鏡合わせの吉原 ~死んだら吉原にいました~ (翔田美琴)
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第一部 美しき幇間 零無
1話 ここは吉原!?


 そこは何処かの軍隊の基地だった。

 しかし敵軍の特殊部隊がその基地に奇襲してきた。

 荒々しく廊下を走る複数の兵士が自動小銃を手に部屋に駆け込んできた。

 敵兵は何も言わずいきなり彼らに発砲する。

 弾丸の嵐が彼らが身構える前に襲う。

 彼も拳銃を手に応戦するが、自動小銃の弾丸が無情にも彼の胸を貫く。

「レム中佐ーッ!!」

 下士官の悲痛な叫びと共に血に塗れる彼。

 血に塗れる暗緑色の軍服。

 自分自身の視界が血の赤に染まった。

 彼は己の死を茫然としたまま受け入れるしかなかった。

 痛みなどもう感じない。

 

 俺は死んだか。人間の人生の幕引きというものは思ったよりも呆気ないものなんだな。

 呆気ない最期だった。よりによって敵兵の銃弾に殺られるなんて。

 戦争中に起きる事だからそういう事が起きるのは薄々感じていたが、自分が殺られるなんて……。

 もう意識は何処かへ旅立っている。

 俺の世界とは別れの時だな。

 呆気ない幕引きだった。

 

 次に意識が戻りかける頃には、畳の藁の匂いと朝食が用意されているのか味噌汁の匂いを感じた。炊きたてのご飯の匂いも。

 ここは何処なんだ…?

 肌には布地の感触を感じる。少なくとも畳の上の布団の上には体はありそうだ。

 目を醒ますと白い布団の上に体があって、俺は両腕を使って体を起き上がらせた。

 すると自分の眼にとある男の姿があった。

「よう。零無。うなされていたぞ。大丈夫か?」

「こ、ここは…?」

「寝ぼけているなぁ。ここは吉原の揚屋町の一角の長屋だろう?」

「へ!? 吉原!? 揚屋町!?」

 何故、俺は吉原にいるんだ?

 何だってこんな事に?

 いきなり吉原と聞かされて、頭の中がパニックになりそうだ。

 そういえば服装がいつの間にか浴衣姿になっている。水色の無地の浴衣。

 ちょっと待て。姿を見たい。

 丁度側に鏡があった。思わず鏡を覗き込む。

 姿は生前の姿と同じだった。

 見慣れた銀髪と髭もそのまま残っている。

 体の感触も生前と同じ感覚だ。

 一体、俺の身に何が起きたんだ……。

 信じられないという感じで啞然とする俺に一緒の部屋にいる男は呆れていた。

「一体、どうしたんだ。零無(レム)

 そうだ。その名前。

 俺は生前、レムと呼ばれていた。

 何故、この男は俺の名前を知ってるのだろうか?

 そんな事を訊く俺に目の前の男は呆れ返って大笑いして突っ込んだ。

「本当、お前、寝ぼけているなぁ。大丈夫か? お前、きちんと見番登録して零無(レム)として男の芸者【幇間(ほうかん)】になったんだろ?」

 どうもそういう事になっているらしい。

 それにしても一体、ここは吉原だとして、何時の時代なんだ?

 何気なく置かれている新聞があったので日付の確認した。

 大正3年3月22日……!?

 ちょっと待て。大正三年だと?

 思わず日付を二度見した。

 やっぱり大正三年三月二十二日だ。 

 どういう事だ。大正時代に来ている?!

 新聞の文面を追った。

 普通に読めるぞ。生前の俺は日本語は嗜んでなかったのだが……。

 茫然とする俺に朝食を用意する男は、俺にこう言って慰めた。 

「余程悪い夢を見ちまったようだな。まあ、気にしないで朝飯にしようぜ」

 白いご飯に大根の漬物、焼き鮭と味噌汁が出て食べた。なんとなく懐かしい。

 そういえば箸もあんまり使った事が無かったが体が覚えているのか普通に扱えた。

 ところで目の前で一緒に朝飯を食べるこの男は何者だ? 一体、誰だ?

「な、なぁ。名前、何だっけ?」

 これで呆れるのは何度目か? という感じで呆れたこの男は、やれやれという感じで名前を教えてくれた。

酒井(さかい)酒井成広(さかいなりひろ)。お前と同じ幇間だよ。宜しく頼むぜ、同僚」

「よ、宜しく」

 酒井……か。何処かで聴いた事があるような名前だ。一体何処で聞いたのだろう?

 生前の記憶を探ろうとした途端に頭に鋭い痛みが走った。まるで刃物で切られるように。

「うっ……!」

 思わず頭を、後頭部を手で触る。

 脈打つように痛みが走る…!

 何なんだ、これ?

 昔というか、生前の記憶を探ろうとすると鋭い痛みが走る。

「大丈夫か? 頭痛がするのか? 医者に罹った方がいいんじゃないか?」

「……だ…大丈夫。もう収まったよ」

 あまり昔の事は思い出すな、ということか。もう吉原にいるのだから。

 朝飯を食べている間にラジオが流れていた。

 でも俺達にとっては関係ない雲の上の話で、今は現実を知らないと。

「仕事はきたのか?」

「なんでも京町二丁目の楼閣【桜華楼(おうかろう)】から俺とお前と別の長屋に住む、池本(いけもと)さんと夏村(なつむら)さんが指名されたようだよ。三味線ができるのだろう?」

「あ、ああ」

「きちんと手入れしておけよ」

 そうして朝飯が終わると午前中は自由時間なので揚屋町を散策した。吉原の中にある普通の町。

 そういえば草履も初めて履くような。でも履き心地は良い。

 大正になり、この揚屋町も近代化している。

 カフェなるものが多いし、吉原の女郎の居場所も「貸座敷」とか「楼閣」と呼ばれる。

 引手茶屋は相変わらずだが近代化してカフェのようになっている。

 そして遊女達は表向きは解放されたかに見えたが実情は違う。

 そして、ここから、俺の数奇な運命も廻り出す。

 



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2話 桜華楼にて

 その日の午後12時頃。昼ご飯を食べて一息ついていた時に、私達芸者衆を支える若い衆が伝言をしにきた。若い衆の身なりは普通のどこにでもいる普通の着物姿だった。

 若い衆の話だと、それは京町二丁目の楼閣【桜華楼】にて酒宴があること。そこに向かうのは芸者二人とこの揚屋町の長屋にいる酒井と俺が指名された事を告げられた。

 宴の準備に開始1時間半前には【桜華楼】に居なければならない。宴は15時頃からだ。そこそこ時間は迫って来ていた。

「という事は13時半頃には桜華楼にいないといけない訳だな」

「へい。今回の宴、宜しくお願いしやす」

零無(レム)は初めてだよな? 幇間として楼閣に向かうのは?」

「そうだな。酒井は何の楽器を扱えるんだ?」

「俺はこの尺八だな。三味線と合わせると風情があって良いんだぜ」

「へぇ。向こうの宴席でその腕、見させて貰うよ」

 芸者達は池本さんと夏村さんが来るらしい。

 それぞれが、池さんと夏さんと呼ばれる。呼び方も風情がある。

 酒井は彼女らの事を見知っている様子だ。得意分野の芸の話をしてくれた。

「池さんは民謡の歌い手だし、夏さんは琴が弾けるし、本格的だね。こりゃあ桜華楼にどこぞのお大尽さんがやってきたのかな」

 酒井は茶化すような感じで話した。

 そうして準備をして、持っていくべき物を若い衆が持って桜華楼に向かうことになった。外の通りに池さんと夏さんもいる。

 俺達芸者衆は二人一組で妓楼では行動を共にする。何故ならあくまで妓楼では遊女達が主役で芸者衆は引き立て役でしかない。その引き立て役が客の男だったり、遊女だったりに恋心を抱いて深い仲になると厄介な事態になる。故に二人一組でそれぞれの監視をするのだ。

 池さんと夏さんは俺とは初対面だった。ここで挨拶を交わす。

「あなたが最近登録した零無(レム)さんですね。はじめまして。池本です」

「夏村です。今晩はよろしくお願いします」

「ええ。レムです。御二方、よろしくお願いします」

「池さん、夏さん、久しぶり!」

「酒井さん、また景気のいい尺八、頼みます」

「レムの三味線も楽しみだね」

「では、皆様。桜華楼へ参りやしょうか?」

 そうして仲の町を奥へ行くと京町二丁目にたどり着く。そこの中見世が【桜華楼】。中規模の妓楼だった。

 暖簾には桜の紋様と共に桜華楼の文字がある。

 暖簾を潜った先が今夜の俺達の仕事場。若い衆に連れられて暖簾を潜ると女主人みたいな人が奥から出て迎えてくれた。

「これは芸者衆の皆さん。今晩の宴の為にようこそおいでくださいました。どうぞ。こちらへおあがりください」

「今晩もよろしくお願いします」

「あら…?」

 女主人は俺の顔を見るとまるで身内に会ったような顔をした。まるで知り合いに出会ったような顔だ。

 しかし、それも一瞬だった。

 彼女はまた笑顔になり、そして確認するように俺の名前を聞いた。 

「初めてお会いする幇間さんですね。お名前は?」

「零無です。よろしくお願いします」

「零無さんね。よろしくお願いしますわ」

 そうして桜華楼の中を歩く。

 女主人と思われる人は俺達が今晩こなす酒宴の説明をしてくれた。

 桜華楼の雰囲気は、流石、桜の名前をつけているだけに桜の紋様が特徴的だった。ここの商標は八重桜でそのマークが色々な場所に誇らしくあしらわれている。

 建物自体はちょっとした洋館みたいな雰囲気。

 しかし外観はそうだったが中は風情ある和室の雰囲気だったのだ。中も木製だし、しかし硝子とかはお洒落なステンドグラスなのは憎い演出だね。

 するとここでの若い衆と呼ばれる男性が女主人に声をかけた。

(かえで)姐さん。お疲れ様です」

友蔵(ともぞう)。今宵もよろしく頼むよ」

「これから酒宴の説明を?」

「ああ。今夜の酒宴は馴染みの伊勢谷(いせや)さんだ。他の若い衆にも言っておいてくれよ。くれぐれもぬかるんじゃないよ」

「はい、姐さん」

「それから、友蔵」

 あの人は楓姐さんというらしい。その楓姐さんは何やら耳打ちしていた。

 なんとなく想ったのは俺のことかなと。楓姐さんは明らかに俺の姿に驚いていたからな。

「わかりました、姐さん」

「それでは行きましょうか?」

 俺達芸者衆が案内されたのは2階の豪華な部屋だった。馴染みがいつも好んで使う部屋らしい。

 酒宴準備の為に若い衆の男達が色々準備に追われている。

 皆、桜華楼の法被(はっぴ)を羽織っている。桜華楼の法被にはあの八重桜のマークが背中に描かれていて右側の片隅に小さく八重桜が刺繍されているのが憎い演出だ。

「今晩の酒宴は馴染みの伊勢谷さんの酒宴の他に、後2つの酒宴がございます。皆さんには今夜3つの酒宴に参加して頂きます」

「祝儀は伊勢谷さんの他、その2つの酒宴を開く馴染みさんから頂いておりますので、終わり次第、皆さんにお贈りさせて頂きます」

 楓さんの説明が終わると俺達は準備に入った。

 そうして、今宵の宴が始まる。

 



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3話 初めての酒宴

 そうして酒宴を開く為に訪れた桜華楼の馴染みが酒宴15分前に登廊してきた。

 彼の名前は伊勢谷半蔵(いせやはんぞう)。この男性は重工業の会社の社長で、また株式の投資などで利益を上げている人物で、その遊び方はまさに生粋の好色である。

 何も性に限った話でもない。時代の流行や服装、その時代の文化にも理解を示すという意味の好色なのだ。まさに人生を謳歌する男だった。彼はそうして桜華楼という妓楼を高く評価している。ここの楼主もまたなかなかの色男として有名で、この桜華楼はその楼主の妖しげな美貌が噂になって流行ったという逸話もある。

 楼主の名前は稲葉諒(いなばりょう)。世にも珍しい灰銀色の髪の毛を生まれつき持つ半人半妖の男性である。彼はお稲荷さんの眷属である白狐という白い狐の妖怪と人間との間に産まれた男性で、妖しげな美貌で話題になった楼主だ。

 その楼主、稲葉諒が今、若い衆からある報告を受けていた。

「私に似ている幇間(ほうかん)がここに仕事に来ている?」

(かえで)姐さんからの報告です。間違いありません。旦那様」

勇太(ゆうた)。他の若い衆達はその幇間の事を何と言ってる?」

「口を揃えて『旦那様に似ている。見間違いじゃないよな』と」

「ふむ……」

 楼主は煙管を咥えて考えを巡らした。

 実に興味深い幇間だ。この眼で見てみたい気分になる。まあ、でもまだそいつの仕事ぶりは目撃していないのだ。仕事ぶりを見てからでもいい話だった。

「勇太。その幇間の仕事ぶりをよく観察するように他の若い衆に伝えておけ。有能な幇間ならいいがな」

「分かりました、旦那様」

 勇太と呼ばれた若い衆は一言で表現するなら伝言役だ。通称『福助』。彼は様々な者達の伝令を伝える男性で、ヤクザ関係や女衒と呼ばれる人買いとの伝言もやり取りする。

 風貌は何処にでもいる普通の人である。それが肝だった。普通の人なら怪しまれる要素も皆無である。なので伝言役として適性がある男性だった。

 さて、伊勢谷半蔵が来ていよいよ酒宴が開始された。酒井の尺八が風情溢れる民謡を奏で、歌い手の池さんが民謡を唄う。合わせて零無(レム)の三味線が音を鳴らし、夏さんの琴が綺麗に響く。

 しばらくすると伊勢谷の馴染みの花魁が座敷に登場する。艶やかな着物を纏い伊勢谷の隣に座る。

 するとここで芸者衆は零無が得意のお囃子を奏でる。切れの良い三味線とついつい手を叩きたくなるテンポの良いお囃子に、琴の夏さんも笑顔になってシンクロする。尺八の酒井もアドリブを入れてお囃子に花を添える。池さんの合いの手が絶妙に響く。

 そうして2時間後、彼らは花魁と伊勢谷を気持ちよく送り出す。

 しばらく休みを取ると、次の宴会へと向かう。

 芸者衆は大いに唄い、そして得意の楽器を鳴らし、そして零無の顔は終始笑顔だった。

 その様子を観る若い衆の男達は言った。

「本当に旦那様にそっくりだよな」

「三味線の腕も文句なしだな。あんなにいい幇間も見かけないぜ」

 そうして無事、本日の宴をこなした芸者衆は気持ちよく客たちを寝床へ送り出し、そして最後に祝儀を楓から貰う。

「皆さん、お疲れ様でした。本日の宴をこなして頂いてありがとうございます。これは今回の祝儀でございます」

 祝儀袋に入った報酬を皆は受け取る。それぞれに名前がきちんと書き込まれている。これなら祝儀を巡って喧嘩なぞしないで済む。

 それぞれが祝儀を受け取ると桜華楼の暖簾を潜り、そして仲の町の雑踏に戻った。既に夜も深い。夜空を見上げれば月が浮かんでいる。春の空に優しく照らす三日月。

 仲の町には桜も植えられ夜桜になっている。

 その仲の町を揚屋町へ向けて帰る道すがら、今日の宴の感想を言い合う芸者衆。

「今夜の宴は何と言っても零無の三味線に尽きますね」

「景気のいいお囃子だった。周りの俺達も思わず気合が入ったよ」

「また零無さんとこうして座敷で仕事したいですね」

 レムはそれに答える。

「そうだね。また、君たちと組めると嬉しいな」

 揚屋町に戻ると、池本と夏村と表通りで別れた。彼女らの長屋に戻る。

「じゃあ私達はここで失礼しますね」

「お疲れ様でした! 酒井さん。零無さん」

「お疲れ様! 池さん。夏さん」

 彼らが住む長屋に戻る。

 そしてそれぞれの祝儀袋の中身を確認した。

 随分と先方は奮発してくれたらしい。

 彼らは、寝る前に酒を少し傾けて、寝床に入って、今日という一日を終わらせた。

 



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4話 零無と稲葉

 あの宴が終わった後の事だった。 

 伊勢谷半蔵は不思議に思っていた事があったそうだ。それは楼主・稲葉にそっくりの幇間(ほうかん)が居た事だ。 

 その幇間の端正な顔と美しく響く三味線が印象に残ったと伊勢谷は評価した。

 稲葉諒もやはり若い衆からその報告を受けていた。

『旦那様にそっくりな幇間がいる。見間違いと思うくらいに』

 諒は布団にうつ伏せになりながら楓に体の凝りを解して貰っている。

 楓のマッサージはよく効くのだ。力加減も文句なし。楓も肌の触れ合いとしてこのマッサージは好きだった。何せ、女性かと間違う程に肌触りが抜群だったのだ。

 諒はそのマッサージを受けながら楓に、今日来た幇間の話題をした。 

「なあ……楓。あの幇間は名前はなんて名前だ?」

「見番登録では零無(レム)と登録されているわね。廓でも零無と呼ばれていたわ」 

「零無か。不思議な芸名だな」

「かえって覚えやすいかもね」

 背中を触り胃の辺りを解す。

 諒は煙管を咥えてふうっ…と煙をはく。

 彼は上半身裸に着流しを開けていて、身体付きは一切の無駄がない。

 褐色に近い瞳は閉じて、妻のマッサージをじっくり堪能しつつ、考えを巡らせる。

「何を考えているの」 

「その零無という幇間、また宴があるなら呼んで見るのも有りかな」 

「流石のあなたも自分自身にそっくりの幇間と聞いて興味深いのね」

「まあな」

「楓は直に会ってどう思った?」

「そっくりそのままねって思ったけど、諒とは違う『何か』を持っていそうね」

 その手は最後は諒の顔を撫でるように絡まり、楓も諒に体を預けた。

 彼女の体重を感じながら諒は呟いた。

「まさかとは思うが奴になびく事はないよな?」

「どうかしらね……まだよくわからないし、あなた並に色気は有りそうとは想うけど」

 諒は煙管を置くと体の向きを変えて、仰向けになり楓と話した。

「今は仕事の話は無しにしてお前と肌を合わせたいな」

 楓は黙って諒の唇に己の唇を重ねる。

 彼女の手は諒の体をさまよう。

 彼ら稲葉夫妻はそのまま体を重ねた。

 

『レム中佐! レム中佐ーッ!!』

 また、あの悪夢か。

 誰かが、俺の名前を叫んでいる。

 視界が血の赤に染まった。

『死なないでください! 中佐! 中佐! レム…』

 駄目だ……もう止めてくれ。

 こんなの俺は見たくも無いんだ。

 息遣いが喘ぐような息遣いになって、そして無理矢理、悪夢から醒めるように起き上がった。

「はっ!」

 布団から思い切り起き上がった。

 共に住む幇間の酒井が心配するように聞いた。

「また、うなされていたぞ。零無」

「そ、そうか……」

「またよくわからない悪夢か?」

「そうだな。本当に訳がわからない。一体、何の夢なんだ?」

 酒井はちょっとだけ溜息をついた後、俺に朝食を食べるように促す。

「夢の事を考えても答えは出ないだろ? 朝飯でも食べて元気出せや」

「ああ」

 今朝の朝飯は白いご飯に昆布の佃煮にほうれん草のお浸しに魚は(あじ)が出てきた。後は味噌汁だ。

 長屋の外からは今日も賑やかな町人の声が聞こえる。きっと噂話に興じているのだろう。

 酒井は先に朝飯を済ましたそうで、新聞に目を通していた。

 すると。 

「へえー、あの【桜華楼】が遊廓の番付に乗っでるぞ。今は3位か。流行っているんだな、あの見世」

「確かにあの【桜華楼】、中の世界が物凄く綺麗だった。独特の品を感じたね」

「零無。ちょっと俺は外の空気を吸ってくる。若い衆から連絡来たら代わりに聞いておいてくれるか?」

「わかった。行って来いよ」

 木製の扉を横にずらして酒井は揚屋町へ散策に向かった。

 朝飯を食べた俺は三味線の手入れをする。

 そんな時に、誰かの声が聞こえた。

「もしもし。すんません。誰かおりませんか?」

 扉を開けると若い衆の男性がいた。

 この様子だと仕事の話かな。

「どうも。零無さんという幇間さんは?」

「私ですが」

「丁度良かった。また仕事が来ましたよ。桜華楼からです」

「桜華楼から?」

「はい」

「今回は私だけか?」

「他の長屋に住む夏村さんも桜華楼から指名が御座いました。後は他の長屋の中村(なかむら)さんという幇間と芸者に萩原(はぎわら)さんも呼ばれてます」

「何時頃に集まればいいのかな?」

「本日の宴は17時頃からです。集合は15時半頃にお願いしやす」

「わかった」

 丁度いい時に仕事が来たな。

 気が少し滅入っていたんだ。

 こういう時は宴席にて三味線をかき鳴らすのが気持ちいい。

 そうして2度目の桜華楼へ向かう事になった。

 



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5話 若い衆の視線

 15時。仲の町の通りにて、今回の宴で組む幇間と芸者2人に出会った。荷物は若い衆の男2人が持っている。

 今回組む幇間の名前は中村さん。

 芸者衆はこの間組んだ池本さんと初対面の萩原(はぎわら)さんと組む。彼らは軽く俺と挨拶を交わす。

「こんにちは。零無(レム)さん。中村誠也(なかむらまさや)です。宜しく」

「はじめまして。零無さん。萩原(はぎわら)です。宜しくお願いします」

「はじめまして、零無です。今回の宴、宜しくお願いします」

「零無さん。また組みますね」

「池さん。また宜しく頼みますよ」

「桜華楼はこの間遊廓の番付に載ってましたよね。今、大人気の妓楼と聞きました」

「へい。今回もその桜華楼の直々のご指名です。それでは皆さん。行きやしょうか?」

 それにしても桜華楼にまた指名があったのはちょっと意外に思った。連続で桜華楼に呼ばれるとは先方に気に入られたという事なのだろうか?

 それともたまたま偶然で呼ばれたのだろうか?

 すると池本さんも実は桜華楼の常連の芸者だと若い衆は説明してくれた。

「池本さんは貴重な民謡の歌い手さんです。池本さんの歌を楽しみにしている馴染みさんも結構多いんですよ」

「そうそう。池さんの民謡は心が休まるし、気分も明るくなれるんだよね」

 謎の夢で少し気が滅入っている俺には民謡の風情がある歌は心に沁みるものがあるかもしれないなぁ。

 そうこう歩くと昨日訪れた楼閣【桜華楼】の前に来た。

 若い衆は芸者衆を促して、俺達は桜華楼の暖簾を潜った。

「これは芸者衆の皆さん。今晩も宜しくお願いします」

 番頭さんが声を掛けてくれた。店先の入口の近くで帳面をつけている。

 すると番頭の挨拶が聴こえたのか、楓さんが奥の内所から出てくる。そして俺達芸者衆に挨拶を交わしてくれた。

「今晩もお世話になります。どうぞ、奥へあがってください」

「宜しくお願いします」

 俺達芸者衆は2階へと案内される。昨日程の慌てた様子は無いがそれでも忙しく若い衆は目まぐるしく動いている。

「お(たえ)さん!」

「お内所。どうしたんだい?」

「今回の客は確か2回目の登廊だろう? 馴染み金は払ったかい?」

「馴染み金は今回の床入で考えさせて戴くと言っていたね。引手茶屋から来るからそれなりの上客にはなりそうだけど」

「引手茶屋から来るならそれなりの接待はしないとね。若い衆にも誰か一人は付きっきりで面倒を見るように手配をするんだ」

「はいな。お内所」

「芸者衆の皆さん、どうぞこちらの座敷へ」

 俺達は昨日とは違う座敷へと案内された。しかしここもそれなりの格式は感じられる。

「今晩の宴は引手茶屋のお客様でして、将来的には馴染みとなる方と存じます。名前は黒沢(くろさわ)さん。今晩の酒宴は後1つなので、黒沢さんの酒宴は大いに盛り上げてくださいませ」

「今日、この座敷に現れる花魁さんは誰ですか?」

「3枚目花魁の杜若(かきつばた)です。最近、その子は売れっ妓なんですよ」

「では宜しくお願いします」

 そうして酒宴の準備が行われた。

 幇間である俺と中村は袴を着けるように言われて別室にて袴を着ける。

 ちなみに中村は篠笛を嗜む。祭囃しでも彼はいつも引っ張りだこと聞いた。

 この袴なのだが意外と着けるのは馴れない内は難しい。でもよく考えられて作られたものだと思うよ。身動き自体は楽なのだ。

 身支度が終わるとそろそろ酒宴開始が迫って来ていた。俺達は軽く楽器を鳴らして調子を見る。萩原さんも三味線を用意していた。

 17時。引手茶屋からその客人が来た。

 黒沢と呼ばれたお客人は大正時代ならではのスーツ、背広姿で揚がってきた。

 何処となく大正時代ならではという感じの典型的なサラリーマンという感じだろうか?

 座敷の外からはお妙さんの声が聞こえる。

「いいかい? 健太(けんた)? 黒沢さんの面倒は今夜はお前が見るんだ。いいね?」

「はい。お妙さん」

「ちゃんと座敷の宴席にも出るんだよ?」

「それで旦那様の指示は?」

「例の幇間の事かい? とりあえず様子は詳しく観察するように、との事だよ」

「わかりました。そろそろ酒宴が始まるのであっしは行きます」

「頼むよ。健太」 

 黒沢さんが座敷に来るなり酒宴が始まる。

 酒宴さえ始まれば芸者衆の本領発揮だ。俺達は三味線をかき鳴らし、篠笛を吹き、池本さんの民謡を堪能しながら座敷を盛り上げる。

 そう時間が過ぎない時に3枚目花魁、杜若(かきつばた)が艶やかな着物と仕草で座敷に来る。3枚目花魁でもやはり華はある。

 健太と呼ばれた若い衆は酒の手配や料理などを座敷に運ぶように手配している。そして視線は時々、俺の方へ向けている。向こうも驚いている様子だ。

 時折、外に出る若い衆の健太は仲間の若い衆にこう言っていたそうな。

「旦那様に本当に似ている。見間違いじゃないよな?」

「健太もそう感じるか。俺も同じだよ」

「あんなにそっくりな人間ってそうそう居ないよな」

 座敷にて三味線をかき鳴らす俺は悪夢を忘れるように宴の世界にその身を浸すのであった。

 



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6話 色の廓の裏知識

 黒沢さんを迎えた酒宴は終わり、俺達芸者衆は気持ちよく3枚目花魁と黒沢さんを寝床に送り、そしてもう1つの宴にも出て、俺達は祝儀袋を貰って仲の町の雑踏に戻る。

 若い衆の2人は行きと同じく楽器を持ってくれて有り難い。

 宴も2つこなせば芸者衆はそれなりに打ち解けられるのは強みだと思う。

 今夜も非常に賑やかな宴席になり、桜華楼からは非常に感謝された。中規模の見世である桜華楼は次第に大見世と呼ばれる妓楼の道を歩み始める。

 大見世の妓楼ともなると内芸者と呼ばれる専属の芸者や幇間を抱える場合が多い。俺達としても内芸者として専属になれるなら仕事を得るのにもさほど苦労はしないだろうか。

 仲の町の雑踏を歩きつつ俺達は会話に花を咲かせる。

 

「いや〜、今夜も派手にやりましたね」

「池さんなんかずっと唄いっぱなしでしたね」

「流石に喉が渇きますよ」

「仕事は終わったんだし、そのへんの茶屋に寄っていくか?」

零無(レム)。この辺の茶屋はみんな引手茶屋だよ。俺達、芸者衆は妓楼には登廊できないんだよ」

「この辺り、全部、引手茶屋か?」

「まあな。喉が渇くがまあ揚屋町まで行けばいいだけさ」

 

 吉原という所は色の廓とは聞いたが、今更思うが何ていうか、こう……エロスが溢れる場所だね。俺達は確かに芸者だがそれも気持ちよく客に寝床に入らせる為に行われるのだから、凄い世界だよ。

 中村さんからの吉原の情報はこれだけに留まらない。

 彼は明らかに吉原をよく知らない俺に色々教えてくれた。

 

「俺達、芸者衆が遊女とか客の男に惚れてはいけないという最低限の知識はあるよな。だけどそれで終わらないのが人間の色恋沙汰でね、出合茶屋と呼ばれる所もあるんだよ」

「出合茶屋?」

「男と女の密通の場所ですよね。ちなみにそこでいわゆる色事をするんですよ」

「聴いた事があるわ。吉原では裏茶屋と呼ばれる所ね」

 

 興味深い事を知った。

 それは知っておかないとならないルールだな。

 俺も何時何処で惚れるかわからないし。

 あり得ないと思うがあり得ない事が起きるのが人間の人生だし、男と女が居るなら色恋沙汰の一つだってある。

 

「その裏茶屋というのは何処にあるんだ?」

「実は揚屋町に結構な数の裏茶屋があるらしいですよ。後は角町(すみちょう)という区画にも結構ありますよね」

「俺達芸者衆には知る人ぞ知る茶屋だね。大方は芸者、茶屋、船宿の男や小間物売りや髪結い。太神楽もくるよ」

「わざわざそこで交わるのは何故なんだ?」

「俺達は吉原で仕事を貰う関連業者だから客として登廊はできない。そこで裏茶屋にて遊女や客の男と密会するんだ。でもな……」

「でも…?」

「その恋もあんまり実る事は無いと聞くぜ」

「やはりバレたりなんかしょっちゅうか?」

「何せ、楼閣の遣手婆(やりてばばあ)は勘が鋭い上に遊女を毎日観ている。誰かに恋しているなんて筒抜けみたいなもんさ」

「……ばれたらそこで遊女は折檻されます。妓楼の女主人か遣手婆にこっぴどく」

「折檻……つまりお仕置きか」

「お仕置きなんて生半可なものじゃないですよ。下手すると切見世(せつみせ)まで飛ばされます」

「恋をするのも命懸けだね」

 

 恋をするのも命懸け。

 不思議な場所だとつぐつぐ想う。

 ここは色の廓だ。色恋の町だ。

 なのに客との恋愛は疑似的なもので本気の色恋は隠れた場所でするとは。

 遊女達は確かに金の為に縛られた娼婦達だから、客とは本気で恋をしていたら身はもたない。何人もの男と一夜にして床入りするからいちいち感じていたらそれこそ壊れる。

 だから適当にあしらったり、無視したり、トイレに行ってくるといい客を振る事もあるのだ。

 所でその裏茶屋。

 一目でどんな所なのか目印でもあるのだろうか?

 

「その裏茶屋さ、一目でどんな所なのか判るようになっているのか?」

「良い質問だね。それがある。『桐屋(きりや)』という行灯掛けている所は大体、裏茶屋の目印だよ」

「興味深いなら休みにその『桐屋』さんの位置を確認するのも良いですよ。いざという時に知識になりますから」

 

 萩原さんは冗談交じりで教える。

 もしかして萩原さんはこういう色恋は実は経験者だったりしてな。

 そう思っただけで本気では思ってなかったが、その萩原さんが、妓楼の客の男とそこで密会しているのを俺は図らずも目撃する事も、その時までは知らなかったのだ。

 そう、その時までは。

 俺達も、芸者衆も、やはり男と女の性からは、切っても切れない関係だったのが、身にしみて判る事に。

 



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7話 萩原の情男

 ねぇ、レム。私ね……あなたの事を……。

 君は誰なんだ?

 今夜の夢も不思議だ。 

 顔の見えない誰かが俺に何かを言ってる。

 でも言葉の中身は憎々しい台詞では無い気がする。むしろ、前向きな言葉。

 誰だがわからない。

 そして生前の記憶を探ろうとした途端、鋭い痛みが走り、そして目を醒ました。

 

「ウッ…!」

 

 軽く呻くように起きて共に住む酒井は声を掛けた。心配するように。

 

「また例の悪夢か…?」

「それが全然違うんだ。何というかどことなく懐かしい気持ちだよ」

「懐かしい……か。朝飯を食べようぜ。俺の勘だと今日は休めると思うぞ」

「何でだ?」

「芸者衆でも流石に毎夜出張る事は結構、身体的に辛いから妓楼が気を遣って休める事もあるのさ」

「なら、いいけどな」

 

 白いご飯と昆布の佃煮、大根の葉の唐辛子醤油炒めと、魚に焼き鮭が出てくる。 

 そういえば酒井はこの揚屋町に住んで長いのかな? 

 

「酒井。お前、この揚屋町にはもう長く住んでいるのか?」

「長いと言ってもかれこれ5年だけどな」

「お前さ、『桐屋(きりや)』が揚屋町の何処かにあるって聞いたが何処にあるのか教えてくれよ」

「『桐屋』の場所をって誰か惚れた女でもできたのか?」

「そういう訳じゃない。ただ知りたいだけだよ。どういうのかを好奇心でな」

「好奇心ねぇ。場所を教えてもいいが、これだけは守れよ。知り合いの芸者がそこに入っていても黙っていろよ。芸者としても色恋できるから、こういう仕事ができるんだから」

「わかった」

 

 お互いに朝飯を食べた。

 そうして酒井と共に揚屋町の散策に出た。

 酒井は真っ直ぐ『桐屋』に行かないで、その辺りの屋台で売る団子を買って食べながら向かう。何でそんな事をしながら行くのか?

 俺にも何気なく団子を勧めた。みたらし団子という団子だ。

 

「ものを食べながら散策すればただの散歩客に見えるからな。知ってるだろう? 『桐屋』は裏茶屋だから真っ直ぐ行けば何も知らない俺達も疑われるわな」

「そういうことか。結構旨いぞ。これ」

 

 するとその裏茶屋に風呂敷を頭に被って正体を隠した女性が、辺りを軽く見渡して入っていった。まだ朝の9時頃なのだ。

 そしてその顔を見て俺は驚いた。

 昨日、酒宴の時に共に組んだ芸者衆の1人。萩原(はぎわら)さんだ。

 啞然とする俺に酒井は突っ込む。

 

「さっきの女性がどうした?」

「あの人……(はぎ)さん?!」

「声がデカイ。ここから去るぞ、零無(レム)

 

 揚屋町の裏通りを歩きながら酒井は説明した。

 

「ここに来たばかりの零無は知らないの当然だよな。萩さんには情男(いろ)がいるんだ」

情男(いろ)?」

「恋人って言ったほうがわかりやすいか。しかも客の黒沢(くろさわ)さんだよ」

「黒沢って昨夜、桜華楼に揚がったお客だったような」

「黒沢さんは実は花魁に会いに向かったと見せて実は芸者に会いに来た訳だな」

「なんて皮肉な出会い方だな」

「忍ぶ恋も燃え上がるのが人間って奴さ。桐屋の場所は1軒はわかっただろ? 他の桐屋でもこういう事があるから気をしっかりな」

 

 その頃。裏茶屋では。

 

「黒沢さん! 会いたかった!」

「萩さん。私もだよ」

 

 裏茶屋に敷かれた布団の上で激しく口づけを交わす萩原と黒沢。

 彼らは睦言をささやきつつ激しく体を重ねた。

 芸者とは思えない程に乱れる萩原。

 黒沢も全裸になり本気の情交を交わす。

 

「萩…! 萩…! できるなら君を妻に娶りたい…!」

「嬉しい……! 黒沢さん…!」

「もっと抱いて……黒沢さん」

「萩さん……ここを出て表の世界で共になろう」

「でも……私は吉原芸者……」

「芸者の仕事なら外の盛り場でやればいいじゃないか。吉原に拘らなくとも」

「黒沢さんがそれでは妓楼に追われてしまいます……」

「……何故、この吉原で私達は出逢ってしまったんだろう……?」

「私も……何故、吉原であなたと逢ってしまったのかしら……?」

 

 ほぼすべての肌を晒したままで2人は無言で最後は抱き合っていた……。

 離れがたい2人の恋路は吉原ではうたかたの恋で終わるのだろうか?

 

 酒井による裏茶屋の場所案内が終わり、彼らは暇つぶしに花札をしている頃に、扉を叩く音が響く。

 酒井が扉を横に引くと若い衆がそこにいた。

 仕事の依頼かな。

 酒井は思った。

 

「どうも。酒井さん、零無さん。仕事が入りましたよ」

「今夜かい?」

「明日の正午からです」

「そんな時間に?」

「桜華楼の引手茶屋から宴会の仕事が来たんですよ。そこから更に桜華楼にて宴会です」

「すげぇな。大尽遊びの極みだね」

「そのお大尽の名前は?」

伊勢谷半蔵(いせやはんぞう)ってぇ、大層なお大尽のようでして」

「今夜は少し早く寝て、明日に備えるか」

 

 と、彼らにまた仕事が入った事で零無の受けた衝撃も和らぐ事になった。

 吉原の夜は、喧騒と共に更けていく。

 



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8話 引手茶屋【桜花の里】

 レム。私ねあなたが……。

 ……なの、……している。

 ところどころが霧に掛かったように途絶えた言葉に虚ろな夢。

 一体、この夢はなんだろう?

 探ろうとすれば鋭い痛みが走り、それを無意識的に辞めさせようと体が訴える。 

 すべてが靄に包まれ、そして俺は目覚めた。 

 

「一体、君は誰なんだ?」

 

 不意に漏れた疑問に酒井は少しだけ興味を持って朝飯の合間に聞いてきた。

 

「お前の毎夜の如く見る夢ってものはどういうものなんだ?」

「……最初の頃は誰かが叫ぶ夢だった。それからだよ。急に内容が変わって女の人の声が聞こえるんだ」

「女の?」

「言葉が途切れてわからないけどな」

「面白い夢だな」

 

 酒井は呟くと仕事の話に切り替えた。

 

「そうそう。今日は仕事がいつもより早いから準備も早目にしないとな」

「今日は引手茶屋にて宴会だよな?」

「ああ。引手茶屋の2階に座敷があってそこで酒宴を開くのが上客の証みたいなもんだな」

「その後は?」

「桜華楼へ行くんだよ。その前に花魁道中という華があるがな。花魁道中は観た方がいいぞ。そうそう観られるもんじゃない」

 

 酒井は花魁道中は好きなんだろうな。

 珍しく興奮している様子だし、嬉しくて堪らないのだろうな。

 何せ花魁道中はスターが美しく着飾り練り歩くパレードなのだから。

 そうなれば俺も観ないとと想うよ。

 少しでも気が晴れると嬉しいなぁ。

 全く、幇間という仕事は何時も楽しそうに愉快そうに振る舞わないとならないからある意味では大変だよ。

 そうして午前11時頃に桜華楼の引手茶屋【桜花の里】の2階座敷にあがった俺と酒井と芸者の池本さんと夏村さんは調子を合わせていると外の仲の町が騒がしくなった。

 誰かが花魁の姿を見かけた様子だった。

 

「桜華楼の花魁、菖蒲(あやめ)の花魁道中だ!」

「あの方が菖蒲(あやめ)花魁。何という美しさだ……!」

 

 すると酒井が尺八を畳に置いて、窓際に行く。

 俺も誘われるように窓際に行く。

 そして酒井が教えてくれた。

 

零無(レム)、そうそう観られるものじゃないから、観覧しておけよ。あれが楼閣の自慢の見世物。花魁道中だ」

「あれが花魁道中……!」

 

 桜華楼の現在の看板花魁、菖蒲(あやめ)の花魁道中は桜が舞う中で行われたのでそれは美しいものだ。

 菖蒲の名に恥じない、菖蒲が描かれた着物姿、所々に黄金の糸で装飾がされている華美なデザイン。下駄が驚く程、高下駄なのが度肝を抜かれた。前には金棒引きと花魁に肩を貸す男性と長い柄の傘をさす若い衆もいる。その近くには禿と呼ばれる女の子が2人付き添っていた。

 観衆は仲の町の横に身を引いて彼女らのパレードに目を奪われる。

 これが花の吉原の晴れの舞台なのか。

 息を飲み見惚れる観衆の間を菖蒲花魁は堂々とした佇まいで誇らしげに道中する。それはこの引手茶屋【桜花の里】まで続いた。

 こんなものは生前の世界では見掛けなかった俺は目を丸くして観ていた事だろうな。

 酒井は菖蒲花魁が引手茶屋に近づいてきた所で見物を止めて宴の準備に戻った。

 

「零無。そろそろ馴染みのお大尽が来るぞ。準備、準備!」

「あ、ああ!」

「花魁道中を観たのは初めてだったのか? 茫然としてよ」

「当たり前だろ! あんな綺麗なもの、観たこと無かったし」

「零無さん、可愛い」

「可愛いって夏さん、からかわないでください!」

「零無さんのいつもの調子が出てきたから今夜も一つ、派手に行きましょうか!」

「おう! 池さんの景気のいい民謡に期待するぜ」

 

 約束の時間、正午。

 馴染みの伊勢谷半蔵(いせやはんぞう)が引手茶屋の座敷に現れる。真昼間から宴会とは恐れ入るね。今日は休みなのかと思ったら、知り合いらしい男性も連れられてきた。

 伊勢谷半蔵の友人だろうか? それともビジネスの相手だろうか? どちらにせよ、吉原へ遊びにきた客には違いないな。

 俺達が早速、三味線やら尺八やらで場が盛り上げ始めると、引手茶屋の女将が伊勢谷に酌をしながら、菖蒲花魁の話をしている。

 豪華な肴や酒が運ばれ若い衆も宴席に参加している。

 しばらくすると主役の菖蒲花魁が座敷に現れた。

 

「伊勢谷さん。会いたかったでありんす」

「菖蒲。今日の君も美しいよ」

「うれしうざんす。ありがとうござりんした」

「女将。今日は桜華楼に初回の客を連れてきたんだがね」

「こんにちは。伊勢谷さんの友人の中尾裕二(なかおゆうじ)です」

「桜花の里の女将、行木静子(なめきしずこ)です。桜華楼の初回ですか? それはまた嬉しい事ですね。私が貴方様の好みをお聞きしますわ。どのような娘が好みでしょう?」

 

 その席で女将は桜華楼の初回の客の好みを聞き、それを若い衆は側でちょっとした紙にメモを取っていた。

 よくできた若い衆だと思ったね。この時代でメモに取るってなかなかできるものじゃない。暗記とかだとミスすることが考えられるものな。ならメモに取って確実に伝えればいい。

 若い衆は初回の客の名前を聞いて、最後に女将に確認をしたあと、その足で桜華楼へ急いだ。

 その間も俺達は場を盛り上げる事に徹する。

 そうして伊勢谷半蔵は引手茶屋にて2時間程の酒宴をやった後、菖蒲花魁を伴い桜華楼へと道中だ。

 吉原の仲の町にいる客の視線は伊勢谷に集まる。何処のお大尽だろうか? という注目こそが吉原では最大の見栄であり、粋である。

 そうして伊勢谷半蔵は桜華楼へと登廊し、引き続き俺達、芸者衆の宴会も続くのであった。

 



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9話 鏡合わせの二人

 随分としこたま騒いだように思えたが、これからが俺達、芸者衆の本領発揮だった。桜華楼に来たのはこれで3回目。幇間ではお馴染みみたいな扱いに見える。実は酒井も結構桜華楼には呼ばれるらしく理由としては尺八を吹ける幇間はあまり居ないからだとか。

 三味線の幇間とか結構いそうだけど、それにしても短期間で桜華楼に来るのはあんまり居ないのでは?

 俺には何だか意図があるように思えて仕方ない。

 一体、桜華楼には誰が俺を呼び寄せているのか。気になるっちゃ気になる。

 意気揚々と桜華楼に登廊した伊勢谷半蔵(いせやはんぞう)の後ろで俺はそんな事を考えていた。

 すると伊勢谷半蔵の登廊と共に女主人の(かえで)姐さんが奥から出て来て伊勢谷に挨拶を交わす。

 

「これは伊勢谷さん。今回は初回の客人まで紹介して戴き誠に感謝致します」

「これも桜華楼が繁盛する為。この見世には妓楼の番付には長く載って貰いたいしね」

「ありがとうございます。初回の中尾裕二(なかおゆうじ)様はどなたでしょうか? こちらの若い衆が今夜の中尾裕二様の面倒を見ます」

「宜しくお願いします。喜兵衛(きへえ)と申します」

「私が中尾裕二だ」

「中尾様。どうぞ、お揚がりください。今晩の座敷へご案内致しやす」

「伊勢谷さんもお揚がりください」

 

 靴を下駄箱に収めるのは若い衆の一人、勇太がしていた。

 彼は見た目はまさに一般的なまだ少年みたいな感じで本当に若い衆という感じ。

 暖簾を潜ってすぐなので番頭さんも指定の席にて帳面付けながら指揮をしている。

 するとここで思いもがけないある人物が奥の内所からわざわざ登場した。桜華楼を仕切る楼主の登場だ。

 

「旦那様」

「旦那様だ。珍しい、奥から出てくるなんて」

「伊勢谷さん」

「おおっ、稲葉(いなば)さん。随分と久しぶりだな」

「伊勢谷さんこそ。毎度、ご贔屓して頂き嬉しいですよ」

 

 伊勢谷に挨拶しつつ稲葉と呼ばれた男性は、俺を見て少し微笑った。

 俺は目を疑った。

 自分自身がまるで鏡合わせのようにそこにいると錯覚したかのように。

 灰銀色の短髪、口髭、纏う雰囲気、声色。

 眼の色だけが明らかに違う、本当にそれだけで髪型さえ変えればそこにいたのは自分自身なのだから。

 向こうもそれを感じたのか、納得がいったように頷く。若い衆の男達も、楓も、その時ばかりは動きが止まった。そして俺と彼を見比べていた。だけどそれも一瞬だったな。また忙しなく雑務に追われる。

 稲葉諒(いなばりょう)は珍しく共にきた俺達、芸者衆へ激励の言葉を贈ってくれた。

 

「芸者衆の皆さん。今晩も一つ、派手にお願いしますよ!」

「旦那様のお願いとあったら盛り上げないわけには参りませんな!」

 

 酒井は俺と池さん、夏さんに振り向いて陽気に振る舞った。

 

「そうよね!」

「自慢の喉を一つ鳴らしましょう!」

零無(レム)。どうした? 旦那様に見惚れて」

「いいや! 何でもない! ここは一つ、バシッと決めましょう!」

「なかなかノリの良い幇間だ。アンタ、名前は?」

 

 稲葉諒は俺に声を掛けた。

 褐色に近い瞳を興味深いように煌めかせて。その口を微笑ませて。

 俺は名乗った。自分自身に声をかけるように。

 

零無(レム)。俺は零無だ」

「零無か。私はここの楼主、稲葉諒(いなばりょう)。桜華楼を仕切る親父だよ」

 

 彼らはそれぞれ名乗ると諒は楓に声を掛けて、奥へ消えた。

 

「じゃあ、楓。後は任せた。伊勢谷さんを盛大にもてなしてくれ」

「はい。旦那様」 

「では芸者衆の皆さん。今晩も一つ、盛り上げてくださいな」

 

 階段を上がると伊勢谷が好んで使う座敷へと向かう。もうそこには酒や肴が運び込まれて準備万端。芸者衆の俺達も指定の席にてまた賑やかなお囃子を演奏し始めた。

 菖蒲(あやめ)花魁はその間はいわゆる衣装替えで、花魁道中の服装から座敷にて着替える着物へと着替えている。流石にあの衣装では床入りは無理があるよな。

 伊勢谷は宴会の最中、諒の女房の楓に声を掛けた。

 

「あの幇間、そういえば諒さんによく似ているんだよな」

「伊勢谷さんもそう思いますよね。私もつぐつぐそう思います」

「あんまり見掛けない髪の毛だし、どことなく雰囲気も日本人のそれとはちょっと違う。半人半妖かな。彼も」

「諒は何だか納得している様子でした。きっと何かしら考えているのでしょう。さあ、伊勢谷さん、お酌致しますからお呑みになって!」

「楓さんにお酌して貰うなんて嬉しいじゃないか」

「これも菖蒲の為ですよ。あの子にはせいぜい稼いで貰わないと」

「ふふふ……流石、女郎屋の女房は言葉のドスが違うね」

「フフフ……そうかしら?」

 

 その頃。

 自分自身にそっくりの幇間に直に会った稲葉諒は、あの幇間、零無を内芸者に迎える事に決めた。

 あいつの自分自身に会ったような姿に肝を冷やすような顔もせず、堂々と自分自身の名を名乗る潔さといい、あの男をただの幇間にしておくのは惜しい。

 あいつなら、いや彼なら、自分自身にはできない事を代わってやってくれるのでは?

 稲葉諒は内所からふと覗く夜の桜の花を観て一人、呟いた。

 

「なるほど。確かに俺に似ている……。あの零無という男は寧ろ我々の為に天が遣えてくれた芸者かもな」

 



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10話 桜華楼の日常

 伊勢谷半蔵と菖蒲(あやめ)花魁を迎えた桜華楼の座敷の宴は大いに盛り上がり、無事に寝床へと送り出した後に、もう一つの宴もこなした。

 桜華楼の初回の客人、中尾裕二の宴である。中尾さんは伊勢谷とはビジネスを通して知り合った男性で伊勢谷の取引相手として、そしてビジネスパートナーとして日々を過ごす人物。

 桜華楼に来たのは伊勢谷が面白い場所へ連れて行ってやるとの事で興味本位で来たらしい。

 初回という事で桜華楼も盛大に(もてな)している様子だ。引手茶屋を通してきた客人なら将来的には馴染みとして来る可能性も高い。妓楼としても大手の客人を逃すまいとご機嫌うかがいは念入りにしている。

 初回だがそれでも相手となる遊女は2枚目花魁の孔雀(くじゃく)を指名した辺りは流石という事か。この孔雀花魁も華があり、かつ孔雀のように艶やかな人物だ。

 桜華楼の今は、看板花魁の菖蒲(あやめ)、2枚目花魁の孔雀(くじゃく)、そして3枚目花魁の杜若(かきつばた)の三人衆が主な稼ぎ手だ。

 最近では振袖新造の薄紅(うすべに)も結構話題にあがっている。

 中尾裕二の宴の面倒は喜兵衛という若い衆が見ている。喜兵衛は実に忙しなく雑務に追われている。

 彼は廻し方と呼ばれる若い衆で遊女の中には、「あの客は野暮だから行きたくない」と振る遊女もいる。そんな彼女らを何とかなだめるのが喜兵衛の役割なのだ。

 宴は今の所は滞りなく順調に進んでいる。

 しかし、何かと悶着があるのも遊廓であり……。

 

「お内所! 梅の間でお客さんが文句言ってるよ!」

「何て言ってるだい?」

「せっかく気分出しかけたのに小便を漏らしやがって! だってさ」

「仕方ない。私が出張るかね。喜兵衛は中尾さんの世話で手一杯だし」

「わざわざ内所が出張らなくとも、賢治(けんじ)をまわせばよろしいのでは?」

「そう思ったならさっさとまわしな」

「はいはい。わかりましたよ」

 

 その問題の梅の間では客人の一人が文句を言いまくる。

 それを賢治という若い衆が聞き役として駆けつけた。

 

「も〜! 何だい!? こっちが気分出しかけた所で小便漏らしやがって!」

「申し訳ございません。しかしね。旦那。旦那衆の中にはこういうのを好む旦那も少なからず居るんですわ。さあさあ。気分転換に酒でも!」

「冗談じゃないよ! 俺は変態じゃないっての!!」

「わかっております。旦那。火の元、出元、火の用心!」

 

 すると奥から遊女が申し訳程度に謝る。

 

「ごめんなさいねぇ」

「うるせえ! てめえなんか知らねぇってんだ」

「まぁまぁ、酒でも飲んで気分転換しましょ」

 

 すると遣手婆(やりてばばあ)夕月妙子(ゆうづきたえこ)が遊女の部屋にくる。

 妙子は見下した表情で遊女に釘を刺す。

 

「アンタはこれで何人の客を振ったんだい!? 座敷持ちから格下げするよ」

「あんな割床でするのは嫌だよ」

「だったら、さっさと廻しをしてきな! 客を取らないとここから出ていけないよ! 永遠にね」

「うるさい遣手婆だね」

 

 遊女は捨て台詞を吐いて、他の廻しの客の下へと向かう。

 妙子は腕を組んで、毒を吐いた。 

 

「五月蝿く無かったらここの遣手婆は務まらないんだよ!」

 

 そして松の間で盛り上がる座敷に目を向けた。

 どうやら喜兵衛は上手くやってる様子だ。

 しかしながらまだまだ彼女の仕事は山積み。 

 

「お妙さん、あちらの部屋の客人が俺の所に女来ねえぞって」

「その客人の相手は?」

紫紺(しこん)の筈です」

「紫紺は他の座敷に廻っているからね。どうにかしてその客人を宥めておやり」

「へい。誰が宥めますか?」

「お前しか居ないだろう? 友吉!」

「あっしがですか!?」

「お前、桜華楼に何年勤めているんだい!?」

「もうかれこれ3年弱」

「なら客を宥めるのも若い衆の勤めだろうが。行ってきな!」

「へ、へい!」

「ったく。腰抜けだね、友吉は」

 

 妙子は溜息をして細部を観る。

 着物の乱れがあればその場で注意。

 草履の乱れがあれば整えて、祭騒ぎのような喧騒の2階を周りながら、遣手部屋に戻り、煙草を吸った。

 妙子は居住空間は遣手部屋として充てがわれている。そこで寝起きし、三度の食事も摂る。

 

「おしけでございます」

 

 何処かで「おしけ」の声が掛かった。

 床入りの時間だ。

 遊女稼業の時間はこれからだ。

 客の男を徹底的に満足させておやりよ?

 妙子は薄い微笑みを浮かべて煙草を吸った。

 

「おしけでございます」

 

 この言葉が来て、俺達の仕事が終わった事を告げられた。

 今日だけでどれだけ騒いだのだろうか?

 池さんも流石に喉が渇いているのか若い衆の喜兵衛にお茶を貰っている。

 酒井も肩を回して凝ったように首を傾げる。

 夏さんも肩を少し触れて凝り具合を診ている様子だ。

 この日の最後は楓姐さんから祝儀袋を貰ってから長屋へ帰る。

 楓姐さんの手からそれぞれの芸者衆に祝儀袋を手渡す。

 俺に最後に手渡した後に楓姐さんは言った。

 

「明日の朝にうちの若い衆が零無(レム)さんの所に来ますので、話を聞いてやってくださいな」

「は、はい。わかりました」

「それでは皆さん。本日もお疲れ様でした」

 

 暖簾を潜り、仲の町の雑踏に戻る。

 今宵も春の宵を売る女の廓を出れば、夜空には徐々に満ちていく月が見えた。

 月夜に照らされながら、それ以上に明るい電飾の行灯に、照らされながら帰り道を歩く俺達だった。



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11話 桜華楼の内芸者

 仲の町の雑踏で池さんと夏さんと別れた俺達は長屋に入って早々、お互いに愚痴を言い合った。随分と先方は祝儀を弾んでくれるのはいいが、芸者衆をこき使うのは如何なものかと。

 

「あ〜っ! 騒ぎ疲れてマジでダルい! さっさと布団に入りたいぜ」

「今日だけで数日間の宴をやった気分だよ。幇間って結構疲れるよな」

「あ〜あ。明日だけはせめて休ませてくれよ。俺は気力は使い果たしたわ」

「俺もだ。さっさと布団敷いて寝るか。今夜は疲れて変な夢を見ないで済むかも」

 

 桜華楼にて一応、宴の席にて夕食らしいものは食べたからな。

 長屋に帰って来たのは夜の22時を過ぎていた。

 浴衣に着替えて、俺達はさっさと眠りにつく。あ〜……俺も気力は使い果たしたよ。寝よう。

 

 そうして、妙な夢も余りの疲れで見ることもなく夜が明けて太陽が昇る頃……。

 

「すんません」

 

 扉を叩く音が俺達を起こす。

 酒井は何だよ……みたいな雰囲気だ。不平そうに起き上がる。

 

「すんません。こちらに零無(レム)さんはいませんか?」

 

 扉を叩きながら俺の事を呼ぶ若い衆が外にいるらしい。壁に飾られている時計を見た。おいおい……まだ朝の7時じゃないか。随分と早い時間だな。

 気だるそうなのは酒井だけじゃない。俺も気怠いのだ。まだ疲れは取れていないぞ……。

 

「こんな朝っぱらに何だよ……。出てやれよ、零無」

「仕方ないな」

 

 扉を横に引くと若い衆の一人が外で俺を待ちかねたように声を掛けた。

 

「どうも! 零無さん、ですね」

「なんですか? こーんな朝っぱらから。こちとら結構疲れて居るんですよ?」

「そんなお疲れの零無さんに通知書が届いております。はい、これ」

 

 封筒に入った通知書がきたよ。

 一体、何の通知だ? 今日も桜華楼の宴会に出ろってんならお断りだぞ。

 俺にきた通知はそれ以上の通知だった。

 俺は通知書を届けにきた若い衆に確認する。

 

「この通知は本気か?」

「ええ。正式な通知でございます」

「おい。零無、どうした?」

「俺に桜華楼の専属の幇間、内芸者になれという通知だよ」

「内芸者!? 桜華楼の!?」

「読んでみろよ、ほら……」

 

 その通知書を酒井にも見せた。

 通知書にはこう書かれていた。しかも、桜華楼の楼主の直々の筆だ。

 

『見番登録28番の幇間、零無(レム)を我が桜華楼の内芸者としてお迎えする。御本人に宜しくお伝え戴きたい。本日の午前11時に桜華楼へ登録を済ませたい。幇間、零無に宜しく。 稲葉諒(いなばりょう)

 

「お前……とうとう内芸者か! やったな、おい!」

「何でも芸者の池本(いけもと)さんも同様の通知を頂いたそうですよ」

「池さんもか! 桜華楼も大見世になる為に内芸者を抱える事にしたのか!」

 

 俺はというと、やっぱりあの伊勢谷の宴会の時に直に会ったという事は向こうが最後の確認を取る為にあの楼主が出てきたんだ……という気分だった。

 必要な手荷物を持って午前11時までに桜華楼へ向かわないと。なら、こんな朝っぱらに若い衆が来るのも納得がいく。

 疲れも吹き飛んだ俺は通知書を届けにきた若い衆に応えた。

 

「わかった。午前11時までに桜華楼へ、だな?」

「へい。宜しくお願いします」

「わかったよ、御苦労さん」

 

 この長屋での朝食もしばらくはしないと思った俺は、酒井と会話をしながら朝飯を食べる。今朝は酒井が内芸者になる俺の為になかなかのご馳走を出したね。

 白いご飯と昆布の佃煮と魚に(さわら)の塩焼きに、ほうれん草のお浸し、味噌汁を出した。

 酒井は俺が桜華楼の内芸者になる事を我が事のように喜ぶ。

 

「まさか、後に見番登録をしたお前が俺より先に桜華楼の内芸者になるとはな。悔しいけどよ、認めるしかねぇよ! 本当に」

「だよな。ここに来て1週間経ったかくらいだものな」

「余程、桜華楼はお前を気に入ったんだな。そうじゃなきゃこんなに早くお呼びはかからねえぜ」

「手荷物をまとめて桜華楼へ向かうのはいいが、内芸者になると何か良い事でもあるのかな?」

「その楼閣にもよるが、基本、食べるものには困らないと想うよ。向こうの賄い料理をこれからお前も食べる事になるし、な」

「ふーん。飯には困らないか。仕事はどうなるのかな?」

「基本的に幇間だから今までと変わらないとは思うぞ。ただし内芸者になるならそれなりに芸を磨く事を忘れるなよ?」

 

 酒井は教えてくれた。

 内芸者になりそれなりに人気を獲得すれば、一介の幇間とは思えない程の人気になり、遊女以上の人気を獲得して祝儀を貰える。

 お前を楽しみに客を呼び寄せてやれば、自然と遊廓も待遇を優遇するようになる。そうなればこちらも張り合いが出るだろう? と。

 面白そうだ。

 遊女すらも目に入らない程の人気者に、一つ、俺もなってみせるか。

 

 手荷物をまとめて持った後、一人の若い衆が迎えにきた。あれは桜華楼の若い衆の勇太ではないかな。

 無邪気そうな微笑みで俺を迎えにきた。

 

「零無さーん! お迎えに参りました! 手荷物、お持ちしますね!」

「良いのかい? 悪いね、助かるよ」

「旦那様が首を長くしてお待ちしておりますよ。行きましょうか?」

「ああ。酒井! 世話になったよ! 次はお前が来いよ!」

「向こうの返事次第たけどな! 桜華楼でも元気にやれよ!」

「ああ!」

 

 しばらく仲の町を歩くと、桜華楼の別の若い衆に連れられた池本さんに会った。

 

「零無さん!」

「池さん! おはようございます」

「聴きましたよ。零無さんも桜華楼の内芸者でしょう? 私もなんですよ」

「池さんも桜華楼の内芸者ですか。そりゃあ嬉しいですね。知り合いが一人いるだけでも心強い存在ですよ」

「零無さん、口か上手いんだから。そのノリが魅力的なんですよね」

「池さんの民謡だって魅力的ですよ」

「さいですな。うちの桜華楼としても、やはり内芸者に迎えるならばせめて、良い芸者と幇間をお呼びしたい。それで旦那様が御二方に声を掛けたんですよ」

 

 若い衆のもう一人の男性、妓夫の十郎太(じゅうろうた)が話した。流石に呼び込み専門。口の巧さは芸者衆に迫るものがある。

 そして京町二丁目の楼閣【桜華楼】にたどり着く。

 俺と池さんは暖簾を潜り、そして俺はこれから桜華楼の内芸者として、この吉原で物語を紡ぐ事になる。

 世にも不思議な鏡合わせの吉原を。



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12話 似た者同士の邂逅

 桜華楼の暖簾(のれん)を潜り玄関口に来る俺と池本さん。若い衆の十郎太(じゅうろうた)(かえで)姐さんを呼んだ。呼び込みをする彼の声はよく響く聞き心地の良い声であった。

 

「楓姐さーん!」

 

 奥の内所から楓姐さんが出てくる。

 朝の桜華楼は他の若い衆や遊女たちが朝飯を食べている様子や、仕事前の休憩時間という感じで割と和やかな雰囲気だ。

 楓姐さんがこれから内芸者になる俺達に声をかける。

 

「十郎太。今日も喉の調子は良さそうだね。その調子で今夜も頼むよ。それから、零無さん、池本さん。今日から桜華楼の内芸者という事で宜しく頼みますよ」

「履き物は下駄箱で管理しますので、そこにいる勇太(ゆうた)に預けてくださいな」

 

 俺達は履いてきた草履を勇太に預ける。

 彼はきちんと名前が書かれた札の下駄箱にそれを入れてくれた。

 そうして桜華楼にあがった俺達に楓姐さんは自分達の暮らす部屋へと案内される。1階の奥の方の部屋だった。

 この桜華楼は洋館のような造りで電飾があり、部屋もどことなく高級感を感じられる。和室と洋室があるらしく、俺達には和室を充てがわれるらしい。

 ちなみに芸者衆でも男と女が共寝とかはなく、きちんと別れて部屋を与えられた。

 俺は三味線の入った黒い箱を持ち、そしてその他の必要な身の回り品も風呂敷に包んで持ってきた。

 俺が与えられた部屋は畳敷きの部屋で八畳程の広さの部屋だ。割と太陽の光も当たる明るい部屋だった。布団は押入れに入っている。きちんと掃除されている。床の間もある。

 身の回り品と三味線を置くと楓姐さんが、ここの楼主に挨拶するように促す。

 

「零無さん。手荷物を置いたら早速、旦那様に会いに行きましょう。これから零無さんも桜華楼にて住んでいくのだから」

「は、はい。わかりました」

 

 手荷物と三味線を静かに置くと楓姐さんは楼主が鎮座する内所へと俺を連れて行く。

 内所では楼主の稲葉諒が禿(かむろ)と呼ばれる少女に肩を揉んで貰いながら、書類を読んでいる光景があった。

 服装は着流し姿に羽織ものを愛用している様子だ。側には火鉢が置いてある。煙管もそこに引っ掛けてあった。

 床の間には掛け軸もある。季節の花も飾ってあった。

 稲葉諒は部屋に入るなり俺に声をかける。

 

「最初、俺に似ている幇間(ほうかん)が座敷に来ていると聞いてこの眼で見たくなったよ。それで3回は幇間として来て貰って俺は確信した。アンタは腕の立つ幇間だ。そこでこの桜華楼の専属の芸者として呼んだのさ」

「……本当に見間違いじゃなくて、そっくりそのままだ。この吉原に俺にそっくりの人物を見るとはね」

「まあ……そこの座布団に坐りな」

 

 諒は煙管を取り出して咥える。

 煙草独特の煙が部屋に香った。

 諒は改めて俺の名前を訊いた。

 

「アンタ、名前は? 俺は稲葉諒」

零無(レム)だ。俺の芸名だよ」

「不思議な芸名だな。他の芸者にはない独特な名前だな」

「何故か知らないけどこの名前で通ってきた。かえって覚えやすいからな」

零無(レム)。あんたにはこれから桜華楼の専属の幇間になって貰う。居室は楓に案内された部屋を使うといい。ここはそこそこ宴があるから出番は多いぜ?」

「知っている。いよいよ桜華楼も大見世になるって皆、噂をしているよ」

 

 諒はニヤリと微笑むとその褐色の眼を輝かせて言った。

 

「この吉原で大見世になることは人気の妓楼の証明だ。当然、その人気は今の花魁衆が支えてくれているから。だけどな。主役は確かに必要だがな良い舞台というのは当然、脇役も必要だからな。その脇役がそれなりに話題性に優れるならそれもありって話さ」

 

 そして俺の意気込みを聞いてきた。

 

零無(レム)。あんたはここでどんな活躍を見せてくれるのかな?」

「俺は……。こう思ったね。遊女すらも目にもくれない程の人気者になってやろうかなと」

「言うね。ここの主役すらも上回る脇役になろうとは。気に入ったよ」

「まずはここの生活や掟を学んでくれ。そのうちこちらからあんたに頼みたい事がある時は楓から話すから」

「宜しくお願いね。零無さん。私のことは姐さんで通るから、そう呼んでくださいな」

「はい」

「後は、この部屋で個人的に呼び出す時は、そんなに肩肘張らないでくつろいでくれ。俺もあんたも似た者同士。まあ、折り合いは付けていこうや」

 

 諒は褐色の眼を優しく輝かせて、声色も気軽にしてくれという感じで柔らかくした。

 何だかそれが余計に艶やかに見えた零無。

 この稲葉諒は不思議な艶やかさがある。丹精に手入れされた髭や灰銀色に輝く髪の毛が、太陽の光を浴びると独特の光沢を帯びる。

 それはまるで人に化けた狐のように見えた。

 

 やがて、零無は桜華楼にて大人気の幇間として名を馳せる。

 遊女すらも無視する程の人気者に。

 嫉妬すらも追いつけない。

 羨望すらも寄せ付けない。そんな人気を獲得する事をこのときの彼はまだ知らないでいた。

 



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13話 記憶の底にある歌

 池本さんと俺の部屋は割と近い位置に部屋割りはされている。内芸者となった俺と池本さんは荷物の整理か終わる頃には、桜華楼の(まかな)い飯を食べる。

 賄い飯は一階の大部屋で遊女達と共に食べる。

 しかし席は内芸者と遊女は決められている様子だった。

 俺達は大部屋の隅の席にて昼飯を食べていた。

 賄い飯は飯番(めしばん)と呼ばれる男達が作ってくれている。どうやら一人でこの業務をこなしているらしい。

 賄い飯の内容は、白いご飯に沢庵、南瓜(かぼちゃ)の煮物に、里芋の煮っ転がしあたりと味噌汁が出てきた。魚とか肉はあんまり見掛けない。

 

「これが桜華楼の賄い飯か。さすがにこんな大所帯では魚は出ないよな」

「でも、この里芋の煮っ転がしは醤油がとても良く効いていて美味しいですね」

「地味に生姜を効かせているのも良いね」

 

 俺と池本さんはお互いに向かい合って食事を摂っていた。

 俺は浴衣姿。池さんも浴衣姿だった。

 すると池さんはこんな事を俺に話した。

 

「折角、内芸者になれたのに、新しい芸が無いというのも何だかと思うんですよね。零無(レム)さん。何か良い歌、知りませんか?」

「歌ですか?」

「零無さんなら何か新しい歌を知ってるかもと想いまして」

 

 歌か。そういえば生前の世界でも結構、好きな歌があったな。殆ど生前の記憶を失ったとはいえ歌というのは記憶の底にあるものだと俺は思う。だけどこの食事を摂っている時はそれを想い出す事はできなかったのだ。

 その記憶を探ろうとすると(もや)かかかったように朧げになってしまう。

 その靄の向こう側から女性が呼ぶ声が聞こえる気がする。

 

「すまない。池さん。ここでは思い出せないかな。知ってる歌ならあるかもしれないけど静かな場所じゃないとどうもね」

「お構いなく。私も急いでいる訳ではありませんから。とりあえず食事を済ませてしまいましょう?」

「それもそうだね」

 

 昼飯を食べたら、しばらく休みをはさんで、ここの女主人、楓姐さんから今宵の酒宴などの確認をする。

 中見世から大見世になろうとしている桜華楼はそこそこ馴染みも初回の客人も訪れる妓楼だった。座敷ではそれこそ毎日がどんちゃん騒ぎ。浮世の辛さを忘れる為に訪れる吉原は世の極楽みたいな場所だ。

 世の極楽ねぇ。結構な話だが、遊女からすれば地獄とも呼べるのでは。まあ桜華楼の内芸者がこんな事を口走るのは禁句なのであんまり触れないでおこう。

 自分の部屋に戻り三味線の調子を合わせると、少しだけ目を閉じた。まだお祭り騒ぎがされていない妓楼は、そんなに殺気だっていない。

 

『ねぇ。レム。この歌、覚えている?』

 

 不意に靄の向こうから女性の声が聞こえて、歌が聴こえた。

 誰だろうか?

 そのメロディーラインも歌詞もどこかで聴いた事のあるものだった。

 目を閉じて、その歌詞とメロディーを拾う事に集中して、記憶に焼き付ける為に慌てて側にある適当な紙に殴り書く。

 万年筆のインクが少し滲んでいたが、殴り書いた歌詞と記憶に焼き付けたメロディーを近くの部屋にいるはずの池さんに見せに向かった。

 

「池さん。池本さーん。居ますか?」

 

 部屋は和室だから障子を横に引いて池本さんが顔を見せた。

 

「あら? 零無さん。どうしたのですか?」

「民謡かどうかは知りませんけど、これは池さんは知らない歌かなと思いまして。この部屋では怪しまれるので、そこの広間で話したいのですが」

「もう新しい歌を教えてくれるのですか? ちょっとビックリです」

 

 広間の机を借りて俺と池本さんは新しい歌の話をする。そこには多数の若い衆も興味深く覗きに来ている。

 殴り書いたメモと一緒に記憶に焼き付けたメロディーラインを池本さんに教えた。

 すると池さんは呟いたのだ。

 

「どの民謡でも聴いた事のない旋律ですね。でも、確かこういうのハイカラって言うんですよね。これは確かにちょっとした出し物には丁度良いかもしれません」

 

 若い衆の一人の友吉(ともきち)が、その話を立ち聞きしていたので彼はこう表現したよ。

 

「いわゆる流行歌というやつですかね。面白そうじゃないですか。これが好評だったら御二方の固有の特技として、桜華楼にもひとつ、個性が生まれるかもですよ」

 

 友吉の側にいた若い衆の一人、賢治(けんじ)も熱心に頷く。

 

「さいですな。この余興が受ければ桜華楼にもひとつ、名物が生まれてそれを目当てに客人も来るかもですな」

「そうすれば桜華楼も番付に載ってさらなる売上も増えて、あっしらもいい物を食えたら嬉しいなあ」

 

 若い衆はささやかな希望を口にするが楓姐さんが来ると少し怯える様子になる。

 どうやら楓姐さんはここではかなり恐れられているらしい。

 品のある着物姿で腕を組む姿にはかなりの迫力を感じた。

 まさに、姐さんなのだ。

 楓姐さんはそろそろ開業時刻が迫って来ているので若い衆に気合を入れる。

 

「さあ! 今夜も馴染みが来るんだ! お前ら、ぬかるんじゃないよ!」

「へ、へい! 姐さん!」

「池本さんに、零無さんも、桜華楼の内芸者として店に泥を塗る真似はしませんように」

 

 俺達は顔を見合わせて返事を返す。

 

「やってみせましょう」

「ええ。じゃあ、零無さん。この歌は時間がある時に練習しておきますね」

 

 そうして。今宵も桜華楼の長い一日が始まった。



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14話 新しい演物

 流行歌を一曲思い出した日の夜にて、早速それが歌われる事になるとは俺は思ってなかった。

 しかし。そこは民謡の歌い手である池本さんがきちんとそれを覚えてくれていたので有り難いとしか言いようがない。本当に池本さんの歌い手としての力は脱帽するしかない。

 その夜に来た馴染みの名前は、安本(やすもと)さんという人物でつい最近、桜華楼に登廊するようになった人物。相手となる遊女は三枚目花魁の杜若(かきつばた)だ。

 座敷は竹の間で内装は気品を感じられる。松竹梅の名前を付けられているだけあり、専ら花魁衆と馴染みが先約を取っている。

 その他の座敷は実は番号で呼ばれる。例えば八番とか七番とかそんな感じだ。

 だが、ここは桜華楼という名前の通り、桜華の間という座敷が一番高級な座敷である。商標の八重桜が豪華に誂えられた座敷は圧巻の一言。そこは看板花魁と馴染みが使う座敷として有名だ。その座敷を使いこなせる者が、桜華楼のお職と呼ばれる花魁なのだ。

 今のお職は菖蒲(あやめ)花魁だね。彼女はここではそろそろ身請けも近いと噂されている。

 俺と池本さんは竹の間で酒宴が開かれるので初仕事は竹の間で始める。今は若い衆が酒宴の準備に追われて仕出し料理屋からの料理を運んだり、徳利を持ち込んだりと慌ただしい。

 池本さんと俺は、外から招かれた幇間(ほうかん)である中村さんと、芸者の萩原さんと再会を果たしていた。

 

「池本さん! 零無さん! 噂には聞いてましたけど、本当に桜華楼の内芸者になったんですね!」

「御二方の噂は私達の耳にも届いてますよ」

 

 中村さんと萩原さんは内芸者となった俺と池本さんを眩しいものをみるように羨望とも憧れとも取れる言葉で話してくれたよ。

 

「しかも桜華楼はこれから大見世になろうと息巻いている人気の妓楼。零無さんも池本さんも良いところに内芸者になりましたね」

「今夜が初仕事だけどね」

「それで池本さん。こんな所に呼び出してどうしたのですか?」

 

 俺達、芸者衆は実は竹の間にはまだいない。

 その前に打ち合わせをするために個室を借りたのだ。芸者衆もそれなりに準備は必要だから楓姐さんが用意してくれたよ。

 池本さんは中村さんと萩原さんに楽譜を渡した。あれから池本さんと俺はその曲を楽譜に起こす作業をしていたのだ。

 中村さんと萩原さんは熱心に楽譜を読む。

 二人して頷く。

 

「これは流行歌ですね。しかもどの流行歌にはない新規の歌だ。零無さん。こんな特技を持っていたんだ」

「弾けます? この曲目」

「大丈夫そうです。思ったよりも弾きやすそうね」

「僕もこの曲ならぶっつけ本番でも楽譜があれば何とかなるかも」

「初仕事に萩さんと中村さんに会えたのは丁度良かったですね」

「多少は気心知れた仲なら、頼みやすいよ」

「でも、初仕事で流行歌を演物(だしもの)って。零無さんも大胆だね」

「今夜の座敷の馴染みさんがどうもいつもの宴では飽きてきているという話を聞いてね。こんなのどうですかねと楓姐さんに相談したら、やってみせてほしいと」

「そういう事ですか。ならやるしかないてすね」

「では座敷にて宜しくお願いします」

 

 こうして打ち合わせは終わり、どうやら下の階が騒がしくなった。

 どうやら馴染みが登廊してきた様子だ。

 俺達、芸者衆は頷いて、そして竹の間へ楽器を手に向かった。

 

「楓さん。桜華楼はとうとう内芸者を抱える事ができたのだろう? 桜華楼の内芸者はどんな芸が得意なのかな?」

「はい。何でも、ハイカラな演物をするから驚かないでほしいと」

「へえ。ハイカラな演物ね。どんなものなのか見物させて貰うとしようかな」

「実は今夜がその彼らの初仕事なんですよ。気に入って戴けたらご祝儀を弾んであげてくださいましね?」

 

 楓姐さんに紹介された俺達はその初仕事を始める。とりあえず場の進行役は俺だった。

 

「どうも! 旦那! 桜華楼の内芸者、零無(レム)でございます! 初めての演物にご興味を頂いてありがとうございます」

 

 こういうの俺の人柄では無いがとことん愛嬌は振る舞う。

 幇間(ほうかん)は陽気な男じゃないと受けないからな。

 

「おう。なかなかノリの良い幇間じゃないか。こういう奴、少なくなったんだよ」

「旦那は焦らされるのはあまりお気に召さないでしょうか? あっしら、何せ、初めての演物でして、ちょっとばかし緊張しているんですよ。何、お時間は取らせません」

「吉原って所は焦らされるのが粋の場所だからな。しかしなぁ。演物が気になってしょうがない。準備は出来たのか?」

 

 俺は後ろを振り向いて池さんと萩さんと中村さんに合図する。

 何時でもどうぞと合図を送った。

 

「準備は出来ました。では。新作の一曲をどうぞご堪能ください」

 

 出だしは三味線から入るんだな。これ。

 

【歌】

 

昔 とある集落で語られた

誰も知らないはずの御伽

忌み子 鬼の子として

誰にも見向きされないで

その子は世界へと刃を剥けた

 

悲しい事はあるけれど

誰にも話せない少年は

とある少女に出会ってからは

笑顔を取り戻してさ

 

知らない 僕は何も知らない

人の暖かさも 思いやりも

何も知らないで生きてきた

だけど君がここから去って

それがやっとわかったんだ

知らない 僕は何も知らない

涙も 悲しみも

だけど君がここから去ったら

心に穴が開いたのさ

 

彼は忌みの子 鬼の子と

蔑まされ そして生きてきた

誰にも知られない御伽

 

君は突然 話しかけ

そして僕を止めたんだ

そんなの僕にはわからなかった

 

悲しい事は誰にもあるよ

だけど 君が僕に話しかけたら

そんなの吹き飛んだよ

 

知らない 僕は何も知らない

人の心も温かさも

だけど君がここから去ったら

急に寒さを感じたよ

知らない 僕は何も知らない

温かい涙も 哀れみも

だけど君がここから去ったら

心に穴が開いたのさ

 

冷たい雨が二人を包む

忌み子と同じ少女が一人

 

知らないで 知らないで生きてきた

今までの孤独を受け入れて

だけど君がここから去って

寂しい気持ちがわかったよ

 

知らない 僕は何も知らない

人の愚かも 侘びしさも

だけど君がここから去ったら

心にぽっかり 穴が開いた

 

 文章で旋律を伝えられないのはじれったいね。

 これが俺が、不思議な夢の女性から教わったあの歌だったんだ。



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15話 水揚げの儀式が迫って

 新しい演物(だしもの)として流行歌を一つ披露した俺達、芸者衆は今は王道の芸に戻り座敷を盛り上げていた。

 虎虎(とらとら)と呼ばれるお座敷遊びの定番の踊りながらのじゃんけん。

 金比羅船々(こんぴらふねふね)という、童歌(わらべうた)のような歌を唄いながら台の上に載っているものを駆け引きを交えながら取り合う遊戯(ゲーム)

 お座敷遊びの初めの演物として、安本さんは俺達芸者衆に最大の褒め言葉を添えてくれたよ。

 

「ハイカラな演物って言うから何だろうなぁと思っていたら流行歌とはね。しかも私も何個か流行歌は聴いた事があるがどの流行歌とも違う。面白い宴だったよ。楓さん」

「あの零無(レム)という内芸者はいかがです?」

「ノリの良い幇間(ほうかん)だ。ちょっと不慣れっぽいけど陽気な部分は気に入ったね」

「それは何より嬉しいです。彼らへのご祝儀は?」

「それなりに弾ませて貰うよ」

「ありがとうございます。安本(やすもと)さん」

 

 あの流行歌は座敷から漏れていたらしいが、後で聞いた話だが、あのときは随分と桜華楼の中は騒然としたらしい。

 隣の座敷も一体何の曲が歌われているのか知りたい衝動に駆られたらしい。

 誰も、彼もが、聴いた事がない流行歌で、今度の座敷は俺達を迎えて一つ酒宴して、吉原の新しい演物を見物してから床入りしようか? そんな話になっているらしい。

 これは思っていた以上に受ける演物かも知れない。

 内芸者である池本さんと俺はそんな感想を言い合った。

 そんな演物も今は終わり、共に組んだ幇間(ほうかん)、中村さんと萩原さんはそれ以降の宴にも参加していた。

 

 そうして宴もたけなわになり、床入りの合図の「おしけでございます」が宣言されて本日の仕事を終えたと思った矢先だった。

 俺は楓姐さんから呼び出しを受けた。

 

「零無さん。旦那様がお呼びになっております」

 

 その頃。

 稲葉諒は桜華楼に引かれた固定電話で実は伊勢谷と何やら話し込んでいた。

 

「伊勢谷さん。別に今晩で無くても宜しいので水揚げの儀式を頼めませんか?」

『悪い。諒君。しばらく桜華楼にはこれそうに無いんだよ。戦争が間近に迫っていて、私の会社では戦闘機の生産が上がり、今が稼ぎ時だからね』

「でも、伊勢谷さん自ら、売買契約を取る訳では無いでしょう?」

『それがねぇ、今回の契約は国が相手なのだよ。うちの会社は飛行機というか戦闘機の会社だからね。今のうちに戦闘機を納品してどうやら何かをしでかすつもりらしい』

「困りましたね。伊勢谷さん程のベテランに頼むしかないのですよ。遊女の水揚げは」

『こちらとしてもやりたいんだがね。どうやら世界は戦争でも始める気でいるぞ。我々としては見逃せない時期なのだよ』

 

 そこで伊勢谷は稲葉諒にあの気になる幇間(ほうかん)を自分の代わりに水揚げをさせればいいだろうみたいな提案を出す。

 

『彼女らの水揚げが初老の男性で無ければならないならお前がすれば良いのでは?』

「それが出来ていたらとっくにやってますよ。楼主たる者は遊女の水揚げはしてはならないのですよ?」

『じゃあ、お前に似ているあの幇間ならどうだ? 彼も顔を見る限り、性の経験豊富な顔をしているぞ。"知りません"って奴じゃない』

『お前の事だからな。そういう目論みで内芸者に迎えたのだろう? ならやらせてみればいい』

 

 まあ確かに水揚げを頼むにはこの上ない身代わりになる。本当なら伊勢谷に頼んで水揚げの代金として新造の揚代、30日分を請求すると売上としては最高なのだが。

 しかし、既に初潮を迎えた遊女を何時までもタダ飯食わせておくのも腹ただしい。

 この際、水揚げをあの零無に頼むか。

 水揚げの儀式さえ終われば遊女には客をどんどん取らせて、すぐに30日分くらい取り戻せるだろう……。

 

「わかりました。これから戦争になって忙しくなるでしょうけど息抜きに来てくださいよ。待っておりますから」

『本当にすまないね。後日に改めて頼むよ』

 

 電話をきった。

 夜もだいぶ更けて来たな。

 この時間帯ならみんな床入りをして、芸者衆はもう自室へと帰る頃合いだろうな。

 諒は楓を呼び出し、零無を連れてくるように若い衆に言伝を頼む。

 程なく楓から呼び出しをされた零無は、稲葉諒がいる私室にて、こんな事をおくべもなく訊いた。

 

「なんですか? 一体?」

「お前を見込んで頼みがあるが、二個、三個、確認させて欲しい。お前、いま年齢はいくつだ」

「45歳だが」

「女との性行為は馴れているか?」

「随分と踏み込んだ質問だな。全くの初心者でもないよ」

「なるほど。お前に折り入って頼みたい事は、遊女の水揚げなのだ」 

 

 その場で固まる零無。

 それは一体、何の儀式だろうか?

 まさか……! 遊女との初めての相手に……?

 零無の予感は的中した。

 

「お前に頼みたい事は遊女の初めての客となり、彼女の初めての性行為の相手となって欲しい」

 

 彼はあまりに驚き、薄い紫色の瞳を大きく見開いてしまった。



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16話 遊女の水揚げ

 稲葉諒に突然、遊女の水揚げの儀式を頼まれた零無(レム)は念の為に訊いた。

 その遊女の水揚げとはどんなものなのかを。

 そして、何故、稲葉自身がそれをやらないかについてもだ。

 

「その遊女の水揚げとはどんな儀式なんだ?」

「お前、この遊廓に来て、小さな女の子が奉公に来ているのを目撃はしたか?」

「そういえばよく花魁達の側に女の子が居るな」

「女の子達はきちんとした理由(わけ)があって証文を作成して妓楼に奉公にきた女の子達だ。大概が家庭の都合だな。食い扶持(ぶち)を減らす為に、借金返済の為に売られてきた女の子達だ。彼女らは将来的にはうちの売り物になって貰う。その子達は禿(かむろ)と言われる」

「早い話が人身売買か。何処にでもそういう話は聞くね」

「その様子だと別の場所でも見かけてきたと言いたげだな」

「で、話を続けるが、俺や若い衆の男達は実は遊女との体の関係は強く掟により禁止されている。昔からの慣習でね。そうしないと遊女達との恋愛が起きて女郎屋を営む俺達の首が回らなくなるし、生活も成り立たなくなる。こっちも生活がかかっているんだ。そのために掟がある」

「……」

 

 零無は黙って内所の部屋にて窓の外の景色を眺めた。

 顔は少し憮然としている。

 稲葉諒は説明を続ける。

 

「彼女らにはしかし、来るものがくるまでは客を取るのを控えて貰っている。まだ"それ"が来るまでは一人前の女性とは言い難いからな」

 

 零無はそれが何かわかった。

 女性の月に一度くる、生理と言われるものだ。

 なるほど。生理がくるまでは客は取らせないのか。

 その女の子に初めての月のものが来たら……。

 

「露骨な表現だが初潮を迎えて、それが終わった直後。彼女らには初めての性行為に及んで貰う。そのために必要なのが、女の扱いに手馴れている初老の男性だ」

「まさか、俺がその初老の男性だと言いたいのか? まだまだ衰えはしないと思っているがね」

「この時代では、45歳は"初老の男性"に数えられるんだよ。ここまで話せば後はわかるだろう? 彼女らの初めての男性にお前になって欲しいんだ。見た目は俺に似ているから彼女らも少しは安心してもらえたら目論見通りだがな」

 

 しかし思う所もある。

 零無もここの内芸者だ。つまりは若い衆との立場と若干似ている部分がある。

 厳密には若い衆ではない。

 しかし桜華楼に勤務する内芸者だった。

 だが、大法にも抜け道はあるのが常である。

 零無はここに来て日が浅い。

 しかも、禿(かむろ)達は零無の姿を目の当たりにしている機会はあまりない。

 しかも、明らかに余所者の顔をしている。

 日本人のそれとは違う外見はこの上ない利益になると、諒は踏んだのだ。

 この男性に自分ができない事を頼むにはうってつけであった。

 零無は諒に訊いた。 

 

「俺に利益はあるのか? 確かに女の初めてを奪うのは男冥利に尽きるが、もっと具体的な利益は?」

「利益……か」

「お前、ここに来て、こう言ったな? "遊女すらも目にくれない程の人気者になる"と。その人気を彼女らからも集めてみないか。お前に夢中にさせる事が近道になるとは思わないか?」

「彼女らにとっての生き甲斐となるならお前を桜華楼の専属の幇間にした俺も助かるし、お前は遊女からの支援も期待できるぞ?」

 

 これは稲葉諒からの商談だと零無は感じた。

 それをしなければたぶん、ここを追い出されてしまう。

 割り切るしかないな。

 この桜華楼で、俺に似ているのが楼主で、楼主にできない事をする為に呼ばれたなら、何だってやってやる。

 もう、元の世界になど戻れる術などないのかも知れないなら……。

 

「わかった。その役目は引き受ける。具体的なやり方の指南はお願いしたいな」

「……助かるよ。直近に迫っている水揚げは二件程ある。やり方は若い衆の友蔵(ともぞう)十郎太(じゅうろうた)に聞いてくれ。後は二階を仕切るお(たえ)さんにも、指南を仰ぐといい」

「直近に控えているって何日後に?」

「明日の夜から一人目が控えているよ」

「明日の夜!?」

 

 零無は驚いた。

 確かに女を抱いた夜はあったにはあったが、随分、いきなりな話である。

 それまでに覚悟を決めるとか難しくないか?

 稲葉諒は驚愕して薄い紫色の眼を見開く零無に笑った。

 

「そんなに驚くなって。とりあえず今までしてきた通りに女を抱いてやればいい。多少の禁じ手はあるけど基本的にその禁じ手も実践して貰うからさ」

「花の吉原の床入りに禁じ手なんかあるのか?」

「もちろんあるとも。それはまあお妙さんが詳しく教えてくれるだろう。お前がする事は明日は客人の一人になり、性の手ほどきを彼女にする事だ。そして一端(いっぱし)の遊女として仕込んでやってくれ」

 

 宵も更ける深夜2時。

 零無は居室にて布団で横たわりながら考えを巡らせていた。

 明日の夜。俺は誰かの夜の相手になる。

 生前の記憶でも、そんな夜があったような気がする。

 身体的に疲れても、精神的には、衝撃的な依頼もあり目が冴えてしまって眠れずにいた。

 それにしても、女郎屋の主ともなると、あんなに淡々と割り切れるものなのだろうか?

 それとも、元より性格が冷淡なのだろうか?

 鏡合わせの吉原が零無を深く、艶やかな世界へ誘っていく……。

 



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17話 儀式当日の朝

 何かとんでもない話になった。

 あれから一夜明けて、今日は遊女の水揚げがあるらしいので、桜華楼の中は朝から慌ただしい。

 俺は妓夫(ぎゆう)を務める十郎太を捜していた。妓夫(ぎゆう)とは客の呼び込みで、外で見物する男達に"どの娘がオススメなのか"とか、客の予算に応じてどの遊女なら床入りできるかを教える係だ。

 すると番頭である友蔵を先に見つけた。

 帳面を書きつつ、愛嬌たっぷりな笑顔で挨拶を交わす。

 

「おはようございます。零無(レム)さん」

「友蔵さん。おはようございます。そうだ。友蔵さんに聞きたい事がありまして」

「なんでございましょう?」

「ここではちょっと言いにくい事なんですよ。少しの間だけでも離れる事はできませんか?」

「はい、わかりました。少しの間だけですぞ」

 

 一階の大広間の中には誰にも話せない事を話す為の小部屋を誂えてある、と諒は言っていたのを思い出して俺は友蔵をそこに連れていく。

 この友蔵は一言で表すならどこにでもいる気心知れたおじさんという雰囲気。どことなく平和な空気を出していて血気盛んな雰囲気ではない。

 

「一体、いかがされたのでしょうか?」

「実は今夜、遊女の水揚げを頼まれてまして」

「零無さんがですか!?」

「そうなんですよ。それで客人として振る舞えって言われて」

「それで相談に来たんですね。水揚げの件については旦那様から聞いております。今夜、その水揚げを担当する客人が来るから適切に対処するように、とも」

 

 友蔵はその客人として振る舞う際に着る服を十郎太に預けている事を教えてくれた。

 その後の手筈も彼に聞けばいいらしい。

 

「荷物は十郎太が預かっているらしいですよ。荷物の中には服が入ってます。それを着て、ここの暖簾を潜って客人として揚がるというのが一連の流れですな」

「引手茶屋には行かなくて平気なのか?」

「ええ。今回、零無さんが水揚げの儀式するという事で直接の登廊とした方がいいと旦那様は仰ってます。大法の抜け道を使うならばこれが一番だと」

「なるほど。何時頃から水揚げをするんだ?」

「夜の9時頃から二日間に渡ってやります。みっちりと仕込んでやってください」

「二日間も遊女を預けるというのか? 大変な役目を受けちまったなぁ……」

「大丈夫です、零無の旦那ならすぐに慣れましょう」

「だといいが。お妙さんは二階だよな?」

「へい。二階の遣手部屋にお妙さんはいます」

 

 朝の二階は遊女達がそれぞれ仕事を終えた後みたいなもので静かな空間だ。

 遣手部屋にいるお妙さんは朝食を食べていた。

 

「お妙さん、おはようございます」

「あら? おはよう、零無さん。珍しいですね。二階にこんな朝っぱらに来るなんて」

「お妙さんに聞きたい事がありまして」 

「そんな所にいないで中に入ってください。どうせ、今夜の水揚げの儀式の話でしょう?」

「失礼します」

 

 遣手部屋の障子を閉めて個室で話す俺とお妙さん。お妙さんはおもむろに煙草を取り出して吸い始める。

 俺にはお茶を出してくれた。

 

「で? 聞きたい事は?」

「吉原で女を抱く時に禁じ手があると聞きました。その禁じ手は何かを教えていただきたい」

「知らないのも当然だよね。吉原の禁じ手は、まずは遊女を責め立てたりする事。彼女らは自分たちが感じで快楽を感じるのは恥と教えられている。俗にそれを"気を()る"と言うけどね。大概、外の世界では気持ちいいものだとは思うけどさ。それが俗世間との違いだね」

「他には?」

「……あんた、女を抱く時、前戯とか後戯とかするかい?」

「前戯は結構な時間はするかな」

「吉原では、前戯がしつこく、後戯もしつこい男は"湿深(しつぶか)"と呼ばれ嫌われるんだ。そんな時は遊女がことさら女性上位になって攻めたてる場合がある。まあ、あっさり逝くのがここでは好かれる男やね」

「でも敢えてそれをやらないと解らないのでは?」

「そうなんだ。そこが水揚げの難しさなんだよ。何せ彼女は今夜が初めての男性だ。これから体を売るのに解らないでは通らない。水揚げを頼む時は旦那様は敢えて、湿深な男性を選ぶ傾向にあるんだ」

「結構、緊張するだろうからな……」

「そうだね……水揚げの儀式は旦那様にとっては神経質にならざるを得ないね」

「後は、女陰は吉原の遊女にとっては商売道具。そこを舐めたり、手で弄ったりするのは厳禁だよ」

「世間一般な床入りの作法とは全然違うな」

「吉原ならではの作法だね。禁じ手に関してはこんな所だね。後はやたらめったら床入りを急ぐ客人は野暮だからそこは気をつけな。床入りは時間がくれば来るんだ。それまで楽しむのが客人としての吉原を楽しむコツさあね」

 

 後は本番になったら順次、若い衆が説明するからそれに従ってこなせばいいとお妙さんからのお達しがあった。

 そんな事を話し込んだら結構な時間が経っている。若い衆の一人、勇太が遣手部屋に来て俺を呼びにきたよ。

 

「零無さん。十郎太さんがお呼びです。旦那様から預かった荷物を早く渡したいから来て欲しいと言伝です」

「わかったよ。では、お妙さん。本番では宜しくお願いします」

「遊女の水揚げ。しっかりとお願いしますよ」

 

 勇太から下駄箱に入っている草履を受け取り、履いて外に出ると妓夫の十郎太が風呂敷を持って待っていた。

 そしてこの風呂敷を持って一度、大門から出て、中継ぎの船宿茶屋にて変装するようにと勧められた。路銀などもここに入っているらしい。

 そこまでの道標などの地図を手渡されている。

 

「船宿茶屋ってなんだい?」

「要はここで零無の旦那には客人の装いをして貰うって事ですな。そこには桜華楼の若い衆も居るんで、船宿茶屋の主人とか女将さんがどの妓楼に行くのか聞いてきたら、うちの桜華楼の名前を出せば出てきます。確か、若い衆の健太がいるはずです。あいつ、外廻り役なんで」

 

 随分と手の混んだ水揚げの儀式だね。

 まあ、そうしないと怪しまれるという事だろうからな。

 期せずして大門の外に出る事になった俺は、まるで社会科見学をする気分で外の世界を見聞する事になった。



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18話 零無の船宿茶屋の旅

 俺は今、風呂敷を持って大門から出た所にいる。この大門に繋がる道は五十間道と呼ばれている。結構な茶屋があるな。この辺にあるのも引手茶屋と同じ役割らしい。

 引手茶屋というのは、言ってみれば現在で言うところの風俗案内所。しかもソープランドと提携している案内所みたいなものと考えるとわかりやすいと思う。

 俺は生前の記憶ではソープランドなぞ行った事も無い人間だったような気がする。

 目指す船宿茶屋は山谷堀の入口の今戸橋の辺り。手渡された地図を道標に歩く。ふむふむ。道は意外とわかりやすいかも知れない。地図には見返り柳とか、地名が書かれている。三ノ輪方面とか隅田川方面とか。

 この時代はやはり自動車は少ないな、というかあまり見掛けない。人力車なら結構見かける。服装も着物中心。本当に洋服を着ているのはあの伊勢谷半蔵のようなお大尽のみという、そんな感じだね。

 十郎太は船宿茶屋と呼んでいたが、要はこの場所も桜華楼の引手茶屋みたいな場所だろう。あの【桜花の里】の今戸橋版みたいなものと推測する。

 日本堤という土手に差しかかる。へえ。生前の記憶にはこんな土手は観たことないな。時折、人力車が通り過ぎる。

 人の通りはそこそこ賑やか。

 この日本堤だが、意外とここも茶屋がある。

 吉原通いをするのにあたり、直行直帰は野暮と言う。セオリーとしてその辺りの茶屋とかで団子の1つでも食べて、はやりつつも意地を張りながら中継ぎもして吉原に向かうのが粋な遊び方だと言う。

 土手を歩く事、約二十分。

 それらしき橋が見えてきた。

 今戸橋。この辺りの茶屋に桜華楼の引手茶屋がある筈だ。十郎太は吉原の引手茶屋には別に寄らなくてもいいという話に合点がいく。今戸橋の引手茶屋でも桜華楼の引手茶屋があるなら同じ事だ。つまり正規の道程(ルート)での登廊になる。

 あの見世は大見世になろうとしているから引手茶屋を通さないと登廊などはできないし、冷やかしなぞ論外という事だろう。

 というか、カフェっぽいかな。和風の引手茶屋もあれば、ハイカラなカフェっぽい引手茶屋もあるし、和洋折衷だよね。桜華楼の船宿茶屋もとい引手茶屋の名前は?

 地図の片隅にその引手茶屋の名前が書いてあるかな。【桜花の郷】。漢字は違うけど、おうかのさと、と呼ぶらしい。商標の八重桜も目印にするとわかりやすいとある。

 あった。和風の建物だが、看板に【桜花(おうか)(さと)】とある。ここかな? 外の入口付近には茶屋らしい椅子も置かれて、そこでくつろぐ人もいた。

 とりあえず入ってみよう。

 

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

「はい。一杯程、お茶を飲みたいと思って」

「どうぞ。こちらの席へお揚がりください」

「この茶屋は【桜花の郷】で合ってるかな? 看板を見て入ってみたのだが……」

「はい。【桜花の郷】へようこそお越しくださいました。女将の佐々(ささき)でございます」

零無(レム)だ。初めまして。佐々木さん」

「零無様……? もしかして、今夜、桜華楼に登廊する……」

「はい。桜華楼に今夜、遊びにいこうかなと」

健太(けんた)! 例の客人がお見えになったよ!」

 

 すると、【桜花の郷】の奥から桜華楼の若い衆の一人、外廻り役の健太が現れた。

 

「零無さん、待っていやしたぜ。旦那様からの手筈をお伝えしないと参りませんな」

「健太。奥の座敷に案内してやりな。多分、着替えるだろうから」

「へい。ささ、こちらへ」

 

 桜花の郷の奥の座敷へ案内された。

 意外と奥の方に部屋が繋がっているな。

 健太の人相は、何処か勢いを感じる。友蔵とは正反対な喧嘩に強そうな雰囲気だね。まあ、桜華楼の中は悶着色々だから喧嘩に強い男も居ないと成り立たないだろうな。

 健太は俺を待ちかねたように応えてくれた。

 

「話は旦那様や十郎太から聞きました。今夜は新造の水揚げをするという事で、宜しくお願いしますよ」

「風呂敷の中身を俺は見てないんだよ。ここで風呂敷を広げていいかな」

 

 俺は座敷に案内されると手にした風呂敷の結び目を解いて、中身の確認をした。

 一式の着物、財布、扇、後は稲葉諒(いなばりょう)の手紙か。

 どうやら手紙に今夜の手筈が書かれているのかも知れない。

 着物はどうやら稲葉諒が呉服屋から卸した、新品を渡してくれたらしい。一通り、揃っている。

 手紙を読んでみた。

 

『今夜の水揚げに際しての注意事項を簡単に書いておく。桜花の郷に着いたらその着物を着て、髪型も少し変えておく事。髭の手入れは念入りに、風呂も済ませておく事。丈は合ってる筈だ。如何にも馴染みらしく登廊をしてくれ。(かえで)の事も、気軽に呼んで態度も上品な客として振る舞え。新造の水揚げだから酒宴は無いが、座敷には案内する。そこから二晩に渡り性の手ほどきをする事。この際、禁じ手も見せてやれ。後は随時、若い衆に指示を出す』

 

「身なりを整える(くし)剃刀(かみそり)はありますので、まずは旦那。風呂を済ませてしまいましょう」

「旦那って、それだけでも客人気分になれるね」

「向こうでは"零無(レム)の旦那"と呼ばれるらしいですよ。身だしなみの確認は佐々木さんに見てもらうと宜しいでしょう。あっしは桜華楼にひとっ走りして、旦那が来た事を十郎太に伝えに行きますんで!」

 

 という事で風呂を済ませて、座敷に置いてある鏡に向かう。

 髪型を変えるのか。何時も前髪は後ろにしているんだよな。右側の前髪だけ下ろしてみるか。

 (くし)で髪を梳かして前髪を下ろした。

 ……これで眼が褐色だったら、まんま稲葉諒だな。髪の毛の色が向こうの方がもっと灰銀色だが。

 剃刀(かみそり)で髭の手入れをして……。この髭は剃るわけにはいかない。生前からの俺の商標(トレードマーク)だからな……。よし。

 着物は羽織りものに袴をつけた準礼装っぽい。

 扇は手に持って。

 財布の中身は、かなりの大金が入っていた。

 この金、俺の給金も兼ねているのか?

 新造の水揚げって、俺にも給金が欲しいけどな。

 

「割と雰囲気が変わるもんだな」

 

 変装も終わり、何処ぞの遊び人みたいな親父になった。

 そして佐々木さんによる外見の確認を取った後は元より来た道を吉原へ向けて歩く。

 夕暮れの土手の向こうに、妖艶な明かりが見え、逸る気持ちが脚を急がせた。

 吉原の大門を前にして、息を吸い、ゆっくり吐いて、俺は向かう。

 浮世を捨てた【極楽の世界】へ。



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19話 客人レム、参上

 夜の18時頃になり、大門から吉原へやってきた。浮世の辛さを捨てた【極楽の世界】。

 しかし、外の世界では既に桜は散ってしまったが吉原の仲の町では桜が咲いている。もしかしてここは一年中桜が咲いているのか? と思ってしまう。

 さて目指す楼閣【桜華楼】は京町二丁目。

 仲の町では妓夫(ぎゆう)という呼び込みの声がそこらじゅうから聞こえる。

 

「さあさあ、旦那さん達! うちの妓楼は安く揚がれるよ!」

「春の宵は価千金と言います! 損はさせません! はい! お揚がりだよ!」

 

 賑やかこの上ない仲の町を京町二丁目へ向けて歩く。

 すると桜華楼の呼び込み、十郎太が客引きをしている。

 

「ただいま楼閣番付第三位! 噂の桜華楼はこちらでございます。北風が吹いてきましたよ! さあ旦那方も錨を下ろして春の宵を堪能しましょう!」

 

 十郎太の声は良く響くね。

 張りがありながら愛嬌もいいし、それでいて重くなく軽い言い回しが興味を抱かせる。

 貸座敷の桜華楼の写真見世では、遊女達の顔写真が飾られ、掲示板にて彼女らの写真を眺める男達もかなりいる。

 あれを"見立て"というらしい。

 見立ては吉原の登竜門。ここで遊ぶ時は一人の遊女に操を立てるのが筋。途中で浮気しようものなら妓楼が黙っていない。

 桜華楼のすぐ近くには引手茶屋の【桜花の里】がある。桜華楼も引手茶屋【桜花の里】を通さないと登廊できない大見世として振る舞いだした。

 すると昼間、山谷堀の今戸橋の【桜花の郷】で俺に応対した若い衆の健太が俺を発見した。

 

零無(レム)の旦那。準備は万端そうですな。今の旦那は何処からどう見ても桜華楼の馴染みに見えますぜ」

「健太。登廊してもいいのか?」

「ええ、お揚がりください。酒宴こそありませんけど座敷にはご案内できますんで」

「旦那が一人、お揚がりだよ!」

 

 そうして客人として桜華楼の暖簾(のれん)を潜る。すると楓姐さんが俺に客人として接してくれた。

 

「これは、レムさん。お待ち申し上げておりました。今夜の水揚げの為にわざわざありがとうございます」 

「さあ、お揚がりください。早速、座敷に御案内致します」

 

 楓姐さんに連れられ二階へ上がる。道すがらで楓姐さんは今夜の俺の姿を観てこう言った。

 

「髪型を変えただけで様変わりしますね。ちょっと旦那様に似ていますよ。今の零無さん」

「旦那様から"髪型を変えろ"と指示があったのでね。今夜の私の相手の名前は?」

「振袖新造の紅葉(もみじ)が今夜の零無さんの相手で、初めての夜にございます」

紅葉(もみじ)。いい名前だね。どんな感じの娘かな?」

「姉花魁に菖蒲(あやめ)がいる有望株でして。晴れて今夜、零無さんによる水揚げです」

「そりゃあ楽しみだね。今夜の水揚げに際して若い衆が都度連絡すると聞いたけど」

「健太が旦那様の指示を聞いて零無さんに都度伝えにくるそうですよ」

 

 そうして案内された座敷は水揚げの時に専門で使われる桜の座敷へと入る。調度品は極めて豪華。桜華の間に匹敵するような座敷だ。お酒を傾ける座敷と布団が敷かれた奥座敷に分かれていた。

 今日は酒宴はないが菖蒲(あやめ)花魁の名代と呼ばれる遊女が酒の相手をする。というかお酌する。

 その他にも一応、仕出し料理屋の夕食もあるらしい。

 座敷の外からは景気のいいお囃子が流れている。今頃、池さんも仕事しているだろうな。

 しばらくすると御膳に載った夕食を届けにきた健太がきた。

 

「零無の旦那! まずは腹ごしらえを済ませてしまいましょうか。酒も持ってきますんで」

「頼むよ。健太」

「はい!」

「例のあの"おしけ"の台詞を聞いてから水揚げした方がいいのか?」

「いいえ。零無の旦那のやりたくなった時に水揚げの儀式をしてください。その前に腹ごしらえは済ませてくださいよ」

「そうだな」

 

 御膳に載っているのは白いご飯にマグロの刺し身。きちんと山葵(わさび)と醤油差しもある。(たけのこ)と里芋の煮っ転がしに、ごま昆布。味噌汁が載っている。箸入れにはきちんと俺の名前が入っていた。

 これだけでも客人気分は味わえるよな。

 ちょっと話し相手は欲しいけど。

 

「今日の零無の旦那は雰囲気が違いますぜ。髪型が旦那様って感じですな」

「稲葉諒さんのことかい?」

「ええ。やっぱり"似ている"ってのはあっしも実感します」

「私が今夜、水揚げする振袖新造の紅葉(もみじ)って()はどんな娘だい?」

「どんな娘って言うと?」

「性格というか人柄というか」

「それは会ってからのお楽しみってやつでさあ」

 

 うまくかわされたね。まあいい。

 時がくるまで楽しもうじゃないか。

 

 零無が桜の座敷に入った時刻。

 内所の部屋では今夜、水揚げされる遊女、紅葉が稲葉諒と話している光景があった。

 

「いよいよ今夜。君の水揚げがされるね。どんな気分だい?」

「どんな気分と聞かれても……」

「この郭にきた時に覚悟はしたのだろう? 君も金に縛られてここに来た身の上だ。今日まで生かしてきたのもこれからの日の為だ。少しは安心できるように今夜の相手は厳選させて貰った。暴力を振るような男ではない。その男からみっちり教えて貰うといい」

「どんな方なのですか?」

「名前は零無(レム)といい私と同じくらいの年齢の男だ。実際に会えばわかると思うが、どことなく俺に似ている男だよ。桜の座敷にいる。そろそろ彼の下へ行ってあげなさい」

「……旦那様! どうしても旦那様では駄目なのですか!? 私、初めての男性に旦那様に!」

「……それは駄目だ。できないんだよ。俺はここの楼主だ。楼主が簡単に掟を破るなぞ論外なんだ。わかってくれ……」

「旦那様……」

「俺は……君の初めての男になるには、穢れ過ぎている」

 

 まるで自分自身と目の前の彼女に言い聞かせるように稲葉は言葉を絞り出した。

 そして紅葉は健太に連れられ桜の座敷へと向かう。

 途中、妙子に会った紅葉。妙子は気合いを入れる。

 

「さあ! 今夜はお前が一端の女になるんだ。今まで勉強してきた事を実践してきな」

「はい。お妙さん」

「今にも泣きそうな顔をしてどうするんだよ? まあ、床技では有効な武器には違いないが、今夜は乱れてしまうくらいが丁度良い。そうすればすぐに花魁になれるさ」

 

 妙子は声の響きを優しくして、紅葉を送り出す。

 紅葉は少し怯えつつも桜の座敷へと入った。

 

「失礼致します」

「お入りなさい」

 

 そこに居るのは勿論、零無だ。

 彼は初めて見る振袖新造の紅葉をゆっくりと観賞するとこう誘い、そして紅葉の水揚げが始まった。

 

「なかなか綺麗だ。おいで? まずは酒でも傾けようじゃないか?」

 

 紅葉は自分自身の眼を疑う。そこに居たのは楼主そっくりの銀髪の男性だったのだから。



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20話 紅葉の初夜

 紅葉(もみじ)は己の眼を疑う。

 目の前にいる男性は先程話した楼主とそっくりな姿をしていたから。

 ただし、眼の色は褐色ではなく、薄い紫色の瞳だった。とても不思議な輝きだ。どことなく夜空に浮かぶ月のように輝く。

 そうして紅葉のお酌で酒を傾ける零無。

 そして彼女の姿をじっくりと堪能する。

 そして、今夜の相手、そして明後日の朝までの付き合いとなる彼女に彼はまず挨拶を交わした。

 

「やあ、初めまして。零無(レム)だ。今夜から二日に渡って君の相手をさせて貰う事になった。宜しく」

紅葉(もみじ)です。初めまして……」

「もしかして驚いているかな…? 私の姿に?」

「少しありんした。でも主様によう似ている方とおっせぇしたので…」

「そうか。君、何歳になったのかな?」

「この春で15歳になりんした」

「15歳か。今夜は君にとって忘れられない夜にしたいね」

「ほんざんすか? よろしくしておくんなんし」

「一つ、思ったんだけと、廓言葉というのかな? 私の前ではしなくてもいいからね」

「え…!?」

「思っているより訛りはひどくなさそうだし、普通の言葉の方が私も安心できるんだ」

「よろしいのでしょうか?」

「そうそう。その言葉遣いでいいよ」

「ありがとうございます。主様に似ている方と聞いて私、少し胸がドキドキしてまして……」

「私も久しぶりなんだ。しかも吉原の女性を抱くのは初めてでね」

「だから俗世の床技をするかも知れないけど、それをしそうになったら君の判断で動いてね」

「初めてなのに難しいかな? こんな事を頼むのも」

「いいえ。姉花魁から勉強しましたので、気にしないでください」

「じゃあ、そろそろ準備しようか?」

「健太さん。零無さんを(かわや)へ御案内しておくんなんし」

 

 すると健太が現れ、俺を厠、ようはトイレに案内する。その間に紅葉は化粧直し。俺も服装を浴衣姿にする。

 

「いよいよですな。零無の旦那。旦那も浴衣姿になって奥座敷にて楽しんでください」

「旦那様からの指示は?」

「今の所は零無の旦那に任せると仰ってます」

「わかった」

「それから紅葉との床入りが終わったら、恐らく「手水にいく」と言うので引き止めないで行かせてあげてください」

「手水にいく、か。わかった」

 

 今まで纏っていた着物を脱いで浴衣姿になる。

 奥座敷には布団が敷いてあった。

 いざ、時が来ると俺も久しぶり過ぎて少し緊張している。とりあえず息を吸って、落ち着く為に息を吐いた。

 紅葉も襦袢になっている。

 (かんざし)も一通り取って、布団の上で待っている。

 俺も向かい合いながら布団の上に腰を下ろした。

 さて……。いきなり胸を触るのは驚いてしまうかもな。

 紅葉も少し不安そうな表情だ。

 俺は彼女をとりあえず胸に抱いた。そっと抱きしめる。

 

「零無さん」

「まずは俺の体温を感じてくれ。浴衣を外したいなら外して構わないから」

 

 耳元で甘く囁いた。

 そのまま首筋に唇を這わす。

 紅葉の手は浴衣を脱がそうと動いている。

 上半身が開けた。俺は気にする事もなく紅葉の体に舌や唇を這わす。鎖骨、二の腕、脇、舌を這わすたびに俺の感覚が甦る。

 生前の記憶でもこうして過ごした夜があったような確かな記憶が、体を通して甦る。

 そのまま枕に紅葉の頭を寝かせて、俺は覆いかぶさる。そして内側に封じていた情熱を少しずつ表に出す。

 夜の薄暗い灯りに照らされた紅葉の白い肌と薄紅色の乳首がかすかに興奮を覚えている。

 

「零無さんの唇……気持ちいい……」

「胸を舌で弄ってもいいかな……」

「はい……たっぷり味わって……」

「しつこいって感じたら言ってね……。久しぶり過ぎて自制が利かないかも知れない……!」

 

 舌先でころころ弄る。紅葉があどけない喘ぎ声を上げた。紅葉の手が俺の銀髪に触れようか迷っている。

 

「触れていいんだよ。初めての男を君の感覚で味わいなさい。全身を使って、遠慮なく触って。俺に唇を使って触れたりしてご覧なさい」

 

 紅葉の手が俺の銀髪を乱した。

 俺は薄紅色の乳首を口に含み引っ張る。優しく、少しずつ強くを繰り返す。

 手のひらに感じる紅葉の乳房を優しく揉み解す。彼女が身に感じる初めての感覚に苦悶する。襦袢が外れかけてそれが堪らない色気に感じる。

 紅葉の手のひらは俺の胸板を触っている。

 

「こんなに滑らかなんですか……? 男の人の肌は……?」

「どうだろう……? まだまだ舌を這わすよ。お腹の方に行くからね」

 

 今度は音を立てて唇で愛撫する。だんだんと下半身へ顔が下りていく。そして紅葉のまだ男を受け入れた事のない場所をじっくりと観た。

 ああ……濡れている。美味しそうな蜜が滴って……舐めて味わいたい欲求に駆られる。

 紅葉はじっくり観られる感想を言葉にする。

 

「こんな感じなんですか……? 零無さんの視線を感じる……ヒアッ……ヒアッ……零無さん…!」

「すまない…! これは禁じ手だけど我慢できないんだ……」

「どうしよう……気持ちいいの感じちゃう……」

 

 思わず禁じ手をしてしまった。

 吉原の遊女の商売道具に舌で舐めてしまう。

 いい匂いだ……俺の男としての感覚がだんだん甦るよ。

 あまりすると本当にやめてと言われるから、こちらが奮起できれば十分だ。

 そのまま太股の内側に唇を行かせて舐める。

 だんだん布団から遠ざかるように愛撫したから、紅葉の脚にいく頃には丁度良い位置に俺がいた。

 唇を離す。そして紅葉に聞いた。

 

「どうだい? 男性の舌の感覚は?」

「零無さんの舌……とても器用なんですね」

「じゃあ、君の舌を味わう番だね……」

「練習はしたかな……? 男のモノを咥える練習は?」

「直に花魁がしているのは観ましたけど」

「思い出しながらやってみなさい」

 

 彼女は俺の(ふんどし)を外すと驚く。

 十分過ぎる程、奮起してしまった俺を観て、そっと唇で触れた。

 膝をついて美しい顔を近づけそっと舐める。

 繊細な手はゆっくりと擦る。

 じっくりと堪能させてあげようと恐る恐る、手を伸ばしてゆっくりと擦った。

 

「アウッ……」

 

 思わず喘ぐ俺だった。

 こ、これは……極楽過ぎる。

 頭の中が得も言われぬ快感で支配されてしまう。本当にこの子、初めてなのだろうか?

 紅葉は細かく舌や手を使い俺を快感に浸す。 

 彼女は絶頂に逝くのを観察しているのだ。

 俺はとうとう懇願した。

 

「紅葉。そろそろ本番にいこうか……入れる前に俺が果てちゃうよ……うあっ……」

「来て下さい。零無さん。来て! お願い…!」

「最初だからね……ゆっくり入れるよ……」

「アウッ…!」

 

 紅葉と俺が仮にも結ばれた瞬間だった。

 彼女がしがみつくように腕を絡める。

 俺も体を密着させる。

 紅葉の花びらを最初に味わった男になったんだ。少しずつ腰を揺らす。

 

「アン……アンッ……アンッ……零無さん! 零無さん……!」

「気持ちいい……気持ちいいよ……君の最初の男性になれたのは嬉しい……!」

 

 紅葉も綺麗に喘ぐ。

 襦袢が全部外れかけている。

 今度はそのまま胸を舐めた。

 対面座位になりながら、腰を回し、俺は体だけになる。

 紅葉は俺の頭を固定して抱きしめる。

 腰を回す速さを変えた。

 快感が倍増してくる。

 一体、俺はどういう顔でこの極楽に身を浸したのか。

 この快感の嵐に身を浸し、そしていつの間にかそのまま絶頂に昇った俺が確かにいた……。



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21話 二日目の朝

 紅葉(もみじ)との初夜を終えた後。

 いつの間にか深い眠りに落ちて、意識も深い所に落ちているのだろう。

 俺はまた夢を見ていた。

 それは俺が誰かを抱いている光景だった。

 でも顔は靄に隠れてよくわからない。

 なあ……君は誰だい? 

 夢の中で俺は聞く。

 靄の向こうからは声が聞こえた。

 

「忘れてしまったの……? ひどい……。私は一時も忘れた事はないのに……」

「ち、違うよ。俺はただ君の名前を知りたいだけなんだ」

 

 靄の向こうの女性(ひと)はそのまま消えてしまい、俺はただ引き止めようとする。

 

「違う……俺は君を……」

 

 すると鋭い痛みが頭に走り、意識を取り戻すとそこに居たのは心配そうな表情の紅葉(もみじ)が俺の事を気に掛けていた。

 

零無(レム)さん。大丈夫ですか? とてもうなされて……」

「も、紅葉……」

「医者を呼びましょうか?」

「いや……大丈夫。気にしないでくれ。何か私も(かわや)に行きたくなったよ」

「健太さんを呼びますね。健太さん!」

 

 健太はすぐ側で待機していたのか、すぐに応対してくれた。

 

「零無の旦那。おはようございます。厠に行きたいんですね? 他の留袖新造に案内をさせますね。客人用の(トイレ)はこの2階にもありますんで」

 

 俺がそうして他の留袖新造に案内されてトイレに行っている頃に、紅葉は先程の零無(レム)の様子が不自然になっていたのを健太に聞いていた。

 

「健太さん。零無さん、うなされていたんですけど、私が何か粗相をしたのでしょうか?」

「零無の旦那がうなされていた? そういえば度々、あの旦那は夢見が悪いと聞きますぜ」

「悪夢とか見るんですか?」

「そんなものでしょう。ここは紅葉さんの出番です。吉原ならではの極上の夢をみさせてあげましょう!」

「零無さん、朝ご飯はまだです。健太さん、朝ご飯の用意はありますか?」

「ええ。もう用意はしてあるんで、持ってきます」

 

 (トイレ)に案内された俺はまたしても妙な夢を見た感覚を忘れようと小便をする。

 昨夜は色々な感覚が甦ったな。女性を抱く時のあの感覚。冷めていたはずの情熱が甦るあの感覚。不思議な夜だった。

 しかし。まだまだこれからなのだ。新造の水揚げは今夜も続く。

 そうして(トイレ)を済ませると、また元の座敷へ留袖新造の案内で向かう。

 桜の座敷へ戻ると朝ご飯が御膳に載せられて用意されていた。

 悪い夢を見てしまったのを気にしてか、白いご飯がお粥になって載せられている。こういう気遣いは助かるよ。おかずも(あじ)の塩焼きと沢庵と味噌汁がきちんと出てきた。

 紅葉は俺が食事している間に、お茶を淹れてくれている。ちなみに吉原では"お茶"と言わないで"上がり花"と言うらしい。

 茶を引くという縁起の悪い言葉があるので、それを避ける為に上がり花とか出花とかでお茶を表現するそうな。茶柱だけは縁起が良いらしい。

 

「昨晩はすっかり良い気分にさせてくれたね。君との一時は極楽だった」

「私も……初めてなのに、あんなに乱れて恥ずかしいです」

「乱れる君は綺麗だった。まだ朝なのに夜の事を話題にするのもなんだね」

「零無さんは夢見が悪いのですか? 健太から聞きましたけど時々、夢見が悪いと聞きました」

「そうだね。時々なんだ。ひどい悪夢を見る時があってね。気分が憂鬱になる時もしばしばだね」

 

 俺はそんな事を照れ笑いしながら答えてあげた。俺の生前の記憶は、だが、全然戻らない。断片的に思い出すだけで。

 その話をすると鋭い痛みが頭に走る。それがとても不快な気分にさせるのだ。

 話をはぐらかす為に紅葉がここにいる理由(わけ)を聞きたくなった。禁句とは言え興味を反らせたいからだ。

 

「紅葉は何の縁で桜華楼に来たのかな?」

「私は……借金が理由です。お父様の借金。お母様が重い病気になって、治療費を払おうにもお父様は安月給で。だから……私……」

 

 代わりに吉原に売られてきた。

 それが10歳の頃らしい。以来、桜華楼にて禿(かむろ)として遊女になるべく躾られたという。

 その時はお妙さんとかはここにいたし、楓姐さんとか諒さんが親身に接したとか。

 姉花魁に菖蒲がなり、彼女のもとで修行に明け暮れたらしい。性技も菖蒲直伝。その時の男性が喘ぐ姿は幼い少女ながらなかなか衝撃的だったとか。

 吉原の女郎屋というのは本当に凄い世界だなと俺は思うよ。幼い少女に実践的な性教育だ。しかもそんな免疫などあるわけない。

 朝ご飯は済む頃に俺は楼主に呼び出しを受けた。健太を通して内所に来るように言われる。

 着物を纏って内所の部屋に来る。

 髪型は変えたままで部屋に入った。

 

「おはようさん。昨夜は御苦労だったな。しっかりと水揚げをしている様子が聞こえたと若い衆から報告が来たから安心したよ」

「水揚げの新しい指示ですか?」

「そんなものだ。若い衆にさせればいいと言う話じゃない。これは大事な儀式だから俺が自らお前に指示を出すのが筋だろう?」

「それで指示は?」

「夜まで暇だろう? 紅葉にも休憩時間は与えたいがせっかくの客人が暇というのもすまないと思う。引手茶屋の【桜花の里】に行ってみろ。丁度良い余興があるんだ」

「余興か」

「桜華楼の振袖新造のお披露目の【新造出し】という道中があるんだ。菖蒲とか孔雀とか杜若も道中に参加する。新造出しに紅葉も参加するから、しばらくの時間は【桜花の里】で過ごすといい」

「面白そうだね」

「それから今夜は紅葉に見せてやれ。湿深な男性という吉原の遊女が嫌がる男というやつを、な」

「禁じ手をしろ、と?」

「それをされるのが嫌だから技術として使える。でもされなければそれもわからないのが人間だろう? だったら今夜、紅葉の為に演じてやれ。そういう客人もいる事も」

 

 零無は稲葉諒の前で思わず溜息を吐いた。

 そういう男と女が絡み合う場まで己を演じるなど、自分はそういう商売の人間ではないのに、と言いたげな雰囲気だった。

 しかし、引き受けたものは引き受けたものだ。

 途中で投げ出す事はしないでせめて紅葉が売れっ妓になるのを手伝えるのなら悪くない話ではないかな。

 零無はそう言い聞かせるように内所の部屋から出たという。

 彼が出た内所の部屋にて、稲葉諒は呟いた。

 

「人気者になるなら嫌味の一つも買っておけよ。吉原で人気者になるとはそういう闇も味合わないとな」

 

 まるで自分自身が体験したように稲葉は、その褐色の眼を内所から観える窓の空を見上げたのであった。



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22話 甦る記憶と罪の意識

 桜華楼から出て引手茶屋【桜花の里】に置かれた外の椅子に座る俺は、みたらし団子を食べつつ女将の行木さんと共に桜華楼の新造出しの道中が行なわれるのを待っていた。

 仲の町は相変わらず賑やかで見物客もかなり来ている。すると呼び込みの十郎太が仲の町を歩く人達に宣伝している様子が見えた。

 

「本日のお昼12時に桜華楼の【新造出し】の道中が催されます。お暇な方はぜひご覧あれ! 噂の花魁衆も後見人として道中致しますよ!」

「おお〜。桜華楼の【新造出し】か。俺も観て行こうかな?」

「桜華楼の振袖新造で最近、売れっ妓がいるらしいぜ」

「薄紅って娘だろう? 今じゃ引き手数多の売れっ妓だぜ。俺も行こうかな?」

 

 茶屋の赤い布が敷かれた長椅子に座る俺に行木さんはお茶を入れて、代わりのみたらし団子も持ってきてくれた。

 みたらし団子を頬張りながらその【新造出し】の噂をする俺だった。

 

「【新造出し】の道中も桜華楼にとっては大事な行事みたいなものだよな」

「ええ。また実際に姉花魁の顔を直に見られる好機(チャンス)ですので皆さん、それも狙っているようですね」

「そういうのが無いとやっぱり物足りないよね。この吉原は娯楽都市みたいな場所とも言えるし」

 

 そうして昼12時を回る頃に桜華楼の【新造出し】道中が華やかに行なわれる。

 前に道中する艶やかな振袖新造の4人。その中に昨夜、俺が水揚げをした紅葉(もみじ)の姿もある。その他にも振袖新造が3人もいたのか。

 あの中に俺が水揚げする娘はいるのかな?

 左右を固めるのは若い衆の友吉と健太の2人。彼らは振袖新造の左右に位置して、桜華楼の行灯を持ち、自分達が桜華楼の者であるという事を示していた。

 独特の八重桜の商標が入った法被(はっぴ)を着ているからよく映えて判る。

 仲の町の人々の視線は振袖新造の後ろに続く姉花魁衆に自然と移る。

 花魁道中で着るようなあれ程華美な衣装ではないにしろ、元々花魁衆は美しい佇まいを醸し出すので俺も振袖新造の後ろに続く花魁衆を見つめてしまう。

 花魁衆は3人いた。中央にはお職花魁の菖蒲(あやめ)花魁。右側には2枚目花魁の孔雀(くじゃく)花魁。左側には3枚目花魁の杜若(かきつばた)がそれぞれ艶やかな衣装を纏っている。

 菖蒲花魁は菖蒲の模様が入った紫色の着物。

 孔雀花魁は孔雀が描かれた着物。

 杜若花魁は杜若色と呼ばれる茶色が少し入った紫色の着物に蝶の模様が入った着物だった。

 しかも彼女らは高下駄を履き歩き方もとても品の良い歩き方だったのだ。

 仲の町を歩く観衆やそこで暮らす人々もだんだんと集まり人だかりになっていく。

 引手茶屋【桜花の里】を通り過ぎると彼女らはそこの表の椅子に座り観賞に興じる俺を観てそれぞれ顔を少し向けて微笑った。

 紅葉(もみじ)も昨夜の相手だった俺に顔を向けて照れた様子で微笑った。

 これからあの子達は女郎として生きてゆくのか。

 華やかな道中の間、俺は複雑な気分だったよ。

 それは果たして幸せなのか。

 不幸の入口なのか。

 観衆達はそれぞれ色々な事を言っていた。

 

「やっぱりお職の菖蒲花魁は魅力的だよなぁ」

「いやいや。2枚目花魁の孔雀もなかなか良いじゃないか?」

「杜若花魁も上品な色気だよな」

「俺もあの人達と一夜でもいいから過ごしたい」

「桜華楼の引手茶屋に揚がらないと無理だよ」

「桜華楼は振袖新造も品が良さそうだな」

「振袖新造ならまだ希望はありそうだよな」

「俺はあの若葉色の着物の子が気に入ったぜ」

「あの青灰色みたいな色の子は誰だろう?」

「桜華楼は色の名前がそのまま女郎の名前になるっていうしきたりがあるから紅碧(べにみどり)って名前じゃないか」

 

 桜華楼の【新造出し】道中を観覧した俺は、【桜花の里】の計らいで昼食は鰻の蒲焼きだった。道中が終わった吉原の仲の町にまた喧騒があった。

 今度は別の妓楼の【新造出し】道中があったらしい。

 二階にて鰻の蒲焼きを食べる俺は、そこから覗くと確かに他の妓楼の【新造出し】がされている。

 こうやって吉原では妓楼同士がしのぎを削るんだな。

 そうして毎日が行事みたいな仲の町の【桜花の里】にて時間を潰した俺は午後15時には、また見世に戻る。

 桜の座敷に案内された俺は少し暗い部屋の中で考え事に耽った。

 軽く微睡む為に窓際でボーッとする。

 いつの間にか寝息をたてていた。

 

『……レム。私以外の人を抱くなんて……あなたの愛の営みって軽いものなの……?』

『……まさか。これは仕事だよ』

『仕事で肌を晒すなんて、いつの間に己の身体を売り物にしたの?』

『……違う。俺は売り男じゃない……!』

『信じて欲しい。俺は君のことを……』

 

 また、だ。今度の夢は俺を責めている女性(ひと)がいた。違う。俺のこの愛の営みは嘘の感情なんかでしているんじゃない。

 ……やめてくれ。……やめてくれよ。

 俺をこれ以上、痛めつけないでくれ。

 吉原にきてまで俺を痛めつけないでくれ。

 俺は今、世の極楽にいるんだ。

 確かにこの吉原には理解できない面もある。

 だけど、ここにいれば、俺は戦いを忘れる事ができるんだ。

 もう人が血を流す所は見たくないんだ。

 あの軍で散々見た、真っ赤な血の世界なんか見たくないんだ。

 苦痛に喘ぐ人は見たくないんだ。

 

 喘ぐように苦しむ夢の中の俺は耳に入ってくる怨嗟の声を塞ごうと躍起になる。 

 今にも叫ばないと気が狂いそうだ……。 

 すると誰かが俺に声を掛けていた。

 

零無(レム)さん! 零無(レム)の旦那! 大丈夫ですか!?」

「……はっ」

「また、うなされてましたぜ」

「健太……俺はうなされていたのか?」

「はい。とても苦しそうにしていましたよ」

「今夜の水揚げも紅葉が相手ですから、彼女に縋ってもいいでしょう。桜華楼は苦しみを癒やす為に存在する場所ですし」

「情けなく見えないかな?」

「とんでもないです。女郎はそんな男の弱みを見せられると自分を信じてくれているとむしろ喜びます」

「新しい所にきて零無の旦那も少し参っているんですよ。そういう時こそこの桜華楼を楽しんでくださいよ」

「……そうだな。紅葉に今の事を話してみようかな?」

「きちんと酒の肴も用意しますんで、話してみてください。吉原の女郎は聞き上手になる事も売れっ妓になる秘訣なので」

 

 そうしてまた、夜が再び訪れた。

 今夜は紅葉を一時の恋人と想って色々話してみようかな。

 そう想うと気が少し楽になった……。



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23話 記憶の底にある歌 〜紅葉〜

 二日目の夜がきた。

 今宵の桜華楼も座敷からは賑やかな民謡が聴こえる。あれは池本さんの歌だな。幇間の仕事から離れて今は水揚げをしている俺だが、桜の座敷にて紅葉を待つ間、実はまたとある歌詞が浮かんだ。

 困った事に歌詞をしたためる紙がない。ここは誰かに紙と万年筆を持ってきて貰うか。

 

「若い衆! 誰かいないのか?」

「へい! これは零無(レム)の旦那!」

「友吉か。丁度良かったよ」

「なんでしょうか?」

「俺の部屋にある雑記帳を持ってきてくれないか? 後は万年筆も」

「へ、へい! 分かりました、持ってきます」

 

 新しい演物をやった時にまた流行歌を思い出すかも知れないので、空いた時間を使って雑記帳を購入しておいたのだ。

 とりあえず何か書ける紙があればいいから雑記帳で構わないと思った。

 数分後、友吉が俺の部屋からその雑記帳と万年筆を持ってきてくれた。

 

「旦那。失礼致します。この二つで宜しいのですか?」

「そうそう。ありがとう、友吉」

「その雑記帳は零無の旦那がネタを出す時に書き込むものですね。何か新しい歌詞でも浮かんだのですか?」

「ああ。しばらく仕事から離れたらいい歌詞が浮かんでね」

 

 雑記帳にその歌詞を書き込む。

 友吉はそろそろ紅葉が来るから水揚げがおざなりにならないように注意したよ。

 

「そろそろ紅葉が来るんで、水揚げの方も宜しく頼みますよ。零無の旦那。あっしらも零無の旦那の歌は楽しみですが、水揚げも大事な行事なので」

「わかっているよ」

 

 雑記帳に歌詞を書き込む間に紅葉が桜の座敷にきた。

 何やら紅葉は俺の真剣そうな顔を観て思った事があった様子だ。

 

「こんばんはでありんす。零無さん。何を書いているのですか?」

「やあ、こんばんは。ちょっとね、歌の歌詞を書いていたんだ」

「零無さん、歌を嗜んでいたのですか?」

「和歌とかそっちではないけどね。流行歌って知っているかい?」

「流行歌ですか? 桜華楼でも何回かそういうの聞いた事はあります」

「その流行歌の歌詞を書いていたんだ」

 

 歌詞をしたためた後は紅葉との会話に興じる。

 今夜は彼女を一時の恋人と想って色々話してみる事にしたのだ。

 彼女との会話をしながら、御膳に盛られた夕飯を食べる。

 酒の肴も運ばれてきた。

 紅葉は先程書き込んでいた歌詞を知りたい様子だった。

 吉原の遊女達は皆、読み書きはできる。なら俺の文字も読めるということかな。

 

「どんな歌詞なんですか? 拝見したいです。私」

「見てみるかい?」

 

【歌 題名 君は誰?】

 

 

俺の歌が 俺の声が 聞こえますか 

君の歌が 君の声が 聴こえるといいな

時代の端っこで 叫ぶ 今でも聞こえてる

 

こんな夜は薄っぺらなどんな愛の歌も

聴くたびに青い空が剥がれて落ちる

行かないで 行かないでよ

記憶の向こうへ

知りすぎず 美しさだけ

俺は覚えている

 

寂しい愛の歌さ 悲しい愛の歌さ

君だけに 君だけを 愛していた

 

君の声が 君の歌が 聴こえるといいな

切り裂く風 君を呼んで 手を掲げる

時代の端っこで 叫ぶ

本当に君を好きでした

 

言わないで 言わないでくれよ

本当の事は 今はただ 愛しい日々の

歌を詠もうか

行かないで 行かないでくれよ

記憶の彼方へ

美しい後ろ姿だけが

この目に焼き付いている

 

さよなら 消せないのさ

悲しみ 捨てられないのさ

君は誰 君は誰 心に刻まれてる

さよなら 消せないのさ

さよなら 消せない歌

君だけを 君だけを 愛していた

 

こんな夜は薄っぺらなどんな愛の歌も

聴くたびに 想い出す空 剥がれて落ちる

行かないで 行かないでよ

忘れないでね 今は何処で愛してるかな

誰かの声を

 

悲しい愛の歌も 寂しい愛の歌も

空しく空回りしているのさ

さよなら 消せない歌 

寂しい 消せない歌

だけど 俺は唄い続ける

 

【終わり】

 

「ちょっと悲しい歌詞ですね。零無さんがうなされているのはこの人の事ですか?」

「たぶん、そうだと思う……。女々しく映らないかな?」

「いいえ、そんなことないです」

「なぁ、紅葉。今夜は俺の話を聞いてくれないか?」

「聴かせてください……私で良ければ」

「御膳を片付けて貰おうか?」

「友吉さん! 御膳を片付けておくんなんし」

「へい。そろそろ床入りしますか? 旦那」

「ああ。準備をさせてくれ」

「では、(トイレ)に案内させて頂きますね。紅葉さん、お仕度です」

「はい……」

 

 今夜でとりあえず水揚げの儀式は終わるという事で友吉から稲葉諒さんからの指示がきた様子だった。

 厠にて指示を聞く。

 

「今夜で水揚げの儀式は終了です。本格的に零無さんの性技を見せてやれとの指示です」

「いいんだな? 本当に? 紅葉が嫌がるかも知れないが」

「嫌がったら教えてやってください。お妙さんの言葉は覚えてますか?」

「確か……ことさらその時は女性上位になって喘ぐって聞いたような……」

「それを紅葉に仕込んでください。有効な床技なんですよ」

「それからまさかとは思いますが接吻はしてませんよね? 零無さん」

「それはしてない。心を許した者としか遊女はしないのだろう? 俺も接吻は心を許した人としたいしな……」

「一応、接吻も禁じ手なので」

「了解だ。気を付けるよ」

 

 奥座敷では紅葉が紅い襦袢姿で待っていた。

 俺も着物から浴衣姿になって、紅葉との二夜目を始める。

 そっと後ろに回ると俺は紅葉を後ろから抱きしめて彼女の首筋を唇でなぞりながら、その手を襦袢の中へ侵入させる。

 

「緊張するかい……?」

「零無さん……」

「俺さ、時折悪夢を見るんだ。とても辛くてとても苦しい夢を……。一時的にでもいい。それを忘れてしまいたい。君の柔らかい肌を味わえば……忘れられるのかな…?」

「零無さん……夢見が悪いという話は本当なんですね」

「ああ。なぁ、君の肌は悪夢を忘れさせてくれるかな」

「今夜で一応俺と君は離れる。君を感じさせて欲しい……」

「アッ……アッ……」

 

 襦袢の後ろの乳房を愛撫する。薄紅色の乳首を弄る。左手は彼女の聖域へ降りていく。

 なるべく柔らかい指捌きでそこを濡らす。

 紅葉が顔を上げて喘いだ。

 

「零無さん……! すごい……っ。感じちゃう……感じちゃうよぉ……」

「嫌かい? もっと喘いで? 紅葉…?」

「俺の悲しみを癒やしておくれ……紅葉……?」

「吉原で見られる極上の夢を見せておくれ」

 

 襦袢を思わず外した。

 薄暗い部屋にまるで雪のように白い肌が艶めかしく見えた。

 背中の筋を舌先で舐める。

 そのままうつ伏せで布団に横だわせる。

 後ろから俺が覆いかぶさる。

 左手の聖域から紅葉の愛液を感じる。

 今度はそこを執拗に優しく責める。

 甘いため息を俺は漏らして浴衣を外して素肌を重ねた。

 唇は自然と肩をさまよう。

 紅葉は感じてはならない快楽を感じて綺麗に喘ぐ。

 

「零無さんの指……器用……っ。気持ちよくなっちゃう……っ。アッ…アッ…すごい……!」

「感じるかい…? 俺の息子が君のここにいるよ」

「アン……今にも入りそう…!」

「俺に体を預けてみなよ。ゆっくり君の花びらを咲かしてあげるよ」

 

 俺の右手は紅葉のふくらみを揉んで左手は息子を掴んで彼女の花びらへ入れる。

 それにしても何て柔らかさなんだ?

 吉原の振袖新造のここはまさに名器だった。

 否が応でも俺の脳にも快楽が刻み込まれる。

 腰を回す。

 腕を絡めて紅葉の体を揺する。

 紅葉は綺麗に喘いで俺の顔を自分の顔に寄せる。

 演技とは思えない程の悦楽に浸る紅葉。

 俺は今度は紅葉を抱えたままで仰向けに倒れる。

 そのまま腰を動かして彼女を抱いて身に受ける快楽を感じた。激しく手を使い紅葉の姓感帯を弄る。

 首筋に舌を這わして甘いため息を吐いた。

 そのまま少し彼女の中で休む……。

 

「紅葉……もう慣れたんだね……俺に。ここは俺を逃さないように包み込む……」

「今夜の零無さん……激しい……っ」

「俺の悲しみを埋めてくれ……紅葉」

「アッ……アッ……深くっ……きてる」

「紅葉。しつこいと思ったら君が上になって俺を絶頂に導くんだ」

 

 紅葉は少し辛そうな表情で一旦、俺を抜くと、また自らの咲き誇る花びらへ入れて、腰を少しずつ動かし始める。

 俺が手のひらで胸を揺すりながら親指で乳首を弄る。

 紅葉は苦悶しながら俺を絶頂へ導く。

 ああ……俺の悲しみが快楽で満たされるよ。

 襦袢を脱がされて全裸の彼女は最後は俺を絶頂に導いて、彼女も悦楽に浸るように声を上げて、俺が果てる事で水揚げの儀式は終わった。

 お互いに放心としていた間が何とも言えない余韻に思えて仕方ない。

 最後に俺は紅葉を仰向けに寝かせると挨拶として激しく胸を貪る。

 そして心地よい疲れを感じて眠りに落ちた俺だった……。

 

「零無さん……最初の相手があなたで良かった……」

 

 ぐっすりと寝息を立てる零無に紅葉は最後、そっと唇を重ねた。

 そして後始末へと向かう為に(トイレ)に立って、吉原の春の宵は更けていく。

 



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24話 水無月の憂鬱

 紅葉の水揚げが無事に終わり、俺はまた桜華楼の幇間としての仕事に戻った。

 1階の大広間でまた池本さんと共に朝食を食べる俺達と遊女達。

 俺は池本さんに思い出した歌があるのでという話をする。

 

「池本さん。また一曲、思い出したよ。歌詞の内容の確認をお願いしたいんですけど」

「助かります。零無(レム)さん。昨夜ね、どうしてもあの流行歌を聴きたいというお客様がいて披露していたのですが、新曲は無いのか? って言われて困っていたんですよ」

「そういえば一昨日から今日の朝まで顔を見ませんでしたけど何処の座敷にいたのですか?」

「桜の座敷だよ。それで今朝、無事に立て込んだ仕事が終わってね。朝飯を食べている訳さ」

 

 今朝の朝飯は昆布の佃煮と油揚げと人参と里芋の醤油煮込みに白いご飯と味噌汁という組み合わせだった。後は焼き海苔も出たかな。

 一昨日からの仕出し料理も美味だが、あんまり賞味するとここの食事が満足できなくなるから、人間って奴は怖い。

 程なく朝飯を済ますと広間をまた借りて、打ち合わせに入る。

 すると、ここ数日でまた内芸者が増えたのか見知った声をここで耳にした。

 

「よぉ! 零無! 久しぶりだな!」

「酒井⁉ どうしてここに!?」

「酒井さんも桜華楼の内芸者になったんですよ」

「昨日付けでな」

 

 どうやら俺の知らないうちに事は進んだようだ。酒井と池本さんと俺が広間で話すのを手の空いた若い衆も観に来ていた。

 雑記帳に書いた歌詞は2つある。

 1つは紅葉(もみじ)に見せたあれともう一つ別の歌詞もあるのだ。

 どちらが良いのかを芸者衆で話し合う。

 あの演物は結構評判が良いので、新しい流行歌が必要なのだ。

 

「さすが零無だな。桜華楼(こっち)に来ても芸の修行は怠らずにしていたんだな」

「でも意外な特技だよな。流行歌の歌詞を書くなんて」

 

 酒井は結構驚いた様子で俺を見ている。

 確かに共に組んでいた時は、三味線を弾く俺しか知らないから驚くのも無理はないか。

 池本さんは雑記帳にある二つの候補からどちらが良いのかを見比べている。(ページ)をめくりながら。

  

「どちらも良い感じですね。『君は誰?』の歌詞は寂しげだけど愛を歌ったもの。こっちは何というか『生きかた』を歌ったものみたい。私はこっちの方かしら?」

「歌い出しの『溢れ出す涙なら今は止めなくていい』が響くかもな。まるでここの人達を優しく励ましているみたいだ」

 

 周りにいる若い衆も何か沁みるものがあったらしい。

 その場にいる友吉とか、勇太とか、喜兵衛も賢治もしんみりしている様子だ。

 

「良いなあ。『溢れ出す涙なら今は止めなくていい』なんて滅多に歌われないよ」

「あっしらには発破をかけられる言葉くらいなもんですよね」

「何かしんみりしてしまいましたな。楓姐さんに怒られる。零無の旦那! 何かこう……気合の入る流行歌も考えてくれませんかね?」

「気合の入る流行歌か。確かに場を盛り上げるためにも必要だよなぁ」

「考えておきますよ」

「酒宴が始まる前に楽譜に起こしておきましょうか? 零無さん」

「そうですね」

 

 楓姐さんの発破の言葉をかけられたのはすぐ後だった。突っ立っている若い衆に檄を飛ばす。

 

「お前ら! 何を突っ立っているんだい? 今夜も馴染みが来るんだ。今のうちに掃除できる所や抜かりはないか確認しておくんだ」

「へ、へい! 姐さん!」

 

 確かに若い衆の楓姐さんに対する怯えかたは、ビビっているという話でも無さそうだな。

 楓姐さんはそそくさと自分達の部屋に帰ろうとする俺達に、今夜の酒宴の話があると言ってくる。

 

「芸者衆の皆さん。ちょっと今夜の酒宴に関する話があります」

「なんだろう?」

 

 広間の廊下の途中という中途半端な場所に向かう、酒井と池本さんと俺。

 そこで、楓姐さんは

 

「今夜の酒宴ですが、最近、流行歌を歌ううちの桜華楼が気になって揚がる客が多くなって来ましてね、さすがに一曲ニ曲では物足りないと思う客が多くなってきました」

「お座敷遊びも定番ですが人間は飽きがきますからね」

「ここ、吉原では飽きが最大の敵みたいなもの。斬新な流行歌ならば新鮮な空気になって、皆さんも揚がってくれると思います。何せ、今は月の中でも一番客足が遠のく6月。芸者衆の皆さんの歌で客足が遠のくのを少しでも減らせたらと」

「今夜の酒宴も5時頃からですよね」

「それまで後、8時間くらいですか」

「せめて何曲くらい歌っていただきたいのですか?」

 

 池本さんの質問に楓姐さんはこう答えた。

 

「せめて5曲は歌って欲しいですね。流行歌だけでも」

「手元にあるのは3曲ですね。最初の『六千年の御伽唄(おとぎうた)』と『君は誰?』と今の曲」

 

 後は2曲か。どうにかして俺の記憶の底にある名曲を引っ張り出さないと、と思った。

 そこで酒井と池本さんが名乗り出る。

 

「零無さんだけに歌を考えさせるのも偲びないわ。私も何か考えようかしら?」

「面白そうだね。俺もやってみようかな」

「酒宴まで8時間。俺も後1曲はできるかな」

「頼みますよ」

 

 相変わらずの品の良い着物姿が廊下から部屋へ去っていった。

 しかしながら、どこでその作業をやるかだよな。まさか池本さんの私室にお邪魔するわけにもいかないし。

 酒井の部屋でとも思うが、桜華楼には蔭間(かげま)と呼ばれるものも何かと縁がある。

 蔭間とはわかりやすく言えば男娼の事で、男性版の女郎みたいなもの。

 そのもの達もこの桜華楼に何かしら関係があるとの専らの話である。

 生憎な話だが、俺には男色の気はないと言う話でね。

 桜華楼に何処かそういう作業に向いている場所はないものかな。

 すると珍しく、稲葉諒が内所から出てきた。

 便所に向かっているのか。

 廊下を歩いている。

 

「芸者衆の皆さん。寄り集まってどうしたんだ?」

「旦那様」

 

 簡潔にこの話をすると、

 

「しばらく待っていて貰えないかな? 先に用を足したい」

 

 と、便所に行って、用を足すと、俺達をとある部屋へ案内する。

 1階の奥の内所とは反対側にある部屋には、ピアノが置いてある洋室があった。

 

「前の花魁で、朱華(はねず)という花魁が居たのだが、彼女はピアノが得意でよく先生に習っていたんだよ。俺はその名残りを残して置きたいからこの部屋に彼女のピアノを置く事にした。滅多に使わないが、お前達なら使えるんじゃないか?」

 

 ピアノがあるとは驚いたかな。

 でも流行歌を考えるにはお誂えな部屋だ。

 稲葉諒は今夜の酒宴に考えを巡らせる俺達に励ましの言葉を添えて内所へと戻った。

 

「6月になるとどうしても客足は遠のいてしまう。梅雨の鬱陶しい雨を振り払うくらいに話題になるものをお願いしますよ」

 

 俺達の夜までの戦いも始まった。

 



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25話 傷ついた君へ

 吉原に雨が降り出した。

 空を覆う灰色の雲から雨の雫が降り始める。

 雨が降っても呼び込みの十郎太は外で呼び込みをしなければならないから大変だ。

 しかし吉原は6月は客足が遠のく事でも有名なのだ。梅雨の雨が降る中で、しかし桜華楼はそれでも賑やかな妓楼だとは思う。

 そうして今夜も馴染みの酒宴が始まる。

 その間の8時間でどうにか後2曲は思いつく事ができたのだ。

 今夜の馴染み客は藤村という名前で、俺は顔は見たことがない。

 しかし酒井は藤村と聞いて、あまり良い評判を聞かない人物の事かも知れないと俺に教える。

 

「この桜華楼は確かに良客ばかりだが、最近の奴はあんまり良い噂は聞かないぜ」

「例えばどんな噂だ?」

「旦那様の前では猫をかぶるように良客になって座敷では横暴に振る舞うんだ。若い衆も腹は立つらしいが客に手を挙げるわけにもいかないしな」

「お前からその話を聞くとはな。桜華楼に出入りしていた幇間は伊達じゃないって訳か」

「まあな。藤村と聞いてそいつの事かなって思ったよ」

 

 その藤村だが確かに評判はあまり良いとは言えないのは女郎やお妙さんも知っている。

 楓姐さんとしても頭を抱える部類の客と言える。

 稲葉諒は桜華楼の女郎に暴力を振ったら考えるとだけ答えている。

 横暴な馴染みの相手となる花魁は杜若(かきつばた)だが、自分の名代に振袖新造の紅碧(べにみどり)を行かせる事にした。

 ちなみに彼女、紅碧は明日の夜に水揚げをされる振袖新造である。水揚げはやはりというか、俺に出番が回ってきた。

 裏ではそういう話が密かに進んでいるのだ。

 しかし今夜の俺は内芸者として松の座敷にて酒宴に出て、名代として相手を頼まれた紅碧と共に部屋にいる。席には池本さんと酒井と萩原さんがそこにいたよ。

 杜若花魁は何かと理由を付けてこの藤村という客を避けているらしい。まあ杜若花魁は他にも別の馴染みがここではない座敷にいるからそちらを相手にという話だけどな。

 吉原ではこういう事態は珍しい事でもない。

 人気の花魁なら他にも客を取るのは不思議な話でもなく寧ろ当然という話である。

 

 松の座敷には今は杜若花魁が形式的とはいえ、宴の席にはいる。

 藤村は見た目はやや年かさのいった威勢だけがいい親父だ。上品という客ではない。

 黒々とした短髪、顎髭、服装は着物姿で一応、準礼装だった。

 しかし座敷の藤村は宴を楽しみつつ下品に杜若をあからさまに抱き寄せ、着物の袷に手を入れて悪戯しているよ。

 杜若花魁はとりあえず笑顔ではあるが、何となく気分は悪そうだ。

 

「おう! 若い衆! この桜華楼で流行歌が聴けるって言うじゃねぇか! 芸者共に歌わせろ!」

「宜しくお願いします。芸者衆の皆さん」

 

 今夜の座敷の管理は喜兵衛がしていた。彼は廻し方の管理やその他の悶着事の解決は見事な手腕という評判だ。

 調律がされて、流行歌が歌われたが、途中で藤村の罵声が飛んできて中断になった。

 

「湿気た流行歌なんか歌うんじゃねえ! もっと気分が上がる歌を唄え!」

 

 松の座敷に藤村の罵声が聞こえた。

 池本さんは俺と酒井に顔を向ける。

 萩原さんも。

 藤村は宴をさっさと終わらせて床入りを急がせた。

 杜若花魁はここぞとばかりに他の馴染みのいる座敷へと向かってしまう。

 

「紅碧や。わっちに代わり名代として藤村さんの御相手をしておくんなんし」

「は、はい。花魁」

「チッ。杜若のやつ、せっかく宴の席まで出してやったのに名代に任せやがったな…!」

「杜若の名代とか言ったな? 名前は?」

「……紅碧(べにみどり)でありんす」

「ふん……名前だけは一丁前だな。まあいい。今夜はお前を手慰めに抱くか?」

「わ、わっちは花魁の名代です……それに、まだ旦那様からお客様のご相手はしてはならない……と!」

「構わねぇよ。俺が水揚げをついでにしてやる」

 

 藤村が強引に振袖新造の紅碧を抱こうと抱き寄せて無理矢理、犯そうとしている。

 こんなの横暴じゃないか?

 池本さんと萩原さんが俺に目を向けた。

 芸者衆で今、声をあげて止められるのは俺と酒井しかいない。

 喜兵衛はあろうことか杜若を宥めに行ってしまったのだ。

 

「藤村さん!」

「何だあ!? 幇間が何の用だ? 今、いいところなんだよ!」

「花魁の名代に手を出すのはご法度ですよ! あなたも吉原の客ならそれなりに筋を通して貰いたいもんだね!」

「脇役の幇間が生意気を言うんじゃねぇよ!」

「俺はこの桜華楼の"客"でてめえ等は俺を喜ばせる為の飾りなんだよ! 飾りは飾りらしく、ちゃんちゃか三味線でも弾いていればいいんだよ! こいつがどうなろうと関係ないだろうが」

「いいや、関係あるね! あんたみたいな粋も筋も通せない輩を楽しませるのは芸者としての筋が許せないんだよ」

「うるせえよ。ここではなぁ……金さえあれば何でも買えるんだ。快楽も、名誉もなあ」

「止めてください! 止めてぇ! わ、私は! まだ旦那様に許可を頂いてないのです! お願い! 止めて!」

 

 紅碧の青灰色の着物が強引に脱がされようとしている。奴は裾を強引に捲り今にも彼女を強引に強姦せんとしている。

 酒井は喜兵衛を呼びに向かった。

 でももう間に合わない。紅碧の悲痛な声が助けを呼んでいる。

 俺はもう限界だった……。

 

「やめろ!! その汚らしい手を離せ! 殴りたいなら殴れ! だが、俺も黙っていないぞ」

「ほ〜う。殴りたいなら殴れ……か。クソみたいな幇間め。俺の邪魔をしやがったてめえはこうだ!」

 

 紅碧を暴力的に退けた藤村は、杜若に振られた腹いせに零無を殴ろうとした矢先に……

 

「おやめ!!」

 

 楓姐さんの叱咤が飛んできた。

 後ろには稲葉諒が静かに藤村に対して、殺気のこもった褐色の瞳を向けて睨みをきかせた。

 そして暫し沈黙が落ちた後、諒がドスをきかせて藤村に言った。

 

「藤村さん。前々から気にはなってましたが、吉原では金を持っていれば何でも思い通りになるとでも仰るか? 他の見世はどうだか知らないがね、うちの見世はそうはいかないのですよ……」

「楓。芸者衆と紅碧を他の座敷へ案内しろ」

 

 胸ぐらを掴まれた零無が若い衆の手で離され、賢治が紅碧と芸者衆を連れて行く。

 賢治に「任せたよ」と声を掛けた楓も松の座敷に戻ってきた。

 只ならぬ気配の桜華楼。

 稲葉諒は図に乗る藤村に言い放つ。

 

「桜華楼を舐めて貰っては困るんだよ。ここは吉原の桜華楼。ここの掟をろくすっぽ守れないような客を俺達は必要としてないんだよ。あんたは伊勢谷さんと比べると他愛もないタダのボンクラ。いいや……金回りが良いだけのクソみたいな腐った民衆の一人だね」

「肥溜めが実に似合う男だ。しかもうちの芸者に手を挙げようとするとは。藤村。さっさと金の勘定を済ませて金輪際うちの見世には出入り禁止とさせて貰う」

「もちろん、桜花の里にも出入り禁止とさせて頂くわ」

 

 楓の冷たい声も響いた。

 藤村はその場に凍りつく。

 稲葉夫妻の得も言われぬ迫力に気圧されて。

 

 襲われかけた紅碧とそれを丸ごと観ていた芸者衆は使われていない座敷にて、今は賢治が話を聴いていた。

 藤村が強引に紅碧を犯そうとしたこと。

 零無がそれを止めさせたこと。

 その場には杜若花魁を追って喜兵衛が居なくなってしまったこと。

 

「左様な事が起きていたのですか。いやはやなんとも嘆かわしい失態でした。こんな状態で宴になど出られませんでしょう。今夜はこのままお休みになって下さい」

「あ、あの……」

 

 紅碧が彼らに声を掛けた。

 そして彼女は彼らの歌を聴きたいと言った。

 休まなくていいの?

 池本さんが優しく声を掛けた。

 

「私が聴きたいから聴かせてください」

 

 そこに聴いてくれる人がいるなら。

 彼らの歌が空虚な座敷に響いた。

 伴奏もない中で池本さんが歌う。 

 それはこんな歌……。

 

 

【傷ついた君へ】

 

溢れ出す涙なら 今は止めなくていい

悲しみの最後には 光が差し込むはず

 

 

そう 同じ気持ち信じてた

消した思い出 見つめてた

今あなたに会う事はできないけど

切ない想い隠して

強くなれる

もっと確かめていくの

 

 

溢れ出す涙なら 今は止めなくていい

悲しみの最後には 光が差し込むはず

急ぎすぎて 壊してきたもの

取り戻すの 私らしく生きるために

 

 

ねえ またあなたに会う時は

さきに「さよなら」を言わせて

 

 

迷わずに 焦らずに 過ぎていく時間は

優しさに変わっていく

痛みも忘れない

無邪気すぎて傷ついた心を

抱きしめるの

生まれ変わる自分のために

 

 

溢れ出す涙なら 今は止めなくていい

悲しみの最後には 光が差し込むはず

 

 

迷わずに 焦らずに 過ぎていく時間は 

優しさに変わっていく

痛みも忘れない

急ぎすぎて 壊してきたもの

取り戻すの 私らしく

生きるために

 

 

悲しみも 苦しみも 心に残る

その後に続くはずの 自分の物語を

光の先に終わらせるために

歌うの ここに

私のために 

 

 



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26話 時代を翔ける人達

 騒然とした今夜の桜華楼の一日が終わろうとしている中で、喜兵衛は夜も深い23時頃に稲葉諒に呼び出された。 

 喜兵衛には聴きたい事がある。

 何故、あの場に居ないで杜若(かきつばた)を追いかけてそこから去ったのか。

 杜若の性格からして振袖新造で、そして妹分の紅碧(べにみどり)を己の身代わりにする事など判っていたはずだ。

 それをわざわざ杜若を追って行った責任は何かを問い詰める稲葉の姿があった。

 

「何故、あの宴席に最後まで出席して無かったのだ? 若い衆は花魁の宴席の時は付きっ切りで面倒を見る、そういう掟だろう?」

「そ、それは……旦那様」

「何故、そのような事をさせているか。ああ言った客から花魁と振袖新造や禿(かむろ)達を守るためにいさせているんだ。喜兵衛(きへえ)。お前の廻し方としての手腕をどうやら買いかぶり過ぎたかな。私は」

「違います! 旦那様。杜若はもっと別の事であの宴席から出て紅碧(べにみどり)に名代を頼んだのです!」

「どんな理由だ?」

「杜若は、この間検査に行ったら性病に罹っていたのです。しかし、まだ彼女は菖蒲花魁のように身請け話も決まってません……。それがあまりにも不憫で……」

「その性病の話はまだ聞いてなかったな。いつの検査の時にわかった?」

「この間の2週間前の検査の時に。杜若は途方に暮れたんです。このままでは切見世に飛ばされるって」

「……確かに性病に罹っているとなるといつまでも花魁に居させるわけにはいかないな」

「私は杜若が不憫でなりません。しかし、とても私のような者においそれと彼女の借金を肩代わりできませんし」

 

 3枚目花魁の杜若がこれで実質、おいそれと客を取らせる訳にはいかなくなってしまった。

 後釜となる花魁を一人用意しなければと考える稲葉。

 その顔は杜若の衝撃的な話を聞いても平然としている。傍から見れば冷淡と評される程に落ち着いていた。

 杜若はもう助かる道は無いのか?

 喜兵衛はそればかりが頭に浮かぶ。妓楼では性病に罹った遊女は医者に診察してもらい、快方へ向かうならば治療も考えるが、大概が手遅れなので、その後の扱いは非人情、そのものだった。

 吉原の女郎屋の楼主は、時に非人情に徹しなければならないとやっていられないのも事実。

 稲葉は杜若をどうするつもりか?

 やはり切見世へ落とすのか?

 他の見世に売りに出すのか?

 決断は迫られていた。

 

「喜兵衛。杜若は確かこの東京が出身だったな?」

「え? は、はい。私は存じ上げませんが」

「この際、親元に帰してやるのも良いかも知れないな」

「旦那様。杜若を親元に、故郷に返すというのですか?」

「彼女は充分に稼いでくれたしな。最期の時くらいは知った顔の下で過ごさせてあげたいじゃないか」

 

 と、いやに優しく言葉にしてみせる。

 だが、それは裏を返せば体よく厄介者を追い払い殺しもしないで、新しい花魁を仕立てる絶好の機会という意味も含まれていた。

 その花魁候補は、今が売れ筋が良い振袖新造の薄紅だった。

 そして、杜若の突然の帰郷の話はあっという間に進む。

 珍しく楼主から呼び出された杜若花魁は戸惑いながら内所へと姿を現した。

 

「何の用でしょうか? 旦那様」

「杜若。何か私に伝える事があるのではないかな? この間の健康診断で告知された事があるのでは?」

「正直に言ったほうがいいのは知っているでしょう?」

 

 内所の部屋で上座に座る稲葉諒と楓。

 楓は煙草を吹かせながら腕を組んだ。

 杜若は観念したように自らの病状を告白した。

 

「じ、実は、淋病に罹ってしまいました……。数日間はお客様と床入りは遠慮させて頂いておりましたが、何故、わかったのですか?」

「ふふ……この桜華楼の事は俺達が一番知っている。滅多に仕事の下手をふまない喜兵衛が珍しく下手をふんだ。何かあると私は思ったが、やはりな……」

「それに伴い杜若、君を実家へ帰してあげようと思う。充分に稼いだのだ。ここ5年間。御苦労だったな」

「あの……私の借金の精算は?」

「この際、破棄してもいいかとも思う。君はこの東京に故郷があるのだろう? その身体ではいつ命が尽きてもおかしくない。なら、この際。故郷でゆっくり過ごすといい」

「桜華楼との腐れ縁もこれまでということさね」

「楓姐さん……」

「荷物をあらかたまとめたら君の故郷へ帰るといい。まだ身体が動くうちにね」

 

 それは杜若のお役御免という印でもあった。

 無理矢理、女衒に連れられて桜華楼にて過ごした5年間。嬉しい時も悲しい時も側にいた彼らとの別れがいざ来ると悲しくなるのは何故だろう?

 杜若が最後の挨拶を稲葉夫妻にした。

 

「今までありがとうございました。旦那様。楓姐さん」

「ああ。ご苦労だった、杜若」

 

 杜若はその日からまた普通の女性に戻り、表の世界へと旅立つ。

 彼女が内所から去った後、楓は諒の真意を見透かしたように言った。

 

「本当、あなたって表向きでは人情派を装うけど、裏では振袖新造の薄紅を花魁に格上げするのを待っていたんじゃないかしら?」

「ふふふ……それは言わない約束だ。楓」

 

 火鉢に引っ掛けておいた煙管を咥え吸う諒。

 そして、事もなげに言った。

 

「何時までも性病に罹った者を商売道具にする訳にもいかんだろう? なら今が売れ筋の振袖新造を花魁に格上げさせた方が売り上げとして申し分ない話さ」

「……あなたも相当のワルね」

「ふふふ……そうか?」

 

 杜若は花魁部屋の座敷にある荷物をまとめていると箪笥の中にある(かんざし)を見つけた。

 これは稲葉諒が餞に遊女として一本立ちした時にくれた簪だった。

 小さな朝顔があしらわれた簪。

 これだけは持って行こう。

 杜若は風呂敷の包みにそれを入れて、そしてしみじみとこの部屋とも別れの時が来たのかと思った。

 ふと、部屋の外から不思議な流行歌が聞こえた。

 零無と池本さんと酒井さんの流行歌の練習風景だ。できればもっと長く聴いてみたかった。

 杜若は音楽が流れる部屋へ向かった。

 そこには零無と池本と酒井が流行歌の作曲をしている光景が見えた。

 

「杜若花魁。珍しいですね。どうしました?」

「もう私は……花魁では無くなりました」

 

 杜若は訳あってこの桜華楼から出なければならないと説明する。

 そして去る前に一曲だけ歌って欲しいと彼らにお願いする。 

 

「わかった。今、練習してた曲を君の旅立ちへ贈らせてくれ」

 

【扉の向こうへ】

 

僕等は今でも叫んでいる

 

 

確かめるように握りしめた右手

うざったい法則をぶち壊していけ

傷ついた足を休ませるくらいなら

たった一歩でも ここから進め

 

 

歪んだ風を掻き分けて

冷たい空を追い越して

それでも彷徨い続けている

 

 

僕等はいつでも叫んでいる

信じ続けるだけが答えじゃない

弱さも傷もさらけ出して

もがき続けなければ始まらない

突き進め 扉の向こうへ

 

 

ややこしい規律で絡み合う社会

じれったい現実を 蹴り飛ばしていけ

誹謗や中傷にふさぎ込むくらいなら

打算も欲望も ぶち撒けていけ

 

 

乱れた情報 かき消して

白けた視線 振り解いて

現在から続く 次の舞台へ

 

 

僕等はいつでも探している

加速した速度は変えられない

強さと覚悟繋ぎ止めて

走り続けなければ 未来はない

突き破れ 扉の向こうへ

 

 

翳した誇りが間違いだとしても

描いていた理想が 崩れかけても

ここにある全てに嘘をつかれたとしても

きっとここにいる

 

 

僕等はいつでも叫んでいる

信じ続けるだけが答えじゃない

弱さも傷もさらけ出して

もがき続けなければ始まらない

突き進め 扉の向こうへ

 

 

僕等はいつでも探している

加速した速度は変えられない

強さと覚悟繋ぎ止めて

走り続けなければ 未来はない

突き破れ 扉の向こうへ

 

 

僕等はいつでも探している

加速した速度は変えられない

どんな真実も 暴き出して

後悔するのは それからだ

突き進め 扉の向こうへ

 

 

扉の向こうへ……

 

【終わり】

 

「最後に皆さんの歌を聴けて良かった……ありがとうございました」

 

 杜若は風呂敷一つで朝焼けが近い吉原の雑踏に出た。

 

「何も鳥が飛び立つように出なくてもいいじゃないか」 

「いいんです。今更、見栄も花道も私には要りませんよ」

 

 杜若は普通の町人の着物に着替えて深い青空を仰いだ。

 何だか少し明るい表情の杜若は最後の挨拶をして大門から出て行った。

 

「さいなら!」

 

 こうして、時代を翔ける人達の物語は前へ進んで行った……。



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27話 消せない罪

 桜華楼にて横暴な客の藤村が勘定を支払い、そして桜華楼の若い衆に乱暴に連れ出され、大門にて追い出された藤村。

 乱暴に摘まみ出された事に藤村はこの期に及んでまだ言い返す。

 

「何をするんだ! てめえ等!」

「それはこっちの台詞だよ。全く、アンタも判ってないな」

「うちの旦那様の逆鱗に触れて生きて帰った奴は居ねえからなぁ。怖さを知らねえんだよ」

「な、何を言っているんだ?」

 

 藤村はまだ己のした事をよく判っていない。

 自分の命が脅かされ、常に極道の筋者達にその背中を追われ、生活すらも脅かされる事に。

 桜華楼の若い衆の健太と友吉が藤村を摘まみ出したが、彼らは一応の警告を話してやった。

 

「近々、うちの者が挨拶に伺いますんで、その時は腹を括って待っていてくださいな」

「どういう意味だ?」 

「そっくりそのままの意味ですわ」

「これからお前の身に起きる事は全部、お前さんの自らの行いのせいって事だ。吉原の大見世に喧嘩売ったワレを後悔しろや」

「それから、アンタはもう大門は潜れる身分じゃねえからな。その前に旦那様の遣いが来るから」

 

 健太と友吉が藤村を追い出した桜華楼の内所の部屋では、杜若の件の後に、実は桜華楼と稲葉諒と繋がる極道の者が稲葉の連絡に合わせて来ていた人物も居たのだ。

 

「珍しい事もあるもんだ。桜華楼はあまり揉め事が無い妓楼だから、組の者が暇していたのだがね」

「その暇も無くなりますよ。先程、我々の見世で狼藉を働いた輩がきましたから」

藤村俊彦(ふじむらとしひこ)か。フン。まるでボンボンみたいな名前だな」

「ええ。ただの金持ちのボンボンです。だがね。水揚げも済んでいない女郎に頼みもしてないのに勝手にそれを実行しようとした。許せないのですよ。それは全て、私が決める事ですから」

「丁寧な言葉遣いになるとかえって怒り心頭である事は知っているつもりだよ。稲葉さん」

「なら、相応の代償を奴に思い知らせてやってください。どの面下げて表の世界を出歩けないくらいにね……」

 

 その時、稲葉諒の褐色の瞳が明らかな殺気に輝く。

 それを見た、虎爪会(こそうかい)の会長、市川勝之助(いちかわかつのすけ)は煙草を吸いつつニヤリと笑った。

 ちなみに女衒としての市川文左衛門(いちかわぶんざえもん)の実の兄弟だったりする。

 文左衛門は近頃は女衒の仕事の傍らで阿片などの違法薬物の売買に関わっているとか、そんな話を聞く。

 勝之助は久しぶりに見た稲葉諒の燻る怒りの火を見て、思わず言った。

 

「近頃のお前は何処か上品過ぎて凄味に欠けると想った。しかし、やはりお前は吉原の女郎屋の楼主なんだな。その殺気に輝く瞳は久しぶりに見た」

「少なくとも、その殺気に輝く瞳にはお前の中に潜む狐の妖怪の魂がまだ健在だと断言できるな」

 

 諒は火鉢に置いた煙管を取ると徐ろに咥えて、ふうっ……と煙を吐いた。

 今の彼の姿は着流し姿に羽織り物を着て、窓の外の景色を座布団に坐りながら眺めている。

 その部屋では勝之助が立ち姿で内所から覗く若葉姿の桜の木と夜空の月を眺めていた。

 雨はいつの間にかやんで月が覗く。微かに細い月が夜に冴え冴えと輝く。

 内所の部屋の電灯は薄暗い。完全な暗闇ではないが、暖かな明かりではあった。

 

「相応の代償か。任せておけ。そういうのは得意分野だ」

「お前の内側に潜む狐の血が満足するような、手酷い代償を支払わせてやるさ」

 

 市川勝之助はそう稲葉諒に答えて内所の部屋から去った。部屋の外には諒の妻、楓が待っていた。

 楓姐さんも市川勝之助に少しドスの効いた言葉で宜しくお願いをする。

 

「勝之助さん。宜しゅうお願い申し上げます。このままでは桜華楼も嘗められたままですわ」

「ええ。私としても桜華楼には色々世話になってますからな」

「失礼致します」 

 

 市川勝之助の部下は楓に頭を下げて、市川勝之助の後に続き桜華楼から出て行った。

 楓は内所の部屋へ戻る。

 そして諒の正面に座りこみ、机に肘をついて溜息を吐いた。

 

「相当、お前も腹が立っているようだな。楓」

「諒もね。今までもいざこざがあった時は市川さんに頼んできたけど、あの藤村はどうなるのかしらねえ?」

「どうなるのかは勇太に報せて貰えばいい。彼はそのための人材だからな」

 

 その翌日から藤村俊彦は虎爪会の連中からの、恐ろしい仕打ちを受け始める。

 藤村俊彦には懇意にしている女がいたが、まずは手始めにそいつを桜華楼へ転売に出す。

 女は平和ボケしている普通の世界の人間なので、虎爪会の若い衆が身に覚えのない借金をでっち上げ、接触した。

 

「お嬢さん」

「はい? 何ですか!? あなた達は?」

「あんた名義で借金を作った馬鹿がいるんですよ。ほら! 借用書!!」

「こんなの私、知りません!」

「借用書にあるこの借金、1000万円、明日にでも払って貰えませんかねぇ。払えねえならいい所へご案内しますよ。お誂え向きな場所へね!」

「これ、作ったのアンタの男だろう? アンタの男にでも頼めばすぐに用意出来るだろ?」

「藤村さんが!? なんで?」

「知るわけないでしょう? 俺達が。早い所、藤村俊彦に催促したらどうです?」

「明日中には払って貰いますから」

 

 藤村俊彦にもその鋭く非情な牙が剥けられた。

 

「藤村ー!! てめえ、あの吉原の見世で騒ぎを起こしたってなぁ!! 横暴を働いて、見世の者に暴力を振ったってなあ! 聞いたぜ〜藤村〜! 出てこいや! ワレぇ」

「何だね? この騒ぎは? 藤村君」

「す、すいません! 社長!」

「藤村〜? てめえ、無傷で済むと思ってんのか! クソガキが!」

「吉原で騒ぎを起こしたのかね?」

「そ、それは……」

「困るんだよ、吉原には贔屓にしている妓楼があるから、見世に迷惑かけると君に関わる人間まで徹底的に叩くんだ」

「全く、私も散々、他の妓楼ではお前の名前が挙がるたびに「クソ最低な客」だの、「阿呆な社員の所には阿呆な社長しかいない」とか言われている」

「もう金輪際、会社には来なくていいぞ」

「それってクビですか!?」

「クビだ。迷惑なんだよ。消えろ」

 

 その間も東京の街中に噂をばら撒く虎爪会の若い衆は、さらに若い衆の女の口から、藤村俊彦は女に乱暴を働く不届き者と伝達させ、藤村に体よく強姦されたとか噓を撒き散らす。

 それは普通の家庭の主婦に伝達されて『隣に住む藤村俊彦は女を強姦した』と根拠のないゴシップネタが話され始める。

 

「見て? 奥様。藤村さんですわ。女性に乱暴を働いたんですって」

「嫌味な男ねえ」

「隣町のアパートにあいつの女が借金こさえたとかで借金取りに追われてましたよ」

 

 隣町のアパートでは借金取りの若い衆が執拗に金を取ろうと四六時中、怒鳴り散らす。

 

「早く払って下さいよ! 1000万円! あんたの男がこさえた借金!! 出ないととんでもない所にご案内しますよ〜?」

 

「止めて…。やめてよ……! 何で借金なんかするの? わからないよ、藤村さん」

 

 もちろん藤村にも同様の攻撃を行う。

 藤村の手で書かれた借用書と銘打った書類を片手に金を請求しまくる。

 もちろん藤村にはそんな大金が用意できる訳などなく……。

 会社もあっという間にクビになり、いつの間にか借金があり、代わりに何も知らない藤村の女が桜華楼に転売され、それは虎爪会と桜華楼の懐に入るという、単純明快な嫌がらせだった。

 数日間に渡る虎爪会という組の若い衆による執拗な攻撃で藤村はやっと自分が犯した罪を切実に痛感する。これが桜華楼の若い衆が言っていた『相応の代償』。

 あの見世で横暴に振る舞ったあの時、自分は浮かれていた。

 そして金さえあれば何でも許されると思った。

 しかし結果は桜華楼からの出入り禁止とそれに伴う桜華楼と繋がる極道からの執拗な攻撃。

 しかも自分の女が何も知らない借金で桜華楼に転売されそうになってる。

 それを悟った時はもう手遅れだったのだ。

 

 ある日。零無(レム)は新しい新顔が桜華楼に転売されてここに来たのを目撃した。

 連れてきたのは虎爪会の若い衆。

 連れられた女性は泣きじゃくる。

 一体、何が起きたのか? 零無は首を傾げる。

 彼の前を、如何にもなヤクザものが、泣きじゃくる女性を無理矢理、内所へと連れて行く。

 内所には稲葉諒と楓姐さんと虎爪会の会長、市川勝之助が同席していた。

 

「なるほど。代償として女を差し出した訳だ」

 

 稲葉諒の冷酷な声が響く。

 泣きじゃくる女性は、次は心臓が凍りつく程の恐怖を感じた。

 女性の下に歩み寄る諒。

 顎を掴み無理矢理、自分の顔を見つめさせる。

 

「これからは桜華楼にて相応の代償を支払って貰うよ。恨むなら藤村を憎め。私達の見世で横暴を働いたツケは君で穴埋めさせて貰うよ」

 

 冷酷非情な楼主の声が低く冷徹に内所に響いた。

 



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28話 紅碧への餞

 紅碧(べにみどり)の水揚げの夜がやってきた。

 それに伴い稲葉諒は紅碧に対して今夜の水揚げをする男性に関する事を教えた。

 遊女の水揚げの夜が近づくと彼は遊女に餞として1つの品物をくれるのだ。

 

「いよいよ今夜、君の水揚げだね。遊女として一本立ちするこれからの君に私から細やかな餞をさせてくれ」

「これは?」

「私からの餞は代々、(かんざし)となっている。君に似合うのは何かと選ぶ時間は私も好きでね」

 

 紅碧に餞をする諒。

 彼女に手渡したのは、蝶の細工が施された(かんざし)だった。所々には色硝子が使われた紅碧の名前に似た青緑色の硝子細工が蝶にされている。

 稲葉諒からの暗喩も込められた贈答品だった。蝶の簪は諒からは"蝶のように艶やかに生まれ変われ"という意味らしい。

 もう一つの言葉は"艶やかになって売れっ妓になり鳥籠から飛び立て"という意味もある。

 稲葉も冷酷非情な楼主ではあるが、何も年中非人情でもなく、むしろ普段から人情味を捨てた訳でもない。

 楼主は8つの徳を忘れた者、"忘八"と揶揄され世間体は厳しい現実が待つ。しかも生業が賤業で知られる女郎屋の親父。

 だが、稲葉諒は8つの徳を忘れもするが、どれか1つの徳だけは捨てないと常日頃から実践している。

 遊女への餞も彼なりの徳がさせている。

 そんな遊女達はたった1つだけ思うのは、できるなら水揚げはその稲葉にして欲しいと言うが、それは掟でも禁忌であった。

 その掟を楼主の自分が破っていい動機などない。できない相談だった。

 だが、紅碧も例外では無かった。

 

「旦那様。やっぱり私は……旦那様に初めての人に……」

「できないよ。それは駄目だと何度も言ってるだろう? 私にもできない事はあるんだよ? 君達の初めての男性にはどう足掻いても無理なんだよ……」

「だからせめて、この餞を贈る事にした。それが私ができる君個人に対する"想い"だ。その簪が君を護ってくれる事を願うよ」

「あの……今夜、私の相手となる方はどういう方でしょうか?」

「楽しみにしておきなさい。君にとって感慨深い相手かも知れない」

 

 珍しく水揚げの担当する人物をぼやかして表現した稲葉諒。

 紅碧の水揚げをする男性は、松の座敷にて襲われそうになった彼女を助けた、あの幇間だったからだ。

 

 そうしてその夜がやってきた。

 梅雨時だが珍しく雨はやみ月が姿を見せる静かな夜に、あの"彼"が客として揚がった。

 

「これはこれは、レムさん。また今夜も桜華楼に来て下さりありがとうございます」

「揚がっていいかな?」

「どうぞ、お揚がりください。草履はそこの若い衆にお預けになってください」

 

 勇太が草履を預かり、靴箱へ入れた。

 この少年、勇太は産まれも育ちも吉原の桜華楼出身の少年で、母親はここの遊女だった。その母親は性病に罹り既に死亡している。

 以来、稲葉諒と楓が実質的な父と母になり少年を育てたという。そこそこの美少年になった勇太は、桜華楼にて"福助"と呼ばれる伝言役として活躍している。

 優しい見た目が概ね好意的に受け入れられているので諒としても助かる人材である。

 

「今回の登廊もとても円滑だったね。楓さん」

「ええ。零無さんにも感謝しかありません。ここの所、伊勢谷さんは世界で起きている戦争に追われて忙殺されているので」

「戦争……か。嫌な響きだね……」

 

 零無の微かな記憶は、自分はこの時代ではない所で戦争に参加していたという事が(しこ)りのように残っている。

 その記憶は彼の嫌な記憶なのだろう。想い出そうとすれば刃のようなもので斬り刻まれるような痛みを訴え、そして彼自身も徐々に忘れるように振る舞い出した。

 それに襲われると仕事にも支障をきたすので意識的に想い出さないようにしているのだ。

 

「今夜の私の相手は誰かな?」

「振袖新造の紅碧(べにみどり)です。今夜、晴れて零無さんによる水揚げでございます」

「そうそう。あれから紅葉(もみじ)は飛ぶように売れておりまして。今、期待の振袖新造と噂されてますわ」

「あの娘はいい娘だよ。売れっ妓になってくれるなら俺も嬉しいね」

 

 桜の座敷に案内された零無は、あの時のように髪型を変えて、服装も準礼装で桜華楼に揚がっている。

 その姿は稲葉諒にそっくりなので、僅かな違いに気付かない人は、旦那様本人では? という人が大半である。

 零無の感覚にあの既視感が甦る。

 紅葉を抱いたあの夜と同じ感覚だ。

 桜の座敷の外からは賑やかな他の座敷に響く流行歌が聞こえた。池本さんの歌は零無に心地よい時間と安心感を与えた。

 すると若い衆の賢治が、御膳を持ち現れた。

 

「零無の旦那。お待たせしました。今夜の夕食をお持ちしましたよ。水揚げの前の腹ごしらえはしないとですね」

「今夜の面倒は賢治、君が見るのか?」

「はい。健太も喜兵衛も友吉も、今夜はちょっとばかし忙しいんです」

「忙しい?」

「実は、今夜は振袖新造の薄紅(うすべに)が花魁に格上げされまして。その花魁道中の為に出払っているんですよ」

「へぇ〜。そりゃあまた忙しい訳だな」

「こっちはこっちで紅碧の水揚げという大事な仕事ですからね。零無の旦那にはきちんと精をつけて貰わないと」

「頑張るよ」

 

 俺は自分の名前が入れられた箸入れから箸を取り出して、仕出し料理屋の夕飯を食べだす。

 白いご飯と穴子の蒲焼き。穴子はこの時期が旬な魚らしい。後はほうれん草のお浸しに、厚焼き玉子があった。味噌汁にはアサリが入っている。

 しばらくすると紅碧らしい女性の声が聞こえた。

 

「失礼しなんす。今夜の御相手致します紅碧でありんす。宜しくお願いしておくんなんし」

 

 彼女は桜の座敷に入ると正座をして俺に丁寧な御礼をして挨拶をしてくれた。

 彼女は顔を上げると、その瞳が当惑に輝いた。

 何処かで、見たことがある……。

 そんな言葉が聞こえてきそうな雰囲気だった。

 俺はとりあえず笑顔で挨拶する。

 

「やあ、初めまして。零無だ。今夜から二晩に跨いで君の相手をさせて貰うよ。宜しく頼むよ」

「は、はい。宜しくしておくんなんし」

「お酌、頼めるかな?」

「ようざんす。零無さん、どうぞ……」

 

 紅碧の衣装は、彼女の名前の通りの着物だった。青灰色とも言われる青味を帯びた灰色という色の着物に装飾として牡丹の花があしらわれた着物だった。

 紅碧は俺に対してやはり、見たことがある……という感じの視線を送りつつ、俺にお酌していた。

 俺も同じ。この娘は俺があの横暴な客から守った、杜若の名代として松の座敷にいた娘だ。

 奇妙な縁を感じた。

 その娘は今夜、俺に初めての男性として抱かれる。

 お酌して貰う間、話題は先程、賢治が教えた薄紅花魁の話になった。

 

「今夜、新しい花魁が誕生したそうだね」

「はい。薄紅花魁であらっしゃります」

「最近まで、振袖新造だったってね」

「主様が薄紅花魁を抜擢したようでありんす」

「君の前でこんな事を言うのもだけど、薄紅花魁の顔は拝みたいものだね」

「気がつまりんす」

「君の話を聞きたいね。何歳になったかな?」

「この夏で14歳になりんした」

 

 14歳。今までで一番若いじゃないか。

 ちょっと驚いたな。

 軽く驚く俺に彼女は気を遣う。

 

「大丈夫でありんすか?」

「驚いたね。14歳か。でもそれもいいね」

「どういう意味でありんすか?」

「そんな君の初めての夜の相手が俺だったのが嬉しいからだよ」

「薄紅花魁も14歳で水揚げされたとおっせえした。だからわっちもこの年齢(とし)で水揚げされるのかなと思っておりんした」

「そんな薄紅花魁が生まれた夜に君が今夜、生まれるんだね」

「なら、早速、しようか?」

「はい。賢治さん。零無さんを(かわや)へ連れておくんなんし」

「旦那。では行きましょう。紅碧さん、お仕度です」

 

 そうして紅碧との初夜が始まろうとしていた。 



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29話 紅碧の初夜

 零無(レム)(トイレ)に向かっている間に紅碧(べにみどり)が身支度を整えている。

 彼女は稲葉諒から餞として贈られた蝶の(かんざし)を最後、身を護るものととして額の髪へさした。

 密かにこう想って……。

 

(旦那様。私はあなたに似ているあの方を、旦那様と思って抱かれます。旦那様は知っているのでしょう? あの方を。だからわざとぼやかしたのですよね…?)

 

 紅い襦袢姿になった紅碧は奥の座敷の布団の上で胸が高鳴るのを自覚していた。

 部屋の外では零無が賢治に対して二、三個確認をして紅碧が待つ奥の座敷へと消えていった。

 彼も浴衣姿になって、紅碧という遊女の水揚げを始める。

 

「お待たせ……。綺麗な簪だね。その蝶の簪」

「旦那様がわっちへの餞として贈っておくんなんした」

「似合っているよ。旦那様はいい感覚をしているね」

「零無さんは旦那様に似ています……あっ」

廓言葉(くるわことば)は無理にしなくていいよ。こんな時にまでね」

 

 零無は優しく諭すとそのままゆっくりと紅碧を布団へ横たわせる。

 覆いかぶさる零無。

 月夜のみが照らす夜の桜の座敷は静かな時間が流れた。

 そのまま空いた手で襦袢を広げふくらみを触り始める。

 人差し指と親指で小さな乳首を摘む。

 紅碧の身体が少し跳ねた。

 零無の唇は首筋を這うように舐めて、蕩けるような声で感想を聞く。

 

「どんな気分だい? あの人に似ている男がこうしている気分は?」

「胸がすごくドキドキして……零無さんの唇が気持ちいいんです……っ」

「脱がしたらどうだい? 俺の浴衣」

 

 紅碧が零無の浴衣を外した。

 素肌を晒した彼は接吻したいのを我慢して、唇をふくらみへいかせて緩急をつけながら刺激を与える。

 紅碧が喘いだ。

 彼の両方の腕が彼女の細い腰に回り、次第に激しさを増していく。

 まるで雨のように紅碧の身体に唇を這わす零無。

 紅碧は艶めかしく動く目の前の男性の声が段々と甘く聞こえてくるのを感じる。

 

「君の身体の味がする……とても芳しい匂いもいい……もっと、もっと喘いでみせてくれ……紅碧」

「アッ……アッ……零無さん……気持ちいい」

「そうだね……ここは俺を待って熱く濡れている。初めての男性を受け入れようと必死になって……」

 

 熱く濡れるそこを零無の舌が襲いかかる。

 紅葉の時とは比較にならない程の激しさでそこを愛した。

 

「アアン。そこは……!」

「知っているようだね……禁じ手は?」

「でも、初めてなんです……っ。こんな感覚……」

「せっかくだ。知っておくといい」

「何も知らないよりは経験しておいた方が何かといい……」

 

 妖しく輝く銀髪が紅碧の下半身で蠢くように動いている。

 月夜に照らされた部屋は段々と熱を帯びてきた。

 零無の口は巧みに動いてそこを徹底的に味わう。

 紅碧の声が掠れた声で喘いで興奮していく。

 

「感じてはいけないのに……感じちゃう! 気持ちいいのを感じちゃいけなのに……!」

「無理なことだよ。本来ならこれは俗世では女性は大好きなものなんだ」

「特に愛する男にされるこれは、ね」

 

 紅碧を抱きながら零無は記憶の底の女性にこの行為をしていた事を想い出す。

 こんな甘い夜が確かに存在していた。

 女性と身体を重ねる度に感覚が甦るのを感じる。

 そうだ……こうして俺はその人と確かめあった。自分の気持ちを。

 今はここで性を教授する立場だが。

 紅碧が昇りつめていく。

 さすがに気を遣らせるのはまずいな。

 零無は唇を離す。

 ねっとりと紅碧の愛が纏わりつく。

 充分に奮起してしまった自分に零無は紅碧に休む時間を与えた。

 

「すまない……つい興奮してしまった……少し休んで」

「休ませないで……続けて……零無さん」

「無理することはないよ…?」

「零無さんが私に興奮してくれている。だからそのまま続けてください。最後まで」

 

 零無は苦笑しつつ、嬉しそうに声をかける。

 

「君が気を遣ってもしらないよ?」

 

 (ふんどし)を外すと充分に奮起した彼が紅碧の眼に映る。

 紅碧が少し怯えると零無が抱きしめて体温を感じさせて安心感を与えた。

 

「怖いかい?」

「少し怖い……」

「なるべく痛くしないように入れるね……」

「怖いと感じたら俺の唇を吸いなさい……」

「ここまできて禁じ手だなんだって細かい事は言ってられないでしょ?」

「いくよ」

 

 紅碧と零無が結ばれた。

 少しずつ彼女を蕾から花へ咲かせる。

 紅碧が思わず零無の唇を自分の唇で包み込む。

 零無も舌を絡ましながら彼女の中へ入る。

 そしてゆっくりと回すように腰を動かす。

 紅碧が唇を離して喘いだ。

 

「アウッ…! す、すごい……」

 

 紅碧の腕はもう零無の身体へ絡みつききつく、きつく抱きしめている。

 零無は瞳を閉じてゆっくりと彼女を味わう。

 唇は気持ちよさそうに歪み、笑みを浮かべる。

 お互いに甘い吐息を絡ませながら、その行為に溺れる。

 紅碧の襦袢が外れた。

 彼女は喘ぎながら零無の顔を見る。

 月夜に照らされた彼は艶やかに喘ぎながら腰を自由自在に操る。

 その顔は、あの座敷ではけして見せない、男性の歓びに満ちた顔だった。

 汗が滲む。

 零無は蕩けた声で紅碧に言った。

 

「紅碧……! もう、もう…! いく! うあッ…!」

 

 軽く痙攣した花びらの中の彼は、そのまま彼女の中で果てた。

 脱力する零無。

 覆いかぶさるように紅碧に身体を預け、そして瞼を閉じて、その左手を紅碧の右手に重ねて、軽く微睡む。

 

「零無さん。初めての人がこんなに情熱的に求めてくれて私、嬉しいです……」

 

 紅碧は脱力してそのまま微睡む零無を布団に横たわらせ、姉花魁に教えられた後の処理を静かにして、手水に立った。

 そうして紅碧の初夜は更けていく……。



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30話 狙われた芸者

残酷な描写があります。苦手な方は回避してください。


 紅碧の水揚げの一日目が終わり、二日目の昼間。

 俺は桜華楼が気を利かせてくれてまた【桜花の里】にて昼飯として鰻の蒲焼きを食べていた。

 ちなみに本日の昼間の行事は、昨夜、振袖新造から花魁に格上げになった薄紅花魁の花魁道中が催される。 

 そういえば薄紅花魁には会った事は無いな。一体どういう女性だろう…? と鰻の蒲焼きについてきた沢庵と味噌汁を食べて様子を見ていた。

 すると。

 雑踏の様子が騒がしくなり、ある者の声が響く。

 

「桜華楼の新しい花魁、薄紅(うすべに)花魁の道中だ!」

 

 昼間に行われた薄紅花魁の花魁道中は梅雨の合間の晴れ間にされた。

 桜花の里の二階からそれを眺めた。

 薄紅花魁の名に恥じない、薄紅色の着物、桜の花や(うぐいす)が描かれた着物で、左右には友吉が薄紅花魁に肩を貸して、金棒引きには健太がしていた。

 長い傘を持ち彼女に傘をさすのは賢治だった。呼び込みの十郎太が注目を集める。

 

「さあ、ご覧あれ! 桜華楼の新しい花魁、薄紅花魁の道中ですよ! 薄紅花魁の心を射止めようという御人方! ぜひ桜華楼にお揚がりくださいませ!」

 

 薄紅花魁は三枚歯の高下駄を履き、内八文字という歩き方で堂々とした佇まいと、輝かしいばかりの美しさで、観る者の心を釘付けにする。

 頭部の(かんざし)はまるで後光のように飾られてまるで天女のようだ。

 目鼻立ちはこれまで振袖新造として経験をしっかり積んだ貫禄がある美女だった。

 どことなく、それは活気に満ちた瞳だ。

 そして見合わない男に対する気迫も感じられた。

 "私は安い女では無くってよ"。

 言葉にすればこうであろうか。

 若い衆も服装は桜華楼の法被(はっぴ)を纏い、存分に存在感を出している。夏に近づくにつき、法被は白に商標の八重桜をあしらった涼し気な法被だった。

 そうしてまた夜がしばらくしてやってくる。

 

 そんな紅碧の水揚げの二日目の夜に、また不躾な客がやってきたらしい。

 名前は石井といい、初回の客らしい。

 頭髪は既に哀れハゲ散らかしており、見た目はあまり好まれない。どうやら誰かの太鼓持ちとして揚がったのだろうか。

 坂本という客で一丁前に会社運営をしているらしいが、どうにも腹黒いうわさ話があるらしい。

 見た目は白髪頭に恰幅が良いと言えばそうだが、横柄に感じるね。

 一応、桜花の里を経由して揚がったらしいが、桜花の里の女将、行木(なめき)さんは若い衆に注意を促していた。見た目こそ信用できるが、桜華楼にて横暴に振る舞うのでは? とのことだ。

 周囲の客に対して気を遣う訳でもなく、遠慮なしに騒ぎまくる坂本と石井の下品な声が桜の座敷まで響いてきた。

 紅碧は思わず、この間の事を思い出す。

 

「また下品な客が揚がってきた……嫌、もうあんな目に遭うの、嫌っ!」

 

 桜の座敷にお酌を傾ける俺は胸に抱いた。

 落ち着いて貰う為に、しっかりと胸に抱く。

 

「大丈夫。俺が奴らに触れさせるものか」

 

 

 坂本と石井は共に横柄な態度で芸者衆を呼ばせた。

 

「おう! バンバン芸者衆を越させろ! 今夜はパーッと遊ぶぞ!」

 

 その座敷に呼ばれた芸者衆は、池本と酒井と中村と夏村だった。

 彼らは早速、場を盛り上げ始める。

 賑やかな酒宴がされ、妙子のお酌で、いい気になる坂本。石井もデレデレして口元を嫌らしいそうに歪めて、お酌をする夏村に舐めるような視線を送った。

 池本による流行歌が歌われる頃に、石井はよりによって夏村を口説き始める。

 

「綺麗な芸者さんですね」

「わたくしはまた、座敷ばかりの儚い芸者の身の上故、例えどのような訳でも芸者は抱えのあの人達には勝てないのが廓の慣わしですわ」

 

 座敷には2枚目花魁の孔雀(くじゃく)花魁がいた。

 彼女の厳しい視線を感じる夏村は、事もなげに孔雀花魁に声を掛けたらどうだ? と促す。

 

「孔雀花魁の方がどんなに美しいでしょうか? 今夜は孔雀花魁と過ごされたらいかがです?」

「人の見てない所で一緒にしようよ」

 

 と、馴れ馴れしく芸者の着物の袷に手を入れる石井。

 その手を振り払う夏村。

 

「いい加減にしてくださいな」

「おい! 生意気な芸者! 石井を無下に扱うとは生意気だぞ!」

「お静かにしておくんなんし」

 

 孔雀花魁は堂々とした態度で注意を促す。

 

「坂本さんが終わったら石井さんの所にと寄ってあげます故に。騒ぎを起こして貰ったら気がつまりんす。この座敷は事に及ぶ場ではごさりんせん」

「そんな堅い事を言うなよ、孔雀〜? 石井もここが色っぽい所だから」

「何をおっせぇす。余りにも眼につくようなら、今夜はわっちも貴方に抱かれとうごさりんせん」

「……何を生意気言ってんだ! このアマ!」

 

 坂本が怒鳴った。

 片方の石井はしつこく夏村の着物越しに体を弄る。

 夏村は助けを呼んだ。

 

「誰か! 誰か助けて!!」

 

 その声が桜の座敷にも聴こえた零無は、思わず紅碧に断りをいれて出ていく!

 

「夏村さんの声だ! すまない! 紅碧、すぐに戻る!」

「は、はい!」

 

 桜の座敷を飛び出すように出る零無は、助けを求める声の座敷へ走る。途中で若い衆の健太に会った。

 

零無(レム)の旦那!」

「急ごう!」

 

 石井は発情した猿のように下半身の獣を出して、夏村の着物の裾を捲り上げて、今にもそれを入れようとしている。

 思わず夏村は暴れて肘打ちで石井を殴る。

 孔雀花魁はそんな喧騒の座敷から自室へと悠然と戻る。

 

「乱暴しないで僕と愉しもうよ」

「ふざけないで!」

 

 ニヤニヤと下卑た顔になる石井。

 坂本もニヤニヤして手慰みに夏村を犯そうとする。

 周りの芸者衆は猛然と抗議だ。

 

「何を考えているんだ!? あんたらは! ここは吉原の大見世だぞ! そんな横暴が曲がり通ると想っているのか!」

 

 池本は夏村を庇っている。

 抱きしめて、彼女も睨んだ。

 

「うるせえよ、芸者衆が生意気なんだよ!」

「芸者でもね、選ぶ権利はあってよ? あんたみたいな奴を誰が選ぶものですか!」

「気に入りましたよ。何としてもあなたは追いかける事にしましょう」

 

 石井の顔が愉悦に歪んだ。

 そんなときに零無と健太が駆け付ける。

 

「夏村さん! 大丈夫ですか!? 池本さん、他の座敷へ逃げてください! 夏村さんも連れて」

「なんですか? あなた?」

「夏村に何をした?!」

「僕はなんにもしてません」 

「嘘を吐いてんじゃねぇよ! 夏村さんを強引に犯そうとしたじゃないか!」

 

 酒井はこの目で目撃したそのままを怒鳴る。

 零無が少し怒りを出した。

 

「また、権力を傘にして、手籠めにしようとした奴がきたか。腐ってやがる」

「幾らでも吠え面をかくがいい。金こそすべてを支配するんだ」

「だから芸者を手籠めにしようとしたのか?」

「僕は知りません」

 

 石井はこの期に及んでとぼけるつもりだった。

 しかし。

 

「冗談過ぎるね、坂本さん、石井さん」

 

 この事件を余すことなく見つめていた若い衆がいた。喜兵衛(きへえ)だ。

 実は喜兵衛は静かに事を見つめて、言い逃れしようとする客を逃さない人物でもある。この間は杜若の件で失態を冒したが、今回は失態する訳にはいかない。

 

「石井さん。アンタは芸者の夏村さんをこれから付け回す気だろう。そうはさせないよ? 妓楼として、そんな客をおめおめ逃がすと思っているのかい?」

 

 楓姐さんと諒も竹の座敷にきた。

 諒は憮然と腕を組み事態を見守る。 

 楓姐さんは客の坂本と石井に問い詰めた。

 

「何の真似ですか? 坂本さん、石井さん」

「何の真似って……」

 

 その間に喜兵衛から詳細を聴く諒。

 諒は頷き、喜兵衛にある用意をさせる。

 

「楓。そいつを"いい所"へ案内してやれ」

「あの部屋ね。ちょっと(ツラ)を貸して貰いましょうか?」

 

 思わず駆けつけた零無に諒は優しく促した。

 

「すまないですね。あなたは紅碧と一緒でしたね。座敷にてお楽しみください。この件は処理しておきますから」

 

 竹の座敷は閑散とした空間になり、隣の座敷で騒いでいた客も思わず外に出た。

 しかし、若い衆は気にしないで楽しんでくださいとそのまま営業を続行させた。

 桜華楼の一階のとある部屋に折檻部屋がある。

 そこに案内されてしまった客の坂本と石井は、そこで世にも恐ろしい目に遭う。

 木刀を持つ健太。楓も短刀を片手に、諒も木刀を肩に担いでいる。

 

「な、何をする……つもりだ?」

「僕をどうする……」

 

 そこで健太が木刀で顔を殴った。思い切りだ。石井の顔が苦痛で歪む。

 石井が地面に倒れる。

 顔面が血で塗れた。

 

「起きろや、コラ」

 

 健太が胸ぐらを掴むと無理矢理立たせて、今度は肩を殴る! 脇腹へ一発入れた! また顔面を殴る。

 稲葉諒の冷酷な声が響く。

 健太に常に嫐らせながら、淡々と話す。

 

「あの竹の座敷を汚そうとした罰は受けて貰うよ。金を持っていれば何でもできる? 自惚れるなよ。健太。金玉も潰していいぞ」

「オラァ! オラァ! もっと叫べや! クソが!!」

「ぐあっ! ぎゃあああ! ぐあっ!」

 

 地面が血飛沫で汚れていく。

 木刀は顔を、脇腹を、腹を、脚を、あらゆる場所を容赦なく叩き、血に塗れていく。

 楓姐さんは侮辱的な言葉を吐く。

 

「下半身猿め。ハゲ散らかした馬鹿は血まみれにしないとねえ」

「坂本さんも今の内に念仏でも唱えておいてくださいな」

「汚らわしい金玉は私が潰してやるよ」

 

 健太から木刀を借りると楓姐さんは下半身を容赦なく20回叩いて、金の玉を潰した。

 

「ひぎゃあああっ!!」

「どうせならぶっ殺しますか?」

「殺せ。三ノ輪の浄閑寺へ放り込めばいいだろう?」

 

 健太は木刀で石井が苦痛で喘ぎながら、徐々に命を散らしていかせる。坂本は真っ青になり、腰を抜かしながらそこから逃げようとするが。

 

「何処へ行く? お前の処刑はこれからだ」

 

 程なく石井は血みどろの海へ沈み、死んだ。坂本は命乞いをする。

 

「すまない! 金なら幾らでも払う! 払うから命だけは! 助けてくれ!」

「馬鹿な事を言ってんじゃないよ。お前も残らず無縁仏に送らないと割が合わないじゃないか」

「死ね」

 

 その日に登廊した客は一向に帰ることなく、血まみれになった彼らは、浄閑寺へと放り投げられた。 

 



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31話 紅碧に贈る歌

 竹の座敷にて一波乱あった後、零無は桜の座敷へ戻った。

 紅碧の心配そうな顔を見つめて、彼は素直に謝った。

 

「御免な。紅碧。一人にしてしまいすまなかった」

「無事ですか? 零無さん」

「ああ。俺は無傷だよ。大丈夫」

 

 紅碧はまだこの間の事が心の傷になってしまっているらしい。

 どうにかその傷を癒やす事はできないものかな。零無は考えた。そしてある歌を紅碧の為に贈る事にした。

 

「紅碧。君に贈りたい歌があるんだ。流行歌だけどね」

「流行歌ですか?」

「だけど、歌詞だけ聞いても癒やされると嬉しいな」

 

 零無が紅碧に贈る歌はこんな歌。

 

【私は君にとっての空でいたい】

 

 

君が旅立つ日は

いつもと同じ 「じゃあね」と手を振った

まるで明日もまた

この街で会うみたいに

 

 

愛を信じるのは

自分にも負けないこと

夢が叶う日まで

笑顔のまま 星を見て

祈りを捧げ ここにいるから

 

 

私は君にとっての空でいたい

哀しみまでも包みこんで

いつでも見上げる時は

一人じゃないと

遠くで思えるように

帰る場所でありますように

 

 

君がいない街で

相変わらずに元気で過ごしてます

それが今 私に

できること そう思うから

 

 

どんな出来事にも

隠れている意味があるの

夢が消えかけても

自分らしくいてほしい

どんなときもここにいるから

 

 

涙を失くすほど 強くなくてもいい

疲れた心を 休ませてね

素敵な明日を願い 眠りについて

小さな子供のように

 

 

この広い世界はつながっている

白い雲は流れ 風になって

君のもとへ

 

 

私の声は届きますか?

あふれる気持ち 言えなかった

私は君にとっての空でいたい

哀しみまでも包みこんで

いつでも見上げる時は

一人じゃないと

遠くで思えるように

帰る場所であるように

 

 

私は君にとっての空でいたい

哀しみさえも包みこんで

いつでも見上げる空は

一つでつながっていると

近くで思えるように 

 

 

涙を失くすほど強くなくてもいい

疲れた心を 癒やしてね

私は君にとっての空でいたい

小さな子供のように

今は眠りについてね

 

 

帰る場所であるように

 

 

【終わり】

 

 

「どうした? 紅碧?」

 

 紅碧は涙を堪えきれないで零無に縋った。

 思わず彼の胸に抱かれる。

 

「私……私……」

「色々、思い出してしまったかな……?」

 

 そこで紅碧は子供のように泣きじゃくる。

 零無は無言で抱きしめる。

 そして彼女の顔を覗き込むと親指で涙を拭う。

 そのまま、紅碧の水揚げを始める。

 既に紅碧は紅い襦袢姿だった。

 零無は布団に彼女を抱いたまま移動すると、そのまま唇を重ねた。

 そして布団に仰向けで寝かせると、襦袢を外して、彼が覆いかぶさる。

 宵闇で白く映る紅碧の柔肌。

 零無は乳首を噛んで、舌を這わす。

 丁寧に舐めると掠れた喘ぎ声を上げる紅碧。

 彼は今度は手のひらを使ってふくらみを丁寧にもみほぐし、舌で乳首を舐める。

 そしてそのまま下へ、下半身へ向かう。

 そして零無は熱く見つめた。

 紅碧の咲き誇る花びらをじっくり堪能すると、禁じ手であろうが、自らの唇と舌で愛し始める。

 紅碧が思わず歓びの喘ぎ声を上げる。

 舌と鼻でくすぐりながら愛の蜜を味わう零無は、内側から何かが甦る感覚を覚える。

 そうだ……こうした夜があった。

 大事な女性(ひと)とこうして想いを確かめあった。

 誰だろうか? 俺を愛してくれた人は誰?

 だが、今は紅碧に想いを込める。

 

「もう……もう……ダメっ!」

 

 紅碧が控えめに気を遣ってしまった。

 これはやり過ぎたか。

 零無は口を離すと彼女の顔を覗き込む。

 

「すまない……気を遣ってしまったね。……嬉しいよ、紅碧」

「零無さん……!」

「もう少しだけ、君を味あわせてくれないかな?」

「私の切なく咲く花びらをあなたので満たして……!」

「ああ。いくよ」

 

 零無が(ふんどし)を外すと浴衣もここで脱いで全部の肌を晒す。

 そして紅碧の花びらに当てて、鈍く貫く。

 

「ああッ…!」

 

 そして腰をゆっくり揺らす。

 彼女を抱き上げ、細い腰に腕を回し、巧みに彼女を上にさせた。

 紅碧が腰を艶めかしく動かす。

 悩ましげな喘ぎ声を上げながら、零無の両方の手のひらが彼女の胸を優しく揉む。

 零無も喘いだ。

 

「紅碧……君はいい女だよ」

「零無さんのすごい…! 奥まで届いてる…!」

「アッ! アッ…! 紅碧もすごいよ」

 

 天井に顔を仰ぐ紅碧を零無は抱きしめて、胸を貪るように舐めた。

 細い腰に腕を回し、力強く抱きしめて、腰を回す。

 薄暗い部屋が熱く切なく燃えていた。

 最早禁じ手の接吻も当たり前のように交わす。

 彼女は彼の肩に腕を絡めて、激しく抱かれる。

 束ねた髪の毛が乱れて咲きそうになっている。

 腰を動かす、回す、突き上げる。

 性運動をさせる度に、紅碧は適応して、零無に肌を密着させる。

 彼の興奮が最高潮を迎える。

 眼の輝きも、快楽に陶酔して、紅碧に彼は喘ぐように伝えた。

 

「もう…逝くよ…! 逝く! 紅碧…! もう俺は限界だよっ……!」

「零無さん! 零無さん!」

「ウウッ! ウウッ! もう、逝くっ!」

 

 彼女の咲き誇る花びらの中で彼は絶頂を味わった。

 彼の身体が痙攣するように震える。

 その目は紅碧をしっかり見つめて、唇は喘ぐように半開きになり、余韻に浸った……。

 最後は零無が紅碧の身体をきつく抱きしめて、その肌から香る汗の匂いと体臭を味わった。

 紅碧も零無の身体に両方の腕を絡めて、彼の汗に滲む身体を味わった。

 無言の間が少しあった後、彼らは笑顔になって、禁じ手だろうと何回目かの接吻を交わす。

 そうして零無は彼女から己の抜き去り、そして程よい疲れを感じて、布団に横になり微睡む。

 

「零無さん。あなたに抱かれて、私はそれでも幸せです……」

 

 紅い襦袢を羽織り、軽く身支度をすると、(トイレ)に立った紅碧。

 そして姉花魁に習った通りに後始末をして、そして想う。

 

(あの歌があれば私は生きていけるかも知れない。零無さん。あなたがここを去る日まで私は生きていこうと想います……)

 

「ありがとう。零無さん」

 

 そうして、紅碧の水揚げも無事に終わり、零無は朝を迎える。

 汗に濡れた体は如何ともし難いが、これで立て込んだ仕事も終わったかな。

 彼はそのまま、中継先の今戸橋の【桜花の郷】へ戻り、そしてその先にて健太に会った。

 そして彼から零無は労いの言葉を贈られた。

 

『二度に渡る振袖新造の水揚げ、御苦労だった。君はいい幇間で、そしていい男なんだな。お陰で紅葉(もみじ)の売上も好調そのものだ。本当にありがとう。桜華楼の楼主として君には礼を言うしかない。少ないがこれを受け取ってくれ。私からの礼金だ』

 

 手渡された財布の中には、零無が2回に渡り水揚げした礼金が入っていた。

 零無は大きく頷いて、髪型をもとに戻して、準礼装から着替えて、また大門の中の世界へと戻っていった。



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32話 桜華楼の流行歌

 最近、桜華楼に揚がる客の楽しみになっているのは、池本と零無による流行歌だった。

 どこの妓楼でもされていないその流行歌の話は広まり、一度でもいいからこの耳で聴きたいから揚がるという客が多くなってきた。

 そして妓楼の立場も、だんだんと時代に合わせて変化を余儀なくされる。

 そう。床入りして男女の疑似恋愛から、芸者を呼び芸を純粋に楽しむ場所という認識がされてきていたのだ。

 これは女郎屋を生業にしている桜華楼としてかなり悩ましい問題だった。

 揚がる客が増えるのはいい事である。しかし、それに伴い上客と呼べる客が少なくなってきている。

 新規の客の大半は、桜華楼でしか聞けない流行歌を目当てに揚がる。

 その流行歌は、辛い浮世を生きる者達の心の叫びを体現しているので何度でも聞きたくなる、そんな歌詞の流行歌ばかりだった。

 池本と零無はいつしか桜華楼にて公認の流行歌を歌う一組の表現者(アーティスト)として認識されるようになる。

 そして桜華楼は芸者衆の最後のテコ入れに夏村を内芸者として迎える事で、外の見番登録している芸者に毎回頼む手間を省く事がほぼできるようになったと言える。

 立て続けに客で問題を抱えている桜華楼は引手茶屋の桜花の里や今戸橋の桜花の郷でもよく客を吟味するように、との通達を徹底させる。

 外見上の姿では上客なのか、そうでは無いのか見分けはできないようになった。実際問題、桜花の里を通した客ですらあのような下衆な極みがやってきたのだ。

 吉原の大見世となった桜華楼は、最早、一見さんお断りの見世となった。

 だが客としては納得できない。

 自分達は、内芸者の流行歌を聴いて宴席を楽しみたいのに、一見さんお断りでは気軽に聞きにいくこともできないではないか。

 桜華楼の楼主、稲葉諒はこのジレンマに今、頭を悩ます日々を送っていた。

 

 今宵もとある座敷にて、池本と零無の流行歌が流れている。

 尺八や三味線や琴を伴奏に、あまり聞かない目新しい流行歌が流れている。

 そのほとんどは零無が記憶の底から拾ってきた歌だという。

 歌詞は前向きで優しく心に触れるようなものや浮世の辛さを歌うような曲もある。

 それに立ち向かえる勇気を貰える歌も唄われるし、こういう雰囲気は桜華楼独特の流行りとして、客は受け取っていた。

 

 ようやくまた桜華楼に遊びに行く余裕ができた伊勢谷半蔵は、自分が訪れない間に変化をした桜華楼に驚いている。

 流行歌が流れる座敷の隣で菖蒲(あやめ)花魁と過ごす伊勢谷に酌をする楓姐さん。

 どんちゃん騒ぎとは少し違うその宴会は、伊勢谷には目新しく映った。

 

「隣の座敷の流行歌っていうのかな? あれは誰が考えたんだ」

「ここの幇間、零無(レム)です。初めは本来の酒宴に飽きた客の為に考案したらしいですが、今では名物ですわ」

「歌って奴は歌自体に何らかの"想い"が込められているからな。私も好きだよ」

「伊勢谷さんは本当に今の流行りを受け入れるから好感を持てますわ」

「まあ、この流行りもいつしか廃れるのも真理だけどね。時代を彩る流行りもいつかは廃れる。そしてまた何らかの流行りが生まれて、そうやって時代を彩るんだな」

「伊勢谷さん。菖蒲の身請け話の事は旦那様にしないとですよね。いつ頃、身請けするのか、そろそろ具体的な話をしますか?」

「ああ。ここ1週間には決めてしまいたい。来週からはまた忙しくなってしまう。桜華楼にも顔を出せないだろう」

「世界では大規模な戦争が始まったと聞きます。本当なのですか?」

「世界大戦と呼ばれるものだろう? ああ。本当に起きているよ。私の会社も日々、戦闘機の生産に追われて、ますます忙しくなっている」

「その恩恵でここに揚がっているからね」

 

 盃に注がれた酒を一口含む伊勢谷。

 彼らの座敷、桜華の間にも、流行歌が微かに響いてくる。心地よく響く流行歌は伊勢谷の心にも残る。

 

 それはこんな歌詞だった。

 

【ゆっくり進もう】

 

そのままでいよう

無理をしないでいよう

 

 

強がらないでいいんだね

誰かが 描いてた

壁の落書きの花が 揺れる

自分らしさなんて

誰もわからないよ

 

 

長い長い道の途中で

失くしたり 拾ったり

急に寂しくなったりして

泣いてしまう夜もあるけど 

 

 

涙も 痛みも 星に変えよう

明日を照らす灯火を灯そう

小さく迷っても 二人でつくろう

作っていこう

星屑を強く光る 永遠を探そう

 

 

ゆっくり進もう

しっかり進もう

 

 

足りないことだらけなんだね

足りなくていいんだね

だから 君に出逢えたんだ

 

 

確かがなんなのか 知りたくて

小さな刃物を 靴下に隠した

強がってついた 嘘の方が

もっとずっと 痛かった

 

 

本当は恐いよ だけど生きていく

笑顔の君を 風が撫でてる

小さな手をかざして 二人でつくろう

星屑を 

強く光る永遠を探そう

 

 

正しいことが 間違っていたら

どうすればいい

悲しいことが 正しかったら

受け入れるだけ?

 

 

失くしてたと想っていた

でも 君が持っていた

君がいて 本当に良かった

 

 

涙も 痛みも 星に変えよう

明日を照らす灯火を灯そう

小さな手をかざして 二人でつくろう

さよならは

いつか来るかも知れない

季節はそれでも

巡り巡ってゆく

 

 

小さく迷っても

歩いていこう

君と歩いていこう

それだけは 変わらないで

いようね

 

 

【終わり】

 

 揺れる時代に生きる人間達は、自分達がどこに進んでいるかはわからない。

 だから今を生きる。

 今を生きる者達しか、その答えは見出す事なんかできないのだから。

 いつか、そこが滅びに向かう場所であっても。



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第二部 美しき楼主 稲葉諒
33話 池本の想い 零無の想い


 毎晩のように俺と組む芸者の池本さんは、最近になり自ら歌詞を書くようになった。

 それを俺や酒井、そして内芸者として迎えられた夏村さんと組んで作曲するという作業に没頭している。

 歌は池本さんが唄う。伴奏するのは俺と酒井と夏村さん。俺の書くというか思い出す歌詞もどちらかと言えば女性が唄ってこそ映える歌ばかりだったのだ。

 そしてその作業を共にするうちに俺と池本さんとの間に、何だか言葉にできない"想い"が生まれていく。

 俺も池本さんの顔を見るのが楽しみだし、酒井や夏村さんとも組めるようになったのは嬉しい。

 だが、この胸の高鳴りに似た高揚する気持ちは池本さんに感じる。

 すると生前にもこの気持ちを感じた事のあるような"疼き"を体で感じた。もしかして、これは一種の恋愛感情だろうか……?

 池本さんもほぼ毎日組む俺に気持ちが近くなってきているのを感じている様子に見える。俺と食事を食べる時にいつも微笑ってくれる。

 でも、気持ちを悟られないように控えめに想っている……そんな感じだった。

 

 珍しく酒宴前に物思いに耽る池本さん。

 俺は三味線の調律をして、控え室にて、池本さんと酒井と夏村さんと共に酒宴の前の一呼吸をしていた。

 桜華楼の中ではとうとう、お職花魁の菖蒲(あやめ)花魁が伊勢谷さんに身請けされる、という話題で独占されていた。

 そして次のお職花魁には誰がなるのかを気にする女郎も当然いた。

 菖蒲花魁が身請けされるのは1週間後の日曜日。幸運にも大安吉日だった。

 吉原には梅雨の雨がまた降り出して、雨の雫が窓硝子を濡らしていく。切なく降る雨は池本さんの心にも降るのだろうか?

 桜華楼の窓から見える雨の景色は何となく俺の、そして池本さんの心を表しているのか? そう想う。

 だが、そんなしんみりとした気分を酒宴には持ち込まない。特に幇間は陽気に、ハキハキとした態度と、気配り上手が上にいく世界なのだから。

 俺は稲葉に"遊女すらも目に行かない人気者になる"。そんな気迫を見せた。稲葉諒は人の想いを見透かす名人だ。油断はけしてできない。そういう男なのだ。

 池本さんは変な気負いをする俺にこう声を掛けて安心させてくれた。

 

「零無さん。肩に力が入っているんじゃないですか? 力を抜いて程々に頑張りましょう? 私達、芸者衆は余裕を持たせてないと宴席で力を発揮できませんし」

「……ありがとう。池本さん」

「零無。池本さん。お前ら、最近、いい感じになってきたんじゃないか?」

「そんなことないって」

「怪しい。案外、零無さんは池本さんを好きだったりしてね~。ね〜、池さん」

「どうかしら? 今夜の曲を唄えばわかるかも知れないわよ?」

 

 そう。今夜の曲で池本さんが作詞した曲があるのだ。

 実は俺は見てない。

 何でも池本さん曰く、"同じ女性の夏村さんと一緒に作りたかった"らしい。

 すると控室の外が騒がしくなってきた。

 そろそろ出番だな……。

 そうして俺達芸者衆は担当する座敷へ向かった。

 今夜の担当する座敷は、菖蒲花魁の旅立ちを記念する為に伊勢谷さんが用意した酒宴だった。あの桜華の間での酒宴だった。

 そろそろ俺も菖蒲花魁は見納めかな。

 伊勢谷さんのすぐ隣には楓姐さんが彼に酌をしている。

 

「こんばんは。零無でございます。この度は菖蒲花魁と伊勢谷半蔵さんの門出を祝う席にお呼びいただき誠にありがとうございます」

「零無くん。君もかなりの宴を(こな)してきてだんだんと貫禄が出てきたね。他の芸者衆にはない独特の"色気"を感じるよ」

「ありがとうございます」

「桜華楼の流行歌も増えたそうじゃないか。早速、私達にも聴かせてほしい」

「では……」

 

 曲目の打ち合わせはしてきた。

 実は1曲目が池本さんの書いた歌だったのだ。

 それは、とても不思議な旋律の、想いが歌われた唄だった。

 

【ハツコイ少女】

 

神秘でできた獣に奇跡を見る

探していたものを見つけた

喜びを今 歌に変えよう 

例えば

"あなたの側に行きたい。

ああ、このまま時が止まって欲しい" 

"いつかまた逢えるのかしら?“

 

 

季節に飲まれ 春の宵が止まる

出逢ってしまった

私達の言い訳すらも

歌に変えよう

ここにきて 

"あなたの鼓動を聴きたい"

"名前を聞きたい"

"あなたの息遣いを間近で今 聴いてみたい"

 

 

あなたの声が聴きたい

ああ 神様 私を許して

あなたの肌に触れたい

その息遣いを聴きたい

 

 

神秘は識らない 

己が奇跡だとは

後ろめたい気持ちも許されない

わがままも言い訳も

歌に変える 

お願い

"神様。どうかこのままあの人を引き止めて"

"例え会えなくても心の火は消させない"

 

 

あなたの声が聴きたい

あなたの歌が聴きたい

あなたの肌に触れたい

その鼓動を聴きたいよ

 

【終わり】

 

 池本さんはこの歌を一見、菖蒲花魁と伊勢谷半蔵に贈ったように感じた。

 でも、よく歌詞を噛み砕けば、これは"誰か"の肌に触れたい……感じたい……と取れるのではと。

 その池本さんの溢れる想いは"形"となって桜華の間で響いた。

 そして、その想いは俺に向けたものと、俺は思った。

 何故なら、彼女はその歌を唄いながら、俺に視線を向けていたから。

 言葉にするならこうかな?

 

 

 零無さん。私の気持ちを知っているなら、想いを受け止めて、私を抱いてください。

 待っていますから……早くきて……。

 

 伴奏をしながら俺は靄の向こうの誰かに、そんな想いを寄せられた事があったなと漠然と思い出していた……。

 靄の向こうの人はいつも囁いてくれていた。

 

 あなたが好き。

 だから、帰ってきて。

 待っているから。

 

 

 なぁ……君の名前を思い出せない。

 君は誰なんだい?

 俺は……でも池本さんの想いに応えてあげたいんだよ……。

 俺も同じなんだ……。

 あの人の肌の温度を、息遣いを、間近で聴きたい。

 許してくれ……靄の向こうの大事な人。

 俺の二度目の恋を許してくれ。

 これは偽りじゃないんだよ。

 体の中で何かが燻っているんだ。

 水揚げをしてそれがわかった。

 俺の営みは、その人の想いを共有する為の大事な儀式(もの)、だったのを……。



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34話 澱みに沈むは想いの花

 花魁になって、まさに破竹の勢いで孔雀花魁に迫る売上と人気を獲得していく薄紅に孔雀花魁は苦虫を噛み潰したような気分だった。

 あの薄紅の奴、振袖新造の頃から旦那様に目をかけられて桜華楼で生きていて、水揚げされてたったの1年そこいらで花魁になった。

 孔雀花魁は水揚げされて3年目にして去年の夏に花魁となったのだから、薄紅の躍進ぶりに腹が立つ。

 そんな女が今、菖蒲花魁に代わるお職花魁の座を狙っている事に強い憤りを感じていた。

 孔雀花魁は今、松の座敷にて上客の一人である安本の胸に抱かれながら、そんな暗い想いが頭に過ぎっていたのであった。

 そんな彼女に安本は甘くささやく。

 

「どうした? 孔雀……。こんな時まで敵の事を考えているのかい?」

 

 安本は全裸で孔雀のふくらみを舌で弄る。

 左手の親指と人差し指で乳首を弄る。

 孔雀はびくんと体を跳ねさせ、安本を首に腕を絡める。

 

「安本さん。私、哀しい……! 私はこんなに桜華楼の為に働いているのに……! 何であんな野暮な女に皆、イレ込むの!?」

「気にするな、孔雀。どうせ、そいつらは話題の花魁を一目見たいだけで、ただの新しい物好きの客だよ」

「君の気品の方が余程魅力的だよ。そんな野暮な女に嫉妬するなんて孔雀らしくない」

 

 乳首を舐めながら甘い声で嫉妬心を和らげてやろうとする安本。

 紅い布団の上で二つの体が絡まり始める。

 孔雀は安本の愛撫を受けながら、彼を受け入れようと襦袢を乱す。

 

「本当にそう想って……?」

「薄紅の顔は何度か見てるが私は、好きじゃないな。君の気品とこの体を知らないから、野暮な女に絆されるのだよ」

「アッ…! 安本さん…!」

「最高だ……君の花びら……君のその顔……何度も、何度でも、抱きたい……!」

「アッ! アアン! 安本さん! 私も好き……好きなの!」

「この感触を味わえば誰も逃げられないよ……! 孔雀…! 孔雀…!」

 

 熱を帯びる安本。孔雀も体をリズミカルに揺らす安本に己の花びらで悦ばせる。

 しかし……そんな熱を帯びる行為の最中でも、孔雀の心には澱のように薄紅への嫉妬心が渦巻いていた。

 あのクソ女は許さない。

 自分から首を裂こうとするまで徹底的に攻撃してやる……!

 思わず殺気がこもった腕は安本の首を絞め、彼は思わず言った。

 

「痛いよ、孔雀…! 何をする…!?」

「申し訳ございません。安本さん……」

「薄紅が憎いのはわかる話だけど、落ち着きたまえよ、孔雀。旦那様は判ってらっしゃるはずだ」

 

 だけど。薄紅への嫉妬心は孔雀の心に澱のように離れないのであった。

 

 桜華楼の内所の部屋に珍しくお妙さんこと夕月妙子が足を運んできていた。

 菖蒲花魁がお職から退く事で空席になる、お職花魁の座を誰に任せるのか?

 その話し合いが内所でされている。

 

「旦那様。本当にどうするおつもりですか? 次のお職は誰に?」

「お妙さんは誰を推しているんだ?」

「薄紅ですかね。孔雀はそろそろ(とう)が立っていけない」

 

 しかし、楓はそうは想ってなさそうだ。反論する。

 

「そうかしら? 言う程、孔雀は薹が立っていないと想うわよ。今の孔雀はいい感じに艶やかになったわ。彼女をお職に据えても良いでしょうに」 

「お内所。判ってないですよ! 孔雀は年々、まるで耳年増になって嫉妬深くてしょうがない。薄紅は其辺、若いし、こちらも手籠めにしやすいです」

「薄紅は旦那様の言う事は聞きますしね」

「ふむ。確かに薄紅は俺の言う事は聞く。だが、孔雀には薄紅にはない気品を感じるのだよ」

「諒。あなたは孔雀を推しているのか、薄紅を推しているのかわからないよ」

「楓。それは俺が楓を選ぶのか、お妙さんを選ぶのかはっきりしろって聞こえるな」

「話の筋が違うわよ、諒。お職花魁は見世の看板よ? あなたも初めての花魁に朱華(はねず)を推した時に反対の中、決断を下したでしょう?」

「あの頃は同期に浅葱(あさぎ)も居たわね」

「あの頃の問題がまたやってきたのか。お職花魁を簡単に判断できるならとうにしているよ。俺は」

「珍しく迷っているのね?」

「お妙さんを呼んだのは現場の声を聞きたいから俺が呼んだのだ」

「旦那様。数字の上の売上はどうなのですか?」

「薄紅が花魁に格上げになった直後から薄紅の売上は倍以上になった。孔雀もさすがは2枚目花魁だ。薄紅に負けず劣らず好調そのもの。どちらを切るかは考えていない」

 

 帳面にはここ1週間の売上が書き上げられているが、それを楓と妙子に見せる諒。

 薄紅と孔雀のしのぎを削る戦いのような売上記録に二人も驚く。

 

「同じねえ、ほとんど」

「薄紅が抜いたり、孔雀が巻き返したり、一進一退の売上ね」

「売上の格差が歴然なら判断するが、一進一退ではやすやすと判断は下せない」

「寿命で言うなら薄紅だがな……」

 

 稲葉諒は本音をこぼす。

 遊女の寿命はあまりにも短い。短いからこそ、いかに活かすかを考える必要がある。

 孔雀は2枚目花魁として申し分ないが、寿命を見るとどうしても旬は後1年だろう。

 そうなるならまだ遊女としての寿命がある薄紅花魁をお職に据えた方が妓楼としての判断は良いかも知れない。

 しかし孔雀花魁はかなり苦労しながら今の花魁衆として這い上がってきた女郎だった。

 その苦労を労ってやりたい。

 お職花魁はまさに労いとしては最高の報酬なのだ。

 稲葉諒の微かな迷いが、まさにそれだった。だから彼は判断を下すのを迷っているのだ。

 巷では稲葉は非人情の楼主と揶揄されるが、人情味は捨ててないのが実情だった。事実、夕月妙子を遣手婆にして残らせたのは稲葉諒だった。

 身請け同然に遣手婆として残して現場の指揮をとらせた。

 不思議な事にそれが上手くいった。夕月妙子は指導者としての才能を持っていたのだ。

 数字では推し量れない能力。それを実感した稲葉諒は、孔雀にするか、薄紅にするかで板挟みになっている。

 そんな楼主の姿を見る妙子は、その決断を促してやれないものかと想った。彼女も稲葉に対して叶わないながらも想いを寄せる女の一人だったのである……。

 彼はため息をついてふと言った。

 

「すまない。楓。ちょっとそこのお稲荷さまへ参拝に行ってくるよ」

「お妙さんも来るかい?」

「は、はい。喜んで」

 

 諒のそんな気遣いは楓の嫉妬心を静かに刺激していた。

 

(全く。諒の神頼みも呆れるしかないわね。さっさと薄紅をお職に据えればいいものを)

 

 夫がいつも咥える煙管を楓は手に持つと、唇を重ねるようにその煙管を口に運んだ。 

 そして一服、その煙管でした……。

 

 吉原の中の九郎助稲荷(くろすけいなり)。そこに足を運ぶ諒と妙子。

 彼らはそこでそれぞれ違うものを観ていた。

 諒は自分の眼に映るお稲荷さまの眷属の白狐の姿を。

 妙子は何も見えない空を視る諒の姿を。

 不意に彼は口を開いた。

 

「不思議なものだね。俺の眼には白狐の姿が視えるのに君には何も見えないのだろう? この稲荷さんに来ても」

「ええ……」

「俺はその事実に胸が痛い。俺には半分、妖怪の血が確かに流れている。それが自分の子にも継がれるのかと思うと躊躇うよ」

「後継者を生み出すのに、ですか?」

「だね。桜華楼は俺の親父の代からあるけど、閉まるのは俺の代かな。大正になって、時代も流れるだろうな」

「でも……お子さんを作るのは良いんじゃないでしょうか? 楓姐さんもそれを望んでいます」

「君の願いはいつか俺に抱かれる事だった。することができないのが悔しいと想うよ、自分でもね……」

「でも……叶わない夢だから、楓姐さんの気持ちを汲んでください。私は桜華楼に居られるだけで嬉しいんです」

 

 妙子は目を閉じて諒に想いを伝えた。

 それでもいいから。抱かれなくていいから、傍に居させて欲しい……。

 

「……。たった一夜だけでも、俺も君を抱きたかったよ。許されない事でも」

 

 でも、どうか、傍に居て欲しい。

 彼は祈った。

 楓の強さに俺は時々、恐れを感じる。

 だから、君に少しだけ寄りかからせて欲しい。

 少しだけ……。

 

 彼らが見上げる空には、綺麗な月と星が見えた。

 吉原から見える星空は二人とも同じだった。

 

「夜空の星空は一緒の景色だったのが嬉しいかな。次のお職花魁は薄紅だね。ようやく腹を決める事ができた。行こうか?」

「あんまり時間かけると姐さんが怖いです」

 

 そして、彼らはまた桜華楼へと戻った。



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35話 孔雀花魁の苦悩

 その日の桜華楼は騒然としていた。

 そして騒動の発端は同じく花魁衆に格上げとなった紫紺(しこん)の一言からだ。

 

「姉花魁の孔雀花魁はそろそろもう寿命でしょう? すぐに怒るし、客からは"夜叉"なんて言われているからねぇ……フッフッフッ」

「孔雀姐さんは(とう)が立ってきてるからね」

「吉原に年増女郎は似合わないわよねぇ」

 

 するとそれを耳にしていたように、孔雀花魁が姿を現した。

 含み笑いをしつつ、そんな"年増女郎"に劣る自分達は何だ? とからかう。

 自分自身より若い癖に一向に旦那様からは座敷持ちにすら格上げされない安女郎なのだ。噂話をしている女郎の内、2人の女郎は。

 

「そうかい? そんな他人の噂話をしても貴女達の格は一向に上がらない。旦那様はよう判ってらっしゃる。貴女達を一向に座敷持ちにさせないで割床でさせているからねえ」

「からかっているの!? アタシ達だってそれでも生きているんだ! 例え割床だろうと!」

「ええ。知ってるわよ。貴女達の下品な喘ぎ声を毎夜聴いてるから」

「孔雀姐さん。それ以上はこの子達をからかわないでくださいます?」

 

 紫紺はさすがは花魁に格上げになっただけに、そこは穏便に反論する。

 彼女、紫紺花魁は薄紅花魁の同期で、薄紅が桜華楼へ入ってきた当初からの付き合いだ。なので紫紺花魁も薄紅花魁と同年代の少しだけ先輩でもあった。

 孔雀花魁は彼女達よりも2年前から桜華楼にてすぐに女郎としての教育の後に留袖新造として、かなりの間、燻っていた後にとある上客のお陰で振袖新造となり花魁まで駆け上がった女郎である。

 桜華楼は売上さえ好調ならば素直に留袖新造から振袖新造へ格上げさせる面は持っていた。

 桜華楼で割床でさせられている彼女らは一向に認められないと嘆くが、稲葉諒は生来の女性の気品を大事にする人物。田舎者はやはりどうあがいても身につけられないものはあると気付いているのだ。

 そこは男性ならでは、そして吉原で産まれ育った男性なりの嗅覚とやらで判るらしい。

 孔雀花魁はその気品を持っていたからこそ花魁まで駆け上がった女郎なのだ。

 

「紫紺。いつまでも彼女らに構っている暇はあるのかしら? 花魁になったのならもっと品性を大事になさい」

「何それ……まるで雑魚に構うなって言い草」

「雑魚でしょう? 旦那様は貴女達が死のうが代わりなら幾らでも代用できると考えてらっしゃるわ」

「言ったわね! このアマ! 花魁だからって調子に乗ってんじゃねえよ!! アンタだって薄紅に嫉妬している癖に!」

「そうよ! そうよ! 旦那様に色仕掛けしてお職花魁の座を射止めようとしている癖に!」

 

 色仕掛けという言葉は孔雀花魁には禁句に近い言葉だった。思わず彼女は怒りを剥き出しにして、安女郎の彼女らの頬を張った。

 

「何すんだ!? このクソアマ!」

 

 今度はその安女郎が頬を張った。

 その喧嘩が二階に響く頃には、夕月妙子が駆けつけて彼女らの喧嘩の仲裁に入るが、彼女らの言葉での罵倒は収まる気配はない。

 

「図星なんだ! やっぱり孔雀は旦那様に惚れているんだ! あばよくは旦那様に身請けして貰おうって腹だろ!」

「やめなさい! 孔雀! 落ち着きなさい! あんたらも孔雀を煽るのは止しなさい! そんなだからね、旦那様はお前たちには気品が無いって言い切るんだよ」

「うるさい! 妙子さんは黙っていて!! こいつら、私に対して赦されない侮辱を吐いたんだ!」

 

 安女郎をに往復ビンタをかます孔雀花魁。

 夕月妙子は後ろに回って両脇を抱えて、蛮行を辞めさせようと必死になり、そのうち若い衆も駆けつけ、一斉に事を落ち着かせようと、それぞれの女郎たちを引き離す。

 階下の一階で帳面を書く番頭の友蔵と会話を交わしていた稲葉諒は何事だと首を傾げる。

 

「一体、何の騒ぎだ? 上の二階のこれは?」

「遊女達の騒ぎはいつもの事ですが、何時もより長引いてますね」

「大方、お職花魁の座を巡る争いだろう。彼女らにとってはお職花魁は一気に花道を歩くのと同義だからね」

「旦那様。あの騒ぎはどうもそれだけの話でも無さそうですね」

 

 階下の一階にも彼女らの喧嘩の声が響き渡る。

 

「貴女達に私の気持ちを判ってたまるものですか! 旦那様に対する想いをお前らなんかに!」

「孔雀……。お前もか……」

「旦那様に想いを寄せる人は桜華楼では多いです。何せ、旦那様の色気の話で一度廃れた筈の桜華楼が返り咲いた逸話もありますしね」

「友蔵はそのことを直に観てどう想った? 変な色気の親父に見えなかったか?」

「不思議な色気とは想いました。でも、産まれを聞けば頷けるんですよね。半人半妖の楼主はあまり聞きませんし」

 

 二階の方の喧嘩は、喧騒の余韻を残して若い衆と夕月妙子の手により引き離す事で終わったに見えたが、妙子は孔雀に対して珍しく相談に乗る。

 

「一体、どうしたんだい? 孔雀。あんたらしくないじゃないか?」

 

 とある座敷にて二人きりで座り込む孔雀と妙子。

 孔雀は妙子に今の今までの想いを吐露した。

 

「妙子さん。悔しいよ、悔しい! 私が色仕掛けしてお職になれるならとっくにそうした! だけど、それをしなかったのは旦那様が気品を大事にするから! なのに! なのに! お職花魁に薄紅を! じゃあ今までの私は何だったて言うの!!」

「旦那様は孔雀が色仕掛けしないで正々堂々と勝負した事を評価しているよ。だから、裏では安本さんに掛け合ってお前の身請けをしてもらえないかと相談している」

「冷血な楼主だったらそんな事をするかい? 旦那様はお前の苦労を知ってるから動いているんだよ。それなのにお前がぶち壊したら元も子もない」

「お妙さん……私は、私は……だったら、一度でもいい…! 旦那様に抱かれたかった…!」

「……わかるよ。私も抱かれたかった」

 

 妙子は肩に抱いて嗚咽を上げる孔雀をなだめていた。

 孔雀は何処かで聴いた流行歌が静かな座敷に流れてくるのが聴こえた。

 

私は君にとっての空でいたい

哀しみまでも包みこんで

いつでも見上げる時は

一人じゃないと

遠くで思えるように

帰る場所でありますように

 

 

私は君にとっての空でいたい

哀しみさえも包みこんで

いつでも見上げる空は

一つでつながっていると

近くで思えるように

 

 

涙を失くすほど強くなくてもいい

疲れた心を 癒やしてね

私は君にとっての空でいたい

小さな子供のように

今は眠りについてね

 

 

帰る場所であるように

 

 

 

「この歌……何処かで聴いた流行歌」

「零無の流行歌だね。何だか落ち着くね。桜華楼には不思議な男が二人もいる。二人揃って不思議な色気に見える。孔雀が抱かれたいと漏らすのは真っ当な話さ」

 

 孔雀の荒んだ心に響き渡る流行歌は、まるで子守唄のように遠くの座敷から聴こえた。

 そこでは芸者衆が通し稽古として流行歌を唄っていた頃合いでもあった。

 しばらくその歌を聴いて段々と心が落ち着く孔雀。

 苛立ちも、恐れも、何もかも包み込む歌に彼女、孔雀花魁は想った。

 何を恐れていたのだろうか?

 私は旦那様にも、その方に近い人も、間近で見られる機会を貰っているじゃないか。

 下っ端の女郎達はそれすらも与えられる事もなく乱暴な男に抱かれる夜さえあるのに。

 私は……何を求めていたのだろうか?

 私は充分に美しい男達を毎夜、見ているじゃないか。

 

「さあ、孔雀花魁。今宵も孔雀のように艶やかに咲き誇りましょう」

「はい。お妙さん」

 

 涙を拭った孔雀は着物を変える為に自らの座敷へと誇らしげに戻り、そして今宵も春の宵が始まろうとしていた。



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36話 薄紅花魁と福山の若旦那

 紅碧の水揚げしている時に一度だけ花魁道中をしている薄紅花魁の宴席に今宵は出る事になった。

 薄紅花魁の馴染みは彼女が振袖新造からの客で名前を福山という。

 どうも今宵の桜華楼は少しどころかかなり慌ただしい。それは何故かというと福山という客は、福山財閥の御曹司であるという情報があったから。

 思わぬ福の神の到来にお妙さんも楓姐さんも若い衆にしっかりと福山財閥の御曹司を饗す用意を入念にさせる。

 薄紅花魁にも己を磨き上げ美しく飾るように言伝がされた。

 

「福山さんってあの福山財閥の御曹司、若旦那だったのですか?」

「そうらしいよ。何でも父親が亡くなって空席だった所をその御曹司が居たから今や福山財閥の若旦那さ」

「結構な話ですな。楓姐さん」

「今宵の面倒見る若い衆は賢治で決まりさあね。あいつはヘマをしないし、姿も申し分ない伊達男だしね」

「あっしは今夜は別の座敷へ?」

「喜兵衛。悪いが今夜は他の遊女への廻し方を徹底的にしておくれ。薄紅花魁と福山財閥の若旦那の面倒は賢治が適任よ」

「わかりました。今夜は変な騒ぎが起きる前に予めその芽を摘んでおくんですね?」

「福の神の到来とあったならそちらを優先するしかないわね」

「わかりました。そこは徹底的にします」

 

 喜兵衛は少し納得いかない様子ではあったが揉め事のある妓楼に福山財閥の若旦那も顔を出したくはないだろう。

 今夜は変な揉め事が起きない事を柄にもなく神に祈る想いの楓姐さんだった。

 今宵は福山財閥の若旦那が登廊してくる。

 この情報は楼主、稲葉諒の耳にも入っている。彼は丁重に饗すように、しかし横暴を働いた時は御曹司であれど厳粛に対処するよう皆に伝える。 

 世間一般では御曹司などと言われる者はそんな横暴な振る舞いなどしないであろうが、油断大敵でもある。世間一般な評判とその人物の人柄は必ずしも同じではないのだ。

 特に遊廓は金さえあれば何でも出来る、許されると勘違いする輩も多い。

 例え財閥の若旦那であっても横暴を働いたならば、私刑も辞さない覚悟で今宵は迎える諒であった。

 

 桜華楼の慌ただしさは近年にも目覚まし程の喧騒で、俺達芸者衆も準備稽古に余念はなし。流行歌から、お座敷遊びの定番の確認から、着物の(しわ)やたるみも徹底的に直させる。

 芸者衆の幇間である俺達には袴と桜華楼の法被(はっぴ)を着ての酒宴の参加が命じられる。

 夏に近づくに連れて桜華楼の法被も純白に商標の八重桜があしらわれた手の込んだ法被を若い衆は羽織る。 

 こうする事で一目で自分達と他の見世との見分けがつく。若い衆の男達は他の見世とは対して変わらないちょっとした筋者みたいな面構えの連中なのは同じなのだ。

 福山財閥の若旦那がくるという事で食事は本日は少しでも精がつくように魚料理を出していた。

 これだけの人数を抱えるから肉料理は出せないが、魚料理を出してくれた心意気には感謝するよ。

 旦那様も今回の若旦那が只者ではないからこそ、まずはしっかり栄養を取らせて活気をつけよう、そういう気配りだなと俺は想った。

 

 宵も更ける頃に、吉原にくる大尽、福山財閥の若旦那の為に薄紅花魁の花魁道中が、夏の宵に行われる。

 赤みを帯びた提灯が照らされる中、引手茶屋の桜花の里にて待つ福山の若旦那の下へ道中する薄紅花魁。

 それがまた薄暗くなる宵に催されたので、何とも魅惑的な光景だ。

 桜華楼の行灯を持ち先導するのは健太。

 薄紅花魁に肩を貸すのは友吉。

 長柄の傘をさして続くのは賢治で、他に禿を2人連れて薄紅花魁は堂々たる佇まいで聴衆の前を道中する。

 髪に飾られた(かんざし)も一番豪勢なものにしたのだろう。後光のように刺され、着物は薄紅色では少し気迫が足りないのかほぼ深紅の着物を羽織り、模様には華美な牡丹や鶴が描かれている。

 聴衆はざわめきと共に大きくなる一方。

 この眼で目撃しようと人だかりが出来る。

 そんな中を悠然と薄紅花魁は道中する。

 しかもお職花魁となって初めての花魁道中だ。薄紅花魁にとってもそれは名誉な出来事であった。

 

「美しいものだ」 

 

 福山の若旦那は呟く。

 花魁道中はそうそうお目にかかれない妓楼のサービス。

 向こうは歓迎している。

 そして福山の若旦那と薄紅花魁は何度目かの再会を果たした。

 

「やあ、薄紅。久しぶりだね」 

「福山さん、久しぶりでありんす」

「突然の変わり様に驚いているようだね」

「まさか福山財閥の御曹司であらっしゃりましたか」

「私も驚いているんだよ。薄紅。でも事実は事実だしね。お陰でこうして君を自由に買える立場になれた」

「でも、わっちの気持ちは心変わりござりんせん。今でもお慕い申し上げしなんす」

「私もそうだよ。薄紅」

「うれしうざんす。見なんし。今宵の星も月も綺麗でありんす」

 

 桜花の里の二階座敷で彼らは1つ酒宴を催した後に、桜華楼へと向かう。

 かつて伊勢谷半蔵がしたように、福山の若旦那も多数の花魁や禿(かむろ)や振袖新造を供にして桜華楼へ道中する。

 この大正にこのような大尽遊びが出来る御仁が居たのか?

 仲の町を通りすがる一般客の羨望の目が注がれた。

 そして桜華楼へ登廊する。

 楓姐さんも今宵の着物は特別な席でしか纏わない物を誂えたのだろう。

 鶴や梅が刺繍された白が多い着物にて接待する。

 

「これは、これは、福山さん。ようこそ、桜華楼へお越しいただき誠にありがとうございます。靴はそちらの若い衆へお預けになってください」

 

 革靴を預かる勇太は名前の入った靴箱へ入れる。

 その他の人達の靴や草履もテキパキと入れていた。

 

「揚がっても宜しいかな?」

「どうぞ、お揚がりください。酒の肴も食事の用意もさせております」

「では」

「こちらの座敷へご案内致します」

  

 賢治が桜華の間へ案内する。

 お職花魁となり、薄紅花魁が桜華の間の使用を許可されたのだ。

 桜華の間では既に俺達芸者衆も準備を整えて待っていた。仕出し料理屋からの料理も折りを見て運ばれる手筈。

 そして俺は薄紅花魁の姿をまともに観た。

 まだあどけなさは確かに残っている。だけど花魁になるべくしてなった女性だなと貫禄で判った。 

 孔雀花魁とは別の、少し庶民的な野暮ったい部分はある様子だが、それでも禿(かむろ)の頃からの躾の賜物かな。

 褐色がかった眼と艶のある黒髪。煙管を手にする仕草。禿を従える絵といい、様になっている。

 薄紅花魁も俺の姿を初めて観たのであろう。不思議そうな空気を出していたね。観たことあるような、ただの他人の空似か。優雅には振る舞っていたが福山の若旦那よりも注目して観ていたよ。

 賑やかな酒宴が始まり、しばらくすると、楓姐さんを越させて福山はこう言った。

 

「今夜はここを惣仕舞(そうじまい)していいかな?」

 

 と、その場で現金500円(当時の相場では200万円相当)を楓姐さんに出した。

 

「ありがとうございます! 旦那様にもご報告をさせていただきます」

 

 楓姐さんは一階の内所に入ると諒に手渡された500円の束を観て入ってきた。

 

「諒! 福山財閥の若旦那が今夜は桜華楼を惣仕舞させて欲しいって! 花代、500円! 頂戴したわ!」

「やるねぇ、福山の若旦那も。惣仕舞するとは。よし、花代は貰ったしさせてやろう。福の神の到来だな」

 

 薄紅花魁の箔もますますつくってものだね。諒はやはり本日は少し若い衆や女郎達に少し良い物を食わせて正解だったと考える。今夜は少し長い夜になりそうだな……。

 彼は煙管を咥えると煙草を吸い、煙をゆっくりと吐いた。

 二階の桜華の間は今はしこたま元気な宴の音が響いている。

 孔雀花魁はそれに嫉妬しつつも、お職花魁として桜華楼を惣仕舞させた手腕に納得しつつ、今宵は別の客と共に座敷にてついていた。

 相手は中尾裕二だった。

 桜華の間から少し離れた竹の座敷にて、珍しくどんちゃん騒ぎの桜華楼の事を話す。

 

「いや〜、今夜は賑やかだね」

「はい。今夜は福山様が桜華楼を惣仕舞にするとの事で先程、花代として500円、いただきました」

「福山財閥の若旦那か。何でもいきなり家業を継いだ跡取りだってね」

「豪勢な方に存じ上げます」

 

 またとんだ大尽が遊びにきたもんだと思う中尾裕二に孔雀花魁はしな垂れかかる。

 

「そんな事は関係ないでありんす。中尾さん。早く、貴方を感じさせて……」

「そうだね。今は君と愉しもう」

 

 それぞれの思惑が流れる中、桜華楼の賑やかなな宵は更けていく……。

 



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37話 真夏の夜の夢桜

 桜華楼が惣仕舞された夜。

 桜華の間にて宴席に出た後は特にすることもなく騒ぎ疲れて眠りにつく頃に、不意に誰かの声がした。

 真夜中だから遠慮がちに、少しでも聞こえるように障子を叩く音が聴こえる。

 俺は布団から起き上がると、障子をずらした。そこには池本さんがいた。

 

「池本さん。こんな真夜中にどうしたんですか?」

「零無さん。ちょっと散歩でも行きませんか?」

 

 確かにこんな時に廊下で話すのも難だしな。

 俺は慌てて布団を畳んで端に置いた。

 こんな真夜中にどうしたのだろうか?

 番頭の友蔵さんは家路について今の桜華楼は夜の見廻り組が「火の用心」と拍子木を叩いている。

 

「お二人共。こんな真夜中に何処に行くので?」

「ちょっと散歩してきていいかな? 眠れなくてさ」

「へい。とりあえずお気をつけて」

 

 吉原の真夜中の雑踏に出た。

 真夜中であれどその雑踏はまだかなりの人達が夜の吉原を堪能している。

 8月の吉原は晴天30日間は『(にわか)』という行事で集客する。

 (にわか)とは即興的に祭り囃子やその場で劇などを催す、夏祭り的なものだね。

 いわゆる幇間や芸者達の見せ場であり、活躍時でもある。

 今の時間は真夜中の12時。流石にこんな時間までは『俄』もやってない。

 それでも賑やかな雑踏の様子が見えた。

 俺と池本さんの姿は浴衣姿だった。

 並んで雑踏を歩く。

 

「こうして二人で夜の吉原を歩いたのは初めてですね」

「ええ。でも何だか俺も今夜は眠れなかったんで、丁度良かったですよ。池本さんに誘って貰って」

 

 彼らは雑踏を歩きながら汗が滲むのを自覚した。珍しい熱帯夜だ。

 しかし真夜中ながらかき氷を売る店は営業している。

 そこかしこを見渡せば、こんな夜でも営業する店もかなりあるのに驚いた。

 

「かき氷でも食べませんか?」

「そうね、頂こうかしら」

 

 適当な茶屋に寄る。ちなみにここは大正時代ならではの喫茶店で、引手茶屋ではない事は断っておくよ。

 

「いらっしゃい!」

「かき氷、二つください」

「はいよ!」

 

 店主の親父さんは大きな塊の氷をやすりにかけるように、下に置いてある硝子の器に氷を削り出しいれている。

 そして苺味と思われる紅いシロップをかけて俺達に振る舞ってくれた。

 

「どうぞ!」

「ありがとう」

 

 椅子に座りながらかき氷を食べる俺達。

 銀のスプーンで、氷をすくいながら口に運ぶと懐かしい味が広がった。

 やっぱり夏にかき氷は食べるものだよね。

 柄にもなく俺は笑顔になっていただろうな。

 池本さんはかき氷を食べる俺を見て笑ったよ。

 

「零無さん。かき氷、好きなんですね」

「なんでそう見えるのですか?」

「顔が嬉しそうになっている。零無さんは喜ぶ時は素直にそれを顔に出せる人なんだって思えるの」

「池本さん。あの【ハツコイ少女】って歌はどんな風に作詞したの?」

「あれはね、貴方を想いながら書いたの」

 

 俺は目を見開く。

 そしてかき氷を食べるのを一旦やめた。

 池本さんは遠くをみながら話す。

 

「ずっと不思議に想っていたの。貴方の事を。あんまり見ない顔なのに懐かしい気持ちになれる。桜華楼に移ってからは、一緒の座敷で、一緒の歌を唄って、危機になったら駆けつけてくれる」

「旦那様によく似ているって皆は言うけど、貴方は自分自身をしっかり持っている。貴方と組む度に嬉しくなって……あの歌を書いたの」

 

 かき氷が溶けてなくなる前に俺達は氷を口に運んだ。

 甘いシロップの味がさっきより甘く感じるのは何故だ?

 やっぱり体の奥が"疼く"。

 散々内側に封じていた何かが甦る。

 池本さんは続ける。

 

「あの歌は私の願いなの。そして誰でもない眼の前の人にそれを叶えて欲しい」

「池本さん……」

 

 かき氷を食べた後に冷えた麦茶が出た。

 店主の親父さんはこの会話を聞いていたようで、何気なく俺に言った。

 

「男冥利に尽きるじゃないか。男ならここはひかないで想いを受け止めてやりな」

「男の努めだと俺は思うね。そこに好きな女がいるなら抱いてやりな」

 

 どこかで躊躇っていた俺はその言葉に後押しされたような気がする。

 確か、俺達みたいな者達の為の裏茶屋が近くにあったはずだ。

 ここは揚屋町の一角だった。

 ひとまず、一息いれた俺達はまた雑踏に戻る。

 自然と手を握った。

 

「零無さん」

「まずは手を握りたくて、いいかな」

「大きな手ですね」

「そうかな?」

 

 すると花火大会でもしているのか、丁度花火があがるのを観る事ができた。

 こんな真夜中だから吉原の花火だな。

 それを二人で見上げる。

 

「綺麗です」

「久しぶりに観たなぁ」

「行こうか?」

 

 桐屋の行灯を見つけた俺達。

 先に俺が入ってみた。

 

「いらっしゃい。今夜は空いてますよ」

「助かるよ」

「一通りの用意はしてあるから安心してくれ」

 

 初めて裏茶屋に入った俺達は、意外と洒落た内装に驚いた。

 質素ながら硝子細工が置いてある所に吉原ならではの粋を感じたね。

 布団もしっかり敷かれている。

 俺達は二人して胸が高鳴っていたのだろうな。

 障子をきちんと閉めると池本さんは内側に封じていた女を表に出して、俺を壁に押し込んで唇を重ねる。

 

「ンっ……」

「零無……零無……っ」

 

 俺も舌を絡ませる。

 そのまま接吻に溺れながら布団に倒れる。

 池本さんが帯を緩めて、取り払う。

 薄めの白い襦袢姿になる。

 俺も水色の浴衣を外した。

 池本さんが両方の手で胸板を触り始める。

 

「なんて艶のある肌……こんなに綺麗な人も初めて……」

「池さん……」

 

 右手で池本さんの顎を少し上げてまた接吻をする。

 それは激しくなる一方だ。

 俺達はお互いに封じていたものを互いに解放するように体を重ね始めた。

 池本さんの襦袢を外した。

 枕に寝かせると俺は首筋に甘えるように唇を這わせる。

 空いてる手は池さんのふくらみや脇腹を擦って微妙な感覚に身をよじらす池さん。

 池さんの両方の腕が俺の背中に絡まる。

 その手が気持ちいい。

 俺の唇は池さんの体を隅から隅まで味わう。腕、鎖骨、お腹、ふくらみや太腿、脚。

 いつにも増して情熱的な俺に池さんは喘ぎながら願いが叶ったのを感動している。

 

「この吉原で願いが叶うなんて夢にも思わななかった! でも、今は違う。愛しい人の肌の匂いを感じる……!」

「どんな気分? 俺は嬉しいよ」

「本当? 本当なの? 零無」

「本当さ」

 

 池本さんの下半身は燃えるように俺を待っていた。

 俺は池さんの下半身を熱く見つめると一声かけて優しく舌を這わす。

 

「いくよ……池さん」

「アン。アアン。零無……零無…っ」

「もっと呼んで、俺の名前を……! 呼んでくれ、もっと、もっと……」

「私も、奈津実(なつみ)って呼んで! 零無……!」

「奈津実……君のここは美味しい。もっと舌で君を味わいたい」

「はウッ。はウッ! 気持ちいい……!」

「奈津実……凄い湧いてくるよ」

「もう、もうっ! 駄目…っ! 逝っちゃう!」

 

 激しく乱れる池さんに俺は喜ぶ。

 俺に対してこんなに乱れてくれるなんて嬉しい。

 嬉しいんだ、池さんは。

 少し脱力して息を乱す池さんに見せるように(ふんどし)を外した。

 そして焦らすように腰を落とす。

 

「奈津実……俺はもう待てないよ……」

「アッ……アッ……零無」

「君と結ばれたい。深く、深く結ばれたい」

「来て、零無、お願い」

 

 その夜に俺達は互いに結び合った。

 深く結ばれるとお互いに体を抱き締めあって、逃したくないようにきつく抱いた。

 茶色の長い髪が乱れて咲き、藍色の輝きを宿した瞳が俺を狂しく見つめる。

 真夏の吉原で体験した夏の夢桜。

 今は眼の前で綺麗に咲き誇って、俺の内側の情熱を完全に甦る。

 絶頂に導く俺はどういう顔でこの時間を楽しんだのか。

 俺は嬉しいんだ。

 これは偽りじゃない。

 これは偽りの想いじゃない。

 遊女達にしたものとは違う。

 これは、この想いはどうか嘘ではありませんように……。

 

 真夏の夜の夢は甘く美しく融けてゆく。

 俺達はそうして一歩も二歩も進んだ関係になってゆく……。



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