイン・デイは、たとえそこにあるものが不安や恐れだとしても。

 乙女たちの想い伝わる日だと、そう決まっているのだから。




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早暁に辿るは、永きを胡乱に惑える深脈の足跡

 デパート。百貨店。それすなわち幼い頃から近所の商店街に慣れ親しんでいた私にとっては未知の領域である。平々凡々な庶民たるセイちゃんには一生縁がないと思っていたような気もするその場所に、私は今足を踏み入れている。

 もちろん一人では入れないので、同行者二人つき。トップロードさんとキング。キングはともかく、トップロードさんはこういうところに来るものなのだろうか。

 

「なんかこう……すごいですね。はい、デパートなんて初めて来ましたけど」

「ありゃ、トップロードさんも初めてですか」

「はい……。いやでも、贈り物なら高級なのがいいのかな? って思ったんですが……」

 

 なるほど、それは確かに一理ある。せっかく割り勘で買うんだし。しかし当初の計画通りなら、そんな何もわからない場所に私と二人で来るつもりだったのか。私じゃ絶対力になれない空間だが。いや、我ながらキングを連れてきたのは正解だったな。

 ちなみにそのお嬢様はどうしているのかというと、先程からずっとデパートのフロアマップと睨めっこしつつぶつぶつ言っている。このブランドはどう、とかそんな感じの。頼りになると言わざるを得ない。下々にはわからないことについては存分に頼らせてもらおう。今日は頼ることしかない気もするが。

 

「ちょっとスカイさん、それにトップロード先輩。こっちに来てください、一緒に考えますよ」

「え、何を」

「どの店を周るかよ。もちろん全部周ってもいいけど、デパートってものは相応に広いし店の種類も豊富。全部周りたいなんて言ったら相当苦労するわよ。……というわけで二人とも、まずは数を絞りましょう。ある程度の概要は、こちらで教えますから」

「助かります、キングちゃん……」

「別に、乗りかかった船ですから。それに私も、渡すなら良いものを選びたい。もちろん金額やブランドが気持ちそのものではないけれど、特別な日には特別なものが必要ですから」

「そうだねえ、バレンタインだもんねえ」

「何でそんな他人事なのよ、貴女は。今回のチョコレートは三人合同、それなら貴女も渡す側よ」

 

 そう、それはキングの言う通り。つまりどういうことかというと、私も私なりの気持ちをチョコレートに込めてやらねばならない。……実は、これが結構問題で。

 キングの場合は、これから仲良くなりたいという意思表示。トップロードさんの場合は、これまでの感謝を伝えるためのもの。なら、私はなんだろうか。トップロードさんに倣って感謝を伝えるのは一見良さそうな案なのだが、ここには一つの問題があるのだ。現状私しか知らない問題。

 

(『いつもありがとう』は、クリスマスにやっちゃったんだよなあ)

 

 あのクリスマスパーティの日、トレーナーさんに私はクリスマスプレゼントを渡した。チョコとかじゃなくてルアーなんだけど。帰るところだったので、必然的にこっそり。今までありがとう、これからも頑張りますって。……その後の有マでは負けてしまったから、それ以上は求められない。

 あのクリスマスから、有マから二ヶ月も経っていない。もちろんそれでも変化はあるのだけど、私はまだそこから前に進めていない。つまり、新しく何かを想うことはできないんじゃないかって。もちろん、もう一度改めて感謝を告げることは可能だろうけど。

 それはなんとなく、嫌だった。何にもならない気がして。私にとっても、あなたにとっても。せっかくの、バレンタインなのに。

 

「……スカイさん」

 

 でも答えは見つからず、私の思考は堂々巡り。このまま永遠に、私は前へ進めないんじゃないか、なんて。

 

「……スカイさん?」

 

 駄目かもしれない。私はどうしても、この不安への答えが出せない。どんな方法を取っても、どんなにみっともなく足掻いても。得体の知れないものに、得体の知れないまま絡め取られる。

 そうだとしたら、私は一体──。

 

「スカイさんったら!」

「うわっ、何さキング」

「それはこっちの台詞よ、さっきからずっと考え込んで。もうトップロード先輩と二人で巡回ルートは決めちゃったわよ」

「ああ、それはごめん。いや、考え事ってほどじゃないよ? ちょっとぼーっとしてただけ」

 

 参ったな、私そんなに考え込んでたか。まだ答えは見えないのに。永遠に見えないなら無意味なのに。それならさっさと止めてしまって、それなりの私を演じればいいのに。誰にも手のかからない私。あの日諦めた、それからの私だ。

 今からでもそんな「私」になろうと、一生懸命に言葉を取り繕う。するとキングは一歩私から足を引いて、少し俯いて。あとは一つ、ため息を吐いて。はあ、って。やれやれ、って。その後切り出された言葉は、何事もなかったかのような。努めて、そうしてくれているのだろう。

 

「そう。ならとりあえず、早く行くわよ。トップロード先輩が待ってるの」

「……手間かけさせちゃったね、ごめん」

「そうね。貴女は案外、手間がかかる。自分なんて誰も気にしてないし気にもさせません、みたいな風をしておきながら」

「はは、そりゃぐうの音も出ないね」

「でもね、覚えておきなさい」

 

 キングはそう言って人差し指を立てて、私の顔をじっと見て。そのまま、私に一つの言葉を告げる。一つだけ、私に教えてくれる。

 

「手間がかかるのは、それだけ貴女が考えているからよ。貴女のそれは、無駄じゃない」

「……何さ、わかったようなこと言っちゃって」

「自戒も込めて、よ。別に貴女に上から説教出来るとは思わないもの」

「……ありがと」

「そもそも今の貴女が悩みを抱えてることくらい、大体みんなわかってるんだから。自分だってそれを織り込み済みで、今日は他人を頼りに来たんじゃない」

 

 すとん、と何かが心のうちに収まる音がした。そういえばそうだったっけ、キングにはもう言ってしまったことだった気がする。今日は素直に誰かを頼るために、わざわざトップロードさんの誘いに乗った。キングを呼びつけた。なんだ、私にはもう解法が見えていたんじゃないか。答えは見えないままだけど、解き方はとっくのとうにわかっていた。

 今日は素直に、悩みをそのまま口にしよう。そうわかっているのなら、私にできるのはその通りにすることだけだった。

 

 

 さて。トップロードさんとキングに合流して、チョコを探して幾星霜。ブランドは色々あるのだが、どれも高級、高尚、そして高額。つまるところどれにせよ全く普段見ないようなチョコレートであり、これは本当に私の知るチョコレートという物体なのか? と思わざるを得ない。失礼ながら、こんなに小さいのにこんな値段かあ。いや、こんな思考だから私には女子力が足りないのだろう。見よあそこのトップロードさんを、目をキラキラさせながらウインドウを眺めているぞ。

 

「うーん、悩みますね……」

「トップロードさん、ここで買うって決まってるわけじゃないんですし、そんなここで悩まなくても」

「いえ! それは甘い、甘いですよスカイちゃん!」

 

 ばっとこちらを振り向いて、心なしか尻尾をいつもより多めに揺らしながら。耳は興味を隠せずぴこぴこ動くトップロードさん。……大型犬みたいだな、などと思ってしまった。まあそれはともかく、トップロードさんの言説を聞いてみようか。

 

「甘いって、チョコレートのことですか?」

「いえ、そうではなくてですね! これだけ種類があって、でも一つ一つに心が込められてるんですよ、チョコレートって。なんて、今見て思ったばかりのことですけどね。なら私たちもしっかりその中から選び取らないと、失礼じゃないですか」

「……それは、そうなんでしょうね」

 

 軽口を空振りにされたのはさておき、トップロードさんの言うことは正しい。いつも通り、だ。トップロードさんは正しくあろうとする人。そして、それを苦とは思わない人。いつも見てきたそんな姿が、いやに眩しく見える気がした。

 失礼、か。その言葉は、なかなか耳の痛い話ではある。私はこのチョコレートに、どんな想いを込めればいいのか。何も考えずに渡すのは、トップロードさんの言う通り失礼だ。けれど答えは見つからない。私一人では。

 

「はい。だからスカイちゃんも遠慮なく、このチョコがいい、みたいなのあったら言ってくださいね! まあ、実際贈り物に適してるかを見てくれるのはキングちゃんなんですけどね……」

 

 私一人では。なら、どうするか。先程見つけた、あるいはずっとわかっていたやり方。多分普段なら、こんなふうには出来ないのだろうけど。

 

「あの、トップロードさん」

「はい、なんでしょうか、スカイちゃん」

 

 でも、今日は特別な日。当日ではないけれど、紛れもないバレンタインの日。

 

「相談したいことがあるんです。今だからこそ、です」

 

 バレンタイン・デイは、特別な赦しを与えるものだからこそ。

 乙女たちが秘めたる想いを告げられるのだと、そう決まっているのだから。

 

「いいですよ、スカイちゃん。……店の中で立ち話もなんですし、少し外に行きましょうか」

「はい。ありがとう、ございます」

「いいえ、こちらこそです。困ったときは、お互い様ですよ」

「私はトップロードさんほど優しくはないと思いますけど」

「そんなことないですよ!」

「えー、そんなことありますって」

 

 そんな会話をこなしつつ、今入っていたチョコレート屋さんを抜けて、近くにあったベンチに座る。抜けていくときキングがちらりとこちらを見たのを、私は見逃さなかった。もっともキングは見逃してくれたわけだけど。トップロードさんもだけど、キングもやっぱり優しいよね、などと思った。

 チョコレート屋さんを外から見ればそれなりに混んでいて、やはりこれが皆バレンタインに向けた人だかりなのだと思うと圧倒されてしまう。もちろん私もその中にいて、チョコレートを選ぶ立場なのだけど。そこに込める想いが、まだ私にはない。

 

「チョコレートをどんな気持ちで渡せばいいのか、わからなくって」

 

 だから、それを素直に口にする。「わからない」ということだけは、わかるから。

 

「トレーナーさんにはもちろん感謝してます。だから贈り物をしたいとは思います。でも、具体的な気持ちが出てこないんです」

「……そう、なんですね」

 

 トップロードさんは、私の言葉を一つ一つ丁寧に聞いてくれる。まとまっていないばらばらの言葉でも、この人なら掬い上げてくれる。そう思った。

 

「まあ一番はトレーナーさんにクリスマスプレゼントをあげてしまったので、もう一回プレゼントとなるとどんなネタにしようかなってのがあるんですけど」

「……え?」

 

 ……と、思ってたんですけど。今の「え?」は困惑の「え?」である。あれ、もしかして。

 

「スカイちゃん、トレーナーさんにクリスマスプレゼントあげたんですか!!??」

 

 思ったよりも数倍驚かれて、周りに聞こえるほどの大きな声で。……げ、キングもびっくりしてるじゃん。いやこれはトップロードさんの声に驚いてるんだ、そうであってほしい。

 あれ、そんなに驚くことですか? こっちが悩みを話していたタイミングなのに、気付けば発言者は転換していた。そんな一回転が起こるほどのことだったかな、これ。

 

「え、何を! 何をあげたんですか、トレーナーさんに!」

「ルアーですよ、ルアー。チョコレートほど大層なものじゃないですよ」

「大層じゃないなんて、そんなこと言わないでくださいよ! クリスマスプレゼントだなんてもう、とってももう、かなりですよ!」

「そんなもんですか」

「そんなもんですよ!」

「……呆れた。あの日さっさと帰ったと思ったら、そんなことしてたのね」

 

 うわ、キングまで来た。ついさっきまでほっといてくれたのに、知らない話題になった瞬間これだ。というかなんというか今更ですけど、盛り上がりすぎじゃないですか? 

 

「まあ、それならなんというか。スカイさんのチョコレートに関して、私とトップロード先輩から何か言えることはないわね」

「えっちょっとキング、さっきまで頼れみたいなこと言ってたじゃん」

「いや、キングちゃんの言う通りです。私からは、何もっ……! 応援することしか……!」

「そうね。というより貴女、それは一人でチョコ買った方がいいわよ」

「え、割り勘は」

「それは私たち二人でやるから。貴女は一人で買って、一人で渡しなさい」

 

 なんで? まるで話が飲み込めない。トップロードさん、応援するって何を? けれど不思議なことに、こうやってあらぬ方向に引っ張られていると、それだけで抱えていた悩みが引っ込んでいく気がする。それならこれで、正解なのかもしれない。そんなふうに思考はまとまって、なぜか不思議と落ち着いて。

 ……ん? そんな落ち着いた目線で見てみると、なんだかとんでもないことになっている気がする。バレンタインのチョコレートを、私一人で渡すとかなんとか。

 あれ、応援ってそういうことですかトップロードさん。クリスマスプレゼント一つで飛躍しすぎてませんか? キングも平然としてるけどそれに乗っかってるって、あたまピンクヘイローじゃないんですか? 

 えーと、どうすればいいんだろ。目の前の二人がかかりすぎてて、なんだか私の方がおかしい気がしてくる。クリスマスプレゼントはびっくりさせたいから渡しただけだし、そんな他意はないはず。いやもちろん気持ちは込めたつもりだけど、そういうのじゃないでしょう、絶対! 

 

「じゃあ、スカイさん。あとは頑張りなさい」

「スカイちゃん、ここは踏ん張りどころですよ!」

 

 そう言って私を置いてチョコレート屋さんに戻っていく二人。踏ん張りどころなのは確かなんだけど、そういう踏ん張りどころじゃないんですよ、これ……。

 思い切って切り出した会話はあらぬ方向へ飛んでいき、そのまま空中分解。それだけ見ればかなり大失敗の結果なんだけど。だけどもやっぱり、私の気持ちは変わっていた。

 もしかしたら私に必要なのは、こういう何気ない会話だったのかも。一人で考えすぎて、答えが出ないことに思い詰めすぎて。結論を急いでいた。だから必要なのは、何気ない回り道。そう考えればこの大いなる勘違いも意味がある……のかもしれない。多分、そういうことなのだろう。

 ちなみに私一人に任された私の分のチョコレートは、お財布と相談する以外に選ぶ方法がなかった。ルアーと同程度、三千円までなら許容できる。そんな個人的には高価な価格設定なのに、その時点で選択肢がかなり狭いのが恐ろしいところだ。デパートって怖い。いや、心からそう思います。

 

「あら、もう買ったの」

「じろじろ見ないでよ、キングのへんたい」

「人前でそんなこと言わないの、おばか! ……そりゃ気になるわよ、そりゃ」

「あのねキング、言っとくけどそういうんじゃないからね。……何その目は」

「いや、別に」

「信用してない目だ! やっぱりあたまピンクヘイロー!」

「何よそのあだ名は! じゃあなんだって言うのよ!」

 

 うぐっ、そう問われると言葉に詰まりそうになる。何しろトレーナーさんに向ける気持ちはまだ決まりきっていない。いや、キングやトップロードさんの想定している方向では絶対ないのだが、それはそれとしてその問いは重要なものなのだろう。曲がりなりにも二人に聞いて、その上で出た結論だ。二人にはわからない、私だけの気持ち。盛大な回り道をして、もう一度スタートに戻ってきた感じ。けれど回り道の分が無駄じゃないから、今度こそ答えに辿り着けるのだろう。

 すーっと、ちょっと深呼吸して。肺に酸素が満ちると、気持ちも晴れていく気がした。未だ霧は晴れず。されど、道くらいは見えているのだ。

 

「トレーナーさんは、大人だから。そりゃちょっと不器用なところもあるけど、そこも含めてやっぱり大人。子供の私とは、違うんだよ。大人と子供の差、キングも身に覚えがあるんじゃないの」

「それなら、そうね。私も大人に、あの人に認められたくて、そのために走っているのでしょうね」

「そ。もしかしたらわたしにとってのそれが、トレーナーさんなのかもね。……わかんないけど」

「なるほど、理解はできたわ。けれどそれならやっぱり、私やトップロード先輩の助力は必要なさそうね」

「そうかも、ね。でも今日ここまで考えられたのは、多分二人がいたおかげだよ」

 

 それは間違いなかった。今の私に一番必要なのは、回り道だったんだ。それがグラスちゃんの言っていた「足りないもの」なのかはわからないけど、確かに満ち足りた感覚はある。そしてそのために、私は一人で抱えたものを忘れる必要があった。改めて考えるために、一度でいいから。

 

「トップロード先輩には、大丈夫そうだって伝えておくわ。……面白そうだから、勘違いはそのままにしておくけど」

「え、じゃあやっぱりチョコレートは一人で渡さなきゃいけないの」

「それはそうでしょう。……私が言えることではないけど、たまには言葉にして伝えてもいいんじゃない。貴方の言う大人に対して、ね」

 

 それだけ言い残して、キングはトップロードさんのところへ歩いていく。私は少し遅れて追いかけながら、キングの言葉を咀嚼していた。言葉にして伝える、か。確かにそれなら、クリスマスの時とは違ったものをあなたにあげられるだろう。

 あの時伝えた言葉は、あの時だから伝えられたもの。今日だけは子供でいていいのだと、そんなことを言ってみたっけ。なら、バレンタインの日のあなたは大人のはずだ。あの時頼っていいと言ったぶん、今度は私があなたを頼るのかもしれない。

 そうか、これもきっと。これもきっと、私に必要なもの。私の不安はおそらくまだ完全には消えていなくて、だからこそ誰かに助けてもらわなければならない。それはこれからのことだけど、今まで通りのことでもある。昼行灯を気取ってはいるけど、なんだかんだで誰かと繋がりを持ってしまう。それが私だ。一人では生きていけない、子供の私だ。

 だから私はまだ、子供でいていい。みんながいるから、褒められたいって思っていい。そんななけなしの光明が、確かに空から射してきたように思えた。

 まだ、空は堕ちてこない。

 

 

 そうしてやってきたバレンタイン当日。学校は休みでゆっくり寝れるはずなのに、あまり寝付けずその日は来た。事前の準備も何もなく、さてどんな時間に渡そうかなどと緊張していたセイちゃんであったのだが。

 

「スカイさん、今日って空いてますか」

 

 起きがけにかかってきた一通の電話が、そんな私の眠気を吹き飛ばす。聞き慣れた声だけど、どこかに緊張が混じっている気がする。なら、私にできることは一つだ。

 

「うん、空いてるよ」

 

 彼女の緊張を、不安を無駄にはしないこと。何故ならニシノフラワーにとって、セイウンスカイは頼りになる大人なのだから。そして私にとって君は、あるいは頼るべき仲間の一人。そうに、違いない。

 バレンタイン・デイは、お互いに不完全で未完成で、不安や矛盾を抱えていようとも。

 乙女の想いだけは真実であると、そう決まっているのだから。




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碧空を舞い踊れ、花束は鮮やかに

 フラワーとの待ち合わせ場所はトレセン学園になった。フラワーからの指定である。つまり一般的に言うお出かけではないけれど、休日に学園に行くのならそれなりに特別なイベントだろう。むしろただのお出かけより特別感があるかもしれない、そんなことを思った。

 寝癖まじりのぼさぼさ頭を手櫛で直す。わしゃわしゃ、わしゃわしゃ。右手で整えつつ、左手であくびを受け止める。寝巻きも脱いで、服はいつも通りの制服に着替える。身につけたはずのそれは、なんだか身体に馴染まない感じ。いつも通りの制服だけど、身なりに気をつけなきゃ、みたいな意識が袖を通す時にまで出てきてしまうのか。ううん、朝から緊張しているな。

 まあ、けれどそれは仕方のないこと。フラワーから呼ばれたのも、トレーナーさんにチョコを渡すのも。今日という日なら、仕方のないことなのだ。

 バレンタイン・デイは、誰もかれもが普段通りではいられない。

 乙女たちが心躍らせてしまう日だと、そう決まっているのだから。

 とん、とん、がちゃり。靴を履いて、扉を開いて。まだ寒い冬空の下へ、朝早くから寮を出る。全身の毛が寒さで逆立つ感じで、外に出て早々立ち止まってしまったのだけど。まあフラワーもあっちの寮でそんな感じになっているだろうわけだし、我慢我慢。我慢しつつ朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、冷たいはずのそれはなんだか心を暖めてくれる気がした。

 頭はまだぼんやり、若干眠気は残っている。澄み渡る青空を眺めても、まだ太陽は低いまま。つまりまだ眠くて当たり前の時間帯ってこと。こんな時間に呼び出すなんて、フラワーも大概悪い女の子だ。いや、悪いのはまだ眠い私の方か。直接会うまでに眠気が飛んでいればいいけどな。

 日曜の学園への道は、見知ったものなのに知らないもののような気がした。周りには誰もいないから。私だけ、正確には私とフラワーだけが学園に向かう。いつもの道のり、いつもの場所。違うのは、今日という日だということだけ。それに伴う状況の変化、それだけ。

 けれどそれだけあれば、気持ちが浮き立つには充分だった。流石の私でも、バレンタインの今日フラワーに呼び出された理由くらいはわかってるつもりだし……多分。とびっきり喜んで、とびっきり感謝しなきゃならない。口下手な私だけど、それくらいは頑張らなくちゃ。

 とくんとくんと心臓を鳴らし、こつんこつんと歩みを進める。今日という日に向かうために。いつか君がこぼした不安を、いつかの私が受け止めたように。今日の君の気持ちも、私は絶対に受け止めたいんだ。

 朝はすぐに終わり、冬は徐々に陽の光に照らされていく。影も少しずつ小さくなり、空までもが明るく見えてくる。たどり着いた学園の門は空いていて、けれど誰もいなかった。まあ待ち合わせからは十五分も前だから、当たり前といえば当たり前……おや、あれは。

 その姿を見つけて、私はそちらへ手を振って。やがて返答のように小さく振り返されるとそこから会話は始まって。

 

「やあ。おはよ、フラワー」

「おはようございます、スカイさん」

「随分早く来たね、まだ待ち合わせ時間じゃないよ」

「それはスカイさんもじゃないですか」

「そうかもね、なんならフラワーより早かったし」

 

 私よりひと回り小さい華奢な背丈、今日も綺麗に毛先まで整えられた髪の毛。そして何より、彼女らしさが何よりも出ているのはその一挙一動。たとえばゆっくりとこちらへ歩いてくる足並みのようなしっかりとした振る舞いの中に、あどけない笑みをいっぱいに浮かべるような幼さがある。そんな二面性、コインの裏表をどこかに持っている。私のよく知る、ニシノフラワーというウマ娘だった。

 

「あの……ありがとうございます、今日は」

「いいっていいって、暇だったし」

 

 本当はトレーナーさんにチョコレートを渡す用事があるけれど。まあそのことは後で考えればいい。だから今は暇、これは嘘じゃない。それにそもそも誰かのお願いを断れるほど、私は強くも弱くもないし。なあなあで受けてしまっている、みたいな見方もできてしまうわけですが。それでも私はどうにも周りに人が必要だというのは、残念ながらトレセン学園に来てからわかってしまったことだ。

 

「それでスカイさん、今日は」

「はいはいフラワーさま、なんでございましょうか」

「もう、すぐからかうんですから」

 

 というわけで今日はフラワーのお願いごとを聞くし、ひょっとしたら私もフラワーになにかお願いごとをするかもしれない。これはバレンタインだからというより、私と君だからって感じだけど。

 君は私に何かを見出してくれる。それは多分、私には気付けていない私の姿。君にしか引き出せない、私の中の私。我が事ながらくすぐったいけど、それを憧れと呼ぶのだろう。

 そして今日のこれも、多分その延長。なんといっても今日はバレンタイン・デイ。

 乙女たちの願い叶う日だと、そう決まっているのだから。

 

「まあでもなんにせよ、呼んでくれたのはむしろこっちがありがとうだよ。せっかくのバレンタインだもの。電話もらってからずっとドキドキしちゃったなー」

「もう、さっきからスカイさんたら、私のことおちょくって」

「ごめんごめん、フラワーを見るとつい。真面目な子を誑かしたくなる悪いトリックスターですので」

「はい、反省してください。さっきから私、何も言いたいこと言えてないじゃないですか」

 

 そういえばそうだった。そもそもフラワーが私を呼んだのだから話したいのはフラワーの方なのに、私ばかりが話してしまっていたな。数秒前の自分は聞くつもりだったのに。

 さて、一体なんだろうか。もちろんバレンタインとなれば、期待してしまうものはあるのだが。いやそりゃあ普段はそんなこと考えないけど、今日は私だって渡すわけだし。いや、貰ったとしてどんな顔をすればいいのか? 所謂友チョコというやつすら縁のない人生を送ってきたセイウンスカイという可哀想な女の子は、ここに来て八方塞がり逃げ場なしである。この状況を避けるためにおべんちゃらを並べていたのか、というくらい。

 さてそんな私の複雑な心境などつゆ知らず、フラワーが私に切り出した話の内容とは。

 

「あの、とりあえず構内に入りませんか」

「それは確かに。立ち話もなんだしね」

「はい。とは言っても今日は、落ち着いて座って喋れる場所なんてないかもしれないですけど」

 

 なるほどフラワーの言う通り、休日の校舎は大体の部屋が施錠されている。となれば椅子などどこにもなくて、だから休みの日はトレーニング以外では誰もここには来ない。単に授業がないというのは大いにありそうだけど、学校とは学びに時間を使う場所であるというのはある種の真理を言い当ててもいる。すなわち、勉強や練習がトレセン学園の本分であるということ。そこにある人間関係は、あくまでそれに付随するものに過ぎない。

 本来なら、だけど。

 

「それなら、いい場所があるよ。結構たくさん。トレセン学園絶好のサボりポイント」

「……サボり、ですか?」

「そう、だから多分フラワーは知らないようなところ。放課後にのんびり、なんてなかなかやらないでしょ。フラワーは真面目だから、空いてる時間があったら忙しくしちゃうし」

 

 本来なら、それも当たり前のことだろう。だけど、人は常にまっすぐを歩けるわけじゃない。これは少し前にトップロードさんとキングに気付かされたことだけど、思えば私がいつも尊んでいたことだった。明日は明日の風が吹く、人生は苦楽のバランスを取るものだって。

 だから多分、今日の私の役目はこれ。やりたいことは、これ。なにやら気張ってしまっているフラワーに、息抜きの概念を教えてあげること。そうして少し吐き出した分、気持ちに余裕を作れれば。それなら言いたいことも残さず言えるだろうと、私は君にそうあって欲しいのだ。

 ぐるり。踵を返し、向かうはトレセン学園の中。広い広いその中心部ではなく、回り道の先にある小さな木陰。おっと、もちろん一人で行くのではないのだから。忘れずに、戸惑う君を導くために。

 

「さ、着いてきて。大丈夫、フラワーにもおすすめのとっておきの場所があるんだ」

 

 半分振り向いて、フラワーに向けて左の手を差し伸べる。まだ君の身体にぴったりくっついて離れないその手から、まずはそこから羽根を伸ばそう。さあ、着いてきて。

 

「……はい。よろしくお願いします、スカイさん」

 

 そうして、小さな手のひらに握り返されて。私も広げていた手のひらを、それを掴むように繋いで。

 ゆっくりと、二人で歩いていく。こつり、こつり。二人の足音だけの空間。誰もいない、何もない学園。だからここに在るのは、私と君だけだ。

 私と、君だけ。それだけで、全ては満ち足りるのだ。

 

 

 さて、そんな大見得を切った私がフラワーをどこへエスコートするのか。もちろん大したところには連れていけないが、それなりに気に入りそうなところはある。誰でも通ったことがあるような、けれど発想を変えなければ見えてこないような場所。そういうのを見つけるのは得意だから、それくらいのことは教えてやれる。

 

「さてと、この辺かな」

「ここは、花壇ですね。私もよく水やりしてます」

「そう、フラワーもよく知ってる場所。でも……あそこ。あそこの木陰、根っこの隙間に人が座るのにちょうどいい。……知ってた?」

「それは、知らなかったです。そもそもそんな隅の方なんて、気にもかけてませんでした……」

「正直でよろしい。まあ、目立たない場所なのはその通りだからね」

 

 だから私が君に伝えられるのは、今日も今日とて発想の転換。そしてそれに伴う、ちょっとした驚きだけ。だけどそんな驚きこそが誰もに必要なのだと、きっと私はそう思う。もちろん、君にもだ。

 少しの距離をまた連れて歩いて、木洩れ日の下へ潜り込む。日差しと影が混じり合うそれは、まさに表裏一体の如し。そこまで辿り着いて、そこからの景色を二人で眺めて。木陰に腰を下ろして、けれど繋いだ手はそのままに。そして、私はまた言葉を紡ぐ。

 

「でも、ほら。ここからなら、花壇全体が見渡せる。ゆっくり、落ち着いて。もちろん近くに寄って見るのもいいけど、こういうのも素敵だと思わない?」

「……はい。私、こうやって花壇を見るのは初めてかもしれません。いつも近くで、一つ一つに水をやるので精一杯で」

「それももちろん、悪くない。けど、普段と見方を変えてみるのも悪くないでしょ? たまには休んで、全体を俯瞰して。そういう時間も大事ってこと」

「そう、ですね。……やっぱりスカイさんは、すごいです」

 

 私からすれば、フラワーの方がすごいところがたくさんだ。いつでも休憩なんかしていなくて、何でも一生懸命に頑張っている。私がしてやれるのはそれのメンテナンスくらいのもので、君は自力でどこまでも行ける子だろうに。それでも求められるなら、私はもちろん喜んでしまうのだけど。君のような立派な花に、ささやかな彩りを添えられるのなら。

 

「さ、じゃあ座ろっか。……今更だけど、地べたでもよかった? 私は慣れっこだから忘れてた」

「それは構わないです。でも、一つだけお願いがあって」

「何かな。まあだいたいは二つ返事だけど」

「……手を、繋いだままでもいいですか」

 

 私の方を見上げてそう言うフラワーは、少しその瞳を揺らしていて。なんだかその言葉にも、彼女なりの意味が篭っているような気がする。どちらにせよ、私の返事は決まっているのだけど。

 

「もちろん。喜んで、だよ」

 

 そうして、そのまま。手を繋いだまま、距離は保ったまま。その時間を続けたまま、私たちは腰を下ろす。ゴツゴツとした木の表面が背中に当たる。葉っぱの間から光が差し込む。木洩れ日の隙間から、空は十分にこちらを見守ってくれている。目の前に広がる花壇は、隅々まで綺麗な花が咲いていた。日々の丁寧な世話があってこそ、だろう。それを一望してしまうのは、割と贅沢の極みかもしれない。

 吹き抜ける風はまだ肌寒い。伝わる空気はまだ冷たい。それでも、この時間は暖かい。やっとフラワーとの会話の準備が出来上がったという感じの状況だけど、なんだか既に気持ちは安らいでいた。

 正直、まだ不安を払拭し切れてはいない。理由は単純で、実際走ってみないとその結果はわからないから。だから私に出来るのは、それを何度も落ち着けることなのだろう。その日が来るまでは。その日が来てしまえば、嫌でも全てがわかるのだから。杞憂だったか、それとも。

 なら、今は前を向こう。たとえば今はフラワーとの会話で、その後はトレーナーさんへのバレンタインプレゼント。そうやってみんなと一緒に過ごして、不安は全部忘れてしまおう。本当に空が墜ちてくるかなんて、誰にもわからないのだから。

 さて、そんなフラワーとの会話なのだが。先程から何かを言おうか言わまいか、フラワーはどうやらそんな様子。果たして何を言われるのか。まあ、何があっても応えてやらなければ。それが私からフラワーにできること、だ。

 ……そのはずだったんだけど。何を聞かれても答える、そのつもりだったんだけど。

 

「あの、スカイさん」

 

 意を決して、彼女が発した言葉は。

 

「教えてください。私のこと、どう思ってますか」

 

 流石の私も返答に迷う、そんな大きな言の葉だった。

 けれど、これも当然のこと。なぜならバレンタイン・デイは、姦しくても静まり返っていても。

 乙女たちが覚悟を宿す日だと、そう決まっているのだから。

 




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バレンタイン長くなります


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天花、綺羅よりも彼方よりも満ち溢れ

 人と人との関係とは、双方向に連なるもの。私が君を受け止めて、君も私を受け止める。その連鎖が繋がりになる。そういうものだ。

 けれどその維持は難しい。人は誰しも一面的ではなく、それを理解する側も理解の方式を変えてゆく。日に日に。常に。目まぐるしくさえある相手の変化と成長を受容しなければ、そこにあったはずの繋がりはすぐにほどけて途切れてしまう。たとえそれがどんなに強い関係性であっても、だ。

 だから、多分フラワーの質問もそういうこと。

 

「私のこと、どう思ってますか」

 

 そんなのはずっと前から決まっているかもしれないし、あるいは今この瞬間まで定まらないようなことかもしれない。それが今日、フラワーが抱えてきた不安。吐き出そうとした悩み。ここにある沈黙の正体は、彼女の変化そのものなのだ。

 

「どう思ってるか、か。なかなか難しい質問だね」

「あのあの、変な意味じゃなくてですね。……だからって、はっきりした意味のある質問でもないんですけど」

「わかってるよ、だから難しい質問。そんなこと、よく聞いてくれたね。ありがと」

 

 曖昧で、言葉にならない。そんな気持ちを口にすることは、きっととても難しいこと。でも君は、それを私に聞いてくれた。だから私も、それに答える必要がある。応えたいと、思う。

 ゆっくりと、まずは一言ずつ。ぐしゃぐしゃに固まってしまった毛玉をもう一度ほぐし直すように、フラワーはまた話し始めた。

 

「前にも、スカイさんに話したことがありましたよね。スカイさんが<デネブ>からいなくなった時。あの時も、私はスカイさんを悩みの原因にしてしまっていました。そのうちまた会えるってわかっていたのに、どうしようもなく不安で。……きっと今回も、頭ではそんな悩みだってわかってるつもりなんです。でも、でも」

「いいんだよ、そうやって話してくれれば。どんな話でも、私でよければ聞くからさ」

「……それが、心配なんです!」

 

 握られた手のひらから伝わる力が強くなる。決して離すまいと、君は私を繋ぎ止める。まるで、消えてしまうのを恐れるかのように。

 くるりと横を振り向いて、強い意志を込めた口調と眼差しで。彼女は彼女の悩みの根本を、溢れるように言葉にしていく。

 

「スカイさんは、いつも私を助けてくれます。たとえばトレーニングの時も、私の計画がうまくいくようにって色々指示を代わりに出してくれたり。……そうやって、いつも私は助けてもらってばかりです」

「それはそんなことないって、前にも言った気がするけどな。フラワーはよくやってるし、私の方こそ助けられてる。それこそトレーニングのメニューは君が考えてるものだって多いでしょ?」

 

 フラワーの不安は、あの皐月賞の後に話した内容と似たものだった。今話されているまでの話は、だけど。人の関係は変わりゆくもの。人と人との関わりへの不安は、うつろいゆくもの。

 

「……ま、それは織り込み済みで話がしたいんだよね、きっと。フラワーの『心配事』は、そこより先にある」

「はい。スカイさんがそういう優しい人なのは、わかってます。……私の方も力になれてるって、今はそう思います。でも、だからこそ、心配なことがあって」

 

 少し、考え込むように間を置いて。やがて彼女の優しい声は、この話の結論に辿り着く。それは紛れもなく、彼女自身の不安だったけど。私のための、言葉だった。

 

「スカイさん。私はスカイさんにとって、大切な人になれてますか。私が頼めば、あなたはどこにも行ったりしませんか」

「……なに、それ」

「すみません、めちゃくちゃなことを言って。……でも、最近のスカイさんを見ていて。いつもと変わらないはずなのに、不安だったんです。もしかしたら取り返しのつかないことになるんじゃないかって、そんな不安です。それが止まらなくて、怖くて。それでも、私なりに考えました。……スカイさん。私のこと、どう思ってますか」

「それは、どういう」

「スカイさんがどうしようもなくなった時、繋ぎ止められる存在になれていますか。……いつか少しだけ、スカイさんの弱音を聞かせてもらったことがありましたね。もしこの先何があっても、私はそれを聞いていられますか」

 

 正直言って、驚いた。彼女がこれだけ強く、自らの意志を出してきたことに。その対象が、私の中に埋もれているはずの不安であることに。そして霞がかったまま広がる夜明け前の空のようなそれの中心にあるものを、言い当てようとさえしていることに。

 

「そしてもしまだ私にそこまで打ち明けられないのなら、これからもっと仲良くなりたいんです。トレーニングの時だけじゃなく、休み時間や休日だって。だから、今日はこうやってお願いしました。……だいぶ、勇気は要りましたけど」

「確かに、いつものフラワーとは違うかも。びっくりした。でも、ありがとね。そんなに心配してくれたってことだ」

「はい。それが、今日聞きたかったことです。……どう、ですか?」

 

 どう、どうなんだろう。正直言って、私はフラワーほど自らの不安を深刻視していない。できていない。私はそれについて、誰かに頼るしかないという結論を出した。そしてその結末は、その時が来ないとわからないとも。

 だけどフラワーの不安は、それより一つ先のものだった。その時が来たとして、本当に私は誰かを頼れるのか。誰もが変化と成長を続けていくのに、その時私が変わっていない保証があるか。そこまで、そこまで彼女は問うてきた。私に、私のために。ならば、私はそれに答える必要がある。そんな私の決意は、最初から分かりきっていたものだった。

 

「なるほど。やっぱり難しいね。こんな難しいことを考えられるフラワーはすごいや」

「スカイさんの悩みでもあります。それならそれを直接抱えているスカイさんの方が、ずっとすごいです」

「そっか。じゃあ私もちゃんと、フラワーの気持ちに答えなきゃね。結構難しいから、ちょっと考る時間が欲しいんだけど」

「いえ、それはもちろん。むしろいきなり捲し立てて、それでも聞いてもらえるのは嬉しいです。……あっ、そうだ」

 

 ふと、フラワーが繋いだ手を離す。それをスカートのポケットに突っ込んで、何かをがさごそ、がさごそ。程なくして彼女は一つのものを取り出した。小さな包み紙。口はリボンで結びつけられている。これは、もしかして。

 

「チョコレート、です。頭を使うなら甘いもの、ですよね。……スカイさん、どうしましたその顔」

「ごめん、思ったよりびっくりしてるかも、私」

「えっ、だってバレンタインじゃないですか! 当然ですよ、当然」

「そんなこと言って、フラワーも結構タイミング計ってたでしょ」

「……それは、その。否定、しませんけど」

 

 そんな会話で中和しないと、恥ずかしくてチョコレートもフラワーも直視できない気がする。いや、貰うのは初めてだから仕方ない。渡すのも今日初めての予定だけど。思ったより嬉しいし、思ったより緊張するな、これ。

 薄いピンクのリボンをほどいて、包み紙をそーっと開ける。中には当然、チョコレートが入っていたのだけど。一口サイズの。ハート、型の。

 

「あっ、これはですね! あのその、トレーナーさんから借りた型がたまたまこれで」

「うひゃー、愛が篭ってますね。見ただけでわかりますよ、フラワー評論家のセイちゃんが太鼓判を押します」

「もう、ですからたまたま、たまたまで」

「たまたま、手作り?」

「……うぅ。それは、たまたまじゃないですけど」

 

 そう、フラワーのこれは手作りチョコレートである。あのトレーナーさんに聞いて作ったということなら、多分結構本格的な。いや、そんなものをこんな私がもらっていいのだろうか。いやいや受け取らない方が失礼だろう、何を血迷ったことを考えているんだ。

 しかし、先程からのフラワーの目線が気になる。あれは早く食べてください、の目に違いない。そして感想を言え、の目に決まっている。そりゃこの流れで食べないなんてあり得ないのだが、そこまで見られると逆に緊張はしてしまうわけで……いや、そんな間すら居心地が悪い。ええい、ままよ。

 ぱくり。

 

「どうですか」

 

 ちょいと待ちなさいなフラワーさん、まだ口の中に入れたばかりですよ。無理矢理飲み込んで喋れって言うんですか? いや、美味しいんだけどね。私の貧相なコメント力ではこの味わいを君に伝えられるかどうか。

 舌の上でハートの形を転がして、甘いなあ、なんて当たり前の感想しか抱けなくて。そんな私でもわかるのは、このチョコレートには相当な気持ちが込められているということ。甘くて柔らかくて、あっという間にとろけてしまう。そんな刹那に込められた味わいが、こんなにも長く感じられるのだ。それはとっても素敵なこと。かけがえのない、特別なこと。

 バレンタイン・デイは、どれほど言葉を尽くしても伝えられない想いさえ。

 甘い甘い黒に詰め込んで届けてしまえる日だと、そう決まっているのだから。

 

 

「……どう、ですか」

「うんフラワー、ちょっと待ってね。私今、フラワー関連のタスクを二つも抱えているところだから」

「あっそうでしたね、すみません」

 

 そうやって何度も歯に挟んで、結局全部溶けるまで噛み砕けなくて。私はようやく、フラワーからのバレンタインチョコレートを食べ終えた。もちろんもう一つの議題についても、深く底まで思考を伸ばしながら。

 陽は少し先ほどより昇っていて、木陰も形を変えていた。影と光のあぜ道の下にいる二人の身体は穴だらけみたいに見えて、それも風流だなと思ったり。目線の先の花壇はより鮮明に照らされ、じっと見ていると吸い込まれてしまいそうな。

 そして隣には、君がいる。そんな時間。そんな世界。つくづく、私には贅沢すぎる。だけど私にしかあり得ない状況だ。それなら、私はこれを全力で活かさなくちゃ。

 ゆっくりと、けれど確実に。目の前の少女の不安を解くために、私自身の不安を切り払うために。言葉を紡ごう。人と人の繋がりは、やっぱり最後は言葉で出来ているのだから。

 

「さて、と。とりあえずチョコレート、美味しかったよ。すっごく、美味しかった。私は幸せ者だなって思った。ありがとう」

「……はい。そう言っていただけて、嬉しいです」

「そしてもう一つ。私を心配してくれたこと。前よりずっと、フラワーは私のことをよく見てるよ。そうじゃなきゃ言えないもん、自分を大切な人と思えているか、なんて」

「そうですね。昔……と言っても一年も経ってませんけど。その頃よりスカイさんのことをもっと近くで見れていたらって、思ってましたから。それなら、よかったです」

「……参ったな。フラワーには弱みはあんまり見せないようにしてたつもりなのに。フラワーもどんどん大人になっていくから、いつまでも子供の私じゃ追いつけなくなるかもね」

「そんな、スカイさんは私よりずっと」

「それはもちろん、その通り。でも今は違うんだ。ちょっと考えたんだけどさ。今の私は、どうしようもないくらい子供なんだよ」

 

 子供。幼い頃の私は、誰もが自分に期待していると思っていた。誰もが私の周りにいると思っていた。世界の中心にいると疑わなかった。そして捨て去ったはずのそれを忘れることができていなかったと、どこまで行っても私は子供のままだと。今までのトゥインクル・シリーズは、そんな子供のままの私を肯定してしまうものだった。期待されていい、周りに認められていい、自分がセンターに立っていいと、そういうものだったから。

 だからきっと、今の私は子供だ。そしてそれが極まっているのが、今だ。自分の変化に自ずから戸惑い、誰かを頼るしか解決策を思いつかない。得体の知れない不安に泣き喚き、それは拙く言葉にならないまま。

 

「だからこうやってフラワーを頼っちゃうし、誰かを頼ることに抵抗がない。それはもちろんいいことばかりじゃないけど、そうすれば乗り越えられるものもある。……でも、それだけじゃないんだよね」

 

 フラワーが不安視したのは、その先の話。私の不安が言葉になった、未来の話。それを言葉にできるように、変化と成長を重ねた後の話。誰の力も借りないで、自分で立てるようになった時の話。あるいは自分で立つのだと、伸びてきた手を振り払う時の話。

 私が大人になる時の、話だ。

 

「もしかしたら、フラワーの言う通りかもしれない。誰にも頼れないくらい、私はどうにかなっちゃうかもしれない。未来の話だから、断定はできない。……そこは、ごめん」

「はい」

「でも」

 

 もちろんこれは推定や推測。幼い子供が将来の夢を語るが如し。こんなふうに不安だけを積み立てるなんて、全て杞憂の可能性はある。でも、それでも。それでも私は、君に伝えたいことがある。

 

「でも、もし。それでも私が、不安そうだったら。誰にも頼れないくせに、頼らないと解決できない悩みを抱えていたら。その時は、フラワーに任せるよ」

「……はい」

 

 もう一度、一呼吸。ここから先の言葉は、私から君へのお願い。今だけは、大人になる前の今だけは。

 君の前でも、子供でいさせて。

 

「私を、導いてください。お願い、私の大切な人」

 

 この一瞬だけで、いいから。

 返答はなかった。もう言葉は要らなかったから。

 もう互いを見てはいなかった。視界を一致させるだけでよかったから。

 花と空だけ見えていた。

 それで、満ち足りたから。

 

 

「じゃあ、今日はありがとうございました。スカイさんに、チョコレートも食べてもらえましたし」

「こちらこそ、ありがと。いや、お昼前から食べる甘味は罪の味だね」

 

 十二時を回った頃、私とフラワーは二人で校舎を出た。寒空ごと太陽が私たちの身体を暖めてはいたけれど、やっぱり制服のスカートは少し肌寒い。朝から地べたに座っていたのだから当然だ。私はもちろん慣れ親しんだ感覚だが、フラワーには初めての経験だったかもしれない。

 校門を出て、別れ際。冬の風がびゅうと私たちの間に吹き込み、それを合図に繋いでいた手を離す。お別れだ。けれど別れのあいさつの代わりに、フラワーはまた一つ言葉を切り出す。丁寧に、大切に。彼女らしく。

 

「……あの、スカイさん」

「何かな、この際だし何でも」

「また、一緒に。今日みたいに、今日じゃなくても。……なんでもない時でも、スカイさんと会っていいですか」

「もちろん。私はどこでも寝てるから、どこにいても会えるよ、きっと」

 

 これからもっと、仲良くしたい。それは今日のフラワーの願いの一つだ。もっともそれは私のためでもあるのだけど。そういう点で他人のために自分の願いを使ってしまうのは、彼女の素敵なところの一つ。危ういけれど、そこは守ってあげればいい。

 

「はい、ありがとうございます。……では、また」

「うん、またね。ばいばい、フラワー」

 

 だって君は、私の大切な人だから。君が私を見遣るように、私も君を見遣るのだ。

 そうして、私とフラワーのバレンタインは終わった。時間自体はやはりあっという間で、やっぱり物足りないと思ってしまうくらいで。だからお互いに名残惜しんで、見えなくなるまで手を振り合いながら去っていって。

 だけど、今日で終わりじゃないから。人と人との関係は、変化を続け繋がり続けるもの。維持するのは難しくても、切り離すのもまた難しい。難儀で厄介な、けれど手放したくない大切な。だから私は今日を終えられる。明日があるから、今日を終えられるのだ。

 ……まあ、今日はまだ終わっていないのだけど。私の役はチョコレートを貰う側から、渡す側に切り替わる。あれだけ気持ちを込めたものを渡した彼女のように自分が出来るかは、いささかかなり自信はないのだが。

 おやつどきにでもトレーナー寮に行って、さくっと渡してしまおうか。それは普段の私なら喜んで取ってしまいそうな選択肢だったけど、何故だか今日はそんな気分にはならなかった。まあ、私は気分屋だから。決して今日という日に浮かれて緊張してしまっているのではないのだと、そういうことにしておこう。

 バレンタイン・デイは、華やかに彩られた特別な時間ではあるけれど。

 日常から連なる想いだから伝わるのだと、そう決まっているのだから。

 




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原初よりも終わりに依りて、戴天は成就する

 現在位置、トレーナー寮前。現在時刻、十四時五十四分……今変わって五十五分のゼロゼロ秒。つまり後五分きっかりでおやつの時間であり、私がトレーナー寮に突撃するタイミングである。そんなことをスマホの画面で確認し、そんな時間確認を理由にしてさっきからスマホをずっと見続けている私。柄にもなくLANEのトーク画面を開きっぱなしの私。前述の通り、トレーナー寮の前でのことだ。誰か通ったら何事かと思われるだろうか。

 ちなみに何故私がこんなふうに待ち呆けているのかというと、別にバレンタインチョコレートを渡すのにドキドキしすぎて動けません、みたいな女子力高めの理由ではない。単にトレーナーさんに部屋行きますよって伝えたら、片付けるから十五時まで待ってくれと連絡が来たからだ。

 いや、ほんとですよ? 約束よりちょっと前な時間に着いたのだって、そうしないと失礼かなって思ったからで。今スマホを見てるのだって、一応また連絡あるかなって確認しといた方がいいと思っただけで。こう理由を並べると言い訳がましく聞こえてしまうな。いや、誰に言い訳するというのだ。そんな思考自体が正常ではない気がしてきた。つまるところ、緊張しているのかも。

 とはいえ、今更逃げ帰るわけにもいかず。現在時刻、十四時五十七分。後三分。後三分も待つのかと思うと、そのたった百八十秒がやたらと長く感じられる気がした。……ああもう、じれったい。釣りなら待つのも好きだけど、トレーナーさんを待つのは趣味じゃない。うん、そうに決まってる。そもそも片付けなんて、普段からしてない方が悪いじゃないか。うん、やはりそうに決まってる。つまり、だ。

 がちゃり。私にとっては未知の領域、伏魔殿たるトレーナー寮の扉を開けて、いざ。スマホはしまったので現在時刻はもう見ていないが、まあトレーナーさんの部屋を探しているうちにちょうどぴったり十五時になるくらいだろう。とりあえず入ってすぐのところに立ち並ぶポストを見て、その中からトレーナーさんの名前を探す。上から見ていったので、目的地が一階の一〇七号室であると気づくのにはほんの少しだけ時間がかかったかも。大体一分くらい。

 かつ、かつ。そうして玄関口を抜けた先にある、外に面したトレーナー寮一階の廊下を辿る。こうして見ると、同じ寮でも私たちのものとはずいぶん趣が違う。私たちのは共同生活の場所って感じだけど、こちらはなんというかマンションみたいな。大人と子供の差、とも言えるのかもしれない。子供に足りないのは人と過ごす時間で、大人に足りないのは一人の時間だから、みたいな。まあ、これからその一人の時間を潰しに行くわけだけど。きっとたまにはいいだろう、そんなことを考えながら目的の場所の前にやってきた。ここまでで、もう一分。

 後一分は、待たなくていいや。

 ぎゅっとドアノブを握りしめ、ぐいっと横に回してみる。当然鍵はかかっているけど、これで中にいる誰かさんにも伝わるはず。それでも足りない、もしまだ足りないというのなら。

 こんこん。ドアを叩く音。まだ足りないというのなら、ドアをノックしてあなたに届かせる。

 

「開けてくださいよ、トレーナーさん」

 

 あなたを、呼ぶ声。それでもなお扉を開けてくれないのなら、私の声を聞かせてやる。今日の私の気まぐれは、あなたを待つことを良しとしない。だってどうしたって緊張して、こころが熱くなってしまうのだから。

 そうして、少しの沈黙の後。がちゃっと鍵の開く音がして、ぎいと扉は開かれる。そこまでで結局一分ほど待ってしまったが、まあそれくらいは譲歩してやろう。

 

「……よく来たな、スカイ」

「はい。お邪魔します、トレーナーさん」

 

 バレンタイン・デイは、誰にとっても平等に。

 乙女たちにとって大切な人のためにもあるのだと、そう決まっているのだから。

 

 

「うっひゃ、散らかってますねえ」

「いや、だから片付けていたんだが……間に合わなかったな」

「間に合いませんでしたね」

「……すまん」

「なにしおらしくなってるんですか。似合わないですよ、そーいうの」

 

 トレーナーさんの部屋に入るとゴミ屋敷であった、というほどではないのだが、なにやら物が多いという感じの散らかり方をしていた。そもそもの部屋構造の話をすると、玄関からすぐ横にトイレと風呂。ここは綺麗。で、まっすぐ行けばリビング。ここが既に怪しくて、シンクの周りに使った調味料が置きっぱなしとか。おそらくその上にある棚に色々置くべきなのに。

 リビング真ん中のテーブルの上も雑誌が数冊置かれている。釣り雑誌もレース特集も雑多に混ざって置いてある。これじゃ他に何も置けない。読んだらしまえばいいのにね。

 まあそんなことより、私が「散らかってますなあ」と表現したそんな部分より、更に奥。トレーナーさんの個室らしき、寝床らしき部屋があった。まあ当然気になるので、そちらに歩を進めようとした瞬間。

 

「スカイ!」

「なんですか、そんな大声出して。相変わらずと言えば相変わらずですけど」

「そっちは、駄目だ」

「えーなんでですか、絶対もっと散らかってるでしょ。手伝いますよ」

「……それは確かにそうだが。だが、駄目だ」

 

 必死に否定するトレーナーさん。けれどいつもからすれば珍しく、そこに正論を並べてはこない。むしろ私の方が正論を言えていないか? これは勝機あり、というやつか。なら畳み掛けるしかあるまい。

 

「なんでですか、駄目な理由でもあるんですか」

「そりゃそうだろう。だから駄目だと言っている」

「でも理由言わないじゃないですか」

「それは、その」

「あーあ、折角片付けを捗らせてあげようって思ったのになー」

「ぐっ、しかし駄目だ! 片付いてないからとかじゃなくて、その」

「その? 言えば我慢してあげますよ」

「……その、良くないだろう。年頃の女の子が、あまり一人暮らしの男の部屋に入るものじゃない」

 

 トレーナーさんの告げた「正論」は、いつも通り正論だったのだけど。なんだかちょっと顔を背けて、いや私もまっすぐその顔を見れなくて。……お互い、照れてしまっていた。いや、これはトレーナーさんが悪いはず。急に変な意識をさせるような事を言うから。でも言わせたのは私か。つまり、どっちもどっち。うーん、これは痛み分けというやつか。

 ただまあ、若干驚いたような気もする。そんな驚きを、出来るだけ素直に口にしてみる。照れ隠しも込めて。赤らむ頬などないように、この空気から逃げ出す意図も込めて。

 

「なるほど、一理ありますね。いやでも、ちょっと意外かも。トレーナーさん、そういうの気にするタイプの人間なんですか」

「そりゃ気にするだろう。俺をなんだと思っている」

「うら若き女の子を指導する仕事をしておいて、その可愛さを打ち消すような暑苦しいノリを押し付ける人」

「なんだそれは」

「いや、事実でしょ。ともかく、トレーナーさんに男女の概念があるのは驚きましたね。そんなの気にしたことないと思ってました」

「本当、俺をなんだと思ってるんだ」

 

 言われてみればトレーナーさんの言う通り、私の方こそあんまり部屋に乗り込むもんでもなかったのだろうけど。まあ私のは多分信頼してるからであって、そういうデリカシーの問題ではない気がする。多分。信頼なんて恥ずかしいし、言い当てられてもそれもまた恥ずかしいので黙っておく。今はトレーナーさんを追い詰める方が先決だ。……あれ、何を言いに来たんだっけ。まあそれは、後でもいい。

 

「えー、じゃあトレーナーさんの初恋はいつなんですか」

「なにが『じゃあ』なんだ。このタイミングで聞かれる意味がわからない」

「だってトレーナーさんがそういうことをちゃんと考える人なら、そういう経験もあったでしょう。大人なんですから」

 

 大人。軽口で口にした言葉ではあるけれど、それは少しだけ私の上に重くのしかかる。私にはまだ知らないものがある。初恋もそう、それ以外にもたくさん。だから子供で、だから皆に頼るしかない。皆に頼ることができる。……けれど、いつかそれは終わるかもしれない。フラワーに今日指摘されたばかりのことだ。誰も頼れない、そんな大人になるんじゃないかって。

 それなら、トレーナーさんはどうしているのだろう。どうしたって大人の、トレーナーさんは。今日私がどんな想いをチョコレートに込めるのか、それはまだ決まりきっていない。大人のあなたに、子供の私からできること。したいこと。それは、まだわからない。だけど、いつかはわかる。だから今は、取り止めのない会話に浸っていよう。時間は待ってはくれないけれど、必要な回り道は許容してくれるから。

 

「ねえねえ教えてよ、トレーナーさんの初恋ってどんなのさ」

「そんなに気になるか」

「まあ、割と。トレーナーさんが大人になるまでに、どんな失恋を糧にしたのか。気になるじゃないですか」

「なんで失恋前提なんだ」

「え、だって恋人居そうな気配ないじゃないですか」

「あのなあ」

 

 少し片付けの終わっていないリビングで椅子にも座らず、なんでもない会話は続く。さっきから酷いことしか言っていない気もするが、まあ大抵の場合初恋なんて実らないものだろうし。私に経験はないので一般論にしかならないが、常識的に考えれば中高生の恋愛感情なんてうまくいくわけがない。それはあくまで子供の情動で、だから大人ほど上手くは立ち回れない。だからそもそも成立しないし、成立しても長続きはしない。恋は理屈じゃないらしいが、理屈で言えばこんな感じだ。

 ため息一つ繰り出して、そのあとトレーナーさんはようやく話し出した。観念した、ということである。

 

「……中学二年の時だ。部活の先輩のことが好きになった。三年の先輩だ。元気な人で、新入部員の頃からよく話しかけてくれていた」

「なるほど。ちなみに部活は何を」

「剣道部だ。……この情報必要なのか?」

「いや、思い出のリアリティを追求したいじゃないですか。剣道部って言われると、今の大声にも納得がいきますね」

「まあ、それはともかく。好きになった時にはもう、あと半年で先輩は卒業するってところだったんだ。もちろんそれまで話したことはあるしそれなりに仲は良かったが、あと半年で何が出来るのかわからなかった」

「なるほど。半年で告白まで詰め寄れるか、と」

 

 それは結構難しい問題だ。トレーナーさんのこの感じだと、だいぶ好きだったんだろうなというのはわかるけど。それだけで突っ走れるものなのかどうかは、私にはわからない。トレーナーさんにしか、わからないことだろう。

 けれどトレーナーさんは、もう一つの問題を提示する。それは確かにかつて子供だった頃のトレーナーさんが抱えた、未来への不安。子供が大人になるための、大切な悩みの一つだった。

 

「少し、違う。半年で同じ学校じゃなくなるのに、恋人になんかなれるのか、だった。ずっと好きでいられるのか、いてもらえるのか。付き合う前からそんな事を考えるのも馬鹿らしいと今なら言えるが、とにかくそれが怖かった」

「難しい話ですね、それ。少年はそんなことを悩んでいたわけですか」

「そうだな。初恋なんて実るわけないのに、実ったあとのことばかり考えていたんだ」

 

 確かにそれは、子供らしい悩みなのだろう。今なら誰にでも話せる、大人から見れば過去の話なのだろう。だけどその時は悩んでいた。誰にも言えずに。誰にも言わなくても、抱えていられた。……あなたにも、子供の時があった。けれどそれは今の私とは違う子供なのだと、当たり前のことに気がついた。大人と子供の差、人と人の差。どちらもあるから、私たちは皆違う。

 

「……で、どうなったんですか」

「結局、告白できなかったよ。卒業式の日まで悩んでた。もちろん断られるのが怖かったのもあるし、今挙げたような理由もある。まあでもどちらにせよ、今はいい思い出だ」

「へーえ、いい思い出ですか。失恋って悲しいものって聞きましたけど」

「それでも、だな。まあそれ以来そういう縁はないし、トレーナーの職についてからはそれが充実している。我ながら天職だと思っているぞ」

「トレーナー試験って大変なんですよね、確か。なんでトレーナーになろうと思ったんですか」

「そこまで聞くか」

「聞きますよ、そりゃ」

 

 こうして聞いていくと、やはり私はトレーナーさんのことを何も知らない。そして多分、知りたいと思う。だからこうして根掘り葉掘りしているわけだが、考えてみればそんなことも知らなかったのだな、と思った。トレーナーになった理由、なんて。今だからこそ、聞けることかもしれないけど。

 

「そんな大した理由ではない。剣道部の頃から、努力が報われる瞬間が好きだった。だから、誰かにそれを教えられたらと思った。そんな事を漠然と考えていた時に君らウマ娘のレースを見て、あれを見たんだよ」

「あれって?」

「ウイニングライブだ」

 

 ああ、それは。私も何度かセンターに立った経験があるからわかるけど、あれは確かに彼の言う通りの瞬間。努力が報われる、きらきらのステージだ。人に夢を与える、栄光が結実する場所。

 

「これだ、と思った。だからそこからは猛勉強して、ひたすらに詰め込んだ。根性の勝負だったが、そういうのは得意だからな。……で、今ここにいる」

「トレーナーさんに歴史あり、ですね。今更ですけど、ありがとうございます。そこまで話してくれて」

「話し出したら止まらなくなってしまったな。すまん」

「なんで謝るんですか」

「だって今日は、君が来たいと言った日だ。話したいことは、君の方にあるはずだ」

 

 それは確かにトレーナーさんの言う通り。だけど私が思うのは、この会話は必要な回り道だったということ。迷い惑う私が答えを手繰り寄せるには、多くの手がかりが必要だ。そのためにはたくさんの回り道を通らなくてはならない。時間は待ってはくれないけれど、欠かせないものは全て与えてくれるから。

 さて、何を話そうか。それはいまだにぼんやりと。子供と大人の会話にて、大人の方から伝えられたものは、自分がどうやって大人になったかだった。ならば大人になれなかった子供の私からあなたに言えることがあるとすれば、それはきっと。

 すとん、とリビングの椅子に座る。促すと、トレーナーさんも向かい側に座る。テーブルの上には雑多にものが散らばってはいるけれど、私たちの会話はこれくらいなら越えてゆける。そう、最初から片付ける必要なんてなかったのだ。ありのままの部屋も、ありのままの私の言葉も。そのままを、そのまま伝えればいい。だって私とあなたなら、それでもきっと大丈夫なんだから。

 

「じゃあ、話を始めましょうか」

 

 午後も中盤、特別な日はやがて終わる。どれだけ甘く美しくても、その余韻は夜までは続かないだろう。夜はまた明日のことを考える時間で、今日のことを考えられるのは今までだから。だから今がクライマックス。今日という日の終幕は、私にとっての終わりはここに存在するのだ。

 バレンタイン・デイは、止め処なく幸せと熱情が溢れてゆくものだとしても。

 最後には一口に全てを込めるのだと、そう決まっているのだから。




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多分次回バレンタイン終わります


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天際より果ての果て、それでも手綱を握るなら

「さて、何から話しましょうかねえ。トレーナーさんの赤裸々な話も聞いちゃいましたし、私もそれくらい恥ずかしい話をするべきか」

 

 昼下がりのトレーナー寮の一室で、テーブルを囲んで私とトレーナーさんで二人。私の会話の切り出しは、積もり積もった想いをどこから切り崩すか悩むようなふうだった。まるで他人事のようにだけど、過去は得てして今の自分からは他人のようなものだ。私がするのは、そういう話。何を話すべきか悩んで悩んで、全部まとめてしまえばいいやと。そういう、結論だ。

 トレーナーさんは黙って聞いてくれていて、私はそのまま何を話してもいいみたい。こういう時だけ全部察してしまうのだから、つくづく大人とはずるいものだ。

 

「そういえば、トレーナーさんに言ってなかったなと思って。トレーナーさんと初めて出会った日、私が何を考えながらサボってたか、なんて。まずは、そこから話しましょうか。ファーストコンタクトのおさらいです」

「随分懐かしく思えるな。スカイが入学式をサボっていて、俺がそれを見つけた」

「はい。正直あの時は、随分と鬱陶しい人に見つかったと思いました。声もうるさいしなんだか雰囲気が暑苦しいし」

「それは何事も根性と努力だからな。それが<アルビレオ>のセールスポイントだと自負している」

「そうですそうです、その悪びれない感じも。開き直った正論が、はっきり言って苦手でした。第一印象は最悪でしたよ、トレーナーさん」

「……そうか」

「がっかりしました?」

「いや、それでいい。君が今このチームを選んでくれている事実は変わらない」

 

 うん、きっとそう言うのだろう。だから私はそんなことを言えてしまった。ずっと隠していた仄かな罪悪を、大人のあなたに赦してもらう。きっとそれが今日、私にとってやりたいこと。バレンタインにかける、ひとひらの祈りなのだろう。

 

「……ありがとうございます。もちろん今は気に入ってますよ、このチーム」

「それならこちらこそ、ありがとうだな。それにしても、何故気に入らないトレーナーのチームに入ったんだ?」

 

 ああ、それは聞かれるか。思い返せば結構間抜けな理由だったのだが。当時は取り返しのつかない失敗だと思ったが、今なら笑って話せるか。

 

「それはですね、いや結構言うの恥ずかしいんですけど」

「そう言われると気になるな」

「うわトレーナーさん、ずるい言い回しが上手くなりましたね」

「君ほどじゃないだろう」

「それは私もそう思います。……まあ、それはさておき。本当に笑い話として聞いてほしいんですけど、チーム名を取り違えたんですよ。トレーナーさんが言ってた緩めのチーム、<アルゲニブ>と」

「ああ、そう言えばそのチームのことは伝えたな。そっちに入りたかったのか」

「そりゃもう、ってほどじゃないですけど。名前覚えてない程度でしたし。多分どちらかと言うと、なんでもよかったんでしょうね」

 

 なんでもよかった。夢を抱いてトレセン学園に来たはずの私は、その夢を肯定できていなかった。ほどほどのチームでほどほどのトレーニング、そしてほどほどの結果。それでよかった。だからなんでもよくて、だから<アルビレオ>も受け入れてしまった。

 けれど。

 

「けど、今はここがいいです。たとえばトップロードさんがいっつも頑張って大声出してて、たとえばキングがいきなり私と併走したいなんて言い出して。たまにフラワーが私のことを気遣ってくれるけど、基本ゴリゴリのスパルタな。そんなトレーナーさんの指導してくれる、ここがいいです」

「……そうか。そう言ってもらえるのなら、トレーナーとしてはありがたいな」

「でしょう? たまにはちゃんと気持ちを伝えないと、私の頭じゃすぐ忘れちゃう気がしますし」

 

 今の私は、<アルビレオ>がいい。あの皐月賞の時に初めて思って、今でも思い続けていることだ。なりゆき任せで入った場所なのに、いつの間にか私にとってのかけがえのない居場所になっていた。……改めてその言葉を噛み締めると、奥歯の奥が少しくすぐったい気がした。そんなに私、この場所が好きなんだな、なんて。周りが応援してくれて、あなたが期待してくれるこの場所が。幼い私が求めていたものを、きっと今更見つけたのだろう。

 刻一刻と時間は過ぎてゆく。窓から部屋に入る日差しはどんどんと角度を変えてゆく。けれど、まだ暗くはない。まだ、バレンタインは終わらない。

 現在時刻、十五時四十七分。もう少し、このまま。

 

「さて、ここまで話しましたね。あの日の私から、今までの私。そこまで。トレセン学園に来てから、の話」

「そうだな。……きっと、まだ話すことがあるんだろう?」

「ご名答。私が今日、トレーナーさんに言いたかったこと。多分色々あるけれど、その多くを結びつけるもの。その前置き、って感じで、その後の今から本題です。……だけど、その前に一つ」

 

 人差し指を口元に添えて、私は私の言葉を止める。密やかに、艶やかに。言葉が空に浮かぶものなら、今から私が差し出すものは。

 

「ハッピーバレンタイン、トレーナーさん」

 

 形あるものはきっと、その下の地面を作るのだ。空が堕ちてしまわないよう、それを支えて引き上げるために。渡される側だけではなく、渡す側にとっても。

 

「なんですかその顔、早く受け取ってくださいよ。要らないとか言われたら、流石にショックなんですけど」

「いやそんなことはない! ただその、驚いただけだ。なんだ、経験がないからな」

「初恋の人とは義理チョコを貰うところまでもいけなかったんですか〜?」

「……悪かったな」

「もう、拗ねないでくださいよ。そこはいつまでも自分のプライベートをつつき回すなって怒るところですよ、トレーナーさん」

 

 なんだか今日のトレーナーさんは弱々しい。自分の部屋にいてリラックスしているからだろうか。そしてそんな安住の地に強襲する悪いウマ娘がこのセイちゃんである。いやあけしからんですね、まったく。おちょくるのを楽しんでしまっている。フラワーにもこんな感じだったが、我ながらバレンタインにテンションが上がっているということか。

 

「というか、チョコならトップロードさんとキングから貰ったんじゃないんですか。二つ目なら反応できるでしょう、普通に」

「それは朝もらった。だがチームの部屋で、二人がかりだ。チームを代表して、とも言われた。君のとは違う」

「えーなんですかトレーナーさん、セイちゃんをそんな特別に見てくれちゃってますか」

「寮の部屋まで押しかけて、勿体ぶった渡し方をして。……そりゃ、特別にはなってしまうだろう。というかスカイ、君も年頃の女の子なんだからな」

 

 うげっ、急に正論がぶり返してきた。からかう意図があったのは否定しないけど、説教はごめんだ。そりゃ私はあなたの言う通り年頃の女の子ですが、あいにくとそんな縁はありませんったら、ねえ? だからトレーナーさんをからかうためにその年頃要素を使うのであって、真面目に捉えられると困る。それに対して真面目に返すのは、こちらの方が恥ずかしい。逃げウマは先手必勝であってカウンターには弱いのだ。

 というわけで、雰囲気を強引に方向転換。無言でチョコを目の前に突き出し、突き出し。四角い箱にプレゼントラッピング、この前のルアーの時とやってることは似たようなものなのだけど。きっと、少し違う。少しだけ。心の在りようが、違う。

 

「その、トレーナーさん」

 

 あのクリスマスの時はきっと、いつもの私といつもじゃないあなた。今日はきっとその逆。いつもじゃない私と、いつものあなた。

 

「私の、気持ち。受け取って、くれませんか……?」

 

 だから、もう一度両手で差し出して。いつものあなたに届くように、私は攻めの構えをとった。

 

「……義理チョコだろう」

「それでも、特別ですよ。ナントカいうブランドの、三色チョコレートです。青、白、緑。ほら、私のカラーリング。特別、ですよ?」

 

 そう言って包み紙を解いて箱を開いてやると、中に入っているのは宝石のような三つのチョコレート。これが私の、あなたへの気持ち。……三つで三千円かあ、と買った時に思ったのは内緒だ。

 

「それにしても、思わせぶりな態度を取るのは良くないな。人をからかうのは良くない」

「トレーナーさんのためだけの私の気持ち、受け取ってくれないんですか……?」

「ああいや、それはありがたく受け取るがだな」

「やっと認めた。今日はこれくらいで勘弁してあげます」

 

 いい加減、私の方も限界だし。しかし思った数倍むずむずするな、これ。さっさと真面目な話に戻さないと、顔が平静を保てない。

 と、いうわけで。少し姿勢を正して、箱の中のチョコレートを二人で見ながら。私は先程の続きを話し始める。今日の本題に。

 

「さて、ここにチョコレートがあります。三つあって、どれもチョコレートです。見た目は違うけど、きっと似た味がします。けれど、深くにある味わいは違います。……チョコレート売り場で悩んだ時、私なりにまず考えたことはそれでした。全部チョコなのに、何が違うんだろうって。でもそれって、簡単なことだったんですよね」

 

 トレーナーさんは、一転して無言で私の言葉を聞いていた。しっかり、受け止めてくれていた。いつものように、大人として。まとまりも何もない子供の私の言葉を、全部残さず。

 

「たとえばこのチョコは、他に比べてちょっと甘い。たとえばこのチョコは反対に、少しビターな味わい。そうやってベースが同じでも、混ぜ方とかの工程で変わるんです。周りの環境で。そう気づいた時、思ったんです。これは私のことだ、って」

「スカイのこと、か」

「はい。正確には、誰にでも当てはまることでしょうけど。私もそうってだけで。幼少期から、影響されやすい子供でしたから」

「幼少期、か。スカイは要領がいいから、昔から出来が良かったんだろうな」

「それがですねえ、話せば長くなるんですけど」

 

 トレーナーさん、大不正解。まあ確かに、今の私とはかけ離れているのかもしれない。けれど環境が違うだけ。かつてあった子供の私と、子供から大人になろうとする今の私と、いつかどこかの大人の私。三色三様のチョコレートのように、三者三様の私がある。あなたの知らない昔の私も、あなたを知っていた未来の私も、きっとどこかには存在するのだろう。

 

「昔の私って、結構元気でやんちゃな子だったんです。近所の人みんなに優しくされてて、得意げになってました。何かするたびに褒められるのが嬉しくて、どこにでも遊びに行ってました」

 

 何度も何度も反芻した過去を、久方ぶりに口にする。いつかキングに話した時以来、だった。あの時よりも更に前に進んだはずの私は、あの時よりも後ろに引っ張られている気がする。不安を一人で抱えられず、方々に吐き出してまで耐えている。

 

「でも、ある日ちょっと遠出して。そしたら私と同じウマ娘なんて、結構どこにでもいて。私なんか、なんでもない存在で。河川敷を何周も何周もして、それでも当然誰も見てなんかくれなくて、それで」

「スカイ。辛いなら、喋らなくてもいい」

「いえ、いいんです。これは今、今の私がトレーナーさんに言っておかなきゃいけないことなんです」

 

 今の私。子供の私。そんな私がここまでずっと楔のように引きずって、古傷のように大切にしてきた気持ち。そこから私は始まって、今もその先にいる。その先にしか、いられない。

 

「だから私はこうなりました。出来るだけ人に手をかけさせないようにって。誰かに深入りしすぎないようにって。そのつもりでした。……でも、こうなっちゃいました。<アルビレオ>に入って、スペちゃんにグラスちゃん、キングにエル。そんなみんなが周りにいて、私は期待もされてます。忘れかけてた子供の頃に逆戻りしちゃってます」

 

 そしてもしかしたら、いつか私は大人になるのかもしれない。今までの道の先にはない未来へ進むかもしれない。何もかもが、わからない。今が正解なのか、別の場所に正解があるのか。ここにある不安は、過去も今も未来も何もわからないという不安。そのことだけは、ようやくわかった。

 数刻の間。現在時刻、十六時〇七分。目線を目の前の人からずらしてみれば、窓の外にはまだキレイな青空が広がっていた。そうやっていれば、あの空のように永遠になれる気がした。ずっと走れると。子供のままだと。それがいいことかどうかすら、誰も保証してくれないのに。

 そう思った時だった。トレーナーさんが口を開く。いつもの白い歯を、少しだけ覗かせながら。

 私に向かって、言葉を吐く。

 

「そうか。けれど、それはいいことだろう」

「いいこと、ですか?」

「ああ。スカイはまだ子供だ。だから、子供の頃の望みを忘れる必要はない。それに、俺は言っただろう。君は『走る』ウマ娘だと。トレーナーとして、そんな才能を棒に振らせるわけにはいかないな」

 

 なんで。

 

「スカイは走れる。この先も、だ。俺でよければ保証する。大丈夫だ、これまでの努力が裏切ることはない」

 

 なんで、この人は。本当に。

 

「だから頑張れ、スカイ!」

 

 なんで、いつも全てを見透かして。私のことを、期待してくれてしまうんだろう。

 思考は混ざり、濁流の如く渦を巻く。私は、私が、私のために。この数日、いやずっと。誰かが私を支えてくれていた。その記憶が脳髄まで流れ込み、言葉は何も出てこなくて。

 ……なんとか一つだけ、本当に一つだけ絞り出せた。ぎりぎり泣かないままで、私はその想いを紡ぎ出す。

 

「……トレーナーさん」

「なんだ、スカイ」

「頑張ってたら、褒めてくれますか」

 

 はじまりの気持ち。私はあなたに、褒められたい。期待してくれたあなたに。いつも支えてくれたあなたに。そうであれば、きっと走り続けられる。どこまでも、いつまでも。そんな気がした。曇天を祓う、最後の手がかりだ。

 

「もちろんだ。当然、努力したらだがな」

「それはなかなか、私にとっては難題ですけど。まあそれなら、頑張りますよ」

「ああ。期待している」

 

 そこまで。私とあなたの会話は、そこまで。あらかた言いたいことも言われたいことも出てしまったので、それ以上は必要なかった。ちなみに会話が途切れたタイミングでトレーナーさんの部屋に入り込もうとしたら、やっぱり固く拒否されてしまった。それは譲れないらしい。というわけで、私にできる最後のおちょくりはこれくらいしかなかった。

 

「はいトレーナーさん、あーん」

「本気で言ってるのか」

「そりゃチョコ食べてほしいのは本気ですよ。ほら、あーん」

 

 指で一つ摘みやすいサイズなので、こんなことができる。トレーナーさんの口元にぐいぐい、ぐいぐいと。あらら、もう少しでそのカサカサの唇に可愛い女の子の指が当たっちゃいますよ? ほら、覚悟を決めてください。あーん。あーん。

 

「あーん」

「なあ、スカイ」

「あーん」

「わかった。俺が悪かった」

「別に何も悪くないですよ。ほら、あーん」

 

 そこまで押して、押しまくって。そろそろチョコが溶け始めるんじゃないかというくらいの時間が経った後で、ようやく。

 ぱくり、と。私の指先から、丁寧にチョコがもぎ取られた。……これ指と口が触れてたらこっちも処理に困ってたな。そんなことを考えてるなんてのはおくびにも出さずに、とりあえずチョコの感想を聞いてみる。

 

「どうですか、お味は」

「美味い。いや、よくはわからないが、美味いぞ。ありがとう」

「そりゃ良かった。何しろ私もよくわかりませんからね。……では、二つ目いきましょうか」

「おい、まさか」

「はい、あーん」

 

 そんなこんなで、たっぷりとトレーナーさんをからかって。けれど貰った言葉はしっかり忘れずに、伝えた願いもきっと叶うように。特別な一日、バレンタインの幕はそうして降りる。普段はしないような話をして、想いを伝えあう時間を過ごして。最後はチョコレートを食べて終えるのも、どれもが今日という日だからこそ。

 バレンタイン・デイは、さまざまの想いが交錯し、特別でどこにもない非日常だとしても。

 乙女たちが最後には幸福になる日だと、そう決まっているのだから。

 

 

「──セイウンスカイ先頭! セイウンスカイ先頭です! セイウンスカイ、五バ身離して今ゴールイン! 日経賞を制したのはセイウンスカイです!」

 

 そうして、私たちの春が来る。春の幕開け、今年の初戦。全ての不安の払拭を賭けた一戦の結果は、これ以上ないくらいのものだった。

 スタンドに向けて晴れやかに手を振る。きっと見ているチームのみんなや、いずれまた鎬を削る同期のみんなへも。私は負けない。私は走る。私はまだ、ここにいる。

 空が、墜ちてこない限り。



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流星よ高く在れ、星空さえ射落としても構わないから

 あれだけ寒かった世界は、いつの間にかぽかぽかしている。ずっと冷たいままなのかと思われた空気は、いつの間にかのどかうららか極まれり。生まれてから何度も経験した変遷だけれど、その度に小さく感動してしまう。

 春が、来た。今までと同じように、けれど今までとは必ず違う春が。そんな春が、来た。

 トレセン学園にも春休みくらいはあった。けれど私の場合は日経賞に向けてのトレーニングと本番で潰してしまったように、他の子もこの時期にまともに休んだりすることはあまりない。なので三月と四月はトレセン学園のウマ娘にとって限りなく地続きであり、季節の変化だけがその差を色濃く印象付けてくる。

 まあ、とはいえ時間が経ったのは事実。たとえば正月やバレンタインは終わったし、たとえばここから先にはファン感謝祭や新しいレースがある。去年は弥生賞や皐月賞で色々と考えてしまったなあ、などと懐かしむこともできるし、今年は春の天皇賞かあ、などと未来に想いを馳せることもできる。やっぱり、世界は変わってゆく。

 そしてその一つが、今繰り広げられている会話にもあった。私にスペちゃん、キングにエルにグラスちゃん。いつもの五人でいつもの昼食中のお話である。今日の話題の中心はエル。「世界最強」を掲げる彼女が、遂にそれを実現させんと息巻いているという話題。それすなわち。

 

「ええ〜っ、エルちゃん海外行くの!?」

 

 そんな感じでスペちゃんが驚いた通りの、海外遠征の宣言である。ちなみに最初にこの情報を喋ったのはグラスちゃん。話を聞けばそれなりに前から決まっていたのに、エルは話すのを忘れていたらしい。もうあと二週間もしないうちに日本を起つというのに。

 

「はい! アタシが世界最強だってこと、証明してきマス! 期待しててください!」

「でもそれならちゃんと、ちゃーんとみんなにお別れの挨拶はしておくんですよ? それまで忘れちゃ駄目ですからね〜?」

「わ、わかりました……。ごめんなさい、グラス」

「いえいえ、エルがおっちょこちょいなのはいつものことですから。ちゃんと反省してるなら、大丈夫ですよ」

「……始まる前からグラスさんにいいようにやられて、先が思いやられるわね」

「それは同感かも」

 

 確かにキングの言う通り、エルが海の向こうで一人でやっていけるのかはなかなか疑問の残るところではある。一時的な遠征で帰ってくるとはいえ、グラスちゃん抜きでやっていけるのか、この子は。無論、能力的には問題ないのだろうけど。去年のクラシック最優秀ウマ娘として比類なき戦績を収めたエルコンドルパサーには、これからも勝ち続けられるだけの力があるだろう。慣れない海外の芝だって、思いのままに蹴散らしてしまえるほどの。

 そういえば、クラシック最優秀の対抗バは私セイウンスカイだったか。クラシック二冠はそれなりの偉業だったらしい。まあもちろんエルの方がすごかったから、エルの方が選ばれたわけなんだけど。エルとはダービーの一回戦って、それきり。あの時よりお互いだいぶん変わってはいるだろうけれど、それを互いに披露する機会には恵まれていない。それなのにエルが海外に行ってしまうのは、少しばかり寂しいというか、歯痒いというか。勝ち逃げされたなんて思ってしまうのは、そこまでは烏滸がましいのだろうけど。

 

「まあエル、頑張りなよ。くれぐれも、向こうで打ちのめされないように」

「それは、もちろんです。アタシは勝つために、世界最強を証明するために行くんですから。負けてもいいから胸を借りるだなんて、そんな甘っちょろい考えじゃないですよ」

「うん、それならセイちゃんも安心かな、なんて。エルがそういう子なのは前からわかってることだし、だからこそ海外遠征もそんなにみんな驚いてない。そりゃ、少しは寂しくなるけどね」

「……ハイ。実はエルもちょっと、寂しいデス」

 

 周囲のそれも聞こえるほどの喧騒飛び交う食堂の片隅で、けれど透明な壁で私たちの会話は区切られていて。だから、少しだけ。少しだけ素直に、その言葉は漏れる。透明な壁が、私たちにだけそれを聞かせてくれる。その壁を作ってくれたのは、私たちがこれまでずっと続けてきた繋がりだ。

 だから少しの弱音から続く決意だって、私たちが支えてあげよう。私たちはきっと、互いを互いに支え合える。もうそんなふうになっているのだから。

 

「トレセン学園に編入して、<リギル>に入って。そしてみんなと会えて、みんなと走って。楽しかったデス。楽しいから、もっと先に行きたくなりました。……アタシが世界に宣言するのは、『世界最強』デス。それはアタシだけじゃなくて、アタシたち『黄金世代』が最強だって示したいんデス。だから寂しいけど、寂しくないです。フランスでも気持ちはみんなと一緒ですし、それに」

 

 しかし、なかなか嬉しいことを言ってくれるね。「黄金世代」とは、私たち五人をまとめて指し示す時にニュースやファンが呼んでくれる呼び名だ。それをエルは大切にしてくれている。だからこそ、より高みを目指そうとしている。

 

「それに、必ず帰ってきます! そうしたら、またみんなと走りたいデス! 絶対に、一緒に走りましょう!」

「うん、もちろん。応援してるよ、エル」

「ええ。帰ってきた時は負けないわよ、エルコンドルパサーさん」

「頑張ってね、エルちゃん! また走れるの、楽しみにしてるから!」

「そのためには、こちらも頑張らねばなりませんね〜。エルに負けてはいられませんから」

 

 思い思いのフレーズを、寄せ書きのように旅立つ少女に手向ける。言葉で全ては語れないけれど、それでも尽くせる限りを尽くす。そうすれば、私たちなら残りも伝わるはずだから。そしてその言葉たちを、彼女は笑って受け止めて。いつもとは少し違う照れ臭そうな笑顔だったのは、マスクの上からでも見て取れた。

 

「……はい! みんな、ありがとう!」

 

 そうしてコンドルは、遥か空へと飛んでいった。もちろんそれまでの二週間弱はいっぱい遊んだ。これきりじゃないと知っていても、それはそれとして別れは寂しいものだから。けれどそれを寂しいと思えたからこそ、見送る時は笑顔で見送れたのだろう。私たちも、エルも。

 行ってらっしゃい。また会おう。次会う時はきっと、世界はもっと華々しい。

 

 

 我らがエルコンドルパサーがフランスへ旅立って数日。教室は少し静かになったけど、それにもすぐ慣れてきた。かく言う私が今いるのは、もっともっと静かなところだけど。校舎からだいぶ離れたところにある校門近くの木陰。前フラワーに紹介したところともまた違う私の居場所。

 まあ、私は何個かこういう場所を持っている。一人になる場所。一人がいい時の場所。たまにはこういうのんびりした日が必要なのだ。のんびりするなら自室でいいじゃないかと言う人もいるかもしれないが、個人的には外でだからこそのんびりできるというもの。空を見て、雲を見て、流れる人影もわたぐもに重ねて、吹き抜ける青空に私を重ねて。

 どこまでも広がって果ての無い碧空は、きっと私の憧れの一つ。まさかそれになりたいなんてことは子供でも言わないが、子供の頃から空を眺めるのは好きだった。今とは違う私でも、昔から好きなものはある。たとえば他には釣りとか。だからまあ、昔の私のことも尊ぶべきなのだろう。今日はそんなことを考えていた。こういう日はなんであれ、ぼんやりとした思考を重ねる日だから。

 子供の私。大人の私。今はきっと、その中間。過渡期であり、変化そのもの。だから極めてアンバランスで、こんなに何度も悩み惑う。ぼんやりと、けれど確実に。情熱に焦がれる子供の私から、灰のように積み重なっていく別の何かが。あるいは私を、未だ苦しめているのかもしれない。

 日経賞は快勝した。次は春の天皇賞だ。先の勝利から順調にステップアップしているようにも見えるし、有マ以来の「黄金世代」対決に不安が残るとも言える。天皇賞(春)。3,200mというトゥインクル・シリーズでも随一の長距離レースで、私は再びライバルと相見える。相手はクラシック三冠を奪い合った優駿、スペシャルウィークだ。

 菊花賞では勝った。あのレースは今でも色褪せない、最高のレースだったと思う。けれど一度では決着はつかない。いつか私が言っていたように、最高は増えてゆくものだから。そしてまたいつか誰かが言っていたように、最高は更新されていくものだから。ここでまた、私と君の勝負はもう一度決着を付けることになる。

 そしてもちろん、このレースはスペちゃんだけと競うわけではない。シニア級に進んだ私たちは、歴戦のウマ娘たちと同じステージに立つことになる。私が逃げ切りを狙うのは、その全員からだ。無謀な野望かもしれないけれど、それに耐えるだけの策謀を練るしかない。本当の勝負は、きっとここからなのだから。

 ……それにしても、いい天気だ。上を見上げれば青空と浮雲、下を見渡せばめくるめくトレセン学園のウマ娘たち……おや、あれは。

 

「やっほー、スペちゃん」

 

 校門まで歩いてきた人影の中に、見知ったそれが一つ。声をかけてみる。……反応はない。よくよく見るとその影は、もう一つと連れ立っていた。なるほど、二人で仲良く喋ってるわけね。ちなみにそちらにも見覚えがあった。直接見るのは、もしかしたら初めてかもしれないけれど。

 そっか、学園にまで通えるようになったんだ。となれば私はスカートの土を払い、立ち上がってそちらへ行く。どうも初めまして、と言った感じで。

 

「ちょっとそこのおふたりさん、お時間よろしいですか」

「……えっと、どちら様かしら」

「あっ、セイちゃん! そっか、二人は初めて会うんですね」

 

 そんなふうに私ともう一人の間に立ったのは、先程一人で密かに話題にしていた栗毛のウマ娘、スペシャルウィークちゃん。あわあわぴこぴこ、耳からは若干の緊張が読み取れる模様? セイちゃんを紹介するのはそんなに覚悟のいる行為ですか、スペちゃんさんや。

 しかしやがて意を決したみたいで、いやそんなに意を決するほどのことじゃないと思うんだけど、スペちゃんは喋り始めた。まあ憧れの先輩の前では、なんでも緊張してしまうということにしておこう。

 

「えっと、スズカさん。この子が、セイウンスカイ。セイちゃんって呼んでます。スズカさんと同じ逃げウマで、すっごく強くて」

「ちょっとスペちゃん、そんなに褒めても何も出ないよ? ……まあ、ご紹介に預かった通りです。私はセイウンスカイと申します。初めまして、サイレンススズカさん」

 

 そして私も、やっぱり緊張しているみたい。綺麗にすーっと伸びた栗毛の長髪を見るだけで、テレビで何度か見た彼女のレースが思い起こされる。もちろん、あの秋の天皇賞も。けれどそれを超えて、彼女はここにいる。だから私も、この言葉を送れる。

 初めまして、スズカさん。

 

「……初めまして。セイウンスカイさんのことは、何度かレースで見させてもらったわ」

「そりゃ、スペちゃんとはクラシック三冠を奪い合った仲ですからねえ。何度かご覧になったりしたでしょう」

「ええ、スペちゃんあなたに負けるたびに泣いてたもの」

「ちょっと、スズカさんったら!」

「あら……言っちゃいけなかった?」

「恥ずかしいですよぅ、そりゃ……」

 

 ……これ、スズカさんは相当天然だな。ぱっと見の印象だとスペちゃんがボケ担当だし多分普段もそうなんだけど、いつこっちがボケてもおかしくない。そうなるとスペちゃんがツッコミをやる時もあるのか、今みたいに。私の知ってる繋がりでは見せてくれない顔だから、少し新鮮。それはさておき、この二人に任せていたら会話が進まない気がする、なんとなく。とはいえ私が呼び止めた理由もそれほどないような、あるような。

 それでもまあ多分、一つは分かりきっている。

 

「ところでおふたりさん、先程も聞きましたがお時間はいかがですか」

「えっと、私は大丈夫だけど。スペちゃんは?」

「私はスズカさんが大丈夫なら、全然! 何かな、セイちゃん」

「それは良かった。いやなに、ちょーっとお二人さんとお話がしたくて」

 

 多分、これだ。一度スズカさんとは話がしてみたかったし、スペちゃんとも話したい。内容も決まっている。

 

「春の天皇賞に向けての話。ちょいとそこの木陰で、ゆっくりと語らってみませんか」

「……構わないけど、私が居ていいのかしら」

「そりゃもちろん。スズカさんにも聞いてほしい話です」

「……私、春の天皇賞は走ったことないわよ?」

「秋のはあるじゃないですか」

「それは、そうだけど」

 

 丸め込みやすすぎるのは、いささか心配だけど。スズカさんにも聞いてほしいのは、本当だ。まあ、色々と。それにそもそも今のスズカさんを一人で帰すのは、スペちゃんが絶対許さないだろうし。最近毎日一緒に帰っているのは、実はなんとなく把握している。主に教室でのスペちゃんの態度から。最近ぼーっとしてることが多いのは、多分学校に来るようになったスズカさんのことを考えているから。そもそも病院にいた頃は毎日早く帰ってリハビリの付き添いに行っているのが側から見てもバレバレだったから、そりゃ今もそんな感じだろう。

 まあだから、今のスペちゃんはスズカさんにつきっきりだ。そういう意味でもスペちゃんと話す時にスズカさんを分けることはできないし、私もそうするつもりはない。誰かとの繋がりを大切にしているのは、多分私も同じだから。だけどその上で、私が君に話すこと。スズカさんを交えた上で、君に話すことがあるとすれば。

 木陰に寄って、木洩れ日の下に三人で座って。うん、準備は万端。そして私は、口を開く。

 

「じゃあ早速、話をしましょうか。とりあえず一つ、スペちゃんに聞くね」

「私? 何かな、セイちゃん」

 

 けろりと笑いながら、至って平静を装って。全てを雲の影に隠しながら、私の言葉は宙を飛ぶ。

 

「スペちゃんにとっての、走る目的は何」

 

 それは、遠い昔のリフレイン。それは、きっと私も返さねばならない言葉。それは、きっと常に変化していくもの。そしてそれは、成長とは限らない。

 だって、君の返事は。

 

「いつか、スズカさんと一緒に走りたいから」

 

 やっぱり、大切なものを忘れていたから。たとえそんなところまで、今の私と同じだとしても。私が誰かに救われたように、私も君を掬い上げる。私がどうにかならなくても、君はどうにかしてやりたい。

 だって、私たちはライバルで。友達、なのだから。




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星空と青空、虚空と虚空

「スペちゃんにとっての、走る目的は何」

「いつか、スズカさんと一緒に走りたいから」

 

 うららかな春の昼下がり、日差しはまだまだ翳らない頃。私は君にこう問いかけ、君は私にそう返す。憧れのその人の前で、躊躇いもなくその憧れを口にできる。やっぱり君は、スペシャルウィークだ。

 

「……って、スズカさんの目の前でこんなことを言うのはやっぱり気恥ずかしいですけど。でも、それが今の私の目標。私の願いだよ、セイちゃん」

「……ふーん。そりゃ、ご立派なことで」

 

 なるほど確かに、君には目指すものが見えている。どんなに途方もない夢であっても、視界に収めることができる。だから君は強い。それは、変わらないのだろう。

 でも、気付いてないかな。それを聞いているスズカさんの表情は、そこに秘められた感情は一種類じゃないって。私のそれには気付けなくていいから、君の大切な人の気持ちには気付いてやれないかな。

 

「大事にされてますね、スズカさん。スペちゃんはあなたと走るために頑張ってるらしいです。今度の天皇賞も、きっとそうなんでしょうね」

「……セイウンスカイさん、あなた」

「おっと、私のことはいいんですよ。スズカさんが心配するのは、同じチームの後輩であるべきじゃないですか」

 

 君の矛盾。君の忘却。それは確かに見えていたけれど、私にそれを直接指摘する義理はない。資格もない。誰かに依拠してしまうのは、きっと私も変わらないから。そういう意味では、ひょっとしたら私たちは似たもの同士かもしれない。たとえ他のあらゆる点が、羨望でしか届かなくても。

 

「……それは、そうかもしれないけど。でもあなたがスペちゃんの友達なら、私はあなたとも良くしたい」

「それは私のためですか? それともスペちゃんのためですか?」

「ちょっと、二人とも」

 

 ああ駄目だ、今日はのんびりとした会話のつもりだったのに。ついつい藪をつつくような、核心を暴き立てるような、そんな言葉ばかりがあぶくのように出てきてしまう。溺れる者は藁をも掴むと言うが、私も必死にもがいているのだろう。その上でスペちゃんの問題に首を突っ込むのは、難儀としか言いようがないが。

 けれどそんな挑発にも、真摯に返してくれる人がいて。その度に私は、また人に甘えてしまったと思うのだ。

 

「私のためよ。目の前で誰かが嫌な思いをしているのは、私が嫌だから」

「そう、ですか。じゃあ嫌な思いをしてなかったら、その人がどうなってもいいですか? たとえば、今のスペちゃん」

「……私?」

「そう。私が声をかけたのは、スペちゃんの現状の再確認のため。今のスペちゃんは、とっても気持ちが上向いてる。そうでしょ?」

「うん。……今だからスズカさんの前でも言えるけど、スズカさんがあの日故障してから、ずっと私は不安だった。だけど毎日リハビリを頑張るスズカさんを見て、こっちも元気を貰えたの。……だから、スズカさん。私はいつかスズカさんが復帰して、アメリカに行っちゃっても。帰ってくるまでずっと待てるって、そう思います」

「なるほど、ね。スズカさん、アメリカに行くんですね」

 

 それは初耳。となればスペちゃんの態度も多少腑に落ちる、か。今のスペちゃんは二つの気持ちに挟まれている。スズカさんが元に戻った喜びと、スズカさんがどこかへ行ってしまうという焦り。一度あんなことがあったのだから、きっとその反動とも言えるそれは相当なものだろう。

 

「……だから、今のスペちゃんはそうなってるんだ」

 

 だから、忘れてしまっている。トレセン学園での生活が、今までの彼女を変えたから。変えてはいけないはずの、最初に抱えた夢さえも。

 彼女の夢。「日本一のウマ娘」という彼女の根幹が、彼女の中から消えそうになっている。まさに風前の灯。とはいえやはり、私は直接それを指摘できないのだが。理由は大きく分けて二つ。

 

「……どういうこと、セイちゃん」

「私から深くは言わないよ。そして多分、スズカさんも深くは言わない。スズカさんはスペちゃんの邪魔をしない、それも立派な考え方だと思うしね」

「……ええ。私にできるのは、スペちゃんを応援することだけ」

 

 一つ。それは、私が踏み入るべき領域じゃない。走る理由はどのウマ娘にとっても大切な、絶対不可侵の心臓部だ。そこに触れるのは根本的な治療か、あるいは明確な害意を持っての傷害行為か。そのどちらに踏み切る勇気もない私には、立ち入ることのできない場所だ。

 

「わからないよ、セイちゃん。セイちゃんは、何が言いたいの」

「私が言いたいこと、か。それはもちろん、今度の春の天皇賞のことかな。阪神3,200m、最強のステイヤーを決めるGⅠレース。そこでスペちゃんは、何を願って走るの」

「それは、決まってるよ」

「なら、聞かせてもらおうかな」

「スズカさんと一緒に走れるような、私になること」

「……なるほど、ね」

 

 そして、もう一つ。君のその願いを、星より眩いその願いを私に折れるとしたら、それはレースの中でだけ。走ることでのみ、私たちは対等になれる。羨望の先に、手が届く。私の言葉が、君に届く。

 長い長い、永遠にも思えるほどのターフを駆け抜けて。その先でのみ、果ての果てでのみ私は君に言えるのだ。

 

「君の夢は、そんなものじゃないだろう」

 

 そう、優しさを厳しさで包んで告げられる。……自分の悩みも解消しないうちに、他人の問題に気づいてしまうのは難儀なことだけど。人は自分じゃ自分のことはわからないものだ。だから私はチームのみんなやトレーナーさんに頼ったし、同じように君も誰かに頼っていい。願わくばそのうちの一人になれたらと思ってしまうのは、私の傲慢かもしれないが。

 

「さて、少々お時間をとらせてしまいましたが。おふたりとも、実りある時間を過ごせましたでしょうか。なんて、私がしゃべってばっかりだったけど」

「いいえ。セイウンスカイさんが、スペちゃんのことを大切にしているのは伝わったわ。いい友達を持ったわね、スペちゃん」

「ふふっ、そうですね。セイちゃんは大切な友達です。……今日言ってもらえたことの、全部は分からなかったかもしれないけど。それでも、ありがとう」

「そんな大したことは言ってないよ。まあ後は天皇賞の後に持ち越し、かな」

「……そうだね。負けないよ」

 

 それは、誰のために? 自分のためではなくて、スズカさんのために? そんなことは聞けなかった。私を見つめるその瞳は、相変わらず深い輝きを湛えていたから。春の星の海のような、紫炎と綺羅の満ちゆく瞳。曇りはない、迷いはない。なら、それをいたずらに惑わすことはできない。真正面からぶつかって、叩き潰すしか方法はない。君の夢から「日本一のウマ娘」が、このトレセン学園まで来た原初の願いが消えそうになっていると、私から指し示せる方法は。

 僅かに日時計は進み、空の色はほんの少し橙を交えたように見える。けれどまだ青い。青くて、澄んでいる。まだ、空は墜ちてこない。

 

「じゃあ、この辺でお開きで。私はここでもうちょい寝転がってから帰るから、スズカさんもスペちゃんも、先に帰っていいですよ」

「うん、今日はありがとう、セイちゃん!」

「どーいたしまして。何もしてないけどね」

 

 相変わらずスペちゃんは真っ直ぐに気持ちを伝えてくる。照れ臭いったらありゃしない。

 けれどスズカさんは、それとは少し違った。

 

「セイウンスカイさん、ちょっといいかしら」

「はい? なんでしょうか、スズカさん」

 

 今までの会話とは違って、初めて私に問いかけてきた。だからやっぱりこの人は、スペちゃんが憧れるだけある人なのだろう。私からも、まだ遠い。まだ、頼ってしまう。

 

「……あなたは、今のままでいいの?」

「なんですか、それ」

「なんとなく、かしら。もちろんあなたとは今会ったばかりだし、頓珍漢なことを言っているかも。無視してもいい」

「言ったそばから無視していいなんて変ですよ」

「そうかもね。でも本当に、なんとなくだから」

 

 なんとなく、か。それでも私の抱える不安を言い当ててしまえるのだから、なんだかんだでこの人は鋭い。感覚型という意味では、スペちゃんとウマが合うのだろうな、とも思う。そのまま去りゆく二人を見送りながら、私は一人木洩れ日の下で思考を重ねていた。

 それにしても、スズカさんの指摘は正しいのだろう。今のままでいいのか、か。私は一体、どうしたいんだろう。スペちゃんが昔の夢を忘れそうになっているのを見て、私はそれは嫌だと思ってしまった。けれど同時に今の私は、多分昔の私からの変化を受け入れている。そしてその変化は、さらにもっと昔の、幼い頃諦めた私を掘り起こすような行為だった。

 それが多分、「今」。私が大人に近づくにつれて、より子供の祈りを抱きしめようとしているのが、今。スズカさんが言っているのは、そのままでいいのか、ということだ。それに否を突きつけるのは簡単だ。私はこのまま、幸せな仲間に囲まれていたい。認めてくれて、期待してくれる。いつか諦めたそれを、今度こそ手に入れたい。そう思うのは簡単だ。呆気なさすぎるくらいに。

 けれど、その逆も簡単だ。私は更なる変化を望まれれば、それを肯定してしまうだろう。それはひょっとしたら春の天皇賞ですぐに見つかることかもしれない。勝利のためならすぐに自分を捻じ曲げてしまえる気がする。どこまでも、大人になってしまえる気がする。人には過去を大切にしろと言っておきながら、自分はこの体たらくだ。誰かを頼らなきゃ生きていけないくせに、いつでも全ての手を振り払う準備はできている。私はそういう人間だ。

 ……落ち着かない。今日はのんびり、のはずだったのに。思えばエルがフランスに起ってから、私はずっと、より落ち着かない。多分、理由はわかっている。けれど言語化できない。元々あった靄が、一層深くなったような。底のない闇が、より大きな口を開けたような。まあそうなれば、やれることは最初から一つだけなんだけど。

 やっと落ち着いてきた腰をまた持ち上げて、泥も払わずに走る、走る。スパッツが擦れても、風がスカートの中を吹き抜けても気にしない。ジャージに着替えるのすらめんどくさい。とにかく、走りたい気分だ。私は走りたいんだって、そう実感したい気分なんだ。

 今の私は、やっぱりよくわからない。ここまでみんなに手助けしてもらったのに、結局まだはっきりしない。はっきりしているのは、走りたいって気持ちだけ。けれどそれだけあれば、全力でレースを駆け抜けるには十分かもしれない。ウマ娘たちがそれぞれの理由で走るトゥインクル・シリーズだけど、走りたいという気持ちだけは同じだから。

 スペちゃんもそうだ。かつてのスペちゃんと、その願いは違うとしても。ひたむきな理由で一生懸命に走る、あのスペちゃんなのは変わらない。私のライバルは、変わらず強力だ。ひゅごうひゅごうと河川敷を駆けながら、浸り揺蕩う私の祈り。変わらず君は強くいてほしいと、私の悩みなど杞憂であってほしいと。そう、希う。

 雲を追い越し風を切り、空よりも速く脚は動く。うん、私の調子も悪くない。私は確かに悩みを抱えている。子供と大人の狭間で揺れ動き、そのどちらに行っても苦しんでしまうんじゃないかって。どちらが停滞でどちらが進展なのか、どちらが正解でどちらが間違いなのか。成長と変化が私の中にあることはわかるけれど、そこにあるはずの正しい道がわからない。それはずっとわからないまま。

 けれど、身体の調子は悪くない。ならば、どんな悩みも走ればようやくわかることかもしれない。この前の日経賞での勝利でわかったのは、私はまだ勝利を望んでいるということ。走る場になったら走りたいのだと、そういうことだったから。

 空を見れば、青雲は私より速く飛んでいる。私じゃそれには追いつけない。けれど、いつか追いつけるのかもしれない。いつか私が子供を認められたら。あるいは、いつか私が大人になれば。どちらかだ。大人になれない子供の私が、そのどちらかを選ぶ時。

 それがきっと、春の天皇賞。その時は、近い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そらがおちてくる。

 みんながありえないといったから、そらはおちてこないことになった。そうしんじていたから、きっとおちてこないとおもっていた。

 ちいさなできごともおおきなできごとも、そらがおちてくるほどじゃないっておもっていた。とりかえしがつかなくなるなんて、おもいもしなかった。

 もしものはなし。そらがおちてくるとこわがったひとのほうが、ただしかったときのはなし。もしも、そうだとしても。

 たとえ、そらがおちてくるとしんじていても。それをどうにかすることなんて、だれにもできやしなかった。

 ──空が堕ちてくる。

 不安を抱えていても、不安を捨て去っていても。平等に絶望は堕ちてくるのだと、どうしようもないのだと。

 どうしようもない現実は、否定も肯定も出来やしない。ただ目の前を塗り潰し、世界はそこで終わりを告げる。

 それを、私に知らせるために。




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蒼穹に奔れ、くものひとすじたち

 五月のはじまり、布団にこもっているとだんだん蒸し暑くなる時期。今日の私は早めに布団を出る。蒸し暑いからではなく、もっと別の理由だ。とりあえず着替えもほどほどに、連絡の電話をぽちぽち。パジャマを肩まで脱いだあたりで、目当ての相手に繋がった。

 

「おはようございます、トレーナーさん。ばっちり起きましたよ」

「おはよう、スカイ。なんと言っても今日は、天皇賞本番だからな」

 

 そのままスピーカーフォンに変えて、着替えを続行しながらトレーナーさんと会話する。元気か、とか頑張れよ、とか、まあ大体予想通りの言葉。予想通りだけど、ありがたい言葉だ。半分下着姿で会話するのはちょっと落ち着かないけどね。まあ電話越しだし気にしない、気にしない。それにそんな私の貧相な身体より、もっと世の中には見るべきものがある。たとえば今日のレースもそうだし、たとえば。

 たとえば今日も、窓の外に広がるのはキレイな青空だった。うん、悪くない。あれくらいの絶景が出迎えてくれるのなら、今日もきっといい日になるだろう。

 

「おはよーございます、トレーナーさん。わざわざ私一人のために車を出してもらって、悪いですね」

「そんなことはない。トレーナーとして当然の仕事だ。この前のトップロードの皐月賞と同じだ」

「なるほど。懐かしいですね、皐月賞」

 

 それから程なくして、トレーナーさんの車がやってきた。流石に少しは運転にも慣れてきたみたい。私一人をレース場まで送り届けるくらいならへっちゃらか。そんな感じで挨拶がてら切り出されたのは、皐月賞についての話題だった。

 もちろんトップロードさんの皐月賞も記憶に新しいのだけど、私としてはやはり今でも鮮明に残るのは、自らが走った皐月賞の記憶。<アルビレオ>と<デネブ>の間で揺れて、最後の最後、ゲートの前で立ちすくんでしまって。そこをトレーナーさんの声で我に返れた。今となってはいい思い出かもしれないけど、当時はかなり深刻に悩んでいた。……今の悩みも、もしかしたらそういうものかもしれない。一年もすれば懐かしめるような、そんな子供の悩み。その程度のもので、大層に考えるのはただの杞憂。空は、堕ちてこない。

 

「じゃあとりあえず、お願いします。いやあ、久しぶりに一人で車に乗りますね。広くて大変結構」

「チームの皆は後で応援に来る。<デネブ>も一緒だ。行きは俺と君だけだが、走る時はみんながいるぞ」

「……それもなかなか、大変結構なことで」

 

 やがてトレーナーさんの車はエンジンが掛かりだし、私たちの目的地へ向かい始める。私の、じゃなくて、私たちの、だ。ゴールラインをみんなで切ることは出来ないけれど、そのつもりでゴールするくらいなら出来る。少なくとも私は、そう信じている。最後は皆で手を繋げる、ハッピーエンドが待っていると。

 そこからしばらく、数時間。阪神レース場に着くまで、会話はなかった。レース場について、出走者用の入り口の前で一言だけ。

 

「行ってこい、スカイ」

「行ってきます、トレーナーさん」

 

 それだけ。多分、それだけでよかったから。座して向かうは春の楯、堅牢強固にして最強の走者を望む過酷なレース。そこに向けて尽くすべき言葉は、きっと既に尽くしてある。ならば後は今を維持するだけ。今の私はきっと、最高だから。

 まだ朝だ。けれどすぐその時は来る。待ち遠しい時間というものは、得てして疾く過ぎるものだから。

 

 

 控室で昼食を食べて、少し早めに勝負服に着替えて。まあ早めに出来ることはやっておこう、なんて思っていた時だった。「できること」の一つが、向こうからやってきた。かつんかつんと高慢に足音を鳴らし、まるで今日の主役みたいに。無論そんなつもりはないのだろうけど、そういうふうに見えてしまうのがこのお嬢様の品格というやつなのだろう。そうやってドアを開けて招き入れる前からだいたい来客の見分けが付くのだから、私も随分人を知ってしまったものだ。

 

「ごきげんよう、スカイさん」

「ごきげんよう、キング。なんて、そんなに機嫌は良くないかもしれないけどねー」

「あら、不調? 二番人気の貴女がそれでは、今日はスペシャルウィークさんの独壇場かもしれないわね」

 

 空いていた椅子に座って、いつものように腕を組みながら。今日のキングはそんな軽口を叩いてくれる。私の代わりに、ということかもしれない。いまだ若干悩みと不安に塗れた、私の代わりに。

 

「別に私とスペちゃんだけが走るわけじゃないし。たとえば三番人気のメジロブライトさん、去年の春の天皇賞を勝ってる。正直、私より強いんじゃないかって思うくらいだよ。一番人気のスペちゃんはもちろん、ね」

 

 人気だけで全てが決まらないことくらい、私は色々な経験でそれを知っているけれど。それでも毎回気にしてしまうのが下バ評というものだ。たとえばそれを覆し、たとえばそれを覆され。そうやって、私たちの実力はその場で再判定される。そういった一進一退の劇的な攻防も、ウマ娘のレースをつくる要素の一つなのだろう。

 

「……貴女今、人気順のこと気にしてたでしょう」

「ええ、なんでわかるのさ」

「それだけ誰が何番人気、だなんて語ってたらわかるわよ」

「ええ、そうかなあ」

 

 まあ確かに、私にしてはわかりやすい態度だったかもしれない。もっともここにはキングの前なら、的な打算があるのだが。存外甘えてしまっている、ということでもあるかもしれない。我ながら、悪い女だなあ。

 

「しっかりしなさい。人気の話をするなら、二番人気は有力候補でしょうに。それに貴女にとっては、前評判を裏切るのはお手のものではなくて? これ以上ないくらい、うんざりするくらい気持ち良く、ね」

「あっはは、ひっくり返された人が言うと説得力あるね」

「おばか。……だから、私がわざわざ言ってあげてるのよ」

「そっか。ありがと、キング」

 

 確かにそれは、私が忘れていたことかもしれない。大舞台をひっくり返す、トリックスターの私。いつもの私。みんなが知ってる、私自身はなんとなくしか知らない、私。自分のことは自分自身ではわからないのなら、やっぱりこうやって誰かから聞いて回るしかない。当たり前だと言われても、誰かにとっての当たり前を知らない人間は案外どこにでもいるものだから。それをきちんと言葉にしてくれる仲間がいることは、私にとって幸せなことだ。そう、思った。

 

「……じゃあ、長話もなんだし。最後に二つ、私から言っておくわ」

 

 背もたれのない小さな椅子から立ち上がって、くるりと半回転して。いつものように首を持ち上げて、いつものように高慢に。

 びしり、とこちらに指を突き立てて、キングヘイローは私に告げる。

 

「まず、チームメイトとして。私は、貴女に勝ってほしい。スペシャルウィークさんではなく、貴女に」

 

 いと気高く、されど優しく言葉を紡ぐ。私のよく知る、キングヘイローだ。

 

「そしてもう一つ、貴女のライバルとして。貴女に勝つのは、この私。それまで負けることなんて、許さない」

 

 そしてやっぱりとんでもなくわがままで、だけど私を救ってくれる。やっぱり、私のよく知る君だ。

 

「……後者については、スペちゃんにも言いたいんじゃないの」

「それはそうだけど。今私が喋ってるのは貴女じゃない」

「なにそれ、キングは女の子と見たら誰にでも君が一番とか言っちゃうタイプですか〜?」

「おばか! ……後先考えられないへっぽこなだけよ」

「へっぽこ。なんだかキングの自称で一番しっくり来るかも」

「はあ、それならそれでいいわよ、もう」

 

 キングもきっと、昔とは違う。昔はこんなに弱さを見せてくれなかった。ずっと強いんだって思わせようとしていたのだろう。私はいつの間にかその対象から外れて、弱さを見せてもいい側に入っていた。それは彼女の変化でもあり、私の変化でもある。変化と成長は、時に相互に干渉するものだから。だから、これでいいんだ。

 

「……じゃあ、今度こそ出ていくけど」

「うん、ありがとう。最後に一つだけ、こちらからも」

「何かしら」

 

 そう言う頃にはもうこちらに背を向けて、控室のドアを開いていたところだったけど。

 

「これからもよろしく」

 

 がちゃり。それだけは、言えた。十分だと思った。きっとキンクもそう思ったから、返す言葉もなかったのだろう。

 その時まで、時間は限りある。けれどまだ、時間はある。それを隅まで埋め尽くさんと、程なくして次なる刺客が私の元にやってくる。こんこんと、規則正しくドアをノックしながら。いつもと同じ正しさに満ち溢れて、やってくる。

 

「スカイちゃん、いいですか」

「はいどうぞ、トップロードさん」

 

 かち、かち。時計の針よ、一寸も狂わず進みたまえ。時間は進んでほしいけど、そこにある狭間も大切にしたいから。

 

 

 控室に入っても、トップロードさんは椅子に座ろうとしなかった。どうぞ、と言っても、いやいやいいんです、と返すばかり。まあ、耳と尻尾で大体の理由はわかる。落ち着かない、ということだろう。そしてトップロードさんがそんなふうになった理由は、多分。

 

「皐月賞、まだ引きずってますか」

「ああっ、はい! いやじゃなくてっ、えっと」

「一回『はい』って言ったら、ごまかすのは難しいと思いますよ」

「……はい……」

 

 先の皐月賞、トップロードさんは三着だった。もちろん十分健闘したと言えるのだろうが、それで納得がいかないことくらい私もわかる。ウマ娘の本能は、勝利の一点のみを見据えているのだから。

 

「まあ、それでお悩み相談するのもなんですけどね。だって私、むしろお悩み相談したい側ですし」

「はい、それはもちろんです。スカイちゃんの緊張をほぐすために、はるばるやってきました」

「それでそわそわしっぱなしを見せられるんじゃ、全然ほぐれませんけど」

「すみません、座ります……」

「そこまで意気消沈しないでくださいよ、もう」

 

 トップロードさんの方が緊張してしまうのも、まあ無理はないと言えば無理はないのだが。他人のものでも、レース場が違っても。GⅠの控室というだけで、クラシック初戦の激闘を思い起こさせるものはあるだろう。だけど、この人は私のところへ来てくれた。脚が竦むのにも、構わず。どこまでも正しくて、眩しいくらいに優しい人だ。思えばずっと、出会った時からずっとそうだった。

 

「ありがとうございます、トップロードさん。私がここまで来れたのは、きっとトップロードさんのおかげでもあります」

「そうでしょうか、私は何も」

「何言ってるんですか、<アルビレオ>の勧誘担当やってたくせして。<アルビレオ>に入ってなきゃ、私はきっとここまで来れませんでしたよ。……そうですね、私にとっての皐月賞の時ちょうど、思ったことです」

 

 <アルビレオ>がいいと、あのレースを通して思った。だからずっとそうしていて、だから今もここにいる。そしてそれは、トップロードさんも理由の一つ。あなたがいるから、私はここにいたいんだ。

 

「奇遇、なんでしょうか。私も皐月賞を終えて、同じことを思いました。スカイちゃんと違って、勝つことは出来なかったですけど。<アルビレオ>に居てよかったって、それははっきり思いました。これからも、このチームで戦い続けたいって」

「なるほどそれは奇遇というより、必然かもしれませんね」

「必然」

「はい。やっぱり<アルビレオ>が、いいチームだからですよ。チームリーダーのトップロードさんを筆頭に、です」

「もう、スカイちゃんったら」

 

 結構本気で言ったつもりだけど、冗談めかして捉えられるならまあそれはそれで。トップロードさんの気持ちは真っ直ぐだから、直接受けたら致命傷だ。だからきっと、これくらいでもいいんだろう。

 

「……でも、スカイちゃん。大舞台で走ってみて、初めてわかったことが他にもあります。立つ場所が高ければ高いほど、挑む怖さも大きくなるんだって。……スカイちゃんは今、大丈夫ですか」

 

 そう思ったのに、あなたはすぐに直球を投げてきて。ああもう、どうしてみんなこんなに優しいのかな。

 

「少し、大丈夫になりましたよ。トップロードさんと話したおかげです。もちろん、怖いと思います。ゲートは全てを決めてしまう場所で、そこに入るのはいつだって怖いです。今日も間違いなく、結果は出ます。勝者と敗者に分かれます」

「そう、ですね。私にもわかります、スカイちゃんが言いたいこと」

「でも、少し大丈夫になりました。だから、ゲートに入れます。もしかしたら、勝てるかもしれません」

「はい。私はもちろん、スカイちゃんの勝利を信じてますよ」

 

 そう言って、トップロードさんは席を立った。また短い時間の会話だった。最後の手向けにも思えた。けれどキングとトップロードさんの二人に共通しているのは、私の勝利を信じていること。私が笑顔で帰ってくると、二人は揺るぎなく信じてくれている。

 

「じゃ、頑張ってください、スカイちゃん!」

「はい、トップロードさん。そうだ、最後に一つ」

「なんでしょうか、スカイちゃん」

 

 なら、やっぱり私から贈れる言葉は。

 

「いつか、一緒に走りましょう」

「……はいっ!」

 

 いつかの未来を約束するための、笑顔の先にある世界を紡ぐための言葉だった。

 ぎい、とドアが閉じられる。かちこちと、時計の針は進む。でもここまで来たら、君が来てくれなきゃ嘘だと思う。だから私は、僅かばかり待ち構えて。小さな影が磨りガラスの先に見えて、控えめにドアをノックするのを聞いて。

 

「入っていいよ、フラワー」

 

 そう、穏やかに言葉を送り出せた。

 

 

「あと一時間半くらい……でしょうか」

「そうだね。でも本バ場入場はレース本番より前だから、実際はあと一時間もないくらいかな」

「えっ、すみません。そんなギリギリに来てしまって」

「いいんだよ、私の方だってフラワーに来て欲しかったし」

 

 しんと静まり返った控室には、机も挟まずフラワーと私の二人きり。小さめだけど脚が高めの椅子は、フラワーの脚が少し届かないくらいの高さだ。それは足が落ち着かないんじゃないか、などと無用な心配をしてしまう。けれどそんな私の心配は本当に無用で、フラワーは瞳の奥から落ち着いていた。落ち着いて、言葉を吐き出し始めた。

 

「スカイさんは、まだ人に頼れますか」

「うん、頼れる。今日ももうたくさん頼った」

「スカイさんは、まだ悩んでますか」

「うん、悩んでる。友達が海外遠征しちゃってから、なんだかもっと悩んでる。解決しないかもしれない」

「その悩みが解決しないと分かった時、それとも解決してしまった時。その時にもし誰かを頼らなきゃいけないってなったら、誰かを頼れますか」

「それは、やっぱりわからない。変わる前の私には、変わった後のことはわからない」

 

 全身全霊を込めて、栄光のGⅠレースをひた走る。それは身体と心を使い果たし、魂まで揺さぶる行為だ。その結果が私に何かを齎す可能性はある。一方ではそれを望んでいるし、一方ではそれを恐れている。勝利だけを目指しながら、敗北の恐怖に怯えるように。だからきっと、誰にでもあることなのだろう。次は私の番というだけだ。

 けれど、それでも怖かった。キングとトップロードさんの二人に応援してもらって、それでも私はまだ怖い。二人の力で必死に、力任せに不安を押し潰そうとしている。それがひっくり返ってしまわない保証なんて、どこにも存在しないのに。

 

「フラワー。人生生きてりゃ色んなことがあるけどさ、それって当然いいことばかりじゃないんだよ。楽ありゃ苦ありって感じで、バランスが取られてる。見た目の上では差し引きゼロになるように、多分三女神様がそう定めてる」

「そうですか。それはきっと私には、まだわからない話なのでしょうね」

「そうかもね。そう思って、今のうちに教えておきたかったんだ。まあ、私の個人的な感覚でしかないかもだけど。良いことと悪いことはコインの裏表みたいに引っ付いていて、だから私は何事もほどほどにするように生きてきた。幸せの揺り戻しで傷つかないように、ね」

 

 そのはずだった。少なくともトレセン学園に入る前の私は、手酷いしっぺ返しを幼い頃に食らった後の私はそうだった。だけどそれから、随分変わってしまった。私は当たり前の幸せを求めるように、変化してしまった。成長、してしまった。

 

「……だから、もしかしたら今日がその時かもしれない。今までの私は、幸せすぎた。トレーナーさんに同期のみんな、トップロードさんにフラワー。みんなに良くしてもらいすぎた。もちろんそれが悪いわけじゃない。けど、揺り戻しは来るんだよ」

 

 それは、どれほどわかっていても。全てを覚悟していても、どうしようもない。空が堕ちてくると告げられても、慌てふためくしかないように。私がここまで溜めてしまった不安が杞憂かどうかなど、誰にもわからないのだから。

 そこまで、一息に吐き出して。幕開けの時は近いのに、脚はどうしようもなく震えていて。数秒の沈黙が流れる。世界が止まったように錯覚する。時計の針は、やっぱり進み続けていたのに。

 その数秒の後、だった。目の前の少女は椅子から飛び降り、すっとこちらに近づいてくる。脚と同じように震える私の手を、その小さな手のひらで掴んで。震えが止まるようにって、握りしめてくれて。

 私の眼を、その菖蒲色の眼で見据えて。じっと、そのまま。そのままで、彼女は口を開く。

 

「スカイさん。本当は絶対、こんなこと言っちゃいけないんですけど。今から私が言う酷い言葉がスカイさんにとっての揺り戻しになればいいなって思って、言わせてもらいます。いいですか」

「……うん。いいよ」

「もし今日負けても、スカイさんはスカイさんです」

 

 ……それは。

 

「だから、もし負けても。負けても、帰ってきてください。どうにもならなくても、帰ってくることだけは忘れないでください。……その後は、スカイさんに任された通りにします」

 

 それは、君にしか言えない言葉だ。負けてもいい、とさえ聞こえる台詞なんて。力いっぱい踏ん張っていた私に、もしもの時の逃げ道を用意できるなんて。……ああ、もう。

 

「……ずるいなあ、フラワーは」

「私がずるいとしたら、きっとスカイさんに似たんですよ」

「そうかあ。それなら、責任持って聞いてあげなきゃいけませんなあ」

「はい。そうしてもらえるなら、とっても嬉しいです」

 

 君が嬉しいなら、私も嬉しい。それも多分織り込み済みで発言しているのだから、本当にずるい子だ。これも成長、かな。それも私由来の。そんな子が私を救ってくれると言うのなら、それはきっと真実なのだろう。

 

「……っと、そろそろ時間ですね」

「そうだね。ギリギリまで付き合わせちゃったね」

「いえ。私がスカイさんとお話ししたかったんですから」

「それならおあいこだね。じゃ、また後で」

「はい、また後で」

「必ず、帰ってくるから」

 

 また後で。それは小さな約束ごと。約束とはそもそも、再会を前提としたものだから。

 思えば今日の控室では、三者三様の約束ごとをした。

 

「これからもよろしく」

「いつか、一緒に走りましょう」

「必ず、帰ってくるから」

 

 どれもがきっと、君とだから出来る約束ごと。私は未来に三つも物を置いてきてしまったのだ。なら、これからそれを回収するために走らなければならない。そう、これからだ。まだこれからたくさん走らなければならない。空が墜ちてきてしまっては、困るのだ。

 かち、こち、こちん。時計の針は、間もなく定刻を示す。……随分前に勝負服に着替えておいて正解だったかもしれない。こんなに話し込んでしまうなんて。それぞれは短かったけど、連ねれば長い長い時間になる。これもきっと、私の繋がりがそれだけ多くなってしまったことを示しているのだろう。

 そうして席を立ち、ドアノブを握りしめて。今までそれを握った三人の気持ちも、離さないように抱きしめて。

 がちゃり。最後に扉を開くのは、私だった。




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天皇賞(春)、始まります。


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杞憂であって、ほしかった

 ここで終わりじゃない。まだ、空は堕ちてこない。水晶体から脳髄まで染み渡る青空は、きっとまだ、まだ果てまで見えていない。地下バ道をくぐり抜け、あと一歩で本バ場入場。一歩先にある芝のにおいを身体に貫かせながら、一歩先で湧き上がる歓声を一身に受けながら。私は今、ここに立っている。

 

「阪神レース場、本日のメインレースは天皇賞(春)! 春の楯を取るのは一体どのウマ娘なのか、場内の盛り上がりは早くも最高潮といったところであります!」

 

 一歩光の方へ足を踏み出すたびに、その声は大きく、より大きく聞こえていた。だから今この瞬間、眼前に光あふれるターフの目の前ではなお一層。この盛り上がりは少なからず、私にかけられた期待でもある。そしてもちろん、私だけじゃない。この場に集まる全てのウマ娘に、最高のレースを創り上げることが期待されている。そしてその期待に応え、夢と希望を見せるもの。それが私たち、ウマ娘だ。

 ざくり。そうして、一歩踏み出した。

 

「さあやってきました二番人気、盤上を支配するトリックスター! 先の日経賞でも圧倒的な勝利を見せてくれたクラシック二冠ウマ娘、セイウンスカイの登場です!」

 

 実況さんの紹介を皮切りに、私の登場を一際の大歓声が出迎える。ファンの声、というやつだ。私の抱える不安なんて心配ないぞ、と言ってくれる声だ。私の受ける、期待だ。

 それにしても、なんだか大仰な紹介だ。いや、GⅠにはこれくらいの謳い文句がふさわしいってことなのかもしれないけど。実際嘘は言ってない。日経賞で勝ったのも、クラシック二冠を取ったのも。私は、勝利の味を知っている。敗北も知った上で、それでも勝利を掴めている。それは昔のことじゃなく、今だって。だから、まだ走れるはずなんだ。私は変わった。けれど、そこは変わっていないはずだから。それを証明するのが、今日、この日だ。

 

「──そして、このウマ娘もやってきました! 本日の大本命、注目の一番人気!」

 

 ……おっと、君も来たか。私のライバル。未だ輝きは増すばかり、だけどそこにはほころびが僅かに見えている。なら私はその穴を容赦なく突いて君に勝利し、その矛盾を君に突きつける。全て、勝利の後で。それが私に出来る君へのエール。残酷だと罵られても構わない。それでも君は、私にとってライバルだから。クラシック三冠を争ったあの時から、私たちには甘さは必要ないはずだから。

 

「一番人気、スペシャルウィーク! ジャパンカップの雪辱の後、重賞二連勝でまさに破竹の勢い! ダービーウマ娘はシニア級でも強い! 今日もそれを証明してくれるのか!」

 

 風に光る流星と栗毛、空に燃ゆる輝きの瞳。少しだけ私より小柄な、だけど私より大きな夢を持つ少女。私のライバルスペシャルウィークが、この戦場へとやってきた。そしてまっすぐ、私の方を見ていた。私も君を見ていた。そのはずだった。

 

「今日はよろしく、スペちゃん」

「うん、セイちゃん。私は今日、負けるつもりはないよ。スズカさんに、追いつくために」

「……そっか。それが、君の目標」

 

 だから、私はそれを否定できない。「スズカさん」という目標に向けて走る君が、君自身の「日本一のウマ娘」という道から外れてしまっているとしても。それでも立ち向かってくるのなら、私に出来るのは説き伏せることではない。力の限りねじ伏せること、それだけだ。

 

「いいレースにしよう。お互いに」

「うん。もちろん、だよ」

 

 手を伸ばせば、その手は握り返される。全力を出せば、全霊が返ってくる。それがライバル。きっと君も今日、私に何かを教えてくれるのだ。迷い惑う私は、それでもそう信じている。君のことを、信じている。

 だから、今は言葉は要らない。それは、全てが終わった後でいい。レースの後に、君の綻びを結び直してやるために。そして、私が私であるために。そのために、勝つ。

 

「さあいよいよ各ウマ娘、ゲートに入っていきます! クラシックを競い合った『黄金世代』同士の対決、勝つのはスペシャルウィークかセイウンスカイか、はたまた他のウマ娘か!? クラシックを競い合った優駿がシニア級にも通用するのか、全国が注目する一戦です!」

 

 そう告げる実況さんの声と共に、私たちはゲートに入る。全ての運命をごちゃ混ぜにして閉じ込めて結論を出してしまう、このゲートに。何回やってもこれには慣れないし怖いけど、それでも踏み出す勇気をもらっているから。トレーナーさんに、フラワーに、トップロードさんに、キングに。他にもたくさんの人たちに押されてここに入るのだから、それを嫌と言えるわけがない。嫌なわけが、ないんだ。

 だから。

 

「さあいよいよです、天皇賞(春)!」

 

 だから、絶対に。

 

「今一斉に、スタートしました!」

 

 絶対に、期待に応えたい!

 がこん。何度聞いても耳に残る独特な音と共に、全てのウマ娘が自らの足を踏み出す。一歩、二歩、三歩。それらはこの駆け足の中では目まぐるしくて、誰が誰の脚なのか見分けはつかない。まあまずは、お手並み拝見。今日の私は気まぐれ気分……っと、なるほどね。

 

「さあまずは激しい先頭争い! おっとスペシャルウィーク、今日は先頭に付けます! 今日のスペシャルウィークは先行策か!?」

 

 なるほど、なるほど。スペちゃんが先行するのは結構珍しいはずだ。それも先頭。理由は多分、ハナを譲らないため。以前のダービーのキングと同じような作戦だけど、多分スペちゃんのはもっと狡猾でストレート。勝てるタイミングを作るため、逃げウマ筆頭の私から少しでもリードのチャンスを奪うため。

 上等だ。なら、私はこうしよう。

 

「一方普段は逃げを打つセイウンスカイは、後方に控えて様子を見守っています! これは序盤から面白い展開だ!」

 

 私が逃げやすくなるまで、待つ。逃げしか能のない私だけど、これくらいの小手先なら慣れたもの。さあ次はどう出るのかな? ここは君と私の勝負、最後まで付き合ってあげるよ。

 だんだだんと蹄鉄の音が鳴り響く阪神レース場、我らが肢体全ては勝利のために。それをここにいる全員が、観客も含めて全員に見えているのは誰かの勝利だけだ。レースとはそういうもの、だから全てを変えてしまう。勝者と敗者を、くっきりと明確に分けてしまうことで。

 風を切り、大地を蹴る。息を吸って、吐きながら駆ける。勝負は既に一週目の三コーナー、長いレースだとしても着実に終わりは近づいている。そこで、前の方に変化があった。

 

「ここでスペシャルウィーク、先頭を譲ります! 長丁場の序盤を前目に押し上げ、仕事は終わったと判断したか」

 

 ……そう来たか。なら。

 なら私も、ここからが本番だ!

 

「おっとセイウンスカイ、ここでスペシャルウィークに並びます! 徐々に前方へ進出!」

 

 君が後ろに下がるなら、私は君の前に出る。いつも通り、このまま行けば私が勝つ。そのつもりだ。

 

「そして三番人気メジロブライトは中団の位置から、スペシャルウィークとセイウンスカイをマークする格好となりました」

 

 なんて、もちろん他の人も忘れちゃいけない。勝つということは全員に勝つこと、それは私がよく知っていることだ。トリックスターが誑かす相手は、立ち向かう全員でなければいけない。全員から、逃げ切らなくてはいけない。なかなか骨の折れる仕事だけど、そこは本領を見せてあげよう。

 勝負は三コーナーを抜けて四コーナー、一周目の直線に入るところだ。ちらりと横を見ると、すぐそこにスペちゃんが走っていた。ひたむきに、前を見て。こちらになんか目もくれず。うん、それでいい。そのままでいい。

 そのままでも私は、君の前に立ち塞がるから!

 

「おっと一周目の直線で、セイウンスカイ抜け出してきた! スペシャルウィークよりもさらに前、集団の先頭に躍り出ました!」

 

 さあ、ここからだ。私が逃げるのは、ここから。随分逃げにくいレースメイクを序盤からされてしまったけど、ここからは私がレースを作る。ここからが、本当の勝負だよ。

 

「スペシャルウィークは四番手、セイウンスカイが行っても依然前目につけています! メジロブライトはその後ろ、未だ上位人気二人をマークするか!」

 

 なるほど、これは確かにやりにくい。スペちゃんが先行でつけているから、私との差は菊花賞の時より開きにくい。それにもう一つ要注意なのが、メジロブライトさん。ずっとマークされてる。こうなると私に求められるのは、小手先じゃなくて実力だ。追手を振り切って逃げられる、いつか見たスズカさんのように。

 走って、走って。抱える不安が最高潮に達するはずの今、私は不思議と冷静だった。走るのは楽しいって、そう思えているからかもしれない。ライバルと、競い合う全ての人と。走るのはやっぱり楽しい、それが私の。

 私の、答えなのかもしれない。

 

「さあ二周目を回って二コーナー、前目前目のレース展開になっています! おっとここでセイウンスカイ、少しペースを落としたか?」

 

 とりあえず、私の魔法の杖は振らせてもらう。多分、うまくはいかないけど。

 

「……と、ここでスペシャルウィーク、セイウンスカイへの距離をぐんぐん詰めていきます! その差僅か二バ身といったところ!」

 

 ほら、やっぱりうまくいかない。でもそれだけ徹底的にマークされてるってわかっただけで十分だ。スペちゃん、けれどそれだけじゃダメだよ。勝負は一人とするものじゃない、私を潰すだけじゃ勝てない。さあ、どうする?

 

「ここでもう一人、セイウンスカイに並んでいきます! 若干あがってしまっているか?」

 

 ……おっと、他人を気にしなきゃいけないのは私もか。リードを保たなきゃいけないのに、こんなところで並ばれてしまった。それなら、もっと踏み込まないと。まだ、まだ私は走れるんだから。こんなところで、終わりじゃないんだから。

 私は怖い。このレースが終わった時、私がどうなってしまうのか。けれど同時に、レースというものは私にとって限りなく楽しみなことで。まだ先はある。私たちの空は、果てしなく広がっている。そう信じて、また一歩踏み込む。大地を抉り、風を切り裂いて。

 さあ、最後の直線はすぐそこだ。そこで、全てが決まる。

 

「スペシャルウィーク、外から上がってきた! 最後の坂を登れば、間もなくラストスパートの直線です! セイウンスカイ、持ち堪えるか! メジロブライトも後方からどんどん上がってくる!」

 

 まだ私の脚は動いている。まだ走れる。まだ未来がある。それはようやく、もうすぐ証明されるのだ。……正直、息は切れかけている。脚は軋み、限界のギリギリまできている。止まってしまいたいと一瞬でも思えば、そこで全てが終わるだろう。だから私は、終わらせない。絶対に、そんなことは思わない。

 だから、最後にものをいうのは。

 

(こんっ、じょう、だあぁぁぁぁーー!!)

 

 我がチーム<アルビレオ>で散々仕込まれた根性論。かつては苦手だなんだと言っていた、今はしっかり染みついた。私だけのじゃない。私たちの、走りだった。

 

「さあ三強の闘いになった! スペシャルウィークか、セイウンスカイか、メジロブライトか!」

 

 残り、200m。私が僅かに先頭。このまま。どうか、このまま。きっと、私の走りはそういうもの。誰とも競り合わず、最後はひたすらに一瞬たりとも並ばないことを祈るだけ。見ようによっては情けない、みっともないものかもしれない。

 けれど私にとっては、これは紛れもない誇り。策謀をめぐらせギリギリまで引きつけ、本来不利と言われる長距離でさえ逃げ切って勝つ。それが出来るのは、私の、私だけの。

 最後に考えていたのは、そんなことだった。

 最後の瞬間に、私は私を大切に思えていて。

 

「スペシャルウィーク、ここでスペシャルウィークか! セイウンスカイを抜き去りました、スペシャルウィーク!」

 

 最後の最後、それが粉々に砕かれても。何故だか不思議と、心は落ち着いていた。ようやく、不安から解き放たれていた。だから多分、これでよかったんだろう。

 

「スペシャルウィークか、メジロブライトか! 懸命にメジロブライト追い立てる、しかしスペシャルウィーク、スペシャルウィークです! 天皇賞(春)、勝ったのはスペシャルウィーク! 二着は半バ身差でメジロブライトです!」

 

 私は、そこからニバ身後ろ。完敗、だった。

 

 

 青い青いターフに寝転がり、青い青い空を見上げる。服の上からちくちくと刺す芝の感触は、私がまだ生きているということを示している。全てが終わってみて、私は何か変わったのだろうか。そう考えてみたけれど、案外何も変わっていない気がする。清々しいまでの敗北を迎えた。それは多分、悔いはない。だから大丈夫。全ては、杞憂だった。そんなふうにぼーっと緑のベッドを堪能していると、覗き込んでくる顔があった。

 

「おつかれさま、セイちゃん」

「そちらこそおめでとう、スペちゃん」

 

 立ち上がって、泥を払って挨拶をする。今日の勝者、私のライバルに。

 そう、私のライバルだ。君は今日、私に勝った。私は今日、君に勝ちたかった。だけど勝てるのはどちらかだけ。その権利を、君は得た。

 ……だから私は、何も言えない。君の願いは間違っているとは、言えない。だって君はそれで勝ってしまったんだから。もし君の誤りが正される時があるとすれば、それは君が負ける時。きっと君は、まだまだ磨けば光る原石なんだ。挫折も苦悩も、これから先直面すればいい。きっと、今はその時じゃなかったんだ。

 私は、そう考えた。晴れやかに思考を結んだつもりだった。だけど何故か、それは暗がりに向かっている気がした。真っ暗闇の奈落の底へ、ずっと、ずーっと。

 

「うん、ありがとう! これでまた、スズカさんに近づけた気がする。スズカさんのために、私はもっと強くならなくちゃいけないから」

 

 だから。

 

「スズカさんの、ため」

 

 だから、全てが終わってから。私はそこに最初からあった歪みに、ようやく気がつく。

 

「うん。スズカさんが、私の目標だもん!」

 

 彼女の願いが、憧れに曇った彼女の瞳が。

 その瞳が映しているものは、私なんかではなかったということに。

 

「……そっか。じゃあ、またライブで。記者会見もあるでしょ、スペちゃん」

「うん、また後で!」

 

 やっと、わかった。グラスちゃんが言っていた、私に足りないもの。スズカさんが言っていた、私が今のままでいいのかってこと。簡単なことだ。今のスペちゃんが私を見ていないのなら、そこから導き出される結論は至極シンプルなことだった。

 今のスペちゃんは、「日本一のウマ娘」を忘れたスペちゃんは、当然その目を全てスズカさんに向けていた。私のことなんて見てもいなかった。そのことだってずっと前からわかっててもおかしくなかったのに、それを私は見ないようにしていた。もしかするとそれは、そこに私に足りないものの答えがあるってわかっていたからかもしれない。

 ……グラスちゃんもスズカさんも、はっきり言ってくれればよかったのに。そのままじゃ、とか今のままじゃ、とか。いつか未来で手が届きそうなことを言って。そんなわけないのは、私はずっと昔から知っているんだから。

 私に足りないもの。

 それは、才能だったんだから。

 それだけ。だから私の変化は止まっている。成長は終わっている。もう誰かのライバルにはなれない。私の空には果てがあるから。天井に、手が届いてしまっているから。

 ──空が堕ちてくる。

 無根拠に信じた永遠など、愚かな民には無用とばかりに。それを恐れていようといなくとも、結局平等に空は墜ちてくる。全ての悩みの時間など、最後の瞬間には無意味だった。そんな無慈悲で冷酷な現実。

 それを、私に教えるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ああ、でも。

 杞憂であって、ほしかった。




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壊天

 たん、たたん。ステップして、くるりとターン。ウイニングライブの予行演習はばっちり。蹄鉄だけ脱いで、それで準備は完了する。最初はなんで走った後に踊らなきゃいけないんだろうなんて思っていたけど、今では結構気に入っていた。G Iのウイニングライブともなれば、観客のボルテージも最高潮だ。

 だから、スポットライトを浴びに行こう。センターには立てないとしても。私の、最後の晴れ舞台だとしても。

 出番だ、行こう。あの光り輝くステージが断頭台に見えるなんて、きっと私の勘違い、あるいは杞憂なのだから。

 

 

「ただいま。いやー、負けちゃいました」

 

 レースが終わって控室に帰ってきた時、出迎えてくれた皆の前で私はそう言った。出来るだけ、あっけらかんと。何事もなかったかのように。実際、何事もなかったのだから。異常があったわけじゃない。私には才能が足りなくて、だからもうスペちゃんのライバルにはなれなかった。それだけの、単純な話。悔しいなんて思える話じゃないんだ。それを願うには、私はあまりに拙すぎる。成長しきってしまっているから。どんなに穴だらけでも、もうこれ以上前には進めないから。

 

「スカイさん、あの」

「そんな顔しないでよフラワー、言った通りちゃんと帰ってきたじゃない。私は私のまま、帰ってきたよ」

 

 深刻な面持ちを崩さない君へ、私はやはりあくまで軽い態度を崩さない。全てが終わっても、私はここにいる。それは確かな事実だ。ずっと前からあった私の中にあった齟齬が、深い海の底からその姿を現しただけ。それだけだ。きっと、それだけ。

 

「……まだ、ウイニングライブがあります。それが終わっても、帰ってきてください」

「そりゃもちろん。それも大事な仕事だからね」

「絶対に、帰ってきてください」

 

 それだけ告げて、フラワーは控室を出て行った。見ていられないほど、ということなのだろうか。欠落を埋められないと自覚した、今の私は。

 足りないものには届かないとわかった今の私は。誰にでもあると思っていた未来がないとわかった今の私は。真っ黒のペンキに塗りつぶされた限界にぶつかって、壊れてしまった今の私は。

 見ていられないほど、哀れなのだろうか。

 

「スカイさん、貴女」

「何、キングも言いたいことがあるの? モテモテだね、私」

「いえ、一言だけ。……いいレース、だったわよ」

「そう。ありがと」

 

 多分きっと、彼女の言は正しい。今年の天皇賞(春)は、全力をぶつけ合ったいいレースだった。今回は。今回までは。スペちゃんにはまだ成長の余地がある。今は周りを見れていないスペちゃんは、多分どこかでその過ちを誰かに突きつけられることになる。スズカさんだけじゃなくて、自分や周りのライバルを見れるようになる。まだ、成長の余地がある。まだまだ、彼女は強くなる。

 けれど、私は。私は今日、気付いてしまったのだ。ここが私のピークで、いやもしかしたらもっと昔にそれは終わっていたかも知れなくて。みんなと鎬を削れていたのは、ただ早熟だった、きっとそれだけで。私に才能はない。幼い頃からずっと、ずっとわかっていたことじゃないか。全てを諦めた、あの日から。

 

「私も行くわ。今の貴女は、そうして欲しいみたいだから」

「そうかもね。否定はあんまりできない」

 

 そうして、また一人離れゆく。これでいいのだ。進むべき先を持たない人間の後押しをしても、空まで続く高い壁に阻まれてしまうだけなのだから。

 だから、これでいい。きっとキングもそう思ったのだと、それならそれが正解だと。ただ、信じていた。

 

「……スカイちゃん」

「なんですか、トップロートさんまで神妙な顔しちゃって。一度負けたくらいじゃ、そんなに落ち込みませんって」

「……そんなわけ、ない。GⅠの大舞台は、一番遠くて一番勝ちたい場所。もう、私にもわかります。私もスカイちゃんと同じ、トゥインクルシリーズを走る一人のウマ娘だから」

「そうですね。トップロードさんは、これから先を走っていく人ですよ。まだまだこれから、どんどん強くなっていく人。……だからまあ、私が落ち込んでるとしたら」

「したら、なんですか」

「……秘密です。ここから先は、トップシークレット」

 

 私が言えなかった言葉。飲み込んで、閉じ込めた言葉。それはきっとシンプルなのに、まだ未来のあるみんなには見えないこと。

 自分は、ここで終わりだということ。その現実を誰よりも私自身が実感しているから、私と皆の認識には乖離が生じていた。直感してしまったのだ。私はここが限界だと。大舞台でステージに上がれるのは、今日がギリギリ。これ以上はない。今日が「最高」で、それ以降は更新されない。少なくとも、私にとっては。

 

「……じゃあスカイちゃん、ウイニングライブ頑張ってください。観客席に、みんなで行ってます」

「はい。しっかり見てもらえるのなら、それが何よりです」

 

 だから、今日のライブは忘れられないものになるだろう。たとえセンターに立つ綺羅星には敵わなくとも、私は今日まではスポットライトを浴びる側だ。期待を受ける側だ。みんなに支えられる側だ。とっても、この上なく。しあわせな、側だ。

 静かにドアを閉じて、トップロードさんも出ていった。残りはあと一人。ずっと控え室の奥に座って、私を見つめるその太眉。少しごつごつした腕を組んで、私の前にどっしり座って。まるでてこでも動かない、そう言わんばかりに。

 

「どうしたんですかトレーナーさん、トレーナーさんは行かないんですか? セイちゃんの晴れ舞台が見れないですよ」

「晴れ舞台、か。確かにそうなんだろうな。ウイニングライブは、レースの余韻を永遠にするためのものだ。君の今日のレースも、多くの人の記憶に刻まれる」

「はい。それはバレンタインの時、トレーナーさんから聞いたことじゃないですか。ウイニングライブを見て、トレーナーさんはトレーナーさんになった。不器用で根性ばっかりで、困ったら正論をぶちまける難儀な大人に」

「そうだな、俺はスカイの言う通りの面倒な人間だ。それでも俺は、トレーナーになって良かったと思ってる」

「ウイニングライブをまた見れたからですか?」

「スカイに、君たちに出会えたからだ」

 

 ……本当、この人は食えない。最後の最後まで、愚直に手を伸ばしてくる。諦めないって、そんな言葉を投げかける。当人にはその意識がなさそうなのがタチが悪い。頭を使わず直感で紡いだ言葉をぶつけてくるこの人は、本当に。

 つくづく、私との相性は最悪だ。あるいは出会った時ぶりに、そんなことを思った。

 

「……そうですか。ならやっぱり、しっかりライブも見てくださいよ。ほら、こんな部屋にずっといないでさ」

「そうだな。そうしよう」

「はい。私の晴れ舞台ですから」

「ああ。期待、している」

 

 そうやって、最後まで期待を投げかけて。意地っ張りの正論男は、ようやく私の控室から出ていった。そしてようやく、一人になれた。一人になったからって、急に泣き出したりはしないけど。ほろほろと、心の膜が上の方から欠け落ち始めていた気がした。欠けて、欠けて、その先にあるのは全体の崩壊。補修は間に合わなくて、終わるとわかっていても終わりは止められない。

 もうすぐ、空が墜ちてくる。

 だから向かおう、空に一番近いところへ。

 

 

 たん、たたん。ウイニングライブの振り付けを覚えるのも、ウマ娘にとってはやらなきゃいけない大事なことだ。そしてそれは、一通り覚えればいいってものじゃない。同じ歌を歌うからって、自分の立ち位置はレースが終わる瞬間までわからないから。だから勝った時の練習もするし、負けた時の練習もする。そしてそのどれかの努力は報われるけど、どれかの努力は報われない。

 きらきらのステージで踊るウマ娘たちは、さまざまの気持ちを抱えながら皆で一つの歌を奏でる。喜び、悔しさ、あるいは惨めさ。それを全部混ぜ込んで、美しさも醜さも全部一つにしてしまう。そんなこの上なく残酷な舞台だからこそ、それはとても綺麗なんだ。

 ステップ、ターン。よし、大丈夫。今日の私も、なんの問題もなく踊れそう。負けたのだって初めてじゃない。敗者を踊ったのは何度も経験したことだ。それくらいで舞台に立てなくなるような、笑顔を作れなくなるような人間じゃない。私はそれくらい強いし、あるいは見せられないほど弱い。

 まあどちらにせよ、何度も経験したものだ。決まった順位の通りに、あるいは最初からそう踊ると決まっていたかのように。そんなふうに身体を動かすのは造作もない。……ああ、だけど。

 最後まで、慣れなかったな。

 負けはやっぱり、飲み込みにくいや。

 そうして、まだライトの点かないステージへ上る。メジロブライトさんと、スペちゃんと。センターはスペちゃん、下手側にメジロブライトさん。上手側に私。三着でも私は、スポットライトを浴びる側だ。だから晴れやかに笑おう。決意を込めて歌おう。「この先」があるのだと、今だけは勘違いさせてもらおう。

 ネクスト・フロンティア。頂という新天地を、歌うことだけは出来るから。どこにも行けない、私でも。

 ギラギラの照明がゆっくりと私たちを照らす。それに合わせて歓声が僅かに沸き立つけれど、それくらいで曲は止まらない。静かなピアノのイントロと共に、私たちは歌い始めた。

 振り付けは問題なかった。ダイナミックに手脚を振り回し、時には静かに背を向けて歩く。印象的だったのは、人差し指を掲げる振り付け。これはシニア級で比類ない結果を残したウマ娘に向けた歌、だったはず。だから、その指は「一番」を差している。あるいはもっと上、シニアよりも上のドリーム・シリーズ。その頂点を目指すのだと、その意図が込められている。

 そう思ってしまうと、何故だか無性に心が締め付けられるようで。まだ、このライブが終わるまでは、まだ。耐えなければ、いけないのに。

 歌を歌うことは、普通に話すこととは少し違う。言葉はメロディに乗り、メロディを際立たせるために言葉がある。そして逆も然りで、言葉はメロディによって際立つ。たとえ思ってもいないことを口にするとしても、実際にメロディに乗せた瞬間、それは。

 それは、歌い手の言葉となる。自らの言葉となり、自らの傷を抉る。だから最後の最後に私にとどめを刺すのは、自分自身だった。

 

「こんなもんじゃない」

 

 そうだ、こんなもんじゃないって思いたかった。でも無理なんだ、駄目なんだ。私じゃこの先には行けない。どんなにひたすらに駆け抜けても、私の道は選ばれた道じゃない。どうしようもなく、途切れてしまっている。世界はどこへも、進まない。

 フレアが焚かれ、会場のボルテージは最高潮。私の歌も振り付けも問題なく、周りの皆と呼吸を合わせられている。当然だ、仮面を被るのは得意だったから。スペちゃんの眼が私に本気でぶつかってはいないとしても、かつて見たそれから違えてしまっているとしても。それでもその夢は、確かに本気だったのだろう。だから私とは違う。何もかもを恐れてしまった、私とは。

 

「目指す場所があるから」

 

 サビに入り、三人の声が重なる。そこにある思いは、私の分は重なっていないとしても。頂点に立ちたいなんて、私には言えない。決められたことがあるとしたら、「言えない」というその否定の事実だ。だって理由は単純で、私にはその資格がない。どこまで走っても、これ以上は何も得られない。才能の有無。走れば走るほど、私の得た期待は去っていく。もう、最高はやってこない。

 

「力の限り、先へ」

 

 そして、それを喉の芯から歌い上げて。大きな歓声とペンライトに見送られ、ゆっくりとステージは暗転する。……まあそういうことなら、最後の一言が唯一私が心から歌える歌だった。力の限りは、もう尽くしたのだ。私の場合は、それが皆より早かった。だからここが、私のゴール。私が辿り着いた終着点。春の天皇賞で三着なら、なかなか立派な物だろう。

 子供の私は、褒められたいと思っていた。ライブを終えて控室まで歩く中、私は今までの全てを思い返していた。褒められたいと思って、余計な心配を周りにかけた。それを諦めるまでが、あるいは大きな回り道。あるいは、大きな成長のために必要な過程。そんなふうに昔のことを、今と重ねて思い返していた。今までのそれも、回り道か成長の過程。それがこの瞬間、全てが終わった瞬間結実するのだ。そうやって思い返すのは、遥かな過去から五分前の過去まで連なったものだった。

 ウイニングライブはこれ以上ないくらい明確に、今の自分をはっきりさせてくれていた。そこに歌う言葉の悉くが、今の私とはもう合わなかった。つまり、私はもうこの場所に合っていないのだ。いやあるいは最初から、見合ってなんかいなかった。みんなが優しいから、私の場所を作ってくれていただけ。けれど実力というどうしょうもない差があるのなら、老兵はただ去りゆくのみというわけだ。

 子供の私は、褒められたいと思っていた。そしてそれを諦めたつもりの私は、結局このトゥインクル・シリーズでまた褒められたいと思ってしまっていた。子供のままでいたいと、きっとそう願ってしまっていた。

 けれど、人は大人になる。子供の頃の大それた夢を諦めることで、大人になる。子供の夢を持ったまま大人になれる人間なんて一握りだ。才能があるやつだけだ。それは私以外の誰かで、私にはなんの才能もない。

 夢は、叶えるものじゃなくて。現実を知って、諦めるものなんだ。それがやっとわかった。幼いあの日に諦めたつもりで諦めきれなかった夢を、今の私はようやく諦められる。長い、長い回り道。あるいはどうしても必要だった、成長の過程。

 ねえトレーナーさん、見ていてくれたよね。私のウイニングライブ。私の夢の結末。どんなに長くても遠くてもどこかにはたどり着くって、見ていてくれたよね。あなたが本当に見たかったものは、見せられなかったかもしれないけれど。

 これが私の、精一杯だよ。

 

 

 自らの控室に入る前に、こんこんとドアをノックする。案の定返事は返ってきた。「入っていいぞ」って。誰の部屋だと思ってるのやら。そもそも年頃の女の子の一人部屋に勝手に入るなんて、デリカシーが欠けているんじゃないか。そんなことを思うことは、きっととっても簡単だったけど。

 

「じゃ、お言葉に甘えて。入りますね、トレーナーさん」

 

 その時思えていたのは、「嬉しい」。

 それだけ。それだけでよかった。トレーナーさんは落ち着かなさそうに部屋の中央で仁王立ちしていて、太眉も口元も真一文字の横一直線になっていて。少しごつごつした手のひらは、内側に先程まで握りしめていただろう指先の跡が付いていた。少し青黒い、血の跡だ。そんなふうに、いつものあなた。先程のウイニングライブで拳に限界まで力をこめてしまっていたくせに、そんな弱さを隠そうとするいつものあなた。そんなあなたは私のなにもかも、見透かしてしまっているのだと。わかってくれているのだと、それだけ思えれば十分だった。

 

「お疲れさま。ライブ、よかったぞ」

「えへへ、ありがとうございます」

 

 思わず笑みが溢れてしまう。そのちょっとした返事をすることで頭がいっぱいで、部屋に入ったというのに椅子に座るのを忘れてしまっていた。だけど私にとって、あなたの言葉はそれくらいのことなのだろう。些細なことだけど、褒めてくれた。子供と大人の狭間にいる私は、褒められてしまえば喜んでしまう。特に多分、あなたには。私は走れるって言ってくれた、あなたなら。

 

「それで、トレーナーさん」

 

 だけど、マジックタイムはもう終わり。青空を越えて日は沈み、茜空はやがて黒へと変わる。時計は十八時過ぎを指している。魔法は、ここで解ける。

 

「どうした、スカイ」

 

 これもきっと、あなたへの信頼の証。あなたなら私をわかってくれると、そう信じているから告げられる。トレーナーとしても大人としても、あなたは私を見てくれている。だから、これも告げられる。あなたにだから、告げられる。

 ……ああでも、フラワーには謝らなきゃいけないな。結局私はこうなって、結局君を頼らずになんとかしようとしている。ああまで言ってくれたのに、ああまで言ってしまったのに。結局私は変わってしまって、君の助けも多分届かない。どれだけ準備をしても、空が墜ちてくるのなら無駄だったのだ。

 

「今回の天皇賞(春)、結構頑張ったと思います。全力で。だから、この結果なんだと思います」

 

 そしてトップロードさんにも、ごめんなさい。私はあなたのように、期待に応え続ける勇気が足りませんでした。負けてもそれを糧にして、そんなのは私には無理でした。……約束も、果たせない。それは多分、許されないことだと思います。けれど、空は墜ちてきてしまうから。

 

「思えばメイクデビューから、皐月賞から菊花賞まで。だいぶ昔に思えますけど、つい先日のことのようにも思えるくらい鮮烈な思い出で。大切な、かけがえのない思い出で。走ってきて、よかったなって思います」

 

 キングも、ごめんね。クラシックは、とっても楽しかった。君はそれからもライバルだって、私に対して言ってくれた。けど、私はそうはなれないみたい。君は君の道を行けばいい。君らしく進めば、きっと栄光をその手に掴める。友達として、かつてのライバルとして、応援してる。空が墜ちて全てが終わってしまっても、そのことは忘れないつもりだよ。

 

「楽しかったです。悔いはないです。だから、です」

「……スカイ」

 

 トレーナーさんもなんとなく、私の言うことを察してくれたみたい。やっぱりこの人は、私のことをよくわかっている。

 少しの沈黙。やっぱり少しだけ、勇気は要る。わかってくれるとしても。そう信じていても、私が私を信じきれていないのかもしれない。そういう意味では、まだ私は子供だ。

 でもだからこそ、こうしなくちゃいけない。

 くるり。沈黙を破る一回転。勝負服についたレースがひらひらと舞い、私の最期を華やかに巡る。

 すとん。儚さを隠すように少し跳ねると、ひらひらのスカートが内側までふわりと浮いた。

 にこり。そして少しだけ、笑みを浮かべた顔をあなたの方に突き出して。薄くて柔らかな、多分自然な笑顔。私の心の底からの、ギロチンを待つ剥き出しの笑顔。

 そうやって、それだけ勿体ぶって。その後、また沈黙を挟んで。それでもなけなしの決意と共に、やっと口から断末魔は出ていく。

 

「だから、ここまでにしませんか。もう私は、走れません」

 

 今日も空はキレイだった。キレイなまま、墜ちてきた。

 空は、それでもキレイだった。ぐしゃぐしゃでも、キレイだった。

 だから、出来るだけ私も晴れやかに。キレイなままで、大人になるのだ。

 だから、今が一番のタイミング。今だと決めたからこそ私は、キレイな大人になれる。

 めでたし、めでたし。




感想評価、是非よろしくお願いします。
本当に励みになります。
さて
三章 杞憂とデクレタム これにて完結です。
長くなりましたが、お付き合いいただきありがとうございます。
これからの投稿スケジュールとしましては、
幕間、「ナリタトップロードによる『タイム・フォア・アポカリプス』」を挟んでから
最終章 セイウンスカイと正論男 に入っていきます
残り短い(ちょっと長いかもしれません)ですが、完結まで見守ってくだされば幸いです


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ナリタトップロードによる「タイム・フォア・アポカリプス」

「はーっはっはっ! ボクは何者にも負けない、だから君も全力で来たまえ!」

 

 ああ、誰かの声が聞こえる。誰だっただろう。声だけじゃわからない。聞き覚えが、ある気がするのに。

 

「私は、走るだけ。そのためだけに、このトレセン学園に来たの」

 

 この声も、聞いたことがある気がする。先程とは違う声。わかるのは、どちらも大切だった気がするというだけ。

 あれ、そもそも。そもそもここはどこだろう。虹色塗れで、全身の感覚がふわふわしていて。どこか不安定な心地よさが、なんだかとっても気持ち良いけれど──。

 

「──はっ」

 

 黒鉛混じりの木の匂いが鼻をつく。目を開けば数センチ先に薄茶色の木目が見える。なんだか身体もギシギシと音がなりそうなほどに節々が痛い。特に肩の裏の辺りから腕のほうまで引っ張られるような……って、私の顔が両腕の上にどしりと乗っかってるじゃないか。そんなふうに全身の状態を認識するまでにおよそ数秒。背中を丸めて前屈みになって、全身の重みを痣ができてしまうまで二つの腕に預けて。何を隠そう、私は自室の机で居眠りをしていたのだ。

 

「……はあ」

 

 そして、そんな状態で夢を見ていた。二人のウマ娘のことを、夢に見ていた。睡魔に負けてしまう直前まで資料を読み込んでいた、二人のウマ娘のことを。

 あらためて、机の上に広げたものを確認する。所狭しと並べ立て、そのくせその上に突っ伏して若干くしゃくしゃにしてしまった二人のウマ娘についての資料。皐月賞をまさに明日に控えたというところで、私はその二人のことが頭から離れなくなっていた。大事なライバル、そう思っているからこそ。

 クラシック三冠の初戦、皐月賞。一生に一度きりの大事なレース。その出走リストに私ナリタトップロードは名前を連ねていて、二番人気というそれなり以上の扱いを受けている。ならば私は、その期待には応えたい。それが多分、私の走る理由なのだろう。期待に応えること、期待に応えられる自分になること。そしてそのためなら絶対負けないと思える相手を見つけたからこそ、私はデビューした。トレセン学園で向けられる期待、対抗心、絶対負けない負けたくないって気持ち。それを見出すのがデビューというもので、それが満たされるのがトゥインクル・シリーズというもの。だから私は、夢の扉を叩いたのだ。

 机の灯りでスマホの時計を見てみれば、まだ午前の一時半。まだ、と言うにはそれなりに遅い時間かもしれないけど。それでも大人しくベッドに向かって布団にくるまる気にはなれなかった。ふと窓の外を見てみれば、ビー玉を砕いてばら撒いたような星空ひとつ。眩いそれに、思わず祈るように目を伏せて。うん、まだ明るい。ならまだ起きていても、きっと寝坊なんてことにはならないだろう。そんな何処かに言い訳にもならないような言い訳をして、あらためて目線を二人の資料へ落とす。テイエムオペラオーとアドマイヤベガ、私のライバルたちの資料へ。そして資料に書いてない私の知る二人のことにまで、想いの手を届かせてゆく。

 まずは、テイエムオペラオー。オペラオーちゃん。ちょっと小さな背丈の、だけど目の前に立つとそんなふうには思えない子。私から見れば断然後輩で、私のチームで言えばスカイちゃんと同学年らしい。その自信たっぷりの態度は、歳下だってことをついつい忘れてしまうくらい立派なものだけど。そんな彼女はあの学園でも最強のチーム<リギル>の一員で、デビュー当初こそ少し苦戦したものの今では順調に勝利を重ねている。後輩とはいえ、レースの上では同期。なによりもその威風堂々とした振る舞いを見ていると、負けられないなと思うのだ。……私にあれが出来るって意味じゃないけど。そう言う意味でもやっぱり、オペラオーちゃんはすごい。

 そしてもう一人、アドマイヤベガ。アヤベさん。私とは同じクラスの同級生。……一応。何度か話はしたけれど、その緋色の瞳がこちらを向いてくれることは少ない。けれどゼロではないから、私はずっと彼女に話しかけ続けている。その理由の一つにはもちろん、彼女が有望なウマ娘だというのはあるけれど。アヤベさんのお母さんは、私でも、多分誰でも知ってるような有名なウマ娘。だから当然、彼女は大きな期待を背負っている。

 けれど彼女はそんなことなど意に介さないかのように、ただひたすらにトレーニングを続けている。聞けばチームにも所属せず、新人トレーナーとの一対一の担当形式を選んだらしい。それだけ自分の力を信じているということ。それだけ他人とは関わろうとはしないということ。硝子細工のようなその立ち振る舞いが、どうしても見過ごせなくて。……それがもう一つ、私がアヤベさんを気にかける理由だ。お節介なのはわかっている。けれどきっとこれも期待の形の一つだから、私はその気持ちを手放したくない。

 たとえ耳を澄ませても、誰かの寝息がうっすら聞こえるだけだろう午前二時。ますます窓の外の空は輝きを増し、夢の中よりも色鮮やかな世界が広がっていた。

 そこに浸り、思考はさらに深く、深く。まだ私は、思考を尽くせてなどいないのだから。

 オペラオーちゃんがチーム<リギル>に入った理由は、彼女からすれば至極当然のものだった。彼女は最強なのだから、最強のチームがふさわしい。そしてその最強のチームの中ですら、最強を掲げようとする。彼女は自らの実力を、微塵も疑ってはいないのだ。誰が全力で立ち向かってこようとも、それを己の全霊で跳ね返せると信じている。……私では、それが出来るとは思えない。期待に応えるということは追い求めているけれど、それ以上を求めて掴み取ろうとすることは。だから私にとってはある種、オペラオーちゃんは遠い遠いところにいる人。憧れの一つ、だった。

 そしてアヤベさん。アヤベさんがチームという選択肢をそもそも選ばなかったのは、そうやって一人で練習する時間を作りたかったからだろう。チームに所属すれば併走トレーニングなどもやりやすいけれど、アヤベさんが選んだのはその道ではない。それも実績は当然存在しない、新人トレーナーとの一対一を選んだ。多分それだけ、自分一人でなんとかしようと思っているから。全ては余計な口出しだと、そう断じてしまえるから。……きっと彼女なら、それが出来るのだろう。ひたすらにストイックに、それでも硝子細工は折れずに磨き続けられる。やっぱりアヤベさんも、私からは先の先にいる。まだ掴めない、憧れの人だ。

 そして、最後に自分のことを考える。自然と、だった。二人には、道が見えている。だから二人には、選ぶチームのやり方がある。となれば当然、私にとってのチームがなんなのかというのも、直面せざるを得ない議題だった。

 乳白色のデスクライトは、私の顔を少し広い額から顎の下までぴかぴかと照らしていた。瞼を閉じても真っ暗にならないくらい近くで、ギラギラと。お陰で夜の闇が深まるたびに、それに反して眠気は覚めていく。ひょっとしたらこの時間にこんなに元気なのは今日は私だけかもしれない。今名前を挙げたオペラオーちゃんもアヤベさんも、きっと明日、正確にはもう今日のレースに向けて寝ている頃だろう。これでもクラス委員長として、規則正しくちゃんとした生活をしておきたい、みたいな気持ちはもちろんあるのだが。

 なんだか今日は、そんな気分じゃない。夜も深く底まで更けて、眠気の混じった思考は朧気になりつつある。考え事をするには向いていないけど、そんな時だからこそ頭に浮かぶものがあった。先程から、いやそれよりももっと前、きっとデビューした時よりもさらに前。どんな頃よりずっと前、卵から孵った雛が頭の上にくっついた殻の破片を不思議に思うように。最初の最初から、私の頭の中に最初からくっついていた疑問点。私から私への、ハウ・アバウト・ミー。

 私は何故、<アルビレオ>にいるのだろう。

 私は何故、<アルビレオ>のリーダーなのだろう。

 私は何故、<アルビレオ>に入ったのだろう。

 そんな疑問を、私は私に問うために。時間感覚の薄れた深夜三時頃、私は過去へと思考の矢を飛ばす。形のない虚数の矢文、そしてそれを受け取るのはいまはもういない過去の私。過去の私は、どうして<アルビレオ>に入ったんだっけ。そんな今でも知ってることを、今一度。

 クラシック三冠の大一番、皐月賞の最直前。全ての準備が終わって、本番のその瞬間が終わるまでも十二時間を切っている。そんな今だからこそ、私は私に問いかけた。

 まだ、僅かに終わりではないから。

 

 

 とは言っても、チーム<アルビレオ>と私の出会いはそれほど劇的なものではない。わざわざ長い道を辿ることもなく、成り行きで入った、の一言で済ませてしまえるかもしれない。私が道を歩いていたら、トレーナーさんが声をかけてきた。だから入った。そうしたらリーダーになった。……こう並べてみるとあっさりすぎる。今日はもう少し、掘り下げてみよう。

 あの日、多分それなりに天気は良かった。そして珍しく、私はクラスの業務に追われていなかった。だからこれまた珍しく、のんびりと構内を静かに走っていたのだ。柔らかな日差しを一身に浴びることのできる、校舎の外にある気持ちのいい中庭。腰掛けながら弁当を食べられるようなベンチも何個かあって、ゆっくりするにはいい場所だ。

 なんて、今思えばスカイちゃんみたいなことを考えながらだらだらり。そんな感じで中庭の中心部に足を踏み入れた時、なんだか人が少ないことに気がついた。そして大体同時に、その理由にも。大声を張り上げる少し背丈の大きい男性が、中庭のちょうど真ん中で何やらお手製の縦看板を持って陣取っていたからである。看板にはそこそこの達筆かつ情熱溢れる筆致で、こう書いてあった。

 

「チーム<アルビレオ>、メンバー募集」

「根性、努力、気合溢れるウマ娘を待つ」

 

 多分これを見て、他の子は引き気味になっていたんだろうことはわかる。トレーナーさんの意志の強すぎそうな顔つき目つきも、だいぶ人を寄せ付けないのだろうことはわかる。その二つはその光景を見て瞬時にわかったのだけど。

 

「すみませんっ、お話聞かせてもらえませんか!」

 

 私はその姿を見て、すぐさま未来のトレーナーさんに声をかけていた。……今から考えても、どうして声をかけたのかはいまいちはっきりしない。多分結構「根性、努力、気合」には惹かれた点はあると思うし、逆にトレーナーさんがあまりにも人を寄せ付けなさすぎて哀れに思ったというか、放って置けなかったところもあると思う。まあお人好しと言われれば否定できないのだが、私とトレーナーさんの出会いはそんな感じだった。

 

「おっ、興味があるんだな! 我がチーム<アルビレオ>に! なんと今なら入ればそのままリーダーになれるぞ!」

「えっ、本当ですかっ!? ……って、それは誰もまだいないってことですよね」

「まあ、そうではある。だがいずれ天下を取るチームだ! そのメンバー一号にならないか、ええと」

「ナリタトップロードと言います! これから、よろしくお願いしますねっ!」

 

 そんなふうにあれよあれよと意気投合して、気持ちは同じだと言わんばかりに固い握手を交わして。そうして私はチーム<アルビレオ>に入り、そのままリーダーに就任した。周りを近寄らせないくらいの熱気だったけど、そんなトレーナーさんのやる気満点な態度に少なからず沸き立つものがあったのも事実だ。だから多分、私は<アルビレオ>に入った。結局どちらかと言えば取るに足りないような、ライバルたちには届かないような。

 

(……でも)

 

 くるりと椅子を回し、窓の外の深黒に目を向ける。網膜の先の細胞一つ一つに、光り輝く星の粒が突き刺さってくる。あのあまねく星々の煌めきは、今を生きる輝きじゃない。過去の光が今にまで届いているのだと、昔何かで読んだことがある。それは壮大な宇宙のスケールだからこその話ってわけじゃなくて、案外どこにでもある話なのかもしれない。星の名を冠する<アルビレオ>もそうだ。もしかしたら成り行きで始まったかもしれないその瞬きは、今まで絶え間なく続いている。数々の人を巻き込んで、ひとつの星から連星へと変わるように。

 私はチーム<アルビレオ>のリーダーとして、今までよりもっと色々な人と接するようになった。歳の違う子、性格の違う子。大体私より歳下だけど、それでも時折見せる顔がどことなく大人びて見える子もいる。まあたとえば、スカイちゃんとか。あの子は自分で思っているより大人で、自分で思っているより深く考えている。だから、支えてあげないといけないと思う。チームメイトによりそうのが、リーダーの役割だから。

 そして、出会いがあれば別れもある。たとえば私に憧れて入ってきたけれど、チームの練習についていけなくて辞めてしまった子。あれはもうだいぶ昔になってしまったあの日、スカイちゃんが受け取ってくれた脱退届。頑張っていてくれたのに、着いてこれないと思ってしまったあの子。それは、その子が悪いんじゃない。少なくとも私は、そう思う。悪いのは、その弱音を汲み上げられなかった私の方だ。一人きりの場所に閉じ込めさせてしまった、私の。

 あのことはきっと、ずっと忘れられない。私の無力を示す出来事。彼女は夢を抱えてこのチームに入ったのに、私の至らなさがそれを届かない夢に変えてしまった。二度と起こしたくないと思う、苦い思い出だ。チームのリーダーとして抱える、記憶しなければならない出来事だ。

 そうやって、私は<アルビレオ>のリーダーとして色々なことを経験してきた。支え、導き、頼られる立場だ。それが、今までの自分だった。クラスとは違う、もう一つの居場所の意味だった。

 だけど、今の私は違う。あと十時間ちょっとすれば、私は皐月賞の出走者だ。愛想よく、元気よく、人当たりがいい。そんな私のリーダーとしての素養なんてものは、ターフという戦場では灰塵に帰す。そこで必要なのは、期待に応えられる実力だ。才能だ。そんな誰しもが持ってるわけじゃないものを当たり前のように要求してくるのが、トゥインクル・シリーズという厳しい世界。だけど私はだからこそ、期待に応えられるようになりたいんだ。

 期待。嬉しいことに私は、その才能と実力を期待されている。皐月賞でも二番人気。そしてそうなれば裏腹に膨らむのが、期待に応えられるかという不安だ。期待は、強さを押し測る。けれど本当の強さは、走ってみなくてはわからない。だから誰もが全力で、時には期待を覆すために走るのだ。

 時計を見れば、もう午前の四時だった。これなら徹夜してしまった方がよさそうだ。不思議と時間が進むたびに眠気は薄れてきて、気持ちが昂ってくる。皐月賞への想いが、強くなる。

 皐月賞。クラシック三冠の初戦を飾る、誰もが夢見る一生に一度きりのレース。勝つのも負けるのも、一度だけ。オペラオーちゃんやアヤベさんを振り切って、私が頂点に立たねばならない。そのハードルは並大抵のものじゃない。

 けれど、そんな私に勇気をくれる人がいる。その大舞台で強敵相手に勝利し、晴れやかに笑ってみせた人がいる。私の、憧れの人だ。

 もちろんその人との差は、まだまだ遠くて果てしない。当然あちらもぐんぐん逃げていくから、追いつけるかもわからない。だけどいつか、胸を張って同じ舞台に立てるなら。

 そんな夢を、いと高き天の先に掲げた。夢はいつだって、頂点にて手が届くものだから。

 やがて緩やかに太陽は昇る。待ち望んだその日が来る。皐月賞までの全ての努力、全ての気持ち。

 それが結ばれ、終わる日。一つの終末が、やってくる。

 

 

 当日は雨が降っていた。だからといってターフの上で傘なんてさせないのだが。雨の中でも踏み締めるバ場はそれなりに良好、今日の調子も悪くない。寝不足もテンションを上げてむしろいい方向に働いている気がする。今日の私、もしかするときてます。

 

「中山メインレース、皐月賞。十七人のウマ娘の出走を、観客が今か今かと待ち侘びています」

 

 そんな実況が聞こえて、いよいよ皐月賞なんだ、と改めて実感する。体がじんわり、尻尾の先まで熱を持つ。見ているだけで目頭が熱くなりそうな芝の青、青、青。私は今ここに立っているのだと、蹄鉄越しの地面の感触が何よりもそれを教えてくれた。

 そんなふうに一人浸っていたところに、我関せずといった感じで話しかけてくる声があった。聞き覚えのある、仰々しい声音。振り返ってみれば、見知った顔と背丈のちっちゃくて可愛らしい後輩。の、はずの子。勝負服を着ていると、その威容はますます強大に感じられる気がした。なんというか、オーラが違う。

 

「ごきげんよう、トップロードさん」

「はい、オペラオーちゃん! 今日は、よろしくお願いしますっ」

 

 オペラオーちゃんも絶好調、みたい。なら、相手にとって不足はない。精一杯の言葉で、私も応える。

 

「オペラオーちゃん、気合満点ですね。私も負けてられません」

「当然さ、ここからボクの伝説が始まる。その幕開けを告げるには、皐月賞の場ほど相応しいものはない!」

「……流石、ですね。負ける気なんてないって感じですか」

 

 今日のテイエムオペラオーは五番人気。チャンスは十分にあるけれど、絶対なんて言える人気順じゃない。それでも、彼女はこう言ってのけている。

 

「ボクは勝つよ。五番人気、上等じゃないか。それほど敵は強大だということだ。もちろんトップロードさん、君もね」

「はい。オペラオーちゃんをガッカリさせるような走りは、しないつもりです」

「それでいい。自分の実力は、自分が一番よく知っている。だからボクは今日ボクが勝つと確信しているし、君も自らの勝ちを疑わない。それでいい」

 

 相変わらずオペラオーちゃんは、悠々とした態度を崩さない。けれど触れれば火傷してしまいそうなほどその心の内が燃えていることは、外の私でも見てとれた。それならばそれに直に触れているオペラオーちゃんは、一体どれほどの執念を勝利に燃やしているのだろう。

 ならば私も言葉を返そう。彼女が謳うそれと相見えるに相応しい、覚悟を示すための言葉を。

 

「はい。人気順じゃ、勝敗は分かりません。期待をどれだけかけられても、それに応えられるかはわかりません。期待はあくまで期待で、薄い氷のようなもの。それで全ては決まらない」

「なるほど。それでも、君は」

「そうですね。それでも私は、期待に応えたいです。期待が不安定なものだからこそ、応えたいんです。だってそうしなければ、期待が無意味になってしまうから」

 

 形がどうあれ。結果がどうあれ。私は、期待に応えたい。人を支えていたつもりなのに、いつの間にか自分も支えられるようになっていた。期待をかけられるようになっていた。だから私にできることは、みんなの期待は無責任なものじゃないって証明することだ。

 

「みんなが支えてくれている。私のために頑張りを割いてくれている。だから私はそれを肯定するために、勝ちます。努力は必ず報われるのが、チーム<アルビレオ>ですから」

「なるほど、それが君のチームの絆か、トップロードさん」

「はい。チームのためにも、勝ちます」

 

 そして、そのチームに居る一人の憧れのためにも。そう、告げた。

 雨はまだまだすだれのように降り続け、互いの勝負服はびしょびしょだ。それでももちろん、この場から立ち去るなんてあり得ない。私たちは戦うためにこの場所にいる。そして、そこから何かを掴むために。

 

「チーム、か。それならボクがチーム<リギル>に入ったことも知っているかな」

「はい。学園最強って言われてるチームですよね」

「そうとも。一筋縄ではいかなかったけどね。<リギル>に入れるような才能があるのかって、トレーナー君にも言われたよ。君が期待される側なら、ボクは期待されない側だからね」

「……それは」

 

 初めて聞く、オペラオーちゃんの弱い言葉。けれどそれは儚く祈るものではなく、壮大な戯曲のイントロダクションに過ぎなくて。

 

「でも、ボクは実力で<リギル>のトレーナー君を認めさせた。<リギル>はボクを見出してくれた。それには、感謝しているのさ。観客がいなければ、どんな素晴らしいオペラも万雷の喝采を受けられないからね!」

「強いですね、オペラオーちゃんは。やっぱり、負けてられない」

「そうとも、ボクは強い。そのことをこの皐月賞で証明する。最強集団であるチーム<リギル>の大看板を背負うだけの力があると、この闘いで高らかに宣言するのさ」

「それがオペラオーちゃんの、チームとの絆ですか」

「そういうことだとも、トップロードさん。至ってシンプル。勝てばいい」

「はい。でも、負けませんよ」

「もちろん。その上で、ボクが勝つ」

 

 最後は互いに言葉をぶつけて、そうして会話は閉じられた。お互いの、チームのために。そしてもちろん、自分自身のために。そのために勝つ。それを、確かめた。

 ……まだ時間は残っていた。ゲート前の片隅に目をやると、一人空を見上げている人影があった。夜空色の勝負服、蜘蛛糸のように透き通って伸びる長髪。私はその人影に近付いて、いつものように声をかける。きっと、いつもとは違う時間になるだろうけど。

 

「こんにちは、アヤベさん」

「……こんにちは、トップロードさん」

「今日は、よろしくお願いしますねっ」

「ええ。よろしく」

 

 相変わらずぎこちない、いつかもっと仲良くなれるだろうか。とはいえぎこちなくとも、今日は伝えたい言葉があるのだから。

 

「アヤベさん。私の今日の目標の一つが、あなたです。一番人気、実力も才能も折り紙付き。でも今日私が勝つってことは、あなたにも勝つってことです」

「そうね。でも、勝つのは私。私は勝って、勝って、勝ち続けるの。そのためだけに、ここにいる」

「なるほど。結構強気な発言ですね」

「傲慢と言われようと構わない。それでもそれが、たった一つの私の願いなの」

「願い、ですか」

 

 願い。走ることが本能と呼ばれるウマ娘でも、それに更に想いを込めることはある。楽しい、嬉しい、悔しい。そんな気持ちがレースにはこもっている。それを形作る雛形が、願いというものなのだろう。

 ならば、それは私にだって。

 

「それなら、私にも願いがあります。勝利を捧げたい、相手が」

「……そう。捧げたい人が、いるのね」

「はい。その人は昔この皐月賞で、華々しい勝利を見せてくれました。夢を与えるウマ娘ってこういうことなんだって、初めて私にそう思わせてくれました」

「それは、大切な人ね」

「……でも、その人は今苦しんでます。はっきりは見せてくれなくて、まるで闇の中であえぐみたいにたまにそれが見えます。理由は教えてくれません。優しい子だから。だから私にできるのは、夢を与えることくらいです」

 

 スカイちゃん。私の憧れ。その憧れの始まりにある皐月賞に、私は今立っている。今なら、あの時の恩返しができる。きっと、今の私なら。

 

「その人は、光を見つければそれを手に取れる人です。どれだけ悩みもがいても、立ち上がる方法を知っている人です。だから私は、その人に光を見せてあげたい。それが私の、願いです」

「……あなたも、自らの祈りを誰かに捧げるのね」

「あなたも、って、もしかしてアヤベさんも」

「いいえ、あなたと私は違う」

 

 私の言葉をあらかた聞き終えて、今までにないくらい理解を添わせてくれて。それでも最後に出てきたのは、境目を作る言葉だった。

 そのまま、彼女は話を続ける。断絶を垣間見、けれど私たちのうちに確かな同一性を感じさせる話を。

 

「あなたのまわりにはきっと、たくさんの人がいる。今話してくれた誰かも含めて、たくさんの人が」

「はい。きっと<アルビレオ>にいなきゃ、出会えなかった人たちです」

「あなたはその状況を選んだ。チームという、状況を。だから、私とは違う」

「……そうですね。やっぱり、違うかもしれません」

「でも」

 

 そこで一旦口を切って、朱みを帯びたその目がこちらを見据える。少しだけ、見上げられる格好だったから。紛れもなく私の眼を見ていたのだと、思う。

 

「でもそれは、あなたの繋がりは大事にした方がいい。きっと、ね」

 

 大事にした方がいい。その言葉はいつも通りそっけなく聞こえたはずなのに、何故だか心に沁み入った。多分、アヤベさんの本心から話してくれた言葉だからだと、思う。

 

「……はい、大事なものです。大事だから、私はそのために勝ちます。背負った期待も、届けたい夢も、私の居場所になってくれるチームのみんなも。みんな大事だから、そのために負けません」

「……そう。負けるつもりは、ないから」

 

 最後はそっけなくそう言って、アヤベさんはゲートに向かっていった。もうそろそろそんな時間かと思い、私もくるりと踵を返す。アヤベさんを、追いかけるように。いつか、並び立てるように。アヤベさんだけじゃない、オペラオーちゃんにだって。負けるつもりなんて、ない。

 準備は万全、気合も十分、そしてそれは誰しも同じ。だからレースに絶対はなく、だからそれは止めどなく人の心を震わせる。

 さあ、行こう。全てが美しい終わりを迎える、2,000m先のゴールへと。

 

 

「外からテイエム! 外からテイエム! 外からテイエムオペラオー! 大混戦となった皐月賞、大外一気に突き抜けたかテイエムオペラオー!」

 

 負けた。多分二分ほどしかないようなレースは、走っている間だけとても長いように感じられる。五感を研ぎ澄まし、全身全霊を尽くしているから。それでも終わってみればあっさり、一瞬だ。

 負けた。最後の最後、ぎりぎりで届かなかった。いや、正確には猛烈な勢いで追い抜かれた。私の末脚を遥かに超える、まさに豪脚とも言えるあの切れ味。あれが、テイエムオペラオー。有言実行、期待では測れない実力を見せるということを、オペラオーちゃんはやってのけた。私はあと一歩の三着。十分、立派な結果だ。胸を張れる、だろう。だけどクビ差ハナ差のその三着は、絶対に覆せない差でもある。

 負けた。私の皐月賞は、終わった。期待を背負い、夢を抱いて。チームの皆に、スカイちゃんに、勝利した姿を見せたかったのに。

 

「くっそおおぉぉぉおおぉ!!!」

 

 思いっきり、叫んだ。膝だけを地面について、吠えるように全身で。突き動かされるように、叫んでしまっていた。全部全部、今日のためにあったもの全部を吐き出して、叫んだ。叫び終わったら、心にぽっかりと穴が空いた。がらんどうで何もない、なんでも詰め込める大きな穴だ。

 そこにはすぐに、別のものが入ってきた。

 

「トップロードさん、よく頑張ったー!」

「次のレースも、期待してるぞー!」

 

 私を讃える、声だった。一番じゃなかったのに。負けてしまったのに。それでも期待してくれる、みんなの声だった。私は負けてしまった。期待に応えられなかった。だけど、次がある。全てが終わったなら、その後に始まりがやってくる。そう思わせてくれる、声だった。

 そして、私を支えてくれるその声の中に。

 チームのみんなの、声が聞こえた。

 

「次こそ勝つ! そのために特訓だ、トップロード!」

 

 そんなふうに、元気いっぱいのトレーナーさん。

 

「トップロード先輩、お疲れ様でした。貴女の道はまだ、続きます」

 

 そんなふうに、普段とは打って変わって優しい言葉をかけてくれるキングちゃん。

 

「トップロードさん、ありがとうございます。いいレース、見せてもらいました」

 

 そしてそんなふうに、私のメッセージを受け取ってくれたスカイちゃん。

 他にもチームのみんなが、さまざまの言葉を私にかけてくれる。一緒にこの結果を、噛み締めてくれる。

 負けた。けれど、それで全ては終わらない。一人になんか、ならない。みんながいるから、私は終わりの先へ進める。それならば、前に進もう。たとえそれが、どれほど苦しい道であっても、だ。

 頂点への旅路は、未だ麓すら見遣ること能わず。果てしなく遠い道のりは、世界の果てまで続くかもしれない。

 されど終末の時もまた、未だ黙示録の喇叭は一つとして鳴らず。世界の果てまで行かねばならないとしても、世界が終わらなければ辿り着けるのだ。

 それに、もしも。もしも恐怖の大王が空から来たりて、世界を暗黒に染め上げたとしても。世界が終わってしまったとしても、それでも走り続ければいい。どうしようもない苦難が待っていても、諦めず走り続ければいい。一度全てが終わってしまったとしても、必ず人は立ち直れるのだから。

 少なくとも、私にはそれができる。それだけ期待される才覚があるからこそ、声援を受けられるからこそ走れるというのもあるけれど。なによりも、私には仲間がいるから。チーム<アルビレオ>という、かけがえのない仲間が。助けてくれて、支えてくれて。それを互いに繋ぎ止め合える、最高の仲間がいるんだから。

 だから、私は終わらない。そして仲間が苦しんでいる時、その時は必ず助けるんだ。あなたが決して、終わってしまわないように。

 だって私は、チーム<アルビレオ>のリーダーなんだから。

 あなたの、仲間なんだから。




感想評価、是非よろしくお願いします。
本当に励みになります。
次章、「セイウンスカイと正論男」について
プロットを組んでくるので、少し更新お待たせしてしまうかもしれません
ただ、絶対にいいものになるよう努力します
起承転結の「結」の部分、今まで長く読んできてくださった方がここまで読んで良かった、と
そう思えるようにしたいと思っています
どうか、ご期待ください


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最終章 セイウンスカイと正論男
おわりの気持ち


 月より暗い電灯が部屋を照らしていた。部屋の空気は時間の経った湯船のように生ぬるい温度が包んでいた。そんな空気を作る暖房がせっせかと健気に動く音と、時計の針の音が嫌に大きく聞こえた。ぶおん、ぶおん。かっち、こっち、かっち、こっち。それらが大きく聞こえる理由は簡単で、誰も口を開かなかったから。私が投げかけた言葉の先に、波紋がまだ浮かび上がってきていないから。

 私が作った状況だった。二人の間隔は近く、けれど確かに距離を取って。私とトレーナーさんは、立ちすくんだままだった。

 

「だから、ここまでにしませんか」

 

 私はそう、あなたに問いかけた。提案であり、諦観であり。それでもあなたに許しを求めた。

 

「もう私は、走れません」

 

 そして、一方的に突き放した。断言であり、断絶であり。それでもあなたに返答を求めた。

 私は大人になった。結局やはり、諦めることで。それでも大人になって、世界の見え方は変わってしまった。だけど大人になるのなら、そのための儀式が必要だ。これまで子供の私を見守ってきてくれたあなたに承諾を得ねばならない。大人になってもいいよ、と。もう走らなくてもいい、と。

 それは残酷な言葉だ。それは全てを否定する言葉だ。でも、私はそうしてほしいのだ。もう、走るのは怖くなってしまった。そんな私を抱き止めてでも、立ち止まらせてほしいのだ。

 まだ、鉛のような沈黙は続く。それだけトレーナーさんは悩んでくれている。私のために、悩んでくれている。それは嬉しい。それはきっと得難いことだ。私のトレーナーが、この人でよかった。今まで一緒にいれてよかった。

 だから、それくらいあなたのことを、大事に大事に思うから。

 

「……スカイ」

「なんですか、トレーナーさん」

 

 そんなあなたが、私のことを赦してよ。

 沈黙は破られる。もう空は堕ちている。これから慌てふためいたところで、きっと全てが手遅れだ。このやりとりも通過儀礼。結論は決まっている。そしてきっと、トレーナーさんもそれをわかっている。

 だってあなたはこれまで何度も、私のことをわかってくれたのだから。

 そう思っていた。信じていた。無根拠だとしても、それが信頼だと思っていた。どこにも拠り所がないからこそ、互いの存在を拠り所にできるのだと思っていた。

 そう、思っていたのに。

 

「考え直せ、スカイ。君は、まだ走れる」

 

 私は最後の救い手に、裏切られた。

 

「君はまだ走れるんだ。ここで終わりなわけがない」

 

 そこで私が抱いた感情は、失望だっただろうか。理解されない、その程度の関係だったという失望。

 

「俺は君に言った。君は『走る』ウマ娘だと。その気持ちは変わっていない。当たり前だろう」

 

 そこで私が抱いた感情は、悲嘆だっただろうか。どこにも私は救われない、報われないという悲嘆。

 

「今日の結果は残念だった。それはもちろん重く受け止めなければいけない。健闘したなんて言葉で収めるつもりはない。君はもっと走れると、俺は知っているから」

 

 違う。

 

「……何が」

 

 切ない終わりを絞り出すように、絶え間ない幕引きを溢れさせるように。私は震える声で、しかしはっきりとその言葉に答える。

 違う、違う。絶対に、違う。

 

「あなたに私の、何がわかるって言うんですか!」

 

 そこで私が抱いた感情は、そのどちらとも違う。失望よりもどす黒く、悲嘆よりも痛みを伴う。

 そこで私が抱いた感情は、憤怒だった。わかってくれないこと。求めたものが返ってこないこと。それらの無理解に対する、きっと自分のための怒りだった。そこで己をマイナスに奮起させてしまうのは、紛れもなく私のエゴイズム。ああ、よくない大人になってしまった。私はきっと、あなたのようにはなれないのだ。人のことを想える、立派で綺麗な大人には。

 でも、それでいい。もうそんなもの、私には要らない。私はもう、どうなってもいい。

 

「あなたは今日走ったんですか。今までずっと走ってきたんですか。私が肌身で感じたものを、あなたに理解できるんですか」

 

 これ以上ないくらい、突き放す。ウマ娘とトレーナーの絶対的な差。どうやっても、走る感覚はウマ娘にしか得られない。それに憧れてくれているのはわかっているのに。自分では得られないと分かっていても支えてくれたのはわかっているのに。

 わかっているから、私はそれを断絶の言葉に選ぶ。理解は側に寄り添うこと、けれど決して同じにはなれない。だから突き放すのは、この上なく簡単だ。横にいるのを、止めるだけ。

 

「もう無理なんです、私がそれをわかったんです。私の限界は、私が一番よくわかります。これが大舞台で残せる最高の成績。立派じゃないですか、十分じゃないですか」

 

 けれど。崩れ去る限界まで言葉を重ねても、私にはまだ言えない言葉があった。怒りに任せたふりをして、本心は隠していた。漏れ出てしまうとしても、必死に。それを零してしまったら、もうどうなってしまうかわからないから。

 

「ここまでなんですよ、私は」

 

 だから。だから、励ましや慰めじゃなくて。

 だから私はあなたに、褒めて欲しかった。

 ここまで頑張ったことを、認めて欲しかったんだ。

 結局、私は子供なのかもしれない。駄々をこねて、言いたいことは言わなくて。この期に及んで褒められたいなんて、子供の願いを抱えたままで。ならばあなたが大人になる儀式を認めてくれないのも、当然かもしれない。やっぱり当然のように、私の方が悪いのかもしれない。

 それでも、それは耐えられないのだ。

 自分の限界を見せた、全力を出し切った。それでもあなたがその先を、私には届かない先を求めるのなら。

 私は、褒めてもらえないじゃないか。あなたの期待の先には、失望しか残っていないじゃないか。それは嫌だ。それは、残酷すぎやしないか。たとえあなたの手を振り払い突き放し絶縁状を叩きつける行為だとしても、私はそれは嫌なんだよ。

 だから。

 

「だから、これきりです。私はあなたの期待には、応えられません」

「スカイ。そんなことはない」

 

 まだ、まだあなたはこちらに手を伸ばしてくるのか。もう嬉しくない。もう鬱陶しいだけ。きっと、きっとそうなってしまったのに。

 

「だから、あなたに私の何がわかるんですか。私はここで限界なんです。あなたの見立てが間違ってたんです。私が『走る』なんて」

 

 喉が掠れる。目頭が熱くなる。けれど、それは表には出さない。仮面を被るのには慣れている、トリックスター最後の仕事だ。

 

「私の、トレーナーさん。あなたは、私の才能を見抜けなかった。そのくせここまで走らせて、限界を訴えているのにまだ走らせようとする。どうですか? そんなの、トレーナー失格じゃないですか?」

「……そうだとしても」

「まあ、それはどうでもいいことです。それに多分、トレーナーさんは良くやりました。才能のない私がクラシック二冠なんて取れたのは、多分トレーナーさんのおかげです。あなたには才能があります。才能がないのは、私の方です」

 

 訣別には、言葉を交わさねばならない。もう会いたくないと思いながら、会って目を見て話さねばならない。そのまだ諦めてないって感じの黒々した瞳を。暑苦しいまま萎れてくれないその濃くて太い眉を。私はそれを両の目で見据えたまま、あなたに別れを告げなければならない。辛い仕事だ。それでもあなたがやってくれないのなら、私がやるしかないだろう。

 

「間違ってたんです。ぜーんぶ、間違ってたんです。これまでの全てが、間違ってたんです。トレーナーさんはもっと才能のある子を指導した方がよかったし、私はもっとほどほどの夢を見た方がよかった。あなたには役不足で、私には不相応。だから、今からでも」

 

 ようやく、私は手を差し伸べる。けれどそれは身体の動きだけで、込められた意志は明確な拒絶。これをあなたが手に取れば、本当に全てが終わる。

 

「今からでも、終わりにしましょう」

 

 お願い、だから。

 けれど、なのに。そこまで、縋ったのに。

 先程よりも強い語気で。空気が震えそうなくらいの大声を出して。あなたは私の言葉を、真正面から否定する。

 私を、否定する。

 

「いいや、それは駄目だ。絶対に、駄目だ!」

「どうして、ですか。あなたに私の何がわかるわけでもないのに」

「わかる。これまでずっとスカイを見てきた分は、少なくともわかる。俺は君のことを、よく知っているつもりだ」

「その言葉に、何の根拠があるんですか」

「根拠は今までの時間だ。ジュニアからクラシック、シニアまで。君を見てきたつもりだ。だから俺は、その上で信じている。君は『走る』と」

 

 どうして。どうしてなの。どうして。

 

「だから、スカイ。絶対に、諦めるな!」

「……本当に、あなたは」

 

 どうして、わかってくれないの。

 ゆらり、ゆらり。立ち止まっていた身体を、壊れた人形のようにぎこちなく動かす。あなたの方へ。こんなに近寄ることは今まであっただろうか。約数センチのところまで、歩幅を埋めてあなたに近寄る。耳の先よりも更に上、首を曲げないと見えないあなたの顔を見上げる。やっぱり、あなたは私より大人だ。

 でも、違うんだ。あなたはまだわかってくれないけれど、もう違うんだ。

 私も、大人になってしまったんだ。

 

「……スカイ」

「諦めるな、ですか。前もトレーナーさんはたびたび、私にそう言ってくれました。そして私は多分、その言葉に救われていました。前の、私は」

 

 前の私は。子供の、私は。

 

「でも、もう変わっちゃったんですよ。今までの私をあなたがどれだけ知っていても、それは子供の私です。あなたのよく知るセイウンスカイは、かつての私です」

「君は今でも、セイウンスカイだろう」

「そうかもしれません。きっとそうでしょう。でも、人は変わるものです。成長するものです。大人になるものです。のんびりしてるくせに、頑張る時は頑張っちゃって。根性論なんか嫌いだったくせに、いつの間にか染み着いちゃって。そんな私はもう、いなくなっちゃったんですよ」

「そんなことはない、君は」

「そんなことは、あるんですよ」

 

 少し苛立ち混じりに、相手の言葉を言葉で潰す。対話の拒否。また少しずつ、離れていく。きっと、今までが近づきすぎていただけなのだろうけど。今だって身体の距離だけは、これ以上ないくらい近くにある。緩めの長袖のシャツと、ぼろぼろになった後の勝負服。二人の間にある服装の違いも、素敵な噛み合いにさえ思えるけど。

 

「私には、わかったんです。わかったから大人になって、大人になったからわかったんです。自分はここまで。ここが、絶頂。潮時。だから、ここで諦めたほうがいい。大人になったから、諦めがつくんです。今まであなたの言葉で励まされていた私とは違います」

 

 けれど、ここまでなんだ。どうしようもない才能という現実が、私の空を堕としてしまったから。

 

「トレーナーさんが私に諦めるなって言えるのは、私が子供だったからです。あなたが知っている子供の私は消えて、今はもう大人の私です。大人の私は、諦めることを肯定できてしまいます。他の大人の理屈に乗らず、自分で判断できてしまいます。だから、あなたの言葉は届きません。もうずっと、響いてきません」

「……そうだと、しても!」

「いい加減にしてください!」

 

 二人の声の残響が、強く痛く耳に残る。言葉は最早交わされず、ぶつけて相手に傷を作るだけ。ならきっと、もうすぐ終わり。

 絞り切ったと思っていた言葉は、再び腹の底から湧き出てくるようだった。底なしの、沼のように。湧き出る汚泥は、全てを沈める。

 

「私が、私のことを一番よくわかっています。そんなの当たり前じゃないですか、トレーナーさんだってわかってるでしょう。私はここまで、これはもう動かせない事実なんです」

 

 傷を作るために紡がれる言葉は、自分にとっても痛かった。それでも止まらなくて、私はゼロ距離で諸刃のナイフを刺し続けていた。

 

「なのに。私はもう終わりだって言ってるのに、それでもトレーナーさんは私を走らせたいんですか。それは本当に私のためですか? もうどこにもいなくなった、昔の私を追い求めてるだけじゃないですか?」

 

 返される言葉はない。ならば、これで終いだ。ようやく無益な会話が終わる。無益な関係が、終わる。

 

「それは、あなたのエゴ。私のための言葉なんかじゃない。私は私のことを考えてくれないトレーナーなんか要らない。必要ない」

 

 一歩、後ろに踵を引いて。その顔がどんなに苦しそうな表情をしているか、それもしっかりとこの目で見て。歪む口元も、揺れる瞳も。流れる汗の一筋まで、私はあなたのことを見ていた。

 

「出てって。もう、顔も見たくない」

 

 最後に見るあなたの顔は、それになってしまうのか。けれどそれを悲しむ資格は私にはない。何も言わずに顔を伏せ、まっすぐに私の横を通り過ぎて。がちゃりとドアを閉める時、「すまない」と小さな声が聞こえた。それでも、振り向かなかった。

 

 

 夕日より眩い電灯が部屋を照らしていた。部屋の暖房は効きすぎているくらいなのに、人一人減った分涼しく感じられた気がした。独りのぶん、暖房の音と時計の音もより大きく感じられる気がした。けれどそれらが変わったわけじゃない。変わったのは、独りになったことだけだ。

 あれから小一時間が経ったけれど、私はそこを動けないままだった。ドアが閉じられてすぐ、その場にへたり込んでしまったから。

 勝負服はくしゃくしゃになっていた。私の気持ちと同じだった。今日で着るのは最後になるのだろうと思うと、やっぱりなかなか着替える気にはなれなかった。だけどそれ以上に、心に空いた穴が私に何もさせないでいた。初めての経験。終わりを告げることがこんなにも、こんなにも辛いだなんて。

 私はあなたを拒絶した。そして歯向かう言葉さえ言いくるめて、あなたを完全に打ち負かした。「すまない」と、謝罪の言葉を引き出してしまった。私は、あなたを説き伏せてしまった。

 下劣な方法だったと思う。差し伸べられた手を振り払えば、傷付けるのは簡単だ。信じてくれる気持ちを蔑ろにすれば、踏み躙るのはいとも容易い。本当に、反吐が出そうなほど酷いやり方だ。そういう言葉を使って、私はそれでもあなたの言葉を討ってしまった。

 だから、私は。大人のあなたを真正面から倒せてしまった、私は。

 きっとやっぱり、大人になってしまったのだろう。あなたのような、素敵で優しい大人にはなれなかったけど。それもきっと才能だ。私は人に優しくするのに向いていないのだろう。いつの間にか好いてしまったその行為を、大人の私は向いてないのだと捨てていく。

 走ることも、語らうことも。何もかもを諦める、それが私が大人になるということだ。そうして、完成する。そうして、天頂に手が届いてしまう。これから先は、私にはない。幼年期が終わった後、更なる段階へ進めるのは限られた人だけなのだろう。私はそれではなかった、それだけなのだろう。

 私の成長は、諦めと共にあった。あの日幼い私は、諦めることで成長できた。回り道を回り道と理解し、今までの私を捨てることで。そして、今の私もまたそうしている。長い長いトゥインクル・シリーズにどれほどの価値を感じながらも、それが回り道だったと理解できた。だから、諦めるのだ。期待されたい、仲間と走りたい、褒められたい。そんな子供の私の願いは、全部、全部、全部。

 全部今の私によって、名前のないゴミ箱に捨てられた。全部まとめて、諦めた。だから私は、今ここにいる。だからこれは私にとって、必要な対価。

 いつか願った、大人になりたいという願いに。

 私は、たどり着いたのだ。

 

 




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変化と苦悩、そして変わってしまったものたち

 独りぼっちの控え室から出ていくのには、なかなかの時間がかかってしまった。理由は大きく分けて二つあるけれど、どちらも情けない愚か者の言い訳だ。今の私にお似合いの、最高に私らしい逃げ方だ。

 外に出るのが怖かった。あれだけこっぴどくトレーナーさんを拒絶しておきながら、もし待っていたらどうしよう、と思ってしまった。応援に来てくれたチームの皆をどうせ待っているだろう、と気づくのには少し時間がかかった。あの人は私だけのトレーナーではなく、チーム<アルビレオ>全員を支える大人なのだと気付くには。自分の視野の狭さに気づいて情けなくなって、それなら尚更外には出ていけないと思ってしまって。

 トレーナーさんは私のことを言わないだろう。そしてチームのみんなはそこから何かを察するとしても、触れはしないだろう。私が姿を現さない限り。だから、出ていけなかった。皆を困らせないために、出ていけなかった。

 いや、正確には。正確にはそんな皆を見てしまった時に自分が耐えられないのが嫌で、出ていけなかった。外は広い。生まれたばかりの大人には知らないものがたくさんある。私はそんな未知に触れるのが、怖い。今の私がどんな感情を持ってしまうのかが、怖い。

 そういう理由で、出ていけなかった。外に出て見知った顔を見つけて、もしかしたら駆け寄られて。それを大人の私は、受け止められなくて。そして、そのまま。そのまま、どうにもならなくて。寂しくなるのが、怖かったから。だから逃げている。それが今の私だ。弱くて情けなくて、でも誰にも頼れない。大人の、私だった。

 そして、理由はもう一つ。こっちはもっと、くだらない。過ぎ去った愛おしさを悔やむ資格もないと知りながら、それでも無為に時間を過ごす。救いようのない、愚か者の理由だ。

 あの後。トレーナーさんを拒絶した、あの後。あの後なんとか床から立ち上がって、私は着替えることにした。理由は当たり前のことで、そうしないと帰れないから。帰りたいなんて本当に思っていたかは、わからないけれど。

 そうして私は、控室の隅にある更衣室に入った。人一人しか入れないくらい狭くて、入り口にはカーテンが敷けるようになってあって。中には鏡が置いてある、どこにでもある更衣室だ。今までレースに出る度、何度も入った場所の一つだ。これも今日で終わりなのだと思うと、胸の奥で何かが蠢く感覚があったけど。私はそれを無視する。

 だってもう、私は大人だったから。

 一人きりの部屋だったけど、更衣室のカーテンは閉めた。いつもそうしていたから。たまにトレーナーさんや他のチームの皆がいる中で平然と着替えていたから、そんなふうなのが当たり前だったから。だから自然とそうしてしまった。もう、そうじゃないのに。

 汗だくの靴下を脱ぐ。ワンポイントのガーターリングを外す。すっかりくたびれた緑色のショートパンツを脱いで、ふう、と一息を吐く。何だかまた一つの儀式をしているような気分だった。さっきトレーナーさんに断絶を告げたのと、同じような。これもきっと、別れの儀式。今までお世話になった勝負服への、ありがとうとさようなら。自分は酷い人間だと思った。物言わぬ相手には何でも言えてしまう。あなたにはありがとうなんて、一言も言わなかったのに。

 

「……ごめんね」

 

 そう言って、スカートの裾まで腕を交差させた。棒っきれのような、何の価値もない腕だった。そのままぐるり、と服をひっくり返すと、鏡には肌色の肢体が映った。薄くて平べったいお腹のあたりにも、その下にはしっかり筋肉がついているのが見てとれた。鍛え上げられていて、何度も勝利を重ねて。けれどもう、何の価値もない。そんな身体だった。

 どんなに謝っても、無機物たる服から許す言葉は返ってこない。だから、言えたのかもしれない。つくづく私は卑怯者だ。そう思うことしかできなかった。

 そのまま、下着姿になって。早く服を着ればいいのに、私には鏡に映った自分の姿しか頭になかった。勝負服を脱いでしまえば、私はこんなにも貧相で、ちっぽけで。何にも持っていない。大切なものは捨ててしまった。大人になるために、そうしてしまった。大人になったからって前に進めるわけじゃないのに。それでも痛みから逃げるため、私はその道を選んでしまった。

 伸びているだけの脚、細くて折れそうな二の腕、弱さが剥き出しの丸い肩。そのどれにも、価値はない。周りに何もない私は、こんなにも弱い。勝負服を脱いで、周りの人も追い出して。これからの私は、ずっと弱いまま生きていくのだろう。弱さを隠せるだけの、それだけの役割を果たす薄い布を纏って。そういう服を、勝負服の代わりに身につけた。鏡越しの私自身だけが、弱い私を見つめていた。それを隠す瞬間まで、はっきりと。

 勝負服に、自然と目が落ちる。思い返せばこの勝負服は、私のトレーナーさんがデザインを考えてくれたものだった。私のために、あなたが願ったものだった。その想いが全て、込められたものだった。だから私は、今までこれを着て走ってきたのだ。あなたのために、走ってきたのだ。あなたに、この姿を見せるために。あの皐月賞の時から、ずっとそうだった。

 だけど、そうではなくなる。いや、もうそうではなくなった。終わってしまった。変わってしまった。だから、この勝負服も必要ない。……ここに置いていってしまうことも、可能だろう。もう着る機会はない。何の問題もない。そうだ、そうするべきだ。私はあなたを否定したのだから、その願いの結晶は私が持つにはふさわしくない。これは私の服だったけど、あなたのためのものでもあったのだから。

 そんなふうに勝負服を、ただずっと眺めていたこと。かつて私だったものを、変わってしまった瞳で見遣っていたこと。過ぎた時間に別れを告げられず、ただ停滞する足踏みで踏み躙っていたこと。それがもう一つの、私が出ていけなかった理由だった。愚かでどうしようもない、理由だった。

 けれど、その時は訪れる。きっかけはなんだったかわからない。飽きたのか、諦めたのか。ある瞬間に前触れもなく、糸が切れたように手のひらの力は抜けた。固く握りしめてしまっていた手を離すと、ぱさりと勝負服が地面に落ちる。私の手から離れる。本当に、私のものじゃなくなる。そして。

 そして、私は。

 

 

 すっかり陽の落ちた外の空を見つめながら、私は吊り革にぶら下がって電車に揺られていた。びくびくしながら外に出て、トレーナーさんの車がそこになかった時。ほっとしたのと同時に、胸の奥がずきりと痛んだのを覚えている。その気持ちは一体、何様なのか。そう己に怒りを覚えたことも、忘れていない。

 鞄の中の荷物は、行きと一つも変わらなかった。私は結局、勝負服を持って帰ってきてしまっていた。多分、これも逃げなのだと思う。大切だからとか、やっぱり頑張りたいからとかじゃない。切り離す勇気を持てない、弱い大人というだけだ。

 ガコンガコンと電車が揺れる。けれど揺れる音自体は少しも聞こえなくて、代わりに耳に入るのは人々の会話。疲れたとか飲みに行かないかとか、会社帰りの大人の会話。そう、今は大人の時間なのだろう。私が今まで触れられなかった、マジックタイムの後の後。夜を生きる人たちの会話は、それはそれで賑やかに聞こえたけれど。私はそれにも溶け込めない。大人になったのに、子供を惜しんでしまっているから。捨てられなかった勝負服が、その証明だった。

 

「あっ、あれセイウンスカイじゃないか」

 

 ふと、そんな声が聞こえた。こんな人混みの中からでも、目ざとく私を見つける声。きっとそれは、ファンの声。本来なら振り返って、挨拶でもするべきなのだろう。今までだって照れ臭くても、そうしてきたはずだった。だってその声は、期待の表れだったから。

 

(……ごめんなさい)

 

 でも、私は振り向かない。また心の中で、聞こえない中でなら謝罪ができた。ごめんなさい、私はもう私じゃないから。あなたが呼びかけたセイウンスカイとは、私はもう関係のない人間だから。

 トゥインクル・シリーズをひたむきに走っていたセイウンスカイは、私が消し去ってしまったのだから。諦めさせて、しまったのだから。

 だから。

 だから、ごめんなさい。

 そんな声にならない声が、頭の中で反響していた。ごった返す電車の中でも、私の声は誰にも届かなかった。

 

「……ただいま」

 

 そうして、帰ってきた。いつもの場所、一人きりの寮の部屋。そんな誰もいない空間に、帰宅を伝えるのも含めて何一つ変わらず。大人になったのなら、帰る場所さえ変えてもよかったのかもしれないけど。やっぱりその勇気も出なくて、私はここに帰ってきた。門限という子供の掟を、素直に守ってしまっていた。

 まずはさっさと服を脱いでシャワーを浴びた。疲れた身体を癒すためでもあり、何でもいいから温もりが欲しかったからでもあった。耳の先っぽから足の指先まで、全身の肌に染み付いた今日のことを洗い流そうとした。共同浴場に行く元気はなかった。もう限界だったから。何もかもが、限界だったから。

 だから多分、眠かった。早く意識を手放したいと思った。眠ったら全て変わるような気がした。今日のこれが夢でいいのになんて、そうは思わないけれど。天皇賞(春)は、立派なレースだった。私一人のエゴでそれをなかったことにしたいなんて思っちゃいけない。その後のことは全て、私一人の問題でしかない。

 だけど、眠りたかった。バスタオルだけを巻いた粗雑な格好で、間髪入れずにベッドに倒れ込む。びしょびしょの髪や身体が、涙の代わりに枕を濡らす。

 早く、眠りたかった。夢には出来なくても、過去にはしたかった。大人になったことが、当たり前だと思いたかった。まだ慣れなかった。早く慣れてしまいたかった。戻りたいとは思わなかった。思えなかった。思っていいわけが、なかった。

 けれど、そうやって考えるほどに目は冴えて。深夜一時に冷え切ったバスタオル一枚だけの私の姿は、どうしようもなく滑稽だった。まあ、服を着るのは明日の朝でいいだろう。眠るのも、明日の朝でいいだろう。だって、明日からは新しい毎日が始まるのだから。学校に行く気力も理由もどこかに消え失せた、新しい毎日が始まるのだから。

 だから、それでいいや。これも、諦めよう。

 夜が明けるまで、一人で凍えていた。

 

 

 朝焼けより先に眠りにつけた。目が覚めれば太陽は1番上まで昇っていた。朝ご飯も昼ご飯も、トレセン学園の授業も何もかもを捨て去っていた。一日が始まった感覚は、綿のようにふわふわとして捉えきれなかった。多分、これも大人なのだろう。私が今までやってきたままごととは違う、本当の意味で時間に縛られない生活だ。

 けれど、それでもそれほど世界は変わらないのだろう。私が学校をサボる理由が普段と違うからって、それが誰かに見えるわけじゃない。放課後に練習に向かわないのだって、昔はたまにやっていたことだった。だから見た目の上では、やっぱり私はセイウンスカイのままだ。それはきっと他人を安心させ、私にとっても逃げ道になる。本当は逃げてはいけないから、これも良くないことなのかもしれないけれど。

 もう、<アルビレオ>に戻るつもりはなかった。数日すればただのサボりじゃないと気付かれるかもしれないし、そうすればキングやトップロードさんが動くかもしれないけど。それでも、戻るつもりはなかった。

 私は、トレーナーさんなど必要ないと言ったのだから。もう走る意味などどこにもないと、そうあなたに告げたのだから。どれほど意志を通わせようと、どれほど心を重ねようと。そこにある信頼は、担当ウマ娘とトレーナーとしての関係だ。それは走る理由がないのなら、続ける理由のない関係だ。

 チームとは、そういう場所だから。そう思えなくなった時点で、私の居場所ではなくなるのだ。大人の私の、居場所では。

 

「はぁ……」

 

 またため息を吐いた空間は、相変わらず一人で薄暗かった。流石に着替えた。でも寝巻きだった。外に出る気力もなかった。すぐに昼間は終わって午後になった。何もない時間は酷く長く感じられるのに、一方で瞬く間に過ぎ去っていった。楽しい時間とは、真逆だ。

 これまでの時間は、きっと楽しかった。あの入学式の日、トレーナーさんが私を見つけてくれて。大げさだけど、そこから全ては始まった。そしてトップロードさんに連れられてチームに入って、いつしかレースに出たいと思うようになって。もちろん楽しい思い出だけじゃなくて、苦い思い出もある。あの日私に脱退届を渡したあの子。……あの子には、悪いことをした。

 

「セイウンスカイさんには、頑張り続けて欲しいです」

 

 そう言われたあの日の約束を、私は守れなかったわけだから。ごめんなさい、とまた言葉にせず謝る。言葉に出来ないのは、私が大人になってしまったからだった。

 皐月賞までで、<デネブ>と<アルビレオ>で一悶着あって。結局それは私の取り越し苦労で、次はダービーまで頑張って。ダービーから菊花賞にかけては、キングと随分話をした。高め合うライバルの存在を意識して、それがとっても嬉しくて。そんなふうに、過去の出来事を並べていく。精算するために。別れを告げるために。なぜならそれはもう、私のものではないのだから。

 有マ記念では、一番人気に応えられなかった。あれはもちろんグラスちゃんがすごかったのだけど、思えばその時点で私のピークは過ぎていたのだろう。だから、こうなった。不調の原因が単なる衰えだとは、流石のグラスちゃんにもわからなかったみたいだけど。でもそれは仕方ないことだ。だってグラスちゃんは、その先がある側の人なのだから。

 そして、私の最後のレース。天皇賞(春)。スズカさんの幻影を追いかけるスペちゃんに、私は負けた。そんな致命的な穴を抱えながら、私のことなんか見ていなくても。それでも強い者は強いのだと、その時はっきりわかった。だから、わたしはここまでなのだと。これから先走っても、大舞台で日の目を見ることなどないのだと。

 スペちゃんの誤りを正してあげられなかったのは、今でも少し残念だけど。それは敗者には与えられない権利だと、私はよく知っているから。走ることを諦めた者には二度とない資格だと、痛いほどよくわかっているから。

 だから、それも過去にしよう。噛み締めて、飲み込んで。飲み込めないなら、吐き捨てて。そうして、私は大人になる。そう、そうやって決めたはずなのだから。

 なのに、どうして。

 

(どうして、こんなに)

 

 どうして湧き立つ思い出は、それを楽しいと思わせてしまうのだろう。こんなにも、愛おしく。そんな身勝手な切なさを、尊んでしまうのだろう。それでもやっぱり私は、どうしようもなく変わってしまったのに。

 もう、何もしたくない。こんなに苦しいなら、進むのも戻るのも嫌だった。大切だった過去のことを考えても、先のない未来のことを考えても、どんな思考も私を優しく締め上げる。息の根が止まるまで、抱き締めるように締め上げてくる。もう、何も考えたくない。

 動きたくない。身体も、頭も。のんびり散歩なんてまっぴらだし、作戦会議なんてうんざりだ。今この瞬間こんなことを考えるのだって、絶え間ない苦しみが私を襲い続けている。

 何もなくなればいいのに、と思った。私という存在が消えてなくなればいいのに、と思った。こんなに苦しいなら、生きているだけで辛いなら。そしてその理由も見えてこなくて、気持ちを掘るたびに苦しさは増していって。終いには悩むことそのものに悩み、思考回路もわからなくなって。そんな状況は、泣き出しそうなくらい辛いものだったけど。

 やっぱり、涙は出なかった。

 やっぱり私は、大人だったから。

 部屋の片隅、ベッドの横。そこに一人で、うずくまっているだけだった。

 そのままの状況が永遠なら、消えてなくなれるだろうかと思った。それならそれでいいかもしれないと思った。食欲がないのも何もやる気がしないのも、そうすれば肯定できる気がした。

 そうやって、なんとか自分なりの光明を見つけて。それに全てを捧げんとする、その寸前だった。

 

「スカイさん、いるかしら」

 

 こんこんと、この部屋のドアをノックする音がする。

 

「スカイちゃん、いますか」

 

 見知った、聞き馴染んだ、親しかった、そんな二人の声がする。私を呼ぶ、声がする。

 

(……ねえ、どうして)

 

 声にはならない。その問いは弱音だから、声には出来ない。

 

(どうして、私なんかを)

 

 それでも、確かにそう思ってしまう。だからこれから私が述べる言葉は、全てそれの裏返しだ。

 喉は枯れてないだろうか。声は震えないだろうか。そんな恐怖を振り払い、私はドアの先に言葉を返す。

 

「帰りなよ、お二人さん」

 

 私に出来るのは、心無い拒絶だけなのだから。

 扉は、固く閉じられている。



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ラスト・アンド・ロスト・コンタクト

 きっと、言葉に色はない。どんなに単純なワンフレーズでも、どんなに浮ついたレトリックでも。いかに賛辞や侮蔑の意味が含まれていようと、それ自体には色はない。辞書をいくら眺めても人の心が揺さぶられないのはそういうことで、言葉というものは底の底まで透明だ。

 しかし、言葉には色が付いている。一見矛盾しているけれど理屈は単純で、言葉は人が使うものだから。言葉を口にした瞬間に、そこには想いという色が付く。だから賛辞には賛辞の色が付くし、侮蔑には侮蔑の色が付く。そうして言葉というものは、人の心に訴えかけるものになる。取り返しのつかない傷をつけてさえしまえるようになるのだ。私が昨日、トレーナーさんにしたように。

 だから、言葉の色は想いに依る。たとえば賛辞の意味でも侮蔑の意図を込めるのならば、それは毒々しい色の言葉になる。むしろそうやって表層の意味と深層の意図が一致していない方が、より人を傷つける言葉になりうる。言葉に色はないけれど、色の付け方でそれぞれのかたちを持つものだから。その差が歪であればあるほど、棘は醜く捻れていくものだから。

 

「帰りなよ、お二人さん」

 

 そして、私の言葉はそういうものだった。気遣うように見せかけて、告げているのは拒絶と否定。キングとトップロードさんが伸ばしてきた手を、振り払って取らないという決意。覚悟、なんて言えるほど、格好のいいものではないけれど。それでも確かにそう決めていた。大人の私は、一人で全てを決めていた。私の末路に連れ添いなんていらない。断頭台へのレッドカーペットは、一人で登るものだから。

 

「今日授業に来なかったでしょう、貴女」

 

 決して開かれないドアの先から、聞き馴染んだキングヘイローの声が聞こえてくる。いつもの声、いつもの色。彼女はいたって平静に、何事も勿れと思って話しかけているのだ。それは私への配慮の形の一つ。寄り添おうとする言の葉、だ。

 

「まあね、でもそんなに珍しくないでしょ」

 

 そして、私はこう返す。会話は成立しているけれど、そこに込められた想いは違う。彼女の事勿れを是とし肯定する発言。彼女の配慮を無視し否定する発言。どちらにせよ共通して、本当に言いたいことは一つだけ。

 

「私のことなんか、放っておいて」

 

 この一つだけ。だけどそれを直接は言わない。そうではない言葉に、そういった色を付けて送りつける。ちぐはぐな言葉こそ酷く浅ましく穢らわしく、そしてそれこそが今の私にはふさわしいから。誰も頼れない、大人の私には。

 一寸の沈黙が入る。おそらく優しいお嬢様は、私の心無い一言にため息でも吐いているのだろう。仕方ないやつだ、などと。放っておけない、などと。まだ見捨てられない、などと。なら私に出来るのは、見切りをつけられるまで拒絶を重ねること。

 訣別とは、そういうことだから。私だけが、独りだった。

 

「最初から全部ほっぽり出して部屋に引きこもるのは、貴女にしてはかなり珍しいと思うわよ」

「そうかな。気分屋の気分が変わっただけじゃない?」

「いいえ、そうなのよ。少なくとも私の知るセイウンスカイは、滅多なことじゃ狭苦しいところには閉じこもらない。貴女が授業をサボるのは、もっと自由を求める時でしょう。それが褒められたこととは言わないけれどね」

 

 狭苦しい、か。確かに私が閉じこもっているこの部屋は、全てが閉じて開かれていない。そういえば狭いところは嫌いだったっけ。今は好き好んで閉じこもっているのに。けれどこれも変化、成長なのだろう。苦手だったものが苦手じゃなくなる、そんなのも大人になった証じゃないかと。だからそれは悪いことじゃない。自由を、求めなくなったのは。

 

「……まあキングがどう言おうと、私がサボり魔なのなんて、いつも通りと言えばいつも通りだし。多分そのうち元に戻るんじゃない? だって授業に出なさすぎたら、色んな人に怒られちゃうし。キングとか」

 

 そう他人事のように語ってしまうのは、きっと本当に他人だからなのだろう。いつもの私。今までの私。君たちが見ていた私は、もういない。今ここにいるのは、セイウンスカイという名前だけが一緒の別人だ。多分、本人が一番そう思っている。自分で言ったように元に戻ることなんて、きっと永遠にないのだと。出来の悪い子供の私は、大人の私が殺してしまったのだと。子供を殺める大人こそ、きっと一番出来が悪いのに。

 

「……貴女ねえ」

「まあでも、そういうことだから。心配してくれたのは結構だけど、大したことじゃないよ。ご苦労様、なんてね。そのうち、元に戻るよ」

 

 殺した子供の皮を被って。罪滅ぼしのために、大人の私は子供のふりをする必要があるのだろう。たとえば、今も。決して赦されない罪を濯ぐために。皆の大切な「セイウンスカイ」は、他ならぬ私が奪ってしまったのだから。

 また挟まる沈黙。ドアで区切られた会話はまばらだ。キャッチボールすら一苦労だし、実のところ私はしっかり投げ返してはいない。その度にあちらが新しいボールを投げてきて、必死に言葉の応酬に見せかけているだけ。わたしの言葉に付いている色は、拒絶なのだから。

 そして、また新しいボールが投げられる。新しい色が見える。それは私の心に揺さぶりをかけ、私は必死に私を守る。大人の私は、弱くて脆くて。そうでなければ、粉々になってしまうから。

 新しい色の言葉を振りまいて来たのは、新しい人だった。これまで押し黙って、多分ずっと何かを考えていた人。いつも優しくて、きっと今も優しい人。そしていつも正しくて、だから今の私が触れてはいけない人。

 そんなトレセン学園の先輩で、トゥインクル・シリーズの後輩。ナリタトップロードさん、だった。

 

「<アルビレオ>には、帰ってこないんですか」

 

 そして、やっぱりその言葉はどこまでもまっすぐで。<アルビレオ>への勧誘をしていた、初めて会ったあの日と何も変わらなくて。まっすぐに、心を突き刺そうとして来て。

 けれど、私の心はもうそこにはない。あなたは私を捉えられない。

 

「それは、わかりませんね」

 

 私の方はもう、変わってしまったのだから。

 

「なんでですか、スカイちゃん」

「そりゃ流石にもう聞いたか、そうでなきゃ察したかしたんじゃないですか? トップロードさんは、他人の心を察せれる人でしょう」

「……トレーナーさんの様子が変でした。そしてスカイちゃんのことを、昨日は待ちませんでした。置き去りにして、帰っちゃいました」

「そうですね、それが答えです。トレーナーさんが酷いんじゃないですよ? 私が酷いことを言って、それで喧嘩になっちゃったんです。そしてそのまま、今に至ると」

 

 喧嘩。本当にそうだったらどれだけ楽だっただろうか。幸せだっただろうか。あなたの言葉に付いた色が敵意だったなら、どれほど私は救われただろうか。実際は一方的に、私が傷を付けていた。トレーナーさんにも、自分自身にも。そうして、何もかもをめちゃくちゃにした。私の色は、どこまでもどこまでも汚かった。

 

「喧嘩別れ、ですか。なら、もう一回話してみませんか。勇気は要るかもしれませんけど、スカイちゃんとトレーナーさんなら絶対に話せばわかります。気まずければ間は取り持ちますし、だから」

 

 だんだんと、トップロードさんの舌の回る速度は増していく。堰を切ったように、溢れて、溢れて。

 

「だから、開けてください。今から一緒に、私たちと一緒に。トレーナーさんのところに、私たちが連れて行ってあげますから」

 

 だから、そうやって。致命的なくらい深々とした言葉で、あなたは私の心の中心を抉ってしまう。今の私の心まで、もう手が届いてしまう。

 それは。

 

「それは、嫌です」

 

 それは絶対に、止めなければならない。

 

「なんで、ですか」

「トップロードさん達とも、もう会いたくないからです」

「それは、なんでですか」

「聞いちゃうんですね、あなたにとって酷いことを言うに決まっているのに」

「いいから、聞かせてくださいよ」

「そんなの、簡単ですよ」

 

 理由は一つ。けれどそれは言わない。輪郭に乗った要素を並べて、決してあなたそのものには触れない。汚すことはしない。理解できないと、拒絶してくれればいい。

 そんなつもりで、また言葉を吐く。繋がらないフレーズを、淡々と。

 

「もう、元には戻れないから」

 

 だからそんな人間に構うべきじゃないと、その本音は言えなかった。

 

「私はもう、走れないんですよ。デビューしたばかりのトップロードさんと違って、私はそれなりの期間走りました。そして、わかったんです。……ほら、酷い言葉でしょう? 夢に溢れたウマ娘に、残酷な現実を叩きつけるなんて」

「続けてください。私への気遣いなんて要りません。そんな気遣いなら、要りません」

「優しいんですね」

「スカイちゃんが優しいからですよ」

 

 それもきっと、過去の私。今の私は冷たく、誰もかれもをあしらっている。死体と同じ声、死体と同じ姿形。思考に連続性があるだけのスワンプマン。だからその手はどんなに見た目や感触が変わらなくても、泥にまみれて腐っている。触れさせるわけには、いかない。

 

「……まあ、そういうわけで。わかったんですよ、無駄だって。これから先どんなに走っても、私には無駄」

「そう、ですか」

「はい。大舞台に立つことができるとしても、立つことができるだけ。私のためには、その舞台は存在しない。そんなところで走っても、何も楽しくなんかない。……トップロードさんにはわからないかもしれませんね」

 

 最後に付け足した一言は、明確な断絶の色を付けるためのものだった。わかりようもないと言い切れば、それを否定することは難しい。強い口調はそれだけ言葉に色を付ける。深く、深く色を付ける。取り返しのつかない、色を。

 

「スカイさん、貴女ねえ……!」

「そんなふうに声を荒げたって、キングにもわかる気持ちでしょう。そしてトップロードさんにはわからない。事実を述べたまでだよ」

「それでも、その言い方はないでしょう」

「ないと思うならそれでいい。軽蔑して、帰ってよ。その方がお互いのためだって、そろそろわかってきたんじゃないかな」

 

 お嬢様の激情に呼応して、私の口からも今までにない色が漏れる。諦めてほしい、そんな嘆願。今の私はなりふり構わず、無理矢理にでも断絶を告げようとしていた。

 

「これ以上やっても、何も得られない。だから、私はもう走りたくない。それだけです。……お二人とも、そろそろトレーニングの時間じゃないですか」

 

 時計を見れば、会話の始まりからはしばらくの時間が経っていた。時間は進む。無慈悲に、冷徹に。そこまで会話を途切れさせ続ければ、私の「逃げ切り勝ち」だ。

 そのつもりだった。ドアのむこうの様子なんて当然わかっていなかった。どれほど拳を握り込めていたのだろう。どれほどの激情を顔に浮かべていたのだろう。どれほどの想いが、その言葉を色付けたのだろう。

 だん、とドアの外から強い打撃音がした。行き場のない力を叩きつける音だった。私に向けられていた優しさがついに捨てられた音だった。

 

「ふざけないで、くださいよ」

 

 抑えきれない怒りを、トップロードさんが発露させた音だった。

 

「ちょっと、トップロード先輩」

「なにをふざけたこと言ってるんだって、そう聞いてるんですよ!」

 

 またドアが揺れ、鈍い鈍い音がする。トップロードさんの拳が傷つき、私の心にも傷が出来る。拒絶して、断絶して、廃絶して。全てから見捨てられようとしたのに、いざ敵意を向けられるとそれは思っていた数倍痛くて。

 私は、あんなに優しい人を怒らせてしまった。その罪は私の癒えない傷の上に、新しい傷を付け足していく。きっとこれも、癒えない。

 

「なんで、そんなことを言うんですか。全部無駄だって、意味なんかないって。私にはそれは、わからないって。わかりますよ、少しくらいなら。スカイちゃんが<アルビレオ>に入って頑張ってきたのを、私はずっと見てました。だからそのことは知ってるし、その姿に憧れだってしました。私の憧れなんですよ、あなたは」

「……そう、ですか」

「なのに、なのに、なのに! その頑張りを否定するんですか!? 今まで私が憧れて来たものは、無価値だったって言うんですか!? そんなの、ふざけてます。絶対に、許せないです」

 

 そして、もう一つわかること。この怒りに付いた色は、私への敵意だけじゃない。未だ私を慈しむ、その語気とはかけ離れた優しい色が付いている。だからその言葉は、意味と意図の捻れたその言葉は。私のそれと同じように、他人の心をグロテスクに抉るのだ。

 

「……それに、約束したじゃないですか。いつか、一緒に走ろうって。それも、嘘だって言うんですか」

「……そうかも、しれませんね」

「なんですか、そんな他人事みたいに!」

 

 だん。また痛々しい打撃音が、限界に近づいたトップロードさんから発せられる。私はそれほどまでに、この人を痛めつけてしまったのだろう。触れさせない、それだけでよかったはずなのに。

 

「スカイちゃんが、私の走る理由の一つでした。スカイちゃんと一緒に走るのが、私の夢の一つでした。……なのにそんな大切なものを、あなたと私の約束をっ……!」

 

 嗚咽が混じる。そうなれば、崩壊は止まらない。そんなつもりじゃ、なかったのに。ただ私だけ傷付けば、それで良かったのに。

 

「ひぐっ……うぇぇ……ぐすっ……。そんなっ、そんなスカイちゃんとの宝物をっ、ひっくっ、そんなふうに他人事、他人事みたいに私から奪い去るんですかっ……」

 

 もう一度、弱々しく拳を叩きつける音がする。先程よりも低い位置から。どうしようもないくらい泣き崩れているのだと、それでわかってしまった。

 

「ふざけないでくださいよぉ……っ! 私のっ、私の憧れたセイウンスカイはっ、そんな、そんな子じゃ、なくてっ……ひぐっ……ううっ……やだ、やですよぉ……」

 

 それからしばらくずっと、ドアの先からはトップロードさんの啼泣する音だけが聞こえていた。私はそれを一つ一つ聞いていた。何か言葉を返さなくちゃいけないとは思った。拒絶したはずなのに、それで傷付かないはずだと思ったのに。取ることの出来ない責任に、手を触れてやらねばならないと思った。触れないことが傷付けるのなら、触れ合うしかないのだろうか。悩んで、悩んで、悩み尽くして。その間も嗚咽は止まらなかった。さめざめと、鼻水を啜る音が聞こえた。

 

「ごめんなさい」

 

 そうして、私は言葉を口にする。大人になってから初めて口に出来た謝罪。そこに私が付ける色は、一体どんなものだっただろうか。

 

「トップロードさんの大切な夢を奪っちゃって、ごめんなさい。憧れの人のままでいられなくて、ごめんなさい。ずっと一緒に居れなくて、ごめんなさい」

 

 謝りたかった。それでも確かに拒絶が混じっていた。全く違う色の絵の具を混ぜるように、私の言葉は濁りきった汚い色合いだった。もう傷付けたくないのに、どうすれば傷付かないのかわからなかった。拒絶しても触れても、きっとそれはあなたの綺麗な肌に傷をつくる。私がいなくなることさえきっと、許されるわけがない。

 なら私に出来るのは、剥き出しの心を伝えるだけ。せめて敬意を払おうと、そうしていた。

 

「ごめんなさい。それでも、出て行くのは怖いんです。もう怖くて、一歩だって動けないんです。走るのが、怖いんです」

 

 いつのまにか啜り泣く声は聞こえなくなっていた。私の声が届いていた。まだ繋がりが断ち切れていなかった。私が、再び繋いでしまっていた。

 

「ごめんなさい。こんな私になっちゃって、ごめんなさい」

 

 だけどその繋がりは、しっかりと丁寧に断ち切り直すためのもの。今度こそ後腐れなく、別れを告げられるように。ここまで並び立ててようやく、私は謝罪という言葉のかたちの力に気付く。言葉に色はない。けれどかたちはある。だから色を付ける言葉を、人は慎重に選び取る。もっとも己の想いを伝えやすい、言葉のかたちを。

 それを、今の私は出来ていた。

 遠ざかる足音が、二人分。密やかに、けれど確かに聞こえた。謝罪という言葉のかたち。それは互いが互いを認める限り、肯定して受け入れることしか出来ないものだということ。許すことしか、出来ないということ。私とあの二人が確かに繋がっていたから、これまでみんなで積み上げて来た関係があったから。だからこそ、私の「ごめんなさい」は決定的な訣別の言葉となり得たのだ。

 ああ、ごめんなさい。

 そうふと、また謝罪のフレーズが頭に浮かんだけれど。何のために謝りたかったのかは、もうわからなかった。

 その日の夜も、眠れなかった。

 私はまだ、大人の自分に慣れられなかった。




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「ステイ・ウィズ・ユー」

 二日目の眠れない夜は、よりずきずきとした痛みを私に与えてくれていた。自分は自分を粗末に扱っているという実感。だけどそれでいい、自分なんてそれでいいんだという諦観。その二つだけで生きていた。他のなにも受け付けはしなかったのだ。何もかも、誰もかれも。私は全てを拒絶してしまったのだから。だからその二つを感じられる時だけ、いのちの感覚が得られていた。

 夜の空気は独特の温さと冷たさを持っていて、まだまだその中で起きているのは慣れなかった。けれど身体を動かす元気もなく、部屋の隅でまた小さくなっていた。このまま小さくなって誰にも見えなくなったらどんなに楽だろうか。そう一瞬考えて、その後に私のことを探してしまうだろう人達のことまで考えて、止めた。小さくなっても声は聞こえてしまう。どこかに逃げてもそれを探す姿を見つけてしまう。それから逃げ出す力さえ、もう残ってはいなかったから。

 トップロードさんは、あれからちゃんとトレーニングに行けただろうか。あれだけ怒らせて泣かせて、私は最後まで随分と迷惑をかけた。けれどそれを直接は見なかったから、心無い言葉を投げ続けられた。薄っぺらで掠れた、出涸らしのペンキみたいな色の言葉だった。そしてそれを聞かせ続けて、キングとトップロードさんが帰るまで私は意固地にそうし続けて。けれど仕方のないことだったのかもしれない。残酷だけど、そうも思う。

 だって、もう変わってしまったから。もうこれ以上、変われないから。ここが私の完成形、不自由で不器用な「大人」というものだ。

 

(ねえ、トレーナーさん)

 

 心の中で。もう声すら出そうになかったから。声にしたら破裂してしまいそうだったから。だから心の中で、届かないからこそあなたに呼びかける。

 

(大人って、こんなに辛いんですね)

 

 きっと今までの私は、あなたの辛さを半分もわかっていなかったのだろう。大人と子供にはこんなにも開きがあるのだと、大人になって初めてわかったから。寄り添えてなんかいないまま、そのまま全ては隔絶された。あんなに覚悟していたつもりだったのに、全ては無駄で空は墜ちた。多分、どうしようもなかったのだけど。

 そう。これはもしかしたらどうしようもない、運命のようなものなのかもしれない。今までの行いに対する報い、そういうものなのかもしれない。不相応に期待されたいと願って、その通りの期待を受けてしまって。勝ってしまって、認められてしまって。負けても、走っていいと言われてしまって。その通りにやってきた私への、罰なのかもしれない。

 あるいはその罰さえ恐れて、それを受ける前に逃げ出そうとしている。怖くて、怖くて。でも、それの何がいけないのだろう。たとえ誰も許してくれなくても、許されないことが怖くて何がいけないのだろう。判決を待たずに逃げられるなら、九割の犯罪者が罪を認めず逃げ出すはずだ。

 だって、だって。

 

「……がんばって、きたじゃないかぁ……」

 

 その搾りかすのような言葉は、確かに私の本音だったのだろう。私だけが、私の声を聞いていた。そうだ、私はただ許されたいだけだったのだ。ここまで頑張ってきたのだから、逃げてもいいと認めて欲しかっただけだったのだ。

 それなのに、誰もが私に期待する。かつて喉から手が出るほど欲しかったそれが、今は恐怖の象徴だった。だからこそ、私は誰ともわかり合えない。皆は私に期待する。私は私に期待しない。だからそこに認識の歪みがあり、だから全ては進まない。

 ぎしりと身体の何処かから、骨の髄まで軋む音がして。そこで思考は限界を迎え、私の存在はそこにあるだけの肉の塊に変わる。夜は、まだ長かった。まだ、耐えなきゃいけなかった。慣れたはずの二日目なのに、やっぱり今日の方が痛かった。

 痛い、痛い夜だった。

 

 

 目が覚めた時には、すでに日は昇っていた。目をつぶって意識を手放した記憶はなかった。眠れる気もしていなかった。それなのに、眠ってしまっていた。何故だろうなどと考えながら少しみじろぎしようとして、すぐにその理由を理解した。

 身体に、力が入らない。肩にも、背にも、脇腹にも、腹筋にも、胸にも、首にも、二の腕にも、手のひらにも、太ももにも、腱にも、どこにも。力を入れてみようとしても、ぴくりぴくりと動かすのが限界。そう、私の身体は限界だったのだ。ほとんど眠らず飲まず食わず、精神も削って削りきって。それでは二日と保たないことなんて、少し考えればわかることだった。

 誰もいない部屋。鍵のかかった部屋。そこで動けない私。助けを求められない独りぼっちの哀れな女の子。そういう状況が、いつの間にやら出来上がっていた。

 あれ、私どうなるんだろう。もしかしてこのまま、弱りきって死んじゃうのかな。そうしたら、みんなを心配させちゃうかな。ああでも、その時にはもう私はいないのか。なら、いいのかな。このままが、正解なのかな。これが、運命なのかな。私ががんばってきた、けっかなのかな。

 

「……けて」

 

 それなら、このままにしておくべきだよね。わたしなんて、いないほうがいいもんね。それくらいひどいことを、みんなにしちゃったもんね。だからきっと、それならゆるされるよね。そもそもいなくなっちゃうなら、ゆるすしかないもんね。

 そう、そうだよ。だから、これでよかったんじゃないか。なんだ、かんたんなことじゃないか。

 そう、だから。

 

「……たす……けて……」

 

 なんでわたしは、そんなことをいっているの。なんでわたしは、たすかりたいなんてのぞんでいるの。なんでわたしは、まださきをみたいとおもっているの。

 なんで、ねえ、なんで。やめてよ、さいごにそれをいっちゃうんじゃ、ぜんぶがうそっぱちになっちゃうじゃないか。じふんがわるいことにしたいのに、そうできなくなっちゃうじゃないか。それでまんぞくなはずなのに、あきらめきれてないみたいになっちゃうじゃないか。

 やだ、やだよ。

 おねがいわたし、わたしをさらけださないで──。

 

「──カイさん」

 

 誰かの声が、私を止めた。

 

「スカイさん、入りますよ。もう一度返事がなかったら、入ります」

 

 酷く聞き覚えのある、誰かの声。

 

「スカイさーん。……じゃあ、お邪魔します」

 

 がちゃりと、固く閉じたはずの鍵が開く音がして。

 

「あっ、スカイさん! 大丈夫ですか、少し待っててください」

 

 まだ切っていなかった縁。チーム<アルビレオ>と提携を結んでいる、チーム<デネブ>のリーダー。ニシノフラワーの姿が、そこにはあった。

 

「こっちの寮長のヒシアマゾンさんに頼んで、マスターキーを借りたんです。『私からも頼む』って言われました。部屋からずっと出てこないんじゃ、そりゃ心配されますよ」

 

 部屋の明かりが久しぶりについた。太陽より眩しかった。そしてその明かりの中に居る、私以外の人間の存在も。言いようのないくらい眩しくて、思考がそれに刺激される。どこかに、通る回路が移る。

 

「スカイさん、ひどい顔してますよ。夜更かしはお肌の天敵なんですから、後しっかりお風呂も入って」

 

 そういえば、マスターキーか。確かにそうすれば、強引に開けることはできてしまうな。なんだ、私は閉じこもれてなんかいなかったのか。思考は一歩遅れていた。現実を認識するのには、それくらいのタイムラグが必要だった。

 

「でもとりあえず、何も食べてないのはいけません。ほら、水筒もありますから」

 

 何事もないかのように、ニシノフラワーは持ってきた荷物をテキパキと並べてゆく。教科書、ノート、筆箱に、そしてその下の目的物たち。言った通りの水筒と、弁当箱が二つ。そう、二つ出てきた。そして当たり前のように、そのうちの一つをその小さくて細い指で包んで持ち上げて。

 

「はい、スカイさんのぶんもありますから。一緒に、食べましょう」

 

 当たり前のように、私にそれを差し出した。正午を少し、過ぎた頃だった。

 

「今日はちょっとサボりですけど、特例で許してもらえることになるみたいです」

 

 ぱく、ぱく。フラワーから手渡された弁当の中身は、可愛らしい包装や盛り付けが為されながらもぎっしりと中身が詰まっていた。それをピンク色の箸で摘みながら、黙々とフラワーの話を聞いていた。素直に、美味しいと思った。

 

「そういえば昨日、花壇に植えてる紫陽花の花芽が少し開きそうになってたんです。もう梅雨の季節が近いなって思いました。雨って苦手な人も多いと思うんですけど、花が咲くためには必要だったりして。それでも降り過ぎたら駄目になっちゃうので、難しいんですけど。……美味しい、ですか?」

「……うん」

「なら、良かったです! それでですね、今日は他にもいいことがあって。何でもないことではあるんですけど、授業で当てられた時うまく答えられたんです。勉強した成果が出た瞬間って、努力が報われる気がしますよね。これも苦手な人は多いんでしょうけど、私は勉強が好きです。……それも、美味しいですか?」

「……うん」

 

 取り止めのない彼女の会話に、相槌すら挟めずこくこくと頷き続けるだけの私。空きっ腹に優しい味のおかずが染み渡って、空っぽの胸に何でもない会話が埋まっていって。つながりが、確かにそこにはあった。まだ途切れていない、繋がりが。

 

「どうですか、どれが一番美味しかったですか」

「……この、焼き魚かな。やっぱりほら、魚好きだし」

「そうでしょうそうでしょう、そう思って入れたんですよ」

「なんだ、そういう」

「はい、喜んでもらえたなら何よりです」

 

 ぱく、ぱく。もぐ、もぐ。そうやって弁当をすっかり食べ終わる頃には、私もまともな会話が幾分か出来るようになっていた。回復したような、回帰したような。失ってしまったあの頃に、今だけは戻ってきたような。

 それを連れ戻したのは、紛れもなくフラワーなのだろう。何気ないように振る舞っているが、そのために彼女は来たのだろう。だって、彼女は。

 そこで彼女は会話を一旦区切り、こちらに向き直ってから口を開く。シアンとマゼンタの深く絡み合った、パープルカラーの瞳でこちらを見据えて。そう、だって。

 

「スカイさん。あの時の約束、覚えてますか」

 

 だって、彼女は私の導。あのバレンタインの日に取り決めた、救いの契約を果たすために来たのだから。

 

「バレンタインの時、私はスカイさんにお願いされました。覚えてますか、スカイさん」

「……うん、覚えてるよ」

「スカイさんが、どうしようもなくなっちゃった時。誰にも頼れないくらい、大変になった時。その時は私に任せるって、そう言ってくれましたよね」

「……まぁ、ね」

「私は、そのために来ました。今がその時だと、そう思ったからです」

 

 その時のフラワーの予感は、確かに的中してしまった。これ以上、ないほどに。私は君の言う通り大人になって、誰にも頼れなくなってしまった。そしてその時のセーフティ、最後の命綱がフラワーの存在だと。あの時結ばれた契りは、そういうものだった。

 けれど。

 

「ありがとう、フラワー。……でもそれをお願いしたのは、やっぱり昔の私なんだよ」

 

 けれど私は、それでもその手を握り返せない。どんなに予見していても、救いようのない悲劇からは救うことができない。たとえ、本当の私が助けを求めていたとしても。あの声が嘘ではないとしても、やはり大人は嘘を吐かなければいけないのだから。

 

「大人になるってさ、想像してたよりあっけないよ。多分フラワーが見てる私は、前と変わらないように見えると思う。そんなもの。ひょいっと、越えてしまえる壁なんだ。でもさ、フラワー」

 

 いつかのように、何度もしたように。確かに私たち二人は語らうけれど、そこに纏う空気は変わってしまっている。でもそれを引き戻しに、小さな少女は大きな覚悟を決めてやってきたのだろう。それなのに、私はその偉大さをわかっていて踏み躙ろうとする。

 最低だ。心底、そう思った。

 

「そこにある壁は越えるのは簡単だけど、戻るのはとっても難しいんだ。だから、私はフラワーの言葉は聞こえない。何を言われても、届かない。……意味が、ないんだよ」

 

 そうだ。だから、諦めて欲しい。私に諦めてもいいって、許して欲しい。ああけれど、君もそうではないのだろう。私に何かを期待している。私が昔のように喋り出すのを喜んでいる。そこにある言葉は同じでも、込められた色は変わってしまっているのに。

 

「だからお願い、フラワー。昔の私じゃない、今の私からの、お願い。私のことを思うなら、このまま帰って欲しい。何も、言わずに」

 

 ならば、私はそうしよう。古き契約が君を縛るなら、私はそれを上書きしよう。私みたいな愚か者に、これ以上付き合う必要はない。誰も、だ。皆が求めているのは昔のセイウンスカイで、今の私じゃない。今の私は、誰にも望まれていない。私自身さえ、助けを求めてしまうのだから。

 そこまで全部、吐き出して。また心は黒く染まる。沈んでいく。今度こそもう、引きずり戻せないところまで。

 そのはず、だった。

 

「そうですか。ならスカイさん、少しの間黙っててください。私が、勝手に喋ります」

「……え」

「ほら、私語厳禁」

「ああ、ごめん」

「もう、二回目です。……なんて、それくらいの反応はいいですけどね。じゃあ、喋ります。少し、長いお話です」

 

 そんな唐突な切り出しから、フラワーの語りは始まりを告げた。優しく撫でるような、柔らかな声だった。

 

「最初にスカイさんと会った時、覚えてますか? <デネブ>でのトレーニングを始めるってその日に、トレーナーさんに紹介されて挨拶して。その時最初に思ったのは、何だかふわふわした人だってことでした。捉えどころのない、そんな人だって。でもそのふわふわは、誰かを受け止めるためにあるんだって、一緒にトレーニングしていくうちに、何度も会ううちにわかりました。そんなふうに印象は変わったけど、スカイさんはスカイさんでした」

「懐かしい、かもね」

「はい。懐かしいけど、今に続いてるスカイさんの印象です。いつでも助けてくれる人。いつでも、笑いかけてくれる人。たとえ自分が苦しい時でも、それを隠して代わりに他人のことを見ちゃうような、そんな人。……だから実は、嬉しかったんです」

「何が?」

「あのバレンタインの日、私を頼ってくれたことです」

 

 ……それは、少し意外な言葉だった。背負わせてしまったと思っていた。だからそれから解き放とうとしていたのだ。今だって、その途中のはずだ。君はこんなふうにナイフを投げられることを、嬉しいと言ってしまうのか。

 

「スカイさんにも、不安なことがあって。私の知らない、スカイさんがいて。それでも、スカイさんはスカイさんで。だから、やっぱり私はあの時のスカイさんの言葉に応えたいんです」

「それを、今の私が望んでいなくても?」

「……はい。だって今のスカイさんも、その時のスカイさんも。スカイさんは、スカイさんです。だから、そのお願いはまだ生きていると思います。たとえ、スカイさんがスカイさんじゃなくなっても。私は、あなたのそばにいたいんです。どんなあなたでも、いいから」

 

 参ったなあ。フラワーが、こんなに頑固だなんて。こんなにも、私を見透かしてしまうなんて。今の私なんかを、見てくれるなんて。

 

「だめですか、スカイさん」

 

 つーっと、そのアメジストのような瞳から透明な雫が垂れる。ああ、また誰かを泣かせてしまった。けれどフラワーは泣きながら、笑っていた。私に向かって、微笑みを投げかけていた。

 どうして、そんなに優しいのかな。フラワーだけじゃない、キングも、トップロードさんも、みんなみんな。きっと、優しさを向けている。そうか、違ったんだ。みんなは過去の私を見て、それに期待したんじゃなくて。今の私を見て、その奥に過去の私を見つけていたから期待していたんだ。変化はある、成長はある。けれど、変わらないものもある。そういう、ことなのかもしれない。

 

「……ごめん、フラワー。まだちょっとよくわからない。泣かせまでしたのに、ごめん。まだ、無理だと思う。ずっと、無理かもしれない」

「それでも、いいです。待ちますよ、ずっと」

「駄目だよ。もう私は、君の憧れにはなれないよ」

「どんな人になっても、スカイさんはスカイさんです。……っとすみません、もうこんな時間だ。トレーニングにも、いつでも来ていいですから。でも来なくても、明日も私は来ますから。今度は鍵、開けてください」

 

 そう言って、荷物をバタバタと慌てるように片付けて。一筋の涙痕を斜めに残しながら、ニシノフラワーは嵐のように去っていった。私だけを、残して。……いや、あれ。

 

「私の分の弁当箱、忘れちゃってるじゃん」

 

 私が握りしめたままだったそれだけが、彼女の去った後に残されていた。あーあ、どうしよう、これ。流石にトレーニング場まで返しにいくのは、今の私には出来ない。けれど、その代わりにもならないけれど。私にも、出来ることはあって。

 腹に入れたばかりの栄養を使い、ゆっくりとフローリングから立ち上がる。水道のほうに向かい、乾いた手で蛇口を捻る。スポンジと洗剤くらいは部屋の中にもあるから、弁当箱を洗うくらいは私にも出来た。

 今日、これを洗って。

 明日、返そう。

 明日フラワーが来た時に、返してあげよう。そして今度は忘れてしまわないように、もう少しだけ落ち着いて話せたら。

 少し、そう思った。大人として、落ち着きを与えられればと。初めて、大人を活かせそうな気がした。今はまだ、でもいつか。前へ進めるかもしれないと、一瞬だけそう思ってしまった。

 一瞬だけ。それが終われば、また思考は虚に帰る。進めたとしたら、その一瞬だけ。

 少しだけ。君と、一緒に。

 




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惑い繋がれストレイトガールズ

 その日の夜は、ベッドの上に寝転がっていた。昔の私が着ていたパジャマは、着てみればすんなり馴染んでしまった。昔と今で、変わらない感覚だった。何の違和感もなく、布団にくるまっていた。そうして目を閉じればやはり、この三日間のことが思い返されてしまった。

 まだ、眠れない。けれど、その理由は僅かに変わっていた。まだ私に、変化があるのだろうか。それともこれは、変わっていなかったものがその姿を再び現しただけなのだろうか。それはわからない。けれどわからないから、考えていた。みんなのこと。繋がりを断ち切ったはずの、みんなのことを。

 キングは、いつも通りの態度を貫こうとした。私が元の場所に帰れるように、そのままの距離感を保とうとしていた。私が変わってしまったのなら、そのぶんを自分で埋め合わせしようとしてくれていたのだ。多分、私のために。かつてのセイウンスカイの居場所に、今のセイウンスカイが入り直せるように。

 少し怒っていたのも、あくまで他人のためだった。嗜めるような、私を元の道に正すような。ダービーの時あんなにくしゃくしゃだったお嬢様とは全然違うな、と思った。けれど、それはそれほどおかしなことではないのだろう。人は変化する。成長する。私が変わったように、キングも変わっている。けれどそれでも彼女は、紛れもなくキングヘイローだった。お人好しでどうしても人の悪口が言えない、いつもの優しい王様だった。

 トップロードさんは、いつもとはかけ離れていた。私が、そうさせてしまった。彼女の感情を爆発させたのは、私だ。怒りに打ち震え、悲しみに涙を流して。私のせいで、いつものトップロードさんは崩れてしまった。私のせいで。

 けれどその怒りは、私に向いていたはずのその怒りは、私への想いやりにも溢れていた。愛と憎がめちゃくちゃに入り混じった、混沌とした色の言の葉だった。それはきっと、トップロードさんらしくはないけれど。トップロードさんだからこそ、出てきた言葉なのだろう。変わらなくても変わってしまっても、誰もが自分らしいまま。ならもしかして、私も。そう、考えてしまう。諦めたはずのものに、手が届くんじゃないかって。

 けれど、考えるだけ。実際に手を伸ばす勇気は、今の私にはどこにもなかった。だから夜のにおいに包まれながら、柔らかくて暖かい布団に埋まりながら。思考だけを、まだ進め続けていた。それだけは、進んでいた。

 フラワーは、きっと随分変わった。出会った日からの印象の差は、ひょっとしたら一番かもしれない。それでも、彼女が私に同じことを告げたように。ニシノフラワーは、どこまでもニシノフラワーだった。だから、私を助けに来たのだろう。私の助けを求める声を、聞き届けてしまったのだろう。

 変わったのだ。しっかりしているはずなのにどこか不安そうで、ほっとけないフラワーはもういない。今はむしろ私が、放って置かれていない。まるっきり逆転して、それでも私と君の間に繋がりがあることは変わらない。そう、それは変わらなかったのだ。かつてのフラワーではないとしても、彼女はニシノフラワー以外の何者でもなかった。変化と成長、それを果たしただけだった。私は散々、昔の私はどこにもいないと言っていたのに。

 きっと、誰もがそんなことは知っていた。その上で、今の私と昔の私が変わらないのだと言っていた。当たり前のことだった。変化と成長は、それをどれだけ重ねても断絶は生まない。どんなに上に積み重なっても、その下にあるものはゼロにはならない。当たり前の、ことだった。

 なら、私は。

 

「……どうしたら、いいのかな」

 

 おもむろに、独り言が漏れ出た。誰かに問いかけるような、けれど誰も聞いていない。そんな行き場のない言葉。……ああ、でも。でも、かつてはそれを拾ってくれる人がいたな。独り言だったのに、それを聞いてたみたいに掬い上げる人。夜中に電話をかけてきたり、二人きりの帰り道で唐突に見抜いてきたり。そうして暑苦しい正論を私にふっかける、面倒な男の人がいた。

 どうしてるかな、トレーナーさん。私が出会ってきた中で、一番変わらなかったのはトレーナーさんだった。もちろん、見えてなかったところが見えるようになった。見せていなかったものを見せるようにしてくれた。けれどそれは彼の裁量で、私は多分何も暴き立てていない。トレーナーさんのことを、変えれてはいない。

 きっと、それは大人だったから。今ならそうわかる。大人になってしまえば、それは誰しもひどく不器用で。なかなかどうして、変われない。私が何を言われても、変わることができなかったように。

 どうしたら、いいのかな。ここまで全てを壊して、それでも皆は手を差し伸べてくれる。罪を償う必要なんてないって言ってくれる。みんなに酷いことを言ったのに。あなたにも、酷いことを言ったのに。私が一番、それを許せないのに。

 ねえ、トレーナーさん。

 大人って、苦しいですね。

 そんなあなたに初めて寄り添えたかもしれない言葉は、心の外には出ていかなくて。夜の黒色は、静謐だけを湛えていて。それからしばらくして、思考は微睡の闇に落ちた。閉じた目が、開かなくなった。全身の筋肉が、ゆっくりと弛緩していった。ぐっすりと、眠れた。

 

 

「ああすみませんスカイさん、昨日弁当箱忘れていっちゃってましたね」

「いいよ。気にしないで」

「でもちゃんと、今日も持ってきましたから。また一緒に食べましょう」

「……なんか、ごめんね」

「いいですから、ほら。食べますよ、スカイさん」

「うん、ありがとう。……いただきます」

「はい、召し上がれ」

 

 ぱく、ぱく、ぱく。今日も、フラワーは当たり前のように私の部屋に来た。今更だけど寮も違うのに、わざわざ。そして私はそれを招き入れ、今日もこうして一緒に昼の食事をしている。繋がりを、保とうとしていた。君の方からだけではなく、私の方からも。

 

「──それでその時、トレーナーさんがこっそりお菓子を差し入れてくれて」

「なるほど。やっぱりそれも<デネブ>のトレーナーさんお手製?」

「はい。それがもう美味しくってチームのみんなで美味しい美味しいって言いながら食べて、それで」

「……あのさ、フラワー」

「……はい、なんでしょう」

 

 緩やかに続いていた会話に、一抹の暖かさを感じながらも。ふと、といった感じで、私はフラワーに向き直る。昨日涙を流していたその眼を、もう一度見つめて。

 

「昨日は、ごめん。本当に、ごめん。迷惑もかけたし、泣かせもした」

「……いいえ。迷惑だなんて、思ってませんよ。言った通り、嬉しかったですから」

「フラワーがそう言っても、私が私を許せないよ。……そう、そうなんだ。私はどうしようもないくらい、悪い大人なんだよ」

 

 ずっと、許されたいと思っていた。逃げてもいいって、それを認めて欲しいって。けれど、許されないと思っていた。だから皆が私を引き止めようとしているのだと思っていたし、だから私はそれを拒絶しようとしていた。許される、ために。

 けれど、それは逆だったのだ。皆は最初から私に罪なんか背負わせていなかった。私を私とわかっていて、沈みゆくそれを救おうとしていただけ。罪を重ねたと認識していたのは、他ならぬ自分自身だった。過去のセイウンスカイと今のセイウンスカイを被害者と加害者の関係に置いていたのは、私の方だったのだ。

 私が、私を許していなかったのだ。

 

「悪い大人、ですか」

「そう。そうなったと思った。元の私には戻れないと思った。だから元の私に戻そうとする人は、みんな私の敵だと思った。だから、拒絶しようとして。……ごめんね、フラワー」

 

 また、自然と口から謝罪が述べられる。謝罪という言葉のかたちは、口に出すのが難しい複雑なかたち。丁寧に扱わなければ、すぐにひしゃげて壊れてしまう。けれど、それは特別なかたち。想いがどんな色をつけたとしても、それをしっかり伝えられる特別な言葉。謝罪という言葉のかたち。それは互いが互いを認める限り、肯定して受け入れることしかできないもの。だから、その言葉は強くて。

 

「……いいんです。いいんですよ、スカイさん。スカイさんが謝るなら、私はそれを許します。絶対に、何があっても」

 

 きっと、確かに心を震わせる。君だけじゃなく、私の心も。

 ようやく、もう一度。わかり合えたのかも、しれない。

 

「そういえば今日は、午後までここにいますから」

「えっ、授業は大丈夫なの?」

「スカイさんだって授業に出てないじゃないですか。お互い様、ですよ」

「それは、そうだけどさ」

 

 数分の間を挟んだ後再開された会話。堂々としたサボり宣言は、前触れもなく行われた。私が他人にとやかく言えないのはその通りなのだが。

 

「嫌なら、スカイさんも授業に出たらどうですか」

「いやあ、私はサボり常習犯だから」

「でも今のは、いつものとは違うでしょう」

「……それ、キングにも言われたよ」

 

 まあきっと、キングとフラワーの言う通りなのだろう。いつものサボりなら、心配はしない。それもある種の信頼。そしていつもと違うなら、それをめざとく見つけてしまう。それもやっぱり、信頼。私が私であるという、信頼。

 それを持てていないのは、自分自身だけ。私はこの後に及んで、私を許せていないのだ。だからやっぱり私の行為は、私を肯定するための行為。許されたい私ではなく、許したくない私を肯定するための歪な言葉の数々。全ての拒絶も否定も、今度こそ罪を重ねるためにある。

 けれど、もし。もしも、それでも誰もが私を許すなら。私は一体、どうすればいいのだろう。許されないと願うことが過ちだなんて、そんなことはきっとわかっている。もうそれはわかっていて、それでもその考えは止まらない。だからやっぱり私は、道を違えたままなのだ。

 結論は違えど、道のりは同じ。私は間違っていて、皆は正しい。それなら永遠に、交わらない。

 

「まあでも、ゆっくり待ってますから。そのためなら少しのサボりくらい、きっと大目に見てくれます」

「大目に見るって、授業と関係ない理由じゃ許してなんかもらえないよ」

「私の中では、許されてるんです。……なんて、とんでもない悪い子の発言ですね」

「そうかも。でもそれならフラワーのことは、私も許すよ。自分だけじゃ足りないなら」

「ありがとうございます。でもそれならスカイさんのことも一緒ですよ、きっと」

「……そうかな」

「そうですよ」

 

 許しが足りないのなら、より多くの人が許せばいい。そういうものだろうか。けれど確かに自分は、そうやってフラワーを許そうとしてしまった。自分には自分の吐いた言葉は適用されないなんて、そんな都合のいい話はないのかもしれない。私も、許されうる。あらゆる手段を講じてでも、何度それを振り払っても。救いの手は必ず、伸びてくる。私が私を許せるようになるまでずっと、だ。

 そしてフラワーが私のそばに居ようとするのも、その一環でしかない。こちらが道を違えるのなら、共に違えて寄り添おうという意志。そう、そうすれば確かに道は交わってしまう。一度間違えてでも手を繋げる距離まで近づけば、繋いだ手を正しい方へ引き戻せる。そのために、我が身が傷付いても。

 私はずっと、誰かを傷付けたくなかった。それなのにみんな、みんな。みんなはどうして、私の方に手を伸ばすの。そうすれば自分が傷付くと、きっとわかっているのに。自ら傷を付けてまで、私を掬い上げようとするの。

 その時脳裏に浮かんだのは、一人の優しい人の顔だった。何故だか、ふと。そのまま、呟いてしまうほどに。

 

「……トップロードさんも、そうだったのかな」

「トップロードさんが、どうかしましたか」

「ああいや、フラワーには関係は」

「スカイさん」

「……ごめん、話すよ」

「はい。聞きますね」

 

 彼女を傷付けたことは、私一人で背負う罪だと思っていた。だって、私が悪いのだから。けれどそれすら、一緒に背負ってくれる人はいる。そして、それだけでもなくて。

 

「私、トップロードさんを怒らせちゃったんだ。酷いこと言って、『私の知ってるスカイちゃんはそんな子じゃない』って言われちゃった。あんな優しい人を、怒らせた。それは、私が悪いんじゃないのかな」

「……うーん、それは一理ありますけど」

「そうでしょ? だから、私はやっぱり悪いんだよ」

「でも、それだけじゃないと思いますよ」

 

 ぱん、とその幼い両の手を合わせて。これぞ名案、といった感じでフラワーは言葉を広げていく。それは確かに名案だった、かもしれない。

 

「怒るのって、怒る方も辛いものじゃないですか」

「そうだよ。だから、私が悪い」

「だけどそれって、怒られた側が辛いってわかるからじゃないですか」

「それは、どういう」

「だから多分トップロードさんも、後悔してると思います。それはスカイさんが今しているのと、きっと同じことです。怒られたからって、わかり合えないわけじゃないんですよ」

「……そう、なのかな」

「はい。だって今私、スカイさんにちょっと怒ってますから」

「えっ、そうなの」

 

 フラワーにも怒られてしまったか。だけどそれを伝えることも、きっと信頼と親愛の証。ならトップロードさんの激昂もまた、私に寄り添いたかったから。そう、なのかもしれない。

 

「いつになったら元のスカイさんに戻ってくれるんだろうって、業を煮やしてますよ、私」

「……それなら、無理かもしれないよ。もう、ずっと」

「そんなことないですよ。きっとみんな、そう信じてます。信じてるから、大丈夫です」

「優しいね、フラワーは」

「スカイさんが優しいからですよ」

「それもまたトップロードさんに、同じことを言われたな」

「えへへ、私誰かと同じことばっかり考えちゃってますね」

 

 けれどそれは、二人の発言の裏打ち。キングとトップロードさんの気持ちに、フラワーは共感しているということ。この三人は、同じことを考えているということ。

 私に戻ってきて欲しいと、そう考えているということ。

 戻る。戻ったとして、多分本当の意味で元の私に戻るわけじゃない。この数日重ねた醜い行為は消せないし、その上に生きていくしかない。その上を、進んでいくしかない。まだ、進むしかない。けれど、居場所がそこにあるのなら。

 前に進めるか、それは問いかけるものではなくて。前に進んでから、その上で考えるものなのだと。

 だからまっすぐ、どんなに彷徨ってもまっすぐ進める。あるいは私は、ようやくそのことに気づくのだ。

 

 

 ぴろりろ、とスマホが鳴り響いたのはフラワーが帰るか帰らないかという瀬戸際くらいの時間帯だった。電話をかけてきた相手は、先程まで私が名前を挙げていた人だった。きっとこれは偶然ではなく、必然。私があなたのことを考えていたように、あなたも私のことを考えていたのだろう。

 同じことを、考えていた。

 一瞬、フラワーの方を見る。彼女はにこりと笑って、ただ一言。

 

「大丈夫ですよ、絶対に」

 

 そう言って、ぽんぽんとその柔らかい手のひらが私の肩を叩く。丸くて薄べったくて、一人じゃ前に進めなくなった小さな肩。それを、押してくれる。

 なら、進もう。受信アイコンをスライドさせ、恐る恐る、けれど震えない手で。

 

「今から時間ありますか、スカイちゃん」

「はい、トップロードさん」

 

 あの日冷たいドアに叩き付けてでも届かせようとした、彼女のその握られた手を。

 ドアを開いて、指までほぐして。しっかりと、私は掴み返した。

 前へと、進み始めた。



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舞い戻れ、白鳥(キグナス)

 トレセン学園のだだっ広い構内には、普段使われていないような教室がいくらかある。誰もこなくて、埃を被っていて、見向きもされなくて。けれどそんな場所だからこそ、救えるものもある。私がトップロードさんに、そこに呼び出されたように。

 南館奥三階の312号教室。今まで一度も行ったことのない、今日初めての場所。もしかしたらトップロードさんにとってもそうかもしれないし、あるいは逆にトップロードさんにとっては馴染みの場所なのかもしれない。そのどちらなのか、私にはわからない。まだあなたについては、知らないことがたくさんあるのだから。だからまだ、この関係を途切れさせるわけにはいかないのだろう。そう思いながら、歩みを進めている。

 

「ちょっとスカイさん、私もついてきてよかったんですか」

「いいよ。私がもし変なことを口走りそうになったら、フラワーに止めてもらわなきゃ。もう二度と、失敗なんてできないんだから」

「……そうですか。それなら、喜んで」

「うん。よろしく、フラワー」

 

 制服に着替えて、弾けるように寮を飛び出して。そしてこうして学園への道をフラワーと共に駆けるまで、そこまで戻るのは一瞬だった。私が私に戻る速度は、歩み始めた瞬間から加速し続けていた。でも、まだ足りない。今までゼロどころかマイナスに進み続けていた私が元に戻るには、まだ足りない。

 

「久しぶりの校門だ」

「緊張しますか、スカイさん」

「ううん、何百回も通ったところだもん」

「それでも、今のあなたにとっては初めてです」

「……そうだね。でも」

「はい」

「でも、怖くないよ。この先に進めばいいって、そのことだけはわかってるからさ」

「はい。行きましょうか」

「うん。もちろん」

 

 だから、まだ足りないから。まだ、前に進む余地があるのだ。戻るのは、そっくりそのまま同じ場所にじゃない。今の私に新しく用意された、少し先の未来の居場所なのだから。

「廊下は静かに走りましょう」。久方ぶりに訪れた場所の校則を思い出し、人通りのまばらな廊下をフラワーを連れて走っていく。ただの棒っきれになっていた脚に、再び新しい血が巡り始めていた。全力には、程遠い。もう永遠に全力には、届かないかもしれない。それでも、走っていた。私は再び、走り始めていたのだ。

 階段を一つ登る。また廊下を走る。平べったいリノリウムの感触が、足の裏から全身を静かに揺さぶりかける。無我夢中で脚を回す感覚。少し厚い踵の皮が靴越しに地面と触れる感覚。どれもこれも懐かしくて、どうしようもなく馴染んでしまう。どれだけ否定しても、否定しきれないものだった。

 

「スカイさん、笑ってますよ」

「えっ、そうかな。見間違いじゃない?」

「少しだけでしたけど、見逃しませんよ」

「……どれくらい笑ってた?」

「ちょっとだけ、口の端っこを二センチくらい。溢れちゃった、って笑みですね」

「……参ったなあ」

 

 本当に、参った。理屈を積み上げて、一生懸命に大人になろうとしていた。それが幸せで無くても構わないと思っていた。全てが否定することを心のどこかで望みながら、一方で自分が自分を認められないことに苦しんでいた。だから色々な酷いことを、心底頑張ってやっていた。頑張れば認められる気がしたから。多分、そう思っていたから。

 なのに。

 なのにそれを止めるのを、頑張らないことを嬉しいと思ってしまっている。この数日の努力なんか、無駄になってもいいと思ってしまっている。私は大人になっても、結局は甘っちょろいセイウンスカイのままだった。フラワーに呼び止められて思ってしまったのは、そんなある種の当たり前だった。当たり前のように、前と変わらない自分がそこで立ち止まっていた。

 けれど、もう一度冷たい床を踏み締める。少し西日の差してきた校舎の中を、前へ、前へ、前へ。変わらない自分もいて、けれどそうやって変わる自分もいる。だって物事はなんだってコインの裏表、ひっくり返せば真逆のものがくっついているんだから。

 こつ、こつ、こつ。階段を再度、一段一段登りゆく。弾む足音、揺れる世界。視界と身体が揺れ動けば、同じぶんだけ世界も響く。だからあっという間に壊れてしまう時もあるけれど、それを修復することは不可能ではないのだ。堕ちてきた空だって、きっと元のように張り直せる。ううん、元のようにじゃない。

 

「トップロードさん、来ましたよ」

 

 元よりも、キレイな青空に出来る。私だけじゃない、私たちならば。

 がらがらと、ドアをスライドさせて。

 そこに、二人の影を見た。

 ひどく見慣れた、形だった。

 

 

「久しぶり、スカイさん」

「なんだ、キングもいたの」

「トップロード先輩にお願いされたの。そういう貴女も、付き添いが居るみたいだけど」

「……なんだ、スカイちゃんと考えることは一緒でしたか」

「そう、ですねえ。二人きりで話すのは怖いって、そんなとこまでお互い様でしたか」

 

 午後五時を超えた教室は、誰もいなくて当たり前。私たち以外は。教室に入って右側にある真っ新な黒板と、左側に押し込められた机と椅子の山。この時間帯の教室は誰もいなくて当たり前だけど、もとよりここは使われていない教室。本当に、私たちだけの場所。キングと、フラワーと、トップロードさんと、私。いつしか出来た繋がりは、ここでようやく。

 ここでようやく、実を結ぶ。そういうことかもしれない、そう思った。

 

「スカイちゃん」

「はい」

「今日は、来てくれてありがとうございます」

「はい」

「そして、本当にごめんなさい」

「……それは、お互い様ですよ」

「だとしても、です。お互い様なら、こちらだって謝らなきゃいけません。あの日スカイちゃんが、私に謝ったように」

 

 互いに互いを認める限り、謝罪というものは受け入れて肯定するしかない。だから、口に出すのには勇気がいる。だけど、それをトップロードさんは口に出せた。あなたも、勇気を振り絞ってくれた。

 

「ごめんなさい。私のわがままで、それを止めることが出来なくて。いつだって頼れる先輩で居たかったのに、そう出来なくて。……スカイちゃんより、子供です」

「そうですね、そうかもしれません。私は大人になってしまいました。大人になって、みんなのことを傷つける大人になってしまいました。だから、私が大人なら。きっと駄目な大人ですよ、あなたより。……ごめんなさい」

「もう、謝らないでくださいよ」

「ごめんなさい。やっぱり、謝らなきゃって思います」

 

 いざ言葉にしようとすると、私の口からはまた恐れをなしたフレーズばかり。やっぱり、一人じゃここまでしかいけないのかもしれない。大人になったら、誰にも頼れず一人なのに。

 でも、それでも。誰にも頼れなくても、それでも。

 

「……スカイさん、落ち着いて。今日はみんな、スカイさんの話を聞きに来たんですから」

 

 私には、それを追いかけてくれる人がいる。追いかけて捕まえて、並び立ってくれる人が。フラワーの言葉で、私はまた支えられて。一人じゃないって、そんな気がして。すーっと息を吸う。ふーっと吐き出す。茜色の差し込む窓際に立つ、二人のウマ娘と。その反対側に立つ、私とその傍らの少女を見て。

 

「話しても、いいですか」

 

 ぽつりと、呟いた。無言の肯定が、私を迎える。傾いた太陽と三人の目が、じっくりと私を見守っていた。

 

「有マ記念で、グラスちゃんに負けた。多分それが、私にとっての終わりの始まりだった。一番人気に応えられなかった。そんなもの関係ない、実力さがあるんだって多分そこで思っちゃった」

 

 滔々と、言葉を重ねる。限りなく無色に近い、純粋無垢なかたちのもの。多分、素直になれていた。今でも過去でもなんでもいい、それは私の言葉だった。

 

「それで、エルが海外に行った。もっと先の夢を見つけて。その時に、自分はどうなんだって多分思った。クラシックの成績で満たされて、そこで終わりなんじゃないかって」

 

 先のある人間。先のない人間。その差が、きっと怖かった。それは才能であり、期待を裏打ちする何より残酷な事実。実力の差が、怖かった。

 

「それで前の春の天皇賞で、スペちゃんに負けちゃった。あの時のスペちゃんは完璧じゃない。多分私と同じ、不完全な状態だ。それでも、強い子は強いんだよ。そう、わかっちゃったんだよ」

「そうね。グラスさんもエルコンドルパサーさんもスペシャルウィークさんも、憎たらしいくらいに強い。……私も、思うもの。私は並び立てているのか、って」

「……そう、キングの言う通り。でも、キングはまだ頑張ってる。私は逆で、これ以上先には何もないって直感しちゃった。だから、先に閉じようとしたんだよ」

「それで、スカイちゃんは。……私、スカイちゃんのこと何にも分かってなかったですね」

「いいんです、トップロードさんはやっぱり悪くない。回りくどいことをして、素直に言えなかった私が悪いんです」

 

 だから、今度こそ。

 

「走るのが怖い。だから、助けてって」

 

 私は素直に、助けを求めなければいけない。

 

「走るのが怖くなりました。そうなったらやっぱり、走るのは苦しいです。これ以上走ったら、失望されるだけです。セイウンスカイはこんなものかって、期待を裏切るだけなんです。それなら最初から期待されない方がいい。それでもがっかりはされてしまうかもしれないけど、期待を重荷に感じてしまうよりよっぽどいい」

 

 堰を切ったように、私は弱音を吐き続ける。そのかたちは先日みんなにぶつけた拒絶と大して変わらないけれど、そこに乗っている色は全く違う。醜悪で穢らわしい、自分自身を痛めつけるための色とは違って。

 助けて欲しい。そんな、薄くて深い色だった。

 

「私はだから、大人にならなきゃいけないって思った! そうしなきゃ耐えられない、きっと寂しくなるってわかってたから! ……なのに、みんな優しくて。それでもいいよって、言ってくれて。それなのに私自身が、私のことを許せなくて。元の場所なんて戻る資格がない、そう言い聞かせられてきて」

 

 涙が溢れそうになる。私に泣く資格、あるのかな。自分のことなんかで泣いて、いいのかな。

 ああもう、わかんないや。溢れちゃった。

 

「だから、だから! だからみんなのことも嫌いになりたかったのに、嫌いになんかなれなくて! そうしたら嫌われるしか、方法は見つからなくて! でも、嫌ってくれないの。キングもトップロードさんもフラワーも、みんなみんな優しいの」

「スカイさん、それはスカイさんが優しいからですよ」

 

 ぽふり。ぎゅーっ。泣き崩れてしまった私の後ろから、小さくて暖かい体重がのしかかる。優しく、柔らかく。けれど確かに、私を抱き止めながら。ニシノフラワーは、言葉を続ける。

 

「スカイさんは、スカイさんが思っているより優しい人です。優しくて、強い人です。自身なさげに走っても、いつのまにか勝っちゃう人です。今日も少し走っただけで、嬉しくて顔が綻んじゃう人です」

 

 そうなのかな。涙交じりの思考は、ただ言葉を受け止めることしかできない。これ以上ないくらい、素直にそのまま受け取るだけ。けれどそれで十分なのだろう。私たちの関係なら、きっとそれでも語り合える。

 次に会話を引き継いだのはキングだった。これはきっと想いのバトン。だから話者が変わっても、そこに込められた色は一つ。それを伝えるために、この空間は私たちだけのために開かれている。

 

「そうよ、スカイさん。貴女は走るのが怖いと言ったけれど、それならそれに負けている私はなんで諦めてないのか不思議に思わなかったの? それでも、走るのは楽しいからよ。私は何度か、負け戦のリプレイを見るようにしているけど。菊花賞の時の貴女は、最高に幸せそうな顔をしていた。そんな貴女が走るのが怖いなんて、ありえない」

「でも私はっ、きっともう、変わっちゃって」

 

 そんな何度も述べた否定と拒絶も、今の三人には敵わない。三人がかりの想いの力には、一人きりでは敵わない。私の本当の願いは、今強引に開かれようとしている。強引だけど、これしか方法はない。随分と荒療治だとしても、この道のりしかあり得ない。

 最後にバトンを受け取ったのは、トップロードさん。あの日の怒りより強い想いを、限りなく優しい声音で差し伸べる。より強い想いを持てたのなら、あの日の怒りも無駄じゃなかった。きっと、そういうことでもある。

 

「ううん。違うんですよ、スカイちゃん。スカイちゃんはまだ、私たちの話を聞いてくれるじゃないですか。あの日私を怒らせたことも、悪いって思ってくれちゃったじゃないですか。それはとっても、とーっても大事なことです。スカイちゃんがスカイちゃんのままだって、その証明です」

「私の、まま……?」

「はい。スカイちゃんも本当は、とっくにわかってるんじゃないですか? 確かに、変わってしまったことはあるんだと思います。あなたにとって大事だったものが、見つからなくなったり。けれど、それならまた探せばいいんです。それが大事だって気持ちは、絶対に変わってないんですから」

「だい、じ。わたしの、だいじな、ことは」

「きっと、探せば見つかります。それを整理するためにも、まずは思いっきり泣いてください。……大丈夫、私たちしか見ていませんから」

 

 それが、本当の赦しだった。私は、泣いてよかった。助かりたいって思ってよかった。まだ走りたいって、思ってよかった。そこで思考は止まり、後はただただ感極まっていた。静かに、音はなく。きっとキレイな夕空を映した雫が、柔らかい木の床に溶けてゆく。

 そのまま、しばらく。全ての気持ちが、ほどけてゆくまで。

 

 

「落ち着いたかしら」

「うん、なんとか。気持ちの整理ってやつは、多分済ませた」

 

 気付けば太陽は月と入れ替わり、すっかり夜になっていた。教室の時計は大体午後八時。うわ、そんなに話して、あと泣いちゃったのか。なかなか貴重なはずの三人の時間を、私のためだけに使わせてしまった。多分後で、埋め合わせが必要だ。とりあえず、そう思ったけど。

 

「……じゃあ、行ってくるよ」

「……トレーナーさんの、ところですか」

「はい。今の時間なら、一人でチーム部屋にいますよね? 会って、話をしてきます」

「大丈夫、ですか」

「大丈夫ですよ、トップロードさん。先程言った通り、気持ちの整理はつきました。それに」

「それに?」

 

 それに答えるために、私はようやく立ち上がり。笑った膝をなんとか手で押さえながら、全てを見据えて宣言した。

 

「ここから先は、大人の時間。大人二人で、話をしてきます」

「……そうか。スカイちゃんはもう、大人なんでしたね」

「はい。やっと、大人になれました。これは間違いなく、みんなのおかげです」

 

 みんなのおかげで、立ち直れた。みんなのおかげで、元の私に戻れた。そしてみんなのおかげで、元の私より更に先に進むのだ。これはきっと、とても遠大な回り道。だけど必要な、回らなければいけない第四コーナー。

 最後の直線は、近い。そしてそこへの行き方も、その果てにあるゴールも。今度こそ、私は知っている。私の気持ちの、正体を。

 

「じゃあみんな、本当にありがとう。特にフラワーを連れてきたのは、私だし」

「いえ、スカイさんの力になれたのなら何よりです。それが嬉しいって、言ったじゃないですか」

「そだね。なら、またいつか頼るかも」

「はい、またいつでも」

「でも今は、一人で行くよ」

「はい、それもきっと大事なことですから」

 

 ようやくまともに立てるようになって、少しよろけながら教室の扉をスライドさせる。これじゃやっぱり、みんなを不安にさせてしまうかも。そうは思いはしたけれど、誰も追うそぶりは見せなかった。これもきっと信頼と期待。私なら、うまくやれる。そう信じてくれるのなら、私はそれに応えるだけだ。

 

「じゃあ、キング」

「行ってらっしゃい」

「トップロードさん」

「頑張って、ください!」

「フラワー」

「とりあえず、今日はさようならですね」

「……うん、みんな。ありがとう、また明日!」

 

 そう、とびっきりの笑顔で言い残して。向けた背中はとても軽くて、まるで大きな翼が生えたみたいだった。もしかしたら本当に、三人がかりで私に羽を生やしてくれているのかもしれない。そんな突拍子もない考えが浮かんだ。それからは振り向かなかったから、本当に背に羽が生えているのかいないのかなんて感覚でしかわからない。

 でも、もし本当に生えていたのなら。

 それはきっと白く大きな、白鳥(キグナス)の羽だろうと思った。デネブとアルビレオが作る光など、それしか有り得ないのだから。

 さあ、最後の星を掴みに行こう。アルビレオは二重星。あなたと私で、一つの輝きなのだから。




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廻天

 駆けろ、星の速さで。願い叶えるほうき星を、見失ってしまわないように。今度こそ、置いていかれないように。校舎の三階からチーム部屋までは百メートルとちょっと、いつものレースなんかよりとっても短い。だけど、長い長い道のりだった。ここまで来るのが、とっても遠かった。これは回り道かもしれない。もっと効率的に動けたかもしれない。でも不器用な私たちには、きっとそれくらいの長さが必要だった。だから、無駄じゃない。

 校舎を飛び出したところで網膜の隅にまで焼き付いたのは、満天に煌めくキレイな星空だった。この空を、私は生涯忘れることはないだろう。だって今日は運命の日。私が大人になる、大切な日なのだから。

 何度も行き来した記憶を辿り、馴染み深い場所に行く。たった数日来ていないだけなのに、幾千幾万の夜を超えたように錯覚する。それほどまでに、愛おしい場所。抱き締めて、離せない場所。私の、居場所だ。

 僅かに荒れた目的地までの地面は獣道のようになっていた。その上をなぞる様に軽く脚で擦り付け、また新しく地面に傷跡が出来る。これも、私たちの積み上げたものの一つだ。私たちが何度もこの場所に通うことで、ここに道が出来ていた。おかげで私は今、夜の闇の中でもその光を見失わずに辿れている。もうほんの少し先、あと30mもないラストスパートもラストスパート。古ぼけた小さな小屋は、今も変わらずそこにあった。うん、明かりもついている。そこで、あなたは待っている。ゴールのその先に、あなたの姿を見ることができる。

 怖い。きっと怖い。そうじゃなきゃ、こんなに呼吸は荒れていない。幾多のレースを乗り越えた心臓が、はち切れそうなくらい苦しくなったりしない。でも、それでもなのだ。ゆっくりと減速する。脚は徐々に回転を緩める。止まった時には、見慣れた扉が目と鼻の先にある。それでも、私は。

 

「入るよ、トレーナーさん」

 

 それでも私は、あなたのために。あなたと私を救うために、ただ話をするために。ぎこちないノブを回して、軽くて重い扉を開けた。

 返事なんて、待たなかった。

 

 

 部屋の外からでもわかったことだけど、明かりはトレーナーさん備え付けの机にあるデスクライト一つ分だけだった。相変わらず埃っぽくて、ごちゃっとした部屋だった。狭くて、小さくて、なのに誰でも飲み込んでしまう、不思議な場所だった。

 ドア近くにあるスイッチを入れると、ギラギラと眩しい蛍光灯が部屋中を照らす。隅の隅まで、闇が消えてしまうまで。そうしてやっと、私はあなたの姿を見る。何着同じのを持ってるのかわからない薄手のカッターシャツ。その袖から伸びる骨張った腕。昔できただろうタコの消えていない、ゴツゴツとした節のある指先。そんないつも通りの姿形で、必死に書類と向き合っていた。

 暑苦しいな、といつもは思っていたけれど、こうして見ると苦労を重ねた手にも見える。多分きっとその通りで、トレーナーさんも大人になるまでに苦労があったのだろう。そうして大人になった後も、今日までのように苦労を重ねて来たのだろう。人は変わる。人は苦労する。それは大人になってもで、どこまで行っても完成しない。むしろ他人を安易に頼れなくなった大人の方が、より辛い時もある。ほんの少し前の私のように。今必死に私を無視する、トレーナーさんのように。

 

「自分はもう、セイウンスカイには必要ない」

 

 多分、トレーナーさんはこう思っている。私が言った通りに律儀に、愚直に。これが私の本当の罪。強くて堅い大人の弱みを、一筋に貫いて崩してしまった罪。あなたは私の言葉を受け止めてしまった。大人だから、あんな拒絶を真っ向から受け止めてしまった。私の身勝手な「正論」。あなたと私は違うという、当たり前のこと。

 それは、確かに当然だ。トレーナーとウマ娘は、非対称のパートナー。どれだけ重なり寄り添えど、決して一つにはなり得ない。そんな、当たり前。だけどだからこそ、私にはあなたが。二重星は双星の輝きから成ることで、初めて世界を照らせるのだから。

 だから。私にはあなたが、必要だ。

 

「トレーナーさん」

 

 あなたの目の前に立つ。あなたが目を逸らしても、月の作る影が重なるように。そして影から生まれる光さえ、重なってしまうように。それでもがりがりと黙々と、いつもあんなにうるさいのに押し黙っているトレーナーさんがいて。……ああもう、じれったい、なあ!

 がしり。ひたすらにインクを走らせるそのざらざらした右の手の甲を、無理矢理上から握りしめて。大きくて、掴みきれなくても。ぎゅっと、ぎゅっと捕まえて。すかさず逃げ出す左の手は、その手首の太い骨ごとわっかに閉じ込められるよう全部の指を回して。デスク越しの攻防はあっけなく終わった。まあヒトとウマ娘のパワーの差、ってやつかな。

 ほら、捕まえた。こうなればもう、あなたは私の顔を見るしかない。私も、あなたの顔を見るしかない。逃げられない。お互いに。

 だから、もう一度。

 

「トレーナー、さん」

 

 今度こそ、話がしたいんだ。

 冷たい沈黙が場を包む。それでも怯まずあなたの方を見つめ続ける。こちらに目が向いてくれるまで、ずっとだ。捕まえた両の手も動かさないし、これ以上暴れるならウマ乗りになってでもとっちめてやる。そのつもりだ。

 もう二度と、私たちの間に断絶が生まれないように。どんな静寂も世界を引き裂かないように、私はあなたを待ち続ける。そう、決めたのだ。

 私はあなたを拒絶した。私はあなたを壊そうとした。大人なんだから耐えられるだろうと、甘えた言葉を投げかけた。でも、そんなわけはなかった。大人でも辛いことはある。大人の方が辛い時もある。大人になった、私ならわかる。

 だから。

 

「……なんだ」

 

 だからこれから始まるやりとりは、大人同士の会話なのだ。大人だから言えること、大人同士だから言えること。ほら、あなたも口を開いた。いつもの暑苦しい言葉が出てきそうにもない、いつも通りのかさついた唇。やっぱり、あなたは変わっていない。もちろん変わったところもあるけれど、それでも変わらないところはある。

 

「……言いたいことがあって、来ました」

 

 だってこうやって最後には、私の瞳を見据えて話を聞いてくれるのだから。

 蛍光灯よりもデスクライトの光よりも、窓の外の星空がキレイだった。

 

「なあ、腕を離してくれないか」

「それはお断りします。全部聞いてもらうまでは、この態勢です」

「君もしんどいだろう、机に前のめり」

「トレーナーさんほどじゃないですよ、壁に押し付けられて」

「君のせいだ」

「そりゃ、もちろん」

 

 はあ、とため息を吐かれた。ちなみにその顔は常に50cmくらいの距離を保って見つめてやっているので、定期的にそっぽを向かれる。そんなに気恥ずかしいか、自分を追い出したウマ娘に見つめられるのは。

 まあ、それでも。どんな態度を取ろうと、トレーナーさんはトレーナーさん。あの日私が別れを告げて、今再び取り戻そうとしている人。いつも私を励ましてくれて、そのくせわかりやすく一人で悩むこともある人。私にとってかけがえのない、あなた。だからこそ、私はあなたに伝えたい。

 

「まずは天皇賞(春)の日、すみませんでした。……とりあえずこれは言っておかないと、何も言う資格がない気がして」

 

 思えば最近の私は謝ってばかりだ。拒絶のために、懺悔のために、結び直すために。それでもそれだけ、罪を謝ることの意味は深い。そこに込められた人の想いを、ありありと映し出す透明な鏡。だから私はきっと、今までそれを躊躇してきた。だから私はきっと、今ならそれを言えるのだ。

 

「本当に、ごめんなさい。酷いことを言いました。謝って許してもらえることじゃないのもわかります。……それでも、この気持ちは伝えなきゃって思って」

「……君は、悪くないだろう」

 

 そしてやっぱり躊躇いがちに、だけどあなたは私の言葉に言葉を繋げてくれる。会話は細い糸を結び合うようなもの。一度ほどいたものを再び結び直すのは、散らばった糸屑から目当ての色の糸を探し当てるようなものだ。難しいけれど、不可能じゃない。あなたの言うように努力すればきっと、結果に必ず結びつくもの。

 ようやくで、まだ拙くて。けれど、確かに。

 大人の時間の、大人の会話。そこに、辿り着いた。

 

「悪くない、ですか。まだ、そう言ってくれるんですね」

「そうだ。……あれから、俺も考えた。スカイを追い詰めたのは、俺が君に結果を出させることが出来なかったから。それなのに、期待を見せ続けていたからだ。それが負担になっていた。そのはずだ」

「確かに、そういう見方もできますね」

「トレーナーの仕事は、ウマ娘の夢を実現させることだ。つまりそれが出来なかったとしたら、それは俺の責任なんだよ。君の才能、なんかじゃなくて。だから、君は悪くない。悪いのは、俺の方だ」

「……はぁ」

「これ見よがしにため息を吐くな」

 

 むう。そうは言うが、そりゃそうだろう。そんなのは綺麗事、まさに正論。それだけじゃないって、大人ならわかるのに。この人は大人だからこそ、また根性論と正論で押し通そうとしている。つくづく、ずるい。ずるいのは私だけでいいのに。

 

「あのですね、トレーナーさん。一つ、教えておきますけど」

「なんだ」

「弱音を吐いたのに否定されるのも、それはそれで辛いんですよ?」

 

 だから、あなたには私の罪を否定するんじゃなくて。

 

「……それは、すまん」

「はい。だからもし、私に悪くないって言いたいなら」

「どうすれば、いい」

「認めてください。私のことを、褒めてください。……それだけで、いいから」

 

 罪も含んだ私の全てを、肯定してほしいのだ。

 

「スカイは良くやっている」

「もっと」

「そうだな、気配りもできるし頭も回る」

「もっと、ください」

「レース運びにはいつも惚れ惚れさせられる。あとはそうだな、ケーキは美味かったし、釣りもうまい。それに、優しい子だ。……それと」

「あーもういいです、慣れないことを要求するもんじゃないですね」

「そうか。だが、君はよく出来たウマ娘だ。偉いぞ、スカイは」

 

 ……いっつも褒めないくせに、こんな時だけ。ぽつぽつとぎこちないくせに、その分いつもよりまっすぐな言葉で。ああもうほんとに、心の底から思うけど。

 苦手だなあ、この人のことは! 出会った時から、ずーっと!

 

「もう、わかりましたから。トレーナーさんが、私を買ってくれているのは。……そうですね、それが期待と賞賛というものです。子供の私が欲しくて欲しくてたまらなかった、だけど諦めようとしていたもの。それに気づかせてくれたのが、トレーナーさんでした」

 

 ならば。それならば、私も出来るだけ素直な言葉を返そう。そう思って吐き出した言葉は、今まで何度も食んでは出さずに呑み込んでいたもの。だから多分どろどろで、きっと他の人には見せられない。でも、あなたになら。

 

「それでも、私は更にそこから変わっていった。だからいつまでも、子供じゃいられなくなった。変わってしまったこともあると、やっぱりみんなと話した結論はそれです。私は、変わっていました」

「聞かせてくれないか。君の言う、結論について」

「……もちろんですとも」

 

 いつのまにか互いの身体の力は緩み、ただ向かい合っているだけ。両の手のひらを繋いで、そのまま向かい合っているだけ。手のひらと手のひら越しに、あなたの熱が伝わって。普段は低い私の平熱を、暖かく染め上げる。

 

「私はずっと、あの春天で思い知らされたものを勘違いしていました。今の私には才能がなくて、だからどうしても勝てないんだって。有マもそう、春天もそう。そう思うことで、別のものから逃げ出していたんです。走るのが怖い、そう思うことで」

「なら、君は走れるのか。もう一度、夢を見せてくれるのか」

「それは結論が早いですよ、トレーナーさん」

「……すまん」

「謝らなくていいですってば。話をややこしくしてるのは、私が悩み続けてたからですよ」

「悩むことは必要だ。それで前に進むことができる」

「流石の正論ですね。まあ、今回は同意します。私は悩んだことで、この結論に辿り着きました」

 

 悩まなければ、きっと自分でも気付けなかった。悩んでこれだけ回り道をして、皆に支えられたから。そして今あなたが応えてくれたから、私は答えを述べられる。

 

「私は、走るのが怖くなったんじゃない」

 

 少しだけ、けど確かに違う結論。その方向に。

 

「私は、負けるのが怖かったんです」

 

 私はようやく、前に進んだのだ。

 

「それは当たり前のことだ。何も恥じることじゃない」

「そうですね。でも、多分今までの私は恥じていました。そうすれば期待に応えられないのだと、恐れていました。だから知らず知らずのうちに、考え方を変えていました」

 

 それがおそらく、グラスちゃんが本当に言いたかったこと。スズカさんにも気付かれたこと。

 

「私は負けて、悔しいって思うのを忘れるようにしたんです」

 

 それが本当に、私に足りなかったものだ。

 

「悔しい、か」

「はい。だって悔しいって思っても、私はこれ以上伸びはしない。多分有マの時から既に、『才能』に縛られていたんですよね」

 

 悔しいことを忘れてしまうこと。そうすれば、全てを出し切ったことになる。負けても悔いはないと、強制的に思考を止めること。そうすれば私は、失望への恐怖を堰き止めることができる。だから、そうしていた。期待を裏切らないいい勝負だったと、敗戦を無理矢理美化することで。

 私は誰の期待も、裏切りたくなかったのだ。

 

「才能がないと、失望されるのが怖かった。惨めに負けて、次がないのが怖かった。だったらこれが全力だと、健闘したって認めてもらえればいいんだって。そう思わないと、怖くて耐えられなかった」

「君は勝てる。これからも、だ」

「優しいですね、トレーナーさん。でもあの時の私は、その言葉が一番怖かったんです」

「……それは」

 

 私の言葉に反応して、トレーナーさんの栗色の瞳がぱちくりと見開かれる。そう、多分驚くと思ったのだ。だから多分、これが一番言わなきゃいけないこと。私とあなたの会話は、そのために再開されたのだ。

 

「トレーナーさんの期待が、一番嬉しかったです。だから一番、裏切りたくなかったんです。だから、あの時。あの時私は、諦めようとしたんです。……もうこれ以上、あなたの担当ウマ娘の負け戦を見せないために」

「俺の、ため」

「まあ、私のエゴですけどね」

 

 誰よりもあなたに、負けた姿を見せるのが怖かった。次があるって言ってくれるあなたの、次がなくなるのが怖かった。あなたを諦めさせるのが、たまらなく怖かった。だから先に諦めようとしたのだ。私が勝手に。そうすればあなたは傷付かない。あなたが挫折を経験する必要はない。そんな醜い思いやりから、この堂々巡りは始まった。私の怒りの正体は、あなたへの想いをあなた自身に否定されたことから生まれたものだった。身勝手で、だけどそれしか浮かばなかった。

 とても哀れでちっぽけだけど、私という大人にとってはじめての、大人同士の気配り。そしてそれを意図せず蔑ろにされたのが、全ての始まりだったのだろう。今となっては笑うこともできない、間の抜けた話だ。

 だけど、トレーナーさんはそうは言わなくて。優しく、やさしくうけとめてくれて。

 

「やっぱり君は優しい。俺はそこまで考えが及ばなかった。……すまん」

「なんで、なんで謝るんですかぁ……」

 

 謝られたら、肯定して受け止めるしかないのに。あなたは悪くないって、そう言いたかったのに。

 

「やっぱり、俺の責任だ。これは本心だ。君の悩みに気付けなかった。君の配慮に気が回らなかった。君の否定を受け入れることが、せめてもの償いになると思っていた。……だが、そうじゃなかった」

「……はいっ、はいっ……! そうじゃっ、ないんです。私は、わたし、はっ……!」

 

 また、泣いてしまっていた。今日二度目だ。拭うべき手のひらはあなたの手のひらをぎゅっと握りしめていて、涙はそのまま頬をぽろぽろと伝い落ちる。でも、いいや。泣きながらだけど、私はそれが全てを取り払ってくれる気がして。一度目に零し切れなかった感情を、全てを流し落としてくれる気がして。

 

「私はやっぱり、走りたくて……っ! 負けるのは怖いけどっ、才能だってやっぱりないんじゃないかって思うけどっ……! それでも、それでも期待されたくて、褒められたくて」

「いいんだ、それでいいんだよスカイ」

「……いいんですよね、私が自信を持っても」

「もちろんだ。それを保証するのがトレーナーの仕事だ」

「いいんだよね、私が夢を持っても」

「当然だ、俺はそのためにいる」

「ならっ、ならっ……!」

 

 涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃで、きっととってもみっともない。それなのにあなたは私を逃してはくれなくて、ずっとこちらを見つめている。私を、認めてくれている。

 一度だけ、吸って、吐いて。やっぱりもう一度、すーっと吸ってふーっと吐いて。うん、最後くらい。最後の一言くらいは、しっかり言いたいから。

 僅かに逸らしていた首が向き直る。また目が合う。迷いは、もうない。

 

「私は走る。まだ、もっと、更に。トゥインクル・シリーズの歴史に名を残せるくらい、その先のドリーム・シリーズに行けるくらい。そうすれば、もっと走れるから。それくらい、走るのが好きだから」

「それは、いい夢だな」

「はい、これが私の夢です。今までの色んなこと、楽しいこと、苦しいこと、全部を束ねた夢です。いい夢、でしょう」

「ああ。だが大変だ。ドリーム・シリーズに認められるには、相当な成績が必要らしい。俺も詳しくは知らないくらいに、だ。まさに、夢の舞台」

「なるほど。じゃあ、頑張り甲斐がありますね」

「……強くなったな、スカイ」

「トレーナーさんのおかげですよ、それは」

 

 そう。私の弱さがあなたのせいなら、私の強さはあなたのおかげ。あなたがいなければ、私は走ることなんて出来ないんだから。

 だから。だから私の夢には、きっと。

 

「トレーナーさん」

「なんだ、スカイ」

「私と一緒に、走ってくれますか」

 

 きっと、あなたが必要だ。あなたじゃなきゃ、あり得ない。

 

「私の、ゆめを……っ、ささえて、くれますか……?」

「また泣いてるぞ、スカイ」

「……うるさい、この正論男」

「なんだそれは」

「ずーっと思ってたことですよ。これから先も、ずーっと」

「ああ。これからもずっとサポートするつもりだ。俺は君を信じているからな。君は『走る』ウマ娘だと」

「……もう、このばか」

 

 そのまま私は項垂れるしかなくて、残ったのは繋ぎっぱなしの手のひらだった。もうこちらからはほとんど力は抜けているのに、今度は逆にあちらから強く離すまいと握られた手のひらだった。ごつごつして硬くて、けれどずっと握っていられるような手だった。そんな、大人の手だった。

 涙の海に映る、私とあなたが二人。

 透明な青空に光り輝く、決して離れない二重星(アルビレオ)

 

 

 

「一番人気セイウンスカイ、軽やかにゲートに入ります」

 

 軽やかに、か。まるでなんの苦労もないみたいな顔をしてみせてゲートに入ったのは確かだけど。ここに至るまでの苦労の数々は、限られた人間しか知らないことだ。そして、知らなくていいことだ。私に出来るのは、期待に応えて褒められるってことだけなんだから。

 地下バ場で、スペちゃんに謝られた。春の時はごめんって、それでも勝ったんだから誇ればいいのに。まあ確かに気にはしていたから、今復活していたならよかったと思う。遠慮なく、叩き潰せる。

 叩き潰せると言えば、キングの目標は今日私を悔しがらせることらしい。「貴女が大人だか知らないけど、私にとっては倒すべきライバルの一人でしかないわ」なんてことを練習復帰初日に言ってのけるのだから、まったく優しいお嬢様だことで。

 きっと、こうして私は大人になった。けれど変わらず、この青く広がるターフを走れている。それはこれから永遠に続くとはいかないかもしれないけれど、努力で長く積み重ねることが出来るものだ。そしてもちろんあの日それが途切れなかったのは、私だけの努力ではない。キングにフラワー、トップロードさんにトレーナーさん。みんなに支えられて引っ張りあって、私は今ここにいる。

 

「楯の栄誉を賭けて、今」

 

 おっと、アナウンスがいよいよだ。ここから一歩踏み出した先には、未知のゴールが待っている。誰が勝つかなんて決まってない、だからこそ私たちは走るのが楽しいって思える。だってそこにあるものは、煌めきを湛える未来だから。それが怖いなんて、もう誰も思いやしないんだ。

 相変わらず、ゲートは狭い。全てを決めてしまう。入ったら、終わりが始まる。だからちょっぴり苦手だけど、前よりは少しマシになった。そこで終わりじゃないと知っているから。私の努力は、私を裏切らないから。いつか必ずあらゆる形をとって、今までの自分は助けてくれる。それを、もう知っているから。それが私の一番の変化。私の成長。

 こうして私は、大人になったのだ。

 

「天皇賞(秋)。スタートしました!」

 

 がこん。そうして開けた視界に広がるのは、やっぱりキレイな青空だった。

 最高に、キレイだった。

 

 




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もうちょっとだけ続くんじゃ


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セイウンスカイは正論男に・1

 本格的な釣りというものは釣り座選びから始まる。吟味した場所にどっしり腰を据えるか、あるいはスポットをいくらか見繕っておいて細かく移動しながら釣るか。なにせ相手は野生だ、釣り堀のようにはいかない。まあ、それも踏まえて……ここら辺かなぁ。まだ朝早いのでそこまで釣り人はおらず、少ないお辞儀と共に私も準備を始めていく。とりあえず、一人分。もう一人は現地集合だから、今のうちにメッセージでも送っておくか。

 

(堤防の先っちょの方にいます……っと)

 

 まだ潮に濡れていないうちにスマホの操作を終え、それを終えたら手早くバケツを海に下ろす。オモリ付きの折り畳み可能な水汲みバケツで、海中に入れると勝手に底がひっくり返って水の中に沈み込む仕組みのもの。なかなか便利で、愛用している。

 

「……と、さて。……うん、しょっぱいねえ」

 

 バケツについたロープをするすると持ち上げると、海水たっぷりの釣果入れバケツの出来上がり。幅奥行高さ全て22cm、その標準的サイズの底までたっぷり入った海水に少し指を浸してちろちろと舐めると、当たり前だけど塩辛かった。まあでも、これを確かめないと海に来たって感じはしない。泳ぐのは苦手だけど、海は好き。そんな私の矛盾した感覚は、殊釣りによって育てられたものだ。

 リールにロッドをセットし、金属で出来たベールを起こしてナイロン製の釣り糸を引っ張り出す。リールはスピニングリールの2500番、ロッドは240cmのサビキ竿。どちらも一般的なサビキ釣り用のセッティングだ。

 すなわち、今日はサビキ釣りの日である。秋も深まってきた今日この頃、都内に限らず全国各地は絶好のアジ釣りシーズン。ちょっと寒くなってきたくらいが、魚にとってはちょうどいい水温なのだ。食欲の秋、は人に限らずということか。

 ロッド先端のガイドに糸を通し終えたら、次は仕掛けのセッティング。解凍しておいたコマセ(小さい餌のこと)をそれ用の小さなカゴに八分ほどまで詰め込み、その下から複数本擬似餌付きの三号サイズの釣り針が垂れているのを確認する。このコマセと疑似餌の混同で針を引っ掛けるのが、サビキ釣りという物の仕組みだ。

 さて、これで仕掛けは完了。あとはもう一人を待つだけ……なんだけど。トレセン学園からそれなりに離れた場所にある海釣り公園はまだ日の出前、始発の電車がようやく出るか出ないかの時間帯。こんなに早くに私が目的地にいるのは、なんといってもここまで私が走ってきたからだが。普通は周りの釣り人たちみたいに、釣り場の近所に住んでないとこんな時間には来れないだろう。色々な意味で。

 さて、私がこんな早くに来たのは海釣りが待ちきれなかったというわけ……だけではない。それも多分ちょっとはあってしまうのだが、ちゃんと真っ当な理由もある。極めて真っ当な理由が。

 

「よっ……ほっ!」

 

 リールのベールを再び起こし、海面に向かって静かに仕掛けを投げ入れる。仕掛けの深度を目視で確認し、ある程度沈んだらベールを下ろしてラインを固定する。うーん、やっぱりこの瞬間はたまらないね、なんて。サビキ仕掛けのついた竿をくくんとしならせ上下させると、すぐに反応は返ってきた。手応え、あり!

 うねるロッドを持ち上げると、仕掛けの先端には早速アジが三匹。釣果、アリ。そう、これがこんなに早くに来た理由。朝夕の日の出日の入り前後の時間帯は、もっともよく釣れる時間帯。だからわざわざ超早起きして一人でここまで走ってきたわけだけど、その甲斐はあったというものだ。

 針から手早く獲物を抜き取り、全てバケツに放り込む。釣れるうちにさっさと第二陣を投下しよう。まあ、ここは釣り堀じゃないし。釣ったら釣った分だけお得で、餌がなくなることもないし。

 だから、まあ。

 ごめんなさいトレーナーさん、あなたが来る前にあらかた楽しんでおきます。

 そう虚空に平謝りして、再び仕掛けをセットする。そう、今日はトレーナーさんとの初めての海釣り。確か、私から誘うのも初めて。……なんで誘ったんだっけ。まあいいや、とりあえず今は、今日は釣りを楽しむ日。私たちが掴んだ未来の先にある、ご褒美みたいな日なんだから。

 そんな私の半身を、朝の日差しが下から照らす。眩しくて眩しくて、目を瞑りたくなってしまうほどの。

 今日という日の、夜明けだ。

 

 

「おーい、スカイ! すまない、待たせたな」

「本当ですよトレーナーさん、あらかた釣り終えてしまいました」

「……確かに、そんなにたくさん釣れるものなのか。……もう、すぐ帰るか?」

「何言ってるんですかトレーナーさん、あなたが来るのを待ってたのに」

「すまん」

「律儀に謝らないで、ほら横座ってくださいな」

「すまん、失礼する」

「もう、だからさあ」

 

 こちらに近づくほどに奇妙に歪んでいくトレーナーさんの顔は、なんだかとってもおかしかった。その太眉を意図しない方向に曲げてやるのはいつでも楽しい。こんなにでかい図体してるのに、私の手の上に収まってころころ転がるんだから。それが楽しくなきゃおかしい、むしろそうでなきゃ失礼だろう、うん。

 

「ほら、トレーナーさんのロッド貸してください。準備くらいはやってあげますから」

「それくらい自分でも出来る」

「変な意地張らないで、ここは大人しく先輩釣り人に任せなさいって。正直セイちゃん不安なんです、トレーナーさんがちゃんと今日楽しめるか。だから、出来るだけのことはしてあげたいのに……」

「すまん! そういうことなら、ぜひお願いする」

「あっはは、そんな深刻に受け取らなくていいのに。本当にトレーナーさんは、心底トレーナーさんですね」

 

 そう言って、大人しくさせたトレーナーさんから釣り具一式を受け取る。ふむふむ、ちゃんと自分でしっかり揃えては来てるんだ。こういうところやっぱり真面目でしっかりしてるんだね、この人。流石トレーナーという仕事をしているだけあるんだけど、普段は結構抜けているところもあるから、これも意外と努力の成果なのかも。それなら私はそれを尊んでやるべきか、はたまた崩しを入れてやるべきか、などなど。

 そんなことを考えながら、多分トレーナーさんより数段慣れた手つきで、もう一人分の仕掛けの準備をしていく。ロッドにリールをセット、セットしたリールから糸を引いてロッドのガイドに通す。先程もやったばかりのことだから、まあ間違える心配はない。トレーナーさんもサビキ釣りなのは当然と言えば当然だが、私とお揃いであった。いや、釣りに関してはお揃いじゃない方がおかしいのだが、それでもちょっとくすぐったい気持ちがあるのは事実で、だからもしかしたらそういう理由で。なんだかんだと、浮かれてしまっていて。

 ちくっ。柔らかくて細い針が、それよりも柔らかい私の指の腹を刺す。手元が僅かに狂う、音がした。

 

「……いたっ」

 

 針を触る時は細心の注意を払うべきなのに、私としたことがそれを怠ってしまっていたのか。などと考えながらも、痛みに連動して僅かな時間で思考は目まぐるしく変遷する。血は出てない、ちょっと皮の上から刺さっただけだな、とか、それにしても浮かれ過ぎは良くない、冷静沈着を保たなければ魚に逃げられるぞ、とか。

 だから多分色々なことを考えてはいたのだけど、それを横から見ている人のことなどすっかり忘れていたというか。そんなに反応するなんて、思いもよらなかったというか。鬼気迫ると言っていいほどの大声が、釣り場に響き渡った。

 

「……大丈夫か、スカイ!!」

 

 そして、そんなに耳元で叫ばれてしまったものだから。

 

「……きゃっ!?」

 

 そんな私らしくもない叫びと共に、私は心底驚いてしまって、狂い始めた手元がさらに狂う。びくん、と思いっきり全身が跳ねて、十の指先に乗せていた仕掛けがあらかた地面に落ちる。

 落ちなかったのは、針の一本。ぶすり、と先程よりも深く、私の指を傷つけていた。

 

「いっつー……っ」

「ああすまんスカイ! そんなつもりじゃなかった、本当にすまない、悪かった」

「……年下相手にそんなにびくびくしないでよ、かすり傷ですから」

「しかし、その指」

「えっ? ……ああ」

 

 そう言われて針の刺さった人差し指を見遣ると、今度は僅かに赤い血が根元から流れていた。思ったよりも深く刺してしまったらしい。……まあ紛れもなく、トレーナーさんのせい、なんだけど。それを指摘してやるのはあまりに可哀想な気がしたのでやめておく。悪気があったわけではないんだし。というか、既に相当申し訳なく思っているみたいだし。

 とりあえず針を抜いてみると、新鮮な赤がたらりとその先端から落ちる。結構ぐっさり行きましたね、うん。落ち着いてみると結構痛いし、じんじんとしたものがしばらくは引きそうにない。あーあ、折角の楽しい釣りが台無し……なんてことにはならないけどね。それくらいで損なわれるほど釣りは楽しくないものじゃないし、それくらいで損なわれるほど私とトレーナーさんの関係は険悪じゃない。年頃の女の子の柔肌に傷をつけたくらいのことなら、笑って見逃してあげましょうか。

 

「こーなったら私のぶんまでどっさり釣ってくださいよ、トレーナーさん」

「……わかった。責任は取る」

「おっ責任ですか、いいですねえ。まあ単に、血が収まるまでは絆創膏貼って大人しくしときます。指先は釣りの命ですからね」

「すまない、本当に」

「今日のトレーナーさん、謝ってばかりじゃないですか。らしくないぞ」

 

 まあ多分、それには今日の出来事だけじゃない理由があるのだろうけど。あれ以来なかなかトレーナーさんの方でも、悩んできたということだろう。主に担当ウマ娘への接し方について、だ。それは素直に喜ばしいことなので、こちらとしても素直に応援したいと思っている。思っては、いるのだが。

 

「……すまん、努力はしているつもりなのだが」

「調子狂うなあ」

 

 それはそれとして、弱々しいあなたをみるのはむずむずする。かなり、むずむずする。もちろん普段と違うトレーナーさんでもトレーナーさんだと知っているが、だからこそ一層むずむずするのだ。

 広い肩幅、無骨な腕、かくかくした手のひら。どれもなんだか普段より大きく見える。こんなに近くで見たことがないからだろうか? そんなことはない気がするが。でも今真横に座るあなたが近い存在なのは確かなことでもあって、それもまたきっとどきどきさせている。その理由まで言語化することは、出来なかったのだけど。

 硬いコンクリートの地面に座り込み、ぎこちない手つきで仕掛けを水面に投げるトレーナーさん。私はその一部始終を、一応何かあった時に手助けするために眺めていた。投げる、仕掛けが餌をばら撒く、釣れない、しばらくして引き戻す。仕掛けに餌を詰め込んでもう一度投げて、やっぱり釣れない、その繰り返し。五回ほどそれを繰り返して、三十分が経過した。釣果、ゼロ。

 

「……釣れないな」

「釣れないですねえ」

「こんなもんなのか」

「こんなもんですよ、釣り初心者さん」

「そうか。やっぱりスカイはすごいな、もうそんなに釣れている」

「これは時間帯が良かっただけですよ」

 

 微かなさざなみの音を肴にして、なんでもない会話を繰り広げる私とあなた。些細な会話だけど、そこに自分への賞賛が含まれているのは少しにやけてしまいそうになる。褒められてるって、思ってしまう。

 トレーナーさんは、少し変わった。前よりも少しだけ、素直になったのだと思う。褒めて、謝って、多分それはそういうこと。多分そう変わるように、努力している。大人になってから何かを変えるのはとても大変なのに、それを成し遂げようとしているのだ。だから私はそれがどんなに拙くても、出来るだけ応援したいのだ。

 血は止まった。まだ少しずきずきするけれど、釣りに参戦できないほどじゃない。一人で釣りをするよりは、二人の方が楽しいし。なら私はあなたの隣にいよう。肩を並べて、静かに、一緒に。そうしていたいと、多分私は思っている。そしてあなたもそうだったなら、嬉しいかも。

 ざざーん、ざざん。堤防に打ち付ける海水の音。それに混じってあなたの声が、耳もう一個分上から聞こえる。私がウサギだったなら、もっと近くでその声を聞けたかもしれないけど、私にはこの距離が馴染み深い。およそ20cmほど離れた、この高さが親しみ深い。

 そこから聞こえるあなたの声が、どうしようもなく聞き馴染んでいるのだ。

 

「そういえば、トップロードの菊花賞はすごかったな」

「あれは良かったですねえ。思わず「やった!」って叫んじゃいましたもん」

「そうなのか、聞こえていなかったな」

「そりゃもう、大歓声でしたから。私のか細い声なんてかき消されるくらい、トップロードさんにはたくさんのファンがついてるんですよ」

「そうか。だが、スカイも負けてはいられないだろう。実際負けていない、いずれはトップロードとスカイの対決も見れる。俺はそれを楽しみにしている。期待しているぞ、スカイ」

「……もう」

 

 ほんと、隙あらば私を甘やかすようになっちゃって。今までは素直に気持ちを出したりなんか滅多にしてくれなくて四苦八苦していたのに、そんな私の苦労など知らないかのように今のトレーナーさんは自分の気持ちを口にする。これ、前から思ってただけで言わなかったのだろうか。だとしたらなかなか、私のことを高く買ってくれているんだな。無論、他のチームのみんなも、だけど。

 トレーナーさんが優しくなったのは、私のためでもあるけれど、本質的にはチーム<アルビレオ>のためであるはずだ。だからこれからはどんどん優しい人になって、誰にでもその笑顔を見せられるようになる。つまり逆に言えば、もしかしたら今は私だけ、その褒め言葉の後の照れ臭そうな笑みを見られているのかもしれない。……それは、なんだか結構、絆創膏に血が滲んだ右手の人差し指より、よっぽどくすぐったいかもしれないな、なんて。

 

「……指、大丈夫か」

「大丈夫です、そんなにじろじろ見ないでください」

「すまん」

「もう本当、今日何回謝ってるんですかあなた」

「何回だろうか。わからないな」

「そこまで素直に返さなくていいんですよ、トレーナーさんったら」

「すまん」

 

 駄目だ、この人何かにつけて謝ってくる。そんなに私の指が痛々しいか、目につくのか。普段はそんなにじろじろ見ないくせに、落ち着かないじゃないか。これもやっぱり変化、なのだろうか、そんなことを思った。

 そうやってトレーナーさんは、変わっている。そしてもちろん私も、変わっている。あの日決意したドリーム・シリーズという夢が、きっと二人に変化をもたらした。私たちの夢。私とあなた、二人で一緒に見る夢。遠く遠く果てしないからこそ、二人がかりでなければ届かないからこそ。私たち二人の、夢なのだ。

 その事実はほんのり、私の心をぽかぽかさせる。なんでこんなにあったかいんだろう。なんでこんなに胸が高鳴るんだろう。とく、とく、とく、とく。そんな音が聞こえてくる気さえ、した。

 

「それにしても、釣れませんねえ。トレーナーさんの存在が祟ったかな」

「えっ、そうなのか」

「冗談ですよ、真に受けすぎ」

「よかった」

「夕方になれば釣れますから、それまでのんびり待ちましょうか」

「そうだな、話をしながら待とうか」

「はい」

 

 秋風が服の袖から裾まで吹き抜けるのを感じながら、しばらく二人でずーっと取り止めのない話をしていた。最近どうだとか、何度も重ねた軽口の追加とか。たまに竿を投げながら、たまーに釣果を足しながら。そんな会話が出来るのも、きっと昔とは変わっている。たとえば出会った時の初めはこんな趣味の一致さえ、思いもよらなかったのだから。けれどお互いに変わっていって、だから今の距離感がある。

 そしてそれはそこで終わりではなく、きっとこれからも変わっていく。私たちが大人だとしても、変化と成長はそこで終わりではないのだから。

 そうして、夕暮れ間際はあっという間。日没前後の夕マズメの時間帯は、釣りには絶好のタイミングだ。

 ばしっ、ぴちぴち。竿を揺らせばすぐに手応えはあって、生きのいいアジが五匹ほど。こりゃ大漁だ。

 

「おおっ、釣れたぞ、釣れたぞスカイ!」

「そりゃ良かった、こちらも釣れました。……ね? 釣りは待つことが命、時間が変わればこんなにも変わるんですよ」

「……なるほどな、根気が必要というわけだ。チーム<アルビレオ>のトレーナーとしては望むところだな」

「でしょう? ほら、まだ行きますよー。これだけ待ったんだから、私たちにはそれなりのご褒美が必要です」

「よし、釣るぞ!」

 

 すっかり元気になったトレーナーさんを夕日越しに見て、なんだかくすりとなってしまう。そのまま二人で笑い合いながら、小一時間の夕マズメを堪能した。バケツいっぱいのアジも、止まらない手応えも楽しいものだけど。何より嬉しかったのは、トレーナーさんの笑い声だった。……うん、やっぱり。

 あなたには、笑っていてほしい。

 そう、思った。まもなく、日没だった。空は闇を呼び、星がその上に光る。そんな、秋の夜だった。

 

 

「……さて、そろそろ帰るか」

「はい。今日は楽しかったです」

「こちらこそだ。今日は楽しかった。誘ってくれてありがとう」

「そう言ってもらえるなら、何よりですよ」

 

 ちくり。すっかり流血の止まったはずの傷跡が、何故だか痛んだ気がした。薄くて白い月明かりの下、テキパキと片付けを始めるあなたの大きな背中を見て。これで今日は終わりか、そう思ってしまった。

 

「明日もよろしく頼むぞ、スカイ!」

「はあ、明日もトレーナーさんと会わなきゃいけないのかあ」

「それはそうだろう」

「それはそうなんですけど」

 

 ちくり。また、どこかが痛む気がした。なんでだろう、そう思った。そう思ったけれど、分からなかった。私の気持ちの変化に、私はまだ着いて行けていなかった。

 

「さて、これで……スカイ、片付けないのか」

「え? ……ああ、ほんとですね」

「手伝うよ」

「いいですよ、そんな……ってちょっと」

「スカイを置いていくわけにはいかない」

 

 ずきり。がしゃがしゃと、数センチ先で私の荷物をまとめ始めたトレーナーさんを、瞳に映して。そこまであなたに近づいて、ようやく私はその痛みの発生源に気づく。指先はちっとも痛くなかった。傷ついていないはずの心臓の奥が、甘い痺れに満たされていた。

 

「スカイ、これは何処にしまえば……スカイ?」

「……ああ、すみません。それはですね、こっちに」

「わかった」

「すみません、やらせちゃって」

「謝らなくていい。今日は疲れただろう、朝から晩まで俺に付き合ってくれて。ありがとう」

 

 ずきり。あなたの「ありがとう」が、釣り針よりも細く深く心臓に刺さる。トレーナーさんの言う通り、今日はこんなにあなたと一緒にいた。明日になれば、また会える。どちらもわかりきっていることで、そもそもこんな暑苦しい人と一日一緒にいるだけでも疲れるのはその通りなのに。

 それなのに、私はどうして。

 

「……いいえ、こちらこそありがとうございます」

 

 どうして、その笑顔が目に焼き付いてしまっているのだろう。

 どうして、無性に寂しいと思っているのだろう。

 どうして、まだ。まだ一緒にいたいと、そう感じてしまっているのだろう。

 でも、多分それはずっとそうだったのだろう。今日いきなりじゃない、だから今日釣りに誘いまでしたのだろう。私自身が私の気持ちに、気付いていない、だけだった。

 

「よし、帰るか」

「……トレーナーさん、わがままを言ってもいいですか」

「なんだ、スカイ」

「電車賃、お貸ししてくれませんか。帰りは、一緒に」

「ああ、貸すと言わずそれくらいは渡していい。夜道を一人はウマ娘でも危険だ。付き合おう」

「はい。ありがとう、ございます」

 

 だから、もう少しだけ。どんな理由でもいいから、もう少しだけ。もう少しだけ、一緒がいい。

 数多の星明かりの影響で、私たちの影は散らばって重なって見えていた。まるで一つのいきものみたいだった。後ほんの少しの時間だけ、そう見間違えていられた。

 ずきり。この痛みは、あなたにはないものだけど。ずきり。あなたに痛みを与えたくはないから、それでいいと思った。あなたが私を慮ったように、私もあなたを傷つけたくはない。

 ずきり。夜の闇と共に、痛みは底へと潜っていった。どこまでも甘い、甘くて痛い夜だった。




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セイウンスカイは正論男に・2

 眠い。ねむい。ねむーい! 本当に、眠い! そんなふうに私が叫びそうになっていたのは、トレーナーさんにまた明日を告げてから八時間と二十分後の、およそ午前三時半だった。誰でもわかる、良い子は寝る時間である。たとえ私は大人なんですと言い張っても、消灯時間は守らなければいけない。なので深夜の寮で出来ることなんて明かりも付けずに徘徊するか、部屋で閉じこもるか、大人しく寝るか。

 ……まあ、どれも経験済みではある。ダービーの日の夜は深夜にうろうろ誰もいない談話室をうろついてしまったし、春天の後しばらく私が部屋に閉じこもっていたことなんて、まだたまにキングあたりに引き合いに出されるし。けどだからまあ、初めてではないのだ、眠れない夜を過ごすのは。悩みに悩んで、そんな夜は。私を変えてしまう不思議な夜は、今日もまた形を変えてやってきたというだけ。

 だけど、少し違うのは。今までと少し、けれど決定的に違うのは。

 

(……私、なんでこんなに元気なんだろ)

 

 落ち着かない。脚を布団の上でじたばたさせて、それが終わればスマホを少し開いて時間を確認しため息を吐く。それも終われば今度はぐるぐるぐるぐると布団の上でしこたま寝返りを打つ。痩せっぽちの身体が、柔らかい布の上で跳ねる、跳ねる、跳ねる。そこまで終わればまた最初に戻り、たまに他の動きが混ざる。それの繰り返し。

 そんな感じで、どこでも寝れるのが取り柄のはずの私が、あろうことか寝床で落ち着けていないのだ。そしてそれは多分、元気だから。朝から晩まで遊んでいて、絶対そんなことはないはずなのに。まあこれまでもレース終わりに思い悩んでいたのだから似たようなものかもしれないが、その時は流石に元気じゃなかった。今だから言えるが、ぼろぼろだったから考えすぎて眠れなかったようなものだ。

 でも、今日は違う。何を考えろというのか。何を悩めというのか。私は多分眠りたいのに、身体が言うことを聞いてくれない。明日だって授業はあるし、今元気でもそれじゃ明日困るのに。なのに左右の脚をずっと上下に入れ替え続けて、私は一体何をしたいのか。

 ……まあ、確かに今日、少し思い悩んだと言えば思い悩んだのだけど。確かに脳みそにのしかかりつつある弛緩の感覚は、そのうち寝られるだろう、なんてのんきな予測を私に立てさせた。ならそれまで起きておくというのは、やはり悪くないのかもしれない。なんだかんだでやはり、悩みがあるからうまく眠れないのだとしたら。

 

(一緒にいたい、か)

 

 それが今日、楽しかった今日に私が思い悩んだ唯一のことだろう。トレーナーさんを、釣りに誘って。朝から晩まで、二人きりで。帰り道は別れるはずだったのに、一緒に帰ろうと言ってしまって。そしてそこまでしてなお、私は満ち足りていない。また明日と言った時、心臓の裏側がもう一度ずきりと痛んだのを覚えている。それくらい、一緒にいたい。

 寂しい。多分、そう思ったのだ。トレーナーさんがいない時なんてこれまでも何度もあったのに、別にトレーナーさんにずっと一緒にいて欲しいなんて思わないはずなのに、何故だか今の私はそれに近いことを求めている。

 ……まあ、無理もないのかもしれないけど。冷静に考えてみれば、それなりに長い付き合いで。それなりにまあ、信頼を積み重ねて。そうして、二人で見る夢も見つけた。私だけじゃない、二人がかりの夢だ。そうなれば私がそれの実現のために、トレーナーさんのことを前より重く受け止めていても仕方ない、のかもしれない。だからまあ、無理もないのかもしれない。

 けれどそれで眠れないのはいかがなものか。眠いってわかっているのに寝られないというの重症だ。あくびも止まらないし、身体はぽかぽか暖かい。頭もほわほわしてきたし、それでもなお目はぱっちりしている。反動で明日は立派な隈ができてるんじゃないか、というくらいに。ともかく、眠れない。

 

「……はあ……困ったなぁ」

 

 一人の寝室でまた、寝間着のショートパンツ下から伸びる太ももをばたばた布団に叩きつけながら、心底困った声を出した。だけど助けは当然来なくて、私は泣き寝入りするしかない。いや、それでもいいから寝たい。早く寝たい。まったく、そんなに悩みを解決したいか、自分。

 一緒にいたい、その気持ち。それが湧いた理由を解明しなければ眠れないのだとしたら、それはなかなか難儀じゃないか。だって「あれ」と一緒にいたいなんて、なかなか思うことじゃないだろう、我ながら。とりあえず先程一つ例を出した通り、夢を掲げてしまったことはあるかもしれない。当人には言えないな、とは思ったが。それはこの思考全部がそうだった。

 一緒にいたい。寂しい。そんな甘い痺れが傷跡をなぞり、私の心はまたちくちくずきずきと痛む。薄めの微睡の中にある痛みは、先程よりもより浅く広くなっていた。身体全体に広がるように、甘くて深い痛みが奔る。……はあ、どうしてこうなっちゃったかな。

 まあ気を取り直して、眠気混じりの思考再開。なんでこんなに目だけ冴えているのか、本当に不思議だ。早く明日が来て欲しいと心も身体も思っているのに、目だけはそれを拒否している。ひょっとして、私の今日目にしたものが原因か。その考えは鋭そうな気がしたので、軽く記憶を辿ってみる。とはいえショッキングなものは見ていないのだけど。釣り竿、バケツ、コマセ、アジ、サビキ仕掛けあとは……まさか、やっぱり。

 

(トレーナーさん、なのかなあ)

 

 確かに今日一番目にした人間ではあるけれど、何がそんなに気になるんだろう。一緒にいたいということは、目が離せないってことかもしれない。思えば今日はやけにトレーナーさんが視界に入った気がする。ちらちらちらちら、目に映る空間の隅っこに、いつもあの太眉と大きな背中が交互に入ってたような。もしかして私、心配してるのかも。トレーナーさんが心配だから、目を離せない。

 それもなんとなく、割と的を得ている気がした。だってトレーナーさん、今日は特に危なっかしいやつだったし。ぎこちない褒め言葉とか、すぐ謝るところとか、悪い人に騙されてしまいそうで心配になったのは間違いない。それで、目を離せない。だから、一緒にいたい。だから、不安。……筋は通っている、かも。

 だけど、まだもやもや。なんとなく気持ちは昂ったままで、今日の堤防釣りの余韻はいささか長すぎる。いや、確かに楽しかったんだけど、今日。トレーナーさんを指導してやるのも、いつもの真逆なのが結構おかしくて笑えたし。でも初めてのことじゃない。こうやって悩んで起きるのが初めてじゃないように、トレーナーさんと釣りに行くのだって初めてじゃない。むしろそろそろ慣れてきたくらいだ。それなのに、どうして。

 どうしてこんなに、後を引く。それが、ずっとわからない。

 理由の一つは、多分トレーナーさんの変化にある。態度が変わって、だからそれが目につく。気になる。もやもや、する。無論成長はいいことだけど、慣れるのには時間がかかるというものだ。だから多分、気になる。私はあなたを、気にしている。

 そしてもう一つ、これは確実に。確実だけど、正体のいまいち掴めないもの。私自身の、変化だろう。二人で夢を追いかけると決めてから、そこそこ時間が経って、おそらく私はようやくやっと、そのことを丁寧に噛んで飲み込み切れた。そして飲み込んだことで、じわりと浸透するように、全身に変化が現れた。多分、そんな感じ。それがすぐに出てきたのが、私の目なのだろう。

 目に焼き付いた、トレーナーさんの姿。割と荒れたのを無理矢理ワックスか何かで整えてる髪の毛、意志の強い暑苦しい眉毛、割と大きめの、私たちには付いてないヒトの耳。そこら辺まで見て今日私が気付いたことと言えば、案外この男は童顔なのだということ。暑苦しい大人っぷりからは今まで本当に思いもよらなかったのだが、わりかしまつ毛がしっかり長くて二重なんだよね、あの人。だから目がくりくりしてて、なんだ意外と幼い感じじゃん、という。ほっぺたも意外と丸いし、鼻もそこまでとんがってない。割と、幼い顔立ちだったのだ。

 そう、今日はそこまで見えたのだ。何故かははっきりわからないけど、多分距離感が変わったからだとは思う。トレーナーさんの方から、私に近づいている。そして多分私も、トレーナーさんの見方が変わっている。そういうこと。日常の行動を変化させるということは、些細な積み重ねの上にあるイメージを揺らがす行いだ。トレーナーさんが今変えようとしているものは、そういう思ったより大きなもの。だからそれに釣られて、私のあなたへの印象も揺らいでいる。……のかも、しれない。

 もっともこんなのは理屈を長めに並べただけに過ぎなくて、結局わかるのは二点だけ。今日はトレーナーさんのことが、なんだか目に焼き付いてしまったのだということ。そしてトレーナーさんと、もっと一緒にいたいと思ってしまったこと。そう、それだけ──。

 

(……あれ?)

 

 それだけ。「だけ」? そんな自分で弾き出した思考に、自分で疑問符を投げかける。妙に、引っかかる。……いや、この二つなのは間違いない。考え直してみても、やっぱりそうだ。なら、そうじゃ、そうじゃないのは。

 そうして私は少しだけ、私の気持ちの形を知る。短く狭い結論に対して、私の本質が投げかけた疑問もまた単純なものだった。

 

(「思ってしまった」とか、「それだけ」とか、そう思う自分が多分、嫌なんだ)

 

 何故かは、やっぱりわからなかった。

 

(否定すべき気持ちだと、決めてしまうのが嫌なんだ)

 

 けれど、それは確実に思ったことで。

 

(取るに足りない気持ちだなんて、あしらわれるのが嫌なんだ)

 

 だから私は、大人の私の変化を見る。

 

(……ああ、私)

 

 自分に自信が持てなくて、褒められたいと願っていた少女は。

 期待を望みながら、期待を裏切る自分が怖かった少女は。

 

(私、そんなに自分の気持ちが大切なんだ)

 

 自分を自分で認められる、そんな大人になったのだ。

 だから私は、大人の私の抱いた気持ちを無碍にしたくなかったんだ。そう考えれば全てに筋が通る。あなたを見た目が閉じることを否定し続けるのも、あなたと一緒にいたいという気持ちを何度も咀嚼しているのも、全て。

 いつのまにかぶらんぶらんと動いていた脚は止まり、全身はゆらゆらと蠢くだけになっていた。目はかすみ、思考は睡魔に落ちようとしていた。……ああ、悔しいな。ようやく、ようやく眠れない理由がわかったのに。私の行動は、全て一つの理由に通じる。そこにある、答えは。

 

「私、今日が本当に楽しかったんだなぁ……」

 

 そんな最初からわかりきった、当たり前のことだった。

 今日が本当に楽しかった。永遠にしたいくらいに。だから私はそれを手放したくなかったんだ。そう、眠れないのではなく、眠りたくなかったのだ。明日を迎えれば記憶は薄れる。明日が来なければ、記憶は薄れない。永遠に出来る。だから多分、そうしようとしてしまった。

 子供だって誰でもそんなこと無理だってわかってるくせに、大人の私がそうしてしまった。やはりなかなか、大人はうまくいかないものだ。私も変わっていくのだから、そのうち慣れるのかもしれないけど、慣れる前のこの感覚は、得難くて手放したくないものだ。

 そしてこれも、きっと変化の一つで。先に述べたように、誰かの変化は波紋を作り他者に伝わる。トレーナーさんの変化が、私をこうやって変えているように。そしてそれならば私の変化もまた、誰かに干渉していくのだろうか。

 些細な変化だ。だけどあなたへの態度はきっと変わる。既に、変わり始めている。それならその変化は、きっと他の誰より早くあなたに伝わる。あなたに、私の気持ちが伝わる。

 ずきり。そこまで考えると、また針が心に血溜まりを作る幻が見えた。この傷の正体までは、そこまでは今日はわからなかった。今日わかったのは、たった一つ。だけどきっと、大きな一歩。かけがえのない、私の変化。

 私は、私を認めている。

 自分自身を、褒められている。

 そんな、変化。私にとっては、やっぱりすごいこと。今まで期待を他者に頼っていた。どこか自分が信じられなかった。それでも誰かの言葉で、前に進めるようになって。その先で遂に、私は私に「よくやった」と言ってやれる。

 ……そうか、今の自分はもしかして。深夜四時の夜更け、疲労の溜まった袋が一気に弾け飛び、全身の筋肉に襲いかかる刹那。

 

(私、褒められるより先があるんだ)

 

 未来は私に存在するのだと、そんな至極当然のことを最後の思考に浮かべた。そしてそこまでで、それきりで、まるでブレーカーが落ちるように私の意識は急速に眠りにつく。明日、ちゃんと起きられるだろうか。今日のこと、一つも忘れないでいられるだろうか。それはもちろんわからない。けれど、大丈夫だと思った。大丈夫だと思ったから、眠りについた。

 未来は、明日から始まるのだから。

 

 

 夢を見た。遠い、遠い夢だった。

 夢を見た。遠い、過去の夢。

 夢を見た。あなたと出会った日のリフレインだった。

 

「何してるんだ、こんなとこで」

「見ない顔だな、新入生だろう? なんで入学式に出てないんだ!」

 

 夢を見た。最悪の夢、まさしく悪夢だった。うるさい正論男が、私を叩き起こす夢だった。ああやって入学式をサボって居眠りをしていたら、何も起こらないと思っていたのに、そこで全てが始まってしまった。今思えばあの頃の私はまだまだ幼くて、それでも悟ったようなことを言っていた。どうせ、とか、私なんか、とか、そうやっていれば平穏無事に何事勿れ、そう思っていた。本当は、何も起こらなかったあの日が怖くて怖くて仕方なかったくせに。

 

「一つだけ言っておこう。セイウンスカイ、諦めるな」

 

 夢を見た。あなたが私を奈落から掬い上げる、そのはじまりの夢だった。「諦めるな」は何度も言われた。そのたびに多分、煩わしくて嬉しかった。複雑な心境、というやつだった。そんなふうに多分私は、扱いやすそうに見えて面倒だ。物分かりのいいふりをするだけで、何かにつけて悩み始める。今日もそうだし、ずっとそう。変化を重ねてもなかなか直らないことはあって、これもその一つ。難儀で面倒な女だと、今はつくづくそう思う。

 夢を見た。だけどそれにしつこく「諦めるな」と言ってくれる人と、私が出会えた夢だった。そういう意味ではずっと、私たちの関係は変わっているけど変わっていない。それは多分これからも、きっと。そうだったら嬉しい。過去があるからこそ未来があるから。私は過去の関係を、未来のために蔑ろにしたくはない。だから私は、あなたのことを──。

 夢を見た。そこで透明なヴェールのような白に戻る、泡沫の夢だった。

 夢を見た。だけどそこにあったものに、私は手を触れられていたと確信できるものだった。

 夢を見た。私は過去を忘れない、ずっと手放さない。そう信じて再び明日に向かって眠りにつける、幸せな夢だった。

 夢を見た。近い、近い夢。

 夢を見た。近い、過去の夢。

 夢を見た。昨日のように近い、あの日のリフレインだった。

 過去は、明日に繋がっているのだから。

 




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セイウンスカイは正論男に・3

 とて、とて、ぱたり、ぱたり。ゆっくりと始まった足音はだんだんと弾み、やがて跳ねるように駆け出す。そんな朝だった。ほとんど眠れていないのに、何故だか元気は続行中だった。深夜テンションを引きずっている、というやつか。昨日はなんで眠れなかったのだっけ、みたいなことは流石に覚えている。多分覚えているから、今日も引きずっている。果たして授業中まで寝ずにいられるのかは、流石にちょっと不安なのだけど、まあそれはそれ、これはこれ。

 寝ぼけ眼をたまに擦りながら、今日も学園への道のりを歩く。いつもより少しだけ早足だった。秋空がのんびりと青に染まっているのとは対照的だった。こんなにいい気候なのに、なんでこんなに落ち着かないのやら。まったく、また難儀な悩みを抱えてしまったものだ。……けれど、心配はしていない。それは今の私なら、前より強く乗り越えられると信じているからでもあり。一方でこの悩み自体を、抱き締めるように食んでいるからでもあり。

 手放したくない悩みなんて、初めてだった。

 びゅうと風がスカートの下を吹き抜け、脚から伝わる冷たさに少しだけ身震いする。秋だな、と思った。季節は巡る。時は進む。そしてそれに伴って、人は皆変わってゆく。去年の秋と今年の秋は違うし、去年の秋があるから今年の秋がある。変化は積み重ねであり、その結実だ。どれだけ突然のものに見えても、その裏には必ずこれまでの流れがある。だから、断ち切られない。私は、私のままでいる。大人になっても、だ。

 

「おはようございます、セイウンスカイさん」

「おはようございます、たづなさん」

 

 校門の前でたづなさんに挨拶して、そのままゲートにも似たそれをくぐる。そういえばだいぶ昔の皐月賞前、<デネブ>と<アルビレオ>を巡っての私の右往左往では少しこの人にも迷惑をかけていたな、なんて。毎日見ていたはずなのに、今更そのことに気付いた。いや、今だから気付けたのだろう。

 

「そういえば、たづなさん」

「はい。なんでしょうか、セイウンスカイさん」

 

 だから多分これも、今だから。ふと言いたくなったという突然の心の動きも、きっと前々からの積み重ね。唐突だけど、唐突じゃない。しっかりとした流れのある、私だけの言葉なのだ。

 

「トレセン学園って、いいところですね」

「……それは、ありがとうございます! なんと言っても私は、皆さんの幸せを願ってここで働いていますから」

「そうですね。それなら私は、幸せですよ。トレセン学園に来れてよかったです。……ええ、本当に」

 

 そんなふうに私なりに、精一杯の感謝を告げた。思えばたづなさんだって、紛れもなく私の縁を繋いでくれた人だったのだから。それはこのトレセン学園という場所を形成する一人である、という意味でもある。成長によって視点が変わり、私は今まで見えていなかったものが見えるようになった。これもきっと、その一つなのだ。

 そしてそう告げると、普段からにこやかなたづなさんが目を細めて嬉しそうに破顔し、その後一言。

 

「それはこちらこそ、ですよ、セイウンスカイさん。そう言ってもらえるのが、私にとって何よりも幸せなことです」

 

 感謝に対する感謝。やっぱりこの人も大人なんだなと、そう思わせるような言葉だった。

 滅多にこうやってしっかり話すことはなくても、いつも私たちは大人に守られている。そしていつか私たちも大人になり、守る立場に立つ。そうして多分その時やっと、私とあなたは対等になれるのだ。見守ってきてくれたあなたに、心の底からのありがとうを言える。今取り交わしたこれは、その練習のようなもの。トレセン学園という場所から私がもらったものはたくさんあるから、たくさんの感謝が必要だ。何より私が、そうしたい。

 

「……じゃ、行ってきます」

「はい、いってらっしゃい」

 

 最後にそれだけ言葉を交わして、いつもより少しだけ長いたづなさんとの会話は終わる。これはきっと今日の始まりを告げる会話。とたんとたんと靴のリズムを校門から連なる通路に鳴らしながら、今日という日はそういうものだと今決まったと、何故だかそんな気がした。今日は、今までに感謝する日。今までの全てが、今の私を作るのだから。

 

 

「おはよー、みんな」

「おはようございます、セイちゃん」

「おはよう、セイちゃん!」

「おはよう、スカイさん」

「グラスちゃんもスペちゃんもキングもおはよー。……ふあ〜ぁ、まだ眠いかも」

 

 教室に入って数言挨拶を交わすと、すぐにあくびが漏れてしまった。気が緩んだ、ということか。いつものみんなに会えるのは、それだけ私にとって落ち着くことなのかも。それならやっぱり、これにも感謝するべきか? そうは思いはしたけれど、なんともそれは気恥ずかしい。私の口から出てきた言葉は、全然別の話だった。……まあ、それなりに心配してるのは本当なんだけど。

 

「……そういえばグラスちゃん、エルはまだ時差ボケ?」

「……はい。起こすのも流石に可哀想かなと、思ってしまって……私もまだまだ甘いですね」

「いや、その甘さは持ってていいと思うよ……」

 

 そう、帰国したばかりのエルのことである。実際にはばかり、というほどではないが、時差ボケが残っているうちは多分ばかり、なのだろう。グラスちゃんが起こさずそっとして置いているのは、多分それが時差ボケだけじゃないから。そこにあるもう一つの理由に、ちゃんと気が付いているから。なんて、多分私よりずっとエルのことはよく知ってるだろうけど。

 

「まだ、負けを引き摺ってるのかしら」

「そうですね。だいぶ元気は戻ってきているとは思いますが、それでも」

「……うん。電話越しに聞いたエルちゃんの悔しそうな声、私も忘れられないよ」

「そしてスペちゃんは、今度その敵討ちをするというわけだ」

「そう、なるのかな。……いや、そうだよね」

 

 結論から言えば、エルの海外遠征は、華々しい結果を収めた。それでもただ一つ、忘れられない負けがある。凱旋門賞での敗北が、多分エルにとっては一生忘れられない負けになる。一生忘れられない勝ちがあるのと、まったく何も変わらない理屈で。勝負とは常に、勝者と敗者に分かれるものなのだから。

 そしてそれが忘れられないとしても、きっと報われることはある。それは私たちみんなが知っていることで、私たちみんなで忘れないように互いに伝え合うことだ。私たちはライバルで友達、支え合いながらも競い合う存在なのだから。

 だから、スペちゃんのジャパンカップはリベンジマッチと言われている。「黄金世代」の絆というものが、それをそういう舞台にしている。私もきっとその日は全力で応援し、またターフで合い見えることがあればその時は全霊を以て叩き潰そうとする。それが、支え合いながらも競い合うということ。

 私たちは、一人では強くはなれないから。

 

「ジャパンカップ、応援してるわよ」

「ありがとう、キングちゃん」

「私からも、です。まだ来てないエルの分まで、先にお願いしておきますね」

「グラスちゃんもありがとう」

「負けないでよ、絶対に。君に勝つのは、他でもないこの私なんだから。……なーんて、ね」

「セイちゃんも、ありがとう。……そうだよね、私たちの勝負のためにも、だよね」

 

 うん、スペちゃんはよくわかっている。私の気持ちも、みんなの気持ちも。そして多分それはキングもエルもグラスちゃんも私も、「黄金世代」の全員が他の皆の気持ちをよくわかっている。それがこの関係。得難くて代え難いもの。ここにしかない、私たちの宝物。……やっぱり、感謝しなきゃいけないや。そう再決心するとすぐに、言葉は口から出て行こうとする。驚くほど、あっさりと。

 

「そういえば、改めてなんだけど──」

 

 そのつもりではあった。あったのだが。

 ガラガラと勢いよく、教室前の引き戸がスライドされる音がする。流石に皆が振り向くということはなかったが、その後の大声で流石に皆が振り向いた。教室中の、皆が。

 

「おはようございマース! エルコンドルパサーはまさに、起床、飛翔、最強デーース!!」

 

 ……初めてエルをとっちめたくなるグラスちゃんの気持ちがわかった、かもしれない。

 

「おはようございマス、グラス、セイちゃん、スペちゃん、キング! エル、絶好調、デス!」

「今日も時差ボケに苦しめられてたって聞いたけど?」

 

 そう鋭く刺してやると、うぐっ、とよろめく我らがエルコンドルパサー。確かにこの反応の良さはいじめがいがある。グラスちゃんの気持ちは、かなりよくわかる。私もキングとかフラワーとかあとトレーナーさんとか、人をおちょくるのは多分好きなたちだし。そう思考をふと伸ばしたところで、「トレーナーさん」のフレーズがやっぱり引っかかった。いかんいかん、友人との語らいの前でまであの正論男を思い出すのか。ええい、出て行け。……というわけで閑話休題、エルも揃ったところで改めて。

 

(あれ?)

 

 改めて、と思ったのに、口がぱくぱく動くだけ。みんなエルに注目してたから見てないとは思うけど、かなりみっともない。どうしたんだ、私。さっきと何が違うってエルだけじゃないか。一回タイミングを逃したのがそんなに恥ずかしいか、私。そうでなきゃなんだ。ええ、もしかしてやっぱりなのか。本当に一瞬、エルに連動して一瞬思い浮かべただけじゃないか。それでそんなに挙動不審になるなんて、やっぱり私、変になってるかも。そんなに、そんなに。

 

「そんなにきょろきょろしてどうしたのよ、貴女」

「あっ、キング。いや、特に」

「……珍しいわね、貴女がそんなにどもるのは。そういえばさっき、何か言おうとしてたみたいだけど」

「えーっと、それは」

「あらそうなんですか、セイちゃん?」

「あのね、グラスちゃん」

「えっセイちゃん、なになに」

「スペちゃんも、ちょっと待って」

「アタシにも聞かせてくだサーイ!」

「エルは黙ってて」

「ケ!?」

 

 ちょっと待って、待ってよ。今すごいめちゃくちゃな気持ちなのに、急いては事を仕損ずるよ。どうしようどうしよう、今喋ったらまずい気がする。ボロが出る。なんのボロが? いや、それもわかんないけどさあ! 急に降って沸いた気持ちとみんなへの感謝が混じったら、私本当にまともに喋れない気がするんだよ。もっと落ち着いて、ゆっくり喋らないと私じゃないじゃないか。

 そんなふうに私が思うことなどつゆ知らず、ぐいぐいと四人が距離を詰めてくる。ついでにトレーナーさんの影も見える気がする。いよいよ幻覚が見えるほど追い詰められているのか、私。

 ええい、ままよ。観念して、私はそのまま言葉を吐き出す。しっちゃかめっちゃかでちっとも私らしくない、けれど紛れもなく私の声だった。

 

「えーとさ、なんだろうね。いや、ほんとに大したことじゃないんだよ? だけどさ、なんとなく思っててさ。何がって、今日はそういう日だって」

「前置きが長いわね」

「うるさい、このへっぽこキング。まあとにかく、今日はそういう気持ちなの。ふと思ったことだけど、多分ずっと思ってたこと。私はみんなに、ありのままの感謝を伝えたい」

 

 だんだんと、言葉は収束する。私のものに、なっていく。

 

「感謝、ですか」

「うん。唐突でしょ? だけどさ、なんとなく今言いたいんだ。みんなに。……だめ、かな」

「ダメじゃないデス。大・歓・迎ですよ!」

「ありがと、エル。……なら、出来るだけ全部。私の気持ちを、伝えさせてほしい」

「うん。私もセイちゃんの気持ち、聞きたいな」

 

 きっとこうやって、急な話題も受け入れてくれるのがみんなの優しさ。あるいは私も共に積み上げた、ここにある強固な信頼関係。……それはトレーナーさんも同じかもと、何故だかまたトレーナーさんのことを思い出しながら。そうやって一瞬だけよそ見しながら、私は目の前の四人に言葉を告げる。

 

「キング。キングにはここに来てすぐ話しかけられたね。多分、初めての友達。なんだかんだで私によく話しかけてくれるお節介なお嬢様。同じチームに入ってきた時は驚いたけど、それも良かったと思ってる。ありがとう、私と出会ってくれて」

「……そんな素直な台詞、吐けたのね」

「あっ、ひどい。じゃあ撤回しようかな」

「おばか。撤回してももう聞いたから、忘れることなんてできないわよ」

「そうかも。これは一本取られた」

 

 ほんと、食えない子だ。それにしても思ったより、言葉はすらすらと並べられた。いつもの私じゃなくても、やっぱり私は私なのだろう。これも成長、変化の一つ。きっと、そういうことだった。

 

「じゃあ次はエル。いやー、最初見た時はほんとに驚いたよね、プロレスラーかっての。だけどすぐに割と話がわかる方だってわかって安心した。うん、それもだいぶ昔の話だね。元気だけどストイックで強くて、今だから言えるけどダービーの負けは本当に悔しかった。……でも、勝ち逃げはさせないよ。エルとまた一緒に、走りたいな」

「……はい! アタシも、セイちゃんと走りたいです」

「そう言ってもらえて嬉しい。とりあえず日本にまた慣れなきゃ、だけどね。ありがとう、エル」

「それは、こちらこそデスよ!」

 

 これで二人目。こんな長台詞を四人に囲まれて聞いてもらうというのは、ひょっとしたら相当恥ずかしい。だけど多分、必要なこと。したいこと。なら、やらない理由はないのだ。

 

「次は、グラスちゃん。グラスちゃんはさ、最初は高嶺の花って感じだった。私とは違って注目されていて、ずっとずっと強くて。だけどそれでも話せば通じるところがあって、同じことを考えられることもあって。私からあの強いグラスちゃんを支えられているのなら、それは結構嬉しい。……うん、グラスちゃんもありがとう」

「支えられていますよ、いっぱい。本当は一人で立てたらいいと思うのは、私のわがままなのでしょうが」

「それは私も思っちゃうな。そういうところも含めて、似た者同士なのかもね。意外と、かな」

「意外と、ですけど、不思議としっくり来ますね」

「うん。これからもよろしく」

 

 グラスちゃんと心を交わして、繋がりをこうやって再確認して。儀式は最後の段階へ移る。これは私から皆へのエールであり、私自身を奮い立たせるものでもある。他者を想うことが自分のためになるなんて、昔の私は思いもよらなかったはずなのに。

 

「最後に、スペちゃん。スペちゃんが多分、一番ばちばちやった。弥生賞、皐月賞、ダービー、菊花賞、天皇賞(春)、天皇賞(秋)。勝ったり負けたりだ。だけどスペちゃんはいつでも私に元気に話しかけてくれて、勝負を気にしてるのはバレバレなのにそうしてくれて。それが嬉しかった。君みたいな優しい子が、私のライバルでよかったよ。ありがとう」

「えへへ、なんだか照れ臭いね。でもこちらこそ、ありがとう。でも次戦うなら、その時は負けないから」

「それこそやっぱり、こちらこそだ」

「そうだね。セイちゃんみたいな走りは、私にはできないけど」

「もちろん私も、スペちゃんみたいな走りは出来ない。だけど、それでいいんだ。私たちにはそれぞれのいいところがある、それって当たり前じゃない?」

「……セイちゃん、変わったね」

「そうかな」

 

 変わった。それは自覚はしていたけれど、他人から言われるのはあまりなかったことかもしれない。自他共に認めるなら、きっとそうなのだろう。……そうやって変わったきっかけに思考を寄せると、また頬が熱くなる気がした。今はやめとこう。

 

「そうですね。セイちゃんだけじゃなく、みんな変わりましたね。私もキングちゃんも、スペちゃんもエルも皆」

「まあ、それなりに長い付き合いだもの。それでも縁が切れてないのなら、いいんじゃないかしら」

「はい。アタシもフランスで走ってる間、みんなのことをずっと考えてました。縁は、切れてない」

「でもきっと、それは滅多にないこと。だから多分私は、みんなにありがとうって言いたかったんだよね」

「……そうだね。私たちの繋がりは、きっと滅多なものじゃない。今じゃこれなしなんて考えられないけど、本当は奇跡みたいな確率で。だけど、会えてよかった」

 

 スペちゃんの言う通り、私たち五人はトレセン学園の同じクラスで同期という、それだけでは成り立たないような奇跡の繋がり。「黄金世代」と呼ばれるには、それから辿る道筋あってこそのものだ。私たちの努力の結晶、やり直したら二度目はない。

 だけど、だから。会えて、よかった。

 そうして、この儀式は終わった。チャイムが鳴って、私たちはそれぞれの席に戻っていく。時間は区切られ、また進む。けれど、繋がりは区切られないのだ。

 きっと、永遠にさえなれる。そう思った。

 

 

「ちょっとスカイさん、今日はトレーニングないわよ」

「知ってる知ってる、えーと、忘れ物しただけ! 帰っていいよ、キングは!」

「そりゃ帰るけど、なんだか腑に落ちないわね。まあいいわ、いってらっしゃい」

 

 とて、とて、ぱたり、ぱたり。白い床の上を足は跳ね、呼吸は踊る。本当に、どうしちゃったんだろう。さっきも関係ないタイミングであの人のことを考えて、授業が終われば一目散にチーム部屋に向かっている。キングの言う通り、今日はトレーニングなんてないのに。なのにたった一つの理由で、私はきっとそこへ向かう。

 ぐるり、ぐるり。校舎を回って、道のはずれを突っ切って。私の身体はわりかししなやかで、ゴムのように弾み目的地へ向かう。そんなに楽しみなんだ、自分でも驚くくらいに。本当に、なんでだろう。まあでも、答えは決まっている。昨日の私よりは、幾分はっきりした答えだ。やっぱり明日が来てよかった。心の底から、そう思う。

 がちゃり。ドアノブを回すと、あっさりと開いた。やっぱり定位置たる椅子と机に、陽だまりの下にあなたはいた。

 

「お疲れ様です、トレーナーさん」

「お疲れ様、スカイ」

 

 いつも通りの髪の毛と目つきと口元と、それなのにいつもよりきらきらして見える視界を確認して。私は今日のやりたいことに準えて、一つの目標を立てる。

 

(トレーナーさんに、ありがとうを伝えること)

 

 そう、心の中で宣言して。何でもない特別な一日の最後は、あなたへの感謝で締めくくりたい。それはきっと私のわがまま。理由もわからない、私の気持ちだ。

 のどかな秋の陽射しだけが彩る、散らかった狭い部屋。そんな風情も何もないシチュエーションで、私があなたに伝えたいことは。

 私は、あなたに。

 その先を、言葉にするためだった。

 私よ、どうか私のために。一歩、踏み出せ。

 




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セイウンスカイは正論男に・4

 知っているだけではわからないものというのは、世の中にいくらかある。所謂実感がなければ、知識だけでは手に取れないものは。

 たとえばその一つが大人というもの。十八になれば成人で二十になればお酒が飲める、そんなふうに一応法律が区切ってはくれるけれど、実感を持って「私は大人になりました」と言える日はなかなか来ないだろう。変化と成長は日々の積み重ねであり、ある日一段上に登るにはその前の何十日も助走しなければならない。そうして成長を重ねて、きっと人は大人になるのだ。

 もちろん私がここまでわかるのにも、それなりの実感というものが必要だった。そしてそれは伝えたくても伝えられない個々人の感覚にも依るもので、私の結論が他人に当て嵌められるとは限らない。

 今私が部屋に入ってきたというのにそれに目もくれずいそいそとしているトレーナーさんにも、きっとトレーナーさんなりの大人のなり方というものがあったはず。そしてその内容は当然、今までの指導の中には入っていないのだ。それは、あなただけの特別な気持ちでもあるだろうから。

 そして、私が今からあなたに伝えたいものも、実感がなければおいそれとは伝えられないもの。ありきたりでどこにでもある、だけど特別な。感謝という、気持ちだ。

 とくん、とくん。なんとなく、心臓は揺れ動く。なんとなく、耳は先端からぴこぴこと跳ね回る。なんとなく、尾は揺れて。なんとなく、手に汗握って。そんなふうになんとなく、緊張していた。

 私は、あなたに何を告げるのだろう。何故だかトレーナーさんの見え方が変わって、何故だか一緒にいたいと思ってしまって。その気持ちの理由も、実感しなければ見つけられないとしたら、私はそれを明らかにするためにあなたにありがとうを言うのだろうか。もちろんそれもあるけれど、それで包み隠すばかりじゃない。私の滅多にない素直な顔を、あなたにも届けたい。それは多分、そう思っているから。

 ……だけど、どうしようかな。トレーナーさん、何してるんだろう。心なしかいつもより部屋が散らかってる気がするが、いつも散らかってるから気のせいかもしれない。じーっと、観察してみる。トレーナーさんのごつごつした指が、机横の本棚に伸びる。指先が若干いつもよりは丁寧めに動いて、一冊本を掴み取る。取り出した本の背表紙を、その意外と丸くて愛嬌のある瞳でぱちくりと見つめて、開きもせずに本棚に戻す。……いや、正確には先程とは違う場所に戻した。身体の動きがちょっと違うからわかる……って、なんでそんなにじろじろ見てるんだろ。

 そんな自分に気を向けると急に恥ずかしくなってきて、ぷい、と目を逸らしてしまう。明らかに失礼だけど、あちらは作業に夢中だからセーフだ。観察のおかげでトレーナーさんが何をしてるのかもわかったし、無駄な行動ではないだろう、うん。部屋が散らかっていると思ったのは半分正解。そしてトレーナーさんの目的は、むしろ逆だ。

 トレーナーさんは、掃除をしているのだ。この狭くて埃っぽくて散らかっててトレーナーさん以外ほとんど使ってないチーム部屋を、綺麗にしようとしているのだ。それはもちろん、部屋を使う自分のため? そう結論づけるのは簡単だけど、それだけではない気がした。トレーナーさんならそれだけじゃないって、願望混じりかもしれないけど。

 多分トレーナーさんは今、変わろうとしているのだ。あの釣りの日のぎこちない態度も含めて、これはその途中。そのための片付け。大掃除。まずは身の回りからって、よく言うものね。とはいえそれを一人でこなそうなんてのは、やっぱりいつもの不器用なトレーナーさんなんだけど。まあそこはトレーナーさんのいいところでもあるし、無理に治してなんてふうには思わない。……って、何様なんだろう私。とりあえず私がこの状況で取れる選択肢なんて一つしかないんだから、さっさとそれを選べばいいのに。

 というわけで、すうっと息を吸い込んで。少しばかり自分の世界に入り込んでいるあなたにも、私の声が届きますように。

 そんな気持ちを込めて、一言。

 

「手伝いますよ、トレーナーさん」

 

 多分そっけなく、だけど心から。何度目か、あなたに手を伸ばす。その手はあなたの下から伸びてきたものなのだろうか、はたまた。

 

「……おお、スカイ」

 

 あなたの真横、隣から伸ばせていただろうか。どちらにせよあなたは手を取ってくれるだろうけど、出来ればより近い方がいい。

 あなたのそばが、いい。

 空を走る雲は徐々に増え、日光は途切れ途切れに部屋に差し込む。だけどまだ明るくて、身体の芯まで届く空気はぽかぽかしている。そんな秋のデイタイム、午後三時半だった。

 

 

「おお、それはそっちに置いておいてくれ」

「はいはーい。ちなみに余ったものはゴミ行きでいいんです?」

「いや、それは確認して持って帰るものは持って帰る。大体俺の私物だ」

「私物化してましたもんねえ、トレーナーさん」

「面目ない」

「ほんとですよ、まったく。だからまあ、片付けるのは偉いと思いますけどね。セイちゃん感心しました」

 

 部屋全体の模様替えとなると、それなりの大工事だ。だからそれに手をつけようということ自体は、褒められて然るべきだと思う。なんでそうなるまで放っておいたんだ、みたいなのはさておき、なんだけど。

 というわけで段ボールに要らないものを詰めていくことから始めたのだが、物を動かすたびにまあ埃が出てくる出てくる。若干引いちゃうくらい、出てくる。埃を吸ってけほっと咳をするたびに、トレーナーさんが申し訳なさそうな顔をするのが面白いので許すけど。

 さて、次はなんだろうか、そう思って振り返るのも慣れたもの。一時間ほど作業したが、流石にそれなりに呼吸が合うというか。こちらの作業が終わったあたりでぴったり次を頼まれるのは、少し気持ちいい感覚があったり。トレーナーさんと一緒にいられるということが、やっぱり嬉しいのかもしれないけど。

 ……いつ満足するんだろうな、この変な気持ち。トレーナーさんが変なふうに見えるのにも疲れたのだ、こっちは。私としては早く原因を究明するべくトレーナーさんにアクションを仕掛けたいところだが、それを私自身が許さない。流石に仕事を投げ出すわけにはいかないとか、引き伸ばせばもっと一緒にいられるとか。……我が事ながら、変な気持ちだ。

 さて、そうやって振り返ったところ。今までより一際巨大な段ボールが、私の目の前に立ちはだかる。あれ、トレーナーさんは? そう思うのも束の間、その段ボールの後ろからいつも通りの背の高いカッターシャツ姿が出てきた。この身体を隠していたのだから、相当な荷物が詰まっている。私が後ろを向いていた間に、何を詰め込んでいたのやら。

 

「全部詰めた。これを、トレセン学園の倉庫まで持っていく。そこに行けば、保管してくれる」

「保管、ですか。なら、大事なものが詰まってるんですか? それにしてもこの部屋、こんな量のものがあったんですね」

「ああ、今まではあちこちの棚に入れていたが……限界だ。俺の過去集めた資料に、君らが使い古した蹄鉄その他走るための道具。あとは大事なレースの新聞とか、とにかくそういうものだ」

「なるほど。捨てるに捨てられない、思い出の品々」

「そういうことだな。だが今日は思い切って、倉庫まで持っていく。過去に縛られるのもよくないからな」

「一理ありますね」

 

 過去は確かに大事だけど、それに縛られてはおしまいだ。過去は未来を支えるものなのだから、未来を見なければ意味はない。けれど、大切な思い出だろうに。それだけ変わりたいということなら、当然応援はしてやるつもりだけど。

 

「じゃあ、持っていきますね。倉庫、場所はどこですか?」

 

 というわけで、よいしょ、と段ボールを抱える。確かに今までのものより大きくて重いけれど、そこは私もウマ娘。これくらいなら一人で行ける、そういうつもりでトレーナーさんに問うたのだが。

 トレーナーさんの返答は、予想外のものだった。

 

「いいや、これは俺が行く。責任を持つ必要がある」

「え、なんでですか」

 

 なんで、と聞き返してしまった。いや責任とは言っているのだが、それはいくらなんでも語らなさすぎだろう。トレーナーさんが割と筋肉ある方とはいえ、これは流石にヒト一人では無理だと思うが。まったく、変わろうとしているのだと評したのは間違いだったか。これじゃ頑固なトレーナーさんのままじゃないか。

 

「なんで、じゃない。俺が行くから、スカイはもう帰っていいぞ。これで終わりだからな。お疲れ様」

「ええちょっと、それはひどくないですか」

「ひどくない。さあ、段ボールを貸してくれ」

「やでーす。それより倉庫の場所教えてくださいよ」

「嫌だ」

「強情ですね」

「それはスカイの方だ」

 

 正論を言わない時のトレーナーさんは本当に不器用で、駄々のこね方が子供みたいだ。このままずっと問答をしていても退屈しなさそうだけど、それじゃ前に進まない。私はそりゃ多分今は一緒にいたいのだろうけど、感謝を伝えたいのも本当だ。そのためには早く掃除を終わらせて、フリータイムに入る必要があるのだ。それも私とトレーナーさん、同時に。そうじゃなきゃ不自然だし、待つのも待たせるのも照れ臭いじゃないか。

 そんなふうに段ボールの裏でなんと言おうか悩んでいるうちに、トレーナーさんがひとつ閃いたようで。

 トレーナーさんの意思は、言葉より先に感触でわかった。ほんの少しだけ軽くなった段ボール。指先に当たるもう一人の指。その感覚に追いつく前に、あなたの声が50cm先から聞こえて。

 

「なら、二人で行こう」

 

 ……本当に、この人は。私がどんな気持ちかも知らないで、そんなこと言って。一番非効率じゃないか、一番時間がもったいないじゃないか。

 

「はい。そうしましょうか」

 

 だけど一番一緒にいられるから、私はその手を取ってしまうのだ。

 秋の空は次第に寒さを伝え、うろこ雲が空をゆく。夕日が目覚め始めるデイタイムの終わり際、午後四時半だった。

 

 

「このまま進めばいいんですか?」

「そうだ。このまままっすぐ行けばいい」

「私後ろ向きなので、ちゃんと指示してくださいね」

「任せろ! スカイのことはばっちり見ているぞ」

「そう断言されると、逆に恥ずかしいんですけど」

 

 二人で行こう、そう言われた時はなんて提案だと思ったが、悔しいことに私はすんなりそれを受け入れてしまっていた。トレーナーさんと二人で過ごす時間に、しっくりと来てしまっていた。

 もちろん、一筋縄ではいかない。指先はちょくちょくトレーナーさんの硬い指に当たるし、その度にその熱を感じてしまうし。視界に入るのが段ボールだけなのは嫌だなと思って横を見遣ると、トレーナーさんの年甲斐もなくキラキラした真っ黒い目と視線が合ってしまって思わず逸らすこともう七回……今八回目だし。

 はあ。なんで、こんなに。おかしいと思った。私の仮説では、釣りが楽しかったから一緒にいたいと思ったわけだ。つまりその記憶が薄れる頃にはもうちょっと落ち着いて探れると思ったのだが、私の意識は更にトレーナーさんに向いている。心臓には、まだ針が刺さったまま。本当に、なんでだろう。

 今日はなんてことない日だけど、色々な人に感謝を伝える日と決めた。もちろん、あなたにも。それがよくなかっただろうか? でも私はそう思うから、その気持ちは嘘にしたくない。今まで積み重ねたものを改めて、あなたの前で言葉にしたい。

 もちろん、感謝を伝えたことくらいはある。それにそれを言うのなら、トレーナーさんの姿を見るのも触れるのも初めてじゃない。慣れ親しんだと言うのはなんとなく嫌なのだが、まあ慣れたものだろう。けれど今日が違うとしたら、きっとそれは今だから。積み重ねたものが違うから、多分違って見えるのだ。私にとってのあなたは、今何に見えているのだろうか。

 

「もう少しで着くぞ」

「おっ、そうですか。いや、流石に二人だと早いですね」

「そうだな」

「ところでトレーナーさん、重くないですか」

「平気だ。君一人に渡す必要はない」

「ちぇ、けち」

 

 そんなことを考えるうちに、ゴールは間も無く。倉庫に着けば今日の作業は終わりで、そうすれば私は夕焼けを背にあなたに感謝を伝えられるのだ。なかなかドラマチックな演出じゃないか。トレーナーさん、感動して泣いてしまうかも、なんて。

 そして確かに思うのは、トレーナーさんが変わったということ。今日の大掃除そのものが、トレーナーさんの変化を表している。それは間違いない。……けれど、変わらないものもあるはずなのだ。だからトレーナーさんはトレーナーさんであり、私はそんなトレーナーさんにだから伝えたい感謝の気持ちがある。

 変わらないものの一つが、外見だ。人が他人を認識する上で、これ以上のものはないだろう。まあ当然私の見た目もそう簡単に変わらないし、成長の止まった大人で特におしゃれでもないトレーナーさんは尚更だ。改めて今日目に焼き付いた姿を思い返しても、やっぱりいつものトレーナーさん。それを何故だか、私の方が意識してしまうだけ。

 いつも見ている、あなた。いつも私の近くにいてくれる、あなた。あなたにはそうやって、変わらないものもある。そう、そういうことなら。

 ざり、と結論に一歩近づく感覚。私は、あなたに。

 

「よーし、着いたぞ。ここがトレセン学園の倉庫だ。トレセン学園の歴史の一部、と言っても過言じゃない。……中に入って、右だ」

「あっ、はい」

「どうした、スカイ」

「いえ……ちょっと考え事をしてただけです」

「そうか。お疲れ様だな」

「はい。お疲れ様です、トレーナーさん」

 

 そこで思考を現実に戻し、倉庫のドアを後ろ手で開ける。ドアから入って横にすぐ、大きな部屋があった。ここが倉庫なのだろう。ちゃんとは見えないけれど、他にも私たちが運んできたのと似たような物が置いてある気がする。

 というわけで、後ろに進んで、進んで、また目が合った、まあそれでも進んで……よいしょ。

 

「ふう、これにて一件落着ですね」

「ああ、助かった。今日は本当にありがとう」

「いいえ、たまには助けてあげないと。……それにしても、なかなか壮観ですね」

 

 荷物を下ろして開けた視界を見渡すと、そこには沢山の物品が、埃まみれで。まあそれでも保管するというのは、嘘ではないのだろうけど。なんせ奥の方に積まれた物は相当な年季ものに見える。あの鍬とか、多分。そういう意味で、壮観なのは間違いなかった。ここには一つの歴史がある。

 トレセン学園は、ウマ娘たちを巡り合わせ、そしてトレーナーとも出会わせる不思議な場所。そんな不思議な場所が作り上げてきた繋がりが、ここで礎となっているのだ。そう思うと身体は勝手に動いてしまうもので、ぺこり、と小さく荷物の山にお辞儀をした。

 

「どうした」

「ああ、ちょっとすごいなって思って。今日は私、感謝を素直に伝える日なんです」

「なるほど。それは偉いな」

 

 褒めてくれるのは結構だけど、この流れならもうちょっと気が付いてもいいじゃないか。あなたにも、伝える言葉があるのだ。

 そう、これにて全行程終了。マジックタイムに差し掛かる、秋の夕暮れ午後五時だった。くるりとターンして、夕日を背に回す。逆光を背負わなきゃ直視できないくらい、あなたへの気持ちは大きくなっていたから。

 だから私の声は、これ以上ないくらいに響き渡る。膨れ上がったあなたへの感謝を、この一瞬に込めるため。

 

「トレーナーさん」

「なんだ」

「いつも、ありがとうございます」

「……そうか」

「はい。トレセン学園の入学式の日、私はサボりを決め込んでました。それを見咎められなければ、今私はここにはいません」

 

 過去が積み重なったこの場所は、私たちの出会いまで遡るのに相応しい場所かもしれない。私の想いは、きっとそこから始まっている。そこから積み重ねと変化によって、こうなっている。

 

「最初は厄介な人だなと思ったけど、いつのまにか私の大事な人になってました。……トレーナーさんが期待してくれるから、ここまで来れたんです」

 

 だから、私はあなたに感謝したい。そう思うところまで、あなたへの見方を変えている。それほどまでに、あなたを大切に思っている。ずきりと痛む胸の奥は、ますます深く深くまで。だけど、止められない。

 

「本当に、ありがとうございます。クラシックもシニアも、トレーナーさんがいてくれたからこそです。それはずっと思ってましたけど、やっと言えました。そしてそれは、レースだけじゃなくて」

 

 やっと、やっと言えていた。もやもやした気持ちが、すーっと晴れる感覚。そう、私も変わっていたのだ。あなたの見方を変えていたのは、あなたを大切に思うから。だからそれを告げられる今は、溜め込んだものを言葉に出来る今は、たまらなく幸せで幸せで。大事に大事に思っていて、だからきっと──。

 

「私がこんなふうに考えられるような大人になれたのも、トレーナーさんのおかげです。諦めるなって言ってくれたから。褒めてくれたから」

 

 ──きっと、この気持ちはずっと抱えていた。

 

「だから、ありがとうございます……これしか言えてないですね」

「いや、こちらこそありがとう」

 

 ──きっと、だからこうやってすらすら述べられる。

 

「ちょっと、まだまだ言いますよ。なんだかどこまでも喋れそうなんです」

 

 ──きっと、「褒められたい」のその先にある。

 

「ええとですね、多分私はあなたに──」

 

 ──きっと、今だからこそ形になる気持ちなのだ──。

 

「あな、たに」

「……スカイ?」

 

 ──あれ。

 そんな、まさか。

 思考を理性が止める。すんでのところ、ギリギリで。

 あれ。

 "私は今、何を言おうとした"? 

 

「……ちょっとセイちゃん、急用を思い出したので。これにてさらばです、トレーナーさん!」

「あっ、ちょっと何か言おうとしてなかったか」

「気のせいでーす。では」

 

 だめだ。見れるわけがない、その顔をいくら暗がりでも見れるわけがない。二人きりなんて、耐えられるわけがない。誰だ一緒にいたいなんて、くそっ、くそっ、くそっ! 

 自分に悪態を吐きながら、ぐるりと強引にターンして全力ダッシュ。夕日が目に沁みようが構わず、校門まで一直線だった。

 

(まさか、まさか。嘘だ、うそだうそだ!)

 

 校舎を全部横切って、強引に校門から外へと飛び出す。走り出したい、弾け飛びたい、抑えきれない、どこまで行けば叫べるだろうか。そんなことばかりを考えていた。心臓から溢れる血を、口から吐かなきゃいけなかった。

 

(あり得ないあり得ない、だってそんなのおかしい、絶対おかしいじゃないか)

 

 そう否定が湧き立つ心と、その裏で膨れ上がるもう一つの気持ち。それを不思議と俯瞰する、また別の私。三人がかりで人気のない河川敷まで、夕焼け小焼けと一緒に道を駆けて。

 穏やかな川のせせらぎを全部塗り潰す勢いで、天を仰いだ私は一言。

 

「うわあぁぁあぁあぁぁあーーーー!!!!」

 

 声にすらならない叫びを噴水のように吐き出しながら、汗を流しての全力疾走だった。スカートのついた制服姿なんて、しこたま走りづらいのに。

 だだんと強く鳴る足音。それすら消し去る叫び声。吐いて、吐いて、吐いて、吐くために息を吸ってはまた吐いて。そして息をするために走るのだから、私の全身は吐き出すために使われていた。全部の泥を吐き出せば、本当の気持ちはわかるから。

 

(私、私、私は──!)

 

 知っているだけではわからないものというのは、世の中にいくらかある。所謂実感がなければ、知識だけでは手に取れないものは。

 

(いつからだろう、わからない、ずっとかな、昨日の釣りからかな)

 

 たとえばこれもその一つ。誰でも存在は知っていて、だけども決して捉えることができない。その時が、来るまでは。そしてその時が来れば一瞬で、世界に別の色が着く。そんな感情。その、スタートライン。

 

(どうしようどうしよう、明日からどうすればいいんだろう)

 

 そして誰でも持ちうるけれど、誰もがそれぞれ違う結論を持つものの一つ。だからやっぱり、実感を得るまではわかることは出来ない。あるいは唐突で、だけどこれまでの積み重ねが形成するもので。だから降って沸いたはずのそれは、あっという間に私に馴染んでしまう。紛れもなく私の持つ思考の爆発だと、別物にしか思えないそれを理解する。

 

(でも、でも、吐いても吐いてもどきどきが止まらない。やっぱり、私やっぱり)

 

 だからこそ大事で、大切で。あるいは感謝よりも先にある、誰でも持てて、他の誰にも持てないもの。痛くて苦しくてそれでも手放したくない、私にしかわからない感覚。たとえ自分の全部を吐き出しても残る、焔より強く美しく揺らめく極みの情念。

 

(ああ、そうなんだ)

 

 誰もが胸に秘められる、どこにでもありふれたもの。だけどどんな魔法より人を彩る、世界で一番特別な気持ち。

 

「私、トレーナーさんが好きなんだ」

 

 これをきっと、恋と呼ぶ。




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セイウンスカイは正論男に・5

 夢を見た。今まで見たどれよりも、夢に近い夢だった。

 夢を見た。あまりにストレートに願望が反映された、浅い夢だった。

 夢を見た。どこかもわからない道の上を、トレーナーさんと二人で歩く夢だった。名前のない場所、名前のない空、名前のない関係。わかるのはただ一つ、指を絡めて歩いているということだけだった。あなたのごつごつした指に、私の細くて小さな指が精一杯くっつこうとしているということだけだった。

 夢を見た。けれど、あくまで夢だった。あなたの手の感触は、何度か触れた過去の再現以上にはならなかった。今の私が触れた時の感触は、私の知らないあなたへの想いがどんなふうに受け取り方を変えてしまうのかは、虚な夢ではさっぱりわからなかった。

 夢を見た。けれど私もあなたも笑っている、そんな夢だった。それは私の願望だった。手を繋いで二人で笑い合えたなら、きっとそれだけで幸せだった。私は、それで幸せだった。

 夢を見た。だけどあなたはどうなのだろう、そう思った。この夢のように私と一緒にいたいと思ってくれるのかなんて、まるでわからなかった。私はやっぱりあなたを知らない。知らないのに、恋をした。知らないから、もっと知りたい。その二つの感覚は矛盾しているようにも見えるのに、どちらも私の中にあるものだった。

 夢を見た。そして夢の終わり、朝が来る瞬間だった。夢色の万華鏡越しに見る朝日はまるでネオンサインみたいで、私と架空のあなたとの逢瀬を最後まで煌びやかに演出してくれていた。ぎらついてなくて、ただただ幻想的で、そんなふうに夢は解けていった。

 夢を見た。そして最後にキスをする、そんな夢だった。

 夢を見た。知らないものにはやはり感触はなかった。唇と唇を重ねるという知識だけが脳裏を掠めた。初めて恋を知った女の子に出来る空想は、ここが限界だった。空っぽで脆い、夢だった。

 夢を見た。だけど、幸せな。

 夢を見た。私の気持ちに一番近い、そんな夢だった。

 

 

「何、いまのゆめ」

 

 窓の外からの柔らかい陽射しを目蓋に受けて、血管の色で真っ赤に染まる視界。それだけで我に帰るのには十分だった。夢から覚めるのには。いや、何、今の夢。

 そもそも私が夢を見るのが割と珍しいのだ。どんな場所でも寝相がいいことに定評のあるセイちゃんは、寝付けない人が見る夢というものとは無縁じゃないか。それに加えて、その内容。

 

(うぅ〜〜〜〜!!)

 

 声にならない叫びが出てしまう前に、勢いよくもう一回布団に潜る。トレセン学園に来てから一番私の頭部をぶつけられるのに慣れているだろう寮のベッドの枕が、私の顔をえくぼの隅まで受け止めてくれた。そりゃ誰も見ていないけど、この顔を外に出すのがとてつもなく恥ずかしい。鏡で見るのだって嫌だ。

 多分きっと耳まで真っ赤になりながら、それでいてだらしなくにやけている。そんな夢を見てしまったから。私はやっぱり、どうしようもなく。

 

(恋って、こんなに大きなものなんだ)

 

 あなたのことが、好きなんだ。

 手を繋いで、口づけをして。そんな浮ついた願望が、心の底から私を掬い上げていて。だから、あんな夢を見た。あなたと一緒にいたい。あなたのことが知りたい。あなたにただ、触れていたい。そんな数パターンの感情で心の全てを埋め尽くしてしまうのだから、恋とはなんて大きな気持ちなのだろう。そう思った。

 ……だけど、どうしようか。ずっと部屋に篭っていたらまた心配されて、もしかしたら余計なお世話で私の気持ちを暴かれてしまうし、そもそもたまらなくそわそわして、じっとなんかしていられない。つまりどうしたって、起きるしかない。普段ならもう少し寝ているか寝っ転がってる時間だけど、今日はそうしてはいられない。

 

「……たまには早起き、してみますか」

 

 そう呟いて、僅かにぎしりとうめくベッドから立ち上がる。屈伸をしてみると、身体中から骨の音がした。覚醒のための儀式、とも言えるだろう。今日の授業は乗り切れるかな、そんなことを考えながら下からパジャマを脱いで。今日のトレーニングどうしよう、やっぱりそれも考えつつ下着の上に制服を重ねて。これから毎日こんな感じかな、そんな不安を抱えながら扉の鍵を開ける。

 不安だけど、離したくない気持ち。そしてそれによって世界の全てが変わって見えるのなら、今日からまた新しい日常が始まるのだ。

 少し大人になれた私だからこその、新しい日常が。

 

 

 さて。朝起きて行くべきところなど、いつもぎりぎりまで寝ている私にはあまり見当はつかないのだが。そういうことを新しく開拓するのも、今の私の仕事なのかもしれない。いや、これから毎日あんな夢を見て早くに起きるのだろうか。……それはちょっと嫌かも。嫌じゃないとこも、あるけどさ。

 そんなこんなで自室から連なる廊下を歩いていると、向こうのほうから人の声が聞こえてくる。通りのいい女の人の声。この声はまあ私も何度か聞いたことあるタイプの声だ。今のこれとは違って、レース場で緊張しながら聞くことが多かったとは思うけど。まあ、そんな声。つまり。

 ぎい、と恐る恐るその部屋の扉を開ける。一際大きな談話室の扉。多分私は人がいない時にしか開けない扉、だった。けれど今はそんな人混みに、自分から飛び込んでいくのだ。本当に、どうしてしまったのだろう。これも私の抱えた感情がそうさせるのだろうか? 悩んでも答えは出ず、答えてくれる人もいない。それでよかった。他人に混じっても今の自分は消えない、そう思えるだけの理由を持てているということだから。

 

「続きまして、今日のエンタメ特集です」

 

 談話室には(知ってるけど)大きなテレビがあって、多くのウマ娘がその画面を眺めていた。私が入ってきてもこちらはちらりと見るだけで、すぐにニュース番組に釘付け。そういやテレビなんてレース関連しか観てなかったな、と自分を顧みる。他の子のように私も年頃の女の子なら、テレビくらいは見ておいた方がいいのだろうか。それとももっと他に追いかけるものがあるのか? ネットとか、雑誌とか。

 他人に乗っかるなんてガラじゃないのにそんなことを考えてしまうのは、やっぱりあなたのせいだった。トレーナーさんは私をどう思っているのだろう。それはどうしても気になっていた。どうしても横道を逸れるような女の子でも、全幅の信頼を置いてくれることはわかっているけど。そういう人なのは、もちろんわかっているけど。

 でも私が今求めているのは、信頼の先にあるとしても信頼とは違うもの。たとえそれがどれほど尊く切なく、そして愛しい気持ちだとしても。私が求めているのは、今ある信頼を壊す行為だった。

 そんな私の思考を遮るように、大きな液晶からは女性アナウンサーによる「今日のエンタメ特集」が流れていた。本当に遮るように、狙い澄ましたかのような話題を投げかけていた。そんな私一人宛のテレビ番組なんてあり得ないと、頭ではよくわかっているのに。同じ星座の人をみんな同じ運勢に当てはめる大雑把な朝の星座占いも気にしたことないくせに、更に誰に向けているわけでもないその特集がいやに耳に残ってしまう。言葉尻を捉えただけで。

 

「今日紹介するのは、現在大ヒット中のアニメ映画、『ホワイトエンディング』。ある夜の日に出会った少年と少女の、美しい恋の物語です」

 

 そんな説明はきっと、どこにでもありふれているのだと思った。目の前の誰も、その紹介に興味を惹かれこそすれ動揺などはしていなかった。「恋」の一言がこんなに重くのしかかるのは、この空間では私だけなのだろう、と思った。

 恋はフィクションのものだった。そう考えていたから、それを扱った物語を見ても気恥ずかしさなんて感じなかった。自分には縁がないもの。どこか遠くで、空想の中で結ばれるもの。手の届かない、大人のもの。多分そういうふうに思っていた。もしかしたら今この空間にいる私以外は、同じような考えかもしれない。恋の存在は知っているけれど、自分が直面するとは思っていない。自分がその立場になった時、どうすればいいのかなんてわからない。心に触れるあらゆるものに反応してしまうほど、恋慕が自分の全てになってしまうなんて、昔の私は思っても見なかったのだから。

 

「夜の日に運命的に出会った主人公の少年とヒロインの少女は、その後会う度に惹かれ合い、二人の間にある距離を縮めていきます。しかし、二人の関係に危機が──」

 

 けれど、結ばれるのだろうと思った。そういうストーリーなのだろうと、少しだけ冷ややかに。フィクションの恋愛なんて、半ば結ばれるのが決まっているようなものだ。添い遂げるにせよ悲恋にせよ、恋愛が話の主軸にある。お互いの想いはなんらかの帰結を生む。伝えられない気持ちなど、盛り上がりがなくてつまらない。少なくとも私はそんな話をフィクションには求めないだろう。苦難の果てに結ばれて欲しい、平々凡々な感性でそう願う。

 だけど、それはフィクションだ。運命の繋がり、必然の出逢い。フィクションには求められるけれど、同じものを現実には求められない。それも、わかりきったことだった。私とトレーナーさんの関係には、求められない。

 偶然の出会いだった。最初はトレーナーさんの方から引っ張ってきただけだった。こんなふうに仲良くなるなんて、思ってもいなかった。こんな気持ちを抱えてしまうなんて、思ってもいなかった。

 そして確かに私とトレーナーさんは互いの距離を近づけたけれど、それは惹かれあったからなんかじゃない。トレーナーと担当ウマ娘、大人と子供。そういった関係に名を付けるのなら信頼であり、恋愛であることはあり得ない。そう、やはり今まで築いてきたものは信頼なのだ。私はそれを壊そうとしている。あなたを裏切ろうとしている。そう思ってしまった。

 私が信頼の先に恋情を結びつけてしまったのは、手酷い過ちなのかもしれない。取り返しのつかなくなる前に、引っ込めるべき過ち。信頼を積み重ねた先に恋愛を始めることが出来ないのなら、私は関係ごと壊さなければあなたに恋を出来ないのだろうか。一度生まれた「裏切り」というフレーズは頭にまとわりつき、ぐわんぐわんと脳を揺らす。壊してしまう、くらいなら。

 ずっと悩んでいた。昨日走り出したあの時から、ずっと。丸一日にもならない時間で、幾千幾万の思考を連ねた。私はこの気持ちをどうしたらいいんだろう、と。伝えられるわけがない、だからあの時逃げたんだ。でも逃げて吐き出せば吐き出すほど、想いは強く強くなっていって。諦めるのは嫌だって、何度も説かれたそれをあなた自身に対して思ってしまって。二桁は歳の差がある大人と子供、こんな気持ちは無謀に過ぎるとわかっているのに。

 

「『ホワイトエンディング』、あなたもご家族や友人、恋人と一緒に観に行ってみてはいかがでしょうか」

 

 なら、今のままがいいんじゃないか。ニュースの終わりと共に私がそう思うのも、確かだった。たとえば私はトレーナーさんをこの映画には誘えない。家族でもないし、友人でもないし、ましてや恋人でもない。だけどそんな名前を付けなくても、十二分に通じ合っているじゃないか。それを壊すくらいなら、今のままでいいじゃないか。

 きっと、世界には恋なんてありふれている。この映画も恋を描き、カップルが観に来るようなものだ。私の抱いた気持ち自体が、世界に認められないほどの間違いというわけじゃない。世界は恋の存在を受容しているのだから、私もそれに溺れていい。甘い痺れで骨まで溶けるのを、ただ享受していればいい。それ自体が悪いわけはない。それは、わかっている。

 私が許されないのだと恐れているのは、その心をあなたに伝えることだった。恋心の存在は、きっと誰でも認めてくれる。誰もが私の気持ちを応援してくれさえするかもしれない。だけど、それは所詮応援だ。私がこの気持ちを届けたいのは、応援してくれる誰かじゃない。届けたいのは、トレーナーさん、一人だけ。そしてそれが受け入れられるのかが不安でたまらない。世界が恋を認めたとしても、あなた一人がそれを喜んでくれなきゃ意味がない。あなた、一人だけが。

 認めてはくれるかもしれない。理解はしてくれるかもしれない。だけど、受け入れてくれるだろうか。私に魅力があると思ってもらえるだろうか。いつまでも私はあなたの中では子供なんじゃないだろうか。俺なんか、とか言って、届いてはくれないんじゃないだろうか。そうなるのは容易に想像できる。あらゆる言い方で、あなたが私の告白を断るのは。きっと私の事を思って、断るのは。それは私のためだとしても、あなたの紛れもない正論だとしても。

 それは、怖い。きっと失恋だって、世の中にはありふれているのに。

 朝の世界は徐々に眠りから覚めてきて、談話室の人間も出て行ったり入ってきたり。私一人が悩んでいても、特に支障はなく地球は回る。未だ扉の前で立ち尽くしている私なんて、どこにもいないみたいに。だけどそれでよかった。誰にも言えない悩みだから。どこにも居場所がなくてもよかった。あなたのそばにいられるなら、それでよかった。そう思うくらい、好きだった。

 これが初恋。本当に、はじめての気持ち。私だけの、あなたのためだけの気持ち。これ以上なんてなくても構わない、そう思ってしまうような気持ち。全部全部、私の全部がこのためにあるんじゃないかって錯覚してしまいそうな気持ち。全部が恋でいっぱいだった。はじめての、恋で。

 だけど、初恋は大抵実らないものだ。バレンタインの時だったか、トレーナーさんの初恋の話を聞いた。今だったら絶対聞けないようなことを、あの時は聞けていたのだった。でも今でもその会話を覚えているから、やっぱりずっと好きだったのかもしれない。意識と無意識の区切りは、自分自身が一番曖昧にしてしまうものだから、わかるのは今好きだってことだけ。……まあそれはともかく、トレーナーさんの初恋はもう終わっている。当たり前だけど学生時代に、そしてまた当たり前のように実らない結果に。それだけ聞けば、悲しい結果だ。結構悔いのあるような話し方をしていた気がする。もちろん引きずってはいないのだろうけど、それくらい初恋とは思い深いものなのだろう。

 そして、こうも言っていた。いい思い出だった、と。初恋は実らなくても、いい思い出になるのだろうか。トレーナーさんの初恋は、結局先輩への憧れで終わって告白もなかった。それが「いい思い出」。なら、私もそうすべきなのだろうか。この気持ちをいい思い出にするために、そのための準備をするべきだろうか。

 

「……と、そろそろ出なきゃな」

 

 思考の途切れ目で時計を見遣り、遅刻はすまいと一旦気持ちを切り替える。けれどやっぱり本当に一旦で、自分の部屋に向かう頃にはまた頭が桃色でいっぱいだった。今日の授業はいつにも増して集中できないし、トレーニングなんて本当にどうしようか。そう思いながらも脳裏に瞬くのは、あの暑苦しい声。大柄な身体と、意外と子供っぽい顔。……本当に、なんで私の初恋があんな人なんだろう。あんな人と貶しながら、その一方で夢中になっている。そんな私も滑稽だけど、不思議とバカらしくはなかった。浮ついていたけれど、どこまでも真剣だった。

 だけどこんなふうに命を賭けたとして、いい思い出に出来るだろうか。想いを告げれば綺麗さっぱり、いい思い出に出来るだろうか。それともずっと憧れのまま、十年もした頃に笑って「好きだった」と告げた方が、気持ちの整理が付くだろうか。美しい、いい思い出に出来るだろうか。鞄に荷物を詰め込む時も、ずっとそんなことばかり。ぐるぐる思考を回して、身体は今にもはち切れそうなくらいどこもかしこもかゆくてかゆくて。

 だけど、ばたんと無理矢理鞄を閉めて。気持ちに一区切りがついたのも、同じタイミングだった。手早く部屋を出て、弾むように玄関を開けて。澄んだ空気が少し冷たく、私の真っ赤な頬を撫ぜた。

 だけど、それも私の気持ちを後押ししてくれているような気がした。何も知らないはじめての恋への、私のはじめてのアプローチ。

 

(『いい思い出』なんて、まっぴらごめんだ!)

 

 そう思ったのだ。少しだけ駆け足で学園に向かいながら、やっぱり今日を期待しながら。私は、そう思ったのだ。

 きっともっと大人なら、恋なんていくらでも知れるのだろう。きっともっと子供なら、恋なんて一つも知らないままだっただろう。恋を思い出に、あるいは恋そのものへの憧れに、そうしてしまえば切り抜けるのは楽なのだろう。でも、それでも。

 それでも私は、今この瞬間の私は、この恋が実るかどうかに全身全霊を捧げたいんだ。未来でいい思い出かなんて知らない。過去で恋をどんなに別のものに置き換えていたかなんて知らない。私ははじめて恋を知ったから、きっと間違いだらけだろう。それでも、それでも私の初恋は。

 私の初恋は、やっぱり抱き締めていたい。最後の最後まで、私がそれを諦めるわけにはいかないんだ。

 靴のステップは蹄鉄より柔らかく、秋の終わりに馴染む音。何もかもわからない初恋乙女にも、その音ともう一つくらいはわかった。ひたすら悶々として、耐えられないと大声で叫びたくなるような。今のままの関係じゃ、我慢できないんだと声を張り上げたくなるような。そんなふうに張り裂けそうなほどの恋を抱えてしまったことだけは、どうしようもないくらいにわかっていた。

 肌寒さの増した秋の暮れ。まだトレーニングも授業も始まっていない秋の朝。私の身体だけが、汗をかいていた。一仕事終えたみたいに、たっぷりと。

 私だけが持つ、情熱だった。



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セイウンスカイは正論男に・6

「はぁ〜……」

 

 深く、深くため息を吐く私。時刻は午前中の授業が終わってすぐの十二時過ぎ、場所は人のまばらな教室、そこの廊下側にある我が慣れ親しんだ机の上。貧相な上半身を顎の先までべったりその冷えた木目に押し付けながら、私セイウンスカイはひとつため息を吐いたのだ。午前を乗り切った己に対する、疲弊と苦悩のため息を。

 まあ、理由は結局一つである。今日への決意を込めて新たな日常に臨んだとしても、実際時間の進みと共に解決していない悩みはリフレインするということ。トレーナーさんへの恋心という、幸せな悩みは。もやもやが立ち上り、今すぐ退屈な授業から逃げ出したくなって。あるいはどうしても胸が苦しくなって、あなたに会いに行きたくなって。時間の感覚も長くなったり短くなったりめちゃくちゃで、落ち着かなさすぎてちっとも居眠り出来なかった。結局最後の方は大真面目に勉強に取り組むことでなんとか思考のどつぼから逃げていたのだが、そんな慣れないことをしたせいで普段の四倍は疲れている。今一歩も動けないくらいには。

 

『セイちゃん、食堂に行かないんですか?』

『あー……今日はごめん、パスさせて……見ての通りだから』

 

 ざわめく教室と心の中で、数分前の会話を思い出す。こんなふうにグラスちゃんたちみんなに心配されながら、結局送り出したつい先程のやりとり。

 

『授業中はあんなに落ち着きなかったくせに、どうしたのかしらね、貴女』

『うわキング、授業に集中もせずこっちのことちらちら見てたの? セイちゃんこわーい』

『貴女にだけは集中してない、なんて言われたくないわね……まあ、それくらいの元気はあるみたいで良かったけど。今日もトレーニングなんだから、養生しなさいよ』

『うん、ありがとう』

『もし本当に体調が良くないなら、保健室まで付き添いますよ?』

『グラスちゃんもありがとう。まあ多分、そんなに心配要らないよ』

『ならいいのですが……』

 

 そんな感じでなんとか心配を振り切ったのが今なのだが、一人になると若干の罪悪感もあり。とはいえ仕方ない、仕方ないのだ。あのキングやグラスちゃんにも見抜けないほどの悩みなのだから。今までで一番幸せだけど、今までで一番難しい悩み、なのだから。

 きっと、世界に恋なんてありふれている。だけどたとえばいつもの五人の中では、多分私しか知らない。それは隔絶のようで、成長のようで、そこにある差を噛み締めるのはやはり複雑だ。ずっと一緒だとさえ思いながら、やはり細かな差異はある。何度も思い知ったことだけど、私たちは同じじゃない。こうやって各々の変化があり、少しだけ違う世界を見ているのだ。

 だけど、寂しいはずのそれは、今は何だか嬉しくて。この気持ちが自分だけのものなんだ、そう思えた気がして。一人ぼっちさえ、尊い気がして。それでもやはり隣にあなたがいるならと、希ってしまうのだけど。……本当に、難しい悩みだ。

 そんなふうに休み時間になれば、私の思考はまた少しずつ蕩けていって。考えの狭間にあなたの顔がちらついて、そのたびに少しだけ尾を揺らす。それだけで幸せな気はしてしまうのだけど、世界にあるものはやっぱりそれだけじゃない。そんな当たり前に気付かせてくれたのは、不意に耳に入った一つの会話がきっかけだった。私と何の関係もない、顔見知りかも怪しい会話。普段と違う私だから見える、普段目に留めていなかった世界の会話。

 

「ねーえ、アンタはどんな男がタイプなのさ」

「えー、アタシ? そうだなあ、結構かっこいいヒト多いもんなぁ、ここのトレーナーさん」

 

 やっぱり、世界に恋はありふれている。それを証明するような会話。所謂、恋バナというものだった。

 盗み聞きなんて行儀が悪いと思いつつも、ついつい耳はレーダーみたいにぴくぴく動く。恋の気配を察知するレーダー。そんなものを搭載するなんて、いよいよ私は恋する乙女真っ最中だ。本当にどうしちゃったんだろうなんて、それを自らに問うのももう何度目なのやら。

 

「やっぱり、優しくて頼れる人かなあ。気遣いとかされると、グッとくる」

「王道だねえ。でもウチは、隙を見せてくれる人もいいかな。弱音とか吐いてもらえたら、それだけで好きになっちゃうかも」

「わかる。あんた、意外と尽くすタイプだよね」

 

 思わず自分も、その「わかる」に追従してしまう。もちろん、心の中で。優しくて、頼れて、ちょっぴり隙を見せてくれる。なんだトレーナーさん、全然モテそうなタイプじゃないか。そう思うと勝手に誇らしくなるのだけど、一方で胸の奥が僅かに騒がしくなって。

 あなたに恋を出来るのは、私だけじゃないんだ。そんなわかりきっていた事実を、突きつけられた気がした。

 

「でもさー、やっぱり同年代の男子がいないから、消去法的に大人にときめいちゃうところはあるよね。叶わぬ憧れってやつ。なんなら同性に鞍替えした方がいいかもしんない」

「げ、アタシもしかしてあんたに狙われてる?」

「バカ言うな、おめーはねーよ。ただ大人の男捕まえるよりは現実的だろ」

 

 また、耳がもぞもぞと動く。伏せた顔で、少しだけ息をする。消去法。叶わぬ憧れ。現実的じゃない。だから、誰も己を指導してくれるトレーナーに恋なんてしない。私よりも数段恋に詳しそうな誰かの会話は、そんな真っ当な結論を導き出していた。私の恋は、過ちなのだろうか。一度説き伏せたはずのそんな思考が、再び頭をもたげる。あなたに恋をするのなら、もっとふさわしい人がいるんじゃないかって。

 恋はありふれているけれど、結びに繋がるのは一握り。いくらそれが憧れと願望で出来ていても、どこかで現実的に妥協する。私にとって、あなたにとって、どちらも幸せになれるように、無理を通さない選択を取る。それももしかしたら、大人になること。私より、進んだ結論。

 なら、彼女たちの会話は机上の空論に過ぎないのだろうか。そんなことを思った。恋について語るのは、いつかは遊びに出来てしまうものなのだろうか。そんなふうに、思った。これほどまでに私が深く苦しむのは、あくまで一過性のもので。どこにでもありふれた、儚い憧れに過ぎなくて。やっぱり、いい思い出になるのが精一杯で。早朝の覚悟は十時間も経たないうちに揺るがされ、だけどそれを必死に押しとどめようとする自分もいて。次第に会話は遠くなり、一人ぼっちの激情で歌う私がいて。

 現実を垣間見て尚、私は私の想いを抱き締めていた。手放したくない、あなたといたい、そんな恋を歌っていた。もちろん不安なのに、気持ちばかり焦ってしまうのに、それでもだった。

 いい思い出になんかしたくない。それがありふれた恋だとしたら、私のはそんなものにしたくない。わがままで身の程知らずでも、私のこれは永遠にしたい。湧き出てくる気持ちの全部を、絶対に過去にしたくない。あなたへの恋は、今の、今からの私の全てに等しくなる。そうであってさえ、欲しい。不安も恐れも向かい風になるもののなにもかもが、全部が一つの気持ちに変換されていく。たった一つ、切なく思うこの気持ち。

 寂しい。あなたに、会いたい。会えば、胸は締め付けられる。会えば、呼吸出来ないほどに気持ちが満たされる。幸せすぎて、苦しくなる。それから遠い今の時間は、いつもと変わらないはずなのに空っぽに感じてしまうんだ。あなたのせいで。あなたの、おかげで。私が知らなかった世界を見せてくれるのは、いつだってあなただったから。

 だからこの気持ちははじめてのものだけど、ずっと信じてきた確かなもの。あなたとなら、いつだって、なんだって乗り越えられるはず。あなた自身という一番大きな壁だって、きっと。あなたに恋を出来る人間はたくさんいるかもしれないけれど、この道のりを共に歩んできたのは、それを知っているのは私だけなのだから。

 そこまで思考を巻いた頃には、誰かの恋バナは自然に解散していた。それくらいの時間が経っていた。あれだけ気にしていたのに途中から無視するのだから、随分自分勝手だな、私ったら。……まあでも、それくらいじゃなきゃいけない。あの頑固な正論男を心の底から折れさせようとするわけだから、とびきり自分にわがままで、正直じゃなきゃいけない。あなたに私が恋するように、あなたを私に惚れさせるために。うん、やっぱりそう決めた。

 なんだかんだで休み時間というものは、しっかり元気が湧くように出来ているのかもしれない。またしばらく経った昼休みの終わり頃に教室へと帰ってきたいつものみんなに、それなりに立ち直った姿を見せてやれたのだから。もちろんこの後の午後の授業で、やっぱりそれなりに思い悩んだりしてぐったりしてしまうのだろうけど。

 でもそのあとの放課後には、休み時間よりもっと楽しい時間が待っているのだから。苦手な根性論を押し付けてくる、でもちょっとだけ理論も取り入れられてきた、すっかり馴染んだ時間が。そしてこの気持ちを抱えてからはじめての、はじめてあなたと過ごす時間。

 いつも通りの、トレーニング。午後のチャイムが鳴るのと同時に、そんな少し先の未来に思いを馳せた。

 朝よりも、心が澄んでいた。

 透明な幸せで、いっぱいだったから。

 

 

 

 そうやって、決意した。この想いを成し遂げるのだと、私は固く固く決めた。

 そうやって、覚悟した。今までの何よりも困難な目標だとしても、私はあなたのことが好きなのだと祈った。

 そうやって、期待した。授業が終わり放課後になって、私は誰よりも早く着替えてグラウンドに向かった。

 どんな気持ちも全て、ただあなたに会いたくて。それだけのことで、私の心臓と脚は動いていた。恋だけで、生きていた。

 だけど。それでもやっぱり、決意も覚悟も期待も全部、全部全部を遥かに超えて。

 

「おお、今日は早いな。授業お疲れ様、スカイ」

 

 複雑に揺れる気持ちの焦点が、ぴたりとあなたに合う瞬間。あなたの実像を五感で捉える、たったそれくらいのことで。

 

「……あはは、まあ、たまにはってことで」

 

 夢のうちから今日ずっと積み上げた私の考えなんて、新品のホワイトボードみたいに真っ白になってしまった。あれだけ作戦を書き込んだはずなのに、綺麗さっぱりなかったみたいに。辛うじて絞り出せた最初の言葉は、みっともないくらいうろたえて。

 ぷい、と悟られない程度に目線を逸らす。反射的に、身を守るみたいに。このままじゃ自分に殺されちゃう、そう思ったのかもしれない。あなたをまっすぐ見たいという気持ちに従ったら、全身に溢れる熱で身体が溶けてしまいそうだもの。心臓も喉も目も耳もほっぺも、下に流れる血液まで沸騰しそうなくらい熱い。一瞬、一瞬いつものあなたを見ただけで。すこし日の陰り始めた青空の下、ちょうどいい明るさに照らされたあなたの顔がはっきりしただけで。大きすぎる幸せは死に至る毒にすら等しいなんて、それもはじめて知ったことだった。

 これから毎日、この気持ちを味わえる。どうしようもなく切なくて苦しい、恋の病に浸っていられる。逃げ出したくてたまらない、とびっきりの気持ちと一緒にいられる。そんな、そんなの。

 どうしたら、いいんだろう。そんな疑問にいつも答えを示してくれるはずの人は、今回ばかりは鈍くていつも通りで。

 

「そうか! スカイがやる気を出してくれて嬉しいぞ!」

 

 本当、こういう時だけ見透かしてくれない。けれど一番欲しい言葉をくれるのだけはそのままだから、尚更始末が悪い。そしてこんな質の悪い奴の何気ない言葉ににやついてしまいそうになる私が、多分一番悪い子だ。「スカイ」って、私の名前を何気なく呼んでくれるだけで、そんな当たり前のことで、天にも昇りそうなほどになってしまうのだから。

 一番早く来たからと言って、二人きりになれる時間は僅かなのだけど。ほどなくしてチームメイトが集まってくるにつれて、そのたびに元気に挨拶するトレーナーさんを見て、私だけの人じゃないのは痛い程よくわかるのだけど。

 それでも、嬉しくて。嬉しくて、苦しくて。恋するあなたとの時間が、今日も始まるのだ。

 真っ白になった頭でも、その事実だけは刻み込めた。

 

「ふぅ〜……」

 

 まあ、トレーニングは相変わらずのスパルタで。いつもと何も変わらないのも、当たり前のことだった。また少し日が傾いたグラウンドの下で、純粋な疲れからのため息を吐く。それもいつも通り。いつも通りじゃないとすれば、まだまだ身体がむずむずしていること。動き回りたくてたまらない、そう思っていること。

 ひょい、と身体を起こす。靴で軽く地面を何度か蹴って、休憩もそこそこに立ち上がる。正確に言えば、メニューには、ないんだけど。それでも立ち上がって、再び練習用のウッドチップの上へと向かう。トレーニングに対するやる気は、なんというかいつもの二倍三倍はあったのだ。

 身体に活力が溢れている。前より雑念は増えているに決まっているのに、不思議とトレーニングへの取り組み方は前向きになっている。きっと、夢を見つけたのは確かだから。あなたと見る夢だからこそだとしたら、やっぱり恋のせいなのかもしれないけど。

 翻って、ガラにもなく。元気いっぱいに、私はチームのみんなに叫びかけた。

 

「誰かー、併走しませんかー!」

 

 爽やかすぎてびっくりするくらい、私じゃないみたいな呼びかけ。私も変わっているということを、改めて己に理解させる声。悩めど悩めど、それがこんなに前向きな活力になるのなら。やっぱりこの気持ちは、幸せなものなんだ。

 

「じゃあ私とやりましょうか、スカイちゃん!」

「おっ、いいですね。菊花賞ウマ娘同士、というやつですね。いやー、最近トップロードさんは波に乗ってるもんなあ」

「まだまだですよ。だから私を鍛えるためにも、ぜひお願いします」

 

 そんなふうに二つ返事で、私の唐突な誘いに乗ってくれる人もいて。私は私でむずむずしてるだけなのに、やっぱり周りからの影響を受ける。支えられて、支える。それはトレーナーさんだけじゃなくて、これまで繋いできたあらゆる関係から。たとえ全てを恋に捧げても、私は私のままなのだ。

 

「じゃ、行きましょうか。2000mくらい」

「はい! よろしくお願いしますね!」

 

 そうやって、走り出す。だん、と地面を二人で蹴って。息を切らせて、尾の先まで全身を躍動させて。その瞬間はあれだけたくさんの悩みをなにもかも忘れられるくらいに心底楽しかったから、なんだかんだで私は走るのが好きなんだなあ、と思った。

 夢の先を目指す。私の悩みはそれを曇らせるものではなく、研ぎ澄ませるものなのだ。

 

「はーっ……お疲れ様でした……。いや、トップロードさんの成長は凄まじいですね」

「そりゃもう、いつかはスカイちゃんにも勝たなくちゃって思いますから! 今日も、その練習です」

「言いますねえ。なら私も、負けないように頑張らないと」

「こちらこそです! 頑張りましょう、お互いに」

 

 2000mなんて走るウマ娘にとってはあっという間に過ぎる距離なんだけど、それでも全力を尽くした感覚はやはり得難いものだった。難儀な悩みを忘れるために走った、と言えばそうなのかもしれないけど。だけど私がまだ走りたいと思っているのは嘘じゃない。いつも通りのトレーニングで、いつも通りそう思った。あるいはいつもより、更に先を見てそう思った。

 頑張ろう、何事も。努力が必ず報われるというのが、チーム<アルビレオ>の信条なんだから。そう私なりに、心を整えられたところだった。

 だった、のに。

 

「お疲れ様、スカイ、トップロード! それにしても偉いなスカイ、やる気があって嬉しいぞ!」

 

 本当にあなたは、今のあなたは私の一番欲しい言葉を、全く私の気持ちなんか知らずに投げかけてきて。それだけでまた、がちがちに武装し直したばかりの私の理屈が弾ける音がした。お疲れ様、って。嬉しいぞ、って。スカイ、って。私を見てくれていた、たったそれだけで。

 はあ、本当に。

 本当に、幸せだなあ。

 

 

 結局それの繰り返しだった。走るたびにそのことだけにひたむきになれて、それが終わった後の一言で全部ぐちゃぐちゃにされて。根性だらけのハードなトレーニングより、もみくちゃにされた心労の方がよっぽど堪えた気がした。それでも時間は進み、今日のトレーニングは解散して。制服に着替えて帰路に着くまでは、不思議と冷静でいられた。トレーナーさんがまた明日、という顔を、やっぱり直視は出来なかったくらいだ。

 でも、校門を出たその瞬間だった。今日は終わった、そう実感した瞬間だった。

 今までで一番の寂しさと切なさが、心臓の全部を貫いたのだ。冬が近づいた秋の夜の冷たさなんかより、よっぽど私の全身を震えさせるものだった。

 今日、なんであんなにやる気が出たんだろう。何人も併走に誘って、走るのがとっても楽しくて。それでも最後にかけられる少しの言葉で、全部めちゃくちゃにされるってわかってたのに。それを、期待していたのだろうか。恋すら活力に変えてやるって、それで夢に届くんだって。みんなを引っ張りさえしたのも、全部あなたに声をかけられるためだったのだろうか。そう思った。全てが終わったと感じた時、今日かけられた誰の声よりもトレーナーさんの声が残響してしまって、そう思った。楽しいとか嬉しいとか、そんな気持ちが全部落ち着いた終わった後に思うのは、無限に求めてしまう寂しさだった。

 寂しい。それがどんなに他のものに良い影響を与えるとしても、今の私はとても切ない。明日もきっと、あなたがいるから元気を出してしまうのだろう。それは夢への活力にもなる。だからやっぱり、この恋は間違いなんかじゃない。これを抱えている限り、私は幸せなのだろうけど。

 それでも、確かに思ってしまうことがあった。この寂しさと切なさは、やっぱり苦しいものだってことだった。どんなに恋が美しいものでも、だからこそ恋で苦しみたくなかった。あなたを苦しみの原因にしたくない、そんなとんでもないわがままかもしれないけど。やっぱりずっと一緒にいたいと、そう思ってしまった。

 きっと、世界に恋はありふれている。それだけで満たされて、今の私じゃ受け止められないくらいに。ありふれていて、そこで終わっても充分なくらいに。それでも、私はその先を求めたい。二人で掲げた夢の先を目指すように、褒められたいって願いの先を目指すように。

 恋の先、あなたと。私は、あなたの隣にいたい。どんな想いの先だって、今の私とあなたなら。

 

「……やるしかない。やるしかないんだ」

 

 そう、誰も見ていない夜に呟いて。私は走る、寮とは少し違う方向へ。それが正しいのかなんて、わからなかったけど。

 今のままは嫌だって、そう思ってしまったから。私はもっと変わらなきゃって、焦りにも似た気合が満ち溢れていたから。

 夕闇の下を少し浮き足立ちながら駆ける。駆けた先なら、恋より進めると信じていた。

 まだ、今日は終わらない。

 




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最近体調を崩しがちで、更新が滞っており申し訳ありません。
なんとかきっちり終わらせますので、ぜひお待ちくだされば幸いです。


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セイウンスカイは正論男に・7

 寮の門限にはまだ時間がある。晩御飯は別に寮に置いてあるなにかしらを食べたって特段変なことじゃない。そうは言ってもやはり、トレーニングも全部終わった後にそのまま帰らないのはなかなか珍しい。少なくとも、私にとっては。

 それでも今の私は一応の理由を持って、寮とは少し外れた場所へと向かってアスファルトにてこてこと足跡をつけている。本当に、珍しい。

 そんな大それた場所にはいかない。大それたこともしない。多分これもありふれていること。だけど私にとってははじめてのこと。少し前までは縁があるとは思わなかったのに、今は無性に気にしてしまうこと。

 

(本当、まいっちゃうなあ)

 

 自分で自分に呆れる。この行動がどれだけ有益かなんて、さっぱりわからないまま一目散に向かっていたから。それでも、このままは嫌だったから。切なさと苦しみがいくら幸せなものでも、あなたを理由にそれを想いたくはなかったから。

 だから、行動するのだ。なりふり構わず、とびきり慣れていないことでも。だって一番奥のゴールにあるものこそ、そんな裸の私だけしか届けないものなのだから。

 そして、すぐに辿り着いた。ほんの少し駆け足になってしまっていたから、すぐに。本当に、大した場所じゃない。何度も入ったことはあって、こんな目的じゃないってだけで。私の世界の見え方が、また少し変わっているというだけで。

 すーっと、音もなく自動ドアが開く。入店を知らせるぴこぴこの電子音がなって、私はそこに足を踏み入れる。トレセン学園から一番近い、多分誰でも一度は使ったことのあるなんてことのない場所。ありふれたコンビニエンスストアに、今までにない緊張を秘めて歩を進めた。

 いらっしゃいませー、と形式通りの挨拶が聞こえた。私以外の世界は、何事もなく回っている。

 

 

 うろうろ、うろうろ。コンビニなんてそんなにうろうろするところではない。さっさと目的物を買えるお手軽さが売りに決まっている。なんだけど、うろうろ、うろうろ。店員さんに不審がられてやしないか、と思いながらも、うろうろ、うろうろ。

 お菓子コーナー。よく知ってるブランドの甘味がたくさんあって、所謂食玩というやつもある。へー今のお菓子はこんな豪華なおもちゃがついているのかあ、なんて現実逃避の思考をする。いや、買うつもりは毛頭ない。うろうろ、うろうろ。

 ご飯コーナー。うどんとか弁当とかスパゲッティとかおにぎりとか。コンビニ飯というやつだが、最近のはなかなか美味しい。作る手間が値段に入ってることを考えれば、なかなかリーズナブル。私みたいな面倒くさがりにとっては尚更。……これだけ買って帰る? いやいや、それはダメだダメだ。さっきから私、買う予定のないものばかり見ているじゃないか。思い直そうと首を軽く横に振りながら、うろうろ、うろうろ。

 うろうろ、うろうろ。コンビニ内の配置的に、目的のものから一番離れたあたりを行ったり来たり。逃げてしまっているな、という感じである。ここに来てやっぱり怖気付くところがあるのは、なんとも私セイウンスカイらしいといえばそうなのだが。

 でも、それではダメなのだ。些細なことだし、深刻に悩みすぎてる割に大したことはしない。店員さんに手渡して、ギョッとされるようなことはしない。そんなに、変じゃない。多分、ありふれたこと。うん、そうだ。

 これは、私にとって必ずしも必要じゃないかもしれない。だけど試行錯誤をすることは、絶対に大事なことで。今ある現状を動かしたい、その気持ちには嘘は吐きたくなくて。もやもやする、動かなきゃいけない。その焦りを前向きに解決するためには、やっぱり。

 くるり、静かに踵を返す。店員さん以外誰もいない店内を、少しずつ見慣れない方へ移動する。普段近寄らない空間。見知ったコンビニであっても、知らない世界はあるということ。私が、触れていなかっただけだということ。まあでも、やっぱりそこもなんてことのない空間だ。

 漫画、パチンコ、週刊誌。色んな層向けの本が全部雑多に詰め込まれた、雑誌コーナー。そこが、私の今回の目的だった。上から順に、横一列に並ぶ本たちを確認して。大体派手な表紙で、大仰な文句がその上に踊っている。どれもこれも、私みたいなゆるゆるな人間には合いそうにない。今探している雑誌も含めて、だけど。……って、端っこの方は成人向けコーナーじゃないか。いやいや気にならない、気にならないったら。いくら今のセイちゃんが恋する乙女でも、そこまでふしだらじゃないったら!

 なんて耳を真っ赤にしながら、自分にだけ聞こえる言い訳をして。それでもじろじろじっくり本棚を見ていくと、目的物らしきものはあった。流石コンビニ、なんでもある。まっピンクのキラキラした表紙、私と同い年くらいだろうに、ものすごく大人びた化粧とファッションの読者モデル。そしてその写真の上にデカデカとポップな文字で、

 

『秋は恋の季節! 大人びたあなたにあの人も胸キュン!?』

 

 とかなんとか書いてあるので、これはまあそういう雑誌なのである。そう、これが今日の私の目的物。私くらいの年齢で、恋に浮かれてしまったふわふわガールのための雑誌。全く、こんなの一生縁がないと思ってたのにね。それでも、今の私はこれを求めていたのだ。わざわざ帰り道に寄り道するくらいには。本当にありふれた、なんてことのないものだけど。

 ティーン誌なんて、私が買っちゃうんだ。それを改めて実感すると、微かに心臓の奥に火が灯った気がした。

 

(うわ、なんか重いなこれ)

 

 手を伸ばして、目的のものを取ってみる。雑誌の分厚さじゃないな、と思って横を見てみると、何やらページの間に付録らしきものが挟まっていた。改めて表紙を確認すると、オリジナルポーチが付属しているらしい。なにそれ、そんな大仰な付録がついているものなのか、ティーン誌とは。仮にも私もティーンなのに、全然全く知らないなあ、ほんと。そのまま表紙を軽く確認すると、真ん中のデカデカしたやつ以外にも謳い文句は何個か載っていた。『秋のおすすめコーデ』、とか。全然知らない。『グッとくるあの人の仕草』、とか。これはまあ……私にも身に覚えがあるのかも。『あなたのファーストキスは? 体験談集めてみました!』、とか。……これが一番、気になっちゃうのかなあ。

 はあ、本当に本当に、我ながら変だけど。ちょっと前まで興味も縁も認識もほとんどなかったようなティーン誌なるものが、今の私には強烈に突き刺さる。やっぱり買うしかないのかなあ、ちょっと手汗ついちゃった気がするし。見てるだけで、どきどきするし。ここまで来たら仕方ないし、そもそも最初からそのつもりだ。少しくらい悩んで時間を稼いでしまうくらいは、まあ許して欲しい。

 それでもちゃんと、進むから。あなたのために、前を向きたいと思っているのだから。

 

 

 店員さんには何も言われなかった。当たり前と言えば当たり前。いや、そんないかがわしいものを買ってるわけじゃないし。ティーンがティーン誌買うのなんて、普通だよ、普通。その割に私が明らかに挙動不審だったのは、おそらくバレバレだったんだとは思うけど。うっかり袋もらい忘れたし。でも今更レジに戻れないし。

 うぃーん。再び、自動ドアを出る。それなりの時間が経っていて、道を照らすのは夕日から月と電灯に変わっていた。まあでも、それくらいで世界は変わらない。今の私にとって世界が色づいて見えるとしたら、それは私の目が変わったのだろう。また一つ行動を終えて、おっきな雑誌を両手で抱えて。どんなすごいことが書いてあるのかなんてさっぱり見当もつかないけど、買ったからには読まねばなるまい。そんな前向きなんだかそうじゃないんだかわからない決意をして、帰路に着こうとしたところだった。

 白い灯りの下、少し離れたところに一人の影を見つけた。見知った顔であることは、その距離でもわかった。お互いに、だった。

 

「……あれ、スカイちゃんですか?」

「……あ、お疲れ様です、トップロードさん」

 

 先に言った通り、トレセン学園から一番近いコンビニだ。だから他のウマ娘と鉢合わせるのは、全然不思議なことではないんだけど。

 何も知らずに、いや何を知れというのかという感じで、当たり前みたいにトップロードさんは足早にこちらに近づいてくる。まずい、と思って反射的に雑誌を後ろ手に隠した。付録のポーチとやらの横幅が、両手で隠すことを強要した。いや、なんで隠すのかって誰かに問われたら返答に詰まっちゃうんだけど。色々恥ずかしいだろう、色々。万一トレーナーさんへの気持ちを察されたりなんかしたら、恥ずかしさで死んでしまうに違いない。我ながら逃げウマ根性が染み付いているな、とは思った。

 というわけで、後ろ手に何かを隠したいかにも不自然な格好で。まああり得る程度のアクシデントとして、秘密の買い物の後に知り合いとエンカウントしたのである。知り合いというには、私のとてもよく知る人。いつも頼れて時に頼られる、ナリタトップロードさんという人だった。

 

「お疲れ様です、スカイちゃん! えへへ、偶然ですね」

「そうですね、偶然。びっくりしました」

 

 いや、かなり。かなりびっくりした。冷や汗が流れてるかもしれないくらいに。まあそんな素振りは決して見せないのは、日頃からポーカーフェイスを嗜んでいたおかげだが。いつも素直なトップロードさんとは対照的だ。それはこの人のいいところだと思うから、それをちょっと利用してこのエンカウントを誤魔化し切るくらいは許してほしい。

 まあ何も知らないトップロードさんも、流石に私の不自然な体勢にはすぐ気付いたみたいで。しっかりそこは、聞いてきた。

 

「スカイちゃん、何買ったんですか? いや、そんなにすごく気になるわけじゃないですけど、何か持ってますし」

「ああー、これはですね……その」

 

 さて、何と言おうか。僅かな時間で頭を動かす。出てきた答えはこうだった。我ながら、下手な答え。

 

「ファッション誌です、ファッション誌。いや、ガラじゃないよなあとは思うんですけどね……秘密にしといてくれませんか」

「それは、いいですけど。スカイちゃんの頼みなら、断れるわけありませんよ」

 

 もっとがっつり外した嘘を吐いてもいいのに、何でかそうはできない中途半端な罪悪感があった。ガラじゃない、なんてまるっきり本音だし。ちゃんと私っぽい買い物を装うべきだったろうに、嘘を吐ききれなかった。まあ、この人相手だからなのかなあ。そんなふうに自分に呆れる。随分取り繕うのが下手になったな、なんて。

 だけど、だった。トップロードさんは、そこから言葉を繋げる。私の半端な嘘に乗っかって、それなのに私に届く言葉を。真摯で響く、この人ならではの言葉を。

 

「でも、ガラじゃないなんて言わないでくださいよ。スカイちゃんは可愛くて、素敵な女の子です。ちゃんと女の子らしいことをしたいって思ったって、全然変じゃありません」

「そうですか? 私なんてがさつで面倒くさがりで、女子力なんてないですよ」

「そんなことないですよ? 人に優しくて、きちんと悩めて。レースで真剣に走ってる時のかっこいいところもあるし、笑ってる時の顔は年相応って感じで可愛くて」

「あーもういいです、わかりましたわかりました。……本当、トップロードさんが人気者の理由もよくわかりました」

 

 ここまで言われたら折れるしかない。本当に私の周りには、一筋縄ではいかないくらいずるい人が多いなあ。それで嬉しがっちゃう私も、なんだかなって感じではあるけどさ。

 

「スカイちゃんも、人気者ですよ。みんなスカイちゃんのことは好きです。だからおしゃれに気を使うくらい自分に自信を持ってくれるなら、嬉しいですよ」

「もう、これ以上照れさせないでください」

「あははっ、すみません」

「……でも、ありがとうございます。それじゃ、また明日」

「はい。また、明日」

 

 そうやって、少しの会話の後に別れた。無事切り抜けられた、とは言い切れないかもしれないけど。でも何事もないよりは、意味のある時間だった。

 私は、変わってもいい。私は、みんなに支えられている。私は、恋が出来るんだ。

 今まで一人で抱えていたものに、少し手を添えられた気がした。少しだけど、しっかりと。

 私は、その先へ行けるんだ。

 

 

 帰宅してシャワーをさっさと浴びて、緩い長袖のパジャマに着替えた。秋も終わり頃、夜になると寒くて布団にすぐ潜り込んでしまう。だけど今日は布団の中で、一つ場違いなものを広げていた。

 

「このポーチ……こんな小さい割に派手なのなんに使うのさ」

 

 まずは付録を開けてみて、ラメ入りでキラキラのそれを見遣る。これ、使い道あるのかな。ひと目見て思ったのはそういうことだった。ティーン誌の付録なのだから、並のティーンならおしゃれに着こなせるのかもしれない。でもこれを私がつけてみて……うーん。

 パジャマのままそれを肩から下げてみて、姿見の前に立ってみる。くるりくるり、ちょっと身体を揺らしてみて。そうして、わかる。とんでもなくむずむずする。パジャマだからとかじゃなくて、やっぱりこれは私に似合わないや。

 ベッドに再び飛び込んで、持て余したポーチだけ乱雑に机に投げ捨てる。机の上でもそれは浮いて見える気がした。ふんだ、どうせ私みたいな子には一般的なティーンの小道具なんて似合わないもん。トップロードさんはああ言ってくれたけど、やっぱり私にはガラじゃないと言えばガラじゃない。この本先行き怪しいな、と少し思った。

 そんなふうに少し不貞腐れながら、ペラペラと雑誌をめくっていく。女の子を体現したみたいな可愛らしい読者モデルが身に纏う、秋の着こなしの一覧が目に入った。一つずつ、なんとか自分が着ている姿を想像してみる。……うーん、わからない。この写真は可愛いけど、それは元がいいんじゃないかって。こんなごちゃごちゃした小物とか、私が着ても着られてるようにしか見えないんじゃないか? それじゃ、あなたに届かない気がする。あなたを振り向かせたいのに、そのための答えをそのものずばりは、やっぱり書いてくれてなかった。恋はありふれているけれど、誰かの恋は誰かにしかわからないものだから。

 異性の仕草の特集は、なんというか身につまされるものがあった。そういえば、トレーナーさんのその仕草が目に焼き付いている。そんな例ばかりが載っていた。そのページを見ているだけで思い出してしまって、枕に顔を埋めて悶える。本当に好きなんだなって、そんなもう当たり前のことを再確認するばかり。最後の方はちゃんと読めていたか怪しい。目に映っていたのは、いつかのあなたの残像ばかりだったから。

 そして、最後に読んだのが、ファーストキスの体験談だった。どれもこれも、特別なものに見えた。私の知らないものだった。多分、私が一番欲しいものだった。眩しくて、それでも手に取りたくて。やっぱり、胸が苦しくなった。これをいつか幸せだけに、またそう願った。

 その中でも一番印象に残ったのは、ある一つの友達グループの中の話だった。仲の良い友達みんなで出かけて、食事やカラオケやいろんなことをしてみんなで街を渡り歩いた。だけど、その中の一人と恋人同士だった。そんなふうにみんなでいる時間でも、恋人の二人だけは特別で。だからふと出来た隙に二人で抜け出して、建物の陰でキスをした。それがはじめて。そういう話。それが、無性に焼き付いた。

 ティーン誌なんて薄くて読み終えるのはあっという間で、全部読んでも深夜と呼べるような時間ではなかった。ただ、色々なものは刻まれた。特に最後の、キスの話。私はずっと知らないものが、ありとあらゆるリアリティで語られていた。この世に確かに存在するのだと、それがわかった気がした。

 まだ、日付も回っていないけど。明日の用意くらい、明日の朝にすればいいし。心がいっぱいで暖かくて、全身にその熱が回っていて。やがて目を閉じて意識が落ちるその刹那まで、安らかな甘さに浸っていた。

 白い、白い。やっぱりどうしようもなく幸せな、そんな眠りだった。

 

 

 夢を見た。いつも通りのトレーニングの夢だった。

 夢を見た。いつものみんな、いつもの場所。前の夢と違って、これ以上ないくらいリアルだった。

 夢を見た。そして、あなたもいた。それも当たり前。それも鮮明な夢だった。

 夢を見た。きっと私にとって、これが幸せな光景なのだと思った。

 夢を見た。みんなといて、その中にあなたがいて。それが、今日のトレーニングで。それが本当に幸せだったのだと、改めて感じる夢だった。

 夢を見た。だけど、それは夢だった。

 夢を見た。トレーニングの終わりに、あなたの手を引く私がいた。手を引く感覚は、少しだけ知っているものの再現だった。

 夢を見た。そうしてみんなから離れたところで、少し背伸びをする夢だった。

 夢を見た。あなたの口元に私の口元を重ねて、誰にも見せない秘密の口付けを交わす夢だった。

 夢を見た。やっぱり、唇の感触はなかった。トレーニングまではあれほどまでにリアルなのに、周りの景色もリアルなのに、そこだけはどうしても夢だった。

 夢を見た。そこに唯一ある欠落を埋めよと、私の深層心理が私自身に訴えかける夢だった。

 夢を見た。いくらみんなといるだけで幸せでも、その先の二人きりの幸せを求めたいと願う夢だった。

 夢を見た。今の幸せの、その先を見る夢だった。

 夢を見た。日常から、一歩踏み出す夢だった。

 夢を見た。幻想より現実に近い、夢だった。

 夢を見た。恋は、止まらず。一歩ずつ、結末へ進んでいた。




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セイウンスカイは正論男に・8

 夢は、深層心理を映し出す鏡のようなものだという。己の願望を、感覚や理性をすべて抜いた原液のまま吐き出すものだという。それがどんなに醜くて浅ましくて愚かだとしても、だ。また夢を見て、ゆっくりと目を見開いて現実に帰って、最初に頭に浮かんだのは、そんなある種の常識だった。

 トレーニングをしていた夢だった。その光景は細部まで、知っていることだから夢の中でも鮮明だった。いつものグラウンド、いつものチームメイト、いつものトレーナーさん、いつもの空気、あらゆるいつものもの。それが私にとって、やはりどれだけ大事なものなのか。きっと夢が伝えたかったのは、そういうことなのだろう。

 だけどその上で、夢はもう一つの景色を見せた。そんなすべてがリアルな夢から、急速にアンリアルに飛んでいった。いつもの光景、そこに吹く風のにおいすら夢の中で思い出せるほどの慣れ親しんだ日常。それを、壊す夢だった。大好きなトレーニングの時間を置き去りにして、トレーナーさんと二人で抜け出して。そして、誰にも見られずキスをする。それが私の深層心理、どうしようもない願望なのだと告げる夢。そんな夢、だった。

 しばらくベッドの上で半分布団をかぶりながら、私はその夢について考えてしまっていた。トレーナーさんのことを考えるようになって、この恋に気づいて、それから見るようになったあなたとの夢。私の恋を後押ししてくれていると思っていたそれの最高潮を、昨晩私は私に見せた気がしたから。そう、最高潮。私の、心の底からの望み。

 指先まで絡めて、手を繋ぎたい。少し背伸びをして、キスをしたい。それだけ。それだけあれば、今の日常が消え去っても構わない。それだけ。刹那的な、身体の触れ合い。それさえ、ほんのそれだけあれば。

 私の恋は、その瞬間に満足してしまうんじゃないか。日常を不可逆にして、一度の悦楽のみを求めて、それで終わり。浮かれてばかりの初恋が、今まで私の恋を表現してきた夢の世界が。全部全部を満たしてくれると信じていた、幸せが。甘くて深かったはずのそれが、ひどく薄っぺらく感じられた気がした。私自身より正直な己の深層心理そのものが、自分で自分をそう断罪したのだから。

 空は青い。とてもキレイだ。でももしかしたら私の気持ちは、全然キレイじゃなかったのかもしれない。

 そう思った。

 

 

 目覚めた後の日常は、当たり前のようにいつも通りだった。学園への道のり、教室の風景、友達との挨拶、あくびをしながらの授業。そのどれもが見慣れたものだけれど、だからこそ自分にとって大切なのだと気づいた。改めて、だけど。恋よりも、と思ったのはきっと初めてだった。

 手を繋ぐ夢。キスをする夢。日常から離れていく夢。一見幸せそうで、だけどどれも実感のない夢。そのどれもこれもが本当に私に告げていたのは、私の恋は即物的なものに過ぎないんじゃないかってこと。これ以上にないくらい具体的な日常と、なにもかもが描きかけのキャンバスみたいに曖昧な恋。その差を歴然とさせる、夢。

 変化とは積み重ねだ。今まで何度も知らなかったことを新しく知ることでそのありがたみを知り、仮定とは違う結論に辿り着けた。私一人の先走りなんて、だいたいちっぽけで袋小路にしか辿り着けない。唯一私にできることがあるとしたら、そんなふうに己の過ちに気づいてやることだけだった。

 今の日常こそ、積み重ねだ。最初はこんなふうじゃなかった、そう思っていたものの最たるものだ。だけどずっとずっと過ごしてきて、こんなにかけがえのないものに変わっていった。

 そうだ、そうだったじゃないか。恋にうつつを抜かして、私はとても大切なものを忘れていたんじゃないか。手を繋ぎたいとか、キスをしたいとか、知りもしないものに憧れて、わかりやすい欲望で心を満たして。恋は盲目というけれど、本当に大事なものを見落としていたんじゃないか。

 今ある日常はこれからも、確実に続けていきたいものなのだ。それだけじゃない、もっともっと積み上げていきたいものなのだ。それなのに、それに満足しようとして。それなのに、それを壊してもいいとさえ思っていたなんて。午前の授業の終わりまで、私はそんなふうに世界を顧みていた。今まで私が、トレセン学園に来てからの私が、私の変化と成長が作った、私だけの世界を。

 

「……セイちゃん、大丈夫? 手、止まってるよ」

「ああごめんスペちゃん。いや何、考え事をしてただけだよ」

 

 昼休みの食堂で、いつもの五人で昼食を食べる。スペちゃんに注意されてしまった通り、まだ私は思考を広げ続けていた。でもやっぱりこれが、私の日常。スペちゃんとグラスちゃんとエルとキングがいて、それだけで楽しい。だけどそれだけで楽しいのは、長い長い積み重ねのおかげ。勝ち負けや友情といった色々なものが、ここにある関係には詰まっている。そう、だからこそ尊いのだ。

 確かに私は、大人になった。少しは世界の見え方も変わったし、感じ取り方も変わったのだろう。だけど大人が間違えないなんてことはあり得ないと、それくらいのことは私でも知っている。大人だからといって全てを変えてはいけないと、しっかり大人になれたからわかっている。

 つまり、そういうことだ。ここ数日、ずっと気持ちは初恋でいっぱいだったけど、当たり前のように、私の周りには大切にしたい日常がたくさんあって。多分、それを蔑ろにしていた。もちろんそれ自体が間違いだとは言わないけれど、それをすべてにしていいなんてのはきっと間違っていた。どんなに大事なものさえ捨て去っていいなんてのは、恋心の暴走としか言えないのだ。

 

(そういうこと、だよね)

 

 声には出さず、確認を取る。確認する相手は自分自身だから。あんな夢を見た、自分自身だから。私の恋は、そんなに大層なものじゃない。そう、夢が教えてくれた。ずっと教えてくれていて、ようやく気づけた。手を繋ぎたい、キスをしたい。色々思っているふうに見せかけて、本当はそれだけ。好きだって気持ちがどんなに大きく見えても、本当に触れた瞬間しぼんでしまうのだろう。どんなに深くて大きくて苦しいものでも、きっと私はそれだけだったのだろう。

 あなたを苦しみの理由にはしたくない。それは、今でも思うこと。

 あなたを想うだけで幸せ。それも、今でも思うこと。

 だけど、わかってしまったのは。

 だからこそ、あなたとの日常も壊したくないということだった。

 動物的に求めて、今あるものを壊して満足して、それで満足してしまいそうな私が、きっと怖かった。

 やっぱり今でさえ胸が張り裂けそうなほど、好きだから。その気持ちは、消したくないから。この恋が薄くて浅いものだなんて、証明したくないから。

 大切にしたい。好きでいたい。なら、これ以上は。

 あれだけ好きでいっぱいで、押しとどめたくないと思っていながら。それが深層心理の欲求だと、虚なキスを何度も頭の中でリフレインしてさえいながら、なお。

 何よりも私が願うのは、ただ一つ。

 あなたという私にとって大切な存在を、そんなふうに消費されてほしくないということ。たとえ、私自身であっても。

 やがて午後が来る。放課後が来る。その後のトレーニングは、きっといつも通り楽しい時間だ。

 いつも通り。いつも、通りだ。

 

 

 秋も終わり頃、日が落ちるのはそれなりに早い。とはいえそれでトレーニングを早めに切り上げるなんてことがないのも、まあよくよく知っている。チーム<アルビレオ>はそういうところ。トレーナーさんは、そういう人。

 

「よーし、全員でコースもう一周だ!」

 

 というわけで、いつものようにスパルタトレーニングだった。……まあ、今ばかりはありがたい気持ちはある。やっぱり、あなたの顔をまともに見れる気はしなかったから。どんなに考えて、どんなに決心のようなものをしても、やっぱり私の心はどうしようもなくときめいてしまう。恋とはそういうもので、理屈がないというの真実なのだろう。

 だけど、もう一つはっきり考えられたことはある。やっぱり私は、トレーナーさんとの関係を大切にしたいということ。ドリーム・シリーズという二人がかりの夢。二人だけの、特別に目指すもの。私たちを強く結びつけるものは、とっくのとうに存在しているのだ。それもこれまでの積み重ね。これからも、大切にしなきゃいけないもの。もし私の恋心がもっとも脅かすものがあるとすれば、これに決まっているのだから。

 

「よーし、お疲れ様! みんな、少し休んでいいぞ!」

 

 振り向かず耳だけでその声を捉えて、壁際に座り込んで他のチームメイトと共に休憩する。息を切らせて、肩を揺らして。ハードなトレーニングなぶん、やっている間少しは思考を麻痺させられる。それは多分ありがたいことだ。

 ふう、と息を吐く。このまま乗り切ろう。空を眺めて、夜を迎えて。その繰り返しにしよう。それで十分、幸せだ。十二分に、特別な時間だ。

 そう、思った。何事もなければ乗り切れる、そんなふうに僅かに気持ちを落ち着けられた、その時だった。

 ずさり、砂の上から立ち上がる音がする。規則正しい足音が、遠くで立つトレーナーさんの方に向かうのが見える。トレーナーさんの方なんて見るつもりはなかったのに、思わず目を向けてしまう。そちらへ向かう彼女の佇まいは、いつもよりも更にしっかりとした歩みだったから。

 

「トレーナー、一周タイムを測ってもらえるかしら。1200m、スプリント」

 

 私のよく知る、キングヘイローというウマ娘。先程のトレーニングの疲れも抜け切らないままに、そんな提案をトレーナーさんに行っていた。私の知る彼女らしい、無茶で予想外の提案を。

 

「1200mか。短距離路線、本当に挑戦するんだな」

「当然でしょう。やるからには手段は選ばない、全ての道を模索するの。それが私、キングヘイロー」

 

 そうキングが言う通り、今のキングは従来の中長距離路線から離れたレースに挑戦している。マイル、短距離、そんな新しい道を選んでいる。今まで彼女が積み重ねてきたものとは、別の挑戦だ。

 

「よし、いいぞ! 練習熱心なウマ娘は大歓迎だ!」

「なら、お願いするわ。併走は要らない。私一人でどこまでやれるか、試す」

 

 そう言って、スタートラインに着くキング。それに嬉しそうに対応するトレーナーさんの声と表情が、心臓の奥に焼き付いてしまった気がした。

 一分とちょっと。その間のキングの全力疾走と、それを真摯に見つめるトレーナーさんを見て。

 何故だか、胸が苦しくなった。

 今までの甘い痺れとは、別のものだった。

 

「……はあっ、はあっ……! どうかしら、トレーナー……っ?」

「……今までで一番いいタイムだ。これなら本当に、短距離路線でのGⅠ勝利も夢じゃないかもしれない」

「そう、かしら……。ふふっ、やった、わね……!」

 

 息も絶え絶え、やっぱりちゃんと休みもせずに走ったキングはそれなりにぼろぼろだ。でもトレーナーさんが言うには、これが今までで一番いいタイム。無茶だろうと恐れず進んだ結果、キングは新しい手応えを掴んだということ。それは素直に喜ばしいことだと思った。

 そこまでは、そう思った。けれどその次のトレーナーさんの言葉が、私の心の靄を暴く。

 先程胸に抱えた苦しみの正体を、隅から隅まで詳らかに。

 

「よくやったな、キング。偉いぞ、君ならいつか必ず勝てる」

「ええ、ありがとう」

 

 その会話。なんてことないものかもしれない。でも、確かな信頼のある会話。トレーナーさんの心からの賞賛に、汗を流しながら笑顔で応えるキング。それはいいことに決まっている。チームに入ってまだ日が浅かった頃に比べたら、キングとトレーナーさんが信頼関係を築けている証拠だ。特別な、関係を。

 私以外の、特別を。

 当たり前のことだった。トレーナーさんはチームのトレーナーさんだってことは、ちゃんと知っている。特別な信頼関係をたくさん築ける、真面目で素敵な人だってわかってる。

 それでも、それでも。これも薄っぺらい気持ちなのだろうか。浅ましい独占欲なのだろうか。それでも、こう思ってしまうのだろうか。間違いなのだろうか。ぐるぐると頭の中身が回り、脳みそが数回ひっくり返った気がした。だから、キングが話しかけてきたのにも一瞬気づかなかった。

 

「どうかしら、スカイさん」

「……へ、ああ……。えっと、びっくりした。あのキングが短距離とはね」

 

 なんとか苦し紛れに返した言葉だが、それ自体は嘘じゃない。中長距離で確かに勝ち切れはしなかったけど、それでもキングの主戦場はそちらだと思っていた。未知の領域、初めての戦場。そこにまで、足を踏み入れる必要なんて。

 

「そうね。血迷ってる、迷走してる。そう言われるのは承知の上よ。……でもね、スカイさん」

「何かな」

「たとえ可能性が低くても、セオリー通りじゃなくても。どうしてもというなら、ゼロにだって踏み出すべきでしょう」

 

 ……はあ、本当に侮れないやつ。絶対絶対私の気持ちなんか知らないくせに、全くもって違う話題をしてるはずなのに。

 こんなふうに誰かの背中を押しちゃえるんだから、このお嬢様は。

 

「……ありがと」

「感謝される覚えはないのだけど」

「うるさい、大人しく受け取っとけ。このすっとこキング」

「感謝と罵倒を混ぜられると、流石に反応に困るわね」

 

 そう言って、キングは流石に疲れた様子で地べたに座り込んだ。……程なくして、トレーニングは再開されたのだけど。いつも通りのトレーニング。ついさっきとすら、何も変わらないくらいのトレーニング。

 でも、少しだけ。方針は少しだけ、その先にある結論は大幅に。悩みに悩んだすべてを収束させるべく、夕日に照らされたグラウンドに向かって思考と脚を動かし始めた。

 誰もが、変わっていく。たとえばトップロードさんは、ついにシニア級を目指してかつての私たちのように注目され始めている。たとえばキングは、新しい路線を模索している。たとえばトレーナーさんは、そんなみんなの頑張りを前より褒めるようになった。そしてたとえば私は、あなたに恋をした。

 走る道、人の繋がり、生き方そのもの。どれもがやはり変わっていって、その変化は積み重ねの先にある。今までがなければあり得ないものばかりだ。だけど、それだけじゃない。今までだけじゃ、ない。

 私が見ていた夢は、今までの私の記憶が作ったものだ。だからこそ知らないものは一つも実感がなかったし、知っているものは質感さえ存在した。けれど、夢を見ていた。恋の夢。それを何度も、知らないのに見ていた。

 いいや、逆だったのだ。知らないから、見ていたのだ。知らないから、想像はそこで止まったのだ。手を繋ぐこと、キスすること、それしか私にはわからなかった。

 これまで何度も見た夢が教えてくれた、本当のこと。それは、夢からは何も知ることができないということだった。今から進む先が未知ならば、夢は何の参考にもならないということだった。現実の私の感情など、今この瞬間にも更新され続けているのだと、そういうことだった。

 キングの努力は、着実に進んでいた。そしてトレーナーさんの特別は、もちろん私だけじゃなかった。いや、そうなったんだ。キングが新しいものに挑戦していたからこそ、関係は進んだんだ。私があの日ドリーム・シリーズという夢を、トレーナーさんと二人で掲げる夢にしたように。そうして、特別になったように。

 夕日に目を擦りながら、私は私の答えを見つける。私の願望は、夢で見たそれっきりじゃないということ。まだ知らないものを、夢ですら見れないくらいの幸せを、あなたと共有したいのだということ。

 もっと、変わりたい。あなたに更に特別に思ってもらえるように、もっと。独占欲でも構わないから、あなたの一番の特別になりたい。あなたの隣にいたい。あなたと、対等な存在になりたい。ずっと一緒でも退屈しない、ずっと一緒にいるだけで幸せな、そんな関係になりたい。

 そう、きっとこれが恋の本質。

 なんでもない当たり前を二人で共有して、日常に常に特別なものを置いていられるもの。

 手を繋ぐこと、キスすること、愛を囁かれることも、恋情が生むあらゆる刹那的な欲求は、たった一つの結論のためにある。

 日常を、特別に想い合う二人で歩むこと。

 それが、本質だ。

 日常を壊すんじゃなくて、やっぱり積み重ねだったんだ。私の気持ちは、今までの先にあるものなんだ。全部が無駄じゃない、むしろ今までの関係を無駄にしないために、私はあなたにこの気持ちを伝えたいんだ。

 そう、伝えたい。あなたは、私を褒めてくれるようになった。そうやって、変わってくれた。それはチームのためだとしても、私のためでもあるのだから。それなら、私からあなたにできることは一つだ。

 変わることのできたあなたを、今度はこちらから褒め返す。褒め合うことで、対等になれる。どうやって褒めるかは、もう決まっている。最高の、これ以上はない、たった一人にしか贈れない褒め言葉。

 大好きだ。

 そう、言おう。あなたへのすべての感情を込めた、一言だ。

 そして、こうも思う。もし、あなたがそれに応えてくれるなら。私の告白を、受け止めてくれるなら。あなたからも、私を愛してくれるなら。

 それはきっと、褒め言葉よりも先にある。今までずっと抱えてきた、褒められたい、のその先。対等、信頼、特別、恋人。なんにせよその時、私はまた一歩成長するのだろう。もしかしたらあなたも、成長させられるのだろう。

 もちろん、受け入れられないのは怖い。関係を壊しかねないのも、怖い。それでも、これは言わなきゃいけない。どうしても、言いたい。だってこれは、私が伝えたいこの気持ちは。どうしてもどうしても、伝えたい理由は。あなたのために、言いたいことなのだから。あなたに捧げるための、褒め言葉なのだから。

 ……それに、まあ。もうとっくに、あなたに隠し事をできる気はしないもの、ね。

 考え事をしながらのトレーニングは、捗ったのか捗ってないのかわからなかった。集中しているともいえるし気が散っているともいえる。まあトレーナーさんに文句をつけられなかったから、多分大丈夫だったのだろう。あの人がちゃんとトレーニングを監視してないことはないと思うし。見ていて、欲しいし。

 その日は寄り道もなく、寮に着いて風呂に入ったら割とすぐに寝れた。疲れていたのも多少あるけど、多分悩みが取れたから。もう私にとって、恋は夢に出てくる悩みじゃない。手の届く現実にある、必ず射止める目標だ。

 目蓋を閉じる。身体が弛緩し温まる。

 最後に意識が途切れる寸前まで、明日が楽しみでたまらなかった。大切な日常をもっと素敵にする、大作戦の幕開け。

 策士セイウンスカイ、人生最大の作戦。それが、あなたへの恋なのだ。

 

 

 夢を見た。多分、夢を見た。

 夢を見た。二人でいたことは覚えている。あなたと私、そんな夢だった。

 夢を見た。だけどそれだけ。私の心は、かき乱されない。

 夢を見た。もう、なんでもよかった。私にとっての夢の役割は、終わったのだ。

 夢を見た。現実はもっと素晴らしいのだと、最後の最後にそのことは伝えようとする夢だった。

 夢を見た。それきり、そんな夢は見なかった。二度と、見なかった。




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セイウンスカイは正論男に・9

 どれほど爽やかな朝だっただろうか。授業のない休日というだけで、別に何かいつもと明確な差があるわけでもないのに、ベッドから上体を起こしてまず思ったのはそれだった。昼寝名人の私にとっては、目覚めの感覚なんて普通の人の三倍四倍は体験したようなものだ。それでも、その日の目覚めは印象的なものだった。感覚的に、そう思った。

 もちろんここ数日は、目覚めるたびに何かを考えていたわけだけど。悩みに悩んで眠りにつき、その度に何かを象徴するような夢を見て。起き上がるたびにその夢に悶え、また悩んでいた。あなたを想い苦しみと幸せをまぜこぜにする、はじめての恋の悩み、だった。

 今日の目覚めは、それと比べればなんてことはない。むしろ、それが一番の差異。あれだけ毎晩私を悩ませた、あなたの夢を見なかった。正確には見ていたのかもしれないけれど、覚えていなかった。もうそんなの大事じゃないみたいに。ただ安らかに眠って、気持ちよく目覚める。そんな普通の朝が、ひどく久しぶりだったのだ。

 もしかしたら少し前の私なら、ここで夢を見なかったことに悩んだのかもしれない。あなたへの気持ちが冷めてしまったのじゃないかと、そんなふうにまた夢に惑わされていたのかもしれない。私の恋心なんて数日で薄れてしまうほどなのだと、そんなふうに思い込んだかもしれない。

 だけど、もう大丈夫。今の私はまた成長し、夢は夢に過ぎないと知っている。それは確かに過去の積み重ねで、大切な私の気持ちだけど。夢を夢のままにしていては、絶対に未来には手は届かないのだから。積み重ねた過去の上に、今の私が未来を重ねていくのだから。

 私が見たいのは、一人で浸る幸せな夢じゃない。

 あなたと過ごす、何ものにも変え難い現実なのだから。

 

(……っと、そろそろ起きるかな)

 

 ぐいっとベッドから立ち上がり、別に休日の朝から部屋を出る予定もないのにパジャマを脱いで制服を着て。服装を整えれば、少し気持ちも目覚めるもの。今の私に必要なのは、こうして少しずつ考える時間を作ること。眠っていた間に浸る時間は、もう必要ないのだから。

 今を見よう。今日からを見よう。未来に繋がる大作戦、あなたのハートを射止めるために。そしてその先にある、特別同士の日常のために。そのために踏み出すのが、あなたとやりたいことを考えるのが、紛れもない、今の私がやるべきことなのだから。

 さて、それにしてもどうしよう。踏み込むべきなのはわかるのだが、踏み込むための行為がなんなのか、それがそもそも難しいものがある。悩み、悩み。私じゃどうにもわからないなあ、などと苦笑しながら。はじめてのことだから当然だと思うけど。それでも臆せず模索しているのだから、むしろそれは褒めて欲しいくらいだ、なんてね。

 というわけで、一度読んだきりのティーン誌をもう一度引っ張り出す。異性との距離を縮める方法、みたいなのが載ってないかどうか。結論から言えば、まあ二つくらいは手がかりはあった。言うは易し、行うは難しだと思うけど。

 まあ、まず一つ目。「グッとくる仕草」。そういえばいつぞや誰かの恋バナを盗み聞きした時も、恋をする時どういうところが好きになる、みたいな話をしていた気がする。それは私がトレーナーさんを、だけじゃないってことだった。つまり私に魅力を感じてもらう。特別だと、思ってもらう。そんなアピールを、する。……うう。

 早速頭を抱える。私にそんな、女の子らしい魅力があるだろうか。いやーそりゃファンの皆様方にはおかげ様でよくしていただいてますけど、トレーナーさんはそれとは距離感が違う。身近な人だからいいところもいっぱい知っている、といえば聞こえはいいかもしれないけど。逆に距離感の近さが、そう思わせないことだってあるはずだ。それこそ、今までの私のように。

 そもそも私、トレーナーさんの何がそんなに好きなんだろう。優しいところ、励ましてくれるところ、意外と可愛らしいところ。顔を真っ赤にしながら頭のうちに理由らしきものを浮かべてみるけれど、これだ! と言えるほどはっきりはしていない気がする。あそこで聞いた恋バナとは真逆だ。曖昧模糊なくせに、あなた以外は考えられないくらいになっている。

 でも、そんなものなのかもしれない。今の私なら、そんなふうに前向きに捉えられた。今まで散々知ってきた、あなたのこと。あなたの魅力なんてずーっとわかっていて、少し見方が変わっただけ。だから、恋をした。新しいことなんてなくても、私が変わることで恋をした。……あなたにとっても、それでいいのかもしれない。

 あなたもきっと、私のことをよく知っている。今まで真摯にひたむきに、時に頑固に投げかけてくれたさまざまの言葉は、私のことを素敵に思ってくれている証拠。あなたも既に、私に魅力を感じてくれている。自分からは自惚れみたいでなかなか思えないことだけど、あなたの今までの態度は嘘じゃないってわかるから。

 なら、やるべきことは簡単かもしれない。着替えてから数十分、朝と呼べる時間全部を思考に使って、作戦の第一段階は確定した。あなたはもう、私のことくらいよく知っているのだと。だけども多分トレーナーと担当ウマ娘とか、そういう関係としての信頼なのだろうのだと。必要なのは、あなたの目を変えさせることなのだと。

 私らしさを存分に伝えて、それと同時に今までと違う私を教えて。大人と子供という繋がりを、対等なものへと成長させる。あなたが見る世界の色を、ほんの少しだけ私で染める。そうすれば、いい。ひょっとしたら頑張って女子力アピールをするよりも、何倍も大変かもしれないけれど。

 あなたのことが好きだから。あなたを惚れさせるための方法が特別なことくらい、むしろとっても嬉しいんだ。

 穏やかな休日、晴れやかな窓の外の日差し。部屋の中での思考なんて閉じているはずなのに、それでも開けた世界と繋がっている。

 そんな、一日の始まりだった。

 

 

 もしゃもしゃ、もしゃもしゃ。寮には寮長のヒシアマゾンさんが作り置きしてくれてるご飯があるので、休日も寮に篭りたい面倒くさがりは結構それをいただくことが多い。いや確かにいつもは面倒くさがりだけど、今日は違いますったら。考えるべきことがあるから、食事を用意したり食べに行く時間も惜しいんですよ。

 というわけで、ありがたくおにぎりを五個ほどいただいた。……そういや私、料理の面でも女子力ないなあ。いつかのクリスマスの時に向いてるよ、ってフラワーと<デネブ>のトレーナーさんに言われたけど、本当かなあ?

 でももし、もし私に料理が作れたら、トレーナーさんにも……いやいや、流石に気が早すぎるだろう、私。その時は、その時。取らぬ狸の皮算用なんで碌なことがないというか、後の楽しみに取っておくべきというか。うん、そんな感じ。それより今は、目の前の考え事だ。これまた悩ましくて、けれど楽しい。私とあなたのための、作戦だ。

 ティーン誌に書いてあった、二つ目。気になるあの人との距離を縮める方法として、さも当然のように書いてあったもの。言われてみれば、なんだけど。実は、やったことがあったんだけど。

 二人きりで、お出かけする。異性とのそれは、一般的にはデートと呼ぶ。恋人同士の関係に発展させるには、もっとも王道かつ強力な手段。まあ二つ目に書いてあったのは、聞くまでもないかもしれないような、そういうことだった。

 でも、だった。そう言われるとそうなのだろうことは疑いようもないのだが、なにせここには一つ問題がある。これまた私とトレーナーさんとの間だからこその独特の問題。二人きりでお出かけなんて、既に何度かやっているということだ。釣り仲間として。トレーナーと担当ウマ娘として。そういう全く違う文脈で、何度かこなしてしまっているということだった。

 つまり、ただ出かけるだけではデートにはなってくれないのだ。それはこれまでの経験が実証することであり、これまでの経験があるからこそそう意識してくれないという意味である。たとえば二人でまた釣りに行ったって、どきどきするのはこっちだけだ。それでも確かに幸せだけど、今の私は恋がしたいんじゃない。あなたも私を特別にしてくれる、恋人になりたいんだから。

 さて、そうなると。腹に溜まったエネルギーを早速使って脳みそをフル回転させる。ほんと、ターフを支配するだけの力を持った崇高な私のアタマをあなたのためだけに使うのだから、ちゃんと責任は取ってほしいよね、なんて。まあでもそっちの経験はやっぱりまるでないので、唸っては唸ってはという感じだったが。それでも前が開けていた分、私の悩みは前より一段先に進んでいた気がした。恋の悩みの先、恋の成就を願う段階に。

 ……うん、うん。ちょっと考えてみたけれど、これは先ほどの一つ目と繋がっているのかも。あなたの私に対する見方の問題。それさえ変えれば、世界が変わる。あなたの世界を変えれば、あなたの私に対する賞賛も期待も、お出かけの意味だって。そう、きっとそうなのだ。

 ならばやっぱり、お出かけには意味がある。変えるとするなら、そこでいつもと違う私を見せてやること。いつもの私を存分に見せつけた上で、更に変化したと示してやること。大人の私に、気づかせること。そのために必要なのは、きっと大々的過ぎないイベントなのだと思った。だって、やっぱり私はいつもの私だから。ほんのちょっとだけ、けれど明確に変わったところを見せることこそが重要。

 だから、私に必要なのは。私とあなた、その先に必要なのは、きっと。

 ほんの少しだけ特別な時間を、二人で一緒に過ごすこと。ほんの少しだけ、恋人に近しくすること。それでいい。きっとそれが、一番あなたに私を見せられる。いつものあなたが見ている私、そしてそこから少し変わった私。あなたに恋する、私を。それを間近で感じさせること。何をしていても二人なら幸せだと、意識させること。私越しに、世界を見てもらうこと。それが私にできる精一杯のことだ。不器用な私と、不器用なあなた、その二人を結びつけるためにできる、最高の作戦だ。どんなに迂遠でも、奇妙でも、私とあなたには、きっとこれしかないのだと。そう、確信した。

 

「はぁ〜……」

 

 とりあえず思考をまとめてみると、自然と口からため息が漏れた。達成感に満ちた、それなりに感極まった感じのため息。いや、まだ具体的なことは一切決まっていないのだけど。それでも方針が決まれば、あとはなんとでもなるし。まだ昼間だしずっと部屋で座ってるだけなのに、結構疲れちゃったし。

 ……昼寝でもするか。そういや私、昼寝好きだったし、なんてね。ここ最近寝るたびにどきどきさせられてたけど、それも元に戻せたということだろう。眠りはいつでも心を休めてくれると、そんな私の矜持のようなものを思い出した。焦る必要はない、時間が解決することもある。人事を尽くして天命を待つ、まさに今はそういう時なのだ。

 ぽふり、とベッドに身体を落とす。制服姿のままでも自然と微睡めるので、つくづく私は都合のいい身体をしているなと思った。こうしてゆっくり気ままに昼寝をするのなんて、割と久しぶりな気はするけれど。でも、いつもの私だ。たっぷりの恋を抱えたまま、私は私を見つけ直した。これもきっと必要なこと。だってあなたに好かれたい私は、ありのままの私なんだから。

 意識は溶ける。視界は天井から暗転する。残った問題はあるけれど、この後のことは、この後の私が考えてくれる。未来の方が進んでいるのは、当たり前のことなのだから。

 ゆったりと眠れた。安らかに起きれた。そこからある夕暮れからの寮の生活も、いつもの日常と呼べる休日だった。そうしてすんなりと、あっさりと結論は出た。夜寝る前に結論が出せたので、次の日曜日はすぐに行動に移せた。そうして早る気持ちを抱えながら、やっぱり昼寝をしたりして。全ては決まった。後は時間が経つのを待つだけ。それも焦らず、いつも通りに過ごそう。

 大丈夫。日常を生きることほどに、未来に近づくものはないのだから。

 そうして、次の日の朝が来た。やっぱり、なんてことのない朝だった。

 けれど、青空はキレイだった。

 それだけで、私を最後に後押しするのには十分だった。

 

 

 まあ、それだけ決意を固めといて、なんだけど。いざタイミングを図るとなると、ずっとどきどきしてしまっていた。朝イチでチーム部屋に行こうかと思ってやっぱりやめて、そのせいで授業中は(いつも通りといえばいつも通りだけど)集中できなくて。

 そして昼食を食べる段になってわかったのは、前のタイムが良かったことがキングにとって相当なやる気の源になっているということ。つまりいの一番にトレーニングに向かう気満々なのが見て取れたので、その時点でトレーニング前という選択肢も潰れてしまった。若干心の中でキングに恨み節を吐いたのは許してほしい。

 というわけで、トレーニングまでしっかりこなしてしまって。何度かトレーナーさんに声をかけられるたびに耳とか尻尾まで反応してしまうのだけど、いやいやそんな調子じゃこの後のイベントをこなせないだろう、と何度も思い直して。トレーニングの終わりが近づくたびに期待と緊張が高まって、体力の消耗と共にひたすらしんどいなあと考えるばかりだった。だけどやっぱり、時間は過ぎてゆくものだ。これだけ遠回りになっても、私の目的が遂げられないことはあり得ない。長い長い時間を超えてでも、やっぱりその時は来た。ちゃんと、やって来てくれた。

 

「よし、今日はここまで! みんなお疲れ様!」

 

 そう、トレーナーさんが解散の挨拶をする。そうして、チーム部屋に一人帰っていく。……うん、他に追いかける子はいないか。これ以上待つのも嫌だし、ちょうどいい。やっぱり緊張はするけれど、それでもあなたに伝えたい。私の作戦。それをいよいよ実行に移す、最初の段階だ。

 

「お疲れ様です、トレーナーさん。入ってもいいですか」

 

 こんこん、と一応古びたドアをノックして、さも何事もないかのように中の人に返事を求めてみる。心臓ははち切れそうなくらいだけど、トリックスターはポーカーフェイスが命だから。今手にしているものを買うのにどれだけ決意を込めたかなんて、まだあなたには教えてあげないのだ。

 

「おお、お疲れ様。入っていいぞ」

「では、失礼します。いやなに、一つご相談がありまして」

「そうか、なんだ?」

「いやまあ、大したことじゃないんですけどね」

 

 嘘。いのち全部を賭けてるくらいの気持ち。やっぱりここに来て手は震える。持ったものを握りしめてしまいそうになる。それくらいの気持ちだけど、それを伝えるための行動ではあるけれど。作戦は順番に、丁寧に。必ずあなたを仕留めるために、仕掛けの時から失敗なんてできないのだ。

 そうして、さっと後ろ手に持ったものを前に出す。間に挟んだ沈黙は少なかったはず。ここは、受け入れてもらわないといけない。ここはまず、いつもの私で誘い込まないといけない。そんな思いで何気なく取り出した、二枚の細長い紙。トレーナーさんがそれを覗き込む。それに合わせて、説明してやる。駆け引きの始まり、それを告げる私の声だった。

 

「映画のチケットですよ、映画のチケット。流行りの映画らしいです。知ってます? 『ホワイトエンディング』」

 

 映画のチケット。二枚組。私が出した結論は、いつか宣伝を見かけた映画を二人で観に行きたいということだった。確か、恋愛を扱ったアニメ映画。恋人同士でいかがですか、そんなふうにも説明されていた映画。その時は確か、少し冷ややかにその宣伝文句を聞いていた。だけど今になって思い返して、少し捉え方を変えられていたから。フィクションのような結ばれる恋愛も、それを二人で観に行くなんてありきたりなデートも、今なら手が届く現実に思えたから。だから、これが私の作戦。私があなたを誘う、デートだ。

 少し驚いた様子で、トレーナーさんはちょっと言葉に悩んでるみたいだった。ふーん、トレーナーさんでもこの意味くらいはわかるんだ。二人分のチケットを見せた意味。

 

「まさか、俺に」

「はい。いけませんか?」

「なんで、俺に」

「そりゃあ、息抜きですよ」

「それなら釣りとかでいいんじゃないか」

 

 まあ、それは正論かも。でもあなたの正論を躱すのは、とっくのとうに慣れっこなんだ。理屈の捏ねあいなら負けませんよ、この正論男。

 

「たまには違うことをしたっていいでしょ、お互い。それともなんですか、私が映画なんて文化的なものを観たがるのがそんなにおかしいですか」

「いや、それはおかしくないが」

「じゃあ文句つけないでくださいよ」

「それでも、なんで俺に」

 

 よし、ここまで誘導完了。「なんで俺に」は想定内だ。そこでちょっとだけ、仕掛けに誘い込む。安全圏で竿を垂らしているだけでは、釣れるものも釣れないからね。

 だから、踏み込む。あなたに向かって、心の距離を。

 

「そりゃあ、一人で観るより二人で観た方が楽しいでしょう。楽しくないですか、感想言い合うの。一人は寂しいセイちゃんだからわざわざ誘ったのに、トレーナーさんは私とじゃ嫌ですかー?」

「他にも君には仲のいい子がいるだろう。なんで、わざわざ」

「それがですね、わざわざじゃないんですよ。トレーナーさんだから、なんです」

 

 そう言って、一枚。手渡すというか、押し付けるように。ここまで攻めた発言をして、更にもう一押しをしてやる。全くその気がないだろう奴には、そうしてやっと第一段階なのだろう。

 さあ、深呼吸は心の中だけで。動きを外に出してしまったら、難しい獲物は逃げちゃうんだから。

 

「この日、男女ならカップル割が効くんですよ」

 

 でも、こっちを見てよ。今までも見てくれてたと思うけど、もっと。もっと特別な眼差しで、雲色の私に色をつけて。

 流石に狼狽えた様子だった。まあ、それくらいは想定内。というか狼狽えられなかったら、きっと一生一度もそういう意識を向けてもらえない。少し大胆なやり方だけど、多分これで一瞬意識した。多分大人のトレーナーさんはすぐに振り払うんだろうけど、一瞬。その隙を見せてもらえたなら、私にとっては十分な穴だ。

 チケットは受け取った。それでもやっぱり返答には時間がかかるみたい。それだけ悩ませられているのは嬉しいかもしれないけれど、ほんの少しだけ不安だ。でもそれは当たり前。全部を込めた作戦なのだから、それが通るか不安なのは当たり前。

 ちらり、ちらり。チケットを見つめたまま悩むあなたの少し長いまつ毛を、それがぱちぱちと何度も見開かれるのを見て。やっぱりそれも愛おしい、そんなふうにこの時間すら幸せで。

 でも、やはり時間は進むのだ。それは幸せが終わるという意味ではなく、更なる幸せがあるということ。トレーナーさんは顔を上げて、こちらを見つめて口を開く。やっぱり見つめ合えるのが、一番一番幸せだ。

 

「……よし、なら行こう。せっかくスカイが誘ってくれたわけだしな」

「やった、ありがとうございます。チケット代は払わなくていいんで、ご飯奢ってくださいよ」

「チケット代はいいのか」

「そりゃ付き合わせてる方ですし。その代わり、ご飯は絶対ですよ」

「……わかった。その、楽しみにしている」

「はい。私も、とーっても楽しみにしてますね」

 

 楽しみにしている、かあ。ついでにご飯の約束まで取り付けられたところまで順調なのは置いといて、楽しみ、かあ。この人おべっか下手くそだから、きっと本気で言ってくれてるんだろうなあ。……ああ、よかった。勇気を出して、よかった。本当に、手が届く気がする。夢よりずっと幸せな、現実で。一歩、確かに踏み出した。

 

「じゃ、それだけなんで。当日、映画館のビルの前で集合ですよー」

「ああ、お疲れ様。誘ってくれてありがとう、スカイ」

「……はあ、本当に」

「えっと、どうかしたか」

「なんでもないでーす。では」

 

 少し乱雑に、ばたんと音を立てて部屋を出た。全く、本当、本当に。楽しみ、とか。ありがとう、とか。随分素直になっちゃって、それくらいの言葉がどれだけこっちの胸をいっぱいにするかなんて知らないで。本当に、どうしてこんな人に惚れちゃったかなあ。

 まあ、でも。夜空を見上げながらゆっくりと更衣室への道を行くうちに、別の気持ちが湧いて来た。そんなふうに振り回されっぱなしは嫌だって、そんな気持ちが。策に嵌めてるのは私の方だ。びっくりさせるのは私の方だ。私が、あなたを変えさせるんだ。

 楽しみ? なら、もっともっと想像よりもっと楽しくさせてやる。二人がどんなに幸せかって思わせてやる。予想を超えて、今までにない気持ちを持たせてやる。覚悟、してなよ。

 ありがとう? それならそれも、もっとたくさん引き出させてやる。最高の感謝、今までで一番の感謝を引き出させてやる。そういう日にしてやる。いいか、いいかトレーナーさん。デートの日、あなたが最後に言うありがとうは。最後の、最高の感謝は。

 私が「好きです」って言った後、それを受け取る返事に決まっているんだ。その「ありがとう」が、私が一番聞きたいものなんだ。あなたに言わせたい、恋人の成立する瞬間なんだ。

 本当に、覚悟してなよ。今のあなたは、全然そんなこと思ってないだろうけど。

 その日は、互いの世界を変える日。日常にかけがえのない特別が生まれて、それが永遠だと確定する日。そのチケットは、もう二人の手に握られている。確かに渡して、受け取った。もう後戻りなんてさせない。

 運命の結実はゆっくりと、されど確実に近づいている。どんなに長い時間でも、遥かな道のりでも。

 未来は、その先にあるのだから。




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セイウンスカイは正論男に・10

 まさか、と思うような出来事は、意外とありふれているものである。それは自分自身の行動でも例外はない。ちょっと前は予想どころか可能性の一端も感じていなかったようなことでも、その時になったらやらなきゃいけないというふうに思うもの。まあなにしろ私の場合は特に気まぐれだし、そういう気持ちの変化は大して驚くことでもないといえばそうなんだけど。

 それでも、まさか。まさかまた、ほんの数ヶ月でここに再び来ることになるとは思わなかった。そんな私が今いるのは、トレセン学園近くのデパートの前。バレンタインのチョコレートをトップロードさんとキングと私で買いに行ったのと同じところ。しかもあの時は自分一人じゃ絶対縁なんてないなあ、と思っていたのに、今日は一人でここへ来ている。練習のない貴重な放課後、いつもならのんびり過ごしているような時間に。

 ……いや、一人じゃなきゃダメなのだ。流石に今回の買い物は、誰にも秘密じゃなきゃいけない。とはいえやっぱり、まさか私が一人でこんなところへ来るなんて。そう何度も思ってしまうのもまあ仕方のないことではあるけど、それでも気後れはしていなかった。何故ならこれも、変化と成長。そして私が望むのは、それを積み重ねた頂点にあるもの。だから一寸先が何も見えない闇だとしても、一歩踏み出せばそこから光は溢れてくるものなのだ。

 さあ、行こう。大きな大きな自動ドアをくぐり、私は私のために未知の世界を見遣る。とはいっても、目的くらいは決まっている。ここが360度全面に広がる大海原だとしても、羅針盤くらいはあるということだ。壮大でもなんでもない方針だけど、私にとってこれ以上大切なものはない。やっぱり、あなたのためなのだから。あなたと過ごす二人きりの時間、デートのための下準備なのだから。

 デートに着ていく、服を買うこと。シンプルだけどそれなりに重大な、それが今日の私の目的だ。

 さあ、作戦を進めよう。煌びやかなモールの内側へ、揺るがない決意と共に進んでゆく。世界は、きちんと私を出迎えてくれていた。

 

「さて、どうしようかなぁ〜……」

 

 というわけで、デパート全体のマップを見る。前チョコレート屋がたくさんあったように、服屋もたくさん、そりゃもうたくさんあった。チョコの時はキングにかなり頼ったことを考えると、私一人じゃ下手すりゃここで挫折しかねない。いや、そんなわけにはいかないんだけど。

 そういえば、チョコレートを買う時は一悶着あった気がする。店の一覧をとりあえず眺めたり紙のガイドに書かれた説明を読んだりしながら、今の気持ちに連動して思い起こすことだった。私がトレーナーさんにクリスマスプレゼントを渡した、なんて言ったら、トップロードさんとキングがにわかに色めきだって。あの時は勘違いだって若干必死に否定したし事実その通り、だったんだけど。……本当、まさかなんてことはありふれているものだ。

 でも、こうも思った。あの時のクリスマスもバレンタインも、その時点なりにあなたのことを想って渡したことには変わらない。恋心は存在しなかったわけじゃなくて、芽生えていなかっただけ。今の気持ちに確かに連なるものはあの頃から、いやもっとずっと、ずーっと抱えていたのだろう。そこから変化した、それだけのこと。

 恋は、今までとは違うものではあるけれど。今までを壊す振って沸いたようなものということも、やっぱりあり得ないのだ。空はいくら色合いを変えるとしても、決して墜ちてはこないのだと。……まあ、そんな感慨はともかく。

 ほんと、どんな服を買えばいいのやら。たくさん買って全部着るなんてことができたらいいのだが、あいにくそこまで金持ちじゃないし。そもそも、今度のデートの一回で着れる服は一着だけだし。店もたくさんあれば、それぞれの中に売ってる服もたくさんある。それを思うと目が回ってしまいそうだ。ちゃんとした女の子なら苦もなく選べるものなのだろうか? うーん、悩ましすぎる。

 とはいえ流石に私も下調べくらいはしているし、流石に服に種類があることくらいは知っている。いや、流石に。ボーイッシュなパンツスタイルとか、ティーン誌に載っていたようなガーリーなやつとか。要はその中から、どれを選択するかということ。……前トップロードさんとコンビニ前で鉢合わせた時は、私ならどんな服でも似合うなんて言ってくれていたけど。お世辞のつもりなんかじゃないんだろうけど。それでもやっぱり、似合わなかったら怖いのは事実でもあり。なんといっても練習なんかなくて、ぶっつけ本番なんだから。その一回であなたの心を揺らせなきゃ、何の意味もないんだから。

 でも、それなら。そんなつもりもないだろうあなたをどきどきさせる、そのためなら。その大目的を再認識すると、選択肢は次第に絞られてくる。いくら悩んでも、やっぱり時間と思考さえあれば解決は近づく。うん、いつも通りの私だ。

 いつも着ているような服は、ナシだ。緩いやつ、動きやすいやつ、いつも好んでいるようなそんなのは、ナシ。それじゃあ、あなたの受ける印象はいつも通り。それじゃあ、届かない。

 かといって女の子女の子した、ガーリーなやつも、ナシ。それは可愛らしいという意味であなたの印象を変えられるかもしれないけれど、その程度の意外性じゃトリックスターの異名が廃る。もっともっと、あなたを惑わせなきゃ。今の私を最高に見てもらえる服を、選ばなきゃ。

 予想を超えて、だけどしっかり私を見せる。今までの私も変わった私も見せられる、そんな。なんだ、案外やりたいことを言語化すれば簡単だ。これしかないのかは若輩者の私にはわからないけれど、私なりの正解を見つけた気がする。ジャンルは決まれど実際どんな服を着れば、なんてのは後から決めればいいだろう。店に行って、その目で見てみて。あんまり考えてばっかりでも始まらないし、ちょっと決めてみたら早く服を見てみてたまらなくなったし。

 こういう時は、心に正直に。どんなに重大な一歩でも気楽に捉えてやるのが、私らしい生き方ってものだ。

 そう、最後まで。デートの終わりの運命の時まで、とびきり楽しく行こうじゃないか。

 こつ、こつ。向かう店さえ決めてしまえば、とびきり足取りは軽かった。

 

 

 まさか、と思うような出来事は、意外とありふれているものである。こんな短いスパンでそんな言葉を復唱すること自体も、多分。……いや、でもさあ。偶然に理由を求めるのは意味のないことだし、まあ何があってもなんとかなるさ、の精神で今まで生きてきたわけだけどさあ。

 

「……えっと、スカイさん?」

 

 店に入るなり、私にかけられた聞き馴染みのある可愛らしい声。声のする方を見ればやっぱり、見覚えのある黒鹿毛のショートカット。彼女と目を合わせるために少し視線を落とすのも、やっぱり何度も経験のある感覚で。

 

「ああ、こんにちは。……こんにちは、フラワー」

「こんにちはスカイさん、こんなところで会えるなんてびっくりですね」

 

 誰にも秘密にしたまま服を買いたいな、なんて私の願望は、あえなくここで断たれたのである。よりにもよって、身内でもとびきり察しのいい女の子に見つかって。いやあ、なんで鉢合わせるかなあ。嬉しくないわけじゃないけど、流石に今日はちょっと困っちゃう。フラワーには、非常に申し訳ないけど。

 

「……フラワーは、なんでここに?」

 

 とりあえず、私の口から素直な問いが出る。いや、服屋にいるのだから服を買いに来たのだろうけど。とはいえそれだけではあんまり説明がつかないといえばつかないのだ。フラワーが、この店にいる理由としては。

 だって、このお店はフェミニン系。所謂大人の女の人、そんなファッションを取り扱う服屋さん。別にフラワーが大人びているところやしっかりしているところがあるのは重々承知だが、多分そもそもサイズがあんまり合わないはず。だから、なんで。そう問うた。当然の疑問だった。

 そして、返答は至極真っ当なものだった。答えたのは、フラワーじゃなくて。

 

「私の服を買いに来たのよ。フラワーの息抜きがてら、ね」

「なるほど、腑に落ちました」

 

 いつものスーツ姿ではないけれど、やっぱり見知った顔。薄いブラウンの長髪を讃えた、まあここで服を買うのも極めて納得の女の人。その顔を見るなりこの人がフラワーをここに連れてきた元凶か、などと思ってしまった。いややっぱり偶然で、責めることなんてできないんだけど。

 チーム<デネブ>のトレーナーさん。フラワーと二人がかりで、私の秘密の買い物を暴き立てる人だった。

 

「あっトレーナーさん、どうですか? いい服ありました?」

「そうね、大体見繕えたかしら。まあそんなことより、気になることができたけれど」

「そうですね、同感です」

 

 そう二人で即座に意気投合し、四つの目玉が私の方に向けられた。まさに阿吽の呼吸、流石トレーナーとそのチームのリーダー。いやー、でもそれをここで発揮しないで欲しかった。

 

「スカイさんは、どうしてここに来たんですか?」

 

 ほら、やっぱり聞いてきた。服屋に来る理由なんてわかりきっているのに、時々フラワーは意地が悪い。

 渋々答える。尋問じゃんか、こんなの……。

 

「そりゃまあ、服を買いに。セイちゃんだって女の子だから、そりゃ服だって買いますよ、そりゃ」

「あら、貴女が買うには珍しいタイプの服じゃないかしら」

 

 うわあ、やっぱりそれを指摘されるかあ。<デネブ>のトレーナーさんの追撃が、一切の容赦なく私を襲う。まあそりゃそうだ、それは私が一番よーくわかっている。クローゼットにあるのは若干子供っぽいくらいの服ばっかりだし、ここにあるものとは真逆だ。大人の女性のため、なんて服は。

 だけど、ここにはちゃんとした理由がある。私の熟慮の結果が、この店という選択を取らせたのだ。まさか知り合いと鉢合わせるとは、まったくもって思わなかったが。

 

「イメチェンってやつですよ、いけませんかー?」

「なるほど、イメージチェンジねえ。じゃあ、イメージチェンジをしたいと思った理由は」

 

 <デネブ>のトレーナーさんって、こんなに人のプライベートに踏み込んでくる人だったのか。いやあ、それなり以上の付き合いではあるけどさ。それでも流石にこれを言うわけにはいかない。だけど誤魔化しも効きそうにない。ええい、なら強行突破だ。

 

「ノーコメントで。一切の質問は受け付けません。はい、諦めてください」

 

 完全な逃げとも言えるけど。そう言って退けたら、フラワーと<デネブ>のトレーナーさんは顔を見合わせて。……あっ、今笑った。二人でふふって笑った。ひどい。ひどすぎる。二人がかりで私を揶揄ってるんだ。もしかして、いつも私が人をおちょくってる罰なのか? だとしたら甘んじて受け入れるしかないのだろうか。うう、それでも絶対言わないからね。何かを察されたとしても、自分からバラすのとは大違いなんだから。この気持ちは私だけのもの、そこだけは絶対に守らせてもらうからね!

 

「じゃあ、ちゃんと一人で選ばせてあげましょうか、フラワー」

「はい、そうですね。じっくり選んでくださいね、スカイさん」

 

 そう言って、なんかさっきよりちょっとにこにこしながら。<デネブ>のトレーナーさんとフラワーは、店の中に散らばっていった。私の完敗である。まあでも、これも応援の形の一つではあるのだろう。だからうん、不貞腐れずに受け取って。ちゃんと、これも力にして。

 私も、店の奥へと入っていく。これもある種の勝負服、それをただ一つ選び取るために。

 

「うーん……」

 

 さて、やはりいろんな服があった。フェミニン系、と一口に括れるだけの共通点はあるのだけど。どちらかといえばシンプルな装飾と、淡い色合い。それでいて、少し女性的なボディラインをさりげなく浮き立たせる。まさしく、大人の女性の魅力を引き立たせるものだ。そういう服が、様々に並んでいた。どれもきっと魅力的なのだろう、そう思った。

 けれど、なんとなくピンとこない感覚があった。理由は簡単で、やっぱりそんなの着たことないから。そしてなにより、そんな目線で服を選んだことがないから。私の女性らしさ、なんて。そんなものちゃんとあるのか、なんて思ってしまう気持ちもある。それを引き出せる素敵な服を、ちゃんと選び取れるのか、そんな不安も。

 ざわざわ、ざわざわ。どれも素敵に見えてしまって、かえって決める勇気が出ない。情報量の多さに混乱するというか、圧倒されているというか。店を二周三周して、それでも答えは出なかった。初めてのことだから当然ではあるけれど、服を選ぶというのはこんなにも大変なことなのか。そう思って、軽くため息を吐く。でも妥協は絶対したくないし、もう一回見て回ろうか。この店で買いたい理由は、しっかり持っているのだから。

 そうして、また最初から。店の端までまた戻った、そんな時だった。

 とんとん、と後ろから肩を叩かれる。小さな手を、私に差し伸べる人がいた。誰なのかは、振り向く前からわかっていた。君はいつでも、私の頼りになる人だから。

 

「迷ってますか、スカイさん」

「そうだねえ、その通り。なんかどの服も素敵に見えちゃってさ、逆に決めれないっていうか」

 

 そう素直に告げると、ニシノフラワーは口元に手を持っていってくすりと笑う。嬉しそうに、笑っていた。それでいいのだと、私を肯定する笑みだった。

 

「それはきっと、楽しいんですよ。服を見て、ワクワクして。これを着たら、自分はどうなるんだろうって。そのどきどきが大きすぎて、不安になるくらいってだけです」

「楽しい、なのかな。そんな気持ちで服を選んだことなんてなかったよ。知っての通り、おしゃれなんて全然わからない」

「それでも、わかり始めてます。だから、楽しめてるんです。悩んで、悩んで、服を選ぶ時間って、すごく楽しいものなんです」

「そっか。フラワーは流石、しっかり可愛い女の子だね」

「もう、スカイさんったら」

 

 フラワーに教えてもらえることが多いのは本当だ。もちろんこちらからもたくさんのものを上げられたと思うけど、その分しっかり返ってきてる。今日もそうなのだと思った。そしてそれはフラワーだけじゃなくて、色んな人が私を何かをくれる。私が何かをあげていたからこそ、くれる。

 そしてフラワーは、その紫の水晶で私の顔を隅まで見つめて。しっかりと私を捕まえて、改めて問うてきた。

 

「……スカイさんは、どうしてここで服を買おうと思ったんですか? 色んなファッションがある中で、なんでここを選んだんですか?」

「言わなきゃダメかな」

「言える範囲でいいですよ」

 

 はあ、なら仕方ない。こうなったフラワーには、私は逆らえないもの。観念して、少しだけ言葉を選んで。私は私の気持ちを伝える。大人の女性のファッション、それを選んだ理由を。

 

「フェミニン系、って言うんだよね。大人の女性の、派手に着飾らない魅力。ここにあるのは、そういう服」

「はい。落ち着いた、ありのままの印象を引き立てるものですね。私もいつか、こんなのが似合う女の人になりたいなあと思います」

「そう、そうなんだ。私は、私にこれが似合って欲しい。私のありのまま、それを引き出せるような。それを引き出した時、そこに大人を感じれるような」

 

 それが、ここに拘った理由だった。ありのままの私に、魅力を感じて欲しかった。そして何より、大人だと思って欲しかった。私の成長を、何より実感して欲しかった。もう子供じゃないんだって、そう伝えられる服を選びたかった。なによりシンプルだからこそ、大人の私を見てもらえるのだと思った。

 その結論が、ここのどこかにある。どれか一つの服を選べば、必ずまた前に進めるはず。けれど、だからこそ悩んでいるのだろう。フラワーの言う通り、ワクワクしてしまっているから。

 そんな私の、ささやかな告白。それを聞いたフラワーは、少し考え込んで。でもやっぱり、私に言葉をくれる。確かに背中を押してくれる、心からの言葉を。

 

「大丈夫ですよ、スカイさん。確かに、素敵な服はたくさんあります。目移りしちゃって、悩みます。でもそれはやっぱり、ワクワクしてるからです。自分を変えてくれる、その可能性を見れているから」

「自分を、変えてくれる」

「はい。服は、人を変えるものです。もちろん着ることで見た目も変わるし、着飾ることで気持ちも変わります。だから、スカイさんは服を買いに来たんですよね。自分を変えて、それだけじゃない。それを見て欲しい人が、自分への見え方を変えて欲しい人がいる」

「……参ったな。ほんと、フラワーには敵わないや」

「まさか。スカイさんにはまだまだ、追いつけないことばっかりですよ」

 

 フラワーにはどこまでも見透かされてしまうな、それくらいの関係になってしまったな、なんて思いつつ。それでもだからこそ、その言葉が正しく私の助けになるのだとわかる。そう、簡単なことだったのだ。

 デートのための、あなたのための服を選ぶ。それは私のすべてを伝えるためでもあり、あなたの心をひっくり返すためでもある。私とあなたが、変わるためのもの。だから、私はそれを見てワクワクしていた。この服がどんなふうに私を変えてくれるのだろう、そう期待していた。そしてあなたは今までと違う私を見てどう思ってくれるのだろう、それがたまらなく楽しみだったのだ。

 つまりここにある不安や緊張は、とめどない期待の裏返し。あなたとのデートは、それだけ楽しみだってこと。じゃあ、やっぱり幸せだ。重大な決断をすることすら、今の私にとっては幸せを膨らませてくれるもの。それなら、じっくり選ぶのは間違いじゃない。デートまでにあるすべての時間と出来事を、結末に繋がる楽しみにしていこう。

 

「フラワーお待たせ、やっと選び終わったわ……あら」

「お疲れ様ですトレーナーさん、ちょうどスカイさんと話をしてたところでした」

「そうね、なら時間をかけて正解だったかも。……貴女の顔つきもちょっと変わったみたいだしね、セイウンスカイ」

「そうですか? ならそれはチーム<デネブ>のリーダー、ニシノフラワーのおかげですね」

「そう言ってもらえると、そのチームを率いる人間としては鼻が高いわね」

「……それにしても、買いすぎじゃないですか? その袋の量」

「大人はこんなものよ。貴女もいずれ、そうなるかもね。……さて、私たちは帰りましょうか、フラワー」

「はい、トレーナーさん。もうスカイさんも、大丈夫そうですし」

 

 なんだかんだでおんぶに抱っこで、一人でしっかり服を選べるまで二人に見守られていたのかもしれない。最初はみんなに秘密にするつもりだったのにこうなってしまったのは気恥ずかしくはあるけれど、助かってしまったものは感謝せざるを得ない。いくら大人といっても、誰かに支えられることで前に進めるのは変わらないのだから。そしてそれは、あなたも同じ。いくら頑固で意固地な正論男でも、私はあなたを支えたい。一番特別な位置で、あなたの日常を彩りたい。だからちゃんと、今日はそのための準備をこなすのだ。

 どの服も魅力的に見えるのは、やっぱり変わらない。そして目移りしてしまうのも、やっぱりやっぱり変わらない。だけど、心持ちは少し変わっていた。どれも素敵なのだから、きっとどれを着ても私の心は満たされる。それでもやっぱりちゃんと一つは選ばないといけないけれど、この胸の高鳴りが間違いを起こすことはあり得ないのだ。私の恋が過ちじゃないのと、まったく同じ理屈で。

 もう一周、店の中に立ち並ぶ服を眺める。さっきまでよりずっと、気楽な心持ちで。好きな色合い、ちょっと目を引くデザイン。そんな、感覚的なものでいい。楽しんで、選べばいい。気楽で素直で、自分の心に正直になることが、いつもの私のやり方なのだから。

 それからまあ、一時間くらいはやっぱり悩んだんだけど。それ以上は、悩まなかった。一つの服を手に取って、店員さんに頼んで試着して。本当に似合ってるのかな、みたいな心配がゼロだと言ったら嘘になるけど、多分慣れてないだけだろうと思った。これから毎日こっそり自分の部屋で着れば慣れるだろうと思った。それに自分でも疑うくらい新鮮な印象なのだと思えば、その日にあなたがどんな顔をしてくれるのかはより楽しみなものになっていった。

 デパートを出れば、すっかり夕暮れといった時間帯だった。鮮やかなオレンジが私の足元から耳の先まで照らして、少し眩しかった。だけど、怯むことはなかった。とっておきの服の入った紙袋を揺らしながら、私は軽くステップさえ踏んでいた。それくらい浮かれている。その日を楽しみにしている。あなたの反応を期待している。恋を、している。

 寮に着く頃には日も落ちていたけれど、対照的に私の気持ちはどんどん晴れやかになっていた。この服を着た私をあなたに見せるその日が、私がまた変わるその日が、ワクワクして待ちきれなかったから。

 それが、私の心の輝き。陽光によって青空の青が浮かび上がるものなら、今の私はきっと。私の全身は、心の隅の隅まできっと。

 果てのない透き通る青空で、満たされているのだろう。そしてそれは、まだまだ更に鮮やかな青に染まるのだ。

 あなたに想いを告げる、その日に向けて。

 最後の仕掛けが、完了した。




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クライマックスです


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セイウンスカイは正論男に・11

 この日が来るまで、どれだけの時間を重ねたのだろう。どれだけの積み重ねが、今日という日のためにあったのだろう。それは始点をどこに置くかにもよることだ。服を買ってすべての準備を終えたあの日か、それともデートの約束を取り付けたあの日か。そこから数えてさえなお長い長い時間だったと思うけれど、本当のはじまりはきっともっと昔。

 それは、あの日。入学式をサボって誰もいない教室で微睡んでいた私を、トレーナーさんが面識もないくせに偉そうに叱りつけたあの日。すべてのはじまりは、私とあなたが出会ったあの日。そこから、何も途切れていない。チームに入ったあの日も、デビューを決めたあの日も、勝利を分かち合ったあの日も、敗北に打ちひしがれたあの日も、そしてそんなイベントの間にあった、全部の何気ない日常も。すべてが、繋がっているのだ。今日この日に、繋がっているのだ。

 そして、もちろんこれで終わりじゃない。確かに今、私は積み重ねの先端に立っている。この先には何も道は見えなくて、これが頂だと錯覚してもおかしくない。もしかしたら少し前の私なら、ここで満足してしまうのかもしれない。だけど、今の私は違うのだ。導になるべきものが何も見えなくても、その先にまだ新しい目標があると知っている。ゴールをくぐり抜けたなら、更なる未来を見据えられるようになると知っている。

 それも、あなたのおかげ。他にもたくさん、あなたから貰ったものはたくさんあるのだ。だから今日はそれを伝える日でもある。恋心という、最高にあなたを想う形で、だ。

 さあ、まだ少し待ち合わせには早いけど。釣りとは下調べをした上で、現地を早めに視察するものだし。この格好を最大限印象的に見せるなら、きっと何食わぬ顔で先に到着して見つけさせた方がいいし。何よりこれだけ楽しみなのだから、じっとしてなんていられないや。

 立ち上がる。談話室を抜ける。通り抜ける時に少し物珍しそうな視線を感じながら、玄関口まで辿り着いて靴を履く。耳をぴこぴこ反応させながら、髪の毛と尻尾に癖がついてないか手で触って確認する。うん、大丈夫。あなたに見せられるだけの手入れや努力は、全部完璧だ。

 ぎい、と寮の扉を開いて。流石に外は肌寒くて、慣れない格好じゃすーすーするのは事実だったけど。

 それでも、とっても暖かかった。そりゃもちろん不思議なことではあるけれど、理由はまったく不思議じゃない。

 だって今日は、こんなにいい日なんだから!

 

 

 というわけで、一時間前くらいに到着した。映画館のあるビルの前、まあそれなりには寒い街中の片隅に。もうそろそろ冬と言い切っていいくらいの冷たい風が少し服の合間を通るたびに、耳の先っぽまでぶるりと全身が震える。やっぱりこの服は慣れないな、とちょっと思った。

 ちなみに待ち合わせの一時間前というだけで映画が始まるのはもちろんもっと後なので、かなり相当気が早い。いやー、かといってトレーナーさんが待ち合わせより早く来ても困るなあ。一応これだけ早く来ておけば、作戦を再確認する時間にはできるわけだし。その時間が多い分にはまあ困らない、はず。とはいえ早く会いたい気持ちもやっぱりあるので、乙女心というものは難儀というか。

 さて、今日のプランを再確認しよう。まず、映画を観る。最近話題のアニメ映画。恋愛を扱ってるらしいのはちょっと私にとっても未知の領域だが、具体的には観たことないジャンルだが、まあそれも作戦のうち。そんなのを男女二人で観るなら、ちょっと意識の変化に繋がるかもしれない。どきどき、してくれるかもしれない。そんな気持ちも、ちょっとはあるのだ。

 あとはまあ流行りの映画なら観終わった後微妙な空気にはならないだろうと、そういう割と現実的な考えもある。というわけで、映画は観るのだ。なんと、私の奢りで。

 まあその分というか、そのあとのご飯はトレーナーさんのご馳走だ。そういう流れに、私がした。ここにはそれなりの思惑が二つほどあって、やっぱり私の作戦なのである。

 まあまず一つ目は、奢りなら美味しいご飯を食べれるだろう。気兼ねなく、たっぷり。トレーナーさんは多分真剣に、誘ってくれたのだからとちゃんとしたお店を選んでくれる。ちゃんとしたお店で、私とあなたの二人でご飯を食べる。それはやっぱり雰囲気を作ってくれて、あなたの心を揺さぶるものになるんじゃないかなって。とりあえず、それが一つ目。

 そして二つ目。これは本当に、理由としては本当にしょうもないような小さなものなんだけど。ただただ、デートっぽくしたいだけ。男の人が女の人をエスコートする、そんなありきたりのイメージを体験してみたいだけ。それだけだけど、それがとってもしたいんだ。

 ……で、その後。映画を観てご飯を食べて、その後。その後も、ちょっとした計画がある。ちょっとした、だけどもしかしなくても一番大事な。

 あなたに想いを伝える、そのための作戦。これについては、あえて今は考えすぎないでおこう。まずはあなたをしっかり見つめる。釣りとは最初ちゃんと餌を与えて、その上で確実になったタイミングで色気を出すもの。それに準えるわけじゃないけれど、最初はただただあなたとの時間を楽しみたいのだ。

 スマホを開いて時計を見る。あと四十分。どきどきは、時間の流れと共に大きくなっていく。多分待ち時間がゼロになった時、この高鳴りは最高潮を迎えるのだろう。……耐えられるかな。恋に気づいて、はじめての二人でのお出かけ。そういう気持ちでの、はじめての特別な時間。脚をぶらぶら、服をひらひら。もうちょっと落ち着かないといけないかも、私。今のままのテンションで向き合ったら、どうなるかわからない。そうだ、ちょっと深呼吸して──。

 

「……あれ、スカイ……?」

 

 ──振り返らないわけにはいかなかった。私の気持ちがどうなろうと、耳に触れたその声に反応しないわけにはいかなかった。耳をすっぽり覆っているはずのメンコ越しでも全身に甘い感覚をもたらしてくれるその声に、にこりと笑いかけながら向き合わないわけには。まだ四十分前なのに、なんてことは私に言う資格があるわけないし。そんなこともどうでもよくて、あなたが来たならやることは決まっている。私を見つけてくれたなら、やることは決まっている。

 ふわり、スカートを翻す。全身をあなたの方へ向け、私の姿を見せつける。あなたを戸惑わせるほどのものなのはさっきの反応でわかったから、あとはそれを強烈に印象付けよう。

 ねえ、私を見て。わたぐもみたいに真っ白な、装飾のほとんどないワンピース。だけど腰の部分は絞られているし、長袖もぴったり肌に沿っている。それとなく私の身体を浮立たせる、大人の女性のための衣装。それを身に纏う私。あなたのために、それを着た私。そんな私を、見て。

 

「どうしたんですかトレーナーさん、いつも通りのセイちゃんですよ」

「……いつも通りじゃないだろう。なんだ、その格好は」

「えー、そんな変な格好じゃないでしょう。おめかしですよ、おめかし」

 

 やった、やった。こういう時に露骨な反応をしてくれるのは、私からすればもうどんな思考をしているのか丸わかりってものだ。あなたは間違いなく、私を意識した。こんな私がいたんだって、どきっとした。成功だ。大成功だ。きっと、あれだけ鈍感なあなたでも理解した。

 今日という日のあなたとの時間のために、私はこんな服を着てきたのだと。今日は、特別なのだと。そう、どんな言葉より強く伝えられた。それを確信した。

 

「それにしても随分早いですね、トレーナーさん。まだ四十分前ですよ」

「それを言うなら君はどうなんだ。いつから待ってたんだ」

「大体一時間前ですかねえ、下見も兼ねて」

「……待たせないようにしようと思っていた。すまない」

「もう、そんなことで謝らないでくださいよ」

 

 本当に、そんなことで謝ってどうなるというのだ。むしろ私がどれだけ喜んでいるというのか、わかっているのだろうか。いや、あんまりわからないほうがありがたいけど。時間より早く来るくらいに楽しみなのはお互い様だなんて、そんなの嬉しいに決まってるじゃないか。とってもとーっても、嬉しくてたまらないに決まってるじゃないか。

 何はともあれ、予想より早く。予想より嬉しく、始まった。私とあなたの、はじめてのデートは。

 透明な自動ドアの方に足を踏み入れ、映画館のあるビルへの道を開いてやる。これからの時間へ、手招きするのは私からだ。

 

「じゃ、ちょっと早いですけど、行きましょうか。外は寒いですし、映画館の中で時間を潰しましょう」

 

 それはまあ、割と何気なく言ったつもりだった。これ以上外で、出会い頭で話すこともないよなあと思って。

 だから、予想外だった。

 

「そうだな。……ああ、その前に一つ、その」

「……なんです? 何かありましたっけ」

 

 あなたが、私を呼び止めたこと。そして。

 

「その、びっくりはしたが。その服、似合ってるぞ。うん、スカイにぴったりだと思った。本当だ」

 

 そんなふうに、ぎこちなく。それでも、しっかり言葉にして。

 私の精一杯のおしゃれを、褒めてくれたこと。あなたが、そう思ってくれたこと。それを、伝えたいと思ってくれたこと。

 全部、予想外だった。全部全部、思ってもみないことだった。

 そりゃもちろん、そうやって意識させようと頑張っていたはずだけど。それがうまくいったなら当然で、開幕から順調にデートが進んでるってことかもしれないけど。

 それでもそんなの、実際に言われてしまうなんて。現実に、それが言葉という形になるなんて。

 

「……それは、ありがとうございます。……えっと、じゃあ今度こそ行きますよ」

「ああ。楽しみだな、スカイ」

「……はーい」

 

 ああ、もう。順調すぎて作戦が狂いそうになるなんて、我が策士人生の中で初めてだ。せっかく可愛らしい反応をしてくれたのに、若干そっけない受け答えになってしまったのも許してほしい。だって、今確実に前に進んでて。だって、遠くて遠くてたまらなかった恋がこんなに近くて。だって、今までで一番幸せで。

 大好き。

 気を抜いたら一瞬で、指の先までその気持ちで染まってしまいそうだから。

 好き、好き、好き。一歩ずつ建物の中に足を踏み入れるとともに、足音の代わりにそんな気持ちが私の足から鳴った気がした。

 きっと、今日はずっとそうなのだろう。そんな気も、した。

 

 

「で、どんな映画だったか。その……なんとか」

「ええ、全然調べず来たんですか。せめてタイトルくらいは見といてくださいよ。『ホワイトエンディング』、ですよ」

「すまん。なんというか、できるだけ何も知らない状態で観たいと思って」

「本当ですか? 調べるの面倒くさかっただけじゃないですか?」

 

 そう問うと、トレーナーさんは太くて真っ直ぐなその眉毛を微妙な感じに歪める。なんとも微妙な感じに。少し図星、といったところか。

 ちなみにこんなふうに映画館内での会話がちゃんと映画についてのものになるまで、大体一時間ちょっとはかかった。具体的には映画が始まる十五分前になるくらいまでかかった。そこまではずっと世間話とかいつものからかい。トレーナーさんが若干目のやり場に困ってる感じを見るのはかなり楽しかったけど、いつも通りばっかりじゃムードがないというかなんというか。せめてポップコーンでも買っておけば先に映画の話に切り替えられたかもしれないのに、なんとトレーナーさんはポップコーンは苦手らしい。あれは妙にお腹に溜まるんだ、だって。ちゃんと後のご飯のことを考えてくれてるということでもあるから、そんな言葉でもにやけそうになってしまったのだが。

 まあ、それはそれ。もうそろそろ劇場に入れる時間である。映画を二人で観る、その時間は近づいている。……なーんて、それまでの僅かな空白を感じる暇もなく。

 

「まもなくスクリーン三番で上映致します、『ホワイトエンディング』、只今よりご入場を開始いたします。チケットをお持ちの上、劇場窓口までお越しください」

「お、いよいよですよ。さあ行きましょうか、トレーナーさん」

「そうだな。……ところで、どんな映画なんだ」

「えー、事前の情報は仕入れないんじゃなかったんですか」

「直前になって気になってきた。……すまん」

「後で教えてあげますよ、とりあえず劇場に入りましょう」

 

 そんなやり取りをしながら、二人一緒に立ち上がる。二人並んで、同じ方へ向かう。それもやっぱり幸せ。チケットを渡して、二名様ですねって二人組で扱ってもらえるのも、すごく幸せ。なんでもないことでも、あなたとなら幸せだから。

 広い、広い劇場。流石に流行りの映画だけあって、それなりに大きな場所で上映するということらしい。だけど大勢の人がそれぞれの指定席に座るから、劇場というものは広くて狭い。それは少し不思議な場所かもしれない、そう思った。

 

「ここですよ、トレーナーさん。ここと、ここの席」

「……隣同士か」

「当たり前じゃないですか、なんで一緒に来て別々なんですか。それにそもそも、カップル割ですよ」

「それはそうだが、その」

「なんですかー?」

「こういうのは、初めてだ。だから、緊張はする」

「なんだ、そんなことですか」

 

 周りを見ればそれなりに他にカップルらしきものは居て、それに自分達も溶け込むこと。それはやっぱり、流石のトレーナーさんでも取り繕えないほど恥ずかしいことなのかもしれない。だけど、そんなのは。

 

「それは、私も一緒ですよ。私だって、男の人と映画を観るなんて初めてです」

 

 そんなのは、私も一緒。だけどあなたとなら、はじめてのことができる。あなたになら、はじめての恋を捧げられる。そういう気持ちで、今日はあなたを誘っているのだ。

 

「……そうか。じゃあ、座らせてもらう」

「はい。私の隣、ですよ」

 

 そう言って、二人並んで座った。こんなに広い劇場なのに、そこには二人だけの空間があった。大きくて私より背の高い、あなたの背中が真横にあった。少し身体を傾ければ、寄りかかれてしまうような距離にあった。心臓は、また一段と高鳴る。私の世界はそうやって、今日はどんどんと色づいていくのだ。

 

「そういえば、どんな映画なんだ」

「あ、そうでしたね。恋愛映画、らしいですよ。夜の街で出会った少年と少女の、恋の話」

「……なんでそんなのを」

「いやまあ、評判良かったんで。なんですか、私がそんなの観ようとしたのが意外ですか」

「……それは、そうかもな」

 

 むー、やっぱりそんなふうに思ってたんだ。私がこんなに恋してる間も、そんな可能性なんて考えてもなかったんだ。ちょっと抗議してやろうかと思ったけど、その前にトレーナーさんは言葉を続ける。

 

「でも、変だとは思わない。スカイがそういうところもあると知れて、嬉しい」

 

 私が何も言えなくなるような、そんな言葉を。

 

「そうですか、そりゃどうも。……ほら、そろそろ静かにしましょうか」

「まだ始まらないと思うが」

「いいから」

 

 強引に説き伏せて、会話はそれきり。隙を見せたら嬉しいことを言ってくれてしまうから、本当に困った人だ。とりあえず、映画で気分転換をしないと。もしかしたら映画の内容がもっと気持ちをかき乱してくるかもしれないけど、とりあえず。とりあえず、これも大きなイベントだ。二人で過ごす特別な時間、その一つなのだから。

 上映前の予告。上映前の注意。今流れているそれは何かの感情を乗せているものじゃないし、ひょっとしたらこれから始まる映画そのものだって、ただの映像と切って捨てることはできるかもしれない。

 けれど、そこには物語があるのだろう。少し前は所詮フィクションだと冷ややかに見ていたけれど、それはきっと手の届かないものへの羨望に近かった。今ならわかる。人の気持ちは、誰かのそれは必ず理解の及ぶもの。フィクションでも、現実でも。人は相手を理解して、どこまでも寄り添うことができる。かけがえのない特別にだって、なれる。

 だから、楽しみだ。恋愛映画なんて縁のなかったものでも、とても楽しみ。……まあでも、一番楽しみな理由があるとしたら。

 あなたの隣で、体温すら僅かに感じられること。終わった後、あなたと語り合う話題を持てること。結局、そんなことかもしれない。

 どちらでもよかった。幸せだったから。今日はずっと幸せで、どんどん幸せになっていっていたから。

 そうして間も無く、少しだけ残っていた灯りが消える。スクリーンが開いていく。

 幕が開く。

 すべての幕を、下ろすために。



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セイウンスカイは正論男に・終

 すべてのものに、終わりがある。はじまりがどんなに偶発的で、過程がどれほど困難なものであっても。それが結実するからこそ、その積み重ねは報われる。映画のエンドロールを観ながらまず思ったのは、そういうことだった。ある一つの物語の、幕開けから幕引きまでの二時間弱をスクリーンに見入って、最初に思ったのはそれだった。結末こそが、それまでのすべてに意味を成すのだと。そういう、ことだった。

 だけど、もう一つ別のことも思った。結末は、終わりは、道を閉ざすものではないということ。映画の中で出会った主人公とヒロインは、映画の中で結ばれた。幸せで満たされることで、その映像自体には幕が引かれた。けれど当たり前のように、その先の二人の未来が示唆されていた。幸せの絶頂が恋の結実の瞬間に見えても、それは決して最高潮ではない。きっとその瞬間も最高に幸せだったのだろうけど、最高は一つじゃないんだから。進み続ける限り、常に増えて更新されゆくものなのだから。それは映画を観た感想というより、私の考えも多分に含んでいるのかもしれないけれど。

 でも、きっとそれでいい。ある物語があったとして、そこから受け取る印象が誰しも等しいなんてあり得ないのだろう。私は、私の道を今まで歩んできたから。私は、あなたの隣でこの物語を観たから。大好きなあなたと一緒に、大好きになるまでのこれまでの時間すべてと一緒に、私なりの感じ取り方をしたのだから。だからこれは私だけの気持ち。私という人間がいて、私だけの人生があって、その紛れもない証明だ。

 ……ああ、でも。

 

「……いい映画だったな。君と観れてよかった」

「そりゃどうも。じゃあ次はご飯でも食べながら、映画の感想でも語り合いましょうか」

 

 あなたとなら、この気持ちを共有してもいいかもしれない。私だけの秘密でも、あなたになら打ち明けてもいいかもしれない。だって今日はそういう日。あなたに私を知ってもらって、私も新しいあなたを知る日。ずっと秘めてきた恋心を、あなたに告白する日なのだから。

 二人で同時に立ち上がり、こつこつと足音を並べて劇場を後にする。私たちが映画を観ている間に午前は終わり、時刻は正午を僅かに過ぎていた。ちょうど、ご飯時だ。

 劇場の受付を出たあたりで、トレーナーさんが私の前に出てきた。ここまでは私が先導してきたわけだったので、少しびっくりしながらその顔を見る。意志の強そうな眉毛も真っ白な歯も、意外とくりくりした瞳も見る。そんな不意のことでも、ああやっぱり好きだなあ、そう思ってはしまった。

 そして、トレーナーさんは私に一つの言葉を告げる。ここでイベントは一つ区切られたという合図。私からあなたへ、攻守交代の宣言だった。

 

「じゃあ行くぞ、スカイ。昼を食べる場所は決めてある。俺が案内するぞ」

「なんだトレーナーさん、映画のことはまるで調べてなかったくせに」

「それはまあ、スカイに任せようかと……すまん」

「いいですよ別に、そのぶんしっかりそっちは下調べしてくれたんでしょう? 期待してますよ、トレーナーさんが念入りに選んでくれた素敵なお店」

「もちろんだ! このビルを出てすぐのところにある小さな洋食屋だが、味は確からしい。期待は裏切らない、はずだ」

「ちょっと最後に不安そうな付け足ししないでくださいよ。まあでも、行けばわかりますか」

「そうだな。行こう」

「はい。エスコート、よろしくお願いしますね?」

「……ああ、そのつもりだ」

 

 やっぱりしっかりしてるな、トレーナーさん。ちゃんと今日のこと、大事に大事にしようと思ってくれてたんだ。しっかり私をリードする時はリードしよう、そんなふうに下調べもしてくれてたんだ。不器用なりに努力して、私のことを考えてくれてたんだ。私と、同じ気持ちだったんだ。

 それはやっぱり恋情ではないのかもしれないけれど、私を大切にしてくれているのは伝わった。大切に、特別だと。あなたの心の深く深くまで、私がいることに違いはない。なら、後は少しその向きを変えてやるだけ。既にある特別さの意味に、ほんの少しの彩りを添えてやるだけ。そしてそれは着実に、今この瞬間もちょっとずつあなたを染め上げ始めている。いつもと違う装いでどきどきさせた。二人で映画を観てどきどきさせた。そして次は、二人で食卓を囲む。

 それはきっと、あなたをどきどきさせてくれる。何故ってこんなに、私がどきどきしているのだから。

 エレベーターを降りて、二人並んで大きなビルを後にする。そしてそのまま寒空の下に出て、目的の店までの僅かな距離を移動するまでも。

 二人で、並んで歩いていた。

 私とあなたは、互いに互いの隣にいた。

 距離は近づく。幕引きの、終わりの時と共に。

 

 

「……ねえちょっと、トレーナーさん」

「……なんだ、スカイ」

「めちゃくちゃおしゃれじゃないですか、ここ」

「そうだな。一応、写真で見た通りだ」

「あの、頼りにしていいんですよね」

「……任せろ」

「ちょっと、なにその間」

 

 店に入るなり、そんなひそひそ話をしてしまった。まあ、ここは任せるのも作戦のうちなんだけど。トレーナーさんの心持ちを探るために、一旦自由にさせてみるというか。ただそれにしても、この空間の雰囲気は気後れしてしまう。派手すぎず落ち着いた色合いの照明、トレセン学園のそれより数倍ぴかぴかのフローリング、傷一つ見えない木製の壁には、ところどころワンポイントの壁面クロスなんかがかけられたりしてて。本当にあのトレーナーさんが自分でこのお店を選んだのか? と疑ってしまいそうになるほど、格式とムードを感じられる空間だった。

 いや、よくよく考えたら私はまだマシなのかもしれない。とっときのワンピース姿は、ここまでしっかりした場所ならむしろ相応しいくらい。そういう意味では、私のために選んだ店というのなら正解。それはまあ、嬉しい。かなり、嬉しい。

 でも肝心のトレーナーさんは、いつものカッターシャツと使い潰しのスラックスじゃないか。そりゃあなたなりに精一杯きちんとした格好をするつもりでそれを着てきたんだろうけど、なんでしっかりした格好の選択肢が仕事服しかないのやら。この店に来ることを決めたのは他ならぬトレーナーさんなのだから、もうちょっと考えを巡らせてもよかったのに。

 なんて、そんななんとも融通の効かないところがあなたらしさでもあるのだけど。私にとっての、あなたの好きなところの一つでもあるのだけど。だから大目に見てしまおう。そんなところも愛おしいって、そういうことにしてしまおう。

 

「いらっしゃいませ、お二人様ですか?」

「はい、二人です。私と、彼女の二人」

「かしこまりました。では、こちらの席へどうぞ」

「わかりました。……行くぞ」

「言われなくても行きますよ、トレーナーさん」

 

 店員さんに案内され、私たちは幻想的な店内へ招き入れられる。ちゃんと私をエスコートせんと率先して受け答えしてくれたトレーナーさんの態度が、大したことでもないのにとっても嬉しかった。それに、「彼女」って。もちろんそういう意味じゃないのはわかってるに決まってるけど、「彼女」って。それにそういう表現を使われることは、私を子供扱いしてないってことな気もして。対等に、一人の大人として扱ってくれてるような気がして。まあ、単なる言葉選びに深い意味はないのかもしれないけど。

 それでも嬉しい。これから始まる次の特別の開幕を告げるには、十分すぎるほどの幸せだった。

 

「……このハンバーグ、美味しい。ひょっとして、トレセン学園の食堂より」

「それは相当だな。でも確かに、このカレーも美味い。評判のいい店だったが、ここまでとは」

 

 とん、とん、かちゃ、かちゃ。互いに食器の音を静かに立てながら、最初に交わされた言葉はそれだった。料理が美味しいって、外食するなら誰でも出せるようなありきたりな会話。でもそう素直に漏らしてしまうくらいには、美味しかった。もしかしたら少なからず、あなたと食卓を囲むというのは理由にあるかもしれないけど。そうだとしたらやっぱり、これも特別を確認する行為なのかもしれない。

 ぱく、ぱく、もぐ、もぐ。ついつい、黙々と食べてしまう。何も他に考えてないみたいに、黙々と。それでも向かい合っている限り、料理を捉える視界の端にあなたの大きくて少し節のある手の甲を入れてしまって。そんな優しい私とは違う男の人の手が、少しぎこちなくスプーンを扱うのをこっそり眺めて。言葉がなくても、今の時間は幸せだった。あなたと二人なのだと、実感できた。

 そうして七割くらい、お互い七割くらい食事を終えた頃だった。美味しいものを食べて気持ちも身体も落ち着いて、緩やかな暖かさが身体を包み始めていた頃だった。

 おもむろに、トレーナーさんが口を開く。当たり前といえば当たり前の話題で、だけど確かな、今までとは明確な差のある言葉。

 

「さっきの映画、良かったな。本当に良かった。誘ってくれてありがとう、スカイ」

 

 この特別な時間を、あなたの方から更に彩ろうとする言葉。私の空回りじゃないんだって、ちゃんとあなたを意識させられているんだって。そう、思えるような。

 あなたが今を特別だと思ってくれる、そんな言葉だった。そして、あなたの言葉はそこでは止まらなくて。少し照れ臭そうに、けれどあなたの歩みは止まらなくて。未来の結実に進んでいるのは、私とあなたの二人だった。

 

「あの主人公とヒロインは、たまたま出会ったわけじゃないか。別々の目的で夜道を歩いていて、たまたま。特別な意味を持って、何かを決めて待ち合わせしていたわけじゃない。だけどそこから物語は始まった」

「まあでも、映画ですからねえ。たまたまとは言っても、そう脚本で決まっていたといえばそう決まっていたものです」

「それはそうかもしれないが、俺はあれを観てこうも思ったんだ。案外、現実もそんなものかもしれないって」

 

 ……ほう。いつも正論ばかりのトレーナーさんにしては、なんというか珍しい発言な気がする。結論のはっきりするはずもない、自分なりの考え、なんて。まあたまには聞けていたこともあったかもしれないけれど、こんなふうにそれを赤裸々に語ることはなかったと思う。ここに来て、ここまで来て、あなたの新しい一面を見ていた。それはあなたへの想いを深めるもの。もっと知れてよかったと思えるもの。新たなあなたを知って、もっともっとこう思う。

 やっぱり、あなたが大好きだ。

 

「現実も、ですか。現実はフィクションじゃないですよ、でも」

「だとしても、というか。たとえば俺とスカイの出会いは、偶然だった。たまたま、君がサボっているのを見つけた」

「そうですねえ。あの日トレーナーさんに見つからなかったら、今日の私は代わりに一体どこで何をしていたのやら」

「でも、見つけたなら必ず声をかけたはずだ。俺がサボりを見過ごすはずはないからな。そしてそれなら、偶然というだけじゃないのかもしれない。さっきの映画と、同じだ」

「……どういう、ことですか」

 

 初めて聞く、あなたのあなたなりの考え。それは私がすぐさま推し量るには大きくて深くて、翻弄されてしまう。やっぱりあなたは大人だなあ、そんなことを思った。

 そしてそうやって聞き返す私に、真っ直ぐ意図が伝わるように。いつのまにか二人の食事の手は止まり、互いが互いを見つめていた。青と黒の視線が、二人の真ん中で繋がっていた。ちょうど、真ん中で。あなたは言葉をしっかり伝えるために。私は言葉をしっかり受け止めるために。

 気持ちの一致。それは私たちの繋がりを、今までで一番強くしてくれるのだ。

 

「現実にあるような偶然でも、物語にあるような運命でも、そこにあった出会いに価値を見出したから、それは出会いになったんだ。価値を見出したのは、出会った人同士の意志なんだよ。それは、あの主人公とヒロインもそうだし」

「私とトレーナーさんの関係も、ってことですか。……なるほど、ですねえ」

「……すまん。少し、いやかなり変なことを言ったかもしれない」

「いやあ、確かにびっくりしました。トレーナーさんがそんなロマンチストなことを言うなんて」

「その、今からでも忘れてくれないか」

「やでーす。絶対覚えときます」

「なんでだ。トレーナーの指示だぞ」

「そんなのしょっちゅう無視するのがセイちゃんじゃないですか。絶対、忘れませんよーだ」

 

 ほんと、絶対忘れてやるものか。あなたはきっと気づかず言ったのだろうけど、今あなたはものすごいことを言ったんだぞ。あなたと私の出会いは、互いに価値を見出したからこそだって。つまりあなたもそこからすべてが始まったって、私と同じくらいあの出会いを想ってくれてたんだって。すべてのはじまりから今この瞬間に繋がるという大それた感覚さえ、私とあなたで同じだったって。

 それに、それにだ。あの主人公とヒロイン、それと私とあなたを重ねるのなら。何気ない出会いから最後には愛で結ばれた、そんな二人にさえ重ねてしまうなら。きっとやっぱり、あなたの発言自体に今はそんなつもりはないのだろうけど。

 ありがとう。あなた自身から、私の恋を肯定してくれて。色々な人が後押ししてくれてここまで来て、最後に背中を押してくれるのが、他ならぬあなた自身だなんて。

 よし、大丈夫。もとより引き下がる選択肢なんてないけれど、あなたまでそう言うなら尚更だ。

 最後の、本当に最後の大作戦。策士セイウンスカイ、そのすべてをあなた一人のために尽くしてやろうじゃないか。

 

「ご馳走様。本当に美味しかったな」

「ご馳走様を言うなら私の方ですよ、奢ってもらったんですから。美味しかったですね」

「ああいや、お店に向けてというか。……スカイの方を向いて言うのは変だったな」

「いいですよ、そんなのいちいち気にしなくて。それよりご飯を食べ終わったら、ちゃんとお店を出ましょうね。食事中の談笑はともかく、その後も居座るのは御法度です」

「そうだな。なら、帰るか。今日は本当に楽しかった。色々新鮮なこともあったが、誘ってくれてありがとう」

 

 ──ほら、そう言うと思った。予定が全部終わって、そんなふうに心底ほっとしてくれると思った。これだけ慣れないことをさせられて、緊張して、それでも楽しくて、それがひと段落した今なら、あなたの頑固な気持ちが丸裸になると思った。

 だから。

 

「何勘違いしてるんですか、トレーナーさん。まだもう一つ、行くところはありますよ」

 

 だから、そこを逃さない。釣りは長い根気の勝負であり、そうしてできた一瞬の隙を必ず逃してはならない勝負でもある。だから、ここまで黙っていた。最後の仕掛け、あなたという大物を釣り上げるための運命の一手は、ここで打つ。

 

「……え?」

 

 よし、ばっちりだ。取り繕う素振りもない、本当に無防備な一言があなたの口から漏れる。もう、逃げられない。もう、離さない。終わりまで、必ず一緒にいる。今日の終わり、未来のはじまりまで、必ずだ。

 少しわざとらしくあなたの前に躍り出て、ふわふわとスカートを浮かせて。もう一度大人の私を意識させてから、私はあなたに一つの提案をする。もっとも、拒否権なんてないけれど。ここまでやって拒否するようなやつだなんて、一度も思ったことはないけれど。

 だから、ここからはまた攻守交代だ。告げた瞬間、私のリードが確定する。二人が今日たどり着くゴールが、確定する。

 さあ、告げよう。

 

「行きますよ、観覧車。最後は二人で、観覧車に乗って終わりましょう」

 

 あの入学式の日から始まった長い長い道のりのゴールが、一体どこにあるのかを。

 これからの二人の、特別な日常のスターティングゲートが、一体どこにあるのかを。

 あなたと二人なら、ゲートに入るのは怖くない。終わりの瞬間も未来の確定も、むしろ幸せになってしまう。そう、私は告げたのだ。

 私のその一言には、流石にトレーナーさんもとってもびっくりしたみたい。しばらく固まって、眉毛も目蓋もぴくりともしなかった。まったく、食べ終わったんだから早く店から出なきゃいけないのに。わかってるくせに、断れないことなんて。わかってるくせに、もう完全に捕まったってことなんて。

 ……ああ、少しくらい強引にしてやるか! 

 

「もう、行きますよ!」

「あっ、おいちょっと、スカイ!」

 

 ぐいっ。成人男性一人引っ張るくらい、ウマ娘の膂力を以ってすればわけもないことだ。そのついでにちょっと手を繋ぐのも、この際ほんの少しのフライングみたいなものだろう。そういうことにしておいて、後でそのぶん責任を取ってもらおう。

 

「ご馳走様でした、また来ますねー」

「はい、ありがとうございました」

 

 店員さんに挨拶して、がらんがらんとベル付きのドアを少し強めに開いて外へ出る。ちなみにまた来るというのは、もちろんトレーナーさんと一緒のつもり。片手はずっと、トレーナーさんの右手首を握りしめたまま。調子に乗って走っちゃうとトレーナーさんを潰しちゃうので、ほんの軽い駆け足くらい。まあ、それくらいは急いでもいいよね。楽しいことが間近に近づいているのなら、気持ちは急いでしまうもの。ゆっくりのんびりもいいけど時にはそれに素直にならなきゃ、私らしくないんだから。

 昼下がり、まだ青い空の下。あなたの手を繋いで引っ張って、すぐそこに見える真っ赤で大きな観覧車の足元へ向かう。そこから見えるもの。そこで過ごす時間。多分今日あった特別なものの中で、一番短くてあっという間なのだろうけど。

 一番特別で、幸せだ。始まる前から、そう決まっていた。理由はやっぱり簡単で、誰でもわかるくらい単純だ。

 ここが、積み重ねの一番上だから。

 ここが、告白をする場所になるから。

 トレーナーさん、最後の勝負だよ。あなたを釣り上げて、私と対等なところまで持ってくる。全部を告げる。全部をあげる。だから、だから。

 私を、見てよね。

 クライマックス、最後の瞬間。舞台の上にあるものすべてが最も美しく映るのは、フィナーレ以外あり得ないのだから。

 

 

 がこん、がこん。結構人は並んでいて、私たちが乗る観覧車がそうやって動き出したのはチケットを買って待つこと二十分ほど後だった。その頃にはトレーナーさんも状況を受け入れた様子だったので、手首を掴むのはやめてあげた。チケットは私の奢りになってしまったから、トントンだったはずの貸し借りは私に貸し一個多い状態になってしまったかも知れないけれど。……まあ、それはこれから返してもらうわけだし。

 

「外の景色綺麗ですねー、トレーナーさん」

「……そうだな」

「あっ、あれトレセン学園じゃないですか? ほら、あの端っこ」

「……そんなに近づくな」

「しょうがないじゃないですか、狭いんだから」

 

 そしてそんなふうに無理矢理連れ込まれたトレーナーさんは、さっきから外の景色に目を向けてばっかりだ。態度もそっけない。だけどそれでも観覧車の中なんて狭くて、互いの呼吸の音さえ聞こえてしまう。今日で一番、あなたを意識してしまう。それは多分あなたも同じで、だから必死に目を逸らしてるのかな、なんて。

 トレーナーさんの、大きな身体。私のちっぽけで肉のついてないそれとは違って、引き締まった筋肉がシャツの上から見て取れる身体。やっぱり、あなたは私より大人だ。私も大人だと言っても、まだまだそこには差があるのだろう。

 向かい合って座れば、身体つきだけじゃなくてそのサイズの差だって明瞭になる。座っている状態でも、私より一回り大きいところにあなたの顔があるのがわかる。私の身長に耳の長さまで計上しても、やっぱりあなたはとっても大きい。大人の私をこれほど見せても、まだまだあなたの方が大人な気がした。

 きっと抱き締めてもらうなら、少しあなたに屈んでもらわなければ叶わない。

 きっと口付けを交わすなら、少し私が背伸びをしないと叶わない。

 それは事実。身体の距離は、どちらかがどちらかに寄り添わなければゼロにはならないのだ。それは、よくわかっている。ここまでさまざまの努力と時間を重ねても、そういうものなのだろう。

 それでも、きっと。きっともう一つわかるのは、気持ちの距離はゼロにできるということ。だから、寄り添いあえるのだ。寄り添うことさえできれば、二人の距離はゼロにできるのだから。大人と大人、対等な私とあなた。

 だからこそ私は、あなたに恋をできるのだ。

 観覧車はゆっくりと回り、一番高いところに近づいていた。地上の景色は遠く、世界は二人だけのものになる。

 ここで、想いを伝えたい。そう思ってから口が動くまで、刹那のタイムラグもなかった。どんなに重大な決断だろうが勇気が必要だろうが、覚悟は決まっている。とうの昔に。完璧なタイミングを、最高の瞬間を狙っていただけ。

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 ねえ、今はわざとらしく外ばっかり見てるけどさ。私は今まで、あなたが見ててくれたからここまで来れたんだよ。あなたが支えてくれて、「走れる」って言ってくれて。しつこく見捨てなかったから、私は渋々走り始めて。けれどそうやって見ていてくれたから、私は自分を認められるようになった。走りたいって思っていいって、誰かのためになれるって、そう思わせてくれたのは、あなたが見ていてくれたから。ずーっと、見ていてくれたから。

 

「ねえ、トレーナーさんってば」

 

 もちろん、時には見られたくはないようなものも見られてしまった。弱いところ、泣いたところ、みっともないところ、そんなのまで見せてしまった。だけど、その上であなたは私を肯定してくれた。それはきっと、あなたも同じように弱さを見せてくれたから。あなたがあなたのことを教えてくれたから、私はあなたのことを信頼できた。自分の弱さを見せてもいいって思えた。そして最後には、恋までしちゃった。だけど、それもあなたがくれた幸せなのだ。あなたが、私に恋を教えてくれたのだ。

 

「もー、トレーナーさんったら」

 

 だから今、私はこう願っている。今まで色んなことを見てもらえて、私もあなたのことを見て。お互いのことを、たくさん知って。そうやって特別な繋がりを持つことが、幸せなのだと知って。だから、だからこう願う。

 今よりも、もっと私を知ってほしい。そしてそのお返しに、あなたのすべてを知りたい。もう、私は私を隠さない。怯えて雲隠れして、逃げたりしない。

 私は、私を肯定できる。歳の差も関係の差も超えてあなたの心を射止められると、そんな自信を持てるほどに。

 だから。

 

「トレーナーさん!!」

 

 びくり、目の前の男の人が叱られた子供みたいに反応する。まあ至近距離でこんな大声を、それも滅多に大声を上げない奴の大声を聞いたらそうもなるだろう。だけどそれくらいの手段で振り向いてもらえるなら、まったくもって楽な仕事だ。

 

「……なんだ」

 

 今日はいつもより整えられた黒髪。連れ回されて疲れたのか、少し汗の垂れた頬。少し困惑まじりに、だけどようやくこちらを向いてくれる、わりかし長いまつ毛を二重に讃えたくりくりとした黒い瞳。そのすべてが、ゆっくりと私の方へ。私の両の瞳で、それを真正面から捉えられた。

 ああ、こうなると顔が真っ赤になるのがわかるな。言うべき言葉が喉の七割くらいまで来たあたりで、耳も尻尾もひたすら忙しなくなる。

 でも、でも。恥ずかしいのは当たり前、怖いのもやっぱり当たり前、それでも、それでも。

 気持ちの扉を、開く。千の感情が渦巻く今の私の心臓から、一番強くて特別なものを取り出すために。

 

「トレーナーさん」

 

 ああ、ようやく。

 

「好きです」

 

 ようやく、言えた。

 

「担当ウマ娘として、じゃないです。ただ一人の、なんでもない女の子として言います。あなたのことが、大好きです」

 

 恋を告白すること。それは一度言うのが、言い始めるのが一番難しいのだと思った。だって開け放ってしまえば、こんなにもとめどなく溢れてくるのだから。

 

「もちろん歳の差なんてわかってます。トレーナーと担当ウマ娘、大人と子供。それが今までの関係で、私が望んでるのはそれとは違うものなのはわかってます。でも、それでも変えたいんです。私はあなたの特別になりたい。本当の意味で対等な、大人と大人になりたい」

 

 ずっと考えていたことだった。何度も悩んで胸がいっぱいになった悩みだった。それを解き放って、なによりあなたに正直になれて。大好きな人に私の本当の気持ちを知ってもらえることが、幸せでたまらない。世界はより一層、鮮やかに見えていた。この瞬間視界にあるのは、あなたの姿だけなのだけど。

 

「今までの関係が、あなたとの関係がとても幸せだからこそ。だからこそ、今から先に進みたい。私は、あなたのそばにいたいんです。どんな日でも片隅に想ってもらえるような、特別な場所に。……これが、今日言いたかったことです」

 

 言い切った。そう思うと、途端に全身に疲労がのしかかってくるような気がした。けれどそれとは真逆で、心の底から活力が湧いてくる感覚もあった。全部を出し切った感覚。まるでレースの後みたい。もちろんそれとは違って、これで終わりではないのだけど。

 がこん、がこん。揺れる観覧車の音だけが、狭くて二人きりの空間に響く。答えは、まだない。どこまで行っても、この私の言葉は問いかけだ。あなたがそれを肯定しなければ、受け入れなければ意味はない。すべてを尽くしたつもりだけど、最後に大事なのはあなたの気持ちに決まっている。そのために、ここまであなたの気持ちを揺らそうとしていたのだから。

 がこん、がこん。観覧車は大体七割くらい回り終わった後で、このまま黙ったまま降りるつもりなんじゃないかって疑いたくなる。そうだとしたらとんでもないやつだ。そりゃあとびきりびっくりしただろうけど、いくらなんでもそれはないだろう。幻滅しちゃうかも、なんて。……なんて、やっぱりそんな心配は要らなかった。重い重い口を、ものすごく恥ずかしそうにトレーナーさんは開く。まあこれが恥ずかしそうだとわかるのは、私の長い付き合いあってこそだと思うけど。

 そうして、絞り出された言葉は。

 

「……君は担当ウマ娘で、俺はトレーナーだ。だから、その、わかるか」

 

 ……なーんだ、それで。

 それで、否定のつもりなんだ。

 不安定な足場なんて構いもせず、スカートの皺を整えながら立ち上がる。ぎぃ、と少しだけ私の体重で観覧車を揺らしながら、一歩、一歩。

 身体を寄せる。僅かに身じろぐあなたの胸に、私の胸元をぴったり押し付ける。もちろん、力加減は絶妙に。トレーナーさんなら簡単に押し退けられるくらいの、拒もうとすれば拒める詰め方で。

 そして、身体はぴったり重なって。互いの息が当たるところまで、あなたの顔に私の顔を近づけて。

 ──ちゅっ。

 はじめての、キスをした。ようやく触れられたあなたのそれは、すこしかさついた唇だった。幾度も夢で見て、その裏できっと手が届かないと思っていたもの。それを、していた。

 唇と唇を三十秒ほど合わせるだけの、甘酸っぱいキス。けれどその三十秒、あなたからの抵抗はなかった。それがなによりの、答えだった。

 永遠にも思えたその一瞬を終えて、鼻の先が触れそうな距離のまま私は言う。もう一度それくらい近くでトレーナーさんの顔を見れば、やっぱりあなたの気持ちははっきりしていたし。ずばり、指摘してやった。

 

「トレーナーさんがそうやって正論を言う時は、決まって本心を隠す時じゃないですか。バレバレなんですよ、あなたは」

「……でも」

「でもじゃない。もうバレてるんだから、キスだって拒めなかったんだから。既成事実ってものはできちゃってるんですから、諦めてください」

「だが、俺でいいのか? ……その、そんな気持ちを向けられるのは初めてだ。多分不器用で、人付き合いは上手くないからだ。それはその、嬉しい、とは思う。だが、本当に俺で」

 

 もう、本当に困った人だ。全部言わせる必要はないだろう。私の気持ちを受け取った、肯定した、嬉しかった、その言質は取った。

 もう一度、一寸唇を重ねる。んっ、とくぐもった声だけで、強制的にあなたの言い訳を止める。そして口を離した後、間髪入れずに言い放ってやる。もう釣り上げた獲物なんだから、これは神経締めみたいなものだ。

 

「そんなの、決まってるじゃないですか」

 

 がこん、がこん。観覧車は、ちょうど下に降りてきたみたいだ。タイミングが良くて大変結構。最後にとどめを刺してから、二人で元の世界に戻れる。

 

「あなただから、いいんですよ」

 

 きっと生まれ変わったみたいに見える、新しい世界に。

 こうして、最後の特別な時間は終わった。一番短い、けれど一番特別な。

 きっと、永遠に残る思い出になるだろう。

 これは私とあなたの二人にとって、新しいはじまりなのだから。

 

 

 観覧車から降りて、今度こそ帰路に着く。案外劇的に何かが変わった感覚はないけれど、それでも心の隅にずっと暖かい何かがあった。多分、これが目指していたもの。日常の特別に、お互いを置くということだ。恋人と、いうことだ。

 

「いいか、スカイ」

「なんですか、トレーナーさん」

「気持ちは嬉しい、それは認める」

 

 それはそれとして、しばらく歩いたあたりでトレーナーさんが喋り出した。さっきまでたじたじだったぶん、やっと元気が出てきたのかもしれないけど。それでまさか撤回しようとするなら、ぶん殴られても文句は言えないぞ。

 なので、再確認を取る。生簀の魚がいまさら逃げようとするな、まったく。

 

「じゃあ言ってみてください、私のことが好きって」

「……わかった。スカイのことが好きだ。そう、それも認める」

「じゃあなんですか」

 

 よし、よし。実際言わせてみると、とんでもなく嬉しいな、これ。何回聞いても飽きない気がする。ああ、好きだなあ。本当によかった。気持ちを伝えて、よかった。……でも、まだなんか含みがあるみたい。困った人だけど、恋人のわがままを聞いてやるのもいい女というものだろう。

 

「これだけは守らせてくれ。俺は教え子には絶対に手を出さない。これは言い訳じゃなくて、君のことを思うからだ。なんと言おうとトレーナーとして、担当ウマ娘を大切にしないわけにはいかない」

 

 うーん、これは流石に一理ある。正論の理由を私のためにするなんて、ちょっとは口八丁が上手くなったなあ。

 

「えー、じゃあデートもこれっきりですか」

「そうだ。そもそもデートだと言うことなら、誘いを断っていたはずだ」

「あんなに楽しそうにしてたくせに」

「それとこれとは、別だ」

「本当、頑固な正論男」

 

 まあ、そんなところも大好きなんだけどさ。だけどあなたが正論を使うなら、たまには真っ向から向き合ってやろう。当然、口で勝つのは私の方だ。

 

「まあでも、それなら待っててくれるって意味ですよね? 『トレーナーと担当ウマ娘の関係』を大切にするってことなら。私が大人になって、あなたの隣に立てるくらいの時間が経ったら、その時は迎えに来てくれるってことですよね? 言葉通りなら、そう受け取りますけど」

 

 そういうことなら、仕方ないよね。あと何年かかるかわかんないのに、それでも待つって今から言ってくれるなら。そんなにちゃんと向き合われたら、それを裏切るわけにはいかないや。そんなに、そんなに嬉しいことを言われちゃったらさ。

 ああ、私は幸せ者だ。今なら世界で一番かも、そう思えるくらいだよ。

 

「……そのつもりだ。責任を持って、待っている。だから、それまでは」

「じゃあそれまでは、お触りなしで。でもお出かけするくらいは許してくださいよー、トレーナーさん」

「わかった、わかった。だがそれまでは──」

 

 ぎゅっ、ぎゅっ、するり。あなたの右腕に私の左腕を絡める。絡めて、絡めて、指の先まで。恋人繋ぎ、というやつだ。またじたばたするあなたのふしくれだった指を、全部全部柔らかく絡め取る。そりゃあ、こうなるでしょうに。

 

「……おい、スカイ」

「えー、なんですかー? 恋人同士手を繋いで、嬉しくないですかー?」

「触らない、という約束は」

「それは、今度から。今日はだって、デートじゃないですか。それより、嬉しくないんですか?」

「……それは」

「私は、嬉しいですよ。とっても。ありがとうございます、私の気持ちを受け取ってくれて」

 

 きっと、恋はありふれている。けれど今日成立したこの恋は、世界でただ一つだけ。私の気持ちを、あなたが受け取ってくれたおかげだ。

 

「それはこちらこそだ。その、ありがとう」

「はい。これからも、よろしくお願いしますね? やりたいこと、目指す夢、トレーナーさんへのお願いはたくさんあるんですから」

「もちろんだ。スカイのトレーナーとして、その……恋人として。どちらも、全力を尽くすぞ」

「ふふっ」

「何がおかしいんだ」

「いやあ、可愛いなあと思って。それなら私も、全力を尽くさなきゃですね。……これから先、末永く」

「……ああ。大切にする」

 

 本当に、隙だらけなのにしっかりした人だ。その一見矛盾した振る舞いはきっと努力の賜物で、存分に支え甲斐があるというもの。そう、私を受け入れてくれたのだから、あなたのことを私が受け入れるのも当然の道理なのだ。ずっと、ずっと。ずっと、これから支え合うのだ。ほっぺた全部を桃色に染めた、今までで一番くしゃくしゃな笑顔であなたを見上げて、愛おしむ手のひらと最高の表情で以ってして、私はあなたにそう伝えた。

 言葉だけじゃなくて、言葉で伝えきれないことさえ。私のすべてを、それで伝えた。

 今日は今までの集大成で、同時にこれからあるものすべてのはじまり。積み重ねとはそういうもので、はじまりと終わりが何度も何度も繰り返される。変化も成長も悩みも挫折も、繋がりを見出せるから意味を成す。今までとまるで変わってしまったように見えても、それは絶対にこれまでの人生に裏打ちされている。無駄な時間はない。回り道や休みも時には必要。だから、人は大人になれる。立ち止まっている瞬間すら、大人のための準備なのだ。

 いつかは諦めてしまったことも、届かない夢だと思っていたことも、未来でまでそうとは限らない。だって人は変わってゆくもので、だけど一方でまったくの別物になることもできないものだから。変化するのは己の本質ではなく、世界の見え方。視野が広がり色づいて、成長するたびに幸せなことが増えていく。そういうものなのだと、それがはじまりから今までを経験した私の結論だ。

 ほら、だって。今私たちを、世界をオレンジ色の夕日が照らしている。そんなの何度も体験したはずなのに、橙に染まる景色なんて見慣れたものなのに。空の色なんてどう変わっても、見たことのない色にはならないはずなのに。それでもいつでも、空はどうしようもなくキレイに見える。夕日も、夜空も、青空も。そう思えるのは、きっとなによりの証明なのだ。人が日々成長し、世界の見え方を変えていることの。

 褒められたいなんて子供の頃の私の願いは、巡り巡ってここまで来た。かつてはそれを後悔しながら引きずっていたけれど、今ならはっきりわかる。

 褒められたいって、思ってよかった。

 届かない夢だなんて、諦めなくてよかった。

 だってそう思っていたからこそ、私は今ここにいるのだから。

 だからこれからも、私は先へ行く。きっとまた苦難があって、思い悩むとしても、それは不可能を意味しない。広い世界を見渡せばどこかに助けてくれる人はいるし、気づかなかった自分の気持ちに気づくこともあるのだから。苦しいことも楽しいことも、モノの見方と気分次第なのだから。

 そうして先へ先へと進んだ、長い長い旅路の果て。そのゴールには何かがあって、そのうちの一つとして今日という日が終わる。これから先の、新しい世界を示すために。未来の、はじまりを告げるために。そこにあるものがこれからどんなに変わるとしても、その中でも変わらない本質を見つけて指針にしていこう。

 そう、たとえば私の場合は。今の私が、永遠に変わらないと確信できる気持ちは。

 私はあなたに、褒められたい。

 この気持ちは、きっとずっと変わらないだろう。

 ずっと。

 ずっと。

 ずっと、あなたが。

 あなたのことが、大好きだ!




感想評価、是非よろしくお願いします。
本当に励みになります。
次回、
セイウンスカイによる「エンディング・オア・エクステンディング」
をエピローグとして、本作品は完結となります。
六十話強お付き合いくださり、ありがとうございました。


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セイウンスカイによる「エンディング・オア・エクステンディング」

 まあ、滅多なことではないのだろう。これだけの荘厳な場所において、みんなに見守られながら中心に立つ。そんなことは、きっと一生に一度あるかないかのことなのだろう。いやまあ、それこそ私だって一生でこれきりにしたいけど。今から私たちが誓うのは、生涯末永く永遠に、未来を共に歩むということなのだから。

 それにしても、なんとも慣れない格好だ。肩から背中まで大胆に露出した上半身、そして対照的に大きなスカートで足元の先まで隠された下半身。真っ白なワンピースみたいなもの、と考えれば「あの日」に着たものと似たようなものなのかもしれないが、これもやっぱり今日くらいしか着ないものに違いない。きっと、そうしたい。

 頭の先から背中まで伸びたホワイトヴェール、それに覆われているのはセミロングまで伸ばした髪の毛を纏めたローシニヨン。……いやあ、やっぱりこの格好は慣れないなあ。髪の毛を伸ばしたのに慣れないのは、単に中高の頃と髪型を変えたというだけではあるのだが。この方が大人かな、なんて心境の変化があったのだ。トレセン学園を卒業してから四年、私はまた一つ大人になれたから。

 まあ、でも。ゲストの入場は済ませているし、主役の入場も済ませている。ちらりと横を見ると、あなたは露骨に緊張している。せっかくのタキシード姿なのに、その様子じゃ私くらいしかときめいてあげられないぞ、なんて。まあそれなら、とっととイベントを始めてあげよう。一生に一度の、最高に特別な一日を。

 軽く深く、鼻から息を吸って。吐き出す息は、言葉に乗せて。私は誓う。

 そう、永遠に誓う。今この瞬間私が発する言葉が、新たなはじまりの合図だ。

 

「私たちは今日、皆様の前で夫婦の誓いをいたします」

 

 次の一言は、あなたと声を揃えて。

 

「辛い時も、楽しい時も、互いを思いやり、励まし合い、愛し合うことを誓います」

 

 心の底から、あなたと重ねて。

 

「これから二人で、幸せでかけがえのない、笑顔の絶えない特別な家庭を築いていくことを誓います」

 

 そうして、最後はあなたが結ぶ。

 

「未熟な二人ではありますが、これからも末永く見守っていただければ幸いです」

 

 ──こうして。

 こうして私たちは、夫婦になった。

 今日は、私とあなたの結婚式。あの日の新しいはじまりからまた繋がった、次のエンディングだ。

 

「じゃ」

 

 誓いの言葉を終えた私は、それだけ小さく言ってあなたの方に向き直る。すーっと、真っ白なグローブに包まれた指を持ち上げる。胸元まで持ってきた左手の指先を包む布を、丁寧に右の手で外してやる。ちなみに当然、ここの左右を間違えるわけにはいかない。まあこんな大事なこと、間違えるわけなんてないけど。

 そうして外したグローブを、近くにいる介添人に渡す。ちなみにそれを買って出てくれたのはフラワーだ。……まあ、一番最初に私の気持ちを見抜いてしまった人だし。それがここまで到達したのを自分のことみたいに喜んでくれたのは、得難い縁を持ったなあ、という感じ。

 そうして右手のグローブも同様に外して、ようやく向き直る。まだまだ動きの固い、あなたの方に。まさかですけど、何するかわからないなんてことないですよね? いや、ちゃんとこっちは向いてるし、緊張してるだけか。私のドレス姿なんてまじまじと見たら、そりゃあ緊張してくれちゃったりするか。とはいえ結婚式なんて、受け入れることはとっくのとうに決めたものなのだから。

 さあ、一つずつ儀式を進めていこう。一つずつ、真実の愛を確かめよう。式場のスタッフさんの司会に合わせて、私とあなたは次のステップへ。とっても小さくて、でも艶やかに光る指輪が、司会からあなたに渡された。あなたはそれを受け取って、ゆっくりとそれをこちらへ差し出して。

 指輪の交換。今日は本当に、人生で一度きりの経験ばかりだな、と思った。

 左手を差し出す。グローブを外した、少し細長い私の指。すらりとしているといえば聞こえはいいけれど、棒っきれみたいと言われたら否定はできないかも。まあ、否定する必要もないし。あなたが魅力を感じてくれるのなら、それだけで十分だ。

 そっと、私の左手の下からあなたの手を添えられる。ちょっと汗ばんでいた。緊張しているのかもしれないし、愛しい人のこれ以上ない晴れ着にどきどきしているのかもしれない。どちらにせよ、互いの手は僅かに震えていて。だからちょっとぎこちなくて手こずったかもしれないけれど、確かに。

 私の薬指に、今までなかったものが嵌められていく。嵌めやすいように力を抜いていたけれど、その分指輪の感触とあなたの力を感じていた。丁寧に、労わるように。愛されているのだと、感じた。

 

「……ありがとうございます。じゃ、次はこちらからですね」

「ああ、頼む」

 

 今までの人生より、少しだけ重くなった薬指を操りながら。この重量はきっとあなたの愛を示すものの一つなのだと、そう感じながら。次は、あなたが手を差し出す番だった。私が、手を差し伸べる番だった。そう考えると、私は結構すんなり指輪をつけられた。あなたの薬指に、煌々と光る永遠の象徴を託せた。だって、ある意味いつも通りのことだから。互いに手を伸ばして、支え合うということは。これからもずーっと、変わらないことなんだから。

 そうして、再び向き直る。変わったものは、小さく二つ。小さいけれど、恒久に輝くもの。

 互いの薬指からすべてを繋ぐ、私たちだけの二重星(アルビレオ)

 

「はい、では」

「……そうだな」

 

 儀式の一区切りは、あと少し。ほんのワンアクション。また向き合う。あなたと目が合う。どうしようもなく、愛しく想う。そしてこれからの行為が、きっと一番その愛を示してくれる。

 一歩ずつ、あなたがこちらへ近づいてくる。どき、どき。こうなると、緊張するのは多分こちらの方。どうしたって私は、攻め立てられるのには弱いのだ。

 数センチまで近づいて、ゆっくりと私の頭を包むヴェールが捲られる。別に顔なんて普段から隠しているわけじゃないのに、その瞬間はたまらなく恥ずかしかった。まあ、そりゃそうか。これからすることはわりかし大勢に、みんなの前でするわけだし。

 そして、あなたの手が私のむき出しの肩に添えられて。ぐっと、僅かに残っていた二人の間の距離はゼロまで寄せられて。これで何度目だっけ。え、三度目くらいじゃない? あの日のデートでちょっと無理矢理二回やってやった以降、さっぱり許してくれなかったし。ああでも、そっかあ。今日からは、あなたからも求めてくれるのかあ。ならばやっぱり今日も、一つの終わりではあるけれど。これ以上ないくらい、一つのはじまりではあるのだ。

 そうして、目を閉じた。ほんの少し、少しだけ待った。だけどほんの少し。もう今更、どちらも思い悩んだりしないもの。

 ……んっ。……ふぅ。

 僅かに四秒ほど。多分本当はそれくらい。那由多のようにすら感じられた、幸せはその一瞬で私の全身を満たしてなお溢れそうなくらい。

 そんな、キスだった。儀式の最後、もっとも互いが愛しく思える瞬間。

 契りを交わす、誓いのキスだった。

 

 

「じゃ、次は披露宴ですよ。結婚式は忙しいんですから」

「そうだな、本当に忙しい。ウマ娘の体力が羨ましいくらいだ」

「えー、あなただってそれなりには体力がある方でしょう。それに今日の幸せを存分に堪能するには、多少以上に忙しくないと」

「……そうか。今、スカイは幸せか」

「もちろんです。あなたも、そうですよね」

「それこそ、もちろんだ」

「……ほんと、素直になっちゃって」

 

 結婚式というものは、夫婦の契りを交わせば終わりってものじゃない。ちゃんとその後に披露宴といって、二人の結婚を祝うパーティーみたいなものがある。まあその存在くらいは中等部の頃の私でも知っていたけれど、いざ自分がその立場になるとその重要性がわかる。厳かな雰囲気だけじゃ、この幸せを味わい切るにはまるで足りないってこと。

 

「ここか」

「はい。あの一番奥の目立つ席が、私たちの座る場所です」

「目立つな」

「そりゃもう。今日の主役ですからね、みんなにお祝いしてもらうんですからね。ちゃーんと、実感してくださいよ? 私と結婚できた、幸せを」

「……全力を尽くす」

「若干固いですけど、こちらこそ。ここまで何年待たされたんだって感じですしね、お互い。今までのぶんを取り返して余りあるくらい、今日からは幸せになっちゃいましょうか」

「わかった。じゃあ、早めに座っておくか。披露宴は長い。腰を落ち着けられる時間は多い方がいい」

「あははっ、もうトレーナーさんはアラサーですもんねえ」

「仕方ないだろう、それは」

 

 まあ私を待ってたぶんその歳まで恋人もいなかったわけだから、私から何か言えることはない。むしろ感謝しなきゃいけないんだろうけど、それで年齢を突っつきすぎるのも申し訳ないし。……ならとりあえず、今日のことだけ考えようか。

 披露宴会場の奥、一番目立つところに座る。広い空間に二人きりなのはあっという間で、すぐに見知った顔がずらずらと会場に入ってくる。概ね、チーム<アルビレオ>の繋がりだ。考えてみればチームメイトとそのトレーナーがいきなり結婚、だなんて、相当驚く要素だよなあ、一応隠してたわけだし。いや、本当に完全に隠せてたかはわからないのだが。まあそれはそれとして、大勢の人が私たちを祝福している。私とあなたの幸せを、願っている。

 それは紛れもない事実。それさえわかれば、十分だった。

 そうして披露宴は始まる。素敵な時間は、いくらあっても構わないのだから。

 

「へーえ、あれがトレーナーさんの幼少期ってやつですか。昔から可愛い顔してますね」

「なんだ、まるで今も可愛いみたいに」

「可愛いですよ? 目がくりくりしててまつ毛長くて。暑苦しいくせにそれなので頭が変になりますね」

「褒められてるのか貶されてるのかわからない。……おっと、あれは……」

「あー! あれ私の芦毛がまだ色変わりする前の写真じゃないですか! うわあ、絶対じいちゃんの仕業だ。来れないって言ってたのに、こんな写真だけ送りつけてきてー!」

「……いや、あのスカイもかわいいぞ。あの頭の色はあれか、生え代わりで今の色が少し出て来てるのか。幼い顔立ちだけど面影があって、それに茶色の髪の毛がついてるのは新鮮だ。うん、可愛いぞ」

「存分にお褒めいただいているところ悪いですけど、そういうのはロリコンって言うんですよ」

「えっ、しかしだな」

「うるさいうるさい、いくら私を褒めててもロリコンはロリコンです、このへんたい」

 

 そんなこんなで、披露宴はまず二人の思い出の写真、みたいなのを流すところから始まった。当然だけど知らない頃の写真ばかりで、私の知らないあなたはまだまだ多いのだ。だけどこれからは、きっと私しか知らないあなたが増えてゆく。ここに流れるすべての過去の積み重ねの上に、今の私とあなたがいる。なーんて感慨に耽りながら、たまにさっきみたいな軽口を叩きながら、二人で互いの過去に目を向けていた。いや、正確にはここにいる全員が見ているのか。ちょっと恥ずかしいなあ、これ。

 まあ、それもしばらくすれば終わった。そして休む間もなく、次なるプログラムが始まるのである。式場のスタッフさんが、私たち二人に声をかける。今までスライドショーが映し出されていたスクリーンから少し視線をずらすと、声をかけられた理由はすぐにわかった。

 大きな、大きなウエディングケーキ。わかりやすく例えると、いつかのクリスマスに私が作ったのより二倍か三倍かのサイズ。それがある方へ向かうよう促されているのは、二人ともわかった。結婚式で一番神聖な儀式が誓いのキスなら、一番盛り上がるのがこれ、らしい。

 新郎新婦による、ケーキ入刀。初めての共同作業、というやつだった。

 

「……じゃあ、行きましょっか」

「……ああ」

 

 なんだかさっきまでの誓いの流れより恥ずかしい気がする。一旦一つの区切りが終わって落ち着いたから? 明らかに観客様がたの空気が違うのもあるだろうか。さっきの厳かなのとは違って、色めきだってるのを誰も隠してないし。ちょっとキャーキャー言ってるのが聞こえる気がする。ええい、こうなりゃ存分に見せつけてやる。そう思って立ち上がると、そんな私の細っこい腰に添えられるものがあった。がっしりと大きくて暖かい、男の人の手。私の、愛する人。先程私の夫になったばかりの人の、手のひらだった。

 

「なんですか、びっくりするじゃないですか」

「新婦を支えて連れて行くのが新郎の務めだ。ウエディングドレスは歩きにくい」

「そーですか、ありがとうございます」

 

 本当に、かっこよくなっちゃってさ。いやきっと、ずっとかっこいいって思ってたんだろうけどさ。かわいいなあとか面白いなあとかからかうけど、やっぱり頼りにしちゃってさ。

 本当、本当に。本当に、むかついちゃうくらいなんだけど。

 ベタ惚れって、こういうことかあ。なんて、それも随分と今更なんだけどね。

 ゆっくりと、ケーキのある方へ。二人一緒に、二人で共にする行為のために歩いて行く。渡されたナイフはとっても大きくて、これは二人のためのものなのだと思った。新郎新婦、愛し合う二人のためのものなのだと。

 さあ、いよいよケーキ入刀。二人で、長い長い持ち手を握る。確かに長い持ち手だけれど、二人がかりなら狭いくらい。触れ合う感覚で、胸がいっぱいになるくらいだった。

 そして、その時になってだった。そういえばそうだったなあとすぐに思い出したのだが、ケーキ入刀というものは盛り上げるための音楽が流れるものなのだ。ドレスから突き出た二つの耳に、この状況を演出するためのバックグラウンドミュージックが突き刺さる。……いや、これは。

 これはさあ、あなたの選曲でしょう。私のために、あなたが選んだ、ばっちりしっかり聴き覚えのある曲。ため息混じりに、それを指摘してやる。やられたなあ、と思った。

 

「これ、クラシック三冠の時のウイニングライブの曲でしょう。なんでこんなの今流すんですか」

「そりゃ、スカイはクラシック二冠ウマ娘だからな」

「あっ、やっぱりあなたが選んだんじゃんか。ここはねえ、色々古典的なクラシック音楽とかが定番なんですよ? 知ってます?」

「それでもスカイらしい曲がいいと思った。他のレースの時の曲とも迷ったが、俺にとって君の勝利を初めて印象づけてくれたのは、皐月賞の時だからな」

「……そんな昔の話を」

「それでも、嬉しいだろう」

「はいはい、セイちゃん感激ですー」

 

 そう雑にあしらって、さっさと入刀だ。こちとらウマ娘だ、一人の力で切りきってやろうか。こんなところでなお心を掻き乱してくるあなたへの、せめてもの反抗として。流石に懐かしささえあるのに、それでもそんな過去を大事にしていると示してくれたことへ、せめてもの感謝として。

 なーんて、そんなのはやっぱり叶わない。叶わなくて、いい。あなたの力がナイフに添えられるのを感じて、二人でゆっくりと力を込めていけるのを感じて、どうしても、やっぱり。

 やっぱり、幸せになってしまうのだから。詰め込んでも詰め込んでも、幸せが溢れてもまだ求めてしまう。求めていい。今日は、そういう日だ。

 

「ちょっと無理矢理すぎです、もうちょっと丁寧に」

「すまん、こうか?」

「はいそうです、こっち側にもうちょっと力を入れる」

「……スカイは上手だな」

「そりゃまああなたよりは器用ですよ」

 

 と、そんなこんなで。ぐい、ぐい。ちなみにケーキにナイフを入れる間、何度か写真を撮るために止まらされた。こんなただただイチャイチャしてるだけのを写真に撮って、みんな一体何が楽しいのやら。そんなふうに幸せが漏れ出て感じ取れてしまうほど、みたいなことなのかもしれないけどさ。

 で、なんとか。最後の方が一番難しかった。崩してしまったら流石に困る。ぐるりと回したナイフの端っこが元の位置に戻ってきた時、ふう、と一つため息が漏れた。ひと仕事終えた気分。……いや、もう一つやることが残っているのだが。

 

「はい、切れましたね」

「ああ、切れたな」

「じゃあ、次ですね」

「ああ、次だな」

 

 いやにそっけないけど、多分これは緊張しているからだな、と私にはわかる。とはいえもちろん逃げられないので、覚悟してほしい。私も結構いいようにやられたし、というかこれはお互いやり返すことだし。

 ケーキのそばに置いてあったスプーンを持って、ケーキの端っこを一口分掬う。もちろん、自分が食べるためじゃない。あなたの口に、あーんってしてあげるためだ。

 ケーキ入刀、最後のイベント。新郎新婦が互いにケーキの一口目を食べさせあう、ファーストバイトというやつである。

 

「はい、どうぞ。あーん」

「わかった。……うん、ほら」

「いやに素直ですね」

「いつかのバレンタインと同じだと思うことにした」

「おっと、それより十倍は大ごとですよ? 一生に一度、生涯を誓い合う人同士の食べさせあいなんですから」

「そう言われると、困るな」

「そう言われても。はい、あーん」

「……わかった。今度こそ、わかった」

 

 ぱくり。衆人環視の中、とびっきりの甘い行為を見せつける。恥ずかしいよなあ、これ。いやあなたを恥ずかしがらせるぶんには構わないのだが、問題はその後だ。今度はトレーナーさんがスプーンを持つ。若干嬉しそうな顔をして。お互い攻められると弱いから、こうなれば従うしかない。

 

「ほら、次はスカイの番だ」

「はい。優しく、してくださいよ?」

「バカなことを言うな。ほら、食べろ」

「そうじゃなくて、優しく。あーん、って、言ってくださいよ。ほら」

「わかった、わかったから。……あーん」

「はい。いただき、ます」

 

 ぱくり。私も、食べた。あなたに、食べさせてもらった。ありったけの幸せが、何周も何周も身体を駆け巡る。これだけですべてがどうでもよくなる気がするのに、身体と心はもっともっと元気になる。ケーキ入刀は、これで終わり。なるほど、確かに盛り上がるものだ。でもこれで終わりじゃないのだから、より一層幸せなのだろう。

 席に戻り、披露宴は中盤へ。食事と歓談、新郎新婦との触れ合いの時間だ。

 今までのつながりが、私とあなたを祝福する。

 それも、最高に楽しみだ。

 

 

 食事は当たり前みたいに美味しかった。と同時に、そういや結婚して二人で住むなら私がご飯を作らなきゃなのか、などと思った。いや実は最近は練習というか自分のぶんくらいは作っているのだけど、人に食べさせるのは……あんな昔のクリスマスのあれをカウントしていいのかな。それは初めての試みなので、失敗したらごめんなさい。

 まあ、それはともかく。あなたと食事をしながら、少しずつおしゃべりをする。滔々と、なんでもなく。今はそういう時間。言葉を交わす時間。そしてそれは、私とあなたの間だけという意味ではない。ほどなくして、お皿を片手に一人のウマ娘がやってきた。まずは、一人。今でも変わらず、私の大切な人の一人、ニシノフラワーだった。

 

「おめでとうございます、スカイさん。本当に、本当におめでとうございます」

「ありがとう、フラワー。今日は介添人を引き受けてくれてありがとね。まだフラワーはトレセン学園の生徒なのに」

「それでももう、高等部ですし。飛び級した分長くいられるとはいえ、それだけ後輩が増えちゃって困ってます」

「あはは、フラワーもすっかり大人になったもんねえ。背を抜かされないか、実はずっとヒヤヒヤしてたよ」

 

 そう言ってやると、その少し伸びた背の先端に昔と変わらない微笑みを浮かべるフラワー。フラワーは、いまだにトレセン学園でチーム<デネブ>のリーダーをやっているらしい。あの頃でさえあれだけ頼りになったのだから、今はどれほどの人物になったのやら。フラワーのトゥインクル・シリーズを応援したのすら結構昔になってしまったけど、それでも変わらずつながりがあるのはありがたい。過去も、今日も、未来でも、私を支えてくれるのは、きっととてもかけがえのない人だ。

 

「あっそうだ、<アルビレオ>のトレーナーさんも、ご結婚おめでとうございます」

「ああ、ありがとう」

「ただそれに関連して、私のトレーナーさんから言伝です」

「……なんだろうか」

「『新婚生活にうつつを抜かしすぎるなら、<アルビレオ>は乗っ取るわよ』って」

「……それは困るな」

「あははっ。確かに、それは困りますねえ。妻としては、職を失ってもらっては困ります」

 

 <デネブ>のトレーナーさんは、相変わらずところどころ容赦ないというか。その人とフラワーが結構気が合うのは、今更ながら意外な気もする。でもここまで来て違和感なんて感じるわけないし、その二人の関係も特別なものなのだろう。ついでに言伝とはいえあの人も元気そうなのがわかって、私もちょっと安心した。縁は切れない。つながりは、これからも積み重なっていく。

 

「……じゃ、お邪魔しました。新婚夫婦、仲睦まじくしてくださいね」

「ありがとう、と言いたいところだけど。まあその時間はこれからいっぱいあるわけだし、もうちょっと話していってもいいんだよ?」

「それこそ、これからも話せますから。今日は、この辺でいいですよ」

「そっか。これからも頼りにしてるよ、フラワー」

「はい。こちらこそ、スカイさんのことは頼りにしてますね」

 

 そうして、去って行く。ゆらりゆらり、昔よりも少し大きな背中を向けて。だけどやはり変わらないものがあるから、今日彼女はここにいる。私と、つながりを持っている。これからもまた会えるからこそ、私たちは笑顔で互いを見送れるのだと思った。

 それが、まず一人。過去を振り返り未来を切り拓く、私の大切な一人目だった。

 

 

 セイウンスカイという人物は、私にとってわた雲のような人。スカイさんはいつだって、ふわふわと捉えどころのないそぶりを見せる。けれど必ず見えるところに浮かんでいて、私にとっての目印になってくれる。時には消えてしまいそうになるけれど、見えているから捕まえられる。いつも私を見守りながら、だけど私を優しくそーっと包むだけ。わた雲のような、そんな人。

 それが私にとっての、ニシノフラワーにとっての、セイウンスカイという人物像。

 だから、大切です。

 

 

「ご結婚おめでとうございます、トレーナー、あとスカイさん。……本当、困ったカップルね」

「あはは、キングもいい人見つけなよー。いつか言った通り、嫁の貰い手には苦労すると思うけどさー」

「おばか! ……それ、ちょっと前私の元トレーナーと飲みに行った時も言われたのよ。気にはしてるから、放っておいて」

 

 次に私たちの前に現れたのは、キングヘイローだった。彼女とももちろん色々あった。ライバルとして、友達として。ぶつかり合うことが一番多かったからこそ、彼女も私の大切な人。現在は就職活動中で、その合間を縫って私の結婚式に来てくれたらしい。そりゃまあ、私みたいに大学卒業直後に結婚する奴はなかなかいないだろうな。

 

「最近はお母さまが、『向いてる仕事がないなら、デザイナーの修行くらいはさせてあげる』、ですって。本当、死んでもお断りよ」

「あら、なんでよ。それだけお母さんと仲良くなれたのにさ」

「それとこれとは別よ。私は私の手で、私なりの未来を掴んでみせるの。……まあ、あなたほど無謀なことはしないかもだけど」

「なにそれ。『黄金世代』随一の策士を捕まえて、無謀呼ばわりとは」

「無謀でしょうよ、自分のトレーナーと恋愛結婚なんて。……そうね、トレーナー」

「なんだ?」

「スカイさんのこと、よろしく頼むわよ。貴方も知ってると思うけど、手のかからないみたいなふりをするのだけは得意な、相当面倒な子だから。……友人代表として、お願いさせて。しっかり、この子を幸せにしてあげて」

「当然だ。だが、ありがとう。それだけ大切にしてもらえるのなら、スカイは幸せ者だ」

「……私が聞いてるの、わかってるくせに」

 

 そんなストレートな会話、目の前でやるか、普通。まあでもそれくらい言葉をぶつけ合えるだけ、この二人もちゃんと担当ウマ娘とトレーナーなのだろう。その関係になったのは少々の波乱を含んでいたけれど、そこからしっかり積み重ねられているのだ。……なーんて、他人の関係に嫉妬しないくらいの余裕はありますよ、セイちゃんにも。そもそもどっちも大切な人なのだから、その二人が仲良くしていて嬉しくわけがないのだ。

 

「じゃあ、こんなところかしら。ちゃんと仕事が決まったら、貴女たちのマイホームにお邪魔しに行くこともあるかもね」

「まあそれくらいは大歓迎。ベッドは用意しないから、地べたで寝てもらうけど」

「おばか。泊まり込みなんてしないわよ、私にもちゃんと私の生活があるんだから。しっかり私の道を見つけてから、それからちょっかいをかけに行くだけ。覚悟しておくことね」

「はいはい、ありがとねー。……なんて、本当にありがとう」

「何よ、急にしおらしく」

「ありがとう。これからもよろしくね」

「……こちらこそ、よ」

 

 そうしてまた一人、去って行く。やっぱり行儀のいい歩き方で、変わらないといえば全然変わらなくて。だけど積極的に変化を望むのが、彼女らしさというものでもあり。濁流のような変化の中に身を置くからこそ、その底にある汚泥からすら揺るがない己を見つけ出せる。それが、キングヘイロー。私にとっての、ライバルで友達だ。永遠に、これからも。

 それが、二人目だった。過去の苦悩を肯定し、未来の不安も打ち払う、私の大切な二人目だった。

 

 

 セイウンスカイという人物は、私にとってうす雲のような人。スカイさんはいつでもなんでもないって顔をしながら、私に何度も苦い思いをさせる。悪い天気の予感をさせるような、ある意味では苦々しい思い出の象徴だ。だけどその先には、必ず広い空を透かしている。私と同じものを目指して競い合うのだと、それを必ず見せてくれる。いつも目の前に立ち塞がりながら、決して道は閉ざさない。うす雲のような、そんな人。

 それが私にとっての、キングヘイローにとっての、セイウンスカイという人物像。

 だから、大切だ。

 

 

 こつ、こつ。そうして、最後の一人になるだろう人がやってきた。雰囲気は随分大人っぽくなって、いや元々ずっと頼れる先輩だったけど。……近づいてくるその姿をよく見ると、左手の薬指にきらりと光るものがあった。なるほどなあ、そういう意味でも先輩なのか。でもそんな変化を経てもやっぱり、私の大切な人。最後に私たちのところに来たのは、ナリタトップロードさんだった。

 

「おめでとうございます、スカイちゃん、トレーナーさん! 本当にもう……なんと、なんと言っていいか……すごく、すごく色々言いたいことはあるんですけどっ」

「ありがとうございます、トップロードさん。まあ、まずは落ち着いて」

「はい、はいっ……。でもでも、すごく嬉しくてっ、今まで知ってた人が、幸せになるのが、すごくてっ……」

 

 あはは、この人もやっぱり相変わらずだ。素直すぎるくらいの気持ちを、取り繕うことなんて考えもせずぶつけてくる。だいぶ、いやかなり語彙がすごいことになっているけど。とりあえず落ち着かせるためというか、別の話題を振ってみよう。

 

「そういえば、もしかしてなんですけど。トップロードさんの、その指輪……」

「あっそうなんです、これはですねっ、その……他人の結婚式で言うことじゃないんですけど、私結婚しまして……」

 

 ほら、やっぱり。いやかなり、やっぱりで流すにはかなり衝撃の事実だけど。

 

「ええーっ、やっぱりですか。いやいや、結婚式に呼ばれた記憶がないんですけど、ねえ?」

「……そうだな。俺も呼ばれてない。いや無理にとは言わないが、せめて連絡してくれてもよかったのに」

「ごめんなさいごめんなさいっ、職場の人をちゃんと残さず誘わなきゃ〜とか思ってたら、頭がそれでいっぱいになっちゃってまして……本当、本当皆さんのことを忘れてたわけではないんですよっ! ただ結婚って色々大変で、うっかり……」

「そりゃまあ結婚の大変さはわかりますよ、そりゃ。いや、本当色々ありますよね。手続きとか家とか式場とか、なんかもう他にもたくさん」

「そう、そうなんですっ! って、それじゃ言い訳になりませんよね……すみません」

「いいんですって、それよりトップロードさんが幸せを掴めたってことの方が、私的には大事です。遅ればせながら、結婚おめでとうございます」

「ああ、結婚おめでとう、トップロード」

「ううっ、ありがとうございますっ……」

 

 まあ何よりそれが大事なのは、紛れもない事実だった。ここにも一つの変化があった。トップロードさんは私の知らないところで新しい世界を見つけて、素敵な人と恋に落ちた。やっぱり、恋はありふれている。そしてそのすべてが、なにものにも代え難いほど素敵なのだ。

 

「でもでもっ、その上で言わせてくださいっ! お二人とも、本当にご結婚おめでとうございます!」

「はい。ありがとうございます。長く長く元を辿れば、トップロードさんのおかげでもありますからね」

「へっ? 私、ですか?」

「そりゃもう。トップロードさんが必死にチームの勧誘してなかったら、<アルビレオ>に入ってここまで来たかわかりませんもの」

「そういえば、そうだな。ありがとう、トップロード」

「あっ、えへへ……。そんな光栄なこと言ってもらって、いいんでしょうか……?」

「いいんですよ、トップロードさんにはいつもお世話になってますから。もちろん、これからも」

「そう、ですね。そう、そうですねっ!」

 

 心底元気に、心底嬉しそうに。人の言葉をこんなに喜べるのは、やっぱりトップロードさんのいいところだ。

 

「じゃ、私はそろそろ退散しますけどっ。これからも、なんでもお二人の力になりますからっ!」

「はい。では、また」

「はい、また!」

 

 また、と言って、最後の一人は去っていった。あれから結構な時間が経って、多分一番の変化をその薬指に見せてくれた人なのだけど。それでも全然変わってないなあ、と思わせてくれるのだから、人の関係は揺るがないものなのだ。積み重ねによる変化と成長があっても、揺るいで壊れてしまうことはない。悩んでもなおいつでも真っ直ぐ人を労われて、心の底からのエールを届けられる人。私にとって最高の、頼りになる先輩。きっとどんな変化も、それだけは揺るがせられないのだ。

 それが、最後の一人。過去にあるものが時に取るに足りない偶然だとしても、未来においてそれは素晴らしい結末を呼ぶのだと教えてくれる、私の大切な三人目だった。

 

 

 私にとってのセイウンスカイという人物は、入道雲のような人物だ。スカイちゃんはいつも、私の憧れだった。学園の先輩として教えられることはあるけれど、それでも大きな大きな存在。すごいなあって、そう見上げてしまう人。だけど、弱さを吐き出してくれる。大きな大きな存在だけど、その繊細な細部までを見せてくれる。どれほど強く揺るぎなく見えても、内側には不安の嵐を抱えていると教えてくれる。だからこそ強くなれるのだと、そうも伝えてくれる。その力になれたことは、私の誇りだ。大きくてだけど不安定で、そしてだからこその強さを持つ。入道雲のような、そんな人。

 それが私にとっての、ナリタトップロードにとっての、セイウンスカイという人物像。

 だから、大切だ。

 

 

 さて、食事の時間も大体終わり。式場のスタッフさんが、いそいそと準備を始めているのが見える。そうなると、私たちにはやることが生まれる。私とあなただけの、また一つ特別なイベントが。

 ちょいちょいと、隣に座る人のそのご飯を詰め込んだばかりの脇腹をつついて、こっそり耳打ちする。やれやれ、本当に結婚式とは忙しい。

 

「トレーナーさん、そろそろ行きますよ」

「おう? ……ああ、そうだったな」

「よかった、ちゃんと覚えてたんですね。そうですよ、祝電の間にですからね」

「そうだな。なら、急がないといけないな」

「急ぐけど、しっかりはしてくださいよ。まあ、結構楽しみにしてるんですから」

「そうか。それならじっくり、急がないといけないな」

「なんですか、それ」

 

 そうやって二人で示し合わせて、こっそりと披露宴会場を出る。向かう先は控室。二人別々の、控室。目的はもちろん次のイベントの準備で、それまでの控室にいる時間は暫しのお別れ。だけど、それも楽しみなのだ。だってこれから待つイベントは、愛する二人をもう一度見違えさせるもの。新しい愛しさを発見できる、私とあなたのためのイベント。

 ウエディングドレスとタキシードからの、お色直し。どんな姿のあなたも素敵だけれど、次見るあなたはまた違うあなたなのだ。もう一度、恋をし直すのだ。

 

「じゃあ、とりあえずここでお別れだな。俺の控室はこっちだ」

「はい。私は、こっち」

「……どんな格好なんだ」

「えー、色合いはちゃんと伝えたじゃないですか、合わせるために。それ以上は後の楽しみにしときなさいよ、絶対聞いちゃダメですって」

「すまん、つい気になって」

「まあそりゃ、私も気になりますけどね。大好きな人が素敵な格好をして、また違う顔を見せてくれる。そう思うだけで、今からすっごく楽しみです」

「恥ずかしいことを言うな、君は」

「そりゃもう、夫婦ですから。どんな恥ずかしい気持ちでも、包み隠したりなんかしませんよ」

「そうか。なら、俺もそうする。……後でスカイの綺麗な姿を見れるのが、楽しみだ」

「それは、よかったです。……えへへ」

 

 こんなやり取りだけで、ずっとずっと続けてしまえそうだけど。でもこの先にはもっともっと幸せな時間がある。だからたとえ、会話を途切れさせなければいけないとしても。だからたとえ、ここにあるものが暫しの別れだとしても。未来はもっと幸せなのだから、進む以外の選択肢はあり得ないのだ。

 こつ、こつ、こつ、こつ。二人分の足音が、別々の部屋に向かっていく。次に会うのは披露宴会場に再度入る時。その扉の前で、待ち合わせをする。一つのデートのようなものなのだから、おめかしには気合を入れなくては。

 音も無く、控室の扉を閉めた。一人の部屋で、深呼吸した。もちろんこれから着る服は決まっている。それをあなたがどう見てくれるのかは、ちゃんとは決まってないけれど。

 でも、大丈夫。あなたが惚れ直してくれることだけは、絶対に絶対に決まっているんだから。

 そんな軽い覚悟を決めて、ウエディングドレスを構成するパーツを一つずつ身体から外していく。これもきっと、やっぱり変化。いつも通りの、私が前に進む方法。

 生まれ変わろう。あなたのために。

 

 

 まあそれから、それなりにはお色直しに時間はかかった。多分流石にあなたの方が先に着替えているだろう。男女の着替えの煩雑さの違いは、どうしようもないところだし。ということはつまり、これから向かう先には既にあなたが待っているということである。そこの角を曲がって、階段を少し降りて、その先にはあなたがもういるのだ。見たことのない姿の、あなたが。

 大丈夫だろうか。私はそれに見合うだろうか。私があなたにもう一度恋をするように、あなたもこの私を新しいものと思ってくれるだろうか。今までの私と変わらないように感じてくれるけれど、一方でまったく違う魅力を見つけてくれる。そんなふうなわがままを、願ってしまっていいだろうか。

 だけど、それほど不安でも歩みは止まらない。だって楽しみなんだもの。あなたを見るのが。あなたにまた会えるのが。私とあなたは夫婦なんだから、一寸の別れさえ切なく思ってしまうんだ。

 こつ、こつ。足元の乱れはないように、だけど歩くという程度では最大限の速さで。一歩一歩を大切に、けれど待ち遠しさ故に立ち止まらず。

 そして、そこに。

 そこに、あなたはいた。

 こちらを見るなり、目を見開いて。私があなたを見るのと同じように、見開いて。それだけで、それだけのことではっきりわかった。

 私とあなたは、恋に落ちたんだ。

 今まで積み重ねた恋から、さらに深く深く。

 もう一度、恋をした。

 

「……素敵,

です」

「ああ、ありがとう。スカイの方も、綺麗だ。その、すごく綺麗だ。びっくりするくらいに」

「この期に及んでびっくりさせられるなら、トリックスター冥利につきますねえ。でもそれなら、あなたにもびっくりしました。……ああ、かっこいいなあって」

 

 そもそも、新郎のお色直しはそれほど劇的じゃないし、一般的でもない。式で着たままのタキシード一着だけで過ごすことも多いらしい。それでも今日のトレーナーさんは、わざわざ私と一緒にお色直しをしてくれた。多分その事実が、何より素敵に思えたのだろうけど。

 それでも、見違えていた。先程までの白のタキシードとは違う、ネイビーカラーのそれに身を包んでいた。下から覗くシャツもシンプルなものから柄付きのカジュアルなものに着替えていて、装いを新たに、といった感じ。そんなふうにきっちりおしゃれをしたあなたを見るのが、たまらなく新鮮。たまらなく、大好きでいっぱいになる。

 ああ、かっこいいなあ。恋の深みがまだまだ尽きないなんて、こんなに素晴らしいことはあるだろうか。少なくとも私の世界では、きっとこれが最高のもの。今までも何度も抱えた最高の思い出に、今日は一気に色んなものが増えてしまう。まったく、つくづく結婚式は大変だ。

 

「しかし、スカイ」

「なんですか、あなた」

「本当に、綺麗だよ。素敵だ。その、言葉で言うのが下手で申し訳ないが」

「気持ちは十分伝わるので、大丈夫ですよ。私も結構どきどきしてたんですから。きちんと似合うかって。あなたに見合う私になれてるかって」

 

 そう呟きながら、私は私の格好を見遣る。あなたのために、また新しい私を見せるために選んだコーディネートを。髪の毛は、首の横から流すサイドダウン。今の私は肩くらいまで髪を伸ばしていたから、こういうこともできる。きっと絶対あなたに見せたことのない髪型だ。お姫様みたいな、あなたのお姫様になれるような。

 そうして全身に纏うのは、淡いピンクのカラードレス。ウエディングドレスが厳かで神聖なものなら、このカラードレスが与える印象はきっと、綺麗さと愛らしさ。ウエディングドレスとは違ってふんわりとしたした装飾が、女性らしさというものを強調してくれる。昔の私なら絶対こんなの頼まれても着なかっただろうけど、今の私はあなたにそうやって見てほしい気持ちもあるのだ。一人の、女の人として。あなたの、生涯の伴侶として。綺麗で愛らしくて、守ってあげたくなるような、あなただけのお姫様。

 そう、これはきっといつかのデートの発展系。あの時気づかせてやったあなたの私への気持ちに、もっともっと花開かせたい。

 可愛い。綺麗。女の子らしい。お姫様みたい。抱きしめたい。それくらいそれくらい、今までになかったいろんな感情を抱かせたい。だけど、それが集約されるのはただ一つの結論だ。

 大好きって、思ってほしい。

 それを末永く願うのが、恋というものなのだ。

 

「じゃあ、そろそろ入場しましょうか。みんなびっくりしますよ、あなたのかっこよさに」

「それを言うならスカイの可愛さにもだ。むしろ、そっちがメインだろう」

「なら、二人でびっくりさせましょうか。いつか二人で作戦を立てたみたいに、これは私とあなた二人の作戦です」

「なるほどな。じゃあ、行こうか」

「はい。……あの、最後に一つ」

「なんだ、スカイ」

「愛してます。これからずっと」

「……俺もだ。君を、愛してる」

 

 ここでこんなことを言うのは少し変だったかもしれないけれど、二人きりになれたタイミングだったのだからしょうがない。言いたくて言いたくてたまらなくって、ずっと我慢してたんだから。それにちゃんと返事をしてくれたのだから、きっと気持ちは同じだった。

 愛してる。

 二人で同時にそう思い、二人で同時に扉を押した。心地よいざわめきが、わたしたちを出迎えた。

 今日は本当に、幸せな日だ。

 すべてが、これまでのすべてが、最高のかたちで終わる日なのだから。

 

 

「スカイさん、トレーナーさん、おめでとうございます!」「本当に、二人とも素敵ですー!」「これから、幸せになってくださいねー!」

 

 披露宴会場に再び足を踏み入れて、ぐるりとすべてのテーブルを周る。横を通るたびに色んな人が祝福してくれて、認められているという実感が湧く。かつて誰からも期待されていないと思い込んでいた私が、今はこうやってみんなにその幸せを祝ってもらえる。そして何より、すぐ隣に特別な人がいる。私のことを他のどんなものより特別だと、そう思ってくれる人がいる。

 ……ダメだ、言葉じゃこの気持ちは言い表せないや。幸せってことだけは、こんなにはっきりしているけどね。

 そうやって全部のテーブルを周ったあと、私たちは再び新郎新婦の席に座る。まだまだ披露宴は終わらない、ということらしい。横に座った途端にあなたがため息を吐いたのは、残念ながらちゃんと聞き取ってしまったけど。さて、ならどうしようか。一応席には戻ったけど、というか戻ったばかりだけど。これからはしばらく単純な歓談の時間や余興の時間で、まあ結構ごちゃごちゃしている。どこもかしこも好き勝手に楽しんでいるという感じだ。

 つまり、今がチャンス。釣り人かつ気まぐれなセイウンスカイとしては、こういうタイミングは外せない。自由が許されるわずかな隙間を逃すなんて、私に限ってあり得ない。

 ぐいっと、無言でその手を握った。握り返されるのを確認して、ゆっくりと上に引っ張った。どうやら私の意図はあなたに伝わったらしい。そのまま立ち上がって、かつりかつりと歩を進める。まあそりゃ今日の主役二人だからそんな行動をしたら目立つのだけど、誰もがそれを見送ってくれた。こういう人の優しさに甘えちゃうのも、やっぱり私らしさかな、なんて。

 扉を開けて披露宴会場を出る。まだ、足を進める。引っ張っている手は、だんだんと追いついて隣に来る。二人で並んで、この先へ行く。

 最後に、式場の扉を開けた時。青い青い空の下へ、場違いなドレスとタキシードで踏み出した時。やっぱりその時、思ったことがあった。今までも何度も思ったことだけど、その度に新鮮な感覚で受け入れたもの。世界の見え方がそのたびに変わっているから、何度でも飽きないこと。

 今日も、最高にキレイな青空だ。

 今日というはじまりの日にふさわしい、キレイな青空だった。

 

「ありがとう、スカイ。連れ出してくれて。正直疲れた。ヘトヘトだ」

「それは同感ですから、連れ出したんですよ。お互い体力はあるはずなのに、それでもこれは凄まじいですねえ。春天の3200mより疲れたかも」

「懐かしいな。あの時はすまん」

「あれは私が悪かったでしょう。それにそれも経験したから、今私たちはこうしていられるんですよ」

 

 懐かしい話だ。あの天皇賞(春)の時、全部が壊れたと思った。それで今までが全部無駄になると思って、そうしようとした。だけど、そうはならなかった。そして結果だけ見ればむしろ、壊そうとしたことでより一層強固なつながりを得た。はじめての恋さえ、してしまうほどに。

 

「まあ、本当に色々ありましたけど。本当に、本当に色々ありましたけど。どれも無駄じゃなかったって、この結婚式があるだけでそう思えませんか? 私はあなたが大好きだから、そう思っちゃいますけど」

「そうか。それは確かに、そうかもしれない」

「やった、あなたも私のこと大好きなんだ。流石、言った通り大人になったらちゃんと迎えに来てくれましたね」

「もちろんだ。好かれるのは嬉しいし、その」

「その?」

「多分、俺もスカイのことが好きだったんだろう。……あの日に初めて、気づかされたというだけで」

「ありゃ、それは結構な発言ですね。未成年に恋をするのは犯罪ですよ、あなた」

「そう仕向けたのは君だろう」

「それは確かに。なので許しましょう。法律は許さないかもしれないですけど、我慢してたから許されます」

 

 やっぱりこの人は真面目だ。正論ばっかり、頑固で時々子供っぽいけど、どうしようもなく真摯だ。かわいらしいくらいに。そりゃあずっと好きだったって言われた方が嬉しいって、ちゃんとわかってるんだから。私の好きって気持ちを、これ以上ないくらい肯定してくれるんだから。

 

「それにしても、これから人妻かあ。早く良妻賢母をやりたいので、さっさとマイホーム見つけてくださいね」

「それは一緒に探すべきだ。もちろん、早めにだが」

「そうそう。結婚式を挙げてはい終わり、じゃ夫婦なんて呼べないんですから。誓った通り、これから幸せな家庭を築くんですよ」

「幸せな家庭、か。どんなものかわからないな」

「それは私にもわかりませんけど、わかることは一つありますよ」

「……なんだろうか」

「見えない未来でも、あなたとなら絶対に幸せだってことです。末永く、ずっと」

「そうか。そうだな」

「はい。楽しみですよ、とっても」

「俺もだ。スカイとなら幸せだと、思う」

 

 そう、やっぱり未来はわからない。わかるのは、今日はとりあえず大きなものが終わりを迎えるということ。始まって、終わって、その繰り返しの一区切りだということ。だからこれからも必ず始まるということ。行き止まりではなく未来はある、それさえわかれば十分だ。

 

「そうだ、あなた。子供は何人欲しいですか?」

「バカ。その、そんなことをいきなり聞くな」

「えー、ムードたっぷりがいいってことですか、このへんたい」

「あのなあ、そういうことじゃなくてだな」

「ふふっ、やっぱりあなたをからかうのは楽しいですね」

「スカイが楽しいなら何よりだよ。……そうだ。それよりちょっと、今なんとなく気づいたんだが」

「はい。なんでしょう」

「今日、一度も『トレーナーさん』と呼ばれてない気がする。『あなた』、とばかり」

 

 ……はあ〜〜。

 結構意識して聞かせてたつもりなのに、今になってやっと、なのか。この人、やっぱり鈍い。結婚までしておいて、やっぱり鈍い。こりゃあこれからの結婚生活も、苦労が絶えない気がするよ。まあでもちゃんと気づいてはくれたから、百点満点の反応には違いない。

 

「そりゃあ、そうでしょう。だってもう、そういう関係ですから。『トレーナーさん』は終わりです。トレーナーと担当ウマ娘の関係は、今日の結婚を区切りに終わりでしょうが」

「それはそうかもしれないが。その、むずむずするな」

「だから、『あなた』なんですよ。いけませんか、あ・な・た?」

 

 くるりとこれ見よがしにあなたの目の前に立って、青空を背にその顔を見つめる。私が恋をしたあの時よりは、ちょっぴりくたびれた顔かもしれない。成長というより、老化。まあでもそれは身体だけで、気持ちはこれからも未来へ進めるのだ。たとえば、今日みたいに。

 

「これからずっと、あなた、なのか」

「そうですよ、あなた? ダーリン、とかの方がいいですか? 子供が産まれたらパパとかでもいいですね」

「だからその、そんな気の早いことを言うな。なんとか、なんとかならないのか」

「えー、強情。……まあ、一つ案がないこともないですけど」

「なんだ。言ってみてくれ」

 

 自分から気づけばいいのに、とも思うけど。振り回され始めたらなすすべがないんだから、本当にこの人はしょうがないなあ。

 

「そうですね、まあ対等に、というやつです。私とあなたがトレーナーと担当ウマ娘じゃない、大人と子供じゃないって示すにはぴったりの。それで、いいですか?」

「対等、か。わかった。俺も、スカイとそうなりたい」

「そっか。じゃあ、言いますね。……心の準備は」

「問題ない。しっかり、これからの呼び方をしっかり聞こう」

 

 うん、うん。なら、言ってしまおうか。こんなふうに呼んだこと、一度だってないわけだけど。『トレーナーさん』が今日で終わりなら、これは今日始まるもの。

 だから、まるで初めて出会うかのように。はじめてのものが、これから先にあるように。そんなふうに、教えてあげよう。

 

「はじめまして────」

 

 少しおどけて少しかしこまって、そんな私らしく曖昧な感じで告げた、はじめまして、の後。

 私が、呼んだのは。

 

「……俺の名前、知ってたのか」

「そりゃ知ってますよ、知る機会がないとでも思ってましたか」

「いや、そりゃそうなんだが。なんだろうか、すごく新鮮だ」

「……嫌ですか?」

「……嫌じゃ、ない」

 

 そりゃよかった。なら、これからはできるだけそう呼んであげよう。今まで散々名前で呼ばれた分、私もあなたの名前を呼ぶ。対等だから。大人と大人だから。愛し合う、夫婦だから。

 

「えへへ、でもこれくすぐったいですね。なんだか恋人なんだなあって、そんな気がします。まあ、すっ飛ばして結婚しちゃいましたけど」

「……これから恋人らしい思い出を作ればいい。いや、たくさん作ろう。約束する、君を必ず幸せにする」

「本当ですか?」

「ああ」

「私よりかわいい子供がたくさん産まれても、お互いシワだらけのおじいちゃんおばあちゃんになっても」

「もちろんだ」

「……そりゃあ、嬉しいなあ」

 

 そう言って一瞬、私は後ろを振り返る。ドレスの合間をすり抜ける風に沿って、澄んだ青空に目を向ける。繊細な白を浮かべた雲が美しい。どこまでも果てのない青がキレイだ。今日という日を彩るものとしては、こんないつでもありふれたものが最高だ。

 そして一瞥ののち、あなたをまた見遣る。大好きな人の顔。愛する人のすべて。生涯を誓い合ったあなたの、これまでの過去とこれからの未来。積み重ねた変化と成長と、積み重ねてゆく未知と幸福を見た。

 そして、もう一度だけ。もう一度だけ、言わせてほしい。とりあえず、今日はもう一度だけ。

 

「愛してますよ────」

 

 もう一度、あなたの名前を呼ぶ。始めたばかりのそれと同時に、何度も何度も思ったその気持ちも口にする。だからこの言葉は、二つの意味を込めたもの。コインの裏表のようにその本質は同一だけど、それを端的に、最高に表した私の精一杯のメッセージ。

 今日は、すべての終わり。はじまりの出会いから、全部を諦めようとした挫折から、恋の成就から、何度も何度も繰り返した、積み重ねの総決算。今まであった変化と成長を、たびたび私は振り返ってきた。その時点での、結論を出した。だから今日もきっと、その一つなのだ。

 幕引きを告げる、エンディング。その、一つなのだ。

 だけど今日は、すべてのはじまりでもある。これからの人生にあるものを定めた、重大で大切な最初の一歩。そう、私たちが何度も終わりを迎えるのは、時には決断し時には挫けるのは、そこから一歩新しく踏み出すため。子供の私の結論も、大人になろうとして出した結論も、恋を叶えるための結論も、生涯を誓うための結論も、すべてがはじまりのために結論を出す。だから結論は常に未熟で、そして未熟だからこそ考える意味があった。やっぱり、今日もそう思った。だから今日もきっと、その一つなのだ。

 幕開けを告げる、エクステンディング。その一つなのだ。

 これが私の、私というコインの裏表。私の人生を形作る、曖昧故に強固な指針。

 始まりと終わりは、表裏一体(エンディング・オア・エクステンディング)

 世界の見え方は、私の気分次第なのだ。

 

 

セイウンスカイは正論男に褒められたい

                             了




これにて、本作「セイウンスカイは正論男に褒められたい」完結となります。
セイウンスカイとそのトレーナー、そして周りを取り巻く仲間たち、彼女たちの物語が、少しでも心に残るものであったら、そして原作のキャラの魅力を少しでも伝えられるものであったとしたら、これに勝る喜びはありません。
最後に少しこの作品のコンセプトについてお話しさせていただくと、大きく分けて二つのものがありました。
一つは、「企画の立ち消えたセイウンスカイの公式コミカライズを勝手にノベライズすること」。
もう一つは、「ゲーム原作、アニメ原作におけるセイウンスカイのキャラクター性、そしてそこに欠かせない他のキャラクターとの関係性、それらをすべて盛り込むこと」。
なかなか大それた目標を立てたと我ながら思いますが、それを達成できている、ともし一人でも多くの方に思っていただけるなら嬉しいです。
最後にお知らせをひとつさせていただいて、後書きを終えさせていただきます。
この連載小説について、大幅な加筆、修正、および表紙を描いていただいたくるみるみ(Twitter ID@sakusenbest)さんのたくさんの魅力的な挿絵を挿入した同人誌版「セイウンスカイは正論男に褒められたい」を、後日発刊予定です。
連載版より更に良いものになるようこれから頑張って作業していきますので、もしそちらの方も手に取っていただけるなら、とても嬉しいです。
本当に、ここまでお読みくださりありがとうございました。
感想評価、完結記念にくださればとても嬉しいです!
それだけめちゃくちゃ催促させてください!
では、今度こそありがとうございました!


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