世界の天秤~侯爵家の三男、なぜか侯爵令嬢に転生する (梅杉)
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簡易版・登場人物紹介(逐次更新)

登場人物紹介です。
最新話に合わせて更新しますが、極力ネタバレはしないように書いております。


■主要人物■

 

◇リナーリア・ジャローシス

主人公。青みがかった銀色の髪に蒼い瞳の侯爵令嬢。

10歳の時、王子の従者として育った青年リナライトの記憶を取り戻す。

見た目は美少女だが中身は王子への忠誠度MAXな従者(男)。特技は魔術。

 

◇リナライト・ジャローシス

侯爵家の三男で、リナーリアの前世。生真面目な性格で眼鏡をかけた魔術師。

5歳で王子の従者になり、生涯仕えようと思っていたが、享年20歳で死亡。

 

◇エスメラルド・ファイ・ヘリオドール

淡い色の金髪に翠の瞳。ヘリオドール国王の後継として生まれた王子。リナーリア(リナライト)と同年。

無口で表情に乏しく、あまり感情を表に出さないが心優しく誠実な性格。カエル好き。

前世では20歳の時、婚約者のフロライアによって毒殺された。

 

◇スピネル・ブーランジェ

後ろで一つにまとめた鮮やかな赤毛に鋼色の瞳。ブーランジェ公爵家の四男で今世での王子の従者。

リナーリアやエスメラルドの2歳上。卓越した才能を持つ天才剣士だが、勉学から社交まで大抵のことは器用にこなす。

背が高く顔がいい。外面も良いのですごくモテる。

 

◇フロライア・モリブデン

モリブデン侯爵家の娘である貴族令嬢。主人公と同年でクラスメイト。

ウェーブのかかった蜂蜜色の髪に紫の瞳で、誰にでも別け隔てなく心優しい美人。しかも優秀でスタイルも良く非の打ち所がない。

前世ではエスメラルドの婚約者だったが、ある時裏切り毒を盛った。

 

 

■ジャローシス侯爵家の人々■

 

◇アタカマス・ジャローシス

主人公の父でジャローシス侯爵。ちょっとお調子者だが実力ある魔術師。

侯爵家としては最も新参であり軽視されがちな家だが、領は裕福。

 

◇ベルチェ・ジャローシス

主人公の母で、ジャローシス侯爵夫人。おっとり系美人。天然だが社交能力は高い。

 

◇ラズライト・ジャローシス

主人公の6歳上の長兄で嫡男。穏やかで心優しい青年。弟妹に甘い。

 

◇ティロライト・ジャローシス

主人公の2歳上の次兄。父親似ののんき者。

 

◇コーネル

リナーリア付きの使用人。リナーリアの2歳年上で、真面目で思いやりのあるお姉さんメイド。

色んな意味で常識はずれな主人には困っているが、敬愛している。

 

◇スミソニアン

ジャローシス侯爵家に忠誠を誓う執事長。紅茶好き。

 

◇ヴォルツ・ベルトラン

ジャローシス侯爵家に仕える騎士の息子。主人公の2歳上で、ジャローシス家の支援を受け学院に通っている。

無口で無愛想だが、ジャローシス家には恩義があり忠誠を誓っている。

 

 

■王宮の人々■

 

◇カルセドニー・フォウル・ヘリオドール

ヘリオドール王国の現国王。エスメラルドの父。身体が弱いが温厚篤実な王として慕われている。

魔術師系貴族よりも騎士系貴族の力が強いヘリオドール王国だが、どちらも公平に遇するよう努力している。魔術師系貴族であるブロシャン家派閥からの支持が特に厚い。

 

◇サフィア・ヘリオドール

現国王の王妃。エスメラルドと似た無表情気味の美女。家族関係は良好。

 

◇セナルモント・ゲルスドルフ

探知と解析を得意とする王宮魔術師。古代神話王国マニアでボサボサ頭の変人。

前世ではリナライトの師でもあった。

 

◇テノーレン

最近入ったばかりの若き王宮魔術師。戦闘や護衛がメイン。

 

◇ビリュイ

数少ない女性の王宮魔術師。王妃の護衛任務が多いが、魔獣との戦闘経験も豊富。

 

◇レグランド・ブーランジェ

ブーランジェ公爵家次男。女たらしのイケメン近衛騎士で、弟のスピネルと仲が良い。

 

◇ペントランド

剣聖と呼ばれる剣の達人。エスメラルドとスピネルに剣の指南をしている。

老人だが見た目は結構若い。酒に弱い。

 

◇フェルグソン・ヘリオドール

現国王の兄。本来ならば王になるはずだったが、過去のいざこざにより失脚。既に王位継承権は持っていない。傲慢な性格であり、騎士至上主義者。

騎士系貴族の中には未だに支持する者も多いが、魔術師系貴族とは仲が悪く敵対者も多い。

 

◇オットレ・ファイ・ヘリオドール

王兄フェルグソンの息子で、エスメラルドの従兄弟。高い王位継承権を持つ。

主人公の1学年上で、騎士課程。嫌味で不遜な性格で、エスメラルドに激しい対抗心がある。女は好きだが言うことを聞かない女は嫌い。

 

◇ゲルマン

老いた王宮魔術師。結界術を得意とし、その実力は筆頭魔術師にも次ぐと言われている。

 

◇アメシスト

王宮魔術師団のトップである筆頭魔術師。ペントランドとは同期で友人。老齢で表舞台からは身を引きつつある。

 

◇スタナム

若き近衛騎士団長。責任感が強い。既婚で、結構ロマンチスト。

 

 

■魔術学院の人々■

 

◇カーネリア・ブーランジェ

主人公の同級生でスピネルの妹。別クラス。明るい色の赤毛をポニーテールにしている。

騎士課程に所属し、女騎士を目指す快活な美少女。

 

◇ペタラ・サマルスキー

クラスメイトで魔術師課程。気弱だが心優しいご令嬢。

カーネリアの友人で、カーネリアを通じてリナーリアと仲良くなった。

 

◇アーゲン・パイロープ

主人公の同級生で、五公爵家のうちで最も強い権力を持つパイロープ家の嫡男。

黒髪に青い目、腹に一物抱えていそうな雰囲気の貴公子。騎士課程。成績優秀。

 

◇ストレング・ドロマイト

パイロープ家に仕える騎士の息子で、アーゲンの腹心。同級生で騎士課程。マッチョ。

 

◇ニッケル・ペクロラス

クラスメイト。ペクロラス伯爵家の嫡男。騎士課程。趣味は母親から教わった絵画。

父母の離婚の危機をエスメラルドに救われたため、尊敬し慕っている。

 

◇セムセイ・サーピエリ

クラスメイト。騎士課程。

ちょっと太めなスピネルの友人だが、領地が近いためリナーリアとも仲が良い。婚約者あり。

 

◇クリード

クラスメイトの男子。騎士課程で、ノリが軽く後先考えずに行動する性格。

 

◇スパー

クラスメイトの男子でクラス委員をしている。クリードと仲良し。

 

◇アフラ

クラスメイト。服飾関係に強い領の出身の令嬢で、裁縫が得意。

 

◇シルヴィン

カーネリアのクラスメイト。薔薇色の巻毛をした気の強いご令嬢。

 

◇アラゴナ

同級生。濃いめの金髪に灰色の瞳の美しいご令嬢。

前世ではアーゲンの婚約者で、今世でもアーゲンを慕っている。

 

◇スフェン・ゲータイト

赤が交じる派手な黄緑の髪、瞳は赤茶。主人公の1学年上で騎士課程に所属する女子生徒。

常に男装しており、芝居がかった口調で話す。女子生徒から絶大な人気がある。

 

◇ヘルビン・ゲータイト

主人公の同級生で別クラス。スフェンの弟で、前世ではエスメラルドと仲が良かった。騎士課程。目立つのが嫌い。

 

◇シリンダ

スフェンのクラスメイトで、スフェンのファンクラブの2トップのうちの一人。

温和な性格でマネージャー的役割も果たしている優秀なご令嬢。魔術師課程。

 

◇エレクトラム

スフェンファンクラブの2トップのもう一人。

高飛車でゴージャスな金髪のご令嬢。実家はお金持ち。

 

◇リチア

腐った趣味を持つ貴族令嬢。主人公の1歳上。カーネリアの友人の一人。

 

◇エンスタット・スペサルティン

主人公のクラスメイトで、魔術師課程の男子生徒。前世ではヒョロかったが今世ではマッチョ化した。

 

◇ジェイド

主人公の2学年上の男子生徒。沈着冷静な眼鏡の生徒会長。騎士課程。

 

◇ノルベルグ

主人公のクラスの担任。少々厳ついが話の分かる良い教師。昔は優秀な騎士だったが、怪我で引退し教職についた。

 

◇ビスマス・ゲーレン

フロライアの実家、モリブデン侯爵家の支援を受け学院に通っている平民出身の騎士課程の男子生徒。

 誰とも親しくしておらず、謎が多い。主人公より1学年上。

 

◇トルトベイト・ブロイネル

主人公より1学年上。ジェイドの後継として新生徒会長に就任。せっかちな性格の魔術師課程の男子生徒。

 

◇ミメット・コーリンガ

主人公より1学年下。コーリンガ公爵の妹で、魔術師課程。黒髪黒瞳で、人嫌い。

 

◇レヴィナ

コーリンガ公爵家傘下の貴族の娘で、ミメットの世話役兼友人。眼鏡で三つ編み。

腐った趣味があり、結構ちゃっかりした性格。

 

◇ウルツ・ランメルスベルグ

騎士の名門ランメルスベルグ侯爵家の嫡男。主人公の2学年上。

剣術を得意とする爽やか系のイケメン。女子からめちゃくちゃモテる。

 

◇サフロ・ランメルスベルグ

ウルツの弟で、次男。主人公の1学年上。

こちらも剣術が得意で、クール系のイケメン。やっぱりモテる。トルトベイトとはクラスメイト。

 

 

■貴族の人々■

 

◇アルマディン・ブーランジェ

スピネルの父で、ブーランジェ公爵。

代々剣の名門として知られる騎士家で、剛刃将軍とも呼ばれた剣の達人。質実剛健。

 

◇ブロシャン魔鎌公(まれんこう)

先代のブロシャン公爵で、風魔術を得意とする偉大な老魔術師。

代々優秀な魔術師を輩出する家で、公爵家の中では最も家格が低い扱いをされているが、同じ魔術師系貴族からの支持が厚い。

現国王のカルセドニーをいち早く支持していたため、王家とは特に良好な関係を築いている。

 

◇ユークレース・ブロシャン

ブロシャン公爵家の次男。主人公の2歳年下。天才魔術師として将来を嘱望されている。

引きこもり気味のわがまま末っ子だが、祖父の魔鎌公には懐いている。

 

◇フランクリン・ブロシャン

ブロシャン公爵家の嫡男で長兄。軽薄そうにも見えるが、気配り上手でそつのない人物。

主人公の2歳年上で、学院では先輩。愛する婚約者がいる。

 

◇ヴァレリー・ブロシャン

ブロシャン公爵家の長女。主人公の1歳年下。ゆるふわ小悪魔系令嬢。

おしゃれとスイーツが好きで、実はかなり頭の回転が速い。

 

◇サーフェナ・シュンガ→ サーフェナ・ジャローシス

シュンガ伯爵家の令嬢。ジャローシス侯爵家の長兄ラズライトの婚約者から妻になった。

昔は魔術師を志していて、王宮魔術師のビリュイに非公式の弟子入りをしていた。

 

◇ミニウム・シュンガ

サーフェナの弟で、シュンガ伯爵家の嫡男だった少年。

明るく朗らかで、物語の英雄のような騎士を目指していたが、突然遭遇した魔獣との戦いで命を落とした。

 

◇アンドラ・モリブデン

フロライアの父でモリブデン侯爵。保守派に属する騎士系貴族。

温厚かつ優秀な人物で、領民からは慕われているが底知れない。

 

◇イネス・ランメルスベルグ

名高い騎士系貴族ランメルスベルグ家の末妹。年の割に長身で、ランメルスベルグ家の剣の才能を受け継いでいるが、中身は年相応の少女。

 

 

■その他■

 

◇流星(ミーティオ)

はるか古代、物語の舞台であるベリル島に存在したと言われる竜。

ジャローシス領にある火竜山に棲んでおり、人を襲い害をなしていたが、退治され死んだと言われている。

 

◇ライオス

半分が人間、半分が竜である竜人。赤い宝玉を首に下げている。

かつては人を助ける存在だったが、人に愛想を尽かし姿を消したというおとぎ話が残っている。

 

◇アイキン

勇猛な老騎士団の伝説で有名なタルノウィッツ領に住む子供。

父母を亡くしており、唯一の身寄りである叔父に引き取られ二人で暮らしている。

 

◇カーフォル

アイキンの叔父。アイキン母の弟に当たり、タルノウィッツ領の騎士。独身。

 

◇ギロル

レグランドの友人で春画家兼挿絵師。元は貴族だった。

 

◇セレナ

古代神話王国時代に生きた女性。ミーティオの恋人だった。



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プロローグ

ひんやりとした空気の満ちる薄暗い夜の森を、彼は一人走っていた。

せり出した枝や生い茂る草に手足を打たれ、あちこちに擦り傷を作りながらも、息を切らし必死で走る。

…他の騎士たちと合流してから追うべきだっただろうか。

そんな考えがちらりと頭をかすめるが、すぐにそれを否定する。

共に捜索に当たっていた騎士は、森の入口に仕掛けられていた罠魔術に捕らわれてしまった。殺傷力はないが、解除に時間がかかるタイプのものだ。その間に逃げられてしまう可能性の高さと天秤にかければ、一人でも追う危険を犯すしかなかった。

 

「あっ…!」

突然がくんとつんのめり、彼は大きく体勢を崩した。地面に投げ出されかけたが、何とか手をついて転倒するのを避ける。

おおかた、草葉の陰に木の根でも張り出していて躓いたのだろう。「くそっ」と悪態をつきながら立ち上がる。

ずれてしまった眼鏡の位置を直すと、手首のあたりに鈍い痛みがあるのが分かった。

手をついた時に痛めたのかもしれない。けれど、構っている暇はなかった。痛めたのが足でなくて幸いだと思いながら、再び走り出す。

絶対に逃がすわけにはいかない。早く彼女に追いつき、捕らえなければ。

 

その時、前方の茂みががさりと大きな音を立てた。

反射的に足を止めた彼の前に、一人の人影が姿を表す。

「…まさか、一人で追ってくるなんてね」

「…フロライア…!!」

名前を呼ばれた蜂蜜色の髪の女は、にやりと妖艶な笑みを浮かべてみせた。

いつも美しいドレスに包まれていたその肢体は、今は地味な色の旅装に包まれている。今回の事が予め練られた計画であった証だろう。

 

彼はわずかに息を整えると、絞り出すように女に尋ねた。

「…なぜだ。フロライア…なぜ。なぜ、あの方を殺した…!」

「あら?一体何のことかしら?」

「とぼけるなっ!!私はあの方の最後の言葉を聞いた!あのワインを差し出したのは、お前だったと!」

「そう。殿下は、ちゃんと死んだのね。まあ、あの毒で助かるはずがないのだけれど」

「貴様っ!!」

彼は激昂した。腰の剣に手を伸ばしかけ、だがすんでのところで思いとどまる。

「あら?私を斬らなくていいのかしら?」

「…お前には訊かなければならない事が山ほどある。動機。毒の入手先。そして、暗殺を命じた者の正体」

「私が一人でやったとは思わないの?」

ことりと首をかしげてみせる女に怒りがこみ上げるが、その挑発には乗らないと彼は片腕を上げた。

「こんな事が一人でできるものか。もういい。お前を捕らえ、城に連れ帰る」

言い捨てて捕縛のための魔術を編みかけた時、女が再び笑った。

まるで闇を覗いたかのようなうつろな笑顔で。

「…最後だから教えてあげる。殿下は『天秤を傾ける者』だった。ただそれだけよ」

 

その瞬間、背筋がぞわりと粟立つのを感じた。

とっさに後ろを振り向く。

そこには月明かりを反射してきらめく、大きく振りかぶられた白刃があった。



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第1話 再会※

「リナーリア、ご挨拶なさい。こちらが第一王子のエスメラルド殿下だ」

そう言って父から紹介されたのは、淡い色の金髪に翠の瞳をした同い年くらいの少年だった。

自分よりもわずかに高い目線。表情には乏しいけれど、凛と整った顔つき。

 

その顔を見た瞬間、胸いっぱいに熱いものが広がるのが分かった。

切ないような温かいような、痛いほどに胸を締め付けるその感覚に私は戸惑い、だけどすぐに理解した。

 

懐かしい。…とても、とても懐かしい。

 

少年がぎょっとしたように目を丸くした。その様子を見たお母様が、どうしたの?と私の顔を覗き込み、驚いて口元に手を当てる。

私の両目からは、ぼろぼろと涙が溢れていたのだ。

「あっ…」

慌てて顔に手をやるが、涙は止まらない。

「うぐっ…ふっ…」

懐かしさと悲しさと、何だか分からない感情がごちゃごちゃになり、波のように押し寄せてくる。

「リナーリア」

お母様がおろおろとしながら抱きしめてきて、私はたまらず、大声で泣き出した。

 

 

慌てたお母様の腕に抱かれた私はその場から連れ出され、自分の部屋に放り込まれて、ベッドの中でめちゃくちゃに泣いた。

泣いて泣きまくって、泣き疲れた私はそのままぐっすりと眠った。

 

そして翌朝、不思議なほどにすっきりと爽快に目覚め…全て思い出した。

 

私はリナーリア・ジャローシス。

このヘリオドール王国に数ある貴族家の一つ、ジャローシス侯爵家の当主・アタカマスとその妻ベルチェの長女。

 

だけど私はかつて、全く違う名前で呼ばれていた。

リナライト・ジャローシス。

ジャローシス侯爵家の三男坊として生まれ、第一王子エスメラルド殿下の従者として幼い頃から王子と共に育った、その記憶が確かに私の中にあったのだ。

 

 

もぞもぞとベッドから起き上がった私は、部屋に置かれた姿見の前に立った。

そこに映っているのは、銀色の髪を長く伸ばした青い瞳の10歳の少女だ。

「…一体どうしてこうなった…」

私にはこの10年間、リナーリアという少女として生きてきた記憶がちゃんとある。もちろんあまり幼い時のことはほとんど覚えていないが、物心ついてからの記憶はしっかり残っている。

だけど私は、20歳の青年であった時の自分のことも確かに覚えている。

自分の両手のひらを見つめる。見慣れた、傷一つない小さな少女の手だ。

だけど私は昔、これよりずっと大きな手をしていた。もっと指の長い、ペンだこと剣だこのある男の手。

 

「死んで生まれ変わった…の?」

鏡の中の自分に問いかけてみるけれど、返事などある訳がない。

しかし、状況から考えて浮かんでくるのはそんな可能性くらいだった。

あまりにバカバカしい話ではある。人が生まれ変わる話は読んだことがあるが、あくまで神話や物語の中のこと、創作でしかない。

そうしてしばらく悩んでみたが、やはりこの結論に達する。

 

…死んだリナライトはなぜか時を戻り、女のリナーリアとして生まれ変わってそれを思い出すことなく10年間生きてきた。

 

どうやら20歳だった記憶までしかないようなので、あの時私は死んでしまったのだろう。その瞬間の事は、曖昧でどうにもはっきり思い出せないけれど。

もしかしたら私は頭がおかしくなっていて、全てが私の妄想という可能性も少しだけ考えたが、その考えはすぐにどうでも良くなった。

だって本当に生まれ変われたのなら、私には絶対にやらなければならないことがある。

 

あの日、殿下は私の目の前で命を落とした。

生々しく思い出せる。真っ青になった唇も、こぼれ落ちた血も、冷たくなっていくその手も。

もう二度と、失われてなるものか。

エスメラルド殿下の命を絶対に救うのだ。



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第2話 父と母

「お嬢様。起きていらしたんですね」

後ろから声をかけられ、私は我に返った。

いつの間にか部屋に入ってきていたのは、使用人のコーネルだ。私よりも2つ年上の12歳。

物静かだがよく気の付く少女で、普段から主に私の世話をやってくれている。

「呼んでも返事がなかったので、まだ眠っていらしたのかと思いました」

「ごめんなさい。少しぼーっとしていました」

「そうですね…。大丈夫ですか?」

気遣わしげに言われて、私は昨日ずっと盛大に泣いていた事を思い出した。その間コーネルはずっと私についていてくれたのだが…

 

「ああああああっ!!!」

突然叫んだ私に、コーネルがびくりとする。

「で、殿下!!殿下はどうした!?」

そうだ、私は殿下の前で泣き出してしまったのだ。よりによって殿下の前で!

「数時間ほど滞在されたあと、予定通りお帰りになりました。お嬢様の事を心配なさっていたそうです」

 

「あああああああ~~~~~…」

私はがっくりと床に崩れ落ちた。私は…私は何ということを…!

「穴があったら入りたいっ…!!」

いっそ床に頭を打ち付けてしまいたかったが、さすがに自重した。だが全身から火を噴きそうなくらい恥ずかしい。

「あの…お嬢様、元気を出してください。体調が悪いのでなければ、朝食に行きましょう。ご主人さま方がお呼びです」

ああ…当然だ。お父様とお母様もきっと、一体なぜ私があんな無様を晒したのか疑問に思っているだろう。

「……、わかりました…」

私はよろよろと立ち上がり、コーネルに手伝ってもらいながら着替えを始めた。

 

 

 

「本っ当に!!申し訳ありませんでした!!!」

開口一番、私はそう言って頭を下げた。

昨日はエスメラルド殿下がジャローシス侯爵家の屋敷を訪れるという、記念すべき日だったのだ。

それを私はぶち壊してしまった。

 

この国のそれなりの爵位を持つ貴族は、いくつかの例外を除き、爵位に見合った広さの領地を持っている。当然その領地に城や屋敷を持っているのだが、それとは別に王都にも屋敷を持つのが通例だ。

社交シーズンにだけ王都にやって来る者がほとんどだが、領地は部下に任せ普段ずっと王都にいる者などもたまにいる。

我が家の場合は王都にいる期間と領地にいる期間と半々くらいで、今はその王都にいる期間にあたる。

貴族屋敷は城の周辺に固まって建てられているので、王子が住む城からはすぐ近くなのだが、まだ10歳の第一王子がわざわざ侯爵家を訪れることなどあまりない。

ならなぜそんな機会が巡って来たかと言うと、この屋敷には少々珍しい庭があるからである。

 

なぜうちの屋敷の庭が珍しいのか。

まずジャローシス侯爵家は王国内では新参に当たる家だ。元は領地や屋敷を持たない爵位だけの貴族だったが、百年ほど前の魔獣災害の際に手柄を立てて陞爵し領地をもらった。

王都は古い貴族家から順に王城に近い場所に屋敷を建てていったため、新参になるほど城からは遠くなる。だがその代わり、少しだけ広い場所を割り当ててもらえる事になっている。

なので、うちはそこそこ広い土地をもらった。しかし、土地が広いからと言って大きい屋敷を建てられる訳ではない。

 

貴族社会は家格が物を言う。そして、魔術師系貴族は騎士系貴族に比べて権力が弱い。

侯爵家とは言え、新参の魔術師貴族なんぞが広くて豪奢な屋敷を建てたりしたら、古参貴族たちから「あれ?新参が調子乗ってます?」みたいなことを遠回しに言われ目をつけられてしまう。それはあんまりよろしくない。

そこで頭を捻った当時のジャローシス侯爵は、屋敷は小ぢんまりと建て、代わりにちょっと変わった庭を作ろうと思った。

ジャローシス侯爵領は広く温泉が分布しており、この国の他の土地に比べて温暖だ。そのため、植物や生き物もよそでは見かけない種類のものが多い。

わざわざ領地から草木を運んできて植え、池を掘って水を引くと、同じく運んできた魚やカエルなどの小さな生き物をそこに放った。運搬には結構苦労したとかなんとか。

結果できあがったのが、貴族の屋敷らしくない野性味あふれる庭なのだ。

 

 

…前置きが長くなってしまったが、要するに王子の訪問のお目当ては、その王都ではあまり見かけない生物が住んでいる庭なのだ。

リナーリアには「殿下は植物や生き物が随分とお好きらしくて、我が家の庭に興味を持たれたのだ」とお父様は言っていた。

だが、リナライトの記憶がある私には分かる。

 

殿下が見たいのは、我が領地に住む固有種のカエル、ミナミアカシアガエルなのだと!

 

そう、殿下は無類のカエル好きなのだ。

理由はわからない。とにかくあのフォルム、あの跳ねる動き、鳴き声、全てに心惹かれるらしい。

文武両道で容姿端麗、少々寡黙だが寛大で優しい性格と非の打ち所がない完璧な王子であるエスメラルド殿下の趣味としてはいささか不思議な感じだが、リナライトが初めて会った時も、殿下はじっとカエルを観察していたのだ。

私がそのミナミアカシアガエルという少々珍しいカエルのことを知っているのも、前世で殿下が教えてくれたからに他ならない。

 

 

…その殿下のささやかな趣味の時間を、私は台無しにしてしまったのではないだろうか。

そして、お父様とお母様には大恥をかかせてしまった。

お父様はあまり野心のあるタイプではないが、せっかく訪れた機会なのだ。未来の王である第一王子と親しくなっておいて損はない。

それなのに…。

 

恥ずかしさと罪悪感とで消えてしまいたくなりながら大きく頭を下げた私に、お父様が苦笑する気配が伝わる。

「もういいよ、リナーリア。座りなさい。食事にしよう」

「そうよ。ほら、せっかくの朝食が冷めてしまうわ」

お母様も、すでに落ち着いた様子の私にほっと安心したようだった。

昨日泣いていた時は随分心配していたようで、殿下への応対のため私の側を離れる事をずいぶんと気にしていたので申し訳なく思う。

 

 

テーブルの上にはスープにパン、スクランブルエッグにちょっとした付け合せの野菜。

ジャローシス侯爵家は特に貧乏ではないが、無駄な贅沢はお母様が禁じているので貴族としては質素な朝食だ。

「あの…殿下のご様子は…。気を悪くされていませんでしたか?」

パンをちぎりながら、私はどうしても気になっていたことを口にする。

お父様は少し笑うと、「大丈夫だよ」とうなずいた。

 

「少しお話をした後、熱心に庭を見てから帰られた。…殿下はお優しい方だな。お前のことを心配していたよ」

私はほっと息をつく。良かった…。

コーネルからも同じことを言われていたが、どうしても不安だったのだ。

殿下が優しい方なのは私もよく知っているが、あれほどの失礼を働いてはさすがに気を悪くしたのではないかと。

だけど、屋敷の主人としてずっと殿下に応対していたお父様が言うならば間違いないだろう。

 

「…しかし、お前は一体どうしてあんなに泣いてしまったんだい?」

お父様が怪訝そうに言う。お母様も心配そうな顔だ。

「それは…、その…」

「言ってごらん。怒らないから」

「つ、つまり…その」

「うん」

 

「か、感極まってしまったのです…!!」

 

 

お父様とお母様がぽかんと口を開けた。

羞恥で顔が真っ赤に染まるのが分かる。くっ、恥ずかしい…!!

でも、まさか「前世の記憶が蘇って懐かしさのあまり泣きました」とは言えない。あまりに突拍子がなさすぎる。私自身、今の自分の境遇がまだ飲み込みきれていないのだ。

ならば「あれは感涙でした」と言うしかない。それであんな泣く子供がいるか?という話だが。

 

「うーん…それって、殿下にお会いできて嬉しすぎて泣いてしまった、ということ?」

お母様がよく分からないというように首をかしげる。

「お前、そんなに殿下のことが好きだったのか?」

お父様も不思議そうだ。

当然だろう、あの時記憶が蘇るまで、リナーリアは第一王子にそれほど興味を持っていなかった。まあ10歳の少女としてごく当たり前に、ほんの少しの憧れを持っていた程度だ。明らかに不自然と言える。

でもここはもう、この設定で押し切るしかない。

 

恥ずかしさをこらえて断言する。

「そうです…!私はずっと殿下に憧れていたのです!だから!嬉しくてつい泣いてしまったのです!!」

「……」

沈黙が落ちた。

…だめだ。消えてしまいたい。

 

 

するとなぜか、お母様の顔がみるみると明るくなっていった。

「まあ…!まあまあまあ!そうなのね!そうだったのね…!!」

え、なんでそんな嬉しそうなんですか…?

戸惑う私をよそに、お母様はうきうきと横のお父様に話しかける。

「あなた、早速殿下に手紙を送りましょう。先日のお詫びをしたいって。またいらして頂くのは難しいだろうから、お城に伺ってお会いできないか尋ねましょう」

「え?いや…詫びの手紙はもちろん送るつもりだが、お会いするのはもう少しほとぼりが冷めてからの方が良くないか…?」

「ああ、それもそうね…ではまずお詫びの手紙を送ってから…」

 

なぜだかやる気に満ちている様子のお母様を止めるべきか少し迷ったが、結局私は口をつぐんだ。

殿下に直接お詫びをしたいのも確かだし、何より少しでも殿下に近づけるならどんな口実でも利用しなければならない。

下っ端侯爵家程度の貴族令嬢は、本来ならば殿下に会う機会があるのはもっとずっと後なのだ。

 

 

「…リナーリアも、それでいいかい?」

物思いにふけっているところに急に呼ばれ、私は顔を上げた。

半分も話を聞いていなかったが、どうやらとりあえずお詫びの手紙を送り、様子を見てから会っていただけないか頼むという流れで話がまとまったらしい。

否やもなく、私はうなずいた。

「はい!よろしくお願いします、父上、母上…!」

力を込めてそう言うと、二人はきょとんとした。

…あれ?

 

「…リナーリア。どこで覚えたのか分からないけれど、おかしな言葉遣いをしてはいけないよ。いつも通り、お父様やお母様と呼んでくれ」

「あっ!!」

しまった!つい、前世のような呼び方になってしまっていた。殿下のことばかり考えていたからだろうか。

「す、すみません…お父様、お母様…」

肩を縮こまらせた私に、二人は「わかればいい」と笑ってくれた。



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第3話 記憶

その後、私は「少し一人になりたい」と言って部屋にこもり、自分の記憶の整理をした。

机に座り、引き出しからノートを取り出す。

リナライトの記憶は所々靄がかかったように曖昧だが、基本的には今のリナーリアの記憶と同じようにある程度はっきりと思い出す事ができた。

 

 

リナライトは侯爵家の三男坊だった。

誕生日はリナーリアと同じで、兄が二人いる。これも今のリナーリアと同じ。

ちなみに上の兄は魔術学院に在籍中なので寮に入っている。下の兄は春先に馬から落ちて足を骨折してしまったため、王都には来ていない。

 

記憶を探りながら、家族構成、あるいはこの国の地理、歴史など、ノートに色々書き出してみるが…結果分かったこととして、前世と今世は全く同じ世界だ。

20歳だったリナライトと10歳のリナーリアでは知識量がまるで違うけれど、知っている限り特に変わっている事はない。

ただ、私の性別だけが違う。

 

 

たかが性別と言いたい所だが、これは大きな問題だった。貴族においては、性別によって大きくその役割が変わってくるからである。

少なくない例外はあるけれど、政務や軍務に携わるのは男性が多い。

これは、女性には出産や育児などで仕事を休まなければならない期間が存在するからだ。

育児は乳母が手伝うものの、基本的に母親もそばにいた方が教育に良いというのがこの国では一般的な考え方だ。

 

そして軍務には男性の方が向いていると言われているので、軍人は文官よりもさらに男性比率が高い。これは単純な体力の問題だ。

魔術を使える者ならば多少の腕力の差など簡単にひっくり返せるし、実際腕が立つ女性軍人もそれなりにいるのだが、体力そのものはやはり男性に軍配が上がる。

また、性格の面でも男性の方が軍事に向いているのだそうだ。

 

 

このような様々な理由により、貴族は一家の主である男性が外で仕事をし、家のことはその伴侶の女性が取り仕切るというのが一般的な形だ。

王家も基本的にその形を取っており、王座につくのはたいていが男…多くの場合は長男だ。

そのため、王家の特に男子は未来の王になるべく、幼い頃から城で過密気味の教育を受ける。

貴族の子供たちのほとんどが通う「魔術学院」に入学する年齢、つまり15歳になるまで、王子はあまり王城から出ないで育つのだ。

 

だが大人にばかり囲まれて育つというのは教育上あまりよろしくない、とされている。

過去はそれで年上の男性しか愛せないだとか、激しく人見知りでマザコンだとか、色々と問題のある王様が生まれたりもしたらしく、王子には5歳になったときに同年代の少年が従者として付けられるという決まりができた。

従者というか要するに遊び相手みたいなものだが、その子供は王城に住まう事になる。

一部の教育は王子と共に受ける(当然、授業を担当するのは国で一番の優秀な家庭教師だ)し、成長すれば王子の相談役や護衛も兼ねることになる。将来は高官への栄達が約束されている、貴族ならば誰もが子供を送りたがる栄誉ある役目だ。

 

その子供は、有力な貴族家の三男四男あたりから選ばれる事が多い。長男は家を継がなければいけないし、次男がいないと長男に何かあった時に困るので、三男くらいが丁度いいのだ。

年齢は王子よりも少し年上が望ましく、護衛もやる都合上高魔力所持者であることはほぼ必須条件となっている。

 

これらの条件に照らし合わせると、私…リナライトはぎりぎり条件内くらいだった。

この国では騎士系貴族と魔術師系貴族の間に微妙な溝があり、新参の魔術師系貴族である我が家から王子の従者を出すのは、現在の権力バランスから言うとあまり良くなかった。

なぜなら、当代の国王陛下はやや魔術師系貴族寄りの支持基盤を持っているからだ。

そこで更に魔術師系の家から従者を選べば、騎士系貴族から不満が出やすい。

そして私の年齢は王子と同い年だ。

当てはまっているのは三男という点と、それなりの高魔力所持者だったという点くらいだ。まあ貴族は高魔力所持者ばかりなので、最後は当てはまっていてもあまり意味がないのだが。

 

 

それでなぜ選ばれたのかと言うと、さまざまな偶然が重なった結果だった。

選ばれたことを知った時はとてもびっくりしたし、5歳にして家を離れ、城で暮らすのが不安でもあった。

やがて、殿下の従者になれたことを幸せだと感じるようになるのだけれど…。

 

 

ともかく。

リナーリアである私は、性別しか違わないにも関わらず、すでにリナライトとは全然違う人生を歩み始めていた。

王子の従者になれるのは男子だけなのだから当たり前だ。

私は殿下に出会うことなく育ち、そのまま10歳になってしまっている。

王女ならば女子が従者になるので、殿下も王女に生まれ変わっていればまだ機会があったかもしれないが…殿下は今世でも普通に王子だった。

まあ、王女になった殿下というのはあまり想像したくないので良かったのかも知れない。

 

…殿下を「あの女」の魔の手から守るためには、学院であの女が殿下へと近付くのをなんとか阻止しなければならない。

しかし向こうは新参のうちとは違う、由緒正しい侯爵家の令嬢…公爵家にも近いほどの権力を持つ相手だ。

従者という殿下に最も近い立場であった前世ならともかく、下っ端侯爵令嬢(面識1回・会話なし・第一印象最悪)でどう対抗すればいいのか…。

 

やはり、何とかして学院に入る前に第一印象を挽回し、ある程度親しくなっておきたい。

殿下はあまり社交的ではないが、誰にでも別け隔てのない優しい性格だ。特に、親しい相手には少々甘く素直なところがある。

予め仲良くなって信頼を得ておけば、あの女を遠ざけやすくなるはずだ。



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第4話 もう一度(前)

その機会が訪れたのは、殿下が屋敷を訪問してから一月ほど経ってからのことだった。

律儀な性格である殿下は、お父様が送った最初のお詫びの手紙にすぐに返事をくれた。

私も読ませてもらったが、気にしていない旨と、庭を楽しませてもらった礼が簡潔ながら丁寧に書かれていた。

なので、「娘が会ってお詫びをしたがっている」という手紙をまたすぐに送りたかったのだが、第一王子というのはそれなりに忙しく、そうホイホイ会える相手ではない。

それにあまり強引な近付き方をしたら、他の貴族からいらぬ疑念を抱かれる恐れもある。

それで結局、様子をうかがいながら時間が経ってしまったのだ。

 

知らせが来た時、私は家庭教師のザイベル先生から歴史の授業を受けているところだった。

王城から帰ってきたばかりらしいお父様が「殿下がお前に会って下さるそうだよ」と言った時、私は思わず「やった!!」と飛び上がってしまい、礼儀作法の教師でもあるザイベル先生にたしなめられた。

「殿下にお会いするならば、もっとお淑やかにしなければなりませんよ」と諭され、肩を落とす。

私にはリナライトの記憶もあるので精神年齢は20歳を超えていると思うのだが、感情は10歳の少女であるリナーリアの肉体に引きずられてしまうのか、つい子供っぽい行動を取ってしまう事が多い。

殿下に会った時あんなに泣いてしまったのもそのせいだと思う。こみ上げる感情に身体が勝手に反応してしまった。

リナライトが10歳の時はもっと落ち着いた大人びた子供だったはずだが、リナーリアは結構活発な少女だ。

性別の違いか、環境の違いもあるのか。とにかく、周囲からも感情豊かな少女と思われているようだ。

しかしふとした時にはリナライトの時のような言動をしてしまう事があり、私は言葉遣いを注意されるのがしばしばだった。

前世がどうだろうと今は侯爵令嬢なのだ、お父様方に迷惑を掛けないためにももっと女らしく振る舞わなければいけないのだが、なかなか上手くいかない。

 

気を取り直すと、私は「殿下の手紙を読ませていただいてもいいですか?」とお父様に尋ねた。が、お父様は首を横に振る。

てっきり手紙でお返事をもらったのだと思ったが、どうやら違うらしい。

「お城でたまたま会ってね。それでお前に会っていただけないか直接お願いしたら『明日なら大丈夫だ』と返答をいただいたんだ」

「明日!?」

私はびっくりして大声を上げそうになり、ザイベル先生の視線を感じてあわてて声のトーンを落とした。

「ずいぶん急ですね…」

「実は殿下もお前のことを気にしていたみたいでね。そういうことなら、すぐに会おうと言ってくださったんだよ」

「殿下…!」

さすが優しい…!

思わず感動する私に、お父様が微笑ましげな顔になる。

 

「ザイベル先生、そういう訳だから、申し訳ないけれど授業はまた今度にしてくれ。リナーリア、ベルチェに報告しておいで」

お父様にそう言われ、先生の方を見ると、先生は眼鏡の奥の目を細めてにっこりと笑った。

「良かったですね、リナーリアさん。さ、早く奥様のもとに」

「はい!ありがとうございます!」

私は元気に答えると、走り出…そうとして何とかこらえ、お淑やかにドアを開けて部屋から出ていった。



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第5話 もう一度(後)

翌日の午後、私はお母様と共に王城へとやって来ていた。

身に着けているのは先日作ったばかりの空色のドレスだ。お母様と使用人たちが気合を入れておめかしをしてくれたので、支度にはずいぶん時間がかかってしまった。

お父様が共に来ていないのは、「これは侯爵ではなく娘によるあくまで私的な訪問ですよ」という事を示すポーズだ。

本当はお母様にも屋敷で待っていてもらいたかったが、私は今世ではこれが城への初訪問だ。まだ10歳の私が使用人だけを連れて初訪問は常識的にありえないので仕方がない。

 

衛兵に身分を名乗り、迎えに来た女官に軽くチェックなどを受けた後、案内されて城内を歩く。

久々に歩く城の廊下は、記憶よりもずいぶんと広く大きく感じた。前世に比べて私の身長が縮んでいるからだろう。

やがて通されたのは、王子が私的な面会の時によく使う小さめの応接室だった。小さめと言っても王族レベルでの小さめなので、うちの屋敷の応接間くらいはあるのだが。

リナライトもここに来る機会は多かったので、懐かしくてついキョロキョロとしてしまい、お茶を淹れている女官に微笑ましそうな目で見られた。物珍しさだと思ったのだろう。恥ずかしい。

 

お茶を飲みながらしばし待っていると、応接室の扉がノックされ、殿下が姿を表した。

「ごきげんよう、殿下。本日はお招きいただきありがとうございます」

「ごきげんようございます、殿下」

美しいカーテシーで挨拶をするお母様の横で、私もドレスをつまみカーテシーをする。いつ殿下にお会いしてもいいようしっかり練習しておいたので、きれいな姿勢になっているはずだ。

「ああ。一月ぶりだな」

記憶の中と変わらない無表情でうなずいた殿下に再び懐かしさがこみ上げてくるが、泣くのは絶対に我慢だ。

私はぐっと気を引き締めると、殿下と向かいあわせのソファに座り…殿下の斜め後ろに立つ少年に視線を吸い込まれた。

私よりもいくつか年上の、後ろで一つに結んだ鮮やかな赤毛が印象的な背の高い少年。その髪色や面立ちには、見覚えがある。

私の視線に気づいたのだろう、王子が少年を紹介してくれた。

「彼は僕の従者、スピネルだ」

 

名前を聞いて思い出した。

彼はスピネル、ブーランジェ公爵家の四男のはずだ。

武闘派で有名な家の末子で、剣の腕が立つ。学院では2つ上の学年だったのでそれほど親しくはなかった。有能ではあるものの、どうにも軽薄な印象がある男だったと記憶している。

 

私は思わず呆然としてしまっていた。

リナライトはいないのだから、別の者が王子の従者になっているのは当然だ。だけど、なぜか今の今までその事が頭からすっぽ抜けていた。

殿下の後ろに立っているのが私ではないという事実に、私は自分でも驚くほどに衝撃を受けていた。

 

「スピネル・ブーランジェです」と頭を下げたスピネルは、私が凝視しているのを見て怪訝な顔になった。

「何か?」

「あっ…!い、いえ!何でもありません」

慌てて笑顔を取り繕う。衝撃を受けている場合じゃない、今日は殿下に会いに来たのだ。

 

「先日は大変失礼をいたしました。改めて、お詫び申し上げます」

すっと頭を下げた私に、殿下が小さくうなずく。

「ああ。君の父上からも丁寧な手紙をもらった。別に気にしなくていい」

「ありがとうございます!」

殿下から直接に許す言葉をもらい、私はほっと安心した。横から見ていたお母様が、うふふと笑いながら口を挟む。

「本当に申し訳ありません、殿下。この子ったら、殿下にお会いできたのが嬉しくて泣いてしまったらしいのです」

「…そうなのか?」

殿下は怪訝そうだ。どう見ても嬉し泣きというレベルの泣き方じゃなかったからだろう。

だがもうその設定で行くことは決まっているため、私は真っ赤になりながらもその通りだとうなずく。

ぐっ…恥ずかしい…!!

「…まあ、それならいい」

優しい殿下は疑問を口に出さずに流してくれた。とても有難い。

 

その後、いくつかの世間話をした。話題を提供してくれたのは主にお母様だ。

しかし殿下はどちらかと言うと無口な方だし、従者であるスピネルは基本的にあまり口を出さない。そして私は、簡単な受け答えや相槌を打つだけで精一杯で…

結果として、どう見ても話が盛り上がっているとは言い難い状況になっていた。

 

おかしい!こんなはずでは…!!

内心で頭を抱える。

リナライトの時は、よく殿下と他愛もない話をした。無口な殿下も、親しい者に対してはそれなりに喋るのだ。

だから今も何か適当に話せるような気になっていたが、よく考えたら今の私は殿下とはほぼ初対面に近い。

なんとか共通の話題がないだろうかと記憶を探ってみたが、思い出せたのはいつ聞いたかわからない城内の噂話とか小さい時の思い出話とかで、それは今のリナーリアが知っているはずもない話なのだ。口にする訳にはいかない。

 

自然と会話が止まり、何となく気まずい沈黙が落ちる。

どうすれば…。

せっかく殿下に会えたのに、このままでは何もできずに帰ることになってしまう。

 

「…あの。良かったら、城の裏庭を見ていかれませんか。今は薔薇が見頃なので」

その様子を見かねたのか、助け舟を出してくれたのはスピネルだった。

ぱっと顔を上げた私に、スピネルがぱちりとウィンクを寄越す。やはり軽薄な男だが、しかし今は神々しいほどに有り難い。

「ぜ、ぜひ見せていただきたいです…!」

ぐっと拳を握ってそう言うと、殿下は「わかった」とまた小さくうなずいた。

 

 

裏庭の薔薇園は、スピネルの言葉通りまさに今が見頃だった。よく手入れのされた薔薇たちが、色とりどりに美しく咲き誇っている。

ひどく懐かしくなり、私は庭を見回した。植物はわりと好きだったので、昔も休憩の時など、たびたびここに足を運んでいたのだ。

感激して薔薇を見つめる私に、殿下がわずかに目を細める。

あれは微笑ましく思ってる時の顔だ…。ちょっと恥ずかしい。

お母様も元気を取り戻した私に安心したらしい。

「わたくしはあちらを回っていますね」と私達とは違うコースを歩いていった。気を利かせて子供たちだけにしてくれたのだろう。

それから、殿下とスピネルと3人で薔薇を見て回った。

初めはスピネルが薔薇の名前などを教えてくれようとしたが、残念ながら私の方が詳しかった。何せこの薔薇園には15年も通ったのだ、たかだか5年しか住んでいない少年よりも私の方がよく知っている。

 

しかしここでも問題が持ち上がった。殿下がほとんど話に参加しないのである。

もちろん相槌は打ってくれるのだが、それだけだ。そう言えば前世でもそれほど薔薇の話で盛り上がった記憶はない。

やがて薔薇園の終わりが見えてきて、私は焦った。

ここを出たら今度こそ帰ることになるだろう。まずい。先程よりは打ち解けていると思うが、収穫らしい収穫は何も得ていない。

 

そう考えている間にも、出口はどんどん近付いてくる。

…だめだ。

あまりにも貴族令嬢らしくない話題なので避けていたが、やはりあの手で行くしかない…!

 

「あ…あのっ!ミナミアカシアガエルの卵…!」

 

前を歩いていた殿下の足がぴたりと止まった。

びっくりした顔でこちらを振り返る。私は勢いのまま言葉を続けた。

「ミナミアカシアガエルの卵、ご覧になりませんでしたか。屋敷の庭で」

「…君も見たのか?」

ああ、やっぱり。殿下なら、あの卵を絶対に見つけていると思ったのだ。

「はい。池の南側の草の葉の陰にありましたよね」

「ああ、あった」

殿下が大きくうなずく。明らかに、今日イチ食いついている。

「どうなった?」

「殿下が訪問されてから2日後に孵化いたしました」

「子供を背負っているのは見たか?」

「はい。とても可愛かったです」

「くっ…!」

殿下は口惜しそうに呻いた。よほど見たかったのだろう。

 

「あの葉っぱについていた卵ですか?カエルが、子供を背負ったりするんですか?」

スピネルが不思議そうに尋ねる。そう言えば彼は従者なので、あの訪問のときも殿下について来ていたのだろう。私は全く覚えていないが…。

殿下はスピネルの問いに「そうなんだ」とだけ簡潔に答えたので、私は少し補足を加える。

「ミナミアカシアガエルはジャローシス領の固有種で、生まれたオタマジャクシを背負い、樹上に作った巣へ運ぶという大変珍しい生態を持っているんです」

「へえ…。巣を作るなんて、まるで鳥みたいなことをするんだな。変わってる」

「そうだ。しかも、餌になるのは親の生んだ卵だ」

常になく興奮した様子(顔自体はいつもの無表情とあまり変わらないのだが)で言う殿下。

「卵?共食いするんですか!?」

ドン引きしたスピネルに、殿下は首を横に振る。

「違う。無精卵だから共食いじゃない」

「エッグフィーダーと言うんです。樹上へ餌を運ぶのは大変なので、子に栄養を与えるために親が与えるものなのですが、無精卵なので仮に食べなかったとしてもそこからオタマジャクシが生まれてくる事はありません」

再び補足する私。

そうそう、とうなずいた殿下は、感心した様子で私を見た。

「君はずいぶん詳しいんだな」

「えっと、生き物には興味がありまして…。我が領は固有種が多いので、その生き物には特に」

笑って誤魔化す。本当は前世で殿下から聞いた話や、図鑑の説明の受け売りなのだが。

私の返答に、殿下はちょっぴり嬉しそうな顔をした。おそらく同好の士を見つけたと思っているのだろう。

前世でも殿下のカエル趣味はあまり理解されず、せいぜい私くらいしか話し相手はいなかった。

私は元々特にカエル好きだった訳ではないが、殿下に付き合ううちに愛着が湧いたりもしたので、カエルの知識は豊富に持っている。

 

「良かったら、またあの庭を見に行ってもいいだろうか」

巣の中のオタマジャクシを見てみたいのだろう、そう尋ねてきた殿下に私は「はい、もちろん」と笑顔で答えた。

 

帰りの馬車の中では、話が盛り上がっているのを離れたところから見ていたらしいお母様に根掘り葉掘り訊かれた。

殿下はカエル好きを隠したがっているはずだが、お母様に嘘をつくのも申し訳ないので「領の生き物の話です」と遠回しな言い方をすると「殿下は本当に生き物好きでいらっしゃるのねえ」とうんうんうなずいていた。まあこのくらいなら問題はないだろう。



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第6話 友情※

王城に行ってから2週間後、殿下はスピネルと護衛を連れて再びジャローシス侯爵屋敷を訪れた。

殿下とスピネルと3人で庭を歩き、カエルや虫、周りの植物などを眺める。

 

「こちらはマツカサアヤメといいます。名前の通り、松笠みたいな形の花でしょう?冬には花を落としますが、領内だと特に暖かい場所に限って一年中咲く場合もあります」

「ほう」

「変わった形だが、一年中咲くというのはいいな。女性に喜ばれそうだ」

スピネルらしい感想だ。まだ12歳だろうにこいつ…。

「こっちはコガネランソウですね。切り傷や裂傷によいので、騎士には薬草として重宝されています。私も修行の際にはお世話になりました」

「修行?剣の修行をしているのか?」

殿下がきょとんとしてこちらを見た。

しまった!うっかり前世の話をしてしまった。

騎士の家系ならば剣術をやる貴族令嬢はたまにいるが、我が家ははっきりと魔術師系だ。

実際リナーリアは、兄たちに子供用のおもちゃみたいな剣で少々遊んでもらった程度しか剣を持ったことはない。

「いえその…遊びのようなものです」

笑って誤魔化す。お父様やお母様が聞いてなくて良かった。突っ込まれたら困る。

 

「魔術が苦手なのか?」

そうスピネルが尋ねてきたのは、魔術が苦手な場合は護身のために剣術を習わせることもあるからだろう。だが私は「いいえ」と首を振る。

両親譲りの高魔力があることは家庭教師である魔術の先生から認められているし、前世でも私は魔術が得意だった。

剣術はせいぜい人並み程度の腕前だが、魔術なら王宮魔術師ともいい勝負ができる自信があった。…まあ、それでも殿下のことを守れなかったのだが…。

リナライトの知識と経験があるので、今の10歳の私でもすでに一人前の魔術師として認められるくらいの魔術は使えると思う。いつ何があってもいいように、隠れてこっそり修練を積んでもいる。

年齢を考慮し、家庭教師からの魔術の授業の際にはだいぶ手加減しているが、それでも先生からは急激な成長を驚かれてしまった。

 

「ジャローシス侯爵家は水の魔術が得意なんだったな」

「はい。幸い、私もその才能を受け継いだようです。母も水魔術が得意なピアース家の出身ですし」

高魔力者同士なら高い確率で高魔力の子供が生まれる。貴族が貴族同士でしか結婚したがらないのはこれが最も大きな理由だ。

魔獣の多いこの国では、魔力の有無は生死に直結する。

「兄二人も、優れた魔術の才能があると家庭教師から太鼓判をいただいています」

「なるほど。ならばジャローシス侯爵家は安泰だな」

その時、庭先にお母様の姿が見えた。きっとお茶に誘いに来たのだろう。

「お二人共、そろそろ休憩しませんか。お茶にいたしましょう」

 

 

思った通り、テラスにはすでにお茶の用意がされていた。お茶うけは数種類のクッキーだ。

殿下の好物はドライフルーツの入ったケーキだが、それが知られているせいでどこに行ってもフルーツケーキを出されることが多い。

我が家も前回の訪問ではフルーツケーキを出したそうだが、「今回は違うお菓子の方が良い。バターたっぷりのクッキーとか」と私が言ったので、今日は料理人が朝から焼いて用意してくれた。

思った通り、殿下はバタークッキーをよく食べている。バターをふんだんに使ったシンプルなクッキーも、実は結構好きなのである。

ちなみにスピネルはそれほど甘いものが好きではないのか、甘さ控えめなチーズクッキーを少しだけつまんでいたが、まあどうでもいい。

 

お母様も交えて、お茶を飲みながら4人でしばし雑談をした。

殿下はカエル以外の事に関しては言葉少なになりがちなので、どちらかと言うとスピネルやお母様の方と話す形になっていたが、それでもだいぶ打ち解けられたんじゃないかと思う。

 

 

 

帰り際、殿下は少しだけ二人で話をしたいと言い、私を伴ってまた庭に出た。

二人と言っても少し離れたところにはスピネルや護衛が控えているのだが。

草木の生い茂る池を眺めながら、殿下は言った。

「今日はありがとう。どうやら父君より君の方が生き物には詳しいようだな。とても楽しかった」

「それは良かったです。私も、とても楽しかったです」

そう笑うと、殿下はこちらを振り返った。

懐かしい翠の瞳が、傾きかけた太陽に照らされながらじっと私を見つめる。

 

「今日、君は僕とスピネル以外の前ではカエルの話をしなかったな」

「…はい。殿下は、ご趣味のことをあまり周囲に知られたくなさそうだったので」

殿下はごく小さく苦笑すると、ちらりと池の方を見る。

「あまり理解されないんだ。これは」

私は無言でうなずいた。

カエルに興味を持つ人というのは滅多にいない。女性など、気持ち悪がって近付かない人も多い。前世でも私が出会った時にはすでに、殿下はこの趣味を隠そうとしていたように思う。

 

「…良かったら、これからも時々話し相手になってくれないか?」

私は少し驚いた。

打ち解けられたとは感じていたが、これほど真っ直ぐに友誼を求められるとは思わなかったのだ。

前世の記憶をひっくり返してみても、殿下が誰かにこのような申し出をしていたことはほとんどなかったはずだ。

 

じわじわと、純粋な嬉しさが胸に広がる。

殿下は生まれ変わっても、私が女になっていても、こうして友人になってくださるのだ。

カエルという共通の話題を利用してのことではあるのだが、前世でも仲良くなったきっかけはカエルだった。

懐かしいその記憶を思い出し、私はたまらずにいっぱいの笑顔を浮かべる。

「…はい!喜んで…!」

私があまりに嬉しそうだからか、つられて殿下も笑顔になった。いつも無表情なのでなかなかレアである。

「ありがとう、リナーリア。…だけど、僕は頻繁に城を出る訳には行かないんだ。すまないが、時々城に来てくれると嬉しい」

 

殿下は、基本ずっと城にいる。

実際には王都内に限りまあまあ外出もできるしするのだが、第一王子ともあろう者が一つの貴族の屋敷に通い続けるというのはまずい。

私は殿下を守るためできるだけ殿下に近しい友人になりたいだけなのだが、殿下の周囲はそうは見ない。

ジャローシス侯爵は娘を使って王子に取り入ろうとしている、そう解釈する者がほとんどだろう。

もしそうなったら、お父様を排斥しようとする者、あるいは自分の派閥に取り入れようとする者などがどんどん出てくる事は想像に難くない。

お父様もお母様も、野心からは遠い方だ。お祖父様あたりはどうか分からないが、家族に迷惑を掛ける訳にはいかない。

私がたびたび城に行くと言うのもそれはそれで人目につくだろうし、いずれは噂になるかもしれないが、お父様やお母様を連れずに私だけで行けばそれほど問題にならないだろう。なんと言ってもまだ10歳の子供なのだ。

だから私は「承知いたしました」と答えたのだが。

 

「あっ…でも私、再来月には領に戻らなければならないのです」

その頃には夏が終わり、秋が来る。それは社交シーズンの終わりを意味していて、一部の者を除きたいていの貴族は領地に戻る。

「ああ…そうか」

殿下は残念そうな表情になった。領地に戻れば、およそ半年は王都には来られない。

お父様は冠婚葬祭など何かの行事の折には来ることもあるが、10歳の娘がそれについていくという事はあまりない。

「大丈夫です。手紙を書きます。領地で観察したカエルのことも、たくさん書きます」

「本当か」

殿下の顔が明るくなる。

「約束です」

私は笑って、右手の小指を持ち上げた。

少しだけ照れくさそうな顔で、殿下はそこに自分の小指を絡めた。

 

 

【挿絵表示】

 



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挿話・1 失われた出会い【前世】

その日、4歳のリナライトは父と母に連れられ城へとやって来ていた。第一王子の従者を決めるため、王子との面会に来たのである。

王子は来年5歳になるので、同年代の貴族の子供たちから従者を選ばなければいけない。リナライトは従者となるためのいくつかの条件を満たしていたので、城から従者に立候補するかどうか問う旨の通達が届いていた。

ブーランジェ公爵家の四男など、他に有力な候補がたくさんいるとは言え、チャンスはチャンス。

父はリナライトに「名誉あるお役目だ。もし選ばれたらすごいことだよ」と言い、リナライトもそれにうなずいた。

 

従者の選定は、王子、王子の教育係、その他周辺の者数名にて行われる。

まず大人たちによる面接。それから文字の書き取りやごく簡単な足し算などのテスト。これは既に先日済ませてある。ここである程度人数を絞った上で、候補者の親である貴族についての身辺調査が行われ、問題なければ王子や王妃との面会が組まれる。

そこでの印象を加味して、ようやく従者が選ばれるのだ。

第一王子は順当に行けば将来の国王なのだから、その友人であり相談役となるべき従者というのは本当に重要な立場だ。選定は慎重に行われた。

 

候補者の面会は、おおむね身分の順に行われる。リナライトは後の方だ。

しかし何やら、言われていた予定時間よりもだいぶ遅れている。

どこぞの子息が王子に自分を売り込もうとずいぶんと粘ったのだと、そう囁く声が漏れ聞こえてきた所で、案内係の者がやって来て「申し訳ありません。少し時間がかかっているので、一時間ほど休憩を挟みます」と言った。

 

休憩の間、リナライトは母と共に城の中を散歩することにした。座りっぱなしで疲れていたからだ。

父は旧知の貴族と話し込んでいる。

中庭に出たところで、母も親しいご婦人の姿を見つけた。たちまち話し込み始め、リナライトは手持ち無沙汰になる。

「母上。すこしまわりをみてきてもいいですか」

母は少し考え、「あまり遠くへ行ってはいけませんよ。庭の中にいるんですよ」と言って了承を出した。

リナライトは幼いが利発で素直な子供だ。それにやや人見知りでもあるので、あまり自分から離れることもないだろうと思ったのだ。

 

しかし、初めて来る王城はリナライトにとってとても好奇心の沸き立つ場所だった。

ジャローシス侯爵家の屋敷にいる者より、ずっと立派な鎧の衛兵。魔術師のローブを纏った老人。不思議な彫刻。動物の形に整えられた植え込み。

庭をとことこと歩いたリナライトは、そのまま建物の裏に回り込んだ。そこは母の言った「庭の中」からは外れていたが、彼は地続きである場所は庭のうちだと思っていたのである。

角を曲がり、壁に沿ってどんどんと歩いていくと、少し離れたところに木に囲まれた小さな池があるのが見えた。何となく興味を引かれ、池の畔へと近付く。

あまり見たことがない木だったので、歩きながら見上げようとした瞬間。

 

「ふむな!」

 

突然の声に、リナライトはびっくりして足元を見た。ぴょこん、と濃い緑色のカエルが跳ねる。

「わ、ごめん!だいじょうぶ?」

少し慌てるリナライトを置いて、カエルはぴょんぴょんと跳ねると池の中にぽちゃんと飛び込んだ。

泳ぎ去るカエルを見送った後、リナライトはきょろきょろ周りを見回した。すると、木陰に一人の少年がしゃがみこんでいるのを見つける。

リナライトと同じ年頃の、淡い色の金髪をした少年だ。

「ありがとう。きみのおかげで、ふまなかったよ」

「…べつに」

少年は無表情のまま、池の方へと向き直る。

その目は泳ぐカエルの姿をじっと追っている。踏むなと叫んだことと言い、きっとカエルが好きなのだろう。

「きみはカエルを助けたかっただけなんだろう?でもぼくも、あのカエルをきずつけなくてすんでよかった。…だからありがとう」

リナライトがそう言うと、金髪の少年はリナライトを見てぱちぱちとまばたきをした。

 

「……。クロツメアマガエル」

「それがあのカエルのなまえ?」

少年はこくりとうなずいた。

「かえったらずかんでしらべてみるよ」

リナライトは本好きだった。

幼いながらも優秀なところを見せていたリナライトのため、父である侯爵はやや高い図鑑なども買い与えてくれていた。動物図鑑もあったので、きっとカエルも載っているだろう。

少年は再びうなずいた。無表情のままだが、どこか嬉しそうに見える。

その時、遠くからリナライトを呼ぶ声が聴こえた。近くにいないことに気付いた母が探しているらしい。

「ごめん、ぼくもういかなきゃ!またね!」

手を振って駆け出したリナライトに、少年もまた手を振り返す。

 

母の声がする方へと駆けながら、リナライトは少年の名前を聞き忘れた事に気が付いた。

なんとなく友だちになれそうな気がしたのに、と少し残念に思う。

普段は人に話しかけるのが苦手な方なのだが、あの少年には不思議と抵抗を感じなかったからだ。

「…また会えたらいいな」

わずか1時間ほどの後に再会し、彼の名前を知ることになるとは、この時全く想像もしていなかった。



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挿話・2 手紙

最近、スピネルの主である第一王子エスメラルドには一人の友人ができた。

出会ったのはつい数ヶ月前だが、既に何度か王城に通ってきている。今は領地に帰ってしまっているが。

ジャローシス侯爵家の令嬢であるその少女は、見た目は儚げでまるで人形のように整った顔をしているのに、中身ときたらとても風変わりでちぐはぐだ。

 

くるくると変わるその表情は年相応に子供っぽいのに、その知識は広く植物や生き物に詳しい。

普段は丁寧なのに、時折男のような言葉遣いが飛び出す。

魔術師の家系の令嬢で才能もありそうなのに、剣術をたしなんでいるというのも謎だ。

初対面では王子の顔を見ただけで大声で泣き出したのに、城での他の大人たちへの振る舞いはたいそう礼儀正しく、落ち着いた物腰のご令嬢だと評判である。

おかげで貴族の間で彼女は「初めて王子に会った時、感激のあまり思わずぽろりと涙をこぼした純真な令嬢」という事になっている。

実際にはぽろりどころかバケツで汲み取れそうなくらいだったのだが。

 

何よりも変わっているのは、王子と同じでカエル好きであるという点だ。

本人は「領の固有種に興味がある」と言っていたが、それ以外のカエルについても造詣が深いのは王子との会話を聞いていれば伝わってくる。スピネルは大して興味がないので会話の内容はさっぱり分からないが。

 

正直、初めは王子に取り入るためにカエル好きの振りをしているのではないか?とも疑った。

王子は表向き「自然や生き物が好き」という事になっていて、カエル好きはあまり周知されていないが、調べようと思えば調べられる事だろう。

スピネルの知る限り貴族の女性とは、蜘蛛を見かければ悲鳴をあげ、ミミズが横切れば青ざめてよろめいてしまう、そんな生き物だ。

カエルが好きなどありえない。

しかし実際彼女と共に庭を歩いてみれば、虫もカエルも平気な顔で、王子にも負けずあれこれと薀蓄を垂れている。一朝一夕にできることではない。

 

そんな訳で、スピネルは彼女についてこう結論を出した。

ものすごく変な令嬢。

 

だが、どれほど変わっていても彼女自身は善良な少女のようだ。素直で、真面目な様子が見て取れる。王子におかしな色目を使ったりもしない。

むしろ意識してなさすぎる気もするが、彼女はまだ10歳なので異性を意識していなくても別に不思議ではない。

侯爵令嬢としてはどうかと思うが、少々ぼんやりした所のある王子にはそのくらいの方が良いのかも知れない。

いずれは男女としてお互いを意識する日が来るだろうが、今はまだ、ただの友人として付き合っていてもいいはずだ。

 

 

 

その王子殿下は、自室の机に向かってじっと何かを読んでいた。手元を覗くと、淡い青色に染められた便箋が目に入る。

あの変な令嬢が領から送ってきたものだろう。

「それがリナーリア嬢からの手紙か。俺にも読ませろよ」

二人だけの時は、スピネルは王子に対してあまり敬語を使わない。従者とは言え友人でもあるのだから、その方が良いだろうと思ったのだ。単純に面倒くさいのもあるが。

手紙に手を伸ばそうとしたスピネルを、王子はやや慌てながら「断る」と遮った。

その珍しい反応に、スピネルは面白がるような表情になる。

「いいだろ、減るもんじゃないし」

王子はまだ子供なので、手紙は一旦教育係の者が目を通してから渡しているはずだ。

もう一人見る人間が増えた所でどうという事はないだろうと思ったのだが、王子はそうは思っていないらしい。

さらに覗き込もうとするスピネルが鬱陶しかったのだろう、王子は「こっちならいい」と言って一番下の紙を差し出した。

スケッチブックを破いたとおぼしきその紙には、カエルについて説明しているらしい短い文章と、謎の歪んだ物体が描かれている。

 

「なんだこりゃ。潰れたパンか?」

「違う。丸まったカエルだ」

「…これが?」

どう見てもカエルには見えない。潰れたパンだ。

添えられた文字はいかにも几帳面そうに整っているので、余計にギャップがすごい。

「可愛いだろ」

「いやいやいや。わからん。絵が下手すぎるだろう」

「そうだな。でも可愛い」

「………」

スピネルは思いっきり呆れた顔になった。

自分にはお世辞にも可愛い絵だとは思えないが、カエル好きには分かる何かがあるのか。それとも。

王子は再び机に向き合うと、手紙に目を落とした。

 

「…ま、いいや」

スピネルは机の上に潰れたパンの絵を戻すと、「また後で」と言って王子の部屋から出ていった。



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第7話 ダンスレッスン(前)

「いたた…」

立ち上がった途端に太ももに痛みが走り、思わずよろめく。

「大丈夫か、リナーリア」

咄嗟に私の肩を支えたのは殿下だ。今まで、一緒に城の池に棲むカエルの観察をしていた。

「さっきから動きがおかしいが、どこか痛めているのか」

「いえ、ただの筋肉痛です。実は昨日はダンスのレッスンで、全身がバキバキに」

「…バキバキに」

何とも言えない顔で繰り返す殿下。

「お前はもう少し色気のある言い方はできないのか…」

いかにも呆れた様子で言うのはスピネルだ。

「余計なお世話です」と私はぷいと横を向いた。

こいつは最近よくこういう「女らしくしろ」という内容のことを言う。理由は簡単だ。

私達が、今年12になったからである。

 

貴族の子女はおおむね3つの段階を経て大人の仲間入りをする。

11歳までは子供時代だ。学問、魔術、剣術など、ある程度の基礎を学ぶ。

12歳からは一歩大人に近付いたとしてより本格的に学び出し、礼儀作法や社交術などにも力を入れる。

15歳で魔術学院に入学して協調性を学び、人脈を作る。結婚相手もほぼこの時期に探す。

そして18歳で卒業すると、いよいよ大人の仲間入りをすることになる。

嫡男なら後を継ぐための本格的な勉強をする。その他は男なら就職するのがほとんどだ。女子ならば結婚に向けて準備を始める。

 

要するに、もう12歳になったのだから子供は卒業して女らしくしろとスピネルは言いたいのだろう。

色気がないよりはあった方がいい事くらいは分かっているし、もっと貴族令嬢らしくするべきだと頭では理解しているのだが、もともと男であった身としては「女らしさ」というものにどうしても抵抗があってなかなか上手くいかない。

あと、よりによってスピネルに言われるというのが面白くない。

 

「しかし、今からそんなに厳しいレッスンをやっているのか?舞踏会に出る予定でも?」

「いえ…そういう訳ではないのですが…」

特別に誘われでもしない限り、大抵の子供は15歳が舞踏会デビューだ。私もそうするつもりでいるのだが…。

「大方、あまりに下手すぎて追加レッスンでもさせられたんだろう」

「ぐっ」

痛いところを突かれ呻く私。

「おいおい、当たりかよ。まあお前どん臭そうだしなあ」

「どん臭くなどない!…です」

 

思わず男言葉が出てしまい、慌てて付け足したがもう遅かった。

「またか」とわざとらしく言ってくるスピネルに、私は怒りをこらえる。

前世の記憶が戻ったばかりの頃はともかく、最近では男言葉が出ることも少なくなったのだが、スピネルと話していると時々出てしまうのだ。

スピネルは普段はちゃんと丁寧な言葉遣いをしているのだが、殿下や私だけの時は乱雑な口調で話したりする。どうもそれにつられてしまうようなのだが、スピネルは絶対にそれを聞き逃さない。ニヤニヤとからかって来ることも多い。

なんて性格の悪い男だ。どうしてこんな奴が殿下の従者を…。

見た目も立ち居振る舞いも、人目がある場所では完璧なのでたちが悪い。

殿下も影響を受けたのかいつの間にか一人称が「僕」から「俺」になってるようだし。前世では15になったくらいの時に変えていたと思うのだが。

ちなみに私もその頃に「僕」から「私」に変えたのだが、今思えば「俺」にしなくて本当に良かった。言葉遣いが混乱しても、一人称だけは間違えなくて済むからだ。

語尾が男言葉になるくらいならまだともかく、一人称が「俺」になってしまう貴族令嬢など大惨事すぎる。

 

「リナーリアはダンスが苦手なのか」

そう尋ねたのは殿下だ。

「基礎はできてますし…まあ、得意ではないですが…」

確かに苦手だが問題はそこにはないので、つい言葉を濁してしまう。

ところが、スピネルがとんでもない事を言い出した。

「そうだ。殿下が練習相手になってやったらいい」

「え!そんな、恐れ多いです!」

私は慌てて否定する。ただでさえダンスの先生には迷惑をかけっぱなしなのだ、まさか殿下にまで迷惑をかけられない。

「別に構わないが、相手をするのはスピネルの方が良いんじゃないか?お前はダンスが得意だろう」

「俺はこいつに足を踏まれて怒らないでいられる自信がない。殿下の方が適任だ」

「なるほど」

「で、でも、恥ずかしい所をお見せしてしまうかと…」

何とか辞退しようとする私に、殿下が優しく笑う。

「俺もダンスを初めたのはつい最近だ。あまり上手くはない」

「いえ、間違いなくご迷惑になります。その自信があります」

「…そんなにか?」

「そんなにです…」

 

一瞬気まずい沈黙が落ちかけるが、殿下は鷹揚にうなずいた。

「大丈夫だ。そのくらいの方が練習になる」

殿下はなぜかやる気に満ちた様子でそう言った。

…まあ、確かに私ほどに下手な人間と踊れたなら、相手が誰でも上手くいくだろうが…。

「殿下がこう言ってんだ、甘えとけ」

もはや断れる雰囲気ではなかった。私はおずおずと頭を下げる。

「…で、では、お願いします」



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第8話 ダンスレッスン(後)※

王城は広いので、ダンスの練習に使える部屋などいくらでもある。

がらんとした部屋の真ん中で、私は殿下と向かい合った。殿下が手を差し伸べてくる。

「よろしくお願いします」

ドレスをつまんで頭を下げ、その手を取った。お互いに寄り添い、いつでも動き出せる姿勢になる。

「ホールドの姿勢は問題ないな」

横から眺めながらスピネルが言う。そして、ダンスの練習が始まった。

 

音楽などはないので、スピネルが声をかけながら手拍子を取った。

「ワン、ツー、スリー…」

初めはそれなりに上手く行っていた。

所々ぎこちなさはあるが、ステップも姿勢もちゃんとしていたと思う。リズムにも乗れている。

だが、途中からだんだんとおかしくなっていった。止まりかけたり、ステップを間違えたり、身体のあちこちに変な力が入っているのが自分でも分かる。

もうすでに何度か殿下の足を踏んでおり、そのたびに動揺してしまい加速度的におかしくなっていく。

 

「ストップ!」

あまりの惨状を見かねたらしく、途中でスピネルが止めた。

私は申し訳無く殿下の顔を見上げる。

「すみません殿下…。踏んだ所、痛くありませんか」

「大丈夫だ。君は軽いから全く痛くない」

殿下は平気な顔だ。なかなか派手に踏んでしまったのだが。

ほとんど顔に出さない方なので、我慢していてもわかりにくい。

 

傍らで頭を抱えたのはスピネルだ。

「これは重症だな…。最初は普通だったのに、なんでそうなる」

「頑張ろうとすればするほどおかしくなるんですよね…」

「なんでだよ」

「……」

原因は自分でも分かっているのだ。でも、説明できない。

 

「もう少し続けよう」

そう言ったのは殿下だった。再び私に向かって手を差し伸べる。あんなに足を踏んだのに。

「…よし。次は俺が気になる所を指摘していくから、ダンスそのものは止めずに、踊りながら修正していけ」

「はい!」

せっかくの練習の機会なのだ。付き合ってくれている二人のためにも、もっとまともに踊らなければ。私は真剣にうなずいた。

 

 

「…ストップ。やっと分かった気がする」

頭痛をこらえるような仕草をしながら、スピネルは再びダンスを止めた。

私はホッとして、乱れた息をつく。ずっと踊っているのでずいぶん息が上がってしまった。殿下はまだ平気そうだが…。

「原因が分かったのか?」

「ああ」

…え、原因が分かった?

「殿下、ちょっと俺と代わってくれ。確かめたい事がある」

今度はスピネルが私の練習相手になるらしい。だ、大丈夫だろうか。正直嫌な予感がする。

「リナーリア、大丈夫か?だいぶ疲れているだろう」

「が…頑張ります!」

殿下に心配そうに言われ、私は気合を入れ直した。

このまま何の成果も出せないのは私も嫌だ。この程度でへばっていられるものか。

 

「よし。今日はこれで最後にするから頑張れ」

そう言って目の前に立ったスピネルとホールドを組もうとし、私は戸惑った。スピネルの体勢、これはどう見ても…。

「あの、スピネル?」

「お前は男役だ。俺が女をやる。身長差は逆だが、適当に合わせてやるから」

「あ…、はい…」

スピネルの目は据わっている。

とても逆らえる気がせず、私はおずおずと男性側の姿勢を取った。スピネルは女性側の姿勢だ。

「あの、できるんですか?」

「女のステップなんてふざけてやった程度しか踏んだことはないけどな、まあ何とかなるだろ。殿下、手拍子を頼む」

「ああ」

…そして、ダンスを始めたのだが。

 

 

「…なんっで男側のダンス覚えてるんだよ!!お前は!!!!」

およそ一曲分ほど踊った所で、スピネルが絶叫した。

「なんだ、踊れるんじゃないか、リナーリア」

「いやいやいや踊れてねえよ!男側のが踊れたってだめなんだよ!というか下手に男側のステップ覚えてるせいでおかしな癖がついてちゃんと踊れてないんだよ、こいつは!!」

「も、申し訳ありません…」

そうなのだ。私は、男側のダンスを踊れる。前世でリナライトとして男のダンスを覚えていたからだ。

しかし、そのせいで踊ろうとする時に姿勢やらステップやらについ男の癖が出てしまい、あちこちおかしくなってしまうのである。

前世の私はダンスが苦手で、克服するためにかなり苦労して完璧に覚えたのだが、今はそれが裏目に出てしまっていた。

 

「何でこんな事になってるんだよ…。きちんとした先生に習ってなかったのか?」

「いえ、小さい頃に基礎を習った時は普通に踊れてたと思うんですが、気が付いた時には何故かこうなってしまっていて…。兄のダンスを見ていたからでしょうか…」

「それだけでこんなおかしな癖がつくか?」

スピネルの言うことは最もなのだが、本当のことを言う訳にもいかない。

「実際なってますし…。それに兄のダンス練習に付き合ったり一人で練習している時はここまで酷くなかったので、本格的にレッスンを受けてみるまで気付かなかったんです」

「兄貴以外の相手はダメなのか」

「そうみたいです」

相手を意識すると、緊張するせいか余計に男の癖が出やすくなるのだ。兄ならば緊張しないので、下手ながらももう少しまともに踊れるのだが。

 

スピネルは再び頭を抱えて呻いた。

「ただの下手くその方が遥かにマシだった…」

「そ…そうなんですか?」

「身体についた癖を取るのには時間がかかるんだよ。下手すりゃ年単位だ」

「……」

事の重大さを理解し、私は青くなった。

 

「何とかならないか、スピネル」

殿下も深刻な顔だ。

「何とかってもなあ…」

「あの、お願いします。もっと頑張りますし、足も踏まないように気をつけますので」

「そういうとこ気にしてるから余計にダメになるんだよ。殿下も言ってたがお前は軽いんだから踏んでも気にするな。むしろ軽すぎるくらいだろ」

「軽すぎますか?じゃあもっと太った方がいいんでしょうか。肉をつけようかな…」

「…何でそんな発言が飛び出てくるんだお前は…」

「え?だって殿下が言うなら気を遣ってくれたのかと思いますけど、貴方が言うなら本当の事なのでは?」

「お前が俺をどういう目で見ているのかはよく分かった。じゃあ、どうして俺が軽すぎるって言ったかわかるか?大ヒントだ、ダンスは関係ない」

「は!?関係なかったんですか!?…ええと…じゃあ…」

なんだろう。体重があった方が有利なことと言えば…。

 

「あっ、蹴りや踏みつけの時に威力が出せますね!基本の護身術です」

「アホかお前は!!何でそういちいち発想が女らしくないんだ!正解は『少しふくよかな方が女性らしいから』だ!!」

 

 

【挿絵表示】

 

 

思いっきり叫んだあと、スピネルは「はあ…」と疲れた様子でため息をつき殿下に向き直った。

「…殿下。こいつはダメです。見捨てた方がよろしいかと思います」

「わざわざ敬語に戻してまで言うことですか!?」

「言いたくもなる。女らしさのかけらもないわ、男のダンスは覚えてるわ、ほんとお前な…。頼むから、もう少し自分が女だってこと自覚してくれ。…後で困るのはお前なんだぞ」

 

最後は苛立ったように言われ、私はさすがに反省した。

ダンスは不可抗力なのだが、私があまりにおかしな行動や言動ばかりしていると、友人である殿下の評判まで傷付けてしまう。

そうなれば、私との付き合いをやめるよう殿下に言うのもスピネルの役目であるわけで…つまりこれは、彼の優しさなのだ。

 

「…申し訳ありません。貴方の言う通りです。自覚が足りませんでした…」

急にしょげ返って肩を落とした私に、スピネルはやや戸惑ったようだった。

バツが悪そうな顔で目を逸らす。

そんな私達の肩を叩いたのは、殿下だ。

 

「リナーリア。俺は、君が女らしくなくても気にしていない。君は聡明で話していてとても楽しいし、君の良いところはそんな事では損なわれないと思う」

「殿下!」

咎めるような声を上げたスピネルに、殿下は「聞け」と遮る。

「俺も、昔から周りの者に何度も言われた。『もっと王子らしく』『もっと自覚を持て』と。それを鬱陶しくも思った」

…そうだ。殿下とて最初から何もかもできた訳ではないし、理想の王子たれと求められる事に嫌気が差す事だってあった。

「しかし、ある者に言われたんだ。『その者が襤褸(ぼろ)を着ていれば、その言葉には誰も耳を傾けない。しかし、その者がマントを着け王冠を戴いていたなら、誰もが耳を傾ける』と」

私も知っている。大昔にいた、とある偉大な魔術師の言った言葉だ。

 

「つまり、他人から良く見えるように外面を整えることもまた大事なんだ。君の良さは損なわれなくとも、伝わらなくなってしまう事はあるだろう。誤解される事もあるかもしれない。…スピネルはそれを心配しているんだ」

「はい…分かります」

いちいち口は悪いが、多分彼なりに心配して言ってくれていたのだとやっと分かった。しつこくあれこれ注意してくるのも私のためだったのだろう。口は悪いが。

「スピネルも、女らしくしろと言うのならお前ももっと紳士らしく彼女に優しくしてやれ。…お前の気遣いは分かりにくい」

「…分かったよ…」

スピネルはしぶしぶといった様子でうなずいた。

殿下が私達の顔を見て笑う。

「分かってもらえて嬉しい。…それに、リナーリアがあまり変わってしまうのは寂しい。俺達の前だけなら、たまには良いんじゃないか」

「…殿下はこいつに甘い」

「そうか?お前にも甘いと思うが」

「うっ…」

思わず言葉を失うスピネル。

…やっぱり殿下には敵わないな、と私は思った。

 

「…それで、リナーリアのダンスのことなんだが」

「あっ」

忘れてた。それが本題だったのに、何も解決していない。

どうしよう…と思う私の頭に、スピネルがぽんと手のひらを乗せた。

「…知り合いのダンス教師を紹介してやる。腕はブーランジェ公爵家のお墨付きだ。みっちり練習して、癖を直せ」

「ありがとうございます…」

私は、ちょっぴり情けない顔で笑い返した。



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第9話 無口な令嬢

「スピネル!お願いします、ご令嬢方と上手く会話する方法を教えて下さい…!」

「……は?」

城の中庭、ガーデンパラソルの下。

ガバっと頭を下げた私に、お茶を飲んでいたスピネルは間抜けな声を出し、エスメラルド殿下はちょっと目を丸くした。

 

 

私はお茶会というやつが苦手である。特に、ご令嬢達とのお茶会が苦手である。

これは前世からだ。何しろ元々あまり社交的な質ではない。

そして、王子の従者というのは女性から大変に人気がある。平たく言えばモテる。

将来高官の地位が約束されている若い男。どう見てもお買い得な物件だ。しかも上手くすれば王子や王家ともお近付きになれる。

なので私は、お茶会でも学院でも非常に女性から話しかけられやすかった。

従者リナライトが目当てなのか、王子が目当てなのか、はたまた両方か。上目遣いでしきりに擦り寄り媚を売ってくるご令嬢のなんと多いことか。しかしその目は獲物を狙う鷹のごとく、である。

他のご令息からの嫉妬とやっかみの視線もなかなかに辛い。

さらに大抵の場合同席している(むしろ私の方が同席させられている立場なんだが)殿下は無口であまり喋らない。必然私が応対する事が多くなる。とても胃が痛い。

ゆえに、私はお茶会というやつが苦手なのである。

 

今世の私リナーリアも、12歳を越え同年代のご令嬢からのお茶会への誘いが増えてきた。

なぜかご令息の家からはほとんど来ない。下っ端侯爵家令嬢などこんなものか。

だが別に構わない、重要なのはご令嬢の方なのだ。貴族の同性同士の付き合いというものは非常に重要である。

うっかり疎かにしていると、爪弾きに遭い学院生活から結婚から就職からとんでもなく苦労する羽目になる。親兄弟にまで迷惑が掛かる事も珍しくない。お兄様の結婚に支障が出たら困る。

何より、私には「あの女」の動向や正体について探るという大切な目的がある。ご令嬢方の持つ情報網が、私には絶対に必要だ。

 

だから意気込んでいくつかのお茶会に参加してみたのだが、想像以上に辛かった。

ほとんどはごく普通にお花だの憧れの異性だの貴族間の噂だのについて和やかに話すのだが、時折挟まれる自慢話や探り合いや嫉妬や牽制は聞いているだけで精神を削る。話を振られでもしたら尚更だ。

男同士での腹の探り合いには前世で慣れていたが、女同士のそれはまた違ったいやらしさがあった。とても辛い。

あと、殿下やスピネルについて根掘り葉掘り訊かれるのも非常に困る。あまり何でも話せるものではないし。

…そんな訳で、冒頭に戻る。

 

 

「…実は、お茶会でご令嬢方と上手く話す事ができないのです。私、女性らしい社交会話というものが苦手でして…」

「あー…。だろうな…」

「分かる」

納得したような顔のスピネルに対し、殿下は「自分もだ」とうんうんとうなずいてくれる。ちょっと嬉しい。

「私には身近に同年代の少女があまりいないのです。使用人のコーネルとは仲良くしていますが、彼女は無口な方なので普段あまり多く話しません。だから、お茶会に行っても…」

「何を話せばいいのか分からない、か?」

「はい…。植物についての知識はありますので、ご令嬢の好きなお花の話などもしてみたんですが。私の話はどうも専門的というか理屈っぽいらしく…」

植生だの発芽方法だのについて話してもご令嬢方には全く受けなかった。

前世ではそれなりに聞いてもらえたのだが、あれは右から左に流してただけなんだろうな…。薄々気付いてはいたけど…。

「確かにな。俺も聞いてて半分もわからん事がよくある」

「俺はリナーリアの話は面白いと思うが」

「それは殿下だけだ」

そうなんです…殿下の気持ちは大変ありがたいのですが、それではダメなんです…。

 

「しかし、何だって俺にそんな事訊くんだ?他にいるだろ」

「もちろん私も、最初はお母様に相談したんです。そうしたら『もっと普通の女の子が好きそうなお話をしなきゃだめよ』と言われたので、ご令嬢が好きそうなお茶やお菓子とか、他愛のない噂話などについても頭に詰め込んでみたんですが…」

「…引かれた訳だな」

「はい…」

お菓子の原材料やお茶の発酵方法についての説明はやっぱりあまり受けなかった。

噂話が最も食いつきが良かったが、あまりその手の話ばかりして下品だと思われるのも困る。どの程度のバランスで話せばいいのか分からない。

 

「スピネルはお城でもよくご令嬢方と楽しそうにお話をされてますよね?それに猫を被るのもとても上手です。ぜひ、私にその極意を伝授していただきたいのです」

そう、スピネルはよく女性から声をかけられている。同年代の少女だけじゃなく、年上の女性からもだ。よく分からないがきゃあきゃあと騒がれているのも見かける。

前世では学院であれこれと浮名を流していた記憶もある。それでいて意外に悪い評判は聞かなかったので、女性の扱いは確実に上手いはずなのだ。

 

「猫ってお前なあ…。俺だって色々苦労してんだぞ」

気軽に言うなよ、とスピネルが顔をしかめる。

知っている。王子の従者が周囲からどのように見られ、どのような対応を求められるか、その難しさはよく知っている。

だが非常に悔しい事に、その面においては彼は私よりよほど上手くやっているように見えるのだ。

だから私は、自分の思いを素直に打ち明ける事にした。

「わかっています。…あ、いや、全部がわかるわけではないですが…。その苦労をあまり表に出さないスピネルは、とても凄いと思います。…だからこそ、貴方に相談しようと思ったのです」

 

「……」

いきなりストレートに褒められ、面食らったらしい。スピネルは黙り込むとふいっと横を向いてしまった。

「スピネルは照れているんだ」

「殿下!そういう事は言わなくていい!!…ああもう、分かった。俺でいいなら、ちょっとはアドバイスしてやる」

がしがしと頭をかきながらそう言う。

「ありがとうございます!!」

意外とおだてに弱いらしい。覚えておこう。

 

スピネルは近くの侍女を呼ぶと、新たなお茶を淹れてもらった。

僅かな間その香りを楽しみ、口に含んでから、カップを置き人差し指を立てる。

「リナーリア。お前がなるべきなのは『無口で控えめなご令嬢』だ」

「無口…?」

会話方法を訊いているのに、無口とはどういう事か。疑問に思う私に、スピネルは横の殿下を視線で示す。

「殿下を見てみろ。さっきから大して喋ってないが、お茶会ではもっとひどいぞ。おかげですっかり無口王子で通ってるが許されている」

「それは殿下だから許されるのでは?あと、多分スピネルのフォローのおかげですよね?」

「二人共さりげなく酷い事を言っていないか」

「それもあるが、殿下はそういう方だってもう皆が知っているからな」

殿下の抗議は黙殺された。すみません殿下…。

 

「俺はお前もその方向で行けると思う。お前は貴族の間では引っ込み思案で人見知りなご令嬢ってことになってるからな」

「えっ、そうなんですか!?」

全然知らなかった。

性格的に人見知りの気はあるとは思うが、なるべく頑張って表に出さず誰に対してもしっかり応対しているつもりなのに。

「一体どこからそんな噂が…」

「あー…まあ、その噂を利用すればいい訳だ、とにかく」

スピネルは咳払いをした。

 

「幸い、お前は見た目だけはいかにもそれっぽく大人しそうだからな。隅で目立たないようにして、微笑みながら話を聞いてれば大体なんとかなる」

「そ…それだと確かに問題は起きないかも知れませんが、仲良くなる事もできないのでは…?」

「いっぺんに何でもやろうとするな。そこらはおいおいやって行けばいいんだ。まずは周囲の話を聴いて、少しずつ慣れていけばいい」

確かに一理ある。うーん、やはり慣れるしかないのだろうか…。

眉を寄せて唸る私に、スピネルが指をもう一本立てた。

「それから、もう一つ重要なことを教えてやる」

 

スピネルは続ける。

「いいか、女と仲良くなる時に一番大切なのは『共感』だ」

「共感?」

「そうだ。例えばここに、ひどく落ち込んでいる女性がいるとする。どうやら彼女は、昨日大切な友人と喧嘩をしたばかりらしく、相談をしたいらしい。お前は、なんて声をかける?」

「…可哀想に、良かったら一緒に謝りましょう、とか?」

「それは残念ながら悪手だな。俺なら『可哀そうに。大切な友人と喧嘩をしてとても傷ついたことだろう。俺で良ければ詳しく話を聞こう』…とまあ、こんなとこだな」

「むむ…なぜ私のはだめなんでしょうか?」

解決方法を示しただけなのに…と思う私に、スピネルが言葉を続ける。

「謝って仲直りすりゃ済む話だってのは誰にだってわかる。それなのにわざわざ他人に話すのは、ただ話を聞いて欲しいって事なんだよ。つまり…」

「…ああ、そこで共感な訳ですね。求めているのは解決してくれる相手ではなく、話を聞いて分かってくれる相手だと」

「そういう事だ。だいたい友人同士の諍いなんて首を突っ込むとろくな事にならないしな。よほどの事情なら手を貸しても良いだろうが、大抵はただ愚痴を聞いてやるだけで十分だ」

 

スピネルはたくさん喋って喉が渇くのか、またお茶を飲む。

「…そうやって上手く共感してやりながら話を聞いていれば、相手は『この人は私の事を分かってくれる人だ』って印象を持ってくれる。女と仲良くなるにはこれがとても大事なんだ。逆に、自分を理解してくれない相手に対しては冷たい。どれだけアホらしい話だと思っても絶対に顔に出すな。決して否定しないで話を聞き続けるのがコツだ」

「ははあ…なるほどぉ…」

私はとても感心した。

確かに、相手の話に共感して取り入るのは社交術の初歩だ。私は相手がご令嬢だからと難しく考えすぎていたのかも知れない。

殿下も同じく感心したらしく、大きくうなずいている。

「スピネルはすごいな。道理で令嬢たちから人気があるわけだ」

「まあ二番めの兄貴からの受け売りなんだけどな」

「ああ、あの近衛騎士のお兄様ですね」

スピネルの兄の一人は近衛騎士団に所属していて、私も城で何度か会った事がある。人当たりが良く、どことなく色気のある整った顔立ちがいかにもモテそうな印象の男だ。

 

「そうだ、この共感のテクニックは男にも有効だぞ。男も自分の話に共感してくれる女には弱いからな」

スピネルがそう付け足した。

確かにそれは私にも心当たりがある。

「分かりますわ、その気持ち」とか言われるとついうっかり気を許して、あまり話すべきじゃない事まで話してしまったりしたな…。ちょっと苦い思い出だ。

 

まあそれは置いておいて、スピネルのおかげでお茶会での会話への対処方法が分かった。

上手く実践できるかどうは分からないが、そこは努力してなんとかしていくしかないだろう。

 

なんだか先行きが明るくなった気がして、私は嬉しくなってしまった。

思わず身を乗り出し、スピネルの手を両手で握りしめて笑う。

「ありがとうございます!スピネルのおかげで何とかなりそうな気がしてきました…!」

精一杯の感謝の意を伝えたのだが、しかしスピネルはなぜか固まってしまった。

「?」

首をかしげる私に、殿下が言う。

「リナーリア。手」

「あ…!す、すみません、はしたなかったですね」

慌ててぱっと手を離す。感激のあまり勢いで手を握ってしまったが、まずかったらしい。

また怒られるかな?と思ったけど、スピネルはむしろ呆れているらしく片手で顔を覆って俯いている。

「…お前…。…さっきのやっぱ無しだ。共感するやつ、男には使うな」

「ええ?何でですか?」

間違いなく使えるテクニックだと思うのだが。情報を集めるためには男の知り合いだっていた方がいいし。

「いいからやめとけ。絶対事故が起こる」

「なんですか事故って」

「俺もやめた方がいいと思う」

殿下にまで言われてしまった。

なんだか納得いかないが、私はしぶしぶうなずくしかなかった。



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第10話 水魔術

ヘリオドール王国があるベリル島は、海にぽつんと浮かぶ大きな島だ。

その周辺の海からは魔獣が湧く。

この魔獣は陸地に上がると、森や山に棲み着き数を増やす。そして、人を襲って殺す。

魔獣は様々な形をしているが、ほとんどが醜悪な獣の姿である。眠りはするがものを食べる事はなく、その生態は謎に包まれている。

また、魔獣は海に出ようとする人間を執拗に攻撃する習性がある。そのため、この島に住む人間は海の向こうに何があるのかを知らない。

 

この島全土がヘリオドール王国に統一されてから数百年、人同士の大きな争いは起こっていないため、ヘリオドール王国が有する兵や武力というのは概ね魔獣と戦うためにある。

その主力は騎士だ。魔術で己の身体を強化し、戦う術に長けた戦士である。

また、魔術師も重要な戦力だ。攻撃魔術で敵を討つだけでなく、防御や支援など幅広く活躍する。

魔術は魔獣と戦うためにほぼ必須だが、行使するために必要な魔力は誰もが持っている訳ではない。

ゆえに高魔力者を輩出する家系はこの国において特権階級として保護されている。それが貴族だ。

 

 

「へえ、お二人は魔獣退治に行ってきたんですね」

今日は久しぶりに、ジャローシス侯爵邸に殿下とスピネルが来ている。もうすぐカエルが孵化すると連絡したからだ。

初めてここに来て以来数年、殿下は毎年この季節をとても楽しみにしている。

今は観察を終え、お茶を飲みながら雑談をしているところだ。

 

「騎士たちに連れられての訓練ではあるがな。やはり実戦というのは違うな。勉強になる」

殿下もスピネルも、それぞれ数体の魔獣を斬ったらしい。初実戦という事で、色々と学ぶものがあったようだ。

思わず「いいなあ」と呟くと、スピネルが「おい」と突っ込んだ。

「あっ、いや、違うんです。だって魔術は令嬢にとっても必須でしょう。魔獣との戦いは貴族の義務ですし」

普段は騎士たちに戦いを任せているが、有事の際には剣や杖を持って戦わなければいけないのだ。魔術学院は、そのための技術を学ぶ所である。

「そうだが、自分から戦いに行きたがる令嬢がいるか」

「だから違いますって。別に魔獣と戦いたいわけではないです。私は支援や防御が得意なので、実戦に近い形式じゃないとあまり訓練にならないんですよ」

私はそう説明したが、殿下もスピネルもぴんと来ていないようだ。二人共剣士だからよく分からないのだろうか。

「お二人は支援系の魔術師と組んで戦ったことは?」

「ないな。まだ魔術師との連携訓練はあまりしていないし」

なるほど。

 

「では、ちょっとやって見せましょうか」

私はガーデンチェアから立ち上がると、一本の枝を拾いスピネルに差し出した。

「その枝で、そこの木を打ってみてください」

そう言って近くの太めの木を指差すと、魔術で手のひらに乗るほどの大きさの水球をいくつか生み出し浮かべる。

「いくぞ」

「どうぞ」

ひゅん、と枝がしなって木の幹へと打ち下ろされる。

しかしそれは、途中で小さな水の盾によって防がれた。私が魔術で素早く水球を動かし、盾へと変えて防いだのだ。

「おお」

「もっとたくさん攻撃してもいいですよ」

「よし」

素早く連続で繰り出される攻撃を、私はすべて水球を動かして防ぐ。

 

「大したものだな」

ややあって、殿下が感心した様子で言った。

私は「ありがとうございます」と答えようとし、それを横から阻まれた。駆け寄ってきたスピネルだ。

「やるなあ!すげーじゃねーかお前!」

そう言って興奮した様子で私の頭をぐしゃぐしゃとかき回す。

「ちょっ、やめて下さいよ!だから魔術は得意だって言ったじゃないですか!」

「いや、ここまでやるとは思ってなかった。お前すごかったんだな」

「水の防御魔術の一つですよ。騎士の視界や動きを妨げることなく、その身を守るための術です。今は守るのが木なので簡単でしたが、本来は一対多で戦い動き回る騎士を守るものなので、集中力と繊細な操作が必要になります」

 

この精密な動きは、液体である水を使った魔術ならではだ。

炎や風のように大きく敵を吹き飛ばしたり、土のように堅牢な壁を作るのにはあまり向いていないが、代わりにこのような小回りが利くのが水魔術の特徴なのである。

「見た目は地味ですけど、組んで戦った時の戦いやすさでは水魔術が一番だと思っております」

えっへん、と胸を反らす私。

…おいスピネル、お前今胸元を見て一瞬哀れんだような顔をしただろう。ちゃんと見ていたからな。

 

「確かに、これは一人じゃ練習できないな。しかも一対多が想定なら、実戦が一番手っ取り早いか」

「…それにこれは、特定の誰かと組んで戦う事を想定したものじゃないか?周囲に小さな水の盾が飛び交うのだから、気を散らさないよう守られる側にも相応の慣れが必要だろう」

…さすが殿下だ。なかなか鋭い。

「ええ、そうですね。この一人用の術はめったに使うものではないです。普通は集団を守れるようにもっと大きな盾を作って、もう少し大雑把に広い範囲を守ります」

「なるほど」

私の答えに、殿下がうなずく。

 

…これは前世で私が、殿下を守るために練習した魔術だ。

たくさん修行をして、研鑽を積んで、だけど結局何の役にも立たなかった。

 

「戻ってお茶の続きにしましょうか」

私は微笑んでそう言い、二人に背を向ける。

 

時折こうして、灼け付くような胸の痛みは私を襲ってくる。

どれほど楽しくとも、平和に見えても、あの日の事を忘れてはいけないのだとそう教えてくれる。

絶望を、怒りを、決して忘れてはいけないのだと。

 

椅子に座り直し紅茶のカップに手を伸ばすと、向かいに座った殿下がじっと私を見る。

「どうした?」

「え?」

あえて不思議そうな顔を作り、きょとんとして見せる。

スピネルは何の事か分からない様子だ。

殿下はしばし私を見つめると「…何でもない」とだけ言った。



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挿話・3 剣と魔術と【前世】

リナライトがぼんやりと目を開けると、細かい模様の描かれた天井が目に入った。

「大丈夫か?」

横からかけられたのは、聞き慣れた主の声だ。

「殿下…?」

「お前は頭を打たれて倒れたんだ。覚えているか?」

「…頭を…あ!」

何があったか思い出し、慌ててベッドから起き上がろうとするが、エスメラルド王子の腕がそれを抑える。

「急に起きない方がいい。怪我は治したはずだけど…」

「大丈夫みたいです。痛みもありません」

打った額に手を当てるが、王子の言葉通り傷はないようだった。魔術師が治癒をかけてくれたらしい。

王子はほっと安心したようだった。

心配してくれたのだろうと申し訳無さが募る。

 

リナライトは剣の稽古中、王子の剣を受け損ねて頭を打たれてしまったのだ。

練習用の木剣なので傷は大したことがなかったと思うが、そのまま気絶してしまったらしい。

「申し訳ありません…」

しょぼくれるリナライトに、王子が首を横に振る。

「いや、僕こそすまなかった。お前の調子が悪そうなのは分かっていたのに、ちゃんと剣を止められなかった」

「で、殿下は悪くありません!僕が悪いんです。ちゃんと集中できてなかった」

 

リナライトはゆっくり起き上がると、拳を握りしめ目を落とした。

「…昨夜、つい夜ふかしをしてしまったんです。届いたばかりの魔術理論の本に夢中になってしまって。気が付いたら夜が更けていて、すぐに眠ろうとしたんですが、読んだばかりの本の内容が頭の中を回ってしまってどうしても寝付けなくて…」

「寝てなかったのか」

「はい…ほとんど」

「夜はちゃんと眠って休まなければだめだ」

「すみません…」

「もういい。気にするな」

王子は優しいのでそう言ってくれるが、これは明らかに自分の落ち度だ。

 

「…僕はただでさえ殿下よりもずっと剣が下手なんです。もっと真面目に稽古をしなければいけないのに」

「お前はいつも真面目だ」

「いいえ。全然足りません」

リナライトは実際、同年代の子供に比べて特別下手なわけでもない。せいぜい中の下と言ったところだ。

しかし一緒に稽古をする王子があまりに飛び抜けているため、二人の腕前の差はずいぶん開いてしまっていた。

王子に追いつくためにはもっとたくさん稽古をしなければならない、そう言って落ち込むリナライトに、王子は少し考え込む。

 

「…魔術理論の本は面白かったか?」

「…はい」

最新の魔術理論の本は子供の自分には少し難しかったが、とても刺激を受ける内容だった。これを自分の魔術に応用するにはどうしたらいいか、つい考えていたらすっかり朝になっていた。

「役に立ちそうか?」

「はい。それは、とても」

あれをしっかり実践できるようになれば、もっと効率的に魔術を扱うことができる。魔獣との戦いや王子の護衛に、必ず役に立つはずだ。

王子はその答えにうなずく。

「ならいい。お前は無理に剣をやるより、魔術を勉強すればいい」

 

…確かに、教育係や剣術の師範からもそう言われている。

従者としてある程度剣も習得しなければならないが、それよりもお前には魔術師としての役割を期待していると。

 

「しかし、いざという時のために…」

呟くリナライトに、王子が言う。

「そういう時は僕が前に出て戦う」

「え!?」

リナライトはぎょっとして王子を見た。護衛される側である王子が前に出てどうするのか。

「お前は魔術で後ろから僕を守り、僕は剣で前に出て戦う。お前が前に出るより、ずっと確実だし安全だろう」

「それは…そうですが…」

剣士は前で、魔術師は後ろ。幼い子供でも分かる理屈だ。

しかし、尊い身である王子をそれに当てはめていいものか。

悩む彼に、王子は言葉を続ける。

「安心してそうできるように頑張ればいい。僕はもっと剣の腕を上げるし、お前は魔術の勉強をする。自分の得意なことをやればいい」

 

不安ならば、安心できるようになるまで努力すればいい。

そして苦手なことを無理にやるよりも、得意なことを伸ばした方がずっと効率的だ。

王子の言葉は、すんなりとリナライトの胸に染み込んでいった。

 

「…はい。分かりました」

落ち込んだ表情が消え、真っ直ぐ前を向いたリナライトに、王子がうなずく。

「でも、剣術の稽古ももっと頑張ります。せめて殿下の従者として恥ずかしくないようにはなりたいので」

そう宣言したリナライトに、王子は「本当にお前は真面目だな」と言って笑った。



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第11話 視察

私は朝から気分が浮き立っていた。

何しろ今日は、エスメラルド殿下が初めて我が領にやって来る日なのだ。

ついそわそわしてしまう私に苦笑したのは、隣に座る長兄のラズライトお兄様だ。

私より6つ上で19歳。学院卒業後、将来の領主として領で実務に携わっている。

「心配しなくても、領に入れば魔術で先触れが来るからすぐに分かるよ」

「そうなんですが…」

口ごもる私の髪を、お兄様が優しく撫でる。

ラズライトお兄様はおっとりとした優しい性格の方で、周りから口々に「母親によく似ている」と言われる私よりも、よほど母に似ていると私は思っている。

なお次兄のティロライトお兄様はお父様似の楽天家だ。今は魔術学院に在籍中なので、冬休みまでは戻ってこない。

前世では幼い頃から別々に暮らしていたので二人とも特別親しくはなかったが、今世では妹としてかなり可愛がってもらっている。

非常に照れくさいが、悪くない気持ちだった。

 

さて、なぜ殿下が我が領に来るのかというと、視察のためだ。

12歳を越えた王子は、一歩大人に近付いたとして城の外に出られる機会が増える。その最大のものが、国内を回る視察だ。

社交シーズンが終わり、貴族の大部分が各領地に帰る秋の終わり頃に王都を出て、一ヶ月ほどかけていくつかの領地を周るのが通例となっている。

エスメラルド殿下は今年で13歳、これが二度目の視察だ。

視察先はおおむね公爵領や重要性の高い侯爵領などから選ばれるので、うちのような下っ端侯爵の所に来ることは滅多にない。

通り道にあるならば一泊していくことはあるが、我が領はヘリオドール国の東端のあたりにあるので、通り道にはなりにくい。

 

ちなみになぜジャローシス侯爵が東端にあるかと言うと、魔獣への抑えのため…と言えば聞こえはいいが、まあ要するに新参なので人気のない土地をもらっただけだ。

海から大量に魔獣が湧き出す「魔獣災害」と呼ばれる現象が起きた時、真っ先に危機に晒されるのが島の端の領なのである。

また、我が家が代々水魔術を得意としているのも理由の一つだ。

人間の敵である魔獣は、海から湧いてくるくせになぜか水が苦手なのだ。

川や湖などの水場には近付きたがらないという習性があり、水が身体にかかることも嫌がる。

人が海に近づく事は禁じられているために触れたことはないが、海の水はとても塩辛いと聞くので、きっと海の水は水のように見えて全く違うものなのだろう。

その理由はわかっていないが、水の魔術は魔獣に対して有効な防御手段になるのである。

 

そんな訳で王子の視察先としては縁遠い我がジャローシス侯爵領だが、今回は殿下の「ジャローシス侯爵領の自然や生き物を見てみたい」というたっての願いで視察先の一つに入る事になった。

実は去年も希望したが却下されており、今年こそはと何とか入れてもらったらしい。

殿下からは「とても楽しみだ」という手紙が来ていて、私も「しっかり殿下にここを見ていただこう!」と気合を入れていた。

前世では5歳の時に従者として城に入り、実家には年に一度数日間ほどしか戻らなかった。だから領にはそれほどの愛着は持っていなかったのだが、リナーリアである今世ではここで育ち、王都にいる期間以外ずっとここで過ごしてきたのだ。

領内のことに関しては前世よりも詳しいし、愛着も深い。

 

 

殿下のご一行が到着したのは、夕方近くになってからだった。

馬に乗った騎士2人と、長距離用の馬車が3台。馬車はそれぞれ、王子と従者が乗っているもの、護衛が乗っているもの、その他荷物などを乗せているもの。できるだけ少人数にするため、護衛は少数精鋭だ。

道中魔獣が出没することもあるが、予め周辺の魔獣はその領の騎士たちによって減らされる。実際に通行する際も各領の騎士たちが同行するのでほぼ安全である。

 

「殿下。我がジャローシス侯爵領によくいらっしゃいました」

馬車から降りた殿下をお父様とお母様が迎え、丁寧に礼をして挨拶をする。

「うむ。しばし世話になる」

うなずいた殿下は、少し後ろにいた私と兄の元に歩み寄った。

「リナーリア、ラズライト。久しぶりだな」

「お久しぶりでございます」

まあつい1ヶ月ほど前には王都で顔を合わせていたので、言うほど久しぶりでもないのだが。

私はすでに貴族間で王子の友人として周知されていたが、今のところ特に問題にはなっていないので、城通いの頻度はそれなりに高い。

お兄様はジャローシス侯爵家の跡取りとして、幾度か王子と面識がある程度だ。

 

「明日はよろしく頼む」

「はい」

私とお兄様は声を揃えて言った。

ジャローシス侯爵領への滞在は3泊で、明々後日の朝には発つ予定だ。なので実質領内を視察して回れるのは2日間だけになる。その案内は私と兄とで行うことになっていた。

「皆様お疲れでしょうし、どうぞ中へ。短い間ですが、ごゆっくりおくつろぎ下さい」

お母様がそう言って促し、皆はジャローシス侯爵邸へと入っていった。

 

30分ほど後、私の部屋の扉がノックされた。

「失礼します」と言って入ってきたのは、私付きの使用人であるコーネルだ。

「ただいま王子殿下にお茶をお持ちしたのですが、良ければお嬢様もお部屋に来られないか?とのことです」

タイミングを見てこちらから訪問するつもりだったのだが、先に呼ばれてしまった。

ちょっと嬉しくなりながら、私は「分かりました」と言って立ち上がった。

 

「いかがですか、ジャローシス侯爵領は」

私はコーネルが淹れてくれたお茶を飲みながら尋ねた。

向かいに並んだ一人がけソファには、それぞれ殿下とスピネルが座っている。護衛は扉の外にいるので今部屋にいるのは3人だけだ。

「もっと緑にあふれているのかと思ったが、意外に岩場が多いんだな」

この屋敷に着くまで、殿下一行は道すがら軽く領内の様子を見てきている。

領の様子を再現した王都の屋敷の庭は草木が茂っていたので、ごつごつした岩山などは意外だったらしい。

「それに、本当に山から煙が出ているんだな。話には聞いていたが驚いた」

ジャローシス侯爵領には火竜山と呼ばれる火山がある。

はるか昔、古代神話王国の時代には竜が棲んでいたという山だ。いつもいくつかの噴煙が立ち上っており、時折周辺に灰が降ることもある。

竜がいた頃には大規模な噴火もあったと言われているが、ここ数千年はわずかに噴石が落ちる程度のごく小規模な噴火しか起こしていないらしい。だからここには人が住めているのだ。

 

「火竜が死ぬ間際に、あの山の奥深くに決して消えぬ炎を放ったのだという言い伝えがあります。あの煙はその炎が噴き出ているものだと。また、その炎が地の下を伝うためにこのあたりには温泉が多いのだとも言われています」

「火竜の伝説だな。俺も読んだことがある」

火竜の伝説は、この国ではメジャーなおとぎ話の一つだ。

人々を殺戮し苦しめる邪悪な火竜が、あらゆるものを貫く光を放つという魔剣を持った剣士に退治される物語。

しかし、火竜は死の間際に山の奥深くへと炎を吐き、さらにこの島を囲む海へと呪いを撒き散らした。そのため、海から魔獣が現れるようになったのだ…というお話だ。

昔、竜と呼ばれた生き物があの山にいたことはどうやら事実らしいが、魔剣だの呪いだのについては分からない。

 

「明日は火竜山の麓にもご案内する予定です。足だけですが、湯に浸かれる温泉もありますので楽しみにしていて下さい」

「地面から湯が出るなんて不思議だな。風呂を沸かす手間が省けそうだ」

そう言ったのはスピネルだ。

お前は風呂なんて沸かした事ないだろう。私もないが。

「言っておきますけど、そこらで温泉を見かけても飛び込んだりしないで下さいよ。毒が混じっている場合もありますし、人が触れられる温度のものは極稀で、大抵はすごく熱いんです。身体が溶けても知りませんよ」

「しねーよ。お前じゃあるまいし」

「は?なぜ私が?」

「お前ならやりかねない」

「するか!」

 

「大丈夫だ、リナーリア、スピネル」

私達のやり取りを横で聞いていた殿下がうなずいた。

「もしお前達が飛び込んで溶けたとしても、ちゃんと俺が助けて骨を拾おう」

「いや死んでるよなそれ!?」

「いや死んでますよねそれ!?」

私とスピネルの声が重なった。



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第12話 晩餐

やがて晩餐の時間になった。食堂に並ぶのは使用人や御者を除いた殿下御一行と我が家族である。

「ほう、殿下はパイロープ公爵領を通ってこられたのですか」

殿下の話を聞き、そう相槌を打ったのはお父様だ。

「ああ。天気が良くてよかった」

道中に王子の身を狙う不届き者が現れないよう、視察の道筋は事前には伏せられている。道中にある各貴族家に来るのは「だいたいこのあたりの日にちに行きますよ」という通達だけだ。

調べようと思えば調べられるが、そんな事をするのは王家に喧嘩を売るのも同然なのでおおっぴらにやる者はいない。

こっそり調べて他の貴族の様子を探り、「うちが一番凄い歓待をするんじゃい!」とかやる貴族もやっぱりいるのだが。

 

「パイロープ公爵領はずいぶんと豊かでしたでしょう」

「そうだな。とにかく農地が広い。しかし種蒔きはしっかり終わっていた。農具が領民に行き渡っているようだ」

「あそこは優れた魔導師が多いですからな」

物体に魔術効果を定着させる術、魔導術を得意とするのが魔導師だ。豊かな領にはこの魔導師が多い。

魔導術があればさまざまな便利な魔導具を作り出すことができる。わずかな魔力で点灯できる明かりだとか、遠くに声を届ける道具だとか、少量の湯を沸かす石だとか。

領を魔獣から守るために最も重要なのは騎士、そして魔術師だが、魔導師が多いという事はそれだけ財政に余裕があるという事だ。

畑を耕す魔導具があれば、スムーズに種まきを終わらせることができるし、耕作できる面積も広がる。それによってまた豊かになるという循環なのだ。

 

「しかし、その後通ったサーピエリ侯爵領では秋だというのに刈り取った後の畑があって少し驚いた」

「なんと。種蒔きをしないのですかな」

「サーピエリ侯爵領では今、春蒔き小麦を試しているのですよ、お父様」

思わず口を挟んでしまい、お父様が「そうなのか」と目を丸くした。

サーピエリ領はうちの領から近いのでそれくらい知っておいて欲しい…。

この父は魔術師としてはとても優秀なのだが、それ以外は色々と残念な部分が多い。領の事に関しても、基本部下に丸投げである。

「まだ今年始めたばかりで、試験段階のようですが。普通の冬小麦が不作の時でも収穫できる可能性があるとかで、他にもいくつかの領が試しているようです」

そう補足したのはラズライトお兄様だ。

しまった、ここは余計な口を挟まず跡取りである兄に花を持たせるべきだったか…とちらりとお兄様を見ると、「大丈夫だよ」というように微笑んでくれた。優しい。

 

「ラズライトもリナーリアも、他の領のことまでよく勉強しているな」

「ありがとうございます」

殿下に褒められ、兄と二人頭を下げにっこり笑う。

殿下も出会った頃に比べ他の人との会話がずいぶんお上手になりましたね…!前は「うむ」がせいぜいだったのに。

「自慢の子供たちなのですよ。私は魔術しかできませんが、子供たちは他のことも優秀で」

お父様が本当に自慢気に言ってくれるのも嬉しい。

 

「殿下は、剣術に大変素晴らしい才能をお持ちと聞いていますが」

お母様も子供達を褒められ嬉しそうだが、そつなく殿下を褒める方向へと話題を変えた。

「皆そう言って褒めてくれるが、まだまだだ。スピネルにはとても敵わない」

殿下の視線を受け、隣のスピネルが軽く頭を下げる。

「ありがたきお言葉。しかしそれは、まだ殿下が成長途中だからです。いずれ私など超えてしまうでしょう」

「なんと。かの高名な騎士家、ブーランジェ公爵家の子息が言うのならば間違いありますまい」

「だといいのだがな」

殿下は苦笑するが、スピネルの言う通り将来殿下が素晴らしい剣士になる事を私は知っている。

スピネルに敵わないのはまだ年の差を埋められていないからだ。スピネルは2歳上だし、同年齢の少年と比べても長身なので殿下よりもだいぶ大きい。

まだ13歳である今、体格面でも技術面でも2年の差は大きすぎる。

 

「無論、私も殿下に追いつかれないように修練を重ねるつもりです。そう簡単に負けるつもりはありませんから」

少し冗談めかして言うスピネルに、お父様が感心した様子でうなずく。

「なるほど。お二人は主従であると同時に、良き好敵手なのですな」

殿下とスピネルは顔を見合わせると少し笑った。その通りだと言うように。

晩餐会は和やかな空気の中進んでいく。

 

…好敵手。そんな王子と従者の関係もあるのか…。

少し衝撃を受けている自分がいた。

そんな事は考えてもみなかった。従者は王子の臣下にして友人、それでいいと思っていたからだ。

リナライトとスピネルは違うのだから、殿下との関係が違うのも当然なのだろうが。

なぜか、私は二人がどこか遠くなってしまったような気がしていた。



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第13話 温泉※

翌朝、朝食を取ったあとジャローシス侯爵領の視察に出た。

ゴトゴトと馬車に揺られながら窓の外を眺め、ラズライトお兄様があれこれと説明してくれるのを聴く。

「あちらの遠くに見える緑の塊がスペリーの森です。ほとんどが湿地帯になっていて、ミナミアカシアガエルなどの固有種も多く棲んでいます」

「む」

思わず反応した殿下に、お兄様が優しく笑う。口の堅いこの兄にだけは、殿下の趣味を話してあるのだ。

「明日は湿地帯にも行きますので、その時よろしければ御覧ください」

「そうか」

 

時折、馬車から降りて様々なものを案内する。

私は今日は余計な口を挟まずに、ほとんど付いて行くだけだ。たまに話を振られた時だけ、軽く補足したり話したりする。

「こちらの石碑はジャローシス家の祖先、フェナカイトを祀ったものです。とても優れた魔術師で、その魔術で千の民を守ったと伝わっています」

「ジャローシス家伝来の水魔術だな」

殿下が興味深げに刻まれた碑文を読む。

その横顔を眺めながら、懐かしいな…と強く思う。

前世でも毎年こうやって殿下と共に視察をして回ったのだ。年に一回のこの行事を、殿下も私もとても楽しみにしていた。

…最も、最後の視察はあのような事になってしまったのだけれど。

 

 

お昼は見晴らしの良い草原に敷物を広げ、屋敷から持ってきた軽食を取った。

殿下は城や屋敷でいただく豪華な食事には慣れているので、あえてのピクニックスタイルだ。

案の定、殿下は小ぶりなパンで作ったサンドイッチと魔術で軽く温めたスープなどの食事を大変気に入ったらしい。

 

「こうして眺めのよい場所で食べる食事というのも良いものだな。このサンドイッチもうまい」

「バッファローの肉を挟んだものですね。このあたりには多いので」

「ほう…普通の牛肉とはまた少し風味が違うんだな」

両手に持って食べる殿下の様子をニコニコしながら見守っていると、急に背後からスピネルの声が聴こえた。

「お前は本当に殿下の好むものがよく分かってるな」

「…いきなり背後に回らないでください」

「ちょっと近くを見てきただけだよ」

 

どうやらスピネルは騎士たちと共に、午後から行く道の安全を軽く確認してきたらしい。

予めジャローシス侯爵家の方で近くの魔獣は討伐してあるし、昨日もしっかりとそれを確かめてある。

当日の安全確認は本当に確認するだけの意味しかないので騎士たちに任せても問題ないのだが、意外と真面目なところがあるのだ。この男は。

「お疲れさまです」と言ってサンドイッチを手渡すと、彼は大きな口を開けてそれにかぶりついた。

「ん、うまいな、これ。ちょっと癖があるけど、それがソースとよく合ってる」

「そうでしょう」

故郷の料理を褒められれば私も悪い気はしない。思わず得意げになってしまう。

 

「これ、王都でも食べられないか」

「うーん…。輸送が難しいですね」

「魔術で何とかならないか?」

スピネルはよっぽどバッファロー肉が気に入ったらしい。

ふむ。エサ代がかかる上に気性の荒いバッファローそのものを運ぶより、一度さばいてから魔術で氷漬けにして肉だけ運べばいいか…?距離があるので、一定時間ごとに魔術をかけ直す必要があるが…。

そんな事を考える私の横で、スピネルはさらに一つサンドイッチを手に取って食べていく。

「ちょっと、そんな急いで食べなくてもいいですよ。まだたくさん…あ」

ちょうど最後の一つを殿下が取ったところだった。他の具のサンドイッチはまだ残っているが、バッファローのものはもうない。

「…殿下。そいつをよこせ」

「む…」

ジト目になるスピネルに、殿下がたじろぐ。

「それもう3つも食べただろ。俺はまだ2つだ。不公平だ」

「……」

残念そうな顔で殿下がサンドイッチを差し出す。

それを受け取ると、スピネルは満足そうにかぶりついた。

 

「でも、向こうから来たのになんで食べた数が分かったんですか?見えてたんですか?」

ちょっと首をかしげる。食べてるのは見えても、どの具だったかまでは近付くまで見えない気がするのだが。

「いや。適当にかまをかけただけだ」

「何!?」

「当たってたんだから同じことだろ!」

やれやれ。二人共こういう所は子供っぽいのだ。

「全くもう…。分かりました。そのうち王都に肉を持っていきますので今日のところは我慢して下さい」

「本当か!」

二人が嬉しそうにこちらを見る。

「上手く行けば高級食材として販売を始めようかと思いまして。その時はお二人共、宣伝に協力してくださいね」

「お前ちゃっかりしてんなあ…」

「しっかりしてると言って下さい」

そう言って、3人で笑いあった。

 

 

午後からは、予定通りに火竜山の麓近くにある温泉に向かった。

明らかに人の手によって作られたこの温泉は、古代神話王国時代のものだという説が有力だ。

だがここに来るためには魔獣の棲み着く森を越える必要がある。温泉が作られた当時には遠く川向こうにあっただろう森が、数千年の時を経て温泉の周辺まで覆ってしまったのだ。

危険な森を越えてまでわざわざ温泉に足を運ぶ者はおらず、長い間ほぼ伝説のような存在になっていたが、この地に着任した初代ジャローシス侯爵はその話を聞き大変惜しいと思ったらしい。屋敷の庭の件といい、なかなか変わった人物だったようだ。

魔獣を倒しながら少しずつこつこつと森を切り開き、道を作り、当代になってようやくその道が完成した。

 

足湯は底につるつるとした白い石が敷き詰められていて、腰掛けるのに丁度良い大きさの岩が縁を囲っている。周りの板壁と屋根は今年建てられたばかりのものだ。

すぐそばにはちゃんと全身が浸かれそうな温泉もあるのだが、そちらはまだ壁も屋根もない。

近々ちゃんとした施設を作り、数年後には立派な温泉として貴族向けに開業する予定だ。

今日殿下を案内したのも、その宣伝という意味がちょっとある。ジャローシス侯爵家は商魂たくましいのだ。

 

「なるほど…。これはとてもいいな」

「疲れが取れる感じだな」

足湯に素足を浸けながら、殿下とスピネルが感心し合う。

「気持ち良いでしょう?体の中の血や魔力のめぐりが良くなると言われてます」

そう答える私もまた素足だ。少々はしたないかも知れないが、あくまで膝下だけなのでまあいいだろう。

「確かに元気が出る気がする。足だけなのに不思議だ」

「この湯の成分によるものかもしれません。どうやらただの水とも少し違うようなので」

また説明してくれたのはお兄様だ。足湯はそれほど広くはないのもあり、今入っているのは私達4人だけである。

殿下の提案で、このあと護衛の騎士たちにも交代で足湯を味わってもらう予定だ。

 

「…ん?近くに川があるのか」

濡れた足を拭き、ブーツを履いていた殿下が言った。その視線の先、ここから数百メートルほど離れた場所には小川がある。

温泉の周辺はいずれ建物を立てる予定で、広く開けているのでここから川原の様子がよく見える。

「ええ。少し見てみますか?」

騎士たちが足湯に浸かっているあいだ手持ち無沙汰なので、私はそう提案した。

「すぐそこですし、川なら魔獣は近付いてこないので大丈夫でしょう」

森まではやや距離があるし、もし鳥型の魔獣などが出てきて川を越えたとしても魔術で十分迎撃できる。

私たちだけではなく、既に魔術師として一人前の認可を受けているラズライトお兄様もいるし。

「行ってもよろしいでしょうか?」

お兄様に尋ねられ、すでにブーツを脱いでいた護衛の騎士が川への距離を確認してうなずく。

「一人連れて行っていただければ構いません。必ず目の届く所にいて、川の中には入らないようにお願いします」

 

「おわっ。なんだこの魚。すごい模様だ」

スピネルが川の中を覗きこみ、たくさんの斑点を持つ魚を見て声を上げる。

「アカマダラプレコ、ナマズの仲間です。温泉のせいか水温が高いので、少し変わった魚が棲んでいるんですね。個体によって色が違うんですが、それはすごく真っ赤ですねえ。スピネルの頭みたいですよ」

今度は私が説明した。この手の話はやはり兄より私の方が詳しい。

しかし髪の色をナマズに例えられたスピネルは憮然とした顔だ。

「褒めてるんですよ?綺麗な色じゃないですか」

「嬉しくねえよ!」

「ジャローシス領は本当にすごいな…」

殿下の方はいたく感心した様子だ。私もその通りだと思う。

前世ではこのようにジャローシス領の自然に触れ合う機会はあまりなかったが、その事を惜しく思ってしまうほどだ。

 

それからもあれこれ言いながら川を眺めていたのだが、ふとある大岩を見上げてスピネルが言った。

「この岩だけ、やけに大きいな」

確かに、この川の岸は数十センチほどの大きさの岩や石で埋まっているのに、この一つだけやたらと大きい。高さ2メートルを軽く超えている。

「……?」

「殿下?どうしました?」

「いや…この岩、何かおかしくないか?うまく言えないが…」

「え?」

 

私は首を傾げて岩を見つめる。見た所、大きさ以外は何の変哲もないただの岩だが…。

そして、ふと思いついて岩に探知魔術を流してみる。

「…本当だ。何かおかしな気配がします」

「どういうことだ?」

眉を寄せた私に、スピネルが怪訝な顔をした。私達の後ろに周り、少し下がって岩全体を眺める。

「普通の岩にしか見えないぞ?」

「巧妙に隠蔽されてされていますね。うーん…」

目を閉じて集中すると、一瞬ものすごく複雑な構成の魔法陣が見えた。

「えっ?」

慌てて探知魔術を解除し、手を引く。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「リナーリア、どうかしたのかい?」

離れたところで私達を見守っていたお兄様が、魔術の気配に気付きこちらに寄ってくる。

「あ、はい。それが…」

お兄様に話そうとしたその時。

突然、足元を大きな揺れが襲った。

 

「わっ…!?」

立っていられないほどの大きな揺れ。低い地鳴りがあたりに響く。

地震だ。しかも、とても大きい。

 

転びそうになり咄嗟に目の前の大岩にしがみつくと、いきなり岩の一部がぼうっと光った。

同時に、足元に複雑な円と線が絡み合った不思議な模様が浮かび上がる。

「え!?」

慌てる暇もなく、私と横にいた殿下の身体が宙に浮いた。地面の揺れから開放され、全身を浮遊感が包む。

覚えのある感覚だ。この現象が何を差すのかをすぐさま理解し、私は愕然とする。

転移魔術だ。

 

「殿下!リナーリア!!」

揺れのために地面に膝をついていたスピネルが叫んだ。

足元が定まらない中、無理矢理立ち上がり身体強化を使って大きくこちらへと踏み出す。

「スピネル!!」

私と殿下の声が重なる。

 

「リナーリアを!」

「殿下を!」

 

驚愕に染まった殿下の翠の瞳が私を振り返る。

必死の形相でスピネルが手を伸ばし、殿下の腕を掴む。

 

そして、私は二人の目の前から消えた。



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第14話 遺跡(前)

「…何だ、ここは…」

私は呆然と周囲を見回した。

四方すべてを薄灰色に包まれた、がらんとした小さな四角い部屋。前方には閉ざされた扉が一つ。

壁も床もつるつるとした光沢があって、不思議な紋様が入っている。なんと全く継ぎ目が見えない。

思わず壁に近寄って触れてみたが、石のようにも金属のようにも感じる。何を材質に、どんな技術で作られているものか全く想像ができない。

天井にはぼんやりとした白い明かりが灯っている。一見魔術の明かりのようだが、目を凝らしても魔力を感じない。

 

明らかに異質な文明だと一目でわかる場所。

信じられないと思いながらも、考えられる可能性は一つだ。

…ここは、古代神話王国の遺跡だ。

 

古代神話王国ははるか昔、この島で栄華を誇ったという国だ。いつ頃存在したのかはっきりとは分かっていないが、一万年は昔だろうと考えられている。

現在とは比べ物にならないほどに優れた技術や魔術、文化を持ち、その力は強大な竜を殺すほどだったと言う。

だが魔獣による大災害で滅びてしまい、その文明はほとんど失われてしまった。現在には、朽ちた遺跡と何らかの道具などがごくわずかに残るのみだ。

 

…それなのに、まさかこんな遺跡がこの国にまだ残っていたなんて。

狭い部屋だが、見た限り古びた様子はない。まるで作られたばかりのように綺麗だ。

窓の類は一切ないためここがどこなのかは確認できないが、これほどしっかりした形で残っているのなら地中である可能性が高いか。

それほど遠い距離を転移したとは思えないので、火竜山の内部か、あるいは地下かもしれないと私は思った。

 

改めて現状を確認する。

ここにいるのは私だけだ。スピネルが殿下を魔法陣の範囲外に引っ張ってくれたおかげで、転移したのは私一人で済んだらしい。

あの瞬間、殿下は私を助けろという意思を込めて叫び、私は殿下を助けて欲しいと叫んだ。

そしてスピネルは殿下の腕を引いた。

それは正しい判断だ。従者として、主の生命を守ることを優先しただけだ。

逆の立場だったとしても、私も同じ事をしただろう。

 

「…でも、殿下は怒ってるだろうな…」

自分一人が守られる、そんな事を殿下は決して望まない。

スピネルもあれで義理堅い男だし、きっと責任を感じているだろう。

だから早く戻らなければ。

 

先程展開していた魔法陣は非常に複雑で、私の知っている転移魔法陣とはかなり違っていたが、形状は相互通行のものに見えた。

きっとすぐ近くに、元の場所に戻るための魔法陣が描かれているはず…と再びぐるりと部屋を見回すと、後ろの壁にそれらしきプレートが嵌められているのを見つけた。中央に小さな魔法陣が描かれている。

「あった!よし、すぐに戻ろう」

早速魔法陣に向かって魔力を流してみる。

…しかし、いくらやってみても描かれた魔法陣がわずかに光るだけで他に何も起こらない。

「…鍵が必要なタイプか」

転移魔法陣ではよくある、予め作られた鍵を持つ者だけが発動できるようになっているものだ。また、鍵自体に魔力を込めておくことで、魔力が少ない者でも使用を可能にしたりする。

 

しかし、それならば何故さっきは鍵を持たない私に対して発動したのだろう。

私の探知魔術に反応した?それとも、地震が起こると周辺の魔力が乱れるから、長年の風雨に晒され壊れていた魔法陣が誤作動したのか?

あれほど大きな地震は、地震の多いジャローシス領でもめったにないものだ。かなり強く影響が出てもおかしくない。

 

…どちらにせよ、外に出たければ鍵を探すしかないだろうな、と私はため息をついた。

幸いこの部屋の扉には鍵がかかっておらず、私が近付いただけで勝手に開いた。

扉の外には、部屋と同じ継ぎ目のない謎の材質でできた廊下が続いていた。奥は暗くてよく見えないが、いくつかの扉がぽつぽつと見える。

一応警戒しながら頭を出してじっと耳を澄ませてみたが、物音一つせず、人や魔獣などの気配は感じられない。

 

廊下に出てみて驚いたのだが、なんとこの廊下は私が歩く場所の周辺だけに明かりがつくようだ。

これは今の魔術でもやろうと思えば再現できる事だが、長期間の維持はとても大変だ。

古代神話王国が滅びてからずっと放置されてきたのだとすれば、およそ一万年も経っている事になるが…これだけの期間明かりの魔術(魔術なのかどうかすら判別できないのだが)を維持できているなんて、彼らは本当にどれだけ凄まじい知識と技術を有していたのか。

 

とりあえず、まずは扉を片っ端から開いて、鍵を探してみるしかないだろう。

鍵は様々な形で作られるが、動力源として魔石が付けられる場合が多い。

魔石は魔力を蓄える性質を持った透明な石で、独特の気配があるので魔術師ならばすぐに見分けがつく。それを探せばいいはずだ。

…そんな物はどこにもないかも知れないということは、あえて考えないようにした。

 

 

「…ここもだめか…」

12個めの扉から出ながら、私は呟いた。

ここに来るまですべての扉を開けてみたが、どの部屋にも鍵らしきものはなかった。

 

ほとんど何もないがらんとした部屋。これが一番多い。

机と謎の板が置かれた部屋。

金属の箱がいくつも置かれた部屋。

魔導装置のようなものが置かれていた大きめの部屋には少し期待したが、めぼしいものは特になかった。何が起こるか分からないので、魔導装置には触っていない。

生き物の気配は全く無かった。かと言って死んだ物の気配もない。

遺跡内はただ、しんと静かだった。

 

不思議なのは、どこを歩いても埃がほとんど落ちていないことだ。

「埃を自動的に浄化してる…とか?」

だから、朽ちてしまったものは全て消えた。そう考えれば何も残っていないのも納得できるが、それにしてももう少し何か残ってても良さそうな…。

一体どうやって埃とそれ以外のものを判別しているのかも分からない。

 

考えても答えは出ないであろう様々な疑問で頭を埋め尽くしながら、私は軽くくしゃみをした。

「…寒い」

そう。さっきから気になっていたが、ここは寒い。

窓が一つもないせいだと思うが、何らかの方法で空気が冷やされているような気もする。

 

そもそも今の私は、秋にしては薄着なブラウスとスカートにブーツという服装だ。足湯に浸かった際に体がすっかり温まっていたので、小川を見に行った時は上着を脱いでいたのである。

魔術で暖を取りたい所だが、燃やすものが周りにないので魔力だけを燃料にしなければならない。これは魔力の消費が激しいのだが、あまり寒いと今度は体力を消耗する。

何かあった時のために魔力はできる限り温存したいのだが背に腹は代えられない。

私は魔術で炎を出そうとして魔力を集中させ…しかし、何も起こらなかった。

 

「…あれ?どうして」

試しに水も出してみようとする。

が、やっぱり何も起こらない。

魔力を練る事はできるのだが、発動する事ができない。

…ここは魔術が封印されている空間なのだ。

 

途端に私はぞっとした。

火もなければ水もない。ここで、わずか13歳の少女の肉体しか持たない私が一体どれだけ保つだろうか。

今の所、私を捜索する者が来る気配はなかった。

ここは広いが、耳が痛くなりそうなほど静かなので誰かが入ってきたらきっとすぐに分かるはずだ。

侯爵令嬢が消えたとなればかなりの大騒ぎになっているはずだが、もうすでに転移してから数時間は経っている。

それで誰も来ないという事は、誰もあの小川にあった転移魔法陣を動かせていないのだろう。

 

「……」

私はひとつ頭を振ると、また歩き出した。

来るかわからない助けを期待するより、急いで鍵を探さなければ。



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第15話 遺跡(後)

18個目の扉、一番隅にあったその部屋は、他の部屋と明らかに様子が違っていた。

いくつもの棚が整然と並んでいる。置かれているのは沢山のガラス瓶、本、それから箱。なんだか判別できない不思議な物体。

「倉庫かな…?」

どうもこの部屋そのものに保存の魔術がかけられているようだ。だからぎっしりと物が残っているのだろう。

 

様々な大きさのガラス瓶には透明な液体と、何かの肉片や骨片のようなものが詰められていた。大きさからして人間のものではなさそうだが…正直ちょっと気持ち悪い。

しかし、一番下にいくつか並んでいる手のひらほどの大きさの小瓶が気になった。

これは液体が入っておらず、キラキラと光る何かが入っているようだ。そのうちの一つを手に取って眺めてみる。

カランと小さな音を立てて瓶の中で転がったのは、3cmほどの大きさの平べったい何かの破片だった。

色は真っ黒だが、光を反射すると赤く光ってとてもきれいだ。

しかも、持っていると何故か温かい。瓶そのものが熱を持っているわけではないのに、手に持つだけで身体がほんのりと温かくなるのだ。

魔力が込められたものかと思ったが、どうも違うようだ。何らかの力は感じるが…一体何の破片なのだろう。

少し迷ったが、私は小瓶をスカートのポケットに入れた。何であろうと、暖を取れるのはありがたい。

 

次に本の棚の前に移動した。予想通り、背表紙に書かれていたのは古代神話王国文字だ。

実は私は古代文字が読める。

遠い昔に失われたこの文字が読めるのは古代文明の研究者か、学院の選択授業でこのマイナーな文字を学んだ変わり者だけ。…私は後者である。

だってほら、古代ってロマンがあるし…。

 

「流星…竜…解析…骨…?」

ざっと見た所、どの本も竜に関して記されたものばかりのようだ。

それも物語や伝承などではなく、生き物として書かれたものに見える。観察や、解析の記録らしきタイトルが多い。

 

試しに一冊手に手に取ってみる。

「流星」と呼ばれる竜について、日誌形式で書かれた記録のようだ。全部で数十冊あるように見える。数が多すぎるので、ある程度飛ばし飛ばしで読んでいく。

書かれていたのは、魔獣が増えるにつれ竜が暴れるようになったということ。

竜は幾度も繰り返し暴れ、そのたびに大量の被害が出たこと。

…火竜の伝説とは違い、魔獣は竜が生存していた頃から普通に存在していたようだ。

魔獣と竜がどういう関係なのかは分からないが、その動きには関連性がある…と古代神話王国の人は考えたらしい。

竜を討伐するための研究が進められていた事もわかった。何か巨大な魔導兵器を作ろうとしたらしい。

 

さらに読み進めると、苦労の末に竜を倒すことに成功したと書かれていた。

そこからは魔獣被害の記録になっている。

だが、その日付が少し気になる。どんどん魔獣被害の間隔が短くなっていくのだ。しかも、被害規模も増えてゆく。

やがて被害記録は毎日付けられるようになり、絶望を感じさせる描写が増え…そして、そこで途絶えていた。

 

 

「ふう…」

しばらく後。私は4つ目の棚にあった本を閉じると、また元に戻した。

大量の本のうち、ある程度理解できたのは最初の日誌くらいだった。

残りの本はだいたい竜殺しの武器や、竜の体について書かれているようだ。

どの本も専門用語ばかりで内容はほとんど分からないが、皮膚、骨、肉、と言った単語が散見される。何かの分析結果らしい数字も沢山並んでいる。

 

どうもここは竜の生態やその肉体について研究する場所であったらしい。始めは竜を討伐するために作られ、討伐が成功した後はその死体を研究した。

…あの瓶に入った肉片や骨片は、そういう事なんだろうな。

火竜山の竜は古代神話王国によって殺されたという説が有力だし、殺して切り刻んだその死体をここに運び入れたのか。いや、あるいは死体があった場所に研究所を作ったのか…?

幾度も暴れ回り多くの人々を殺した竜とは言え、これほどに切り刻まれ晒されるというのは少し哀れな気がした。

 

という事は、ポケットに入れたあの温かい小瓶の中身は、竜の鱗の破片だろうか。

もしかして持ってたら呪われたりするかな…とちらりと思いポケットに手を当てたが、そこからは相変わらず温かさを感じる。それは決して悪いものではないような気がした。

単なる都合の良い思い込みかもしれないが。

 

「…って、本ばっかり読んでどうする!!」

私ははっと我に返った。しまった、本を見かけるとつい…!目的は鍵を探すことだと言うのに!

慌てて本以外のものを探した。

棚に収められていた箱を片っ端から取り出し、中身を確かめる。

小さな黒っぽい箱がたくさん入ったものや、謎の道具が収められたものが多い。

 

「…ん?これ…」

とある箱の中に、小さな透明の板が数枚重なってひもで止められていた。

「この板、魔石で出来てる…?」

束ねられたうちの一枚を抜き取り、書かれた小さな文字を読む。

「外部…内部…移動、許可…これだ!!」

よく見るとうっすら魔法陣も透けて見えるから間違いない。

多分、ここを出入りするための入場許可証なのだ。

 

私は魔石の板を持って最初の四角い小さな部屋へと走った。

乱れた息を整え、壁に嵌められた魔法陣のプレートに板をかざしてみる。

「……」

魔力を流してみる。

「……」

ぺたぺたと色んな角度で板をプレートに当ててみる。

「……」

…発動しない。近付けるとぼやっと光りはするのだが、それだけだ。

転移は起こらない。

 

「…何故!?」

反応はあるから、これが鍵で合っているはずなのだ。

つまり、発動方法が間違っているか、発動条件が足りないか。

もしかしてキーワードが必要?登録者しか使えないタイプ?それとも他になにか…?

どうしよう。私はひどく焦り始める。

 

「見つけたのに使えない」というのは、「あるかどうか分からない」よりもはるかに絶望的だった。

にわかに「もう帰れないのかもしれない」という考えが現実味を帯び始め、背中を冷たい汗が伝うのがわかる。

 

いやだ。

せっかく生まれ変わったのに。

もう一度会えたのに。

まだ何もしていない。

何も守れていない。

あの方を救う術を見付けられていないのだ。

 

「お願いします…お願いですから」

発動してくれ。

帰らなければ。

滲む視界の中、必死で板をプレートに押し付け、魔力を注ぎ込む。不思議な浮遊感が身体を包む。

 

「殿下…!!」

 

 

「…リナーリア」

 

ふと殿下の声が聴こえた気がして、私は目を開けた。

殿下は私の目の前で、ベッドに腰掛けこちらを見上げていた。

「…え?」

思考が停止する。

えっ?

 

殿下が呆然とした顔で立ち上がり、私の頬に手を伸ばす。

初めはそっと触れ、それからぺたぺたと顔やら頭やらを触り、最後に私の頬をつねった。

「ふぇっ!?」

思わず悲鳴を上げる。

「…リナーリアだ」

殿下はもう一度呟くと、がばっと私を抱きしめた。

 

「良かった…リナーリア…俺はもう、君に会えないのかもしれないと…」

かすかに震える声が、耳のすぐ横から聴こえる。

温かい腕と身体が、私を包んでいる。

「…殿下。本当に、殿下ですか…?」

「そうだ、リナーリア。俺だ。…君は、ちゃんとここにいる」

 

殿下の肩越しに、どこか見覚えのある部屋の内装が見えた。

じわじわとこれが現実なのだと頭に染み込んでくる。

目の端から涙がこぼれるのが分かった。

ぎゅっと殿下の服を握りしめる。

 

「私も…もう一度貴方に会えて、良かった…」



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第16話 おかしな魔術師

私があの温泉近くの岩の魔法陣で転移してしまった後。

まず、仰天したラズライトお兄様はすぐに私の後を追おうとした。しかし、いくら試しても転移魔法陣は全く動かなかった。

軽く岩を調べた結果、本来は鍵が必要なタイプの魔法陣であり、私は誤作動に巻き込まれたのだと判断したお兄様は、すぐにジャローシス侯爵屋敷に戻った。

慎重なお兄様は、何かあった時のためにすぐに転移魔法陣を設置できる魔導具を持って視察に出ていたのである。これを使い屋敷に跳んだのだ。

 

そこでお父様に事情を説明し、魔術師を集めてもらうように頼んだお兄様は、その場にいた騎士数人を連れてまた温泉へと転移で戻った。

騎士達に周辺を捜索してもらいつつ、お兄様自身もまた私を探すために私を対象とした探索魔術を実行。殿下とスピネル、その護衛も捜索に協力してくれたそうだ。

しかし、何の痕跡も発見できなかった。

続いて到着した魔術師たちにも協力してもらい、岩の魔法陣の調査と私の捜索を並行して行ったが、やはり進展はなし。

 

やがて日も暮れてきて、何度も探索魔術を使った兄と他の魔術師たちが「この近辺には恐らくいない。どこか閉鎖された、魔術的に隔離された空間にいる可能性が高い」と判断したことで、捜索は一旦打ち切られ屋敷に戻って捜索計画を練り直す事になった。

しかし、私が魔法陣から戻ってきた時のため、岩の側に誰かを残しておかなければならない。

その役を自ら願い出てたのはお兄様で、さらに我が領の騎士数名と、それからスピネルも、お兄様の護衛を兼ねて一緒にあそこに残ってくれたのだという。

殿下も残ると主張したが、視察中の王子にそんな事をさせる訳にはいかないと説得し、屋敷に戻ってもらったのだそうだ。

 

そうして大部分の者は屋敷に戻り、軽く明日の事について打ち合わせてから一旦解散となった。

だがなんと、その夜遅くになって私が突然屋敷へと現れたのだ。

遺跡で転移魔法陣の鍵を使った私は、あの岩ではなく、なぜか屋敷内の殿下が滞在している部屋へと転移していたのである。

部屋の中から声がするのでおかしいと思った護衛が私達を発見し、屋敷は大騒ぎになったらしい。

らしいと言うのは、私はその時完全に気絶していたからである。原因は魔力切れ。ほぼすっからかんだったのだそうだ。

殿下は急に倒れた私に随分慌てていたそうで、本当に申し訳ない。

 

翌朝目を覚ました私は、お父様やお母様、お兄様、使用人や騎士たちと、周り中の人々から無事を喜ばれた。

特に家族は完全に泣いていて…まあ、そこは詳しく語らなくてもいいだろう。私もつられて泣いてしまったりしたし。

ただ、少し離れた場所から見ていたスピネルが泣きそうに顔を歪めていたのがひどく印象に残った。

 

 

…そして、それから数時間後。

「それではリナーリア嬢!転移先がどのようなものであったか説明していただこう!!」

ウキウキとしか表現しようのない様子で、目の前のボサボサ頭の魔術師が私に向かって言い放った。

 

ここは屋敷内にある会議室だ。

並んだ席にはお父様やお兄様、殿下とスピネル、幾人かの騎士と魔術師。さらに、たった今言葉を発した王宮魔術師のローブを着た男が座っている。

私から事情聴取…もとい、事情説明を聞くために皆集まっているのだ。

さっきまでは、お兄様が昨日の出来事を掻い摘んで私に説明してくれていた。

それでいよいよ私に事情を訊く段になって、身を乗り出してきたのがこの魔術師の男なのである。

 

「古代神話王国の遺跡だったんだろう?中の様子は?何があったのだい?どうやって戻って来たのかな!?」

「…リナーリア、このセナルモント殿は古代研究が専門でね」

その勢いにちょっと苦笑いをしながらお兄様が言う。

「わざわざ王都から来て、お前の捜索に加わってくださったんだよ」

いや絶対私の捜索のためじゃないです、古代神話王国のものらしき魔法陣が見つかったと聞いて飛んできただけです…。

セナルモントについては先程軽く紹介を受けたばかりだが、実は私はそれ以前からこの男を知っていた。

セナルモント・ゲルスドルフ。歳は確か今34歳だったか。

ボサボサ頭に何ともとぼけた顔をしたこの痩せた男は、前世での私リナライトの魔術の師匠の一人。

そして、生粋の古代神話王国マニアである。

 

この島は大規模な魔獣災害のたびに大きな破壊を受けているため、古代の文明や遺産はあまり伝わっていない。

古代の魔術関連の品はとても貴重で、見つけた時は王都の王宮魔術師団への報告義務が生じる。それが王子の視察中となれば尚更だ。お父様も、すぐに遠話の魔導具で王都へ連絡をした。

王都からはかなり距離があるが、先生…セナルモントは報せを聞いてすぐにいくつもの領の転移魔法陣を経由してやって来たに違いない。

連続での転移は相当身体に負担がかかるはずだが、いても立ってもいられなかったんだろうな…。古代神話王国の事になるとなりふり構わない人だし。

 

私は内心で呆れつつ、セナルモントへと頭を下げる。

「この度は大変ご迷惑をおかけいたしました」

「いやいや良いんだよ!古代神話王国の魔法陣が見つかるなんて滅多にある事じゃないからね!大急ぎでここまで来たんだ。昨日既に見せてもらったけど、いやああの魔法陣は面白いねえ。本当に興味深い。で、転移した後はどうだったんだい?」

「リナーリア。ゆっくりでいいから、お前の身に起きたことを順を追って話してくれ」

お兄様もこの魔術師の事は知っているんだろうな。だいぶ困った様子だ。

わりと有名だからなこの人…。主に変人として。

 

 

「…という訳で。なんとか魔法陣を発動しようと鍵に魔力を集中させていて、気が付いたらこの屋敷にいたんです」

「ふむふむ、なるほど。とてもとても興味深いねえ!しかし何でこの屋敷に出てきたのかな?心当たりはあるかい?」

「分かりません。…ですが、その時エスメラルド殿下のことを考えていたのは確かです」

「なるほどねえ~。特定の個人を転移先目標にできるのだとしたら凄い事だなあ…しかも意識しただけで?どうやって座標を特定するんだろう?うう~ん…」

セナルモントはしばし考え込み、だが結論を出すことはあっさり諦めたようだった。

「まあ、それは後で考えよう。それじゃあ…」

ごそごそと懐を探る。

「その鍵というのは、これの事でいいのかな?」

 

白い布に包まれたそれは、一枚の小さな黒い板だった。こちらへと回されてきたその板を、私は手に取る。

「昨夜、気を失った君が手に持っていたものだ。魔石を削り出して作ったもののようだが…見ての通り、魔力やけで黒化してしまっている」

黒化というのは、過剰に魔力を注がれた魔石に起こる現象だ。

魔石は魔力を蓄えられる性質を持つが、限度を超えて魔力を注ぐとこのように黒く染まってただの石ころになってしまうのである。

 

私は板を軽く光にかざしてみたが、完全に黒化していて向こうは全く見えない。

刻まれた古代文字は読み取れたが、うっすら浮かんでいたはずの魔法陣は跡形もなく消えてしまっていた。

「…間違いなくこれだと思います」

「そうかい…残念だねえ。これが使えれば、遺跡に入れるかもしれないのになあ…」

セナルモントは心底残念そうだ。遺跡に残っていた本や道具について思いを馳せているのだろう。

だが私は内心で少し安心していた。あの遺跡にあったものは、あまり人目に触れさせない方が良いような気がしていたからだ。

あれらの本や不可思議な道具、そして哀れな竜の一部が収められた瓶の数々は、人の手には余るもののように私には感じられていた。

 

…だが、表面上はあくまでしおらしくしておく必要がある。

「申し訳ありません。夢中だったので…」

「ああ、いや、気にしなくて良いとも!そのおかげで君は戻って来られたのだからね。先程の話を聞く限りこの鍵は本来、予め登録した者のみが使えるように設定されていた可能性が高い。君はきっとそれを容量を大幅に超える魔力を注ぐことで無理矢理発動させたんだね。もし発動できていなかったら、今も遺跡に閉じ込められたままだっただろう」

「なんと…」

皆が息を呑む。私も今更ながらに背筋がひやりとした。本当に危ないところだったのだ。

 

「まあ、王都に戻って解析してみるよ。魔法陣の一部くらいは読み取れるかも知れないしね!あ、そうそう、この鍵もあの岩も王宮魔術師団で回収させてもらうよ。それからしばらくの間はあの温泉地及び火竜山の周辺を封鎖させてもらう。近く調査団が派遣されてくる事になるだろうから、よろしくね。…ああ、言うまでもないけど今回の件は決して人に話さないように。捜索に関わった騎士や魔術師たちにも箝口令を敷くように」

「承知いたしました」

お父様がうなずく。

封鎖や箝口令は当然の処置だろう。また何かの拍子に転移が起こらないとも限らないし、私も未知の魔法陣に巻き込まれたご令嬢なんて噂はされたくないので有り難い。

 

「それで、リナーリアは…」

遠慮がちに口を挟んだのはお兄様だ。

「ああ、リナーリア嬢の処遇だね。僕もまだざっとしか調べていないけれど、今回の事は間違いなくただの事故だ。リナーリア嬢は地震によって誤作動した魔法陣に巻き込まれただけ、だから何も気にすることはないよ。後で軽く検査をしてもらうけど、魔力を使いすぎた以外は健康にも問題なさそうだし」

良かった、お咎めなしらしい。私はほっと胸をなで下ろした。

 

「あ、でも一応、さっき話してくれた事を後でレポート…文章にまとめて送ってもらえるかな?ちゃんとこちらでも記録しておいたけど、記憶というのは時間が経つと齟齬が出るものだしね、念の為にね。他に何か思い出した事なんかもあったら追記してね」

「分かりました…」

かなり面倒だが、このくらいは仕方ないだろう。

「どうやら君はかなり記憶力が良さそうだから大丈夫だろう。話も理路整然としていて分かりやすかったし、君はとても優秀だなあ!何より古代神話王国文字が読めたというのが素晴らしいね!古代文明についての理解もあるようだし、こう言ってはなんだが、転移したのが君だったのは実に幸運だったよ!!」

大きく腕を広げて感激を表すセナルモント。…周りの者はだいたい皆引いている。

 

「あの文字を読める者は魔術師でもあまりいないよ!一体どこで教わったんだい?」

「えーと、独学で。少々興味がありまして…」

私は笑って誤魔化す。前世で貴方から話を聴いて興味を持ったんですとは言えない。

「素晴らしい!実に素晴らしい!!君、良かったら王宮魔術師団に入らないかい!?」

「は!?」

さすがに黙っていられなかったらしく、お父様とお兄様が声を上げた。

「君はきっと優秀な研究者になれる素質があるよ!それに、まだ13歳だったかな?その歳で高純度の魔石をここまで見事に黒化させるほどの魔力量も素晴らしい。どうか考えておいてほしい!」

「は、はい…」

気圧されてうなずく私。

お父様達は困り果てているが、でも王宮魔術師か。学院卒業後の進路としては悪くない。

家族は私がどこぞの貴族家に嫁ぐ事を望んでいるだろうけど、私としてはやっぱり男と結婚するのは避けたいしな。

 

「まあ別にその気がなくても構わないから、王都に来たらいつでも訪ねて来てくれたまえ。僕はだいたい王宮内に詰めているから、名前を出せばすぐに会えるよ。古代神話王国について研究した本もたくさん置いてあるからね!君に見せてあげよう!!」

あの、私はつい昨日その古代神話王国の遺跡内に閉じ込められてて、そのまま死ぬかもしれなかったんですが…?

きっと古代マニアの同志が見つかったと思ってるんだろうなあ。

デリカシーの欠片もないその発言には苦笑いをするしかなく、お父様や殿下達も非常に苦い顔で興奮するセナルモントを見ていた。



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第17話 反省会

「うう、疲れた…」

私は自室に戻ると、たまらずにベッドの上へと倒れ込んだ。

大勢に囲まれ、昨日の出来事について説明をするのはとても緊張した。まだ魔力が回復しきっていないのもあり、体がだるい。

それでも聴取の相手がセナルモント先生だったおかげでずいぶん助かったと思う。前世でよく知った相手だったし、先生自身が緊張感の薄い人物なので、かなり気が楽だった。

最も今世では、向こうは私の事など知らないのだが。

 

…せっかくの殿下の視察なのに、とんだ事になってしまったな。

ごろりと寝返りを打つと、机の上にきらりと光る小瓶が乗っているのに気付いた。

「あっ!これ…」

慌てて起き上がり手に取る。黒い破片入りの小瓶。間違いない、あの遺跡にあったものだ。

朝はバタバタしていてこれの存在に気付かなかった。すっかり忘れていたけれど、ポケットに入れたまま帰ってきてしまったのか。

その時、コンコンとノックの音が聞こえた。

「お嬢様、よろしいでしょうか?」

 

「コーネル!あの、この小瓶…」

思わず勢い込んで尋ねると、コーネルは「はい」とうなずいた。

「気を失ったお嬢様のお着替えをする際、スカートのポケットに入っていたものです。大切なものかと思い、取り出して置いておいたのですが…」

他の皆は手に持っていた鍵の方に気を取られ、こちらには気付かなかったらしい。

 

私は少し迷ったが、これはこのまま無かったことにして隠しておくべきだと思った。

事情説明の際にも、倉庫にあった本の内容はある程度話したけれど、小瓶やら道具やらについては「見てもよく分からなかった」で通してあった。

セナルモント先生は個人としては良い人間だが、こと古代神話王国の事になると人が変わり暴走しがちになる。申し訳ないけれど、伏せておいた方がいいだろう。

「…これの事は、誰にも話さないでください。お願いします」

私がそう頼むと、コーネルはごく当たり前のように「わかりました」とうなずいた。

彼女は昔から、こうして私の少しおかしな行動を何も聞かずに黙って受け入れてくれる。それがとても有り難かった。

 

「それで、私に何か?」

「はい。…王子殿下が、お嬢様と話がしたいと。いつでもいいので部屋に来て欲しいそうです」

やはりそうか。会議室ではほとんど喋らなかったが、きっと色々言いたい事があるんだろうな。スピネルも何か言いたそうな顔でこっちを見ていたし。

「分かりました。すぐに行きます。コーネル、お茶をお願いします」

「はい」

私は小瓶を机の引き出しの奥にしまうと、すぐに踵を返した。

 

 

 

コーネルが3人分のお茶を用意してその場から下がると、殿下はおもむろにソファから立ち上がった。

そして、私に向かって大きく頭を下げる。

「リナーリア。すまなかった」

「で、殿下!?」

ぎょっとして私も立ち上がる。

殿下の性格からして私に謝るのは予想していたが、王族がこのように頭を下げるのはいくら何でもやりすぎだ。

「やめて下さい、そんな」

スピネル、見てないで殿下を止めろ…と思ったら、いつの間にか立ち上がったスピネルもまた頭を下げている。お前もか!

「殿下は何も悪くないじゃありませんか…。スピネルもです」

私が困り果てているのに気が付いたのだろう、二人は顔を上げてうなずき合うとソファに座り直した。

良かった。今の姿勢はあまりに心臓に悪い。

 

「君があのような危険な目に遭ったのは俺のせいだ」

「転移は偶発的な事故だと、先…セナルモント様もおっしゃっていたでしょう」

「違う。俺が何かおかしいなどと言わなければ君はあの岩に近付かなかったかもしれないし…何より、魔法陣が発動した時すぐに反応して退避していれば、君は転移に巻き込まれる事はなかった」

それはそうかも知れないが、突然起こった地震の中、咄嗟にそれを実行できる者などほとんどいないだろう。

殿下は今まで転移を使う機会はあまりなかっただろうから、あれが転移魔法陣だとすぐには分からなかっただろうし。

 

殿下は横のスピネルへと視線を動かす。

「…スピネルも。あの時は怒鳴ってすまなかった。お前は俺を助けてくれたのに」

…え、怒鳴った?殿下が?

思わずびっくりしてスピネルを見ると、スピネルは落ち込んだ顔で「…いいや。謝らないでくれ」と俯いた。

殿下は普段穏やかだしあまり感情を表に出さないが、大切な者を傷付けられた時には恐ろしく怒る。その事を私は前世で知っていたけれど、一番の腹心であるスピネルにまでそんなに怒ったのか。

 

「殿下が怒るのも当然だ。一番悪いのは俺だ。俺にもっと力があれば、殿下もリナーリアも両方助けられていた」

膝の上で組んだ自分の拳を見下ろしながら、スピネルが呟く。

あの状況で殿下だけでも助けられたのは大したものだろうに…と思うが、私はフォローできる立場ではない。

そして殿下はスピネルの言葉に小さく首を振った。

「違う。俺が悪い」

「いや、俺が」

ええええ…。

どうしようこの状況。物凄くいたたまれないんですが。

 

「あの、二人共やめてください。私はこうして無事ですし、そんなに気にされることはありません。私は気にしてませんし」

「俺は気にする。…リナーリア」

殿下が私を見据える。

「どうして君はあの時、スピネルに助けを求めなかったんだ」

…はい…やっぱりそうなりますよね…。

 

分かっている。殿下は怒っているのだ。

私を助けなかったスピネルにではない。「殿下を助けてくれ」とスピネルに言った私にだ。

「君が帰ってくるまでの間、本当に生きた心地がしなかった。もし君がこのまま戻らなかったらと考えると、目の前が闇に包まれたようだった」

「……」

 

「君が俺を助けたいと思ってくれた事は分かる。その気持ちはとても尊いとも思う。…だけど、俺はそんな事は望まない」

きっぱりと言い切るその強い瞳が眩しくて、私は思わず目を逸らした。

この方はそういう方だと私はよく知っている。

優しく、強く、そして誰にも曲げることのできない強い矜持を持っている方だと。

「リナーリア。二度とあんな事はするな。…その時は、俺は君を許さない」

 

分かっている。分かっていたけれど、聞きたくはなかった。

殿下がこんな事を言うのは、()()()()()()()()()()だ。

これが従者のリナライトであったなら、殿下はこんな事は言わなかっただろう。自分の力不足を嘆きはしても、「俺を助けるな」などとは言わない。

王子を守り助けるのが従者であると知っているからだ。

…だけど、今の私は殿下にとっては守るべき民の一人。

ただの貴族令嬢でしかないのだ。

 

その事実を改めて突きつけられたのがひどく悲しく。

私は努めて感情を出さないようにして「…承知しました」とだけ言って頭を垂れた。

 

殿下はしばし沈黙した後、またスピネルを振り向いたようだった。

「スピネルもだ。…次は必ず、俺ではなく彼女を選べ」

「…はい」

スピネルもまた、神妙な声で返事をする。

「無論、俺とてお前たちに二度とこんな思いをさせるつもりはない。次はと言ったが、その時が決して来ないようにする。危機の際には必ず自分の身を守り、その上でお前達も守ってみせる」

力強く宣言した殿下に、スピネルが応えた。

「俺だって、二度とこんな事はごめんだ。次は必ず、両方を助ける」

 

二人の声を聞き、私は泣き笑いのような気持ちで顔を上げた。

二人共ちゃんと前を見ている。

ならば私も、しっかり前を向いていくべきだろう。

 

「私だって、こんなのもう嫌ですよ。もっと勉強して、あんな魔法陣なんてすぐに見破れるようになります」

便乗して鼻息荒く言った私に、殿下が少し微笑む。

「そうだな。そうしてくれると、俺も安心だ」

「そもそもお前は危なっかしすぎるんだよ。もうちょっと後先考えて行動しろ。生命がいくつあっても足りない」

「私は慎重に考えて行動していますが」

「…慎重という言葉の意味を間違えていないか?」

「考えてこの行動だとしたらもっと最悪なんだが」

「二人共酷くないですか!?」

 

私は二人を睨み、やがて誰からともなく笑い出した。

殿下が言う。

「…俺たちは皆、まだ足りないものばかりだ。三人で、もっと強くなろう」

「…はい!」

「ああ」

そうして、私達はようやく3人で笑い合い、無事を喜びあう事ができたのだった。



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第18話 新たな友情

その日の夜、私は小さなノックの音を聞いて自室のドアをそっと開けた。

「…スピネル」

「…悪い。ちょっといいか?」

彼が訪ねてくるような気はしていたので、私は黙ってうなずいた。

 

中へ入り、椅子に座るように促したのだが、スピネルは部屋に入ったところですぐに止まってしまった。

彼が「女性の部屋で二人きりになる時は、疑われないようドアを少し開けておくべし」という騎士の教えを守るべきか迷っている事に気付いた私は、思わず少し笑ってしまった。

人に聞かれたくない話だからこんな夜中に訪ねて来たのだろうに。意外とこういう場には慣れていないらしい。

「貴方のことは信用していますから、ドアを閉めて下さって大丈夫ですよ」

「……」

スピネルは気まずそうに扉を閉めると、私の向かいの椅子へと座った。

 

「まず、先に謝っておく。本当に済まなかった。お前を助けられなかったのは俺の力不足だ」

「もういいと言っているでしょう。私にも落ち度はありましたし」

「お前は悪くないだろ」

「いいえ。…それに、貴方もずいぶん辛い思いをしたでしょう?」

今朝、戻ってきた私を見た時のスピネルの泣きそうな顔が忘れられない。

それにスピネルは、捜索が一旦打ち切られた後、夜になっても岩の側で待っていてくれたそうなのだ。

名目上はお兄様の護衛だが、間違いなく彼自身の意志で私を待っていてくれたのだと思う。責任を感じての行動だろうが…。

一縷の望みをかけ、行方不明になった妹を待つ憔悴した兄。

その妹を助けられなかった(私自身の意志でもあるのだが)男。

…そこに流れた空気は、想像するだに地獄である。お兄様は優しいので責めたりはしなかったと思うが、その方がよほど辛い。

一緒にいたという騎士たちも針のむしろだっただろうな…。後で名前を聞いてお礼を言っておこう…。

 

「俺のことは別に…いや、それはいいんだ。それより、もう一つ謝る事がある」

スピネルはそう言って口をつぐんだ。

「謝る事とは?」

「……」

言いにくそうに視線をさまよわせ、しばらく黙り込む。

それから意を決したように顔を上げ、はっきりと私の目を見た。

「…殿下には、ああ言ったが。…もしも同じことが起きた時、俺はやっぱり、殿下を助ける」

 

沈黙が部屋の中に落ちる。

「…わざわざそれを言いに?」

あえて冷ややかに言ってみせる。だが、スピネルは私から目を逸らさなかった。

「そうだ。…もちろん、必ず二人共助けられるように努力する。もっと鍛えるし、もっと強くなる。…だけど、本当にどちらかしか選べないなら、俺は殿下を選ぶだろう。だから、すまない」

 

私は一つため息をついた。

…こんな事を、彼は私に言う必要などないのだ。

誰が何と言おうと殿下を守る事は彼の責務であり、使命だ。私にはそれを咎める資格などないし、咎めるつもりもない。咎められる者など、殿下の他にはいない。

だけど、彼はあえて私にそれを告げた上で、私に謝ろうとする。

それを誠実と言わずして、なんと言うだろう。

 

「…正直、助かりました」

「え?」

スピネルが怪訝な顔をする。

「本当は、私の方から貴方に釘を刺しておくつもりだったんです。殿下の言うことを聞く必要はないと」

「…お前…」

スピネルはわずかに目を瞠った。

 

「殿下は…あの方は、あのままで良いのです。あの強く真っ直ぐな魂が、私にはとても尊い」

私は目を閉じる。

今でも鮮やかに蘇る、幼い頃から共に育ってきた大切な思い出。…それはもう、私の胸の中にしか残っていない。

「だから、たとえ命令を裏切ることになっても、貴方には殿下を守ってもらいたい」

 

ようやく確信できた。スピネルならば、何があっても必ず殿下を守ってくれる。

彼は殿下の友人で、好敵手で、何よりも臣下なのだと、そう分かった。

スピネルは少しだけ辛そうな顔をしたが、もう一度力強く私を見ると、立ち上がって騎士の礼をした。

「承った。スピネル・ブーランジェ、一命を賭して必ず殿下をお守りすると誓う」

その迷いのない鋼色の瞳に、私は微笑む。

「…貴方が、殿下の従者で良かった」

私ではなく彼が従者になった事には、きっと意味があるのだ。

 

「でも、私も死にたくはないので。次はできれば頑張って私の事も助けて下さいね。期待しております」

わざとおどけながら言うと、スピネルもわざとらしく顔をしかめた。

「お前があまり無茶をしなければ俺ももっと楽になるんだが?」

「いいじゃないですか。か弱いご令嬢を助けるのも騎士の仕事でしょう」

「どこにか弱いご令嬢がいるんだ」

「そういう事言いますか?殿下に言いつけますよ?」

「おいやめろ」

 

私はくすくすと笑うと、「そうだ」とふと思いついてスピネルを見た。

「スピネルにもう一つお願いがあるんですが」

「なんだ?言ってみろ。お前には借りができたしな」

「騎士って借りとかなんとかそういう考え方するの好きですよねえ…。まあそれはいいです。…スピネル、私と友人になって下さい」

スピネルへと向かって右手を差し出す。

 

スピネルは信用できる人間だし、とても強い。心も、身体もだ。これからもっと強くなるだろう。

だけど、多分それだけでは足りないのだ。もし彼が殿下を助けられたとしても、その時彼が無事でいられるとは限らない。殿下には彼が必要だ。

殿下のためにも、彼のためにも、私は私にやれる事をやる。

…例え誰にも、殿下自身にすら認めてもらえなくても。私は今でも、殿下の臣下なのだから。

そのためにはもっとスピネルと親しくなり、彼の事を知っておくべきだろう。

 

そう考えての「友人になろう」という提案だったのだが、スピネルは何故か物凄く残念なものを見る目で私を見た。

「…俺は、お前が今まで俺を友人だと思っていなかった事にショックを受けているんだが」

「えっ!?」

思わず慌てる。

「えっ、いや、親しくしてくれてるとは思ってましたよ!?でもほら、殿下からは『これから仲良くしてくれ』ってはっきり言われましたけど、貴方とはそういうの特に無かったじゃないですか!」

「お前本当に友達いないんだな…」

憐れまれた。

「…さ、最近は少しできましたし…」

思わず呻くと、スピネルはおかしそうに笑った。

「本当にお前って奴は…。いいさ、じゃあ改めてって事で。…これからもよろしく、リナーリア」

今度はスピネルの方から手を差し出した。

私はその手を握り返し、「よろしくお願いします」と言って笑った。

 

「でも、俺は前からお前を友人だと思ってたから借りはそのままだな」

「別に貸しだとは思ってませんし、返済も必要ありませんが?それに、私は今まで貴方に結構助けられてると思うんですが」

ダンス教師を紹介してもらったり、ご令嬢と仲良くなる方法を教えてもらったりとか。

「いいから黙ってツケとけ。返して欲しくなったらいつでも言え」

ううむ、本当に律儀な男だ。

前世では軽薄な奴だと思っていたけれど、人は見かけによらないものだ。それともやはり、殿下と出会って変わったのだろうか。

 

「じゃ、俺は戻るわ。明日も視察だし」

「あー…私は行けないんですよね…残念です」

地震と転移事件とで危うく中止になりかけた視察だが、一日遅れでそのまま続けるとすでに決まっていた。

私は半日ほどで無事に戻ってきたし、それについての箝口令も敷かれている。また、不思議なことに地震はあの温泉地以外ではそれほど揺れず、領内への被害もほとんどなかったらしい。視察に支障はないと判断された。

だが遺跡に閉じ込められ魔力切れ状態でやっと帰ってきた私は、さすがに屋敷で休んでいるべきだろうと満場一致で決まったのである。

「大丈夫、そのうちまた機会があるさ。じゃ、おやすみ」

スピネルはひらりと手を振ると部屋を出ていった。

機会か…。あるといいんだけどな。

 

 

翌々日、視察を終えた殿下御一行はジャローシス領を去っていった。

その姿を見送り、私は青い空を見上げる。

前世の殿下は、13歳の時この領に来ることはなかった。

古代神話王国の遺跡が見つかったりもしなかったし、この時期に大きな地震があったような覚えもない。

私の記憶の中の世界とこの世界とでは、どんどんずれ始めているのかも知れないと私は思った。



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挿話・4 純粋

揺れる馬車の窓から、スピネルは外を見ていた。

見送ってくれたリナーリアやジャローシス家の者達の姿はもう見えない。

視察の行程は一日遅れになってしまったが、この程度のずれは天候次第でいくらでも起こる。今日はとても天気が良いし、順調に進むことだろう。

 

「スピネル。…俺は間違っていただろうか」

ふいに、エスメラルド王子が呟いた。

沈んだその様子に、スピネルは「どうしてそう思う?」と尋ねる。

「俺は、リナーリアを守りたい。危険な目になど遭わせたくない、彼女はただ笑っていてくれればそれでいいと思う。…でも、彼女はそうは思っていないようだ」

「……」

「俺が叱った時、彼女はとても悲しそうだった」

『二度とあんな事はするな。…その時は、俺は君を許さない』

自分より王子を優先しようとした彼女に対し、王子はあえて厳しい言い方をした。

もしスピネルが王子の立場だったとしても同じことを言っただろう。彼女にそんな事をして欲しくはないし、する必要もない。それは自分の役目だ。

だが彼女は、それを悲しんだ。叱られて落ち込んだのではなく、何かとても辛い事を言われたかのように目を逸らした。

 

「…どうしてリナーリアは、あんな事をしたんだろう」

それはスピネルも疑問だった。

王子を助けたかったという動機は分かる。しかし明らかに自分も危機に陥っている時に、咄嗟に「殿下を」などと普通言えるものだろうか。

彼女はまだ13歳の少女で、危機があれば誰かに助けを求めるのが当然の存在だ。一人立ち向かい、自力でなんとかしろと言う人間などいない。

 

一昨日の夜、握手をした時の事をスピネルは思い出す。細くて小さな手だった。

あんな小さな手で、それでも「助けて」とは言わなかった。

「何故そうまで殿下を助けたかったのか」と尋ねたかったが、その前に話を逸らされてしまった。彼女はたまにそうやって、ふざけて煙に巻こうとする時がある。

何か触れられたくない事があるのだろうと、王子もスピネルも薄々勘付いている。

 

だから、スピネルはあえて明るく言った。

「あいつはバカだから、ただ殿下を助けたかっただけだよ。それ以外何も考えてないのが困りものだけどな。あんたが大事なんだ」

「どうしてそんなに俺が大事なんだ」

「知るか。あいつに聞けよ」

「『理由が必要ですか?』とか言われそうなんだが…」

「…言いそうだな。あいつは」

これが恋心だというのなら話は簡単なのだが、そうは見えないのでややこしいのだ。

王子も、彼女がそういう態度だったならこのように悩みはしなかっただろう。彼女の気持ちに応えるかどうか、それだけ考えればいいのだから。

 

「リナーリアはとても純粋だ。…だから俺は、自分が間違っているような気がして仕方ないんだと思う」

純粋。それは確かに彼女を表現するのにぴったりなのだろうが、あまり好きにはなれない言葉だなとスピネルは思った。

純粋なあまり自分の身を顧みないというのは、どこか歪んでいるように感じるのだ。

「純粋なものが正しいなんて限らない。俺は、殿下は間違っていないと思う」

殿下はあのままでいいのだと、彼女は言っていた。

スピネルもまたそう思う。王子はこのままでいいし、変わって欲しくはない。

 

「殿下が言った通りだ。俺たちは足りないものばっかりで、だから失敗もする。間違ってるからじゃない、力が足りないからだ」

王子は顔を上げ、それから自分の手のひらを見つめた。

「…そうだな。悩むより前に、やる事はいくらでもある」

「心配なら、あいつがおかしな無茶をやる前に殿下が止めりゃいい。俺も少しは手伝ってやる」

「お前のそれが『少し』か?」

「何のことだよ」

「本当に素直じゃないな。感謝はしているが、遠慮ならしなくていいぞ」

「だから何のことだよ」

王子は呆れたような顔をしたが、スピネルの方はあくまで「何のことかわからない」という顔だ。

 

「それならそれでいいが。…とりあえず、王都に帰ったら剣の稽古だな。魔術もだ。もっと鍛えたい」

「了解。いくらでも付き合うさ」

「まずはお前に追いつかなければな」

そう言って笑う王子に、スピネルは「できるもんならな」と不敵に笑い返した。



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挿話・5 王子の友人

スピネル・ブーランジェは、7歳の時に第一王子エスメラルドの従者になった。

王子はスピネルより2歳年下。通例上第一王子と呼ばれているが、現在のところ一人っ子だ。

現国王はあまり身体が丈夫な方ではなく、一昨年にも大きな病をしたため、これ以上子を作るのは難しいと大人達が話しているのを聞いた。

つまりスピネルの主となった小さな少年は、将来この国の王となる事が決まっている人間だった。

 

従者に決まったと聞いた時、スピネルは内心で「面倒くさいな」と思った。

自分は四男で、将来はどこぞに騎士として仕えるか、息子がいない貴族家の婿養子になるくらいしか選択肢がないという。

それが突然王子の従者という栄転の道に乗ることになったのは恐らくとても幸運なのだとは思うが、まだ7歳で遊びたい盛りのスピネルには今ひとつぴんと来なかった。

王都は華やかで楽しいが、王宮の中はいかにも窮屈そうだ。知らない沢山の大人に囲まれて生活するというのも気が重い。

王子と共に教育を受けるとなれば、きっとずいぶん厳しく教えられることになるだろう。剣の稽古は好きだが、勉強はあまり好きではない。

しかし、普段は厳しくしかつめらしい顔しかしない父が珍しくずいぶんと喜んでおり、母は感涙せんがばかりだ。兄たちも、口々に「やったな」「名誉なことだ」と言ってくる。妹は「すごーい!」と拍手してくれたが、本当に分かっているのか怪しい。

スピネル自身は別に嬉しくもなかったが、真面目くさって「はい!がんばります!」と応えた。

周囲に望まれるように振る舞うのは、わりと得意なのだ。

 

王子は金髪に翠の瞳の無口な少年だった。

一度面接で会った際にもほとんど話はしていない。表情に乏しく、何を考えているのか分からない子供、というのがスピネルの印象だった。

その何に対しても無感動な様子は、これで本当に王様など務まるのだろうかと心配になるくらいだ。

「この方がお前の生涯の主だ」などと言われても全く実感がないし、父や母が見せていたような感動など湧いてこない。

 

そして王子はなかなか扱いにくかった。あれこれ話しかけてみたが、反応は芳しくない。

ブーランジェ家の剣術の話には少し興味を示したように見えたが、まだ基礎の基礎くらいしかやっていないスピネルに語れることなど大してない。あっという間に話題が途切れてしまう。

スピネルの妹は王子と同い年なので年下の扱いは分かるつもりだったが、おしゃまで元気いっぱいの妹と無口な王子とでは全く違い何の参考にもならなかった。

 

だからスピネルは、王子と仲良くなろうという努力を早々に諦めた。

大人達の言うように生涯の付き合いになるのなら、今焦っても仕方ないだろう。ぼちぼちやればいい。

それに、仮にこのまま仲良くなれず従者失格となっても構わないと思っていた。

別になりたくて従者になった訳ではない。

自分を選んだのは大人達なのだ。なら大人達が責任を取ればいい。

 

 

 

そもそも「真面目に従者をやる」つもりなど大してなかったスピネルは、すぐにさぼる事を覚えた。

王子には必要な時だけ話しかけて、あとは基本放置だ。

授業や稽古の時間以外でも一応目の届く範囲にはいるが、適当にぼんやりしたり剣を振ってみたりして好きに過ごしている。王子もそれで別に文句はないらしい。大人達に告げ口することもない。

王子は一人遊びが好きなようだ。遊びというか、だいたいいつも庭に出て草木やら地面やらを観察している。

特に池が好きらしいというのはすぐに分かった。暇さえあれば、裏庭の池のあたりにいる。

万一落ちたりしたら困るので、池周辺にいる時は多少真面目に様子を見る事になる。

 

「殿下はカエルが好きなんですか?」

ただ見ているのは暇なので、ある日何となく話しかけてみた。

王子は昨日も熱心にカエルの姿を追いかけているようだったからだ。

王子は少し迷った後でこくりとうなずいた。そして尋ね返す。

「スピネルはカエルはすきか?」

「いや別に。好きでもきらいでもないですね」

スピネルは正直に答えた。興味はないが、嫌悪感があるわけでもない。

 

ここで「好き」と言えば少しは仲良くなれたかもしれない。ちらりとそう思ったが、もう言ってしまったので仕方がない。

しかし王子は特に残念そうな様子もなく普通に「そうか」と言っただけだった。

王子は俺に興味なんかないか…とスピネルは思ったが、王子は意外なことを言った。

「スピネルはしょうじきだな」

「え?」

「へんなわらい方をするよりいい」

変な笑い方。少し考えて、すぐに分かった。

王子に「カエルが好きか?」と言われた人間が一番多く取るだろう態度、それは「そうですね」という愛想笑いだ。

困惑かごまかし、あるいは追従を含んだ笑い。それが「変な笑い方」に見えるのだろう。

今まで話しかけても反応が良くなかったのは、もしかして自分が王子に取り入ろうとしてるのを勘付いていたからか。

この無口な王子は周囲の人間に興味などなさそうに見えたが、そういう訳でもないらしい。

 

それ以来、王子は少しスピネルに心を開いたようだった。

たまに話しかけて来るし、スピネルから話しかけた時も前よりは長い返事が返ってくる。相変わらず何を考えているのかは分かりにくいが。

スピネルもほんの少しだが、王子のことを気に入り始めていた。

本人は自覚していないが、実は彼は結構面倒見のいい性格なのだった。

 

 

 

やがて従者になって数ヶ月が経った頃。

スピネルは歴史の授業時間を前にして、すでに幾度目かになるさぼりを実行しようとしていた。

歴史は嫌いだ。あれこれただ覚えるだけというのはつまらない。興味も持てない。

だが、こっそり逃げ出そうとした所を王子に見つかってしまった。

「スピネルは今日もさぼりか」

スピネルは最初ごまかそうとし、すぐに面倒くさくなって正直に「そうです」と答えた。この王子なら余計な事は言わずにいてくれるだろうという打算もある。

「歴史はつまらなくてきらいなんですよ」

「ぼくもすきじゃない」

あれ、そうなのか、とスピネルは思った。王子はいつも真面目に授業を受けているので意外だったが、単に顔に出していなかっただけらしい。

「殿下もさぼりますか」

何の気もなしにそう言ってみた。

王子はスピネルの予想を裏切り、迷わずに大きくうなずいた。

 

「いつもはさぼって何をしているんだ?」

「まあ色々。ひるねしたり、下女と話したり、庭師のしごとを見に行ったり」

「ほう」

どこに行こうか、スピネルは王子を連れて歩きながら考える。人が来た時は、物陰に隠れてやりすごすことも忘れない。

窓から外を見ると、白い雲がぽつぽつ浮かぶ青空が広がっていた。

昼寝もいいが、今日は王子がいるし、天気も良い。

「外に行きましょう」

「わかった」

 

やって来たのは、城の裏庭だ。ただ、王子がいつも行く池とは反対側にある。

高い木がいくつも生えていて身を隠しやすいし、日当たりが良くぽかぽかとして結構気に入っている場所だ。

それにここには、あれがいる。

 

小さな鳴き声が耳に届き、王子はぴたりと足を止めた。

「…ネコ?」

「そうです。…ああ、ほら、あそこに」

茂みから虎毛の小さな猫が顔を覗かせていた。

「このしろにネコがいたのか」

「まよい込んだのか、だれかが飼ってるのかは知りませんけどね」

王子は猫に向かって手招きをする。だが、警戒しているのか近寄ってこようとはしない。

「こうやるんですよ」

スピネルはその場にしゃがみ込むと、にゃあ~と猫の鳴き真似をした。軽く指を振りながらそのまま待つ。

とことこと歩いてスピネルの手の中に収まった猫に、王子は目を輝かせた。

「すごい」

 

種を明かしてしまえば、スピネルはすでにこの子猫を餌付けしていただけである。

今日は王子がいるので警戒してなかなか出てこなかったが、いつもは呼んだだけですぐに出てくる。

スピネルは胸ポケットからクッキーを取り出して王子に手渡した。

「小さくして、手のひらにのせてみてください」

「こうか」

王子は砕いたクッキーを乗せた手のひらを地面へと近付けた。

スピネルの手から下ろされた子猫が王子の手のクッキーへと食いつく。

「おお…」

王子は感動したらしく、嬉しそうにしている。いつもより表情豊かなその様子にスピネルは少し笑った。

「あんまりおかしをあげるのは良くないらしいですけどね。一度えさをあげたから、次からは殿下がよんでも出てくるかも」

本当は肉か魚をやれれば良いのだが、生肉や生魚を懐に入れて持ってくるのはちょっと難しい。でも、一度慣れてしまえば特に餌をやらなくても遊ぶくらいはできるだろう。

人懐っこいし毛艶が良いので、恐らく城内の誰かが飼っているか餌をやっている猫なのだろうとスピネルは考えている。

 

そのまましばらく猫と遊んで、二人は城内に戻った。

きっと教育係は怒っているだろうと思ったが、いざ戻ってみると教育係はスピネルの想像の5倍くらい激しく怒っていた。

一人ならまだしも、二人揃ってのさぼり。

しかも今まで一度も授業に文句を言わなかった王子が突然さぼった事がショックだったらしい。

 

「貴方が殿下を唆したのですね!全くなんてことを…!」

きいきいと金切り声を上げる教育係にうんざりしつつ、スピネルは表面上いかにも反省した様子で肩を落とす。

「すみませんでした…」

「謝って済む問題ではありません!!」

しおらしい表情を作り謝ってみても、教育係の怒りは収まらない。

この手であと1~2回は許されると思っていたのだが、王子を巻き込んだので通用しなくなってしまったようだ。

 

「どうして殿下を連れて行ったのですか!殿下は貴方とは違うのですよ!!」

…ああ、面倒だな。そう思った時、隣で怒られていた王子が声を上げた。

「ちがう。ぼくがスピネルにつれて行ってくれとたのんだ」

スピネルは驚いて王子を見た。突然の口答えに教育係も驚いたようだが、すぐにまた金切り声を上げる。

「嘘を言ってはいけません!殿下はいつも良い子でしたでしょう!自分から勉強をさぼる訳がありません!!」

王子は一瞬言葉に詰まり、それから何か思いついたように教育係を見る。

「ぼくはスピネルにべんきょうをおしえてもらっていたんだ」

「…は?勉強を?」

教育係は怪訝に眉を寄せる。

「一体何の勉強です?」

「…ネコとあそぶほうほう」

結局二人は一時間以上にわたって説教をされた。

 

 

「あーくそ…ひどい目にあった」

げっそりとした顔で廊下を歩くスピネルに、王子は少し落ち込んだ顔になる。

「すまない。ぼくのせいで」

「いや、殿下をさそったのは俺でしょ。だいたい、殿下は俺をかばってくれたじゃないですか」

「ぜんぜん信じてもらえなかった…」

まあ猫と遊ぶ勉強じゃなあ。スピネルは内心苦笑する。

 

「何でかばってくれたんですか?」

王子はしばし黙り込んだ。それからスピネルを見上げて口を開く。

「…スピネルがあんまりはんせいしたら、もうさぼりにつれて行ってくれないかと思って」

 

その返答に、スピネルは目を丸くしぱちくりと瞬かせた。

笑いがこみ上げ、思わず爆笑する。

「ははっ!そうか!俺が反省したら困るのか!」

そう来るとは思わなかった。てっきり罪悪感からやったのかと思ったけれど、想像よりもずっとちゃっかりした理由だった。

腹を抱えて笑うスピネルに、王子は首をかしげる。

 

「そうかそうか。じゃあ、反省はやめとくか」

笑いすぎて目尻から出てきた涙を拭いながら、スピネルは王子を見下ろす。

「次はまた別の所に連れてってやるよ」

王子は目を輝かせた。この王子の表情も、大分読み取れるようになってきた気がする。

「そういえば、スピネル」

「うん?」

「そんなしゃべり方だったのか」

言われてみれば、いつの間にか敬語がすっ飛んでしまっていた。でもまあいいか、と思う。

「別にいいだろ。友達なんだから、敬語つかう方がおかしいんだよ」

「…友だち」

今度は王子が目を丸くする番だった。ほんの少し頬を紅潮させ、口元を緩ませる。

その様子を見下ろしながら、スピネルもまた口元を緩ませた。

この少し変わった王子の従者というのも、なかなか悪くないかもしれない。

面倒くさいとは、もう思わなかった。



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登場人物・世界紹介

※18話時点のものです。変更される場合もあります。


●リナーリア・ジャローシス

主人公。銀色の髪に蒼い瞳の侯爵令嬢。

10歳の時、リナライトだった記憶を取り戻す。

見た目は儚げ美少女だが中身は王子への忠誠度MAXな従者(男)。

前世で痛い目を見た結果やや図太い性格になった。特技は魔術。運動神経はお察し。

 

●リナライト・ジャローシス

銀色の髪に蒼い瞳。侯爵家の三男で、リナーリアの前世。

5歳で王子の従者になった生真面目系眼鏡青年で、頭は良いが要領が悪いタイプ。享年20歳。

 

●エスメラルド・ファイ・ヘリオドール

淡い金髪に翠の瞳。ヘリオドール国王の後継として生まれた王子。

無口で表情に乏しく、あまり感情を表に出さないが思いやりがあり寛大な性格。

実はかなりの負けず嫌いで剣の腕でスピネルに追いつこうと頑張っている。

周囲の期待によく応える立派な王子だが、リナーリアから向けられる激重感情に関しては理由がわからず若干戸惑い気味。

大のカエル好きだという事は知る者のみ知っている。

 

●スピネル・ブーランジェ

後ろで一つにまとめた鮮やかな赤毛に鋼色の瞳。ブーランジェ公爵家の四男で今世での王子の従者。

リナーリアやエスメラルドの2つ上。有名な騎士家の出で、剣の腕はかなりのもの。

一見軽そうに見えるが筋の通らないことは嫌いで律儀な頑固者。

王子には尊敬の念を抱いており、あまり口には出さないが忠誠を誓っている。

女性からすごくモテる。前世では遊んでいたが今世では大人しく、リナーリアからは伊達男なのは口だけ認定されてしまった。

 

●フロライア・モリブデン

モリブデン侯爵家の娘である貴族令嬢。

 

●ベルチェ・ジャローシス

リナーリア(リナライト)の母。おっとり系美人。旧姓ピアース。

 

●アタカマス・ジャローシス

リナーリア(リナライト)の父。少々お調子者の気がある。

 

●ラズライト・ジャローシス

長兄。6歳年上。母親似でおっとり系の心優しい青年。婚約者がいる。

 

●ティロライト・ジャローシス

次兄。未だ出番なし。

 

●コーネル

リナーリア付きの使用人。リナーリアの2歳年上で、口数は少ないが真面目で思いやりのあるお姉さんメイド。

濃い茶色の髪と薄茶の瞳。

 

●セナルモント・ゲルスドルフ

王宮魔術師。古代神話王国マニア。前世ではリナライトの師でもあった。

変人だがかなりの実力があり、実は既婚者。

 

 

▲ヘリオドール王国

ベリル島という広い島の中に広がる閉ざされた王国。

定期的に大規模な魔獣被害が起こるため文明は一進一退しているが、温暖な気候かつ肥沃な土地であるため、民の暮らしぶりは悪くない。

海からは魔獣が現れるので海及び沿岸地域には進出していない。海産物が一切食べられない悲しみを背負った国。

 

▲魔獣

人を襲い喰らおうとする邪悪な存在。醜悪な獣の姿をしていて、その形はさまざま。悪魔の使いであるとも言われる。

特有の魔力を持っており、魔術を操れる。

殺したり捕らえたりすると何故か消えてしまうので、魔獣について分かっている事は少ない。

海から湧いてきた後、主に森や山に棲みつき数を増やす。川や湖など海以外の水は苦手であまり近寄らない。

放っておくと増えるので退治しなければならないが、殲滅してもまた海から湧いてくるので根絶やしにする事は不可能。

 

▲竜

古代に生きていたという伝説の生物。

巨躯と強大な魔力を持ち、人を襲い殺戮するという。

しかし、人を助け魔獣を滅したという伝承も残っており、その生態は定かではない。

無限に近い寿命を持っていたが、古代神話王国の手によって殺されたといわれている。

 

▲古代神話王国

一万年を超える昔に栄えたという古代王国。魔獣による大災害で滅亡してしまった。

正式名称サラニューム・リコパシカル・アステリデュス王国。

神話の頃から続くほど歴史ある古い国という意味だが、自称であって実際に神がいた訳ではない。

名前が長いので皆古代神話王国とか古代王国としか呼ばない。



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第19話 お相手

15歳の春を迎え、私は再び王都へ来ていた。

今年の9月には魔術学院に入学し、学問の他に実戦的な魔術や戦術を学ぶことになる。

だが、その前に今年15歳になった貴族の子女たちにとっての一大イベントが控えている。

舞踏会デビューだ。

 

それは8月の半ば頃、魔術学院への入学を祝うパーティーという形で王宮で開催される。

入学前の生徒の顔合わせという意味合いもあり、ほとんどの者がそこで舞踏会デビューとなる。

ここで注目になるのがそれぞれのファーストダンスの相手だ。ファーストダンスを踊るのは意中の相手という不文律が貴族の間にはある。

特に相手がいない者は親族と踊る場合が多い。

予め相手を決めず、その場で何となく選ぶという者も中にはいるが少数派だ。

約束はしていないが当日になって突然申し込む、というドラマチックな演出をする者もいる。よほど自分に自信がなければできない芸当だが、成功すればかなり注目を集め、学院で生徒たちに一目置かれる事になる。

 

貴族にとって学院はただ学ぶための場ではなく、結婚相手を探すための場でもある。

もちろんファーストダンスを踊った相手と必ず婚約するとか結婚する訳ではない。しかしここでどんな相手を選ぶかは、学院生活のスタートにおいて少なからぬ影響を与える。

誰と踊るか。誰を誘うか。

入学を控えた15歳の子供たちにとって、今一番の関心事はこれなのである。

 

 

 

護衛を連れた殿下とスピネルがジャローシス侯爵屋敷を訪れたのは、私が王都に来てから2週間ほど経ってからだった。

二人に会うのは半年ぶりで、今年初めてになる。

「ごきげんよう、エスメラルド殿下、スピネル様。お久しぶりです。おふたりとも壮健のご様子で、何よりでございます」

15歳となったエスメラルド殿下は大人びて一回りたくましくなったように思える。背が伸びただけでなく、肩幅も少し広くなった気がする。

「久しぶりだな。君も元気そうで良かった」

「ありがとうございます」

殿下は少しばかり眩しそうに目を細めながら挨拶を返し、スピネルもまた、「お久しぶりです」とかしこまった礼をする。

スピネルもさらに背が伸びたようだ。そう言えばこいつかなり長身になるんだよな…大人の殿下とはどっちが大きかったっけな…。

一瞬考え込みかけた私にスピネルが「?」という顔をしたので、私はにっこり笑ってごまかした。

「さ、どうぞ中へ」

 

今日はカエルの観察は後だ。テラスで紅茶を飲みながら、簡単な近況を交換し合う。

「パーティーのための準備はもう始めているんだろう?」

「はい。新しいドレスはもう注文していて、一月前には届く予定です」

お母様や使用人たちが、仕立て屋を呼んで何やら熱心に選んでくれた。私はドレスのことなどさっぱり分からないので全部お任せだ。

「ダンスはもう大丈夫なんだろうな」

「はい。おかげ様で、だいぶましになりました」

「それは良かった」

スピネルが紹介してくれたダンス教師はとても優しく、粘り強く私に指導してくれた。一時はどうなることかと思ったが、おかげでちゃんと女性のダンスも踊れるようになっている。やっぱりあまり上手くはないのだが。

「実は昨日も半日ずっとレッスンで…。足が痛いです」

「それで疲れているのか」

「他にも魔術や護身術の訓練もありますしね。仕方ないので勉強の時間を削っていますが、ダンスが一番難しいです」

「どんくさいと大変だな」

私はスピネルを睨みつけた。スピネルも殿下もダンスは得意だし、私の苦労が二人には分からないのだ。

 

「…あの、それで。ダンスと言えばですね…」

おずおずと言う私に、殿下が「なんだ?」と答える。

私は思い切って単刀直入に尋ねる事にした。

「殿下がファーストダンスを申し込まれる方は、もう決まっているのでしょうか」

 

「…ほほう。お前もさすがに気になるか」

なぜかニヤついた顔になったのはスピネルだ。

何がおかしいのか、私は真剣だ。私としても、殿下のお相手は非常に気になるのだ。

13歳を超えた頃から、有力な貴族家の令嬢は未来の王妃となるべく王子へとあの手この手で近付いてくる。外見、教養、家の権力、何でも使う。一番厄介なのは権力だったりするのだが。

お茶会やら狩りやら晩餐会やら音楽会やらのお誘いは、それはもう引っ切り無しだ。私が王都に着いたという報告は到着後すぐにしていたのに、今まで会えなかったのは二人が忙しいからだろう。

…そして、その沢山のお誘いの中には。彼女…あの女からのお誘いも含まれているはずなのだ。

 

「お茶会でも、一番の話題は殿下のお相手のことですし」

私はニヤつくスピネルを黙殺してそう言った。

今回のパーティーで最も注目されているのが誰かと言えば、当然今年舞踏会デビューになるエスメラルド王子だ。

王子殿下のファーストダンスの相手は、そこらの貴族の子供とは比にならない重要度で周囲から見られる。さらにパーティーで王妃殿下から声をかけられたりしたら、もう王家公認の婚約者候補として考えられてしまう。

王都に来てから既に二度ほどお茶会に参加したが、本当に皆その話に興味津々なのだ。

私は殿下の友人だと皆知っているので、同席したご令嬢にあれこれ問い詰められたり睨まれたり逆にすり寄られたりもする。

 

思い出して疲労感を感じていると、殿下が「リナーリアはどうなんだ?」と尋ねてきた。

殿下が質問に質問を返してくるなんて珍しい。

「私ですか?」

「ああ。誰かに誘われていないのか?」

「まさか。私にはそこまで親しい殿方はいませんよ。それほど大した家でもないですし」

普通に兄に相手を頼むつもりだが、もし都合がつかなければ当日適当な相手に声をかけられるのを待ってもいい。

別にお互いがファーストダンスでなければならないという決まりはないので、誰かが来るのを待てばいいのだ。

壁の花を見つければ「自分が誘ってやらなければ!」という謎の使命感でもっておせっかい…もとい、親切な誘いをしてくれる貴族はどこにでもいる。

 

「それで殿下は?カーネリア様はいかがです?スピネルの妹君ですし、親しくされてますよね?」

「カーネリアはない」

横からスピネルがきっぱりと言い切った。

カーネリア様はスピネルの妹で、私と同い年だ。私も数年前から親しくさせていただいているが、兄と違い裏表のない闊達な性格の可愛らしいご令嬢である。

悪くない相手だと思うのだが、スピネルはどうやら勧めたくないらしい。兄妹揃って殿下に近いとブーランジェ公爵家がいらぬ敵を作ってしまいかねないからかな。

「ではビスクビ家のトリフェル様は?かなりアタックを受けているのでは?」

「…まあ、そうだな」

殿下は歯切れ悪く言う。乗り気ではなさそうだ。

「あとはそうですね、年下ですがヴァレリー様なども適任かと…」

「いや、お前ちょっと待て」

畳み掛けた私を遮ったのはスピネルだ。

「殿下の意思を無視すんな」

そう言われ、私は沈黙している殿下の表情に気付いた。気まずそうにしている。

 

「す、すみません…」

私は唇を噛んでうつむいた。

…前世では、殿下はあの女をファーストダンスの相手にはしなかった。

無難にブロシャン公爵夫人…国王陛下の妹、つまり殿下にとっては叔母に当たる方を誘っていたはずだが、今世でも同じとは限らない。前世と今世とは環境が変わってしまっている。

私はリナライトだった時のようにずっと殿下のそばにいる訳ではないし、殿下の意向を把握しきれていない。そのせいで少し焦りすぎてしまった。

友人として親しくはしているが、軽々しく何にでも踏み込んで良いわけではないのに。

 

肩を落とした私に、スピネルがはあと大きくため息をつく。

「…つーかお前、他に言うことあるだろうが」

「え?」

「ああー、もう!お前な、こういう事俺に言わせんじゃねーよ!俺にだって従者としての立場ってもんがあるんだからな!」

イライラしたようなスピネルの言葉の意味が分からず、しばし頭を捻り…それからやっと理解した。

「スピネル、まさか私が殿下のお相手になりたがってると思ったんですか?」

 

「………」

 

気まずい沈黙が落ちた。殿下は困ったような、スピネルはなんとも言い難い表情になっている。

「あの、そんな訳無いでしょう。ただでさえ私は殿下の友人だと知られているのに、さらにファーストダンスを踊ったりしたらまるで婚約者みたいになるじゃないですか」

慌てて言い訳をする私に、スピネルはさらに「うわあ…」という顔になった。

「確かに、踊ったからと言って必ず婚約者に決まるわけではないですけど。そんな噂が立って困るのは殿下ですよ?先程はカーネリア様やトリフェル様をお勧めしましたけど、別に意中の相手がいなければ近縁の女性に頼めばいいだけで」

「あーあーあー。分かった。もういい。もうやめろ。俺がバカだった…」

スピネルと、それに殿下までもなぜだか落ち込んでいるようだった。

 

私は殿下が今最も親しくしている貴族令嬢だと思うので、私がファーストダンスの相手になるのではないか?と考える人間は当然多い。

私も実際、私が殿下のファーストダンスの相手になるという案を考えないでもなかった。

頭を下げて頼めば優しい殿下は断らない可能性が高いし、何よりあの女が相手になることを確実に阻止できる。私が婚約者候補だと噂が立っても、時間をかければ噂を消すこともできるだろう。

だけど、それではだめだと考え直した。

私は実際、条件だけ見れば悪くはない相手なのだ。新参とは言え一応侯爵家の令嬢だし、ジャローシス家は特にどこかの有力貴族と癒着している訳でもない。王妃になるには後ろ盾が弱すぎるが、変なしがらみがない分逆に選びやすいとも言える。

殿下は前世でも、婚約者探しにはあまり積極的ではなかった。結局、周囲の者の意見を聞きながら候補者の中で最もふさわしいと思える令嬢を選んだ。

…それが全ての間違いだった。

殿下は真に王妃たるにふさわしい女性を選ばなければならない。

そのためには一時的にでも婚約者候補扱いなどされては困る。殿下の邪魔をしたくないのだ。

 

…何より、婚約者候補と扱われれば、私は殿下にとってますます「守らなければならない者」になってしまうかもしれない。それが怖かった。

私は殿下を守りたい。守られる側には、絶対になりたくない。

 

「…殿下。殿下のお気持ちも考えずに申し訳ありませんでした。どうか、お心のままにお決め下さい」

殿下に向かって深々と頭を下げる。

もし殿下が選ぶのがあの女だったとしても、それで全てが決まるわけではないはずだ。あの女もまだ15歳。その動機は未だに分からないが、今は彼女の動きに注意するだけに留めておくべきだろう。

 

「リナーリア」

名前を呼ばれ、私は顔を上げた。

「俺は気にしていない。だからお前も気にするな」

殿下は、優しく笑ってそう言ってくれた。



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第20話 将来の夢

「ところで、さっき勉強の時間を削ってるって言ってたが、勉強は大丈夫なのか?」

話題を変えるようにスピネルが言った。

「はい。学院入学に必要な学力は十分に身に着けていますので」

「ずいぶん自信満々だな。本当に大丈夫なのか」

「なんで疑うんですか」

「お前が『基礎はできてます』って言ったダンス、とんでもなく悲惨だった事を覚えてるか?」

「ぐっ…!」

痛いところを突かれて私は呻いた。

「本当に勉強は得意なんです!何ならテストしてみてもいいですよ」

思わずむきになってそう言うと、スピネルが面白がるような表情になる。

「よーし、じゃあ俺と殿下で問題を出してやる。ちゃんと答えられなかったら罰ゲームだ。何でも言うことを聞いてもらうぞ」

「分かりました。では全問正解したらスピネルと殿下が罰ゲームでいいですね?」

「望むところだ」

「いいだろう」

殿下もうなずいた。ここは良い所を見せなければならないだろう。

 

「デンスの丘の戦い」

「329年の夏ですね。ケルスート将軍が200の兵を率いて戦い、3日かけて勝利しました」

「ペクロラス伯爵領の特産物は」

「主に小麦ですね。量よりも質を重視しているので収穫量は少なめですが、それなりの利益を得られているようです。また鉱山があり少量ですが良質の鉄が採れるので、そちらの収入もあり領の財政は安定しています」

「…詳しいな」

殿下が嘆息した。

先程から歴史、文学、数学など色々な問題を出されているが、今の所全問正解だ。

 

「そういやお前色んな薀蓄がすらすら出てくるもんな…。覚えるのは得意なわけか」

「確かに記憶力には自信がありますけど、教科書の内容以外のことも色々知っていますよ。ペクロラス伯爵夫人は絵画に興味があって…あ、鑑賞ではなく自分で描く方ですが。その新しい顔料を作りたくて伯爵には内緒で鉱山に人を送っていることとか」

「…俺も知らない情報なんだが」

スピネルはびっくりしたようだ。

王子の従者は貴族間の事情にも精通しておく必要がある。恐らく彼もかなりの事情通のはずなので、自分が知らない情報が出てきて驚いたのだろう。

 

「ふふふ、噂話は貴族の嗜みです。何なら伯爵が懇意にしている王都の娼館も知ってますよ?」

つい得意になってそう言うと、スピネルがぎょっとして「は!!?」と叫んだ。

「え、この手の話題は貴族間では鉄板ネタではないですか。あ、いや私は行きませんが」

「当たり前だバカ!!」

ちなみにペクロラス伯爵と夫人の事情は、今から1年ほど後にこの件が理由で離婚するしないの騒動に発展し、貴族の間でかなりの噂になるのでよく覚えているのだったりする。

「そうじゃなくて令嬢が娼館とか何とか口にすんな!慎みってもんがないのかお前は!見ろ、殿下がびっくりしてんだろ!」

スピネルに言われて殿下を見ると、目を丸くして絶句している。

「あ…す、すみません。うっかり…」

「うっかりじゃねえよ!!」

 

何だか思った以上に怒られてしまった。スピネルはよくこういう話をしそうだと思ったのに…。

実は私も前世ではその手の話題が大の苦手だったのだが、学院生活を送る上で必要と判断し克服したのだ。

何しろ、年頃の男というのは寄ると触るとそういう話になる。そして更なる下ネタへと発展していく。特に騎士課程の奴らだ。

あの脳筋共は魔術師課程の男を見るとすぐに青瓢箪だのヒョロガリだのと馬鹿にしてくるのだが、その上さらに堅物とからかわれるのは我慢ならなかった私は、下ネタを克服することを決意した。

「舐められたくないので猥談について勉強しようと思います」と言った時の殿下の生暖かい目は今でも忘れられない。

でも、従者として様々な貴族の相手をするためにはその手の話は絶対に避けて通れないし、後々役に立ったりもした。

勉強は無駄にはならないのだ。

 

しかし貴族令嬢の出す話題としては確かに不適切だった。私は素直に謝る事にする。なんかこれ前にも似たような事があった気がするな。

「確かにスピネルの言う通り、若い令嬢の話すことではありませんでしたね。すみません。次からは気を付けます」

「そのうち本当に殿下に嫌われても知らねーからな」

「殿下は娼館の話をしたくらいで人を嫌ったりしません!」

「お前その殿下への謎の信頼やめろ。殴るぞ」

「スピネル、暴力はいけない」

「殿下…頼むから黙っててくれ…。こいつには一度きっちり説教しないと」

スピネルはぐったりした様子で私を指差す。

「せ、説教は勘弁して下さい。反省してます。本当に反省してますから」

「嘘つけ」

「本当ですよ!…あ、そうそう、罰ゲーム!私の勝ちですよね?私からのお願いは説教をなしにするという事で、どうか一つ…」

スピネルはしばらく私を睨み下ろし、それから「しょうがねえな」とため息をついた。

 

「それにしてもリナーリアはすごいな。家庭教師になれそうだ」

殿下に褒められた。嬉しい。

「ああ、それはいいですね。王宮魔術師になれなかったら、家庭教師も良さそうです」

「…王宮魔術師団に出入りしているとは聞いたが。本当に王宮魔術師になるつもりなのか?」

「そうですね。入れるかは分かりませんが」

私は去年から、セナルモント先生を訪ねてしばしば城の王宮魔術師団の所に通っている。

主に古代王国の話を聞かされる事になるが、魔術について相談したり少しだが訓練を見せてもらったり、他の王宮魔術師ともぼちぼち親しくさせてもらっている。

前世ではよく通った場所なので慣れているし、懐かしい。やはり私は魔術師なので、沢山の魔術の本や薬品、魔導具などが並んだあそこの雰囲気がとても落ち着くのだ。

 

だが、私の返答を聞いたスピネルは何故か厳しい顔になった。

「お前ならいくらでも良い家に嫁げる。わざわざ王宮魔術師になって働く必要なんてないだろ。…ただの魔術師とは違う。時には特に危険な魔獣とだって戦わなきゃならないんだぞ」

「さっきは私は慎みがないとか怒ってたのに、結婚を勧めるんですか?」

「混ぜっ返すな。お前はバカだし女らしくないしバカだが、一応教養はあるし魔力も高い。家は侯爵で、バカだが見た目も悪くない」

「今バカって3回言いましたね」

「4回目が欲しければ言ってやるぞバカ。それで何故王宮魔術師になりたがるんだお前は」

 

スピネルのその疑問に、私はあえて普通の口調で答える。

「うちは優秀な兄が二人いますし、財政的に困窮してる訳でもないので、私が無理に嫁ぐ必要はありません。それなら私はこの国の役に立つ仕事をしたいのです」

あまりに優等生すぎる発言だと自分でも思うが、これは私の嘘偽りない気持ちだ。

どうせ一度は死んだ身なのだし、今更裕福で安全な暮らしを送りたいとは思わない。

殿下を守った上でまだ生きていたら、今度こそこの国と殿下のために働きたい。

だが、それを聞いた殿下とスピネルはすごく微妙な表情だった。やっぱり胡散臭く聞こえてしまったかな。

 

「それに、私ほどの魔術師をそこらの貴族家に埋もれさせておくのは惜しいですよ」

「自分で言うな」

「事実ですので。今回王都に来る途中も魔獣の群れに襲われましたけど、しっかり撃退しましたし!」

「リナーリアが戦ったのか?」

殿下が少し驚く。

「数が多かったのと、中型が何匹か混じっていて少々手間取りそうだったので手伝っただけですけどね。撃退したというのは冗談です。護衛達が頑張ってくれたので、私は後ろから水の防護壁を張った程度です」

我が領の騎士や魔術師達は優秀なので私が出て行かなくても何とかなったとは思うが、彼らが傷付き怪我をする所など見たくはない。

多少の怪我は魔術で癒せるけれど、私が手助けする事で怪我自体を防げるならその方がいいだろう。

 

「ここ十数年、魔獣の数が増え続けているからな。お前の他にも、王都への移動の際に魔獣に襲われた貴族が何人かいる。特に最近は町や村での被害報告も増加傾向だ。幸い、まだ大した被害は出ていないが」

「やはりそうなんですね…」

私は僅かに眉をひそめる。私の記憶通りなら、これから魔獣被害の件数はさらに増えていくことになる。少しずつだが、確実に。

「王都の中は安全だが、気を引き締めなければいけないな」

殿下の言葉に、私とスピネルはうなずいた。



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第21話 衝撃の趣味

今日はカーネリア様の招きで、ブーランジェ公爵家のお茶会へ参加だ。

カーネリア様はスピネルの妹君だが、スピネルと一緒に会ったことは一度しかない。しかしもう何度もお茶会には招いていただいている。

彼女は明るく誰にでも分け隔てない性格だし、他の令嬢と違って殿下やスピネルのことについて色々聞き出そうとしたりもしない。むしろ私と同じく、周りからあれこれ尋ねられてうんざりしている立場だ。

自然と意気投合し、私にとっては数少ない心許せる貴族令嬢となっている。

 

お茶会での話題もやっぱり、入学祝いパーティーについての話題が大半だった。

「…ではカーネリア様は、レグランド様と踊られるのですか?」

私の問いに、明るい赤毛に水色の瞳をした少女は大きくうなずく。

「そうよ。だってスピネルお兄様のお相手はもうごめんですもの。レグランドお兄様に優しくエスコートしていただくわ」

その遠慮のない言い草に思わず苦笑してしまう。

レグランドというのも彼女の兄で、ブーランジェ家の次男だ。王宮で近衛騎士をやっている。

 

「カーネリア様は、スピネル様の舞踏会デビューの時にファーストダンスを踊られたんですよね」

そう横から発言したのはペタラ様。私と同い年の、薄茶色の髪をしたご令嬢だ。おとなしく心優しい性格で、彼女とも良好な付き合いをさせてもらっている。

カーネリア様の主催するお茶会は、このような温和な性格の方が主で私でも気安く参加できるのでとても有難い。

そのカーネリア様は、スピネルの話を出されて不満そうに唇を尖らせた。

「スピネルお兄様は普段はちっとも会ってくれないくせに、都合のいい時だけ私を引っ張り出すのよ。デビューの時だって、好きな女性を誘ったらどうなのって言ったのに『そんなのいないし面倒だからお前でいい』って」

「まあ…」

スピネルは今17歳だが、殿下に合わせて今年学院へ入学する。従者への特別措置だ。しかし舞踏会デビューは15歳の時にすでに済ませており、その時はこのカーネリア様を相手にファーストダンスを踊ったらしい。意外なようでもあり、スピネルらしい気もする。

前世は女たらしのイメージしかなかったが、どうも今世の彼はその気配が少ない。従者って忙しいからなあ…。女の子と付き合う暇がないのかも知れない。

 

「私のことより、リナーリア様よ。王子殿下からお誘いは受けていないの?」

まさかの直球を投げてきたのはカーネリア様だった。

他のご令嬢も「あっ、言っちゃった」という感じで、興味津々の様子で私を見ている。今まで遠慮して言わなかっただけで、やはり聞きたかったらしい。

「ありませんよ。殿下とは親しくさせていただいていますけど、ファーストダンスの相手なんて恐れ多いですもの…とても務まりません」

私は落ち着いて微笑むと、はっきりと、しかしあくまでも控えめな口調で否定した。

スピネルに提案された「無口で大人しい令嬢」スタイルを私は未だに貫いている。思った以上にやりやすかったからだ。

私の返答に、一座に「なーんだ」というちょっとがっかりした空気が広がる。…期待されても困ります。

カーネリア様は唇に手を当てながら「やっぱりそうなのね」と首を傾げた。

この手の質問はしょっちゅうなので、私と殿下がそういう関係ではないと彼女はすでに承知しているはずだ。多分この直球はただの確認だろう。

 

「じゃあ、お相手はどうするの?」

「兄に頼もうかと思っています」

長兄のラズライトお兄様は領地にいるが、次兄のティロライトお兄様は学院に在学中なので王都にいる。そこそこモテるのでもしかしたらお相手にという誘いが来ているかもしれないが、さすがに妹の頼みを断りはすまい。

「…他の殿方からお誘いはされてないの?」

「はい。特には」

うなずくと、カーネリア様はなぜか「うーん。お兄様のバカ…」と言いながら頭を悩ませ始めた。どうしたんだろう?

 

「では王子殿下は誰と踊られるのかしら」

「リナーリア様ではないなら、ブロシャン公爵夫人あたりではないの?」

ご令嬢達があれこれと喋り合う。

「殿下とお似合いと言うのなら、フロライア様とか?」

誰かがそう言い、彼女の名前に私は思わずピクリと反応してしまった。

うっ、何人かこっちを見てる。違います。違うので気遣わないで下さい…!

「私は殿下にお似合いの方はもっと他にいると思いますわ」

そう言ったのはリチア様だ。私より2つ年上の黒髪の美しいご令嬢である。私としては、タイミング的にとても有難いのだが…

「殿下はぜひ、スピネル様と踊るべきだと思いますの!!」

…そう、この人こういう人なんですよね…。

 

貴族には同性愛趣味の者がちらほらいる。男性でも女性でもだ。

そして、そういう類の話が殊の外好きな人間というのもまた、ちらほらいるのである。

その事を話に聞いてはいたのだが、実際に会ったのは前世から合わせてもこのリチア様が初めてだったので、私は大変衝撃を受けた。

なんと彼女はそういう物語を楽しむだけではなく、実在の人物…特にそういう噂がある訳でもない人物でも、その手の妄想をするのが趣味だというのだ。しかもその趣味を持つ貴族は彼女一人ではないらしい。

私はとても驚き、それから「前世の殿下と私もそういう妄想をされていたのではないか?」と気付き、危うく意識が空に飛ぶところだった。恐ろしい事にちょっと心当たりがあったのだ。

歴代の王子の中には従者に手を出した者も時折いたらしいし、仮にそうなっても周りの者は別に止めない。下手にそこらの侍女やご令嬢に手を出してうっかり子供でもできたら大変だが、従者ならその点安心だからだ。

私も教育係に「もし求められたら断ってはいけませんよ」と言われたし、そういう知識を教えられたりもした。

もちろん殿下はそんな趣味など一切なかったのでその知識が役立つことはなかったが。

せいぜい、今世ではスピネルがあの授業を受けたんだろうなあ…と思うくらいだ。どんな顔して聞いていたのか想像すると死ぬほど笑える。

他人事になったから笑えることだが。

 

「男性は男性と、女性は女性と踊っても良いと思いますの」

熱意を込めてそう言うリチア様にカーネリア様など他のご令嬢たちは苦笑い気味だが、中にはうなずいている者もいるから恐ろしい。

リチア様は毎回この調子なので感化されるご令嬢がだんだん増えてきている気がする。たいてい男性同士のことが話題の中心だが、女性同士の場合もあるので流れ弾に当たらないように注意しなければならない。

「アーゲン様なども素敵ですよね。殿下とお二人並んだら金髪と黒髪でとても映えると思うのですけど…」

「あっ、私この間お二人が親しくお話をされているのを見ましたわ!」

お、おう…。

私は微笑みが引きつらないようにするので精一杯だった。

 

その後、お茶会は理解不能の妄想を交えつつも和やかに終わった。

やめて欲しい。次殿下とスピネルに会った時、二人がダンスをする姿を想像して噴き出したらどうしてくれるんだ。



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挿話・6 従者と王妃

「スピネル・ブーランジェ、参りました」

扉の脇に立つ衛兵に剣を預け、そう声をかけると、中から「入りなさい」という静かな声が聴こえた。

「失礼します」

銀で彫刻がされた分厚い扉の向こうには、豪奢だが品の良い調度品の並んだ応接間がある。

毛足の長い柔らかな絨毯の上に膝をつく。

「王妃殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」

「そなたも元気そうで何よりです。座りなさい」

「はっ」

いささか緊張しながら、細かな刺繍が全面に施された柔らかなソファに座る。

正面に座るのは、淡い金髪を結い上げた美しい妙齢の女性。

この国の王妃で、スピネルの主である第一王子エスメラルドの母だ。

時折顔を合わせる事はあるものの、こうして二人で話すのは滅多にあることではない。

改めて見ても、一児の母であるとは思えないほど若々しく美しい。髪の色と表情に乏しい整った顔立ちが、エスメラルドとよく似ている。

王妃付きのメイドが音も立てずに紅茶のカップを置き、一礼して下がっていった。

喉の乾きを覚え紅茶に口をつける。その良い香りに、スピネルは少しだけ肩の力を抜く。

さすが、茶葉も淹れる人間の腕前も一級品だ。

 

「エスメラルドの様子はどうですか?」

「学院への入学を控え、特に勉学に力を入れていらっしゃいます。殿下は暗記が苦手なので、歴史に少し不安があるようですが、問題ないでしょう」

「剣術と魔術は?」

「大変優秀です。学院で学ぶために必要な技術はすでに十分修めていると、教師からのお墨付きです」

「そうですか」

こんな事くらいとっくに把握しているのだろうが、あえて尋ねるのは確認のようなものだろう。

あるいは、本題に入るための前置き。

 

「もうすぐパーティーです。ダンスはしっかり覚えているようですか?」

「はい。完璧かと」

王子は運動神経が良く、体幹も強いのでダンスは得意だ。

反射神経も良いので、仮に相手がダンスの下手な女性だったとしてもしっかりカバーできるくらいの技量がある。

「お相手は?」

「……。ブロシャン公爵夫人にお願いすることになるかと」

ブロシャン公爵夫人は国王陛下の妹、つまり王子にとっては叔母に当たる方だ。最初のダンスに誘う相手としては無難な相手だろう。

「あら…」

王妃は頬に手を当てた。表情からは読み取りづらいが、意外に思っているようだ。

「…では、私が祝いを言うべきご令嬢はいないのかしら?」

 

そう、これが今日の本題だ。

入学祝いのパーティーで王子にファーストダンスを踊りたい相手がいて、さらにその相手が王子にふさわしいと王妃が判断した場合。王妃はダンスの後二人に声をかけ、二人のことを祝う習わしだ。

王妃が声をかけ祝うことで、そのご令嬢は国王夫妻からも認められている婚約者候補だと周囲に示す。

入学祝いの言葉そのものはその日出席した全員にかけられるものだが、王妃が自ら近くに寄り声をかけるということに意味があるのだ。

それを行うためには、事前に王子から王妃へと声がけを頼む必要がある。そして、それとは別に従者から王妃への報告がされるのが通例だ。

相手の令嬢の人となりや、本人や家に何か問題はないかを独自に調べ報告するのである。

 

王妃が言っているのは、間違いなくリナーリアのことだろう。他に王子に特に親しい異性はいない。

実際スピネルもそれを考え、ジャローシス侯爵家やその領について密かに調査を行ったりもしていたのだが、結局「ファーストダンスの相手には選ばない方が良い」という結論に達した。

何しろ、肝心のリナーリアに全くその気がないのだ。

一応王子にも確認してみたが、特にリナーリアを誘うつもりはないとの事だった。

 

「あの子が何も言ってこないからそうかとは思っていましたが。…あなたも同意見なのですね?」

「はい。…あの」

「何?」

これは言うべきかどうか迷ったが、やはり言うことにした。

国王夫妻には、今の状況について知っておいてもらった方が良いと思ったのだ。

「…あのお二人には、まだ早いかと思っております」

「……。二人とも?」

「はい。二人とも」

「まあ…」

王妃は少し困ったような顔になった。

 

困っているのはスピネルも同じだ。

二人はあれほど仲が良いのに、その間には男女としての空気がまるでないのだ。

これは主にリナーリアに問題があるとスピネルは思っている。

彼女は王子に対して一切気のある素振りを見せない。年頃の少女らしい憧れどころか、異性に対する照れ、遠慮などが全く感じられない。

リナーリアは良い娘だ。色々と変わったところはあるし困った部分も多いが、本人の資質的にも、条件的にも、未来の王妃たり得る素質は十分に持っている。

…なのに、本人のその気だけがない。

 

王子の事を心から敬愛しているのは見れば分かる。

本人もそれを口にしてはばからないが、それがどうも忠誠心、あるいは家族や友人に対する親愛の域を出ていない。もう15歳になり、大人の女性として美しく成長しつつあるというのにだ。

王子の方はだいぶリナーリアを意識し始めていると思うのだが、彼女があの調子なのでわざとあまり考えないようにしているフシがある。それが王子の良いところでもあり、もどかしいところでもある。

せめてどちらかが積極的ならば、スピネルとしても背中を押すのはやぶさかではないのだが…。

先日ファーストダンスの相手について話した件では、王子が可哀想ですらあった。

仮にリナーリアをなんとも思ってなかったとしても、あそこまで言われれば誰でも落ち込む。

 

見ていてやきもきする事この上ない二人だが、しかしスピネルはもう少し見守るべきだと思っている。

その手の事柄に対しては進み方に個人差があるし、まだ二人には学院に入学し卒業するまでの3年間が残っている。

それで結論が出なければ従者としての立場を超えてでも物申さなければならなくなるが、今はまだそこまで考えなくていいだろう。

 

「…とりあえず、分かりました。でも残念ね…未来のお嫁さんに挨拶できるかと思ったのに…」

王妃は小さくため息をついた。

リナーリアとは通りすがり程度ではあるが城内で面識があり、挨拶もしているはずだ。

なのでこの場合の挨拶というのは、パーティーで婚約者候補に声をかけるというシチュエーションをやってみたかったという意味だろう。

「…きっとそのうち、機会がありますよ」

スピネルは王妃を慰めた。自分としても、そうなってくれればいいと思っていたのだ。

「…そうね。ありがとう、スピネル。これからもあの子をよろしく」

王妃の静かな微笑みは、確かに母親としてのそれだった。



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第22話 彼女との邂逅

「やあ、リナーリア!すごいね、よく似合っている。とても美しいよ。まるで湖の妖精のようじゃないか」

「お兄様ったら、褒めすぎですよ」

大げさに感動してみせるティロライトお兄様に、私は苦笑する。

今日の私はいつもとは違う、舞踏会用にあつらえた高価なドレスを着ている。

肩を出し、長手袋を着けた少し大人っぽいデザインのものだ。腰のあたりから裾にかけて薄水色から濃紺のグラデーションになっているのが美しい。

胸元は詰め物をして膨らみを増量してあるのが少々情けないが仕方ない。前世ではあまり筋肉がなく胸板が薄い事を気にしていたが、まさか女になってまで胸の薄さを思い知らされるとは…。詰め物でごまかせるだけまだマシだが。

化粧は私の希望を聞いて控えめにしてくれたようだが、髪は物凄く時間をかけて丁寧に結い上げられた。コルセットもいつもよりきつい。

これでパーティーが終わるまで過ごさなければならないのだから、女性は大変すぎる。

 

「本当に美しいよ。ベルチェの若い頃にそっくりだ」

お父様も私を見てニコニコしている。

私は学生時代評判の美人だったというお母様にそっくりらしく、確かに整った顔をしている方だとは思うのだが、顔の作り自体は前世とあまり変わらないから褒められても嬉しくない。いかにも弱そうだと侮られて苦労した記憶ばかりだからだ。

そう言う輩は全員魔術で締め上げられたら楽だったのだが、殿下の体面に傷を付ける訳にはいかないので9割5分くらいは頑張って我慢した。残りは締めたが。

「もう良い時間ですし、出発しましょうか。道が混みそうだから早めに行かないと」

お母様がそう言って、私とお父様、お兄様はうなずいた。

今日はついに、お城での入学祝いパーティー…そして舞踏会なのだ。

 

 

受付の者に招待状を手渡し、衛兵から簡単なチェックを受け、城の大広間へと向かう。

もう既にかなりの人数が集まっているようだ。

軽く会場を回り、知り合いの貴族やご令嬢たちと挨拶を交わす。皆さすがに気合が入っていてとても綺麗だ。思わず目が眩みそうになる。

こんなに人が多い場所は前世ぶりだ。正直得意ではないが、なんとか気合を入れて乗り切らなければ。

 

「リナーリア様」

後ろから声をかけられ、私は振り向いた。カーネリア様だ。隣には兄のレグランド様がいる。

カーネリア様は同い年の少女に比べると長身な方だけれど、レグランド様が隣にいるとかなり小柄に見える。ここの家系はみな背が高いのだ。

「カーネリア様、こんばんは。レグランド様、お久しぶりでございます」

「久しぶりだね、リナーリア嬢。驚いたよ、君はいつでも美しいけれど、今宵はその美しさが輝き出さんばかりだ。月の女神だって恥ずかしがって隠れてしまうことだろう」

「まあ、お上手ですね。レグランド様こそ、今宵もたいそう素敵でいらっしゃいます」

よくもこんな歯の浮くような台詞がすらすら出てくるものだ。女たらしオーラがすごい。こうして挨拶しているだけでも、周囲のご令嬢が熱い視線を送っているのが分かる。怖。

 

「リナーリア様のドレス、とても素敵ね。よく似合っているわ」

「ありがとうございます。母や使用人が皆で選んでくれたのです。カーネリア様こそ、今日もとてもお美しくていらっしゃいます」

カーネリア様は、明るい赤の髪がよく映える鮮やかなレモン色のドレスだ。華やかで、快活な彼女によく似合っている。

「そうかしら。私もリナーリア様みたいにもっと大人っぽいドレスにすれば良かったわ」

「カーネリア様はもう十分に魅力的ですよ。これ以上美しくなられては、兄君が心配なさるでしょう」

そう言ってレグランド様を見上げて笑うと、レグランド様も微笑んだ。

「その台詞は、君の兄君にそっくり返したいな。きっとずいぶん心配している事だろう」

私の横にいたティロライトお兄様は「そうですね」と苦笑した。

「リナーリアはしっかりしているようで抜けているので…。きっとスピネル殿にもご迷惑をおかけしているでしょう」

むむ。確かにスピネルには色々世話になってはいるが、認めるのはちょっと悔しい。

そんな私の内心を読み取ったのか、レグランド様は笑って「どうかな」と肩をすくめた。

「だとしても、美しいご令嬢の役に立てるならば弟も本望だろう。これからも弟をどうぞよろしく」

「私からもお願いするわ。お兄様をよろしく」

「い、いえ、そんな」

なぜか兄妹そろって頭を下げられてしまい、私はちょっと焦った。

こちらは下っ端侯爵家だというのに、わざわざよろしくお願いするなんて。ブーランジェ家の人、見た目の割に律儀すぎじゃないですか?

 

 

カーネリア様達と別れた後も何組かの貴族達に挨拶をしていると、大広間にラッパの音が響いた。

国王陛下と王妃殿下のお成りだ。後ろには幾人もの侍従を連れ、エスメラルド殿下とスピネルもいる。

陛下は今年で39歳。背の高い穏和そうな印象の男性だが、不思議と人の目を惹き付ける雰囲気を持っている。少し癖のある髪は栗色だが、瞳の色はエスメラルド殿下と同じ翠色だ。

殿下の髪色や容姿は王妃殿下似だが、穏やかな中に意思の強さが覗く翠の瞳は国王陛下によく似ていると思う。

 

豪奢な椅子へと腰掛けた陛下は、広間の中をゆっくりと見渡してから口を開いた。

「今宵は、この秋に魔術学院へと入学する子供たちへの祝いの席だ。学院は様々な学問、知識、教養、そして魔獣と戦うための力と技術を学ぶための場である。君たちは将来この国を背負って立つべき責務を持って生まれた者だ。よく学び、そうして得たことを、この国を守るために役立ててほしい」

そこで陛下は言葉を切り、横に控えている殿下へと視線を送る。

「また、学院は新たな知己を得て、絆を結びつける場でもある。お互いに尊重しあい、切磋琢磨していくように。…皆も知っていると思うが、余の息子エスメラルドも今年学院へと入学する。エスメラルドは学問も武術も努力を怠らない、自慢の息子だ。しかし未だ未熟な子供でもある。君たちと同じだ。どうか仲良くし、必要ならば遠慮なくぶつかっていって欲しい。それがこの国の未来に良い影響を与えると、余は信じている」

殿下を含め、会場中の者皆が陛下へと頭を下げた。

さすが陛下、しっかり親馬鹿を入れてきた。と言っても殿下が優秀なのは事実なのだが。

 

陛下のお話の後は、今年入学する子供達がその親を連れて一組ずつ国王陛下夫妻へと挨拶をしていくのが毎年の流れだ。

最初は王子殿下で、その後はおおむね爵位と家格の順になる。混乱が起きないようしっかり侍従が案内をしてくれるし、ここで長時間の挨拶をするのはマナー違反として白い目で見られるので、さくさくとスムーズに進んでいく。

やがて私の番も回ってきた。陛下に拝謁するのは今世で初めてなので緊張する。

「ジャローシス侯爵家が長女、リナーリアでございます。学院には魔術師課程にて入学いたします。この国のお役に立てるよう、勉学に励み研鑽を積む所存でございます」

「リナーリアか。…将来有望な魔術師だと聞いている」

私はごく普通にお決まりの文句で挨拶をしたのだが、陛下の返事は定型句とはちょっと違っていた。普通は「うむ、頑張れ」程度の返事で終わるはずなので、内心ちょっと慌てる。

「はっ。恐れ多いことでございます」

「期待している。身体に気を付け、よく励むように」

「はい!」

 

「陛下から期待してるって言われるなんて、すごいじゃないかリナーリア。良かったね」

国王陛下や王妃殿下の前から下がった後、ティロライトお兄様がニコニコしながら言った。

「そ、そうですね…ちょっとびっくりしました」

うーん、セナルモント先生から話を聞いたんだろうか?2年前の古代神話王国の遺跡発見事件の報告は陛下の元にも上がってるだろうし。

特別なお声がけをいただいた事で少々周りの注目を集めている気もするし、何だかそわそわしてしまう。でも、陛下自ら期待していると言われるのは本当に光栄なことだ。

私はあまり顔に出さないよう、内心でひっそりと喜びを噛み締めた。

 

 

それからもしばらく国王陛下への挨拶の行列が続いた。

すでに陛下への挨拶を済ませた者は、会場を回って貴族達への挨拶回りだ。ひたすらに挨拶、挨拶である。同級生になる子女や、その親や親戚とも良好な関係を築いておくに越した事はないからだ。

しかし物凄く疲れる…。しかもこの後踊るんですよ?本気ですか?

 

そうして回っているうち、私は一人の令嬢の後ろ姿を会場の中に見つけた。

波打つ輝く蜂蜜色の髪。

ドレスに包まれた肢体は、まだ15歳とは思えない女性らしい豊かなラインを描いている。

 

私は深呼吸をすると、ゆっくりと彼女に近付いた。

蜂蜜色の髪が揺れ、振り向いた紫色の瞳が私を見る。一部の隙もなく整ったその美しい顔が、見る者の心を捕らえる優しげな笑みを浮かべる。

私は微笑みを返すと、彼女に向かってゆっくりとお辞儀をする。

「こんばんは。フロライア・モリブデン様」

 

「初めまして。リナーリア・ジャローシスと申します。こちらは兄のティロライトです」

深々と丁寧に挨拶をした私に、彼女もまた優雅な挨拶を返した。

「初めまして、リナーリア様。お噂はかねがね伺っております」

そう言って柔らかく笑う。

「リナーリア様とは一度お茶会などでご一緒したいと思っていたのですけれど、なかなか機会がなくて…。お会いできて嬉しゅうございます」

「こちらこそ、フロライア様と今日までお会いできる機会がなくてとても残念でした」

これは私の本音だ。今まで彼女と会う事を特別避けていた訳ではない。だがジャローシス家とモリブデン家に接点はないし、どこかのお茶会で一緒になるということも不思議となかった。

「9月からは、同じ学び舎に通う者同士。どうぞ、よしなにお願いいたします」

「はい。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」

 

彼女は頭を下げると、にっこりと笑って去っていった。

…今世での彼女との初めての出会いは、それだけだった。

 

どうという事のない無難な挨拶だったけれど、彼女はやはり完璧で美しかった。

その後ろ姿が、私の胸に言いようのない激しい感情を渦巻かせる。

 

彼女は前世での殿下の婚約者。

殿下に毒を盛った張本人。

そして、前世の私が生涯で唯一恋をした女性だった。



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第23話 ファーストダンス

挨拶回りが一段落したところで少し座って休むことにした。この後ダンスを踊るのだから体力は温存しておいた方がいいだろう。

前世は剣術も一応やっていたからもう少し体力があったが、今世では剣はほとんど振っていない。

その代わりに刺繍やら音楽やらをやらされているが、これらはほとんど体力に結びつかない。もっと運動しなければだめだろうな…。

 

ティロライトお兄様は少し離れたところで友人と話しているようだ。

壁際には軽食なども用意されているが、コルセットがきついのもあってあまり食べる気にならない。

飲み物だけ少しもらってぼんやり会場を眺めていると、やっと挨拶行列が終わったようだ。

いつの間にかやって来て準備をしていた王宮楽団が静かに音楽を奏で始める。舞踏会の開始の合図だ。

あちこちで人が動き始める。

やや緊張した表情のご令息達が、お目当てのご令嬢の元に向かう。嬉しそうに、あるいは恥ずかしそうに頬を染めてその手を取るご令嬢達。

青春だなあ…などと言っている場合ではない。私もお兄様と踊らなければ。

 

お兄様も友人と別れ、こちらに歩いてきていた。立ち上がり、差し伸べられたお兄様の手を取ろうとした時、私の横に一人の男が立った。

「やあ、こんばんは。リナーリア」

「…アーゲン様」

驚いてその顔を見上げる。艷やかな黒髪に青い瞳の、物腰柔らかな…しかしどこか油断ならない雰囲気を持つ少年。

パイロープ公爵家の嫡男、アーゲンだ。後ろには腹心のストレングもいる。

二人共私と同い年、今年新入生となる貴族令息である。

「こんばんは、アーゲン様。お久しぶりでございます」

パイロープ公爵家は代々この国の重鎮であり、その権力は全貴族の中でも5本の指に入る。我がジャローシス家とは比べ物にならない大物だが、領地が近いので良好な関係を保っている家だ。

私も以前から面識があり、年に一度はお茶会やパーティーに招かれていたが、今日はまだ挨拶ができていなかった。姿が見当たらなかったように思うのだが遅れてきたのだろうか。

 

「君と会うのは春先以来かな?見違えたよ。君は年を追うごとに美しくなっているが、今宵はひときわ皆の視線を奪っている。君のお母上に勝るとも劣らない。まるで湖の妖精のようだ」

「ありがとうございます。とても光栄です」

微笑みながら頭を下げる。我が家が水の魔術の使い手だからか、この母譲りの銀髪や青い瞳のせいか、湖の妖精というのはよく用いられる例えだ。

しかし、どうして今声をかけてきたんだろう?もうすぐダンスの曲が始まってしまう。

このタイミングで声をかけてくるというのはつまり、ダンスを申し込もうとしている事になるが…。まさかそんなはずがないと思いつつ、では何故かというと理由が見当たらない。

何しろ彼はパイロープ家の跡取りなのだ。この会場にいる新入生の貴族令息の中では、殿下に次ぐ地位がある。私のような下っ端侯爵家ではなく、もっと家格の高いご令嬢をいくらでも望めるはずだ。

まさか誰とも約束していなかった?どうして?

戸惑う私に、彼は優しげに微笑む。

「リナーリア。良かったら僕と…」

「待って下さい」

アーゲンが手を差し出しかけた時、どこかから聞き慣れた声が聞こえた。

…スピネルだ。何故かやけに慌てた様子で、こちらに向かってきている。

 

何が起こっているのか理解できないまま固まっている間に、スピネルは私の横へと立った。真剣な表情でアーゲンへと向き合う。

「アーゲン殿。申し訳ないが、ここは俺に譲ってはもらえないか」

私は思わずびっくりしてスピネルを見た。…何言ってんだこいつ?

「…僕が?君に?」

アーゲンが片眉を上げる。表情こそ面白がっている風だが、目が笑っていないように見える。

当然だろう、スピネルとアーゲンはどちらも公爵位を持つ家の人間だが、アーゲンのパイロープ家の方が力が強い。スピネルは王子の従者という特殊な立場だが、それは直接権力の強さになる訳ではないのだ。

 

アーゲンは数秒の間スピネルと私の事を眺めていたが、ふっと笑うと「いいだろう」と一言言った。

「君に貸しを作るのも悪くなさそうだ。…リナーリア、君とのダンスはまた後で。僕は大人しく順番を待っているよ」

「は、はい…」

なんとか返事をし、戸惑いながらもおずおずと横のスピネルを見上げる。

スピネルは私の斜め後ろにいたティロライトお兄様を見た。驚いた顔で様子を見守っていたお兄様が、我に返って「どうぞ」と笑う。

「…リナーリア。俺と踊ってくれないか」

スピネルは真面目くさった顔でそう言い、私は笑みを繕いながらその手を取るしかなった。

 

 

ワルツが始まった。

私は慎重にステップを踏みながら、目の前のスピネルへと向かって小声でささやく。

「…びっくりしました。どういう風の吹き回しですか」

「俺にも色々都合があるんだよ」

「はあ…何が何だか…」

急に色々と起こって頭がついていかない。それ以前に、考えていたらステップを間違えそうだ。

 

スピネルは的確にリードをしながら、表情だけはいかにも優しげに私へささやきかける。

「いいから黙ってダンスに集中しろ。喋ってて舌を噛んだらどうする」

「噛みません」

「ドレスの裾を踏むなよ」

「踏みません」

「俺の足も踏むなよ」

「それは踏むかも知れません」

そう答えると、スピネルは周囲にばれない程度にごく僅かに私を睨んだ。

「ちゃんと上達したって言ってたよな?」

「そうですね」

…良かった。何だか分からないが、やっぱりいつものスピネルだ。

「心配しなくても大丈夫ですよ。練習の成果を見せて差し上げます。スピネル()()

優雅に微笑んで見せると、スピネルは一瞬だけにやりと笑い、また澄ました顔で私をリードした。



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第24話 テラスでのひととき

スピネルと一曲踊った後は、本当に大人しく待っていたらしいアーゲンと踊った。

私は先程のやり取りでかなり周囲の注目を集めたらしく、どちらと踊っている間も物凄く視線を感じた。内心死ぬほど緊張した。何とか間違えずに踊りきった事を誰か褒めて欲しいと思ったくらいだ。

アーゲンは「やはり君の魅力が皆を虜にしてしまったようだ」とか何とか言っていたが、正直それどころではなかったので「恐れ多いことでございます」と適当に答えて微笑んでおいた。

アーゲンは意外にあっさりとそれで解放してくれたのだが、私は次々とやってくるダンスの申し込みにてんやわんやになった。

今日は兄と踊った後は無難に知り合い数人と踊って適当に切り上げるつもりだったのに、どうして私ごときがこんな大人気になっているのか。

傍から見ると公爵家の嫡男と王子の従者がまるで取り合ったかのような構図になってしまったので、何か重要人物にでも見えてしまったのかも知れない。

断るのも失礼だし、頑張って踊るしかない。こうなったのも全てアーゲンとスピネルのせいである。責任を取って欲しい。

 

もう何人目か数えるのも面倒くさい、どこぞの伯爵家のご令息相手にゆったりと踊る。

誰だっけこいつ…さっき名前聞いたはずなのに。確か卒業後は2歳年上のご令嬢と結婚する奴だったような…。

いつもならすぐに出てくる名前が出てこない。かなり疲れているようだ。

しかも終わり際、うっかり躓きかけてしまった。何とか足は踏まずに済んだものの、「おっと」と言われ肩を支えられる。

「申し訳ありません。失礼しました」

そう微笑んでごまかすと、何やらでれっとした顔になった。うわ気持ち悪…ではない、だらしのない顔だ。

「あの」とその伯爵令息が言いかけた時、後ろから「リナーリア」と誰かが私の名前を呼んだ。

「…スピネル」

一瞬「またか?」と思いかけてしまったが、よく見ると両手に飲み物を持っている。

 

「リナーリア、君は少々疲れているようだ。あちらで一緒に休もう」

神様!スピネル様…!!

私は瞬時に手のひらを返した。さっきからずっと休みたかったのだ。本当に有り難い。

名残惜しそうにする何とかさんに頭を下げ、こちらを振り返り微笑みながら歩くスピネルのすぐ後ろについて行く。

どうやらテラスの方へ出るつもりらしい。

 

 

月明かりに照らされたテラスは夜風がそよいでいて、ダンスで疲れた身体に気持ちが良かった。

片手に持ったグラスを持ち上げて喉を潤す。

「はあ…助かりました。正直もうヘトヘトで…」

「ずいぶん人気者だったみたいだな」

「そうですね、誰かさん達のおかげでそうなりましたね。たっぷりダンスの練習をしておいて良かったです…」

「はは、確かに上達したな」

「そうでしょう。…その節は本当にありがとうございました」

一応言っておかなければと改めて礼を言うと、スピネルは別にいい、と手を振った。

「紹介した甲斐があった。足を踏まれなくて済んだからな」

「意地悪ですね…もっと褒めてくれても良いと思うんですが」

軽く睨むと、スピネルはふんと鼻で笑う。

 

「でも、まさかファーストダンスの相手が貴方になるとは思っていませんでした」

「あれな。焦ったわ。あの野郎がああ動くとは思わなかった」

私のところに来た時のスピネルは少々慌てた様子だった。

あの後踊りながら考えて、スピネルの行動の理由は大体分かった。殿下の友人という立場の私にアーゲンを近付けたくなかったのだ。

アーゲンは人当たりこそ良いが、なかなかに曲者で非常に優秀な男だ。

しかも将来パイロープ公爵家当主として大きな権力を持つ人間なので、殿下の従者としては警戒せざるを得ないのだろう。

「彼は悪い方ではないと思いますが」

善良と言い切れる人間だとも思わないが、一応そう言ってみる。

私が知る限り、彼はいたずらにこの国を乱すような人間ではない。利に聡い男だが、ちゃんと相手を立てつつ自分の益も確保する。そうして信頼を得て人を操るやり方を好むタイプだ。

だがスピネルはどこか嫌そうに「そうかもな」と言っただけだった。

何か思う所でもあるのか、あるいは単に気に食わないだけかもしれない。

いかにも腹に一物抱えてそうなアーゲンと、見た目の割に真面目なスピネルはあまり気が合いそうな組み合わせには思えないからな。

 

「別に構いませんが、意外に過保護ですね。貴方は」

「お前が危なっかしいんだよ」

私はむう、と唇を曲げた。

私をちっとも信用していない事は気になるが、彼なりに殿下や私を気遣っての事だろうと思うと文句も言いにくい。

「正直困っていたのは確かですけどね。まさか当日にいきなりファーストダンスを申し込んでくる人が本当にいるなんて…。しかも公爵家のお坊ちゃんですよ?うちは侯爵家でも一番の下っ端なのに」

「お前、俺も公爵家の出だってこと忘れてないか?」

「覚えてますよちゃんと」

「どうだかな…」

ジト目でこちらを見るスピネルに、思わず噴き出してしまう。

 

「あなたは別、ってことです」

そう言っていたずらっぽく見上げると、スピネルはなぜかぱちぱちと目を瞬かせた。

突然の沈黙に少し戸惑う。

「あの、スピネル?なんですか変な顔して」

「…何でもない。俺はもう戻る。お前はもう少しここにいろ」

スピネルは一つ頭を振ると、そう言って踵を返した。

「はい…あ!」

歩き出しかけたスピネルがこちらを振り返る。

「ありがとうございました。私のせいで借りを作らせてしまってすみません」

「いらねえよ、忘れとけ。俺が勝手にやったんだよ」

スピネルは片手を上げると、賑やかなパーティー会場へと戻っていった。



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第25話 ラストダンス※

スピネルが去った後も、私はテラスのベンチに腰掛けて休んでいた。

今日はもうこれで帰ってもいいかな。もうすぐダンスも終わりの時間だろうし。

お兄様やお父様たちはどこだろうと会場を見ると、丁度テラスに誰かが入ってくるところだった。

淡い色の金髪が逆光に透けている。エスメラルド殿下だ。

 

殿下は私の横へと腰掛けると、雲間から光る月を見上げた。

「ファーストダンスはスピネルと踊ったんだな。見ていた」

「あ、はい。…殿下は、ブロシャン公爵夫人とでしたね」

私も横目で見ていた。結局、前世と同じ選択肢を取ったらしい。彼女ではなくて安心した。

「…正直、少し羨ましかった。楽しそうだったから」

「そ、そうですか…?」

私としては楽しいどころの話ではなかった。一人目がスピネルだったおかげで、若干緊張がほぐれたのは確かだが。

「その後もずっと誰かと踊っていたし」

「それは殿下もじゃないですか」

舞踏会デビューの時に王子と踊れるというのはかなりの名誉だ。ご令嬢ならば誰もが皆踊りたがる。こう言っては何だが、美少女をとっかえひっかえだ。

「俺は王子だからだ。だけど、君は俺が思っていたより皆に注目されていると分かった」

「…いや、それアーゲン様とスピネルのせいだと思うんですが…何だかすごく目立っちゃいましたし…」

地味で大人しい令嬢として過ごしてきたはずなのに、何故こうなったのか。

しかし、殿下はゆっくり首を振ってみせる。

「多分それは違うな。どうやら俺が不甲斐なかっただけらしい。…もうつまらない後悔はしたくない。次からは素直に行動する事にする」

「??」

その言葉の意味がわからず、私は殿下の横顔を見つめた。

今世で再会してから5年、ずいぶん成長し大人びたその顔は、あの時別れた殿下へと少しずつ近付いてきている。

「リナーリア」

殿下は私の名前を呼ぶと、その手をそっと差し出した。

「きっと、もうずいぶん疲れているだろうが。…ラストダンスは、俺と踊ってくれないか」

 

 

最後の曲の始まりには、何とか間に合った。

お互いにお辞儀をして、ホールドを組み足を踏み出す。

慎重に、大胆に。

殿下のリードは、その表情の読みにくさとは真逆でとても分かりやすいのだと、私は初めて知った。

ダンス練習で初めて踊った時は、私は下手くそすぎてそんな事はちっとも分からなかった。そう言えば、殿下と踊るのはあの時以来だ。

「…やっと分かりました。殿下、本当にダンスがお上手だったんですね」

前世では見ているだけだったのでただ「さすが殿下は上手いなあ」としか思っていなかったが、こうして一緒に踊ってみるとよく分かる。

殿下のダンスは、相手がとても踊りやすいと感じる、そういう上手さなのだ。

 

「君も、あの時に比べると見違えるように上手くなった」

「いえ…私などとても…」

先程までは何とかまともに踊りきった事で満足し胸を張っていたが、やはり私のダンスなど全然ダメだ。殿下に比べると足元にも及ばない。

思わず恥ずかしくなる私に、殿下は微笑む。

「君はそれでいい。リードのしがいがあるし、何よりとても楽しい」

「…楽しいですか?」

もっとダンスの上手い方と踊ったほうが楽しいのではないだろうか。そう思ったが、殿下は重ねて「楽しい」と言う。

こちらを見つめる目がなんだか眩しい気がして、少し動揺した私はステップを間違えてしまった。

殿下の足を思いっきり踏んでしまって青くなるが、殿下は素知らぬ顔でダンスを続けてくれている。

 

やがて曲が終わりダンスを終えた私は、殿下から離れると恥ずかしさに身を縮めてうつむいた。

「すみません…今日はちゃんと踊れたと思っていたのに、最後の最後で殿下の足を踏んでしまうなんて」

「今日は他に誰の足も踏んでいなかったのか?」

「は、はい…」

よりによって殿下の足を踏んでしまったのが情けない。疲れていたせいかも知れないが、ちゃんと集中していれば防げたと思うのだ。

「なら、俺は今日君に足を踏まれたただ一人の男という訳だ。それは嬉しいな」

え、と思って見上げると殿下は私を見て優しく笑っていた。

とても楽しそうに。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

私はふいに、胸が暖かい感情で満たされていくのを感じた。少しだけ戸惑い、それから理解する。

…私は、殿下と踊れた事が嬉しいのだ。

15歳となり舞踏会デビューをしたこの記念すべき日に、殿下と踊ったという思い出を作れた事が嬉しい。

今でも色褪せない、たくさんの前世の思い出。

初めて会った日や、一緒に馬に乗った日や、大きな魔獣を討伐した日。一級魔術師になった事を祝ってもらった日。学院を卒業した日。何度も一緒に新年を祝った。共に学び、育ち、様々な景色を一緒に見た。

だけど今日この日、殿下と踊った思い出は、それに勝るとも劣らない輝きを放ってくれるものになると思った。

これから先も、ずっと忘れないものだと。

 

「あ、あの、殿下」

溢れ出そうになる思いに突き動かされ、私は胸に手を当て殿下を見上げる。

「私も…、私も今日、殿下と踊れてとても楽しかったです。本当に楽しかった」

殿下がわずかに目を瞠った。

言葉では表現しきれないこの感情を少しでも伝えようと、私は精一杯、心を込めて笑う。

「…今日、貴方と踊れて良かった」

 

その瞬間、殿下の頬が真っ赤に染まった。

「で、殿下?」

口元を抑えてうつむく、こんな表情の殿下を見るのは初めてだ。前世でだって見たことはない。

どうしたら良いのか分からずおろおろとしていると、横から助け舟がやって来た。スピネルだ。

「殿下。そろそろ時間です」

こういう時のこいつは本当にタイミングが良いと言うか、頼りになると言うか…。さすが私に代わって殿下の従者に選ばれただけはある。とても悔しいが。

あとはスピネルに任せれば良いと思い、私は二人に頭を下げる。

「殿下、本当に有難うございました。私も今宵はこれにて失礼させていただきます。ごきげんよう」

「あ、ああ」

殿下はぎくしゃくとうなずいた。

スピネルは無表情を装っているが面白がっているのが丸わかりだ。…本当に任せて大丈夫だろうな?

 

帰りの馬車の中では、私が陛下から声をかけられた上に、スピネルやアーゲン様や殿下と踊った事に興奮したお父様が大分はしゃいでいた。ティロライトお兄様ものんきに喜んでいて、いつもはのんびりしているお母様が珍しくたしなめる側に回っていた。常識人のラズライトお兄様がここにいないばっかりに…。

 

私もどちらかと言うと困ったなと思ってる側なのだが、それでも幸せな気分だった。

…今はもう少しだけ、この気分に浸っていたい。

そう思いながら馬車の窓から夜空を見上げた。



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挿話・7 黒髪の貴公子

パイロープ公爵子息アーゲンは、帰りの馬車に揺られながら「失敗したなあ」と呟いた。

「彼女が陛下から声をかけられたと知っていたら、ダンスを譲ったりはしなかったんだけど」

その呟きに、アーゲンの向かいに座るストレングは太い眉を上げる。

ストレングはパイロープ公爵家に代々仕える騎士の息子で、アーゲンの腹心である。顔立ちこそまだ幼さがあるが、そのがっちりとした体格は大人にも負けない。

「彼女をびっくりさせようとして策を弄したのが裏目に出てしまったね。最初から約束をしておけばよかった」

アーゲンが今日パーティー会場に遅れて行ったのは、リナーリアを驚かせた上で確実にダンスを踊れる状況を作ろうと思ったからだ。

アーゲンが誰ともファーストダンスの約束をしていない事は知っている者なら知っている。

早めに会場に行けば、僅かなチャンスを狙って予定をキャンセルしてでもアーゲンと踊ろうと寄ってくるご令嬢が間違いなく現れるだろう。

それが鬱陶しかったからわざとギリギリに行ったのだが、そのおかげでアーゲンはリナーリアが国王陛下との挨拶の際に特別に声をかけられた事を知らなかった。

 

「彼女はちっとも本心を明かそうとしないから、不意を突けば少しは読めるかと思ったんだけどね…。スピネル・ブーランジェに邪魔をされてしまったね。彼と踊っている間にすっかり体勢を立て直されてしまった」

「…あの男、まさかアーゲン様に向かって譲れなどと言うとは」

ストレングはやや不快そうに言った。身分を弁えない行動がストレングは嫌いだ。

「そうだね。彼は本当によくできた従者だ。上手く立ち回っている」

「…?」

アーゲンの言葉の意味が理解できず、ストレングは疑問を顔に浮かべる。

 

「彼はリナーリアと約束はしていなかった。彼ならいつでも誘えただろうに、彼女はあの瞬間まで兄と踊る予定だったんだ。…なのに、僕がリナーリアを誘おうとすると慌ててやってきて、わざわざ割り込んでまで彼女のファーストダンスの相手になった。これはどういう事だと思う?」

「…『彼女はまだ婚約者候補として認められてはいないが、他の男に唾を付けさせるつもりもない』という王子からの牽制」

ストレングは答える。これは誰の目にも明らかだった事のはずだ。

もしもダンスに誘ったのがアーゲンではなく、彼女と同格か格下程度の家の子息だったなら彼も黙って見ていたかもしれない。王子にとっては大した問題にならないからだ。

だがアーゲンは次期公爵で、新入生の中でも王子に継ぐ地位がある人間だ。そのアーゲンが他の令嬢たちを差し置いてファーストダンスを踊ったとなれば、彼女は周囲から「王子の友人」から「パイロープ公爵家が目をかけている令嬢」という目で見られるようになる。当然、アーゲンの派閥の者たちも彼女に近付こうとするだろう。

それを防ぎ自分の側に彼女を留めるために、王子は従者のスピネルを動かしたのだと、ストレングはそう考えた。

 

…だが、ストレングの主はスピネルの行動の意味はそれだけではないと思っているようだ。どこか面白がるような表情で言葉を続ける。

「でも彼はさっき、わざわざパーティー会場の真ん中で彼女をテラスに誘ったよね。これはどんな風に見えた?」

「え?そうですね…仲睦まじい様子でしたし、まるで恋人のような…。…あ」

「そういう事だよ」

彼女と親しげな様子を見せれば、先程の行動はまた別の意味が出てくる。

割り込んだのは王子の意思を受けたからではなく、彼自身が彼女のファーストダンスの相手をしたかったからだ、という解釈もできてしまうのだ。

なぜ事前に誘わなかったのかという疑問は残るが、王子に遠慮して言い出せなかっただとかいくらでも理由はつけられる。

 

「つまり彼はわざと、()()()()()()()()()()()したのさ」

「…なるほど」

「あえて自分の存在を目立たせる事で、周囲からの憶測を曖昧にした。まあ、あの様子を見れば王子の心がどこにあるのかは明らかだと思うけど…。結局彼女については分からず仕舞いだったね。ついでに、スピネル・ブーランジェの本心も」

「その割に、アーゲン様は楽しそうですが」

ストレングの指摘にアーゲンはにこりと笑う。

 

「楽しいね。とても面白い。彼女は王子との関係について尋ねられても、いつも『恐れ多い』『私などふさわしくない』の一点張りだ。あれほど親しげにしているのに、驚くほどに弁えた、そつのない返事だ。どうして王子との仲を周りに誇示し、他の令嬢を牽制しようとしないのか…よほど自信でもあるのかな?かと言って、あの従者と恋仲だとも絶対に言わない。…僕には彼女はとても強かなように見える」

ストレングにはよく分からない。ストレングの目には彼女はいかにも大人しそうな、ただ普通より少し美しいだけの令嬢にしか見えない。だが、アーゲンがそう言うのならそうなのだろう。

 

「けれど、あの従者ときたら騎士というよりまるで彼女の保護者だね。放って置いても彼女は自分で自分の身を十分に守れそうに見えるけど…彼の目には、僕とは全く違う彼女が映っているらしい。王子が彼女に対して遠慮がちなのも分からないな。欲しければ手に入れればいいのにね。…極めつけは国王陛下だ。彼女を王子妃にと望むなら王妃殿下が声をかければ良いのに、どうして陛下が声をかけたんだろうね?いくら彼女が優秀な魔術師でも、まだ学院入学前の子供にそこまで期待するものかな」

そうつらつらと挙げられると、確かに不自然なことばかりだ。突如として、あの少女が何かを企む魔女のように思えてくる。

 

「…少し彼女にちょっかいをかけてみるだけのつもりだったけど、思ったよりずっと面白くなった。それに、スピネル・ブーランジェに貸しを作れたのは収穫だったかな」

アーゲンは再び笑うと、馬車の窓から外へと視線をやった。

「入学が楽しみだな。面白い学院生活が送れそうだ」

ストレングは黙って首肯した。

何にせよ、彼は主の命に従うだけだ。

それが分を弁えた臣下の取るべき行動だと、ストレングは信じていた。



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挿話・8 青い薔薇

「…殿下への罰ゲーム、ですか?」

「そうだ。この前、賭けをしただろう」

エスメラルドとスピネルと二人でリナーリアに問題を出し、間違えたらリナーリアが罰ゲーム。全問正解だったらエスメラルドとスピネルが罰ゲームという賭けだ。

「何でも言うことを聞くという約束だ。スピネルは説教をやめる代わりに罰ゲームはなしになったが、俺はまだ何もしていない」

「そう言えばそうでしたね。うーん…でも殿下に罰ゲームというのは…」

「何かして欲しい事はないのか?」

「特にないですね」

「…そうか…」

あっさりとないと言われ少し落ち込んだエスメラルドに、スピネルがフォローを入れる。

「全くないって事はないだろ。あんまり無茶言わなけりゃ何でも良いんだぞ」

「ま、待って下さい、今考えます。ええと…」

リナーリアは目を閉じて首を捻り、しばらく考え込む。

 

「…あっ!そうだ!裏庭の薔薇園、また連れて行って下さいませんか?」

ぱっと顔を上げたリナーリアがそう言った。

裏庭の薔薇園と言えば、リナーリアが初めて城を訪れた時に3人で一緒に歩いた場所だ。スピネルが妙ににやにやした顔になる。

「ほう、お前にしてはずいぶんまともなお願いだな。良いじゃないか」

「どういう意味ですか」

「てっきりもっと突飛な事を言い出すと思った」

「言ってくれますね。私、薔薇は好きなんですよ」

「そうだったのか」

彼女は植物全般に興味を示すので、特に薔薇が好きとは知らなかった。覚えておこう、とエスメラルドは思う。

「でも、もう何度も足を運んでいるだろう?本当にそれでいいのか?」

「はい。少し気になっていることがあって…よろしければ、ぜひ」

「分かった。案内しよう」

「お時間のある時で構いませんので。よろしくお願いします」

 

 

 

それから数週間ほど後、エスメラルドはリナーリアを城の薔薇園へと招いた。

スピネルは実家の用事があるとかで今日はいない。城の中ならば安全だし、今日は護衛もなしでリナーリアとエスメラルドの二人だけだ。

薔薇園は今、早咲きの薔薇が咲いている。長い期間花が楽しめるよう、この薔薇園は咲く時期をずらした薔薇がたくさん植えられている。

 

リナーリアはニコニコとしながら薔薇を眺めつつ歩いていた。

心なしかいつもより足取りが軽いようで、柔らかそうな青みがかった銀の髪がさらさらと揺れている。そんな彼女に、エスメラルドもまた微笑ましい気持ちになった。

やがてリナーリアは薔薇園の隅の一角で足を止め、そこに咲いている薔薇をまじまじと見つめた。

ごく淡い青のような、薄紫のような、少し変わった色合いの大輪の薔薇だ。

「…あの、殿下…実はお願いがあるのですが」

リナーリアがおずおずと口を開く。

「なんだ?」

「この薔薇園を管理している庭師に、会わせていただけませんか?」

 

リナーリアの申し出は予想外のものだったが、特に断る理由もない。

エスメラルドは「分かった」と言うと、リナーリアと共に近くの管理棟らしき建物へと向かった。

温室が併設された、この小屋へと入るのは初めてだ。

中には庭師らしき男がいて、王子が入ってきた事にとても驚いた様子だった。

「薔薇園の管理を担当している者はいるか?」

「は、はい!…ボラックスさん!ちょっと来て下さい!」

庭師が声を上げると、ややあってから奥の扉が開いた。眠たそうな目をした、背の低い壮年の男が出てくる。

「一体何……お、王子殿下!?」

ボラックスと呼ばれた男はぎょっとして目を見開いた。

「仕事中にすまない。…こちらは俺の友人のリナーリアだ。ここの薔薇に興味があるらしい。少し話を聞かせてもらえないか」

「初めまして、リナーリア・ジャローシスと申します」

ボラックスは状況が理解できないらしく、目を白黒させている。王子や貴族令嬢がこのような場所を訪れる事など、普通はないからだろう。

 

「あの、あそこの…東端にあった薄青の薔薇。あれは、魔術で遺伝子操作を試みている薔薇ではありませんか?」

「…そ、そうだが。何故それを」

「やっぱりそうですよね!あの色は通常の自然交配では出ないものです。それに僅かですが構成の残滓が見えました。できるだけ自然の形のままで、色だけに干渉しようとしているのではないかと…。魔術を使用したのは貴方ですよね」

「…ああ。そうだ」

「とても素晴らしい技術です…!良かったらもう少しお話をお聞かせ願えませんか」

 

 

それから彼女はボラックスという庭師と話し込み始めた。

ベースになった薔薇の品種やら色の出し方やら、かなり専門的な話のようだ。

呆気に取られて見ていると、はっと気が付いたようにリナーリアがこちらを振り向いた。

「す、すみません殿下!ご案内、本当に有難うございました。私はもう少しここにいるので、殿下はお帰りいただいても大丈夫です」

「いや、構わない。今日は特に予定はない。近くで適当に時間を潰しているから、好きなだけ話をするといい」

「でも…」

「気にするな。ここの近くには池もあるしな」

暗にカエルを見ているから大丈夫だと言うと、リナーリアはやっと納得したようだ。

「わかりました」

「ああ、お嬢さん、良かったらそこに座ってくれ。今、お茶を持ってこさせますから」

「ありがとうございます。お気遣いなく」

 

再び話し込み始めたリナーリアの横顔を、エスメラルドは少し離れたところから見つめる。

話の内容は更に難しくなっていて、いよいよさっぱり理解出来ない。かろうじて分かるのは、魔術の構成について話しているという事くらいだ。

だが、ボラックスと話す彼女の目は生き生きと輝いている。

薔薇自体も好きなのだろうが、このような専門的な、魔術を使った研究の話がよほど好きなのだろう。

 

彼女はよくスピネルから「令嬢らしくない」と叱られているけれど、もしかしたら魔術師としての姿こそが彼女の本来の在り方なのではないか、とエスメラルドはふと思った。

…だとしたら「貴族令嬢」という肩書きは、彼女にとってひどく窮屈なものなのかも知れない。だから、危険な職業だと分かっていても王宮魔術師になりたがるのだろうか。

その考えは、複雑な気分をエスメラルドにもたらした。

 

その後池に行ってしばらく時間を潰したエスメラルドは、再び管理棟へと戻った。

「な、なるほど…!こうすれば、ネモフィラから必要な遺伝子だけを抽出して移植する事ができる…!」

「はい!まだ理論だけなので、実践してみて逐次調整していく必要がありますが…」

「いや、大丈夫だ。それこそが俺たちの本領を発揮する部分だ。いくらでも試行してやる」

何やらボラックスがかなり興奮している。

「ありがとう、お嬢さん…!いや、リナーリア様だったか。あんたのお陰で、一気に研究が捗りそうだ」

「いいえ。お役に立てたならば幸いです」

「良かったら、いつでもここを訪ねてきてくれ。研究の進み具合を見て欲しい」

「ぜひ!私、王宮魔術師団の所に通っていますので、そのついでに寄らせていただきます」

「ああ、なるほど…。どうりで優秀なわけだ…」

「とんでもない。たまたまご縁があっただけです」

「謙遜することはない。話を聞いているだけで分かる、あんたはすごい魔術師だ。…何年後になるかは分からんが、もしこの薔薇が完成したら、あんたが名前を付けてくれ」

「いいえ、そんな…」

そう言いかけて、リナーリアは背後のエスメラルドに気付いたようだった。

「あっ、殿下!すみません、お待たせしてしまって…」

「いや、たった今戻ってきたところだ。それで…」

「あ、はい、用事は済みました。…ボラックスさん、今日は本当に有難うございました」

「こちらこそ、いくら感謝しても足りない。また来てくれ」

「はい!」

リナーリアは嬉しそうににっこりと笑った。

 

 

 

「殿下、今日は有難うございました。おかげ様で目的が果たせました」

改めてリナーリアが頭を下げる。満足げなその様子に、エスメラルドは「ああ」とうなずいた。

歩き出しながら、隣のリナーリアへと問いかける。

「俺にはよく分からなかったが、ボラックスは一体どんな薔薇を作ろうとしているんだ?」

「青い薔薇、です」

青い薔薇。言われてみれば、ここの薔薇園でそんな色の薔薇を見たことはない。

赤や白、黄色などはあるが、青系のものは全く無かったと思う。せいぜい、あの東端にあった青とも言えないような薄青の薔薇だけだ。

「青い薔薇は昔から、薔薇を育てる者にとっての夢なんです。でも薔薇は青色の遺伝子を全く持っていないので、いくら交配しても青い薔薇を作り出す事はできなくて」

「遺伝子?」

聞き慣れない単語に、エスメラルドは首を傾げる。

 

「ええと、つまり、生まれついての素質みたいなものですね。例えば、いくら色々なオタマジャクシを育てても、その中から翼の生えたカエルが生まれてきたりはしないでしょう?そんなカエルはこの世に存在しませんから。それと同じで、生まれつき青い色を持った薔薇というのは存在しないんです。白い薔薇を染料や魔術を使って染める事はできますけどね」

「なるほど」

分かりやすい例えだ。翼が生えて空を飛べるカエルというのもなかなか心躍る想像ではあるが。

「ボラックスさんの研究は、全く違う種類の青い花から魔術を使ってその素質を分けてもらい、生まれつき青い薔薇を作り出すものです。…私は昔、その話を聞いたことがあって。それで少し思いついた事があったんですけど、話す機会がないままで、ずっと気になっていて…」

リナーリアはなぜか、とても遠い目をして空を見上げた。

彼女は時折そういう目をしている事があるのだが、どうかしたのかと聞いても笑ったり誤魔化すばかりで絶対に話そうとしない。

その事を、エスメラルドは少し寂しく思っている。

 

「…青い薔薇か。きっと、とても美しいのだろうな」

「そうですね。理論上は、完成すればすごく鮮やかな青い色を出せるはずなんです。ボラックスさんならきっとできると思います」

「その時は君が名前を付けるんだろう?」

「いえ、そんな…私なんてちょっと助言しただけですし、そんなの悪いですよ」

「別にいいじゃないか。青い薔薇はきっと君によく似合う」

リナーリアの青みがかった銀の髪と青い瞳には、鮮やかな青い薔薇がぴったり合いそうだ。薔薇だって、そんな彼女から名付けられれば喜ぶはずだ。

「そ、そうですか…?うーん…」

「ああ。…そうだな、何だったら俺が名前を付けても良い」

「え、本当ですか?殿下に名付けていただけるなら、ボラックスさんも絶対喜びますよ!とても光栄だって」

リナーリアがはしゃぎ、エスメラルドもその笑顔につられて笑う。

 

「こういうのって結果が出るまで十数年もかかったりするんですが、ボラックスさんなら意外と早く完成させてくれそうな気がするんですよね」

「そうだな。とても楽しみだ」

 

ぜひ、早く見てみたいものだ。エスメラルドは未だ見ぬ青い薔薇へと思いを馳せた。

その時はその薔薇に、リナーリアと名付けよう。



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第26話 入学式

いよいよ魔術学院の入学式の日がやって来た。

真新しい制服に身を包んだ新入生達が学院へと集まってくる。

学院の制服は男女共に臙脂色の上着で、下は男子はズボンで女子は膝下のスカートだ。

ネクタイは学年別に色が違い、1年生は青。2年が紫で、3年が緑になっている。

 

魔術学院はこの国が運営する、騎士と魔術師の教育機関だ。校舎及び学生寮は王城のすぐ近くにある。

在学期間は基本的に3年。主に15歳になった貴族の子女が通うが、入学年齢に上限はない。

庶民でも入学に必要なだけの高魔力所持者ならば入れるが、学費には補助が出るものの制服や寮費その他教材などで魔術学院は色々とお金がかかる。

王都にはちゃんと庶民向けの学校もあるので、わざわざ魔術学院を選ぶのはよほど裕福な者だけだ。

 

魔術学院の教育課程は騎士課程と魔術師課程の二種類がある。魔術師課程への入学にはより高い魔力を要求される。

学問や教養については両課程で共通の授業を受けるが、学年が上がるにつれ主に戦闘訓練において別々の授業を受ける事になる。

クラス分けは課程別ではなく混合だ。女子の多くが魔術師課程を選ぶため、課程別に分けると男女比率が偏ってしまうからだ。

学院は元々男子の比率の方が高い。あまり裕福ではなく全ての子供を学院に通わせられない下位貴族の場合、嫡男など男子だけを学院に入れる事がよくあるからだ。女子は卒業後は結婚し家庭に入る者が多いのもあり、無理に学院に通わせる必要はない。

そして貴族は魔術師よりも騎士の家の方が圧倒的に多い。大抵の者は出身の家と同じ課程を選ぶので、学院は男子生徒、特に騎士課程の人数が多くなっているのだ。

 

学生は基本的に学生寮に住むことになる。貴族の大部分は冬の間領地に帰るので、親がいない間も子供たちが学院に通うための措置だ。

届け出さえすれば外泊は自由なので、王都にある屋敷から通う者も中にはいるが、一日ごとに届けが必要になるし面倒なので普通に寮に住む者が大半となっている。

なお、一人につき一人ずつ使用人を寮内に出入りさせる事が可能だ。

勤続10年以上、同性、身分証明ありなどのいくつかの条件を満たした上、予め審査を受け許可証をもらう事で朝6時から夜8時までの間に限り寮内に出入りできる。

高位貴族のほとんどは、このために子供が幼い頃から一人以上の使用人を専属で付けて育てている。私の場合はコーネルだ。

ちなみに王子及びその従者は護衛上の問題もあり入寮はせずに王宮から通う。どうせ近いし。

 

 

入学式は大講堂で行われた。

まずは学院長からの挨拶。白髪の老魔術師で、その話は豊かな顎髭よりも長い。

いい加減眠くなってきた所で新入生代表からの挨拶。今年の代表はもちろん殿下だ。

立派な挨拶だが、前世とちょっと内容が違っている気がするな。細かくは覚えていないが。

それから生徒会長からの挨拶、教師の挨拶、来賓からの祝辞などが行われた後、各教室へと向かった。

私と殿下、スピネルは同じクラスになっていた。偶然かも知れないがもしかしたら忖度されたのかも知れない。表立って言いはしないが、やはり第一王子というのは特別扱いなのだ。

カーネリア様は別のクラスで残念だが、ペタラ様が一緒のクラスだった。

…それと、フロライア様も同じクラス。前世もそうだったので予想はしていたが。

 

クラス担任はノルベルグ先生だった。怪我で一線を退いたが、昔は優秀な騎士だったという教師だ。

無骨な外見だが思いやりがあり、生徒からも教師からも信頼される良い先生だと思う。

「それでは皆、一人ずつ自己紹介をするように」

ノルベルグ先生に促され、右前から順に簡単な自己紹介をしていく。クラスの大半は既に顔見知りなのだが、中には知らない生徒もいるのでこういうのは大事だろう。

席順は事前に教師によって決められていたものだが、特に規則性はなくランダムのようだ。

 

「ニッケル・ペクロラスです。ペクロラス伯爵家出身、騎士課程です。趣味は絵を描くこと。どうぞよろしくお願いします」

極稀に受けを狙いに行く者もいるが、だいたい皆無難な自己紹介だ。前世でクラスメイトだった者もいれば、そうではない者もいる。

「リナーリア・ジャローシス、ジャローシス侯爵家の長女です。魔術師課程で、特技は水の魔術です。どうぞよろしくお願いします」

私もごく普通の挨拶で済ませたのだが、殿下ほどではないにしろ明らかに他より注目を集めている気がする。絶対あのパーティーのせいだ。

前世は王子の従者として目立っていたため色々苦労したので、今世は地味で目立たないように過ごしたかったのに、スタートからもはや大失敗している。

アーゲンめ…別のクラスで安心したが覚えていろ。

 

自己紹介の後は各課程のカリキュラム説明や校内の設備、使い方などについての説明。その辺りについて書かれた冊子が入学前に配られてはいるが、ちゃんと読んでこない者が絶対にいるので仕方ない。

入学1日目はここで終了だ。本格的に授業が始まるのは明日からになる。

あとは既に荷物が届いているはずの寮に帰ろうが校内を見て回ろうが自由だが、どうしようかと考える前に殿下から声をかけられた。スピネルも一緒だ。

「リナーリア、良かったら一緒に校内を見て回らないか」

「はい」

殿下からのお誘いならばもちろんOKだ。また視線を集めているが王子だから仕方ない。

…よく考えなくても、殿下の友人の時点で地味に過ごすのは無理だったかも知れないな…。それはそれとしてアーゲンは許さないが。

 

 

校舎の上の階から順番に、各教室を見て回る。

図書室や美術室、魔法薬の実験室などが並んでいるが、特に広いのは音楽室だ。この学校を建てた当時の国王が音楽好きだったらしく、設備がかなり整っている。

「殿下は音楽は何を?やっぱりピアノですか?」

「そうだな。あまり得意ではないが」

「ぜひ聴いてみたいです。私も一応ピアノをやっていますが、正直言って苦手ですね」

貴族の子供は必ず何か一つは楽器を習う。嗜みというやつだ。

ちなみに私がピアノを選んだ理由は簡単で、家にピアノがあったからだ。同じ理由でお兄様達もピアノをやっている。ティロライトお兄様が一番上手い。

私は音楽自体は嫌いではないが、自分で演奏するよりも聴く側でいたい人間だ。

「スピネルは何をやっているんですか?」

「俺はバイオリンだな」

「ああ、それっぽい感じしますね」

バイオリンを弾くスピネルはいかにも絵になりそうだ。間違いなく女子がキャーキャー言うやつだな。

「スピネルはなかなか上手いぞ」

「大した事はねえよ」

スピネルはそう言うが、殿下が褒めるなら実際に上手いんだろう。

 

「貴方って本当に器用ですよねえ…」

こいつ大抵のことはしれっととこなすんだよな。

私は魔術以外は不器用なので羨ましくなりながらそう言うと、スピネルは少しだけ得意げな顔になった。だが横から殿下が突っ込む。

「スピネルは確かに器用だが、その上でいつも陰で努力しているんだ。負けず嫌いだからな」

「そういう事は言わなくていいっつってんだろ!大体殿下に負けず嫌いとか言われたくねえ!!」

むきになるスピネルに、私は思わず笑ってしまった。

殿下の負けず嫌いも相当だからな。と言うか、殿下ほどの負けず嫌いは他に見たことがない。

悔しくてもあまり表情に出さず淡々としているのでそうは見えないのだが、勝負事になると絶対に譲ろうとしないのでカードゲームなどをする時は大変だった。

殿下は恐ろしく引きが強いので、あまりに勝てなくて面白くなかった私がブラックジャックでこっそりカウンティングを使って連勝したところ、その後延々と勝負を続けられて困った覚えがある。

殿下とスピネルの場合、殿下は特に剣に強いこだわりがあるので、剣術訓練で相当に手を焼いているはずだ。

前世でも殿下は武芸大会でスピネルに負けた時めちゃくちゃ悔しがってたからなあ…。私は基本的に魔術師なのでその方面で張り合う事はなかったが、そういう意味でも魔術師で良かった。

そんな事を思い出しながら、私はどうどうと二人を宥めた。

 

1階まで降りてから、一度外に出た。外には運動場と訓練場がある。

「訓練場は思ったより狭いんだな」

「魔術訓練のために防護結界が張ってありますからね。あまり広げると維持が大変になるみたいです」

学院の教員や衛兵達も十分に優秀なのだが、さすがに王宮魔術師がたくさんいる城の練兵場のような広さの結界は無理だ。

「大規模な訓練の時は転移魔法陣で近郊の野原に行くそうです。1年生のうちはほとんどやりませんが」

「さすが、よく調べてるな」

「ええまあ…」

実はここの卒業生だからなんですけどね。3年間過ごした場所なので、やはり懐かしい。

「えーと、あとは食堂と寮くらいですかね?」

「なら食堂に行くか。少し早いが昼食にしよう」

「そうだな」

「はい」

 

まだ早い時間だからか、食堂は思ったより空いていた。

ここは基本的にビュッフェ形式だ。男子と女子、騎士課程と魔術師課程などで食べる量にかなりの違いがあるからだ。

貴族の子女が通う学校だけあって味はかなり良い。私はフラメンカエッグという卵料理がお気に入りなのだが、今日はないようなのでオムレツを取る。殿下とスピネルはビーフシチューだ。

ちょうど焼きたてのパンが出てきたのは幸運だった。やはりパンは温かいうちに食べるのが一番美味しい。

「なかなか美味いな」

スピネルも感心したようだ。ごろごろと大きな牛肉を柔らかく煮込んだビーフシチューはここの人気メニューの一つである。

殿下も無言でもりもりと食べている。かなりの健啖家で見ていて気持ちが良い食べっぷりなので、殿下が食事をしている所を見るのは密かに好きだったりする。

私は少食な質だったのでとてもこうは食べられなかった。今世では輪をかけて食べる量が減ってしまったし、女性の胃袋って本当に小さい。

 

そうして昼食を食べ終わりお茶を飲んでいると、数人の生徒がこちらにやってきた。

真ん中の男子生徒は緑色の髪を丁寧になでつけ、銀縁の眼鏡をかけている。

この学院の生徒会長、3年生のジェイドだ。両脇にいるのも生徒会役員だろう。

「こんにちは、エスメラルド第一王子殿下。改めてご入学おめでとうございます」

「有難うございます」

立ち上がった殿下と共に頭を下げる。殿下と言えども、学院の中では上級生に対しては敬語だ。

「既に聞いていると思いますが、殿下には生徒会に入っていただきたいと思っています」

「はい。光栄です」

王子の生徒会入りは予め決められている。未来の国王としての教育の一環だ。

だがこうしてわざわざ向こうから挨拶に来るジェイド会長の几帳面さと真面目さを私は高く評価している。実直で信頼できる、前世でもお世話になった人物だ。

 

「詳しくは明日話します。放課後、生徒会室にお立ち寄り下さい」

「わかりました」

「それと、殿下の補佐をする生徒会役員を一人ご推薦いただきたい」

これも推薦は形式上のもので、初めから決まっている。当然従者が補佐に付くのだ。

「では、こちらのリナーリアを」

…うん?

「は、はい?殿下?」

耳を疑い尋ねると、殿下はいつもの無表情のままで答える。

「君を生徒会に推薦する」

「え!?」

思わずジェイド会長の方を見るが、後ろの役員を含め皆驚いた顔だ。

「…あの、スピネルじゃないんですか?」

「俺はそういうのは向いていません。リナーリアが適任かと思います」

私の疑問に横から口を挟んだのはスピネルだ。殿下と同じく、ごく当たり前のような顔をしている。さては事前に殿下と相談していたのか。

 

「俺は君に補佐をやって欲しい。もちろん、嫌なら構わないが…」

「い、いえ…。嫌ではありません。光栄です」

私に殿下の頼みを断れるわけがない。戸惑いながらも了承する。

殿下は「ありがとう」と言うと、ジェイド会長の方へと向き直った。

「彼女の優秀さは俺が保証します。よろしいでしょうか」

「…あ、ああ。制度上は特に問題はない」

ジェイド会長は微妙に動揺しつつうなずいた。

動揺しているのはこっちもです。

 

「ちょっと、どういう事ですか!」

会長達が去った後、私はスピネルを問い詰めた。

「あ?何で俺に言うんだよ」

「どうせ貴方が何か言ったんでしょう」

「ちげーよ」

「ああ。俺の意志だ」

殿下もうなずく。

「それにさっきも言っただろ、こういうのは俺よりお前の方が向いてる」

確かに前世でも生徒会に入っていたし、将来的には文官の道も考えていたので書類仕事も得意だが。

「…で、でも、スピネルは従者でしょう。殿下の補佐をするべきでは」

「必要な事はちゃんとやるさ。でも生徒会は俺がどうしても補佐しなきゃならないものじゃない。もっと向いてる奴がいるならそっちに任せればいい」

「……」

思わず言葉をなくしてしまうが、殿下も同じ意見のようだ。

 

「リナーリアならスピネルより上手くやれると思う。スピネルはまた別の所で役に立ってもらえばいい」

「殿下…」

「大体、生徒会とか面倒だしな。まあせいぜい頑張れ」

「本音が出ましたね!?」

怒る私に、スピネルがにやにや笑う。殿下は苦笑気味だ。

こうして、私の入学一日目は終わったのだった。



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第27話 魔術テスト※

翌日から授業が始まった。

しっかり予習はしてあるし、そもそも前世で一度習った内容なので簡単だ。はっきり言って退屈だが仕方ない。

頭の中で魔術の構成について考えつつ、授業は適当に聞き流す。

 

3時間目は魔術のテストだった。

テスト内容は最も初歩の攻撃魔術である火球を、用意された的に向かって撃ち出すというもの。

この年齢の貴族なら騎士・魔術師問わずほぼ誰でも使える簡単な術だが、その威力や精度は使用者によって大きく変わる。同じ初級魔術でも、習いたての子供と一流の魔術師では天地ほどの差が出る。

魔力量が入学基準を満たしているかどうかの測定は入学の一年前、14歳の時に受けるのだが、成長期の子供は魔力量も相応に伸びる。

だから改めて実際に教師の目から魔術を見て、各自の魔力量や魔術の習熟度について確認するのだ。

 

クラスの中でも騎士課程の生徒から順に呼ばれてテストを行い、その後で魔術師課程の生徒のテスト。見た所測定時の魔力量データを元にして、魔力が少ない方から順にやっているようだ。

当然魔術師課程の生徒の方が上手く術を使っているが、まだ入学したてなのでそこまで差は大きくない。緊張して術を不発させる者もいたが、2回までやり直しが認められているのでちゃんとそれでクリアした。

殿下やスピネルも問題なく術を成功させている。彼女…フロライアも、威力・精度共に見事なものだ。

 

「次、リナーリア・ジャローシス」

魔術の先生に名前を呼ばれ前に進み出ると、一瞬殿下と目が合った。小さくうなずいているのは「がんばれ」という意味だろう。

どうやら期待されているようなので、私は少々張り切る事にした。

いつもは主に魔術構成を組む速度や制御力を向上させる訓練に時間を割いているので、こんな初級の攻撃魔術など使うのは久し振りだ。火魔術はそれほど得意ではないが、あくまで水魔術に比べればの話だ。やろうと思えばそれなりの威力は出せる。

15メートルほど先にある魔術訓練用の的に向かって手を伸ばし、一瞬で火球の構成を組む。

構成に思いきり魔力を注ぎ込むと、何故か物凄い手応えを感じた。

一抱えはありそうな大きさの火球が手の先に生まれる。

…あれ?なんか大きいな?

 

戸惑いつつも既に発射態勢に入ってしまっていたのでそのまま撃ち出すと、ドゴオオオン!!という派手な轟音を立てて的に火球が炸裂した。温風がこちらに吹き付けてくる。

もうもうと上がる煙。

…魔術による防護がかけてあったはずの的は、真っ黒に焦げて半分ほど吹き飛んで小さくなっていた。

しーん…と辺りが静まり返る。

恐る恐る周りを見ると、クラスメイト達はみんなぽかんとした顔で黒焦げの的と私の顔を交互に見ていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「…初級魔術?」

「しょ、初級魔術ですよ!先生だって構成を見ていたでしょう!」

先生の呆然とした呟きに、私は慌てて反論する。正真正銘ただの火球の初級魔術だ。ちょっと威力が想定外だっただけだ。

「そ、そうだな。確かに初級魔術だった…いやしかし、調査書には水魔術の適性高しと書いてあるが?火魔術の間違いか?」

「いえ、間違っていません。我が家は代々水魔術が得意です」

「……」

本当です。嘘ではないです。うちは水魔術の家系です。

「…授業が終わったら、君はここに残るように」

「はい…」

 

授業の後、私は一人職員室に連れて行かれ先生から色々尋ねられ、細かな魔力量チェックやら習熟度チェックやらを受ける羽目になった。

おかげで授業初日だというのに4時間目の授業に出られなかった。

昼休みが始まる頃になってやっと戻ってきた私に、クラス中から刺さる視線が痛い。どうしてこんな事に…。

 

 

「うわははは!入学早々説教受ける奴があるか!」

食堂で昼食を食べながら、スピネルにめちゃくちゃ笑われた。何でこんなに楽しそうなんだこいつ!

「説教なんてされてませんよ!私は何も悪い事はしてませんし!」

「制御に失敗した訳ではないんだろう?」

殿下に尋ねられ、私は「もちろんです」とうなずく。

「もし失敗してたなら、私は今頃魔力制限の魔導具を着けさせられてますよ」

「しかし凄い威力だったな…」

「お前支援と防御がメインとか言ってたのは嘘だったのか。どう見てもばりばりの攻撃系だろ」

「本当です!私は元々水魔術が得意なので、火魔術であんな威力が出るとは思わなかったんですよ」

普段はあまり火魔術を使わないし、使っても制御が目的の訓練だったのでかなり威力を絞っていた。思いっきりやったらあんな事になるとは、自分でも分からなかったのだ。

 

「先生に調べてもらった所、知らないうちにこの1年で魔力量がかなり増えていたみたいです。あと、火魔術への適性がすごく伸びていたみたいで…」

「知らないうちにそんなに増えたり伸びたりするものなのか?」

「…極稀には…」

全く無いわけではないが、非常に珍しいケースだ。しかも原因が思い当たらないのでちょっと気持ちが悪い。

先生もかなり不思議がって更に調べようとしていたが、これ以上拘束されたくなかったので「王宮魔術師のセナルモント先生に師事しているので、師に相談してみます」と言って何とか解放してもらった。王宮魔術師の名前の効力は抜群だ。

実際に教えられているのは古代神話王国についてばかりだという事は当然伏せておく。一応は魔術についても相談に乗ってくれたりするし。一応は。

 

 

「そういう事なら攻撃系に転向しろよ。あの調子でドカンドカン魔獣をぶっ飛ばせたら楽しいだろ」

「私はあくまで支援系の!水魔術が得意な!魔術師です!!」

「つまんねえなあ」

「つまらなくて結構です!」

派手で威力がある攻撃魔術というのもそれはそれで良いものだし、必要とあらば使うのだが、私は縁の下の力持ち的に渋く地味に立ち回るのが好きなのだ。

 

「私は地味でいたいのに、また目立ってしまいました…どうして…」

「リナーリア、元気を出せ」

落ち込む私を殿下が慰めてくれる。やっぱり殿下は優しい。

だがスピネルは容赦ない一言を投げつけてくる。

「お前が地味とかそりゃもう無理なんじゃないか?」

「貴方本当に酷いですね!」

スピネルはいつか締める。絶対にだ。



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第28話 美人ランキング

「リナーリア、今日は俺と共に昼食を取ろう。使用人に命じてガムマイト領産の牛を取り寄せた。味わわせてやろう」

「ええと…」

私は困惑しつつやんわりと微笑んだ。

面倒くさい。というか、学院の食堂で自分用の牛肉焼こうとするな。迷惑だろう。

私を誘っているのは、オットレ・ファイ・ヘリオドール。

王兄フェルグソンの息子…つまり、殿下にとっては従兄弟に当たる人間だ。私や殿下の一歳上の学年になる。

 

王兄フェルグソンは兄であるにも関わらず国王の座についていない時点で大体察することができるのだが、色々と問題のある人物だ。過去にあれこれやらかしたせいで王位継承権は放棄させられているが、息子であるこのオットレには継承権が残っている。

国王陛下には子供は一人しかいないので、オットレは王子や王弟・王妹に次ぐ継承権の持ち主という事になる。ミドルネームのファイは高い王位継承権を持つ者の証だ。だが…。

はっきり言おう。私はこいつが大嫌いである。

 

オットレは本来なら父が国王で、自分はその後継者だったはずだとでも思っているのだろう、とにかく態度がでかい。自惚れが強く周囲の人間の事を見下している。

さらに殿下に対する対抗心が物凄く強い。どうせ勝てないくせに事あるごとに張り合ってきて、しかも汚い手を使ったりする。

前世では、殿下の従者だった私もこいつには相当嫌な目に遭わされた。嫌味や陰口くらいならまだいいが、時にはひどい嫌がらせなどもされた。

こいつとその取り巻きに学院の池に突き落とされた事まであるが、騒ぎを聞いて駆けつけた殿下が激怒し、それ以来あまり絡まれなくなった。

殿下が本気で怒る所を私はその時生まれて始めて見たのだが、本当に怖かったのでとてもびっくりした。しかも、私が知る限り殿下はその後卒業まで一切オットレやその取り巻きと口をきいていない。

普段温厚な人物が怒ると怖いのだ。

 

そんな訳で私はこいつが嫌いなのだが、今世の私は今の所こいつに嫌がらせなどは特に受けていない。むしろ一見好意的に寄って来られている。

実は舞踏会でも誘われ一度踊っているし、その後も何だかんだ話しかけられているが、適当にかわしてきた。

どうせこいつは殿下に対抗したい、あるいは嫌がらせしたいという理由だけで私に近寄ろうとしているのだ。友好的になれるはずがない。

しかし今日のように正面切って誘われて断るというのはさすがに角が立ちすぎる。午前の授業が終わったばかりで周囲にもたくさん生徒がいるしなあ…。

仕方ないので了承しようと思った時、オットレの後ろから殿下とスピネルが近付いてきた。

「オットレ、悪いがリナーリアは俺と先約がある」

「エスメラルド」

オットレはあからさまに嫌そうな顔をした。舌打ちせんがばかりの様子だ。

「…チッ。ならいい」

こいつ、本当に舌打ちしたな…。殿下に向かって。

内心イラッとしつつ、私は「申し訳ありません」とオットレに頭を下げた。

 

「…殿下、お誘いいただきありがとうございました」

食堂で、私は正面に座った殿下に向かい小声で礼を言った。先約があるというのは嘘だったからだ。

「君はオットレに何かされたのか?」

殿下が少し心配そうにしているようなので、私はいつも通りの顔で首を横に振る。

「いえ、特に何もされてませんよ」

「でもお前、あいつの事嫌そうにしてただろ」

眉をひそめたのはスピネルだ。

「…顔に出てました?」

思わず頬に手をやる。ちゃんと隠していたつもりだったのだが。

「まあちょっとな。周りにはバレてないと思うが」

だから殿下は私を助けてくれたのか。まだまだ修行が足りないな。

「本当に何もないですよ。…でも、あの方が魔術師を侮る発言をしているのを聞いた事がありまして、それであまり好意的になれないと言うか…」

「なるほどな」

私の言い訳に二人は納得してくれたようだ。思い当たるフシがあったのだろう。実際それも、私がオットレを嫌う理由の一つだし。

 

「お前魔術の事になるとやたらプライド高いもんな」

「…私の唯一の取り柄ですので」

勉強などもそれなりに得意なつもりだが、それは多少努力すれば誰にでもできるものだ。私が僅かなりとも他人より勝っていると感じられるのは、魔術だけである。

「そんな事はない。君には良い所がたくさんある」

殿下がやけに真剣な様子で言う。そう言ってくれるのは殿下だけだ。

「ありがとうございます」と笑うと、殿下は何か言いたそうにしたが、そのまま口をつぐんだ。

 

「でも最近、ああいう…男子生徒から声をかけられる事が妙に多いんですよね。やっぱり目立ってしまったせいでしょうか…」

入学してからもう1ヶ月は経つ。時間と共に私への好奇の目は薄れてくれるだろうと思ったのだが、近頃むしろ注目が増えているような気がする。

食事に誘ってくるようなのはアーゲンやオットレくらいだが、何やら様子を探るように馴れ馴れしく世間話を持ちかけてくる男子生徒は多い。前はそういうのはほぼ、殿下とスピネル目当てのご令嬢だったのに…。

適当にあしらっているが面倒だ。女子生徒も苦手だが、ぐいぐい来るような男子生徒も結構苦手なのだ。

 

第一、どいつもこいつも前世では同級生や先輩だった者ばかりだ。

「やあ!今日も美しいね!」などとお世辞を言われても、「こいつ胸より尻派だったな」とか「確か年上好きで男爵夫人と不倫して大問題になる奴だったな」とか思い出すとまともに相手をする気になどなれない。別にそんな事いちいち記憶していたくはなかったのだが、覚えているのだからしょうがない。

こういう事は後で役に立ったからな…。弱みを握ったりとか色々。

そう考えると、アーゲンやオットレの女の趣味は知らなかったので良かった。知っていたら食事に誘われた時うっかり噴き出してしまったかもしれない。

ちなみに殿下の好みは「誠実な女性」だった。実に殿下らしいと思う。

スピネルの好みも知らないな。女性は全部好みとか言いそうに見えたが、今世では違うかもしれない。全然遊んでないようだし。

 

前世では魔術師課程の男子生徒とは良好な関係を保っていたけれど、彼らは大人しいせいか今世ではさっぱり会話をできていない。むしろ避けられている気配すらある。

何故自分から女性に寄っていくような男は騎士課程ばかりなのだろう。そしてどうして私に声をかけるのだろうと首を捻る私に、スピネルが肩をすくめる。

「そりゃ、お前が今男人気でナンバー2って事になってるからだろ」

「は?」

私は怪訝な顔をし、それからすぐに思い当たった。

「…あれですか。学院内美人ランキングとかいう」

「なんだ、知ってるのか」

「小耳に挟んだだけです。具体的な内容は知りません」

 

学院内美人ランキング。前世で度々耳にしたものだ。

男子生徒の間だけで行われているもので、誰がいつどうやって集計しているのかは知らないが、どうも定期的に行われているらしい。

しかしそれよりも聞き捨てならないのは、先程のスピネルの言葉だ。学院には見目麗しいご令嬢がいくらでもいるのに、私がそこに入るとは思えない。

「私がナンバー2ってなんですか。そんな訳ないでしょう」

「新入生入学後の最新ランキングでそうなってるんだよ。1位がフロライア嬢で、2位はお前だ」

「はあ?」

「気にする事はないだろ。顔ならお前の方が美人だと思うぞ?ただフロライア嬢はお前が持ってないものを持ってるってだけで」

「は?どう見てもフロライア様の方がお美しいでしょう。貴方目がおかしいんですか?」

「褒めてやってんのになんだその言い草!!」

「全然褒めてないですよね?大体、私が持ってないものって具体的にどこの事を指しているのか尋ねても?」

「ああん?言っても良いのか?」

 

「やめろ、二人共」

一触即発で睨み合う私とスピネルを止めたのは殿下だった。

「誰を美しいと感じるかは人それぞれだ。争う必要はない」

「…そ、そうですね」

つい売り言葉に買い言葉でむきになってしまった。身を縮める私に、だがスピネルは面白そうな表情になる。

「そうだな、人それぞれだな。じゃあ殿下はどうなんだ?誰が一番美人で魅力的だと思う?」

「…それは」

「殿下」

何か言おうとした殿下を私はすぐさま遮った。

「まさか殿下は、美しさで女性の優劣をつけるような下劣な真似はなさいませんよね?」

にっこりと笑ってみせると、殿下は言葉に詰まって黙り込んだ。

途端にスピネルがつまらなさそうな顔になる。

別に容姿の事などどうでもいい。彼女が私より美しく魅力的なのは当たり前だ。そんなのは分かっている。

だが、殿下の口から彼女を褒める言葉はやはり聞きたくなかった。

 

何となく気まずい沈黙が落ちる。それを破ったのはスピネルだった。

「…まあ、とりあえずオットレには気を付けとけ。あいつはろくな野郎じゃないからな」

「…そうですね」

私はうなずいた。前世とは状況が違うとは言え、警戒するに越したことはないだろう。



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第29話 リナーリア、筋肉を語る

今日の昼食は、スピネルの妹君であるカーネリア様やそのご友人たちと一緒だ。

クラスは別々になってしまったが、学院入学後も仲良くお付き合いをさせてもらっている。私は入学早々にクラスでちょっと浮いてしまったのでとても有難い。

ビュッフェのメニューには好物のフラメンカエッグもあって、私は上機嫌だった。周囲のご令嬢たちと和やかに会話をする。昔に比べると私もご令嬢たちとの会話が上手くなったなあ…。

 

殿下とスピネルはそれぞれ別の男子生徒達と昼食を取っているようだ。

最近二人は学院内で別行動を取っている所をよく見かける。スピネルは少々騒がしい男子、殿下は無骨な男子とよく話しているようだ。

スピネル曰く「四六時中一緒にいたら殿下だって気が詰まるだろ」との事で、前世で基本的にいつも一緒にいた私は大変ショックを受けた。

もしかして殿下もちょっと鬱陶しかったりしたんだろうか…いや、殿下に限ってそんな…。

激しく落ち込みそうだったので深く考えるのはやめた。

 

「もう少しで定期テストですわね。少々気鬱です。私、数学が苦手なんですの」

「分かるわ、私も数学は苦手だもの」

ため息をついた一人のご令嬢に、カーネリア様が同意する。

「そう言えば、スピネルお兄様に聞いたわ。リナーリア様はとてもお勉強ができるって。よろしければ、今度お勉強を教えていただけないかしら」

「あら…」

スピネルが私を褒めたりしたのか。珍しいこともあるものだ。

「お役に立てるかは分かりませんが、私で良ければ喜んで」

そう答えると、カーネリア様は嬉しそうに「やったあ!」と笑った。

「まあ、それならば私もぜひ教えていただきたいですわ」

「私もぜひに」

他の令嬢達も次々にそう言い出し、私はおっとりと微笑む。

「では、今度集まってお勉強会をいたしましょうか。皆で寄り合えば、きっと捗ることでしょう」

「それは素敵ね!」

「私、お菓子を持っていきますわ」

きゃっきゃと話が弾む。こういうのはいいな。連帯感が生まれる感じだ。

 

「…あら。リナーリア様は、王子殿下とお勉強をなさらなくてよろしいのかしら?」

突然、棘のある甲高い声が響いて私は後ろを振り返った。

薔薇色の巻毛をした、いかにも気の強そうな風情のご令嬢がそこに立っている。

カーネリア様と同じクラスのシルヴィン様だ。

私はどう答えて良いものか分からず、曖昧に微笑む。

以前からこのシルヴィン様はお茶会などで度々私に絡んできては、殿下との仲についてしつこく尋ねてくるので少々苦手だったりする。

 

「どうして殿下の話が出てくるのかしら?」

横から割って入ったのはカーネリア様だ。シルヴィン様はカーネリア様に対してはあまり強く出ないので、一緒にいる時はよくこうして庇ってくれる。

「だ…だって、リナーリア様はいつも王子殿下と親しげじゃありませんの」

「そうね、リナーリア様は殿下ともお兄様とも親しいわね。でも、私達とも親しいのよ」

「……」

シルヴィン様が唇を噛む。我慢しているが悔しそうなのが丸わかりだ。

迷惑ではあるが、この素直で腹芸ができなさそうな感じが個人的には嫌いではないんだけどな…。カーネリア様も、困ってはいるが嫌ってはいない感じだ。

私としては殿下に紹介してあげたい気持ちもあるのだが、スピネルから「そういうのは絶対にやめろ」ときつく言われているのでできない。

 

「そうだわ、お勉強会にはスピネルお兄様もお呼びしましょうか。お兄様もテスト勉強には苦労しているみたいだし。どうかしら、リナーリア様」

「え?…ええ、よろしいのではないでしょうか」

カーネリア様の突然の提案に私は内心首を傾げつつ微笑んだ。別に構わないが、どうして急にそんな話になるのだろう。

「うふふ、リナーリア様と一緒ならきっとお兄様も喜ぶわ」

にっこりと笑うカーネリア様。それを聞いて急に慌てだしたのはシルヴィン様だ。なぜ私を睨む?

 

「あ、貴女、まさか…本当にスピネル様とお付き合いをなさっているの…?」

シルヴィン様が思い切った様子で私に問いかける。

私は笑みが引きつりそうになるのを必死でこらえた。数ある誤解の中でも一番言われたくないやつだ。

「…いいえ。どうしてそのような事を」

「だって貴女、いつもスピネル様のことを呼び捨てにしているし」

「それは幼い頃から親しくしているからです」

一応嘘ではない。出会った頃の私は前世の記憶が戻ったばかりですぐに「スピネル様」と「スピネル殿」がごちゃごちゃになってしまい、呆れたスピネルに「もう呼び捨てでいい」と言われてしまったのが原因なのだが。

それ以来ずっと呼び捨てにしているが、そんな事は皆の前でとても話せない。

「デビューの時もスピネル様と踊っていたではないの」

もうそろそろ皆忘れている頃だろうに、その話を掘り返すのは勘弁して欲しい。

「あれは、私がファーストダンスで失敗するのではないかと心配して気を遣って下さったんです。スピネルは私のダンスがとても下手な事を知っていましたから」

「知っているって…まさか、舞踏会の前にもスピネル様と踊った事があるの?」

えっ、そこに食いつくんですか。

「ええまあ、一応…」

その件についてもあまり話したくないので微笑んで誤魔化す。

どれもこれも話せない事ばかりで困る…。

 

だが、シルヴィン様は物凄くショックを受けたような顔で黙ってしまった。

何故そうも落ち込むのかと思い、私はそこでぴーんと閃いた。

…もしかしてこの方、スピネルの事が好きなのでは?

だとすれば、今までの彼女の言動にも納得がいく。殿下との仲をしつこく尋ねてきたのも、私が殿下を好きだという言質を取りたかったからなのだろう。

なら、このよく分からない会話をどういう方向に持っていけば良いのかの答えは簡単だ。

 

「シルヴィン様は私がスピネルと踊ったことを気になさっていますが、本当に彼とは何でもないんですよ。先程は私がダンスが下手だからと言いましたけど、実はもう一つ理由があるんです」

「えっ?」

「私は本当は、憧れの殿方がいるんです。でも私はその方とはとても踊ることができないので、スピネルが代わりに踊ってくださったんですよ」

そう言った途端、ガタガタっ!という音が響いた。誰かが椅子を蹴って立ち上がりかけたような音だ。しかも複数。思わず辺りを見回すが、皆素知らぬ顔をしている。

…これ絶対、皆聞き耳を立てているな…。

 

話を聞かれている事に少し恥ずかしくなるが、この際だから都合がいいと考えるべきだろう。この件について私の印象を変えるチャンスだ。

「あの、リナーリア様…そんな事をおっしゃっていいの…?」

困惑した様子でカーネリア様が尋ねてくる。私は恥ずかしそうな顔を作り、少しうつむいた。

「はい。どうせ私とはご縁のない方ですので。…実はその方は、ブーランジェの…」

ガタっ!とまた椅子の音が聞こえる。おい誰だよ。

「えっ、うちのお兄様!?レグランドお兄様かしら、それともバナジンお兄様?やだ、言ってくれたらいつでも紹介したのに!」

カーネリア様が目を輝かせるが、私は小さく首を振る。

「いえ、ブーランジェ公爵様です」

 

「……。お父様?」

「はい!剛刃将軍と謳われたアルマディン・ブーランジェ閣下です!」

私は両手を合わせ、にっこりと笑う。

カーネリア様とシルヴィン様が揃ってぽかーんとした。

「その生き様はまさに質実剛健、厳しくもお優しい騎士の鑑とも言うべき立派なお方。お目にかかったことはほんの数度しかありませんが、武勇伝はいくつも聞き及んでおります。とても憧れています」

私はできる限り熱意を込めて言う。

相手は公爵、しかも既婚者かつ友人の父親だ。殿下やスピネルとは違い、どう間違っても私と関係など生まれようがないと誰でも一目で分かる。

誤解を受ける心配がない憧れの相手として、まさに完璧なチョイスだ。

父親に代わって息子に踊ってもらったというのも、いかにもそれっぽくロマンチックに聞こえるだろう。多分。スピネルと公爵は全く似てないんだが。

それに、私が公爵に憧れているというのは事実だ。もちろん恋愛感情的な意味ではないが。

ブーランジェ公爵は謹厳実直を絵に描いたような人で、一人の騎士として、公爵として、とても尊敬できる人物なのだ。騎士でありながら、魔術師に対してきちんと敬意を払ってくれる所も素晴らしい。

 

「あの逞しい体躯も素敵です。特にあの、服の上からでも分かる上腕二頭筋…数十頭の魔獣の群れに襲われた際、なんと素手で魔獣の頭を引き千切って倒されたとか!素晴らしい膂力(りょりょく)です」

「そ、そうね…?」

カーネリア様がこくこくとうなずく。

「それに、僧帽筋もたいそう立派でいらっしゃいます。狼型の中型魔獣と戦った際、頭部に一撃を食らいながらもその筋肉で耐え切り、一刀をもって魔獣を両断したと聞いております。普通の騎士にはとてもできることではありません」

「え、ええ」

「あ、もちろん、上半身だけではなく体幹を支える下半身の筋肉もとても優れていらっしゃいます!特に腓腹(ひふく)筋が素晴らしいですね。かの剛力は、鍛え上げられた足腰から生まれるものなのでしょう」

「…ええと、筋肉…お詳しいのね…?」

「はい」

カーネリア様に問われ私はうなずいた。

人体の構造、特に筋肉についてはしっかり勉強している。身体強化の魔術を使う際、その知識があった方がより高い効果を出しやすいからだ。

女性は何だかんだと男性の外見を気にするものなので、内面だけではなく外見も褒めた方が信憑性が高まると思ったのだが…おかしい、どうも微妙な反応をされているような気がする。何か間違っただろうか…?

 

「そうだったのね…リナーリア様はブーランジェ公爵を…」

シルヴィン様は呆然と呟いている。良かった、ちゃんと信じてくれたらしい。

「ごめんなさい、知らずにおかしな事を訊いてしまって」

しかもちゃんと謝ってくれた。やっぱりこのご令嬢、根は素直な人なのだ。作戦が上手く行った事に安心する。

「いいえ。分かっていただけて嬉しいです」

戸惑い顔で様子を見守っていたカーネリア様や他のご令嬢も、シルヴィン様が矛を収めたことにとりあえずほっとしているようだ。

 

そこで、予鈴の音が聞こえてきた。話し込んでいるうちに時間が経ってしまったようだ。

周囲の生徒たちが次々に席を立ち食堂から出ていく。私たちも午後の授業が始まる前に戻らなければ。

去っていったシルヴィン様を見送りながら、私はこっそりとカーネリア様に耳打ちする。

「カーネリア様、私気付いてしまいました。シルヴィン様、きっとスピネルの事が好きなんですよ」

それを聞いたカーネリア様は私の顔を凝視する。

「…まさか、今まで気付いてなかったの…?」

…その表情、スピネルにとてもそっくりですね。

 

 

後日、勉強会は無事に開催された。

参加者にはシルヴィン様もいた。どうやらカーネリア様が誘ったらしい。

スピネルは来なかったのだが、シルヴィン様とはだいぶ打ち解けられてほっとした。

シルヴィン様は私がスピネルとも殿下ともそういう関係ではないと理解した事で、今までの自分の行動をずいぶん反省したらしい。チラチラとこちらを見つつ申し訳なさそうにしているので、彼女が苦手だという政治経済学について丁寧に教えたところ非常に感激された。

こういう素直で表裏のない人物が私は好きなのだ。できれば仲良くしていきたい。

 

そこまでは良かったのだが、生徒の間で私は筋肉好きだという噂が流れているとカーネリア様から聞いた。…何故?

さらに、男子生徒の間では筋力トレーニングが流行り出しているらしい。

私の話を聞いて筋肉はモテると思ったのだろうか。

それで女性受けするかどうかの責任は私には持てないが、鍛えるのは良い事なので頑張ってほしい。



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挿話・9 騎士家の兄妹

カーネリアは、持ち上げていた紅茶のカップを下ろすとその明るい赤毛をかきあげた。

ここは寮のカーネリアの自室だ。正面に座っているのは、カーネリアの2歳上の兄、スピネルである。

何をしに来たのかと尋ねたい気持ちはあるが、それは向こうから言うべき事だろうと思うのでさっきから黙っている。

この兄を甘やかすつもりは、カーネリアにはない。

 

「…勉強会はどうだったんだ?」

ようやく兄が口を開いた。やっぱりその用件ではないかと内心で口を尖らせながら、カーネリアはつんと答える。

「恙無く終わりました。リナーリア様に丁寧に教えていただいて、とても勉強が捗りました」

「そうか」

再びの沈黙。カーネリアは内心でイライラとする。

「皆様和気あいあいとして、大変楽しく過ごしましたとも」

「それは…」

「リナーリア様とシルヴィン様も、です!あのお二人、案外気が合うようですわ」

いい加減まどろっこしいのでつい言ってしまった。

「そうなのか」

ちょっと意外そうな顔に少し溜飲が下がる。訊きたければ初めからそう言えばいいのに。

 

「そんなに気になるなら、参加すれば良かったじゃない」

「できるか、そんな事」

兄が言っているのはシルヴィン様の事だろう。

彼女は悪い人間ではないが、兄はああして自分に近寄ってくるご令嬢に対しいつも一定距離を置きたがる。それには色々な理由があるのは分かっているが。

「だからって私をいいように使われても困るのよ、お兄様。リナーリア様は大切なお友達だし、守れるのならば守るけれど、それはお兄様のためではないのよ?」

「誰もそんな事は頼んでない」

「私に『リナーリアをお茶会に誘え』って言ったのはお兄様でしょう。それまでは私がいくらお願いしても会わせてくれなかったのに。それって要するに、リナーリア様を頼むって事じゃない」

「いつの話だ」

「ほんの3年前よ、お兄様」

 

憮然とした顔の兄に、カーネリアはこれ見よがしにため息をついてみせる。

「…お兄様がリナーリア様を大事にしているのは分かっているわ。でもリナーリア様にはもっとはっきり言わないとだめよ、本当に鈍いんだもの…シルヴィン様の気持ちにだって、ずっと気が付いてなかったのよ?」

あれはなかなか衝撃的だった、とカーネリアは思い出す。誰が見ても明らかだったと思うのだが。

「そんなんじゃねえっつってんだろ」

「どこがよ。ずっと前から、リナーリア様に他の男が近付かないようにしていた癖に。そんなのお兄様がやったに決まってるわ」

彼女はとても美しく可憐な少女だ。あまり社交的な方ではないが、魔術師の家系で魔力も高いと言うし、普通ならばもっと沢山の男性から声をかけられているはずだ。なのに、何故かそんな様子が今までほとんどなかった。

それができそうな人間、そしてやる必要がある人間と言えば、王子殿下かこの兄くらいしか思いつかない。

正面から睨みつけると、兄はようやく観念したのか頭をがしがしと掻いた。

 

「…しょうがねえだろ!最初は本当にあいつが人見知りで泣き虫だと思ってたんだよ!」

スピネルは言い訳をする。

何しろ、リナーリアは最初王子に会っただけでわんわん泣いてしまったのだ。あの反応は流石にショックだったのか、王子も少々気にしているようだった。

その後は無事に打ち解けられたので安心していたが、ある日王子に会いに城にやって来たリナーリアを見かけたどこぞのボンクラ息子が手下相手に話しているのを聞いてしまった。

「あの侯爵令嬢を使えば、王子に近付けるのではないか」…と言う話だ。

 

王子はあまり人付き合いが得意ではない。

時間をかけて向き合えば、誰にでも分け隔てなく真摯に対応する様や人を見る目の鋭さと言った美点が見えてくるのだが、とっつきにくいのは確かだ。

そのせいで幼い頃の王子には親しい友人というものが自分以外にろくにいなかったので、スピネルはようやくできたあの妙な友人に逃げられたくなかった。

知らない子供に囲まれて「王子に紹介しろ」などと迫られれば、彼女はまた泣いてしまうかも知れない。

下心や面白半分の横槍で、リナーリアが王子と会うのを躊躇ったりするようになっては困る。彼女が王子から遠ざかる事だけは絶対に阻止したかった。

 

だから「あいつは人見知りですぐに泣く。泣かせたら王子は絶対に怒る」と遠回しに言ってボンクラが彼女に近付くのをやめさせたのだが、同じことを考える奴は他にもいた。

ある日何やらリナーリアに絡もうとしている令息がいるのを見かけたので、物陰にそいつを連れ込んで忠告しようとし、途中で面倒くさくなったので念入りに脅しておいた。こういうのは優しく言うよりしっかりと脅した方がずっと効果があるのだ。

リナーリアは実は思ったほどの人見知りではなく、泣き虫でもないのではないかという事に気付いたのはしばらく後だ。

 

「…それで今までずっと他の人が近付くのを牽制していたっていうの?」

「その方が手っ取り早かったんだよ!」

「ふうん…」

カーネリアは半眼になって兄を見る。

それを頭から信じるほど馬鹿ではない。この兄は大雑把ぶっていても意外に気遣いが細やかだと知っている。

「でも女の子が近付くのはあまり止めていなかったわよね?」

「女友達は必要だろ。あいつは女らしくなさすぎる」

「ああ言えばこう言うわね」

「訊いてるのはお前だろ。…それに、俺はそろそろお守りは降りる。殿下がようやくその気になったみたいだからな」

「殿下のことは別にいいわよ。遅すぎたくらいだけど…そうじゃなくて私は、お兄様はそれでいいのかって訊いているの!」

 

兄が王子殿下に忠義立てをしたがっている事は分かっている。

そうしたくなるような何かが王子にあるのだろうという事も、薄っすらと感じている。

だけどカーネリアの目には、王子と兄の関係は主従という言葉ではくくれないものだと思えるのだ。

 

騎士の家系に生まれたカーネリアは、将来は女騎士になることを夢見ている。

実際、自分には剣の才能があるとも自負している。同年代の女子どころかほとんどの男子にだって負けはしない。

そして、そのカーネリアから見て明らかに別物と思える才能を持つのが、この2歳上の兄スピネルだった。

7歳で王宮に行ってしまったので共に剣を振る機会などほとんどないのだが、既にいっぱしの剣士として名を上げている上の兄達も口を揃えて「あいつが一番才能がある」と言う。

そのスピネルが唯一好敵手と認めているのが、あの王子殿下なのだ。

 

たった一度だけだが、兄と王子の立ち会いを見せてもらった事がある。もちろん、練習用の木剣を使ったものだ。

兄の動きは変幻自在だ。フェイントを多用し、相手に隙を作り出し、崩してそこを突く。

対して、王子の動きは堅実かつ堅牢だった。驚くべき忍耐強さと粘り強さで守りを固め、相手に隙が生まれるのをじっと待つ。

兄は時間をかけて王子の守りを崩し、しっかりと追い詰め勝利した。

最後の一撃は遠慮など微塵も感じられない容赦のないもので、王子はずいぶんと悔しがっているようだったが、それでも最後には笑っていた。お互いとても楽しそうに。

年齢の違いからリーチの長さや身体能力で今は兄に分があるようだが、やがて成長期が終わればどちらが上になるかは分からない、とカーネリアは思った。

…自分の才能では、二人の影を踏むことすらできないだろうとも。

 

その夜は悔しくて眠れなかった。どれだけ努力しても決して越えられない壁がそこにあると感じた。

自分が女だからか。それとも、単純に生まれ持った才能の違いか。

何より、王子の事が心底羨ましくて仕方なかった。カーネリアと同い年でありながら、兄に認められているあの少年が。

兄にとってあの少年は、主であると同時に親友で、それ以上に好敵手なのだ。

その関係が羨ましくて、妬ましくすらあった。

 

…だから、カーネリアは兄が王子に遠慮するのが許せない。

それが剣だろうが恋だろうが、欲しいと思ったなら競えばいいではないか。王子とて、それを許さないほど狭量ではあるまい。

リナーリアが既にその気持ちを決めているのならば仕方がないが、今の所その様子はないのだ。

正々堂々と競い、勝負をして、そうして決着をつければいいと思っている。騎士らしく、だ。

だが、兄は決してそれを認めようとしない。

 

「何度言ったら分かるんだ。そんなんじゃねえ」

「全くそうは見えないもの」

「あのなあ。…そもそも、仮にそうだったとしてもだ。俺はそうするつもりは一切ない」

兄は嫌そうに顔をしかめながら、ふと真剣な表情を覗かせた。

「…どうして?」

「お前には分からない」

にべもなく切り捨てた兄に、カーネリアは頬を紅潮させ眉を吊り上げる。

「なんでよ!全然分からないわよ!ちゃんと説明してよ!!」

「嫌だね。それに、仮にっつってんだろ。俺はあんな変な奴を女として見るような趣味は最初っからない」

「お兄様の嘘つき!!」

「うるせえ。邪魔したな」

兄は軽く手を上げると素早く部屋から出て行った。その扉に、ソファに置いてあったクッションを投げつける。

「…もう!お兄様のバカ!!」

カーネリアの叫びは、虚しく室内に響くだけだった。




スピネルは前世でも相当の使い手だったのですが、一介の騎士として過ごしました。
それを宝の持ち腐れと感じていたのがリナーリア(リナライト)からスピネルへの評価が低かった一番の理由です。
入れる機会があるかないかわからないエピソードなので…


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第30話 模擬試合(前)

「支援魔術を使った試合、ですか?」

「そうだ。お前が殿下を支援して、相手は俺」

スピネルがそう言って自分を指差し、殿下もうなずく。

「魔術師との連携について少し知っておきたくてな」

「別に構いませんけど、それじゃ2対1になりますよ?いくら何でも有利すぎですし、ハンデをつけるべきでは」

「俺も殿下も魔術師とは集団でしか組んだことないからな。いっぺんやってみないとどのくらいのハンデが必要か分からないだろ」

それもそうか。私も今世の殿下やスピネルの剣術の腕については詳しく知らないしな。授業で見かけてはいるけど、まだ基礎訓練ばかりだし。

「そういう事なら、とりあえずやってみましょうか」

 

校庭の訓練場には剣術の試合用に使われる簡単な闘技場のようなステージがある。年に一回の武芸大会でも使われるものだ。

放課後すぐに向かうと、幸い使用者はまだいないようだったのですんなりと借りられる。

殿下とスピネルは木剣を持ち、私は一応杖を持った。普段はあまり使わないが、試合形式なので何となくだ。

「直接ダメージを与える攻撃魔術は使いません。開始の合図はどうします?」

「このコインが地面に落ちたらだ」

スピネルが懐から一枚の銅貨を取り出す。二人がいつもやっている方式のようだ。

「…いくぞ!」

 

闘技場の床に落ちたコインのかすかな音と共に、私は大小様々な大きさの水球をいくつも呼び出した。

スピネルは私の出方を確認する事もなく殿下の方へと突っ込んで行く。初めてだと言う割に思い切りが良い。

私の知る限り、殿下は守りが上手い剣士だ。今世でもその戦い方は大きく変わってはいないだろうと信じ、殿下への防御魔術はほとんど使わない方針で行く。

小さめの水球をいくつか操り、スピネルへ向かって動かす。素早く振られた剣がそれらを切り裂きつつ、迎え撃った殿下の剣も横に逸らした。疾い。

 

がんがんと木剣を打ち合わせる音が響く。

やはりスピネルは、速度を活かした剣を得意としているようだ。だが手数のうちのいくつかを私の水球への対処に割いているので、大分やりにくそうに見える。

殿下は急がずに隙を窺うスタイルだ。焦ったようなスピネルの動きには若干の罠っぽさもあるので、妥当な判断だろう。

試しに水球をスピネルの足元から顎に向かって打ち上げてみたが、しっかり避けられた。いい反応だ。

 

「殿下、少し厚めに支援します」

私は水球を大量に補充しながら言った。殿下が「わかった」と背を向けたま剣を振るいつつ答える。

「げっ、マジかよ!」

悲鳴を上げるスピネルに対し、殿下が攻勢に入った。私も先程より速度を上げた水球を次々に撃ち出す。

スピネルは剣だけではなく防御魔術も使っているようだ。それほど慣れてはいないようであくまで剣が主体だが、たまに魔術で水球を防いで落としている。

 

頃合いを見て、私は大きめの水球2つを左右から弧を描くようにして撃った。

スピネルは片方を魔術で防ぎ、片方を斬ろうとし、だがその水球は剣に触れる寸前に弾けた。

「うわっ!?」

ばしゃん!と水がスピネルの頭にかかり、一瞬動きが止まる。

その隙を見逃さず、殿下の剣が閃いた。

スピネルの手を離れた木剣が高い音を立てて闘技場の床に転がる。

 

「くっそ、やられた…」

びしょ濡れ頭になったスピネルが呻きながら天を仰いだ。

「水なんですから、塊のまま飛んでくるとは限らないでしょう」

しかもあの水球は弾けると同時に魔術を解除してただの水にしてあった。魔力を帯びた水なら同じく魔力を帯びた剣で払いやすいが、本当にただの水となると、ごく普通に水に向かって剣を振っただけにしかならない。必然、勢いのままスピネルに向かうことになる。

「水球の魔術だけでこれか…」

「初めて戦ったにしては大したものですよ。それに貴方、手加減していたんじゃないですか?」

「手加減?」

スピネルが眉間にしわを作る。

「だって私には攻撃しなかったでしょう。剣士と魔術師の組み合わせが相手なら厄介な魔術師から先に落とすべきだというセオリーくらいは知っていますよね」

 

「それはそうだが、ただの模擬試合だぞ?」

「どうせなら実戦に近い方がいいでしょう。言っておきますが、私は二重魔術を使えるので魔術行使中でもちゃんと自分の身を守れますよ。支援魔術師なら当然です」

二重魔術とは二つの魔術を完全同時に扱う技術だ。

攻撃系の魔術師なら敵の攻撃の手が届かない遠隔からの魔術行使が基本になるが、支援魔術師となるとある程度味方の近くにいないと細かい支援はしにくい。必然的に敵の攻撃に晒される危険も増えるので、二重魔術で自分の身を守りつつ支援をするのが必須となるのだ。

単純に二重魔術と言っても毎回同じ組み合わせで使うのとその都度違う魔術を組み合わせるのとでは難易度が桁違いなのだが、私はこれがかなり得意だ。

前世でも得意だったが今世の方がより精度が増しているように思う。多重魔術の行使は女性の方が得意だという俗説は本当なのかも知れない。

過去に唯一、五重魔術を使えたという魔術師も女性だったと言うが…でもまあ、その辺を今説明する必要はないだろう。

 

「殿下を相手にしながらお前に攻撃する暇なんかあるか」

スピネルがむっつりとしながら言う。

確かに、仮に私を倒せてもその間に後ろから殿下にやられるのがオチだ。でもその素振りを見せるだけでも殿下の集中力を削げるし、大分違ったと思うが…。

「まあいいですけどね。どうせこれはただの小手調べですし。でも、次からは遠慮しなくていいですよ。私、仮に二人いっぺんにかかってこられても問題なく捌けるくらいの自信はありますから」

どうも遠慮されてるようなので、私はあえて明るく言い切った。

「どういう前提だそりゃ」

「実戦ならよくある事でしょう」

実際は、もし実戦で殿下とスピネルの二人にかかってこられたら逃げの一手なのだが。

狭い闘技場で魔術師が剣士を相手にするのは愚か極まりない。まず間合いを取って、可能なら反撃をするだろう。

逃げ場がないくらい囲まれてしまったら、粘って味方が来るのを待つかできるだけ敵を巻き込みつつ自爆するくらいしかなくなるが…それはできれば二度とやりたくない。

 

「…分かった。じゃあ、次はスピネルがリナーリアと組むといい。俺が相手をする」

殿下が仕切り直すように言った。

「よーし!やったろうじゃねえか!」

今の結果が不本意だったらしいスピネルは俄然乗り気のようだ。もうちょっと粘れるつもりだったんだろうな。

「その前に、そのままじゃ風邪を引きますよ。乾かすのでちょっと待って下さい」

そう言って近寄ると、スピネルは後ろで束ねていた髪を解いてぶるぶると首を振った。周囲に水滴が飛び散る。

「ちょっ、何するんですか!」

「犬か」

殿下ですら呆れ気味だ。スピネルの方は何故か胸を張っている。犬じゃなきゃ悪ガキだな。



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第31話 模擬試合(後)

魔術でスピネルの水気をある程度乾かした後、私は殿下の方に向き直った。

「今度はハンデ代わりに、私が殿下に身体強化を使いましょう。殿下自身が使われるより1割か2割程度は効果が高いかと思います」

身体強化の魔術は自分自身の肉体を行使する術に長けている騎士が得意とするものだが、それとは別に他人へ強化をかける魔術も存在する。

これらはどういう訳か火魔術と相性がいい。火魔術への適性がいつの間にか上がっていた私は、身体強化の魔術の精度も上がっている。

目を丸くする殿下に近付き、胸元に手を当てて魔術言語で呪文を詠唱する。

『かの者に戦神の加護を与えよ』

呪文の詠唱は精神を集中させ術を安定させる効果がある。

必ずしも必要なものではないし、人間や知能が高い魔獣相手ならば効果を悟られてしまう事があるのでなるべく詠唱なしで魔術を使っているが、今回は試合前の準備なので詠唱を聞かれても問題ない。

それに自分に対する身体強化に比べ、他者への身体強化ははるかに難しいのだ。失敗すると骨や筋肉の働きが無茶苦茶になり、まともに動けなくなる上にかなりの苦痛を感じる。安全を期すに越したことはない。

「ん…、何だか身体が軽い気がするな」

殿下が軽くぴょんぴょんとその場で跳ねる。

「この状態で殿下自身の身体強化は使わないでくださいね。重ね掛けは身体への負担がとても大きいので危険です」

「分かった」

 

「よし、行くぞ」

再びコインが投じられる。

今度は殿下が先に動いた。魔術師が含まれる相手に後手を取るのはかなり不利だからな。

殿下は初め私の方へと向かおうとしたが、割って入ったスピネルにあっさりと弾かれた。

「フェイントが下手だぜ、殿下…っと、うお!?速!」

さっきの試合よりも明らかに速いその剣速に、スピネルが焦って声を上げる。

「おい、リナーリア!支援はどうした!」

「さすがスピネルですねえ。その速度でもちゃんと凌いでるじゃないですか」

「てめえふざけんな!!」

もちろん私もただ見ているだけのつもりはない。タイミングを見計らい、土魔術で殿下の足元の石床に干渉して大きく隆起させる。

飛び退った地点を狙って更に土魔術。二度三度と繰り返され、大分間合いが開く。

「お前早くやれよ!」

「まずは強化した殿下の速さに慣れていただこうかと思いまして」

「あのなあ…」

悪態をつくスピネルにしれっと返事をしつつ魔術を放つ準備をする。殿下は当然、すぐにこちらへと間合いを詰めてきている。

 

ボコボコと隆起する石床を避けつつ、殿下はスピネルへと剣を打ち下ろした。

かなり威力が乗っていそうなそれをまともに受ける気はないらしく、スピネルは受け流しながら左へ身を躱す。

こうして見ると二人の剣は面白いくらいに対照的だ。殿下の剣は守りと威力、スピネルの剣は器用さと速度に重きを置いている。

殿下は私が動きを封じるための土魔術ばかり使ってきていると見て、魔術の発動を阻害する術を使い始めた。

騎士が狭い範囲で使うこれは、相手の魔術にタイミングを合わせる技術や勘の良さが必要になるが、成功すれば少ない魔力で相手の魔術を封じられる。もっと広範囲に問答無用で阻害をかける術もあるが、それは魔力消費も隙も大きいので魔術師以外はほとんど使わない。

しかし、発動が速く隙が少ない狭い範囲の阻害魔術も、目まぐるしく戦況が変わる接近戦で使うにはそれなりのリスクを伴う術だ。外せば相手の魔術をまともに食らう事になりかねない。

堅実なようで大胆なところはいかにも殿下らしくて、思わず笑いが零れそうになるのを我慢する。

 

「でも、それだけという訳には行きませんよ。一応土魔術縛りで行きますけどね」

私は近くの石床を砕いて石礫を作り出すと、まとめて殿下に向かって撃ち出した。威力はほとんどないが、動きを妨げるのには十分だ。

続けざまにスピネルが連続で剣を繰り出す。殿下はやや苦しそうだがほぼ完璧に防ぎきった。

流石に殿下だな、強化されているとは言え守りが堅い。崩し切るのはなかなか面倒そうだ。

スピネルがちらりとこちらを見て、私は目だけでそれにうなずいた。

 

「はっ!!」

私の魔術に合わせ、スピネルがやや大きく踏み出す。鋭く繰り出された突きを、殿下はごく僅かな動きだけで防いだ。瞬間、スピネルの懐に隙が生まれる。

殿下の動きが一瞬停滞した。だがこれは止まったのではない、溜めているのだ。確実に仕留めるための必殺の一撃が来る。

私はその踏み込みを止めるために殿下の足元から岩を隆起させようとして、しかし殿下の阻害魔術に阻まれる。

 

「…残念」

そう呟いて私は微笑んだ。

最後の一撃を振るうために踏み込んだはずの殿下の足が、突如崩れた石床の中に沈む。

「な…!?」

砂に足を取られ、殿下が態勢を崩す。ほんの少しだが、それでもスピネルには十分な隙だった。

殿下の首元に、スピネルの木剣が突きつけられる。

 

 

「…最後は石を砂に変える魔術か。俺が阻害魔術を使った直後に上から重ねた…色々やるものだな」

「全部土の初級魔術ですけどね。タイミング次第でなかなか使えるものでしょう?」

「そのようだな。勉強になった」

殿下は悔しそうにため息をついている。初めて魔術師つきの騎士を相手にしたにしては十分すぎる戦いぶりだったのだが。

「しかしお前、結局二重魔術を一回も使ってないんじゃないか?」

「使わなくて済むならそれに越したことはないでしょう」

二重魔術はある程度の魔術師ならほぼ全員使えるものではあるが、学院の1年生で使えるのは結構優秀な部類だ。

先程から周囲にちらほらとギャラリーが見えるし、殊更ひけらかすつもりは私にはない。目立ちたくないんですってば。

 

「二重魔術を使わせるだけの技量が俺になかったという事だな」

「次はこうは行かないでしょう。そもそも2対1なんですから、私がいる側が有利に決まっています。今度は誰か呼んでやりましょう」

「うーん…」

二人共難しい顔になった。

ある程度実力のある学生じゃないと殿下やスピネルについて行くのは難しいし、こういう模擬試合に積極的な魔術師の生徒ってあまりいないからな。闘技場での試合という形式そのものが魔術師には不利だ。

それに魔術師課程は将来特に魔術師になりたい訳でもない女子生徒が結構な数を占めているので、実戦に興味がある人間を探すのは大変だろう。

ティロライトお兄様は頼めば来てくれるだろうけど、性格的に戦闘は苦手だしなあ…。他の上級生とは接点がないし。

「魔術師が見当たらなければ騎士を探してきても良いんじゃないですか?騎士2人対、騎士と魔術師というのも面白いと思いますよ。それに、試合でなくても治癒や身体強化などのサポートはできますのでいつでも呼んで下さい。壊れた闘技場もすぐ直せますし」

闘技場は修復の魔術がかかっているので魔術や剣で破壊されてもいずれは直るのだが、それには少々時間がかかる。

闘技場内に埋められた魔法陣に魔力を注げば修復速度が上がるので、なるべく元通りにしてから立ち去るのがマナーだ。

私は今かなり魔力が余っているので、私がいれば壊れた部分を素早く直す事ができる。

 

「まあ何とか探してみるか」

「そうだな。これは良い訓練になりそうだ」

殿下とスピネルはうなずきあった。

「できれば次はもっと戦術を練ってから来てくださいね。せっかくの試合なのに、私への攻撃を躊躇われたのでは意味がありません。そういうのは最低限私に二重魔術を使わせる程度になってから考えて下さい」

「むむ」

「悔しいが言い返せねえ…」

二人共、思った以上にあっさり負けてしまって落ち込んでいるようだ。

本当は私は二人より遥かに実戦経験豊富だからこの結果は当然なのだが、二人はいずれ凄い剣士になれるのだ。今は甘やかさない方が二人のためだろう。

 

「とりあえず、今は食堂に行ってお茶にでもしませんか。反省会ということで」

「そうすっか」

「そう言えば少し腹が減ったな」

「ああ、この時間なら焼き立てのパンケーキが出てくるかもしれませんね。コケモモのジャムつきの」

「俺はベーコンのキッシュがいい」

「私はダックワーズがあるといいんですけど…」

 

厳しい事を言いはしたが、現在の二人の実力は私の想像以上だった。

お互い好敵手が近くにいるというのは良い影響があるんだろうな。

少しだけ明るい気持ちになりながら、私はお茶請けについて考えつつ食堂へと歩き出した。



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第32話 見舞い

喉の渇きで目を覚ました私はぼんやりと天井を眺めた。

乳白色に緑で草模様が描かれた、見慣れた寮の部屋の天井だ。

気だるい身体を起こして枕元の水差しに手を伸ばそうとし、ごほごほと咳き込む。

咳が落ち着いてからようやく水を飲む事ができ、私はほっと息をついた。

…情けない。

風邪を引いてしまうなんて、自己管理がなっていない証拠だ。

 

近頃急激に冷え込んだのが風邪の直接の原因ではあるが、やはり体力不足が大きいように思う。

授業以外でもちゃんと身体を鍛えなければと分かっていても、つい他の事に時間を取られてしまっていた。すぐに本や訓練に夢中になって夕食を飛ばしがちだったのもまずかった。

殿下やスピネルが視察で王都を留守にしている時で良かったと思う。心配をかけたくないし、こんな格好悪いところを見られたくない。

ただ殿下は学院在学中なので、視察の日程は例年より短めだ。あと1週間もすれば帰ってくるだろう。

それまでにはきっちりと治さなければ。

 

こんこん、と小さなノックが聞こえた。

入ってきたのはメイド服に身を包んだコーネルだ。

私の2歳年上の少女で、私の使用人としてこの寮への出入りを許可されている。真面目でよく働くし、気の付く子なのでいつも助かっている。

私の寮の部屋は個室なので、この部屋に自由に出入りできるのは私とコーネルの2人だけだ。

魔術学院の学生寮には個室と2人部屋、4人部屋の3種類があり、人数が多いほど寮費が安いのだが、私はお父様に頼んで個室にしてもらった。

他のご令嬢と同室になるのを避けたかったせいもあるが、勉強だとか訓練だとか、一人でやりたい事が多いからだ。

特に魔術は、前世の知識を活かし学院のレベルを遥かに超えた勉強をしているので見られたくない。授業でもなるべく見せないようにしている。もうテストの時のような失敗はしていない。

 

「お嬢様、お加減はいかがですか?」

「熱は大分下がったと思います」

コーネルは「失礼します」と言って私の額に手を当てる。

「…昨日よりはずっと良いですね。でもまだ完全には下がっていないようなので無理はしないで下さい」

「ありがとう」

「お食事をお持ちしました。もう身体が回復に向かっているようなので、ちゃんと全部食べて下さいね」

念を押しつつ、小さな土鍋が乗ったお盆を渡してくる。

私が「もう帰っても良い」と言ってコーネルを帰したあと、たびたび夕食を取り忘れていたのを知ったからだろう。私は苦笑しながらお盆を受け取った。

土鍋の蓋を取ると軽く湯気が上がる。

鶏の出汁を取ったスープで細かく刻んだ野菜と雑穀を柔らかく煮込み、卵を落としたもののようだ。学院の食堂で作ってもらったのだろう。

お腹も空いているし、これなら食べ切れそうだ。

 

ゆっくりとスプーンを動かし食事をする私に、コーネルがサイドテーブルの上に乗せられた2冊の本を指す。

「こちらの本はティロライト様とヴォルツ様からです」

ヴォルツはジャローシス侯爵家に仕える騎士の息子で、ティロライトお兄様と同じく私の2歳上で学院の3年生になる。

無口だがとても勤勉で、槍術を得意としている。少々訳ありの家の出なのだが、将来有望な騎士として我が家で学費を支援しているので、ジャローシス侯爵家に対し忠誠心が強い。私に対してもとても良くしてくれている。

彼が選んだ本は戦術論の本だった。実用的な所が彼らしい。

そして兄が選んでくれた本は最近流行りの恋愛小説のようだった。物語の本も嫌いではないので、暇つぶしには良いだろう。

 

「この花はアーゲン様からです。お嬢様によく似合う花を探したとのことです」

花瓶には大輪の白い百合の花がいくつも活けられている。

今は冬だと言うのに、よくこんな見事な百合をたくさん用意したものだ。さすがの財力である。

アーゲンはこの所、前にも増してよく声をかけてくるので面倒くさい。

多分この前のテストで私がアーゲンを抑えてトップだったからだ。アーゲンは非常に成績優秀なので、最初の定期テストで私に負けたのがショックだったのだろうと思う。

前世でもよくトップ争いをしたのだが、今世は一度学院を卒業した記憶がある私が絶対に有利だ。

若干卑怯な気がしなくもないが、手を抜くのも何だしな。王宮魔術師になるには学業の成績も大事なのだ。

なお殿下とスピネルもちゃんと10位内に入っていた。二人とも流石だ。殿下の成績が前世より低かったのは少し気になるが。

 

「こちらのお菓子はカーネリア様から。中身はクッキーのようです」

日持ちがするように焼き菓子を選んでくれたのだろう。小さめの陶器の瓶には、可愛らしい青いリボンがかけられている。カーネリア様らしい気遣いだ。

最後にコーネルは、大きな黄色い果実を指した。ザンボアと呼ばれる柑橘類の一種だ。

「こちらの果物はフロライア・モリブデン様からです」

 

私はぴたりとスプーンを止めた。

「…フロライア様から?」

彼女はクラスメイトだが、特別親しくしている訳ではない。どうして私に見舞いの品を寄越すのか。

「朝方、寮の廊下ですれ違った時に声をかけられたんです。ご実家からたくさん送られてきたので、おすそ分けだそうで…。風邪にも良く効く果物だと仰っていました」

明るい黄色をしたザンボアの実は、とても栄養豊富で万病の予防に良いと聞いた事がある。そう言えばモリブデン領は果樹園が多いのだったか。

 

「それ、取ってくれませんか」

私は一旦スプーンを置いて手を伸ばした。コーネルが手渡してくれた果実は大きく、ずっしりと重い。ざらざらとした果皮からは爽やかな良い香りがした。

私はじっとそれを見つめ、探知魔術をかけてみる。

「…ありがとう。今すぐは食べられそうにないので、後で皮をむいて下さい」

「分かりました」

コーネルにザンボアの実を返し、私は再び雑穀スープを飲むためにスプーンを取った。

 

魔術には何も引っかからなかった。何らおかしい部分はない、ごく普通のただの果実だ。

今の彼女が私に対し何かを仕掛ける理由などない。

ザンボアの実は本当にたまたますれ違ったから、風邪で授業を休んでいるクラスメイトへの見舞いとして好意で分けてくれただけだ。

そう考えるのが自然だろう。

だが私は、胸の中がざわめくのをどうしても抑えられなかった。



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第33話 贈り物

「ただいま、コーネル」

「おかえりなさいませ、お嬢様」

学院の授業から寮に帰り、自室のドアを開けて声をかけると、奥からコーネルが出てきた。どうやら本棚の整理をしていたようだ。

「ただいまお茶をお淹れします。ハーブティーでよろしいですか?」

「任せます」

てきぱきと動くコーネル。この部屋にキッチンはないが、お湯を沸かす魔導具は置いてあるのでお茶はすぐに淹れられる。

 

コーネルには本当に世話になっているな、とその後姿を見ながら思う。

先日風邪を引き、完全に治って授業に出られるようになるまで結局5日もかかってしまったが、コーネルはその間学院に許可を取って泊まり込みで看病をしてくれた。

職務に文句を言わないのは使用人として当然の心構えではあるのだが、嫌な顔ひとつ見せることなくずっと親身になって世話をしてくれる姿には頭が下がる。

そのうち何かお礼ができたら良いのだが。

 

そんな事を考えていると、部屋に置かれた呼び鈴の魔導具が鳴った。

ノックではなく呼び鈴が鳴るのは、寮側からの呼び出しの合図だ。荷物が届いただとか、面会人が現れただとか、そういう時に鳴る。

「何でしょう?」

「私が行きますので、お嬢様は部屋でお待ち下さい」

「お願いします」

何の用事で呼ばれたのかは、入り口近くにある管理室に行ってみないと分からない。

私は確認をコーネルに任せ、部屋で待つことにした。

 

やがて戻ってきたコーネルを見て、私はとても驚いた。なんとエスメラルド殿下を伴っていたのだ。

「殿下!?」

「すまない、リナーリア。突然来てしまって」

「もうお戻りになっていたんですね。お帰りなさいませ、殿下」

殿下は年に一度の視察に出ていて、戻るのは今日の予定だったはずだ。早めに着いたのだとしても、到着して間もなく私のところへ来た事になる。

一体どうしたんだろう。

 

既に沸いていたお湯を使って、すぐにコーネルがお茶を淹れてくれた。

喉に優しいハーブティーなのは、風邪を引いていた私への気遣いだろう。殿下も特にハーブティーが苦手だったりはしないので問題ない。

「風邪で体調を崩していたと聞いたが、もう大丈夫なのか?少し痩せたように見えるが…」

そう尋ねられ、私は少し目を丸くした。殿下達にはあまり知られたくなかったのだが、もう既に知っていたらしい。誰に聞いたんだろう。

「はい、もう大丈夫です。数日前から授業にも復帰していますし。…自己管理がなっていなくて、お恥ずかしい限りです」

「気にするな。平気なら良い。まだ入学してからそんなに経っていないんだ、環境に身体が慣れていなくても仕方ない」

「ありがとうございます」

殿下の優しさが身に沁みる。もっと気を引き締めなければ…!

 

「…それでだな。こうして会いに来たのは、君の具合が気になったからでもあるんだが」

殿下は何故かそわそわとしだした。

近頃、殿下はこうして挙動不審になる事がたびたびある。

歯切れの悪いその様子は殿下らしくなくてかなり気になるのだが、最も身近で殿下のことを把握しているはずのスピネルに尋ねても「気にするな。何も言うな」の一点張りだ。

嘘をついているようには見えないので恐らく平気なのだとは思うが、やはり気になる。

思わず心配になりながら見守っていると、殿下は懐から小さな紙包みを取り出した。

「…これを、君に」

 

「…これは?」

「視察の土産だ」

私はちょっと驚いてしまった。殿下からお土産をもらうなど今世では初めてなので戸惑う。いや、前世でもなかったぞ。どこへ行くにも毎回一緒だったし。

「…開けてもよろしいですか?」

殿下は少し緊張した顔でうなずいた。

紙包みを手に取りそっと開くと、真っ白な薔薇を象った木彫りの髪飾りが出てきた。朝露を模した薄青の宝石が花びらの部分に嵌め込まれている。

「今回はフィロフィル侯爵領に立ち寄ったんだが、あそこは木彫りが名産なんだ。その店で見かけた物だが、その、君に似合うかと思って」

 

フィロフィル領では木彫りや工芸品に使う良質な木材を生産している。

特に有名なのが雪のように真っ白な色を持つスノーパインと呼ばれる木で、香りが良く色も美しいので高価な木彫り細工の原料としてよく使われている。この髪飾りはその色味を活かして作られたものようだ。

薔薇の細工は繊細で、木彫りであるにも関わらずとても柔らかそうに見える。嵌められた石も、小さいが透明度の高い美しいものだ。

木彫りにはあまり詳しくないが、きっと名のある細工師が作ったものだろう。店頭で見かけ、私が薔薇好きなのを思い出して買ってくれたのだろうか。

 

「ありがとうございます、殿下」

微笑みながらそう言うと殿下は少し嬉しそうにしたが、それからすぐに気まずそうな表情になった。

「殿下?どうしたんですか?」

「…すまない。さっき言ったことは嘘だ」

「嘘?」

意味がよく分からず首を傾げる私に、殿下は肩を落としながら言う。

「つまり、俺は最初からリナーリアに何か贈り物がしたかったんだ。君にはいつも世話になっているし…それで、何か良いものはないかと視察先で探していたんだが、俺にはよく分からなくて」

殿下は一旦言葉を切り、眉根を寄せる。

「だからスピネルに相談に乗ってもらって一緒に選んだ。しかしスピネルには『殿下一人で選んだことにしとけ』と言われてな…」

「ああ…」

なるほど。スピネルは照れ屋なんだか捻くれ者なんだか知らないが、そういう素振りを見せたがらないからな。

 

「スピネルなりに考えがあって言ってるんだと思うが、嘘を付くのもどうかと思ってな」

申し訳無さそうにする殿下に、私は思わず笑ってしまう。

「…ふふっ。殿下らしいですね」

別にそんな事言わなくてもいいのに。嘘が付けない訳ではないが、身内に対しては限りなく誠実なのだ、この方は。

「ありがとうございます。殿下が…お二人が私のために選んで下さったんですから、それだけで本当に嬉しいです」

「そうか」

殿下はほっとした様子でうなずいた。

「着けてみてもよろしいですか?」

「ああ」

 

私は髪飾りを着けようとしたが、自分では上手くできる自信がなかったので後ろに控えていたコーネルに手渡した。

コーネルは「失礼します」と言って私の左のあたりの髪にそっと着けてくれる。

「…うん。よく似合う」

殿下が嬉しそうに微笑む。

コーネルが渡してくれた手鏡で、私も自分の姿を確認した。青銀の髪の中に、白い薔薇が控えめに咲いている。

派手な装飾品は苦手なのだが、これは目立ちすぎず私の髪によく馴染んでいるようだった。

「素敵ですよ、お嬢様」

「ありがとう、コーネル。…殿下、本当にありがとうございます。すごく気に入りました」

今までこういう物にあまり興味はなかったけれど、殿下からの贈り物だと思うと何となく心躍るような気分になる。わざわざこんな贈り物をいただけるほど殿下に対して何かできているとは思えないが、その心遣いは素直に嬉しかった。

「喜んでもらえたなら良かった」

微笑む私に殿下が照れくさそうにする。

少しぬるくなったハーブティーに手を伸ばし、二人でのんびりとお茶を楽しんだ。

 

 

「おはよう、リナーリア様」

「カーネリア様、おはようございます」

「あら?その髪飾りとても素敵ね!どうしたの?」

翌朝髪飾りを着けて登校すると、早速カーネリア様に尋ねられた。さすが目敏い。

大事にしまっておくべきかとも迷ったのだが、せっかく貰ったものだし使った方が殿下も喜ぶと思ったのだ。

「もしかして、どなたかからの贈り物?」

私は唇に人差し指を当てると「内緒です」と微笑む。

「あら…!あら、まあ!」

カーネリア様が目を輝かせる。何故かやけに嬉しそうなのが気になるが、深く尋ねるつもりはないようなので助かる。

殿下から贈り物をもらったなどと噂が広がったら面倒なので、入手元はなるべく隠しておきたい。

 

それに、この事は私だけの秘密にしておきたい気がしたのだ。

来年になったらまた薔薇園を案内してもらいたいなと思いつつ、私はスカートを翻して玄関へと向かった。



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第34話 寒中水泳(前)

「もうすぐ寒中水泳の訓練だな」

昼休み、スピネルが何の気無しに言ったその一言を聞き、私はできるだけ感情を表に出さないように努力しつつオムレツをつついた。

「ブラシカ川まで足を運ぶんだったな。少々寒そうだが」

「少々じゃないだろ。12月だぞ?ったく面倒くせえ」

「だがそれは川の水位が下がり水流もゆるやかな時期だからで…リナーリア?」

殿下に呼びかけられ、私は顔を上げる。

「どうかしたのか?」

「…どうもしません。ですがスピネルの意見に全面同意します。どうしてこんな面倒な訓練があるのでしょうか」

努力はしたが、やはり感情が漏れてしまっていたようだ。私はぶすっとしつつオムレツを口に運ぶ。

寒中水泳訓練。この学院の授業の中で、私が最も嫌いなものだ。

 

この国の民を脅かす敵である魔獣は、水が苦手だ。ほとんどの魔獣が池や川、湖などには近づきたがらない。

そのため、突然魔獣に襲われた時の対処として推奨されているのが「近くの水場に飛び込む」だ。

水中に潜ってしまえば魔獣の攻撃が届くことは少ない。もちろんずっと潜っている事はできないし、時には魔獣の使った魔術などが飛んできたりもするのだが、それでも緊急時の避難としては十分に使える。最低でも時間稼ぎ、運が良ければ逃げ切る事もできる。

だから魔術学院では水中で行動するための授業がある。

予め座学で概要を学び、それから近くの川での実践訓練。内容は水泳、そして水中に避難した者を助けるための救助訓練の二種類だ。

魔獣が出るのは季節を問わないからだとか、心身を鍛えるためだとか、様々な理由でよりによって真冬に行われるのが慣例となっている。

 

「魔術を使えば水壁や水撃で魔獣を追い払えますし、水中に避難した人を助けることも容易です。どうして自ら川に飛び込んで泳ぐ必要があるんですか?魔術師には不要な訓練ではありませんか?」

「まあ確かに…」と殿下は相槌を打ってくれたが、スピネルは腹の立つニヤニヤ笑いを浮かべた。

「…さてはお前、泳げないんだな?」

 

「私はそんな訓練は不要だと言っているんです!しかも寒い冬の川ですよ!?無駄に体力を奪うだけではありませんか!魔術で対処するのが合理的かつ安全です!!」

「はーん。で、泳げないんだな?」

「わざわざ自分で泳ぐ必要がどこにあるんですか!」

「つまり泳げないと」

「泳げるかどうかの問題ではありません!無駄なんです!!」

「ブフッ…」

噴き出しやがった。こいつ絶対締める。間違いなく締める。

 

「…そ、それなら水泳訓練は見学してもいいんじゃないか?救助訓練にだけ魔術で参加すればいいだろう」

殿下はそう言ってくれたが、私は眉をしかめて首を振る。

「それではまるで逃げているみたいじゃないですか。卑怯ですし嫌です」

「だが君はこの前風邪を引いたばかりだろう」

「だからこそです。私はもう少し鍛えなくてはいけません」

「お前難儀な性格してんな…散々無駄だの不要だの言っておいてそれか」

スピネルが呆れた顔をするが、私は真剣だ。

水魔術師ともあろう者が水から逃げてなるものか。ただちょっと、浮かんだり前に進むのが苦手なだけだ。

魔術さえあれば水は私の手足のように動くのだから大丈夫のはずだ。

 

「そんな意固地になる事か?どうせお前他の成績は良いんだし、水泳訓練くらい休んでも問題ないだろ」

「嫌です!ちゃんと水着も作りましたし、参加はします」

水泳をする、そのためだけに作られた服が水着だ。

肩から肘、太ももまでを覆うもので、基本的に貴族用のオーダーメイドだ。水を弾きやすい特殊な繊維を使っているのもあり、シンプルな作りの割にかなり値が張る。刺繍を施したりして色や柄などに凝る者も多い。

 

口に出したくはないが、この水着着用というのも私が寒中水泳訓練に参加したくない理由の一つだ。

水着は概ね身体のラインに沿った作りになっている上、普段着ている制服に比べると手足や肩などの露出が多い。

魔術師はどうしても騎士課程の同級生に比べると体格的に見劣りしてしまうので、前世の水泳訓練の時も私はこれを着るのが憂鬱だったのだが、そこを思いっきり馬鹿にしてきたのがあのオットレと取り巻き達だ。

水泳訓練には上級生数名が監視業務に付いてくるのだが、その年はそれが何故かオットレだったのである。点数稼ぎかあるいは女子の水着が見たかったんだと思う。

「おい見ろよ、あんなに生白くてヒョロヒョロじゃ、むしろ救助される側だと間違われるんじゃないか?」と言われた私は完全に頭にきた。

筋肉がないのはともかく色が白いのは母譲りの生まれつきだ。それをあげつらうとは何事か。

そこで私はつい「貴方が1人助けてる間に私は魔術で10人助けられますが?」と言い放ってしまい、オットレ達と大喧嘩になった。

お互い手が出る前に周囲に止められたのだが、後で先生どころか殿下にまで叱られたのは痛恨の出来事だった。あまり思い出したくない。

 

そんなあれやこれやで寒中水泳訓練には嫌な記憶しかないのだが、それでも参加しないわけにはいかない。

だが私の決意を完全に台無しにしてくれるのは、やはりスピネルだった。

「お前の水着なんか見てもどうせガッカリするだけだろ。着ない方が良いぞ」

「…殿下。この下衆を川底に沈める許可を」

「う、うむ…そうだな」

一切の表情を消して低い声で言った私に、殿下は曖昧にうなずいた。

殿下を味方につけようとしたからか、スピネルがムッとした顔になる。

「待て、殿下も本当にこいつを止めろ。いくら魔術が使えるっつっても泳げない上に病み上がりだ。元々体力のある奴ならいいがこいつにはそんなもんないだろ。脂肪も筋肉も全然ないのに、冬の川になんか入ったら死ぬぞ」

「ヒョロヒョロで悪かったですね!!」

気にしている部分を言われて私はつい頭に血を上らせてしまう。

「自覚あるならもうちょっと何とかしろ!前から気になってたが、毎回毎回卵と野菜ばっか食ってんじゃねえ!肉を食え肉を!」

「は?卵の栄養価の高さをご存じないんですか?脳味噌まで筋肉が詰まってる方には栄養学は難しすぎました?」

「お前は筋肉好きなのか嫌いなのかどっちだよ!」

「頭が悪い筋肉は嫌いなんです!」

「筋肉に頭いいも悪いもあるか!!」

「待て、二人共落ち着け!」

殿下が少々慌てながら割り込む。

…少しむきになりすぎたようだ。若干周囲の注目も集めている気がする。

 

「リナーリアの気持ちも分かる。真面目なのは君の良い所だ。だが、今回はスピネルの言う事が正しいと思う。何かあったら大変だし、また風邪がぶり返しても困るだろう」

「……。はい」

気遣わしげに言う殿下に、私はしゅんとうなだれた。

「スピネルも、すみませんでした…貴方が言ったことは絶対許しませんが、私を心配してくださったのは一応分かっています」

「お前一言多くないか?」

「貴方にだけは言われたくないです」

「お前たち…」

殿下は完全に呆れ顔だ。

 

「寒中水泳のことは、先生に相談してみます。先生が参加をやめろと言うならやめます」

「…わかった」

殿下とスピネルは困ったように顔を見合わせたが、とりあえずうなずいてくれた。




活動報告を投稿しました!どうぞよろしくお願いします。


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第35話 寒中水泳(後)

そして寒中水泳の日がやってきた。

私は結局、救助訓練だけでなく水泳訓練にも参加することになった。

女子の監督を担当するゲッチェル先生に相談した所、「ちゃんと参加しなさい!」と叱られ気味に命じられたのだ。

ゲッチェル先生は今年で齢50を超えるご婦人で、女子の生徒指導を担当し礼儀作法を教える先生なのだが、頑固でとても厳しいことで有名だ。そのせいで生徒からはあまり好かれていない。殿下の教育係にちょっと似ている。

先生はどうやら私がさぼりたがっていると思ったらしいが、私は元々参加する気でいたのでそのように思われたのは非常に不本意だった。

…という事を殿下とスピネルに話した所、スピネルは物凄く嫌そうな顔で「あのババア…」と呟いていた。

「リナーリア、もし異状を感じたり体調が悪くなったらすぐ周りに言うんだ」

「絶対無理すんなよ。我慢する方が後で大変な事になるんだからな」

そう二人に口々に言われ私はかなり情けなくなった。自業自得とは言え、そんなに頼りなく見えるのか…。

 

 

訓練は王都近郊にある小川で行われる。

周囲は広く開けていて、夏は水遊びに最適として貴族達がよく訪れる場所だ。周辺は魔獣の出没が少ないので、上流は平民達が季節を問わずに釣り場としている。

小川までは、防寒着を重ねて着込んだ上で徒歩で行く。事前に身体を温めておくためだが、服が重いし学院から距離もあるのでこれだけでも結構体力を消費する。

訓練は男女別で、男子が上流側、女子が下流側に分かれて行うことになる。

 

「それでは各自、防寒着を脱いで水着になってから集合してくれ。十分に準備運動をしてから、まずは水泳訓練を行う」

そう皆に声をかけたのは、2年生のスフェン様。肩口で短く切り揃えた、黄緑に赤色が交じる特徴的な髪がきらめいている。

訓練は隣のクラスと合同で行うのだが、監督補佐として訓練経験者の上級生数名も参加する。今年参加している上級生の女子の中でひときわ目立っているのが、このスフェン様だ。

家は伯爵家だが学院内では知らぬ者がいないほどの有名人で、それと言うのも彼女は女子であるにも関わらず日常的に男子生徒の制服を着て過ごしている。いわゆる男装の麗人というやつだ。

何度も指導を受けているが「校則には『生徒は学院指定の制服を着用すること』としか書いていないのだから、男子制服を着てもいいはずだ」と主張して乗り切っているらしい。

まだ2年だが騎士課程の女子ではトップクラスの実力を持つ剣術の使い手でもある。

普段から芝居がかった言動と大仰な振る舞いを好む人物で、珍しい髪色と凛々しい顔立ちも相まって人目を引き、どこにいてもとにかく目立つ。

特に女子生徒からは絶大な人気を誇っているようだ。同性愛者だという噂も聞くが本当かどうかは知らない。

前世でも今世でもほとんど接点のなかったご令嬢だ。ご令嬢と言っていいのかよく分からないが。

 

私達は防寒着を脱いで水着になった後、スフェン様達2年生の指導に従い準備運動を行った。

気温が低い中でもしっかりと身体を温めるため、準備運動と言ってもかなりハードだ。息が上がってしまうが、寒いよりずっとマシだ。

訓練は6人1組のグループごとだ。クラス混合なのでカーネリア様と一緒になれたら心強かったのだが、残念ながら別々だった。こちらを心配そうに見ているので、大丈夫だと微笑んでみせる。

…そして、クラスメイトからはフロライア様が私と同じグループだった。

「皆様、本日はよろしくお願いします」

蜂蜜色の髪をきっちりとまとめ、優雅に挨拶をする彼女は、寒空の中でも相変わらず美しい。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

私も微笑んで頭を下げる。

感情を表に出してはいけない。今警戒を露わにするのは、彼女からの不審を招くだけだ。

 

訓練はなんと私がいるグループが最初だった。

スタート地点とゴール地点には浮きのついた旗が浮かんでいて、その間100メートルほどの距離を泳ぐ。まだ1年なのでこの距離だが、学年が上がると距離も伸びる。

せめて心の準備はさせてほしかったが、今更怖気づいても仕方がない。魔術さえあればなんとかなる。

呼吸を整え、体の隅々まで魔力を行き渡らせてから水に入る。手足がしびれるような冷たさだ。

魔術で浮力を上げて水面に浮かび上がり、水をかき分けて泳ぐ。

改めて思うがどんな苦行だ。本当に意味がわからない。

 

同じグループの女子と一塊になって泳いでいく。皆冷たさに耐えるため必死な表情だが、多分私が一番必死だ。

水流を操る魔術で一気にゴールまで行けたらいいのだが、これはグループの訓練でもある。一応水泳の体裁を取って周囲に合わせつつ進まなければならない。

半分ほど進んだ所で、監督のゲッチェル先生から叱る声が飛んだ。

「リナーリアさん!なぜ魔術を使っているんです!ちゃんと自分の力で泳ぎなさい!!」

 

…は???

私は疑問符で頭を一杯にした。

魔術も私の力ですが?というか、魔術無しでどう泳げと?前世の男子の水泳授業でもこんな無茶言われなかったんですが。もしかして死ねと言っていますか?

「先生、リナーリア様は泳げないんです!」

カーネリア様の声が聴こえる。やっぱりスピネルから聞いていたのか。

「だったら周りの者が助けなさい!同じグループでしょう!!」

何言ってるんだこのババア!!

私は心の中で罵声を上げた。はしたないとかそんな場合じゃない。周りの皆だって、この冷たい水の中を必死で泳いでいるのだ。他人を助ける余裕などある訳がない。めちゃくちゃ言うな。

グループの皆が動揺と困惑の目で私を見る。

私は必死で首を振った。迷惑をかけたくない。

「大丈夫です、皆さん先に行って下さい。私は何とかしますから」

皆困った顔をしたが、「早く!」と言うと迷いながらまた泳ぎ始めた。この水温の中では、止まっているとどんどん体力を奪われる。早くゴールまで行かなければならないのは皆同じだ。

 

私は内心で泣きそうになりながら覚悟を決めた。

ちゃんと浮かんでさえいれば理論上は川の流れに乗ってゴールまで辿り着ける。

もし力尽きて溺れても、その時は流石に助けてもらえるだろうと信じるしかない。

こんな所で死ぬのだけは絶対に避けたい。ゲッチェル先生だって避けてくれるだろう。恥をかくのは避けられなさそうだが。

物凄く嫌だが命に関わるような事はない、はずだ。多分。

悲壮な気持ちで魔術を解除しようとした時、私の肩を包むようにして誰かが触れた。

 

「…フロライア様」

私の肩を抱えているのは彼女だった。

濡れた蜂蜜色の髪をその顔に張り付かせ、強い意志を持った美しい紫の瞳が私を間近に見つめる。

「大丈夫、脚にだけ身体強化を使えば先生には気付かれないわ。私が支えているから、浮力の魔術を解除して」

「は…、はい」

私は迷いながらも言われた通りに魔術を解除した。しっかりと体を支えられているおかげで、沈む様子はない。

「脚に身体強化をかけて、できるだけ体の力を抜いて。なるべく水に逆らわないようにして、足だけをゆっくり動かすの」

「はい…」

必死で彼女の言葉に従う。ごちゃごちゃ考える余裕などない。支えられながら、何とか少しだけ前に進み始める。

「大丈夫、上手よ。焦らずに行きましょう。ゴールはすぐそこですもの」

 

私はずっとフロライア様に肩を抱かれ、何度も励まされながら進んだ。

「後もう少しよ、がんばって!」

グループの他の皆からだいぶ遅れて、なんとかゴールに辿り着く。

「リナーリア君!しっかりしろ!!」

服が濡れるのも構わず、川岸のスフェン様が水中の私に手を伸ばした。そのまま抱え上げられて近くの焚き火の側へと運ばれる。

肩に分厚い毛布がかけられ、私はお礼を言おうとしたができなかった。唇が震え、歯の根が噛み合わない。

 

スフェン様は私の両手を握りしめるとにっこり笑った。

「もう大丈夫だ。よく頑張ったね」

その手からじわじわと温かさが伝わる。少しずつ震えが収まっていく。

「…あ、ありがとうございます…」

何とかそう言うと、近くにいた別の上級生が湯気の上がるマグカップを渡してくれた。生姜と蜂蜜入りのホットミルクだ。

一口、二口と飲むと、たちまち温かさが広まっていく。そこで私はようやく、焚き火を同じグループの皆も囲んでいる事に気付いた。

皆、一様に心配げな様子で私を見ている。

「…皆様、ご心配をおかけしました」

ちょっぴり情けない顔で笑うと、皆ほっとしたように笑い返してくれた。

 

「もう大丈夫みたいだね。このまましっかり温まると良い」

スフェン様はそう言って微笑むと、ぽんと私の肩を叩いて監督補佐業務に戻っていった。

話には聞いていたけど、物凄く爽やかな人だな…。迷惑をかけてしまったのに全然押し付けがましい所がない。女子から人気があるのも分かる。

その後姿を見送ってから、私は同じく焚き火にあたっているフロライア様の顔を見る。

「…フロライア様、本当にありがとうございました。フロライア様がいなかったら、私はとてもゴールまで辿り着けませんでした。それどころか、きっと溺れていたと思います」

これは掛け値なしの本音だ。彼女の助けがなければ、私は確実に途中で溺れてリタイヤしていただろう。

「気にしないで下さいませ。同じクラスの仲間ですし…先生の言うことが無茶なんですから」

後半は先生たちに聞かれないようにだろう、ごく小声で言って彼女はいたずらっぽく笑った。

その屈託のない笑顔には何の裏も感じられず、とても眩しい。

 

そう、私の知る彼女はずっとこういう人物だった。

あの冷たい川の中でカナヅチの私に手を貸せば自分だって溺れかねないのに、不安などおくびにも出さずにごく当たり前のように肩を抱いて助けてくれた。

思えば最初から彼女は、わざと速度を落として一番最後尾を泳いでいたと思う。グループの人間に何かあった時すぐに助けられるようにだろう。

彼女は誰にでも別け隔てなく優しく、いつでも明るい。周囲への思いやりがあり、そして周囲からも愛される魅力を持っている。

 

…どうしてなのですか。

その言葉を口に出す事なく、私はただ「ありがとうございます」と言って笑った。

 

 

その後も寒中水泳訓練は続けられたのだが、私は水泳だけですっかり体力を使い果たしてしまっていて、救助訓練の方には参加できなかった。

完全にフラフラで立つのもやっとだったせいでフロライア様を始めとする周りの皆に止められたのだ。

ゲッチェル先生は怒るかと思ったが、「貴女はよくやりました。もう十分です。先に帰りなさい」と言われたのが意外だった。

訓練にはいざという時のために校医の魔術師の先生が付いて来ているので、その先生が設置した転移魔法陣を使い、上級生一人に付き添ってもらって先に学院に帰る事になってしまった。

 

正直恥ずかしすぎて泣きたかったが、風邪がぶり返すような事はなかったのは不幸中の幸いだ。

翌日ちゃんと登校するとクラスメイト達は皆喜んでくれたので少し驚いた。

「私は元々病み上がりで不安だったのに先生の指示で参加させられた」という話をカーネリア様がこっそり周囲に話して広めてくれたらしい。皆私に同情的だった。

しかしスピネルには「だからやめろっつっただろ」と散々叱られたし、殿下にもずいぶん心配された。

…本当に、これだから寒中水泳訓練は嫌いなのだ。

前世よりもさらに散々な結果に終わった事に、私は落ち込むしかなかった。



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挿話・10 殿方ランキング

「スピネル、スピネル」

学院の廊下を歩いていると、聞き慣れた声に名前を呼ばれた。

振り返ると、長い銀の髪が廊下の隅から飛び出て揺れている。

何やら手招きをしているのはこちらへ来いという意味か。

不審に思いながらも近寄ると、ぐいぐい袖を引かれ人気のない音楽室の中まで連れて行かれた。

 

「何の用だ、一体」

そう問いかけると、リナーリアは勢い込んで尋ねてきた。

「あの!殿下は最近、他のご令嬢方とはどうなんですか?ちゃんと仲良くなさってますか?」

「…あのな。殿下の女関係には口出すなって言ったよな?」

スピネルは思いきり眉をしかめる。

ファーストダンスの相手の一件ですっかり懲りたので、今後そういう話には絶対に首を突っ込むなと言い含めておいたのに、まだ言うのか。

「だから殿下じゃなく貴方に訊いてるんじゃないですか!だって、絶対におかしいです」

「おかしいって何がだ」

「殿下の人気が5位なことですよ!」

 

「その件か…」

「やっぱり知ってるんですね」

スピネルも先日女子生徒から聞いてその存在は知っている。

学院の男子生徒の人気ランキング…確か「学院のとっても魅力的な殿方ランキング」とかいうアホっぽい名前だった。

男子が女子の人気ランキングを作っていると知った女子生徒の誰かが、だったらこちらもと企画したものらしい。

1位と2位は上級生の騎士課程の生徒で、3位になぜか女子のスフェン・ゲータイトが入り、4位が自分、5位が王子だったと聞いた。

「殿下が1位じゃないのはおかしいでしょう!殿下ですよ!王子ですよ!」

どうやらリナーリアは王子の順位によほど不満があるらしく、憤慨している様子だ。

「お前本当にバカだな…」

「何でですか!?スピネルはおかしいと思わないんですか!」

「俺に訊かれてもな」

女子が決めている順位の事を自分に訊かれても困る。勝手にしろと言いたい。

「だって、どうしてそんな順位なのか女子の皆さんに尋ねても、私に遠慮しているのか誰もちゃんと教えてくれないんです。スピネルは原因に心当たりないですか?」

そりゃ、女子はこいつには教えてくれないだろうな。恐らく一番の()()だろうし。

スピネルは内心でため息をつく。心底面倒くさいが、リナーリアは納得するまで引き下がらないだろう。

 

「別に殿下が人気ない訳じゃないと思うぞ。その投票ってどうせ上級生が主体になってやってるやつだろ?女子は年下はあんまり好きじゃないから、1年の殿下が上級生より順位が下になるのは仕方ない。俺も1年だが殿下より歳は上だしな」

しょうがないので一応真面目に答えてやった。3位のスフェンの事は横に置いておく。あれは特殊な例すぎる。

「あ…、そう言えば貴方そうでしたね」

スピネルが歳上だという事を彼女はすっかり忘れていたらしい。睨みつけると、誤魔化すように「あはは」と笑ってみせた。

「あ、そうか。女子のランキングでフロライア様や私が上位だったのは、女子と違って男子は新しい物好きだからですか…?」

「身も蓋もないが、まあそうかもな」

それだけではない気もするが、面倒だしとりあえずうなずいておく。

 

「大体、あんなランキングどうせ顔とか地位だけで選んでるんだ。いちいち気にしてられるか」

「それはそうですけど…。…じゃあ、殿下には特に問題ないんですよね?ちゃんと皆さんと仲良くしてらっしゃいますよね…?」

「……」

リナーリアは肩を縮めながら、上目遣いでこちらを見上げてくる。

ランキングの件も嘘ではないのだろうが、やはりその事が一番気になっているらしい。

彼女は、これが純粋に心配から来ている発言だから厄介なのだ。

「はあ…。ちゃんとやってるよ。今は学生だからパーティーとか晩餐会に出る回数は減ってるが、たまに招かれてるしな。他にも、お前が見てないとこで普通に交流してるから安心しろ」

「そ、そうですよね」

「…まあ、殿下はあんまり令嬢方には興味ないみたいだし、相手は男連中が多いけどな。女子からの人気が5位なのも、そのせいもあるかもな」

王子の名誉のためにも一応フォローしておく。リナーリアは安心したような、複雑そうな顔だ。

 

「やっぱり、殿下はそういう方ですよねえ…」

やっぱりとか言っているが、こいつは相変わらず全然分かっていないな、とスピネルは思う。

王子がご令嬢からの誘いを最低限しか受けないのはリナーリアがいるからだし、王子という立場の割に女子から騒がれていないのも、要するに既に本命がいると皆に思われているからだ。

相手がいる人間といない人間なら、いない方に憧れるのが人情というものだろう。

 

…入学パーティーで殿下と踊った時は、こいつも幸せそうに見えたんだがな。

あれでようやく二人は一歩を踏み出して、自分の気遣いは無駄で済んだと思ったのだが、結局彼女は前と変わらなかった。

殿下殿下と言うくせに、それが恋愛感情に結びつく気配がない。もはやわざとやっているのではないかと疑っているが、そうする理由がさっぱり分からない。

王子の方はプレゼントを贈ってみたりと不器用ながらもアプローチを始めているのに、その思いはまるで通じていないようだ。プレゼントそのものは心底喜んでいるのが本当にたちが悪い。

おかげでアーゲンやらオットレやら、有象無象が回りをうろちょろしている。そうそう付け込まれる事はないと思うし、王子に任せておけばいいとも思っているが、あまりに危なっかしすぎて目が離せない。

その度に妹があれこれ言ってくるのがまた面倒だ。

…本当に、面倒なのだ。

 

ところが、その当人と来たら首をかしげながらこんな事を言う。

「そう言えば、スピネルはどうなんですか?」

「…あ?」

「いえ、貴方に限ってそんな心配は必要ないとは思うんですが。あまりに浮いた噂を聞かないので、少々気になってきてしまって…どなたか良い方はいないんですか?」

「……」

今度こそ額に青筋が浮くのを止めることはできそうになかった。

大きく息を吸い込む。

「…お前にそんな事を言われたくねえ!!この、バカ!!!!」

リナーリアは、「ひえっ」と情けない悲鳴を上げて小さく首をすくめた。



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第36話 年末

年末年始の2週間ほどは、学院の冬休みだ。

生徒たちは自領に戻り新年の祝いをする者と、学院に残り自習をする者に分かれる。前者を選ぶ生徒が多数で、特に高位貴族はほぼ領地へ戻る。新年の祝いはどこの領も大事だからだ。

学院に残る者は実家が遠かったり、裕福でなかったりする者が多い。

同じ領に仕える者や近くの領の者と共同で馬車を借りれば安く済むとは言え、やはり馬車旅はある程度お金がかかるからだ。

そして冬場、特に年末年始は王都周辺から人が減るので、短期就業…つまりアルバイトの口も王都内にはそれなりにある。むしろお金を稼ぐチャンスなのだ。

魔術学院の学生ならば身元もしっかりしているので、手伝いでも護衛でも働き口はすぐに見つかる。

 

「リナーリア、本当に領に帰らなくていいのかい?」

暖かい羊毛のコートに身を包み、心配げにそう言ったのはティロライトお兄様だ。傍らには旅行鞄を持ったお兄様の使用人が立っている。

「はい。ジャローシス侯爵領は遠いですし、冬の馬車旅は体力を使いますので…今年は寮に残ってのんびり過ごします」

少々迷ったのだが、私は今年は帰らないことにした。

国の端にあるうちの領は遠いし、風邪やら何やらで体調に不安があると言うのも嘘ではないが、やはり殿下のいる王都を離れたくないというのが一番の理由だ。従者のスピネルもこの時期ばかりはまとまった休みを取るはずだし。

今のところ何の兆候もないが、万一私がいない間に殿下に何かあったら死んでも死にきれない。…まあ、実際一度死んだはずなのに生まれ変わっているんだが。

 

「これはラズライトお兄様へ渡して下さい。私は元気でやっていますと」

「わかったよ」

私は小さな包みをティロライトお兄様に渡した。中身は私が刺繍をしたハンカチだ。

刺繍の出来栄えはあまり良くないが、私が魔術を込めた糸を使っているので、ごく僅かながらお守りのような効果がある。

父や母は秋まで王都にいたが、ラズライトお兄様はずっと領にいるのでしばらく会っていない。きっと私を心配し会いたがっているだろうから申し訳ない。

「屋敷の皆にもよろしくお伝えください」

「うん」

 

お兄様はハンカチの包みを懐にしまうと、私の後ろに控える二人を見やった。

「ヴォルツ、コーネル、リナーリアを頼むよ」

「承知いたしました」とコーネルが頭を下げ、ヴォルツもその長身を折りたたむようにして「お任せ下さい」と頭を下げる。

「二人共、私に付き合わせてしまってすみません」

「いいえ」

二人は口を揃えてそう言うが、やはり少々申し訳ない。コーネルにはいつかまとめて休みを取らせてあげたい所だ。

ヴォルツも、我が領に仕える騎士の息子とは言え彼自身はまだ学生で、俸禄など何ももらっていないのだ。私のために王都に残る必要などないのだが、私が帰らないと知ると自分も残ると言って聞かなかった。

「王都にいれば多少の稼ぎを得られますので」とむっつりとして言っていたが、それが目的ではないのは明らかだ。

私はちらりと振り返りヴォルツの顔を見上げる。黒髪を短く刈ったその精悍な顔は、いつも通りの威圧感を放っている。

無愛想なのが欠点だが、とても真面目で心優しい人物だ。前世ではほとんど交流がなかったが、それでもしっかり敬意を払ってもらっていたことを覚えている。

 

 

お兄様が馬車に乗るのを見送った後、私はアーゲンに声をかけられた。

アーゲンも実家のパイロープ公爵領に帰る所のようだ。仕立ての良い濃紺のコートに身を包んでいて、後ろにはいつも通りストレングが立っている。

「やあ、リナーリア。君が学院に残るなんて残念だな。ジャローシス領に帰る途中には、ぜひうちの領に立ち寄ってほしかったのに」

「まあ、そんな…」

私は恐縮したような笑顔を作る。後ろではコーネルとヴォルツが頭を下げているようだ。

「実は今年、領内に最新技術を使った新たな温室ができたばかりなんだよ」

「温室?」

「陽光を取り込み拡大して光と熱を行き渡らせるものなんだが、吸収を良くする魔法薬も組み合わせた運用を試していてね。寒い季節でも春や夏の花を育てられる」

私は少し驚いて目を瞠った。温室そのものも気になるが、新技術の話など他領の者に話していいのか。

順調に成功すれば花だけではなく薬草などの生育にも役立つだろうし、間違いなく儲かる。おいそれと部外者に見せられるものではない。

前世の記憶にもないから、最低でもあと5年は表に出てこない技術のはずだ。

 

「…もしかして、先日のお見舞いの白百合はそこで育てたものですか?」

「そうだよ。試作品を転移魔術で送ってもらった」

「なるほど…」

どうせなら鉢植えで欲しかった…いや、機密だから無理だな。切り花をくれただけでも驚きだ。とっくに枯れてしまったが、捨てる前に魔術で解析すれば良かった。

「やっぱり、君はこういう話に興味があるみたいだね。少しはうちの領に来てみたくなったかい?」

「……」

何と答えて良いのか分からず、少し困ってしまう。興味は物凄くあるけど、何の代償も無しにただ善意で見学させてもらえるとは思えない。

 

「言っておくけど、別に他意はないよ。君は信頼に足る人物だと思っているし、君にも僕を信頼して欲しいからね。気が向いたらいつでも言ってくれ。案内するよ」

「…ありがとうございます。いつか、ぜひ」

私は微笑みながらぺこりと頭を下げる。うーん、こうやって正面から来られるとやりにくいな。裏があるとはっきり分かれば対処のしようもあるのに。

そう思っていると、アーゲンは少し残念そうな顔になった。

「そう警戒しなくても良いと思うんだけどな…僕はそんなに悪い男に見えるかい?」

「いいえ、とんでもない。アーゲン様はとても聡明ですし、文武ともに優れた才をお持ちの方だと思っています」

これは本当の事だ。アーゲンの優秀さを私は認めている。

学業は文句なしの成績だし、剣術も殿下やスピネルにはとても及ばないがなかなかのものだ。魔術も騎士にしては上手い方だし、真面目に学んでいるのが分かる。

ただいくら優秀でも味方とは限らないと言うだけで…まあ、敵とも限らないんだが。できるだけ仲良くしておいた方が良い人物なのは間違いないとは思っている。

 

「じゃあ僕に魅力が足りないのかな?王子殿下やスピネルには敵わないのかな」

「そんな事ありませんよ」

アーゲンも女子生徒からはかなり人気がある。公爵家の嫡男だからというのが一番の理由だろうが、整った顔も優しげな雰囲気も、十分に女性を惹き付ける魅力を持っているだろう。

「本当にそう思ってくれているのかな?」

だがアーゲンは何やら疑わしげだ。今日はやけに食い下がるな…。

私にそういう事を訊かないでほしいと思いつつ、できるだけ柔らかく微笑んで見せる。

「本当ですよ。理知的で人当たりの柔らかい所は魅力的だと思います。様々なことをよく知っていらっしゃいますし、打てば響くような会話も聡明さの証左でしょう。…あと、涼しげなお顔立ちは女子生徒の憧れの的ですし、意外に逞しくていらっしゃいますし、肩とか胸板ですとか」

「全然心がこもってないなあ。特に後半」

「えっ」

ばれている!?と思わずアーゲンを見ると、アーゲンは困ったような呆れたような顔になった。

 

「…君は僕が思っているより、ずっと正直な人みたいだね」

私は自分の失敗に気付く。アーゲンは私にかまをかけたのだ。

「…いえ、その」

「あと君、前から思っていたんだけれど、他の事に比べて外見を褒める時の語彙がないね」

「な…!?」

またもや衝撃を受ける私。

「君が相手の外見にこだわらない人だって証明だろうから、僕は別に良いんだけどね。でもあんまり男の体格だとか筋肉ばかり褒めない方が良いんじゃないかな。変な誤解を受けてしまうよ?」

アーゲンの言うことに心当たりがあった私は完全に言葉を失ってしまった。

違うんだ…別に筋肉が好きな訳じゃないんだ。あったら良いなとは思っているが、ただ筋肉があれば良い訳でもないんだ。

 

「ふーむ…彼のやり方を参考にするのは面白くないけれど、どうも君には言葉を繕わない接し方をするのが良いみたいだね。やっと分かってきたよ」

「…そんな事のためにこの寒空の中で長話をされたのですか?馬車が待っているでしょうに」

私もだんだん分かってきたぞ。アーゲンは人の不意を突くのが好きなのだ。

旅立つ前にちょっと挨拶でもするつもりなのだろうと思っていたらこれである。油断も隙もない。

軽く睨んでみせると、アーゲンはにっこりと笑った。

「そうだね。とても有意義な時間だったよ」

いけしゃあしゃあとこの野郎…。だが怒ったら負けだと思うので私もまた微笑み返す。

「アーゲン様にそう言っていただけて光栄です。ではどうぞ、お気を付けて」

言外にさっさと行けと促すと、アーゲンは一瞬だけ苦笑した。

「ありがとう。それじゃあ君も、良いお年を」

 

「…嫌味な男ですね」

ようやく去っていったアーゲンを見送ると、後ろのヴォルツがポツリと呟いた。

いつも無言のヴォルツにしては珍しい。アーゲンが嫌いなのかな?

見上げてみても、ヴォルツの厳しい顔からは何も読み取れなかった。ヴォルツの考えは殿下よりはるかに分かりにくいのだ。

殿下は前世よりだいぶ表情豊かになってる気がするしな。表面上はわずかな変化でも、慣れている私にはより分かりやすくなっている。近頃はよく分からない事もあったりするけれど。

 

しかし、話し込んだせいでかなり寒くなってしまった。

「暖かいお茶が飲みたくなりました。二人共、私の部屋でお茶にしましょう」

「はい」

「分かりました」

うなずくヴォルツとコーネルに私は微笑む。

私の周囲って妙に無口な人が多い気がするな。不思議だ。



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第37話 男装の麗人

「うーん…寒いなあ…」

冷える手をこすり合わせながら、私は一人女子寮の廊下を歩いていた。

年末年始の女子寮の見回り。これは生徒会役員としての仕事である。

この時期は寮の職員もそれぞれ交替で休暇を取っているので、普段の半分以下の人数しかいない。そのため、いつもは教師や職員がやっている寮内の見回りを生徒会の方で手伝っているのだ。

役員がいなければ居残っている生徒のうち信頼できる者に頼む事になるが、今年は私がいるので私が担当している。

見回りは午前に一回、就寝前に一回。今は午前の見回りだ。

 

人が少ないせいか、寮内はいつもより寒い。そして静かだ。

実家に帰らず寮に残っている生徒も、昼の間はアルバイトに行ったり図書館に行って勉強したりとほとんどが出払っているようだ。

上の階から下の階まで一応ちゃんと見て回ったが、人の姿自体ほとんど見かけない。ただ私一人が歩き回っているだけである。

でもまあ、こういうのは普段から繰り返して行うことに意味があるのだ。異状がないというのはいい事なのだ、うん。

 

私も午後からは図書館に行こうかなと考えつつ1階のロビーに戻ってくると、そこには意外な人物がいた。

黄緑色の特徴的な髪は見間違えようがない。スフェン様だ。

この人も寮に居残っている口だったらしい。

フリルのたっぷりついたゆったりとした白いシャツに、すらりとした黒いズボン。シンプルな装いだが、立っているだけで絵になっている。どうやら制服だけじゃなく私服も男装らしい。

「やあ、リナーリア君」

「こんにちは、スフェン様」

ぺこりと頭を下げる私に、スフェン様は優雅に微笑んだ。

「実は君を待っていたんだよ。良かったら、僕と一緒にランチに行かないかい?」

 

 

 

食堂には案の定ほとんど人がいなかった。

壁に貼られたメニューを見ながら、スフェン様が顎に手をかける。

「僕は豚肉のソテーにしようかな。君はどうする?」

「私はチキンのフリカッセにします」

今は生徒が少ないので、いつものビュッフェ形式ではなくいくつかのメニューから選ぶ方式だ。パンとスープのみがお代わり自由となっている。

今日は少し寒いので、鶏肉をミルクで煮込んだ優しい味のフリカッセはきっと体が暖まるだろう。

 

フリカッセから鶏肉をスプーンですくい上げながら、私は正面のスフェン様をちらりと見た。

彼女はいつも取り巻きのご令嬢達に囲まれているので、こうして一人で私の前に座っているのはなんだか不思議な感じだ。

「どうかしたかい?」

「いえ…あの、私を待っていたというのはどうしてですか?」

「そりゃもちろん、君と話したかったからさ。寒中水泳訓練の時の君は実に興味深かったからね」

「うっ…そ、その節は、大変ご迷惑をおかけしました…」

恥ずかしい記憶を掘り起こされ、私は恐縮する。あの時はスフェン様にもとてもお世話になった。

「ああ、ごめん、そういう意味じゃないよ。僕はとても感心したんだ。泳げないのに魔術なしであの水泳訓練をやるのはとても勇気がいっただろうに、君はよく頑張ったよ」

「…でも結局、救助訓練には参加できませんでした…」

しょんぼりしつつそう言うと、「そういう所もだよ」と優しい声がかけられた。

顔を上げると、スフェン様は暖かい目をして言う。

「君はあんなにフラフラだったのに、救助訓練はやめて帰れと言われた時、すごく悔しそうだった。普通ならこれで帰れると安心する所だよ。…君はとても意地っ張りで、そして気高いんだね。尊敬に値するよ」

「…そ、そんな事は…」

真正面から褒められ、私はつい赤面してしまった。悪い気分ではないが、とても恥ずかしい。

 

「それに、君のことは前から気になっていたんだよね」

「私がですか?」

「うん。君は新入生の中ではかなりの有名人だし」

「あはは…」

苦笑いするしかない。無駄に目立ってしまっている自覚はある。王子の友人と言うだけでもそれなりに注目されるのに、それ以外でも色々やらかしている気がするしな…。

でも、スフェン様ほどの有名人には言われたくない。

「もしかして今、僕には言われたくないと思ったかな?」

「えっ」

鋭い。

びっくりして顔を上げると、スフェン様はこちらを見透かすように私を見ている。

…やはり、なかなか一筋縄ではいかない人物のようだな。

 

「まあ、僕も結構な有名人なのは確かだけどね。僕の噂は知っているんだろう?」

「…ええ、まあ」

同性愛者であるとか、それは昔愛した少年が死んだ反動であるとか、不特定多数の貴族のパトロンがいるとか、実は御母上とある俳優との不義の子であるとか、いやいや王家の血筋であるとか、スフェン様を取り合って上級生のご令嬢達が殺し合いを繰り広げたとか、明らかにそれは嘘だろうというものも含めて物凄く色んな噂がある。

本人はその全て、否定もしなければ肯定もしないという話も聞いている。あまり快いものではないだろうに。

 

 

「…先程、スフェン様は私を気高いと褒めましたけれど。私は、スフェン様の方がずっと気高いと思いますよ」

「うん?」

スフェン様は不思議そうに首を傾げた。

「そのように自分を貫かれるのは、とても辛くて大変なことだと思います。なのに貴女は自分を曲げず、笑みを絶やさず、周りの者に優しくていらっしゃいます。…それこそ、尊敬に値する事です」

 

…彼女は学院入学前からずっと男装をしていると聞いている。この貴族の世界で、女性が男装を続けるのは私が想像する以上に大変なことのはずだ。

男は男らしく、強くて逞しく勇ましくあるべき。女は女らしく、優しくたおやかで美しくあるべき。実際はさておき、それが貴族の間で尊ばれる理想像なのだ。

魔術師がその役割の重要さに反して騎士よりも軽んじられる風潮があるのも、この古臭い価値観のせいだと私は思っている。

 

しかし、彼女が受ける偏見や差別は魔術師の比ではあるまい。

ただ男の服を着ていると言うだけで、嘲笑され侮蔑されるのは日常茶飯事だろう。

女性騎士が身に着ける正式な礼服ですら「女性なのにズボンである」というだけで馬鹿にする人間もいるのだ。髪を短くしているのも当然批判の対象である。

実際、学院でもそうやってスフェン様に対し「女のくせにみっともない」という類の陰口を叩いている生徒を私も見た事がある。

こうして今、年末だというのに実家に帰らず寮にいるのも、きっとそれと無関係ではないのだろう。

彼女の実家のゲータイト領は有名な塩の産地の一つで、伯爵家の中でも特に由緒正しく裕福な家だ。爵位こそうちが上だが、新参侯爵家のうちよりもよほど権力があると思う。

その実家で彼女は疎んじられているらしいという噂を耳に挟んだ事があるが、恐らく事実ではなかろうか。

貴族の娘にこのような振る舞いが許されるはずがない。それが古い家なら尚更だ。

 

だが、それでも彼女は男装をやめない。

何故、何のためにそれを貫きたいのかは知らないが、少なくとも強い意志がなければできないことだ。並大抵の覚悟ではないと思う。

前世の私は彼女にもその生き方にも興味はなかったが、今世の私には、彼女の孤独さが少しだけ分かる気がする。私もまた、前世の記憶を持つという意味で周囲とは異質な人間だからだ。

しかも周囲に隠している私とは違い、彼女は堂々とその生き方を貫いている。

それは尊敬すべき事だと、私は思うのだ。

 

 

尊敬の気持ちを素直に口にすると、スフェン様はしばらく黙り込んだ。

じっと私の顔を見つめ、それから嬉しそうに微笑む。

「…そうか。君はそういう考え方をする人なんだね。…それは、とても嬉しいな」

ふふっと笑うその顔は、それまでの優しく包み込むような笑みとは違い、年相応の少女のもののように見えた。

 

「僕の目に狂いはなかったみたいだね。いや、予想以上かな。本当に嬉しいよ。…良かったら、もう少し僕の話を聞いてくれるかな」

スフェン様の目は真剣だった。私は無言のままでうなずく。

「ありがとう。…実はね、君は僕と同じなんじゃないかと思っていたんだ」

「同じ?」

「うん。君、僕が同性愛者だって噂も当然知っているよね?」

「…はい、一応…」

少々警戒しつつうなずく。だが、スフェン様はあっさりとこう言った。

「それは嘘なんだ。いや、真実じゃないって言うのが正しいかな」

 

「…?」

どういう意味だろう。首をかしげる私に、スフェン様は少しだけ苦笑する。

「僕は確かに、女の子が好きだ。女の子は可愛くて見ていると楽しいし、心が和む。…でもだからと言って、彼女たちに恋愛的だとか性的な興味がある訳じゃないんだよね。少なくとも、生まれてこの方女の子にそういう感情を抱いた事はない。かと言って、男性にも興味がない。理由は色々あるけれど、男性相手に恋愛感情を抱く事はないだろうね」

「それでは…」

「うん。つまり僕は、恋愛というものに縁がない人間なんだと思う」

 

 

「なるほど…」

私はひっそりと納得した。

前世でも今世でも、彼女が同性愛者だという噂を聞きはしても、実際に彼女と交際しているという女性の話は全く聞かなかったのだ。

彼女を取り合って勝手に争ったご令嬢の話は聞いたが、結局そのどちらとも深い関係はなかったという話だった。

「では、男装しているのは…?」

「これは僕の意思表示なのさ。『普通の令嬢として生きるつもりはない』っていうね。…あとはまあ、ただの趣味かな。ドレスは性に合わなくてね」

さらりと言っているが、かなり大変なことを聞かされている気がする。家族や先生に聞かれたら大問題になるだろう。もうなっているのかも知れないが。

 

思わず無言になった私の様子を見ながら、スフェン様は言う。

「そこで、君の話になる訳だが。…君の周囲には、僕の目から見ても魅力的な殿方がたくさんいるよね?舞踏会デビューの時もずいぶんと人気だったと聞いたよ」

「ああ…、それは…まあ」

私の周囲と言えば殿下と、スピネルと…アーゲンとかか。勝手に絡んできてるだけだが、一応オットレもか?性格は最悪だが顔は悪くないし王位継承権も高いからなあいつ。

皆、世間一般から見て魅力的な男性なのは間違いないだろう。

 

「でも僕には、君は恋する乙女のようには見えない。王子殿下とはずいぶんと仲が良さそうだけど、正直に言ってこう…」

スフェン様は言葉を切って少し迷う。ちょっぴり嫌な予感がしつつ、私は「どうぞ」と先を促す。

「…なんというか、懐いている子犬のようだ」

「……」

それは前世でわりと言われた。『王子の忠犬』というやつだ。

今世ではさすがに言われてなかったが…やっぱりそう見えるのか…。

「…気を悪くしたならすまない」

「いえ…」

ちょっとへこむけど自覚は一応ある。

悪意つきで言われたのなら絶対に許さないが、スフェン様は悪気があって言っているのではないとわかる。へこむけど…。

 

スフェン様は一つ咳払いをした。

「まあ、それでだ。だからって君が同性に興味があるようには見えないんだ。僕の周りにはそういう子が結構いるからね、それだったら雰囲気ですぐに分かる」

それはその通りだ。今の私は特に女性に興味はない。

前世では一応興味があったし人並みに恋をしたりもしたが、肉体が女性になったからか、はたまたトラウマのせいか、そういう関心が全く失せてしまった。

そして私は男性にも興味がない。

今では女である自分にすっかり慣れてはいるが、男だった頃の記憶もしっかりと残っているので、男をそういう対象だと考えることはできそうにない。

 

「…スフェン様のおっしゃる通りです。私は男性にも女性にも、恋愛的な興味はありません。生まれてから一度もそういう気持ちを持ったことがありませんし、持ちたいとも思いません」

そう口に出すと、自分でも驚くくらい胸がすっとした。

本当は今までずっとそう言いたかったのだ。

でも信じてもらえるとは思えなかったし、おかしな目で見られては困ると思って曖昧にごまかしたり遠慮した振りをしてやり過ごしてきた。

 

 

私は少しの決意と共に、スフェン様の目をまっすぐに見る。

「…周囲の方々は、皆私に言うのです。一体誰が好きなのかと」

「うん。そうだろうね」

「でも違うんです。私は殿下が好きですけど、恋愛感情ではないですし、別に王子妃になりたいなんて思ってないんです。ただお役に立ち、忠誠を尽くしたいだけです。愛されたい訳ではありません」

「うん」

「スピネルだって、まあ嫌いではないですけど、ただの友達です。なんでそんな風に思われるんでしょうか。絶対にごめんですし、全然意味が分かりません」

「うん」

「他の殿方もそんな対象と思いません。友人にはなれても恋人や結婚相手にはなりたくありません。困ります。やめてほしいです」

「うん、よく分かるよ」

スフェン様は深々とうなずいた。

 

「僕の場合、相手は殿方じゃなくてご令嬢だけどね…僕の恋人になりたいという子が跡を絶たない。そうじゃなくても、あれこれ邪推してくる者ばかりだ。どうして皆、ああも色恋沙汰が好きなんだろうね?そういう関係なしに仲良くするのはいけないことなのかなと思うよ」

その通りだ。どうして特定の誰かを選ばせ、特別な仲になることを期待するんだろう。

恋だとか愛だとかそんなに大事なものだろうか。男だろうが女だろうが、ただ友人として、臣下として近くにいてはいけないのか。

「分かります。すごく分かります…!!」

思わず拳を握りしめ、身を乗り出す。

私とスフェン様は静かに見つめ合った。

それからどちらともなく手を差し出し、ガッチリと握手をした。

 

 

「…今日、君と話せて良かったよ。今までずっと、僕の気持ちを分かってくれる人はいなかったからね」

「私もです。こんな事、誰もまともに聞いてくれないと思っていましたから…」

食後の紅茶を飲みながら、私はほうっと息をついた。

前世は男だったのに、なぜか女として生まれ直した。こんな私の気持ちを理解できる人などいる訳ないと思っていたのだが、思わぬ方向から理解者が現れて驚きだ。

彼女は私の事情など何も知らないし、私もまた彼女の事情など知らない。

お互いまるで違う事情なのだろうが、それでも確かに分かり合える部分がある。何だかとても不思議な気分だ。

 

「良かったら、これからもこうして話をさせて欲しい。お互い、他の者には話せない事も沢山あるだろうし」

「はい!もちろんです!いつでも歓迎させていだたきます」

「君も、いつでも僕を訪ねてきてくれ。何か困った事があったら言って欲しい。必ず力になるよ」

「ありがとうございます…!」

これは正直色々な意味で有り難い。何しろ彼女は女子生徒に多大な影響力を持つのだ。いざという時きっと頼りになるだろう。

 

「どうぞよろしくお願いします、スフェン様」

頭を下げた私に、スフェン様が爽やかに笑う。

「様はいらないよ。スフェンで良い」

「で、でも上級生ですし…。…では、スフェン先輩…でいかかでしょう?」

「先輩…。なるほど、それはなかなか悪くない響きだね」

どうやら気に入ったらしい。私とスフェン先輩は笑い合うと、もう一度しっかり握手をした。

「よろしくお願いします、スフェン先輩!」

「ああ、リナーリア君!」

 

…こうして、私は新たな友情を得る事となったのだった。



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第38話 新年の祝い(前)

年が明けた。年齢は年明けと共に数えるので、私はもう16になった事になる。

何となく清々しいような気持ちで、私はコーネルに着替えを手伝ってもらっていた。

「お嬢様の髪は目立ちますので、まとめて帽子の中に入れましょう」

「ええ」

なるべく小さく結い上げた髪を、つばの付いた大きな帽子の中へと隠す。

「…どうですか?変ではありませんか?」

「大丈夫です。とても素敵ですよ」

姿見の中の自分の格好を改めて見てみる。

今日着ているのはいつもの制服でもドレスでもなく、緑色をした厚手のワンピースだ。

この上に帽子と同じ紺色のコートを羽織る。ちょっとお金を持った商人の娘とか、そんな感じに見えるはずだ。多分。

そう、今日の私はお忍びなのだ。

 

コーネルを伴って女子寮を出ると、入り口には既にヴォルツが立っていた。

「すみません、お待たせしました」

「いいえ、大丈夫です」

ヴォルツはシンプルなチャコールグレーのコートだ。胴回りがゆったりしているのは下に剣を隠すためだろうか。今日の彼は一応私の護衛だからな。

「急ぎましょう。早くしないと、人が集まって来てしまうでしょうし」

 

今日は国王陛下が新年祝いのパレードを行う日だ。

何台もの馬車で行列を作り、城を出てゆっくりと大通りを進む。それから大きな噴水のある広場を回り、再び城へと帰ってゆく。

この時期ほとんどの貴族は王都にいないので、ほぼ平民のためのイベントだ。平民達にとっては、年に一度のこのパレードは陛下の姿を見る数少ないチャンスである。

そのため馬車は陛下の姿がよく見えるように大きく上が開いたデザインになっているが、王宮魔術師が全力で防護結界を張っているので安全かつ暖かい安心仕様となっている。

陛下の馬車のすぐ後ろを行くのは王子の馬車だ。従者もこれに同乗するので、前世の私も毎年このパレードを経験したのだが、沿道を埋め尽くす人々に向かい笑顔で手を振るのは何度やってもものすごく緊張した。

皆が手を振り感激しているのは私ではなく、陛下や王妃殿下や王子殿下なのだと分かってはいるのだが、やっぱり注目はされるし気を抜くことはできない。

しかも成長してからは手を振る殿下と私の姿絵が出回るようになったりもした。

殿下は分かるが私まで描くのはやめて欲しかった。しかも物凄く美化された姿でだ。恥ずかしいと言ったらない。

 

今世の私には無関係となったこのパレードだが、せっかく年始に王都にいるのだ。ぜひ平民達と同じ立場でパレードを見てみたいと思い立った。

何しろ、馬車の中から見る王都の民は誰も彼も皆感激し、本当に嬉しそうに手や旗を振っていた。

今の国王陛下は民からの評判がかなり良い。若くして王位を継承した方だが、周囲の意見をよく聞き、身分や経験にこだわらず信頼できる者を取り立てる事で安定した治世を築き上げている。

先代や先々代の国王陛下の優れた手腕あってのものだが、遺されたものをきちんと継ぎ、活かしていくのもまた大変なことだろうと思う。

民はそこまで深く考えてはいないだろうが、その肌で、日々の生活で、この国を治める者が持つ徳のようなものを感じ取っているのではないかと、私はそんな風に考えている。

 

だから私は、改めて民の目線から王家の方々を見てみたい。民の目からだと、陛下や殿下がどんな風に見えるものなのか知りたい。

そこで何とかお忍びでパレードを見に行けないかとコーネルに相談し、ヴォルツに同行を頼んでみたのだが、二人共案外あっさりと承諾してくれた。

人出は多いが、大切な祝いの日なのだ。警備のために衛兵もたくさん歩いているし、危険な事はないとの判断だろう。

 

 

貴族屋敷が立ち並ぶ区域を抜け、広場から少し離れた場所までは馬車で行った。祝いの日なので、やはり人の姿が多い。

広場に近付くほど、出店をよく見かける。食べ物の店がほとんどだ。この国で新年の祝いによく食べる、黄金のリンゴを象ったパンの店が特に多い。

中にはリンゴを甘く煮たフィリングを詰めるのが一般的だが、どんなスパイスを使うかはその店や家庭によって違うので個性の見せ所だ。

他にも、雑貨やアクセサリーの店などもちらほらある。せっかくなので帰りには少し覗いて行きたい所だ。

あちこちを衛兵が歩いていて、造花や旗を配っている人、素焼きの器に入れたワインを売っている人もよくいる。

あまり飲みすぎると衛兵に連れて行かれる羽目になるだろうが、めでたい日なので多少は仕方ない。

 

しかしいざ広場に到着すると、私の予想以上に人混みでごった返していた。まだ陛下の馬車がここまで来るには1時間以上かかるはずだが、すでに周辺は人でぎっしりである。

「困りましたね…これでは全然パレードが見えそうにありません」

私は人垣を眺めながら途方に暮れた。人出の多さは知っていたが、その行動の早さを舐めていた。皆きっと早くから来て場所を取っているのだろう。

「大丈夫です、お嬢様。私にお任せ下さい」

そう言ったのはコーネルだった。

「どうぞこちらへ」と歩き出し、私とヴォルツは戸惑いながらもその後をついて行く。

 

裏道を通り、辿り着いたのは広場から数百メートルほど離れた所に立つ一軒の店の裏手だった。

大通りに面している店で、確かにパレードがよく見えそうな場所だが、今日はどこの店も新年の休みを取っているはずだ。移動できる出店以外の営業は禁止だったと思う。

しかし、コーネルは迷いのない様子で裏口のドアをノックする。

「こんにちは。東の方から来ました、コーネルでございます」

ややあって、ドアが開く。出てきたのは、人の良さそうな白髪の老人だ。

「やあやあ、本当に来なすったね。どうぞ、中へ」

 

促されて中に入り、私はようやく気が付いた。

沢山の本がぎっしりと並ぶ店内には見覚えがある。ここは、元魔術師の老夫婦が営む書店だ。私自身が足を運んだのは一度だけだし、今日は裏口から来たので入るまで分からなかった。

「貴女様がリナーリア様ですな。この店の主のコベリンと申します。いつも贔屓にしていただいて、有難うございます。セナルモント様からも、話は聞いていますよ」

「私こそ、いつもこちらの本にはお世話になっております」

頭を下げる老人に対し、私もまた帽子を取って頭を下げる。

ここはセナルモント先生に紹介された書店で、それほど大きな店ではないが魔術関連の本の取り扱いが多いのが特徴だ。

私もよく本を頼んでいて、コーネルにはしょっちゅう注文や引き取りに行ってもらっていた。

 

「お嬢様がパレードを見に行きたいとの事でしたので、あらかじめこちらのご主人に頼んでおいたのです。ここから見せてはもらえないかと」

「うちの店の2階からは、馬車の行列がよく見えますよ。誰にも邪魔されずにね」

「まあ…!」

私は感激してしまった。こんな用意をしていてくれるなんて、コーネルは本当に何て気が利くんだろう。

「コベリンさん、ありがとうございます。ご厚意に甘えさせていただきます。コーネル、本当にありがとう…!貴女は、素晴らしいメイドです!」

感謝しながらコーネルの手を取ると、コーネルは珍しく照れくさそうにしながら「いいえ。お嬢様のためですから」と言って笑ってくれた。



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第39話 新年の祝い(後)

案内された2階の部屋は大きな窓が大通りに面して作り付けられており、通り過ぎる馬車の様子がよく見えそうだった。まさに特等席と言っていいだろう。

窓際の椅子に腰掛けて外を眺めていると、コベリン夫妻が温かいお茶を持ってきてくれた。

「すみません、お気遣いありがとうございます」

「いいえ、貴女様には本当にご贔屓にしていただいておりますから。この商売をやって20年以上経ちますが、その若さであれほど高度な魔術書を何度も求められる方は滅多におりませんよ」

聞けば、コベリン氏も若い頃は王宮に勤める魔術師だったのだと言う。王宮魔術師団ではなく、一般の魔術兵だったそうだが。

しかし自分はあまり戦闘には向かないと思い、魔術兵を辞め借金をしてここに店を構えたのだそうだ。

初めは色々苦労したが、王宮勤めの間に築いた魔術師同士の人脈でなんとか経営を軌道に乗せ、今までやってきたという。

何でも、セナルモント先生のさらに師匠とも知り合いらしい。

 

そうしているうちに、窓の外が騒がしくなってきた。

「馬車が近付いてきたようですな。窓を開けましょう」

窓を大きく開け放つと、外から冬の空気が流れ込んできた。少々寒いが、空は青く晴れ渡っていて清々しい。

大通りの奥を見ると、先頭を進む護衛の馬車が見えた。その後ろのひときわ大きくきらびやかな馬車に、国王陛下と王妃殿下が乗っている。後ろの座席には護衛として王宮魔術師筆頭のアメシスト様が座っているようだ。

沿道の人々から歓声が上がり、造花や旗が掲げられる。ヘリオドール王国の象徴である黄色を使ったものだ。

ゆっくりと近付いてくる馬車の中で、陛下と妃殿下は民たちに手を振り返していた。

大きな宝石がはめ込まれた王冠を被った陛下は、豪奢なマントをまとい、普段は宝物庫に収められている王家の秘宝の王錫と腕輪を身に着けている。

その穏やかな微笑みは、ただ優しげなだけではなくこの国を統べる者にふさわしい威厳があった。

王妃殿下も、金糸の刺繍がたっぷりと施されたドレス姿がお美しい。相変わらずお若いな。

馬車へと手を振る私の隣で、コベリン氏もまた笑顔で手を振っていた。

…あれ?今、陛下がこっちを見たような…。いや、コベリン氏を見たのかな?

 

陛下を見送っていると、すぐに殿下の乗った馬車がやって来た。

殿下はいつもの真面目な顔だが、隣のスピネルがその分ニコニコと愛想を振り撒いている。

スピネルのこういう所は素直に尊敬するしかない。私はとてもこんな自然な笑顔は浮かべられていなかったと思う。

殿下は淡い色の金髪を後ろになでつけ、正装を身に着けていて、こうして少し離れて見ると本当に立派だった。その堂々とした様は、姿絵が庶民の間で人気になるのも納得だ。

沿道からは、若い少女たちの歓声がひときわ大きく上がっている。

 

私の声など人々の歓声にかき消されてきっと聴こえないだろう。

そう思いつつ、私は声を上げずにいられなかった。

「エスメラルド殿下!」

 

…すると、ふいに殿下の翠の瞳が私を見た。

ほんの一瞬目を丸くし、それから笑みを浮かべる。

少し喜んでいるように見えるのは気のせいではないだろう。こちらへ手を上げる殿下に、私は嬉しくなってぶんぶんと手を振った。

殿下が隣のスピネルに何かをささやく。それでスピネルも私に気が付いたようだ。一瞬だけ呆れた顔になってからおかしそうに笑う。

私は二人の馬車が遠ざかるまで手を振り続けた。

 

 

「陛下は、今年もお元気なようでしたな。良かった…」

コベリン氏がしみじみと呟く。

「あの、先程国王陛下がコベリンさんを見ていたような気がしたのですが…?」

「ああ…、どうやら陛下は未だに儂を覚えて下さっているようです。実は、この店を始めるきっかけは陛下だったのですよ」

「えっ!?そうなんですか?」

 

それから、コベリン氏は昔のことを語ってくれた。

若かりし頃のコベリン氏は下位貴族の出身だったが、風魔術がとても得意だったのだという。

これだけの魔術があれば城の魔術兵にもなれると思い、首尾よく採用されたはいいが、兵士の仕事は想像していた以上に辛かった。

何より、同期で入った友人の騎士が魔獣退治の際、あっさりと牙で引き裂かれ死んでしまったのがコベリン氏に大きな衝撃を与えた。

それ以来どうしても魔獣相手に腰が引けてしまい、上司や仲間にも白い目で見られるようになってきてしまった。

仲間からはそれとなく転職を勧められた。しかし、それでは死んだ友に申し訳が立たない。

城の裏庭で一人悩むコベリン氏に声をかけたのが、当時まだ少年…第二王子だった陛下だった。

その時、コベリン氏は相手が王子だとは気付いていなかった。

「何を悩んでいるのか」と尋ねられたコベリン氏は半ば自棄で、自分がまともに兵士としての務めを果たせていない事を話した。「このままでは死んだ友に申し訳ない」と。

すると陛下は「お前がそうして悩むことを友は望んでいるのか?」と言ったという。

「向いていない仕事をするより、もっと別のことで人の役に立つべきではないか」とも。

それからすぐに陛下は立ち去ったが、目が覚めるような思いになったコベリン氏は、その日のうちに辞表を提出したのだそうだ。

 

「…それで店を始めて、しばらく経ってからですね。いつものように元同僚の魔術兵相手に商売をしていたら、陛下がお忍びでやって来て。あの時の少年だと分かったので、たくさんお礼を言って、それから本を一冊差し上げました。女性へのプレゼントを探しているとの事だったので、きれいな挿絵のついた旅行記を」

コベリン氏は懐かしげに語る。

「帰った後で元同僚がやけに驚いているからどうしたのかと聞いたら『今のは第二王子殿下だ』と言われて…。それでようやく、あの時の少年が陛下だったと知ったのですよ」

苦笑するコベリン氏。いくら城勤めでも一介の兵士だと王子との接点はあまりないからなあ…。お身体の弱い陛下は昔は臥せりがちだったと言うし、顔を知らなくても無理はない。

「翌年のパレードを見たら、本当に王子殿下だったので驚きましたよ。しかも、ちゃんと儂に手を振ってくれて。…それから毎年、こうして窓からパレードを見ているのです」

 

「素敵なお話ですね…」

やはり陛下は素晴らしいお方だ。ほんの数度言葉を交わしたコベリン氏の事を、今でもこうして覚えている。

思わず感動しながら、私は開かれたままの窓を見た。外からはまだ歓声が聞こえる。

馬車はもう広場を回り、反対側の通りを進みながら城へと戻っている所だろう。

同じく窓を見ていたコベリン氏が私に尋ねる。

「そう言う貴女様も、王子殿下から手を振られておりませんでしたか?」

「ええ、殿下とは学友で、親しくさせていただいているので…」

でも、殿下は何で私に気が付いたんだろう。とても声が聴こえたとは思えないし、いつもと髪型も格好も違っていたのに。

「なるほど、それでパレードをご覧になりたかったのですな」

「はい…。本当にありがとうございました。こんな良い場所から見られて、とても良い思い出になりました」

改めて頭を下げると、コベリン氏は「いえいえ」と恐縮したあと、微笑ましげに目を細めた。

 

 

その後は広場の周辺でいくつかの出店を覗き、黄金リンゴのパンとブランデー入りの温かいスパイスティーを買った。

あまりお酒には強くないがこの程度ならば大丈夫…と思ったが、そう言えば今世ではほとんどお酒は飲んでいない。どのくらいの量を飲めるかそのうち試した方がいいかな。

ちなみにコーネルとヴォルツは軽く酒精を飛ばしたグリューワインを飲んでいた。

ほかほかと温まったところで辻馬車を拾い、学院へと戻る。

コーネルはジャローシス侯爵邸までだ。彼女は冬の間の屋敷の手入れも兼ねて、お兄様の使用人と共に侯爵邸の方に住んでいる。

 

「二人共、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです」

「それはようございました。私も、新年のパレードは初めて見ましたが楽しかったです」

「私もです」

コーネルは微笑みながら、ヴォルツはいつもの仏頂面で答える。

新年早々私のわがままに付き合わせてしまったが、二人が少しでも楽しんでくれたなら私も嬉しい。

コベリン氏は「またいつでもお越しください」と言ってくれたし、こういうお忍びもたまには良いかもしれないと私は思った。



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第40話 歴史の勉強

「あ、そこ間違ってますよ、殿下。アステラスの乱は178年ではなく、187年です」

「む…」

私の指摘を受け、殿下が眉根を寄せてノートを睨んだ。

教科書をめくり、該当部分を確認する。私が言った通りだったようだ。ただ直すのではなく、自分でちゃんと確認する所が偉い。

「…本当だ。ありがとう」

「どういたしまして」

 

今日は久々に城へと来ている。

新年祝いが終わったところなので王宮は静かだ。普段王宮に詰めている官吏達も休みを取っているし、兵士の数も少ない。今が一年のうちで一番静かな時と言えるだろう。

年末年始の休みで学院の授業はないし、普段色々と忙しい殿下もこの時ばかりは暇なはずなので、私は一緒に宿題をするという名目で殿下の所に来ていた。

名目と言うか実際にそれが主な目的だ。殿下の成績は前世よりも少々低い。恐らく従者が私ではなくスピネルになった影響だと思う。

十分優秀な成績だし特に問題はないのだが、折角の機会なので学問にも力を入れていただきたいというのが私の考えだ。

 

「やっぱり殿下は歴史が苦手みたいですね」

「そうだな…数学などは解く楽しみもあるんだが、暗記はな」

前世でも殿下は暗記が好きではなかった。スピネルは殿下以上にその傾向が強いようなので、二人で勉強するとどうしてもそこが弱点になるのだろう。

どうせならスピネルにも指南してやりたかったのだが、今は新年休みを取っていてブーランジェ領に帰っている。多分あと10日くらいは戻ってこないだろう。

 

「ただ無闇に覚えようとしても、そう頭に入ってくるものではないのですよ、殿下」

「なら、どうすればいい」

「例えばですね…この、305年のエリンギウム川東の魔獣災害」

私はぱらぱらと教科書をめくり、指をさす。

「この戦いにまつわる逸話を殿下はご存知ですか?」

「それならば知っている。有名な話だろう。窮地に陥ったゲータイト伯爵を、幼馴染である友人のシュンガ伯爵が兵を送り救った。その事をゲータイト伯爵は深く感謝し、シュンガ伯爵領が不作で困窮した時に塩を送り恩を返した…という話だ」

「そうですね。では、シュンガ伯爵がなぜゲータイト伯爵を救ったのかは分かりますか?」

「…?友人だからではないのか?」

不思議そうにする殿下に、私は首を振った。

「違いますね。いえ、それもあるのかも知れませんが、それだけではないと思います」

 

「この戦いが305年のいつ頃の事だったかはご存知ですか?」

「ええと…」

「春のことです。エリンギウム川の源流は北の白尖山にありますので、春は雪解けの水で流れが早くなります。それでシュンガ伯爵は、船に乗って川を下る事で素早く兵を送れました」

「ふむ」

うなずく殿下に、私は話を続ける。

「今私は簡単に説明をしましたが、先程の殿下の説明と合わせて、いくつか大事な情報が含まれています」

「…どういうことだ?」

「まず、シュンガ領がゲータイト領よりも上流にあったということ。それからシュンガ伯爵が、兵を送り込めるだけの船を所有していたということ」

「うむ」

殿下はよく理解できていない顔だが、とりあえずうなずく。

 

「ゲータイト領は後に塩を送った、つまり塩の特産地です。塩を産出する領が裕福であることは殿下も知っていらっしゃいますよね」

「ああ。塩は貴重だからな」

「はい。それに、塩は小麦や野菜のように不作になる事はありません。常に必要なものなので、値下がりもほとんどありません。対してシュンガ領は、後に不作になった事からわかるように、農産物が特産です。具体的には小麦ですね。…ここで、船の話が関係してきます」

「うん?」

殿下が首をひねり、それからすぐに答えにたどり着く。

「…そうか、シュンガの船はもともと小麦を運ぶためのものか」

「はい。船に載せて運ぶのは、馬車に載せ街道を行くよりはるかに簡単で速いです。しかも、ゲータイトは裕福です。当然金払いも良いので、シュンガにとってゲータイトは『お得意様』なのですよ」

船を使えば重い小麦袋を楽に速く下流まで運べる。帰りの船を曳くのは面倒だが、水の上を行くため魔獣被害が起こりにくく、護衛があまり必要ないという利点もある。

運送の経費を抑えられ、しかも相手の支払いはきちんとしていると来れば、取引先としては理想的この上ない。

 

「誰だってお得意様には無事でいてもらいたいものです。だから兵を送って救いました。それに、その時恩を売っておいたおかげで、小麦が不作の時に助けてもらえましたしね」

「なるほどな…」

殿下は深く感心したようだ。

「この話はただの美談ではなかったのだな。若干夢が壊れた気もするが…」

「まあ、友情もあったと思いますよ?領地も歳も近いので、両伯爵が幼馴染だったのは本当の話みたいですし。ただ、その他にも色々と事情があったというだけです」

貴族が一切の損得勘定なしに兵を動かすのは難しい。本人がそれを望んでも、周囲がそれを許しはしない。

何が動機だったかは本人にしか分からないが、家臣達を説得できるだけの材料が十分にあったのは確かだ。

 

「ただ『305年のエリンギウム川の戦い』と言ってしまえばそれでおしまいですし、興味も湧きにくいと思いますが、こういう話を聞けば覚えやすくなるでしょう?しかも、シュンガ領とゲータイト領の位置関係や特産物も頭に入ります。知識というのは、そうして広げて役に立てていくものなんですよ」

「ああ。勉強になった」

素直に納得してくれた殿下に私は嬉しくなる。殿下は本来、知識欲も記憶力も十分に持っている方なのだ。それをちゃんと活かせば成績ももっと上がるだろう。

「このような小話をたくさん収めた本に心当たりがあります。今度図書館で借りてきましょう。きっとお勉強の役に立ちますよ」

「ありがとう。…君はやっぱりすごいな」

「いいえ。殿下にしっかり学ぼうという意欲があればこそですから。そのお手伝いができたなら、私も嬉しいです」

にっこりと笑うと、殿下は少し照れたようだった。

 

「なら、図書館には一緒に行こう。他にも君のお薦めの本を選んでくれ」

「はい!お安い御用です」

「ついでにスピネルにも何か選んでやってくれ。あいつも、君が薦めた物なら読むだろう」

「そうですか?…いえ、私の腕の見せ所ですね。絶対に読ませてみせます」

スピネルは本とかあまり好きじゃなさそうだからな。でも必ず面白いと言わせてやろう。

「よろしく頼む」

やる気を見せる私に、殿下は楽しそうに笑った。



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第41話 美辞麗句

新学期が始まった。

登校してくる生徒の数はいつもより気持ち少なめだ。領地が遠い者などは王都に帰ってくるのが何日か遅れるからだ。

前方に殿下の後ろ姿を見つけた。傍らにいるのは、いつものスピネルではなく護衛の騎士のようだ。

王子の従者は新年のパレードが終わってから新年休みに入るので、スピネルもまだ王都に帰ってきていないのだろう。

私は殿下に声をかけようとし、その前にアーゲンとストレングの姿を見つけた。

よし。今日は、殿下の前にまずこいつだ。

 

「アーゲン様」

声をかけると、アーゲンが「おや?」という感じの顔で振り向いた。

私は制服のスカートをつまみ、優雅に頭を下げる。

「あけましておめでとうございます、アーゲン様。本日も眉目秀麗なる事、知恵の泉の神のごとくでございます。戦乙女も胸をときめかせ、泉の精も嫉妬に身を焼くことでしょう。気力も充溢しておられるようで、きっと良い休息を取られたのでしょう。祝着にございます」

どうだ。この前外見を褒める時の語彙がないと言われたので、図書館で美辞麗句の本を読んで勉強したのである。

果たして私の挨拶を聞いたアーゲンは、ぱちぱちと目を瞬かせた後で口元を押さえて盛大に噴き出した。

…なぜ笑う。

 

「き、君、珍しくそっちから声をかけてきたと思ったら…、そ、それを言いたかったのかい」

「…私は普通に挨拶をしただけですが」

思わず憮然としながら言うと、アーゲンはいよいよ我慢できないという様子で口とお腹を押さえながら震えている。

おい、どういう事だ。

ついアーゲンの後ろのストレングを睨むと、さっと私から目を逸らした。…お前も口元がひくついてないか?

「あのう、失礼ではないかと思うんですが…?」

今の挨拶そんなに変だったか?これくらい言ってくる奴わりといるぞ。

しかしそこまで笑われるとさすがに恥ずかしくなってくる。せっかく勉強したのに、だんだん自信がなくなってきてしまった。

「…もういいです。私は行きますので、それでは」

ちょっと赤面している事を自覚しつつその場を去ろうとすると、アーゲンは少し慌てて私を呼び止めた。

「ご、ごめん。悪かったよ。えっと、あけましておめでとう、リナーリア。今年もよろしく」

私はたった今よろしくする気が完全に失せたのだが。

だがそう口にする訳にもいかないので、私は頑張ってにっこりと微笑んでみせた。

「はい。どうぞよろしくお願いします!」

語尾が少々きつくなってしまったのは不可抗力だと思う。

 

そこに、一人のご令嬢が近付いてきた。

金髪に灰色の瞳、穏やかな微笑み。同級生のアラゴナ様だ。

「アーゲン様、あけましておめでとうございます」

「ああ、あけましておめでとう」

彼女は美しいカーテシーでアーゲンに挨拶をした。それから私の方を振り向く。

「リナーリア様も、あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いしますね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

頭を下げる私に、アラゴナ様はおっとりと微笑んだ。

「ところでリナーリア様、あちらで王子殿下がお待ちのようですわ」

そう視線で促されて向こうを見ると、殿下が立ち止まって私を見ているようだ。

「まあ…。すみません、皆様ごきげんよう」

正直立ち去りたかったので助かった。そそくさと殿下の元へ向かう。

 

うーん、アラゴナ様は一見優しそうだし、賢く礼儀正しい優秀なご令嬢だけど、少し苦手なんだよな。

いつでも完璧な微笑みだが、どうも圧を感じる気がするのだ。

こればかりは私にも原因は分かっている。確か彼女は前世で、学院在学中にアーゲンと婚約していたからだ。

今世でも彼女はアーゲンに近いはずなので、アーゲンが何を考えているのか私にちょっかいをかけているのが面白くないんだろうと思う。…そのはずだ。

シルヴィン様がスピネルを好きだと気付いていなかった件を周囲にやたら呆れられたので、他人の恋愛の機微を読み取る事については諦めつつある私だが、これでアラゴナ様が実は殿下派だったりスピネル派だったりしたら私は何を信じればいいのか分からない。

前世でも同級生がいつの間にかカップルになっているのに全然気付かなかったりしたしな…。

皆どうしてそういう事が分かるんだ?こればかりは勉強のしようがないので困る。

 

私が歩み寄ると、殿下は傍らの騎士を見て「ここまでで良い」と言ったようだ。

騎士は殿下と私に頭を下げ、校門の方へ去っていった。

「おはようございます、殿下」

「おはよう、リナーリア」

そう挨拶を返した後、殿下は何やら言いたそうに口元を動かした。

「どうかしました?」

「いや…、…アーゲンとは何を話していたのかと思って」

「…何でもないです」

思わずムスッとした私に、殿下が少し困ったような表情になる。

「あっ、本当に何でもないですよ。ただ挨拶をしただけです」

慌てて手を振って否定する。…もしかして心配されただろうか?

「…そうか。ならいいが」

大丈夫です、殿下。

あいつは今のところオットレとは違って無害です。気に食わないけど。



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第42話 公爵からのお土産

「お嬢様、今日の分の夕食はこちらに置いておきますね」

私は読んでいた魔術書から視線を上げた。

コーネルがテーブルの上に置いたのはフードカバーのかかったお盆だ。

寮生活だと私がすぐ夕食を取り忘れる事を知ったコーネルは、毎日食堂に行っては夕食を用意してもらい、こうして部屋に置いてから帰るのが習慣になっている。

冷めてしまうが魔術で温められるので問題ない。おかげで最近はちゃんと夕食を食べるようになった。

もし残して寝たら翌朝怒られるし…。

「コーネルは今日はもう…」

帰ってもいいですよ、と言おうとした時、コンコンとノックの音が聞こえた。

すぐにコーネルがドアへと向かう。

誰だろ?スフェン先輩かな?

 

ドアの向こうに立っていたのは、何とスピネルだった。

「スピネル?どうしたんですか?」

「とりあえず入ってもいいか」

スピネルはちらちらと周囲を見ながらやや早口で言った。あ、そうか。あまり見られたくないんだな。

「はい、どうぞ」と急いで室内に招き入れる。

 

「…食事?」

コーネルがテーブルから下げたお盆を見て、スピネルが怪訝そうにする。

「ああ、あれは夕食の分です」

「夕食?食堂に食べに行かないのか?」

「えーと…」

あまり説明したくないので言葉を濁すと、お盆を机の上に置いたコーネルが言う。

「こうして予め用意しておかないと、お嬢様はすぐ本やお勉強に夢中になって夕食を取り忘れてしまうのです」

「お前は…」

案の定呆れたように睨まれてしまった。コーネルの裏切り者…!

「最近はちゃんと食べてますから!」

「最近は、か」

「そ、それよりかけて下さい。コーネル、お茶を」

「はい」

私は無理やり誤魔化して椅子に腰掛けた。スピネルもまた向かいへと腰掛ける。

 

スピネルは今、新年休みを取っていたはずだ。戻ってきたばかりなのかコートの下は私服だ。

「思ったより早く戻ってきたんですね」

「実家にいたらいたで色々うるさくてな…」

スピネルはうんざり顔だ。ふーむ、ブーランジェ公爵は厳しい方だと聞くからそれでかな?

それとも近くのご令嬢方から色々誘われるのが面倒なのかな。両方か。

「でも、どうしていきなり私の部屋に?女子寮に入るには受付を通らないといけませんよね」

受付で面会を頼んだなら、直接部屋に来るのではなくまず部屋の呼び鈴が鳴るはずなのだが。

「カーネリアに会うふりをして入った」

「貴方そういう悪知恵は働きますね…」

「悪知恵とはなんだ。噂をされたらお前だって困るだろうが」

「まあそれはそうですけど」

貴族同士の婚姻を勧めるため男女交際はむしろ推奨されているし、堂々と会いに来ても先生や職員に咎められるようなことはないのだが、私とスピネルは交際などしていないからな。

何しろご令嬢方は噂話が大好きなのだ。それがスピネルなら尚更だろう。

 

「でも、カーネリア様は怒りませんでしたか?それ」

カーネリア様は何だかんだ言ってスピネルに懐いている。兄が自分に会いに来たと思ったらただの口実だったというのは、きっとがっかりしたと思うのだが。

「また剣の稽古に付き合う約束をさせられた」

「ああ、時々やっていますよね」

彼女は剣術にかなり熱心だ。将来は女騎士になりたいと常々言っている。

高位貴族のご令嬢としては珍しい。貴人の警護などで女騎士の需要は高いのだが、実際に女騎士の職に就くのはあまり裕福ではない下位貴族が中心だ。

スピネルがそれをどう思っているのかは分からないが、どうも歓迎してはいないように見える。やはり心配なのだろう。

 

そもそもスピネルってあまりカーネリア様の話をしたがらないんだよな。私とカーネリア様がいる場に同席するのも嫌がって毎回避けている。

殿下曰く「妹に甘い所を君に見られるのが恥ずかしいんじゃないか」という話だ。つまり、殿下から見ると彼は妹に甘いのだろう。

うちの兄達などは人前でも堂々と私に甘く、むしろ私の方が恥ずかしいくらいなのだが、スピネルはそういう性格かもなあと思う。

 

そんな事を考えていると、コーネルがお茶を運んできた。

ティーカップに静かに注がれた紅茶に、スピネルが口を付ける。

「ありがとう。とても美味しいよ」

そう言ってコーネルに向けたのは、びっくりするほど爽やかな笑みだ。私に対しては何やら腹の立つ笑顔ばかり向けてくるのだが、他の女性にはだいたいこの調子だ。

その度に頬を染めたり騒いだりするご令嬢も多いのだが、コーネルは全くの無表情で「ありがとうございます」と頭を下げただけだ。

「スピネルは紅茶に結構うるさいので、お世辞ではないと思いますよ」

「左様でございましたか。恐縮です」

コーネルはやはり全く表情を動かさなかった。さすがである。

 

「…それで、一体何のご用ですか?」

するとスピネルは何故か不機嫌そうな顔で、椅子にかけたコートのポケットに手を伸ばした。そこからはみ出していた謎の包みをテーブルに置く。

「お前に土産だ。親父…父上と母上からだ」

「えっ?」

スピネルの父母と言えばブーランジェ公爵とその夫人だ。どうして私にお土産を?

「とりあえず開けてみろ」

「あ、はい」

 

中から出てきたのは護身用と思しき小さめのナイフだった。鞘は革でできていて、独特の不思議な模様が彫り刻まれている。

「カーネリアが父上と母上にお前の話をしたらしくてな、お前にやってくれって持たされたんだよ。その鞘、父上が細工したやつだ」

「えっ!?閣下がですか!?」

私は思わずまじまじと鞘を見つめる。とても見事な細工だ。どこか炎を思わせるその紋様は、細かくて美しい。

「うちの家の伝統模様の一つで、守護を表してるらしい。特に何か効果がある訳じゃないが、ちょっとしたお守りみたいなもんだな」

「そ、そんな貴重なものを頂いていいんですか?」

「別に貴重でもねえよ。売りもんでもねえし」

「売ってないから貴重なんでしょう!しかも閣下が細工を…?えっ、本当に…?いいんですか?」

意味もなくあたふたする私に、スピネルは呆れ顔だ。

「お前本当にうちの親父好きだな…」

「当たり前です!あれほど尊敬できる騎士はそういませんよ」

「ふーん。まあいいけどよ」

 

私はナイフをためつすがめつし、鞘から少し抜いてみた。質のいい鋼が使われているのが分かる。かなり切れ味が良さそうだ。

「物凄く嬉しいんですけど、こんな良い物をどうして…?」

恐らく私が公爵に憧れているという話をカーネリア様から聞いたのだと思うが、それだけでこんな物をぽんとくれたりはしないと思うのだが。

「まあお前とはそれなりに長い付き合いだしな。カーネリアも世話になってるし。深く考えずにもらっとけ」

うちの息子や娘がいつもお世話になっております的なやつか。

公爵家からしたら大した贈り物でもないのかな…?とても貴重な品なのは間違いないが、手作り品なので価値が分かりにくい。だから贈ってくれたのだろうが。

 

「…本当にありがとうございます。すごく嬉しいです」

ついニマニマとしてしまう私に、スピネルは少し笑った。

「親…父上達にはお前がすごく喜んでたって言っとく。ああ、返礼とかは別にいらないからな」

「そうですね、私にはとてもお返しできるものがありませんし…。でも、お礼のお手紙は送らせていただきます」

それくらいは良いですよね?とスピネルを見ると、仕方ないというようにうなずいた。

「余計な事は書くなよ」

「お宅の息子さんは学院で大変ご令嬢方にモテていらっしゃいますよ、とか?」

「やめろ。絶対やめろ」

あまりに嫌そうなので私は思わず噴き出してしまった。

「冗談ですよ。ちゃんと礼を失しないようなお手紙を書きます」

「頼むからそうしてくれ。…じゃ、俺はもう行く」

「はい。本当にありがとうございました。また、学院で」

 

スピネルを見送った後、私はもう一度ナイフを手に取った。

剣の達人として有名なブーランジェ公爵が手ずから細工したナイフ。かなりご利益がありそうだ。

軽いので持ち歩きにも問題なさそうである。

早速お礼の手紙を書かなければと思いつつ、私はそれを大切にしまった。



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第43話 討伐訓練・1

魔術学院の授業には、魔獣討伐の訓練が含まれている。

最初は魔獣を模して作られた魔術の幻影を倒すことから始まり、それから王都の外へ行って教師が見付けてきた魔獣をグループで囲んで倒す。そうやって少しずつ魔獣との戦いに慣れさせて行く。

時期によってはなかなか魔獣が見付からず訓練が進まなかったりするらしいが、近年は魔獣の出没数が増えているので訓練に困る事はない。あまり良い事ではないのだが。

 

そして1年生の春になると、近郊の森でクラス合同での大規模な魔獣討伐訓練が行われる。

1人以上の魔術師を含めた5人~7人一組の班を作り、生徒たちだけで森に入って魔獣を討伐する。

ノルマは一組最低1体以上だが、優秀な班は5体以上倒したりする。上級生になるとグループの人数が減り、討伐ノルマが増える。

訓練が行われる森は、生徒の手に負えないような大きな魔獣がいないか予め探知魔術で調査済みだ。

多くの魔獣に囲まれたり、身を潜める事に特化し探知魔術をくぐり抜けた強い魔獣が現れたりしない限りは大丈夫だが、過去には何度か生徒が死亡する事故も起きている。

魔獣の討伐というのはやはり命がけなのだ。

 

 

大規模討伐訓練当日。

訓練そのものに時間を割くため、現地への移動は学院の魔術師が予め設置しておいた転移魔法陣によって行われた。

全員が訓練地の森の前へ移動し点呼を取ったあとで、教師からいくつかの注意点などが述べられる。

「午前の探索は11時45分までだ。それまでにここに戻ってこられるよう、きちんと時間を見て探索を進めること。誰かがはぐれる事のないよう、お互い十分に注意しながら進むように。森に火がつかないよう、火炎の魔術は一切使用禁止だ。対処しきれない事態が起きた時は、リーダー及び魔術師の生徒に持たせた狼煙を使用するように。他班の上げた狼煙を見かけた場合は、近くの班はなるべく救助に向かう。ただし、手に負えないと判断した場合は脱出していい。すぐに私達教師も向かうから大丈夫だ。北側には川が流れているが、切り立った崖の下にあり、雪解け水と先日の雨のせいで流れも速い。魔獣に襲われても咄嗟に飛び込まないように」

それから、紐のついた小さな時計を掲げる。

「この時計は倒した魔獣の数を自動的に数える魔導具でもある。各リーダーに配ってあるが、居場所を探知するためのものでもあるので、決して無くさないように注意すること。また、これが光った場合は緊急事態だ。全員ですぐに引き返し、森の出口へ向かうように」

 

それからブリーフィングの時間が与えられた。各グループごとに集まっての最終確認だ。

「皆、今日はよろしく頼む」

訓練用の騎士服に身を包み剣を腰に下げた殿下の言葉に、私達は声を揃えて「はい」と返事をした。

有り難いことに殿下からお誘いいただいたので、私は今回殿下と同じ班である。当然スピネルも一緒だ。

残り3人のメンバーをどうするかについては、スピネルの「全員が1人ずつ連れて来れば6人になる」という案が採用された。

 

殿下が連れてきたのがニッケル・ペクロラス。

騎士課程のクラスメイトで、騎士にしてはやや小柄だがすばしっこい。

少々落ち着きがない所があるが、殿下のことをとても尊敬していて、私としては大変好感の持てる人物だ。

なんでも、彼の父母の離婚の危機を殿下が解決し救ったのだそうである。さすがは殿下だ。彼の父母が問題を抱えている事を、私が以前ちらりと話したのがきっかけらしい。

その離婚騒動は前世でかなりの噂になっていたので、騒ぎになる前に未然に防がれたのは良かったと思う。

私は結局元鞘になる事を知っていたので特に干渉はしていなかったのだが、殿下が「この件を教えてくれたのはリナーリアだ」と言ったらしく、彼は私に対しても好意的だ。別に何もしていないのだが。

 

スピネルが連れてきたのはセムセイ・サーピエリ。

同学年にしてはやや貫禄のある彼も、騎士課程のクラスメイトだ。

彼の実家サーピエリ領はうちのジャローシス領と近く、歳も同じなので私は彼と幼い頃から面識がある。温厚な人物だが、既に婚約者がいたりするなかなかのやり手だ。

スピネルの友人の中では落ち着いた性格だが結構気が合っているらしい。よく話しているのを見かける。

 

そして私が連れてきたのはペタラ・サマルスキー。

魔術師課程のクラスメイトで、大人しく控えめだが思いやりのある性格のご令嬢だ。

カーネリア様のところのお茶会で知り合い、学院入学前から仲良くさせてもらっている。

入学直後は私が目立ちすぎてしまったせいで少々話しかけにくかったのだが、今では前と同じように付き合えていて安心している。

彼女に断られたら誘うメンバーに結構困ったので、快諾してもらえて良かった。

 

剣を持った騎士が4人、魔術師が2人の合計6人。皆それぞれ訓練用に防護魔術がかけられた騎士服と魔術師のローブを身に着け、腰に応急処置の道具や非常食などが入ったポーチを装着している。

なかなかバランスの良いメンバーだと思うし、私にとって親しみやすい、やりやすい人ばかりだ。

実力面でも問題ない。そもそも殿下とスピネルが揃っている時点で間違いなくトップグループだ。

二人はまだ実戦経験こそ浅いものの、剣の腕なら既に学院でも上位だろう。

もちろん私もいるが、目立ちすぎないようほどほどに手加減して参加するつもりだ。

 

班のリーダーは当然の流れで殿下だ。

「布陣を確認しておこう。まずは俺とニッケルが前衛。中央に魔術師のリナーリアとペタラ。後衛にスピネルとセムセイ。ただし地形や状況によっては変化する事もあると頭に入れておいてくれ」

「はい」

「魔獣の探知やルートの指示は魔術師であるリナーリアにやってもらう。それ以外は基本的に俺が指示を出すが、気が付いたことがあったら皆遠慮なく言ってくれ。会敵後は、まず前衛が攻撃。魔術での防御はリナーリア、攻撃はペタラ。ただし魔術面での細かい指示はリナーリアに任せる」

「わかりました」

私はうなずく。

「後衛は周囲を警戒しつつ魔術師の二人を守るのが役目だが、場合によっては前衛に加勢してもらう。午後からは前衛と後衛を入れ替えるつもりだ。…以上、質問はあるか」

「いいえ!大丈夫です!」

ニッケルが元気よく答えた。少々気負ってるように見えるけど大丈夫かな。

「ありません」と答えたのはセムセイとペタラ様。セムセイは落ち着いているが、ペタラ様はやや緊張気味だ。

私とスピネルもまた「ありません」と答える。

 

そして、大規模討伐訓練が始まった。



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第44話 討伐訓練・2

先生の号令後、班ごとに順番に森の中に入り、探索を始める。

皆が同じ場所に向かうと獲物を取り合う事になりかねない。それを避けるためにも各グループに所属する魔術師の生徒がある程度周囲の気配を探知するので、自然と進む方角はバラけていく。

私も森に入ってすぐに広域気配探知の魔術を使った。いくつかの固まった人間の魔力反応の他に、ぽつぽつと魔獣の反応を感じる。思っていたより数が多いようだ。

「北西の方角が手薄のようです。魔獣も何匹かいるようですので、そちらに向かうのが良いかと」

「分かった。皆、行くぞ」

「はい!」

 

しばらく行くと、前方から魔獣の近付く気配を感じた。

「前から来ます。恐らく狼型、一匹だけです」

私の言葉に、皆の間に緊張感が走る。

狼型の魔獣はこの辺りで最も一般的なものだ。

そこそこ素早いが、それほど大きくはないし知能も高くない。特殊な魔術攻撃などもしてこないので、牙と爪にだけ注意していれば良く、かなり対処しやすい魔獣だ。

やがて草陰から黒い影が飛び出して来た。やはり狼型の魔獣だ。

殿下が落ち着いて斬りかかる。剣は魔獣の右足の付け根のあたりを捉え、大きく切り裂いた。魔獣が耳障りな叫び声を上げる。

 

魔獣は通常の刃物ではあまり傷付けられない。

騎士は剣を振るう際、その刃に己の魔力を込める事で魔獣に大きなダメージを与えられる。魔力持ちが騎士になる一番の理由だ。

騎士が主に剣を使うのは、剣が特に刃に魔力を込めやすいからだ。

槍などの長物だと魔力の消費が多くなるし、弓矢は魔獣に届くまでに魔力が減衰しやすく威力が弱まってしまうので、あまり好んで使われない。

戦闘中は身体強化や治癒、防御などにも魔力を使うので、騎士にとって剣が一番効率よく扱いやすい武器なのだ。

 

殿下は剣術の腕もさることながら、魔力の扱いも上手いので実に安定した動きだ。

右足を負傷した魔獣にニッケルがさらに斬りかかり隙を作ったところで、殿下が見事な一撃で魔獣の首を斬り落とした。

「近くに他の魔獣の気配はありません。お二人共、お見事です!」

褒め称えると、殿下は無言でうなずき、ニッケルは「ありがとうございます!」と照れながら笑った。

「王子殿下の剣術は本当に素晴らしいですね。リナーリア様の言っていた通りです」

最初の戦闘を危なげなく終わらせた事で、不安そうだったペタラ様も安心したようだ。

実際見事なものだった。私達魔術師も後衛も全く出番がなかった。

「ニッケルの補助も良かった。タイミング良く気を引いてくれたおかげで簡単に止めを刺せた」

「あ、ありがとうございます」

ニッケルは殿下に褒められて嬉しそうだ。

殿下が胸元に下げた時計型の魔導具を確認する。討伐数をカウントする窓にはしっかり「1」と刻まれているようだ。

「よし。このまま進むぞ」

 

その後、さらに2体の魔獣と遭遇した。狼型とイタチ型だ。

最初の戦闘でも十分余裕があったので、今度は殿下が引きつけ、それぞれニッケルとペタラ様が止めを刺した。

「もう3体討伐か。かなり良いペースじゃないか?」

そう言ったのはスピネルだ。確かに、探索を始めてからまだ2時間も経っていないのにこのペースは早い気がする。

「リナーリアさんの探知が的確だからじゃないかな」とセムセイが答える。

「ありがとうございます。でも、そもそも森の魔獣の数が多い感じですね」

なるべく効率の良いルートを選んでいるのも確かだが、それ以前に魔獣の気配自体が多い。どっちに行っても遭遇できる感じだ。うっかり囲まれないように注意した方がいいだろう。

「最近は魔獣多いですものね…」

ペタラ様が眉を曇らせる。

「ずいぶん深くまで来てしまったし、これ以上奥に行くのはやめておこう。余裕を持って戻った方がいい。途中で倒せそうな魔獣がいたら積極的に倒す」

そう言った殿下に皆がうなずこうとした時、スピネルが声を上げた。

「…狼煙が上がってる」

 

スピネルの視線の先へと目をやると、確かに木々の隙間から煙が見える。北の方角だ。

誰かが助けを求めている。

「そう遠くない。向かおう」

「はい」

殿下の言葉に全員が首肯し、走り出した。と言ってもあまり早く走るのは危険なので、小走り程度のスピードで進む。

私は走りながら探知魔術を使った。前方に反応が見つかる。

「この先に2人います。それに魔獣が一匹。それほど大きくありません」

「わかった」

 

それからすぐに、蜥蜴に似た姿の魔獣が見えてきた。

一人の生徒が剣を持って向かい合い、もう一人がその後ろに座り込んでいるように見える。近くには燻っている狼煙もある。

「ニッケル!」

「はい!」

殿下の声に、ニッケルがスピードを上げて駆け出す。魔獣がこちらに気付き、攻撃を仕掛けようと体勢を低くする。

「気を付けろ!毒を持っている!」

そう叫んだのは剣を持った方の生徒だ。跳んで襲いかかって来る魔獣の爪を、ニッケルが剣で防ぐ。

「ペタラ様!」

『風の刃よ!』

私の声に応え、ペタラ様が風の魔術を撃ち出した。

それを避けて飛び退った蜥蜴の目を狙い、私は水の魔術を使う。水撃がうまく命中し、目潰しができたようだ。蜥蜴が「ギャッ」という叫びを上げる。

すかさず踏み込んだ殿下が、蜥蜴の身体を両断した。耳障りな断末魔の叫びが響く。

 

「大丈夫か」

「あ、ありがとうございます、王子殿下…」

怯えた表情で座り込んでいたのは別のクラスの女子生徒だった。負傷しているようなので、治癒魔術をかけるためにペタラ様が近くに寄りしゃがみ込む。

もう一人の騎士の生徒は負傷の他に毒を受けているようで、こちらの治療には私が向かった。幸い、身体が少し痺れる程度の軽い毒のようだ。

「何があった。他のメンバーはどうした?」

問いかける殿下に、解毒魔術を受けながら騎士の生徒が答える。

「俺達は、アーゲン様の班です。皆で探索を進めていたら、急にとても大きな魔獣が現れて…」

「大きな魔獣だと?」

「探知魔術にはかからなかったのか?」

殿下とスピネルが聞き返す。騎士の生徒は、自分でも信じられないという様子でうなずいた。

「はい…本当に突然現れました。翼のついた大きな蛇の魔獣です」

…これはちょっと厄介だな。

そう思う私の横で、ニッケルとセムセイが声を上げる。

「翼のついた蛇の魔獣なんて聞いたことないっすよ」

「僕も知らないな」

「…かなり珍しい魔獣です。蛇型は潜伏を得意としているものが多いので、その魔獣もそうなのでしょう。だから魔術で探知できなかった」

私は実物こそ見た事がないものの、本で読んだことがあったので説明した。

特殊な形状の魔獣は、それぞれ厄介な特殊能力を持っているものが多い。

 

「いきなり襲われたので、こちらの彼女は足を負傷してしまって…しかもその蛇は、アラゴナ様を攫って行ったんです」

「何!?」

皆が驚く。魔獣は非常に攻撃性が高く、人間を見ればすぐに襲いかかってくる。攫うなどという行動は滅多にしない。

騎士の生徒が話を続ける。

「アーゲン様達は俺に彼女を任せて、すぐに蛇を追いました。狼煙を使ったのもアーゲン様の指示です。…だけど、その後すぐに蜥蜴の魔獣が出てきてしまって」

蜥蜴の魔獣は素早く、毒を持っているものが多い。

女子生徒の方は動揺して魔術を使えるような状況ではなかったようだし、毒を受けた状態の彼一人ではなかなか倒せなかったのだろう。そうして戦っているうちに私達が到着したわけだ。

 

「すぐに助けに行こう」

殿下がそう言い、スピネルが問いかけるように私を見た。

「少し調べてみます」

私はそう言って目を閉じ、再び探知魔術を発動した。自分を中心に行う広範囲の探知ではなく、方向と範囲を絞ってより詳細に行う中級の探知魔術だ。

意外にあっさり、大きめの魔獣の反応が見つかる。探知しやすいという事は、潜伏はしておらず戦闘中なのだろう。

魔獣の周囲に4人分の人間の反応。ただ少し離れている者がいる。アラゴナ様だろうか。

「…ほぼ真っすぐ北の方角、それほど遠くありません。反応からして、大きめの中型と言ったところだと思います。人間は4人。…アーゲン様の班の人数は?」

「俺たちを含めて6人です」

という事は、全員まだ無事だ。

 

「…恐らく潜伏以外には強い特殊能力を持っていません。襲撃に成功したあとでわざわざアラゴナ様を攫ったのは分断を狙ってのことでしょう。つまり、知能は高いが戦闘能力はそれほど高くない個体だと推測されます。アラゴナ様さえ取り戻せれば、私達でも討伐可能でしょう」

このくらいの大きさなら、問題なく対処できるだろうと判断する。

迷いなく告げた私に、殿下とスピネルもいけると判断したようだ。顔を見合わせて「よし」とうなずき合う。

それから殿下がアーゲンの班の生徒を見る。騎士の方はともかく、女子はとても戦えそうな様子には見えない。

 

「近くに他の魔獣の気配は?」

「ありません。しばらくは襲われないでしょう」

「わかった。…セムセイ、ここに残ってもらえるか。この二人を守り、先生達が来たら説明を頼む」

「はい」

「スピネル、リナーリア、ニッケル、ペタラは俺と共に来い」

「はい」

殿下の指示に皆が応える。

「北の方角だったな」

「はい。向こうです」

私は北を指差した。確か北側は川が流れる崖になっていたはずだが、知能が高い魔獣なら自らある程度水に近付いたりもする。

私は腰につけたポーチから狼煙玉を取り出し、セムセイに手渡した。

「予備の狼煙です。必要なら使ってください」

「ありがとう」

皆でぐるりと周囲の顔を確認し、お互いにうなずき合う。

「よし、行くぞ!」



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第45話 討伐訓練・3

しばらく走ると、前方が明るく開けているのが見えてきた。

森の北端まで来たのだろう。この先は崖になっているはずだ。

「いたぞ!魔獣だ!」

先頭の殿下が叫び、走りながら剣を抜き払った。

他の者もそれぞれ剣を抜き、私とペタラ様はいつでも魔術を使えるように集中して魔力を練っておく。

木々の間を抜けると、青黒い大きな蛇が見えた。

鎌首をもたげた状態でも高さ2メートル以上あるだろう。背中には、体長に比べると小さめの翼がついている。飛行能力は低そうだ。

蛇に対して長い剣を向けているのはストレングだ。もう一人剣を持った男子生徒がいるが、負傷しているようで膝をついている。

蛇の後ろ、崖の近くに座り込んでいるのはアラゴナ様のようだ。あちこち汚れているが、それほど大きな負傷はなさそうで少し安心する。

 

「助けに来たぞ!!」

大声でそう呼びかけた殿下に、膝をついていた生徒とアラゴナ様がこちらを振り向く。ストレングは蛇の相手でそれどころではなさそうだ。

「アーゲン様が!」

アラゴナ様が叫んだ。

「アーゲン様が、崖下に…!このままでは流されてしまいます!」

川に落ちたのか。まずいな、急いだ方が良さそうだ。

だが、まずはアラゴナ様の安全を確保だ。

「魔獣を手前に引き寄せます!間合いに注意してください!」

「ああ!」

「おう!」

それぞれから返事が返るのを待たずに、私は大量の水を呼び出した。ここは森があり川も近いので水気が多く、水を呼びやすい。

 

アラゴナ様と蛇の間を狙い、壁を作るような形で水を落とす。

アラゴナ様の悲鳴が聴こえた気がするが、多少の水しぶきは我慢して欲しい。

蛇の魔獣が背後の水を避けて身を捩る。振り回された尻尾を叩きつけられ、ストレングが吹き飛んだ。

「ぐっ…!」

うめき声が上がるが、ストレングもまた優れた騎士だ。辛うじて受け身を取ったようだ。しかし恐らく、すぐには動けないだろう。

蛇が鋭い牙の生えた口を大きく開けて雄叫びを上げ、こちらに向かってきた。それに正面から向かい合い、殿下が指示を出す。

「俺が注意を惹き付ける!スピネル、ニッケル!」

「わかった!」

「はい!」

私もまた、たくさんの水球を呼び出しながら叫ぶ。

「私は足止めをします!ペタラ様は目を狙ってください!」

「はい!」

「貴方は下がってください!」

私の叫びを受け、膝をついていた男子生徒がよろめきながら後ろに下がる。やや傷が深そうだが、治癒は後回しにするしかない。

 

あえて蛇本体には当てないようにしていくつもの水球を細かく操り、蛇が進もうとした先に回り込むように動かす。

上空にも水球を複数浮かべているので、空を飛んで逃げるのは難しいはずだ。水球に囲まれその場に釘付けとなった蛇が、苛立ったように身体をくねらせる。

蛇の巨体に、スピネルとニッケルが素早く幾度も切りつけていく。

やはり防御力はそれほど高くないようだ。徐々に傷が増えていく。

殿下は常に左右に動き、襲いかかる牙を避けたり弾いたりしつつ蛇の正面の位置を維持して注意を惹き続けている。相当なプレッシャーだろうに、素晴らしい胆力だ。

 

少しずつ確実に、蛇にダメージが蓄積していく。本当ならこのまま削り殺したい所だが、急がなければいけない。

起き上がったストレングが再び蛇に向かっていこうとするのを見て、私は決断をする。

「スピネル、蛇の動きを止めます!アラゴナ様を連れて脱出できますか」

「ああ。やってみる」

スピネルは間髪入れずにうなずいた。

「ニッケル様、ストレング様、スピネルがアラゴナ様を助けるまで蛇の注意を引いてください!特に尻尾を!」

「はい!」

「承知した」

ニッケルとストレングが返事をする。

「ペタラ様、防御魔術の準備を。私が合図をしたら、ニッケル様とストレング様に結界をお願いします!」

「わかりました!」

そして、最後に殿下へと呼びかける。

「殿下!!」

蛇の攻撃を受けて大きく飛び退った殿下は一瞬だけ私を振り返った。

「殿下は蛇の頭をお願いします!…どうか、私を」

「わかった。君を信じる」

…信じてくださいと、そう言おうと思ったのに。

それよりも先に殿下が答えてしまった。どうして私の言いたいことがわかったのか。

思わず湧き上がりそうになる感傷を無理矢理抑え込む。

水球を撃ち出しながら、私は叫んだ。

「今です!行ってください!」

 

いくつかの水球の直撃を受けた蛇が吠えた。

すかさず駆け出したスピネルが、蛇の背後に回り込もうとする。

蛇はスピネルを止めるために動こうとしたが、私は周囲の蔦を操り蛇の身体を拘束した。もがくその尻尾をストレングとニッケルが、鎌首を殿下が攻撃する。

蛇が大きく暴れ、蔦が何本か引きちぎられた。

走るスピネルがアラゴナ様を抱え上げ、そのまま脱出する。十分に距離を取ったのを見てすぐに指示を飛ばす。

「ニッケル様、ストレング様、下がって!ペタラ様、結界を!」

「はい!」

背後に跳んだニッケルとストレングを光の壁が包む。

 

「殿下、頭を!」

「ああ!」

殿下が大きく前へと踏み込む。

私は精神を集中させ、蛇を睨みつけた。

『炎よ、天を衝く柱よ!』

轟、と蛇の巨体が大きな炎の柱に包まれる。

それと同時に、高く跳んだ殿下の身体が淡く輝いた。

「…はあっ!!」

横薙ぎの一閃を受けた蛇が、その動きをぴたりと止める。

数秒の空白の後、蛇の首がずるりとずれ落ち…地面に転がり、大きく燃え上がった。



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第46話 水流下り

「殿下!大丈夫ですか!」

激しく燃え上がる蛇の脇に着地した殿下に、私は焦りながら声をかけた。

すぐに殿下が炎の中から走り出てくる。

「大丈夫だ。すごいな、全然熱くない」

「良かった…」

私は森に火が飛ばないよう効果範囲の狭い炎の柱の魔術を使い、同時に二重魔術で殿下の身体に防護魔術をかけた。

防護魔術には絶対の自信があるからやった事とは言え、炎に飛び込む殿下の姿はやはり心臓に悪かった。上手く行って良かった。

蛇が断末魔に暴れたり炎を浴びたりしたらまずいのでペタラ様にはニッケルとストレングへの結界を頼んだが、ほとんど必要なかったようだ。

「殿下!」

スピネルもこちらに走り寄ってくる。殿下が無事で安堵した顔だ。

皆ほっとしかけた所で、アラゴナ様の悲鳴が上がる。

「アーゲン様!」

 

崖の方を振り返り、慌てて駆け寄る。

「まずい、流されたぞ!」

そう叫んだのはスピネルだ。眼下に広がった川を見回すと、濁流の中を遠ざかっていく黒髪が見えた。

「アーゲン様!!」

「待て!流れが速すぎる!!」

飛び込もうとしたストレングを殿下が抑え込むのを横目で見る。

確かに、この流れの速さでは飛び込んだところで泳いで助けるのはまず無理だ。…しかし。

「…スピネル、後はお願いします」

「お前!?」

制止の声が届くより早く、私は崖下へと身を躍らせた。

 

 

「…リナーリア!!」

殿下の声を背後に聞きながら、魔力を集中させる。

水面へと落下した私は、()()()()()()()()()()()()()()

すぐさま二重魔術で周囲の水流を操り体勢を安定させる。

足元に魔力の力場を作り出す魔術で水の上に浮き、水流を操りながら川を下る「水流下り」と呼ばれる複合魔術だ。

アーゲンの姿は流されてもう見えない。急いで追いかけなければ。

 

さらに水流を操って速度を上げながら、どんどん川を下っていく。

かなりのスピードが出ているので正直怖い。万が一操り損なって引っくり返ったり岩に激突したら死にかねないが、こうしなければ先に流されたアーゲンに追いつけない。

やがて、濁流の合間に人の姿が見えた。アーゲンだ。

このまま追いつけば引き上げられるか?と思った時、左右が急に開けてきた。崖が途切れ、先には川原が広がっているようだ。

やった!これなら簡単に川岸へと上がることができる。だいぶ近付けたし、この距離ならアーゲンへの魔術も届くだろう。

私は足元の力場と水流の魔術を操って安定させながら、さらに精神を集中させもう一つ魔術構成を展開する。

「…ええい!!」

アーゲンを周りの水ごと大きく持ち上げると、川岸に向かって思いきり放り投げた。

続いて足元の力場に魔力を込め、力いっぱい跳ぶ。

「うわっ…、と!」

何とか川岸に着地できた…と思ったが、バランスを崩して派手に転んでしまった。顔をしたたかに地面に打ち付けてしまう。

「いたい…」

痛みに涙が滲みそうになるが、その前にアーゲンだ。ちゃんと生きているだろうか。

 

ずぶ濡れで川原に転がっているアーゲンは完全に意識を失っていた。

駆け寄って口元に手を当て様子を見てみるが、呼吸をしていないようだ。

すぐに顎先を持ち上げて顔をのけぞらせ、もう片方の手を胸に当てた。慎重にごく弱い魔力を送り、心臓と肺に刺激を与える。

「…ごほっ!」

幸い、すぐにアーゲンは呼吸を取り戻した。ごほごほと咳き込む彼の身体を横に向け、呼吸が楽になるように手助けする。

「大丈夫ですか?」

声をかけると、アーゲンはぼんやりと瞼を上げた。左右に視線をさまよわせてから私の顔を見て、ぎょっとしたように目を見開く。

「リナーリア!?血が!」

「えっ」

言われて顔に手をやると、ぬるりとした感触が触れた。…血だ。

 

 

顔についていた血の正体は鼻血だった。着地に失敗して顔を打ち付けたせいらしい。

「…大丈夫、もう傷はないよ」

「ありがとうございます…」

アーゲンに治癒魔術をかけてもらい、私はローブの袖で顔を拭った。ちゃんと血は止まったようだ。

「礼を言うのはこっちの方だ。…君が僕を助けてくれたんだろう?確か、水魔術が得意だったよね」

「はい。水流下りで追ってきて…貴方がちょうどここの川岸に引っかかっていたので、何とか引き上げました」

力任せに魔術で放り投げたという事は内緒にしておこう。得意の水魔術とは言え、密かに三重魔術を使ってしまったし。アーゲンが気を失っていて良かった。

「あの蛇の魔獣も君たちが倒してくれたんだろう。崖下で少し聴こえていたよ。…他の皆は無事だろうか?」

「ええ、魔獣はきちんと倒しました。怪我をしている人もいましたが、恐らく命に別状はないと思います。貴方の班も、私の班も皆無事ですよ。アラゴナ様も」

「そうか、良かった…」

アーゲンはほっとしたようで、大きく胸をなでおろした。

「…僕も流されないようにずっと岩に掴まっていたんだけど、どうも魔獣を倒せたようだと分かったら、力が抜けてしまったんだよね…」

苦笑するアーゲンに、私はどう声をかけて良いのか分からない。

 

「…とりあえず、服を乾かしますね」

濡れたままではまずいので、魔術を使ってアーゲンの服の水気をある程度飛ばした。

私のローブも水しぶきがかかってかなり濡れているので少し乾かす。まだ湿っているけど完全に乾かすのは無理だから仕方ない。…あと、鼻血もついてるな…うう。

見ると、アーゲンは剣も腰のポーチも流されてしまったのか持っていないようだ。ただ、首にはリーダーに配られた時計型の魔導具が下がっている。

「貴方は丸腰ですし、大人しく救助が来るのを待った方がいいでしょうね。その時計があるから居場所は先生たちにもすぐ分かると思いますし。結構な距離を流されてきたので、来るまでは時間がかかるでしょうが」

私は緊急事態なので水流下りを使ったが、本来この流れの速さでは使うのはかなり危険だ。

救助は普通に徒歩で来るだろう。

「…こちらの無事を知らせるためにも、一応狼煙を上げておいた方がいいだろうね。狼煙玉は持っているかい?」

「いいえ。他のメンバーに渡してしまって」

「僕も流されてしまって持っていない。近くで木の枝を拾ってこよう。焚き火を熾せば暖も取れるだろうし」

「そうですね」

全体的に湿っているし、川の近くなので少し寒い。火は必要だ。

 

「…近くには魔獣はいなさそうですね」

私はさっと探知魔術を使った。

魔獣の気配は遠い。あの蛇のような特殊な魔獣はそうそういないはずだし、川も近いので恐らく大丈夫だ。

「拾うのは多少湿った木でも大丈夫です。魔術で乾かせますので」

先日の雨もあるし、そう都合よく乾いた枝は落ちていないだろう。衣服は力加減を間違えたら燃えたり穴が開いてしまうので完全には乾かしにくいが、元々燃やすつもりの木なら魔術で楽に水分を飛ばせる。

だがアーゲンは少し心配げな顔になった。

「魔力は大丈夫かい?いくら君でも、もうずいぶん魔術を使っているだろう」

「大丈夫ですよ。心配ありません」

戦闘と水流下りでそれなりに魔力を消耗しているが、まだ十分余裕はある。我ながら驚きの魔力量だ。

「…だけど、かなり疲れているように見える。血が止まったばかりでもあるし、僕が枝を集めてくるよ。君は少し休んでいてくれ」

「…そうですね。では、お願いします」

確かに朝からずっと歩いたり走ったり、さらに色々あった上に今はこの状況だ。魔力は余裕があっても体力の方はかなりきつい。

アーゲンも川に流されて相当消耗しているだろうが、元々私よりはるかに体力はあるだろうしな。

あまり心配されたくはないし、大人しく任せる事にしよう。

 

「あ、でしたらこれを一応持っていってください」

私はローブの中に手を入れ、懐から護身用のナイフを取り出した。ブーランジェ公爵から貰った品だ。

あまり人に貸したくはないが、丸腰で行かせるのはさすがに危険なので仕方ない。枝を集めるのにも刃物があった方が便利だろうし。

「大切な品なので無くさないでくださいね」

「わかった」

アーゲンは真面目な顔でうなずき、ナイフを受け取った。

 

枝を集めに行くアーゲンの後ろ姿を見送った後、私は川原に手足を投げ出し仰向けになった。

本当に疲れたな…。

太陽は天頂近くにある。正午くらいかな。

しかし、まさか討伐訓練で翼蛇の特殊魔獣と遭遇するとは。また私の知らない出来事が起きてしまった。

人間ならともかく魔獣の行動には干渉できない。やはり私が関わらない所でも、この世界は私の記憶とは違う部分があるのだろう。

 

まだ何の手がかりも得られていない。その事にわずかに焦りがある。

早く殿下を救う手立てを見つけ出したい。

…殿下は今頃何をしているだろうか。私を心配しているかな。

「君を信じる」と言ってくれた殿下の後ろ姿を思い出し、ほんの少し泣きたいような気分になった。



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第47話 焚き火の前で※

「…リナーリア!大丈夫か!」

肩を揺さぶられ、私は目を覚ました。

「…アーゲン様」

いつの間にか眠っていたらしい。起き上がって一つくしゃみをする。

「すみません、寝てしまっていました」

「心配したよ…。枝を拾ってきたから、すぐに火を熾そう」

 

 

乾かした枝を組み、魔術で火を付ける。

ぱちぱちと火が爆ぜ、しっかりと燃え出したのを確認してからアーゲンが青い葉のついた枝を入れた。

すぐにもくもくと煙が上がり始める。

「これだけ煙が上がれば遠くからでもよく見えそうですね。早く助けが来るといいんですが…」

「そうだね」

アーゲンは煙の昇っていく空を見上げる。

「…しかし君、よく一人で僕を追って来たね。王子殿下やスピネルは止めなかったのかい?」

「止められる前に崖から飛び降りましたので」

「無茶をするね…」

困ったような顔で言われた。助けてもらった恩があるから言いにくいが、本当なら呆れたい所なんだろう。普通のご令嬢ならまずやらない行動だし。

 

「私なら貴方を助けられると思ったからやっただけです。…でも絶対に皆怒ってるはずなので、帰ったら貴方も一緒に謝ってくださいよ」

先生にも叱られるだろうが、特にスピネルは100%怒ってるし確実に説教コースだ。

殿下も多分怒ってるよな…。想像するだけで憂鬱だ。

ため息をつく私にアーゲンは神妙にうなずく。

「わかった…。僕の責任でもあるしね」

…責任か。こいつはこいつで、やっぱり責任感が強いんだよな。騎士だし。

 

 

私はアーゲンへと問いかける。

「川に落ちたのは、アラゴナ様を助けるためですか?」

「…まあね。代わりに自分が死にかけていては世話はないけど」

「そうですね」

アーゲンは傷付くかも知れないと思いつつ、私はあえて突き放した。

志そのものはとても立派だ。仲間、それも女性を守りたいとは騎士なら誰でも考える事だろう。咄嗟にそれを実行できるのも凄いとも思う。

しかし、上に立つ者としてはどうかとも思ってしまうのだ。アーゲンは公爵家の嫡男だというのに。

 

「…ストレングは、貴方を追おうとしていましたよ。殿下が止めていなければ川に飛び込んでいたでしょうね」

私にはストレングの気持ちがよく分かる。自分の命をなげうってでも主を助けたいという思いが。私だってストレングの立場なら同じことをしただろう。

アーゲンを助けたのはただ目の前の命を救いたかったからだが、ストレングに共感してしまったからというのも少しある。

…ストレングには、私のように主を失う絶望など味わって欲しくなかった。

だから、私は自らの身を危険に晒したアーゲンを褒めたりはしない。慰めるつもりもない。

 

「……。ストレングは忠義者だからね」

「はい」

彼は間違いなく忠臣だ。だから私はストレングの事が嫌いではないのだ。向こうはあまり私の事を好きではなさそうだが。

アーゲンは少しばかり落ち込んだ様子だ。

…ちょっと可哀想だったかな。

「まあ、結果としてアラゴナ様は助かりましたし、皆無事だったならいいのではないですか?」

例えばアーゲンがアラゴナ様を見捨てて自らの身を守ったとして、それが良かったかと言うとそうではないだろう。

何が正しかったのかなど私には分からない。多分、誰にも分からない。

そして、生きてさえいればこれからいくらでも反省できるし取り返せる。アーゲンはまだ若いのだし。

 

「大事なのは結果ですよ」

そう肩をすくめる私に、アーゲンは自嘲気味に笑って「ありがとう」と言った。

「君は意外にドライだなあ」

「貴方を咎めるのも、褒めるのも、私の役目ではありませんので」

「…厳しいね」

アーゲンはそう言って、少しだけうつむいた。

 

 

しばらく黙って焚き火を眺めていると、アーゲンが「そうだ」と言って腰に手をやった。

「このナイフを返すよ。どうもありがとう」

「いいえ」

受け取ったナイフに傷や汚れがないか軽く確認し、ローブの下へとしまう。

「とても良いナイフだね。さすがブーランジェ公爵家の品だ」

「ええ…」

うなずきかけて、私はアーゲンを睨みつけた。

さっきまで落ち込んでいたくせに。だからこいつは油断ならないのだ。

「いや、そう睨まないでくれ。君に刃物をプレゼントしそうな人間なんて彼くらいしかいないだろう。それに、その鞘。ブーランジェ公爵家では代々革細工を嗜んでいるっていう話を聞いた事があるんだよ。先々代のブーランジェ公爵夫人はうちの家の出だし」

「ああ…」

貴族同士はあっちこっちで婚姻してるから横の繋がりが多いんだよな。うちは新参で大した家とは繋がりがないので忘れてた。

 

「そうです。こちらはブーランジェ公爵からいただいた品です。素晴らしいでしょう」

どうせバレているならと、開き直って思いきり自慢する事にする。

胸を張った私に、アーゲンは少し目を丸くした。

「え?そのナイフは、公爵が?」

「はい。鞘は公爵が自ら細工されたんだそうです。…カーネリア様がお気遣いくださったみたいで」

 

「…だけどそれ、表と裏で細工が少し違わないかな?」

「えっ?」

再びナイフを取り出し、裏と表を返しながらまじまじと鞘を見つめる。

アーゲンの言う通り2枚の革を張り合わせて作ってあるが、どちらも同じにしか見えない。

…言われてみれば片側の細工が少し粗いか?

騎士のように武器にこだわったりはしないし、芸術には興味がないのでこの手の目利きはさっぱりなんだよな…。

首を捻る私に、アーゲンは少し考え込む素振りを見せる。

「…うーん、僕の気のせいだったかもしれないね」

なんだそれは。一体どっちなんだ。

 

「あ、そうだ、このナイフのことは他の人には言わないでくださいね」

「そうだね。僕に見せたと知ったら彼は怒りそうだし」

そういう意味で言った訳ではないのだが。公爵から個人的に贈られた品があるなどと人に言いたくないだけだ。

でもまあスピネルが怒りそうなのも確かか。ただでさえ怒られそうな事ばかりなのに…と思った所で、私ははっと気が付いて立ち上がった。

急いでローブを脱ごうとする私に、アーゲンがぎょっとしたように声を上げる。

「リナーリア!?何をしているんだ!?」

「血です!早く洗わないと、鼻血を出した事がばれちゃうじゃないですか!」

せっかくアーゲンの救助に成功したのに、着地で失敗して顔面をぶつけ鼻血を出したなんてかっこ悪すぎる。

しかも多分怒られるし、怒られなかった場合は笑われる。どっちも最悪だ。殿下にも知られたくない。

急いで証拠を隠滅しなければ。

 

「待ってくれ、それじゃ僕の上着を貸すよ。ローブを洗っている間着ていてくれ」

アーゲンは慌てた手付きで自分の上着を脱ぐと私に押し付け、それから後ろを向いて座り直した。

…こいつもこういう所は紳士的なんだな。

ローブの下にも服は着ているし別に見られても問題ないのだが、寒いのは事実なのでありがたく借りておこう。

「ありがとうございます。では、洗ってきます」

 

 

 

魔術じゃさすがに血の汚れは落とせない。

川の流れは速く水も濁っているが、染みを落とすくらいはできるだろう。

私にはサイズの大きすぎるアーゲンの上着の袖をまくりあげ、流されないように注意しながら川岸にしゃがみこんでローブを洗う。

うーん、落ちにくいな…。乾かす前に洗えば良かった。失敗した。

それでもごしごしと擦り合わせているとだいぶ染みが薄れた。これならばれないかな。

 

軽く絞り、水気を飛ばしたローブを持って焚き火の側に戻る。

「血は落ちたかい?」

「ええ、なんとか。あ、上着お返しします」

「もう少し着ていていいよ。まだローブは湿っているだろう」

「…そうですね。では、お言葉に甘えさせていただきます」

焚き火の近く、煙が当たらなさそうな場所にローブを広げて上に重石を置く。ここなら多少は乾きが速くなるだろう。

 

 

「あの、鼻血を出したことも言わないでくださいね…」

一応釘を刺すと、アーゲンは苦笑した。

「言わないよ。これ以上彼らに恨まれたくないし」

それから、一つ大きなため息をつく。

「…彼の気持ちが分からないと思っていたけど、やっと分かったよ。確かにこれでは過保護になるのもしょうがない」

「…スピネルのことですか?」

「ああ。でも結局、君は僕が思っていたのと全然違う人だった。それが答えだったね」

お前は私をどんな人間だと思っていたんだ。

思わず睨むと、アーゲンは肩をすくめる。

「君は謎の存在だったから仕方ないだろう。一度は君が国王陛下の隠し子じゃないかと疑ったりもしたくらいだ」

「はあ!?」

どこをどうやったらそんな発想が出てくるんだ?

 

「だって、そう考えれば辻褄が合うんだよ。君が王子殿下とあんなに親しいのに王子妃になりたそうな素振りがない事も、従者が君を守ろうとする事も、国王陛下から気にかけられている事も」

「…陛下が?私を?」

「パーティーの挨拶の時にお声をかけられていたじゃないか。まだ何の功績も上げていない子供に対して、普通そんな事はしないだろう」

「……」

 

言われてみればそうだった。

単純に期待されているのかと…だって陛下って意外と気さくな方だし…。

でも王子の従者として時々顔を合わせていた前世とは違い、今世では全く面識がないので陛下が私に気さくにする理由などなかった。勘違いしていた自分が恥ずかしい。

という事はもしかして、陛下のお声がけもブーランジェ公爵のお土産と一緒で遠回しな「うちの息子がお世話になっております」だったのか?

前世ではどこに行っても王子の従者という立場で扱われたので、友人の父親とはどういう対応をしてくるものなのか私は全く知らない。…友達がほとんどいなかったのもあるが…。

 

 

ちょっと衝撃を受けている私の顔色を伺いながら、アーゲンは言葉を続ける。

「でも、いくら調べても王家と君には何の接点もなかったよ」

「…当たり前です。私は正真正銘ジャローシス侯爵とその夫人の間に生まれた娘です」

「うん。だから君は相変わらず謎のままだ。今日、君のことをずいぶん理解できたと思うけれど、逆に謎が深まった部分もあるね」

アーゲンは何やら楽しそうだ。そうやって私に興味を持つのを本当にやめて欲しいのだが。

 

「そんなに嫌そうにされるとちょっと傷付くなあ…」

しまった、完全に顔に出ていたようだ。長話をしたせいで気を許しすぎたか。

「そんな事はありませんよ」

取り繕ってにっこりと笑うと、アーゲンは少し困った表情になった。

「…ごめん、冗談だよ。今日、君が僕を助けてくれた事には本当に感謝している」

そう言って、私の顔を真っ直ぐに見つめる。

「君は僕の命の恩人だ。この恩は一生忘れないだろう」

 

最後はひどく真剣に言われ、私は思わず戸惑ってしまった。

「…恩なんて感じる必要ありません。私は同級生に死んで欲しくなかっただけです。…あと、ストレングが可哀想だったので」

「…そこでまたストレングかい?もしかして君、本当に筋肉が好きなのか…?」

「違います!!その誤解やめて下さい!筋肉なら何でもいい訳じゃないですから!!」

確かにストレングは見事な筋肉を持っているが、そんな理由で彼に好意的な訳ではない。心外すぎる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「いいから、帰ったらストレングに謝ってくださいね!!」

指を突きつけてそう言うと、アーゲンは気圧されたようにうなずいた。

それでいい。忠義の臣は大切にしろ。全く。



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第48話 帰還

ゆっくりと燃える焚き火からは時折木の爆ぜる音が聞こえてくる。

会話も途切れたのでさっきからずっと黙って炎を見つめているが、ほんのり暖かい事もあってだんだん眠くなってきた。

アーゲンも少しウトウトしかけて首を振っていた。やはり大分体力を消耗しているのだろう。

まだ明るい時間だが交替で眠る事を提案すべきかと思った時、アーゲンがはっと顔を上げた。

「…人の声だ」

「えっ」

二人揃って立ち上がり、上流の方を見る。

やがて、茂みをかき分けて数人の人間が現れた。

 

「アーゲン!リナーリア!」

担任のノルベルグ先生だ。魔術師の先生と、訓練に帯同してきた護衛の兵士たちもいる。それに。

「リナーリア!無事か!!」

「殿下!スピネル!」

二人が私の側に駆け寄ってくる。

「何故お二人がここに?」

「どうしてもと言うから付いて来てもらった。救助の人員も足りなかったしな」

私の疑問に答えたのはノルベルグ先生だ。

アラゴナ様や怪我をした生徒たちを保護するのと、私達を救助に行くのとで人を分けなければならなかったのだろう。

「二人共、怪我はないか?どこか不調な所は」

「ありません。無事です」

私とアーゲンは揃って答える。

「…よし。少し連絡を取るから待っていろ。…先生、転移魔法陣の設置をお願いします」

ノルベルグ先生は遠話の魔導具を取り出しながら魔術の先生を振り返った。

 

先生たち二人が少し離れるのを見送ってから、スピネルが私の正面に立った。仁王立ちだ。

「…この、バカ!!無茶ばっかりしやがって、何度言えば分かるんだ!!」

…うわああ…やっぱり怒ってる。めちゃくちゃ怒ってる…。

「無事だったから良かったようなものの、下手したら死んでたぞ!!どれだけ心配したと思ってる!!」

「すみません…」

うなだれながら謝ると、そこにアーゲンが「待ってくれ」と少し慌てながら割って入った。

一緒に謝るという約束をちゃんと守ってくれるつもりらしい。

「本当にすまない。だが、彼女は僕を助けるために」

「てめえには聞いてねえ。それとも何か?てめえは俺が見てない間に、謝らなきゃならないような事を何かやらかしたのか?」

マジギレだった。

「し、してない。誓って何もしていない」

アーゲンは一瞬で白旗を上げた。全く頼りにならなかった。気持ちは分かるが。

 

「リナーリア…本当に心配した」

殿下もまた、私を見ながらそう言った。その顔は悲しそうで、思わず焦ってしまう。

「す、すみません、殿下!でもですね、あの場合私が追いかけるしかないというか、急がなければというか…」

「分かっている。魔術師である君でなければ、すぐに追うことはできなかっただろう。…それでも、俺もスピネルも本当に心配したんだ。ニッケルやペタラ、皆もだ」

「…はい…。ごめんなさい…」

自分の取った行動が間違っていたとは思わないが、殿下にこんなにも心配をかけてしまったのが辛い。

悲しそうにされるのは、怒られるよりよっぽど堪える。

 

そこにノルベルグ先生が戻ってきた。

「入口で待機している者達と連絡がついた。お前達の班の生徒は全員無事に森を出たそうだ。討伐訓練は中止、他の生徒は既に学院に帰還を始めている。お前達も、すぐに学院に戻ってもらう」

「わかりました」

魔術の先生による魔法陣の設置ももうすぐ終わりそうだ。

「…後で俺と殿下でみっちり説教するからな」

「はい…」

スピネルには念を押された。これはもうしょうがない。甘んじて受けるしかないだろう。

「…ところで、リナーリア。その格好はなんだ」

殿下に指さされ、私は自分の格好を見下ろした。

「あっ」

しまった。アーゲンのぶかぶかの上着を着たままだった。

「…おい」

スピネルがぎろりとアーゲンを睨みつける。

「ち、違う。誤解だ」

猛烈な勢いで首を横に振るアーゲン。

…私が転んで鼻血を出した事は結局ばれてしまい、お説教のネタがもう一つ増えた。とても辛い。

 

 

 

それから寮に戻ってぐっすりと眠った私は、翌日学校へと呼び出された。もともと休日なので他の生徒はほとんどおらず、がらんとしている。

同じ班のメンバーと、さらにアーゲンの班のメンバーも呼び出されていた。蛇との戦闘、それからアーゲンの救助について報告するためだ。

校舎前で合流すると、ニッケルは少々はしゃぎながら、ペタラ様は涙混じりに、セムセイはのんびりと私の無事を喜んでくれた。

それから、もう一人私達を待っている人物がいた。ボサボサ頭でとぼけ顔の魔術師だ。

「やあ、リナーリア君!水流下りを使った生徒がいるって聞いて驚いたんだけど、やっぱり君だったんだねえ」

「セナルモント先生!」

 

聞けばセナルモント先生は、珍しい魔獣が現れたという報告を受けて調査に派遣されたのだそうだ。昨日も森まで行って他に特殊型がいないかどうか調べていたらしい。

先生は王宮魔術師らしく幅広く様々な魔術を操れるが、特に得意としているのは解析や探知の魔術なのである。潜伏の力を持つ魔獣でも、セナルモント先生の魔術なら見つけ出せるだろう。

先生は戦闘が主になる任務には呼ばれにくいので、それを良い事に普段は王宮に籠もって古代神話王国の研究ばかりしているのだが、今回は丁度いいとばかりに呼ばれたようだ。

前世だと王子の従者である私への指導という仕事があったけど、今世はそれもないしな。正直暇そうに見える。そんな事はないのだろうが。

 

「いやあ、まさか翼蛇の魔獣が出るなんてねえ。リナーリア君も翼蛇と直接戦ったんだろう?」

「はい。私も戦闘に参加しました」

「探知と解析はしたかい?」

「しました。完璧とは行きませんが」

「やったあ、君のデータなら信用できるから助かるよ!戦闘についてはこれから話を聞くけど、後で魔獣についての詳細レポート、よろしく頼むよ」

「わかりました」

「いやあ、今ちょうど研究が良い所だったんだよね。早く調べて帰りたかったから良かったよ。あ、今度君にも研究成果を見せてあげるからね!」

「…はい」

仕事する前から帰りたいとか言うなよ。

でも、ちゃんとレポートを提出すればセナルモント先生の口利きで成績に多少の加点がもらえるだろう。独断専行をしたマイナス点を補填できるかどうかは分からないが。

「相変わらずだな、この魔術師…」

セナルモント先生を見ながら、スピネルは苦い顔でぼそっと呟いた。他の皆はだいたいぽかんとしている。

「リナーリア様、王宮魔術師様とお知り合いだったのですね」

ペタラ様は驚いた様子だ。

「ええ、少々ご縁がありまして…変わった方ですが、これでも探知魔術のエキスパートなんです」

「これでもっすか…」

ニッケルが疑わしく思う気持ちは分かる。

でも魔術師ってこういう変わった人結構多いんだよな…。

 

 

小さめの会議室のような場所に私達は連れて行かれた。セナルモント先生の他に、ノルベルグ先生や魔術の先生など数人の教員が同席している。

私達の話を聞いた後、聴取を担当していたノルベルグ先生はおもむろに口を開いた。

「…よく分かった。大変だったな。死人が出てもおかしくない状況だったが、皆よく頑張ってくれた。全員、私の自慢の生徒だ」

一旦言葉を切り、皆の顔を見回す。

「色々問題は起こったが、皆が無事に戻って来て本当に嬉しく思うよ。訓練は途中で中止になったが、お前たちの成績が減点される事はないから安心して欲しい」

「ありがとうございます」

良かった、ちゃんと点はもらえるらしい。ほっと胸をなでおろす。

「今日はこれで解散だ。皆戻ってゆっくり休むように。…リナーリアは少しここに残れ」

「…はい」

間違いなくお説教タイムだ…。

 

皆が出ていった後、ノルベルグ先生と二人きりになった。先生は正面から向き合うと、私を見てこう言った。

「…勝手な行動をした事は褒められないが、今回最も頑張ったのはお前だ」

その言葉に少し驚き、ノルベルグ先生を見つめ返す。

「アーゲンを助ける自信があったんだな?」

「はい」

迷いなくうなずく。危険は確かにあったが、私なら助けられると思ったのだ。

「結果を見るに、その判断は正しかったと言わざるを得ない。お前が助けなければアーゲンは確実に死んでいただろう。本当によくやった」

ノルベルグ先生の彫りの深いその顔は、厳しいが優しさに満ちている。

「…だが、決して自分の力を過信するな。本当にそれが正しいのかよく考え、慎重に行動しろ。取り返しのつかない事態になってからでは遅い。お前に何かあった時、悲しむ者がいる事はよく分かっただろう」

「…はい」

3年前の遺跡の件に続いて、また殿下のお心を痛めさせてしまった。

スピネルにも心配をかけてしまったし、反省するしかない。

「分かったなら良い。お前も帰って休むように」

…あれ?思ってたよりあっさりだな。

そう思って見上げると、ノルベルグ先生は少し苦笑した。

「お前への説教は他の者がやってくれるようだからな」

「はい…」

 

 

会議室を退出すると、アラゴナ様とストレングがいた。私を待っていたようだ。

「…リナーリア様、昨日はお助けいただきありがとうございました」

アラゴナ様に深々と頭を下げられ、私は首を振る。

「たまたま私達の班が近くにいただけです。どうかお気になさらず」

「…いいえ。少なくとも、アーゲン様が助かったのはリナーリア様のおかげです。…本当に、ありがとうございました…」

そう言って顔を上げた彼女の灰色の目には、うっすら涙が滲んでいるようだった。

え、ど、どうすればいいんだこれ?

何と答えていいのか分からずおろおろする私。

ストレングは黙って見ている。口を挟む気はないらしい。

 

彼女は無言で私にもう一度頭を下げると、そのまま走り去っていった。

ああああ…。きっと責任を感じてるんだろうなあ…。

こういう時気の利いた言葉をかけられない自分が辛い。泣いてる女性にどう対処したらいいのかなんて全くわからないのだ。自分の朴念仁ぶりが恨めしくなる。

 

走り去るアラゴナ様を黙って見送ってから、続いてストレングが口を開いた。

私をちょっと睨んでいる。

「…アーゲン様に、俺に謝れと言ったそうですね」

「ええ、まあ」

「不要な気遣いです」

…だろうな。こいつはそう言うだろうと思っていた。

「私はただ思った事を言っただけです。貴方のためではありません」

ストレングに同情する気持ちがあったのも事実だが、余計なお世話だという事も分かっていた。

強いて言うなら、パイロープ公爵家のためだ。殿下の敵にならない限り、アーゲンには立派な公爵になって欲しいと思っている。

ストレングはしばし沈黙し、それから私の目を見て言った。

「アーゲン様のお命を救ってくださったこと、心より感謝しております。アーゲン様ともども、この恩義は決して忘れません。貴女様に何かありました時には、必ず力をお貸しするとお約束します」

そして一礼すると、彼もまた踵を返して去って行った。

…本当に忠臣だ。アーゲンは良い部下を持ったな。

 

 

とりあえずこれで用事は済んだし、今度こそ寮に戻ろうかと思った時、後ろから声をかけられた。

「リナーリア」

「…今度は貴方ですか」

スピネルだった。次々に人がやってくるな。

「迎えに来たんだよ。食堂で班の皆が待ってる。まあ、軽い打ち上げだな」

全員が無事に戻れた事を皆で祝うらしい。なるほど、それは悪くないな。

「話が終わるのを待ってて下さったんですね。すみません」

「別に。今来た所だ」

白々しいな。どうせ全部見ていたんだろうに。

スピネルなら泣いたアラゴナ様を優しく慰めたりできたんだろうか…とちらりと見上げると、「なんだよ?」と言われた。

「いえ、何でもないです」

まあ、それはアーゲンの役目だろう。

彼女を助けたのはアーゲンなのだし、責任を持ってきちんと慰めてやって欲しい。頼むから。

 

「言っとくが、打ち上げが終わったら説教だからな」

「うう…。分かってます…」

肩を落としながら、私は食堂へと歩き出す。

色々あったが、アーゲンとストレングに恩を売れたのは結果的に良かったかな。

きっと殿下を救うための一助になるはずだ。

そう信じながら、待っている皆の元へ向かった。




お気に入り・感想・ここすきなどいつも有難うございます!!
とても嬉しくやる気が出ます。これからもどうぞよろしくお願いします。


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登場人物紹介

※48話時点のものです。変更される場合もあります。


●リナーリア・ジャローシス(16)

主人公。銀色の髪に蒼い瞳の侯爵令嬢。10歳の時、王子の従者リナライトだった記憶を取り戻す。

前世で拗らせた筋肉コンプレックスは生まれ変わっても治らなかった。

王子の命を救うべく着々と人脈を広げているが、ついでにややこしい人間関係も発生させつつある。

忠誠心が高い人物には親近感を覚えるらしく好意的。

 

●リナライト・ジャローシス(享年20)

銀色の髪に蒼い瞳。侯爵家の三男で、リナーリアの前世。第一王子エスメラルドの従者だった。

一見大人しそうな痩せた眼鏡青年だが、売られた喧嘩は買っていくスタイル。

王子の事を褒められると喜ぶが逆にけなされると即噛み付く。忠犬。

好みのタイプは「清楚で物静かな女性」だったらしい。

 

●エスメラルド・ファイ・ヘリオドール(16)

淡い金髪に翠の瞳。無口で表情に乏しい事以外はパーフェクトなヘリオドール王国の第一王子。

思春期かつ成長期でずいぶん背が伸びた。剣の腕もめきめき伸びている。

筋トレも密かに頑張っているが趣味のカエル観察もしたい。

好みのタイプは前世では「誠実な女性」だったが、今世では「話していて楽しい女性」と答えているらしい。

 

●スピネル・ブーランジェ(18)

後ろで一つにまとめた鮮やかな赤毛に鋼色の瞳。ブーランジェ公爵家の四男で今世での王子の従者。

成長期はほぼ終わっているので今後王子に背を抜かされないかちょっと心配している。剣ではまだ負ける気はない。

保護者が板についてきた事を苦々しく思っている。

好みのタイプは「歳上でスタイルの良い女性」だったが色々あって「嘘をつかない女性」になった。

 

●フロライア・モリブデン(16)

モリブデン侯爵家の娘である貴族令嬢。ウェーブのかかった蜂蜜色の金髪に紫の瞳。

美人で巨乳で性格もいいという男子のアイドルになるために生まれてきた存在。

でも女子にも優しい。非の打ち所がない。

 

●アタカマス・ジャローシス

リナーリア(リナライト)の父。娘がとても成績優秀だと知って喜んでいる。

 

●ベルチェ・ジャローシス

リナーリア(リナライト)の母。娘の成績が優秀すぎて逆に心配になってきた。

 

●ラズライト・ジャローシス(22)

ジャローシス侯爵家の長兄。心優しく弟妹に甘い。もうじき結婚予定。そろそろ妹に会いたい。

 

●ティロライト・ジャローシス(18)

次兄。最近恋人ができたが、いくら匂わせても妹は全く気付いてくれなかったので自分から言った。

 

●コーネル(18)

リナーリア付きの使用人。有能な世話焼きメイド。

自分の結婚は主人が結婚してからで良いと思っている。

 

●ヴォルツ・ベルトラン(18)

ジャローシス侯爵家に仕える騎士の息子。ジャローシス家には恩義があり忠誠を誓っている。

騎士としては少数派の槍使いだが剣を持ってもなかなか強い。無口でやや強面だが男前。

ティロライトとは同い年なので親しく、恋人を作る気配がない事を心配されている。

 

●ノルベルグ(42)

クラス担任。元騎士だが肩に怪我をして一線を退いた。

しかし継戦能力に問題があるだけで短時間なら物凄く強い。

無骨な外見だが優しい、話の分かる男。奥さんは元魔術師で、息子たちは一線で活躍中。

 

●カーネリア・ブーランジェ(16)

同級生でスピネルの妹。明るい赤毛の快活系美少女。

剣術が得意で女騎士を目指している。魔術はちょっと苦手。

他人の恋バナは好きだが自分自身の事にはあまり興味がないらしく、既に何人か泣いている男子生徒がいる。

好みのタイプは「兄より強い男性」。これを聞いてまた数人泣いた。

 

●シルヴィン(16)

カーネリアのクラスメイト。薔薇色の巻毛をした気の強いご令嬢。

スピネルの事が好きだが、本人を前にすると上手く話せないらしくアタックは捗っていない。

根が素直で騙されやすいタイプ。リナーリアとは意外に気が合ったのですっかり仲良くなった。

 

●アーゲン・パイロープ(16)

パイロープ公爵家の嫡男。黒髪に青い目の貴公子。

なかなか曲者だが根は育ちの良いお坊ちゃん。挫折を知らない人間だったので最近の境遇には内心ちょっと堪えている。

好きなタイプは「聡明な女性」で、駆け引きの通用しない相手は苦手。

 

●ストレング(16)

アーゲンの腹心。ごつめで筋肉質の太眉男。

老け顔なことを密かに気にしているらしい。好みのタイプは不明。

 

●アラゴナ(16)

濃いめの金髪に灰色の瞳の美しいご令嬢。前世ではアーゲンの婚約者だった。

一見穏やかだがしたたかな性格。でも恋する乙女。

 

●ペタラ・サマルスキー(16)

クラスメイト。薄茶色の髪の大人しくて優しい令嬢。あまり自己主張をするのが得意ではない。

引っ込み思案仲間だと思っていたリナーリアが意外に活発な事に驚いていたが、今では好意的に受け入れている。最近気になる相手がいるとかいないとか。

 

●ニッケル・ペクロラス(16)

クラスメイト。ペクロラス伯爵家の嫡男。父母の離婚の危機を王子に救われた。

王子の恋路を密かに応援中。自分も可愛い彼女が欲しい。

 

●セムセイ・サーピエリ(16)

クラスメイト。ちょっと太めなスピネルの友人。リナーリアとも仲が良い温厚な人物。婚約者あり。

 

●スフェン・ゲータイト(17)

赤が交じる黄緑の髪が特徴的な、騎士課程の貴族令嬢(?)。瞳は赤茶。

常に男装しており、芝居がかった口調で話す癖がある。色々な噂があるが真偽は不明。

女子生徒から絶大な人気があるが、内面は孤独であり、リナーリアと友人になった。

趣味は観劇。恋愛に興味はないが「女の子は皆魅力的だよ」とのこと。

 

●オットレ・ファイ・ヘリオドール(17)

王兄フェルグソンの息子で、エスメラルドの従兄弟。

嫌味で不遜。リナライトからは蛇蝎のごとく嫌われていた。女好きで美人ならだいたい好き。

 

●フェルグソン・ヘリオドール

現国王の兄。既に王位継承権は持っていない。騎士至上主義者。

 

●アルマディン・ブーランジェ

スピネルの父。ブーランジェ公爵。剛刃将軍とも呼ばれた剣の達人。

質実剛健をモットーとするイケオジでリナライト(リナーリア)からは理想の筋肉だと尊敬されていた。

愛妻家で意外にロマンチストだという噂。

 

●レグランド・ブーランジェ

スピネルの兄でブーランジェ公爵家次男。現在進行系で浮名を流しまくっているイケメン近衛騎士。

結婚するつもりは今の所ないらしい。

 

●カルセドニー・フォウル・ヘリオドール

ヘリオドール王国の現国王。

第二王子かつあまり身体が丈夫ではなかったので王位争いは起こらないと思われていたが、色々あって即位することになった苦労人。

実は割と気さくな性格で夫婦仲は睦まじい。

 

●サフィア・ヘリオドール

現国王の王妃。薄い色の金髪。16歳の息子がいるとは思えない若々しい美女。

感情が表に出にくく表情に乏しい所が息子に遺伝してしまったのをちょっぴり気にしている。

息子が恋人を紹介してくれる日を楽しみにしている。

 

●セナルモント・ゲルスドルフ(37)

探知と解析の魔術を得意とする優秀な王宮魔術師。

前世ではリナライトの師でもあった古代神話王国マニアだが、今世でも師匠っぽいポジションになっている。

息子と娘がおり、特に娘を可愛がっているが、研究ばかりしているせいで最近嫌われ気味な事を悩んでいる。



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挿話・11 好敵手

今年も春がやってきた。

カエルたちが冬眠から目覚めるこの季節がエスメラルドは好きである。冬の間はほとんどカエルを見かけないのでつまらない。

リナーリアにもう既に城の裏庭でカエルを見かけたという話をしたら見たいと言われたので、学院が休みの日に一緒に裏庭を散策する約束をした。

彼女は休日にはよく城に来ているようだが、行き先は主に王宮魔術師団の所らしく、このように休日に会うのは稀だ。

スピネルに話した所「俺もあいつにちょっと用がある」と言うので、二人で裏庭に行き待つ事になった。

 

やがてリナーリアが勝手知ったる様子でやって来た。今日は春らしい明るい緑色のドレスを着ている。

以前そういう色を「カエルのような色」と言ったら「絶対その喩えはするな」とスピネルに注意されたので、何と喩えたらいいのかを覚えた。若草色だ。

彼女が到着すると、スピネルは挨拶もそこそこに怒り出した。

「おい、お前だろ!母上に余計なもん送ったのは!」

リナーリアは一瞬きょとんとした後、にんまりと嬉しそうに笑った。

「ああ、どうでした?喜んでいただけました?」

「ふっざけんなよてめえ…」

何の話かと目を丸くしていると、リナーリアが口元に手を当てながら説明してくれる。

「実はですね、先日スピネルのお母君に贈り物をしたんですよ。年明けにブーランジェ公爵からお土産を頂いたので、そのお礼にと」

「礼はいらないっつったろ!」

「でもお手紙だけでは申し訳ないじゃないですか。きっと喜んでいただけると思って」

「むちゃくちゃ喜んでたよ!クソ!!」

 

そう言えば数日前スピネル宛てに遠話がかかってきて、その後でやけにげんなりした様子で戻ってきていた。

あれはスピネルの母からだったのかと思いつつ、エスメラルドは尋ねる。

「一体何を贈ったんだ?」

リナーリアはうふふと笑いながらこう言った。

「スピネルの姿絵、です」

 

「姿絵?」

「はい。新年のパレードの時の姿を描いたものですね。庶民の間ではよく売れるんだそうです。もちろん、陛下や殿下の姿絵も売られていますよ」

「そうなのか」

国王や王妃の姿絵が売られている事は知っていたが、自分やスピネルの絵もある事は知らなかった。

「城下町に行って買ってきたんですが、よく吟味して一番派手で美しく描かれているものを選びました!」

「わざわざ買ってくんな!!」

リナーリアは物凄く楽しそうだ。いつもスピネルにはからかわれてばかりいるので、仕返しができるのがよほど嬉しいのだろう。

「でもお母君は普段貴方と離れて暮らしているのですし、パレードを見る機会もないでしょう?せっかくの息子の晴れ姿を見られないのは気の毒ですよ。せめて姿絵くらいは見たいだろうと思いまして」

確かに、スピネルは社交シーズンで公爵夫妻が王都に滞在中の時でも、あまりブーランジェ家の屋敷に行こうとしない。

公爵夫妻と会った時はいつも「もっと屋敷に顔を出しなさい」と言われている。

 

「なるほどな。良かったじゃないか、スピネル」

「良くねえよ!!恥ずかしい!!」

「スピネルは照れ屋ですねえ」

「お前ほんと覚えてろよ…」

思いきり睨まれ、リナーリアは少し怯んだようだ。明後日の方向へと目を逸らす。

「そ、それより、早く池に行きましょうよ。カエル見たいです」

「ああ、そうだったな」

「俺はいい。二人だけで行って来い」

元々カエルに興味の少ないスピネルはカエル観察に付き合う気はないらしい。

「うむ。わかった」

そう返事をしてうなずくと、スピネルは「絶対覚えとけよ!」ともう一度リナーリアを睨んでから城へと戻っていった。

 

「あの人、私に文句言うためだけに庭まで出てきたんですか…」

念入りに脅されたリナーリアは不満顔だ。多分、学院で話をすると他の者に聞かれる恐れがあるからわざわざここで言ったのだろう。

「君とスピネルは本当に仲がいいな」

そう言うわれたリナーリアは「えええ…」と唇を尖らせた。

しかしスピネルの態度が彼女と他のご令嬢達とで全く違うのは確かだ。

彼の彼女への接し方は妹のカーネリアに対する時の態度に近いが、それだけなのかそれだけではないのかはエスメラルドからはよく分からない。

またリナーリアも、スピネルに対してはずいぶんと気安いのが見て取れる。他の人間に対する時には見せないような表情を見せていると思う。

 

「時々羨ましくなる」

ついそう言うと、リナーリアは複雑そうな表情になった。ややあってから、呟くように言う。

「…私の方が、よっぽど羨ましいです」

「うん?」

訊き返すと、リナーリアは苦笑してみせた。

「殿下とスピネルは、好敵手なんですよね。そういう相手が近くにいるから、お互い高め合えるんです。…とても素晴らしい関係だと思います」

そう言われ、エスメラルドは戸惑った。

スピネルは頼れる従者であると同時に大切な友人だ。特に剣術に関しては、スピネルという壁が目の前にあるからこそ努力を続けられているのだとも思う。

しかし、スピネルにとって自分は好敵手たり得ているのだろうか。彼の剣術は確実に自分よりも上だ。近頃は稀に一本取れることもあるが、粘りに粘ってやっとのことだ。

それに、社交などの面で頼りっぱなしなのは昔からだ。何事においても卒のない彼に、いつも助けられているように思う。

 

「…殿下?」

ふいに黙り込んだエスメラルドに、リナーリアが気遣わしげに声をかける。

「…いや、何でもない」

そう答えると、彼女はほっとしたように笑う。

「殿下が私とスピネルを羨ましくて、私が殿下とスピネルを羨ましいなら、順番的にスピネルは私と殿下の事が羨ましいことになりますね。まあ、有り得ないですけど」

おどけながらそう言われて、エスメラルドは少し考え込んだ。

「…どうだろうな」

「ええ?」

「スピネルの考えていることは俺にもよく分からない」

「そうなんですか?」

分かることもあるし、分からないこともある。リナーリアの事に関しては特にだ。

いくら親しくとも、全てが読み取れるわけではない。彼女が何かを隠しているように。

 

「まあ、どちらにせよ負けるつもりはないが」

そう言うと、リナーリアは笑って両手を合わせた。

「さすが殿下です!頑張ってくださいね!」

これは分かっていないんだろうなと思いつつ、エスメラルドはうなずいた。

彼女は鈍いとかバカだとか言うスピネルの気持ちが最近分かりつつある。…バカとは思っていないが。

「とりあえず、池に行こう。上手くカエルが出てきてくれるといいんだが」

「あっ、そうですね。楽しみです」

ニコニコと笑う彼女と共に池の方角へ歩き出す。

勝負はまだまだ、これからのはずだ。



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挿話・12 ニッケルの家庭の事情1

ニッケル・ペクロラスはこの国の第一王子エスメラルドの事を心から尊敬している。

王子はニッケルと同い年だが、優れた容姿と抜きん出た剣の腕の持ち主で、学業においても優秀だ。

少々無口だが思慮深く心優しい性格である事をニッケルは知っている。

何しろ彼は、ニッケルとその家族の恩人なのだ。

 

 

話は1年近く前まで遡る。

とあるお茶会へとやって来ていたニッケルは、その日とても憂鬱だった。

何故なら、今朝も父と母は口論をしていたからだ。

内容はいつも通り、下の妹を連れて領地に帰りたいと言う母と、そんな事は許さないと怒る父の怒鳴り声。

今までずっと控えめだった母が、今回ばかりは譲ろうとしないので父はかなり頭に血を上らせている。

その声を聞いて落ち込んでいる妹の頭を撫でて慰めるのはニッケルの日課となっていたが、この日はお茶会に出発するために途中からメイドへと妹の世話を任せなければならなかった。

今頃泣いているかも知れないと思うと心配で仕方がない。

 

しかし、今日のお茶会は絶対に出席しなければならないと決まっていた。父親が友人に頼んでなんとか招待してもらった大事なものだからだ。

主催はとある有力な侯爵家のご令嬢なのだが、なんと今日は第一王子がこのお茶会にも出席するのだ。

王子はニッケルと同じく、秋に学院への入学を控えている。

今のうちに何とかして面識を得て、できれば取り入っておけ、というのが父の命令だ。

 

だが、王子が自分程度を相手にするとはニッケルには思えない。

ペクロラス家は伯爵家の中では上の方の家格だが、それだけだ。長男であるニッケル自身、特別何が優れているという事もない。

剣はせいぜい人並み程度だし、頭も別に良くはない。

母から教わった絵画は多少自信があるが、これは同年代の少年少女に対し誇れるような事ではない。父からはむしろ疎まれている趣味だ。

無口であまり喋らないという噂の王子に対し、気に入られるような話題を持ちかけられるとはとても思えなかった。せいぜい顔を覚えてもらえれば御の字だろう。

 

 

お茶会では予想通り、ご令嬢たちの視線は王子とその従者へと集中していた。

噂通り王子は自分からほとんど喋らなかったが、その代わり隣に座った従者が上手く応対し、王子から短い返事を引き出している。

そのよく回る舌と爽やかで甘い笑顔に当てられ、むしろ従者の方に夢中なご令嬢も多いようだ。

従者はきちんと男に対しても話題を振ってくれているのだが、ご令嬢方が他の男に興味を持っていないのは明らかだったし、王子は何を考えているのかよく分からない。

やはり来るだけ無駄だったと、ニッケルは内心でそう思った。

 

何だか馬鹿馬鹿しくなってきたニッケルは、途中で手洗いに行くと言って席を立った。

お茶会のテーブルからは離れた庭の隅、人目につかなさそうな池のほとりに座り込む。

…妹は今頃どうしているだろう。母の愚痴を聞かされている所だろうか。

大きくため息をついた時、後ろから声をかけられた。

「どうした?」

「…え」

振り向くと、そこにいたのは第一王子だった。

「お、王子殿下?どうしてここに?」

「疲れたから抜け出してきた。そこに座ってもいいか」

「は、はい、どうぞ!」

 

何が何だか分からず慌てるニッケルの横に、王子は座り込んだ。

疲れたと言っていたが、王子もあまりお茶会には乗り気ではなかったのだろうか。

その整った横顔からは感情が読み取れないが、あれほど無口ではお茶会など楽しいものではないのかもしれない。

ほんの少し親近感を覚えていると、王子は再び「どうしたんだ?」と尋ねてきた。

「な、何がですか?」

「ずっと浮かない顔をしていた」

「……」

ニッケルは言葉に詰まり下を向いた。家庭の不和など、王子に話せるような事柄ではない。

 

「もしかして、父君と母君の事ではないのか?」

「…どうして、それを?」

驚愕して目を瞠るニッケルの顔を、王子は真っ直ぐに見る。

「少し小耳に挟んだだけだ。…問題を抱えているのではないのか?」

「それは…その…」

「俺で良ければ、話を聞こう」

王子は目を逸らそうとしない。ニッケルが話すまで待つ気らしい。

 

ニッケルはためらいながらも王子に事情を話した。

ニッケルには上に姉が一人、そして年の離れた妹が一人いる。

姉は婚約者がいてもうじき結婚するのだが、妹は内気で人見知りで、いつも母親にべったりだ。

母もまた最も遅くにできたこの妹を大層可愛がっていて、妹の身体があまり丈夫ではない事もあり、ずっと領地に残って大切にこの妹を育ててきた。

しかし、いつまでも領地に籠もってばかりはいられない。

今年はついに母と妹も王都に来て過ごす事になったのだが、人見知りの妹はあまり外に出たがらなかった。以前から父はそんな妹を叱っていたのだが、王都に来た事でそれが激しくなった。

母は妹を庇ったが、それによって父の叱責はますます増えた。

そうしてついに耐えかねた母が「妹を連れて領地へと帰る」と言い出したのだ。

 

父はそれを聞いて激怒した。

貴族の娘ならば、まだ幼くともいずれ良い家に嫁ぐべく王都で社交をしなければいけない。今まで待ってやっただけでも有り難いと思え、そう命令する父に母は抵抗した。

ずっと従順で大人しい妻であった母は父に対して口答えや反論をする訳ではない。だが、決して言葉にうなずかず、従いもしないという形で抵抗した。

それによって父の叱責は日に日に激しくなり、もはや離縁という言葉すら出てくるようになってしまっている。

 

「…なるほど」

話を聞いた王子は静かにうなずいた。

「だが、事情はそれだけではないのではないか?父君と母君の趣味も関係しているんじゃないのか」

「な、何で知ってるんすか!?」

そこはしっかりと伏せて事情を話したはずなのに看破され、ニッケルは目を剥いて驚いた。

王子は真面目な顔で言う。

「小耳に挟んだ」

「小耳って…」

「ある人に聞いたんだ。…それで?」

「あ、はい…。殿下の言うとおりです。うちの母は、絵を描くのが好きなんす。でも父はその趣味を役に立たないって言ってあまり良く思っていなくて…だから母が領地に帰りたいって言うのは、王都じゃ好きなように絵を描けないせいもちょっとあると思います。しかも母は最近、父に内緒で鉱山で新しい絵の具の材料を探してたらしくて。それが父にばれて、ますます父が怒って…」

「ふむ」

 

「あと、父の方がですね…。母は妹が生まれてからずっと領地暮らしを続けていたので、父は毎年俺や姉を連れて一人で王都に来てまして。…だから、その間にっすね…その、娼館に」

「…頻繁に通うようになった訳か」

「そうっす…」

身内の恥を晒すのは気が引けたが、話し始めると止まらなかった。

本当はずっと誰かに相談したかったのだが、友人にもこんな話はしにくい。言える相手がなかなかいなかったのだ。

 

「妹が大きくなってからも母がずっと王都に来たがらなかったのは、父の娼館通いのせいもあるんじゃないかなって」

娼館通いをするのは王都にいる間だけとは言え、やはり母にとっては辛い事なのだろう。年を追うごとに絵画にのめり込んでいるのも、それと無関係ではないと思う。

そんな母の態度が面白くないのもあり、父はますます娼館に行くようになる。悪循環だ。

「もし離縁なんて事になったら、妹が可哀想です。内気でまだ母離れできてない子なんで…。それに姉は結婚を控えてますし、醜聞はちょっと…」

もし離縁となったら、母は子供たちを置いて実家に帰る事になる。

貴族ではよほどの事情がないかぎり、子供は男親が養うのが決まりだからだ。妹は母と離れ離れになってしまう。

 

「そうか…」

王子はじっと考え込んだ。そこに、一人の人間が近付いてきた。王子の従者だ。

「殿下、いい加減戻ってきてくれ。誤魔化すのもそろそろ限界だ」

「すまない、スピネル」

「話は聞けたのか?」

「ああ」

それから王子はニッケルの顔を見る。

「今度、適当な理由を付けて俺を屋敷に招待してくれ。君の父母に会おう」

「えっ、あっ、はい!」

「じゃあ、戻るぞ」

従者に促され、王子はお茶会のテーブルへと戻っていく。

ニッケルもまた、慌ててその後を追った。

 

 

 

お茶会の後、ニッケルは半信半疑で王子へと手紙を送った。

家に招待する理由をどうするか迷ったが、大したものを思い付かなかったので「母の描いた絵画を見て欲しい」と書いた。

王子からはすぐに返事が来た。数日後にペクロラス伯爵屋敷を尋ねてくるとの事だった。

 

「でかしたぞニッケル!よくやった!!」

父は大喜びだったが、ニッケルは曖昧に笑うしかなかった。ニッケル自身が何かした訳ではないのだ。

「下らん趣味だが、まさかこんな役に立つとはな。すぐに王子殿下をお出迎えする準備をしなければ。…お前も分かっているな?」

父にそう言われた母は、表情を固くして目を逸らした。

「…ですが、私の描いた絵はあなたが先日全部捨てたではありませんか」

「えっ!?本当ですか、父上?」

思わず父の顔を見ると、気まずそうに目を逸らす。

全く知らなかった。さては、自分がお茶会に行っている間に行われたのか。

 

「…ひどい」

母の絵は確かに素人が描いたものだ。何の価値もないと言えばそうだろう。しかし、ニッケルは母の絵が好きだった。

優しく柔らかいタッチで描かれる風景画や静物画。そこに込められた時間と思いを踏みにじるなんて、いくら父でも許される事ではないと思った。

いつもはあまり逆らわないニッケルからの非難を含んだ視線にたじろいだのか、父は「ふん!」と言って背を向けた。

「…だったら王子が来るまでに新しく描けばいいだろう!分かったな!!」

そうして父は、肩を怒らせて部屋を出て行ってしまった。

 

「母上…」

王子が来るのはわずか数日後だ。出迎えるための準備もあるというのに、それまでに新しく描けというのは無茶がある。

それでも、ニッケルはうつむいて暗い顔をしたままの母に呼びかけた。

「母上、絵を描こうよ。王子殿下に母上の絵を見てもらうんだ」

「…ニッケル」

「俺、本当は殿下に気に入られた訳じゃないんだ。俺が落ち込んだ顔をしてたから、殿下が気を遣って声をかけてくれただけなんだよ」

「…そうなの?」

母が驚いてニッケルの方を見る。

「殿下は俺の話を聞いてくれた。だからきっと、母上の話も聞いてくれると思うんだ。でも、母上、それだけじゃだめだよ」

戸惑った顔をする母に、ニッケルは必死で言い募った。

「母上は何年もずっと頑張って絵を描いてきたじゃないか。その絵を王子殿下に見てもらう機会なんて、もう一生ないかもしれない。後悔しないように、精一杯描いた方がいいよ」

「ニッケル…」

母は両目から涙を溢れさせた。

「…ありがとう。私、頑張って描いてみるわ…」



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挿話・12 ニッケルの家庭の事情2

数日後、従者と護衛を伴った第一王子エスメラルドがペクロラス伯爵屋敷を訪れた。

「王子殿下!ご無沙汰しております。本日はようこそ当家へいらっしゃいました!」

父はニコニコ顔でしきりに頭を下げながら王子を出迎えた。

媚びへつらいが透けて見えるようで、ニッケルは少し恥ずかしくなる。

王子の方はそんな態度には慣れているのか特に表情を変えたりはしなかった。早速、母の描いた絵を見に行く事になった。

 

「…これは、ペクロラス領の風景か?」

王子に尋ねられ、母は「はい」とうなずいた。

王子に見せたのは、母が最も多く題材としているペクロラス領の山や自然を描いた絵だった。王都にいたまま一から描いたので、記憶だけを頼りに描いた事になる。

「所詮、女が趣味で描いた素人画です。お恥ずかしい」

そう言った父に、王子は首を振る。

「いや。確かに技術は拙いかもしれないが、繊細でとても丁寧に描かれている。心を込めて描いたものなのだと伝わってくる絵だ。…ペクロラス領を愛しているのだな」

「さすがのご慧眼でございます」

じっと絵を見つめる王子に、父は作り笑いを浮かべた。

 

「…だが、この絵は未完成ではないのか?」

王子の言葉に、母はピクリと体を震わせた。

「…お分かりになりますか」

「おい!」

王子の言葉を肯定した母に、父が咎めるような声を上げる。王子はそれに構わずに言葉を続けた。

「これだけ丁寧に描いているのに、ところどころ妙にぼやけていて描き込みが甘い。…それに、絵が趣味だというのにこの一枚だけなのはどうしてだ?他の絵はないのか?」

「それは、所詮ただの手慰みなので…」

「ニッケル」

父の言葉を遮って王子がニッケルを呼び、こちらを見た。

ニッケルは唇を噛んでうつむき、それから王子の目を見つめ返す。

 

「父上は先日、母上がこちらで描いた絵を全て勝手に捨ててしまったんです。…この絵は、殿下のお手紙を貰ってから母上が寝る間も惜しんで描いたものです」

「…ニッケル!!」

「ペクロラス伯爵」

怒りの声を上げる父を、王子は再び遮った。

「絵を捨てるというのはあまりに横暴ではないのか。なぜそのように夫人の絵を卑下する。この絵を見る限り、夫人は真摯に絵画に打ち込んでいるように見える」

「し、しかし、絵など何の役にも立たない趣味です。…それに、これのために領地にずっと引きこもって、貴族の妻としての役目を果たしていない」

「…それは、本当に絵画が理由なのか?」

 

真っ直ぐに見つめてくる王子に、父は言葉を失ったようだった。「ですが…」とモゴモゴと言っている。

そこに声を上げたのは、ずっとうつむいていた母だった。

「わ、私が妻の役目を果たしていないというのなら、あなただって夫の役目を果たしていません!いつも社交だの昇進だのと言って、私や子供たちのことなど考えていないでしょう!し、しかも、あんな所にずっと通い続けて…!そんな暇があるなら、む、娘たちと話をしたり、ニッケルに稽古の一つでもつけたらどうですか…!!」

「なんだと…!?」

母はどもりながらも必死で言い募った。

今までずっと口答えをしなかった母の突然の主張に、ニッケルは驚く。だがもっと驚愕しているのは父の方だろう。あんぐりと口を開けて母を見ている。

その様子を、王子は落ち着いた表情で見回した。

「…お互い、それぞれの主張はあるだろう。俺が話を聞こう。…ニッケル、部屋を用意してくれないか。まず夫人から話を聞く」

 

 

それから王子は、宣言通りにきちんと母の話を聞いた。

そこには従者とニッケルも同席していたのだが、2時間ほど経った所でニッケルは耐え難くなった。

ニッケルは母の事が好きだしできれば味方をしたいのだが、母にも欠点はある。

とにかく話が長いのだ。

要点を抑えるのが下手で要領を得ないし、王都で色々と我慢している分鬱憤が溜まっていたのか、愚痴が多い。しかもあちらこちらに話を飛ばしながら何度も同じ話を繰り返すのでなかなか進んで行かない。

王子は真面目な顔で相槌を打っているが、従者の方は先程「手洗いに行く」と言ったきり戻ってこない。

ニッケルもまた耐えかねて「新しいお茶を頼んできます」と言って一度席を立った。

 

食堂の方へ行くと、従者がテーブルについてお茶を飲んでいるのが見えた。

…戻ってこないと思ったら、こんな所で油を売っていたのか。

姉と妹もそこに同席しているようだ。さらに使用人の少女まで交えて、何やら楽しげに笑いながら会話をしていた。姉や使用人はともかく、人見知りの妹までもがやけに心を許している様子なのが少々気になる。

思わずジト目で見ると、従者は澄ました顔で紅茶に口をつけた。

「母君の様子はどうだ?」

「…まだ殿下にお話を聞いてもらってます」

「そうか。まあ、殿下に任せとけば大丈夫だ」

お前は何もしなくても良いのか。

そう胸中で突っ込みつつ、ニッケルは新しいお茶を運ぶよう使用人に頼んだ。

 

 

結局、母の話が終わるまでその後さらに2時間ほどかかった。

ニッケルはすっかり疲れ果てていたが、王子は「次は伯爵の話を聞こう」と父を呼んだ。

父の話は母ほどは長くなかったが、それでも1時間近くはかかった。その間も従者はやっぱり戻ってこないままだった。

王子はまだニッケルと同じ15歳だというのに、驚くほど聞き上手だ。

要所要所でちゃんと相槌を打ってくれるのでしっかりと話を聞いてくれているのが分かる。あくまで真面目な顔で聞き、話に余計な口を挟もうとしないのも、話しやすい理由の一つだろう。

それにしても忍耐力が凄すぎる。かれこれ5時間にもなろうというのに、嫌な顔一つしていない。身内のニッケルですらとっくに音を上げているのに。

 

全て聞き終わった後、王子は父に母から聞いた話を掻い摘んで話した。

父の娼館通いに対し、母が不満だけではなく不安を抱いていたこと。身体が弱い妹の育て方にもっと心を砕いてほしかったこと。絵画は始めほんの息抜きのつもりだったが、この数年真剣に取り組んでいたこと。鉱山で新しい顔料を見つければ多少の金になるし、それで絵画の趣味を認めてもらえるのではないかと思ったこと。

あれほど頑なだった父も、相手が王子殿下だというのもあるのだろうが、黙って話を聞いていた。

その後母も呼んで、母に向かって父の話をした。

母が王都に来ないために社交の際いつも一人で肩身が狭かったこと。離れている期間が長いために妹の教育に口を出しにくくなってしまったこと。それから、王都にずっと母が来ない事で男として欲求不満が溜まっていたことなどだ。寂しいなどと言うのはプライドが許さなかったのだろうが、要するにそういう事だったのだと思う。

父母とは違い王子は要点をまとめるのがとても上手かった。話は分かりやすく、短かった。

 

王子の話を聞いた父は長い時間沈黙していたが、やがて母に向かってぽつりと呟いた。

「…すまなかった。今まで、お前の気持ちをきちんと考えてこなかった。いや、考えようとしなかった…」

母もまた、涙を浮かべて父に向かい合う。

「いいえ…。私の方こそ、自分や子供の事で頭がいっぱいで。あなたがどんな気持ちでいるかを考えておりませんでした…」

二人のその姿は、まるで憑き物が落ちたかのようだった。

そう言えば、ニッケルがまだ幼い頃は二人は普通に仲の良い夫婦だったのだ。いつからああなってしまっていたのだろう。

 

母は王子に向かって深々と頭を下げた。

「…王子殿下。本当にありがとうございました。殿下のおかげで夫ときちんと向き合う事ができました。…それに、私の絵を褒めてくださった事も、とても嬉しゅうございました」

「いいや。あの絵は本当に良い絵だったと思う。いずれ完成したらまた見せて欲しい」

「あ、ありがとうございます…!」

「…あの、もしや殿下はこのために当家を訪れたのですか?」

父が遠慮がちに王子へ尋ねる。

「ああ。ニッケルは茶会でずっと浮かない顔をしていたからな。少し話を聞いたんだ」

「ニッケルが…」

「俺には親の苦労を想像することは難しい。だが、親が諍いを起こしている時の子供の気持ちは想像できる。ニッケルは両親の事も姉妹の事も、とても心配していた。どうかその気持ちを分かってやって欲しい」

「はい…」

父と母は揃って静かに頭を下げた。

 

 

そして王子は従者や護衛を連れて帰っていった。

このまま帰すのはあまりに申し訳なかったが、既に日も暮れかけていて王子をこれ以上引き止める方がよほどまずい。親子揃って恐縮しながら見送ることになった。

帰り際、ひたすら頭を下げるニッケルに王子は苦笑しながら言った。

「そんなに気にするな。本当にたまたま話を聞いたから関わっただけだ」

「でも、誰に聞いたんすか?こんな事…」

我が家はただの伯爵家で、特に注目されるような家ではない。離縁の話が持ち上がったのもつい最近で、噂になるにはまだ早い。なぜ王子の耳に入ったりしたのだろう。

「リナーリア。リナーリア・ジャローシスから聞いた」

「あ、ジャローシス侯爵家の」

その噂は聞いた事があるが、ニッケルは会ったことがない。王子ととても仲が良いらしいが、なぜ彼女がペクロラス家のことを知っているのだろうか。

「彼女はとても勉強熱心で、他領のこともよく知っているんだ。…礼を言うなら、彼女に言うと良い」

「わ、わかりました!」

 

王子一行を見送ってから屋敷の中に戻ると、母がニッケルへと向き直った。

「ニッケル、本当にありがとう」

「いや、俺なんもしてないよ。全部王子殿下のおかげだ」

「そうじゃなくて、絵の話よ。王子殿下に褒めていただけて、社交辞令だとしても本当に嬉しかった…。身に余る光栄よ。今まで頑張ってきた甲斐があったけれど…でも、ニッケルが励ましてくれなかったら、とても描けていなかったわ」

「そっか…」

「…それに、初めてはっきりと口答えができたのも、あの絵のおかげよ。殿下が褒めてくれたあの絵が、ほんの少しだけ自信をくれた…私の背中を押して勇気をくれたわ…」

 

目を伏せる母を見て、隣にいた父がためらいがちに口を開く。

「…お前の絵を捨てて、すまなかった。役に立たん趣味だが、王子殿下が認めてくれたものだ。…これからも、続けたいなら続けていい。鉱山に人を送る件も、考えておいてやる」

「あなた…!」

母は感極まって泣き出した。

近くで様子を見ていた姉と妹も、こちらへと近寄ってくる。

母の背を撫でながらニッケルは、ようやくこの家に平穏が戻ってきたのだとそう思った。



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挿話・12 ニッケルの家庭の事情3

家庭の危機を救ってもらったことで、ニッケルはすっかり王子を尊敬するようになった。

人の話によく耳を傾けてくれるあの王子ならば、将来必ず立派な国王になる事だろうと思う。

しかも王子はこれからニッケルと同級生になるのだ。一緒の学び舎に通えるのがとても楽しみで待ちきれない。

 

それからニッケルにはもう一人、気になる人物ができた。

王子にペクロラス家の話をしたという侯爵令嬢のリナーリアだ。

ニッケルも名前だけは知っていたが、姉や友人に詳しく聞いた所、彼女は貴族の子女たちの間では「王子の婚約者候補なのではないか」と噂になっている有名人らしい。

人見知りで引っ込み思案であるらしく、女性ばかりのお茶会にしか出てこないので、男が苦手だという噂もある。ニッケルの妹も引っ込み思案な性格なので、親近感のようなものを覚えてしまう。

さらに彼女は大変な美人であるそうだ。めったに会えない事もあり、男の間ではそういう意味でも注目されているという。

 

「でも、王子殿下じゃなくてスピネル様の方と付き合ってるって噂もあるのよね。どっちにしてもあんたには高嶺の花よ」

姉にそう言われたニッケルは慌てた。

「そ、そんなんじゃないから!俺まだ会った事もないし!」

だがニッケルにとって恩人に当たる少女が、あのスピネルという従者と付き合っているのだとしたら少々ショックだ。

何しろ従者は王子があの拷問に等しい母の話を聞いている間、ちゃっかりお茶を飲みながら姉や妹たちと楽しそうに話していたのだ。従者がそんな事でいいのか。

しかもあれ以来、妹があの従者にすっかり夢中なのである。

あれほど嫌がっていたお茶会やパーティーにも興味を持つようになった。あの従者に会いたいという動機でだ。

妹が社交に興味を持ってくれたのは嬉しいが、よりによってという気持ちがある。顔がいいのは認めるが、どうもチャラチャラした雰囲気があるのもあまり気に入らない。

まだ幼い妹が相手にされる訳はないのだが、どうせ憧れるならあの男より絶対に王子の方がいいと思う。

 

「まあ、リナーリア様にはどうせもうすぐ入学祝いパーティーで会えるでしょ」

「うん…」

ニッケルはまだ見ぬご令嬢に思いを馳せた。

王子の口ぶりからは、どことなく彼女に好意的な様子が感じられた。

きっと王子にふさわしい、心優しくて美しい少女に違いない。

 

 

 

入学祝いパーティー当日、ニッケルは友人のヘルビン・ゲータイトに声をかけられた。

「よう、ニッケル。どうだった?リナーリア嬢と話はできたか?」

「む、無理だった…緊張して何も話せなかった…」

ニッケルはがっくりと肩を落とした。

パーティーでは新入生とその家族はお互いに挨拶をして回るため、これでニッケルもリナーリアと初めて面識を得られたのだが、彼女は想像していた以上の美少女だった。

きらきらと輝く青銀の髪。深い湖のような鮮やかな蒼の瞳。肩も腰も驚くほど細くたおやかだ。

どこか儚げな美貌に控えめな微笑みが浮かべられた瞬間に頭が真っ白になってしまい、挨拶をするだけで精一杯だった。例の件の礼を言うどころではなかった。

 

「確かにすっげえ美人だったな。王子のお気に入りってのも分かるわ」

「でも彼女、王子殿下とはファーストダンス踊らないらしいわよ?」

うんうんとうなずくヘルビンに答えたのは、一緒にパーティーに来たニッケルの姉だ。

「え、殿下と踊らないの?なんで?」

驚いたニッケルに姉が肩をすくめる。

「私に訊かれても知らないわよ。だいたい彼女さっきお兄さんにエスコートされてたじゃないの、見てなかったの?」

全然覚えてない。じゃあ彼女もニッケルと同じく兄弟に頼んだクチなのか。

ニッケルの今日のダンスの相手は姉だ。

ヘルビンもニッケルの姉とは以前から面識があり親しいので、その後はヘルビンが姉と踊る予定である。姉は「結婚決まってからモテても嬉しくない」などと言っていた。

 

「そう言えば兄貴っぽい人が一緒だったな。ならニッケルにもチャンスあるんじゃね?」

「いやないよ!無理!!ヘルビンの方こそどうなんだよ!」

「絶対やだよ、俺は地味で普通の目立たない子がいいんだよ」

ヘルビンは本当に嫌そうだ。地味に生きたいというのは彼の口癖だ。

黄緑色という珍しい髪色の彼は整った顔をしているし剣の才能にも恵まれていている。女性から好まれる要素は揃っているのだが、それとは別の理由でよくご令嬢方に囲まれている。

何故なら学院在学中のヘルビンの姉は非常に目立つ有名人で、ご令嬢方にとても人気があるのだそうだ。その彼女にお近付きになりたいとヘルビンに仲立ちを頼んだり、あれこれ彼女の話を聞き出したがるご令嬢が跡を絶たない。

おかげですっかり女性が苦手になってしまったらしいヘルビンに、ニッケルも少し同情している。

「とりあえず少し様子見てみたらどうだ、ニッケル。5、6番目くらいならお前も踊れるんじゃね」

「う、うん…」

あの美しい少女と踊るのは自分にはとても無理だと思うが、話くらいはしたい。機会があれば話しかけに行こう。

 

 

ところがその後、リナーリアは何故かあの従者のスピネルとファーストダンスを踊っていてニッケルは衝撃を受けた。

まさか本当にあの従者の方と付き合っていたなんて。そちらが気になって完全にダンスが上の空になってしまい、ニッケルは姉に怒られてしまった。

さらに彼女はスピネルの後でパイロープ公爵家の嫡男のアーゲンとも踊っていた。王子に次ぐ大物だ。

その後も次々とダンスの申込みが来ているようで、遠くからその様子を見ていると、近くの知り合いと話していた姉が戻ってきた。

「なんか、スピネル様とアーゲン様がどっちがリナーリア様のファーストダンスの相手になるかで争ってたらしいわよ」

「ええ!?」

「王子殿下、やっぱりリナーリア様と踊りたかったのかしら?」

「な、なんで?」

姉があれこれ説明してくれたが、もう雲の上の話すぎてニッケルにはさっぱり分からなかった。とにかく彼女がすごいという事しか分からない。何だか姉の好きな恋物語の主人公みたいだ。

彼女はとても自分に話しかけられるような存在ではない。そうニッケルは諦めるしかなかった。

 

 

 

そうして学院生活が始まった。

ニッケルは王子やリナーリアと同じクラスになっていたが、接点など持てるはずもない。

ヘルビンは別のクラスで少々心細かったが、それでも知り合いは何人かいたし、数日経つうちには新しい友人もできた。

 

そんなある日の昼休み、突然あの従者のスピネルがニッケルの所にやって来た。

「よう」と気安い様子で話しかけられ、ニッケルは思わず挙動不審になってしまった。

「ど、どうも…」

「お前、殿下になんか用があるんじゃないのか?」

確かにニッケルは入学してからずっと、王子の様子をちらちらと見ていた。

父と母の不和を解決してもらった件のお礼を改めて言いたかったのだが、なかなか話しかける勇気がなかったのだ。

「え、ええと…」

どう答えたものかと口籠っていると、スピネルの後ろから王子がやって来た。リナーリアも一緒だ。

「ニッケル」と王子に呼びかけられて少し安心する。

「こいつ殿下に話あるらしいぞ」

「そうなのか。なら、丁度いいから一緒に昼食を取ろう」

「は、はい!」

ニッケルは思わず舞い上がった。

すっかり萎縮してしまい遠慮していたが、やはり王子は気さくで優しい人なのだ。

 

「殿下!その節は本当にありがとうございました!!」

ガバっと頭を下げると、王子は鷹揚にうなずいた。

「気にするな。その後、伯爵と夫人の様子はどうだ?」

「はい。急に全部仲良くって訳にはいかないっすけど、もう父が怒鳴るような事はなくなりました。母の趣味も認めてくれたみたいで…あと、あそこに行くのも、すっかり減ってます。母も、領地に帰るとは言わなくなりました」

部分的に濁しつつ答える。リナーリアもいるので、娼館の話をする訳にはいかない。

「そうか。良かったな」と言う王子の隣にいるリナーリアにも、ニッケルは大きく頭を下げる。

「リナーリアさんにも、本当にお世話になりました!」

リナーリアは言葉の意味が分からなかったらしく、可愛らしく首を傾げた。不思議そうな彼女に、ニッケルの横のスピネルが簡単に説明する。

「こいつの両親は最近仲違いをしてたんだよ。それで殿下が話を聞いて解決してやったんだ」

「…ああ!なるほど、ペクロラス伯爵家の」

リナーリアはすぐに思い当たったらしい。王子が彼女からうちの話を聞いたというのは本当のようだ。

 

「殿下が解決なさったんですか?」

「はい。何時間もかけて、辛抱強くうちの母と父から話を聞いて…。ほんと、凄かったっす!!」

力を込めてそう言うと、彼女は一瞬目を丸くしたあとで嬉しそうに両手を合わせた。

「まあ…!そうなんですか、さすがは殿下です…!!」

花が綻ぶような笑顔で、ニッケルは思わず見とれてしまった。

隣の王子も少し照れたように視線を彷徨わせる。

「…大した事じゃない」

「そんな事ないっすよ!あんなの、誰にでもできる事じゃないです」

「だな。あの話を聞き続けるのは殿下じゃなきゃできない」

しれっとそう言うスピネルにニッケルは白い目を向けたくなったが、今こうして王子にお礼を言えているのはこの男が声をかけてくれたからだ。

ニッケルが王子に話しかけたがっているのに気付いていたようだし、何より王子はスピネルを信頼している様子だ。ただチャラチャラしている訳ではないのかも知れない。

 

その後、リナーリアにせがまれてニッケルは父母の騒動の経緯を話して聞かせた。

それで分かったのは、リナーリアが心から王子を敬愛しているらしいこと。ニッケルが王子を褒めるたびに嬉しそうにしている。

彼女はニッケルが想像していたよりずっと気さくで親しみやすい気性のようだ。ごく普通に話しかけてくれるので、男が苦手という噂はどうやら嘘だったらしい。

王子もまた、リナーリアを憎からず思っているようだ。表情は相変わらず真面目な顔のままで動かないが、彼女に褒められると微妙にそわそわと照れた素振りをしている。父や母と話していたときとはまるで違うその様子が、ニッケルには意外だった。

リナーリアと付き合っているのかと思われた従者のスピネルは時々茶化したり混ぜっ返したりはするものの、二人を見守っているようにも見える。

どうして彼女はファーストダンスをスピネルの方と踊ったのだろう。

何やら不可思議な人間関係の一端を見た気分で、その日のニッケルの昼休みは終わった。

 

 

一連の出来事を経て、ニッケルは様々なことを知った。

人はちょっとした理由で足を踏み外しもするが、ほんの少し背中を押されるだけで一歩を踏み出すこともできる。父と母のように。

そして、昼食の時の様子を見るに、王子はニッケルが思っていたよりも人間味のある年相応の少年のようだった。

あれほどに落ち着き堂々と振る舞っていた王子も、好きな相手の前ではそうも行かないらしい。

 

なら、ニッケルがやりたい事は一つだ。王子の恋路を応援するのである。

ニッケルに何ができるのかは分からないが、せめて少しだけでも背中を押せたらと思う。

あの従者は最初思ったよりは良い奴のようだが、やはりニッケルとしてはあの美しい少女とは王子の方と上手く行って欲しい。

いつか王子に恩返しできる日を夢見て、ニッケルは明日からも頑張ろうとそう思った。



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第49話 果し合い

討伐訓練から数日経った放課後、私は学院の図書室へ来ていた。

学院からほど近い場所には立派な王立図書館があるので、この図書室の蔵書数は少ない。

本も魔術や剣術など学院の教育課程に関連したものばかりなので、本を読むためというより自習をするためという意味の強い場所だ。

私は普段あまりここに来ないのだが、今はニッケルと向かい合わせで長いテーブルの前に座っている。

少し彼に頼みがあって来てもらったのだ。

 

周囲の迷惑にならないよう、小声でニッケルに話しかける。

「実は、この前戦った翼蛇の魔獣の絵を描いてほしいんです」

「魔獣の絵っすか?」

「はい。セナルモント先生…王宮魔術師に提出するレポートに付けたいんですけど、私は絵が苦手でして…」

昔から絵は苦手だ。

先日、美術の授業でも絵を描く機会があったが散々だった。

私は学院の花壇とその近くにいた猫を題材にしたのだが、時間内に終わらず一度持ち帰ってから仕上げた。そして、それを見たスピネルに死ぬほど笑われた。

自分でも上出来とは言えない自覚はあったのだが、涙目になるほど笑うのは酷いと思う。

殿下は可愛いと言ってくれたのに…。猫じゃなくて犬って言ったけど。

魔法陣や魔術の構成図なら描けるのに、なぜ絵になるとダメなのか自分でも分からない。

 

「授業中にニッケル様が描いている絵を少し見たんですが、とてもお上手でした。それに絵を描くのが趣味だと、入学式の自己紹介の時言ってましたよね?」

「えっ、はい。よく覚えてたっすね」

彼の母親もまた絵画が趣味だそうだから、きっと母から教わったのだろう。

それも彼の家のトラブルの原因の一つだったはずだが、殿下が解決したそうなので今は触れても問題ないと思う。

「…お願いできませんか?」

「…わ、分かりました!俺で良ければ!」

本気で困っていたので、どうか引き受けて欲しいという気持ちを込めて見つめると、ニッケルはちょっと赤面しながらも承諾してくれた。有り難い。

 

 

私が差し出した紙と鉛筆を使い、ニッケルはさっさっと線を引いてゆく。

すごい。早い。みるみるうちに、翼を広げ鎌首をもたげた翼蛇の姿が紙の上に現れる。

「わあ…!すごいです!本当にお上手ですね!」

「そ、それほどでも…」

褒め称えると、ニッケルは照れたように笑った。

「あんまり役に立たない趣味ですし…」

「そんな事ないですよ、本当にすごいです。胸を張っていいと思いますよ」

私にはとても真似できない。本心からそう言うとニッケルは口元を真一文字に引き結んでムニムニと動かした。

どうやらよほど嬉しいらしい。今まであまり褒められたことがないのだろうか。

 

「そういう感じで全体の雰囲気や大きさが掴める絵と、あと二面図…ええと、蛇を真上から見たところと、真横から見たところを描いてほしいんです。二面図の方は注釈を入れるので、簡単な感じで」

「こんな感じっすか?」

「あっ、そうです!すごい!」

私の説明をすぐに理解してくれたらしい。シンプルな線で蛇を横から見た図を描いてくれる。

「これでもう提出できそうな感じですね」

「えっ、ダメっすよ!これはラフなんで、ちゃんと仕上げたやつを別に描きます」

「そうなんですか?」

「はい。いつまでに描けばいいんすかね?」

「できれば来週までに…。大丈夫でしょうか?」

「お安い御用っす!」

「ありがとうございます!助かります」

良かった。無事にレポートが完成したら何かお礼をしなければならないな。

 

その時、少し大きな音を立てて図書室の扉が開いた。

「リナーリア様!」

何か必死な表情で現れたのはペタラ様だ。何事かと周囲の視線が集まり、慌てて口を抑えている。

急ぎつつもなるべく静かに席を立ってペタラ様の元へ向かう。ニッケルも一緒だ。

廊下に出て図書室の扉を閉め、問いかける。

「一体どうなさったんですか?」

「あの、カーネリア様に頼まれて呼びに来たんです。スピネル様が、闘技場で上級生と果し合いをするって」

「え!?」

 

 

 

私とペタラ様、ニッケルの3人は大急ぎで外の闘技場に向かった。

闘技場の周囲にはかなりの人だかりができている。上級生を中心に騎士課程の男子生徒が多いようだが、女子生徒の数も多い。

試合はまだ始まっていないようで、スピネルと二人の上級生の男子生徒が離れて立っている。

木剣を持っている方の上級生は確か、騎士課程の3年生だ。名前はスクテルドだったか。前世の武芸大会でも上位に入っていた人物だったと思う。

「勝負は一本、審判は私が務める」

もう一人の上級生、緑の髪の生徒が闘技場の脇の審判台に移動して言った。生徒会長のジェイドだ。スクテルドとは友人なのだろうか。

会長の後ろにカーネリア様と殿下の姿を見つけた。シルヴィン様もいる。私たちはそちらへと駆け寄った。

「カーネリア様!殿下!」

「あっ、リナーリア様!こっちこっち!」

 

「一体どうなっているんですか?何故試合を?」

「えーと私、あのスクテルド様から交際を申し込まれたのよ。それでいつもみたいに『お兄様より強い方でなければお付き合いしません』って言って断ったんだけど、そうしたらあの方、本当にお兄様に試合を申し込みに行っちゃって」

「まあ」

予想外に平和な理由で安心する。この学院では割とよくあるものだ。

ごく普通に剣術の練習としての試合もよく行われるのだが、一人の女子生徒を取り合って試合をするとか、騎士はそういうシチュエーションが大好きなのだ。その時は一瞬で話が広まりかなりギャラリーが集まる事になる。

有名な所では、スピネルの父であるブーランジェ公爵もそうしてライバルと試合をし、見事勝利した末に公爵夫人とお付き合いを始めたのだそうだ。

いつも厳しい顔をした方だが、情熱的な一面も持っているらしい。

 

「私はてっきり、スピネルが上級生に失礼でも働いたのかと…」

「あはは、ごめんなさい。でもリナーリア様は、お兄様の試合見たいかと思って」

「ええ、それはとても見たいです。呼んで下さってありがとうございます」

前世と同じならスピネルの腕前はこの時点で学院で一番のはずだ。ぜひ見ておきたい。

何しろスピネルは武芸大会で3年連続優勝の記録を打ち立ててたからな。

殿下は1年生の時に3年生のスピネルに負けてしまったので3年連続優勝はできなかった。負けた時とても悔しがっていたのでよく覚えている。

 

「始まったぞ」と殿下が言い、私は闘技場の上へと視線を移した。

真横から振るわれた剣をスクテルドが防ぐ。木剣を打ち付け合う音が周囲に響いた。

スピネルの剣は相変わらず速い。長身から来るリーチの長さも存分に活かし、次々に攻め立てている。

スクテルドはそれをよく防いでおり、合間合間に鋭く反撃を繰り出している。

流石に二人共見事な腕前だ。

だが拮抗しているかに見えた形勢は、時間とともにスピネルの側へと少しずつ傾いていくのが分かった。

実力に差があるのだと、私の目からも見て取れる。

 

「スピネル様、本当にすごいですわ…」

戦いの様子を見つめるシルヴィン様はうっとりとした表情で、その巻毛の薔薇色と同じくらいに頬を染めている。

確かに戦っている時のスピネルは格好良い。物語から抜け出てきた騎士のようだ。

「すげえ…」

「ええ」

ペタラ様やニッケルもまた試合に見入っている。

どうもニッケルはスピネルがまともに戦うところを今までほとんど見ていなかったらしい。

1年の剣術の授業は基礎中心だし、試合形式をやっても殿下以外が相手ならまず手加減するだろうからな。

討伐訓練でもスピネルは後衛だったし、蛇との戦いではニッケルも必死で剣を振るっていたから他が戦ってる様子を見る余裕はなかったのだろう。

 

やがて、試合に決着がついた。スピネルの木剣がスクテルドの喉元に突き付けられたのだ。

「勝者、スピネル・ブーランジェ!」

ジェイド会長が片手を上げる。おおっというどよめきと、女子の甲高い歓声が観衆に広がった。

「すごいな、あのスクテルドに勝ったぞ」

「スピネル様かっこいい…!」

ざわめきの中で、スクテルドがスピネルへと片手を差し出す。

「完敗だ。…カーネリア嬢の事は潔く諦める」

「先輩も、素晴らしい腕前でした」

二人はそう言って握手をして、周囲からはぱちぱちと健闘を称える拍手が沸き起こった。

 

 

「さすがねお兄様!!すごくかっこ良かったわ!」

「ええ、とてもお見事でした」

闘技場を降りたスピネルを皆で口々に褒めながら迎える。

「なんだよ、お前ら皆見てたのか」

スピネルは片眉を上げた。軽く息は上がっているものの、やはり余裕の表情だ。

「あ、あの、スピネル様、本当に素敵でした」

そう言ったシルヴィン様にスピネルは「ありがとう」と甘い笑顔で微笑む。シルヴィン様は頭から湯気を上げんばかりだ。

 

「皆様は私が呼んだの!お兄様の勇姿を見て欲しくて!」

「お前なあ。面倒なことに巻き込むんじゃねえよ」

はしゃぐカーネリア様に対し、スピネルは言葉の内容こそ投げやりだがむしろ楽しそうだ。

「だって、お兄様より強くなきゃ嫌って言えば大抵の人は諦めてくれるんだもの」

「…まあいいけどな。試合相手が向こうからやって来てくれるし」

ははーん。これが例のアレだな。殿下が言ってたやつだな。

「スピネルはカーネリア様に甘いんですねえ」

私が笑いながらそう言うと、スピネルは思いきり顔をしかめた。

「ちげーよ!たまには殿下や師匠以外とも試合したいんだよ!殿下との試合はめちゃくちゃ疲れるし!」

ああ、なるほど…という顔になったのは私とカーネリア様だ。ペタラ様やシルヴィン様、ニッケルは不思議そうにしている。

「そうなんすか?」

「試合の時の殿下のしつこさったらないぞ…本当に。お前もいっぺんやってみろよ」

「お、俺は無理っすよ!」

「俺は別に構わないぞ」

「え!?本当っすか!?」

いつでも来いという殿下に、ニッケルは恐縮しつつも嬉しそうだ。

彼の腕前では殿下のしつこ…粘り強さを引き出すのは無理な気がするが、でもいい経験を積めるだろう。

 

「でも、それではカーネリア様はどなたともお付き合いできなくなっちゃうんじゃないかしら…」

そう言ったのはペタラ様だ。

「えっ、それなら殿下がいますよ?」

思わず反論すると、何故かシルヴィン様以外の皆が私の方を見て微妙な顔をした。

「…いくらリナーリア様でも、今のは聞き捨てならないわ。王子殿下には申し訳ないけど、お兄様の方が強いもの」

カーネリア様が不満げに唇を尖らせる。

「えっ…そ、それは、そうかも知れませんけど…でもそのうち殿下が勝つと思いますし…きっと」

スピネルは学院卒業後はブーランジェ家の騎士になって領地に引っ込んでしまい、正騎士たちで催される剣術大会には参加しようとしなかったから、結局殿下とどっちが強いかは分からなかったんだよな…。

だんだんと小声になりながら言う私に、カーネリア様は呆れ顔になった。

「リナーリア様は相変わらずねえ…」

「そうですね…」

ペタラ様にも苦笑されてしまった。

「ありがとう、リナーリア。君の期待に応えられるように努力する」

殿下だけが真面目にうなずいてくれた。優しい。

 

「ま、俺はまだまだ負ける気はないけどな」

スピネルは殿下を見るとにやりと笑った。

「ああ。そうでなくては困る」

殿下もまた、笑うスピネルを見て受けて立つ。

「すげえ…かっこいい…!」

二人の間に流れる不敵な空気に、ニッケルが感動の声を上げた。

お前ももっと頑張れ。まあ気持ちは分かるけど。

やっぱり二人が羨ましいな、と私は思った。



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第50話 弟の話

今日はスフェン先輩とその取り巻きのご令嬢方と昼食だ。

先輩は新年休みが終わったすぐ後に「彼女たちと誼を通じておくのは悪いことではないと思うよ」と言って、取り巻きのご令嬢たちに「大切な友人」として私を紹介してくれた。

スフェン先輩の所は独特の雰囲気で私には少々居辛かったりもするのだが、過激派として知られる彼女たちに睨まれたくはないし、人数も多いのでできれば味方にしておきたい。

それに普段学院で交流がないのに、先輩と話をする時だけ毎回お互いの部屋を訪ねていては、妙な誤解や詮索を受けかねない。

実際、同性愛の話が大好物なリチア様などは私とスフェン先輩が仲良くなった事を知って物凄く興奮していたらしいからな…。悪い人ではないんだが、迷惑極まりない。

そんなリチア様は先日のスピネルとスクテルドの試合にもいたく興奮していたようなので、私は「いいですよね!果し合いから生まれる愛!」と言ってそちらを強く推しておいた。

すまないスピネル、私の心の平穏のために犠牲になってくれ。

 

まあそんな訳で、私はスフェン先輩のグループとは程々の距離でお付き合いさせていただいている。

私に親切な方もいればちょっと冷たい方もいるが、そのくらいはどこに行っても同じだ。

時々いる殿下派(多分そう。分かりにくい方が多い)やスピネル派(こっちは騒がしいのでもうちょっと分かりやすい)のように敵視してこないだけマシだと言える。

前世のオットレみたいな嫌がらせも今の所ないしな。

 

「そう言えばリナーリア君、この前のスピネル君とスクテルド先輩の試合を見たよ。なんでも彼は妹君のために戦ったそうじゃないか!いやあ、美しい兄妹愛だね」

スフェン先輩にそう言われ、私はスコッチエッグを食べる手を止めて微笑んだ。

「ご覧になっていたんですね。先輩のおっしゃる通り、彼はカーネリア様をとても大切に思っているようです。本人はあまり認めようとしないんですけど」

「そうなのかい?だけど、本当に素晴らしい腕前だったよ。あの速さと鋭さは驚異的だね。今年の武芸大会では彼が優勝候補の一角だろうね」

「まあ…!私、スフェン様にこそ優勝していただきたいですわ」

「そうです!スフェン様なら男子にだって負けませんわ!」

取り巻きのご令嬢たちが口々に言い、スフェン様が笑う。

「うーん、それはなかなか難しいな。この学院には強者がたくさんいるからね。特に3年生は猛者揃いで侮れないよ」

私は「殿下だって頑張ってます!」と言いたかったがこらえた。ここはスフェン先輩の信者だらけだからな。私にもそのくらいの空気は読めるのである。

 

「でも、今年の武芸大会は荒れそうだから、組み合わせ次第では上位に食い込めるチャンスがありそうかなとは思うよ。何しろスピネル君や王子殿下を始め、1年生にも実力者が多いようだ」

さすがスフェン先輩は殿下にも注目しているようだ。スピネルとは違い試合の機会に恵まれていない殿下だが、やはり前評判は高いのだろう。蛇魔獣退治の時の話も生徒の間に広がっているみたいだしな。

と、そこで私はある事を思い出した。前から少し気になっていたので、この機会に尋ねてみよう。

「1年生と言えば、ヘルビン様は?武芸大会にご出場なさるんでしょうか」

ヘルビンは私とは別のクラスの1年生で、スフェン先輩の弟だ。

なかなかの腕の剣士だったはずだが今世では全く接点がないので、私は姉であるスフェン先輩に何の気無しに尋ねてみたのだが、何故か場の皆が固まってしまった。

…あ、あれ?何かまずいこと言ったかな?

 

「さあ、僕は聞いていないから分からないな。仮に僕と当たったとしても、手加減はしないけどね」

スフェン先輩はいつもの爽やかな微笑みを浮かべた。

「さすがスフェン様、その意気ですわ」

すかさずスフェン先輩の横に座っていたシリンダ様がぱちぱちと手を叩き、固まっていた空気が和む。

シリンダ様はスフェン先輩の取り巻きグループの中でもナンバー1かナンバー2と思われるポジションだが、私に対して最も親切にしてくれているとても優しい人だ。

部外者に近い私がスフェン先輩のグループに受け入れられているのも彼女の力が大きい気がする。今もどうやら私を助けてくれたらしい。

「誰が相手だろうと、僕のやり方は変わらない。見る者の心に残るような、美しい戦いをしてみせるよ!」

スフェン先輩は胸に片手を当てると、もう片方の手をばっ!と大きく上に掲げた。まるで芝居のような大仰なポーズだが、様になっているのがすごい。

周囲から「きゃあ!」という歓声と拍手が沸く。私も一緒になって拍手をした。

やっぱり独特の雰囲気だなあ…ここ…。

 

 

帰り際、シリンダ様が私にそっと声をかけてきた。

「さっきはごめんなさいね。スフェン様のご家族の話は、私達の間ではタブーなの」

あっ、そうか。しまった。先輩はご実家と上手く行っていない様子なのだった。

「申し訳ありません、私ったら無神経で…」

頭を下げる私に、シリンダ様は「いいのよ」と苦笑する。

「他の子が過敏になっているだけで、スフェン様自身は気になさっていないと思うわ。…それにご家族の中でも、弟のヘルビン様はスフェン様と幼い頃仲が良かったそうだから」

「幼い頃…ですか?」

では今はどうなのだろうかという疑問が湧く。

「詳しいことは分からないのだけど。…でも、今でもスフェン様はヘルビン様の事を気にかけていると思うの。さり気なく様子を見たりしているようだから」

「……」

話は何となく分かったが、何故私にそんな事を教えてくれるんだろう。

少し不思議に思ってシリンダ様の顔を見つめると、シリンダ様は優しく微笑んで「少し心に留めておいて」と言って去って行った。

ううむなるほど…なかなか複雑そうだな。

私は少しだけ考え込んだ。



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挿話・13 真面目な従者【前世】

「リナライト、いるか」

エスメラルドはノックをしながら扉の外から呼びかけた。

何度か繰り返してみたが返事はない。しかし扉には在室を示すプレートがかかっている。

「入るぞ」と声をかけてから扉を開け室内に入った。

相変わらず本が多い。しかしいつも几帳面に整頓されているはずの部屋は、わずかに散らかっているように見える。

机の上に突っ伏している青みがかった銀髪がすぐに目に入った。一つため息をついてからそちらに近付く。

 

「おい、起きろ」

そう言いながら肩を揺さぶると、ようやく顔を上げた。いかにも眠たそうに目を開く。

「…あれ、殿下…」

「時間になっても来ないから迎えに来た」

「あ、す、すみません!!」

彼はぱっと大きく目を開けると慌てて立ち上がった。突っ伏していた机の上に、何枚もの書類が重なって散らばっているのが目に入る。

「すみません、えーと…剣術の時間でしたっけ?」

そう言った瞬間に寝癖のついた髪がぴょこんと撥ねて、少し笑ってしまった。リナライトはきょとんとしている。

「今日は俺の部屋で自習だ。教材は向こうにある」

「あれ?そうでしたか…?わ、分かりました」

 

「自習は何の科目を?」

エスメラルドの自室に入ったところで、リナライトが尋ねてきた。

「俺は数学でもやる。お前はあっちだ」

そう言って奥の寝室を指差すと、彼は「はい?」とまたきょとんとした。柔らかそうな銀髪は、相変わらず少し乱れたままだ。

 

「顔色が悪い。それに目の下のクマ」

エスメラルドの指摘に、リナライトがびくりと肩を震わせる。

「さっきの書類、生徒会のものだろう。また先輩方に押し付けられたな」

「…いえ、その」

「持ち帰ってまでやる必要はないと会長も言っていただろう」

「……」

「また何か言われたのか?」

目を逸らす彼を黙ってじっと見つめていると、やがて観念したのかしぶしぶ口を開いた。

「…この程度の仕事もできないんじゃ、王子の従者も大した事はないと…」

「リナライト」

「すみません、しかし、私はともかく殿下までバカにされるのは我慢できません」

「先輩方はお前に仕事を押し付けたいだけだ。真に受ける必要はない」

「…はい…」

彼はうなずきながらも不満そうだ。どうも分かっている気がしない。

 

「勉強も根を詰め過ぎだ。この前のテストで2位だったのがそんなに悔しかったのか」

先日の定期テストではアーゲンに首位を取られていた。勉強好きで学業に自信がある彼としてはその事がショックだったらしい。

「…それは」

「さらに剣術や魔術の稽古、社交もか。ずいぶんと色々やっているようだが、お前は一体何人いるんだ?俺の目には一人にしか見えないがな」

呆れた口調で言うエスメラルドに、リナライトは口籠りながらも反論する。

「で、でも従者なら、そのくらいはできて当然かと…」

「できていないだろう。今日のスケジュールを把握していなかったのが良い証拠だ」

几帳面な彼は本来、毎日のスケジュールを朝確認してしっかりと頭に入れている。だがさっきは、エスメラルドに言われて自信なさげに首を捻っていた。

本当は彼の言う通り剣術の予定だったのだが、先程「今日は学院の授業でも剣術をやって疲れている」と言って変更しておいたのだ。

 

返す言葉もないらしく、リナライトは眉を下げてうつむいた。

「真面目なのは良いが、無理はするな。それで体を壊しては元も子もない」

勤勉なのは彼の長所だが、何事にも手を抜けずに頑張りすぎるのが困った所だ。

しかも意地っ張りなので絶対に弱音を吐こうとしないし、人を頼る事もしない。こうして気にかけてやらなければ、休みもろくに取らずに無理をしてしまう。

前にも似たような事で体調を崩してしばらく落ち込んでいたので、今度はきっちり阻止するつもりだ。

 

「…すみません…」

しょんぼりと肩を落とした彼に、エスメラルドはもう一度寝室を指差す。

「分かったなら寝ろ」

「や、休むなら自室で休みますので」

「部屋に戻すとお前はまた書類をやりかねない。それに教育係が様子を見に来たら困るだろう。その時はちゃんと起こしてやるからそこで寝ろ」

「だったらそこのソファを使います」

「近くで寝られたら俺まで眠くなる。集中できない」

「しかし、殿下のベッドを使わせてもらう訳には…」

「いいから、向こうで寝ろ。命令だ」

このままでは埒が明かないので強く言うと、リナライトはようやく「はい」と言ってとぼとぼと奥の寝室に入っていった。

 

どうやら叱られて落ち込んでいるようなので、起きたら励ましてやった方がいいだろうなとエスメラルドは思った。

全く手のかかる従者だが、エスメラルドはそんな彼を気に入っている。

誰よりも真面目で忠実な彼は、従者であると同時にエスメラルドにとって最も身近で親しい友人だ。

少々視野の狭い所があったり無理をしすぎたりするのは困りものだが、そういう所も嫌いではない。

弟がいたらこんな感じだろうかと密かに思っている。口に出したら彼は確実にショックを受けるだろうが。

それに、彼の短所は最大の長所であるひたむきで努力家な部分の裏返しだ。その一生懸命さにはエスメラルドも感心している。

また、彼はいつでもエスメラルドの事を信頼している。いずれ立派な王になるのだと信じて疑っていない。

エスメラルドが何か落ち込んでいる時でも、下手に慰めたりせず、絶対に「殿下なら大丈夫です」「必ずできます」と励ましてくれる。

その信頼にいつでも背中を押されているし、勇気をもらっている。

 

彼自身はとにかく完璧な従者であることを目指していて、なにか失敗する度にすぐ落ち込んだりむきになったりしているが、彼は今でも十分に優秀だし、焦らずともいずれ立派に成長してくれる。

文官として官僚になるのか、魔術師としてその力を発揮していくのかは分からないが、王となったエスメラルドの右腕として存分に働いてもらう事になるだろう。

彼がエスメラルドを信じるように、エスメラルドもまた彼を信じている。

いつかそういう未来が訪れるのだと、信じて全く疑っていなかった。



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第51話 昼食(前)

「やあ、リナーリア」

午前の授業が終わってすぐ、教室にアーゲンがやって来た。もちろんストレング付きだ。

「アーゲン様。あのような素晴らしい贈り物を、本当にありがとうございました」

「いいや。君がしてくれた事に報いるには、あんなものでは到底足りないよ」

真面目な顔で言われると逆に困ってしまう。最近のアーゲンはいつもこんな感じなのでやりづらい。

 

2週間ほど前、私と次兄、それから王都に来たばかりの父と母はパイロープ公爵家の晩餐に招かれた。

息子の命を救ってもらった礼がしたいとの理由だ。

この件については既に貴族中に広まってしまっているらしく、断るのも失礼なので招待を受けることになったのだが、物凄い歓待ぶりだったので私たち一家は非常に驚いた。有り体に言えばびびった。

家紋入りの豪奢な馬車での送迎に始まり、屋敷に着いたら使用人や一族総出で出迎えられ、料理も酒も凄まじく豪勢だった。前世で殿下と共に視察で領地に訪れた時くらい凄かった。

 

公爵家たるもの、相手が息子の命の恩人ともなれば饗応の手を抜くわけには行かなかったのだろうが、そんな扱いをされたのは初めてだった我が家は皆呆然としていた。

まともに応対できていたのは私とせいぜい母くらいだったと思う。

アーゲンの母であるパイロープ公爵夫人は家のプライドに関わるのかしきりに息子自慢をしていたのだが、うちの母は同席しているティロライトお兄様よりも何故か殿下の話をしていた。

侯爵家の次男にすぎないお兄様を公爵家の嫡男と並べて語るのは難しかったのかも知れないが、お兄様の立場がなくてちょっと可哀想だった。

お兄様自身はそれどころではなかったようでひたすら愛想笑いを浮かべていたが。

ただアーゲンもちょっと居心地悪そうにしていたのは少し面白かった。

アーゲンの弟妹も同席していたし長男として努めて堂々としていたようだが、やはり母親から息子自慢をされるのは本人にとって恥ずかしいものらしい。気持ちは分からんでもないが。

 

しかし公爵家からの感謝の気持ちというのは、到底その程度では収まらなかった。

つい2日ほど前、パイロープ公爵家からの贈り物がジャローシス侯爵屋敷に届いたのだが、それを見て私たち一家は文字通り仰天した。

なんと、大変に立派な作りの馬車が贈られてきたのだ。もちろん、曳くための馬つきだ。

貴族用の馬車というのは物凄く高い。財力や家格がはっきり反映されるので、金に糸目をつけない貴族が結構いるからだ。

贈られた馬車は下っ端侯爵である我が家の家格に気を遣ったらしく、外見こそ落ち着いたデザインだったが、作りは非常に丁寧で丈夫なものだったし内装は見事の一言だった。

防護魔術のかけられた上質な織りの布が張られていて、何より座席のふかふか具合が素晴らしい。

車体や車輪に耐久性の高い衝撃吸収の魔術がかけられているので乗り心地も抜群である。殿下の乗ってたパレード用の馬車みたいだ。

馬車馬ももちろん、大人しくて若く健康そうな良い馬だった。

一体どれだけ金をかけて用意したのか。もはや財力の暴力である。

あののんびりしたお父様すら困惑していた。

しっかり我が家の家紋も入れられていたし、まさか返す訳にもいかないので受け取ったが、ちょっとやりすぎだと思う。

 

 

「どうかな、今日は僕と一緒にランチを」

そう言うアーゲンに、私は静かに頭を下げた。

「…すみません。今日はすでにお約束があるんです」

「そうかい。君は人気者だし、夕食には出てこないしね…残念だけど仕方ないな」

そうは言うが、近頃アーゲンと昼食を取る機会は増えている気がする。何しろ誘いに来る回数が多い。

頻度で言えば殿下とカーネリア様が一番多いのだが、その次に多いのはアーゲンだ。後はスフェン先輩やその他が少々。スフェン先輩以外のグループは二組以上一緒になる場合もある。

 

そこで「じゃあ明日は」と言いかけたアーゲンだが、急に口を噤んだ。

その視線を追いかけて振り向くと、予想通りスピネルがいた。

「リナーリア、そろそろ行くぞ」

「あ、はい」

私を迎えに来たと言うよりアーゲンを牽制に来たんだろうな。

と言うのも、討伐訓練の一件以来どうもアーゲンはスピネルが苦手になってしまったらしい。顔には出さないがどことなく腰が引けている気がするのだ。

スピネルもそれが分かっているらしく、私の所にアーゲンが来たのを見るとこうしてやって来る事が増えた。

案の定、スピネルの顔を見た途端に「じゃあまた今度」とだけ言ってアーゲンは去って行ったのでちょっと助かった。スピネルは私を助けたいと言うより単にアーゲンの反応を面白がっているだけのような気もするが。

今日は本当に用事があったので良いが、討伐訓練の件を気にしているのかアラゴナ様が牽制に来る事もなくなってしまったので、アーゲンの誘いを断りにくいんだよな。

ある程度仲良くはしておきたいが、かと言ってアーゲンの派閥に入ったとは思われたくないので難しい所だ。

 

それはそうと昼食だ。今日は話したい事があったので、朝から殿下やスピネルと約束をしていたのである。

「殿下は?」と尋ねると、スピネルは「今取り込み中だからちょっと待て」と顎で示した。

見ると、一人のご令嬢が殿下の隣に立って話しかけている。

あの褐色がかった赤毛は別のクラスのトリフェル様だ。殿下派の中でもひときわ積極的な方である。

ああ…なるほど。これは声をかけたくない…。

 

案の定トリフェル様は殿下を昼食に誘いに来ていたようで、殿下に「先約がある」と断られたようだ。

「そんなあ…。残念ですわ…」

「すまない。…ああ、リナーリア」

私が見ていることに気付いた殿下が声を上げ、トリフェル様もこちらを振り返る。

トリフェル様もそれで殿下が誰と約束していたのか分かったのだろう。

しかしたまたまタイミングが悪かっただけなのだ。別に邪魔をしたかった訳ではないのであまり睨まないで欲しい。

彼女のすごい所は絶対に殿下からは見えない角度でだけ私を睨むことだ。殿下が見ている時は必ずニコニコと笑っているのでむしろ感心してしまう。

 

どうも前世に比べると殿下へ近付くご令嬢の数は少ない気がする。私が見ているのは学院の中だけなので、単に知らないだけかもしれないが。

それでもトリフェル様だけは学院の中だろうが外だろうがあれこれと頑張っているようだが、今世になって一つだけ変わった部分がある。

私を目の敵にしている事だ。

私は特に彼女の邪魔をする気はないので、敵視されても困るんだよな。最も積極的に応援する気もないが。

何せ殿下は彼女が苦手のようなのだ。彼女は家柄も成績も容姿も申し分ないが、殿下の意思が一番大切だからな。

あと、彼女が入学後しばらく殿下に寄って来なかったのはその間ブロシャン公爵の嫡男にご執心だったからという話も聞いた。

振られたからってまたすぐ殿下の方に戻ってくるのはどうなんだ…。二股ではないだけまだマシだが。

 

「リナーリア様、アーゲン様の方はよろしいの?先日も断られてとても落ち込んでいらしたわ」

いかにもアーゲンを心配しているかのような表情で言うトリフェル様に、私は眉を下げて微笑む。

「私も大変心苦しいのですが、先にお約束がありましたので…」

何よりこうして私をアーゲンに押し付けようとするのが彼女の一番困る所だ。

私がアーゲンを救った件に尾ひれをつけて噂を流しているのは彼女ではないかと疑っている。もしそうなら本当にやめて欲しい。

それより殿下に気に入られる方法を考えた方がよっぽど建設的だと思うのだが。

 

そこに助け舟を出してくれたのはスピネルだ。

「殿下、そろそろ行きましょう。食堂が混んでしまう」

「ああ、そうだな。すまないトリフェル。…リナーリア、行こう」

「はい」

殿下はいつもの無表情だが、ちょっとほっとしているのが私には分かる。

やっぱり彼女が苦手らしい。今世でも彼女に脈はなさそうだ。

 

 

 

食堂では一番隅の静かな席に着いた。

他の生徒が遠慮して席を譲ってくれるので、殿下は自然とここが指定席のようになっている。

私の斜め前の席に座ったスピネルの皿にはローストビーフが大量だ。しかもソースを3種類くらい持ってきている。

「スピネルそれ好きですよね」

「本当は水牛のやつが良いんだけどな」

水牛と言えば、昔殿下の視察の時にサンドイッチで出したものだ。懐かしいな。

あれから工夫して王都にも出荷しているが、それほど量はないし輸送コストのせいで値段も高いのでさすがに学院の食堂で出すのは無理だ。

殿下の皿の方にもローストビーフが山盛りになっている。今日はチキンのソテーなどもあったけどこっちなのか。

私の視線を受けて、殿下が小さくうなずく。

「赤身肉は体作りにいいらしいんだ」

「あっ、そうなんですよ!筋肉を作るには赤身の肉が良いんだそうです。よくご存知ですね」

「お前はその知識を自分の体作りに活かす気はないのか。もっとたくさん肉食えよ」

「そんなに食べられないんだからしょうがないじゃないですか…それにこれにも肉は入ってますし…」

私は今日、ひき肉と刻み野菜を包んだオムレツだ。いいじゃないか卵は美味しい上に栄養価豊富なんだから…。

 

 

オムレツを一口二口食べてから、ローストビーフを口に運んでいる殿下を見て話を始める。

「ところで、殿下。もうすぐ水霊祭の時期ですよね」

「ああ、そうだな」

水は生活の要であり、魔獣を退ける守護の象徴だ。その水を司る精霊神に感謝を捧げるためのお祭が水霊祭で、毎年4月下旬から5月頃に行われる事になっている。

祭と言っても一般的には祈りを捧げたりお供え物をしたりするだけのささやかなものなのだが、王家ではこの時ちょっとした祭礼を行う。

 

この国に5つある公爵家はそれぞれ、大きな湖や川がある場所に領地を構えている。魔獣への守りとするためだ。

水霊祭の時期には王族がこの湖や川のどこか一箇所を訪れ、供物を捧げるのが決まりだ。行き先は持ち回り制で、毎年違う公爵領に行くことになっている。

昔はそれなりに大々的にやっていたが、春は何かと忙しい季節なので、各領に負担をかけないためにもこの祭礼の規模は年々小さくなっていったらしい。

今ではほぼ、王族の家族旅行のついでに祭礼もやるみたいな感じになっている。

 

「今年の行き先は確か、ブロシャン公爵領ですよね?」

「ああ。前に行ったのは5年前だが、とても風光明媚な場所だった。湖も美しかったな」

「良いですね…。ブロシャン公爵領の美しさは私も聞いています。それに、あの領は魔術研究がとても発展しているんですよね」

前世では殿下と共に何度か訪れた場所だが、今世では当然一度も行っていない。うちの領からはとても遠いからだ。

「ぜひ一度訪れてみたい場所です」

心底羨ましそうに言うと、殿下は私を見てこう言った。

「なら、リナーリアも一緒に行くか?」

 

「えっ…。え?い、良いんですか?」

「ああ。親族や友人を連れて行くのは珍しい事ではないし、どうせ水霊祭の期間は学院も春休みだしな。今回は父上が行かないから人数も少ないし大丈夫だ」

あまりにあっさり誘われたので私は逆に戸惑ってしまった。

私はある目的のためにどうしてもこれに付いて行きたくて、そのために殿下に探りを入れたのだが、まさかこんな簡単に誘われてしまうとは。

いざという時はお父様達に頼み込んで旅行をするか、セナルモント先生にごねまくって随伴の王宮魔術師に見習い弟子として加えてもらうしか…と思っていたのに。

でも本当に付いて行ったらそれこそ王族に近いと見られる。また婚約者とか誤解をされてしまうのでは?殿下のご迷惑にならないだろうか?

 

嬉しさと困惑であたふたしだす私を見ていたスピネルが、小さくため息をつく。

「殿下、カーネリアも誘っていいか?あいつも他領の様子を見ておきたい歳だ」

「そうだな。カーネリアが一緒ならリナーリアも何かと安心だろう」

「本当ですか!?あ、ありがとうございます…ぜひ、ご一緒させていただきたいです…!」

確かにカーネリア様が一緒なら心強い。婚約者とかいう誤解もされなくて済みそうだ。

どう見てもカーネリア様の方が殿下とは家格的に釣り合ってるし…カーネリア様は全くそんな気なさそうだが。

カーネリア様が誤解を受けたら申し訳ないが、彼女なら引く手あまただし大丈夫だと思う。

 

「スピネル…」

感謝の気持ちを込めてスピネルの顔を見つめると、スピネルはふいっと横を向いた。照れているらしい。

「…やっぱりカーネリア様に甘いんですね」

「お前にまともな反応を期待した俺がバカだったよ!!!」

思いきり怒ったので、私は慌てて謝った。

スピネルが私を気遣ってカーネリア様を誘うと言い出した事くらい分かっている。ただの冗談なのであまり怒らないで欲しい。

スピネルには私もいつも感謝しているのだ。なかなか素直に言う機会はないけれど。



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第52話 昼食(後)

「…で、お前はそれが話したくて呼んだのか?素直に殿下に頼めば良かっただろ」

「あ、いや、違います。実はお二人にご相談があるんです」

水霊祭の事が一番気にかかっていたのは確かだが、他にも話したい事はある。

「お二人は、同級生のヘルビン・ゲータイト様の事をご存知ですか?」

 

殿下とスピネルはその名前を聞いてうなずいた。

「ああ。あのスフェン・ゲータイトの弟だろ」

「なかなかの剣の腕だと聞いているな」

別クラスだが、二人共多少は知っているらしい。

「私、近頃彼の姉のスフェン先輩と仲良くさせていただいているのですが、どうやらあのご姉弟はお互い疎遠なようなんです。先輩は密かに気にかけている様子はあるのですが、表立って近付こうとはしていないし、ヘルビン様について触れにくい雰囲気です」

シリンダ様も言っていたが、実際、先輩は妙に騎士課程一年生の事情に詳しいフシがある。それは武芸大会の情報収集にかこつけて弟の話を聞こうとしているからなのではないのだろうか。

「せっかく同じ学び舎に通っているのに、ご姉弟で疎遠というのは悲しい話です。あまり他家の事情に首を突っ込むべきではないのかも知れませんが、どうしても気になってしまって…。お二人はヘルビン様のこと、何かご存知ではありませんか?」

私の言葉に、二人は少し考え込んだようだ。

「ふむ…」

「あそこの家は結構ややこしい話になってるとは聞くな。…やっぱりあれじゃないのか?ああいう格好の姉にはあんまり近付きたくないんじゃないのか」

「やっぱりそうなんでしょうか…」

彼自身あまり名家っぽくない振る舞いをしていたし、そういう事を気にするタイプには見えなかったが、彼にとっても男装の姉というのは恥なのだろうか。

 

 

私がヘルビンの事を気になっている理由は、ただスフェン先輩の弟というだけではない。

実は彼は前世の殿下とは親しい友人だったのだ。

前世ではクラスメイトだった彼は、討伐訓練の時にたまたま殿下や私と組んだことがきっかけで親しくなった。当時の1年生の中ではかなりの剣術の使い手だったのも大きいだろう。

名家であるゲータイト家の権力を鼻にかける様子もなかったし、私の目から見ても信頼できる人物のように見えた。

私とはそれほどでもなかったが、殿下とは学院卒業後も親しかったようで、近衛騎士になるために騎士修業をしていたはずだ。

それが今世では別クラスになり、友人となるきっかけが失われてしまったのではないかと思って気になっていたのだが、やはりヘルビンの事は名前を知っているくらいの関係らしい。

 

私が見たところ、今世の殿下は前世より友人が多い。多分スピネルの影響だ。

学院に入って初めて知ったのだが、どうやらスピネルは自身が従者というより友人に近い振る舞いをするだけではなく、殿下にちゃんと他の友人ができるように立ち回っているような気がする。

友人が増えた代わりにご令嬢方との接点が減っている様子なのは気にかかるが、いざという時に頼りになるのはきっと友人の方だ。殿下の味方はできるだけ増やしておきたい。

スピネルを見て、前世ではその辺り全く貢献できていなかった事を私は大きく反省した。私ももっと殿下に友人を作って差し上げるべきだった。

そもそも自分の友人の作り方も分からなかったんだが…今もあんまり分かっていない。カーネリア様に助けられている部分が大きいと思う。彼女には本当にお世話になっている。

 

せめて今世では殿下の役に立ちたい。そこで真っ先に思いついたのがヘルビンだったのだ。

気が合うのは間違いないのだし、彼が将来近衛騎士になるという夢を叶えられたら、殿下を守る騎士の一員にもなる。

スフェン先輩との姉弟仲を解決しつつ殿下との仲も取り持てたらいいな、というのが今回の私の目論見だ。

具体策はまだ何も考えていないが。前世のヘルビンからは全く姉の話を聞かなかったしな…。

 

 

またローストビーフを飲み込んだ殿下は、一口水を飲んでから言った。

「そういう事なら、ニッケルに聞くといいかも知れない」

「えっ?」

「ニッケルはヘルビンと親しかったはずだ」

「そうなんですか!?」

知らなかった。意外な所で意外なつながりが。

「じゃ、俺が呼んできてやるよ。ちょっと待ってろ」

スピネルが席を立ってニッケルを探しに行った。

やはり気の利く男だ。私が行ったら変に驚かせそうなので助かる。

 

それからすぐスピネルがニッケルを連れて戻ってきた。

私の説明を聞き、ニッケルが言葉を選ぶ様子で口を開く。

「ええと…ヘルビンがお姉さんの事を避けているのは本当だと思うっす」

「何故ですか?やっぱり男装しているからですか…?」

だがニッケルは首を横に振った。

「いや、多分違うっす。ほら、お姉さん、女の子から大人気じゃないっすか。だからお姉さん目当てでヘルビンに近寄る子がすごく多いみたいで、それが嫌であんまりお姉さんには関わりたくないっぽいっす」

なるほど、それはいかにもありそうな話だ。

モテる兄弟や姉妹を持つと大変だという話は私も聞いた事がある。

「でも、幼い頃は仲が良かったんですよね?」

「その辺はよく知らないんす、すみません。俺がヘルビンと仲良くなったのって3年くらい前で、その頃にはもう今みたいな感じでした。あいつ普段、お姉さんの話は全然しないんす」

ニッケルは友を気遣う表情になった。

「…でも、前にちょっとだけ言ってました。お姉さんも昔は普通で、その頃はよく遊んでもらったって。それに、女の子たちの愚痴はいつも言ってますけど、お姉さんの悪口は聞いた事ないっす」

 

私は少し考える。ニッケルの口ぶりだと、ヘルビンは男装をしている姉そのものよりも、その周囲の人間を避けているようだ。

「…つまり、スフェン先輩とは疎遠だけれど、先輩のことが嫌な訳ではない。疎遠なのは先輩のファンが嫌だから…という事でしょうか?」

「多分っすけど…」

ニッケルはちょっと自信なさそうに言う。友人でも触れにくい部分なのかも知れない。

前世の私と殿下の間には隠し事などなかったと思うが、皆がそうではないという事くらいは分かる。

しかしそうなると解決方法は限られてくる。先輩はファンのことも大切にしている訳だし、排除はできない。たくさんいるファンを統制するのも難しいだろう。

彼の側から歩み寄ってもらう方が手っ取り早そうだが…。

 

「これ以上は本人に訊かなければ分からないんじゃないか?」

と、食後のお茶を飲んでいた殿下が言った。

「そうですね…」

先輩の事を嫌っている訳ではないなら、直接聞いてもいきなり怒り出したりはしないだろう。恐らく。

「俺らも一緒に話聞いてやるよ。乗りかかった馬だ」

スピネルも同意してくれる。付き合ってくれるつもりのようだ。

私より男子同士の方が話を聞きやすいだろうし、この手の事は二人の方が得意だろうから心強い。

 

「あっ、でも、ヘルビンは殿下やリナーリアさんに呼ばれたら来るの嫌がるかも…」

「な!?」

ニッケルの困ったような呟きに、私は驚いて大きく振り返った。

そう言えば、ニッケルの友人なら今までもちょっとくらい殿下と接点があってもいいはずなのに、その様子がない。他のニッケルの友人と殿下はそれなりに親しくしてるのに。

「何故ですか!?どうして殿下を!?」

「お前はちょっと黙ってろ、話がややこしくなる。…ああ、何となく分かった」

私を遮ったスピネルが何やら思い当たったような顔になる。

「分かったなら説明して下さい!殿下の何が嫌なんですか!!」

「黙ってろっつったろ!もういい、どうせ呼ぶんだから本人に訊け。俺らの事は伏せてニッケルに呼び出してもらえばいい」

私は非常に不満だったが、殿下は「それでいいんじゃないか」とうなずいた。

かくして放課後、ヘルビンを呼び出し私と殿下とスピネルとで待ち受けることになった。




扉絵イラストを描き直したので、第1話の最初に表示されるようにしました!
よろしくお願いします。


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第53話 姉と弟

ヘルビンを呼び出したのは音楽室だ。

ここは学院祭が近い時期以外はそれほど人が来ないし、防音がしっかりしているので密談には持ってこいの場所なのである。長時間使用しなければ注意される事もない。

「最近はどのような曲を練習されているんですか?」

「アスパラゴスの夜想曲だな」

「あ、私それ結構好きです。いい曲ですよね」

ニッケルが連れてくるはずのヘルビンを待ちながら、ピアノを見て殿下と雑談をする。

スピネルはなぜか扉の近くにいるが、何であんな所に立っているんだろう。

 

「来たな」

やがてそうスピネルが言って、私と殿下は扉の方を見た。

「おいニッケル、待ってるって一体誰が…」

背後にいるらしいニッケルに話しかけながら扉を開けて入ってきたヘルビンは、並んでいる私と殿下を見てぎしりと固まった。

慌てて踵を返そうとする彼の襟首を、すかさずスピネルが掴む。

「うげっ!?」

「おい、人の顔を見て逃げ出すとはいい度胸だな」

「ええ!?」

凄んで見せるスピネルに、ヘルビンはさらに悲鳴を上げた。

あ、さてはヘルビンが逃げ出すのを予想してあそこに立っていたのか。なるほど。

 

「どういう事だよ!?」

「ごめんヘルビン、お前を呼び出したの、そこのリナーリアさんなんだ…あと殿下とスピネルさん」

「何で!?」

「ご足労いただいて申し訳ありません。お久しぶりです、リナーリア・ジャローシスです」

私は一歩前に出て一礼した。彼と話をするのは入学祝いパーティーの挨拶の時以来だ。スピネルに抵抗していたヘルビンが動きを止める。

 

「実は貴方に尋ねたい事があるのです。スフェン先輩の事です」

「…なんだよ。誕生日だの好きな食べ物だの好きな芝居なら、どうせあんたも知ってるだろ」

いやほとんど知らないが。せいぜいオレンジソースのポークソテーが好きそうな事くらいだ。

さてはこいつ、私がスフェン先輩のファンだと思ってるな。

「先に言っておきますが私とスフェン先輩は友人です。先輩の好みが知りたければ直接本人に聞くので結構です。…私が知りたいのは唯一つ」

私はヘルビンの目を真正面から見つめる。

「貴方がどうしてスフェン先輩を避けるのか、です」

 

「ご姉弟で在学中なのに、貴方と先輩はまるで話をしていないようですね?いくらでも機会はあるでしょうに。あえて避けているとも聞きます」

この辺はスフェン先輩のファンでもあるリチア様からも聞いて裏を取った。本気の先輩ファンからは聞きにくかったので。

「スフェン先輩は貴方を気にかけていらっしゃるご様子です。先日貴方の事を尋ねた時も、『聞いていないから知らない』と残念そうに仰ってました。聞きたいが遠慮しているというように見えました」

「……」

ヘルビンが目を逸らす。気まずそうな表情だ。

「あと貴方、殿下の事も避けてます?それも気になるんですが?殿下の何が嫌なんですか?どういう事か説明してくれませんか?」

「ちょっと待てよ知りたいのは一つじゃなかったのかよ!」

「そんな事言いましたっけ」

「言ったよ!ついさっき!!」

「忘れました」

激しく突っ込まれたが私はすっとぼけた。しょうがないだろ気になるんだから。

 

抵抗をやめてスピネルの手から解放されたヘルビンは、観念したのか喚くようにこう言った。

「…だから俺は!目立ちたくないんだよ!!」

「…はい?」

「姉上と話してたらすげー目立つんだよ!周り中から見られるし居辛いったらねーよ!しかも『何話してたの』って後からも女の子が寄ってくるし!待ち伏せとかされるし!そんな理由で近寄られても嬉しくねーし!そもそも俺は注目されたくないし、目立つの嫌いなんだよ!!!」

一気にまくし立てたヘルビンのその勢いに、殿下もスピネルも目を丸くする。

「…えっと…じゃあもしかして、殿下の事も?」

「目立つからに決まってるだろ!関わりたくねえ!!」

…そう言えば、前世の討伐訓練でも当初同じグループに決まった時は嫌そうにしていた気がする。前世は担任が違ったので班分けも方針が違って、教師側で大体決めていたのだ。

他の生徒は皆殿下と一緒になって喜んでいる風だったのにヘルビンだけは浮かない顔をしていて、それが私には不思議だった。

結局訓練後は殿下と意気投合していたが、今思えば人前ではあまり話しかけて来なかったような気がするな…。

 

前世からの疑問が氷解して私はようやく納得した。そういう事だったのか。

「なるほど…分かります。私もできるだけ目立ちたくないと常日頃から思っているので」

「え?嘘だろ?あんたが?」

こいつ魔術ぶつけてもいいかな。

私の殺気を感じ取ったのか、ヘルビンがわずかに怯む。

「いや、そう思うのもしょうがないと思うぞ。どう見ても目立ってるだろお前」

「あんたが言うなよ…」

「あ?」

私の事を鼻で笑ったスピネルにヘルビンがぼそっと突っ込むが、睨み返されてさっと目を逸らした。

そう言えばこいつもなかなか口の減らない奴だった。その歯に衣着せぬ性格が殿下に気に入られていたのだが。

だがまあ、それはそうとして色々と言いたい。

 

「私だって本当に目立ちたくはないんです。好きな事をして、地味で穏やかな暮らしが送れたら良いと思います」

そう、私だって少しくらい想像してみた事がある。殿下と親しくなる機会などなく、ただの貴族の一人として生きるリナライトやリナーリアの姿を。

できれば魔術師になりたい。魔術研究に人生を捧げるのが最も理想的だ。

研究室に籠もって、毎日ひたすら本や魔導具に囲まれ、魔術の深奥を目指し、それだけ考えて生活できたら。きっとそれだけで満足だろう。

 

「…でも、()()()()()()()()()()()()()()

 

私はその道を決して選ばない。私には成し遂げたいこと、叶えたい望みがある。

安楽で穏やかな人生などより、私はこの望みを叶える可能性のある道を選ぶ。

何度生まれ変わろうともだ。

「貴方は何がしたいのですか?それは血を分けた姉を避け、目立たずに生きる事で得られるものなのですか?」

 

「……」

ヘルビンは言葉を失って私を見返した。

ニッケルが、殿下やスピネルが、彼を気遣わしげに見つめる。

「…俺だって分かってるよ。こんなの良くないって。…姉上は優しい人だ。俺が困ってるって分かってるから話しかけてこない」

ヘルビンはうつむいてポツリと言った。

「父上も、兄上や上の姉上も、スフェン姉上の事を良く思ってない。家の恥だって言う。ゲータイト家から言われてるんだ。姉上を監視しろ、説得してまともにしろって。…でも俺は、そんな事したくない。だからずっと家には、『関わりたくないから知らない』って返事をしてる」

「…姉君のことが好きなのだな」

殿下に言われ、ヘルビンは苦笑した。

「俺にとっては良い姉だったんですよ。一番歳が近かったのもあるけど、強くて優しくて、いっつも俺を守ってくれた。今はあんなんですけど、…でも、やっぱり大事な姉上だ…」

 

「貴方があまり先輩に近付くと、ご実家がさらに強く干渉してくる可能性があるという事ですか?」

「…ああ」

ゲータイト家は二男二女、ヘルビンは一番末っ子のはずだ。親や兄からの圧力には逆らい難い。

あそこは塩の権益で伯爵家とは思えないほどの力を持っている。と言うより、権力が大きくなりすぎるのを抑えるためにあえて伯爵以下を塩の産出地に配置しているのだろう。爵位よりも実益を与えられた者の領なのだ。

だからヘルビンの将来など彼らの思うがままだ。実家を出たくても、ゲータイト家から睨まれている騎士などどこの家も迎え入れたがらないだろう。

ゲータイト家以上の後ろ盾でもいれば別だが、彼はまだ16歳の子供なのだしそんな後ろ盾などない。

今は実家と姉どちらにも一定距離を置く事で誤魔化しているようだが、それがどこまで通用するか。

前世で卒業後に近衛騎士になりたがっていたのも、殿下と仲良くなったせいもあるかも知れないが、近衛騎士ならばゲータイト家の力が及びにくいと思ったからかも知れない。

 

 

「…なら、なるべく目立たず、家の目も届かない場所で会えば良いのではないか。それならヘルビンも良いだろう」

そう言ったのは殿下だ。

「そうだな。ついでに、見つかったとしてもゲータイト家が文句言いにくい場所だと一番いい」

スピネルもまたうなずく。

「…でも、そんな場所どこにあるんですか?学院の中はすぐ人目につくんで無理ですよ」

ヘルビンがそう反論するが、私はどこを指しているのかすぐに分かった。

二人のその気遣いに嬉しくなる。

「…お願いできますか?」

「ああ」

殿下がうなずき、スピネルも仕方ないなという風に笑った。

「ありがとうございます…!」

 

 

 

それから10日ほど後、私は王宮の裏庭の薔薇園へと来ていた。

本当はもっと早く来たかったのだが、スケジュール調整に少し手間取った。シリンダ様にも協力してもらってやっとまとまったのだ。春休みに入る前に来られただけまだマシだ。

 

「去年よりも少し青みが強くなったんじゃないか?」

殿下が大輪の薄青の薔薇を見下ろしながら言う。

「そうですね。まだまだ調整中のようですが」

「ああ、もしかして、それが魔術で遺伝子操作している薔薇かい」

「あっ、はい。そうです」

セムセイに言われ、私は肯定した。そう言えば少し話したことがあったか。

「セムセイも知ってんのか」

「リナーリアさんにはうちの小麦にもちょっとアドバイスをもらったからね」

「リナーリア様は植物のことには造詣が深くていらっしゃいますものね」

「マジすか。すげえ」

今日は殿下とスピネルの他、討伐訓練の時に同じグループだったセムセイ、ニッケル、ペタラ様がいる。さらにカーネリア様も一緒だ。

それから、あともう二人。スフェン先輩とヘルビンの姉弟だ。

 

「ヘルビンとお姉さん、今頃仲良く話せてるっすかね」

「そうですね…」

あの二人は今、城の中の一室にいる。

部屋の中に入ってしまえば他の生徒や貴族の目はないから安心だ。きっと姉弟水入らずで話している頃だと思うが…どうかな。しばらく疎遠だったしな。

 

「殿下、本当にありがとうございました。スピネルも」

「いいや。こうして皆に休日に会えるのは楽しいしな」

「そうだな」

今日は男子は殿下の個人的な昼食会、女子はスピネルが主催の薔薇の鑑賞会という形でひっそりと城に呼んでもらったのだ。

スピネルは自分が女子ばかり呼ぶ役と決まってちょっと不満そうにしていたが、文句は言わなかった。良い奴だ。

班の皆も呼んだのはカモフラージュのためだが、もちろん親睦を深めたいという意味もある。全員口が堅そうだしちょうど良かったのだ。

ちなみにカーネリア様は話を聞いて「私もスフェン様に会いたいわ!」と言うので来てもらった。

どうやら同じ騎士課程の女子として剣術の話がしたいらしい。後で全員で昼食を取る予定なので、そこで好きなだけ話してもらおうと思う。

 

「昼食までまだ少し時間がある。もうちょっと歩こう」

「はい」

私は薄い青紫の薔薇に別れを告げて立ち上がり、周囲の皆を見回す。

全部で6人。スフェン先輩とヘルビンも加えれば8人になる。こんな大人数で薔薇園を訪れるなど前世から合わせても初めてのことだ。

目的の一つだった殿下とヘルビンの仲はあまり取り持てていない気がするが、しかしこれも案外悪くないな、と私は思った。



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第54話 流星の竜

今日は平日だが王宮魔術師団の所に来た。

勝手知ったる何とやらで、すれ違う魔術師達に挨拶をしながら廊下を歩き、奥の研究用の一室へと入る。

「セナルモント先生、こんにちは」

そう声をかけると、ボサボサ頭の魔術師と、もう一人の若い男の魔術師が顔を上げた。

「やあ、リナーリア君。平日にここに来るなんて珍しいねえ」

「あっ、リナーリアさん!こんにちは」

「こんにちは、テノーレン様」

このテノーレンは、去年王宮魔術師になったばかりの男だ。

火と地の魔術が得意で、あまり研究などには興味を持たない戦闘向きの魔術師だったはずだが、何故か今世では古代神話王国に興味を持ったらしい。

戦闘や護衛任務の傍らちょくちょくセナルモント先生の研究室に来ているらしく、私ともよく顔を合わせている。

 

「あの、僕、王子殿下の水霊祭の祭礼に同行することになったんですよ。リナーリアさんも行かれるんですよね?」

「あっ、はい、そうなんです。テノーレン様もご一緒なんですね。とても心強いです。よろしくお願いします」

「いっ…いえ!こちらこそよろしくお願いします!」

私が頭を下げると、テノーレンも慌てて頭を下げて照れたように笑った。私は護衛される側で彼は護衛する側の立場なので、何がこちらこそなのかよく分からないが。

 

「ええっ、君たち二人共祭礼に行くの?今年は確かブロシャン公爵領だったよね?」

「はい。それで少々王都を留守にするので、今日はこちらに来たんです」

「いいなあ、あそこは魔術師にとっては聖地みたいなものだからねえ。魔術研究も盛んだし、僕も行きたかったよ」

「今年は僕とビリュイさんが随行なんですよ」

ビリュイというと、王宮魔術師では数少ない女性の魔術師だ。今回は王妃殿下や私、カーネリア様など女性が多いから選ばれたのかな。

あまり話したことはないが、女性同士だからかいつも私に親しげに挨拶をしてくれる。あと、お兄様の婚約者の師匠でもあったりする。

一度ゆっくり話してみたかったのでその機会があると良いな。

 

 

「あっ、それでね、この前すごい本を手に入れたんだよ!」

セナルモント先生が「ほら!」と言いながら、さっきまで覗き込んでいた本を見せてくれる。

革張りの表紙には古代神話王国文字で「竜伝承逸話集」と書かれている。

「これ…古代神話王国の本ですか!?」

「そうそう。もう何年か前になるけど、同僚がおかしな封印がかけられた箱を古道具屋で見つけてねえ。つい先日ようやく解除に成功したら、中には圧縮魔術がかけられてて色々な道具や本が出てきたんだってさ。その中に古代神話王国の本も混じってたって聞いて、無理矢理もらってきちゃったんだあ。あともう1冊あるけど、そっちはもうちょっと後の時代のやつみたいだね」

むむ、そう言えば前世でもこの時期先生は新発見の本に夢中になっていたな。私は祭礼の件で忙しかった頃なので内容はほとんど知らない。

 

「どのような内容なんですか?」

「竜にまつわるおとぎ話が中心だね。特に、竜と親しんでいる話や竜に助けられた話が多いよ。ほら、例えばこれ。かくれんぼが好きな竜の話が載ってる」

私は先生が開いたページを読んでみる。

古代神話王国の中でも古い時代のものなのか、言葉の選び方が少々独特で分かりにくいが、どうやら子供向けに平易に書かれている文章のようで読み解くのは簡単だ。所々に挿絵もある。

 

 

そこに書かれていたのは、ある不思議な少年の話だ。

とある村に現れる黒い髪に赤い瞳の小さな少年は、いつも村の子供達と一緒に遊んでいた。

しかしその少年がどこに住んでいるのか、誰の子供なのか、皆知らない。知っているのは『流星』という彼の名前だけだ。

「あなたはだれなの?どこからきたの?」と、ある日子供の一人が尋ねた。

すると黒髪の少年は「僕を捕まえられたら教えてあげる」と答えた。

彼はかくれんぼがとても得意で、しかも逃げ足が早かったのだ。なかなか見つけられないし、見つけてもすぐ逃げられてしまう。

誰も彼を捕まえられなかったが、何年か経ったある日、一番足が遅かった子供がついに彼を捕まえた。

転んで泣いていた子供を助けにきた彼を、子供がそのまま両腕で抱きしめて捕まえたのだ。

「…そして子供は『流星(ミーティオ)見つけた(トゥーヴェ)』と、呪文…いや、この場合は合言葉と翻訳した方が近いでしょうか。合言葉を言った。すると彼はたちまち姿を変じ、大きな翼と赤く輝く瞳を持つ黒い竜になった…」

 

空に浮かんだ竜は言った。

「よくぞ私を捕まえた。私は見ての通り、遠き空から来た竜である。私を捕まえた褒美に、なんでも願いを叶えてやろう」

子供はしばらく怯えていたが、やがて答えた。

「死んだお母さんに会いたい」

竜はその願いを叶え、母親の魂を冥府から呼び出すと、どこへともなく飛び去って行った。

母親の魂は一晩を子供と共に過ごし、翌朝には跡形もなく消えたという。

 

 

「…この他にも、剣だったりゲームだったり追いかけっこだったりするんだけど、この黒い竜と勝負をして勝ち、合言葉を言って願いを叶えてもらうって話がいくつも載ってる。竜が化けた姿は老若男女様々だし、願いは財宝だったり村に井戸をもたらす事だったり、時を巻き戻して死んだ恋人を助けたなんてのもある。あと、通りすがりの旅人と一晩飲み明かした話や、パンとスープをもらったお礼に歌を歌っていったって話なんかもあるね」

「…『流星』の、竜」

「うん、そう。君が3年前、あの遺跡で見たという本の中にあった竜の名前と同じだ。それ以上に全く違うのは、この本では基本的に竜が人間に親切だという点だ。人間から見て好意的な存在に書かれている」

遺跡の本には『流星』という竜がもたらした惨い被害ばかりが書かれていた。しかしこの本の『流星』は、人間を助けたり仲良く過ごしたりしているようだ。

 

「とても不思議だよね。おとぎ話の体を取っているけれど、古代神話王国の末期に人々を苦しめたという竜が実在するなら、この本に書かれている人間を助けた竜だって実在して良いはずなんだ。この本は王国中期頃に書かれたものだと僕は見ているけど、この竜が同一人物…同一竜かな?だとするなら、初めは人に好意的だったのに途中から敵対的になった事になる。どうして変わってしまったのか…」

セナルモント先生は、はるか1万年以上昔のその竜に思い馳せるように目を閉じた。

遺跡の本に書かれた竜。それは、竜のほんの一面にすぎなかったのかもしれない。

 

「あ、そうだ、もう1冊の方にはリナーリア君の好きな竜人の話も載っているみたいだよ。こっちの翻訳にはまだ時間がかかりそうだけど、でも君の言う通り、竜が実在するなら竜人も実在するかもしれないねえ」

「はい。ぜひ、その部分を詳しく読ませて下さい。研究の役に立ちそうです」

私は真剣にうなずいた。

竜人は実在するかもじゃなくて実在するんだけどな。前世で一度会った事あるし。

今この時からは未来の話になるし、言えないのだが。

「あ、僕も協力するよ!」

「ありがとうございます、テノーレン様」

「いやあ…」

テノーレンは何故かもじもじとした。

私の研究や調査はセナルモント先生と違って国から予算が出たりはしないので、協力してもらえるのはとても助かる。彼はこの歳で王宮魔術師になるだけあって優秀なのだ。

まあ私の研究もいずれ国の役に立つかも知れないしな。その時はたくさん褒美が出るはずだ。

もしそうなったら彼にもたくさんお礼をしよう。夢物語だけど…。



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第55話 旅への出発

「…それではお父様、お母様、お兄様。行って参ります」

私は旅行用のワンピースと薄手の上着に身を包み、見送りの家族に頭を下げた。

「気を付けて行って来るんだよ」

「行ってらっしゃい。皆様に失礼のないようにね」

「魔獣には十分注意するんだよ」

「はい。お土産、楽しみにしていてくださいね」

春休みに入ってすぐ私はジャローシス侯爵屋敷に戻り、殿下の水霊祭の祭礼に同行する準備をした。

旅の間ほとんどの事は王家が用意した使用人や護衛がやってくれるとは言え、貴族令嬢の旅支度は結構手間がかかるのである。

主にドレスが嵩張りすぎるせいで荷物が多い。

大変申し訳無いが、持っていかないとそれもまた大変に失礼になってしまうのだ。公爵家の晩餐にドレス無しで出られるはずがない。

女性というのはこういう所が面倒臭すぎるとしみじみ思う。

荷造り自体はコーネルに任せておいたが、大きなトランクが3つもできてしまった。これでも相当減らしたらしい。

トランクを馬車に積み込んでもらい、一旦城へと向かう。

例のアーゲンの家からもらった馬車だが、全く揺れないので本当に乗り心地が良い。

 

城へ到着後は、まずは王妃殿下にご挨拶だ。今回は体調を考え、国王陛下は同行しない。王族は王妃殿下と王子のエスメラルド殿下だけだ。

「王妃殿下、お久しぶりでございます。ご機嫌麗しゅう。今回は同行の許しをいただき、誠にありがとうございます」

「久しぶりですね、リナーリア。いつもエスメラルドと仲良くしてくれてありがとう。今回の旅でも、よろしくお願いします」

「勿体ないお言葉です。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」

 

並んでいる殿下とスピネル、カーネリア様にも頭を下げる。

「皆様、どうぞよろしくお願いします」

私は3人に頭を下げた。

「ああ」

「おう」

「よろしくね!」

三者三様に笑顔で返事を返してくれるが、ほんの少し申し訳なくなる。

私は多分、この旅で3人を危険に晒す事になる。

恐らく命の危険まではないはずだし、万一の時は私が命に換えても守るつもりだ。

その危険を冒しても、私には今回どうしても成し遂げたいことがあるのだ。

 

 

今回の旅は、日程短縮のために途中まで遠距離移動の転移魔法陣を使うことになっている。

転移先には先行した馬車が待っているので、そこから馬車に乗ってブロシャン公爵領まで行くのだ。

ブロシャン領は遠く、普通の馬車旅なら片道4日はかかる。

転移魔法陣で飛べるのは馬車1日分の距離がせいぜいで、かと言って連続転移は身体に負担がかかる。それに旅の風情もない。

そんな訳で、魔術と馬車とを併用して片道3日の行程が組まれた。転移魔法陣は頑張って維持を続ければ最大2週間くらいもつので、帰りもこの魔法陣を使う予定だ。

転移魔法陣の魔導具は遠距離用になればなるほど高価な上に使い捨てなので、金を持った貴族だけが使える旅行方法である。

 

王宮魔術師が設置した転移魔法陣を使い転移すると、すでにすぐ近くまで馬車が来ていた。

王家の馬車と言っても、長距離移動用なので華美さはあまりない。乗りやすさと丈夫さを重視したものだ。

差し出された殿下の手を取って中に乗り込む。カーネリア様はスピネルが手を取った。

王妃殿下は別の馬車らしい。気を遣ってこちらは子供だけにしてくれたようだ。

 

「今日はタルノウィッツ侯爵領まで行って一泊する予定だ。で、明日はガムマイト伯爵領まで行く。順調なら明後日の日暮れ前にはブロシャン公爵領に着くな」

スピネルが日程を教えてくれた。頭の中に地図を思い浮かべ、距離を計算してみる。

「明日の行程には少し余裕がありそうですね」

「ああ。天気も悪くないし、明日は朝のうち少しならタルノウィッツの町を見て回れるんじゃないか」

「まあ、それは楽しみだわ!タルノウィッツと言えば、勇猛な騎士団の伝説で有名ですものね」

「そうですね」

嬉しげに声を上げるカーネリア様に、私も微笑む。

 

タルノウィッツ領には騎士の間では有名な伝説がある。

山に囲まれ平地の面積が狭いタルノウィッツ領はそれほど裕福ではなく、たくさんの騎士を抱えるような余裕はなかった。

しかしある時、山に大きな魔獣が棲み着いた。その魔獣は強く凶悪であるだけでなく、たくさんの小さな魔獣を次々に生み増やしていた。

今まで少ない人数で必死に村や町を守り食いつないでいたタルノウィッツ領は、たちまち窮地に陥った。

主力の騎士団は倒れ、残っているのは老兵や弱兵ばかり。ついには魔獣の大群に町を囲まれ攻めかかられ、人々は皆で死を覚悟した。

だが、老兵ばかりの最後の騎士団はそこで奮起した。

子や孫の住むこの町を、何としてでも守らねばならぬ。

彼らは傷付き血を流しながらも魔獣と三日三晩戦い続けた。中には手足が千切れてもなお最後まで戦った者や、(はらわた)をこぼしながらも一晩以上戦い続けた者までいたという。

そうして、彼らは騎士団のほぼ全員が死亡するという多大な犠牲を払いつつ、なんとか魔獣の群れを殲滅し街を守ることに成功したのだ。

 

「勇猛っつうか、それもう死霊(ゾンビ)兵だろ。ホラーじゃねえか」

「お兄様ったら夢がないわね!」

カーネリア様は憤慨しているが、私としてはスピネルの意見に近い。手足が千切れたり腸がこぼれているのに長時間動ける人間などいる訳がない。

この伝説は人々の間では英雄譚として語られているが、魔術師内ではこの時の老騎士団は、今では禁術となっている肉体に過剰な強化をかける魔術を刻み込んで戦ったのではないかという説が有力だ。

一般的な魔術というのはだいたい、魔力を通している間か、その後の僅かだけしか効果はない。魔術の種類やかける対象にもよるが、人体に対する魔術の効果は長くてもせいぜい数時間程度だ。

それ以上の時間効果を発揮させるには魔法陣や魔導具を人体に埋め込む必要があるが、それは今の王国法では基本的に禁止されている。あまりに危険すぎるからだ。

この伝説の当時はまだ禁止されていなかったはずだし、今となっては確かめる方法もないのでわざわざ言う者はいないが。

 

「確かに、彼らの勇気と奮戦ぶりは素晴らしいものだと思うが、それほどに傷ついてもなお戦い続けるというのは空恐ろしくも感じるな」

殿下もスピネルと同じく、この伝説についてはやや否定的な感想を持っているようだ。

「だろ?」

「まあ…それはそうですけれど…」

カーネリア様が不満げに口を尖らせ、それから私の方を見る。

「リナーリア様はどう思うの?」

「私ですか?うーん…」

私は少し考える。

「私は三日三晩戦うのはまず無理ですし、やりませんね。なるべく相手の戦力を一箇所に集める方法を考え、そこで全力を出して一気に決着をつけるのが最も勝率が高いでしょう。そういう戦い方に持ち込めなかったらその時点で負けでしょうね」

「リナーリア様も別の意味で夢がないわ!!」

カーネリア様の叫びに、殿下とスピネルもちょっと呆れた顔で笑った。



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第56話 勇猛な騎士

予定通りタルノウィッツ領に到着した殿下一行は、タルノウィッツ侯爵家一族あげての歓待を受けた。

晩餐の規模は控えめなものだったが、タルノウィッツ領の財政からすると十分な心尽くしと言えるだろう。

国王陛下の方針もあって、王妃殿下も王子殿下も特に贅沢を好む方ではない。私もそうだ。

スピネルやカーネリア様もその辺りは気にしない方のようで、これはブーランジェ公爵の教育の賜物だろう。

今回の祭礼に合わせ領に戻ってきていたタルノウィッツ侯爵はまだ年若く、良く言えば優しそう、悪く言えば優柔不断そうな雰囲気だった。

勇猛な老騎士団の伝説のイメージからは程遠いが、現実などそんなものだ。既に隠居している白髪の前侯爵の方が眼光鋭く、どこか野心的な印象を受ける。

そう言えば前世でも、隠居と言っても名ばかりで前侯爵があれこれ領政に口を出しているという噂を聞いたな。どうやら本当っぽい。

 

 

翌朝は快晴で、出発前に軽くタルノウィッツの町の中を散策する事になった。

殿下、スピネル、カーネリア様、私に、王宮魔術師のテノーレンが案内兼護衛として同行して5人だ。

テノーレンは以前タルノウィッツ領を訪れたことがあるらしい。今回の旅に随行として選ばれた理由の一つだろう。

魔術師だけで騎士が付いて来ないのはスピネルを護衛として数えているからだろう。忘れがちだけどスピネルはもう18だしな。本来なら今年で学院を卒業する歳だ。

「いいか、絶対はぐれるなよ。勝手に横道に入ったりするなよ」と注意してくるあたり、護衛と言うより保護者じみているが。

 

テノーレンに案内され、まずは市場を見ることになった。

市場は大きな通り沿いに作られたもので、道の両側に木製の小屋やテントがぎっしりと並んでいる。

まだ朝だがどこの店もすでに開いているようで、ぱっと見ただけでも様々な品物が店頭に並んでいるのが分かる。

行き交う人々の声が聞こえ、小ぢんまりとはしているが住民の活気が感じられる市場だ。

「なんだか肉を焼くいい匂いがするわね」

「お前さっきいっぱい朝食食べてただろ」

「食べたけど、でもいい匂いはいい匂いだわ」

カーネリア様がふんふんと鼻を動かす。やはり騎士を目指しているだけあって、彼女は朝からよく食べる方なのだ。

「この匂いは羊肉ですね。昨夜の晩餐にも出たかと思いますが、この辺りではよく食べられている料理です」

「ああ、あの…」

テノーレンの説明に私は昨夜の料理を思い出した。

羊肉は独特の癖があるのであまり好きではないが、あれは調味料とスパイスに漬け込んで癖を取ったものらしく、比較的食べやすかった。

市場で売られているのは、その味付きの羊肉を串に刺して焼いたものらしい。

 

「なんだ、食べたいなら買ってやるぞ」

匂いの源であるらしい串焼きの屋台を見ていた私に、スピネルが言った。

「お兄様、リナーリア様にだけ甘くないかしら?」

「こいつはもっと食べた方がいい。お前も見てただろうが」

「それもそうね…」

「いや私、今朝は十分食べたんですが」

普段朝はあまり入らないのだが、旅先でもあるし、ちゃんと栄養を取っておこうと思っていつもよりは多く食べたのだ。

 

「あんな量では足りないわよ、リナーリア様。もっと食べた方が身長も伸びるわ」

「身長以外も育つかもしれないしな」

スピネルは毎回うるさい。確かに身長も胸囲もカーネリア様には大きく負けているが。

もはや確信しているがこいつは絶対に巨乳好きだ。今まで女の気配がないのは好みの巨乳が近くにいないせいに違いないと思う。

スピネルを睨む私を殿下が真面目な顔で見る。

「大丈夫だ。リナーリアもこれからきっと成長する」

「殿下…!」

「だから君はもう少し食べた方が良い。朝食は大切だ」

「うっ」

殿下にまで言われた…。

「がんばります…」

そうだ。頑張ればもう少し成長するはずだ。諦めてはいけないのだ。

 

 

通りを歩きながら、果物の店や雑貨の店、川魚を扱う店やチーズの店などを覗く。

古道具屋らしい店の軒先には、少し変わったコインが並べられていた。豊かな顎髭のある老騎士の姿が刻まれたコインだ。

「カーネリア様、これはきっと伝説の老騎士団を刻んだコインですよ」

「あら、そうなの?」

店先を指さした私に、カーネリア様が振り向く。

「お嬢ちゃん、よく分かったね。これは老騎士団の戦いから100年経った時に、ここの領主様が記念として作ったコインだよ」

店主の男がにこにこと笑いながら言った。

色んな領が時々発行している記念コインは、通貨としては使えないが貴族に時々いるコレクターには人気のある品だ。これは結構古いので古美術品としての価値もあるだろう。

 

「まあ、とても素敵ね…!せっかくだから買っていこうかしら」

「赤毛のお嬢ちゃんは老騎士団の伝説が好きなのかい」

「ええ、もちろん。人々を守るために死力を尽くして戦った騎士の鑑ですもの。私も、将来は騎士になりたいの」

「おお、勇ましいお嬢ちゃんだ。きっといい女騎士様になれるよ。その将来への投資として、ちょっとまけてあげようじゃないか」

「あら、本当?」

店主の男の分かりやすい売り込みに、カーネリア様はその気になったらしい。コインを買うつもりのようだ。

値段を聞いたらそう高価でもないようだし、スピネルやテノーレンも止めないということは大丈夫なのだろう。

 

「いい買い物をしたね、お嬢ちゃん。もしかしたらこいつは、いずれもっと価値が出るかもしれないよ」

「どういうことだ?」

カーネリア様へ包んだコインを手渡しながら言った男に、殿下が聞き返した。

「うちのところの騎士団は、また昔みたいに有名になるかもしれない。何しろとっても勇敢だからね。この前だって、川向うの村にかなり大きな魔獣がいる群れが出たけど、村に被害が出る前にちゃんと倒したんだ」

「ほう」

少し興味を持ったらしい殿下が相槌を打つ。

「残念ながら、騎士様が1人死んじまったんだけどね。その騎士様が獅子奮迅の活躍ぶりだったらしい。片腕を肩から食いちぎられても、まだ戦い続けて一番大きな魔獣を倒したんだってさ」

「まあ…!本当に伝説の老騎士団のようだわ!」

カーネリア様は感嘆の声を上げたが、スピネルは完全に眉をしかめている。あまり妹に聞かせたい話ではないのだろう。

 

「肩から…。それでは完全に致命傷でしょうに、凄いですね」

「ああ。相当の騎士だろう。惜しいことをしたものだな」

「その騎士様は、老騎士じゃなくてまだ若かったらしいけどね。忠臣と認めて領主様が館の側に手厚く葬ったってさ」

騎士をわざわざ自分の館の側に葬るなど、よほどの功績を立てなければやらない事だ。ただの大きい魔獣くらいでそこまでするとは思えないが、そんな功績が認められるほど危険な魔獣だったなら王宮魔術師団に報告が届いているはずだ。

そんな話聞いたかな?と思ってテノーレンを振り返ってみたが、怪訝な顔で首を振った。やはり知らないらしい。

死亡者が出たから、騎士たちの士気が下がらないようにするためのパフォーマンスだろうか。現侯爵はともかく、あのうるさそうな前侯爵がよく許したな。

「そうだ、広場の方には老騎士団の記念碑が立てられているんだよ。もし良かったら花でも供えてやってくれ」

「わかりました。ありがとうございます」

 

「私、ぜひ記念碑に行ってみたいわ!」

「場所なら分かります。近いので行ってみましょう」

テノーレンがうなずく。

「なら、その前に花屋にも寄ってくか」

スピネルが指差した市場の隅には小さな花屋がある。

私達は、まずそちらへ向かうことにした。



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第57話 古書店と子供

記念碑があるという広場の少し手前まで来たところで、古書店の看板を見つけた。

思わず「あっ」と声を上げた私の視線の先を見て、殿下もその看板に気が付いたらしい。

「古書店か。少し寄ってみるか」

「…いいですか?」

周りを見ると、スピネルやカーネリア様、テノーレンもうなずいてくれた。

「ありがとうございます!」

 

古書店は見た目は小さな店だったが、中は思った以上にたくさんの本があった。天井近くまでぎっしりと本が並んでいる。

「わあ…!」

「そんなに嬉しいか?図書館の方がずっと多くの本があるだろう」

思わず歓声を上げる私に、スピネルが言う。

「王立図書館でも、所蔵されている本には限りがあります。こういう所には、個人で書いた本や既に失われたと思われていた本があったりするんですよ」

「掘り出し物ってやつか」

「そんなところです」

答えながら、棚に並んだ背表紙に目を走らせる。

何か面白そうな本はないだろうか。じっくり見たいが、あまり待たせても悪いし時間はかけられない。

 

そのうち、一冊の魔術書が目に入った。火魔術の使い手として高名な魔術師の名前が書かれている。

興味を覚えて手を伸ばしたが、結構高い所にあるので取りにくい。

一生懸命背伸びをしていると、「この本か?」と横から手が伸びてきた。殿下だ。

「そ、それです。…ありがとうございます」

本を手渡され、私は目の前の殿下を見上げた。こちらを見ている翠の瞳は、私の目線よりもだいぶ上にある。

「殿下、背が伸びましたね…」

「そうだな。また服を作り直さなければならん」

まだスピネルほどではないが、殿下の身長はこの1年で更に伸びたようだ。前世でも私より背が高かったが、今世ではさらに差が広がっている。

…なんだか置いていかれたような気がして寂しいな。

そう思う私に、殿下が少し不思議そうな顔をした。

「リナー…」

その時、後ろから甲高い子供の声が聞こえた。

「…やめろ、離せよ!」

 

見ると、スピネルが一人の子供の首根っこを捕まえている。

「おい。その懐に入れたものを出せ」

「い、いやだ!」

子供の上着の腹の部分は不自然に膨らんでいる。何か四角いものがそこに入っているのは一目で分かった。

「素直に返せば見逃してやる。じゃなきゃ兵士に突き出すぞ」

「うっ…」

スピネルに凄まれた子供はびくりと体を強張らせた。その側に、カーネリア様がしゃがみ込む。

「このような事をしてはいけないわ。…そのお腹に隠しているものを出して?」

「……」

子供はしばらく躊躇っていたが、カーネリア様にじっと見つめられやがておずおずと服の下から本を出した。

カーネリア様が受け取ったそれは、分厚い医術書だった。かなり専門的なものに見える。

「どうしてこんなものを…?」

どう見ても子供が読むものではない。金目当てで盗むには嵩張りすぎる上に、換金も面倒だ。この町に他に古書店があるのだとしても、すぐに足がつくだろう。

それに、子供の着ている衣服は多少古びてはいるものの清潔で、それほど貧しそうには見えない。

私以外の皆も、子供の行動に疑問を覚えているようだ。思わず顔を見合わせる。

 

「…あの、どうかなさいましたか?」

「えっ!?」

後ろからかけられた声に驚いて振り向くと、眼鏡を掛けた痩せた老人が恐る恐るこちらの様子を伺っていた。

どうやらここの店主らしい。騒ぎを聞いて出てきたのだろう。

「あっ、いえ、何でもありません!…そうだ、この本をください。お願いします」

私は殿下に本棚から取ってもらった魔術書を店主に差し出した。

「あ、はい。ありがとうございます」

本を受け取った店主が精算のために奥に戻る。

その隙にさっと目配せをすると、スピネルや殿下たちも分かったとうなずいてくれた。

 

 

急いで支払いを済ませ買った本を抱えて店を出ると、殿下が待っていた。

「皆はあっちだ」

スピネルたちは子供と一緒に広場の方にいるようだ。すぐにそちらへと向かう。

 

子供の名前はアイキンというらしい。

「…ぼくの叔父さんが、最近ずっと具合悪そうなんだ」

カーネリア様に事情を尋ねられ、アイキンはぽつぽつと話を始めていた。

「医術師はどうした?診せる金がないのか?」

アイキンはうつむいて小さく首を振る。

「…お医者さんには、行っちゃダメなんだって。だからずっと我慢してる」

「ダメって、なんで?」

「えらい人にそう言われてるみたい」

「偉い人?」

一体どういう事なのだろう。

 

 

アイキンに対し様々な質問をして聞き出してみたところ、話の概要はこうだ。

彼はまだ年若い叔父との二人暮らしをしている。

アイキンの父母はつい昨年、魔獣に襲われて死んでしまった。叔父はアイキンの母の弟にあたる男で、唯一の身寄りであるために引き取ってくれたのだという。

叔父は領主の所に騎士として勤めていてまだ独身だ。

若い男と子供の二人暮らしをはなかなか大変そうだが、叔父はアイキンの母親似の優しい男で、両親を亡くして悲しんでいるアイキンをよく慰めて励ましてくれた。

アイキンもまた、そんな叔父によく懐いていた。

 

しかし、今年に入ってすぐの頃から、叔父は騎士団の勤めのために3日か4日に1度くらいしか帰ってこなくなった。

収入には多少余裕があったので、アイキンの事は近所の者に面倒を見てもらったり、時々家政婦を呼んで何とかしたようだ。

アイキンは大事な騎士団の仕事なのだから仕方ないと寂しいのを我慢していたが、そのうち叔父の様子がだんだんおかしくなってきた。

家に戻ってきてもぼんやりとしたりだるそうにしている事が多く、顔色も悪い。しかも、少しずつ痩せてきている。

アイキンは当然心配したが、叔父は「騎士団の医術師に診てもらっているから大丈夫だ」と言う。

しかしいつまで経っても良くならないので、再三にわたって医者を勧めると「行くなという命令なんだ!」と怒られてしまい、アイキンはとてもショックを受けた。

優しかった叔父にそんな風に怒鳴られたのは初めてだったからだ。

 

それからしばらくアイキンと叔父とはよそよそしくなってしまっていたが、つい先日、叔父から叔父の同僚の騎士が死んだという話を聞いた。

どうして死んだのかは教えてくれなかったが、その同僚は叔父の友人で、アイキンも何度か会ったことがあり遊んでもらっていた。気のいい男だったが、叔父と同じく近頃は具合が悪いとかで全く会っていなかった。

叔父は酷く悄然とした様子で、ますます顔色が悪くなったようだった。

それを見てアイキンは、このままではいけないと強く思った。

 

 

「…ぼく、叔父さんを助けたいんだ。医術の本を読めばなにか分かるかと思ったんだけど、すごく高くてぼくのお小遣いじゃ買えないから…」

「…だからって盗むのはダメだろ」

「後で返すつもりだったんだ!」

彼の気持ちは分かるが、それは立派な犯罪だ。ばれなければいいというものではない。

それに、彼がいくら医術書を読んでも分かるものではないだろう。医術書は医術師…つまり、魔術を使って医療を施す人間のために書かれたものだからだ。

だが、それ以前にこれは…。

 

「おい…どうする?きな臭い匂いしかしないぞ、これ」

スピネルが顔をしかめながら言った。私もそれに同意する。

「そうですね…不自然なことが多すぎます。まず、他の医術師に診せるのを禁じているのがおかしいです。長期間体調を崩しているなら、別の者に診せるという選択肢はあって然るべきでしょう。それに、そんな状態の人間をいつまでも働かせているのもおかしい。しかも3日に1度しか帰れないような任務にです」

「他の同僚は何も言わないのだろうか?」

殿下が怪訝そうに言う。アイキンの話を聞く限り叔父の異変は誰の目にも分かるほどらしいから、その疑問はもっともだ。

「…ねえ、叔父さんには他にお友達はいないのかしら?誰か心配してくれる人は?」

カーネリア様がアイキンに尋ねる。

「…わかんない。でも、叔父さんの入ってる部隊はみんな仲良しだって聞いたよ。みんな、家族がいない人ばっかりだから気が合うんだって」

「……」

 

身寄りのいない人間ばかりで作られた部隊。謎の体調不良。診療の禁止。嫌な予感しかしない。

「…王宮魔術師団に通報し、調査を依頼した方がいいかもしれませんね」

そう躊躇いがちに言ったのはテノーレンだ。カーネリア様が心配げな表情になる。

「でも、ちゃんと調査してくれるかしら…?」

明らかに怪しいが、何しろ子供の言うことなのだ。どの程度本気で調べてくれるか分からない。

中途半端に調査が入れば、証拠を掴む前に隠蔽されてしまう可能性もあるだろう。

「死んだという同僚の話も気になるな。もし何か、一刻を争う事態だったら…」

殿下が考え込みながら言う。

「その死んだ同僚って、あの古道具屋が言ってた大きな魔獣との戦いで死んだ騎士なんじゃないのか?それなら具合の悪さとは関係ないだろ」

「…でも、アイキンには死因を教えていないんですよね。騎士が戦いで死ぬ事もあるくらい、子供でも分かるでしょうに」

それに、何だか色々揃いすぎているような気もする。

 

私はアイキンに向かって尋ねた。

「その叔父様は、今どちらにいるんですか?」

「今日は休みの日だから家にいるよ。具合悪いみたいで、朝から寝てるけど…」

ふむ。ならちょうどいいな。これも何かの縁だろうし、もしも重大な事件だったらと考えると見過ごす事はできない。

「では、私が叔父様を診てみましょう」

「え?お姉ちゃんが?」

びっくりした顔のアイキンに、私は微笑んで見せる。

「私はこれでも魔術師見習いなんですよ」

「ほんと!?」

 

「できるのか?」

殿下に尋ねられ、私はうなずいた。

「人体に関する探知魔術は知っています。治療は難しいと思いますが、診断だけならできるかもしれません。それに、私ならその叔父も警戒しないでしょう。どこから見ても医術師には見えないでしょうし」

今の私はただの16歳の少女だ。こんな医術師などいる訳がない。

ここにはテノーレンもいるが、彼ではきっと警戒されるだろう。いかにも魔術師っぽい雰囲気だし。

「そうだな…。なら、調べるだけ調べてみてもいいだろう」

「私もいいと思うわ!」

殿下とカーネリア様が賛成し、スピネルは「しょうがねえな」とため息をついた。



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第58話 叔父の男

アイキンの家は広場からすぐ近くだった。

「叔父さん、ただいま」と言うアイキンの後ろについてぞろぞろと家の中に入る。

「ああ、おかえり…」

そう言いながら出てきたのは、不健康そうな顔色をした男だった。ついさっきまで寝ていたのか、やや乱れただらしない格好をしている。

体格は騎士らしくがっちりとしているが、頬がこけている。そのせいで少し老けて見えるが、アイキンの話ではまだ20代半ばのはずだ。

「だ、誰…いえ、どちらさまで?」

叔父はいきなり大人数で押しかけてきた私たちにずいぶんと驚いたようだが、身なりを見てそれなりの身分の人間だと察したのだろう。とりあえず丁寧に応じてくれた。

 

「あのね、この人たちが、叔父さんの病気を診てくれるって!」

「何?」

アイキンの言葉に、叔父が表情を険しくする。

私は一歩前に進み出ると、わざと偉そうに胸を張った。

「私はこれでも、王都の魔術学院で魔術師の勉強をしているのです!この私が自ら診察をしてあげますので、光栄に思いなさい!」

ふん!と鼻息荒く言った所で、スピネルがすすっと叔父の方に近付き耳打ちをする。

「お嬢様は最近覚えたばかりの魔術を使いたくて仕方ないんだ。腕はへっぽこだからどうせ何もわかりゃしないが、いっぺんやれば気が済むだろうから、悪いがちょっと付き合っちゃくれないか。後で謝礼はする」

今の私は魔術師修業中の我儘なお嬢様で、皆はその取り巻きや友人という設定だ。ここに来るまでに軽く打ち合わせをしておいた。

 

「しかし…」

叔父は困った顔で私や皆の顔を見ていたが、その足にアイキンがすがりついた。

「ね、叔父さん、診てもらおうよ。お願いだよ。叔父さんが心配なんだ」

「……」

やがて、叔父は「分かった」とうなずいた。

それでアイキンが納得するならいいと思ったのだろう。

 

 

通いの家政婦がしっかり仕事をしているようで、家の中はきちんと片付いていた。

「では、いきます」

ベッドの上に横たわったアイキンの叔父の胸元に手を当て、探知魔術を発動する。

ざっと見たところ、身体そのものに特に異常はなく、怪我や病気の気配も感じられない。だが、臓腑全体が弱っているようだ。顔色が悪く痩せているのはそのせいだろう。

どうも体内の魔力の流れがおかしい。特に心臓のあたりだ。ここを中心に魔力の流れが狂っているように感じる。私はその部分に意識を集中させた。

 

「…これは」

私は慌てて手を引いた。

「どうしたんだ?」

アイキンの叔父が怪訝な顔で起き上がろうとする。咄嗟にその額に手を当て、魔術を発動した。

『しばしの安息を与えよ』

叔父の身体が傾き、再びベッドの上に倒れた。

「…おい、どうなってるんだ?」

突然の私の行動に周りの皆は驚いている。

「一旦眠っていただきました。少し厄介そうだったので…」

叔父には上手く眠りの魔術が効いたようだ。とりあえず、彼にはしばらく眠ってもらった方がいい。

「体内におかしな魔力反応があります。衰弱しているのはそれが原因のようなのですが、詳細が分かりません。魔力の異常は自然にも起こることですが、これは人為的なものを感じます。巧妙に隠蔽されているようにも思えます。しかし、このままこれ以上探知を続けるのは危険かも知れません」

「危険って、どういうこと?」

「ほとんど私の勘なのですが…逆探知の魔術も仕込まれているかも知れません」

「体内に逆探知の魔術を?それは、つまり…」

テノーレンが驚きの声を上げた。私はそれにうなずく。

「はい。…彼は、禁術の被検体である可能性があります」

 

「…すぐに王宮魔術師団に通報を」

そう言ったテノーレンを、私はすぐに止めた。

「待って下さい。まだ何の証拠もないんです」

現時点で分かっているのは、その可能性があるという事だけだ。魔術師団を動かすには弱い。

「可能性があるだけで十分ではないのか?」

「それだと、まずは調査の魔術師が派遣されてくる事になるでしょう。…でも、もし彼が被検体であるという推測が正しければ、犯人は彼に『医術師には診せるな』と命令できる立場の人間です。しかも、死んだという彼の同僚も被検体だったなら、組織ぐるみでやっていると考えるべきです」

「つまり、タルノウィッツの騎士団上層部か、それよりも上…下手をしたら、領主も一枚噛んでる」

スピネルの言葉に、皆の表情に苦いものが浮かぶ。

「…禁術に手を出しているなら、王宮魔術師団の動向には注意しているはずだ。調査が来た時点で、間違いなく隠蔽に走るだろうな」

「はい。そして、真っ先に消されるであろう証拠は…」

私は眠ったままのアイキンの叔父を見下ろした。

生きた証拠は、犯人にとって最も都合の悪いものだ。

 

 

「ま、まって、どういうこと?叔父さんどうなっちゃうの?」

黙って話を聞いていたアイキンが必死の声を上げる。細かい内容までは分からなかっただろうが、このままでは叔父が危険だという事は理解しているようだ。

「大丈夫、落ち着いて。叔父様は必ず助けてみせるわ」

カーネリア様がアイキンを宥める。

「で、でも…」

不安そうに私たちを見上げるアイキン。

父母を亡くした彼から、更に叔父を奪うような事は絶対に避けなければならない。

「…叔父様は、明日の朝にはまた仕事に行かなければならないんですよね?」

「うん…」

そして、また3日は帰ってこない。その間にこちらの動きに気付かれたら、彼の命は危ない。時間がないのだ。

それにきっと、彼の他にも被検体はいるはずだ。その者たちも助けなければ。

 

「今、ここで証拠を抑えるべきです。そして、速やかにタルノウィッツ騎士団を制圧できるだけの戦力を送ってもらいましょう」

それが最も確実だし、被害を最小限に抑えられる可能性が高い。

「でも、どうやって証拠を?これ以上彼の身体を調べれば、逆探知の魔術が発動してしまうのでは」

王宮魔術師であるテノーレンは、さすがに魔術の事に関しては話が早い。逆探知されれば、敵にこちらの存在を知らせる事になる。

「意識潜行の探知魔術なら、逆探知の魔術を掻い潜れると思います。テノーレン様は使えますか?」

「…すみません、使えません。僕は戦闘や護衛が専門なので…。補助ならば経験はあるのですが」

やはりそうか。意識潜行はかなりの高等魔術な上に、一人で使う事はほとんどなく誰かが補助に付く必要がある。戦闘専門の魔術師なら、習得していない者の方が多い。

「では、私が行います。使用経験もありますので」

「あるんですか!?」

「探知魔術は得意な方です。私の師匠は探知が専門のセナルモント先生ですし」

実際に使ったのは前世での事だし、テノーレンが驚くのも当然なのだが、ここは何とかそう言って押し切るしかあるまい。

 

「ちょっと待て。それは上級の魔術で、しかも危険なやつじゃないのか」

待ったをかけたのはスピネルだった。騎士のくせに、探知魔術についての知識があるのか。

「それに失敗して、意識が戻らないまま廃人になったっていう魔術師の話を聞いた事があるぞ」

「何?」

殿下が眉をひそめる。

「本当か?リナーリア」

「いえ、それは昔の話です。危険が全く無いとは言いませんが、今はほぼ安全に術を使う方法が確立されています」

私は迷わずに殿下の目を見て言った。100%成功するとは言えないが、だけど自信はある。

殿下はしばし私の目を見つめ返し、それからテノーレンの方に向き直った。

「テノーレンはどう思う」

テノーレンは私を見て、それから問いかける。

「…リナーリアさん。使用経験があるというのは、本当なんですよね?」

「はい」

「その時の使用時間は」

「10分でした」

テノーレンは一瞬目を閉じた。それから一つ息をつき、口を開く。

「…5分。王宮魔術師として、許可できるのはそこまでです」

「テノーレン様…」

殿下もまた、テノーレンの答えを聞いてうなずいた。

「わかった。テノーレンとリナーリアを信じよう」

「私は魔術の事はよく分からないけれど、リナーリア様なら大丈夫だと思うわ!」

カーネリア様も賛成してくれる。

 

後は…とスピネルの方を見ると、私の顔を睨みつけてきた。

「…本当にできるんだな?」

「はい」

「……」

じっと私の目を見ている。嘘は絶対に見逃さないと言わんばかりだ。

「スピネル…」

「なんだ」

「私が死んだら殿下にお伝え下さい。どうか立派な王におなり下さいと…」

「遺言残そうとすんじゃねえよ!!しかも目の前に本人いるだろ!!」

スピネルは叫ぶと、「ああもう…」と言いながらぐしゃぐしゃと片手で頭をかき回した。

 

「分かったよ…そんだけ軽口が叩けるなら大丈夫だろ。やってやれ。こいつのためにな」

そう言って、アイキンの頭にぽんと手のひらを乗せる。

ずっと不安そうだったアイキンの顔が少しだけ明るくなった。

「叔父さん、大丈夫なの?」

「まだ分かりません。でも、助けるための証拠を必ず見つけてみせます」

微笑む私に、アイキンは表情を引き締める。

アイキンは私へと真っすぐに向き直ると、腰を折って大きく頭を下げた。

「…叔父さんを、どうぞよろしくお願いします」

「分かりました。…どうぞ、お任せ下さい」



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第59話 意識潜行(前)

「意識潜行は、名前の通り自分の意識を対象物の中へと潜り込ませる魔術です。対象物の現在の状態だけではなく、過去に起こったことまで『()る』ことができます。彼の体内に逆探知の魔術が仕込まれていたとしても、意識潜行ならばその魔術に触れることなく、彼に何が行われたかを知る事ができると思います」

あまり魔術に詳しくないだろう殿下たちに向かい、私は説明をする。

「この魔術は先程スピネルが言った通り、意識を潜らせたまま戻って来られなくなるという危険を孕んでいます。それを防ぐため、意識潜行を使う者の補佐として、意識を引き戻す目印の魔術を使う者を傍に付ける技術が開発されました。今回は、テノーレン様にこの補佐を行ってもらいます」

テノーレンがうなずく。この補佐はやった経験があるそうだから大丈夫だろう。

 

「この目印の魔術は、潜行する術者と関わりの深いものを何か媒介にします。思い入れが強ければ強いほど良いのですが、物でも生物でも構いません。例えば普段から身につけている指輪だったり、愛用の杖だったり、配偶者や家族、仲間だったりします。それを手に握った状態で魔術を使います」

私の場合、思い入れの深い品に心当たりはあるのだが、この場に持ってきているものはない。

だから私は殿下の顔を見つめた。

 

「…そういう訳なので、殿下。私の手を握っていてくれませんか」

私のこの世における一番の未練、一番の執着は殿下の命だ。殿下を媒介にすれば、私は意地でも絶対に戻ってくるだろう。

そう思ったのだが、後ろで話を聞いていたカーネリア様がなぜか「きゃあ!」と悲鳴を上げて赤面しながら頬に両手を当てた。

見ると、つられて殿下まで顔を赤くしている。

…しまった。物凄く意味深な感じになってしまった。

「い、いえ、違います!変な意味ではないです!ほら、殿下は大切な友人ですし!!」

慌てて弁明するが、カーネリア様はきゃあきゃあ言っているしテノーレンはなぜかショックを受けた顔をしていた。

ただ一人スピネルだけは真面目な顔をしていたが、普段なら真っ先にからかってくるはずなのに何故なんだ。こういう時こそからかってくれないと困るんだが。

 

「ええと、ただ目印にするだけです!この魔術で殿下に危険は及びませんので、だから、その、いいですか?」

「う…うむ。わかった」

殿下はちょっと目を逸らしながら了承してくれた。

うう…本当に違うので気にしないでほしい。とても気まずい。

「では、さっそく魔術に取り掛かりましょう!テノーレン様、お願いします!…あ、あと、紙を数枚とペンはありますか?」

「うん、あるよ。持ってくる」

横で話を聞いていたアイキンがそう答え、駆け出していった。

 

 

 

「…では、魔術を始めます。5分経ったらテノーレン様が合図をして下さるので、その時は殿下は手を握ったまま私に呼びかけて下さい。それでよりスムーズに意識を戻せるはずです」

「うむ」

私が握った殿下の手には、既にテノーレンが目印の魔術をかけて保持してくれている。後は意識潜行の魔術を使うだけだ。

アイキンの叔父の胸に手を当て、目を閉じて呪文の詠唱をする。

『我が(まなこ)(うつ)()の眼にあらず。深淵にこそ我が眼はあり。過去を見通し、偽りを見破る眼なり』

閉ざされた視界が、更に深い暗闇の中に沈んでいく。音が、感覚が遠ざかっていく。

 

 

…気が付くと、私は温かく赤い水の中にいた。

この景色は以前にも見た事がある。意識潜行の魔術を使った時に見えるイメージの世界だ。無事に魔術に成功したらしい。

あまり時間がないので、急いで用を済ませなければならない。

 

意識を集中して研ぎ澄ませると、周囲にいくつもの泡が浮かび上がった。

泡にはそれぞれ、様々な光景が写っている。

たくさんの人々。男もいれば女もいる。剣を持った騎士らしい姿の人間が多い。

アイキンの姿もちらほらと見える。心配そうな顔でこちらを見ている。

幾人かの親しげな男たち。

血に塗れた誰かの姿がひときわ大きく映る。

…違う。これではない。

 

時折見える魔術師らしい壮年の男に、更に意識を集中させる。

魔術師から何かを訊かれているらしい場面が多く見える。探知魔術もかけられているようだ。

魔術師は古びた本をめくりながら、手に持った書類にしきりに何か書き込んでいる。

タルノウィッツの前侯爵の姿もちらりと見えた。

…もっとだ。もっと遡れ。

 

またどこかの天井が見える。先程から何度も見ている部屋の天井だ。

あの魔術師の男がこちらを覗き込んでいる。いくつもの魔石を手に持っている。

杖を振りかざし、長い呪文を詠唱し始める。

遠くから私を呼ぶ声が聴こえた。

…待って下さい。もう少しなんです。

また呼んでいる。

…もう少し。

また、声が、

 

 

 

「…リナーリア!!」

はっと目を開ける。

翠の瞳が間近で私を見ていた。

「…殿下」

「良かった…なかなか目を覚まさないから心配した」

「すみません、ちょうど大事な所だったので、少し粘ってしまいました…。起こして下さってありがとうございます」

大丈夫だと微笑んで見せると、殿下はほっとしたように握っていた手を離した。

「どこも何ともないんだな?」

「はい、問題ありません。必要な事もちゃんと視えました。…紙とペンは?」

「これだよ」

アイキンに紙とペンを手渡された私は、近くの机に向かいガリガリとペンを走らせる。

「…リナーリアさん、これは…」

テノーレンは見れば分かるだろうな。私が何を、どうやって描いているのか。

「…すみません、その話は後で」

テノーレンはかなり複雑そうな顔をしたが、一応うなずいてくれた。

 

 

しばらくして、出来上がったのはあちこちが崩れた三枚の魔法陣図だ。

暗号化するためにいくつも計算をしながら描いたので少し時間がかかってしまった。

「これは?」と尋ねてくる殿下たちに、私は説明をする。

「彼の体内…心臓に埋め込まれている魔法陣を暗号化したものです。間違いなく、彼は禁術の被検体でした」

私は一枚目の魔法陣を指す。

「これは外傷を受けた際、自動的に傷を塞ぎ、延命する魔法陣」

それから二枚目の魔法陣を指す。

「これは同じく外傷を受けた際に発動するもので、戦意を高揚させる魔法陣」

最後の三枚目。

…これは、アイキンの前では言わない方がいいだろう。

 

「…どの魔法陣も未完成です。安定した効果を得られるものとは思えません。そして、未完成の魔法陣をいくつも体内に書き込んでいるせいで、予期しない副作用が発生しているようです。体内の魔力が乱れ、彼の身体を弱らせています。今はまだ大丈夫のようですが、この状態が続けば命に関わります」

「…ひどいな」

「施術したのはここの騎士団に所属している魔術師です。…そしてこれらの魔術はおそらく、タルノウィッツ領の伝説に残っている老騎士団にかけられたものと同じです」

「え…?」

カーネリア様が口元に手を当てる。

 

「タルノウィッツの老騎士団の伝説の正体は、禁術を使うことで普通の人間には有り得ない身体能力を発揮した者たちです。伝説の老騎士たちが戦いの後ほとんど死んだのは、魔獣との戦いで傷ついただけではなく、禁術の反動を受けたからだと思われます」

騎士団の魔術師が持っていた古びた本。その中身がわずかに読めたのだが、伝説の老騎士団の戦いと、その時使われた魔術について書かれているようだった。

きっとどこかに、当時その魔術を施した魔術師の残した資料があったのを発見したのだろう。

「犯人の目的はその禁術を再現し、完成させる事でしょう。アイキンの叔父様の所属している部隊は全員が被検体のようでした」

「そんな、どうして?」

「…騎士の損耗を防ぐため…少ない戦力で多くの魔獣を倒すため、でしょうか。この領は、たくさんの騎士を抱えられるほど裕福ではありませんから…。あるいは、ただの功名心かも知れませんが…」

アイキンの叔父から読み取れた情報からは、そこまでは分からなかった。当事者に訊かなければ分からないだろう。

「…魔術師に指示をしているのはタルノウィッツ前侯爵のようでした。施術の際に立ち会っている場面が視えましたので。現侯爵が関与しているかは分かりません」

立場的に全く知らないという事はない気がするが、これも調べてみなければ分からない。

 

重たい沈黙が場に落ちた。

静まり返ったところで、アイキンが必死に言う。

「…それで、叔父さんは?叔父さんはどうなるの?」

「大丈夫です。こんな事は到底許されるものではありません。王宮魔術師団が、悪い人たちを捕まえて叔父様を助けてくれます」

「ほんと!?」

やっとアイキンに笑顔が浮かんだ。私はそれに微笑んでうなずき、周囲の皆を見回す。

「今すぐこの魔法陣を証拠として王宮魔術師団に送りましょう。これを見れば、すぐに動いてくれるはずです。…アイキン、魔術局の場所はわかりますか?」

「うん、分かるよ!案内する!」

魔術局は各領に一つは必ず置かれているもので、魔術師たちによって運営されているギルドだ。住民に様々な魔術を提供しその生活を支えたり、依頼を受けて魔術師を紹介したりする。

この魔術局には必ず長距離間の転写魔術を使える魔導具や遠話の魔導具があるので、それを借りれば王宮魔術師団に連絡ができる。

 

「魔術局を使って大丈夫か?領主の息がかかっていたりしないか」

「魔法陣は暗号化してありますし、人に見られたり聞かれても問題ないように伝えます」

セナルモント先生に連絡がつけば一番手っ取り早い。あの人は大体いつもいるから大丈夫だろう。



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第60話 意識潜行(後)

「ではまず、私とアイキンは魔術局に行ってきます」

「君たちだけでは危ない。俺も行こう」

そう言ってくれたのは殿下だ。続けて、スピネルが言う。

「なら、俺は一旦戻ってうちの護衛騎士の誰かを呼んでくる。王宮魔術師が到着するまで、アイキンたちを守る人間が必要だろう。…あと、遠話の魔導具も持ってきた方がいいよな?」

「そうですね。とりあえず通報だけは魔術局からしますが、実際に兵を動かす時にはもっと詳しくやり取りをしなければならないでしょうし…。言うまでもありませんが、タルノウィッツ側には気付かれないようにお願いします」

「ああ」

「テノーレンとカーネリアは、ここで彼を見ていてくれ」

アイキンの叔父を見下ろした殿下の言葉に、二人がうなずく。

「分かりました」

「任せてください!」

 

 

それから、町の魔術局に行ってまず遠話の魔導具を借りた。

私は魔術学院魔術師課程の学生証を持っているので、貸し出し許可はスムーズに出してもらえる。この学生証は王国で発行しているものなので、簡単に身分を証明できるのだ。

受付で円筒形の魔導具を受け取り、王宮魔術師団の座標番号を入力すると、すぐに魔術師団から応答があった。

「こんにちは、リナーリア・ジャローシスです。すみませんが、セナルモント先生はいらっしゃいますか?」

〈ああ、こんにちは。分かりました、少々お待ち下さい〉

魔術師団の通信係は交代制のはずだが、この声には聞き覚えがある。顔見知りだ。

おかげですぐに取り次いでもらえた。普段から王宮魔術師団に通っておいて良かった。

 

ややあって、魔導具から馴染みののんびり声が聴こえてきた。

〈…やあ、リナーリア君。どうしたんだい?今は旅行中じゃなかったっけ〉

「はい、そうです。今はタルノウィッツ領にいます。今の所旅は順調ですよ。途中でちょっと変わった魔獣も見かけましたけど」

〈変わった魔獣?大丈夫だったかい?〉

「黒い狐の魔獣でした。こちらには気付いていなかったようですが、どうやらタルノウィッツの騎士団の方に向かっていましたね」

〈…ふうん?〉

黒狐というのは、犯罪を犯した魔術師を指す隠語だ。多分これで伝わると思う。

「それでですね、先生から出されていた魔法陣の宿題。これが解けたので、今から送ります。すぐに見てもらえますか?」

〈うん、いいよ。今日はどうせ任務はないしねえ〉

「それと、私が育てている花の水やりも忘れずにお願いします。3番めの棚にある、赤い花です」

これは魔法陣の暗号を解くコードの符丁だ。赤の3。

〈…分かったよ。他に何かあるかい?〉

「採点はできるだけ早くお願いします。できれば明日の朝までに到着するように。それと、テノーレン様が先生に相談があると言っていましたよ。後で連絡が行くと思います」

〈なるほど、そうかい。分かった。…それじゃあ、良い旅を〉

「はい。…ありがとうございます、先生」

先生は最後までのんびり声のままだったが、私の言葉を不用意に訊き返すような事はしなかった。ちゃんと理解した上で話を合わせてくれたのだろう。

やはり私の師匠は、変人ではあるが有能な人なのである。

 

遠話を終えた後、さらに長距離転写の魔導具を借りた。

この板状の魔導具は、紙に書かれた絵や文字を読み取り、全く同じものを別の紙にそっくり書き出すという転写の魔術を長距離間で行うものだ。これにより、離れた別の場所と文字や絵などの情報をやり取りできる。

紙を読み取る入力の機能と紙に書き出す出力の機能の両方がセットになっている高度な魔導具で、個人で所有している者はほとんどいない大変貴重で高価なものだが、王宮魔術師団には当然これが置かれている。

遠話と同じく座標番号を入力し、3枚の暗号化した魔法陣図を送った。

この図に使った暗号は王宮魔術師団でのみ使われているものだ。解読コードを知らない者にはまず解けないので、受付の者にはただ下手くそな魔法陣を送ったようにしか見えないだろう。

 

「どうだった?」

魔術局から出て少し離れた所で、殿下がやや小声で尋ねてきた。

「ちゃんと先生に連絡が取れました。私の言いたい事は、ちゃんと伝わったと思います。証拠もしっかり送りました」

それから、隣を歩いているアイキンに声をかける。

「案内してくれてありがとう。…もう少しの辛抱ですよ」

「うん!」

 

 

アイキンの家に戻った私たちは、スピネルが護衛の騎士を連れてくるのを待ってから今後のことを相談した。

相談の結果、護衛の騎士と事情を知っているテノーレンをこの場に残し、私たちは予定通りこの領を出る事になった。

アイキンや叔父のことは気になるが、今は祭礼の旅の途中だし、王妃殿下や王子殿下を危険に晒すわけにはいかない。何より、余計な行動をしてタルノウィッツ側に気付かれては困る。

王宮魔術師団とは、テノーレンがしっかり連絡を取ってくれるはずだ。

テノーレンには皆の前では伏せておいた禁術の魔法陣の詳細も伝えておいた。きっと速やかに兵が送られてくるだろう。

アイキンと叔父、それから被検体の騎士たちの事は、しっかり保護してもらえるようにテノーレンと護衛騎士に頼んでおいた。

恐らく王都に連れて行かれ、そこで王宮魔術師によって体内の魔法陣を除去する事になるだろう。

 

なお、アイキンにはこの時初めて私たちの身分を明かした。

この国の王子とその側近や友人だと知ってアイキンはしばらくぽかんとしていたが、我に返るとガバッと大きく頭を下げた。

「王子殿下、みなさん、本当にありがとうございました…!このご恩は、絶対に忘れません!」

「まだ終わったわけではない。それに、今回の事はほぼこちらのリナーリアの手柄だ。無事に事件が片付いてから、彼女に感謝するといい」

「はい!リナーリア様、ありがとうございます!!」

終わってからでいいと言っているのに。私は苦笑しながら「いいんですよ」と言った。

「民を守るのは、私たち貴族の責務です。苦しめるなんてもってのほかです。当然のことをしたまでですよ」

「それでも、叔父さんを助けてくれたのはお姉ちゃ…リナーリア様です。本当に、ありがとうございました」

もう一度下げられたその頭を撫で、それからアイキンの家を後にした。

 

もう出発予定時刻はとっくに過ぎている。

急いで領主の館に戻ると、馬車は荷物を積み込み、すっかり出発の準備ができているようだった。

タルノウィッツ侯爵一家に挨拶をし、すぐに馬車に乗り込む。来た時より人数が少ないのを気取られないように、もう一人の随行魔術師であるビリュイが幻影の魔術を使って誤魔化してくれているようだ。

「王妃殿下、王子殿下、皆様、どうぞお気を付けて。良い旅を」

タルノウィッツ侯爵も前侯爵も、何も気付いていないようでごく普通ににこやかに送り出してくれた。

その様子はとても非道な魔術の実験をしている人間には見えず、私はそれが少しだけ怖いと思った。

彼らはあれが必要な事だとでも思っているのだろうか。既に人死にが出ている。そして、露見していなければこれからも出ただろう。実際、前世ではこの事件は露見していなかったのだ。

彼らの罪がきちんと白日の元に晒される事を信じつつ、私たちはタルノウィッツ領を出発した。

 

 

 

「…はああ、疲れました…すごく緊張しました…」

外の空気を吸った私は、折りたたみ椅子の上でぐったりと背を丸めながら言った。

今はタルノウィッツ領からしばらく馬車を走らせて遠ざかった後、遅めの昼食の休憩に入ったところだ。

「お疲れ様、リナーリア様。ほら、お茶よ」

「ありがとうございます…」

私はカーネリア様から手渡されたカップに口をつけ、温かい紅茶を飲んだ。

向かいでは同じく疲れた顔のスピネルと、殿下もお茶を飲んでいる。

 

ついさっきまで私とスピネルは殿下とカーネリア様とは別の馬車に乗り、護衛騎士の隊長と魔術師のビリュイに向かって今回の一件の説明をしていた。ある意味、意識潜行の魔術を使った時より緊張した。

話を聞いた隊長とビリュイはかなり驚いているようだった。

タルノウィッツ騎士団の禁術絡みの犯罪を見つけた事は既にスピネルから聞いていたはずだが、まさかほぼ私たちだけで証拠を見つけてきたとは思わなかったのだろう。

特にビリュイからは若干呆れ顔もされた気がするが、気のせいだと思っておく事にする。

 

 

「…そう言えば、リナーリア。君は三枚目の魔法陣の効果について言っていなかったが、あれは何だったんだ?」

「…あれは」

あまり昼食時にしたい話ではないのだが、殿下に「教えてくれ」と言われ、躊躇いながらも答える。

「体内の魔法陣に対し探知をかけられた時や、断りなくあの領を出ようとした時などに発動するものです。でも逆探知ではありませんでした。…周囲の体組織ごと、3つの魔法陣全てを即座に破壊するものです」

「え…?だって、魔法陣が書き込まれていたのは心臓って言ってたわよね?それじゃあ、それが発動していたら…」

カーネリア様が青くなる。

「間違いなく即死です。…叔父の見た光景を魔術で視ましたが、彼の死んだ友人と、魔獣と戦って死んだという騎士は別人です。魔獣と戦った騎士は、魔法陣の効果で奮戦の末に死んだようですが、友人の男はそれを見て恐怖したらしく…逃げ出そうとした末に…」

「…なんて、惨い…」

「では、もう二人も死んでいたのか」

「もしかしたら、それ以上かも知れません…」

領主の館に葬られたという騎士の墓を調べれば、もっと詳しいことが分かるはずだ。共同墓地ではなく館に葬られたのは、万一にも調べられたくなかったからだろう。

私の視た光景が全てではない。まだ他にも、隠された真実があるのかも知れない。

 

 

タルノウィッツ領から持ってきた昼食のサンドイッチをつまむ。しかしあまり食欲は沸かない。

普段はよく食べる殿下たちも、いつもより食が進んでいないようだ。

「…何だか、とんだ事になっちまったな」

スピネルがため息をついた。

全くその通りだ。せめてブロシャン領に着くまでくらい、のんびりと旅気分を楽しめるかと思っていたのに。

「まさか伝説の老騎士団が禁術の被害者だったなんて…」

カーネリア様は手のひらに乗せたコインを眺めながら、悲しげな表情で言った。タルノウィッツの古道具屋で買った、伝説の老騎士団を彫り込んだ古い記念コインだ。

伝説に憧れていた彼女は、今回の事件で知った真実がショックだったのだろう。

 

「…どんな思惑があったにせよ、彼らが命を懸けてタルノウィッツ領を守った事に変わりはない」

そう答えたのは殿下だ。

「そうですね。それが禁術によって為せた事なのだとしても、散った命の尊さは変わらない。彼らの勇気と犠牲は称賛されるべきものだと思います」

「結果として、老騎士団の犠牲によってタルノウィッツの町は守られた訳だしな…」

私とスピネルも殿下の言葉に同意するが、カーネリア様は暗い顔でうつむく。

「…でも、老騎士団に魔術をかけた魔術師や、あの前侯爵のやった事は許されないわ…」

「もちろんだ。上に立つ者ならば、彼らがそこまでしなければならない状況に陥った、その原因の方をよく考えるべきだ。彼らの忠義に報いるためには、二度とそんな事態が起こらないようにするべきだったろう。決して少ない騎士でやりくりをしようとする事ではない」

落ち込むカーネリア様に、殿下はきっぱりと言った。

 

「領を豊かにし、多くの騎士を抱えられるように努力する。…無論、言うほど簡単なことではあるまい。たくさんの困難が伴うはずだ。だが、それを諦め騎士に犠牲を強いるのは、領主のするべきことではないだろう」

そう言う殿下の横顔を、私は見つめる。その口調は平静だが、目には怒りが宿っている。

「…はい、殿下。私もそう思います」

「ああ」

「そうね。殿下の言う通りだわ…」

 

殿下はまだ若いが、王として考るべき事、為すべき事をきちんと分かっている。

そして、それを行う覚悟も持っているのだと私は信じている。

やはり殿下はこの国にとって必要なお方、王となるべきお方だ。

必ず殿下をお救いしなければならないと、私は決意を新たにした。



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第61話 王妃から見た関係

タルノウィッツ領を出た日の夕刻、私たちは次の宿泊地であるガムマイト領に到着した。

もう既に日が暮れかかっている。出発が遅れてしまったせいだが、日没前に着いただけまだ良かった。

暗くなると魔獣の活動がさらに活発になるので、道中の危険が増してしまうのだ。

戦闘が起きるとその度に足止めもされるし、町中以外で夜間に馬車を走らせる事は基本的に避けられている。

 

宿泊する部屋に荷物を運び込んでもらい、ベッドに腰掛けて少し休んでいるとドアをノックする音が聞こえた。

「リナーリア様、少しよろしいですか?」

ドアの向こうにいたのは魔術師のビリュイだ。手に遠話の魔導具を持っている。

「セナルモント殿からです。今回の件について、内密で話をしたいと」

「…分かりました」

嫌だなあ。やな予感しかしない。

 

 

一旦扉を閉め、念の為に部屋に防音の結界を張ってから遠話に出る。

〈やあ、リナーリア君。…まずは、今回の事件の通報について、王宮魔術師団を代表して感謝しておくよ〉

「いいえ。魔術師の犯罪を見逃すわけにはいきませんから」

〈そうだね。とりあえず、タルノウィッツへの派兵が決定したよ。明日の朝までには向こうに着いて制圧を始めるだろうけど、まだ周りには秘密にしておいてくれたまえ〉

「わかりました」

〈それでね、君にいくつか聞きたいことがあるんだけど〉

「…はい」

〈まずねえ、僕、君に意識潜行を教えた覚えはないんだよねえ。使用経験があったそうだけど、一体どこで使ったんだい?〉

…ですよね。突っ込まれますよね。説得力を増そうと思ってセナルモント先生の名前を出したりするんじゃなかった。

「…父に教わりまして…」

〈ふうん…まあ、君のお父上は優秀な魔術師だしねえ…。じゃあ、それはいいや〉

先生はあっさりとそう言った。本題はそこではないからだろう。

 

〈一番困るのはねえ、君。王宮魔術師の暗号を、一体どこで覚えたんだい?〉

これは絶対に追求されると思っていた。王宮魔術師団で使用される暗号は完全な部外秘だ。漏洩すれば厳しい罰が与えられる。

「…先生の本棚に暗号の解説書がありました」

〈あの本棚は鍵をかけてあったはずだけど〉

「かかってませんでしたよ?」

しれっと嘘をついてみた。

〈えええ?本当?参ったなあ…いやでも君、だからって勝手に読んじゃだめでしょ〉

セナルモント先生は信じてくれたようだ。とても申し訳ないが、私はひたすら謝ることにする。

「すみません、好奇心に勝てなくて…本当にすみません」

〈ううん…君って子は本当に…参ったなあ…〉

すみません先生…本当は前世で教わったものなんですが、緊急事態だったので仕方なく…。

私は王子の従者として王宮魔術師団とも関わりが深かったので、特例としてこの暗号を教えられていた。

将来的には殿下の側近として、近衛騎士団と王宮魔術師団の間に立つような立場を期待されていたんだと思う。この二つは連携して戦うことも多いが、わりと微妙な関係だったからな。

 

〈しょうがないなあ…。ばれたら僕まで処罰されるし、黙っておくよ。でも、テノーレン君にはちゃんと感謝しておくんだよ?〉

「テノーレン様に?」

〈彼、あの暗号の魔法陣図は自分が描きましたって言ってたからね。でも僕は君の描き方の癖を知ってるからすぐ分かっちゃったよ。上にはそのままテノーレン君が描いたって事で話が通ったみたいだけどね〉

どうやら彼は私の事を庇ってくれたらしい。ただの学生の私が暗号を知っていたらまずいと考えたのだろう。なんだか悪い事をしてしまったが、正直助かった。

「そうなんですか…。テノーレン様には後でよくお礼を言います。先生も、すみませんでした」

〈まあやっちゃった事はしょうがないけどねえ。でも今回はさすがに見逃しておく訳にいかないから、君には正式に僕の弟子になってもらうよ。それなら一応、暗号を教えても許されると思うし…。本当は君のご両親に話を通してからじゃなきゃいけないんだけどねえ…〉

「分かりました。両親は私が説得します」

今までは、いずれ弟子にするかもという曖昧な立場のまま王宮魔術師団の所に通っていた。弟子入りに両親や兄があまり良い顔をしなかったからだ。

私が危険な任務に派遣される事がある王宮魔術師になることを、家族は望んでいない。

でも私としては正式な弟子になれるのはむしろ歓迎だ。魔術の勉強になるし、立場的にも色々便利だ。

心配してくれる家族には申し訳ないが、私にはやりたい事がある。

 

〈詳しい話は王都に戻ってからだね。君にはよーく反省してもらうからね?僕はお説教とか、あんまり得意じゃないんだけどねえ〉

「はい…分かりました…」

今世では何かある度に叱られている気がする。主にスピネルからだけどついに先生にまで…。私は優等生だったはずなのに。

しょんぼりと肩を落としつつ、私は遠話を終了した。

 

 

着替えてから向かったガムマイトの晩餐は豪華なものだった。

ガムマイト領は高品質な肉食用牛肉の生産で知られる領である。牛肉は貴族から人気が高いので、かなり儲けているとも聞く。

その関係で美食には力を入れているらしい。メインの肉以外のメニューも凝っているものばかりだった。

牛肉好きのスピネルは非常に上機嫌だった。いつもは澄まし顔なので珍しい。

「これは良い肉ですね。柔らかいし、とても旨味が強い」

「ありがとうございます。生まれた時から管理をして育てた牛の肉を、我が領独自の技術で熟成させたものです」

自領の特産を褒められ、ガムマイト侯爵も嬉しそうだ。

殿下やカーネリア様も肉好きなので喜んでいるようである。朝はタルノウィッツの件で少し沈んでいたので安心した。

 

つい微笑ましく見ていると、殿下に「嬉しそうだな」と言われた。

「その割にあまり食べてないな」と言ったのはスピネルだ。

こいつ毎回私の食事量を見ているのか?お前は私の母か何かか。

確かにここの牛肉は他のものよりも美味しいと思うのだが、そもそも私は牛肉よりも鶏肉が好きなのだ。

「ちゃんと頂いておりますよ。こちらの料理は、さすが美食で知られるだけあってとても美味しいですね。私は、前菜で出てきたゆで卵の料理が一番気に入りました」

「あれはウフ・マヨネーズというものです。我が領の料理人が考えたものですが、ゆで卵に卵黄で作ったソースをかけた料理ですね」

「そうなのですか」

ガムマイト侯爵が解説してくれた。どうやら最近開発された料理のようだ。

あのとろっとしたソースはとても美味しかったな。サラダなどにも合いそうだった。

 

「済まないが、レシピを教えていただくわけにはいかないか?」

そうスピネルが侯爵に尋ねる。

「構いませんよ。我が領自慢の熟成肉はお教えする訳に参りませんが、あれは前菜でございますので」

ガムマイト侯爵は案外すんなりと了承してくれた。

「だそうだ。良かったな」

「ありがとうございます…!どうぞよろしくお願いします」

スピネルは私のために尋ねてくれたらしい。嬉しくなって頭を下げると、スピネルは片眉だけ上げて笑い、侯爵はにこにこと笑って「いいえ」と応じてくれた。

戻ったらすぐにコーネルに伝えよう。ぜひ王都でも食べたい。

 

その後出てきたデザートもかなり美味しかったので、ついお腹いっぱいになるまで食べてしまった。

部屋に戻ったらすぐドレスは脱ごうと思っていると、魔術師のビリュイから声をかけられた。

「王妃殿下がお呼びです。少々ご同行いただけますか?」

「…王妃殿下が?」

 

 

案内された部屋に入ると、椅子に座っていたその人が顔を上げてこちらを見た。

「…ああ、リナーリア。どうぞ、こちらにお座りなさい」

「失礼いたします」

まさか王妃様に呼ばれるとは思っていなかった。いささか緊張しながら、勧められた椅子に座る。こうして二人で話すのは前世以来だ。

「ビリュイから聞きました。タルノウィッツでは、ずいぶんと活躍したようですね」

「い、いえ…」

色々と問題も起こしてしまったのでとても褒められるような事ではない。

 

「エスメラルドからも貴女の事はよく聞いています。素晴らしい見識を持つ、優れたお嬢さんだと」

「…恐れ多い事でございます」

殿下が私の事を王妃様に話しているのか。何だか恥ずかしく感じる。

「私が傍にいる事で、なにか殿下に良い影響があれば良いのですが…」

「良い影響?」

「はい…おこがましい考えかも知れませんが、殿下が学び成長する助けになれればと…」

そう答えると、王妃様は少し首を傾げた。

「貴女はずいぶん変わった考え方をするのですね」

「えっ?」

「普通は、あの子が貴女をどう思っているのか、それがまず気になると思うのだけれど」

王妃様に指摘され、私は羞恥で赤面してしまった。

そうだった。今の私は従者ではなくただの友人という立場だった。

そういう役目があるわけではなく、単に殿下の好意で傍にいられるだけなのだ。

まず殿下に気に入られていなければ今の立場にはいられないのに、その事をすっかり忘れていた。

 

殿下を守るためとにかく近くにいようとしているけれど、どう振る舞うのが一番殿下のためになるのかは未だに分からない。

従者の時だって多分、分かっていなかった。あの頃はただ務めを果たすのに必死で、そんな事を考える余裕などなかったが、こうして生まれ変わってみて始めて分かった。私には足りないものばかりだったのだと。

もっとああしておけば、こうしておけばと思うことが色々とある。

私は殿下に友人として認められた上で殿下を守らなければならない。今の立場に甘えてはいけないのだ。

殿下はお優しい方だからきっと許してくれるだろうが、殿下の役に立たない私など一体何の価値があるのか。

何のために今こうして生きているのか、分からない。

 

何も言えずうつむいた私に、だけど王妃様は優しかった。

「…貴女が近くにいる事で、エスメラルドは確かに良い影響を受けていると思いますよ」

「え…?」

思わず顔を上げると、王妃様はわずかに微笑む。殿下とよく似た、ささやかで分かりにくいけれど優しい微笑みだ。

「あの子は今、学院に行くのがとても楽しそうです。いえ、学院に入る前からそうですね。貴女に会いに行く時はとても楽しそう。他にも、剣でも学問でも、色々なことを頑張っているようです。もともと真面目な子だけれど、きっと貴女に褒めてほしいのよ」

「そ、そうなのですか…?」

そんな事思ってもみなかった。

スピネルはあんまり殿下を褒めないんだろうか?殿下の事を主として認めているのは間違いないと思うが、スピネルと殿下とは好敵手という意味合いも強そうだから、あまり手放しでは褒めにくいのかも知れない。

あの二人の関係は私には理解しきれない部分がある。

 

「だから、貴女にはこれからもエスメラルドの傍にいてほしいわ。あの子の事を、どうかよろしくお願いします」

「あっ…は、はい!承知いたしました…!」

慌てて頭を下げる。よく分からないが、王妃様には認めていただいているようだ。

今、私がやっている事は間違いではないのだろうか。

そうであって欲しいと願いつつ、私は王妃様の部屋を辞去した。



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第62話 ブロシャン公爵領

ブロシャン領はヘリオドール王国北部に位置している公爵領だ。

多くの自然に囲まれ、大きな森と美しい湖がある風光明媚な場所だが、高品質な魔石の産出地としても知られている。

主な産業は魔導具や武器・防具、宝飾品などの生産。あまり農業には向かない土地柄なのだが、工業の方で成功し財を成している。

公爵は代々優れた魔術師であり、魔術師や魔導師、さまざまな職人の育成にも力を入れている。

 

このヘリオドール王国において、貴族の多くを占めるのが騎士だ。

ヘリオドール王国の前にあった国はこの島の常として魔獣災害で滅びたのだが、その際に力のある魔術師は大半が死んでしまった。

残った僅かな騎士達が力を合わせて建国したのがヘリオドール王国で、長く騎士が支配する体制が続けられてきたのだが、唯一建国当初から魔術師として上層階級のうちに名を連ねたのがブロシャン家だった。

ブロシャン家は騎士たちとは相容れず、あまり大きな権力を持たなかったが、その希少性ゆえに保護され血を繋げてきた。

そのうちに魔術師の重要性が騎士たちにも認められるようになり、高魔力者の血脈を保持する意味もあって魔術師の貴族が増やされる事になったのだが、今でも魔術師の家系というのは騎士の家系に比べて軽視されがちだ。領地を持たず、爵位だけの貴族も多い。

 

ブロシャン家は公爵家の中でも家格では一番下だが、そのような魔術師系貴族の支持を多く受けているため、今では家格以上の力を持っている。

何より、現国王陛下の信頼が厚い。

まだ第二王子であった頃の国王陛下の支持をいち早く示したのが先代のブロシャン公爵だったからだ。

 

先代ブロシャン公爵は魔鎌(まれん)公とも呼ばれ、その名の通り鎌鼬の風魔術を得意とする大魔術師だった。

魔術師教育に熱心な人格者だが、公明正大な人物であり魔術師だけではなく騎士にも慕われていた。

だが、そんな公爵を疎んじていたのが当時の第一王子であったフェルグソンだ。

何しろフェルグソンは熱心な騎士至上主義者で、公然と魔術師を蔑んではばからなかったからだ。

それには魔術師を始め眉をひそめる貴族も多くいて、様々な軋轢が生まれた末にフェルグソンは失脚し、現国王のカルセドニー陛下が即位することとなった。

魔鎌公が当時第二王子だったカルセドニー陛下を支持した決定打は、第一王子フェルグソンの騎士至上主義だろうが、それ以前から寛大で心優しい陛下には心服していたという。

 

 

魔鎌公は私が子供の頃には息子のエトリングに家督を譲り渡し、領地で隠居を始めたのだが、私も従者だった時には魔術師として少しばかり声をかけて頂いた事がある。

偉大な魔術師であるだけではなく、厳格さと寛大さを併せ持つ懐の深い方だという印象だった。

現ブロシャン公爵のエトリングも、先代ほどではないが公爵としても魔術師としても優秀な人物だ。

先代の意思を受け継ぎ、エトリングもまたカルセドニー陛下とその嫡子であるエスメラルド殿下に対して友好的だった。

フェルグソン派であった貴族の一部には未だに陛下や殿下に反抗的な者もいるのだが、それに対して一番睨みを効かせてくれていたのがこの二代のブロシャン公爵家だったのだ。

 

しかし、前世のエトリングはある時から領地に籠りがちになり、表舞台にはあまり出てこなくなってしまった。

それが今回の水霊祭の時に起こった、ブロシャン公爵家次男ユークレースの事件だ。

ユークレースは、この水霊祭の最中に現れた魔獣との戦いで命を落としてしまった。

これは客観的に見て不幸な事故だった。誰が悪い訳でもない。殿下も、ただその場に居合わせただけだ。何の落ち度もなかった。

しかし、それでもこの事件は関わった者の心に大きな傷を残した。

特にブロシャン公爵夫人の嘆きは深かった。そして愛妻家であり次男ユークレースの将来に大きな期待をかけていた公爵もまた、激しく気落ちしたようだった。

その1年後に先代公爵の魔鎌公が亡くなったのが追い打ちとなり、それ以来ブロシャン公爵家と王家の間には溝ができてしまった。

 

 

前世で殿下を殺した、あの彼女の背後に何がいたのかは未だに分かっていない。

だがごく普通に考えて、最も動機がありそうなのは王兄フェルグソンとその息子オットレだと思う。

フェルグソンはもう継承権を持っていないし、オットレよりも王弟のシャーレン殿下の方が王位継承権は上なのだが、シャーレン殿下は気が弱くあまり権力に興味がない方だ。

第一王子のエスメラルド殿下さえ亡き者にすれば、シャーレン殿下を退け国王の座を手に入れられるとフェルグソンやオットレが考えても不思議ではない。

ただフェルグソンは魔術師嫌いなので敵も多い。殿下が亡くなったあとはシャーレン派とオットレ派に分かれて争った可能性が高いだろう。想像するだけで腸が煮えくり返るが。

 

ユークレースの命を助ける事で、勢力図や歴史の流れにどのような影響が出るかは私には分からないが、私はこの先もブロシャン公爵には殿下を支持する側でいてもらいたい。

公爵の持つ権力、そして魔術師達への影響力は間違いなく殿下を守るための力になる。

何より、私はユークレースの死について激しく後悔しているのだ。

もっと力を尽くしていれば、もっと上手く立ち回れていれば何か変えられたのではないかと、何度も悔やんだ。

だから私は、今世ではユークレースを救ってみせる。

そのために今回の旅に同行したのだ。



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第63話 公爵家の子供たち(前)

「ここがブロシャン公爵領自慢の魔導図書館です。魔術書の数では間違いなく王国一ですよ」

にこやかに紹介され、私は大きく周囲を見回した。本当にすごい数の本だ。様々な魔術書が、分類別や年代別にきっちりと整頓され並べられている。

「リナーリアちゃんは本好きなんだよね。ここは気に入ってくれたかな?」

誰がリナーリアちゃんだ馴れ馴れしい。…という内心はおくびにも出さず、私は微笑みながら答えた。

「はい。聞きしに勝る蔵書数ですね。とても素晴らしいです」

 

今日はブロシャン公爵領に到着した、その翌日だ。

殿下、スピネル、カーネリア様、私の4人は、年の近いブロシャン家の子供3人から案内を受けながら、領の様々な施設を見学している所である。少し離れた所に護衛もいる。

ちなみに王妃様は公爵屋敷に逗留中だ。王妃様と王妹であるブロシャン公爵夫人は旧知の仲である。

 

先頭に立って歩きながら私たちを案内してくれているのは、長男でブロシャン公爵家嫡男のフランクリン。たった今私に話しかけてきた男だ。

歳は18で、私の2つ上。学院の上級生だが、あまり接点はないので今まで特に親しくはしていない。

魔術師としてはせいぜい中の上と言った腕で、明るいと言うより軽い態度が目立つが、人当たりは良い。

それに、公爵家の嫡男だけあって成績の方はそれなりに優秀だったはずだ。

 

「カーネリアちゃんはどう?あんまり興味ないかな」

「そうですね、私は魔術はあまり得意ではないですし…。でも、とてもすごい施設だとは思いますわ。魔術書ばかりこんなに集めるのは大変でしょう」

「代々のブロシャン公爵が少しずつ集めたものだからね。ここを目当てにうちの領に来る魔術師も多いんだよ」

一応は王子殿下を案内するという名目のはずだが、明らかにカーネリア様や私に話しかける回数が多いあたりフランクリンは何とも分かりやすい男である。

だが彼はある意味安全な男なので安心だ。と言うのも、彼はこう見えてかなりの愛妻家なのである。

フランクリンには少々嫉妬深い性格の恋人がいるのだが、彼はその恋人にぞっこんなのだ。今は学院在籍中なのでまだ婚約者だが、前世では卒業後すぐに結婚していたはずだ。

カーネリア様に馴れ馴れしくされてもスピネルが特に気にする様子がないのは、彼の恋人の存在を知っているからだろう。

確か前世のフランクリンとスピネルは結構親しかった気がしたが、今世では学年が違うのでそうでもないらしい。でもきっと気が合うだろうと思う。

 

「王子殿下やスピネル様はどうですか?魔術書には興味はありますか?」

ニコニコと笑いながら、身体を弾ませるようにして振り向き殿下たちに尋ねたのは、フランクリンの妹のヴァレリー様だ。

弾ませるようにと言うか、実際ある一部分がぼよんと弾んでいる。とてもすごい。私より1歳下の15歳のはずだが、見事なボリューム感だ。

ふわふわした癖毛と上目遣いの似合う可愛らしい容姿も相まって、かなりの破壊力を出している。

「将来有望だな…」とぼそっと呟いたのはスピネルだ。将来絶望で悪かったな。

しかしヴァレリー様はどちらかと言うとスピネルより殿下に興味がありそうだ。

前世でもそんな素振りだったのだが、その後の諸々で結局疎遠になってしまっていた。良縁だと思うので今度こそ彼女には頑張って欲しい。

どうも殿下は華奢なタイプの方が好みっぽいフシがあるのだが、そこまでこだわりがある訳でもなさそうだったし、大きくて困ることはあるまい。

 

ヴァレリー様に尋ねられた殿下は近くの本棚に目をやる。

「そうだな。俺はあくまで剣士だが、魔術に対して知っておく事は重要だと考えている。戦いにおいて魔術師との連携の役に立つのはもちろん、見識を広げることそのものにも意味がある。様々な役に立つからな」

「まあ、殿下はさすがですね!魔術師への理解も深めようとなさってるなんて」

ヴァレリー様は笑顔で殿下を褒め称えたが、殿下はちらりと私の方を見る。

「リナーリアから教わったことだ」

えっ。そこで私の名前を出すんですか。

「…まあ!そうなんですか!リナーリア様もすごいです…!」

相変わらずのニコニコ顔で私の事も褒めるヴァレリー様。内心はよく分からないが、少なくともトリフェル様あたりより数枚上手だろうと思う。

そして殿下…。うなずいてる場合じゃないです。

「殿下は女心が分かっていませんね…」

そうこっそり呟くと、なぜか隣のスピネルが絶望的な顔で私を見た。

「…何ですか?」

今は胸の話はしていないぞ。

そう思ってスピネルを睨んだが、頭痛をこらえるような仕草で目を逸らされた。なんだよ。

カーネリア様が同じ顔をしているのが非常に気になる。

前から思ってたが、この二人意外に似たもの兄妹じゃないか?

 

「…ふん。騎士が魔術師を理解しようとしたって無駄だ。どうせ分かりっこない」

一番後ろから刺々しい声が上がり、私たちはそちらを振り向いた。

前髪の一房だけが白くなっている特徴的な青い髪の小柄な少年。ブロシャン公爵家の次男にして末っ子、ユークレースだ。

ヴァレリー様よりも1つ下、私からは2つ下の14歳。神経質そうな水色の目でこちらを睨んでいる。

「…どうして分からないと思うんですか?」

あえて尋ね返すと、ユークレースは不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。

「騎士だからに決まってるだろ。あいつらはどうせ魔術師の事なんか、便利な道具にしか思ってない」

「まあ…」

私はいかにも困ったような顔を作って頬に手を当てた。彼の言う事はある意味正しい。そのように思っている騎士も確かに一部存在する。

 

「ユークレース様はそんな風に騎士の事を語れるほど、騎士について理解してらっしゃるのでしょうか」

私の言葉に、ユークレースがぎっと眉を吊り上げた。

「なんで僕が騎士を理解する必要があるんだ」

「自分が相手を理解する努力をしていないのに、相手が自分を理解していない事を責めるのですか?」

「…なんだと」

ユークレースがさらに私を睨んだ所で、「まあまあ」と言いながらフランクリンが割って入った。

「それより、次は魔石の精製工場に行こうか。あそこは少し暑いけど、磨かれた魔石はとても綺麗だよ」

「あら、それは楽しみだわ。ぜひ、案内をお願いします」

空気を読んでカーネリア様がにっこり笑う。ユークレースはふんとそっぽを向き、私は微笑んでうなずいた。

 

図書館を出て歩きながら、スピネルがちょっと呆れたような顔で私を見る。あまり波風を立てるなと言いたいのだろうが、今は無視だ。

悪いと思うのは主にフランクリンに対してだ。先程から、不満を漏らしているユークレースに対し私が煽るような言動ばかりしているから、フランクリンは内心困っているだろうと思う。

今日一緒にいるブロシャン公爵家の子供3人のうち、ユークレースだけは明らかに不満顔で私たちに付いて来ている。

せっかく王子殿下が自領に来ているのだから、この機会に親交を結んでおけと父や祖父に言われて仕方なく来ているのだろう。

ユークレースは元々社交嫌いとの噂だ。もう14だが、パーティーにもお茶会にもほとんど顔を出さない。前世でもその傾向が強かったが、今世ではさらに酷く王都に来ることすら嫌がっているようで、領地からなかなか出てこない。

おかげで、もっと早く面識を得ておきたかったのに今回が初対面になってしまった。私が王宮魔術師団に通っていたのは、あそこならあわよくば彼に会えるのではないかという期待もあったのに。

 

 

魔石の精製工場は、フランクリンの言った通り少々暑かった。

魔石は魔力を貯めるという変わった性質を持つ透明な石だが、磨き上げる際には魔力を通した特殊な水を使う。この水はある程度温度が高い方が魔石の品質が安定するので、工場内はどうしても水蒸気で蒸し暑くなってしまうのだ。

階段を上がり、少し高い場所から人夫たちが忙しなく働くさまを見下ろす。

 

「魔石ってこんなにたくさん作られているものなのね」

カーネリア様が感心したように言う。

「新しく磨き上げている魔石は半分くらいかな。ここでは古くなった魔石の再加工も行っているんだ。魔石は繰り返し使うとだんだん濁っていって魔力を貯める力が失われていくけど、再加工する事である程度その力を取り戻せるんだよ」

「この再加工技術は、我がブロシャン領独自のものなんです!」

フランクリンが解説してくれ、またぼよんとしつつヴァレリー様もそれを補足するが、ここでも文句をつけたのはユークレースだ。

「魔石なんかが必要になるのは魔力が足りないからだ。無能な奴らが頼るためのものだ」

 

「…あら。魔石は様々な魔導具にも利用されていますよ?ご存知ありませんか?」

首を傾げながら私がそう言うと、ユークレースが噛み付くように言い返す。

「そんな事くらい知ってる!それだって結局、魔力が足りない奴らの補助をするためだろ!」

「そうだとしても、それの何が悪いんですか?力というのは、どこから引っ張ってきたかよりも、どう使うかが大事だと思いますが」

「…うん、うん!二人の言う事はどっちも最もだと思うよ。色んな見方があるよね!」

すかさずフォローに入るフランクリン。きっともううんざりしてる頃だと思うが、未だに顔に出していない所はすごいと思う。さすがは未来の公爵だ。

それとも、こういう弟の態度への対応には慣れているのかな。

殿下はちょっと困った顔をしている。私がわざとやっているのが分かっているからだろうな。すみません。



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第64話 公爵家の子供たち(後)

それからやって来たのは、ブロシャン魔術師塾だ。

名前の通り、魔術師を育成するために作られた私塾だが、小さな学校と言える規模がある。

年齢や身分を問わず入学でき、魔力量や素質に応じて奨学金が貸与されるので、平民や貧しい者でも優れた才能さえあればここに通うチャンスを得られる。

一定期間通い試験に合格すればブロシャン公爵公認の修了証がもらえるので、そうすれば魔術師として就職先には困らない。それから数年かけて給料の中から奨学金を返していく仕組みだ。

魔術師系の貴族の中にも魔術の研鑽を志し、王都の魔術学院を卒業後にここに入る者が毎年いる。

 

校舎の中で授業風景をいくつか眺めた後、校庭の訓練場に行く。

土の魔術訓練をしているグループと、剣を振るいつつ魔術を放つ訓練をしているグループがいるようだ。年齢はバラバラだが、私とそう変わらない歳の者が多そうに見える。

「ここには騎士も所属しているんだな」

そう言った殿下に、フランクリンが答える。

「はい。少数ではありますが、ここには自身の魔術を向上させたい騎士も所属しています」

「最近はたまにいるんですよ、魔術が得意な騎士も。そういう騎士を集めて部隊を作ろうとしている領もありますし。育成にお金がかかるので、なかなか難しいみたいですが」

またヴァレリー様が補足してくれた。この手のことにはさっぱり興味がないご令嬢もいるので、ちゃんと勉強しているらしい彼女に少し感心する。

一言で騎士と言っても色んなタイプがいて、ごく少数ではあるが高度な魔術と剣術を両立させている者もいるのだ。

高い素質と習熟のための時間を要するのでなかなか育てられるものではないが、成長すれば強力な戦士になれることは間違いない。

 

「剣と魔術、両方やった所で中途半端になるだけだ」

ユークレースはここでも文句を言ってきた。

決して態度を改めようとしないその様子にはいっそ感心する。私がいちいち反論するせいで余計意地になっているのかも知れないが。

「私はそうは思いませんね。学ぶことは決して無駄にはなりません」

今回も反論してやると、案の定ユークレースは無言で私を睨みつけてきた。

「確かに、剣と魔術どちらかを極めた者に比べれば中途半端になるかもしれません。ですが先程殿下が言われた通り、見識を広げることに意味があるのです。どちらについても知識を持つ者が間にいる事で、円滑に連携が行える事は多くあるはずです」

「…お前、さっきからうるさいな」

低くそう言ったユークレースに、フランクリンが困った顔になる。困ったと言うか、焦ったような顔だ。

 

「お前、水魔術師か?さては支援魔術師だろ。だから騎士の肩を持つんだな。しかもそうやって王子にすり寄って、結局一人じゃ何もできないからなんだろう。下らないな。弱い女魔術師の考えそうな事だ」

…ほほう。今のはなかなか頭に来たぞ。

彼の方から突っかかって来るように仕向けているのは私だが、今の発言はいかにも腹に据えかねる。

「支援魔術師だから何だと言うのです?魔術において男と女に何か違いがありますか?それに貴方はずいぶんと騎士を見下しているようですが、そもそも騎士がいるからこそ私たちは魔獣と戦えているのですよ」

「そういう所がすり寄っていると言うんだ。騎士より魔術師の方がずっと貴重なんだ。あいつらに大きい顔をさせる必要なんてない」

「騎士と魔術師はお互い助け合うべきものです。おもねる必要はありませんが、かと言って敵視する必要もない」

「そうしていたら付け上がるのが騎士だ!」

「殿下は違います」

怒るユークレースに、私はきっぱりと言い切る。

 

「殿下はちゃんと魔術師にも敬意を払って下さいます。殿下だけではありません。魔術師の立場を守り、尊重してくれようとしている騎士はちゃんと存在します」

例えばブーランジェ公爵だ。自領の魔術師部隊には騎士団と同じ給金を払っているし、その態度にも敬意が見える。

これらは国王陛下と、ユークレースの祖父である魔鎌公が、フェルグソンに対抗し魔術師の地位を向上させようと努力をした結果でもあるはずなのだ。その功績を、彼も知っているはずだろうに。

どうしてこう偏った考えを持つようになったのかは分からないが、そもそも彼はまだ子供だ。先入観で騎士への印象を決めてしまうのは早いと思う。

 

「お前は結局王子の庇護を受けているからそう思うだけだろ。僕にはそんなもの必要ない」

「…ではユークレース様は、魔術師の価値はどこにあると思いますか?」

突然尋ねられ、ユークレースは戸惑った表情で返答に詰まった。それに構わず、私は言葉を続ける。

「人の役に立つ事。多くの人々の命を、生活を守る事だと私は思います。騎士だの魔術師だのという些事に囚われていては、その使命は果たせません。騎士を助けお互いに連携する事でより多くの命を救えるのなら、そうするべきなのです」

 

「……」

何も言い返せずに悔しげに黙ったユークレースの水色の目を、私は見つめる。

「何より、そうして視界を狭めることでユークレース様自身の成長の幅も狭めています。私はそれが残念でなりません」

「何だと?何故そんな事がお前にわかる」

「貴方よりは多くの人に触れ、多くの見識を得ているからでしょうか」

「…まるでお前の方が僕より優れているみたいだな。それが魔術の腕に何か関係あるのか?」

苛ついたようにまたこちらを睨んだユークレースに、私はわざと煽るように言ってやった。

「関係あると私は思っていますよ。…現に私はこれでも、王宮魔術師のセナルモント先生に望まれて弟子入りをしております。それなりの腕は持っているつもりです」

実際は弟子入りはタルノウィッツの事件のせいでつい先日なし崩し的に決まった事なのだが、別に嘘は言っていない。一応、元々誘われてはいたしね?

 

「…何なら、どちらが優れているか試してみますか?」

挑むように私は言う。こうすれば、彼は決して退かないだろう。

その事を分かっていて、あえて挑戦的な表情を作ってこの言葉を投げつけた。

思った通り、ユークレースはその目に怒りの炎を宿して私を見る。

「…いいだろう。やってやる。魔術戦で勝負だ」

 

 

 

魔術戦は魔術師同士で行う試合方法だ。

複数人同士でやる場合もあるが、今回は私とユークレースの一騎打ちだ。

勝敗は審判が決めるが、どちらかが参ったと言うか、魔力切れになった時点でも終了だ。使う魔術は攻撃、拘束、精神干渉など何でもありだ。

当然命に関わるような魔術は禁止だが、魔術の威力を大幅に減衰する結界内でやるし、結界と連動して魔術のダメージを防ぐ効果がある専用のローブも着用するので、安全はほぼ保証されている。

多少の怪我は負ってしまうものだが、治癒魔術で対処しきれないほどの重傷にはならない。

この魔術の修練用に使う結界の魔導具は結構貴重なのだが、ブロシャン魔術師塾には置いてあるのでちょうど良かった。

場所と魔導具、それからローブを借りて魔術戦を行うこととなった。

 

 

「ユーク、まずいってこれは。相手はお嬢さんなんだぞ」

「勝負を持ちかけてきたのはあっちだろ」

フランクリンはかなり慌てているが、ユークレースは聞き耳を持たないようだ。私とは少し離れた場所で、準備を始めている。

傍のヴァレリー様も困った顔ではあるが、基本的に静観する構えのようだ。

 

「リナーリア、大丈夫なのか。あいつの話はお前も知ってんだろ?」

試合用ローブに袖を通して出てきた私に、スピネルが小声で話しかけてくる。

「もちろん知っていますよ。彼が本物の天才であることくらい。…私など、才能においては足元にも及ばないでしょうね」

そう、ユークレースは魔術の天才だ。恐らく、歴代のブロシャン公爵家の中でも一二を争うほどの。

彼は抜きん出た魔術センスであの年齢にして多数の高等魔術を修め、三重魔術すら会得し、絶大な魔力量を持っている。将来は王宮魔術師団の筆頭魔術師にだってなれるだろう。

周囲の期待を背負い、そんな自分に自信を持っている。

あくまでそこそこの才能、努力をしてようやく一級魔術師になれた私とはものが違う。

前世でも彼と魔術戦を行った私は、それをよく知っている。

 

「…それなのにやるってのか?」

「ええ。いくら彼が天才でも、今はまだ私の方が強いはずです」

こちらを睨んでいるユークレースを静かに見つめ返す。

前世で、王宮魔術師の弟子と力比べをしたいと言ってきた彼に私は負けた。

才能の差や慣れない魔術戦への戸惑いもあったと思うが、それ以前に勝負への迷いがあったからだ。

従者の私が、年下でしかも将来を嘱望されている公爵家の次男に、どこまで本気を出していいのか分からなかった。正直、彼の力を侮ってもいた。

だけど私はあの時、もっと全力で彼に挑むべきだったのだ。そうすれば一矢報いて、わずかなりとも彼の心を変えられたかも知れない。彼の運命を変えられたかも知れないと後々まで悔やんだ。

二度とあのような後悔はしない。

 

「何か考えがあってやっているんだな?」

そう尋ねてきたのは殿下だ。

「私はいいと思うわ!あの子生意気なんですもの、やっつけちゃってもいいわよ」

内心かなり腹を立てていたらしいカーネリア様は勝負に賛成のようである。私が負けるとは全く思ってないらしい。

「…まあ、結界があるから安心か」

スピネルは何やら諦め顔だ。

 

「大丈夫ですよ」

今の私はあの頃よりもずっと強い。

何よりあの時とは違い、彼を倒すという覚悟がちゃんとある。

私は自信を持って3人にうなずいてみせる。

「ちゃんと手加減した上で、彼をこてんぱんにのして差し上げます」



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第65話 魔術戦

魔術戦の審判は最年長かつ魔術師のフランクリンがする事になった。

さっきまでは青くなっていたが、私とユークレースのどちらも引く気はないと知って諦めたようである。

魔術戦は騎士が試合をする闘技場よりも広い場所で行われる。今回は魔術師塾の訓練場の中だ。土のグラウンドに線を引いただけのものだが、結界の魔術はしっかり設置した。

離れて立った私とユークレースはそれぞれ魔力を練って試合開始に備える。

フランクリンの腕が上がり、一呼吸の後にさっと下げられた。

「…始め!」

 

 

まずは小手調べだ。

いつものように水球を大量に召喚する。攻防一体のこの魔術は、私にとって最も馴染み深いものだ。

向こうもまずは得意の風魔術でこちらの様子を見るつもりなのだろう、風の刃を次々に撃ち出してくる。

私は薄い水の膜を大きく広げた上で、水球を操り風の刃を弾いた。

風の刃は速度に優れ、使う場所を選ばない汎用性の高い魔術だ。その上、視認性が悪く見えにくいという特徴もある。

気付かない所から飛んでくる事があるので、水の膜は念の為だ。

 

私が全ての刃を余裕で防いだのを見て、ユークレースはふんと鼻を鳴らした。

「なら、これはどうだ…『旋風よ、天へ向かい荒れ狂え』!」

竜巻が3つ続けて生み出され、こちらに迫る。これはいくつかの水球を一つに合わせて当てる事で後ろに逸らした。

『火よ熱よ、爆ぜて飛び散れ!』『水よ、時を止め穿つ槍となれ!』

さらに爆炎、大量の氷槍、広範囲の熱湯に雷撃など、ユークレースは多彩な魔術を放ってくる。

どれも威力が非常に高い上に二つ以上の魔術を使った複合魔術も多く、技術の高さが窺える。

私は風魔術なども補助に使いつつ、ほぼ全てを水球の魔術で防いた。

 

「バカの一つ覚えか」

「その一つ覚えで対処できる程度の魔術しか来ないもので」

この程度ならそれで十分だと答えると、ユークレースの水色の目が釣り上がった。

実際私は最初の位置から全く動いていない。

呼び出した水球のほとんどはユークレースの魔術によって吹き飛ばされたり蒸発させられているのだが、その度に瞬時に水分を集め直し補充しているので不足はない。

私は魔術を繰り出す速度と、鉄壁の守りとには自信があるのだ。今世では特に、その練度を上げる事に力を入れ繰り返し鍛錬してきた。

ちょっとやそっとの連続攻撃でこの守りを貫けるとは思わないで欲しい。

 

「手加減してやってれば調子に乗りやがって…」

ユークレースが片手を前に突き出す。

『土よ、舞い上がれ!』

足元の土を巻き上げて砂嵐を起こしながら、二重魔術で風の刃を撃ち出してくる。視界を塞いだ上での広範囲攻撃だ。

『水よ、螺旋に巡れ!』

私はすかさずいくつもの水球を集めると、自分の周りを取り囲むように渦を作った。渦が回転する勢いで風の刃を防ぎつつ、渦の中に巻き上がった砂を吸収していく。

「お返しします」

細かい砂が混じって一瞬で泥水となった渦を、私はユークレースに向かって放った。

「こんなもの効くか!」

ユークレースが目の前に風の壁を作り出す。

だが風の壁で防がれたかと思われた泥水は、そのまま弾けるとユークレースの足元に吸い込まれた。

「…甘いですね。『泥濘となりて敵を捕らえよ』」

途端にユークレースの足元が泥沼と化した。土と水の複合魔術だ。

「くっ…!」

足元に魔力を集中させ、ユークレースがその場から飛び退る。

 

「…くそっ!!」

ユークレースは悪態をついた。

まだ私がほとんど動いていないのに、自分は大きく飛び退ることになった。それが悔しいのだろう。

思った通り、ユークレースはあまり魔術戦に慣れていない。魔術の多彩さに対し、攻撃がやや単調だ。

同年代の子供では彼に敵う者などいない。そして、彼と戦えるレベルに達している魔術師で魔術戦を好む者はあまり多くないし、しかも子供と戦いたがる者などほとんどいないだろう。

だからユークレースは魔術戦の経験が少ないのだ。前世で私に勝負を持ちかけて来たのも、恐らく同年代の相手を求めてのことだったのだろう。

あの頃は分からなかった事が、今の私には分かる。

だから私は、今度こそ彼に応えなければ。

 

 

『炎よ、燃え盛りて壁となり敵を阻め!』

ユークレースは今度は私の周囲を炎の壁で囲った。逃げ場をなくすつもりなのだろう、同じ魔術を二重に使い壁を分厚くしてあるようだ。

敵の攻撃を防ぐ用途でも使われる魔術だが、このように足止めに使うこともある。

防御の魔術に自信がある私も、さすがにこの炎の中に留まり続けるのはまずい。だが、すぐに飛び出せばきっとそこを狙い撃ちにされる。

私は土魔術で足元から大きな土塊を作り出し、風魔術で覆ってから前方へと撃ち出した。

「…何!?」

思った通り、ユークレースはその土塊を私だと思い、風の刃で攻撃したようだ。

その間に私は耐炎魔術と身体強化を使い、反対側へと跳んで炎の壁を突破している。

 

ユークレースが動揺している間に、今度はこちらから反撃だ。

『土よ、そびえ立ち敵を取り囲め』

ユークレースの周りを土壁で囲んでから、そこに火球を放り込んでやった。

慌ててユークレースが土壁を壊して飛び出して来る。咄嗟の破壊力はさすがのものだが、当然私にとっては良い的だ。そこを狙ってさらに水球を飛ばす。

『風よ護れ…!』

ユークレースは体勢を崩しつつも風魔術で何とか全ての水球を防いだ。

 

急いで立ち上がり、また魔力を練ろうとするユークレースを見ながら思う。やはり彼は強い。

並の魔術師なら私の繰り出した水球の速度に付いて行けず、さっきの攻撃で落とされていただろう。

速度では私に分があるが、高い魔力量と魔術センスに裏打ちされた彼の魔術は、どれも純粋に威力が高いのだ。彼の天才たる所以である。

しかし天才であるがゆえに、隙も多い。

「その程度ですか?ブロシャンの天才児も大した事ありませんね」

分かりやすい私の挑発に、ユークレースは顔色を変え完全に頭に血を上らせたようだった。

「…だったら本気を見せてやるよ!!」

若いな。まあ14なら仕方ないが。

 

ユークレースの周囲に大きく魔術構成が広げられる。高等魔術を使う気のようだ。

私は再び大量の水球を呼び出し、いつでも魔術を使えるように魔力を練った。

『力を運ぶ風、巡りたる大気。我が敵を切り裂き、自由を取り戻せ!!』

彼が最初に放ったのは鎌鼬の魔術だ。

沢山の風の刃をごく狭い範囲で回転させ、繰り返し斬りつける。彼の祖父である魔鎌公、その通称の元ともなった強力な攻撃魔術だ。

私は全ての水球を駆使し、風の刃への防御に当てる。恐らく彼にとって最も得意な魔術の一つなのだろう、凄まじい威力と速さだ。

だが、これはただの時間稼ぎのつもりなのだろう。鎌鼬の魔術を維持しながら、ユークレースはさらに二つの魔術を展開しようとしている。

今日初めて見せる、三重魔術だ。

 

彼が広げた残り二つの魔術構成を、私は素早く、そして冷静に分析した。

『…鎮火』

私の呟きと共に、パキン、と魔術師だけに聴こえる高い音を立てて炎の魔術が停止する。

『旋風!』

さらにもう一つ。私の声と共に、風の魔術があらぬ方向へと回転し始める。

 

「…そんな」

ユークレースがその様を呆然と見上げる。

彼が生み出そうとしていた炎は僅かな残り火だけを点して消え、竜巻は上空へ向かい意味もなく風を撒き散らしていた。

「…これで終わりです」

私の手元には、残った全ての水球が集まっている。

それを彼の頭上に持ち上げると、滝へと変えて叩きつけた。

 

 

「勝者、リナーリア・ジャローシス…!」

「…っ!!」

審判のフランクリンの声に、ずぶ濡れになってへたり込んでいたユークレースがバッと顔を上げる。

「ぼ、僕はまだ戦える!」

「お前の負けだよ、ユーク。分かってるだろ?最後の水魔術は彼女が手加減してくれたものだ。…そうじゃなきゃ、お前は濡れるだけじゃ済んでないよ」

兄に諭され、ユークレースは唇を噛んでうつむいた。

そんな彼の元に、私は歩み寄る。

 

「ユークレース様。貴方の敗因は何か分かりますか?」

「……」

「貴方が私の挑発に乗って三重魔術を使おうとしたからです。あれは、貴方にはまだ早い。練度が低すぎます。だから私に、魔術の書き換えを許してしまった」

私が使ったのは、相手の魔術の発動を止める阻害魔術の中でも特に高度なもの。魔術の書き換えだ。

相手の魔術構成を瞬時に読み取り、その緩みや粗のある場所から自分の魔力を流し込んで構成を書き換える。そうして、魔術の効果そのものを変えてしまう。

本来なら実力に差がある相手以外にはなかなか使えない術だ。それがなぜユークレースに通じたのかと言うと、彼が三重魔術を使おうとしていたからに他ならない。

彼は3つの魔術を同時に使うため一つ一つの魔術の構成が粗雑になっていた上、構成を編む速度もいつもよりも遅くなっていた。

だから私は最初の鎌鼬を防ぎながら、業火の魔術に干渉して構成を書き換えて消し、続いて竜巻の魔術を乗っ取り方向を変えて無効化した。

結果的に、私は二重魔術で彼の三重魔術を防いだことになる。

 

「貴方が使った鎌鼬の魔術、あれは見事なものでした。威力、精度、速度、全てに優れていた。あの練度の魔術ならば、多重魔術でなくただ連続で使われただけでも私は苦しかったでしょう。しかし貴方はそれをせず、練度の低い三重魔術を使う事を選んでしまった。戦術の面においても未熟と言わざるを得ませんね」

「……」

「確かに貴方の才は素晴らしいものです。しかし小手先の技術を磨くことに気を取られすぎているように思います。才に胡座をかくことなく、一つ一つの魔術の練度を…」

言いかけて、私は途中で言葉を止めた。

へたり込んだままのユークレースがぶるぶる震えている。

その顔は真っ赤で、ずぶ濡れなので気付かなかったが涙目になっているようにも見える。

 

「うっ…ぐっ…」

「あっ、えっと、あの…」

もしかしてこれはまずいのでは。

そう思って慌てたが、もう遅かった。

「うわああああああん!!ちくしょおおおおおおおお!!!!」

絶叫しながらユークレースは訓練場の外へと駆けて行った。

その後ろ姿を呆然と見送る。

それから恐る恐る背後を振り返った。

殿下や皆が何とも言えない表情でこちらを見ている。

 

「…あの…もしかして、やりすぎました…?」

えへ、と誤魔化し笑いを浮かべると、スピネルが「…本当にこてんぱんにしやがった」と言いながら大きくため息をついた。



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番外編・バレンタインデー

「殿下、スピネル。今日はバレンタインの日なのです」

「バレンタイン?」

「なんだそりゃ」

「セナルモント先生の所蔵している古文書に書いてあったんです。古代神話王国時代にあった行事らしいのですが、チョコレートという特別なお菓子を作り、恋人や大切な相手に贈る日なんだそうです」

「チョコレート…聞いたことがないな」

「カカオという大変珍しい植物の種子から作るものだそうです。少々調べてみたのですがこれがなかなか面白くて、温暖な気候でしか育たない植物なのですが、この国の南部では薬用として丘陵地帯でのみ少量栽培されていまして…」

「おい待て。長くなるのかその話は」

「ああ、すみません脱線しかけました。とにかく面白かったのでカカオの苗と種子を入手してみたんです。それで、せっかくなのでそのチョコレートというお菓子を製作してみました」

 

「作った?お前がお菓子を?嘘だろ?」

「失礼ですね!本には製造方法も書かれていたのでその通りに作ったんです。ちゃんと美味しく食べられるものができました!」

「嘘だろ?」

「嘘ではありません!まず種子を焼き上げた後、殻や胚芽を分離。さらに風魔術を使って細かくしすり潰して磨砕。砂糖などの材料をを加えつつ複合魔術で熱を加え撹拌し…」

「お菓子を作ったんだよな?魔術の実験にしか聞こえないんだが?」

「まあそういう一面もあった事は否定しません。精密な操作を要求されるので大変勉強になりました」

「勉強って」

 

「…という訳で殿下、これが出来上がったチョコレートです。受け取って下さい!」

「カエルじゃねーか!!カエルっつーか、カエルの石像じゃねーか!!」

「カエルにしてはずいぶん焦げ茶色だな…」

「チョコレートとはこういう色をしたものなので。そしてこれは、型に流し込んで好きな形に固めるお菓子なんです。だから殿下の好きなカエル型にしてみました」

「食い物をカエル型にするんじゃねーよ!!気色悪い!!!」

「ものすごく精巧だな…」

「はい。本物のカエルを使って菓子型を製作しましたので」

「カエルから型を取る貴族令嬢!」

「スピネルはさっきからうるさいですね。大丈夫です、眠りの魔術をかけてる間に型を取ったのでカエルはちゃんと後で放しました」

「いやそういう問題か?」

 

「…しかし、ここまで見事にカエルだと少々食べにくいな」

「はい。なので、カエル型以外も用意しました。クッキー用の型抜きを参考にして、丸型や花型、葉っぱ型などもあります」

「最初からそっちを出せよ」

「どうぞ、殿下。召し上がってみて下さい」

「ちょっと待てこれは本当に食べても大丈夫なのか?安全なんだろうな?」

「もちろん安全です、毒検知の魔術には何も引っかかりませんでした。摂取しても人体に悪影響は一切ありません」

「お前魔術使えば何でも解決できると思うなよ!毒じゃないからって食えるとは限らないんだからな!」

「ちゃんと食べられますよ!味見だってしましたし!」

「…分かった。リナーリアが作ってくれたものだ。食べよう」

「いや無理すんな殿下…その勇気は認めるけどな…」

「そしてこっちがスピネルの分です」

「俺のもあんのかよ!?いらねえ!!」

「ええっ!?いらないんですか!?」

「今の話の流れでいる訳ねえだろ!」

 

「一生懸命心を込めて作ったものなんです…食べてくれないんですか…?」

「ぐっ…!」

「…スピネル。覚悟を決めろ」

「うっ…。…クソ、分かったよ!食べればいいんだろ!」

「わあ有難うございます!後で食味と体調変化のレポートお願いしますね!!」

「てめえ!!」

「いや本当に美味しいんですって。大丈夫ですからどうぞ」

 

「……」

「…美味いな」

「嘘だろ…?本当に美味い…?」

「何でそんなに半信半疑なんですか?何度も試行錯誤して、美味しく作れるまで頑張ったんですよ。ものすごく時間がかかりましたが…。殿下のものは粉末状にしたミルクを加えて口当たりを良くしてあります。スピネルは甘いものがあまり好きではないので、苦味を活かしてできるだけ砂糖を控えて作りました」

「そうなのか…。うむ、本当に美味い。ありがとう」

「…ああ。ちゃんと美味い。ありがとな」

「はい…!」

 

 

「あ、ちなみにこれ、贈られた相手には1ヶ月後にお返しをするのが決まりなんだそうですよ。ただし、もらったチョコレートの3倍の価値があるもので」

「3倍!?これ相当貴重なものなんじゃないのかよ!?」

「はい。魔術効果のついた剣の2本や3本買えるでしょうね」

「そんなにするのか」

「もちろん殿下は気になさらなくて結構ですよ。でもスピネルはちゃんと3倍でお願いします」

「ゼロか3倍かよ!対応に差がありすぎだろ!!」

「従者はお給金も良いじゃないですか。この機会にパーッと使って経済を回しましょうよ」

「そういう事なら俺もちゃんとお返しを贈る。リナーリア、何か欲しいものはないか」

「え、殿下は本当にいいんですよ。別に欲しい物などありませんし」

「そ、そうか…俺からはいらないのか…」

「お前本当に下らない冗談やめろ!どんどん話がややこしくなるだろうが!」

 

…それから数年後、王都では希少な高級菓子としてチョコレートが流行ったとか流行らないとか。




2/14に投稿した息抜きのギャグ短編です。


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第66話 水霊祭前夜※

「それにしても凄かったね。あのユークレースに勝つ子がいるなんて思わなかったなあ」

「すみませんでした…少しやりすぎたみたいで…」

帰りの馬車の中でフランクリンに褒められ、私は居心地悪く身を縮めた。

どうやらユークレースは来る時に使った馬車のうちの一台に乗って、先に屋敷に帰ってしまったらしい。

なので私が今乗っているのは通りで拾ってきた辻馬車だ。フランクリンの他にカーネリア様もこの馬車に同乗している。

ユークレースは魔術師塾で借りたローブを着たまま帰ったようだが、どちらにしろずぶ濡れだったし後日返却するしかないだろう。

 

「まあ、ユークレースにはいい薬になったんじゃないかな。あいつは魔術の腕こそ大人顔負けだけど、その他はてんで子供だから。リナーリアちゃんもそのつもりでやったんだろう?」

「ええ、まあ…」

想定以上にダメージを与えてしまった気がするが、その通りなのでうなずくしかない。

私は今回、彼の鼻っ柱をへし折るために彼に魔術戦を持ちかけたのだ。

 

前世での水霊祭の祭礼。

そこに突然現れた大型魔獣との戦いの中で彼は命を落としたが、それは魔獣の攻撃によってではなかった。

彼自身の魔術の暴走によってだったのだ。

 

あの時、恐ろしい異形の大型魔獣を相手に、彼は周囲の制止も聞かず護衛たちと共に戦おうとした。

そして魔獣の堅牢な装甲を破るために三重魔術を使おうとしたのだが、その瞬間に魔獣が威圧の咆哮を放った。

魔力の乗ったこの咆哮は一部の魔獣だけが操れるもので、人間が浴びれば激しい恐慌をきたし動けなくなってしまう。

三重魔術を使おうと集中していたユークレースはまともにこの咆哮を食らい、魔術の制御に失敗した。そして失敗した魔術の反動を受けたのだ。…ほぼ即死だった。

その後の戦闘で大型魔獣は何とか討伐されたのだが、ブロシャン家の人々、特に公爵夫人の悲痛な嘆きは今でも忘れられない。

 

結論から言えば、ユークレースはあの時三重魔術を使う必要はなかった。残りの者たちでもちゃんと魔獣は討伐できたのだから。

戦うにしても、己の力を過信せずきちんと自分の身を守り、護衛の騎士や周囲の者たちと連携し助け合って戦えば良かった。

そうすれば彼はきっと、命を落とさなくて済んだのだ。

 

だから私は、今の彼はまだ未熟な子供に過ぎないと自覚してもらうために魔術戦を挑んだ。

わざと煽り続ければきっとユークレースは三重魔術を使ってくる。あえてそれを破り、三重魔術のリスクを身を以て知ってもらおう。それにいくら強情で自信家な彼でも、己に勝った相手の言う事なら耳を貸してくれるはずだ。魔獣との戦いでも、きっと指示に従ってくれるだろう。

…そういう考えだったのだが、まさか泣くほどショックを受けるとは…。

間違ったことはしていないつもりだが、ちょっぴり罪悪感がある。

 

 

「自分の実力がどれほどのものか、知っておくのは大事よ。今まで彼にはそれを教えてくれる人がいなかったのかしら」

カーネリア様はなかなか辛辣だ。

「そうだね。同じ年頃でユークレースに勝てる子は今までいなかった。残念だけど僕では弟には敵わないし。それに、父上も母上もあいつには甘くてね…」

フランクリンは苦笑する。

確かに、ブロシャン公爵夫妻はユークレースをずいぶんと甘やかしていたらしい。

夫人は単に彼を愛していたからのようだが、公爵の方は彼の魔術師としての将来に相当な期待をかけていたのだと聞いた。

ブロシャン公爵は立派な人だが、魔術師としての才は先代の魔鎌公にはとても及ばなかった。

その分、才能を持って生まれた息子には期待せずにいられなかったのかも知れない。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「あの、気になっていたのですが…ユークレース様はなぜ騎士嫌いなのでしょう?」

私は思い切って尋ねてみた。フランクリンは少々迷ったようだったが、やがて口を開く。

「そうだね…あの態度を見たら気になるよね」

フランクリンは窓の外を見ながら言う。

「ユークレースは昔から優秀な子でね。頭が良かったし、魔術の腕も飛び抜けてた。しかも周りの大人が皆それを褒めるから自信家でさ。おかげで全然友達ができなくてね…」

ふむ…。抜きん出た才能を持つ子供が周囲から浮いてしまうのはよくある事だと聞く。

 

「それでも10歳くらいの頃かな、同い年の友達が一人できたんだ。騎士だけどうちとは親しくしてる家の子でね。でもその友達と一緒に他の家のガーデンパーティーに呼ばれた時、一騒動あってね…。コルンブ侯爵家の子とユークが喧嘩になっちゃったらしくて」

「喧嘩?どうしてですか?」

「魔術師のくせに生意気だとか、どうせ戦いになったら騎士の後ろに隠れてるくせにとか、色々言われたみたいだよ」

それを聞いてカーネリア様が眉をひそめた。

「騎士だって魔術師に助けてもらっているのに、ひどい言い草だわ」

「そうですね…」

コルンブと言えば確か騎士至上主義のフェルグソン派の一人で、高名な騎士家だ。

その子もきっと親の影響を受けて育ったのだろう。

 

「まあ、ユークはああいう性格だから、要するに態度が気に入らなかったんじゃないかなと思うけどね。…それを聞いたユークは腹を立てて、コルンブ家の子に食って掛かって喧嘩になった」

ユークレースの性格なら間違いなくそうなるだろうな。プライド高いし。

「その時、お友達の子はどうしていたのですか?」

「その子はユークを止めたらしい。コルンブ家には逆らわない方がいいと、そう言ったみたいだね」

「まあ!一緒に戦わなかったの?」

カーネリア様が憤慨する。基本血の気が多いんだよな彼女。

「多分、事を荒立てたくなかったんだと思うよ。うちは公爵家でもちょっと特殊な立場だし、騎士に比べて魔術師の家は少ないから味方はそんなに多くない。多勢に無勢だ。でも、ユークは…」

「…裏切られたと、思ったわけですか?」

「…うん。とりあえずその場は周りの大人が取りなして収めたみたいだけど、その子とはそれ以来全く話してないようだ」

 

初めてできた友達に裏切られたと思ったなら、あんな風に頑なになってしまうのも仕方ないのかもしれない。

その友達の子にも立場や考えがあったのだと思うが、ユークレースとしては納得できなかったのだろう。

「では、社交嫌いになったのも?」

「元々嫌いではあったけどね、余計嫌がるようになったのは確かかな。…それに、近頃はお祖父様の具合があまり良くなくてね。ユークはお祖父ちゃんっ子だから、領を離れたくないんだよ。今日機嫌が悪かったのも、お祖父様にもっと外に出ろって叱られたからさ」

そう言えば魔鎌公はこの1年後には亡くなってしまうんだよな。

死因は病死だった。…これは私にどうにかできるような問題ではない。

 

「そういう事だったのね…」

カーネリア様が小さくため息をついた。

「君たちからしてみればいい迷惑だったろうね。ごめん」

「あ、いえ…」

「ユークは意地っ張りな上に捻くれているけど、でも根はいい子なんだ。色々失礼な事を言ってしまっていたけど、どうか嫌わないでやって欲しいな」

そう言ったフランクリンの目には、弟に対する優しさがあった。

「…はい。分かりました」

私とカーネリア様は揃って答えた。

 

 

 

その日の晩餐は、水霊祭の前夜という事で控えめな内容だった。

王妃様や殿下を始めとした王家の一行とブロシャン公爵家の者とで、肉を控えた野菜中心の晩餐を取る。

ユークレースは晩餐の場には出てこなかった。まあ結構な醜態を晒したからな…出てきにくいだろうな…。

できればもう少し仲良くなりたかったのだが、やっぱり失敗したかな。

これだから私は前世でも友達がいなかったんだよな…と落ち込んでいると、ブロシャン公爵が殿下に話しかけた。

「王子殿下。昼間はユークレースがご迷惑をおかけしてしまったようで申し訳ありません」

「いや、気にしていない。…ユークレースは大丈夫か?」

「ええ…今は部屋に籠もっておりますが…」

ブロシャン公爵は苦笑する。それから、私の方を見た。

「特に君には、ずいぶんと世話をかけてしまったようだ」

そう言われて私は青くなった。

まずい。ブロシャン公爵に睨まれるのはまずい。殿下はもちろんだが、私の実家にとってもよろしくない。

「も、申し訳ありませんでした…!分もわきまえずに…」

冷や汗をかきながら慌てて頭を下げると、ブロシャン公爵は優しく言った。

「気に病むことはない。むしろ礼を言いたいくらいだ。私たちもあの子の事を甘やかしすぎてしまったとは思っていたんだが、なかなか諌められなくてね…。君に負けた事はきっといい勉強になったと思う」

あ、あれ…?許された…?思いっきり泣かせちゃったんですけど。

 

「…近い年頃にそなたのような魔術師がいると知った事で、ユークレースは己の未熟さを知っただろう」

静かにそう言ったのは先代ブロシャン公爵、ユークレースの祖父である魔鎌公だ。

若い頃はユークレースのように青かっただろう髪と髭は、すでに半分以上が白く染まっている。

皺の刻まれた頬は少しこけているが、顔色は悪くなかった。

たまたま体調が良いだけなのかも知れないが、少なくともその目には力強い光がある。

「あの子は才ある子だが、才に溺れれば身を滅ぼす」

「…!」

まるで明日起きる事件を予言するかのような言葉に、私ははっと顔を上げた。

 

「手のかかる子だが、同じ魔術師の誼だ。どうか仲良くしてやってはくれまいか」

フランクリンと同じようなことを、魔鎌公は言った。周りを見回すと、ブロシャン公爵夫妻やフランクリン、ヴァレリー様も私の方を見てうなずいている。

ユークレースを心配する気持ちは、家族皆同じなのだろう。

 

…ユークレースを救う。そうする事で、ブロシャン公爵家の人々も救えるはずだ。

彼を愛している母や、期待をかけている父や祖父、心配している兄や姉。そういった人々を。

絶対に彼を死なせはしないと、私は改めてそう思った。

「…はい!」

任せて下さいと答えると、ブロシャン公爵家の人々は私に笑顔を返してくれた。



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第67話 水霊祭

翌朝、殿下や私たちの一行は護衛を引き連れ水霊祭の祭礼へと出発した。体調に不安のある魔鎌公を除いたブロシャン公爵家の面々も一緒だ。

目的地は湖の畔にある水霊神の祠だ。公爵屋敷から馬車で1時間と少しの場所にある。

東側には森があるが、普段魔獣が出てくる事はほとんどない。

目の前には深く澄んだ青い湖。背後にそびえ立つ雪混じりの高い山々が湖面に映り込む、とても美しい場所だ。

 

 

向かうまでの馬車にはなぜか殿下及びユークレースと同乗する事になった。

物凄く気まずい組み合わせのような気がするのだが、ブロシャン家の人々はこれでいいのだろうか…。馬車の振り分けはブロシャン家の手配で行われたが、まさか何も考えていない訳ではあるまい。

ユークレースを甘やかしているというのは間違いで実は結構厳しいのだろうか?

あと、ヴァレリー様と殿下を一緒にしなくていいのだろうか?さっぱり分からない。

 

そしてユークレースだ。

私は正直、彼は今日も部屋に籠もったままかも知れないと思っていた。

それならそれで安全だからいいか…と考えていたのだが、ムスっと口を曲げたままちゃんと付いて来ている。魔鎌公あたりに怒られたのだろうか。

 

何とも声のかけようがないので素知らぬ顔で外の景色を眺めていると、ユークレースがぼそっと「…昨日の」と呟いた。

「はい?」

「昨日の三重魔術の阻害はどうやったんだ」

なるほど、解説をご所望らしい。

「見たままですよ。最初の鎌鼬の魔術は水球の魔術で抑えました。それから轟炎の魔術を書き換えて停止させた後、竜巻の魔術を書き換えて方向を変えました」

「おかしいだろ。なんで僕の鎌鼬を水球だけで抑えられるんだ。鎌鼬の方が破壊力が高い。水球ごときが保つはずがない」

「破壊を上回る速度で水球を召喚すればいいだけです。壊された水球の水分が周囲に散っているので簡単です」

「か、簡単…?鎌鼬より速く水球を呼ぶのが…?」

ユークレースが驚愕の色を顔に浮かべる。

 

「じゃあ書き換えの魔術は?あんな速度で書き換えられるはずが」

「それまでにユークレース様の魔術構成はいくつも見せていただいておりましたので。少々癖が強いので読み取りやすかったです」

ユークレースの構成はかなり効率的なものだった。他者が4つの過程を経ているところを、3つの過程で構成しているような部分がある。

こういう事をすると術が不安定になりやすいので、魔術への高い理解とセンスがなければできないのだが、効率的であるだけに読み取りやすい。こういう構成の魔術は時間をかけず瞬時に発動するべきなのだ。

 

私の言葉にユークレースはぽかんと口を開けた。

「…本当に、速度だけで僕を上回ったのか?」

「はい」

まあ、ユークレースの魔術は前世でも見たから予習できてはいたのだが。書き換えた速度そのものは私の努力の成果だ。

「何故そんな速く出せる!」

「それはただの反復練習の賜物ですよ。私は速度と精度を上げる訓練を必ず毎日、2時間以上行っていますから」

「毎日!?そんな事ばかりしていてどうしてあんな上級魔術を覚えられるんだ!」

「上級魔術は大体、中級や初級魔術の応用ですよ。基本さえしっかり抑えておけば応用を覚えるのにそんなに時間はかかりません。逆に言えば、基本を抑えられていないのに覚えようとするから時間がかかり、練度も下がるのです」

痛い所を突かれたのか、ユークレースは黙り込んだ。

 

「…私はユークレース様ほどに才能がある訳ではありません。ひたすら努力するしか、己の魔術を向上させる方法はないのです。だから毎日こつこつと練習しています」

なぜか魔力量や火魔術への適性は知らない間に増大していたが、それは魔術師としての腕前に直接関与はしない。

大事なのは、魔術を扱う技術。その巧さなのだ。私程度の才能で強くなりたいと思うなら、そこを努力するしかない。

 

無言でうつむくユークレースを見守っていると、殿下がじっとこちらを見ている事に気が付いた。

やけに真剣な目だったので戸惑いつつ首を傾げると、何でもないというように首を振った。

…なんだろう?

すると、ユークレースが再び呟く。

「…僕の方が才能があるなんて、そんなの嘘だ。お前の方がずっと強かったじゃないか…」

「ですからそれは、私が努力したからなんです!」

思わず憤慨しかけたが、すんでの所でそんな事が言いたいのではなかったと思い出した。私はユークレースを論破したい訳ではなく、説得したいのだ。

ごほんと一つ咳払いをする。

 

「ユークレース様の魔力量、魔術への理解と習得の早さ、感性…つまり魔術のセンス。それらは決して努力では得ることのできない天性の才能です。誇るべきものです。ですがそれだけでは魔術は扱えません」

それらは前世の私がずっと欲しがっていたものだ。だけど、きっと私が目指すべきものはそれではないのだと思い、今世ではあえて追おうとはしなかった。

 

「たゆまぬ努力と修練によって得られる技術。それが貴方に備われば、私など足元にも及ばない大魔術師になれるでしょう。…きっと、貴方のお祖父様の魔鎌公を超えることだってできると、私は思います」

最後の言葉に、ユークレースは顔を上げた。

「…僕が、お祖父様を?」

「はい」

私はしっかりとうなずく。

彼の周囲の者だって、きっとそう思っているはずだ。道を違えず、きちんと努力を続ければ、彼はそこへ辿り着けると。

だから皆が彼に期待しているのだ。

 

「…そうか」

ユークレースはまた下を向いたが、その顔はさっきまでのような暗いものではない。

ほんの少しだけ明るく、嬉しそうに見える。

私と殿下は顔を見合わせると、こっそりと笑い合った。

 

 

 

湖の祠へと到着すると、早速祭礼の準備が始められた。

殿下は上着を脱ぎ、金糸で刺繍の入った白いローブを羽織って黄金の額冠を身に着ける。

いつもとは違う神秘的な雰囲気だ。

しかし裾も袖も大きく広がったローブは着慣れないのか、どことなく落ち着かない様子でいる。動きにくいのが気になるらしい。

なので「大丈夫です、よくお似合いですよ」と言うと、少し照れたような顔になった。

…何だかちょっと懐かしいな。

殿下は傍目から見るといつも堂々としているし度胸もあるけれど、人から注目される事を意識している時などは、さすがに緊張したりもする。

そういう時に励ますのはいつも、従者である私だった。

この手の行事では従者にも何らかの役目がある場合も多いので、逆に私が励まされる事も多かったんだが…。

そう言えばスピネルは?と振り返ると、マントを着けて儀礼用の剣を腰に差している所だった。

さすが様になっているが、私の時とは服装が違うな。騎士と魔術師の違いか。

 

 

祠に祀られた水霊神の像に向かい、殿下が祝詞を読み上げるのをじっと見守る。

本来は国王陛下がやるものだが、今回は来ていないので殿下が代理なのだ。

祝詞が終わった所でスピネルが前に進み出て膝を折り、花や果物などの供物と金の杯が乗った銀の盆を捧げ持つ。ちなみに、従者の役割はここだけだ。

殿下が供物を神前に供え、杯に入った湖水を水霊神の像にかけて、膝をついて祈りを捧げる。

私たち参列者も同じく膝をついてしばらく祈り、それで祭礼は終了だ。簡単なものである。

 

「お疲れさまでした、殿下」

「とてもご立派でした!」

「ああ、ありがとう」

私とヴァレリー様とで戻ってきた殿下を迎える。

殿下は祭礼を無事に終えてほっとしたようだ。厚手のローブが暑いらしく、すぐに脱ごうとしている。

 

「お兄様も格好良かったわ!」

「別に何にもしてないけどな」

褒めるカーネリア様にスピネルは肩をすくめた。まあ、お盆持って行っただけだしな。

「でも本当に格好良いですよ。背が高いからマントが似合うんですね」

そう言うと、スピネルは格好つけてバサっ!とマントを翻した。

いかにも得意げなドヤ顔がなければ本当に格好良いんだけどな…。

しかしそれを見た殿下が「俺もマントが良かった」と真顔で言うので、皆で吹き出してしまった。

「分かりますよ殿下、マントって憧れますよね」

「あっ、リナーリア様もそう思う?私も一度着けてみたいの。女騎士の正装に合わせるやつ」

「ああ、あれも格好いいですよねえ」

女騎士のマントはもっと短いものだが、歩く時にひらりと翻るのはやはり格好いいと思う。

「カーネリア様は女騎士になりたいんですものね。絶対似合うと思います!」

「本当?ありがとう!」

ニコニコと言うヴァレリー様に、カーネリア様も嬉しそうだ。

ヴァレリー様コミュニケーション能力高いな…。正直羨ましい。

 

 

祭礼の後は湖を眺めながらしばしの休憩だ。

予定としては、1時間ほど後に公爵屋敷に戻り軽い昼食を取ることになっている。

「リナーリア。どうかしたのか?」

「え?」

急に殿下に尋ねられ、私は首を傾げた。

「先程から周りを気にしているように見える」

「ああ…いえ…」

言葉を濁すと、殿下はかすかに眉を寄せて周囲を見回した。

「実は俺もさっきから気になっている。上手く言えないが、何か妙な感じがする」

横で聞いていたスピネルが表情を引き締めた。

…殿下のこの勘の良さは何なのだろう。さすがと言う他ない。記憶の通りなら、そろそろのはずだ。

 

その時、ごく僅かな揺れを身体に感じた。

同じものを感じたのだろう、周囲の幾人かがはっとした表情で振り向ききょろきょろと辺りを見る。

やがて地鳴りと共に、地面がはっきりと揺れ始めた。

 

()()

 

護衛騎士の誰かが叫ぶ。

「…魔獣だ…!!」



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第68話 巨亀

バキバキと激しい音と共に、地面がひび割れていく。

「皆様下がって下さい!湖の側に…!!」

王宮魔術師のビリュイが、王妃様を背後に庇いながら叫ぶ。

スピネルが剣を抜き放ちながら私と殿下の前に出て、殿下もまた腰の剣を抜く。

ぶわっと辺りに瘴気が広がった。

地面の中から、巨大な魔獣がのそりとその姿を表す。

まず出てきたのは太くて短い脚。

それから、巨大で分厚い甲羅。

その巨体の半分ほどが地面から現れたところで、甲羅の隙間から首が伸びてくる。

 

「…三つ首…!?」

 

私は愕然としながらその魔獣を見上げた。

中央に亀の首。左に獅子の首。そして右に、鷲の首。

()()()()()()

 

前世では亀と獅子の二つ首だった。

多頭の魔獣は基本的に首の数が多ければ多いほど手強い。しかも、身体も前世より大きいような気がする。

広がった瘴気の中から、赤黒い蜥蜴の魔獣が次々に現れる。巨亀の眷属だ。数が多い。

…くそ、計算が狂った。

タルノウィッツの事件でテノーレンが抜けてしまっているから、この場には王宮魔術師はビリュイ一人しかいない。

その分は私と、前世ではいなかったスピネルの力でカバーできるかと思っていたのだが。

 

「ユークレース様、こちらへ!」

「あ、ああ」

ユークレースは大人しく私の傍に来てくれた。この調子ならちゃんと指示に従ってくれるか。

「…我々では皆様を守りきれないかもしれません!できる限りご自分の身を守る心構えをお願いします。危ないと思ったら、水中に飛び込んで下さい!」

厳しい表情でビリュイが言い、公爵や王妃様がうなずいた。公爵夫人やヴァレリー様は息を呑んでいる。

 

護衛の騎士たちが、地面から這い出しつつある巨亀や蜥蜴に対し先制攻撃を仕掛けた。

「…くそっ!硬い!!」

やはり亀の魔獣だけあって、通常の魔獣よりも遥かに刃が通りにくいようだ。

巨亀だけではなく眷属である蜥蜴もかなり硬いようで、大きさは小型魔獣程度なのに、手練の騎士でも一太刀では倒せていない。

 

「武器への魔力付与(エンチャント)の魔術ができる方はご協力を…!」

再びビリュイが叫び、ブロシャン公爵やフランクリンが動いた。

「殿下、スピネル!」

「ああ!」

私の呼びかけに、二人がすぐ私の前に来る。

魔術師が行う武器への魔力付与は、しばらくの間魔獣への攻撃力を高める魔術だ。騎士はこの術がかけられた武器にさらに自分の魔力を通す事で、通常よりも硬い魔獣にもダメージを与えることができる。

『清浄なる刃、魔を打ち払う力をここに』

差し出された剣にそっと触れ、二重魔術で二人へ同時に魔力付与を行う。

更に手を伸ばし、二人の肩に触れた。

『かの者に戦神の加護を与えよ』『戦乙女の盾よ、かの身に宿れ』

同じく二重魔術で身体強化と防護魔術も付与した。

「私の方で身体強化をかけました。重ね掛けは危険ですので、自分で行う身体強化はできる限り使わないで下さい。盾の魔術は魔力を含んだ攻撃を一回だけ防ぎますが、あまりに威力が高いと防ぎきれません。決して過信しないで下さい。必要ならばもう一度かけられますので戻って下さい」

「ありがとう」

「分かった」

殿下とスピネルが真剣な表情でうなずく。

 

「私にも魔力付与をちょうだい!」

カーネリア様はユークレースに向かって抜身の剣を差し出していた。

先程荷物の方に走っていたが、やはり剣を取りに行っていたようだ。

念の為、祭礼にも剣を持っていった方がいいと事前に勧めておいたのは私である。彼女を危険に晒したくはないが、身を守る手段はあった方がいいと思ったのだ。

「し、しかし」

「早く!!できないの!?」

「できる!!」

ユークレースは戸惑っていたが、カーネリア様に噛み付くように言われて急いで魔術をかけた。私と同じく、身体強化と盾の魔術も使ったようだ。

 

「ユークレース様はこのまま私の近くにいてください。二人で攻撃と防御を分担すれば、効率的に騎士を支援できます。私の指示に従っていただけますか?」

「…分かった」

ユークレースは素直にうなずいた。よし。これならば戦力と数えてもいいだろう。

「カーネリア、お前はこの二人を守れ。できるな?」

「分かったわ、お兄様!!」

スピネルに言われ、カーネリア様が意気込むように答えた。

きっと本当は戦わせたくないのだろうが、そう言って聞くカーネリア様ではない。前に出るよりはマシだとスピネルは判断したのだろう。

 

 

殿下とスピネルが近くまで来ていた蜥蜴魔獣に斬りかかっていく。付与魔術のおかげで攻撃力は十分のようで、次々と蜥蜴が断末魔の悲鳴を上げていく。

「まず眷属の蜥蜴を減らしましょう。防御は私に任せてください。ユークレース様は攻撃を」

「ああ」

「ただし、巨亀の動きには常に注意を。ブレスや魔術などの遠隔攻撃を仕掛けてくるかもしれません。特に獅子首は、咆哮を使ってくる可能性があります。…耐音結界は使えますか?」

「使える」

咆哮のような音を使った攻撃に対抗する耐音結界は風魔術の系統だ。風魔術が得意なユークレースはやはり使えるらしい。

「では、いつでも使えるように常に準備していて下さい」

「分かった」

ユークレースも、結界の準備をしながら三重魔術を使うような事はするまい。これでとりあえず安心だ。

「カーネリア様は、なるべく私たちから離れずに自由に動いて下さい」

「ええ!」

 

 

大量の水球を浮かべ、周囲に大きく広げる。

すぐ近くに湖があるおかげで空中から水分を集める必要がない。いつもより遥かに補充は容易だ。

一つ深呼吸をし、集中力を研ぎ澄ます。

 

殿下の左右から一体ずつ蜥蜴が近付いてきている。そのうち左側の一体に水球を放った。

カーネリア様が斬り付けている蜥蜴にも水球をぶつける。

少し離れた所で数体の蜥蜴に群がられそうになっている騎士がいる。水球を数個飛ばして蜥蜴を怯ませると、風の刃が飛んできて一体を切り裂いた。ユークレースが手伝ってくれたようだ。

 

水球には魔獣を仕留めるほどの攻撃力はない。だが、怯ませたり注意を引く事はできる。

ここにいるのは手練ばかりだ。

こうしてほんの少し隙を作るだけで、十分に打ち倒せる。

できる限り視野を広げる。冷静に戦場を見渡し、俯瞰し、状況を分析する。

必要な場所に、的確に魔術を。支援魔術師の腕の見せ所だ。

 

大丈夫。殿下も、ユークレースも。スピネルやカーネリア様、王妃様…皆を絶対に守ってみせる。

絶対に、誰も死なせはしない。



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第69話 三つ首との戦い(前)

護衛の騎士たちが交替で巨亀の注意を引いたおかげで、騎士の全員に魔力付与(エンチャント)が行き渡ったようだ。

その間にも着々と蜥蜴の数は減らされている。

辺りに広がった瘴気からは新たな蜥蜴が出てきているのだが、それよりも倒される速度の方が早い。

 

戦況が安定したのを見て取ったビリュイが言う。

「私はこれより亀との戦闘に加わります。ブロシャン公爵とフランクリン様はここで王妃殿下や皆様をお守り下さい」

「承知した」

「王妃殿下、公爵夫人、ヴァレリー様はなるべく魔力を温存して下さい。傷を負った騎士は後方に下がらせますので、その時は治癒魔術をお願いします」

「ええ」

さすがビリュイは実戦経験が豊富のようだ。てきぱきと指示を出している。

「リナーリア様、ユークレース様はそのまま魔術による騎士たちへの支援と、蜥蜴への攻撃をお願いします。カーネリア様もお二人の守護のままで。積極的に魔術を使っている者は狙われやすいので注意して下さい」

「はい」

「王子殿下、スピネル様は蜥蜴の掃討を」

「ああ」

これも妥当な配置だろう。蜥蜴の相手をする者は必要だし、巨亀の相手よりはずっと安全だ。

「…皆様、よろしくお願いします。どうぞご無事で!」

 

 

 

水球をいくつも操り魔獣を牽制しながら、時折二重魔術で水の壁の防御魔術を展開し、攻撃を受けそうになっている騎士を守る。

ユークレースは思った以上に的確に攻撃魔術を放ち、蜥蜴を葬っている。落ち着いて対処さえできるなら、元々攻撃力は十分にあるのだ。

巨亀には護衛隊長が中心になって当たっている。

前世の巨亀は主に獅子首がブレスや咆哮などの特殊攻撃、亀首が防御と物理攻撃を行っているようだった。

今回増えた鷲首は、主に魔術を担当しているように見える。炎や風の攻撃を飛ばしてきているが、ほぼビリュイが防いでいる形で、かなり負担が大きそうだ。

 

あまり時間をかけない方がいいだろう。

蜥蜴の数が減るにつれこちら側に戦況が傾いているように見えるが、時間が経てば不利になるのはこちらの方だ。このままでは巨亀を倒すよりも早くビリュイの魔力が尽きる。

その事を理解しているのだろう、護衛騎士たちはまず鷲首に攻撃を集中させているようだ。

「まず一つ首を落とす!陣形を整えろ!左翼と中央でそれぞれ獅子と亀の注意を引き、右翼は俺と共に鷲に全力攻撃!」

護衛隊長の声に「応!」と騎士たちが答え、周囲に散開し構えを取る。

 

突撃(チャージ)!!」

掛け声と共に、右翼側の騎士たちが一斉攻撃を仕掛ける。

鷲首が黒い血を撒き散らしながら苦痛の声を上げ、他の首もつられたように暴れ出した。それをビリュイが拘束の魔術で必死で抑える。

「もう一度行くぞ!」

暴れる巨亀の攻撃を避けながら、騎士たちが体勢を立て直す。

「…突撃!!」

再び、苛烈な攻撃が一斉に鷲首に加えられる。

「はあっ!!」

鷲首が大きく怯んだ瞬間、護衛隊長が大きく踏み込んだ。

跳び上がりと共に放たれる一閃。わずかな間の後に、ぐらりと鷲首が傾く。

 

 

まずい、と直感が警鐘を鳴らす。

「ユークレース!!耐音結界を…!!」

叫びながら水球を亀首の近くに集中させる。

『風よ、轟きを包み凪いで静まれ!』

ユークレースの耐音結界が周辺に広がった。

…ダメだ。これでは騎士たちを守りきれない。間に合え。

水球を帯のように広げ、二重魔術で更に水の壁を重ねる。

 

「ぐあっ…!!」

騎士たちが苦痛の声を上げる。

2人ほどが後ろに吹き飛び、真っ赤な血が弾けた。

鷲首が落とされた直後、獅子首が咆哮を上げ、亀首から闇の刃のような何かがいくつも放たれたのだ。

私も必死に防御の魔術を使ったが防ぎきれなかった。魔獣特有の魔術だ。ほとんど前兆がなかった。

獅子首から放たれた威圧の咆哮のせいで、騎士たちの対応が一瞬遅れたのも被害を増やした。

ユークレースの耐音結界は後方にいた私たちの事は十分に守ってくれたが、巨亀のすぐ目の前にいた騎士たちまでは守りきれなかった。

 

「…くそ!亀首も魔術を使うのか!」

「負傷者は後方に下がって治癒魔術を受けろ!!」

負傷者のうち、すぐに起き上がれた者が動けない者を助け起こして急いで下がった。そこに王妃様や公爵夫人が駆け寄っていった。

耐音結界のおかげで、後方の者たちがすぐに動けるのは幸いだ。

 

 

…やはり巨亀は前世よりも遥かに手強い。

首は二つに減ったが、使ってくる攻撃の種類は前世より多い。

それ以上に騎士たちやビリュイの魔力や体力の消耗が大きそうだ。残りの首を落とすまで保つかどうか。

 

全体の状況をもう一度確認する。

治癒魔術を受け巨亀の前へと戻っていく騎士が1名。

もう1名は傷が深く、戦闘に戻れるかどうか分からなさそうだ。

前に残り巨亀と戦闘を続けている騎士たちも、無傷の者はほとんどいない。

対して後方にいる私たち魔術師や、殿下、スピネルはほぼ無傷だ。消耗もまだ少ない。

瘴気から湧き出る蜥蜴魔獣の数はずいぶん減ってきている。

 

 

戦況的には、どうすべきかは明らかだった。

後方にいる者、その一部だけでも前に出て巨亀との戦いに加わるべきだ。私も、もっと前に出た方が戦いやすい。

だが私はその判断を下せなかった。そもそも下せる立場にもない。

後方にいるのは重要人物や、戦闘に慣れていない人ばかりなのだ。

私一人が前に出て危険に晒されるのは構わないが、それをやればきっと周囲を巻き込むことになる。もちろん殿下もだ。私が前に出るのを黙って見ていたりはしないだろう。

 

…どうしたらいい。

ぐっと唇を噛んだ時、また一体蜥蜴を斬り捨てた殿下が言った。

「リナーリア、魔力付与の魔術はあとどれだけ保つ」

「あと15分は保ちます。身体強化と盾もです」

私の答えを聞いて、殿下はスピネルに呼びかけた。

「行くぞ、スピネル」

「ああ」

スピネルは即答した。

二人もやはり、今の戦況が分かっているのだ。危険を冒してでも前に出なければ、きっと巨亀は倒せない。

 

「ブロシャン公爵、フランクリン、しばらく持ちこたえてくれ。…リナーリア」

「私も前に出ます!!」

何か言われる前に私は叫んだ。殿下が巨亀と戦うのを、こんな後ろから指を咥えて見ていられるものか。

「僕も行く!!」

隣のユークレースもまた叫んだ。

「……」

殿下が、普段は決して見せない険しい表情で私たちを見る。

 

一瞬のその沈黙を破ったのは、静かで落ち着いた声だった。

「行きなさい」

はっとその声の主を見る。

王妃様だ。

「皆で力を合わせ、魔獣を倒しなさい。それが今私たちのすべきことです」

「…母上」

それは、人の上に立つ者としての決意に満ちた言葉だった。揺るぎない青い瞳で殿下の事を見ている。

「殿下。考えてる時間はねえ」

「……。分かった」

スピネルにも背中を押され、殿下は逡巡を打ち捨ててすぐに前を向いた。

「行くぞ!」



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第70話 三つ首との戦い(後)※

「加勢する!!」

殿下とスピネルは戦力の薄い左翼側の攻撃に加わった。

私は二人の動きを見やすいよう、左斜め後方に立つ。ユークレースとカーネリア様は私よりもさらに左に位置取ってもらった。万一の時でも逃げやすい場所だ。

「負傷者は左から順に一度下がれ!治癒魔術を受けたら速やかに持ち場に戻るんだ!」

隊長の呼びかけに騎士たちが動き出す。

 

『水の盾よ!』

小さな水球の魔術では大型魔獣の相手をするには弱い。

水を集めて二つの大きな水の盾を作り出し、一つを獅子首、一つを亀首からの攻撃に当てた。

特に重いのはその太い脚を使った攻撃だ。亀なので鈍重そうに見えるが、近くで見るとその脚は想像よりはるかに速く、そして長い。

しかもかすっただけで熟練の騎士すら吹き飛ばすほどの威力があり、全力で水の盾を張ってもわずかに方向を逸らすのがせいぜいだ。

最も恐ろしいあの闇の刃は連発できるものではないのか、使ってくる様子がないのが不幸中の幸いだ。

 

獅子首が放つ特殊攻撃も厄介だ。

咆哮はユークレースが耐音結界で防いでくれているが、時折吐き散らされる炎のブレスも油断できない。何しろ攻撃範囲が広いのだ。

私は水の盾を維持しながら、これらの攻撃に合わせてさらに防御魔術を使うのが精一杯だ。

ユークレースは次々と攻撃魔術を放って手助けしてくれているが、速度を重視しているようで攻撃というよりも牽制に近い。

彼はかなり集中して魔術を使っている様子だが、カーネリア様がうまくカバーしてその身を守っている。意外にいいコンビのようだ。

 

 

巨亀は首が二つになってから攻撃がやや単調になっているものの、暴れ方はむしろ激しくなっている。

前線に魔術師が増えたことで騎士たちが受けるダメージは減らせたようだが、体力気力共に消耗は激しい。状況が好転しているとは言い難い。

「…二つの首を同時に落とす」

護衛隊長が巨亀を見据えながら言う。

先程鷲首を落とした時の様子からすると、片方の首が落ちた時、残りがさらに激しく暴れる可能性が高い。だから同時に落とそうという判断なのだろう。

「しかし、獅子と亀の首は鷲よりも硬いようです。特に亀首は非常に硬い。落とせるかどうか」

殿下とスピネルが加わったとは言え、戦線から脱落した騎士もいる。攻撃力が足りないのではないかとビリュイが冷静に反論する。

 

「私が亀首の守りを弱めます」

そう言った私を、ビリュイや護衛隊長が振り返った。

魔獣の硬さは、物理的な強靭さではなくその特殊な魔力に依るものが大きい。魔術で干渉すれば、あの堅い防御をある程度脆くできる。

「なら、獅子首は僕が担当する!攻撃に合わせて、奴の守りに干渉すればいいんだろう」

続いてユークレースも言った。

その表情は真剣で、しっかりと落ち着いている。きっとやれる自信があるのだろう。

 

「…その作戦で行きましょう」

護衛隊長は即断した。

こうしている間にも巨亀からの攻撃は飛んできている。迷っている暇はない。

すぐさまビリュイが細かな作戦を立てる。

「では、私が雷の魔術で巨亀に隙を作ります。リナーリア様とユークレース様は雷が当たったらすぐに防御減衰の魔術を。騎士の攻撃のタイミングは隊長殿にお任せします」

「承知しました」

 

 

「総員、一旦下がれ!合図と共に一斉攻撃をするぞ!!」

魔術師は魔力を練り、騎士は構えを取ってそれぞれ攻撃態勢を整える。

(はし)れ稲妻、雷光の槌!其は貫く閃光なり!我が敵を地へと縫い止めよ!!』

ビリュイが詠唱を叫ぶ。

敵の動きを止める効果もある、雷の最高位魔術だ。もう魔力は残り少ないと思うが、出し惜しみはしないつもりらしい。

激しい雷が天から降り注ぎ、轟音と光が巨亀を打ち据える。

『鎧は(こぼ)ちて、盾は砕けよ!剣にて貫けぬものなし!!』

間髪入れず、私とユークレースの詠唱が重なった。

パキン、という高い音と共に巨亀の周辺を覆っていた何かが砕けるのが分かる。

 

「突撃!!」

殿下やスピネルも含めた騎士たちの剣が次々に閃く。

幾度も切り裂かれ、巨亀がぴたりと動きを止めた。

そして、大きく痙攣する。

「…やったか…!?」

ずるりとその首が落ちる。

()()()()()()が。

 

 

「…全員、後ろに跳べ!!」

左右の首を失い、一つ首となった巨亀の前脚が振り上げられる。

咄嗟に限界まで強度を上げた身体強化を使った。

足首がバキバキと嫌な音を立てるのを無視して後ろに跳ぶ。

 

「くぅっ…!」

苦痛をこらえながら何とか着地する。

…仕留めきれなかった。一番硬い亀の首を落とせなかったのだ。

首元には大きな傷口が開き、止めどなく黒い血が溢れているが、まだ死んでいない。

巨亀の周囲にどす黒い魔力が広がった。

幾人も負傷させた、あの闇の刃を放とうとしている。しかも、かつてない威力でだ。

騎士たちはさっきの前脚を避けるために周囲に広く散ってしまっている。この範囲では、とても守りきれない。

 

「ユークレース!!自分に二重防御を!!」

私は叫んだ。カーネリア様はユークレースの近くにいるから、きっとユークレースの結界の範囲内だ。

『光よ、壁となれ…!』

ビリュイもまた全体を覆うように防御魔術を使ったようだが、あまり強固なものではない。もう魔力が残っていないのだろう。

『水の壁よ…!!』

私もできる限りの広さで水の壁を二重に展開する。これも範囲が広い分かなり薄くなっているが、ないよりはマシだ。

騎士たちの身体強化があれば、盾がわずかに刃の速度を鈍らせている間に避けられる可能性はある。

 

 

今の私が安定して使えるのは最大で三重魔術までだ。あともう一つだけなら魔術を使える。

その使い道を迷うことはなかった。

私が最も守りたいと願うもの、それは初めから一つだ。

『光の盾、魔を退けよ!悪しき力からかの者を護れ!!』

 

私の魔術によって、輝く光が殿下の身体を包むのとほぼ同時。巨亀が大量の闇の刃を周囲に放った。

「……!!」

金属が叩かれるような甲高い音と共に、いくつもの刃が魔術の防壁を貫いて飛んでゆく。

無作為に撒き散らされたそのうちの一つが、私の方へと向かって来るのが分かった。

私が騎士だったなら、まだ己の身体を動かし避ける事ができたかも知れない。

だけど無理だ。さっき、巨亀の前脚を避ける時に使った身体強化で恐らく足首が砕けている。踏ん張りが効かない。これ以上ここから動けない。

 

…やはりもう少し鍛えておくべきだったな。

眼前に迫り来る闇の刃を見ながら諦め気味にそう思う。まだこんな所で死にたくはなかったのに。

だが目を瞑ろうとした瞬間、突然私の前に一人の影が飛び込んできた。

見間違えようもない赤い髪が大きく剣を振りかぶる。

「…スピネル!!」

打ち下ろされた剣が闇の刃とぶつかり、弾き飛ばされた。

スピネルの前に青く光る盾が現れる。私が最初に使った戦乙女の盾だ。しかしそれも、すぐに砕け散る。

「ぐっ…!!」

鮮血が飛び散り、その身体がぐらりと傾いて膝をついた。

 

 

巨亀の使った闇の刃の魔術によって騎士のほとんど全員が傷を負っている。

無傷で立っているのはたった一人。殿下だ。

 

翠の瞳が迷うことなく巨亀を見据え、前に奔る。

再び巨亀の周辺に黒い魔力が広がる。またあの刃を使うつもりなのだろう。だが、遅い。

「…はあっ…!!」

電光石火の踏み込み。神速で振るわれた剣が、狙いを過たず亀首につけられた大きな傷へと吸い込まれた。

膨れ上がりかけていた黒い魔力が霧散する。

 

断末魔の叫びを上げながら今度こそ亀首が地に落ち、騎士たちが快哉を叫んだ。

 

 

 

巨亀の大きな甲羅が、空中に溶けるように消えてゆく。

その様を見届ける前に、足の痛みをこらえて必死で前に進んだ。

「…スピネル!しっかりして下さい!!」

うずくまっているスピネルの肩に手をかけ、ごろりと仰向けにする。

その胸は大きく切り裂かれ、血で赤く染まっていた。

「…いってえ…」

「喋らないで下さい!!今治癒します!!」

すぐさま探知魔術を流す。幸い内臓は傷付いていないようだ。

「お兄様!!」

「スピネル…!」

駆け寄ってきたカーネリア様や殿下の声を聞きながら、必死で治癒魔術をかけ始める。…出血が多い。

「…大丈夫だ。これくらいじゃ死なねえ」

「喋るなと言っているでしょう!!」

「泣きそうな顔してんじゃねえよ…」

「してませんよ…!」

 

胸元にかざした手から広がった治癒の光で、じわじわとゆっくり傷が塞がっていく。

医術師ではない私では、この速度の治癒魔術が精一杯だ。

早く塞がってくれ。誰も死なせないと、そう誓ったのだ。

「…今回は間に合ったな。…やっと守れた」

「え…?」

言葉の意味が分からず、私はスピネルの顔を見た。

少しだけ考え、それからようやく理解する。

「…あの時の事、まさかずっと気にしていたんですか?」

3年前、私が転移魔法陣で古代神話王国の遺跡に飛ばされた事件。あの時、スピネルは殿下の手を引いて助けることを選んだ。

「…あんな胸糞悪いのは、もう御免だ…」

「貴方は…」

 

何とか傷を塞ぎ終わり、静かに治癒の光が消える。これ以上は専門の医術師でなければ癒せない。

「…貴方は、バカな人ですねえ…」

…普段はあんなに私のことをバカだバカだと言っているくせに。

私を庇ってこんな傷を受けるなんて、自分だって十分バカだろう。

そう言って笑うと、スピネルは「うるせえ」とだけ呟いて目を閉じた。

 

 

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第71話 治療と傷痕

祭礼の後に突如起こった、亀の大型魔獣の襲撃を受けるという事件。

前世での記憶とは違い、より強力な三つ首の魔獣になっていたが、何とか今度は誰も犠牲者を出さずに済んだ。

護衛の騎士のうち数名が深手を負いはしたが、すぐに治癒魔術を受けられたおかげで全員命に別条はなさそうらしい。

スピネルも、派手な出血はあったもののとりあえず無事だ。

殿下とカーネリア様、ユークレースはそれぞれかすり傷程度。

後方にいたブロシャン公爵が蜥蜴の攻撃で多少の傷を負ったようだが、これも治癒魔術で完治できる程度だったらしい。

結局主立った貴族で大きい怪我を負ったのは、私を庇ったスピネルと足首が折れた私くらいのようだ。

 

 

戻ったブロシャン公爵屋敷には、危急の連絡を受けて医術師が集められていた。魔術師が多く滞在している土地なので、短い時間でもすぐに集められたらしい。

負傷者はそこで改めて医術師から本格的な治療を受けたのだが、心配なのでスピネルの治療に付いて行こうとしたら「付いて来んな!お前こそ治療受けてこい!」と怒られてしまった。

思ったよりも元気なので少しだけ安心した。

万が一にも私を庇って死ぬような事があったら悔やんでも悔やみきれない。

スピネルは私にとっても殿下にとっても大切な友人だし、これからも殿下の従者でいてもらわなければ困るのだ。

 

私の治療に当たったのは女性の医術師だった。気を遣って女性を呼んでくれたらしい。

折れた足首には一応その場で自分で治癒をかけておいたのだが、骨への治癒魔術は内臓の傷程ではないものの効きにくいのだ。

軽度の骨折と診断されたが、改めて治癒をかけてガチガチに患部を固められた上で、普通に歩けるようになるまでに10日。完治にはさらにその倍はかかると言われた。

これは結構落ち込む。学院には歩けるようになってから行った方がいいかもしれない。

 

 

治療後ブロシャン家の使用人に付き添われて別室に行くと、殿下やスピネル、カーネリア様と、ブロシャンの3兄弟がいた。

テーブルには昼食代わりらしい軽食が並べられている。

「リナーリア様!大丈夫なの!?」

真っ先に声を上げたのはカーネリア様だ。私が松葉杖を突いているので驚いたらしい。

「左の足首が折れてしまっていて…。でも、10日もすれば普通に歩けるそうです」

「そ、そうなの…」

皆がほっとしたような心配するような複雑な顔をする。

「しばらく大変だろうけど、その程度で済んで良かったよ。…後で父上たちから改めて礼を言うと思うけど、君は本当によくやってくれた。有難う」

そう言って立ち上がったフランクリンが頭を下げる。

そつのない対応だが、その表情からは心底私を案じている様子が感じられる。憎めない人物だなと思う。

彼がいる限り、今後もブロシャン公爵家は安泰だろう。ヴァレリー様と、ユークレースも彼に倣って頭を下げた。

 

「それで、スピネルの傷はどうですか。大丈夫なんですか?」

ちょうど隣になったスピネルの様子を覗き込む。

「問題ない。傷は塞いであるし、3~4日も安静にしとけば大丈夫だと言われた。お前の方がよっぽど重傷だ」

「3~4日!?」

比較的治癒をしやすそうな裂傷だったとは言え、それだけで良いのかと驚く。

「お前とは鍛え方が違うんだよ。それに傷を負った直後の治癒魔術の腕も良かったって言って…おま、何服をめくろうとしてんだよ!!」

「いえ、傷の様子を見ようかと思いまして」

「思うなよ!見んな!」

「だって、傷痕が残っちゃうんじゃないですか?私の魔術では、応急手当しかできなかったと思いますし…」

しょんぼりと肩を落とすと、スピネルは半眼になって見下ろしてきた。

「俺は男なんだから、傷痕くらい残っても何ともねえよ。そもそも普段は見えないとこだろが」

「という事はやっぱり痕が残りそうなんですね。見せて下さい」

「だから何で見たがるんだよ!女らしくしろって何回言ったら分かるんだお前は!」

 

「……」

確かに貴族令嬢として、男の服をめくろうとするのはまずかった。私は少し反省する。

「分かりました。では口頭で傷口について説明をお願いします」

「…俺は一応お前を助けた立場のはずだよな?何でこんな辱めを受けなきゃならないんだ?」

「辱めとはなんですか!人聞きの悪い!!」

「人聞きを気にする前に人目を気にしろ!!」

「あ」

 

言われて周りを見回すと、呆れ顔が半分で苦笑い顔が半分だった。

「…し、失礼致しました…」

微笑んで誤魔化してみたが、即座にカーネリア様に突っ込まれた。

「リナーリア様。もう手遅れだわ」

 

 

「リナーリア様とスピネル様は仲が良いんですねえ」

「い、いえ…」

ヴァレリー様に笑いながら言われ、流石に恥ずかしくなる。

「この二人はいつもこの調子なんだ」

殿下までそう言い、スピネルが不機嫌そうな表情になる。

「…俺は部屋に戻る。疲れたし少し寝る」

「あ、そ、そうですよね。すみません…」

元気そうに見えても、あれほどの怪我をした後なのだ。傷自体は塞がっても、失った血はすぐには戻らない。

「…気にすんなっての。魔獣の相手よりお前の相手のが疲れるんだよ」

スピネルはふんと横を向いた。

意地っ張りな男だ。騎士らしいと言えばそうなのだろうが。

 

「夜には予定通り、水霊祭の祝祭パーティーを行う事になっている。もちろん無理はしなくていいけど、少し顔を出してくれると嬉しい。君たちは皆、今回の功労者だしね」

そう告げたフランクリンに、スピネルは「分かった」と言って立ち上がる。そして、ぽんと私の頭に手を乗せてから去って行った。

…気を遣わせてしまったな。

そもそも、スピネルがここにいたのも私が治療を受け終わるのを待っていたんじゃないだろうか。

 

「大丈夫だ、リナーリア」

横から声がして、私はそちらを見た。殿下だ。スピネルの後ろ姿を見送ってから、私の方を向く。

「スピネル自身が気にするなと言っているんだ。気にしなくていい」

そう言って少しだけ笑う殿下に、私は小さくうなずいた。



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第72話 祝祭パーティー(前)

夜、水霊祭を祝うパーティーがブロシャン公爵屋敷で行われた。

足首以外に怪我はないし、数時間ほど休んで多少疲れも取れたので、私も出席する事にした。

と言ってもあまり動き回れないのでほとんど座っている事になるだろうが。

ブロシャン家の使用人に身支度を手伝ってもらい、持ってきておいたドレスを身に着けて庭に出る。

もうだいぶ暖かい季節なので、夜だがガーデンパーティーなのだ。ブロシャン公爵領はやや寒い土地だが、風避けさえしっかりしておけば問題はない。

隅に用意されていた椅子に座って辺りを見る。

ブロシャン家の親戚や縁者が集まっているので、そこそこの人数だ。また、今回巨亀との戦いに参加した騎士たちも招待されているらしい。

 

夕焼けで赤く染まり始めた空には、ぽわぽわと魔術の明かりが浮かんで美しい。魔術師貴族らしい演出だ。

「まあ、素敵…!とっても綺麗ね!」

空に浮かんだ明かりを見回しながらこちらに近付いてきたのはカーネリア様だ。

今日は明るいオレンジに緑の葉の刺繍がアクセントになったドレスを着ている。胸元が開いていて少し大胆だ。

ちなみに私は、入学祝いパーティーの時も着た青いドレスにショールを合わせている。

「ええ、とても幻想的ですね」と私も空を見上げていると、屋敷の方からユークレースが歩いてきた。

「これはブロシャン公爵家自慢の明かりの魔術だ。周囲の暗さに反応して明るさを変える」

ユークレースはそう言って偉そうに胸を逸らしてから、カーネリア様と私の姿を上から下までじろじろと見る。

「ふん。なかなか美しいじゃないか。褒めてやる」

「まあ」

「全然褒め言葉になっていないわ。そんなのじゃ女性からもてないわよ」

「う、うるさい!」

 

「カーネリア様の言う通りですよ。そんな態度では王都の女性には通用しませんね」

「…僕はそんなの興味ない」

私が注意すると、ユークレースはぷいっと横を向く。

とりあえず命を救う事はできたものの、この態度は少々心配だ。

せっかく公爵家の息子という立場と魔術の才能を併せ持って生まれたのだから、できればそれを活かして行って欲しい。彼自身のためにも、この国のためにもだ。

「まあ無理に女性と話せとは言いませんが、王都は悪いところではありませんよ。貴方の才があれば、早々に王宮魔術師団に弟子入りする事だってできるでしょうし」

「…本当か?」

やはり、国内最高峰の魔術師が集まる王宮魔術師団には興味があるらしい。

食いついたユークレースに、私は微笑む。

「もちろんです。…魔獣との戦い、本当にお見事でしたよ。特に風の刃の使い所は的確でしたし、素晴らしい威力でした。やはり貴方は風魔術を中心にした、攻撃寄りの魔術の組み立てが最も向いているかと思います」

「……」

ユークレースはちょっとだけ頬を上気させて目を逸らした。どうやら褒められて嬉しいらしい。

 

「そう言えばあの時、亀が最後に振るった前脚と、その後の闇の刃。よく避けられましたね」

あの戦いで前線にいた魔術師はビリュイと私とユークレースの3人。

ビリュイは残り少ない魔力で何とか防護魔術を使い、私はスピネルのおかげで助かったが、ユークレースはよく軽傷で済んだと思う。

「僕はお前ほどひ弱じゃない」

そう言って鼻を鳴らしたユークレースをカーネリア様が睨み付ける。

「それを言うなら『か弱い』よ!だいたい、前脚の攻撃は私が支えて跳んだから避けられたんじゃないの」

「お前の分まで闇の刃を防いだのは僕だろ!」

「それはお互い様って言うの!」

「ま、まあまあ、二人共…」

二人は何やら言い争いを始めてしまい、私は少し慌てる。戦いの時は良いコンビに思えたのだが…。

 

「お二人が協力し合ったから危機を切り抜けられたんですよ。ね、カーネリア様、ユークレース様」

「…そうね」

カーネリア様は渋々うなずき、ユークレースは不満げに唇を尖らせる。

「…ユークレース様ってなんだ」

「はい?」

「お前、あの時は僕を呼び捨てにしてただろ」

…そう言えばそうだった。慌てていたので、つい呼び捨てにした気がする。

「すみません、失礼致しました。あの時は急いでいたので…」

「…そうじゃなくて!呼び捨てでいいって言ってるんだ!」

怒鳴るように言われ、私はぱちぱちと目を瞬かせた。

「ええと…ユークレース?」

「ユークでいい」

「では、ユーク」

「うん」

ユークレースは満足げだ。

 

…ええと、つまりこれは、懐かれたという事だろうか?

ちょっと嬉しいかも知れない。

何しろ私の周囲には年下がほとんどいないので、年上ぶれる機会が全然ないのだ。私は前世でも今世でも末っ子だし、セナルモント先生は他に弟子を取らなかったので弟弟子はいなかった。

せいぜい、上級生になった時に後輩の生徒会役員がいたくらいか。

ユークレースは年齢的にもちょうど弟と言った感じだし、同じ魔術師でもあるし。なかなか悪くない気がする。

 

 

思わずニコニコしていると、ユークレースが「そう言えば」と私を見た。

「お前、あの時三重…」

「わわわわっ」

私は慌てて両手を振る。

見る人が見ればあの時私が三重魔術を使ったのはバレバレなのだが、あまり表沙汰にしたくない。

今の私は前世での知識や技術があるから使えているが、本来ならユークレースのような一握りの天才秀才を除いて、16歳で三重魔術をまともに使える者などほとんどいないのだ。

いずれはきちんと実力を示して王宮魔術師団に入れてもらおうと思っているが、今はまだ目立たずにいたい。

「ゆ、ユーク!」

左足を痛めていてすぐに椅子から立ち上がれないので、急いでユークレースを手招きする。

不審な顔で近付いてきたユークレースの耳元に口を寄せると、小さく囁いた。

「魔術師は、奥の手を隠しておくものなんですよ」

ついでにウインクの一つくらいしてやりたかったのだが、上手くできる気がしなかったので代わりにちょんと唇に人差し指を当てておいた。

 

よし。上手く年上ぶりつつ誤魔化せたぞ。

…と思ったのだが、ユークレースはなぜか顔を真っ赤にした。あれっ?怒らせたかな?

「…何やってんだお前…」

呆れたような声が上から降ってきて、見上げるとスピネルがいた。いつの間にか近くに来ていたらしい。殿下も一緒だ。

「こんばんは、殿下。スピネル、体調は良いんですか?」

「何ともない。めちゃくちゃ腹が減ってるくらいだな」

なるほど、それなら問題なさそうだ。食欲があるのは身体がちゃんと回復に向かっている証拠だからな。

 

「リナーリア、君は大丈夫か?足は痛まないか」

殿下が心配げに私の足元を見る。左足は包帯まみれなのだが、ドレスの裾で隠れていて良かった。

「大丈夫です、しっかり固定されていますので痛くありません。念の為鎮痛薬も処方していただきましたし」

かなり動きにくいのが困りものだが、仕方ない。あと10日ほどの辛抱だ。

スピネルが背後をちらりと振り返る。

「あっちに沢山料理が用意されてるから、後で持ってきてやるよ。いっぱい食って治せ」

「そうですね。ありがとうございます」

 

「…お、おい」

話を聞いていたユークレースが、妙に慌てた顔で私とスピネルを見る。

「こいつはお前の何なんだ。恋人なのか」

「全く違います」

「全く違う」

私とスピネルの声が見事に重なった。

カーネリア様が何だか残念そうな顔になる。どうも妙な期待をされている気がするな…。

実際、魔獣から救われたのがきっかけで騎士と恋に落ちるという話は昔からよくあるのだが、私たちに限ってそれはないので諦めて欲しい。

「ただの友人ですよ」

「…そうなのか」

ユークレースは私の答えを聞き、スピネルの顔を見上げた。それから物凄くバカにした表情で「ふん」と鼻で笑う。

「……」

スピネルの表情は殆ど変わらないが、一瞬で苛ついたのが分かった。こいつはこいつで、結構大人げないのである。

 

しかし、どういうつもりか知らないがスピネルに喧嘩を売るとはユークレースもなかなかに命知らずだ。迂闊にこいつを怒らせると説教地獄を食らうというのに…。

スピネルは口が上手いのもあって、一度説教に入ると全く勝てないのである。

だがこのまま放っておくのはちょっとまずい気がする。どうしたら良いのかとカーネリア様の方を見ると、「うーん…」と言いながら顎に手を当てて悩んでいた。

「あの、カーネリア様…?」

「分かったわ。大丈夫よ、リナーリア様」

「はい?」

「ユーク、あっちに行きましょ。私、ブロシャン名物のじゃがいも料理が食べたいの。お兄様、殿下、失礼しますわ」

「は!?何で僕が!?」

ユークレースが抗議の声を上げるが、カーネリア様は問答無用でその手を引いて歩き出す。

「いいじゃないの、どれが美味しいかユークに教えてほしいわ」

「何でお前までユークって呼んでるんだ!」

「何よ、嫌なの?」

また言い争いをしているが、どうもユークレースよりカーネリア様の方が腕力が強いらしい。

呆気に取られながら、カーネリア様とずるずる引きずられていくユークレースを見送った。

 

 

「…おい。何なんだよあいつは」

「何なんでしょうね…?」

首を捻る私に、スピネルがジト目になる。私に訊かれても困るんだが。

「お前さっき、あいつに何か言ってたよな?」

「別に、年長者として少し注意をしただけです。でも、ユークはプライドが高いから怒ってしまったかも知れないですね」

「いや怒ったっつーか…」

そこに、ブロシャン公爵家の使用人が近付いてきた。

「王子殿下、ご準備をお願いします」

「…ああ、分かった」

そろそろパーティーが始まるらしい。最初に公爵と殿下から挨拶があるはずなので、呼びに来たのだろう。

 

「…殿下、元気ありませんね」

前の方へ歩いていく殿下の後ろ姿を見ながら、ぽつりと呟く。

口数が少ないのはいつもの事だが、今日はどこか沈んでいるように思える。

「かもな」

否定しないという事は、スピネルもそう思ってるんだろうな。

「気になるんなら話を聞いてやればいい」

「……」

思わずスピネルの横顔を見上げる。

こちらを見ようとはしないが、これはつまり、私に任せると言いたいんだろう。

どうやら信頼してくれているらしいと分かり、少しだけ嬉しくなる。

「そうですね。そうします」

「おう」

 

…皆が無事で本当に良かった。

こうしてパーティーができるのも、誰も犠牲者が出なかったからだ。

満足感と少しの気がかりとを胸に、私はもう一度殿下の後ろ姿を見つめた。



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第73話 祝祭パーティー(後)

立派な正装に身を包んだブロシャン公爵が出てきて、小さな壇に昇った。

「まずは今日この日、水霊神の祝福を無事に受けられた事を感謝する」

お決まりの挨拶が始まる。水霊神や、日頃勤めを果たしてくれている家臣や領民への感謝の言葉。それから、これからの神の守護や実りを祈る言葉などだ。

しばらく話を続けた後、公爵は少し口調を変える。

「…既に知っている者も多いと思うが、今回の祭礼では亀の大型魔獣の襲撃を受けた。だが、私も含めその場にいた者たち皆が力を合わせる事で、なんとか犠牲を出さずに魔獣を退ける事ができた。特に一番の戦功を上げたのが、こちらのエスメラルド王子殿下だ」

会場中の視線が、横に控えた殿下に集まる。

「王子殿下は、見事な一刀をもって最後に残った亀の魔獣の首を斬って落とした。まこと素晴らしき武技、勇気である」

おお、という声と共に拍手が起こる。

 

片手を上げて拍手に応えた殿下が一歩前に進み出て口を開いた。

「とても強く恐ろしい魔獣だったが、打ち倒せたのは周りの者に助けられてのことだ。公爵の言った通り、皆が死力を尽くし命を懸けて戦ってくれた」

一旦言葉を切り、胸元に手を当てる。

「護衛の騎士や魔術師たち、ブロシャン家の者たち、母上、我が従者、そして我が友人。皆に感謝する。こうして今無事に祝えているのは、皆の力と水霊神の加護あってのものだ。そしてこの国の素晴らしき民、豊かなる地、護りたる水。全てに感謝を捧げよう」

先程を上回る大きな拍手が湧き起こった。

ややあってから、ブロシャン公爵が手を上げてそれを鎮める。

「これよりは、水霊神の加護と皆の無事を祝う宴だ。皆、自由に楽しんでもらいたい」

 

 

それから、ガーデンパーティーが始まった。

こういう場では多少の余興なども行われたりする。

楽団か芸人を呼ぶのが一般的で、その規模や人数でその領の財力なども垣間見えたりするのだが、ブロシャン公爵家は数人の魔術師を呼んだようだ。

ある程度の魔術師なら人の目を楽しませるような魔術も使えるし、中にはそういう演芸ばかりを極めた魔術師というのもいるのだ。

幻術できらきらと光の蝶を飛ばしたり、色とりどりの花を咲かせたり、炎で鳥を形作って羽ばたかせたりしているようだ。

 

「近くで見なくていいのか?」

隣に座っているスピネルにそう問われ、私は首を振った。

「興味はありますけど、別に良いです」

見世物としてはとても面白いし勉強にもなるが、この足では動きにくいし、無理に見に行くほどではない。

「…それより、いくら何でも量が多すぎじゃないですか?食べ切れますかこれ」

テーブルの真ん中に置かれた大きな肉の塊を見て、私は少し呆れる。

料理を持ってくると言っていたスピネルだが、使用人に頼みなんと取皿ではなく大皿ごと大きな牛肉の塊を持って来させたのだ。どう見てもおかしい量である。

スピネルはもりもり食べているし私も少しずつ削いで食べているが、なくなる気がしない。

 

「付け合せばっか食ってるから減らないんだよ」

「いや、貴方じゃないんですからそんなに肉ばっかり食べられませんよ…」

牛肉の周囲をぐるりと囲っているマッシュポテトやトマトなどの副菜に、スピネルはほとんど手を付けていない。美味しいのに。

「いや、俺もちょっとやりすぎとは思った…まさかこんなでかいのを持って来られるとは…」

「やっぱりですか」

スピネルから見てもこの量は多すぎたらしい。ちょっと気まずそうに目を逸らす。

「まあ、そのうち殿下やカーネリアが来るから何とかなるだろ。…多分」

「多分ですか…」

残ったら残ったで、使用人たちが食べたり明日の朝食や昼食に回したりできるのだが、あんまり派手に残すのも申し訳ない。

 

そうしてもぐもぐ食べていると、向こうから白髪の人物が近付いてくるのが見えた。

「…魔鎌公!」

青の混じる白髪と口髭の痩せた老人。ユークレースの祖父、先代ブロシャン公爵だ。ゆっくりとした足取りで私たちの方へやって来る。

慌てて立ち上がろうとするが、「よい」と制止された。スピネルと二人、座ったまま頭を下げる。

「少し話がしたくてね。かけても良いかな」

「は、はい!どうぞ!」

魔鎌公は私の向かいの席へと座った。緊張しながらその皺の刻まれた顔を見る。

 

「ユークレースから、魔獣との戦いについて聞いた。ずいぶんと興奮して話しておったよ」

「そうなのですか」

ユークレースはお祖父ちゃん子らしいからな。きっと、帰ってからすぐ魔鎌公の元に行ったのだろう。

「ユークレース様は、立派に戦っておられました。魔術の腕はもちろん素晴らしかったですし、とても勇敢でした」

「そなたが指示しよく導いておったと、エトリングやフランクリンが言っておった。あの子にとっては得難い、良い経験になっただろう。礼を言う」

「いえ…」

公爵やフランクリンはずっと後方にいたから、私たちの戦いはよく見えていただろう。

「それに、あの子だけではなく皆をよく守り、戦ってくれたそうだな。そちらのスピネル殿も、大層な活躍だったと聞いておる」

「恐れ入ります」

スピネルがかしこまって頭を下げた。

 

「…水霊の加護がある湖のすぐ近くに大型の魔獣が現れるなど、通常は起こらぬ事だ。しかも、近年は人里近くに魔獣が出没する数も増えておる」

魔鎌公は何かを案じるように、深い藍色の瞳を伏せた。

「…だが、王子殿下やそなたたちのような若者がおれば…。この国はきっと、大丈夫だろう」

独白するかのような呟き。その響きに何やら不安を覚え、私は魔鎌公の顔を見つめ直した。

「そなたたちの活躍に、これからも期待しておる。よく精進せよ」

魔鎌公は温かい微笑みを浮かべると、席を立って去って行った。

 

 

その後、幾人かの人々が私とスピネルのいるテーブルを訪れた。

ブロシャン公爵とその夫人は感謝の言葉を。ビリュイを連れた王妃様はねぎらいの言葉をくれた。

私たちが怪我人だからか、どちらもあまり長居はせずにすぐに去っていった。

それからカーネリア様とユークレースも、色とりどりの料理を手に持ってやって来た。

「ちょっと、お兄様!何でこんなにお肉ばっかり食べているの!」

「いや、これはだな…」

「リナーリア様はそんなにお肉はお好きじゃないんだから、ちゃんと気を配らなきゃだめじゃないの。怪我を治すためにも、もっとバランスを考えて食べなきゃいけないわ!」

「ぐっ…」

スピネルが全く言い返せずにいる様というのは珍しい。

正直かなり面白かったのだが、顔に出したら絶対怒るので必死に我慢した。

二人が持って来た料理のうち、特にユークレースが勧めてくれたゆで卵入りのポテトサラダはとても美味しかった。

それを褒めるとユークレースが勝ち誇った顔でスピネルを見て、スピネルが切れそうになっているので笑いをこらえるのが大変だった。睨まれても私のせいではないので知らない。

 

最後に殿下がこちらにやって来た。今まで他の人たちと挨拶をしていて、なかなか解放されなかったらしい。ヴァレリー様も一緒だ。

「ようやく来たか…助けてくれ、殿下」

「一体どうしたんだ」

「肉が減らねえ…」

殿下はテーブルの上の大きな塊肉を見て困惑した顔になった。

「…空腹ではあるが、これはさすがに食べきれないぞ」

「分かってる…少しでも減らしてくれ…」

「まあ、努力はするが…」

殿下はかなりたくさん食べる方なので、ある程度は減らせるだろう。

「私が切り分けますので、少々お待ち下さい」

ヴァレリー様がそう言ってナイフを手に取る。気の利く方だ。

「厚切りと薄切りどちらがお好みですか?」

「では、厚切りで」

「ソースはこっちな。こっちのサラダを合間に食べるといいぞ」

スピネルがあれこれと皿を寄せていく。完全に殿下に押し付けていくつもりだな…。



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第74話 望む未来

「物凄く腹一杯だ…動けそうにない」

ぐったりと椅子に沈みながら殿下が言った。

「でも、さすが殿下です。よくあんなに食べましたね」

塊肉の皿は既に下げてもらったが、最終的には始めの三分の一くらいの大きさになっていた。よくあそこまで減らせたと思う。

「3日分くらいは食べた気分だ」

「私も、しばらくは牛肉はいりませんね…」

そう言いながら、デザートのフルーツ入りのゼリーをつつく。ヴァレリー様が持ってきてくれたものだ。

彼女は先程、「どうぞごゆっくり」と微笑んで席を立っていった。

スピネルも「先に戻る」と屋敷に戻って行ったし、カーネリア様とユークレース、途中からこちらに顔を出していたフランクリンも別のテーブルに移動して行ったので、今は私と殿下の二人だけだ。

何となく気を遣われたような気がする。

 

空はすっかり暗くなって数え切れないほどの星が光っている。中空に浮かべられた魔術の明かりがあるので、辺りはほんのりと明るい。

この明かりは完全に日が沈んでからは、時折ゆっくりと色を変えるようになっていた。見事なものだ。

「綺麗ですね。ユークに尋ねたら魔術構成を教えてくれるでしょうか」

使う機会があるかは分からないが、知らない魔術があれば知りたくなってしまう性なのだ。

殿下もまた明かりを見上げ、それから私の方を見て何か言おうとしたが、結局口を噤んだ。

「どうかしましたか?」

ちょっと首を傾げると、殿下は手に持ったグラスへと視線を落とした。

「いや…、こういう時スピネルなら何か気の利いたことが言えるのだろうが、特に思い浮かばなかった」

「何を言ってるんですか。殿下がスピネルみたいに口が上手くなったら困ります」

「困るのか」

「まあ…困りはしませんけど、何か嫌と言うか…」

確かに殿下は口が上手くはない。しかし、だからこそ一言に重みが出るのだと思う。あまりペラペラ喋る必要はないし、喋って欲しくもない。

それにスピネルは私に対して気の利いた台詞など言いはしない。別に言われたくないから良いのだが。

 

 

「…一体どうなさったんですか?殿下らしくありませんよ」

思い切って単刀直入に尋ねた。

残念なことに私もまた、殿下と同じ。こういう時にどう声をかけて良いのかなど浮かんでこない。遠回しな話というのは苦手なのだ。

もっと優しくいたわるような会話ができたらと思うが、私には私のやり方しかできない。

 

「何だか元気がないように見えます」

そう言った私に、殿下は視線を落としたまましばし無言でいたが、やがて口を開いた。

「…とても心苦しい」

 

「ブロシャン公爵は俺を一番の戦功などと言ったが、あれは嘘だ。確かに巨亀に止めは刺したが、それはあの時すぐに動けたのが俺だけだったからだ。…そして俺が動けたのは、君や他の皆が俺を守ってくれたからに他ならない」

殿下はぽつぽつと、呟くように話す。

「公爵は、それもまた俺の戦功のうちだと言っていたが…。その陰で、君やスピネル、皆が負傷していた。なのに、俺はほとんど無傷だ」

戦いの最後、ほとんど無傷だったのは殿下一人。

全てを見ていた訳ではないが、私が殿下の守りを最も優先したように、他の者もいざという時は殿下を守れるように動いていたのではないだろうか。

殿下は、それを申し訳なく思っているのだ。

「特に君だ。俺は君を守りたいと思っていたのに、結果は逆だ。君に守られてしまった。君を守ったのはスピネルで、…それがとても情けない。あの時、次は必ず君を守ると誓っていたのに」

…あの時というのはスピネルと同じで、遺跡事件で私が行方不明になりかけた事を言っているのだろう。殿下もまた、あの事件をずっと気にしていたのか。

 

 

私は少し考える。

殿下に今必要なのは、優しい慰めだろうか。

「そんな事はありませんよ」と笑い、殿下は十分に責務を果たしたと言うのは簡単だ。

だが、私は。

私の殿下は、そんなお方ではない。

 

「…あの時、殿下は『二度とあんな事はするな』と仰いましたね。次は許さないと」

殿下は私が自分を顧みずに殿下を守ろうとした事を怒った。そんな事は望んでいないと。

「そうだな。…すまなかった。俺が傲慢だった。自分では君を助けられもしないのに、偉そうなことを言った」

「いいえ。殿下はそれで良いのだと思います。正直に言えば、言われたあの時は落ち込みましたけど…。でもやっぱり私は殿下に、誰かを犠牲にして当たり前の顔をしているような方にはなって欲しくないのです」

あの後、私もたくさん考えた。私はこれから、どうするのが一番良いのか。

今の私は殿下の従者ではない。そこにいるのはスピネルで、彼は申し分のない優秀な従者だ。…本当に、本当に悔しいけれど、もしかしたら私よりもずっと優秀な従者だ。

では、今世の私は殿下のために一体何ができるのか。

その答えはまだ出ていない。

 

「…だからと言って私は、殿下の危機を見過ごすようなこともできません。いつだって殿下をお助けしたいし、お守りしたいんです」

例え殿下に怒られ嫌われたとしても、それだけは譲れない。

「…何故だ?」

揺らめく明かりの下でも鮮やかな、殿下の翠の瞳を見つめる。

「殿下には良き王、立派な王になっていただきたいからです。いえ、なれると信じております」

 

 

「殿下はいずれ王としてこの国を治め、民を導く立場になられます。…ですから私が殿下を守っても、それはただ殿下お一人を守った訳ではないんです。この国のたくさんの民の命を守ったのと同じことなんですよ。そうやって民を守るのは、貴族の責務です」

これが詭弁だとは、私は思っていない。ただの真実だ。殿下はそうすべき立場に生まれ、成し遂げられる力だって持っているのだから。

 

「守られた事を心苦しいと思うのなら、どうか良き王とお成り下さい。そうしてもっと多くの民を守ることで、臣下から与えられたものを国へとお返し下さい。…私だけではなく、スピネルも、騎士たちも、皆そう思っているはずです」

今すぐは返せなくても良い。

いつかはこの献身が報われ、より良い未来を導くとそう信じるから、臣下は皆忠義を尽くしてくれる。殿下を守るために命を捧げ戦ってくれる。

「それが殿下の為すべき事で、殿下にしかできない事なのです」

人にはそれぞれ役目がある。

王は王、臣下は臣下の役目を果たす。

例えすぐには結果が出なくてもいい。そうして各々ができる事を行い、力を合わせ努力を繰り返していくことこそが大切なのだと、私はそう思う。

殿下が負うべき役目は誰よりも重く、その道は険しいだろう。

それを力の限り支えることこそが、私の望みなのだ。

 

 

「…俺に、それができると思うか?」

「はい」

殿下の問いに、私は迷わずに強く頷いた。

あまりに即答だったからか、殿下が少し戸惑った表情を浮かべる。

「どうしてそう思う」

「うーん…」

眉を寄せ、少しだけ考え込む。

理由は考えようと思えばいくらでも考えられる。

殿下は優秀だし、真面目だし、正義感が強くてとても真っすぐな方だ。自分を律する強さもあるし、忠誠を捧げるにふさわしい資質は備えている。

しかし多分、どれも正しくて、どれも不十分だ。

それでも私はずっとずっと昔から、殿下が良き王、良き主だと思っている。

だから私はこう答えるのだ。

「…殿下を信じるのに、理由が要りますか?」

 

 

殿下は、私の答えを聞いて一瞬言葉を失ったようだった。

少しだけ目を瞬かせ、それから破顔する。

「…そうか。そうだな」

そう言っておかしそうに笑い、私の顔を見てまぶしそうに目を細めた。

「俺が抱いているこの気持ちと同じだ。理由なんて要らなかった」

持ち上げた手のひらを見つめると、自分に言い聞かせるように呟く。

「…必要なのは、望む未来を得るために努力すること。力が足りないのなら、いつか足りる自分になればいい。…そういう事だろう?」

 

ようやく殿下の顔が少し明るくなって、私は思わず嬉しくなる。

「…はい!その通りです、殿下!」

力強くそう答え、それから首を傾げた。

「あの、抱いている気持ちとは何ですか…?」

そこだけよく分からなかったので問い返すと、殿下は首を横に振った。

「いつか言う。今はまだ、足りないからだめだ」

「……?」

すごく気になるが、殿下にも殿下のお考えがあるからな…。

やけに真剣なその顔に、私は「分かりました」とうなずく。

仕方がない。教えてくれる時を待とう。

 

 

殿下はもう一度私を見て、ごく僅かに微笑むと夜空を見上げた。私も同じように顔を上げる。

月はもう空高く昇っている。

殿下の髪のように淡い金色をした月は、今はまだ細い三日月だが、それでも確かに明るく光っていた。

 

「君の望むような王になろう。…いつか、必ずだ」

「はい…!」

殿下の告げたその決意が、私には何よりも嬉しかった。

 

 

 

それから間もなくパーティーはお開きとなり、私たちは屋敷に戻った。

すでに夜は更けかかっている。少し休んだとは言えまだ戦いの疲れが取れていないし、満腹で眠い。

だから髪を解き寝衣に着替えた後はすぐにベッドに入ったのだが、ウトウトしていると何やら遠くから騒がしい声が聴こえた。

一体なんだろう。

そのまま寝てしまおうかとも思ったが、何か緊急事態でもあったのなら大変だ。気になって眠れないよりも確かめた方がいいと思い、部屋のドアを開けてそっと顔を出すと廊下に数人の人影が見えた。

殿下だ。あと、スピネルがユークレースの襟首を掴んでいる。

 

「おい、離せ!」

「このマセガキが!100年早いんだよ!!」

「まさか本当に来るとは…どっちに行く気だったんだ」

スピネルは怒っているが殿下はむしろ呆れた口調だ。

「あの…何してるんですか…?」

どういう状況だと思いながら声をかけると、3人が一斉にこちらを見た。

「何なのもう…こんな時間に騒いだら迷惑よ…」

私の隣室のカーネリア様も、寝ぼけ声でドアを開けて出てくる。寝入った所を騒ぎで起こされたらしい。

 

「何でもない」

殿下が真顔で首を振り、ユークレースはそっぽを向いた。

「いいからお前らは部屋に鍵かけてとっとと寝ろ」

スピネルがむっつりとしながら言う。

「いえ、そのつもりですけど…。スピネルは怪我人なんですから早く寝てくださいね。殿下とユークも、寝ないと疲れが取れませんよ」

3人はそれぞれ「おう」とか「うむ」とかすごく微妙な顔で答えた。

 

「おやすみなさい…」

カーネリア様が目をこすりながら部屋に戻っていく。

何だったのか分からないが、大した事ではなさそうなので私も寝よう。とにかく眠いし。

「おやすみなさい」

ドアを閉めて言われた通りに鍵をかける。

廊下はようやく静かになったようだ。

今日はぐっすり眠れそうだと思いながら、私はベッドに入った。



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挿話・14 期待の重み

水霊祭の翌日、エスメラルドは少々時間を持て余していた。

今日は特に予定は入れられていない。

ブロシャン公爵側も、昨日突然魔獣の襲撃を受けた疲れへの配慮だろう。何も言ってこない。

他の者も、まずはゆっくりするつもりのようだ。

リナーリアは共に戦った王宮魔術師と話がしたいらしく、そちらの元を訪ねていた。カーネリアはヴァレリーと雑談に興じている。

母は公爵夫人とのんびりお茶を飲んでいて、ユークレースや公爵は姿が見えない。

フランクリンが「王子殿下はどうなさいますか?」と尋ねてきたが、エスメラルドも特に何かする気にはなれなかったので、とりあえず「部屋に戻る」と答えた。

 

 

しかし、部屋にいても何かする事がある訳でもない。

鍛錬をしたり来客用に置かれている棚の本に手を伸ばしても良いが、朝食後早々に部屋に下がったスピネルの様子が気になり、彼の部屋を訪ねてみる事にした。

ドアをノックし、声をかける。

「スピネル。少しいいか」

「ああ。入ってくれ」

すぐに返事が返ってくる。

 

中に入ると、スピネルはベッドに腰掛けていた。

横には本が置かれている。自ら本を読むなんて珍しい。彼も時間を持て余しているようだ。

エスメラルドも、手近な椅子へと適当に腰掛けた。

「傷が痛むのか」

いつもならドアを開けて出迎えてくるのに、今日は座ったままだ。立ち上がろうとしないのは動きたくないからだろうと思って尋ねると、スピネルは「いや別に」と答えた。

「だが、昨日はずいぶん痩せ我慢をしていただろう」

じっと目を見ると、誤魔化しても無駄だと思ったのか少し不機嫌そうに白状する。

「…しょうがねえだろ。あいつらが心配するし。あと肉も食いたかったし」

「食べ切れていなかったじゃないか」

「あれはここの使用人が悪い。多すぎだろあんなの」

そのムスッとした顔に、つい吹き出してしまった。

 

「…どうやら今日は本当に大丈夫のようだな。安心した」

「ああ。動くとたまに痛むけど大した事はない。言われた通り安静にしてるだけだ。…悪かったな、殿下にも心配かけた」

「いいや。お前はよくやってくれた。有難う」

改まってそう言うと、スピネルはわざとらしく肩をすくめる。

「いいんだよ。俺があいつを助けたのは、半分はただの殿下の代わりだ」

「代わり?」

「そうだよ。殿下がやりたい事を代わりにやった。俺はそのためにいるんだからな」

「…なるほどな」

主の手足となって動くのも、従者の務めだというのだろう。

彼は本当によくやってくれている。何も言わなくても、こちらの意を汲んで動いてくれるのだから。

得難い臣だと改めて感じると共に、どんどん返すべきものが増えていくな、とエスメラルドは思う。

 

「だが、半分か」

「そりゃ、俺もあいつには借りがあったからな。…でもまあ、美味しいところを持っていったのは悪かったと思ってるよ」

「そうだな。膝枕は正直羨ましかった」

「…いや、悪かったって…」

スピネルは気まずそうに頬をかき、それからにやりと笑ってみせる。

「なんなら感想を聞かせてやろうか」

「いらん」

思わず憮然としたエスメラルドに、スピネルは声を上げて笑った。

 

「別に膝枕くらい、殿下が頼めば今すぐでもやってくれるんじゃないか?」

「頼んでどうする。…それにもし頼んだら、『何故やってほしいんですか?』と真面目に訊いてきそうな気がする」

「それは…あいつなら言いそうだな…」

「そうだろう。…いつかはやってもらいたいが…」

頼んでやってもらうのは何か違う気がする。もっとこう、雰囲気的なものが欲しい。どういう雰囲気なら良いのかはあまり想像できないが。

「殿下ってそういうとこ割と夢見がちだよな」

「いいだろう別に!」

ついむきになってそう言うと、ますます笑われてしまった。

 

 

「俺も安心したよ。殿下も元気出たみたいだな」

ようやく笑いを収めたスピネルが、温かい目でこちらを見る。どうやらこちらの様子も見透かされていたらしい。

「…落ち込んでいる暇はないと分かったからな」

「ふうん?あいつに慰めてもらったんじゃないのか?」

「いいや。どちらかと言うと…」

なんと言えばいいのかと言葉を探す。

「さては尻を叩かれたか?」

「まあ、そんな所だな。…リナーリアは俺に甘いんじゃないかと思っていたが、全然違った。彼女の期待に応えるには、並大抵の努力ではとても届かない」

「なんだ、やっと分かったのか。あいつは面倒臭いんだよ」

面白がっている様子のスピネルを少しだけ睨む。

「よく言う…」

口に出しはしないが、彼もまたずいぶんと自分に期待をかけていると思う。リナーリアと同じく、信じてくれているのだ。

その期待は重いが、同時に嬉しくもあった。

 

 

会話が途切れた所で、エスメラルドは椅子から立ち上がった。

あまり長居をするのも悪いし、元気そうな顔を見て安心したので退出する事にしよう。

「ゆっくり休んで、早く怪我を治せ。お前がいないと剣の相手がいなくてつまらない」

「分かってるよ。俺も、まだまだ修行が足りないって分かったしな」

今回の負傷は、彼にとっても不本意だったらしい。

本当なら彼女を助けた上でスピネル自身も無事でいたかったのだろう。名誉の負傷などとは思っていないようだ。

「王都に戻ったら忙しくなるぞ」

「マジか」

いかにも不満そうにしながら、スピネルはどこか嬉しそうだ。

これからますます手強くなりそうだと思いながらも、それが楽しみだった。



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登場人物紹介

●リナーリア・ジャローシス(16)

主人公。青銀の髪に蒼い瞳の美少女だが前世は王子の従者(男)だった。

好きな食べ物は卵料理で、特にフラメンカエッグが好き。あまり辛いものは食べられない。

趣味は読書。嫌いなものは脳筋。植物の研究に興味があるが、今の所ほとんど手を出せていない。

従者として振る舞わなければいけなかった前世に比べ、今世ではかなり伸び伸びとした生活を送っている模様。

何だかんだ言って末っ子気質で小さい子供は苦手だが、ユークレースには年長者ぶれそうでちょっと喜んでいる。

 

●リナライト・ジャローシス(享年20)

青銀の髪に蒼い瞳。侯爵家の三男で、リナーリアの前世。

夜ふかしして読書ばかりしていたら目が悪くなってしまった眼鏡青年。酒はあまり飲めない。

筋トレに挑戦したが、一緒にやった王子の方にだけ効果が現れて挫折したことがある。

王子から内心弟扱いされている事は知らなかった。

 

●エスメラルド・ファイ・ヘリオドール(16)

淡い色の金髪に翠の瞳の王子様。

好きな食べ物は肉料理だが甘いものも結構好き。

趣味のカエル観察日記がかなりの冊数になってきた。いつか出版したいという野望がある。

一人っ子なので兄弟には憧れがある。

前世では従者相手にひっそりと兄力を発揮していたが、今世では年上のスピネルが従者になったため弟ポジション寄りになっている。そのためか前世よりやや天然気味。

 

●スピネル・ブーランジェ(18)

後ろで一つにまとめた鮮やかな赤毛に鋼色の瞳。好きな食べ物は牛肉(特にローストビーフ)。

5人兄妹の四男で下は妹一人だが、どうやら兄貴キャラの方が性に合っていたらしく、王子やリナーリア相手にも兄ポジションを確保した今世の方が活き活きしている。

実は紅茶を飲むのが趣味で、城下に行きつけの紅茶店がある。

ミルクも砂糖も入れないストレートが一番好きで、お茶請けもあまり要らない派。

 

●フロライア・モリブデン(16)

モリブデン侯爵家の娘である貴族令嬢。ウェーブのかかった蜂蜜色の金髪に紫の瞳。

兄と妹がいる。

 

●ラズライト・ジャローシス(22)

ジャローシス侯爵家の長兄で嫡男。優しげな好青年で、結婚準備中。

昔あたった事があるので貝料理は苦手。

 

●ティロライト・ジャローシス(18)

次兄。そろそろ進路について悩んでいる。好きな食べ物はキャロットケーキ。

 

●アタカマス・ジャローシス

リナーリア(リナライト)の父。基本的に能天気だが意外に人望はある様子。

 

●ベルチェ・ジャローシス

リナーリア(リナライト)の母。娘とよく似た容姿のおっとり系美女。

 

●コーネル(18)

リナーリア付きの使用人。有能な世話焼きメイド。

あまり食に興味がない主人のために卵料理について調べていたら自分も結構好きになった。弟が二人いる。

 

●カーネリア・ブーランジェ(16)

同級生でスピネルの妹。明るい赤毛をポニーテールにした美少女。

兄たちからとにかく可愛がられて育った生粋の末っ子。実は長兄に一番懐いている。

辛い物好きで、揚げた鶏肉にホットソースを絡めたものが好き。

剣術と恋話が好きだが、リボンのコレクションも趣味。

 

●シルヴィン(16)

カーネリアのクラスメイト。薔薇色の巻毛。

スピネルに恋するご令嬢の一人だが相変わらず進展なし。

甘いものに目がないが、スピネルは甘いものが苦手と知ってショックを受けていた。

 

●アーゲン・パイロープ(16)

パイロープ公爵家の嫡男。黒髪に青い目の貴公子。

しっかり者の兄として弟妹からは慕われているが、近頃妹がすっかり大人びてこまっしゃくれてきたのでちょっと扱いに困っている。

好きな食べ物はチーズ。やや癖のあるものの方が好みらしい。

音楽好きで、演奏も好きだが聴きに行く事のほうが多い。

 

●ストレング(16)

アーゲンの腹心で忠誠心の篤いマッチョ。

アーゲンの言うことは大体何でも信じるが、美味しいと勧められた青カビチーズはどうしても無理だった。

 

●アラゴナ(16)

濃いめの金髪に灰色の瞳の美しいご令嬢。前世ではアーゲンの婚約者だった。

近頃はアーゲンに対し一歩引いているが、諦めたわけではない様子。

 

●ペタラ・サマルスキー(16)

クラスメイト。控えめで清楚なご令嬢。

リナーリアと同じく読書が好きだが、知り合いの影響でだんだん腐ってきた事はまだ知られていない。

 

●ニッケル・ペクロラス(16)

クラスメイト。ペクロラス伯爵家の嫡男。

最近堂々と趣味の絵画に力を入れられるようになってちょっと嬉しい。

妹がスピネルに憧れており、色々教えてほしいとせがまれるせいで、無駄にスピネルの事に詳しくなってしまった。

 

●セムセイ・サーピエリ(16)

クラスメイトでのんびりした性格のスピネルの友人。

婚約者の気に入るようなお菓子を探すのが趣味。おかげで最近ますます太くなってきた。

 

●スフェン・ゲータイト(17)

いつも男装していて一部のご令嬢から絶大な人気を誇る騎士課程の女子生徒。リナーリアの1学年上。

好きな食べ物はポークソテー。趣味は観劇だが意外と読書家でもある。

弟を気にかけているが表立って話しかけにくいので手紙を書き出したが、「手紙が長すぎる」という返事をもらって少し凹んだ。

 

●ヘルビン・ゲータイト(16)

スフェンの弟でリナーリアとは別のクラスの騎士課程の生徒。

実はそこそこ女子から人気があるが、全員姉目当てに近付いてくる子だと思っていて本人は気付いていない。

好きな食べ物は子牛のコートレット(牛カツ)。

最近姉と和解できて嬉しいがあまり素直になれない。

 

●オットレ・ファイ・ヘリオドール(17)

王兄フェルグソンの息子で、エスメラルドの従兄弟。王位継承権は結構高い。

性格は悪いが顔はいいのでそれなりにモテる。

 

●フェルグソン・ヘリオドール

現国王の兄。既に王位継承権は持っていない。騎士至上主義者。

 

●アルマディン・ブーランジェ

スピネルの父。ブーランジェ公爵。剛刃将軍とも呼ばれた剣の達人。

逞しくいかつい男前だが、恋人(今の夫人)に対しては自作の詩や自ら彫った革細工を贈ったりとロマンチストかつマメな人物でもあった。

今でももちろん愛妻家。

 

●レグランド・ブーランジェ

スピネルの兄でブーランジェ公爵家次男の近衛騎士。女たらしだが器用で要領のいい人物。

兄弟の中では一番スピネルと仲が良い。

 

●カルセドニー・フォウル・ヘリオドール

ヘリオドール王国の現国王。

昔から身体が弱く、今も時々体調を崩しがち。窓の外を眺めるのが趣味で、特に鳥の観察が好き。

 

●サフィア・ヘリオドール

現国王の王妃。薄い色の金髪。息子とよく似た無表情気味の美女。

しかし実は編み物が趣味だったりする。

 

●セナルモント・ゲルスドルフ(37)

探知と解析の魔術を得意とする優秀な王宮魔術師。

古代神話王国の研究が趣味でありライフワーク。

一時期料理にハマっていたが、あまりに悲惨な腕前だったので周り中から止められて諦めた。

 

●ユークレース・ブロシャン(14)

ブロシャン公爵家の次男。わがまま末っ子で、特に祖父に懐いている。

魔術の才能は飛び抜けているが、意地っ張りで人付き合いは苦手。

好きな食べ物はベーコンとゆで卵入りのポテトサラダ。

思春期に突入した事を兄や姉からは温かい目で見られている。

 

●フランクリン・ブロシャン(18)

ブロシャン公爵家の嫡男。軽薄そうにも見えるが、気配り上手でそつのない人物。

幼馴染の婚約者がいて、昔からベタ惚れ。バカップルとして学院では有名。

魔術師一家の生まれだが魔術の才能は人並み。魔石を使った魔導具作りの方に興味がある。

 

●ヴァレリー・ブロシャン(15)

ブロシャン公爵家の娘。巨乳。

あざと可愛いが空気を読むことに長けており、やりすぎない絶妙なラインで攻めてくる。王子狙いだが無理はしない方針。

弟のように魔術の才能がある訳でもなく、それよりもおしゃれに興味津々なお年頃。

昔はお兄ちゃん子で兄の婚約者と大喧嘩をしたこともあったが、今は仲良くなったらしい。

 

●テノーレン

火と地の魔術を得意とする王宮魔術師。

戦闘任務が主の攻撃系魔術師だが、ちょっと下心もあって古代神話王国研究にも手を出している。

若手の期待株だが、巨亀戦には参加できず本領を発揮しないままで終わった可哀想な人。そのうちまた出番が欲しい。

 

●ビリュイ

数少ない女性の王宮魔術師。そのため護衛任務に付く事が多いが、魔獣戦の経験も豊富なベテラン。

落ち着いた性格の大人の女性だが、昔は結構尖ってたという噂。



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挿話・15 誘惑と誘拐(前)

その日、スピネルは第一王子エスメラルドと共に城下町へやって来ていた。

いわゆるお忍びというやつだ。目的は民の暮らしを実際に目にする事での社会勉強。

王子は軒先に大きな腿肉をぶら下げた肉屋と何か話をしている。話し好きの店主らしく、よく分からないがあれこれと喋っている。

その近くにはちゃんと護衛の騎士と魔術師が控えているが、今日は特に頭が固く真面目な騎士だったのでスピネルは少々窮屈だった。

せっかく城下町まで来ているのだからもっと自由に見て回りたいし、商人以外の平民たちと話もしたい。

特に同年代の女の子とだ。

 

スピネルは今年14歳になった所で、王子は2つ年下の12歳。

その王子はここ数年、かなり親しくしている少女がいる。性格は相当変わっているが見た目は可愛い。

まだ恋愛関係には程遠そうだが、なかなかお似合いに見える二人だ。

第一印象はあまり良くなさそうな出会いだったのだが、今思えば王子は最初から妙に彼女を気にしている様子だった。

それが少し不思議だったのだが、まあ要するに好みのタイプだったんだろうなという結論になった。スピネルには理解できない好みだ。

彼女はまだ子供だというのもあるが、細すぎてあまりに頼りない。自分はもっと大人っぽくて色気がある女がいい。

 

 

自分もそろそろ恋人が欲しい年頃である。

女の子に興味もあるし、年下の王子に先を越されるのはちょっと面白くない。

できれば先に恋人を作りたいが、次兄のレグランドからは女には十分に気を付けろとよくよく言われていた。

スピネルは兄弟の中でもこの次兄と特に仲が良いのだが、次兄は実によく女からモテた。昔からいつも女の子に囲まれていたし、愛想が良いのでご婦人方からの受けも良かった。

 

本人もそれが楽しいらしくあちこちのご令嬢と遊び回っていたが、ある時それで非常に痛い目に遭った。

学院で兄に恋をしたとあるご令嬢といつものように付き合ったのだが、実はそのご令嬢には親が決めた婚約者が既にいたのである。

兄はその事を知らなかったし、そのご令嬢は幾人もいる「親しい女性」の一人でしかなかったので当然身を引こうとしたのだが、激怒した婚約者の方が兄に決闘を申し込んだので話がややこしくなった。

挑まれた決闘を避けるのは騎士の沽券に関わる。なので仕方なくそれを受けたが、うっかり相手を叩きのめしてしまった。

少々やりすぎたと思った兄はご令嬢と婚約者の男に「これからは二人で仲良くしてほしい」と言ったらしいのだが、それで収まる訳もない。

結果として、兄が己のために戦ってくれたのだと信じていたご令嬢、負けてしまった婚約者、その両方から恨みを買うことになった。

この二人があれこれ言って回ったために、学院での兄の評判も著しく下がったらしい。

 

兄はこの一件が原因で、決まりかけていた侯爵家への婿養子の話が立ち消えになった。

父や母からは厳しく叱責を受け、罰として長期休みの間ずっと実家の騎士団の下働きをさせられたりしていた。

まあ、転んでもただでは起きない兄はその後で近衛騎士団の試験を受けてあっさり合格し、「身を固めるよりこっちの方が気楽でいい」などと言っていたのだが。

 

 

その次兄の影響を大いに受けて育ったスピネルも昔から女の子が好きだった。

実際結構モテているが、次兄の失敗を見て少々慎重になることにした。自分は第一王子の従者という立場もあるし、迂闊な事はできない。

従者になって以来こちらに寄ってくる貴族のご令嬢はさらに増えたが、あまり積極的に来られるのは下心が透けて見える気がしてどうも好きではない。

かと言ってこちらから寄って行くと、軽い気持ちでも変に勘違いされたりするので面倒だ。本人だけならまだ良いが、その親がしゃしゃり出て来る事がままあるので困る。もっと気楽に付き合えないものかと思う。

従者の自分でこれなのだから王子はさぞや大変な事になるだろうと思っていたら、案外あっさりと良さそうな相手が見つかっているのだから不公平だ。

彼女は本人も親も特にがっついたりしていないし、気の置けないほのぼのとした付き合いをしている。

別に羨ましくなどないが、不公平だ。

 

だから近頃は貴族以外の女性に目を向けていて、城にいる若いメイドなどと親しくしている。

向こうもこちらが遊びだと分かっているから気が楽だ。

特によく部屋の掃除にやって来るアンヌあたりとは良い感じの仲だ。まだ深い関係にはなっていないが興味はある。向こうも満更ではなさそうだし。

 

 

そんな事を考えながら通りを眺めていると、少し離れた所で一人の少女がウロウロとしているのが見えた。

栗色の巻毛は艶があり、肌は白いし身なりは整っている。どこかの豪商の娘か、あるいはお忍びの貴族と言った雰囲気だ。

歳はスピネルよりも2つ3つ年上くらいだろうか。

しかし胸元も腰周りもむっちりとして肉付きが良い。

 

その少女は何か困ったようにおろおろとした様子で辺りを見回していた。助けを求めているように見える。

スピネルはちらりと後ろを振り返る。

王子は肉屋の隣のパン屋に移動する所のようだ。目が合ったので「俺はいい」という意味で首を振っておく。

護衛も王子に付いて行ったのでちょうどいい。スピネルは少女の方へと近付いた。

 

「どうしたんだ、お嬢さん?」

そう声をかけると、少女がスピネルの方を振り向いた。

少し垂れた目元には泣きぼくろがあって色っぽい。好みのタイプだ。

「あの、連れに怪我人がいるんだけど、急に傷が痛み出したみたいで…一体どうしたら良いか…」

「怪我人?どうして?」

「王都に来る途中で魔獣に襲われて、馬車の御者が怪我をしたの。ええと、ここには私とお父さんとで商談に来たんだけど、その途中で…。手当てはしたし、大丈夫そうだったからお父さんは商談に行っちゃったんだけど、さっきから急に…」

という事は、やはり商人の娘か。

毒を持つ魔獣にやられた傷は、その場では何ともなくても後になってから突然悪化する場合がある。

 

「力になれるかも知れない。怪我人を見せてくれ」

騎士として簡単な救護術は知っているし、初級の治癒や毒消しの魔術も使える。手に負えなければ医者を呼んでくればいい。

そう申し出たスピネルに、少女の顔がぱっと明るくなった。

「あ、ありがとう…!こっちよ、付いて来て」

少女の案内で横道へと入っていくと、少し進んだ先に馬車が停められているのが見えた。

「あそこよ。今はあの荷台の中で休んでいるの」

「分かった」

荷台に近付き、幌を持ち上げて中を覗こうとする。

その瞬間、ふらりと意識が揺れた。みるみる目の前が暗くなっていく。

しまったと思うのと同時に、スピネルの身体は大きく前へと傾いた。

 

 

 

気が付くと、揺れる馬車の中、冷たい板張りの荷台の上に寝転がされていた。窓はなく、外の様子は見えない。

両手は後ろで縛られている。ロープだろうか、かなり堅い。

ふらつく頭を抑えて身体を起こすと「大丈夫?」と遠慮がちに声をかけられた。

心配げにこちらの顔を覗き込んでいるのは、先程の栗色の巻毛をした少女だ。

「ごめんなさい…私、脅されていたの。誰か貴族の子供を連れてこいって…」

そう言って少女は俯いた。目元の泣きぼくろを涙が伝う。

 

馬車はただゴトゴトと揺れ、どこかへと進んでいる。

「ごめんなさい…ごめんなさい…」

しくしくと泣く少女を見て状況を全て理解し、スピネルは内心嘆息した。

…かなりまずい事になってしまった。

つまり自分は、誘拐されたのだ。

 

 

とりあえず自分の身体の様子を確認するが、特に怪我はしていないし痛む場所もない。

意識もはっきりとしているので、ごく短時間だけ眠らせる魔術をかけられたのだろう。恐らく、馬車の荷台かその足元に魔法陣が敷かれていたのだ。油断していた。

腰の剣は取り上げられている。

ロープで縛られているのは両手だけだし火魔術で燃やせないかと思ったが、どうもこの荷台には魔術封じの魔法陣が描かれているようだ。魔術が発動できない。

 

「これ、解けないか?」

一応少女に尋ねてみる。少女はロープの結び目を押したり引いたりしていたが、やがて首を振った。

「無理…、びくともしない。ごめんなさい…」

「いや、いい。仕方ない」

多分、簡単には解けないようになっているロープ型の魔導具だ。そこら中で売られている。

後ろの幌に身体をぶつけてもみたが、魔術で閉じられているようで案の定弾かれてしまった。

どうも初めから貴族狙いだったようだし、きちんと対策はしているという事か。

 

 

「私、変な男たちに突然攫われて…お父さんが人質になっているの」

少女の名前はクララというらしい。スピネルの隣に寄り添うように座り込むと、膝を抱えながらぽつぽつと自分の状況を話してくれた。

商人の娘というのは本当で、しかしいきなり攫われた上に誘拐の片棒を担がされているようだ。

「…犯人は何人いるんだ?」

荷台の中は薄暗く、特に何もない。

聞こえるのはただ道を走るゴトゴトという音だ。石畳ではなく土の道だというくらいしか分からない。

「表の御者台には2人…。でも、私が捕まった時は3人いたと思う。これから仲間と合流するって言ってたわ」

という事は、最低3人以上のグループか。そして、そのうち確実に1人は魔術師がいる。

 

 

男の自分を攫ったのだから、目的は身代金で間違いないだろう。

貴族…それも騎士の家なら、息子が誘拐されたとしても醜聞を恐れて黙って身代金を払う可能性が高い。騎士としての面子があるからだ。

その場合、子供の身柄がきちんと戻ってくれば衛兵に届ける事もしない。世間に恥を晒したくないという理由だ。

そうして表沙汰にならないまま隠されてしまう誘拐事件がしばしば起こっているという噂は聞いた事があったが、まさか自分の身に起こるとは思わなかった。

 

だが自分の場合表沙汰にせずに解決するのはまず無理だ。何しろ王子のお忍びに付いて来ている最中だったのだから。

攫われてからそう時間は経っていないと思うが、今頃は王子も護衛も自分がいないことに気付いているだろう。すぐに捜索されるはずだ。

居場所を見つけられ、犯人が捕まるのも時間の問題だろう。

 

よりによって王子の従者を攫ってしまうなど運のない誘拐犯だと思うが、自分にとってもこれは最低の状況だ。

まず、王子や護衛に相当迷惑をかけてしまう。せっかくのお忍びが台無しだし、護衛にとっては責任問題だ。

それに後で教育係やら護衛やら周囲の者から死ぬほど叱られるだろう。実家の父も確実に激怒する。

何より、物凄く格好悪い。

王子の従者として、そこらの子供よりもずっと優秀だししっかりしているつもりだった。

剣や護身術にも自信があったし、世渡り上手な方だと自負してもいた。

…だが、実際にはこの通りだ。

情けなさにため息しか出てこない。

 

 

しかし落ち込むのは無事に帰ってからにすべきだろうと、スピネルは隣の少女を見て思った。

自分一人なら隙を見て無理矢理逃げ出す事もできるかもしれないが、このクララという少女を見捨てる事はできないし、人質になっているという彼女の父親も気になる。

誘拐犯の目的はあくまで金、貴族を敵に回したくはないだろうから命を奪われる事はないと思うが、相手は犯罪者なのだし何が起こるかは分からない。

基本的に犯人たちの言うことを聞き、大人しく助けが来るのを待つべきだろう。



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挿話・15 誘惑と誘拐(後)

「大丈夫だ、クララ。すぐに助けが来る」

せめて彼女の事は元気づけようと話しかけると、クララは不安そうに潤んだ目でこちらを見上げた。

こんな時に不謹慎だと思うが色っぽい。しかも豊満な胸の谷間がもろに目に入ってくる。

「…あなたのお家、お金持ちなの?」

ちゃんと身代金が払えるか心配なのだろうか。貧乏だったり借金を抱えている貴族というのもそこそこいるのは確かだ。

「まあ、それなりに有名な家だ。金もある」

家名を出す訳にもいかないのでぼかしつつ答える。

別に嘘は言っていない。助けに来るのは実家ではなく王宮の騎士だろうが。

 

「それ、本当…?」

身を乗り出してきた彼女の手が身体に触れてくる。上目遣いのまま、クララは言葉を続けた。

「どこのお家なの?」

「あー…いや…」

言葉を濁しながら目を逸らす。

手どころか胸がこちらの腕に当たりそうなのが気になって仕方ない。

 

 

 

彼女には答えてもいいかと思った時、ゆっくりと馬車が停まった。

外で人が歩き回る気配がする。よく聞き取れないが、話し声もする。アジトに着いたのだろうか。

外門を通った様子はないし、きっと人気のない王都の外れの辺りだろう。

やがて荷台の幌が開いた。いかつい髭面の男が顔を覗かせる。

かなり上背があるらしく屈み込んでいる男の腰には2本の剣が下がっていて、そのうちの片方は自分の剣だと気付きスピネルは舌打ちをしたくなった。

あれは父から贈られた業物だ。誘拐犯ごときに触れられたくはない。

 

「降りろ。女が先だ」

「はい…」

クララは一瞬すがるようにスピネルの目を見つめると、大人しく男の指示に従い荷台から出ていった。

「次はお前だ」

「……」

スピネルは無言で腰を上げた。

荷台の幌の隙間から外を窺うと、クララの他に髭面の男を含めて男が3人。後ろには粗末な小屋が見える。

男のうち1人は魔術師のようだ。自分が出てきたらすぐに眠らせる気なのか、杖を持って待ち構えている。

やはり、逃げるチャンスはなさそうだ。

 

「おい、早くしろ」

髭面の男に急かされ、仕方なく荷台から降りようとした所で、遠くから何か聞こえてくる事に気付いて動きを止める。

…馬の蹄の音だ。

男たちもそれに気付いたらしく音の方向を振り向き、「誰か来るぞ!」と色めき立って剣を抜いた。

近付いて来る馬を睨み、それから驚きと困惑の混じった声を漏らす。

「…ガキだと?」

「でっ…!?」

殿下、と叫びそうになるのを必死でこらえた。

馬上にいるのは小さな人影。遠目にも分かる淡い金髪をなびかせた少年。

王子だ。

 

魔術師の注意も馬へと向いていると分かった瞬間、咄嗟に身体が動いた。荷台の床を強く蹴り、外へ飛び出す。

無我夢中で体当たりをした魔術師ごと、スピネルは地面に転がった。

「ぐはっ!?」

みぞおちに頭突きを食らった魔術師が腹を抑えて悶絶する。

「てめえっ…」

「バカ、それより馬が来る!!」

髭面の男がスピネルに剣を向けようとするが、もう一人に注意されて慌ててまた振り返る。

激しい蹄の音と共に、王子を乗せた馬がすぐそこまで迫っていた。

 

 

男たちがどれほど手練だったとしても、走る馬の勢いに人間が敵うはずがない。

両側に跳んで避けた男たちの間を駆け抜けながら、王子が名前を呼んだ。

「…スピネル!!」

急いで集中して火の魔術を使い、腕を縛っているロープを燃やす。

「ぐっ…!!」

ロープが燃え落ちるのと同時に皮膚が焼け、激しい苦痛が走るのを歯を食いしばって耐えた。

 

「大人しくしてろ!!」

両手が自由になったスピネルに気付き、体勢を立て直した髭面の男が斬りかかろうとするが、そこに馬首を返した王子の馬が再び迫ってきた。

焦った男がそれを避けようと動く。スピネルは迷わず前に踏み出した。

王子の馬が駆け抜けた、その風圧すら感じるほどの間髪入れぬ刹那を狙って男に走り寄る。

そして、電撃の如き速さで男の腰に差された自らの愛剣を抜き取った。

走る勢いを利用して身体を大きく回転させ、男の方へと向き直る。

 

剣さえあれば。

剣がこの手にありさえすれば、相手が自分よりもはるかに体格のいい凶漢だろうと、そうそう負けるつもりはない。

驚いた男が体勢を立て直すその前にと考える間もなく、身体が動く。

逆手に持ったままの剣を斜め上へと振り抜いて男の剣を弾き飛ばし、さらに振り向きざまに男の背を斬り付けた。

 

 

「ぐおっ…」

くぐもった悲鳴を上げながら髭面の男が倒れ込む。

その向こうで、ようやく起き上がった魔術師の男が魔術を使おうとしているのが見えた。視線の先にいるのは馬に乗った王子だ。

まずい、と焦りが浮かぶが、男はいきなり大きな火球を食らって吹き飛んだ。

馬に乗った護衛の騎士が、王子を追ってすぐ近くまで来ていたのだ。その後ろには護衛の魔術師も乗っているので、火球はそちらが放ったものだろう。

 

誘拐犯の3人のうち、残った最後の男はその場から逃げ出そうとしていたが、護衛の騎士が馬を走らせ馬上から剣を振るった。

男は何とかそれを避けようとするが、そこに雷の魔術を食らってあっさりと倒れる。

王子の護衛は手練揃いで、しかも騎士と魔術師の両方が揃っているのだ。勝てるはずもない。

 

 

急いで馬を止めて降りた騎士は、同じく馬から降りた王子へと駆け寄った。

「殿下!!ご無事ですか!!」

「何ともない」

王子は軽く答えると、スピネルの方を振り返る。

「それよりスピネル、大丈夫か」

「あ、ああ…」

今更ながら呆然としつつ、スピネルは答えた。

助けが来るとは思っていたが、あまりに早すぎる。それに。

「…なんで殿下が来るんだ?」

自分の救助に、王子自ら先陣を切ってやって来るのはおかしい。危険すぎる。

 

「お前、カフスボタンを落として行っただろう」

「ああ…うん」

意識を失う直前、咄嗟に左手首のボタンを千切って落とした。両手で対になっているこのボタンがあれば、探索の魔術を使って居場所を見つけやすくなるはずだからだ。

気付くかどうかは分からなかったが、気付いてくれたらしい。

 

横の護衛の騎士が顔をしかめる。

「スピネル殿の姿が見えないと気付いたすぐ後、殿下が近くでそのボタンを見つけたのです。それで魔術師殿に探索魔術を使ってもらったのですが、大まかな方角を聞いた途端、殿下が近くの馬に乗って走り出してしまって…」

「繋いであったのを勝手に借りてしまったな。後で謝罪をしなければ」

「そういう問題ではありませんよ!お一人で先に行かれるなど、なんて事を」

騎士と魔術師も慌てて後を追ったが、他に馬は一頭しかなかった。大人の二人乗りは重いので、子供一人しか乗っていない王子の馬にはとても追いつけず、それで到着がやや遅れたのだ。

 

 

「…何て無茶しやがんだよ…」

何とも表現し難い複雑な気持ちで、スピネルは呟いた。

嬉しいやら呆れたやら情けないやらが入り混じり、これ以上何を言って良いのか分からない。

王子が誰かの危機を見過ごせるような人間ではない事は知っている。

しかし相手が3人しかいなかったから良かったようなものの、もっと大人数だったり、罠が張ってあったらどうなっていた事か。

 

「俺も、最初は近くまで来たら身を潜めて機を窺うつもりだったんだ。しかし、馬車の中からお前が顔を出しているのを見たら、今が好機だという気がして」

「いやいやいや…」

思わず頭を抱えてしまうが、実際見事なタイミングだったのだ。

男たちは馬車から降りようとしているスピネルの方に気を取られていたし、特に魔術師は眠りの魔術の準備をしている所だった。

だから馬で近付いてくる王子への対処が一瞬遅れたし、続いて自分が飛び出し体当たりした事で結局魔術師は何も魔術を使えないままで終わった。

ほんの少しタイミングがずれていたら、こう上手くは行かなかっただろう。

 

「それに、馬に乗ったままならそうそう剣や魔術が当たる事はない。引っ掻き回しさえすれば、お前は自分で何とかするだろうと思った。護衛たちもすぐ追いついてくるだろうし。ちゃんと勝算があったからやったんだ」

「そんな勝算があるか!俺が何とかできてなかったらどうすんだよ!!」

「お前は何とかする。この通り、できただろう?」

 

「………」

スピネルは絶句し、何か反論しようとして、結局何も言えずに口を閉じた。

王子の言う通りだ。自分は必ず何とかする。

何故なら、()()()()()()()()()()だ。

王子が自分の身を危険に晒して助けに来ているのに、そこで何もできずに見ているなど有り得ない。そんな事は自分自身が許さない。

…絶対に何とかしてみせる。何があろうとだ。

そう迷いなく思えるくらいにはこの従者という仕事に誇りを持っていて、この王子の事が気に入っているのだと、今更ながらに分かってしまった。

 

 

無言になったスピネルに、男たちを縛り上げていた護衛の騎士が話しかけてくる。

「それでスピネル殿、一体何があったのか説明してもらえますか。…こちらの少女は?」

視線で示されたのは、安心したような困ったような表情で立ち尽くしているクララだ。

あまりの急展開に存在を忘れかけていたが、無事なようで良かった。

「クララと言う名前で、王都に来ていた商人の娘だそうだ。こいつらに攫われてきたらしい」

「なんと」

騎士が驚く。

「ではスピネル殿は、この少女を助けようとしてこやつらに捕まってしまったのですか」

「……まあ、そうだ」

微妙に事実がねじ曲がって受け取られている気もしたが、とりあえずうなずいておいた。

「そういう時はせめて一言告げてから動いていただきたい」

「すまない…」

「助けてくださって、本当にありがとうございます…!」

クララが涙混じりに頭を下げた。その様子を見て、王子が少しだけ首を捻る。

 

 

幸いと言っていいのか、誘拐犯の男たちが使っていた馬車は無傷で残っているので、これを使って男たちを衛兵の元に届ける事になった。

気絶したまま縛られている男たちを荷台に乗せ、見張りとして護衛の魔術師もそこに乗る。御者は騎士だ。

王子は帰りも借りてきた馬だ。なかなか毛艶が良いので、どこかの騎士のものかもしれない。急いで返した方がいいだろう。

スピネルは腕の火傷を治癒してもらってから、クララを後ろに乗せ騎士と魔術師が乗ってきた馬で帰ることになった。

 

 

馬上で揺れる王子の後ろ姿を眺めながら、ややゆっくりめに馬を歩かせる。

王子の背中は自分よりずっと小さく、この年下の主に助けられたことが本当に情けなかった。

まだ12歳だというのに、勇気も判断力も大人顔負けだ。それに引き換え自分と来たら。

治癒されたばかりの腕は痛むし、とにかく情けないし、帰ったらどんな叱責を受けるかと思うと憂鬱極まりない。

 

だが、とスピネルはちらりと後ろのクララを振り返る。

この少女を助けられたのだから、それだけでも良しとすべきだろう。

誘拐犯も捕まえられたし。慣れた様子だったので、恐らく初犯ではない。余罪がたくさん出てきそうだ。

それにしても、ぎゅっとしがみつかれているせいで背中には柔らかい感触が当たりっぱなしだ。

助けられたのは王子や護衛のお陰であって自分はあまり良い所を見せられたとは言えないが、これがきっかけで仲良くなれるかもしれないな、とちょっと思った。

 

 

 

その翌日。

教育係にさんざん説教を受けたスピネルは、訪ねてきた護衛騎士の話を聞いてぽかんと口を開けた。

「…消えた?」

「はい。あのクララと名乗っていた少女は、男たちから事情聴取をしている間に忽然と姿を消してしまったと衛兵から連絡が」

クララは衛兵の所に預けられ、どこかに監禁されているという父親を探す手筈になっていたはずだが、気が付いた時にはどこにも姿が見当たらなかったらしい。

「誘拐犯の男たちが言うには、彼女は最初から自分たちの仲間で、獲物を釣り上げるための餌役だったと…」

 

正確にはクララは餌役であり、聴取役であり、見張り役でもあった。

上手く貴族の子供を誘拐できても、どこの家の子供か素直に白状するとは限らない。

しかし誘拐犯としては子供に傷を付けて貴族の恨みを買いたくないので、なるべく穏便に素早く聞き出したい。

犯人たちを警戒している子供でも、相手が同じく攫われてきた被害者、それも年若い少女だったら油断する。上手く口車に乗せて聞き出す事は簡単だ。

しかも一緒にいてわざと足手まといになる事で行動を縛り付けられる。騎士の子供なら、か弱い少女を置いて逃げようとはあまり思わないだろう。

 

つまり、彼女こそが誘拐犯たちの要の存在だった。

そして捕まった仲間を見捨てて、隙を見てあっさりと逃げ出したのだ。

 

 

「…衛兵たちに、彼女の動向に注意するよう言っておけば良かったな」

隣で話を聞いていた王子が呟いて、スピネルは驚いてそちらを振り向く。

「まさか気付いてたのか?」

「はっきりとは分からないが、何となく様子がおかしい気はした」

「…マジかよ…」

言われてみればクララは自分や父のことについてあまり詳しく語ろうとしなかった。ボロを出したくなかったのだろう。

更にスピネルの家名を聞き出そうとしたり、あと妙に距離が近かったりした。

怪しいと言えば十分怪しかったのだ。

 

「……」

騎士が去った後、ショックを受けてしゃがみ込んだスピネルの肩に王子が手を乗せる。

「元気を出せ。…困っている女性を助けようと考えるのは、騎士なら当然だ」

遠慮がちな慰めが辛い。

ただ善意を裏切られただけならまだ恨みようもあるが、こちらにも微妙に下心があったのがあまりに痛い。

穴があったら入りたいとはこの事だ。

 

 

さらにスピネルにとどめを刺したのが、仲が良かったメイドのアンヌがいつの間にか辞めてしまっていた事だ。

何でも前から結婚が決まっていて、メイドは辞める予定になっていたらしい。

だがスピネルはそれを全く聞かされていなかった。

恋人がいるかと尋ねた時だって、笑いながら「いない」と答えていたのだ。

 

 

 

「女って怖えなあ…」

木陰に座り、ぽつぽつと雲の浮かぶ青空を見上げながら、スピネルはぼんやり呟いた。

クララもアンヌも、嘘をついているなんて全く思わなかった。

可愛らしく、なよやかで、その色っぽい視線はこちらに好意的だとしか思えなかった。

彼女たちの嘘が上手かったのか、自分に隙があったのか、両方か。

 

事件のことは表向き伏せられたが、耳聡い次兄には伝わってしまったらしい。

スピネルの部屋を訪ねてきて、「男ってのはな、女に騙されてやっと一人前になるんだよ」とかしたり顔で語って帰っていった。励ましてくれたのだろうが、ちょっと泣きたくなった。

父親からは近々屋敷に来いとの呼び出しがかかっている。かなり泣きたい。

 

 

視線を下ろした先では、池の畔にしゃがみ込んだ王子とリナーリアが熱心に話し込んでいる。

銀の髪が揺れるリナーリアの横顔は楽しそうで、王子への親愛が溢れている。

そこには何の表裏もなさそうに見えるが、彼女もまた何か嘘をついたりしているのだろうか。

 

…いや、あいつに限ってそれはないだろうな。

スピネルはすぐにそう思い直した。

あの勘の鋭い王子も彼女にはずっと気を許しているし、もしあれが演技だったら、自分は今度こそどんな女も信じられなくなるだろう。

いつもよりも少し弾んだ表情の王子を眺めつつ、しかしもう不公平だとは思わなかった。

王子の人を見る目は自分よりもずっと確かだ。

 

自分はしばらく女は懲り懲りだが、王子には上手く行って欲しいものだ。

「…やっぱ、羨ましいとは思わないけどな」

手のひらにカエルを乗せて笑う少女を見ながら、スピネルは呟いた。



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第75話 兄の結婚相手(前)

水霊祭が終わり王都に戻ってきていた私は、ひどく気落ちしていた。

王都に帰り着いたその日に、ブロシャンの魔鎌公が急死したという報せが届いたからだ。

死因は病死。突然発作を起こし、そのまま亡くなってしまったらしい。

魔鎌公はもともと病気を患っていたし、周囲はその死を惜しみつつも受け入れたと言うが、私はとてもショックを受けた。

つい数日前に魔鎌公と会話を交わしたばかりだったし、何よりも前世の魔鎌公はこれよりも1年以上後に亡くなっていたのだ。

 

病気だし、それなりのお歳で身体も弱っていたらしいので、そういう事もあるのだろうと思うけれど。

私が知っている限り、これほどに死亡日時が変わった人は初めてだった。

前世の記憶が戻って以降、貴族の動向はできるだけ把握している。老衰や病気だけではなく、突発的な事故や魔獣被害で死んだ者の事も幾人か知っている。

だけど今までは皆、全く同じとは行かずとも大体似たような日時に死んでしまっていた。

それに対して積極的に関わってきた事はない。手を出して良いものだとは思えなかったし、それ以上に怖かったからだ。人の生死を左右する事が。

 

…だけど今回、私は初めて人の死を阻止するために動いた。ユークレースを、ひいては殿下を救うために。

魔鎌公は病死だし、魔獣との戦いで死ぬはずだったユークレースとは関係ない。

そのはずだが、まるで見計らったようなタイミングのこの死が、私にはとても怖かった。

 

ユークレースの事も心配だ。彼はお祖父ちゃん子だったから、きっとずいぶんショックを受けているだろう。

最後に見た魔鎌公の穏やかな笑みが脳裏に蘇る。

やはり人の生死は、軽々しく変えてはいけないものなのではないか。

だが、それなら私は何のためにこうして生まれ変わってここにいるのだ。

 

私は殿下を助けたい。しかし良かれと思ってやった事が、もっと悪い結果を招いたりしたら。

だって私は、前世でも間違えたのだ。彼女を、フロライアを殿下に近付けてしまった。

また間違えないとどうして言える。

…今世で私がやってきた事は、本当に正しかったのだろうか。

 

 

それからもう一つ私を落ち込ませたのは、セナルモント先生への弟子入りを両親に大反対されたことだ。

両親は何だかんだ言って私に甘いし、許してもらえるだろうと根拠なく思っていたのだが、今回ばかりはそうは行かなかった。あまりにタイミングが悪すぎた。

何しろ私は王家の祭礼に付いて行ったはずが、タルノウィッツ領では意識潜行の魔術を使って領主や魔術師たちの捕縛に関わり、ブロシャン領では大型魔獣との戦いに前線で参加し、足を骨折して帰ってきたのだから。

特に母は、その報せを聞いて卒倒しかけたらしい。

屋敷に着いて無事な顔を見せた時も泣いていたし、その後王家やブロシャン公爵家からお礼状が届いてもちっとも嬉しそうではなかった。

優しい母に心労をかけてしまったのが辛い。母だけではない、父や兄、コーネルたちにもだ。

 

 

 

「…リナーリア、入ってもいいかい」

控えめなノックの音と共に、優しい声が聞こえる。ラズライトお兄様だ。

顔を上げ、「はい、どうぞ」とすぐに答える。

私は今、王都のジャローシス侯爵屋敷にいる。

足首を骨折しているせいで色々不自由だから、歩けるようになるまでは学校を休み屋敷にいる事になったのだ。

そして、昨年までは領地にばかりいたラズライトお兄様も今は王都にいる。数ヶ月後に迫った結婚式の準備のためだ。

 

部屋に入ってきたお兄様は、ベッドに座っていた私の顔を見て少し心配げな表情をした。そんなに元気なさそうに見えるのだろうか。

「今、サーフェナが来ているんだ。良かったら一緒にお茶でもどうかな?お前も、サーフェナとは話したがっていただろう」

「あっ」

サーフェナ様はシュンガ伯爵家の娘で、ラズライトお兄様の婚約者だ。そう言えば今日は彼女が来ると聞いていたのに、考え事をしていてすっかり忘れていた。

「すぐ行きます!」

あたふたとする私に、お兄様は「ゆっくりでいいよ」と優しく笑った。

 

 

迎えに来たコーネルに付き添われ、庭へと出る。

ガーデンパラソルの下にはお兄様とサーフェナ様がいた。

「やあ、来たね」

お兄様がにこりと笑い、サーフェナ様もまた紅茶のカップを置いて微笑んだ。

「ごきげんよう、サーフェナ様。お久しぶりです」

「ごきげんよう、リナーリア様。…足の具合は大丈夫かしら?」

サーフェナ様が気遣わしげに私の松葉杖を見る。

「はい。もうずいぶん良いので、明後日には松葉杖をやめる予定です」

経過は順調だと医術師にも言われている。松葉杖なしに歩けるようになったら、すぐ学院に復帰するつもりだ。

「それは良かったわ」

サーフェナ様はおっとりと笑う。

その笑みはラズライトお兄様に少し似ていて、はてこんな笑い方をする人だっただろうかと内心少し疑問に思う。

前はもっと凛々しいというか、どこか張り詰めたような印象の方だった気がするのだが。

夫婦は似てくると言うあれだろうか?まだ結婚してないが。

 

いくつか他愛もない世間話をして、それからお兄様が席を立った。

「少しばかり書類仕事を残しているんだ。片付けたらまた戻ってくるよ」

そう言って微笑むと、私の肩にぽんと手を置いてから屋敷の方へと歩いて行った。

どうも私とサーフェナ様を二人きりにしてくれたらしいと思い、サーフェナ様の顔をちらりと見ると、彼女は「ふふっ」と少し笑った。

「…彼、ずっと貴女のことを心配しているの。落ち込んでいるみたいだって」

「…す、すみません…」

お兄様はいつも優しいからつい甘えてしまっていたが、結婚を控えた婚約者が妹の事ばかりというのは彼女にとってあまり面白くない状況ではなかろうか。

そう思って頭を下げたが、サーフェナ様は「いいのよ」とまた笑う。

 

「あの人はいつも誰かの心配ばかりだもの。きっと心配するのが趣味なのよ」

「そんな事は…」

あまりの言い草に、私も思わず笑ってしまう。確かに兄は、いつも周りの人の事を思いやっている。

「本当に優しい人。…私には、もったいない人だわ」

ぽつりと言ったサーフェナ様のその顔を、私は見返した。

薄い緑色の髪、小柄な身体。くりっとした目と意思の強そうな太めの眉が印象的だ。

 

ラズライトお兄様は、我が兄ながら素晴らしい男性だと思う。結婚相手としてはかなり良い。

侯爵家の嫡男だし、顔も良い方だと思うし、何より穏やかで優しい性格が一緒にいて落ち着く。家庭円満間違いなしだ。

もし私が女だったら結婚相手は兄のような男性がいい…いや、今は女なんだけど。

どうしても誰かと結婚しなければいけないと言われたらラズライトお兄様がいいと言うだろう。妹だから無理だけど。

 

でも、サーフェナ様がお兄様にふさわしくないとは思わない。

兄に学院の友人だと紹介されてからそれなりに長い付き合いになるが、彼女はとても真面目な女性だ。騎士家の出身だが、魔術師を志していて、魔術に対してとても真摯だった。

そして兄の婚約者となった後でも、私を始め周囲の者に対して誠実で優しい態度をずっと変えなかった。飾り気のない雰囲気も、私は好きだ。

何より、あの兄が選んだ女性なのだ。素晴らしい人である事を、私は疑っていない。

 

 

「…彼から聞いたわ。貴女は王宮魔術師になりたいんだって」

「あ…、はい…」

私はサーフェナ様の顔色を窺う。

彼女もまた、魔術師になりたかったはずなのだ。王宮魔術師のビリュイに弟子入りしていたのだから。

兄と婚約はしたが、その夢を諦められなかったらしく、学院卒業後もしばらく魔術師修行をしていた。結局は、兄との結婚を選んだけれど。

「どうして王宮魔術師になりたいの?」

その問いに、私はこの数日考えていた事を思い出す。

「…私は、一人で立てる人間になりたいのです。誰に恥じることもなく、やりたい事をやれるようになりたい。…それを認められたい」

 

私が王宮魔術師になりたいのは殿下の命を守りたいから、そして殿下の役に立ちたいからだが、それだけが理由ではない。

ユークレースが私に「お前は王子の庇護を受けている」と言っていたが、多分あれは本当は正解なのだ。

殿下はきっと「そんな事はない」と言ってくれるし、実際そう思ってくれているだろうが、周囲はそうは見ない。王子の友人である事で、周囲に気を遣われ守られているように思う。

何しろ私を庇って重傷を負った奴までいるし。

彼は彼でまた借りがどうとかごちゃごちゃ言うのだろうが、彼の力はできるだけ殿下のために使って欲しい。私を庇って傷付くような事はもうやめて欲しい。

私は、彼とは対等な関係でいたいのだ。

だからやはり私は王宮魔術師になろう…つい数日前まで、そう思っていたのだが。

 

 

「水霊祭のとき、王宮魔術師のビリュイ様と話す機会がありました。ビリュイ様は、私なら王宮魔術師になれると言って下さいました。それだけの才は持っていると。…でも、こうも言っていました」

『私は王宮魔術師になった事は後悔していませんし、誇りにも思っています。しかし、ずっと魔術以外のものに目を向けずに生きてきた事を、今では少し後悔しています』

そう言ったビリュイの目には様々な感情が入り混じっているようだった。

 

ビリュイの言葉は意外なもので、その場では私にはよく理解できなかった。

しかしその後すぐに魔鎌公の訃報が届き、両親にも大反対されて、それで私はどうしたらいいのかすっかり分からなくなってしまった。

私がこのまま王宮魔術師を目指すのは間違いではないのか。

そんな気がしてきてしまい、それでますます塞ぎ込んでいた。

 

でも、ビリュイは話の終わり際にこうも言った。

『迷ったらサーフェナに相談してみるといいかも知れません。あの子は私の自慢の弟子です』と。

サーフェナ様がもうすぐ私の兄と結婚する事は、ビリュイも知っていた。

それを聞いてサーフェナ様がわずかに目を瞠る。

「お師匠様が、そんな事を」

「はい」

 

「……」

彼女は、どこか考え込むような目をした。

「…そうね…。お師匠様に任されたのなら、きちんと応えなければいけないわね」

少しぬるくなった紅茶に手を伸ばし、一口飲んで優しい笑みを浮かべる。

その微笑みはやはりお兄様に似ている気がした。



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第76話 兄の結婚相手(後)

「私は、貴女が王宮魔術師に弟子入りするのは悪いことじゃないと思うわ」

サーフェナ様はそう言って私の顔を見た。

「でもそれは、貴女に王宮魔術師になって欲しいからじゃないの。貴女に後悔して欲しくないから。…私はとても後悔したもの。()()()、弟が死ぬのをただ見ていた事を」

 

…その話は私も知っている。

今から6年ほど前、シュンガ領近くで起きた悲劇。

シュンガ伯爵一家は近隣の貴族たちと共に鹿狩りをしていた所を魔獣の群れに襲われ、数人が死んだ。

死んだ者のうちの1人は、彼女の弟だった。

更に私は、サーフェナ様と共にその場に居合わせ生き残ったという少女の事も知っている。

それについて一度も触れた事はないけれど。そのせいで大きく生き方を変えたのではないかと、薄々感じている。

 

 

「大切なものを守る力を持っておかなければ、いざという時きっと後悔するわ」

「…だからサーフェナ様は、魔術師になりたかったんですか?」

「そうね。…それに、弟は立派な騎士になって人を守るのが夢だったのよ。だから私、弟の分まで戦おうと思った。剣は私には無理だったから、せめて魔術師になろうと…そうすれば少しはあの子に報いられるんじゃないかって。結局、魔術師になる事もやめてしまったけれど…」

サーフェナ様の笑みに少しだけ自嘲が混じる。

 

「でも魔術師修業をした事は無駄じゃなかったわ。その間にたくさんの人に知り合えたし、たくさんの事を学べた。新しい夢だって見つけた。…だからね、私は貴女も、ただの勉強のつもりで弟子入りをしてもいいと思っているのよ」

「えっ?」

「弟子入りは確かに、将来王宮魔術師になると期待されているからできる事だけど。…でもね、辞めたくなったら別に辞めたっていいと思うのよ。だって貴女にはたくさんの選択肢がある。お師匠様…ビリュイ様がもっと周りを見てもいいんじゃないかって言ったのは、そういう意味だと思う。貴女が将来どんな道を選ぶにしても、弟子入りして学んだことはきっと貴女の糧になるわ」

 

 

それは私には思ってもみない考え方だった。

弟子入りは将来その職業に就くため、修行するためのものだ。自分の跡を継いで欲しいという期待を込めて、師匠は弟子へと自らの技術を伝える。

なのに途中で辞めたりしたら、それは先生への裏切りになるのではないか。

 

「セナルモント様は、貴女がやっぱり王宮魔術師にならないって言ったら怒るような人?」

「い、いえ、違います」

セナルモント先生はすごく変で、でもすごく優しい人だ。前世でも今世でも、ずっと私の意思を尊重してくれている。

タルノウィッツの事件でも私に協力してくれたし、私の無茶を叱りはしたが、責めたりはしなかった。

 

「…でも、怒らなくてもきっと、とてもがっかりします」

先生はずっと前から、冗談交じりではあるけど私の弟子入りを希望していた。それは私に期待していたからのはずだ。

先生の期待を裏切りたくはないと言う私に、サーフェナ様は少し眉を曇らせてうなずく。

「…そうね。お師匠様も、私が魔術師の道を諦めると告げた時、口にはしなかったけどがっかりしていたと思う」

王宮魔術師のビリュイが弟子に取るくらいなのだから、彼女にはきっと才能があったんだろう。

「でもお師匠様は、私の背を押してくれたわ。貴女は貴女の道を行って、そして幸せになりなさいって。…まさか、今でも自慢の弟子と言ってもらえるなんて思わなかったけれど」

「…あ」

そうだ。ビリュイは、サーフェナ様の名前を言った時、とても温かい目をしていた。

もはや魔術師の道を諦めたと言うのに、それでも自慢の弟子だと言った。

 

「セナルモント様も、貴女の周りの人もきっとそうよ。貴女が将来その道を決めた時、皆それぞれ思うことはあるかも知れないけど、貴女の選択を責めたりはしないと思うわ。それよりも、貴女の幸せを願うはずよ。皆、貴女が期待に応える事より、貴女が幸せになる道を望んでくれると思う」

「…私が、幸せに」

ただ呆然とする私に、サーフェナ様は優しく笑う。

「貴女は、自分が周囲から愛されている事をもっと知るべきね」

 

 

それからサーフェナ様は、私と共に両親に話しに行き、二人を説得してくれた。

王宮魔術師の弟子になる事は、私の身を守る事にも繋がる。そして将来の道を選ぶ時、その経験はプラスにはなってもマイナスにはならないと彼女は言った。

私もまた、将来必ず王宮魔術師になりたい訳ではない。ただ今は、もっと色々学びたい。弟子はそのための手段の一つだと言った。

方便ではなく、ビリュイやサーフェナ様から話を聞いて思った、今の私の素直な気持ちだった。

そうしてしばらく話し合った後、両親は折れてくれた。

「…お前の好きなようにしなさい。ただ、私たちはいつもお前を心配している。その事を忘れないでくれ」

私を抱きしめる両親の腕の温かさを感じながら、私はただうなずいた。

 

 

 

さらに数日後。

私は、馬車に乗ってうちの屋敷に到着したセナルモント先生を出迎えていた。

先生は今日、弟子入りの件について私の両親に挨拶と報告をするために来ている。

儀礼用の重厚なローブを身に着け、一目で貴重な品だと分かる見事な宝玉のはめ込まれた杖を手にしていて、いつもとは全く雰囲気が違う。

ローブは普段着ている王宮魔術師のローブと基本的なデザインは同じだが、ずっと上質な布で仕立てられているし刺繍も細かい。式典など大事な時にしか着ないものだ。

「すごいです、先生。立派な王宮魔術師みたいです」

「いや僕は立派な王宮魔術師だからね?そりゃ普段は研究ばかりだけど、ちゃんと仕事だってしてるからね?」

トレードマークのボサボサ頭も、今日はいつもより丁寧に撫で付けてある。癖毛はどうにもならないようだが。

 

「僕は弟子取りの挨拶は初めてだからねえ、どうやったらいいかちゃんと同僚に聞いて、その通りにして来たんだよ。緊張するなあ」

そうは言うが、のんびりした口調はいつもと変わらずとても緊張しているようには見えない。むしろ私の方が緊張してる気がする。

前世ではセナルモント先生への弟子入りは王宮側で決めた事だったので、両親には事後承諾のような感じで話が行っただけのはずだ。こうして挨拶の場に同席するのは初めてなのだ。

 

 

使用人に案内され、応接室へと通される。

やがて、お父様とお母様が姿を表した。すっと立ち上がったセナルモント先生が、二人へと頭を下げる。

「お久しぶりです、ジャローシス侯爵、そして侯爵夫人。ご壮健の様子で何よりです」

先生は姿勢正しく、口調もさっきまでと違い引き締まっている。

やろうと思えばちゃんとやれるんじゃないか。内心でちょっとびっくりする。

「セナルモント殿こそ。うちの娘が、いつもお世話になっております」

お父様とお母様もまた礼をする。

 

「早速ですが…単刀直入に言わせていただきましょう」

先生がきりりとした表情で両親を見据える。

 

「お宅のお嬢さんを、僕に下さい!!」

…びしりと両親の笑顔が固まった。

 

 

凍りついた空気の中で、私は頭を抱える。

「…先生。その台詞、間違っています」

「えっ?そうなの?」

先生がきょとんとしながらこちらを振り返り、私は大きくため息をついた。



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挿話・16 サーフェナと弟

サーフェナ・シュンガには弟と妹がいた。

特に弟のミニウムとは仲が良かった。長男、つまりシュンガ伯爵家の嫡男であるミニウムは、利発で心優しく、運動神経も良く、魔力にも恵まれた少年だった。

弟は物語や演劇が好きで、英雄が活躍し悪い魔物を退治する話が大好きだった。物語の英雄のような騎士になりたいといつも言っていた。

 

しかし彼は優しすぎた。

人と競ったり争ったりするのが苦手で、剣術を教わる際、基礎の稽古では見事な動きをしているのに人を相手にするとなったらてんでだめだった。

年下のまだ幼い子供にすらろくに勝てない彼を、両親はいつも叱った。

そんな事では立派な騎士になれない。憧れる英雄になどなれはしないと。

 

ミニウムは両親の叱責を受けては、一生懸命に鍛錬をしていた。

手のマメが潰れ、身体に青痣ができても、いつかは英雄となり人々を助けたいのだと言っておどけて笑った。

サーフェナもまた「もっと強くならなきゃだめよ」と叱っていたが、彼は嫌そうな顔はせずいつも「はい!」と真面目に答えていた。

記憶力の良い彼は英雄劇の台詞を諳んじていて、鍛錬の合間にその真似事をしては周りの人々を楽しませていた。

優しすぎて剣の才能を活かせずにいる彼を、皆が愛していた。

 

しかし両親に連れられ、近隣の親しい貴族の一家と共に鹿狩りに行ったある日。

突如として魔獣の大群に襲われてしまった。

事前の探知魔術ではそれほど魔獣はいないはずだった。しかし探知をくぐり抜けたのか、あるいは山を降りて急襲してきたのか。魔獣の群れがそこにはいた。

護衛の騎士たちや一部の貴族は力を尽くして戦ったが、普段あまり魔獣と戦う機会がなかった貴族たちはただ怯え、身を隠すだけだった。

サーフェナもまた、母に抱きしめられ震えるしかなかった。

 

だが、弟は違った。自ら剣を取り、果敢に戦った。

…そうして、親しかった大切な少女を守って死んだ。

 

 

その事をサーフェナはひどく悔やんだ。弟に偉そうなことを言っておきながら、自分は何もできなかった。

だから魔術師になろうと思ったのだ。騎士は無理でも、魔術師にはなれる。弟の夢、人を助けられるような人間になろうと。

必死に努力し勉強して、友人の伝手で紹介してもらい頼み込んで王宮魔術師に弟子入りもした。

正式な弟子ではなく、時間がある時に教えを受けるだけの関係だが、それでもサーフェナは嬉しかった。

 

両親は反対した。

ミニウムのことはもう気にするな、お前は婿養子を取って家を継げと言った。

それは、貴族家ならば誰もが言う事だろう。家の存続は何より大事だ。嫡男が死んで娘しか残っていないなら、婿養子という選択肢が最も一般的だ。

しかしサーフェナはどうしても納得できず、魔術師修行を続けていたある日、同級生だったラズライト・ジャローシスから求婚されたのだ。

 

生真面目な顔を紅潮させ、婚約者になって欲しいと告げた彼は確かに真剣だった。

同級生として親しくしていたので、彼の人となりは知っている。こんな事で嘘をついたりふざけたりする人間ではない。

だけど、とても信じられなかった。だって彼は侯爵家の嫡男だ。

容姿も良く、優秀な魔術師で、領は裕福だ。何より、誰にも別け隔てのない性格でとても心優しかった。

魔術師系の新参貴族であるがゆえに有力な貴族との繋がりが弱い事以外、特に欠点は見当たらない。

特に同じ魔術師系の貴族や、あまり裕福でない領の令嬢からは非常に人気が高かった。いくらでも他に相手を選べるはずなのだ。

 

サーフェナがラズライトから求婚されたと聞いたサーフェナの両親は驚き、喜んだ。

シュンガ伯爵領はあまり裕福とは言えない。それに引き換え、ジャローシス侯爵領は温暖で豊かだ。新参ではあるが爵位もこちらより高い。

何より、ラズライトの妹は第一王子と親しいという噂が聞こえていた。王子妃の筆頭候補だと。

サーフェナが他家の嫁になっても、シュンガ家にはもう一人娘がいるのだから跡継ぎはそちらに婿養子を迎えればいい。

 

両親の強い後押しもあり、サーフェナは悩んだ末にラズライトの申し出を受けた。

ただし、条件をつけた。魔術師の夢を諦めきれないので、数年は結婚を待って欲しい。その間できるだけの事をやって、それで気持ちの整理を付けたいと。

ラズライトはその条件を呑み、それどころかサーフェナをジャローシス領の魔術師として雇うと言ってくれた。

 

正直、ラズライトはきっと途中で気が変わると思っていた。

自分が貴族令嬢として有り得ない、おかしな事をやっていることは分かっている。そんな女を何年も待つ訳がない。

別にそれでいいし、むしろそれが望みだ。自分はただ魔術師になりたいだけなのだから。

ある程度経験を詰んだら、サーフェナはジャローシス領を出て別の家に仕える。

それがお互いのためだと思った。

 

 

 

そうしてジャローシス家の魔術師になったサーフェナは、まずセラドンという片足のない老魔導師の下に置かれた。武具を中心に様々な魔導具を作るのが仕事だという。

新人魔術師が仕事を選べるはずがない事くらいは分かっていたが、前線で戦いたかったサーフェナは始め少し不満だった。

 

セラドンの元で働いてしばらく経ったある日、彼はサーフェナに自分の話をしてくれた。

セラドンは将来を嘱望される優秀な魔術師だったが、ごく若い頃、魔術師として領の防衛の任務についたばかりの時に、運悪く大きな魔獣と遭遇して片足を失ってしまった。

治癒魔術では、傷を塞ぎ命を助けることはできても、失った手足は取り戻せない。もはや兵として復帰する事は叶わなかった。

セラドンはその事実に打ちのめされ、傷が癒えてもなおしばらく立ち直れずにいた。

 

だが、その彼を必死に介護し支え続けたのが、彼の妻だ。

妻に励まされ、少しずつ生きる気力を取り戻したセラドンは、豊富な魔力と知識を活かし魔導具を作る職人となる道を選んだ。

傷を負い戦いの場に出られなくなった傷痍軍人は、残りの人生を失意のうちに終える場合が多いが、魔術師ならば比較的転職がしやすい。

ジャローシス領は領主が魔術師である事もあり、他領よりもずっと多くそのような者を受け入れていた。その一人が彼だ。

セラドンはそこから数年かけて修行し、そして魔導師となった。

 

セラドンは言った。

「俺は足を失い、前線で戦って魔獣を倒す事はできなくなった。そんな俺を役立たずだと思うかい?」

サーフェナは慌てて首を振った。

まだ働いてわずかな期間ではあったが、セラドンの作った剣や杖、魔導具がとても優れている事は理解できていた。騎士や魔術師を助け、人々の暮らしを支えている。

それはある意味、前線で戦う者よりも大きな功績だ。

しかもセラドンは後進の育成にも熱心だった。特に、自分と同じような傷痍軍人を育てている。

 

「…最初はこんな身体になった事が本当に悔しかったし、絶望したし、死んでしまいたいとさえ思った。でも、嫁さんが言ってくれたんだよ。戦うだけが道じゃない、他にもやれる事はたくさんあるって。そうして魔導具作りを始めて、少しずつ分かった。人の暮らしを支えて、人を育てることだって大切なんだ。そうじゃなきゃ国は成り立たない。いくら強くなって魔獣を倒せても、その後ろに誰も立っていないんじゃ何も意味がない」

 

「無理に魔術師を目指さなくても、あんたにはあんたのやれる事をやればいい。せっかく別嬪さんに生まれて、お坊ちゃんと婚約したんだ。それを活かして何をするかを考えりゃいいんじゃないか」

ラズライトはサーフェナの身分を伏せておいてくれたが、セラドンにだけは話していたらしい。

それを裏切られたとは思わなかった。自分を思っての事だと分かった。

彼は毎日セラドンとサーフェナの所に通ってきていた。

顔を見せては励ましの言葉をかけて去っていく彼は、ただずっとサーフェナを見守ってくれていた。

 

 

 

数年後、結局サーフェナは魔術師の道を諦め、ラズライトの妻になることを選んだ。

それを聞いた師匠のビリュイはわずかに落胆したようだったが、すぐに笑顔になりサーフェナの選択を祝福してくれた。

 

ずいぶん遠回りしてしまったが、しかし魔術師や魔導師の修行をしたことは無駄だと思っていない。その経験があったから今の自分がいる。

そしてサーフェナには新しい夢ができた。傷痍軍人や女性が働き、生きていける場所を作ることだ。

ラズライトはそれを応援すると言ってくれている。

今まで待たせてしまった分、サーフェナもまた彼をしっかりと支えていきたいと思っている。

 

 

そして今サーフェナは、ジャローシス侯爵家のガーデンパラソルの下、もうすぐ自分の義妹になる少女の相談に乗っている。

人目を引く銀の髪の、とても美しい少女だ。賢く利発な事は話していれば分かるし、人並み外れた魔力もあるという。

彼女ならばどこの家からも引く手あまただろう。それどころか王子からも目をかけられているのだから、どれほど魔術の才があろうと、彼女の両親が王宮魔術師への弟子入りを反対する気持ちもわかる。

彼女を愛しているならば尚更だ。

 

しかも彼女は、どこか危うい印象を受ける。今回など大型魔獣と戦い、怪我をして帰ってきたのだという。

だからラズライトもずっと彼女を気にかけているのだろう。「あの子はいつも事件に巻き込まれてばかりいる」と困ったように言っていた。

彼女の姿に、サーフェナはどうしても弟を思い出してしまう。

弟は確かに大切な人達を助けたが、しかし同時に大きな傷も残した。今でもずっと引きずっている者もいる。

 

ラズライトに出会い、己の道を見つけられた自分は幸せだ。

それに僅かな罪悪感もあるが、しかしサーフェナにはやりたい事がある。立ち止まってはいられない。

 

少女の、彼女の兄とよく似た蒼い瞳を見てサーフェナは微笑む。

彼女にもいつか幸せが訪れるように、今はその背の後押しをしよう。



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第77話 三歩進んで二歩下がる

順調に松葉杖が取れ、私は学院の授業に復帰した。

まだ運動はできないが、普通に校舎内を歩き回ったり座学を受ける分には問題ない。

 

「あ、ねえねえ、ちょっと待って」

カーネリア様たちとの昼食を終え学院の廊下を歩いていたところ、背後から声をかけられて私は振り向いた。

クラスメイトのクリードだ。その後ろには、同じくクラスメイトのスパーもいる。二人共スピネルとわりと親しくしている少年だったと思う。

「何でしょうか?」

「王子殿下、どこ行ったか知らない?」

クリードがそう言った途端、スパーが顔を青くする。

「お前、バカ、よりによって彼女に訊くなよ!」

「えっ?…あっ、そうか」

クリードがしまったという表情になる。

 

私は思いきり眉を寄せた。

何だ?私に聞かれてはまずいことでもあるのだろうか。怪しい。

「…殿下に何の御用ですか?」

「あ、いや」

二人揃って目を泳がせる。

「何なんですか。答えて下さい」

「その…」

怪しい。とても怪しい。殿下に何をする気なんだ。

事と次第によっては締め上げてでも聞き出さなければ。

 

睨んでいると、観念したのかクリードが諦めたように口を開いた。

「…実は、隣のクラスの子から殿下宛の手紙を預かってて。その手紙を渡したかったんだけど」

それを聞き、思わず目を丸くした。

「それってつまり、恋文でしょうか」

「…多分…」

クリードたちは何故か気まずそうに言ったが、私は嬉しくなって目を輝かせる。

「まあ…!そうなんですね!」

「…えっ?」

 

 

学院ではこの手の恋文は寮の郵便受けに入れられるのが一般的で、私の所にもたまに放り込まれている。

もちろん全て丁寧に断りの返事を書いているが、中には謎の詩だとか送り付けてくるのもいるから反応に困る。どうしろと。

とりあえずいつも適当に褒めた後「貴方様のこれからのご活躍を、心よりお祈り申し上げております」と書いて送っている。

毎回同じ文面になってしまうが許して欲しい。こんなものにそんなにバリエーションは作れない。

 

殿下の場合、王宮に住んでいるので気軽に手紙を放り込める郵便受けはない。下手に王宮宛てに送れば検閲されたりするし。

なので直接手渡すか、誰かに頼んで渡してもらうしかない。

しかしどうも今世の殿下はそういう手紙を受け取っている所を見かけないので、あまりモテていないのではないかと疑っていたが、やはりそんな事はなかったのだと安心する。

人前で渡したがる人はあまりいないから、私が知らなかっただけなのだ。

前世では横に私がいても特に関係なく渡されていた気がするけど、やっぱり従者と友人では違うんだろうな。…私はだいたい常に横にいたから、仕方なかったのかも知れないが。

 

 

「えっ…何で喜んでんの?」

にこにことした私に、クリードとスパーは困惑気味の顔になった。

「え、だって殿下が女子生徒から人気がある証拠でしょう。喜ばしい事じゃありませんか。殿下には良いお妃を迎えてもらわなければなりませんし」

「ええー…」

何がええーだ。殿下の婚約相手についての私の悩みは切実だ。今世こそ良い方を見つけていただかなければ。

「俺、今まで殿下のこと羨ましいと思ってたわ…違ったんだな…」

クリードが何かすごく同情するかのように言う。スパーも似たような感じだ。

 

どういう意味だと尋ねようとした時、向こうから目立つ赤毛が近付いてきた。スピネルだ。

「お前ら何やってんだ?」

「なあスピネル、彼女これでいいのか?」

「何がだ」

「いや、女子から殿下に手紙預かってきたって言ったらめっちゃ喜んでんだけど」

「だからお前何でそんな命知らずなんだよ!!」

素直にべらべらと喋るクリードに、スパーが悲鳴を上げる。

 

それを聞いてスピネルはみるみる不機嫌になった。

「お前ら…」

思いきり睨まれてクリードとスパーが「ヒッ」と縮み上がる。

「…手紙は俺が預かっとく。殿下にはちゃんと渡しとくから安心しろ」

「そ、そんな怒るなよ~…」

クリードは愛想笑いをしながら、ポケットから取り出した手紙をスピネルの手に乗せた。

ちらりと見えたが、可愛らしいピンク色の封筒だからやはり恋文だろう。

それを懐にしまい、スピネルが再びクリードとスパーを睨む。

「いいか、余計な事言って回るなよ。分かってんだろうな?」

「分かってるってば!」

 

それからスピネルは私の事も見下ろした。

「お前も殿下に余計な事訊いたりすんなよ?」

「もちろんです。そんな野暮なことはしませんよ」

任せろとうなずくと、スピネルは「はあ…」と疲れ切った顔で深い溜め息をついた。

 

 

クリードとスパーが逃げるように去って行くのを見送り、隣のスピネルの顔を見上げる。

「あの、傷の具合はどうですか?」

「もうほぼ完治だ。剣術の稽古もぼちぼち再開してるし」

「頑丈ですねえ」

「言ったろ。鍛え方が違う」

確かにこいつは、顔は優男風だし一見細身だけど結構筋肉あるっぽいんだよな。着痩せするタイプだ。

と言っても脱いだ所は見た事ないが。

 

「武芸大会も近いですもんね。近頃は剣術の稽古をしている生徒を特に多く見ます」

「ああ…まあな…」

スピネルは何故か微妙な顔で目を逸らした。なんだろう?

しかし、すぐににやりと笑って横目で見下ろしてくる。

「それより、誰かが発破をかけたせいで殿下がすっかりやる気満々なんだよ。俺も負けてられねえ」

「そうなんですか。…それは…とても、良い事ですね」

私のかけた言葉で殿下がやる気を出してくれているなら、本当に嬉しい。思わず頬が緩んでしまう。

それだけでも、私がやってきた事は間違いではなかったと思える。

 

 

だが喜んでばかりはいられないな。

私も頑張って、もっと殿下のお役に立てるようにならなければ。

それに、これまではただ殿下の命を救いたくて、その後の人生のことは「そうなったらいいな」程度の希望でしかなかったが、今はもう少し真剣に考えようと思っている。

私が知らないだけで、王宮魔術師以外にも殿下やこの国の役に立てる道があるかも知れない。

…そうして、私を見守ってくれている家族や友人たちも幸せにできたら。

そこに私の幸せもあるのではないだろうか。

それがどんな未来なのかは、まだちっとも想像できないけれど。

 

ぐっと拳を握りしめて決意を新たにしていると、スピネルが呆れたように言った。

「お前はまだ無理すんなよ。骨はなかなかくっつかないんだからな」

「わ、分かってますよ…」

つい唇を尖らせてしまうが、この件に関しては大人しく言う事を聞くしかない。家族にもあんなに心配されてしまったし。

「もっと自分の事も大切にします。…そうするべきだと分かったので」

私の呟きが真剣だったからか、スピネルはちょっと意外そうな顔をした。

それから、「まあ頑張れ」と言って珍しく優しく笑った。



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第78話 二人の争い(前)

「スピネル。俺は考えを曲げる気はない。お前が折れろ」

「嫌だね。絶対に断る。殿下の方こそ素直に受け入れろ」

 

私はひたすら困惑しながら、目の前の二人が言い争うのを見ていた。

どうしてこうなってしまったのか。

この二人はいつも仲が良かったし、ちょっとした小競り合いならともかく、本気で言い争う所など見た事がなかった。

だと言うのに、先程からずっとこの調子でお互い譲る気配がない。

…それもよりによって、私のことを巡ってなのだ。

 

 

 

事の発端は数ヶ月前にまで遡る。

その日、私は殿下とスピネルと共に学院で昼食を取っていた。

「え、お前武芸大会に出ないのか?」

スピネルがステーキを食べる手を止めて言い、私はそれにうなずいた。

「はい。私はあんな花火大会に興味はありませんので」

「バッサリだな。お前なら優勝も狙えそうなのに」

 

この学院では年に1回、6月に武芸大会が開かれる。その名の通り、武芸を競うための大会だ。

これには騎士部門と魔術部門があり、希望者のみの参加で行われるが、学院内ではとても人気の高いイベントだ。

参加者は腕自慢の男子生徒が大半だが、参加しなくても見世物として楽しめるし、意中の男性を応援する女子生徒もたくさんいる。

生徒の親も当然応援に来るし、身内でなくてもただの観戦者として見に来る貴族も多い。

 

騎士部門はごく普通に、1対1での試合をトーナメント方式で行い優勝者を決める。

しかし魔術部門の方はただ戦って勝敗をつける魔術戦ではなく、試合内容に審査員が点数を付け、ポイントが多い方が勝利するという特殊な形式で優勝者が決められる。

これは魔術部門の試合が騎士部門に比べて参加者が圧倒的に少なく、盛り上がらないために取られた措置だ。

魔術師課程の生徒はそれほど人数が多くない上に、魔術戦を好む者はさらに少ない。

女子生徒はだいたい魔術戦を嫌がるし、男子でも支援魔術師や医術師、魔導師と言った、戦闘や攻撃以外を専門とし志す者もいるからだ。

 

そこで定められたのが魔術部門の特殊ルールだ。これの勝敗は技術点が大きく左右する。

この技術点というのは使われた魔術の威力が高かったり、難易度が高かったり、派手だったり、とにかく技術的に優れていると審査員が判断すれば高得点がもらえる。言ってしまえば審査員の心証次第で決まる点数なのだ。

なので皆大体、戦術などそっちのけで派手で見栄えのいい高等攻撃魔術ばかりをドカンドカンとぶっ放す。

これが観客には結構受けるし盛り上がるのだが、私はこういう事はあまり好きではない。

 

 

「そもそも私は支援魔術師なので、魔術師同士での勝ち負け自体興味ありませんよ。騎士と組んで戦うのが役目なんですから。そういう部門でもあれば別ですけど」

「…ふむ」

話を聞いていた殿下が顎に手を当て、何かを考え込んだ。

「どうかしたか?」

スピネルに尋ねられ、殿下が説明する。

「いや、なかなか面白そうだと思ってな。リナーリアが言う通り、騎士と魔術師で組んで試合をする部門というのがあっても良いんじゃないか?」

私が何気なく言った事を、殿下は良い考えだと思ったらしい。

「二人でタッグを組んで戦う部門ですか。確かにそういう部門があれば、魔術戦に興味がない魔術師の生徒も参加しやすくなるでしょうね」

それなら魔術師はパートナーに攻撃を任せ、自分は後方から防御や支援に徹するという戦い方もできる。私のように、そういう形式なら参加してもいいと考える生徒は他にもいるんじゃないだろうか。

「それは騎士課程の奴もだな。騎士にも盾をメインにしたり、サポートが得意な奴ってのはいる」

「ならいっそ騎士同士や魔術師同士でも組めるよう、組み合わせは自由にするといいかも知れないな」

それを聞いたスピネルがなるほどという顔になる。

「それだと相手の組み合わせによって戦術を変える必要が出てくる。面白そうだな」

 

 

「…試しに生徒会の議題に上げてみましょうか。それで通れば生徒に署名を募って、企画書を作って先生方に提出するんです」

二人が楽しそうに話し合っているので、私はこう提案した。

「そうだな。やってみよう」

「いいんじゃないか。俺も手伝える事があるなら協力する」

殿下がうなずき、スピネルも同意した。

 

今年の武芸大会は数ヶ月後だ。日程はもう決まっているし今から新部門を作るのは無理だろうが、来年以降ならできるかも知れない。

そう思いながら提出した議題はあっさり通り、その後行われた署名の募集も順調だった。

騎士課程の生徒は面白がって署名する者が多かったし、魔術師課程にも意外といた。別に嫌なら参加しなければいいだけだし、反対する理由は特にない者がほとんどだったのだ。

スピネルが声をかけて回ったせいか、女子生徒の署名も多かった。

 

そこで私は発案者の一人として署名嘆願書つきの企画案を作り、殿下と連名で先生方に提出したのだが、意外な人がこれに大賛成した。

魔術の教師である。

先生はもともと私と同じく支援系の魔術師で、支援魔術師は攻撃魔術師に比べ不遇であると常々思っていたらしい。

2人1組で戦う部門があれば、支援魔術の凄さが少しは周知されるのではないかと考えたようで、熱心に周囲に掛け合い、貴族たちからの賛成署名まで持ってきた。

 

 

そうして、タッグ部門の新設は決定した。

しかもなんと、今年から始める事になったのである。

保護者である貴族の中にも熱心な賛成者がいたらしく、開催資金として多少の寄付が集まったのが最も大きい理由だろう。

エントリーは2人1組で、その組み合わせは課程・学年・性別を問わず自由。

大会の日程を1日延長し、なんとか追加開催される予定となった。

 

 

…そこまでは良かった。特に問題なかったのだが。

溜め息をつきながら、私は女子寮の玄関の扉を開けた。

受付で名前と部屋番号を告げ、名簿に署名をする。管理人はこの名簿で生徒の出入りを管理している。

郵便受けを覗いてみると、小さな封筒が一つ入っていた。

淡いオレンジ色のこの封筒には見覚えがある。

 

 

 

それから1時間ほど後、私は女子寮のある部屋の扉を叩いていた。

すぐに扉が開き、所々が赤くきらめく鮮やかな黄緑の髪が現れる。

「こんばんは、スフェン先輩」

「やあ、こんばんは、リナーリア君。さ、どうぞ入って」

 

郵便受けの封筒はスフェン先輩からのものだった。

そこには良ければ夕食後部屋に来てほしいと書いてあり、ちょうど誰かに話を聞いて欲しいと思っていた私は、用意されていた夕食を片付けてすぐに先輩の部屋を訪れたのである。

「いつものオレンジティーでいいかな?」

「はい。ありがとうございます」

先輩はオレンジティーが好きだ。私も結構好きなので、先輩の部屋に来るといつも飲ませてもらっている。

先輩は寮に使用人を入れていないので自らお湯を沸かし淹れてくれるのだが、これがなかなか美味しい。

たいてい生のオレンジではなく保存が効くドライフルーツのオレンジを入れてあるのだが、紅茶でふやけたドライオレンジを最後にスプーンで掬って食べるのがまた良いのだ。

 

 

「昼間ちらりと見かけたけど、武芸大会の件で何やら大変そうだね。生徒の間でももうかなり噂になっているようだよ」

「やっぱりそうなんですか…」

目の前に置かれたティーカップを手に取り、大きく溜め息をつく。殿下とスピネルの言い争いはきっと目立っただろう。

「ははは、二人の騎士から奪い合われるなんて、まるで物語のお姫様みたいじゃないか」

「笑い事じゃありませんよ。…あと、それ誤解です」

「誤解?」

「はい」

私は憮然としながらうなずく。

 

「逆なんです。私、二人に押し付け合われてるんです…」



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第79話 二人の争い(後)

そう、いざエントリーするかという話になった時、殿下が突然「リナーリアはスピネルと組むといい」と言い出したのである。

私は最初少しショックを受けた。

もともとは魔術師と騎士で組んで戦うという話がきっかけだった訳だし、殿下は私と組むと言ってくれるのではないかと思っていた。私自身殿下と組んでみたかったのだ。

 

でも私はすぐに気を取り直した。

殿下が私と戦ってみたいのだとしたら、それはとても名誉なことではないか。

そう考えると急に嬉しくなってきた。絶対に殿下の期待に応え、良い試合をしなければならない。

だから私はやる気を漲らせてスピネルの方を見たのだが、スピネルはそれはもうめちゃくちゃ嫌な顔をしていた。

歴史の宿題を目の前に積み重ねられたかのような顔だ。

これにはさすがの私も傷付いた。そこまで嫌がる事ないだろ。

 

「いや、何でだよ。殿下が組めばいいだろ。何で俺が」

「そうすればお前は本気を出すだろう」

「はあ?」

「それに、今の俺ではまだ力不足だ。リナーリアと組むつもりはない」

「…俺はそうは思わないね。殿下がこいつと組むのが一番いい」

「お前だって側についていたいんじゃないのか。その方が安心だろう」

「嫌だよ。こいつのお守りなんてごめんだ」

「大怪我をしてまで庇ったくせにか」

「それとこれとは関係ないだろ!」

 

二人は言い合いを始めた。

最初はまだ冷静だったが、どんどんヒートアップしていく。

何とか止めたかったが、私には二人の言っている事の半分くらいしか理解できなかった。

何故そんなに争っているのかが分からないので、どう口を挟めばいいのかも分からない。

 

 

やがて、このままでは埒が明かないと思ったらしいスピネルが私を見た。

「おい、お前はどっちと組みたいんだよ?殿下だろ?」

「リナーリア、俺とスピネルと、今どちらが君の力を引き出せると思う?正直に言ってくれ」

殿下もまた私を見る。よほどむきになっているのか、珍しく眉がつり上がっている。

 

「……」

私は本気で困ってしまった。

最初は殿下と組みたいと思っていたが、殿下と戦うという選択肢も捨てがたい。

スピネルだってこの学院で一二を争うほどの騎士だと思うし、気心が知れていて信頼できる。組むにしても、相手にして戦うにしても不足はない。

だから正直、どちらと組んでも構わなかったのだが…私は今、どちらからも拒否されているのである。

拒否されている相手と組もうと思えるほど私は図太くない。選びようがない。

言葉に詰まっていると、ちょうど昼休みの終わりを告げる鐘が響いた。

「…少し考えさせてください…」

私は何とかそう答え、ようやくその場から解放された。

 

 

 

「…という訳で。私、二人から押し付け合われてるんです。ものすごいお荷物になった気分です…」

そりゃまあ、巨亀戦では足を骨折してスピネルに庇われたり色々情けない所は見せたけれど。もう少し認めてくれても良いのではないだろうかと、ちょっと悔しくなる。

「いや、それは譲り合ってるんじゃないかと思うけどね…でも、ちょっと不思議かな。二人共、君と組みたいとは思わないのかな」

「私も、少し気になったので今日の放課後お城に行ってみたんです。二人の剣の師匠に尋ねれば何か分かるかと思って」

今日は生徒会もなかったので、授業が終わった後すぐに城へ向かったのだ。

 

城には、二人に剣の指南をしているペントランドという老人がいる。老人と言っても見た目は非常に若々しく、その剣の腕においては国で並ぶ者なしと言われ、剣聖とも呼ばれている。

私も前世では殿下のついでにだが剣を教わった。

ペントランドはお世辞にも才能があるとは言えない私に厳しいが根気強い指導をしてくれ、おかげで前世の私も人並み程度には剣を使えるようになった。

 

「その人に聞いた所、どうもスピネルは教育係から『武芸大会では殿下に花を持たせろ』と言われてるみたいなんです」

「…わざと負けろってことかい?」

「はい…」

前世のスピネルは普通に殿下と戦って勝利していたが、それは上級生だったからだ。

今世では年齢はともかく学年は同級生になっているし、何より従者だ。臣下が主に勝つなどとんでもないと教育係は思っているのだろう。

そう言えばスピネルは武芸大会の話をした時あまり乗り気ではなさそうだった。それはこれが原因だったのだろう。

 

「スピネルはそれに従うつもりみたいですね。殿下とはやろうと思えばいつでも試合できますし、わざわざ大会という場で本気を出す必要はないと思ってるみたいです。…でも、殿下はそれが嫌みたいで」

殿下は物凄く負けず嫌いだが、勝負で手抜きをされるのはもっと嫌いだ。それが大会となったら尚更、正々堂々勝負がしたいのだろう。

この辺り、二人の考え方は正反対だ。

ちなみにペントランドは、別にどちらでも良いと思っているようだ。

「大会の成績などこだわる必要はありませぬ。だが、そういう場での切磋琢磨がきっかけで何かが花開く事もある。お二人の選択に任せます」と内心の読めない表情で言っていた。

底知れない老人だと、前世からずっと思っている。

 

 

「…殿下は多分、スピネルに思いきり戦って欲しいんです。でも彼は頑固ですし、無理矢理従わせる事もできません。それなら、騎士部門ではなくタッグ部門の方で彼に実力を発揮してもらおうと思ったのではないかと」

「ふうん…?ああ、なるほど。君と組めば、スピネル君は手の抜きようがなくなる訳か」

スフェン先輩が少し考えてから言う。

「多分…」

私は大会そのものにこだわりや興味がある訳ではないが、出場するとなったら手を抜くつもりはない。それは対戦相手に失礼だと思うし、確実に優勝を目指す。たとえ殿下が相手でもだ。

そして、私がそうやって真剣に戦えばスピネルも手を抜けなくなる。

抜こうとしても私が許さないし、スピネルの性格ならあれこれ文句を言いつつ結局真面目に戦う事になるだろう。

「あと殿下は、自分はまだ力不足だから私とは組みたくないとも言ってましたけど…」

巨亀戦の時の事をまだ気にしているのだろうか。殿下は真面目な方だからなあ…。

 

 

「ふむふむ、青春だねえ」

スフェン先輩が何やらうなずく。

「しかしスピネル君の方は、王子殿下と君を組ませたい訳だね」

「はい」

スピネル的にはそうすれば全てが丸く収まるし、面倒もないと思っているだろう。

自分はタッグ部門への参加自体しないつもりだろうな。もしかしたら騎士部門にもエントリーしないつもりかも知れない。

彼は面倒だと感じたことはすぐに回避したがる所がある。

 

 

「でも何かもう二人共、ただ意地になってるだけの気がするんですよね…。今まであんまり喧嘩をした事がないと思うので」

いつもなら適当な所でどちらかが折れてるんじゃないかと思う。

殿下は無駄な争いは好まないし、スピネルは普段友人として振る舞っていても、従者として年長者として弁えている。

「引っ込みがつかなくなった訳かい。やれやれ、意外に子供なんだね」

先輩は肩をすくめ、少しぬるくなったオレンジティーに口をつけた。

 

「…もういっそ大会へ出ること自体やめたいと思うんですけど、私は魔術の先生から絶対に出場しろって言われてるんですよね…」

先生に言わせると私は「支援魔術師の希望の星」らしい。その評価自体は嬉しいのだが…。

それに私は今回のタッグ部門の発案者の一人として署名したりもしたので、その当人が参加しないというのはあまり外聞がよろしくない。

 

「殿下は他に組んでくれる人を探して、先にエントリーしてしまおうと考えたようです。でも、今日ヘルビンを誘ってその場で断られたみたいですね」

「……。王子殿下と組めるなんて名誉だろうに…」

弟の名前を聞き、スフェン先輩はちょっと困ったように呟いた。ヘルビンは目立つのが嫌いだからなあ…。

 

「明日からもっと色々声をかけて回るつもりだと思いますけど、皆あまり引き受けたがらないでしょうね」

殿下やスピネルのような一部を除いて、武芸大会は基本的に上級生の独壇場なのだ。1年と3年では技術も体格もまるで違う。だから下級生のうちは出場したがらない者も多い。

殿下を尊敬してるニッケルも、足を引っ張るからと誘いを断ったみたいだしな。

あと、スピネルが睨みをきかせてるのも引き受けにくい理由だろう。

色んな意味で、奴を敵に回したいと思う者はいるまい。

殿下なら待っていればそのうち誰か上級生が誘ってくるんじゃないかとは思うが。

 

 

「一番手っ取り早く、かつ角が立たないのは私が別の人と組んでしまう事かと思うんですけど…」

しかし、私もそんな相手に心当たりはないのである。カーネリア様は、彼女こそスピネルと組みたいと思ってるだろうから誘いにくいし。

いっそアーゲンあたりを誘ってみようかと思う。あいつはまあまあ強いし、私に借りがあるので断るまい。そうでなければヴォルツあたりだろうか。

悩んでいると、スフェン先輩が両手を顎の下で組んで身を乗り出してきた。

「ふふ、リナーリア君、水臭いな。そういう事なら、適役が目の前にいるじゃないか」

先輩の目がきらりと輝く。

 

「…え?でも、スフェン先輩には、他に組みたがっている方がたくさんいるのでは」

凛々しい騎士とそれを手助けするお姫様というのは、物語では定番のシチュエーションの一つだ。そんな情景を思い描き、先輩と共に出場したいと思うファンの女子は多そうな気がする。

「そうだね、確かにそういう子も幾人かいるみたいだ。でもね、リナーリア君。僕は勝利を目指したいんだ」

いつもの芝居がかった表情ではなく、強い意志の宿る真剣な表情になって先輩は私を見つめた。

「…僕はこの大会で、はっきりとした成績を残したい。そのために君の力が必要だ」

 

 

予想外に切実な声音に少し驚いた私に、先輩は言葉を続ける。

「前から君の実力には一目置いていたんだよ。放課後たまに、王子殿下やスピネル君と模擬試合をしていただろう?僕が実際に見たのは数回だけど、他の生徒からも話を聞いているよ」

「…ええ」

模擬試合は、だいたい殿下やスピネルの友人の適当な生徒を呼んでやっていた。概ね私がいる側の勝率が高かったと思う。

ちょっとずつギャラリーが増えているなとは思っていたが、私が考えている以上に注目されていたのだろうか。

「それに君は討伐訓練で中級の魔獣を倒したり、先日は大型魔獣との戦闘にも加わったんだろう?王家から感謝状が送られたと聞いたよ」

もうそんな話が広がっているのか。貴族って本当噂好きだよな…。

 

「今日君を呼んだのも、本当はその話をしたかったからなんだ。既に君に組みたい相手がいるのなら仕方ないと思っていたけれど、そういう事情なら願ってもない。きっとあの二人も、僕ならば安心だろうしね」

「安心?」

「ああ。僕が君の窮地を救う騎士となろう」

先輩は椅子から立ち上がると、きりっとポーズを付けて私の方へと手を差し出した。

「…僕と組んでくれたまえ、リナーリア君!!」

 

…これは、私にとっても願ってもない選択だ。

普段から親しくしている先輩なら、私もきっとやりやすい。

それに先輩は剣の腕が立つ。戦いを見た事はないが、騎士課程の女子の中で成績は常にトップのはずだ。力を合わせれば、上位を狙うことだって十分可能だろう。

だが何より、私が必要だと言ってくれた先輩の言葉が嬉しかった。

そんな風に期待されたら、応えたくなってしまうではないか。

 

「…ありがとうございます、スフェン先輩」

私も立ち上がり、その手を取る。初めて胸の内を明かした時のように、がっちりと握手をした。

「私たちで、大会を勝ちましょう!!」



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第80話 宣戦布告※

翌日、午前の授業を終えた私はすぐに席を立った。

教室から出て廊下の端で待つと、昼食を取るためにぞろぞろと生徒たちが出てきた。その中に殿下とスピネルの姿もある。

二人にどことなく緊張感が感じられるのは、私が予め「昼食の時に話がしたい」と言っておいたからだろう。武芸大会の件なのはすぐに分かったはずだ。

 

しかし二人が私へと近付こうとした時、ある男子生徒が私の前に立った。

真面目そうな顔を固く強張らせた彼の名前はエンスタット。同じクラスの魔術師課程の男子だ。

一体何の用事だろう。

彼は魔術師課程かつ読書好きと私と共通点が多かったので、前世ではそれなりに親しくしていたのだが、今世ではほとんど会話していない…と言うより避けられている。

まだ入学したばかりの頃に話しかけてみたところ、ろくに話をしない内に逃げられてしまい、ちょっとショックだった。

 

そして彼は、前世では身長こそ高いものの私とそう変わらないようなヒョロヒョロ体型だったはずなのに、今世では入学後みるみる逞しくなり、今では驚きのビルドアップを果たしていた。

騎士課程の生徒でもそういない見事な筋肉だ。

しかも、いつもどこか自信なさげな様子だったのが堂々とするようにもなっていて、それが少々気になってはいたのだが。

 

 

「リナーリア殿!」

「はい!?」

エンスタットに大声で名前を呼ばれ、思わず背筋を正して返事をする。

「武芸大会で今年より新設されるタッグ部門に、貴女もエントリーされると聞いたが本当だろうか!」

「は、はい。本当です」

こくこくとうなずく。すごく声がでかい。周囲の生徒も足を止めて注目しているし、殿下とスピネルも何事かとこちらを見ている。

「実は某もタッグ部門にエントリーいたす所存なのです!貴女とは、正々堂々戦いたい!」

「あ、はい」

なるほど、宣戦布告か。

しかしこいつ、こんなキャラだったか…?見た目どころか口調も違ってないか?

するとエンスタットはくわっ!と目を見開き、私を正面から見据えた。

 

「…そして、もし貴女に某が勝利できたなら、結婚を前提にお付き合いをしていただきたい!!!!」

 

「………。はい?」

私はぽかんとして口を開けてしまった。

周囲もシーンと静まり返っている。

一体何の冗談かと思うが、エンスタットの顔は真剣にしか見えない。

 

「見ていただきたい。某のこの上腕二頭筋」

エンスタットはおもむろに腕をまくりあげると、むきっ、と力こぶを作ってみせた。

「えっと…、とても素晴らしいです」

気圧されつつもとりあえず褒める。力強く盛り上がった良い筋肉だ。

「某はリナーリア殿の話を聞き、筋トレを始めました。そして、筋肉の素晴らしさに目覚めたのです」

それは私が食堂でブーランジェ公爵を褒めちぎった時の話だろうか…?

確かにあれ以来、一部で筋トレブームが起こっているとは聞いていたが。

 

「筋肉に目覚めたおかげで、某の人生は変わりました…ガリガリと馬鹿にされていた身体には肉がつくようになり、そのせいか背筋が伸びました」

「はあ」

それは実にめでたいことだと思う。と言うか羨ましい。

前世の私も筋トレをやってみた事があるが、いくら頑張っても大して効果が出なかったのである。一緒にやっていた殿下だけどんどん逞しくなっていったのには泣いた。

剣の師匠のペントランドには食べる量が足りないから筋肉がつかないのだと言われたが、少食なのはどうにもならなかった。食べたくても入っていかないし、無理に食べればお腹を壊す。

胃腸は鍛えたくても鍛えようがなかった。諦めるしかなかった。

殿下は「無理はするな。人には向き不向きがあるんだ」と慰めてくれた。やはり殿下はお優しかった…。

 

 

「…筋肉のおかげで某は己に自信が持てるようになり、物事に前向きになりました」

そう話す声で私は我に返った。いかん、つい前世の思い出に浸ってしまっていたが、現実逃避している場合じゃない。

「これも全て、貴女が筋肉の良さに気付かせてくれたからであります!」

エンスタットは陶酔した顔で熱弁を振るっている。なんか知らんが筋肉愛がすごい。

そして、胸に手を当ててこう言った。

 

「貴女は我が女神…いや、筋肉女神である!!!」

 

「……」

私の意識は再び遠い空へ羽ばたこうとしていた。

…今なんと?

何言ってるんだとか意味が分からんとか以前に、筋肉女神て。

なにそれ?

 

「某ごときでは、女神に釣り合わない事は承知しております…しかし、一度でいいから某にもチャンスをいただきたいのです!!」

「……」

 

 

「…マジかよ」

「筋肉女神…?」

「よりによって彼女に…」

「すげえ…勇者かよ…」

ぼそぼそと囁く声が聞こえる。

勇者ってなんだ。私は魔王か何かか。

内心でツッコミを入れつつ、私は何とか抜け出しそうになった魂を引き戻した。

内容はともかく彼本人は真面目に話をしているらしいので、何か返事をしなければと思うが、あまりの衝撃に頭が回らない。

筋肉女神て。

 

一体何と答えれば…と必死に考え、私はふと気が付いた。別に深く考える必要はないのではなかろうか。

「分かりました。いいですよ」

そう言ってうなずいた私に、エンスタットの後ろのスピネルが「はあ!??」と声を上げた。周囲の生徒たちもぎょっとしている。

「了承して頂けるのか」

「はい」

ただの交際ならともかく結婚を前提とまで言われたのは初めてだったので、私もつい動揺してしまったが、彼の言った条件は「自分が勝ったら」だ。

つまり、負けなければいいのである。

 

 

そこに突然、静まり返った空気をぶち破る高らかな拍手の音が聞こえてきた。

「素晴らしい!君の勇気と心意気は実に見事だ。称賛に値する!!」

ぱちぱちと手を叩きながら歩み寄ってきたのはスフェン先輩だ。

先輩とは今朝早く一緒に職員室に行き大会のエントリー票を提出してきたのだが、自分からも殿下やスピネルに挨拶がしたいとの事だったので、これから共に昼食を取る予定だった。どうやら迎えに来たらしい。

 

「君の勇気に敬意を表し、僕もまた正々堂々と君を迎え討つと誓おうじゃないか!」

「な、なんですと?」

いきなり出てきたスフェン先輩に、エンスタットは理解が追いつかないらしい。目を白黒させている。

「おっと、自己紹介が遅れたね!僕はスフェン・ゲータイト、2年だ。そして、僕こそが彼女を守る騎士…今回の大会での、彼女のパートナーだよ!!」

びしっ!と何やら格好良いポーズを取るスフェン先輩に、周囲がざわめいた。

 

「何と…」とエンスタットが驚き、殿下とスピネルが急いで私に近寄ってくる。

「本当か、リナーリア」

「あいつと組むのか!?」

「ええ、今朝先輩とエントリーを済ませて来ました。本当はこれからそれを二人にお話しようと思ってたんですが…」

もう一度エンスタットの方を見ると、彼は表情を引き締めてうなずいた。

「…承知しました。相手が誰であろうと某のやる事は変わりません。良い勝負をいたしましょう」

「はい。大会で戦える事を楽しみにしています」

何とか気を取り直し微笑みを返した私に、エンスタットは一礼をして去って行った。

彼の後ろ姿を見送ってから、スフェン先輩は私の横に立って肩を抱く。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「そういう事なんだ、王子殿下、スピネル君。悪いけど、今回彼女が選んだ騎士はこの僕なのさ」

先輩がパチリとウィンクを飛ばし、スピネルは驚いた顔でしばらく固まっていたが、慌てて隣の殿下の肩を揺さぶった。

「おい殿下、呆けてる場合じゃねえ!こうなったら俺らで組んで出るぞ!!」

「えっ?ああ。…そ、そうだな。そうしよう」

呆然としていた殿下が我に返ってうなずく。

 

「え!?二人で組むんですか!?」

私はつい非難するような声を上げてしまった。

「だったら最初からそうすれば良かったじゃないですか!」

それなら何も問題なかったし喧嘩もしなくて済んだのにと言う私に、スピネルが「うるせえ!このバカ!」と怒鳴る。

「誰のせいで負けられなくなったと思ってんだ!」

「何でですか!貴方には関係ないでしょう!」

「す、スピネルの言う通りだ。負ける訳にはいかない」

言い合う私とスピネル、それからやけに動揺した様子の殿下を見ながら、スフェン先輩は「楽しい大会になりそうだねえ」と言って笑った。



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第81話 大会に向けて

エントリーをしたその日の放課後、私は早速練習をするべくスフェン先輩と校門で待ち合わせをしていた。

急いで校門に向かうと、そこには既にスフェン先輩がいた。さらにシリンダ様とエレクトラム様もいて、背後には馬車が停まっている。

エレクトラム様はシリンダ様と並んで、スフェン先輩ファンクラブのツートップと言える方だ。

金鉱山を持つ非常に裕福な侯爵家の娘で、ボリュームたっぷりのゴージャスな金髪が目立つご令嬢である。

私に対しては少々当たりが強い方なのだが、先輩以外には誰が相手でもそんな調子っぽいので単にそういう性格なのかも知れない。

 

「皆様すみません、お待たせしました。生徒会室に寄っていたもので…」

「大丈夫、そんなに待っていないよ。君は生徒会役員でもあるんだから仕方ない」

先輩はいつもの爽やかな笑顔だ。シリンダ様は優しく微笑み、エレクトラム様は「ふんっ」という感じでつんと顎を上げた。

「それで、一体どこで練習を?」

「それについては、道すがら説明しよう。まずは乗ってくれたまえ」

 

 

行き先はエレクトラム様の家で所有している訓練場だった。大会までの間ずっと使わせてくれるらしい。

そんなに長期間借りて良いのかと尋ねたら、結構広い場所なので一部だけなら問題ないそうだ。

いくら裕福でも一貴族がそんなに広い訓練場を持っているものかとも疑問に思ったが、普段は他の貴族家に貸し出していて、それで収入を得たりもしているという。裕福なのは鉱山のおかげだけではないらしい。

「貴女はスフェン様がパートナーに選んだ人なのよ。その事に誇りを持ってしっかり訓練して頂戴!無様な姿を見せたりしたら許さなくってよ!」

エレクトラム様は絵に描いたような高飛車ぶりで言い放った。

もしかして彼女は自分がスフェン先輩と組みたかったのかな…と思ったが、迂闊なことを言って怒らせたらまずいので、私はただ「はい!」と言うだけに留めておいた。

 

訓練の際には他の先輩ファンの方々が、自分の家の護衛騎士や魔術師を練習相手として呼んでくれる予定だという。

それならばかなり実戦的な練習ができる。とてもありがたい。

「その辺りのスケジュール調整は私がやるわ。後で良いから、用事があったり予定が決まっている日を教えてね。大まかなスケジュール表を作って渡すわ。急な用事ができた時も、私に連絡してくれれば大丈夫よ」

そう言ってくれたのはシリンダ様だ。彼女は普段から先輩とファンの子達との交流会などの日程を管理していて、そういうのは得意らしい。

「ありがとうございます…!」

予定時間に合わせて送迎の馬車も用意してくれるそうで、なんとも至れり尽くせりである。

これなら大会まで、余計なことは考えず訓練だけに集中する事ができるだろう。

先輩の顔の広さすごい…。人脈を持つことの大事さを改めて思い知らされた。

 

「ただ、きっとファンの子達が練習の見学に来たがるだろうから、それは許してね」

シリンダ様が少し申し訳無さそうに言う。

「大丈夫です。むしろ、本番で緊張しないための良い訓練になると思います」

人目は苦手だが、大会ではもっとたくさんの観客の前で戦うことになるのだ。慣れておいた方がいいだろう。

「その意気だよ、リナーリア君」

「スフェン様に恥をかかせないよう、しっかりと励むことね!」

「は、はい!」

エレクトラム様は厳しい口調でちょっと怖いが、一応激励してくれているようだ。

わざわざ練習場所を提供してくれている彼女のためにも頑張らなければ。

 

 

ほどなくして、訓練場に着いた。

休憩や着替えをしたり用具を置いたりするための建物が併設された、立派な訓練場だ。簡単な闘技場もある。

管理人には治癒魔術を使える者を雇っているし、近くには診療所もあるので怪我をした時も安心だという。さすが貴族相手に貸し出しているだけあってしっかりとしている。

 

更衣室で運動着に着替え、屋外の訓練場に出る。

尋ねると、スフェン先輩も支援魔術師と二人で組む経験はほとんどないらしい。

「私は後方から騎士の動きに合わせて魔術を使っていくのが基本です。敵の魔術への防御はお任せください。その他、牽制や撹乱などが中心になりますが、攻撃魔術も使います」

「うん」

「でも、まずはスフェン先輩の剣さばきや動きの癖などを知りたいです。先輩の試合を見せていただいても良いですか?」

「もちろん良いとも。君はまだ足が完治していないしね、そこで見ていてくれたまえ」

という訳で、まずは先輩がエレクトラム様の家の護衛騎士と練習試合をする事になった。

 

 

何試合か見て、先輩がどういう騎士なのかはだいたい分かった。

先輩は幻惑の魔術を得意とする、やや魔術寄りの騎士だ。

幻術に合わせて自分自身も大きく動き回る事で相手を撹乱し、隙ができた所で一気に畳み掛ける。

 

「どうだったかな、僕の戦いは」

ベンチで私の隣に座った先輩が、汗を拭きながら私に尋ねる。

「とても素晴らしかったです。技術の高さはもちろん、不利な状況でも臆する事がないのはさすがです。…先輩の剣は、ツァボラ流ですか?」

「…すごいね。知っているのかい」

「ええ。それほど詳しい訳ではありませんが、以前目にする機会があったので」

ツァボラ流は、剣術の中ではかなりマイナーな流派だ。敵を惑わすトリッキーで素早い動きと幻術を合わせた技が特徴で、身が軽く魔術も得意な者でなければ使いこなすのは難しい。

汎用性が低く使用者は非常に少ないが、私は前世で殿下の従者として色々な騎士たちの訓練を見学する機会が多かった。その中には、このツァボラ流を修めている者も幾人かいたのだ。

 

「…昔、実家のゲータイト領にこの流派の使い手がいてね。ほんの2年ほどだけど指導してもらったんだ。その後は独学だから、我流もちょっと入ってるんだけど」

「なるほど」

少々癖が強い感じがするのはそのせいかな。

しかし、独学でここまでやれるのは本当にすごいと思う。大人の騎士相手にも堂々と立ち回っていた。並大抵の努力ではないだろう。

 

「知っているのなら、僕の弱点ももう分かってしまったかな?」

「…そうですね。最も顕著な弱点は、先手を取れず守勢に回った時の脆さ。先程も言った通り、技術の高さや精神力で補っていますが、相手が格上であった場合は相当苦戦を強いられるでしょう」

「なんですって!?」

横で聞いていたエレクトラム様が憤慨したような声を上げる。

「ですが」と私は言葉を続けた。

「逆に、先輩が得意なパターンに持ち込んだ時の攻撃力は目を瞠るものがあります。その時には、格上であろうと一気に倒せる可能性がある」

そう、ツァボラ流は見破られた時には脆いが、逆に上手くハマった時は素早い連撃で高い威力を発揮する。

勝つ時は派手に勝ち、負ける時は大きく負けるという、何とも先輩らしいスタイルの流派なのだ。

 

「…そして、私がいれば先輩の弱点をカバーすることができます。そのための支援魔術師ですから」

弱点が明確であるなら、その分カバーはしやすいとも言える。色々工夫は必要になるだろうが、そういうのは嫌いじゃない。

「…やはり君をパートナーに選んで良かった」

先輩は深くうなずいた。エレクトラム様はまだ少し不満そうだが、口を挟むつもりはないようだ。シリンダ様はずっと微笑んで見守っている。

「僕の方でも、君の力を十全に引き出せるように努力するよ。僕とリナーリア君…そして、サポートをしてくれる君たち…皆で力を合わせ、高みを目指して行こうじゃないか!」

やる気満々のスフェン先輩に見回され、エレクトラム様とシリンダ様も嬉しそうな顔をした。

私もまた、やる気を込めて拳を握りしめる。

「…はい!頑張りましょう!」



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番外編2・エイプリルフール

城のガーデンテーブルを挟んで向かい合った私、殿下、スピネルの間には微妙な緊張感が走っていた。

表面上は和やかにお茶を飲みつつ、ずっとお互いの言動に注意している。

なぜなら今日は、エイプリルフールだからだ。

「1年で唯一、嘘をついていい日」という事になっているこの日は、私たちの間でなぜか「いかにそれっぽい嘘をついて、見破られずにいられるか」という勝負をする日になっている。

この手の勝負になるとスピネルがやたら強いのだが、今年こそ私が勝ちたい。勝ってギャフンと言わせたい。

 

 

やがて殿下が口を開いた。

「実は昨日、言葉を喋るカエルに出会った」

テーブルの上にしんと沈黙が落ちる。

「…殿下。いくら何でもそれは、誰も信じない」

スピネルに言われ、殿下は「むむ」と眉を寄せた。

「しかし、王様とカエルの話には喋るカエルというものが出てくるが」

「それは童話だろ…」

「えっと、可愛くて良い嘘だと思いますよ?夢があると言いますか」

冷静に突っ込まれ肩を落とす殿下に、私はフォローを入れる。

殿下は見破る方は得意だが、嘘を付くのが上手くないのだ。毎年負けている。

 

「もっと嘘か本当か分からないギリギリのとこを攻めるんだよ。例えばだな…」

スピネルが顎に手を当て、少し考える。

「殿下の好みのタイプは銀髪だ」

ごほっ!と殿下がいきなりむせた。

「えっ…?」

私は思わず考え込む。これは確かに、嘘か本当か分からない微妙な線だ。

前世でそんな話は全く聞かなかったので嘘ではないかと思うが、今世では好みが変わった可能性も…いや待てよ。前世でも「お前に姉か妹がいればな」と残念そうに言われた事があったぞ。

ただの冗談だと思って聞き流していたが、あれはまさかそういう意味だった…?

 

一体どっちだろうと思って殿下を見ると、飲みかけの紅茶がおかしな所に入ったのか、ひたすらげほごほと咳き込んでいた。

「殿下、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫だ…」

「これじゃ嘘か本当か答えてくれそうにねーな」

「正解を知らないのに言ったんですか!?」

「さあ、どうだろうな?」

スピネルはニヤニヤしている。

自分は正解を知っていると言わんばかりだが、私にはそれが本当なのかどうか判別がつかない。こいつめ…!

 

 

そういう事なら私も受けて立たなければならない。

「殿下の秘密なら私だって知っています!」

「ほう?どんな秘密だ?」

スピネルが面白そうな顔になって私を見る。

「殿下は小さい頃ブロッコリーのことをブッコロリーと呼んでいました」

「それは本当だな。俺も知ってる」

「待ってくれ、そんなのどこで聞いたんだ」

ちょっと慌てる殿下に、私は無意味に胸を張った。

「それは秘密です!」

「お前の情報ソースはいつも謎だな…。まあいい、じゃあもう一つ」

スピネルが身を乗り出す。

 

「殿下は、ブドウはカエルの卵の一種だと言われて信じていた事がある」

「そ、それは…!?」

私も知らない話だ。だがかなり本当っぽい気がする。

「本当…ですね?」

「正解だな」

「その嘘を教えたのはお前だろう!!」

肩をすくめるスピネルの横で殿下が憤慨した。

「そのせいでしばらくブドウが食べられなかったんだぞ」

「純真な殿下になんて事を…」

「悪かったって。まさか信じてると思わなかったんだよ」

 

 

「…全く、人のことばかりあれこれと…」

昔のことを暴露されて面白くないらしい殿下がスピネルの方を見る。

「スピネル。さっきは俺の好みがどうとか言っていたが、お前はどうなんだ」

「は?」

「お前の好みのタイプだ。言ってみろ」

…なるほど。スピネルに好みを言わせて、それが嘘か本当か判別しようという事らしい。

普段から一緒にいて、しかも勘がいい殿下なら高確率で見抜けそうだ。私も正直興味がある。

 

「色っぽい女性があまり好きではないのは知っているが」

殿下がそう言うと、スピネルはムスッとした表情になった。

「えっ!?」

私は思わずびっくりしてまじまじとスピネルの顔を見てしまう。絶対色気たっぷりの巨乳が好きだと思ってたのに。

じゃあ清楚巨乳とかそういうタイプが良いのか?顔がいいからってなんてハードルの高い好みを…。

「…巨乳は好きですよね?」

「いや別に。つーか巨乳とか口に出すなお前は」

スピネルが嫌そうな顔で答える。

なんだと…?

でも殿下が何も言わないという事は本当なのか。巨乳好きじゃなかったのか…?

 

 

「…そうだな。俺はむしろまな板の方が好きだな」

スピネルは何やら思いついた顔で私の方を見下ろしながら言った。

「ついでに銀髪で青い目で女らしくなくて魔術バカで」

…うん?

「どん臭くて絵がヘタクソでバカで卵料理ばっかり食ってて」

「は?」

「泳げなくて無鉄砲でバカで、勉強はできるけど運動はさっぱりな奴が好みだな」

 

 

「…こんなに屈辱的な告白初めてされましたよ…!!」

スピネルは物凄く楽しそうにニヤニヤしている。

どこからどう聞いても100%嘘ではないか。エイプリルフールだからって…。しかも3回バカって言ったぞ。腹立つ…!!

殿下も「こんなに素直じゃない奴は初めて見た…」と言って呆れ顔をしている。

 

「そ、そういう事なら私の好みのタイプはですね!」

絶対に言い返してやると口を開きかけて、私はふと思った。口でスピネルに勝てる気はしない。それにスピネルは、これで意外とおだてに弱い。

…という事は、こき下ろすより褒め殺した方がダメージを与えられるのでは?

 

私はにっこりと笑うとこう言った。

「私は赤毛で鋼色の目の人が良いですね。少し年上で、すらりと背の高いかっこいい美青年で」

「…あ?」

「とても剣が強くて、かっこよくて、忠誠心も強くて、普段は口が悪いけど根は優しくて、ダンスも上手くて」

「は?」

「よく気が利いて、心配性で、いつもこちらを気遣ってくれて、職務に真面目で、紅茶好きで、優しい人が好みですね!」

「んなっ…」

スピネルの顔にさっと朱が差す。

「さらに、私に危険が迫った時に庇ってくれたりする人がいいですね!本当にかっこいいです!大怪我をしても痩せ我慢したり、友情にも篤かったりするとなお良いですね!あと顔がいい!足が長い!意外とたくましい!かっこいい!」

「ぐあああっ…」

スピネルが呻きながら両手で顔を覆った。おーおー、ダメージ受けてる。

 

 

「てんめえ…」

睨みつけられても、顔が赤いので迫力は全くない。

恥ずかしがっているスピネルなどそうそう見られるものではない。かなり面白い。

さらに畳み掛けてやろうかと思った時、殿下がぼそりと呟いた。

「リナーリアはスピネルの事をそんな風に思っていたのか」

「えっ!?ち、違…わなくはないですけど…」

しまった。これは諸刃の剣だった。

改めて考えるとかなり恥ずかしい事を言った気がする。いや、物凄く恥ずかしい。

「お前自身もダメージ受けてんじゃねーか…」

「う、うるさいですね!」

くそう、止めを刺しきる前に我に返ってしまった。せっかく勝てそうだったのに。

 

 

「…お前たちはやっぱり仲がいいな」

あれっ。殿下が珍しく拗ねている。

私とスピネルでばかり勝負をしていたからかな。

「…スピネル。不毛な争いはもうやめましょう」

「そうだな」

私とスピネルは顔を見合わせてうなずきあった。

 

 

「殿下!かっこいいです!強い!賢い!お優しい!!」

「何?」

突然褒め始めた私に、殿下がびっくりして目を丸くした。

「寛大!公明正大!人を見る目がある!理想の主!」

「ま、待て」

同じくスピネルが褒め始めた。殿下が動揺して後ずさる。

「聡明!冷静!誠実!容姿端麗!運動神経抜群!」

「待ってくれ…!」

 

 

私とスピネルによる殿下褒めちぎり大会は、耳まで真っ赤になった殿下が「もう勘弁してくれ…俺の負けだ…」と言うまで続けられた。

もちろん勝者は私である。殿下を褒める語彙ならいくらでもある。

もはやエイプリルフールは関係なくなっていたが、楽しかったからまあいいか。




4/1に投稿したやつです。


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第82話 謎の参加者(前)

武芸大会へのエントリーが締め切られてから数日たった、ある日の休み時間。

やけに周囲が騒がしい事に私は首をひねっていた。一体何の騒ぎだろう。

色々な生徒の名前があちこちから聞こえてくるが、詳細がわからない。

とりあえず次の授業の準備をしながらあたりの様子をうかがっていると、クラスメイトのペタラ様が近付いてきた。

「リナーリア様。武芸大会にエントリーした者の名前が発表されたようですよ」

「えっ、そうなんですか?」

参加者一覧の表は、学院のエントランスに貼り出される。どうりで皆騒いでいるはずだ。

「もうすぐ授業が始まりますわ。次は昼休みですから、その時一緒に見に行きましょう」

「はい!ありがとうございます!」

ペタラ様自身は武芸大会に参加しないが、私のことを応援してくれている。ありがたい申し出に、私は笑ってうなずいた。

 

 

昼休みになってすぐ、私はエントランスに貼られた参加者表を見に行った。しかし、人だかりが多くて全く表が見えない。

まだ参加者が発表されただけだと言うのに、今年は新部門もあるから皆興味津々のようだ。

一生懸命背伸びをしていると、横から声をかけられた。

「やあ、リナーリア」

「アーゲン様」

黒髪に、理知的な微笑み。アーゲンもまた参加者表を見に来ていたらしい。

「表が見たいんだろう?こっちにおいで」

「あ、はい…」

ペタラ様の方を見ると「どうぞ」という感じに微笑まれたので、アーゲンに手を引かれて前へと進んだ。

押しのけられた生徒がややムッとした表情で振り返ったが、アーゲンの顔を見て素直に道を譲った。さすが公爵家の嫡男だ。

 

 

人混みをかき分け一番前に出て、ようやく表を見ることができた。

最初に目に入ったのは騎士部門のものだ。殿下の名前はあるが、スピネルの名前はない。

やはり一年生で参加する者は少ないようで、ほぼ2、3年の名前が並んでいる。

魔術部門はまあいい。親しい者で参加しそうな者はいないし興味もない。

問題のタッグ部門を見ていく。

新設部門の割に参加者は多いようだ。他部門と重複でエントリーできるからだろうか。

私とスフェン先輩の名前は上の方にあったのですぐ見つけられる。

エンスタットは隣のクラスの魔術師の生徒と組むようだ。

上手く私と試合で当たるといいな。戦う約束をしておいて、実際には当たらずに終わったらちょっと困る。彼には悪いがきちんと叩きのめしてあげたい。

 

…あれ、ティロライトお兄様とヴォルツの名前があるぞ?お兄様はこういうの苦手なのにどうしたんだろう。

あ、アーゲンとストレングの名前もある。

思わずアーゲンの顔を見上げると、アーゲンは少しだけ苦笑した。

「君に勝てば君と交際できると聞いたからね。厳しい戦いになりそうだけど、参加しない訳にはいかないだろう」

確かにアーゲンとストレングは1年にしては十分に強いが、上級生や殿下とスピネル相手に勝てるかと言ったら難しいだろう。

しかしこいつ、本当に私と交際したいのか…。今更なんだが、正直困る。

 

そのままトーナメント表に目を走らせて、私はぎくりと動きを止めた。

…フロライア・モリブデンの名前がある。まさか彼女が参加するとは。…いや、それでは、まさか。

パートナーの名前はビスマス・ゲーレン。知らない名前だ。貴族、特に同年代の名前は完全に頭に入っているはずなのに知らない。

「リナーリア?どうかしたのかい?」

「…あの、アーゲン様はビスマス・ゲーレンという生徒をご存知ですか?」

「うん?…知らないな」

アーゲンは首を傾げて参加者表を眺め、そこで私と同じようにビスマスの名前を見つけたらしい。

「ああ、フロライア嬢のパートナーか。誰だろうね。上級生にしても聞いた事がない。少し気になるね」

アーゲンも知らないらしい。一体何者なのか。

指先が冷たい。

手のひらにじわりと汗をかいているのを自覚しながら、ペタラ様と共にエントランスを後にした。

 

 

 

その日の放課後、私は生徒会室に来ていた。

もちろん役員としての活動のためだが、目的は別にある。仕事が一段落したところで、私は生徒名簿を手に取りぱらぱらとめくった。

ややあって、目当ての名前を見つける。

ビスマス・ゲーレンは2年生だった。騎士課程の男子生徒。だがやはり、こんな家名の貴族はいなかったはずだ。

近くにいたジェイド会長に尋ねてみる。

「あの、会長はこの生徒についてご存知ですか?」

会長は眼鏡の位置をくいっと直すと、私が指差した名前をじっと見る。

「…確か平民の出身だな。モリブデン家で支援をして入学した生徒のはずだ。成績は悪くないが、特に目立った所はなかったと思う」

 

やはり、ビスマスはフロライア様の関係者のようだ。

貴族が特に目をかけている若者を学院に入れる事はたまにある。将来的に、自領の騎士や魔術師として働かせたいという考えからだ。

我が家で支援をしているヴォルツなどもそれに近い。

「彼がどうかしたのか」

「いえ、武芸大会のトーナメント表で名前を見かけたのですが、知らない家名だったもので。一体どういう方なのかと気になってしまって」

「ああ、なるほど」

ジェイド会長はうなずいた。

「君はタッグ部門の発案者の一人として出場するんだったな。てっきり王子殿下と一緒に出るものと思っていたが…。何にせよ、お互い頑張ろう」

そう言えば、ジェイド会長もタッグ部門に出るのだ。私と当たる可能性だってある。相当手強い相手なのは間違いない。

「はい。どうぞよろしくお願いします」

 

 

笑顔でジェイド会長に答えつつ、私はフロライア様とビスマスという生徒のことで頭がいっぱいだった。

…油断していた。

もし、彼女たちが殿下とスピネルの組と当たったら。

武芸大会は、外部からの干渉を完全に防ぐ結界に、一切傷がつかず血が流れないという制約の魔術結界を重ねて張られた闘技場で行われる。

だがこの制約の結界は、あくまで流血や火傷などの表層上の怪我を防ぐものだ。衝撃も大半が軽減されはするが完全には防げない。

打撲や骨折はたまにあるし、内臓へのダメージも多少通ってしまう。全く危険がないとは言えない。

それに、1対1で戦う騎士や魔術師の部門とは違い、タッグ部門は2対2だ。結界への負担は比較にならないほど大きくなる。手練の魔術師が数人いれば、結界を破る事もできるのではないか。

タッグ部門は今年新設されたばかりで、教師など運営側も全員が初めての開催となりノウハウはない。

想定外の出来事が起こった場合、どれだけ対処できるだろう。

 

もしも試合中に結界が破られれば、殿下はその時、武器を持った相手と間近で対峙する事になる。

スピネルも一緒とは言え、2対2でしかも相手の手の内が分からないのだ。

武芸大会への規定外の武器や魔導具の持ち込みは禁止だが、くぐり抜ける方法がないとは言い切れない。本気で殿下の暗殺を企んでいるなら、なにか暗器を持ち込んだりするかもしれない。

いくら二人が強くとも、そんな状況になった場合果たして無事でいられるだろうか。

衆人環視の中で暗殺など行えば犯人は確実に破滅するだろうが、それを覚悟でやるとすれば。

 

…可能性を挙げていけばきりがない。

それでも、必ず殿下を守らなければ。

そのための手段を、私は必死に考えていた。



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第83話 謎の参加者(後)

「ビスマス・ゲーレン?」

その名を尋ねられたスフェン先輩は少しきょとんとした。

今は武芸大会に向けた練習の休憩中。飲み物を片手にベンチに座っているところだ。

先輩とビスマスは同じ2年生だから、何か知らないかと思ったのだが…。

「うーん、別のクラスだから詳しくは知らないな。誰か知ってるかい?」

先輩が後ろにいるファンの人たちに呼びかけた。幾人かがそれに答える。

「平民の方ですよね。モリブデン家の支援で学院に入ったと聞いています」

「いつも目立たない隅の方にいますわ。とても無口で、他の人と話している所を全く見た事がありません。成績も普通だったかと」

貴族ばかりの学院で平民が友達を作るのは難しいだろうが、平民の生徒は他にも数人いるはず。

しかしビスマスはその生徒たちとも距離を置いているようだ。

 

「…クラス合同の剣術訓練の時には一緒になるけど、僕も彼が誰かと話している所は見ていない気がするな。訓練試合でも、特別目立ってる事はなかったと思う」

先輩は顎に手を当ててじっと考え込んだ。

「確か一度訓練で当たったことがあったけど、可もなく不可もないという感じの腕前だったように思う。でも、どこか本気を出していないように見えたね。周りに遠慮しているのかとも思ったけど…」

それから先輩は私の方を見る。

「リナーリア君は彼が気になるんだね?」

「あ、はい。会った事はありませんし、ただの勘なんですけど…。それに特別優秀でもない人を、モリブデン家が支援するというのもおかしな話かと」

モリブデン家は王国の中で最も古い家の一つで、財力も権力も大きな名家だ。

その家が目をかけている人間が、そんなに平凡であるはずがない。

 

「なるほどね。君の勘が正しければ、彼はきっと実力を隠しているんだろう。でも主家のお嬢様と組んで出てくるのなら、大会では本気を出してくる可能性は高い。十分に注意した方が良さそうだ」

「はい」

私は真剣にうなずく。

できれば、私が彼女たちと対戦したい。殿下とは対戦してほしくない。

 

 

「せっかくだから、他に君が気になる組を聞いておこうかな。誰かいるかい?」

「そうですね…。まず、ジェイド会長とスクテルド様の組でしょうか。二人共実力は折り紙付きです。3年の魔術師課程トップのカラベラス様とアルチーニ様の組も相当手強いかと。…あとは、やっぱり…エスメラルド殿下とスピネルの組でしょうか」

「ふふ、君としては当然だろうね」

からかうように言われ、私は少し唇を尖らせた。

「ただの贔屓ではないですよ。あの二人は本当に強いですし、何よりお互いをよく知っています。連携はかなり上手いでしょう。間違いなく優勝候補です」

これは正直な評価だ。

組み合わせにもよるだろうが、二人はきっと勝ち上がる。どこかで当たることになると考えた方がいいだろう。

 

「…まあ、それでも私が勝つつもりですけどね」

二人に弱点があるとしたら、騎士同士で組んでいるという事だ。魔術への対応力はどうしても低くなるだろう。いくら剣の腕が立っても、付け込む隙はあるはずだ。

「うん、うん。君のそういう所、僕はとても好きだよ」

先輩は嬉しそうにニコニコとした。いつも凛々しく爽やかだけど、こういう顔をすると少し子供っぽくて可愛いと思う。

後ろが少しざわついたが、努めて気にしないようにした。迂闊に反応してはいけない。

 

先輩は立ち上がると、後ろのファンの子たちを振り返った。

「勝利のためには、敵を知ることも大切だ。何か出場者についての情報があったら、ぜひ報告して欲しい」

「はい」

ファンの子たちが声を揃えて返事をする。

「ただし、無理に探って回るような事をしてはいけないよ。僕はあくまで正々堂々と戦って勝ちたいんだ。その事を忘れないでくれたまえ」

「はい!」

ちゃんと釘も刺しておくあたり、先輩はしっかりしているなあ。

私も立ち上がると、「よろしくお願いします」と言って頭を下げた。

 

「それじゃあ、リナーリア君。練習を再開しようか」

「ええ」

先輩との訓練は順調だ。お互いにだいぶ息が合って来ている。

必ず良い成績を残せるだろう。

 

 

 

さらに数日後、私は魔術の先生の所を訪ねていた。

武芸大会で使われる闘技場の魔術結界の確認のためだ。

一応生徒会役員としての仕事だが、どうしてもこの目で確認したかったので、私が担当したいと立候補して回してもらった。

「これが当日使用する予定の魔法陣図だよ」

先生が4枚の魔法陣図を渡してくれる。

「普段は2枚なんだけど、今回のタッグ部門では強度を増すために倍にしてある」

「なるほど」

私はそれぞれの図をじっくりと眺めた。よく覚えておきたい。

 

「君は本当に勉強熱心だね。でも、一応部外秘だからよそに漏らしてはいけないよ」

「はい。もちろんです」

そう言って魔法陣図を先生に返却する。生徒会役員というより、魔術師としての目で見ていた事がばれてしまっているようだ。

「当日は誰がこの結界を維持するんですか?」

「私の他にも、数名の魔術師が担当して維持に当たる。城の魔術兵を派遣してもらえる事になったからね」

さすがにこの規模を一人で維持するのは無理だからな。一度に2人か3人、それも交替しながらやるのが妥当だろう。

先生に「ありがとうございました」と頭を下げてその場を辞する。

 

 

この後、スフェン先輩との練習までに少し時間がある。どうしようかと考えながら廊下を歩き、窓の外を見る。

武芸大会に向け、訓練場は今日も賑わっているようだ。闘技場の上で上級生が試合をしているのが見える。ギャラリーも集まっているようだ。

その中に見覚えのある人影を見つけ、私は慌てて外へ向かった。

 

「こんにちは、フロライア様」

声をかけると、緩やかなウェーブのかかった蜂蜜色の髪が揺れてこちらを振り向く。

赤い唇が美しい弧を描いた。

「こんにちは、リナーリア様」

 

「模擬試合の見学ですか?フロライア様も、武芸大会のタッグ部門に出場なさるんですよね」

「ええ。それで、闘技場の下見に参りました」

そう言って微笑むフロライア様の隣には、見覚えのない生徒がいる。

くすんだ灰色の髪に紫紺の瞳。中肉中背のこれと言って特徴のない男子生徒だ。

私の視線に気付き、フロライア様が紹介してくれる。

「彼はビスマスと言います。剣の腕を見込んで我が家で支援をしている騎士なのですわ。今回、私と一緒に大会に出場する事になりました」

 

「ビスマス・ゲーレンです」

ビスマスというその男は簡潔な名乗りと共に礼をした。

私もまた「リナーリア・ジャローシスです」と頭を下げる。

「私もタッグ部門に出場するんです。どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

答えるビスマスの顔からは特に何の感情も読み取れない。

…どこかで会った事があるような気もするのだが、思い出せない。

前世では学院にいなかったはずだが、彼女の護衛か何かをしていて顔を合わせたのだろうか。記憶力には自信があるが、そこまではさすがに覚えていない。

何だか掴みどころのない印象の男だと私は思った。決して油断できない相手だとも。

 

 

それからフロライア様は「ごきげんよう」と言ってビスマスと共に去っていった。

本当に下見に来ただけだったらしい。

彼女が学院の訓練場を使っている所は見た事がないしな。きっとモリブデン家で練習場所を確保しているんだろう。

彼女たちの実力を見られるのは当日になってからかも知れない。

決して気を抜かないようにしなければ、と改めて思った。



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第84話 演目

「では、芸術発表会での出し物を決めます」

クラス委員のスパーが、黒板の前に立ってクラスの皆へと呼びかけた。

もうそんな時期か。武芸大会の事ですっかり忘れていた。

 

芸術発表会は7月の下旬頃に催される行事だ。

各クラスごとにテーマを決め、詩や音楽などを発表する。

発表時間は40分以内と短いため、合唱や合奏、ダンスを選ぶクラスが大半だが、中には頑張って劇を演じるクラスもある。特に3年生は思い出作りの意味も込めて結構凝った事をやる場合が多い。

終了後には生徒や保護者によって投票が行われ、1位になったクラスは表彰される。さらに男女一人ずつ最優秀演者が決められたりもする。

どのクラスもだいたい武芸大会が終わった頃から練習を始めるが、ものによっては準備に時間がかかる。演目は早めに決めておかなければならない。

そのすぐ後には卒業式もあるので立て続けに大きな行事が多いが、貴族が王都にいるのは春から初秋の間なので、保護者が見学したがるような行事はどうしても時期が偏ってしまうのである。

 

 

「はい!演劇が良いと思います!」

アフラという名前の女子が元気よく手を挙げてそう言ったが、隣の席のクリードが「えー」と不満げな声を出した。

「演劇はめんどくさくね?衣装とか小物とか用意が大変だし、練習に時間かかるし、劇に出る奴だけ目立ってずるいじゃん。頑張ったってどうせ3年には勝てないしさ」

クリードには3つか4つ上の兄がいたはずなので、発表会の準備の大変さを聞いているのだろう。

ダンスや合唱なら身一つでいいし合奏も楽器を持ち寄るだけで済むが、演劇は用意するものが多いから格段に面倒なのだ。

劇に出演する者と裏方とで負担に差が出る所も、のちのち不満の元になりやすい。

 

「い、衣装なら私たちが作るもの!」

アフラ様が言い返す。確か彼女は裁縫が得意だったはずなので、演劇用の衣装を作ってみたいんだろうな。同じように、衣装作りに興味があるらしい女子が数人うなずいている。

「俺は合唱が良いと思います」

別の男子がそう言って手を挙げた。まあ無難な選択肢だな。私も賛成だ。

 

 

前世の3年間の学校行事の思い出の中でも、この発表会の思い出はとびきりろくでもない。

1、2年の時は普通に合唱だの合奏をやって平和に終わったが、3年の時にやった演劇が酷かった。

発表時間の短さを解消するため隣のクラスと合同で演劇をやる事になったのだが、ある女子が「配役を男女逆にしたい」と言い出したのだ。つまり男役を女子がやって、女役を男子がやると言うのである。

その前年にスフェン先輩が男役をやった演劇にいたく感銘を受けたかららしいが、その案に賛成する女子がやたら多く、そういうのも面白いかもしれないとその場のノリで何となく採用されてしまった。

 

しかし女子が男装をするのはともかく、男子が女装をするのはゲテモノ臭が強い。いかがなものかと思っていたら、賛成多数で私がお姫様役に決まった。

本当に酷いと思う。そりゃあ筋骨たくましい騎士課程の生徒よりは向いていただろうが、あまりに酷い。

私は当然断固として拒否したが、殿下は「まあいいんじゃないか」と言うし、ヘルビンが「お前が引き受けないなら殿下にやってもらう」と言い出したので、断腸の思いで引き受けざるを得なかった。

殿下にそのような恥をかかせる訳にはいかない。

王子様役には隣のクラスだったカーネリア様が決定して、今思えば前世のカーネリア様と一番多く会話したのはこの時だったと思う。

今世の彼女と同じく、いつでもきっぱりと自分の意見を述べる、気持ちの良い方だった。彼女が殿下に一切興味がないのが実に残念だった。

なお、その時「王子様役が殿下だったら完璧だったのに…」という女子の声がちょっと聞こえたのだが、今世でリチア様のような同性愛ネタ好きの人に会ってようやく意味が分かった。

分かりたくなかった…。

 

当日、女子が物凄く気合いを入れて化粧や着付けをしてくれた私のお姫様役は意味不明なほど完成度が高く無駄に好評だった。

劇自体は成功に終わり、表彰もされ、そこまではまあ良かったのだが、面白がって女子の最優秀演者に私の名前を書いて投票した生徒が結構いたらしいのが今思い出しても腹が立つ。ふざけんな。

芸術発表会が卒業間近の時期で本当に良かった。

危うく全校生徒に「王子の従者」ではなく「王子の(女装が似合う)従者」と認識されたまま学校生活を送る羽目になるところだった。そんなの絶対耐えられない。

 

 

…だがまあ、今世ではそんな大恥をかかされることはあるまい。

だから安心して見守っていたのだが、どうも演劇と合唱で意見が割れているようだ。

「それじゃあ、連作歌曲を使って演劇仕立ての合唱にしたらどうかな」

手を挙げてそう言ったのはセムセイだ。

「皆で曲の内容に合わせた衣装を着て歌えば、見栄えもいいと思うよ」

 

連作歌曲とは、数曲合わせてストーリーが作られる歌曲集だ。有名な英雄譚や童話を下敷きにした物が多い。

魔剣を持って魔獣退治に行く英雄のものなどが特に有名で、これの場合は旅立ちの歌、仲間との出会いの歌、冒険の歌などの合計10曲の連作になっている。

セムセイの案は、全員で衣装を着て、曲と曲の間に短いナレーションを入れつつ、簡単な身振り手振りを交えた合唱をするというものだ。

さすがに10曲は発表会には長すぎて無理だが、4~5曲程度で終わるものを選べばちょうどいいだろう。

小物や背景は使わない。演劇と違って脚本がないから台詞などを覚える必要もない。

衣装はやる気がある者に任せるとして、あとの者は合唱と伴奏の練習だけすればいい。

折衷案としては良いのではないだろうか。

 

 

多数決の結果、セムセイの案が採用されることになった。

そして有名な連作歌曲のうち、合唱曲としても親しまれている曲が4曲ある「旅人と山の獣たち」が丁度いいのではないかという話になった。

大まかなストーリーはこうだ。

山に入った旅人が、狼に襲われて怪我をした一匹のウサギを助ける。

その後、旅人が道に迷っていると、助けたウサギが現れて旅人を山の動物たちが集う宴に招待する。

宴で旅人はウサギを食べそこねた狼に挑まれ勝負をする事になるが、旅人はその勝負に勝ち、動物たちと歌や踊りを楽しむ。

翌朝目を覚ました旅人は不思議な夢を見たと思いつつ山を降りるが、そこにまたウサギが現れ旅人に一輪の花を渡す。

それを見て旅人は昨夜の宴が夢ではなかったと知り、ウサギに感謝を述べながら旅立っていく。

 

これは同名の童話を元にしたものだが、童話の方だと宴で食べた料理が旅人に感謝の意を示したいと願ったウサギの肉だったり、あるいは女性に変身したウサギと旅人が一緒に山を降りて夫婦になって終わったりと色んなバリエーションがある。

夫婦になるのはともかく、食べてしまうやつはわりとひどい話の気がする。せっかく助けたウサギを知らない内に食べさせられてるのは嫌すぎないだろうか…。

 

 

しかしそこでまた問題が持ち上がった。

「動物役と言ったら着ぐるみでしょ?被り物をしたまま合唱は辛くない?作るのも難しいし…」

アフラ様が言う通り、演劇で動物役と言えば着ぐるみを着るものだ。

頭には動物の顔を模した被り物をかぶることになる。劇ならそれで良いだろうが、今回は歌がメインなのでやりにくい。

それに、被り物は衣装とは違い裁縫では作れないだろうと思う。具体的にどうやって作るのかは知らないが、人数分作るのは大変そうだ。クラスごとに割り当てられている予算だって限られているし。

「うーん…じゃあやっぱり別の歌曲にした方が良いかな」

スパーがそう言うが、皆困ったように顔を見合わせる。

「でも合唱がたくさんある連作歌曲ってそんなにないぞ?」

「それもそうか…」

 

「…別に着ぐるみじゃなくても動物役はできるんじゃないか?」

皆がどうしたものかと思っていた時、殿下が口を開いた。

「頭全部を覆う被り物でなくとも、ウサギの耳とか、狼の尻尾とか、そういうものを着けておけば動物だと示すことはできると思うが」

「耳とか尻尾だけ?それなら確かに作るのは楽そうだけど」

クリードが首をひねると、アフラ様が少し考え込んだ。

「…そうだわ。ワンピースやチュニックに尻尾を着けるのは可愛いかも…」

「確かに」

他の女子もうなずく。

「耳もカチューシャに付けて頭に乗せれば可愛いんじゃないかしら?」

「それよ!それだわ!」

何やらアイディアを閃いたらしく、一部でやたら盛り上がっていた。

問題は解消されたらしいが、どんな感じになるのか私にはいまいち想像ができない。

 

 

その後は配役を決めることになった。

主役の旅人、敵役の狼、それからウサギを決め、残りの生徒は自分の好きな動物をやる。

旅人役には殿下が推薦され、賛成多数ですぐに決まった。まあ当然かな。

宴で勝負をする狼役も、当然という感じでスピネルに票が集まって決定した。

それから旅人が助けるウサギ、これは女声パートだから女子がやらなければならない。

「ウサギ役をやりたい人いますか?」

立候補者がいないか、スパーがクラスに呼びかける。

 

私は正直言って絶対にやりたくない。何しろ旅人とウサギにはそれぞれ独唱部分があるのだ。

歌は苦手ではないが、人に注目されるのは苦手だ。合唱なら良いが独唱はあまりに辛い。

しかし、このままではウサギ役はフロライア様に決まってしまうのではないだろうか。

彼女がとても歌が上手い事はクラスの皆が知っている。彫りの深い顔立ちの美人で舞台映えもする。

妥当な配役だろうと思いつつ、しかし彼女を殿下に近付けさせたくない。

芸術発表会だろうと、危険がないと何故言えるだろう。武芸大会の事だって気になるのだ。

 

…しっかりと警戒しなければ。殿下のために。

私は意を決して挙手をした。

 

「あ、ああの、わ、私がウサギを、や、やりたい、です…」

盛大にどもってしまった上に語尾が小さくなってしまった。

顔が真っ赤になっているのが自分でもわかる。死ぬほど恥ずかしい。

クラス中の視線が集まって内心涙目だった。殿下とスピネルも意外そうな顔でちょっと驚いている。

ちくしょう。本当にやりたくない。しかし殿下のためなのだ。

 

スパーは少し瞬きをしてからクラスに呼びかけた。

「えっと、リナーリアさんが良いと思う人」

「はい」

「はい!」

…意外なことに満場一致だった。あっさりと私がウサギ役に決定する。

なんだかやけに微笑ましい顔で見られているのが物凄く気になる。恥ずかしい。くそう。

「あ、ありがとうございます。頑張ります…」

なんとかそう言うので精一杯だった。



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第85話 早朝ランニング

時を知らせる魔導具の音で私は目を覚ました。

重たい瞼をこじ開け、なんとか身体を起こす。

窓のカーテンを開けると柔らかい朝日が部屋に差し込んだ。

まだ早い時間なので外は静かだ。小鳥のさえずりくらいしか聞こえない。

もぞもぞとベッドから出て、昨夜の内にコーネルが用意してくれていた運動着を手に取った。あくびをしながら袖を通していく。

 

今日早起きをしたのは、早朝ランニングをするためだ。

私は体力がないし身体も脆弱だ。特に水霊祭でそれを痛感したので、今度こそ体力作りを始める事にしたのだ。

足の怪我も良くなってやっと医者から許可も出たので、まずはできる範囲でランニングだ。

とりあえず学院の周りを走ってみるつもりである。

 

髪が邪魔になりそうだったのでその辺にあったリボンを使って適当に一つに結び、部屋を出る。

早起きの管理人に挨拶をして外に出ると、朝のまだひんやりとした空気が肌に触れた。

思わず深呼吸をする。気持ちがいい。

眠気もだいぶ飛んだので、私は気合を入れて軽く走り出した。

 

 

…走り出したのは良かったが、あっという間に息が上がってしまった。

先輩との訓練でも体力の低下は感じていたが、想像以上に酷い。全然走れない。

同じようにランニングをしている生徒はちらほらいるのだが、ことごとく私を追い越して走り去っていく。

すれ違いざまに「おはよう」とか「頑張って」とか言ってくれる人が多いのだが、それに返事をするだけで精一杯だ。

もはや歩いてるんだか走ってるんだか分からないような速度で必死に足を動かす。

 

「あれっ、リナーリア君、おはよう」

そう言いながら私の横に並んだのはスフェン先輩だった。なんとエレクトラム様とその使用人らしき人もいて「おはようございます」と声をかけてくる。

「お、おはよう、ござ、ます」

息が上がってるので切れ切れにしか返事ができない。

「君もランニングかい?感心だね」

「は、はい」

「はは、ずいぶん疲れているね。あまり無理はしないようにね」

「はい…」

そして先輩は颯爽と走り去っていった。なかなかのペースに見えるが、エレクトラム様はちゃんと後ろについている。

彼女は魔術師課程だったと思うし武芸大会への出場予定もないはずだが、もしかして先輩と一緒に走りたいからランニングしてるんだろうか?すごい…。

 

その後私はすぐにギブアップし、トボトボと寮へと戻った。

最低でも5周はしたかったのに3周しかできなかった…。

しかも最後はほとんど歩いていた。情けない。

 

 

翌日からも私はランニングを続けたが、3日目からは少しコースを変えた。

学院の周りを何度も回るのではなく、少し足を伸ばして城の方まで行き、ぐるっと一周して帰るようにしたのだ。

なぜなら同じところを何周もしていると、同じ人に2回追い越される事になって非常に恥ずかしいからである。

ランニングをしているのはほぼ男子生徒、私とは全くペースが違うので高確率でこれが起こるし、2回目には「大丈夫かい?」とか言われる事も多い。親切で言ってくれているのは分かるが恥ずかしい。下手をすれば3回目まである。

城の方まで行けば帰り道は確実に歩く事になるが仕方がない。慣れてきたらもう少し走れるはずだ。

 

4日目、何故か使用人と二人だけで走っているエレクトラム様に追い越されて「しっかりしなさい」と言われた。

5日目も同じように叱咤された。

この人、何で私と同じコースを走っているんだろう?先輩と一緒じゃなくて良いんだろうか?

しかも、寮に戻ってくると必ず入り口の辺りにいて「遅い!」とか怒られる。怖い。

 

6日目、初日に比べればだいぶ走れるようになってきた。後半は歩いているが。

途中でやはりエレクトラム様に叱られて、戻ってからも叱られた。好きで遅いわけではないのだが言い返せない。

 

 

その日の昼食は殿下と一緒だった。ランニングをしている事を初めて打ち明けたのだが、殿下は少し目を丸くした。

「大会のために走り込みまでしているのか」

「まだ全然走れてはいないんですけど…。足を骨折した後は運動ができなくて、ますます体力がなくなってしまったみたいなので、少しでも取り戻したいんです」

できれば大会が終わっても続けたいところだ。毎日はちょっと無理かもしれないが…。

 

「城の周りをぐるりと走っているんですが、途中にカケスの巣を見つけたんですよ。雛がいてもうすぐ巣立ちをするところみたいで、毎朝見るのが楽しみなんです」

「城の方まで?…一人でか?」

「あ、はい」

「誰かと一緒の方が良いんじゃないのか」

殿下はちょっと心配げだ。

…そう言えば、ランニングとは言え貴族令嬢が一人で行動はまずいかなと今更気付く。

通りすがりに城の門番に挨拶をした時、何かちょっと変な顔をされたのはこのせいだったのか。慣れてきたのか今朝は普通に挨拶を返してくれていたが。

「でも、同じように城の方を走ってる生徒も何人かいますから大丈夫ですよ。早朝だから馬車もほとんど通りませんし、城には門番や見張りの兵士もいますし。あと、寮で生徒の出入りを管理してますから、始業前までに帰らなかったりしたらすぐ分かります」

「…それならいいが…」

そう言いつつも殿下はあまり納得していない顔だった。

 

 

7日目、寮から出ると少し先に人がいた。…あの派手な赤毛は、スピネルだ。

「…え、何でいるんですか?」

「お前なあ…。いくら近くでも、仮にも侯爵令嬢が一人でフラフラすんじゃねえよ」

呆れたように睨まれてしまった。どうやら殿下から聞いたらしい。

これは怒られるやつかと思ったが、早朝で眠いからか周囲に配慮しているのか、説教する気はないようだ。

「殿下が心配してたんだよ。でも、こんな朝っぱらから殿下を城から出す訳にも行かねえだろが」

「す、すみません!」

さすがに申し訳なさすぎて慌てて頭を下げた。

二人に迷惑をかけないためにも身体を鍛えたかったのに、これでは本末転倒だ。

 

スピネルは謝る私を見て「はあ…」とため息をつく。

「別に、ちょっと様子を見に来ただけだ。今日だけ付き合ってやるよ。…それよりお前、何だその髪?ほつれてるぞ」

指をさされ、私は後ろで軽く結んだ髪に手をやる。

「ああ、自分で結んだもので…」

「どんだけ下手くそなんだよ。全く…」

ぶつぶつ言いながらスピネルは私の後ろに回った。するりとリボンをほどき、手櫛で軽く髪を梳く。

「櫛持ってくりゃ良かったな」

そう言えばスピネルもいつも後ろで一つ結びにしてるんだった。だから慣れているのか。

 

「スピネルはいつも自分で髪を結っているんですか?」

「当たり前だろ」

スピネルが当たり前にできる事をできない私は一体…。

きゅっとリボンを結ぶと、スピネルは「できた」と呟く。

「ありがとうございます」

「明日からはちゃんとやってもらえ」

「明日?」

訊き返すと、ぽんと頭に手を乗せられた。

「ほら、行くぞ」

「あっ、はい!」

 

 

とりあえず走り出したが、スピネルは完全に私のペースに合わせてくれるつもりらしく実にのんびりとしている。

私とは歩幅が違うので、本当に早歩きに毛が生えたくらいの速度だろう。ますます申し訳ないが、ペースを上げれば後半力尽きるのは目に見えているのでこれで行くしかない。

黙って走っていると、鳥の巣がある木の近くまで来た。

「あ、ほら、見てください。あそこに、カケスの巣があるんですよ」

「おー。本当だ」

「国王陛下にも、見せて差し上げたいです」

陛下は鳥が好きだからきっと見たがるだろうなと思っていると、スピネルがちらりと横目で私を見た。

「よく知ってるな。殿下に聞いたのか?」

「えっ?ええ、まあ…」

しまった、陛下の趣味はあまり知られていないんだったかな?言動には気を付けなければ。

 

さらにしばらく走っていると、今日もエレクトラム様とその使用人に追い越された。

「姿勢が乱れていますわよ!もっとしゃっきりなさい!」

「は、はい!」

私の隣にいるスピネルの事は完全無視っぽかった。そのまま前を走っていく。

その後ろ姿が遠ざかってから、スピネルは「…何だあれ?」と尋ねてきた。

「えっと、スフェン先輩の、取り巻きの、方、です。いつも、あんな感じです」

私は荒い息と共に答えた。もうだいぶ息が上がっている。

「寮に、戻ると、入口に、いつもいて、遅いって、叱られます」

スピネルは少し黙り込んでから、「ああ、そういう事か」と言った。

「ちゃんと礼を言っとけよ」

「え?」

 

 

その後もランニングを続け、寮の近くまで戻って来た所でスピネルは帰っていった。

玄関先には、やはりエレクトラム様と使用人がいる。

「相変わらず遅いわね、もっと精進なさい」

そう言い捨てると、私の返事を聞くこともなくエレクトラム様は寮の中へ戻って行った。

 

私もまた寮に入り部屋に戻ったのだが、既にやって来ていたコーネルにいきなり怒られた。

「お嬢様!お城の方までランニングに行っていたとはどういう事ですか!」

「ど、どうしてそれを」

「スピネル様からです。今さっき、管理人の方に渡されました」

コーネルはぴっ、と小さな封筒を取り出してみせた。

「あっ」

そうか、スピネルが女子寮近くまで来ていたのはそれのためでもあったのか。

 

「私は学院の周りを走るだけとしか聞いておりませんでしたが」

「さ、最初はそのつもりだったんですけど…」

深く考えずにコース変更してしまった。早朝なのにコーネルを付き合わせるのは悪いしと思っていたが、ちゃんと知らせずにいた事の方がよっぽどまずかったらしい。

その後身支度を手伝ってもらいながらお説教された。

どうりでスピネルからの説教がなかったはずだ。コーネルに叱ってもらうつもりだったのだ。

「明日からは私もご一緒いたします。よろしいですね?」

「はい…」

しょんぼりとしながらも、大人しくうなずくしかなかった。

 

 

 

…そうして、武芸大会の前日の朝。

「つ、着きました…」

女子寮の前でぜいぜいと息をする私に、コーネルがぱちぱちと拍手をしてくれる。

「頑張りましたね、お嬢様。今日は8割は走れました」

コーネルも息は上がっているのだが、私よりはだいぶ余裕がある。やっぱり普段から掃除とかで身体を動かしてるからかな。

 

玄関には今日もエレクトラム様がいる。

私の方へつかつかと歩み寄ると、金髪を揺らしながら顎を上げて見下ろしてきた。

「今日も遅かったわね。初めの頃に比べれば少しはマシになったようだけど」

「はい…」

「まあ、毎日ちゃんと続けたことは褒めてあげてもいいわ」

おお、褒められた。私は深々と頭を下げる。

「恐縮です。…あの、今日までありがとうございました」

「え?」

「私のこと、見守ってくださっていたんですよね?」

 

恥ずかしながらスピネルの言葉を聞いてようやく気付いたのだが、彼女が私と同じコースを走っていたのは多分、一人で走っている私が気になったからなのだ。

実際、私がコーネルを連れて走るようになってからは、彼女は城の方を走らずまた先輩と一緒に走っていた。

それでも毎朝、私がランニングから戻ってくるのを必ず待っていて、何か一言言ってから部屋に帰っていたのである。

先輩に頼まれてやっているのかと思ったが、先輩に尋ねたところ彼女が自主的にやっているとの事だった。

 

「ふ…ふん!私はただ、スフェン様のパートナーがみっともない姿を晒さないよう、見張っていただけよ」

「でも、毎日叱って下さるおかげで私も頑張れました」

そう言ってもう一度頭を下げ、にっこりと笑いかける。

 

「ありがとうございます、エレクトラムお姉さま…!」

その途端、エレクトラム様はぴたっと動きを止めて硬直した。

…あ、あれ?こう言えば彼女は喜ぶはずだって先輩は言ってたんだけどな…?

 

「んふっ」

エレクトラム様はちょっと顔を上気させてから、こらえきれない感じで鼻息を漏らした。

「…そ、そうね。んふ、これからはもっと気軽に私を頼ってくれても結構よ?スフェン様のパートナーなら、私にとっても、んふふ、妹みたいなものですわ」

何だか分からないがめちゃくちゃ嬉しそうだ。ところどころ鼻息が荒い。

やはり先輩情報は間違っていなかった。…ちょっと怖いけど。

 

「武芸大会、頑張るのよ。リナーリアさん」

「はい!頑張ります!」

ええと、味方になってくれたって事だよな…?多分。



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第86話 武芸大会・1

晴れ渡った青空の下、ファンファーレの音と魔術によって打ち上げられた数発の花火と共に、武芸大会は開幕した。

例年は計3日間の開催だったが、今年はタッグ部門が増え4日間の開催だ。その分夏休みが短くなるらしいが。

1~3日目に各部門の1回戦から準決勝までが行われ、4日目に決勝及び3位決定戦、そして全部門の表彰式が行われる。

開会式は校長の挨拶と生徒会長の選手宣誓だけだ。校長もさすがに空気を読んで短めの挨拶だったのですぐに終わった。

 

観客席には既にぎっしりと人が入っている。学院の生徒、出場者の親や親戚以外にも、たくさんの貴族が観戦に来ている。

これは武芸大会が単なる娯楽として楽しめるだけでなく、自領の騎士や魔術師のスカウトも兼ねた場だからだ。近年は魔獣被害も増えているし、優秀な兵の増員はどこの領も必須だろう。

貴族の男子は嫡男以外はどこかに就職するのが普通なので、出場者には就職先を探している者も多く、武芸大会は各貴族家への絶好のアピール機会となっている。

この時期ともなれば有力な3年生はたいてい既に進路が決まっているので、そういう意味では2年生が一番の狙い目だ。貴族側も生徒側も真剣である。

ちなみに、一番後ろには平民のための観客席もある。こちらは完全に娯楽目的だ。学院の許可を得て軽食や飲み物を売り歩いている者もいる。

 

 

最初はタッグ部門の1回戦だ。

私は開会式が終わってすぐに出場者用の控室へ行って、先輩と二人で試合用に防護魔術の掛けられたローブと騎士服に着替えた。

トーナメントの組み合わせは数日前に発表されていたが、1試合目はなんと私たちとエンスタットの組との試合だったのだ。

先輩は「記念すべき1試合目が僕たちだなんて名誉なことじゃないか!」と笑っていたが、私としては青くなるしかない。

正直またかと思う。もう少しゆっくり心の準備ができる順番が良かった…。

エンスタットに私自ら引導を渡せるのは良かったが。

 

組み合わせ表によると、フロライア様とビスマスの組は私とは離れた位置だった。

順調に勝ち進めば、彼女たちは準決勝で殿下とスピネルの組と当たる。そして勝った方と私たちの組が決勝で戦う事になる。もちろん、私たちもまた決勝まで駒を進められればの話だが。

今回ばかりは私も、目立ちたくないなどとは言わない。殿下のために、私自身が後悔しないために、やれる事は全部やる。きっちりと勝ちに行くつもりだ。

もちろん、スフェン先輩のためにもだ。先輩は今回の大会にかなりの思いをかけている。

 

 

 

《…いよいよ始まります、今年より新設されました未知の部門!武芸大会初、2対2での戦いとなるタッグ部門の開幕です!!》

拡声魔術を使った声が控室の中にまで聞こえる。

《こちらの部門は2人1組でのエントリーとなり、その組み合わせは学年・性別・課程を問わず完全に自由!騎士同士でも、魔術師同士でも、騎士と魔術師でも可能!そして試合は、2人共に戦闘不能と審判が判断するか、敗北を宣言する事で勝敗が決着します!!》

やや興奮した口調で簡潔にルールが説明されていく。

《ルールは基本的に騎士部門に準じますが、持ち込みできる武器は種類自由、1人1つまでとなっております。剣などは刃引きをしたものが使われますが、念のため闘技場には流血・殺傷防止の結界が張られております!!》

騎士部門では使用できる武器は剣のみなのだが、それだと魔術師が杖を持ち込めなくなる。戦術の幅を広げる意味でも、こちらは事前に審査して通ったものならば種類自由というルールになった。

ちなみにめったに使う者はいないが、双剣のように二本で一対となる武器などは1つとしてカウントされるらしい。

その他魔導具や薬物などの持ち込みや一部の魔術の使用も禁止だったりするが、そのあたりの細かい説明は割愛された。

 

《実況は私、3年生騎士課程のヒューム・ブラウンが担当いたします!解説はこの方、王宮近衛騎士団のレグランド・ブーランジェ氏にお越しいただきました!!》

《どうも、こんにちは》

えっ、レグランドと言えばスピネルとカーネリア様の兄ではないか。

城の騎士や魔術師が解説に呼ばれるのは毎年の事だが、まさかこの人が解説とは。

甲高い歓声が観客席から上がっているらしいのが聞こえる。どうも女性の観客が多い気がしたのはこれのせいか…?

しかし弟が出場すると分かっていて解説を引き受けたのだとすれば、少々意地が悪い。スピネルの嫌がる顔が目に浮かぶようだ。

 

《レグランド氏はこのタッグ部門をどうお考えですか?》

《とても興味深い部門だと思うよ。自チームや相手チームの組み合わせによって、それぞれ立てる戦術が変わってくる。単純な個人技だけではなく、敵への対応力や連携の高さも必要になってくるから、より実戦的な部門と言えるだろうね》

《なるほど…他の部門とは違った戦い方が期待できそうですね!》

二人の会話が途切れた所で、高らかに選手入場のラッパの音が鳴り響いた。

 

 

「東、騎士課程2年、スフェン・ゲータイト!魔術師課程1年、リナーリア・ジャローシス!」

審判に名前を呼ばれ、闘技場の中央に進み出ていく。

《こちらは本大会唯一、女性同士のタッグとなっております!しかし二人共、各課程で大変優秀な成績を修めているとのこと!その実力は侮れません!!》

観客席から想像以上に大きな応援の歓声が上がって少し驚く。

先輩ファンらしき女子の悲鳴のような声が目立つが、意外と男の声も混じっている。何やら盛り上がっているようだ。

「西、魔術師課程1年、エンスタット・スペサルティン!同じく魔術師課程1年、アダム・グロッシュラー!」

反対側からエンスタットの組が上がってきた。エンスタットはどうやら盾を持っているようだ。スフェン先輩対策だろうか。

1年生の男子生徒を中心に、こちらも結構応援の声が聞こえる。

「いけー!勇者ー!!」とか言ってるのもいる。絶対面白がってるやつだ。

 

《えー、このエンスタット選手、なんと対戦相手のリナーリア選手に求婚しているとのこと!試合に勝てば了承してもらえるんだそうです!そういう意味でも注目が集まりますね!!》

ばらすなよ。それに、正確には結婚を前提とした交際であって求婚ではない。

この話は既に全校生徒に知れ渡ってるらしいから、今更隠しても無駄なのかもしれないが。

《これは、ハラハラしながら勝負の行方を見守っている男も多いんじゃないかな?》

意味ありげな口調で言うレグランド。

アーゲンあたりの事を言ってるんだろうか?それともやっぱり、やたら怒っていたスピネルの事だろうか。本当にいい性格してるな…。

少し動揺してしまったが、何とか気持ちを落ち着かせる。試合に集中しなければ。

でも観戦に来ているはずのうちの両親や兄も、きっと顔面を引きつらせているだろうなあ…。

 

 

 

エンスタットたちとお互いに一礼をした後、それぞれが好きな位置についた。

タッグ部門では中央線よりも後ろならどの位置で始めても良い事になっているので、私はスフェン先輩の後方に位置取る。

エンスタット組はエンスタットが前、もう一人のアダムが後ろの位置だ。

「…始め!!」

審判の号令と共に、先輩が前に出た。

エンスタットもまた盾を構えて前に出る。先輩が振り下ろした剣を片手に持った盾で防ぎ、高い金属音が響いた。

その間に、アダムの方は大きめの魔術を放つ用意をしている。火魔術のようだ。

私は即座に風魔術の構成を広げる。

速度に勝る風魔術が、アダムが作り上げた巨大な炎を撃ち抜いた。

 

「うわっ…!」

火魔術が撃ち抜かれた衝撃で発生した爆風の煽りを受け、アダムが後ずさる。

スフェン先輩がエンスタットに向かって連続で剣を振るい、エンスタットも苦しげな表情で一歩下がった。

《アダム選手の火魔術の発動をリナーリア選手の風魔術が阻止!エンスタット選手は、盾でスフェン選手の剣を受けながら防御魔術を使いかけていたようですが…》

《恐らくエンスタット君が耐炎魔術を使い、そのエンスタット君ごとスフェンさんに火魔術を当てるつもりだったんだろうね。しかしリナーリアさんの風魔術の方が速かった。見てから撃ったんだとしたらすごい速さだね》

ヒュームとレグランドが解説をする。

 

相手が先輩を先に倒しに来た場合と私を倒しに来た場合、もしくは各個撃破に来た場合などでいくつか作戦を立てていたが、彼らの狙いはどうやら先輩の方だったようだ。

ならば、相手の狙いから外れている私がやる事は一つだ。

態勢を崩したアダムに、お返しとばかりに次々に火球を放っていく。

アダムは必死で防御魔術を使ったが、私の火力が彼の防御力を上回った。防御結界が破られ、火球が彼に炸裂する。

 

《おおっと、アダム選手派手に場外へ吹っ飛んだ!リングアウトにつき、戦闘不能です!》

エンスタットもまた、スフェン先輩の剣に追い詰められている。…これは時間の問題か。

「うおおっ!!」

だがエンスタットは大きく叫ぶと、腕を剣で切り裂かれるのも構わず前に踏み出した。

盾を叩きつけられそうになり、先輩がたまらずに後ろへ飛び退る。

すかさずエンスタットが叫んだ。

『炎よ!!』

《エンスタット選手、捨て身のシールドバッシュ!さらに火魔術を畳み掛けた!しかし…!》

先輩は紙一重で炎を避け、その剣を閃かせた。

斬撃と突きを組み合わせた素早い三連撃がエンスタットに叩き込まれる。

エンスタットは大きく仰け反り、そのまま倒れ込んだ。

 

 

「…エンスタット選手、戦闘不能!!これにより、スフェン・リナーリア組の勝利です!!」

審判によって勝利が告げられ、場内にわあっとかきゃあっとかが入り混じった大きな歓声が上がった。

エンスタットが前に踏み出した時は一瞬焦ったが、問題なく勝てたようだ。

先輩は倒れたエンスタットに歩み寄ると、その手を差し出し彼を助け起こす。

「素晴らしい気迫だったよ。特に、最後の盾と魔術を組み合わせた攻撃は意表を突かれた」

「ありがとうございます…」

賛辞に礼を言いながらも、エンスタットは無念そうだ。

私もまた、彼の方へと歩み寄る。

「先輩の言う通りです。貴方の戦術は、未熟かも知れませんが光るものがありました。それに、身体強化を使った騎士に対し盾だけで耐えたのは見事です。鍛え上げた筋肉の賜物です!」

「…!」

筋肉を褒められ、エンスタットの顔にさっと赤みが差す。

 

「良い勝負でした。貴方はきっと、強い魔術師になれますよ」

そう言いながら私が差し出した右手を、彼は真っ赤な顔で握り返した。

 

「あ…ありがたき幸せ!!我が筋肉女神よ…!!」

「…いえあの…それ、やめてもらえません…?」

私は笑みを引きつらせた。



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第87話 武芸大会・2

《エンスタット君の戦い方は面白かったね。魔術師は防御も魔術に頼りがちだが、あのように盾を使って戦うというのもありだろう。剣を受けながら魔術の用意もする精神力が必要になるが》

《さすがに騎士の相手は辛そうに見えましたが…》

《そこはスフェンさんの技量を褒めるべきかな。彼を着実に追い詰めていた。最後の連撃も見事だったね。アダム君が倒されていた以上勝敗がつくのは時間の問題ではあったけど、リナーリアさんと協力して2対1の状況を作るのではなく、あえて止めを刺しに行ったのはエンスタット君の戦術への敬意を表してかな》

 

レグランドたちによる解説を聞きながら、私と先輩は闘技場を降りた。

出場者専用の観戦席へと向かい歩きながら、お互い勝利を喜び合う。

「やりましたね、先輩!」

「うん、上手く行ったね!…でも、今回は組み合わせに恵まれたかな。君がいるお陰で僕は攻撃に専念できるから、魔術師相手は有利だった」

「エンスタット様は盾を持っていましたし、魔術師と言っても守りが堅かったです。あれほど早く倒せたのは先輩の実力ですよ」

彼の戦い方は、私も勉強になったな。盾は動きを妨げるため魔術師で持とうとする者は滅多にいないが、ちゃんと鍛えた上で扱えば十分に有用なようだ。

「ありがとう、リナーリア君。2回戦も頑張ろう!」

「はい!」

 

 

この後はゆっくりと観戦できるなと思いながら観戦席に足を踏み入れると、お兄様が手を振っているのが目に入った。パートナーのヴォルツも一緒だ。

「お疲れ様、リナーリア」

「勝利おめでとうございます」

笑顔のお兄様といつもの仏頂面のヴォルツに迎えられ、私と先輩は「ありがとうございます」と言いながらすぐ横の席に座った。

「勝ってくれて本当に良かった…。これで僕も肩の荷が降りたよ…」

ティロライトお兄様が心底ほっとしたように言い、私は「あはは」と作り笑いを浮かべた。

お兄様たちが出場するのは私とエンスタットの件のせいではないかと思っていたが、やはりそうだったらしい。

 

「笑い事じゃないよ…ヴォルツは絶対出るって言うし、兄上も必ず出ろって笑顔で脅すしさあ。王子殿下もいるんだから、僕が出る幕なんてないって言ったんだけど…」

「え?ヴォルツが?」

ちょっと驚いて訊き返すと、お兄様は目を丸くした。

「あれ?聞いてないの?ヴォルツとコーネルが二人して練習を見に行った事あったよね?」

「あ、はい、それはありましたけど」

「ヴォルツ先輩には僕たちの練習相手として試合をしてもらいました。とても素晴らしい腕前で、良い訓練になりましたが…」

横のスフェン先輩も口添えをする。

先輩の言う通り、ヴォルツに「訓練を見に行かせて頂いてもよろしいですか」と言われ、練習に来てもらい手合わせをした事があった。

コーネルも一度練習を見ておきたいと言うので、その時一緒に来てもらったのだが。

「…それだけ?」

「はい」

それ以上のことは何も言われていない。

 

それを聞いたお兄様は呆れ顔でヴォルツを見た。

「ヴォルツ…あんまりこの子を甘やかさないでよ。兄上の胃に穴が空いちゃうよ」

「申し訳ありません」

「ど、どういうことですか?」

尋ねる私に、お兄様はため息混じりに説明してくれた。

「ヴォルツとコーネルはね、父上と母上に頼んでいたんだよ。お前は本当に真剣に武芸大会に取り組んでるから、叱るのは大会が終わってからにしてやって欲しいって」

「え!?」

「大体、これだけ注目されてるのにエンスタット君の事が父上や母上の耳に入らない訳ないじゃないか。大会で勝ったら交際するだなんて…。今まで屋敷に呼び出されなかったのは、ヴォルツとコーネルのおかげだよ」

 

「……」

私は絶句してしまった。

コーネルにはエンスタットの件を「父と母には適当に言って誤魔化しておいて欲しい」と頼んでおいたのだが、まさかヴォルツを巻き込んでそんな事をしていたなんて。

「訓練で手合わせをして、お嬢様方なら問題ないと判断致しましたので」

ヴォルツは仏頂面のままで言う。

「そ、そうだったんですね…」

「しかも、いざって時はヴォルツ自身が体を張って何とかするって言ってさ。お陰で僕まで大会に出る羽目になっちゃったんだけど」

「はい。その時はエンスタット殿を血祭りに上げてでも止めるつもりでした」

さらりと物騒な事を言うヴォルツ。

私の手でエンスタットを倒せて良かった…。ちょっと冷や汗をかいてしまう。

「…あの、本当にすみません。有難うございました…」

頭を下げる私に、ヴォルツは「いいえ」とだけ言った。その表情は、やはり変わらない。

コーネルにもお礼を言っておかなければな。

 

「…リナーリア君の家にそんな心配をかけていたとは思いませんでした。申し訳ありません」

先輩が眉を曇らせてそう言い、私は少し慌ててしまった。

先輩は優しいし周りをよく見ている人だけど、自分自身が実家とは疎遠なので、私の両親の事にまで考えが及ばなくても仕方ない。そもそも私がそこに考え至っていなかったし…。

「先輩は悪くありませんよ!」

「そ、そうだよ。君は悪くないよ」

ティロライトお兄様も慌てて言い繕う。

「君の剣の腕はヴォルツのお墨付きだよ。さっきの試合も見事だったし。…リナーリアは考えなしな所がある子だけど、これからも妹をよろしくお願いしたいな」

笑ってそう言うお兄様に、スフェン先輩もまた顔を綻ばせた。

「…はい。もちろんです」

 

 

そうこうしている間に、1回戦の第2試合は始まっていた。

2回戦ではこの試合の勝者と私たちが当たるのだから、ちゃんと見ておかなければ。

ちなみに、ティロライトお兄様とヴォルツの組の試合は1回戦の最後から2番めだ。相手はアーゲンとストレングである。

これはアーゲンたちも運がなかったなと思う。せめて2年生と当たっていればまだ勝ち目はあったのに…。

ティロライトお兄様は普段はのんびりしたお調子者だが、魔術師としての腕は確かだ。

私と同じく防御や支援系の水魔術が得意で、その分攻撃は苦手だが、そこは組んでいるヴォルツがしっかりカバーできる。

私も訓練の時にヴォルツと戦って初めて知ったのだが、ヴォルツは私が思っていたよりはるかに強い騎士だった。

彼を支援しようと決めたお父様の目は確かだったと、思わず見直してしまったほどだ。

 

 

2試合目が終わった所で、殿下とスピネルがやって来た。

私達が話し込んでいたから、一段落付くまで待ってから声をかけてくれたのかな?

なお、この二人の試合は1回戦最後の予定だ。

「リナーリア、2回戦進出おめでとう」

「ありがとうございます」

私や先輩と共にお兄様やヴォルツも頭を下げる。

 

「君が無事に勝利できて安心した」

勝利を祝ってくれる殿下の横で、スピネルもまたうなずく。

「良かったな。もし負けてたらお前は危うく筋肉女神にされる所だった…」

真面目くさった顔でそう言って、それから横を向いて「ブッ」と噴き出した。

「なんですか貴方は?武芸大会に黒焦げの姿で出場したいならお手伝いしますけど?」

思わず額に青筋を立てる私と、ひたすら笑っているスピネルに、殿下が少し苦笑いをする。

「君たちが思ったよりも強かったから、スピネルは安心しているんだ」

「うっせえ!」

なお、筋肉女神についてはエンスタットに食い下がられてしまったため、先輩の提案で「そう呼ぶのは心の中でだけにする」という事でお互いに妥協した。

本当は心の中でだろうと絶対呼んで欲しくないんだが…。

 

「ふうん?ずいぶんと余裕だね、スピネル君」

話を聞いていたスフェン先輩が片眉を上げる。

「そうですよ。人のことにかまけて、油断していたら足元を掬われますからね」

「分かってるよ」

スピネルが笑いを収め、ちょっと真面目な顔になって言う。

私は殿下とスピネルに、隣のお兄様たちを指し示した。

「2回戦に勝ち上がれたら、その時相手をするのはこちらのティロライトお兄様とヴォルツです。言っておきますが、とても強いですよ」

 

「り、リナーリア…」

お兄様は冷や汗をかいているようだが、私はその手をがっちりと掴んだ。

「頑張ってください、お兄様!」

「リナーリア…王子殿下より僕を応援してくれるのかい?」

「当たり前ではないですか!ヴォルツも、きっと勝ってくださいね!!」

力強く励ますと、お兄様は嬉しそうに「うん!」と笑い、ヴォルツもまた「無論です」と頷いた。

殿下たちにも頑張って欲しいが、ここはやはりお兄様たちに勝って欲しいと思う。

彼女と殿下を戦わせないためでもあるが、お兄様たち二人には勝利の名誉を味わって欲しい。

二人は私のために出場してくれたそうだし、そういう意味ではもう目的を果たしていると言えるのだろうが、それでも勝つ事は喜ばしい事のはず。

私のわがままかも知れないが、二人には出場して良かったとそう思って欲しいのだ。

 

「対戦となった時はどうぞよろしくお願いします。まずは1回戦、お互いに頑張りましょう」

殿下は真面目な顔でお兄様たちにそう告げ、元いた席へと戻って行った。

スピネルもまた「よろしくお願いします」とお兄様たちに頭を下げてその後に続いた。

これは結構面白い試合になるかもしれないな。



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第88話 武芸大会・3※

…そうしてしばらく試合を観戦し、5試合目。

ついに彼女…フロライアとビスマスたちの試合が始まった。

彼女たちの相手は3年生で、アレガニーとバスタムという騎士二人組だった。どちらも成績上位の優秀な生徒だ。

《3年生であるアレガニー・バスタム組に対し、フロライア・ビスマス組は1・2年生!上級生へどのような戦いを仕掛けるのか!特にフロライア選手の可憐な活躍に注目が集まります!!》

 

 

【挿絵表示】

 

 

「…始め!」

審判の号令とほぼ同時に、フロライア様がバスタムの方へ炎の攻撃魔術を放った。バスタムがそれを避けている間に、自分自身へ防御の魔術を使う。

ビスマスの方はアレガニーへと斬りかかっていた。

《フロライア選手が魔術でバスタム選手と対峙している間に、ビスマス選手は先制攻撃!それをアレガニー選手が迎え討つ!》

アレガニーはビスマスの剣を難なく受け止めていた。さすがは3年生、どちらも安定した動きで対応している。

 

 

《…アレガニー選手の剣がビスマス選手の腕を切り裂く!だがこれは浅いか!》

戦況は3年生組が押し気味だ。フロライア組が攻めかかっていたのは最初だけ、今は守りを固める事で何とか耐え忍んでいる。

しかし形勢不利ながらもよく粘っており、なかなか勝負が決まらない。アレガニー組も相手の堅さに攻めあぐねているように見える。

だが、必ずどこかで試合が動くはずだ。私は無言で戦いの趨勢を見守る。

 

「…はあっ!!」

痺れを切らしたのか、アレガニーが大振りの斬撃をビスマスに浴びせようとする。

その瞬間。

ビスマスが目にも留まらぬほどの速さで、アレガニーの懐へと突きを繰り出した。

 

《…ビスマス選手、防戦一方かと思いきや一瞬の隙を突いて反撃!》

胴に決定的な一突きを入れられ、アレガニーがよろめきながら倒れる。

「アレガニー選手、戦闘不能!!」

《なんと、わずか一撃でアレガニー選手を沈めた!?》

ヒュームの実況が、驚きに包まれた場内に響いた。

《正確かつ冷静な一撃だったね。ずっとチャンスを狙っていたんだろう。良い忍耐力だ》

レグランドの方は平静な口調だ。こうなる事を読んでいたんだろうか。

更にビスマスは、間髪入れずにバスタムの方へと距離を詰めた。

突如として一変した戦況に相手が対応する前に仕留めるつもりなのだ。

振りかぶられたその剣を見て、私は息を止める。

 

 

…ああ、そういう事か。

「…勝者、フロライア・ビスマス組!!」

審判の宣告と共に、わっと彼女たちを讃える歓声が上がる。

《アレガニー選手を倒したビスマス選手の剣が、バスタム選手をも捉えた!これは驚きの大番狂わせ!!》

確かに、1・2年生のタッグで3年生を倒したのは大したものだろう。予想外の結果に観客たちは熱狂している。

「…リナーリア君?」

先輩が少し怪訝そうな表情で私を見る。

「いえ。見事な試合だったので少し驚いてしまいました」

穏やかに微笑み返しながら、私は内心で笑い出したい衝動に駆られていた。

やっと分かった。思い出した。ビスマスを一体どこで見かけたのか。

 

…あいつは、前世の私が最期に見た男。

()()()()()()()()()()()()()()

 

 

あの時私は逃げた彼女を追い、なんとか追いついて捕らえようとした所で、逆に彼女の仲間らしき男たちに斬りかかられ囲まれてしまった。そのうちの一人…私に一太刀を浴びせたのがビスマスだ。

夜だったし、覆面もしていたからはっきりとは分からなかったが、あのくすんだ灰色の髪と太刀筋は間違いない。

深手を負った私は自分の命がもう幾ばくもないと悟り、自分ごと彼女たちを巻き込む大魔術を行使した。

…その後のことは全く分からない。どうしても思い出せない。

周辺一帯を更地にするくらいの威力はあったはずだから、きっとあの場にいた全員を殺せただろうと思うが。

そもそも、私が死んだ後あの世界はどうなったのか。

考えても分かりはしないし、考えると頭がおかしくなりそうなのであまり考えないようにしてきた。

 

 

 

心臓がどくどくと波打ち、吐き気がする。

「…すみません、少しお手洗いに行ってきます」

できる限り平静な口調でそう言うと、素早く席を立った。

「リナーリア?」

お兄様の声が背にかかるが、聞こえないふりをして早足で観戦席の出口へ向かう。

今振り向けば、様子がおかしいと悟られてしまうかもしれない。

 

控室やトイレへと続く廊下を歩き、曲がり角でずるずるとしゃがみ込んだ。

…だめだ。落ち着け。動揺している場合じゃない。

次の次はお兄様たちの試合だ。すぐに戻っていつも通りの顔を見せなければ。

彼女たちは敵だと、そんな事は分かっていたつもりだったのに、急に蘇った生々しい前世の記憶がひどく感情をかき乱す。

倒れた殿下の姿が、私を切り裂く白刃が、零れた鮮血が、まざまざと蘇る。

今でもまだ血を流しているのではないかと錯覚するほどに、胸が痛む。

 

 

無性に殿下の声が聞きたかった。

大丈夫だと言って欲しい。生きている事を確かめたい。

なんて馬鹿馬鹿しい考えだ。殿下は今もすぐそこにいる。観戦席で試合を見ている。

ほんの少し歩けば確かめられる距離だ。

でも、こんな顔で殿下の前に出られるものか。

 

 

「…リナーリア!」

懐かしい声に、はっと顔を上げた。

「…殿下…」

薄暗い廊下の中、わずかな光を受ける淡い色の金髪が見えた。

殿下がそこに立っている。心配げな顔で私を見下ろしている。

…どうしてこんな所に。

今ここに来てくれて嬉しいという気持ちと、今は来て欲しくなかったという気持ちが、私の中でごちゃごちゃに入り混じる。

 

「どうしたんだ。顔色が悪い」

「…大丈夫です、何でもありません」

笑って立ち上がり、踵を返そうとしたが、その手を殿下が掴んだ。

咄嗟に手を引こうとするが、殿下は強く握ったまま離さない。

「何でもないようには見えない」

こちらを案じる声と翠の瞳。

殿下はいつもこうだった。

私が辛い時、落ち込んでいる時、どんなに隠そうとしてもすぐに気が付いてしまう。決して放っておかない。

 

 

掴まれた手から殿下の手のひらの温もりが伝わってくる。

温かい手だ。しっかりと血が通っている手。

自ら吐いた血に塗れていたりはしない。

激しかった動悸が少しずつ収まっていく。

私は詰めていた息をゆっくりと肺から吐き出すと、握りしめていた拳から力を抜いた。

 

 

「リナーリア」

もう一度、殿下が私の名前を呼んだ。

懐かしい声で、しかし、かつてとは違う名前で私を呼ぶ。

…そうだ。今の私はリナーリアだ。リナライトではない。

そして殿下は、今もこうして私の目の前で生きている。

「…大丈夫です。少し、悪い夢を見てしまったみたいで」

「夢?こんな昼間にか?」

「はい。変な話ですよね」

私は再び笑った。今度は、ずいぶんマシに笑えたはずだ。

 

「でも、殿下が来てくださったので元気が出ました!」

あえて明るく言うと、殿下はとても複雑そうな、何だかおかしな顔をした。

廊下の向こうからわあっと歓声が聴こえる。次の試合が始まっているのだ。

「心配してくださってありがとうございます。もう戻りましょう。早くしないと、試合を見逃してしまいますよ」

 

「…本当に大丈夫なんだな?」

「はい」

うなずく私に、殿下は少しだけ躊躇ってから「分かった」と言って手を離した。

…遠ざかるその温もりを、寂しいなどと思ってはいけない。

 

「殿下。試合、頑張って下さいね」

「ああ」

力強く答えてくれる横顔が嬉しかった。



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第89話 武芸大会・4

観戦席に戻ると、お兄様にも「大丈夫かい?」と言われてしまった。

やはり先程の私の態度は不審に見えていたらしい。

でも、なんとか誤魔化せたようだ。吐き気や胸の痛みも治まっている。

…殿下のおかげだ。心配をかけてしまったようで申し訳ないけれど。

 

 

そのまま試合を観て、次はいよいよお兄様たちの番だ。

「行きましょう、ティロライト様」

「う、うん」

ヴォルツに促され、お兄様が妙にぎくしゃくとした動きで立ち上がる。

「お兄様、落ち着いて戦えば大丈夫です。ヴォルツ、お兄様をお願いしますね。二人共頑張ってきて下さい!」

私の励ましに二人はそれぞれうなずいてから控室へと向かった。

 

 

「…東、騎士課程1年、アーゲン・パイロープ!同じく騎士課程1年、ストレング・ドロマイト!」

《アーゲン選手は文武両道の聞こえの高いパイロープ公爵家の嫡男!名家の意地を見せられるか!》

やや緊張した面持ちのアーゲンとストレングが進み出て、応援の歓声が上がる。

 

「西、魔術師課程3年、ティロライト・ジャローシス!騎士課程3年、ヴォルツ・ベルトラン!」

《ティロライト選手は第1試合で勝利を収めたリナーリア選手の兄!兄妹揃っての2回戦進出はなるでしょうか!》

お兄様は片手に短い杖を持っている。アーゲンよりもはるかに緊張しているように見えるが大丈夫かな?

ヴォルツはいつも通りの仏頂面で剣を下げている。…これは、手加減するつもりかな。

アーゲンの組ほどではないが、お兄様たちにも同級生中心にそれなりの応援の声はあるようだ。

 

 

お互いに一礼をし、それぞれが好きな位置へと移動する。

アーゲンとストレングはほぼ並んだ位置、お兄様だけは後方に下がりヴォルツの背に半分隠れるような位置を取る。

「…始め!!」

審判による試合開始の号令と共に、即座にお兄様が水撃の魔術をストレングの方へ放った。それと同時に、ヴォルツがアーゲンへと斬りかかっている。

《ティロライト選手、いきなりの水魔術!そしてヴォルツ選手もまた即攻撃に入りました!》

《この水魔術は威力よりも速度重視、恐らく足止めが狙いだね。魔術師のティロライト選手がストレング選手を抑え込んでいる間に、ヴォルツ選手がアーゲン選手を仕留める作戦かな》

レグランドが闘技場を見下ろしながら解説をする。

《今までの試合も大体そうだったけど、魔術師と騎士の組が騎士2人組と戦う場合は、この戦法が基本だろうね》

 

その間にも、お兄様は次の魔術を繰り出しストレングをその場に釘付けにしている。

ヴォルツは速攻で決着をつけるつもりなのか、容赦なく攻め立てている。

ヴォルツの剣は速く、そして重い。それを受けるアーゲンは相当苦しそうだ。

《…おっと、押され気味かと思われたアーゲン選手、隙を突いて反撃に出た!》

実況の言う通り、ヴォルツの剣をわずかに逸らした所を狙いアーゲンが攻勢に転じた。今度はヴォルツが防戦に回る。

 

《先程までとは逆にヴォルツ選手が押されています!》

《いや、これは…》

レグランドが意味ありげに言葉を切った途端に、アーゲンを横から水撃が襲った。

ストレングに向けて撃たれたかと思われたお兄様の魔術が、突然方向を変えアーゲンへと向かったのだ。

まともに水撃を食らい、アーゲンが態勢を崩す。ヴォルツが鋭く剣を振るい、アーゲンの手から剣を弾き飛ばした。

 

「アーゲン様!」

ストレングはお兄様の方ではなく、ヴォルツの方へと向かった。

しかしヴォルツは冷静に迎え討ち、ストレングの剣を受け止める。

2対1となったストレングに勝ち目などある訳がない。

お兄様の撃った風の刃をなんとか弾いたところで、ヴォルツに首元に剣を突きつけられて勝敗は決した。

 

「…勝者、ティロライト・ヴォルツ組!!」

審判の声と共にわあっと歓声が上がる。

悔しげな表情でアーゲンが立ち上がり、4人向かい合ってお互いに礼をした。

「…ありがとうございました…」

 

 

《いかがでしたか、レグランド氏!》

《終始ティロライト・ヴォルツ組が主導権を握っていた感じだね》

《途中、アーゲン選手が押していた場面もありましたが?》

《あれはアーゲン君を誘う罠だね。彼が攻めに転じて、攻撃に集中した所を狙って魔術で撃った。2対2である事を活かした作戦だ》

《なるほど!かなりタッグ部門らしい試合だったと言えますね!》

実況のヒュームは今日ずっと、ある程度の腕があれば見て分かるような事でもわざわざレグランドに尋ねて解説してもらっている。

彼とて騎士課程の3年生なのだし、今の試合にしてもお兄様たちの動きが作戦だという事は見てすぐに理解できていたのではないかと思うが、観客に分かりやすく説明するためにあえて尋ねているのだろう。

なかなかよくできた実況者だ。

 

退場していくお兄様たちに手を振ると、お兄様が気付いて嬉しそうに手を上げて応えた。

ヴォルツもぺこりとこちらに頭を下げる。

順当な結果だったかな。アーゲンたちは少し気の毒だが、彼らには来年もある。

ただ交際の件は潔く諦めてもらおう。アーゲンにはアラゴナ様もいるんだし。

 

 

 

試合後の闘技場は簡単な清掃が行われる。闘技場自体にダメージがあった場合も、ここで修復される。

清掃の係員が退出したところで、入場のラッパが鳴り響き闘技場に2組の選手が入ってきた。

観戦席へと戻ってきたお兄様たちと一緒にそれを見つめる。

《タッグ部門1回戦、次がいよいよ最後の試合!そしてこちらは、本日最も注目される試合と言えるでしょう!》

「東、騎士課程1年、エスメラルド・ファイ・ヘリオドール!同じく騎士課程1年、スピネル・ブーランジェ!」

《我が国の第一王子とその従者がタッグを組んで出場!エスメラルド選手はこのタッグ部門の発案者でもあります!そしてスピネル選手は剣の名門ブーランジェ公爵家出身!二人共かなりの使い手との前評判です!》

大きな声援に二人が片手を上げて応える。

 

「西、騎士課程3年、ウルツ・ランメルスベルグ!騎士課程2年、サフロ・ランメルスベルグ!」

《こちらはランメルスベルグ侯爵家より兄弟タッグでの出場!特に兄のウルツ選手は昨年、2年生ながらも騎士部門で上位入賞を果たしております!》

こちらも声援が大きい。女子生徒の声も目立っている。

そう言えばこの兄弟は二人共、なんとか殿方ランキング…男子の人気投票で上位に入ってたんだよな。

勝てば殿下たちの順位が上がるかもしれない。やはりどんなランキングだろうと殿下は1位であるべきだ。

《この試合は全員が騎士という組み合わせになりますが、ウルツ選手のみ盾を持っていますね》

《1対1が2組というのが基本形になるだろうけど、お互いどういう戦術を立てているのか、見ものだね》

《なるほど!スピネル選手はレグランド殿の弟君ですが、兄として何かコメントはありますか?》

《弟には特に言う事はないかな。でも、観客の皆さんには言っておこうか。…あいつは強いよ》

おおお、と観客席からどよめき混じりの声が上がる。近衛騎士のお墨付きが出たのだから当然か。

ハードル上げていくなあ…。それともただの兄馬鹿だろうか?

 

 

「…始め!!」

4人が同時に動く。レグランドの言った通り、まずは1対1が2組の形になる。

兄のウルツとはスピネル、弟のサフロとは殿下だ。

動き方からすると、兄弟の望んだ組み合わせを殿下たちが受けて立ったように見える。兄弟側としては、兄がスピネルを抑えている間に弟が殿下を仕留めたいという思惑だろうか。

 

《スピネル選手、息もつかせぬ速攻!しかしウルツ選手の盾がことごとくそれを防ぐ!》

《これは堅そうだね。よほど修練を積んだと見える》

兄は次々繰り出される剣撃とフェイントにも惑わされず、冷静に守りを固めているようだ。しかし油断はできない。彼の剣は、ずっと機を窺っている。

《エスメラルド選手は逆に受けに回る姿勢!サフロ選手の剣を見事に防いでいる!》

弟の方は素早い動きで殿下へ攻めかかっているが、殿下は気負いのない、落ち着いた動きでそれに対処している。普段からスピネルの剣速に慣れているから、こういう相手は得意なはずだ。

 

 

しばらくの攻防の後、幾度目かの大きな剣戟の音が高く響いた。

《サフロ選手、再び大胆な横薙ぎ!しかし、これもエスメラルド選手はいなした!》

サフロは先程からたびたび、横移動をしながらの大振りな攻撃を繰り返している。当たればかなりのダメージを与えられるし、外してもやや間合いが遠いので致命的な反撃は受けにくいだろうが、少々博打気味だ。動きが大きいので体力の消耗も多そうだが…。

 

そして、ついにその時は来た。

殿下を攻め続けていたサフロが、突然横に跳んでスピネルへと向かったのだ。

一瞬剣先を見失いそうになるほどの鋭く速い突き。だが、スピネルは難なくそれを躱した。

「悪いな。そう来るのは分かってた」

サフロの突きと同時に、弟の動きを妨げないよう後ろに下がっていたウルツの方へ、殿下が瞬時に向かった。身体強化を最大に使っての踏み込みだ。

ウルツは咄嗟に盾を構えようとしたが、それよりも早く殿下の剣がウルツへと届いていた。

一瞬遅れて、突きを避けられたサフロの背へとスピネルの剣が振り下ろされる。

 

 

「…勝者、エスメラルド・スピネル組!!」

わああっと、本日一番の歓声が会場を包んだ。

《これは凄い!1対1ずつで膠着したかに思えた形勢が、なんとわずか数瞬の攻防で両方に決着が付きました!!》

《ランメルスベルグ兄弟は1対1を挑んでいると見せかけて、横から攻撃し2対1を作るタイミングを窺っていたんだね。だけど、王子殿下とうちの弟はそれに気付いていた》

サフロの横移動を多用した動きによって、2組の立ち位置が少しずつずれて近付いていっているのは、斜め上から見下ろすこの観戦席からは比較的分かりやすかった。だが、戦っている本人たちからは気付きにくかったはずだ。

 

《作戦としては悪くなかったと思うよ。それぞれを1対1で沈めるのはなかなか難しかっただろうしね。でも、王子側が一枚上手だった。特にスピネルがサフロ君の動きを完全に読んで避けたのは良かったね!さすがうちの弟だ》

スピネルが凄かったのには同意するが、この人やっぱり兄馬鹿なのでは…?

闘技場の上のスピネルも、勝利を喜びきれないようななんか微妙な顔をしている。

しかし近付いて来た殿下とごつんと拳を合わせると、楽しそうに笑った。

 

…こういう顔を見ると、武芸大会でスピネルに本気で戦って欲しいと考えた殿下の気持ちが分かってしまうな。

前世でも殿下は、スピネルが卒業後ブーランジェ領に引っ込んでしまったのを惜しんでいたっけ。

あの時のスピネルは王都はもう飽きたとか何とか言っていたが…。

 

今こうして殿下の従者をしているのは、殿下にとってもスピネルにとっても良い事なんだろう。

少しだけ寂しい気持ちでそう思った。



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第90話 武芸大会・5

翌日2日目は、魔術師部門の1回戦。そしてタッグ部門と騎士部門の2回戦だ。

騎士部門は参加者が多いので一番時間がかかる。1回戦は昨日のうちに行われており、エントリーしていた殿下は当然勝ち進んでいる。

ちなみにスフェン先輩はタッグ部門に注力したいとの事で、騎士部門への出場はしなかった。

カーネリア様は大会に出場したがるのではないかと思っていたが、1年生のうちはまだ出場しないとの事だった。彼女なりの考えがあるらしい。少し悔しげではあったが。

 

タッグ部門が始まるのを待ちながら、魔術師部門の試合をのんびり眺める。

見栄え重視の部門なので試合としての緊迫感はあまりないが、見ごたえはそれなりにある。

1回戦だからどの出場者もやや抑え気味だが、決勝戦まで行けばだいぶ派手になるだろう。

3年生が使っていた、高位の雷魔術をアレンジした術などは範囲が広く威力もしっかりありそうだ。参考になる。

 

 

 

私たちの試合はタッグ部門2回戦の最初。組み合わせ表のせいで毎回第1試合だ。

相手はあのブロシャン家の長男フランクリンと、その婚約者である。

もう卒業が近い二人なので、思い出作り的な出場だろうし1回戦で消えるかと思っていたら、意外に真面目に戦って1回戦を勝ち進んできたので少し驚いてしまった。

 

「東、騎士課程2年、スフェン・ゲータイト!魔術師課程1年、リナーリア・ジャローシス!」

《美しき女性タッグが再び登場!1回戦では魔術師2人のタッグ相手に華麗に勝利を収めました!》

「西、魔術師課程3年、フランクリン・ブロシャン!騎士課程3年、オリーブ・アンブリゴ!」

《こちらは本年度ベストカップルの呼び声も高い2人のタッグ!1回戦では息の合った戦いで騎士2人組を沈めました!》

オリーブ様はフランクリンの幼馴染で、魔術師の彼を守りたいからという理由で自ら女騎士を志したご令嬢だ。

周囲は彼女の選択に仰天したそうだが、案外才能があったらしく優秀な成績を修めている。フランクリンとはバカップルとして学院内で有名だ。

《女騎士と魔術師という、似通った組み合わせの2組と言えますね!》

《それぞれの魔術師がどういう動きをするかが勝負の鍵になりそうかな?》

レグランドが面白そうな口調で言う。

 

 

「…始め!!」

「ダーリン!行きますわよ!」

まずオリーブ様がフランクリンの方へ手を伸ばし、フランクリンもまたそこに手のひらを合わせる。

「任せて!『風よ渦巻け、纏いて鎧となれ』…!!」

詠唱と共に、風の鎧の魔術がオリーブ様を覆った。

《フランクリン選手は風の防御魔術をオリーブ選手に使用!どうやら1回戦と同じ戦術か!》

1回戦を見ていたが、二人はこの風の鎧の使い方が実に上手い。風を使って相手の剣を逸らし、逆に自分の剣には勢いをつける。

フランクリンが細かな調節をしながら魔術を使い続けているのだが、オリーブ様の方もよくタイミングを合わせて動いている。息が合っていなければできない芸当だ。

何か無駄にイチャイチャしてるようにも見えるが、あれも息を合わせるために必要な事なんだろう。…多分。

 

オリーブ様が剣を構えて叫ぶ。

「わたくしとダーリンの愛が!渦巻く風となり!」

「嵐を呼び起こし!二人に勝利の祝福をもたらす…!!」

オリーブ様とフランクリンが左右対称にポーズを決め、私は思わず真顔になった。

ばばーん!!という幻聴まで聴こえた気がする。

《フランクリン組、愛の勝利宣言!》

《見事に揃ったポーズだ。実に仲がいいね》

 

二人は1回戦でもだいたい似たような名乗りを上げていたのだが、改めて目の前で見ると、何と言うか…こう…。

「リナーリア君!僕たちも負けていられない!!二人の絆の力で栄光を掴み取るんだ…!!」

スフェン先輩は私とは逆にめちゃくちゃテンションを上げていた。無意味にかっこいいポーズでこちらを振り返る。

試合前「まずは相手の出方を見よう」と言っていたのでその通りにしたが、これ先輩はもしかして名乗りを見たかっただけなのでは…?

 

「ふふ、愛と友情の絆と、どちらが勝るか…ここで証明してみせようじゃないか!」

「いいわ!受けて立ちますわよ、ダーリン!」

「もちろんだよ、ハニー!!」

…えええ…。3人共すごい楽しそうなんですけど…。

これではまるで、一人だけ真顔の私がおかしいみたいではないか。でも無理だ。私にこのテンションは無理だ。

《スフェン選手、負けじと闘志を漲らせる!双方譲らない姿勢だ!!》

《…ところで、いつ戦いを始めるのかな?》

レグランドがつぶやく。そんなの私が聞きたい。

 

 

いや、今は試合中だった。戦いはもう始まっているのだ。

何とか気を取り直し、得意の水魔術で周囲にいくつもの水球を浮かべる。

《リナーリア選手、魔術で水球を大量に召喚!》

先輩がニヤッと笑って姿勢を低くし、剣を構える。

「リナーリア君、行くよ!僕たちの表情豊か(エスプレッシーヴォ)なる二重奏(デュエット)…!」

私にあまり高度なアドリブを求めないで欲しいんですが!!

「は、はい!行きます!機敏に(ヴィヴァーチェ)…!!」

とりあえず先輩に合わせ、適当に音楽用語を言いながら水球を操った。特に意味はない。ないんだよ!

 

まずはオリーブ様の頭上と足元に向けて水球を撃ち出す。

風の鎧がなるべく薄そうな部分を狙ったのだが、しっかりと弾かれた。フランクリンが私の魔術に合わせて風を動かして防いでいるのだ。

《水球がフランクリン組を襲う!しかしフランクリン選手の魔術がそれを防いだ!》

ほぼ同時にフランクリンの方にも水球を撃っていたのだが、こちらは彼の防御結界の魔術に防がれた。

…予想通りだ。

何しろ彼は1回戦でも、風の鎧と防御結界の2つの魔術以外ほとんど使っていなかったのだから。

《フランクリン君の風魔術は器用だね。少ない出力で上手く相手の魔術に対抗してる》

彼はそれほど才能豊かな魔術師ではない。センス、技術、魔力量、どれも突出したものがあるわけではない。

しかし、自分の力を効率的に使う方法に長けている。彼もまた称賛すべき魔術師なのだ。

 

先輩もオリーブ様へ向けて剣を繰り出しているが、次々に風の鎧に弾かれている。

しかも、向こうが斬り付けてくる剣には風の勢いがある。先輩は受けには回らずなるべく避けて凌いでいるが、いつまでも避け続けるのは難しいだろう。

「これはなかなかやりにくいね…!」

「当然よ!ダーリンの愛が、わたくしを守ってくれている…!」

「その通り!僕の愛はいつでもハニーを包んでいる…!!」

それにしてもこれはやめて欲しい。切実に。気が散ってしょうがない。

いや、そういう心理攻撃なのか…?

だとしたらかなり効果的と言わざるを得ない。私の集中力は確実に削がれている。

 

このままではまずい。

先輩は連撃を使ってダメージを与えるタイプ、一撃の重みには欠けるので、この風の鎧とはあまり相性が良くない。

魔術師の私が現状を打開する必要がある。

 

 

いくつもの水球をオリーブ様の周囲に素早く飛び回らせる。

「く…鬱陶しいですわ!」

命中はしなくても、しつこく飛び回る水球は相手の気を散らす。苛立ちを表した彼女に、私は「先輩!」と叫びながら土魔術を使った。先輩がすかさず後ろに飛び退る。

『隆起せよ、石の塔!』

「きゃっ…!?」

《リナーリア選手、土魔術でオリーブ選手の足元の石床に干渉!》

高く隆起した石床によっていきなり数メートルも持ち上げられ、オリーブ様が悲鳴を上げる。

彼女の全身を覆っているかのように見える風の鎧だが、足の裏にだけはそれがない。

もしも足の裏に風を纏わせれば地面に足をつけなくなり、踏ん張りが効かず動きが大きく妨げられるからだ。

だから私は水球で彼女の集中を乱した上で、足の裏を狙って土魔術を使った。

先輩は私の作戦をきちんと察していたようで、タイミングよく下がってくれた。念入りに連携訓練をしておいたおかげだ。

 

天高く盛り上がり塔となった石床は、無理矢理その構造を広げたせいでかなり脆い。当然、オリーブ様の体重を支えられずボロボロと崩れることになる。

「オリーブ…!」

フランクリンは、体勢を崩し空中に投げ出されかけたオリーブ様の身体を魔術で支えようとした。

その瞬間を狙い、フランクリンへと容赦なく大きな火魔術を叩きつける。

『業火よ、焼き尽くせ!』

彼の防御結界はかなり堅そうだったが、私の魔術の威力ならそれを破れる。オリーブ様を助けようとしているこのタイミングなら、二重防御も使えない。

フランクリンががくりと膝をつき、審判が「フランクリン選手、戦闘不能!」と叫ぶ。

 

《オリーブ選手を助けようとしたフランクリン選手ですが、そこを狙って業火の魔術が炸裂!フランクリン選手が脱落しました!》

「…今です、先輩!」

「ああ!!」

先輩が身体強化を使い、落下していくオリーブ様へ向かって大きく跳び上がる。

オリーブ様の身体を守っていた風の鎧は、術者であるフランクリンを失いかなり薄くなっているはずだ。

「ここで決める!決然と(リゾルート)…!!」

斜め上、下、そして横。3つの斬撃が、瞬く間に叩き込まれる。

「きゃああ…!!」

 

真っ逆さまに落ちたオリーブ様の身体が地につく寸前、私は風魔術を使ってそれを受け止めた。ふわりと一度浮いてから地面に横たわる。

闘技場に張られた結界の効果で落下の衝撃はだいぶ緩和されるだろうが、受け身も取らずに落ちればさすがに結構痛いはずだ。女性にあまり痛い思いをさせるのは忍びない。

「オリーブ選手、戦闘不能!スフェン・リナーリア組の勝利!!」

観客席からわあっと歓声が上がった。

 

《最後は空中での華麗な三連撃が決まりました…!!》

《足場のない空中ではあれは避けられない。しかも斬り上げに落下の勢いが加わっていたから、一撃目の時点で風の鎧は吹き飛んでいたね。オリーブさんにはかなりのダメージがあったはずだけど、最後は魔術で受け止めるという万全さだ。余裕の勝利と言えるだろうね》

 

「オリーブ!」

地面に倒れたオリーブ様に、よろめきながらフランクリンが近寄り助け起こす。

「ダーリン…ごめんなさい。負けちゃったわ…」

「いいや…君は悪くない。僕の愛が一歩届かなかった…」

「悲しむ必要はない!」

手を取り合い悲しげにうつむく二人の前に、スフェン先輩が立った。

「君たちの愛は見事だった!もしリナーリア君がいなければ、僕の剣は愛に阻まれ全く届いていなかった事だろう!!」

 

「今回は僕とリナーリア君の絆が君たちを上回った。だが尋ねよう。君たちの愛はこんな所で終わってしまうのかい!?」

「…!!」

雷に打たれたかのように、手を取り合う二人の身体が震える。

「いいえ…違うわ!わたくしとダーリンの愛は永遠…!」

「そうだよ、ハニー!」

熱く見つめ合うフランクリンとオリーブ様。

「この試練を乗り越え、二人でもっと強い愛を築いていこう…!!」

先輩が高らかに拍手を打ち鳴らした。

「ブラボー!おお…ブラボー!!」

大きく腕を広げながら感嘆する。

「さあ皆、この二人に称賛と拍手を…!!」

観客席から、再びの歓声と拍手が上がった。

 

 

私はずっと真顔のまま後ろで見ていた。

入っていけない。



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第91話 武芸大会・6

「いやあ、楽しい戦いだったね!」

「そうですね…」

試合が終わり観戦席に向かいながら、スフェン先輩は非常に上機嫌だ。私は正直かなり疲れた。精神的に。

「リナーリア君の動きも良かったよ。…機敏に(ヴィヴァーチェ)!」

「や、やめてください…!」

私の物真似をしてポーズを取る先輩に、私は恥ずかしくなって両手で顔を覆った。

あの時は適当に合わせてはみたものの、やはり私にはこういうのは似合わないと思う。もっとこう、地味で堅実なのがお似合いだ。

殿下の横で添え物に徹していた前世が懐かしい…いや、殿下があまり喋らないから代わりに前に出て喋る事も結構あった気がするが。

「謙遜することはないよ、リナーリア君。やはり君には物語の主役たる才能がある!僕の目に間違いはなかったね!」

「ないです…そんなのないです…」

そんな事を言いつつ歩いていると、階段の手前でフランクリンたちとばったり出くわした。

 

「やあ、リナーリアちゃん、さっきはありがとう!」

たった今試合をして負けた相手だと言うのに、フランクリンは非常ににこやかで少し戸惑ってしまう。オリーブ様の方は拗ねた表情のようだが。

「君の魔術のおかげで、オリーブは怪我をしなくて済んだよ。勝敗も大事だけど、僕にはオリーブの方が大事だから…ありがとう」

「あ、いえ…」

なるほど、そういう意味でのありがとうなのか。

オリーブ様も、「ありがとうございました」と言って素直に頭を下げる。

「やっぱり君は強いなあ…。君と戦ったこと、ユークはきっと羨ましがっていると思う」

「…そうだと嬉しいです」

魔鎌公の訃報を聞いてからユークには手紙を送ってみたのだが、今の所返事は来ていない。あまり落ち込んでいなければいいのだが…。

「きっと手強い戦いになるだろうけど、二人共、この後も頑張ってね」

フランクリンに笑いかけられ、私と先輩は揃って頷いた。

「はい」

「僕たちと戦って敗れたことが誉れとなるよう、全力を尽くします」

フランクリンとオリーブ様の、「期待しているよ」と「期待しておりますわ!」の2つの声が重なった。

 

 

その後、昨日と同じくティロライトお兄様たちと一緒に試合を見た。

明日私達と対戦する事になるのは、ジェイド会長の組を破った3年生の魔術師と騎士のタッグになるようだ。

会長がこんなに早く負けてしまうとは意外だったな。次の相手は、今までで一番手強いのは間違いない。

 

フロライア・ビスマス組も2回戦を通過した。

今度は私もちゃんと最後まで落ち着いて見る事ができた。

彼女たちは1回戦に続きやや苦戦気味に見えたが、どこまで本気なのかは分からない。

 

 

 

《次はタッグ部門2回戦最終試合!大注目の一戦です!》

「東、魔術師課程3年、ティロライト・ジャローシス!騎士課程3年、ヴォルツ・ベルトラン!」

闘技場に上がってきた二人を見て、観客席がざわめく。

《なんとヴォルツ選手、剣ではなく槍を手にしています!えー、タッグ部門のルールでは使用武器が自由となっていますが、騎士が剣以外を使うのはこの試合が初めてですね!》

《彼は剣術の腕も良かったけど、ここでわざわざ持ち出して来たという事はよほど槍に自信があるんだろうね。滅多に見かけない得物だし、これは面白くなりそうだ》

 

魔獣との戦いでは剣が最も使いやすいとされているため、この国の騎士に槍使いはほとんどいない。ごく一部の領で組織的に扱っている所があるくらいで、他は滅多にいない。

ヴォルツは生家がその数少ない槍使いの家系なのだが、学院の授業では普通に剣を使って槍術の訓練はうちの屋敷の方で行っていたそうなので、彼が本来槍使いである事は学院でほとんど知られていないはずだ。

「やはり本気で行くみたいだね。楽しみだな」

隣のスフェン先輩がヴォルツの姿を見つめる。先輩は訓練で手合わせした時に一度、彼の槍術を見ているのだ。

 

「西、騎士課程1年、エスメラルド・ファイ・ヘリオドール!同じく騎士課程1年、スピネル・ブーランジェ!」

前に出てきた殿下とスピネルも、ヴォルツの得物を見て驚いているようだ。

《1回戦で見事な勝利を収めた二人は、槍使いと魔術師を相手にどんな戦いを見せてくれるか!なお、エスメラルド選手は騎士部門の1回戦でも勝利しています!》

にやりと笑ったスピネルが殿下を見て、二言三言なにか言葉を交わす。殿下は少し不満そうな顔で小さくうなずいた。

作戦会議かな?

多分槍を持ってくるとは思っていなかっただろうし、予定と戦術を変える気なのかもしれない。

 

 

「…始め!!」

《エスメラルド選手がティロライト選手、スピネル選手がヴォルツ選手に突進!ティロライト選手は水の盾を呼び出した!》

予想通りの組み合わせだ。

殿下もスピネルも槍使いと戦った経験などほとんどないのは同じだと思うが、器用なスピネルの方がヴォルツの相手には適任だろう。

《ティロライト選手、水の盾を張ったままエスメラルド選手へ魔術を連発!》

お兄様は次々と攻撃魔術を使い始めた。水の盾は防御ではなく殿下の動きを妨げるために使っているようで、自分へは絶対に近付けさせない作戦のようだ。

 

そしてヴォルツも、冷静に槍を構えスピネルを迎え討っている。

《ヴォルツ選手、落ち着いた槍捌きでスピネル選手を寄せ付けない!1回戦では素早い剣速で相手を抑え込んでいたスピネル選手も、これには防戦に回るしかない様子!》

《そもそも、リーチにおいて槍は剣に対して有利だ。何とか懐に入り込みたい所だろうが、ヴォルツ君はなかなかに熟練した槍使いのようだ。その隙を見つけるのは大変だろうね》

 

 

闘技場の上で、しばしの攻防が続く。

「全然隙がないんだけど…!」

お兄様はヴォルツの支援をしたい所だろうが、自分の戦いで手一杯の様子だ。殿下はお兄様の魔術に最小限の動きで対処していて、その速度が想像以上に速いのだ。

殿下があまり動かないので、水の盾はそれほど役に立っていないように見える。

 

ヴォルツもその場から大きく動くことはせず、スピネルに対して無言のまま槍を振るっている。

「やるな、あんた」

スピネルは余裕ぶって軽口を叩いているようだが、これほどに攻めあぐねているのを見るのは初めてだ。

フェイントを多用した素早い攻勢を最も得意としている彼だが、剣士相手とは間合いが違うせいかさすがに攻めきれないらしい。

先程レグランドが言ったように、槍と剣で戦えば槍の方が有利だという話は私も聞いた事がある。剣が届かない間合いからでも、槍は一方的に攻撃ができるからだ。

ましてや槍と戦った経験がほとんどないのならば、ますます剣士側が不利だろう。騎士部門で剣以外の武器が禁止されているのも、大会のためだけに槍などの長柄武器を使う者がいたからだと聞く。

 

「はっ!」

わずかな隙を狙ってスピネルの剣が振るわれるが、遠い。その度あっさりとヴォルツの槍にいなされている。

《スピネル選手果敢に攻めかかるが、これは届かない!逆にヴォルツ選手の反撃を受けそうになるが、なんとか躱した!》

《今の所戦況は拮抗しているね。そう長く続きそうにはないけど…》

ヴォルツも動きの速いスピネルを捉えきるのはそう簡単ではないようだ。しかし、スピネルは槍を避け続けなければいけない分体力も集中力も大きく消耗するだろうから、長期戦になれば恐らくヴォルツが有利。

だがこれはタッグ戦だ。

この状況を動かすのは、多分…。

闘技場の上、息を潜めているように見える淡い金髪の姿に注視する。

 

 

やや離れた所でお兄様の魔術を避けたり受けたりしていた殿下が、ふいに何の前触れもなく前に出た。

『炎よ!』

お兄様が咄嗟に火球を放つが、殿下はほんの少し身体を傾けるだけでそれを避けた。

「ふっ…!」

水の盾に向かい、短い気合と共に斬撃を加える。見てわかるほどに大きな魔力が込められた一撃だ。

さらにもう一撃、刃を受けて薄くなった所に返す刀で斬り付けると、水の盾は耐えきれずに大きく切り裂かれた。

《エスメラルド選手、火球を避けつつ突進!ティロライト選手の水の盾を打ち破った!》

《ずっと魔力を練っていたみたいだね。素晴らしい威力だった》

 

お兄様は慌てて水を集め直し盾を張り直そうとするが、その間に殿下は姿勢を沈め盾の残骸を掻い潜るようにして走り出している。

速度を落とす事なくお兄様へと肉薄し、素早く剣を振るった。

《容赦ない連続攻撃がティロライト選手を襲う!》

「くぅ…!」

お兄様は防御結界を使って何とか耐えたが、至近距離で騎士に斬り付けられては長く持つはずもない。

幾度目かの斬撃がついにお兄様の身体に届く。

「ティロライト選手、戦闘不能!」

審判の声を聞き、ヴォルツがわずかに顔を険しくする。

《最初に落ちたのはティロライト選手!エスメラルド選手、すぐにヴォルツ選手の方へ向かう!2対1だ!》

 

 

 

「…勝者、エスメラルド・スピネル組!」

《ヴォルツ選手はしばらく粘ったものの、スピネル選手とエスメラルド選手の連携の前に倒れた!》

勝利が宣言され、殿下とスピネルが軽くハイタッチをする。

しかしスピネルの方は悔しそうな表情だ。上手く感情を隠せていないあたり、二人がかりでないとヴォルツを倒せなかったのが相当悔しいらしい。

槍使い相手に慣れない戦いをしたのだから、互角に戦えていただけでも十分だと思うのだが、本人にとってはそうではないのだろう。

《この試合では、エスメラルド殿下の動きが光っていたね。ティロライト君の魔術に落ち着いて対処し、剣に魔力を溜めていた。魔術師を相手とする想定での訓練をきちんと積んで来たと見える》

スピネルとは対称的に、殿下は手応えを得られたというような少し満足げな表情をしている。

お兄様相手に思った通りの戦いができたのかもしれない。

 

私としては殿下の魔術への対処の上手さよりも、水の盾を斬った時やお兄様に近付いた時の体重移動の巧みさの方が気になった。

前世の殿下とは少し違う。スピネルの動きに似ていたように思うので、彼から学んだものかもしれない。

《それと、ヴォルツ君の槍術は見事だったね。いくら槍が有利とは言っても、うちの弟が完全に抑え込まれていた。槍使いは希少だし、僕も一度手合わせをしてみたいものだ》

近衛騎士であるレグランドからの称賛に、観客席からはおお…というどよめきが上がる。

うちのヴォルツが評価されて私も鼻が高い。学生だからまだうちの騎士ではないんだが。

 

 

4人はお互いに握手をしながら何か会話を交わしていたが、ヴォルツに話しかけたスピネルはその返事を聞いてムスッと口を曲げていた。

一体何を言ったんだろう?後で聞いてみよう。



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第92話 武芸大会・7

「お兄様、ヴォルツ、お疲れ様でした。本当に惜しかったです」

「とても良い試合でした」

私とスフェン先輩とで、闘技場から戻ってきた二人を出迎える。

「いやあ、やっぱり勝てなかったよ…」

「ご期待に添えず申し訳ありません」

お兄様はちょっと残念そうに頭をかき、ヴォルツは生真面目に頭を下げた。

 

「お二人共立派に戦っていましたよ。相手が強かっただけです」

組み合わせ次第ではもっと勝ち上がれただろうに、ここで殿下たちと当たってしまったのは運が悪かったと思う。

「ほんと、王子殿下にはびっくりだよ。何撃っても全部避けるか落とすんだもん…」

お兄様がぼやくように言う。

「そうですね。まるで何が来るか分かっているみたいだった」

相槌を打つ先輩も、殿下の戦いには感心しているようだ。

あの闘技場の大きさで魔術師と騎士が一騎打ちなどすればやはり騎士が有利なのだが、それにしても殿下の動きは良かったからな。全く無駄がなかった。

 

「俺がティロライト様を助けられたら良かったのですが」

ヴォルツは責任を感じているようだが、あのスピネルを振り切ってお兄様を助けに行くのはそれこそ無理な話だ。

「仕方ありませんよ。スピネルは恐らく、この学院で一番強い剣士です」

「…そうかも知れませんね」

私の言葉をヴォルツも仏頂面のままで肯定し、お兄様があれっという顔をした。

「どうかしました?」

「いや、まさかリナーリアがそんな事言うなんて。いつもあんなに殿下は凄い凄いって言ってるのに、スピネル君の方が強いと思ってるんだ?」

「…今の時点ではそうだと言う話です」

唇を尖らせながら答えると、「へえ…」と意外そうに言われる。

私だって、ただ盲目的に殿下が強いと言っている訳ではないので少々心外だ。

今日はあまり良い所を見せていなかったスピネルだが、槍を相手にあれほど粘れたのはやはり彼の抜きん出た対応力があればこそだ。その速さと強さには安定感がある。

そう簡単に超えられないからこそ、殿下も好敵手として認めているのだろうし。

 

「つまり、そのスピネルと渡り合っていたヴォルツは本当に強いという事です。レグランド様もヴォルツの戦いぶりを見て実力を認めていましたしね。私としても誇らしいです」

「ありがとうございます」

「そうだねえ。ヴォルツの勇姿はコーネルにも見せてあげたかったな」

うんうんうなずくお兄様に、私はきょとんとした。

「コーネルにですか?」

我が家の騎士が強いというのはコーネルにとっても喜ばしい事だと思うが、彼女はこういう試合になど興味ないのではなかろうか。

私がこの手の話をするといつも、黙って話を聞いてはくれるものの特に楽しそうにはしていない。

 

すると、隣の先輩は「おやおや」と言って肩をすくめ、お兄様はにっこり笑ってから私の頭を撫でた。

「な、なんですか?」

「いいや。いいんだよ」

「だから何なんですか!」

しかしお兄様は黙って頭を撫でてくるだけだし、先輩も微笑んでいるだけで何も言う気はないらしい。

何だこの妙にあったかい空気。

思わずヴォルツの方を見るが、無言のまま全く表情を動かしていなかった。

さっぱり分からない。

 

どういう意味か考えようとして、それよりも気になっていた事があったのを思い出す。

「あの、ヴォルツは最後スピネルと握手をしながら話をしていましたよね?何を言われたんですか?」

「ああ…。また手合わせをしたいと言われました」

なるほど。スピネルとしては不満の残る戦いだったようだし、何とかリベンジをしたいんだろう。

「なんて答えたんですか?」

「お嬢様が良いと言えば承ります、と」

「……」

道理で不機嫌な顔をしていたはずだ。

「そこ、僕じゃなくてリナーリアなんだ…」

「ヴォルツ先輩も結構意地が悪いんですね」

お兄様とスフェン先輩に口々に言われヴォルツが少しだけ目を逸らす。

どうもスピネルの事が気に入らないっぽい…?腕は認めているみたいなのに。

ヴォルツは我が家の者以外、誰に対しても基本的に無愛想だから気のせいかもしれないが。

これまたよく分からない。

 

 

それからすぐに昼休憩の時間になったので、お兄様たちと別れスフェン先輩や先輩ファンの方々と昼食を取った。

これは当日の試合の反省会と明日の対戦相手の予習も兼ねていて、大会中は毎日行う事になっている。

ファンの方々が集めた大会参加者の情報は、シリンダ様がしっかりまとめてくれているおかげで結構参考になる。

たまに「どこからそんな情報を…?」というものも混じっているので侮れない。この情報網を好きに使える先輩の存在がちょっと恐ろしくなってきたくらいだ。

なお、先輩と私が現在のところ危なげなく勝ち上がっているので、ファンの方々は大変上機嫌だ。

それに大会前の訓練の見学をしてからは、ほとんどの方が私に好意的になっている。努力が認められたようで嬉しい。

「頑張って!」と個人的に声をかけてくれる方も多く、私としても前よりずっと居心地がいい。

エレクトラム様…エレクトラムお姉さまもすっかり私に親しげだ。どうも鼻息が荒いのがちょっと怖いけど。

 

 

午後は騎士部門の2回戦で、殿下は3年生の実力者が相手だったが見事に勝ちを収めていた。

また腕を上げたような気がするな。相手の動きに対する判断が早いので、以前にも増して守りが堅く、攻めにも切れがある。

水霊祭の一件以来ずいぶんやる気を見せていたそうだが、それがしっかりと身になっているようだ。とても嬉しい。

しかも調子が良さそうなので、これは本当に優勝するかもしれないな。

殿下に対し、観客席できゃいきゃいと騒いでいる女子生徒も目立つ。

武芸大会で活躍した生徒はモテるからなあ。それが目当てで出場する者もいるくらいだ。

これはついに殿下モテ期が来てしまうな…。今まで来てなかった方がおかしいんだが。

 

 

2日目の日程が終わり寮に戻ってからは、私の試合の他にお兄様とヴォルツの試合についてもコーネルに話して聞かせた。

普段から聞かせてはいるのだが、いつもよりコーネルの様子に注意しながら話すと、ちょっと嬉しそうにしているような…。

気になってじっと顔を見ていると、「そろそろ帰ります」と急に帰り支度をされてしまった。何だか不自然だ。

「コーネル、何か私に隠し事をしていませんか?」

「お嬢様が求婚されていたことを旦那様方に話した件なら、もうティロライト様からお聞きになったのでは」

「そうではなく、ヴォルツの事とか」

コーネルは一瞬だけぴたりと動きを止めた。それからいつもと変わらない平静な顔で私を見る。

「私にだって隠し事くらいはあります。お嬢様が私に隠し事をなさってるのと同じですよ」

そう言われてしまうとぐうの音も出なかった。

心当たりが多すぎる…。

 

結局何一つ疑問が解消される事はなく、モヤモヤとしたままその日は眠りにつく事になった。



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第93話 武芸大会・8

武芸大会3日目。

今日は騎士部門の3回戦と、全部門の準決勝だ。

騎士部門は一番参加者が多いので試合数が他部門より多い。タッグ部門にも出ている殿下などは今日1日で3試合する事になりそうだ。

今年は3部門制になって初めての年だから多少は仕方ないが、複数部門への出場者の消耗を考えると日程については一考の余地があると思う。

魔力は魔法薬などいくつか回復手段があるが、中毒の恐れがあったり倫理的に問題があったりするのであまり推奨できるものではない。

そして体力の方は、休養に勝る回復手段がない。

殿下の体力なら3試合くらい何ともないとは思うが…。

長期戦に備え体力魔力を温存しながら戦う技術も騎士や魔術師にとっては必要なものなので、そういう意味では仕方ないのかもしれない。

 

騎士部門3回戦は観戦席で見ていたが、もちろん殿下はしっかり勝った。

さすが殿下だ。本当に強いなあ…。

準決勝は殿下以外は3年生になるようで、厳しい戦いが予想される。どうか頑張ってほしい。

 

 

 

「…東、騎士課程2年、スフェン・ゲータイト!魔術師課程1年、リナーリア・ジャローシス!」

《本部門唯一の女性タッグ、しかも1年と2年の組み合わせながら準決勝進出のこの二人!美しき嵐はどこまで吹き荒れるのか!!》

実況のヒュームに紹介され、1・2回戦を上回る大きな歓声を浴びながら、闘技場の階段を登ってゆく。

先輩はこの大会が始まってからますますファンが増えているようだ。女生徒だけでなく既婚の貴族女性からも人気が出ているらしい。私にはよく分からない世界だ。

「西、魔術師課程3年、カラベラス・キンバレー!騎士課程3年、アルチーニ・ポリバス!」

向こう側から闘技場に上がって来たのは、小柄な魔術師と筋骨隆々とした大男の騎士という対称的な二人組だ。

《対するは3年生、各課程で常に上位の成績を修めている二人のタッグ!今回の優勝最有力候補とも言われています!!》

アルチーニは恵まれた体躯から生まれる剛剣で敵を寄せ付けない、とても強い騎士だ。騎士部門の方にも出場しているが、当然のように勝ち進んで準決勝進出を決めている。

更に注意しなければいけないのがカラベラスで、彼は3年間ずっと魔術師課程の首席の座を保持している。こちらも魔術師部門で準決勝に進出しており、非常に優秀な魔術師だ。

 

 

「始め!!」

審判の号令と共に、まずは大量の水球を呼び出す。すぐにカラベラスが反応して手をかざした。

『炎よ、弾けろ!』

《リナーリア選手、水球を大量召喚!それをカラベラス選手が落としていく!》

カラベラスは次々に炎の散弾を撃ち、私の水球を消し飛ばしている。

炎の散弾は火球をいくつも分裂させて飛ばす魔術で、威力も命中精度も低いのが難点だが、カラベラスのこれはアレンジを加えずいぶん細かく操っているらしい。呼んだばかりの水球がどんどん減っていく。

《一方、アルチーニ選手は積極的な攻めに出た!スフェン選手はこれを華麗に避けて躱している!》

アルチーニの方は先輩に対し初手から強気に攻めているようだ。

彼は逞しい見た目通りのパワーファイターで、攻撃力は高いものの器用さや小回りではやや劣る。

先輩のような速さと搦め手で戦う剣士は苦手だろうから、懐に入られる前にリーチの差を活かして先手を取りに行ったのだろう。

 

 

先輩の様子を横目で見つつ、私は水球を再召喚した。

また散弾の魔術が飛んでくるが、あえてそれを受け、消し飛ばされる側から再召喚を続ける。

今までの試合を見る限りカラベラスは用心深いタイプの魔術師だ。

私が先輩に魔術支援をしないよう抑え込みながら、隙を見つけてアルチーニを支援するつもりだろう。私を倒すのは先輩を倒してからでいいと考えているはずだ。

 

《闘技場の上を激しく魔術が飛び交う!そして、騎士側もまた激しい戦いを繰り広げています!》

《スフェンさんは少々辛そうだね。リナーリアさんは魔術で手助けしたい所だろう》

私の周囲には少しずつだが確実に水球の数が増えている。

カラベラスの散弾より、私の召喚速度の方が早いのだ。しかも私にはまだ少し余裕がある。

このまま続ければどうなるか、カラベラスはもう気付いているだろう。

 

 

案の定、カラベラスは散弾を撃ち続けながら二重魔術の構成を広げた。炎の高位魔術だ。

『赤翼よ翔けよ、地を舐め天を焦がせ!』

《カラベラス選手、大きな炎の鳥を召喚!リナーリア選手の水球を次々消しながら飛翔していく!》

だが、私もまた別の魔術を完成させている。

『天衝く炎、渦巻く風よ!混じりて燃え上がれ!』

火と風の複合魔術によって、私の目の前に炎の竜巻が生まれた。

こちらに突っ込んで来ていた炎の鳥を一瞬で飲み込む。

 

『…行け!』

炎の鳥を取り込んで膨れ上がった竜巻が、私の命令を受け前方へと動き出す。

『光の壁よ!炎を絶て…!』

まさか自分の魔術が吸収され利用されるとは思っていなかったのだろう、カラベラスは慌てて耐炎結界を張った。

《まさかの魔術返し!しかしカラベラス選手、すんでのところで結界を張った!》

《でもこれは大きいね…結界で防ぎきれるかな?》

 

竜巻を操りながら、私は素早く先輩の方へと視線を動かした。

どうやら予想以上にアルチーニの攻めが激しいようで、先輩は思ったように戦えていないようだ。

得意の幻術を併用しつつ何とか避けてはいるものの、アルチーニの剣は見るからに重く威力が高そうだ。一撃でも貰えば相当のダメージを受けるだろう。

その前に何とかしなければ。

 

闘技場の上は炎の魔術の余波で熱風が吹き荒れているので水は呼びにくい。

私は風の魔術で刃を発生させ、アルチーニへと放つ。

『風の刃よ!』

だが、私の魔術は全く同じ風魔術によって弾かれた。耐炎結界を解除したカラベラスだ。

ローブのあちこちを燻ぶらせ苦しげにしているが、まだ闘志は失われていないらしい。

 

大きくダメージを受けているカラベラスを見て、アルチーニの顔が険しくなる。

勝負を急ぐべきだと思ったのだろう、鋭さを増したアルチーニの剣の勢いに、かろうじて避けた先輩の腕が浅く切り裂かれた。

「く…!」

たたらを踏んで堪えた先輩に、アルチーニはさらに畳み掛けるように剣を振りかぶる。

それを見た先輩は避けようとはせず前に踏み出そうとした。逆に攻め込むつもりなのだ。しかし。

「…遅い!!」

先輩の剣が振るわれるよりも速く、アルチーニの剣が先輩の胴を薙ぐ。

 

「先輩…!!」

私が叫んだその瞬間、斬られた先輩の姿がふっとかき消えた。

アルチーニの目が驚愕に見開かれ、それから苦痛に歪んだ。

ゆっくりと前のめりに傾いていく。

 

 

「…アルチーニ選手、戦闘不能!!」

《こ、これは…!?斬ったはずのアルチーニ選手が倒れ、斬られたはずのスフェン選手が立っている!?》

《…自分の動きを一瞬遅らせて相手に見せる、幻影の魔術だね》

驚きの声を上げるヒュームに、レグランドが冷静に答える。

《スフェンさんは腕を斬られた時に怯んだと見せかけて魔術を使い、幻影を残して自分は前へ突っ込んでいた。アルチーニ君は前へ出たスフェンさんを斬ったかに見えたけど、本当は剣を振った時にはもう、本物のスフェンさんの剣がアルチーニ君に届いていたんだ》

その解説を聞く限り、どうもレグランドの目には先輩の本来の動きが見えていたらしい。

さすがと言うべきだろうが、魔術を使った様子もないのに一体どうして見えたんだ…?

私だって、アルチーニが倒れてからようやく分かったのに。近衛騎士すごいな。

 

そして、レグランドの解説が行われている間にも私はカラベラスへの魔術攻撃を続けていた。

カラベラスはまだ炎のダメージが抜けておらず、私の魔術を受けるだけで精一杯だ。

そこへ先輩が剣を構えて走り出す。

 

 

「…カラベラス選手、戦闘不能!スフェン・リナーリア組の勝利!!」

《なんと優勝候補のカラベラス組を倒し、美しき女性タッグが勝利!決勝進出を決めました!!》

「やりましたね、先輩!凄かったです!!」

思わず駆け寄って喜ぶと、先輩も「ああ…!」と嬉しそうに破顔した。

本当に凄い。

この試合私は全く支援ができていなかった。

つまり先輩は、自分自身の力だけで実力者の上級生を倒したのだ。

 

立ち上がったアルチーニが先輩に歩み寄り、まっすぐに手を差し出す。

「見事だった。正直、試合前は女相手と侮っていたが…自分の見識の狭さを思い知らされた」

「……!」

先輩の顔がわずかに紅潮する。

自ら男装し騎士の道を志している先輩にとっては、きっと何よりの称賛だろう。

握手をする先輩たちの横で、私もまた差し出されたカラベラスの手を握る。

「僕も良い勉強になったよ。どうやらまだまだ修行が足りなかったらしい」

カラベラスが苦笑する。

私が行った魔術の吸収増幅は本来、それぞれが放った術の威力に差がなければできない。しかし私は炎に風魔術を複合させて使う事で、より高位の魔術であるカラベラスの炎の鳥を吸収したのだ。

「いえ、カラベラス様の魔術も素晴らしかったです。今回は私が勝ったというだけです」

カラベラスは首席だけあってその実力は確かだった。それは間違いない。ただ、今は私の方が少しばかり経験が豊富だっただけだ。

「ありがとう。…決勝戦も頑張ってくれ」

「はい!」

 

 

《…いかがでしたか、レグランド殿!》

《意外なようだけど、これは決して偶然の結果ではないと思うよ。スフェンさんの剣術はアルチーニ君を打ち倒し、リナーリアさんの魔術はカラベラス君の魔術を上回った。二人は決勝に勝ち上がれるだけの実力を十分に持っている》

ヒュームとレグランドの声を聞きながら闘技場を降りる。

入口をくぐって廊下を進むと、殿下とスピネルの姿があった。

 

「二人共、決勝進出おめでとう」

「ありがとうございます」

先輩と揃って頭を下げる。

次の試合が始まるまではまだ少しかかるので、二人は私たちと話すためにここに来てくれたのだろう。

 

 

…二人の次の試合の相手は、彼女とビスマスの組だ。

不安が渦巻くが、ここでそれを顔に出せば不審がられるだけだ。

「殿下、決勝で戦えるのを楽しみにしています。…どうか、お気を付けて」

「ああ」

力強く答える殿下に微笑み、それからスピネルの方を見る。

「…あの、私…。貴方を信じていますので」

何と言ったらいいのか分からなくて、ただそう言った。

「…おう」

スピネルは一瞬訝しげな顔をしたが、とりあえずうなずいてくれた。少しだけほっとする。

…彼がいれば、殿下はきっと大丈夫だ。

私は私にできる事をすればいい。

 

「僕も、リナーリア君と一緒に応援していますよ」

笑う先輩の顔には、ほんの少し余裕が感じられた。

いつでも自信満々に見える先輩だが、それともまた違う気がする。

自分の力でアルチーニに勝ったことが何か先輩に変化をもたらしたのかもしれない。

そう思って見つめていると、先輩は私を振り返ってにっこり笑った。

「さ、行こうか。王子殿下とスピネル君の戦いをじっくりと見させてもらおう」

その笑顔に何だか元気付けられたような気がして、私は殿下たちに一礼すると、先輩の後を追って観戦席に向かった。



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第94話 武芸大会・9

《タッグ部門準決勝2試合目!ここで勝利し、既に決勝進出を決めているスフェン組に戦いを挑むのはどちらの組か!》

場内に拡声の魔導具を使ったヒュームの実況が響き渡る。

闘技場の上では、剣を持った殿下とスピネル、ビスマス、それから杖を持ったフロライアが向かい合っている。

私は不安で早まる動悸を抑えながら、観戦席でそれを見ていた。

…大丈夫だ。心の準備はちゃんとできている。

隣に座る先輩がちらりと私の方を見て、それから闘技場へと視線を戻した。

 

 

「始め!!」

審判の手が上がり、全員が動き出す。

どうやらビスマスとはスピネルが対峙するようだ。彼の剣の腕なら問題あるまい。

フロライアから炎の魔術が飛び、殿下はそれを余裕の動きで払い落とした。

無言で戦いを見つめていると、その瞬間、かすかに何か刺さるような違和感が生じる。

…やはり、来た。

 

闘技場に張られた魔法陣の周辺には、こっそり私の探知魔術を潜り込ませてある。

大会が始まってからの3日間、周囲に魔術を使っている事を悟られないよう細心の注意を払いながらずっと探知を続けて来たが、初めてそれに何かが引っかかったのだ。

防御や迎撃系の魔術や魔法陣を予め設置しておく事はできなかった。闘技場の魔法陣を維持している先生や魔術師たちに気付かれる可能性が高いし、痕跡も残してしまうからだ。

だから最も気付かれにくい探知の魔術だけを潜ませ、敵の攻撃があった時は私がその場で対応するという手法を取るしかなかった。

静かに闘技場へ防御魔術を広げていく。

範囲が広い上に隠蔽の魔術を使いながらなのでかなり難しいが、やるしかない。

 

魔法陣の外側に薄い膜のように広げられた防御魔術に、じわりと何かが染み込んでくる。

結界の構成を読み取り侵入しようとする魔術だ。

ゆっくり広がろうとするそれに、私は意識を集中させて抗った。

《…スピネル選手、息をもつかせぬ連続攻撃!ビスマス選手は守りを固め耐え凌ぐ!》

遠くに実況の声を聴きながら、敵の魔術を辿る逆探知の魔術を仕掛ける。

試合の様子は目に映ってはいるが、内容は頭に入ってこない。二人を信じ、ただ魔術の行使に集中する。

 

敵は、結界の手前で侵入が阻止されている事に気付いたようだ。

防御魔術にかかる圧力が増した。…恐らく、敵魔術師は二人以上いる。

私は既に防御・隠蔽・探知の三つの魔術を同時に行使している。抗い切れるだろうか。

敵側からも逆探知魔術が行われる気配を感じ、それを遮断する。こちらの正体を気付かれる訳にはいかない。

…これで四重魔術。これが限界だ。

ひたすら集中して攻防を続ける。ひどく長く感じる時間が過ぎていく。

 

 

《…エスメラルド選手の阻害魔術がフロライア選手の魔術を阻止!同時にビスマス選手の方へ踏み込む!》

…だめだ。攻撃が激しく、こちらの防御が保たない。

張り巡らせた防御の膜が、少しずつひび割れて行くのが分かる。

 

 

 

ふいに、大きな歓声が上がるのが耳に届いた。

「…勝者、エスメラルド・スピネル組!!」

《決まりました!タッグ部門決勝進出2組目は、我が国の第一王子と従者のコンビ!息の合った攻撃で勝利を収めました!!》

会場中の観客が熱狂している。

…試合が終わったのだ。

 

気が付くと、敵の気配は跡形もなく消えていた。

闘技場の結界も無事だ。何ともない。

私の防御魔術は破られたが、そこから更に結界を破るには時間がないと判断したのだろう。痕跡を消し、撤退したのだ。

勝利を喜び合う殿下とスピネルを見ながら、私はゆっくりと残りの魔術を解いた。

 

「…はっ、はっ、はっ…」

息が苦しい。集中しすぎて呼吸するのを忘れていたようだ。必死で肺に空気を取り込む。

ずきずきと頭痛がして、額を脂汗が流れ落ちた。

「…リナーリア君、顔色が悪い」

先輩が険しい表情で私の顔を覗き込んでいた。

「せん、ぱい」

「医務室に行こう」

有無を言わさずに抱え上げられるが、息切れが激しく身体に力が入らない。

首だけを動かしてもう一度闘技場を確認すると、隅の方に少し慌てたような様子で動いている魔術師たちの姿が見える。

…きっともう大丈夫だ。

 

 

「…あの、先輩、自分で歩けます。降ろして下さい」

医務室に向かう廊下の途中、何とか息を整えてそう言うと、先輩は足を止めて私の顔を見た。

「でも、まだ顔色が悪いよ」

「ただの貧血です。少し休めば治ります」

限界まで集中したせいでひどく疲れているが、歩けないほどではない。

魔力もかなり使ったが、それ以上に体力や精神力の消耗が大きい。これらは少し休養を取れば回復できるはずだ。

それより、すれ違う人たちが何事かと見てくるのが恥ずかしい。運んでくれている先輩には申し訳ないが…。

「医務室にも行かなくて大丈夫です。…寮に戻って休みます」

この後の試合は見られなくなるが、それが一番良いだろうと思う。

 

私が使った逆探知の魔術は結局成功しなかった。

敵があの広い会場のどこにいるのか、もはや見つけることは叶わない。

それに私の防御魔術が破られ奥に入られたことで、魔術の先生や魔術師たちも、闘技場の魔法陣に干渉しようとした者がいると気付いたようだ。

犯人探しは先生たちが行うだろうから、あのタイミングで魔術が破られたのは逆に良かったのかもしれない。

なら、私はこれ以上会場に留まらない方がいい。

隠蔽の魔術は破られなかったし、魔術を使った痕跡はできる限り消したつもりだが、私が介入した事は誰にもバレたくない。とてもまともに説明できない。

 

「あの、先輩…」

「…分かったよ」

再度声をかけると、先輩は少し迷ってから私を降ろしてくれた。

よろめきそうになるのを堪えてしっかりと廊下に立つ。

「でも、部屋まで送るよ。君が心配だからね」

どこか言い聞かせるように私の目を見る先輩に、私は「はい」とうなずいた。

 

 

寮の部屋に戻ると、出迎えたコーネルは青白い顔でフラフラしている私に驚いたようだった。

試合でこうなった訳ではなくただの体調不良だと、先輩にも口添えしてもらって説明する。

会場へ戻ると言う先輩にお礼を言ってから、コーネルに後のことを頼んでベッドに潜り込んだ。

…今は、とにかく眠い。

気にかかることは沢山あるが、まずは眠って休もう。

そう考える間もなく、私の意識は闇に落ちていった。



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第95話 武芸大会・10

目を覚ますと、窓の外は夕焼けで赤く染まっていた。

数時間ほど眠っていたらしい。何か夢を見ていたような気もするが、内容は思い出せない。

「お嬢様、お加減はいかがですか?」

起き上がった私に気付き、コーネルが寄ってくる。

「はい。もうすっかり良くなったみたいです」

頭痛はないし、疲労もずいぶん解消されている。体調は問題なさそうだ。

 

「先程ペタラ様がいらしていました。すぐに帰られましたが、カーネリア様やクラスの方々がお嬢様の体調を案じておられたそうです。大事はないとお伝えしておきましたが」

「ありがとうございます…」

どうやら先輩に運ばれている所を見られていたらしい。あまり周りに知られたくなかったのに…。

「スフェン様からは、お嬢様が目を覚ましたら報せて欲しいと言われております。何かお話がおありのようでしたが…」

「…分かりました。先輩を呼んで下さい」

「承知いたしました」

 

 

少ししてから、コーネルがスフェン先輩を伴って戻ってきた。

遅くなるといけないので、コーネルにはお茶だけ淹れてもらい帰ってもらう事にする。

「元気になったみたいで安心したよ」

「申し訳ありません。心配をおかけしました」

「そうだね、皆心配していたよ。君の兄上はもちろん、シリンダやエレクトラム、他にもたくさん」

「…はい。コーネルからも聞きました…」

魔術に集中しすぎて周囲に気を配れなかったせいだ。やはり四重魔術はずいぶん無理があったと思う。

使える事は使えるのだが、使用中は魔術にかかりきりで他は何もできなくなる。周囲を認識する事すら怪しい。

緊急事態なので仕方なかったが、とても実戦に耐えられるものではないと改めて感じる。

 

「まあ、皆には君は少し貧血を起こしただけだと()()()()()おいたから安心したまえ」

そう言って先輩は笑った。

「あの後やる予定だった騎士部門の準決勝は延期になったよ。闘技場の魔法陣に不備があったとかで」

「…そうなんですか」

無理もないことだ。何しろ、第一王子の試合中に魔法陣への魔術干渉があったのだから。

「明日の決勝戦も、雨の予報で中止が発表されてる。明後日に順延されるだろうから、1日休めるね」

「そうですね」

 

それから先輩は一旦言葉を切ると、無言で紅茶のカップへと視線を落とした。

いつもの先輩らしくないその態度に、少し居心地の悪さを感じる。

しばらくそうして沈黙した後、先輩は口を開いた。

「…聞かせてもらっていいかな。君はあの時、一体何をしていたんだい?」

 

 

思わず目を逸らした私に、畳み掛けるように言う。

「隣であれほど集中されたらさすがに気が付くよ。…魔術を使っていたんじゃないのかい?魔力は全く漏れていなかったけど、君なら隠蔽だってできるだろう。あれは貧血と言うより、魔力や体力を消耗していたように見えたよ」

「……」

「君は、1回戦の観戦中も様子がおかしかった。あの時試合をしていたフロライア組のビスマスの事、大会前から気にしていたよね?」

「……」

「そして今回だ。殿下とフロライア組との試合で君は体調を崩すほど何かに集中して、そして大会は延期になった。これは偶然かな」

何か気付かれたのではないかと思ってはいたが、想像以上に色々不審がられてしまっている。

 

「答えてくれ、リナーリア君。…返答次第では、僕は武芸大会を棄権しなければならなくなる」

「そ、それはダメです!!」

私は慌てて顔を上げた。

「だって、これは先輩にとって大切な大会です。夢を叶えるためにどうしても上位に入賞したいと、そう言っていたじゃないですか!」

私の部屋を先輩が訪れ、一緒に組んで欲しいと言ったあの日。

先輩は私に聞かせてくれていた。幼い頃から持っている夢、それを叶えるために努力し続けている目標を。

 

…先輩の夢を手助けしたい。決勝進出というだけでもそれなりの評価にはなるのだろうが、そこに棄権などという瑕疵をつけたくはない。

それにコーネルやヴォルツ、お兄様、先輩のファンの方々。皆、この大会に出る私たちのためにさまざまに力を貸してくれた。

殿下やスピネル、カーネリア様、それにペタラ様やニッケル、クラスメイトたちまでも応援してくれている。

「…棄権したくありません!皆が私たちを応援してくれました。私は、その期待に応えたい」

殿下を守りたいのはもちろんだが、私と、私の周りの大切な人たちのために、最後までちゃんと戦いたい。

 

必死に言う私に、先輩は困ったように苦笑した。

「…やっぱり君は、僕の知っているリナーリア君だ」

そう言って天井を仰ぎ見てから、もう一度姿勢を正し私をまっすぐに見つめる。

「改めて尋ねるよ。…君は一体、何をしようとしていたのかな」

私はずいぶん迷い、それから小さく答えた。

「分かりました。お話しします…」

 

 

 

 

「…という訳で、私はずっと彼女を警戒していたんです」

長い話の後、先輩は感嘆したように呟いた。

「何て事だ。君にそんな秘密があったなんて…」

…結局全部正直に話してしまった。

前世の記憶がある事とか、殿下が狙われている事とか色々…。

始めは諦め悪く「何となく危ないような気がしたので会場を監視していた」という方向で話を誤魔化そうとしたのだが、やはり大分無理があった。

あれこれ不自然な点を突っ込まれてしまい、もはや言い訳ができなくなって「もういいや」と半分ヤケクソになって真実を話したのだが…。

 

「…あの、信じてくれるんですか…?」

我が事ながら無茶苦茶というか、もし他人から聞いたら与太話と思って絶対信じないだろう。

頭がおかしいと思われても仕方ない内容だ。

しかし先輩はきっぱりとうなずいた。

「もちろんだよ。僕は君を信じる」

 

「だってこんな話、本当だった方が絶対に面白いじゃないか…!!」

 

…さすが先輩だった。

私の告白を聞いても全くブレていない。

「第一、君はこんなおかしな話を作り上げるような人ではないよ。現実味がなさすぎて逆に信じられる」

「まるで褒められている気がしませんが…」

憮然とする私に、先輩は「ははは」と明るく笑った。

「それに僕が君に対して抱いていたいくつかの疑問も、これで説明がつくしね。…君の魔術はその歳にしてはあまりに高度で、完成されすぎている。それほど魔術に傾倒しているにも関わらず、なぜか剣術にも詳しい。心得があると言う割には体力も腕力も驚くほど脆弱で、どう見てもろくに鍛えた事がない身体をしている」

「うっ…」

痛い所を突かれて呻く。

剣術は前世でしかやっていなかったから、今の私は身体がついて行かないのに知識と経験だけはあるという妙な状態になってしまっているのだ。

 

「それにやっぱり、王子殿下の事だね。あんなに慕っている理由がやっと分かったよ」

そう言ってから、先輩は私の顔や肩のあたりを眺める。

「君が男性だった姿というのは、どうもあまり想像できないけど…さぞや可憐な少年だったんだろうね?」

「いや普通でした。筋肉はあまりありませんでしたけど」

「君のその筋肉コンプレックスもこれで納得だよ…」

「さすがにもう諦めましたけどね…」

今更マッチョになりたいとはさすがに思っていない。なってもしょうがないし、多分両親とか兄とか泣くし。

 

先輩は少し考え込んでから、私に尋ねた。

「これはただの興味本位の質問だけど。男に戻りたいとは思わないのかい?」

「…前は、そう思ってました」

…男だったらまた殿下の従者になれたんじゃないか、とか。

ずっと思っていたし、スピネルが羨ましくて仕方なかった。

今は彼が従者で良かったと思っているけれど、やっぱりちょっと悔しかったりする。

「でも今は、殿下を救うという目的を達成し、皆で幸せになれるのなら、別に私が男だろうが女だろうがどちらでもいいと思っています。もう女の自分にすっかり慣れてしまってますしね」

「ふうん?なるほどね…」

苦笑する私に、先輩は一人で納得したようにうなずいた。

 

 

「…とりあえず、僕から君に言える事は一つだ。君が過去にどんな人間であろうと、僕と君は大切な友達だ」

先輩は朗らかに笑った。

「そしてもちろん、これからもだ。君が君らしさを失わない限り、僕は友達であり続けよう」

「…先輩…」

胸にじんと温かいものが広がる。

 

「だからこれからは、僕のことも頼ってくれ。友として力になりたいし、それに僕だってこの国の民なんだ。貴族の末席に連なる者として、王子殿下の命を守りたい」

表情を引き締め、凛としてそう告げた先輩の言葉に嘘は感じられなかった。

貴族として、騎士を目指す者としての矜持がそこにはある。

だから、私もまた真剣に答えた。

「先輩が力になってくれれば、本当に心強いです。どうか、よろしくお願いします」

 

 

それからも少し話し込んで、気が付けば遅い時間になっていた。

「じゃ、僕はもうお暇するよ。ゆっくり休んでくれ」

「はい。ありがとうございます」

椅子から立ち上がり、部屋を出ようとする先輩を見送る。

「とりあえず、フロライア君たちの動向には僕もそれとなく注意しておくよ」

「助かります。…でも、十分に気を付けて下さいね」

「分かった」

彼女たちは危険だ。疑っている事は絶対に悟られない方がいい。先輩も、真面目な顔でそれにうなずく。

「…あの、先輩」

「うん?」

「決勝戦、頑張りましょうね。必ず優勝しましょう」

先輩は一瞬だけ目を見開き、それから嬉しそうに笑った。

 

 

 

翌日は雨だった。武芸大会はもちろん、学院自体が休みだ。

大会は元々雨天の場合に備えて予備日が設定されているので、その予備日…つまり明日、残りの試合を行う事になるだろう。何事もなければだが。

部屋には朝からいくつか見舞いの品が届いた。エレクトラム様やアーゲンからだ。あいつもマメだなあ…。

 

午後になり、魔導書を開きつつ時折雫が流れ落ちる窓をぼんやりと眺めていると、私の部屋を訪ねてくる者があった。

スピネルだ。今度はちゃんと普通に寮の受付を通してやって来た。

「見舞いだ。こっちの花束は殿下から」

紙袋と、白を中心とした落ち着いた色合いの薔薇の花束を渡される。

紙袋の方はスコーンがいくつかとジャムの瓶が入っていた。城の厨房で作ってもらったものだろうか。

「…ありがとうございます」

「顔色は良さそうだが…具合はもういいのか?医者には行ってないんだろ?」

「はい。元々大した事ありませんでしたので、少し休めば治りました。もうすっかり元気です」

「それならいいけどよ…」

 

テーブルを挟み向かい合った私とスピネルの前に、コーネルが静かに紅茶のカップを置く。

「お前、1日目の時も具合悪そうにしてただろ。おかげで殿下がすげえ心配してたぞ」

「ええと…その、すみません…」

やっぱり殿下にも見られていた。殿下に心配などかけたくないのに…。

私にもっと力があればと、切実に思う。

「でも、本当に大丈夫です」

「……」

スピネルは複雑そうな顔で紅茶に口を付けた。

 

「…本当は殿下も見舞いに来たがってたんだがな。殿下は今日、城から出られない」

「で、殿下に何かあったんですか!?」

思わず椅子を蹴って立ち上がった私に、スピネルはカップを置いて首を横に振った。

「別に何もない。元気だよ。…でも、昨日の武芸大会で殿下の身が狙われた可能性がある」

 

 

「詳しくは話せないが、今王宮魔術師が調査中だ。それが終わるまでは殿下は城の中だ」

私は驚いてスピネルの顔を見つめた。

あの魔術干渉のせいなのは分かるが、部外者の私にそれを話していいのだろうか。

「まあ、すぐ出られるようになるから心配すんな。護衛の数は増えるだろうけどな」

「…は、はい…。でも、あの、私にそんな事を教えていいんですか?」

「教えとかなきゃお前が何をやらかすか分からない」

「うぐ」

そんな事しないとは口が裂けても言えなかった。

言い返せないでいる私にスピネルが呆れ顔を作る。

 

「…どうもお前は理解してないみたいだからな、はっきり言っとくぞ。もし殿下が狙われているんだとしたら、危ないのはお前も同じだ」

「え」

「お前にはもう十分、狙われるだけの理由がある。お前がどう思ってるかじゃなく、周りがそう思っているからだ」

…私が殿下の友人なのはもう貴族の間に知れ渡っている。

普段から親しくしているのはもちろん、水霊祭に付いて行った事などもすっかり広まっているようだ。

 

「…つまり私が、殿下の弱みになると?」

「そうだ」

スピネルは容赦なくきっぱりと言った。

…潔くていっそ助かる。あえて厳しくするその言い方はきっと、私のためなのだ。

気遣われるよりもずっとマシだ。

「いいか、これからは絶対に一人で行動するな。学院や城の中でもだ。どんなに近くだろうと、外に出る時は必ず信頼できる護衛を付けろ。あのヴォルツとかでもいい」

「…はい」

大人しくうなずく。悔しいし情けないが、殿下やスピネルに心配されるよりいい。

 

「…俺も、お前の事は信頼してる。だから危ない事はするな」

その真摯な声音に、私は顔を上げてスピネルの顔を見つめた。

「俺も」と言うのは、私が準決勝の前に「貴方を信じています」と言ったからか。

きっと意味が分からなかっただろうに。

…それとも、スピネルも何か気付いているんだろうか。

 

「何か困った時には俺を呼べ。必ず何とかしてやる。お前には借りがあるからな」

「…前から思ってましたけど、その借りとやらのカウントおかしくありませんか?どう考えても私の方がたくさん助けられてますし、借りを作ってると思うんですが」

絶対私の方が心配をかけているし、例えどれほど貸しがあったとしても、巨亀戦で体を張って私を庇った件で帳消しだろうに。このままじゃ一生借りが消えないんじゃないのか。

「うるせえ。俺がそう言ってるんだからそうなんだよ」

「無茶苦茶ですね…」

思わず苦笑いしてしまう。

本当に変な所が頑固と言うか…そんなに私に感謝されたくないんだろうか。

 

「…分かりました。困った時は貴方に頼る事にします。例えば、ジャムの瓶の蓋が開かない時ですとか」

「おい」

「重たい箱がある時や、建付けの悪い窓が開かない時とか。図書館で本を借りすぎて運びきれない時も呼びます」

「お前腕力なさすぎだろ…」

「うるさいですね!」

つい墓穴を掘ってしまった。

マッチョは目指さないが、多少は筋トレもしなければなあ…。身体強化である程度何とかなるが、せめて人並みの筋力くらいは付けたい。

 

「ああ、でも、決勝戦での手加減は無用ですよ。全力で来ていただいて結構です。…殿下にも、そうお伝え下さい」

そう言うと、スピネルが「ほう」と言ってニヤリと笑った。

「後で悔やんで泣くなよ?」

「その言葉、そっくりお返しします」

私も不敵に笑い返す。

 

あのような横槍は入ってしまったが、この武芸大会、絶対に最後まできちんと戦う。訓練の成果を見せるのだ。

「次は闘技場で会いましょう。どうぞよろしくお願いします」

「ああ」

お互いに握手を交わし、そして笑いあった。



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第96話 武芸大会・11

前日の雨が嘘のように、空は青く晴れ渡っていた。

「絶好の試合日和ですね、先輩」

「ああ」

試合用の騎士服に身を包み腰に剣を帯びた先輩が、空を見上げてうなずいた。

私の方は今日、試合用ローブの下に動きやすい運動着を着て、手には杖を持っている。

決勝戦のための特別仕様だ。

 

反対側には殿下とスピネルの姿が見える。

殿下は既に行われた騎士部門の準決勝で勝利し、あちらでも決勝に駒を進めている。

闘技場の周囲には数人の魔術師と兵士。スピネルが言った通り、護衛を増やして警備も強化したようだ。

表向き「魔法陣に不備があった」と発表されていた闘技場には、新たに描き直された更に強力な結界が張られている。

殿下が狙われたかもしれないという事は当面の間伏せられるそうなので、なるべく予定通りに大会を終わらせようと王宮魔術師が頑張ったに違いない。

だが、勘の良い者ならこの様子を見て何かがあったと気付いているだろう。

 

 

「東、騎士課程2年、スフェン・ゲータイト!魔術師課程1年、リナーリア・ジャローシス!」

《唯一の女性タッグが驚きの快進撃を続け、ついに決勝までやって来ました!その強さと美しさで、多くの観客を虜にしています!》

観客席から大きな声援が飛ぶ。

先輩がファンの女子の声に応えて片手を上げ、私もまた観客席に向かい軽く手を振った。途端に野太い男の声が上がる。

…なんかだんだん男の声が増えている気がするが深く考えないでおこう。

応援してくれる事自体は嬉しいし…。

 

「西、騎士課程1年、エスメラルド・ファイ・ヘリオドール!同じく騎士課程1年、スピネル・ブーランジェ!」

《第一王子とその従者のコンビ!二人は対戦相手のリナーリア選手とクラスメイトでもあります!本年度より新設されたタッグ部門、こんな組み合わせになると誰が予想したでしょうか!!》

こちらもまたすごい声援だ。

殿下はいつもの真面目な顔、スピネルはにこやかに、その声に手を上げて応える。

 

一旦闘技場の中央に進むと、殿下が私の顔を見た。

「リナーリア、体調は万全か?」

「はい。殿下の方はいかがですか?」

「俺も万全だ」

「それは重畳です。正々堂々、全力を尽くして戦いましょう」

微笑むと、殿下は「ああ」と答えてうなずいた。

 

 

一礼をした後、先輩と二人で闘技場の一番端まで行って試合開始を待つ。

《おや、スフェン組は開始位置をかなり後ろにするようですね》

《何か作戦があるんだろうね。楽しみだな》

「…始め!!」

審判の手が上がるのと同時に、私は杖を掲げ大きな魔術構成を広げる。

『紅焔よ爆ぜよ!炎の雨となりて降り注げ!』

掲げた杖の先に巨大な火球が生まれ、そこからいくつもの炎の矢が飛び出した。

「うわっ…!?」

剣を構えこちらへ来ようとしていた殿下とスピネルの方へ次々に炎が降り注ぐ。

準決勝でカラベラスが使っていた炎の散弾の上位版で、攻撃範囲がかなり広い魔術だ。

《開幕からリナーリア選手の炎の高位魔術!!エスメラルド組、回避に必死だ!》

《今までの試合でもちらほら見せていたけど、彼女は魔術を撃つのが恐ろしく早いね。威力もなかなかだけど、それ以上に速度が優れてる》

 

炎の雨を操りながら、先輩の肩へと杖を当てる。

『かの者に戦神の加護を与えよ』

身体強化の付与。

今まで何度か試した上で、先輩の肉体が耐えられる限界ギリギリの所を見極めた。体力の消耗が大きいので長期戦はできないが、大会の試合時間内なら大丈夫だ。

「…行くよ、リナーリア君!」

「はい!」

 

 

先輩は殿下の方へと駆けている。

スピネルは私の方が相手だと気付いて、炎の雨を斬り飛ばしながらこちらへ向かってくる。

「いきなり派手にやってくれるじゃねえか!」

「貴方好みでしょう?」

軽口を叩きながら次の魔術の準備を始める。

炎の雨を生み続けている紅焔はもうかなり小さくなっている。それが燃え尽きるのと同時に、次の魔術を行使した。

『水よ風よ、凍てつき吹き荒れろ!顕現せよ、氷雪の牙!』

闘技場の上に、冷気を全身に纏う氷の狼が出現する。

 

『行け!』

《リナーリア選手、氷狼を召喚!スピネル選手に襲いかかる!!》

《高位の複合魔術だね。1年生でこれとか、末恐ろしい子だなあ》

動きの速いスピネルをこちらに近付けさせないためには、防御や牽制の魔術だけでは足りない。そう考えて選択した魔術だ。

本当は人前であまり使いたくないのだが仕方がない。手加減していてはこの二人には勝てない。

スピネルは剣で氷狼の爪を受け止めたが、そこから冷気が伝わるのが分かったのだろう、慌てて後ろに飛び退いた。

「…くそ、厄介だな!」

《氷狼は素早く、その爪や牙は鋭い。しかも常に冷気を発しているから、斬り合っているだけでも熱を奪われ、動きは鈍くなる。騎士に対してかなり有効な魔術だね》

もし噛まれたり組み付かれたりしたら凍傷を負ってしまうし、ただ冷気を受け続けるだけでも体力や魔力の消耗が激しくなる。

氷狼を維持するための魔力消費はかなり大きいのだが、その分効果も高い。

 

 

《一方、スフェン選手はエスメラルド選手を攻め立てている!》

先輩は得意の連撃で殿下を攻めている。大きく身体強化しているので、そのスピードはスピネルをも上回るほどだ。

しかし守りの堅い殿下を崩すには時間がかかるだろう。私が魔術で支援して優勢を保ちたいところだ。

スピネルと戦う氷狼を操りながら、得意の水球を呼び出し周囲に展開していく。

 

スピネルはすぐにその狙いに気が付いたようだ。

「殿下、水に気を付けろ!身体に当てるな!」

水球が当たって濡れた所に氷狼が攻撃すれば、その部分はたちまち凍りつく。

私の水球の操作範囲は闘技場全体に及ぶので、直接私と対峙しているスピネルだけではなく殿下だって射程内だ。

『炎霊よ、刃に宿れ!』

スピネルの持つ剣が燃え上がった。炎の魔力付与(エンチャント)だ。

襲いかかる氷狼の爪を避けつつ、水球を次々に斬って落としている。

これでは氷結によるダメージは期待できなさそうだと思いつつ、水球を操りスピネルと殿下へ撃ち出す。

 

殿下に向かって放った水球のうち1つが落とされ、1つが肩口に当たった。

わずかに怯んだ殿下へとすかさず先輩の剣が閃き、腕を切り裂く。だが、浅い。

スピネルは氷狼と戦い続けながら、着実に水球を落としている。炎によって氷狼の身体が削られるせいで、私の魔力消費は更に増えている。

しかし冷気を受けたり水を蒸発させながら炎を維持するため、消耗が大きいのは向こうも同じだ。

 

《激しい攻防が続く!戦況は一進一退か!》

氷狼の足元を狙って炎の剣が振るわれ、咄嗟に跳び上がらせて避けた。その跳んだ勢いのまま牙を剥こうとするが、スピネルは深く身を沈めて躱す。

闘技場の石床の上、まるで滑るかのように淀みなく柔らかな動き。低い姿勢のまま前に踏み出したスピネルは、氷狼の身体を剣で押し上げるようにして下をくぐり抜けた。

背後を取られたと、そう認識した時にはもう遅かった。振り向きざまの刃が氷狼の左後肢を断つ。

 

 

せめてもう一撃。

一矢は報いようと3本足になった氷狼に突撃の姿勢を取らせた瞬間、殿下がこちらに剣を向けたのが視界の端に映った。

その剣先から風の刃が放たれ、私は必死で身体を捻った。

脇腹をかすめた風の刃が後ろに飛んでいく。

 

《エスメラルド選手、鍔迫り合いに持ち込んだふりをしてスフェン選手を蹴り飛ばした!その隙にリナーリア選手へ風の刃を飛ばすが、リナーリア選手は辛うじてこれを避けた模様!!》

その間に、スピネルは私の氷狼を斬り捨てている。

…くそ、やられた。

「…意外に行儀の悪い王子様だね!」

先輩はすぐに体勢を立て直したが、殿下は既に私の方へ走り出している。スピネルもこちらへ向き直り、駆け出す姿勢だ。

2対1。絶体絶命だ。

 

「二人共、さすがです。…でも」

斬り捨てられたはずの氷狼の残骸が、私が飛ばした魔術を受けぶわりと膨らんだ。

そこから白い霧が生まれ、水球をいくつも取り込み、激しく音を立てて弾けながら一瞬で広がっていく。

 

 

《…これはリナーリア選手の魔術か!濃霧が闘技場を覆い尽くし、何も見えません!》

《いや…多分、魔術を使った本人には見えてる》

その推察は正しい。この霧を作り出している水分には私の魔力が宿っているからだ。視界として見える訳ではないが、位置関係を把握する事はできる。

そして私の魔力が宿っているのは、最初に身体強化をかけた先輩も同じ。

『我が知覚を(ともがら)へと分け与えよ』

身体強化の魔術を辿り、私の魔力を見通す力を先輩にも付与する。

 

 

ガキン、と刃を打ち付け合う高い金属音が鳴った。

一合、二合。霧が濃くまともに見えてはいないだろうに、よく防いでいる。

 

《…霧が流れ、少しだけ見えた!スピネル選手と斬り合っているのはスフェン選手だ!しかし、少し動きが鈍いか!?》

三合、四合と打ち合う。

そこに向かおうと殿下が動いた瞬間、火球が殿下に向かって飛んだ。霧が裂かれ、また少し視界が広がる。

《霧の中から杖を構えたリナーリア選手が姿を現した!更に魔術を使う気か!エスメラルド選手、阻止に向かう!》

 

五合、六合目。巧みに斬り返したスピネルによって、ついに剣が弾き飛ばされた。

そこに生まれた致命的な隙を狙い、スピネルが剣を振り下ろそうとする。

 

「はっ…!」

殿下は剣を構え、霧の中から現れた私へと一瞬で距離を詰めようとしていた。

しかし、私の姿がそこから突然かき消える。

 

 

「…!?」

驚愕に目を見開いたスピネルの胸元に、私は()()()()()手を伸ばした。

炎が弾け、まともに食らったスピネルの身体が後ろに吹き飛ぶ。

 

同時に、殿下がゆっくりと膝を付いた。

その背後で、剣を振り抜いた姿勢のままの先輩が静かに息を吐く。

 

 

 

「…エスメラルド選手、スピネル選手、戦闘不能!!スフェン・リナーリア組の勝利!!」

静まり返った会場に、審判の声が響いた。

途端に、地鳴りのようなどよめきが会場中に広がる。

「…やった、やったよ!リナーリア君!!」

先輩が駆け寄ってきて、私を強く抱きしめた。

「はい!やりました!私たちの勝ちです…!」

「凄い、本当に凄いよ…!夢みたいだ!僕たちが優勝なんて…!!」

満面に喜色を浮かべ、先輩は私の両脇に腕を差し込んで持ち上げた。そのままぐるぐると振り回され、思わず目を回しそうになる。

「せ、せ、先輩!」

「あはは、本当に最高だよ!リナーリア君!!」

「下ろしてくださいぃ…!」

 

《ど、どういう事でしょうかレグランド殿!?》

《…幻影の魔術だね。霧を発生させた後、スフェンさんはリナーリアさんに、リナーリアさんはスフェンさんに化けていたんだ。事前に打ち合わせていた作戦だろうね》

レグランドの言う通りだ。

氷狼の残骸から霧を発生させた時、私と先輩は幻術を使ってお互いに化けたのである。

霧を出しながらわざと大きな音を立てて周りの水球を弾けさせたのは、その音に紛れて位置を入れ替えたように見せかけるためだ。

だが実際には位置はほとんど変えておらず、先輩に化けた私はスピネルを、私に化けた先輩は殿下を倒した。

 

《リナーリアさんが持っていた杖、あれは仕込み杖だったんだね》

《…あ、なるほど!それを剣に見せかけてスフェン選手に化けた訳ですか》

闘技場の床には、スピネルに弾き飛ばされた私の杖が転がっている。途中に切れ込みが入っていて、抜くと中には刃が仕込まれているものだ。

入れ替わり作戦を使うと決めた際、私とスピネルが斬り合う事も考えられたので、剣を打ち付けた時の音で気付かれないように用意した。よく聞けば別物だと分かるだろうが、すぐには見破られない程度に似た音が出るものを探したのだ。

これを使い先輩のふりをしてスピネルと斬り合っていた私は、仕込み杖を弾き飛ばされた時点で幻術を解除し、至近距離からの火魔術で彼を吹き飛ばした。

 

「…お前、剣使えたのかよ…」

魔術で胸元を焦がしたスピネルがふらふらと起き上がる。ようやく先輩から解放され地面に下ろされた私は、思い切り胸を張った。

「少々嗜んでいると昔言いませんでした?」

「まさか本当だとか思わないだろ…」

ブランクは前世からだし、まるで鍛えてないのでヘロヘロではあるが、少しは剣を振れるように先輩と練習したのだ。

おかげで、身体強化を使ってだが数合くらいならスピネルと打ち合えた。

私をスフェン先輩だと思って警戒していたからだろうし、それでもあっという間に弾き飛ばされてしまったが…。

 

《注目すべきは、最後に王子殿下を斬ったスフェンさんの動きだね。僕でも一瞬見失うくらいの凄まじい速さだった。相手が魔術師のリナーリアさんだと思い込んでいたなら、尚更避けられなかっただろう。身体強化の重ね掛けかな?危険だからあまり褒められたものではないけれど、勇気と覚悟があったからできた事だと思うよ》

「…完全にやられたな。何かおかしいと思った時には、もう斬られていた」

殿下もまた立ち上がり、悔しそうに嘆息した。私の隣に立った先輩がそれに答える。

「殿下ならきっとすぐに入れ替わりに気付くと、リナーリア君が言っていたからね。危険を冒してでも一本取りに行かせてもらったよ」

「そうか…」

「でも、本当に守りが堅かった。…しかもあの蹴りにはびっくりしたね」

そうだった。私はその瞬間を見ていなかったが、殿下は先輩を蹴り飛ばしたらしいのだ。

剣だけでなく己の手足を使った攻撃がある流派というのも存在するのだが、主流ではないし殿下は修めていなかったはず。

意外な気持ちで見つめる私に、殿下は少し恥ずかしそうにする。

「強くなるためには、幅広い戦い方を身に着けた方が良いかと思って。色々学んでいる所なんだが…」

 

「…さすが、殿下です…!!」

素晴らしい向上心だ。

礼儀正しく作法に則った王道の剣術というのも良いと思うが、戦いではそんな綺麗事ばかりは言っていられないのだ。勝った者、生き残った者こそが強者なのである。

やはり殿下はよく分かっておられる。

手のひらを合わせニコニコする私に、殿下はほっとしたような照れたような顔になり、先輩もまた「なるほどね」と笑った。

 

《…でもねえ、うちの弟は恥ずかしかったね》

レグランドの声が響き、横で私たちの様子を見ていたスピネルがびしっと固まった。

《最後、相手がリナーリアさんだと分かった瞬間に完全に手が止まっていたよね。いくら虚を突かれたって言ってもね…ちょっと甘すぎじゃないかな》

その容赦ない批評に、会場中の視線がスピネルに集まるのが分かる。

《ちゃんと動けていれば相打ちくらいには持っていけたんじゃないかな?まあスフェンさんが残っている以上、相打ちだったとしても勝敗は変わらないんだけど、でも騎士としては動くべきだったね》

「……」

《兄として恥ずかしいよ。うちの弟は強いとか大見得きっちゃったのにこの体たらくとかさ…。ほんと反省して欲しいね。鍛え直しだよ》

スピネルはちょっとぷるぷる震えていて、私はそっと目を逸らした。

見て見ぬふりをするくらいの情けは、私にも存在するのである。

 

 

 

《…武芸大会、タッグ部門!熾烈な戦いの末、2年スフェン・ゲータイト選手と1年リナーリア・ジャローシス選手の組が優勝!!しかし、対戦相手のエスメラルド選手とスピネル選手もまた、見事な戦いを見せてくれました!皆さん、どうぞ盛大な拍手をお送り下さい…!!》

実況のヒュームに促され、会場中から割れんばかりの拍手と歓声が押し寄せる。

先輩と私は両手を上げてこれに応えた。殿下とスピネルもまた、片手を上げて応えている。

あちこちから「スフェン様ー!!」とか「リナーリアさーん!!」とかいう声が聴こえる。…「筋肉女神ー!!」という声は聴かなかったことにしよう。

 

見回すと、観客席で両親や兄が手を振っているのが目に入った。付き添いとして連れてきたらしく、コーネルの姿もある。

隅の方にセナルモント先生までいた。わざわざ見に来てくれたのか。

皆とても嬉しそうで、思わず胸が熱くなる。

生徒用の席ではカーネリア様やペタラ様他、たくさんの同級生たちがぶんぶん手を振ってくれていた。凄く嬉しい。入学当初はちょっと距離があったのが嘘のようだ。

先輩ファンの方々には熱狂を通り越して泣いている人もいる。

エレクトラムお姉さまが「わたくしが!わたくしが育てましたわー!!」と叫んでいる気がしたがこれも聴かなかった事にした。

 

「…リナーリア君、本当にありがとう。優勝できたのは君のおかげだ」

横のスフェン先輩がそう呟いて、私は先輩の顔を見返した。

「いいえ、これは先輩の実力です。先輩の努力が実を結んだんですよ」

大会の練習中、先輩はファンの方々が呼んだ騎士や魔術師を相手に一歩も引かずに戦い、みるみる力をつけていた。私と息を合わせるために、様々に努力もしていた。

それに、さっきから先輩はちょっと足を引きずっている。多分最後に殿下を斬った際、身体強化の重ね掛けをしたせいで痛めたのだ。

重ね掛けは危険だとしっかり注意しておいたのに、絶対にあそこで勝負を決めるという覚悟でやったのだろう。額からたくさんの汗が流れ、疲労も相当激しそうだ。

 

「それでもやっぱり、君がいなければ優勝には届かなかったよ。…君は最高の友人だ、リナーリア君!!」

先輩は私の肩を抱き寄せると、頬にちゅっと口付けた。

会場から悲鳴だか歓声だか分からない絶叫が上がり、殿下とスピネルは目を丸くして動きを止めている。

私は恥ずかしさに赤面しつつ、もう一度観客席へ向かって手を振った。



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第97話 武芸大会・12

それからしばしの休憩を挟み、騎士部門の決勝戦が行われた。

「東、騎士課程1年、エスメラルド・ファイ・ヘリオドール!西、騎士課程3年、ウルツ・ランメルスベルグ!」

殿下の相手はタッグ部門でも殿下と戦ったランメルスベルグ兄弟の兄の方だ。

タッグ部門では盾を使っていたが、こちらでは普通に剣だけを持っている。

《エスメラルド選手は先程、タッグ部門で準優勝を決めたばかり!対するウルツ選手は、タッグ部門1回戦でエスメラルド選手の組と戦い敗れています!果たしてリベンジはなるのか!》

 

 

両手を握りしめながら、私は闘技場の上の殿下の姿を見つめた。

両隣にはスピネルと先輩がいて、同じように闘技場を見守っている。

選手用の観戦席に入れるのは当日試合に出る者だけなので、今日はここはかなりがらんとしているのだが、せっかくなので一緒に試合を見る事にしたのだ。

審判の号令と同時にウルツが斬りかかり、殿下がそれを避けた。

ウルツは攻守ともに優れた、ごく正統派の剣士だ。タッグ部門とは違い、正攻法で正面から殿下と戦う気らしい。

殿下もそれを受けて立つつもりのようで、純粋に剣の腕で勝負する試合になりそうだ。

 

お互いまずは様子見するらしく、牽制し合いながら軽く剣を合わせている。

殿下にタッグ部門での疲れは見受けられず安心した。殿下は守りを固め粘りながらの持久戦が得意なだけあり、元々かなり体力があるのだ。

緩急をつけて繰り出された剣を、ウルツがぎりぎりで避ける。

「殿下の動き、少し変わりましたね。時々、スピネルに似てるように思います」

そう呟くと、「あー。それな」とどこかぼやくような口調でスピネルが答えた。

「おかげで最近やり辛くてしょうがねえ」

いかにも面倒くさそうな顔をしているが、これは内心ちょっと嬉しがってるな。面倒なのはお前の性格だと言いたい。言わないでおいてやるが。

 

「真似しようと思ってできるものとは思えないけど…」

先輩が少し眉を寄せる。

確かにスピネルの動きは天性のものがあると思う。要するに才能というやつだ。

あの柔らかい膝の使い方とか、流れるような体重移動とか。

あとこれは前世の殿下が言っていたのだが、視線誘導が抜群に上手い。さすがの殿下もそれまでは真似できていないようだが。

 

「そりゃ、殿下とは10年以上一緒に剣振ってるからな。俺の動きをよく知ってる」

「なるほど…いや、それならむしろもっと似ていても良いんじゃないのかい?兄弟弟子なんだろう?」

「そこは教えた師匠に聞いてくれよ。あの人どんだけの流派修めてんだか分かんねえ」

「剣聖ペントランドか」

そういやあのご老人、私と殿下で全く違う教え方をしていたもんな。…才能や運動能力に差がありすぎたからかも知れないが。

「気難しそうに見えますけど、話すと意外に気さくな人ですよ。先輩も見かけたら声をかけてみたら良いんじゃないでしょうか」

「お前本当、人見知りなのか怖いもの知らずなのかどっちなんだよ。…まあ意外に気さくってのは当たってるが。あと甘いもの好きだから、多分それで釣れるぞ」

「本当かい?それは良いことを聞いたな」

 

 

そうこう言ってる間にも、殿下とウルツの戦いは白熱していた。

ウルツの鋭い突きを受け流した殿下が、横薙ぎの一閃で反撃する。

ウルツはなんとか防いだが、姿勢が崩れかかっている。

更に重ねて剣が振るわれ、その度に少しずつウルツの側が苦しくなっていくのが分かる。

…そして、ついに殿下の剣がウルツの喉元に突きつけられた。

 

 

「…勝者、エスメラルド・ファイ・ヘリオドール!!」

《3年生のウルツ選手を真っ向から打ち破り、1年生のエスメラルド選手が勝利!1年生による優勝は史上3人目の快挙です…!!》

「や、やりました…!!殿下の、殿下の優勝です!!」

「ああ!やったな…!!」

嬉しさのあまり、横のスピネルと両手でハイタッチをする。

「本当に、大した王子様だね。タッグとは言え、勝てたのが嘘みたいだ」

先輩は腕を組んで感嘆している。

やはり殿下は凄いのだ。前世でも凄かったけど、今世の方がもっと凄いかもしれない。

 

 

「殿下!!おめでとうございます…!!」

力の限り拍手をしていると、殿下がこちらを振り返りその剣を持ち上げた。

《エスメラルド選手、大会出場者席に向かって勝利の剣を掲げます!!》

ヒュームの実況を聞き、私ははっと気が付いた。出場者用の観戦席には今、私たち以外ほんの数人しかいないのである。

会場中の視線がこちらに集中しているのが分かり、耳のあたりが熱くなる。

「ほら、ちゃんと手を振ってやれよ」

「え!?」

横から言われ、私は思わず見返した。そう言うスピネルは手を振らずに拍手を続けている。

思わず先輩の方を振り返るが、同じく拍手をしている先輩にもにっこり笑われてしまった。

「早く。ここはそういう場面だよ」

そういう場面って。

羞恥で赤面しつつも殿下へと手を振ると、殿下は珍しく、分かりやすい笑顔で喜びを顕わにした。

あんなに嬉しそうなのは本当に珍しい。

つい私まで嬉しくなり、ぶんぶんと手を振る。

 

《なんとも美しい光景ですね…!》

ふと観客席を見る。一番手前に作られた特別席は国王陛下のためのものだ。毎年、決勝戦には必ず観戦に来る事になっている。

陛下も、その隣の王妃様も、とても嬉しそうに満足げな笑顔を浮かべていた。

殿下がそちらへ一礼するのを見て、私はもう一度大きく拍手をした。

 

 

 

 

「王子殿下、スフェン様、リナーリア様、優勝おめでとうございます!!」

カーネリア様の声でぱちぱちと拍手が上がり、私たちはそれぞれ「ありがとうございます」とか「ありがとう」とお礼を言った。

今は表彰式と閉会式を終え、カーネリア様の他にニッケルやペタラ様、セムセイ、ヘルビンなどの親しい者たちも呼んで食堂に集まった所だ。

ちなみに夜は先輩ファンの方々と祝勝会をやる事になっている。

さらに明日は先輩を伴ってうちの屋敷に行く予定で、両親が怒っていないか少々不安だが、まあ優勝したから大丈夫だろう…多分。結果オーライというやつだ。

 

「まさか優勝するなんて、本当凄いっす」

感激している様子のニッケルに、私はニコニコした。

殿下は騎士部門で優勝、私たちはタッグ部門で優勝と、本当に私にとっては最高の結果だ。

…彼女たちや、魔術干渉の件は気になるが。今は純粋に喜びに浸ってもいいだろう。

「タッグ部門では私たちが勝ちましたが、殿下は本当に腕を上げられましたね。お見事な試合でした」

「ありがとう。修業の成果を見せられて嬉しい」

生真面目に礼を言う殿下。そこに「そうそう!」とカーネリア様が声を上げる。

「私、びっくりしちゃったわ。リナーリア様が剣を使えるなんて、全く知らなかったもの」

「昔ちょっと齧っていたんです。剣についても知識があった方が魔術支援はしやすいですし。それで、今回の大会に向けて改めてスフェン先輩と練習しました」

「本当に勉強熱心でいらっしゃるのねえ…」

ペタラ様は感心しきりだ。隣の先輩が紅茶を片手にうなずく。

「僕も最初聞いた時は驚いたけどね。意外としっかり型ができていたから、幻術と合わせて作戦に組み込む事にしたんだ。思った以上に上手く嵌ったよ」

「そうねえ。てきめんに効いていたものね。…ね!お兄様!!」

 

カーネリア様に笑顔で話しかけられたスピネルは、無言のまま凄まじい渋面を作った。言い返せないらしい。

私としても、スピネルがあれほど不意打ちに弱いと思わなかったので意外だった。

最後に幻術を解除したのは少しでも驚かせ怯ませられるかと思ったからなのだが、まさかあんなに効くとは。

「あれは本当にカッコ悪かったよね…」

「解説のお兄さんにめちゃくちゃこき下ろされてたっすよね」

「完全に公開処刑だったよな」

「お前ら全員表に出ろ!!」

セムセイ、ニッケル、ヘルビンの男連中に寄ってたかってイジられたスピネルが切れた。

「自業自得だろう」と殿下が少し呆れる。

ちょっと可哀想だが、私がフォローする訳にもいかないのでそっとしておこう…。

 

「そんなに悔しいなら、お兄様も騎士部門に出たら良かったのよ。そうしたら殿下みたいに、名誉挽回の機会があったのに」

カーネリア様が唇を尖らせた。

そうか、彼女はそれが悔しいと言うか、腹立たしいんだな。

きっと兄が騎士部門で活躍する所が見たかったのだ。スピネルが出ていたら上位入賞は間違いなかっただろうし。

「まあ、来年出れば良いのではないですか?」

そう言った私に、向かいの殿下もうなずいた。

「一緒に戦うのも面白かったが…お前には、やはり勝ちたい」

それを聞いたスピネルは、片眉を上げて「…考えとく」とだけ答えた。

 

 

「来年の話なら、次こそヘルビンも出るんだろう?」

先輩に話しかけられ、ヘルビンが眉をしかめた。

「は?なんで」

「武芸大会の成績は査定に響くよ。近衛騎士になりたいなら、ちゃんと出て良い成績を残さないと」

「な、何で知ってるんだよ!?」

ヘルビンがぎょっとして、それからニッケルを振り返った。ニッケルがぶんぶんと首を横に振る。

「ふふふ、この姉の目は誤魔化せないよ。弟がどんな夢を持っているかくらいお見通しさ」

先輩は得意げに言うが、実はヘルビンが近衛騎士になりたがっているとバラしたのは私である。

前世で殿下から聞いた事だったので、今世では違うかも知れないと先輩には一応注意しておいたが、どうやら同じ目標を持っていたらしくて安心だ。

「ほう。そうなのか」

「…ええ、まあ…」

少し目を丸くした殿下に、ヘルビンが恥ずかしそうに答える。

 

「僕も来年は出ようかなあ。彼女に良い所を見せたいし」

「その前にちょっとは身体を絞った方がいいぞ。最近太りすぎだろ」

のんびりした口調で言ったセムセイに、スピネルがジト目になった。

スピネルと仲の良いセムセイは元々やや太めだったのだが、最近ことに丸くなってきたように見える。すでに婚約者がいる彼だが、相手はこの体型を見て何も言わないのだろうか…。

「私も来年はどっちかの部門には出たいわ。いっぱい修業を頑張らなきゃ!」

カーネリア様がぐっと拳を握り、ペタラ様が微笑ましげな顔になる。

 

…来年か。

ずいぶん先のことのように思えるが、またこうして皆で勝利を祝い合えていたらいいな、と思った。



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第98話 結婚式

初夏の風が吹き渡るある晴れた日、私の兄ラズライトと婚約者サーフェナの結婚式は行われた。

「おめでとう!」

「おめでとうございます!」

参列者の祝福を受けながら、白のフロックコートに身を包んだお兄様と、ウェディングドレスの裾を引いたサーフェナ様がゆっくりと進む。

二人の周囲に花や花びらがふわふわと舞いながら光っているのは、我が家の魔術師による演出だ。結婚式では定番である。

幸せそうに頬を染めたサーフェナ様は本当に美しい。

兄も幸せそうに笑顔を浮かべていて、見ているこちらまで幸せな気持ちになる。

 

前世から様々な結婚式に出席しているが、今の私にとってやはりこの兄の結婚式は特別だ。

ラズライトお兄様は昔からずっと私を一番可愛がってくれた。

私も兄が大好きで、まだ記憶が戻る前の幼い頃は「大きくなったらラズライトお兄様と結婚する」とか言っていたらしいのだが私は覚えていない。まあ、兄を慕っている事に変わりはないが。

サーフェナ様は優しくて素敵な女性だし、きっと兄と仲良くやっていけるだろう。

 

「…本当に綺麗だね。凄く幸せそうだ。彼女が素晴らしい伴侶を見付けられて、本当に良かった…」

噛みしめるようなその呟きに、私は隣を見上げた。スフェン先輩だ。

先輩は今日も男装していて、すらりとした男性用の礼服に身を包んでいる。

サーフェナ様も先輩の姿に気が付いたようで、少し照れた表情でにっこりと笑った。

 

 

 

武芸大会が終わった翌日、我がジャローシス侯爵家での晩餐にスフェン先輩を招いた。

大会でも学院生活でもお世話になっている先輩を両親に紹介するためだが、他にもう一つ大きな目的があった。

サーフェナ様とスフェン先輩を会わせるためだ。

先輩の姿を見たサーフェナ様は、懐かしそうに微笑んだ。

「本当に久しぶりね…こんなに大きくなって、立派になったのね」

「…こちらこそ、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

先輩は珍しく少し緊張した面持ちだ。

…この二人は、幼馴染なのだ。

 

 

サーフェナ様の実家のシュンガ家と、先輩の実家ゲータイト家は小麦の取引などで古くから付き合いがある。

当代は両家に近い年頃の子供がいた事もあり、特に仲良くしていたのだそうだ。

中でもサーフェナ様の弟のミニウムとスフェン先輩は仲が良かった。お互い英雄譚や演劇が好きで、そこで気が合ったらしい。

二人で武芸大会に出ると決めた日、先輩はその幼馴染ミニウムについて話してくれた。

 

「僕とミニウムはね、約束していたんだ。将来、彼は人々を救う立派な騎士になる。そして僕は、そんな彼の活躍を人々に伝える劇作家になる」

「劇作家ですか?」

先輩はむしろ役者のイメージだったので、私は少し驚いて聞き返した。

「うん。僕は物語を書く側になりたい。貴族だろうが平民だろうが誰もが楽しめる、斬新で親しみやすい演劇を作ってみたい」

演劇は基本的に貴族のための趣味だ。観劇のチケットはそれなりに値が張る。

平民でも裕福な者なら見に行けるが、それ以外だと祭りの時だとかに芸人が演じるものくらいしか見る機会はない。

 

「ミニウムはそんな物語にふさわしい、皆から親しまれるような素晴らしい騎士になれると思っていた。…だけど彼は、そうなる前に…あまりにも早く天に召されてしまったよ」

ゲータイト家とシュンガ家で行った鹿狩りの日に起きた事件。

先輩やサーフェナ様、家族、大切な人たちを守るため、彼は魔獣と戦って死んだ。

その事件について、先輩は多くを語らなかった。

…あえて淡々とした言い方は、どんな感情を込めて良いのか未だに分からないからなのかもしれない、と私は少しだけ思った。

 

「でも僕は、彼の物語を書く事を諦めていないんだ。彼を悲劇の英雄なんかで終わらせたりしない」

先輩は、力強い意思の宿る目で言った。

「…彼の抱いた夢を受け継ぐ者がいればいい!そうすれば、彼の物語は悲劇じゃなく、希望の物語になる。そうだろう?」

「じゃあ、先輩は…」

「ああ。志半ばで倒れた少年の遺志を継ぎ、誰もが憧れる凛々しさと、親しみやすさを併せ持つ強い女騎士!しかし、その裏の顔は人気の覆面作家!!…ふふ、心躍る物語になると思わないかい?」

「そ、それは、確かに…」

今まで誰も見た事も聞いた事もない物語になるだろう。それは間違いない。

 

「そのための第一歩として、僕は白百合騎士団に入りたいんだ。入団試験に確実に合格するために、武芸大会で良い成績を残したい」

白百合騎士団は、王宮で抱えている女性だけで構成された騎士団だ。

創立当初はほんの数名しかおらず、男の騎士たちからは嘲られたり嫌がらせをされたりと大層苦労したと聞くが、少しずつ規模を大きくし、近年ではその地位もずいぶん向上している。

 

白百合騎士団に入り、誰からも認められるような活躍をする。さらにそれを物語に書き、劇作家としても成功する。

どちらか片方だけでも相当な困難を伴う事は明らかだ。

だが先輩は、真剣にその両方の夢を叶えるつもりでいる。

「だから、リナーリア君。君の力を貸してくれ」

うつむかずに前を向くその笑顔は、とても眩しかった。

 

 

先輩はサーフェナ様だけでなく私の両親や兄に対しても、自分の夢について包み隠さずに語った。

どうもヴォルツやコーネルの件を聞き、私を巻き込んだ事に少し責任を感じていたようなので、全てを話すのは先輩なりのけじめだったんじゃないだろうか。

エンスタットの申し出を受けたのは私自身なので、先輩に責任など全くないのだが…。

傍から見れば自由奔放に生きているようだが、思いやりや優しさを忘れない人なのだ。あれほどにファンがついているのも、単に先輩が格好良いというだけではないのだろう。

 

話を聞いたサーフェナ様は、うっすらと涙を浮かべていた。

「…貴女は、本当に強いのね。私なんかとは全く違うわ…」

サーフェナ様も、目の前で死んだ弟のミニウムの事をずっと気にして引きずっていたという。

ミニウムとの約束のためあくまで前向きに生きようとしている先輩の夢は、彼女にはずいぶんと衝撃的で…そして、胸を打ったようだった。

「貴女とミニウムの夢を、私も応援するわ。…でも、一つだけお願いがあるの」

「何でしょうか」と尋ねた先輩に、サーフェナ様は赤くなった目で微笑んだ。

「たまにでいいから、あの子の所に行って花を供えてあげて。…もう、ずっと行っていないでしょう?貴女が武芸大会で優勝したって聞いたら、きっとすごく喜ぶわ」

先輩はその時初めて、胸を突かれたような表情をした。

「…分かりました。必ず」

うつむいた髪の隙間から滴った雫が、ぽつりと床に染みを作った。

 

 

 

 

結婚式はつつがなく終わり、立食パーティーが始まった。

皆わいわいと楽しそうにグラスを合わせたり料理をつまんだりしている。

ふと、私の両親と目が合った。私と先輩を見て、穏やかに笑いかけてくれる。

寛大で心優しい両親には、いくら感謝してもし足りない。

 

しかし、そこに冷ややかな声をかけて来る者があった。

「…お前は、またそのようなみっともない格好をしているのか」

ゲータイト伯爵。先輩の父親だ。

新婦のシュンガ家とは親しい家なので、当然招待されている。

伯爵は口髭をたくわえた顔を大きくしかめ、先輩の服装を睨んでいた。すぐ後ろでは伯爵夫人がひどく申し訳無さそうに先輩を見ている。

「親に恥をかかせるのもいい加減にしろ。そんな事では嫁の貰い手がないと言っているだろう」

「僕はゲータイト家の恥になるような事は何一つしていません。それに、前にも言ったでしょう。僕は結婚するつもりなどないと」

「お前は…!」

「リナーリア」

伯爵が激昂しかけた時、よく通る落ち着いた声が私の名を呼んだ。

振り向くと、殿下がスピネルを連れてこちらに歩み寄ってくる。

 

「殿下、本日は兄の結婚式にご出席いただきありがとうございます」

「ああ。ジャローシス侯爵には先程挨拶をさせてもらった」

ラズライトお兄様は我が家の跡取りなので、当然王家にも招待状を送っている。妹の私と親しい殿下が代表して来て下さったのだ。

第一王子の登場に、ゲータイト伯爵は慌てて口を噤んだ。

 

「君の兄上が良縁を得られたようで何よりだ。ジャローシス侯爵家も安泰だろう」

「はい。幸甚に存じます」

それから殿下は、私の隣の先輩を見た。

「スフェン。先日の武芸大会では世話になった。敗北を喫したことは悔しいが、とても良い勉強になった」

「恐悦至極に存じます。エスメラルド殿下も素晴らしい腕前でした。こちらのリナーリア嬢と、時の運。両方が味方してようやく勝てたのだと思います」

「勝利の女神を味方につけられたのは、実力あってこそだ。君の剣は強く、そして迷いがなかった。…君ならば、白百合騎士団に入ることもできるだろう。もし良ければ考えておいて欲しい」

 

殿下の言葉に先輩は少しだけ目を瞠り、嬉しそうに笑ってから一礼をした。

「…光栄です。ご期待に添えるよう精進いたします」

更に殿下は、「ゲータイト伯爵」と伯爵の方を振り返る。

「良い娘を持ったな。彼女の活躍には期待している」

「は、ははっ…!あ、ありがたき幸せ…」

 

ゲータイト伯爵は顔色を青くしたり赤くしたりしていたが、殿下に「もう行って良い」と言われ慌てたように立ち去っていった。

先輩が女騎士になる事に反対していた伯爵だが、何しろ第一王子から直々に入団を勧められたのだ。

あまり納得した表情ではなかったように見えたが、表立って反対する事はもうできないだろう。

 

「殿下、ありがとうございました」

私と先輩は揃って殿下に頭を下げた。

実は、さっきのやり取りは仕込みだったのだ。

予め殿下には、ゲータイト伯爵の耳に入る所で先輩の剣の腕を褒めてもらえるように頼んであった。伯爵が向こうから話しかけて来たので丁度良かった。

感謝する私たちに、殿下は軽く首を振る。

「俺は思ったことを言ったまでだ。感謝の必要はない」

殿下には先輩が白百合騎士団に入りたがっている事までは教えていなかったので、先程の言葉にはちょっと驚いた。

女騎士の最高峰と言えば白百合騎士団なので、推察するのは難しくないだろうが…。

つまり殿下は、先輩なら入れると本気で思ってくれているのだろう。

 

「いいえ殿下、これで僕は夢に向かって邁進できる…本当に感謝します!僕の物語には、王子殿下の凛々しい勇姿もしっかり描くと約束いたしましょう…!」

先輩はいつもの調子に戻ると、ばっ!と片手を掲げてポーズをつけた。

「?…うむ。ありがとう」

殿下は先輩の劇作家の夢ももちろん知らない。ちょっと不思議そうにしながらも真面目な顔でうなずいた。

「殿下、雰囲気で何となくうなずくのやめろ。絶対ろくな事にならない予感がするぞ」

口を挟んだスピネルに、先輩はふふんと笑う。

「スピネル君には特に世話になっていないけれど、僕は優しい人間だからね。君のカッコ悪い負けっぷりについては手心を加えておいてあげるよ!」

「ほら見ろ!なんか知らんけど俺が巻き込まれたじゃねーか!!」

「だからお前のは自業自得だろう…」

 

 

その後、殿下は「では、また後で」と言って踵を返した。

今日の参列者の中にはアーゲンやセムセイなど、我が家と仲の良い家の同級生も幾人か来ているので、そちらに向かうようだ。その背中を見ながら呟く。

「そっか…先輩の物語には、殿下も登場するんですね」

女騎士が武芸大会に出て、王子に剣の腕を認められるエピソード。なかなか人気が出そうな気がする。

「ああ。もちろん君も登場するよ。何しろ君は僕の大恩人だからね!」

そうか、私も出るのか。想像するとちょっと照れくさいな。何だか凄く美化されそうな気がするし。

「大恩人は大げさだと思いますよ」

普段から先輩にはお世話になっているし、大会で優勝したのだって先輩ファンの人たちがたくさん応援して練習環境を整えてくれたのが大きい。つまり先輩の人望だ。

ゲータイト伯爵の件は殿下のおかげだし。

 

「謙遜する必要はないよ。…それに今日、ここで彼女の結婚式に参列できるのは君のおかげだ。僕は父から嫌われているから、君が招待してくれなかったら来られなかった。本当にありがとう」

今は別のドレスに着替え、参列者たちと挨拶を交わしているサーフェナ様を、先輩は優しい面持ちでじっと見つめている。

ミニウムの姉である彼女もまた、先輩にとっては特別な人なんだろう。

「…いいえ。私としても、兄の結婚式に来ていただけて嬉しいので」

兄と義姉がたくさんの人に祝福されている姿はやはり嬉しい。

 

先輩は少し微笑むと、「でも」と言葉を続けた。

「君の物語は、僕の物語とは別に書いてみたいとも思ってるんだ。言っただろう?君には主役の素質があると」

「ええ!?」

()()()を抜きにしても、君ほどに波乱万丈に生きている子はそういないと思うよ」

まあ確かに、あれこれ事件に巻き込まれたり自ら首を突っ込んだり結構しているが…。

何とも言えない表情を作った私に、先輩は笑う。

「実現するのはずっと未来のことになるだろうけどね、考えておいてくれたまえ。…きっと、美しい物語になると思うよ」

「?」

波乱万丈と美しさとの関係が分からず私は首を傾げたが、先輩はそれ以上説明する気はないらしい。

 

「それじゃ、改めて新郎新婦にお祝いを言いに行こうか」

「あ、はい!」

歩き出した先輩の後ろを慌てて追う。

青い空には、まだ沢山の花びらが舞っていた。



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登場人物紹介

●リナーリア・ジャローシス(16)

青みがかった銀髪に鮮やかな蒼い瞳。

王子の従者(男)として育ったが、死んだら何故か女になって人生をやり直すことになった。

見た目は儚げ系美少女なのに中身は結構武闘派なのでは?と皆が気付いてしまった。しかし筋肉女神は断固拒否。

入学祝いに何が欲しいか尋ねられ、宝飾品でもドレスでもなく魔導書を欲しがったので両親は実にがっかりした。

ファッションセンスは皆無と言うより興味がないので、全部周囲に任せている。

贈り物のセンスもあまりないが、困ったらスピネルかカーネリアに相談すれば良いと気が付いてから大分改善された。

 

●リナライト・ジャローシス(享年20)

忠犬系従者。結構気が短いが、自分では理知的で冷静な性格だと思っている。

見た目と地位で最初はモテるが、話題が小難しい話か王子の事ばかりなのですぐ逃げられている。

よくプレゼントを貰っていたが賄賂的なものも多かったので、あまり嬉しくなかった。

視察中に金銀2匹セットのカエルの置物を見付け片方を王子に贈った事があるが、実は夫婦ガエルの置物だったので、周囲は「あっ」という顔をしたが王子は普通に喜んで受け取った。

 

●エスメラルド・ファイ・ヘリオドール(16)

淡い金髪に翠の瞳。だんだん逞しくなり男らしくなりつつあるカエル好きの王子様。

剣の才能に磨きをかけているが、勉強の方もちゃんと頑張っているので忙しい。

前世より剣の腕は上だが魔術の腕は下な事をリナーリアは非常に複雑に思っている。

剣術でも恋愛でも基本的に粘り腰でゆっくり攻める姿勢。

スピネルがたまに押し付けてくる春画本の隠し場所に困り全てベッドの下に放り込んでいるが、メイドたちが気付かないふりをしてくれている事は知らない。

 

●スピネル・ブーランジェ(18)

ブーランジェ公爵家の四男。後ろで一つにまとめた鮮やかな赤毛に鋼色の瞳、長身。

勉強から社交まで大抵のことは器用にこなすが剣が一番得意。

地は結構口が悪いともう学院内ではバレているが、女子からはそれはそれで良いと人気が出ているらしい。

密かに妹の恋愛事情が気になっているが一応静観している。

実家に帰ると父親に家伝の革細工をやらされるが、子供の頃に作って気まぐれであげたお守りを王子が未だに大事に持っていると知り、嬉しいやら恥ずかしいやらだった。

 

●カーネリア・ブーランジェ(16)

ブーランジェ公爵家の末妹。

剣術と他人の恋話が趣味だが、最近少しは自分の恋愛にも興味が出てきた。

長兄や次兄におねだりすれば大抵のものは買ってもらえるし、次兄には「モノで釣る男には気を付けるんだよ」と言い含められているので、プレゼントには大して興味を示さない。

 

●レグランド・ブーランジェ

ブーランジェ公爵家の次男。近衛騎士で、数々の浮名を流してきた伊達男。剣の腕は確か。

自分の後継者と目していた4番目の弟がちっとも恋人を作らないのを意外に思っているが、何だかんだ言ってかなり可愛がっている。

友人に春画専門の画家がいる。スピネルに春画本を定期的に渡している犯人。

 

●フロライア・モリブデン(16)

クラスメイトで由緒正しい侯爵家のご令嬢。美人で巨乳。

前世ではエスメラルドの婚約者だったが、今世では同級生以上の関係にはなっていない。

 

●ビスマス・ゲーレン

モリブデン侯爵家の支援を受け学院に通っている騎士課程2年の生徒。平民出身。

くすんだ灰色の髪に紫紺の目で、目立たない風貌だが剣の腕はあなどれない。

無口で誰ともほとんど話さない謎の人物。

 

●スフェン・ゲータイト(17)

赤が交じる黄緑の髪がとても派手な騎士課程2年の女生徒。常に男装していて、芝居がかった口調で話す。

リナーリアの秘密を知るただ一人の人物になった。

ファンからの贈り物はきりがないので、新年の祝いの時以外は基本的に受け取らないようにしている。

お返しのメッセージカードは内容が一人一人違い、とても細やかだと評判。

 

●ヘルビン・ゲータイト(16)

別クラスにいる騎士課程の生徒でスフェンの弟。口の減らない性格で何かあるとついツッコんでしまう。

近衛騎士志望で、地味に修業を頑張っている。

姉に武芸大会の優勝祝いを贈りたいが、何を贈って良いのか分からず悩んでいる。

 

●ベルチェ・ジャローシス

リナーリア(リナライト)の母。若い頃は大変美人だったが今でもかなりの美人。

娘の将来をとても心配しているが、何かだんだん開き直ってきた。

 

●アタカマス・ジャローシス

リナーリア(リナライト)の父。ベルチェと婚約した際は周囲からめちゃくちゃ嫉妬されたが、天性ののんきな性格で乗り切った。

 

●ラズライト・ジャローシス(22)

長兄でジャローシス侯爵家の跡取りである癒やし系イケメンだが、実力派魔術師でもある。

幸せいっぱい新婚さん。

妹からお手製の刺繍入りハンカチを貰ったと周囲に見せびらかして回った時にはかなり生暖かい目で見られたが、本人は気にしていない。

 

●ティロライト・ジャローシス(18)

次兄。のんびり屋だが妹のことは可愛がっている。

兄の結婚祝いに赤ん坊用のゆりかごを贈ったら「気が早すぎる」と言われた。

卒業後はブロシャン領へ留学予定。

 

●コーネル(18)

リナーリア付きの使用人。あれこれ問題ばかり起こす主人がほっとけないお姉さん気質。

主人が落ち着いたら自分の恋愛にも力を入れてアタックしていきたいと思っているが、主人が特別鈍いだけで他の人物には普通にバレていると知った時には悶絶した。

 

●ヴォルツ・ベルトラン(18)

いつも仏頂面、無口で無愛想だが実力のある騎士。剣も使えるが槍術が一番の得意で、相当の腕前。

実は実家が没落しており、いずれはベルトラン家を再興したいが、拾ってくれたジャローシス家への恩返しが優先。

 

●サーフェナ・ジャローシス(22)

ラズライトの妻になった。旧姓シュンガ。

魔術師になりたかったが諦め、今は新しい夢を持っている。

夫(当時婚約者)が妹にもらったと嬉しそうに見せてくれた刺繍のハンカチを見て、義妹に刺繍を教えようと強く決意した。

 

●ミニウム・シュンガ

サーフェナの弟で、スフェンの幼馴染。故人。明るい性格で、演劇や英雄譚が好きだった。

 

 

●アーゲン・パイロープ(16)

パイロープ公爵家の嫡男。

まだ諦められないらしく、定期的にリナーリアにアプローチしているが反応は芳しくない。

下手に頭が回るため、強引になりきれないのが弱点かもしれない。

リナーリアが植物好きと聞いてよく花を贈っているが、切り花ではなく鉢植えの方を欲しがっている事には気付いていない。

 

●ストレング・ドロマイト(16)

アーゲンの腹心。武芸大会ではあまり良いところを見せられなかったので、鍛え直そうと決意した。

 

●ペタラ・サマルスキー(16)

薄茶色の髪。大人しく心優しい令嬢で、リナーリアやカーネリアとは友人。

 

●シリンダ(17)

スフェンのクラスメイトで、スフェンのファンクラブを取りまとめている一人。

優しく思いやりがあり、スケジュール管理などのマネージャー的役割も果たしている。

実は学業成績では常に上位の優秀なご令嬢。

 

●エレクトラム

ボリュームたっぷりのゴージャスな金髪をした、高飛車なご令嬢。

実家はかなり裕福。シリンダと並びスフェンファンクラブのトップ。

ツンツンしているが実は面倒見の良い性格。男兄弟しかいないので姉妹関係にあこがれていた。

 

●ニッケル・ペクロラス(16)

ペクロラス伯爵の嫡男。父母の離婚の危機を王子に救われ、慕っている。趣味は絵画。

レポート用の絵を描いたお礼としてリナーリアからは絵筆を貰った。家宝にしようと思っている。

 

●セムセイ・サーピエリ(16)

クラスメイトでスピネルの友人。領地が近いのでリナーリアのジャローシス家とは仲が良い。

温厚な人物だがたまに容赦ないことを言う。

婚約者にお菓子をあげ続けていたら二人して太ってきたが、まあ良いかと思っている。

 

 

●フランクリン・ブロシャン(18)

ブロシャン公爵の嫡男。

一見軽い男だが意外としっかりしていてフォロー上手。

婚約者とはラブラブバカップルで、武芸大会出場記念にお揃いのハートのネックレスをプレゼントした。

 

●オリーブ・アンブリゴ(18)

騎士課程3年の女子生徒。フランクリンとは相思相愛の仲。

ハートのネックレスは正直どうかと思ったが、着けているうちに気に入ったらしい。

 

●エンスタット・スペサルティン(16)

魔術師課程のクラスメイト。リナーリアを筋肉女神と崇める。

大会で敗北したため求婚は失敗したが、むしろ信仰心は上がった。

 

●アダム・グロッシュラー(16)

隣のクラスの魔術師課程生徒。

エンスタットの友達で、彼の変貌ぶりを見て自分も筋トレを始めてみたが、筋肉女神への入信は謹んでお断りした。

 

●アレガニー

騎士課程3年。武芸大会でフロライア組と戦った。

 

●バスタム

騎士課程3年。アレガニーとタッグを組んだ。

 

●カラベラス・キンバレー(18)

魔術師課程3年トップ。背が低いことがコンプレックスだが、それをバネに頑張ってきた努力家。

 

●アルチーニ・ポリバス(18)

騎士課程3年。カラベラスとタッグを組む。

大柄なパワー系騎士だが実は小動物好きだという噂がある。

 

●ウルツ・ランメルスベルグ(18)

騎士課程3年。ランメルスベルグ侯爵家の嫡男。

実は学院の男子人気ランキングで1位だった爽やかイケメン。当然のように美人の婚約者がいる勝ち組。

 

●サフロ・ランメルスベルグ(17)

騎士課程2年。ランメルスベルグ侯爵家の次男。兄と同じくモテるが、今の所彼女はいない。

 

 

●ブロシャン魔鎌公

先代のブロシャン公爵。偉大な魔術師で風魔術を得意としていた。病気で死亡。

 

●ユークレース・ブロシャン(14)

ブロシャン公爵の次男。天才魔術師だがプライドが高く騎士嫌い。お祖父ちゃん子。

王子が水霊祭で領を訪れた際の一連の事件でずいぶん精神的に成長したが、慕っていた祖父の死について周囲はかなり心配している。

 

●ヴァレリー・ブロシャン(15)

ブロシャン公爵の長女。ゆるふわ系小悪魔令嬢。

祖父からは「思うように生きてよい」と言われており、それが遺言のようなものだと思っている。

学院への入学を控えあれこれ準備中。

 

●クリード(16)

リナーリア達のクラスメイト。騎士課程。スピネルの友人の一人。

ノリが軽く後先考えずに行動しがち。彼女募集中。

 

●スパー(16)

同じくクラスメイト。騎士課程。クリードとニコイチ。クラス委員。

すぐバカなことをするクリードの諌め役と思いきや、一緒になってバカなこともしている。

 

●アフラ(16)

クラスメイトで魔術師課程の女子。裁縫が得意。

 

●カルセドニー・フォウル・ヘリオドール

ヘリオドール王国の現国王。身体が弱い。

息子が視察の土産としてプレゼントしてくれた鳥の形をした笛がお気に入り。

 

●サフィア・ヘリオドール

現国王の王妃。薄い色の金髪で息子とよく似た無表情気味の美女。

編み物が趣味で毎年息子に毛糸のパンツを編んでいたが、さすがにそろそろやめて欲しいと遠回しに言われてしまい、何を編んだら良いのか悩んでいる。

 

●ペントランド(60)

王子とスピネルの剣の師匠で、剣聖とも呼ばれる達人。

見た目が若いせいか未だに女性にモテる。実はあまり酒に強くなく、甘いものが好き。

 

●フェルグソン・ヘリオドール

現国王の兄で、騎士至上主義者。王位継承権は剥奪済みだが未だに権力は持っている。

 

●オットレ・ファイ・ヘリオドール

フェルグソンの息子で、エスメラルドに対抗心を持っている。

武芸大会に出場していたが2回戦敗退。

 

●セナルモント・ゲルスドルフ(37)

王宮魔術師。古代神話王国マニアの変人だが探知魔術のエキスパートでもある。

正式にリナーリアの師匠になったが、「魔術はあまり教える事なさそうだし」と言って古代神話王国の研究を手伝わせる気満々。

昔師匠から譲られたとても立派な杖を持っているが、普段はしまいっぱなし。



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第99話 衣装

武芸大会が終わってから数日。

およそ一ヶ月後に迫った芸術発表会に向けて、合唱の練習が始まった。

4部合唱でパート分けも済み、指揮はクラス委員のスパー、伴奏のピアノはセムセイが担当する事になった。

 

練習は概ね放課後に行われる。

他のクラスも同じように練習をしているので、この時期の学院はとても賑やかだ。

演目によっては大きな教室を借りる必要があるが、うちのクラスは合唱なので移動の必要はない。

ピアノは当日使うグランドピアノではなく各教室にある小さなアップライトピアノになるが。

当日まで内容を秘密にしたい場合は魔術師の生徒が消音や暗幕の結界を使って練習したりするが、そこまでやる事はめったにない。

 

 

今日もその練習を行うために放課後皆が残ったのだが、練習前にアフラ様に声をかけられた。

「リナーリア様、ちょっと良いかしら?」

「何でしょう?」

「衣装の仮縫いができたの。試着していただけないかしら」

そう言って持ち上げたアフラ様の手には、衣装が入っていると思しき紙袋がある。私の衣装を真っ先に作ってくれていたらしい。

「はい、構いませんよ」

「隣のクラスはダンスだから、今は空いているわ。着替えに借りられるように頼んでおいたから、あちらに行きましょう」

アフラ様はよほど気合が入っているらしく、真剣な表情だ。

私もつられて真剣な顔で「はい」と答えた。

ウサギの衣装か…まあ、動物なのだからそう派手なものではあるまい。

 

 

何故か女子の全員で隣の教室に向かうことになった。

数人が入口で見張り、後は私の着替えの手伝いをしてくれるらしい。

皆衣装がどんなものか見たいだけの気もするが、女性はこういう事が大好きだからな。

「じゃーん!どうかしら?」

アフラ様が取り出したのは、長袖の真っ白なワンピースだ。

襟元や緩やかに広がった袖、スカートの裾などにふわふわの毛皮があしらわれている。

おしりの部分には丸い尻尾も付けられているようだ。

 

「まあ…。まるで普通のお洋服みたいな形なんですね」

もっと全身を覆う着ぐるみみたいな服を想像していたので、私は少し驚いた。

「ええ。だって着ぐるみじゃ可愛くないんだもの!全体に毛皮を使うのは予算的に無理だったから襟元や裾にだけ使ったんだけど、そこがかえって可愛くなったと思うのよ!!」

「な…なるほど?」

力説されるが私にはよく分からない。

 

「でも、白ウサギなんですね」

白いウサギは冬、しかも雪の多い地方にしかいない。

合唱のモチーフである旅人と山の獣たちの物語に具体的な季節は出て来ないが、冬に山越えをする者はあまりいないし最後に花が出て来るので、冬ではないと思う。

ちょっとイメージと違うなと首を捻る私に、アフラ様は自信に満ちた顔で言った。

「リナーリア様にはこっちの方が似合うと思ったのよ!」

「は、はあ…」

「あと、他にもウサギをやる人が何人かいるから、メインのウサギ役とエキストラとの差別化をするためでもあるわ。他のウサギは普通に茶色や灰色よ」

なるほど、そういう事か。それなら理解できる。

 

 

それから数人に手伝ってもらって衣装に着替えた。

「わあ…!リナーリア様、すごく可愛いです!」

ペタラ様が感嘆の声を上げる。

「ありがとうございます…でも、ちょっと丈が短くないですか?」

ワンピースの裾は膝が隠れるか隠れないかくらいの長さだ。

学院の制服だってふくらはぎくらいの丈があるし、今までこんな短い丈のスカートを履いたことはない。

「ウサギの活発なイメージを反映してみたのよ!このくらいの長さの方が裾がひらひら翻って元気な感じに見えるわ。これからはこういう短いスカートが流行るわよ!絶対に!!」

「そうなんですか…」

さっぱり分からん。

だが、アフラ様は自信ありげだ。

大丈夫かなあ…はしたなくないだろうか。芸術発表会は両親や兄も見に来るし…。

でも、動きやすさという点ではかなり良いな。ドレスの裾は本当に邪魔だからな。

 

「肌が出ているのが気になるなら、太ももまである長靴下を履いたらいいのではないかしら」

そう言ったのはフロライア様だ。アフラ様の方を見ると、「そうね」とうなずく。

「足元はブーツの予定だけど、さらに長靴下を合わせてもきっと可愛いわ」

ちょっとほっとした。それなら肌は出ないから大丈夫だろう。

「サイズはどう?きつい所とかないかしら。サイズ以外にも気になる所とか」

「はい、大丈夫です。首元の毛皮が少しくすぐったいですけど、問題はありません」

事前にちゃんとサイズを測ってもらったので、特にきつかったりはしないようだ。

 

「リナーリア様本当に細いわよね…羨ましいわ…」

クラスメイトの一人が溜め息をついた。そう言う彼女も別に太っていたりはしないと思うのだが。

でも、「私はもっと肉をつけたいんです」は女性の前で絶対に言ってはいけない言葉だという事くらいは私も知っている。

だから私は遠慮がちに苦笑した。

「あまり良いものではないと思いますよ。ほら、男性は少しふくよかな…豊かな女性の方が好きだと聞きますし…」

すると、途端にクラスメイトたちが優しい顔になった。

「…胸に詰め物、します?」

アフラ様にそう尋ねられ、私はちょっぴり引きつりながら「結構です」と答えた。

 

 

「…それで、一番大事なのがこれよ」

気を取り直したようにアフラ様が紙袋からカチューシャを取り出した。

ふかふかの毛に覆われた長く白い耳がついていて、一目でウサギの耳を象ったものだと分かる。

確かにこれがあればちゃんとウサギの扮装に見えるだろう。

「付けますね」

「はい」

軽く屈み込んだ私の頭にカチューシャが差し込まれる。

 

「…可愛い!!」

「ほんと!思った通りだわ!!」

「可愛いですわ…これ絶対に可愛いですわ!私は山猫にしたんですけれど、猫耳も絶対可愛いですわよね!?」

「ええ、山猫も可愛いわよ。間違いないわ!!」

女子のテンションは天井知らずだ。入口で見張りをしていた女子も入ってきて、きゃいきゃいと盛り上がっている。

「リナーリア様、エスメラルド殿下に見せて差し上げましょう!」

「え」

「ほら、早く!」

 

 

 

皆に手を引かれ、元の教室に戻る。

扉を開けて中に入った途端、「おおっ」と男子のどよめきが上がった。

「えっ!何それ!着ぐるみじゃないんだ!?」

「かわいい!」

「マジ?他の女子もそんなん着けるの?」

「男子もだろ?」

「いや俺スカートはちょっと…」

「そっちじゃねーよ!耳だよ耳!」

 

女子にぐいぐい押され、私は目を丸くしてこちらを見ている殿下の目の前に立った。

「…あの、どうでしょうか?」

躊躇いながらも尋ねるが、殿下はぽかんとしている。何と言って良いのか分からない様子だ。

「ほら、くるっと回ってみて」

「こうですか?」

アフラ様に促されてくるりとその場でターンする。

おお、この丈の長さでターンするとスカートの裾って凄く広がるんだな。本当にひらひらだ。

「おおっ」とか「わあ!」とか歓声が上がるが、スピネルはちょっと眉を寄せた。

 

黙って見ていた殿下は「ン゛ンッ」という妙な咳払いと共に横を向いた。耳が赤い。

「へ、変ですか?」

正直私には斬新過ぎる衣装なので良いのか悪いのか分からない。女子は皆可愛いと言ってくれているが…。

「これは『よく似合ってる』っていう意味の咳払いだな」

「そんな咳払いあります?」

スピネルが半笑いで説明してくれるが、殿下は横を向いたまま口元を抑えている。

これは笑いを堪えているのでは…?

「い…いや、か、可愛いと思…」

すると、横で私を凝視していたクリードが呟いた。

「…天才だ…」

 

「すげーよ!これマジ天才の発想じゃね!?ウサギ耳!最高じゃん!!」

「でしょ!?可愛いでしょ!?ウサギだけじゃないわ、猫も狐も狼もあるのよ…!!」

「うおお!すげえ!!」

「これは間違いなく流行るわよ…!!」

大興奮するクリードに、アフラ様も興奮した口調で応じた。周囲のクラスメイトたちにもうんうんうなずいている者が多い。

 

 

「でもね、確かに作ったのは私だけど、このアイディアを出したのはエスメラルド殿下なのよ」

「!?」

突然話を振られた殿下がぎょっとした。

「そうだった…すげえ!王子殿下天才っすよ!!」

「いや、俺はそんなつもりは」

殿下は慌てるが、クリードもクラスメイトたちも満面の笑みだ。

 

「ばんざーい!!王子殿下ばんざーい!!」

主に男子生徒による謎の万歳三唱が始まった。

「…!?…!?」

殿下は目を白黒させていて、スピネルは必死に笑いをこらえている。

本当にさっぱり理解できないが、殿下が称賛されるのは良いことだ。

とりあえず笑顔で拍手をすると、殿下は恥ずかしそうに下を向いた。

 

…これからしばらく後、「つけ耳カチューシャの開発者」として殿下の名前が貴族の間で知られるのは、また別の話だ。

 

 

「でもお前、下に何か履けよ。丈が短い」

スピネルには後で釘を刺された。

「ですよね。長靴下を履きます」

貴族令嬢としてあまり脚を見せるのはよろしくない。アフラ様が言うにはこれからは短いのが流行るそうだが…。

流行ると良いな。動きやすいし。



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挿話・17 侯爵家の執事

「リナーリアお嬢様、お帰りなさいませ」

青銀の髪を揺らしながら馬車から降りた少女に向け、スミソニアンは深々と頭を下げる。

「出迎えありがとうございます。まだ少し時間があるので、お父様やお母様とお話がしたいのですが…」

「承知いたしました。すぐご案内いたします」

たおやかに微笑む少女に、背筋を正して返事をした。

この美しい少女に仕えられる自分は幸せ者であると、スミソニアンは疑っていない。

 

 

スミソニアンはジャローシス侯爵家に仕える執事長である。

この家の執事や使用人のすべてを取り仕切る立場だ。父から受け継ぎ執事長となったのがおよそ8年前、執事としての修行を始めたのはさらにその20年は前になる。

ジャローシス侯爵家は使用人にとって非常に働きやすい家であるという事は、早いうちから理解していた。

侯爵家としてはかなり新しく家格は低いが、その分古い因習に縛られる所がない。領民と目線が近く、親身だ。

当主は代々鷹揚な人物が多く、特に今代のアタカマスは大らかで度量が広い。

使用人に対してもきつく当たるような事はなく常に寛大だ。

若い頃はそののんき過ぎる気質が少々心配されたりもしていたのだが、今ではすっかり侯爵としての貫禄を身に着けている。

 

また、この家は魔術師系貴族にしては珍しく商才を持つ者が多いために裕福だ。

ジャローシス領は王都からは遠く離れた田舎だが、火山を持つという特色があり、他の土地にはない珍しい植物や鉱物などを産出する。それらは王都で高値で売れるのだ。

財政に余裕があるので、他の有力な貴族家に殊更媚びへつらう必要もない。

それどころか金を貸している家がいくつもあり、しかも利息が安いので、貴族の間では密かに(借金をしている事など大っぴらにしたくないのであくまで密かに)慕われているという。おかげで権力争いなども上手く避けていられるらしい。

 

そのような恵まれた環境で育てられた子供たちもまた、優秀で心優しい。

次期当主であるラズライトは既に部下や領民から大きな支持を得ているし、次男のティロライトは学院卒業後にブロシャン領で魔術師修業をする予定になっている。

中でも末娘のリナーリアは、スミソニアンにとって特別な存在だ。

母のベルチェによく似た美貌を持つ少女の成長を、スミソニアンは少々複雑な気持ちで見守っている。

 

 

 

当時はまだピアースという姓だったベルチェが、アタカマスに招待されて初めてジャローシス侯爵家の屋敷を訪れたのは、スミソニアンがまだ執事見習いの少年だった時だ。

その清楚な美しさにスミソニアンは心臓を撃ち抜かれたかのような衝撃を受けた。

貴族の女性には美人が多いが、彼女の美貌はその中でも群を抜いている。

流れるような青銀の髪も、楚々とした仕草も、小鳥が囀るような声音も、全てが美しい。

有り体に言えば一目惚れであった。

 

後日、アタカマスとベルチェは正式に婚約する事になった。

ピアース家はよくある魔術師系貴族、つまり領地が狭くあまり金のない貴族だった。有力な後ろ盾もおらず、ジャローシス家にとっては婚姻による旨味はほとんどない。

アタカマス側から熱心にアタックを掛けたらしいが、ベルチェもアタカマスに心を寄せている様子だった。

要するに、単純な恋愛結婚である。

 

若きスミソニアンは数年にわたる長い葛藤の末にようやくそれを受け入れた。

相手は身分違いの年上の女性、しかも主家の跡取り息子の婚約者なのだから諦める以外の選択肢は初めから無かったのだが、なかなか感情がついて行かなかったのだ。

心の傷は執事修業や昔から好きだった紅茶の勉強に打ち込む事で癒やした。

ラズライトが生まれた時は心からそれを祝福できたし、スミソニアン自身もまたジャローシス家に仕える騎士の娘と結婚し子供をもうけた。

 

 

そしてリナーリアが生まれ、スミソニアンは内心で歓喜した。

母譲りの青銀の髪。蒼い瞳。

間違いなくこの子は母親に似て美人になると、猿のように真っ赤な顔で泣く赤ん坊を見てスミソニアンは理由もなく確信した。

ならば執事としてやるべき事は一つ。この子を立派な淑女(レディ)へと育てる事である。

 

スミソニアンの期待通り、リナーリアは元気に可愛らしく育ち始めた。

まだ幼いがとても愛らしい。目に入れても痛くないとはこの事だ。

少々やんちゃな所はあるが、聡明で素直だ。好奇心旺盛で、特に植物が好きらしい。

将来はきっと花を愛するたおやかな淑女になるだろう。

 

 

ところが10歳を越えた辺り、具体的には第一王子と出会った辺りから風向きが変わってきた。

明らかに様子がおかしい。

妙に大人びたというか、よそよそしい振る舞いをするようになった。前はあんなに懐いてくれていたのに。

いや、決して嫌われたとかではないのだが、どうも少し距離感が遠くなった気がする。

言葉遣いも少々おかしいし、やけに難しい魔導書に手を出したり、何やら真剣に考え込んでいる事も多い。

アタカマスやベルチェにもそれとなくその事を訴えたのだが、「あの子もそろそろお年頃なのよ~」という実にのんびりした返事が返ってきた。

この家の人々は、良くも悪くも大変のんきなのである。

 

それでも植物好きな所は変わらないらしく、よく庭に出て花を眺めているのでそこは安心していたのだが、おたまじゃくしやらカエルやらを見てニコニコしているのを見て驚いた。

前は虫やら魚やらカエルやらの生き物を怖がる素振りだったのに。

尋ねてみると、「内緒ですけど」と言ってスミソニアンの耳元に唇を寄せてこう言った。

「王子殿下は、生き物の中でもカエルが特別お好きなんですよ。もちろん、私もです」

 

その時のスミソニアンの衝撃は筆舌に尽くしがたい。

それはつまり、王子の影響を受けて苦手を克服したということではないか。

 

そうこうしている内に、リナーリアと王子は友人になり、頻繁に行き来して会うようになった。

王子もまたリナーリアを気に入ったらしい。あまり表情が変わらないので分かりにくいが、スミソニアンには分かる。

そもそもリナーリアはこんなに可愛らしいのだから、気に入らないはずがないのである。

2年が経ち、12歳を越える頃には既に「王子と最も親しい令嬢」として貴族の間に知られるようになってしまった。

 

スミソニアンは複雑だった。

彼女の器量ならば当然だとは思うが、少々早すぎはしないだろうか。そういうのはもっと後になってからだと思っていた。

いずれは家を出て嫁ぐ事は分かっているが、せめてあと10年は嫁がずここにいて欲しい。

そう思っていたらうっかり口に出てしまっていたらしく、リナーリア付きの使用人のコーネルに「心底気持ち悪い」と言わんばかりの目で見られてしまった。

心外である。自分はただリナーリアの将来を案じているだけだというのに。

同じくそれを聞いていたらしいラズライトには、後で肩を叩かれ「分かるよ。僕も同じ気持ちだ」と言われた。

やはり彼は良き主になれる人間だ。

できればそういう事は後からでなく、その場で言って欲しかったと思ったが。

 

そもそも第一王子妃になどなったらおいそれと会えなくなってしまうではないか。他の貴族とは格が違う。未来の王妃なのだ。

彼女はそれにふさわしい美貌と教養とを備えていると分かっていても簡単には納得できない。

ベルチェがアタカマスの婚約者となった時の、頭では理解しつつも感情がついて行かないあの感覚が蘇る。

年を取りずいぶん丸くなったつもりでいたが、人間そう簡単に変われるものではないらしい。

 

…これもいずれは時が解決してくれるのだろうか。

そう思いつつさらに数年が経ち、リナーリアは学院へと入学した。

学院では多くの男子生徒から想いを寄せられているらしい。例えば、あのパイロープ公爵家の嫡男だとか。

当然の事だとは思いつつ、複雑な気持ちが抑えられない。

 

 

そんなスミソニアンが密かに共感を覚えている少年が一人いる。スピネルという名の、第一王子の従者だ。

もはや少年を脱し青年となりつつある彼だが、昔からリナーリアとは気安い仲だ。

あまりにざっくばらんなその態度に最初は少々怒りを覚えたが、すぐに気が付いた。この少年は自分と同じ、主の想い人に心を寄せる葛藤を抱えているのだと。

そもそも、あの美しい少女の近くにいて心惹かれない男がいる訳がないのである。

 

彼がかなりの紅茶好きであるらしい事も、スミソニアンにとっては好感度が高い。

スミソニアンは紅茶を淹れる腕前に関して、密かに絶対の自信を持っている。数十年にわたる研鑽は伊達ではない。

リナーリアは自らお茶会を開くような事を滅多にしないので、存分に腕を振るう機会がない事を少々残念に思っていたのだが、この従者の少年はわずか一口飲んだだけでスミソニアンの腕に気が付いたらしい。

さらに数口でどこの産地の茶葉かも当ててみせ、それ以来彼には一目置いているのだ。

 

いっそ彼がお嬢様を娶ってくれないだろうか…と少しだけ思ったが、どうも彼にその気はないらしい。

リナーリアも、親しくはあるが彼をそういう対象とは見ていないようだ。彼女の気持ちが最も大事なので仕方ない。

ある時、ガーデンテーブルに座ったままぼんやりと王子と彼女の姿を眺めているスピネルに声をかけてみた事がある。

「分かりますよ。私も若い時はそうでしたから」

そう言いながら彼のカップに取っておきの紅茶を注ぐと、彼は怪訝な顔をしつつそれを飲み、それから盛大に顔をひきつらせてこちらを見た。

絶対に違うとでも言いたげな顔だが、仕方がない。若いうちは己の感情を受け入れがたいものなのだ。

 

 

そして、年が明けリナーリアは16歳になった。

成長してますます美しくなった彼女は、相変わらず王子と親しい。

このまま受け入れるべきなのだろうと思い始めていたスミソニアンだが、リナーリアが同級生から求婚されたと聞いて目を剥いた。

なんと、むさ苦しい男どもが列をなして参加するという武芸大会にリナーリアもまた参加し、そこで負けたら婚約する約束らしい。

どこからそんな馬の骨が生えてきたのか、王子は一体何をやっているのか。

スミソニアンは一瞬で考えを変え憤ったが、驚いたことにリナーリアは優勝を成し遂げ帰ってきてしまった。

 

スミソニアンは大いに安心し、それから呆れ返った。

周りの男たちは一体何をやっているのか。

彼女が優秀な魔術師である事は分かるが、あのように可憐でか弱い少女に負けるなど、そんな事があるだろうか。

あの王子と従者も、リナーリア相手に正面から敗北したらしい。情けないにも程がある。

 

…やはり、彼女にふさわしい男などそういるものではない。

少なくとも今は認められるものではない。王子や従者ですら例外ではない。全員顔を洗って出直してきてもらう。

リナーリアはあと5年、いややはり10年はこの家にいるべきだ。

スミソニアンは強くそう思った。

 

 

 

重い扉をノックし、「失礼いたします」と言って室内に入ったスミソニアンは、談笑していた主人やリナーリアたちに折り目正しく礼をした。

「お嬢様。先生がご到着なさいました」

「分かりました。すぐに広間に案内をお願いします。…お父様、お母様、また後ほど」

「ああ」

「がんばってね」

励ましの言葉をかける両親に、リナーリアは軽く会釈をしてから扉へと向かった。横に控えているスミソニアンに話しかける。

「私は先に広間に行きますので、ティロライトお兄様を呼んできて下さいますか?」

「承知いたしました」

 

リナーリアが今日ジャローシス屋敷に来ているのは、近くに迫った芸術発表会の練習のためだ。

彼女のクラスは合唱をやるのだが、その中でも独唱部分を任されたらしく、重点的に練習するためにわざわざ歌の教師を招く事にしたのだという。何事にも真面目な彼女らしい。ティロライトには練習の伴奏を頼むつもりのようだ。

リナーリアは声も美しいので、独唱を担当するのも当然だろう。武芸大会などより、こちらの方がよほど似合っているとスミソニアンは思う。

武芸大会は見に行けなかったが、芸術発表会はスミソニアンも見に行けそうだ。

血涙を流さんばかりの勢いで見に行きたいと訴えたら、主人が連れていくと約束してくれたのだ。やや腰が引けているように見えたのは気のせいだと思おう。

 

…何にせよ、とにかく楽しみだ。

この家の執事として完璧に勤め上げると共に、彼女の成長を見守ることこそ、スミソニアンの生きがいなのである。




第一話の前に、簡易版の登場人物紹介を入れました。
こいつ誰だっけ…というキャラが出てきた時にどうぞ。


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第100話 芸術発表会※

芸術発表会当日がやってきた。

私は生徒会役員なので、昨日までとても忙しかった。

演目の内容チェック、プログラム作成、段取り確認、着替えなどの準備をする場所や小道具の置き場所の手配、関連書類の整備など、やる事がとにかく大量にあったのだ。

武芸大会の時は出場しない役員が中心になってやってくれたが、こちらは全員参加なので仕事も公平に分担だ。

今日の司会進行は上級生がやってくれるのがせめてもの救いだが、自分のクラスの練習もあったし、おかげで最近あまり王宮魔術師団の所に行けていない。

せっかくセナルモント先生の正式な弟子になったのに。

何とか時間を作っては顔を出し、その度に武芸大会で起きた魔法陣への魔術干渉の件についてそれとなく探りを入れているのだが、どうも調査は行き詰まっているようだ。

やはり、そう簡単に尻尾を掴ませてはくれないらしい。

 

 

それぞれのクラスの発表は順調に進み、プログラムは粛々と消化されている。

順番は予めランダムに決められたもので、私たちのクラスの出番は半分を少し過ぎた辺りだ。

また最初とかではなくて良かった。

観客席は両側に生徒がクラスごとに並び、真ん中が保護者たちだ。今回は武芸大会とは違い、見に来られるのは完全に生徒の関係者のみとなっている。

それでも例年に比べ多めに警備員が配置されているが、私としてはその方が安心だ。

 

先程はティロライトお兄様のクラスの演劇だったのだが、やはり3年生は演出などが凝っているし、時間もいっぱいに使っていて見ごたえがある。

殺陣のシーンに合わせて炎や水の幻影を出していたが、タイミングがばっちり合っていて見事だった。

お兄様が中心になって魔術を使っていたようで、妹の私としても鼻が高い。

劇の内容は竜退治を命じられた若者が困難を乗り越えそれを成し遂げるという、この国では馴染み深い話だ。

短い時間ながらもしっかり盛り上がる脚本になっていたし、かなり上位になるんじゃないだろうか。

 

今はカーネリア様のクラスがダンスをしている所だが、生徒のツテで新進気鋭の振付師に振り付けを頼んだとかでなかなかに面白い。

全員でお揃いのひらひらとした袖のシャツを着ていて、踊りに合わせて袖が翻るのが美しいのだ。

カーネリア様はさすが騎士課程だけあって運動神経が良く、ダンスもキレが良い。楽しそうな表情も相まってとても目を引く。

女子の最優秀演者の投票でも結構票が入るかもしれないな。

 

 

その後も発表が続き、いよいよ私のクラスの出番が近付いてきた。

皆と共にそっと席を立ち、男女別の控室へ向かう。

荷物は既に運び込んであるので、すぐにそこから全員に衣装が配られた。

私も自分の白ウサギの衣装に袖を通す。長靴下は既に履いているので大丈夫だ。

背中のボタンを近くのペタラ様に留めてもらい、カチューシャも着けてもらった。後は靴を白いブーツに履き替えてできあがりだ。

私もまた、ペタラ様の背中のボタンを留める。

「ありがとうございます。リナーリア様、やっぱりよくお似合いですわ」

「ペタラ様もとっても可愛いですよ」

ペタラ様は髪色と似た薄茶色の山猫の耳を着けている。頭からぴょこんと猫耳が生えている様は確かに可愛い。

 

全員支度を終えしばらく待っていると、係の者が呼びに来た。

「時間です。移動して下さい」

ぞろぞろと舞台袖へ行くと、既に幕が下り前のクラスが撤収した所だった。

そのまま薄暗い舞台に上がり、皆で横3列に並ぶ。

ふと視線を感じて横に顔を向けると、殿下が私を見ていた。

どうも今日はやけに殿下がこちらを見ている気がする。私が失敗しないか心配しているんだろうか?

大丈夫だという意思を込めて微笑みかけると、殿下は真剣な表情でうなずいた。気合入ってるなあ。

 

 

運ばれてきたピアノの横に灰色狼に扮したセムセイが立ち、皆の前に指揮のスパーが立つ。こちらは狐だ。

《次は、1年生Aクラスの発表。連作歌曲「旅人と山の獣たち」の合唱です》

アナウンスと共に舞台の幕が上がる。

私たちの衣装を見て、観客席に若干のざわめきが広がった。

この動物のつけ耳はかなり斬新な衣装だからなあ。旅人役の殿下だけは人間の衣装だけど。

それにしても緊張する…。少しでも動悸が収まるよう、こっそり深呼吸をする。

観客の中にお父様やお母様、ラズライトお兄様やサーフェナお義姉様の姿を見付けた。…なんでスミソニアンもいるんだろう?

でも、私より緊張した顔をしているスミソニアンを見たら少し緊張がほぐれた。

 

セムセイがピアノの前に座り、スパーが腕を上げると客席もしんと静まる。

指揮棒が振られ、ゆったりとしたピアノの伴奏が始まった。

最初は、旅人が野山を歩くのどかな曲だ。

爽やかな風が吹き暖かい日差しが降り注ぐ中、のんびりと緑の木々の間を行く様を、明るく穏やかな合唱で歌い上げる。

 

それから殿下が一歩前に出て、旅人の独唱が始まった。

美しい景色とうららかな天気を山の神に感謝し、山を降りるまでの加護を願う歌だ。

この独唱部分は山越えをする旅人が験担ぎにとよく歌うもので、短いがこの連作歌曲の中で特に有名な部分だったりする。

しかしさすが殿下だ。片手を掲げ、豊かな情感を込めながら歌う伸びやかな声が素晴らしい。

殿下も音楽の教師から集中レッスンを受けたそうだが、その成果はしっかり出ているようだ。

顔は無表情なのに、ダンスだとか歌だとか、こういう感情表現は不思議と上手いのは何故なんだろう…?

 

旅人の独唱が終わった所から曲のテンポは少し早くなる。

自分が道に迷っている事に旅人が気付いたのだ。

日も傾き始め不安を覚えた所で、旅人は怪我をした一匹のウサギに出会う。

私は一歩前に出ると、女声パートによる怯えたような弱々しい合唱に合わせ、身を縮めるような動作をした。

これらの振り付けはクラスの皆で考えたものだ。

特に読書家のペタラ様は童話に詳しいようで、この「旅人と山の獣たち」の物語について様々な解釈や派生した結末などを語ってくれ、大いに参考になった。

殿下扮する旅人がウサギの私を助け起こす仕草をして、一曲目は終わりだ。

 

 

二曲目は、ウサギが旅人を宴へと招くところから始まる。

そこに現れるのがスピネル扮する黒狼と、その手下の灰色狼の群れだ。

ウサギを食べるために奪おうとする狼たちと、守ろうとする旅人との戦いの曲になる。

アップテンポの勇ましい曲の中、狼の動きは男声パートを中心にした恐ろしげな歌で表現するのだが、スピネルは難しい低音も揺らがずに歌い上げている。見事なものだ。

殿下とスピネルの二人は戦いを表現するために歌いながら大きく動いているのに、歌声がほとんどブレないのはすごいな。普段から鍛えているだけはある。

戦いは徐々に旅人側が優勢になって行き、勝利を収めた所で二曲目は終わる。

 

 

三曲目は、旅人と山の獣たちとの宴の曲だ。

様々な獣が入り混じって楽しく陽気に歌い踊る。ウサギや、先程まで争っていた狼たちも一緒だ。

それまでの敵意やわだかまりは捨て、全ての者が手を取り合って一時を楽しむ。

私も近くのクラスメイトと手を繋ぎ、歌いながら軽く足元でステップを踏んだ。

この曲もまた、場を盛り上げたい時に演奏する曲として特に平民の間で人気があるものだ。

祭りの時などによく歌われるらしい。

 

 

最後の四曲目は、宴の翌朝に旅人が目を覚ます所からだ。

小鳥が囀る穏やかで爽やかな朝。旅人は立ち上がり、山を降りるために歩き出す。

そこで再び現れるのが、旅人が助けたウサギ…つまり私だ。

一歩前に出て、身振りを交えながら独唱を始める。

照れていてもしょうがないので、思い切って声を張り上げた。命を救い守ってくれた事への感謝と、旅人との別れを惜しむ気持ちを歌った歌だ。

さらにこれからの旅の無事を祈って、ウサギの独唱部分は終わる。

…な、なんとか音を外さずに歌い切れた…はずだ。

エレクトラム様が紹介してくれた歌の教師にしっかり指導してもらったので、発表して恥ずかしくない程度にはちゃんと歌えたと思う。

 

旅人を見送るラストシーンの合唱を歌いながら、右手に持った白い花を殿下の方へと差し出した。

これは予め用意しておいた小道具だ。さっき、三曲目が終わった時に舞台袖に走り寄って手に取った。

この花を旅人が受け取り、皆で立ち去る姿を見送れば、曲の終わりと共に演目は終了だ。

こちらに歩み寄ってくる殿下を見ながら、どうやら無事に終われそうだと思って安心していると、殿下は練習の時よりも一歩分私に近い位置で立ち止まった。

 

あれっ?と思う間もなく、殿下が私へと手を伸ばした。

その手は差し出された花ではなく私の頭上へと向かう。

殿下は素早くウサギ耳カチューシャを抜き取ると、ポイッと後ろへ放り投げた。スピネルがそれを受け止めるのが肩越しに見える。

「えっ?ええっ?」

何が何だか分からないうちに、横抱きに抱きかかえられていた。

突然宙に浮き上がる感覚に、驚きで歌どころか息が止まりそうになる。

 

固まる私をよそに、殿下は私を抱いたままつかつかと舞台袖へと歩く。

な、なにこれ?どうなってるんだ?

理解できず混乱するその背後で、舞台上のクラスメイトたちが笑顔で手を振っているのが見えた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

曲が終わり、クラスメイトの皆が観客席に向かって一斉に礼をした。

わあっという歓声と大きな拍手が聞こえ、幕が下りてゆく。

私もまた殿下の腕の中から降りたのだが、その時には大体の事を理解していた。

舞台袖へと集まった皆は、ニコニコ…と言うよりニヤニヤとした表情で私を見ている。

「み、皆さん、この事を知っていたんですね!?」

…つまり私は、クラスの皆に嵌められたのだ。

 

 

耳を取ったウサギを旅人が連れて行く…これは、旅人と山の獣たちの物語のバリエーションの一つ。

旅人と人の女性に変身したウサギとが共に山を降り、夫婦になるという結末を現したものだ。

普通に旅人を見送る結末ではなく、こちらの結末を演出する事を、どうやらクラスの中で私だけが知らなかったようなのである。

イタチに扮したクリードが笑いながら言う。

「この話にはこういう終わり方のやつもあるって、ペタラちゃんが教えてくれてさ。で、そっちの演出の方が良いんじゃないかってニッケルが言い出して。どうせなら内緒でやってびっくりさせようって話になったんだよ」

ペタラ様とニッケルも楽しげに笑っているが、びっくりさせようって言ったのは絶対スピネルだ。間違いない。

思わず睨むと、スピネルは笑いながら肩をすくめた。

「言っとくが、一番乗り気だったのは殿下だぞ?」

「え!?」

驚いて振り向くと、殿下は素知らぬ顔で横を向いていた。

そ、そんな…。

 

「皆さん、終わったら速やかに退出をお願いします!」

私はもう少し皆に文句を言いたかったのだが、係の者にそう呼びかけられてしまった。

そうだった、もう次の発表をするクラスが待っているのだ。

少し恥ずかしくなりながら、皆の後について控室へと急ぐ。

 

「リナーリア」

女子の控室に入る寸前、殿下の声に呼び止められ振り返った。

真摯な翠の瞳が私を射抜く。

「…もし俺が旅人だったなら、俺は必ず君を連れて山を降りるだろう」

 

 

え?と聞き返そうとした時には、殿下はもう隣の男子の控室へと消えていた。

少しの間呆然として、それから我に返り慌てて控室に入る。

「…リナーリア様?」

急いで服を着替えようとしてわたわたする私に、ペタラ様が近寄ってきて首を傾げた。

「そんなに驚かれましたか?ちょっとした悪戯心のつもりだったんですけれど…」

何やら申し訳なさそうにしているので、私はすぐに首を振る。

「い、いえ、違います。確かにちょっとびっくりしあ、しま、しましたけど、何でもないんです」

…完全に動揺していた。

恥ずかしくて赤面する私に、ペタラ様が苦笑する。

「本当にごめんなさい。お着替え、お手伝いしますね」

「あ、ありがとうございます…」

 

 

別れ際、殿下が見せた真剣な表情が気になり、妙にそわそわして落ち着かない。

それに、抱え上げられた時の力強い腕。殿下の胸は、腕は、あんなに広くて大きかっただろうか。

よく知っているはずなのに、何だか急に分からなくなった気がして混乱する。

…きっとあんなおかしなドッキリを仕掛けられたせいだ、と私は思った。



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第101話 発表会のあと

「やあ、リナーリア君、お疲れ様。芸術発表会の後片付けは大変だっただろう」

「ありがとうございます。生徒会の皆様と協力して、なんとか無事に終わりました」

テーブルの向かいで爽やかに笑うスフェン先輩に、私は微笑み返した。

今日はまた先輩とそのファンの方々との昼食だ。

エレクトラム様やシリンダ様もいる。私もずいぶんこのメンバーに馴染んだ気がするな。

 

「先輩も、最優秀演者選出おめでとうございます」

「ありがとう。頑張って練習をした甲斐があったよ」

先輩のクラスは一番最後の発表で内容は歌とダンスだったのだが、メインとして最前列で演技をしていた先輩はダイナミックなダンスで観客を釘付けにし、見事女子の最優秀演者の座に輝いていた。

もちろんいつも通りの男装だったのだが、ファンの方々はちゃんと女子の方に投票するという事で統一していたらしい。

私も発表を見ていたが、やはり先輩って華があるんだよな。選ばれたのも納得だ。

 

なお、男子の最優秀演者では殿下がかなりの票を獲得していた。残念ながら僅差で三年生の生徒が上回り2位に終わってしまったが。

芸術発表会の投票は発表内容が凝っている三年生に集中しがちだからなあ。女子の投票は三年生複数名で票が割れたために先輩に1位が転がり込んだ形だ。

殿下は本当に惜しかったが、生徒の間で殿下の人気が上がってきているようでとても嬉しい。

 

 

「発表会と言えば」と、私は先輩の隣に座るエレクトラム様に話しかける。

「歌の先生をご紹介いただき本当にありがとうございました。エレクトラムお姉さま」

すると、エレクトラム様は「良くってよ!」と得意げに頬を上気させた。

実は今日先輩たちの昼食会に参加させてもらったのも、エレクトラム様にお礼が言いたかったからだ。

かなり個性的な先生だったが、腕は確かでとても分かりやすく教えてくれた。

おかげでちゃんと独唱も歌えたし、女子の最優秀演者には私への投票も多少あったらしい。

 

両親やラズライトお兄様夫婦も、とても喜んで私の発表を見てくれたようだ。

さらにクラス別の投票ではティロライトお兄様のクラスの発表が1位になって、発表会翌日に屋敷へ呼ばれた私とお兄様は皆に物凄く褒めちぎられた。

ちょっと照れくさかったが、どうも近頃は家族に心配をかける事が多かったので、このように平和な行事で認めてもらえてほっとした。少しは胸を張れたように思う。

ラズライトお兄様が「帰りにスミソニアンが荒ぶって大変だった」とちらりと言っていたのが気になったが、コーネルが「お嬢様は知らなくて良い事です」と冷たく言っていたのであまり深く考えない事にした。

コーネルにとってスミソニアンは上司であり紅茶の師匠でもあるはずなのだが、何故か昔から妙に辛辣なのだ。

何か彼女に嫌われるような事でもやったのかもしれない。有能な執事長なんだけどな…。

 

 

それはそうと、先輩は私のクラスの発表に感銘を受けたようだ。

「リナーリア君や王子殿下の歌はとても素晴らしかったね!ウサギや獣たちの衣装も可愛らしかった。特に、あのつけ耳だね。僕も一度着けてみたいな」

「そうですね、多分近々販売されるんじゃないでしょうか。先輩なら猫などお似合いかと思いますよ」

あの動物のつけ耳カチューシャは芸術発表会後、すぐに貴族の間で評判になったらしい。

どこで手に入るのかという問い合わせが既にいくつも学園に来ていて、生徒会役員でもある私がこれに対応する事に決まってしまった。

発案者の殿下は「好きにしてくれ…」と投げやりな様子だったので、製作者であるアフラ様の方に打診したら非常に乗り気だった。多分丸投げしても大丈夫だろう。

彼女の実家は服飾関係の産業が有名だったはずなので、これで一発儲ける気なのではないだろうか。

同じく衣装作成を担当した女子数名の家と提携して販売していきたいというような事を言っていた。

後で揉めたりしないよう念のため、殿下が発案であることを明示するように釘を刺しておいたが、その方が箔がつくからか喜んで了承してくれた。

皆殿下に感謝していたし、また殿下の支持者が増えて私としても嬉しい限りだ。

 

「…それに最後、旅人がウサギを抱いて去っていく演出はドラマチックで良かったよ。君が花を持っていたからてっきり旅人を見送る結末だと思っていたんだけど、良い意味で予想を裏切られたね」

感心したように先輩は言うが、私としては恥ずかしくて仕方ない。

「実はあれ、クラスの皆が私を驚かせようとやった事だったんですよ…。私もあの演出をするとは知らなかったんです。いきなりあんな風に抱き上げられて、すごくびっくりしました…」

今思い出しても頬が熱くなる。いたたまれず下を向くと、先輩は少し目を丸くしたようだった。

「へえ…」と言いつつ私の顔を見る。

 

「そう言えば武芸大会の時、僕も君を抱きかかえて歩いたことがあったよね?」

「えっ?…あ、そうでしたね。あの時はご迷惑をおかけしました」

魔術干渉に抗おうとして、四重魔術を使ってひどく消耗した時だ。あの後も色々あったからすっかり忘れていた。

先輩にはちゃんと感謝しなければ…と思ったのだが、先輩は何やらじっと私を見つめている。

「どうかしましたか?」

「いいや、何でもないよ」

そう言って、先輩は優しく笑った。

 

 

 

その日の放課後。

「もう、リナーリア様ったら、本当に体力がないわ!」

「す、すみ、すみません…」

私はゼーハー言いながら闘技場の床にへたり込んでいた。

武芸大会後カーネリア様からは「どうしても一度剣で手合わせして欲しい」と言われていた。

芸術発表会も終わり暇ができたので、一度くらいならと了承したのだが、案の定この結果である。

身体強化を使えばいい勝負にはなるのだが、体力に差があるので2本3本と続けていけばすぐに負けが混んでしまった。

近頃はランニングなどもしているが、やはり長年鍛えている人には全く及ばない。剣を握る手も痛いし。

 

「これでお兄様に勝っちゃったんだものねえ…」

「あれは作戦勝ちですので」

物凄く複雑そうなカーネリア様に、立ち上がった私は苦笑する。

私の剣筋はスフェン先輩に比べて明らかに鈍かったはずだが、それがスピネルからは何かを誘う罠のように見えたのだと思う。そこでさらに幻術解除をし不意を突いたから勝てたのだ。

 

「最初からまともに斬り合っていたら、数合も保たなかったと思いますよ」

そう言うと、カーネリア様は思いきり顔をしかめた。

「だからますますお兄様が情けないのよ!全くもう!」

まあそれはその通りだ。

しかしカーネリア様は未だに憤懣やるかたない様子だな。もう1ヶ月は経つというのに。

ちなみにスピネルはあれ以来、レグランドに呼ばれたりブーランジェ公爵に呼ばれたりしてしごかれているらしい。

たまにげっそりした顔で学校を出て行くのを見かけるので、少しだけ同情していたりする。

 

スピネルも大変だよなあ…と思っていると、カーネリア様はぽつりと「本当に情けないんだから…」と呟いた。

なんだかカーネリア様らしくない少し寂しそうな言い方だ。

「…そのくせ、私が同級生から告白されたとか、ユークに手紙を出したとか、そんな事はよく知っているのよ!本当に腹立たしいったらないわ!!」

「あはは…」

あいつも結構な事情通だからな。

貴族間の噂に詳しいのは従者として必要なスキルなのだが、それでしっかり妹の身辺にも目を光らせているというのは笑える。いや、カーネリア様からすると冗談ではないのだろうが。

 

「カーネリア様の事を心配しているんですよ」

「大きなお世話だわ…」

カーネリア様は心底嫌そうだ。

そういえば殿下が「カーネリアも思春期になったとスピネルがぼやいていた」と言っていたが…なるほど。

心配すれば恨まれるのだから、兄というのも複雑なものだ。

でもちょっと羨ましい。私にも妹か弟がいればなあ。

 

 

そんな話をしている間に、闘技場に次の使用者がやって来たようだ。

カーネリア様と二人で闘技場を降りる。

「ね、食堂でお茶をしていきましょ!最近新しく増えた黒スグリのパイが美味しいのよ」

「それは良いですね」

「あとね、私ペタラ様の好きな人が誰なのか分かったかもしれないわ」

「まあ、本当ですか?」

楽しげに話すカーネリア様はいつも通りで、少し安心する。

彼女にはやはり元気な笑顔が似合うと思いながら、その後ろへと続いた。



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挿話・18 王子と銀髪の従者の芸術発表会(前)【前世】

卒業式を間近に控えた三年の芸術発表会は、隣のクラスと合同で演劇をやったらどうかという提案がなされた。

発表会は劇をやるには少々持ち時間が短いのだが、クラス合同なら時間も長くなるし予算もたくさん使えるので、大掛かりなものができるのだ。

エスメラルドもまたそれに賛成した。特に反対する理由がないというのが大きかったが。

これが最後の発表会なので、女子は大いにやる気を見せている。気合が入っている者が多い。

男子は武芸大会の方に力を入れる者も多いので、芸術発表会では女子が主導になりがちなのだ。

 

エスメラルドも、どちらかと言うと武芸大会の方に意識が向いている。

1年の時は上級生のスピネル・ブーランジェに負け途中で敗退したが、昨年は優勝したので、今年は2年連続優勝がかかっているのだ。

従者のリナライトなどはもはや連続優勝が決定事項であるかのように考えている様子だ。

彼もまた優秀な魔術師なのだが、大会の魔術部門に出場する気はないようで、その分こちらを応援するつもりらしい。

「些事は私にお任せ下さい」と言ってエスメラルドの生徒会の仕事を奪い取ったりしている。

気持ちはありがたいが、少し張り切りすぎのような気もする。さすがに近頃は仕事を抱え込みすぎて体調を崩すような事はなくなったが。

 

 

演劇となれば衣装やら小道具やら色々なものが必要なので、早いうちから演目を決める事となった。

劇の題材を何にするかは結構揉めた。

なるべく女子中心にやれるように女性の登場人物が多い物語が良いのではないかという話になったのだが、では何にするかというとなかなか決まらなかった。

人気の高い英雄譚や恋物語は男役が多く、適当なものがあまり見つからなかったのだ。

 

そこでとある女子が提案したのが「男役を女子がやる」という案だ。

「去年の芸術発表会で王子役をやったスフェン様、とっても素敵でしたわ。私たちもあれをやったらどうかと思いますの」

「それは良いわ!私も一度、男性の衣装を着てみたいと思っていたの」

「だったら逆に男性が多い劇にしたら良いんじゃないかしら。騎士がたくさん出てくるような…」

 

女子は途端にきゃあきゃあと盛り上がり出し、男子もまあそれで良いんじゃないかという雰囲気になった。既に話し合いに飽きていた者が多かったせいもある。

演目は敵国に人質として送られた姫がその国の王子と恋に落ちるという劇に決まった。

恋物語として有名な劇だが、合戦シーンがあり男役が多い話なのだ。逆に女役は少ない。

そこでベルが鳴って時間切れとなり、配役の決定は次回に持ち越しとなった。

 

 

数日後の話し合いでは、王子役に隣のクラスのカーネリア・ブーランジェが推薦され決定した。彼女は騎士課程なので、殺陣も問題なくできる。

一部から「本物の王子がいるのに女子が王子役をやるのか?」という疑問の声も上がったが、「王子が王子役をやってどうする。何も面白くない」と言ったら皆納得した。

では次は姫役を決めようという段になり、そこで女子がとんでもない事を言い出した。

「女子が男役をやるのですから、女役は男子がやるべきですわ!」…と。

 

「はあ!?」と男子生徒の一人が素っ頓狂な声を上げ、他の男子もざわついた。

「いや待てよ、いくら何でもそれはないだろ。誰が姫をやるんだよ」

誰だって女役などやりたくはない。喜劇などではあえて男が女装する事で笑いを取ったりもするが、自ら望んでそんな役をやりたがる男はいない。

何しろ芸術発表会は親兄弟も見に来る。下手な事をすれば家の面子にまで関わってくるのだ。

しかし、その女子生徒は胸を張りつつこう言った。

「姫役にはリナライト様を推薦しますわ!!」

 

その発言を聞いて男子の大多数はスン…と静まり返った。

女子の狙いがそこなのだと理解したからである。

確かに線が細く中性的な顔立ちの彼なら姫役もできそうだし、何より皆「自分じゃないならまあ良いか」という思惑で一致した。

なぜならこの劇は女役が少ないのだ。目立つのは姫と悪役令嬢の二人くらいなので、犠牲者をあと一人見つければ済む。今さら揉めて話し合いを長引かせるより良い。

 

 

唯一大反対したのは本人である。

「絶対嫌です。お断りします」

「でも、リナライト様ならきっとお似合いになりますわ」

「似合いません!!!!」

普段女性には強い態度に出ない彼だが、さすがにこればかりは認められないようで断固として拒否する姿勢だ。

 

「嫌と言ったら嫌です。できません」

頑なに首を振る様に、周囲の生徒がチラチラとエスメラルドの方を見た。説得しろと言いたいらしい。

彼を怒らせると大変なのはこの学院の生徒なら皆知っているから、誰も口を挟みたくないのだ。

入学したばかりの頃、からかってきた上級生を魔術で窓から放り投げた事件などは特に有名で、おかげで彼は親しいクラスメイトというものがなかなかできなかった。本人がそれを気にしていなかったせいもあるが。

しかし、エスメラルドの言う事なら聞くというのもまた、誰もが認識するところなのだ。

 

エスメラルドは内心ため息をつく。あまり説得したくはない。

逆らわないからと言って恨まれない訳ではないし、彼が昔から母親似の容姿を気にしているらしく、筋肉をつけたいと言ってはあれこれ努力している姿を知っているので姫役などやらせるのは気の毒だ。

だが皆がリナライトの姫役に賛成しているのも事実だと思ったので、とりあえず「別に良いんじゃないか?やってみても」と言ってみた。

「え!??」

彼は非常にショックを受けた顔でこちらを振り向いた。

完全に「裏切られた」と顔に書いてあって少々良心が痛む。

 

「ほら、王子殿下もこう言ってるし」

「大丈夫大丈夫!何とかなるってきっと!」

「し、しかし…!」

すかさず数名が説得にかかるが、彼はなおも首を縦に振らない。

「…よし、分かった」

それに業を煮やしたらしいヘルビンが口を開いた。

「どうしても嫌だって言うんなら仕方ない。殿下に姫役をやってもらおう」

「なっ…!?」

「何?」

 

リナライトが目を剥き、エスメラルドも驚いて目を丸くした。ヘルビンがニヤッと笑う。

「殿下はさっき別に良いんじゃないかって言ってましたよね?つまり男子が女役をやるのに賛成って事だ。自分の発言には責任持ってもらいますよ」

「む…」

何やら凄まじい流れ矢が飛んできて思わず眉根を寄せる。すぐさまリナライトが噛みついた。

「殿下にそのような事させられる訳がないでしょう!!」

「ならお前が引き受けろよ」

そう言われたリナライトはヘルビンを睨んでぎりぎりと歯を食いしばった。

「……分かりました。私がやります…」

彼は、囚われの女騎士もかくやという悔しげな顔で承知した。

 

 

 

その後は配役も役割分担も概ねスムーズに決まった。

衣装など時間がかかりそうなものはすぐに取り掛かり、武芸大会前後からは台詞合わせも始められた。

もう一人の女役、王子の婚約者である悪役令嬢の役になったのはヘルビンだ。

推薦したのはリナライトだった。彼はやられたら絶対にやり返す性格なのである。

皆「やっぱりな」という顔でそれに賛成し、自分が貧乏くじを引いた事に気が付いたヘルビンはがっくりとうなだれていた。

「うちの父親こういうの嫌がるんだよなあ」とぶつぶつ言っていたが、結局押し切られて決定した。

 

エスメラルドは劇のナレーション役に決まった。

舞台袖から台本を見ながら拡声の魔導具を使って話す事になるので、女装はしなくていし台詞を丸暗記する必要もない。楽なものだ。

大変なのはやはり、姫役のリナライトと王子役のカーネリアだろう。

どうも演技に問題があるらしく、今日は手の空いている数名の生徒たちに見てもらいながら、悪役令嬢のヘルビンと共に台詞の読み合わせをしている。

女子生徒は衣装作りで忙しいので集まっているのはカーネリア以外男子ばかりだ。

武芸大会で無事優勝し、時間ができたエスメラルドも参加する事にした。

 

 

「…もう、リナライト様!ちゃんと真面目にやって下さらなきゃ困るわ」

「すみません…」

リナライトは本日何度めかのお叱りを受けている。あまりに棒読みが過ぎるので、相手役のカーネリアが怒っているのだ。

「どうしても感情を込めるのが難しくて…」

渋面を作る彼に、横で聞いていたクリードが少し考え込む。

「照れが残ってるから駄目なんじゃね?もっと自分を捨てろよ」

「無茶言わないで下さいよ!」

多分クリードの言う通りなのだが、そう簡単には実行できないのだろう。

 

「もっとお姫様になりきれよ」

「そうは言っても、台詞を喋る声はどうやっても男ですよ…。我に返るなと言う方が無理です」

それを聞いて、エスメラルドはふと思い出した。

「なら声を変えれば良いんじゃないか?」

実は彼にはちょっとした特技がある。様々な声色を使えるのだ。

 

「あ、そういえばそうでした」

彼も言われて初めて思い出したようだ。すぐに自分の喉に手を当てる。

「あ、あー、あー、あー。…こんな感じでどうでしょうか?」

突然リナライトから鈴を転がしたような高く澄んだ声が飛び出し、周囲の者がぎょっとした。

「え、な、何だそれ!?」

「どうなってんだ?それお前の声?」

「ええ、そうですよ」

「うわマジだ!!」

 

「一体どうやってるの?魔術?」

興味津々のカーネリアに、リナライトが答える。

「身体操作の一種ですね。声帯に魔力を通して声を変えています」

「わあ、すごい!」

「宴会芸として魔術の師匠に教わりました」

エスメラルドも最初これを聞いた時は驚いた。この女性のような声の他にも、野太い男性の声や老婆のような声、子供の声も出せたりするのだ。

宴会芸どころか色々使い道がありそうな気がする。

 

「確かにこれなら女性の台詞も違和感なくやれそうですね…」とリナライトが言った時、ヘルビンが頭を抱えて悲鳴を上げた。

「やめろ!!頭がおかしくなりそうだ!!」

「は?なんですか失礼な」

「だからその声で喋るのやめろ!!」

ヘルビンは耳を塞いで本気で嫌がっている。

 

「まあ気持ちは分からなくもないけど…」

「何がですか。一体何の問題が?」

「やめろっつーの!!殿下!頼むからやめさせてくださいよ!!」

「リナライト、やめてやれ」

「えー…」

リナライトは不満げだ。多分未だにヘルビンの事を恨んでいるので仕返しがしたいのだろう。

 

 

「仕方ない…殿下の慈悲深さに感謝することですね」

「声の可愛さと雑魚っぽい台詞のギャップがひでえ…」

「どこが雑魚っぽいんですか!殿下が慈悲深いのは事実ですが!?」

「いやそういうとこだろ」

「いいから!早く!!やめろ!!」

そんな事を言っていたら、資材や布を運んできた生徒たちがぞろぞろ教室に入ってきた。

「何騒いでるんだ?」

「リナライトの隠し芸がヘルビンの脳を破壊してる」

「どういう状況だよ…」

「破壊などしていない!」

 

皆がぎゃあぎゃあ騒ぎ出し、カーネリアが眉を吊り上げた。

「…もう!!全然練習が進まないじゃないの!!」

全くもって彼女の言う通りで、皆で小さく身を縮めた。



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挿話・18 王子と銀髪の従者の芸術発表会(後)【前世】

あれこれ忙しく準備をしていれば瞬く間に時間は過ぎ、芸術発表会の当日となった。

 

「…これはすごいな」

エスメラルドは感心しながらその全身を眺めた。

瞳の色と同じ鮮やかなブルーのドレスを身に纏い、美しく結い上げたカツラを被り、女子生徒から念入りに化粧を施されたリナライトは、まさに完璧と言っていい仕上がりだった。

顔だけ見ればどこぞの深窓のご令嬢にしか見えない。いつもかけている眼鏡も今日は無しだ。

身体はよく見ると少々ごつい印象だが、彼は元々かなり細身だし、ショールを合わせたドレスで上手く肩幅を誤魔化しているのでそれほど違和感はない。

胸と尻が膨らんでいるのは詰め物でもしているのだろうが、腰もちゃんとくびれているように見える。

 

「コルセットまで着けているのか?」

「はい。物凄く苦しいです。女性の大変さがよく分かりました…」

彼はげんなりした表情だ。ずいぶんきつく締められたらしい。

 

「しかし…見た目は女なのに声は男でやはり違和感があるな」

「それでいいからやれと言ったのは殿下たちでしょう!」

憤慨するリナライトに、エスメラルドは少し笑った。

声を変えるという彼の特技は結局使わないことになったのだ。

ヘルビンが物凄く嫌がったせいもあるが、声まで変えたら完全に女性のようになってしまい、女装の面白みがないという事らしい。

分かるような分からないような理屈だ。

 

 

「すっかり晒し者にされましたよ。もう少しで時間なので追い払ってもらいましたが、全く…」

エスメラルドは生徒会の仕事があったのでついさっきこの控室に来たばかりなのだが、リナライトは支度に時間がかかるということで大分早めに着替えていたのだそうだ。

ちょうど長めの休憩時間に入った事もあり、クラスメイトどころか別学年の生徒までその姿を覗きに来ていたらしい。

劇が始まる前から疲れた様子で、椅子の上でぐったりとしている。

 

「先生まで見に来て、母によく似てると感心されました」

「だろうな。男にしておくのが勿体ない出来だ」

「それを言うのは殿下で3人目ですよ…」

リナライトはムスッとした顔で答えた。既に似たような事を言われていたらしい。

 

「女だと殿下の従者にはなれませんが?」

「それは困るな」

「ええ。私も困ります」

「何とかならないか」

「なりませんよ…」

呆れたようにため息をつく、その姿を見下ろしながら呟く。

「だが、お前が女だったら俺は婚約者選びに困らなかっただろう」

 

容姿の事は横に置いても、彼のように自分を思ってくれ、心を許せる女性がいたらどんなに良いだろうか。

まあ、少々真面目過ぎる彼はこちらの思惑を外れて斜め上に空回っている事もままあるので、あまり油断はできないのだが。

実際、そんなこちらの気持ちはどれほど伝わっているのか、彼はまるで嬉しそうではない。

エスメラルドを見上げて少し睨んだ。

「そんな事を言っては、婚約者殿に怒られますよ」

「彼女はこんな事で怒りはしない」

「…まあ確かに、そんな心の狭い方ではないでしょうが…」

そういう意味で言った訳ではないのだが。

そう思いつつ、それを口に出しはしなかった。わざわざ彼を困らせる必要はない。

 

 

婚約者のフロライアが自分に特別な感情など持っていない事は分かっている。

自分もまた同じだからだ。

彼女は美しく、家柄も良く、聡明で気立ても良く、非の打ち所のない女性だ。エスメラルドもごく普通に好感を持っている。

しかし、それ以上の感情は特に浮かんでこない。

ただ、周囲の者たちから薦められ、彼女なら未来の王妃を完璧に務め上げるだろうと思ったから選んだ。

恐らく彼女もそうなのではないかと思っている。こちらの考えなど見透かした上で、自分なら王妃をやれると思ったから、婚約の申し出を受けたのではないかと。

 

エスメラルドがそう考えているから彼女も同じように考えているのか、それとも彼女が始めからそういう考えだから、エスメラルドもまた彼女に特別な感情を抱けずにいるのか。

 

どちらにせよ、貴族間では特に珍しくもない話だ。

精神的肉体的に相性が良い者同士の方が高魔力者が生まれやすいため、なるべく恋愛結婚が望ましいとされているが、結婚は家同士を結びつけるものでもある。

様々な都合や思惑を抜きにすることはできないし、できるだけ学院在学中に相手を見付けておかなければ色々と面倒な事になる。

限られた期間で、限られた相手から選ばなければならないのだ。恋愛感情があろうとなかろうと。

 

…彼女の事が好きなのは、むしろ彼の方だろうとエスメラルドは思う。

はっきり尋ねた事はないし、尋ねればきっと否定するのだろうが、長い付き合いなのでそのくらいは分かる。

しかし彼はフロライアこそエスメラルドの婚約者にと推した。

迷いつつもそれにうなずいた事を、今もどこかで後悔している。

何かをひどく間違えてしまったような、そんな気がするのだ。

今更取り止める事などできないし、実際に式を挙げ、夫婦として共に過ごしていけば気にならなくなるのだろうと思うが。

式の予定はまだ決めていない。第一王子の結婚式ともなれば準備には丸一年はかかると言われているので、あと二年か三年後になるだろうか。

その頃にはきっと、彼女への愛情も湧いているはずだ。

 

 

 

少しの沈黙が落ちた時、がやがやと騒がしく数人が控室に入ってきた。

別室で女子生徒から着付けと化粧をされていた悪役令嬢役のヘルビンだ。クリードやスパーなどもいる。

真っ赤なドレスを着たヘルビンの全身を眺めて、エスメラルドは呟いた。

「…これはひどいな。夢に出そうだ」

「ひどいのはあんたの言い草だよ!!!」

ヘルビンが抗議の声を上げる。

 

「いや、顔はまだ見られなくもない…いや…うん…」

「目を逸らすくらいなら無理に褒めてくれなくていいんで…」

ヘルビンも顔の造作は整っているし、化粧でずいぶん誤魔化せてはいるのだが、やはり違和感がある。

そして体型の方は違和感しかなかった。

身長もあるし、騎士として鍛えている人間の肩幅だとか胸板は隠しようがない。

というよりも隠すことを諦めたらしく、リナライトの衣装とは違って見るからに男らしい体型が分かるデザインだ。むしろ笑いを取りに行っている。

間違っても自分が姫役になどならなくて良かった。ヘルビン以上に悲惨な事になっていた気がする。

 

「つーか女装なんてこうなるのが当たり前なんだよ。おかしいのはこいつの方だ」

ヘルビンがリナライトを指差し、クリードがうなずく。

「それな。普通にいけるだろこれ」

「いけるって何がですか」

「さっきエンスタットの脳を破壊してたぞ」

「だから破壊なんかしてませんよ!!」

 

「俺いい事を思いついたんだけど…」

リナライトを見ながらスパーが真面目な顔で呟く。

「これでパーティーとか行って金持ちジジイを引っ掛けたらがっぽがっぽ貢いでもらえるんじゃないか?あとは男に戻って逃げ出せば…」

「すげえ!完全犯罪だ!」

クリードが歓声を上げ、リナライトがぎろりと二人を睨んだ。

「消し炭にされたいんですか?」

「すみません冗談です…」

 

「そ、それよりカーネリアさんの王子衣装見た?キリッとしてて、ああいうのも良いよなあ」

話を逸らすようにクリードが言った。

「フロライアさんの騎士団長も良かったよ。凛々しいけど妙に色っぽいんだよな」

「お前胸しか見てないだろ」

「脚だって見てるし!」

「あ、分かるわ。下がズボンだから脚のライン見えるんだよな」

 

 

 

そうこう言っている間に発表時間が近付いた。係の者に呼ばれ、控室から舞台袖へと移動する。

前のクラスが使った道具の撤収に少し時間がかかっているようで、そのままそこで待つ。

カーネリアとフロライア、ヘルビンは反対側の舞台袖だ。何か雑談をしている。

 

出番を待ちながら、リナライトは少し緊張した面持ちで集中しているようだった。

大きなカーテンの垂れ下がる暗がりの中、深い青の瞳が何かの光を受けてきらめいている。

きっと頭の中で台詞を暗唱でもしているのだろう。

記憶力の良い彼は完璧に台本が頭に入っていて、自分どころか相手役のカーネリアの台詞まで覚えているはずなのだが。

決まった時はあんなに嫌がっていたのにと思い出し、彼のそういう実直さを好ましく思う。

 

じっと見ている事に気が付いたのだろう、リナライトが顔を上げてエスメラルドを見返した。

「なんですか?」

「大丈夫だ。劇は上手くいく。きっといい思い出になる」

それを聞き、彼は「そうですね」と苦笑した。

「私としては忘れて欲しい思い出になりそうですが…」

「そう言うな。お前は嫌かも知れないがよく似合っているぞ。本当に惜しい」

「殿下…」

彼はジト目になりかけたが、エスメラルドが真面目な表情で見返すと、何だか毒気を抜かれたような顔になった。

 

 

前のクラスの撤収が終わり、今は自分たちの劇で使う背景や小道具を設置している所だ。

それももうすぐ終わり、幕が開く。

 

「…まあ、もし私が女に生まれ変わったらまた言って下さい」

ふとリナライトが笑った。わざとらしくつんとした表情を作る。

「その時は考えて差し上げますよ、殿下」

「…ああ。その時はよろしく、姫」

エスメラルドは笑いながら台本を手に取ると、前に進んで拡声の魔導具の前へと立った。

 

係の生徒が開始の合図をした。

幕が上がり明るくなっていく舞台を見ながら、ゆっくりと息を吸い込んで語りだす。

「──これは、遠い昔のある小さな国の話…」



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第102話 城下へのお忍び(前)

「お嬢様、お迎えが到着致しました」

コーネルに呼ばれ、私はソファから立って屋敷の外へと向かった。

門の横にはしっかりとした作りの馬車が停まっており、スピネルが側に立って私を待っている。

飾り気のない、いつもよりもやや質素な印象を受ける服装だ。

「おはようございます。お迎えありがとうございます」

「おはよう。どうぞ、中へ」

 

スピネルに手を取られ馬車へ乗り込むと、中で殿下が待っていた。

殿下もまた今日は、上品だがシンプルなシャツを身に着けた質素めの服装だ。

「おはよう、リナーリア」

「おはようございます、殿下。本日はよろしくお願いします」

 

 

今日は殿下とスピネルと三人で城下町へのお忍びだ。

三人とは言っても、別の馬車でちゃんと護衛の騎士と魔術師も付いて来ているはずだが。

もしかしたら他にも幾人かこっそり付いて来たり先回りしているかもしれないが、そちらには気付かないふりをした方がいいだろう。彼らの仕事の邪魔をしてはいけない。

準備のため、私は昨夜のうちに屋敷に来て服を選んでもらったりしていた。

 

今日お忍びをする事になったきっかけは、2週間ほど前、まだ芸術発表会の練習をしていた頃。

私が二人に「ティロライトお兄様への卒業祝いを何にしたらいいか」と相談した事だ。

発表会が終われば卒業式までもう1週間くらいしかない。もっと早くに用意しておくべきだったのだろうが、色々忙しかったし、何にするか悩んでいる間に時間が経ってしまった。

困って二人に相談した所、自分たちも一緒に行くから店で品物を見ながら選んだらどうかとスピネルに提案されたのだ。

 

「でも、いいんですか?」

武芸大会の件もある。殿下が城下町になど行って大丈夫だろうかと思ったが、スピネルは案外あっさりうなずいた。

「殿下もここんとこ、城と学院の往復ばっかだったろ。そろそろ外に出たいんじゃないか?」

「出たい。行きたい」

殿下はちょっと食い気味に答えた。

相当行きたいらしいその様子に、スピネルが笑う。

「準備と根回しにちょっと時間かかるだろうが、卒業式前には行けるだろ」

少し心配ではあるが、従者のスピネルが言うのなら多分大丈夫だろう。殿下にも息抜きは必要だしな。

夏休みは夏休みで殿下はまた忙しいだろうし。

 

もうすぐ7月も終わるが、8月はほぼ丸一ヶ月間学院が夏休みとなる。

今の殿下は学院在学中なので、パーティーやらお茶会やらへの参加は控えめになっているはずだが、夏休みはその限りではない。貴族たちからの誘いが激しくなるのだ。

特に、9月から新入生となる子供を持つ親たちは熱心だ。殿下の覚えがめでたければ学院生活であれこれと有利になるし、ひいては就職結婚まで影響する事もあるのだから当然だろう。

殿下は公明正大な方なので知り合いだけを依怙贔屓したりは決してしないのだが、周囲の忖度もあるし、仲良くなっておいて損はない。

それに殿下はまだ婚約者を決めていないので、年頃の娘を持つ貴族たちはきっと張り切るはずだ。

 

 

走り出した馬車の中、向かいに座った殿下は私の姿をじっと見た。

「リナーリア、そのワンピース、よく似合っている」

「ありがとうございます」

今日の私はシックな青と白のワンピースに青い帽子を合わせている。コーネルや使用人たちが用意してくれたものだ。

「実は母が昔着ていたものなんです。父には若い頃の母のようだと言われました」

丈などは少し直してもらったが、形はほぼそのままだと母は言っていた。シンプルなデザインなので古臭くは見えないんだそうだ。

「君と母君はよく似ているからな」

「そうか?大して似てないだろ」

うなずく殿下にそう言ったのはスピネルだ。

昔からこいつだけは私と母は似てないって言うんだよな。

どうせ私は母と違って女らしくないとか言いたいんだろう。別に似ていて嬉しい訳ではないからどうでもいいが。

 

 

「ところで、どこに行く予定なんですか?」

行き先はスピネルに一任してあるので尋ねた。

ちなみにプレゼント選びも基本スピネル頼みの予定である。女性へのプレゼントならカーネリア様に相談するが、今回は主にお兄様用だからな。

どうも私はその手のセンスがあまりないらしいのだ。でもどうせなら喜ばれる物を贈りたい。

「まず普通に商店街だな。とりあえず文房具屋あたりどうだ?」

「あ、それはいいですね」

ペンだとか、魔法陣をきれいに描くためのコンパスや定規などは魔術師なら定番アイテムだ。

 

 

「実は今日、お兄様の卒業祝いの他にも買いたい物があるんです。ヴォルツにも卒業祝いを贈りたいのと、あとコーネルにも何かプレゼントを」

「コーネルってあのお前の使用人か」

「はい。彼女には長年お世話になっていますし、日頃の感謝を伝えられるようなものを何か贈りたくて…」

前から彼女には何かお返しがしたいと思っていたのだが、ずるずる先延ばしにしてしまっていた。せっかくなのでこの機会に選んでしまいたい。

「なら小物かアクセサリーか…あんまり高価じゃない物の方がいいだろうな」

「そうですね」

使用人があまり高価なものを所持するのは問題があるし、恐縮して受け取ってくれなそうだ。

 

「じゃあ後でその手の店も回るか。殿下もそれでいいか?」

「ああ。俺は特に目的はないしな」

殿下は何か欲しい物がある訳ではなく、ただ城下町を歩き回りたいようだ。

天気も悪くないし、久々に羽根を伸ばせるのではないだろうか。

「楽しみですね、殿下」

「ああ」

殿下は少し弾んだ様子で口の端を持ち上げた。

 

 

 

ほどなくして、商店街の中にある文房具屋に到着した。

スピネルが先に降り、私は殿下の手を取って最後に降りる。

馬車の乗り降りも一人じゃ出来ないんだから貴族令嬢は本当に面倒くさい。別にやろうと思えば出来るが、はしたないと言われてしまうのだ。

あと、昔段差でつんのめって転びかけた事があるのだが、これは長く広がったスカートで足元が見えないのが悪いと思う。

短めのスカート本当に流行らないかな…。いや、いっそズボン履けないかな。先輩みたいに。

 

 

文房具屋は落ち着いているが洒落て垢抜けた店構えだった。

看板には魔法陣を模した図柄が描かれている。比較的裕福な客や魔術師向けの店なのだろう。

「ここは去年店主が代替わりして、その時に店を改装して品揃えも少し変えたんだ。魔術師向きの実用品からプレゼント向きの洒落た品まで置いてるそうだ」

「よく知ってますねえ」

説明してくれるスピネルに思わず感心する。貴族の事ならともかく、城下町の事まで詳しいのか。

「行きつけの紅茶店で聞いた」

「へえ…」

そんな所でも情報収集をしているのか…。本当によくできた従者だ。

 

店内に入ってみると、中は結構広く、ペンやノート、インク、定規など様々な文房具が並んでいる。

在庫は棚にずらりと並べ、手に取りやすい位置には試し書きができる展示品やガラスケース入りの高級品などを置いているようだ。見せ方も工夫がされている。

「たくさんあって悩んじゃいますね…」

どれもこれも良さそうに見えるから困る。

この定規など、複雑な形だが図形を描くには便利そうだ。でもこの持ち歩きやすそうな革のペンケースも良い。

 

「この万年筆などどうだ?軽いし、とても書きやすい」

ペンの試し書きをしていた殿下が手元を示して言った。

鮮やかな青と水色が入り混じる模様をした軸に、金色の金具をあしらった上品な万年筆だ。

手に持ってみると確かに軽い。試し書き用の紙にペンを走らせると、さらさらとよく滑る。

「本当に書きやすいですね」

「そちらは新しく開発された合金をペン先に使っているものです。軽くて錆びにくく、手入れも簡単ですよ。しかも美しいので、贈答品として人気があります」

丸眼鏡をかけた若い店主が近付いてきて、にこにこと愛想よく解説してくれた。

これはお兄様用に良さそうだ。青と水色の緩やかなマーブル模様が水を思わせるのも、水魔術が得意な我が家らしいし。

 

 

「ではこれを…」と言いかけた時、ふと一本の黒い万年筆が目に入った。

飾り気のない重厚なデザインで、丈夫そうなキャップが付いている。手に取ると少し重い。

「そちらは耐久性の高さを重視したものですね。インクが長持ちしますし漏れにくいので、持ち歩きにも適しています」

「これはヴォルツに良さそうです」

騎士のヴォルツにはこういう実用性の高そうな品の方がいいだろう。黒い色も、ヴォルツの髪の色のようで良い。

 

「なら、兄貴用の方には紙とかインクとか、何かセットで包んだ方がいいな」

私が手に持った2本のペンを見比べてスピネルが言った。

「兄貴と家中の一騎士とが似たようなプレゼントを貰ってるとまずいだろ」

「まずいですか」

むむむ、そういうものなのか…。値段はお兄様用の物の方が高いんだが。

まあヴォルツはいつも後ろで控えていて、あくまで臣下という態度を崩さないしな。もっと分かりやすく差をつけた方が彼も受け取りやすいかもしれない。

 

 

「そういう事でしたら、こちらのインクなどいかがでしょうか。とても美しく乾きやすい、人気の品ですよ」

店主が数本の小さな黒い瓶を出して薦めてくれた。試し書き用のつけペンも出してくれる。

「どうぞ、書いてみて下さい」

軽くインクをつけて書いてみる。

すると、一見黒のようだったインクは夜明けの空のような濃紺の文字を紙の上に描き出した。

「わ、これは綺麗な色ですね」

「はい。こちらの瓶は赤、こちらは紫がかった色のインクになっております」

ペン先を布で拭き、それぞれのインクを試してみたが、どれも落ち着いた良い色だ。しかも、本当にインクの乾きが早い。

 

「そういや、お前の兄貴婚約したんだったよな。相手の髪と目の色は?」

「えーと、栗色の髪に紫の目ですね」

スピネルに尋ねられ、私は答えた。

ティロライトお兄様は先日めでたく恋人と婚約をした。卒業したら2年ほどブロシャン領で魔術師修業をする予定なので、その後で式を挙げる事になるだろう。

「なら、紫のインクがいいんじゃないか。手紙を書く時に使えばきっと喜ばれる」

「な、なるほど…!」

「なるほどな…」

こういう事に関しては本当にスピネルはよく気がつく。

殿下と二人で深く感心すると、スピネルはちょっと得意げな顔をした。

 

 

それぞれ箱に入れ、リボンもかけて綺麗に包んでもらう。

あの濃紺のインクは気に入ったので、自分用にも購入した。受け取った包みは使用人に扮している護衛のテノーレンに預かってもらう。

王宮魔術師の彼とはセナルモント先生の所で度々顔を合わせているが、護衛をしてもらうのは水霊祭の時以来だ。

店の外には護衛の騎士も待機していて、こちらは普通に軽装の護衛といった服装だ。

「じゃ、次は小物屋に行くか。すぐ近くだ」

「はい」

お兄様とヴォルツ用のプレゼントはすんなり決まったので、後はコーネル用だ。

 

 

文房具店から小物屋は数軒ほど先で、本当に近かった。

布製品や編み物を中心にした品揃えで、小窓用のカーテンやポットカバー、レース飾りなどとても可愛らしいもので溢れていたが、どうにもピンと来ない。

私がこういうものに疎いせいもあるが、コーネルがこれらの品を使っている所をどうも上手く想像できないのだ。

さらに移動し、アクセサリーの店や別の小物屋、香水店なども回ってみたが、やはりピンと来ない。

 

「すみません。なかなか決まらなくて…」

「いや、大丈夫だ。こうして見て回っているだけでも面白い」

殿下は特に気にしていないという顔だが、女性向けの商品が多い店ばかりなのでやはり申し訳ない。

「女の買い物ってのは時間がかかるもんだから仕方ない。織り込み済みだから気にすんな」

そう言ったのはスピネルだ。

こんな所だけ女らしい判定をされても全く嬉しくないが、一応気遣ってくれているらしい。

「それより、結構歩いて疲れただろ。もう昼だし食事にして休憩しよう」



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第103話 城下へのお忍び(中)

到着したのは、レモン色に塗られた壁が特徴的な小綺麗なレストランだ。

商人など金を持った平民向けの店だろうか。家族で経営しているようで、小さいが雰囲気が良い。

レストランに行くとしてももっと大きく立派な店ばかりだったので、こういう店はあまり来た事がなくて新鮮だ。

ちゃんと予約をしてあるようで、すぐに奥のテーブルへと案内される。

 

「素敵なお店ですね」

「セムセイの紹介だ。俺も来るのは初めてだけどな、料理もデザートも美味いらしい」

スピネルが答える。

店内を見ると、若い男女のカップルが数組いる。どうやらデート用としても人気がある店のようだ。

セムセイもきっと婚約者を連れて来たんだろうな。

 

「貴方も女の子を連れて来れば良いでしょうに」

「お前自分の性別覚えてるか?」

「覚えてますよ!そういう意味じゃありません!!」

人が心配してやっているというのにこいつ…。

コーネルなどは「お嬢様が恋人を作ったら私も作ります」と言っていて困っているのだが、スピネルも殿下の従者として似たような事を考えていたりするんだろうか?

まあこいつならいつでも相手を見付けられるのかも知れないが。

でもあまり言ったら、また余計なお世話だと怒られそうなので口を噤むしかない。

 

「いいから料理を選べよ。料理名の前に赤い印がついてるのがおすすめ料理らしいぞ」

メニューを差し出され、私は唇を尖らせながらもそれを受け取った。

 

 

「ん、美味しいですね」

最初に出てきたアスパラの冷製スープを飲んで感心する。

ほんのりと甘いスープは丁寧に裏ごししてあるのだろう、とろりと滑らかで舌触りがいい。

やがてメインの料理が運ばれてきた。

私は川魚のムニエル、殿下は鶏肉の香草焼き、スピネルは牛肉の赤ワイン煮込みだ。

私の頼んだムニエルが本日のおすすめ料理らしい。

コースではなく、スープとサラダとメイン料理にパンを付けただけのシンプルなランチだが、私としてはあれこれ出て来るよりこのくらいの品数の方が食べやすくていい。

いちいち次の料理が出てくるのを待たなくていい分、時間もあまりかからないだろうし。

 

「こちらも美味い。セムセイが薦めただけはあるな」

香草焼きを食べながら殿下が呟く。セムセイはなかなかの美食家だからな。

「伊達に太っている訳じゃないんですね」

「お前結構容赦ない事言うな…」

「だ、だって事実じゃないですか。本人も気にしてなさそうですし」

「まあな。どうもあいつと婚約者は、お互いふくよかな方が好みらしい」

「それなら問題ありませんね」

セムセイも一応騎士なのだし、動きが鈍くなるほどに太れば問題だろうが、そうでないなら個性の範疇だろう。

 

デザートはプリンが一番おすすめだそうなのでそれを頼んだ。プリンはかなり好きなので嬉しい。

ミントの葉が添えられたプリンは卵の味が濃厚で、ほろ苦いカラメルがそれを引き締めている。

「とても美味しいです!」

「良かったな」

殿下とスピネルも同じものを食べ、和やかに昼食は終わった。

 

「味も雰囲気も良くてくつろげました。良いお店でしたね」

「ああ。また来たいな」

店を出た所で殿下と話す。

私はお腹いっぱいだが、殿下はまだまだ余裕がありそうだ。

そこにスピネルが「待たせたな」と言いながらやって来た。

「何でも、近くに地味だが面白い品を扱ってるアクセサリー屋があるらしい。行ってみようぜ」

若いウェイトレスと何やら話していると思ったら、それを聞いていたらしい。

そのまま歩き出したスピネルの後を追った。

 

 

 

「これは…魔導具屋?いえ、アクセサリー屋なんでしたっけ」

小さな店内を見回しながら呟く。

所狭しと並べられているのは首飾りやブレスレット、指輪などの装飾品。

大抵のものは護符(アミュレット)…つまり魔除けや防御といった守護の効果を持つ魔法陣が描き込まれた品に見えるが、何の効果もないただのアクセサリーもそれなりの数が並んでいるので、護符の専門店という訳でもなさそうだ。

 

「当店では既製の護符の他に、お客様のご要望に合わせた様々な護符をアクセサリーとして作成して販売しております」

奥から出てきたのは妖艶な雰囲気の女魔術師だった。

艷やかな長い黒髪に黒いローブで、唇は赤い。

30代くらいに見えるが、もっと若そうにも逆に年を取っているようにも見える。年齢不詳というやつだろうか。

 

「一般的にオーダーメイドの護符と言えば、デザインから魔法陣まで全て特注の品になります。しかし当店では既製のアクセサリーと魔法陣を選んで組み合わせる事で、お手頃な価格かつ短い納期でお作りする事ができるのです」

「ははあ…なるほど」

「なかなか面白い売り方だな」

既製品とオーダーメイド品の中間みたいな感じか。

たくさんのアクセサリーと、それぞれの魔法効果があるいくつもの魔法陣のうちから一つずつ選んで組み合わせ、何十何百通りもの護符が出来上がるのだ。

殿下やスピネルも興味深そうにしている。

料金表を見ると、既製品よりは高価だが魔導師にオーダーメイドで頼むよりもはるかに安そうだ。

 

並んでいるアクセサリーはどれも、デザインだったり使われてる石だったりが魔法陣を描き込みやすそうなものばかりだ。

「わりとシンプルなデザインが多いですね」

「ベースとなるアクセサリーは私の夫がデザインと制作を行っております。華美にし過ぎない事で、幅広いお客様が手に取りやすい物になっております」

女魔術師の言う通り、老若男女問わずに使えそうなデザインが多い。

女性が使うには少々あっさりとしている印象だが、コーネルはむしろこういう感じの方が好きそうな気がする。

 

 

それらのアクセサリーを眺めていると、一つのネックレスが目に留まった。

銀の台座にはめ込まれた雫型の薄青の石が銀鎖にぶら下がっている。

透き通ったこの石の奥、台座の部分に魔法陣を描くことで、石を覗き込むと魔法陣が見える仕様になるようだ。魔法陣自体をデザインとして取り込んだ作りなのだろう。

殿下が近寄ってきて、私の視線の先へと目を落とす。

「薄青と銀か。透かすと君の髪のような色になるな」

「そう言えばコーネルは、よく私の髪を好きだと言ってくれます」

青みがかった銀というこの珍しい髪色が、コーネルはいたく気に入ってるようなのだ。手触りも良いとかで、いつも丁寧に手入れをしてくれている。

「なら、これはきっと喜ぶだろう」

「そうかも知れません」

少し照れくさいが、悪くなさそうだ。値段も高くないし。

 

「…あの、このネックレス…魔法陣を描く前の、このままの状態で売っていただく事はできますか?」

ふと思い付き、女魔術師に尋ねる。

「身分証明をお持ちの魔術師の方にはお売り出来ますが…お客様ご自身が魔法陣を描き込まれるのですか?」

「はい。私は魔術学院の生徒です」

下げているポシェットから生徒手帳を取り出す。持ってきておいてよかった。

 

「お前が自分で作るのか」

目を丸くするスピネルに、私はうなずいた。

「本格的な魔導具は難しいですが、護符くらいならできます。最近練習していましたし」

護符を自分で作れると便利だからな。

剣の鞘だとか杖だとかローブだとか、そういうものに魔法陣を描き込み護符とするのだ。小さいものに描き込みたい時は、別紙に描いた魔法陣を小さく描き写す魔術を使う事になる。

本職ではないので魔法陣の耐久性は少し下がるが、効果が切れたらまた自分で描いたり魔力を込めればいい。

素材との相性もあるので描き込めるものは限られるのだが、この護符用に作られたネックレスをベースにすれば、装飾品としても実用品としても使える護符を作れるだろう。

 

 

女魔術師は私の生徒手帳を受け取るとパラパラとめくり、それから最後のページを開いて手を止めた。

「まあ…王宮魔術師の…セナルモント様のお弟子様でいらっしゃるのですね」

そこには王宮魔術師団の印が押してあり、セナルモント先生のサインもしてある。

王宮魔術師の弟子というのは何かと便利な立場なので、すぐ証明できるようにと書いてもらったものだ。

「先生をご存知なのですか?」

「ええ。昔、少しだけ」

女魔術師は妖艶に微笑んだ。

へええ…。こんな美女と知り合いなんて意外だ。でも、魔術師の世界は結構狭いからな。

 

「王宮魔術師のお弟子様なら問題ございません。お好きにご購入いただけます」

「ありがとうございます!」

私は嬉しくなってにっこり笑った。殿下とスピネル、それから入口近くにいるテノーレンも微笑ましげに笑う。

「では、これをお願いします」

「分かりました。包装は簡易なものでよろしいですか?」

「はい」

「魔法陣を描き込む際の注意点などを書いた紙を同封しておきます。ご参考になさって下さい」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 

 

女魔術師が銀のネックレスを包むのを待ちながら、カウンターの周りを見る。

そこにはいくつかの籠が置かれ、様々な色の石で作られたビーズやペンダントトップなどが入れられていた。鎖や革紐などもある。

「あの、これは?」

「アクセサリーや護符を一から手作りしたいという方のために、当店で仕入れた材料の一部を販売しております」

「へえ…」

これを使えば、ネックレスやブレスレット以外にも色々な物を作れそうだな。

緑、赤、青。色とりどりの石をいくつか手に取る。

「これも一緒にお願いします」

 

 

「お二人共、ありがとうございました!とても良いプレゼントが買えました」

店を出た私は、殿下とスピネルに礼を言った。これならきっと皆に喜んでもらえると思う。

「納得の行く物が選べたようで良かった」

「時間かけた甲斐があったな。しかしあんな美人と知り合いとは、お前の師匠も意外と隅に置けないな」

「言っておきますがセナルモント先生は既婚者ですよ?」

「えっ。あれでか」

「あれでです」

驚く気持ちは分からんでもない。いっつもボサボサ頭だしなあ。

先生はかなりのくせ毛なので、奥さんもお手上げらしいが。

 

それからスピネルは「これからどうする?」と尋ねてきた。

「まだ時間はあるが、他に何か欲しいもんあるか?」

「いえ、特には」

「じゃあちょっとぶらぶらするか。広場の方に行けば出店もあるしな」

天気のいい休日には、広場に軽食の屋台や花売りのワゴンなどが来ているはずだ。

商店街からは歩いてすぐなので、そちらに向かうことにした。



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第104話 城下へのお忍び(後)

八百屋やらチーズ屋やらの店頭を冷やかしつつ、賑わいのある大通りを歩く。

朝は雲が多かった空も晴れてきて、日差しが少し暑い。

やがて広場へ到着した。

ここは周辺に木が植えられているし、噴水もあるので涼しげな雰囲気になっている。

 

いくつもの屋台が見えるが、入口近くでまず目に留まったのは姿絵や似顔絵の店だ。

「あ、見てください!これ殿下の絵ですよ!」

一番目立つ所に飾られていたのは、殿下の姿絵だった。武芸大会の時の姿を描いたものらしく、剣を掲げている。

剣を振るっている絵や礼をしている絵、スピネルと共に描かれている絵もあった。スピネルだけの絵もいくつかある。

 

「もうこんなに描かれてるんだな」

「殿下の勇姿は平民にも周知されるべきなので当然ですね!さすがは殿下です!」

まじまじと絵を見るスピネルに私は胸を張った。

殿下が武勇においても優れた方だという事は、民にとっても誇らしいはずだからな。

「出たなさす殿…」

「何ですか、さすでんって」

「何でもない」

 

少し照れた顔になった殿下は並んだ絵を眺めて、それから一つの絵を指差した。

「リナーリアの絵もあるぞ」

「えっ!?」

仰天して見てみると、それは確かに私の絵だった。決勝戦の場面らしく、氷狼が共に描かれている。

「こ、これ、私じゃないですか!」

「だからそう言ってんだろ」

「何でですか!?」

「そりゃあれだけ目立てばな。当然だろ」

スピネルは呆れ半分笑い半分の顔で私を見下ろした。

 

「くっ…」

学院の武芸大会は平民も見に来る娯楽イベントだから、優勝者ともなれば注目されるのかもしれない。誤算だった。

まさか今世でもこんな恥ずかしい絵が売られてしまうなんて…。

よく見ると、私と先輩が抱き合って喜んでいる絵や先輩が戦ってる絵もある。…先輩の絵多いな。

「どうせならスピネルが私の足元にひれ伏してる絵にして欲しかったです…」

「そんな場面ねえよ!!」

殿下が横を向いてぷっと噴き出す。

 

すると、店主の髭面の男がおずおずと話しかけてきた。

「あ、あの、もしかしてあなた様方は、王子殿…」

「シッ」

スピネルが口元に指を立てて店主の男の言葉を遮る。それから、殿下の絵や私の絵などいくつかを示した。

「これとこれ、これもくれ」

「は、はい!ありがとうございます!」

「あっ、これとこれも下さい」

私は殿下とスピネルの絵、それから私と先輩の絵を指し示した。恥ずかしいがせっかくなので記念に持っておきたい。

 

「今日の事はあんたの胸にしまっておいてくれ」

「はい!もちろんですとも!」

絵を受け取りながら言ったスピネルに、店主の男は嬉しそうにこくこくとうなずいた。

そのうち噂になって広まってしまいそうだが、殿下に限らず貴族が時折こうして城下にお忍びでやって来ているのは、公然の秘密だからな。

人の口に戸は立てられないと言うし、この場で騒ぎにならなければ別に良い。

 

 

 

「見ろ、ジェラートの屋台が出てるぞ」

姿絵の店を離れ、クレープ屋や花屋の屋台を覗いていると、スピネルが水色と白の縞模様の屋根がついた屋台を指差した。

「ジェラート?」

殿下はジェラートという言葉は初耳らしい。

かき混ぜながら空気を含ませて凍らせ、滑らかな食感を生み出した氷菓子だ。凍結の魔術や魔導具がないと作れないためまだあまり普及していないが、一部で人気が出始めている。

「シャーベットみたいな感じの氷菓子ですね。私も一度だけ食べたことがあります。美味しいですよ」

食べたのは前世の話だが。あれはデートって事になるんだよな、一応。

 

 

暑いし涼を得るには丁度いいので、ジェラートを食べながら一休みする事になった。

私はストロベリー、殿下はミルクとピスタチオ、スピネルはヘーゼルナッツだ。

護衛のテノーレンが支払いを済ませて店の者から受け取る。

先程のレストランでもそうだったが、こっそり毒検知の魔術を使っているのだろう。隠蔽の魔術も併用しているようなので外からは見えないが。

悪意ある毒物に限らず、こういう屋台では鮮度が悪かったり火が通りきってない食べ物が売られていたりもするので、気を付けるに越したことはない。

 

木陰に移動し、ベンチに並んで座ってジェラートを食べる。

「これは美味いな」

ずいぶん気に入ったらしく、殿下はあっという間にぱくぱくと食べている。

一人だけダブルで頼んだので食べ終わる前に溶けてしまわないかと思ったが、無用の心配だったようだ。むしろ私の方が遅い。

「詳しい製法は私も知りませんが、道具を揃えれば城でも作れると思いますよ」

「そうなのか。…だが、こうして君やスピネルと共に外で食べるというのも、美味さに一役買っている気がする」

「それはあるかも知れませんね」

「今日みたいに暑い日は、冷たいものが美味いからな」

 

木陰のベンチから見える青い空と、降り注ぐ日差し。本当に爽やかで、冷たく甘いジェラートはとても美味しい。

こんなにゆったりとした休日は久し振りのような気がする。

隣に座った殿下ものんびりとした表情で、目が合うと穏やかに微笑んだ。

嬉しくなって私も頬が緩む。

 

 

「…あれ、オットレじゃないか?」

ふとスピネルが言った。

視線の先を追いかけると、広場の噴水の近くにいるあれは確かにオットレだ。

殿下の従兄弟で、殿下への対抗心が激しい、嫌味で性格の悪い男である。この前の武芸大会にも騎士部門で出場していたが、2回戦で3年生相手に敗退していた。

休日なのであいつもお忍びでやって来ているらしく、日傘を差した女性が一緒にいるようだ。

その女性の横顔がちらりと見え、小さく息を呑む。

…フロライア様だ。

 

「珍しい組み合わせだな」

「そうですね…」

オットレは結構女好きなので、彼女をランチやらに誘っている所は何度か見かけたが、今までそれほど親しくはしていなかったはずだ。

思わず殿下やスピネルの顔を窺ったが、特に何も思っていないようだった。

こちらから声をかけて挨拶をするつもりもないらしい。

二人の邪魔をするのも悪い…と言うより、関わりたくないんだろうな。

オットレが殿下を嫌っているのは明らかだし、声をかけても面倒なだけだ。

 

 

オットレたち二人が使用人を連れて何処かへ去っていくのを見送ってから、私たちもベンチを立ち上がった。

…とても気にかかる組み合わせだったが、まさか後をつける訳にもいかない。今は殿下たちと一緒なのだし。

努めて冷静な素振りで殿下の後に続こうとすると、スピネルが私の横に立って小さく囁いた。

「お前が考えてる事くらい、俺たちも考えてるから心配すんな」

 

そのまま歩き出したスピネルの背中を見ながら、それもそうだよな、とひとりごちる。

魔術干渉があった時の試合相手が彼女だった事も、殿下に何かあれば高い王位継承権を持つオットレにとってのチャンスになるだろう事も、少し考えればすぐに分かることだ。

きっと確信はないだろうが…。

しかし私だって、大した事を知っている訳ではないのだ。ただ彼女が殿下を害する存在だという、それだけしか分からない。

その事がとてももどかしく、悔しい。

 

「リナーリア」

気が付くと、殿下が立ち止まって私を見ていた。

「行こう。時間はまだある。せっかくの休日なんだ、楽しもう」

そう言って、私の方へと手を差し伸べる。

私はぱちぱちと瞬きをして、それから殿下の手を取った。力強くて大きな手だ。

…殿下の言う通りだ。

無駄な事を考えて、せっかくの休日をつまらないものにはしたくない。今は楽しもう。

 

 

 

その後は武具屋で剣を眺めたり古道具屋を覗いたりした。

殿下とスピネルが様々な種類の剣を片手にあれこれ言っている姿は楽しそうで、つい微笑ましい気持ちになる。

それからスピネルのおすすめだという喫茶店にも立ち寄った。

行きつけだという紅茶店が茶葉を卸している店らしい。

生け垣のあるテラス席へ案内してもらった。風通しが良くて気持ちがいい。

 

「入り口の立て看板にはケーキの絵も描かれていたな」

「ああ、ここはチーズケーキも評判なんだ」

尋ねる殿下に、スピネルが答える。

レストランではプリン、広場ではジェラートを食べたので甘いものはもう十分なのだが、こんな機会は滅多にないのだし頼んでみよう。

飲み物のメニューを開くと、たくさんの種類の紅茶がずらりと並んでいる。

「紅茶はスピネルにお任せします。チーズケーキに合うものをお願いします」

「俺のも頼む」

紅茶に関してはスピネルが一番詳しいので、私も殿下も彼に任せる事にする。

「そうだな。少し癖が強いものの方が合うから…」

スピネルは楽しげに紅茶を選び、店員へと注文してくれた。

 

スピネルの言った通り、チーズケーキはとても美味しかった。

どっしりとした濃厚な味なのだが、少し渋みのある濃いめの紅茶がよく合う。

さすがだなと思いつつ紅茶の香りを楽しんでいると、「気に入ったんなら入口のところで茶葉も売ってるぞ」とスピネルが教えてくれる。

「本当ですか?なら買っていきます。きっとスミソニアンも喜びますし」

無類の紅茶好きであるうちの執事長の名を出すと、スピネルはなぜか顔をしかめた。

「あいつか…」

「何でそんなに嫌そうな顔をするんですか?」

「いや別に」

紅茶好き同士気が合っても良さそうなのに、どうもそうではないらしい。何が嫌なんだろう。

私には優しい執事長なんだけどなあ。

 

 

 

「今日はとても楽しかったです。おかげで良いプレゼントも買えましたし、本当にありがとうございました」

帰りの馬車に乗り込む前、私は改めて殿下とスピネルの二人にお礼を言った。

それから護衛の騎士やテノーレンの方に向き直る。

「皆様も、どうもありがとうございました。安心して休日を過ごせたのは、護衛の皆様のおかげです」

「い、いえ!とんでもない!」

テノーレンは慌てて手を振り、騎士は少し驚いた顔をした。

 

「…これからもどうか、殿下の事をよろしくお願いします」

護衛の二人に深々と礼をする。

私は単なる一貴族令嬢であって、殿下の護衛に対しこんな事を言える立場ではないのだが、どうしても言っておきたくてそう言った。

前世ではこれが彼らの職務なのだから当然だと思っていたし、改めて感謝するような事は特にしなかったが、今となっては彼らの大切さがよく分かる。

彼らにはこれからも職務に忠実にいてもらわなければならない。

 

すると彼らは何故か、「…はい!」と声を揃えて答え、胸を張った。

どこか感動した面持ちで、誇らしげに。

 

そ、そんな感動するような事言ったか…?

ただの友人の分際で何を偉そうな、何様のつもりだ、とか言われるよりずっと良いが。

ちょっと戸惑う私に、横で見ていたスピネルが苦笑する。

「やっぱお前、向いてるよ」

「何がですか?」

「さあな。それより帰ろうぜ。あまり遅くなるとまずいだろ」

「あ、そうですね」

帰りは屋敷に寄らず、寮の方に直接戻る事になっている。門限まではまだ余裕があるが、あまりもたもたしていると遅れてしまう。

 

 

馬車に揺られながら、殿下が私を見て笑った。

「俺も今日はとても楽しかった。いい息抜きになった。ありがとう」

「それなら良かったです」

「そうだな。たまにはこういうのも良い」

殿下もスピネルも満足そうな顔でうなずいている。

私の用事に付き合わせてしまった形だが、二人共楽しく過ごせたなら良かった。

 

「また行こう。次は違う味のジェラートを食べたい」

真面目な表情でそう言った殿下に、私とスピネルは顔を見合わせて笑った。



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第105話 卒業式(前)

「お兄様、卒業おめでとうございます!」

「ありがとう、リナーリア」

笑顔と共に差し出したプレゼントの包みを、ティロライトお兄様は嬉しそうに受け取った。

「これが王子殿下と一緒に買いに行った卒業祝いかい?」

「知ってたんですか?」

「うん。でも何を買ったかまでは知らないよ。開けてみていいかな?」

「はい」

 

今日は学院の卒業式だ。

卒業生であるお兄様は制服の上にガウンと角帽を身に着け、先程授与されたばかりの卒業証書を手にしている。

周囲では、同じような姿の卒業生たちが在校生から花束や贈り物を受け取っていた。

感動して涙ぐんでいる者も多い。

 

プレゼントの箱を開けて、お兄様が歓声を上げる。

「わあ…これは綺麗な万年筆だね!ありがとう、大切にするよ」

「そのインクも、とても綺麗な色なんですよ。手紙を書く時に良いと思いますので、後で試してみて下さい」

「そうなんだ。しばらく王都からも領地からも離れるから、それはありがたいな」

お兄様はブロシャン領で魔術師修業をする2年の間、修業に集中したいとの事で、ずっと向こうにいて帰っては来ない予定だ。

少し意外だったが、それだけ真剣なのだろうから、妹の私としても応援している。

 

 

それから私は、お兄様の後ろに控えていたヴォルツを見た。

ヴォルツもまた今日で卒業だ。お兄様と同じガウンと角帽姿の彼に歩み寄る。

「ヴォルツも、卒業おめでとうございます」

小さな包みを差し出すと、ヴォルツは少し驚いたような顔になった。

「…自分にですか」

「ええ。貴方にはこれからもお世話になりますし…受け取って頂けると嬉しいです」

ヴォルツは卒業後、我が家の騎士として働く事になっている。

スピネルの忠告もあったし、彼は学院にも王都にも慣れていて丁度いいので、私の在学中は主に私の護衛についてもらう予定なのだ。

 

ヴォルツは驚いた顔のまま無言で包みを受け取った。

「どうぞ、開けてみて下さい」

「はい」

丁寧な手付きでリボンを解き、そっと箱を開ける。

「これは…」

「おや、これも立派な万年筆だね」

ヴォルツの手元を覗き込んだお兄様がニコニコしながら言った。

「騎士にもペンは必要ですから。持ち歩きのしやすい、丈夫なものだそうです」

 

「……」

ヴォルツはしばらく無言で万年筆を見つめ、それからぐっと胸に抱くようにして深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。必ず…、ずっと大切にいたします」

ちゃんと喜んでもらえたようで、ほっと胸をなで下ろす。

全く動かないのでちょっとハラハラしてしまったが、どうやら感動していたようだ。

贈った甲斐があったな。とても嬉しい。

 

 

「この後は一度寮に戻るのかい?」

お兄様に尋ねられ、私ははっとした。

「そ、そうでした!そろそろ行かないと」

慌てる私に、お兄様が「やっぱり」と苦笑する。

「すみません、用事があるので失礼します。また、パーティーで」

「うん。また後で」

手を振るお兄様と礼をするヴォルツに見送られ、その場を後にした。

 

 

 

卒業式の日の夜には、学院の体育館でダンスパーティーが行われる。

メインはもちろん卒業生だが、在校生もほぼ全員参加する。

部外者で入れるのは生徒のパートナーだけなので、大人の貴族はいない学生だけのパーティーとなる。

当然の成り行きとして、かなり騒がしいパーティーになりがちなので、羽目を外しすぎないよう生徒会役員は監視が大変だ。

まあ大抵のことは無礼講として許すのが暗黙の了解なのだが。

 

…そして、卒業式終了後からパーティーが始まるまでの間。

この時間は一部の生徒にとって、あるイベントの時間だ。

学院が創立されたばかりの頃からの伝統として、思いを寄せる相手に愛を告白する時間とされているのである。

 

 

何故そんな伝統があるのかは謎なのだが、タイミング的な問題なのではないかという気がしている。

1年間学院で共に過ごし、ある程度相手のことを理解できたからとか。

これから1ヶ月の長期休みに入るので、ここで相手を決め、ひと夏の間に仲を深めておきたいとか。

あるいは告白のきっかけを掴めずにいる生徒への後押しもあるかもしれない。

こういう分かりやすいイベントの日があれば、覚悟を決め心の準備をしやすくなる…と思う。多分。

ちなみにこのイベントは、主に在校生間で行われる。卒業生は既に相手が決まっている者が多いからだ。

 

告白は中庭やら空き教室やら様々な場所で行われる。

歩いていると、ちらほらそれらしき生徒を見かけた。

嬉しそうにしている者もいれば泣いている者もいて、見ないふりをして通り過ぎる。

前世の私も幾人かの女子生徒から告白されたりしたが、泣き出してしまった女子もいて非常に罪悪感があった。

傷付けてしまったかとしばらく気にしていたのだが、彼女は夏休み明けにはしっかりと恋人ができていてちょっとショックだった。いや別に良いんだが…。

 

そして今の私もまた、告白のためなのだろう呼び出しを受けている所だ。

急いで廊下を歩き、指定された教室に行くと、彼は既にそこで待っていた。

こちらを振り向き、小さく微笑む。

「やあ、リナーリア」

「すみません、お待たせ致しました。…アーゲン様」

 

 

「大丈夫、そんなに待ってはいないよ。やっぱり、他の男にも呼び出されていたのかな?」

「いいえ。今日私を呼んだのは貴方だけです」

特に隠す事でもないので正直に答える。

アーゲンはどこか読めない表情で「まあ、それもそうか」と呟いた。

そして、私の顔を正面から見つめる。

「リナーリア」

「は…、はい」

どんな要件なのか想像はついていても、やはりつい緊張してしまう。

 

「君が好きだ。僕と結婚を前提に交際してくれないだろうか」

 

 

「……」

私は一つ呼吸をすると、そっと目を伏せた。

ゆっくりと頭を下げる。

「…申し訳ありません。貴方の気持ちにはお応えできません」

 

 

「そうか…。分かった」

少しの間の後、静かな声が降ってきて、私は頭を上げた。

アーゲンは最初と同じ、穏やかな笑みで私を見ている。

…あれ、あんまりショック受けてないっぽい…?

そんな私の考えが分かったのだろう、アーゲンが笑みを苦笑に変えた。

「君がそう答える事は、最初から分かっていたからね」

「…では、何故?」

振られると分かっていて何故告白したのだろう。尋ねる私に、アーゲンは肩をすくめて答える。

「自分の気持ちにけじめをつけたかったから、かな。本当はもう少し頑張りたかったけど、やっぱりとても勝てそうにないし…僕も、そうのんびりとはしていられない立場だしね」

 

もしかして父のパイロープ公爵に何か言われたのかな、と少し思う。

「脈のない侯爵令嬢に固執するのはやめて、もっと良い相手を選べ」だとか。

高位貴族の嫡男ならば、本来できるだけ早めに相手を決めるのが望ましいのだ。

優秀で家柄も良いご令嬢が、高位貴族からさんざん気を持たされた挙げ句に婚期を逃し、爵位の低い適当な家に嫁ぐはめになった…なんて悲しい話は昔から時々ある。

 

それらの婚約者選びはご令嬢だけでなく、他の貴族家にも影響を及ぼす。派閥内で婚姻したい場合などは特にそうだ。

いずれは公爵夫人になるのだろうと思って好きな相手を諦め、他の令嬢と婚約したのに、結局彼女は公爵家から選ばれなかった。ならばやはり彼女と結婚したい…と婚約破棄からの大騒動になった例などもある。

上の者が相手を決めてくれないと、下の者が相手を選びにくいのだ。

 

殿下が早く婚約者を選べとせっつかれるのも同じ理由だ。

前世でも、国王陛下や王妃様はなるべく見守りたいと考えておられるようだったが、3年生になった時にはさすがにもう選べと叱られてしまっていたしな。

特に殿下は恋人も作っていなかったので、誰が選ばれるか周囲から見て分からなかったのだ。

案の定、殿下が婚約を決めた直後にばたばたと婚約した生徒が何人もいた。

 

 

そんな事を思い出し、公爵家の嫡男というのも大変だよな…とアーゲンの顔を見ると、「それと」と言葉を続けた。

「エンスタット君の行動に感銘を受けたから。彼は本当に勇気がある人だ」

…確かに、アーゲンの言う通りだ。

女神やら何やらあれこれのショックでつい流してしまっていたが、人目も憚らずあんなに堂々と思いを打ち明けたエンスタットの勇気は凄いと思う。

どうも初めから望み薄だと分かっていたみたいなのに。

筋肉女神は絶対に認めたくないが、個人としては好ましい人間だと思う。

 

 

…そして、アーゲンも。

この1年、何だかんだとアーゲンとは結構親しくしてきた。

始めは心を許せる相手とは思っていなかったし、向こうもどこか私を試すような所が見受けられたのだが、討伐訓練で彼を助けて以来変わった。

気安いとまでは言わないが、ずいぶん裏表なく接して来るようになったと思う。

私も今では、アーゲンは信用に足る人間だと思うようになった。

もちろん無条件に何もかもを信じられる訳ではないが、少なくとも私や殿下に危害を及ぼしたりはしない。

それは私にとって、とても大切な事だ。

 

 

「断っておいて、虫の良い話かも知れませんが…できればこれからも、貴方とは親しくして行きたいです。友人として」

できるだけ真摯な気持ちを込め、私は言った。

私の一体どこがそんなに気に入ったのかは分からないが、アーゲンは真剣に思いを告げてくれたのだから、私も本音を答えようと思ったのだ。

 

彼の望んだ答えではない事は理解している。

受け入れてもらえなくても仕方ない。

しかしアーゲンは目を見開き、それから破顔した。

「…君からそんな事を言ってもらえるなんて。今までの僕の努力も、無駄ではなかったみたいだね」

 

アーゲンはおかしそうに笑うと、私の方へ片手を差し出した。

「こちらこそお願いするよ。これからは友人として、親しくして行こう」

「…!はい」

私は笑顔になって、アーゲンの手を握りしめた。

 

アーゲンとはこの先も、良い関係を築いていきたい。

彼には次期公爵として、殿下が治める国を支えて欲しい。

そして、彼自身にもまた、幸せになってほしいと思うのだ。

良い未来を作るために。



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第106話 卒業式(後)

その後、私は体育館に向かった。

パーティーの準備は城のメイドや上級生の家の使用人を借りて速やかに行われるのだが、生徒会役員はこの設置に立ち会ったり最終確認をしなければならないのだ。

卒業生である3年生は準備には参加しないので、1年と2年の役員だけで全て行う事になる。

 

体育館には既に幾人かの役員が来ていた。

中心になって指示を出しているのは2年のトルトベイトだ。

彼は卒業生であるジェイド会長の推薦で、先日新たな生徒会長に任命された。歴代では少し珍しい、魔術師課程の生徒会長だ。

 

「やや、リナーリア君、早かったね。君はもっと時間がかかるかと思っていたけど、さてはあれかい?群がる男どもをばったばった薙ぎ倒して来たのかい?」

「そんな事してませんよ!」

トルトベイトは頭の回転が早くとても優秀な人物なのだが、舌の回転もまた実に滑らかだ。

「うん、それじゃ、君には壁と天井の飾りのチェックをお願いしようかな。位置の調整と、あと間違ってもパーティー中に落っこちたりしないようにね。よろしく!」

「分かりました」

私がうなずくと、トルトベイトはささっとその場を去っていった。

ちょっとせっかちなのが玉に瑕なんだよな、この人。

 

 

 

「あ、それ、もう少し上にお願いします。ここの下には休憩用の椅子を置く予定なので」

飾り付けの係の者に色々確認したり指示をしたりしていると、殿下がこちらに近付いて来るのが見えた。

殿下もまた女子生徒たちから呼び出しを受けていたと思うのだが、思ったよりずいぶん早かったな。

やっと殿下モテ期が来たと思ったのに違ったんだろうか…。

 

「遅くなってすまない。こちらで君の手伝いをするように言われた」

「では、私と一緒に壁の飾りを見ていきましょう。二人で見た方がミスを防げますし」

「分かった」

 

 

殿下と二人、壁飾りの位置や角度をチェックしていく。しっかり固定されているかどうか、たまに手を触れてみたりもする。

作業しながらも殿下はちらちらと私の方を見ているので、なんだろうかと首を傾げた。

「どうかしましたか?」

「ああ…いや…」

殿下は言葉を濁し、それから言いにくそうに私に尋ねた。

「…君はその、誰かに呼び出されたりしなかったのか」

「ええ…まあ、一応は…。お断りしましたが」

誰から、という所はぼかしつつ答えると、殿下はどこかホッとした顔になった。

 

うう、私も訊きたい。でも訊いたらまずいかな…。殿下も訊いてきたんだから大丈夫だろうか?

そんな事を考えて悩んでいると、殿下が壁飾りを見ながら言う。

「俺も全て断った」

「…そ、そうなんですか…」

尋ねる前に答えられてしまった。

そうか…まあ前世でも全員断ってたしなあ…。

 

やっぱりまだお相手を決める気はないのか。

斜め上にある横顔をちらりと見上げると、ふいに殿下がこちらを振り向き、目が合う。

「リナーリア」

「はい?」

「今日のパーティーでは、俺と最初に踊って欲しい」

 

 

…デビューの時のように注目されたりはしないが、こういうパーティーではやはり恋人か、さもなくば親しい者と最初に踊るものだ。

女子の告白を全て断ったなら、普段から親しい私と踊るというのはまあ、普通の流れかなと思うが。

「…私で良いんですか?」

「ああ。君が良い」

「でも私、ずいぶん下手になっていますよ。最近全く踊ってませんでしたし」

 

私はそもそもダンスが苦手なので、ダンスパーティー自体ほとんど行っていないし、行ってもせいぜい1曲くらいしか踊らない。相手も父や兄ばかりだ。

社交目当てでパーティーに参加している貴族にはそういう人も時々いるので、しつこく誘ってくるようなのは滅多にいない。

学院の授業には一応ダンスもあるのだが、やるのは外が寒い冬の間だけなので、本当にしばらく踊っていないのだ。

 

「大丈夫だ」

殿下は鷹揚にうなずいた。

「気にせず、また足を踏んでくれ」

「もう、殿下!」

私は頬を膨らませて殿下を睨んだ。

それから、こらえきれずに噴き出す。

「…分かりました。今日は一緒に踊りましょう、殿下」

「ああ」

笑う私に殿下は少しだけ微笑み、そしてまた作業を再開した。

 

 

 

 

しばらく作業をした後、女性は身支度に時間がかかるだろうからとトルトベイトが言い、私や女子の役員は一足先に寮へと戻った。

「お嬢様、お待ちしておりました」

部屋に入ると、コーネルともう一人、我が家のメイドが私を待っていた。

普段、寮に入れる使用人は許可証を持っている者だけなのだが、今日ばかりは他の者も呼んで良いことになっている。

寮ではなく屋敷の方へ戻って支度する者も多いが。

 

まずドレスを着せてもらってから、コーネルには髪を、もう一人には化粧をしてもらう。

ドレスは最近新しく誂えたばかりのものだ。今日がお披露目になる。

ブルーグリーンを基調にした夏らしい色合いのドレスで、袖の大部分がレースでできているので涼やかな印象になっている…というのは仕立て屋からの受け売りだ。

私はドレスに興味がなく、いつもただ着せられているだけだ。あれこれ悩んで選んでくれている母や使用人たちには少々申し訳なく思っている。

でも私が自分で選ぶと「地味過ぎる」だの「野暮ったい」だの言われてしまうからなあ…。

だいたい、流行りの胸元が大きく開いたドレスなんて着てどうするんだ?谷間など何一つできないというのに。

 

 

化粧を終えたメイドは、満足そうにうなずくと今度は私の手を取った。爪を塗ってくれるらしい。

マニキュアというやつだ。

どうも派手すぎるイメージなので苦手なのだが、メイドが取り出したものは柔らかな淡いピンク色のものだった。

「こんな可愛らしい色のものもあるんですね…」

丁寧に塗ってもらいながら呟くと、メイドは優しく微笑んだ。

「若い貴族女性の間では近頃流行りなんだそうですよ。王子殿下もきっと、こういう色の方がお好みかと」

「何故殿下が出て来るんですか」

「あら?お誘いされていないのですか?」

「…それは、まあ、誘われていますが…」

 

すると、爪を塗り終えたメイドは「うふふ」と口元に手を当てて笑った。

「興味がおありなら、様々な色をご用意できますよ。お嬢様なら、青や水色のマニキュアもお似合いかと」

「そ、そんな色もあるんですか!?」

爪が青かったり水色というのは怖くないだろうか。そういうものがおしゃれなのか…?

いや確かに、前世でも青だの紫だのの爪をしたご令嬢をたまに見かけたな。何が良いのかは分からなかったが。

 

 

爪が乾くのを待っている間に、コーネルも髪のセットを終えたようだ。

結い上げた髪の上で、ドレスの色に合わせた青と緑の髪飾りがきらめいている。

「王子殿下とはどちらで待ち合わせを?」

「えっと、6時に寮の前まで来て頂けると」

コーネルに尋ねられ答える。時計を見るとまだ5時半くらいなので、思ったより余裕がある。

 

「では、後のことは私がやっておきます。…お嬢様、よろしいですか?」

「はい。二人共、どうもありがとうございました」

あとの片付けはコーネル一人で十分なので、屋敷のメイドには先に帰ってもらうことにした。

ちなみにパーティー後は、馬車に迎えに来てもらって屋敷の方へ戻る予定だ。

私一人では髪もろくに解けないし、脱いだドレスもぐちゃぐちゃになってしまいそうなので仕方ない。

 

 

メイドが帰った後、私は椅子から立ち上がり机の引き出しを開けた。

「コーネル」

名前を呼ぶと、化粧道具の片付けをしていたコーネルが振り返った。

「何ですか」と近寄ってきた彼女に、手のひらに載せたそれを差し出す。

「貴女には、幼い頃から本当にお世話になってきました。何かお返しができたらとずっと思っていて…。これは、私が作った護符(アミュレット)です。どうか受け取って下さい」

 

「……」

コーネルは動きを止め、大きく目を見開いて私の手のひらの上のネックレスを見つめていた。

先日のお忍びの時に買ったネックレス。雫型の薄青の石の奥には、防刃と防魔の効果を持つ魔法陣が描かれている。

何度も練習をしてから、慎重に描き込んだものだ。

 

コーネルの手がゆっくりと、おそるおそるネックレスを取る。

その先に下がるきらりときらめく石を、彼女の瞳が捉えた。

「とても…、とても綺麗です。まるで、お嬢様の髪のような色」

「はい。気に入って頂けると嬉しいのですが…」

「……」

 

そっとネックレスを握りしめると、コーネルはうつむいて震えた。

「う…、嬉しいです、お嬢様。な、なんと申し上げて良いのか…こんな…こんな素晴らしいものを、私に…」

なんとコーネルはぼろぼろと涙をこぼしている。私は思わず慌ててしまった。

「そんな、大したものでは。私は魔法陣を描き込んだだけで…その魔法陣もずっと保つ訳では…あっ、いえ、言ってくれればいつでも魔力を込め直せるんですが…」

私があまりにオロオロしているからか、やがてコーネルはくすりと笑うと、泣き笑いの顔で私を見た。

 

「本当にありがとうございます。…お嬢様は、とてもおかしな…不思議な方ですけれど。そんなお嬢様にお仕えできる私は、誰より幸せ者だと思っております」

「…私は、おかしな令嬢ですか?」

ちょっぴり憮然としつつ呟く。

スピネルにはよく言われるが、やっぱりコーネルにもそう思われていたのか…。

「はい。ご存知ありませんでしたか?」

「いえ…まあ知ってましたけど…」

これでも普通のご令嬢を目指しているつもりなんだけどな…。近くにいる者の目は誤魔化せないらしい。

 

「…でも私は、そんなお嬢様が大好きですよ」

コーネルはそう言って、もう一度笑った。

 

 

 

約束の6時が近付き寮を出ると、そこには護衛の騎士を連れた礼服姿の殿下が既に待っていた。

「…とても綺麗だ」

私のドレス姿を見て、殿下が言う。

「あ、ありがとうございます…」

正面切って褒められると、さすがに照れてしまう。殿下の言葉には表裏がないから尚更だ。

 

「では、行こうか」

「はい」

きっとパーティーは既に始まっている頃だ。

でも今日は卒業生が主役なので、在校生である私たちは少し遅れていくくらいで丁度いいだろう。

「そう言えばスピネルは?」

「ついさっきカーネリアを連れて先に行った」

いつも文句ばかり言っているスピネルも、今回はおとなしく妹のエスコート役に収まったらしい。彼女に近付く男子生徒への牽制のつもりかな?

 

「何だか嬉しそうだな」

「はい。先程コーネルに、先日買ったプレゼントを渡したのですが、とても喜んでもらえて」

「そうか。それは良かった」

「殿下たちのおかげです」

 

 

それからすぐに体育館に着いた。敷地内なので、寮からも近いのだ。

会場内は少し暗く、魔導具による色とりどりの明かりによって照らされている。

ちょうど1曲めが終わった所のようで、スピネルと踊っていたカーネリア様が私たちを見付けて近寄って来た。

「王子殿下、リナーリア様、ごきげんよう!そのドレス、とっても素敵よ」

「カーネリア様こそ。今日もとてもお美しいです」

 

「お二人はこれから踊られるんでしょう?ね、お兄様、私たちももう一曲踊りましょ」

「はあ?」

カーネリア様に笑顔で腕を取られたスピネルは眉をしかめた。

「いいからいいから。その後はパートナー交替!リナーリア様はお兄様と踊ってあげて。殿下は私と、どうかしら?」

「俺は別に構わないが」

「私も、構いませんが」

殿下も私も揃ってうなずく。

私のダンスはだいぶ下手になっているだろうから、スピネルと踊ったらバカにされそうな気もするが。

カーネリア様にそう言われれば、断る理由は特にない。

「…あー、わかったよ!」

スピネルが渋々承知するのと同時に、次の曲の前奏が始まった。

 

「踊ろう、リナーリア」

殿下が私を見つめて手を差し伸べる。

「…はい。どうぞよろしくお願いします」

微笑みながら、私は一礼してその手を取った。

 

 

右、左、右。

慎重にステップを踏んでいると、「リナーリア」と名前を呼ばれた。

顔を上げると、殿下の微笑みがすぐ間近にある。

「やはり、君と踊るのは楽しい」

「そ…そうですか?」

「ああ」

殿下がそう答えた瞬間、私は思いきり殿下の足を踏んでしまった。

ま、またやってしまった…!

 

「本当にまた踏まれてしまったな」

何故だか楽しそうに殿下が言う。

「すみません…」

「いいや、構わない」

気にしないでもらえるのは有り難いが、そんなに楽しそうにされるとちょっと戸惑ってしまう。

痛くないのかな。

まさか変な趣味に目覚めたりしていないよな…?

 

 

一曲踊った後、本当にカーネリア様とペアを交替することになった。

「それじゃ、交替!」

カーネリア様に押し出されて私の前に立ったスピネルは、にっこり笑って私に手を差し出した。

…そんな分かりやすい作り笑いあるか?

 

少し慣れてきたので、先程よりは若干滑らかにステップを踏む。

だがスピネルにはすぐに突っ込まれてしまった。

「お前ちょっとはダンスの練習しとけよ」

「し、仕方ないじゃないですか…誘われるとか思ってませんでしたし…」

「お前な…」

スピネルは一瞬だけ呆れ顔になって、またすぐ笑顔に戻る。

 

ちなみにスピネルの足は踏まなかった。と言うより、避けられた。

しっかり私の身体を支えつつ自分の足はさっとずらして避けていて、この運動神経の良さ、むしろ腹が立つ。

いっそ思いっきり踏んでやりたかったができなかった。いつか踏む。

 

 

 

ダンスの最中、少し気になってアーゲンの方をちらちら見ていたが、同級生の女子生徒と踊っていた。多分、私が見ていない間にアラゴナ様とも踊っただろう。

やはりどことなく元気がなく見えたが、あまり落ち込んでなければ良いなと思う。

 

意外だったのは、壁際でペタラ様とストレングが親しげに話していた事だ。

カーネリア様から彼女はストレングが好きかも知れないと聞かされてはいたが、本当に付き合い始めていたとは。

それとも今日、告白して成功したんだろうか?

二人はどうも一曲目を共に踊っていたらしく、「これはニッケルが落ち込むな」とスピネルが言って、私はびっくりしてしまった。

「え、そうだったんですか!?」

スピネルがまたもや呆れ顔になる。

「お前本当に…」

「…どうせ!私は!鈍いですよ!!」

殿下もカーネリア様もちょっと困り顔だったので、二人も気付いていたようだ。くそう…。

 

 

その後もパーティーは続き、私はお兄様やヴォルツとも踊った。

ヴォルツのダンスはそれほど上手くはなかったが、私も下手なのでお互い様という所だろうか。

珍しく顔を真っ赤にしていて、近くで見ていたお兄様は必死に笑いをこらえていた。

私もつい笑ってしまったが、貴重なヴォルツの照れ顔が見れたので良しとしよう。

 

さらにいつも通りの男装をしたスフェン先輩とも踊ったのだが、しまいにはカーネリア様が私と踊ると言い出した。

私は久々に男のダンスを踊り、自分が適当に合わせるつもりだったらしいカーネリア様はびっくりしていて、周囲からは謎の歓声が上がった。

 

そうして、楽しいパーティーの夜は更けていった。



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挿話・19 卒業式と紙の鳥(前)【前世】

前世のリナライト君が1年生だった時の話です。


今日は学院で卒業式が行われる日だ。

1年生であるリナライトは卒業生を見送る側として参加し、式は滞りなく行われ、無事に終了した。

その後は兄や生徒会長だったジェイドなど世話になった3年生に挨拶をしたり、数名の女子生徒からの呼び出しに応えたりした。

ただし彼女たちの告白は、申し訳ないが全て断った。

今は学業に魔術師修業にと忙しいし、従者としての務めもある。恋愛に興味がない訳ではないし、いずれは良い女性を選びたいとは思っているが。

それに自分の恋路などより、王子の婚約者選びの方がよほど気になるし重要だ。

 

 

用事が一段落したところで、体育館へと向かう。

リナライトは生徒会役員なので、ダンスパーティーの会場設営の準備を手伝わなければならないのだ。

途中、誰かを探している様子の数名の女子生徒を見かけた。

少し気になりつつ通り過ぎる。

 

「あっ!リナライト君、良いところに来てくれた!!」

入り口をくぐってすぐの所で、大声で名前を呼ばれて足を止めた。

「トルトベイト先輩…いえ、トルトベイト会長」

駆け寄って来るのは、つい先日に新生徒会長に就任したばかりの2年生、トルトベイトだ。

せっかちでいつもやや早口の彼は、リナライトの目には少しばかり落ち着きがなく見える。

これで生徒会長が務まるのかと心配だ。あのジェイドが選んだ後継なのだから大丈夫だとは思うが。

 

「一体どうしたんですか?」

「実は壁飾りに使う造花が足りないんだ。まとめて入れておいた箱を間違えて外に置きっぱなしにしてしまったみたいで、雨で濡れて駄目になっちゃったんだよ。他の者は今手一杯だし、申し訳ないけど、君が作ってくれないかな?作り方は分かるよね?」

「はい」

壁飾り用の造花は薄紙を折り畳んで重ねて作るものだ。一度製作を手伝ったから作り方は分かる。

「材料は図書室のカウンター内にあるはずだから、そうだな、30~40個もあればいいかな?3時半位までに作ってくれれば間に合うから、のんびりやってくれていいよ、よろしく!」

「分かりました」

全くのんびりではない口調で喋るトルトベイトに、リナライトは急いでうなずいた。

向こうが早口なものだから、こちらまでつい慌ててしまうのだ。

 

 

図書室に向かって廊下を歩いていると、告白に成功したらしく、隣のクラスの女子生徒といちゃついているクラスメイトを見かけた。

彼はあのご令嬢が好きだったのか、と内心で驚く。

普段はブロンドの巨乳がいいとか言っていたくせに、全く違うではないか。あの女子生徒は黒髪だし胸も普通だ。

これだから恋愛というのは理解できない、とひとりごちる。

 

リナライトの主であるエスメラルド王子も、今頃は何人目かの女子からの告白を受けている頃だろう。

自分も数人から呼び出しを受けたが、王子は自分の比ではない。同級生だけでなく上級生からも呼び出されている。

入学してもう一年近く経つのに、どのご令嬢とも特別親しくしていないのが原因だろう。

未来の王妃を選ぶのだから慎重になるのは当然だが、もうそろそろ目星くらいは付けて欲しい。

そう言うと困った顔をされてしまうので、なかなか強くは言えないのだが。

 

 

 

図書室の扉を開けると、先客が一人いた。今日はきっと誰も利用者はいないだろうと思ったのだが。

その目立つ赤毛を見て、そこに座っているのが誰なのか理解する。

3年生のスピネル・ブーランジェだ。

 

…卒業生だというのに、こんな所で何をしているのだろう。

自ら図書室に来るようなタイプではないし、さては誰かと待ち合わせだろうか。

上級生下級生問わず女子生徒から大変に人気があった彼だが、結局特定の誰かを選んで婚約者を作る事はせず、卒業後は実家であるブーランジェ公爵領の騎士になると聞いている。

ならばと最後のチャンスに賭ける女子生徒はきっといるだろう。

 

 

だがまあ、何にせよ自分には関係のない話だ、とリナライトは思った。

告白の場面に居合わせるのは気まずいが、こちらは生徒会役員として仕事のために図書室に来ているのだから仕方ない。

聞かれたくなければきっと向こうが移動するだろう。

カウンターの中に入り、引き出しや棚を探すと、造花を作るための薄紙の束を見付けた。

恐らく余った物を何かに使おうとこちらへ持ってきていたのだろう。制作に使う糸束も一緒に置いてある。

ペン立てにあったハサミも持ち、手近な机へと移動しようとすると、いきなり目の前を何かが横切った。

 

「!?」

「あ、悪い」

ぎょっとして動きを止めたリナライトに、大して悪いとは思っていなさそうな軽い謝罪の言葉がかけられる。

スピネルだ。

何かが飛んでいった方向を見ると、壁際に水色の紙を折って作られた鳥が落ちていた。

尖った三角形をしたそれは、子供がよく古紙などを折って作り、飛ばして遊ぶものだ。あまり鳥には見えない形なのだが、昔から紙の鳥と呼ばれ親しまれている。

たった今目の前を横切ったのはこれだったらしい。

スピネルは「あんま飛ばねーなあ」とか言いながら立ち上がり、それを拾い上げている。

 

 

一体何をやっているのかと思いつつ、造花作りを始める。

薄紙を折り畳む作業に勤しんでいると、パサッと何かが落ちる音がした。音の方向を見ると、今度はオレンジ色の鳥が落ちている。

「……」

ややあって、さらにピンク色の鳥が飛んだ。着地してから少しだけ床を滑って止まる。

 

「…あの、何してるんですか?」

堪えきれなくなって尋ねた。

相手は上級生だし、他に利用者はいないので注意するつもりもなかったが、あまりにも気になったからだ。

尋ねられたスピネルは肩をすくめて答えた。

「暇つぶし」

 

 

どうやら彼は、誰かと待ち合わせをしていた訳ではないようだ。

だがそれはそれで疑問が募る。

「何故こんな所で暇をつぶす必要があるんですか?卒業生なんですから、親しい方と一緒に過ごしたり、パーティーのための準備をしたり、やる事はいくらでもあるでしょう」

スピネル・ブーランジェという男は男女問わず友人が多い。教師からも信頼されているようだ。

軽薄な印象だが、遊び回っているという割に悪い評判を聞かないのも、きちんと後腐れのない相手を選んで付き合っているからだろう。

個人的にはあまり好きになれないタイプだが、頭も要領も良い人間なのだと思う。

そんな人気者と言っていい彼が、なぜ卒業式当日に一人、図書室で暇つぶしなどしているのか。

 

「パーティーなあ。どうも面倒くさくてな…出たくないんだよな。こっそり逃げ出したかったんだが、今日はあちこち人が多くてな…」

本気で面倒くさそうなその様子を見て、そう言えばとリナライトは思い当たる。

廊下で見かけた、誰かを探している女子生徒たち。そのうちの一人は、確か…。

「もしかして、ポトリオ伯爵家のご令嬢の件ですか」

「まあ、それもあるな」

尋ねると、スピネルは意外にあっさりと認めた。この件は学院内では有名な話だからか。

 

ポトリオ伯爵家のご令嬢はスピネルのクラスメイトで、1年の時から彼にずいぶんと熱を上げていた。

だが彼は彼女に対し愛想は良かったものの、個人的に付き合ったりデートに誘うような事はしなかったらしい。

彼はあまりに本気度の高い相手と付き合うのは避けていた節がある。単に好みではなかっただけの可能性もあるが。

そこでポトリオ伯爵家のご令嬢が持ち出したのが、彼を婿養子にし伯爵家の跡継ぎとするという話だった。

彼女の家は、女子ばかりが生まれ男子がいなかったのである。

スピネルは良家の出身だが、四男だ。伯爵になれるチャンスなどそうあるものではない。

しかし彼は、誰もが飛びつくだろうその話を断った。

 

 

…ダンスパーティーで彼女と顔を合わせるのは確かに気まずいだろう。他に相手がいるのならともかく、特にいないのに断ったのだから。

それどころか、彼女はまだ諦めていない可能性もある。さっきだってスピネルを探していたようだし。

彼はその他にも、いくつかの縁談やら士官話を断ったらしいと聞いている。

「どうせ、仲良い奴にはもう挨拶してあるしな。別に出なくてもいいんだよ」

「すぐに王都を離れる予定なんですか?」

「ああ。ここはもう飽きた」

「…そうですか」

「何だ、不満そうだな?」

尋ねられ、リナライトは少しばかりムスッとした顔になった。

「殿下は貴方がブーランジェの騎士になる事を惜しんでおられました。近衛騎士団にも入れただろうに、勿体ないと」

 

「へえ。そりゃ光栄だな」

軽い調子で答える、それがやはり面白くない。

公爵家の出身で卓越した剣の腕を持ち、学業の成績も良い。

婿養子が嫌でも、望めばどこの家にでも士官できるし、十分な地位と俸禄を得られるだろう。王子が言った通り、彼の兄のように近衛騎士団に入ることだって難しくなかったはずだ。

一体なぜ実家の騎士になる事を選ぶのか、疑問に思っているのは自分だけではあるまい。

 

 

そんな話をしている間にも、スピネルはまた新たな紙の鳥を作って飛ばしていた。

だが真っ直ぐには飛ばず、すぐに斜めに傾き床に落ちている。

「なんっか飛ばねえんだよなあ…」

首を捻っている彼に我慢ができなくなり、席を立ってつかつかと歩み寄る。

「折り方が悪いんですよ。あれでは翼が上手く風を受けません」

スピネルの手元にあるのは、元々は細かく切って紙吹雪を作るために用意された色紙(いろがみ)のようだった。

色とりどりの紙のうちの一枚を取り、彼の目の前で折って見せる。

 

「ここを折り返して…こうです」

すぐに、スピネルが作っていたものよりもシャープなシルエットをした紙の鳥が出来上がった。

「見ていて下さい」

軽く投げると、その鳥はふわりとした軌道を描いて飛んだ。

スピネルが飛ばした鳥が落ちている床の、その先の壁に当たってぱたっと落ちる。

「おー!すげえ飛んだな!」

「子供の頃に覚えたものですけどね」

確か、王子の護衛をしていた騎士の一人が教えてくれたものだ。

まだ幼い王子と二人、裏庭で飛ばして遊んだ思い出が蘇る。

 

「もっかい!もう一回折ってみせてくれ」

せがまれ、もう一枚色紙を手に取る。

「ええと、まず…」



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挿話・19 卒業式と紙の鳥(後)【前世】

「すごいな。折り方でこんなに変わるのか」

リナライトに教えられた通りに紙の鳥を折り、それがしっかり飛ぶ事を確認したスピネルは、感心しきりという様子でうなずいた。

「ええ。不思議なんですが、ちょっとした形の違いで飛ぶ距離にすごく差が出るんです」

「ふうん」

 

これで彼も満足しただろう。

そう思ってまた造花作りに戻ろうとすると、「なあ」と呼び止められた。

「勝負しようぜ。どっちが遠くに飛ばせるか」

赤毛を揺らして言う彼は妙に楽しそうだ。

…本当に暇らしい。

 

「飛ばしてもどうせ壁にぶつかるじゃないですか。勝負になりませんよ」

「外に向かって飛ばすんだよ。どうせ今日はそこら中に紙吹雪だの花だの落ちてる。後で掃除が入るからいいだろ」

確かに、窓からちらりと見える校庭は、遠目にも散らかっている様子だ。

だがやはり気が引けるし、何より自分は造花作りの作業中なのである。あまり油を売ってばかりいると間に合わない。

どう断ろうかと眉を寄せるリナライトに、スピネルは作りかけの造花を指し示して言った。

「俺に勝てば、お前のそれ手伝ってやるぞ」

 

 

正直に言えば、一人で全ての造花を作るのはかなり面倒だとリナライトも思っていた。

手伝ってもらえるならば有り難い。

「分かりました。やりましょう」

「そう来なくっちゃな」

うきうきと色紙(いろがみ)を机に広げる彼を見て、意外に子供っぽいんだなと少し呆れる。

まさかこの歳になって紙の鳥で勝負などする事になるとは。

「お前はこれな。俺こっち」

スピネルが渡してきたのは艶々と光を反射する銀色の紙だ。彼自身は赤い紙を使うつもりらしい。

 

「この銀色の紙は普通の色紙よりも少し厚いので、こちらが有利になりますよ」

厚みがある紙の方がしっかりしているので、遠くまで飛びやすいのだ。

「そうなのか?」

スピネルは目を丸くして赤い紙をつまみ上げる。どうやら違いに気付いていなかったようだ。

「言わなきゃ分かんねえのに。真面目だなお前」

「ズルをして勝っても面白くありません」

そう言うと、彼は声を上げて笑った。

「なるほどな。じゃ、俺はこれを使うとするか」

今度は金色の紙をつまみ上げた。これならば特に差はないだろう。

 

 

 

「それじゃ、せーので投げるぞ」

「はい」

開け放った窓の前に立ち、それぞれ紙の鳥を持って構える。

「せーの!」

二羽の鳥が揃って飛び立った。

金と銀の翼が日差しを受けて輝き、白い軌跡を描く。

 

 

「なんだか流れ星みたいですね。昼間ですけど」

何とはなしにそう呟くと、隣のスピネルが面白そうな表情になった。

「そりゃいいな。願い事でもしてみたらどうだ」

「…よく知ってますね、そんな事」

流れ星に願いをかければそれが叶うというのは、ずいぶんと古い時代の迷信だ。

自分はたまたま本で読んだ事があったが、今ではすっかり廃れてしまったその迷信を知っている者などほとんどいない。

「こういう話は女に受けるからな。ロマンチックな話だろ?」

「はあ。そうですね」

至極どうでもいいので、リナライトは適当にうなずいた。

 

「で?何を願うんだ」

「私は別に願い事なんてありません」

「何だよ、つまんねーな」

鋼色の瞳に上から見下ろされ、少しムッとする。

間近で見るとやはり背が高い。女子からモテるだけのことはある。

「つまらなくて結構です。私の望みは、殿下が良き王になる事ですから」

「なら、それを願えば良いだろ」

「必要ありません。わざわざ願わなくても、殿下はご自分の力でそうなられますし」

エスメラルド王子はまだ若いが、文武に優れ聡明だ。すでに多くの者から未来の王にふさわしい王子だと認められているし、誰よりリナライト自身がそう信じている。

迷信に頼り、流れ星に祈る必要などない。

 

「はーん。噂通りの忠…、忠義者だな」

感心したような口調だが、今絶対忠犬って言おうとしただろうとリナライトは思った。

横目で睨むと、ふいっと目を逸らされる。

 

「それより、見ろよ。お前の勝ちだ」

話をしている間に、紙の鳥は校庭の隅に着地していた。

かなり遠いので眼鏡越しに目を細めてみてもはっきり見えないが、草むらの中で何かが光っている。

どうやら自分が投げた銀色の鳥の方が少し遠くまで飛んだらしい。

「それじゃあ…」

「おう。約束通り手伝うから、ちゃっちゃと作っちまおうぜ」

 

 

向かいに座ったスピネルは造花作りは初めてのようだったが、すぐに作り方を覚えた。

器用な手付きで、丁寧に花を作り上げていく。わずか数個作っただけで、リナライトよりも上手に作るようになってしまった。

少し悔しい気持ちになりながら、薄紙を折る手は止めずに話しかける。

「本当にパーティーに出ないつもりですか?」

「ああ。人がいなくなったらこっそり学院を出て、屋敷に戻るわ」

今はまだ、だらだらと友人たちと話をしている生徒やお祝いの準備をしている生徒が校内にいる。

主に身支度にそれほど時間のかからない男子生徒たちだが、女子生徒ももちろんいる。

 

「…なんでしたら、私が姿隠しの魔術を使いましょうか」

姿隠しの魔術は、一定時間その姿を見えなくする魔術だ。これを使えば誰にも見咎められずに外に出られるだろう。

学院の周囲には魔導具によって侵入者を検知する結界が張り巡らされているが、逆に敷地内から出て行く者に対しては反応しないので問題はない。

「マジで?使えるのか?」

「当然です」

「そりゃ助かる。お前がいなくなったらどう暇をつぶそうか悩んでた所だ」

「…本を読むという選択肢はないんですか」

彼はここが一応図書室なのだという事を忘れていないだろうか。

「ここの本つまんねーんだよ」

「まあ、そうですけど…」

ここは蔵書数が少ない上に、娯楽系の本はさらに少ない。

彼が読んで面白い本はほとんど無さそうなのも確かだが、それ以上に読書に興味が無いのだろう。

 

 

 

やがて、40個の造花が完成した。予定よりもずっと早く終わって安心する。

「どうもありがとうございました。では、魔術をかけますね」

「ああ。恩に着る」

「構いませんよ。こちらも作業を手伝ってもらいましたし」

「そっちはお前が勝負に勝った報酬だろ。いいから貸しにしとけ。そのうち返す」

「はあ…」

真面目な顔で言ったスピネルに、リナライトは生返事をする。

王都から離れブーランジェ領で騎士をやる彼とは、あまり会う機会がなさそうだと思ったからだ。

 

「全く信用してない顔だな。俺は約束は守るぞ」

スピネルは少し唇を尖らせた。不本意らしい。

「そういう訳ではありませんが、何か頼みたい事ができるとも思えませんし…ああ、そうだ」

「何かあるのか?」

 

「気が向いたらでいいのですが」と前置きし、正面から見つめて言う。

「もし王都に戻りたくなったら、その時は王宮に来て殿下にお仕えして下さい」

「また殿下か。つーか、気が向いたらでいいのか?」

「その気がない方に来ていただいても困りますから」

「なるほどな…」

彼は呆れたような納得したような顔をし、それから苦笑交じりに答えた。

「分かったよ。…気が向いたらな」

 

 

「じゃあ、今度こそ魔術をかけます。術が成功したら、学院を出るまで喋らないようにして下さい。声を出すと魔術が解けてしまいますので」

うなずいた彼の肩に触れ、姿隠しの魔術をかける。

『静かなる者、目を晦ましその姿を隠せ』

あっという間に、目立つ赤毛がその場からかき消えた。もはや影すら見えない。

これで忍び足を使えば、よほど気配に敏い者でなければ気付かれないだろう。

 

「これでもう見えません。では、お気を付けて…わっ」

見えない手に頭をわしわしと撫でられ、リナライトは思わず声を上げる。

髪が乱れてしまい、「子供じゃないんですから…」と呟く。

だがその手は大きくて温かく、不思議と嫌な気はしなかった。

 

 

何かが動く気配と共に、静かに図書室の扉が開く。

そちらへ向かって、リナライトはそっと声をかけた。

「…卒業、おめでとうございます」

彼の姿は見えなかったが、軽く手を上げてこちらに応えたような気がした。




紙飛行機を使った話のつもりだったんですが、この世界に飛行機はないな…と気が付いて「紙の鳥」になりました。


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第107話 庭園での出会い

8月になり、夏休みに入った。

この長期休みは学院の生徒にとっては社交シーズンだ。

パーティーで夜遅くなっても寮ではなく屋敷に戻るので門限を気にする必要はないし、他の者と一緒に泊りがけで行楽に行ったりもできる。

恋人や婚約者、友人たち、あるいは親戚だとか、同じ派閥であるとか。

様々な貴族たちと仲を深めるチャンスなのだ。

 

 

かくいう私も、ずいぶんとあちこちの家からパーティーやお茶会のお誘いが来ている。

その数は昨年までの比ではなく、ちょっと驚いている。

どうも今の私は、貴族の間でとにかく話題の人物らしい。

殿下の友人であるだけでなく、討伐訓練ではパイロープ家、水霊祭ではブロシャン家と縁ができたし、武芸大会ではスフェン先輩と共に優勝して目立ってしまった…という辺りが主な原因だろうか。

1年生にして王宮魔術師に弟子入りしたというのもあるかも知れない。

そのように話題の人物がいれば、とりあえず縁を繋いでおこうと考えるのは貴族ならば当然の話だ。

それは理解できる。できるのだが。

 

…はっきり言って、かなり辛い。

前世でもこの時期はそこら中の家から呼ばれてとても忙しかったのだが、それはあくまで殿下の従者としてだった。

私自身がここまで注目されるのなど初めてで、物凄く疲れる。肉体的にもだが、それ以上に精神的に疲れる。

努力してなんとか周りに合わせてはいるが、私は元々社交的な性格ではないのだ。

 

しかし、どれほど苦手だろうと社交を疎かにする訳にはいかない。

殿下の命を守るためには、敵の情報を集めなければならないからだ。

前世で殿下が殺されたのはこれから4年後だったが、殿下を取り巻く状況は前世とは変化してきているし、敵は既に動き始めている。

だが動きがあるという事は、人目に付きやすくなっているという事でもあるのだ。

きっとどこかに手がかりがあるはずだ。絶対にそれを見付け出さなければ。

 

 

 

そんな訳で、この夏は頑張って様々なパーティーやお茶会に出る予定を詰め込んでいるのだが、今日はエピドート家の嫡男トムソンの誕生日パーティーに来ている。

ここは屋敷内に小さいが美しい庭園を持っている事で知られている家だ。今日も、この庭園の側でのガーデンパーティーだ。

昼間なので明るい水色のアフタヌーンドレスを着ているが、日差しが強くて少し暑い。

 

「トムソン様、お誕生日おめでとうございます。本日はお招きいただきありがとうございます」

「ありがとう!君に祝ってもらえるとは、今日はとても良い日だ」

ドレスの裾をつまんで挨拶をすると、トムソンは爽やかに笑った。

彼は私より1歳上の学年だし大した接点はないのだが、この庭園に私が行きたがっているとスフェン先輩の伝手を使って伝えてもらった所、すぐに招待状が届いた。

明るく豪快な性格の男で、前世では殿下と結構仲が良かった。私としても好感の持てる人物だ。

 

「武芸大会での君の活躍を見ていたよ。とても凄かった。特に決勝戦は素晴らしい試合だった」

「ありがとうございます」

真っ直ぐな目で褒められ、少し照れる。

「トムソン様の試合もお見事でしたよ。3回戦では本当に惜しかったです」

「いや、俺などまだまだだ。あの大会でよく分かったよ。できればもう1戦勝ち上がって、王子殿下と戦ってみたかったんだが…」

残念そうに言うトムソン。彼は3回戦敗退だったが、もし勝っていたら殿下と戦う事になっていた。

その口ぶりからすると、試合をきっかけに殿下に近付きたいとかではなく、純粋に腕比べをしたかったようだ。

彼が殿下と戦ってもきっと殿下の勝利に終わるだろうが、そのように向上心があるのはとても良い事だと思う。

 

 

そして、噂をすれば殿下の姿が見えた。スピネルもいる。

殿下もまた今日のパーティーに招かれているのだ。前世でもそうだったしな。

トムソンの姿を見付け、こちらに歩み寄ってくる。

「トムソン。誕生日おめでとう」

「ありがとうございます、王子殿下」

祝いの言葉をかけた殿下に、トムソンは生真面目な仕草で礼をした。私もまた、ドレスを持ち上げ礼をする。

「ごきげんよう、殿下、スピネル…様」

上級生の前なので、一応スピネルにも敬称を付ける。

でも言い慣れないせいで変な間が空いてしまい、スピネルが一瞬だけバカにしたような表情になった。くそう。

 

「リナーリア、君も来ていたのか」

「はい。エピドート家の庭園はとても素晴らしいと以前から聞いておりまして…。トムソン様は私が庭園を見たがっている事を小耳に挟まれたらしく、本日お招き下さったんです」

「そのように言ってもらえて、我が家の庭師もきっと鼻が高いだろうな。パーティーの間ずっと開放しているから、好きなだけ見て回ってくれ」

快く許可を出してもらえ、私は「ありがとうございます」とにっこり笑った。

ここの庭園は前世でも見たのだが、自然に近い形で植えられた草木が多くて結構好きなのだ。

 

「では、早速回らせていただきます。…あっ、その前に、殿下」

その場から下がろうとし、ふと思いついて殿下へと向き直る。

「なんだ?」

「トムソン様は先程、殿下と剣の手合わせをしてみたいと仰っていました。きっと良い試合ができると思うのですが、いかがでしょうか」

「!」

トムソンがちょっと驚いた顔をし、殿下が「そうなのか」とトムソンを見る。

「試合ならばいつでも歓迎だ。学院ででも声をかけて欲しい」

「本当ですか!」

喜色を浮かべるトムソンに、殿下は真面目な顔でうなずいた。

やはり殿下も、様々な相手と手合わせできるのは嬉しいようだ。武芸大会以外では、学年が違う相手と試合をする機会がなかなか無いからな。

でも学院でトムソンと殿下が試合をしていれば、他の上級生も殿下に試合を申し込みやすくなるんじゃないだろうか。

「ありがとうございます。新学期になったら必ず手合わせいたしましょう。リナーリア殿も、ありがとう」

トムソンは嬉しそうに私にも礼を言った。

「いいえ、私は何も。もしよろしければ、私にも試合を観戦させて下さいね」

「もちろんだとも!」

 

今度こそ庭園に向かう私の後ろで、殿下たちとトムソンは剣術談義を始めたようだ。

ちらりと振り返ると、同じくパーティーに招かれていた幾人かのご令息たちがそこに加わっていくのが見えた。

トムソン、本当に嬉しそうだな。私まで少し嬉しくなる。

良いことをすると気分が良い。

 

 

 

…ところが。

のんびり庭園を見て回ろうとした私は、その前におしゃべり好きのご令嬢たちに捕まってしまった。

「…まあ、それじゃあリナーリア様はまだハーキマーのカヌレを食べたことがないのね。とっても美味しいんですのよ」

「ええ。噂は聞いていますが、朝早くから並ばなければ買えないとの事ですし、なかなか…」

「そうなんですのよ。私も使用人を朝から買いに行かせたんですけれど、1時間待っても買えなくて」

数人のご令嬢がそれにうなずき、「私もですわ」とか「うちの者は2時間半待って何とか買えました」とか言う。

 

…うーん、困ったな。

少しだけ付き合うつもりが、おしゃべりが始まってからもう結構時間が経っている。

できるだけ色々な人と仲良くしておきたいし、情報収集もしたいのだが、実は今日は別の目的もあってここに来ているのだ。

その為にそろそろ庭園の中に入りたいのに、上手く会話を切り上げるタイミングが掴めない。

さっきまではドレスの話で盛り上がっていたのだが、今度はいつの間にかお菓子の話になっているし、ご令嬢たちの話題が尽きる様子はない。よくこれだけ喋れるものだと感心してしまう。

こうして聞いた話は別のパーティーやお茶会で話題として使えるので、無駄にはならないのだが…。

一体どうしようかと思っていると、私の向かいに座っていたご令嬢が突然「あっ」と声を上げた。

 

「やあ、お嬢さん方」

その声に振り向くと、スピネルがにこやかな笑みを浮かべて立っていた。

「今、カヌレの話をしていたようだが…」

「あ、はい!」

「スピネル様もご存知ですか?ハーキマーというお店のカヌレがとても美味しいのですわ」

途端に色めき立ったご令嬢たちが答える。

「それは俺も聞いた事があるな。だけど、この家のシェフが作るカップケーキもとても美味しいんだ。たった今あちらに焼き立てが出てきた所だから、良かったら一緒にどうかな?」

「…まあ!それは、ぜひ!」

 

すぐに移動しようとするご令嬢たちに、私は微笑みかける。

「申し訳ありません、私は先程いただいたクッキーでお腹がいっぱいで…。少し歩いて来ますので、皆様はどうぞごゆっくり召し上がって下さい」

「まあ、そうなんですのね。では、また後ほど…」

「はい。また後ほど」

 

 

スピネルに連れられ別のテーブルへと歩いて行くご令嬢たちの後ろ姿を見送りながら、やっと解放されたと内心でホッとする。

助かった…と言うか、助けられたんだろうな、これは。

きっと私が困っているのが分かったんだろう。本当に周りをよく見ている奴だ。

 

後でスピネルにはお礼を言おうと思いつつ、急いで庭園の中に入る。

夏の花がたくさん植えられた小道が少しだけ懐かしい。

前世の私もまた今日この日、殿下の従者としてこのパーティーに来ていた。

そして、とある人の危機を救う事になったのだが…もし前世と同じなら、そろそろ危ない。

 

 

ここの庭園は背の高い植物が多く植えられているし、生け垣もあるので見通しが悪い。

その分、角を曲がったりアーチを抜けた際、また新たな景色が見られるのが楽しい場所となっている。

途中いくつか分かれ道もあるので、ちょっとした迷路みたいなものだ。足元に小さな案内板が立てられているし、単純な道なので、本当に迷ったりはしないが。

少し早足で歩きながら庭園の奥へ向かっていると、か細い悲鳴が聴こえた。

…大変だ。

ドレスの裾を持ち上げ、急いで悲鳴の方向へ走る。

 

「きゃあっ…」

庭の隅で長い黒髪のご令嬢が一人、しゃがみ込んで頭を抱えているのが見えた。

その周辺を飛び交っているのは、数匹の蜂だ。

「そのまま顔を伏せていて下さい!」

鋭く叫んで彼女に駆け寄ると、魔術で小さな火をいくつも呼び出した。

蜂などの虫は火を嫌うのだ。周りの草木に燃え移らないよう注意しながら、手を振って蜂を追いかけるように火を飛ばす。

ぶんぶんという羽音に少しばかり恐怖を覚えるが、負けじと火を操っていると、そのうちに蜂はどこかへ飛んでいった。

 

 

「…もう大丈夫です。蜂はいなくなりました」

近くにもう蜂がいない事を確認し、できるだけ優しく声をかけると、しゃがみ込んでいたご令嬢がようやく顔を上げた。

涙で潤んだ、くりくりと大きな黒曜石の瞳が私を見上げる。

何だか苦笑したい気分だ。まさかと言うか、やはりと言うか。

こんな小さな事件でも、前世と同じに起こってしまうものらしい。

 

「怪我はないですか?どこか刺されてはいませんか」

返事がないので改めて声をかけると、彼女ははっとした顔で慌てて立ち上がり、ごしごしと両目をこすった。

「…な、何ともありませんの」

「それは良かったです」

ツンとした顔でそっぽを向く彼女に少し安心する。なんとか刺される前に蜂を追い払えたようだ。

蜂は黒っぽいものに攻撃をする習性がある。

この庭園の花の香りに誘われてやって来た所に、長い黒髪と濃紺のドレスを着た彼女を見付け、その習性で攻撃しようとしてしまったのだろう。

季節は夏、しかも昼間のパーティーだと言うのに、黒に近い暗い色のドレスを着ている彼女を見て相変わらずだなと思う。

 

…彼女の名前はミメット・コーリンガ。

コーリンガ公爵家の末娘で、前世の私の婚約者だった女性だ。




ちなみに、この国では家族以外が誕生日プレゼントを贈る風習はありません。


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第108話 黒い令嬢※

ミメットは私よりも一つ年下で、今は学院入学を間近に控えた15歳だ。

黒髪黒瞳で小柄、年齢よりも少しばかり幼く見えるが、大きな目が印象的なとても可愛らしい容姿をしている。

彼女はつい先年に公爵位を継いだばかりのコーリンガ公爵カロールの妹なのだが、カロールとは17も年が離れている。

これは、第一王子であるエスメラルド殿下の誕生と大いに関係がある。

 

貴族というのは、国王またはその後継者の王子が結婚してから、その息子が生まれる1~2年後までの間にかけて、よく子供を作る。

それはもちろん、未来の国王になるであろう王子と、自分の子供とを近付けるためだ。

男児が生まれれば友人や従者に、女児が生まれれば王妃や側室になる事を目指し育て上げる。

彼女もそんな貴族特有のベビーラッシュの中に生まれた子供なのだが、兄とは母親が違う。

当時、彼女の親である先代コーリンガ公爵夫妻は40歳近かった。しかも夫人は数年前から病を患っていた。

そのため、若い第二夫人を新たに娶って子を作る事にしたのだ。

王子の誕生に合わせるためとは言え、夫人を増やしてまで子供を作ろうとする貴族はそんなにいないのだが、先代コーリンガ公爵にはそうしたいだけの理由があった。

 

 

コーリンガ公爵家は、この島内がまだ二国に分かれていた頃にあったスギュラという国の王家の流れを汲む古い家だ。

元は王家だという矜持があるからか、気位が高い。

だが併合されヘリオドール王国の公爵となったコーリンガ家は、名家ではあってもそれほど強い権力を持っていなかった。

それには様々な要因があるが、スギュラ国があった辺りは300年前の魔獣災害の際に特に大きな被害を受けており、スギュラ系の生き残りは少ないというのが最も大きいだろうか。

 

そしてミメットの父である先代コーリンガ公爵の代で、このヘリオドール王国に王位争いが起こった。

殿下の父である第二王子カルセドニーと、その兄の第一王子フェルグソンとの争いである。

本来なら兄のフェルグソンの方が王になるはずだったのだが、フェルグソンは騎士至上主義者で乱暴な性格であり、素行が良くなかった。

そのため、カルセドニー王子の方を次王にと推す声が貴族内から上がったのだ。

 

フェルグソンは色々と問題はあるが第一王子である。

短慮な性格は人によっては勇猛とも見えたし、当時は今よりも魔獣被害が少なく騎士の出番が少なかったため、平和に飽きていた過激派の騎士系貴族からは根強い支持があった。

対して第二王子カルセドニーは温厚で堅実、穏健派の騎士系貴族やブロシャン家を始めとする魔術師系貴族からの人望が厚い。

ただ、身体が弱いという大きな弱点があった。

 

先代コーリンガ公爵は、この王位争いにおいてフェルグソン側を支持する事にした。

王位争いの初期では、順当に第一王子が王位を継ぐという見方が優勢だったのだ。

公爵は非常に熱心にフェルグソンに取り入り、周囲にも支持するよう働きかけた。

フェルグソン派の主要な家が少しずつ弱腰になっていったのもあり、いつの間にかコーリンガ家はフェルグソン派において、筆頭に近い存在になっていた。

そこに、この機会に恩を売っておけばフェルグソン王の代で権勢を振るえるという公爵の目論見があったのは間違いない。

 

しかし結局、フェルグソンは敗北した。失脚して王位継承権をも失う事となった。

それは概ね自業自得であると私は思っているが、フェルグソン自身はそうは思わなかったらしい。

敗北の責任を先代コーリンガ公爵に擦り付け、ずいぶんと罵ったという。

それに腹を立てた公爵は、フェルグソンと仲違いをした。

 

 

だがフェルグソン派を離れたからと言って、カルセドニー派に入れる訳ではない。

カルセドニー陛下は寛大で、昔のことを気にして冷遇したりする方ではないが、陛下の支持者全てが陛下と同じ考えを持つ訳ではないのだ。

カルセドニー派にはフェルグソン派に恨みを持つ者も多く、そういう者たちは陛下の即位後も、元フェルグソン派のコーリンガ家に冷たかった。

 

結果としてコーリンガ家はどちらの派閥からも避けられるようになり、貴族界での影響力を大きく削ぐ事になった。

このままではまずい。何とかカルセドニー派に近付きたいと、先代コーリンガ公爵が考えたのは当然だろう。

そんな時に届いたのが、カルセドニー陛下の妃であるサフィア様のご懐妊の報せだった。

次王の子供に近付き親しくなれば、コーリンガ家も子や孫の代で少しは権力を取り戻せるだろう。

先代コーリンガ公爵は一縷の望みをかけ自分も子供を作ろうとし、若く美しい第二夫人を娶る事とした。

そうして生まれたのがミメットなのだ。

 

 

 

…私は、なんとか立ち上がったもののそっぽを向いたまま黙り込んでいるミメットを見た。

彼女は蜂から逃れ安心しているようだが、いつまでもここにいるのは良くない。

「あの、ここにいるとまた蜂が寄ってくるかも知れません。あちらへ行きませんか?」

そう言って出口の方を指し示すと、彼女はうつむいてポツリと呟いた。

「…どうして私にばかり、蜂が寄ってくるの」

「えーと…」

思わず言い淀む。

それは彼女の髪や服の色のせいだと思うのだが、彼女が自分の髪色をコンプレックスに思っている事を今の私は知っている。うかつに触れにくい。

でもちゃんと原因を教えておけば、また危ない目に合うのを防げるかもしれないし…。

 

「その、蜂というのは黒っぽい色に対して、敵意を抱くものらしいんです。蜂特有の習性というやつですね。蜂の天敵である熊が黒っぽい色をしているからだと言われています。このように花が多い場所には蜂は蜜を集めにやって来ますので、そういう蜂たちがミメット様を見付け…、たまたま…その…」

だんだん彼女の顔が険しくなるのが分かり、私は途中で言葉を切ってしまった。

「…そうなの。私の髪の色、蜂にも嫌われているのね」

「それは…そうかも知れませんが…えっと、私は綺麗な色だと思いますよ!とても!」

「そんな見え透いた慰めいらないの」

慌てて言い繕ったが、にべもなく言い捨てられ、睨まれてしまった。

 

…あ、あれえー…?

おかしい…前世とだいたい似たような行動、似たような会話をしているはずなのに、何故か彼女の態度の冷たさが悪化している。前世ではこんなに睨まれなかったはずだ。

一体どこで間違ったんだろう。

 

 

やがてミメットは私から目を逸らすと、黙って出口の方へ歩き出した。

とりあえずほっとしつつ、その後を追う。

すると、彼女が突然立ち止まった。

私もまた、その数歩後ろで立ち止まる。

 

少しだけ歩いては立ち止まる、そんなことが何度か繰り返された。

「…?」

どうしたんだろう。私に背を向け立ったままのミメットに、少しだけ首を傾げる。

何か気になる花や草木でもあるんだろうか。その割に、あまり周りを見ている様子はないが。

 

「…貴女、どうして付いて来るの」

「えっ。あっ…」

しまった。怪しまれていた。ちょっとだけ焦る。

「で、出口がそちらなので」

目的地が同じだから同じ方向に行っているだけなのだと言い訳をする。

ミメットは横目で私を睨むと、道の端へと寄った。

「だったら先に行って。付いて来ないで」

「……」

 

 

 

どうしよう。困った。

彼女が心配だし、気になる。

蜂から助けるという当初の目的は一応達成できているのだが、私はできれば彼女と仲良くなりたい。

今までも数回顔を合わせる機会はあったのだが、彼女は唯一の友人であるレヴィナ嬢以外とはほとんど話をしようとせず、近付く事ができなかった。

だから、今日のこのパーティーで起きるかもしれない彼女の危機に賭けてみたのだ。

前世の彼女はなぜかこの日、レヴィナ嬢を連れず一人でパーティーに来ていて、そして蜂に襲われていた。

そこを私が助けた事がきっかけで、少しずつ話をするようになった。

 

今世でもこれをきっかけにできればと思ったのだが、そう上手くは行かないらしい。

前世の彼女も非常に気難しく、その行動は私にはさっぱり理解できなかった。

しかも会うたびに辛辣な事ばかり言われていた気がするが、他の者とはそもそも会話をしようとしなかったし、何より私との婚約を了承したくらいだ。

多分少しは好かれていたんだと思う。…あまり自信はないが。

 

…同性になった今世なら、もっと仲良くなりやすいかと思ったのに。

むしろ逆だった。

相変わらず、彼女の気持ちを理解するのは難しい。

 

 

 

彼女の内向的で少々ひねくれた性格は、やはりその生い立ちに主な原因があるらしい。

先代コーリンガ公爵の正妻である第一夫人は、第二夫人やその娘であるミメットに対し昔からずっと、虐めとまではいかないもののかなり冷たい態度であるという。

そして父の先代コーリンガ公爵は、ミメットを殿下に近付け未来の王妃とするべく、とても厳しく彼女を教育しようとした。あまりに彼女が言う事を聞かないため、半ば諦めかけていたようだが。

兄カロールは年の離れた妹に同情を抱いていたのだが、母の目もあり、あまり親しくしては来られなかった。

 

黒髪黒瞳という容姿へのコンプレックスも、第一夫人からいつも「暗い色」と揶揄されてきたのが原因らしい。

父と母からそれぞれ目と髪の色を受け継いだ結果でしかないし、その混じりけのない黒は本当に綺麗だと私は思うのだが。

 

 

…私はこれらの話を、カロールから聞いた。

既に父の後を継ぎコーリンガ公爵となっていたカロールが、「どうか妹をよろしく頼む」とはるか年下の私に頭を下げた姿を、今でもよく覚えている。

私はそれに応えたいと思ったし、応えるつもりでいたが、結局それは叶わなかった。

それが今でも、棘のように私の心に刺さったままでいる。

 

前世の私は彼女の事を、多分妹のように思っていた。

恐らく恋愛感情ではなかったが、親しみは持っていたし、気難しく繊細な彼女を支え守っていけたらとそんな風に考えていた。

だがそれをどこまで行動に移せていたかと言うと、我ながら情けない事に、ほとんどできていなかったと思う。

婚約した後も忙しさにかまけ、時折会ってお茶をするのがせいぜいで、彼女とちゃんと向き合えてはいなかった。

いずれ結婚したら、きっと二人で過ごす時間も取れると当時の私は考えていたのだが…。

 

 

 

今世でなぜか女として生まれてしまった私は、もう彼女と結婚する事はできない。

それでも今度こそ、真摯に彼女と向き合っていきたい。

私は決意を固めた。

遠慮をしていてはきっと、彼女の心には届かない。こうなったら当たって砕けろだ。

 

「…わ、私は、ミメット様とお友達になりたいんです!」

 

大声で言うと、ミメットはぽかんと口を開けて私の顔を見た。

「な、何言ってるの?」

「私は本気です。前からミメット様と仲良くなりたかったんです」

「な…」

ミメットの頬がほんのりと赤く染まり、戸惑うように視線を彷徨わせる。

「何で、私なんかと」

 

その疑問は当然だと思うので、答えは既に考えてある。

私と彼女の唯一と言っていい共通点は、本好きであることだ。

彼女が好きなのは主に恋愛小説で当時の私には縁遠いジャンルだったのだが、試しに読んでみたところ意外に面白いものもあり、それなりに詳しくなった。

 

「ミメット様は『暁の少女と6人の騎士』の物語、お好きですよね?以前、レヴィナ様とお話しになっているのを聞いてしまいました。私もあれ、好きなんです」

私は彼女が特に熱心に読んでいたシリーズ小説を挙げた。

主人公の少女とその出生の秘密を巡り、6人の騎士が時に手を取り合い、時に競い合いながら戦う物語だ。

女性向けの小説にしては戦いの場面が多く、なかなか読み応えがある。

「もし良かったら、少しでもお話しいたしませんか?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

「…推しは」

「はい?」

「推しは誰なの?」

その問いの意味が分からず、私は首を傾げた。オシ?

ミメットが重ねて言う。

「好きな騎士は誰なのか聞いてるの」

 

あっ、そういう意味か。

えっと、確かミメットは白銀の騎士が一番好きなんだよな。

でもここは正直に答えた方がいいよな、多分。

「私は黒の騎士が好きです。寡黙ですが男らしいところが良いと思います」

「そうね、悪くないの。男らしいけどたまに子供っぽかったり犬好きなところが可愛いの」

おお、やはりこの話は食いつきがいい。ミメットは黒の騎士も好きだったしな。

 

会話が盛り上がりそうな気配を感じ、嬉しくなった私は話を続ける。

「主人公にはやはり赤の騎士や白銀の騎士がお似合いかと思うんですけど、黒の騎士も良いかと思うんですよね。力強く守ってくれそうな感じが…」

「…はあ?」

ところが、ミメットは突然表情を変えた。

冷え冷えとした、まるで敵を見るかのような目で私を見る。

「何を言ってるの。主人公には青の騎士がお似合い。赤はまだありだけど、白銀や黒は絶対にないの」

…あれ?なんか怒ってる?

戸惑う私に、ミメットはさらに言う。

「白銀の騎士には黒の騎士が一番お似合いなの」

 

「…???」

私は頭の中を疑問符で一杯にした。

今なんてった?

「えっと、その二人はどちらも男性では?」

「それが何なの」

 

「……」

衝撃のあまり言葉を失った私に、ミメットは冷たく言い捨てた。

 

「貴女とは分かり合えそうにないの」

 

 

 

ミメットは踵を返すと、一人出口へと向かっていった。

その後ろを追いかける事は、私にはできなかった。思わず力が抜け、その場に膝から崩れ落ちる。

 

「そんな…そんなバカな…」

…前世のミメットはそんな事は一言も言わなかった。

確かに主人公の少女の恋路についてはあまり触れず、いつも白銀の騎士や黒の騎士の活躍についてばかり語っていたが。

まさか二人をそんな目で見ていたなんて…。

 

「さっぱり分からない…」

…やはり私は、彼女の事をちっとも理解していなかったのだ。



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第109話 浴場

「では、いきますよ~」

ペタラ様ののんびりした掛け声を聞きながら、私はきりっと前を見つめ腰を落とした。

ぱこーん…という軽い音と共に、白い羽根で作られたシャトルが弧を描いて飛んでくる。

数歩動いて位置を調整すると、しっかりと狙いすましてラケットを振った。

確かな手応えを残し、シャトルが高く飛ぶ。

「あっ…!」

シャトルはペタラ様のラケットの先、コートの隅へと落ちた。

審判のスフェン先輩が手を上げる。

「18-21!リナーリア君の勝利だ!」

 

「やりましたー!」

私は嬉しくなって思わずその場でばんざいをした。

ペタラ様が「あう…」と肩を落とす。

試合を見ていたカーネリア様や他のご令嬢たちからぱちぱちと拍手が送られ、私は軽く礼をした。

それからコートの中央へ行き、ネット越しにペタラ様と握手をする。

「ありがとうございました」

「はい。とても楽しかったです」

なかなか白熱した試合だった。

 

 

今日はカーネリア様の主催で、女性だけのスポーツ交流会だ。

種目はバドミントンで、仲の良いご令嬢たちを招き、王都のはずれの方にあるコートつきの施設を貸し切りにして朝から試合をしている。

学院の在校生を中心に15人程が集まった。

私も誘われて来てはみたものの、バドミントンに関してはほぼ初心者なので不安だったが、他にもそういうご令嬢は多かった。

本格的な試合ではなくただのレクリエーションなので、皆和気あいあいとして気楽なものだ。

私はランニングの時などにいつも着ている上下揃いの運動着姿だが、何やらスタイリッシュなすらりとした服に身を包んでいるご令嬢もいる。

動きやすそうな細身のズボンの上に短い巻きスカートを着けていて、私の目から見てもおしゃれだ。

そういう人はバドミントンをやり慣れているのか、結構上手い人が多い。

 

 

 

それからも青空の下で試合は続けられたが、優勝はカーネリア様だった。

決勝ではスフェン先輩と激戦を繰り広げたのだが、バドミントンにおいては一日の長があるらしいカーネリア様に軍配が上がり、スフェン先輩は悔しがりながらも爽やかに笑ってカーネリア様と握手をしていた。

先輩を交流会に誘ったのは私なのだが、しっかり楽しめているようで良かった。

私も一応、真ん中よりちょっと下くらいの成績には収まって一安心だ。いくら何でも最下位とかは避けたかったので良かった。

なお、上位の者には賞品として有名菓子店の焼き菓子が贈られた。微笑ましい。

 

「これで全ての試合が終わったわね!皆様、お疲れ様!」

集まった皆に、カーネリア様がにこにこと声をかける。

「いっぱい汗をかいたでしょうし、この後は皆でお風呂に入りましょ!ここ、凄く広い浴場があってとっても気持ち良いのよ。もちろん貸し切りにしてあるわ!」

「…えっ!?」

仰天する私の周りで、他のご令嬢たちが嬉しそうにわあっと歓声を上げた。

 

 

 

…バドミントンコートの附属施設にしては妙に大きな建物だとは思っていたが、どうやら入浴施設としても利用できる場所だったらしい。

スポーツで汗をかいた後に、そのまま入浴してさっぱりできるというのが売りのようだ。

今日も暑かったし、私も何試合かして汗をかき全身がべたついているので、お風呂に入れる事自体はとても有難いのだが。

 

公衆入浴施設というものは王都にもいくつかあり、その中には貴族向けの高級なものもあるのだが、私は今まで行ったことがない。

なので、女性と一緒に入浴するなど、幼い頃に母と入ったのを除けばこれが生まれて始めてだ。もちろん前世でだってなかった。

正直、かなり気が引ける。今は女だけど、前世は男だった訳だし。

普段からコーネルとかメイドたちの世話になっているし、見られる分には構わないのだが、一緒に入浴となると他のご令嬢たちも裸になるのだ。

授業の着替えなどで下着姿くらいなら慣れているが、全裸というのはさすがに…。

 

「リナーリア様、どうしたんですか?早く行きましょう」

ぐるぐると混乱していると、ペタラ様に不思議そうな顔をされた。

「は、はい。今行きます」

皆の後に付いて歩き、とりあえず脱衣場に入るが、手に変な汗をかいている。

今の私はもう、女性に対してそういう興味は失せている。そう自分では思っているが、本当に大丈夫だろうか?

いや仮に興味があった所で何ができる訳でもないのだが、何と言うか問題がないか?

本当に一緒に入浴して良いのだろうか?

 

 

ご令嬢たちは次々に服を脱ぎ、はしゃぎながら浴場へと入っていく。

そちらを見ないようにして、躊躇いながら上着のボタンに手をかけた。

運動着は面倒なドレスと違って普通に一人で脱げるものなのだが、どうしても無駄にもたもたしてしまう。

気がついたら脱衣場はがらんとしていて、どうしようかとため息をついていると、後ろから「リナーリア君」と声をかけられた。

スフェン先輩だ。

まだ浴場に行っていなかったのか。

 

「大丈夫かい?ずいぶん緊張しているようだけど」

「あ、はい、いえ…」

「何も気にする必要はないよ。だって僕たちは()()()じゃないか」

先輩はにっこり笑う。

そうだった、先輩は私が前世で男だった事を知っているんだった。

しかし特に気にする素振りもなく、下着姿で私に話しかけている。

 

「そうなんですけど、やはり女性と入浴するのは、その…何だか気が引けてしまって…」

思わず目を逸らすと、先輩はちょっと首を捻り、それから大きくうなずいた。

「よし、分かったよリナーリア君。任せてくれ」

「?」

先輩はぐっと自分の下着に手をかける。

 

「だったら…この僕で心の準備をしたまえ!!」

 

そう言って、ずばーん!!という擬音が聞こえそうな勢いで脱ぎ捨てた。

下はまだ一応穿いているが、上は丸出しである。

 

「どうかな!?興奮するかな!?」

「する訳ないじゃないですか!!!!」

私は激しくツッコミを入れた。入れざるを得なかった。

 

 

「ほら、平気だったろう?今の君はちゃんと女の子なんだよ、やっぱり」

「は、はあ…。確かにそうかも知れませんが、ただこう、猛烈に恥ずかしいです」

あんまり平気ではない。羞恥心がすごい。先輩はなぜ恥ずかしくないんだろう。

「それは単に、裸が恥ずかしいだけじゃないのかい?男女は関係なく、そういう人もいるからね」

…そう言えば、前世の私も人前で服を脱ぐのがとても苦手だった。

理由は主に、痩せていて筋肉の少ない自分の体格が恥ずかしかったからだ。

殿下や騎士課程の生徒たちの胸板の厚みが羨ましかったな、と思い出す。

 

私は無言で今の自分の身体を見下ろした。

去年よりほんのちょっとは成長しているのだが、同年代の女性に比べると…。

 

「最初は恥ずかしくても、すぐに慣れるさ。大丈夫」

「…はい」

笑顔の先輩にそう言われると、何となく大丈夫のような気がしてくる。

「僕は先に行っているから、君も早くおいで。今日は汗をかいたから、お風呂はきっと気持ちが良いよ」

「わかりました」

私はうなずき、思い切って全ての服を脱ぎ始めた。

ここにいても仕方ないし、覚悟を決めよう。

…ちなみに先輩は、思っていたより大きかった。

 

 

 

浴場は広く、少し熱めの湯がとても気持ち良かった。

外の暑さは不快に感じるのに、こうしてお湯に浸かるのは気持ち良いのだから不思議だ。

日頃の疲れが癒やされるような気がする。

ゆったりと湯に浸かっていると、羞恥心も徐々に消えていった。

同じく湯に浸かっている他のご令嬢たちを見ても、やはり特に興味は沸かない。興奮するような事もない。

皆も気持ち良さそうにしてるなあ、とただ和んだだけである。

 

そうかあ…。今の私はやっぱり、もう男ではないんだな。

分かっていたんだが再確認した。

ほっと安心しつつも、ほんの少し寂しいような、すっきりしたような、何とも言えない気持ちだ。

今更だが、どうして私はこうなったんだろうな。不思議だ。

 

 

「お風呂上がりには、冷たい飲み物を用意してるから楽しみにしておいてね。ここの名物なんだけど、フルーツの果汁とミルクを混ぜたもので、とっても美味しいの」

同じく湯に浸かっているカーネリア様がそう言って、皆が笑顔になった。

「それは美味しそうだわ!」

「楽しみですね」

きゃいきゃいとはしゃぐご令嬢たちに、私もまた笑顔になる。

 

それにしても気持ちがいい。

今度お母様やお義姉様を誘って、公衆浴場にも行ってみようかな。




お気に入り・評価・ここすき・感想など、いつも有難うございます!
とても励みになっています。

今までなろうの方が先行していたんですが、ついに今回で追いついてしまいました。
今後はなろうと同時投稿という形になり、更新ペースは週2~3回程度になるかと思います。
内容は全く同じの予定です。
どうぞよろしくお願いします。


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第110話 女子会

スポーツ交流会後はブーランジェ公爵屋敷でのお泊り会だ。女子会と呼ばれるものらしい。

参加者はカーネリア様と特に仲の良いご令嬢たちで、ペタラ様、私、先輩、リチア様、ヴァレリー様の5人だ。私とも仲の良い方ばかりである。

リチア様は私たちの1歳上で、学院入学前から親しくしている方だ。私やペタラ様とも親しいが、ちょっと腐った趣味がある。

ヴァレリー様はブロシャン公爵家の娘で1つ歳下。もうすぐ学院に入学する。カーネリア様とは水霊祭がきっかけでずいぶん親しくなっていたらしい。知らなかった。

 

 

用意された馬車に乗って屋敷に到着すると、ブーランジェ家の長男であるアラバンドとその夫人が出迎えてくれた。

公爵夫妻は今お出かけ中で、夕方まで帰らないらしい。

「皆さん、ようこそ。いつも妹が世話になっているね」

「お部屋の用意はできていますから、どうぞゆっくりなさって行ってくださいね」

「ありがとう、お兄様、お義姉様!」

兄たち全員から可愛がられているカーネリア様だが、この兄嫁との仲も良好らしい。

 

それからカーネリア様の案内で、屋敷の中を見せてもらった。

さすが公爵家だけあって敷地は広く、離れには修練場がある。

主に屋敷に詰めている騎士たちが修練するための場所だが、カーネリア様も昔からよくここで鍛えていたのだそうだ。

「小さい頃は、スピネルお兄様もここで剣を振っていたのよ。私はあんまり覚えてないし、今じゃめったに来てくれないけれど」

夕焼けで赤く染まり始めた修練場を眺めながらカーネリア様が言う。

「昔から飛び抜けた剣の才能があったって、上のお兄様たちは言っていたわ」

「そうでしょうね…」

スピネルの才能は、魔術師である私の目から見ても明らかだ。

剣の名門であるブーランジェ家の者の目には、幼いうちでもはっきりと分かっただろう。

 

「僕はこの前、お城で剣聖ペントランド殿に会う機会があったんだけどね。スピネル君ならいずれ剣聖の名を継げるだろうって言っていたよ」

スフェン先輩がそう言い、皆が目を丸くした。

「まあ」

「すごいですわね!」

あのご老人がそこまで言ったのか。あの人、学院卒業後の殿下でもまるで敵わなかったくらい強いのに。

「やっぱり…!さすがお兄様だわ」

カーネリア様は誇らしげに頬を紅潮させた。

 

 

「カーネリア様はスピネル様の事が大好きですねえ」

ヴァレリー様が微笑むが、カーネリア様は少しだけ唇を尖らせる。

「…好きだけど、でもちょっと妬ましいわ。お兄様の才能が」

「そうですね。妬ましく思うの、私もわかります」

同意すると、皆が驚いて私を振り返った。

「え、リナーリア様も?」

「リナーリア様は魔術の才能がお有りでしょうに」

「そうですわ」

皆口々にそう言ってくれるが、それは誤解だ。

前世での経験に今世での修練を上乗せしているから、人より優れて見えるだけでしかない。その事にどうしても引け目を感じてしまう。

 

「私の才能なんて、大したものではないですよ。…でも、スピネルの剣の才能は本物です。それに、何と言ったら良いんでしょうか…才能そのものと言うより…」

上手く表現する言葉を探し、前世のスピネルの事を思い出す。

彼が学院を卒業する日、図書室で交わした会話。

王都を離れると言う彼は、今世よりも少し飄々とした雰囲気で…しかしどこか、つまらなさそうに見えた。

「持って生まれたその才能を、最大限に活かす場所を得られた。その事が羨ましいです」

 

 

それを聞いたカーネリア様が眉を寄せる。

「…それってつまり、お兄様が王子殿下に仕えてるのが羨ましいってこと?」

「まあ、そうとも言えますが…」

その才を正しく発揮できるなら別に殿下の元でなくても良いと思うのだが、でも殿下の元が一番発揮できそうな気がするし、私としても殿下の元にいてほしいし…。

やはり上手く表現できなくて、私は言葉を途切れさせた。

 

「…でもきっとスピネル自身も、殿下に仕えられる事を幸せに感じてるんじゃないかと思います」

前世の彼とは別に親しくなかったし、個人的に会話を交わしたのはあの時くらいだ。でもやはり、今世の彼の方がずっと生き生きしているように見える。

それはただ立場が変わったからではなく、やはり殿下の影響だと思うのだ。

「…そうね。そうかもしれないわ」

カーネリア様も心当たりがあったのか、小さくうなずいた。何となく、少し複雑そうだが。

 

「でも、リナーリア様が羨ましがる必要なんてないと思いますよ」

「そうよねえ。リナーリア様はお兄様が出来ないことが出来る訳だし」

「それはまあ、魔術はスピネルより出来ますけど」

あとは勉強くらいかなあ…。でもスピネルだって成績良い方だしな。

大概の事は上手く出来る奴なので、私が明確に優っているのは本当に魔術だけだ。悔しい。

 

 

「うふふ、そうじゃなくてもっと他にありますよ、きっと。リナーリア様だけが王子殿下に出来る事」

ペタラ様がにこにこ笑う。

「ありますか?そんなの」

なんだろ。何があったかな。

首を捻りながら考え込む。

あ、一緒にカエルの観察をすることか?

 

すると、カーネリア様がジト目になって私を見た。

「多分だけど、今リナーリア様が考えてる事ではないと思うわ」

「そうですわね…」

「そうだね」

「…ええ!?」

 

 

 

その後間もなく公爵夫妻が帰宅したらしく、晩餐へと呼ばれた。

あのブーランジェ公爵と晩餐など前世以来だ。

思わず緊張してしまったが、公爵夫人はカーネリア様によく似たとても朗らかな方で、あれこれと明るく話題を振ってくれるので助かった。無口なブーランジェ公爵とは対称的だ。

公爵には以前ナイフをいただいたお礼を言いたいのだが、皆の前で言っていいか分からないので我慢だ。

帰るまでに言う機会があると良いのだが。

 

そして、ここでもやはり私と先輩の武芸大会の話題になった。公爵夫妻も、息子のスピネルが殿下と共に出場しているあの決勝を見に来ていたらしい。

「本当に見応えのある大会だったわ。あの子はちょっと情けなかったけど…」

「いえ、とても手強かったですよ。普通に戦っていたらきっと勝てませんでした」

実の母にまで呆れられているスピネルはちょっと可哀想で、私はやんわりとフォローを入れる。

スピネルにはちょっと油断した隙に私の氷狼を斬り捨てられた。彼でなければああも鮮やかに倒せはしなかっただろう。

しかし夫人は「それはどうかしら」と言い、公爵はむっつりとする。

「あれは甘すぎる」

うーん、やはり公爵は手厳しい。

 

しかし不思議なことに、あの武芸大会以来、女子からのスピネル人気は鰻登りのようなのだ。

大会後の学院人気ランキングではなんと1位になっていた。

何でだよ。そこは殿下だろう。優勝だってしたのに。

どうも同情が集まった結果らしいのだが、いまいち納得いかない。

ちょっと情けない所が逆に良いとかだろうか?分からん。

 

 

 

美味しい晩餐をご馳走になった後は、皆でトランプを楽しむことになった。

「ゲームは何にしますか?」

「皆でやるなら、ババ抜きとか神経衰弱とか…」

「神経衰弱はだめよ。リナーリア様が強すぎるわ」

「まあ、そうなんですか?」

「はい。得意です」

私は神経衰弱というゲームが非常に得意である。単純に記憶力が物を言うからだ。

カーネリア様などご令嬢たちとも何度かやっているのだが、私の勝率が高すぎてついには出禁令を出されてしまった。

前世で殿下などと一緒に遊ぶ時も、こればかりは私がほぼ100%勝っていたなあ。

 

「じゃあ、まずはババ抜きにしようか。これはシンプルだけど駆け引きもあって意外に奥が深いからね」

そんな先輩の意見が採用されババ抜きになったのだが、先輩はかなり手強かった。

カードを引く際あれこれ表情を変えるのだが、これが演技なのかそうでないのか全く分からないのだ。

惑わされないよう勘で引くしか無いが、そうすると人数が多い事もあって意外にカードが揃わない。

特に後半は結構白熱した。

 

 

「それじゃ、そろそろ着替えてベッドに入りましょ」

「はい」

女子会というのは、眠る前には皆でベッドの中でおしゃべりをする決まりらしい。そのためにわざわざ大部屋にベッドを運んで集めたんだそうだ。

話題は当然のように恋話だ。このメンバーの中で恋人がいるのはリチア様(実はちゃんといる。驚いたことに)とペタラ様だけなのだが。

ヴァレリー様は殿下が好きなのだろうと思っていたが、特に積極的に行くつもりはなく、あれから進展はないようだ。それよりも今は、秋からの学院生活に期待しているという。

まあ彼女なら男子から相当モテるだろうからなあ…。殿下以上の男性などいないと思うのだが。

 

特に盛り上がったのはペタラ様とストレングの馴れ初め話だった。なかなかに面白かった。

私は話のネタも少ないし概ね聞く側なのだが、聞いているだけでも意外に楽しいし、皆が楽しそうにしているのも嬉しい。

友達がいるって良い事だな…としみじみ思う。

前世ではろくに友達がいなかったので、友情の暖かさというのは今世で初めて知った気がする。

こんな集まりができるのはきっと学生である今だけなのだろうが、こういう関係はこの先も大切にしていきたいな、と思った。



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第111話 友情の連鎖

「だめですわ…リナーリア様、全く才能がありませんわ!!」

「そ、そんな…」

リチア様に断言され、私はがっくりうなだれた。

「努力で何とかなりませんか!?」

「そうですねえ…こういうのは元々の素質が大きいと思いますし…」

ペタラ様が困ったように頬に手を当てる。

リチア様も悩ましげな表情だが、私としては必死になるしかない。

 

 

…お泊まり会の翌朝、私はリチア様に頼んであるレッスンをしてもらっていた。

ミメットの好きな「暁の少女と6人の騎士」の登場人物…特に男性キャラ間における恋愛について、である。

リチア様はこの手のネタが大好きなので、これについても詳しいだろうと尋ねてみたのだが…。

想像以上に難しい、というか理解できない。

まず発想が分からないし、謎の専門用語も多い。難解過ぎる。

 

「確かに白銀の騎士と黒の騎士は共闘したり酒を酌み交わしたりと、親しい描写が多いです。でも二人共主人公の少女が好きですし、黒の騎士に至っては婚約者だっていますよね?何故その二人に恋愛感情があることになるんですか?」

「二人は元々惹かれ合う恋人同士なのですわ。でも、不思議な魅力を持つ主人公に出会った事で、そちらにもつい惹かれてしまうのです。同時に二人の人間に惹かれてしまうのは、よくあること」

「よ、よくありますか…?では、婚約者は?」

「そっちはただのカモフラージュです。愛なんてありませんわ」

「クズ野郎じゃないですか!!!」

私は思わず突っ込んだ。

 

「そこは婚約者側にも事情があるのでお互い様なんですわ。3巻の舞踏会のシーンをよく読めばその示唆が…」

「うううう…」

歯噛みしつつ脳内にメモをする。3巻…そんな描写あったかなあ…。

「なるほどねえ。様々な解釈があるものだ。面白いな」

横で聞いていたスフェン先輩はなぜか感心している。先輩もこの小説は好きなのだそうだが…。

「先輩は理解できるんですか?」

「同意するのはちょっと難しいけど、新しい視点としてある程度理解はできるよ。なかなか参考になる」

「そうなんですか…」

私には先輩ほどの理解力も懐の広さもない。

 

 

「そもそも、何故理解したいんだい?無理にそういう目で見なくても、ごく普通に物語を楽しめばいいじゃないか」

「それは…私、ミメット様と仲良くなりたくて…」

「ミメット様?コーリンガ家の?」

ペタラ様が首を傾げ、リチア様が「ああ…」と言った。

「ミメット様は確か黒銀推しでしたわね」

「え、リチア様はミメット…様の趣味をご存知なんですか!?」

彼女には、私の知る限りレヴィナ嬢以外の友人はいなかったのに。

 

「ミメット様ご本人とはあまり話しませんけれど、ミメット様の友人のレヴィナ様とは仲良くしておりますの。彼女は私の同志、貴腐人仲間ですもの」

「き…きふじん?」

また知らない単語が…。

「ええ。先週も赤青についてレヴィナ様と熱く語り合ったところですわ」

「…先週って、もしかして水曜日ですか」

「あら、ご存じなんですの?その日は同志の会合があったのですけれど」

「いえ、その日、トムソン様のところのパーティーでミメット様とお会いしたので」

 

あの時、ミメットがいつも一緒のはずのレヴィナ嬢を連れていなかった理由がやっと分かった。

レヴィナ嬢はコーリンガ家傘下の貴族家のご令嬢で、ミメットと同い年だが世話役に近い。アーゲンに対するストレングみたいなものだ。

しかしどうも、主人より趣味の会合に参加する方を優先していたようである。

彼女にだって都合はあるだろうし、毎回必ず付いていかなきゃいけないなんて事はないんだが…。

 

 

…いや、待てよ。という事はもしかして、ミメットの趣味はレヴィナ嬢からの影響なのでは?

そしてレヴィナ嬢に影響を与えたのは、多分…。

「…リチア様が諸悪の根源だったんですか!!」

「あら、心外ですわ。趣味は個人の自由でしてよ」

「そうですけどぉ…!」

ミメットになんて事を教えてくれたんだ。

いや彼女がそれで楽しめているならいいけど…いいけどさあ!

 

 

「…えっと、つまりリナーリア様は、ミメット様と仲良くなるためにそのご趣味を理解されたい訳ですね」

気を取り直すようにペタラ様が言った。

「ミメット様と言ったら社交嫌いで有名な方よね。私も全然話した事ないわ」

そこで、カーネリア様が会話に加わってきた。

さっきまで向こうでヴァレリー様とヘアアクセサリーの話について盛り上がっていたのだが、話題が一段落したのかこちらに来たらしい。

「私も話した事ありませんね。うちの家とコーリンガ家はあまり仲が良くないのもありますけれど」

同じくこちらへやって来たヴァレリー様が口元に指を当てて言う。

 

「…でも、どうして仲良くなりたいんですか?コーリンガ家がミメット様を王子殿下に近付けようとなさっている事、リナーリア様もご存じですよね?まあ、ご本人は嫌がっているみたいですけれど…」

ヴァレリー様は心底不思議そうだ。

 

コーリンガ家は貴族の間での評判があまり良くない。

彼女の兄であるカロールが公爵位を継いでからは多少改善されているはずだが、一度付いたイメージはそう簡単に覆らない。

そんな家のご令嬢と王子の友人の私が仲良くなりたいと言うのは、傍から見るときっとおかしな事だろう。

私を足がかりにコーリンガ家が殿下に近付くかもしれないのだし。

前世でも私と彼女の婚約話が持ち上がった時は、あの家はやめておけと忠告してきた貴族が幾人かいた。

殿下は賛成してくれたので、結局婚約したのだが。

 

 

「…私は、ただ気になってしまって…」

呟きながら、視線を落とす。

「彼女は社交嫌いと言われてますが、本当はただ人と接するのが苦手なだけじゃないかと思うんです」

前世の彼女が時々、遠くで楽しげに話をしているご令嬢方をどこか寂しそうに見ていた事を私は知っている。彼女は絶対にその事を認めようとしなかったが。

今世でも私が友人になりたいと言った時、ほんの一瞬だが嬉しそうにした気がするのだ。

結局その後拒否されてしまったが、彼女は本心では誰かが近付いてくるのを待っているのではないのか。

 

「私も昔は社交が苦手で、殿下以外にちっとも友達がいませんでした。今こうして皆様と親しくなれたのは、カーネリア様のおかげです。カーネリア様には本当に感謝しています」

私は顔を上げ、カーネリア様を見つめた。その目がゆっくりと見開かれる。

カーネリア様本人はもちろん、今ここにいるペタラ様やリチア様も、カーネリア様を通じて知り合った方だ。

それにただ紹介してくれただけでなく、カーネリア様からは様々な事を教わっている。

ご令嬢方との付き合い方だとか、お茶会での振る舞い方だとか。

上手く対応できずに困っている所を助けられたのは、数え切れない。

 

 

「だから、誰かが手を差し伸べれば、彼女も変われるのではないかと思うんです。私がカーネリア様に助けられたように、私も彼女を助けられたらと…。もしかしたら、余計なお世話なのかも知れませんが…」

昨日、皆と楽しくスポーツをしたりおしゃべりをしていて思ったのだ。

こんな楽しい時間を、彼女にも過ごしてもらえたら。

ずいぶんと形は変わるが、今度こそ彼女を幸せにできるんじゃないだろうか。

「…少なくとも私は、カーネリア様や皆様とお友達になれて本当に幸せだと、そう思っているので」

 

「……」

カーネリア様はその頬をほわっと赤く染め、それから笑った。

「ふふ…、そんな風に言われると、何だか照れちゃうわね」

他の皆も、同じように表情を和ませる。

 

 

「…そういう事なら、分かったわ!私も、リナーリア様がミメット様と仲良くなるのに協力するわ」

「私も協力します」

「もちろん、私もですわ!」

「ああ。僕もできる事をしよう」

「でしたら、私も。でも…」

ペタラ様やリチア様、先輩も同意し、最後にヴァレリー様が微笑んだ。

苦笑混じりの表情で、妙に感心される。

「リナーリア様は、本当に不思議な方ですね」

 

 

それを聞いたカーネリア様は私の後ろに回り、私の両肩に手を置いて明るく言った。

 

「そうでしょう?…私の、自慢のお友達なの!」



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第112話 新学期(前)

いよいよ新学期が始まった。

少し緊張している者や、希望に満ちた表情をしている者。

真新しい制服に身を包み登校して来る新入生たちは初々しく、微笑ましい。

私も同級生たちと挨拶を交わす。久し振りに会う者も多いが、皆どことなく大人びたように感じる。

まあ当然か。今日からは私たちも2年生、上級生なのだから。

 

 

玄関の前で殿下とスピネルの姿を見付け、私は「おはようございます」と声をかけた。

「おはよう、リナーリア」

「おはよう」

二人と会うのも久し振りだ。

夏休み中もパーティーなどで顔を合わせる機会はあるだろうと思っていたが、前半に数度会っただけで後半はちっとも会えなかった。

 

「殿下の夏休みはいかがでしたか?」

一緒に教室への廊下を歩きながら尋ねる。

「そうだな…忙しかったな。しかし、色々学ぶこともできた」

殿下はなんだか充実した表情だ。

良い夏休みを送れたらしい。それなら良かった。

私としては少し寂しかったのだが…と思っていると、殿下が「でも」と言葉を続ける。

「早く新学期が始まって欲しいとも思っていた」

「それは、他の生徒が聞いたら驚きそうな発言ですね。皆また授業が始まるのにげんなりしていますよ」

「俺も別に授業を受けたい訳ではない」

殿下が少しだけ眉を寄せ、それから私に微笑みかける。

「…ただ、学院ならば君に会える」

 

「…私もです!殿下とお会いできるのが楽しみでした」

殿下も私と同じ気持ちだったようだ。嬉しい。

私もまた笑顔になる。

 

 

殿下の横顔を見上げると、少し日に焼けたようだ。そのせいかどこか精悍になったように感じる。

「…殿下、少し逞しくなられましたか?」

「ああ…、夏休みの後半は集中的に鍛えていたからな。そうかもしれない」

剣の修業に打ち込んでいたのか。どうりでパーティーなどで見かけなかったはずだ。

「さすが殿下です!とても素晴らしい事だと思います」

殿下自身の身を守るためにも、鍛えておくことは重要だ。

 

ちらりと後ろを振り返るが、後ろを歩いているスピネルもちょっと日焼けしたようだ。

「……」

「なんだよ?」

「いえ、殿下の体格もだいぶスピネルに追いついてきたなと」

2歳分の年齢差が埋まってきたように思う。

「身長は俺の方が上だけどな」

スピネルは片眉を上げて言った。やはりそこは譲れないらしい。

「いつかは抜かす」

「いーや、無理だね」

言い合う殿下とスピネルに何だかなあと思っていると、教室に着いた。

 

扉を開ける前に、私はもう一度殿下を見上げた。

「大丈夫ですよ、殿下。…身長で勝てなくても、筋肉で勝てば良いんです!」

ぐっと拳を握りながら言う。

殿下は真面目にうなずいてくれたが、スピネルは呆れ顔をした。

「お前…やっぱ筋肉女神なんじゃねーか」

「その事はもう忘れて下さいよ!!」

 

 

 

初日の授業は午前中だけだ。

授業が終わってすぐ、私は殿下と共に生徒会室へ向かった。

新学期最初の生徒会である。

生徒会室に入ると、すでに幾人か集まってきていた。

 

全員揃った所で新生徒会長のトルトベイトが立ち上がり、皆に挨拶をする。

「今年もたくさんの新入生が入ってきた。不慣れな環境に戸惑う生徒もいるだろう。皆、上級生として規範を示し、必要な時はすぐに手助けをしてあげてほしい」

「はい」

「僕はまだまだ未熟者だ。皆の力に頼ることも多いだろうけれど、これから一年よろしく頼むよ」

今日のトルトベイトはいつもの早口ではなく、堂々とした口調だ。

生徒会長としての自覚が出てきたのかもしれない。

 

「それじゃまず、新入生からの生徒会役員の選出だけど…。今回は教師からの推薦が多いから、それで全員決まりかな」

新役員は自薦だったり他薦だったりで決められるのだが、教師からの推薦枠というのが一番強い。

教師とは言うが、その背後にいるのは保護者である貴族だ。実質貴族からの推薦枠である。

一応生徒会で承認された後で「貴方に生徒会役員への推薦がありましたよ」と当該生徒に知らせに行き、それを本人が承諾するという形になっているが、ほぼ形式上のものだ。

教師推薦の場合は事前に知らされているし、そうでなくても生徒会役員は高い実績が得られるので、皆二つ返事で承諾する。

今は殿下が生徒会に所属しているのだから尚更、断る生徒などいる訳がないのだが…。

 

「まず一人目は、ミメット・コーリンガ君」

トルトベイトの言葉に数人がざわつく。

一方私はやっぱりな…と思っていた。前世でも彼女は教師推薦だったのだ。

私もはっきりとは知らないが、きっと先代コーリンガ公爵や、その意を受けた者たちの手回しだったのだろうと思う。

 

「大丈夫なのか?彼女はその、社交性というか…協調性に難があると聞くが…」

3年生の役員の一人がおずおずと言う。

「うん…僕もその噂は聞いてるんだけどね…」

トルトベイトが言葉を濁し、副会長の女子がため息をついた。

「教師推薦でしたら仕方ありませんわね…」

こうやって推薦で入る者の中には稀に問題児もいる事を、卒業生たちから聞かされて皆知っている。

そういう場合は最悪、仕事を回すのは諦め在籍だけしてもらう事になるのだが、当然他の者への負担は増える。

 

 

「…まあ、協調性を学ぶのも学院という場所の役割だ!できるだけ仲良くやっていこう」

トルトベイトはあえて明るく言った。皆がそれにうなずく。

「明日には彼女に挨拶に行こうと思うけど、誰か彼女と仲の良い者はいるかい?」

場がしんと静まり返った。

彼女がどこに行ってもほぼ誰とも口を利かない事は有名だ。

 

「あの、私、少しだけですがお話しした事があります」

私が手を挙げると、皆がちょっと驚いたような顔になった。

…この流れは、前世とだいたい同じだ。

誰も手を挙げないので仕方なく私が名乗り出て、彼女に会いに行ったのだ。

でも今の私は仕方なくではない。前世よりもはるかにやる気がある。

 

しかし、トルトベイトは何故か少し困ったように視線を明後日の方向に向けた。

「えっと、じゃあ、そうだな、リナーリア君と王子殿下に来てもらおうかな、そうすると助かるな。明日、僕と一緒に行こう」

しかも急に早口に戻って、殿下も連れて行くつもりのようだ。

あ、あれ…もしかして私がミメットに嫌われた事がもう知られているのか?

 

「分かりました」

だが、殿下は特に問題ないらしく小さくうなずいた。

うーん、殿下が良いならまあ良いか。

つい前世の経験で判断しがちだが、私の知らないところでミメットの感情が変化してる事だってあり得るのだし。

 

ミメット以外の推薦枠は特に問題なさそうな生徒ばかりで、そちらには副会長が向かう事に決まる。

さらにこれからの活動についてなど、いくつかの連絡事項や確認事項が伝えられて終わった。

 

 

 

生徒会室を出ると、昼食の時間を少々過ぎたところだった。

「殿下、お腹も空きましたし食堂に行きませんか?」

「ああ。行こう」

その顔にはとても空腹だと書いてあって、少しだけ笑いそうになってしまう。

 

この時間なら、食堂もそろそろ空き始めている頃合いだろう。

殿下と一緒のランチも久し振りだな。

「今日はビーフシチューがあるだろうか。しばらく食べていないから食べたい」

「お城で食べなかったんですか?」

「味が違う。学院の方が好きだ」

「なるほど」

お城のはトマトピューレが多めなのか、学院のものよりもさっぱりした味だった気がするな。あれはあれで美味しいのだが。

 

 

食堂に入ると、すぐに「あっ!」という声が聴こえた。

「リナーリア様、王子殿下、こっちこっち!」

立ち上がって手招きしているのはカーネリア様だ。

そのテーブルにいるのはスピネルと、真新しい制服に身を包んだヴァレリー様。よく似合っていて可愛らしいが、胸元がはち切れんばかりだ。

そしてもう一人小柄な男子生徒がいて、こちらを振り返った。

その顔を見て、私は驚きの声を上げる。

 

「…ユーク!?」



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第113話 新学期(後)

「えっ、どうしてユークがいるんですか?それに、その制服」

ユークレースは臙脂色の学院の制服を着ている。

しかし彼は14歳で、ヴァレリー様の一歳下の弟だ。つまり来年学院に入学するはずなのだが…。

「入学試験なんて、僕には簡単だったからな」

「ユークは飛び級制度を使ったんですよ」

偉そうに胸を張るユークレースに、ヴァレリー様がにっこり笑って補足をする。

 

飛び級での入学制度の事は、私も一応聞いた事がある。特に優秀な能力を持ち、何らかの理由で早くに卒業したい者が利用するものだ。

普通の入学試験は基礎学力を確認するだけのもので、貴族出身ならよほどの事が無い限り通るのだが、飛び級だとずっと難しい試験を通らなければいけない。

騎士課程はめったに希望者がいないが、魔術師課程にはたまにいるという。

 

「来年まで待ってたら、お前達は3年になってすぐ卒業だろ。だから今年来た」

「まあ…」

挑むような目で私を見るユークレースに少し感心する。

そう言えば私はユークレースに勝ち逃げ状態だしな。彼としては、魔術戦で私にリベンジしたいのかもしれない。

「あれ?でも一体いつから準備を?入学試験は昨年のうちに行われるものでは…」

「そこはまあ、うちも一応公爵家ですので」

再びヴァレリー様が笑う。

なるほど…公爵家の権力でゴリ押ししたのか。ブロシャン公爵は相変わらずこの天才少年に甘いようだ。

まあユークレースなら学業成績も良さそうだし、魔力量も桁違いだから、十分に入学基準を満たしていたのだろう。

 

 

「本当にびっくりしたけど、私たちと一緒に学院に通いたいなんてユークも可愛い所があるわ」

そう言ったカーネリア様に、ヴァレリー様が答える。

「実は2ヶ月前にはもう来ていて、武芸大会も見ていたんですよ」

「え!?」

思わず驚いてしまう。そんな前から王都に来ていたのか。

「そうだ。そこの奴や王子がお前に負けるのもちゃんと見てたぞ」

ユークレースに指をさされ、スピネルがムッとする。

「ユーク、皆様にはちゃんと敬称をつけて呼びなさい」

あまりに不遜な態度に、ヴァレリー様が注意をする。こういう所はちゃんと姉弟っぽい。

 

「来てたなら教えて下さっても良かったのに…」

女子会の時だってヴァレリー様は一言もそんな事を言わなかった。口ぶりからすると、カーネリア様も聞いていなかったらしいが。

「皆さんを驚かせたくて、今まで黙っていたんです」

ヴァレリー様がにこにこして、ユークレースは「ふふん」と偉そうな顔で口の端を吊り上げる。

「それにユークったら、あの大会を見てからずいぶん一生懸命に修業をしていて。入学までにはもっと強くなるから、それまで言うなって」

「よ、余計なことを言うな!!」

 

何やら怒っているユークレースに、私は密かにほっとしていた。

彼は祖父の魔鎌公が亡くなって落ち込んでいるのではないかと思っていたが、思っていたより元気そう…というか、前よりずいぶん大人びたような気がする。

態度は相変わらず生意気なのだが、どこか角が丸くなって落ち着いたような…。以前のような刺々しさを感じない。

ユークレースなりに、色々と考える事があったのだろうか。

 

「…私も、ユークと一緒に学院に通えるのは嬉しいです」

呟くように言う。

前世のユークレースは、学院に通うことはできなかった。その前に、短い生涯を閉じてしまった。

その彼が、今こうして元気にこの場にいる事が嬉しい。

ユークレースが水色の目を見開いてこちらを見て、私はその視線に不敵な笑みを返す。

「魔術戦なら、いつでもお相手しますよ。好きなだけ挑んできて下さい」

 

 

「…その言葉、忘れるなよ。絶対、そのうち僕が勝つからな!」

「ええ、もちろんです」

魔術師の訓練は基本的に対魔獣を想定して行われるが、殿下を守るためには対人戦が重要になって来る可能性が高いのだ。私としても対戦相手が得られるのは有り難い。

そんな私達を見て、カーネリア様とヴァレリー様は微笑ましげにうなずき合っていた。

殿下はどこか安心した顔で、スピネルはどうでも良さそうに頬杖をついている。

 

 

「だったら、私も協力するわよ。リナーリア様は本来支援魔術師なんだし、騎士と組んだ方が力を発揮できるわ」

腰に手を当てながら、カーネリア様が言う。

「もう一人はスピネルお兄様でも呼べばいいし。王子殿下にお願いしてもいいわ」

「はあ!?」

「…俺は、別に構わないが」

スピネルが抗議の声を上げ、殿下は私の方をちらりと見てから言った。

 

「ほら、二人共協力してくれるって。良かったわね!」

「良かったですねえ」

「頑張ってね」

「俺はやるなんて言ってねえぞ!」

スピネルが吠えるが、ユークレースは馬鹿にするようにふんと鼻を鳴らした。

「別にお前なんか来なくて良い。僕はやる気のない奴に興味はない」

「…ああん?」

スピネルがユークレースを睨みつける。

水霊祭の時から思っていたが、どうもこの二人は相性が良くないっぽいな。

 

 

 

ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めたスピネルとユークレース、そこに割って入ったカーネリア様の3人は、ヴァレリー様に任せて放っておく事にした。

それより殿下がだいぶ空腹そうだ。二人でビュッフェの方に向かおうとすると、遠巻きにこちらを見ている新入生たちの声が耳に入った。

「なんだあいつすげえ…王子の従者と喧嘩してんぞ」

「ブロシャンの末弟だろ。天才魔術師とかいう…飛び級試験受けたって本当だったのか」

「いやそれより羨ましすぎだろ。なんであんな美人に囲まれてるんだよ」

ボソボソ喋る声が聞こえる。

 

何かユークレースが一目置かれている…?

ふむ…よくは分からないが、少なくとも舐められるよりはずっといい。

無用の波風は立てないに越した事はないが、舐め腐った態度の奴らには分からせてやった方が良いのも確かだ。最初に実力を示しておくのは悪くないと思う。

私も前世では舐められないよう色々努力したものだ。

今世では特にその必要がなかったので何もしなかったが、いざという時はユークレースに加勢してやろう。うん。

 

 

 

ビュッフェであれこれ取り、少し遅めの昼食を食べ始めた。

「…ほう。夏休みにバドミントンをやったのか」

ビーフシチューを食べながら殿下が言う。

ちなみに、一皿目はあっという間に平らげたのでこれは二皿目だ。

「はい。カーネリア様の主催で大会形式の試合をしたんですが、とても楽しかったです」

パンをちぎりながら答えると、横からスピネルが「それは偶然だな」と言った。

「殿下と俺も夏休みに結構やったんだよ。バドミントン」

何でも二人はこの夏、近衛騎士団の集中鍛錬に参加していたのだそうだ。

近衛騎士団には誰かが持ち込んだラケットやシャトルが数組あり、鍛錬の合間に息抜きとして、騎士たちと共にバドミントンをやっていたらしい。

 

「息抜きだっつってんのに、殿下がムキになって続けるもんだからヘトヘトだった」

「む…」

半眼で見るスピネルに、殿下が気まずそうな顔になる。また負けず嫌いを発揮していたらしい。

「じゃあ、お二人共バドミントンができるんですね。ぜひ一度ご一緒したいです!」

ヴァレリー様が両手を合わせて言った。

あのスポーツ交流会にはヴァレリー様ももちろん参加していたのだが、彼女はかなり上手かったな。

 

 

「それでしたら、学院にもありますよ。ラケットとシャトル」

「え?そうなの?」

びっくりして訊き返すカーネリア様に、私はうなずく。

「近頃流行っていますし、学院の授業に取り入れたらどうかという話があって、試しに数組購入したばかりなんです。生徒なら自由に使えますよ。ネットやコートはありませんけど…」

一応エントランスの掲示板に告知されていたのだが、まだあまり知られてないんだよな。私は生徒会で手続きの書類を見たので知っている。

 

「だったら、今から皆でやりましょうよ!」

目を輝かせたカーネリア様に、ヴァレリー様が「いいですね!」と同意する。

「そうですね。私もこの後は予定がありませんし」

「僕はそんなもの興味な…」

「あら?もしかしてやった事ないの?スポーツだって貴族の嗜みよ、それくらいできなきゃ学院ではやっていけないわよ?」

「何だと…!?」

ユークレースは嫌がる素振りだが、何だかんだとカーネリア様に丸め込まれそうな感じだ。

 

「殿下とスピネルはどうですか?」

尋ねると、二人共楽しげにうなずいた。

「いいな。やろう」

「ま、付き合ってやるよ」



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第114話 空転

一旦その場は解散し、各々運動着に着替えてからグラウンドに集合した。

ラケットやシャトルも用具倉庫から持ってきた。特に利用者はいなかったので、ちゃんと人数分ある。

「じゃあ、早速試合しましょ!」

「ちょっと待て、僕はやった事ないんだぞ!」

やる気満々のカーネリア様にユークレースが慌てる。

「あ、そうだったわね。じゃあ、まず私が教えてあげる」

二人は道具を持って端の方へと移動した。初めてでも、彼女に任せておけば大丈夫だろう。

 

「…では、私たちはダブルスなんてどうですか?2対2でやる試合です」

「いいんじゃないか」

ヴァレリー様の提案に殿下が同意した。私とスピネルも異論はない。

 

 

ペアは殿下が私と、そしてスピネルがヴァレリー様と組むことになった。

棒を使ってグラウンドに適当に線を引き、試合を始める。

まずはダブルスに慣れるため、様子見で軽く打ち合いだ。

私は最初勝手が分からずまごついてしまったが、そこは殿下がかなりカバーしてくれた。さすがに上手い。

スピネルとヴァレリー様は元から上手いのもあり、短時間でもそれなりのコンビネーションだ。

ヴァレリー様は動くたびにぼよんぼよんしているが、あれは邪魔にならないのだろうか…。

 

少し経った所で、シャトルを手にしたスピネルが私を見て「だいぶ慣れてきたみたいだな」と言った。

「はい。動き方が分かってきました」

殿下の守備範囲は広い。私は無理をせず自分が確実に打てそうな所だけ打てばいいのだ。

そう考えれば、ある程度対処できるようになってきた。

「よし、じゃあちょっと球を速くするぞ」

「えっ」

 

スピネルが打ったシャトルを、殿下が軽快な音と共に打ち返した。

そこにすっと位置を合わせたスピネルがラケットを振りかぶる。

「ちゃんと打ち返せよ、リナーリア!」

宣言通り、シャトルは私めがけて飛んでくる。明らかにさっきまでより速い。

「わ、わわっ」

私は慌ててラケットを振り、それは見事にスカッと空振った。

 

 

 

「…お前目は良いのに、反応が鈍いんだよ。あと、下半身がフラフラしてるから慌てるとフォームがぐちゃぐちゃになる」

「うぐ…」

一旦試合を中断したスピネルに指摘され、私は呻いた。

「もうちょい腰を落として、体勢を安定させろ。落ち着いてやればさっきの球くらい十分に返せるはずだぞ」

「腰を落とす…」

試しに少し腰を曲げてみると、スピネルが「ブッ」と吹き出した。

「何で笑うんですか!!」

「だってお前、そのへっぴり腰…」

「悪かったですね!」

くそう…そう言われても、自分ではどこが悪いのかよく分からない。どこがおかしいんだ。

「殿下、ちょっと直してやれよ」

笑い続けるスピネルに殿下が「分かった」と答え、ラケットを地面に置く。

 

 

「…膝を曲げて、腰を落とす」

私へ寄り添った殿下が右肩に触れた。

「重心はもっと前、腰をこのくらいの位置に」

左腰をぐっと掴まれた。されるがままに重心を動かす。

「脇はもう少し締めて、ラケットをあまり強く握り過ぎない方がいい」

腕の位置を直され、ラケットを握った手を掌で包まれる。

…顔が近い。

ほんの目と鼻の先に、少し日に焼けた肌と翠の瞳がある。

すぐ耳元で声が聴こえた。

「リナーリア、身体に余計な力が入っている。もっと力を抜くんだ」

「は、ははは、はい!」

 

「リナーリア、だからもっと力を…」

言いかけた殿下は私の顔を見て、ぱっと手を離すと一歩下がった。

「す…、すまない」

「い、いえ!?何もすまなくありませんが!?」

顔が熱い。動悸が激しい。

物凄く恥ずかしくて、殿下の顔をまともに見ることができない。

 

 

「あらあら…まあまあ…!」

やたらと嬉しそうな声が聴こえ、私は振り返った。カーネリア様だ。

さっきまでユークレースと打ち合っていたはずなのに、ニマニマと笑いながら口元に手を当ててこちらを見ている。

横のユークレースは物凄く不機嫌そうな顔だ。

「おい…僕たちは一体何を見せられているんだ」

それを聞いたスピネルが肩をすくめる。

「現実だろ?」

「厳しいですねえ」

ヴァレリー様が頬に手を当てて言った。

「な、何の話ですか!?」

 

「ペタラ様から聞いてたけど、本当だったのね」

何を聞いたんだ。カーネリア様は何故そんなに嬉しそうなんだ。

ひどく喉が渇く。

「…あの、私、少し休憩します。殿下はどうぞ続けて下さい」

「あ…ああ」

一拍遅れた殿下の返事が聞こえる。

「じゃ、俺もちょっと休む。2対1ってのもなんだし」

スピネルも抜けるらしく、ヴァレリー様と殿下とで試合を続けるようだ。

 

 

 

とにかく喉が渇いていたので、少し離れた場所にある水飲み場に行った。

レバーを捻ると、地下から引き上げられた冷たい水が魔導具を通って浄化されて出て来る。

喉を潤すついでにばしゃばしゃと顔を洗うと、少し頭が冷えた。

 

…何だか醜態を晒してしまった。

袖でごしごし顔を拭いていると、横からハンカチが差し出された。スピネルだ。

「ハンカチくらい持ち歩けよ、お前」

「すみません…」

ありがたく受け取って顔を拭く。

普段はちゃんと持っているのだが、運動着に着替えた時に置いてきてしまったのだ。

 

また女らしくないとか叱られるかと思ったが、スピネルは目を細めて優しく言った。

「そういう所もなるべく直していけよ。…まあ、お前なら心配いらないかもしれないが」

「な、なんですか。気持ち悪いんですが」

「気持ち悪いってなんだてめえ」

「だって、いつもはもっと手厳しいじゃないですか」

どういうつもりかと思わず警戒すると、スピネルはムッとして腕を組んだ。

「やっとお前にも自覚が出てきたみたいだから安心してんだよ、俺は」

「自覚?」

スピネルは「ああ」と言うと、今度はからかうような顔になった。

「ようやく殿下を男として意識するようになったじゃねえか」

 

 

「…な、何言ってるんですか!私と殿下は友人ですし、そんな目で見たりしてませんよ!?」

私は慌てて反論した。そんな事は断じてない。

「この期に及んで何言ってんだ。どう見てもしてただろ」

「してないったらしてません」

「じゃあさっきのは何だよ?」

「…あれは、ただ、びっくりしただけです!」

つい大声を出した私にスピネルが呆れる。

「何ムキになってんだお前…」

「なってません!」

 

「…私と殿下は友人です。男性として意識したりしません」

きっぱりと言う。そんな誤解をされては困る。

「いや、何でだよ」

「何でって」

「今まで友人だったからって、異性として見たら駄目なんて事ないだろ」

 

「…それは」

言葉に詰まる。でも、駄目なのだ。

「まあ戸惑うのも分からないでもないけどな。いっぺん落ち着いて、ゆっくり考えてみろよ」

 

…ゆっくり考える?何をだ。

そんな必要はない。

()()()()()()()()

 

 

「……」

「…おい、どうした?しっかりしろ」

肩を揺さぶられて、私は顔を上げた。

「何急にぼーっとしてんだよ」

「あ、すみません」

「あのなあ…」

スピネルは何か言いかけ、急に言葉を切った。

眉をひそめてじっと私を見つめる。

「…前からおかしいとは思ってたが。お前…」

 

その時、向こうからカーネリア様とユークレースがやって来るのが見えた。

二人も水分補給をしに来たらしい。

「あら?どうしたの、お兄様?」

「…何でもねえ」

スピネルはそう言って踵を返し、殿下たちのいる方へと戻っていった。

「…?何かあったの?」

不思議そうにするカーネリア様に、私は首を横に振る。

「いえ、特に何も」

 

 

 

その後もペアを組み替えたりシングル戦に変えたりしてバドミントンは続けられたが、私はすっかり調子が狂ってしまってグダグダだった。

初心者のユークレースにも負ける始末だ。

かなりバカにされて悔しかったが、カーネリア様に「あまり調子に乗らないの!」と叱られているユークレースを見たら少し溜飲が下がった。

 

殿下とヴァレリー様のペアはなかなか息が合っていた。

持参してきたらしいタオルを殿下に差し出す彼女を見ながら、彼女なら殿下にふさわしいのではないかと思う。

彼女は可愛らしく、賢く、よく気がつく。人当たりも良い。

…もっとも、私の人を見る目など当てにならないのだが。

でも彼女は良い子だと思うし、カーネリア様や他の貴族たちも彼女をよく出来たご令嬢として高く評価しているようだし、いや別に誰かに判断を委ねるわけではないのだが…とぐるぐる考えていたら、上の空な事をカーネリア様に注意された。

「試合中によそ見をしていたら危ないわ」と言われ、その通りだと反省する。

 

なお、最後にはカーネリア様が「見たい」とせがんだため、殿下とスピネルの試合が行われた。

ズドーンとかバゴーンとか、同じラケットから発生しているとは思えない音を立てて高速で飛び交うシャトルに、私を含めた他の四人はぽかんとしていた。

バドミントンってこんな激しいスポーツだったのか…?

勝負がつかないので皆で止めに入り、そこで終了となった。

 

 

「では、また明日」

「はい。また明日」

帰り際にはちゃんと殿下の顔をまともに見られるようになっていて安心する。

スピネルもいつも通りの態度だったが、何だか少し居心地が悪い。

私がおかしな反応をしたから悪いのだが。

もっとしっかりしなければ…と思いながら、夕暮れの中を歩いて寮に帰った。



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第115話 勧誘

翌日の昼休み、殿下と私は生徒会長のトルトベイトと待ち合わせをしていた。

「やあ、お待たせ!それじゃ、早速ミメット君の所に行こうか」

「はい」

トルトベイトの後について、生徒たちがいる食堂へと向かう。

彼は生徒会長として役員の勧誘に行くのは初めてだからか、妙にやる気に溢れているようだが大丈夫だろうか…。

ちょっと心配になってしまう。

 

食堂に入ってすぐの場所から見回すと、端の方に座っているミメットの後ろ姿を見付けた。

向かいに座っている三つ編みに眼鏡姿のご令嬢は、いつも連れているレヴィナ嬢だ。

「あそこにいらっしゃいますよ」

「本当だ。よし、行こう」

 

 

「やあこんにちは、ミメット君。話すのは初めてかな?僕は3年で生徒会長のトルトベイトだ」

「…こんにちは」

明るく話しかけるトルトベイトに、ミメットはごく小さな声で返事を返す。

「単刀直入に言うが、実は、学院の先生方から君を生徒会役員にという推薦が来ているんだ。どうだろう、うちの生徒会に入ってくれないだろうか?」

ミメットは間髪入れずに返答した。

「いやですの」

 

「……。えっ?」

たっぷり5秒ほどの沈黙の後、トルトベイトは聞き返した。

「ご、ごめん、今なんて?」

「い、や。いやですの」

「……」

言葉を失ったトルトベイトに、ミメットの向かいのレヴィナ嬢が慌てる。

「ちょ、ちょっとミメット様!断ったらだめですよ!」

「レヴィナは黙ってて」

「でも…」

 

 

…やっぱりな、と私は内心でため息をつく。

しかしショックを受けているトルトベイトは気の毒だ。

生徒会入りを断る生徒なんて普通はいない。この返答は完全に予想外だったのだろう。

どんなにやる気がなくとも、表面上は承諾して見せるのが当たり前なのだ。

 

「ミメット」

固まっているトルトベイトに代わり、今度は殿下が話しかけた。

「せっかくの推薦だ。君にとっても悪い話ではない。引き受けてはくれないだろうか」

「いやですの」

「えっっ!?」

やはり即答したミメットにトルトベイトが仰天し、レヴィナ嬢が更に慌てる。

「み、ミメット様!相手は王子殿下ですよ!?」

「だったら何なの。嫌と言ったら嫌」

「だめですよ!まずいです!お父君や公爵様が何とおっしゃるか…!」

レヴィナ嬢は声をひそめているつもりのようだが、あまり声量を抑えられていないので会話がこちらへ筒抜けである。

 

 

「ミメット様。殿下の言う通り、これは悪い話ではありませんよ。生徒会に入れば実績が付きますし、勉強にもなります」

私もまたミメットの勧誘にかかる。

「そ、そうだよ。生徒会入りは名誉なことだし、成績だって加点される。きっと将来のためになるよ」

復活したらしいトルトベイトが口添えするが、ミメットはまたもや即答した。

「私は成績なんてどうでもいいもの」

 

うーむ、取り付く島もないとはこの事だ。

しかし彼女と会話がしたければ、この程度でめげてはいけないのだ。辛抱強く話しかけなければいけない。

「…生徒会は、きっと想像しているよりも楽しい場所ですよ。行事の準備などで忙しい時もありますが、皆で力を合わせて成功させた時に得られる達成感や充実感は、とても素晴らしいものです」

それを聞いたミメットは、私を睨みつけた。

「貴女が楽しいのはもっと違う理由ではないの?」

「え?」

どういう意味だろうかと首を傾げる。

 

「貴女が楽しいのは殿下とイチャイチャできるからでしょう。…私は貴女とは違うの。殿下に興味なんかないし、嫌なの」

「は!?」

私はびっくりして声を上げてしまった。

「私だって殿下とイチャイチャしたくなんかありません!嫌です!!」

「言い方!!!!」

トルトベイトが叫ぶ。

「つまりあれだよね、リナーリア君は、生徒会はそんな不純な場所ではないと言いたいんだよね!?」

「?はい。もちろんそうです」

「…そ、そうだ。生徒会はそんな場所ではない」

殿下もうなずいた。当然だ。

 

 

ミメットは私達のやり取りを見て少しの間目を丸くしていたが、我に返るとふんと顔を背けた。

「…とにかく、私は生徒会なんか入らないの!」

そう言って、食べかけの昼食を置いて食堂を出て行ってしまった。

「ミメット様!」

レヴィナ嬢が立ち上がる。それから慌ててこちらを振り返り、頭を下げた。

「…申し訳ありません、皆様。失礼いたします…!」

 

食堂を出ていくミメットと、その後を追うレヴィナ嬢の後ろ姿を、私たちは黙って見送った。

ここで呼び止め食い下がったところで、どうにもならないだろう。

「……」

無言で顔を見合わせ、揃って肩を落とすしかなかった。

 

 

 

それから、今後のことを相談するためにそのままトルトベイトや殿下と昼食を取ることになった。

「はあ…参ったなあ。まさか断られるとは…」

トルトベイトはがっくりと落胆している。最初の勧誘がこんな事になってしまった彼は、やはり気の毒だ。

私は一応「そうですね…」と同意したが、こうなる事は予想していたので驚きはない。

前世でもミメットにはさんざん断られたからだ。

その時は私以外にもさまざまな生徒会役員が入れ替わり彼女の所に行ったのだが、全員がその場で断られてしまった。

そこで殿下が「リナライトが適任だと思う」と言ったので、結局私一人で説得を続ける事になったのだ。

承諾してもらうまで、何度も彼女の所に通う羽目になった。

 

 

トルトベイトが目の前のステーキをつつきながら呟く。

「…生徒からの推薦なら辞退でもいいんだけど、彼女は教師推薦なんだよねえ…」

「ええ…」

本人の意志に関わらず、彼女の生徒会入りは既に決定事項になっている。

こちらで勝手に手続きをして、在籍している事にしてしまうという手もあるが…。それは最後の手段だろう。

私の隣で同じくステーキを食べている殿下も、困った様子だ。

「何とか説得をしたいが…どうも俺は彼女に嫌われているようだ」

そんな事はないと言いたかったが、さすがに言えなかった。

彼女は親の言う通りに王妃を目指すのが嫌なだけで、決して殿下個人が嫌いな訳ではないと思うのだが、友好的でない事も確かなのだ。

 

「…大丈夫です。私に任せてください」

私は力を込めて言った。

元々そうするつもりだったのだ。何とか少しでも彼女の心に近付くために。

「彼女は少し人と接するのが苦手ですが、根は真面目な方だと思います。生徒会役員として、ちゃんとやっていける能力を持っているはずです」

そう、ミメットはあれで意外に律儀な性格なのだ。前世でも嫌がりつつちゃんと生徒会に通っていたし、活動にも参加していた。

その働きぶりは堅実で、頼まれた仕事を投げ出すような事は一度もしなかった。

私が卒業する頃には他の役員とも少しだけ打ち解けていた。

生徒会入りは、間違いなく彼女のためになると思うのだ。

 

 

「ミメット様が引き受けて下さるよう、説得を続けてみます。ミメット様はレヴィナ様とは親しいので、彼女にも協力を頼んでみるつもりです」

「リナーリア君…!」

トルトベイトが感動の面持ちになって私を見た。

「ありがとう…!そんなに真面目に彼女を勧誘するつもりだったなんて…疑ったりしてすまなかった…」

「疑った?」

「いや、何でもないから気にしないでくれ。君だけが頼りだ。僕にできる事なら何でも協力するから、頑張って彼女を説得して欲しい」

「はい!」

 

「俺も、いつでも協力しよう」

殿下はそう言って、私の顔を見た。

「君なら大丈夫だ。…君の誠意はきっと、彼女に届く」

 

…殿下は私を信頼してくれている。

嬉しい。

殿下が信じてくれるだけで、無限にやる気が湧いてくる気がする。

「ありがとうございます!頑張ります!」



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第116話 ミルクと紅茶

生徒会に入ってくれるよう、ミメットへの説得を始めて3日目。

昼休みになるのを待っていた私は、食堂にいるはずのミメットの元へと向かっていた。

昨日は普通にまた生徒会の利点や良い思い出などを話してみたのだが、やはり反応は芳しくなかった。

そこで今日はまず雑談から入ろうと思っている。

彼女の好きな小説、「暁の少女と6人の騎士」についてまた話すつもりだ。

そのため、彼女の「推し」である白銀の騎士と黒の騎士。この二人に特にスポットが当てられている3巻を持参してきている。

 

 

今日もレヴィナ嬢と二人で昼食を取っている彼女に、私は本を掲げつつ意気込んで話しかけた。

「あの、今日はミメット様と本のお話がしたいんです。ミメット様の、銀黒についての解釈をお聞かせ下さいませんか?」

リチア様が言うには、この解釈というやつを語らせれば、誰でも大変饒舌になるそうなのだ。きっとミメットとて例外ではないはずだと。

しかし、私の言葉を聞いてミメットはぎっと目を吊り上げた。

「…銀黒じゃないわ!黒銀なの!!」

「え…?何が違うんですか?」

「大違いなの!!」

「???」

助けを求めて思わずレヴィナ嬢の方を振り返ったが、彼女は何か絶望的な顔で私を見ていた。

…え、何だその救いようのないものを見るような目は。

 

「待って下さい、どうしたんですか?何かおかしな事を言いましたか?」

尋ねてみても、ミメットはもはやこちらを見ようともしない。

レヴィナ嬢が私へとゆっくりと首を横に振る。

これはもう、何を言ってもダメだと言いたいらしい。

そしてミメットは、それから一言も口を利いてくれなかった。

 

 

一体何が起こったのか分からず、私はとても混乱した。

おかしい。こんなはずでは…。

後ろ髪を引かれつつ、ミメットとレヴィナ嬢の元を辞去する。

しょんぼりと落ち込みながら昼食のトレーを持って歩いていると、視界の隅に手招きをしているカーネリア様が見えた。

ペタラ様やリチア様も一緒だ。

 

「…リナーリア様。さっきのはまずいですわ」

リチア様がひそひそと私に話しかける。さっきの様子を見ていたらしい。

「一体、何がまずかったんでしょうか」

教えて欲しいとリチア様の顔を見返すと、彼女は非常に重々しく深刻な表情になった。

「銀黒と黒銀は全く違いますわ。そこの順番はとても大事なのです。逆にすると戦争が起こるのですわ…」

「ええええ…!?」

何だそれは。どっちも同じではないのか。それで戦争て。

 

…いや待てよ、以前似たような話をスピネルから聞いた覚えがあるぞ。

「なるほど、分かりました。紅茶にミルクを入れるか、ミルクに紅茶を入れるか…みたいな話ですね?」

その昔、紅茶好きの騎士同士がミルクは後入れか先入れかで争い、決闘にまで発展したという話だ。

私はどっちでも同じだと思うが、こだわる人間はこだわるものらしい。

つまりミメットにも、そういう彼女なりのこだわりがあるのだろう…とそう言うと、リチア様は非常に残念なものを見る目で私を見た。

「全く違いますわ」

 

「…さっぱり分かりません…!!」

うなだれる私の肩を、カーネリア様が優しくぽんと叩いた。

 

 

 

「…はあ…」

放課後、机に座ったまま思わずため息をついていると、上から「大丈夫か」と声が降ってきた。

殿下だ。

「彼女は、今日も駄目だったようだな」

「はい…駄目でした。まず打ち解けようと思って彼女の好きな本の話をしようとしたんですが、それでむしろ怒らせてしまいました…」

「本ってこれか?」

横から手を伸ばしてきたのはスピネルだ。

私が机の上に置いていた「暁の少女と6人の騎士」を取り上げる。

 

「そうです。巷の女性の間で流行りの小説なんですが…そう言えばスピネル、午前中はどこに行っていたんですか?授業を受けていませんでしたけど」

スピネルは朝いつも通りに殿下と登校してきたのに、何故か午前の間は教室にいなかったのだ。午後になったらいつの間にか戻ってきていた。

「ちょっとな。野暮用だ」

「?」

思わず殿下の方を見るが、小さく首を振った。殿下も行き先を知らないらしい。

しかし、特に追求するつもりもないようだ。

 

 

パラパラと本をめくっていたスピネルは、あるページで手を止めた。じっと見つめる。

「…なあ殿下、この挿絵見覚えないか?見覚えっつ―か、似てる」

スピネルが殿下に向かってそのページを見せると、殿下は少しだけ眉を寄せた。

数秒考えてから「あ」と呟く。

「…あれか。確かに似てるな…」

私からはどのページなのか見えないが、本の開き具合でどのあたりか何となく分かる。

多分、主人公の少女が泉で水浴びをしているシーンだ。写実的なタッチで少女の後ろ姿の挿絵が描かれていたと思う。

女性向け小説のわりに妙に艶めかしい絵だった。

この小説には美しい挿絵がついていて、それもまた人気の理由の一つなのだ。

耽美だが男性は逞しく、女性は肉感的に描かれているのが特徴だ。

 

「他の絵も、やっぱ似てるよな?」

「ああ。似てる」

スピネルと殿下は顔を寄せ合い、本をめくって挿絵を確認している。

「二人共、ジャイロをご存知なんですか?」

挿絵師の名前はジャイロという。

しかしその名前は他の本では一切見かけず、一体どこの誰なのかは誰も知らない。

謎に包まれた絵師なのだ…と、前世でミメットが話していた覚えがある。

 

「ジャイロ?…ああ、そう書かれてるな。名前を変えてるのか」

奥付の部分を開いたスピネルが呟く。

「やっぱりご存知なんですね!?一体どこで見かけたんですか?別名があるんですか?」

私は畳み掛けるように尋ねたが、スピネルと殿下はなぜか顔を見合わせ、それからすっ…と目を逸らした。

「…?どうしたんですか?」

「あー…いやまあ、心当たりはある」

スピネルは妙に言いづらそうだ。

 

「多分、うちのレグランド兄貴の知り合いの画家だ。兄貴からもらった本に載ってる絵に似てるんだよ、これ」

「レグランド様の?一体何の本ですか?」

「…それは言えねえ。名前変えてるって事は知られたくないんだろうし」

「あ…そうか。そうですよね…部外者には教えられませんよね」

「……」

ちょっと肩を落とすと、スピネルも殿下も何だかとても気まずそうな顔になった。

 

 

…でも、これはもしかして使えるのではないだろうか。

「あの、その方に個人的に絵を依頼する事はできないでしょうか。もちろん正体を詮索したりはしませんし、謝礼もきちんとお支払いしますので」

「絵を?そりゃ、兄貴に頼めば連絡は取れるとは思うが…」

スピネルは怪訝な顔になり、それからすぐに私の意図に気付いたようだ。

「それでミメット嬢を釣るつもりか」

「有り体に言えばそうです。…物で釣るのはどうかとは思うんですが…」

だが今の所、他に突破口が考えられないのだ。

今日のやらかしで、彼女から私への印象は更に悪化しているだろうし。

 

「ふむ…」

殿下が少し考え込む様子になる。

「生徒会役員としては勧められないが…しかし、親しくなりたい相手への個人的な贈り物なら、別に問題はないだろう」

「殿下…!」

さすがは殿下だ。柔軟な考えをお持ちだ。

 

「じゃあ、城に帰ったら兄貴に仲介を頼んでやるよ。早い方がいいんだろ?」

スピネルが本を机の上に戻しながら言う。

「ありがとうございます!急いで手紙を書きますので、それを持っていってもらえますか」

「分かった」

大急ぎで鞄からノートを取り出す。封筒は…仕方ないので生徒会室にあるやつを借りよう。

どうか引き受けてもらえますようにと祈りながら、私はペンを取った。



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第117話 挿絵師と報酬・1

休日、私はスピネルと共に馬車に揺られていた。

小説「暁の少女と6人の騎士」の挿絵を描いているという正体不明の画家、ジャイロに会いに行くためだ。

ジャイロからの返事をスピネルが持ってきたのは、つい昨日のことだった。

 

 

「…え、もう返事が来たんですか?」

「ああ…まあな」

うなずいたスピネルは、懐から一つの封筒を取り出して私に手渡した。しかし何故かすごく微妙な表情だ。

早速封を開けて読もうとする私に、スピネルは言葉を続ける。

「詳しくは中に書いてあると思うが、ジャイロはお前の依頼を引き受けるに当たって一つ条件があるそうだ」

「条件?なんでしょうか」

「謝礼はいらないから、その代わりにお前に絵のモデルになって欲しいんだと」

「私を絵のモデル…は!?モデル!?」

慌てて手紙に目を走らせる。

そこには確かに、スピネルが言った通りの内容が書かれていた。絵を描く代わりに、一日モデルをやってほしいと。

「お前の都合さえ良けりゃ、明日早速アトリエに来て欲しいってよ。どうする?」

「明日!?」

 

 

…という訳だ。

いきなり明日というのには驚いたが、早ければ早い方がいい。

私は王宮魔術師団に行く予定をキャンセルし、ジャイロのアトリエへと行くことにした。

アトリエにはスピネルが案内してくれると言い、朝から馬車で迎えに来てくれた。

「アトリエは下町の住宅街にあるんだ。俺は行った事ないが、御者はいつもレグランド兄貴が使ってる奴だ。ちゃんと場所を知ってるから問題ない。本当は兄貴も一緒に来られたら良かったんだが、今日は外せない用事があるから、お前によろしく言っといてくれってさ」

「そうなんですか。近衛騎士も忙しいですしね」

「いや、デートだってよ」

「…そ、そうですか…」

相変わらずの色男ぶりらしい。

 

 

「…あの、今日は一緒に来てくださってありがとうございます」

向かいに座るスピネルに礼を言う。

スピネルは案内だと言ったが、実質付き添い兼護衛だ。スピネルだってそんなに暇ではないだろうに。

「別に気にしなくて良い。俺もあの絵を描いたのがどんな奴か気になってたしな」

そう言えば、スピネルはジャイロの別名義の絵をよく知っているみたいなんだよな。

一体どんな絵なんだろう。

 

「考えてみれば、貴方と二人で出かけるなんて初めてですね」

結構長い付き合いになるが、スピネルがいる時はいつも殿下が一緒にいるから、二人だけで行動した事自体ほとんどない。

「そうだな。…ちなみに殿下は今日、同じ学年の男連中とバドミントン大会に参加だそうだ。主催はアーゲンなんだが、お前らがやったスポーツ交流会の話を聞いてやりたくなったらしいな」

「へえ…」

そう言えば特に新学期になってから、殿下がアーゲンと話している所をちらほら見かける。

次期公爵である彼と仲良くしておくのはとても重要なので、良い事だ。

別に今までだって仲が悪かった訳ではないが。

 

 

馬車はゴトゴトと揺れ、王都の西側の方へ向かっていく。やや雑多な印象の通りだ。

そのうち、一本の細い路地の前で馬車は停まった。

御者が私たちに声をかけてくる。

「ここの路地を抜けた先がアトリエです」

「分かった。ありがとう」

「お帰りの時は、呼び鈴の魔導具をお使い下さい。お迎えに上がります」

「ああ。よろしく頼む」

 

 

スピネルの後について、狭い路地を歩く。

上を見上げると、建物の住民のものらしき洗濯物がいくつも揺れていた。こんな所、今世では始めて歩くな。

「あ、あそこだな」

スピネルが路地の先を指差した。

そこだけやけに派手な青に塗られたドアには、小さく「アトリエ」とだけ書かれたプレートが付いている。

 

 

スピネルがドアをノックをし、「スピネル・ブーランジェです」と名乗る。

ややあってからガチャリと音を立ててドアが開き、中から顎髭を生やした一人の男が姿を表した。

「やあ、こんにちは。待っていたよ。中へどうぞ」

 

アトリエの中、まず目に入ったのは奥の大きな机だ。

何枚もの紙が散らばっていて、ペン立てには筆がたくさん入っている。横の棚にずらりと並んでいるのはインクや絵の具のようだ。

それから、大きな本棚。

何かの本がぎっしりと並んでいる。中綴じにした薄い本が多いようだ。何の本だろう。

「散らかっていて済まないね。そこに掛けてくれ」

隅の方にある、来客用らしきソファを勧められる。

 

 

「…改めて、初めまして。僕はギロルという。春…」

「ゴホン!」

自己紹介の途中で、スピネルが大きく咳払いをした。

「ああ、済まない。本の挿絵などを描く絵師だ。ジャイロというのはペンネームの一つだよ」

ギロルと名乗った男は柔らかく微笑んだ。

絵師というから何となく偏屈そうな人物を想像していたのだが、全く違った。かなりの男前だ。

少し垂れ目の彫りの深い顔立ちで、低くてすごく良い声をしているので、役者だと言われても信じるだろう。

 

「初めまして、リナーリア・ジャローシスと申します」

「スピネル・ブーランジェです。兄から、お噂はかねがね」

「はは、どうせろくな噂じゃないだろう」

そう言ってギロルは笑った。

「レグランドと僕は同級生でね。学生時代はよく一緒に遊んだものだ。僕は卒業後、騎士にはならずこの通り絵師になったんだが、今でも親しくしてもらっているよ」

という事は、この人もどこかの貴族家の出身なのか。

学院にも通っていたようだが、それで絵の仕事を選ぶなんて珍しい。

 

「僕も、君たちの噂はレグランドから聞いている。武芸大会も見に行かせてもらったよ。氷狼を従える君の姿は実に美しかった。それでぜひ一度、君をモデルに絵を描いてみたいと思っていたんだ」

「そうなんですか…」

恥ずかしくてコメントしづらいな…。

 

 

「でもまずは、君の依頼の話だね。…最初に念を押しておくけど、僕の正体やこのアトリエの事は口外しないでくれ。あの小説の挿絵は知り合いの伝手で引き受けたものだけど、ちょっと事情があってね。僕の正体を読者には知られたくないんだ」

「分かりました。お約束します」

私の返事にギロルは一つうなずき、話を続ける。

「君の依頼は、白銀の騎士と黒の騎士の絵を一枚。そして、謝礼として今日一日僕の絵のモデルをやる。これでいいかな?」

「はい。大丈夫です」

「よし。じゃあ騎士の絵だけど、もうラフを何枚か描いているんだ。少し待っていてくれ」

 

ギロルは立ち上がり、机の方へ行った。

そこから数枚の紙を手に取り、またこちらへ戻ってくる。

「この中から好きな構図を選んでくれ」

「はい」

私は受け取った紙を眺めた。鉛筆の粗い線でそれぞれ二人の騎士が描かれている。

 

一枚目は鎧姿の二人が剣を鍔迫り合いさせている絵だ。

「わ、かっこいいですね」

「ラフなのに迫力あるもんだな」

横から覗き込んだスピネルが感心したように言う。

 

二枚目は二人が轡を並べて馬に乗っている絵。

「こちらもかっこいいですね」

「そうだな」

こっちは一枚目に比べて親しげな印象の強い絵だ。悪くない。

 

そして三枚目を見て、私はズバーン!!と音を立てて紙をテーブルに叩きつけた。

「な、何ですかこの絵は!!」

「あれ?きっとそれが一番気に入ってもらえると思ったんだけど、違ったかな?」

「断じて違います!!!!」

私は力いっぱい否定した。

三枚目は裸の二人が組んずほぐれつしている絵だった。

これはまるで春画ではないか。

 

「こんな淫らな絵を彼女に渡すわけには行きません!ダメです!!…スピネル!!そんな目で見るのはやめて下さい!!」

スピネルは完全に引いた顔で私を見ていた。

違う。これは私の趣味などではない、絶対に。

 

 

三枚目は見なかった事にしてテーブルに伏せ、一枚目と二枚目を両手に持って見比べる。

一枚目も捨てがたいが、ここはやはり二枚目だろうか。

ミメットは二人が戦っているよりも、親しげにしている絵の方が好きそうな気がする。全く自信はないが…。

「こちらでお願いします」

「分かった。小説の挿絵と同じようなタッチの白黒画でいいんだよね?」

「はい」

「なら2日もあれば描けるから、3日後には君の所に届けられるよ」

それを聞いて私は驚いてしまった。絵というのはもっと時間がかかるものだと思っていたからだ。

 

「そんなに早く出来上がるんですか?」

ギロルは当然だという風にうなずく。

「油絵と違ってペン画だからね。しかも色を塗らずに挿絵風に仕上げるなら、時間はそんなにかからない」

「そうなんですね…」

それにしても早い気がするが、元々描くのが早いタイプなのかもしれない。

モデルをやるのが今日一日だけで良いというのも、今日だけである程度描ける自信があるからなのだろう。

油絵で描かれる肖像画なんかは1ヶ月以上かかるし、何度もモデルをやらなければならないので大変なのだが。

 

「では、よろしくお願いします」

「ああ。任せてくれ」

ギロルはゆったりと微笑んだ。



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第118話 挿絵師と報酬・2※

依頼の絵の内容についてはまとまったので、次は報酬…モデルについてだ。

「手紙の返事にも書いたけれど、僕もまた、君をモデルに絵を描いた事を口外はしない。絵自体も、君がモデルだとはっきり分かるようなものにはしないつもりだ」

「はい」

「ちなみに、これは油絵で仕上げる予定だ。完成したら君にも見せるよ。作品を売ったり世に出す気は今の所ないけれど、その時はちゃんと君に許可を取る」

「はい。それで大丈夫です」

恥ずかしい事は恥ずかしいが、差し当たって問題はない条件だ。

 

 

「それじゃ、これに着替えてもらえるかな」

そう言ってギロルが取り出した服らしき折り畳まれた布を見て、スピネルがぎょっとして声を上げる。

「おい待て、着替える必要があるのか!?」

「あ、はい。その為にちゃんと脱ぎ着がしやすい服で来ました」

手紙でそのように指定してあったので、コーネルに相談したところ、前側でボタンを止めるワンピースとボレロを用意してくれた。

ドレスだと誰かに手伝ってもらわないとなかなか難しいが、これなら一人でも着替えられる。

 

「大丈夫大丈夫、そんなに心配しなくてもいかがわしい服じゃないよ。知り合いの劇団から借りてきた衣装だ」

「劇団とお知り合いなんですか」

「うん。たまにポスターを描いたりしてる。本業だけじゃなかなか食べていけないから、そういう仕事もちょくちょく受けてるんだよ」

なるほど。あの小説の挿絵もそんな仕事の一つという事か。

その本業が何なのかすごく気になるが、詮索しない約束だしな。

 

「簡単な作りの服だからすぐ着られると思うけど、着た時のイメージを図に描いておいたから参考にして欲しい」

ギロルが一枚の紙を差し出した。

簡素な絵で着用した時のイメージ図が描かれていて、飾り紐の結び方など多少の注釈も入っている。さすが挿絵師という感じだ。

「姿見はそこにあるよ。僕たちは一回外に出ているから、着替え終わったら呼んでくれ」

「分かりました」

私が服を受け取ると、スピネルもしぶしぶという表情でうなずいた。

 

 

 

しばらくして、着替え終わった私は恐る恐るドアの隙間から顔を覗かせた。

「…お待たせしました。着替え終わりました」

アトリエの中に戻ってきたギロルが、私を見るなり「おお!」と声を上げる。

「いいね。イメージ通りだ。素晴らしい」

スピネルもまた、「ほう」と感心したような声を出す。

 

用意されていた服は、豊穣の女神の衣装だった。

有名な絵画で着ているものと同じデザインで、女神像などが作られる際もだいたいこの服を着ている。

シンプルな白いドレスで肩口がかなり開いているが、イブニングドレスではこのくらいの露出も普通だ。

 

「豊穣の女神と言えば金髪がセオリーだけど、豊かな実りには水も欠かせないからね。君の青銀の髪もきっとよく似合うと思ったんだ」

ギロルは満足げだ。その横でスピネルが言う。

「…しかしずいぶんとまた、盛ったな」

「好きで盛ったんじゃありません。そういう指定だったんです」

私はムスッと唇を曲げた。

ギロルの描いたイメージ図には『胸には布を詰める』という注釈があり、その為の布もしっかり用意してあったのである。

まあ豊穣の女神と言えば、一般的に豊かに描かれるものなので仕方ないが。

 

「あとは髪型を整えて、冠を載せるだけだね。こっちへおいで」

「待て。俺がやる」

櫛を取り出したギロルをスピネルが止めた。

「君が?できるのかい?」

ギロルが少し目を丸くする。

「豊穣の女神の髪って言ったら、あの胸の前でゆるく編んでるやつだろ。あれくらいなら簡単だ」

スピネルは自信ありげだ。ギロルは軽く微笑むと、櫛をその手に渡した。

「…そうかい、じゃあ、お任せするよ。髪を結ぶリボンと冠はこれだ。その間に、僕は絵を描く準備をしておくよ」

 

 

スピネルは丁寧に私の髪を解いて梳いてゆく。

「貴方本当に何でもできますね…」

「昔、カーネリアの髪を結うのに練習したんだよ」

「カーネリア様の?」

スピネルが自分から妹の話をするのは珍しい。

「あいつちっちゃい頃に庭で遊んでる時、茂みをくぐり抜けようとして髪を引っ掛けてぐちゃぐちゃにした事があってな」

「へえ…」

カーネリア様らしいな。その様子が目に浮かぶようだ。

「このままじゃお母様に怒られるっつって泣くもんだから、俺が直したんだが…俺もその時は髪を結った事なんかなかったから、当然余計にぐちゃぐちゃになって。速攻でばれて、俺まで叱られた」

「まあ」

私は思わず吹き出してしまう。器用なスピネルでも、やはり最初は下手なものらしい。

 

スピネルは私の前に回ると、今度はゆるく髪を編み始めた。

「だから次からはちゃんと直せるように練習した。できるのは三つ編みとかの簡単なやつくらいだけどな」

「なるほど」

「まさかこんな所で役に立つとはな…。お前も、少しくらいできるようになった方がいいぞ。別に使用人任せでもいいんだろうが、覚えといた方が便利だろ」

「そうですね…髪って結構邪魔ですしねえ。スフェン先輩みたいに短く出来たら楽なんですが」

貴族女性ならば髪は伸ばすのが当たり前なので仕方ないのだが、やはり邪魔だ。

座る時にうっかりお尻で踏んづけてしまったりすると、引っ張られてとても痛いし。

先輩の短い髪は正直羨ましい。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「お前の髪が短くなったら殿下が泣くぞ」

「殿下が?何故?」

「そりゃ気に入ってるからに決まってるだろ。絶対そうだぞあれは。知らんけど」

「知らんけどって」

本当かなあ。確かに髪色を褒められたことはあったけど。

「実際きれいな髪だしな。…よし、できたぞ」

スピネルは三つ編みの先をリボンで結ぶと、草で編まれた冠を手に取り、私の頭に載せた。

「うん、いいんじゃないか?鏡で見てみろよ」

 

移動し、姿見に自分の姿を映してみる。

うーむ…髪型を変えて冠を載せたら大分それっぽくなったが、やはり似合っているかいまいち自信がない。

「お、いいね。完璧だよ。よく似合っている」

後ろから鏡を覗き込んできたギロルは微笑んで褒めてくれる。どうやらそちらの準備も終わったらしい。

 

 

 

大きな本棚には布が掛けられ、そのすぐ前に敷き布が敷いてあった。ここにモデルの私が立つらしい。

少し離れた所に置かれた小さな椅子は、ギロルが絵を描くためのものだろう。

「適当に休憩は挟むつもりだけど、疲れたりお手洗いに行きたい時は遠慮せずに言ってくれ。…じゃあ、裸足になって敷き布の上に上がってくれるかな」

「はい」

「斜め向きに立って、少し上を見て…うん、そうそう。で、このリンゴを持って、手はこんな感じで…」

指定された通りにポーズを取っていく。

「よし、少しそのままで」

 

画板を持ったギロルが、紙の上に鉛筆を走らせる音が聴こえる。

…こ、これ、想像以上にきついぞ。

同じ姿勢で動かないでいる事自体も辛いが、それよりリンゴを捧げ持った手がかなり辛い。

手がぷるぷると震えて来た所で、ギロルが声をかけてくる。

「辛かったら、リンゴを持った手はしばらく下ろしていてもいいよ」

た、助かった…。

 

その後何度か休憩を挟んだり、ポーズを変えたりしながらモデルを続けたのだが、スピネルはすぐに見ているのに飽きたらしく、居眠りをしたり本を読んだりしていた。

どうも例の「暁の少女と6人の騎士」のようだ。

挿絵を描いているからだろう、このアトリエにも全巻が揃っているらしい。

長めの休憩で一緒に昼食を取った時には、「意外と面白いな、あれ」とか言っていた。

そののんびりした感想にちょっとだけ恨めしくなったが、私は文句を言える立場ではない。

貴重な休日に、こうして付き合ってくれるだけ有り難いのだ。

 

 

 

そして夕方になり、ようやく私はモデルから解放された。

ギロルは納得の行く所まで作業が進んだらしく、満足げな様子だ。

途中で水彩絵の具を使って色を塗っていたようだが、それを元に油絵を描くつもりらしい。

「依頼の絵は、出来たらすぐに君の所に送るよ。君をモデルにした絵はもうしばらくかかると思うけど、完成したら連絡する」

「よろしくお願いします」

ギロルに頭を下げると、肩の前にある三つ編みが揺れた。服は元着ていたワンピースに着替えたが、髪は面倒なのでそのままだ。

 

「それじゃあ、気をつけて。レグランドによろしく」

ギロルはアトリエの外まで出て、微笑みながら私達を見送ってくれた。



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第119話 挿絵師と報酬・3

帰りの馬車の中、私は疲労でぐったりとしていた。

「疲れました…ずっと同じ体勢でいるのがあんなに辛いとは知りませんでした…」

「お疲れさん」

スピネルが軽く笑う。

 

「なかなか良かったぞ、お前の女神姿。少なくとも筋肉女神よりは遥かに良い」

「それは忘れて下さいって言ってるじゃないですか!!」

いつまで言う気だこいつ。頼むから忘れて欲しい。

「冗談だよ。本当に似合ってたって」

「どうだか…。ああいうのはやっぱり、もっと母性的というか、家庭的な感じの女性の方が似合うと思いますよ」

…例えば、フロライアみたいな。彼女の金髪は豊穣の女神のイメージにもぴったりだ。

「家庭的ねえ…」

スピネルが半眼になって腕を組む。

 

「そういやお前、前に言ってたよな。いい家に嫁ぐより国のために働きたいって。今もそう思ってるのか?」

「え?…そうですね」

殿下の、この国の役に立ちたい。その思いはずっと変わっていない。

すると、スピネルは私の目をじっと見た。

「…じゃあお前、俺が結婚してくれって言ったらどうする?」

 

 

「……は?」

思いきり眉をしかめる。

「何の話ですか?何か悪いものでも食べましたか?」

「例えばの話だよ。いいから答えろ。条件は悪くないぞ?稼ぎはいいし、地位もある。お前が王宮魔術師になりたいって言うならそれでもいい」

「え、いいんですか?」

私が王宮魔術師になるのには反対してるっぽかったのに。

 

「危険なのは気になるが、お前なら魔獣相手にそうそう遅れは取らないだろうしな。それにこれからは魔獣被害が更に増えるだろうから、どこにいたって危険だし…」

スピネルは少しだけ暗い顔をした。

魔獣がこの先更に増えていくだろうというのは、研究者や魔術師の間では一致した見解だ。

 

「俺もどうせ、多分この先ずっと王宮勤めだ。領地や家臣を持つ気もない。普通の貴族みたいに王都と領地を行ったり来たりしないし、守る家もないから、お前が王宮に勤めてても構わない」

「はあ」

「お前の苦手な社交だってしなくていい。魔術の研究がしたいとも言ってたか?必要なら支援もしてやる。人も、金も」

「そ、そんなことまで…?」

続けざまにあれこれ言われて思わず混乱する。

 

「…あの、あまりに私に都合が良すぎると思うんですが」

「そうだな。お前の望みは全部叶えてやる。…どうだ?」

何だそれは。私にそこまでする意味が分からない。

 

 

しかし実際、その私に都合が良すぎる条件は、彼なら十分に実現可能なものだ。

王子の従者という特殊な立場は、家や血筋に縛られた他の貴族よりも遥かに自由が利く。

普通ならば貴族の妻は女主人として家のことを取り仕切り屋敷を守らなければならないが、彼が本当に領地も家臣も持つ気がないのなら、その必要がない。結婚後も魔術師として働く事ができるだろう。

 

しかもスピネルは将来、王となった殿下の補佐として確実に要職に就くのだ。あちこちに顔だって利く。

私は本当は戦闘任務などより魔術研究の方がやりたいのだが、研究には資金がかかるし、物によっては各方面に様々な許可を取る必要がある。

しかも運良く研究が完成しても、利権が絡んでなかなか発表したり実用化できないなんて事もあるらしい。何の後ろ盾もなしにやるのは相当大変だと聞いている。

女の私が一人で魔術師をやるより、彼と一緒になった方がずっと楽にやりたい事ができるだろう。

あ、あれ…本当に断る理由が見つからないな…。

でも…。

 

 

「…お断りします」

…自然と答えが口から滑り出た。

 

スピネルも私がそう答えると予想していたのだろう、ごく普通に「だろうな」とうなずいた。

「それは何でだ?俺も、お前にとっては友人だからか?…それとも、何か他の理由か?」

「理由は…」

少しだけ視線を彷徨わせる。

 

…理由。なんだろう。一番大きな理由は。

何故か急に殿下の顔が浮かんできて、ひどく動揺した。

違う。そうじゃない。殿下は関係ない。

でも、じゃあ、なんだっけ。

すごく大事なことが、何かあったような気がする。

 

「俺と結婚すれば、お前はこの先も殿下の近くにいられるぞ。望み通り、殿下の友人としてな」

この先。そんなものは、私には。

「それでも断る理由は何だ。よく考えろ」

どうして殿下のことばかり思い浮かぶんだろう。

考えがまとまらない。喉が渇く。

 

 

「…おい、リナーリア」

鋼色の瞳がこちらを覗き込んで来て、私はのろのろと顔を上げてそれを見返した。

頭が痛い。

…何の話をしていたんだっけ。

そうだ、理由だ。理由を訊かれているんだった。

「お断りする理由は…」

 

 

「…スピネルだからですかね…」

「びっくりするほど最低の回答をありがとよ!!!!」

スピネルは思いきり叫んだ。

 

 

「はあ…お前に訊いた俺がバカだった」

「…しょうがないじゃないですか。貴方がおかしな事を訊くから悪いんです」

深々とため息をつくスピネルを睨みつける。

急に一体どうしたんだ。例え話だろうが冗談だろうが、全く面白くない。

疲労と共に思わず眉間を押さえる。

「頭が痛いのか」

「そうですよ。貴方のせいです」

「そりゃ悪かったな。…着くまで、大人しく休んでろ」

そう言って、スピネルはそれきり口を噤んだ。

 

 

 

やがて、馬車が学院の前に着いた。

「あの、スピネル!」

降りようとするスピネルを、私は慌てて呼び止める。危うく忘れる所だった。

「なんだ?」

「…これを」

私がポケットから取り出したのは、革紐の先に赤い石がぶら下がった小さな護符(アミュレット)だ。

 

「…何だこれ」

「護符です。剣の柄とか、鍵とか、小物とかに付けられるやつです」

「それは見れば分かるが」

「私が作りました。もらって下さい」

以前、コーネルやヴォルツへのプレゼントを買いに行った際、ついでに買った材料で作ったものだ。

スピネルに渡すならどんな魔法陣がいいか、あれこれ悩みながら作っていたら結構時間がかかってしまった。

 

「お前が?…俺にか?」

スピネルはちょっと目を丸くして、私が差し出した護符を見る。

「貴方には昔からずっとお世話になっていますし、水霊祭の時は助けていただきましたし…。あの時は、本当にありがとうございました。今日だってお世話になりましたし、これはその感謝の気持ちということで」

「それは…」

「いいからもらって下さい。どうせ、そんな大したものではないですし」

放っておくとまた借りがどうとか言い出しそうなので、私はスピネルの言葉を遮り、その手に護符を押し付けた。

 

 

スピネルはしばらく無言で手の中の護符を見つめていたが、やがてそれをぎゅっと握り締めた。

「…ありがとう。大事にする」

…良かった。

ほっと胸を撫で下ろす。

ほとんど無理矢理押し付けたようなものだが、ちゃんと受け取ってもらえた。

嬉しいだけではなさそうな、何とも言えない顔をしているのがちょっと気になるけど。

 

「…お前の分はないのか?」

「はい?」

ふいに尋ねられ、私は首を傾げた。

「俺からすれば、お前の方がよっぽど護符が必要だ。作って持っておけよ」

「作らなくても、ちゃんと持ってますよ。父から貰ったものです」

指輪だとかネックレスだとか、割と色々持っている。私が作れる程度の護符より、遥かに強力なものだ。

いつもどれか一つは身に着けるようにしている。

 

「それじゃ足りないから作れ。お前なら何か、滅多に手に入らないような貴重な素材とか持ってるだろ」

「ええ?」

やけに真剣な顔で言われ、少し困惑する。

そりゃまあ、魔術師の家なので珍しい素材も手に入れやすいが。何かあったかな…。

 

考える私をよそに、スピネルはさっと馬車を降りると、「ほら」と言って入口から手を差し伸べて来た。

そうだった、いつまでもここに馬車を停めっぱなしなのはまずい。邪魔になるし無駄に人目を引く。

私は慌ててその手を取り、馬車を降りた。

 

 

 

夕焼けの中、再び馬車に乗って去っていったスピネルを少しの間だけ見送った。

…帰りのスピネルはずいぶんおかしかったな。何だったんだろう。

訳の分からない事を訊いてきたり、護符を作れと言ったり。

頭痛はもう治まったが、なんだか本当に疲れてしまった。

 

しかし、私用の護符かあ…。

殿下用のも早く作りたいんだよな。

殿下にもお世話になっているし、ずいぶん前になるがお土産を頂いたこともある。

だからお礼がしたいのだが、殿下はちゃんと立派な護符をいくつもお持ちなのは分かっているので、どんなものを作れば良いのか悩んでしまいスピネル用のものより更に時間がかかっているのだ。

 

でも、行き詰まっているからこそ、気分転換に別のものを作ってみるのは良いかもしれないな。

とりあえず使えそうな素材が何かないか探してみよう…と思いながら、私は寮の玄関をくぐった。



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第120話 不自由の中でも

「リナーリア、今日はどうだった?」

放課後、次々と人が減っていく教室の中で殿下に声をかけられた。

「殿下!聞いて下さい、今日も一緒にランチをして、ちょっとだけ会話もできたんですよ!やりました!」

私は笑顔で報告した。これはもちろん、ミメットのことである。

 

私は最初の勧誘以来、どんなにすげなくされても毎日頑張ってミメットに話しかけていた。

トルトベイトには「そんなに無理をしなくても良いんだよ」と言われたが、彼女を説得する事を諦めたくなかったのだ。

そんな私に根負けしたのか、ミメットは今週になってから昼食に同席するのを許してくれるようになった。

ミメットはやはりほとんど話さず、主に私とレヴィナ嬢が会話する事になるのだが、ミメットもたまには小さく同意したり答えを返してくれたりしている。

 

 

…これは放課後皆に協力してもらい、努力した結果だ。

まず、リチア様やペタラ様には黒銀というものについて説明してもらった。

相変わらず難解だったし、知りたくもない知識が大量に増えてしまったが、とりあえずミメットの地雷を踏み抜かない程度には理解できた…と思う。

他にも、いくつか役に立ちそうな言葉や知識を教えてもらった。

 

そしてカーネリア様、ヴァレリー様、スフェン先輩には、若い貴族女性の間での流行についてレクチャーしてもらった。

私は流行に疎い。いつもすっかり流行りきった頃に人に聞いて知るのだが、今回はまだあまり知られていないもの、これから流行りそうなものについて教えてもらった。

カーネリア様は食べ物、ヴァレリー様はファッション、先輩は音楽や演劇などの芸術方面にそれぞれ強く、とても助かった。

ミメットもやはり女の子なので、そういう流行り物には興味があるようなのだ。

最先端魔術についてなら、私も詳しいんだけどなあ…それどころか少し先の技術まで知ってるんだけどなあ…。

どうして誰も興味を示してくれないんだ。

殿下もこればかりはちんぷんかんぷんだしな…。

今度ユークに話をしてみようかな。多分彼だけは食いついてくれる。

 

 

そんなあれこれが実ったのか、今日などはほんの数回ではあるが、会話を続ける事ができた。

レヴィナ嬢にも密かに助けてもらっている。

彼女とは一度、ミメット抜きでこっそり話をした。

リチア様を通して呼び出したのだが、最初は何故私がミメットと仲良くなりたいのか、ずいぶん訝しんでいたようだ。

しかし同席したリチア様の口添えもあってちゃんと分かってくれたようで、協力すると約束してくれた。

私が話題を出した際、その話題がミメット好みかどうか目配せして教えてくれるのだ。

たまに何を言いたいのか分からない目をしている事もあって困るが、それでもミメットの反応を読み取るよりも遥かに分かりやすい。

 

おかげでミメットと少しは打ち解けてきた気がする。

やはり頑張れば心は通じるものなのだ。通じているはずだ。多分。

生徒会入りの件はまだ了承してくれていないが…。

だが、そこについては切り札がある。

 

 

「…今日はついに、例の物が届く予定なんです。これで今度こそ承諾させてみせます!」

殿下に向かい、握りこぶしを作ってみせる。

「ああ、ジャイロとやらの絵か。もう届くのか」

そう、予定通りなら今日にはギロル…ジャイロに頼んだ絵が到着するのだ。それを餌にすれば、きっとミメットも生徒会に入ると言ってくれるはず。

「上手くいくといいな」

殿下はそう言ってわずかに微笑んだ。

それから、「ところで」とやけに真剣な顔になる。

 

「…君はそのジャイロの所で、絵のモデルをやったんだろう。豊穣の女神の衣装を着たとスピネルから聞いた」

「ああ、そうなんです。すごく疲れました…。おかげで騎士の絵を描いてもらえたので良かったんですが…」

「その絵を、俺も見たいんだが」

「え?」

そんなに真剣に言うほどギロルの絵が見たいのか。もしかしてファンなのかな。

 

「分かりました、構いませんよ。ミメット様に渡す前にお見せします」

「いや違うそっちじゃない」

殿下は真顔で間髪入れずに否定した。

「君の絵だ。君をモデルにした絵が見たい」

「えっ。そっちですか?」

びっくりして殿下の顔を見返す。

何故そんなものが見たいのか、というか恥ずかしい。

ギロルはモデルが私だとはっきり分からないように描くと言っていたが、殿下に見られると思うと物凄く恥ずかしい。

 

「…あの、でも、どんな絵になっているか分かりませんよ。似ても似つかないものになっているかも…それに、殿下が見て面白いものかどうか…」

「それでも構わない。見たい」

殿下はきっぱりと言った。

うう…、そんな風に言われると断れない。

「…分かりました。完成までにはしばらくかかると言っていましたが、できたら連絡をくれるそうなので、一緒に見に行きましょう」

「ああ。よろしく頼む」

 

 

うーむ、そうなると、またお忍びで行くことになるのかな。住宅街の、しかも結構奥の方だったし。

「アトリエは下町にあるんです。行く時はスピネルに相談しましょう。護衛の手配ですとか、色々準備が必要でしょうし」

スピネルと私だけならともかく、殿下も行くならちゃんと予定を立てて護衛も数人連れて行かないといけない。

ギロルにも事前に連絡しておく必要がある。いきなり殿下を連れて行ったら驚くだろうし。

そう言うと、殿下は何だか残念そうな顔になった。

「どうかなさいましたか?」

「…俺も、スピネルのように君と二人だけで出かけられたら良いんだが」

 

眉を曇らせた殿下に、少し首を傾げる。

「二人だけで、ですか」

「いや、すまない。少し羨ましかっただけだ。護衛たちは俺のために働いてくれている。こんな風に思うのは、俺のわがままだと分かっているんだが…」

「殿下…」

武芸大会以来、殿下の護衛は増えているはずだ。どこに行くにもぞろぞろ連れて行かないといけない。

幼い頃からそれに慣れている殿下でも、少々窮屈に感じてしまっているのかも知れない。

「俺と一緒だと、君にも不自由な思いをさせてしまう。すまない」

 

 

「…殿下!」

申し訳無さそうにする殿下の顔を、私は正面から見た。

「そんな事を気になさる必要はありません。それは私だって、もっと自由に…殿下と二人でどこかに出かけられたら、きっと楽しいだろうと思いますが…」

殿下はいつも我慢ばかりなさっている。

祭礼だとか視察だとかで王都を出る事があっても、自由にどこかを見て歩ける訳ではない。常に護衛や沢山の人に囲まれ、行き先も決められている。

本当はカエルのたくさんいる沼だとか、眺めの良い丘だとか、もっと静かで人のいない場所にだって、色々行ってみたいだろうに。

…それなのに、私のことまで気に病まないで欲しい。

 

「それでも私は、殿下と一緒にいられるだけで楽しいです。不自由だったとしても、殿下と一緒なら、きっとどこに行っても楽しいです」

「リナーリア…」

殿下は目を見開いて私の顔を見つめ、それから一瞬俯いた。

 

 

「…ありがとう。俺も、君がいてくれればそれだけでとても嬉しいし、楽しい」

もう一度顔を上げた殿下の表情は、先程とは打って変わって朗らかだった。

「一緒に絵を見に行こう。楽しみにしている」

「はい!」

ちょっと恥ずかしいけれど、殿下が楽しんでくれるならそれでいい。

思わず嬉しくなって笑った私に、殿下もまた微笑みを返してくれた。



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第121話 親友

寮に戻ると、すぐにコーネルが出迎えてくれた。

「お嬢様。ギロル様からのお荷物が届いています」

厚紙製の筒を差し出され、私は急いでそれを受け取った。筒を捻って蓋を開け、中から丸められた紙を取り出す。

「わあ…。見て下さい、とても凛々しい絵です」

「本当ですね」

白銀の騎士と黒の騎士が並んで馬に乗っている絵。

ラフの時よりも細かく描き込まれているので、より表情豊かだ。馬上で楽しく会話を交わしているのがよく分かる。

「私、早速ミメット様の所へ行ってきます。着替えはその後で」

「承知致しました」

 

 

ミメットは放課後は大抵すぐに寮に戻っているようなので、きっともう部屋にいるだろう。

部屋がどこなのかは管理人に尋ねればすぐに分かった。

どうやらレヴィナ嬢との二人部屋らしい。

 

ノックをすると、ややあってドアが開きレヴィナ嬢が顔を出した。私を見て少し目を丸くする。

「リナーリア様」

「こんにちは。ミメット様はいらっしゃいますか?」

「はい。どうぞ中へ」

レヴィナ嬢はミメットの許可を取ることもなく私を中へと招き入れた。

前から思ってたけどこの子、一見ミメットに従ってるようで実は結構好き勝手してないかな…。

 

 

案の定、部屋に入ってきた私を見てミメットは驚いたようだった。

「りっ…!」

「こんにちは。お邪魔いたします」

私は微笑み、レヴィナ嬢に勧められてミメットの向かいの椅子に座る。

目を白黒させているミメットの耳に、レヴィナ嬢が唇を寄せた。

「ミメット様、ちょうど良かったじゃないですか。チャンスですよ」

「れ、レヴィナ!」

チャンス…?一体なんだろう。

レヴィナ嬢は相変わらず声量を抑えられていないので、会話はこっちに筒抜けだ。

ミメットは何故か慌てている。

 

「もしかして、ミメット様も私に何か御用がおありでしたか?」

「わ、私…私は…」

尋ねてみるが、ミメットは何やらもごもごとするばかりだ。どうしたんだろう。

「…それより、貴女の方こそ何なの!何の用で来たの!?」

噛みつくような勢いで逆に尋ね返されてしまった。

 

 

…何だかよく分からないが、私の用件は変わらない。

絵が入った紙筒を膝の上に置いたまま話を始める。

「あの、しつこくて申し訳ないんですけど…ミメット様に生徒会に入って欲しくて、そのお話に参りました。…すみません…」

いい加減聞き飽きているだろう事は私も理解しているので、ついミメットの機嫌を伺うような言い方になってしまう。

案の定ミメットは唇を真一文字に引き結んで私を睨んだ。

ああ、やっぱり不機嫌になってる…。

 

すると、レヴィナ嬢がミメットを肘で突ついた。

「ほら、ミメット様」

「分かってるの!…あ、あの」

「はい」

上目遣いに睨んでくるミメットと向かい合う。大丈夫だ、突っぱねられるのには慣れている。

「…入っても構わないの」

「ええ、そうですよね…。なので今日は…、…えっ?」

私は耳を疑い、もう一度聞き返した。

「い、今なんて言ったんですか?」

「…だから!入っても良いって言ってるの!」

 

 

私はぽかんとしてミメットの顔を見た。

ミメットは怒ったような表情で、頬を赤く染めている。

「…入ってくれるんですか?」

「さっきからそう言ってるじゃない!」

えっ…。な、何で急に?

承諾してくれるのは嬉しいけど、急展開で理解が追いつかない。

 

混乱する私に、レヴィナ嬢が説明してくれる。

「つまりミメット様は、今日まで毎日、何度も何度もリナーリア様にお声をかけていただいて嬉しかったんですよ。何しろお友達いませんし」

「レヴィナ!!!!」

ミメットが怒るが、レヴィナ嬢はどこ吹く風だ。

「でも、なかなか素直になれなかったんですね。ミメット様、ツンデレなので」

「ち、違うの!!」

 

ミメットは赤い顔のまま俯き、ぼそぼそと言う。

「…あんまりにもしつこいから、折れてあげるだけなの…」

レヴィナ嬢が「本当にツンデレですね」と肩をすくめ、私はまじまじとミメットを見つめた。

ツンデレという言葉の意味は私も知っている。この前リチア様がやけに丹念に教えてくれたのだ。

きっと役に立つからと言っていたが…。

 

 

…何て事だ。

手の中の紙筒を思わず握り締める。

前世よりも時間はかかってしまったけれど。

こんな小細工などしなくても、殿下が言った通り、私の思いはちゃんとミメットに届いていたのだ。

「ミメット様…!」

嬉しさが胸いっぱいに湧き上がり、私は紙筒を置くと身を乗り出してミメットの手を握り締めた。

 

「ありがとうございます!ミメット様が承諾して下さって、本当に嬉しいです。…これから一緒に、生徒会で頑張りましょう!!」

「え…ええ」

ニコニコする私に、ミメットが気圧されたようにうなずく。

「あっ、もちろん、生徒会以外でもです!お友達として、仲良くいたしましょうね!!」

「そ、そうね。…しょうがないから、少しくらいなら付き合ってあげてもいいの」

ミメットはぷいっと横を向いたが、これは照れているんだと思う。ツンデレというのはそういうもののはずだ。

ミメットの隣のレヴィナ嬢だってにっこりしているし。

 

 

 

…本当に良かった。ミメットが生徒会に入ってくれる事も嬉しいが、それ以上に私の気持ちが伝わっていた事が嬉しい。

このちょっと拗ねたような顔で横を向くミメットの姿には、前世でも見覚えがある。

あの頃はきっと彼女の機嫌を損ねたのだろうと思っていたが、もしかして違っていたのかな…。

それを確かめる術は、もうないけれど。

 

「ところで、リナーリア様。これは?」

レヴィナ嬢がテーブルの上に置かれた紙筒を示す。

「あっ…。ええと、これは」

どうしよう。これでミメットを釣るつもりだったとは言いにくい。

でも彼女のために用意したものだしな…。やっぱり渡した方がいいよな。私が持っていてもしょうがないし。

「ミメット様が生徒会入りを承諾して下さった時に、お祝いとして渡そうと思っていたものです。どうぞ、見てみて下さい」

微妙に目的を誤魔化しつつミメットへと差し出す。

ミメットは少し怪訝な顔で受け取ると、紙筒の蓋を開けた。

そして、中に入っていた紙を広げる。レヴィナ嬢も横からそれを覗き込んだ。

 

 

「…これは…!?」

二人は驚愕に息を呑んだ。

「こ、これ、白銀の騎士と黒の騎士…!?挿絵にそっくりなの…」

「本物!?本物のジャイロの絵ですか!?リナーリア様、これを一体どこで!???」

「すみません、入手元は明かせません。でも、喜んでいただけたみたいで良…」

「リナーリア様!!!」

言い終わる前に、眼鏡を光らせたレヴィナ嬢にがっちりと両手を握られた。

 

「ミメット様のお友達なら私にとってもリナーリア様はお友達!!…いえ、もはやミメット様は関係ありません。私たちは親友です!!そうですよね!??」

「え?は、はあ…」

「ちょっとレヴィナ!!」

ミメットが慌てて割り込んでくる。

「何ですかただのお友達のミメット様。私の親友のリナーリア様に何か御用でも」

「ず、図々しいわ!!だったら私だって親友なの…!」

「昨日まであんなに渋っていたのにですか」

「それはそれ!これはこれなの!!」

 

 

…何やら言い合い始めたミメットとレヴィナ嬢に、私は呆気に取られる。

こんなミメットの姿は初めて見た。

前世ではいつもツンとして澄まし顔でいたのに、こんな風に騒いだりもするんだな。

でも年相応な彼女の一面が見られて、なんだか嬉しい。

親しくなるという事は、こういう色んな顔を知るという事なんだろう。

 

「ふふ…」

つい愉快な気持ちになり、口元を抑える。

「…あの、ミメット様、レヴィナ様。良かったら、この絵に対するお二人の解釈をお聞かせいただけませんか?」

そう声をかけると、二人はぴたりと言い合いをやめ私の方を見た。

 

 

「…そ、そうね。聞かせてあげてもいいの」

「あ、ちょっと待ってください。でしたら私、お茶を淹れてきます」

「そうだわ、レヴィナ、フィナンシェがあったはずなの。あれも出してちょうだい」

「はいはい、分かっております」

「はいは一回でいいの!」

仲良く言い合う二人に思わず苦笑する。

どうやらこの二人は、私が思っていたよりずっと良い主従…いや、友達のようだ。

二人もいっぺんに友達が増えて、私はとても幸せだった。



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第122話 貴重な素材(前)

翌日の始業前、私はミメットの事を報告するために会長のトルトベイトに会いに行った。

3年生の教室の近くまで行くと、トルトベイトは廊下で同じ生徒会メンバーである男子生徒と話している所だった。

ちょうど良いと近付いた私に気付き、二人とも「やあ、おはよう」と手を上げる。

「どうだい、進捗は?」

「はい!ミメット様には、無事に生徒会入りを承諾していただきました」

笑顔で報告した私に、二人が揃って「えっ」と目を丸くする。

 

「本当か?彼女、ようやく入ってくれる気になったのか」

「ありがとう、リナーリア君!!いやあ良かった、一時はどうなることかと…お疲れ様、本当に助かったよ」

二人は安心した様子で私の事を労ってくれた。かなり手間取っていたから、心配されていたらしい。

 

「明日は生徒会がある日なので、私が彼女を生徒会室に連れて行きます。役員の皆さんへの挨拶はその時に。それと、しばらくは私が彼女に付いて仕事を教えようかと思ってます」

「え、彼女ちゃんと来るのかい?」

「役員として活動する気があるのか?在籍するだけじゃなくて?」

「はい。もちろんです」

私がうなずくと、二人は驚いた顔になった。

二人共、仮にミメットが生徒会入りを承諾したとしても、活動に参加する気はないだろうと思っていたらしい。

 

「…ちゃんと参加してくれるなら、それに越した事はないな。人数は多い方がいいし」

「でも、大丈夫かな?君はともかく、他のメンバーと上手くやっていけるだろうか」

少し心配げにトルトベイトが言う。まあ、今までのミメットの態度を見ていたらそう思うのも仕方ない。

「大丈夫です。最初は人見知りをするかも知れませんが、そのうち馴染んでいけると思います。少し意地っ張りな所はありますが、彼女、ツンデレなだけですから」

「…ツンデレ?」

トルトベイトと男子生徒は顔を見合わせた。

 

 

「…そっか!ツンデレなら仕方ない。…うん!ありだね!あり!」

何やらうんうんと深くうなずいたトルトベイトに、男子生徒が懐疑的な視線を向ける。

「ありなのか…?」

「いやあ、ありでしょ。そっかあ、ツンデレだったんだ、あれ」

「勧誘を断られた時は、あんなに落ち込んでたじゃないか」

「あの時はね!でも今となってはご褒美に思えてきたよ!」

「ええー…」

男子生徒は少し引いている。

どうやらトルトベイトはツンデレに理解があるようだが…ご褒美ってなんだ?

 

「まあ何にせよ、承諾してくれて良かったよ。皆でなるべく仲良くやっていこう!明日はよろしくね」

「はい」

トルトベイトは上機嫌みたいだ。

会長の彼が積極的にミメットを受け入れるなら、他のメンバーもきっとそれに倣ってくれるだろう。少し安心する。

「では、どうぞよろしくお願いします」

そう言って私は二人に頭を下げ、その場を辞去した。早く教室に戻らなければ授業が始まってしまう。

後ろから「ツンデレ…ツンデレかあ…」という声が聞こえてきたが、あまり気にしないでおこう。

 

 

 

それから、放課後。

まっすぐ寮へと戻った私は、机に向かって紙を広げていた。

紙に書かれているのはさまざまな魔法陣のアイディアだ。ここ数日ずっと取り組んでいる。

スピネルに作るよう言われた自分用の護符だが、あの後、部屋で考えていて思い出した。

確かに私は、滅多に手に入らないような貴重な素材を持っている。

 

今日はあまり風がなかったせいか、部屋の中は少し熱気がこもっている。

もう9月も半ばなのにまだ暑いなと思いながら、机の上の小瓶を手に取った。

中に入っているのは、時折赤く輝く小さな黒い破片だ。

 

これは3年前、私が古代神話王国のものらしき遺跡に迷い込んだ時、ポケットに入れたままうっかり持って帰ってきてしまったものだ。

恐らくは、『流星(ミーティオ)』と呼ばれていた竜の鱗の破片。

あの時はこれを手に持つとほんのり温かく感じたのだが、今はその温かさは無くなってしまっている。しかし、光に当てると赤くきらめく美しさは相変わらずだ。

 

あの遺跡にあった本や記録によると、当時の人々は竜の身体の一部を何らかの道具や素材として使うための研究をしていた。

だから私もこの破片を護符の素材にできないだろうかと考え、色々試してみたのだが…。

今の所、驚くべき結果が出ている。

…この鱗の破片は、私の魔力との相性が物凄く良いのだ。

 

 

人の魔力にはそれぞれ波長のようなものがある。

この波長のわずかな差により、人それぞれ相性の良い素材が存在する。

護符に最もよく使われるのは石や金属などの鉱物だが、木材だとか、動物の骨、角、革なども一般的だ。

ただし生き物を元にした素材は、鉱物素材に比べ相性の差が激しいという特徴がある。

 

相性の良い素材を護符の材料にすると、自分の魔力を通しやすいために魔法陣を描き込みやすい。逆に相性の悪い素材を使うと描き込みにくく、描けても歪んでしまったりする。

魔術師の中には、牛革にはどんな複雑な魔法陣でも容易に描き込めるのに、馬革とは相性が悪くてまるで描き込めない…なんて人も存在したりする。

それだけ魔力相性は繊細だ。

唯一の例外が魔石で、これだけはどんな人間でも容易に魔力を通すことができる。だから魔石は貴重なものなのだ。

 

ちなみにこの魔力相性というのは、魔力を持つ人間同士の間にも存在する。

魔力相性が良い相手とは精神的にも肉体的にも相性が良く、惹かれ合いやすいのだそうだ。

男女の場合は子供を作った際に高魔力者が生まれやすいと言い、そのため、結婚相手はなるべく相性が良い者を選んだ方がいいとされている。

 

 

…それはさておき、素材に対する魔力相性の確認は、その素材に魔力を送り込んで反応を見るのが一般的だ。

しかし、遺跡で手に入れた鱗の破片はこれ一つしかなく替えがきかない。

迂闊に魔力を送り込んで何かおかしな反応でも起こしたら困るので、私はまず破片を慎重に削って作った少量の粉で試してみた。

すると、僅かな量だというのに非常に強く私の魔力に反応したのだ。

ぼんやりと光ったり熱を発するなど、何らかの変化を起こすのは相性が良い素材である証拠だが、眩しいくらいに光るしすごく熱い。

魔術師としてそれなりに色々な素材に触れてきているが、こんなに相性が良いものは初めてだ。

特に火魔術の系統への適合性が高そうなのは、さすが竜と言った所だろうか。

 

これを使えばかなり複雑な魔法陣を複数描き込む事もできそうだ。

始めは少し試してみるだけのつもりだったが、今は正直かなりわくわくしている。

どういう魔法陣を描こうかな。

魔法陣もまた素材との相性で効果が強まったり弱まったりするので、どれが良いか慎重に確かめてから描き込まなければ…。

 

 

考え込みながら破片を眺めていると、後ろからコーネルに声をかけられた。

「…お嬢様、用意ができました」

「あ、ありがとうございます」

小瓶を持ったまま机から立ち上がり、テーブルへ移動した。

今日はブルーベリーの砂糖漬けを買ってきてあるとコーネルが言うので、果実水にして二人で飲もうと用意をしてもらっていたのだ。



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第123話 貴重な素材(後)

コーネルには、私が学院に行っている間は好きにしていいと言ってある。

寮の部屋の掃除やら洗濯やらだけでは時間が余るというからだ。

大抵は縫い物だとか小物作りだとか、小銭を稼げるようなちょっとした手仕事をしていると言うが、出かけることだってもちろんある。

 

彼女は私の母から、私が使う消耗品類を買うためのお金を預かっているので、砂糖漬けはそのお金で買ってきたらしい。

私はフルーツの砂糖漬けを水で割ったり、搾った果汁に砂糖を加えた果実水の類がかなり好きなのだ。

夏場の暑くて食欲がない時でも果実水なら飲めるので、昔からよく家の者が作ってくれていた。

今年は少し残暑が厳しいので、こういう気遣いはありがたい。

 

 

魔術で氷を作り、果実水の入った二つのグラスへと落とす。

スプーンでかき混ぜるとカランと音を立てて氷が回った。

果実水はこうやって冷やして飲むのが一番美味しいのだ。

 

「最近、ずっとそれを弄っていらっしゃいますね」

果実水を飲みながら、コーネルがちらりと小瓶を見る。

「あ、はい。これで護符を作りたいんですが、とても貴重な素材なので慎重にやっているんです。多分二度と手に入らないので」

「そんなに貴重なんですか」

「はい。内緒ですよ」

何しろ古代の竜の鱗だ。

こんな貴重な素材を個人的に使ってしまう事への罪悪感もあるが、魔術師の性か、好奇心には勝てそうもない。

 

「上手く行けば凄いものが出来ると思います。殿下に差し上げるのも良いかも知れません」

どんな効果を付けるかにもよるが、良い物が出来たなら殿下に使って欲しいな。

そう思ったのだが、コーネルは何故か難しい表情になった。

「…私はお嬢様がお持ちになった方がいいと思います」

「え?そうですか?」

「はい」

真剣な顔でうなずかれてしまう。

うーん…まあ確かに、怪しげな素材で作られたものを殿下にお渡しするのもどうかとは思うしな。

予期しない不具合が出るかもしれないし、誰かに見咎められて調べられたりしても困る。

やっぱり自分用にする方が良いだろうか。

 

 

少し悩んでいると、果実水のグラスに目を落としたコーネルがぽつりと「お嬢様」と呟いた。

「…覚えていらっしゃいますか。王子殿下と初めてお会いになった時のこと。お嬢様は、わんわんお泣きになっていました」

「…ええ、はい…」

物凄く恥ずかしい思い出だ。忘れられる訳がない。

「お嬢様は昔は結構な泣き虫でした。まだお小さい頃、ヴォルツ様が剣の稽古で怪我をした時、血を見たお嬢様がびっくりして泣き出してしまった事がありました。でもヴォルツ様が心配だからと言って、泣きながらもずっと傍を離れようとしませんでした」

そ、そんな事もあったかな…。確か前世の記憶が戻る前のことだ。

「ヴォルツ様がジャローシス家の中でもお嬢様を特別大事に思っているのは、その時のことをずっと覚えているからですよ」

「そうなんですか!?」

それは完全に初耳だ。何となく私に甘いような気はしていたが。

 

「…でも、お嬢様は…王子殿下と出会われてからは、泣いている所をほとんど見なくなりました」

「……」

それはそうだ。記憶が戻ってからの私は、見た目は少女でも中身は20歳の男だった訳だし。

子供の身体にどうしても精神が引っ張られてしまうらしく、全てを堪える事はできなかったが、なるべく我慢して泣かないようにしていた。

 

「他にも、あの時からずいぶんお変わりになりました。虫や生き物に興味を持ったり、魔術の本ばかり読み始めたり、難しい言葉を使うようになったり…」

「…そ、そうですね…」

改めて言われると、あの頃の私は傍から見て相当様子がおかしかったように思う。

前世の記憶と今の自分との齟齬を埋めるのに必死だったため、あまり周りのことを考える余裕はなかったが。

 

「旦那様や奥様は、王子殿下に会って変わったんだろうと仰っていました。王子殿下のために、お嬢様なりに考えて頑張っているのだろうと。私もきっとそうなのだろうと思いました。…でも、どれほど変わっても皆何も言わなかったのは、お嬢様のお優しい所は変わっていなかったから…」

コーネルは自分の胸元を握りしめた。そこには、先日私が贈った護符のネックレスがある。

「そうして頑張ることが、お嬢様自身の幸せに繋がると思っていたからです」

 

 

「…あの、どうして急にそんな話を?」

私は戸惑いながら尋ねた。

コーネルがこんなに長く話をするのは珍しい。なにか大切な事を伝えたいのだと思うが。

「お嬢様は近頃時々、ぼーっとしてらっしゃる事があります。自分でお気付きですか?」

「…え」

そんなつもりは全くなかった。覚えがない。

 

「それに、隣室の方に聞きました。時々夜中にうなされているようだと。お嬢様は子供の頃も、時々夜中にうなされておいででした。もう何年も前に治まったと思っていたのですが…」

…これも心当たりがない。

子供の頃の話なら分かる。特に記憶が戻ったばかりの頃は時々あったのだ。前世の夢を見てうなされることが。

コーネルの言う通り、ここ数年はそういう事も減っていたはずだが…。

でも確かに最近、朝起きた時に妙な疲労感があったりする。

 

 

「何かお悩みがあるのではないですか?心配事だとか…」

やっと分かった。コーネルはどうやら、私の事がひどく心配らしい。

確かに私には、小さな事から大きな事まで色んな悩みはある。

だがそれは今までだってずっと抱えてきたものだ。近頃急にという訳ではない。

ぼーっとしているという話も私自身にそんな覚えはないし、身体だっていたって健康だ。

うなされているのは少し気になるが、体調に異変を来したりはしていないし。

 

「大丈夫ですよ、コーネル。それはまあ、悩みがないとは言いませんが…。それほど心配するような事は何もありません」

私は本心からそう言った。

「ぼーっとしたりうなされていたのは、少し疲れていただけだと思います。近頃は残暑が厳しくて寝苦しかったですし、眠りが浅くなっていたのかも知れません。睡眠不足なのかも…」

今世の私は比較的よく寝ている。

前世で夜更かしをして本ばかり読んでいたら目が悪くなってしまったのを反省したのと、コーネルが「お肌に良くありません」と言って怒るからだ。

だからなるべくちゃんと睡眠時間を取るようにしているのだが、暑くて眠りが浅くなったり、夢見が悪い時はどうしても睡眠不足になりがちだ。

 

「しかし、お嬢様…」

「本当に大丈夫です。でも、今日からはもう少し早くベッドに入るようにします」

それを聞いたコーネルはじっと私の顔を見た。

しばらくそうして見つめてから、「…そうですか」と呟く。

 

 

「ですが、何か思い悩んだ時は必ず誰かにお話し下さい。私でなくても、カーネリア様やスフェン様、ラズライト様…それから、スピネル様。皆様、必ずお嬢様の力になって下さいます」

コーネルは真剣な表情で言い含めるように言う。

「私はお嬢様が心配です。…王子殿下の事はもちろん大事だと思います。でも、お嬢様ご自身のことも大切になさって下さい」

 

…彼女にこれ以上余計な心配をかけたくない。

それに、今の私にはたくさん信頼できる人がいる。たくさんの信頼や好意を寄せてもらっている。

何もかも全てという訳にはいかないけれど、できる限りその人達に報いていきたい。

だから私は、素直にコーネルの言葉にうなずいた。

「分かりました。何か困った時は、きっと誰かに話します」

コーネルは少し複雑そうな顔をしてから、私へと一つ頭を下げて「お願いします」と念を押した。



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第124話 夢と仕事

10月の最後の休日、私は殿下と共にギロルのアトリエを訪れる事になった。

私をモデルにして描いた豊穣の女神の絵画が完成したという連絡が来たからだ。

 

「こんにちは、久し振りだね。元気だったかい?」

迎えの馬車から降りて甘いマスクで微笑むレグランドに、私は淑女の礼を返す。

「はい。レグランド様も、ご壮健の様子で何よりです」

今日は護衛としてレグランドも同行してくれる事になった。殿下もいるので、近衛騎士が来てくれるというのは心強い。

スピネルももちろん一緒だし、後はテノーレンもいる。どうやらテノーレンは最近、殿下の護衛魔術師として固定されてきたようだ。

 

 

城下町へと向かう馬車の中、レグランドが私に話しかけてくる。

「ギロルの所では豊穣の女神の衣装でモデルをやったんだってね」

「はい」

「それは僕もぜひ見てみたかったなあ。そう思いませんか?王子殿下」

「ああ」

殿下は大真面目な顔で同意した。思わず焦る。

「そんな、見るほどのものでは」

「いやあ、きっと美しかっただろう。僕も一緒に行けば良かったな」

 

うーん…自分ではあんまり似合ってた気はしないんだけど。

「確かに、スピネルやギロル様は似合っていると言って下さいましたが…」

困りながらそう言うと、レグランドは興味深そうにスピネルの顔を覗き込んだ。

「へえー?そうなんだ?」

「…いや、こいつなら普通に似合うだろ、そんなの」

スピネルは仏頂面で横を向く。

何だその顔。そんな嫌そうにするくらいなら無理に褒めてくれなくていいんだが。

 

レグランドが半笑いになって肩をすくめる。

「スピネルはさ、僕にはちっとも君の話をしてくれないんだよね。カーネリアからは色々聞いてるんだけど」

「おいやめろ!」

スピネルはますます不機嫌な顔になるが、レグランドはニコニコしながらその頭をかき回した。

「お兄様に向かってその態度は良くないなあ。色々バラしちゃってもいいのかな?」

「ぐっ…!」

 

スピネルはいつも私達には年上ぶっているので、兄からこうして弄られている姿は正直面白い。

隣を見ると殿下もおかしそうにしていて、私はつい我慢できずに笑ってしまった。

「おい…」

「スピネル、八つ当たりはやめろ」

睨むスピネルを殿下が笑いながら嗜める。

「そうだよー。やめなよー」

「うっせえ!」

…やっぱりスピネルって、兄妹には弱いよな。

 

 

 

そうこうしている間にアトリエの近くまで来た。

馬車を降り、慣れた様子で狭い路地を先導するレグランドの後について行く。

すぐに特徴的な青いドアのついたアトリエが見えた。

 

「ようこそいらっしゃいました、王子殿下。お久し振りです」

私達を出迎えたギロルは、まずは殿下に向かって落ち着いた仕草で礼をした。殿下が少し眉を寄せる。

「…すまない、面識があっただろうか」

「まだ殿下がお小さい頃です。覚えていなくても無理はありません」

ギロルは微笑むと、次に私を見た。

「やあ、君のお陰で良い絵が描けたよ。ゆっくり見ていってくれ」

「はい。ありがとうございます」

 

 

アトリエの中は前回より少しだけ片付いているようだった。

中央には布が掛けられたキャンバスが置かれている。

「こちらになります」

ギロルはキャンバスの前に私達を案内すると、その布をさっと捲った。

 

「ほう…」

殿下が嘆息を漏らした。

私も少し驚く。想像していたよりずっと幻想的なタッチの絵だ。

青銀の髪をした女神が、木の枝から黄金のリンゴをもぎ取ろうとしている。

足元に伏せているのは、金色の毛並みを持つ狼だ。

背景には滝が流れ落ちる川も描かれていて、全体的に涼やかなイメージが強い。

「やはり君に似ているな。とても美しい」

「それは…、ありがとうございます」

私がお礼を言って良いものか迷ったが、とりあえず言っておいた。美しいのは絵であって私ではないんだけども…。

 

 

「豊穣の女神と言えば、果樹園や小麦畑と共に描かれるものだが…。これは今までにない、新しい豊穣の女神だな」

「ありがとうございます。王子殿下にそう言っていただけて、とても光栄です」

感心している殿下に、ギロルが深く頭を下げた。

レグランドも、どこか感慨深げな表情で絵を見つめている。

「いい絵だな。お前の理想に少し近付けたんじゃないか?」

「ああ。そうだね」

 

「理想とはなんだ?」

尋ねた殿下に、笑いながら答えたのはレグランドだ。

「こいつの初恋の相手は、あの豊穣の女神様なんですよ、殿下」

「初恋?」

女神が初恋ってなんだろう。思わず首を傾げる。

「まあ、間違ってはいないけど…。僕が絵を描き始めたのは、あの有名な『豊穣の女神とリンゴ園』の絵に感銘を受けたからなんですよ」

「ああ、なるほど。そういうことか」

王宮に飾られている、とても有名な絵画だ。

私が着た女神の衣装も、その絵の姿が元になっていたはずである。

 

「いつか、あの絵よりも美しい…僕だけの女神を描くのが、昔からの僕の夢だったんです」

「そうだったのか。…今までのお前の絵はあまりその、そういうイメージではなかったが…」

「ここ数年は、まるで違う絵ばかり描いていましたからね」

言葉を濁しつつ言った殿下に、ギロルは苦笑する。

 

「画家を志したはいいものの、最初はちっとも上手く行かなかったんです。何枚、何十枚と描いても、あの絵の美しさの足元にも及ばない。それに、女神の絵ばかり描いたところで売れはしませんでした。こんな絵は誰も求めないと、ずいぶん手厳しい事を言われたりもしましたね」

そう言って、ギロルは少し遠い目をした。

「だから、生活のために全く違う絵…大衆向けの絵、挿絵やら何やら、そういうものを描く仕事を始めました。そうしたらどうも才能があったみたいで、そっちでは評価されたんですよ」

確かに、ギロルがジャイロという名前で描いた挿絵は魅力的だった。

生き生きとして躍動感があり、登場人物それぞれの個性がよく出ている。

 

 

「どんな絵であれ、初めて評価されて僕はとても嬉しかった。描いていて楽しいと感じたし、世間での人気も出てきて、やりがいを感じました。最近はそれで満足して、このまま大衆向けの絵だけを描く絵師として生きていってもいいんじゃないかって、そう思い始めていました」

そこでギロルは言葉を切り、私の方を見た。

 

「…でも、レグランドに誘われて観に行った武芸大会で、氷狼を従える君の姿を見た時。不意に新しいイメージが閃いてね…。女神と狼、このテーマでもう一度豊穣の女神を描いてみたくなったんだ」

 

なるほど…と私は内心で腑に落ちる。

豊穣の女神は、子孫繁栄の加護を与える神としても知られている。

そして狼は群れで暮らす生き物で、自分のつがいや子供たちをとても大切にする習性がある。「家族」を象徴する獣として、家内安全や子孫繁栄の守りとされる事もあるのだ。

女神と狼という2つが、あの決勝戦の私の姿を通してギロルの中で結びついたのだろう。

 

「この絵を描いている間、とても充実していました。仕事で描く絵ももちろん充実しているし楽しいけれど、やはり僕は自分の理想を追いかけたい。どんなに遠くて苦しい道のりでも、夢を諦めたくはない。…その事を思い出せたんです」

希望に満ちた目をするギロルに、殿下は深くうなずいた。

「辛く苦しい道だと分かっていても、理想を追いたい…か。俺も同じだ。そこへ向かって努力する事を諦めたくない」

「王子殿下もですか」

「ああ。だからという訳ではないが、お前の志は素晴らしいと思う。陰ながら応援している」

「…ありがとうございます。そのお言葉を胸に、励ませていただきます」

ギロルは感じ入った様子で礼をした。

 

 

「リナーリアさんも、ありがとう。今の僕の絵はまだまだ理想には遠いけれど、君のお陰でそこに至る糸口は掴めたと思う。本当に感謝している」

「いえ、そんな…」

微笑むギロルに、恐縮を通り越して少し困ってしまう。

私はモデルをしただけだし、そもそも私のどこから豊穣の女神を連想したのかさっぱりだ。

 

「こちらこそありがとうございました。描いていただいた騎士の絵、とても喜んでもらえました」

「それは良かった。理想は理想で追っていくけれど、大衆向けの絵を描く仕事の方もちゃんとやっていくつもりなんだ。生活は大事だし、人に喜んでもらう絵を描く楽しさというのも知ったからね」

それを聞いて私は少し安心した。

ギロルの夢を応援したいと私も思うが、『ジャイロ』の絵を楽しみにしているファンだっているのだから。

 

「あの絵、本当に素晴らしかったです。表情豊かでどういう場面なのかすごく想像の膨らむ絵だと、贈った相手も言っていました。描いていただけて本当に良かったです」

絵を見て興奮していたミメットやレヴィナの姿を思い出しながら言うと、ギロルは嬉しそうに微笑んだ。

「…絵師冥利に尽きるね。本当に嬉しい言葉だよ」

それから、「そうだ」と机の方を振り返る。

「あの小説、今新刊の挿絵を描いている所なんだ。良かったら見るかい?」

「本当ですか?ぜひ」

 

 

 

描いたばかりだという数枚の挿絵と、その周辺のシーンの文章を見せてもらった。

殿下も興味があるらしく、私の隣から覗いている。

「あの油絵のタッチとはまるで違う。同一人物が描いたのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになるな」

「そうですね。どちらもとても魅力的な絵なんですが、方向性が全く違います」

そんな事を話していると、後ろでスピネルとレグランドがギロルとぼそぼそ話している声が聴こえた。

 

「あんたの絵は良いんだが、最新作のあの本はちょっとねーわ…」

「そうか、やっぱりあれは不評かあ」

「ちょっと上級者向けだよね。好みが分かれるというか」

「一部のお客さんからは大人気なんだけどねえ、あれ」

「マジかよ」

「普通のやつばかりだとだんだん物足りなくなるらしくてね…。たまには変わり種を出した方がいいって言われて描いたものなんだよ」

「それで触手はやりすぎだろ…」

「いや僕もあまり趣味ではないんだよ。本当だよ?」

 

 

「…?」

どうやらギロルが仕事で描いた絵の話をしているようだが、職種の絵ってなんだ?

一体どんな絵なんだろうと首を傾げつつ殿下の方を見ると、殿下は一瞬でさっと目を逸らした。

「殿下?」

「なんでもない。俺は知らないし全く分からない」

「それ絶対知ってませんか?」

「知らない。ついでに言えば、君も知らなくていいと思う」

 

むう…。

何だか分からないが、殿下のことだから深いお考えがあって言っているに違いない。

「分かりました。気にしないことにします」

そう答えると、殿下はほっとした顔になった。

すごく気になるなあ…。何なんだろう?



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第125話 仕立て屋(前)

ギロルのアトリエを出た後は、レグランドの案内で小洒落たレストランに行ってのランチだ。

名物だという牛肉のパイ包み焼きに舌鼓を打ちながら雑談をする。

「殿下はもうすぐ視察に出発されるんですよね」

「ああ。今年はまた日程を縮める事になったから、あまり遠くまでは行かないが」

「それは…、残念ですね」

 

社交シーズンが終わった秋は、毎年恒例の王子による各地への視察の時期だ。

いくつかの領を周り、見聞を広めたり各領の貴族や住民たちと親交を深めたりする。

元々、学院在学中の三年間は日程を短縮し行き先も絞るものだが、今年はどうやら去年よりも更に縮小する予定のようだ。

王都を離れるとなると危険が増える。なので私としては日程短縮は望ましいのだが、殿下にとって視察は数少ない外に出られる機会なのだ。やはり気の毒になってしまう。

「まあ、仕方ないさ。学業も大事だし、視察は来年以降だってあるんだしな」

そう言ったスピネルに、殿下も「そうだな」と答える。

思っていたより気にしていない感じかな。少し安心だ。

 

 

「この後は仕立て屋に行くんですよね」

「ああ。最近城下町に新しくできた店で、貴族向けから裕福な平民向けまで色んな服を作ってるらしい。ずいぶん大きくて洒落た店だって話だ」

私の問いにスピネルが答えてくれる。

なんでも、お洒落に敏感な貴族の間では近頃評判の店らしい。

そこで殿下やスピネルの服を頼みたいのだという。

 

殿下の服と言えば基本的に、昔から馴染みの仕立て屋を城に呼んで仕立ててもらうものだが、今回はお忍びの時などに着る平民っぽい服が欲しいのだそうだ。

近頃逞しくなったせいで以前の服が合わなくなってきたかららしい。

そこで今回、ギロルのアトリエに行くついでに店を見てみようかという事になった。

私も特に問題はない。前回は私の買い物に付き合ってもらったのだし。

「近頃流行りの仕立て屋というのがどういうものか、少し見てみたいしな」

殿下がそう言ったのはちょっと意外だった。流行り物にはあまり興味がないと思っていたのに。

でも、様々なものに感心を示すのは悪いことではあるまい。

 

「僕は行ったことがあるんだけど、なかなか面白い店だよ。女の子ならきっと楽しめるんじゃないかな」

レグランドは私の方を見てにっこり笑った。さすが、モテる男は流行りにも敏感なようだ。

私自身はそんなに興味はないが、まあカーネリア様やミメットへの良い土産話になりそうかな。

どうも私の身長はもう、あまり伸びないみたいだからなあ…。特に新しく服を仕立てる必要は感じない。ちょっと悲しい。

 

 

 

件の仕立て屋はここから歩いていける距離だという。そのために近い場所にあるレストランを選んでいたらしい。

「店主は普通よりも広い店を作りたかったみたいでね、それで商店街からは少し離れた所を選んで建てたらしいよ」

「へえ…」

仕立て屋でそんなに広いなんてどういう店なんだろう。工房がすごく大きいとかかな。

そんな事を考えつつ、昼下がりの人で賑わう通りをのんびりと歩く。

もうすっかり秋で朝晩などは冷えるようになったが、この時間は柔らかな日差しが暖かい。良い季節だ。

 

 

やがて、大きな建物が見えてきた。

看板には巨大な鋏が飾りつけられていて、どうやらあれが仕立て屋らしい。

「本当に大きなお店なんですね」

店の入口の横はショーウィンドウになっていて、男性と女性の人形が一体ずつ飾られている。

女性の人形はピンク色のワンピースを着ているが、スカートの丈が少し短めで、変わった形の襟が付いている。先進的な感じがするデザインだ。

 

「いらっしゃいませ~!」

店内に入ると、若い女性店員が明るく出迎えてくれた。かなり派手な化粧だ。

「わあ…、すごいですね」

壁際には色とりどりの布がぎっしりと棚に並べられている。

何より目を引くのが、いくつも立てられたトルソーだ。コートやドレスだけでなく、シャツやベスト、ブラウス、ワンピースなども飾られている。

さらに、ハンガーに掛けられた服もたくさん置かれているようだ。

 

「当店で展示されている服は、全てが試着…つまり、実際に身に着けて試してみる事ができます~。それで気に入った場合に、改めてご注文いただく仕組みです~」

「…気に入らなければ注文しなくてもいいのか?」

説明した店員に、殿下が少し目を丸くした。

「はい~。ご注文の際には、丈の調整の他、生地の色を変えたりボタンを変えるなど、細かなデザイン変更も承っております!あ、もちろん、展示品をそのままお買い上げいただくこともできますよぉ」

 

「実際に着て試せるというのは良いですね」

仕立て屋に服を注文すると、仮縫いかあるいは完成した時まで着てみる事はできない。

いざ納品されて袖を通したら何だかイメージが違ったり、思っていたより似合わなくてがっかり…なんてこともよくあるのだ。

…と言っても私の場合、用意された服をそのまま着るだけなのでそんな経験はないのだが…。

お洒落にこだわる御婦人や殿方にとっては、試着というのは嬉しいものではないだろうか。

 

 

「じゃあまず、俺たちの服から見ていくか」

そう言ってスピネルが指し示した先には、様々な男性服が並べられている。

仕立てた場合の参考価格も添えられているが、普通の仕立て屋より安めのようだ。元から大まかなデザインや型紙が作られているからか。

前に行った護符屋のシステムに少し似ているなと思う。

洋服もこれからはオーダーメイドではなく、量産を前提としたものが流行っていくのかもしれない。

 

「着てみたい服がありましたらお申し付け下さい~。試着のお手伝いをいたします」

愛想の良い店員に見守られながら、トルソーやハンガーにかけられた服を見ていく。

「これとか…こっちとかどうだ」

手に取っているのは大体スピネルだ。殿下はうなずきながらそれを受け取るばかりである。

まあ何となく想像はしていたが…。私も一応見てみるが、どうもよく分からない。

 

 

「一旦試着なさってみてはいかがですか?」

両手に何枚も服を抱えた所で、店員がそう声をかけてくる。

「そうだな。とりあえず着てみろよ」

「うむ」

店員の案内で、殿下は奥の試着室へ入って行った。

 

「お前は何かないのか?勧めたい服とか」

「それが、どれも全部良さそうに見えてしまって…選ぶのが難しいです」

スピネルと話しつつ周辺の服を見て待っていると、殿下が少し躊躇いがちな様子でカーテンを開けて出てきた。

 

 

「…どうだろうか」

殿下が着ているのは、控えめにフリルがあしらわれたシンプルなシャツだった。

しかしボタンが鮮やかな青い色をしているのがお洒落に見える。ガラスボタンだろうか。

「すごくよくお似合いです!」

「うん、いいんじゃないか?」

「そうか。ありがとう」

「じゃ、次だな」

 

次に着て出てきたのは、シャツとセットになったベストだ。胸元で切り替えが入っているのがこれまたお洒落である。

「これもお似合いです!」

「ああ。悪くない」

私の隣でスピネルやレグランドもうなずく。

 

次は少し変わった刺繍の入ったコート。

「これもかっこいいですね!さすがです」

「まあ、そうだな」

 

そして次。

「こちらもお似合いです!かっこいい!」

「……」

 

さらに次。

「さすが!何でも似合いますね!!」

「…お前の感想マジで全然参考になんねーな!!!」

褒め称える私に、スピネルが思い切り突っ込みを入れた。

 

 

「えっ、だって、似合ってますし…かっこいいですし…」

「それは分かるが、語彙力ゼロか!!もうちょっと何かないのかよ!」

「そ、そんな事言われても…」

服なんてどう褒めたらいいのか分からない。実際似合ってるんだからそれで良いじゃないか。

「はああああ…」

スピネルは深々とため息をつき、レグランドは口元を抑えて笑っている。

 

「じゃあせめて、どれが一番良かったとかないのか」

「ええと…」

私は少し考え込む。

「最初のシャツと、あとこっちの…」

「これはもう少し落ち着いた色の方が良くないか?」

「そうかも知れません」

「俺はこれが…」

私とスピネル、それから殿下本人の意見も取り入れ、採寸をしていくつかの服を注文する事になった。

 

 

 

その後はスピネルの服も選んだ。

しかしここでも私は「似合ってます」と「かっこいいです」を連発し、死ぬほど呆れられた。

「褒めてるじゃないですか!何が不満なんですか!」

「全部同じ事しか言わないんじゃ褒められてる気がしねえよ!!」

「むぐ…」

 

流行りに疎いという私の弱点が完全に出てしまった。

ヴァレリー様に女性のファッションだけじゃなく、男性のファッションについても教えてもらうんだった…。

「だって、貴方なら何を着たって本当に似合うじゃないですか」

顔がいいと得だよな…と思いつつそう言うと、スピネルはものすごく嫌そうな顔をした。

褒めてるっていうのに何故そんな顔をするんだ。

ちなみにレグランドは後ろでずっと笑っていた。笑いすぎだろ。



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第126話 仕立て屋(後)

「じゃ、後はお前のだな」

採寸を終え、自分の注文も済ませたスピネルが私の方を見ながら言った。

「私は別に必要ありませんよ。服なら足りてますし」

「お前な…せっかく仕立て屋に来てるんだからちょっとは興味持てよ…」

スピネルががくりと肩を落とす。

「君なら何を着ても可愛いだろうけど、この機会に流行りの服を作ってみてもいいんじゃないかな?お洒落を楽しむというのも良いものだよ」

レグランドもそう言って笑ったが、必要ないものを作るのもなあ。

服は決して安いものではないし、私は無駄遣いは好きではない。

 

「リナーリア、さっきは君に俺の服を選んでもらった。だから今度は俺たちで君の服を選べたらと思うんだが…」

「で、でも」

殿下にまで勧められて困ってしまう。

「ほら、こう言ってんだから見に行こうぜ。見て気に入らなきゃ、別に頼まなくたっていいんだし」

「…そうですね。分かりました」

別に急いで帰る必要もないのだし、少しくらい見て行ってもいいだろう。

 

 

 

「つー訳で、どれがいいと思う?」

女性服が並べられた辺りに来た途端、スピネルはそう言って殿下の肩に手を置いた。

「…俺が選ぶのか?」

「さっき自分でそう言ったろ」

スピネルはどうやら手伝う気はないらしい。殿下が困った顔になる。

「しかし、俺だけではどういうものが良いか分からん」

「そんなん簡単だろ。好みのやつを選べばいい」

「こ、好みと言われても」

「こいつに着て欲しい服を選べってことだよ。ほら」

「……」

 

殿下はものすごく難しい顔をして、並んだ服を真剣に見始めた。

ええと…これ、私はただ待っていればいいのか?何だか申し訳ないけども。

「お手並み拝見だね。スピネル、お前は選ばなくていいのかい?」

「嫌だよ。面倒くさい」

肩をすくめるスピネルに、レグランドは少し苦笑した。

 

 

やがて、殿下が一着のワンピースを手に持ってこちらにやって来た。

「…これがいいと思うんだが…」

「一着だけでいいのか?」

「ああ」

スピネルの問いにうなずきながら、殿下は私にワンピースを手渡した。

「まあ、お目が高い!そちらは本日店に出したばかりの最新作なんですよ~。お客様が試着の一人目です」

女性店員がニコニコと笑う。

 

試着室に入り、店員に手伝ってもらってワンピースを身に着けた。

肌触りの良い、かなり上質な生地で作られた服だ。

「大変良くお似合いですよ~。お連れ様にも見ていただきましょう」

「はい」

 

 

おずおずとカーテンを開けて表に出ると、「おお…」という声が上がった。

視線が集中して少し恥ずかしい。

殿下が選んだワンピースは、アイボリーホワイトの生地に白や淡いピンクの糸で小花の刺繍が施されたものだった。

胸元やふんわり広がったスカートの裾、腰に巻くリボンには美しいレースが使われている。とても上品なデザインだ。

 

レグランドとスピネルの兄弟が、にやにや笑いを浮かべつつ殿下を見る。

「ははあ、なるほどー。こういうのが好みなんですね。分かります分かります」

「清純系な。分かりやすいよなあ」

「別に良いだろう!!」

殿下は赤くなって怒った。

「いやいや褒めてるんですよ。彼女の魅力をよくご存知だ」

「そうだな。よく似合ってる」

 

 

うーん、とりあえず皆褒めてくれてるって事でいいのかな…。

少々落ち着かない気分で袖やら裾やらを見下ろしていると、殿下が私の方を見た。

「とても良く似合っていると思う。…気に入ってもらえただろうか」

 

…正直に言えば、私にはやっぱり分からない。

とても可愛らしい服だということは分かるけど。

でも殿下が私のために選んでくれて、よく似合うと言ってくれたのなら、気に入らないはずがないのだ。

「…はい。とても」

そう微笑むと、殿下は嬉しそうに笑った。

 

「では、その服は俺から君に贈ろう」

「え!?」

私はびっくりして、慌てて両手を振った。

「そんな、いただけません」

小物だとか花くらいならともかく、服というのはかなり値が張る。しかもこのワンピースは、使われている生地や刺繍を見ても良い品だ。

いや値段など殿下にとっては問題ではないのだろうが、そもそも服など友人同士で贈り合うようなものではない。贈るとすれば、家族だとか恋人同士くらいだと思う。

「今日付き合ってくれた礼だ。…それに、つまり…俺が君に、この服を着てほしいんだ」

 

 

「……」

そんな目で私を見つめるのはやめて欲しい。

ひどく恥ずかしくなって、何も言葉が出てこなくなってしまう。

思わず黙り込んだ私の肩に、ぽんと手が乗せられる。レグランドだ。

「ここはありがたく受け取っておきなよ。男に恥をかかせちゃいけないよ?」

ぱちりとウィンクをしつつそう言われる。私は迷いながらも小さくうなずいた。

「分かりました。…あの、ありがとうございます。大切に着ます」

「ああ」

殿下はもう一度微笑んだ。

 

「じゃあ、今着てるやつをそのまま買い取りでいいんじゃないか?サイズも問題なさそうだし」

スピネルの言葉に、私は腕を持ち上げてみた。動きにくさは特に感じないし、ウエスト部分はリボンで調整できる。

「そうですね。大丈夫そうです」

「では、これは買い取りで頼む」

殿下に声をかけられた店員は「ありがとうございます~」と頭を下げた。

 

 

「よろしければ、このまま着て行かれますか?」

「良いんですか?」

「はい。着ていた服は紙袋にお入れします~」

もう一度着替えるのも面倒だし、せっかく選んでいただいたのだからそうしようかなと思っていると、スピネルが少し首をひねった。

「そうすると上着も必要だな。それじゃ寒いだろ」

「着てきたものがありますが」

「あれは合わないだろ、デザインが」

「……」

そうか。コーディネートの事まで考えていなかった。

 

「なんかその辺のやつから好きなの選べよ。一着が二着になったって大して変わらないし」

「そうだな。そうするといい」

殿下もそう言うので、並んでいる上着から何か選ぶことになった。

しかし好きなのと言われてもな…。

とりあえず髪色に合わせて青っぽいやつ選んでおけばいいかな。

 

「ええと…これとか」

金糸で縁取りのされた青い上着を手に取ると、スピネルが横から私の手元を覗き込んだ。

「そのワンピースに合わせるなら、隣の色違いのやつの方がいいんじゃないか」

「こっちですか?」

こちらはくすんだ落ち着いたピンク色だ。ハンガーから外し、ワンピースの上に羽織ってみる。

 

「うん、やっぱ合ってるな」

「ああ。よく似合っている」

殿下も褒めてくれた。

普段はあまり身に着けない色だが、スピネルの見立てに間違いはなかったようだ。

「では、これにします。…ありがとうございます」

隣を見上げて礼を言うと、スピネルは口の端を持ち上げて少し笑った。

 

 

 

帰り際、入口近くにある棚がふと目に入った。

最初に男性服の方に行ってしまったので気付かなかったが、結構目立つ場所だ。

「…あの、これってもしかして…」

「お客様もご存知ですか?こちら、近頃巷で大変人気の品なんですよ~!」

店員がニコニコ笑いながら手に取ったのは、ふかふかな毛で作られた真っ白なウサギ耳だった。

 

「…大変人気の品…」

どう見ても、私が芸術発表会で着けたのと同じ物である。

「ええ!なんと、あのエスメラルド王子殿下が考案されたアイテムなんですよぉ!!」

後ろでゴホッ!と殿下が咳き込んだ。

「お祭りやパーティーでの出し物で使うのはもちろん、お洒落のために身に着ける方もいらっしゃいますよ~。一番人気がこちらの白いウサギ耳でして、王子殿下が恋人に着けて欲しいと思って考えられたものだとか!なかなかユニークなご趣味ですよね~」

殿下がゴホゴホとさらに激しくむせ込んでいるのが聴こえる。

 

 

「……」

一体なんと言えばいいのか。

完全に誤解なのだが、今の私たちはお忍びな訳で、それは違うと否定する事もできない。

レグランドは笑いをこらえつつ殿下の背中をさすっているが、スピネルは声こそ出さないものの腹を抱えて笑っていた。こいつ…。

「このつけ耳というファッションアイテムは、とても画期的な発想だと王都の仕立て屋たちが揃って舌を巻いたそうです。値段も手頃ですし合わせる服を選ばないので、貴族の方だけでなく平民の間でも人気が出始めております~」

 

値札を見ると、確かに服に比べると遥かに安い。

この値段なら服を頼むついでにと買う者もいそうだが…そうか、本当に流行っているのか…。

「王子殿下は大変優秀な方とお聞きしますが、このような分野にも優れた感性をお持ちと知って、私たちとしても嬉しい限りなんですよ~!」

「まあ」

恋人云々の誤解はともかく、殿下が民から親しみを持ってもらえるのは私としても嬉しい。

 

「ちなみに二番人気がこちらの猫耳ですね。尻尾とセットで購入される方も多いんですよぉ」

「そうなんですか…」

店員の言葉にうなずきつつ、私はまだ笑っているスピネルの足を踏みつけた。

「痛って!!」

「笑いすぎです」

ようやくこいつの足を踏めたな。満足だ。

 

 

…とりあえず、店員による熱心な売り込みは丁重に断った。

仕立て屋を出た後は、カフェに行きお茶を飲んで一休みだ。

前回と同じ店だったが、ここの紅茶はやはり美味しい。また茶葉を買っていく事にする。

それから、馬車で送ってもらい寮に帰った。

 

 

 

「とても素敵です、お嬢様。本当にお似合いです」

「ありがとうございます」

コーネルは嬉しそうに私の服を絶賛してくれた。

昔からよく私の服を見立ててくれている彼女に褒められると、何となく安心するな。

別に殿下やスピネルの褒め言葉を信用していない訳ではないのだが、どうも落ち着かない気持ちになってしまうし。

 

「ご実家に帰られる際には持っていって、旦那様方にも見せて差し上げましょう。きっとお喜びになられます」

「…そうですね」

両親や兄は今年の社交シーズンを終え、すでに領地に帰っている。

去年の年末は私は領地に帰らず王都に残ったのだが、さすがに今年は帰らなければまずそうだ。

できれば王都を離れたくないのだが…。

 

コーネルがクローゼットを開け服をしまう様子を何となく見ていると、奥の方に白いウサギ耳がちらりと見えた。

私が芸術発表会の時に頭に着けたもので、記念にもらってくれとアフラ様に言われ、とりあえず持ち帰ったのだ。

これが本当に巷で流行るとはなあ…。さすが殿下だ。

今度パーティーに行ったら、着けている人がいないか探してみよう。



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挿話・20 ツンデレ令嬢【前世】

「ミメット様。今日のはさすがに酷かったと思いますよ」

ミメットの好きなミルクたっぷりの紅茶を淹れながら、レヴィナは言った。

 

彼女はここ数日ずっと、一つ上の学年の銀髪の少年から話しかけられ続けている。

と言っても、デートの誘いだとかそういう色気のある話ではない。

彼は生徒会役員で、生徒会を代表してミメットに生徒会に入って欲しいという勧誘に来ているのだが、それに対する彼女の態度は控えめに言ってもかなり酷い。

「…しょうがないじゃない。リナライト様のお話、本当に長ったらしくて面白くないんだもの」

そう言って唇を尖らせるミメットに、レヴィナはこれ見よがしに「はあ」とため息をついた。

 

ミメットはレヴィナの家にとって主家に当たる、コーリンガ公爵家の少女である。

世話役として面倒を見るよう父から言いつかっているのだが、レヴィナとしては主人というより友達…いやむしろ、妹に近い存在だ。

何しろとても手がかかる。頑固で捻くれていて、口が悪くて、何かあるとすぐにへそを曲げる。

多分家に色々と問題を抱えているせいなのだろうと思うが、正直かなり面倒くさい性格だ。

それでも、案外可愛い所もあるので嫌いになれないのだが。

 

 

「確かにリナライト様のお話は長くてつまらなかったですけど、それは昨日ミメット様が『生徒会の良い所なんて全然分からない』って言ったからでしょう。多分一生懸命説明してくれてたんですよ、あれ。ちっとも伝わってきませんでしたけど」

「…レヴィナの方が酷いと思うの」

「私は面と向かって言ったりしませんし」

「……」

ミメットは眉間にしわを寄せながら、ミルクティーに砂糖をどばどば入れている。

 

「いい加減承諾して差し上げたらどうです?本当は入ってもいいと思ってますよね?」

「思ってないの。生徒会なんて嫌」

「入ればリナライト様と一緒にいられますよ」

「べ、別にそんなの、嬉しくないの」

ぐるぐるとミルクティーをかき混ぜるミメットに、もう一度レヴィナはため息をつく。

 

 

「…でも、好きなんですよね?」

「違うわ!!!」

ミメットは真っ赤になって否定したが、レヴィナに平然と見返されると、ぷいっと目を逸らした。

「…か、顔が好きなだけなの」

「いや好きなんじゃないですか」

「顔よ!!顔だけなの!!」

「まあ確かに顔は良いですけど」

眼鏡のせいでやや地味な印象を受ける彼だが、よく見ると整った顔をしている。美少年と言っていい。

 

「私はちょっとヒョロすぎると思いますけどね」

「そこが良いんじゃないの!汗臭いそこらの男とは違うの!!」

「やっぱり好きなんじゃないですか…」

「……!!」

とても分かりやすい。

今の所彼がミメットの気持ちに気付いている様子は全くないが、こういう態度を見せれば少しは違いそうなのに…とレヴィナは思う。

これならどんな朴念仁でもさすがに通じると思うし。

 

 

 

…そもそものきっかけは、ガーデンパーティーに行ったミメットが蜂に襲われている所を、彼が助けたかららしい。

その日レヴィナはどうしても出席したい会合があり、ミメットを一人でパーティーに送り出していた。

多分いつもみたいに隅っこで一人ぼっちで過ごし、不機嫌な様子で帰ってくるんだろうな…と少しの罪悪感を抱いていたのだが、翌日会ったミメットは上機嫌で非常に興奮していた。

「…私、白銀の騎士様に会ったの!!」と。

 

白銀の騎士は、ミメットやレヴィナが愛読している小説に出てくるキャラクターだ。

中性的な顔立ちのすらりとスマートな美青年で、その通り名が示すように美しく輝く白銀の髪をしている。

ミメットの一番のお気に入りだ。

そしてミメットが会ったという「白銀の騎士様」は、第一王子の従者であるリナライトという少年のことに違いなかった。

 

レヴィナは正直、首を傾げざるを得なかった。

彼とは別に初対面ではない。今まで何度かお茶会などで同席している。ミメットはまるで会話をしておらず、ろくに顔も見ていなかったようだが。

そしてレヴィナが見た所、彼は別に白銀の騎士に似てはいなかった。

そもそも彼は騎士ではなく魔術師のはずだ。

中性的な顔立ちで細身というのは共通しているが、細身ではあっても騎士らしくちゃんと鍛えている白銀の騎士とは違う。すらりとしていると言うより、何だか頼りない感じの細さだ。

髪色だって、銀ではあるが白銀ではない。もっと青っぽい、かなり珍しい髪色だ。

 

 

…でもまあ、危機を助けられたミメットにとっては、彼こそが運命の騎士に見えたのだろう。

しかも彼はミメットがずっと気にしている漆黒の髪を、「私は綺麗な色だと思います」と褒めてくれたらしい。

これがどうやらてきめんに効いたようだ。

 

レヴィナからすると頼りない印象が強いが、ミメットにとってはそこも良いらしい。

元々大抵の人間が苦手な彼女だが、ごつくて逞しい、いわゆる男臭い男が一番苦手なのだ。どうも怖いらしいのだが、彼はそういうタイプの男とは正反対だ。

見るからに頭が固そうなのもレヴィナには少々気になるが、遊んでいそうな男よりはずっと良い。

ミメットはどう考えても騙されやすい類の人間だし。

 

それに、王子の従者というのは都合が良い。

ミメットの父である先代公爵は、彼女が王子に近付く事を望んでいる。

それを助けるよう、レヴィナもまた先代公爵やレヴィナの父から強く言い含められているのだが、ミメット本人はとても嫌がっているのでかなり困っていたのだ。

ミメットさえ乗り気なら、従者というのはきっといい落とし所になるだろう。

王子妃を目指すのがどれほど難しいかは、先代公爵だってよく分かっているはずなのだから。

 

 

…また、そういう諸々の打算は別として、単純にミメットを応援したいという気持ちもある。

彼女の複雑な境遇には同情もあるし、長年付き合ってきた愛着だってあるからだ。

本当に面倒くさい性格の少女だが、できれば幸せになって欲しい。

 

だからレヴィナは今日もこうして、意地を張り続ける彼女を我慢強く説得する。

「…リナライト様、ずいぶん落ち込んでましたよ。そもそもあのお方、そんなにお話し上手ではないんですよ。聞いていれば分かるじゃないですか」

要点をまとめすぎて簡潔になりすぎたり、逆に説明しすぎて長ったらしくなったり。

人の気を惹く話し方というものができない人間らしい。

 

「そこを頑張って話してくれているのに…あれではもう話しかけてくれないかも知れませんね」

「……」

ミメットはぐっと唇を噛み締めた。

彼が今ミメットの所に通っているのは、教師から生徒会役員に推薦されているミメットをなんとか生徒会に入れさせるためなのだ。

それがなければわざわざ近付いてなど来ないだろうと、本当はミメット自身も分かっている。

そしてミメットが推薦されたのは、ミメットの父である先代公爵が教師へと手を回したからだという事も、もちろん知っている。

だから素直に承諾できないのだと思うが、それでは永遠に前には進めない。

 

 

「…あんまり甘えてばかりではだめですよ。黒の騎士だって、試合の後は悔しさをこらえて自ら敗北を認め、白銀の騎士の元へ握手を求めに行ったではありませんか。あそこで歩み寄ったからこそ、二人の間に愛が芽生えたんです。ミメット様も自ら踏み出さないと」

小説のエピソードを例に出し、なるべく優しく言い聞かせると、ミメットはようやく小さくうなずいた。

 

「…分かったわ」

「分かっていただけましたか」

「次また、生徒会に誘われたら…しょうがないから、入ってもいいの」

「……」

 

あくまで意地を張るミメットに、レヴィナは少し呆れた。

しかし、今のミメットにはこれが精一杯なのだろう。突っぱね続けるよりはずっとマシだ。

生徒会で彼と一緒に過ごしていけば、もう少し素直になって行くだろう。多分。そのうち。

「…まあ、よろしいと思いますよ。頑張って下さい」

前途は多難だと思いつつ、レヴィナはぞんざいにミメットの恋路を応援した。



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挿話・21 大切な人(前)

時系列的には新学期が始まる少し前の話になります。


夏休みのある日、エスメラルドはスピネルを伴い、クラスメイトのニッケルの家であるペクロラス伯爵邸を訪れた。

以前にここを訪れたのは1年以上前の事だ。

ニッケルから父母の不和で悩んでいると聞いたのがきっかけで、それを解決したいと思ったエスメラルドは、伯爵夫人の描いた絵を見に行くという名目で屋敷を訪れ伯爵夫妻に会った。

そして時間をかけて二人から話を聞き、それぞれの本音を引き出して、離婚寸前まで行っていた二人をなんとか歩み寄らせる事に成功したのだ。

 

その件でエスメラルドは、ニッケルや伯爵夫妻からずいぶんと感謝された。

特に伯爵夫妻からは「是非お礼をしたい」と遠慮がちに何度か打診があったのだが、エスメラルド自身が忙しいのと、まだしばらく様子見をするべきだと思ったのとで、今までは伯爵夫妻と個人的に会う機会を作って来なかった。

だが幸い、1年経っても問題が再燃しそうな気配はないそうだ。

あれ以来親しくなったニッケルにも「良かったらまた屋敷に来て欲しい」と言われたので、今回夏休みを利用して訪ねる事にした。

 

 

「王子殿下、よくお越しくださいました!!」

ニッケルの父のペクロラス伯爵は相変わらず低姿勢だが、前回訪れた時よりは落ち着いた雰囲気だ。

伯爵夫人は愛想良く笑っていて、その姿は何だか以前より若返ったように見える。顔のやつれが改善されたからだろう。

そして、夫人のドレスの後ろからは小さな少女が顔を覗かせていた。ニッケルの妹だ。

夫人に「テルル、ご挨拶なさい」と促され、おずおずと前に出て少々緊張した様子でカーテシーをする。

「ようこそいらっしゃいました」

 

人見知りで引っ込み思案な性格だという彼女とは、前回ほとんど口を利かなかった。

スピネルとはお茶を飲んだりしていたらしいが、エスメラルドとは帰り際にちらりと顔を合わせただけだ。

近頃はだいぶ社交的になったとニッケルが嬉しそうに話していたが、どうやら本当のようだ。

彼女の人見知りもニッケルの悩みの一つだったので、良かったなと思う。

 

そのテルルという名の小さな少女は、顔を上げるとエスメラルドの斜め後ろに立つスピネルを見てぽっと頬を染めた。

彼女は幼いながらにスピネルに憧れているのだという。

ニッケルはそれを少々複雑に思っているらしいが、初々しいその様子は微笑ましい。

 

 

 

お茶を飲みながら、伯爵一家としばし雑談をした。

夫人が以前からペクロラス領の鉱山で探していた新しい顔料は、うまく原料になりそうなものが見つかったという。

実は鉱山近くには様々な色をした土が積み重なって層となっている場所があり、鉱夫たちにはその存在を知られていたのだが、特に役に立たないものとして長年放置されていた。

しかし伯爵の許可を得て堂々と顔料探しをするようになった事で、これはもしかして使えるのではないか?という話になったのだ。

 

それから画家などを呼んで調べてもらったところ、この土は加工すれば十分に顔料として使えるものだと分かった。

特に優れているのは、原料となる土が大量にあり、入手も容易いという点だ。

現在流通している顔料には鉱物を原料とする高価な物も多いので、安価な新顔料として市場に売り出せば必ず人気が出るだろうとの事だった。

今は工房を作り、その土で顔料の試作をしているところらしい。

 

「今まではただの変わった色の土だと思っていたものが儲けの種になると分かり、鉱夫たちは喜んで作業をしております」

伯爵はほくほくとした顔だ。夫人も嬉しそうにしていて、二人の間に以前のようなギスギスとした雰囲気は感じない。

これならば確かにもう、離婚の心配などないだろう。

「実は、その試作品を使って母と俺が描いた絵画があるんす。見てもらえますか?」

ニッケルに言われ、エスメラルドはうなずいた。

 

 

 

そうして披露されたのは、池の畔で青い葉の上にたたずむカエルの絵だった。

背景の少しくすんだ感じがしとしとと降る霧雨を思わせるが、手前に描かれたカエルははっきりと鮮やかで目を引く。

「これ、俺と母上の合作なんす。背景はだいたい母上で、カエルは俺が描きました」

「ほう…」

エスメラルドは感心してまじまじと見入った。

「良い絵だ。カエルも背景の池も、初夏に降る雨の涼しげな雰囲気がよく出ている」

「ありがとうございます!」

ニッケルも夫人も、喜色を浮かべて頭を下げた。

 

 

「…あの、王子殿下。よろしければ、この絵を貰っていただけませんか?」

そう言ったのは伯爵夫人だ。

「拙い素人絵ではありますが…。もしよろしければ、ぜひ…」

「…良いのか?」

ニッケルの方を見て確認すると、ニッケルは大きくうなずいた。

「貰っていただけると嬉しいっす」

 

「…ありがとう。なら、遠慮なく貰っておく」

王子という立場上、あまり気軽に贈り物を受け取らないよう周りの者からは言われているが、これは個人が趣味で描いた絵なのだ。受け取っても特に問題はないだろう。

何より、エスメラルドは一目でこの絵が気に入っていた。色彩のコントラストも美しいが、題材がカエルだというのが特に良い。

部屋に飾るのも良いかもしれないなと考える。

 

 

「良かったっす。殿下にはどうしても何かお礼がしたかったんで…」

ニッケルはほっとしたように笑った。

「実はリナーリアさんに、殿下はどんな絵が好きかって相談したんすよ。そしたら、きっとカエルの絵が好きですよって教えてくれて」

「そうなのか」

ニッケルはクラスメイトであるリナーリアとも仲が良い。一見共通点はなさそうに見えるが、どうやら気が合う部分があるようなのだ。

彼女は素直で裏表のない人間を好むようなので、そういう点でもニッケルには好感を持っているのかもしれない。

ニッケルはいかにも素直で純朴な少年で、エスメラルドも好ましい友人だと思っている。

 

「このカエルも、リナーリアさんから貰った絵筆で仕上げたものなんすよ」

「…リナーリアから?」

「あっ、はい。前、リナーリアさんにレポート用に使う絵を描いてくれって頼まれた事があって。そのお礼にって貰ったんす」

ニッケルはぱたぱたと壁際に走り、そこの棚から一本の絵筆を持って戻ってきた。

「これっす!!」

嬉しそうに掲げられたそれは、真っ青に塗られた軸を持つ絵筆だ。

 

 

「へえ。立派な筆だな」

横のスピネルが呟く。

「はい!この筆を持つとなんか、創作意欲が湧いて来るんす。やる気が出るって言うか…」

「…ほう」

エスメラルドは努めて平静な表情で相槌を打った。

自分は彼女から贈り物を貰った事などない。いや、お菓子なら貰った事があるが、後に残るようなものは貰った事がない。

別にだからどうだという訳ではない。

ないのだが、そうかニッケルは彼女から筆を貰ったのか、と思う。

 

「…に、ニッケル!」

「え?何?」

伯爵夫人がはっとした顔になって少し慌てるが、ニッケルはきょとんとした。

それからすぐに何かを察したらしく、母と同じ表情でおろおろし始める。

「えっ…えっ?だって、殿下もリナーリアさんから何かプレゼントされた事くらいあるっすよね?」

「…ない」

「え…」

ニッケルが言葉を失う。そんなまさか、と顔に書いてある。

 

「いや、あるだろ。ほら、前に何とかいう変わったお菓子を貰った事あっただろ」

「あれはお前も貰っていただろう」

スピネルに言われ、エスメラルドは少しムスっとしながら答える。

「俺のとは明らかに差があったじゃねーか。しかも俺なんか3倍返しを要求されたんだぞ」

「俺はむしろお返しがしたかった…」

「面倒くせえな…」

呆れたように言われ、ぷいっと目を逸らす。

 

 

「…あの、でもほら、俺のはあくまでレポート手伝ったお礼として貰った物なんで…」

気まずそうな顔をするニッケルを見て、エスメラルドは少し反省した。彼は何も悪くないのだ。

「すまん。つまらん事を気にした」

「それにあいつ、そのへん妙に物わかり良いっつーか、弁えてるからなあ。殿下の立場考えて遠慮してんだろ、きっと」

スピネルの言う事も分かる。

確かに彼女は、王子の立場だとか王宮でのしきたりだとか、そういうものに対して昔から理解が深い。

あまり物をあげたり貰ったりするとまずいという事も、きっと分かっているのだろう。

 

以前プレゼントした髪飾りも、時々身に着けてくれているのを見かけるのだが、エスメラルドから貰ったとは誰にも話していないようだ。

そういう所も彼女と一緒にいて気楽に感じる理由の一つなのだが、もう少しわがままを言ってくれても良いのにと時々思う。

…自分は多分、もっと彼女に振り回されたいのだ。



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挿話・21 大切な人(後)

「ま、あいつから何か貰いたいならやる事は一つだ」

スピネルがエスメラルドの肩にぽんと手を乗せた。

「こっちからプレゼントを贈ればいいんだよ。そうすりゃ向こうも、お返しにって話に持っていきやすいだろ」

 

「むむ…しかし、お返しを期待して何か贈るというのは…」

「遠慮ばっかしてると進展しねえぞ。なあ?」

「そっすね。自分から行動するのは大事だと思うっす…」

ニッケルは自嘲気味に笑いながら言った。

彼はクラスメイトのペタラの事が気になっていたようなのだが、気持ちを伝えられないでいるうちにペタラは別の男と付き合い始めてしまったのだ。

まだそのダメージが抜けていないらしいニッケルの言葉には、切ない実感がこもっている。

 

「だが、何を贈ればいいんだ?リナーリアが魔術書以外のものを欲しがっているのを見た事がないんだが」

魔術のことはよく分からないし、魔術書というのは要するに実用書だ。贈り物としてどうなのだろうかと思う。

思わず悩みかけた所で、「僭越ながら」と口を開いたのはずっと話を聞いていた伯爵夫人だ。

「わたくしは、王子殿下が贈りたい物を贈ればよろしいかと思います」

「…?」

どういう意味かと見返すと、夫人は柔らかく微笑んだ。

「お相手の方に身に着けて欲しい物ですとか、手元に置いて欲しい物ですとか…そういう物をお選びになれば良いと思います。だって、大切な人が自分のために選んで贈ってくれたのならば、どんな物であれ必ず嬉しく思うはずですから…」

 

そこでニッケルが近寄ってきて、エスメラルドの耳にこそっと囁く。

「実はこの前母上は、父上から新しいネックレスをプレゼントされたんすよ。父上は新しい顔料が儲かりそうだからとか、社交に出るなら少しは見栄えを良くしろとか、あれこれ言ってましたけど…」

「…なるほど」

夫人が若返ったように見えたのは、ただ悩みが解決したからという理由だけではなかったらしい。

 

 

…伯爵夫人の言う「大切な人」に、自分が当てはまるのかどうかは自信がない。

彼女がエスメラルドを大切に思ってくれているのは間違いない。彼女が自分に向けてくれる親愛は本物だと思う。

しかしそこに自分と同じ種類の感情が含まれているかどうかについては、残念ながら全く分からないのだ。

彼女はいつも、友人としての立場を崩そうとしない。

 

けれど、いつまでも手をこまねいている訳にはいかないと思う。

「ありがとう、ペクロラス伯爵夫人。とても参考になった」

礼を言うと、夫人は嬉しそうに微笑んだ。

ニッケルもまた、やけに嬉しそうな笑顔になってエスメラルドを見ている。

「…なんだ?」

「あ、いえ。…失礼かもなんすけど、俺は殿下のそういうとこ、結構良いと思うんす」

「そういうとこ?」

「殿下って剣は強いし、頭もいいし、いつも落ち着いててかっこいいですし、尊敬してます。でもリナーリアさんの事になると、やっぱ普通に悩んだりヤキモチ焼いたりするんだなって…。なんかこう、親近感湧くって言うか。…えっと、俺は好きっす」

「…そ、そうか…」

 

 

好きだと言われているのだから、きっと喜ぶべきなのだろう。先程不機嫌な態度を取ってしまった事も、ニッケルは気にしていないようだ。

しかしエスメラルドとしてはかなり恥ずかしい。

特別気持ちを隠すつもりもなかったが、そんな風に思われていたのか。

 

「俺もいいと思うぜ。あんま完璧でもつまらないからな。ちょっと隙があるくらいの方が、周りから親しみを持たれるって言うぞ」

「さすが、スピネルさんが言うと説得力あるっすね」

「…ああん?」

「だって武芸大会で。あれ以来また女の子のファンが増え…」

「おう今すぐ外に出ろ。稽古付けてやるよ」

ニッケルの言葉を途中で遮り、スピネルが凄みのある笑顔を浮かべた。

「いやいやいや!結構っす!」

「遠慮しなくていいぞ?」

「スピネル」

さすがに止めようとした所で、扉の隙間からこちらの様子を窺っている小さな影に気が付いた。

 

「君は…」

「まあ、テルル!」

末娘の姿に、ペクロラス夫人が慌てて扉へ近寄った。

「一体どうしたの?」

「…あの、えっと、おにわ…」

ちらちらと恥ずかしげにスピネルの方を見るテルルに、夫人は「ああ…」と少し困った笑みを浮かべる。

 

「あのう、当家の庭では今、薔薇が咲いているんです。この子が毎日水やりをしているものもありまして…。お城の薔薇園の美しさには遠く及びませんが、よろしければ…」

「それは見てみたいな」

遠慮がちに申し出た伯爵夫人にエスメラルドがうなずくと、横でスピネルもにっこりと笑った。

「ぜひ案内してくれ」

テルルはぱっと頬を上気させ、スピネルの睨みから解放されたニッケルは安心してほっと息をついた。

 

 

 

ペクロラス伯爵邸の庭には、小ぶりだが一度にたくさんの花をつける品種の薔薇が多く植えられていた。

野生に近い品種で、丈夫なために少し寒い地方でも育てやすいものだとリナーリアから聞いた事がある。

そう言えば、ペクロラス領は少し寒い地方にあるのだったか。

「もしや、ペクロラス領でよく育てられているものか?」

そう尋ねると、伯爵夫人は少し目を丸くした。

「あっ、はい。領の屋敷から株分けをして持ってきたものですが…よくご存知でいらっしゃいますね」

 

「…王子さま、バラが好きなんですか?」

おずおずと見上げて来たのは、スピネルの隣を歩いていたテルルだ。

この少女から話しかけられるのは初めてだなと思いながら、「ああ」と答える。

それから、今の返事は少し素っ気なかっただろうか?とも思った。

引っ込み思案な少女がせっかく話しかけてくれたというのに。

 

「…俺の大切な人が、薔薇が好きなんだ。だから俺も少し、詳しくなった」

少々恥ずかしい気持ちでそう付け足すと、テルルはぱちぱちと瞬きをしてエスメラルドの顔を見つめた。

「大切な人…。それって、恋人ですか?」

「…いや。違う」

こればかりは、それ以上説明のしようがない。

だから簡潔にそう答えると、テルルはどこか考え込むような顔になってまた黙り込んだ。

 

 

 

その後は、ニッケルや伯爵夫人からカエルの描き方を教わったりして過ごした。

実はエスメラルド自身、カエルの絵は結構描くのだ。主に観察日記を書く時、スケッチを描いて添えている。

子供の頃からずっと描いているのでずいぶん上達したと思うのだが、やはり動くカエルを描くのは難しいし、できればもっと正確に描写をしたい。

画家から専門的な指導を受けた事もあるというニッケルや夫人のアドバイスをもらい、物体を立体的に描くための方法だとか、そういうものを少しだが教わる事ができた。

 

なお、その間スピネルはテルルや伯爵とお茶をしていたようだ。

女性の相手をするのが上手い印象の彼だが、子供の相手も得意だし、年上の男性の話し相手だって難なくこなす。相手を立てるのが上手いのだ。

以前どうやったらそう上手く話せるのかと尋ねた事があるが、彼の答えは「殿下は殿下のやり方でいいだろ。俺の真似なんかしなくていい」というものだった。

 

その言葉の意味はまだよく理解できないのだが、一つ分かるのは、彼もまた努力して相手に合わせているという事だ。

パーティーやらお茶会で様々な人間の対応をした後、げっそりと疲れた顔をしているのを見ればよく分かる。

だからきっと、彼が素のままで接する事ができる人間…つまり自分やリナーリアは、彼にとって「大切な人」なのではないだろうかと、そう思っている。

 

 

 

「…今日は楽しい一日を過ごせた。感謝する」

帰り際にそう言ったエスメラルドに、見送りに出た伯爵一家はほっとした顔で笑顔を浮かべた。

前回迷惑をかけた事をずっと気にしていたのだろう。

「伯爵と夫人が仲良くやっているようで安心した。…ニッケルは俺の大事な友人だ。これからもよろしく頼む」

「はっ!こちらこそ、息子をどうぞよろしくお願いいたします…!」

伯爵がかしこまり、ニッケルが照れたように頭をかく。

「それと、カエルの絵をありがとう。とても気に入った。顔料作りが上手く軌道に乗ると良いな」

「いえ!こちらこそありがとうございます!」

あの絵は丁寧に布に包み、既に馬車へと乗せてある。

 

すると、ニッケルの横にいたテルルがじっとエスメラルドを見上げてきた。

どうしたのかと首を傾げると、テルルは少しの間もじもじとしてから思い切ったように口を開いた。

「…あの、王子さま。…がんばってください」

 

 

一体何を、というのは訊き返すまでもない。

こんな小さな少女にまで応援されているのだから、頑張るしかないだろう。

「ありがとう。君も頑張ってくれ」

「…はい!」

テルルはニコニコと笑い、エスメラルドもまたそれに笑い返した。

まずは彼女に贈りたいプレゼントについて考えてみる事にしようと、そう思いながら。



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登場人物紹介

■主要人物■

 

◇リナーリア・ジャローシス(16)

10歳の時、王子の従者(男)だった前世の記憶を取り戻した侯爵令嬢。

最近感情をコントロールできない事があって困っている。

王子を救う手がかりはまだ得られておらず、少し焦りがあるが、魔術の修業に打ち込むことでなんとか気を紛らしている。

植物が好きで、子供の頃ミントを育てようとこっそり屋敷の庭の隅に種を植えたことがあるが、数年後大繁殖してとんでもない事になり父母にかなり叱られて泣いた。

しかし恐ろしく生命力の強いミントを徹底駆除する羽目になった庭師はもっと泣いていた。

 

◇リナライト・ジャローシス(享年20)

侯爵家の三男で、リナーリアの前世。生真面目な性格で眼鏡をかけた魔術師。王子エスメラルドの従者。

舐めた態度の男にはすぐ切れるが、女性にはかなり甘く、理不尽な態度を取られたり悪口を言われても基本的に言い返せない。

5歳の頃、王子とかくれんぼをしたが城が広すぎて全く見つけられず、べそべそ泣いた事がある。

慌てて出て来た王子に手を引かれて帰ったのはかなり恥ずかしい思い出。

 

◇エスメラルド・ファイ・ヘリオドール(16)

淡い色の金髪に翠の瞳。現ヘリオドール国王の唯一の子供。

普段は口数が少ないが親しい相手にはそれなりに喋る。近頃、周囲に気になる事が増えてきた。

筋トレの効果がだいぶ出てきて嬉しいが、どこまで鍛えていいのか若干迷っている。

子供の頃、城の池で捕まえて来たカエルを部屋でこっそり飼おうとした事があるが、鳴き声がうるさくてすぐにバレてしまい教育係にたっぷり叱られた。

どうにか飼えないかスピネルに相談したら「城の池で飼えよ」と言われた(要するに池に放してこいと言われた)ので、その時ばかりはさすがに怒って喧嘩した。

 

◇スピネル・ブーランジェ(18)

派手な赤毛に鋼色の瞳。ブーランジェ公爵家の四男で今世での王子の従者。

近頃ますますモテているが、その原因については考えたくない。

次兄からは「恋人作れば?」と言われたが、周りが色々と心配すぎてそれどころじゃないので、めちゃくちゃ不機嫌な顔で「面倒くさい」と答えた。

リナーリアが「とても面白い本なので読んでください」と何冊か本を渡してきた事があるが、そのうちの一つが主人が死んだ後もずっと主人を待ち続けた犬の話で、不覚にもボロ泣きしてしまって何故かものすごく負けた気分になった事がある。

 

 

■ジャローシス侯爵家の人々■

 

◇アタカマス・ジャローシス

主人公の父でジャローシス侯爵。基本のんきだが人を見る目はある。

侯爵家としては最も新参であり軽視されがちな家だが、領は裕福。

 

◇ベルチェ・ジャローシス

主人公の母で、ジャローシス侯爵夫人。近頃娘の様子がおかしいと聞き、とても心配。

 

◇ラズライト・ジャローシス(22)

主人公の6歳上の長兄で嫡男。新婚ほやほや。温厚な性格で多くの者から慕われている。

基本的に動物は好きだが、犬には子供の頃噛まれた事があり苦手。

現在の妻との初デートの時、曲がり角から突然出てきた犬に悲鳴を上げてしまい、「絶対情けない男だと思われた」としばらく落ち込んでいた。

 

◇サーフェナ・ジャローシス(22)

新妻。しっかり者の奥さんとして屋敷にはすでに馴染んでいる。

義妹のリナーリアに刺繍を教え始めたが、義母ベルチェが娘の刺繍の腕に関して既に諦めている理由を思い知らされる事になった。でもまだ頑張るつもり。

 

◇ティロライト・ジャローシス(18)

主人公の2歳上の次兄。

生来のんびりした性格のお調子者だが、15歳の頃に妹に魔術の腕で負けていると気が付いた時には密かにショックを受けていた。

それ以来真面目に魔術修業に打ち込むようになり、現在はブロシャン領に留学中だが、初めての事が多く結構苦労している。

 

◇コーネル(18)

リナーリア付きの使用人。リナーリアの2歳年上で、真面目で思いやりのあるお姉さんメイド。

主人のリナーリアを敬愛しており、贈られた護符のネックレスは宝物。

しかし普段無愛想でほとんど喋らないヴォルツが、リナーリアの話にはちょっとだけ反応する事には微妙にモヤっとしている。

 

◇ヴォルツ・ベルトラン(18)

ジャローシス侯爵家に仕える騎士の息子。学院を卒業し、ジャローシス家の騎士になった。

屋敷の警護とリナーリアの護衛が主な仕事。

リナーリアから贈られた万年筆は肌身離さず持ち歩いている。お嬢様には幸せになって欲しい。

一人で留学したティロライトの事もちょっと心配。

 

◇スミソニアン

執事長。紅茶好きであり、紅茶を淹れる腕前には絶対の自信がある。

その仕事ぶりは謹厳実直、有能な執事長だが、ベルチェとリナーリアの事に関してはたまに挙動がおかしくなる。

 

 

■王宮の人々■

 

◇カルセドニー・フォウル・ヘリオドール

ヘリオドール王国の現国王。エスメラルドの父。

魔術師系貴族よりも騎士系貴族の力が強いヘリオドール王国だが、どちらも公平に遇するよう努力しており、そのために魔術師系貴族からの支持が特に厚い。

身体が弱く季節の変わり目には体調を崩しがち。一人息子がどんどん頼もしく育ってきて嬉しい。

過去に王位を争った兄フェルグソンとは疎遠。

ブロシャン家に嫁に行った妹とはそれなりに仲が良いが、末弟のシャーレンともやや疎遠なのを少し気にしている。

 

◇サフィア・ヘリオドール

現国王の王妃。息子のエスメラルドと似た無表情気味の美女。

編み物が趣味だが、息子に毛糸のパンツを断られてしまったため、レース編みで靴下を作ってプレゼントした所かなり微妙な顔をされた。

 

◇セナルモント・ゲルスドルフ(37)

探知と解析を得意とする王宮魔術師。古代神話王国マニア。

一時期料理にハマっていて、「古代王国の料理を再現する」と言って城の裏庭で大鍋を使って料理をし、同僚に振る舞った事がある。

しかしレシピに問題はなかったにも関わらず、出来上がった料理は食べた全員がその場で咳き込むか吐き出すほどの劇物で、料理禁止令が出されてしまった。

なお、裏庭で料理をした事はすぐに上司にバレて怒られ、しばらく減給された。

 

◇テノーレン

最近入ったばかりの若き王宮魔術師。戦闘や護衛がメイン。

先日セナルモントの家の夕食に招待されたが、奥さんがかなりの美人だったので衝撃を受けた。

 

◇レグランド・ブーランジェ

ブーランジェ公爵家次男。女たらしのイケメン近衛騎士。

貴族のご婦人方から大人気だが、武芸大会の解説に呼ばれてからは若いご令嬢のファンが増え、時々キャーキャー言われている。同僚は歯ぎしりした。

 

◇ペントランド

剣聖と呼ばれる剣の達人。エスメラルドとスピネルの剣の師匠であり、近衛騎士団の剣術顧問もしている。

最近、ちょっとした縁で知り合った若い女騎士にたまに稽古をつけていて、少し若返った気分になっている。

 

◇フェルグソン・ヘリオドール

現国王の兄。既に王位継承権は持っていない。騎士至上主義者。

騎士系貴族の一部には未だに強い影響力を持つが、恨みを持たれている相手も多い。

 

 

■魔術学院の人々■

 

◇フロライア・モリブデン(16)

モリブデン侯爵家の娘である貴族令嬢。主人公と同年でクラスメイト。

学院でも高い人気を誇る美人で、浅く広く交友を広げている。前世ではエスメラルドの婚約者だった。

 

◇カーネリア・ブーランジェ(16)

主人公の同級生でスピネルの妹。

新一年生として学院に入ってきたユークレースの世話をあれこれ焼いており、その姿を見た一年生男子の間にファンが増えている。

兄たちは色々やきもきしているが、本人はユークレースの事を完全に子分扱いしている模様。

10歳の頃、実家に帰ってきていたスピネルに剣術の試合を申し込んだ事があるが、完全に手加減された上でボロ負けしてギャン泣きした。

 

◇スフェン・ゲータイト(17)

赤が交じる派手な黄緑の髪をした男装の令嬢。リナーリアの秘密を唯一知っている人物。

女騎士を目指す傍ら、ひそかに劇作家になるための勉強もしている。

自分の夢を後押ししてくれたリナーリアには恩義を感じていて、盟友と言える存在。

色んな意味で思い切りが良く、その場のノリで行動する事もあるが、周囲への気遣いは忘れない所が人望に繋がっている。

女騎士の夢を一応実家にも認められたため、隠れる事なく堂々と弟に会いに行ったが、普通にすげなくされて結構凹んだ。

 

◇ヘルビン・ゲータイト(16)

主人公の同級生。スフェンの弟で、前世ではエスメラルドと親しかった。今世でもだんだん親しくなってきている。

姉と和解したが、仲良くするのにはまだ照れがある。

地味で声が可愛い子が好みだと言ったら、周り中からマニアックな好みだと言われて少し落ち込んだ。

 

◇ユークレース・ブロシャン(14)

ブロシャン公爵家の次男。主人公の2歳年下だが、飛び級で学院に入学してきた。

天才魔術師として既に噂になっており、不遜な態度も相まって当初は反感を集めたが、カーネリアの尻に敷かれている事が一瞬でバレたため割と温かい目で見られるようになった。

貴族らしくませているが、実は色恋についてそれほど理解している訳ではない。

クラスメイトの女子の一人からやたら気に入られていて、その子がカーネリアに喧嘩を売りに行くので非常に困っている。姉のヴァレリーに相談したが助けてくれなかった。

 

◇ヴァレリー・ブロシャン(15)

ブロシャン公爵家の長女で、ユークレースの姉。新一年生として弟と同時に学院入学。

あざと可愛い巨乳美少女という超新星の誕生に学院の男子たちは色めき立ち、当然のように女子人気ランキング1位をかっさらった。

色々嫉妬されることも多いが、リナーリアやカーネリアとも仲が良い事をさりげなくアピールし賢く立ち回っている。できるご令嬢。

 

◇ペタラ・サマルスキー(16)

リナーリアのクラスメイト。

読書好きで気弱な性格だが、芸術発表会ではその知識を発表内容に活かす事ができ、ちょっと自分に自信がついた。

ストレングと最近お付き合いを始めたが、案外お茶目な所もあると知って嬉しいらしい。

 

◇アーゲン・パイロープ(16)

主人公の同級生でパイロープ公爵家の嫡男。黒髪に青い目の貴公子。

リナーリアに振られた事を周囲には「すっきりした」と語っているが、陰で相当落ち込んでいた。

慰めてくれたアラゴナとは最近ちょっといい雰囲気だが、まだすぐに決める気はない。

 

◇ストレング・ドロマイト(16)

パイロープ家に仕える騎士の息子で、アーゲンの腹心。

アーゲンが振られたのとほぼ同時に自分に恋人ができてしまいかなり気まずかったが、ちょっと引きつりつつも笑顔を作って祝福してくれるアーゲンを見て、改めて忠誠を誓った。

 

◇ニッケル・ペクロラス(16)

クラスメイト。父母の離婚の危機をエスメラルドに救われて以来慕っており、今ではずいぶん親しくなった。

密かに気になっていたペタラがストレングと付き合い始めて結構ショックを受けた。

実は卒業式のパーティー前に別クラスの女子から告白されたりしたが、そのショックが抜けていなかったせいで勢い余って断った。

 

◇セムセイ・サーピエリ(16)

クラスメイト。友人たちの間では食通として知られていて、よくデートコースの相談を受ける。

スピネルとは不思議と気が合うが、恋愛に関してなかなか本音を話そうとしない所には若干呆れつつ黙って見守っている。

 

◇アフラ(16)

クラスメイト。裁縫が得意で服飾関係に興味がある。

芸術発表会で作ったケモミミと尻尾が世間で大当たり。

しかし衣装のワンピースなどの方もひっそり評価されており、デザイナーの道を真剣に考えている。

 

◇アラゴナ(16)

別クラスの同級生。前世ではアーゲンの婚約者で、今世でもアーゲンを慕っている。

一旦身を引いていたが、アーゲンが振られた際には全力で慰めに行った。恋愛には駆け引きも必要。

 

◇リチア(17)

腐った趣味を持つ貴族令嬢。主人公の1歳上で、カーネリアの友人の一人。

その守備範囲は二次元から三次元まで幅広く、その手の趣味を持つご令嬢の間では一目置かれる存在。

ドライかつ我が道を行く性格だが、恋人ができてから少し丸くなり周囲への面倒見が良くなった。

趣味を受け入れてくれる恋人の懐の広さには感謝しており、自分にとって運命の相手だと思っている。

 

◇オットレ・ファイ・ヘリオドール(17)

王兄フェルグソンの息子で、エスメラルドの従兄弟。高い王位継承権を持つ。

主人公の1学年上で、騎士課程。嫌味で不遜な性格で、エスメラルドに激しい対抗心がある。

近頃フロライアと近付いているという噂。

 

◇ビスマス・ゲーレン

フロライアの実家、モリブデン侯爵家の支援を受け学院に通っている平民出身の騎士課程の生徒。

主人公より1学年上。謎に包まれている。

 

◇トルトベイト(17)

ジェイドの後継として新生徒会長に就任した魔術師課程の男子生徒。

人の間を取り持つのが上手いが、少々せっかち。そんな自分の性格を自覚しており、なるべく直したいと思っている。

魔術に関してはなかなかの腕。オタク文化にも理解がある。

 

◇ミメット・コーリンガ(15)

主人公より1学年下。コーリンガ公爵の妹で、前世では主人公の婚約者だった。

母は第二夫人で立場が弱く、第一夫人からは黒髪黒瞳という容姿を「暗い」だの「陰気」だのと言われて育ったため、自分の髪や目の色にコンプレックスがある。

愛想が悪くツンデレだが根は素直で、人の言うことを信じやすい。

前世では婚約者の気を引こうと本人なりに頑張ったが、その意地っ張りな性格と相手の朴念仁ぶりの二重の壁があまりに高く、だいたい成功しなかった。

 

◇レヴィナ(15)

コーリンガ公爵家傘下の貴族の娘で、ミメットの世話役兼友人。眼鏡で三つ編み。

腐った趣味があり、図太くちゃっかりした性格だが、主人であるミメットには愛着を持っている。

「逞しい方が受け」という謎の信念を持っているので、実はかなり乙女趣味なミメットとはあまり趣味が合わない。

 

 

■その他■

 

◇ギロル

レグランドの友人で、春画をメインとする画家。

挿絵師としても活躍しており、「ジャイロ」他いくつものペンネームを持つ。

元は貴族の次男坊だったが、画家を志して家を出た。最初は苦労したが今はそこそこ稼いでいる。

渋い声帯を持つ男前で、学生時代はレグランドほどではないがわりとモテた。



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番外編3・肝試し

「えー、それじゃあ、今夜の肝試しに参加する人は挙手して下さい」

クラス委員のスパーが、名簿を片手に教室内に呼びかける。

ぱらぱらと半分ほどの生徒の手が挙がり、私もまたしぶしぶと手を挙げた。

 

魔術学院学生寮、毎年夏の恒例行事。それが肝試しだ。

この国の夏には万魂節と呼ばれる死者を弔う祭があるのだが、その時期に夜の学院内で行われる事になっている。

脅かし役をやるのは主に上級生だ。幽霊だとか怪物の仮装をして、参加者を脅かしたり怖がらせる。

そして参加者は2人一組になって矢印で示されたコース通りに学院内を歩き、体育館に置いてある鎮魂の御札を持って帰ってくる。

このペアは大抵の場合、男女で組むものとされている。

 

この「男女で組む」という時点で何となく察せられるのだが、はっきり言ってカップル向けの、非常にくだらない行事である。

だから参加などするつもりは一切なかったのだが…。

話は、3日前まで遡る。

 

 

 

「…殿下、肝試しに参加なさるんですか…」

「ああ。なかなか面白そうだからな」

興味深そうな顔で殿下はうなずいた。

思わず殿下の隣のスピネルを睨む。こんなものに殿下を参加させるなんてどういうつもりだ。

「なんで俺を睨むんだよ。参加したがってんのは殿下だぞ」

くっ…そうだった。殿下は前世でもこれに参加していたんだった。

まあ学生時代の貴重な思い出になると言われればそうなのかもしれないが、私としてはあまり参加して欲しくない。

夜の学院に来るなんて危険だし、肝試しなんてくだらないからだ。

 

「お前は肝試しには…」

「参加しません」

「…ははーん」

即答した私にスピネルがニヤついた顔になる。この流れ覚えがあるぞ…。

「さてはお前、怖…」

「怖くありませんよ!!嫌いなだけです!!」

「怖いから嫌いなんだろ?」

「違います!!幽霊なんて別に怖くありませんけど、肝試しって物陰から急に飛び出してきたり大声を上げたりするじゃないですか!ああやって脅かされるのが嫌なんです!人を驚かせて楽しむなんて悪趣味にも程があります!!」

「ああ、ドッキリ系が苦手なのか」

スピネルは少し納得したようだ。

 

「だいたいあんなの、結局はカップルがイチャイチャするためのイベントじゃないですか。男子はどうせキャーキャー言って怖がる女子にしがみつかれたいだけなんですよ、下心丸出しです。学びの場である学院でそんな事をする必要ありますか?個人で勝手にやってればいいじゃないですか。馬鹿馬鹿しい」

「何でそんな肝試しへの憎しみに溢れてんだよ…偏見持ちすぎだろ」

「貴方みたいな人には分かりません」

私は唇を尖らせた。

そりゃこいつならちゃんと女子をエスコートして肝試しというイベントをエンジョイできるのだろうが、そうはできない人間だって世の中にはいるのだ。

 

…そう、実は私も前世では嫌々ながら参加した。

殿下が行くと言っているのに私が行かない訳にはいかないからだ。

特に組む相手がいない場合はくじ引きでペアを決めることになるのだが、私と組んだ子はどうやら殿下と組む事を狙っていたらしい。「なんだこいつか…」という目が辛かった。

さらに肝試しの道中も散々で、私の方が先に悲鳴を上げてしまったり、「きゃあっ」としがみつかれてもどうして良いか分からず固まってしまったりして、「こいつ頼りになんねーな」という目で見られて心底辛かった。

でも悲鳴の件は私だけが悪い訳ではないと言いたい。

からかい半分で男の方ばかり脅かしたがる上級生は絶対に何人かはいるのだ。

 

そんな消し去りたい記憶を思い出しつつ、ふんと横を向く。

「まあいいです。貴方はどうぞ、好きなだけ女の子にキャーキャーくっつかれて楽しんできて下さい」

「いや俺参加しねえし。あとそれ殿下にも刺さってるからな?」

「あっ…」

しまったと思って殿下の方を振り向くと、殿下は少し落ち込んだ顔になっていた。

「あ、いえ、違うんです!殿下にそんな下心なんて一切ないのは分かってますから!殿下は純粋に肝試しに興味があって、参加してみたいだけなんですよね!そこらのすけべ野郎共とは違います!!」

「……」

急いで取り繕ったが、殿下はなぜかますます落ち込んだ顔になった。

あ、あれ…?

「とどめを刺すなよ…」とスピネルが呆れる。

 

 

どうやら間違っていたと気付き、私は大いに反省した。

「…申し訳ありません。殿下のお気持ちも理解せず…」

私とした事が、殿下のお心を見誤るなんて。

「あ、いや、俺は」

「殿下もお年頃でいらっしゃいますからね!少しくらい女子にしがみつかれたり頼られたりしたいですよね!大丈夫です!とても健全なお考えだと思います!!」

「…ぐぅ…」

殿下が胸元を抑えて苦しげに呻く。

「肯定しても否定しても死ぬやつじゃねーか!!もうやめてやれ!!!」

 

 

 

…完全に撃沈した殿下が復活するまでにしばしの時を要した。

「えっと、それで、スピネルは参加しないんですか?なぜ?」

「別に興味ねえし。殿下が参加するんなら俺は脅かし役の方だ」

「ああ…なるほど」

夜間の行事に殿下が参加するというのは少々安全面に不安があるが、スピネルが脅かし役として監視に入るのなら安心だ。

私とは違い、年齢的に上級生の中にも入りやすいだろうし。

 

「それよりお前だ、お前。参加しろよ肝試し」

「は?なぜですか?」

私はもう前世で懲りたのだ、参加などしたくない。

「あれだけ凹ませといて殿下を一人で参加させる気か?殿下がすけべ野郎扱いされてもいいのか?」

「だから、多少の下心は人として当然だと言ってるじゃないですか!別に興味があってもいいと思います!普通ですよ!すけべなのは!!」

「むっ…ぐっ…」

「さっきと言ってる事違うじゃねーか…。つか本当にやめてやれ、殿下が死にそうだ」

「はっ…!?しまった…」

また殿下が落ち込んでおられる。

おかしいな、前世の殿下はこんなに繊細ではなかったんだが…。

いや、その分きっと純朴で心遣いが細やかだということだ。繊細なのは決して悪いことではないはずだ。

 

 

「なあ殿下、こいつ…」

「わ、分かっている。自分でちゃんと言う。…リナーリア」

殿下は今度はすぐに復活した。気を取り直したように私の方を見る。

「俺は、君と参加できたら嬉しいんだが」

「…はい?」

思わずぽかんと口を開けた。

 

「わ、私とですか?」

「ああ。…つまり、最初から君を誘うつもりだったんだが、その…嫌だというなら、断ってくれて構わない」

そうか、私が嫌がっているものだから言い出しにくかったのだ。

何やらダメージを受けていたのはそのせいか。

 

正直、本当に肝試しなど好きではない。だが、殿下に誘われたなら行くしかない。

殿下と一緒なら、私も楽しめるかもしれないし…多分…少しくらいは。

「…分かりました。そういう事なら参加しますが…」

ちらりとスピネルの方を見る。

「なんだよ?」

「だって、スピネルも脅かし役をやるんですよね?嫌な予感しかしないんですが」

「あー…」

スピネルは少しだけ斜め上を見上げて、それからニタリと笑った。

「まあ、手加減はしてやるよ。程々にな」

「絶対手加減するつもりないですよねそれ!!」

 

 

 

 

…そうして、肝試しは行われたのだが。

 

「このバカ!!肝試しで魔術ぶっ放す奴があるか!!!」

「す、すみません…ちょっとびっくりしてしまって、つい、身体が勝手に」

「ちょっとじゃねえよ!!危うく丸焦げになるとこだったじゃねえか!!」

「でもちゃんとすぐ火は消したじゃないですか」

「おかげで俺はずぶ濡れだけどな!!」

「いやあれはお前も悪いぞ。いくら何でも驚かせすぎだ」

「殿下は全然驚いてなかったじゃねえか」

「驚きすぎて動けなかっただけだ」

「そうだったんですか…」

 

とまあ、こんな感じで散々だった。

うっかり、ほんの少しスピネルが燃えかけて頭上から水をぶちまけただけなのに、あんなに怒る事はないと思う。

殿下もものすごく慌てていたので申し訳ない。

やっぱり肝試しなどろくなものではないと思ったが、殿下は最後には笑って「楽しかった」と言っていたので、まあいいか。




お盆なので番外編です。
お気に入り・評価・感想・ここすきなどいつもありがとうございます!
皆様の反応がやる気につながっております。
これからもどうぞよろしくお願いします。


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第127話 水面下の動き

既に日が落ちて薄暗くなった寮の廊下を歩く。

見慣れたドアをノックすると、すぐに開いて中から黄緑色の髪が覗いた。スフェン先輩だ。

「こんばんは」

「こんばんは、リナーリア君。どうぞ中へ」

 

今日は後で部屋に遊びに来て欲しいと、先輩からメッセージが来ていた。

学院内は人目が多いので、二人だけで何か話がしたい時は、こうやって夜にどちらかの部屋を訪ねる事になっている。

「実は今日はちょっと、内緒話がしたいんだよね」

先輩はそう言って私の前にオレンジティーのカップを置いた。

私は小さくうなずき、無言のまま魔術を使う。

すぐに、部屋の中の空気がわずかに変わった。防音の結界を張ったのだ。

寮には沢山の生徒がいる訳だし、用心するに越した事はない。内緒話をするための防音結界は貴族の嗜みだ。

 

 

「じゃあまず、最初に報告を。ビスマス・ゲーレンの事だ」

「はい」

先輩はファンが多く顔が広い。その人脈を利用し、フロライアとビスマスについて少しずつ情報を集めてもらっていた。

「ビスマスの母は、フロライア・モリブデンの乳母をしていたらしい。元はモリブデン家傘下の男爵家の出だったそうだ」

「では、ビスマスはフロライアの乳兄弟…?」

「いや、どうも彼には妹がいるみたいだから、乳兄弟なのはそっちじゃないかな…この場合は姉妹だけど。その乳母を含め、彼の家族はずっとモリブデン領にいるようだから、詳しい事はよく分からない」

「ああ、なるほど」

 

母乳は元々栄養価が高いが、高魔力者の場合は特に魔力が豊富に含まれている。

貴族の赤ん坊は平民の赤ん坊に比べかなり死亡率が低いのだが、それは魔力の多い母乳を摂取する事で病気にかかりにくくなるというのが大きな理由なのだそうだ。

しかし、どんな高魔力を持っていようが、体質によってあまり母乳の出が良くない母親もいる。

そういう場合は、同じように子供を生んだばかりで母乳が出る女性を乳母として付ける事になる。

だから高い魔力を持つ貴族出身の女性は、乳母としての需要がとても高いのだ。貴族ならば教養もあるので、そのまま教育係などに就く事もよくある。

そうした乳母は当然厚遇を受けるし、乳母の子供も世話役と友人を兼ねて近くで育てられる事が多い。

 

ビスマスがモリブデン家の支援を受けているのも、その関係だろうか。

フロライアともきっと幼少時から面識があったろうし、親しくしていたのかもしれない。

ただのモリブデン家の一騎士という訳ではなさそうだ。

 

 

「そしてフロライアの方だけど、最近オットレと親しいというのは本当みたいだね」

「…私も、その噂は聞いています」

何ヶ月か前、休日に一緒に歩いているところを見かけた二人だが、それ以降もあの二人が会っているのを幾人かが目撃しているようだ。

近頃はご令嬢たちの間でも、その関係が少々噂になっているらしい。

「どうもオットレの方が彼女に入れあげているみたいだけど、彼女の方はどこまで本気かは分からないね。他にも彼女を狙っている男は多いし、モリブデン家は昔から顔が広い。それなりに仲の良い男子生徒は何人もいる。ただまあ、あくまでそれなりに、だね。今の所誰が本命なのかは分からない」

「ふむ…」

 

オットレがフロライアに入れあげる理由は分かる。オットレももう3年生で、そろそろ結婚相手を決めたい歳だからだ。

奴は非常に見栄っ張りなので、結婚相手には間違いなく美人で家柄の良い女性を選びたがるはず。

美人で成績優秀なだけでなく、由緒正しい騎士系貴族の名家であるフロライアは、その条件にぴったりなのだ。

 

 

今この学院で特に身分の高いご令嬢と言えば、カーネリア様、ヴァレリー様、それからミメットだが、オットレの父である王兄フェルグソンは、ヴァレリー様のブロシャン家やミメットのコーリンガ家と確執がある。

あくまで親や祖父の代の話だし、現在は表立って対立している訳ではない。努力次第で歩み寄る事も可能だろうと思うのだが、オットレはそんな殊勝な性格ではないのだ。

特にミメットからは嫌われており、何でも「お前の父親にはさんざん迷惑をかけられたが、お前が頭を下げるなら水に流してやってもいい」とか言ってきたらしい。

ミメットでなくとも嫌って当然である。

多分ヴァレリー様にも似たような事を言ったのだろう、一度それとなく聞いてみたところ、いつも愛想の良い彼女にしては珍しく嫌そうな顔をしていた。

 

カーネリア様のブーランジェ家とは特に仲が悪かったりはしないが、カーネリア様からも全く相手にされていない。

何度か誘われてはいるようだが、いつもの「お兄様に勝ったら付き合ってあげてもいいわ」で断っているそうだ。

オットレはそのたびに何かしら理由をつけて勝負を避けるので、あんな男は問題外だと彼女は言っていた。

奴の腕ではスピネルに勝てないのは当然だが、それよりも勝負から逃げる性根の方が許せないらしい。

 

…この三人を除けば、フロライアは学院で最も家柄が良いご令嬢だ。

侯爵家の中でも特に歴史が古く家格が高いのが、彼女の実家モリブデン侯爵家なのだ。

彼女と結婚してモリブデン家の支援を得れば、騎士として家を興し子に爵位を残す事もできるだろう。

前世でも、彼女には何度もアプローチをしていたはず。

そんな訳で、オットレが彼女に近付くのは全く不思議ではないのだが…。

果たして、それだけが理由なのだろうか。

 

 

「あと、彼女の父のモリブデン侯爵だけどね。どうやら王宮の文官…特に土木省の所によく連絡を取っているそうだ。今は領地に帰っているけど、その前には足繁く王宮に通っていたようだね」

「えっ?」

「なんでも、領に新しく人造湖を作りたがっているって話だよ」

これは初耳だ。

人造湖は治水や魔獣への備えのため、川をせき止めたり谷を掘ったりして造るものだが、私が知る限り前世でそんなものにモリブデン家が手を付けていた覚えはない。

 

王宮の土木省は道路だとか川だとか、そういうものの建設や管理を司る部署だ。領に人造湖が作りたいなら、まずそこに調査を依頼しなければならない。

各領の道や川、湖などは基本的にそれぞれの領地に管理を任せているのだが、湖を作ったり鉱山を開いたりと大規模な工事を行う場合は、事前に国の許可を取らなくてはならない決まりだ。

なぜなら地形を変えるような工事を無闇に行えば、周囲の動物や植物、土地に宿る魔力、あるいは魔獣の生息範囲などに大きな影響を与える恐れがあるからだ。

 

例えば昔ある貴族が自領に出没する魔獣を抑え込もうと考え、魔獣が多く棲む山を切り拓いてたくさんの木々を切り倒し、そこに近くの川から水を引いたことがあった。

貴族の狙い通り、それ以来その近辺の魔獣の出没は減った。魔獣は水を嫌うため、あまり川を越えようとしないからだ。

しかしその代わり、山の反対側にある別の領では一気に魔獣被害が増えた。行き場をなくした魔獣がそちら側へと向かってしまったのだ。

魔獣被害が増えた領は当然抗議をしたが、時間と大金をつぎ込んで行った工事だし、元に戻すことも難しい。

周辺の貴族まで巻き込んで長らく揉め、解決には苦労をしたという。

 

他にも、農地を増やすために川の流れを変えたら近くに生えていた貴重な薬草が枯れただとか、宝石を求めて鉱脈を掘ったら周辺の魔力が乱れおかしな霧が発生するようになっただとか、そういう事例はいくつもある。

そのため、大規模な工事の際には王国に申請し、問題がないか魔術師らが慎重に調査を行ってから許可を与えるという決まりができたのだ。

人造湖ともなれば周辺の山や川にかなり手を加える必要があるだろうし、そう簡単に許可は降りない。調査には相当時間がかかるだろう。

 

 

「これについては、もう少し調べてみるつもりだよ」

「そうですね…そういう名目で王宮に足を運んでいるとも考えられますし。お願いします」

モリブデン侯爵。

やや保守的な方針を持つ模範的貴族であり、騎士系貴族の中でも特に大きな発言力を持つ人物だ。

人格者としても知られ、自領においては名領主として領民に慕われているというが、あのフロライアの父なのだ。前世での殿下の暗殺に関わっていなかったとは考えにくい。

その侯爵が王宮に出入りしているのはとても気になる。

 

「先輩のお陰で、情報が集めやすくて助かります」

こういう情報をもらえるのは有り難いと、先輩に礼を言う。

従者だった前世とは違い、今の私はただの学生だ。大人たちの動きはどうしても耳に入りづらい。

「いいや。もっと大っぴらに動けたら良いんだけどね…。向こうに勘付かれても困るし」

「ええ…。十分に気を付けてください」

先輩は適当な理由をつけてファンの子たちに頼み、あくまで遠回しに噂を集めてくれているようだが、あまり派手に聞いて回れば向こうの耳にも入ってしまう。

情報提供をしてくれた人を危険に巻き込みたくはないし、慎重に動かなければならない。

 

 

「…そう言えば、王子殿下はそろそろ視察から戻ってくる頃かな?何事もなかっただろうか」

「あ、そうです。道中特に問題はなかったみたいで、明日には王都に到着しますね」

そう答えた私に、先輩が少し首を傾げる。

「そんな事が分かるのかい?王宮魔術師の先生に聞いたのかな?」

「あっ」

視察の細かな日程や道筋は表向き伏せられているし、時には悪天候で足止めを食らったりもするので、予定が多少前後する事もある。

だから殿下が王都に帰還する日など普通は分からないのだが…。

 

「…え、えへ」

私は笑ってごまかした。

実は殿下が心配すぎて、あれこれと細工をしてこっそりと動向を把握しているのだが、これは正直言ってギリギリアウト…いや完全にアウトだな…。うん…。

「リナーリア君…」

先輩はちょっとジト目になったが、細かく尋ねる気はないようで安心する。

できれば知らない方がいい。バレたら多分捕まるやつだし…。

 

 

私だって本当ならそんな事はしたくないのだが、視察は特に危険なのだ。

王都のようにたくさんの兵や魔術師に守られている訳では無いし、普段行かない場所を回るので、どう考えても狙われやすい。

前世でも、暗殺が行われたのは視察の時だった。

…あの場合、その方が逃げ出しやすいというのもあったかもしれないが。

 

少し考え込んだ私に、先輩が心配そうな表情に変わる。

「君もよく気を付けるんだよ。いくら殿下のためでも、危険な事はしないでくれ」

「はい。分かっています」

「あと、まあ…程々にね?あまり不審な行動をしていたら、君の方が怪しまれてしまうよ」

「え、えへへ…」

不審者として捕まるのだけは私も避けたい。

真面目な令嬢として今まで築き上げてきたものが全部終わる。

十分気を付けるようにしよう。

 

 

その後もいくつかの情報を先輩から聞きながら、明日は城に行こうと私は思った。

会うのは難しいかもしれないが、早く殿下の無事を確かめたい。




久しぶりに活動報告を更新しました。どうぞよろしくお願いします。


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第128話 幽霊の噂

酷い息苦しさと共に目を覚ました。

背中にじっとりと汗をかき、やけに喉が乾いている。

何か夢を見ていた気がする。誰かに呼ばれる夢…、いや、私が誰かを呼ぶ夢だろうか?

いくら考えても思い出せなくてモヤモヤとする。何だか気持ちが悪い。

 

 

いつも通りに登校したが、授業にも集中できずどこかぼんやりとしたまま半日を過ごした。

まあ内容はすでに理解しているので集中しなくても問題ないのだが、真面目に授業をしてくれている教師に申し訳ない。せめて聞いている素振りくらいは見せなければ。

そうして午前の授業を終え、昼食はカーネリア様やユークレースと一緒に取ったのだが…。

 

「…ねえ、リナーリア様、聞いてる?」

「えっ?」

カーネリア様に呼びかけられ、私は慌てて顔を上げた。

「す、すみません、何でしょうか?」

ちっとも話を聞いていなかった。何だろうと聞き返すと、「それ」と指をさされる。

「あ…」

見ると、皿の上には細切れになったオムレツが散らばっている。オムレツと言うよりまるでスクランブルエッグだ。

どうも無意識のうちにナイフとフォークで刻んでしまっていたようだ。これはかなり行儀が悪い。

 

「今日は何だかぼーっとしてるな、お前」

「すみません…」

ユークレースにも突っ込まれてしまい、小さく肩を縮める。

「まあ、上の空になっちゃう気持ちは分からなくもないけど。…早く殿下が帰ってくるといいわね」

そう言ってカーネリア様はクスッと笑った。やたら微笑ましげな顔だ。

「あはは…」

べ、別にそれだけが原因じゃないんだけどな…。

 

 

「そうそう、殿下で思い出したわ。知ってる?近頃お城に幽霊が出るっていう噂」

「ああ、私も知ってます。セナルモント先生の所に調査依頼が来ていましたので」

細切れオムレツを口に運ぶ手を止め、私はうなずいた。

城内のあちこちでぼんやりと光る人影のようなものを見た者がいるので、それについて調べて欲しいという依頼だ。

 

最初はよくある怪談話かと誰も気に留めなかったのだが、この数ヶ月ほどの間に似たような目撃証言がいくつかあったらしい。

主に夜間見かける事が多いそうなのだが、昼間に見た人もいるという。

城の兵や魔術師の間でも「さすがにこれは何かあるのではないか?」という話になって、王宮魔術師の中でも探知魔術のエキスパートであり、いつも暇そうにしているセナルモント先生が調査担当に抜擢されたという訳だ。

 

依頼を受け、先生は城中を周ってさまざまな魔術を使い、怪しいものや不審な痕跡がないか探った。

私も弟子としてそれを少し手伝ったのだが、結局原因らしいものは何も見つからなかった。

先生は「骨折り損だったよ」とぼやいていたが、では一体、目撃者たちが見たものは何だったのか。

調査が終わった後もやはり幽霊を見たという報告があるようで、もう一度改めて調べてくれとも言われているようだ。

 

 

「昼にも見える幽霊なんて、妙よねえ」

「幻影の魔術とかじゃないのか?」

首を傾げるカーネリア様の横で、ユークレースが眉を寄せる。

私はそんな二人へと首を振った。

「うーん、それならもう少し痕跡が残ってもいいと思うんですよね。セナルモント先生でも分からないほど完璧に隠蔽できるとなると、相当の腕を持つ魔術師です。それこそ王宮魔術師級ですね。そんな人が昼夜を問わず、城の中を何度もフラフラしてるとは思えません。目的もさっぱり分かりませんし…」

 

城は警備が厳重なので、こっそり侵入するなど不可能だ。それも何回もとなると、絶対に無理だと言っていい。

貴族やそのお付きなら堂々と正面から城に入る事ができるが、出入りは門番によってしっかり管理されているし、中はたくさんの衛兵が常に見回りをしている。

何度も通っておかしな魔術を使っていたりしたら必ず衛兵に見咎められるだろう。

 

それに証言の中には、何人かが一緒にいたにも関わらず、人影を見たのはそのうちの一人だけだった…なんてものもあった。

だが幻術は普通、その場にいる全員が同じものを見る。対象者を限定した幻術を使おうとすれば、相手に触れながらでないと難しい。

もしそんな近くで魔術を使っていたなら、例え姿隠しの術を併用していたとしても、誰かが絶対に気付くだろう。

つまりこの幽霊話は、魔術ではどうにも説明しにくいのだ。

 

 

「なんだか不気味な話ね…」

「ええ。今の所、まるで原因が分かりません」

「…もしかして、本当に幽霊だったり?」

「はっ、馬鹿馬鹿しい。お前、幽霊なんて信じてるのか?子供じゃあるまいし」

「…ユーク」

せせら笑ったユークレースに、カーネリア様がにっこり笑った。

 

「貴方ってば、本っ当ーに生意気ね!いつになったらレディに対する態度ってものを覚えるのかしら!!」

「一体どこにレディなんている…だっ、痛、痛い!!耳を引っ張るな!」

「ユークは相変わらず懲りないですねえ…」

騒ぐ二人に思わず呆れていると、後ろの席の1年生らしき男子生徒がユークレースの方を振り返り、何だか羨ましそうな顔をしているのが見えた。

ユークはどう見てもお仕置きをされているだけだが…もしかして彼は被虐趣味でもあったりするんだろうか?

まだ若いのに、ちょっと将来が心配になってしまうな。

 

しかし、幽霊騒ぎか。

よりによって城の中でというのが私も気になっている。前世ではこんなおかしな話は聞かなかったし。

モリブデン侯爵の動きと言い、気掛かりな事ばかりだ。

少し不安な気持ちで、私は冷めきったオムレツを再び口に運んだ。

 

 

 

 

「やあ、リナーリア君。王子殿下なら、ついさっき帰ってきた所みたいだよ」

王宮魔術師団の所に行くと、開口一番セナルモント先生にまでそう言われてしまった。

「……」

「あれえ?喜ばないの?」

「いえ、嬉しいですけど…。なんで私にそんな事を言うんですか」

「だって、ずっと待ってたじゃない。平日なのに何度もここに通ってくるし、連絡係の魔術師の様子も気にしてるしさあ。いくら僕でも、それくらいは分かるよぉ」

「そ…そうでしたか?」

ぐうの音も出ない。そんなに分かりやすい行動をしていたつもりはなかったのに。

 

「国王陛下への報告が終わった後でなら、少しくらい殿下に会えるんじゃない?そのうちこっちにテノーレン君が戻ってくるから、会えそうかどうか様子を尋ねてみたら良いよ」

テノーレンは今回の視察でも護衛任務に就いていたらしい。彼に尋ねれば今の殿下の様子は分かると思うが…。

「殿下は長旅でお疲れでしょうし、私は別に」

「またまたぁ。そんな今更恥ずかしがらなくても、君と王子殿下が仲良いって事は城の皆が知ってるよ?遠慮しないでお帰りなさいって言っておいでよ、きっと殿下も喜ぶよ」

「はあ…」

 

確かに先生の言う通り、今更なのかも知れない。

下手に遠慮してこそこそ様子を窺うより、堂々と会いに行った方がずっと手っ取り早いし確実だ。…不審がられて捕まる事もないだろうし。

友人なのだからそれくらいしてもいいはずだ、多分。

「…そうですね。そうします。ありがとうございます、先生」

「うん」

先生はボサボサ頭を揺らしてにっこり笑った。

 

 

それから、先生が新たに書いたという論文を読ませてもらいながらテノーレンを待った。

先生の論文は前世でもいくつか読んだが、そのどれとも内容が違うように思う。

火竜山で私が迷い込んだ遺跡など、前世では発見されていなかったものが見つかっているからその影響だろうか。

あの遺跡の内部に入る事は未だにできていないようだが、火竜山周辺の土の中からは古代の遺物が複数発掘されていると聞く。

 

そんな事を考えていると、扉がノックされてテノーレンが顔を出した。

謁見のためだろう、服の上に王宮魔術師の正式なローブを着込んでいる。

「あ、やっぱりいた。こんにちは、リナーリアさん、セナルモントさん」

「テノーレン様、護衛任務お疲れ様です」

「お疲れ様~」

「ありがとうございます。あの、王子殿下から言伝です。良かったら後で会いたいと」

「殿下がですか?」

「はい。メイドがリナーリアさんの姿を見かけたと教えてくれたので」

 

どうやら私が魔術師団へ行く所を見ていた城のメイドが、気を利かせて殿下に報告したらしい。

昔からずっと通っているから、すっかり顔を覚えられているしな…。

セナルモント先生が「良かったねえ」と笑い、私もそれに照れ笑いを返す。

直接殿下の顔を見られるのは、やはり嬉しい。

殿下も着替えだとか色々あるだろうから、もう少ししたら会いに行ってみよう。



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第129話 視察の報告

しばらくしてから殿下の所に会いに行くと、すぐに取り次いでもらえた。

「リナーリア」

「殿下、スピネル、お帰りなさい。ご無事で何よりです」

「ああ、ただいま」

殿下もスピネルも元気そうだ。やはり特に変わった様子はない。

メイドが運んできた紅茶を飲みながら話を聞くことにする。

「今回はどのような所に行かれたんですか?」

「そうだな、まずサニジン領に行ったんだが…」

 

 

殿下は今回の視察も十分に満喫されたようだ。

見聞きしたことをスピネルと共に楽しそうに話してくれるのを、微笑ましく聞く。

もちろんただ楽しんだだけではなく、様々な知見を広げたり貴族たちと交友を深めたりもしているのだが。

「行程はいつもより短かったが、内容は充実していた。とても楽しかった」

「それは良かったです」

 

「雨が少なけりゃもっと良かったんだけどな。寒いし、馬車の中はじめじめするし、ブーツは泥で汚れるし…」

不満を垂れるスピネルに殿下が苦笑する。

「仕方ないだろう。天気ばかりはどうにもならん」

「俺は殿下と違って泥は嫌いなんだよ」

「俺だって別に泥など好きではないぞ」

心外そうに言う殿下を見て、そういえば前世では視察の時、よく池や沼の周辺を歩き回って靴を泥だらけにしていたなと思い出す。

それはカエルがいないか探したいからなのだが、すぐ水辺に近付きたがる殿下に周りの者はいつも困っていたっけ。

スピネルもきっと同じように手を焼いているんだろうなと思い、少し笑ってしまう。

 

…いずれ王位を継げば視察に行く事はなくなり、水霊祭の時くらいしか王都を出る機会はなくなる。

そして現国王のカルセドニー陛下はお体が弱く、政務はずいぶんと負担になっているご様子だ。恐らく、そう遠くない時期にエスメラルド殿下へ王位を譲られるだろうと、多くの者が考えている。

殿下がこうして王都の外を見て回れるのは今だけだなのだ。

その貴重な時間を共に過ごせるスピネルが羨ましい。

私も一緒に行けたらいいのになあ、などと益体もない事を思う。

前世で殿下と行った視察の思い出は今も私の胸に残っているけれど、それは今世の殿下は知らない記憶なのだ。

その事が、少しだけ寂しい。

 

 

「…リナーリア?」

「あっ、いえ、何でもないです」

怪訝そうな顔で名前を呼ばれ、私は慌てて首を振った。

こんな感傷などより、今眼の前にいる殿下の方が私にとってはずっと大切だ。

 

「あの、道中変わった事は何もありませんでしたか?困った事とか…」

話題が一段落したので、気になっていた事を尋ねる。

「ああ。雨で道のぬかるみに馬車が嵌ったくらいか。幸いすぐに出られたので良かった」

「魔獣は出ませんでしたか?」

「それは少し」

「ちらほら見かけたけどな、直接襲われる事はなかった」

スピネルが補足してくれる。

どうやら各領の騎士たちや護衛が頑張ってくれたようで、被害はなかったらしい。

 

命に関わるような危機はなかっただろうともう分かっていたのだが、二人の話を聞く限り小さな問題すらほとんど起こらなかったようだ。

もちろんそれは喜ぶべき事なのだが、敵に何の動きもないのはかえって不審だ。

好機であるはずの視察で何も仕掛けて来なかったのなら、次は一体どこで狙って来るのか予想ができない。

こちらが守る側である以上、常に後手に回らざるを得ないのが辛い。

 

 

少し不安になる私に、殿下は胸元を軽く抑えて微笑んだ。

「魔獣があまり寄ってこなかったのは、君がくれた護符のおかげかもしれない」

「…いえ、そんな」

ちょっぴり曖昧に笑い返したのは、良心が痛んだからだ。

 

色々と考えた末、殿下にはペンダント型の護符に守護の魔法陣などを書き込んだものを作って渡した。

たくさん効果を付けようとするとどうしても護符が少し大きめになってしまう。でもペンダントなら服の中にしまえるから目立たないし、持ち歩いてもあまり邪魔にならないだろうと思ったのだ。

この前贈られた服のお礼という名目で「できるだけ身に着けて欲しい」と言って渡したところ、殿下はものすごく喜んで受け取ってくれて、かなり罪悪感を感じた。

なぜなら護符には、守護の魔法陣が発動した時に私にそれを知らせる機能だとか、居場所を探知できる機能だとか、色々とこっそり付けておいたからだ。

 

この機能には、遺跡で手に入れた『流星』の鱗を使っている。

私はまず鱗を削って磨き、自分用の護符を作った。そして鱗を削った際にできた粉を塗り込み、殿下の護符も作り上げた。

一つの素材を分けて作られたものは共鳴しやすい性質がある。

それを利用し、護符に込めた魔力を辿る事で相手の状況を把握できるようにしたのだが…。

王族の居場所を逐一把握するなど、当然やってはいけない事だ。

 

もちろん純粋に殿下の身を案じて作ったものだし、決して悪用はしないと誓って言えるのだが、殿下には本当に申し訳ない。

殿下なら許してくれそうな気がするが、だからこそ黙ってそんな機能を付けたことが心苦しい。

でも「殿下が狙われているのを知っています。なぜなら前世の記憶があるからです」なんて言える訳ないしなあ…。

スピネルからは殿下が狙われている可能性を教えられているけど、あくまでこっそり教えてくれた事だし、確信のある話ではなかったし。

いつか、全部終わった時に正直に話して謝れたら良いんだけどな。

 

 

「…そういや、お前用の護符はどうした?ちゃんと作ったんだろ?」

「あ、はい」

思い出したように言ったスピネルに、私はうなずいた。そういえば完成した事を言ってなかったな。

「ちょっと見せてみろよ」

「良いですよ」

首にかけた紐を引っ張り、服の中から護符を取り出す。

 

加工の都合上、私の護符もペンダント型になった。

そのまま『流星の護符』と名付けてみたけれど、大して意味はない。何となくかっこいいだけだ。

守護や魔除けは既に持っている護符で十分だと思ったので、色々と変わった機能ばかりを盛り込んで作ってしまった。

どの程度役に立つかは自分でもよく分からないが、まあ殿下の護符と共鳴できるだけでも十分だ。

 

 

スピネルは護符を受け取ると、手のひらに乗せてじっと見つめた。

「どうかしましたか?」

「いや。ずいぶん地味なデザインだな」

「ああ、これは素材をできるだけそのまま使いたかったもので」

殿下の護符は加工した魔石を既製の台座に嵌めて作ったので、一応アクセサリーとしての体裁は整っているのだが、私の流星の護符は磨いた破片が紐にぶら下がっただけの素朴極まりないデザインだ。

私は職人ではないので、アクセサリーのオリジナルデザインなんてできないしな。飾り気は全くないし、色も黒なのでとても地味に見える。

ちっとも貴族令嬢らしくないので、見える場所に着ける事はできない。

 

「しかし変わった石だな。一見黒なのに角度によって赤く光る…こんな石は見た事がない」

殿下が横からスピネルの手元を覗き込んだ。「少し見せてくれ」と言ってスピネルから護符を受け取る。

さまざまな角度から眺め、それから指先で軽く触れて訝しむような顔になった。

「……?もしかして、石ではないのか?不思議な手触りだが」

 

「ええ、まあ…とても貴重なものなんですが…」

私は再び曖昧に笑った。

あまり突っ込まれるとまずい。素材自体もまずいが、二つの護符に施した細工は探知魔術を使えばすぐに分かるものなのだ。

殿下はそんな魔術は使わないだろうが、やたら勘が良い所があるので魔術なしでも何かを勘付いてしまうかもしれない。

何かおかしいと思ってそこら辺の魔術師に「ちょっとこの護符を調べてみてくれ」と言えば、私はそれでお縄である。

 

 

「…あの、私、そろそろお(いとま)します!もう夕方ですし、寮に帰らなければ」

「え?ああ」

そそくさと立ち上がった私に、殿下が慌てて流星の護符を返してくれる。

「視察のお話が聞けて楽しかったです。お二人共お疲れでしょうし、ごゆっくり休まれて下さい」

「!待…」

「すみません、ではまた学院で!ごきげんよう!」

 

何かを言いかける殿下に申し訳なさを募らせつつ、急いで挨拶をして部屋を退出する。

とりあえず無事は確認できたし、もう日が傾いているのは本当だ。早く寮に帰った方が良い。

護衛のヴォルツもずっと私を待っているだろうし。

残りの話は学院で聞かせてもらおうと思いながら、急ぎ足で城の廊下を歩いた。



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第130話 事件の始まり(前)

「お嬢様、こちらの帽子も被って下さい。暖かいですから」

「はい」

コーネルが取り出したふかふかの毛皮の帽子を、私は大人しく頭にかぶった。

厚手のコート、手袋、マフラー、ブーツとかなりの重装備だ。正直ちょっと重いのだが、文句は言えない。

何しろ私は数日前まで、またもや風邪を引いて寝込んでいたのだから。

 

 

 

この年末年始、私はちゃんとジャローシス領に帰るつもりだった。

両親からは今年は帰って来いと念を押されていた。何しろ長兄のラズライトお兄様は結婚したばかりなのだ。

新妻のサーフェナお義姉様はジャローシス家の妻として初めての年越しで、新年の祝いでは改めて領民へのお披露目がされる。

不慣れな事も多いだろうし、義妹の私が一緒にいた方が心強いだろう。

王都のことは気になるが、この冬休みくらいは実家で過ごすべきだと、私もまた思っていたのだが…。

いざ冬休みに入り帰ろうとした所で、風邪で熱を出してしまったのである。

 

冬にしては妙に暖かい日が続いた後で急に気温が下がったので、その温度差が良くなかったのではないかと思うが、日頃からちゃんと身体を鍛えておけばと激しく後悔した。

元々さぼりがちだったランニングを、寒くなってから完全にやめていたのが悪かった。やはり体力はちゃんと付けておかなければならないのだ。

一応剣術もやっていた前世では、風邪を引いても高熱を出すような事はほとんどなかったし。

 

 

これにより、私の帰省は急遽中止となった。

数日で熱は下がったのだが、咳やら鼻水やらと言った症状がなかなか治まらなかったのだ。こんな状態で馬車旅などとてもできない。

冬休み中というのもあって、王都のジャローシス屋敷でゆっくり休む事になった。

もちろんコーネルと、私の護衛をやっているヴォルツも、去年に引き続き王都に居残りである。

二人共きっと家族に会いに帰りたかっただろうに、本当に申し訳ない。

 

年が明ける頃になってようやく咳や鼻水も無くなったのだが、毎年恒例の王家による新年パレードにはさすがに行かせてもらえなかった。

病み上がりであんな人の多い所に行くなんてとんでもない!とコーネルに怒られたのだ。

彼女の言う事は最もなのだが、かなり残念だった。せっかく王都にいるのに見に行けないなんて…。

 

風邪を引いてからは殿下の顔もずっと見ていない。

うつしてはいけないとお見舞いを断ったのは私なのだが、その代わり果物や花が届いたりした。

家族からも私の体調を案じる手紙が来ていたし、また皆に心配をかけてしまったと反省しきりだ。

どうして私はこうなんだろう。落ち込むしかない。

 

 

ちなみに、帰省の途中で領に立ち寄らせてもらう予定だったアーゲンからも、ちゃんとお見舞いの品が届いていた。

直前になってキャンセルをして、むしろこちらが迷惑をかけたというのに。相変わらずマメというか、振られた後でもその辺りの対応を変える気はないらしい。

以前は腹黒い野郎だと思っていたが、友人として付き合ってみると良い奴だ。

前世とは少し性格が違う気がするが、親しくなった事で本来の彼を知っただけなのか、それとも前世では起こらなかった事件や経験によって何か変わったのか。

何にせよ、帰ってきたらお詫びとお礼をしなければなと思う。

 

 

 

そんな訳で今年も王都で冬休みを過ごしている私だが、ずっと部屋から出られないので正直暇を持て余していた。

いつものように魔術の修業をしたり本を読んだりして過ごしているのだが、それが何日も続くとさすがに飽きる。

私の場合新しい本さえあればだいたい暇は潰せるのだが、年末年始は図書館も休みなのだ。すでに借りてある本はとっくに読み終わってしまった。

 

スフェン先輩は今年もまた王都に残っていて、時々様子を見に来てくれているが、先輩だってそんなに暇ではない。

せっかくまとまった時間が取れるのだからと、冬休み中は剣術修業に打ち込んでいるのだそうだ。

 

 

そんな中、ただ一人この時期の王都で同じように暇を持て余している人がいた。

殿下である。

学院は冬休みだし、年末年始ともなれば城の者たちも交代で休みを取るので、勉強や剣術修業も自習ばかりになる。

そして貴族や同級生の多くが王都を留守にしているので社交もお休みだ。

 

従者のスピネルはパレードが終わってから休みを取るのでまだ王都にいるはずだが、何やらここしばらく、暇な時は城を留守にする事が多いようだ。

どこに行っているのかは殿下にもよく分からないと言う。私も尋ねてみた事があるが、適当にはぐらかされた。

時々図書館や王宮魔術師団で見かけるとも聞いたが、私がそれらの場所で顔を合わせた事は一度もないし、スピネルらしくない話だ。

恋人ができたとかいう訳でもなさそうだし…。一体どうしたんだろう?

 

 

 

まあそれはさておき、私と同じく「やる事がない訳ではないが、何となく暇」状態の殿下からは「風邪が治ったらいつでも遊びに来て欲しい」という旨のメッセージが届いていた。

そこで新年パレードが終わった翌日、さっそく城を訪ねる事にしたのだ。

殿下の顔を見るのは久し振りなので楽しみだ。

スピネルは今日あたり実家のブーランジェ領に帰るはずだから、もしかしたら出発前に会えるかも知れない。

 

護衛のヴォルツの他、コーネルも同行してくれるというので、二人を連れて城へと向かった。

ずっと外に出ていなかったので、吹き付ける冬風がとても寒く感じる。

厚着を勧めたコーネルは正しかったようだ。まあ移動はほぼ馬車だから外を歩く距離は僅かなんだが…。

顔馴染みの門番に挨拶をし、城内へと入る。

 

ヴォルツとコーネルとはここで一旦お別れだ。城の中には登城した貴族の護衛や使用人が待機するための待合室があるので、二人は帰るまでそこにいる事になる。

この時期は利用者がほとんどいないのでほぼ二人きりのような気がするが、一人でいるよりはマシだろう。

「では、お嬢様。ごゆっくり」

「はい」

コーネルには帽子と手袋、マフラーだけを預けた。城内も結構寒いのでコートは着たままだ。

 

 

 

そして、殿下の所まで案内するためにやって来た衛兵の顔を見て私は目を丸くした。

「貴方は確か、アイキンの…」

「はい。カーフォルでございます。覚えていて下さって嬉しいです。その節は、本当にありがとうございました」

深々と礼をした男の名前はカーフォル。

昨年の水霊祭の時に立ち寄ったタルノウィッツ領、そこで出会った少年アイキンの叔父だ。

 

カーフォルは、タルノウィッツ領で行われていた非合法の魔術実験の被害者だった。

ちょっとした巡り合せにより、私や殿下の一行はその非道を暴く事になったのだが、事件後被害者たちは全員王都へ送られた。

事件の証言を取るためと、体内に埋め込まれた魔法陣の解除をするためだ。

さらに被害者の多くは実験の影響により衰弱しており、後遺症の心配もあったので、しばらくの間王宮魔術師団による保護と静養が必要と判断された。

カーフォルもまたアイキンと共に王都に留まる事になり、その際に二人には一度会って礼を言われたりしていたのだが…。

こうして再会するのはおよそ半年ぶりだ。まさか城の衛兵になっているとは思わなかった。

 

 

「アイキンは元気ですか?」

「はい。今ではすっかり王都にも慣れたようで」

事件の被害者は身寄りがいない者ばかりだった。

身体が回復してからも、嫌な記憶が残るタルノウィッツ領にはもう戻りたくないと言う者が半数以上で、そういう者たちは王国の支援を受けて別の領や王都へと移住したと聞いている。

カーフォルもアイキン以外の身寄りはいないし、王都で職に就き暮らすことを選んだんだそうだ。元騎士という経歴、それから若さとやる気を買われ、城の衛兵に採用されたのだという。

 

「王都は良い所ですね。田舎者の自分には慣れない事も多いのですが、皆さん良くして下さいます」

「それは良かったです」

私は嬉しくなってニコニコした。

王都にはたくさんの人々が暮らしているが、おおむね平和で豊かにしているのは国王陛下による統治が行き届いている証拠だ。

殿下にもまた、この治世を長く続けていただくのが私の望みである。

 

 

「それに、王都にはとても大きな図書館があるのが良いですね。衛兵の身分があるおかげで、いつでも本が借りられて嬉しいです」

「カーフォルさんは本がお好きなんですか?」

思わず問い返すと、カーフォルは照れたように少し笑った。

「はい。タルノウィッツにはあんな大きな図書館などなかったので、最初行った時はびっくりしました」

なるほど。普段から本に馴染んでいるなら、ある程度教養はあるのだろう。城の衛兵に採用されたのはその辺も理由の一つなのかもしれない。

城勤めなら、場合によっては貴族の相手をする事もあるしな。

 

「どんな本を読まれるんですか?」

「小説が多いのですが、最近読んだ中で好きだったのはあれですね。自分の身代わりとして人質になった親友のために、千里を走る男の物語」

「あっ、それは私も読みました。短めですが、とても良いお話でしたよね」

暴虐な王を斃そうと決意したが、目的を果たせずに捕まってしまった愚直な男が主人公の話だ。

男は処刑されることになったが、その前にせめて妹の結婚式に出たいと願い、親友を人質として残し故郷へと走り出す。

前世でも読んだ本だが、好きな話なので今世でも読み直してしまった。

 

「アイキンも文字は読めますし、読んでみるよう勧めてみたんですが、まだ難しかったようで」

「あら…」

苦笑いするカーフォルに、私も少し笑ってしまう。

彼は事件の時は無愛想な様子だったしほとんど話さなかったが、本来は話好きの男だったらしい。意外に愛想が良いし、本が好きだと言うのも私としては好感が持てる。

 

そのまま本の話を続けようとしたところで、私はふと気が付いた。

…何も考えずカーフォルの後について歩いていたが、いつの間にか王宮のずいぶんと奥の方まで来ている。



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第131話 事件の始まり(後)※

「あの、ここ…」

こっちは殿下の居室でも応接室でもないよな…とカーフォルの方を見ると、彼は「あれ!?」と慌てた声を上げた。

「す、すみません!まだ不慣れなもので、道を間違えました…!」

どうやら途中で一つ角を曲がり損ねたな、と私は思う。

 

今は新年休みで王宮内は極端に人が少ない。

カーフォルはまだ衛兵になって日が浅い上、様子がいつもと違うので、道を間違えている事になかなか気付けなかったようだ。まあ気付かなかったのは私もなんだが…。

ここに来るまで全く人とすれ違わなかったしなと思い、おや?とその事に不審を感じる。

…いくら何でも、人がいなさすぎじゃないだろうか?

 

この奥は、城の中でも特に重要な場所だ。

王家の財宝が収められた宝物庫や、門外不出の貴重な書物や歴史書などが蔵書されている書庫などがある。

各扉には厳重に鍵がかけられている上、周辺一体に魔術封じの魔法陣が敷かれている魔術封印区画だ。

入れるのは王族やその側近、そしてここの管理権限を持っているごく一部の王宮魔術師くらいで、貴族だってこの辺りには近寄れない。

私も従者だった前世では何度か入ったが、今世では一切来ていない場所だ。

当然、年末年始だろうとしっかり衛兵が立っているはずなのだが…。

 

 

きょろきょろと辺りを見回した私に、カーフォルが困った顔になる。

「あの、向こうに戻…」

「待ってください。何か変です」

声をひそめてそう言うと、彼はすぐに表情を引き締めた。私が真剣な事に気付いたようだ。

「あまりに人がいなさすぎます。いい加減誰かに見咎められても良い頃なのに」

「そう言えば…」

 

「この先は立ち入り禁止の封印区画のはずですが、もう少しだけ奥に行ってみましょう。もし何事もなさそうなら、衛兵に謝って戻れば良いだけなので」

封印区画にはさすがに誰か衛兵がいるはず。それが確認できたら戻ればいい。

「分かりました」

うなずいたカーフォルに私もまたうなずき返し、辺りに注意を払いながら慎重に歩き始めた。

 

 

 

「やっぱり誰もいませんね…」

すぐに、魔術封印区画の入口まで来た。この辺りは窓もないので薄暗くて寒々しい。

普段は明かりも付いていない場所なので、廊下の奥がどうなっているのかよく見えない。

暗い廊下の先に目を凝らすと、柱の陰に何か黒っぽいものが見えた。

革のブーツ。

誰かがそこに倒れている。

 

 

「…大丈夫ですか!?」

駆け寄ろうと足を踏み入れた途端、魔力を乱される独特の感覚が全身を走った。入ってはならない場所なのだと本能的に感じる。

この中では、いくら意識を集中させようと魔術は使えない。魔力を体外に放出できないし、魔力の操作自体も阻害されるので、身体強化すら使えない。

魔導具や護符なども、魔力の流れが乱されるためにほとんどの物が発動できないのだ。

その事にひどく心許ない気持ちになりながら、倒れている人物の傍にかがみ込み、脈と呼吸を確かめる。

 

「こ、この人は…」

カーフォルが戸惑いの声を上げた。

倒れていたのは衛兵だった。30代くらいの男だが、顔に何となく見覚えがある。城内で何度か見かけたはずだ。

ぱっと見た限りでは外傷はないようだし、命に別状はなさそうだ。

「大丈夫。気を失ってるだけのようです」と言った私に、カーフォルがほっとした顔になる。

彼にとってはきっと先輩だろう。

 

しかし、明らかに異常事態だ。この衛兵を気絶させた人間が近くにいる可能性がある。

このままここにいてはまずい。すぐに離れた方がいい。

「急いで、誰か人を呼…」

そう言いながら立ち上がった瞬間、突然目の前で光が弾けた。

「わっ…!?」

 

 

「…抵抗(レジスト)した?」

耳に届いたのは、どこか聞き覚えのある男の声。

振り向くと、奥の方から背の高い男が私へと駆け寄ってくるのが見えた。

咄嗟に魔術を使おうとするが、魔力が乱され集められない。ここが封印区画だった事を思い出し、慌てて踵を返す。

だが、ドレスの上にコートまで着ているのだ。まともに走れる訳もなく、あっという間に腕を掴まれ、口を塞がれる。

「……!!」

必死で振り払おうとするが、相手の力が強くまるで身動きが取れない。

 

「この娘は、第一王子の…」

さらに、奥からいくつかの足音が聞こえた。

二人の男がこちらに近付いてくる。

まず見えたのは、王宮魔術師のローブを纏った50代半ばくらいの痩せぎすの男。

私も顔を知っている。ゲルマンという名前の、結界術を得意とする魔術師だ。

そして、ゲルマンの後ろにいる男の顔を見て驚愕に目を見開く。

 

 

「リナーリアか。なぜお前がこんな所にいる」

癖のある金髪に不遜な表情を浮かべたそいつは、間違いなくオットレだった。

しかもその手に持っているのは、王家の秘宝の王錫と腕輪ではないのか。

国王陛下だけが持つ事を許される宝物だ。

 

私が愕然としているのを見て、オットレが得意げににやにやと笑う。

…まさか、秘宝を宝物庫から持ち出して来たのか。

鍵を盗んだ?ゲルマンの手引きか?

宝物庫の鍵は、いくら王宮魔術師でもそう簡単に触れられるものではないのに。

 

 

…まずい。よりによって秘宝が盗まれる現場に居合わせてしまうなんて。

しかも魔術が使えないこの場所で、完全に身体を拘束され口も塞がれているのだ。

必死に目だけを動かし、状況を把握しようと周囲を見る。

カーフォルは倒れていた衛兵の上に折り重なるようにして倒れているようだ。気を失っているのか、ピクリとも動かない。

どうやって離れた場所から一瞬で意識を奪ったのか。

さっきの光のせい?何かの道具だろうか?だったらなぜ私は意識を失っていないのか?

 

「どうしますか?」

混乱する私をよそに、低い声でオットレたちに尋ねたのは、私を抑え込んでいる男だ。

さっきちらりと見たが、逞しい身体つきの中年の男だった。知らない顔だったと思う。

「この娘は使えます。連れていきましょう、オットレ様」

ゲルマンがそう言い、オットレが偉そうにうなずく。

「そうだな。役に立ちそうだ」

「……!」

 

何とか拘束から逃れようと焦るが、まるで動けない。下手に動こうとするとすごく痛い。身体に力を入れられないよう、腕の関節を捻り上げられているのだ。

私を捕らえている男は騎士か何かだろうか、とにかく武術の心得があるようだ。腕力そのものも強いが、人を拘束する術を知っている。

どうしたらいい。どうやったら逃げられる。

必死で頭を巡らせようとした時、その場に声が響いた。

 

 

「…リナーリア!!」

 

反対側の廊下から飛び出して来たのはスピネルだった。

城を出る所だったのか、旅装らしきものに身を包んでいる。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

「動くな!!」

だが、剣を抜き放ちこちらに駆け寄ろうとしたスピネルは、その声でぴたりと動きを止めた。

「この娘の命が惜しければ、剣を捨てろ」

声を上げたのは、私を捕らえている男だ。

スピネルが憎々しげに睨み付けるが、男は私を捕らえている腕に力を込めた。関節に激痛が走る。

「……!」

「やめろ!!」

がらんと音を立て、スピネルの剣が石床の上に落ちる。

 

「…そいつを放せ」

「ハッ、丸腰のくせに偉そうに。よくそんな口が利けるな?」

せせら笑ったオットレが、手に持った王錫でスピネルを指した。それが何であるか気付いたスピネルの顔に驚きが走る。

「それを、どうやって持ち出した」

「教える訳がないだろう。丁度いい、貴様で試してやる。…()()

 

 

その言葉に従い、スピネルはゆっくりとその場に膝をついた。

相手を支配する力。王家の秘宝、支配者の王錫の力だ。

「てめぇ…」

「ははは、いいざまだな!前から貴様の事は気に食わなかったんだよ…!」

ぎりぎりと歯を食いしばりながら睨むスピネルに、オットレが愉快そうな笑い声を上げる。

 

「…おい、ゲルマン」

「はい」

オットレに呼びかけられたゲルマンが手をかざす。

「ぐっ…」

途端に、スピネルの身体が斜めに傾いた。

ほんの一瞬だけ私と目が合い、そのまま床に倒れ込む。

 

 

…眠りの魔術だ。

信じられない気持ちで、ゲルマンと倒れたスピネルを見る。

ここは封印区画なのに、ゲルマンはどうやって魔術を?

「オットレ様、この男も連れて行きましょう」

「何?こいつもか」

「はい。王子の従者です、利用価値は高いかと」

 

「チッ…」

オットレは忌々しげに舌打ちをしたが、それ以上何も言わなかった。

「その娘も眠らせます。人が来る前に、急ぎましょう」

ゲルマンが私にも手をかざす。

急速に意識が遠のき、目の前が暗転した。



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第132話 馬車の中

ゴトゴトという音と、身体に伝わる振動で目を覚ました。

やけにゴワゴワとした感触が手や頬に当たっている。ゆっくりと目を開けると、薄暗い中に麻布のようなものが目に入った。

「……?」

何だこれは…とぼんやり考えて、それからすぐに意識が覚醒した。

慌てて跳ね起きようとするが、上手くいかない。両手を後ろ手に縛られているし、ゴワゴワした何かが身体を覆っている。

 

「……!?」

「落ち着け!」

ほとんどパニックになりながらもがく私の耳を、低い声が打った。

「…す、スピネル?」

「ああ。すぐ後ろにいる」

聞き間違えるはずもないその声に、わずかながら安心する。

ごろりと転がって何とか後ろを振り向くと、やはり後ろ手に縛られているらしいスピネルが座り込んでいた。

 

 

見上げた天井は幌で覆われていて、どうやら大きめの荷馬車の荷台のようだった。

周りには麻袋がいくつも積み上げられている。匂いからしてきっと小麦袋だろう。

「あの、これは…」

「見ての通りだ。俺たちは小麦袋と一緒に馬車で運ばれてる」

「私、なんか中途半端に袋に入れられてるんですが」

私の身体は鼻のあたりまで麻袋に入れられている状態だった。袋の端が頬に当たってちくちくする。

「最初は袋詰めにされてたんだ。息が苦しいっつって暴れたら、袋の口だけ開けていったんだよ」

言われてみれば、スピネルの足元には空の麻袋が落ちている。足で蹴って袋から抜け出たらしい。

 

 

とりあえず、ずりずりと身体を動かして半身を起こした。スピネルの横で小麦袋に背を預けて座り込む。

まだ腰から下が袋に入った状態だが、スカートが邪魔になり、袋を蹴ってもそれ以上抜け出せないので諦める。

試しに魔力を集中させてみるが、やはり魔術は使えなかった。

周囲の気配でも何となく分かるが、ここには魔術封じの魔法陣が敷かれている。

 

「何があったか覚えてるか?」

「ええ…」

ズキズキと痛む頭を必死に働かせ、今の状況を思い出す。

「なぜ封印区画になんかいたんだ?」

「カーフォルさんが…あ、覚えていますか?タルノウィッツ領で会った、アイキンの叔父さんです」

「ああ…。城の衛兵になったんだったか」

スピネルも、彼が衛兵に採用された事は知っていたらしい。

「彼が案内してくれていたんですが、道を間違えてしまったみたいで、たまたま封印区画近くにまで行ったんです。そこであまりに人がいなさすぎると気が付いたので、不審に思って…。少しだけ奥を覗こうとしたら、衛兵が倒れていて」

 

 

それを聞いたスピネルは大きくため息をついた。

「それでオットレたちに出くわしたのかよ…」

「はい。王錫と腕輪を持ったオットレたちにいきなり襲われて…魔術が使えないので、捕まってしまいました。…すみません」

あそこに入るべきではなかった。辺りに人がいないと気が付いたその時点で、戻って人を呼んでおけば良かったのだ。

そう思うが、今となっては後の祭りである。

 

「スピネルはどうしてあそこに?」

「…城を出る所だったんだよ。でも入口まで行っても、来るはずのお前とすれ違わなかったから」

「よく居場所がわかりましたね」

「途中で、妙な人影を見たから追ってるって言う衛兵に会ったんだよ。何かおかしい気がしたから、そいつが来た方向に走ったら、案の定だ」

なるほど。やけに人がいなかったのは、衛兵が人影を追って持ち場を離れていたせいか。

以前聞いた、城での幽霊騒ぎはまだ収まっていない。

もしかしてあれもオットレやゲルマンの仕業だったんだろうか。一体どうやったのかという疑問は残るが…。

 

 

改めて馬車の中を見回す。

頭が痛むのはきっと、眠りの魔術を長時間かけられたために起こった副作用だ。

あれから既にかなりの時間が経ったと考えるべきだろう。

そして、私たちが詰め込まれていたというこの麻袋。

わざわざ小麦袋に偽装して私たちを運んでいるのは、積荷を調べられるような場所を通らなければならなかったからだろう。

つまり…。

 

「…ここは、王都の外でしょうか」

「多分、そうだろうな」

私よりも早く目を覚ましていたらしいスピネルも、同じ結論に達していたようだ。

馬車で王都の外門を出入りする際には、身分証や積荷の検査が行われる。

平時はそんなに厳しい検査ではないし、王族のオットレが関わっている荷物ならば余計に対応は甘くなるだろう。

一緒に載せた本物の小麦入りの麻袋を開いてその中身を見せ、どこぞの貴族への新年の贈り物だとでも言えば、簡単に通れたに違いない。

 

「途中で一度、転移魔法陣を使ってたっぽい。おかげでどの辺りなのか全く分からねえ」

転移魔法陣は準備にある程度時間がかかるし、安定して使うには魔導具の補助も必要だ。予め用意していなければ使えまい。

…やはりこれは、秘宝を盗み出すために周到に計画された犯行なのだ。

こんな大それた犯行をオットレが一人で考えたとは思えない。

首謀者は恐らくオットレの父、王兄フェルグソンだ。

 

 

「一番可能性が高いのは、フェルグソンがいる王家の直轄領だろうな。奴の派閥のどっかの領って可能性もあるが…」

「ええ…」

王家の直轄領は、王都から北に離れた場所にある。

オレラシア城という名の、このベリル島がまだいくつもの国に分かれていた頃に建てられた古く小さな城があり、その周辺はこの国を象徴する果物である黄金色のリンゴの特産地としても知られている。

 

王子のうち王位を継がなかった者は、大抵の場合何らかの重要な役職に就くのだが、このオレラシア城の城主もその一つだ。城の管理と直轄領の統治が役目である。

国王陛下と王位を争ったフェルグソンは、国政の中枢から遠ざける意味もあり、オレラシア城主へと据えられた。

以前は王族の避暑地として利用されたりもした場所だと言うが、フェルグソンと国王陛下はあまり仲が良くないので、前世で私や殿下が訪れたことはほんの数度しかなかった。今世でも同じようなものだと思う。

 

 

いずれにせよ、外の様子が見えないので場所について今は考えるだけ無駄だろう。

馬車が目的地に着けば分かりそうだが、そうしたらスピネルとはもう自由に会話できない可能性がある。人質同士にのんびりおしゃべりをさせてくれる誘拐犯などいるまい。

今のうちに情報を共有しておかなければ。

 

「オットレと一緒にいた魔術師、王宮魔術師のゲルマンです。結界術が得意な、相当の腕利きだったと思います」

現在、王宮魔術師団のトップに立つ筆頭魔術師はアメシスト様だが、十数年前にアメシスト様と筆頭の座を争ったのがこのゲルマンだったと聞いている。

「結界術…。それであいつ、封印区画でも魔術が使えたってのか?」

「普通のやり方でできる事ではありません。十中八九、禁術を使っています」

王宮の魔術封印は特に高度で複雑な魔法陣をいくつも組み合わせてある。どんな腕利きだろうと、一人で破れるようなものではない。

 

ゲルマンの、どこか暗い印象を受ける顔を思い出す。

物静かな老魔術師で、人を寄せ付けない雰囲気があった。前世でも今世でも私はほとんど会話した事がない。

「かつて筆頭魔術師の座を争ったアメシスト様を恨んでいるという噂も、聞いた事がありますが…。詳しくは私も知りません」

「なるほどな」

それが動機で、こんな犯行に加担したんだろうか。仮にも王族のオットレはともかく、ゲルマンはもし捕まれば極刑は免れないだろうに。

 

 

「とにかく、あいつらの目的は王錫と腕輪を盗むことだった。お前と俺を攫ったのはあくまでついでだろうな」

「そうでしょうね…」

年始で人が少ない時期を狙ってやったんだろうなと思う。

こんな時に王宮の奥にやって来る人間がいるとは、奴らも思わなかったに違いない。

「…カーフォルさんたち、無事だと良いんですが」

「…ああ」

この荷台にいる人間は私とスピネルの二人だけ。

カーフォルや、倒れていたあの衛兵は連れて来られていないようだ。

最悪の場合、口封じされている可能性もある。アイキンの顔を思い出し、心が痛む。

 

 

「今は、自分が助かる事だけを考えろ」

静かな声でスピネルが言った。

「奴らにはお前を生かしておきたい理由がある。大人しくしていれば、危害は加えられないはずだ」

 

以前、スピネルが言った言葉を思い出す。

私には狙われるだけの理由がある。そう思っている人間がいるのだと。

私を捕らえた男も、「第一王子」という単語を口にしていた。

ただの貴族令嬢に過ぎない私に利用価値があるとすれば、それはきっと、殿下への人質としてなのだ。

 

 

「余計な事は言わず、奴らには逆らわないようにしろ。大丈夫だ、お前や俺がいないと殿下も皆ももう気付いてるだろう。必ず助けが来るはずだ」

スピネルは私の目を見つめ、有無を言わせない真剣な声音で言う。

「…お前の事は、必ず守る」

 

 

スピネルだって、私と同じように捕まって縛られている状態だ。

その言葉には、何の根拠もなければ説得力だってない。

そのはずなのに、きっぱりと言い切ったその声は妙に頼もしく感じられて、こんな状況だというのに不思議と少しだけ安心できる。

 

私はひっそりと微笑むと、わざとふてくされた声を出した。

「だったら今すぐ、この縛ってる縄を何とかして下さい。手が痛いです」

「…それは無理だ」

「あと麻袋がちくちくします。絹の袋に替えて下さい」

「無茶言うな」

「お腹も空きました。プリンが食べたいです。フルーツとホイップクリーム付きの」

「お前な…」

 

つんと顔を背けた横で、スピネルが苦笑する気配が感じられた。

「…お前って奴は、本当に…」

わずかに気の抜けた雰囲気に、良かったとほっとする。

スピネルの事は頼りにしているが、彼がいざという時どういう行動を取るかはもう知っている。

また私を庇って、傷付いたりされるのは嫌だ。

スピネルは私にとっても殿下にとっても大切な友人で、この国に必要な人間なのだ。

 

 

…殿下も、きっと心配しているだろうな。

会いたいという気持ちが湧き上がってくるのを堪え、スピネルの顔を見る。

「二人で、必ず無事に帰りましょう」

「ああ」

力強い返事が返ってくる。

 

手も頭も痛いし、麻袋はゴワゴワするし、ずっと揺れているしで本当に最低な状況だけど。

絶対にくじけるものかと、そう強く思った。



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第133話 王兄フェルグソン

夜半過ぎと思われる時刻に、馬車はどこかに到着した。

しばらくそのまま放置され、まさか朝まで荷台の中じゃないだろうな…と思い始めた頃、幌が開いて男が入ってきた。

城で私を捕らえた男だ。

 

「騒ぐな。怪我をしたくなければ大人しく言う事に従え」

「……」

無言でうなずくと、男は手に持っていた小さな輪を持ち上げ、私の喉元に当てた。

一瞬で輪が広がり、パチンという音と共に私の首に巻き付く。

高魔力持ちの犯罪者を捕らえた際に使う、魔術封じの首輪。それを嵌められたのだと気付き、激しい怒りと屈辱が湧く。

思わず男を睨みつけそうになるのを、唇を噛んで何とかこらえた。畜生。

 

 

私が怒りと戦っている間に、スピネルも同じものを嵌められたようだ。

男に「降りろ」と促され、スピネルの後に続いて外に出る。

結構高い荷台だったので飛び降りた拍子にスカートが捲れた気がしたが、それどころじゃないので気にしない事にした。

 

降りてすぐに目に入ったのは、兵士らしい数人の男と魔術師のゲルマン。

それから、高い石壁。

そびえ立つ壁を見上げて確信する。オレラシア城だ。やはり直轄領に連れて来られたらしい。

辺りは暗いしこの至近距離からでは壁の全容など分からないが、これだけ大きな石造りの建物など他にないだろう。

馬車はどうやら、城の裏口に停められたようだ。

 

 

 

明かりを持った兵士の先導で、人気のない暗い廊下を歩く。

やがて一つの部屋の中へと案内された。

応接室のようで、やや古びた調度品が置かれている。

 

ソファの上にふんぞり返っていたのは、想像通りの人物だった。

王兄フェルグソン。

隣にいる息子のオットレとよく似た顔立ちだが、より狡猾そうな雰囲気を持っている男だ。

私とはほとんど関わりがなかったので、今世でも前世でもせいぜい挨拶程度しか交わした事はない。

特に殿下の従者だった前世ではその挨拶すら無視されがちだった。思い出しても腹が立つ。

フェルグソンの顔はほんのり赤らんでいるように見えた。もうかなり遅い時間だと思うが、酒でも飲んでいたのか。

 

「ふむ…秘宝を手に入れるついでに、こんな拾い物をするとはな。運がいい」

フェルグソンがにやにやと笑って私やスピネルをじろじろと見る。ひどく不躾な視線だ。

「…お前の目的は何だ」

笑うフェルグソンに、スピネルが問いかけた。

私は口を出さないようにと馬車の中で言われていたので、隣で黙って様子を見守る。

 

「玉座の簒奪か?」

続いた問いに、フェルグソンは赤らんでいた顔を更に赤くした。

がん、と拳をテーブルに叩きつける。

「簒奪などではない!!正当な権利を取り戻すだけだ!!」

その傲慢な物言いに吐き気がし、思わず顔を背けた。腸が煮えくり返りそうだ。

フェルグソンが玉座に就けなかったのは、その傍若無人な振る舞いを改める事なく繰り返し、周りの貴族たちの信頼を失っていったからだ。

自業自得だと叫んでやりたい。

 

 

「そいつは申し訳ない、フェルグソン殿。悪気はないから、そう怒らないでくれ」

怒りを顕わにするフェルグソンに、スピネルは後ろ手に縛られたままの肩をすくめた。人を食った態度だ。

「口を慎め」

横にいたゲルマンが低い声で言ったが、スピネルはお構いなしに話を続ける。

「まあ、そう言わず聞いてくれ。話によっちゃ、俺もあんたら側に付いてもいい」

「何…?」

フェルグソンとオットレが揃って驚く。

私もまた、びっくりして顔を上げスピネルを振り返った。一体何を言い出すのか。

 

「…そんな言葉を信じると思うのか?お前は王子の従者だろう」

フェルグソンたちもさすがに全く信じていないようだ。胡散臭げにスピネルを睨み付ける。

「俺だってこんな所で殺されるのはごめんなんだよ。…()()で操られるのもな」

スピネルはそう言って、オットレの持っている王錫を顎で示す。

 

「今の時点であんたらに逆らった所で、俺には何も得がない。分かるだろう?」

確かに今、殊更に奴らに逆らってみせても何にもならない。ただいたずらに神経を逆撫でし、自らを危険に晒すだけだ。

しかし、だからと言って…。

「ふむ…」

フェルグソンが考え込むように顎を撫でる。

 

 

口を挟んだのは、話を聞いていたゲルマンだった。

「だが、逆らわないのとこちら側に付くのとでは大きな隔たりがある。こちらに付くと言うのならば当然、フェルグソン様の役に立ってもらうぞ」

「そうだな。…差し当たっては、うちの親父…ブーランジェ公爵をあんたら側に引き入れるための情報…なんてのはどうだ?」

「何だと…?」

鉄面皮を貫いていたゲルマンも、この言葉にはさすがに驚いたようだ。

 

「うちの親父は、10年前から領内での魔石の採掘を王国に申請していた。でも、許可は降りなかった。ブーランジェの権力が増すのを恐れたブロシャン公爵家が邪魔をしたって話だ」

その話は私も知っている。ブーランジェ領内に魔石の鉱脈がある山が見つかったという事で、王宮魔術師団が調査に行くのを前世で何度か見たからだ。

しかし許可が降りなかったのは、その山の地下にはガスが多く含まれていて、採掘は危険だと判断されたのが理由だったはず。

ブロシャン家が邪魔をしたという噂もあった事はあったが、ただの与太話だったはずだ。

 

「この件を親父は根に持っている。魔石の利権は巨大だ。採掘の許可をちらつかせれば、きっと話に乗ってくる」

「……」

半信半疑の様子で考え込むフェルグソンやゲルマンに、スピネルは更に畳み掛ける。

「他にも、パイロープ家やゲータイト家の弱味に、ランメルスベルグ家の隠れた噂。使える情報はいくらでも持ってる。…王子の従者が持つ情報網を、欲しいとは思わないか?」

 

私にも何となく心当たりがあるものもあれば、ないものもある。

今挙げられた家名はどれも大きな権力を持つ家のものばかり。

しかも、現国王陛下やその大きな支持基盤であるブロシャン家派閥とは、付かず離れずの距離を保っている家ばかりだ。

玉座の簒奪を企むなら、そういう家はできるだけ味方につけたいだろう。

 

 

「…逆に問おう。お前はそれで何を望む」

しばしの沈黙の後、再び口を開いたのはゲルマンだ。

「まさか命乞いのためだけに、そんな情報を寄越す訳ではあるまい」

「まあ、まずはこの縄を解くことだな。それから清潔で柔らかいベッドだ。後は温かい食事と酒。こちとら朝から何も飲み食いしてないんだ」

「欲のないことだな」

フェルグソンが眉をしかめる。その程度の望みを言われても、とても信用できないという顔だ。

それを見てスピネルはにやりと笑う。

「いきなり本当の望みを口にするほど俺も馬鹿じゃない。まずはあんたらに信用してもらうのが先決だ」

 

「どう思う、ゲルマン」

フェルグソンはゲルマンに尋ねようとしたが、ゲルマンが答えるよりも早く、イライラした様子のオットレが立ち上がった。

手に持った王錫をスピネルへと向ける。

「まどろっこしい。こうすれば済む話だ。…今の話は本当か?《正直に答えろ》」

 

「…嘘は言っていない」

スピネルはそう答え、それから忌々しげにオットレを睨んだ。

とりあえず納得したのか、「ふん」と鼻を鳴らしながらオットレがもう一度座る。

「オットレ、秘宝の力を軽々しく使うな」

「…はい、父上」

フェルグソンに注意され、オットレは不承不承うなずく。

 

 

 

「…良いだろう。とりあえずは信用してやる」

「それはありがたいね」

フェルグソンの答えにスピネルは嫌味っぽく笑った。それから、「あともう一つ」と付け足して私の方を見る。

「彼女の事は丁重に扱え。あんたらも分かってると思うが、()()()()()()()()()()()()()はするなよ」

ついスピネルの方を見返したが、スピネルはすぐに目を逸らした。

私はただ、困惑したようにうつむく。

 

…スピネルが殿下を裏切るような事をするはずがない。これは演技だ。

先程スピネルは王錫の力で無理矢理答えさせられていたが、その返事は「嘘は言っていない」だった。

嘘ではないからと言って全部が本当だとは限らない。咄嗟に、矛盾せずに答えられる返事をしたのだろう。

だが、下手に私が口を挟んだらボロが出てしまう可能性がある。事前に言われていた通り、この場では黙っているべきだ。

 

 

フェルグソンは少し考えた後、鷹揚ぶった仕草でうなずいた。

「娘は西の塔の部屋に入れろ。口の堅い侍女を一人選んで世話をさせてやれ。この男は地下牢の一番奥だ」

「おい!」

抗議の声を上げたスピネルに、フェルグソンがふふんと笑う。

「清潔なベッドとやらはブーランジェ公爵の話の裏が取れてからだ。だがまあ、食事くらいは融通を利かせてやろう。…連れて行け」

フェルグソンが目配せをすると、後ろに控えていた兵士たちがスピネルの両側に立った。そのまま部屋の外へと連行されて行く。

 

私の前にも、一人の兵士が立った。

「こちらへ」と促され、弱った素振りで小さくうなずく。

今はなるべく大人しくか弱いふりをしておいた方が良いだろう。どの程度効果があるかは分からないが…。

それに、ずっと縛られて馬車に揺られていたのでひどく疲れているのも本当だ。

いざという時のためにできる限り身体は休めよう。

 

去り際、オットレが私の方を見てにやにやと笑っていた。

粘つくような視線に鳥肌が立つ。気色悪い。

覚えていろ。必ず裁きを受けさせて、玉座の簒奪など企んだ事を後悔させてやる。



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挿話・22 静かな決意

「…二人はまだ見つからないのか」

エスメラルドの問いかけに、王宮魔術師のセナルモントは静かに首肯した。

「はい。何も…」

その隣に立った近衛騎士団長のスタナムも、わずかな悔しさを顔に滲ませて答える。

「申し訳ありません。力は尽くしているのですが…」

 

その言葉が嘘ではない事は、二人の顔色を見れば分かる。

特にセナルモントだ。目元には隈が浮き、はっきりと疲れが見て取れる。

リナーリアとスピネルの二人が姿を消してから既に4日。

その間、最も懸命に二人を探していたのは間違いなくこのセナルモントだろう。休みもろくに取っていないに違いない。

なぜならこの魔術師は、リナーリアの師匠でもあるのだ。変わり者だがとても優秀な魔術師だと彼女が自慢するのを、エスメラルドも聞いた事がある。

とても優しい先生なのだ、とも。

 

 

 

4日前、朝から尋ねてくるはずだったリナーリアは、昼近くになっても姿を表さなかった。

不審に思ったエスメラルドは侍女に命じ、城の入口まで様子を見に行かせたのだが、侍女は少し慌てた様子で兵士を伴い戻ってきた。

リナーリアはもう数時間前には城に到着していたと言う。

門番がそれを確認していたし、使用人のための待合所には、彼女が連れてきた使用人と護衛がしっかりと待っていた。

 

数人の兵士が急いで城の中を捜し回ったが、彼女はどこにもいなかった。案内を担当したはずの衛兵もいない。

城内を警備中の衛兵のうちの一人はこう言った。

「リナーリア様を探しているというスピネル様に会いました。しかし自分は怪しい人影を追っている最中だったので、姿は見ていないと答えてそのまま別れました」

また別の兵士はこう言った。

「スピネル様がリナーリア様を連れてどこかへ行くのを見ましたが、王子殿下の所に向かっているものと思い、気に留めませんでした」

 

スピネルはその日、ブーランジェ領への里帰りに出立したはずだった。

話を聞くためすぐに彼の後を追おうとしたが、しかし彼が乗るはずの馬車は表に停まったままだった。

途方に暮れていた御者が言うには、先に荷物を積んだ後ずっと待たされているのだと言う。

彼の姿もまた城内のどこにもなく、彼が城を出る所を見た者もいない。

 

 

…いくら何でも、これはおかしい。

顔色を変えたエスメラルドにより、新年休みの中でも出仕していた数名の近衛騎士と王宮魔術師が呼ばれ、人手を集めて改めて城内とその周辺が捜索される事になった。

しかし夜遅くまで捜しても、二人の姿は見つからない。

 

その代わり、リナーリアを案内していたはずのカーフォルという衛兵が、物置の隅で気絶している所を発見された。

カーフォルはすぐに目を覚ましたが、その記憶は曖昧だった。

城の入口で彼女と会い、王子の所まで案内しようとした事までは覚えているが、その後はあやふやでほとんど思い出せないと言う。

スピネルを見たかという問いには、「分からない」という答えだった。

 

 

 

翌日は捜索範囲を大幅に広げ、知らせを聞いて駆けつけたセナルモントや緊急招集された騎士、兵士、魔術師たちによって更なる捜索がされたが、やはり二人は見つからなかった。

城内で二人を見たという証言がわずかに得られただけで、その先が全く分からない。

 

セナルモントはまず、人探しのための探索魔術を繰り返し使ったが、それには何も引っかからなかった。

セナルモントは探知魔術においては王宮魔術師団の中でも一二を争うという。その彼にも見つけられないのなら、魔術的な隠蔽が施されている可能性が高い。

そこで、城内で魔術が使われた痕跡そのものを探ってみる事になった。

優秀な騎士や魔術師である二人を捕らえようと思えば、麻痺や眠りといった魔術の使用や戦闘は避けられない。きっと何か痕跡が残っているはず。

しかし、それもまた早々に暗礁に乗り上げていた。

 

 

「…城内にはやはり、ほとんど痕跡がありません。幻影魔術の痕跡はいくつもありましたが、これらは恐らくわざと残されたものです。どれを辿ってみても、ごくありふれた誰でも使える魔術構成にしか行き着かない。使用者の特定には至りません」

「手がかりらしきものをわざと多く残し、捜索者の目をそちらに向けて時を稼ぐ。そうしている間に、本当の痕跡は時間経過によって消えたり、あるいは隠されてしまったりするのです。これは魔術の痕跡に限らず、足跡だとか匂いだとか、そういったものでも同じです」

セナルモントの説明を補足したのはスタナムだった。

スタナムの方は騎士や兵士を使った人海戦術により、物理的な痕跡や目撃者証言を探しているのだが、やはり目ぼしい情報は得られていない様子だ。

 

セナルモントが説明を続ける。

「城の外…王都内についても調査していますが、王都にはたくさんの魔術師がおりますし、彼らは日常的に様々な魔術を使っています。それらのノイズを排除しつつ調べるのは難しいですし、時間も経過しております。何か見つかる可能性は低いでしょう」

「…うむ」

「外門については、魔術処理が施された馬車が通過した形跡はありました。しかし当日はちょうど、新年の祝いの品が特に多く王都と各領とを行き来する日でして…。品物を日持ちをさせるための凍結魔術や、家畜を静かに運ぶための鎮静や眠りの魔術がかけられた馬車も多かったのです。それらの中に紛れていたのならば、追跡は非常に困難です」

 

「……」

エスメラルドは無言で唇を噛んだ。

分かっていた事だが、改めて「何の手がかりもない」と聞かされると焦燥感が募る。

ただこうして報告を待つだけの自分がもどかしく、腹立たしくて仕方がない。

二人が今頃はどこかで苦しみ困っているのではないかと思うと、居ても立っても居られない気持ちになる。

 

 

 

「…これは間違いなく、周到に用意した上で行われた犯行と思います。しかし恐らく、その最中で想定外の事態も起こっています」

「想定外?」

顔を上げ聞き返したエスメラルドに、セナルモントは真剣にうなずいた。

「例えば、リナーリア君を案内したカーフォルという衛兵。彼の記憶には明らかな改竄の跡が残っています。これだけ周到ならばもっと巧妙に改竄できても良いはずなのに、わざとぐちゃぐちゃに荒らしてごまかしている」

カーフォルは、事件当日までの一週間ほどの記憶が一部曖昧になっているという。事件とは特に関係ない記憶でも、はっきり覚えていたり全く覚えていなかったりするそうなのだ。

魔術によって記憶を荒らされている、とカーフォルを診た医術師は言っていた。

 

「細かな隠蔽をするだけの時間がなかった…そう考えるのが自然だと思います。そもそもリナーリア君やスピネル殿が目的なら、城の外で狙った方がずっと簡単だ。つまり、犯人の目的は別にあり、二人はそれに巻き込まれただけなのではないかと僕は思います」

「だが…」

セナルモントの言葉にスタナムは何かを反論しかけたが、エスメラルドの方を見てそのまま口を噤んだ。

 

…スタナムが何を疑い、そして何を憚って口を噤んだのか、それは分かっている。

しかしその可能性は考える必要のないものだ。

エスメラルドは、彼を信じている。

 

 

あの日、スピネルが里帰りのために用意したはずの馬車の行き先は、ブーランジェ領ではなかった。

御者の男によれば、王都からほど近い宿場町に行く予定だったと言う。

その宿場町には乗り換える予定だったらしい別の馬車もあったのだが、そちらは「東に向かう」という曖昧な予定しか聞かされていなかった。

そして前もって馬車に積まれていた荷物には、携帯食料やカンテラ、コンパスといった、旅人のような道具類が入っていた。

更に、ここ数ヶ月の間は行先不明の外出が多かっただとか、王都内で魔術師らしき人物と会っているのを見かけただとかいう証言も複数出てきた。

 

スピネルの父であるブーランジェ公爵は今回の件の知らせを聞き、複数の転移魔法陣を経由してすぐに王都へと戻って来た。

到着したその足で登城した公爵に何か知らないかと尋ねた所、公爵はスピネルからは「新年休みの間は武者修行をしてくる」と聞かされていたと言う。

詳しい行き先は知らないとの事だった。

 

ブーランジェ公爵は私兵を投じて捜索に参加する事を願い出たが、状況を鑑み、それは許可できないという判断が近衛騎士団長によってなされた。

公爵は現在、王都の屋敷内で自主的に謹慎している状態だ。

 

 

 

…客観的に見て、スピネルは怪しいのだろう。

最後にリナーリアと一緒にいる所を目撃された人間であり、ここ最近は不審な行動が目立っていた。

彼がリナーリアを攫った犯人で、不審な行動はその準備のためだったのではないか?という疑いが出て来るのは理解できる。

動機だって分かりやすい。スピネルにとって彼女が特別な存在なのは明らかだ。

 

ここ最近何かを調べ回っている様子だったのはエスメラルドも知っていた。王宮魔術師団や図書館で何かの資料を読んでいたという話も聞いた。

だが何を調べていたのか、エスメラルドを始め誰も聞かされていないのだ。

城の外で魔術師に会っていたというのも知らない。

 

しかしスピネルが彼女の事を欲したとして、こんなやり方は決してしない、とエスメラルドは強く思う。

頼れる従者であり親友でもある彼が、主を裏切り彼女を傷付けるような真似をする訳がない。

二人は何らかの事件に巻き込まれ、それで姿を消したのだ。

誰にも言わず何かを調べていたのも、理由があってやっていたに違いない。

 

 

 

「…ジャローシス侯爵は、明日到着予定だったか」

尋ねると、スタナムが答えた。

「王宮の兵士数名と魔術師とで迎えに行かせました。リナーリア様の護衛騎士も同行しています。魔術師には転移魔法陣用の魔導具を持たせましたので、今夜のうちに到着するかと」

リナーリアの両親であるジャローシス侯爵夫妻は現在、嫡男であるラズライトを領に残し王都に向かっているはずだ。この島の東端にある遠い領なので、到着には時間がかかっている。

 

「到着したら知らせてくれ。俺も会おう」

「はっ。…しかし殿下、お疲れなのでは?顔色が優れませんが」

「…そうか?」

ここ数日あまり眠れていないせいかもしれない。寝付けないし、夢見も悪い。

だが今本当に辛い思いをしているのも、労苦を重ねているのも、自分などではないのだ。

 

「お前たちの方こそよほど顔色が悪い。後は部下に任せ、今日のところは一旦休め」

「…はい。ありがとうございます」

スタナムとセナルモントはそれぞれ礼をすると、部屋を退出していった。

その後ろ姿を見送り、窓際へと歩み寄る。

 

 

窓の外を見上げると、灰色の雲が垂れ込めていた。

まるで今の状況のようだと思い、頭を振ってそれを振り払う。下らない考えだ。

 

…冷静になれ、と自らに言い聞かせる。

この曇り空だっていつかは晴れる。

兵や魔術師たちは必死に捜索を続けてくれているのだ、必ず手がかりは見つかるはず。

それにあの二人は強い。今もきっとどこかで、無事に帰るために戦っている。

 

揺らぐな。信じろ。

ただ不安に慄き、心配を続けた所で何にもならない。二人のために今できる事をするべきだ。

自分に一体何ができるのか、しばし考えを巡らせる。

 

 

まずは毅然とした姿を皆に見せる事だ。

上に立つ者が、落ち込み動揺している姿など見せてはいけない。

それに皆は自分に遠慮して耳に入れないようにしているようだが、陰では口さがない者たちがこの件について、横恋慕だの駆け落ちだのと面白おかしく噂話をしている事には気が付いている。

今はほとんどの貴族が王都を留守にしているが、耳聡い貴族たちもあれこれと想像を広げているだろう。

二人が戻って来た時、そんな風評に晒されるのは不条理だ。

そんな事は決してあり得ないし、エスメラルドは二人が無事帰って来ると信じているのだと、態度をもって示さなければ。

 

他にできる事と言えば、捜索に加わっている者たちの労をねぎらう事だろうか。

彼らもきっと、何の収穫も得られていない現状には落胆している。いたわり、励ましてやるべきだ。

ただ、捜索中に顔を出して邪魔になってはいけない。

朝集まった所にでも行けばいいだろうか。後で誰かに相談してみよう。

 

 

今すぐできる事は少ない。だが、それを情けなく思うのは後回しだ。

あの二人には今までたくさんのものをもらってきた。少しずつでもそれを返すために、やれる事は何でもやろう。

重たい雲を睨み付けながら、静かにそう決意した。



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第134話 王家の秘宝(前)

小さな窓から差し込む夕日の赤い光がゆっくりと細くなっていくのを、ただぼんやりと見つめた。

また日が沈み、一日が終わる。

王宮から拉致されて7日、私はずっとこの小さな部屋の中で何をする事もなく過ごしている。

 

オレラシア城西側に立つ塔の中にあるこの部屋は、恐らく貴人を幽閉するためのものなのだろう。

古びたベッドとサイドテーブルにランプ、テーブルと椅子が一脚ずつ。それから小さなチェストと、暖房の魔導具。一通りのものが一応揃っている。

ただ、かなり高い場所に小さな明り取りの窓があるだけなので外の様子は全く見えないし、本だとか玩具だとかの娯楽の類は一切ないので、とにかく暇だ。

魔術は封じられているし、できるのは考え事くらいしかない。

 

 

 

オットレたちが宝物庫から盗み出したのは、『支配者の王錫』と『王護の腕輪』。

王家の秘宝とされるこの二つは、このヘリオドール王国が建国されるよりもはるか昔、今では失われた技術を使って作られたとされる貴重な古代の遺物だ。

どちらも王家の血を引く人間にしか使えない魔導具として国民に知られているが、実は「予め登録された人間しか使えない」というのが正しい。

登録を許されるのは王家の中でも高い王位継承権を持つ者のみなので、王家の人間にしか使えないというのも間違ってはいないのだが。

 

秘宝を身に着けて良いのは国王陛下のみだが、登録者自体はどの時代でも概ね5人以上いる。

新しく登録者を増やす際には既に登録されている者の立ち会いが必須なので、急死などによって使用者が途絶えるのを防ぐためらしい。

オットレも登録者のうちの一人なのは、スピネルに対し王錫を使用していたので間違いない。

ちなみに、その登録を行うための魔術が記された本は、王宮魔術師団の筆頭魔術師でなければ閲覧を許されていないものだ。宝物庫近くにある書庫に収められ、平時は封印が施されている。

 

 

秘宝はどちらも、現代の魔導具では再現不可能な強力な効果を持っている。

1つ目の秘宝、支配者の王錫の効果は「一時的に相手を従わせられる」というもの。

ただしどんな命令でも従わせられる訳ではない。強い忌避感を抱く事柄については効きにくいという。

「自害しろ」のような自分の生命に関わる命令はほとんど成功しないし、「人を殺せ」などという命令も、元からその相手を殺したいと思ってでもいない限り大きな抵抗を受ける。

命令が持続する時間はその内容によって変わり、これも支配された側が心理的に抵抗を感じる命令であればあるほど、効果時間は短くなるという。

効果範囲は半径20メートルほど。

同時に複数の人間を支配する事もできるが、その場合は効果が弱まる。

 

そして2つ目の秘宝、王護の腕輪の効果は「着用者へのあらゆる魔術を遮断する」というものだ。

どんな高威力の攻撃魔術でも完璧に防ぐし、眠りの魔術や精神に作用する術も効かない。

シンプルかつ非常に強力な効果だが、厄介なのは「他者が腕輪を奪い取ることはほぼ不可能」という点だ。

登録者が着用した状態の腕輪に他者が触れると、触れた者の身体には激しい電撃が流れる。しばらくの間身動きが取れなくなるほどの威力があるものだ。

このため、力づくで無理やり奪い取る事はできない。

欠点は、治癒魔術も効かなくなる点だ。着用者本人は魔術が使えるので、怪我をした場合は自分で治さなければならない。

 

これら二つの秘宝の力は、人間にだけ有効なものだ。魔獣だとか動物には効かない。

また、登録者同士にも効かないという。

オットレが王錫を使っても、殿下を直接操るような事はできないのがせめてもの救いだ。

 

 

秘宝が実際に使われる所は、私は今まで目にした事がなかった。

人同士が争っていた時代の王は、身を守るために常に着用していたそうだが、このベリル島がヘリオドール王国に統一されてから久しく、大きな戦というものは長い間起こっていない。

秘宝とはただ、宝物庫の奥に厳重に保管され、重要な儀礼の際に装飾品として当代の国王が身に着けるものになっていた。

 

それだけに、秘宝が盗み出されているという事実に誰かが気付くまでには、だいぶ時間がかかる可能性が高いだろう。

何せ秘宝はつい先日、新年パレードのために宝物庫から出されたばかりだったのだ。

次にチェックが行われるのは早くても1ヶ月後。それまでは気付かないのではないだろうか。

 

 

 

フェルグソンやオットレの目的は玉座の簒奪のようだが、そのやり方はいくつか考えられる。

 

まず1つ目は単純に武力によるクーデター。

国王陛下を捕らえて譲位を認めさせるか、あるいは殺害して城を乗っ取る。

実行の際のリスクがあまりに大きいし、成功した場合でも多くの犠牲が出る可能性がある。

貴族たちの反発も大きいだろうし、下手をすれば国内をいくつもに割る戦となる。国民の不満や反感も買うだろう。

賢いやり方とはとても言えない。

 

2つ目は、多くの貴族たちの支持を集め、エスメラルド殿下や王弟シャーレン様を追い落とし失脚させる方法。

最も血が流れないやり方だが、強い権力を持つ貴族家の協力が必須だ。五大公爵家のうち最低二つの支持は欲しいところだろう。

シャーレン様は気が弱く権力に興味がない方なので、オットレがこの方法を取る場合、実質的に障害となるのは殿下だけだ。

しかし殿下は優れた後継者だとすでに多くの貴族たちから支持されている。今からオットレが勝つのは相当難しい。

 

3つ目は、暗殺を用いた方法。

オットレよりも王位継承権の高い人間がいなくなれば、自動的に玉座が転がり込んでくる。

ただし王族の警護は非常に厳しい。前世の殿下だって、杯を差し出したのが婚約者の彼女でさえなければ、決して毒殺などされなかっただろう。

また、上手くやらなければ貴族たちから疑惑を持たれる。

特に、殿下を支持しているブロシャン家や息子を従者にしているブーランジェ家は、草の根を分けてでも犯人を探そうとするはずだ。後々に火種を残す事になる。

 

 

最もありそうなのは、1と2、あるいは2と3を合わせた方法だろう。

なるべく多くの貴族の支持を集めた上で、クーデターを起こすか殿下を暗殺する。

クーデターや暗殺を実行した時に起こるだろう貴族や国民からの反発や疑惑の目を、自分を支持する有力貴族の力で抑え込むのだ。

これが恐らく一番成功率が高い。

 

 

…どの方法を取るにしても、秘宝の力は確実に役に立つ。

そして、スピネルの存在は非常に重要だ。

彼が持っている情報は貴族たちの支持を集める上で有効だし、殿下の従者である彼とその父であるブーランジェ公爵がオットレを支持する事には、とても大きな意味がある。

 

 

かつて第一王子だったフェルグソンが失脚し、王位継承権を奪われる事になったきっかけは、奴がまだ学院在学中に起こした事件だ。

その当時フェルグソンは権力を笠に着て、横柄な振る舞いが目立っていた。また、女遊びも結構派手だった。

フェルグソンは既にゾモルノク公爵家の娘との婚約が決まっていたのだが、もし気に入られれば第二夫人や第三夫人の座に収まれるかもしれない。奴と関係を持っておいて損はないと考える令嬢は結構いたようだ。

 

そういう令嬢とだけ遊んでおけば何も問題はなかったのだが、ある時フェルグソンは婚約者がいる令嬢にまで手を出した。

その令嬢は大人しい性格で、フェルグソンに無理やり迫られ断れなかったらしい。何しろ相手は第一王子なのだ。

それは数ヶ月後、令嬢がフェルグソンの子供を身籠ってしまっていたために発覚した。

 

 

令嬢はブロシャン家派閥に属する魔術師系貴族で、その婚約者は騎士系の名門侯爵家アージロード家だった。

当時公爵だったブロシャン魔鎌公及びアージロード家は、フェルグソンに対して激しく抗議した。

しかも王家の血が流れる子供が生まれるとなると、問題は当事者間だけでは済まない。

王家の代理人も交えて何度か話し合いが持たれ、結局「生まれた子は王子として扱うが、王位継承権は第一夫人の子よりも下とする」という条件で、その令嬢をフェルグソンの第二夫人とする事が決まった。

令嬢の婚約者は激しく腹を立てていたが、相手が第一王子である事、王家が多額の慰謝料を支払った事から、矛を収めざるを得なかった。

 

しかしこの件は、それだけでは終わらなかった。

少しずつお腹が大きくなり始めていた令嬢は、ある日城の階段から足を滑らせて落ち、お腹の子共々そのまま亡くなってしまったのだ。

これを聞いた令嬢の元婚約者は、今度こそ絶対にフェルグソンを許さないと激怒した。

フェルグソンは彼女と生まれてくる子供を疎んじ、殺したのだろうと彼は思ったのだ。

真実がどうだったのかは分からない。

だが、魔術師への蔑視が激しいフェルグソンが「魔術師系貴族が母親の子供など欲しくない」と周囲に漏らしていたのも事実だった。

 

 

この事件は国王陛下まで乗り出してようやく解決したのだが、後に大きな遺恨を残した。

フェルグソンはブロシャン家を始めとする魔術師系貴族とは元から仲が良くなかったのだが、騎士系の名門アージロード家との間にも深い溝ができてしまった。

更に死んだ令嬢や元婚約者への態度が悪かった事もあり、フェルグソンの貴族内での評判は一気に下がった。

魔術師だけでなく、騎士系貴族に対しても傍若無人な振る舞いをするのだと思われたのも、大きな要因だろう。

 

それでも、ここで自らを反省し行いを改めていたら、フェルグソンは今頃ちゃんと玉座に座っていたはずだ。

しかしそうはならなかった。

周囲の者、特に娘をフェルグソンの婚約者としていたゾモルノク公爵などは「そろそろ次の王としての自覚を持つべきだ」と諌めようとしたらしいが、フェルグソンは耳を貸さなかった。

今までは許されていた行いが、急に冷ややかな目で見られだしたのが受け入れられなかったらしい。子供のような男だ。

 

 

やがてブロシャン公爵家は第二王子カルセドニーの支持を表明し、アージロード家などもそれに追随した。

それによって元から粗暴だったフェルグソンは癇癪を起こす事が増え、しまいには暴力事件なども起こした。

フェルグソンはどんどん貴族内での支持を失って行った。

コーリンガ家などはフェルグソン支持を続けたのだが、最大派閥であるパイロープ公爵家が第二王子派についたのがとどめとなった。

前国王陛下はフェルグソンの王位継承権を剥奪。第二王子カルセドニーを後継者としたのだ。

 

その頃にはフェルグソンはすでに結婚しておりオットレが生まれていたのだが、オットレの王位継承権は残すと決まったのは、ゾモルノク家への配慮が大きかっただろうと思う。

ゾモルノクは裕福だが、過去にも王家と少々いざこざがあった複雑な家だ。この上、更に冷遇するような事はしたくなかったのだろう。

 

ゾモルノク公爵はフェルグソンには激しく落胆しだろうが、曲がりなりにも娘婿である。

今回の事件に関わっているかどうかは分からないが、国王陛下やエスメラルド殿下に何かあった時には、フェルグソンやオットレを支持するだろう。



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第135話 王家の秘宝(後)

今代で殿下とオットレの間に王位争いが起こった場合、五大公爵家がどちらにつくかについて、まとめるとこうだ。

ブロシャン家と、フェルグソンとは仲違い済みのコーリンガ家は殿下派。

ゾモルノク家がオットレ派。

パイロープ家が中立派。

そしてブーランジェ家は息子のスピネルを殿下の従者としているので、本来なら当然殿下派なのだが…。もしオットレ派につくとなれば、勢力図は大きく変わる。

 

 

…問題は、スピネルがちっとも殿下を裏切りそうに見えない事だ。

本人の性格的にもだが、スピネルはきちんと従者を勤めていれば将来の高官の座が約束されているのである。既に信用を得ている殿下を裏切る必要はない。

今フェルグソンに協力しているのは殺されないためであり、土壇場になったら確実に殿下側につくだろうと、どんなバカでも簡単に分かる。

実際、スピネルは口八丁で堂々とフェルグソンたちと渡り合っていたが、王錫の力を使ってなお疑われているようだった。

スピネルの事だから上手くやるだろうと信じたいが…。

 

そして、私についても問題だ。

我が家は一応侯爵家とは言え、新興の魔術師系貴族なので権力など微々たるものだ。私の価値は殿下の友人という一点に尽きる。

殿下に対しての切り札にはなるだろうが、逆に言うと殿下本人以外には大して効かない札なのである。

私を守ると言ってくれているスピネルにも効くだろうし、嫡男のアーゲンを救った貸しがあるパイロープ家などにもそれなりに効くと思うが…。

いざという時、殿下の周りの者は「あの娘は諦めて見捨てましょう」と言って殿下を説得にかかるだろう。私でもそうする。

今すぐ殺される事はないだろうが、生かしておいたら面倒だなとか、大して役に立たないなと思われたら、その時はあっさり殺されるだろう。

 

 

 

そんな事をあれこれ考えて憂鬱になっていると、遠慮がちなノックの音が部屋に響いた。

がちゃりと鍵の開く音がして、ゆっくりと扉が開く。

そこから顔を出したのは、メイド服を着た30代半ばほどの気弱そうな女性だ。

ここに囚われてからはこの女性がずっと私の世話をしているのだが、会話は一切交わしていない。

 

彼女はいくら私が話しかけてみても、首を振ったりうなずくか、困った顔をするだけだった。

始めは私とは口をきくなと命令されているのだろうかと思っていたが、諦めずに何度も話しかけたり名前を尋ねていると、彼女はあるものを懐から取り出した。

それは雑紙を束ねて作ったと思しき小さなノートだったのだが、彼女は無言で表紙に書かれた「デーナ」という文字を指さしたのだ。

「それが貴女の名前ですか?」と尋ねると彼女は黙ってうなずき、それでようやく理解した。

彼女は言葉を喋れないのだ。

 

 

デーナは背は高いがいつも猫背だ。彼女が背中を丸めつつテーブルの上に置いたお盆を、横から覗き込む。

水差しとコップ、それから野菜や鶏肉が浮いた黄色いシチューとパン。これが今日の私の夕食だ。

「今日はかぼちゃのシチューなんですね。美味しそうです」

返事はないと分かっているが、あえて話しかける。

何しろ彼女はこの7日間で、私が顔を合わせている唯一の人間なのだ。

 

一人で過ごすのには慣れているし、それなりに忍耐力もあるつもりだったが、これだけの時間誰とも話さずにいるというのはさすがに堪える。

彼女の持っているノートは筆談用だろうと思い、ちょっとした質問や世間話など様々に話しかけてみたのだが、今まで彼女がノートを使ったのは数えるほどの回数だ。

書いた文字を見て分かったのだが、彼女は読み書きが苦手らしい。きっと独学で覚えたのだろう、日常的に使うごく簡単な単語しか書けないようだ。

聾唖者用の手話というものも存在するが、残念ながら私はやり方を知らない。

 

「私、かぼちゃは結構好きなんです。デーナはかぼちゃは好きですか?」

そう尋ねると、デーナはちらりとこちらを見て小さくうなずいた。

私は「同じですね」と言って微笑む。

わずかな身振り手振りだけの反応でも、相手をしてもらえるだけで有り難く感じる。

 

 

それからデーナは部屋の隅へ行くと、今朝の朝食が乗せられていたお盆を持ち上げた。そのまま部屋を出ようとする。

「…ありがとうございました。また明日」

後ろから声をかけると、彼女は振り向いて申し訳なさそうな顔で一礼をし、ゆっくり扉を閉めた。

再びがちゃりと鍵のかかる音がして、ついため息が出る。

…これでまた、私は明日の朝まで一人きりだ。

 

 

 

あまり食欲はないが、木のスプーンを手に取って冷めたシチューを口に運ぶ。

食器類は全て木製な上に、ナイフやフォークは付いて来ない。隠し持って武器にしたり自害しないようにするためだ。本当に犯罪者のような扱いである。

まあ一日二食だが食事は出てくるし、衣類も替えが届けられている。二日に一度だがたらいの水を使って身を清拭もできるので、犯罪者よりは大分マシなのだが…。

スピネルの方はどんな感じなのだろう。あいつは結構きれい好きだし、殿下ほどではないがよく食べる。地下牢生活は堪えるはずだ。

上手く奴らに取り入り、ちゃんとした部屋に移動できていればいいのだが。

 

 

…殿下は。殿下はどうしているかなあ。

フェルグソンたちは、貴族たちを仲間に引き入れるための工作をしている間は殿下には手を出さないだろう。

そういう意味でも、有力貴族に関する情報を少しずつ流すというスピネルの策は有効だ。

しばらく時を稼ぎ、その間の殿下の無事を確保できる。

 

だがそれでもやはり心配なのは、フロライアの事があるからだ。

状況的にフロライアがフェルグソンと組んでいる可能性は十分考えられるが、全く別の勢力という可能性だってある。何しろ、彼女の動機が分からないのだ。

前世の彼女は王妃の座が約束されていた。わざわざフェルグソンやオットレ側につく理由がない。

実はオットレと恋人同士だったとかなら動機は生じるが、そんな様子はなかった。

それにあの時彼女が言った、「天秤を傾ける」という言葉の意味は未だに分かっていない。

何か別の理由で暗殺を企んでいるのだとしたら、フェルグソンが動いたこの機に乗じて殿下を狙おうとするかもしれないのだ。

 

 

服の上から、流星の護符を握り締める。

殿下に贈った護符と共鳴するはずのこれは、今は大半の魔力を失いただの飾りと化している。気が付いた時には、込めてあったはずの魔力がほとんど尽きていたのだ。

他の護符や護身用の武器などは取り上げられてしまったのに、これだけは隠し持っていると気付かれなかったのは、魔力が感じられなかったからだろう。

 

封印区画でオットレたちに出くわした際、急に光が輝き、カーフォルは倒れたのに私は何ともなかった。あれはもしかして、この流星の護符の効果だったのではないかと思っている。

眠りの魔術を防ぐような効果を付けた覚えはないし、封印区画なのに発動したというのも謎なのだが、他に考えられない。

おかげでスピネルが来るまでのわずかな時間を稼げたのは、良かったのか悪かったのか。

 

セナルモント先生だったら、殿下の護符から逆探知をして私の居場所も分かるかもしれないが…共鳴する護符を持っている事、殿下には伝えてないんだよなあ…。

やっぱり正直に話すべきだった…。

 

 

日が経つにつれ、会いたいという気持ちがますます募る。

傍近くで殿下をお守りしたいし、何より私自身が心細いのだと気が付いてしまった。

孤独がこんなに辛いなんて知らなかった。

せめて気を紛らすための何かがあればいいのに、この部屋には何もない。

人の声はなく、外の景色すら見えず、ただ冷たい石壁が私を囲んでいるだけだ。

 

殿下に、家族に、皆に会いたい。

私がいなくなったとどこまで表沙汰にされているかは分からないが、少なくとも殿下は知っているだろうし、家族にも知らされているだろう。母はまた卒倒しかけたかもしれない。

城に取り残されたコーネルやヴォルツ。セナルモント先生や、新年休みを取らずに王都に残っている先輩も、きっともう気付いている。必ず心配している。

 

あの古代遺跡に閉じ込められた時の事を思い出す。

無事に帰った私を見て家族は皆泣いていた。

それに殿下も。

「良かった」と言って抱きしめてくれた温かい腕を、今でもよく覚えている。

 

 

…何だか色々とこみ上げてきそうになり、慌ててそれを振り払った。

弱気になるな。気を強く持たなければ。

必ず無事に帰ると決めたではないか。

たかだか一週間で、心が折れそうになるなんて情けない。

 

止まっていた手を動かし、もう一度シチューを口に突っ込む。

しかし、かぼちゃの味がするはずのシチューは何の味も感じられず、飲み込むのにかなりの努力を必要とした。



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第136話 起死回生の一手(前)

囚われて8日目、兵士に連れられたスピネルが会いに来た。

「リナーリア、元気だったか。不都合はないか」

「げ、元気、です。ふ、不都合は、いっぱいありますけど…」

久し振りに人と会話できる事につい気持ちが昂ぶり、少しどもってしまった。スピネルがわずかに眉を曇らせる。

 

「…多少の不都合は仕方がない。もう少しの間我慢してくれ」

「はい…。あの、スピネルはどうですか?」

「俺は元気だ。この通り、ある程度自由にもさせてもらっている」

スピネルは私と同じく魔術封じの首輪を着けたままだし、剣もないが、手枷はされていなかった。服装もきちんとしているし、顔色も悪くないように見える。

何より、こうして私に会いに来ている。フェルグソンたちから多少の信用を得られたという事か。

 

「約束は必ず守る。だからお前は、信じて待ってろ」

スピネルはそう言うと、兵士に促されて去って行った。

ほんの短い時間だったが、彼の顔を見られて物凄く安心した。

元気そうで本当に良かった。

…大丈夫だ。きっと大丈夫。

 

 

 

そして10日目。既に日にちの感覚がおかしくて自信がないが、多分10日目。

何だか眠いのはよく眠れていないからだろう。

睡眠時間は嫌というほどあるのだが、一日中何もしていなくて身体が疲れていないからか、眠りが浅くなっているようだ。いくら寝ても寝た気がしない。

何か暇を潰せるもの、できれば本が欲しい。

あるいは紙とペンだ。だが魔術を封じているとは言え、魔法陣の知識を持つ魔術師にそんなものを渡す訳がない。

こういう時普通の人はどうするんだろうと考え、すぐにバカな考えだと気付いた。

普通の人は、窓もろくにないような部屋に10日も閉じ込められたりしない。

 

デーナとは相変わらずほとんどコミュニケーションを取れていないが、それでも少しずつ反応が増えてきた気がする。

今朝などは、後ろ髪に寝癖がついている事を教えたらかすかに照れ笑いをしていた。

ちょっとは心を開いてくれたのだろうか。

「城内で背の高い赤毛の人を見ませんでしたか」という問いにも、小さくうなずいてくれた。

それ以上の事は聞けなかったが、スピネルがある程度自由にしていると言っていたのは本当らしい。

 

 

ベッドに腰掛け、ただ壁を見つめてぼーっとしていると、誰かが塔を登ってくる足音が聞こえた。

何だろう。時計はないが、今が食事の時間ではない事くらい分かる。

それに足音がデーナと違って大きい。男の足音のような気がする。

そう思っている間にがちゃがちゃと鍵が開けられ、扉の向こうから人が姿を表した。

 

「…オットレ様」

正直言って敬称を付けるのも腹立たしいが、怒らせてもまずい。なるべく感情を消して呼びかける。

オットレは口の端を吊り上げて笑った。

「思っていたより元気そうだな、リナーリア」

「……」

どんな嫌味だ。相変わらず癪に障る。

 

 

「私に何の御用ですか?」

椅子に座り偉そうに足を組んだオットレに、そう尋ねてみる。

「僕はそろそろ王都に戻るからな、その前に顔を見に来た。もっと早く来たかったのにゲルマンがうるさくてな」

そう言えば、そろそろ学院は新学期が始まる頃か。日にちの感覚が薄れていたから忘れていた。

かなり遠い領の者を除き、生徒たちは王都に戻って来ている頃だろう。

…王都では私やスピネルの扱いはどうなっているんだろう。

学院が始まれば、私たちが行方不明という話はあっという間に広まってしまいそうだ。もう広まっているかもしれないが。

生徒に広まれば、当然親の貴族たちにも広まる。

 

「王都がどうなっているか気になるか?」

その問いに、私は無言でうなずいた。こいつに聞くのは業腹だが、情報は喉から手が出るほど欲しい。

「エスメラルドは多くの兵や魔術師を動かしてお前たちの行方を捜索してるようだ。特に手がかりは得られていないらしいがな」

オットレはにやにやと笑いながら言った。

やはりそうか、と思う。

私たちが拉致されたのは魔術封印区画だ。いくら探知魔術を使っても魔術的な痕跡は見つけられない。

そして封印区画外の痕跡については、秘宝を盗むという計画を立てた時点で万全に対策していただろう。

 

「さらに王都では、あの赤毛野郎がお前を攫ったとか、駆け落ちしただとか噂が流れてる」

「え…えっ!?」

赤毛野郎とはスピネルの事だろう。なぜそんな噂が。

確かに私たちが付き合っているとかいう噂が流れていた時期もあったが、近頃は消えていたはずなのに。

いや、二人同時に姿を消したならそういう可能性も疑えるのか…あるいは、フェルグソンたちが目くらましのためにわざとそういう噂を流した?

 

動揺する私を、オットレが見下ろす。

「エスメラルドは、その噂を信じたそうだ」

「……!」

そんなはずがないと、そう叫びそうになるのを咄嗟に飲み込む。

こいつに言った所で何にもならない。それどころかきっと、面白がられるだけだ。

 

 

だが、私のその沈黙をオットレは別の意味に捉えたらしい。

「ふん…僕もすっかり騙されたぞ。てっきりエスメラルドの女だと思っていたのに、赤毛野郎の方と恋仲だったとはな。それともあれか?二股をかけていたのか?」

「な、何を」

何を言ってるんだこいつ。アホか?脳が腐ってるのか?今すぐぶん殴ってやろうか?

そんな考えが一瞬で頭に浮かんだが頑張って堪えた。クソ。魔術さえ使えれば…。

 

「せっかく隠してたのに残念だったな。王都じゃもう色々バレてるそうだ。赤毛野郎がせっせとお前に会いに行ってた事も、逢引用の馬車を用意してた事もな」

…何の事だかさっぱり分からん。

スピネルが私に会いに来ていた?もしかして、スピネルが度々城を留守にしていた件か?私は全く行き先なんか知らないんだが。

それに馬車ってなんだ。何の心当たりもない。

「そのせいでブーランジェ公爵は王都で謹慎中だ。孝行息子を持ったものだな」

 

「……」

オットレが嘘を言っているようには見えない。

王都の人々の間でスピネルが疑われているのは確か、という事か…?

だが、あくまで疑われているだけのはずだ。そうでなければ、ブーランジェ公爵は謹慎では済まずに捕らえられているだろう。

 

 

「赤毛野郎は、あっさりお前との仲を認めたぞ。もうエスメラルドの元には戻れないと思ったらしいな。僕たちに協力する代わり、僕が王となった暁にはお前と結婚させろと言ってきた」

「えっ…」

思わず混乱しそうになる頭を必死で回転させる。

…そうか、私の安全を確保するためだ。

それなら私は殿下への切り札だけでなく、スピネルに対しての褒美としても扱われる。スピネルが生きている限りは殺されない。

 

「エスメラルドには同情するよ。自分の従者に女を寝取られるなんて」

オットレはいちいち下卑た言い方をする。最低な奴だ。

「それでも必死にお前を探している所を見ると、よほど未練があるんだろうなぁ?」

ニヤついたその顔が非常に不愉快だ。

…こんな奴の言う事を気にする必要などない、と自分に言い聞かせる。

こいつになど分かる訳がないのだ。

殿下とスピネルの間にある友情も、信頼も、忠節も。

 

 

 

「おい…何とか言ったらどうだ」

ひたすら黙っていると、突然ひどく苛立った声で言われて顔を上げた。

「…どいつもこいつも、苛々するんだよ。秘宝を取ってきたのも王位継承権を持っているのも、この僕なんだぞ」

「……?」

急に機嫌を悪くしたオットレに戸惑う。いきなりどうしたんだ?

 

「…なのにゲルマンもフランケも、父上にばかり従って!僕の言う事は聞こうとしない!!」

がん、と拳をテーブルに叩きつける。その音に驚き、少しだけ肩が揺れた。

よく分からないが、父親の下についている今の境遇に不満があるという事か…?

私から見れば、オットレはフェルグソンそっくりすぎて片腹痛いのだが。

 

「あの赤毛野郎もだ!!父上にはへつらう癖に、僕の事は無視だ!本当に気に入らない…!」

オットレが立ち上がり、憤懣を露わにした顔で私を見下ろす。

その形相に思わず後ずさりしそうになったが、今の私はベッドに腰掛けているので下がるに下がれない。

「…いい顔だな。取り澄ましているよりずっと可愛げがある」

オットレが浮かべた笑みに、背筋がぞわりと粟立った。まずい、と本能が警鐘を鳴らす。

逃げなければと思うが、逃げ場がない。




19時台に後編投稿します。
なんとかピンチを脱する所まで行きますのでご安心下さい…。


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第137話 起死回生の一手(後)

本日2話投稿しています。こちらは後編になります。


「お前には手を出すなと言われているが、なぜ僕がそれに従わなきゃならないんだ?僕は王になるんだぞ」

「…ち、近寄らないでください」

私の言葉を無視し、オットレはゆっくりこちらに近付いてくる。

「お前をめちゃくちゃにしてやったら、エスメラルドや赤毛野郎はどんな顔をするだろうな?」

「……!」

 

冷たい汗が背中を流れる。焦りがざわざわと全身に広がっていく。

「僕は父上と同じ失敗はしない。まあ、第二夫人くらいにはしてやるさ。お前は見た目だけは良いからな」

手首を掴まれる。必死に振りほどこうとしたが、びくともしない。 それどころか、もう片方の手も掴まれる。

腕力では敵わない。魔術も使えない。

…怖い。

 

 

 

 

―――よせ!

誰かの声が聴こえて、はっと目を開けた。

 

オットレの顔が見える。

両手で首を絞められ、白目を剥いている。

「…え?」

びっくりして手を引っ込めた。

オットレの身体が床に落ち、「ぐぇっ」とかいう呻き声が上がる。

 

「…え…」

両腕が軋んで、関節がひどく痛む。ぼんやりと自分の両手を見る。

…オットレの首を絞めて、宙に持ち上げていた?

…私が?

 

 

その瞬間ふいに人の気配を感じ、横を見た。背の高い、見知らぬ男が立っている。

「だ、誰ですか!?」

黒髪に赤い瞳。どこかで見覚えがある気もするが分からない。

焦る私をじっと見つめると、男は無言のまますうっとその場からかき消えた。

 

「…!?…!?」

慌てて辺りを見回すが、男の姿はどこにもなかった。

見飽きた石壁の狭い部屋の中には、私と倒れたオットレしかいない。

ただ、胸のあたりがやけに熱い。

そこに触れると硬い感触があって、服の下で流星の護符が熱を持っているのだと分かった。

 

 

「……」

あまりに訳の分からない状況に混乱し、頭痛がする。

一体何だこれは。

呆然と見下ろした先はやはりオットレがいて、それで手首を掴まれた時の感触を思い出した。

瞬間、何があったのかを理解し、慌てて自分の身体を確認する。

服はちゃんと着ている。腕と頭が痛い以外おかしな所はない。…何もされていない。

 

思わずほっと安堵し、直後に怒りと恥辱で頭の中が沸騰した。

…オットレ。

この野郎、よくも。なんて事を。ぎりぎりと歯を食いしばり、両手で顔を覆う。

畜生。悔しい。こんな奴に、一瞬でも恐怖してしまった自分がたまらなく悔しく、恥ずかしい。畜生。

許さない。絶対に許さない。未遂だからって許せるものか。

殺してやりたい。

 

 

…いや、殺せば良いのではないか?

 

そう思い、顔を上げた。

白目を剥いたまま倒れているオットレを静かに見下ろす。

今なら殺せる。もう一度首に手をかけ、全身の体重を乗せれば、私の力でも確実に殺せる。

そうだ。こんな奴生かしておく必要はない。こいつはどうせ殿下の敵だ。

今、ここで殺しておいた方がいい。

 

 

ゆっくりと手を伸ばす。

オットレの喉元に手をかけようとして、何故か急に殿下の顔が浮かんだ。

思わず手を止める。

 

「……」

 

…違う。そうじゃない。

オットレを殺しても何にもならない。

 

こいつを殺した所で、塔を降りれば兵士がいる。魔術が使えない私はすぐに捕まるだろう。下手をすれば殺されるかもしれない。

そして息子を殺されたフェルグソンは確実に激怒する。どんな行動に出るか分からない。

殿下や私を守ろうとして、フェルグソンに取り入っていたスピネルの努力は無駄になる。

 

こんな奴は心底殺してやりたいが、今殺してはだめだ。

今するべき事はそんな事じゃない。

 

 

 

深く呼吸をして、気持ちを落ち着ける。

気絶したオットレの傍にしゃがみ込み、その腰に下がった短剣を抜いた。

貴族なら誰しも護身用の武器の一つや二つ持ち歩いていると知っているのに、その事を忘れていたのはやはり、頭に血が上っていたからだろう。

 

その途端、何かが床に落ちる大きな音がして顔を上げた。デーナだ。扉のところに立っている。

足元にたらいが転がり、水がぶちまけられている。大きな音はこれか。身体を拭くための水を持ってきた所だったらしい。

「……!」

デーナは顔色を変え、私へと駆け寄った。短剣を持った手を無理やり抑え込まれそうになる。

「デーナ、お願いです、離して…!」

私にはこの短剣が必要なのだ。しかし彼女を傷付けたくはない。

何とか説得しようとし、彼女が必死の目で私を見ている事に気が付いた。

デーナは私を捕らえようとしているのではない。

私の身を案じ、止めようとしているのだ。

 

 

「…デーナ、大丈夫です。私はこれで死ぬつもりはないし、誰かを傷付ける気もありません。逃げ出したりもしません」

できる限り冷静に、優しい声で語りかける。

「本当です。嘘ではありません。だから、この手を離して下さい。…お願いです」

真剣な目で見つめると、デーナはしばらく私を見つめ返していたが、やがてそっと手を離した。

 

「…ありがとう、デーナ。もう一つお願いがあるんです。貴女の鉛筆を、少しだけ貸して下さいませんか」

彼女は筆談に使う鉛筆をいつも懐に持っているはずだ。私の頼みに、デーナが困惑した顔になる。

「必ず、すぐに返します」

重ねてそう言うと、デーナは恐る恐る鉛筆を取り出した。

手渡された鉛筆を握り締め、デーナに「ありがとう」と礼を言う。それから背後の小さなテーブルを振り返った。

小さな円形の、木製のテーブル。魔法陣を描くには丁度いい。

 

 

テーブルの上に素早く鉛筆を走らせていく。いつオットレが目を覚ますか分からない。

なるべく急いで、しかし正確に描かなければ。失敗は絶対にできない。

 

 

「…できた…」

やがて一つの魔法陣が完成した。

「これ、ありがとうございました」

鉛筆をデーナに返す。後は魔法陣に魔力を込めるだけだ。

でも、今の私は魔術封じの首輪のせいで魔力を外に出せない。一旦ベッドの上に置いておいた短剣を手に取る。

左の手のひらに刃を当てると、思い切ってそれを引いた。

 

「……!」

ぼたぼたと血が滴り、デーナが息を呑むのが分かった。

人間の体液、特に血液には魔力が多く含まれている。これを魔法陣に吸収させれば、きっと発動できるはず。

滴り続ける血でテーブル全体が赤く染まった所で、ようやく魔法陣が光を発した。

 

じわじわと血が魔法陣に吸収され、光が中央に集まっていく。

…成功だ。

 

伝えられるのはほんの一言。ちゃんと届くかどうかも怪しい。

でも、殿()()()()()()()()()

 

 

 

床から手ぬぐいを拾い上げる。身体を拭くためにデーナが持ってきたものだ。溢れたたらいの水で濡れているそれを使って、無事な右手でごしごしとテーブルを擦る。

血で汚れてはいるが、魔法陣の痕跡はほとんど消えた。

未だに血が滴り続ける左手のひらを握り締める。物凄く痛い。早く血を止めた方がいい。

 

蒼白な顔で立ち尽くしたままのデーナの目を見つめる。

「…これから、人を呼びます。今見た事は、どうか誰にも言わないで下さい」

デーナはこくこくとうなずいてくれた。

少しだけ安心し、大きく息を吸い込む。

 

…そして私は、思い切り悲鳴を上げた。

 

 

 

 

慌ててやって来た兵士の前で、私は錯乱したふりをして暴れた。

手の傷は、錯乱した際に自分で傷付けたように装った。おかげでますます血が出たが、すぐに取り押さえられ、医術師を呼ばれ傷を塞がれた。

死ぬような傷ではないと分かっていたが、思っていた以上に出血したらしく頭がぼんやりとした。傷もとても痛い。

オットレはどこかに運ばれて行った。首に結構はっきり手の跡がついていたが、多分命に別条はないだろう。

 

私の治療に当たった医術師の前では、「もう嫌だ、死ぬ、こんな目に遭うくらいなら舌を噛んで自害する」と繰り返し訴えておいた。

フェルグソンたちにとっては、私はまだ生かしておく価値があるはず。これでもう、オットレのようなクソ野郎が近付いてくる事はないだろう。

本当にぶん殴ってぶち殺してやりたいが今は我慢だ。

 

いくつもの不可解な出来事については、一旦棚上げする事にした。

いつの間にか妙な怪力を発揮してオットレを締め上げていた事とか、見知らぬ黒髪の男とか。

いくら考えても全く分かりそうにない。

 

 

…きっと助けは来るはず。

殿下を、先生を、皆を信じろ。

これが必ず、起死回生の一手になるはずなのだ。



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挿話・23 光明(前)

 新学期が始まった。

 護衛の騎士と一緒に校門を通り抜ける。

 いつもなら隣を歩いているはずのスピネルも、真っ先に自分を見つけ歩み寄ってくるリナーリアもいない。

 それでも、エスメラルドはあくまで普段通りの顔で登校した。

 

 一言だけ挨拶をして去っていく者がほとんどだが、遠巻きにこちらを見てこそこそと噂話をしている者もやはりいる。

 努めて気にしないようにしていると、堂々と笑みを浮かべて近付いて来る者がいた。

「あけましておめでとうございます、エスメラルド殿下」

「ああ。あけましておめでとう」

 アーゲンだ。いつものようにストレングを連れている。

 

 

「僕はこの冬休み、テニスというものをやってみたんですよ。バドミントンと似ているんですが、これがなかなか面白くて」

「ほう」

 近頃すっかりスポーツにはまっているらしいアーゲンは、教室までの短い間、新しく覚えたスポーツについて話してくれた。

 彼はこのところ、ずいぶんと大人びたように見える。外見よりも内面がだ。

 以前はどこか人を試すような言動や本音を隠すような態度を取る事が多かったのだが、心情を真っ直ぐに表に出す事が増えた。それでいて、本当に重要な事柄については見事に煙に巻く。

 つまり、とても手強くなった。

 

「ああいうスポーツは、反射神経や動体視力を鍛えるにはとても良いですね。剣術にも役立っています」

「それは俺も思った。剣術修業の中に組み込んでもいいかもしれない」

 雑談に応じながらエスメラルドは、アーゲンの気遣いはとてもありがたい、と思った。

 リナーリアとスピネルの二人が既に王都内にいないのは確実と見られ、人相書きと共に二人に関する情報を求めている旨が各領には通達されている。あまり事を大きくはしたくなかったのだが、手がかりが見つからないからだ。

 アーゲンとてそれを知っている。その上でわざとこうして人目につく場所で、何の関係もない雑談をしているのだ。

 

 きっと駆け落ちだ、あるいは誘拐だなどと、無責任に噂する者は多い。「それが一番面白い筋書きだからだ」と護衛騎士の一人が憤慨していた。彼らはスピネルの事もリナーリアの事もよく知っている。そんな訳がないとちゃんと理解してくれている。

 アーゲンもまた、そうして理解してくれている者の一人なのだ。エスメラルドと同じくあえて普段通りにしてみせる事で、そんな噂は取るに足らない物だと態度で示してくれている。

 噂自体を消すことはできないが、パイロープ公爵家の嫡男がそういう態度でいるというのは、他の生徒に対しある程度の抑えにはなる。

 

 これはきっと、リナーリアのためでもあるのだろう。

 アーゲンは卒業パーティーの時彼女に振られたのだという噂を聞いたが、それでもなお彼女の味方をしたいと思っているようだ。

 

 

 アーゲンとは別クラスなので、教室の前で別れた。

「あっ、殿下!あけましておめでとうございます!」

 教室に入ってすぐ声をかけてきたのはニッケルやその友人たちだ。

 彼らもやはり二人の件には触れようとはせず、エスメラルドを励ますように笑いかけてくれた。

 そう言えば、ニッケルと親しくなったのもリナーリアの言葉がきっかけだったな、と思い出す。そして、その時協力して背中を押してくれたのはスピネルだった。

 

 今まで自分が歩いてきた道には、確実に二人の影響がある。

 …必ず取り戻さなければ。

 

 

 

 昼休みになり、食堂に向かってニッケルたちと歩いていると、廊下に立ち塞がるようにしてこちらを待っている者たちがいた。

「よう、エスメラルド」

「オットレ…」

 ニヤニヤと笑うオットレの後ろには、いつも一緒にいる取り巻きが数人いる。皆エスメラルドを見ている。

 

「ちゃんと学院に来てるとは意外だったぞ。裏切り者の従者と女を探さなくて良いのか?」

「裏切り者などではない」

 そう言い返すと、オットレはバカにしたような表情になる。

「なんだ、信じているとでも言う気か?大事な女を寝取られた癖に相変わらず甘っちょろいな。…それとも、あんなあばずれにはもう興味がなくなったか?」

「…やめろ。侮辱は許さない」

 怒りを滲ませて低く言うと、オットレは愉快そうに笑った。

「図星か?やっぱり心当たりがあるんだろう」

 

 

「…す、スピネルさんとリナーリアさんはそんな人じゃないっすよ!」

 横から声を上げたのはニッケルだった。

 彼は人と争う事を好まない。普段は誰かに食って掛かったりしないので、エスメラルドは少し驚く。

「なんだ、貴様」

 オットレは不機嫌な顔に変わるとニッケルを睨んだ。そこでニッケルの名前を思い出したらしく、鼻で笑う。

「ああ、ペクロラスの倅か。田舎貴族風情が、この僕に向かって偉そうな口を」

「……」

 ニッケルがわずかに怯む。エスメラルドは再び口を開こうとしたが、それよりも早く後ろから声が飛んだ。

 

「へえ。下世話な噂を真に受けて王子殿下に絡むのが、洗練された貴族のやる事だとでも?そいつは知りませんでしたね」

 振り向くと、面白くなさそうな顔で腕組みをしたヘルビンが立っていた。彼は別クラスだがニッケルの友人であり、エスメラルドとも親しい。

 目立たないように生きるというのが彼の信条だったはずだが、どうやら口を挟まずにはいられなかったようだ。

 

 

「貴様…!」

「オットレ様」

 顔を赤くして激昂しかけたオットレを止めたのは、柔らかく涼やかな声だった。

「お待たせして申し訳ありません。授業の道具を片付けるのに手間取ってしまいまして」

「…ああ、フロライア」

 オットレは途端に相好を崩し、彼女の方へ笑いかける。

 フロライア・モリブデン。名家の出である美しい少女だ。エスメラルドとはクラスメイトで、近頃オットレとは親しいと聞いている。

 

 フロライアはエスメラルドの方に軽く会釈をしつつ、オットレへと歩み寄った。

「急ぎましょう。食堂が混んでしまいますわ」

「ああ、そうだな。そうしよう」

 

 …どうやらこれ以上は絡まれなくて済みそうだ。

 そう思ったエスメラルドを、もう一度オットレが振り返る。

「…せいぜいそうやって、信じて待っているといいさ。そのうちきっと思い知る羽目になる」

 捨て台詞を吐くと、オットレはフロライアと共に歩いて行った。

 その後ろ姿を黙って見送る。

 

 

 

「…殿下!あんな奴の言う事、気にしなくていいっすよ!」

「そうそう。嫌味ったらしいったら…って、何してるんですか」

 突然廊下の隅に向かってしゃがみ込んだエスメラルドに、ヘルビンが怪訝な声を出す。

「いや…今、何か…」

 小さな影のようなものがオットレの髪から飛び出したような気がしたのだ。辺りの床を見回してみる。

 視界の隅で何かがぴょんと跳ね、咄嗟に両手を伸ばした。

 

「…これは」

「え?何?何すか?」

 ニッケルたちは訳が分からず戸惑っている。

 エスメラルドはポケットに手を突っ込みながら立ち上がると、皆の顔を見回した。

「すまないが、急用を思い出した。俺は早退したと先生方に伝えておいてくれ」

「え!?で、殿下!?」

 驚く声を置き去りにし、廊下を小走りで駆け出す。

 

 …これはきっと手がかりだ。自分の勘がそう叫んでいる。

 

 

 

 

 護衛も伴わずに大急ぎで城に帰ってきたエスメラルドに、兵士たちはずいぶん驚いたようだった。

 しかしセナルモントやスタナムを呼べと命じると、すぐに表情を引き締め走っていった。

 幸い、二人はちょうど城にいる所だったらしい。ほんの10分ほどで、防音結界の魔導具が置かれた会議室へと集まってくれた。

 

「…殿下、一体どうなさったのですか?」

 尋ねられ、エスメラルドはポケットからそれをそっと取り出した。

「これを見て欲しい」

 

「…これは…ずいぶん小さなカエルですね。しかも変わった色だ」

 エスメラルドがテーブルの上に載せたのは、体長わずか2cmほどの小さなカエルだ。鮮やかな黄に黒の斑が入った珍しい色をしている。

 スタナムは怪訝な顔をしたが、セナルモントはすぐにそれの正体が分かったらしい。

「使い魔ですね。こんな派手な色のカエルとは珍しいですが…」

 

 使い魔とは、魔術師がさまざまな物体を媒介とし、自らの魔力を込めて作り上げる生物の事だ。

 その姿は千差万別だが、鳥や蝶などの空を飛べる生き物や、小さな鼠などの形を取る事が多い。

 人では入りにくい場所の偵察をしたり、人目につかないようにメッセージを送りたい場合などに使用する。

 使命を果たすか魔力が切れたら消滅してしまうもので、どんなに長くても一週間ほどの寿命しかないという。

 

 

「これはきっと、リナーリアが送ってきたものだと思う」

 確信を持ってそう言ったエスメラルドに、スタナムが少し驚く。

「なぜですか?魔力の波長がお分かりに?」

「いや」

 エスメラルドは首を振る。

 魔力の波長は人によって違い、熟練した探知魔術があればその差を見分けられると言うが、自分にはそんな術など使えない。

 

「この寒い季節に、動き回っているカエルなどそういるものではない。それにこのカエルは、ミナミアカシアガエルと言って…」

 そう言った瞬間、カエルがいきなりバシャン!と音を立てて弾けた。

「!?」

 テーブルの上に真っ赤な血が広がる。

 ぎょっとして見守るエスメラルドたちの前で、その血がゆっくりと動き、文字の形を作っていく。

 

 やがて浮かび上がったのは、ごく短い単語。

 

 …『秘宝』。

 

「…スタナム!!今すぐ宝物庫を調べろ…!!」



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挿話・23 光明(後)

 それからしばらく後、エスメラルド、スタナム、セナルモントは再び会議室に集まっていた。

 更に、筆頭王宮魔術師のアメシストもいる。

 王宮魔術師団のトップに立つこの老魔術師は高齢と持病のため、表立った業務からはほとんど退いている。今回の事件でもセナルモントなどに調査を任せているのだが、宝物庫周辺の魔術封印を管理している人物でもあるため、急遽呼ばれたのだ。

 このアメシストはエスメラルドの剣の師匠であるペントランドとは同期であり、友人でもあるというが、年の割に若いペントランドと比べるとずっと年上に見える。

 

 

「…まさか、秘宝が盗み出されていたとは…」

 苦々しげに口を開いたのはスタナムだ。

 慌てて開けられた宝物庫の中からは、王家の秘宝である王錫と腕輪が綺麗に消え去っていた。

 侯爵令嬢と王子の従者が揃って姿を消しただけでも大事件なのに、秘宝が盗まれたとなると国家の問題にまで発展する。

 とりあえず大急ぎで他に被害がないか確認させているが、今の所他の財宝に手が付けられた様子はないようだ。

 

「一体どうやって盗み出したんだ。あそこは厳重に鍵がかけられているし、魔術封印区画になっているだろう」

「少なくとも、魔術封印の魔法陣に異常は見られませんでした。また、鍵が持ち出された形跡もありません」

 エスメラルドの疑問にアメシストが答える。

「考えられるとしたら、封印の効果を消すような魔法陣か魔導具…そういったものを体内に仕込む方法でしょうか。それで封印区画内で解錠の魔術を使い、宝物庫に侵入した…」

 

「そんな事ができるのか?」

「禁術を使用したならば…。しかし、人体に対して行う術になりますから非常に危険です。失敗すれば命を落とすか、良くても二度と魔術を使えなくなる。正気の沙汰ではない」

 アメシストは深い皺の刻まれた顔を厳しく強張らせて言う。

 人体への禁術の危険さは、昨年のタルノウィッツの事件でエスメラルドもいくらか知っている。生半な覚悟でできることではないはずだ。

 

「盗まれたのが新年パレードの後なのは間違いありません。パレード後、私とアメシスト殿とで確認し、宝物庫に収めましたので」

「いつ盗まれたかは分からないのか?」

 付け加えたスタナムに、エスメラルドは問いかける。スタナムとアメシストが揃って首を振った。

「普段は一切扉を開けない場所です。次に確認をするのは一ヶ月後の予定でした」

「魔術封印区画では、あらゆる魔力が乱され霧散します。禁術で一時的に魔術を使ったなら、痕跡は残りません」

 

 

 

「…リナーリア君は、秘宝を盗んだ犯人に捕らえられたという事でしょうか。スピネル殿も…」

 しばしの沈黙の後、口を開いたのはセナルモントだ。

「先程は話が途中になってしまいましたが、殿下はなぜあれがリナーリア殿の使い魔だと?」

 改めてスタナムに尋ねられ、エスメラルドは説明をする。

「あれは、ミナミアカシアガエルというとても珍しいカエルだ。ジャローシス領にのみ棲む固有種で、あの領の者かよほどのカエル好きでなければ知らないだろう。俺とリナーリアが親しくなったのは、このカエルがきっかけだったんだ」

 

 …今からもう6年以上も前の事だ。

 城の薔薇園で彼女と、一緒にあのカエルを見ようと約束をした。

 そうしてジャローシス屋敷を訪れたエスメラルドは、彼女と友人になったのだ。

 あの時の彼女の笑顔と、胸に湧き上がった不思議な温かい気持ちを、決して忘れはしない。

 

「なるほど…そういう事でしたか」

 納得したスタナムに、セナルモントが呟く。

「何かリナーリア君の魔力が込められたものがあれば、この血文字に残留した魔力と比較し、本人のものか確認できるんですが…。ジャローシス侯爵に連絡を取ってみましょう」

「それなら俺が持っている」

 エスメラルドは服の中に手を入れると、首から護符を外した。

「彼女が自ら作った護符だ。視察に行く前に贈られたもので、まだ魔力が残っている」

 手渡されたセナルモントが、血文字の隣に護符を置き両手をかざす。魔力の淡い光がその両手から放たれた。

 

 

 しばらく集中した後、セナルモントは一同を見回した。

「…間違いありません。同じ魔力が込められています」

「やはりそうか」

「先程の様子を見るに、その『ミナミアカシアガエル』というのがメッセージを表示するキーワードだったようです。王子殿下なら言い当ててみせると、リナーリア君は思ったのでしょう」

 使い魔でメッセージを届ける際、キーワードを設定するのはよくある事だ。もし途中で敵に見つかったとしても、キーワードが分からない者にはメッセージを見られる心配はない。

 

「リナーリア君は恐らく、犯人の顔を見てしまったために連れ去られた。そして、隙を見てこの使い魔を作り出し、殿下の元へ送った」

「私もそう思います。スピネル殿も一緒にいる可能性が高いでしょう」

「ええ…」

 皆、次々に同意する。ようやく手がかりが得られたのだ。

 

「しかし、これは…。…彼女の血、なのでは」

 テーブルに残った赤黒い文字を見ながら、ひどく言いにくそうにスタナムは言った。

 セナルモントとアメシストもまた、眉を曇らせる。

「…リナーリア君はまだ若いですが、とても優秀な魔術師だという事は知られています。囚えておくなら魔術封じの魔導具が必須でしょう。その状況で使い魔を作ろうとすれば、自らの血液を魔力源及び媒介とするしかないかと…」

 

「リナーリアは無事なのか」

 これがリナーリア本人の血を使った魔術だと気付いていなかったエスメラルドは、顔色を変えてセナルモントに尋ねた。

「大丈夫だと思います。彼女はとても魔力量が多い。この程度の使い魔を作るのに、それほど多量の血液はいりません。魔術制御にも優れているので、必要量を見誤る事はないでしょう」

 セナルモントはきっぱりとそう答えた。自分の弟子の魔術の腕を信頼しているのだろう。

 その迷いのない言葉に、エスメラルドは少しだけ胸を撫で下ろす。

 

 

 黙って護符を眺めていたアメシストが言った。

「王子殿下。私にもこの護符を調べさせていただいてもよろしいでしょうか」

「構わない」

 アメシストは左手の上に護符を乗せると、右手をその上にかざした。魔力の光が輝く。

「…これは、なるほど。防護の魔法陣の中に、追跡の魔法陣が含まれております。これなら容易に目印にできる」

「目印?」

「リナーリア殿は王都の外にいる可能性が高い。そのような遠い場所から使い魔を送ろうとすれば、何か目印になるものが必要なのです」

「ああ、そういう事か」

 エスメラルドは納得したが、スタナムは訝しげな顔になった。

「しかし、どうやって殿下の元まで来たのでしょうか…?あんな小さなカエルなら、移動にはだいぶ時間が掛かるでしょう。しかもかなり変わった色でした。よく人目につかなかったものだ」

 

 

 エスメラルドはわずかに沈黙し、テーブルの血文字を見つめた。

「…実はあのカエルは、オットレの髪から飛び出してきたんだ」

「な…!?」

 3人が驚いてエスメラルドを見る。

「オットレはそれに気付いていないようだった。俺に向かって、スピネルとリナーリアを裏切り者呼ばわりして…それから、そのうち思い知るだろうとも言っていた…」

 嫌味を言ってくるのはいつもの事だが、今日はひときわ下衆な言い方だった。そして、妙な確信があるようにも見えた。

 

「ではまさか、オットレ様がこの件に関わって…」

「いや、待て。決めつけるには早い」

 言いかけたセナルモントをスタナムが制したのは、オットレが王族だからだろう。曖昧な憶測で嫌疑をかけられる相手ではない。

 

 

「…追跡の魔法陣には、対になる魔法陣が必須です。殿下、同じような護符をリナーリア殿が持っていた心当たりはありませんか?」

 そう言ったのはアメシストだった。エスメラルドはすぐに思い出す。

「リナーリアは自分用の護符も作って身に着けていた。とても珍しい素材で作ったものだと」

「……!やっぱり!」

 セナルモントとアメシストが何やらうなずき合う。

 

「逆探知の魔術を使えば、リナーリア君の居場所を見つけられるかもしれません」

「本当か!?」

 尋ね返したエスメラルドに、セナルモントは「はい」と真剣な表情でうなずいた。

「彼女がその護符をまだ身に着けている可能性は高い。細かく場所を絞り込むのには時間がかかりますが…」

 居場所さえ分かれば、リナーリアが今どういう状況なのかある程度推察できる。一緒にいるだろうスピネルもだ。

 

 

「僕がやります。彼女は僕の大切な弟子だ。必ず見つけ出してみせます」

「分かった。セナルモント、すぐに魔術にかかってくれ」

「はい!」

「スタナムはオットレについて調べてくれ。伯父上…フェルグソンについてもだ」

「はっ!」

 もしオットレが関わっているなら、その父フェルグソンも無関係ではないだろう。

 命を受け、セナルモントとスタナムが動き出す。

 

「アメシストは俺と来てくれ。父上に報告したい」

「はい」

 エスメラルドの父カルセドニー国王は、数日前から風邪を引いて臥せっている。

 しかし今朝にはだいぶ症状が落ち着き、熱も下がったと聞いた。短時間なら会えるだろう。

 

 …まだ二人の行方がはっきりした訳ではない。

 しかし、確かに光明は見え始めていた。



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挿話・24 激情

「父上、母上。これより出発いたします」

 ベッドの上に身を起こした父王カルセドニーと、その横に付き添う母サフィアに向かい、エスメラルドは出立の挨拶をした。

 

「どうか、気を付けて。貴方なら必ずできます」

「必ず事を成し遂げ、大切なものを取り戻してきなさい」

「はい」

 両親の激励に、まっすぐ前を見て答える。

 

 エスメラルドはこれから、数百の兵と共に王家直轄領のオレラシア城に向かう。

 無論、リナーリアとスピネルの救出のため。

 そして、王家の秘宝である支配者の王錫と王護の腕輪の奪還のためだ。

 

 

 

 …リナーリアが放った使い魔のカエルによって、『秘宝』というメッセージが届けられてから数日。

 密かに、そして迅速に行われた調査により、様々なことが分かった。

 

 事件当日、宝物庫の警備に当たっていた兵士の記憶が消されていた事。

 消されたのはわずか1時間ほどの記憶で、かなり巧妙な魔術によるものだったため、本人もその記憶がないと気が付いていなかったらしい。

 

 それから、フェルグソンが少しずつ兵を集め増やしているらしい事。有力な貴族たちへ金をばらまいている事。

 オットレが事件当日城内にいて、「王宮魔術師ゲルマンから魔術指導を受けていた」と証言していた事もだ。

 このゲルマンは近年フェルグソンと親しく、「魔術兵への魔術及び戦術指導のため」としてよく直轄領に招かれていた。結界に関する魔術が得意で、封印区画の魔法陣には関わっていないが、かなりの知識は持っているという。

 

 続いて、セナルモントの逆探知魔術の結果が出た。

 リナーリアが所持していると思われる護符の反応は、王家直轄領オレラシア城周辺にあった。

 オレラシア城からは気付かれない距離を保った上で調べたもので、城内のどこにいるかまでは分からない。

 しかし城に野菜を納入している商人によると、数日前に西側の塔の方から若い女性の悲鳴のようなものが聴こえたという。

 

 

 フェルグソンとオットレが今回の事件に関与しているのは、ほぼ確定だと思われた。

 兵を集め、金をばらまき、秘宝を盗む。様々な状況が、一つの可能性を示していた。

 …王国への反逆だ。

 

 エスメラルドはスタナムとアメシストを伴い、父王カルセドニーへ全てを報告した。

 カルセドニーはしばらくの間瞑目していたが、やがて直轄領へ兵を送る事を決定した。

 

 

 

 それからただちに主要な騎士や魔術師が集められ、作戦会議が始まった。

 作戦の中核を担うのは、少数精鋭の騎士と王宮魔術師による突入部隊だ。

 人質と秘宝を無事に奪還するため、被害を最小限に抑えるため、作戦は秘密裏のうちに開始されなければいけない。

 残りの多く兵は、万が一にもフェルグソンたちを逃さないようオレラシア城の周辺を包囲するために配置される。

 

 

「なりません、殿下!突入部隊に参加なさるなど!!」

 …自分も騎士たちと共に城内に突入する。

 会議室の中、居並ぶ騎士や魔術師たちの前でそう言ったエスメラルドを、スタナム始め多くの者が止めた。

 だが、エスメラルドは絶対に引かないという決意を込めて首を振った。

「向こうには王錫と腕輪がある。しかし、俺ならば秘宝の力は効かない」

 

 オットレは現在王都にいるが、フェルグソンはオレラシア城にいる。秘宝はどちらもフェルグソンの手元にある可能性が高いだろう。

 既に王位継承権を持たないフェルグソンだが、秘宝の使用権は残っている。使用権を登録する魔術はあっても、抹消する魔術は伝わっていないためだ。

 王弟シャーレンやブロシャン公爵夫人など、エスメラルド以外にも使用権を持つ登録者はいるが、シャーレンは荒事が苦手だし、公爵夫人を作戦に参加させるなど論外だ。

 

「それはそうですが、危険です!殿下の身に何かあったら…!」

「せめて、包囲部隊の方へ。突入は危険すぎます」

「…俺が自らを鍛え、剣の腕を磨いてきたのはこういう時のためだ。使うべき時に使えないのであれば、剣などただの飾りでしかない」

 口々に止める者たちに対し、エスメラルドは毅然として言い放った。

 

 

 近衛騎士団長であるスタナムとて、エスメラルドの剣の腕は知っている。時には共に訓練する事もあったからだ。

 生まれ持った才能を、たゆまぬ努力と研鑽によって高めてきた。その実力は近衛騎士と比べても決して遜色ないだろう。

 だが、それでも。第一王子の命というものは、決して騎士などと同等に並べて良いものではない。

 

「殿下。どうか」

「スタナム」

 なお止めようとしたスタナムを、エスメラルドが制した。

「秘宝の力は強力だ。欲望のままに使えば、国に、人々に、必ず災いをもたらす。俺はあれを受け継ぐ者として、取り戻す義務がある」

「…殿下」

「それに、あの二人もだ。絶対に取り戻す。俺はそのために戦わなければならない」

 

 

 …事件が起きてからもう2週間が経つ。その間、片時も頭を離れなかった。

「スピネルは俺の大切な従者で、無二の親友だ」

 気を紛らそうとして剣を取れば、彼の顔が。

「そして、リナーリアは…」

 城で一番のお気に入りの場所、裏庭の池に行けば、彼女の顔が。

 

 多くの時を共に過ごし、様々な彼女の表情を見てきた。

 だけど、どうしてだろう。彼女がいなくなった今脳裏に浮かぶのは、ただ笑顔ばかりなのだ。

 

 

「…大切な女性がそこに囚われているというのに!!後ろで指を咥えて見ていられるものか!!!」

 

 

 しん、と会議室の中が静まり返る。

 エスメラルドは普段あまり表情を変えない。

 良く言えば落ち着いている、悪く言えば何を考えているのか分かりにくい。

 そんな王子が内に秘めた激情を、ほとんどの者が初めて見た。

 

 

 しばしの沈黙の後、スタナムがゆっくりと口を開いた。

「…そうまで言われては…。承知するより他、ありますまい」

 そう言って苦笑を浮かべる。

 

「…殿下」

「殿下!」

 騎士が、魔術師が、次々に立ち上がる。

「やりましょう、殿下!」

「我々の手で、必ず取り戻しましょう…!!」

 

「皆…」

 彼らの表情には決意と意気込みが満ち溢れている。

 …皆に、自分の思いが伝わったのだ。

 胸の奥から熱く湧き上がる何かを、束の間エスメラルドは噛み締めた。

 

 

 

 

「…では、行って参ります」

 そう言って、エスメラルドは父と母に一礼をした。

 父の寝室を辞去し、マントを翻して兵たちの元へ向かう。

 隠密行動のため、身に着けているのは動きやすい鎖帷子とタバードだ。脇には兜を抱え、腰には父から贈られた愛剣が下がっている。

 

 エスメラルドが到着すると、すでに全員が整列を終えていた。

「準備は完了しました。魔術師による転移魔法陣の設置も済んでおります。現地に到着し、速やかに配置についた後、作戦を開始致します」

「うむ」

 スタナムに一つうなずくと、エスメラルドは前に進み出た。

 兵たちを見回し、高く剣を掲げる。

 

「…行くぞ!!必ず、全てを奪還する…!!」



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第138話 奪還(前)

 固いベッドの上、ごろりと寝返りを打つ。

 多分15日目の夜、今日もやっぱり寝付けない。

 殿下はどうしているだろうか。私の送った使い魔はちゃんと届いただろうか。

 王都に戻ると言っていたオットレにくっつけておけば、きっと殿下の近くまで行けるだろうと思ったのだが、魔術が使えない今の私では上手く行ったかどうか確認しようがない。

 

 ただ、錯乱したふりをして暴れたおかげか私の待遇は少しだけ良くなった。

 本が欲しいと訴えたら古い本が数冊届けられたし、食事の時間以外でもたまにデーナが様子を見に来たりする。

 デーナはどうやら私が魔術師だと知らずに世話をしていたらしく、あの後ちょっと怯えた様子だった。悪いことをしてしまったと思い、申し訳なかったと謝って改めてお礼を言ったら、やっと安心してくれたようだ。

 せっかく少しくだけた表情を見せるようになってきた所だったのに、また振り出しに戻って距離を取られるのは辛いので、私としても安心した。

 何となくだが、彼女はきっと孤独な境遇なのだと思う。私には想像しかできないが、言葉を喋れないというのは、とてつもなく大きなハンデだ。

 

 それと、2回ほどスピネルが会いに来た。口止めをされているのだろう、大した事は聞けなかったが、着実にフェルグソンの信頼を得てきているようだ。

 …スピネルは多分、私に何があったか知っているのだと思う。何も言わなかったが、私を見てどこかほっとしているようだった。知られたくなかった。オットレは殺す。絶対殺す。

 

 

 思い出すと何かに当たり散らしたくなって来るので、どうにか忘れようと努力していると、遠くからかすかに騒がしい音が聴こえる事に気が付いた。

 何だろうと耳を澄ませていると、誰かが階段を登ってくるのが分かった。やけに慌てたような足音だ。

 こんな夜中におかしい。何かあったのか。

 

 ベッドを降り、急いで靴を履く。がちゃがちゃと鍵が差し込まれる音がする。

 近くにあったショールを取って寝間着の上から羽織ったところで、勢い良く扉が開いた。

 あの時、私を捕らえた中年男だ。

「声を出すな。大人しく付いて来い」

 私は無言でうなずいた。

 

 

 

 塔の階段を駆け下りていく。だが私の下りる速度は遅く、男が苛立った声を上げた。

「おい、早くしろ!」

 無茶言うなよ!

 こっちは裾がひらひらした寝巻きなのだ。しかも2週間以上あんな狭い部屋に閉じ込められていた。

 時々部屋の中を歩き回ってみたりもしていたが限度があるし、そもそも幽閉される前だって風邪でずっと外に出られなかった。運動不足どころの騒ぎじゃない。すっかり足腰が萎えている。

 

「わっ…!」

 何とか塔を下りきったところで躓きかけた私に、男は痺れを切らしたらしい。私の身体を右肩の上に担ぎ上げると、城の中へ向かう廊下をどかどかと走り出した。

「……!」

 ひどい屈辱である。こいつも絶対許さない、覚えておけ、と歯を食いしばる。すごく揺れるのでうっかりすると舌を噛みそうだ。

 遠くからやはり多くの慌ただしい声や足音が聴こえる。ただ事ではない。

 

 

「フランケ殿!あちらです!!」

「ああ!」

 兵士が私を担いでいる男に向かって叫ぶ。その名前は確かオットレが口走っていた。こいつがフランケだったのか。

 やがて、向こうから数人が走ってくるのが見えた。

 フェルグソンの配下の騎士らしき男たち数人と、その後ろにフェルグソンとゲルマン。スピネルもいる。

 就寝中に起こされたのだろう、ほとんどが寝間着や普段着の上からローブや外套を羽織っただけの姿だ。

 

 この騒ぎに、この緊迫した様子。きっと間違いない。

 …王都から兵が差し向けられた。

 助けが来たのだ。

 

 

「フェルグソン様!」

 フランケは叫びながらフェルグソンたちに合流した。私をスピネルの方へ押し付けるようにして床に下ろす。

「リナーリア!」

「スピネル…!」

 よろめいた私を支えたスピネルは、私の目を見て小さくうなずいた。その目だけで、思いが十分に伝わる。

 だが今はまだ感情を表に出してはいけない。助けが来たと喜ぶには早い。

 

「どうしてこんな所に!馬車はどうしたんですか!?」

「だめです、裏口は既に抑えられています!今は兵たちがなんとか入口を塞いで応戦していますが…」

 フランケの問いに答えたのは配下の男の一人だ。どうやら密かに馬車で脱出するつもりだったらしい。

「くそっ…なぜだ!どこから計画が漏れた…!!」

 悔しげに呻くフェルグソンの手にはしっかり王錫が握られている。袖に隠れてよく見えないが、腕輪も身に着けているようだ。

 

 

「大広間を抜け、東側に行きましょう!そこから外へ」

「…分かった」

 フランケの進言に、怒っている場合ではない事を思い出したらしいフェルグソンはすぐにうなずいた。それから私たちの方を見て、スピネルに王錫を向ける。

「逆らうことは許さん。《その娘を連れて付いて来い》」

「…はい」

 フェルグソンはいざという時人質として使える私たちを、自分の傍から絶対に離さないようにするつもりだ。

 スピネルは大人しくその命令に従い、私の手を引いてフェルグソンの後ろを走り出した。

 …焦るな。チャンスを待て。

 

 

 どこか遠くで悲鳴のようなものが聴こえる。幾人かの人間とすれ違った。

「兵は入り口を固めろ!騎士と魔術師は一緒に来い!それ以外の者は部屋に鍵をかけて閉じ籠もっていろ!!」

 走りながらフランケが叫び、剣や杖を持った何人かが私たちの後ろについて走り出す。

 大広間らしき大扉が見えてきた時、左の方から激しい足音が聴こえてきた。

「…いたぞ!!フェルグソンだ!!」

 

 討手の兵が既に城内深くまで来ているのだ。

「足止めをしろ!!」

 フランケの指示を受け、後ろにいた者のうち数人が左の廊下に向かう。

 だがこちらに迫ってくる足音の数からすると、あの人数では明らかに足りない。恐らくすぐに突破されるだろう。

 先頭を走っていたフランケによって大扉が開けられ、私たちは次々に中に飛び込んだ。

 

 

 

「扉を閉めろ!早く!!」

 最後尾にいた男が大扉に閂をかけるのを横目で見ながら、薄暗い広間の中央で激しく息をつく。

「リナーリア、大丈夫か」

 スピネルがこちらを覗き込んでくる。大丈夫と答えたかったが無理だった。手を引かれながらとは言え結構な速度で走ったので、完全に息が上がっている。かなりきつい。

「……」

 必死で息を整えながら周りを見る。フェルグソンとゲルマンの他、剣を持った騎士と思われる者が5人。魔術師らしき者は1人だけのようだ。

 騎士らしき者はさすがに平気そうだが、それ以外は少なからず息が上がっているように見える。

 

 だがそう長く休めるはずもない。先に行って奥の通路の様子を確認していたフランケがすぐに戻ってくる。

「こちら側には敵はいないようです。急ぎましょう!」

「ああ…」

 フェルグソンが袖で汗をぬぐう。

「お前はその娘を…」

 フランケがスピネルに何か言いかけた時、轟音と共に大扉が吹き飛んだ。

「……!!」

 咄嗟に頭を抱えてしゃがみ込んだ私をスピネルが庇う。

 

 

『光よ!闇を照らせ!』

 離れた所から聞き覚えのある声がして、頭上に光が輝いた。周辺が照らされ、眩しさに目を覆う。照明の魔術だ。

 この声、テノーレンに違いない。王宮魔術師の彼も来ているのだ。

 続いて、複数の足音が広間になだれ込んで来る。

 

 何とか目を開くと、こちらに走り寄る抜剣した男たちが見えた。

 全員軽装のようだが、頭には赤い房飾りのついた兜を被っている。特徴的な緑色のタバードの右胸に縫い付けられているのは、王国の紋章だ。

 …城の騎士たちだ。ついに、ここまで来てくれた。



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第139話 奪還(後)※

「フェルグソン!!大人しく投降しろ!!」

 叫びながら迫り来る緑のタバードの騎士たちに、フェルグソンが王錫を掲げる。

「《そこで止まれ》!!」

 ぎしりと騎士たちがその場で動きを止めた。くそ、やはり秘宝の力は厄介だ。

 フェルグソンの配下が騎士たちへ斬りかかって行く。

 一度にあんな大人数相手に使えばすぐに効果が切れてしまうだろうが、戦闘においてその一瞬は致命傷になりうる。

 

『風の刃よ!』

『水の盾よ!』

 騎士たちの後ろ、大扉の方からいくつも魔術が飛び、騎士の支援をする。

 その間にフェルグソンは奥の通路へ向かって駆け出した。フランケが私とスピネルに剣を向ける。

「お前たちも早く行け!!」

「…っ!」

 …従うしかないのか。せっかくすぐそこに助けが来ているのに。

 

 

 走り出すのを躊躇った時、女性の声の詠唱が響いた。

『罪人を焼き尽くす劫火よ、ここに集え!収斂し、凝縮し、圧縮し…!』

 騎士たちの頭上に炎が生まれ、渦巻いて眩しく輝く球体となってゆく。

「……!」

 振り向いたゲルマンが焦った顔になり、『光の壁よ!』と叫んで周囲に防御魔術を展開する。

 しかし圧縮され光の塊となった炎は、ゲルマンたちの方には向かわなかった。頭上を飛び越え、広間の奥、フェルグソンが走り出した先へと向かう。

『…炸裂せよ!!』

 

 

 

 凄まじい轟音と爆風。

 髪と服の裾が大きくはためく。耳が痛い。小さな何かの破片がいくつも足元に落ちる。私に当たっていないのはスピネルが庇ってくれているからだ。

 やがて顔を上げると、奥の壁が大きく崩れ、瓦礫の山と炎が広がっていた。通路を塞いだのだ。

 ついでに、フェルグソン配下の魔術師らしき男は瓦礫が頭に当たったのかその場に倒れていた。運のない奴だ。

 

「今だ!捕えろ!!」

 王錫の効果が切れたのか、あるいは後ろから増援が来たのか。フェルグソンの配下を斬り捨て、あるいは横をすり抜けて、緑のタバードの騎士数人がフェルグソンに向かおうとする。

「フェルグソン様、もう一度王錫を!ゲルマンは俺を支援しろ!先にこいつらを倒す!!」

 前へと躍り出たフランケが叫んだ。フェルグソンが慌てて王錫を掲げる。

「…う、《動くな!》」

 緑の騎士たちが再び動きを止め、フランケがそちらへ向かって走る。

 

『炎よ!』

『風よ!』

『…雷精よ!()く走り脅威を迎え撃て!』

 大扉からまた魔術がいくつも飛ぶが、ゲルマンの雷の魔術がそれらをことごとく撃ち落とす。

 恐ろしく速く、そして精密な術だ。アメシスト様と筆頭魔術師の座を争ったその腕は健在なのだ。

 それに城の騎士たちを支援している魔術は全て、大広間の外から放たれている。王錫の効果が及ばないようにするためだろうが、そのせいでゲルマン一人の魔術に威力や速度で追いつけていない。

 

 …このままではまずい。

 スピネルは今のうちにフェルグソンから離れたいのだろう、さっきから私を背後に庇うようにしながら、気付かれないようじりじりと壁に向かって下がっている。

 庇うようにと言うか、実際に何度も庇われている。武器を持っていないとは言え、私がいなければもっと自由に動けているだろう。騎士たちに加勢だってできるかもしれないのに。

 私は完全に足手まといだ。悔しい。

 

 

 フランケが剣を振りかぶる。

 騎士たちは王錫の力が効いていてまともに動けない。…斬られる。

 

「危ない…!」

 思わず叫んだ時、突如一人の騎士が一歩前に踏み出した。

 鋭く繰り出された剣が、甲高い音を立ててフランケの剣を弾き飛ばす。

 兜の奥に見えたのは、揺るぎない強い光を宿す翠の瞳だ。

 

 

「…殿下!!」

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 城の騎士たちと同じ緑のタバードを身に着け、兜を被っているが、あの目を見間違えるはずもない。殿下だ。

 どうしてここに殿下がいるのか。

「バカな、危険過ぎる」と思う一方で、「ああ、やはり」と思う自分もいる。

 …殿下なら、自ら助けに来てくれるのではないかと。そんな気がしていた。

 

 

「お前は…っ!?」

 きっと騎士たちの中に紛れ、王錫が効いたふりをして機を窺っていたのだろう。

 完全に不意を突かれ剣を失ったフランケを一刀の元に斬り捨て、そのまま駆け出す。

「…フェルグソンッ!!」

 

「くっ…!『雷よ!』『炎よ!』」

「ふっ!」

 ゲルマンが次々に魔術を放つ。しかし雷の魔術は殿下の阻害魔術によって発動を阻止され、炎は紙一重で躱された。

「く、《来るな》!!」

 フェルグソンが王錫を向けるが、無駄だ。王子である殿下には秘宝の力は効かない。

 

『雷光よ!二つに裂けよ!』

 さらにゲルマンが撃った雷は、殿下が避ける寸前で二又に裂けた。一つは躱したが、一つは剣に当たった。

 雷の魔術は身体を一瞬麻痺させる効果があるため、雷が身体に伝わる前に咄嗟に剣を手放したのだろう。衝撃で剣があらぬ方向に飛んでいく。

 思わず息を呑んだが、殿下は迷わずにそのまま駆ける。剣がなくとも素手でフェルグソンを抑え込むつもりなのだ。

 フェルグソンは王錫を持っているせいで、剣は持っていない。

 

『轟炎よ唸れ!』

「ぐわぁっ…!!」

 そして、後ろから放たれた炎の魔術がゲルマンに直撃した。恐らくテノーレンが放ったものだ。

 ゲルマンは防御魔術を使っていたようだが、雷を撃ちながらの二重魔術だったため、その激しい炎を防ぎ切れなかったらしい。苦悶の声を上げて倒れる。

 

 

「お前、エスメラルドか!!」

 ようやく気付いたらしいフェルグソンが驚愕の声を上げる。残っているのはもうこいつだけだ。

 しかし、絶体絶命に陥り必死の形相になったフェルグソンが王錫を向けた先は、私のすぐ傍にいたスピネルだった。

「…お前!!《エスメラルドを止めろ》!!」

「……!!」

 近くには殿下によって弾き飛ばされたフランケの剣が落ちている。走り出したスピネルがそれを拾い上げる。

 もう少し。あとほんの数歩で殿下がフェルグソンの所に到達するのに。

 

 スピネルが剣を持った手を大きく振りかぶる。このまま走ってももう殿下には追いつけない。その背中へ剣を投げつける気なのだ。

 鋼色の瞳がきつく前方を睨み付けるのが見え、その瞬間に全てを理解した。

「…殿下!!」

 声の限りに叫ぶ。

 

「今です…!!!」

 

 

 走るその身体がわずかに左にぶれる。

 次の瞬間、スピネルが投擲した剣は殿下の右手の中に収まっていた。

 力を溜めるかのように、大きく姿勢を沈める。

 

 

「はっ…!!」

 刹那の速さで閃いた剣によって、王錫が高々と宙に舞った。

「バカな…!?」

 何かを言いかけたフェルグソンの胴に、続けざまに剣が叩き込まれる。

 

 …そしてフェルグソンは、その場へ崩れ落ちた。

 

 

 

 

「殿下…!!」

 わあっ、と背後から歓声が上がった。

 殿下がフェルグソンの傍らにしゃがみ込み、その腕から王護の腕輪を取り上げる。

 走り寄ってきた騎士たちは縄を取り出し、倒れたフェルグソンとゲルマンを拘束していく。

 フランケや他のフェルグソンの配下は既に、拘束されたり魔術によって無力化されているようだ。

 

 

「凄い…」

 思わず呟く。

 スピネルは殿下が必ず避けると信じ、ほんの少し右…つまり、殿下が拾いやすい利き手側を狙って剣を投げたのだ。

 王錫の力に完全に抗う事はできなくても、その強い意志の力でほんの少し軌道をずらす事はできたのだろう。

 殿下がそれを察知したのは、まあほとんど勘ではないかと思うが、スピネルを信じて動いたのは間違いない。

 私が今だと叫んでタイミングを教えたのは…まあ、おまけみたいなものだろうな。でもちょっとは役に立ったかもしれない。そう思いたい。

 しかし、空中で剣を掴み取るとは思わなかった。凄すぎる。まさに神業だ。

 

 

 立ち上がった殿下は自分の腕に腕輪を嵌めると、兜を脱ぎ捨てて後ろを振り返った。

 その目が私を捉え、かすかに揺れる。

「…リナーリア!」

「殿下!」

 こちらへ駆け寄って来る殿下に、私もまた手を伸ばした。

 力強い腕が私を抱きしめる。

 

「リナーリア…。無事で良かった」

 どれほど私の身を案じてくれていたのか、その声だけで分かる。

 …会いたかった。本当に助けに来てくれた。

 目の奥に熱いものがこみ上げてくるのを堪えながら、私は力いっぱいその身体を抱きしめ返した。



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第140話 懐かしい空気

「…怪我はないか?」

 やがてそっと身体を離した殿下が、私の顔を覗き込んできた。

「は、はい。何ともありません。殿下は?」

「俺も大丈夫だ。リナーリア…本当に良かった」

 優しい手が手袋越しに私の頬に触れる。殿下の顔を見るのは、一体何日ぶりだろう。

 一度は堪えたはずの涙が滲みそうになって、必死でぐっと我慢する。

 

 

「素直に泣いたって良いんだぞ?」

 横からからかうような声をかけて来たのはスピネルだ。いつの間に拾ったのか、手には王錫を持っている。

「な…泣きませんよ!」

 ちょっと目が潤んでしまっただけで泣いてない。泣いてたまるか。

 殿下が安心したような顔でスピネルに笑いかける。

「お前も無事で良かった」

「当然だろ?…まあ、かなり苦労したけどな…。来てくれてありがとう、殿下」

スピネルはくしゃっと笑って言った。

 

 

 …改めて周囲を見回し、助けに来てくれた騎士や魔術師たちを見る。

 彼らは広間の消火をしたり、あちこち行き交ったり連絡を取ったりと忙しなくしている。怪我人はいるが、どうやら死者はいないようだ。ほっと安心する。

 

「でもどうして、殿下が自ら…?」

 殿下の性格なら助けに行きたいと言い出すだろうと容易に想像できるが、よく皆が許したものだ。

 すると、すぐ横で話を聞いていた一人の騎士が苦笑する。近衛騎士団長のスタナムだ。

「あのような啖呵を切られては、誰しも従いたくなるというものです」

「啖呵を?」

「ああ。俺の思いを告げたら、皆分かってくれた。…だが、もっと早く助けたかった。遅くなってすまない」

「むしろ来るの早かっただろ。もっと時間がかかると思って覚悟してたのに」

 スピネルはそう言いつつもほっとした顔だ。平気なふりをしていても、やはり内心では相当きつかったのだろう。

 

 

「しかし、さっきの凄かったな。殿下なら避けるとは思ったが、まさか空中で剣を掴み取ると思わなかった」

「そうです!凄い!背中に目がついてるみたいでした!」

 目の前で見てもなお信じられない。後ろから飛んでくる剣を振り返らずに掴むなんて。スピネルも私と同じ気持ちらしい。

「自分でも何故あんな事ができたのか分からない。スピネルなら必ず何とかするだろうとは思ったんだが、リナーリアの声が聴こえたら身体が勝手に動いて、気が付いた時には剣を掴んでいた。…しかし、もう一度やれと言われても無理だろうな」

 殿下自身も驚いているようだ。どこか不思議そうに自分の手のひらを見つめている。

 

 

 その時、「お~い!リナーリアく~ん!」という懐かしいのんびり声が聞こえてきた。

「セナルモント先生!」

 杖を持ってよたよたと走ってきたのは、ボサボサ頭の王宮魔術師だ。

「先生も来てくれていたんですか」

「大事な弟子のためだからねえ、当然だよ!しかし、無事で良かったなあ…もお~、見つけるのに本当苦労したんだよお」

 

 私の姿を見て安堵の表情で笑う先生を、スタナムが微妙な顔で見る。

「どうかしましたか?」

「いえ…喋り方が…ずいぶん変わったなと…」

「こっちが素ですよお。いやあ、ずっと真面目にしていたので、実に疲れました」

「はあ…」

 スタナムはどうもギャップに驚いているらしい。

 そう言えば先生、普段はゆるゆるだけど、きちんとした場に出る時はちゃんと王宮魔術師らしい態度になるもんな。

 

 

「リナーリア、セナルモントはとても心配して、誰よりも頑張って君を探していたんだ。今日もずいぶん助けられた」

「そうなんですか?」

「僕は戦うのは苦手だから、索敵とか隠蔽魔術の担当だったけどねえ」

 なんと、騎士たちと共に城内に入っていただけで驚きだ。先生は探知魔術を使っての事前や事後調査にはよく呼ばれるが、戦闘任務について来る事はほとんどないというのに。

 見るからに疲れた様子だし、大変だったんだろうな…。またお世話になってしまった。

 

「先生…、ありがとうございます。本当に、ご心配をおかけしました」

「いやいや。いいんだよ。それに犯人がすぐ分かったのは、リナーリア君のお手柄だし」

「…お前が?」

 先生の言葉に、スピネルがちょっと目を丸くして私を見る。それに「ああ」と答えたのは殿下だ。

 

「リナーリアが放った使い魔が俺の所に来たんだ。おかげで秘宝が盗まれている事が分かったし、すぐにオットレやフェルグソンに辿り着けた。…そうだ、傷は大丈夫なのか?あれは君の血を使った魔術だと聞いたが」

「血!?」

 私が怪我をした事は知らなかったのか、スピネルがぎょっとする。

「あっ、大丈夫です。ちょっと短剣でブシャっとやっただけですし、すぐ治療してもらったので」

「短剣でブシャっと!?」

 今度は殿下が叫んだ。

 

「いえ、あの、ちょびっとです。本当にちょびっと手のひらを切っただけです。傷痕も残らないみたいですし」

 ひらひらと手を振って見せる。今はまだうっすら痕があるが、そのうち消えるだろうとここの医術師は言っていた。

「お前は本当に…無茶ばっかりしやがって…」

 殿下とスピネルが眉を曇らせ、少し申し訳なくなる。

「すみません…。でも、スピネルにばかり大変な思いをさせる訳にはいきませんし…」

 

 

 …そう言えば、スピネルは王都で駆け落ちだの人攫いだのと疑われてるとオットレが言ってたよな。

 殿下はそんな話信じなかっただろうが、一応言っておいた方が良いかもしれない。

「あの、スピネルはすごく頑張ってくれたんです。私を助けに来てくれて、捕まってからもフェルグソンと交渉したりして、色々と守ってくれていました」

「やはりそうか。…さすが、俺の従者だ」

 うなずいた殿下に、スピネルが少しだけ照れくさそうな顔になる。

 

「…だが、謝らなければならない。俺は少しだけお前を疑った。お前がリナーリアを攫ったのではないかと」

「え…」

 思わず殿下の顔を見る。

「だから、スピネル。俺を殴れ」

「え!?」

 な、何でそうなる?どういう話の流れ?

 

「……」

 スピネルはなんとも言えない顔で眉を寄せて殿下を見ている。

「ま、待って下さい。何故ですか?それはあの、どんな親しい仲だって、状況次第でちょっとくらい疑う事はありますよ。今こうして助けに来て下さっただけで十分じゃないですか」

 疑う瞬間があったのだとしても、最後にはちゃんとスピネルを信じていたのは、さっきの戦いを見ても明らかだ。疑っていたなら、あんなに無防備に背中を晒したりしていない。

「だめだ。殴ってくれ。そうでないと俺は自分を許せない」

「……。よし、分かった」

「え!?」

 びっくりしてスピネルを見る。しかしスピネルは、既に拳を固めていた。

 

 ガツン、という音と共に殿下が大きくよろめく。

 …どう見ても一切の手加減がない一発だった。

「えっ…え、ええー!?」

 仰天する私の前で、口元を拭う殿下にスピネルが尋ねる。

「どうだ、すっきりしたか?」

「ああ」

 

「えええええ…」

 私はひたすらオロオロした。

 何で殿下が殴られる必要があるのか。でも殿下が自ら望んだことだし、やけにすっきりした顔してるし…。

 でも、えええ…。

 

 

「約束する。俺はもう二度とお前を疑わない」

「おう」

「……」

 困惑する私の横で、「なるほど…」と呟いたのはスタナムだ。

「熱い友情ですね…まるでこれは、千里を走るミロスのような…」

「あっ」

 そうだ。この流れ、小説で読んだ事がある。友情のために走る男の物語だ。

 

 主人公の男は自分の身代わりとなった親友のために必死で走ったが、一度だけ心が挫けかけ、見捨ててしまおうかと迷った。

 そして親友は一度だけ男を疑いかけ、自分は騙され見捨てられたのではないかと思った。

 再会した二人はそれを素直に打ち明け、お互いに一発ずつ殴り合って許し合い、改めて友情を誓った。

 殿下もあの物語と同じく、疑った自分を友に罰してもらう事を願ったのだ。

 

 

「……」

 私とスタナムは思わず、期待を込めてスピネルの方を見た。スピネルが怪訝な顔になる。

「…何だよその目?」

「えっ?だってここは貴方が、『俺も一度は殿下を裏切りそうになった。だから殿下も俺を殴ってくれ…』って言う所ですよね?」

「いや何でだよ!俺は裏切りたいとか思った事一度もねえよ!!」

 叫ぶスピネルを、殿下が疑わしげに見る。

「本当か?本当は裏切りたくなったんじゃないのか…?」

「ついさっき二度と疑わないって言ったばっかだよな!?」

「でも貴方フェルグソンに一生懸命取り入ってましたよね…」

「それは作戦だろうが!!!」

 

スピネルが私の方を睨み付ける。

「そういう事言うんなら、攫われた馬車の中で呑気にぐーすか寝てたのを殿下にバラすからな」

「もう言ってるじゃないですか!それに寝てたのは魔術で眠らされたせいでしょう!」

「だからってあんなに眠りこけるか?神経太すぎてビビったぞ」

「そんな事があったのか…さすがリナーリアだ」

「えっ、そ、それほどでも…えへへ」

「いや喜ぶのかよそこ!!」

 

 …まあ、もちろんこれらは冗談だ。

 3人であれこれ言い合うこの空気に、懐かしさで胸がいっぱいになる。

 こんな軽口を叩けるのも、こうして無事に再会できたからだ。

 

 

 

 すると、一人の騎士がこちらに近付いてきた。スタナムの方に話しかける。

「団長、城内全区画の制圧が完了致しました」

「よし、分かった」

 そう言ったスタナムが私たちの方を振り返った。

「あと数時間で夜明けです。一旦休息を取った後、改めて状況を確認してから皆様に王都にお戻りいただこうと思います。急いで部屋を用意させますので、今はとりあえず休まれて下さい」

 

 

 早く帰りたいのは山々だが、後始末だってあるし兵には休息が必要だ。

 先生などかなり疲れた様子だしな…。殿下の手前へたり込んだりはしていないが、杖にもたれかかるようにしてぐったりしている。ゆっくり休んで欲しい。

 それに殿下もだ。殴られた頬が変色しかかっている。これ結構腫れるやつなのでは…。

「殿下、大丈夫ですか?」

「大丈夫だ。これは俺への戒めだ」

「それに、目元に隈が。少しおやつれになられたのでは」

「毎日夢見が悪かったんだ。君の方こそ、ずいぶん痩せてしまって…」

 

「毎日?どんな夢ですか?」

 ふと気にかかって尋ね返す。殿下は少し躊躇いながらその内容を口にした。

「…スピネルが俺を裏切ったり、君が俺から離れていく夢だ。毎日そんな夢ばかり見て…まだまだ心が弱い証拠だ」

「それは、昼夜関係なく見たのですか?」

「うん?…いや、夜だけだな。ソファでうたた寝した時は見なかった…」

「私から使い魔が届いた時、きっと少しは安心なさいましたよね?その後は?」

「…その後も見た。昨夜も…」

 

「で、で、殿下!!」

 私は思わず大声を上げる。

「それ多分、攻撃されてます!!」

「…何?」

 

 急いで先生の方を振り返る。

「先生!!今すぐ王都に戻って調べてきて下さい!!」

「ええええええー!?」

 先生の世にも情けない悲鳴が響き渡った。



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第141話 事件の終わり(前)

 翌朝、私は用意された客間のベッドで目を覚ました。

 久々にすっきりした目覚めだ。救出された事で安心したのか、短時間だがぐっすりと眠れたらしい。

 ベッドから下りてカーテンを開けると、眩しい朝日が差し込んだ。と言っても少し遅い時間のようで、もうすっかり日が昇っている。

 直接陽の光を浴びたくなり窓を開けると、日差しと共に冷たい空気が吹き込んだ。

 こうして太陽を見るのは何日ぶりだろうか。しみじみと喜びが湧き上がる。

 

 しばらくそうやって感動していたが、さすがに寒くなってきてくしゃみが出た所で窓を閉めた。

 そう言えば寝間着のままだったな…と自分を見下ろすと、軽くドアがノックされた。

「はい」

「おはようございます。お着替えをお持ちしました」

 ドアの外から聴こえてきたのは女性の声だ。「どうぞ」と答える。

 

「失礼いたします」

 一礼して入ってきたのは若い女性の騎士だった。顔にどこか見覚えがある気がするので、多分城の騎士の一人だろう。

 女騎士が持ってきてくれたのはシンプルだが仕立ての良い厚手のスカートと揃いの上着、それからブラウスだった。少しサイズが大きいが十分着られそうだ。

「お着替えをお手伝いいたしますか?」

「いえ、大丈夫です」

「では、扉の外におりますので、支度が整いましたらお声がけ下さい。朝食の用意ができております」

「分かりました」

 

 

 

 女騎士の案内で食堂に行くと、殿下とスピネルが既に来ていた。

「おはようございます」

「ああ、おはよう」

「おはよう」

 二人共顔色が良さそうで安心する。殿下はやはり頬が少し腫れているが…。

 席につくと、すぐに朝食が並べられ始めた。兵が作ったものなのかパンとスープにソーセージだけの質素な朝食だが、湯気が上がる温かいスープは久しぶりなので嬉しい。

 

 

「…殿下、それやっぱり治さないんですか?」

 パンをちぎりながら、殿下の顔を見て尋ねる。

「ああ。大丈夫だ」

「でも私の予想が当たっていれば、悪夢を見たのは精神に害を及ぼす魔術のせいです。スピネルを疑ったというのも、それの影響が大きいと考えられます。…今日はきちんと眠れたんですよね?」

「そうだな。とてもよく眠れた」

 

 殿下は、悪夢を見せる事によって少しずつ精神や体調に影響を与え、ゆっくり心を蝕んでいく魔術をかけられていた。私はそう思っている。

 このような精神干渉系の魔術は犯罪に使われやすいのもあり、魔術師の間ではあまり好まれない。精神を高揚させたり、逆に落ち着かせたりする術が戦闘や医療などで使われる程度だ。

 人間に直接悪影響を与えるようなものは、特殊な場合を除き王国の法で使用を禁止されている。

 

 私もまたこの手の術に興味はないし得意でもないのだが、近頃は私自身も夜うなされる事が多かったため、夢に関する魔術について少々学んでいる所だった。お陰ですぐにその可能性に思い至れたのだ。

 まあ私の方は結局原因不明のままなのだが、殿下は恐らく間違いないと思う。

 

 元々、殿下は非常に寝付きの良い方だ。もちろん心配事があれば眠れなかったり悪夢を見る事だってあるだろうが、毎日ずっと似たような悪夢を見るというのはおかしい。私からの使い魔が届き、多少の安心材料ができてからも続いたのならなおさらだ。

 …何より、このタイミング。殿下が最も信頼し、誰よりも先に相談するだろうスピネルが不在の時を狙ったのだとしか思えない。

 

 

 パンを齧っていたスピネルが肩をすくめる。

「俺もそれはおかしいと思うが、今頃は王宮魔術師が調べてくれてるだろ。すぐに結果が出るから、それまで待て」

「そうですね…」

 あの場ですぐ先生に王都に戻ってもらうのは、さすがに酷いと私も思ったのでやめた。代わりに遠話で王宮魔術師団に連絡してもらい、調査を依頼したのだ。

 恐らくは魔法陣を使った術なので、どこかに痕跡が残っている可能性が高いだろう。

 

「…しかし本当に魔術の影響なら、殿下は悪くないので殴られ損ですよ」

 そう言うと、スピネルはちょっと気まずそうに目を逸らしたが、殿下は首を振った。

「そうだとしても、魔術に付け込まれたのは俺の心に油断があったからだろう」

「でも不公平じゃないですか?やっぱりこう、スピネルにも一発がつんと行っといた方が良くないですか?」

「お前は何でそんなに殿下に俺を殴らせたがるんだよ!俺は頼まれてやっただけだぞ!」

「あっ、もしかして私に殴られる方が良かったですか?」

「お前関係ないだろうが!特に理由のない暴力やめろ!!」

 

 

「二人共、本当に元気だな…」

 私たちのやり取りを聞いていた殿下がどこか安心したように苦笑する。

「殿下や皆さんが助けに来て下さったおかげです。これでやっと王都に帰れます」

「帰れるのはいいが、俺は憂鬱だ…うちの親父絶対カンカンに怒ってんぞ…」

「え?どうしてですか?」

「親父なら、『敵に捕まるなど騎士の恥だ!鍛え方が足りん!』って言う。絶対」

 その様子を想像したのか、スピネルはげっそりした顔だ。確かに、ブーランジェ公爵なら言いそうだな。厳しい人だし…。

 

「…分かりました。では私がきちんと証言します!スピネルは捕まってなお私を守ってくれていたと」

 任せろと胸を叩くと、スピネルはジト目になって私を見た。

「何ですかその目。これでもちゃんと分かっているつもりです。貴方には感謝しています。本当に、ありがとうございました」

 スピネルは本当によく頑張っていたと思う。フェルグソンに取り入っていたのは、自分の命を惜しんでいたからではなく、私や殿下を守ろうとしていたからだ。

 

「……。まあ、程々に説明頼むわ…」

 スピネルはプイッと横を向いた。うーん、全然信用してないなこれ。解放された喜びで少しふざけすぎたか?

 ちょっと反省する私に、殿下が言う。

「王都では君の両親も待っている。無事は既に知らされているだろうが、君の帰りを心待ちにしているだろう」

「ああ…やっぱりそうなんですね…」

 きっと凄く心配してただろうな…。

 

「学院の皆も、君やスピネルの事をとても心配していた。…俺の事もだ。とても良い友人を持ったと思う」

 殿下はどこか感じ入るように言った。

 …王都ではおかしな噂が流れているという話だったけど、そんな事は関係なしに心配してくれた人もたくさんいたのかもしれない。

 早く帰って、皆を安心させたい。

 

 

 

 それから食後のお茶を飲んでいると、一人の騎士が入ってきた。

「失礼いたします。王子殿下、スタナム団長が報告をしたいとの事です」

「ではここに呼んでくれ。…二人も話を聞きたいだろう」

 殿下がそう言って私とスピネルを見る。もちろん、揃ってうなずいた。

 

 

 スタナムはすぐにやって来た。先生も一緒だ。どうやら今回先生は、魔術師たちをまとめる立場にいるらしい。

 まず最初に、先生が小さな鍵のようなものを懐から取り出した。

「スピネル殿、リナーリア君、こちらへ。魔術封じの首輪の鍵をフェルグソンから押収したので、外します」

「本当ですか!?お願いします!」

 

 小さな鍵を差し込むと、かちりと音を立てて首輪が外れて前に落ちた。受け止めると、手のひらほどの大きさの輪へと縮む。

「はあ…、やっとすっきりしました…」

「着けてる間、すげえ落ち着かなかったもんな。身体強化すら使えなかったし」

「ええ…」

 全くもって同意だ。魔術が使えないのが、こんなにも落ち着かず心細いものだとは思わなかった。

 

「無性に大きな魔術を撃ちまくりたい気分です。今ならこの城だって吹っ飛ばせそうな気がします」

「いや、やめろよマジで…」

 スピネルが顔を引きつらせる。

「冗談ですよ、そんな事する訳ないじゃないですか。この城自体には恨みはありませんし。…でも、フェルグソンとオットレの事は、本当に吹っ飛ばしたいですね…今すぐにでも消し炭にしてやりたいです…」

 特にオットレだ。絶対殺したい。

 すると、スタナムが何だか厳しい表情になった。

 …何だろう。嫌な予感がするな。



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第142話 事件の終わり(後)

 全員が席についた所で、スタナムが報告を始める。

「まず最初に、この城の状況についてです。城内は完全に制圧しており、兵も使用人も全て捕縛済みです。数ヶ所に分けて集め、監視をしています」

 セナルモント先生がそれに続ける。

「フェルグソンやゲルマンなど、事件の中核にいたと思われる者は王都へ送ってから取り調べを致します。それ以外の者はこの後オレラシア城内で、魔術師立会いの元に尋問を始める予定です」

 

「…オレラシア城の兵や騎士たちは、フェルグソンが何をしているのか知らなかった者がほとんどのようです。こちらが王国軍だと知ると皆すぐに投降し、大した抵抗はなかったとの事です」

 恐らくフェルグソンの企みは、まだまだ準備段階だったのだろう。決して漏れる事がないよう、計画を知る者は最小限に留めていたのだ。

 いつから始まった計画で、どのような内容だったのかはまだ分からないが、あと2年とか3年とか、時間をかけて成功させる予定だったのではないかと思う。

 それをこんなに早く阻止できたのは、ある意味幸運だったのかも知れない。

 

 

 それはそうと、スタナムには伝えておきたい事がある。私はおずおずと手を挙げた。

「あの、すみません」

「何でしょうか」

「この城で働く侍女の中にデーナという人がいるんです。背の高い、30代くらいの…言葉が喋れない女性です」

「デーナ…ですか?」

「はい。囚えられてる間はその人がずっと私の世話をしていたんですが、彼女は私が使い魔の魔術を使う際に協力してくれました。フェルグソンにそれを報告したりもしなかったようです。だから、あの…」

 

 全てを言わずとも、スタナムは分かってくれたらしい。

「分かりました。悪いようにはいたしません」

「ありがとうございます」

 彼女には感謝している。もしあの時彼女がすぐに兵を呼びに行ったりしていれば、私は今頃まだ幽閉されたままだったろう。

 

 

「次に…」と、スタナムが苦い顔で続ける。

「…今回の救出作戦と同時に始めた、王都でのオットレの捕縛ですが…失敗したそうです」

「何だと?」

 殿下が驚き、私もスタナムの顔を見つめた。というより睨んでしまった。スタナムがひどく申し訳無さそうな顔になる。

 

「兵が寝室に踏み込んだ時には、既にもぬけの殻になっていたと…。どこかから情報が漏れたとしか思えません。…申し訳ありません」

「…待て、おかしい。作戦が漏れていたなら、オレラシア城の制圧にはもっと抵抗を受けていたのではないか」

「ええ…。あるいは、単にオレラシア城への連絡が間に合わなかっただけかもしれませんが…。オットレには、フェルグソンとは別の情報網を持つ協力者がいるのかも知れません」

 

 それはそれでよく分からない話だ。その協力者は、オットレは助けたのにフェルグソンは見捨てたという事になってしまう。

 ただ利用するだけだとしても、フェルグソンの後ろ盾があった方が絶対に役立つだろうに。

 フェルグソンに勝算はないと思って早々に見切ったのなら、オットレだって見切っても良さそうなものだ。なぜ助けたのだろう。

 

 

 …しかし、オットレを取り逃がしてしまったのか。

 別にスタナムや兵を責めるつもりはないが、怒りの感情が胸を渦巻く。

 あいつは確実に殿下の敵だし、私やスピネルなどの事も逆恨みしていそうだ。絶対にろくな事にならないと確信できる。

 今まで以上に身辺には気を付けなければ。あわよくば捕まえてぶちのめしてぶち殺したい。

 

「オットレの行方については、既に王宮魔術師団が中心となって捜索を開始しています。僕も、王都に戻ってそちらに加わる予定です」

 セナルモント先生が真面目な口調で言い、殿下が少し心配そうな表情になった。

「お前はずっと休みなしで捜索に当たっていただろう。オットレの行方は気になるが、あまり無理はするなよ」

「…はい。ありがとうございます」

 先生は少しはにかむようにして頭を下げた。

 

 

「それで、この後の事ですが。王都に戻る前に、スピネル殿、リナーリア殿には、拉致された時の状況やオレラシア城内で見聞きした事について詳しくお尋ねしておきたいのですが…。よろしいでしょうか?」

 こちらを窺うようなスタナムの問いには、恐らく私…「囚えられていた令嬢」としての私への気遣いが多く含まれている。その事にまたモヤモヤとした感情が湧きかけたが、急いで振り払った。

 気遣ってくれているスタナムには感謝すべきなのだ。悪いのはフェルグソンとオットレだ。

 …そして、捕まってしまった私だ。

 

「大丈夫です。問題ありません」

 できる限り平静にそう言う。スピネルも「分かった」と答えた。

「聞き取りには僕も同席します。リナーリア君の師匠として」

 先生が魔術師としてではなく「師匠として」という部分を強調してそう言ったのも、多分私を気遣ってだろう。

「俺も同席したいが、良いか」

 殿下も尋ねる。もちろん、問題はない。

 

「聞き取りの間に王都に戻る準備を進めさせておきます。ここに攻め込む時に使った転移魔法陣がありますので、夜までには向こうに到着するかと。私はこの城に残って調査や尋問の指揮を取りますが、帰還の際はセナルモント殿や精鋭の騎士たちが護衛をしますので、ご安心下さい」

 同時にフェルグソンの移送もする感じかな。何にせよ、今日中に戻れるならありがたい。

 

 

「では、よろしければすぐにでも聞き取りを始めたいのですが…」

「あっ、ちょっと待ってください。その前に」

 セナルモント先生が片手を上げ、それからローブのポケットに手を入れる。

「リナーリア君。これの事なんだけどね…」

 先生が取り出したのは、私が殿下に贈った護符だ。やはりこれを逆探知に使って場所を探り当てたらしい。

 だが…。

 

「今回はこれに助けられたんだけどね。これはちょっとまずいよ…君の事だから、殿下が心配で付けたっていうのは分かるけどね…」

「うっ…」

 そ、そりゃ突っ込まれるよな…。

「あの…私、捕まりますか…?」

 恐る恐るスタナムの方を見ると、スタナムは物凄く困った顔をした。

「いえ…セナルモント殿の言った通り、今回はそれのお陰で素早く場所を見つけられた訳ですし、咎めは致しませんが…」

 

「……?お前何やったんだよ?」

 一人だけ話が分かってないスピネルが怪訝な顔をする。

「いえその…この殿下の護符にですね…こっそり、場所を探知する追跡の魔法陣をですね…」

「追跡って…あれか?浮気防…じゃなくて、親がよく小さい子供に持たせるやつ」

「はい…そのあれです…」

 

 

「お前マジで何てもん殿下に渡してんだよ…」

 死ぬほど呆れられた。何一つ言い返せない。

「リナーリア君、王子殿下にごめんなさいしようね…僕も一緒に謝ってあげるから」

「はい…」

 先生に促され、殿下の方を向いて頭を下げる。

「申し訳ありません…黙ってこのようなものを殿下に…。どのような罰も受けるつもりです…」

 

 …しかし、殿下は平気そうな顔でこう言った。

「それなら別に謝る必要はない。こうして役立ったのだし、むしろこれからも持たせて欲しい」

「えっっ!??」

 全員が仰天して殿下を見る。

「し、しかし殿下。それでは常に居場所を教えているようなもので…いえ、リナーリア殿がそれを悪用すると思っている訳ではないのですが…」

「構わない。俺はリナーリアに居場所を知られても何も困らない」

 

 

 それを聞き、先生は両手で顔を覆い、スタナムは天を仰いだ。

「…眩しい…!!」

 

「で、殿下、本当に良いんですか?あっ、誓って邪な使い方はしませんが、でも」

 尋ねると、殿下はきっぱりとうなずいた。

「ああ。君を信頼している。それに、いざという時俺の側でも君を探せるのだから、その方が安心だ」

「殿下…!!」

 なんと広いお心をお持ちなのか。

「まあ…殿下が良いってんならいいけどよ…」

 スピネルは頭を抱えているが、私は感動に打ち震えていた。

 さすがは殿下だ。

 

 

 

 その後、記録係の魔術師が呼ばれ、私たちへの聞き取りが始まった。

 事件当日にあった事やオレラシア城に到着するまでについては概ね私が話し、スピネルがそれを補足する形になった。

 

 この時、カーフォルがどうなったのかについてスタナムに尋ねたのだが、多少記憶の混乱があるものの無事だと聞いて安心した。

 カーフォルの身に何かあったら、アイキンに申し訳が立たない。彼はアイキンの唯一の身寄りなのだ。

 王都に戻ったら彼にも会いたい。昨日の殿下とスピネルのやり取りを話したらきっと感動するだろう。彼もあの千里を走る男の物語が好きだと言っていたし。

 倒れていた衛兵も無事だそうで、秘宝盗難事件の際に死者や負傷者はいなかったらしい。証拠を残したくなかったからだろうが、犠牲者が出ていなくて本当に良かった。

 

 それから私は幽閉生活や使い魔を作った時の状況について話したのだが、オットレに関しては「わざわざ部屋に来て煽ってきたので、ついカッとなって突き飛ばしたら気絶した」という事にしておいた。

 殿下にも誰にもあんな事知られたくない。スピネルもその辺りを察してくれたらしく、ちゃんと話を合わせてくれた。

 

 

 スピネルの方は、最初こそ地下牢だったものの途中からそこそこ広い部屋に移されたそうだ。

 また、監視付きではあるものの城内を見て回ったりもしていたらしい。フェルグソンが集めた兵の調練の様子を遠くから見たり、骨董品や美術品を見せられ自慢されたり、どこそこの貴族に贈るならどれが良いかなど尋ねられたりしていたという。

 スピネルが見た限りフェルグソンは、私が使い魔を放ったり、王都で救出作戦が立てられていると知らなかったらしい。

 一体、誰がオットレを逃したのだろうか。非常に気にかかる。

 

 さらにスピネルがフェルグソンから得た情報、そしてフェルグソン側に流した情報についての話になり、この辺りで私や殿下、セナルモント先生は退出する事になった。

 貴族だとか軍の機密情報も含まれていそうな話なので仕方がない。

 正直気になるが、知っている事自体が危険を招くかもしれないのだ。余計な好奇心は持たない方がいいだろう。




この後、物語はいよいよ最終章に突入する予定です。
しばらくシリアスな話が続きましたが、今まで通りゆるい空気も交えつつハッピーエンドに向かって戦っていく予定ですので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。


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第143話 飛来するもの※

「あの、すみません。帰還準備が整うまでの間、少し歩き回ってもいいでしょうか?」

 聞き取りが終わって部屋を退出する前、私はそうスタナムに尋ねた。

「ずっと狭い部屋に閉じ込められていたので、身体を動かしたくて…。皆様の邪魔にはならないようにしますので」

 時間まで、どうせ何もする事がない。だったら少しでも動きたいと言うと、スタナムは数秒考えてから許可を出してくれた。

 

「それでしたら、少々寒いかもしれませんが庭の方へどうぞ。城内は所々戦闘で破壊されていますし、兵や魔術師たちが尋問や調査を行っておりますので…。城壁の外にさえ出なければ、庭を自由に歩いていただいて結構です」

「ありがとうございます!」

 良かった。外の空気を吸いたかったので、庭に出られるのは嬉しい。

「なら、俺も共に行こう。この城に来るのは久しぶりなんだ」

 殿下がそう言い、二人で庭に出る事になった。

 

 

 

 扉の外で待機していた女騎士に頼み、暖かいコートとマフラーを用意してもらった。

 同じくコートを着込んだ殿下と共に表に出ると、空は青く晴れ渡っていた。日差しが暖かい。

 外に繋がる門はしっかりと閉められていて、そこに立っている見張りの兵以外、誰の姿も見当たらない。こんな状況ではあるが、ゆったり庭を見て回れそうだ。

 

 少し歩き、厳かな雰囲気を持つ白い彫像の前で立ち止まる。

「噴水はやっぱり止めてあるんですね」

「そうだな。夏ならとても美しい噴水が見られるんだが」

 この城は水霊神の像が立つとても立派な噴水がある事で知られているのだが、残念ながらこの季節は動いていないようだ。ただ彫像の足元に、少し緑色に濁った水が湛えられているだけである。

 

「前回ここに来られたのはいつだったんですか?」

「11歳の時だったかな。…まさか、こんな風に訪れる事になるとは思わなかった…」

 殿下が少し悲しげに笑う。

 フェルグソンは許しがたい罪人だが、殿下にとっては血の繋がった伯父だ。

 いかに敵視され憎まれていようとも、このような形で戦いたくはなかっただろう。

 

 

 王都に移送されたフェルグソンは厳しく取り調べられ、その企みを余さず白状させられる事になる。

 どのような刑罰を与えられるかは、その時に出て来る余罪次第だろう。

 秘宝は無事取り返せたし、犠牲者も現在のところいなさそうではある。しかし、私の想像通りに暗殺やクーデターを企んでいたならば、王族と言えども極刑もあり得るだろう。

 

 私が特に気になるのは、誰がフェルグソンに協力していたのかだ。

 そこにフロライア…あるいはモリブデン家の名前があればいいのに、と思ってしまう。

 そうすれば、前世での殿下の暗殺の後ろにいたのもフェルグソンだったと推測できる。今回の事件で、その元凶をもまとめて断てた事になる。

 殿下のお気持ちを考えるととても心苦しいのだが、そうだったらと願わずにはいられない。

 

 

 しかしそんな思いは表に出さないようにして、私は殿下に笑いかけた。

「大丈夫です。またそのうちここに来られますよ。今度は夜中にこっそりじゃなく、ちゃんと昼間に表門から」

 冗談めかしてそう言うと、殿下もまた笑ってくれた。

「ああ、そうだな」

 でも、誰がここを管理する事になるんだろう。王弟のシャーレン様は王宮の土木省で働き、重要な立場に就いているはず。誰か適当な代理を置くしかないが、パッと思いつかない。

 

 

「それにしても、暖かくて気持ちが良いですね。塔の中では風の音ばかり聴こえていたので、ずいぶん風が強い場所だと思っていたんですが、今日はそうでもないようです」

 何の気無しにそう言ったのだが、殿下はまた表情を曇らせてしまった。

「…君には、本当に辛い思いをさせてしまった。すまない。君はそうして元気に振る舞ってくれているが、どれほど心細かっただろうかと思う」

「そんな、殿下が謝ることなんて何もありません!」

 殿下は責任を感じておられるようだ。私は慌てて首を振る。

 

「しかし俺と親しくしていなければ、君が攫われる事はなかっただろう」

 確かに、私に「殿下と親しい」という価値がなければ、カーフォルたちと同じようにあの場で記憶を消され放置されただけで済んでいたかもしれない。でも。

「…で、でも。私は、殿下が助けに来て下さって、本当に嬉しかったです」

 

 …そう言ってから、ふと気が付いた。

 そうだ。私は嬉しかった。

 助けに来てくれた事そのものも嬉しかった。しかし、それ以上に。

 殿下はそれほど私を大事に思ってくれているのだと、その事を何より嬉しく感じてしまったのだと、気が付いてしまった。

 

 

 思わず血の気が引く。

 私は、なんてバカなことを。私は喜ぶより先に、殿下に謝るべきだったのだ。

 結果的に上手く行ったとしても、私がもっと慎重に行動していれば、上手く立ち回れていれば、もっと早く解決できていたかもしれない。

 殿下が自ら出陣するなどという危険を冒す事もなかったかもしれないのに。

「…も、申し訳ありません…私、殿下にとても…ご、ご迷惑を」

 

「違う、そうじゃない。君こそ何も悪くない」

 殿下は私の両肩を掴むと、目を見据えて言った。

「君がいてくれたおかげで、こうして無事に秘宝を取り戻しすぐに解決できた。君は、辛く苦しい状況の中で本当によくやってくれた。それは誇るべきことだ」

「殿下…」

 

 殿下は本当に優しく、真っ直ぐな方だ。

 前世でもそうだ。私は不出来な従者だったろうに、いつも励まし信じてくれた。それに何度救われてきただろうか。

 でもそれに甘えていては、殿下を守る事など、とても。

 

 

「…むしろ、迷惑をかけているのは俺の方だ。君はいつも俺の事を考えてくれているのに、俺はとてもそれに応えられていない。今までも、今回も…」

 殿下が悔しげに唇を噛む。

「でも、今回の事でやっと分かった。俺には、そんなものは関係ないと」

「…で、殿下?」

 翠の瞳が、真摯な光を湛えて私を射抜いた。

 

「リナーリア、俺は、君が…」

 

 

 言いかけた殿下が、ふいに言葉を止めた。

 後ろを振り向き、怪訝な顔で遠くの空を見る。

「……?」

 私もまた、はっとしてそちらの方角を見た。

 豆粒のような小さな黒い点が、青い空の中に浮かんで見える。

 

 

「…殿下!!リナーリア!!」

「スピネル!?」

 城の入口の方からスピネルが姿を表した。

「中に戻れ!早く!!」

 

 しかし、私はその場から動けなかった。

「リナーリア、どうしたんだ」

 殿下が腕を掴むが、みるみる近付くその影から目を離せない。

「…あ…」

 少しずつ鮮明になる、鳥のように翼を広げた黒い影。それを私は知っている。

 

「…ああ、クソ」

 駆け寄ってきたスピネルが忌々しげに呟き、殿下が私を背後に庇う。

 剣を抜き姿勢を低くしたスピネルがその前に立った。

「もう来た」

 

 

 

 

 …そして、それは私たちの前に姿を表した。

 羽ばたきの音と共に中空からこちらを見下ろす、黒い髪に赤い瞳をし、首から赤い宝玉を下げた男。

 塔で見たあの幻影の男にどこか似ているが、その褐色の肌と蝙蝠のような黒い翼、額から生えた角が、男が人間ではない事を如実に示している。

 

 殿下が信じられないといった様子でその男を見つめる。

「…竜人…?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 ああ、知っている。どうして忘れていたんだろう。

 その男を、私は知っている。

「ライオス…」

 

『…ほう。さすがだな。我を覚えているのか』

 竜人の男…ライオスが私を見て目を細める。

 古代語だ。なのに、何故か言葉の意味が分かる。

『しばらくそなたの魔力を感じ取れなかった。囚えられてでもいたのか。…人はやはり度し難い』

 そう言ってライオスは、縦に割れたその瞳孔でじろりと私の前に立つ殿下を睨みつけた。その圧力に私は思わずびくりと肩を揺らしたが、殿下は歯を食いしばって耐えているのが分かった。

 

 

「…お前だな。こいつに呪いをかけたのは」

 剣を構えたスピネルが、低く唸るように言う。

 ライオスが、ほんの数秒スピネルを睨んだ。

『…亡霊。やはり貴様か。だがこれは呪いなどではない。契約だ』

「それのせいで、こいつは人を殺しかけた!」

『己の身を守ろうとしただけだろう』

「てめえ…」

『無駄な干渉はやめろ。そうして人の中に身を隠すのがせいぜいなのだろう。貴様には何もできない』

 

 

 …スピネルとライオスが、一体何の話をしているのか全く分からない。

 混乱する私を、ライオスが再び見下ろす。

『人の間に置くのはやはり危険だ。我と共に来い』

 

「……!」

 殿下がこちらを振り向くが、その目を見ることはとてもできなかった。

 ただ、絞り出すように言う。

「…まだ、あと3年あります。約束は守りますので、どうか…」

 声が震えそうになるのを必死で堪えた。

 ライオスが静かにこちらを見下ろす。

『良いだろう。…だが、また何かあればもう一度迎えに来る』

「待て…!!」

 

 

 

 

 そうして、竜人の男は再び羽ばたいて飛び去っていった。

 

「…一体どういうことだ」

 殿下が私とスピネルを交互に見る。

「スピネル。あの竜人を知っているのか」

「…あんなのと知り合った覚えはねえ。少し聞いた事があるだけだ」

 

「リナーリア。君は」

「……」

 思わず視線を彷徨わせる。

 何と答えたら。どう説明したらいいのか。ギュッと目を瞑る。

 

「…すみません。少し、考える時間を下さい…」



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第144話 待っていた人々(前)

 少し気まずい空気を飲み込み、私たちは王都に戻る事になった。

 出発前、拘束されたフェルグソンたちが護送用の馬車に押し込められる所を見たが、フェルグソンはみっともなく喚き散らし周りの者に罵倒を浴びせていて、見るに堪えない有様だった。

 ゲルマンはただ無表情で、フランケはフェルグソンの罵声を聞きながら唇を噛んでいるようだった。

 

 スタナムに聞いたのだが、フランケはフェルグソンが第一王子だった頃の従者だったのだそうだ。フェルグソンが王位継承権を失ってからは、部下として直轄領の騎士団をまとめていたらしい。

 フェルグソンに対し忠実な態度を崩さなかったフランケの姿を思い出し、一瞬複雑な気分になったが、主が間違った道に進もうとした時にはそれを止めるのも臣下の務めなのだ。

 フェルグソンを止められなかったフランケには同情など一切できないし、する必要もない。

 

 

 王都に到着すると、城で待っていた両親は泣きながら私を出迎えてくれた。

 お父様は「良かった…本当に良かった…」とひたすら繰り返し、お母様は言葉も出ないほど泣いていた。

 コーネルもぼろぼろ泣いていたし、ヴォルツも目を真っ赤にしていた。この二人は、事件当日私と一緒に登城していた事もあり、両親と共に城に来て待っていてくれたのだ。

 

 私は必死で泣くのを我慢したが、両親のやつれた顔を見たら堪えきれずに泣いてしまった。

 両親は私の無事が分かるまで、食事がろくに喉を通らなかったようだ。火竜山の遺跡事件の時は半日で戻って来られたが、今回は2週間ほども行方が分からなかった。ずいぶんと気を揉んだ事だろう。急に老け込んでしまったように見えるその姿は、ひどく私の胸を衝いた。

 殿下や先生や騎士たちは、泣く私たちを温かい目で見守っていた。中にはもらい泣きしている者までいて、ちょっと恥ずかしかった。

 

 それからジャローシス屋敷へと戻ると、執事長のスミソニアンが待っていた。領地にいたはずだが、両親の供をして王都に来ていたらしい。

 スミソニアンは私の顔を見るなり物凄い勢いで号泣した。

 城で一度泣いたおかげで既に気持ちが落ち着いていた私は、その勢いに思わず引いてしまったのだが、スミソニアンは心底から私を案じてくれていたのだ。引いたりしてはいけない。

 両親やコーネルたちと一緒に必死に声をかけ、何とか宥めた。

 

 

 

 その後数日、私は主に屋敷の中で過ごした。

 できればすぐにでも学院に復帰したかったのだが、王宮側から「事件の報告がある程度まとまるまで少し待って欲しい」と言われていたからだ。

 私もまた幽閉生活の間に結構やつれてしまっていたらしく、両親がとにかく心配したのもある。

 医術師にも若干衰弱気味だと診断されたので、栄養のあるものを食べてはコーネルやヴォルツと共に軽い運動をして、なるべく体力が戻るようにした。

 

 ちなみにその間屋敷には、城の騎士や魔術師が数名、警護のために常駐していた。

 オットレの行方が分かるまではしばらく、私の外出の際にはこのような護衛が城から派遣される事になるようだ。少々窮屈だが仕方ない。

 

 

 王宮には一度呼ばれ、スピネルと共に事件当日の状況などについて改めて証言したりもした。

 その際に聞いた話によると、直轄領ではここ数年、抱える兵の数を増やし続けていたらしい。増加傾向にある魔獣被害に対応するためという名目ではあるが、人口や面積に対して少々多い数の兵をだ。

 しかも王都に対し、実数よりも少なく申告していたようだという。

 

 また、フェルグソンは謹慎中のブーランジェ公爵に接触していた。

 スピネルがそう仕向けたからだろうが、見舞いの品として高級酒や燻製肉などが届けられたという。使者として屋敷に来た騎士は、領の財政や鉱山などについて探りを入れてきた、とも公爵は証言したらしい。

 その他、新年の祝いの品としてあちこちの領へ贈り物をしたり、複数の貴族に接触していたという。その中には、フェルグソンに協力を約束した者もいたようだ。

 

 これらの活動の財源がどこから出ていたのか気になったので尋ねてみたところ、主にフェルグソンの私財だったらしい。

 フェルグソンは20年近く前からハウスマンという大商人と懇意にしていた。

 6年ほど前に病害で小麦が不作だった際、この商人の助言によってトウモロコシ取引でかなりの利益を得た。その利益を預け運用させて、さらに多くの財貨を貯め込んでいたという。

 しかし、オレラシア城の維持費や人件費などについて虚偽の申請をし着服していた疑惑もあるそうなので、そちらの方面でも罪状が増えそうだ。

 

 

 そうやって事件の報告がまとめられるのを待つ間も、親しい貴族相手の面会は自由だったので、アーゲン、スフェン先輩、カーネリア様、ブロシャン家の三兄弟などが私に会いに来た。

 皆、私の顔を見てとても安心したり、涙ぐんだりして無事を喜んでくれた。

 様々な見舞いの品を持ってきてくれたりもしたが、私にとって特に嬉しかったのは、彼らが冬休みに自領で過ごした間の話などだ。それらの他愛もない土産話を聞くと、久々に日常に戻った気分になれた。

 

 殿下によると、彼らや学院の友人たちは、行方不明になっていた私やスピネルに関する噂について否定したり消すように働きかけてくれていたらしい。

 アーゲンは「これで少しは恩を返せたかな」と言って笑っていたが、パイロープ家の影響力は大きいので、噂をする生徒に対してかなりの牽制になっていただろう。

 先輩やファンクラブの方々もずいぶん頑張ってくれたようだ。本当にありがたい。

 

 驚いたのは、あの人見知りで出不精なミメットまでもがうちの屋敷に見舞いにきた事だ。

「生徒会の仕事が滞ってるから、早く学院に出てきて欲しいの」などと言っていたが、横でレヴィナ嬢が半笑いになっていたので多分いつものツンデレなのだと思う。

 正直、凄く嬉しかった。

 

 

 

 そして昨日ついに、王宮から今回の事件に関する公式発表がなされた。

 王兄フェルグソンとその息子オットレの一味が城から王家の秘宝を盗み出した事。クーデターを目論みその準備をしていた事。私とスピネルがそれに巻き込まれ拉致されていた事。第一王子エスメラルドが自ら出陣し、フェルグソンの捕縛と秘宝及び人質の奪還に成功した事…などである。

 さらなる詳細については調査中だが、それも後日公表すると宣言された。

 この衝撃的なニュースは、瞬く間に王都中に広まったらしい。

 

 この公式発表では、スピネルは「拉致されそうになっていた私を守るため、秘宝を取り返すため、わざと捕まった」という話になっている。

 概ね間違っていないし、私としても文句はない。

 そして私は「犯人の顔を見てしまったために拉致されたが、クーデター実行の際の人質として利用するため、フェルグソンの元では手厚く遇されていた」という話になっている。

 さらに、「この両名は事件解決に多大な貢献があった」という一文も添えられていた。

 

 

 これらは、国王陛下の意向を反映した発表なのだそうだ。

 王兄によるクーデター計画など王家にとっては身内の恥とも言えるものだが、国王陛下はあえて公表するという選択をしたらしい。

 隠蔽するには話が広まりすぎているというのもあるが、主にスピネルや私を気遣っての事だ。

 

 スピネルに関しては、王子の従者として今まで真面目に勤めてきたそのキャリアに傷を付けたくないのだろう。彼は殿下にとって、今後の王国にとって必要な人材だ。

 私が「手厚く遇されていた」と表現されているのは、女性が囚われていたとなれば良からぬ想像をする者もいるので、それに対する抑えなのだろう。貴族令嬢として不名誉な噂が立たないようにという配慮だ。

 実際私は、手厚くとは言わずとも粗略には扱われていなかった。オットレのクソ野郎を除けばだが。

 

 国王陛下は「王家の体面よりも、未来ある若者を守るべきだ」と仰ったという。本当に立派な方だ。

 …ただ、こうして表沙汰にした事で、フェルグソンは極刑となる可能性が高くなった。ゲルマンやフランケなどは間違いなく極刑だろう。

 兄を断罪する事になる陛下の心中は、私などには推し量ることはできない。

 

 

 ともあれそのおかげで、私やスピネルに関するおかしな噂は一気に消えたようだ。

 完全にという訳にはいかないだろうが、王宮の公式発表に反するような噂を続けるのは王家を敵に回すのも同じだ。表立って口に出す者はもういないだろう。

 まあ噂が消えた一番の理由は、王兄によって王家の秘宝が盗まれたり、第一王子が自ら出陣し伯父であるフェルグソンを倒したというニュースの方が、よっぽど衝撃的で面白いからだろうが。

 しばらくは周囲が騒がしくなりそうだが、何とか解決して良かった。

 

 オットレの行方は未だに分かっていない。

 一人で逃げられる訳もないし、どこかに協力者がいるのは間違いない。

 この辺りについては、調査が進むのを待つしかないだろう。



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第145話 待っていた人々(後)

 久々に学院に登校し教室に入ると、一瞬でクラスメイトの視線がこちらに集中した。

 校門をくぐった辺りからそうだったし、想像はしていたのだがちょっと怯む。

「おはようございます」

 笑顔を作って挨拶をすると、すぐにペタラ様が「おはようございます」と言いながら歩み寄ってきた。

 続いて、ニッケルやセムセイもこちらに寄ってくる。

 

「おはようございます!」

「おはよう」

 他のクラスメイトたちからも次々に挨拶が返ってくる。いつもと変わらない様子に、少し安心して微笑んだ。

「お久しぶりです、皆さん」

 

 

「お元気そうで良かったです…カーネリア様やストレング様から、ご様子を伺ってはいたんですけど…」

 ペタラ様はちょっと目を潤ませている。彼女の恋人のストレングはアーゲンの腹心で、アーゲンと共に私の見舞いに来ていたので既に顔を合わせている。

「ご心配をおかけしました。この通り私は元気です」

 そう言ったところで、背後のドアが開いた。殿下とスピネルだ。

 

「あっ、殿下!スピネルさん!おはようございます!」

「おはようございます」

 殿下は数日ぶり、スピネルは私と同じく昨年末ぶりの登校のはずだ。

 元気に声をかけたニッケルを皮切りに、皆で挨拶を交わし合う。

 

 そこに「ねえねえ!」と片手を上げながら近付いてきたのは、クラスメイトのクリードだ。

「リナーリアちゃんとスピネルの救出に殿下が行ったって話、本当!?」

「ちょ、おま…」

 クリードの後ろにいたスパーが慌てるが、私はにっこりと微笑んだ。

「はい。本当です。殿下が自ら、オレラシア城まで助けに来てくださいました」

「うおー!!すげー!!」

 おおっ、と他のクラスメイトたちもどよめく。

 

 

「その話、詳しく聞きたい!!」

 そう言われ、私は「えーと…」とちょっと悩む。

 今回の事件について私が口止めされているのは、ゲルマンが魔術封印区画で魔術を使っていたという点と、王宮で聞いたフェルグソンの協力者に関する話のみだ。後は私が大した情報を知らないのもあり、特に喋るなとは言われていない。

 でも事件の詳細の発表はまだだし、あんまりペラペラ話すのもどうかな…と思っていると、スピネルがにやっと笑った。

「いいんじゃねえか。話してやれよ」

 おお。許可が出た。問題ないらしい。

 

 ならば語るしかあるまい…殿下の凛々しくも華々しい勇姿について!

「分かりました。お話しします!」

「…ふむ、なかなか面白そうな話だな」

 気合を入れた瞬間に後ろから低い声が聴こえて、私は慌てて振り返った。

 いつの間に教室に入ってきたのか、クラス担任のノルベルグ先生がそこに立っている。

 

「せ、先生、おはようございます。皆さんすみません、お話は後で…」

 クラスメイトたちは少し残念そうな顔になってそれぞれの席に着こうとしたが、それをノルベルグ先生が「待て」と止めた。

「構わん。話をしてやれ」

「え?でも…」

「どうせ皆、気になって授業が手につかないだろう。それに、将来この国を統べる王子の活躍について知っておくのは良い事だ。ちょうど一時間目は私の授業だしな。好きなだけ話していい」

「やったー!さすが先生!話が分かる!!」

 クリードが飛び上がるようにして喜び、皆も歓声を上げた。

 

 

 

 それから私は、クラスメイトたちに今回の事件について話を聞かせた。

 もちろん殿下の戦いが話のメインだが、私やスピネルの働きについても細かい所はぼかしつつ話した。

 皆興味津々で聞いてくれたが、特に反応が良かったのはやはり、広間に突入してきた殿下がフェルグソンを打ち倒した場面だ。

 語り終わった時には拍手喝采が巻き起こり、殿下はちょっぴり恥ずかしそうな表情になった。

 

 殿下の素晴らしいご活躍について少しでも伝えられた。そう思って満足していると、クリードが「でもさー」とニコニコ笑いながら言った。

「殿下の活躍も凄いけど、リナーリアちゃんが元気で帰ってきて良かったな~。あ、ついでにスピネルも」

「俺はついでか!」

 スピネルが大袈裟に顔をしかめ、皆に笑いが起こる。

「そうね。心配してたけど、相変わらずの調子で安心したわ」

「本当、良かった」

 他のクラスメイトたちも、笑いながらうんうんとうなずく。

 

「皆さん…」

 皆の笑顔に、思わず胸が温かくなった。

「本当に、ご心配をおかけしました。こうしてまた皆さんにお会いできて、私もとても嬉しいです」

 この場所に帰って来られて本当に良かったと思う。

 …いずれ、別れなければならない人たちだとしてもだ。

 

 

 

 

 その日のランチはカーネリア様からお誘いを受けた。殿下とスピネル、それからユークレースも一緒だ。

 食堂に行くとミメットがチラチラこちらを見ていたので、一緒にどうかと誘ってみたが、残念ながら逃げられてしまった。

 カーネリア様や生徒会でそこそこ顔を合わせている殿下はともかく、スピネルやユークレースもいたからかな。また女子ばかりの時にでも誘ってみよう。

 

 

「…それでね!そこでユークが言ったのよ!『愚にもつかない噂話に耳を傾ける必要なんてない。やましい事がないんなら前を向け』…って!凄くかっこよかったわ!!」

「それ、一体何回話すつもりだ…」

 カーネリア様が嬉しそうに語り、ユークレースがむすっとした顔になる。ちょっと顔が赤い。

 

「ユークもずいぶん成長したんですねえ」

 私はにっこり笑いながらうなずいた。

 実はこの話、カーネリア様が屋敷に見舞いに来た時にも聞いたので2度目なのだが、ユークレースの口ぶりからするにそこら中で何度も話して回っているようだ。

 

 新学期が始まってからのカーネリア様は、兄のスピネルが誘拐犯の嫌疑をかけられたり父のブーランジェ公爵が自主謹慎をしていたために、陰口を叩かれたりしてかなり肩身が狭い思いをしていたという。

 気が強く正義感も強いカーネリア様は、友人知人が攻撃されている時にはたいそう憤り真っ先に反撃しようとする。私もそうして助けられた一人だ。しかし彼女はどうやら、自分自身が攻撃されたり中傷される事には慣れていなかったようで、今回は少々落ち込んでいたらしい。

 何だか意外だったが、よく考えたら当然かもしれない。公爵家という家柄に生まれ、両親や4人の兄たちに愛され守られて育ってきた彼女は、今まであまり悪意に晒された事がなかったのだろう。

 

 だがそんな時、落ち込むカーネリア様をユークレースが叱咤し励ましてくれたのだ。

 常日頃から不遜な態度を崩さないユークレースらしい言葉ではあったが、どうもそれがカーネリア様の心にいたく響いたようだ。

 今までは彼女の中でユークレースは舎弟扱いというか、自分が面倒を見てやらなければという風に思っていたようだったのだが、一気に株が上がったのが見て取れる。

 何だかちょっと微笑ましい。スピネルがやたら苦い顔をしているのは見ない事にする。

 

 

「お前は、今回もずいぶん働いたらしいな。使い魔でメッセージを王都まで送ったとか」

 話題を変えるように、ユークレースが私を見て言う。

「まあ、知っているんですか?」

「さっきクラスの魔術師課程の奴が言ってた」

 

 私がクラスメイトに話した事件の詳細は、休み時間の間に少しずつ学院に広まり始めているようだ。多分、明日にはすっかり広まっているだろう。

 当然殿下の活躍が話題の中心だが、魔術師課程の生徒にとっては私の使い魔の話も興味深かったようだ。

 ちなみに使い魔を作った時の状況については、オットレが塔を登ってくる足音が聴こえた時点でドアの陰に身を潜め、のこのこと部屋に入ってきた瞬間に襲いかかって気絶させたという事にしておいた。

 勢いでちょっとばかり話を盛ってしまったが、まあ別に良いだろう。

 

 クラスメイトたちがこれらの話を積極的に広めてくれているおかげで、直接私のところへ話を聞きに来ようという生徒はあまりいないようで助かる。

 ノルベルグ先生が授業を潰してまで話をさせてくれたのは、この辺りが狙いだったのだろうかと思う。

 

 

「…ああ、そうだ。まだ内々の話だが」

 食後の紅茶を飲んでいた殿下が、思い出したように口を開く。

「リナーリアとスピネルには、今回の働きに対して勲章が授与されるようだ」

「えっ!」

「まあ!!凄いわ!!」

 

 私もこれにはかなり驚いてしまった。学生が勲章を受けるなんて、そうそうある事ではない。

 しかし内々とは言いつつ、生徒の耳目がある食堂で口にするのだから、もうほぼ決まっているのだろう。

「それは…、とても光栄です」

 何と返答したら良いのか分からずそう答えると、殿下は優しく微笑んだ。

「それだけ、今回の事件への君やスピネルの貢献が大きかったという事だ。胸を張って欲しい」

「…はい。ありがとうございます」

 

 

 

 ランチを終え、食堂から教室に戻る時、私は先に行く殿下を呼び止めた。

「あの…」

「何だ?」

 殿下と、その隣のスピネルもこちらを振り向く。

 

「明日の放課後、城を訪ねても良いでしょうか。…お話ししたい事が、ありますので」

 明日の午後は授業がないので時間がある。話をするにはちょうどいいだろう。

 話す覚悟ができているとは言い難いが、いつまでも引き伸ばすことはできない。私にはそれほど多くの時間はないのだ。

 

 殿下は「分かった」と言い、スピネルも無言でうなずいた。



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第146話 竜人と竜との話・1

 翌日、授業が終わってから殿下とスピネルと共に城へと向かった。

 授業は午前だけだったので、まずは昼食だ。3人分用意するように予め伝えてあったらしく、城に着くと既に準備が整っていた。しかも私の好きなフラメンカエッグもある。わざわざメニューを指定してくれたのだろう。

「ありがとうございます。とても美味しそうです」

 城の料理人が作るフラメンカエッグはずいぶん久しぶりだが、ソーセージも入っていてこれがとても美味しいのだ。思わず嬉しくなって礼を言う。

 

「君にはたくさん食べてほしい」

 殿下がそう言うのは、捕まっている間に私が痩せてしまって心配しているからだろう。解放されてからは頑張って食べているが、そうすぐに肉はつかないからなあ…。

 スピネルがソーセージを口に運びながら言う。

「殿下の言う通りだ。ちゃんと食っとけ。それ以上縮んでどうする」

「縮んでませんが!?」

「ああ、小さいのは元々だったか」

 

 こいつめ…自分は大きいからって偉そうに…。それとも何か?身長じゃなく別の部分のことでも言っているのか?

 この後で話すのが重い話になるだろうと見越し、あえて軽口を言っているのかもしれないが、だがやっぱり許さない。スピネルは後で殴ろう。

 

 

 とりあえず食事を再開しようとして、訊きたい事があったのを思い出す。

「ところで、殿下に仕掛けられていた悪夢の魔術についての調査はどうなったんでしょうか。魔法陣が見つかったんですよね?」

 事件の証言のために王宮を尋ねた時、殿下の寝室から魔法陣が見つかった事まではセナルモント先生に聞いたのだが、詳細はまだ調査中との事だった。先生も忙しそうなので、あれから調査が進んだのかどうかは知らない。

 すると、スピネルが何故か「ブフッ」と横を向いて噴き出した。

 

「…スピネル」

 殿下が横目で睨み付ける。

「いや、悪い、何でもない」

 スピネルは片手を振るが、どう見ても笑いをこらえている。これはひょっとして…。

「もしかして、魔法陣を探す際に殿下のベッドの下から大量の春画本が出てきた件ですか?」

 そう尋ねると、殿下が顔を真っ赤にしてテーブルを叩いた。

「スピネル!!!!!」

「違っ…俺じゃねえぞ!?」

 

「ああ、すみません、セナルモント先生から聞いたんです。口を滑らせたみたいな感じでしたが」

「ほら!!俺じゃねえって!!」

 殿下に締め上げられそうになっていたスピネルが悲鳴のような声を上げる。

「だが元々あれは…!」

 言いかけた殿下が、慌てたように私の方を見る。

 

「ち、違うんだ、リナーリア、あれはスピネルが俺に押し付けてきたものなんだ。どう処分していいか分からなくてベッドの下に放り込んでいただけで、決して俺の趣味とかじゃない。絶対に違う」

「ああ、やっぱりそうだったんですね…」

 そうではないかと思っていたので納得だ。

 前世の殿下に春画本を集めるような趣味はなかった。学院で友人たちに見せてもらったりはしていたようだが、自ら購入していた覚えはない。

 スピネルの差し金か、あるいは影響を受けたのではないかと思っていたのだ。

 

「さすがはスピネルですね」

 深く感心してそう褒めると、殿下が「は!??」と叫んだ。

 だって殿下もお年頃なのだ。そういうものに興味があって当然なのだ。従者ならばその辺りも察して差し上げるべきだったのに、前世の私はそんな事思いつきもしなかった。悔しい。

「やはり貴方はよくできた従者です…」

「お前の感心するポイントがさっぱり分かんねえ、つーかやめろ!!殿下が俺を射殺しそうな目で見てる!!!!」

 

 なお、悪夢を見せる魔法陣が出てきたのは殿下の枕だったのだそうだ。念のため寝室中を調べたが、他は何も出てこなかったという。

 枕はカバーを交換して洗濯するほか、中身も定期的に外で干しているので、その際に仕込まれたのではないかという話だ。犯人についてはまだ捜査中らしい。

 遠回しではあるが明らかな攻撃なので、結構気になる。

 

 

 

 それからもいくつかの雑談を交えつつ、昼食を終えた。

 食器が片付けられ食後の紅茶が並べられた所で、少々ぐだぐだになった空気を振り払うように殿下が咳払いをし、私は部屋に防音の結界を張った。

 間違っても人に聞かれていい話ではない。

 

 殿下が静かに口を開く。

「…改めて問おう。あの竜人は何だ。お前たちは、あれを知っているのか」

「…はい」

 私は小さく、だがはっきりと首肯した。

 いよいよ、隠していた事を話さなければならない。

 

 

 

「…リナーリア君。僕は、全てを話すべきだと思うよ」

 数日前、屋敷を訪ねてきたスフェン先輩はそう言った。

 先輩は私の事情を知る唯一の人だ。オレラシア城に来た竜人や、それで新たに思い出した前世の記憶などについても話し、どうしたらいいのかと相談してみた。

 いくら先輩でもこんな話、相談されても困るだろうなあ…と思ったけれど、先輩は迷わずに答えたのだ。

 

「知られたくない、王子殿下に負担をかけたくない、そう思う君の気持ちは分かる。だけど、逆の立場になって考えてごらん」

「逆の立場…?」

「ああ。もしも王子殿下が、君の知らない所で君のために危険を冒し、自分自身すら犠牲にしようとしていたら。君はそんな事、受け入れられるのかい?」

「そ、そんなの、受け入れられるはずがありません!」

 

「ほら、やっぱり。だったら答えは簡単だよ」

「…でも、殿下は私とは違います。この国を背負うべき方です」

「何も違わないよ、きっとね。確かに立場は違うけれど、王子殿下だって君と同じ人間なんだ。大切なものは守りたいと思うはずさ。…君の殿下は、大きなもののためには小さな犠牲は厭わないような、そんな人間なのかい?」

「違います!!」

 殿下はそんな方ではない。実際、危険を顧みずオレラシア城まで助けに来てくれたのだ。

 思わず叫んだ私に、先輩は優しく微笑んだ。

 

「なら話すべきだよ。それにね、問題というのは一人で思い悩んだってなかなか解決するものじゃないんだ。皆で分かち合い、知恵を出し合うべきものなのさ。君と殿下だけじゃなく、スピネル君だっているんだしね。…彼がどんな話をするのかも、僕は気になるな」

 確かに、スピネルの事は気になる。竜人について何かを知っている風だった。

「できれば僕も聞かせてもらいたいところだけど…まあ、今はとりあえず3人で話をしておいで。全てはそれからさ。大丈夫、僕はいつでも君の味方だよ」

 

 

 

 …そんな力強い励ましを思い出していると、殿下が言葉を続けた。

「竜人の事は俺も知っている。ただし、おとぎ話の存在としてだ」

 

 この国に数多あるおとぎ話、そのうちのいくつかに竜人というものが出て来る。

 最も有名なものは、こんな話だ。

 

 

 褐色の肌に角と翼を持つ竜人は、その名の通り竜と人の中間にある存在で、とても強い力を持っている。

 竜人はその力で魔獣と戦い、人を守り続けていたが、ある時突然戦うのをやめてしまう。

「何故戦ってくれないのか」と人の王が尋ねると、竜人は答えた。

「お前たちが持つ、最も価値のある宝をよこせ。そうすれば、またお前たちを守ってやろう」

 

 王が持つ最も価値のある宝は、無限に水が湧き出す力を持つ不思議な宝石だった。

 だがその国は元々水に乏しい国で、宝石は民が暮らすために不可欠なものだった。渡すわけにはいかない。

 王はその不思議な宝石ではなく、大きな魔石のついた剣を宝として竜人に差し出した。

「この嘘つきめ」

 竜人はそう言って怒った。

「俺はもう二度と、お前たちを守らない」

 

 竜人は王を殺し、宝石を持ってどこか遠くへ飛び去ってしまい、二度と戻っては来なかった。

 その国は水を失い、魔獣からも襲われ、滅ぶ事になってしまった。

 

 

 これはずいぶん古い時代…何千年も昔からあるおとぎ話らしい。

 今ではもうすっかり廃れた話で、竜人の存在自体も忘れられていたのだが、今から60年ほど前にあちこちで竜人が目撃されるという事件が起こり、その存在が再び注目された。我がジャローシス領でも竜人を見た者がいたらしい。

 目撃情報はその後すぐに途絶えてしまい事件は謎のままになったのだが、それをきっかけにまた竜人の話の絵本が出版され、広まったのだという。私も幼い頃にそれを読んでいた。

 

 

 スピネルが私を見て言う。

「お前はあの竜人を知っているんだよな?」

「…はい。二度ほど会った事があります」

 ただし、どちらも前世での事だ。

 

「最初に会ったのは、私が17歳の秋です」

「……?」

 殿下とスピネルが怪訝な顔をしたのは当然だろう。

 この国では年明けと共に年齢を数えるが、私は今年で17歳になったばかりだ。17歳の秋など、まだ来ていない。

 

 だが、とりあえずは黙って話を聞いてくれるようだ。

 私は静かに話を続ける。

 あれは晩秋の頃、殿下と共に各領の視察に行った時の事だった。

「その時私は馬車に乗り、キンバレー領に向かっていました」



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第147話 竜人と竜との話・2

「キンバレー領に行くには、高い崖の上にある道を越えなければなりません。だけど運悪く、そこで鳥型の魔獣の群れに襲われてしまいました」

 鳥型の魔獣は珍しく、滅多に遭遇するものではないのだが、魔獣の中でも特に厄介だ。

 本来魔獣が出にくいはずの川辺や水場の近くでも出てくるし、空を飛んでいるために攻撃を当てにくく、倒しにくい。取り逃がせば、何度もしつこく襲われる事になったりする。

 

「普通なら戦いを護衛に任せ馬車から出ませんが、何しろ崖上なので、万が一馬が暴れたら危険です。だから一旦馬車の外に出たのですが、その時期、キンバレー領は雨続きで足場が悪くて…。魔獣の攻撃を避けた拍子に、私は足を滑らせて崖から落ちてしまったんです」

 

 殿下は「リナライト!」と叫んで私へと手を伸ばしたが間に合わず、私は真っ逆さまに落ちた。

 魔術を使えば良かったのだろうが、落下する恐怖でその瞬間の私の思考は完全に停止していた。

 崖に生える木の枝がバキバキと身体に当たる衝撃を感じながら、何もできずに目を瞑った。ただ漠然と、死ぬ、とそう思った。

 

 

 …しかし次に目を開けた時、目の前にいたのは黒い翼と二本の角を持つ竜人の男だった。

 私は仰天して悲鳴を上げかけ、それで自分が死んでいない事に気が付いた。

 たくさんの枝に身体を打ち付けたせいかあちこち痛むが、大きな怪我はないようだ。

 

「…あ、貴方が助けてくれたんですか?」

 恐る恐る尋ねてみたが、竜人はその問いに答えなかった。ただ私を見つめただけだ。

 しかし、状況からすると助けられたのは明らかだった。あのままなら、私は今頃間違いなく死んでいた。

 だから私は、精一杯の感謝を込めて頭を下げた。

「どうもありがとうございました」

 

 すると、竜人の男が口を開いた。

『そなたは我に近い気配がする。我の仲間なのか』

 竜人の言葉は古代語のようだった。

 私は古代語を読むことはできても、話す事はできない。なのに、何故か言葉の意味が分かった。

 竜人の力なのだろうか。

 

 こちらからの言葉は通じるのだろうかと思いつつ、私は答えた。

「いえ、私は人間です。リナライト・ジャローシスと申します」

『…人間』

 どうやら通じているらしいが、竜人は不快そうに眉をしかめた。

 そう言えば、おとぎ話の竜人は人間に愛想を尽かして飛び去ったのだ。もしかしたら人間は嫌いなのかもしれない。

 

 私は慌てた。竜人を怒らせたくないし、助けてもらった礼を何かすべきだと思ったのだ。しかし、渡せそうなものが何もない。

 必死で懐を探ると、上着のポケットに飴玉がいくつか入っている事に気が付いた。馬車旅は時間がかかるので、殿下がお腹を空かせた時に差し上げようと思って持ってきたものだ。

 あまりにもちっぽけな物だが、何も礼をしないよりはマシだろうか。

 少し迷ったが、手のひらに乗せてこわごわと飴玉を差し出してみた。

 

 

「あの、これ。つまらないものですが、助けて下さったお礼です」

『……?』

 竜人が怪訝そうな顔で飴玉を見つめる。もしかして飴玉を見た事がないのだろうか。

 私はそのうちの一つをつまむと、包み紙を開いて自分の口の中に放り込んで見せた。

「飴玉です。こうやって食べるものです」

 竜人もまた一つつまみ上げると、包み紙を開いて口に放り込んだ。そしてバリバリと噛み砕く。

 

「あ、ち、違います!噛むんじゃなくて、口の中でころころ転がすんですよ!」

 口の中に含んだ飴を、舌を使って転がして見せる。

 竜人は眉を寄せてもう一つ飴をつまむと、今度はちゃんと口の中で転がした。

『…美味い』

 どうやら気に入ってくれたらしい。ほっと胸をなでおろし、持っていた飴玉を全て竜人に渡した。

 

 

『…そなたは人間だと言うのに、我を怖がらんのか』

 飴を舐めながら、竜人は不思議そうな顔で言った。

「貴方は私の命の恩人ですから」

 私は竜人の赤い目を見返すと、はっきりと答えた。怖がっていない事を示すためだ。

 

 正直、全く恐怖がないと言えば嘘になる。人とは違うその姿もだが、何よりこうして近くにいるだけでもその強大な力をひしひしと感じる。

 その気になれば私など赤子の手をひねるように殺せるのだろうと、理屈ではなく理解できる。

 だが助けてもらった恩があるし、何故だか分からないが、妙に懐かしいような不思議な感じがするのだ。

 

「人の間には、貴方の…竜人のお話が伝わっていますが、私はあれは人の方が悪いと思うんです」

 あの話の王様は、自分が持つ不思議な宝石は人々の暮らしに必要なものだから渡せないと考え、代わりに剣を竜人に差し出した。

 それは王としては当然の判断だと思うが、それなら「これは大事なものだから、別の宝で許して欲しい」と正直に話せば良かったのだ。

 竜人はそれまで人を守ってくれていたのだから、話し合えば分かってくれる可能性は十分にあったはずだ。それなのに、違う宝を渡してごまかし騙そうとしたのだから、竜人が怒るのも当然だと思う。

 

「願いを叶えて欲しいと思うなら、誠意を尽くし、できる限りの対価を用意するのは当たり前だと私は思います」

 

 

『……』

 私の言葉を聞き、竜人はしばらく考え込んでいるようだった。

 そして私はちょっと困っていた。

 助けてくれたのはありがたいが、そろそろ戻りたい。きっと殿下や皆が心配している。

 ここは崖下にあった森の中のようで、周りには高い木が生い茂っている。上からはこちらの様子は見えないだろう。

 

 思い切って竜人に声をかけようとした時、竜人は顔を上げて私を見た。

『…そなたには、叶えて欲しい願いはあるのか』

「えっ?…いえ、ありませんけど」

 そう答えながら、ふと学院の先輩だったスピネルの事を思い出した。1年以上前、彼が卒業する日、彼にも冗談半分で問われたのだ。「願い事は何か」と。

 

 私の答えはあの時と同じだった。叶えて欲しい願いなどない。

 殿下が立派な王になる事こそが私の願いだが、それは誰かに叶えてもらう必要などないものだ。

 

 

 その答えに、竜人はまた少し考え込んだ。

 しばし無言になり、私が本格的に困り始めた頃、竜人はようやくまた口を開いた。

『…分かった』

「はい?」

『我が名はライオスだ。覚えておけ』

 

 そして竜人は大きく翼を広げると、どこかへと飛び去っていった。

 私はただぽかんと口を開け、それを見送るしかなかった。

 

 

 

 

「…その後すぐ助けが来て、私は無事に崖下から救出されました。しかし不思議なことに、他の者は誰一人として竜人の姿を見ていませんでした。夢でも見たのではないかと言われ、私自身もそうだったのかも知れないと思いました。あまりにも現実離れしていたので、夢という方が納得できたんです。…ただ、私の上着のポケットからは確かに、飴玉がなくなっていました」

 

 私はそれから竜人に興味を持った。元々、魔術の師匠だったセナルモント先生の影響で古代には興味があったし、あのライオスという竜人について知りたくなったのだ。

 ライオスが私に『近い気配を感じる』と言っていたのも気になった。とにかく不思議なことばかりだった。

 だが、何しろ遠い昔の存在だ。例のおとぎ話以外、竜人について大した伝承は残っていなかった。

 

 

「それから時が過ぎて…二度目にライオスに会ったのは、私が20歳の時でした。…ただ、この時の事はずっと忘れていたんです。あの日、オレラシア城でライオスに会って初めて思い出しました」

「20歳?」

 殿下が問い返す。

「さっきの話でも、君は17歳の秋と言ったな。だが君は俺と同い年だろう?子供の頃から知っているのだから間違いない」

「…はい。()()私は、確かにまだ17歳になったばかりです」

 

 スピネルが考え込むように眉を寄せた。

「…まさか、それがお前の契約の内容か?」

 

「そうです。二度目に会った時、私はライオスに願いました。…()()()()()()()()()()と」



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第148話 竜人と竜との話・3

「もう一度やり直したい。…ライオスは、私のその願いを叶えたんです。気が付いた時には私は子供になっていて、かつての自分とはまるで違う、二度目の人生を歩み始めていました」

 

 

 殿下とスピネルはしばらくの間、衝撃を受けた顔で沈黙していたが、やがて口を開いた。

「…では、今の君はそのやり直しの最中という事か」

「ずいぶん無茶苦茶な願いだな。…あいつ、そんな事までできるのか…」

「えっと、はい…多分」

 何だか意外にすんなり信じてもらえた。ちょっと拍子抜けだ。

 

「あの、もっと疑うかと思ったんですが…」

 頭は大丈夫か?とか。まあ実際にその目で竜人を見た後だからだろうが…。

「驚いてはいる。だが、君が何か隠しているのはずっと前から分かっていたからな」

「そうだな。むしろ納得したって感じだ。どうりで変な奴だった訳だ」

「……」

 隠しているつもりでも、案外バレていたという事か。

 

 

「だがそもそも、何故やり直したいと?」

 殿下に尋ねられ、それに答えようとして、私はただ唇を動かした。

 言わなければならない。だが、どうしても言葉が出てこない。

 …殿下にそれを告げるのが、恐ろしくて仕方ない。

 

 何とか言葉を絞り出そうと苦心する私を見て、殿下がぽつりと呟く。

「…俺か?」

「!」

 はっとして顔を上げると、殿下がやはりという表情になった。

「俺が、何か関係あるんだな」

 

「……」

 それ以上目を合わせることができず、下を向く。

 忘れもしない、あの日。最後の日。

 血を吐き、床に倒れた殿下を見つけて、…そして、私は。

 

 

「リナーリア」

 殿下の静かな声がする。

「ゆっくりでいい。落ち着いて話してくれ」

「……」

 言われて、握りしめた手にじっとりと汗をかいている事に気付く。動悸も激しい。

 ゆっくりと呼吸をし、できる限り気持ちを鎮める。

 

 

「…あ、あの日。で、殿下が。ど、ど、毒を…毒を、盛られて…」

 それでも、声が震えてしまった。

「そ、そのまま、…私の目の前で、お亡くなりに…」

 殿下がどんな顔をしているのか、怖くてとても見られない。ぎゅっと目を瞑る。

「す、すみません。私、ずっと一緒にいたのに、殿下を守れなかったんです。…ごめんなさい。すみません。ごめんなさい…!」

 いくら謝ったとしても許されるものではない。しかし、謝らずにはいられなかった。

 

「リナーリア」

 殿下が椅子を蹴り、私の傍に駆け寄ってくる。

「…ご、ごめんなさ…」

「もういい、リナーリア。謝らなくていい」

 その温かい手が背中を撫でるのが分かり、目から涙が零れた。

 

 

 

 

「…すみません、もう大丈夫です…」

 しばらくして、ようやく落ち着いた私は二人にそう言った。

「本当に大丈夫か?」

「はい…」

 ずいぶん取り乱してしまったし、結構ひどい顔になってる気がするが、そこはもう気にしないでおこう。話の続きをしなければ。

 

「殿下は、私が見つけた時には倒れていて…。どうやら、毒入りのワインを飲まされたようでした。…必死で手を尽くしたのですが、間に合いませんでした」

 すぐに医術師を呼び、私自身も解毒の魔術を試みたが、既に毒が回った後だった。

 部屋には多分、防音の魔術がかけられていたのだろう。倒れた殿下の声は、外には届かなかった。

 

「私は、犯人を追うために飛び出しました。…ですがやっと追いついた犯人たちは、罠を張ってこちらを待ち構えていたんです。戦いになり、私もまた致命傷を負って倒れました。…そこに現れたのが、あの竜人…ライオスです」

 やっと思い出した。朦朧とする意識の中、空に浮かぶ月の中に現れた鳥のような影。

 ライオスは、死にかけている私を宙から見下ろしていた。

 

 

「ライオスは私に問いかけました。『叶えて欲しい願いはあるか』と」

 初めて会った時と同じ問い。

 だが、私の答えはその時とは変わっていた。

 

「…私は、全てを悔いていました。どうして気付かなかったのか、殿下の傍を離れなければ、ちゃんと注意していれば。…何より、彼女を、犯人を、殿下に近付けたのは私でした。あんな事勧めなければ良かった…。…私は、たくさんの事を間違えてしまいました。だから、やり直す事を願ったんです」

 もう一度全てをやり直す事ができれば。

 今度は間違えたりせず、殿下の命を守るために生きたいと願った。

 

「ライオスは言いました。『お前の願いを叶えてやろう。その代わり、お前は我が妻となれ』と。私は、藁にもすがる気持ちでその通りにすると誓いました」

 

 冷静になって考えると全く意味が分からない。

 そもそも前世の私は男だったのだ。それを我が妻だとか、竜人はアホなのかも知れないと真剣に思う。世の中に女性はいくらでもいるだろうに。

 私も平時だったらまずそんな馬鹿げた誓いはしなかっただろうが、その時の私は死にかけていて、ろくにものを考える力も残っていなかった。何より、少しでも殿下を助けられる可能性があるのなら何でも良かった。

 

 

 

「なるほどな…。予想はしてたが…ずいぶんとまた、気に入られたもんだな」

 スピネルが嘆息する。その横で、殿下がぎりっと歯ぎしりをした。

 物凄く低い声で呟く。

「…では、君は。俺を助けるために、あの竜人に自らを捧げると、そう誓ったという訳か」

 

「ひぇ…」

 私はびくりと身を竦ませた。

 …殿下が見た事もないくらい、凄まじく怒っておられる。

 完全に目が据わっているし、握り締めた拳の下でテーブルがなんかミシミシ言っている。

「おい殿下、落ち着…」

「これが落ち着いていられるか!!!!」

 叫んだと同時に今度はバキッ!という音が聞こえた。テーブルの寿命が近い。

 

「あ、あの、でもですね。おかげで本当に人生をやり直せたわけで…そ、それに、殿下が助かるのと同時に私も助かりましたし…あのままだと私死んでたので…」

「だからと言って!!」

「いや本当落ち着けって!今こいつに怒ったってしょうがねえだろ!」

「……っ!」

 立ち上がりかけた殿下は、スピネルに止められ何とかもう一度座り直した。うつむいて頭を抱え、苛々とした仕草で髪をかき回す。

 

 …こんなにも取り乱し、腹を立てている殿下を見るのは初めてだ。

 私はオロオロしながらスピネルの方を見たが、スピネルは無言で首を振った。余計な口は挟むなという事だろう。

 

 

 

 しばらくハラハラとしながら見つめていたが、やがて殿下が口を開いた。

「…すまない。リナーリアは悪くない。悪いのは、あの竜人だ」

「え…」

 でも、ライオスは確かに私の願いを叶えてくれたのだ。人では絶対に叶えられないだろう願いを。

 その結果、私は今こうして殿下と話せている。

 

 そんな私の考えを見透かすように、殿下はきっぱりと言った。

「一度死んだという俺がこうして生きているのは、確かにあの竜人のおかげかもしれない。だが君は、最初会った時には願いなどないと言って断ったのだろう?それなのに、君が死にかける時まで待ってからまたやって来て、願いを叶える代わりに妻になれと言う。…人の弱みに付け込むそのやり方は、あまりに卑怯だ」

「俺も殿下の意見に賛成だな。奴は多分、契約を持ちかけるチャンスを狙ってお前の事を見張ってたんだよ。気色悪い野郎だ。本当は、死にかける前に助ける事だってできたんじゃないのか?」

 スピネルが嫌悪感を滲ませて吐き捨てた。

 

「……」

 …確かに、二人の言う事も最もだ。

 そんな状況でもなければ、私がその契約を受け入れる事などなかっただろう。

 

 

 殿下が再び私を見る。

「…君はあの竜人に、あと3年と言っていたな。それはつまり…」

「はい。私がやり直し終えたら迎えに来る、そういう契約です。私が願いを叶えてもらったのは20歳の時だったので、それが期限だと…」

 今なら思い出せる。遠ざかる意識の中、確かにライオスがそう言ったのを聞いた。

 ライオスが迎えに来るその前に、必ず目的を達成しなければならない。

 

「契約を反故にする事はできないのか?」

 その問いに答えたのは何故かスピネルだった。

「こいつにはもう、契約が刻み込まれてる。こいつが恋愛にやたら鈍かったり、たまにおかしな反応をするのも、多分それの影響だ。…いずれはあの竜人の妻になるんだって暗示をかけられてるんだよ」

「お前が呪いと言っていたのはそれか?…人を殺しかけたとも言っていたが」

 

「あー…」

 スピネルがしまったという顔で目を逸らした。私は思い切り睨みつけたが、スピネルはしぶしぶという感じで口を開く。

「…捕まってる時、オットレの野郎がこいつを襲おうとしたんだよ。それでこいつは、多分無意識だろうが、自分の身を守ろうとしてオットレを半殺しにした」

 

 …ライオスの事を思い出した時点で、そうではないかと思っていたが。

 やはりあの時オットレの首を絞めていたのは、私の意志ではなかったらしい。思わず唇を歪める。

「正直、契約とか関係なく全殺しにしたかったですけどね…」

 したかったと言うか、今でもしたい。くそ。殿下には絶対知られたくなかったのに…。

 

「……。なるほど」

 殿下は完全な無表情になっていた。

 怖い。

 

 

 しかし、私が恋愛に鈍いのも竜人の仕業だったのか。おのれライオス…と思いかけて、ん?と首を捻る。

「あれ?でも私、ライオスに会う前からしょっちゅう鈍いって言われてましたよ?」

「何?」

 言われたのは主に同級生からだったが、殿下からも言われた時はさすがに落ち込んだ。

 あれは確かミメットとの約束の時間に遅刻し、「もう帰って!」と怒られてすごすご帰ってきた時だったか…。今思えば、ミメットのあの冷たい態度もツンデレだったのかも知れない。悪い事したなあ…。

 

「…お前バカだもんなあ…」

 スピネルは心底から残念なものを見る目で言った。

 腹立つ。言わなきゃ良かった。

「でも、前にやたら頭痛がってた時あったろ。あれは多分契約のせいだぞ」

「ええと…」

 何だっけ。そう言えばそんな事があったような。急に頭がぼんやりしてくるのを振り払い、思い出そうと試みる。

 

「…確か、バドミントンをした時と…、あと、ギロルの所に行った帰りに…」

「あーーー!!!」

 いきなりスピネルが叫んだ。

「!?」

「いや、いい、思い出すな。また頭が痛くなるぞ」

「…そう、ですね…」

 多分スピネルの言う通りだ。考えようとすると頭が痛くなる。

 自分の思考が操られているのだと思うと、ひどく気持ちが悪い。



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第149話 竜人と竜との話・4

「…だけど、竜人がそんなに私にこだわる理由が分からないんですよね。どうして私なんでしょうか。助けてもらったお礼に飴玉をあげただけの仲ですよ?わざわざ女に変えてまで欲しがる理由が分かりません」

「そりゃお前が…、…うん?」

 スピネルが物凄く変な顔になった。殿下も「?」という顔で私を見ている。

 

「…今なんて言った?」

「だからどうして私を…、あ」

 順序立てて話そうとしたせいでまだ言っていなかったと気付く。

 きっと驚くだろうしあまり言いたくもないが、今更隠しても仕方ないだろうから説明する。

 

「人生をやり直したって言いましたよね。その前は私、男だったんです」

 

 

 

 

 たっぷり10秒ほども、場を沈黙が支配した。

「…えっと、だから私、元はおと」

「やめろ!!聞きたくない!!!」

 スピネルが耳を塞ぎながら叫んだ。

 …そこまで動揺するか?こっちまでショックなんだが。

 いやでも、仮にスピネルが実は女とか言われたら私も動揺するかもしれないな…。不気味な想像しかできないし。

 

 殿下の方はと言うと、何だかカタカタ震えていた。えっ…これもちょっとショックだ。

「…だ、大丈夫だ。俺は気にしない」

「殿下!」

 さすがは殿下だ。性別など殿下にとっては瑣末なことなのだ。

 なんか瞳孔開いてるのが気になるけど…。

 

「お、俺は大丈夫だ。リナーリアなら、男でもいけると思う」

「え」

「落ち着け殿下!!今のこいつは女なんだからそんなトチ狂った覚悟決めなくていいんだよ!!!」

 

 

 

 

「…すまない…少し取り乱した…」

「ああ…。くそ、あの野郎…マジかよ信じらんねえ…」

 殿下とスピネルはやたらぐったりした様子で言った。

 そこまで衝撃を受けられるとは…。

 スピネルなんかいつも私を女らしくないって言ってたくせに。

 

「えー、だからですね、やり直す前…前世の私は、ジャローシス家の長女じゃなくて、三男でした。それで、殿下の従者だったんです。言っておきますが、性別を変えたのは私の意思ではないですよ」

「何…?従者…?リナーリアが?」

 殿下が私とスピネルの顔を交互に見る。いまいち飲み込めていない様子だ。

「そうです。ちなみにスピネルは、ただの学院の先輩でした」

「そりゃ、なんつーか…想像できねえな。ただの先輩か…」

 スピネルもぴんと来ない顔をしている。

 

「スピネル先輩は女たらしで有名でしたよ。いつも誰か女の子を連れていましたね。違う子を」

「…は?」

 スピネルがぎしっと固まり、殿下が何とも言えない表情でそれを見る。

「…そうなのか」

 まあ、驚くのも分かる。前世の彼と今世の彼はだいぶ違うからなあ。

 従者という立場の違いが、私と彼の人生を大きく変えている。

 

 

「…と、とにかく分かった。…お前が殿下や王宮のことにやけに詳しかった理由も、やっと分かった」

「はい」

 スピネルはあからさまに話題を逸らしたい感じだったが、突っ込むのも可哀想な気がしたので素直にうなずいた。

「10歳の時までは、自分が男だった事なんて完全に忘れていました。生まれ変わって人生をやり直してるなんて思わずに育ったんです。でも、殿下が初めてジャローシス屋敷に来たあの時に、前世での記憶を思い出しました」

「あのわんわん泣いてた時か」

「そ、そうです…あまりに懐かしくて、つい…」

 もう7年も前なのに、未だに恥ずかしい。

 

「…そうか。俺はあの時、初めて君に出会ったと思っていたが…。君にとっては、再会だったんだな…」

 殿下はどこか、噛み締めるように言った。

「申し訳ありません。今まで黙っていて…」

「そうだな。言いにくかった気持ちも分かるが、もう少し早く教えてほしかった…」

 少し悲しげに言われ、申し訳なさが募る。

 できれば最後まで知られたくはなかったけれど、殿下にとっては真逆の思いだろう。

 

 

 

「…まあ、今更言っても仕方ねえ。それより…」

 スピネルが厳しい顔つきになって私を見る。

「聞き捨てならないのは、殿下が殺されたって話だ。まずそこを聞かせてくれ。そもそもの原因もそれだしな。…一体、誰がやったんだ?フェルグソンの手下か?」

「…いいえ」

 私は首を横に振った。

 今でも覚えている。あの森の中、私を待ち構えていた彼女のことを。

 

「…フロライア。フロライア・モリブデンです」

 

 

「フロライア…?」

 これには、殿下とスピネルも衝撃を受けているようだった。

 彼女が人を、しかも殿下を殺すなんて想像できないだろう。私だってあの時まで、そんな事夢にも思わなかった。

「…武芸大会のあれは、やっぱり…」

 スピネルが小さく呟いたのは、大会で彼女との試合中に魔術干渉があった件を思い出したからだろう。

 

「しかしなぜ、彼女が。どうやって気付かれずに毒を盛った?」

「彼女は、殿下の婚約者だったんです」

「何!?」

 二人が驚愕する。

「翌年には式を挙げる事になっていました。それもあって、その年の視察ではモリブデン領を訪れる予定になっていたんです。しかし、モリブデン領に向かう途中に宿泊したバリッシャー領に、彼女は現れました」

 

 

 数人の護衛を伴い、夜になってからバリッシャー領の屋敷にやって来た彼女は、「殿下を驚かせたくて、お迎えに上がりましたわ」と言って笑った。

 私たちは驚いたが、特別不審には思わなかった。バリッシャー伯爵もフロライアが来る事は予め聞いていたらしく、「いたずらが成功しましたな」と言って彼女を歓迎していた。

 バリッシャー家とモリブデン家は比較的仲がいいが、暗殺に加担していたかどうかは分からない。事件後、罪を擦り付けるために利用された可能性もある。

 

 フロライアは殿下や私たちと晩餐を共にした後、モリブデン領特産のワインを持って殿下の部屋を訪ねた。

 婚約者同士の時間を邪魔しようと考える者などいない。私も自分へあてがわれた部屋に行き、翌日の支度をしたり護衛たちと打ち合わせをした後、そのまま休もうとしていた。

 だがふと窓の外を見た時、どこかへと発つ数頭の馬の影が見えた。

 誰が乗っているのかまではわからなかったが、こんな夜中に一体どこへ行こうと言うのか。

 

 何だか妙な胸騒ぎを覚え、少しばかり気が引けたが殿下の部屋のドアを叩いた。しかし、何の返事もない。

 もう休んだのだろうか?だが、眠るには少し早い。フロライアが殿下の部屋を訪ねてからまだそんなに時間が経っていない。

 それに、静か過ぎはしないだろうか。

 私は思い切ってドアを開け、…そして、血を吐いて倒れている殿下の姿を見つけた。

 

 

 

「…彼女がなぜ、殿下を殺したのかは分かりません。誰かの…例えばフェルグソンの指示だった可能性も否定できません。前世での記憶を取り戻してから、私は彼女について密かにずいぶんと調べました。しかし動機らしい動機も、それらしい背後関係も、未だに見つけられていないんです」

「お前が彼女のことを妙に避けてたのは、それか…」

 スピネルは何か思い当たる事があったのか、納得したように言う。

 

「…さ、避けてました?」

「何となくそんな感じには見えた。向こうにそれがバレてたかどうかは知らんが」

「……」

 思わず殿下を見ると、殿下も少しだけうなずいた。

 思っていた以上に色々悟られていた。

 自分では、誰にも悟られないよう行動していたつもりだったので結構ショックだ。

 

 

「でも調べてたって、何をどうやって調べてたんだ?」

「彼女の行動とか噂とか、モリブデン家についてとかについてですね。しかし一人で調べてもあまり成果がなくて、スフェン先輩の手を借りるようになってから、やっと少し情報が集まってくるようになりました」

「スフェンの?」

「あっ、そうです。先輩だけは、私の秘密を知っているんです。たまたま、ちょっとした事でバレてしまって」

 

「たまたまなあ…」

 スピネルがジト目で私を睨む。

「お前の事だから、何かあれこれやらかしてそうな気がするんだよな」

「何もしてませんが」

「嘘だな」

 しれっととぼけてみたが、即座に否定されてしまった。

 

「お前の目的は殿下を助ける事なんだろ?そのために、犯人について調べ回ってたってのは分かる。なるべく殿下の近くにいて守ろうとしてたのもな。でも、絶対それだけじゃないだろ」

「……。まあ、多少は」

「リナーリア…」

 殿下にじっと見つめられ、私は観念した。

 

 

「基本的に大した事はしていないんです、本当に。せいぜい、なるべく交友関係を広げるようにして来たくらいですね。情報を集め、味方を増やしたかったからです。迂闊に動けば敵に悟られてしまうと思い、できるだけ目立たないように生きてきました」

「目立たないように…?どこがだ…?」

 スピネルはともかく殿下までもが疑問の目で私を見た。

 

「そ、そう努力はしてたんですよ!!前世と今世では、起こっている出来事が違います。私とは関係なく、私の知らない事件が勝手に色々起こってるんです」

 何故か妙に事件に巻き込まれたりはしているが、望んで巻き込まれたものはほとんどない。



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第150話 竜人と竜との話・5

「自分から積極的に大きく干渉したのは、ブロシャン領での事件くらいです」

 あの時だけは、歴史の流れが変わるかもしれないと分かっていて動いた。

「水霊祭の時のあれか。お前、付いて来たがってたもんな。干渉したってのは?」

「前世では私は、従者として水霊祭に同行していました。そこで同じように巨亀に遭遇したのですが…ユークはその戦いの中で、命を落としてしまったんです」

 二人が驚きに目を瞠る。

「ユークレースが…?」

 

「…それでブロシャン公爵夫妻はずいぶんと気落ちし、王家とも少々気まずくなりました。更に魔鎌公の死も重なり、厭世的になって、ブロシャン領に籠もりがちになったんです。親しい貴族たちにも距離を置くようになり…」

 そこまで言えば、二人にも事情が察せられたのだろう。スピネルが私の言葉を引き取る。

「国王陛下や殿下は、その支持基盤を弱めることになった。…そういう事か」

「はい」

 首肯した私に、二人が苦い顔になる。ブロシャン公爵は、陛下や殿下の最大の支持者なのだ。

 

「逆に、フェルグソン派の発言力は増しました。もちろん国を乱すほどの力はありませんでしたが、カルセドニー陛下が在位している内に権勢を増しておきたいと考えた者は多かったようで、動きが活発になりました」

カルセドニー陛下は体調に不安があるので、早くに王位を退く予定だった。まだ若く健康なエスメラルド殿下が後を継げば、その在位は長いものとなる。

 そうなる前に、自分たちの権力を強固にしておきたかったのだろう。

 

「国王支持派は団結して対抗していましたが、肝心のブロシャン公爵が政治に興味を示さなくなっていたのは、大きな痛手のようでした。王弟のシャーレン様を取り込もうという動きをする者たちもいたようです」

「ありそうな話だな…」

 二人も貴族間の力関係や事情には詳しい。すぐに想像がついたようだ。

 

 

「ユークを救えば、それらの事態を防げるだろうと思ったんです。…前世では助けられなかった事に、個人的に負い目を感じていたというのもありますが…。彼が命を落とす所を、私も目の前で見ていたので…」

「だからってあんな無茶したのか。…お前、危うく死ぬ所だっただろうが」

 スピネルが私を睨む。彼はあの時、私を庇って重傷を追ったのだから、怒るのは当然だろう。

 

「すみません…。でも、色々と誤算があって。前世ではタルノウィッツの事件なんて起こらなかったので、本当はあの場に王宮魔術師がもう一人いたはずだったんです。何より、あんなに強くなかったんですよ、巨亀。前世では二つしか首がなかったので」

「マジか」

「多頭の魔獣は首が増えるほど強くなるんだったな」

「ええ。三つ首になって攻撃方法も多彩になっていましたし、身体も大きくなってより堅くなっていたように思います。死者が出なくて、本当に良かったです…」

 ユークレースを助けられたとしても、他に犠牲者が出ていたらとても辛かった。皆無事で運が良かったと思う。

 その後ブロシャン魔鎌公は亡くなったが、あれは病死だしな…。

 

 

 

「…しかし君は、他にも何かと危険な目に遭っている気がするが。今回攫われたのもそうだが、何年か前に遺跡で行方不明になった事件だとか…」

 殿下が眉をひそめるが、私はそれに首を振った。

「あの遺跡には私もびっくりしたんです。前世ではあんなもの発見されていませんでした。私は従者なので毎回視察に同行していましたが、ジャローシス領に行ったのは別の年でしたし…」

「…ふうん?」

 スピネルがちょっと首を捻る。

 

「フェルグソンの事もそうで、前世では誘拐されたり、秘宝が盗まれる事はありませんでした。フェルグソンは普通に直轄領の統治を続けていて、オットレも卒業後はその補佐に付いていたはずです。クーデターの計画があったかどうかは分かりませんが…」

 もし知っていたら絶対に阻止していた。

 

 

「…ただ、もしかしたらブロシャン領の巨亀の事件が、今回の秘宝事件の遠因なのかも知れないとは思ってます」

 私は近頃考えていた事を口に出す。

 

「前世では巨亀はあそこまで強くなかったので、多少苦戦はしたもののきっちりと護衛騎士が止めを刺していました。殿下も戦闘に参加していましたが、ユークレースが巻き込まれて死亡していたのもあって、今世のように『殿下が大型魔獣を討伐し大手柄を立てた』と喧伝されたりはしなかったんです」

 自ら剣を取って戦った殿下の勇敢さはもちろん褒め称えられていたが、やはり人死にがあったので、基本的に悲しい事件として扱われていた。

 しかし今世では王子による輝かしい武勇伝として、王都どころか国中に話が広がっているはずだ。

 

 

「その他にも、殿下は討伐訓練で翼蛇の魔獣を仕留めたり、武芸大会で優勝したりと名声を高めていて、貴族からも民衆からもずいぶん支持されていると聞きます。これらは前世ではなかったものです。ブロシャン公爵夫妻もお元気で王家との仲は良好ですし、殿下は前世よりずっと盤石な立場を築けていると思います」

 前世でも優秀な王子として支持はされていたが、今世のように民衆にまで広く活躍が知られたりはしていなかった。

「…それが、フェルグソンを焦らせたのではないかと。ただの推測ですけど…」

 

 

「その推測は合ってるな」

 スピネルが言う。

「フェルグソンから取った自白の調書に目を通したが、どうも奴は殿下がどんどん支持を集め地盤を固めていくのに焦っていたようだ。普通なら学生の間にそんな手柄をいくつも立てる事なんてないから、誤算だったんだろうな。ここから形勢をひっくり返すには、秘宝にでも頼るしかない…そう考えたらしい」

「やっぱり…」

 

 納得していると、殿下が私の方を見た。

「俺がそうして立てた手柄は、皆の力を借りて成し遂げられたものばかりなんだがな。特に、リナーリア…君にはずっと助けられてきた。君のおかげだ」

「そんな事ありません」

 突然感謝され、少しばかり慌てる。

 

「それはもちろん、いつだってお助けしようとはして来ましたが、戦う事を自ら選んで来られたのは殿下ですよ。その強さと勇気は、殿下ご自身のものではないですか。魔獣を倒したのも、武芸大会で優勝したのも、そしてフェルグソンを捕らえたのも。殿下が努力して、己を鍛え上げてきたからこそ出来た事です」

 スピネルもまたうなずく。

「そうだな。殿下がそうやって頑張ってきたのは、大事なものを守りたかったからだろ。それをしっかり行動に移して、結果を出した。それだけの話だ」

 

 

「それに」と私は付け足した。

「スピネルの存在もとても大きいと思います。殿下の事をよく支えていて、殿下にとって必要な方だと私の目から見ても分かります。私も、スピネルにはずいぶん助けられてますしね」

「ああ。とても感謝している。…お前はいつも俺に必要な助言をくれるし、剣術でもそうだ。お前という壁が目の前にあるからこそ、より奮起できている」

 殿下に微笑みかけられ、スピネルが少し照れくさそうな顔になる。

 

「悔しいですけど、スピネルが殿下の従者で良かったと本当に思います。…ブーランジェ家は、うちよりずっと力がありますしね…」

 ブーランジェ家はいかにも武門の家という感じで、昔からあまり権力に興味を持たないものの、発言力と軍事力は大きい。

 人ではなく国に仕えているという態度を基本的に崩さないので、王位争いが起こった時なども中立を保つ事が多いのだが、今代に限ればスピネルが従者をやっている関係でかなり殿下寄りのはずだ。

 

「お前んちだって、お前が思ってるよりは力あるだろ。お前の親父、実は結構人望あるぞ」

「でも、うちみたいな家は争いが起こった時にはあまり役に立たないじゃないですか」

 うちの家は新興だし、しがらみが少ない代わりに他家と太い繋がりを持たない。平和な時ならばそれなりの財力を背景に地位を保つ事ができるだろうが、有事の際には孤立しがちだ。領も遠く、王都で何かあっても大した力にはなれない。

 私が従者に決まった当時は、フェルグソンが再び玉座を狙うなんて誰も思わなかったからそれでも良かったのだろうが…。

 

 すると、殿下が何故か少し悲しそうな顔になった。スピネルもちょっと嫌そうな顔をする。

「…侯爵家のくせに、妙に自分の家の事を低く言う奴だとは思ってたが。判断基準がそこだったからか」

「だ、だって本当の事ですし…」

「確かにそれも間違ってはいないけどな…」

 ため息をつかれてしまった。何か思う所があるが、口に出す気はないという態度だ。

 …私はそんな変な事を言ってるだろうか。

 

 

「…あ!あと、前世から大きく変わってる事が一つあるんです」

 急に思い出し、私は声を上げた。

「なんだ?」

「エンスタットです。彼、ずっとヒョロヒョロで痩せてたはずなのに、今世では何故かマッチョ化してるんですよ!すごい筋肉を付けてるんです!!」

 クラスメイトのエンスタットは武芸大会後も身体を鍛え続けているらしく、日に日に逞しくなっている。もはや筋肉魔術師という新たなジャンルを切り拓けそうだ。

 

 しかし、殿下もスピネルも一瞬でスン…とした。

「…いやそれ、お前が筋肉女神になったせいだろ…」

「そうだな…そのせいだな…」

「!?で、殿下まで!」

「すまないが、どうでもいい情報過ぎる…」

 

「……。それもそうですね」

 何か関係あるとも思えない。物凄くどうでも良かった。



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第151話 私の主

 長く話をして疲れたし、頭の整理をするためにもこの辺りで一旦休憩を入れる事になった。

 スピネルは「ちょっと外の空気吸ってくる」と言って席を立ったので、部屋にいるのは私と殿下だけだ。

 

「……」

 沈黙が流れる。

 殿下は無口な方なので、二人でいる時このようにお互い無言でいるのは割とよくある事だ。いつもなら特に気にしないのだが、今日に限っては妙に気まずい。

 一気に色々話したが、殿下はどう思っているんだろう。さっきはだいぶ怒っていたしなあ…。

 

 

「リナーリア」

「は、はい!」

 不意に話しかけられ、慌てて顔を上げた。

「君の、以前の名前は」

「はい?」

「前は男だったんだろう。なら、名前が違ったんじゃないのか」

「ああ…、はい。違いました。リナライトです。リナライト・ジャローシス」

 

「リナライト…」

 …殿下にその名前を呼ばれるのは、本当に久しぶりだ。

 もう二度と呼ばれる事はないかと思っていたのに。

 涙が出そうなほど懐かしくて、だけど、何だか不思議な気分だった。

 

 

「君はずっと、俺の知らない所でも俺を守ろうとしていたんだな」

 静かにそう言われ、私はつい下を向く。

「…申し訳ありません」

「どうして謝るんだ」

「殿下の許可もなく、勝手に…」

「別に構わない…とは言えないな。だが、責める事もできない。君には助けられてきた」

 ひどく複雑そうに、殿下が小さくため息をつく。

 

「しかし、どうしてそうも俺に尽くそうとしてくれるんだ?…君が俺の死について悔やみ、やり直したいと願った気持ちは分かる。親しい人間を喪った時、取り戻せるものなら取り戻したいと願うのは誰もが同じだろう。だが、己を犠牲にしてまで何故願ったんだ。…罪悪感か?それとも、従者だったという責任感からか?」

「いいえ」

 私は首を振った。罪悪感は確かにあったが、私が願った理由はそれではない。

 

 

「…殿下に生涯お仕えして、殿下と共にこの国のために働き、より良い国を作るのが私の夢でした。殿下なら必ず良き王となられる。私もまた、殿下を支えるために力を尽くせる。国へ、民へ貢献できるような人生を歩めるのだと、そう信じていました。殿下の従者である事は、私の誇りでした…」

 

 良き主を得られた事が幸せだった。その隣に立てる事が嬉しかった。その立場にふさわしい自分になるために努力する事は、何一つ苦ではなかった。

「殿下は私の夢であり、希望そのものでした。だから、どうしても取り返したかった。今度こそちゃんと守って、…夢を、託したいと…」

 思わず声を詰まらせる。

 

 

「…すみません。分かっているんです。今の私はもう従者ではないし、殿下の臣でもない。こんなのは、私の勝手な願望に過ぎません」

 殿下さえ無事でいてくれれば、たとえ私がそこにいなくても、私の夢はきっと叶う。殿下が作る未来を夢見て、わずかでもそこに貢献できたと信じて去る事ができる。

 …だがそんなものは、自己満足にすぎない。私はただ、自分の夢を殿下に押し付けているだけだ。

 

 今までずっと前世の事を話せずにいたのだって、本当はただ怖かったからだ。

 お前の夢など知らない、そんな期待をかけられても困ると、そう突き放される事が。

 殿下はお優しい方だからそんな事言わないかもしれない、でもきっと困惑する。ただの貴族令嬢がどうしてそんな望みを持つのか、もっと分を弁え、相応の夢を持てばいいではないかと思われたら。

 

 頭の中で、もう一人の私が囁く。

 …一度失敗したくせに、また同じ夢を見る資格などお前にあるのか、と。

 

 

 

 殿下はしばらく沈黙していたが、やがて私を見て言った。

「…俺は、君が知る前世の俺とは違うんだろうか」

「え?そ、そうですね…」

 急に尋ねられ、私は少し考え込む。

 

「所々違います。今の殿下の方が少し明るいと言うか、表情豊かです」

「表情豊か」

 殿下が何だかちょっと変な顔をしたのは、そんな事を人に言われたのは初めてだからだろう。無口で無表情というのが多くの人から見た殿下の印象だ。

 だが普通の人に比べるとささやかで分かりにくいだけで、私にはその表情の変化がちゃんと分かる。わずかに唇を曲げて眉毛を下げた、今のその顔こそが表情豊かな何よりの証拠だ。

 

「きっとスピネルの影響なんでしょうね。前世の殿下はもっと落ち着いた感じでした。あ、スピネルの影響と言えば、剣の腕前もです。同じ17歳の時で比べたら、きっと今の殿下の方がお強いです」

「そうなのか」

「はい。あ…でも、魔術は前世の殿下の方がお上手でした。訓練では私がお相手を務めておりましたので!」

「む…」

 殿下と私は、幼い頃は同じ魔術師から魔術を習っていた。10歳くらいからはより専門的に習うため、私だけセナルモント先生の弟子になったのだが、殿下の魔術訓練にもたいてい随伴していた。

 殿下は大変な負けず嫌いのため、一緒に習う者がいた方が良いとの判断だったようだ。

 

「あと、今世の方がお友達が多くていらっしゃいます。でも、女性からは前世の方がモテてましたね…あっ、いえ、今世でもモテていらっしゃいますが!」

「いや、別にそんなフォローはしなくていい。特に気にしていない」

「そ、そうですか?」

 つい顔色を窺うが、本当に気にしていないようだ。何かちょっと複雑だな…。

 

 

「あとは…そうですね、ちょっとだけ成績が落ちてるとか…ピーマン嫌いを克服できていないとか…犬派だったのに猫派になっているとか」

 好みだとか癖だとか、結構細かい違いがあるんだよな。取り立てて言うほどのものでは無いんだが。

 それを聞いた殿下が少しだけ眉を寄せる。

「どうかなさいましたか?」

「……。カエルは?」

「あっ、そこは同じです。殿下は前世でもカエル好きでしたよ。いつも、あの裏庭の池でカエルを見ていました」

 池の畔にしゃがみ込み、熱心にカエルを目で追う姿は、前世でも今世でも全く変わらない。

 

 それを聞き、殿下はどこか安心した顔になったが、私は少し申し訳なくなる。

「今世では、殿下と仲良くなるためにカエルを利用してしまいました…すみません」

 ちょっぴりズルをしてしまった。あのきっかけがなければ、私は殿下と友人にはなれなかったかも知れない。

「でも、前世の私が従者に選ばれたのも、カエルがきっかけだったんですよ。それは本当に偶然で」

 言い訳がましいかなと思いつつ言うと、殿下は少し首を傾げた。

「どういう事だ?」

 

 

「従者を選ぶ時、書類審査の後にお城で面接をするでしょう。殿下も同席して」

「ああ…、そうだな。確かやっていたと思う」

 まだ幼い頃の事なのでうろ覚えらしい。でも私は、生まれ変わった今でもよく覚えている。

「私もその面接に行ったんですが、途中で休憩になった時、一旦外に出たんです。私はお城の庭が珍しくて、つい裏庭の方にまで行ってしまって…。そこで、初めて殿下に出会ったんです」

 

 とても懐かしい思い出だ。辺りに気を取られているうちに、つい奥の方まで入り込んでしまった。

「私はうっかりカエルを踏みつけそうになり、それを殿下に注意されました。私はちょっとびっくりしたんですが、カエルを殺さなくて済んだことに安心して、殿下にお礼を言いました。その時は殿下が王子だとは分からなくて、てっきり私と同じように面接に来た子供だと思ったんです」

「…ふむ」

 

「それで、池にいたカエルはクロツメアマガエルだと教えてもらいました。私は家に帰ったらその名前を図鑑で調べてみると約束し、そこで別れました」

「クロツメアマガエルは、あの池によくいるカエルだな」

「はい。…その後面接に行ったら殿下が座っていて、第一王子だと紹介されたので本当にびっくりしましたね」

 驚きで固まっている私を、大人たちは緊張しているのだと思ったらしい。幼い殿下は無言で、私の顔をじっと見ていた。

 私はアワアワしながら、しどろもどろで面接を終えた。

 

 

「では、君を従者に選んだのは…」

「ええ。殿下です」

 私は微笑んだ。そこはちゃんと、胸を張って言える。

「大人たちは他の子供…多分スピネルとかですね。そちらを推薦したけれど、殿下は頑なに私が良いと主張したと、後から聞きました」

 その話を教えてくれたのは殿下の教育係だったな。

 教育係は頑固で融通の利かない人だったが、私の事は割と認めてくれていたらしい。「殿下はやはり見る目があります」と言っていた。

 

「池での短いやり取りで、どうしてそんなに気に入っていただけたのか分かりませんが。私を従者に指名したのは、殿下でした」

「…そうか。なるほどな」

 殿下は何か納得したかのように深くうなずくと、少し嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

「もう一つ聞かせてくれ。前世の俺…君の主は、君にとってどんな男だった」

「それはもちろん、とても素晴らしい方でした!!」

 私はグッと拳を握りしめて答えた。

「いつもお優しくて、寛大で、聡明で、曲がった事が嫌いで、とても強くて…」

 瞼を閉じれば、はっきりと思い出せる。ささやかだが優しい笑み、真っ直ぐに伸びた背筋、大きな背中。

 私の大切な主。

 

「…私はあんまり出来の良い従者ではありませんでした。失敗したり、殿下にご心配やご迷惑をかける事も多くて」

 頑張って努力はしていたが、それが上手くいくとは限らなかった。むしろ上手くいかない事の方が多かった。その度に落ち込んだし、とても辛かった。「無理をしすぎだ」と注意される事もよくあった。

「でも、殿下はいつも私を労り、励まして下さいました。…私を、信じて下さっていたんです…」

 …私は、その期待に応えられなかったけれど。

 

 

 

 殿下は少しの間じっと何かを考えた後、「よく分かった」と呟いた。

 そして、私の目を正面から見る。

「リナーリア」

「は、はい」

「俺は、君の主ではない。同一人物でも、決して同じではない」

「……。はい」

 私は唇を噛み締めた。

 

 記憶が違う。経験した出来事が違う。人間関係も、考えている事もきっと違う。

 …殿下は、私の主だった殿下ではない。

 同じ顔、同じ名前、同じ魂だとしても、別の存在なのだ。

 分かっていたが、認めたくなかった。

 

「だが、一つ言える事がある」

 そう言われ、私は再び顔を上げた。翠の瞳が私を見ている。

 

 

「…前世の俺は、『リナライト』を従者に選んだ事を決して後悔などしなかったはずだ。最期の、その瞬間まで」

 

 

「……」

 私は目を見開いて、殿下の顔を見つめ返した。

 前世とよく似ていて、少し違っていて、でもやっぱりよく似たその微笑み。

 二つの笑顔が、私の中で重なる。

 

 …ああ、そうだ。今でもはっきりと目に焼き付いている。

 最期のあの瞬間、必死で縋り付いた殿下は、まるで私を安心させるかのようにかすかに微笑んだのだ。

 

 

 私はとても許されない失敗をした。間違いを犯した。大切なものを失った。

 だが、それでも。あの時の殿下が、私が従者として隣にいた日々に思うのは、決して後悔などではなかっただろうと。

 …殿下は、そう言ってくれるのだ。

 

 

「…殿下は、私の主は。許してくれると思いますか。私の事を」

「ああ。必ず、許すだろう」

 

「……っ」

 両目からぼろぼろと涙が零れ落ちる。

 とても堪えることはできず、私は嗚咽を漏らした。



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第152話 竜人と竜との話・6

「ほら、これで目元冷やしとけよ」

「うぅ…す、すびばせん…」

 スピネルが差し出した濡れタオルを受け取り、目元に当てる。

 

 スミソニアンの事をどうこう言えないくらいに号泣してしまった。こんなに泣いたのは10歳の時以来だ。

 殿下は最初は優しく見守ってくれていたと思うが、私があまりに泣くからか途中からずいぶんオロオロしていた。

 そのうちにスピネルが戻ってきて、多分かなりぎょっとしたんだと思う。何やら慌ててバタバタと走って、タオルを持ってきてくれた。

 私も必死で涙を止めようとしたのだがどうしても無理で、結構な時間泣いてしまった。

 いい年をして何て事だ。恥ずかしいなんてもんじゃない。

 

 

「殿下がこいつと話したそうだったから外に出てたが…。一体何の話をしたらこうなるんだよ」

「…まあ、ちょっとな」

「ふうん」

 スピネルは適当な相槌を打った。一応尋ねただけで大して追及する気はないらしい。

「だが、越えるべき相手が一人増えた」

「へえ?」

 殿下が付け足すと、スピネルは今度は妙に楽しそうな声を出した。

 目にタオルを当てているので見えないが、絶対ニヤついている。何が面白いんだよこいつ。

 

「しかし、何かもうグダグダだな。今日はいっぺん帰って仕切り直した方が良いんじゃないのか」

「だ、だめれす!」

 私はタオルを取って叫んだ。

「まだ、スピネルの話、聞いてないじゃないれすか!」

 本当にグダグダだが、こんな所で帰れるものか。訊きたい事が色々あるのだ。

「分かった、分かったから、お前はもうちょっと休憩しとけ。つか、鼻かめよ。鼻水垂れそうになってんぞ」

「ふぐぅ…」

 

 

 

 それからしばらく後、メイドを呼んで新たにお茶を淹れてもらい、タオルも片付けてもらって、ようやく話を再開する事になった。

 ちょっと目が腫れぼったいが、もう涙も鼻水も止まった。表情を引き締め、スピネルの方を睨む。

「ちゃんと聞かせてもらいますよ。…スピネルは竜人について妙に詳しい素振りでしたが、何故ですか。何を知っているんですか?」

 

『…それには、私が答えよう』

 

「ひゃあ!!?」

 スピネルの隣に忽然と姿を現した男に、私は悲鳴を上げた。

「だ、誰…いえ、あの時の人!?」

 確かに見覚えがある。黒髪に赤い瞳の、背の高い男。

 オレラシア城の塔の中で、オットレの首を絞めた直後にいて、そのまま消えた男だ。

 

「人…?人なのか?」

 同じく驚愕している殿下が、訝しむように男の方を見る。

「え?男の人ですよね?」

 いきなり現れはしたが、外見は普通の人間だ。20代後半くらいだろうか、彫りの深い顔立ちがライオスに少し似ている。

「男?俺にはぼんやりした光にしか見えないが。人型はしているが…」

「えっ?」

 

 

「やっぱり、お前にはちゃんと見えるんだな」

 スピネルがちらりと男の方を見た。

「幽霊みたいなもんだ。力が強い奴にはぼんやりした人影に見えるが、見えない奴には全く見えないらしい。お前みたいにはっきり姿が見えるのは、力が強くて相性も良い奴だけなんだそうだ」

「相性というと、魔力相性ですか」

「似たようなもんだ」

 幽霊…。どう見ても人間だが、言われてみると何となく生気を感じない。

 

「…あの時、私を止めたのは貴方ですか?」

 試しに尋ねてみる。

 無意識にオットレの首を絞めていた時、誰かの制止する声が聴こえた。あれはもしやと思ったのだが、案の定男は私を見てうなずいた。

『声が届いて良かった』

 

「…それは、ありがとうございます…」

 あの声がなければ、私はあのままオットレを殺していたかもしれない。

 男が何だか困った顔をしたのは、私の表情がとても感謝しているようには見えなかったからだろう。

 だが許して欲しい。あそこで殺さなくて良かったと理屈の上では分かっていても、どうしても感情がついて行かない。

 

 

「もしかして、ライオスが亡霊って言っていたのは貴方の事ですか。スピネルに取り憑いてるんですか?」

『概ね、そう理解してくれて構わない』

 私の質問に男が再びうなずいて答え、殿下が不思議そうに首を傾げる。

「声はちゃんと聴こえるな。確かに男の声だ」

「そりゃ助かる。いちいち通訳しなくて済む」

 スピネルが肩をすくめ、男が殿下の方を見た。

『声が聴き取れるのは、その首から下げている護符の影響だろう』

「…何?」

 恐らく服の下に着けているのだろう、殿下が自分の胸元へと手をやる。

 

『それには私の鱗が使われている』

「え!?」

「鱗…?」

 殿下の護符に使われている鱗と言えば、あれしかない。私がかつて迷い込んだ遺跡で手に入れたもの。

 

 

「…じゃあ貴方は、古の竜…『流星(ミーティオ)』なんですか?」

『ああ。そうだ』

 

 

「……」

 私は呆然とミーティオを名乗る男の顔を見つめた。

 …竜人の次は竜が出てきてしまった。

 ものすごく驚きなのだが、竜人のように角や翼があるわけでもなく人間の男にしか見えないので、何だかピンと来ない。伝承だと老若男女さまざまな姿に化けて人々の中に交じっていたというから、そっちの姿という事か。

 思わずスピネルの方を見るが、当たり前のように平然とした顔をしている。

 

「…ミーティオ。はるか昔に火竜山にいたという竜か?その幽霊だと?」

 殿下の問いに、ミーティオが答える。

『正確には幽霊ではない。私の身体はまだ、あの地の底で眠っている』

「そ、そうだ。不思議だったんです。あの遺跡では竜の身体について研究していたようなのに、肝心の竜の死体…その本体が見当たらなかった」

 私が入った倉庫の中にあったのは、鱗だとか骨だとか、身体のごく一部分の標本だけだった。竜はかなり大きいはずなので、おかしいとは思っていたのだ。

 眠っているという事は、今眼の前にいるのは生霊のようなものか。

 

 

「私、あの場所から竜の鱗の欠片らしきものを持ち帰っていたんです。それがとても私の魔力と相性が良かったので、素材に使って自分用の護符を作成したんですが、その時に出来た粉末を殿下の護符にも塗り込んであります」

 胸元の流星の護符を握りしめる。

 

「すみません、殿下の護符にそんな細工を…あまりに魔力を込めやすかったので…」

「…いや、別に…良いが…」

 殿下はとても微妙な顔で私とミーティオを交互に見た。

 本当はあんまり良くないけど、何とか飲み込んでくれてる感じだ。目の前にその鱗の持ち主がいると思うとちょっと不気味なんだろう。申し訳ない。

 

『君がその鱗を持っていれば、私は君の危機を知る事ができる。だから君がそれを身に着けるよう、彼に頼んで誘導してもらった』

 ミーティオがスピネルの事を横目で見る。

「そう言えば、護符を作れと勧めたのはスピネルでしたね。あっ、じゃあ、攫われた時にスピネルが助けに来たのは…」

「このおっさんが俺に知らせたからだ。お前が危ないって」

 道理でやけにタイミング良く助けに来た訳だ。宝物庫はあの広い城の中でも一番奥の方にあるのに。

 

 

 それを聞いて、殿下が何だか難しい顔になる。

「…話を聞く限り、お前はリナーリアの事を守りたがっているようだが。何故だ?」

 すると、ミーティオはどこか悲しげな顔で私の方をじっと見た。

 ほんの少しためらうようにして口を開く。

『…彼女、リナーリアは恐らく私の子孫だ』

 

「ご、ご先祖様…?竜が?」

 そんな話は初耳だ。我が家はただの魔術師の家系のはずで、竜がどうこうなんて聞いたことがない。

『私が人と共に在ったのは遥か遠い昔の事だ。話が伝わっていなくても無理はない』

「あ、そうでした」

 ミーティオという竜がいたのは1万年以上も前だったと言われている。伝わっている方がおかしい。

 

『私の血が混じっている人間はこの島に少なからずいるだろうが、それは長い年月を経てとうに薄まっている。とても感じ取れるようなものではない。…だが君や君の母は、不思議と血が濃いんだ。近くにいると、その気配が分かる』

 という事は母方の血なのか。そう言えばライオスは私に対し、自分に似た気配がすると言っていたが…。

「お母様を知っているんですか?」

『ああ。彼女があの地に嫁いできてから、子を…君の兄を、産み育てるのを見ていた』

 ミーティオの目には、喜びとも悲しみともつかない複雑な感情が浮かんでいる。

 

「…ええと。では貴方の目的は、自分の子孫を守る事…ですか?だから私を助けてくれたと?」

『それも目的の一つだ。できる限り守りたいと思っている。だが、真の目的はそれではない』

 ミーティオは厳しい表情で、その赤い瞳を光らせた。

 

『私の力が込められた宝玉と、天秤。その二つを取り戻す事だ』

 

 

 

「…天、秤」

 思わず声が震えた。顔から血の気が引くのが分かる。

 

「どうした、リナーリア」

「て、天秤という言葉を前世で聞きました。あの時。逃げたフロライアから…」

『詳しく聞かせてくれないか』

 勢い込んで尋ねられ、私はあの時の事を思い出す。

「森の中で彼女に追いついた私は、問いかけました。何故、殿下を殺したのかと」

 

 彼女は最初、わざとらしくはぐらかした。今思えば、仲間たちが私を囲む時間を稼いでいたのだろう。

「彼女は答えました。殿下は『天秤を傾ける者』だからだ…と。その直後に私は斬りかかられ、戦闘になって、問答どころではなくなりました」

 

「俺が…?何の事だか全く分からないが…」

 殿下もやはり、天秤には心当たりがないようだ。まあそうだよな。殿下の周囲にそんな物があったなら、従者の私だって知っているはずだし。

 私はミーティオへと問いかける。

「この言葉の意味を、貴方は知っているんですか?天秤とは何ですか?」

 

 

『…言葉の意味については、よく分からない。天秤は人間が一人の力で傾けられるようなものではないんだ』

 彼は首を横に振った。

『天秤と宝玉は、ある人間の願いを叶えるため、私の力のほとんどを注ぎ込んで作ったものだ。…宝玉の方は、今はライオスが持っている。あの城で見たから間違いない』

 ライオスが首から下げていた、あの赤い宝玉の事か。

 

『天秤の方は、そのフロライアという女の元にあると考えるべきだろう。その言葉を聞く限り、正しい使い方を理解しているとは思えないが…』

 物憂げに呟き、ミーティオは再び私を見る。

『この2つについて始めから話すと、ずいぶん長い話になる。…だが、君には聞く権利がある』

 

 そして、竜であるという男は語り始めた。



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第153話 流星の竜と銀の髪の娘(前)

 昔、このヘリオドール王国があるベリル島には2柱の神がいた。

 島の守護神である水霊神と、島の周辺の海を守る海の女神である。

 この2柱の神は夫婦だったが、奔放な神に対して女神は嫉妬深くわがままだった。

 神は島に住む人間たちを愛していたが、女神は人間たちが神の寵愛を受ける事が面白くなかった。

 ある時大きな喧嘩をし、腹を立てた女神は海底深くへと潜ってしまった。

 

 神は女神を迎えに行こうかと思ったが、その前に少しだけ羽根を伸ばしたいと考えた。

 女神がいない今こそがチャンスだ。神は、人に化けて人里へ下りた。

 そして、そこで一人の女と恋に落ちてしまった。

 

 

 いつまで経っても神が迎えに来ない事を不審に思った女神は、島へ様子を見に行った。

 だがなんと、神はそこで人として振る舞い、人の女との間に子供をもうけていたのだ。

 

 女神は激怒した。

 策を弄して神を女から遠ざけると、その隙に殺し、女の魂を遠く島の外へと追放してしまった。

 

 妻である人間の女を殺されたと知った神もまた、激怒した。

 2柱の神は怒りをぶつけ合い、激しく戦いを始めた。

 戦いは7日7晩続き、8日目の朝にようやく神は女神を倒した。

 しかし、その際に女神の憎しみと怨念が島の周囲の海へと撒き散らされてしまった。

 

 

 

 戦いの後、神は女の魂を探しに行きたいと考えた。

 島には女との間に生まれた子がいる。神は子に尋ねた。

「共に、お前の母を探しに行くか?」

 しかし、神の血を引きながらも人の血が色濃いその子は答えた。

「この島には、たくさんの友や仲間、愛する人がおります。私は、人と共にここに残りたい」

 

 

 女神の呪いにより、島の周辺の海からは人を襲っては殺す魔獣が無限に湧き出すようになっている。

 魔獣は島に住む人間の生命力を糧として発生するものだった。人の数が増え、豊かになるほど、魔獣もまたその数を増やす。

 だが子孫を増やし、豊かさを求めるのは人の本能だ。神が何もしなくとも、人は自らそういう道を選び歩んでゆく。

 神が島を離れその守護がなくなってしまえば、人はいずれ、増えゆく魔獣によって滅ぼされてしまうだろう。

 

 そこで神は、自分の代わりとなる守護者を創り出した。

 流星(ミーティオ)という名の、強く大きな竜だ。

 神はミーティオによく言い聞かせた。

「島の外は呪いが溢れ、危険が広がっている。決して人を外に出してはいけない。人を守り、人の願いを叶えよ。それがお前の使命だ」

 そして神は島に祝福をかけ、水に自らの加護を残すと、島の外へと旅立って行った。

 

 

 

 初めのうち、ミーティオは巣である火山の中に在り、神に与えられた使命をただ真面目に果たしていた。

 魔獣から島を守り、人々を見守る。

 人は愚かで、しかし賢かった。邪悪さもあったが、その本性は善良なものであるとミーティオは感じていた。

 特に神の血を引く者たちは賢く、魔力が強く、他の力なき人間たちをよく守り導いていた。

 そういう者の中には、稀に普通の人間とは違う特殊な能力を発揮し、人々のために尽くす者もいた。

 

 

 そのうち、ミーティオは人に化けては人里に降り、人と交わる事を覚えた。遠くから眺めているだけでは退屈だったからだ。

 さらにミーティオは人に勝負を持ちかけ、人の力を試し始めた。

 勝負はどんなものでもいい。剣士との勝負ならば、剣技で競う。老人との勝負ならば、その知識を競う。子供が相手なら、かけっこやかくれんぼだ。

 

 ちゃんと、相手に合わせた姿に化けて勝負をする。

 自分に勝つ事ができれば、その人間の願いを叶える。

 それがミーティオの定めたルールだ。

 人の願いを叶える事は、神から与えられた使命でもあるから丁度いい。

 何より、願いを叶えた人間は皆、とても喜んだ。中には不幸になってしまう者もいたが、幸せを掴む者も多かった。

 使命は、ミーティオにとって楽しいものになった。

 

 人は弱かったが、時に思いがけない強さを見せたりもした。

 真剣勝負と、それを通して交わす会話。そこから垣間見える人生。

 対立、絆、友情、愛、死。

 さまざまな人々との出会いと別れは、神に作られたゆえに親も兄弟も持たないミーティオに、多くの感慨をもたらした。

 

 

 

 そうして長い年月が過ぎたある日、ミーティオはとある町のチェスの大会に出る事にした。

 100年以上も前に、ミーティオが勝負をしたチェスの名人がいた町だ。その名人はミーティオに勝った時、こう願った。

「儂はもう老いた。後は衰え、死にゆくばかりだ。今更叶えたい夢などない。だが願わくば、この町に生まれる若者に、チェスの面白さと夢とを教えてやってくれ」

 

 ミーティオは大会で勝ち上がり、優勝した。

 町の者たちはなかなかに手強かったが、名人ほどの腕を持つ者はいなかった。

 優勝トロフィーを手渡してくれたのは、銀の髪をした若く美しい娘だった。娘はトロフィーを受け取ったミーティオを見て不敵に笑った。

「貴方は、私が見てきた中で一番強いわ。私と勝負をしてくれない?エキシビションマッチよ」

 

 

 娘はセレナと名乗った。この町の長の娘であるらしい。

 何でも、彼女のチェスの腕前はこの町で並ぶ者がいない程なのだという。昨年も一昨年も優勝して、それで今年は出場を辞退したらしい。

 ミーティオはその勝負を受けた。そして、とても感心した。

 名人が試行と思考を重ねて辿り着いた戦い方に、彼女の打ち筋はよく似ていた。それでいて、どこか独創的だった。

 尋ねた所、名人が著した本を読み一人で研究したのだという。

 

 勝負にはミーティオが勝った。

 セレナはその感情を隠すこともなく悔しがり、ミーティオとの再戦を求めた。

 ミーティオはそれに了承した。彼女に興味を覚えていたからだ。

 

 

 

 ミーティオはその町に留まり、週に2、3度ほど彼女と対戦した。そして、チェスをしながら色々な話をした。

 彼女は人並み外れて賢く、そして知識に貪欲だった。あらゆる書物を求め、さまざまな分野にその知見を広げていた。

 特に今、彼女が最も興味があるのは、海から現れ島に棲み着く魔獣についてらしい。

 

「魔獣は海から現れ、人を殺す。とりわけ、海に近付く人間を執拗に攻撃する。どうしてなのかしら?それが当たり前だと皆は思っているけど、私はとても不思議」

 彼女は駒を動かしながらそう言った。

「…昔、風の魔術を使った魔導具で、空を飛ぼうと考えた魔術師がいたそうよ。だけど空を飛び始めた途端に鳥の魔獣が集まってきて、その魔術師は地面に落とされてしまった」

 銀の髪をかき上げ、彼女はため息をつく。

 

「その後何度試しても、やはり同じ結果だったそうよ。そのうち、魔術師は空を飛ぶ事を諦めてしまった。でも、鳥の魔獣ってとても珍しいでしょ。めったに見かけるものじゃない。どうして魔術師が飛び始めた途端に、そんな珍しい魔獣が集まってくるのかしら?…まるで、人が空を飛ぶ事を誰かが禁じているみたいだわ」

 

「……」

 ミーティオは静かに駒を動かす。

 その答えを、ミーティオは知っている。女神の呪いのためだ。

 女神はこの島に住むあらゆる人間を憎んでいる。決してこの島から逃しはしない。だから、海に出る者も空を飛ぶ者も許さないのだ。

 

 

「…私はね、ミーティオ。この島の外に出てみたい」

 そう言って、彼女は窓の外を見つめた。

 

 

 神の守護が及ばない島の外へ、人間を出すことは禁じられている。

 そしてミーティオ自身もまた、島の外へは出られなかった。

 以前試してみた事があるが、まるで見えない鎖に繋がれているかのように、島から離れる事ができなかったのだ。

 どうやら、神が与えた「この島の守護者」という使命に反するような行動はできないらしい。

 

 

 ミーティオはセレナに尋ねた。

「なぜ、島の外に出たがる。海には恐ろしい魔獣がたくさんいるし、その海を越えた所で何があるのかも分からない。何のために、そんな無謀な挑戦を望むんだ?」

「だってね、ミーティオ。ツバメは春になるとこの島にやってきて、秋にはまた南へと去っていくのよ。島の外には、ツバメが住める大地が必ずある証拠じゃない。私は、そこを見てみたい」

 

「…鳥が住めても、人にとっては危険な場所かもしれない。その大地だって、この島と同じように魔獣が現れ、人を襲うかもしれないじゃないか」

 それは半分嘘だと知りつつ、ミーティオは言った。

 人を魔獣が襲う呪いはこの島のものだ。外の大地がどんな場所なのかはミーティオも知らない。

 

「でも、危険を恐れていては永遠に前に進む事はできないわ。そうでない可能性があるのなら試してみるべきよ。…ミーティオ、人間はね、前に進みたがる生き物なのよ。時には後ろに下がったり、道を間違えたりもするけれどね。今の私みたいに」

 彼女はそう言って、小さく肩をすくめて駒を倒した。投了らしい。

 チェスは今日も、ミーティオの勝ちだ。



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第154話 流星の竜と銀の髪の娘(後)

「…それにね、安全なこの島に居続けたって、いずれは限界が来るわ」

 駒とチェス盤を片付けながら、セレナは呟いた。

「限界?なぜだ。この島には神の加護がある。水は人を守り、大地の実りは暮らしを支えてくれているだろう」

 それに、自分という守護者もいる。全ての魔獣の侵入を防ぐ事はできないが、多くは自分が抑えている。

 

「だって、この島の大地には限りがある。このまま人が増え続ければ、いずれ食べるに足りるだけの畑を作る場所がなくなってしまうわ。鳥や獣は海からも食べ物を取れるけれど、私たち人間は呪われた海から恵みを得る事はできない。かと言って、迂闊に山や森を切り拓けば、周りの土地から水霊神の加護が衰えてしまって危険だし…。大地の実りだけで暮らし続けるには、この島はきっと狭すぎるわ」

 

 

 それはミーティオが考えてもみなかった事だった。

 竜の姿となったミーティオの翼を持ってしても、この島を一日で回る事などできない。そのくらいには島は広いからだ。

 だが人間は既に、この島のあちこちに住処を広げ数を増やしている。全く手が付いていない場所は、山奥にあったり荒れ地だったり、暮らしにくそうな場所ばかりだ。

 

「いつかは食べ物が足りなくなり、飢えた人間同士が争う時が来る。そうでなくても、病害や日照りで不作の年があるというのに…。いくら神の加護があっても、真冬に麦を実らせたり、牛や鶏が産む仔の数を増やしたりはできないわ。だから、新しい土地が必要なの」

「…魔獣について調べているのは、そのためだったのか」

「ええ。何とか魔獣に襲われずに島を出る手段が見つからないかと思って。今の所全く成果はないけど」

 

 

 …彼女の言う「いつか」は、意外に近いのかもしれない。

 人は急速に繁栄している。

 時折疫病が流行ったり飢饉が起こるために数が減るが、それがなければ今頃、人の数は倍ほどにも増えていただろう。魔獣は激しく活発化し、自分は抑えるのに苦労していたはずだ。

 そして人は知恵を絞っては次第に病を克服し、豊かになる方法を編み出していく。

 

 人の進化は速い。いつか、この島では支えきれないほどに増えてしまう。

 その時、自分は一体どうしたら良いのか。そう考え、ミーティオは愕然とした。

 主である神ならば何とかできるのかも知れないが、千年以上経った今でも神が帰って来る気配は全くないのだ。

 

 

「…ずいぶん深刻な顔ね、ミーティオ。未来が怖くなった?」

 考えるミーティオの顔を覗き込むと、セレナはいたずらっぽく笑った。

「でもね、私が島の外に出てみたいと思ったのは、そんな大した理由じゃないの。今はこの島の人のために新しい土地を見つけたいっていうのが一番の理由になってるけど、きっかけはそれじゃない」

 

 彼女は窓際へと歩み寄ると、大きく窓を開け放った。

「私は外の世界が見てみたい。ここではないどこかにある、こことは違う大地を踏みしめ、そこに広がる景色を見てみたい。…その最初の一人になれたら、とても素敵だと思わない?」

 吹き込む風に銀の髪を揺らした彼女は、とても美しかった。

 

 

 

 

 ミーティオは少しずつ、チェス以外の時間でもセレナと過ごすようになった。

 彼女の聡明で機知に富んだ会話の数々は、強くミーティオを惹きつけた。

 彼女も、朴訥でありながら時に老人のような深い思慮を持つミーティオに、強く興味を持っていた。

 二人が愛し合うようになるまで、そう長い時間はかからなかった。

 

 

 …そして、ある日。

 ついにセレナは、ミーティオにチェスで勝利した。

 

 

「…流星(ミーティオ)見つけた(トゥーヴェ)

 長い逡巡の後、彼女は呟いた。

 それは竜の正体を暴く言葉。竜に願いを叶えてもらうための合言葉だ。誰が言い出したのかは分からない。だが、この島の民は皆知っている。

 

「君の願いは何だ。セレナ」

 彼女がミーティオの正体に気付いているだろう事は、ずいぶん前から分かっていた。

 気付いた上で合言葉を言ったのは、つまり彼女には叶えて欲しい願いがあるからだ。

 それによって、今の関係が終わってしまうとしても。

 

 

「…私は、この島の外に出たい。知らない世界を見て、新しい土地を見つけたいわ」

「それを叶えれば、君はもう二度とこの島に戻って来られないかもしれない。…それでも、行きたいと望むかい?」

「ええ。それでも行きたい」

 その迷いのない瞳に、ミーティオは微笑んだ。彼女のこういう強さ、潔さが好きだった。

 何よりミーティオには、島の外に憧れるセレナの気持ちがよく分かった。ミーティオ自身、島の外を見てみたいとずっと思っていたのだ。

 

「承知した。…君の願いを、叶えよう」

 

 

 

 それはミーティオにとっても、決して軽い決断ではなかった。彼女の願いは、神が定めたルールに逆らうものだったからだ。

 その願いを叶えれば、きっと自分はただでは済むまい。力と魂は大きく削られ、島の守護者ではいられなくなるだろう。魔獣から人を守る事も難しくなる。

 しかし彼女が語った「いずれは人が増えすぎて食べ物が足りなくなる」という話は最もだった。

 この島の未来を救うために、彼女の願いは必ず叶えなければいけない。

 

 ミーティオはしばらく考えた末に、赤い宝玉と黄金色の天秤を作り出した。

 さらにとても大きく丈夫な船を作ると、南の浜辺の地中深くにそれを隠した。

 

 

 

 ミーティオはセレナに会いに行くと、まずこの島で魔獣が増える原因について説明した。

 海に近付く人間や、空を飛ぼうとする人間が攻撃される理由も。

 水霊神の伝説は部分的にではあるが人の間に伝わっている。セレナもすぐに理解できたようだった。

 

 それからミーティオは、天秤と宝玉を取り出して言った。

「南の浜に、大船を隠してある。この天秤と宝玉の両方を持って浜に近付き、合言葉を言えば、船は姿を表す」

 

 まず、右手に持った赤い宝玉を彼女に手渡す。

「この竜の宝玉には私の加護をできる限り込めてある。これがあれば、きっと呪いの海も越えられる。魔獣に襲われ、風雨に晒されても、決して船が沈むことはないだろう」

 流星は願いを叶える竜だ。その加護は、持つ者の願いを叶える後押しをしてくれる。

 

 続いて、左手に持った黄金の天秤も渡す。

「島を発つ前に、信頼できる人間を探し、この天秤を託せ。これは女神の呪いの強さを示すものだ。これが右に傾いている間は、呪いは弱い。人の力だけで十分に魔獣に抗える。しかし左に傾き出せば、魔獣は徐々にその数を増やし、やがて人では抗えない程の数が溢れ出すだろう」

 

 

 受け取ったセレナは、真剣な目で宝玉と天秤を見つめた。

「魔獣が島に溢れれば、多くの人間が殺される事になる。そうなる前に…天秤のバランスが崩れる前に、この島から人を減らさなければならない」

「…島の民を、別の場所へ移住させるのね」

「ああ。君の意志に賛同し、違う大地へ行ってみたいという者を募れ」

 この島にはたくさんの人間がいる。その中には、彼女のように新天地を求める者もきっといるだろう。

 

「島の外に、安住できる豊かな地を探せ。この世界は広いらしいから、きっと見つかるはずだ」

 主である神は、女の魂を探しに行く前に言っていた。この世界はとても広く、そこには別の神がいて、この島とは違う人間が住んでいる。自分の愛した女はきっと、その中に生まれ変わっているはずだと。

 つまり、外の世界には必ずどこかに人が住める土地があるのだ。

 

「住める土地を見つけたら、宝玉を掲げて私の名前を呼ぶといい。そうすれば門が開く」

「門…?」

「この宝玉には、天秤から宝玉へと向かう門を作り出す力がある。ただしとても狭い門で、一度門を通れば、また島へ戻ることはできない。一方通行だ。…それでも、海を越えるよりはるかに安全に島を出られる」

 

 

 人々を新天地へと送る門。

 それがミーティオの考えた、この島の民を救う方法だった。

 人を島の外に出してはいけないという神の意志には反するが、それが最後には人を守る事に繋がるはずだ。

 どれほどの人の移住が必要なのかは、天秤の傾きを見れば分かる。

 ミーティオはセレナの瞳を見つめた。

 

「…そうやって、門が開いた時。この天秤は、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「……。ありがとう、ミーティオ。私、新しい大地を見つけるわ。この島の人たちが移住できる新天地を見つけてみせる。何年かかっても、必ず」

 セレナは宝玉と天秤を胸に掻き抱いた。

「天秤は、ソディーに託すわ。彼ならきっと、天秤をしっかりと管理してくれる」

 ソディーとは、セレナの幼馴染だ。彼女と仲が良い気のいい男で、ミーティオも時々顔を合わせている。

 

「でも、一つ気になる事があるの。貴方はどうなるの?貴方は、新天地に行くことはできないの?」

「ああ。私は行けない」

 ミーティオは静かに首を横に振った。

「私はこの島からは出られない。神がそう創ったからだ。…それに、私はこれを作るのにずいぶん消耗してしまった。これから長い眠りにつくことになる」

 

 長く眠り続ければ、少しは守護者としての力を取り戻せるかも知れない。

 島の外に憧れはするが、神から与えられた使命はミーティオの誇りでもある。守護者をやめたいなどとは思わない。

「…だから、君と話せるのはこれが最後だ」

 セレナは小さくうつむいた。これがミーティオとの別れになると、薄々気付いていたのだろう。

 この島に伝わる流星の竜の話は、どの話も全て、願いを叶えた後に竜がどこかへと飛び立って終わっていた。

 

 

「旅立つ君を見送れないのは、とても残念だが…。君には、私の分の願いも託す。外の世界を見るというその願いを、どうか叶えてくれ」

 セレナは少しの間うつむき、それから決意のこもった目で顔を上げた。

「…分かったわ、ミーティオ。任せておいて。そして待っていて」

「待つ…?」

 首を傾げるミーティオに、セレナは微笑んだ。

 

「ずっと先…もしかしたら、何十年、何百年とかかるかも知れないけど。私たちこの島の民や、その子孫たちがきっと、外の世界から水霊神様を見つけ出して見せるわ。そしてこう叱りつけるのよ。『こんなにも長い間留守にするなんて酷いじゃない!帰って来て、貴方の竜を起こしてあげて!』…って」

 

 それを聞き、ミーティオもまた笑った。

「じゃあ、神が帰ってきたら、私は神に頼んでしばらく休日をもらう事にしよう。そして、君が見つけた地を見に行く」

「それは素敵ね…!必ず、いつか会いに来て。約束よ」

「ああ。約束だ」

 

 そうしてミーティオはセレナとの最後の夜を過ごすと、火竜山へと戻り、長い眠りについた。



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第155話 竜人と竜との話・7

「この島に魔獣が現れるのは、女神の呪いのせいだったんですね…」

 ミーティオの話を聞き、私は呟いた。

 水霊神がこの島を守護し、人と子を成したという伝説は今もこの国に伝わっている。しかし、その妻だった女神の話は初耳だった。

 水霊神の威厳を守るため、消されてしまった話なのだろうか。

 

『神の血脈は、この島に確かに残っている。君たちが高魔力者と呼ぶのは、その血を受け継ぐ者たちだ』

「高魔力者の中に、たまに特殊な力を持つ奴がいるのも神の血のせいらしい。殿下がやたらと勘が良いのとかな」

「むむ…?」

 スピネルにそう言われ、殿下が少し驚く。

 人並み外れて目や耳が良かったり、過去を見たり未来を予知したりという不思議な力を持つ者が貴族の中に稀に生まれる事は知られている。殿下もそうだったのか。

 

 

『リナーリアの記憶力の良さも、その一種だと私は思う』

「え、そうなんですか?」

 ちょっとびっくりして、私はミーティオの顔を見た。

『普段の記憶力もそうだが、そんなにもはっきりと前世の記憶があるのは、恐らく君自身の力によるものだろう』

「…言われてみればそうですね」

 元々記憶力には自信があるが、人の記憶とは頭の中…脳に記録されるものだと言われている。生まれ変わった時には私の頭もまた一新されているので、本来その時に記憶もまっさらになっているはずだ。

 まず生まれ変わった事自体が不思議すぎたので、記憶まではあんまり気にしていなかった。

 

 

「…それで、眠りについた後はどうなったんだ?この島には、他の地へ行く宝玉と天秤の話など伝わっていないが」

 殿下に尋ねられ、ミーティオは悲しげに目を伏せると再び話し始めた。

『…次に私が目を覚ましたのは、彼女と別れて200年近く経ってからだ』

 

 

 

 

 ミーティオの眠りを妨げたのは、島の周囲に広がる不穏な気配だった。

 海の女神の呪いが、かつてない程に強まっていた。島の中に人が増え、魔獣が多く湧き出し始めているのだ。

 さらに感覚を研ぎ澄ませ島の中を調べてみたが、門が開いている気配は感じられない。

 これは一体どういう事なのか。セレナは一体どうなったのか。

 ミーティオは、人に化けて人里に降りてみた。

 

 思った通り、人の数はミーティオが眠りにつく前よりもずいぶん増えていた。しかし、その暮らしは貧しくなっているように見えた。

 町の奥の方には、進んだ技術と富を感じさせる高い建物が建っていたが、周辺に広がる人々の住居は昔と変わらないか、あるいはもっと粗末なものだ。

 ひどく疲弊していたり不安を抱えている様子の者が多かったが、極稀に贅沢と驕慢を顔に滲ませている者もいた。

 

 ミーティオは様変わりした国の有様に戸惑いながら、町の住民にセレナについて聞いて回った。

 幾人かに尋ね、それでようやく答えを得られた。

「それは、ずっと昔に人を惑わす魔女として捕まった女の名前だ」と。

 

 

 驚愕したミーティオは、図書館に行きセレナについて記録が残っていないか調べてみた。そこにはいくつかの文献が残されていた。

 セレナはこの島に混乱をもたらそうとして、ありもしない破滅の未来を予言した魔女だと書かれていた。

 彼女は人々の不安を煽り惑わせようとしていたが、一人の男がその企みに気付き、その時の王に危険を知らせた。

 そして魔女は王によって捕らえられ、処刑された…と。

 

 

 

 ミーティオは衝撃を受けた。信じたくなかった。

 さらに他の町を回り、さまざまな人間に尋ねたり文献を調べたが、やはり皆同じように彼女は魔女だと答えた。

 

 そうして調べ回るうちに、国の様子もだんだんと分かってきた。

 その頃国を支配していた王や貴族たちは、農民などの弱い者たちから搾取する事で豊かな暮らしをしているようだった。

 多くの民は重税に喘ぎ、魔獣に怯えながら、貧しい暮らしを強いられていた。

 

 人が増えた島の中には、魔獣もまた増えている。しかし魔獣は、魔力を持たない者では倒すのが難しい。

 そのため民は高魔力を持つ貴族と貴族が抱える兵に頼るしかなく、ただ虐げられる日々を耐えるだけだった。

 国に反乱を企てる者も何度か現れたが、それらは皆失敗に終わったようだった。

 

 

 また、宝玉や天秤の行方についても調べてみた。

 天秤については分からなかったが、王が持つという不思議な宝石の話を聞いた。

 それは魔獣を退ける力がある宝石で、王の城はその宝石によって守られているのだという。

 きっと、セレナに渡した宝玉のことに違いない。

 

 ミーティオはようやく理解した。

 この国の王は恐らく、豊かな暮らしを捨てる事を望まず、それを支える民が島から出ていく事も望まなかった。

 魔獣が増え、民に犠牲が出ようとも、この島の中で安穏と暮らす事を選んだ。

 そのためにセレナを魔女に仕立て上げ、宝玉を奪ったのだ。

 

 

 その瞬間、ミーティオの胸は焼け付くような怒りと憎しみでいっぱいになった。

 彼らはセレナの夢と願いを踏み躙り、殺した。

 島から出たくないのなら残れば良い。だが、出たいと願う者を阻み、殺す権利などあるものか。

 絶対に許せないと、そう思った。

 

 

 ミーティオは竜に変じると、国王の元に向かった。

 宝玉と天秤を取り戻すため、そして彼女の仇を討つためだ。

 

 近付くと、確かにそこに宝玉と天秤があるのが分かった。

 何重もの結界がミーティオを阻み、多くの兵が立ち塞がった。

 ミーティオはそれらを蹴散らし、殺して前に進もうとした。

 

 だが、神の与えた使命はそれを許さなかった。

 ミーティオは人を守り、その願いを叶えるために生み出された竜なのだ。私利私欲のために力を振るってはいけない。人を殺すなどもってのほかだ。

 ただでさえまだ僅かしか力が戻っていなかったというのに、王を守る兵を一人殺すごとに、さらに大きく力が削がれるのが分かった。

 結局ミーティオは王を殺しそこね、そこから逃げ出すしかなかった。

 

 

 人を殺すという禁忌を犯し、弱ってしまったミーティオは、それでも2つの宝を取り戻す事を諦めなかった。諦める訳にはいかなかった。

 王はどこかに身を隠したようだった。ミーティオはあちこちを襲い、王を探した。

 その時にはもはや、頭には復讐しかなかった。無辜の民も巻き込み、多くの人間を殺した。

 

 だが、ミーティオが眠っている間にも大きく技術を進歩させていた人間は、ただ殺されたりはしなかった。

 兵を集めてミーティオを討伐しようとし、そのうちに大きな魔導兵器を作り始めた。

 弱りきっていたミーティオはそれに灼かれて地に堕ち、封印されてしまった。

 

 

 

『…その後、私の身体は火竜山の地下に作られたあの施設…君が迷い込んだ遺跡へと運び込まれた』

「では、貴方の身体は封印されたままそこにあるんですか?」

 私はミーティオの顔を見ながら尋ねる。

『ああ。限られた者だけが入れる深層部に、時を止めたまま置かれている。あそこは竜について調べ、活用…特に兵器へと利用するための研究施設だ。彼らは増えゆく魔獣への対抗手段を、あらゆるアプローチで探していたようだ。竜を使った研究もその一つだろう』

 つまり、私が入り込んだのは表層部だけだったという事か。どこかに深層部へ繋がる入口が隠されているんだろう。

 

『私は封印されてもなお意識はあったが、もはや、全てがどうでも良くなっていた。神の使命など知った事か。このままでは島の人間は滅ぶかもしれないが、彼らはセレナを殺し、希望の道を自ら閉ざしたのだ。ならばその報いを受けるべきだろうと、そう思った。私はそのまま、静かに眠ろうとしていた。…だが』

 ミーティオは片手で顔を覆う。

『恐らく何十年か経ったある日、眠る私を起こしたのだ。あの竜人、ライオスが』

「え!?」

 

『…あれはきっと、私の身体の一部を用いて、あの研究所の中で生み出された生物だ』



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第156話 竜人と竜との話・8

「竜人を造ったのは、人間だというのか」

「はるか昔には、魔術によって新たな生命を生み出す技術があったとは聞いた事がありますが…」

『それに関する彼らの魔術は、今のこの島のものよりはるかに進んでいたようだ。私には詳しくは分からないが』

 この島では魔獣が大量発生する災害が度々起こるために、現在に伝えられていない技術が数多くあるという。

 今でも人造生命の類の研究をしている魔術師はたまにいるが、せいぜい虫くらいしか作れていないはずだ。

 

『ライオスはまず、私に名を名乗った。その異形の姿、身に纏う気配ですぐに分かった。これは人が、私に似せて造ったものだと』

 ミーティオが顔を歪める。

『…最初に浮かんだのは、嫌悪感だった』

 無理もない事だろう。自分の身体を材料にして勝手に別の生き物を造られるなど、私だって気持ち悪いとしか思えない。

『そしてあれは、私に向かって問いかけ始めた』

 

 

 

「お前は竜なのだろう。お前は、我の母なのか」

 ライオスの最初の問いはそれだった。

 ミーティオはひどく不快な気分になりながら「違う」と答えた。

 自分という竜を元にして造ったものなら、ある意味では自分が母とも言えるのかもしれないが、そんなものを認められる訳がない。

 

「では、我の母を知らないか?」

 ライオスはさらに尋ねてきた。

「我には父はいるが、母はいない。母がどこにいるのか知りたい」

 その言葉を聞き、ミーティオは理解した。

 …これは、自分がどうやって生まれたのか知らないのだ。

 見た目は成人の男だが、中身はどこか幼いようにも感じられる。

 

 ミーティオは逆に尋ね返した。

「お前の父というのは誰だ?」

「ネオトス博士」

 

 博士というからには、ここにいる研究者の誰かだろう。

 どうやらこれは、自分を造った人間の一人を父だと信じているらしい、とミーティオは思った。

 あるいは、実際にその人間の血も使っているのかも知れない。目の前のこの生き物は、人間の気配も確かに混じっている。竜の力を制御するために、竜と人を混ぜて造り上げたのだ。

 そのネオトスとかいう人間を父だと思っているから、自分に近い存在である竜…ミーティオこそが母なのではないかと、これは考えたのだろう。

 

 

 ミーティオは言った。

「愚かで哀れな生き物よ。お前は人間に騙されている。お前が父と信じている者は、お前の父親などではない」

「…なんだと」

「親とは子を慈しみ、愛し、守るものだ。だがお前はどうだ?愛されているのか?守られているのか?…お前のその身体は何だ。傷だらけではないか」

 ミーティオが指差すと、ライオスは分かりやすく顔色を変えた。

 その褐色の肌には無数の傷がある。治癒魔術によって塞いであるようだが、傷痕が消えるより早く次の傷を負ってしまっているのだ。

 

「それは魔獣と戦って負った傷だろう。違うか?」

 魔獣と戦うために竜の力を利用する、そういう研究の一つとしてこれは生み出されたのだろう。

 だが人間と混ぜたせいか、弱りきったミーティオを元に造ったせいか、これが持つ力は本来の竜の力からは程遠いようだ。

 肉体は人間より遥かに強く頑丈でも、ミーティオのように神から与えられた神秘の力を振るえたりはしないのだろう。だから、戦えばこのように傷付くのだ。

 

 

「…我は強い。だから父を、人間を守らなければならない」

 どこか自分に言い聞かせるように、ライオスは言った。

「それが愚かだと言うのだ。なぜお前が人間のために戦う必要がある。人間がお前に何を与えてくれた?」

「魔獣を倒せば、よくやったと褒めてくれる」

「それだけか?そうして、また戦いに行かせるのか。そんな事を繰り返していれば、お前は遠からず死ぬだろう」

「死ぬ…?我が…?」

 ライオスは衝撃を受けた様子で呟いた。今まで考えた事もなかったのだろう。

 

「私は人間に大切なものを奪われた。夢を。願いを。宝物を。…お前も、いつか奪われる」

 この哀れな生き物が唯一持っているもの。その造られた命すら、人間はきっと奪っていく。

 ミーティオは冷たく告げた。

「よく考えることだな。人間に、お前の命を捧げるほどの価値があるのかどうか」

 

 …ライオスは、逃げ出すようにしてその場から去って行った。

 

 

 

 

『…今思えば、私はとても惨い事をした。あれはきっと、何も知らぬ子供だった。だが私はあれを突き放し、突き落とした。…あわよくば、あれに復讐をさせようと…そんな考えがどこかにあった』

 ミーティオは強い悔恨を滲ませて言った。

 

 私たちは思わず顔を見合わせる。

 その話の通りなら、ライオスはとても哀れな存在だ。望んで生まれた訳でもなく、ただ兵器として人間に利用されていた。

 ライオスにあれほど怒っていた殿下も、複雑な表情を浮かべている。

 

『その後あれがどうなったのかは分からない。あれが再び眠りについた私を起こしに来る事は二度となかった。…だが、人の間に伝わる竜人のおとぎ話が真実であるとしたら』

「ライオスは、人の王から宝玉を奪って逃げた…?そして、国は魔獣災害によって滅びたと…」

 あのおとぎ話だと、王が持つ宝は水が湧き出る宝石という事になっていたが、本当はミーティオが作った竜の宝玉だったのか。

 

 

「でもそれってずいぶん昔…多分一万年以上前の話ですよね。逃げてから今まで、ライオスは何をしていたんでしょう」

『分からないが、どこかで眠っていた可能性が高い。あれは半分が人だ。一万年もの時を生きる寿命などないだろう。もしかしたら私と同じように、人を殺した事で弱ってしまい、眠りについたのかもしれない』

 

 では、各地で竜人が目撃されたという60年前あたりに目が覚めたんだろうか。

 60年前のこの国では、竜人の伝承自体を知らない人間がほとんどだった。突然現れた異形の怪物に、出会った人はほぼ全員、驚き逃げ惑ったらしい。

 まあ知っていたとしても大抵の人は驚いて逃げるだろうが…。

 前世で初めて私と出会った時、自分を怖がらないのか?と私に尋ねたのも当然だろう。

 

 

『…一つ分かるのは、今のあれは宝玉から竜の力を引き出せるという事だ』

「竜の力?」

 殿下が尋ね返す。

 

『神が与えた、人を守り人の願いを叶える力だ。竜の力はそのためにあり、普段から自由に使えるものではない。あれがリナーリアの願いを叶えられたのは、竜の宝玉の力があったからだろう』

「自由に使えない?人を守ったり、願いを叶える時以外は、竜の力は使えないという事か?」

『ああ』

 神が与えた竜の使命と束縛は、竜人にも受け継がれているという事か。人と竜の不便な点を両方持っているんだな。いや、不便と言っていいのか分からないが…。

 

 

「…あれ?じゃあ貴方は一体誰に起こされたんですか?」

 ミーティオはずっと眠っていて、肉体は今も封印されているという。ライオスが起こしていないのなら、どうして今このように生霊として出てきているのか。

『私が目覚めたのは、今から25年ほど前だ。君の母が、あの地に嫁いできた時に』

 そう言えば、さっきもミーティオは母の話をしていたっけ。

 

『ある時、不思議なざわめきを感じて目を覚ましたんだ。外に出ると、山の麓に数台の馬車が停まり、人が集まっていた。彼らは祠に供え物をして祈りを捧げているようだった。その中に美しく着飾った女性が一人いて、それが君の母だった』

「ああ…、婚姻のための儀式ですね」

 離れた土地から女性が嫁いできた際には、嫁ぎ先にある祠へ行き、供え物をして祈るというのがこの国に古くからある風習だ。

 その土地によって細かい作法は違うのだが、貴族の場合は領内のいくつかの祠を回る事が多い。そして大抵の場合、水霊神に対して豊穣や子宝を祈る決まりになっている。

 

『私は、君の母…ベルチェを見てとても驚いた。セレナにとてもよく似ていたからだ。面立ちも、美しい銀の髪も』

「……」

 私は思わず自分の髪に触れる。セレナという人の話を聞いた時から気になっていたのだ。

『もちろん、君にもよく似ている』

「…やっぱり、そうなんですね。じゃあ、私は…」

『ああ。私とセレナの、その末裔だと思う』

 ミーティオはうなずいた。



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第157話 竜人と竜との話・9

『…セレナが子を生んでいたなど、知らなかった。きっと捕らえられる前に、子供だけをどこか遠くに逃がしていたんだろう。私は衝撃を受けた。この島は守護者を失い、人が増えれば魔獣が溢れるようになっている。何度もそうして蹂躙されただろうに、よく今まで血を繋げられたと…。奇跡だと、そう思った』

 そう言って、ミーティオは静かに目を伏せる。

 

『同時に、激しく悔やんだ。私は何という事をしてしまったのかと。彼女の願いを踏み躙ったのは、私も同じだった。本当に彼女を想うなら、復讐するよりも志半ばで倒れた彼女の願いを最後まで叶えようとするべきだったんだ。なのに私は人に絶望し、見捨てようとした。…人は善良でもあり邪悪でもあると、私は知っていたはずなのに。本当に愚かなのは、人ではなく私だった…』

 

 

 

 ミーティオの長い話は、とても悲しい話だった。

 彼は自分を愚かだと言うが、人もまた愚かだ。

 元々は島を救いたいという願いだったはずなのに、人の欲望がそれを狂わせた。たくさんの罪と間違いを重ね、人が増える度に魔獣災害を繰り返すという今のこの島の状況を作ってしまったのだ。

 子供を残し、願いも夢も叶えられずに死んだセレナ…私のご先祖様は、どれほど無念だったかと思う。

 

『私はベルチェに出会ってから、彼女の様子を遠くから見守っていた。そうして彼女が幸せな家庭を築くのを見るうち、この島をこのままにはしておけないと考えるようになった。宝玉と天秤を取り返し、今度こそあれを正しく使える者に託したいと…』

 ミーティオはそう言って、スピネルの方を見る。

『それで、彼に協力を頼んでいる』

 スピネルはそれにうなずいた。

「まあ要するに、利害の一致だ。この島が滅ぶなんて話、見過ごせる訳ないしな」

 

 

「でも、何でスピネルに?」

「俺も、お前ほど濃くはないが竜の血が流れてるらしい。それでこのおっさんに取り憑かれてる」

『取り憑いているというのは少し違う。私の魂の一部を彼に分け与えている。そのため、今の私は彼から遠く離れる事が難しい』

「た、魂を?それ、大丈夫なんですか?」

『大丈夫だ。魂に触れる神の力を、私も持っている』

 

 魂と呼ばれる生命エネルギーのようなものが生き物の肉体に宿っている事は、さまざまな魔術実験の末に証明されている。

 魂は普段は見たり触ったりできないし、干渉する事は非常に難しい。魔術で魂に働きかける事はできるものの、その効果は全く安定しない。

 そして、魂を失ったり傷付ければ、その生き物は衰弱して死んでしまう事も知られている。

 そのため王国の法では、魂に関する魔術は使用を禁止されている。まあ、竜にこの国の法など関係ないだろうが。

 

 この世界における魔術法則が、魂に関しては一切適用されないという。反応を引き出す事そのものはできても、どのような反応が起こるかは予測ができないのだそうだ。

 これは魂がどこか別の世界に繋がっているからだとか、神が魂への干渉を禁じているからだとか言われているが…。

 ミーティオの口ぶりからすると、魂が神の領域にあるという説はあながち間違いでもないらしい。

 

 

「…大丈夫ってか、俺はこのおっさんに命を救われた立場だ。おっさんがいなけりゃ、俺は生まれてこなかったらしい」

 スピネルが肩をすくめ、ミーティオがそれにうなずく。

『2つの宝を探すと決めた私は、まず自由に動ける肉体を求めた。私の本体は地中深くで眠っていて、動かせる状態ではなかったからだ。最初は死者…死んで魂が抜けたばかりの人間の身体を借りようと考えていた。その頃ベルチェはちょうど、夫や幼いラズライトと共に王都に行こうとしていて、私はそれについて行く事にした』

 王都はこの国で最も多くの人が集まる場所だ。そこなら都合の良い身体が見つかるだろうとミーティオは思ったらしい。

 

『そこで、母親の腹の中で弱っている赤子を見つけた。その赤子は宿った魂に傷があり、少し欠けているようだった。時折そういう者がいるんだ。生まれつき目が見えなかったり、足が動かない者がいるのと同じように。このままではこの赤子は、無事に生まれてくるのは難しいだろうと思った』

 確かに、身体のどこが悪いという訳でもないのに、なぜか生まれつきひどく虚弱だったりする者は存在する。その原因の一つは魂なのか。

『赤子は私の血をわずかに引いているようだった。それならば、私の魂も馴染みやすい。これも何かの縁かと思い、私はその子を助ける事にしたんだ。魂を分け、その身体に宿った。…それが、彼だ』

 

 

 

「…ではお前は、スピネルが生まれる前から共にいたというのか?今までずっと?」

 殿下が少し混乱したように言う。殿下もまたスピネルとは幼い頃から一緒に育ってきたので、驚いているようだ。

「どうもそうらしい。俺はそんなに力が強くなかったから、おっさんの姿がまともに見えるようになったのは10歳を過ぎたくらいの頃だけどな。それからちょっとずつ話を聞いた」

「…ぜ、全然気づきませんでしたけど…」

 私はミーティオが見えるはずなのに、スピネルに対しそんな気配は一切感じなかった。

 

『私は普段は彼の中で眠っている。必要な時は話しかけるが、その声は他の者には聞こえない。何より、彼は私に干渉されることを好まないから、なるべく話しかけないようにしていた』

「当たり前だ」

 スピネルは少し口を尖らせながらミーティオを横目で見る。

「おっさんの事情は理解してるし、命を助けられた借りもある。だから目的に協力はするが、俺の人生にまで干渉されたくないからな。…本当は、学院を卒業して殿下が成人してから、本格的に宝玉や天秤の捜索をするって約束だった」

 

 従者は主である王子が成人し何らかの役職に就く頃には、従者の役目を他の者に譲る事になる。

 スピネルもまた、殿下が王となる頃には従者をやめて何らかの要職に就き、殿下の補佐や相談役をする予定のはずだ。

 そういう身動きの取りやすい立場になってから、ミーティオに協力するつもりだったらしい。

 

 

「でも、リナーリアが呪いをかけられてるって分かったから、動き出すしかなかったんだよ。あれは絶対竜が関わってる、早く何とかしろっておっさんがうるせえの何の…」

 スピネルはミーティオを睨んだが、ミーティオはひどく呆れたようにスピネルを見返した。何か言いたげな顔だったが、スピネルは無言で目を逸らした。

 

『…呪いにもっと早く気付けば良かったのだが。今の私は魂だけの存在で力も弱いから、リナーリアの魔力に紛れた竜人の印を見抜く事ができなかった。だから、こうして彼の外に出て動くようになったのはつい最近だ』

「やめろっつってんのに勝手にウロチョロするから、こっちはいい迷惑だった。そのせいで幽霊騒ぎまで起こるし…」

「あっ…!じゃあ、あのお城の幽霊って貴方なんですか!?」

『ああ…』

 

 数ヶ月くらい前から王城の中に現れていたという幽霊の正体が、まさか竜の生霊とは。

 思わずぽかんとしてミーティオを見ると、ちょっとだけしゅんとして肩を落とす。

『すまない。少し焦ってしまっていた…』

 …さっきから思っていたが、ミーティオって竜という割に結構人間臭いよな…。

 普通にその辺にいる男性と言う感じだ。スピネルはおっさん呼ばわりしてるけど、そんな歳にも見えないし。

 

 

「…では、スピネルが正月休みの間に旅に出ようとしていたのは、そのためか?」

 殿下が眉間に皺を寄せる。

「ああ。竜人か宝玉か、その両方か…とりあえず、古代王国の首都辺りでも行って手がかりを探すつもりだったんだが」

「そう言えば、何だか馬車を手配していたんでしたっけ?」

 ブーランジェ領に帰るふりをして、別の所に行こうとしていたとか何とか。てっきりオットレが適当な噂を聞いただけかと思っていたが、事実だったらしい。

 近頃図書館やら魔術師団に出入りしていたのも、手がかりを求めてだったんだろう。

 

「お前も俺に隠し事をしていたんだな…」

「知られずに解決できるならそれが一番いいと思ったんだよ。ここまでややこしい話になると思わなかったし…。でも、悪かった」

 スピネルは言い訳するように言ったが、最後に真面目な顔になると殿下に頭を下げた。

「申し訳ありません」

「……」

 その姿を見て、殿下が小さくため息をつく。

 

「…今ここで責める気はないが、許した訳ではないぞ。言っておくが根に持つからな」

「うっ…。分かった」

 珍しく不機嫌な様子を隠さない殿下に、スピネルはちょっと顔を引きつらせた。

 私もこっそり冷や汗をかく。耳が痛い。一見スピネルに言ってるようで、私に対しても言ってるよなこれ…。

 殿下は寛大な方だが、根に持つと言ったら本当に持つのである。覚悟しておいた方がいいかもしれない。



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第158話 竜人と竜との話・10

「話は概ね分かった。ミーティオ、お前の目的に俺も力を貸そう」

 殿下は顔を上げると、はっきりとそう言った。

「そして無事に宝玉と天秤を取り戻した暁には、それを正しく使うための協力を惜しまない。この国の王子として、確かに約束する」

『…感謝する。未来の王よ』

 ミーティオは感じ入るように頭を下げた。

 

 

「問題は、これからどうするかだが…」

 殿下が私たちを見回す。

「まずは竜人だ。宝玉を取り戻し、リナーリアとの契約も諦めてもらわなければならない」

「そうだな」

「えっ?」

 殿下とスピネルが目を合わせてうなずき合い、私はちょっと慌てた。

 宝玉はともかく、契約を諦めさせるというのは…。

 

「最初に言っておくが、俺はあのライオスに君を渡す気はない。何としてでも止めるつもりだ」

 有無を言わせぬ口調で殿下が断言する。スピネルもそれが当然だという顔だ。

「でも、願いの対価を支払わない訳には…。それはもちろん私だって、ライオスの妻になりたい訳ではないです。けれど、約束を破るのも嫌です。私はライオスに二度も命を救われていますし…」

「ああ。だから対価は、何か別のものにしてもらうしかない」

「えええぇ」

 そんな都合のいい話がまかり通るのだろうか。

 

「でも、どうやって?何を代わりにするんですか?」

「まだ考えていないが…できる事なら、なんとか平和的に、納得できるように解決したい。ミーティオの話を聞いて、そう思った」

 殿下はミーティオを見つめながら言う。

「竜人は元々人間が造ったもので、人間を守ってくれていたという。そんな存在と対立したくはない。だが、君が契約通りに連れて行かれれば皆悲しむ。もちろん俺もだ。それでは結局、遺恨を残す事になるだろう」

「…そう、ですね…」

 私にとっては自業自得だが、殿下は納得出来ないだろう。私の両親や友人たちもだ。

 上手くいくかはともかく、交渉する努力はするべきかもしれない。

 

 

 

『…そもそも、あれが何故リナーリアを求めたか、だ。そこに解決の糸口があると思う』

 ミーティオがゆっくりと口を開く。

『私は、あれは仲間を欲しているのだと考えている。最初に会った時、あれは私に母がどこにいるか知りたいと言っていた』

「そう言えば私に出会った時も、私に向かって仲間なのかと尋ねてきましたね…」

 そして、私が人間だと知ると少し嫌そうな顔になっていた。私が同族である事を期待していたからだろうか。

 

「…なるほど。そういう事か」

 殿下が何かを納得した顔になる。

「ライオスは仲間…つまり、家族が欲しいんだな?」

『ああ。リナーリアを女に変えたというのは、子供を産ませたいからではないかと思う』

「は!?子供!?」

思わず声を上げてしまったが、確かに理屈は通るな、とすぐに気付く。

 

「…それなら確かに、私は女でなければいけませんね…」

 子供を作り、家族を作る。そのためには夫婦になる相手が必要だ。

 私の願いは過去に戻ってやり直す事だったから、そのついでに女にしてしまえばちょうどいいと思ったのかも知れない。

 

 

「私を選んだのはやっぱり、たまたま竜の血が濃かったから、という事でしょうか」

『それなんだが、リナーリアに一つ尋ねたい』

 何故か片手を上げながらミーティオが発言する。

『君はベルチェと比べても特に竜の気配が強く、私の目にはよく目立つ。ライオスにとってもそうだと思う。…どうも君には、流星の加護がついているようなんだ。初めは血が濃いせいかと思っていたが、やはり加護が強すぎる』

「加護…ですか?」

 私は首を傾げた。何の事かよく分からない。

 

『流星の加護は、人の願いを叶えるものだ。当人にとって幸運な未来に向かいやすくなる加護と言ってもいい。はるか昔には、私に勝利した者や恩を受けた者にその加護を与える事があった。基本的に目に見えないものだが、子孫に伝えられるようにと護符という形で与えた事もある。何か心当たりはないだろうか。特に前世、ライオスに出会う前にだ』

「…特にありませんね」

 古代のもので触れた事があるのは、セナルモント先生の所にあった本くらいだ。

 

『君の住んでいたジャローシス領は火竜山に近い。何か古代のものを拾ったことは?』

「いいえ。今世でなら、あの遺跡から鱗を持ち帰りましたが」

『それは君の魔力を強化するのには役立ったろうが、加護はついていない』

 …なんか今さらっと聞き捨てならない事を言った気がするな。あの頃、私の魔力量が急激に増えたのはあれのせいか…?

 

 

 しかし、本当に心当たりはないな…と考えて、ふと気づく。さっきミーティオは、勝利した者や恩を受けた者に加護を与えたと言った。

「…前世のスピネルにも、ミーティオは憑いていたんですよね?」

『そうだろうな。私が彼に宿ったのは、君が生まれるより前だから』

「私、スピネルに勝った事ありますよ。前世で」

「は?俺に?何で?」

 スピネルがびっくりして私を見返す。

 

「上級生だったスピネルの、卒業式の日です。スピネルは自分が振った女の子に絡まれるのが嫌で、パーティーに出ずに図書室で暇を潰していました。そこで私と紙の鳥を作って、遠くに飛ばす勝負をしたんです。私が勝ちました。…ついでにその後、学院をこっそり抜け出すのも手伝って貸しを作りました」

「そんな事があったのか?」

 殿下に見つめられ、スピネルが困惑する。

「いや、俺に言われても…そんなん覚えてねえし…」

 

 

『だが、契約には合言葉…私の名前が必要だ。リナーリアはついさっきまで私の正体を知らなかっただろう。スピネルに対してそれを言うはずがない』

「い、言いました!合言葉!」

『何?』

「その紙の鳥は金と銀の紙で作ったもので、飛ばすと光が軌跡を描いてとても綺麗だったんです。だから私は、まるで流れ星みたいだと言ったんですが…これ、合言葉になりませんか?」

 

 

『……』

 ミーティオはしばし呆然としていたが、突然がくりと肩を落とした。

『…すまない。私だ。きっと私だ…』

「マジかよおっさん…」

 スピネルが呆れ顔になる。ミーティオは申し訳なさそうに私の顔を見た。

『私はスピネルの中でその勝負を見ていたはずだ。そこで君が偶然にせよ流れ星という合言葉を言ったのなら、私はとても嬉しかったと思う。それで、君に幸運が訪れるようにと加護を与えた…』

 

「…では、ライオスが前世のリナーリアを助けたのは、その加護の気配を感じたせいか?」

「それで目を付けられたのかよ。とんだ幸運の加護だな…」

『すまない…』

「いえ…」

 スピネルと殿下にジト目で睨まれたミーティオはひたすらしょんぼりしている。だが、それで助かったので私としては何とも言えない。

 

 

 

「…あ、でも、その時の約束はちゃんと叶ってますよ?」

 その後交わした会話を思い出し、私はスピネルの顔を見つめた。

「約束?どんな?」

「ええと、前世のスピネルは、卒業後はブーランジェ領の騎士になっていたんですけど…」

 今思えば、あれは竜の宝を探すためだったんだろうな。

 いくら剣の腕があっても、従者として殿下に近い今世とは違い、ただの近衛騎士からでは出世に時間がかかる。立場や権力を使って宝物の捜索をするのは難しい。

 それならば、実家のブーランジェ領にいた方がずっと自由に動ける。武者修行とでも言えば、他領を旅するのだって簡単だろう。

 

「殿下はその事を惜しんでいて、私も勿体ないと思っていました。…だから、いつか気が向いたらでいいので殿下にお仕えして欲しいと言うと、スピネルは分かったと答えたんです」

 

 

「……」

 スピネルはぱちぱちと瞬きをして、私の顔を見つめ返した。

 

「…叶っている、な」

 殿下が呟き、私とスピネルを見る。

「叶ってるな…」

 スピネルも呟いて、殿下と私を見た。

 結果的に、ちゃんと叶っている。

 

 

「…何だか複雑です。それって私が女に生まれたせいですよね…?」

 例え男だったとしても、殿下がまた私を従者に選んでくれたとは限らないんだが、やっぱりそう思ってしまう。

「おかげで私の人生、前世とまるで違っちゃってますし」

 今では慣れたとは言え、ずいぶん戸惑ったし苦労もした。どうも周りからは変な令嬢だと思われてるみたいだし。

 

「そこについては別に良いだろ。それでちゃんと上手く行ってるじゃねえか」

「でも私、生まれ変わっても殿下の従者になりたかったです…」

 そう言って殿下の方を見ると、殿下は非常に気まずそうな表情になった。

 スピネルがその顔を見て笑う。

「従者じゃなくたって、ちゃんとこうして殿下の近くにいるだろ、お前」

「そうなんですけどぉ…」

「スピネルの言う通りだ」

 思わず恨めしげな声を出す私に、殿下が少し慌てる。

 

「従者の君というのも、それはそれで良いだろうと思うが…俺は、今の君で良かったと思う」

「…そうですか?」

「ああ」

 殿下は大きくうなずいた。

 …殿下がそう言うなら、やっぱりこれで良かったんだろうな。

 

「じゃあやっぱり、加護はちゃんと役に立ってるみたいですね。私の願い、叶ってますから」

 今世で起きている事が結果的に良い方に転がっているのも、もしかしたら流星の加護のおかげなのかもしれない。

 私が微笑むと、ミーティオは少しだけほっとしたように笑い返した。



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第159話 竜人と竜との話・11

「それじゃあ、ライオスに対してはとりあえず、説得と交渉を試みるという事ですね」

「ああ。俺は人間と竜人の和解を目指したい」

「殿下がそう決めたんなら、俺もそれでいい。それにあいつ、多分めちゃくちゃ強いしな。なるべく敵に回したくねえ」

 私たちは目を合わせてうなずいた。

 

「宝玉が奴の手元にあるってのはある意味幸運だな。他の人間に奪われる心配はない」

「うむ…」

 ライオスは目覚めてからずっとどこかに身を隠していたようだし、今更誰かに見つかったりはしないだろう。

 オレラシア城に来た時だって、私と殿下、スピネル以外の者は誰もその姿を見ていなかったそうなのだ。人の目を眩ませているのか、それとも記憶を操作しているのか。

 仮に見つかった所で、竜人を人間がどうにかできるとは思えない。

 

『契約の期限まであと3年ある。どういう対価を示し、交渉するかについては、ゆっくり考えればいいだろう』

「そうですね」

 何だか少しだけ安心する。助けられた恩もあるし、私はライオスに悪い感情は抱いていないのだ。

 私たちは彼の事をまだよく知らない。どういう結論を出すにしても、まず話し合ってみたいと思う。

 

 

 

「…問題は、天秤の方ですね。前世での殿下の暗殺に、きっと関わっているのではないかと思うんですが…」

「フロライアか…」

「もしくは彼女の父、モリブデン侯爵ですね。…前世で戦った彼女の仲間の中には、ビスマス・ゲーレンも含まれていました。彼女と共に武芸大会に出ていたあの2年生です。彼はモリブデン家中の者ですし、暗殺に侯爵が無関係だったとは考えにくいかと」

 

「しかしなあ…」

 スピネルが首を捻る。

「何で殿下を殺したんだ?天秤を傾ける者だから…だったか?」

「ええ。天秤がどういうものか知っているから出て来た言葉だと思うのですが…」

 

「…言葉通りに受け取るなら、フロライアは天秤を傾けるのを止めたいという事になるな。天秤が傾くと魔獣災害が起こる…災害を起こしたくないのか…?」

「いや、だからそれが殿下とどう関係するんだよ」

「分からん。俺は天秤など見たこともないし、傾けろと言われても無理だ」

 不本意だと言わんばかりの殿下を見て、はっと気付く。

「…いえ。殿下ならできるかもしれません」

 

 

 私はミーティオの方を振り返る。

「今、天秤はどちらに傾いているんでしょうか?」

『呪いが強まる側…左側だ。この国は今、治安が安定していて人口も多い。まだわずかだが、確実に傾き始めているだろう。実際に近年魔獣は増え、そして強力になってきているはずだ』

 やはりそうか。守護者である彼が言うのだし間違いないだろう。

 

「この国では年々人口が増加しています。将来殿下が王となり、この国をさらに安定させ栄えさせれば、その増加はより加速するでしょう。そうすれば呪いは力を増し、天秤はもっと左に傾いていく」

 私は一旦言葉を切り、唇を噛んだ。

「国の未来に対し、最大の影響力を持つ人物。…そういう意味では、殿下は確かに『天秤を傾ける者』だと思います。あくまで、長い目で見ればの話ですが」

 

 

「…なるほどな。逆に殿下が悪王となって国を荒らし、国民を大量に殺せば、天秤を反対側に傾ける事もできる。まあ絶対そうはならないって、殿下を知ってる奴なら誰でも分かるが」

 スピネルが得心の行った顔で呟く。

「そういう事か…。俺は無論、良き王を目指しこの国の平和を保つために力を尽くすつもりでいる。しかしそれが天秤を傾け、魔獣災害を引き起こす事になってしまうのか…」

「でもそんなの間違ってます!!」

 殿下が困ったように視線を落とすのを見て、私はつい憤慨してしまった。

 平和で良い国を作る事が国を滅ぼす事に繋がるなど、あっていいはずがない。

 

『私の見立てでは、まだそこまで切迫はしていない。今後も魔獣は増え続けるだろうが、人の手に負えなくなるほどに溢れ災害となるまで、どんなに早くともあと150年以上かかると思う』

 150年。余裕があるようにも思える数字だが、既にこの国はその未来へ向かい始めているのだ。

『…だがそれは、国が安定し続ければの話だ。戦、飢饉、病…。原因は様々だが、多くの人間が死ぬような事が起これば、呪いは弱まりその分だけ災害は遠ざかる』

 

 

「…やっぱり、彼女の目的は天秤の傾きを止め、呪いを弱める事なんだと思います。その為に、殿下は邪魔な存在だった」

 私はずっと考えていた。彼女は殿下を殺して、何をしたいんだろうと。

「殿下の次に王位継承権が高いのは、王弟のシャーレン様です。悪い方ではありませんが、政治には不向きな方だと思います。だから殿下の死後は、オットレを擁立しようとするフェルグソン派を抑えられず、王位争いが起こるのではないかと思っていました。今世では、秘宝事件によってフェルグソンは捕まりましたが…オットレは今も、どこかに逃亡しています」

 

 あの事件で、なぜオットレだけが逃げおおせたのか不思議だったのだ。

 秘宝を盗み、国王陛下の敵となったフェルグソンは国賊だ。その息子であるオットレにはもはや利用価値などないし、もし逃がした事が分かれば、その者まで罪に問われる。それなのに、なぜ助けたのかと。

 だがその目的は権力でも玉座でもなかった。争いを起こす事そのものだったのだ。

「…争いの火種はまだ残っている。いえ、残されてしまった…」

 

 

 殿下とスピネルが息を呑む。

「再び王位争いを起こす気だというのか?そのためにオットレを生かしたと」

「殿下を亡き者にしても、そのままではただシャーレン様が王となって終わってしまいます。争いを起こすには、シャーレン様に対抗し、反旗を翻す者が必要です」

 

 殿下は正当な第一王位継承者で、聡明かつ正義感の強い方だ。争いが起こっても、多くの者が殿下を支持し、戦などになる前に決着が付いてしまうだろう。

 だが、気が弱く政治が苦手なシャーレン様と、権力に執着しているが敵が多いフェルグソンの息子オットレならば、勢力は恐らく拮抗する。

 裏から操り、争いを激化させる事も可能…少なくとも、敵はそう考えたのではないだろうか。

 

「…王位争いで国を乱し、戦を起こし、人を殺す…。それでこの島の人間を減らすつもりか」

「国が荒れて人が死んでも、魔獣災害で壊滅するよりはマシってことかよ…」

 二人共、信じられないという様子で顔を歪めた。私も多分似たような表情をしているだろう。

 魔獣災害でこの島自体が滅ぶという事態は防げるが、そのためには多くの犠牲者が必要となる。

 その理屈は分かるが、理解したくない。

 

 

「そうすると、オットレを逃がしたのはフロライアなのか?いずれ利用するために」

「そう考えれば辻褄が合います。彼女は近頃オットレと親しかったようですし、どこかに匿っているかもしれません」

「くそ、あいつを取り逃がしたのは本当に痛いな。思った以上にろくでもない事が起こりそうだ」

 スピネルが舌打ちをし、殿下が深く考え込む。

 

「…しかし、国が滅ぶのを回避したいと言うなら、彼女の目的そのものは俺たちと同じではないのか?」

「え…?」

 私は驚き、言葉を失ってしまった。

 確かに、そういう事になるのかもしれないが。そう思っても、とてもすぐには理解できない。

 

 スピネルが顔をしかめる。

「まさか、そっちとも和解したいってのか?」

「ですが!彼女は、殿下を…!」

 思わず立ち上がりかける私を、殿下が手で制止する。

「それは前世での話だろう。俺は今こうしてちゃんと生きている。狙われている節はあるが、まだはっきりと何かを仕掛けられた訳では無い」

 

「で、でも…実際、攻撃を受けています。遠回しなものだとしても」

「俺とて、それを許す気などない。俺だけではなく国への反逆だと言えるし、犯人は捕らえて罰するべきだ。…だが、宝玉を取り戻す事ができれば、戦など起こさなくてもこの国を救える…そう伝える事で考えを変えられる可能性があるのなら、それを捨てるべきではない」

 そう言った殿下に、苦い顔をしたのはミーティオだ。

『…しかし、敵が宝玉を正しく使う事を望むとは限らない。セレナから宝玉と天秤を奪い、民を苦しめていたあの王だって、国そのものは守ろうとしていたんだ。己の欲望のために』

 

 

「……」

 場に重たい沈黙が落ち、私はため息をついた。

「…それ以前に、です。これらの話は、推論に推論を重ねたものでしかないんですよね。そもそも本当に彼女やモリブデン侯爵が天秤を持っているかどうかすら、はっきりと確認できていないんですから。今世では別の人が持っているって可能性だってありますし」

「確かにな。まずそこを確認しないと話にならないか…」

 私につられたように、全員がそれぞれため息をついた。



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第160話 竜人と竜との話・12

「…そう言えば、天秤ってどのくらいの大きさなんですか?」

『このくらいの、両手に乗る程度の大きさだ。簡単に持ち運べる。と言っても、持ち歩く意味はないだろうが』

 尋ねると、ミーティオは両手を動かして大体の大きさを示した。それほど大きくはないが、懐に隠したりするのは難しそうなサイズだ。

 

「天秤の価値を知った上で所持しているなら、きっと厳重に保管するはず。最も可能性が高いのは、自分たちの膝元であるモリブデン領でしょうね」

「モリブデン領か…確か5年前に行ったが」

「ああ、そういやそうだな」

 殿下が12歳、つまり殿下にとっての最初の視察の時だ。

 その時は特に何も起こらなかったらしい。第一王子の初視察として、特に厳重な警備と慎重な行程の元に行われたはずだから、当然と言えば当然だが。

 

 

『私も毎回スピネルに付いて視察に同行しているが、その時は特に何も感じなかったと思う。しかし、高度な魔術や魔導具を使って隠してあったなら分からない。始めからそこにあると知っていれば調べようもあるが…』

 改めて調べる必要がある。彼女たちが本当に天秤を持っているのかどうか。

「しょうがねえ」と肩をすくめつつ言ったのはスピネルだ。

「何とか俺とおっさんが行ってみるしかねえか。色々準備がいるから、今すぐは無理だが」

 

「でも、危険じゃないですか?スピネルは殿下の従者ですし、行けば確実に警戒されるでしょう」

「旅人に変装して正体を隠して行けば大丈夫だろ。敵の本命はあくまで殿下だし、俺へのマークはそんなに厳しくないはずだ。まあ、アリバイ作りは必要だろうけどな」

「そうですが…」

 スピネルは機転が利くし腕も立つ。ミーティオの事を抜きにしても適任と言えるだろうが、でもやはり心配だ。

 

 

「相手は恐らく、人殺しだって躊躇わないんですよ?私が一緒に行けたらいいんですけど…」

「「それはだめだ」」

 殿下とスピネルの声が見事に重なった。

 

「わ、分かってますよ…。だって魔術師がいれば、敵を探知したりいざという時に姿を隠せるじゃないですか。他にも何かと便利ですよ」

 私だって自分がこの手の任務に向いていない事くらい自覚しているが、二人揃って即座に否定するのは酷くないだろうか。

「一応言っておきますけど、前世の私は一級魔術師でしたからね?今世ではさらに修行を重ねてますし、王宮魔術師にだって引けを取りません」

 

「だとしても、お前目立ちすぎるだろ。それに学校だってあるし。また俺と揃って休んだりしたら、どんな噂が立つと思ってんだ」

「何より危険だ。絶対許可できない」

「だから分かってますってば…」

 口々に言われ、つい唇を尖らせる。そこまで激しく止めなくてもいいと思うんだが。

 

 

「…しかし今後の事を考えても、誰か魔術師の協力者がいた方がいいのは確かだな。口が固くて信頼できる、優秀な者を探すべきだ」

 殿下が少し考える仕草をする。

「あっ。それなら、セナルモント先生を推薦します」

 私は顔を上げて言った。

 

「信頼できる人なのは保証しますし、腕も確かです。それに何より、先生は古代神話王国マニアです。ミーティオや宝玉の話をしたら絶対協力してくれます。後でちゃんと研究させると約束すれば、どんな無茶なお願いでも喜んで聞いてくれるでしょう」

「そう言えばそうだったな…」

「確かに…」

 殿下とスピネルが納得の表情で呟く。二人共、私が古代王国の遺跡に迷い込んだ時の先生のハイテンションぶりを思い出したらしい。

 

「あの、どうでしょうか」

 私はミーティオの方にも確認する。先生に事情を話して協力を求めた場合、間違いなく一番の被害…じゃなかった、一番の興味を持たれるのはミーティオだ。

『……。こちらの目的に協力してもらえるのなら、私もまた、セナルモントの目的に協力しよう。できる範囲でだが…』

 ミーティオはちょっと躊躇いつつも了承してくれた。そう言えば彼もあの時、スピネルと一緒にいたんだよな。

 

 

「…あの。ミーティオも4年前の遺跡事件の時、近くにいたんですよね?」

 気になって尋ねてみると、ミーティオはうなずいた。

『ああ。君に付いて、遺跡の中にも入っていた。いざという時はこちらから声をかけ、何とか助けようと思っていたが、君は驚くほど冷静に中を調べて歩いていて、その必要がなかった』

「多分おっさんの方がオロオロしてたぞ。あの時」

 スピネルが呆れ顔をするが、そう言うスピネルだってずいぶん私を心配していたのは知っている。

 こいつは良い奴なんだろうなとはそれまでの付き合いでも思っていたが、本当に信頼するようになったのはあの時からだ。

 

『君が遺跡を出る時だけ、少し力を貸した。鍵を発動させ、君が望む場所へ転移できるように』

「あっ。あれ、貴方のおかげだったんですか!?」

 転移と言えば普通、扉が繋がっている場所に移動するもののはずなのに、あの時は何故か殿下のいる部屋に転移したのだ。

『君は私の鱗を持っていったから、あれを媒介に手助けできたようだ。加護の力もあったかもしれない。無事に鍵は発動し、君が誰より強く想う者の元へと送り届けられた』

 

 私は思わず殿下の顔を見る。

 あの時、私はただ、殿下の元に帰りたいとそれだけを願っていた。

「…君が俺の元に戻ってきてくれて、本当に嬉しかった」

「殿下…」

 殿下がそっと微笑み、私もまた微笑み返した。

 

 

 それから、ミーティオの方を振り返る。

「本当にありがとうございました」

「俺からも感謝する。ありがとう」

『いいや。リナーリアを助けられて本当に良かった』

 ミーティオはそう答えながら笑った。

 

 …今気が付いたが、ミーティオが笑った時の柔らかい雰囲気は、何だか少しお母様やお兄様に似ている。

 彼がご先祖様だと言われてもあまりピンと来ていなかったが、ようやく腑に落ちた気がした。

 

 この国のためだけでなく、ミーティオのためにも宝玉や天秤を取り返したい。

 私にとって恩人でもあるのだし。

 ついでに、セナルモント先生がミーティオについて調べる時はなるべく私も同席しよう。先生があまり暴走しないように。

 

 

 

「…それじゃ、話は大体まとまったな。まずは天秤がモリブデン領にあるか確かめる。あと、モリブデン侯爵周辺についての調査か。その辺は俺に任せとけ。上手く話をして調べさせておく」

「よろしくお願いします」

「フロライアが殿下を狙ってるって分かっただけでも、こっちにとっちゃ十分な収穫だからな。武芸大会だとか、悪夢の魔法陣の件だとか、どうやらフェルグソンたちは関与してなかったみたいだし…。攻撃にしちゃどうも遠回しで、犯人も目的も分からなくて困ってたが、これで少しは調べやすくなる」

 なるほど。犯人の目星がついただけでも前進らしい。

 スピネルなら王子の従者という立場を最大限に利用して、上手くやってくれるだろう。頼もしい事この上ない。

 

 

 それからスピネルは、私に言い聞かせるように続ける。

「お前はとにかく、身辺に気を付けろよ。お前だっていつ狙われてもおかしくないんだからな。こっちからも護衛は出すが、自分でもちゃんと注意しろ。スフェンに頼んでるっていう調査も程々にしとけ。危険だし、藪蛇になったらまずい」

「…分かりました」

 スピネルは相変わらず口うるさいが、この場合当然の事を言っているので素直にうなずいておく。

 

「あ、調査はやめてもらうつもりですが、先輩にはある程度事情を話しても良いでしょうか?先輩は今までも私の秘密を守り、協力してくれました。信頼できる方ですし、鋭い視点と広い人脈を持っています。この先もきっと力になってくれます」

 スピネルは少し考え込んだが、殿下は「良いんじゃないか」とうなずいた。

「スフェンは君にとって良い友人で、相談相手なんだろう。それに、余計な心配や危険に巻き込まないためにも、事情は知っておいてもらった方がいい」

「なら、俺も構わない」

「ありがとうございます!」

 

 

 

 気が付けば、窓の外はすっかり日が暮れようとしている。話し込んでいる間に夕方になっていたようだ。

「門限に遅れるとまずい。護衛を呼ぶから、寮まで送ってもらえ」

「はい」

 すぐ近くだからと言って、もう油断はしない。誘拐など懲り懲りだ。

 

「ではまた、学院で」

「ああ」

 

 

 二人…いや三人と別れ、護衛の騎士と共に歩いて城の門をくぐる。

 季節はまだ冬で、外の空気は寒い。夕闇に染まり始めた空には、星が瞬き始めている。

 今日この城に入ってきた時には、二人が私の話を聞いてどう反応するのか、不安で胸がいっぱいだった。

 しかし今は、とてもすっきりした気分だ。

 

 …長年の胸のつかえがようやく取れた。

 秘密を二人に話し、ミーティオの話を聞いて、様々な事が分かったというだけではない。

 前世での最後の夜から、ずっと悔恨と自責の念を引きずってきた。殿下の言葉で、やっとそれにけりをつけられたように思う。

 もちろん今でも後悔は残っているが、今度こそちゃんと前を向ける。そんな気がする。

 

 

 宝玉。天秤。竜人。殿下を狙う者。問題は山積みだし、この先どうなるかは全く分からない。

 殿下はライオスを説得するつもりのようだが、対価を変えてくれというのはあまりに虫のいい話のようで気が引ける。

 ライオスはきっと孤独なのだろう。彼を救えるような、そんな解決策が見つかればいいのだが。

 

 何より気になるのは、やはりフロライアだ。彼女の真意が知りたい。

 その目的がこの島を救うことなのだとしても、私はとても彼女を許せないが、そのためには罪を明らかにするのが先だ。

 

 今まではただ闇雲に足掻いてきたが、今は進むべき道が少しずつ見えてきている。

 殿下のため、皆のため、私のために。できる限りの事をしようと、改めて誓った。



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登場人物紹介

■主要人物■

 

◇リナーリア・ジャローシス(17)

10歳の時、王子の従者(男)だった前世の記憶を取り戻した侯爵令嬢。

実は竜の血が混じっているので竜関連アイテムとは相性が良く、昔遺跡で拾った流星の鱗から知らないうちに魔力を吸収していた。

色々疑問が解消されてスッキリした一方で新たな問題も持ち上がっているが、王子が一番大事なのは一貫しているので本人は意外とぶれていない。

水系魔術師あるあるで、かなりの寒がり。冬は毛糸のパンツや靴下が欠かせない。

以前はメイド長が編んで母が名前を刺繍したものを使っていたが、今はコーネルが編んだものを愛用。厚手で温かく、転んでも安心な高い防御力を誇る一品。

 

◇リナライト・ジャローシス(享年20)

侯爵家の三男で、リナーリアの前世。王子エスメラルドの従者。絵に描いたような堅物眼鏡なので同級生などからは煙たがられやすかった。

寒いのが苦手な彼のため、王妃は毎年毛糸のパンツ(王子とおそろい)を編んでくれていた。それを見てからかってきた同級生のパンツを燃やしかけた事がある。

 

◇エスメラルド・ファイ・ヘリオドール(17)

淡い色の金髪に翠の瞳。現ヘリオドール国王の唯一の子で、第一王位継承者。

ついに告白を決意したが、邪魔した上に大きな障害と化した竜人の事を密かに恨んでいる。しかしそれはそれとして和解を目指す人格者。

実は前世の自分が最大のライバルなのかもしれないと知って複雑。

とりあえずピーマン嫌いを克服したいとピーマン料理をリクエストしたら、感激した料理人がはりきってピーマンのフルコースを作ってきて真っ青になった。

わりと暑がりで寒さには強い、というより鈍い。滅多に風邪を引かない。

 

◇スピネル・ブーランジェ(19)

派手な赤毛に鋼色の瞳。ブーランジェ公爵家の四男で今世での王子の従者。

実はミーティオの生霊(?)が宿っているが、余計な干渉はするなと強く言い聞かせているのでめったに出て来ない。そのため普段は存在をほぼ忘れて生活している。

初めてミーティオの姿が見えた時は向こうがだいぶ年上だったのでおっさんと呼んでいるが、少しずつ外見年齢が近付いているので、そのうち自分の方がおっさんになるのかと思うと怖い。

どちらかというと寒い方が苦手だが、王妃から贈られた毛糸のパンツは丁重に辞退し妹に譲り渡した。

 

 

■ジャローシス侯爵家の人々■

 

◇アタカマス・ジャローシス

主人公の父でジャローシス侯爵。新興貴族の割には顔が広く、特に魔術師系貴族界隈では人望がある。

愛妻家で子供はのびのび育てる方針。家庭も円満で幸せだが、末娘のトラブル体質には泣いている。

 

◇ベルチェ・ジャローシス

主人公の母で、ジャローシス侯爵夫人。おっとりとした優しい母。

かつてミーティオが愛した女性によく似ているというが、性格はあまり似ていないらしい。

 

◇ラズライト・ジャローシス(23)

主人公の6歳上の長兄で嫡男。

妹がまた行方不明になった時は激しく動転して気を揉んだが、妻の支えもあってしっかり留守を守り、父からは褒められた。

 

◇サーフェナ・ジャローシス(23)

新妻。義妹の想像を超えるトラブルメーカーぶりに仰天したが、夫の方が卒倒しそうになってるのでしっかりするしかなかった。今後も色々な意味で鍛えられそうな気がしている。

 

◇コーネル(19)

リナーリア付きの使用人。リナーリアの2歳年上で、主人思いのメイド。

主人が誘拐された事が非常にショックで、帰ってきた時には「もうお嬢様から一生目を離さないようにしよう」と覚悟を決めてしまった。

 

◇ヴォルツ・ベルトラン(19)

ジャローシス侯爵家に仕える騎士。

彼に特に落ち度はなかったのだが、リナーリアの護衛として誘拐事件には強く責任を感じており、どんな罰でも受けると言ってジャローシス家の人々を困らせ、コーネルに叱られた。

コーネルの事はただの同僚と思っていたが、それをきっかけに内心でだいぶ見直したらしい。

 

◇スミソニアン

紅茶好きでジャローシス家(特にベルチェとリナーリア)に絶対の忠誠を捧げる執事長。

誘拐事件が解決するまでの間、カップを10個以上割ってしまった。主人は気にしなくて良いと言ってくれたが、かなり落ち込んでいる。

 

 

■王宮の人々■

 

◇カルセドニー・フォウル・ヘリオドール

ヘリオドール王国国王。兄フェルグソンの裏切りには大きなショックを受けているが、人前では毅然とした態度を崩さないようにしている。

兄は昔から横暴でわがままだったものの、幼い頃には病弱な自分を庇ってくれるような事もあったので、とても悲しい。

早く息子に玉座を譲り渡したい気持ちと、まだしばらくは若者らしい青春を送っていてほしい気持ちの間で悩んでいる。

 

◇サフィア・ヘリオドール

現国王の王妃。息子のエスメラルドと似た無表情気味の美女。

心労が多く体調を崩しがちな夫をよく支えている。

趣味の編み物が数少ない癒やし。身近な人々によく靴下や手袋などをプレゼントしている。

早く息子のお嫁さんに編み物を教えたいが、最有力候補はその手のことが壊滅的に下手と聞いて少し怖くなっている。

 

◇セナルモント・ゲルスドルフ(38)

探知と解析を得意とする王宮魔術師。古代神話王国マニア。

普段は奥の部屋で古代研究ばかりしているが、今回は弟子のお陰でずいぶん真面目に仕事をする羽目になった。

そのせいで正月休みが取れなかったので、家族への埋め合わせのため近々まとまった休暇を取る予定。

ついでに妻へ何かプレゼントでもしたいと思っているが、リナーリアからプレゼント選びを手伝いたいと申し出られていて、かなり不安がある。

実は結構暑がりで、夏にローブの下はパンツ一丁だった事があり、上司から激しく怒られた。

 

◇テノーレン

将来を期待されている若き王宮魔術師。戦闘や護衛がメイン。

秘宝事件の際はひそかに活躍し、評価を上げている。

空気が乾燥して火魔術を使いやすくなるので冬は好き。

 

◇レグランド・ブーランジェ

ブーランジェ公爵家次男。女たらしのイケメン近衛騎士。

弟のスピネルに対し、好き好んで貧乏くじを引いていると呆れていたが、近頃ではあいつはあれで良いんだろうなあと思うようになっている。

女性に対しては「僕寒がりなんだ」と言うが、男性に対しては「暑苦しいのは嫌いなんだ」と言い放つ男。

 

◇ペントランド

剣聖と呼ばれる剣の達人。エスメラルドとスピネルの剣の師匠であり、近衛騎士団の剣術顧問もしている。

エスメラルドがまた一段と腕を上げた事を喜んでいるが、後ろから飛んできた剣を掴み取ったという件に関しては「儂もそのくらいできますぞ」と大人げない発言をした。

 

◇アメシスト

筆頭魔術師として王宮魔術師団をまとめている老人。風魔術を中心に幅広い魔術に造詣が深い。

ペントランドとは同期で親友だが、自分の方が老けていて年上に見られる事を非常に苦々しく思っている。

ブロシャン公爵から息子のユークレースを頼むと言われているが、なかなかのわがまま小僧ぶりに少々手を焼いており、早く誰か適当な師匠を充てがいたい。

大変な酒豪だが、親友はほとんど酒が飲めないのが昔からとても残念。

 

◇スタナム

近衛騎士団長。元は伯爵家の出身で、リーダーシップと真面目で落ち着いた性格を買われ若くして出世した。

かなりのロマンチストで趣味は読書。英雄譚が好きだが恋物語も好き。

奥さんにプロポーズする際に有名な恋物語から台詞を引用したが、その事をからかわれると烈火の如く怒るらしい。

 

◇カーフォル

元はタルノウィッツ領の騎士だったが、禁術を使った人体実験に利用されていたところをリナーリアたちに助けられた。

その後は甥のアイキンと共に王都に移住。王宮の護衛兵に採用されたが、秘宝事件に巻き込まれてしまった。数ヶ月の減給となったが、命があっただけマシだと自分を慰めている。

意外と教養があり、小説好き。走れ○ロスがお気に入り。

事件後は趣味が合うと思ったらしいスタナムから親しげに声をかけられるようになり、恐縮している。

 

◇フェルグソン・ヘリオドール

現国王の兄。既に王位継承権は持っていない。騎士至上主義者。

クーデターを企み数年前から密かにその準備を進めていたが、焦って計画を早めようとし秘宝を盗んだ結果、全てが明るみに出て失敗。今は裁きを待つ身となっている。

息子に愛情が無い訳ではないが、自分が権力を取り戻すための駒として見ている側面が大きかった。

 

 

■魔術学院の人々■

 

◇フロライア・モリブデン(17)

モリブデン侯爵家の娘である貴族令嬢。主人公と同年でクラスメイト。

前世ではエスメラルドの婚約者だった謎多き美人。誰にでも別け隔てなく接するが、本当に親しい者はいない。

 

◇カーネリア・ブーランジェ(17)

ブーランジェ公爵家の末妹。

周囲にカップルが増えてきたため、自分もそろそろ恋人が欲しいと思い始めている。

ユークレースの事を若干意識し始めたが、一方で「旦那にしたら面倒くさそう」という非常に現実的な感想も抱いており、自分からどうこうする気は今の所ない。

暑いのも寒いのも苦手で、夏はすぐ薄着になりたがるが、冬はもこもこに丸くなっている。

 

◇スフェン・ゲータイト(18)

女騎士を目指しつつ劇作家も志す男装女子。

リナーリアの秘密を唯一知っており、友人としてその幸せを願っている。

自分自身は一生恋愛しないつもりだが、他人の恋路は素直に応援しており、自分のファンの女の子たちがあまり道を踏み外さないようさりげなく後押ししている。

綺麗好きで、「寒いのは我慢できるが汗は止められない」という理由で夏より冬が好き。

 

◇ヘルビン・ゲータイト(17)

主人公の同級生。スフェンの弟で、前世ではエスメラルドと親しかった。今世でもニッケルを通じて仲良くなっている。

最近知り合った下級生の女子をちょっといいなと思っているが、その事を早速姉に嗅ぎつけられたので恐れ慄いた。

 

◇ユークレース・ブロシャン(15)

ブロシャン公爵家の次男。主人公の2歳年下だが、飛び級で学院に入学してきた天才少年魔術師。

王都に来てから色々と学ぶ事が多く、充実した日々を送っている。特に魔術師修業が楽しい。

クラスの女子の一人から言い寄られていて、同級生男子から「あの子とカーネリア嬢どっちが本命なんだ」と尋ねられたが、「それより今はリナーリアに魔術で勝ちたい」と答えてそこら中の顰蹙を買った。しかし、そのおかげで少しだけ魔術師友達ができた。

 

◇ヴァレリー・ブロシャン(16)

ブロシャン公爵家の長女で、ユークレースの姉。学院でモテまくっているが、今の所全て上手にあしらっている。

リナーリア経由で知り合いになったミメットから「腹黒」と罵られ、笑顔で「引きこもり」と言い返してすったもんだの喧嘩になったが、その後ちょっと仲良くなったらしい。

 

◇ペタラ・サマルスキー(17)

リナーリアのクラスメイト。

読書好きで気弱な性格だが、恋人ができて少し積極的な性格になった。

カーネリアとユークレースの仲に興味津々だが、おせっかいを焼くのはぐっと我慢して見守っている。

 

◇アーゲン・パイロープ(17)

主人公の同級生でパイロープ公爵家の嫡男。黒髪に青い目の貴公子。

スポーツにハマったおかげで腹黒貴公子から爽やか貴公子にジョブチェンジした。しかしますます厄介で食えない性格になってきたと一部からは評されている。

 

◇ニッケル・ペクロラス(17)

クラスメイト。絵を描くのが特技。

見た目は冴えないが、その素朴な性格と、エスメラルドの友人である点、伯爵家の跡継ぎである事などから密かに女子人気が上昇している。本人は自分を理解してくれる女性と付き合いたいらしい。

外に写生に行くのが密かな趣味のため、暖かい季節の方が好き。

 

◇クリード(17)

クラスメイト。お調子者でクラスのムードメーカー的な存在。

ようやく彼女が出来たと思ったらあっという間に振られ、親友のスパーに泣きついた。

 

◇オットレ・ファイ・ヘリオドール(18)

王兄フェルグソンの息子で、エスメラルドの従兄弟。高い王位継承権を持っていた。

傲慢かつ僻みっぽい性格。

母は幼い頃に死んでおり、父からは王位を継げなかった恨みつらみを聞かされて育った。

秘宝事件の主犯の一人として、現在は指名手配中。

 

◇ミメット・コーリンガ(16)

主人公より1学年下。コーリンガ公爵の年の離れた妹で、前世では主人公の婚約者だった。

人見知りでツンデレ。

側近のレヴィナ以外で初めてできた友人であるリナーリアの事を内心では強く慕っているが、なかなか素直になれない。

どちらかというと寒がりだが、夏でも厚着しているのはただのファッションで本当はやせ我慢をしている。

 

 

■その他■

 

◇フランケ

フェルグソンの腹心で、元々は従者だった。

昔からフェルグソンの女癖の悪さには手を焼いていたが、「身籠らせてしまった令嬢を疎んじ、階段から突き落として殺した」という噂については強く否定していた。

妻子がいるが、クーデター計画については一切話していなかった。

 

◇ゲルマン

老いた王宮魔術師。結界魔術が得意で、本も出版している。

かつてはアメシストと筆頭魔術師の座を争っていたが敗北。その事について、「結界術よりも攻撃魔術が評価される世の中なのだ」と不満を漏らしていたらしい。

 

◇デーナ

オレラシア城に囚われたリナーリアの世話をしていたメイド。30代前半。

かつて唯一の身寄りである母と共にオレラシア城に身を寄せ、住み込みで働き始めた。

言葉が話せないという障害を持っているため、母が死んだ後は孤独な人生を送っていた。

恩を感じたリナーリアの配慮により、今後は王宮で下働きをする予定。

 

◇ミーティオ(流星)

ベリル島の守護神の一人、水霊神によって創られた代理の守護者。人の願いを叶え、人を守る時にその力を最大限に発揮する。

その正体は黒い鱗と赤い瞳を持つ大きな竜だが、肉体は封印され火竜山の底で眠っている。魂は現在生霊と化してスピネルに宿っている。

間近で成長を見守ってきたスピネルに対しては息子のような感情を抱いているが、本人からは鬱陶しがられていてちょっと寂しい。

リナーリアに対しても娘のように思っているが、口に出したら「キモい」とかスピネルに罵られそうなので我慢している。

 

◇セレナ

はるか昔、古代神話王国の時代に生きていた女性。

ミーティオの恋人であり、リナーリアの祖先でもある。

聡明かつ自由闊達な性格だった。趣味はチェスと読書。

 

◇ライオス

角と翼を持ち、褐色の肌をしている竜人。ミーティオが作った竜の宝玉を所持している。

その正体は古代神話王国の研究者たちによって造り出された、人と竜を合わせた生命体。

かつては魔獣から人を守るために戦っていたが、今は人を嫌っている模様。

普段は山の中に身を隠している。好物は飴。



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挿話・25 特別な彼女(前)【前世】※

 色褪せて黄色くなった草むらを、がさがさとひたすらかき分ける。

 いつもならきちんと管理されているだろう学院の敷地内の雑草は、冬を間近に控えているために刈られておらず、枯れかかった今がかえって一番背が高い。

 おかげで、茂みの中に落ちたものを探すのに思った以上の手間がかかっている。

 草むらの奥を覗き込もうとすると、眼鏡がずり落ちそうになった。つい舌打ちしそうになるのをこらえ、黙って眼鏡の位置を直す。

 

 

 リナライトが何故こうして学院の校舎前にある茂みの中にいるのかと言うと、話は30分ほど前に遡る。

 第一王子エスメラルドの従者として王子と常に共に行動しているリナライトだが、今日は授業が終わった後は王子に先に帰ってもらっていた。自分は生徒会から、魔術の授業に使う実験道具の点検を頼まれていたからだ。

 王子は今日城に帰ったら剣術訓練の予定だ。自分は魔術訓練で別行動なので、一緒に帰る必要はない。

 

 点検は滞りなく終わったが、問題はその帰り。道具が収められた準備室を出ようとした所で起きた。

 王子の従兄オットレとその取り巻きに絡まれたのだ。何の用事で居残っていたのかは知らないが、珍しくリナライトが一人でいるのを見て、ここぞとばかりに因縁をつけてきた。

 挨拶はどうしただの態度が気に入らないだの、どこのごろつきかと思うような実に下らない内容で、リナライトは頭には来たものの適当に受け流して通り過ぎようとした。先日も上級生相手にうっかり喧嘩になりかけ、教師から注意されていたせいもある。

 

 しかしオットレたちはそのまま行かせてはくれなかった。行く手に立ち塞がると、取り巻きの一人がリナライトの手から素早く鞄を奪い取った。

「返してください!」

 咄嗟に取り返そうとしたが、その取り巻きは鞄を高々と持ち上げた。

「返して欲しいなら、自分で取ってみろよ!」

 相手は上級生であり、こちらより背が高い。背伸びをしても手が届かない。大変な屈辱である。

 

 思わずムキになって手を伸ばすと、鞄の端に手が当たった。ぐらりと鞄が傾き、その拍子に蓋が開く。そこにはちょうど、廊下の窓があった。

「あっ…!」

 運悪く、その窓は開いていた。もう冬が近いというのに今日は暖かかったせいだ。そして、場所は3階だった。

 半回転した鞄ごと、中身は見事にバラバラになってはるか地面へと落下した。

 

「あー!」

 慌てて窓に駆け寄ったリナライトは、教科書やらノートやらが草むらの中に散らばっているのを確認すると、後ろを振り返ってぎろりとオットレたちを睨みつけた。

 堪忍袋の尾はもうすっかり切れている。絶対に許さない。

 

 魔術を使ってオットレたちを吹き飛ばしてやろうとした瞬間、後ろから「何をしているんだ」という声がかかった。

 中年の男性教師だ。3年生の担任で、リナライトとはあまり接点がない。

「別に何も。世間話をしていただけですよ」

 オットレが肩をすくめてあざ笑い、取り巻きたちも次々にそれに同意する。

 リナライトは激しく腹が立ったが、何も言わなかった。多勢に無勢だったとは言え、鞄を取り上げられ窓から落とされたなどと人には言いたくなかったし、生徒同士での争いを教師に言いつけるのは何だか負けのような気がしたのである。

 

 

 

 オットレたちや教師はそのまま立ち去り、リナライトは仕方なく窓の下の茂みに向かった。

 放課後なので周囲に生徒の姿は少ないのが不幸中の幸いだ。

 草をかき分け、教科書や文房具を拾い集める。3階から落ちたせいか、思ったより広範囲に散らばっているようだ。

 ほとんどのものはすぐに見つかったが、今朝方降った雨のせいで汚れてしまっているものもいくつかあった。

 そして、ケースに入ったコンパスだけが見つからない。

 

 コンパスは以前父から貰ったものだ。魔術師にとっては必須アイテムで、特別高価なものではないが愛着はある。

 普段あまり実家のジャローシス屋敷に行く事はしないのだが、父や母はいつも自分を気にかけてくれるし、折を見て会いに来てくれる。無理に押しかけて来たりはしないが、何かのついでに顔を見せてはわずかに世間話をして帰っていく。あまり長居をしないのは、従者として忙しい息子に気を遣っているのだろう。

 その父がくれたものをこんな事で失くしたくない。

 きっとどこかの草の陰に落ちているのだろうと、辺りを探し回る。

 

 しかし、いくら探しても見慣れたケースは出て来なかった。

 ぽつぽつと校舎から出ていく生徒たちは皆、奇妙なものを見る顔で草むらの中のリナライトを見ている。

 あまり目立ちたくはないが、諦めたくもない。

 今頃セナルモント先生は城で自分が来るのを待っているのだろうなと思う。先生はのんびりした性格なので少しくらい遅れて行っても何も言わないが、さすがにそろそろ心配しているかも知れない。

 そんな事を考えながらコンパス探しを続けていると、誰かが枯れ草を踏みしめる音が聴こえた。

 

 

「…あの、どうなさったのですか?」

 声をかけられ振り向くと、一人の女生徒が立っていた。

 ウェーブの掛かった蜂蜜色の髪、紫の瞳。学院の制服をきっちりと着こなした凛とした姿。

 クラスメイトのフロライア・モリブデンだ。

 

「何でもありません」

 リナライトはそう言って、再び足元に目を落とした。少し冷たい言い方になってしまったかもしれない。

 だが、雨に湿った草むらの中をかき分けて探しているため、今の自分は薄汚れた姿になっている。こんな所を女子に見られたくはない。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「でも、お困りの様子に見えますわ。何かお探しなのでしょう?」

「いえ。本当に、何でも…」

 リナライトの返事を聞くより早く、フロライアはその場にしゃがみ込んでいた。

「どんなものですか?大きさや色は?」

「…け、ケースに入ったコンパスです。手のひらくらいの、青色の」

 つい答えてしまった。フロライアはそのまま、周辺の草をかき分け探し始める。

 リナライトはかなり戸惑った。女子のスカート姿では、こんな草むらの中を探すのは大変だろうに。

 

 

「一体どうして、このような所に落とされたのですか?」

 フロライアはちらりと後ろを振り返った。そこには、既に拾い集めた教科書やノートが重ねられている。一目で汚れているのが分かるものだ。

「……」

 リナライトはただ黙り込んだ。言いたくない。

 まるで自分が虐められていたかのような状況を、クラスメイト、それも女子に知られたくはない。

 実際虐められていたに近いのだが、それを認めるのはプライドが許さなかった。

 

 

 フロライアはそれ以上尋ねる事はせず、黙って探し続けてくれている。

 流れる沈黙に、リナライトは申し訳ない気持ちになった。親切にしてくれている相手に対し、自分はあまりに愛想のない対応をしている。

 だが、こういう時どうしたら良いのかわからない。

 

「…フロライア嬢は、何故こんな時間まで学院に?」

 とりあえず話しかけてみる。授業が終わってからだいぶ時間が経っていて、日はもう傾き始めている。

「図書室で自習をしておりましたの。歴史の授業で、板書を書き写しきれなかったものですから…自分なりにまとめていたら、少し時間がかかってしまいましたわ」

 

「勉強熱心なんですね」

「とんでもありません。リナライト様程ではありませんわ」

 リナライトは入学後の最初のテストで一位を取っている。

 だが、フロライアも一桁台の成績だったはずだ。そうして地道に勉強をして取った成績なのだろう。

 努力家なんだな、とリナライトは思った。



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挿話・25 特別な彼女(後)【前世】

「…ありましたわ!」

 しばらくして、フロライアが明るい声を上げた。

「これではありませんか?汚れてしまっていますが…」

「……!はい、これです。間違いありません」

 青いケースに泥が付着したそれは、確かにリナライトが父から貰ったものだ。

 

「こちらの草の陰に、誰かの大きな足跡がありました。そこが水溜まりになっていて、中に沈んでいたのですわ」

 後ろを指差すフロライアの姿を見て、リナライトは心苦しくなった。

 案の定、草むらを探し回った彼女の制服の裾には泥が付着し、汚れてしまっている。

 

「ありがとうございました。本当に申し訳ありません」

 感謝と共に詫びるリナライトに、彼女は優しく微笑んだ。

「どうして謝るのですか?困った時はお互い様ではありませんか」

 その細い指先も泥で汚れている事に気付き、慌てて懐を探る。

 

 

「どうぞ、使ってください」

 ハンカチを手渡すと、彼女はもう一度微笑んで「ありがとうございます」と言って受け取った。

 広げたそれで手を拭き、ふいに顔をしかめる。

 見ると、彼女の指先はわずかに血が滲んでいるようだった。枯れ草で切ってしまったらしい。

 

「見せてください」

 リナライトはフロライアの手を取った。

 まずは水魔術でその手を洗い流すと、傷口に染みたのか彼女はまた少し顔をしかめた。

「痛かったですか?」

「いえ、大丈夫ですわ」

 

 ハンカチの綺麗な部分で慎重に水気を拭き取り、手をかざして治癒をかける。念のために解毒の魔術も使った。傷口が膿んでしまったら大変だ。

「…ありがとうございます。リナライト様、本当に魔術がお上手なのですね」

「大した事はありません」

 そう言いながら、顔を近付けてもう一度彼女の指先をよく検める。問題なく治癒できたようだ。かすり傷だったので、痕も残っていない。

 

 ほっと安心し、それから自分が女性の手を取ってまじまじと見つめているという状況に気が付いたリナライトは、慌てて手を離した。

「す、すみません!」

「大丈夫ですわ」

 その焦りようが面白かったのか、フロライアはくすくす笑った。

 

 

 気恥ずかしさで赤面しながら、隅の方にまとめて置いておいた鞄や教科書へと歩み寄り、拾い上げる。

 フロライアはそれらを見て少し眉を寄せた。

「ずいぶん汚れてしまっているように見えますわ。もう使えないものもあるのではないですか?」

「そうですね…」

 ぱらぱらとめくってみる。特に汚れが酷いのは数学の教科書と、歴史のノートだ。ちょうど泥水が溜まっている所に落ちていたので、大きな染みができてページ同士がくっついている。

 教科書は教師に頼めば新しいものを用意してもらえると思うが、ノートはどうしようもない。

 

「まあ、仕方ありません」

 オットレたちへの怒りを抑えながら、全てを鞄へとしまい込む。もう泥はだいたい乾いているから、鞄の中はそう汚れないだろう。

 その間にフロライアも、隅に置いていた自分の鞄を持ち上げていた。蓋を開け、中から何かを取り出す。

「これを。よろしければお貸し致しますわ」

 

 

 彼女が差し出したのは歴史のノートだった。

「そんなに汚れていては、もう読めませんでしょう。だからこれを写せばよろしいかと…」

 リナライトは思わず、まじまじとノートを見つめてしまった。

 淡いピンク色の表紙には、綺麗に整った文字で彼女の名前が記されている。

 

「…あの、余計なお世話でしたでしょうか?」

「あっ!いえ、そのような事は、決して…!」

 リナライトは大慌てで両手を自分の上着の裾で拭くと、ノートを受け取った。

 開いてみると、やはり美しい文字が並んでいる。先程言っていた、図書室でまとめたノートなのだろう。授業よりも細かな内容が書かれている。

 

「…とても丁寧にまとめてありますね」

「まあ、そんな。リナライト様にお褒めいただく程のものではありませんわ」

「お世辞ではありません。とても分かりやすく書かれています」

 本当によく出来ている。これを書き写せば、自分の勉強もきっと捗るだろう。

 

 

「かたじけない。なるべく早くお返しします」

「ゆっくりでも大丈夫ですわ。次のテストはまだ先ですし、リナライト様はお忙しくていらっしゃるでしょう」

 優しく言われ、何から何まで本当に申し訳ないとリナライトは思う。

「何かお礼を致します。…ご希望はありますか?」

「いいえ。言ったではありませんか、困った時はお互い様だと」

 

 静かに微笑んだ彼女に、リナライトは少し驚き、そして自分を恥じた。

 彼女は何か目的があるのだろうと思っていた。例えば従者である自分に、王子とのお茶会をセッティングして欲しいだとか。

 例え初めからそのつもりだった訳ではなく、ただの親切心からだったとしても、年頃のご令嬢ならこのチャンスを逃しはしないだろう。

 制服を汚し、傷を負ってまで手伝ったのだから、そのくらいの「ご褒美」は当然。

 …そう考えるだろうと、漠然と思っていた。

 

「すみません…」

「また謝っていらっしゃいますわ。どうして?」

「いえ、その。…すみません」

「おかしな方」

 フロライアは口元に手を当てて楽しげに笑った。

 

 

「この事は誰にも言いませんわ。ノートを返す時も、寮の郵便受けに入れて下さって構いません」

 そう付け足した彼女に、リナライトは僅かに目を丸くした。

「だって、エスメラルド殿下には知られたくないでしょう?」

「……」

 リナライトはつい無言になる。

 自分は、いつもきっちりと真面目に授業のノートを取っている。誰かからノートを借りることなどまずない。フロライアにノートを返却している所を見られたら、勘の良い王子なら何か気付いてしまうかもしれない。

 

「…貴女は、何でもお見通しなんですね」

 そう嘆息すると、彼女はくすくすと笑った。

「そんな事ありません。ただ、リナライト様は意外と分かりやすくていらっしゃいますわ」

「そ、そうでしょうか…」

「ええ。殿下にご心配をかけたくないと顔に書いてあります」

 何だかとても恥ずかしい。今が夕方で良かったと思う。自分がまた赤面している事は、夕日のおかげできっとばれないだろう。

 

 寮の近くまで並んで歩き、そこで彼女と別れた。改めて礼を言い、頭を下げる。

「ありがとうございました。とても助かりました」

「いいえ。では、また明日。ごきげんよう」

 夕焼けの中で去りゆく彼女の微笑みも、後ろ姿も、とても美しいものとしてリナライトの目に焼き付いた。

 

 

 

 城に帰り、急いで王宮魔術師団の所へ行くと、だらしなく崩れた姿勢で椅子に座ったセナルモントは、何かの本を熱心に読んでいる所だった。

「やあ、リナライト君、そろそろ訓練の時間かい?」

 訓練に遅れた事を気にしていないどころか気付いてすらいないらしい師匠に、リナライトは安心しつつも内心呆れる。

 

「一体何の本を読んでいるんですか?」

「これはねえ、古代神話王国の文化や言葉について解説した本なんだけど、とても面白いんだよ。今までとは違う解釈をしている単語があって、これを参考にすれば今まで意味がよく分からなかった古代語の本も翻訳し直せるかもしれない。例えばね…」

 セナルモントは嬉しそうに解説を始める。興味をそそられたので、リナライトも身を乗り出して本を覗き込んだ。

 

 

 

 

「…それで結局、全く訓練ができなかったんです。いえ、つい夢中になった私も悪いんですが…」

「セナルモントらしいな」

 夕食の席、向かいに座った王子は話を聞いてわずかに苦笑した。

「今の所、一級魔術師になるための勉強は順調に進んでるんだろう?1日くらい訓練しなくても別に良いんじゃないのか」

「そうですが、今は学院の勉強もしなければなりませんし…」

 そう言うと、王子は少しだけ首を傾げた。

「何か良い事でもあったのか?機嫌が良さそうだ」

 

 尋ねられ、咄嗟に頭に浮かんだのは彼女の事だった。一緒に探し物をし、ノートを貸してくれた彼女。

「…いえ。特に、何も」

「そうか」

 王子は特に追及せず、またフォークを動かし夕食を口に運んだ。

 リナライトもまた、皿の上のニンジンにフォークを突き刺す。

 

 不思議な人だと思った。彼女の慈愛に溢れた微笑みは、まるでこちらの心を見透かしているかのようだ。だがそれが不快ではない。

 今まで出会ったどのご令嬢とも違う。美しく、優しく、聡明で、温かい。

 彼女は何か、凄く特別な存在のように思える。

 

「…リナライト。どうかしたか?」

 声をかけられ、はっと顔を上げる。

「い、いえ、何でもありません。少しぼーっとしていました」

「疲れているんじゃないのか。お前はすぐ無理をする」

「いえ、本当に大丈夫です。考え事をしていただけなので」

「なら良いが」

 

 

 食事を続けながら、そっと誰よりも敬愛する主である王子の様子を窺う。

 その整った顔立ちからはだんだんと少年らしさが抜け、同年代の者たちよりも一足早く大人になりつつあるように思える。まるで周囲の期待に応えようとするかのように。自分は従者であるというのに、置いていかれないようにするだけで精一杯だ。

 王子はきっとあと10年もしないうちに、王冠を頭上に戴く事になるのだろう。その時には結婚し、世継ぎだって出来ているかもしれない。

 

 …特別だというのなら、この方、エスメラルド殿下こそが自分にとって何より一番の特別だ。

 そう思った途端、何かが腑に落ちた気がした。

 彼女のような人は、きっとこの主にこそふさわしいのだ。

 

 

「また手が止まっているぞ。もう少し食べろ」

「す、すみません」

 王子に注意され、思考を中断して急いで食事を再開する。もうだいぶ満腹になってきているが、あまり料理を残すのは申し訳ない。

 

 ほんの少し感じた胸の痛みは、気が付かないふりをした。



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第161話 女子ファッション会(前)

「だから!ファッションは、ただ個性を主張するものじゃないんです!!季節!場所!相手!そういうものを考慮し取り入れた上で、最大限に自分を輝かせるものなんです!!」

「嫌と言ったら嫌!!」

 

 喧々囂々と繰り広げられる言い争いに、私はただオロオロとしていた。

 信念に基づくファッション論を並べ立てるヴァレリー様に、頭からそれを否定して受け入れないミメットの口喧嘩は、ひたすらに平行線だった。

 横にいる店員も困り果てた様子だ。一応笑顔を貼り付けているのは大したものだが。

 

 

 ここは王都にある仕立て屋の店内。以前、殿下やスピネルと共に来た流行りの店だ。

 私は昨年、殿下から贈られたあの可愛らしい白いワンピースの話を、幾人かの親しい友人に聞かせていた。ぜひ見せてほしいと言われ、皆が私の部屋に集まってお披露目をしたりもした。

 ワンピースは非常に評判が良かった。とてもよく似合うと言われ、私も満更ではなかった。やはり殿下の見立ては素晴らしかった。

「殿下の趣味は分かりやすい」と皆口々に言っていたのが少し気になったが。

 

 実物の商品を見た事で、皆ますますその仕立て屋に興味津々のようだった。流れで、年明けあたりに皆で一緒に行ってみないかという話になった。

 春になれば王都は貴族がやって来て人が増える。その前のまだ空いているうちなら、注文から仕立てまできっとスムーズだ。暖かくなる頃には出来上がるだろうし、春向けの服を頼むのに良いんじゃないか…と言ったのはヴァレリー様で、私はとても感心した。

 服は必要になったり薦められた時に作るものであり、納期とはとにかく余裕を持って注文しておくもの、としか思っていなかったからだ。

 

 

 諸々の事件で少し遅くなったが、その話は私が学院に復帰した事でようやく実現した。

 メンバーは私、カーネリア様、ヴァレリー様、スフェン先輩、そしてミメットとレヴィナ嬢である。

 ミメットは最初私が誘った時にはすげなく断られたのだが、後でレヴィナ嬢から「任せてください。私が連れて行きます」と自信ありげに断言され、任せておいたら本当に来てびっくりした。

 だがどうやら「ごく少人数での趣味の集まり」で、私も参加すると聞いての事らしい。いざやって来てみれば場所は仕立て屋で、ミメットは「騙したわね!!」と激怒していた。

 しかしレヴィナ嬢は別に嘘をついてはいない。少人数だし、趣味の集まりと言えばまあそうだ。

 

 私の友人のうち、女子には少しずつミメットを紹介していっている。彼女はどうやら男子が苦手のようだからだ。

 ミメットは女子一人や二人が相手なら、親しげとまではとても行かないが、最低限の対応ができるようだった。

 私がしつこく話しかけ続けた事で、少し他人との会話に慣れたのかもしれない。一応の返答や相槌などの反応を返してくれる。

 

 そして、私の友人であるカーネリア様やスフェン先輩は、非常に社交というか会話能力が高かった。

 特にスフェン先輩は、自分のペースに他人を巻き込むのが上手い。しかも先輩は読書家でもあるので、本好きのミメットの興味を引く話題をいくつも持っている。ミメットも悪くない反応をしていた。

 カーネリア様にも、最初は警戒している様子だったがだいぶ慣れてきたようだ。

 

 

 問題はヴァレリー様である。

 ミメットとクラスメイトである彼女は、男性からは非常にモテるが一部の女性からは嫌われているらしい。

 あまりに人気があるから嫉妬されているんだろうと、カーネリア様は言っていた。

 

 生まれ変わって性別が変わった事でなんとなく分かったのだが、男性と女性の嫉妬は結構違うものだ。

 男性同士の嫉妬というのは、特に地位や権力に関して発揮される時、非常に攻撃的だ。恐ろしく冷酷で、残酷な牙を剥いたりする。例えば、王位を得られなかったフェルグソンのように。

 だが女性同士の嫉妬はもっと日常的に、ねちねちとしつこい形で発揮されるものだ。実害は少ないが、大変に精神を削る。

 ヴァレリー様はいつもこの女の嫉妬を笑顔で受け流しているようである。本当に強い方だと思う。

 

 まあそれは置いておいて、どうやらミメットもまた、ヴァレリー様へ好印象を抱いていない一人であるらしい。

 しかし嫉妬とかではなく、単純に「気が合わなそう」という偏見によるもののように見えた。

 何しろミメットは人付き合いというものをほとんどしない。ヴァレリー様に対しても、好き嫌いをどうこう言える程によく知らないはずなのだ。

 だから私は、ちゃんとお互いを知り合えば二人は打ち解けられるのではないかと思っていたのだが…。

 

 

 

「貴女なんかに、私の何が分かるの!」

「ファッションについては、よほど詳しいつもりです!」

 どうも甘い考えだったようだ。二人がこんなに相性が悪いとは思わなかった。

 ミメットが誰にでもツンツンしているのはいつもの事だが、あのにこやかなヴァレリー様がこんなに大声を出している姿など初めて見る。

 

 事の発端は、いつものように黒ずくめの服装でやって来て、またもや黒い服を選ぼうとしていたミメットに、ヴァレリー様が待ったをかけた事だ。

 ミメットは自分の黒髪黒瞳の容姿をコンプレックスに思っているようなのだが、それに合わせるかのように暗い色…特に黒のドレスばかり好んで着ている。昼でも夜でも、春や夏でもだ。

 

 今回は皆、春用の服を選びに来ている。春は特に明るく淡い色が好まれる季節だ。

 ファッションにこだわりのあるヴァレリー様としては、そこで黒い服を選ぶなどとんでもないと思ったらしい。

 単純な親切心だったのだろう、別の服を薦めたところ、ミメットは激しく反発してしまったのである。

 

 

 …そうして、冒頭に戻る。

 言い争う二人に、一体どうしたものかとレヴィナ嬢の方を見ると、彼女は悠々とした様子で男性服を見ては何やら感心していた。

 なぜ男性服…?ではなく、あんな状態のミメットを放っておいて良いのか。

「あの、お願いですから、ミメットを宥めるのを手伝ってください」

「うーん。でもミメット様、なんか結構楽しそうなんですよねえ。あんな風に熱心に構ってもらって」

「ええっ?」

 楽しそう…?あれが?いきり立っているように見えるが。

 

 それにうなずいたのはカーネリア様だ。

「そうねえ。ヴァレリー様も、あんな風に感情を表に出してるのは珍しいわ。何だか生き生きしてるように見えるわね」

「ええええ?」

 生き生き…?確かに勢い良く喧嘩はしているが。

 何だか二人はさほど重大な事態とは思っておらず、静観する構えのようだ。

 私はますますオロオロする。

 

「…ふむ、確かに一理あるね。ぶつかり合う事が理解に繋がるというのも、物語では王道だ」

 そう言って腕を組んだのはスフェン先輩だった。

「だけどリナーリア君や店員の女性を、あまり困らせるのは良くないな。他の客の迷惑にもなってしまう」

「そ、そうですよ!周りに迷惑をかけるのはだめです!」

 私は必死で同意した。

 争いぶつかり合った敵同士が、その勝負を通して最後には分かり合う…という筋の物語は私もいくつか知っている。だが、現実でそれは非常に傍迷惑なものだと初めて知った。正直知りたくなかった。

 

 

「と、いう訳だミメット君!リナーリア君のためにもそろそろ折れたまえ!」

「はぁ!?」

 突然先輩から話を振られたミメットが驚愕の声を上げた。

「どうして私が折れなきゃいけないの!」

「先程から聞いていたが、君が拒否する理由はあくまで感情的なもののようだ。公平に判断して、ヴァレリー君の言葉の方に理があると言わざるを得ない」

「っ…!」

 

「ただ思いのままに相手を否定するのは美しくないよ。本当に譲れないのなら、何故そう思っているのかをきちんと説明するのが一番いい。あくまでエレガントに!確たる根拠を持って反論すべきだ!…相手が真剣であるなら、尚更ね」

 最後は優しく諭すように言われ、ミメットはぐっと唇を噛んだ。

 

「ヴァレリー君も。相手を思っての主張なら、理解を得る努力を怠ってはいけないよ。相手に分かりやすい形、受け入れやすい形で提供する事を意識すべきだ!…君なら、それができるんじゃないのかい?」

 今度はヴァレリー様がはっとした表情になる。

 主張そのものは間違っていなくても、相手に無理に押し付けてしまうのは良くない。その事を思い出したのだろう。

 

 

「どうだい、ミメット君。それほどに黒い服を好む理由を、僕たちに聞かせてくれないだろうか」

「……」

 じっと黙り込んで下を向くミメットに、私は少し焦る。ここに誘ったのは私なのだし、先輩にばかり任せないで何とかしなければ。

「ミメット様、大丈夫です!ここにいらっしゃる皆様はとても優しい方ばかりです。ちゃんとお話を聞いて下さいますよ」

 

「…優しいの?」

 ミメットは疑わしげな顔でヴァレリー様を見て、ヴァレリー様の額に少し青筋が浮いた。

 今日の彼女は珍しく大人げなくヒートアップしていたので、ちょっと説得力が足りなかったらしい。

「ミメット様、ヴァレリー様はとても忍耐強い方ですよ。周りの人に合わせるのが上手ですが、それに流される事がありません。自分をしっかり持っていて、私も学ぶ事が多いです。ミメット様も、落ち着いて話せばきっと分かり合えます」

 

 さらに、カーネリア様が助け舟を出してくれる。

「ヴァレリー様が忍耐強くて心が広いのは本当よ。何しろリナーリア様ったら、去年ブロシャン領に行った時、ヴァレリー様の弟のユークをボッコボコのこてんぱんに負かして泣かせたのよ。なのにちっとも怒らなかったわ」

「そ、そんな事したの…?」

 ミメットは若干引いている。確かにその通りの事をやったので反論できない。

 

 

「でも、ブロシャン家のあいつって天才魔術師なんじゃなかったの?どうやってボコボコにしたの」

「あらミメット様、ご存じなかったのですか?リナーリア様は学院きっての武闘派魔術師として、勇名を馳せていらっしゃるんですよ」

 首を傾げながら言ったのはレヴィナ嬢だ。

 ちょっと待て、武闘派魔術師って何だ。私は支援魔術師だが。

 

「今まで残した武勇伝は数知れず。青眼(ブルーアイズ・)の白兎(ホワイト・ラビット)、銀髪鬼、筋肉女神、青銀の魔女などの異名を取り…」

「待って下さいそんな異名知りません!!いえ知ってるのもありますが断固否定します!!」

「王宮の騎士や魔術師を操って巨大な魔獣を何体も屠り、武芸大会では王子殿下一味を足元にひれ伏させ、高笑いと共に余裕の優勝」

「操ってませんしひれ伏させてもいませんが!?殿下一味って何!!」

「男女問わずに手玉に取るその手管はまさに魔女!!ウサ耳の魔女!!」

「取ってないぞ!!!ウサ耳関係ないし!!!!」

 

 あまりのことに、数年ぶりに男言葉が出てしまった。

 先輩が少し困ったような表情でちらりと私を見る。

「うん…まあ、誤解が混じってるよ?…3割くらいは合ってるけど」

「3割も!?」

「あっ、いや、半分くらいかな…」

「半分!?なぜ上方修正するんです!??」

 

 心外である。非常に心外である。

 おそらく噂を聞いただけなのであろうレヴィナ嬢はともかく、先輩まで半分が本当と言うのは酷くないだろうか。

「一体誰がそんな異名を言ったんですか!?初めて聞いたんですが!」

 魔女はまだ分かるが、銀髪鬼ってなんだよ。

「あ、半分は私が今考えました。今後広めたいと思っております」

「広めなくていいです!!!!!」

 しかも考えたの半分だけなのか。すでに本当に言われてるやつってどれなんだよ。



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第162話 女子ファッション会(後)

「…えーと、それより、ミメット様よ。黒い服ばかり選んで着ている理由、私も知りたいわ」

 カーネリア様が咳払いをしつつ言う。

「趣味は人それぞれだし、好きで着ているんだったら別に良いと思うわ。でも、黒い服を選んでいる時のミメット様、ちっとも楽しそうじゃなかったんだもの。どうしてそんな顔で服を選ぶの?」

 ミメットはまだ躊躇っていたが、直前のやり取りでだいぶ気持ちがほぐれたようだ。私としては不本意だが。

ポツリと呟くように、理由を言った。

 

「…クネーベル様が。私みたいな暗い色の髪には、明るい色の服は似合わないって…いつも、言うから」

 クネーベルというのは、コーリンガ公爵の正妻だ。第二夫人の娘であるミメットにとっては義母に当たる。

「ミメット様の髪は、生みのお母様譲りでいらっしゃいますので」

 レヴィナ嬢がそう付け足し、皆が一瞬黙り込む。

 クネーベル夫人が第二夫人とその娘に対し冷たく厳しいという話は、貴族なら誰もが耳に挟んだ事がある。

 

 

「…いいえ!ミメット様の黒髪が似合う色は、他にいくらでもあります!」

 憤慨したかのように声を上げたのは、ヴァレリー様だった。

 ファッションに一家言ある彼女には、クネーベル夫人のそんな嫌がらせとも言える決めつけは、許せないものであるらしい。

 

「そうね。むしろ黒じゃない色を着た方が映えると、私も思うわ」

「私も、たまには季節感のある服を着たらどうかと以前から思っておりました」

 カーネリア様やレヴィナ嬢も同意し、私も首肯した。

「ミメット様の黒髪は本当に美しいと思います。せっかく綺麗な色なのですから、それを引き立てる別の色の服を着てみるのも、良いのではないでしょうか」

 

「…で、でも…」

「こう言っている皆を納得させるには事実を示すしかないよ、ミメット君。とりあえず、ヴァレリー君の勧める服を一度試してみたらどうだい?」

 先輩がミメットへと手を差し伸べる。

「それで本当に似合わなければ、クネーベル夫人が正しかったと分かる。…その時は好きなだけ、皆を責めると良いさ」

 最後は挑発するかのようにニヤリと笑った先輩に、ミメットはきっと眉を吊り上げて皆を睨みつけた。

「…分かったわ!試せば良いんでしょ!!」

 

 

 

 それからヴァレリー様は、改めてミメットのための服を選んだ。私たち全員の意見も聞き、本当に真剣な表情でこだわり抜いて選んだ。

 ミメットもまた、真剣な表情で服を受け取った。ヴァレリー様の意気込みが伝わったのだろう。

 着替えを手伝うレヴィナ嬢と共に、試着室の中へと消えていく。

 

 

 ほどなくして試着室から出てきたミメットは、意外なほどシンプルなワンピースに身を包んでいた。

 上半身はすらりと身体に沿い、下半身はゆるやかに広がった、深緑色のワンピースだ。袖が短く腕が大部分出ているのが特徴で、胸元に縫い付けられたきらきらしたビーズがアクセントになっている。

「わ!かわいい!」

「シンプルだけど、それがミメット君の魅力をよく引き立てているね」

 確かに似合っているが、意外に落ち着いた色とデザインの服だ。ヴァレリー様がこれを選んだ事を少し不思議に思う。先程まではもっと華やかな服を薦めていたのに。

 

 ヴァレリー様が説明をする。

「これは近頃流行りの、Aラインと呼ばれる形のワンピースです。シルエットをきれいに、背を高く見せる効果があります」

 言われてみれば、ミメットは私よりも更に小柄なはずなのに、何だかいつもより背が高く見える気がする。

「そして、これを合わせれば…」

 ヴァレリー様が取り出したのは、淡黄色に明るいグリーンが入り混じった華やかなストールだ。

 

 

「すっごく可愛いわ!」

「本当ですね。ストール一つでずいぶん印象が変わりました」

「一気に春らしい装いになったね。うん、よく似合う」

「そうでしょう。私の自信のコーディネートです」

 

 皆が口々に褒める中、私は少しぽかんとしていた。

 ヴァレリー様がAラインと言っていたワンピースは、上品で大人っぽい形のものだ。そこにふんわりと合わせられたストールは、柔らかい印象を加えているものの、やはりどこか大人っぽい。

 …私の知っている、刺々しくて可愛らしく、いかにも繊細そうな、少女然としたミメットと少し違う。

 

「…すごくよく似合ってます。ミメット様」

 何とかそう言った私に、ミメットはずいぶんホッとした顔をした。私がなかなか口を開かないものだから、心配していたらしい。

「ミメット様、こういうものもとても似合いなんですね。…私、それを初めて知って、とても嬉しいです。本当に、変わられたというか…大人になられたようで…」

 

 前世のミメットは、こんな風に他人の意見を聞いて取り入れてみる事などしなかったと思う。

 その内面の変化が、ただの服装の違いではなく、彼女自身の雰囲気の変化となって現れているように感じる。

「…やだもう、リナーリア様ったら!まるでミメット様の母親みたいな言い方!!」

 カーネリア様がおかしそうに私の肩をばしっと叩く。

 

 そしてミメットは、照れくさそうにうつむいていたが、勇気を振り絞るかのようにこう言った。

「こ、こういう服も…い、意外と悪くない気がするの」

 その言葉を聞き、皆がとても嬉しそうな顔になった。

 素直にお礼を言えない辺りがミメットらしいが、内心では喜んでいるのだろうと、ほんのり赤く染まった頬を見れば分かる。

 ヴァレリー様は満足げに、先輩は優しげに、カーネリア様は楽しげに、レヴィナ嬢はなぜか得意げに。それぞれが微笑んでいる。ついでに、ずっと見守っていた店員も非常に安心した顔をしていた。

 

 

 …ああ、やり直せて良かった。

 私もまた笑いながら、心の底からそう思う。

 

 今世でミメットに再会してから、かつては知らなかった彼女の一面を少しずつ見付けられている。

 前世の自分を不甲斐なく思うと同時に、こうして新しい事実を知れるのが嬉しい。

 ミメットだけではなく、他の様々な人達や事柄についてもだ。かつて知らなかったたくさんの事、やり残した事を、今の私はしっかりと感じ、受け止められている。

 一番の目的である殿下の事を抜きにしても、私はやはり、今生きている事をライオスに感謝すべきなのだ。

 

 

 

 ミメットはヴァレリー様の薦めたワンピースとストールを注文し、他の皆もそれぞれ好きな服を注文して、店を後にした。

 レヴィナ嬢は男性用の、しかもかなりサイズの大きいジャケットなど頼んでどうするのだろうと思ったが、やたら嬉しそうだし気にしないことにした。

 何というか、彼女に関しては深く考えるだけ無駄のような気がする。

 

 ちなみに私もつられて、春向けのブラウスとスカートなど頼んでしまった。皆や店員に薦められたものだ。

「絶対殿下も気に入るわ」と言われ恥ずかしくなる。

 別に殿下に見せたくて頼んだわけではないんだが、しかし殿下ならきっと「よく似合う」と言ってくれる気がして、…とにかく恥ずかしい。

 

 

 帰りの馬車の中、私は皆に礼を言った。

「皆様、今日は本当に有難うございました。とても勉強になりました」

 ファッションについてだけではなく、非常に学ぶことが多かった。

 

 ヴァレリー様があのシンプルな深緑色のワンピースをミメットに選んだのは、単にそれが彼女に似合うというだけではない。大人しめで落ち着いた色の服を最初に着せることで、暗い色に慣れ親しんだミメットの心理的なハードルを下げようとしたのだろう。

 春らしい明るい色は、ストールのような小物によって追加する。おかげでミメットでも受け入れやすかったようだ。

 

 相手を思っての行動でも、ただ正論を押し付けるだけでは相手には届かない。きちんと相手の気持ちや望みに沿う努力をしなければいけないのだ。

 その事が改めて分かったと感謝すると、皆少しきょとんとした。

「リナーリア様ったら、本当に真面目ねえ…」

「そうですね」

「そうかもなの…」

「そういう所ありますよね」

 

「…!?」

 何だかちょっと呆れられ、私は少し焦る。そんな変な事言ったかな…?

 思わずスフェン先輩の方を振り向くと、先輩は朗らかに笑った。

「あのね、こういう時はもっと別の言い方をするべきなんだよ、リナーリア君」

「べ、別の言い方?」

 眉を寄せる私に、先輩はばっ!と腕を広げ、得意のポーズを取ってみせる。

「こう言えばいいのさ。…今日はとっても楽しかった!また行きたい!…ってね!!」

 

 皆が楽しげな声を上げ、その通りだと同意して手を叩く。ミメットまでもだ。

 思わず楽しい気持ちになり、私もまた拍手をした。



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第163話 変装

「それじゃ、行きますよ」

「おう」

 椅子に座ったスピネルの髪に、刷毛を使ってぺたぺたと魔法薬を塗布していく。

 指に薬がつかないよう革手袋を着けての作業なので、ちょっとやりにくい。

「うわ…すっげえ匂いするなこれ。匂いでバレるんじゃないのか?」

「大丈夫ですよ。半日もあれば匂いは消えるはずです」

 

 

 私が今何をしているのかと言うと、城のスピネルの部屋の中で、魔法薬を使ってスピネルの髪を染めている。

 スピネルは明日の早朝、セナルモント先生と共にモリブデン領に天秤を探しに出発する予定だ。

 髪色を変えるのは変装のためである。帰るまで2週間くらいはかかると見積もっているし、その間ずっとカツラを被っているのは大変だからだ。

 

 魔法薬による髪染めはおよそ1ヶ月ほど色が保つものだが、専用の薬を使えばいつでも色を戻せるので、変装にはとても便利だ。

 ただし使用には魔術師免許が必要になる。今回は誰にも知られず動きたいという事もあり、他の魔術師には処置を任せられないので、こうして私がやっているのだ。

 今世でも既に二級魔術師免許は取ってある。

 

「しかし、このべたべたした薬を髪に満遍なく塗るのって結構難しいですね。刺激が強いのであまり皮膚には付けないようにした方が良いんですけど…あっ」

「おい!あって何だよ!」

「何でもありま…あっ…」

「おい!!!」

 

「大丈夫ですよ、皮膚についた色はすぐ消えます。うっかり髪に塗りすぎた所だって、後で毛が抜けやすくなるくらいで済みますし」

「ふざけんな!真面目にやれ!いや真面目にやって下さいお願いします!!」

 スピネルはものすごく必死だった。

 禿げたらさすがに可哀想なので、なるべく丁寧に塗り続ける。

 

 

「…よし!ちゃんと綺麗に塗り終わりました!」

 結構時間がかかってしまった。薬が乾く前に仕上げてしまわなければ。

「もう少しじっとしてて下さいね」

 両手をかざし、脳内で髪色をイメージしながらゆっくりと魔力を込める。

「おお…」

 みるみる色が変わり、鏡を手に持ったスピネルが感心した声を上げた。

 

「すげーな、本当に一瞬で変わった。…でも、ちょっと黒っぽすぎないか?」

「残った薬を洗い流して、髪を乾かせば色が明るくなりますよ」

 そう言って持ってきたシャンプーを持ち上げると、スピネルはガタガタと椅子から立ち上がった。

「いや、いい、自分でやる。髪くらい自分で洗えるから」

「…なんですかその怯えた態度」

「これ以上俺の髪の寿命を縮めるな!!頼むから!!」

 

 

 

 スピネルの態度は少々気に入らなかったが、考えてみれば私も人の髪を洗った事などなかった。

 時々たらいの水を替えるのを手伝いながら洗髪が終わるのを待つ。

 だいぶ匂いがこもっている事に気が付いたので、窓を開け放って換気をした。

 この窓からの眺め、懐かしいなあ。前世の私もこの部屋を使っていたのだ。

 スピネルの部屋は私と違って本棚がずいぶん小さくて一つしかないし、剣やら絵画やら飾ってある。だからあまり同じ部屋という感じはしないのだが、窓から見える景色はやっぱり同じだ。

 

 タオルで髪の水気を拭き取ってから、魔術でざっと乾かした。

「どうです?だいぶ近い感じになったんじゃないですか?」

「本当だな。兄貴の髪色そっくりだ」

 赤みのある紫色に変わった髪をつまみ、スピネルは満足げにうなずいた。

「長さはちょっと違いますけど…」

「目立たないように下の方で結んで、マントに突っ込んどけば大丈夫だろ」

「そうですね」

 帰ってきた時に髪の長さが変わってたら不自然だし、下手に切らない方が良いだろう。

 

 

 今回のモリブデン領行きは表向き、先生による地域調査任務に、護衛としてスピネルの兄のレグランドが随行するという形になっている。

 モリブデン侯爵は以前から領内に人造湖を作る許可を国に求めていたので、その追加調査をするというのが任務内容だ。

 通常この手の調査は複数名の魔術師によるグループで行くものなのだが、「追加調査」という所がミソである。大まかな調査は終わっているし、今回はごく一部の再調査のみなので、魔術師は先生一人で十分と言う訳だ。

 ついでに古代研究もするという名目なので領内のあちこちを見て回っても言い訳が立つし、日程もかなり余裕を取っている。

 

 護衛が近衛騎士というのは少々おかしいが、秘宝事件の後始末が終わったばかりで城の騎士は遅い新年休みを交替で取っている。人手が足りないので、レグランドが駆り出されたという事にしたらしい。

 当初は弟のスピネルが犯人だと疑われていたせいで、レグランドは事件が解決するまでの間、ずっとブーランジェ公爵と共に謹慎していた。たっぷり休んだ分、出張任務を押し付けられたという筋書きなのだろう。

 スピネルはこのレグランドに変装するため、髪を兄と同じ色に染めていた訳だ。兄弟だけあって元々顔立ちや体格は似ているので、知り合いでなければバレないだろう。

 

 ちなみにレグランド本人は、スピネルの代わりにブーランジェ領に帰省してもらう事になる。

 こちらは、先代ブーランジェ公爵夫人…つまりスピネルやレグランドの祖母に当たる方が病気療養中で、スピネルに会いたがっているからという名目にしてもらったそうだ。

 スピネルは今回の新年休み、秘宝事件に巻き込まれ帰省していなかったから不自然な話ではない。元々帰省する気はなかったらしいが、そこはそれ。黙っていれば分からない。

 

 王宮魔術師団と近衛騎士団には、殿下の方から頼んで口裏を合わせて貰っているらしい。どう説得したのかは分からないが。

 レグランドやブーランジェ公爵にはスピネルが上手く話をつけたようだ。

 王子から直々に命じられた極秘任務だから口外しないでくれと言えば、否やはない。

 

 

「もう旅支度は済んでるんですか?」

 部屋の隅に置かれた荷物をちらりと見て、スピネルに尋ねる。

「だいたい終わってる。セナルモントの方が心配だ」

「先生は奥さん任せでしょうから大丈夫です。本人にやらせるよりよっぽど安心です」

「ふーん」

 先生の奥さんには何度か会った事があるが、しっかりとした印象の人だ。色々とゆるい先生にはぴったりだと思う。

 

「心配なのは道中の方です。先生は古代王国の事になると理性が飛ぶことがあるので、気を付けて下さいね。図書館や古書店、古道具屋、遺跡類は特に注意が必要です」

「ああ…それは俺も本当によく分かった…」

 この間の事を思い出したらしく、スピネルがげんなりとした顔になる。

 

 

 

 先日、先生にミーティオを紹介し事情を話した時は本当に酷い惨状だった。

 まず先生は証明を求めた。ミーティオが真に古代の存在なのか、という点についてである。

 これは私やミーティオの話を疑ったからというより、魔術師として、研究者としての(さが)だろう。新しい事実を前にして、その根拠や確たる証拠を求めずにはいられなかったのだ。私も同じ魔術師として気持ちは分かる。

 古代の本やら魔導具を持ち出してミーティオに読んでもらったり解説してもらったり、あれこれといくつも質問を重ねた。

 

「この本に書かれている薬は、今でも手に入るものしか材料に使われていないんだけど、いくらやっても効能を再現できないんだよ。君にはそれが何故だか分かるかい?」

 先生は本を開いて熱心にミーティオへ尋ねた。その手には私が貸した流星の護符を握り締めている。護符を通してミーティオの声を聞くためだ。

 ミーティオは本を見てじっと考えていたが、やがて一箇所を指さした。

 

『…おそらく、これが原因だ。カリバアオイ。今この名前で呼ばれている花は、古代のカリバアオイとは別の植物のはずだ。当時のカリバアオイは、もっと背が高く、花の形はユリに近かった。花の色は似ているんだが…』

「あ、カリバアオイと似た色でユリみたいな形なら多分、ヘルメアマリリスですね」

「なんだってー!!それが本当なら大発見だよ!!!じゃあこっちは…」

 

 

 …とまあこんな感じで、興奮しまくった先生が納得し落ち着くまでめちゃくちゃ時間がかかった。

 たまに私が口を挟んだのは、かえって良くなかったかもしれない。気になる内容だったからつい…。

 しまいには同席していた(させられていた)スピネルが「いい加減にしろ!!」とマジギレしかけて、ようやくちゃんと事情を聞かせる事に成功したのである。

 

 ミーティオは全てが上手く行った暁には先生の研究に協力する事を約束し、それを聞いた先生の喜びようと来たら…ちょっと筆舌に尽くしがたい。なんか踊ったり奇声を上げたりしていた。

 スピネルがドン引きして「なあ、これ大丈夫か?一発殴って正気に戻した方が良くないか?」と真顔で訊いてくるくらいには酷かった。

 弟子として恥ずかしい。



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第164話 春の足音

 髪染めに使った道具を片付けて鞄にしまっていると、部屋の扉がノックされた。

「はい」

「やあ、スピネル、僕だよ」

 明るい男の声が聞こえ、スピネルが扉を開けた。レグランドだ。すぐ後ろに殿下もいる。

 

 自分そっくりの髪色になったスピネルを見て、レグランドが感心する。

「へえ、綺麗に染まってるじゃないか。リナーリアさんにやってもらったのかい?」

「ああ」

「あの髪染めの魔法薬、魔力制御が下手だと色にむらができるんだよ。やっぱり君、良い腕してるね」

 にっこり笑って褒められ、私は「ありがとうございます」と頭を下げた。まあこのくらい朝飯前だ。

 

「すごいな。こうして同じ髪色をしていると、本当によく似ている。さすが兄弟だな」

 殿下はスピネルとレグランドを見比べながら言った。

 次男と四男であるこの兄弟は結構年が離れていたと思うが、確かに似ている。レグランドの方がタレ目で女たらしっぽい雰囲気があるが…あれ、並ぶとスピネルの方が身長高いんだな。

 

「この髪だと、何だかいつもより賢そうに見えますよね」

「喧嘩売ってんのかてめえ!」

「ああ、すみません、間違えました。いつもより知的に見えます」

「全く同じ意味じゃねーか!!」

「あはは」

 笑っているレグランドと殿下を、スピネルが睨みつける。

 

 

「レグランド様は髪を染めなくていいんですか?」

「うん。僕は実家でゆっくりするだけだしね。行き帰りにカツラを被るだけで十分だよ」

「どこからカツラを借りてきたんだ?」

「ギロルの伝手でちょっとね」

「ああ…なるほど」

 レグランドの友人のギロルは挿絵師をやっていて、ポスターなどの仕事で劇団と繋がりがある。劇団なら、色々なカツラを持っているだろう。

 

「で、何しに来たんだよ。まさかこれ見に来たのか?」

「俺はそうだな。なかなか面白かった」

 殿下は悪びれる事なくうなずき、再びスピネルが睨んで、レグランドが少し笑った。

「僕は明日からの打ち合わせに来たんだよ。ちゃんとすり合わせておかないとまずいだろう?」

「あ、なら私はこれで失礼しますね」

 細かい打ち合わせには、私がいては邪魔だろう。用事は済んだし退室する事にする。

 

「スピネル、気を付けて行ってきて下さいね。先生の事もよろしくお願いします」

「分かった。任せとけ」

 見送りには行けないので、今のうちに挨拶をしておく。スピネルは真面目な顔に戻って返事をしてくれた。

「俺は後でもう一度来る。また後でな」

「ああ」

 殿下も退室するらしい。扉を開け、一緒に廊下に出る。

 

「リナーリア、今から時間はあるだろうか」

「はい。大丈夫です」

 この後は先生の所に寄る予定だが、少し顔を見るだけのつもりなので別に急いではいない。

「なら、少し寒いが外を歩かないか?」

 散歩のお誘いだ。私はにっこり微笑んだ。

「ええ、喜んで」

 

 

 

 行き先はいつもの裏庭だった。と言っても、冬はあまり庭を歩かないので結構久しぶりだ。

 暗い緑色をした池の水面を覗き込む。

「さすがにカエルが出てくるには早いですね」

 寒さは少しずつ緩んできているが、カエルが冬眠から目覚めるにはまだもう少しかかりそうだ。

「早く春になるといいんですが」

「……」

 殿下もまた池のほとりに立つと、黙ってその奥を覗き込む。

 

「…初めてだな」

 やがて、殿下がポツリと言った。

「何がですか?」

「初めて、春が来なければいいと思っている」

 

 私は少し瞬きをして、殿下の横顔を見つめた。

「期限まではあと3年。絶対に君を渡すつもりはないし、出来る事は全てやるつもりだ。…だが、もし上手く行かなかったらと思うと…。時間など流れなければいいと、そう思ってしまう」

 強く拳を握りしめるのが見え、何と答えればいいのかとしばし迷う。

 

 

「…すまない。君を困らせたい訳ではないんだ。ただ少し、自分が不甲斐なかっただけだ」

 殿下はこちらを振り返ると、軽く苦笑した。何か言わなければ。考えをまとめきれないまま、口を開く。

「あ、あの、殿下」

「なんだ?」

「私、春用の服を頼んだんです。前、殿下と一緒に行った仕立て屋で」

「?」

 急に変わった話題について行けなかったのだろう、殿下が少し目を丸くする。

 

「カーネリア様や先輩、ヴァレリー様、ミメット様と一緒に行きました。私、そんな風にたくさんの友人と買い物をするのは初めてでした。前世から合わせても初めてだったんです。私、友達がいなかったので…」

「そうなのか」

「はい。私は前世より、ずっと多くの人と親しくさせていただいています。おかげで本当に色々な事を知りました。かつては気付かなかった事も、たくさん。それで思ったんです。生まれ変われて良かった、ライオスには感謝したい…と」

 

 

 殿下はただじっと私の顔を見つめ、話を聞いている。

「…ライオスとは和解したいという殿下のお言葉、私もようやくちゃんと分かった気がします。よく考えて思いました。ライオスは人間を嫌っている素振りをしているけれど、それは本心ではないのではないかと」

 

 竜人は人に愛想を尽かして姿を消したとおとぎ話では書かれていたけれど、ライオスは60年ほど前、人の前に何度か姿を現していた。

 特に攻撃する訳でもなく、ただ姿を見せたのだそうだ。その気になればいくらでも姿を隠せるのに、わざと人前に出た。

 それは、再び人間に関わろうとしたからではないのか。

 

 前世で私を助けた時だってそうだ。

 私が彼の仲間ではなく、人間なのだと答えた後も、嫌な顔こそしたもののすぐに立ち去ろうとはしなかった。

 …彼の行動は、人間に何かを期待していたように思えるのだ。

 

 

「願いの代償として私を妻にしたところで、ライオスは幸せになれるんでしょうか。家族ができれば確かに孤独ではなくなるのでしょうが、彼が人間に利用された事で負った傷や、抱いた失望は悲しみは、果たしてどれだけ癒せるんでしょうか」

 彼が求めているものは、本当にそれで手に入れられるものなのだろうか。

 

「私は、ライオスに命を救われました。彼が願いを叶えてくれたおかげで、たくさんのものを手に入れています。その恩を返すためにも、彼にはもっと様々な人と出会い、広い世界を知って欲しい」

 彼には幸せになる権利がある。遠い昔に人を守っていたという彼は、本来もっと大きな対価を得るべきだ。

 しかし私一人を連れて行けば、きっとそれを得られないまま、彼の世界は小さく閉じてしまう。その未来は、決して正解ではないように思うのだ。

 

 人というのはとても色々な人がいて、優しさも持っているのだという事を、ライオスにも知って欲しい。

 私がこうして生まれ変わり、それを知ったように。

 人と関わる幸せを、彼にも知って欲しい。

 

 

「…ただ、そのためには多くの人の協力が必要になります。色々と迷惑をかける事も多いかと思います。だから…」

「…うん。俺はいいと思う」

 言い淀んだ私に、殿下は小さく微笑んだ。

 

「君は人に迷惑をかける事をずいぶん気にしているが、別にいいと思う。君の周りの人は、君に迷惑をかけられてもきっと気にしない。いや、迷惑とも思わないだろう。むしろ君が頼ってくれる事を嬉しく思うはずだ」

「…そ、そうでしょうか?」

「ああ。俺がそうだから、分かる」

 再び池に目を戻しながら言う。

 

 

「俺も今まで、色々な事を気にしていたんだ。君にとって迷惑ではないだろうかとか、まだ自分にはそれだけの力がないだろうとか…。意地もあったと思う。自分が未熟で、力が足りないと知っていて前に進むのは、とても勇気がいる。実際、俺は君に迷惑をかけているんだ。俺に関わらなければ巻き込まれなかった危険がいくつもある。君は本当なら、もっと平和に暮らせていた」

「…で、殿下。それでも、私は」

「ああ。分かっている」

 殿下は私の言葉を静かに遮った。

 

「未熟でも、手探りでも、前に進まなければいけない時はあると思う。手をこまねいていてはきっと後悔する。…いや、これも言い訳かもしれないな」

 そう言って首を振り、もう一度私を見つめる。

「つまり俺は、自分の気持ちを正直に伝えようと思う。…リナーリア」

「は、はい」

 

「俺は、君にどれだけ迷惑をかけられても構わない。そして、君に迷惑をかけてしまうとしても、譲れはしない。どんな困難があったとしても、それでも…」

 ゆっくりと、噛みしめるように、沁み込ませるように。

「この先もずっと、君に傍にいて欲しいんだ」

 

 

 その翠の瞳に、ただ私だけを映して紡がれた言葉に、顔が熱くなるのが分かった。

 …な、なんだろう。何か、すごく恥ずかしい事を言われている気がする。

 さっきまで寒かったはずなのに、やけに暑くて、手のひらに汗が滲む。ひどく頭が混乱する。

「リナーリア」

 殿下の手が私の方へと伸ばされる。

 

…しかしそれは空中でぴたりと止まり、引っ込められた。

「…この先は、君の呪いを解いてからだな」

 殿下がちらりと私の足元を見た。

 土の上についた細い足跡。

 自分でも気付かないうちに、一歩後ろに下がっている。いつの間に…?

 

「少し寒くなってきたな。中に戻ろう」

「は、はぇ、はい」

 何故か声が裏返ってしまった。羞恥心を抑えながら、微笑んで歩き出した殿下の横に並ぶ。

 理由の分からない焦りのようなものが、もやもやと胸の奥に湧き上がる。頭が痛い。

 

 

 歩きながら、殿下が庭木を見上げた。

「春用の服を頼んだと言っていたな」

「あ、はい」

「俺も見たい。春になったら、一緒にどこかに出かけよう」

「…!はい!」

 

 思わず嬉しくなり、それで胸のもやもやは吹き飛んでしまった。

 私もまた、殿下の視線の先にある庭木を見上げる。

 その枝の先からは、萌黄色の若葉がわずかに芽吹き始めているようだった。



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挿話・26 モリブデン領・1

「おい!勝手にウロチョロすんなっつってんだろ!」

「やあス…レグランド君、探したんだよお。どこ行ってたんだい?」

「こっちの台詞だっての…」

 呑気に笑うセナルモントに、スピネルは大きくため息をついた。

 

 

 王都を発ってから一週間、モリブデン領に入ってからは数日経っている。

 まずはモリブデン領の中心都市であるカラミンまで行くつもりだったが、セナルモントの意見を取り入れた結果、遠回りをして領の端の方にある小さな村や町を通りながら行く事になった。

 その道中からずっと、この魔術師には振り回されっぱなしだ。

 

 多分、ミーティオが一緒というのが悪いのだ。おかげでずっとセナルモントのテンションが高い。

 他に誰もいないのならミーティオに相手をさせておけば良いが、人前だとそうはいかない。それなのに、やたら気軽にミーティオに話しかけて来るので困る。

 そしてミーティオは、どうにも律儀というか、話しかけられると無視ができないたちだった。

 仕方ないのでスピネルが代わりに返答を伝える事になるのだが、あまりに面倒だ。何度もやめろと言っているが、一向にやめる気配がない。

 

 しかもセナルモントは、町や村に入るとやたらとあちらこちらをうろつきたがった。

 情報収集のためなら別に構わないのだが、どうも無関係な、余計な道草を食ってばかりいるように見える。

 今回もそうだ。ちょっと目を離した隙にいなくなり、探すのに手間取ってしまった。

 

 

「そんで、今度は何があったんだよ?」

 眉をしかめつつ一応尋ねる。

「ああ、うん。そこの古道具屋で珍しい魔導具が売っててねえ。200年くらい前に作られたやつなんだけど、現存してるのが少ないかなりのレア物でねえ~」

「へえ…」

 思わず声が冷たくなったのは不可抗力だ。この魔術師は、一体何の目的でここまで来たのか覚えているのだろうか。

 

「それでねえ、そこの主人に魔獣被害について面白い話が聞けたよ」

「ほう」

「今から10年以上前らしいんだけど、この辺りに大型の魔獣が何度も連続して出現する事があったらしくてね」

「…大型が?」

 少し興味を惹かれ、尋ね返す。

 大型魔獣はめったに出るものではない。それが近い場所に連続して現れたとなると、非常に珍しいと言っていい。

 

「土地的に、何故か大きめの魔獣が生まれやすい場所っていうのはあるんだけどね、どうもここはそうじゃないみたいなんだよねえ。何でその時だけたくさん出たのか不明。でも、住民への被害は10人程度で済んだんだってさ」

「ずいぶん少ないな」

 この辺りは人口も多くないし、常駐している兵の数だって少ないだろう。

 大型魔獣がこのような辺鄙な場所に現れた場合、すぐには抑えられずに大きな被害が出る事が多い。何度も連続して現れたなら、尚更対応は難しかっただろう。

 数十人単位、あるいはそれ以上の死者が出ていてもおかしくなかったはずだ。

 

「それが、毎回びっくりするくらい素早くモリブデンの騎士団がやってきたらしいよ。しかもかなりの数で」

「……」

 ここはモリブデン領の中でもかなり外れの方にある町だ。そんなに早く騎士団がやって来られるだろうか。それも何度も。

 被害が少なかったのは良い事だが、何だか妙な話だ。

 

 

「それを聞きに古道具屋に行ったってのか?」

 確かに気になる話ではあるが、それが天秤の行方に関係あるのだろうか。

「別にそういう訳じゃないよ。他にも色んな話聞いたしねえ。この辺りは薬草の類があんまり取れなくて困るとか、去年は風が強くて雨が少なかったとか、隣のおじいさんが先週転んで腰を痛めちゃったとか、川向うの村に嫁いだ娘さんがなかなかこっちに顔を見せないとか…」

 

 聞きながらどんどんジト目になっていったスピネルに、セナルモントが「いやいや」と言い訳する。

「こういう情報は、どこでどう繋がるか分からないものだよ。大事な話を聞くためには前フリだって必要だしねえ、無駄話というのは決してただの無駄話じゃないんだよ」

「そりゃまあ、そうだが」

 

「それに例の物の性質からすると、魔獣の話はきっと切っても切り離せないと思うんだよね、僕は。まあ、半分は勘なんだけどねえ」

「……」

 そう言われれば、否定する事もできない。

 そもそもが雲を掴むような話なのだ。何が関係あって何が関係ないのかすら分からない。

 

 そして、知りたいのは天秤の行方だけではないのだ。

 モリブデン侯爵が王子の命を狙っているのなら、その動機や証拠に繋がるものを、僅かなりとも掴みたい。遠回りに同意したのだって、幅広く情報を集められればと思ったからだ。

 騎士団の動きは、侯爵の動きにも繋がるかもしれない。

 

 

 つまるところ、セナルモントの言う事にも理があると認めざるを得なかった。

 魔術師の勘というものは馬鹿にできないと父も言っていた。それで命が助かった事もあったらしい。

 身近にいる魔術師のせいで、スピネル自身はどうもそういう気がしないのだが。

 

「まあいい、分かった。でも動く時は先に言えよ、はぐれたら面倒だろ。俺は一応あんたの護衛なんだし」

「うん、気を付けるよ~」

 ヘラヘラと笑ったセナルモントに、スピネルはもう一度大きくため息をついた。

 

 

 

 

 カラミンに到着したのは、翌日の午後になってからだ。

 モリブデン領の中心都市だけあって大きく、人口も多い。そして、この島の中でも特に古い歴史を持つ町の一つだ。

 大きな通りを歩き、目についた宿に入る。

 宿代は高すぎず安すぎずで、建物はやや古びているが掃除は行き届いているようだ。悪くないと思い、早速部屋を取る事にする。とりあえずは二泊の予定だ。

 

「朝食は毎朝出せますが、夕食はご自分でご用意ください」

 宿の主人にそう言われ、スピネルは「わかった」とうなずいた。近くには食堂やら何やらあったから大丈夫だろう。

「右手に進んで2つ目の角を曲がった所に西風亭って食堂があるんですが、うちの宿泊客だって言えば一杯サービスしてくれますよ。味もなかなか良いので、よろしければどうぞ」

「そうか。ありがとう」

 

 

 案内された部屋で荷物を下ろしながら、セナルモントに話しかける。

「夕食にはちょっと早いな。どうする?」

「僕は明日からの準備をするよ。モリブデン侯爵屋敷に挨拶に行かなきゃいけないし、研究所で色々見せてもらいたいから、予習しとかなきゃね」

「ハックマン魔術研究所だったか?」

「そう。モリブデン侯爵家が出資してる魔術研究所。結構大きいらしいよ?騎士系貴族にしては珍しいよねえ。えーと、確か治癒魔術系の研究が主だったかな…」

 

 セナルモントはごそごそと荷物を探ると、一冊の厚めのノートを取り出した。

 ぺらぺらとめくり、ある一箇所で手を止める。

「ああ、あったあった。大規模な治癒魔術の際に被術者の体力を大きく消耗する問題を解決するための研究…魔術師ハックマンの論文を元に、弟子が研究を受け継いでいる…と」

 

 

「何だよそのノート?」

「出発前にリナーリア君が貸してくれたんだよ。モリブデン侯爵について長年かけて調べた事を、自分なりにまとめたものみたいだね」

「ああ?そんなもんあるなら俺にも見せとけよ!」

「無理じゃないかなあ?これ、王宮魔術師の暗号混じりになってるし」

 肩をすくめられ、スピネルは思わず黙り込んだ。それでは読めそうにない。

 

「調べようと思えば調べられる範囲のものばかりだけど、色んな事が細かく書かれているよ。領の歴史、風土、起こった事件や事故、資産、有力な騎士家や商人の名前…よくまあ頑張って調べたものだねえ。なるべく簡潔に、分かりやすくまとめてある。彼女は本当に優秀だよ」

 感心しているのか呆れているのか分からない顔で、セナルモントはノートを見下ろした。

 

 

「魔術修業だって隠れてずいぶんやってるんだよ、あの子。多分もう、そこらの王宮魔術師より腕は上なんじゃないかな?がんばり屋さんだとは思ってたけど、さらにこんな事までしてたなんてねえ。褒めるべきなのかも知れないけど…」

 調べ上げた事自体もだが、わざわざ暗号まで使って書くのは相当時間がかかっただろうと、スピネルにも想像がつく。

 

「僕としては、彼女には研究の道に進んで欲しいんだけどねえ。絶対向いてると思うし」

「…あいつも昔そんな事言ってたな。本当は魔術の研究がしたいんだって」

 昔からとにかく知識欲が旺盛だった。読書が好きで物知りで、知らない事があればすぐに調べたがり、次に会う時にはすっかり詳しくなったりしていた。

 そういう性格は確かに、研究者に向いているのかもしれない。

 

「まあ、なかなか難しいかなあ。彼女は人気者だからねえ」

「……」

 苦笑するセナルモントを見て、どうやらこの魔術師は弟子を心配しているらしい、とスピネルは思った。とぼけ面をしているので分かりにくいが。

 

 同時に、強い苛立ちも覚える。セナルモントにではなく、この状況にだ。

 もしかしたら彼女は、スピネルが想像していたよりもずっと多くの努力を重ね、その時間を費やしてきたのではないのか。

 未来を変え、王子を救う、そのために。

 本来やりたかった事もやらずにだ。

 

 

「…どうするか決めるのはあいつ自身だ。自分で決めるべきなんだ」

 彼女には色々な選択肢がある。竜人にそれを奪われる事などあってはならない。

 きっぱりと言い切ったスピネルに、セナルモントは微笑んだ。

「そうだねえ。そのためには、僕たちも頑張らなきゃねえ」

 再びノートに目を落とした魔術師は、少しだけ師匠らしい顔をしていた。



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挿話・26 モリブデン領・2

 翌日セナルモントと共にモリブデン侯爵屋敷に行くと、すぐに立派な応接室へと通された。

 つややかな革張りのソファに、セナルモントと二人並んで座る。

『行ってくる』

 スピネルにだけ聴こえる声を残し、ミーティオの気配がすっと遠ざかった。

 

 セナルモントの探知魔術によれば、モリブデン屋敷には侵入者を防ぐ結界が張られている。

 それは貴族ならば特別珍しい話ではないが、地下にもう一つ重ねる形で、さらに強固な結界が敷かれているようだという。

 地下に宝物庫を作るのもまた、よくある話だ。この屋敷に天秤があるなら、そこに置かれている可能性が高い。

 ミーティオは幽霊のようなもののくせに、見える人間には見えてしまうという欠点があるが、壁などの障害物はすり抜けて移動できるという利点も持つ。そして、壁や地面の中に入り込んでしまえば誰にも見えない。

 暗い地中でも結界の位置は感じ取れるそうなので、早速床下に沈んで見に行ったのだ。

 

 

 素知らぬ顔でそのまま待っていると、一人の男が使用人を連れてやって来た。

 この屋敷の主、アンドラ・モリブデン侯爵である。娘のフロライアとよく似た蜂蜜色の金髪に、柔和な笑みを浮かべた男。

「我が領までわざわざ調査にお越しいただき、ありがとうございます。セナルモント殿のご高名はかねがね伺っております」

 

 まさか侯爵が自ら応対するとは思っていなかったので、スピネルは少し驚いた。

 セナルモントが「念のため」と言って顔に幻影の魔術をかけてくれていて良かった。侯爵はスピネルの顔を知っているので、髪色だけではきっと誤魔化せなかっただろう。

 

 使用人が置いた紅茶のカップにどばどばと砂糖を入れながら、セナルモントは笑顔で侯爵に応じる。

「いやあ、恐縮です。僕のような若輩者の名をご存知とは」

「秘宝をめぐる事件の話は、既にこの領まで届いているのですよ。セナルモント殿は解決に大いに貢献されたと聞き及んでおります」

 

「とんでもない、僕などほんの少しお手伝いをしただけですよ。解決はエスメラルド殿下の優れた指揮と決断力、武勇あっての事です。…あとは、僕の弟子のリナーリア君の奮闘ですね。殿下が助けに来てくれると信じ、苦境の中じっと耐え忍んだそうです。殿下もまた、彼女を助けるために懸命でした。二人の強い絆がなければ、今頃一体どうなっていた事か…。我が弟子ながらリナーリア君は、殿下を支えるにふさわしい資質を備えているのではないかと思います」

 

 …この魔術師、とぼけた顔をしてなかなか大胆だ。

 わざわざ王子とリナーリアの仲を強調するような言い方をするセナルモントに、スピネルは内心でひやひやした。はっきり言って煽っている。

 侯爵は同じ年齢の、美しく優秀な娘を持っているのだ。しかも家柄はリナーリアのジャローシス家よりも上。周囲からの評判も良く、十分に未来の王妃たる資質は持っている。

 目の前で別の令嬢を褒めちぎられれば、面白い訳がない。

 

「ええ、もちろん、リナーリア嬢のご活躍も聞いておりますとも。彼女のような素晴らしいご令嬢がいる事は、我が国にとって幸運と言えるでしょう。全くもって感嘆するばかりです」

 侯爵は柔和な笑顔を崩さずに、ごく自然な口調で応じた。やはり、この程度で揺さぶれるほど甘くはないらしい。

 物腰柔らかで人当たりが良いが、食えない男。それがスピネルから見たモリブデン侯爵の印象だ。

 

 

 それから、スコレスという名の小太りの中年の魔術師を紹介された。モリブデン家お抱えの魔術師の一人だという。

 この魔術師の他に騎士が一人、さらに兵士が二人ほど、今回の調査に同行するらしい。

 人造湖建設許可のための追加調査というのはここを訪れるためのただの名目だが、怪しまれないように調査そのものもちゃんとやらなければならないのだ。

 スコレスと軽く打ち合わせをしていると、ふっとミーティオが戻ってきたのを感じた。地下から帰ってきたようだ。

 

(どうだった?)

 心の中でそっと話しかける。

『あった。感知されるかも知れないから中に入ってはいないが、あの気配は間違いない』

 …やはりそうか。これで仮説が一つ裏付けられた。

 恐らく侯爵は、天秤が何たるかを知った上で隠し持っている。

 そして、その傾きを操るために王子の命を狙っているのだ。

 

 

 

 調査地点は建設予定地の近くにある川だった。

 屋敷を出て馬車に乗り、スコレスたちの案内ですぐに出発する。片道2時間ほどの道のりだ。

 道中、セナルモントとスコレスは何やら魔術の話で盛り上がっていたが、スピネルにはさっぱり分からなかった。

 もう一人の騎士は寡黙なタイプらしく、ほとんど口を開かない。あまり話しかけられてボロが出ても困るので、その方が良いのだが。

 窓から遠くの山を見つめ、天秤について考える。早くセナルモントに話したいが、今は無理だ。

 

 調査は滞りなく終わった。移動時間の方がよほど長かった。

 書類に何やらガリガリと書き込んだセナルモントがスコレスに告げる。

「調査内容は持ち帰って王宮魔術師団で精査します。後日結果をお知らせしますので、しばらくお待ち下さい」

「わかりました」

 周囲を警戒していた騎士や兵と共に、再び馬車に乗る。

 

 

「…では、この後はモリブデン領の考古学調査をなさるんですか」

「ええ。この辺りは歴史が古くて、文献やら遺跡やら色々残ってますからねえ。僕の専門は古代神話王国時代なんですが、もっと新しい時代のものでも、とても研究の参考になるんですよ」

 帰りの馬車の中でも、セナルモントたちは魔術師らしい話をしている。

「それでしたら、カラミン図書館の方にも行ってみると良いですよ。何年か前に収集家の方が貴重な古文書をいくつも寄付してくれましてね。読むのには少々骨が折れますが、セナルモント殿ならば問題ないでしょう」

「ほほう!それは良い事を聞きました。ぜひ寄らせていただきます」

 

 そんな会話を聞きながらぼんやり外を眺めていると、ふいに呼ぶ声が聴こえた。ミーティオだ。

『…スピネル。何か妙な気配がする』

(なんだ?)

『北西の方角だ。そちらに大きな町などはあるか?』

 

 

「すまない。あっちの方角に町などはあっただろうか」

 こういう事は現地の人間に聞く方が早い。北西を指差しながら、斜め向かいに座ったスコレスに尋ねる。

 突然話しかけられた魔術師は、少し目を丸くしつつ答えた。

「いいえ?あちらは海の方角ですから…ここからだと見えませんが、あの小さな山を越えたらすぐ海になっているんですよ。それがどうかしましたか?」

「あちらに向かう人影が見えた気がしたんだ。だがそれなら、見間違いだったかもしれないな」

 適当にごまかしておく。ミーティオは何も言わないが、訝しんでいるのが何となく伝わってくる。

 

「もしかしたら猟師かもしれませんね。モリブデンは猪猟が盛んでして、腕に覚えがある者はこの辺までやって来たりもするそうです」

「ああ、そう言えば昨夜は猪料理を食べたな。よく煮込まれていて柔らかくて美味かった」

「そうでしょう!奴らはすぐに畑を食い荒らすので困るんですが、香草をたっぷり使い、時間をかけて煮込むとこれが美味い」

 小太りの魔術師はニコニコと嬉しそうにしてうなずいた。どうやら食べ物の話も好きらしい。

 

 そのままスコレスがモリブデンの郷土料理について話すのに相槌を打ちながら、ミーティオに話しかける。

(どういう事だ?)

『…よく分からない。後で詳しく話す』

 何かを感じ取ったようだが、危急の話ではないらしい。

 気にはなるが、ここでミーティオとの会話に集中すると、スコレスや他の者に不審がられるだろう。一旦は棚上げし、大人しくカラミンまで戻ることにした。



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挿話・26 モリブデン領・3

 スコレスたちと別れたあと、遅い昼食を取りに食堂に入った。スコレスが薦めてくれた店だ。

 中途半端な時間なので客の数はまばらだったが、真っすぐ一番奥の席へと向かった。店内を見渡せる位置なので、不審な動きをしている者がいればすぐに分かる。

 店の名物だという分厚い猪肉のベーコンステーキと適当な付け合せを注文し、セナルモントに話しかける。

 

「例の物、あそこにあったってよ」

「へえー。やっぱりねえ」

 眉一つ動かさずにのんびりと返事をする様を見て、やはりこの男も食えないなと感心する。リナーリアが「あれでも本当に有能なんです」と言い切るわけだ。

「警備は相当厳重みたいだったし、どうするかは一旦帰って相談するしかないねえ」

「だな」

 とりあえずは、在り処が分かっただけでも収穫だ。

 

「そう言えば、さっき急に外を気にしてたよね?あれなんだったの?」

「ああ…どうもおっさんが、あっちの方に大量の人間の気配を感じたらしい。千人近いくらいの」

 一段と声を低くして話す。

「へ?あっちは海しかないんじゃなかった?」

「だから妙なんだよ。兵を動かすような場所でもねえし、もしそんな大軍動かしてたら街中の噂になってるはずだし」

 

 セナルモントは首をひねった。

「何かの工事とか…?いや、そんな大規模なものはやってないはずだなあ。場所的にもおかしいし」

 海からは魔獣が湧くため、人があまり海に近付くのは禁じられている。

 大量の人間となれば尚更魔獣を刺激しやすくなる。よほどの事がなければ、大勢で海に近付いたりはしない。

 

「しかも、やけに狭い範囲に感じたらしい。例えるなら、一つの建物の中にぎゅうぎゅうに人を押し込めてるみたいな」

「何だい、そりゃあ」

「俺が聞きたい。一体何なんだ」

『まるで分からないな…』

 全員が同じ感想のようだ。そんな建物があの小さな山の陰にあるとは思えないし、そこに人を集めるのはもっとあり得ない。

 そうこう言っている間に料理が到着し、すっかり腹を空かせていたスピネルとセナルモントは食事に集中する事にした。

 

 

 

 

 その翌日、ハックマン魔術研究所を訪れた。

 聞いていた通り、かなり立派で大きな建物だ。

 入口にはしっかり衛兵が立っているし、中も小綺麗で、職員はきちんとした身なりをしている。潤沢な予算を与えられているという印象だ。

 

 王宮魔術師の訪問とあって、所長を務めている老齢の魔術師が愛想良く出迎えてくれた。

「セナルモント殿、レグランド殿、ようこそお越しくださいました」

「一魔術師として、こちらの研究にはとても興味があったのですよ。こうしてお伺いできてとても嬉しいです」

 その言葉はお世辞ではないらしく、セナルモントは上機嫌だ。

 

 白塗りの壁の廊下を、黙ってセナルモントの後ろについて歩いていく。

 魔術の研究などスピネルが見ても分からないだろうが、護衛として最低限、建物の中の様子は確認しなければならない。

 ある程度見て回って問題なさそうなら一度外に出ようかと思いつつ、魔術師達の会話に耳を傾ける。

 

 

「こちらでは主に治癒魔術の研究をなさっているそうですね」

「はい。ハックマン先生から引き継いだ研究ですね。その他にも、骨に対する治癒魔術の効果を高める研究や、毒物に関する研究も行っています」

「毒物?」

 思わず反応してしまったのは、前世の王子は毒殺されたという話が頭をよぎったからだ。

 

「この辺りは猪や鹿による畑や樹木の食害が多いものですから。奴らもだんだんと知恵をつけ、旧来の罠だけでは捕獲が難しくなっているので、毒を使った罠も考案されているんですよ」

 それを聞き、セナルモントが尋ね返す。

「しかし、毒で退治した獣は肉を食べられなくなるのでは?」

「ええ、そこを解決する研究も並行して行っております。つまり、死んだ生物から毒を抜く魔術の開発ですね」

「ああ…なるほど。なかなか面白い」

 

 そう説明されれば、特に不自然な話ではない。

 何もかもが怪しく見えてしまうのは先入観のせいだろうか。

 すれ違う研究者や、扉の向こうに見える部屋の様子に不審なものはない。…恐らく。並んでいる道具が何に使うものか、正直見当もつかない。

 やはり適当な所で別行動を取るべきかと思った時、ミーティオの声が聴こえた。

 

『スピネル。妙な気配がする』

 …またか。

 やはりこの領は何かがおかしい。

 積み重なる違和感の裏には、必ず何かが隠されている。決してそれを見逃してはいけない。

 

(どこだ?)

『地下だ。行ってくる』

(十分に注意しろよ)

 この建物にいるのは魔術師ばかりだ。魂だけの存在でも、あるいは気付かれてしまうかもしれない。

『分かった』

 ミーティオの気配が遠ざかっていく。

 

 

 その後いくつかの研究室を回り、さまざまなものを見せてもらった。スピネルには退屈以外の何物でもなかったが、セナルモントは興味深そうに眺めては何やら尋ねたりしていた。

 途中でミーティオが戻ってきたが、詳しい話は後で聞く事にした。

 

 一番奥の部屋を出た後、所長がこちらを振り返る。

「これで全ての研究室を回りましたね。いかがでしたか?」

「いやあ、素晴らしい!これだけの研究施設は王都にもそうありませんよ。設備も研究者も実に良いものが揃っています。本当に充実していますね」

「ありがとうございます。光栄です」

 王宮魔術師から褒められ、所長の老魔術師は誇らしげに微笑んだ。

 

「これで全部なのか?他の階は?」

「ああ、2階は資料室や、職員のための休憩所などになっているんですよ。研究用の薬草を育てているのも2階ですね。研究室は1階だけです」

 尋ねたスピネルに、所長が2階への階段を見ながら答える。

 地下については触れなかった。地下へ続く階段自体、見ていない。

 

『恐らく、この左の部屋だ。そこから地下に続いている』

 ミーティオが言った部屋には「資材置き場」と書かれたプレートが掲げられている。

 地下があるのは秘密という事らしい。きな臭いにも程がある。

 

 

 

 

 所長や職員に見送られて研究所を出た後、ミーティオの話を聞くために一旦宿へ戻った。

 しっかり防音結界を張った所で、スピネルの身体から出てきたミーティオが話を始める。

『研究所の地下では2人の魔術師が、おかしな魔導具をいくつも作っていた』

「魔導具?どんな?」

『小さな、黒い卵の形をした魔導具だ。表面に複雑な魔法陣が描かれている。だが部屋の中には一つだけ、赤い色のものも置かれていた』

 

「卵型の魔導具…?」

 セナルモントが首をひねる。

「心当たりがあるのか?」

「うーん…いや、まず話を続けて」

 促されたミーティオが、再び口を開く。

 

 

『いくつかの卵が完成した所で、魔術師の1人が赤い卵を手に取った。何かの呪文を唱え、指先で触れると、赤い卵からゆっくりと力が漏れ出した。それは、人の生命力だ』

「人の…?その卵に、人間が入ってるのか?」

『いや、あくまで生命力だけだ。人の命の気配と言ってもいい。恐らくたくさんの人間から少しずつ集めた生命力が、あの小さな卵の中には入っていた』

 それを聞き、セナルモントがひどく険しい顔になる。

 

『その魔術師は次に、完成したばかりの黒い卵を手に取り、また呪文を唱えた。すると今度は、黒い卵が周囲に漂う生命力を吸い始めた。卵は生命力を吸うと赤くなり、逆に吐き出すと黒くなるように見えた。…つまりその卵は、人間の生命力を吸って貯め込み、吐き出す機能を持っているようだった』

 言葉の意味がよく理解できず、スピネルは少し瞬きをした。

「…どういう事だ?それを何に使うんだよ」

 

 スピネルの疑問に答えたのはセナルモントだった。

「魔獣は人の気配を感じ取って寄ってくる…。要するに、その魔導具を使えば魔獣を引き寄せる事ができるんだ。そうだろう?」

「魔獣を!?」

 ミーティオが『ああ』と小さくうなずく。

『普通の人間には生命力など見えはしないし、感じ取れないはずだ。だが魔獣にとっては違う。多種多様な人間の生命力が混じり合ったそれが放出されている間、魔獣はまるで大量の人間がそこにいるかのように錯覚してしまうだろう。そして、攻撃するために集まってくる』

 

 

「…そんな魔導具、聞いた事ねえぞ…」

 思わず動揺するスピネルの横で、セナルモントは荷物を探ってノートを取り出した。リナーリアが書いたというものだ。

「死神の卵。えーと…正確には186年前、このモリブデン領で見つかったものだね。新しく井戸を掘ろうとしていた男が、土中から古い壺を掘り出した。その中に赤黒い卵型の魔導具のようなものがあったが、男はそれを古道具屋に売り飛ばした」

 ページをめくり、そこに書かれた記述を読み上げる。

 

「卵を買ったのは一人の魔術師だ。魔術師は村の端に庵を構え、そこで卵が何の道具か調べようとしていたが、ある時その村を魔獣の群れが襲った。魔獣はなぜか、魔術師の庵にばかり集中した。魔術師は逃げ出したが、魔獣はあまり追って来ず、誰もいない庵の中に押し入ろうとしたそうだ。そのうちに騎士団が到着し、魔獣は全て討伐された」

 セナルモントは、淡々と言葉を続ける。

 

「魔術師が庵に戻ると、庵はめちゃくちゃに破壊されていた。特に酷かったのは卵の周辺だ。魔獣が明らかに卵を攻撃していた形跡があった。卵は既に壊れていたが、その破片は真っ黒に染まっていたそうだ。恐ろしくなった魔術師は破片に封印処理を施して、当時の王宮魔術師団の元へと送った」

 王宮魔術師団に卵について調べてもらおうとしたらしい。つい「始めからそうしろよ」と呟いたスピネルに、セナルモントが少し苦笑する。

 

「卵の破片から分かったのは、卵がかなり古い…最低でも5000年以上前の魔導具だって事だけ。だけどその状況から、卵が魔獣を引き寄せる物なのは間違いないという結論が出された。所有者だった魔術師は卵を調べるうち、知らずに作動させてしまったんだろうと…。それで死神の卵って名付けられたんだ。と言っても、今まで同じ物が発見された事はないみたいだね。少なくとも表向きは」

 

 

「…それが、あの研究所の中で作られてたってのか?」

 あの研究所は治癒魔術、人を助けるための魔術の研究が主だった。門外漢のスピネルから見ても、理想に燃える研究者が集まっているように見えた。

 そこで死神の卵などと呼ばれる魔導具が作られているなど、すぐにはとても飲み込めない。

 

 だがセナルモントは、冷徹さすら感じる口調で言い切る。

「間違いなく、モリブデン侯爵はこれを悪用しようとしているよ」



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第165話 死神の卵

「やあスピネル君、おかえり!無事に戻ってきてくれて何よりだよ!」

「…何でスフェンがいるんだよ」

 先輩に笑顔で出迎えられたスピネルは、顔をしかめて私の方を振り返った。

「何でとはご挨拶だな。君たちの土産話が聞きたくてこうしてやって来たと言うのに」

 

 スピネルとセナルモント先生は、昨夜王都に帰ってきたばかりだ。

 今日は私や殿下といった事情を知る者だけで集まり、その報告を聞く事になっている。

「どうせなら先輩にも一緒に話を聞いてもらった方が、意見を聞けて良いかなと思いまして」

「そういう訳だよ。よろしく、スピネル君。…ところで…」

「なんだよ?」

「君、少し臭うね?」

「嫌な言い方すんじゃねえ!!髪染めの魔法薬の匂いだよ!!」

 

 そう、スピネルの髪はついさっき私が元の色に戻した所である。やはりスピネルは、この派手な赤毛の方がしっくり来る。

「そうか、変装のために髪を染めていたんだっけ。僕も見てみたかったなあ」

「結構面白かったですよ。お兄さんそっくりで」

「似てなきゃ入れ替わりなんかできないだろ」

 応接室の中、そんな事を話しながら待っていると、殿下と先生がやって来た。これで5人…いや、ミーティオも含めて6人が揃った。

「待たせたな。すぐに始めよう」

 

 

 

 

 そうして、二人からモリブデン領での話を聞いたのだが。

「…死神の卵を量産、ですか…」

 予想外の名前が出てきて、私は続ける言葉を失ってしまった。

「うん。研究所の地下には、作りかけも含めて十数個の卵が置いてあったらしい。どこかにもっと大量に保管されている可能性は高い」

 

「それを使えば魔獣を引き寄せられるのか?本当に?」

 殿下に尋ねられ、先生が答える。

「場所にもよるでしょうけどね。例えばこの王都なんかは外壁に魔獣除けの魔法陣がびっしり書かれているし、周辺に川や池もある。普段から周辺の魔獣を討伐してもいるから、これだけ人が住んでいてもそうそう魔獣が寄ってくる事はない。卵を使っても同じです。でも、魔獣が住み着いている山や海の近くであれを使えば、高確率で群れを引き寄せる事ができるだろうとミーティオ君も言ってましたね」

 

「調査の帰りにおっさんが感じた妙な気配は、どうもそれを使ったやつっぽい。調査の次の日、そっちの方角に魔獣の群れが出たそうだ。町に近付く前に兵が討伐に向かったが、大型がいたせいで何人か犠牲が出たらしい」

「な、何のためにそんな事を?」

 

 スピネルは忌々しそうな表情で答えた。

「モリブデン領を出る前、挨拶のためにもう一度モリブデン屋敷を尋ねたんだ。そうしたらまたモリブデン侯爵がわざわざ出てきてな…。この魔獣被害の話になってこう言ったんだよ。『このように、我が領周辺ではずいぶん魔獣が活発になっております。それを抑えるためにも、ぜひ人造湖建設の許可について前向きに検討していただきたい』…って」

 

 

「…それじゃあ、まさか。許可を促すために卵を?」

「どうしてそこまでして…犠牲者だって出ているのに」

「多分、中央都市であるカラミンを守るためだと思うよ」

 セナルモント先生もまた、忌々しそうな顔になって言う。

 

「人造湖は、横に並んだ2つの山の裾野にまたがるような形で巨大湖を作る計画だ。今は2つの山全体から魔獣が出て来てるけど、中央を湖で塞ぐ事で、魔獣の出口を山の左右へと限定する。出口付近には砦を築いて兵を置き、効率的に魔獣を排除できるようにする…っていうのが目的だと、申請書には書かれていた」

 

 私もその計画書は見せてもらった。

 魔獣の出口がどこか一つだけだと、魔獣がそこに集中しすぎる恐れがある。それに、出口側に住んでいる領民は怒って建設に反対するだろう。

 だからあえて山の左右2箇所に出口を作り、魔獣を分散させてリスクを軽減させるという計画だった。

 

「カラミンはこの山から見て右側に当たる。そして左側には、広く散らばる形で町や村がある。魔獣がどちら側に行きやすいかは多分半々ってところだね。…でも卵があれば恐らく、魔獣を片側に誘導できる」

「それじゃ、誘導された側はかなりの負担を強いられます」

 そう言った私に、先生は重々しくうなずいた。

 

「これは大規模な魔獣災害を見越しての計画だと、僕は考える。普段はちゃんと両側を守っていればいい。しかし、とても領内の全てを守りきれないほどの魔獣が溢れ出した時は…。この左側を犠牲にして、カラミンを守るつもりなんじゃないだろうか。あるいは更に広範囲に卵を撒いて、他の領へ魔獣を誘導する事まで考えているかも知れない」

 

 

 …多くの民を犠牲にしてでも、自分が住む都市を守る。それが、モリブデン侯爵の目的なのか。

「人造湖と卵は恐らく保険なんだ。王子殿下を暗殺し、国を混乱に陥れて戦を起こす…それは確かに島の人口を減らし、呪いを弱くできるだろうけど、成功するかどうか不確定要素があまりに大きい。どこまで戦乱が広がるか、どの程度死者が出るか、どれだけの期間続くか。一侯爵が操りきれるとは思えない。それほど死者が出ずに終息する事だって考えられる」

 

 それは確かにその通りだ。この国は長く人同士の戦を経験していない。いざ戦となった時、人々がどんな道を選ぶかなど計算しきれるものではない。

「策が上手く行かず魔獣を抑えられなくなった時は、卵を使って魔獣を遠ざけ、その数が減るまで耐え忍ぶつもりなんだろう」

 

 

 

「…とても許せるものではないね。そんなものは。そもそも、魔導具で生命力を吸うなんて…吸われた人は大丈夫なのかい?」

 先輩に尋ねられ、先生が考え込む表情になる。

 

「一人の人間からそんなに大量の生命力を吸えるわけじゃないと思うよ。ミーティオ君によれば吸収速度はすごくゆっくりだったらしいし、急激に生命力を吸って死人が出たりしたら当然怪しまれ、原因が調べられる。卵が人々に見つかってしまう可能性が高くなるだろう。ばれないように、色んな人間からほんのちょっとずつ吸えるようになってるんじゃないかな。…でも、あくまで推測だね。出力を調整できるのかもしれないし」

 実物を手に入れて調べないと、危険性はとても計れないという事だ。

 

「卵自体には有効活用できる可能性が十分にある。例えば突然魔獣の群れが大量に湧いた時だとか、魔獣を誘導して住民を避難させる時間を稼ぐ事ができるだろう。…だがそれは、きちんと安全を確保し、有効性が証明されてからだ。一体どうやって製造方法を知ったのかは分からないけど、今の時点ではとても認められない。一つの領がそれを独占し、隠匿するなんてもってのほかだ」

 

 

 じっと話を聞いていた殿下が、先生の方を見る。

「今すぐ製造をやめさせ、卵は一旦全てこちらで回収するべきだろう」

「そうしたいのは山々なんですがね…。問題が多すぎます。まず、隠れて作っている事をどうやって知ったのかが説明できない」

「確かに…」

 話を聞く限り、地下への入り口は隠されているようだ。警備も厳重だと言うし、ミーティオがいなければその存在を知るのは難しかっただろう。

 

「そこを上手く誤魔化せたとしても、作られているものが危険だとすぐには証明できません。何しろ人の生命力ってやつは、僕たちの目には見えない。それで魔獣を引き寄せられると証明するには、相当手間がかかる」

『私には生命力を感じ取れるが、それは守護者としての力だ。人には感知できない』

 ミーティオが補足する。

 

「いきなり踏み込み、差し押さえるには根拠が全く足りない訳か…」

「ええ。更にハックマン魔術研究所は、魔術師ギルドに加入した正式な研究所です。あやふやな理由で嫌疑をかければギルドを敵に回します。僕らが卵について調べている間に、彼らはギルドに呼びかけ団結して対抗しようとしてくるでしょう。これは昔の事件によく似た別の魔導具だとでも主張されれば、かなり揉める事になるはず…。とても厄介だ」

 魔術師ギルドは民間の団体だが、国中の魔術師が加入した巨大な組織だ。

 国の最高峰たる魔術師が集まる王宮魔術師団でも、彼らを敵に回すなど想像したくもないだろう。

 

 

「むむ…。ではどうすればいいんだ?」

「別件で研究所そのものを押さえたらどうだ?確か、毒物を扱ってただろ。あの辺を適当に突っついて、罪状をでっち上げるとか」

「うーん…それしかないかなあ、やっぱり」

 スピネルがさらっと腹黒い事を言い、先生も当たり前のように同意した。

 殿下はちょっと眉を寄せたが、止めるつもりはないようだ。手段を選んではいられないと判断したのだろう。

 さすが殿下、清濁併せ呑む懐の深さをお持ちだ。

 

「でっち上げるなら違法実験の線ですかねえ。本当にやっててくれたら手っ取り早いんだけど。とりあえずこちらで手配して、何かないか調べてみます」

「分かった。よろしく頼む」



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第166話 作戦

「次に天秤についてだな。予想通りモリブデン領にあった訳だが…」

 殿下が考え込む仕草をする。

「どうやって手に入れるか、ですね」

 これもまた、正攻法で手に入れるのは難しい…と思ったのだが、先生はあっさりとこう言った。

「それに関しては、あそこにあると分かった以上いくらでもやりようはあると思いますよ。王子殿下なら」

 

 

「…俺が?」

「ええ。スピネル君に聞いたんですが、モリブデン侯爵の趣味は…ええと、なんだっけ?」

「神像だよ。水霊神の神像の収集」

「そう、それ。王子殿下が侯爵屋敷に行って、『神像に興味があるから宝物庫を見せてくれないか?』って頼むんですよ。で、僕もそれに同行させてもらいます。天秤は収集した神像と同じ部屋に置いてあるでしょう、僕が探知したところ地下の宝物庫は一つのようでした。まあ部屋を分けるとその分だけ守護の魔法陣が必要になって面倒ですからね。そこで天秤を見つけた僕はこう言います、『これはきっと古代の遺物です!今すぐ調べなくては!!モリブデン侯爵、これを譲って下さい!!』…と」

 

「……」

 わざとらしく驚いた仕草を作ってみせる先生に、皆がちょっと無言になる。

「あとはこんな感じですね。『殿下、お願いします。先生のために殿下からも侯爵に頼んで下さい!』『うーん、リナーリアのお願いなら一肌脱ぐしかないな。モリブデン侯爵、ぜひその天秤を金貨1枚で譲ってくれ』」

「やっす!!ケチくせえ!!」

「何ですかその小芝居は!!そのくだり必要あります!?」

「えっ、あった方が面白くない?」

「面白くありません!!」

 そのやけにデレっとした演技はまさか殿下のつもりだろうか?何一つ似てないし、いくら先生でも許さないが?

「でも説得力は増すんじゃないかな」

「先輩まで!!」

「とことん侯爵を煽りたいらしいな…」

 何か心当たりでもあるのか、スピネルが眉間を抑える。

 

 

「しかし、それは強引ではないか?横暴というか…モリブデン侯爵が大人しく従うだろうか」

 若干戸惑いを浮かべた殿下に、先生が肩をすくめる。

「まあ譲ってくれは無理でも、しばらく貸してくれ程度の頼みなら大丈夫じゃないかと。天秤は単体では『女神の呪いを反映して傾く』という機能しかない。侯爵にとって、常に手元に置かなければならない物ではないはず」

『ああ。普段のあれは、ただの天秤の形をした置物だ』

 ミーティオもうなずく。

 

「そして侯爵は、我々が天秤の正体を知っている事を知らない。下手に断ると不審がられると考えるでしょう。何でしたら、こちらで返却期限つきの借用書でも一筆書けば良いんです。それならば断れないでしょう」

 全く期限を守るつもりはなさそうな様子で先生は言った。いや、島を出るという真の目的のことを考えれば返却できる訳がないんだが。

 ついでに言えば先生は、侯爵が承諾するまで食い下がりそうな気がする。先生が古代マニアなのは有名な話なので、しつこく頼み込んでも不自然ではないのが怖い所だ。

 

 

「でも、そのためには王子殿下がモリブデン領まで行く必要があるね」

 そう言った先輩に、スピネルがぴんと来た顔をする。

「…もしかして、水霊祭か?今年はゾモルノク公爵家の番だ」

 先生がその言葉にうなずいた。

「うん、僕もそれを考えてたんだよね。それなら僕も王宮魔術師として堂々と同行できるし。水霊祭まであと2ヶ月くらいあるし、今からでも準備は間に合う」

 私は思わず「えっ!?」とぎょっとしてしまった。

 

 5月の初め頃、王族は水霊祭の祭礼を行うために5つの公爵領のどこかを訪れる。去年はブロシャン家で、今年はゾモルノク家を訪れる番だ。

 モリブデン領はゾモルノク領から比較的近い。ちょっと遠回りにはなるが、寄れなくもない場所だ。しかし。

「待って下さい、私は反対です!殿下をモリブデン領に行かせるなんて危険すぎます!」

「そうだな…」

 スピネルが難しい表情で考え込む。

 

 

「虎穴に入らずんば虎子を得ず。…何の危険も冒さず、結果を得ようとするべきではない」

「殿下!」

 つい咎めるような声を上げてしまう。いくら殿下の意思でも、これは看過できない。

「無論、危険はできる限り避けるべきだ。しかしその方法を検討する前から、ただ危険だから駄目だと決めつけてはいけない」

「は、はい…しかし、向こうは殿下を狙っているんですよ。死神の卵だってあります。道中に魔獣を呼び寄せられたりしたら」

 

「スピネル。お前はどう思う?」

「…卵を使っても、上手く魔獣が目標を襲うとは限らない。馬車はできる限り、周辺に魔獣がいない安全なルートを取る。殿下が通りかかる時に合わせてタイミング良く魔獣を呼び寄せるのは難しいだろう。それに卵が使われた時は、ある程度はミーティオのおっさんが察知できる。適当な理由をつけて回避すりゃいい」

 

「セナルモントは?」

「もし侯爵が卵を使うとしても、その場所はモリブデン領内ではないしょう。魔獣を呼び寄せれば後始末が大変ですし、場合によっては周辺の魔獣討伐を怠った疑いをかけられます。もし仕掛けるとしたら、きっとゾモルノク領。祭礼を行う湖です。王子殿下は確実にそこへ行き、数時間は滞在する訳ですから」

 

 私ははっと顔を上げた。

「まさか、去年のブロシャン領での巨亀は」

『分からない。あの時は卵らしき気配は感じなかったと思うが…』

 では、ただの偶然だろうか。今となっては確かめようもない。

 

 

「…場所が予測できるなら、対策もできるね」

「ああ。秘宝事件の後だ、多少警備を厳重にしてもおかしくないが、あまり多すぎると侯爵に警戒されちまう。精鋭をこっそりゾモルノク領へ先行させるか、あるいは後追いさせよう。それでだいぶ安全が確保できるはずだ。ゾモルノク公爵には悪いが、情報漏洩を防ぐために事後承諾でやった方がいいだろうな」

 先輩とスピネルがうなずき合う。

 

「一般的な方法…つまり刺客による襲撃や毒物、罠なんかは、騎士や僕たち魔術師でしっかり防ぐ。これは目的地がどこだろうと同じです。人間の手によるものなら、必ず察知できるはずだ」

 先生も力強く請け負った。

 

 

 

「…うむ。どうやら行けそうだな」

「……」

 覚悟を決めるかのように呟く殿下に、私は唇を噛み締める。

 リスクを下げる事はできる。でも絶対ではない。

 やはり殿下にモリブデン領に行って欲しくはない。どうしても不安が拭えない。

 どれだけ警戒していても、もし万が一の事があったら。

 

「リナーリア」

 殿下がじっと私の目を見つめた。

「君の言う通り、危険はあるだろう。だが今の俺は、自分が狙われている事を知っている。絶対に油断はしない。それに俺には頼れる友も、臣下もいる。…もちろん、君もだ。俺は決して、君を置いて死んだりはしない。約束する」

 

「殿下…」

 その真摯な目が、思いが、とても嬉しい。もう二度と置いていかれたくないという私の気持ちを殿下は見抜き、励まして下さっているのだ。

 何だかちょっと目が潤みそうになってしまい、慌てて堪えた。

 どうも最近の私は涙腺がゆるい気がする。こんな事でいちいち泣いてられるか。もっとしっかりしなければ。

 怖がってばかりではなく、前に進むのだ。

 

 

「…承知しました!殿下がそうおっしゃるのでしたら信じます。それに、いざという時は私が身命を賭してお守りいたします!!」

「お前、まさか付いて来る気か?」

「当然です!絶対付いて行きます」

 私は去年も同行させてもらったのだ、問題はあるまい。スピネルが苦い顔をしているが、こればかりは譲れない。

 

「しかし、危険だ」

「殿下。ご自分は危険を冒そうとしているのに、私が危険を冒すのは許さないとでも?」

「むっ…」

「はは、王子殿下、これは一本取られたね!」

 先輩が愉快そうに笑った。

 

 

「リナーリア君は優れた魔術師だ。知識も判断力もある。立派な戦力になるだろう。それに王都にいたからって絶対安全ではない事は、先の事件でよく分かったんじゃないのかな?」

「これは耳が痛いねえ…」

 秘宝事件では王宮の中から誘拐された事をスフェン先輩に指摘され、先生が苦笑した。

 

「しかもリナーリア君にはミーティオ君の加護があるんだろう。彼女がいればきっと上手くいく。今までもそうだったろう?」

「……」

 殿下とスピネルが顔を見合わせる。

「どうもその加護とやらは実感が沸かないんだがな…」

「しかし、実際何度もリナーリアのおかげで危機を乗り越えてきた」

「まあなあ…」

 

 そこで先輩は音を立てて椅子から立ち上がると、ばっ!とかっこいいポーズを付けた。

「なあに、心配は無用さ!リナーリア君の事は僕がしっかりと守ろう!!」

「何?スフェンも来るのか?」

「当然だろう!僕ならば常に彼女を守れるよ。君たちが入れない場所にだって一緒に行けるしね」

 

 男性の護衛が入れない場所というのはそれなりにある。浴場だとかトイレだとか。

 そういう場所は当然女騎士が護衛に入るのだが、先輩の便利なところは貴族でもあるという部分だ。

 例えば今回、モリブデン侯爵の宝物庫に入れてもらう予定でいるが、先輩ならそこにも自然に同行できるだろう。

 もちろん私だってできる限り自分の身を守るが、私は本来支援魔術師なのだ。組んで戦う騎士がいてこそなのである。

 先輩とは気心が知れているし、武芸大会で共に闘った仲で、いざという時の連携だってばっちりだ。

 

「僕たちが二人揃えばとても強い事を、君たちは身を持って知っているだろう?」

「ぐっ…」

 にやっと笑った先輩に古傷を抉られたらしく、スピネルがちょっと呻いた。

 私は嬉しくなって先輩の手を取る。

「ありがとうございます。先輩が一緒なら心強いです!」

 

 

「…分かった」

 殿下はゆっくりうなずくと、私たち全員を見回した。

「皆で行こう。これは、皆が力を合わせて乗り越えるべき事だ」

「はい!」

 皆の声が重なった。



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第167話 未知への勧誘

『…どうした。我の元に来たくなったか』

「ほ、本当に来た…」

 黒い翼を広げて中空に浮かぶ男を見上げ、私は呆然と呟いた。

 

「うわあ!リナーリア君!!竜人!!竜人だよ!!凄い!翼がある!角がある!飛んでる!踊ってるう!!」

「先生、落ち着いて下さい。踊ってるのは先生の方です」

 興奮してまくし立てながら訳の分からない動きをする先生に、私は冷静にツッコミを入れた。

 私が呼びかければライオスはきっと来るだろうとミーティオは言っていたが、本当に来るとは。

 

 

『……』

 ライオスは不審な動きを続ける先生には目もくれず、じっと私を見下ろしている。

「あの、実は貴方とお話がしたくて…その、とりあえず地面に降りていただけますか?」

 恐る恐る頼むと、ライオスはバサッと羽音を立てて地面に降り立った。

 一応話を聞いてくれるつもりはあるようで、胸を撫で下ろす。

 

『話とはなんだ』

 そう言ったライオスに向かい、私はゆったりと穏やかに微笑んでみせた。

「ライオス。…今日、貴方をお茶会に招待したいんです」

 

 

『……。オチャカイ?』

 ライオスは鸚鵡返しに呟いた。その表情は読み取りにくいが、少し戸惑っている…ような気がする。

 

 ここは王都のはずれにある、とある古びた屋敷の庭だ。

 何故こんな所でライオスと対面しているのかというと、この間の作戦会議での先輩の発言がきっかけである。

 

 

 

 

「ふむ。そういう事なら、竜人君をお茶に招いてはどうかな?」

「えっ…お茶?」

 スフェン先輩の言葉がよく理解できず、私は少しの間ぽかんとした。

 

「…お茶ですか?竜人と?」

「うん。平和に話し合いたいのなら、まずこちらに敵意がない事を示さないといけないだろう?和やかな雰囲気の演出は不可欠だ。なら、一緒にお茶を飲んでみるのはどうだろう」

「は、はあ…」

 理屈は分かる。分かるが、ライオスとお茶…?とても想像ができない。

 

「紅茶飲めるのか?あいつ」

 スピネルが根本的な疑問を口にする。答えたのはミーティオだ。

『人の食べ物は問題なく口にできるだろう。人型をしているから、味覚も人間に近いと思う』

「えっ、それどういう事?竜の味覚は人間とは違うのかな?人型になると味覚が変わるの?」

「セナルモント!そういう話は後にしろ!!」

 すかさず食いついた先生に、スピネルが怒鳴った。

 

 

「そうですね…飴を舐めて『美味い』と言っていましたし…」

 前世で初めて会った時の事を思い出しつつ言うと、殿下が顎に手を当てる仕草をした。

「という事は、甘いものは嫌いではないんだな」

「なら丁度いいじゃないか。お菓子をたくさん用意して、お茶会に招いてみよう!」

「は!?マジで!?」

 両手を広げた先輩にスピネルが顔を引きつらせる。

 

 先生はにっこりと笑顔になって言った。

「良いじゃないか、良いじゃないか。僕はスフェン君の意見に賛成だなあ。現代の人間の文化に触れてもらう事もできるし、きっと相互理解を深められると思うよ」

「それはあいつが大人しく招きに応じればの話だろ。いきなり暴れでもしたらどうするんだよ」

「うーん、話を聞いた感じじゃそんな凶暴な性格だとは思えないけど。ちゃんと理性的な会話ができてるみたいだし、例のおとぎ話で嘘をついた王様を殺した時以外、竜人が人を害したって話は全くないよ」

 

『竜は人間を殺せば力を失い弱体化する。恐らく竜人も同じだ。ライオスも既にその事に気付いているだろうし、無駄な殺生は避けるはずだ。それに、こちらにはリナーリアがいる。彼女を傷付けるような事はするまい』

「しかしなあ…」

 顔をしかめるスピネルを横目に、先生がさらに言う。

「竜人…ライオス君と親しくなるのは、この島のためにも必要な事だと思うよ」

 

「…竜人にこの島を守ってもらうと言うのか?」

 そう言った殿下に、先生が首を横に振る。

「いえ、そうではなく。竜人がいれば、ミーティオ君を復活させられるのではないかと」

 

 

『何…?』

 ミーティオがちょっと呆然とした顔で訊き返した。

「僕の推測だけど、きっと竜人はあの火竜山の遺跡に入れる。彼はあの場所で生まれ育ち、魔獣と戦ってはそこに戻ってきていたはずだ。彼の父…研究者たちは、竜人のデータを取り、次の戦いに送り込むために彼の傷を癒やさなければならなかったからね」

「遺跡はかつて竜人の拠点だった訳だな」

 

「竜人は空を飛べるんだし、研究者たちが毎回戦いに同行していたとは思えない。彼一人でも扉を開け中に入れるようにしていたはずだ。鍵を持っていたか、その魔力を扉に登録していたか…多分後者だね。魔法陣がリナーリア君に反応したんだから」

「あっ…あの時、川原に隠されていた魔法陣が発動したのは…」

 数年前、あの遺跡に迷い込んだ時の事を思い出す。

「うん。扉の魔法陣は地震の影響を受けたせいで狂い、竜の血が濃いために似た魔力を持つリナーリア君を竜人と誤認した。それでリナーリア君を遺跡内に飛ばしたんじゃないかな」

 …なるほど。そう考えれば辻褄は合う。

 

「竜人は恐らく研究所の深層部に行く方法も知っているだろう。そこにはミーティオ君の竜の身体が封印されている。古代のものとは言え、僕らと同じ人間が作った封印だ。解くことはきっと不可能じゃない」

「生き物の時間を止める封印の魔術は、現代でも存在します。古代のものはきっと更に精密だったでしょうが、解析と研究を進めれば解けるかもしれませんね」

 

 

『…封印を解き、肉体に戻る事ができれば、私は大きく力を取り戻せる。本来の力からは程遠いが、島の守護者として多少は魔獣を抑えられるようになるだろう』

「え、でも、そうしたらスピネルはどうなるんですか?」

 スピネルはミーティオの魂を分けてもらっているという。ミーティオが離れて大丈夫なんだろうか。

『その時は魂の一部を切り離し、スピネルに残す。竜に戻れればそのくらいはできる。スピネルが死んだ時、返してもらえば良い』

 

 

 

 

 …とそんな感じで話が進み、先輩のアイディアは採用され、私たちだけで密かにお茶会を催すという事になった。

 問題は場所だ。どうやらライオスは普通の人間の目には映らないよう、姿を隠して行動できるらしいが、それでも念の為なるべく人目を避けた方が良いだろう。

 本当なら王都の外、人気のない場所が望ましいのだが、殿下や私が護衛騎士も連れずに外へ出る訳にはいかない。

 

 そこで王都内で使えそうな場所を探したのだが、上手く丁度いい物件があった。

 息子夫婦と折り合いが悪かったとある老貴族が、隠居するために建てたという屋敷だ。王都の隅にあり、周囲に人気(ひとけ)は少ない。

 老貴族の死後なかなか買い手が付かなかったというそこを買い上げ、人を雇って大急ぎで使えるように手入れをした。庭も家の中も、最低限の見た目は整えてある。

 なおそれらの資金は殿下が出し、スピネルが手配したようだ。

 

 

 ライオスが私の呼びかけに応えて姿を表すかどうかは半信半疑だったのだが、案外あっさりやって来た。そう遠くない場所に住んでいるのかもしれない。

 とりあえず、地面に降りたライオスへと話しかける。

 

「まず紹介しますね。オレラシア城で一度会っていますが、こちらの方はエスメラルド殿下です」

「エスメラルド・ファイ・ヘリオドール、この国の第一王子だ。国の未来のため、ぜひ話を聞かせてもらいたいと思い、ここにいる。よろしく頼む」

 さすが殿下、臆することなく正面から堂々と名乗った。

 ライオスは「第一王子」の部分にほんの少し視線を動かしたが、何も言わなかった。

 

「こちらも前に会っていますが、スピネルと言います」

「スピネル・ブーランジェだ」

 ライオスはこちらにははっきり反応し、スピネルの方を見つめた。やはりミーティオが宿っているのが気になるのか。

 スピネルは説明するつもりがないようなので、仕方なく私が代わりに説明する。

「竜…ミーティオの魂が一緒にいますが、彼自身は普通の人間です。二人共、貴方に敵対したり危害を加えるつもりはありませんのでご安心下さい」

 少なくとも今は、だが。そこをわざわざ言う必要はない。

 

「それからセナルモント先生。私の魔術の師匠です」

「やあこんにちは、ライオス君!それともライオス殿の方が良いかな?僕はセナルモント・ゲルスドルフ。君に大変興味があるんだ!よろしくね!!」

 先生が差し出した両手をライオスは黙殺したが、先生は全く気にしていないようだ。

 ニコニコしながら「そうか、握手には慣れてないのかな?古代にも握手はあったはずなんだけどねえ」とか言っている。

 本物の竜人に対してこの馴れ馴れしさ、いっそ尊敬する。この人、実は大物なのでは…?

 

「そしてこちらは、スフェン先輩。私の友人です」

「スフェン・ゲータイトだ。リナーリア君の友人として、君とも仲良くしたいと思っているよ」

 先輩はライオスが空から現れた時は少し緊張していたようだったが、先生があの調子なのでだいぶほぐれたようだ。

 さすがにいつものポーズは取らなかったが、落ち着いた口調で名乗った。

 

 

「後は私、リナーリア・ジャローシス。以上が本日のお茶会のメンバーです」

『オチャカイ…』

 ライオスはまた呟いた。よく理解できないらしい。

「私たちは誰かと話をしたいと思った時、一緒にお茶を飲むんです」

『…何のために。それで何が手に入る』

「私たちは貴方について知る事ができます。貴方は、美味しいお茶とお菓子を食べられます。…どうでしょう、私たちの招きを受けていただけませんか?」

 

『……』

 しばしの間無言が流れ、少し冷や汗をかく。

 やっぱり唐突過ぎるかな…無理があったかなあ…。

『…飴玉。飴玉はあるのか』

「あっ、あります!ありますとも!」

 もちろん用意してある。あの時ライオスに渡したのと同じ、苺の味の飴玉だ。

 

『それが対価ならば、良いだろう』



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第168話 未知とのお茶会(前)※

 ライオスを伴い、屋敷の中へと入る。

 ちらりと後ろを振り返ってみるが、竜人が廊下を歩いているという絵面はとてもシュールで、違和感が強い。

 なんだろう、翼があるからか?上半身裸だからか?それとも、裸足なせいで足音がぺたぺたと鳴るからだろうか。

 気にしてはいけないんだろうが、ううむ…。

 

 ガーデンパーティーをするにはまだ少し早いかと思い、お茶会の場所は食堂だ。

 招き入れ椅子を薦めようとしてから気が付いたが、もしかして普通の椅子ではライオスには窮屈ではないだろうか。

 翼が背もたれに当たって上手く座れなさそうだ。

「すみません、違う椅子を用意した方が良さそうですね」

 少し慌てると、ライオスはしゅっと翼を縮めた。背中のあたりに吸い込まれ、影も形も見えなくなる。

 

「えっ!ええっ!!何今の!!凄い!!」

 先生がライオスの背後に回り込み色んな角度からじろじろと眺める。さすがに触るのは我慢しているようだが、どう見ても鬱陶しい動きだ。

「その翼、しまえるんですね。あっ、もしかして角もしまえますか?」

『それはできない』

 どうやら完全な人の姿になる事はできないようだ。なるほど…いや先生、本当に落ち着いてくれ。動きが不審過ぎる。

 あれだけまとわりつかれて無視できるライオスも凄い。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 皆が席につくのを横目で見ながら、私は紅茶の用意を始めた。使用人を呼ぶ訳にはいかないので、私がやる事にしたのだ。

 その方がライオスも口を付けやすいのではないかと考えたのもある。

 今まで紅茶を淹れた事などなかったので、屋敷の準備が整うまでの期間、スミソニアンとコーネルに指導を受けてみっちりと練習した。

 そのお陰でなんとか、まともな味の紅茶を淹れられるようになった…はずだ。

 スミソニアンも一応合格を出してくれた。何か物凄い葛藤を抱えた顔で、渋々とではあるが。

 

 お菓子はクッキーやマドレーヌ、カヌレなど様々な焼き菓子を用意した。私が紅茶を淹れている間に先輩がテーブルに並べてくれている。

 どれも手でつまめる物なので、ライオスも食べやすいだろう。

 人数分の茶葉と、湯沸かしの魔導具で作ったお湯を、温めたポットに入れしばし待つ。

 砂時計の砂が落ちきるのを待ってから、丁寧にカップに紅茶を注いだ。

 

 

 6つのカップに均等に注ぎ終えてから、そのうちの1つだけ魔術を使って少し冷ます。これはライオスの分だ。

 紅茶など飲み慣れていないだろうし、あまり熱いと飲みにくいかもしれないと思っての配慮だ。ちゃんと飲んでくれるといいのだが。

 カートを押し、全員に紅茶を配っていく。カップを動かすたびにかちゃかちゃ音が鳴ってしまって少し恥ずかしい。

 スピネルは無言だったが明らかに何か言いたそうな顔だった。くそう。

 

 全ての支度が整った所で、私もまた席についた。

 軽くぱんと両手を合わせ、宣言をする。

「…では、お茶会を始めましょう!」

 

 

 

 カップにそっと唇を寄せ、紅茶を口に含む。

 …いい香りだ。口内に広がる程よい渋みと甘み。我ながら会心の出来ではないだろうか。

「うん、美味いな」

 殿下が微笑み、先輩と先生もうなずいた。

「お前にしちゃ上出来だな」

 スピネルが片眉を上げながら言う。もう少し褒め方があるだろうと思うが、正直嬉しく感じるのが悔しい。こいつは紅茶にはうるさいのだ。

 

「ライオスも飲んでみて下さい」

 私はカップを持ち上げてライオスに示して見せた。

 ライオスは眉間に皺を寄せながら、私と同じようにカップを持ち上げる。

 一口飲んでみせると、ライオスも一口飲んだ。

 

「いかがですか?」

『熱い』

「あっ、まだ熱かったでしょうか。もっと冷ましましょうか?」

『…よく分からん』

 何とも言えない顔でカップの中の赤い液体を見つめている。

 

 

「では、お菓子はどうですか。これを食べながら紅茶を飲むと美味しいんです」

 マドレーヌを一つ手に取り、またライオスに示す。ライオスも皿からマドレーヌを取ったのを見てから、カップを持ち上げる。

 一口食べて、紅茶を飲み、ゆっくりと味わう。そしてまた一口食べて、紅茶を飲む。

 

 私の一挙手一投足を、ライオスはそっくりそのまま真似しているようだ。やけに真面目な顔で慎重にカップに口を付けている。

 その様子に、何だか親鳥の後を付いて歩くアヒルのヒナを思い出してしまった。

 そう言えばミーティオも、竜人は見た目は大人でも中身は子供のようだったと評していたな。

 それは今でもあまり変わらないのかもしれない。

 

 

「美味しいですか?」

『…美味い』

「それは良かったです」

 安心し、私は思わず笑顔になった。やはり甘いものは好きなようだ。

 

「他のものも食べてみて下さい。どれも美味しいですよ」

 そう言って勧めると、ライオスは私に尋ねてきた。

『飴玉は?』

「あっ、あれは後で。お茶会が終わったらお渡しします」

『…分かった。話を始めるがいい。それが対価という約束だ』

 

 あれ、何だか「飴玉が欲しかったら話に付き合え」みたいな感じに解釈されている?

 飴玉は舐めるのに時間がかかるし、お茶会の後でお土産として渡そうと思っただけなのだが…。

 だが、それで話をしてくれるならいいか。そろそろ質問を始めてみよう。

 何しろさっきから先生が物凄くソワソワしている。口を開きたくてしょうがないのを必死で我慢している感じだ。

 スピネルの隣に座らせておいて良かった。横から睨みつけて何とか抑えてくれている。

 

 

 私が勧めたジャム入りのクッキーを咀嚼するライオスに尋ねる。

「ライオスは普段、どんなものを食べているんですか?」

『獣の肉や、木の実、魚』

「ほほうなるほど山で採れるものを食べているんだね!?じゃあやっぱり山に住んでいるのかい!?」

 我慢しきれなくなったらしい先生が身を乗り出す。しかしライオスは答えようとしないので、私が尋ね直した。

「今はどこに住んでいるんですか?」

『少し離れた山の中だ。洞窟があるから、そこで寝ている』

 

「ふむふむ!やはり雨露をしのげる場所が必要なんだね!!」

 先生はノートを広げてなにやらガリガリ書き付けている。

「肉や魚は生で食べるのかい!?それとも火を通す!??」

『……』

「…えー、肉や魚は生のままで食べるんですか?」

『だいたい焼いている。生は食べにくい』

「なぁるほどおー!!!」

 

 ふむ、ライオスは元々人間に育てられた訳だし、やはり基本的には人間と同じような感性や感覚を持っているようだ。

 今は山で暮らしているが、あの遺跡に住んでいた頃は人間に近い生活をしていたんじゃないだろうか。

 お菓子もやはり気に入ったらしい。だんだんと慣れてきたようで、手を伸ばしては口に放り込んでいる。

 

 

 それからライオスの普段の生活についてなど尋ねてみた。

 いつもは山の中にいて、たまに空を飛んで島を見て回っている事。時には獣や鳥と戯れたりもする事。魔獣はライオスを恐れてめったに襲って来ない事。ブルーベリーなどの果実類が比較的好きである事。

 まるで俗世間から離れた隠者のような生活だ。穏やかだが、やはり私には孤独に思える。

 古代の出来事については尋ねなかった。それについてはまだ触れないようにしようと事前に皆で決めていた。

 今回はまず、打ち解けるのが目的なのだ。

 

 ライオスは最初私にしか返事をしなかったが、そのうちついに他の者にも返事をするようになった。

 先生があまりにしつこくて鬱陶しかったせいで、いちいち私を通すのが面倒になったらしい。先生の粘り勝ちである。

 既に会った事がある殿下やスピネルだけでなく、先生や先輩もほとんど恐れる様子なく話しかけてくるので、ライオスは少々戸惑っているように見える。

 

 

「うん、君が食べたその黄色い果実はレモンだね!あれはそのままではとても酸っぱいんだ」

 黄色い楕円形の果実が酸っぱくてひどくまずかったという話を聞き、先輩が朗らかに笑った。

『…レモン』

「そう、レモン。僕たちは果汁を絞ってジュースにしたり、甘く煮てジャムにしたりするんだ」

「あとは焼いた肉にかけたりもするな」

「ああ。後味がさっぱりとして、美味い」

『肉に…あれをか』

 

 人の食生活というものに、ライオスは少し驚いたようだ。

『人間は果実一つ食べるのに、ずいぶん面倒な事をする』

「人間は美味しいものを食べるのが好きですからね。そのためにあれこれ手間をかけ、お互いに協力し合います。このお菓子もそうです。バターを作る人、小麦を作る人、砂糖を作る人…最後にパティシエが、こうしてクッキーの形にして焼き上げます。とても沢山の人の手を経て、これは作られているんです」

 

『……』

 ライオスはじっと手の中のクッキーを見つめている。

 その赤い瞳の奥にどんな感情があるのかは、私には読み取れなかった。



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第169話 未知とのお茶会(後)

「そう考えると、何か不思議な気持ちになるな。普段こうして何気なく口にしている物も、長い時間をかけ、多くの民の手を経て、俺の元に届けられている訳か…」

 深く感心したように、殿下も指でつまんだクッキーを見つめた。

 

『貴様は未来の王なのだろう。それなのに、民が作っている事を知らなかったのか?』

 ライオスの言葉には、わずかに嘲るような色が含まれている。王というものにあまり良い印象を持っていないのだろう。

 だが殿下は気にする素振りを見せず、真面目な表情で考え込んだ。

「知識としては知っていたが、ちゃんと理解していなかった…というのが正しいだろうか。恥ずかしい話だが。目の前にどれだけ沢山あっても、自ら意識を向け、考えようとしなければ、真には理解できないようだ」

 

 それから、私の方を見て微笑む。

「俺たちの暮らしが多くの民に支えられていると、決して忘れてはいけない。…リナーリアはいつも、こうして俺に大切な事を教えてくれる」

「そ、それほどでも…。殿下が、常に学ぼうとする心をお持ちだからですよ」

 私など大した事はしていない。そう思いつつ、殿下に褒められるとやっぱり嬉しい。

 ちょっぴり照れながら微笑み返す私を、ライオスがじっと見つめていた。

 

 

 

 

 そうして会話が一段落した所で、ライオスは言った。

『お前たちは、こんな話をしたくて我を呼んだのか』

「それは…」と言いかけた私を殿下が遮る。

「すまない、リナーリア。俺に話をさせてくれ」

「…はい」

 

 私は素直に殿下へと譲った。私自身、殿下がどのようにライオスと話し合うのか知りたい。

 宝玉の事は一旦置いて、まずは私の願いの対価について解決しようと、皆で相談して方針はすでに決めてある。こちらの方が時間的猶予が少ないからだ。

 だからきっと、私の事について話すつもりだと思うのだが…。

 

 殿下は真剣な表情でライオスへ語りかける。

「こちらの目的を伏せたまま近付こうとするのは卑怯だと、俺は考える。だから正直に言おう。ライオス、俺たちは君に対し、一つの願いを持っている」

『どんな願いだ』

「君とリナーリアが交わしたという契約。それを解除し、彼女を連れて行くのをやめて欲しい」

 

 

 

「っ……!」

 瞬く間に室内の空気が一変した。先程までの和やかな雰囲気は消え失せ、怒気が周囲を満たしている。

 産毛がちりちりと逆立ち、額や手のひらに脂汗が滲む。

 恐ろしくて顔が上げられない。呼吸さえままならない。今すぐここから逃げ出せと本能が訴える。

 歯を食いしばって耐えるが、指先が震えるのを止められない。

 

「…スピネル。座れ」

 ひどく長く思える数十秒の沈黙を破ったのは、殿下の声だった。

 反射的に身体が動いたのだろう、立ち上がりかけ腰に手を伸ばしていたスピネルが、ゆっくりと椅子に座り直す。

 

 

『契約は絶対だ。貴様が口を挟めるものではない』

「分かっている」

 ライオスから放たれる威圧に抗うためか、血の気が失せるほどに拳を強く握りしめ、殿下は答えた。

「それでもなお、願う。リナーリアを連れて行かないで欲しい。彼女はこの国に必要な人間であり、皆が彼女を愛している」

『我は願いを叶えた。願いには、対価が必要だ』

 

「それも分かっている」

 殿下ははっきりと、竜人の目を見据えて言った。

「彼女が何物にも代えがたい宝である事は、俺自身がよく知っている。どんな財宝を積み上げても、彼女には遠く及ばないだろう。…それでも、だからこそ、願う。彼女を契約から解放して欲しい。そのためなら俺はどんな事でもする。どんな対価でも払う。代わりに俺が…、いや」

 そこで言葉を切り、私たちの顔を見回す。

 

「俺たちが、君の願いを叶えよう」

 

『…願い?』

 ライオスはその瞬間、虚を突かれたような表情をした。

 

 

 

『…我には願いなどない。契約通りの対価さえもらえば、それで良い』

 そう言いながらも、ライオスはどこか動揺しているように見える。

「いいや、あるはずだ。君には確かに、人間の部分がある。人間とは願いや望みを持たずにはいられないものだ」

『貴様…』

「ライオス!」

 

 再び怒りを露わにしたライオスに、私は思わず呼びかけてしまった。

 ライオスがこちらを振り向く。その表情に一瞬怯んでしまいそうになるが、先程までのような身動きできないほどの恐ろしさは感じない。

「私は貴方に、私たち人間について知って欲しい。…それはきっと、貴方自身について知る事にも繋がると思うんです」

『…我自身について?』

「はい」

 

 竜人は古代の人間たちが作った、恐らくこの世で唯一人の存在だ。

 しかし、だからと言って、孤独でなければならないなんて事はないはずだ。

 今日こうして一緒にお茶を飲んで確信した。表情こそ分かりにくかったが、お菓子に喜び、辿々しく会話に応じる様子はどう見ても人間だ。

 異形の姿を持ち、その身の半分が竜であろうと、彼は間違いなく人間でもあるのだ。その事に気が付いて欲しい。

 

「今すぐ分かってくれとは言いません。ですが、きっと何かを得られます。どうか、またこうして私たちとお茶を飲んでくれませんか。…少なくとも、人間の食べ物は美味しかったでしょう?」

『……』

 ライオスは無言で私の顔を見つめ、それから目を逸らした。

 その仕草もまた人間らしいと、私は思った。

 

 

 

 その後すぐ、お茶会はお開きとなった。

 庭に出たライオスへと小さな巾着袋を差し出す。

「この飴玉はお土産です。後で食べて下さい」

 ライオスは袋を受け取ると、その中から飴玉をつまみ上げじっと見つめた。

 

『…違う。これではない』

「えっ?」

 私は戸惑ってしまった。あの時と同じ、苺味の飴のはずだ。

『包んでいる紙が違う。もっと赤かった』

「あ…」

 

 そう言えばそうだ。あの時の飴玉は確か淡紅色の紙に包まれていたが、これは縞模様が入った紙だ。

 コーネルに頼んで用意してもらったものだが、作っている工房が違うのかもしれない。

 味は同じ苺味のはずなんだが…。いや、やっぱり味も違うんだろうか?

 お菓子にはこだわりがないので、そこまで考えなかった。

 

『そなたの願いを叶える時、あの紙は持ってこられなかった』

「え?紙を?」

『そうだ。我はそなたを連れ、魂だけで時を遡った。物質まで移動させる事はできなかった』

 うぅーむ?つまり世界の時間そのものを巻き戻したのではなく、私とライオスの魂だけが時を遡って移動して来たのか?

 肉体は置いてきたから包み紙は持ってこられなかったのか。

 …って、じゃあもしかしてライオスは、私の願いを叶えたあの時まで、飴玉の包み紙を大事に持っていたのか?3年も…?

 

 何か色々衝撃を受けつつも、とりあえず謝る事にする。

「すみません、全く同じものは用意していなくて…。でも必ず用意しますので、どうかまた来てください」

『オチャカイにか』

「はい。次も、美味しいお菓子を並べて待っていますので」

『……』

 

 

「来週…7日後に、また呼びます。きっと来てくださいね!」

 再び翼を生やし、大きく広げたライオスへ呼びかける。

「僕たちも待ってるよ~!絶対来てね~!!」

「また話をしよう!」

「俺も待っている。必ず来てくれ」

「…次は別の紅茶も用意させる」

 

 ライオスはそれらの呼びかけには答えなかった。

 しかし宙に浮いた後、一瞬だけこちらを振り返り、それから飛び去っていった。

 みるみる小さくなっていくその影を黙って見送っていると、誰かが私の隣に立った。…殿下だ。

 

「彼はまた来てくれるだろうか」

「分かりません。…でも、信じます」

 そう答えると、殿下は小さく微笑んだ。



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番外編4・クリスマス

本編の時系列とは関係ない番外編です。雰囲気でお楽しみ下さい。


「えっ!?古代のクリスマスって、子供がプレゼントをもらう日だったんですか!?」

 エスメラルドの隣でミーティオの話を聞いていたリナーリアが、驚きで目を丸くした。

『ああ。一年間良い子で過ごした子供には、サンタクロースが夜中にプレゼントを届けてくれる。そういう日だ』

「初耳だな」と言うと、向かいに座っているスピネルが「俺もだ」と同意する。彼も聞いた事がないらしい。

 ミーティオの語ったクリスマスは、今のこの国のものとずいぶん違う。

 

 

「そんな…サンタクロースは悪い子を攫っていく赤い服の怪人じゃないんですか…?」

「……?いや、それも聞いた事がないが」

 エスメラルドは思わず首を捻ってしまう。そもそもサンタクロースとは誰だろう。

 

「えーと、北部のあたりに伝わる民話ですね。確か、血まみれの赤い服を纏っていて、白い仮面をつけ、手には斧を持っていて、背中には生首が入った袋を背負っているそうです」

「殺人鬼じゃねーか!!子供泣くだろそれ!!」

 スピネルは引きつった顔で叫んだ。確かに彼女の言葉からは、グロテスクな想像しかできない。

 

「ええ、だから子供を叱る時に語る話みたいですね。悪戯ばかりしていると、クリスマスの日に怖いサンタクロースがやって来て攫われるんだぞ、と」

『それは何か色々と…別の話が混じっているようだ』

 ミーティオは困惑気味のようだ。

 

『赤い服を着ているのは合っているが…。サンタクロースとは、トナカイが引くそりに乗ってやってきて、煙突から家の中に入り、眠っている子供の枕元にプレゼントを置いて行く善良な老人だ』

「それはそれで不審者じゃねーか!不法侵入だろ!」

「どちらかと言うと、妖精などに近い存在なのではないか?」

 人間というよりは、おとぎ話に出て来るような不思議な存在に思える。そう言うと、リナーリアもうなずいて同意した。

「確かに。子供にだけプレゼントを贈るというのは、妖精っぽいですね」

 

 

『しかし、そんな形でクリスマスが伝わっているとは…』

「一部の地域だけですけどね。この国全体で言えば、クリスマスは七面鳥とクグロフ…山型をしたケーキを食べて、一年無事で過ごした事を祝う日です。サンタクロースはいません」

『食べ物だけはそのまま伝わっているんだな。謎だ』

 エスメラルドから見るとぼんやりとした人影なので分かりにくいが、ミーティオは眉間を抑えているらしい。

 

「古代王国でも七面鳥やケーキを食べたんですか?」

『ああ。それと、クリスマスツリーというものを飾る。モミの木にさまざまな装飾をぶら下げ、てっぺんに星を付けるんだ。そうしてご馳走を食べながら、家族や恋人など、大切な相手と一緒に過ごす』

「恋人…」

「恋人ですか?」

 思わず反応したエスメラルドの隣で、リナーリアも顔を上げた。

 

『そうだ。クリスマスは恋人同士がデートをする日でもあった』

「まあ…そうなんですか」

 現在のこの国では、クリスマスは家族で過ごす日だとされている。恋人というのは初めて聞いた。

 リナーリアは何故かやけに感心している。

 

「君も興味があるのか?」

「はい。もちろんです」

 まさか彼女が「恋人」という言葉に反応するとは。少し驚きながら尋ねると、リナーリアはきっぱりとうなずいた。

「これはつまり、クリスマスという風習がその時代や文化に合わせて変化したという事ですよ!私が思うに、この国の貴族は冬の間は自領で過ごすので、恋人や友人と一緒にクリスマスは迎えられません。そういう事情から『大切な相手と過ごす日』から『家族で過ごす日』へと変化していったのではないでしょうか!?」

 

 

「…うん。そうだろうな。そんな事だろうと思った」

 純粋に学術的興味から反応したらしいリナーリアに、思わずひとりごちる。

 分かっている。彼女にその手の話題を求める方が間違っているのだ。

 そう思いつつ、つい遠い目になってしまう。

 

「殿下もそう思われますか?今度改めて調べ直し、セナルモント先生にレポートで報告するつもりですが、殿下にもお見せしますね!」

「ああ…」

 リナーリアは嬉しそうだ。師匠の影響なのか、彼女もまたこの手の…古代の話題が好きなのだ。

 無邪気に喜ぶ笑顔は可愛らしく、少しだけ心が和む。

 

 

「お前のそういう所はセナルモントに似てるよな…」

 スピネルの方は呆れ顔をしている。リナーリアは何故か得意げに胸を張った。

「それはまあ、師弟ですし?」

「褒めてねえよ!色気がねえっつってんだよ!!」

「な、なんですと…」

 リナーリアはショックを受けている様子だ。セナルモントは確か40歳近かったはずで、それと一緒にされるのはさすがに不本意らしい。

 

 そのままぎゃあぎゃあと言い合い始める二人を横目に、エスメラルドは考え込む。

 彼女のこういう屈託の無さはもどかしくもあるのだが、心地良くもある。

 自分自身、彼女のそんな部分に甘え、踏み込まずにいた所もあるのだ。それを少し後悔してもいる。

 しかし後悔とは、未来へ活かすための反省でもあるのだ。

 …つまり、自分が今やるべき事は一つ。より彼女へと踏み込む事である。

 

 

 

 

 そして、クリスマス当日の夜。

「わあ…!」

 城の庭の中、きらきらと飾り付けられた大きなモミの木を見上げ、リナーリアが歓声を上げた。

 

「ミーティオから聞いたクリスマスツリーというものを再現してみたんだ」

「すごいですね!でもこの木、一体どこから?ここにモミの木なんてありませんでしたよね?」

「庭師に頼んで植えてもらった」

「まあ」

 こんな大きな木を植え替えるのは大変だろうと思ったが、彼らは案外喜んでやってくれた。冬は庭師の仕事が少ないから暇なのだそうだ。

 

「ぴかぴか光っている飾りは、魔導具の明かりですか?」

「ああ。ツリーはこのように光る仕掛けのものも多かったらしい」

 今回使ったのは、昼の間に陽光を集めて貯め込み、夜になると発光する明かりだ。

 玄関先に取り付けたりパーティーの飾りに使うためのものだが、大急ぎでたくさん取り寄せて飾ってもらった。

 

 

「それと、俺や母上の余っている宝石類も少し使っているな」

 魔導具の明かりだけでは少し寂しかったので、思いつきで適当に下げてみたのだが上手くいった。

 色とりどりの宝石が明かりを反射してきらめき、ずいぶん華やかになっている。

「ほ、本当だ…よく見たらネックレスや腕輪が…えっ、このツリー、物凄い金額になってませんか…?」

「宝石は明日の朝には回収するから大丈夫だ。明かりはしばらくそのままにするつもりだが」

 さすがにいつまでも宝石を野ざらしで置いてはおけない。これは今夜だけの特別仕様だ。

 

「なるほど…。しかし、実際に見ると想像していた以上に綺麗で良いですね。こういうものがあると、クリスマスがますます楽しく感じられる気がします」

「ああ。民の間に広め、王国の風習として復活させてもいいかも知れない」

「それは素敵です!ぜひやりましょう」

 リナーリアはニコニコと笑った。

 その頬に、ひらりと白いものが舞い落ちる。

 

「…雪?」

 エスメラルドは夜空を見上げた。無数の白い雪片が、ひらひらと降ってきていてる。

 王都に雪が降るのは珍しい。少し驚いていると、手のひらで雪を受け止めたリナーリアが呟いた。

「これ、魔術で作った雪ですね。この周辺にだけ降らせているみたいです」

 さてはスピネルの仕業だな、とエスメラルドは思う。誰か魔術師に頼んでやらせているに違いない。

 

 

「ホワイトクリスマス…と言うんだそうだ。このように、雪が降るクリスマスの事を」

「そうなんですか。よく分かりませんが…すごく、綺麗ですね。幻想的で」

 ツリーに灯された明かりが、夜空から舞い落ちる雪を明るく染め、浮かび上がらせている。

 きらきらと光に溢れたその美しい光景を見上げる横顔を、エスメラルドはじっと見つめた。

 明かりを反射し輝く青銀の髪は、この雪に似ている。

 

「君には雪がよく似合うな」

「え?そうですか?」

「ああ。とても綺麗だ」

 両目を見つめながら言うと、彼女の白い頬が一瞬で赤く染まった。

 少し…いや、かなり嬉しく思う。

 以前はこのような反応を見せてくれる事はなかった。少しずつでも確実に前に進んでいる証拠だ。

 

 

「あ、あの、ありがとうございます。…その、こんな素敵な光景を、殿下と一緒に見られて…とても嬉しいです」

「喜んでもらえて、俺も嬉しい」

「でも、晩餐までご一緒させて頂いて良いんですか?せっかくのクリスマスの家族団欒に、私はお邪魔では…」

「大丈夫だ、父と母も君が来ると聞いて喜んでいる。スピネルも同席するし、気を遣わず楽しんでいってくれ」

「…はい」

 赤い頬のまま微笑む彼女に、エスメラルドもまた微笑んだ。

 

「実は、晩餐はこのツリーを眺められる部屋に用意して貰っているんだ」

「それは良いですね!陛下と王妃様もお喜びでしょう」

「もちろん七面鳥とケーキもある。料理長が腕によりをかけて作ったそうだ」

「ふふ、楽しみです」

 

 

「では、そろそろ行こうか」

 エスメラルドが差し出した手を、リナーリアがゆっくりと取る。

 城へ向かって歩きながら、静かに雪が舞い落ちる空をもう一度見上げた。

 …これから先も、毎年こうしてクリスマスを一緒に過ごしたい。

 そんな事を祈りながら、そっと彼女の手を握りしめた。



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第170話 出発

 5月の初め、王都の人々に見送られながら、私たちは予定通りに水霊祭の祭礼に出発した。

 今年に入ってから国王陛下の体調が安定しないため、今回は陛下も王妃様も同行しない。殿下と私たちだけだ。

 昨年と同じように転移魔法陣と馬車を併用した旅程で、1日目はランメルスベルグ領に宿泊。2日目がモリブデン領で、3日目の夕刻には目的地であるゾモルノク領に到着する予定だ。

 …特に何も起こらなければ、だが。

 

 

 殿下の馬車に同乗するのは、スピネル、私、スフェン先輩。気の置けない面子で、皆くつろいだ雰囲気である。

「他の領へ行くなんて久し振りだな。つい心が浮き立ってしまうよ」

 私の隣で先輩が楽しげに笑う。

 大きな目的を秘めた旅ではあるが、先輩は年末休みでも実家に帰っていないから、王都を出るのはきっと3年ぶりくらいだ。気分が弾むのも当然だろう。

 もしかしたら、緊張気味の私のためにあえて明るく振る舞っているのかもしれないが。

 

「卒業後は白百合騎士団入りが内定してるんだろ?このまま王都住まいか?」

 尋ねたスピネルに、先輩は「ああ」とうなずいた。

「騎士団員向けの寮に入れてもらう予定だよ。部屋も空いてるそうだし」

 そう、先輩は王宮で抱える白百合騎士団の入団テストに無事合格し、来年からは晴れて見習い女騎士となるのである。

 合格の報せが来た時には、先輩のファンクラブの方々と一緒に盛大にお祝いをした。

 これでまた一つ先輩の夢の実現に近付き、私もとても嬉しい。

 

「ゲータイト伯爵は何と言っているんだ?」

「一応祝ってくれましたね。渋々とではありますが、前よりはずいぶん態度が丸くなりました。さすがの父も、白百合騎士団入りが決まったとなれば認めざるを得なかったようで…。王子殿下のおかげですよ」

 殿下に父親の事を訊かれた先輩は、苦笑を浮かべながらもどこか嬉しそうだ。弟のヘルビンともたまに話しているようだし、家族関係がだいぶ改善されたのだろう。

 

「ただ卒業後、一度は実家のゲータイト領に帰ろうと思っています。知り合いとの約束もありますので」

「良い報告ができますね」

 先輩の約束とは、「たまには弟の墓参りをして欲しい」と、私の義姉で先輩の幼馴染でもあるサーフェナ様から言われていた件だろう。

 私が笑いかけると、先輩は「そうだね」と答えて柔らかく笑い返した。

 

 

次に殿下は、私へと話しかける。

「ライオスの様子はどうだ?前回は参加できなかったが、お茶会にはちゃんと来たんだろう?」

「はい」

 あれから、週に一回あの屋敷にライオスを招き、お茶会を開いている。

 私と先輩、セナルモント先生は必ず出席しているのだが、殿下やスピネルは忙しいので毎回というのは難しい。春になって王都には貴族たちが戻って来ているし、私の所にばかり来る訳にもいかないので、二人は前回は欠席していた。

 

 最初のお茶会では少し怒っていたライオスだが、次呼んだ時もちゃんと来てくれて、お茶とお菓子をたくさん飲み食いして帰っていった。

 とりあえず、お菓子の対価として当たり障りのない質問や会話をする分には問題ないらしい。

 大急ぎで探してきた前世と同じ飴玉を渡すとずいぶんと満足げにしていたし、良くも悪くも素直なのだなという印象だ。

 

「君の両親も招いたんだろう。大丈夫だったか?」

「はい。最初は戸惑っていましたが特に問題なかったようです」

 何度か呼んでみて、ライオスは充分に会話が可能な相手だと分かった。向こうも少しずつ私達に慣れてきているようだ。

 そうなれば次は他の人間にも慣れてもらおうという事で、前回ついに私たち以外の者も招いてみたのだ。

 

 誰を呼ぶかは色々と考えたのだが、私は結局、両親を呼ぶ事にした。

 信頼できて口止めもできる人間だというのが主な理由だが、私と同じく竜の血が濃いという母なら、ライオスも親しみやすいのではないかと考えたのだ。先輩や先生もそれに賛成してくれた。

 

 

 両親を呼ぶに当たって、ライオスには大きなローブを着せ、フードを目深に被ってもらった。

 そして両親には、「秘宝事件で私を助けてくれた人だが、機密なので詳しくは話せない。今も秘密の任務についているため、顔は見せられないし声もほとんど出せない」と説明しておいた。

 

 いくらローブを着た所で褐色の肌がちらちら見えているし、フードは角の形に盛り上がっているし、はっきり言って怪しいことこの上ない。

 しかし「ライオスは命の恩人で、大切な客人だ」と、事前によくよく訴えておいたおかげだろうか。

 両親は初めこそ驚いていたものの、それらに何一つ突っ込む事なく、ちゃんとライオスに向かってにこやかに話しかけ「娘を助けてくれてありがとう」と礼を言ってくれた。

 

 初めはフードを被る事をひどく鬱陶しがっていたライオスだが、両親と話している間は驚くほど大人しかった。

 特に母に対しては明らかに様子が違った。何と言うか、(かど)がない。

 いつものような尊大さは見せず、あれこれとおしゃべりをする母に戸惑いながらもうなずいたり首を振ったりして応えていた。

 

 ライオスは古代語しか話せない。謎の力で私たちに意志を伝える事ができるが、それをやれば人間ではないとバレてしまうので、両親と会った際は極力声を出さないように頼んでいた。

 そんな頼みを聞く必要など彼にはないので、正直どうなるか不安だったのだが、ライオスはちゃんと従ってくれた。きっと母を怖がらせたくなかったからだと思う。

 母の世間話は彼には半分くらいしか理解できなかったのではないかと思うが、最後までしっかり付き合っていたので、退屈という訳でもなかったようだ。

 

 

「両親を呼んで正解でした。両親は呑気で大らかな性格なので余計な詮索はしませんし、ライオスはやはり、母には何か特別なものを感じるようです。和やかなお茶会になりました」

「なるほど…。それに君の母上は、穏やかで自然と相手の警戒心を解くような雰囲気を持っているしな。人間へ親しみを持ってもらうには、適任なのかもしれない」

「ええ、これからもできるだけ母を呼んでみようと思っています」

 母は私よりはるかに社交能力が高い。結構天然なのだが、あのおっとりと柔らかな物腰のおかげか、どんな相手とでもたいてい上手くやっている。とても尊敬している部分だ。

 

「それと、私の使用人のコーネルもですね。今回両親と共に来てもらったんですが、やはり給仕をしてもらえると楽なので」

 私もやってみて初めてわかったのだが、お茶会で主人をやりつつ適度なタイミングでお茶のお代わりを出すのは結構大変なのだ。

 話をしながら常に皆のカップの様子に気を配り、空になる前にお湯を沸かし、てきぱきとお茶を淹れなければならない。

 

「コーネルは紅茶を淹れるのも私よりずっと上手ですしね。…あ、でも、ライオスは私が淹れた紅茶の方が好きだそうです!」

 やはり淹れた後少し冷ますのが良いのだろうか?気遣いが通じたようでちょっと嬉しかったので、えへんと胸を張りつつ言うと、殿下は何故か一拍置いて「…ほう」と呟いた。

 

「どうかしましたか?」

「いや。…俺も、リナーリアが淹れた紅茶の方が好きだ」

「そうなんですか?」

 私の紅茶はどうも味が安定しない。美味しく淹れられる時もあればそうでない時もあるのだが、そこが逆に新鮮に感じるとか…?

 

 そんな事を考えて首を捻っていると、先輩とスピネルが何やら笑いを堪えていた。

「…何ですか?」

「何でもない。気にすんな」

「うん。微笑ましいと思ってね」

「???」

 理解できない私の向かいで、殿下はただむっつりとした表情を浮かべていた。

 

 

 

 その後しばらくして、昼食の時間になった。

 日程短縮のため、道中の川辺での簡易的な食事だ。広げた敷物の上で、サンドイッチと温かいお茶をいただく。

 曇り空なのが残念だが、そよ風が吹いていて意外に暖かく、周辺は開けていて眺めが良い。

 

「やあ、これは気持ちが良いね。まるでピクニックだ」

 あたりを見渡した先輩に、殿下が懐かしげに微笑んで言う。

「昔ジャローシス領に視察に行った時、こういう野原で昼食を用意してもらったんだ。それが気に入ったから、できそうな時は日程に入れてもらっている」

「まあ、そうだったんですか?」

 懐かしいな。あの時は遺跡事件のせいで色々大変だったが、その前はとても楽しく過ごせていたのだ。

 

 

「あ、そうだ!あの時のバッファロー肉のサンドイッチ、この前ライオスにも食べさせたんですよ」

 流れで思い出し、私はつい笑顔になる。

「両親が手土産に持ってきてくれたんですが、ライオスも相当気に入ったみたいで。ようやく甘いもの以外で彼の好物が分かりました!また一歩前進です」

 

 今度はお茶会ではなく食事に招いてみるのもいいかもしれないな。食事マナーなど分からないだろうし、メニューは考える必要があるが。

「…ふむ。そうか」

 うなずいた殿下に、私はあれ?と思う。

 先程もそうだったが、どことなく面白くなさそうに見える。

 

 するとスピネルが、小さくため息をついた。

「…あのジャローシス領の視察の時、昼食を野原で取ろうっつったの、どうせお前だろ?」

「え?それはもちろん!」

 私は胸を張って答えた。

「殿下は屋敷での豪華な食事なんて食べ飽きていらっしゃいますからね。簡素なものでも、開放感のある場所での昼食の方が、きっと喜んでいただけると思ったんです」

 その目論見は当たり、殿下は楽しそうに昼食を取っていた。今世での大切な思い出の一つだ。

 

 

「殿下もあの時の事を覚えてくださっていて、とても嬉しいです」

 そう笑いかけると、殿下は何故か片手で顔を覆った。

「殿下?」

「…少し自分を恥じている…」

「え?どういう事ですか?」

 

 思わずオロオロする私の横で、先輩が「はっはっは!」と笑い声を上げる。

「ははは、いや、失礼。大丈夫だよリナーリア君、君の気持ちは、ちゃんと王子殿下に伝わっているよ」

「えええ?」

 殿下は顔を覆ったまま、こくこくと首を縦に振った。先輩の言う通りだと言いたいようだ。

「すまない、リナーリア」

「…?はい」

 

 何だか分からないが、問題はないらしい。皆美味しそうにサンドイッチを頬張っている。

 だったら良いかと思いつつ、私たちは川辺での昼食を終えた。



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第171話 ランメルスベルグ家の少女(前)

 順調に馬車は進み、無事にランメルスベルグ侯爵領に着いた。

 ここは昨年の武芸大会のタッグ部門で、殿下たちの組と対戦した兄弟の家である。兄のウルツは剣術部門の決勝でも殿下と戦い、優勝を争った。

 弟のサフロはまだ学院在学中だが、ウルツは昨年卒業し、今は跡継ぎとして父親の補佐についているはずだ。

 

 

 侯爵の屋敷に行くと、このウルツ・ランメルスベルグが先頭に立って出迎えてくれた。

「お久し振りです、王子殿下。無事のご到着をお喜びいたします」

「ああ、出迎え感謝する。そなたも元気そうで何よりだ」

 あの大会から1年近く経つが、ウルツはどことなく落ち着き、跡継ぎとしての貫禄が出てきたように思える。

 

「皆様方も、ランメルスベルグ家へようこそ。歓迎いたします」

「ありがとうございます」

 ウルツは私たちにもにこやかに挨拶をする。

 貴族らしい洒脱さと武人らしい爽やかさを併せ持つ、その男前ぶりは相変わらずだ。さすが学園中の女子から人気を集めていただけある。

 

 

 さらにランメルスベルグ侯爵や夫人、末妹のイネスからの歓迎を受け、私たちは屋敷の中に入った。

 通された広間で、まずは皆でお茶をいただく。

「思っていたよりも早いご到着でしたね」

「ああ。雨が降りそうだったから急いだんだが、結局降らないままだったな」

 ウルツに話しかけられ、紅茶を片手に殿下が答える。

 

「なるほど。この調子だと、降るのは日が暮れてからになりそうです。…どうです、夕食までに一本勝負願えませんか」

「良いな。受けて立とう」

 剣術試合の申し出だ。殿下は即答で快諾した。

 長時間馬車に揺られていたから、身体を動かしたかったのだろう。しかもウルツならば相手にとって不足はない。

 

「スピネル殿とスフェン殿も、よろしければぜひ。我が家には腕自慢の騎士が幾人もおりますので、お相手願えれば光栄です」

「承知した」

「喜んで!」

 スピネルと先輩もそれぞれ承諾する。

 

 

「リナーリアさんはいかがですか。試合などは」

 ウルツは何故か私の事まで誘った。私が一応ちょっとは剣を使えると、武芸大会で見て知っているからだろうか。

「ええ、ぜひ、見学させて頂きたいです」

 まあ社交辞令だろうと思い、私はにっこりと笑って遠回しに試合を辞退した。

 さすがにもう剣を握る気はないぞ。今世の私は魔術師一本なのだ。

 

 しかし、私の斜め向かいから「そんなあ!」と悲鳴のような声が上がった。ウルツの妹のイネスだ。

「試合なさらないんですの!?私、リナーリア様と戦ってみたいですわ!」

「…はい?」

 私はびっくりして素っ頓狂な声を出してしまった。ウルツが苦笑を浮かべる。

「こら、イネス。リナーリアさんを困らせるんじゃない」

 

 

「だって、ウルツお兄様…」

 頬を膨らませるイネスは、確か今年で13歳のはずだ。

 すらりと背が高いものの、面立ちは年相応に幼い。少し癖のあるダークブラウンの髪が特徴的な、活発そうな少女である。

 

「あの、何故私と試合を…?」

 困惑しつつ尋ねると、イネスは私の方に向かってずいっと身を乗り出した。

「私、リナーリア様のファンなのですわ!!」

「ええ!?」

 驚く私に、イネスの隣のウルツが補足する。

「妹はあの武芸大会を見に来ていてね。それですっかり君のファンになったらしい」

 

 なるほど、ウルツはこの子のために私の事も誘ったのか。しかし、憧れるなら先輩の方じゃないのか?

 ランメルスベルグ家は剣術の名門で、侯爵夫人は元女騎士である事で有名だ。その関係で女騎士の育成にも力を入れているはずだが…。

「もしかして、イネス様は魔術師になりたいのですか?」

「はい!リナーリア様のように剣も使える魔術師になりたいですわ!」

 

 頬を紅潮させて訴えるイネスは可愛らしいが、私としては少し困ってしまう。

「でも、私もそこまで剣を使える訳では…。多少型を覚えているだけで、ろくに鍛えていませんし」

「それでいいんですの!雑魚は魔術で蹴散らして、親玉だけ華麗に剣で仕留めるんですわ!!あの時スピネル様を倒したリナーリア様のように!!」

 

 えええええ…。

 確かにそれができたらカッコいいだろうが、そんな事が可能なのはごく限られた状況だけだ。

 魔術師は基本後ろから攻撃したり支援するものだ。剣を使うのは騎士や兵士の役目である。自ら剣でとどめを刺そうと思えばその時だけでも前に出る必要があり、かなり危険だ。

 あの武芸大会決勝の時だって、私は幻影魔術を使った作戦の一部として剣を振るっただけだ。致命打を与えるためのブラフに近い。

 

 どうしようかと思わずウルツの方を見るが、かなり困った顔をしている。

 優れた剣士である彼に、イネスの言うような戦い方がどれだけ無茶か分からないはずはない。かと言って頭ごなしに否定するのも可哀想で、上手く諭せずにいる…という所だろうか。

 ちらりとスピネルの方を見ると、完全に表情を消し無の顔をしていた。

 未だにあの決勝戦の事をいじられ続けるこいつには同情してしまう。自業自得なんだが。

 

 

 

 結局私は折れてイネスと試合をする事を了承し、皆で屋敷の隣にある修練場へと向かった。

 普段ウルツたちが身体を鍛えるために使っている場所だというが、話を聞いてランメルスベルグ家の騎士や兵たちが集まってきたらしい。何やらすごい人だかりができている。

 皆が注目しているのは修練場の中に作られた簡易的な闘技場だ。

 私が着替えて準備をしている間に、既に試合が始まっていたらしい。そこの上で、殿下とウルツが斬り結んでいるのが見える。

 

「一本!そこまで!」

 殿下の剣がウルツの胸元に突きつけられ、審判の騎士が片手を上げる。

 さすが殿下、ますます腕を上げておられるようだ。

 わずかに頬を上気させた凛々しい横顔につい見とれそうになり、慌てて頭を振る。

 ボケっとしてる場合じゃない。この後は私も試合をするのだ。

 

「…やはりお強い。さすがですね」

 額に汗を浮かべたウルツが殿下へ手を差し出す。

「そなたも、1年前よりさらに強くなったようだ。特に左肩を狙った一撃は鋭く、こちらも危うかった」

「ありがとうございます」

 二人はがっちりと握手を交わし、周囲で見ていた騎士たちからわっと歓声が上がった。

 

 

 さらにスピネルがランメルスベルグ家の騎士と戦い、危なげなく勝利。

 相手はどうやら家中でも一番の猛者だったらしく、こちらもどよめき混じりの歓声が上がった。

 こいつもしっかり腕を上げているのだ。あの秘宝事件以来、暇を見ては修業に打ち込んでいるらしい。やはり思う所があったのだろう。

 殿下は「まだしばらく追いつけそうにないな」と呟いていた。

 

 先輩が対戦したのは女騎士の部隊を率いる隊長である。

 途中まで先輩が優勢だったが、一瞬の隙を突いて逆転されてしまった。聞けば、昔は白百合騎士団にも勧誘されたほどの実力者だという。

 試合後、「貴女はもっと強くなりますよ」と言われた先輩は、感激の面持ちで握手に応えていた。



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第172話 ランメルスベルグ家の少女(後)

 さて、ここでいよいよ私の番である。

 動きやすく丈夫そうな上下の服を借りたが、私には少し大きかったのでしっかり袖をまくった。

 イネスの服だそうだが、彼女は13歳にして既に私より背が高いのだ。手足が長くて大きく、これからもまだ伸びそうに見える。正直羨ましい。

 

 試合は剣あり魔術ありの自由形式だが、イネスにものすごい期待に満ちた目で見られてしまったので、杖は持たずに腰に剣を下げた。

 これ、使わなきゃだめなんだろうなあ…。

 うう…やだなあ。本職の騎士が集まっている中で剣を振るなんて恥ずかしすぎる。はっきり言って拷問に近い。

 

「頑張ってね、リナーリア君!」

 闘技場の上へ進むと、後ろから声援が聞こえた。

 笑顔で励ましてくれている先輩と、真面目な顔で見ている殿下に軽く手を振る。

 スピネルは明らかに面白がっている顔だ。こいつ…。後で足を踏んでやる。

 

 

 

 開始位置についた所で、審判の手が挙がる。

「始め!」

「行きますわ!」

 イネスが片手に持った剣を掲げて集中した。魔術を使う気らしい。

 私はいつでも防御魔術を使えるよう準備をしながら腰を落とした。まずは様子見だ。

 

『炎よ!』

 まず飛んできたのは普通の火球だ。連続で2発、3発と飛んでくる。

『光の壁よ!』

 私は少し迷ったが、防御結界を張って全て防いだ。

「さすがですわ…!『風の刃よ』!」

『風の刃よ!』

 こちらも少し迷い、同じ風の刃を出して相殺する。

 

 

「すごい!完璧に防いでますわ…!」

 イネスが感心した声を上げるが、私は正直困っていた。

 …どうしよう。この子弱い。

 魔術の威力はまあまあなのだが、繰り出す速度が遅い。見てから余裕で対処できる。

 撃つ時に何やら無駄な動きをしているのはフェイントのつもりなのだろうか?しかし、魔術の発動自体が遅いのであんまり意味がない。

 

 今度はこちらから仕掛ける番だ…と思うが、隙だらけすぎて逆にどこから攻撃して良いのか分からない。困ったなあ。

『炎の壁よ!』

 とりあえず、イネスの視界を塞ぐように炎の壁を広げた。

 更に壁越しに火球を放って牽制したあと、身体強化と耐火魔術を使い、剣を抜きながら彼女へと距離を詰める。

 

「…!」

 しかし、炎の向こうから繰り出した私の剣はあっさりと躱された。

 イネスが反撃の態勢に入るのが見え、慌てて再び炎の壁を広げる。

 イネスはバックステップで素早くそれを避けた。勘が良い。

 

 

 少し彼女を甘く見すぎていたようだ。

 気を引き締め直し、今度はもっと手前、自分に近い位置へと炎の壁を展開する。

「リナーリア様!その手はもう見切りましたわ!」

 イネスが前へと踏み出す。炎の壁はそれほど厚くないと見て取り、炎の中を突っ切ってこちらへ近付くつもりのようだ。耐火魔術もなしにである。すごい度胸だ。

 

 しかし私も、ただ同じ手を繰り出すつもりはない。両手の中に大きな火球を作り出す。

『炎よ、弾けろ!』

 火球はいくつもの小さな炎へと分裂すると、私の命令と共に炎の壁の向こうへと次々に撃ち出された。

 炎に紛れた炎の散弾だ。数が多いので対処はかなり難しいはずだが、イネスはほとんどを避け、2つほど剣で弾いて防ぎきった。

 これは私も予想外で、内心で舌を巻く。

 

 

 …だが、今までの火魔術は全て、私にとっては布石だ。

 散弾を飛ばすのと同時に、より強い身体強化を足に付与して前へと踏み込んでいる。

 低い姿勢から繰り出す、左下から斜め上へ向けての一閃。

 炎の散弾に対処するために体勢を崩していたはずのイネスは、この攻撃すらも辛うじて剣で受け流した。

 本当に大したものだ。しかし、甘い。

 

「きゃあっ…!」

 バシャ!と音を立てて彼女の顔面で弾けたのは、私が剣を繰り出すと同時に放った水球だ。

 炎の魔術を扱いながら密かに召喚し、背中に張り付かせて隠していたものである。

 まともに顔に食らい目潰しをされたイネスに大きな隙ができる。

 剣を強く握りしめ、その胴を返す刀で薙ぎ払った。

 

「…一本!そこまで…!」

 審判が宣告し、私の方へと手を上げた。

 

 

 

 試合後、イネスと握手をしながら私は言った。

「とても素晴らしい試合でした。イネス様」

「いえ…!私こそ、とても良い勉強になりました…」

 濡れた顔を袖で拭ったイネスは、笑顔を浮かべてはいるがやはり悔しそうだ。きっと負けず嫌いな性格なのだろう。

 どこか安心したようにこちらを見ているウルツやランメルスベルグ侯爵夫妻の姿を視界の端に捉えながら、私は思い切って口を開く。

 

「イネス様。二兎を追うものは、一兎も得ずと申します。現時点のイネス様は、魔術師としてとても未熟だと言わざるを得ません。…それに対し、剣術に関しては非常に光るものがあると思います。私は騎士ではありませんが、支援魔術師として多くの騎士の剣技を見てきましたから」

 

 私の目から見ても、彼女は明らかに剣の方に才能があると思う。

 勘の良さ、反射神経、体幹の強さ、リーチに優れた長い手足。荒削りながら、優れた剣士の才能の片鱗が見えている。

 ウルツたちが複雑な顔で私との試合を見ていたのも、ただ彼女を心配してではなく、その才能の行く末を案じての事だったのだろう。

 魔術師になりたいという彼女の夢は、彼女の才能とはあまり噛み合っていない。

 

 

 …だがきっとそんな言葉は、今まで何度も聞かされてきたのだろう。イネスはうつむき、下唇を噛みしめている。

 私は、彼女の思いを大切にしたい。何しろ彼女は、魔術師の私に憧れてくれているのだ。

 だから私は彼女を見つめ、「ですが」と言葉を続ける。

 

「貴女の火球の魔術は見事な威力でした。まだ未熟であっても、磨いていけば必ず武器になるものです。貴女の魔術には、ちゃんと可能性がある。強さとはただ才能のみによって決まるものではありません。諦めず、倦まずに努力を続ければ、必ず実を結びます」

「…!では、魔術師を諦めなくても良いんですの!?」

 ぱっと顔を上げたイネスに、私は小さく首を振る。

「騎士だとか魔術師だとか、そんな名前にこだわる必要がありますか?貴女は剣の才能があり、魔術にも興味がある。ならその両方を活かし、貴女なりの強さを目指せば良いと、私は思いますよ」

 

「私なりの…強さ…」

 イネスは驚いた顔で呟いている。

 先輩の方を振り返ると、先輩はにっこりと笑ってうなずいてくれた。それでいいと背中を押してくれているのだろう。

 既存の形式にこだわらなくていい。もっと自由に生きても良いと、そう教えてくれたのは先輩だ。

 

 

 しかし、これだけではただ好きにしろと言ったのに等しい。ランメルスベルグ家の体面もあるし、ちゃんとフォローはしておこう。

「高みを目指すためには、自分の環境を最大限に利用しなければなりません。幸い、ランメルスベルグ家は剣の腕を磨くのに適した環境が揃っています。まず剣で強くなってから、魔術の腕も上げる…というのは、いかがでしょうか?」

 

「……!」

 今度こそ、イネスははっきりと私の言葉を理解できたようだ。ぱっと頬を紅潮させると、がっちりと私の手を握った。

「ありがとうございます、リナーリアお姉さま…!私、自分が進む道が見えた気がしますわ。必ずお姉さまみたいな美しくて強い女性になってみせます…!!」

 

「お、お姉さま…?」

 思わず戸惑ってしまう。しかし悪い気分ではない。いや、むしろ嬉しい。

 お姉さま…お姉さまかあ。ついエレクトラム様の事を思い出してしまう。

 エレクトラム様は先輩のファンクラブの一員だが、私にお姉さまと呼ばれてずいぶんと喜んでいたっけ。今になってその気持ちがちょっと分かってしまった。

 

「分かりました。強くなった貴女と再び戦える日を、待っています」

 優しく微笑みかけると、イネスは感極まった様子で「お姉さま!」と私に抱きついてきた。少しこそばゆいが、妹ができたみたいで嬉しい。

「リナーリアさん、お見事な試合でした。イネスも多くを学べたようです。本当にありがとうございました」

 ウルツやランメルスベルグ侯爵夫妻が嬉しそうに謝辞を述べ、私もそれに笑顔で返す。

「いいえ。私も楽しませていただきました」

 

 

 これで何とか丸く収められたな。剣もちゃんと効果的に使えたので、恥をかかなくて済んだ。

 内心で胸を撫で下ろしていると、殿下やスピネル、先輩が近付いてきて労いの言葉をかけてくれた。

「良い勝負だったな」

「上手くやったじゃねえか」

「やったねリナーリア君!これで君もお姉さまデビューだ!」

「えっ…あっ、そうですね…?」

 

 ミメットに対しても妹に近い気持ちでいるが、彼女はあくまで友人だしな。お姉さまと呼ばれるのは初めてだ。

 近頃は年下の相手と接する機会が増えてきたし、私も年長者らしく大人っぽくなってきたのかもしれない。

 …前世からの年齢を考えると当然な気もするが、そこは考えないでおこう…うん。

 また一つ新たな縁を得られたと、今は素直に喜ぶことにした。



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第173話 モリブデン侯爵邸・1

 翌朝、ランメルスベルグ家の人々に見送られながら出立した。

 昨夜降った雨で道が所々ぬかるんでいるため、やや慎重に進むことになる。

 道中、心配していた魔獣の襲撃は一度だけ。山から降りてきたばかりの小さい群れだったようで、護衛騎士たちが問題なく対処した。

 モリブデン領に入ったのは夕刻になってからである。ぎりぎり日暮れ前には着きそうで良かった。

 

 

 迎えに来たモリブデンの騎士たちの先導で、侯爵の屋敷へと向かう。

 馬車の窓からカラミンの町を眺めると、結構人通りが多い。時刻的に家路についている人が多いのだろうか。

 疲労を滲ませながらも充足した表情の男。夕食用らしいパンやワインを抱え足早に歩く女。手を振って別れる子供たち。

 どこから見ても平和な町並みだというのに、胸がざわつくのを抑えられない。

 

 殿下や皆を信じると決めたものの、やはり緊張してしまう。

 怪しまれないよう自然に振る舞わなければならないというのに。

 思わず握りしめた拳に、温かいものが触れる。

 

「…殿下」

「手が冷たいな」

 そう言いながら、殿下は両手で私の手を包んだ。剣ダコが少し硬い、温かくて大きな手だ。

「大丈夫だ。約束は守る」

 力強くそう言われて思い出す。

 決して私を置いていかないと、殿下は約束してくれたのだ。

 

「…そう、でしたね。すみません…」

 いつまでも、びくびくと不安に怯えてしまう自分が情けない。何度も励まされ、最悪の未来を避けられるよう自分でも努力を重ねてきたというのに。

 恥ずかしさに小さく縮めた肩に、ぽんと手が乗せられる。

「謝らなくていいんだよ、リナーリア君。そのために、僕らが傍についているんだから!」

 先輩は元気づけるように笑みを浮かべている。スピネルもだ。任せておけと言わんばかりに、唇の片端を上げ私を見ている。

 

 …どうやら、自分で思っていた以上に深刻な顔をしていたらしい。

 ふっと一つ息をつき、肩の力を抜く。

 そうだ。私は一人ではない。

「ありがとうございます。頼りにしてますね!」

 

 

 

 

 モリブデン邸に到着すると、モリブデン侯爵とその嫡男ダンブリン、そしてフロライアが出迎えてくれた。

 水霊祭の時期は学院も休みだし、彼女も領に戻って来ているらしい。

 まあ第一王子の訪問となれば一家が集まるのも当然だろう。

 

「エスメラルド殿下、皆様、ようこそお越しくださいました。ごゆっくりお過ごしください」

「よろしく頼む」

 穏やかな笑みを浮かべた侯爵に、私たちも微笑んで挨拶を返した。

 大丈夫、ちゃんと落ち着いている。殿下や皆のおかげだ。

 

 

 もう日が暮れかかっているので、そのまま早めの晩餐を取ることになった。

 モリブデン領特産の果実を使った軽めの発泡酒が、小さなグラスで食前酒として運ばれてくる。

 毒検知の魔術を使いたくなるのをぐっと堪える。同席しているセナルモント先生がちゃんとやってくれているのだ、私が余計な事をする必要はない。

 そっと唇をつけると、爽やかな酸味が感じられた。思ったほど甘くはなく飲みやすい。

 しっかりと味わう余裕がある自分に少し安心しつつ、会話へ耳を傾ける。

 

 晩餐は和やかな雰囲気で進んだ。

「今年の討伐訓練でも、エスメラルド殿下とリナーリア様の班が一番の成績だったのですわ。二番はスピネル様の班で」

 会話の中心になっているのは主にフロライアだ。殿下、スピネル、私とはクラスメイトなので、共通の話題は多い。

 侯爵は適度に感じの良い相槌を打っている。ダンブリンは無口な性質で、あまり喋らないが表情は穏やかだ。

 

 こうして見ると、本当に穏和で上品な貴族の一家なのだ。

 つい考えてしまう。何故、どうして、と。理解する必要などないと分かっているのだけれど。

 いや、深く考えるのはやめよう。そんな事よりこのシチューが美味しい。何か干した果実のようなものが入っていて甘酸っぱいのが良い。

 

 

「…どうだろう、リナーリア」

 殿下に話しかけられ、私は顔を上げた。

「あっ、はい、そうですね。私はこのシチューが好きです」

「?」

 殿下が不思議そうな顔になり、皆の視線がこちらに集まる。

 

「えーとね、リナーリア君。この後、モリブデン侯爵の収集した水霊神の神像を見せてもらいたいって話をしてたんだよ。ほら、君も興味があるって言っていただろう?」

 先輩が説明してくれ、私は自分が何も話を聞いていなかった事を知った。

「す、すみません…!そ、そうです、神像、見たい、ので、見せてい、いただけたら」

 恥ずかしさで完全にしどろもどろになってしまった。顔中が熱い。

 

「疲れてるんじゃないのか。大丈夫か?」

「だ、大丈夫です。ちょっと、料理を味わうのに集中していただけで」

 スピネルにも心配されてしまい、私は少し慌てた。

 いつもなら絶対に呆れ顔をしてくる所なのに…。侯爵の前だから真面目に振る舞っているだけかもしれないが。

 

「ふふ、こちらのシチューはこの辺りの郷土料理です。プルーンという果物が入っているのですが、貧血に効くと言われていて、女性には特におすすめなのですわ。お気に召したようで嬉しいです」

「そうなんですね…とても、美味しいです」

 フロライアが優しい微笑みでフォローしてくれる。本当に恥ずかしい。穴があったら入りたい。

 

 

「では、晩餐後にコレクションをご覧に入れましょう。王都の屋敷にも多く置いてあるのですが、こちらの屋敷にも特に気に入っているものがいくつもありますので」

 気を取り直したようにモリブデン侯爵が言った。

「ああ。よろしく頼む」

「よろしくお願いいたします」

 殿下がうなずき、私も一緒に行くという意志表示を込めて微笑んだ。ここには天秤があるはずなのだ、しっかりやらなければ。

 

「僕もご一緒させていただいて良いでしょうか?」

 さっと手を上げたのはセナルモント先生だ。

「侯爵のコレクションならば、考古学的価値のある品も多いでしょう。ぜひ拝見させていただきたいのです」

「ええ、もちろん構いませんとも」

 侯爵は嬉しそうにしている。殿下や私たちにコレクションを披露できるのが嬉しいのだろう。収集家というものは、他人に収集品自慢をするのが大好きな生き物なのだ。

 王都の屋敷と違い、こちらにあるものは披露する機会が少ないので特に嬉しいのかもしれない。

 

 

 

 それからほどなく晩餐は終わり、侯爵に案内されコレクションの展示室へと向かった。

 がちゃりと重い音を立て、侯爵が大きな鍵を開ける。

 中に入ると、ひんやりとした空気と共にわずかな魔術の気配を感じた。と言っても特におかしな気配ではない。恐らく、保存のために温度や湿度の変化を防ぐ魔法陣だろう。

 神像は大理石などを彫って作る石像が多いが、ものによっては木像だったり魔石だったり様々だ。保管に注意が必要な素材が使われる事もある。

 

「これは…、5代目スコロドの作か?」

 高さ3メートル以上あろうかという白亜の水霊神像を見上げながら、殿下が嘆息する。

 5代目スコロドと言えば、今から800年近く前にいた偉大な彫刻家だ。過去の大災害によって多くの作品が失われてしまっているため希少である。

「ええ、そうです。台座などの一部に修復を施してありますが、これほど状態の良いものはそうありますまい」

「ふむ…。王宮にあるものと比べても遜色ないな」

 

「こちらのものは実に細かな彩色がされていますね。とても美しい」

 先輩がしげしげと見つめる像を見て、侯爵が上機嫌に応じる。

「それは木像です。今は手に入りにくい顔料が使われていて、特に青の発色が素晴らしいでしょう」

 私が目を留めたのは50センチほどの大きさの金の像だ。

「これは…」

「これも木像ですね。150年ほど前に製作されたもので、表面には金箔が貼ってあります。無傷のものはかなりの希少品です」

 

 

 モリブデン侯爵は本当に熱心な収集家だ。

 前世でも見せてもらったのだが、改めて見るとやはりすごい。単に高価な品だけではなく、手に入れるには広い人脈も必要だろうと感じさせる品が多い。名家ならではのコレクションと言えるだろう。

 …だが、これを見るのが目的ではないのだ。

 

「実に素晴らしい物ばかりだ。しかし、足りないように思うな」

 殿下がモリブデン侯爵を振り返る。

「これだけ揃っているのに、初代スコロドのものがない。…そなたならば、所持していないはずがあるまい」

 

 初代はスコロド派の元祖であり、若くして夭折した天才彫刻家である。現存している作品数は非常に少なく、その価値は計り知れない。

 モリブデン家が密かにそれを所持しているというのは知る者だけが知っている話だ。

 侯爵は嬉しげに笑った。

「ええ、もちろんですとも。…ご案内いたしましょう」



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第174話 モリブデン侯爵邸・2

 地下の宝物庫もまた、厳重な鍵がかけられていた。

 こちらは保存のための魔法陣と、侵入者検知の魔法陣が併せて敷かれているようだ。鍵と連動しているタイプだろう。

 侯爵が入り口近くの魔石に触れると、煌々と明かりが灯された。

 きらびやかな美術品の数々が暗闇の中から現れ、目を奪う。

 

 

「これが初代スコロドの作です。運良く、ほぼ完全な状態で掘り出されたものを入手いたしまして」

「…やはり見事だな。繊細でありながら力強い」

「ええ。とても神々しいです」

 精緻な彫刻が施された等身大の石像に、殿下と共に見入る。

 

「微笑みを浮かべた表情はこの時代ならではの表現なんですよね。これより後になると、いかめしい表情をしているものが主流で」

「おお、よくご存知だ。この後は国中で魔獣が増加傾向になっていったのが、神像の表情にも反映されているのではないかと言われております」

「なるほど…。私はこのように柔らかい表情の方が好きですね」

「それでしたら、この翡翠で作られた神像も良いですよ。小さいのですが、慈悲に溢れた表情が実に秀逸で…」

「ほう。これは美しいな」

 

 

 侯爵の気を引くため、殿下と二人であれこれと話しかける。

 そうしている間にミーティオが天秤を見付け、スピネルがそれを先生に教えるという手筈だ。先輩は周囲の物に見入るふりをして、侯爵やフロライアがこちらの動きに気付かないよう見張る役である。

 まだかなあと思いつつ知識を総動員させて会話をしていると、後ろから「ややっ!」という声が聞こえた。

 

「モリブデン侯爵!もしやこれは古代神話王国時代の品ではありませんか!?」

 様々な置物が収められたガラス棚の一つを指差し、先生が大声で言う。

 どうにも芝居がかった台詞だが、普段から挙動がおかしいものだから、少しくらいわざとらしくても不自然に感じないのは先生の強みだよなあ。見習いたいとは一切思わないが。

 

 しかし、その指の先にある物を見て思わず息を呑む。

 ガラス越しでもどこか厳かな雰囲気を感じる、美しい紋様が刻まれた黄金色の天秤。

 …何だろう。特にどこがどうという訳でもないのに、何故か目が離せない。

 

 

「…それは、我が領内で地中深くから見つかったものです。美しくて気に入ったので買い取り、所蔵いたしました。古いものなのは確かですが、古代王国の品かどうかは…」

 侯爵が若干戸惑ったように言葉を濁らせる。

「ええ、ええ、一見では分かりませんとも!しかしほら、ここに竜の意匠が描かれているでしょう。実は最近翻訳に成功した古文書に、このような天秤の事が書かれていましてね。何でも、とても不思議な力を持つ未知の魔導具らしいんですよ!これはきっと、その天秤に間違いありません!!」

 

 先生は口からでまかせを言っているようだ。そんな古文書の話など聞いた事がない。

 大丈夫なのかとついハラハラしてしまう。王宮魔術師の研究は国から予算が出ているため、一般に公開されるまで表には出ない。部外者には知りようがないので、嘘がバレる事はまずないと思うが…。

「ぜひ研究してみたい!侯爵、どうかこれをお譲りいただけませんか!?」

「なっ…」

「待て、セナルモント。いきなり譲ってくれというのは、さすがに無礼だろう」

 侯爵が目を剥き、スピネルが先生を諌めた。ここまでほぼ打ち合わせ通りの流れだ。

 

 

「失礼、つい興奮してしまいました。しかしこれは本当に凄い発見である可能性が高いのです!どうかお譲りを…いえ、譲ってくれとは申しません。しばらく王宮魔術師団へ貸し出してはいただけないでしょうか!?必ずお返ししますので…!」

「し…しかし…」

 侯爵は困惑した顔だ。もうひと押しだと言わんばかりにスピネルが目配せをしてくる。私の出番らしい。

 うう、くそ、やれば良いんだろやれば。

 

「…殿下、お願いします。先生の研究のために、殿下からもお口添えいただけませんか…?」

「む…!?」

 そっと袖を引き、上目遣いで見上げると、殿下は目を白黒させた。

 わ、わざとらしすぎたかな?こうすれば説得力が増すと演技指導されたのだが、やらない方が良かったかな…。

 

 どうやって誤魔化そうかと慌てていると、殿下はくるりと侯爵の方を向いた。

「すまん、貸してくれ」

 焦ったように、ちょっぴり早口で簡潔に言い切る。

 もうちょっと色々、「大事な物だろうし気が引けるが…」とか「国への貢献と思って…」とかそれっぽい事を言う予定だったはずだが、全部すっ飛ばしてしまった。

 どうやら台詞を忘れてしまったらしい。

 

 

「……」

 何だか微妙な沈黙の後、侯爵は諦めたように小さく息をついた。

「分かりました。一時的な貸与という事でしたら…」

「ありがとうございます…!」

 先生ともども笑顔になり、侯爵へと礼を述べる。

 

 良かった、何とか上手く行ったようだ。内心で大きく胸を撫で下ろす。

 少々強引な流れになってしまったが、怪しまれる程ではないだろう。多分。

「殿下も、ありがとうございます」

「あ、ああ…」

 安堵の気持ちを込めて笑いかけると、殿下は落ち着かない様子でうんうんとうなずいてくれた。

 きっと殿下も緊張していたんだろうな。

 

 

 

 宝物庫を出てからは、少しの間侯爵やフロライアと歓談をした。

 ここでも果実酒を勧められたが、わずかに嗜む程度にしておいた。あまり酒は得意ではない。

 

 眠る前には先輩が様子を見に来てくれた。宣言通り、私の護衛的な立場を買って出てくれているらしい。

「王子殿下にお願いをするあれはなかなか良い演技だったけれど、まさか君が自分で考えたのかい?」

「いいえ。先生やスピネルにああいう感じでやれば間違いないからと言われたんですが、失敗でしたね。殿下はずいぶん驚いていたみたいですし」

「そうだねえ…驚いていたというか何と言うか…彼らも人が悪いなあ。まあ気持ちは分からなくもないんだけどねえ…」

「?」

 珍しく歯切れの悪い言い方だ。先輩らしくなくて首を傾げる。

 

「やっぱり何かまずかったですか…?」

「いやまずいとも言い切れないというか…うう~ん…」

 先輩は眉間にシワを寄せて考え込む。

「???」

 私もまた考え込んだ。さっぱり分からん。

 

「君が何か、どうしても困った時に、またああやってお願いすると良いと思うよ」

「ええ?またやって良いんですか?」

「うん。きっと張り切って助けてくれるよ」

「そうなんですか…?そんな事しなくても、殿下はいつだって助けてくださると思いますが」

「そうだろうけどね、きっと喜ぶよ。王子殿下は素直な方だから」

「わ、分かりました…」

 よく分からないが覚えておこう。あまり殿下に頼るような事はしたくないのだが。

 

 

「…でも私、困った時はきっと、一番に先輩に相談すると思います」

 ポツリとそう言うと、先輩は少し目を丸くした。

 前世の私は、とにかく殿下が大事だった。だけど今世で様々な人と関わり、殿下以外にも大事な物はたくさんあったのだと気付いた。

 中でも特に深く関わった、その一人が先輩だ。いつでも前向きで、優しくて、ちょっとお調子者な所もあるが、皆を楽しくさせてくれる。

 私が悩んだ時、いつだって道を示してくれる。

 

「…そうかい、そうかい。ふふ、それは嬉しいなあ!」

 先輩は、本当に嬉しそうに破顔した。

 そして私の身体を強く抱きしめる。

「何度でも言うよ。君は僕の大切な友人で、恩人だ。それはこれからも変わらない。ずっと、ずっとだ」

 

「…ええ。ずっとです」

 先輩といると、性別だとか年齢だとか、そんなものは些細なことだといつも実感する。思うように、感じたように生きていいのだと。

 先輩が私を応援してくれるように、私も先輩を応援したい。素直にそう思えるのだ。

 そんな気持ちを込めて、私もまた先輩を抱きしめ返した。

 

 

 やがて私から身体を離すと、先輩は朗らかな表情で言った。

「やっぱり、君の騎士を務めるのは僕であるべきだね!王子殿下には悪いけれど、そこは譲れないとわかったよ」

「はい?」

 そんな話してたっけ?と思うが、先輩はにんまりと笑っている。

「大丈夫大丈夫。君はそのままでいいんだよ!」

「はあ…?そうですね…?」

 やけに嬉しそうな、こういう時の先輩は受け流すに限るのだ。私は適当にうなずいた。

 

「では、おやすみなさい」

「ああ、おやすみ!」

 上機嫌で手を振る先輩を見送り、明かりを消してベッドに入る。

 このまま無事に、王都に帰れればいい。そう思いながら、眠りについた。



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第175話 モリブデン侯爵邸・3

 …カエルの鳴き声がする。

 エスメラルドはぼんやりとそう思った。

 まぶたが重い。何か夢を見ていたようだが、内容を思い出せない。

 

 窓の外から聞こえるカエルの声はかなり賑やかだ。きっと何匹もいるのだろう。

 城でよく聞くものとは違う。なんというカエルだろうと考え、ここがモリブデン侯爵邸である事を思い出した。

 窓から見たモリブデン邸の裏庭には、確か池があったはずだ。きっとあそこにカエルが棲んでいるのだろう。

 この地方によくいるカエルといえば、ヌマガエルの仲間だっただろうか。

 

 少し気になるが、それよりも頭が重い。

 もう一度眠ろうとごろりと寝返りを打つと、控えめなノックの音が聞こえた。

 うっすら目を開け時計を確認する。時刻は夜半過ぎだ。

 こんな時間に?と疑問に思うより早く、もう一度ノックが聞こえる。

 

 

 もぞもぞと起き上がり、静かにドアへと近付く。

「…誰だ?」

 低く問いかけると小さく返答があった。

「殿下。私です」

 耳馴染んだ涼やかな声。少し戸惑いつつ、思い切ってドアを開ける。

 

「リナーリア…」

 そこにいたのは銀の髪の少女だった。寝間着の上に青いショールを羽織り、困ったような表情でこちらを見上げている。

「こんな時間に申し訳ありません。何だか眠れなくて…もしかしたら、殿下も起きていらっしゃるのではないかと思って」

 

 それから彼女はちらりと窓の外を見た。

「…よろしければ、一緒にカエルを見に行きませんか?」

 遠慮がちに微笑んだ肩を銀の髪が一房滑り落ちる。

 無防備なその仕草に、咄嗟にうなずいてしまった。

「分かった。行こう」

 

 

 重厚な扉を開け、庭へと出た。

 眠気はすでに飛んでいる。庭草を踏みしめ、彼女の後に付いて歩く。

「池はこちらですね」

 時折エスメラルドを振り返りながら歩く彼女の髪を、かすかな月明かりが照らしている。夜空に浮かぶ細い月と庭木の黒い影の中、その銀色だけがはっきりとよく見える。

 

 屋敷をぐるりと半周し、裏庭まで来た所で彼女は足を止めた。

 カエルの鳴き声はうるさいほどに辺りに響いている。

「ほら、殿下。あそこにいますよ」

 彼女は生い茂った草を指さした。その奥に黒い水面が見えている。

 

「…このカエルは、なんという名前だろうな」

「きっとミツモヌマガエルですよ。この地域に多いはずです。…ああ、あそこにもいますね。間違いありません。ほら」

 手を伸ばし近くへと誘う彼女に、エスメラルドは静かに微笑みかける。

「よく勉強しているんだな」

「殿下の好きなものは私も好きになりたいですから。殿下と一緒にいたくて、たくさん勉強したんですよ」

 

「ああ」

 にっこり笑った彼女を見て、ゆっくりと首を振る。…とても残念だ。

「…君は、リナーリアとはまるで違う」

 

 音もなく、彼女の背後の黒い池が大きく膨れ上がった。

 

 

 

 

 

 激しく地面を叩く水音の中、いくつもの鈍い金属音が響いた。

 池の中から現れた影が投げつけた刃物を、走り込んだスピネルの剣と私の水球とが弾き飛ばしたのだ。

 刃物のうちの一つが地面に刺さるのが見えた。投げナイフだ。刃が黒ずんでいるのは、毒でも塗ってあるのか。

 さらに木々の間から、黒っぽい服を着た男たちが幾人も現れる。剣を手にした者ばかりだ。…その中には、あのビスマス・ゲーレンもいる。

 

「殿下…!!」

「落ち着いて、リナーリア君。大丈夫、味方が来たようだよ」

 思わず叫びそうになった私の肩に、先輩が手をかける。

 見ると、次々と塀を乗り越えて誰かが庭へと侵入してきているようだった。あの紋章は王宮の騎士だ。

 

「殿下!今のうちに下がれ!」

 敵に向かって油断なく剣を構えたスピネルが叫び、そこに数人の騎士が加勢した。

 丸腰の殿下は、彼らを盾に後ろへと下がる。

 

 

「殿下、大丈夫ですか!?」

 私もまた、身を潜めていた木陰から飛び出した。

 かすかに眉をしかめた殿下が私の近くへと走り寄ってくる。

「君も外に出ていたのか…スフェンも」

「はい。部屋のドア越しに睡眠の魔術をかけられそうになったので、おかしいと思い様子を見ていたんです。そうしたら殿下が誰かと外に出たようだったので」

 説明しながら、私の姿をした誰かを激しく睨みつける。

 

 私に睡眠の魔術をかけたのは、私の姿に化ける都合上、万一にも目を覚まされたくなかったからだろう。

 かなり強力な術だったが、念の為に干渉遮断の護符を使っておいたお陰で何ともなかった。使い捨てな上に恐ろしく高価な護符なのだが、およそ丸一日の間、睡眠や麻痺、精神操作などの状態干渉系の魔術をほぼ完璧に防ぐことができる物だ。

 

 あまり寝付けずにいた私は、この護符が反応したのに気付いてベッドから出た。

 ドア越しに廊下の様子をそっと窺い、誰かが外へ向かったのを確認して追いかけようとした所、先輩に捕まえられた。

 先輩は隣の部屋だったのだが、どうやら私の部屋の様子を見張っていたらしい。それでほぼ同じタイミングで廊下に出てきたのだ。

 二人で姿隠しの魔術を使い外に出たところ、殿下となんと私の偽者がいた。そこですぐにでも止めに入りたいのをこらえ、じっと物陰からその様子を見ていたのである。

 

 

 池の近くにいた『私』は、後ずさりながら悔しげな顔でこちらを見ている。

「…よくも。よくも、私に化けて殿下を誘い出しましたね…!!」

 正体はきっとフロライアだろう。クラスメイトである彼女は私の事をよく知っている。

 しかし、よりによって私に化けるなんて。怒りで血が沸騰しそうだ。

 

「違います、私がリナーリアです、殿下!!」

 叫ぶ『私』に、殿下が厳しい表情で答える。

「君が偽者だということは歩き方で分かった。リナーリアはこういう場所を歩く時、もっと慎重に足を運ぶ。草花や生き物を傷付けたくないからだ。…だが君は、迷わず真っ直ぐな足取りで池へと向かっていた。こんなに暗いというのに、何も気にする事なく」

 

 数名の護衛騎士がこちらへ寄って来て、そのうちの一人が「これを!」と言って剣を差し出した。

 殿下はそれを受け取り、引き抜きながら言葉を続ける。

「リナーリアは俺のことなど関係なく、元々生き物が好きだ。だから大事にしようとする。君とは、違う」

 迷いなく言い切る横顔に、思わずじんとする。殿下は、私を間違えたりはしないのだ。

 

 

 そう言っている間にも、白刃が閃いている。スピネルや護衛騎士たちと、ビスマスたちとの戦いが始まっているのだ。

『光の壁よ!』

 突然目の前に光の壁が現れ、激しく何かを弾く音が響いた。夜闇に紛れてどこかから風の刃が飛んできていたようだ。

 光の壁を張ったのは先生の声だった。姿は見えないが、どこかに隠れているらしい。

 

 その時、背後から大声が聞こえた。

「侵入者だ!!お前たち、応戦しろ!!」

 モリブデン侯爵だ。息子のダンブリンもいる。

 さらに、背後の屋敷からは兵たちがぞろぞろと出て来ている。…数が多い。

 

「こちらはヘリオドール王宮騎士団だ!大人しく投降しろ!!」

「お、王宮騎士…!?」

 黒服たちと戦っている王宮騎士が叫び、モリブデン家の騎士のうち幾人かが動揺したように足を止めた。

 が、すぐさまモリブデン侯爵が否定する。

「惑わされるな!奴らは偽者だ!!王子殿下一行を幻惑し誘拐しようとしている!!」

 その声に、騎士たちは我に返ったように再び動き出した。剣を抜き放ち、王宮騎士たちへ向かっていく。

 

 

「幻惑しようとしたのはどっちだよ…!!」

 スピネルが怒りに任せて敵を斬り捨てる。

 モリブデン家の騎士たちには何の罪もないが、抵抗してくる以上は戦うしかない。

 向こうにしてみれば、顔もよく知らない王子や王宮騎士を名乗る者達よりも、主人の命令の方を信じるのは当たり前なのだ。

 

『光よ!闇を照らせ!』

「明かりを消せ!!」

 先生が照明の魔術を使ったが、侯爵の指示により敵の魔術師がそれを打ち消した。一瞬明るくなりかけた庭が、また夜闇に沈む。

「しっかり隊列を組んで攻めろ!容赦はするな!魔術師は敵魔術の阻害と防御が最優先だ!」

 どうやら向こうは薄暗い月明かりだけで戦うつもりらしい。なるべく町の住民に知られたくないからか。

 隊列を固めているのは、暗い中での同士討ちを防ぐためでもあるだろう。

 

 こちらも屋敷の周辺に兵を伏せていたようだが、向こうの方が数が多い。しかも見るからに練度が高い精兵だ。苦戦は必至に違いないと少し焦る。

「セナルモント!それと後ろにいる魔術師はこっちに来い!!」

 殿下が叫ぶと、暗がりから慌てたように先生が顔を出した。更に数人の魔術師がこちらに寄ってくる。王宮魔術師が二人、魔術兵が三人だ。

 

 続けざまに殿下が周囲に指示を出した。

「セナルモントや魔術師はここで騎士たちの援護に集中しろ。騎士は前に出て戦闘に参加、各隊長の指示に従え。討ち漏らした兵がこちらに近付いた場合は、俺とスフェンで対処する。リナーリアはここにいる者への支援と防御を頼む。…皆、行け!」

「はっ!!」

 

 私たちの守護についていた騎士たちがさっと周囲に散っていく。

 先生と支援魔術師である私の役目は逆の方が良いのではないかとちらりと思ったが、すぐに考え直した。今の私はただの学生で、王宮の騎士たちと共に戦ったのはあの巨亀戦の時くらいなのだ。騎士への援護は王宮魔術師である先生が行った方が、彼らも安心するだろう。

 やはり、さすが殿下はよく考えておられる。

 

 一つ深呼吸をし、意識を集中させ魔力を練る。

 視界は広く、判断は素早く。それが鉄則だ。

「お任せ下さい、殿下…!!」



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第176話 モリブデン侯爵邸・4

『紅焔よ爆ぜよ!炎の雨となりて降り注げ!!』

『水よ護れ!』

 敵魔術師が炎の雨を放ったのを見て、すぐに周辺に散らしておいた水球を呼び集め打ち消す。

 モリブデン家の兵は始めのうち、殿下がいるこの辺りには遠慮がちに攻撃していたのだが、こちらの魔術師たちがあまりに厄介だと悟って容赦がなくなってきている。

 

「王子殿下!!目をお覚まし下さい!!」

 そう叫びながら斬りつけてきた敵騎士の剣を受け止め、殿下が叫び返した。

「目を覚ますのはお前たちだ!お前たちはモリブデン侯爵に騙されている!!」

「くっ…!!」

 もはや問答は無用だとばかりに、騎士が刃を滑らせ剣を突き出そうとする。

 しかし殿下はやすやすとそれをいなして騎士の体勢を崩すと、その胴へと剣を打ち込んだ。

 ドサリと音を立て、騎士がその場に倒れ込む。

 

 

「殿下!!皆さん!!もうやめて下さい…!!」

 奥の方で叫んだのは『私』だ。

 戦っているビスマスの後ろで、おろおろしたふりをしながら時々魔術で周りのモリブデン兵の援護をしている。

 最初は王宮騎士の数名がそれに動揺していたようだが、今はもう皆無視をしている。殿下の隣にいる私の方が本物だと分かっているからだ。

 

 しかし偽者は一体いつまでその臭い演技を続けるつもりなのか。怒りを通り越して殺意すら覚える。

 ここの防御を任されていなければ今すぐにでも吹っ飛ばしてやるのに…。

 目の前の戦闘に意識を集中させ、なんとか必死で我慢する。

 

 

 

 戦闘が始まってから、もう数十分ほど経っているだろうか。

 不利に思えた戦況は、今や五分五分と言っていいだろう。苦しい戦いなのには違いないが。

 モリブデン家も精兵だが、こちらの兵は王国でも選りすぐりの精鋭なのだ。

 それに王宮魔術師が3人もいるのが大きい。向こうの魔術師が放つ魔術を、こちらの魔術が上回っている。

 これほどの実力を持つ魔術師が何人もこの場にいる状況に、一部の冷静な判断力を持つモリブデン兵は疑問を持ち始めているようだ。

 

 何より、殿下がずっと何度も呼びかけている。

「投降しろ!!悪いようにはしない!!こちらはただ、戦いを止めたいだけだ!!」

 そのよく通る声は、この庭で戦っている者たちの全員に届いているだろう。

 モリブデン侯爵もまた「王子は騙され幻惑されている!我々がお救いするのだ!!」とか叫んでいるが、少しずつ迷いを生じさせる者が出て来ているように見える。

 

 

 このまま油断せずに戦い続ければ、充分に勝機はある。そう思った時、戦場の一角が大きく動いた。

『土よ!崩れて砂と化せ!』

『水よ!うねり渦を巻け!』

『…泥濘となりて、敵を捕らえよ!!』

 モリブデン侯爵の前方にあった地面が広く陥没し、泥沼と化した。こちらの魔術師数名が力を合わせて使った大規模な魔術である。

 侯爵の周辺を守っていた騎士たちの半数以上が泥濘に足を取られ、陣形が崩壊する。

 

「今だ!行くぞ!!」

 叫んで駆け出したのはスピネルだ。近くにいた騎士数名がそれに追随する。

 泥沼を飛び越え、あるいは転んだ敵騎士たちを踏み台にし、モリブデン侯爵に迫る。

「させるかっ…!」

 魔術の影響範囲から逃れた敵騎士たちがその前に立ち塞がった。

 

 

「俺が相手だ、小僧!!」

 スピネルに斬りかかったのは、薄茶の髪をした一人の壮年の騎士だ。

 鋭いその一撃をスピネルは難なく躱した。すかさず閃いた反撃の刃を、壮年の騎士がゆらりと躱す。

 そのまま数合斬り結ぶと、騎士は口の片端を持ち上げにやりと笑った。

「…良いな。数年ぶりに楽しめそうだ。俺はグラファン・ギブスだ」

 纏う空気が明らかに他の者と違う。低く剣を構えたその姿だけで、卓越した手練なのだと分かる。

 

「スピネル・ブーランジェ。…悪いが、俺はあんたに付き合う気はねえよ!!」

 スピネルは連続で剣を繰り出した。その速さは、もはや目で捉えるのが難しいほどだ。

「なかなかの速さだ!だが軽い!!」

 全てを受けきったグラファンの剣が、スピネルの肩を切り裂く。

 

 思わずひやりとしたが、深手ではなかったようだ。スピネルは一旦グラファンから距離を取り、落ち着いて剣を構え直す。

「本当にすばしっこい小僧だ」

「あんたが遅いだけじゃないのか?」

「言ってくれる!」

 再びグラファンが攻め立てる。

 

 

 …やはりスピネルは強い。

 グラファンはきっとモリブデン家でも屈指の実力者だろう。しかしスピネルは一歩も引かず、ほぼ互角に立ち回っているように見える。

 他の王宮騎士はこの男の相手をスピネルに任せ、その間に侯爵周辺の騎士を掃討するつもりのようだ。

 魔術師の援護も飛び、幾人もの敵兵が倒れていく。

 

「…リナーリア君!」

 突然先輩が叫びながら、私の目の前で剣を振るった。

 高い音を立てて何かが弾かれ、あらぬ方向へ飛んでいくのが目の端に映る。

 どうやら、風の刃が闇に紛れて飛んできていたのを見落としていたらしい。いけない、ちゃんと自分の戦いに集中しないと。

 

「すみません、先輩。ありがとうございます!」

「言ったろう、僕は君を守る騎士だと!」

「もう少しの辛抱だ。頑張ってくれ!」

 先輩がぱちりとウィンクを飛ばし、殿下も私の方を振り返って励ましてくれる。

「…はい!」

 もう一度気を引き締め直し、再び水球に魔力を循環させる。

 

 

 飛んでくる炎を打ち消し、刃を受け止め、水球を飛ばして敵の気を逸らす。

 殿下や先輩は守りに専念しながらも既に幾人かの敵を倒しているし、先生や魔術師たちは王宮騎士への援護を続けている。

 皆消耗はしているが、まだ充分に持ちこたえられそうだ。

 

 もう一度戦場を見回した時、スピネルが大きく剣を振りかぶったのが見えた。

「これで終わりだ!!」

「やはり若いな、小僧…!!」

 必殺の一撃に思えたそれを、グラファンは力いっぱいに弾き返した。

 体勢を崩され無防備に晒されたスピネルの胴に、追撃の刃が振るわれる。

 

「……!!」

 思わず呼吸が止まりそうになる。

 しかし胴を切り裂かれるよりも一瞬早く、スピネルの身体が大きく仰け反った。

 跳ね上げられた左足がグラファンの手元へと吸い込まれるかのように当たり、その剣を弾き飛ばす。

 

「…ぐぅっ…!?」

 グラファンがうめき声を上げる。

 スピネルは蹴り上げた勢いのまま身体を半回転させた。剣に力を溜めた必殺の構えだ。

 胴から肩口へ、まるで稲妻のように剣が疾った。

 

 

 

「……、やるな…」

 グラファンが仰向けに倒れ込んだとほぼ同時に、一人の王宮騎士が大声を上げた。

「…モリブデン侯爵を捕らえました!!」

 

 見ると、後ろ手に拘束された侯爵が地に両膝をついてうなだれている。

 先程まで侯爵自ら勇猛に剣を振るっていたはずだが、やはり王宮騎士には敵わなかったらしい。

 それでも逃げる事を選択しなかったのは、逃げた所で生き延びる道などないと分かっているからか。

 

 

「モリブデン侯爵家の者は武器を捨て、速やかに投降しろ!!抵抗しなければ危害は加えない。罪の有無を明らかにし、厳正な裁きをすると、エスメラルド・ファイ・ヘリオドールの名において保証する!!」

 殿下の大音声が響き渡る。

 ほとんどのモリブデン兵が、驚き戸惑ったように動きを止めた。

 

 一瞬で静まり返った庭の中、スピネルがモリブデン侯爵へと歩み寄る。

「兵に投降を勧めろ。…主としての矜持があるのなら」

 モリブデン侯爵は歯ぎしりをしたようだった。だが、うつむいたままで叫ぶ。

「…皆の者、投降しろ!…私の、負けだ…」



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第177話 モリブデン侯爵邸・5※

 ついに、モリブデン侯爵が敗北を宣言した。

 僅かな間の後、がしゃっと剣が地に落ちる音が響く。

 

 どこか呆然とした表情の者、小さくうなだれた者、怯えた表情の者。

 皆次々に武器を手放してゆく。

 モリブデン家の兵の半数以上が状況を理解できていない様子だ。ただ命令に従い戦っていた者たちには、何故こんな事になったのかが分からないのだ。

 

 侯爵の近くにいた一人の体格の良い男が片手を上げる。

「私がモリブデン騎士団団長です。…知っている事は全て話します。だからどうか、ダンブリン様とフロライア様に…寛大な措置をお願い致したく…」

「…ああ。最大限配慮しよう」

 殿下がしっかりとうなずく。

 

 容易く聞き入れたのは、男の願いにモリブデン侯爵の名が含まれていなかったからだろう。男はきっと、侯爵が何をしていたのか知っている。

 全てが明らかになるまで、そう長くはかからないかもしれない。

「かたじけない…」

 団長の男はそう言うと、疲れ切った顔で礼をした。

 

 

 

 …これで終わったのか。本当に。

 水球を操るために持ち上げていた腕を、ゆっくりと下ろす。

 何だか信じられない気持ちだ。思っていたよりもずっとあっけない。

 

 膝をつくモリブデン侯爵の姿を見ても、私たちが勝ったのだという実感は湧いてこない。

 だがこれで良かったのだろう。殿下も私も無事だ。…いや、周囲には負傷者がたくさんいる。急いで手当てをしなければ。

 味方だけでなくモリブデン兵もだ。侯爵の企みを知っていたにしろ、知らないにしろ、彼らにも手当てが必要だ。正しい裁きを受けさせるために。

 

 そう思った時、未だに剣を持ったまま立ち尽くす一人の男の姿が目に入った。

 くすんだ灰色の髪をした、一見特徴のない男。しかしその紫紺の目には激しい戦意が消えずに燃え盛っている。

 …ビスマス・ゲーレン。

 

 

 

 突然、大きな爆発が起きた。

 咄嗟に前方に広げた水の壁には、ほとんど手応えがない。ただ土煙だけが広がり視界を塞いでいる。

 この爆発は囮だと気付いた時には、水壁を切り裂かれていた。

 眼前に迫り来る、月光を反射した白刃。冷徹な紫紺の瞳。

 あの時と同じだ。思考が凍りつく。恐怖に目を瞑る事すらできない。

 

 …だが、ビスマスのその刃は鋭い音を立てて弾かれた。

「殿下…!!」

「スフェン!リナーリアを頼む!!」

 すぐに体勢を立て直し攻め立てるビスマスの剣を受けながら、殿下が叫ぶ。

「承知!!」と応えた先輩が私の腕を引き、背中に庇った。

 

「もう決着はついた!剣を収めろ!!」

「できるものか!!」

 殿下の言葉に、ビスマスが叫び返す。

「何故だ!どうしてそこまで…」

「どうしてだと…?」

 剣を押し込みながら、ビスマスの顔が激しく歪む。

 

「…こんな所で潰えるのなら…!!」

 ぎりぎりと、歯ぎしりが聞こえそうなほどに歯を食いしばり。

「…あの子は、何のために死んだんだ!!!」

 血を吐くように、ビスマスは叫んだ。

 

 

 鬼気迫るその様子に、殿下が眉を険しくする。

「…何の話かは知らないが、事情があるならば聞こう。だがまず剣を収めろ。このような事をしても…!」

「うるさい!!」

 激しい剣撃によって、その言葉は遮られた。

 これ以上の問答をする気はないらしい。

 

 ビスマスの全身から放たれているのは激しい怒りだ。

 よく見ればあちこち傷付いているし、身に纏った黒服は泥にまみれている。ボロボロだ。

 ただその紫紺の瞳だけが、戦意を失うことなくギラギラと光っている。

 そこまでこの男を駆り立てる、その源が「あの子」とやらなのか。

 

「殿下!!」

 近くにいた王宮騎士たちが、加勢しようと駆け寄って来る。

 ビスマスがそちらへとほんの半瞬気を逸らしたのを見逃さず、殿下がその手元へと突きを繰り出した。

 だがビスマスは思いもかけない方向へとその身体を動かした。

 …殿下の剣の、その切先へと。

 

 

 

「……!?」

 手元を狙ったはずの剣がビスマスの脇腹を深々と貫き、殿下が驚きに目を見開く。

 自らの剣を投げ捨てたビスマスは、突き刺さった剣ごと殿下の腕をがっしりと両手で掴んだ。

 血反吐を撒き散らしながら叫ぶ。

 

「…()()!!()()!!」

 

 

 その瞬間。

 私は用意しておいた水球の全てをそこへ…ビスマスのすぐ横へと集中させた。

 巨大な一つの塊となった水球の中に、小刀を持った一人の女が忽然と姿を現す。

 白い寝間着に青いショールを羽織った蜂蜜色の髪の女。フロライア。

 驚愕に歪んだその口から、ごぼりと泡が溢れ出る。

 腹部から剣を生やしたままのビスマスが、王宮騎士たちによって地面に引き倒されるのが目の端に映った。

 

 

「…残念ながら。貴女には、貴女にだけは絶対に油断しないんです。私は」

 フロライアを閉じ込めた水球を維持しながら、自分でも驚くほどに冷たい声が出た。

「爆発の時、幻影を解除して姿隠しの術を使ったんでしょう。そうしてビスマスが戦っている間に密かに近付き、殿下を殺すつもりだった」

 爆発そのものには意表を突かれたが、すぐに気が付いた。『私』の姿も、フロライアの姿も見当たらないと。

 水の中で、フロライアの表情が驚愕から苦悶へと徐々に変わっていく。

 

「許しません。絶対に許さない。貴女の事は、絶対に。…ここで、私の手で殺します」

 喉元を抑え、のたうちながら溺れる彼女を見上げながら告げる。

 私の声などもう耳に届いていないかもしれないが、それでもいい。このまま苦しみの中で殺す。

 一度ならず二度までも殿下を殺そうとした、その報いを受けさせてやる。

 

「リナーリア君!!」

 先輩の声が聞こえたが黙殺した。

 この女は、あの方が受けた苦しみを少しでも味わってから死ぬべきなのだ。

 あの夜、血を吐きながら倒れたあの方の、

 

「…リナーリア!!」

 ふいに、腕を掴まれた。

 

 

「もういい。そんな事はしなくていい!!」

「…殿下。どうして」

 どうしてそんな必死な顔で、私の腕を掴んでいるのか。

 

「彼女はこの場では、恐らく誰も殺していない」

「でも、殿下を」

 殿下を殺した。私の主を。

 今だって殺そうとしたのだ。

 私の、私の大切な。

 

「だとしても、君が手を汚す必要などない」

「…それでも…!!」

 許せない。絶対に許せない。怒りが、憎しみが、炎のように身体中を焼き焦がす。

 殺したい。殺してやる。罪を償わせてやる。

「この女を、許せる訳が…!!」

「リナーリア!!!」

 

 

 …気が付いた時には、強く抱きしめられていた。

「俺は今、こうして生きている。…それだけでは、だめか」

 耳元に降ってきたその痛切な声音に、ひどく胸を衝かれた。

 

「…殿下」

 きつく抱きしめてくる腕が温かい。

 広い胸にそっと耳を寄せると、確かな鼓動を感じた。生きている。

 強張っていた身体から少しずつ力が抜けていく。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

「…いいえ。いいえ…」

 …そうだった。私の主はもういない。取り戻せはしない。

 だけど、殿下はここにいる。

 

「殿下が…貴方がいてくれるなら、私はそれで十分です」

 両腕を回し、殿下の身体を強く抱きしめ返す。

 殿下がここにいる。生きている。それ以上望むことなどあるものか。

 

 指先に残っていた魔力を霧散させると、大きく水が弾ける音がした。



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第178話 モリブデン侯爵邸・6

「…これでもう大丈夫です」

「あっ、ありがとうございます!!」

 治癒魔術を終えて微笑みかけると、まだ若い王宮騎士は勢い良く立ち上がった。

 さっきまで血を流していたのに、急にそんなに動いて大丈夫かとちょっと心配になるが、顔色は良さそう…というか、むしろ良すぎるくらいだ。

 あんな激しい戦いの後だというのに元気だなあ。

 

 周囲を確認するが、ほぼ全員の手当てが終わったようだ。

 重傷者への処置は外で待機していたという医術師が行っていたが、モリブデン兵ばかりだったようだ。こちらの兵はしっかり装備を固めていたのに対し、モリブデンの兵は突然駆り出された様子の軽装の者もいたからだろう。

 何だかやりきれない気持ちになる。罪なき犠牲者がいない事を祈るばかりだ。

 

 

 

「先生、お疲れ様です」

「ああ、リナーリア君。君もお疲れ様」

 同じく負傷者への治癒を行っていたセナルモント先生の元に歩み寄ると、ちょうど殿下とスピネルも連れ立ってこちらに近付いてきた。

 全員で先生の足元を見る。

 

 そこに横たわっているのはビスマス・ゲーレンだ。

 フロライアが私の水球に捕らわれた直後、王宮騎士たちによって引き倒され拘束されたビスマスは、そのまま意識を失ってしまったらしい。

 殿下が先生へと尋ねる。

「この男の様子はどうだ?」

「傷は塞いだんですが、結構血が出ちゃってるので助かるかは五分五分ってところですかねえ」

「そうか…」

 

「このまま死んだとしても殿下のせいじゃねえよ。こいつは自分から刺されに行ったんだから」

「それはそうなんだが…」

 スピネルはあえて冷たく言ったが、殿下は複雑そうな顔だ。理屈では分かっていても、そう簡単には割り切れないのだろう。

「この男が言っていた言葉も気になる。きちんと事情を知りたい」

「ええ…」

 全てを明らかにするためにも、この男には助かってもらわなければ困る。

 

「まあ、かなり鍛えてる様子なので恐らく大丈夫でしょう。まだ若いし」

 先生がいつものとぼけ顔でそう言い、私もそれにうなずいた。

「そうですね」

 あの気迫によるものが大きいと思うが、ビスマスは殿下と互角に渡り合っていたのだ。

 生まれついての剣才があったとしても、並大抵の修練は詰んでいないだろう。体力だって人よりもずっと多いはずだ。

 

 

 

 その時、後ろから小さくうめき声が聞こえた。

 ずっと気を失っていたフロライアが目を覚ましたらしい。うっすらと目を開け、それからガバっと上半身を起こす。

「…ビスマス!ビスマスは…!」

 必死に辺りを見回し、倒れているビスマスを見付けた彼女は、無理やり立ち上がろうとした。

 だが、横で彼女の様子を見ていた先輩がその肩を抑える。

「まだ動かない方がいい。大丈夫だ、彼には魔術師たちが治癒を施した」

 

「……」

 フロライアはしばらく呆然としていたが、がくりとうなだれるとぼろぼろと両目から涙をこぼした。

「…ビスマス…」

 小さく呟いたその弱々しい声に、形容しがたい複雑な感情を抱く。

 …フロライアにとってあの男はきっと、父親よりも大事な人間なのだろう。

 モリブデン侯爵が投降を命じた後も共に戦おうとし、こうして目を覚ましてからも真っ先に身を案じたのだから。

 

 二人はどんな関係なのか。ビスマスは何故ああも必死に戦おうとしたのか。

 それを聞き出すのは私の仕事ではない。

 …それに、今はまだ聞きたくない。何もかも一度に受け入れられるほど、私は心の広い人間ではないのだ。

 嗚咽を漏らすフロライアから、ただ無言で目を逸らす。

 殿下とスピネルは、何も言わなかった。

 

 

 

 せっかく勝利したというのに何だか重たい空気になってしまったので、私は気を取り直してスピネルに話しかけた。

「スピネルは大丈夫ですか?その肩」

 肩口が切り裂かれている服を指し示すと、スピネルは何でもないというように肩を動かして見せた。

「かすり傷だったからな。一応治癒もしてもらったし何ともねえよ」

 

「何だか楽しそうですね?強敵と戦えたからですか?」

「ああ!?んな訳ねーだろ!!…まあ、あのグラファンっておっさんが手強かったのは認めるが…」

「そうだな。俺の目から見ても、あの男は明らかな猛者だった」

 試合ならばともかく、あれ程の実力者相手の実戦というのはきっとスピネルも初めてだったろう。

 人間相手の戦いというのは、魔獣を相手にするのとはまるで違う。場合によっては命を奪うことだってあるのだ。はっきりとした覚悟、そして胆力が必要となる。

 しかしスピネルは、終始冷静に戦っていたように見えた。

 

 

「…本当に強くなったんですね。貴方も」

 そう言って微笑むと、スピネルはちょっとだけ目を丸くした。それからニヤリと片頬を持ち上げる。

「まあな」

 カッコつけているが、内心嬉しそうな様子だ。ついからかいたくなってしまう。

 

「去年からずっとブーランジェ公爵にしごかれてた甲斐があって良かったですね?」

「やな事思い出させるんじゃねえよ!あんなのもう絶対ごめんだからな!!」

 横で殿下が吹き出す。

「そうだろうな。毎回疲れ切って帰ってきて、ある時など夕食の最中に居眠りをしてスープの皿に顔を」

「おいやめろ!」

 

 すると、フロライアを兵に任せた先輩がこちらへとやって来た。にやにやと笑いながら言う。

「それは僕もぜひ聞きたいな。スピネル君が、皿に顔をなんだって?」

「だから!やめろっつってんだろ!!」

 

 

 ひとしきり笑いあった後、殿下がふと自分の姿を見下ろす。

「…しかし、少し疲れた。とりあえず今は着替えて休みたいな」

 私もまた自分の姿を見下ろした。白い寝間着には、そこら中に泥がはね薄汚れてしまっている。

 昼間に降った雨で湿っている庭の中、戦い続けたからだろう。

 

 すると、一人の騎士が近寄ってきた。

「周辺の宿の部屋をいくつか取ってあります。すぐにご案内しますので、そちらでお休み下さい」

 この屋敷は一旦封鎖して人を退去させ、徹底的に調査をするつもりのようだ。

「分かった。行こう」

「だな。俺も疲れたわ」

「温かい湯で手足を拭き、柔らかいベッドに潜り込みたいね」

 殿下がすぐにうなずき、スピネルも先輩も同意した。

 

「……」

「リナーリア君?どうかしたかい?」

 少し黙っていると、先輩が不思議そうに首を傾げた。

「いえ…やけに準備が良いなと思いまして…。宿もそうですが、王宮騎士も魔術師もずいぶん数が多いですね。警備を厳重にするとは言っていましたが、ずっと屋敷の周囲に伏せていたようですし…」

 そう呟くと、何故かスピネルが目を泳がせた。近くで話を聞いていた先生もわざとらしく知らん顔を作る。

 

 

「…スピネル。先生。どういう事ですか」

 低くそう言って睨みつけた私に、二人共やたらと気まずそうな顔になる。

 やがて観念したように先生が口を開いた。

「えー…つまりね、わざと王宮騎士の間に噂を流したんだよね。『モリブデン侯爵は違法な魔導具を所持し、反逆を企んでいるらしい』って。それで、不確かな噂だけど念の為って事で兵を動かした」

 先生の説明に私は少しだけ納得し、「…それで?」と続きを促した。それだけなら、そこまで気まずそうにする理由がない。

 

「…侯爵側にも噂を流したんだ。『王子殿下はモリブデン侯爵と、侯爵が所有する魔術研究所に不審を抱いている。祭礼で立ち寄るという名目で、密かに探りを入れるつもりだ』って…」

 私は一瞬沈黙した。それはつまり。

「…侯爵が動くよう、わざと噂を流して刺激した、という事ですか」

 先輩が少しだけ目を丸くする。

 

 

「…よくも、殿下を囮にするような真似を…!!」

 怒気を発しながら両手に水球を召喚した私に、スピネルがひどく慌てる。

「いや待て落ち着けって!向こうに情報が漏れるリスクを考えたら、こっちからわざと情報を流した方が良いと思ったんだよ!そりゃ確かに、ついでに尻尾を出してくれたら楽だとは思ってたが、まさかここまでするとは…」

「言い訳は無用です!!!」

 

「待て、リナーリア!!」

 容赦なく水球を放とうとした私を止めたのは殿下だ。

「俺が許可を出したんだ。あの卵をいつまでも放置するのは危険だし、上手くすれば早期に解決できるのではないかと思って」

「なっ…!?」

 驚く私に、殿下が申し訳無さそうにする。

「すまない」

 

「ど、どうして私にも教えて下さらなかったんですか」

「君に心配をかけたくなかった。何も仕掛けてこない可能性だって高かったし…」

「…つーかお前、顔に出しそうだったからだよ。ただでさえやたら緊張してたじゃねーか。あれ以上変な態度取ってたらばれるだろ」

 スピネルがぼそっと呟き、殿下もそっと目を逸らしたので、私は途轍もなくショックを受けた。

 それは確かに、緊張して色々ぎこちなかったかも知れないが。黙ってるなんてあんまりだ。

 

 

「まあまあ、リナーリア君…彼らも君の事を思ってやったんだよ。許してあげたまえ」

「でも、先輩!」と言いかけ、私はふと疑問に思った。いつもなら私の味方をしてくれる所なのに、どうして止めるんだろう。

「…もしかして先輩も知ってたんですか?」

「え?いやいや、知らなかったよ?」

「ならどうして目が泳いでるんですか」

 ジト目で先輩を睨む。

 

「……。スピネル君から、君の事をくれぐれも頼むと、今日は特に念を押されていて…。何かあるのかなと…。いやでも、はっきり聞いていた訳じゃないからね?知らなかったんだよ?本当に」

「薄々気付いてたやつじゃないですか!!」

「そうとも言うかな?あっはっは」

 先輩は笑って誤魔化そうとした。しかしもう遅い。

 

「…ぜ、全員、許しません!!!!」

 私は思い切り叫んだ。



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第179話 古代の夢

 セレナは山道をひたすらに走っていた。

 いや、走っているというよりはただの早足に近い。息が苦しい。足が、身体が重い。

 だけど止まる訳にはいかない。

「セレナ様、しっかり…!」

「もう少しです!」

 

 前を行く護衛のオーピムは心配げに度々こちらを振り返り、後ろのサーラはずっと励ましの声をかけてくれている。サーラが背負った荷物の中には、あの日ミーティオに貰った2つの宝が入っている。

 萎えそうになる気力を奮い立たせてくれるのは、背中ですやすやと眠る我が子の温もりだ。

 この子のために、何としても逃げなければ。無我夢中で足を動かす。

 

 

 セレナたちが辿り着いたのは、川辺に建てられた山小屋だった。

 すでに辺りは暗いが、オーピムは食べ物を探しに行き、サーラはお湯を沸かしてくれている。

 とても空腹だし、足はもう棒のようだ。無理をして走り続けたせいで足の裏が酷く痛む。しばらく動けそうにない。

 腕に抱いた我が子の柔らかな頬を撫でると、くりくりとした目を細めて笑った。その愛らしい表情に、思わず笑みが零れる。

 

 しばらく赤ん坊の顔を眺めていると、サーラが湯気の上がるカップを目の前に置いてくれた。

「棚の中に茶葉があって良かったです。その子は私が抱いていますので、飲んで下さい」

「ありがとう」

 子供をサーラに預け、カップに口をつける。お茶は薄かったが温かく、疲労した身体に染み渡るようだ。

 

 

「…ごめんなさい、サーラ」

 カップを見下ろしながらぽつりと呟く。

「セレナ様ったら。どうして謝るんですか?」

「だって、貴女は私についてくる必要なんてなかったわ。…こんな風に追われて、狙われて…。オーピムだってそう。家に残っていれば、こんな目に遭わなくて済んだのに…」

「まあ!」

 サーラは心外だと言わんばかりに憤慨した顔になった。

 

「そりゃ私はただの使用人です。でも、もう10年もセレナ様と一緒に暮らしてきました。雇い主は旦那様でも、私の主人はセレナ様です」

「…どういう理屈なのかしら」

「理屈ではありません!気持ちの問題ですよ!!」

 ぷりぷりと怒ってみせるサーラにセレナは思わず吹き出す。逆境でもめげない彼女の明るさには、ずっと助けられている。

 

「オーピムだって同じことを言うはずです。行き倒れていた彼を助けたのはセレナ様ですよ。あの時の恩義を忘れていないから、こうして付いて来てるんです」

「そうね。でも、オーピムが付いて来たのはサーラが心配なのもあると思うわよ?」

「それは…」

 サーラの頬がほんのりと赤く染まった。

 二人が良い仲であり、結婚も考えているのだとセレナは知っている。

 …だからこそ、巻き込んでしまった事が申し訳ない。

 

 

「と、とにかく。悪いのはソディー様ですよ!あの男、セレナ様に振られたからってこんな事」

「それは違うわ。私、ソディーに好きだなんて言われた事ないもの」

「でも…」

 サーラが唇を尖らせる。

 

「…きっと誰かに唆されたんだわ。近頃人相の悪い人たちとよく一緒にいるって噂だったし…。それに、新しい魔術論文を先生に読んですらもらえなかったって落ち込んでいたの。また頑張るって笑ってたからあまり気にしていなかったけど、もっとちゃんと話を聞いてあげれば良かった…」

「セレナ様のせいじゃありませんよ。話を聞いて欲しいなら、そうと素直に言えば良かっただけです!」

「サーラはきっぱりしてるわねぇ…。皆が貴女みたいだったら良いのだけど」

 思わず苦笑した時、山小屋の扉が慌ただしく開いた。

 

 飛び込んできたオーピムの緊迫した顔に、セレナは息を呑んだ。サーラが急いで尋ねる。

「オーピム!どうしたの!?」

「追手が近付いています。まだこの山小屋の事には気付いていないようですが、時間の問題です」

「なんてこと…。セレナ様、早く逃げましょう!」

 サーラに促されて立ち上がろうとしたが、足がもつれ、ふらふらとその場にへたり込んでしまった。

 

 

「…ごめんなさい。私はもう、行けないみたいだわ」

「セレナ様!!」

 サーラが顔色を変える。

「何を弱気なことを言ってるんですか!この子のためにも、逃げて生き延びないと。オーピム、セレナ様を」

「その子のためによ」

 セレナは強い口調で言った。

 

「私がいては足手まといだわ。それに、あいつらの狙いはきっと宝玉と天秤よ。私はあれを持ってここに残るから、貴女たちはその子を連れて逃げて」

「そんなっ…」

「これは命令よ、サーラ!!私は、貴女の主人なんでしょう!?」

 

 セレナの鋭い叫びに、サーラは怯んだようだった。

 彼女が言葉を失っている間に何とか立ち上がり、オーピムを見上げる。

「…貴方には分かるでしょう。私を連れて逃げようとすれば、そう遠くないうちに捕まる。きっと殺されてしまうわ。…だから、お願い。あの子を守る道を選んで」

 オーピムはくしゃくしゃに顔を歪めた。…だが、小さくうなずく。

「…承知いたしました…」

 

「オーピム!」

「サーラ。セレナ様の命令を、いや、願いを聞くんだ。もう時間がない」

「…でも…でも!!」

「サーラ」

 セレナは赤ん坊ごとサーラを抱きしめた。二人の顔を見て微笑む。

「貴女とオーピムにならその子を、アズラムを託せるわ。二人の子供として、優しい子に育ててほしいの。…どうか、元気で。今まで、本当にありがとう…」

「セレナ、様…」

 サーラは両目から涙を零した。

 

 

 それからすぐに、二人は赤ん坊を連れて山小屋を出て行った。

 残されたのはセレナと、赤い宝玉。そして黄金色に輝く天秤だけ。

 この2つの宝がどういうものなのか、サーラとオーピムには話していない。万が一捕まった時も、何も知らなければ命だけは見逃してもらえるかもしれないと思ったからだ。

 だから我が子アズラムは、父である竜の事も、母であるセレナの願いの事も、何も知らずに育つのだろう。

 それが少しばかり悲しかったが、それで良いのかも知れないと思う。知らない方が、きっと平和に暮らせる。

 

「…ごめんなさい、ミーティオ。貴方が叶えようとしてくれた願いを、私は叶えられない」

 そっと手を伸ばし、宝玉と天秤を抱きしめる。

「でも、命が繋がる限り、夢も繋がると思うの。いつかは、きっと…」

 

 セレナは目を閉じ、あの子はどんな風に育つかしらと想像を広げる。

 …サーラはきっと私の願い通り、優しい子に育ててくれる。父親に似た、どこか控えめな雰囲気を持つ青年。私に似てきっと賢いわ。でもおっちょこちょいな所があるかもしれない。あの人はしっかりしているようで、どこか抜けていたから。

 その姿をこの目で見られないのは、本当に残念だけど。

 

「生き延びて。血を繋げて。…そしていつか、取り返して。この島の未来を…」

 

 

 

 

「……」

 目覚まし時計の音で目を覚ます。ゆっくりと目を開くと、ぼんやりと滲んだ視界の中に見慣れない天井が見えた。

 目尻に手をやると、濡れた感触がある。どうも泣いていたらしい。

 …とても不思議な夢を見た気がする。

 セレナ。私のご先祖様だという女性の夢。

 昨日、モリブデン侯爵邸で初めてあの黄金の天秤に触れた。そのせいでこんな夢を見たのだろうか。

 

 

 泊まったのは1階が食堂になっている大きめの宿だ。目覚まし時計は朝食の予定時間の少し前に合わせておいた。

 着替えて部屋を出ると、護衛の女騎士が待っていた。

「おはようございます、リナーリア様。皆様がお待ちです。ご案内いたします」

 食堂に行くと、同じ宿に泊まった殿下とスピネル、先輩が既に揃っていた。王宮騎士や魔術師も別のテーブルに何人かいる。

 やや遅い時間なので他の利用客は少ないようだ。席について「おはようございます」と挨拶する。

 

 ウェイトレスによって朝食が並べられていくのを待ちながら、じっとスピネルの方を見る。

 …さっき見た夢の事をミーティオに話したい。

 ただの夢かもしれないけれど、話した方が良いような気がするのだ。

 夢の中で聞いた、セレナとミーティオの子供の名前。ミーティオはきっと知りたいだろうと思う。

 

 しかし人前でミーティオに話しかける訳にもいかないし、この話は王都に帰ってからにするべきだろう。

 そう思って黙って目を逸らすと、スピネルが困ったように頭をかいた。

「何だよ、まだ怒ってんのか?」

「…そうですね」

 別にそれが理由で見つめていた訳ではないのだが、説明する気にもならなかったので適当に返事をした。まだ怒っているのも事実だし。

 

 

「悪かったって。機嫌直せよ」

「リナーリア、本当にすまなかった…」

 昨夜、あの後一言も口を利かなかったからか、殿下は見るからにしょげている。

 わざと返事をしないでいると、ますます落ち込んだ様子で肩を落とした。思わず心が痛む。

 うーん…でもあまりすぐに許すのもなあ…。

 

「王子殿下は今まで、一度も君を怒らせた事がなかったんだって?だからずいぶんとショックを受けているみたいだよ」

 笑いながら言う先輩に、私は唇を尖らせる。

「…あの。私、先輩にも怒ってるんですが」

「おっとそうだったね、これは失敬!だけどそろそろ許して欲しいな!」

 あっけらかんと笑う姿に、思わず毒気を抜かれてしまう。

 

「はあ…先輩は本当にもう…」

 一つため息をつき、苦笑して顔を上げる。

「…分かりました、許します。でも、次はちゃんと話して下さいね。殿下も」

「……!」

 殿下がぱっと顔を上げ、真剣な顔で何度もうなずいた。

「ああ。もう隠し事はしない」

 先輩も真面目な顔になって頭を下げる。

「僕も約束するよ。本当にごめん、リナーリア君」

 

 

「…おい。俺は?」

 そう言って自分を指さしたのはスピネルだ。

「貴方はだめです。まだ許しません」

「差別だろそれ!?」

「大丈夫です。先生のことも許してませんから」

「何も大丈夫じゃねえ!悪かったっつってんだろ!!」

 情けないその叫びに、思わず吹き出しそうになるのを堪える。少し可哀想だったかな。

 

 私は「仕方ありませんね」とあえて澄まし顔を作ると、テーブルの上に並んだ朝食を指さした。

「貴方がそのスクランブルエッグを差し出すのなら、許してあげてもいいですよ!」




評価、感想、誤字報告などありがとうございます!とても励みになっております。
いよいよ完結が近付いてきました。200話以内の完結を目指しております。
どうぞよろしくお願いします。


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挿話・27 とある騎士と妻の任務

 ベゼリ・カブレラはモリブデン家に仕える騎士である。

 年は45歳。妻と息子が一人いる。

 現侯爵がまだ跡継ぎだった頃から護衛を勤め、毎年王都とモリブデン領を行き来する暮らしをしていたが、2年前に同じくモリブデンの騎士となった息子にその役目を譲った。

 と言っても騎士を引退した訳ではない。モリブデン騎士団の一員としてカラミンの町を守っている。

 

 護衛だった時に比べ魔獣と戦う機会が増えたが、今の生活は気に入っている。

 長い間、妻キュリーとは年の半分を離れて過ごす生活をしていたが、領勤めになった事でようやくずっと一緒にいられるようになった。

 あと数年もすれば騎士団を引退し、孫の面倒でも見ながらのんびり暮らそうかと考えている。

 一人息子は、今年の秋には同僚の娘と結婚する予定なのだ。

 

 

 だが、数ヶ月前からベゼリの生活は変わった。

 きっかけは主であるモリブデン侯爵にとある任務を命じられた事だ。

 妻と二人で密かに、さる御方の護衛と身の回りの世話をして欲しいというのである。期間は最低1年。場合によっては延長もあるという。

 何やら妙な任務だと思ったが、主は「お前にならば任せられる」と言った。断れる訳がない。

 

 …その「さる御方」と引き合わされ、ベゼリは衝撃を受けた。

 オットレ・ファイ・ヘリオドール。いや、既に王位継承権を剥奪されているはずだからオットレ・ヘリオドールか。

 侯爵の護衛として何度も会っているから間違いない。恐らく向こうはベゼリの顔など覚えていないだろうが。

 オットレの父である王兄フェルグソンが起こした事件のことは、何日も前にこのモリブデン領にまで届いていた。王家の秘宝を盗み、第一王子と懇意の貴族令嬢を誘拐したのだと。クーデターを企んでいたという噂もある。

 それでフェルグソンは捕まり、息子のオットレも共犯として指名手配を受けたはずだ。

 

 ベゼリは動揺した。これはつまり、オットレを匿えという任務だ。

 フェルグソン親子とモリブデン家が良好な関係だった事は知っている。特にオットレとフロライアは親しいと息子から聞いていた。

 しかしこれほど重大な罪を犯した者を匿うのは国への反逆に等しい。

 …一体何故、何のために。

 その理由を、侯爵は説明してはくれなかった。

 

 

 

 ベゼリとキュリーはオットレを伴い、モリブデン領のはずれにある小さな田舎町に向かうことになった。

 騎士を引退したばかりの裕福な夫婦が、病にかかった息子の療養のためにやって来た…という筋書きになっているらしい。息子は病のためにあまり出歩けない、と。

 

 用意されていたのは町の端にあるやや古びた家だ。大家だという恰幅の良い男が上機嫌に案内してくれた。

 大家が用意していた家具や調度品は、それなりに値が張りそうなものばかりだった。侯爵はずいぶんと気前よく準備金を渡したようだ。

 ここでの生活費も、ベゼリたちの給料とは別に潤沢に与えられてる。しかも足りなければ要求して良いそうだ。貴族であるオットレのためだろう。

 

 

 ベゼリは人目がある場合を除き、オットレに対し慇懃に接した。

 護衛対象であり、仮にも王家の血筋であるからだ。

 キュリーにもそうするように命じた。大人しい妻は、少し不安げにしながらもそれに従ってくれた。

 

 だがオットレはベゼリたちに対し、尊大で、傲慢で、しかも粗暴だった。

 オットレは今の自分の状況がとにかく不満のようだ。服が気に入らない、料理が気に入らない、シーツの手触りが気に入らないと言っては怒鳴り散らす。

 ここは華やかな王都とは比べるべくもない、本当に何もない田舎町だ。しかも家からほとんど出ることができないのでは、憤懣が溜まり苛立つのも無理はないだろうと思う。

 しかし物に当たり散らして家具を壊したり、壁を蹴るのには辟易した。

 

 

 そんなある日、ベゼリが買い出しから帰ると、キュリーはうなだれて椅子に座り、その腕を濡らした布で冷やしているようだった。

 一体どうしたのかと尋ねると、オットレにスープの皿をひっくり返され火傷をしたのだと言う。

「昨日はスープがぬるいと怒ってらっしゃったから、今日は熱くしてみたのですけれど…」

 肩を落とす妻に、急いで治癒魔術をかけた。騎士であるベゼリは、初級の治癒ならば使えるのだ。

 

「…すまない、キュリー」

 そう言って謝ると、妻は困ったように微笑んだ。

「良いんですよ。これもお仕事ですものね」

 理解を示してくれる妻に、ベゼリはますます申し訳ない気持ちになる。

 

「どうして侯爵様は、あの方を匿うのかしら…」

 妻がぽつりと呟く。

「…侯爵様には、侯爵様のお考えがあるんだろう」

 口ではそう答えたが、内心では自分も同じ疑問を抱いている。

 モリブデン侯爵は良い主だ。尊敬できる立派な主だとずっと思ってきた。少なくとも、護衛を勤めている間はそうだったのだ。

 

 侯爵は厳しい所もあるが温厚で、護衛であるベゼリに対しても寛大に接してくれていた。

 また領の統治にも熱心だ。

 モリブデン領は果実類の生産を主な産業としているが、およそ十数年に一度は暴風雨で果樹に大きな被害が出る。だが侯爵は普段から備蓄をし、防災のための植樹や設備の拡充もこつこつと行っていた。

 実際に7年前の暴風雨の時は従来よりも被害を抑えられ、復興も迅速だった。

 当代の領主様は本当に素晴らしい方だ。民は皆そう褒め称えていたというのに。

 

 

 

 スープの件以来、キュリーはオットレを強く恐れるようになった。

 そのため、オットレの部屋に食事を運ぶのはもっぱらベゼリの仕事となった。

 とにかく退屈しているオットレは、そうしてベゼリが部屋に来るたびにしばらく愚痴をこぼす。ベゼリはただ、黙って聞くしかない。

 

「こうなったのも全てエスメラルドのせいだ。あいつは王子という立場を鼻にかけ、僕の事を馬鹿にしている」

 オットレはエスメラルド王子が憎くて仕方ないらしい。毎日のように恨み言を言い、罵倒している。

 王子が今ああして「大きい顔をしている」のは、ただ運が良かったからに過ぎないとオットレは言う。

 たまたま父が王となったから、あのような地位にいて手柄も立てられているのだと。

 

 未来の王となるべく整えられた環境。揃えられた人材。与えられる贅沢な品々。周囲から注がれ続ける憧れと畏敬の視線。

 それらは本来自分のものだ。もしも自分に与えられていたならば、自分だってエスメラルドと同じようなことはできていた。

 オットレは繰り返しそう主張した。

 

 

 オットレが不遇の生まれである事はベゼリも知っている。

 生まれたばかりの頃に父フェルグソンは王位継承権を剥奪され、母は物心つく前に亡くなった。

 世が世なら、彼こそが王子だったというのも間違いではないのだろう。

 

 しかし、侯爵の護衛として何度か顔を合わせたエスメラルド王子は、謙虚で誠実な心根の少年のように見えた。

 噂として聞こえてくる人柄も、立てられた武功も、王としてふさわしいものに思える。

 対してオットレの行動と言えば。

 毎日ただ悪態をつき、ベゼリや妻に辛く当たり、剣を振って身体を鍛える事もろくにしない。

 

 …それらは果たして、立場や環境の違いによるものだろうか?

 

 

 

 

 そうして過ごしていたある日、ベゼリの元に一台の馬車が届けられた。

 馬車を持ってきた男たちは侯爵からの書状をベゼリに差し出した。

 そこに書かれていたのは、「行商人に化け、今すぐこの馬車でオットレを連れて領を出ろ」という命令だった。

 荷台にある積荷はとても大事な物だから丁重に扱う事、できるだけ人目につかないようにする事なども書かれている。

 行き先は2つ隣の領。それからどうするかは追って指示するとの事だった。

 

 オットレはまた文句を言うかと思ったが、久々に町の外に出られるからか案外上機嫌だった。

 …しかし、それも途中までだ。

 待機先として指示されていた宿。1日経ち、2日経ち、3日経っても、来るはずの連絡が来ない。

 そうして4日目、町の住民から噂を聞いた。

 モリブデン侯爵が、王子への暗殺未遂で捕らえられたと。

 

 

 ベゼリは慌てて宿を引き払い、町を発った。

 行き先はとりあえず王都方面だ。モリブデン領には戻れないと思ったからだ。

 王子の暗殺未遂。本当にそんな事を侯爵がやったのか。何かの間違いではないのか。

 ベゼリの顔色から何かを感じ取ったのだろう、キュリーはずっと無言で、オットレは苛立っている。

 

 この先どうすればいいのか。

 このまま王都に行った所で中には入れない。行商人を装ってはいるが、そんな嘘はすぐにばれる。何しろオットレがいるのだ。

 どこかに身を隠す?隠した所でどうなる?いずれ誰かに怪しまれ、捕まってしまうだろう。

 自分もまた反逆者にされてしまうのだろうか。自分だけではない、妻もだ。

 ようやく夫婦一緒に暮らせるようになったというのに。一体どうしてこうなってしまったのだろう。

 

 ひたすらに考え込んでいると、後ろの荷台から何かを倒すような大きな音が聞こえた。

 続けて、ガツンと何かを叩きつけるような音が聞こえる。

 オットレが暴れているのだ。

 御者台で隣に座るキュリーが怯える顔を見て、ベゼリは仕方なく一度馬車を停めた。

 

「オットレ様…」

 荷台を覗くと、中はすっかり散らかっていた。積荷の箱の一つをオットレが蹴り飛ばし、ひっくり返したらしい。

 何かの魔導具だろうか、赤い卵のような形をした何かがそこら中に転がっている。

「オットレ様、この積荷は大切なものです。丁重に扱えと侯爵から言われて」

「その侯爵からの連絡はどうしたんだ!!一体どこに向かっている!!」

「……、とりあえず王都の方へ…」

「とりあえずとは何だ!?どういう指示を受けているんだ!!」

 

 ベゼリはちらりと妻の方を見た。

 侯爵が捕まったらしいなどと正直に言えば、オットレはますます激昂するだろう。どんな行動に出るか分からない。

「…何か問題が起きたようで、連絡が来ないのです。なのでとりあえず王都の近くまで行き、こちらから連絡を取るつもりです」

 オットレは何かを考え込んだようだったが、やがて「…良いだろう」とうなずいた。

 ベゼリはほっと胸をなでおろした。これ以上暴れる事はなさそうだ。

 

 

「その変な卵をさっさと片付けろ。邪魔だ」

 顎で荷台の中を示したオットレに、内心で激しく苛立つ。散らかしたのは自分だろうに。

 妻と共に手分けをし、赤い卵を箱の中に詰め直す。

「あなた…、これ」

 キュリーがそのうちの一つを差し出してきた。何故かそれだけ赤黒い色をしている卵には、大きなヒビが入っている。

 きっとオットレが床に叩きつけたのだろう。かなり硬いもののようなのに、よほど力を入れて投げたのか。よく見ると、荷台の床にはそれらしき傷ができている。

「…仕方がない。気にするな」

 壊れているからと言って勝手に捨てる訳にもいかない。ヒビが入った卵を一番上に乗せ、箱の蓋を閉める。

 

「おい、早くしろ!!」

「…はい」

 ふんぞり返ったまま怒鳴るオットレに、ベゼリは感情を消して返事をした。

 これが本当に、世が世なら王となるはずだった人間の姿だろうか。いいや、違う。こんな男が王になるなど、そんな事があっていいはずがない。

 

 

 侯爵の命令は、ベゼリの中でもはやどうでも良くなりつつあった。

 自分は忠誠を捧げる相手を間違えてしまったのだ。今だ混乱する頭のまま、それを確信する。

 

 …いざという時は、妻を守る選択をしよう。

 ベゼリは、静かにそう決意した。



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第180話 不吉な報せ

 ゾモルノク領での祭礼を終えた私たちは、無事に王都へと帰ってきた。モリブデンで起こった事件のため、予定よりは一日遅れの帰還だ。

 モリブデン侯爵やフロライアなど関係者の王都への移送はもう済んでいるはずだ。

 侯爵邸やハックマン魔術研究所への調査も始められているが、それらの進捗状況は戻ってから聞くことになっていた。

 

 だがまずは、城で国王陛下と王妃様への謁見だ。今回の旅の報告である。

 まあ報告するのは主にエスメラルド殿下で、私たち同行者は後ろに控えているだけなのだが。

 謁見の間に入ると、陛下と王妃様が既にお待ちになっていた。

 お加減が悪く出発の時はお顔を見せられなかった陛下だが、今は少し回復されたらしい。

 

 事件についてはほとんど触れず、概ね型通りの報告を終えると、陛下は私たちに労いの言葉をかけてくれた。

「道中色々とあったようだが、無事に務めを終え帰還してくれた事を喜ばしく思う。皆よくやってくれた。今宵はゆっくりと休み、旅の疲れを取るとよい」

「ありがとうございます」

 皆で声を揃えて礼を言い、頭を下げてかしこまる。

 

「エスメラルド。スタナムから報せがあるようだ。対応はお前に任せるが、相談がある時はいつでも来なさい」

 陛下は最後にそう付け足した。

 その表情に、なんだか嫌な予感を覚える。…あまり良い報せではなさそうだ。

 

 

 謁見の間を出ると、言葉通りに近衛騎士団長のスタナムが待っていた。

 私たちに向かって一礼した後「少しよろしいでしょうか」と殿下へと近付く。

 何事かを耳打ちされた殿下は驚いた表情になった。目を瞠り、スタナムを見返す。

「それは本当なのか?」

「現在確認中ですが、付近から似たような目撃情報が上がっていました」

 

「…その者から直接話を聞きたい。良いか」

「問題ありません。私も詳しい話はこれから聞く所だったのです」

「よし」

 殿下はこちらを振り返り、私の顔を見る。

「…もう隠し事はしないと約束した。君も一緒に来てほしい」

 

 

 

 殿下やスピネルとその足で向かったのは、城の中にある会議室だ。

「共に話を聞いた方がいいだろう」との事で、セナルモント先生とスフェン先輩も一緒である。

 少しの間待っていると、スタナムの案内で40代半ばくらいの男女が一人ずつ入ってきた。

 

「お、王子殿下…!」

 男は殿下の顔を見てぎょっとした様子で立ち止まると、居住まいを正した。女も慌ててそれに倣う。

「私はベゼリ・カブレラと申します。モリブデン家の騎士で、2年前まではモリブデン侯爵の護衛をしておりました故、何度かお目にかかった事がございます。こちらは妻のキュリーです」

 なるほど、男の方に見覚えがある気がしたのはそのせいか。

 

 

 全員が席についた所で、スタナムは私たちを見回し、重々しく口を開いた。

「…実は、オットレが見つかったようなのです」

「え…!?」

 私は驚愕し、声を上げてしまった。

 秘宝事件以来行方をくらましていたオットレが、ついに見つかった?

 

「い、一体どこに?」

「王都からおよそ1日半ほどの距離にある川の近く。そこが最後にオットレを見た場所のようです」

「…ようです、というのは?はっきり確認できていないのですか?」

 どうにも曖昧な表現だと尋ねる私に、スタナムが答える。

「オットレは潜伏先から王都へと向かおうとし、その途中で魔獣に襲われたそうなのです。現在、確認と捕縛のため現場に兵を向かわせています」

 

 スタナムはさらにカブレラ夫妻の方を見た。

「この二人はモリブデン侯爵の命令を受け、一昨日魔獣に襲われるその時までオットレと共にいたと言っています」

「…はい。確かに私たちは、オットレ様と共にいました」

 緊張しきった面持ちで答えるカブレラ夫妻。彼らが呼ばれた理由がようやく分かった。

 …やはり、モリブデン侯爵がオットレを匿っていたのだ。

 殿下が二人に声をかける。

「いつから共にいて、何をしていたのか。始めから話を聞かせてくれ」

 

 

 

 そしてベゼリは話し始めた。

 彼と妻は秘宝事件の後からずっと、モリブデン領の田舎町でオットレと親子のふりをして暮らしていたのだという。

 その生活ぶりについて詳しくは語らなかったが、彼らの表情を見るに苦労の多いものだったようだ。あのオットレの事だから、多くの理不尽なわがままを言って彼らに面倒をかけたのだろうと容易に想像できる。

 彼らは反逆者であるオットレを匿う事に疑問を抱きつつも、命令に従い正体を隠して暮らし続けていたらしい。

 

 それが10日ほど前、突然オットレを連れて領を出るように命令が来た。彼らはそれに従い旅立ったが、道中の噂で侯爵が殿下への暗殺未遂で捕まったと知った。

「私は王都に向かおうとしました。…命令に背く事になると分かっていましたが、衛兵に名乗り出て、オットレ様の身柄を差し出す事も考えておりました…」

 ベゼリはうつむき、拳を握りしめながら言った。その良心と、長年仕えた侯爵への忠誠心の間で葛藤があったのだろう。

 

「しかし、王都に着く前に馬車が魔獣の群れに襲われたのです。私は必死に馬を走らせ逃げようとしました。何とか川の近くまで行ったのですが、そこで追いつかれ、馬車は横倒しになりました」

「…それで、どうなったんだ?」

「私と妻は御者台に座っており、揃って地面に投げ出されました。幸い下は草が生い茂っていて柔らかく、大した怪我はしませんでしたが、これほどの魔獣に囲まれれば逃げられないだろうと覚悟しました。…しかし魔獣たちは私と妻には目もくれず、オットレ様のいる荷台の方へと襲いかかったのです」

「……?」

 魔獣は見境なく人を襲うものだ。それが何故、オットレの方にばかり向かったのか。

 

 

「起き上がった私は、無我夢中で妻を抱え、川へと飛び込みました。…そうしてしばらく泳ぎながら流された所で、対岸で漁をしていた人たちに救われ、ようやく岸に上がったのです。彼らは私たちを介抱すると、自分たちの村まで運んでくれました。もはやどうする事もできないと思った私たちは、村に常駐している衛兵に事の次第を話し…そうして、この王都まで連れて来られたのです」

「…オットレがどうなったかは分かるか?」

「…いいえ。全く分かりません…」

 

 大体の事情は理解できた。オットレの現在の様子が分からない理由も。

 …正直、生存は絶望的に思える。

 言いようのない複雑な感情が湧き上がるが、無理やり抑え込んだ。それより気になる事がある。

「どうして魔獣がオットレの方に集まったのかは、分かりますか?」

「いいえ」

 夫妻が揃って首を横に振る。

 

「荷台には他の人物は乗っていなかったのですか?あるいは、何か荷物を載せていませんでしたか?」

「乗っていた人間はオットレ様だけです。ただ、大きな箱が3つほど荷台に載せられていました。私たちの元に届けられた時から置いてあり、大事な物だから丁重に扱うようにと、侯爵様の命令書には書いてありました」

「箱の中身については?」

「封がされていたのですが、一つだけ中身を見ました。道中オットレ様が癇癪を起こし、箱をひっくり返したからです。赤い色をした、卵の形の魔導具のようなものが箱いっぱいに入っていました」

 

 

「…死神の、卵…」

 息を呑み、呟いた私にスタナムが怪訝な顔をする。

「……?何ですかそれは?」

 私の代わりに説明してくれたのは先生だ。

「モリブデン侯爵が密かに生産させていた違法な魔導具です。詳しい説明は省きますが、使用すれば魔獣の群れを引き寄せる事ができる代物です」

 

「何!?」

 顔色を変えたスタナムが、夫妻の方を振り返る。

「わ、私たちは知りません!そんなもの、聞いた事がありません」

「本当です!あれを見たのも、あの時が初めてで」

 ベゼリが必死に首を振り、妻キュリーも恐怖の表情で同意する。彼らは使い方どころか、死神の卵という名称自体初耳のようだ。

 

「では、オットレは?魔獣に襲われたのは、死神の卵を発動させたからなのでは」

「…わ、分かりませんが…あれが何なのか知っているようには見えませんでした。ずいぶん粗雑に扱って、そ、そう、一つ壊していました」

「壊した!?」

「はい。どうも床に叩きつけたようで、大きなヒビが…。他はどれも真っ赤な色でしたが、それだけは少し黒ずんでいました」

 

「…死神の卵は元々黒い色をしていて、赤いのは人の生命力…魔獣を引き寄せる源となる力を、たっぷりと溜め込んだものだと思われます。赤黒く変色するのは、力を放出している証拠。つまりヒビが入った卵は、意図せず発動し魔獣を強く引き寄せる状態になっていた…」

 先生の説明を聞きながら、恐ろしい想像が頭をよぎる。

 箱には赤い卵が大量に詰め込まれていた。そこに魔獣が襲いかかった。

 …もし全てが破壊され、溜め込んだ生命力が辺りに放出されていたら。

 

 

「スタナム!!その場所には何人向かわせた!?」

「じゅ、10人ほどです。万一周辺に魔獣が留まっていたとしても、それで十分対処できるだろうと…」

 厳しい表情で顔を上げた殿下に、スタナムが答える。先生がそれに首を振った。

「…恐らく足りないでしょう。それどころか、場合によっては数百人…数千人の兵が必要になる可能性があります」

「そ、そんな…!?」

「彼らに急ぎ連絡を取ってください。すぐに逃げられるよう準備し、十分に距離を取って様子を見るように。決して近付かないようにと」

 

 さらに、スピネルが立ち上がる。

「俺とセナルモントでその現場に急行する。俺なら卵の状況を見分けられるし、セナルモントなら周辺の魔獣の気配を詳しく探知できる」

 ミーティオは人の生命力を感じ取る事ができる。卵が大量に発動しているなら近くに行けば分かるはずだ。

「すぐに動ける兵を集め、同行させます」

 事態の深刻さを理解したらしく、スタナムが答える。

 

「周辺の町や村に戒厳令を出し、魔獣の襲来に備えさせろ。王都の兵にもいつでも出られるように準備の通達を」

「はっ!」

 殿下が命令を下し、スタナム、スピネル、先生は慌ただしく会議室を出て行った。

 

 

 あっという間に静かになった会議室の中、殿下が私を振り返った。緊迫した翠の瞳で私を見つめる。

 …嫌な予感がする。

 もしかしたら、最悪の事態が進行しつつあるのではないか。

 私はただ、祈るようにその目を見つめ返すしかできなかった。



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第181話 義務と対価(前)

 翌日、私は王都の外れにある屋敷へとやって来ていた。

 今日は2週間ぶりにライオスとお茶会をする予定になっているのだ。

 参加者は私とスフェン先輩、それから私の両親とコーネル。

 スピネルとセナルモント先生は、オットレと死神の卵の件で来られない。殿下もきっと来られないだろう。

 

 卵の事が気がかりで、正直に言うとあまりお茶会という気分ではない。

 しかしライオスには尋ねたい事があるのだ。竜人である彼になら、魔獣の気配が分かるかも知れない。今は魂の存在となっているミーティオよりも、もっと詳細に。

 待ちきれず庭に出た私の隣に、先輩が無言で立った。灰色の雲が立ち込める空を二人で見上げる。

 

 やがて遠くの空に小さな影が見えた。

 みるみるうちにこちらに近付き、羽音と共に庭へと降り立った姿に少し安心する。ちゃんと今日も来てくれた。

「ライオス。お待ちしていました」

 黒い翼を畳んだライオスは、いつも通りの表情で私を見て言った。

『ここから逃げなくていいのか?』

 

 

「そ、それはどういう意味ですか!?」

 思わず勢い込んで尋ねた私に、ライオスが少し怪訝そうにして後ろを指差す。

『向こうの方に魔獣の気配が膨らんでいるだろう。気付いていないのか』

 やはりライオスには、魔獣の気配が分かるのだ。

「私たちは、魔術が届く範囲でしか気配を感じられないんです」

『そうなのか』

 

 私は更に尋ねる。

「どのように魔獣の気配を感じたのか教えてもらえませんか?膨らんでいるとは?」

『数日前、あの近辺で突然人の生気が爆発的に増えた。どうも妙な様子だったが、それに引き寄せられどんどん魔獣が集まり、今は魔獣から放たれる瘴気が周辺を覆い始めている。気配が膨らんでいると言ったのはそういう意味だ。…あれは、特に大きな魔獣が出現する前兆だ』

 ただの大群ではなく、大型も出てくるという事か。かなりまずい事態だ。

 

「特に大きいというのは、どれくらいの…」

 そう言いかけた時、後ろからのんびりとした高い声が聞こえた。

「ごめんなさいリナーリア、時間には少し早いのだけど、来ちゃっ…」

 …お母様だ。

 まずいと振り返った時には、お母様はライオスを見つめ、目と口を大きく開けて固まっていた。

 

 

「はっ、わ、ひゃぁ、ひぇ…」

「り、り、りゅう、竜人」

 意味不明な声を上げながらアワアワとするお母様の横で、お父様が腰を抜かしてへたり込んだ。その後ろでコーネルが、手に持っていたバスケットをどさりと落とす。

 

「えっ、えっ、あっ」

 私もひどく慌てた。どう誤魔化せば。そう思った瞬間、肩に何かが触れてぎょっとする。

 ライオスだ。なんと私の背中に隠れようとしている。

 いや無理だろ。そのでかい図体じゃ無理だろ。

 身体だけでも無理があるのに、更に翼がはみ出ている。無理すぎだろ。

 

「な、何してるんですか」

 思わずそう言うと、ライオスは焦ったように手を離して後ずさった。

『いや、これは、その…』

 つい咄嗟に隠れようとしてしまったが、自分でも何故そんな行動を取ったのか分からない、という感じだ。

 

 一体何だこの状況は。

 とにかく何か言い訳をしようと必死で頭を回転させるが、何も思い浮かばない。ひたすらにオロオロする。

 ど、どうしたらいいんだ?

 

 

 すると私の前に、ばっ!と先輩が飛び出た。両腕を広げ、堂々と叫ぶ。

「…大丈夫です、ジャローシス侯爵、ジャローシス夫人!!ライオス君は危険な存在じゃない!!」

「先輩!!」

 

 さすが先輩だ。どんな時でも落ち着いている。

 先輩ならこのまま上手く誤魔化してくれるのではないか。

 そう期待して見上げると、先輩は「あー…彼は…」とちょっと視線を彷徨わせた。

 

「…そう!!ただの善良な…いちごの飴が好きな竜人です!!」

 

 …先輩もまあまあ混乱していた。

 しん、と庭が静まり返る。

 

 

 

「…ら、ライオスさん、なのね?そちらの方…」

 お母様が呆然と呟き、ライオスを見る。

「…いちご味、お好きなの?」

『あ、ああ。あれは、美味い』

 こくこくとうなずくライオス。

 

「まあ…!そうなのね!」

 何が嬉しいのか、お母様は満面の笑顔になった。

「美味しいですものね、いちご味!ねえ、あなた」

「う、うむ、そう、だな。うむ」

 同意を求められ、お父様はへたり込んだままうなずいた。

 

「ごめんなさいね、私ったら、ライオスさんが竜人だなんて知らなかったものだから、驚いちゃって」

 お母様は恥ずかしそうに頭を下げている。

 …よく分からないが、混乱は止められた…らしい。

「そ、そうだな。少し…ちょっと驚いてしまったが…」

 お父様もなんとか気を取り直したらしく、立ち上がって咳払いをした。

 コーネルは無表情で落としたバスケットを拾い上げ…無表情っていうより、もう考えるのをやめた顔だな、これ。

 

 

「私もいちご味は好きなんですのよ。ねえ、リナーリア」

「あっ、はい、そうですね。わ、私も好きです。いちご味」

「いちご味が好きな人に悪い人はいないわ。うふふ」

 どういう理屈だと思いつつ、やはりお母様は凄いと深く感心する。

 以前から天然だと思っていたが、もはや天然を超えた大物だと思う。

 

 そして先輩は、腰に手を当て何やら高笑いをしていた。

「うん、うん!分かり合えたみたいだね!はっはっは!!」

 …先輩も、本当に凄いなあ…。

 きっと私もコーネルと同じ表情をしているだろうなと思いつつ、とりあえずこの場が収まった事に感謝した。

 

 

 

 

 いつまでも立ち話をしているのも何なので、いつも通りにお茶会を始める事にした。

「…ええと…じゃあライオスさんは、ずっと昔に生まれた竜人さんなのね?」

「はい。そうみたいなんです」

 頬に手を当てながら言ったお母様に、私はうなずいて答えた。

 

 お父様はまだ少しびくびくしているが、お母様の方はやけに感心した顔だ。

 お茶を運んでくれているコーネルは相変わらず無表情だった。もう反応した方が負けくらいに思っていそうだ。

 お母様からの視線を受けたライオスは、平静を装っているがどこか居心地悪げにしている。

 

「実はライオスと同じ竜の血が、少しだけ私やお母様にも流れているらしくて…。それでライオスは、私を助けてくれたんです」

「あら、まあ。じゃあ、親戚みたいなものなのね?どうりで親しみを感じると思ったわ…」

 お母様は得心がいった様子だ。やはり私と同じように、ライオスには懐かしさのようなものを感じていたらしい。さすがにいちご味だけが理由ではなかったようだ。そりゃそうだよな。

「し、親戚?そうなのか…」

 お父様も、それを聞いて少し安心したようだ。ほっとした表情になってライオスを見る。

 

「さっきはちょっとびっくりしちゃって、みっともない所をお見せしてごめんなさいね。ライオスさんはリナーリアの命の恩人だというのに」

『…別に気にしていない。人は皆、我を見れば驚く』

 ライオスはもう、隠すことなく古代語で会話をしている。

 古代語なのに何故か意味が分かるという謎の感覚に、最初は驚いていたお母様たちだが、あっという間に慣れてしまったようだ。

 

「そうでしょうねえ…。初めての人はきっとびっくりするでしょうねえ…。でも、失礼だったのには変わりないわ。本当にごめんなさい」

「私からも謝罪する。…それと、娘を助けてくれた事に改めて感謝します」

 お母様とお父様、それからコーネルにも頭を下げられ、ライオスは戸惑った様子で黙り込んだ。

 

 

 

「それで、さっきの話の続きを聞きたいんですが…」

 紅茶を一口飲んでから、私は口を開いた。

 ここで話せばお母様たちにも魔獣の事を知られてしまうが、本当にライオスが言った通りの状況ならば、いずれは二人の耳にも入る事だろう。

「もうすぐこの近くに、大型を含む魔獣の大群が発生する…そういう事ですよね?」

『ああ』

 うなずいたライオスに、お母様たちが「え!?」とぎょっとする。

 

「どんな魔獣が、どのくらいの数出て来るか分かりますか」

『恐らく、とても大きいのが1体。細かいのがどれくらい出るかは分からない』

「とても大きい…例えば、どれくらいの大きさですか?」

 ライオスは少し考え込む。

『そなたと再会した時、小城にいただろう。あれくらいの大きさだろうな』

 

「……」

 思わず言葉を失う。昨年の水霊祭で戦った巨亀どころの騒ぎではない。とんでもない大きさだ。

「…大災害級の魔獣だね。それは」

 先輩が呟く。

 

 大災害。この島の全土を蹂躙し、人口が激減するほどに魔獣が溢れ出す現象だ。

 過去に何度か起こったと言われている大災害の時には、そのような超大型の魔獣が何体も現れたらしい。

『人の身であれを倒すのには時間がかかるだろう。それにあれは、更に多くの魔獣を呼び寄せては周辺に散らす。この都でも、多くの死人が出るだろう』



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第182話 義務と対価(後)

 大災害級の超大型魔獣が発生する。しかもそれが呼び寄せる魔獣の群れが、王都にまで来る可能性が高い。

 お母様たちは初めただ驚いた顔をしていたが、だんだんと事態を理解してきたのだろう。今は蒼白な顔色になっている。

 

「…それは、いつ頃発生するか分かりますか?」

『あと3、4日という所だろう』

 そう答え、ライオスは私の顔を見た。

『あの妙な生気が何かは知らないが、あまりに強いせいで島中で魔獣が活発になり始めている。逃げるなら早くした方がいい。そなたの事は我が守るが、ここは人が多すぎて難しい。もっと遠くへ行くべきだ』

 それから、お母様や先輩たちの方もちらりと見る。

『…そなたの家族や友も、ついでに守ってやっても良い』

 

「……」

 私は無言で考え込んだ。

 ライオスは私を守ろうとするのではないかと、それは予想していた。私が死んだら、彼は私の願いの対価を受け取れなくなるからだ。

 …だが彼は、私の家族や友もついでに守ってもいいと言う。

 彼自身は気付いていないかも知れないが、その「ついで」という言葉には、大きな意味があるはずだと私は思う。

 

 

「…ライオス。私は逃げる事はしません。魔獣と戦いに行くつもりです」

「り、リナーリア」

 真っ先に反応したのはお父様だ。

「ごめんなさい、お父様、お母様。まず話を聞いてください」

 真剣に訴えた私に、二人は口をつぐんだ。その心配げな表情に申し訳なさを感じるが、今は譲れない。

 

『何故だ。そなたが戦う必要があるのか』

 そう尋ねられ、私はテーブルの上に置かれたクッキーを一つつまみ上げた。

「…以前お話ししましたね。このクッキーはたくさんの人の手を経て作られ、ここにあるのだと。クッキーそのものはこの国でたくさん食べられていますが、これはその中でもとても高級な品です。精製した小麦と、たっぷりの上質なバターや砂糖などが使われています。この国の多くを占める平民たちは、もっと粗末なものを食べているはずです」

 

 この国にも貧富の差はもちろんある。

 身分、職業、あるいは住んでいる土地。様々な理由でそれらは発生する。

 作れる農作物が限られている山間や、北の端の方にある寒冷な領に住む者などは特に余裕がない。そういう土地は税も低めなので何とか暮らしてはいるが、作物が不作だったり疫病や災害が起こった時はずいぶん苦労している。

 もちろん領主だとか国だとかが手を差し伸べはするのだが、貧しさや寒さがそれを上回り、病死者や餓死者が多く出る年もある。

 

 私は手に持ったクッキーをそのまま口に入れた。さくさくとして甘くて、とても美味しい。

 …これは決して、当たり前のものではない。

「私が今着ているこの服や、住んでいる屋敷もそうです。私たちは普段、平民よりもずっと贅沢で安全な暮らしをしています。そして、ずっと高度な教育を受けています。多くの事を学び、魔術や剣術の修練を積んでいます。それらは全て、この国を治め、守る人間となるためです。統治者として、守護者として、私たち貴族はいざという時に国のために戦わなければならない。その義務を背負っているんです」

 

 

『…つまりそなたは、今まで民から対価を受け取って生きてきた。だから戦う義務があると言うのだな』

「まあ、そんなところですね」

『我が知る王族や貴族は、そのような事は言わなかった。安全な所にいて、他の者が戦うのをただ見ていたぞ』

「それは自らの価値を履き違え、(おご)った者たちです。正しい行動ではありません。…まあ、全てが間違いとも言えないんですけどね。戦いに向いていない者もいますし、もし全員が戦いに行ってしまったら、町を守り統治する者がいなくなってしまいます。安全な所に残るのも、一つの仕事ではあるんです」

 

 理解しにくいのか、ライオスは難しい顔になって言った。

『なら、そなたも残る方に入れば良いだろう。それでも義務は果たせるのではないか?』

「私は戦う力を持っています。人よりも多い魔力を持ち、それを活かすための修練もずっと積んできました。…それに、前線で戦っている人たちがいるというのに、安全な所にいて守られるだけというのは性に合いません。私は自ら戦って、大切なものを守りたいのです」

『…大切なもの』

 繰り返すライオスに、私は「そうです」と真剣に言う。

 

「私には大切なものがあり、大切な人たちがたくさんいます。その人たちが住むこの国を守りたい。ただ義務だから戦う訳ではないんです。私はもっと…そうですね、貴方風に言うのなら、もっと大きな対価が欲しいんです。そのために戦いたい」

『どんな対価だ?』

 私は微笑みを浮かべた。

「この国の平和を。ここに住む人たちの無数の笑顔を。…それを、私は望みます」

 

 人々が平和に、豊かに暮らせる幸せな国。それを殿下と共に作るのが私の夢だ。

 リナーリアとして生まれ変わった今でも変わらない、私の夢。

 

 

 

 ライオスは呆れたような、驚いたような顔で私を見つめた。

『笑顔。そんなものに価値があるというのか』

「はい。どんな宝よりも」

『…そなたは欲がないのか、それとも誰よりも強欲なのか分からない』

「強欲なんだと思いますよ。私は望みを叶えるために手段を選ぶつもりはありませんので。…ですから、ライオス」

『なんだ』

 その赤い瞳を、正面から見つめる。

 

「私たちに手を貸してください。私たちと共に、魔獣と戦ってほしいのです」

 

 

『…我は既に一度、そなたの願いを叶えている。この上さらに願おうというのか』

 ライオスは眉を険しくして言った。

「言ったでしょう。私は強欲なんです。この国を守りたいし、私自身も死にたくありません。そのためには貴方の力が必要なんです」

 竜人であるライオスは、私たち人間よりも遥かに強大な力を持っているはずだ。彼が共に戦ってくれれば、きっと犠牲者の数を大きく減らせるだろう。

 

『…対価は?』

「貴方が望むものを。できる限り用意します」

『我には望みなどない』

「……」

 にべもなく言われ、私は唇を噛んだ。

 

 こうして会話を交わすようになってからは短いが、ライオスの好きなもの、嫌いなものは分かってきた。その本当の願いも。

 彼はやはり、孤独なのだ。本心では人間に受け入れられたがっている。

 だから口ではあれこれ言っても人間の文化に興味を示すし、「ついで」と言って自分に好意的な者たちに手を差し伸べようとする。

 …だが今の彼は同時に、人間へ不信感も持っている。私たち人間側だって、彼を受け入れる準備などできていない。この問題を解決するには、長い時間がかかるだろう。

 

 しかし私たちは、今こそライオスの力を必要としている。

 今、彼を動かせる対価とは何だ。

 彼の言う通り私は既に一度願いを叶えてもらっている。これ以上何を差し出したら良いのかなど分からない。

 

 

「…僕からも頼む、ライオス君!一緒に、この国の人々を守るために戦ってくれないか」

 私の隣で声を上げたのは先輩だ。

『対価は?』

 尋ね返したライオスに、先輩は間髪入れずに答えた。

「ヴィクトリアケーキだ!!」

 

「……は?」

 思わず先輩を振り返った私の横で、ライオスが怪訝な顔をする。

『ヴィク…なんだそれは』

「苺ジャムを挟んだケーキのことさ。ふわふわとして、甘くて美味しい。これを好きなだけ君に食べさせよう!!」

『…ふむ』

 ライオスは真面目な顔で考え込んだ。

 えっ…?考えるの?えっ?

 

「だ、だったら私は、このバッファロー肉のサンドイッチをライオスさんに差し上げるわ」

「お、お母様!?」

 お母様は皿に並べられたサンドイッチを手に持ち、ライオスに差し出した。コーネルが落としたバスケットに入っていたものなので、少し形が崩れているが。

 お母様もまた私の話を聞いて、背中を押してくれようとしているのだ。

 

「これを、いつでも好きなだけ差し上げます。ライオスさんが求める限り、何度でも差し上げます」

『……』

 これにもライオスは考え込む顔になった。

 いや、悩むの?そんな対価ありなのか?竜人にとって魔獣との戦いはおやつレベルなのか?

 もしそれでOKなら、真剣に悩んでいた私は一体?

 でもそういえば、最初に助けてもらった時の対価は苺味の飴玉だった…。

 

 

『…お前たちは皆、同じ願いを持っているのか?』

 衝撃を受けている私などお構いなしに、ライオスはお母様たちを見回した。

「もちろんだ!僕たちもこの国を守りたい。彼女と同じように」

 先輩が身を乗り出す。

「娘の願いは、私の願いでもある」

 お父様が重々しくうなずき、その後ろに控えているコーネルもまた頭を下げる。

 

「…ライオスさんは、きっとお強いんでしょう。その力で、この子を助けて欲しいの」

 お母様はそう言い、縋るようにライオスを見つめる。

「リナーリアは本当に、無茶ばかりするの。魔獣と戦って川に飛び込んだり、足を折ったり…。この間なんて、誘拐されてしばらく行方が分からなかったのよ。生きた心地がしなかったわ。今回の祭礼の旅だって、なんだか戦いに巻き込まれてたみたいだし…」

「……」

 耳が痛い。両親にはずっと心配ばかりかけている。本当に申し訳ない。

 

「本当は戦いになんて行ってほしくないの。でも、この子はきっと行ってしまうわ。頑固な子なの、昔からずっと。どんなに危険だろうと行ってしまう。…そこに、大切な人が…あの方がいるから…」

 お母様は困ったような、悲しげな目で私を見る。止めても無駄だと分かっているというように。

 私を思う気持ちが痛いほどに伝わってきて、胸が締め付けられる。

 

「…だから、お願いします。サンドイッチだけじゃない、ライオスさんの好きなものをなんだって用意するわ。この子を、助けて…」

 深々と頭を下げたお母様に、ライオスはしばらく黙り込んだ。

 

 

 

 ライオスは再び、私の目をじっと見る。

『…それほどに、そなたは戦いに行きたいのか?』

「はい」

 私は迷いなくうなずいた。

『この国の民の笑顔とやらには、それだけの価値があると言うんだな』

「はい」

 

 守り通したいもの。このままではきっと失われてしまうもの。

 殿下は言った。「未熟でも、手探りでも、前に進まなければいけない時はあると思う。手をこまねいていてはきっと後悔する」…と。

 私も後悔はしたくない。だからどれだけ危険でも戦いたいし、取れる手段は何でも取る。

 強欲な願いと知っていても、諦めるつもりはない。

 

 

『そなたは以前言ったな。人について知る事で、我にも何か得られるものがあるはずだと』

「はい。言いました」

『…良いだろう。それがそなたからの対価だ、リナーリア』

 ライオスは、初めて私の名前を呼んだ。深紅の瞳で、私の顔を覗き込む。

 

『共に戦ってやろう。…一体何を得られるのか、楽しみだ』



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第183話 キマイラ・1

「報告します!東のラパー山より新たな魔獣群の襲来を確認、現在第3軍が対処に向かっております!」

「南側、第4軍は魔獣群の撃退に成功。負傷者はわずかです!」

 天幕の中には伝令兵から定期的に報告が入ってくる。今の所それほど緊迫した報告はなく、戦況は安定している。

 

 ここは、オットレが大量の死神の卵と共に消息を絶った場所のすぐ近くにある草原だ。

 現在この周辺には、王国に所属する兵の大部分が集結している。近くの領から動員されて来た兵たちもだ。

 もちろん、大量発生を始めた魔獣を討伐するためである。既に戦いは始まっており、兵たちが魔獣と交代で戦っている。

 私がいるのは少し離れた後方に作られた陣地の中、司令本部となっている天幕だ。周辺には負傷者を救護したり士官たちが使うための天幕がいくつも張られている。

 

 

 

 …王宮の調査によると、モリブデン侯爵は密かに製造した死神の卵を王都のあちこちに隠しては回収し、人間の生命力を集めていたらしい。

 そうして力を溜めた卵は有事の際に利用しようとして保管していたが、その事を殿下や王宮魔術師団に嗅ぎつけられたと思い、馬車に積み込み別の場所に移動させようとした。

 しかし同乗していたオットレが卵の一つを壊したせいで、移送中の馬車は魔獣に襲われてしまった。

 

 現場周辺は瘴気が渦巻いていて、オットレがどうなったかははっきり分かっていない。

 ただ使い魔を飛ばして偵察した魔術師によると、バラバラに破壊された馬車の残骸と、黒ずんだ血の痕がわずかに確認できたという。

 近くまで行ったスピネル…ミーティオは、周辺にはおよそあり得ないほど大量の生命力が漂っていると言った。

 その証言により、馬車に積まれていた多数の卵は、襲ってきた魔獣によってほぼ全てが破壊されたのだと推測された。

 

 人がただ生きているだけで少しずつ放出される生命力は、魔獣を引き寄せてしまう。遠い昔に海の女神がこの島へかけた呪いのためだ。

 女神の呪いは、島に人が増え、生命力が溢れるほどに強くなる。

 突如として出現した大量の生命力は、女神の呪いをも刺激してしまったらしい。島のあちこちで魔獣が活性化し始めた。海から新たに発生する魔獣も増えているという。

 卵から放出された生命力は1~2週間ほどで薄れ消えるらしいが、出現した魔獣は人が倒さない限り消えない。

 

 …このヘリオドール王国は今、大きな危機に晒されていた。

 

 

 

「周辺の町や村に被害は出ていないか?」

「今の所ごく軽微のようです。各領から送られた援軍が働いてくれています」

 殿下の質問に答えたのは、この戦場の総指揮を任されているフェナスという男だ。スタナムは王都の守備についているため、前線には来ていない。

 フェナスは片頬にある大きな傷が特徴の、50を過ぎたベテランの指揮官だ。騎士としても卓越した実力を持っていて、魔獣との戦闘経験も豊富。沈着冷静で、頼りになる人物だと聞いている。

 

「住民も落ち着いているようです。炊き出しなどを行い、兵の支援をしてくれている所が多いと報告が来ています」

「昨年、国全体が豊作だったのは幸いだな。食糧の備蓄に余裕がある町や村が多い」

「ええ。そちらの心配をしなくて良いのは助かります。おかげで兵の士気が維持しやすい」

 今では島のほぼ全域で魔獣が活性化しているため、各領地でもそれぞれ対応に追われているのだが、兵に余裕がある領は王都への援軍も送ってくれている。

 兵が増えればその分食糧も必要になるが、今の所は問題なく賄えているようだ。

 

「中央の様子はどうだ?」

「次々に魔獣が湧いてきていますが、今の所完璧に抑え込めています。しかし、瘴気は濃くなる一方のようです」

「…やはり、もうじき出て来そうだな。超大型が」

「ええ…」

 

 

 …ライオスとお茶会をしたあの日から、既に3日経つ。

 先生を始めとする王宮魔術師たちの分析でも、今日あたりに大型の魔獣が出現する可能性が高いという結果が出ている。

 場所は遠目にも瘴気が濃く渦巻いているのが分かるあそこで間違いないだろう。背後に大きな川があるおかげで、出現後の進行方向を限定できるのは幸運と言える。

 

 決戦の時は刻一刻と近付いている。

 天幕の隅でただそれを待っている私に近付いてきたのは、からかうような表情を浮かべたスピネルだ。

「さっきからずいぶん大人しいな。借りてきた猫みたいになってるぞ」

「…仕方ないでしょう。これだけ大規模な戦いは、さすがに初めてですし」

「俺だって初めてだぞ、こんなの。…気持ちは分かるが、あんまり気を張りすぎるなよ。今から緊張したってしょうがないだろ。お前の役割は決まってるんだからな」

「はい…」

 

 スピネルの言う通りなのは分かっているが、どうにも落ち着かない。

 そもそも私一人がこの場で浮いている気がするのだ。殿下やスピネルはともかく、私はただの貴族令嬢なのだから。

 天幕を守っている騎士や出入りする兵士たちも、きっと私の存在を不思議に思っているだろう。実際こちらを見て「えっ?」という顔をする者もいる。殿下やフェナスたちが当たり前の顔をしているので何も言わないが。

 ちゃんと守護のかかった戦闘用ローブを着て、魔術師らしい格好はしているんだけどな…。

 せめて王宮魔術師のローブを着たかった。でも、私はまだ弟子なのであれに袖を通すことは許されていない。

 

 

 私がここにいるのは、超大型魔獣が出現した時にライオスを呼ぶためだ。

 竜人という伝説の存在が突然やって来れば皆驚くだろうが、その時は速やかに混乱を収められるよう、各部隊の隊長にまではライオスの事を知らせてある。国を揺るがすこの危機に、竜人が助けに来てくれるのだと。

 一般の兵士には話していない。言った所でにわかには信じがたいし、下手に教えれば浮足立つ者もいるだろうとの判断だ。

 教えられた隊長たちも皆、きっと半信半疑でいるだろう。

 

 それに、殿下はこうも言った。

「これはこの国の人間が引き起こした災いだ。竜人が力を貸してくれるとしても、初めから頼ろうとするのではなく、俺たち自身も戦わなければならない」…と。

 私もそう思う。

 ライオスがどれほどの力を持っているのかは分からないが、できる限り私たち人間の力で魔獣を倒す努力をするべきだろう。

 

 

 私は例えライオスを説得できなくとも戦場に出るつもりだったのだが、その場合殿下やスピネルを始めとしたほぼ全員から反対されていただろうから、ライオスのお陰ですんなり参戦が認められて良かった。

 もちろん来たからには、私自身も役に立つつもりだ。その覚悟は既にできている。

 密かに魔術の腕を磨き続けて来たのは、こういう時のためなのだから。

 

 先輩なども来たがっていたのだが、さすがに学生までは動員できないと却下されていた。

「僕は君を守る騎士だというのに。一緒に行けないだなんて…」

 出発前、そう言って悔しがる先輩に、私は笑いかけた。

「大丈夫です。離れていても、先輩の声はきっと届きます。…それに、この学院には先輩を必要としている方々がたくさんいますから。どうか先輩の力で、皆さんを励ましてください」

 魔獣の大量発生を受け、王都でも戒厳令が敷かれている。学院には不安な顔をしている者が多い。彼らはまだ若く、訓練以外で魔獣と戦った事がない者ばかりなのだ。

 

「そうだったね…。どんな場所だって、やれる事は必ずある」

 先輩は大きくうなずいてくれた。

「また君に教えられてしまったね。…分かったよ、この学院の事は僕に任せてくれ。君は後ろを気にせず、思う存分戦ってきてくれ!大切なものを守るために!!」

「…はい!!」

 

 

 がっちりと私の手を握り、応援してくれた先輩の力強い言葉を思い出していたら、つい表情に気合が入りすぎたらしい。スピネルが半眼になって私を見る。

「…おい。あんまり余計な事考えるなよ?ここにいる以上それなりに働かなきゃいけないのは当然だが、防御だとか治癒で十分なんだからな。絶っっっっ対に、前に出たりするなよ」

「わ、分かってますよ。私は魔術師なんですから、後ろで支援するのが仕事です」

「絶対」の部分を物凄く強調して言うスピネルに、思わず口を尖らせる。

 

「くれぐれも注意するんだ、リナーリア」

 そう言って歩み寄ってきたのは殿下だ。

「相手はかつて戦ったことがないほどの大きさになると予測されている。十分に距離を取ったつもりでも、その想像を超えて攻撃が届く事だってあるかもしれない。絶対に安全な場所などないと、そう思って身を守ってほしい」

 

 殿下の言う事は最もだ。

 私には魔術があるとは言え肉体も運動能力も脆弱だし、相手は未知の魔獣なのである。

 小城ほどもある超大型魔獣などここ200年以上出現していない。戦った事がある人間は誰もいないのだ。

 どれだけ注意してもしすぎることはない。

「…分かりました!よく注意し、必ずやお役に立ちます!!」

 ぐっと両の拳を握った私に、殿下とスピネルが苦笑する。

 

 

 …その時、天幕の中に入ってきた人影があった。

 伝令の兵とは明らかに違う、若干よたよたした動き。

 セナルモント先生だ。珍しく引き締まった表情をしている。

「中央に動きがありました。瘴気が凝り固まり始めています。…もうすぐ、超大型魔獣が姿を表します」



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第184話 キマイラ・2

 急いで天幕を出ると、空に向かって渦巻くどす黒い瘴気が見えた。

 誰もが固唾を飲んで見守る中、低い地鳴りが聞こえ始める。

「全員姿勢を低くしろ!近くのものに掴まり、足を踏ん張って支え合え!!」

 フェナスが大声で叫んだ数秒の後、地面が大きく揺れた。

 

 たまらずによろめいた私の肩を殿下が支える。反対側からスピネルも支えてくれているようだ。

 揺れが激しく、まともに顔を上げられない。歯を食いしばって足を踏ん張るだけで精一杯だ。

 地鳴りのせいで周囲に何が起こっているのかも分からない。

 そうやって必死に耐えていると、少しずつ揺れが収まっていくのが分かった。

 いつの間にか閉じていた目を開ける。

 

 …瘴気の中に、巨大な異形の影が出現していた。

 

 

「でけえ…」

 スピネルが呟く。想像以上に大きい。本当に小城くらいの大きさがある。

 獅子の首に山羊の胴体。背中からは曲がりくねった角を持つ山羊の首も伸びている。二本ある尻尾はどちらも蛇だ。鎌首をもたげ、舌を伸ばしている。

 

「グオオオオオオオオ!!!!!」

 魔獣が吠えた。かなり距離があるのに、びりびりと震えるほどの音圧に身が竦む。

 その巨体の周りに大きく瘴気が渦巻き、黒い山羊と鴉が無数に飛び出してくる。眷属を呼んだのだ。

 特に黒山羊は身体が大きそうだ。ここからでは遠くて分かりにくいが、牛くらいの大きさがありそうに見える。

 

「隊列を整え、攻撃にかかれ!まずは眷属を減らすんだ!!」

 すぐさま指示が飛び、前線の兵士たちが動き始める。

 

「…眷属に鳥型もいるのは厄介だな」

 殿下が前方を睨みつけ、剣を抜き放つ。

「あれだけ数がいてはとても落としきれまい。きっとここにも飛んでくる。気を付けろ!」

「ああ!」

 同じく剣を抜いたスピネルが力強く答えた。

 

 それから殿下は、私の方を振り返る。

「リナーリア。彼を」

「はい。…ライオス!来てください!」

 精神を集中させ、空に向かって呼びかけた。

 

 

 

 

 羽ばたく翼の音。背後からだ。

『やはり現れたな。あれはなかなか手強そうだ』

「ライオス!」

 早い。魔獣の気配を感じ、私が呼ぶ前から近くに来ていたのかもしれない。

 振り返った私の前で、ライオスが地に降り立つ。

「竜人…本当に来たのか…」

 フェナスが目を瞠り、周囲の騎士たちも仰天して固まっている。やはり実物を目の前にすると、驚かずにはいられないらしい。

 

「ライオス、あの魔獣の事を知っていますか?」

『あれはキマイラと呼ばれる魔獣だ。あれほど大きいのは初めてだが、同型と戦ったことがある』

「どんな特徴を持っているんでしょうか」

『獅子の頭が炎を吐く。山羊は魔術が使える上、傷を治し他の頭を再生させる力を持っている。尻尾の蛇は毒を持っていて、かなり長く伸びる。思わぬ所から攻撃してくるから厄介だ』

 

「本体は獅子の頭…という事でよろしいですか?」

『ああ。あの獅子を落とさなければ倒せない。しかし獅子も蛇も、山羊がいる限り何度でも生えてくる。それゆえ山羊を先に倒さねばならん』

 私はキマイラの姿を見た。

 山羊の頭は獅子の後ろ、背中の部分から伸びているので、地上からの攻撃を届かせるのは難しそうだ。

 

 

「兵たちが周りの眷属を倒しつつ、できるだけ獅子や蛇の気を引きキマイラの足を止めます。その間に、空から山羊を倒すことはできますか」

『構わん。しかしあれはかなり堅い上に、眷属の鴉も邪魔だ。我とて倒すのには時間がかかるだろう』

「分かりました。…これは私たちの国を守るための戦いです。それまで必ず耐え抜いてみせます」

 ライオスはうなずき、それから尋ねた。

『そなたはどうするつもりだ。離れているが、ここも危険だぞ』

「もちろん戦います。私は魔術師なので、後方から支援をします」

 

 すると、すぐ傍で話を聞いていた殿下が一歩前に出た。

「大丈夫だ。リナーリアの事は俺たちが守る」

『……』

 ライオスはじっと殿下の目を見つめた。見つめていると言うより、ほとんど睨んでいるに近い。

 かなりの圧力だと思うが、殿下は目を逸らさずにただじっと見つめ返す。

 

『…良いだろう』

 やがてライオスはそう言って殿下から視線を外した。もう一度私の方に向き直り、翼を広げる。

『何かあれば呼べ。では、行ってくる』

「分かりました。…あっ、ライオス、どうかお気をつけて!」

 宙に浮かび、魔獣へ向かおうとするその背に声をかけると、ライオスは一瞬だけこちらを振り返った。

 ちょっと驚いていたように見えたが、どうしたんだろう。

 

 

 

「超大型魔獣の名はキマイラだ!上空からの攻撃に注意しつつ、兵を展開させて囲め!!左右の兵はまず眷属を掃討、中央はキマイラの足元を狙って動きを止めろ!!眷属が減ったら回り込んで尻尾の蛇を攻撃!蛇は見た目より長く、毒も持っているから十分に注意しろ!!」

 フェナスの指示はすぐに前線へと伝えられ、数百人の兵士たちが動き出した。

 さらに、兵の後ろに布陣している魔術師部隊への指示が飛ぶ。

「獅子は炎を吐くそうだ!魔術師はまず耐炎結界を張れ!その後は敵からの魔術攻撃を防ぎつつ、鴉の翼を狙え!地に墜とすだけで良い、止めは兵が刺す!攻撃より防御を優先、できるだけ魔力を温存しつつ戦うんだ!!」

 

 その間に、空を飛んだライオスは瘴気から召喚された鴉魔獣の群れと対峙している。

 まずはあれを倒さなければキマイラには近付けない。

『邪魔だ』

 片手をかざすと、瞬く間にそこに力の塊が生まれる。

 

「……!!」

 炸裂した光に、思わず目を庇う。

 ライオスが軽く腕を振った直後に、光の帯が鴉の群れを横に薙いだのだ。

 次々に地へ落ちていくのは、()()()直撃を免れた魔獣たちだろう。直撃したものは恐らく、一瞬で消滅したはずだ。

 

 

 …凄い。あれが竜人の力なのか。

 魔術構成のようなものは広げていたが、複雑すぎてとても読み取れなかった。そもそも込められた魔力量がとんでもない。

 だがあれはほんの小手調べだろう。竜人の持つ力の恐ろしさに、改めて背筋が冷える。

 

「…な、なんだあれは」

「魔獣…?いや、違う」

「りゅ、竜人…!?」

 突然現れた、翼と角を持つ人影に兵士たちが動揺する。

 

 

「大丈夫だ!!竜人は我々の味方だ!!」

 殿下が大声で叫んだ。

「彼は我らの危機を救うべく来てくれた!!共に力を合わせ、魔獣を倒す!!」

 

「…竜人は味方だ!!共に戦うぞ!!」

 各部隊長たちが殿下の声に呼応した。呼びかけが前線へと届けられていく。

「お、応ー!!」

 兵士たちがあちこちで鬨の声を上げる。

 彼らは恐らく何が何だか理解できていないだろうが、そう言っている間にも魔獣が襲いかかってきているのだ、あれこれ考えている暇などない。

 

 

 そして、ここにも羽音が近付いて来ている。鴉魔獣の一部がこちらにも飛来しているのだ。

 精神を集中させ、周囲に水球を呼び出す。

「皆の者、油断するな!行くぞ!!」

「…はい!!」



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第185話 キマイラ・3

「3羽まとめてそちらに行きます!」

「ああ!」

 いくつもの水球を操り、鴉魔獣の動きを封じて追い立てる。

 囲んで1箇所に集めた所で、炎の矢が次々にその翼を撃ち抜いた。王宮魔術師のテノーレンの魔術だ。

 耳障りな叫び声を上げて地に墜ちた鴉たちを、すかさず駆け寄った殿下とスピネルが切り捨てる。

 

「ありがとうございます、リナーリアさん。あなたの魔術のおかげで、とても戦いやすい。かなり力を温存できています」

 テノーレンに感謝され、私は笑顔を返した。

「これが私の本領ですから!テノーレン様こそ、狙いが正確でお見事です」

 私が牽制して鴉の動きを止め、それをテノーレンが撃ち落とし、殿下やスピネルがとどめを刺す。

 この連携はかなり上手く行っていた。近くにいる兵も似たような組み合わせで戦っている者が多い。皆安定した戦いぶりだ。

 

 

 

 前線では半円を描くように陣形を広げた多数の兵とライオスが、キマイラや眷属と激しい戦いを繰り広げている。

 そのすぐ後ろには魔術師部隊。牽制や防御、治癒などの魔術を飛ばして兵を支え助けている。

 私たちがいる司令本部は、そこから更に離れた後方だ。

 ここにも多数の魔獣が襲来しているが、今の所は鴉が中心で黒山羊はほとんど来ていない。前線の者たちが必死に戦い、眷属の数を減らしてくれているおかげだ。

 

「キマイラの火炎攻撃により、右翼で重傷者が複数発生!すぐにここに運び込まれます!!」

 右半身が黒く焦げた兵を肩に担いだ若い兵が叫んだ。近距離転移の魔法陣を使い、前線から下がってきたのだろう。彼もまた、あちこちに傷を負っている。

 軽傷ならば前線で手当てするが、重傷の者は医術師が多数控えているこちらに送られてくる。

 まだキマイラとの戦いは始まったばかりだというのに、その数は多い。負傷者用の大きな天幕には、次々に人が運び込まれている。

 

 

「南側第4軍、引き続き魔獣群と交戦中!!」

「西側では大型1体の発生を確認!第5軍が討伐に向かっています!!」

 各所の状況もまた、伝令によって次々に知らされている。

 キマイラが現れた事で、周辺地域でも魔獣の発生が更に活性化しているらしい。そこら中で激しい戦いが起こっているようだ。

 

 …王都は無事だろうか。あそこにはお父様やお母様、先輩、カーネリア様や級友たち、そして数え切れないほどたくさんの住民がいる。

 それにうちの領も。ジャローシス領は島の端にあり、海に面している。呪いが活性化した今、多くの魔獣から襲われているのではないか。

 そんな事がちらりと頭をかすめるが、すぐに思考から追い払った。

 王都には鍛え抜かれた兵たちがいる。領にはラズライトお兄様やヴォルツが駆けつけているし、我が家の騎士や魔術師たちも命がけで戦い守ってくれている。

きっと大丈夫だ。信じるしかない。

 

 

 

 前方の空には、宙を飛びながら戦うライオスの姿が見える。腕を振ると、激しい雷がキマイラの背に生えた山羊頭に降り注いだ。

 焼け焦げた肉が弾け飛び、首の一部が大きく抉られて山羊頭が一瞬動きを止める。

 ライオスはすかさず追撃しようとしたが、鞭のようにしなって飛んできた尾蛇の顎が襲いかかってきたためにできなかった。

 すんでの所で毒牙は躱したものの、その間に山羊頭の傷は塞がり始めている。

 

 先程からずっとこんな調子だ。

 山羊頭へダメージは与えているのだが、その治癒能力が想像以上に高いのと、尻尾から生えている2匹の蛇が邪魔をしてくるのとで、致命傷には至っていない。

 

 尾蛇は私たち人間で抑え込むつもりだったが、まるで上手く行っていないようだ。

 何しろ眷属の魔獣の数が多い。空から攻撃してくる鴉は厄介だし、黒山羊は身体が大きく、体当たりだけでもかなり強力だ。

 獅子頭が吐く火炎や振り下ろされる巨大な蹄を避けながらそれら眷属を倒すので精一杯で、とても尾蛇にまで攻撃できていない。

 そのため尾蛇は完全にライオスをターゲットにしていて、山羊頭へ攻撃しようとする彼にしつこく襲いかかっている。

 

 あの尾蛇は恐ろしく長く、かなり遠くまで伸びるようだ。2匹がそれぞれ違う動きをする上に素早い。しかも倒しても山羊頭によってすぐに再生され、また生えてきてしまう。

 ライオスは尾蛇が届かない所まで距離を取った上で山羊頭を攻撃したりもしていたが、避けられたり防御魔術を使われてしまうためになかなか当てられないようだ。

 さらに山羊頭は攻撃魔術も操れるらしい。風刃の魔術が中心で、威力があり範囲も広い。ライオスも避けるのに苦労している。

 

 

 

 …何か手を打たなくてはまずい。そう思っているのは皆同じだろう。

 鴉の襲来がやや落ち着いた所で、殿下はフェナスへ近付き話しかけた。

「このままでは消耗が大きい。余力があるうちに仕掛けた方が良いのではないか」

「はい。私も同じ事を考えておりました」

 そう答えたフェナスが「ビリュイ!」と声を上げた。

 王宮魔術師である彼女も、この戦場に来ている。豊富な経験と判断力を買われ、戦闘に参加している王宮魔術師や魔術師部隊を取りまとめる立場を与えられているのだ。

 

「前線の魔術師部隊の魔力の消耗はどうだ?」

「上手く抑えながら戦っているので、まだ十分余裕があります。…魔術で総攻撃を仕掛ければ、キマイラに隙を作れるでしょう」

 ビリュイはどうやら伝令の報告を聞くだけではなく、自ら使い魔を飛ばして前線の様子を大雑把に把握しているようだ。

 何を尋ねたいのかすぐに察したらしい簡潔な返答に、フェナスは「よし」とうなずいた。

 

「キマイラの足…向かって右側の前後の足を、大規模魔術で撃ってもらいたい。本体の体勢を崩せば、尻尾の蛇も地面近くに落ちてくるだろう。そこで騎士たちが蛇を一斉攻撃し、その間に竜人には山羊頭を倒してもらう」

「はい。良い作戦かと思います」

「首尾よく山羊頭が落ちれば、その直後にキマイラが激しく暴れる可能性がある。兵にはなるべく防御姿勢を取らせるが、魔術師にもできる限りの結界を頼みたい。できるか」

「承知いたしました。総攻撃後は速やかに結界の準備に移らせます」

 あの巨亀戦でも、首が一つ落ちた後は大きく暴れて被害が出た。十分気を付ける必要がある。

 

 

「よし!前線に伝えろ!」

 フェナスが顔を上げ、声を張り上げる。

「この後、魔術師部隊がキマイラの右側の足に向かって総攻撃を行う!現在右翼側にいる4部隊は、キマイラが体勢を崩したら蛇に一斉攻撃を仕掛けろ!その間に竜人が山羊頭を落とせるよう、残りの部隊はキマイラ本体に攻撃して注意を逸らせ!!」

 

 続けて、ビリュイが魔術師部隊に指示を与える。

「魔術攻撃は灼炎の魔術で行います!合図と共に一斉射撃、右翼は後足、中央は前足!!左翼側は全体へ結界を!山羊頭を失った後、キマイラの攻撃が激化するかもしれません!何があっても耐えられるよう、攻撃後は速やかに防御魔術の準備を!!」

 

「この陣地にいる者は眷属の掃討に注力しろ!前線は総攻撃準備に入るため、眷属への対処が甘くなる!こちらに多く流れてくるぞ!!」

 兵たちがバタバタと動き出す。

 ライオスは大丈夫だろうか。今も宙を飛んで戦っている彼には作戦は伝えられない。

 …いや、空からなら周りの兵の動きはよく見える。私たちが何か準備している事にもすぐ気付くはずだ。

 作戦の詳細は分からなくても、戦い慣れた彼ならキマイラが体勢を崩した絶好のチャンスを見逃したりはしないだろう。

 

 

 

 やがて、フェナスが言った通りこちらにやって来る眷属の魔獣の数が一気に増え出した。

「スピネル!後ろからも来ています!」

 私の声にスピネルが振り向きざまに剣を振るい、背後から襲おうとしていた鴉を真っ二つに切り裂いた。

「はっ…!」

 さらに、私の水球を受けて怯んだ鴉を殿下が斬り捨てる。

 

 魔術を操りながら周囲を確認する。

 この司令本部には手練の護衛騎士やベテランの魔術師が多めに配置されている。前線の兵に比べて平均年齢は高いが、経験に裏打ちされたその能力は間違いのないものだ。

 油断することなく、的確に魔獣たちを屠ってくれている。

 

 

「…黒山羊が群れで来ます!!」

 遠くから誰かの声が聞こえた。目を凝らすと、どかどかと音を立てて地を蹴りながら黒い獣の群れがこちらに走ってくるのが見える。7…いや、8匹。

 数人の騎士たちが横に並び、腰を落として身構える。

「大きい…!後ろに4匹行くぞ!!」

 

 とても全ては止められないと判断したのだろう、騎士たちは数体の黒山羊をすり抜けさせた。

「こちらで1匹引き受ける!!…リナーリア!」

 殿下が叫んで、私の方を振り返った。「はい!」とすぐさま水球を操り、黒山羊のうち1匹をこちらへと誘導する。

 近くで見ると、その黒い毛に覆われた身体はとても大きい。頭は大人の騎士くらいの高さがあるし、胴も足も太い。体当たりをされれば骨折どころでは済むまい。

 

 

「スピネル!挟み撃ちにするぞ!」

「おう!」

 二人が左右に走り込んでゆくのと同時に、黒山羊の正面に水球を集めて変形させ大きな壁を作り、逃げ道を塞ぐ。

 黒山羊が水の壁に怯んで足を止めた瞬間を狙い、テノーレンが頭と角にそれぞれ火球をぶつけた。

 すかさずスピネルが右前足へと斬りつけ、殿下がさらに追撃して左後ろ足を斬る。

 

「ヴェエエエエ!!!」

 黒山羊が恐ろしい悲鳴を上げ、半身を仰け反らせた。魔術を使おうとしているのだ。

 水壁を解除しもう一度水球に構成し直す。素早く撃ち出し、山羊が呼び出しかけた炎が形を取るよりも早くその全てを打ち消した。

「…今です!!」

 

 瞬く間に両側から剣が閃いた。

 スピネルの剣が胴を、殿下の剣が首元を切り裂く。

「ヴェエエエエエエエ…」

 ひときわ大きな断末魔を上げ、黒山羊の魔獣は絶命した。



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番外編・5 ユークレースのバレンタイン(前)

 2月のある日、ユークレースと共にランチを取っていたカーネリアがいきなりこう言った。

「ユーク!明日はバレンタインの日なんですって!」

 

「…何?」

 怪訝な顔をするユークレースに、カーネリアは何故か得意顔になる。

「バレンタインは親しい人にお菓子やプレゼントを贈る日なのよ。知らないの?」

「そんなの聞いた事ない」

「古代神話王国の時代の風習なんですって。リナーリア様から教わったの」

「知る訳ないだろ!!そんなの!!」

 ついそう叫ぶと、カーネリアは唇を尖らせた。

「何よ、この機会に私に感謝の意を示したいとか思わないの?普段いっぱいお世話になってるじゃないの」

「自分で言うな…」

「だって、本当のことじゃない」

 

 ユークレースはため息をついた。

「…要するに、僕から何かプレゼントが欲しいのか」

「あら、そんな事言ってないわよ?」

 ほとんど言ってるのと同じだ。そう突っ込めばますます色々と言われそうなので、ぐっと堪える。

 この年上の少女には口で勝てないと、ユークレースはよく知っている。

 

「…分かった。バレンタインの日だな。覚えとく」

 辛うじてそう答えた。自分も大人になったものだと内心で思う。

 逆らわない方が良いものも、この世にはあるのだ。

 

 

 ユークレースの返答に満足したのか、カーネリアはその後バレンタインの事には触れなかった。

 しかしあれは確実に、ユークレースからのプレゼントを期待している。何もしない訳にはいかない。

 だが何を贈ればいいのか。

 お菓子とも言っていたが、ただのお菓子ではつまらない。どうせなら、何か驚くようなものがいい。

 何しろカーネリアはユークレースの事を舐めている。舐め腐っている。そこらの子供と同じに扱っている。

 ここで一つ、天才魔術師である自分の凄さを思い知らせてやりたい。

 

 少し考えた後、ユークレースは放課後にリナーリアに会いに行く事にした。

 そもそもバレンタインとやらを自分はよく知らないのだ。カーネリアに吹き込んだ張本人に、詳細について尋ねるべきだろう。

 そう考えて女子寮を訪ねて話を聞くと、リナーリアは嬉しそうにバレンタインについて説明してくれた。

 

 

 

「…という訳でですね、元はヴァレンタインという名の偉大な魔術師にちなんだ行事だったらしいのです。古代王国では更に…」

「いや、いい。もういい。よく分かったから」

 ユークレースはげんなりした顔で遮った。

 最初は大人しく聞いていたが、あまりに長い。

 そう言えば彼女の師は古代王国の研究者として有名だったと思い出す。きっとその影響を受けているのだろう。だからそんな誰も知らない古代の行事にも詳しいのだ。

 

「それで、そのチョコレートってやつを贈ればいいんだな?一体どこで手に入るんだ」

「材料のカカオは貴重で、王都にはほとんど出回っていません。私が育てているものがありますけど、チョコレートに加工するには非常に手間がかかります。今からでは明日にはとても間に合いませんよ」

「何…?」

 何てことだ。せっかく我慢して長い話を聞いたというのに。

 

「じゃあ何を贈ればいいんだ」

「お菓子で良いんじゃないですか?カーネリア様、甘いものもお好きですし」

「それじゃ普通すぎる。何かないのか、あっと驚くようなやつが」

「ううーん…私そういうの疎いんですよね…」

 リナーリアは眉を寄せて考え込んだ。彼女の前に置かれたカップに、使用人のコーネルがお茶のお代わりを注いでいく。

 

 

 すると、お茶を淹れ終えたコーネルが言った。

「…お嬢様。あれはいかがですか。先日、スフェン様から分けていただいたお菓子」

「先輩から?…あっ!なるほど!」

「何だ。何かいいものがあるのか」

「アイシングクッキーというものです。クッキーに砂糖で作ったアイシングで模様を描いて飾りつけます。昔からあるものなんですが、王都のとある有名な菓子店が近頃とても鮮やかな色を使ったものを売り出しまして。華やかで可愛らしいと、ご令嬢の間で話題なんだそうですよ」

 

「ふん…それは悪くなさそうだな」

 ユークレースは王都の流行りなどには疎い。そもそも別に興味はないのだが、カーネリアは事あるごとにあれやこれやと教えてくれる。親切心のつもりらしいが若干鬱陶しい。

 流行りの菓子を贈り、自分にもこの程度の情報くらい集められると示すのも良いかもしれない。

 

 

「で、その菓子店はどこにあるんだ?」

「あっ…。それが、人気がありすぎて予約は1ヶ月待ちだとか…」

「全く間に合わないじゃないか!!」

「そ、そうですね…」

 

 困り顔になったリナーリアに、再びコーネルが言う。

「あのお菓子の作り方ならウッディンさんが分かりますよ」

「えっ!?」

「ウッディン?誰だ?」

 リナーリアは驚きの声を上げ、ユークレースは首を傾げた。知らない名前だ。

「学院の食堂の料理長です。私はいつもお嬢様の夕食を取りに行くので、顔見知りなのです」

 コーネルの説明を聞き、ユークレースは顔を思い出した。食堂で時々見かける、一番高い帽子をかぶったあの男だろう。

 

 

「ウッディンさんは、あの菓子店のパティシエとは親しいそうなのです。以前修行先で知り合ったんだとか。先日あのクッキーのレシピを教わったそうで、ここ最近ずっと練習なさっていますよ。本人はまだ納得が行っていないご様子でしたが、私の目には充分な出来栄えのように見えました」

「あの鮮やかな色も再現できるんですか?」

「はい。着色料を分けてもらったそうです」

「そうなんですか!良かったですね、ユーク!これでクッキーが作れますよ。私もお手伝いしますから頑張りましょう!」

 

「何…?ぼ、僕が作るのか?」

「当然です!バレンタインは手作りのお菓子を贈る人も多かったと文献にはありました。その方が気持ちを伝えられるからと。きっとカーネリア様もお喜びになりますよ」

「き、気持ちって」

 思わず焦るユークレースに、リナーリアはニッコリと笑った。

「私もせっかくなので殿下に贈る事にします。あとスピネルと、お父様やお兄様にも。クッキーなら日持ちするでしょうし」

 

「……」

 どうやら深い意味はない発言だったらしい。

 焦って損した、いやそもそも何故焦る必要があるのか。

「…なら僕も、ついでに姉上にも贈る事にする」

 流行りのお菓子となれば、姉のヴァレリーが存在を知らないはずがない。色々と詮索される前にこちらから渡しておいた方が面倒が少ないだろう。

 ニコニコと誰にでも愛想が良いが、頭の回転が早くすぐにこちらの内心を見透かしてくるあの姉が、ユークレースは正直苦手である。

「それは良いですね!ヴァレリー様も、甘いものや可愛いものが大好きでいらっしゃいますし」

 …そしてこの銀髪の少女こそ、その姉すら一目置く存在なのだ。

 

 

 

 食堂に向かって歩きながら、ユークレースはリナーリアに尋ねた。

「ところでお前、お菓子なんて作った事あるのか?」

 魔法薬作りなどを通じて料理に目覚め、趣味としている魔術師というのはたまにいる。様々な食材を組み合わせ調和させ、複雑な味を生み出していく、その辺りが魔術とよく似ているのだと言う者もいる。

 リナーリアもその口なのかと思ったが、彼女はあっさりと答えた。

「いえ、ほとんどありません」

「ないのか!?」

 ずいぶんと自信満々だったので、てっきり心得があるのかと思ったのに。

「大丈夫です。できないなら、できるまでやればいいだけです」

 

「……」

 絶句したユークレースを、コーネルが振り返る。

「お嬢様は何事にも、正面から挑まれる方なのです」

「それって要するにただの力押しじゃないか…」

「何を言うんですか。正面から力で破るのが正攻法というものです」

 リナーリアは憤慨しているが、とても支援魔術師とは思えない台詞だ。

 内心で呆れていると、食堂に着いたらしい。何やら香ばしい、甘い匂いが漂っている。

 

 料理長のウッディンは突然厨房を訪れたユークレースたちに驚いていたが、話を聞くと笑ってうなずいた。

「承知いたしました。私自身まだ作り慣れておらず恐縮ですが、作り方をご指導いたしましょう」

 それから、調理台の上に並べられたたくさんのクッキーを振り返る。

「丁度、練習のためにクッキーを焼き上げた所だったのです。よろしければこちらをお使いください。今から生地をこねて焼いていたのでは、夜になってしまいますから」

「助かります!」

 

 

「こちらは、私が作ったアイシングクッキーです」

「へえ…、これか。とても見事だな。いかにも女が好みそうだ」

 並べられた20枚ほどのクッキーを見下ろし、ユークレースは感心した。

 幾何学模様が描かれているものもあれば、美しい花、あるいは可愛らしいウサギや鳥が描かれているものもある。

 色とりどりに飾り付けられたクッキーは、お菓子というよりもはや芸術品だ。

「凄い、あの菓子店のものにも劣りませんよ」

「いえ、まだまだ拙いものです」

 ウッディンは苦笑すると、紙と鉛筆、それからいくつかの本を取り出した。

 

「まずは図案を決めましょう。どんな絵をクッキーに描くか、絵に描いてみるのです。こちらの私のクッキーや、この本を参考にして決めてください」

 本はレース編みの図案集と子供向けの動物図鑑、そして草花の図鑑だった。ウッディンはこれらを見ながらクッキーの柄を考えたらしい。

「贈り物でしたら、お相手のお好きなものを描くのも良いかと思います」

「なるほど!」

 リナーリアは何故かやる気満々だ。動物図鑑を手に取り、ぱらぱらとページを捲っていく。

 ユークレースはとりあえず、草花の図鑑を手に取った。

 

 

 少しの間図鑑を眺めた所で、リナーリアは紙にがりがりと絵を描き出した。やけに真剣な表情だ。

 ユークレースはさらに図鑑を捲っていたが、ふとリナーリアの絵が目に入った。

「…おい。何だそれは」

 リナーリアの肩がびくりと揺れる。

「えっと…そのお…」

「…まさか、カエルとか言わないよな?」

 彼女が開いている図鑑のページはアマガエルのものだ。

 しかし紙に描かれているのは、どう見ても凶悪な…とても凶悪そうな、何かの魔獣である。

 

「……」

 ひどく気まずそうに目を逸らすリナーリアに、ユークレースは更に突っ込む。

「それ以前にその絵は大きすぎじゃないのか?それをクッキーに描く気なのか?」

「はっ…!そ、そういえば…!」

 ショックを受けた様子の彼女に、ウッディンが苦笑する。

「今回初めて作るのですから、できるだけ簡単な図案になさった方がよろしいかと…」

 

「し、しかし、カエルは絶対に外せないのです」

「だったらこういうのにすれば良いだろ」

 ユークレースは鉛筆を手に取り、紙の端に小さなカエルの顔を描いた。子供向けの絵本に出てくるような、デフォルメされた可愛らしいカエルの顔だ。

 

「凄い!上手ですね!」

「こんなの誰でも描けるだろ」

 感心するリナーリアに、ユークレースは思わず呆れる。誰でも10秒で描けるような簡単な絵だ。

「そ、そうですね…。ユークは何を描くか決めました?」

「まあ、大体。今から描く」

 手元の本をちらりと見て、ユークレースは紙に手を伸ばした。




思ったより遥かに長くなったので二分割します。
後編は多分明日投稿します…。


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番外編・5 ユークレースのバレンタイン(後)

 それから、借りたエプロンを身に着けてアイシング作りを始めた。

 さらさらとした粉砂糖に卵白を入れ、ひたすら泡立てる。

「こ、これ、腕がだるくなりますね…魔術で何とかならないかな…」

「お嬢様でしたらできるかもしれませんが、もし失敗したら捨ててやり直しになりますよ」

「むむ…、ではこのまま頑張ります…」

 眉を寄せるリナーリアの横で、ユークレースも腕を動かす。実は自分も腕がだるいのだが、言うのも格好悪いので黙っている。

 

 しばらく混ぜてから、ウッディンがボウルを覗いた。泡立て器を持ち上げると、ゆっくりとアイシングが垂れていく。

「そろそろ良い感じですね。では色を付けていきます。何色が必要ですか?」

「私は緑と青と白、あと黄色が少し」

「僕は赤と緑、水色とピンク、白」

「分かりました」

 ウッディンはアイシングを小さめのボウルに小分けすると、いくつかの小瓶を取り出した。耳かきほどの小さなスプーンを使い、着色料らしきものを入れていく。

 数滴垂らして混ぜると、真っ白だったアイシングがあっという間に鮮やかな色に染まった。

 

「きれいな色ですねえ」

「友人から分けてもらったものです。作り方は秘密だそうですが」

「…あ、その赤はもう少し鮮やかにできるか?少しだけ黄色がかった感じで」

「では、黄色を入れて…こんな感じでしょうか?」

「ああ。それでいい」

 

 

 色がついたアイシングをコルネという円錐形に巻いた紙の中に入れ、準備は完了だ。

 まずはウッディンが一つ、実演で作ってくれた。先を切って細く絞り出し、クッキーに絵を描いていく。

 小さなクッキーの上にみるみる緻密な絵が出来ていく様は、まるで魔術のようだ。

「…こんな感じですね。丁寧にやるのはもちろんですが、思い切って素早く動かしていくのも大事です」

 

 最初はできるだけ簡単な絵柄からという事で、ユークレースはまず、小さな花をいくつも散らしたクッキーを作る事にした。

 自分で描いた絵を見ながら水色とピンクで柄を描いていく。レース編みの図案集を参考にしたものだ。

 絞り出す力加減が分からず最初は苦労したが、慣れてくるとなかなか楽しい。

 5枚ほど完成した所で、ユークレースはちらりと横のリナーリアを見た。

 深い青の瞳に真剣な光を宿し、無心で手を動かしている。よほど集中しているようで、瞬きすらほとんどしていない。

 

 高い集中力は魔術師に必須とされるものだ。優秀な魔術師である彼女も、当然それは備えている。

 初めて彼女に会ったあの時の事を思い出す。

 魔術戦での苦くて恥ずかしい敗北と、恐ろしい大型魔獣との戦い。

 大の大人すら尻込みする巨亀の魔獣を相手に、彼女は一歩も引いていなかった。

 その冷静で果敢な戦いぶりも、凛とした横顔も、今でもはっきり目に焼き付いている。決して忘れられない記憶だ。

 あの時から自分の世界は変わったと、ユークレースは比喩ではなくそう思っている。

 

 

 飛び級をしてまで学園に入ったのも、彼女という魔術師に憧れたからだ。

 姉が言うには、彼女は貴族の間では有名人らしい。あれだけの魔術の才能を持っていれば当然だと思ったが、ちょっと想像と違っていた。

 王子妃候補の美少女だとか、学院のテストは毎回トップだとか、魔獣と勇敢に戦い、川に飛び込んでパイロープ公爵家の嫡男の命を救っただとか。

 むしろ魔術以外の部分で有名なようだった。もちろん、巨亀戦の武勇伝も広まっている。

 

 しかも、観戦に行った学院の武芸大会では優勝までしていた。自分より遥かに大きい男相手に、女2人でだ。

 魔術には自信があるユークレースだが、あの大会に出て優勝しろと言われたらとても無理だ。想像していたよりもずっとレベルが高い。

 自分では、王子と従者のコンビのあの剣を掻い潜り勝利するイメージなど浮かばなかった。

 

 何だかショックだった。

 闘技場の上、生徒や観客たちから拍手喝采を浴びる彼女の姿はやけに遠く、あの夜「王都は悪いところではない」とユークレースに言ってくれた彼女とは別人のように見えた。

 彼女はここで、誰もが認めるほどの立場をちゃんと築いている。

 その事を初めて実感し、自分との違いに愕然とした。ただ魔術の才能だけを誇っていた自分が、恥ずかしくて仕方なかった。

 

 

 …そんな訳で、ユークレースはいざ入学した時には正直かなり気が引けていた。

 勢いでやって来たはいいものの、リナーリアは自分の事など相手にしないのではないか。

 手紙をくれたりもしていたが、なんだか意地になってしまい返事をしていなかった。気を悪くしているかも知れない。

 自分は天才魔術師だ。大人も皆その才能を認めている。亡くなった偉大な祖父も、そう言ってくれていた。

 だがそれだけでは何もできはしないのだと、今のユークレースはもう知っている。

 

 知らない人間ばかりの学院はあまりに心細かった。

 何しろユークレースには友達が一人もいない。姉も一緒に入学しているが、頼るのは絶対に嫌だった。格好悪すぎる。

 周りでひそひそ何かを噂しているのがひどく癇に障った。それでいて誰も話しかけて来ない。別に話しかけられたくなどないが。

 とにかく、ただ苛々する。早く帰りたいと、そんな事ばかりが頭に浮かんだ。

 

 

 しかしそこにやって来たのが、カーネリアだった。

「ユーク!久し振りね!!」

 大声でいきなり教室に入ってきた赤毛の少女に、クラス中がざわつく。

「もう、どうして早く教えてくれないのよ。言ってくれれば迎えに行ったのに!」

「は、な、なん、なんで」

 思わずどもるユークレースが面白かったらしく、カーネリアは口元を押さえて噴き出した。

 

「今、隣の教室でヴァレリー様に会って来たところなのよ。それでユークの事聞いたの」

 腰に手を当て、むふっと偉そうに胸を張る。ポニーテールに結われた明るい赤毛が、肩からふわりと広がった。

「ユークはどうせ学院の事なんて全然わからないでしょ!私が全部教えてあげるわ!!」

 …その笑顔は、目を逸らせないくらいに眩しかった。

 

 

 

 そんな事を思い出している間に、リナーリアは作業が一段落したらしい。「ふう」と一つ息を吐いて額を拭う。

 その手元にあるクッキーを見て、ユークレースは驚愕した。

「何だそれ!???」

「えっ!?」

 ぎょっとしたリナーリアが、改めて自分の作ったクッキーを見下ろす。

 

「えっと…、カエルの顔…ですけど…」

「どこがだよ!?四角いしなんか角みたいなのが飛び出てるし!しかも目が3つある!!」

「ちっ…違うんです!これはちょっと手元が狂ってですね」

「ちょっと!?それがちょっと!?それ3枚目じゃないか!!」

 ユークレースが指さした3枚のクッキーには、あの集中力から生み出されたものとはとても思えない、グロテスクな緑色の何かが描かれている。

 

 

「お前…、絵が下手くそすぎだろ!!!」

「…!!」

 リナーリアは衝撃を受けたように一歩後ずさった。手に持ったコルネを示して見せる。

「…しょ、しょうがないじゃないですか!こんなの使い慣れてないので上手く描けないんです!!」

「鉛筆で描いた絵の方だって酷いじゃないか!!」

 そう、よく見たら紙に描かれた図案も酷い。クッキーの怪物ほどではないがかなり歪んでいて、見るからに下手だ。あんなに簡単な絵なのに。

 

「…お嬢様は、少々不器用でいらっしゃいますので…」

 コーネルが何のフォローにもなっていない事を言う。それ以前に、とても少々と言える範囲ではない不器用さだと思うのだが。

「……」

 銀の髪を揺らしながらしょんぼりと肩を落とした彼女に、ユークレースはまた呆れる。

 自分が憧れを抱いた、才能溢れる魔術師の正体。それがこの少女なのだ。

 

 

 入学してみて色々と分かった。

 とても遠い存在ではないのかと思いかけたリナーリアは、あの時と何一つ変わらない態度で自分に接した。

 優しく穏やかな笑みはいかにも上級生という素振りだったが、案外間抜けな所があると気付くまでにはそう長くかからなかった。

 

 生徒会の勧誘だとかで、一人の女子生徒の元に足繁く通ってはしょんぼりしながら帰っていく姿を何度も見た。

 王子の従者と廊下でぎゃあぎゃあと言い合いをしたり、筋肉女神とかいう謎のあだ名で呼ばれて必死で否定している姿も。

 あの落ち着いた振る舞いは、どうも年上ぶりたいだけだったらしい。

 

 年頃の少女らしく、王子相手に顔を赤らめたりもしていた。その表情を見ると何だか面白くない気分になったが、彼女も完璧ではないのだと思うと安心もした。

 カーネリアによると、恐ろしく鈍かったり激しく感性がズレていたりもするそうだ。

 ついでに言えば運動神経があまり良くない。あれでよく武芸大会で優勝できたものだと思う。

 

 

 …そして今日また一つ、残念な一面を知ってしまった。

「魔術師のくせに何でこんなに絵が下手なんだ…これじゃ魔法陣が描けないだろ…」

「そっちはちゃんと描けるんです。絵になるとだめなんです」

「何で」

「私が聞きたいです…」

 

 こんな所を見たら、クラスメイトたちは何と言うだろうか。

 彼女は男子の間で結構人気がある。ついでに言えばカーネリアもだ。

「でもあの二人に近付くとスピネル先輩が超怖いらしくて、高嶺の花なんだよ。お前すげーな」と謎の尊敬をされたりもした。

 

 その高嶺の花は今、眉間にシワを寄せてクッキーとにらめっこをしている。

「…お前、王子にプレゼントしたいんだろ?だったらハートマークでも描けば良いんじゃないのか」

「は!?ハートマーク!?」

「それくらい簡単な絵柄ならお前でも描けるだろ」

「あ、そ、そうか、そうですね。なるほど…」

 リナーリアは顔を赤らめながらぎくしゃくとうなずいた。

 

「こっちのピンクのやつ、分けてやるから使え」

「…ありがとうございます」

 クッキーに向かうその手は明らかにぷるぷる震えていて、ユークレースは吹き出しそうになるのを必死で堪える。あれではまともに描ける訳がない。

 

「もうちょっと落ち着いて、肩の力を抜いて描くと良いかと…」

「は、はい、ウッディンさん」

 正直気になって仕方ないが、あまり人に構ってばかりもいられないとユークレースは思った。自分も作業をしなければ。

 コルネを手に取り、クッキーに向かい合う。

 

 

 

 

「…よし。こんなもんだろ」

「ユーク、すごく上手ですね…」

「ふん。このくらい当然だ」

 鼻を鳴らし、リナーリアのクッキーを見下ろす。

「…お前のもまあ、最初のやつよりはマシじゃないのか」

 色々言いたい気持ちを抑える。実際最初よりはマシだ。歪んではいるが、一応ちゃんとハートに見える。

 

「はい。頑張りました」

 リナーリアは疲れた顔だ。やる前は「できるまでやる」などと堂々と宣言していたが、結局適当な所で妥協したらしい。

 やはり彼女だって、できないことはあるのだ。

 少なくとも絵の腕前は自分の方が遥かに上だなと、内心で少しだけ勝ち誇る。

 

「あとは包むだけですね」

「はい。殿下のはこれと、これと…」

 いくつかのクッキーをつまみ上げ、横に分けていく。

 なるべく出来の良いものを王子用に選んでいるらしい。残りをあの従者やら家族にやるつもりなのだろう。

 あんな無表情な王子のどこが良いんだと思いつつ、ふと気が付いて言う。

「…あの従者には、失敗作だろうとハートのはやるなよ。そっちのおぞましい怪物のやつとかにしとけ」

「え?何故ですか?というか今、おぞましいって言いました?」

「男心の分からない奴だな」

「な…!?」

 

 何故か今の一言がやたら刺さったらしく、リナーリアは衝撃を受けて固まっている。

「いいから言う通りにしろ。一番特別なやつとはちゃんと差を付けとくものだろ」

「あっ、そうか、義理と本命というやつですね?バレンタインの事、よくご存知ですね」

「いや知らないけど」

「あ、じゃあユークのそれも、一番特別なやつなんですね?」

 数枚のクッキーを指さされ、ユークレースは思わず黙り込んだ。何となく認めたくない。

 ただ無言で、その数枚だけを横に避けた。

 

 

 

 

 翌日の昼休み、食堂に行ったユークレースは辺りを見回した。

 目当ての人物はすぐに見つかった。あの明るい赤毛のポニーテールはよく目立つ。リナーリアと姉のヴァレリーも一緒にいるようで丁度いい。

「カーネリア」

「あっ、ユーク!一人なの?なら一緒にランチしましょ」

「いや、いい。それより、これ」

 

 きれいにリボンを掛けた包みを差し出すと、カーネリアは少し首を傾げた。

「…おい。バレンタインがどうのこうの言ったのはお前だぞ」

 思わず睨みつけると、カーネリアは「まあ!」と叫んで笑顔になった。

「もしかして、本当にプレゼントを用意してくれたの!?」

 本当に嬉しそうに包みを受け取る。そういう顔をされると、こちらとしても悪い気分ではない。

 

「こっちはお前の、それから姉上も」

 それぞれ色の違う包みを、リナーリアと姉に手渡す。

「あら、私の分もあったんですか?」

「ユークが何かくれるなんて、珍しいわ」

「…世話になってるからな、一応」

 

 それを見て、カーネリアは一瞬だけ唇を尖らせた。だがすぐにまた笑顔に戻る。

「そうよね、ユークはお二人にもお世話になってるものね。…ありがとう、ユーク!とっても嬉しいわ!!」

「…ああ。それじゃあな」

 カーネリアは声が大きい。何だか視線を集めている気がして恥ずかしくなり、そそくさとその場を後にする。

 

 

 …カーネリアは気付くだろうか。

 あの赤い包みにだけ入っている。真っ赤なカトレア。

 植物図鑑を見て、すぐにこれが良いと思った。

 眩しい太陽の下で輝くのがよく似合う花。あの日見た笑顔みたいな花だ。色も、あの髪の色と同じ。

 一番丁寧に、一番時間をかけてクッキーに描いた。

 

 別に、気付かなくたって良い。

 あの日、あの瞬間、あの孤独な教室の中。

 その笑顔がどれだけ眩しかったかなんて、誰も知らなくて良い。

 だからどっちだって良いのだと思いながらも、何だかやはり、そわそわとした。



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第186話 キマイラ・4

 私たちで更にもう一体の黒山羊を倒した所で、前線の準備が整ったようだ。

 魔術師部隊が精神を集中させ、大きな魔力を練り上げているのがここからでも分かる。

「準備完了です!いつでもいけます!!」

「よし…!」

 ビリュイの報告を受け、フェナスがバッと前方へ腕を振る。

「作戦開始!!」

 

 

『紅蓮の炎、灼熱の猛火よ!!』

 魔術師たちの詠唱が重なり、上空に巨大な炎が渦巻き始める。

 山羊頭がそれに気付き、瘴気を集め防護壁を張ろうとするが、ライオスがいくつもの光弾を手元から放った。山羊頭だけでなく獅子頭や尾蛇をも次々に打ち据え、キマイラ全体の動きを妨害する。

 

『螺旋を描き、敵を撃ち抜け…!!』

 絡み合うように螺旋を描いた炎が2つ、それぞれキマイラの前足と後ろ足に向かって放たれた。

 炎の螺旋が瘴気を貫き、轟音を立ててキマイラに直撃する。

 

 

 凄まじい衝撃が地を揺るがし、爆炎が巻き起こった。

「グウォオオオオ…!!!!」

 キマイラの苦悶の叫びが聞こえる。

 

 炎が収まった後に見えたのは、斜めに傾きうずくまったキマイラの姿だ。

 右前足は大きく傷つき、右後足は膝下が完全に吹き飛んでいる。どちらも炎が燻り黒い煙が上がっているが、それでも無理やり立ち上がろうともがいているようだ。

 

突撃(チャージ)!!」

 陣を組んだ兵たちが2匹の尾蛇へと襲いかかる。前列と後列を入れ替えながらの、息をも付かせぬ波状攻撃だ。

 翼を羽ばたかせたライオスが両手を空に掲げると、そこに光が生まれた。力が集まり、みるみるうちに大きくなっていく。

 獅子頭が吼え、尾蛇が暴れる。突撃を行っていた兵が幾人も尾蛇に弾き飛ばされるのが見える。

 山羊頭の目が光り、上空のライオスへ巨大な風の刃を放った。

 だが、ライオスはそれをすり抜けるようにして避けた。十分に力を溜めた光の塊が、両手から撃ち出される。

 

 山羊頭の額を一直線に閃光が貫き、大きく弾け飛んだ。

 

 

 

「やった…!!」

 誰かの快哉が聞こえた。

 山羊頭は首の途中から完全に消滅している。

 そして、獅子頭と尾蛇はピタリとその動きを止めていた。…やけに静かだ。

 

「…待て、様子がおかしい!皆注意しろ!!」

 キマイラの巨体がぶるぶると震え出した。低い地鳴りと共に、全身から瘴気がじわじわと滲み出てくる。

 ライオスはと空を見ると、大きく距離を取って身構えているようだ。手を出すのは危険だという事か。

 指揮官がしっかり統制を取っているのだろう、兵たちも後ろに下がりながら防御姿勢を取っている。

 

 

 瞬きもせずに見守っていると、突然ごうっと音を立ててキマイラの全身から炎が噴き出した。

「!!?」

「何だあれは…」

「も、燃えてる…?」

 

 誰もが呆然とその姿を見つめる。

 キマイラの全身が真っ赤な炎を纏い、燃えている。

 しかし苦しんでいる様子はない。あれは恐らく、自ら炎を発しているのだ。

 

「…動くぞ!!」

 キマイラが前足を動かす。灼炎の魔術によって大きく傷付いたはずのそこからは、ひときわ激しく炎が噴出している。炎で傷を塞いでいるのか?

 獅子頭が顔を上げた。その額が縦に割れ、黄金に輝く瞳が新たに現れる。

 戦場を睥睨する3つの目。

 …そこから読み取れるものは、純然たる殺意だ。

 

 

「ゥオオオオオオオ!!!!!!」

 

 

 燃えるキマイラが天に向かって大きく咆哮を上げると、ボボボボボ、とキマイラの周りに無数の鬼火が現れた。

 ゆらりと揺らめいた炎が、キマイラの挙動を見守っていた兵たちに向かう。

「……!この炎、動きがおかしいぞ!」

 剣で切り飛ばそうとした兵や、避けようとした兵が戸惑っている。鬼火の速度や軌道が妙に不規則なのだ。

 あれでは対処が難しい。魔術師たちは慌てて耐炎魔術を重ねがけしているようだ。

 

 

「…お前の水球に少し似てるな。あの炎の動き」

 目を凝らしたスピネルが言う。

「キマイラがあれを操っているのか?」

「あの数ですから全てではないでしょうが、ある程度は操っているみたいですね。ライオスが集中攻撃を受けています」

 上空では、飛び回るライオスをいくつもの鬼火が追いかけている。撃ち落としてもすぐにまた別の鬼火が追ってくるので面倒だ。

 

「今は眷属の召喚が止まっているようだ。今のうちに作戦を考えよう」

「はい」

 殿下の言う通り、今は瘴気から湧き出る鴉や黒山羊の姿が見えない。前線が踏ん張っている間にこちらで作戦を練らなければ。

 殿下とスピネルの後に続き、フェナスとビリュイの元に向かう。

 

 

「あの鬼火、動きが不規則で対処しにくい。しかも消しても追加で召喚されてしまって数が減らないようだ」

 前線の様子を確認したらしいフェナスがまず口を開いた。

「おまけに、見た目より遥かに高温で当たるとダメージが大きそうです。キマイラ本体も燃えていますし、あの近くにいては耐炎魔術は短時間しか保たないでしょう」

「魔術師部隊の消耗がさらに大きくなるな…」

 ビリュイは深刻な顔でうなずいた。

「全員魔石を持たせてはいますが、蓄えられた魔力にも限りがあります」

 

「キマイラ側の消耗はどうなんだ?あんな風に全身を燃やしていたら、いくら超大型魔獣でも長くは保たないんじゃないのか」

「確かにいつまでも続くものとは思えませんが、あれだけの巨体です。いつ力尽きるか…」

「下手をすればこちらが先に力尽きる。持久戦は得策ではないと思うが」

「尾蛇は未だに大きく暴れています。あちらを先に落とし、ダメージを蓄積させるのも一つの手かと」

「ふむ…」

 

 私もまた意見を言う。

「私はやはり一気に獅子頭を落としに行くべきかと…。山羊頭が消滅した事でキマイラの治癒力は大きく落ちているはず。畳み掛けて大きなダメージを狙うんです」

 とは言え、通常の魔術や剣ではなかなか難しいだろう。今も遠目に戦いを見守っているが、炎に遮られるせいで攻撃が届きにくいようだ。

 かなりの威力を持つ上級魔術や、数人で力を合わせて連続で斬りつける事で、ようやくダメージを与えられているように見える。

 

 

 

 様々な意見が出た。どれも一理ある気がするし、決め手に欠ける。

「…竜人殿の意見を聞けないだろうか。我々よりも魔獣に詳しいようだし、どんな作戦を取るにせよ竜人殿の協力は必須だろう」

 フェナスがそう言って私の方を見た。ビリュイは一瞬前線を睨んでから、私の方を振り返る。

「超大型も今は変態を終えたばかりで動きが鈍いようです。竜人殿をこちらへ呼べますか?」

「分かりました。やってみます」

 

 空を駆けるライオスを見つめ、呼びかける。

「ライオス!少しの間、こちらに来られますか」

 するとライオスは、手の中に渦巻く冷気を生み出した。周辺に大きく雲のように広げると、その中に取り込まれた鬼火が小さく縮んでいく。

 それからすぐに身を翻し、こちらへとすごい速さで飛んで来る。鬼火は冷気の雲に阻まれ、追ってこられないようだ。

 

『…どうした?あの雲は長くは保たん。それに奴は、すぐまた眷属を召喚しだすぞ』

 私は急いでうなずき、口を開く。

「キマイラを倒すための策を決めたいのです。貴方の意見を聞かせてください」

 今までに出た作戦案を手短にまとめ、ライオスに話し始めた。



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第187話 キマイラ・5

『…持久戦は可能だ。しかしキマイラが力の大半を失うまで、恐らくまる3日以上かかる』

 ライオスはすぐにそう答えた。

『それだけの時間戦い続けるのは我でも無理だ。休みながら戦う必要がある。だが奴は、攻撃が弱まればここから移動しようとするだろう。あの吹き飛んだ後ろ足もいずれは再生する。人の多い場所を目指し、襲いに行くはずだ』

 この周辺で最も人が多い場所と言えば、もちろん王都だ。それだけは絶対に避けたい。しかし無理に足止めを続ければ、兵の損耗は恐ろしい数になるだろう。

 

『尾蛇を倒せば大きなキマイラに痛手を与える事ができるが、そうすればキマイラはまた姿を変えるだろう。より攻撃的になるか、逆に守りを固めるか…我にも予測できん。どちらにせよ、更に手強くなる』

 ダメージそのものは与えられても、戦況が苦しくなってしまう可能性が高いという事だ。しかもキマイラが姿を変えれば、それによってまた対応策を考え直さなければならなくなる。

 

「では、獅子頭を狙い、一気に決着をつけるのは?山羊頭の時と同じように、できるだけ私たちが動きを止めます」

『我でも充分に力を溜めた全力の攻撃でなければ、あの獅子頭を落とす事はできん。だが我が力を溜めようとすれば、奴はそれに気付き暴れ出すだろう。そうなれば、お前たちの力で奴の動きを止められるとは思えん』

 

 今まで戦場をライオスが支えてきたのは明らかだ。ずっと、山羊頭と尾蛇をほぼ同時に相手にしていた。

 キマイラもライオスこそが最も脅威的な存在だと見做しているはずで、彼が力を溜め始めれば、間違いなく全力で阻止にかかる。かつてない激しい攻撃が周囲に降り注ぐだろう。

 しかもライオスは、もうすぐまた眷属の召喚が始まると言った。

 そんな中で、私たちがどれほどキマイラを抑え込めるのか。今まで私たちは、キマイラに大したダメージを与えられていないのだ。

 魔術師たちの全力の攻撃でようやく足を一本吹き飛ばしたが、あのような大魔術は準備に時間がかかる。連発できるものではない。

 

 

「……」

 皆が悩む顔になる。

 どの案も問題がある。第一の案は消耗と被害が激しく、第二の案は危険が大きい。第三の案は実行自体が難しい。

 

「…貴方ならどうしますか?」

 試しに尋ねてみると、ライオスは即答した。

『奴が消耗し、弱るまで耐えて待つ』

 つまり、最初の案だ。

 しかしそれを勧める事をしないのは、私たちが国を守るための戦いをしていて、周辺の町や村への被害が大きい戦術はなるべく取りたくないとちゃんと理解してくれているからだと思う。

 

 

 

「…少しの間、時間を稼ぐ方法はあります」

 後ろから聞こえた声に、私たちは全員振り返った。

「セナルモント先生!」

 先生はずっと探知魔術を飛ばし、キマイラの様子を調べていたはずだ。

 

「何か分かったのか?」

「はい。あの獅子頭の額の目です。新しく生えてきたあの目が鬼火を操作しています。あれを潰せばしばらくの間、キマイラは鬼火を操る事も新しく召喚する事もできなくなるでしょう。それからもう一つ、キマイラは背中…さっきまで山羊頭が生えていたあたりの防御がやや薄いようです。あそこを狙えば、より大きなダメージを与えられるかと」

 

 きっと山羊頭を失ったせいでそこが弱くなっているのだろう。しかしあの巨体の背中を攻撃するには、空から狙うか、完全に転倒させ横倒しにするしかない。

 考え込んだ時、前線の方からまた大きな咆哮が聞こえた。

 …まずい。上空に瘴気が広がっている。眷属の召喚が始まろうとしているのだ。

 

 

「では、こういうのはどうでしょうか。まずライオスに背中を狙って雷を落としてもらい、キマイラの動きを止めます。その隙に魔術師部隊で力を合わせて氷槍の魔術を使用し、額の目を潰します。獅子の顔面部分は燃えていませんし、貫通力のある氷槍なら威力も充分でしょう。その後は兵たちで総攻撃。ライオスが獅子頭を落とす力を溜める時間を稼ぎます」

 私はやや早口になって言った。

 氷の魔術は水と風の複合魔術になるのでやや魔力の消耗が大きいが、その分効果も高い。傷の周辺を凍らせることで、対象の動きや治癒速度を遅らせる事もできる。

 

「ライオス、貴方の負担が大きくて申し訳ないのですが、できますか?」

『できる。奴の身体を数秒痺れさせる程度の雷でいいのだろう?それなら大して消耗もしない』

 フェナスとビリュイが一瞬考え、それからすぐにうなずき合う。

「その作戦で行きましょう」

 

 

 話はまとまった。もう一度ライオスの方を振り返る。

「ライオス、離れていても私の声が聞こえるんですよね?こちらの準備が整ったら教えますので、そうしたら雷を落としてください」

『分かった』

 ライオスはそう言いながら翼を広げ、宙に浮かび上がった。

 

「お気を付けて!」

『…そなたも気を付けろ。また眷属が来るぞ』

 一瞬だけこちらを振り返ってからまっすぐに戦場へ戻っていく。

 その黒い翼を見送りながら、少しだけ唇を噛んだ。

 …彼に頼りきりな事が心苦しい。今はそうするしかないと、分かってはいるのだが。

 

 

 

 ライオスの言った通り、すぐに眷属の召喚が始まった。

 黒山羊は変わらないが、鴉の方は先程までより巨大化した上に、火球の魔術を放ってくるようになった。

 空からの魔術攻撃は避けるのが難しい。どこから飛んできても良いよう周辺を囲むように防御結界を張る事になるが、部分的に壁を作る防御魔術に比べ、結界は魔力消費が大きい。

 だがここには負傷者が収容された大きな天幕がいくつもあるのだ。これに火をつけられる訳にはいかない。絶対に守らなければ。

 

「また1羽来たぞ!」

「動きを止めます!」

「右からも黒山羊が来る!気を付けろ!」

 目まぐるしく変わる状況に、ひたすら頭を回転させ魔術を行使する。次々に魔獣が襲来してきて、息をつく暇もないほどだ。

 後方ですらこれなのだから、前線はまさに死物狂いだろう。

 

 どうもキマイラは、こちらが何かの準備をしている事に気が付いて攻勢を強めているようだ。

 先程魔術師部隊に手痛い攻撃を受けたせいで、警戒しているのかもしれない。鬼火を操るだけでなく、火炎を吐いたり尾蛇を振り回して兵たちを蹴散らそうとしている。

 それでもなんとか持ちこたえているのは、ライオスが光弾や冷気を飛ばしてキマイラを攻撃し、注意を引き続けているからだろう。

 

 内心でひどく焦る。

 さっきから負傷者が運ばれて来ていない。この状況ならばむしろ増えているはずなのに。

 前線にはもはや、負傷者を運ぶだけの余裕がなくなっているのだ。

 攻撃準備はまだなのか。急がなければ、犠牲者が増えてしまう。

 

 

 更に1羽落とした所で、殿下の声が聞こえた。

「…リナーリア!」

 はっと顔を上げる。

「フェナスが呼んでいる!」

「!!」

 フェナスの方を振り向く。フェナスは大きくうなずくと、私に向かって叫んだ。

「準備が整いました!!竜人殿に合図を!!」

「はい!!」

 

 空に向かい、祈るように叫ぶ。

「…ライオス!雷を…!!」

 

 

 遠くでライオスが、天に向かって片手を掲げるのが見えた。先程からあの辺りに暗雲が広がっていたのは、いつでも雷を落とせるように彼が準備していたからだろう。

 キマイラを囲んでいる兵たちが、鬼火を避けながら一旦後ろに下がる。

 ライオスが腕を振り下ろすのと同時に、激しく轟く雷光がキマイラの背を打ち据えた。

 

「グォ……!!!」

 キマイラの巨体が痙攣し、ぐったりとした尾蛇がズシンと音を立てて地に落ちる。雷撃で身体が痺れ、動かせないのだ。

『清らかなる水よ集え、大いなる風を受け、その時を止めよ!!』

 間髪入れず、魔術師たちの詠唱が重なった。

 上空に圧倒的な冷気が吹き荒れ、巨大な氷の塊が形成されていく。

 

『天地万象を貫く槍となり、敵を討て…!!!!』

 氷槍の魔術が完成した瞬間、私のすぐ前にいた殿下が叫んだ。

「待て!!止めろ…!!!」

 

 

 

 それは一瞬だった。

 地面の上、力なく倒れていたはずの2匹の尾蛇が突然恐ろしい速度で動き、獅子頭の前で交差したのだ。

 蛇に激突した巨大な氷槍が、はるか後ろの河岸に命中し轟音を響かせる。

 

 

 …残ったのは、半ばで吹き飛び、千切れた2匹の蛇の残骸。

 そして、無傷のまま爛々と輝く3つの獅子の瞳。

 

 

「は…、外れた…」

 誰かの絶望的な呟きが耳に届く。

 勝利のための大事な一手、魔術師部隊の総力を挙げた攻撃、それが外れた。いや、逸らされてしまった。

 キマイラはライオスの雷の効果で身動きが取れないように見せかけ、実は尻尾の蛇だけは動かす事ができたのだ。

 魔術師たちが氷槍を撃った瞬間に跳ね上がり、最も大切な部分…獅子頭を庇った。

 

 

「オ、オ、オ、オ、オ…!!!!」

 身の毛もよだつような咆哮を、キマイラが上げた。



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第188話 キマイラ・6

「皆しっかりしろ!!反撃に備えるんだ!!!」

 殿下の鋭い声が耳を打ち、はっと我に返った。

 そうだ、呆然としている場合ではない。

 獅子頭を庇った尾蛇は魔術で吹き飛んだ。その影響を受け、キマイラがまた何らかの変化を起こす可能性が高い。

 

 息を呑んで見つめていると、キマイラの全身を包んでいた炎が一瞬でかき消えた。

 さらに、周辺を漂っていた大量の鬼火がキマイラの元に集まっていく。獅子頭が大きく口を開けた。

「鬼火を飲み込んだ…!?」

 大量の鬼火は、一つ残らず口の中に吸い込まれてしまった。その直後、ミシミシと音を立ててキマイラの身体が変形を始める。

 

 3本しかない足がみるみる太くなっていく。地響きが鳴り、巨大な(ひづめ)の下で地面に激しくヒビが入った。

 背中はボコボコと盛り上がり、煙突のようなものが何本も生えていく。

 獅子頭の額の瞳が金色に光った。

 不吉な予感が走る。

 

「…ガアアアアアアッッ!!!」

 キマイラが大きく咆哮を上げ、爆発音が轟いた。

 

 

 

「…!岩だ!こっちにも飛んでくるぞ!!」

「撃ち落とせ!!天幕を守るんだ!!」

「リナーリア…!!」

 殿下に手を引かれ、腕の中に抱え込まれる。咄嗟に周囲に防御結界を張った。

 

 いくつもの轟音と衝撃が重なる。

 吹き飛んだ土砂が、ばちばちと結界の壁に当たるのを感じる。

 

 

 …やがて土煙の向こうに、恐ろしい光景が見えた。

 吹き飛び、血まみれで倒れ伏した兵たち。

 そこら中の地面に穴が穿たれ、煙が立ち上っている。

 キマイラが背中の煙突のようなものから岩石を大量に撃ち出し、周辺一帯に落としたのだ。

 この辺りにまでいくつか飛んできた。なんて攻撃範囲だ。

 岩はかなり重量がある上に高温らしい。遠くから飛来する勢いと相まって、凄まじい破壊力になっている。

 

「リナーリア、大丈夫か」

「は、はい。ありがとうございます」

 大急ぎで辺りを見回し、ここの状況を確認する。

 天幕は無事だ。魔術師たちが必死で迎撃したのだろう。

 この司令本部はキマイラからは距離があるので、岩が落ちてくるまでに少しだけ時間に余裕があった。破片に当たった者もいるようだが、軽傷だ。

 

 だが、防御や迎撃が間に合わなかったのだろう前線ではかなりの被害が出ている。目を背けたくなる惨状だ。

 さらに獅子頭が火炎を吐こうとしているのが見えたが、ライオスの放った光弾が鼻のあたりに直撃して寸前で阻止した。苦しげに開かれた獅子の口の中から炎が散る。

 また低い地響きが聞こえた。ひどく嫌な音だ。

 

 

 セナルモント先生が叫ぶ。

「…キマイラの蹄だ!あそこから土や石を吸収し、噴石として撃ち出しているんです!!」

 足が太くなり、蹄が地面にめり込んだのはそのためか。

「じゃあ、この地鳴りは体内に土砂を吸収している音…!?」

「そうです!恐らく、すぐにまた飛ばして来ます!!」

 

「急いで迎撃準備!結界で止めるには負担が大きすぎます、攻撃魔術で撃ち落として!!」

「天幕や物資の周辺が優先だ、騎士はできるだけ自分で避けろ!!前線からの被害報告急げ!!」

 ビリュイとフェナスが大声で指示を飛ばす。

 兵の警告が聞こえた。

「…前方より大鴉の群れが襲来!!」

 空を飛ぶ大鴉の魔獣は移動速度が速い。もうこちらにまで来てしまった。

 

 

 急いで臨戦態勢を取った瞬間、遠くから轟音が聞こえた。

「噴石の第二撃、来ます!!」

 飛来する岩の一つがこちらに向かってくるのが見えた。咄嗟に叫ぶ。

「私が撃ち落とします!…『水よ土よ、圧縮し弾丸となれ』!!」

 一瞬で手元に水が生まれ、渦巻く。

『発射!!』

 高速で撃ち出された水の弾丸が、飛来する噴石を打ち砕いた。

 

「……!」

 ばらばらと破片が降り注いでくるが、目の前に翻った殿下のマントがまたもや私を守る。

 すぐ横では、スピネルが大鴉を斬り捨てている。噴石が翼をかすめたせいで地面近くにまで落ちてきていたらしい。

 どうやらこの噴石攻撃はまともに狙いを付けられないもののようだ。眷属の大鴉や黒山羊が何体も巻き込まれているし、人がほとんどいない場所にもいくつも落下している。

 

 

 キマイラは噴石を飛ばしている間に、千切れ飛んだ尻尾のうち1本を再生している。

 もう蛇の形はしていないし、前よりも短くて動きも単調だが、兵たちを襲う武器としては十分だ。足を攻撃しようと集まっていた兵たちが幾人も弾き飛ばされる。

 そして、また地響きが聞こえ始めた。

「くそ!攻撃の間隔が短い…!!」

 スピネルが舌打ちをする。

 

「…フェナス殿!これ以上は損耗が増えるだけです、撤退しましょう!!」

「だめだ!!」

 ビリュイの進言を、フェナスは即座に否定した。

「逃げ出した所でどうなる。こちらが軍を立て直すよりも早く、超大型はこの周辺の蹂躙を始める。あの巨体なら移動だって早い。すぐに王都にまで到達する。絶対に、ここで倒さねば…!」

「……っ!」

 ビリュイが唇を噛む。

 

 

 

「…もう一度、同じ作戦をやりましょう。獅子頭の額の目を潰すんです。あの目は今でも、キマイラの体内で鬼火を操作している」

 少し離れた所で尻餅をついていたセナルモント先生が、立ち上がりながら言った。

「恐らく蹄から取り込んだ土砂を、鬼火の炎で押し固めて撃ち出しているんでしょう。つまり、あの目が噴石を作り出している」

「潰せば、この噴石攻撃を止められる訳か」

 私もすぐに賛成した。

「キマイラの周辺には、今もライオスの呼んだ雲が残っています。あの雲があれば、またすぐに雷を落とせるはず。再生した短い尻尾ではもう頭を庇う事はできない。今度こそ、確実に目を潰すんです」

 

 それに答えたのは、魔術師たちを束ねるビリュイだ。彼女は使い魔や遠話を駆使し、一足早く前線の様子を把握している。

「…もう一度氷槍を撃つのは可能です。しかし、氷槍の準備をしている間はあの噴石から身を守れない。今までの攻撃によって魔術師の数も減っていて、防御や迎撃に割ける人員が少ないのです。確実に多くの者が死にます」

 

 ビリュイは平静を装っているものの、その声には悲痛が滲んでいる。

 大規模魔術のために集中に入った魔術師では、飛んできた噴石を避ける事などとてもできない。そして、あれが直撃すれば魔術師の脆弱な身体などひとたまりもない。確実に死ぬ。

 兵たちだってそうだ。彼らはキマイラの周辺で密集して戦っている。魔術師の援護がなければ、逃げ場がなく死ぬ者がきっと多く出る。

 

 思わず全員が黙り込んだ時、再び兵が声を上げた。

「噴石、また来ます!!」

「くっ…!」

 またかと身構えるが、今度はこちらには飛んでこなかった。

 しかしそこら中から噴石が落ちたり迎撃する激しい音がいくつも響き、びりびりと振動が伝わってくる。

 

 

 

「…やるしかない。もう一度、獅子頭を落とすための作戦を実行する」

 噴石が一旦収まった所で、フェナスは厳しい目で戦場を見回しそう言った。

「魔術による防御は全て、魔術師部隊を守るのに回せ。兵にどれだけ犠牲が出ようとも構うな。必ず氷槍を撃て。目を潰し、噴石を止められれば勝機は見える」

「……」

 冷徹に命じたフェナスに、ビリュイは一瞬だけ目を閉じ歯を食いしばったようだった。殿下とスピネルが顔を強張らせ、先生が沈痛な表情を浮かべる。

 ビリュイが決然とした表情で顔を上げた。

「分かりました。すぐに準備にかかります」

 

 

 …私もやらなければ。自分にできる事を、全て。ビリュイが踵を返す前に、大声で叫ぶ。

「待ってください!私も魔術師部隊のところに行きます!!」

 

「リナーリア!?」

 皆が驚きに目を瞠るが、私は「聞いてください」と言って続けた。

「先程私が噴石を撃ち落とした魔術、あれは水球の魔術に土魔術を複合させアレンジしたものです。咄嗟だったので一つしか撃てませんでしたが、事前に準備しておけばもっと大量に、同時に撃つ事もできます。多くの噴石を迎撃できます」

 水球は私の最も得意な魔術だ。その精度も速さも、決して誰にも負けない自信がある。

「できるだけ魔術師たちを一箇所に密集させてください。私が彼らを守ります」

 私が魔術師部隊を守る。そうすれば、防御担当の魔術師には兵を守る余力が生まれる。犠牲者の数を確実に減らせるはずだ。

 

 

「…危険すぎる!」

 すぐに反対したのは、やはりスピネルだ。

「魔術師部隊が布陣している場所はここよりずっとキマイラに近い。噴石が飛んでくる速さだって違うし、眷属の魔獣だって多くいるんだぞ!!」

「ここにいたって危険なのは同じです!それに獅子の目を潰した後も、兵たちはライオスが力を溜める時間を稼がなければならない。私が行く事で少しでも多くの魔術師や兵を守れれば、それだけキマイラを倒せる確率が上がります。…もし作戦が失敗したら、たくさんの人が死ぬんです!!」

 

「だからって…!」

「今この瞬間も、皆が戦っています!!」

 何か言いかけたスピネルの言葉を、大声で遮る。

「兵たちだけではありません、ライオスもです。彼は本当は人間のために戦う必要なんてないのに、私たちの願いを聞いて戦い、守ってくれている」

 遠くから見ているとよく分かる。ライオスは何度もキマイラの攻撃を止め、注意を引いて牽制し、兵たちを助けてくれている。それは決して、勝利のためだけではあるまい。

 

「私はライオスに言ったんです。この国を守るため戦いに行きたい、だからどうか力を貸してほしいと。しかし、私はまだ全力を尽くして戦っていません。これでは彼に顔向けできない。私を送り出してくれた両親や、友人たちにもです」

 皆はきっと今も、私たちの無事を願ってくれているだろう。

 だけどそれは私も同じだ。大切な人たちに無事でいてほしい。そのために、全力を尽くしたい。

 

 今まで後ろで戦って温存してきた力を、今こそ発揮する時だ。

 絶対に引けないという決意を込め周囲を見回す。

 殿下。スピネル。先生。フェナスに、ビリュイ。皆の顔を見る。

「行かせてください。できる限り多くの命を守るために、私はここに来たんです」

 

 

 

 最初に口を開いたのは殿下だった。

「…分かった。行こう、リナーリア」

「殿下!?」

 皆がぎょっとして殿下を見た。もちろん私もだ。

 

「い、行こうって…?」

 まさか、私と一緒に行くという意味だろうか。

 恐る恐る尋ねると、殿下は当たり前のような顔で私を見返した。

「君自身は行こうとしているのに、俺には行くなとでも?ここにいても危険なのは同じだと、そう言ったのは君だ」

「そ、そうですが、しかし…」

 殿下はこの国の王になる方なのだ。その命の重さは、私などとは比べ物にならない。前に出て良いはずがない。

 

「俺は次こそ必ず、君を守ると決めた。そのためには君の傍にいるのが一番良い。俺が隣にいれば、君は絶対に防御の手を抜けなくなるだろう?」

「……」

 思わず絶句してしまう。

 それは確かに、その通りではあるのだが。

 

 

 殿下は翠の瞳に揺るぎない意志を宿し、私を真っ直ぐに見つめる。

 その両手が、私の手を力強く握りしめた。

「約束しただろう。いつか必ず、君の望むような王になると。そのために俺は君を守り、俺自身も守り、この国を守る」

 …あの時。昨年のブロシャン領での水霊祭、巨亀を倒したあとのパーティーでした約束だ。

 どう答えれば良いのか分からずただ見つめ返した私に、殿下は少しだけ微笑んだ。

 

 

「…しょうがねえなぁ…」

 肩をすくめ、呆れたように言ったのはスピネルだ。

 私たちの顔をそれぞれ見て片眉を上げ、にやりと笑う。

「分かったよ。やろうぜ。もちろん俺も付いていく」

「ああ。頼りにしている」

 殿下が大きくうなずいた。

 

「…お、お待ち下さい、殿下、それは」

 フェナスが動揺した様子で言いかけた瞬間、また轟く音が聞こえた。

「噴石、来ます!!」

「……!!」

 

 激しい破壊音。誰かが迎撃し、噴石を打ち砕いたのだ。

 噴石の破片が降り注ぐ中、殿下が私の手を引いて走り出す。

「大丈夫だ、フェナス!!俺を信じろ!!」

「殿下…!!」



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第189話 キマイラ・7

 隣を走り出したスピネルが、右手にある天幕の方を指す。

「馬に乗って行くぞ!殿下はそいつと一緒に乗れ!!」

「分かった!!」

 士官用の天幕の周りには防御結界が張られ、連絡や移動用の馬がたくさん繋がれている。あれで魔術師部隊のところまで走っていくつもりらしい。

 

「待ってください!我々も行きます!!」

 そう言って追いかけてきたのはテノーレンだ。魔術師と騎士をそれぞれ数人ずつ連れている。

「持ち場を離れて大丈夫なのか?」

「はい。ここが正念場だ、行って来いと」

 後ろを振り返ると、フェナスとビリュイが部下に指示を飛ばしている姿が見えた。彼らに心の中で感謝する。

 

 

 殿下の手を借り、大きな芦毛の馬の背に跨った。

 何も言わずとも私が乗りやすいように少し屈んでくれたので、ずいぶんと賢い馬だ。危険な戦場に連れてくるだけあって、よく訓練が行き届いている。

 手綱を握った殿下の胴に後ろから手を回す。

 私も一応馬術の心得はあるが、そんなに上手くはない。殿下の後ろに乗せてもらえるなら安心だ。

 

「そういえば、君は馬上でも魔術を使えるのか?」

「はい。大抵のものは使えます」

 自分で手綱を握りながらだとかなり難易度が上がるが、乗っているだけなら十分に魔術の行使は可能だ。かなり揺れるだろうが、多少の事では集中を乱さないよう普段から修業している。

「ただ、走っている間は視界が狭まりますし、前もよく見えません。攻撃は少し難しいかと」

 

 それを聞き、黒馬に跨ったスピネルがこちらを振り返る。

「よほどの事がない限り馬上で魔術は使わなくていい。馬に任せてればある程度は勝手に危険を避けてくれるだろうしな。殿下にしっかりしがみついとけ。それと二人共、向こうに着いても馬の近くからは絶対離れるなよ。…いざって時は、分かってるよな?」

「ああ」

 殿下が真剣な顔でうなずく。

 

 スピネルのその言葉に、彼が馬で行こうと提案したのは、ただ早く移動するためではないのだとようやく気付く。

 いざという時、すぐに戦場から離脱できるようにするためだ。

 万が一作戦が失敗しても、馬があればより早く遠くへ逃げられる。

 スピネルは必要ならば自分が盾となり、殿下や私が逃げる時間を稼ぐ事だってするだろう。彼はそういう人間だ。

 

 

 …改めて、命の重みが肩にのしかかる。

 私は殿下とスピネルも巻き込み、危険に晒そうとしている。

 もしかしたら私は、途轍もなく愚かな事をしようとしているのではないのか。ふいにそんな考えが頭をよぎる。

 

 今更ながら不安が襲ってくる。全身が冷たくなり、動悸が早くなる。

 手のひらに汗が滲むのが分かり、ぎゅっと拳を握った。

 だめだ。恐れている場合じゃない。落ち着けと自分に言い聞かせる。

 

「…大丈夫だ、リナーリア」

 すぐ近くで囁かれ、私は顔を上げた。

「君を信じている」

「殿下…」

 ローブ越しに感じる温もり。優しく力強い声。

 あっという間に、胸を押し潰す重苦しい不安が吹き飛んでいく。

 

「行くぞ」

「…はい!」

 そうだ。きっと大丈夫。

 自分の力を信じ、必ずこの国を守るのだ。

 

 

 

「俺が先頭を行く!騎士は俺の左右に付け!殿下は真ん中、魔術師たちが後ろだ!!」

「はっ!!」

 スピネルの黒馬が駆け出し、全員がそれぞれ後に続く。

 

 走り出してすぐ、馬上から空を見つめてライオスに呼びかけた。

「もう一度、さっきと同じ作戦を行います!合図をしたら雷を落としてください…!」

 こちらの声は届いているらしいが、向こうの声は私には聞こえない。しかしライオスは一瞬、確かに私の方を振り返った。

 そのままキマイラとの戦闘に戻ったので、承知したという事なのだろう。

 

 前方でまた噴石の音が轟いた。先頭のスピネルが叫ぶ。

「頭を下げて姿勢を低くしろ!このまま駆け抜ける!!」

 か、駆け抜ける?岩がどんどん落ちてくる中を?

 前傾姿勢を取った殿下が、前を見据えたまま私に言う。

「大丈夫だ、走っていればそうそう当たらない!」

「ひえぇっ…」

 その通りなんだろうけど怖い。ドカンドカンと噴石が落ちる音に、思わず情けない悲鳴が漏れてしまう。

 馬体が大きく揺れ、殿下の身体に必死でしがみついた。

 

 

「大鴉がこちらに来ます!!」

 騎士が叫び、スピネルが馬上で剣を抜くのが見えた。

「はっ…!!」

 気合と共に白刃が閃く。

 馬が駆け抜けていく横で、左右真っ二つになった大鴉が墜落していった。ま、マジか。

「お見事…!」

 騎士が感嘆の声を上げる。

 

 どうやって斬ったのか全く分からなかった。大鴉は少し上を飛んでいたのに、どうやって刃を届かせたんだ?

 感心を通り越して思考が止まりかけたが、魔術師部隊が布陣する場所へと近付いている事に気付き、慌てて気を引き締め直す。

 彼らは隊列を組み、一箇所に密集しようとしているようだ。遠話の魔導具によって既に指示が来ているのだろう。その周りを囲むようにして、部隊の護衛を担う兵たちが眷属と戦っている。

 眷属のうち大鴉はライオスを集中的に狙い始めたらしく、魔術師部隊を襲ってきているのは黒山羊がほとんどのようだ。

 私もあそこで戦うのだ。改めて体内の魔力を練り始める。

 

 

 

 

 魔術師部隊の所に到着して馬を降りると、すぐに一人の男がこちらへと近付いて来た。

「王子殿下!リナーリア殿!」

 ブロマージ。かなり実力のある王宮魔術師だ。特別親しい訳では無いが、顔見知りである。

 どうやら彼がここの魔術師部隊の隊長を任されているらしい。

 

「ここの防衛をして下さるとのことですが」

「はい」

 私はうなずき、水の弾丸を一つ作り上げると、近くまで飛んできていた大鴉を撃って見せた。胴を撃ち抜かれ、悲鳴を上げて落下する。

「…速い。しかも威力もある」

 

「この弾丸で噴石を撃ち落とせる事も実証済みです。これを16、さらに通常の水球を32まで同時に操作できます。水球は主に眷属への牽制と防御に当てますが、弾丸の補充にも使えます。全弾を撃ちきっても、水球が残っていればすぐに次の弾を撃てます」

「水と土の複合魔術に、水球…3重魔術ですが、問題なさそうですね。弾丸の方も水球がベースだから術を安定させやすく、魔力消費にも無駄がない。よく考えられた組み合わせだ」

 ブロマージがわずかに感心したように言う。

 今はセナルモント先生の元で正式に弟子として修業をしているので、私が3重魔術を使える事を王宮魔術師たちは皆知っている。水球を得意としている事もだ。

 

「魔力の残量も充分あるんですね?」

「はい」

 私は魔力量が多いし、今まで力を抑えながら戦っていたので大きな消耗はしていない。元々水球は消費魔力の少ない魔術なのだ。

 氷槍を準備している間ずっと3重魔術を行使すればかなり消耗するだろうが、そのくらいは十分保つ。

 その後の戦闘に関しては、状況に応じて行動する事になるだろう。

 ブロマージがうなずく。

「これならばお任せできます。ここの守りには貴女とあともう二人魔術師を配置し、残りは兵への支援に回します」

 

 さらに、後ろからスピネルとテノーレンや騎士たちが進み出た。

「俺たちは殿下とリナーリアを守りつつ、眷属と戦う」

「分かりました、よろしくお願いします。準備ができましたら合図をください。氷槍の準備を始めます」

 ブロマージは部隊の前の方へ戻っていった。

 こうしている間にも噴石が飛来し、眷属も襲ってきている。急がなければ。

 

 

 

 ゆっくりと呼吸をし、目を閉じて精神を集中させる。

『…大気に潜みし水よ、集いて球を成せ』

 まずは大気中の水分を集め、魔力で増幅。16個の水球を召喚する。

 

『土よ、石よ。より硬きもの、より(つよ)きもの、ここに集え』

 次に土中からなるべく硬い砂粒を選り分けて取り出し、魔力で強化した上で地表に撒いておく。

 

『水球よ。内包し、圧縮し、回転し、力を溜めよ』

 水球の中に選り分けた砂を混ぜ込み、強い圧力をかけて小さく縮め、弾丸を作り出す。

 

 

 水だけで作った水球は、柔軟で操作性に優れるが攻撃力はほとんどない。

 高圧をかけて小さくすればある程度の威力を持たせる事はできるが、硬い装甲を持つ魔獣や金属の鎧が相手になると歯が立たない。

 それを何とか解消できないかと考え、開発したのがこの魔術だ。圧縮した水球の中に細かな砂を混ぜ、高速で回転させて撃ち出す。

 水の圧力に砂の硬さが加わる事で、想像以上の破壊力を生み出すことができた。

 

 これの良い所は、召喚済みの水球があれば素早く大量に弾を補充できる所だ。

 同時に撃てるのは16発までだが、水球があれば防御や牽制をしながらでも即座に全弾を補充して次を撃てる。もちろん弾の数だけ水球は減ってしまうが、隙を見て追加で召喚すればいい。

 さっき土魔術で強化した砂を地表に撒いておいたのも、後で補充の弾に使うためだ。普通の土や砂でも弾丸の素材にできるが、より硬い砂を使えば更に破壊力を上げられる。

 

 さらに32個の水球を召喚し、周辺に散らしていく。

 宙に浮かんだ全ての水球と水の弾丸が安定したのを確認し、目を開いた。

「準備完了です!いつでもいけます!!」



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第190話 キマイラ・8

 まず、ブロマージが氷槍の魔術構成を大きく広げた。

 続いて魔術師たちが集中を始め、それぞれ構成を広げていく。

 

 複数人で行う大規模魔術において最も重要なのは、この段階での魔力の波長の調整だ。

 人はそれぞれ魔力の波長が違う。2人や3人ならば無理矢理合わせる事もできるが、それが数十人にもなると、波長のズレは構成を大きく歪ませ魔術を変容させる。暴走してしまう事すらあるのだ。

 そのため組織に所属し戦闘を生業とする魔術師は、大規模魔術の際にリーダーの魔力に波長を合わせる訓練を行っている。

 

 今回のリーダーはもちろんブロマージだ。

 リーダーを務める魔術師は、他の魔術師たちが合わせてくる間、波長がぶれないよう一定の出力を保ち続けなければならい。

 熟練した技術と強い精神力が必要になる役割だ。

 

 

 キマイラが噴石を撃ち出す音が轟いた。

『…発射!!』

 軌道を見極めて水の弾丸を動かし、迎撃する。

 魔術師部隊の辺りに向かってくるのは全部で7つ。問題なく撃ち落とす。

 

 ちらりと前線を確認する。

 キマイラの周辺で戦っている兵が受ける攻撃は、基本的に防御担当の魔術師たちが分担して防いでいるが、対処しにくい高度からの噴石などはライオスが防いで助けてくれているようだ。

 おかげで兵たちは休みなく剣を振るいキマイラを攻撃している。火炎のブレスや尻尾、更に眷属がひっきりなしに襲っているが、なんとか必死で耐えているようだ。

 

 

 噴石が一旦やんだ事を確かめてから、水球から弾丸を補充する。

 減った水球も再召喚し、魔術師部隊や私たちへ襲いかかってくる眷属を牽制。

 黒山羊の鼻先をかすめ、行手を塞ぎ、狙いを逸らす。

 無駄に消費しないよう、基本的にぶつけることはせずに動かしていく。

 

 水の弾丸はいつでも噴石を迎撃できるように温存だ。

 攻撃は殿下やスピネル、騎士やテノーレンたちが担ってくれている。

 特に凄まじい動きをしているのはスピネルだ。的確に急所を狙い、かなりの数の黒山羊にとどめを刺している。

 殿下はできるだけ私から離れないようにして戦っている。得意の守りを活かした剣で、とどめは他の者に任せ、黒山羊の激しい突撃を逸らしたり足元を狙った攻撃をしている。とりわけスピネルとのコンビネーションが見事だ。

 

 

 再び噴石の音。

 思ったより早いペースで撃ってきている。こちらが大規模魔術の用意をしている事に気付いたのか。

 さっきより数が多い…いや、違う。妙に狭い範囲に、噴石が密集して飛んできているのだ。

 無駄撃ちはできない、しっかり見極めなければ。ここに落ちそうなものは11、いや、12。

『発射…!!』

 似たような軌道で2つ連続で飛んできたため、1つはギリギリのタイミングになってしまったが、何とか上空で撃ち砕く。

 

「…リナーリア!!」

 大きめの破片が私の方へ落ちてきたのを、殿下の剣が弾き飛ばした。

 しかし礼を言う余裕もなく、大急ぎで背後を振り返る。

 

 私たちの後ろ20メートルほどのあたり、誰もいない場所にたくさんの穴が穿たれ、煙が立ち昇っている。

 たった今地面に墜落したばかりの噴石の煙。こちらには当たらないと判断して撃ち落とさなかったものだ。

 明らかにその辺りだけ、噴石が集中して落下している。

 

 

 …恐ろしい予感にぞっと背筋が冷える。

 キマイラは噴石を前方に向かって無差別に飛ばしているものとばかり思っていたが、もしかしたらある程度狙いを定められるのではないか。

 ここの背後に多く落ちたのは、まだ距離を上手く測れていなかったせいだとしたら。

 地鳴りが聞こえ、再び前を向く。

 大規模魔術の準備はまだ整っていない。

 

 スピネルが走り、私が水球で怯ませた黒山羊の首を斬り飛ばした。蹄が頬をかすめ、そこから血が飛ぶ。

 テノーレンが大きな火球で大鴉の胴を撃ち抜いた。

 一緒に来た老齢の魔術師が別の黒山羊の角に雷を落とし、騎士たちがその隙に斬りかかった。彼らも大小の傷を負っている。

 私の方を狙って飛んできた大鴉を、殿下の剣が両断した。

 

 再び咆哮が聞こえ、轟音が響いた。全神経を前方の空に集中させる。

 魔術師たちを、皆を守れ。多くの命、大切な人たちを。

 今までの速度では間に合わない。

 もっと速く、もっと正確に。最大限の速度で撃て。

 

 噴石がやけにゆっくりと動いて見える。やはり魔術師部隊を狙っているものが多い。30近くある。

 まるで時間の流れが遅くなったかのようだ。少しずつこちらに近付いて来ている。

 きつく睨みつけ、水の弾丸に命令を下した。

『発射!!』

 

 更に、即座に水球から次弾を生成。

 最初の16発が噴石に着弾するのとほぼ同時に、次の16発を撃つ。

『発射…!!』

 

 

 ドドドドドン、と爆発音が連なる。

 …ここに降ってくる噴石は全て撃ち砕いた。全部で28個。なんとか数が足りた。

『風よ、吹き飛ばせ!!』

 空中に生じた大量の破片をテノーレンが風の魔術で吹き飛ばしてくれる。助かった。

 余った4発の水の弾丸は近くにいた眷属に撃ち込み、一旦魔術を解除する。

 

「ハッ、ハッ…」

 深く集中したせいで消耗してしまった。少し息が切れている。でも大丈夫だ、まだやれる。

 もう一度水球を召喚しようとした時、魔術師部隊から声が聞こえた。

「氷槍、準備整いました…!」

 全員の波長が揃ったのだ。巨大な一つの魔術構成が広がる。

 

 

「…ライオス!!!」

 声の限りに叫ぶ。

 キマイラの上空でライオスが腕を振り下ろした。

 眩しく輝く激しい雷撃が、キマイラの身体に降り注ぐ。

 

『……、…え!……止めよ!!』

 立て続けに轟音を浴びたせいか詠唱がよく聞こえない。だが、巨大な氷の塊が生まれていくのははっきりと見える。間近で見ると凄い大きさだ。

『天地万象を貫く槍となり、敵を討て…!!!』

 

 獅子頭の額をめがけて撃ち出された巨大な氷槍は、今度こそ黄金の瞳を貫いた。

 

 

 

 

「グオオオアアアアアァァァ……!!!!」

 額の目を潰され、顔面の上半分を凍りつかせたキマイラの苦痛の咆哮がびりびりと身体を打つ。

 耳がおかしくなりそうだ。いや、もうなっている。ぐわんぐわんと頭の中で音が反響している。

 眩暈のような感覚を堪え、キマイラを睨みつけた。ここからが正念場だ。

 

 前線の兵の鬨の声が、耳鳴りの向こうでかすかに聞こえた。総攻撃が始まったのだ。

 ライオスが両手に力を溜め始める。

「…第1、第2魔術部隊はキマイラを攻撃!!第3から第5部隊は前線に防御魔術、キマイラの火炎攻撃と尻尾を止めろ!!第6、第7部隊はここの防御と眷属の掃討!!なるべくこちらに引きつけろ!!」

 ブロマージが指示を飛ばし、魔術師たちがそれぞれ戦闘を開始した。彼らも相当消耗しているはずだが、ここで踏ん張らなければ勝てない。

 

 

 殿下が走り寄ってきて私の顔を覗き込んだ。

「リナーリア、大丈夫か」

「はい。まだいけます」

 切れていた息も整ってきたし、まだ少し耳が痛いが音もちゃんと聞こえている。魔力も残っている。

「よし。もう少しだ、頑張ろう!」

「はい…!」

 顔を上げた私の前で、殿下が改めて剣を構え直した。

 

 その間も、スピネルや魔術師部隊は眷属と戦っている。

「右だ!黒山羊が3体来ている!」

「上から大鴉も来てるぞ!!」

 黒山羊が切り裂かれ、大鴉が焼かれる。そこかしこで絶え間なく断末魔が上がっている。

 とにかく敵の数が多い。魔術師たちがなるべくこちらに誘導しているせいもあるが、眷属の召喚ペース自体が上がっている。キマイラも必死なのだ。

 

 

「うわあぁ…っ!」

 前方から兵たちの悲鳴が聞こえた。

 噴石を封じられたキマイラが、地面にめり込ませていた前足を振り回し始めたのだ。

 かすっただけでも吹き飛んでしまう威力だ。蹴散らされた兵が遠くに落ち、そのまま動かなくなる。

 

 しかも、口から吐く火炎の勢いが増している。足元に群がる兵たちに吐きかけたかと思うと、突然首を巡らせライオスへ大きな炎を飛ばしたりしている。

 ライオスは辛うじてそれを避けているが、彼はただでさえ大鴉の群れからの攻撃を受けているのだ。更にキマイラの攻撃を避けていては、力を溜めるのにますます時間がかかってしまう。

 

 

「…私はキマイラへの牽制攻撃に入ります!!」

 そう宣言し、32個の水球を召喚した。そのうちの16個を弾丸に変える。

 キマイラまでは少しばかり距離があるが、この水の弾丸なら十分に届く。

 しかし水の弾丸は貫通力こそ高いが、キマイラの巨体に対してあまりに小さい。バラバラに当てた所で大したダメージにはならないだろう。

 ゆえに全ての弾丸を1箇所に集中させ、同時に撃ち込む。

『発射!!』

 

 

「グゥ…!」

 キマイラはわずかに苦痛を感じたようだが、それだけだ。動きはほとんど止まる事はなく、蹄を振り下ろしては火炎を吐き続けている。

 これでも威力が足りないのか。

 

「だったら…!」

 水球を追加で召喚して補充し、弾丸を2回連続で撃ち込む。

 合計32発の弾丸がまとまって命中し、キマイラの腹に穴が開いた。

「…ガアァッ!!」

 今度はちゃんと効いた。一瞬だが動きを止められた。これならばいける…!



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第191話 キマイラ・9※

『…発射!』

 何度も水球を召喚しては、ひたすら弾丸に変えて撃つ。

 魔術師部隊からも上級の攻撃魔術が絶え間なく飛んでいる。

 魔力切れで倒れる者の姿が目の端に映った。限界を超えるまで魔術を使い続けたのだ。もう既に何人か同じように倒れたり、戦線を離脱している。

 

 だが、その頑張りのおかげでキマイラは思い通りに動けず、上手く兵を攻撃できていない。攻撃しようとするたびに妨害され、出鼻を挫かれているのだ。

 兵たちが大声を上げながら懸命に剣を振るう。彼らも傷だらけだ。

 殿下やスピネルもまた負傷している。治癒を受けるその間すら惜しいのだ。

 

 皆が血を流し、土にまみれ、無傷の者など誰もいない。

 痛みなど忘れたかのように、なりふり構わず無我夢中で戦っている。

 

 

『発射…!』

 連続で水の弾丸を撃ち込む。

 こんなに続けざまに大きな魔術を使ったのは初めてだ。実戦で長時間集中力を維持し続けるのが、これ程に苦しいとは。訓練の時とは消耗の度合いがまるで違う。

 息が苦しい。頭がガンガンと痛む。手足の感覚がない。

 だが、もう少しだ。もう少しだけ耐えろ。

 次の水球を召喚しようとした瞬間、足元がふらついた。

 

「…リナーリア!!」

 地面に膝をつきそうになった私の耳に、殿下の声が届く。

「ハァッ、ハァッ…、だ、大丈夫、です…!」

 両足に力を込め、なんとか姿勢を立て直した。

 上空のライオスの手には凄まじい力が集まっている。きっとあともう少しだ。

 

 

 

「グアアアアアアア…!!!!!」

 キマイラが雄叫びを上げる。

「…!!まずい、目が…!!」

 誰かが叫び、はっとキマイラの頭を見上げた。

 獅子頭の額を覆っていた氷がいつの間にか蒸発し、潰された目の周りの肉が盛り上がっている。

 瞳が再生しようとしているのだ。

 

 …絶対に阻止しなければ。

 瞬時に決断する。

 再生しかけの今なら、まだ柔らかく脆いはずだ。やるしかない。

 

 

『…大気に潜みし水よ、集いて球を成せ!』

 32の水球を再召喚し、両腕を広げる。

『内包し、圧縮し、回転し、力を溜めよ…!』

 左右に16個ずつの水球。残った魔力を振り絞って両手に同じ構成を広げ、同時に複合魔術を発動した。

 連続魔術ではない、完全同時の4重魔術だ。

 

 1年前のあの武芸大会の時からずっと、多重魔術の修業に力を入れてきた。

 あの時は周りがろくに見えず、呼吸も忘れるほどに集中して没入しなければ4重魔術を行使できなかった。

 今も完璧に4重魔術を制御できているとは言えない。だが、あの時よりはずいぶんマシに使えるはずだ。

 2つの複合魔術を合わせた相乗効果によって、今までよりも遥かに高い破壊力を生み出すことだって、きっとできる。

 

 

 32個の水の弾丸を1つに固め、巨大な弾を作り出していく。荒れ狂う凄まじい高圧に、今にも暴発しそうになるのを必死で抑え込む。

 チャンスは一発きりだ。絶対に外す訳にはいかない。

 しかし、目が霞んで狙いが定まらない。ただでさえキマイラは動いているというのに。

 今まで休みなく連続で魔術を行使してきたツケだ。魔力も集中力も、限界が近付いている。

 

 かざした手が震えてしまう。

 …もし、これを外してしまったら。その時はもう、何の手立ても思いつかない。

 強く歯を食いしばった時、誰かが私の腕に触れた。

 

 

「…ここだ、リナーリア」

 …殿下だ。私の腕にそっと手を添え、支えてくれている。

「信じろ。必ず当たる」

 力強く、揺るぎない声。

 

「…はい!!」

 迷う必要などない。私は殿下を信じている。

 そして、殿下も私を信じてくれている。

 

 

 深く、深く集中する。

 全ての音が周囲から消え失せ、キマイラの、兵たちの動きが突然遅くなる。

 ひどく身体が重い。腕がまるで鉛のようだ。だが、確かな熱が支えてくれている。

 かざした手の先、大きな弾丸の向こうに、今にも再生しようとしている第3の目をはっきりと捉える。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

『発射…!!!!』

 

 最後の命令を受け、目にも留まらぬ速度で弾丸が射出される。

 それはキマイラの額の真ん中に直撃し、黒い血を飛び散らせた。

「グ……ッ…」

 暴れ出そうとしていたキマイラの動きが鈍くなる。

「今だ!畳み掛けろ…!!」

 

 

 次々に攻撃魔術が炸裂する。

 いくつもの刃が、その硬い皮膚を切り裂く。

 

 その瞬間、上空が強く輝いた。ライオスだ。

 両手の中に光の大剣を生み出し、キマイラに向かって高速で飛ぶ。

『…はああああっ!!!!』

 

 眩い一閃が天地を貫いた。

 

 

「…アアアアァァ……」

 おぞましい咆哮がどんどん力を失い、か細くなっていく。

 獅子頭がゆっくりと傾き、ずり落ちる。

 それは地面につく寸前、燃え尽きたかのようにぼろぼろと崩れた。

 

 

 

 

 

 …わああああああっ!!!!と、兵たちから歓喜の声が上がる。

「やった…!!倒したぞ…!!」

「超大型を倒したんだ…!!!」

 快哉を叫ぶその周りで、動きを止めた眷属たちがゆっくりと宙に溶けるように消えていく。

 

 

「か…、勝ちました…?」

 全身から力が抜ける。ふらつき倒れそうになる私を、殿下がしっかりと支えた。

「ああ。俺たちの勝利だ…!」

 …本当に勝ったのか。キマイラの巨体が崩れて消えていくのを目の当たりにしても、まだ信じられない。

 

「…そうだ!勝ったぞ!!」

 私に向かって微笑んでいた殿下の肩を、がしっと抱いたのはスピネルだ。

「やったなあオイ!!マジで勝ったぞ、あのデカブツに!!」

「そうだな…!一時はどうなる事かと思ったが」

 殿下が笑いながらスピネルの腕を叩く。

 

「お前の最後の魔術凄かったな!!でっかい弾丸のやつ!!やるじゃねえか!!」

 スピネルはよほど嬉しいらしく、珍しく満面の笑みだ。めちゃくちゃテンションが高い。

「え、ええ、まあ…わ、わあ!」

 とりあえずうなずいた私の頭を、スピネルがわしわしと撫でる。撫でるというか、かき回している。もうぐちゃぐちゃだ。

 

「ちょ、ちょっと、やめ…!」

「ぷっ…ははは!!」

 スピネルの手を止めようとしたら、殿下が大声で笑った。スピネルも更に笑う。

 二人の笑顔を見ていたら、私もじわじわと勝利の実感が湧いてきた。

 …嬉しい。私たちは、勝ったのだ。

 思わず笑みがこぼれ、3人で抱き合うようにして笑い合う。

 

 

「スピネルも凄かったですよ!黒山羊と大鴉、何体倒したんですか?」

「そんなんいちいち数えてねーよ!それに、殿下との連携あってこそだからな。殿下がいなかったらあんなに倒せてねえ」

「あっ、そうです!殿下も本当に凄くて…何度も助けてくださってありがとうございました!!」

「ちゃんと守れて良かった。それに、一番凄かったのは君だ。…やはり君は、勝利の女神だな」

「そ、そんな…。それに最後は、殿下が支えてくださったおかげで当てられたので…」

 殿下にも褒められてしまった。嬉しくて、つい胸が熱くなる。

 

「最後のあれは、奥の手だったんです!ばっちり決まりました…!」

「そ、そうですよ、あれ、凄い!!」

 ドヤ顔になる私に、勢い込んで話しかけてきたのはテノーレンだ。

「あれ、4重魔術ですよね!??凄い!!凄いです…!!あんなにいっぱい、凄いいっぺんに撃って、凄い!!」

 こちらもめちゃくちゃ興奮していて、完全に語彙力が死んでいる。

 

「多重魔術は得意なので。密かに練習してきた甲斐がありました!!」

 こうストレートに褒められると、私としても悪くない…というか、非常に嬉しい。

 テノーレンは言葉ではさっぱり表現できていないが、あれが技術的にどれほど凄いのかは、王宮魔術師の彼にはよく分かっているはずである。

 

 

『…そうだな。あれは見事な一撃だった』

 翼の音と共に、そう言って空から舞い降りてきたのはライオスだ。テノーレンや近くにいた騎士たちがビクッと固まる。

「ライオス!貴方の最後の一閃も本当に凄かったです!!」

 若干つんのめりそうになりながら、ライオスの元に駆け寄る。

 

「あの光の大剣、まるでおとぎ話の英雄みたいでした。邪悪な竜と戦う英雄の…あ、いや、竜といってもあの話に出てくるのは多分魔獣で竜とは違うんですが…あっ、そうか、ライオスはきっと人間のおとぎ話は知らないですよね。今度本を見せます!!」

『あ、ああ』

 早口でまくし立てる私に、ライオスはちょっとびっくりしている様子だ。

 しまった、私もついテンションが上ってしまっている。

 

 

 殿下が歩み寄り、ライオスの顔を見つめた。

「本当に感謝している。ライオス、君が力を貸してくれたおかげで、俺たちはこうして無事に勝利を喜び合えている。…ありがとう」

 頭を下げた殿下に倣い、スピネルも頭を下げた。

「俺からも感謝する。ありがとう」

「あ、ありがとうございます…!!」

 テノーレンや騎士、魔術師たちも慌てたようにそれに続く。

 

 私もまた、深々と頭を下げた。

「貴方が来てくれなかったら、私たちはきっと勝利できていなかったでしょう。王都は襲われ、数え切れないほどの血や涙が流れていた…。本当に、ありがとうございました」

 

 

『…我はただ、そなたや、そなたの母の願いを叶えただけだ』

 口々に感謝され、ライオスはずいぶんと戸惑っているようだ。

 もしかしたら、今までこんな風に感謝された事があまりなかったのかもしれない。

 

 だから私は、笑いながら言った。

「ライオス。そういう時は、『どういたしまして』って言うんですよ!」



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第192話 勝利の宴

 戦いの後は、そのまま周辺で休息を取る事になった。

 誰もが疲弊し切っていて、地面にへたり込んでいる者がたくさんいる。負傷し、手当てを受けている者も多い。

 私も余力があれば手当てを手伝いたかったのだが、もうほとんど魔力が残っていないし、頭痛もひどい。

 大人しく医術師や衛生兵たちに任せるべきだろうと、殿下たちと一緒に司令本部の方に戻って休む事にする。

 

 

 天幕の中で水やお茶を飲んでいると、フェナスとビリュイが入って来た。

「現在、王都への転移魔法陣は負傷者の移送を優先して行っています。完了するまでかなり時間がかかる予定で、周辺の魔獣の掃討などの後始末などもあります。申し訳ありませんが、帰還は明日まで待っていただけますか」

「分かった」

「はい。問題ありません」

 殿下も私もすぐに了承する。

 負傷者が優先なのは当然だし、もう日も暮れかかっている。何よりとにかく疲れている。

 超大型とその眷属は消えたが、活性化して増えた魔獣があちこちにまだ潜んでいるだろうし、下手に動くより今日はここで休んだ方が良いだろう。

 

「王都からは薬などの他、兵を労うための食べ物や酒なども届いています。ただいま祝宴の用意をさせております」

「ああ」

 ふむ…これはきっと、宴の前に殿下が兵たちに挨拶をする流れになるやつだ。

 また殿下の評判が上がってしまうな。私もものすごく鼻が高い。

 

 

「竜人殿も宴にご参加いただけますか?」

 フェナスが私の隣のライオスに尋ねる。

 ライオスは今まで天幕の中で私たちと一緒に休んでいた。勝利後そのまま帰すのはあまりに申し訳なかったので、皆で引き止めていたのである。

 

『宴…』

「皆で勝利をお祝いして、食事をしたりお酒を飲むんです。ライオスもお腹が空いたでしょうし、ぜひ参加してください。私たち皆からのお礼です」

『お礼…つまり対価か。いいだろう』

 それを聞いてフェナスは少し安心した顔になった。一番の戦功者に対し何の礼もできないのでは、司令官としての面子が立たないからだろう。

 

 それから、少しだけ王都の様子なども聞いた。

 実は私たちが戦っている間に、王都にも魔獣が襲来していたのだそうだ。

 非常に足が速い馬型の大型魔獣が出現し、一気に駆けて王都を襲ったのだという。

 思わず動揺してしまったが、大型魔獣はしっかりと城壁の外で食い止め、討伐できたらしい。

 結界の一部が破られて鳥型や猿型の魔獣が王都内に入り込んだりもしたそうだが、戒厳令が敷かれていたために一般市民は出歩いていなかったし、すぐに騎士団も出動した。ほとんど犠牲は出なかったとの事で、良かったと胸を撫で下ろす。

 

 

 

 

 宴の準備が整ったのは、日が沈んで辺りが暗くなった頃だ。

 いくつもの篝火が焚かれ照らされる中、それぞれに杯が配られる。

 私も片手に杯を持った。先生が持っていた薬を分けてもらったので、頭痛はもうすっかり治まっている。

 

 フェナスに促され、殿下が前へと進み出た。

「…まずは、今日の戦いで犠牲になった者たち。その勇猛なる魂に、黙祷を捧げたい」

 全員が静かに瞑目し、片手を胸に当てる。

 戦死者の数はまだはっきりとは聞いていないが、やはり少なからぬ数が犠牲となってしまったようだ。

 キマイラはここ数百年ほど出現していなかった超大型の魔獣だ。それにしては驚くほどに死者を抑えられたはずだが、彼らの命を「やむを得ない犠牲」の一言で済ませたくはない。

 できる限り報い、弔えたらと思う。

 

 

「皆、本当によく戦ってくれた。お前たちの奮戦によって超大型魔獣は討伐され、多くの命が守られた。その雄姿は後々まで人々に語られ、勇気を与え続ける事だろう。傷付き、友を失った者もいるだろうが、今はどうか勝利に胸を張って欲しい。お前たちはよくやった」

 それから殿下は、後ろのライオスを振り返る。

 

「この戦いにおいては、竜人ライオス殿に助力を頂いた。彼がなぜ、どうして我々を助けに現れたかについては後日語ろう。だが、一つ確かに言える事がある。彼は人間に…この国の民に仇なす者ではない。歩み寄り、理解し合える存在だ。それは俺が言葉を尽くして語るまでもなく、皆がもう分かっている事だろう」

 そこかしこから、おう!とか、はい!とかいう声がたくさん上がる。

 共に戦いキマイラにとどめを刺したライオスの姿を、この場の誰もが見ている。それは何よりも雄弁に、ライオスというのがどんな存在かを彼らに知らしめてくれたはずだ。

 

「ライオス殿を含め、さまざまな者たちの手助けによって今日の勝利はある。全ての者に感謝を捧げよう。…だが今はとりあえず、皆で称え合い、労い合ってくれ。勝利の美酒に酔い、料理に舌鼓を打って、戦いの疲れを癒やしてくれ」

 片手に持った杯を、高く掲げる。

「…乾杯!!」

「かんぱーい!!!!」

 全員が、大声で唱和した。

 

 

 あちこちから肉の焼けるいい匂いがする。

 野外なので、牛や豚や鶏を丸焼きにしたり串焼きにしたシンプルな料理がメインだ。

 パンだとかシチューもあるようだが、お腹も空いているしまずは串焼き肉にかぶりつくことにする。今夜ばかりは、テーブルマナーなんて気にしなくていい。

 

「うん、美味いな」

 もう空腹が限界だったらしい殿下はもりもりと串肉を頬張っている。

 同じく肉を咀嚼していたスピネルが笑った。

「さっきの乾杯の挨拶の間ヒヤヒヤしたぜ。途中で殿下の腹が鳴ったらどうしようってな」

「そうだな。正直危なかった。あと1分長く話していたら鳴っていた」

 殿下が真面目な顔でそう答えたので、私は思わず噴き出してしまった。危うく別の意味で語り草になってしまう所だった。

 

 

「ライオスはどうですか。美味しいですか?」

『ああ。山の獣の肉より、ずっと柔らかい』

「お酒は口に合いますか?」

 ライオスにはとりあえず、私と同じ白ワインを渡してある。

『これが酒というものなのか』

「え、初めて飲んだんですか?」

 見た目はどう見ても大人なんだが、まずかったかな?とちょっと焦る。しかしライオスは勢いよく杯を飲み干した。

 

『気に入った』

「それは良かったです」

「竜ってのは酒好きなんだってよ。多分相当飲めるぞ」

「そうなんですか」

 スピネルは麦酒(エール)のジョッキを傾けている。竜が酒好きなんて初耳だが、どうやらミーティオから聞いたらしい。

 後で先生にも教えてあげよう。先生は今頃、魔術兵の知り合いたちと酒を酌み交わしているはずだ。

 

 

 

 少しの間飲み食いしてから、殿下とスピネルは席を立った。

 兵の間を回り、労いの言葉をかけるつもりらしい。さすがは殿下だ。

 かなり飲まされそうな気もするけど大丈夫かな…。

 

 しかし、酒も肉もなかなかの大盤振る舞いだ。

 王都から手伝いに呼ばれたらしい料理人たちが、次々に肉や野菜を捌き、串に刺しては焼いている。

 兵たちは大樽から直接酒を注ぎ、浴びるかのように飲んでいる。

 早くも酔っ払う者が続出し、歌えや踊れの大騒ぎだ。

 

 

 私はビリュイやブロマージの挨拶を受けたりしつつ、すごい勢いで飲み食いしているライオスと一緒に隅の方で宴の様子を眺めていたのだが、途中でスピネルが呼びに来た。

「兵たちがライオスに礼を言いたいと言っている。来てくれないか?」

 ライオスはキマイラとの戦いで、多くの兵を助けていた。兵たちが感謝を伝えたいと思うのは当然だし、ライオスにもその気持ちを受け取って欲しい。

 

「行きましょう、ライオス。彼らの言葉を聞いてあげてくれませんか」

『良いだろう』

 頼んでみると、ライオスは案外あっさり承諾した。

 肌が褐色なので分かりにくいが、少し顔が赤らんでいるような…?さっきから相当の量を飲んでいるし、ちょっと酔ってるのかもしれない。

 

 

 ライオスが姿を見せると、兵たちは少し緊張した表情になった。

 だが、ある一人の若い騎士が決意のこもった顔で前に進み出る。

「…竜人様!!本当にありがとうございました!!」

 大声でそう叫び、ガバッと頭を下げる。

「俺、本当に死ぬ所だったんです。キマイラの火炎を吐きかけられる寸前で、竜人様の光の弾に助けていただきました。ありがとうございました…!!」

 

 すると、また別の兵士が声を上げる。

「お、俺も助けてもらいました!ありがとうございます!!」

「俺も…」

「僕もです!今生きているのは、竜人様のおかげです!」

「ありがとうございます…!!」

 

 

 周り中から「ありがとう」の大合唱である。

 酒が入っているせいもあるのだろう、赤ら顔の者が多いが、もはや誰一人ライオスを怖がっていない。

 皆が感謝の言葉を口にしている。今こうして、無事に生きている事を喜んでいる。

 私も、彼らが笑顔でいる事が嬉しい。できればライオスにも、その気持ちを分かって欲しい。

 

 隣のライオスを見上げると、とにかくびっくりしているようで何だか目を丸くしている。こんなにたくさんの人間に囲まれ、感謝されるのなど初めてだからだろう。

「ライオス。ほら、あれですよ」

 私がこそっと声をかけると、ライオスははっと我に返り、それからぼそぼそと言った。

『…ドウ、イタシマシテ』

 発音はかなりぎこちないが、古代語ではなく私たちの言葉だ。きちんと覚えてくれたらしい。

 

 

 これに兵たちはすっかり大喜びで、殿下たちも一緒にそのままそこで祝杯を交わすことになってしまった。

 私はただライオスの付き添いのつもりで来たのだが、同じくドボドボと酒を注がれてしまう。

 一人の魔術兵が私に話しかけてきた。

「あの最後にキマイラの額を撃った魔術、見てましたよ!凄かったです!!」

「あ、はい。ありがとうございます」

 

「え、あれを?何だか凄まじい威力だったやつだろう?」

「王宮魔術師にこんな美人で若い子がいるなんて…」

「バカ、お前、この方はジャローシス侯爵家のお嬢様だよ!」

「えっ!?」

 若い兵士が驚く。私の顔は殿下の護衛や王宮魔術師以外にはあまり知られていないはずだからな。

 

 

「ジャローシスって…あの秘宝事件で攫われたって言う、殿下の…」

「…え?王子殿下、何でここに連れて来てるんですか…?」

 …あっ。まずい。殿下が引かれている。

 傍から見れば貴族令嬢を戦場で連れ回している王子な訳で、よく考えたらこれはまずい。殿下の評判に傷を付けてしまう。

「あっ、いえ、これはその…」

 

「ジャローシス領は竜に(ゆかり)の深い土地だからな。ライオス殿に助力を頼む際、彼女の協力がどうしても必要だったために来てもらったんだ」

 助け舟を出してくれたのはスピネルだ。しかも別に嘘は言っていない。

「あ、そうか、俺も聞いた事ある。ジャローシス領の火竜山の竜伝説」

「へえ…」

 心当たりがある者もいるようだ。うちの近郊の出身なのかもしれない。

 

「ええ、そうなんです!それで、戦場に来たからにはお役に立ちたいと私が無理を言って、戦闘に参加させていただいたんです。その間、殿下はずっと剣を振るい私を守って下さっていました!本当に勇ましい戦いぶりでした!!」

 私も殿下をフォローしなければ。身を乗り出し、兵たちに力説する。

 

 殿下は私の肩に手を置くと、兵たちに言った。

「リナーリアの魔術は本当に見事で、その勇気は素晴らしかった。俺など大した事はしていないが、そんな彼女を最後まで守れた事をとても嬉しく思っている」

「殿下…」

 微笑みかけてくる殿下の視線は温かく、何故だか頬が熱くなる。

 

 

「…尊い…!!!」

 誰かが感極まったような声を上げた。周囲に拍手が沸き起こる。

「素晴らしい…」

「王国の未来は安泰だあ…!!」

 いや、まあ、その意見には賛成だけども。注目されて、ものすごく恥ずかしい。

 

「お二人の未来に乾杯!!」

「かんぱーい!」

「かんぱーい!!」

 兵たちが揃って杯を打ち付け合い、次々に飲み干していく。

 私もほとんどヤケクソで、「かんぱーい!!」と杯を掲げて飲み干した。

 

 

 …それから、何杯も酒を注がれ飲むことになってしまった。

 頭がふわふわとして、身体が温かい。少し飲みすぎているかもしれない。

 だけどまあ、今夜くらいは良いか、と思う。

 周囲の誰も彼もが笑顔だ。殿下も、スピネルも、兵たちも、笑いながら酒を酌み交わし合っている。

 

「ほら!竜人様ももっと飲んで下さいよ!」

『ああ』

 あのライオスですら、戸惑いながらもちょっと楽しそうに見える。

 私は静かに、彼の隣に近付いた。

 

「見て下さい、ライオス。これが私の守りたかったものです」

 そう言って笑いかけると、ライオスは改めて宴の様子を見回した。

 篝火の下、陽気に歌い騒ぐ人間たちを映す赤い瞳は、いつもよりずっと柔らかい。

『…ああ。そなたからの対価、確かに受け取った』

 杯を傾けるその口元は、少しだけ笑っているように見えた。



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第193話 凱旋・1

「うう…、頭が痛いです…」

 翌朝、私はまたもや凄まじい頭痛に苛まれていた。

 しかし昨日とは違い、明らかに二日酔いによるものである。

 飲み過ぎかなと思いつつ、つい勧められるままに飲んだのが間違いだった。

 

 殿下が心配げに私の顔を見る。

「大丈夫か、リナーリア」

「はい…さっき解毒と鎮痛の魔術を使ったので、もう少ししたら良くなるかと…」

 今はもうだいぶ魔力が回復しているので自分で魔術を使える。ただ、頭痛で集中力が削がれているせいか少々効きが悪い。

 

「殿下は何とも無いんですか…?」

「ああ。少し眠いが」

「マジかよ…あんなに飲んでたのに…」

 横のスピネルも、私ほどではないがだるそうにしている。

 昨夜の殿下はそこら中の兵士から酒を注がれてはカパカパと飲んでいたのだが、どう見ても元気そうだ。

 前世でもかなり酒に強い所は見ていたのだが、まさかこれほどとは…。さすが殿下だ…。

 

 

「そう言えば、ライオスはどこに?」

「あいつならさっき、水を浴びるとか言って川の方に飛んでいったぞ。あいつも二日酔いっぽいな」

「ええっ?」

 昨夜、殿下と同じくらい酒を飲んでいたのがライオスだ。やはり兵士から酒を注がれまくっていて、途中からは何だか殿下と張り合うようにして飲んでいた。

 私はハラハラしながらそれを見守っていたのだが、そのうちすっかり眠くなってしまい、うつらうつらしていた所をスピネルに「もう寝ろ」と言われ女性士官用の天幕に押し込められた…はずだ。よく覚えていないが。

 

「それまではその辺で丸まって寝てた。いくら竜人でもあの量を飲むのはさすがに無理だったらしいな。あれに勝つとか、殿下はどんだけウワバミなんだよ…」

 という事は、飲み比べは殿下が勝ったのか。

 思わず殿下の方を見ると、珍しくちょっと勝ち誇った顔をした。ライオスに勝てたのがそんなに嬉しいのだろうか?

「朝飯もあるって言っておいたし、まあそのうち戻って来るだろ」

 

 

 スピネルの言った通り、湿った髪をしたライオスはすぐにこちらに戻ってきた。微妙に顔色が悪い。

「大丈夫ですか?解毒しましょうか?」

『…我は毒には耐性がある。すぐに治る』

 そういうものなのか。でもその耐性を超過するほどって、一体どれだけ飲んだんだ…。

 

 二日酔いの者が多いだろう事を見越してか、朝食は昨夜の余り物を使ったらしいトマト味のパン粥だった。

 柔らかく消化の良いメニューなので、食欲がなくても食べやすい。

 ちまちまと口に運んでいると、フェナスがこちらにやって来た。

「これより撤収準備に入ります。あと数時間ほどで、転移魔法陣を使い王都近郊まで行く予定です。その後は迎えの馬車に乗り、王都内に入っていただきます」

「分かった」

 

「ライオスも一緒に来て下さい。ライオスはお母様やお父様、スフェン先輩の願いも叶えたんですから、その事を報告して元気な顔を見せてあげてもらえませんか」

 何だかそろそろ帰ると言い出しそうだったので、私は先回りして言った。どうもライオスは約束を破るのが嫌いらしいので、そう言えば断るまい。

 もうずいぶん顔色の良くなっていたライオスは、少し眉を寄せつつも『分かった』と答えた。

 

 

 

 転移魔法陣を使った私は、迎えの馬車を見て仰天してしまった。

「えっ…え?待ってください、私もこれに乗るんですか?」

「ああ、もちろんだよ」

 動揺する私にニコニコと答えたのは、近衛騎士の正装に身を包んだレグランドだ。彼は私たちを迎えに来てくれたのだが…。

「王都では皆が英雄の凱旋を待っているからね、ちゃんと応えて姿を見せてあげなきゃ」

「で、でもこれ、殿下の…殿下専用のやつでは…」

 

 視線の先にあるのは、殿下が新年パレードの際に乗る絢爛豪華な馬車である。

 全体に精緻な金細工や装飾が施され、屋根はついていない。乗っている人物の姿があらゆる角度から確認できる代物だ。

 さすがに国王陛下専用の馬車よりは格が落ちるが、要するにこの国で2番めに豪奢な作りの馬車である。

 

「わ、私は後ろの馬車に乗ります。恐れ多いです」

「それはだめだよ、君はこの戦で特別に戦功を立てた功労者の一人だ。殿下や竜人殿と一緒に乗ってもらわないと」

「あわわわ…」

 嘘だろ…。

 前世でもこれに乗るのは死ぬほど苦手だったのに、なんで今世でも乗らなきゃいけないんだ。

 

 

「リナーリア、民の期待に応えるのも俺たちの義務だ」

 殿下が少し苦笑しながら私の肩を叩く。

「うう…そうですが…。ライオスは大丈夫ですか…?」

『…?ああ』

 ライオスの方を見上げると、何とも言えない返事が返ってきた。

 これは多分あれだ、よく分かってないな。乗る前にちゃんと説明しておいた方が良さそうだ。

 

「えーとつまり、これに乗って王都の中に入るんですが、多分人間がいっぱい集まっています。私たちを見るために」

『我は見世物になる気はないぞ』

 むっとした様子のライオスに、私は慌てて首を振る。

「違います、そうではなく、王都の人々は私たちを出迎えてくれるんですよ。私たちが超大型魔獣と戦って勝利し、この国を守ったという報せはもう王都中に知れ渡っています。感謝し、褒め称えるために集まっているんです」

 

 レグランドの話だと、既にかなりの数の民衆が集まり始めているらしい。

 伝説の存在である竜人をひと目見てみたいという動機の者も中にはいるかもしれないが、それより単純に喜んで凱旋を祝っている民が多いはずだ。数日ぶりに戒厳令が解かれた解放感もあるだろうし。

「きっと皆、自分たちを救ってくれたのがどんな存在なのか知りたがっていますし、お礼を言いたがっています。人間とはそういうものだって、昨日の宴でよく分かったでしょう。私も、貴方が恐ろしい存在ではないと、もっと多くの人に知ってほしいと思っています。どうか姿を見せてあげてください」

 

『……。翼は出したままでもいいのか?』

「それはぜひそのままで!その方が竜人っぽいから!」

 話を聞いていたレグランドが横から口を挟む。私もそれに同意した。

「そうですね。翼があった方が威厳が感じられる気がしますし」

『威厳?』

「つまり、かっこいいって事です」

『…そうか』

 ライオスはちょっとだけ得意げに翼をぱたぱた動かした。たまにこういう子供っぽい所があるんだよなあ。

 

 

 

 

 重厚な音を立てて、王都の外門が開かれた。

 先導の馬車に続くのはまず、騎士の階級を持つ者や王宮魔術師たちだ。その後に私たちが乗ったものを含め数台の馬車が続き、後ろには一般兵が長い列を作っている。

 門をくぐると、わあっ…!!と大きな歓声が聞こえた。

 

 沿道を埋め尽くす、たくさんの人、人、人。

 手に王国の象徴である黄色い旗を持ち、笑顔で花を投げている。

 予想以上の人の多さに、私は一瞬で圧倒されてしまった。

「す、凄い…こんなに…?」

 やばい。めちゃくちゃ緊張する。手が震えてきてしまう。

 

 

「マジで凄い人出だな。新年パレードより多そうだ」

「今回は王都の中にまで魔獣が入り込んだらしいからな。民にとっても、より身近な危機だったというのが大きいんじゃないか」

 スピネルの呟きに殿下が答え、私はなるほどと納得する。

 普段、王都の中でだけ生活をしていれば、魔獣に遭遇することなどない。今回の事件で改めて魔獣の恐ろしさが身にしみ、国を守る兵へ感謝している者も、きっといるだろう。

 

 そのせいだろうか、沿道にはかなり興奮した顔の者が多い気がする。

 喜びと感謝をいっぱいに浮かべてこちらに手を振っているが、特に注目を集めているのはやはりライオスだ。

 驚愕と好奇の視線を一身に浴びていて、大丈夫かな?と顔を覗き込むと、ライオスは完全に硬直していた。

「あの、ライオス?大丈夫ですか?」

 返事がない。石像のようだ。

 

 まあ、無理もないよなあ…。

 昨夜は兵士たちとだいぶ打ち解けていたようだが、やっぱりまだ人間に慣れてはいないだろうし。

 いや、もっと単純に、大量の視線にただ緊張してしまっているだけかもしれない。私も人の視線は苦手なので、その気持ちはよく分かる。

 

 

 だがライオスがあまりにガチガチなので、私は逆に少し落ち着いた。何とか彼の緊張も解いてやりたい。このままでは可哀想だ。

 何か気を紛らすものはないかと視線を巡らせると、前方で一人の若い騎士が沿道の方へ駆け寄るのが見えた。

 あれは確か昨夜、ライオスに真っ先に礼を言った男だ。駆け寄った先にいるのは若い女性で、腕には赤ん坊を抱いている。どうやら奥さんらしい。

 

「ライオス、あれ。あれ見て下さい」

 腕を掴み、前を指さす。

「昨日、貴方が助けた男です。彼は貴方のおかげで、ああして無事に家族に再会できたみたいですよ」

 ライオスは我に返った様子で、私が示した方向を見た。

『家族…』

 

 すると、男がこちらを振り向いた。嬉しそうに妻に何かを言い私たちの方を指す。

 妻は少し驚いた表情になると、大きく私たちへと頭を下げた。

 その喜びの笑顔からは涙がこぼれている。男が大きく手を振った。

 

 私も笑顔で彼らに手を振り返す。

 ライオスはただじっと彼らの方を見つめているようだ。

「ほら、ライオスも手を振ってあげて下さい」

 そう促すと、おっかなびっくりという様子で片手を持ち上げた。私の真似をしてぎこちなく手を振る。

 途端に、わあああっと大きな歓声が上がった。

「竜人様ー!!」という声が、あちこちから聞こえる。他の民にも受けているようだ。

 

 

 

「…良かったな」

 気が付くと、殿下が微笑みを浮かべて私の方を振り返っていた。

「はい…!」

 嬉しくて、私も自然と微笑みがこぼれる。

 

 沿道を埋め尽くすたくさんの笑顔。

 男も女も手を振り、子供たちは歓声を上げている。

 私が守りたかったもの。ライオスに見せたいと思ったもの。

 

「見て下さい、ライオス。これが私の守りたかったものです…」

 そう話しかけると、ライオスは一瞬黙り込んだ。

『…そなた、昨夜も同じ事を言ったぞ』

「……え?」

 

 言った?同じ事を?

 全く記憶にないんだが?

 

 

「え…?」

 思わず殿下の方を見るが、殿下はちょっと困ったように首を横に振った。

 殿下の隣のスピネルが盛大に噴き出す。

「お前…、本当締まんねーな!!」

「う…、うるさいですね!ちょっと忘れただけですし!!」

 

 顔が真っ赤になっている事を自覚しつつ、私はスピネルの背中を思い切り叩いた。

 くそう、やっぱり酒なんて、ろくなもんじゃない。



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第194話 凱旋・2

 多くの民に手を振られて通りを進み、私たちは王城の門をくぐった。

 城の庭で待っていたのは、王都に残っていた貴族たちだ。ずらりと並び、歓声と拍手で出迎えてくれる。

 その中に、お父様とお母様の姿をすぐに見つけた。二人共涙目だが、笑顔で拍手してくれている。

 学院の生徒たちももちろんいて、「殿下ー!」とか「リナーリアちゃーん!」とかいう声が聞こえた。クラスメイトたちだ。

 先輩やカーネリア様、ユーク、ミメット、アーゲンなどの姿も見つける。

 嬉しくなり、皆に向かってぶんぶんと手を振った。

 

 城の入口近くまで行って、ようやく馬車から降りる。

「はあああぁぁ…」

 やっとこの派手な馬車から解放されたと安堵していると、スピネルが呆れたように見下ろしてきた。

「お前っておかしいくらい度胸あるくせに、こういうとこはやたら小心者だよなあ…」

「おかしいとは何ですか!」

「時々、人間より魔獣相手の方が得意なのではないかと思う」

「殿下まで…!?」

 

 

 後ろからやってきた兵たちと共に整列した所で、城の中から国王陛下と王妃様が姿を表した。近衛騎士団長のスタナムも一緒だ。

 陛下自ら出迎えて下さる事に感激しながら、皆が一斉にその場に膝をつく。

「…父上。見事に超大型魔獣を討ち果たし、帰還したことをご報告いたします」

 殿下が兵を代表してそう言った。

 

「うむ。皆の者、本当によくやった。厳しく、とても激しい戦いであったと聞いている。多くの犠牲も出てしまった。…しかし、最後には勝利し、こうして帰ってきてくれた事がとても嬉しく、喜ばしい。そなたらの働きにより、この国は守られた。その勇戦を讃え敬意を表そう。後日改めて盛大に勝利を祝い、十分な報奨を用意する事を約束する」

 国王陛下はそこで一旦言葉を切った。

 

「竜人ライオス殿」

 陛下からの呼びかけに、私はちらりと隣のライオスを見る。と言っても、見えるのは足だけなのだが。この場で唯一、彼だけが膝をつかずに立っている。

「我が国の危機を、その偉大なる力をもって救っていただいた。この国の王として、何より深く感謝する。…我が国は、竜人の存在を歓迎する。貴君とは末永き友誼を結びたい」

 

 わずかに貴族たちがざわついたのは、国王陛下がライオスを「貴君」と呼んだからだ。

 これは対等な相手に向かって使う呼称で、つまり竜人はこの国の王と対等な存在だと皆に示した事になる。実際の位や権威はともかくとして、そういう扱いをするぞという宣言に他ならない。

 私も内心で驚いてしまった。いくら竜人が強大かつ古い存在だとは言え、破格の扱いと言って良い。

 

 

『……』

 対するライオスは無言だ。どう答えるべきか決めかねているのだろう。

 だが、陛下は返答を急ぐつもりはないらしい。私からは見えないが、ふっと空気を和ませるように笑ったようだ。

「今はとりあえず、貴君が力を貸してくれた事に心からの感謝を述べよう。本当にありがとう」

『…どういたしまして』

 ライオスは今度はだいぶスムーズに発音した。昨夜兵たちに向かって、何度か繰り返し言っていたからだろうか。

 この言葉を教えておいて正解だったと思う。

 

「皆の者、(おもて)を上げよ」

 陛下の呼びかけに、それぞれが顔を上げる。

「改めて、本当によくやった。そなたたちは我が国が誇る勇士である。…今日のところは家族の元に帰って無事な姿を見せ、身体を休めて疲れを癒やすと良い」

「ははっ…!」

 全員が畏まって頭を下げ、陛下と王妃様は城内へと戻って行かれた。

 

 

 

 その後は、凱旋した者とその無事を喜ぶ家族とで城の庭は大騒ぎになった。

 ここにいるのは貴族ばかりだが、戦闘に参加した騎士や魔術師には貴族の出の者も多い。親族はきっと鼻が高いことだろう。

「リナーリア…!!」

 もちろん両親も、私の元へ駆け寄ってきた。二人共、きつく私を抱きしめてくる。

 

「無事に帰ってきてくれて、本当に良かった…!」

「しっかりと役目を果たせたんだな。父として誇らしいよ」

「はい…!」

 私は胸を張って笑顔を返した。

 応援し、背中を押してくれた両親に、これで少しは報いられた。それが本当に嬉しい。

 

 

「こうして無事に帰れたのは殿下のおかげです。何度も助けていただきました」

「まあ…!」

 両親がぱっと笑顔になり、すぐ近くにいた殿下へ深々と頭を下げる。

「本当にありがとうございました…!」

「いいや。俺の方こそ、リナーリアにはずいぶん助けられた。感謝する」

 

 微笑む殿下の目はとても優しい。

 つい私も殿下の目を見つめ返していたら、ぱたぱたと動く黒い翼が目の端に映り、私は慌てて付け足した。

「あっ、それともちろん、ライオスもです!とても恐ろしく、巨大な魔獣だったんですが、ライオスがいたおかげで勝てました。本当に凄い活躍でした!!」

 

「そうなのね…!ライオスさん、本当にありがとうございました!」

「ありがとうございます!」

『そなたたちの願いは叶えた。対価の用意をしておくといい』

「ええ、もちろん、たくさん用意します!お腹いっぱいになるまで召し上がって下さいね!」

『ああ』

 …あれ、今、ちょっと笑ったような?やっぱり何か、お母様が相手だと態度が違う気がするなあ。

 

 

 その時、こちらに寄ってくる人たちの姿が見えた。先輩だ。

「おかえり、リナーリア君!無事で良かった!!」

 そう言って私をガバっと抱きしめてくる。

「殿下、お兄様、リナーリア様、無事のご帰還をお喜びいたします!」

「おかえりなさい!!」

 カーネリア様やクラスメイトたちも先輩に続いてやって来て、私たちを囲む。皆どうも、声をかけるタイミングを窺っていたらしい。

 

「皆さんもご無事で良かったです。王都の中も大変だったと聞いたのですが…」

「ああ、僕たちも少しだけ魔獣退治を手伝った。役に立てて良かったよ」

 広い王都を守るため、先輩たち3年生は中に入り込んだ魔獣の掃討に協力したらしい。

「私も行きたかったわ!実戦ならちゃんと経験があるのに…!」とカーネリア様が頬を膨らませ、相変わらずだなと思わず苦笑してしまう。

 

「それに、竜人様の事もよ!どうして私にも紹介して下さらなかったの?」

「すみません。カーネリア様も近いうちにお呼びしようとは思ってたんですが…」

 そのライオスはさっきから、周囲の視線を集めて居心地悪そうにしている。

 私たちをぐるりと囲っているのは学院の生徒たちだが、その後ろには大人の貴族の姿も多く見える。

 全員、竜人に興味津々だが、話しかける勇気まではない感じだ。

 

 

 まず彼を紹介しておいた方が良さそうだ。周りを見回し、隣のライオスを示す。

「えー、こちらはライオス。見ての通り、伝説の存在と思われていた竜人で、半分は竜ですが半分は人間です。どうも私とは遠い親戚に当たるらしいのです」

「ええ!??」

 周囲が激しくどよめいた。

 

「し、親戚…?あ、半分人間ならそういう事もあるのか…」

 まあ繋がってるのは竜の血の方なんだけど。いや正確には血と言って良いのかもよく分からないんだけど。かなりややこしい話だし、詳しく説明する気はない。

「すっげえ…!!」

 何やら目を輝かせたのはクラスメイトのクリードだ。ライオスの角や翼を間近でジロジロと見ている。こいつ本当怖いもの知らずだな。

 

 

「そう言えば、ライオスさんは他にご家族やご兄弟はいらっしゃるのかしら?もしよろしければ、ご挨拶したいのですけれど…」

 お母様がのんびりと言い、私は思わず慌てた。その話題はちょっとまずいのでは…。

『我に家族はいない』

 しかし、ライオスは平然とした顔で答えた。

 彼がかつて父と呼んだ者は遠い昔に死んでいるはず。もう気にしていないという事だろうか。

 さっき馬車の上から騎士と妻子を見た時の様子からしても、やはり家族には何かこだわりがあるのではないかと思ったのだが。

 

「まあ、そうなのね。申し訳ありません、不躾なことを尋ねてしまって」

 頭を下げて謝るお母様に、ライオスは私の方を見て言った。

『…だが、そう遠くないうちにこの者を妻とする。そういう契約だ』



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第195話 凱旋・3

 …空気が完全に凍りついた。

 

「ど、どういう…?どういう事だリナーリア…?」

 蒼白になったお父様がガタガタと震え出した。

 卒倒しかけるお母様を、慌てて殿下が支える。

 ほぼ全員が驚愕の表情で私とライオスを見ている。スピネルと先輩だけが「あちゃー」という顔だ。

 

「ら、ら、ら、ライオス、なんで今、それを言うんですか」

『そなたの家族には伝えておいた方が良いのではないのか?』

「それはどうもお気遣いありがとうございます!!!!」

 だが今じゃない!!…と言いたいのを必死で抑える。

 

「え…?え…?」

 クリードは何故か、大口を開けて私と殿下の方を交互に指さしている。

「…寝取られじゃん!!?」

「寝てませんが!??」

 何を言ってるんだこいつは!!ただでさえ混乱してるってのに!!

 

 

「ま、待ってくださいリナーリア殿…!!それはあんまりです!!」

 何故か血相を変えて割り込んできたのはスタナムだ。

「あんな…あれだけイチャイチャとしておいて…他の男と結婚するなど酷すぎます!!」

「は!?い、イチャイチャ!?」

「そ、そうだよ!あれだけ見せつけておいて!!」

「殿下がかわいそうだわ…!!」

「な、何の話ですか!?」

 

「殿下!!殿下はそれで良いんですか!?」

「良い訳がないだろう!!」

 スタナムに詰め寄られた殿下が咄嗟に叫び返す。

「いや、しかしだな、これには複雑な事情があってだな…」

「どんな事情だって言うんですか!?」

 

 

 まるで蜂の巣をつついたかのような大騒ぎになり、私は思わず意識が遠のきそうになった。

 私たちは晴れ晴れしく凱旋をしたはずなのに、何でこんな地獄になってるんだ…?

 先輩が「困ったねえ」と言いながらライオスを見る。

『どうした。人間たちは何をそんなに騒いでいる』

「うーん…つまりね、僕たち人間の多くは、愛する相手と結婚するのが一番の幸せと考えているんだよ。皆はリナーリア君に、誰よりも愛する相手の妻になって欲しいと思っているのさ」

 

『……』

 先輩の言葉に、ライオスは少し考え込んだ。それから、私の方を見つめる。

『そなたは我を愛していないのか?』

 …それ訊く?

 

 

「あー…いや…何と申し上げますか…」

 どう答えたものかと言葉を濁すと、皆がこちらに注目している事に気が付いた。私たちの話が聞こえていたらしい。

「えー、ライオスには感謝していますし好感を抱いていますが、愛とは少し…だいぶ…違うというか…」

『?』

 ライオスはよく分からないというように眉間に皺を寄せた。

 彼に嘘をつきたくはないし、ここは正直に答えよう。

 

「…つまり、貴方の事は好きですが愛してはいません。正直な所、妻になりたいとは全く思っていません」

『……!?なんだと…!?』

 願いの対価だとかそういうものを抜きにして、個人的な感情だけで言えば、妻など絶対にごめんである。

 ライオスとはあくまで友人として親しくなりたいというのが本音だ。

 

 

「…うわぁ…きっつぅ…」

「もう少し言い方ぁ…」

 クリードやスパーがボソボソと呟き、ライオスに同情的な視線を送る。おい、まるで私が悪いみたいじゃないか。遠回しに言っても理解できないんだからしょうがないだろ。

 でも実際ライオスはショックを受けている。まさか愛されてると思ってたのか…?

 いや、彼はきっと愛の意味がよく分かってないのだ。彼の境遇では無理もないのだろうが。

 

「…大丈夫よ、ライオスさん。ライオスさんは素敵な方だもの、きっと貴方を愛してくれる人が現れるわ」

 お母様がライオスの手を取り、握りしめた。いつの間にか復活していたらしい。

『し、しかし、我はこの者と契約をした』

「契約って?」

 

 それに答えたのは殿下だ。

「俺の命を救いたいという願いを叶える代わりに、彼の妻になるという契約だ。…俺はその時の事を覚えていないが、本来ならそこで、俺も彼女も死んでいたらしい」

「はい…。その通りです」

 今更ごまかしようもないので正直にうなずく。

 

「でも、殿下のせいではありません。私が勝手にやった事なんです。殿下はそれを知った時、とても怒っておられました…」

 今でも複雑な気持ちなのだろう、殿下は少し困った顔をした。

「じゃあ、ライオスさんが命の恩人だと言ったのはそういう…」

 お母様とお父様が衝撃を受けた顔で黙り込む。

 

 

「そ、そんな…」

「本当に…?」

「殿下を助けるために…」

 そんな複雑な事情だとは思わなかったのだろう、周りの皆も困惑している様子だ。

 

「…ライオスさんには、心から感謝しています。だけど、どうしてもこの子を妻にしなければいけないの…?」

『それは…』

 目を潤ませたお母様に見つめられ、ライオスはひどく狼狽したようだった。助けを求めるように私を見る。

 いや、オロオロされてもこっちが困るんだが。

 そもそも何で私は大勢の前でこんな話を暴露されているんだ…。私だって泣きたい。

 

 

 

 …だが、こうなっては仕方がない。本当はもう少し、ライオスが人間に慣れてから話をしたかったのだが。

「ライオス。貴方に提案があります。契約の内容を少しだけ変えていただけませんか?」

『変える?』

「はい」

 きっぱりとうなずき、前々から考えていた事を口にする。

 

「…私を貴方の妻ではなく、姉にしていただきたいのです」

 

 

『…何…姉…?』

 ライオスが驚愕に目を瞠った。

「そうです。私の弟として、私の家に来ませんか?そうすれば貴方は姉だけではなく、父も母も兄もいっぺんに手に入れられます。私の家族全員を、貴方の家族にするんです。賑やかできっと楽しいと思います」

 

 ずっと思っていた。彼が欲しいのは妻というより家族なのだと。

 そして、夫婦以外にも家族になる方法はある。養子だ。

 私は成人していないので養子は取れないが、お父様とお母様に養子にしてもらえば弟にできる。まだ一切相談していないが、両親や兄たちならきっと受け入れてくれると信じている。

 ライオスはきっと子供が欲しくて私をわざわざ女にしたのだろうけど、この方法でもたくさんの家族を作る事はできるのだ。

 

 後ろのスピネルがぼそりと言う。

「いや、お前が姉なのかよ…」

「人間の社会…この国においては、私の方が先輩なんですから当然です!」

 それに兄なら二人いる。兄弟が増えるなら弟の方がいい。

 

「…そうよ、そう!うちの息子にしましょう!それがいいわ!」

 ぱっと顔を輝かせたお母様が、お父様を振り返る。

「ねえあなた、良いでしょう?」

「あ…ああ。勿論構わないとも」

 お父様は慌ててうなずいた。やっぱり二人共賛成してくれるようだ。

 

 

 周りのクラスメイトたちは、ほとんどがぽかーんとしている。話についていけていないのだろう。

 だが、後ろにいる大人…貴族たちは、私の提案を別の意味で捉え始めているようだ。

「…ジャローシス家が竜人を家に迎える…?」

「そんな事が許されるのか。魔獣との戦いでは、凄まじい力を使っていたと聞いたぞ」

「だが、竜人は既にジャローシス家と親しそうだ…」

 ひそひそと囁く声が聴こえる。

 

 …まずい。警戒されている。

 こんな事、他の貴族が良く思うはずがない。

 竜人の強大な力は超大型魔獣との戦いで証明されている。それを一侯爵家が保有するなど危険すぎると、そう考える者がいるのは当然だ。

 やはり貴族たちに十分根回しをしてから提案するべきだったか…。

 

 

 すると、人垣の奥から間延びしたとぼけ声が聴こえてきた。

「あ~、すみません、通して!ちょっと通してくださ~い!」

 だいぶヨレヨレになりながら、私たちの元に進み出てきたのは先生だ。先生も話を聞いていたらしい。

「え~。僕はセナルモント、王宮魔術師で、このリナーリア君の師匠でもあります。考古学を研究していて、竜人についても詳しいと自負しています。既に何度かこのライオス君とも会い、話をしています」

 場がしん…と静まり返った。王宮魔術師の権威は、貴族にも通用するのだ。

 

「先程国王陛下は、ライオス君と友誼を結びたいと仰られました。そのためには、この国における竜人の立場をはっきりさせておく必要がありますが…実はこのライオス君は、ジャローシス領にある火竜山の生まれです」

 貴族たちが少しどよめく。そうか、そういう意味ではライオスはうちの領民と言えなくもない。

 

「そしてジャローシス家の人々は、ライオス君の遠縁でもある。ライオス君がリナーリア君を妻にと求めたのも、それが理由のようです。婿にせよ養子にせよ、竜人が我々人間との交流を望むならば、ジャローシス家が彼の身元引受人となるのは自然であり、最善でもあると考えます」

 

 一同を見回し、先生は大きく両手を広げて言った。

「僕は竜人とこの国の人間とが良い関係を築けるよう、全力を尽くします。この王宮魔術師セナルモント・ゲルスドルフが、全責任を持って監督、補佐し、支援する事を、皆様方に誓いましょう!!」

 

「せ、先生…!」

 凄い。先生は理路整然と、うちがライオスを引き取る理由を説明してしまった。しかも自分が責任を持つとまで言ってくれたのだ。

 本当に素晴らしい師匠だと感激してしまう。その本音は「研究がしたい」のような気もするが、もちろん私やライオス、両親の事だって考えてくれているだろう。

 

 

 殿下も、自らの胸に手を当て周りの者たちを見回した。

「俺もセナルモントの意見を支持する。ジャローシス侯爵は高潔で仁徳に溢れた人物だ。ライオス殿を預けるにふさわしい。無論俺もこの国の第一王子として、それをできる限り支援し、近くで見守っていくつもりでいる。そう父上にも申し上げるつもりだ」

 

 さらに、堂々と声を張り上げて宣言する。

「竜人は我々にとって友となり得る存在だ。彼の力を悪用する事を、俺は決して許さない。誰も彼を傷つけず、彼もまた誰一人傷つける事がない。そういう関係を目指すと、エスメラルド・ファイ・ヘリオドールの名において誓おう!!」

 曇りのない目。その誠実さを疑う者など誰もいないだろう。実行できるだけの強さを持っている事も。

 殿下が今まで努力して積み上げてきたものが、それを証明しているからだ。

 

 

 …いつも殿下はこうして、私に力を貸してくれる。

 昔の私はそれが悔しかった。

 本当なら私が殿下を支えるべき立場なのに、私の力が足りないから、頼りないから、殿下は手を差し伸べようとするのだ。そう思っていた。

 

 だけど、今は違う。

 殿下は私を頼りにしてくれている。信じてくれている。

 足りない所は補い合えば良い。困った時は助け合えば良い。信じ合える人がいれば、それができる。

 支え合う事は信じ合う事でもあるのだ。

 大切な人が背中を押して支えてくれるのは幸せな事なのだと、今の私は知っている。

 

 

 

 

 どこからか、ぱちぱちぱち…と拍手の音が響いた。

 スパーの斜め後ろにいる黒髪の生徒。アーゲンだ。笑顔を浮かべ、拍手をしてくれている。

 それからカーネリア様、ペタラ様、クリード、スタナムなども拍手をし始める。

 クラスメイト。友人。それだけではなく、貴族たちも拍手を始めた。辺り一帯に広がってゆく。

 

 …よ、良かった…。

 最終的には国王陛下の許可を頂かなければならないが、とりあえずは貴族たちも納得してくれたらしい。

 ほっと安心し、大きく胸を撫で下ろす。このままでは私どころか両親まで吊るし上げられてしまう所だった。

 感謝の気持ちを込めてアーゲンの方を見ると、軽くウィンクを返してきた。気取った奴だが、彼と友人になれて良かったなと改めて思う。

 

 

 大きな拍手に包まれる中、先輩が一歩前に出る。

 バッ!とかっこいいポーズをつけ、ライオスへ呼びかけた。

「さあ、後は君が了承するだけだ、ライオス君!!」

 …そうだった。勝手に話を進めていたが、まだライオスの返事を聞いていないんだった。

 

「ライオスさん、お願いします。ライオスさんが息子に…家族になってくれたら、きっと素敵だと思うの。もちろん、お嫁さん探しだって手伝うわ!」

「私はリナーリアには、愛する人と一緒になってもらいたいんだ。大丈夫、我が家の一員になれば、リナーリアにもいつでも会える」

 母が、父が、口々にライオスに言う。

 

 

『……』

 ずっと呆然としていたライオスが、迷うように私を見る。

 

 …彼の本質は善良なものであると、私はもはや疑っていない。

 彼は素直で、嘘が嫌いで、本当はきっと寂しがり屋だ。

 しかし私は彼を好ましい存在だとは思っても、男性として愛している訳ではない。これから先も、多分そうだ。

 

 でも、家族として、姉弟としてなら愛せるのではないかと思う。

 これは私の正直な気持ちだ。

 願いを叶えてもらったのにとても申し訳ないけれど、心に嘘はつけない。

 

 それに、これはきっとライオスのためでもある。我が家に迎え入れれば、彼は人間たちの中に居場所を作れる。

 心から彼を愛し、子供を生みたいと願う女性だって、いつかは現れるはず。

 その時こそ彼は、愛というものをちゃんと理解できるのではないかと思うのだ。

 

 

 ライオスの赤い瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

「ライオス、私は貴方の妻にはなりたくありませんが、貴方が弟になってくれたらとても嬉しいです。私、ずっと弟が欲しかったので」

 そう、末っ子の私は前世からずっと弟が欲しかった。妹も悪くないが、できれば弟が欲しかったのだ。

「それに、夫婦は離婚したりしますけど、姉弟なら死ぬまでずっと姉弟でいられます。いつまでも、ずっと」

 私のこの言葉に、ライオスは大きく目を見開いた。

 

『…ずっと。本当に、ずっとか』

「はい。本当に、ずっとです」

『…我が、戦わなくてもか?』

「はい。…あ、いえ…」

 答えてから、これはちょっと約束できかねるかもしれない、と私は思った。また彼の力を必要とする時が来るかもしれない。

 

「すみません、もしかしたらまた、お願いしてしまうかもしれません。私たちには手に負えない魔獣が出ることも考えられますから…。でも、できるだけ貴方が戦わなくても良いように努力します。これは絶対にお約束します。貴方が平和に暮らせるよう、力を尽くします」

 

『……』

 ライオスは少しだけうつむいた。

 その目にさまざまな感情がよぎるのを、ただじっと見守る。

 

 

 やがて彼は、ぽつりと言った。

『…分かった。そなたとの契約を破棄する。その代わり、そなたの弟になるのが、新たな契約だ』



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挿話・28 竜人と苺の味・1

 初めて意識が覚醒したのは、薄赤く生ぬるい水の中だった。

 

「覚醒したぞ…!」

「やった!成功だ…!!」

「早くデータを取れ!」

 外が騒がしい。いくつもの影が忙しなく行き交っている。

 

 やがて、影の一つがこちらへ近付いてきた。

 透明な壁越しに覗き込んでくる黒い瞳。

「初めまして、ライオス。僕はネオトス、お前の父親だ」

 

 

 

 白衣から伸びた手が、紙に描かれた絵を指し示す。

「これは何か分かるか?」

『…リンゴ』

「じゃあこっちは?」

『キツネ』

 

「うん、正解だ。素晴らしい。ライオスはとても物覚えが良い」

『ありがとう、父さん』

 そう答えると、ネオトスは口の両端を持ち上げて笑った。

「知能も高い。肉体を急成長させたから心配だったが、ちゃんと身体に追いついてきている。お前は間違いなく成功例だ」

『成功』

 その言葉はこの前覚えた。物事が上手く行ったという意味だ。

 

『…なら、失敗もあったのか?』

 成功例と言うなら、失敗例もあったのではないか。

 尋ねるライオスに、ネオトスは再び笑った。

「そうだな。お前の兄弟たちの犠牲があるから、お前はこうして成功したんだ」

 

 

 

 手のひらの先に広げた構成に、軽く魔力を流し込む。

 大きな炎が生まれた。わずかに念じれば、それは的に向かって高速で飛んでいく。

 轟音を立てて消し飛んだ的に、ネオトスが歓声を上げた。

「凄い!本当に凄いぞ、ライオス…!!」

 笑顔で、同じ白衣を着た研究者たちと喜び合っている。

 

「魔力量だけじゃない、構成を編む速度も我々人間とは桁違いだ。これが神の生み出した守護者の力なのか…。ああ、本当に素晴らしい」

 ライオスはこの魔術の実験が好きだった。

 別に破壊が楽しいわけではない。この力を行使すれば、父はとても喜ぶからだ。

 よくやった。凄い。そう褒められると、胸の奥が温かくなるような不思議な感覚がした。

 

「よし、次はもっと大きな的だ!」

『わかった』

 ライオスは素直にうなずいた。

 父の言葉には必ず従う。そういうものだと教えられていたし、特に疑問も抱かなかった。

 

 

 

「ライオス、本当によくやった!あれ程大きな魔獣を一人で仕留めるとは。数値上は十分可能だったとは言え、良い経験になっただろう!これでもう、実戦に投入できる…」

『……』

 喜ぶネオトスを、ライオスは座り込んだまま黙って見上げる。

 

 魔獣と戦い始めたのは1ヶ月ほど前からだ。

 初めは小型の魔獣だった。上手く倒せば褒めてもらえた。

 それから魔獣の数は少しずつ増え、大きく、手強くなっていった。

 そして今日はついに、大型と呼ばれる魔獣相手に一人で戦った。

 

「どうした、ライオス?大型を倒せたのに嬉しくないのか?」

『…とても、痛い』

 今までも多少の傷や打撲を負うことはあった。だが今日の魔獣は今までで一番大きく、その鋭い爪を避けきれずに太ももを大きく切り裂かれてしまった。

 傷口からは今もまだ血が流れている。ずっと座っているのはそのせいだ。

「ああ、そうか、治療をしないと。でも大丈夫、お前の回復力ならこの程度の傷、すぐに塞がるさ」

 

 

 

 それからほどなく、ライオスは毎日のように魔獣と戦いに行く事になった。

 これが自分の仕事なのだと言う。そのために生まれてきたのだと。

 ネオトスはめったにライオスの部屋を訪れなくなった。以前のように、言葉や勉強を教えてくれたりもしない。

 戦いの前と、帰ってきた後、わずかに顔を合わせるだけだ。

 それもただ報告を受け取るだけで、「よくやった」と言われる事も少なくなった。

 

 代わりによく会うようになったのは、クトナという女だ。小太りで、くしゃくしゃした髪をしていて、ネオトスよりも少し歳を取っている。

 どうやらライオスの世話をする者らしい。食事を運んだり、部屋の掃除をしたり、傷の具合を確かめて包帯を取り替えたりする。

「ライオス様はたくさん戦って偉いですねえ」と褒めてくれるが、時々悲しそうな顔をしていたりもする。

 戦いがない日には話し相手になり、ライオスの知らない童話を聞かせてくれたりもした。

 

 

 ある日の昼、クトナが持ってきた食事はいつもと少し違っていた。見た事のない食べ物が載っている。

「この前もっと違うものが食べたいと言っていたので、デザートに苺のゼリーをつけてもらいましたよ」

 それは赤くて透明で、ふるふるとして柔らかそうに見える。

『ゼリー』

「はい。スプーンで掬って食べてみて下さいな」

 

 苺のゼリーはひんやりと甘くて滑らかで、とても美味しかった。

『…もっと食べたい』

 そう言ったライオスに、クトナは表情を曇らせた。

「すいません、それはできないんですよ。ライオス様の食事はきちんと管理されているからって…。でも、またつけてくれるように頼んでおきます」

 

 

 ライオスが食事を終えたのを確認した後、クトナはベッドのシーツを替え始めた。彼女の仕事の一つだ。

 その丸い背中を見ながら、ふと問いかける。

『クトナは、我の母なのか?』

「えっ!?」

 クトナは驚いた顔で振り返った。

 

『生き物は、父親と母親がいて生まれてくる。そして母親は、子供の世話をするものなんだろう』

 それはネオトスが与えてくれた本から得た知識だ。父親はネオトスだが、では母親は誰なのだろう。ネオトスに尋ねても「お前は特別な存在なんだ」と言うだけで教えてくれなかった。

 クトナはこうしてこまごまとした世話を焼いてくれるし、ネオトスよりずっと長い時間一緒にいてくれる。それは母だからではないのだろうか。

 

 ライオスの問いに、クトナは何か悲しいような、困ったような顔をした。

「…あたしは、ただの雇われの雑用係です。ライオス様の母親ではないんですよ」

『そうなのか』

「はい。あたしは家に旦那も、息子もおりますし」

『…そうか』

 

 少しだけ落胆したライオスに、クトナはしばらく迷ってから付け足した。

「…研究の事はよくわかりませんが。ライオス様は、人間と竜から生み出されたんだって、そう聞いてます」

 

 

 

 ライオスはそれから、竜について調べた。

 研究員と呼ばれる白衣の者たちはひどく饒舌だったり、あるいは全く何も喋らなかったりしたが、少しずつ分かってきた。

 クトナの言った通り、自分はネオトスが竜と呼ばれる生き物を使って生み出したものらしい。

 その竜とやらは、ライオスが今住んでいるこの場所のずっと地下に眠っているようだ。

 

 以前から遠く足元の方に、何か大きなものの気配は感じていた。

 どこか引かれるその気配こそが、きっと母に違いない。

 ライオスは、その竜『流星(ミーティオ)』に会いに行くことを決意した。

 

 …だが、しかし。ミーティオの答えは、ライオスの期待したものではなかった。

 ミーティオは母などではなかった。それどころか、ライオスは人間に騙されているのだと言った。

 いつかきっと人間に、大切なものを奪われるだろうと。

 それはライオスには受け入れがたい言葉だった。

 父ネオトスのため、人間のため、魔獣と戦う。それがライオスにとって全てだった。それ以外何も知らない。

 

 

 

 魔獣との戦いは日に日に激しくなっていき、それは決して楽しいものではなかった。

 最初こそ褒められた。「お前はよくやっている」「父や人間のために尽くしてくれている」と。

 ライオスは人間にとって必要な存在なのだとネオトスは言い、それを誇らしく思ってもいた。

 

 しかしだんだんとそれは当たり前になり、褒め言葉はかけられなくなっていった。

 他の人間たちは、恐れるような目で遠巻きにこちらを見てくるばかりだ。

 クトナ以外、誰も褒めてくれない。

 

 ライオスは人間を守っているというのに、人間はライオスを守ろうとしない。

 どれだけ傷付き血を流しても、それが癒えきらないうちにまた次の戦いへと駆り出される。

 魔獣を吹き飛ばしとどめを刺したその瞬間、ほんの少し胸がすっとするが、それはすぐに虚しさに変わってしまう。

 

『お前は人間に騙されている』

 ミーティオの言葉が蘇る。

 本当は、あの竜が言った通りなのではないのか。少しずつ、そんな考えが心を蝕んでいく。

『そんな事を繰り返していれば、お前は遠からず死ぬだろう』

 

 …死ぬ。

 死ぬという言葉の意味は知っているが、よく分からない。

 魔獣との戦いには人間も加わる。武器を持ち、必死な顔をした者たちだ。それらが戦いの中、血を流し倒れて動かなくなる姿は何度も見た。それが死だ。

 だが、言葉も交わしたことがない、ただそこにいるだけの存在が死んだ所で、何も感じない。

 

 

 

 迷いを抱きながらも戦い続けていたある日、クトナが言った。

「…ライオス様。実はあたし、今日でお別れなんです」

『何…?なぜだ?』

 驚くライオスに、クトナは少し寂しげに笑った。

「あたしも、もう歳なので。ここのお仕事は辞めることにしたんですよ」

 その口元には、出会った頃よりもずっと深い皺が刻まれている。それは老いと呼ばれるものだと、知識では知っていた。

 

「それに、近頃は魔獣がずいぶん増えました…。ライオス様が頑張って退治してますけど、やっぱり、子供や孫たちが心配なんです。田舎に引っ込んで、家族と静かに暮らすつもりです」

『……』

「…これ、ライオス様の好きな苺のゼリーです。最後なんで、頼んでつけてもらいました」

 

 赤く透明なそれをそっとスプーンで掬い、口に入れる。

『美味い』

「それは良かったです」

 クトナは笑った。

「今までお世話になりました。…ライオス様もどうか、お元気で」

 

 

 

 

「…西南の山の近くに、超大型の魔獣が現れた。油断していたな。それほど人口の多い地域ではないから、あんな化け物が急に生まれるなんて想定外だった」

 ネオトスが報告書を睨みながら言う。

 壁に映された大きな地図の一箇所を指差し、ライオスを振り返った。

「現在の魔獣の位置はここだ。周辺の町や村を蹂躙しながら、西へと進んでいる。今すぐここに向かい、足止めをしてくれ。応援の兵は後から向かわせる」

『分かった』

 

 ライオスは研究所から飛び立った。ネオトスが示した位置はかなり遠い上に、今も移動しているという。

 ひたすらに飛び続けるうち、それらしき魔獣の気配を感じた。

 今まで戦った中でも一二を争うほどに強大な気配だ。相当に手強いに違いない。

 

 

 更に飛んでかなり近付いた所で、ライオスは一旦休憩を取ることにした。

 休みなく長時間飛び続けたせいで、ずいぶん疲れている。相手は強敵なのだ、万全を期した方がいい。

 足元には、魔獣に襲われたと思しき村が見えた。建物の半数以上が崩れたり燃えてしまっているが、身を隠すくらいはできるだろう。

 

 煙の燻る地面へと降り立った時、焦げ臭い匂いの中に、ふと知っている匂いを感じた気がした。

 ライオスはその匂いの方向へと足を向けた。

 ひどく嫌な予感がする。

 

 

 崩れた瓦礫の下に見える、くしゃくしゃした髪と小太りの身体。

『…クトナ!!』

 駆け寄ったクトナはあちこち擦り傷だらけで、身体の下に赤黒い血の染みができている。

 瓦礫をどかして手をかざし、必死で治癒をかけた。自らの傷を治すために覚えたもので、他人に使うのは初めてだ。

 

 うっすらとクトナが目を開ける。

「…ライ、オス、様…来て、くれたん、で…」

『いい、喋るな、今癒やすから』

「あたしは、いいんです…それより、ま、孫を」

 よく見ると、クトナは何かを庇うかのように腕に抱え込んでいる。

『しかし』

「おねがい、しま、す…。あたしの、大事な、かぞ…く…」

 

 そのまま、クトナは動かなくなった。

 その瞳はもう、何も映していない。

 ライオスは呆然としたまま、クトナが腕の中に抱いたものへと手を伸ばした。

 …彼女とよく似たくしゃくしゃした髪のその子供は、息をしていなかった。




全4話のエピソードになる予定です。


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挿話・28 竜人と苺の味・2

「ライオス。国王陛下が、超大型の魔獣を倒したお前に勲章を授与したいそうだ」

 あれから何日経っただろうか。ライオスはずっと、部屋に籠もり続けている。

 

「どうした、まだ傷が痛むのか?もうほとんど塞がったはずなんだが」

 ネオトスの言う通り、傷口はもう塞がっている。かなり大きな負傷だったために傷跡は残っているが、動きに支障はない。しかし。

『…胸が痛い。むかむかとして、吐きそうだ』

「あの魔獣を倒すのにずいぶん消耗したから、その反動だろうか…。数値上は何ともないんだが、やはりまだ未知の要素が…」

 ネオトスがぶつぶつと呟く言葉を、ライオスは意識から追い出した。何故だろう、今は聞きたくない。

 

 

 クトナの、その孫の、虚空を見つめるあの瞳が忘れられない。

 ぐったりと力を失った身体。流れる赤黒い血。冷たくなっていく手足。

 もう二度と動くことも、言葉を交わすこともない。

 

 やっと本当にわかった。…これが、死というものなのだ。

 胸が苦しく、激しくかきむしりたくなるような衝動が何度も繰り返し襲ってくる。何故、どうしてこうなったと、意味のない問いが頭の中をぐるぐると回る。

 ライオスは強いと、誰よりも強いとネオトスは言った。研究者たちもだ。

 だが、クトナを守れなかったではないか。その大事な家族も。

 

 そして、自分もいつか。いつか、ああやって死ぬ。

 傷付き、血を流し、瞳から光を失い、冷たくなって地に横たわる。誰もその手を取ったりはしない。

 やはりミーティオが言った事は正しかったのだ。

 自分はそのうち、魔獣と戦って死ぬ。

 

 …たまらなく、恐ろしかった。

 

 

 

 

 数日後、ライオスは白亜の巨城の中へとやって来ていた。

「…そなたが竜人か。なるほど…人間離れした威容をしておる」

 王を名乗ったその男は、ライオスをじろじろと見て言った。

 ごてごてと飾り付けられた玉座の上、でっぷりと太った王は、尊大な態度で白髪交じりの髭を撫でている。

 

 ここに連れてきたのはネオトスだ。ライオスはどこにも行きたくなかったのだが、それでは駄目だと言われてしまった。

「王の威厳を示すために」だとか「竜人を表に出す事で民の不安を和らげる」だとか色々言っていたが、要するに「王の言うことには逆らうな」という事らしい。

 だが、この大広間に足を踏み入れた瞬間から、ライオスはそれを後悔していた。

 何かとても不快な匂いを、この王とやらは発している。

 

 

「そなたはよくやった。あの大きな魔獣を倒すとは。十分な報奨を与えるゆえ、これからも余のために尽くすがよい」

『…報奨とは、なんだ?』

 ライオスが問い返すと、王は少し面白がるかのような表情になった。

「ふむ、何か欲しい物でもあるのか?何が欲しい?財宝か、女か?申してみよ」

『それは…』

 咄嗟に頭に思い浮かんだのは、苺のゼリーだった。

 クトナが持ってきてくれたもの。甘くて、赤くて、透き通っている。

 

 …だが、あれはもう存在しない。

 昨日、研究員が運んできた食事には同じ苺のゼリーがついていたが、ちっとも美味いとは思わなかった。

 ひどく味気なくて、何も感じない。いくら口に入れても、以前のような嬉しさや喜びは湧いてこない。

 クトナが運んできたあれと同じ味を感じる事は、きっと二度とないのだ。

 

 

 胸の奥が重く、冷たくなる。

 周りの全てが色褪せて見える。

 どうして自分はこんな所にいるのだろう。

 やりたくもない戦いを褒められるために?

 また次の戦いに行くために?

 それでいつか、死んでしまうと言うのに。

 

 

 …その時、ふと王が首から下げている宝玉が目に入った。

 赤く、透き通った宝玉。あの苺のゼリーによく似ている。

 

『それをくれ。その赤い宝玉を』

 指さして言うと、王ははっきりと顔色を変えた。

「貴様、何のつもり…」

 言いかけて、ごほんと咳払いをする。

「…これはこの国の宝だ。何物にも代えがたい、大切な宝玉だ。やるわけにはいかん」

 そして王は、にたりと笑いを浮かべた。不快な匂いがする。

「だが、これよりもっと大切な、この国に一つしかない貴重な魔剣をそなたにやろう。感謝するが良い」

 

「…ライオス。ありがとうございますと言うんだ」

 横からネオトスが囁く。

「国王陛下は、何より貴重な宝をくれると言っているんだ。ありがたいことじゃないか」

 そう言ったネオトスからは、王と同じ不快な匂いがした。

 

 ふいに気付く。

 …これは、嘘の匂いだ。

 王だけではない、本当はネオトスからもずっと感じていた。気が付かないふりをしていただけだ。

 一番最初、「僕は君の父親だ」と言った、あの時だって。

 

 

 急に、何もかもがどうでも良くなった。

 

『嘘つきめ。…嘘つきたちめ』

 自分は何故、何のために、人間たちを守ってきたのだろう。

 クトナからは嘘の匂いはしなかった。だが、彼女は死んだ。

 嘘の匂いをぷんぷんとさせた王は、ネオトスは、今もこうして生きている。

 間違っている。こんな事は間違っている。

 

『…我はもう、お前たちを守らない!!』

 

 

 ライオスは王の首の宝玉に手を伸ばし、奪い取った。飾り玉がぶちぶちと弾け飛ぶ。

「き、貴様!返せ…!!」

 縋り付いてくる王を、ライオスは振り払った。贅肉のたっぷり付いた身体がよろめき、黄金の玉座に大きく頭を打ち付ける。

「へ、陛下…!!」

 周囲の者たちが色めき立つ。ひときわ派手な服を着た男がライオスを指さした。

「護衛兵!!竜人を取り押さえろ…!!」

 

 たくさんの人間たちが襲いかかってくる。

 ライオスは咄嗟に彼らを風で吹き飛ばそうとしたが、突然びりびりと身体が痺れた。動けない。

 その場に倒れ込みながら、身に着けている腕輪や耳環のせいだと気付く。どんな時も絶対に外すなとネオトスから言われてたものだ。

 

「待ってくれ!!ライオスは唯一の成功例なんだ、次は完成していない…!」

「だめだ!!その者は陛下を…!!」

 炎や雷が降り注ぎ、肌を裂き、肉を焼く。

 苦痛に叫び声を上げた瞬間、握りしめた宝玉が赤く輝き、急に身体が自由になった。

 

 

 

 

 数時間後。

 闇夜の中を、ライオスは飛んでいた。

 その姿はぼろぼろだった。ネオトスからもらった上着も、靴も、鬱陶しくなって脱ぎ捨てた。腕輪も、壊して捨てた。

 耳環は外せなかったので、耳たぶから無理矢理引きちぎった。血が流れたがどうでもいい。

 

 …人間を殺した。きっと何人も。

 最初の王はただの事故だったが、その後襲いかかってきた兵や魔術師たちは、分かっていて殺した。自分に向かって攻撃してくる敵は殺せと、ネオトスからそう教わっていた。

 だが、人間は守るべきものではなかったのか。怒りに任せて殺してしまったのは間違いではないのか。

 一体どうすれば良かったのか。激しい罪悪感が心を苛む。

 

 

 身体がだるく、とても重い。全身に突き刺すような痛みを絶え間なく感じる。

 手足に力が入らず、空を飛ぶだけで精一杯だ。

 負傷のせいだけではない。人を殺したせいでこうなったのだと、何となく分かった。

 何者かが、人を殺した自分を罰しているのだと。

 

 ついには翼にも力が入らなくなり、どこかの山の中腹に降りた。小さな洞穴を見つけ、その中に入り込む。

 ただぐっすり眠りたいと思った。

 クトナが整えたベッド。清潔な匂いのするシーツの中でゆっくりと眠りたい。

 しかしそこは暗く湿っていて、そして硬かった。ライオスは小さく丸くなった。

 

 …ああ、もうここでもいい。ただ、眠らせてくれ。

 懐の中に抱え込んだ赤い宝玉が、静かに光った。



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挿話・28 竜人と苺の味・3

 ライオスが次に目を覚ました時、洞穴の外の景色は記憶とはかなり変わっていた。

 季節が違うだけではない。生えている草木も違うような気がする。

 かなりの時間が経ったのだと、ぼんやりと感じた。

 同時に、自分がずいぶん空腹な事に気付く。

 あたりを見回すと、鳥が木の上で何かの果実をつついているのが見えた。食べ物らしい。

 研究所で出される物以外は食べた事がなかったのでしばらく迷ったが、空腹に耐えられず手を伸ばした。

 

 果実はとても渋くて酸っぱかったが、とりあえず空腹を満たす事はできた。それだけでかなり気分が落ち着いた。

 まずは周囲の状況を確認するべきだと考え、翼をはばたかせて空高く飛び上がる。

 そうして確認した景色も、やはり記憶のものとはずいぶん変わっていた。

 川の流れや、地形すら変わっている。遠くを見れば、新しく現れた町もあれば消えた町もある。

 

 周辺からはいくつかの魔獣の気配を感じる。どれも弱く、数は少ない。

 以前とは比べ物にならないくらい、やけにはっきりと気配を感じ取る事ができる。

 手のひらに握った赤い宝玉を見つめる。王から奪い取った宝玉。

 きっとこれの力だ。恐ろしく強大な、不思議な力がこれには込められている。

 

 

 とりあえず元の場所に降りようとすると、遠くにまた別の気配を感じた。人間の気配だ。

 目を凝らすと、山の麓にいくつかの人影が見えた。山菜を採っているらしい。

 そのうちの一人は小太りで、なんだかクトナに似ている気がする。

 あれからどれくらい時間が経ったのか、ネオトスたちはどうなったのか知りたい。

 少しためらいつつも、ライオスは彼らの元へ向かった。

 

 …その反応は、ライオスが想像もしないものだった。

「ひいっ!ば、化け物…!!」

「お父さん!!」

「早く!!早く逃げろ!!」

「きゃああああっ…!!」

 

 顔面を引きつらせ、慌てふためいて逃げ出す人間たち。

 恐れられ、遠巻きにされるのはよくある事だったが、化け物とまで言われ逃げられたのは初めてだった。

 それは敵意を向けられるのとは違う衝撃をライオスに与えた。

 

 

 

 その後、島のあちこちを飛び回った。

 昔に比べて、人間も魔獣も数が少ない。その分、平和そうに見える。

 人間の文明はずいぶん様変わりしていて、服装も、住んでいる建物も、ライオスが知っているものとはまるで違っていた。

 どうも言葉すら違うらしいが、聞き耳を立ててみると意味は理解できた。これも宝玉の力らしい。

 

 男、女、老人、子供。

 さまざまな人間を選んで姿を見せ、声をかけようとしてみたが、彼らの反応は同じだった。

 悲鳴。恐怖。恐慌を来して逃げ出す者がほとんどだったが、中には命乞いをする者までいた。

 

 それでわかったのは、彼らがライオスを…竜人を知らないという事だ。

 ライオスが眠っている間に気が遠くなるほどの長い時間が経ち、人間は竜人の存在を忘れてしまったらしい。

 そして自分の姿は、この時代の人間にとって見ただけで恐怖を感じさせるもののようだった。

 

 だからライオスは、人に関わろうとするのをやめた。

 そもそも関わってどうしようと言うのか。

 自分は人間を殺してしまった。人間が竜人の事を思い出せば、その罪もきっと思い出されるだろう。

 あるいはまた、魔獣との戦いに駆り出されるか。

 もう戦いたくはない。魔獣とも、人間ともだ。

 

 

 

 ライオスは一つの豊かな山を選び、その中で暮らし始めた。

 崖が急なので人間はあまりここに近付かない。万が一近くに来た時も、宝玉の力を使って姿を隠す方法を覚えた。

 どうやらこの宝玉は、思った以上に色々できるようだ。

 触れているとさまざまな事が分かる。これはあのミーティオという竜が作ったものだ。

 ミーティオはこの島の守護者で、神の言いつけを破り、人間を島から出そうとしていたらしい。

 

 いくら遠くへ飛ぼうとしてみても、何故かこの島から出られない理由もわかった。人を殺した後、ずいぶん眠るはめになった理由も。

 自分の身体の半分が竜でできているからだ。竜への戒めが、ライオスの身体をも縛っている。

 忌々しかったが、すぐに諦めた。

 きっと、どこに行っても同じだ。ならばここでいい。

 

 

 山の暮らしは静かだ。

 人間や魔獣はライオスを恐れるが、動物や鳥たちは恐れずに近付いてくる。この島の守護者の血を本能で感じているのだろうか。

 追いかけ回したり、腕に抱いてみたり、動物たちと戯れるのは楽しい。彼らには邪気がない。

 

『そら、お前も食べるといい』

 木の高いところから取ったリンゴを、地面の上に転がす。

 それに近付いて来たのは、一匹のイタチだ。よく見かけるのでいつも餌をやっている。

 出会ったばかりの時は小さかったが、ずいぶん大きくなった。普通のイタチよりも逞しいくらいだ。ライオスが餌をやっているせいかもしれない。

 

 だが、いつもならすぐに齧りつくはずのイタチは、リンゴの前で首を巡らせた。

『?』

 どうしたのかと見守っていると、草むらからもう一匹、イタチが出てきた。メスのようだ。

 二匹のイタチは、仲良く一つのリンゴをかじり始めた。

 

『…そうか。お前にも家族ができたのか』

 他のオスよりも少し大きく逞しいイタチは、どうやらメスにとって魅力的らしい。強いものが愛されるのがこの世界の法則のようだと、ライオスは一つ学ぶ。

 春にはきっと、彼らの子供が見られるだろう。

 

 

 去っていく二匹のイタチの姿を見ながら、ほんの少し羨ましいと感じる。

 ライオスには仲間が誰もいない。一人だ。

 ネオトスは恐らく父親などではなかったし、そもそも竜人と呼ばれていたのはライオス一人だけだ。他は皆人間で、ライオスのように翼や角がある者は誰もいなかった。

 いくら強くても、仲間がいないのでは家族は作れない。

 

 山の暮らしは気に入っている。

 凶暴な魔獣と戦う必要などなく、ただのんびりと陽の光を浴び、好きなだけ魚や果実を採ったりして過ごせる。

 ひたすら自由で、そして時折ひどく寒かった。

 身体ではなく、胸の奥がとても寒いと感じる時がある。

 そういう時はただ丸くなって眠った。それ以外にやり過ごす方法を知らなかった。

 

 

 

 そうして何度も何度も季節を繰り返したある日、ライオスはふと、不思議な感覚を覚えた。

 いつもとは違う気配を感じる。人間のようでもあり、自分に似ているようでもある。よく分からない。

 姿を隠し、その気配に向かって飛んだ。

 崖上の道を走る何台かの馬車。その中にいる。

 

 気になって、ライオスは馬車を追い続けた。

 できれば馬車の中を確認したいが、他に多くの人間の気配もする。迂闊に近寄れば騒ぎになるだろう。

 仕方なくただ見守っていると、鳥型の魔獣がその馬車を追跡しはじめた。

 魔術などで追い払おうとしているが、上手く当てられないようだ。

 

 このままでは振り切れないと思ったのだろう、馬車は途中で停まり、中から剣や杖を持った人間たちが出てきた。

 その中に、あの不思議な気配の持ち主もいる。

 少しだけ期待して目を凝らしたが、見た目は普通の人間のようだった。銀の髪をしている。

 すると、その銀の髪の人間が崖から滑り落ちた。

 あれには翼がない。そのまま地面に落ちれば、きっと死ぬ。

 

 

 気が付けば、その人間を助けていた。地面につく前に受け止め、森の木々の陰、他の人間から見えない場所に運ぶ。

 ゆっくりと目を開けたその人間は、ライオスの顔を見た瞬間に大口を開け、しかしすんでのところで悲鳴を飲み込んだ。

 ひょろりと細い、まだ若い男だ。子供と言ってもいい。とにかく驚いた様子でライオスを見たり、自分の身体を確かめたりしている。

 

 

 やがてその者は、「ありがとうございました」と言って頭を下げた。ライオスに助けられた事を理解しているらしい。

 この時代の人間で、ライオスを見て悲鳴を上げたり逃げようとしない者は初めてだった。わずかに怯えているようだが、その大きな青い目を逸らそうとはしない。

 …それにやはり、自分に近い気配がする。

 

 だが、ライオスの仲間ではないのかという問いに、その者はこう答えた。

「いえ、私は人間です。リナライト・ジャローシスと申します」

『…人間』

 それほど期待していたつもりはないが、つい落胆してしまう。この者も、同族ではなかった。

 

 

 ライオスの落胆が伝わったのか、リナライトと名乗った人間は少し慌てたようだった。あたふたと懐を探ると、何かを取り出し、礼だと言ってライオスへと差し出してくる。

 淡紅色の紙に包まれた小さなそれは、飴玉というらしい。赤くて丸くて、なんだか甘く懐かしい匂いがする。

「口の中でころころ転がすんですよ」

 言われた通り、リナライトの真似をして口の中で転がしてみる。

 

 …あの味だ、とライオスは思った。

 遠い昔、クトナが持ってきてくれた苺のゼリー。赤くて透明で、甘くて、美味い。

 もう二度と感じられないだろうと思っていたあれの味に、この飴玉の味はよく似ている。

 

 

 不思議で仕方がなかった。

 この者は人間だというのに、自分に近い気配がする。

 弱くて臆病そうに見えるのに、何故か自分を怖がらない。嘘の匂いもしない。

 ライオスは何も求めていないのに、勝手に礼だと言って飴玉を差し出してきた。懐かしい味がする食べ物を。

 

 リナライトはこうも言った。

「人の間には、貴方の…竜人のお話が伝わっていますが、私はあれは人の方が悪いと思うんです」

 驚いた。この者はライオスの罪を知っているのに、責めないのだ。人間の方が悪いと言う。

 

「願いを叶えて欲しいと思うなら、誠意を尽くし、できる限りの対価を用意するのは当たり前だと私は思います」

 ライオスはずっと人間のために戦っていた。何の対価も受け取らず、ただ言われるがままに。

 それこそが間違いだったのだと、ライオスは今になってようやく理解した。

 

 

 …では、もっと大きな、とても大きな願いを叶えれば、もっと大きな対価を得られるのだろうか。

 たくさんの褒め言葉を。

 甘くて美味しい飴玉を。

 傍にいてくれる家族を。

 

 首から下げた宝玉に小さく触れる。

 この赤い宝玉があれば、きっとそれができる。どんな願いだって叶えられるはずだ。

 彼は叶えたい願いなどないと言うが、生き物は年を取って変わっていくものだ。いつかきっと願いを抱くに違いない。

 そして、対価として彼を仲間にする。彼ならきっと、ライオスの家族になれる。

 

 

 彼と別れ、棲家に戻ったライオスは、もらった飴玉の包み紙を取り出した。

 薄赤い紙にはあの甘く懐かしい、苺の匂いが染み付いている。

 それを大事にしまい込み、ライオスはただ待つ事にした。



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挿話・28 竜人と苺の味・4

 およそ3年の後、その機会はやって来た。

 リナライトの気配は遠くからでもよく分かるので、時折飛んで様子を見に行っていたのだが、ある夜その気配が大きく乱れた。

 何かが起こったに違いない。急いでそこに飛ぶ。

 

 焼け野原になった森の中、彼は倒れていた。彼がやったのだろうか、辺りには焼け焦げた人間らしきものがいくつか転がっていたが、息をしているのは彼だけだ。

 しかし、その彼ももう死にかけている。輝いていた銀の髪は薄汚れ、あちこちから血を流し、手足の先は黒く焦げている。 

 このままでは、あとわずかで命を落とす。

 

『叶えて欲しい願いはあるか』

 焦る気持ちを抑え、そう問いかけた。

 どう見ても助からない傷だが、この宝玉ならばきっと助けられる。普段はごく一部の力しか操れないが、人の願いを叶える時、この宝玉は最も大きな力を発揮するのだ。

 彼がただ一言「助けてくれ」と言えば、それで願いは叶えられ彼の命は助かる。そうしたら対価として、自分の仲間になるよう求めればいい。

 

 

 しかし彼はライオスの問いに、予想外の答えを返してきた。

「…やり直し、たい、です…」

 息も絶え絶えに、青い瞳から涙を零し、呟く。

「私は、間違…を…しました…。殿下…とても、顔向け、できない…。もう一度…、…り直し…あの方…、救、たい…」

 

 既に意識が混濁しているのだろう。かすれたその言葉は虚ろで、何を言っているのかところどころ聞き取れない。

 ただ強く悔やみ、やり直したいと願っている事だけははっきりと分かった。誰かを助けたいと思っている事も。

 今にも己の命の灯が消えようとしている時に、彼が願うのはその誰かの命なのだ。

 あの日、自分よりも孫を助けてくれと願ったクトナの姿が重なる。

 

 

 …やり直す。過去に戻る。とても難しいが、きっとできる。

 やらなければ彼は死ぬのだ。クトナのように。

 青い瞳からは光が失われ、身体は冷たくなって、そのまま二度と動かなくなる。

 そんなのは嫌だ。ライオスは宝玉を強く握りしめた。

 

 戻れるのは、彼の命の始まりまでだ。

 だったらついでに女にしてしまおうと思いつく。宿る肉体をほんの少しいじって変えればいい。母親の腹の中にいるうちなら簡単だ。

 女ならばつがいになり、子供を作る事だってできる。家族を作れるのだ。

 それはとても良い考えのような気がした。

 

 

 

 

 魂となって時を遡ったライオスは、無事に彼の魂を母親の胎内に宿すことに成功した。

 しっかりと魂が定着したのを確認してから、自分の肉体に戻る。20年前の自分に近付くと、勝手に魂が融合した。

 どうやら同じ世界に同じ魂は2つ存在できないというのが神の理屈のようだ。

 意識を集中させれば、確かに契約が繋がっているのが分かる。後は、契約が満たされるのを待つだけだ。

 一人で生きてきた長い時間を思えば、何ということはない。

 

 

 17年の後、ライオスはリナライトと再会した。

 今ではリナーリアという名になったその者は、相変わらず大きな青い目を零れ落ちそうなほどに見開き、それでやっと契約を思い出したらしい。

 

 かつての約束を守るよう念を押したまでは良かったが、リナーリアは驚いた事にそれから何度もライオスを呼び出すようになった。

 その度に他の人間に会わせ、お茶とやらを飲ませたり、お菓子を食べさせたりする。お茶会と言うらしい。

 彼女が連れてくる人間は何故か、自分を怖がらない者ばかりだ。それどころか和やかに話をしたりする。訳が分からない。

 

 特に気になったのは、リナーリアの母だという人間だった。この者もライオスに近い気配がする。

 それに何故か、クトナを思い出す。外見は何一つ似ていないのに。

 ライオスの正体を知った時はずいぶん驚いていたが、しかしやはり怖がらない。

 おかしな事ばかりで混乱する。

 

 だが、リナーリアたちと会っている間は、胸の奥の寒さを感じない。

 いつの間にかお茶会とやらを少しだけ楽しみにしている自分に気付き、ライオスは戸惑った。

 

 

 

 巨大な魔獣が生まれる予兆を感じたのは、そんなおかしなお茶会に慣れてきた頃だ。

 瘴気が膨れ上がっていくのが手に取るように感じられる。

 そこから出てくるのは、クトナが死んだあの時の魔獣にも匹敵する大きさだろう。

 

 ライオスはリナーリアに逃げるように勧めた。脆弱な人間の力ではあれは食い止められないだろう。

 ところが彼女は、ライオスに共に魔獣と戦ってくれと頼んだ。

 戦いたくはない。だが、放っておけば多くの死人が出るのも確かだった。リナーリアやその家族、友人が死ぬ所は見たくない。

 しかもリナーリアは、自らも戦場に出ると言う。守りたいものがあるから、それで得られるものがあるからと。

 それが一体何なのか、ライオスは知りたくなった。共に戦いに出ることを承諾した。

 

 

 魔獣と戦う人間たちは必死だった。

 脆い肉体を、拙い魔術を使い、死に物狂いで戦っていた。

 気が付けばライオスは、人間たちを庇うように戦っていた。彼らに死んでほしくないと思っていた。

 自分はもう、人の死を見たくないのだ。

 

 戦いの後に得られたものは、嘘偽りのない笑顔だ。

 ただ生を喜び、お互いの無事を喜び、勝利を喜んでいる。

 彼らは口々にライオスに感謝した。「よくやった」ではなく、「ありがとう」という言葉で。

 こんなに素直に、こんなにたくさん感謝されたのは初めてだった。

 

 彼らを助けられて良かった。そう思っている自分がいる事に驚く。

 力を持っていて良かったと、そんな風に考える日が来るなど思わなかった。

 リナーリアが欲したものの価値が、自分にも理解できた気がした。

 

 

 

 

 …そして、そのリナーリアは今、ライオスに契約の変更を持ちかけてきている。

 かつての願いの対価を変えろと。

 ライオスの妻ではなく、姉にしろと言うのだ。

 

 愛していないと言われたのにはショックを受けた。全くの予想外だった。

 自分はどの人間よりも強いというのに、何故愛されないのか。

 だが彼女を姉にすれば、父や母、兄も同時に手に入れる事ができるのだそうだ。

 妻にはなりたくないが、ライオスと家族になるのは嬉しいと、彼女は言う。

 本当に意味不明で理解不能だが、思い出せばこの者は、初めて出会ったあの時からずっと、ライオスの予想しない事ばかり言ってきた。

 

 

『…我が、戦わなくてもか?』

 しかし彼女は、ライオスの力が欲しいだけではないのか。もし戦わないと言ったら、ライオスには価値がないと思うのではないか。

「すみません、もしかしたらまた、お願いしてしまうかもしれません。私たちには手に負えない魔獣が出ることも考えられますから…」

 リナーリアはとても申し訳なさそうな顔で答えた。

 ライオスは少し落胆したが、正直だとも思った。都合のいい言葉だけを並べ立てる事はしたくないのだろう。

 

 それからリナーリアは、真剣な顔でこう言った。

「でも、できるだけ貴方が戦わなくても良いように努力します。これは絶対にお約束します。貴方が平和に暮らせるよう、力を尽くします」

 これも、嘘の匂いはしない。

 彼女はいつもただ真っ直ぐに、大真面目に、必死で生きている。

 

 

 

 …それでもいいかと、ライオスは思った。約束は、それだけで十分だ。

 彼女には既にたくさんもらっている。かつては知らなかった事、理解できなかった事をたくさん教えてもらっている。

 笑顔の価値だけではない。色んなお菓子の味を。人間と会話する楽しさを。

 他人を守りたいという思いを。

 

 クトナが持ってきた苺のゼリーだけが特別だった理由も、今なら分かる気がする。

 自分はクトナを母親のように思っていた。家族ではなかったが、それに近いものだと感じていた。

 クトナが死んだ時、とにかく恐ろしくて、胸がとても痛かった。あれはただ怖かったのではない。悲しかったのだ。

 クトナと、クトナが守りたがっていた家族を守れなかった。それが悲しく、悔しかったのだ。

 

 戦いは好きではない。しかしいつか戦わなくて済む日が来るなら、その時までは戦っても良い。

 大切な人を守れないより、ずっといい。

 自分がこうして人間とは違う力を持って生まれてきた理由が、やっと分かった気がした。

 

 

 リナーリアの大きな青い目を見つめる。

 実はこの目が結構気に入っているのだ。いつも、決して逸らさずに見つめ返してくるから。

『…分かった。そなたとの契約を破棄する。その代わり、そなたの弟になるのが、新たな契約だ』

 そう答えた瞬間、ふと懐かしい、あの甘い苺の匂いがした気がした。



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第196話 変化した日常

 あの戦いからもうすぐ1ヶ月。

 今日の生徒会は、近く開催される武芸大会に向けての事務作業だ。

「こっちが今年の出店リストなの。新規で許可した店が2店あるの」

「どれどれ…」

 ミメットに手渡された書類にざっと目を通す。

 大会当日に飲食物を売る店のリストだが、過去に販売実績がある店がほとんどだし、新規の店も貴族の推薦状つきのようである。特に問題はなさそうだ。

 今年の大会は去年よりも参加者が多いというし、観客席も増設しているらしい。きっと大いに盛り上がるだろう。

 

「トーナメント表や日程表ももう出来てるんですよね?」

「ええ。ちょっと調整に手間取ったけど、明日には発表する予定。でも貴女は参加者だからまだ見せられないの」

「あはは…」

 そう、私は今年も武芸大会に出る予定になっている。何と魔術部門でだ。とにかく派手さばかりを競う、あの花火大会にだけは出たくなかったのに…。

 

「貴女が超大型魔獣との戦いで派手に活躍したこと、皆知ってるもの。期待されてるわ」

「ええ」

 何しろ、教師から直接「その凄い技術を学生たちにぜひ見せてやって欲しい」と頼まれてしまったのだ。頼まれたというか、ほぼ強制だった。私に拒否権はなかった。

 

「私も、貴女の魔術を見てみたいの。…が、頑張って」

 ミメットは小さくそう付け足した。ちょっと照れてる。可愛い。思わず笑顔になってしまう。

「…はい!頑張ります!」

 後輩に手本を見せるのも先輩の役目だ。やるからには頑張ろう。

 

 

 それからいくつかの書類や雑務を片付け、生徒会室を出た時にはもう夕方になっていた。

 うーん。今日はうちの屋敷に行こうかと思っていたんだが、あまり時間がなさそうだ。それより闘技場の様子でも見に行こうかな。

 そう思って歩き出した所で、「おーい!」と呼ぶ声が聞こえた。

 …嫌な予感がする。

 

 恐る恐る振り返ると、案の定スピネルがこちらに走り寄ってくる。めちゃくちゃ不機嫌そうな顔だ。

 それだけで事情を察し、がっくりと肩を落とす。

 今日も、寮に戻るのは門限ぎりぎりになりそうだ。

 

 

 

 

 その翌日の休み時間。

 私は殿下と共に、学院のロビーに貼り出されたトーナメント表を見に来ていた。

 私の魔術部門はどうでもいい。大事なのは騎士部門だ。

「…殿下とスピネルは、決勝戦まで当たらないみたいですね」

「そのようだな」

 

 去年は騎士部門への出場を避けたスピネルだが、今年はちゃんと出る事にしたらしい。殿下ともども騎士部門に専念するそうで、タッグ部門へのエントリーはなしだ。

 この二人の試合が恐らく一番の注目を集めるだろうから、組み合わせには若干の忖度が加えられているような気がする。

 

 ちなみにスフェン先輩も今年は騎士部門のみへのエントリーだ。

 なんと先輩はしばらく前からあの剣聖ペントランドの指南を受けていたそうで、相当腕を上げたらしい。自信ありげな様子だった。

 組み合わせは…順調に行けば、準決勝でスピネルと当たるな。そうなったらどちらを応援するか悩むところだ。

 

 タッグ部門の方は、去年の私と先輩の戦いぶりを見てか、騎士と魔術師で組んでいる者が多いようだ。

 カーネリア様とユークレースもそのうちの一組である。

 二人ともやる気満々で、特にユークレースは私がタッグ部門にエントリーしないと知って物凄く膨れていたが、「なら魔術部門にも出る」と言って追加エントリーをしていた。

 この大会の魔術戦かなり特殊なんだけどなあ。勝負できるなら何でも良いのだろうか。

 

 

 ふと視線を感じ、隣を見上げると、殿下が私の顔をじっと見ていた。

「リナーリア。俺は今回の大会、必ず優勝するつもりだ」

「はい!頑張ってください!!」

 私がそう言ってぐっと握った拳を、殿下は両手で包み込み握りしめた。何だかすごく真剣な目で私を見つめる。

「ああ。頑張る。見ていてくれ」

「は、はい…?」

 

 

「…おい。イチャイチャするなら人目のない所にしろ」

 冷ややかな声でそう言われ、私は慌てて振り返った。

「ゆ、ユーク!」

 ジト目でこちらを睨んでいるのはユークレースだった。隣にカーネリア様もいる。

 

「お、お二人もトーナメント表を見に?」

「まあな。僕とお前は決勝戦で当たる。言っとくけど負けないからな」

「分かりました」

 そう言えば魔術部門の組み合わせをまだ見てなかったけど、まあいいか。決勝かあ…万が一途中で敗退したらユークレースは絶対怒るだろうなあ…。

 

「詳しい話はお昼にでもしましょ。次の授業が始まってしまうわ」

「あ、そうですね」

 授業の間の休み時間は短い。教室に戻ろうと歩き出した時、カーネリア様がこそっと小声で私に話しかけてきた。

「うふふ、殿下ってば近頃すごく積極的よね!」

「え、そ、そう…ですかね…?」

 恥ずかしさで視線が泳いでしまう。そんな私を見て、カーネリア様はにっこりと笑った。

 

 

 

 昼食にはスピネルも加わった。相変わらず機嫌が悪そうだ。

 昨日も謝ったのだが、改めて謝る事にする。

「あの、スピネル、昨日はお手数おかけしました。すみません。それに、カーネリア様とユークにも失礼をしたみたいで…」

「気にしないで。悪いのはユークよ」

 カーネリア様に横目で睨まれ、ユークレースはぷいっと顔を逸らした。

「僕は悪くない。あいつが下手くそなのが悪い」

 

 …実は昨日、カーネリア様とユークレース、スピネルはうちの屋敷を訪れていたのだ。ライオスに会うためである。

 ライオスは今、うちの屋敷に住んでいる。お兄様夫婦や使用人は最初ずいぶんと驚き戸惑ったようだが、お母様が上手く取り持ち、今ではだいぶ慣れたらしい。

 私もちょくちょく様子を見に行っているが、何とかそれなりにやっているようだ。

 

 そんな我が家には、ライオスと面会したいという貴族からの問い合わせが殺到している。

 しかし彼はまだこの国の文化をよく知らない。マナーにうるさく、様々な不文律を持つ貴族の相手は早すぎる。

 だからまずは親しい知り合いに会わせてみているのだが、まあまあ問題を起こしている。

 昨日もユークレースにナイフとフォークの使い方がおかしいと言われて拗ねたらしく、どこかに飛んでいってしまったのだ。

 

 一番困るのが、この拗ねると家出をしようとするところだ。その度に大慌てで探しに行く羽目になる。

 本気で逃げたい訳ではないらしく、迎えに行けば大人しく一緒に帰ってくれるのだが、探すのが結構大変だ。何しろ翼があるものだから、どこにでも行ける。人から姿を隠す事もできるし。

 どうも子供っぽい所があるとは思っていたが、まさかここまでとは…。

 

 

「ユーク!ライオス様はまだ食器の扱いに慣れてないんだもの、下手でもしょうがないじゃない!」

 カーネリア様が叱るが、ユークレースはふんと鼻を鳴らした。

「甘やかしてたら上達しないだろ」

「あの…お願いですから、少し優しくしてあげて下さい。彼、傷付きやすいみたいなので…」

「そうよ、そうよ」

 私とカーネリア様に口々に言われ、ユークレースは唇を尖らせた。いや、本当に頼むから…。

 

「俺はそいつに賛成だな。あいつを甘やかすのはやめろ」

 斜め向かいに座ったスピネルがムスッとした顔で言う。

 ライオスがいなくなった時、探すのは探知魔術に優れた先生か私、あるいはミーティオがいるスピネルなのだ。おかげでスピネルは近頃すこぶる機嫌が悪い。

 

「あいつ、家出すればお前が慌てて探しに来るもんだから味をしめてるんだよ。この前は王都の外にまで行きやがったから、仕方なく俺が迎えに行ったら、俺の顔を見た途端に一人で帰りやがったんだぞ!!」

「そ、その節は本当に…うちの弟が申し訳ありません…」

 私は愛想笑いを浮かべるしかない。スピネルは本当に災難だと思う。

 ミーティオの方はライオスを気にかけている様子なのだが、ライオスの方は未だに複雑な感情があるらしく、ミーティオが共にいるスピネルの事を避けようとする所があるのだ。

 

 

「困ったものだな。君も色々と忙しいというのに」

 殿下はビーフシチューを食べる手を止め、私を気遣う表情になった。

「俺も様子を見に行きたいが、どうもライオスにはすっかり嫌われてしまったようだからな…」

「それはまあ、そうなるわよねえ…」

「当然だな」

 カーネリア様とユークが私の方を見る。…も、物凄く居心地が悪い。

 

 ライオスとの契約が姉弟に変更された事で、私は他の人間との恋愛を避けるという呪いが解けた…らしい。

 先生によると、契約そのものよりも私自身の「いずれ契約を履行しなければいけない」という無意識下の強い思い込みによる影響が大きかったようだ。自分ではよく分からないのだが。

 まあそれは置いておいて、それからというもの、殿下の距離がやけに近い。

 カーネリア様も言っていたので私の気のせいではないと思う。別に表情はいつも通りなのだが、何かこう、近い。

 

 問題は私の方で、それを妙に意識してしまうのだ。以前は気にならなかった事でも気になって仕方ない。殿下に手を握られたり見つめられただけでも動悸がするし、クラスメイトたちはやたら温かい目で見てくるし。

 これはもしかしてアレというやつなのだろうか、でもそんなの恐れ多いし、殿下だって別に何も言わないし、やっぱり勘違いだったらどうしようとか、近頃忙しい事もあってその問題は棚上げされっぱなしである。

 ただ、ライオスが物凄く殿下を嫌い始めてしまってそれがとても困る。もはや顔を見ただけで威嚇するレベルだ。

 

 

「…ま、そこは殿下が頑張って何とかするしかねえな」

 スピネルが肩をすくめ、殿下が憮然とした顔になる。

「お前、面白がっているだろう」

「俺は別に?ただ、あんまりモタモタしてるとまた国王陛下に怒られるぞ」

「くっ…。わ、分かっている」

「え?陛下に怒られたんですか?殿下が?」

 陛下はいつも温厚だし、滅多なことでは怒ったりしないのだが。

 

「いや、君は気にしないでくれ」

 殿下は慌てたように首を振った。

「それより、君の事だ。ライオスの件はともかく、生徒会の手が足りない時はいつでも言ってくれ。俺だって生徒会の一員なんだ」

 

 武芸大会の準備期間は、出場者の生徒会活動は任意で良いという事になっている。

 殿下は優勝候補でもあるし、生徒会のメンバーは皆「殿下は大会に集中して下さい」と言っているのだが、それを少々気にしているようだ。

 私も一応出場者なのだが、魔術部門に出場するにあたって必要な準備など大してないので、普通に生徒会に顔を出している。

 

 

 でも、せっかくの申し出だし今日は殿下に甘えておこう。

「では、今日の放課後は生徒会室に寄っていただけますか?増設した観客席のチェックがあるらしいのですが、私は用事があって行けないので…」

「分かった。任せてくれ」

「用事?なんだよ?」

 スピネルがそう尋ねてきたのは、またライオスが何かやった時に呼び出されたくないからだろう。

 しかし、残念ながら今日だけはどうしようもない。私には行かなければならない所があるのだ。

 

「ようやく許可が降りたので。…放課後、()()に会いに行く予定なんです」



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挿話・29 彼女の罪と罰・1

「フロライアさま、ありがとうございます!!」

 配られたお菓子を抱え、子供たちが満面の笑顔を浮かべる。フロライアは優しくそれに微笑み返した。

「これはあなたたちが毎日頑張ってお勉強をしたり、お手伝いをしたり、お祈りを捧げたご褒美よ。私ではなく、神様がくださったものなの。感謝するなら、神様に感謝をしてね」

「はい!!ありがとう、フロライアさま!!」

 

 声を揃えて答える子供たちに、思わず苦笑する。言いたい事が全く伝わっていないようだ。

「仕方ありません。この子たちは、フロライア様の事が大好きなんですよ」

 老齢のシスターがくすくすと笑う。

 本当に困ったと思いながら、フロライアはシスターにも苦笑を返した。

 …こんなものは、偽りの優しさに過ぎないというのに。

 

 子供たちやシスターに手を振られながら、馬車へと乗り込む。ため息はもっと後、子供たちから姿が見えなくなってからだ。

 休日の慈善活動。孤児院への慰問も、モリブデン侯爵家令嬢としての勤めの一つだ。

 他にも騎士団や衛兵たちの元を訪れて労いの言葉をかけたり、学校に寄付をしたり、病院への慰問などもある。

 おかげで、領民たちからのフロライアの評判はすこぶる良い。慈愛あふれる心優しいお嬢様だと言われている。

 

 

 

 屋敷に戻ると、門兵が出迎えてくれた。

「ありがとう。お疲れ様」と声をかけてから中に入る。

 自室に向かう廊下を歩いていると、窓からは色褪せた庭が見える。今はまだ1月、木々はくすんだ色をしていて寒々しい。

 幼い頃は冬が嫌いだった。寒いし、花や葉を落とした草木は眺めてもつまらなかったからだ。

 だが、成長し王都と領を行き来するようになってからは冬が好きになった。

 …冬の間は、モリブデン領にいられるから。

 

 その時、廊下の角に人の姿を見つけた。

 あの後ろ姿はエメリーだ。憂鬱そうな顔で、紅茶のポットとカップを乗せたカートを押している。

「エメリー!」

 名前を呼ぶと、彼女はくすんだ灰色の髪を揺らしてこちらを振り返った。

「あっ、お嬢様、おかえりなさい!」

 

 

 エメリーはモリブデン家に仕える騎士の娘で、フロライア付きの使用人をやっている少女だ。乳兄弟で、幼馴染でもある。歳はフロライアと同じ、今年で14歳になったばかりだ。

 彼女の母親であるキノはモリブデン家傘下の下級貴族の出で、生まれつき魔力量に恵まれていた。フロライアの母と同時期にエメリーを身籠っていて、フロライアの母が産後体調を崩してしまったために乳母として選ばれたのだ。

 

 母はそれから数年で亡くなってしまったので、フロライアにとってキノはずっと母代わりの存在だった。読み書きや算術の基礎を教えてくれたのもキノだ。

 共に育った娘のエメリーもまた、姉妹のような存在と言っていい。立場はあくまで使用人だし、身分には大きな差があるが、フロライアにとっては一番の友人である。

 

 

「そうだわ、これ、お土産」

 フロライアは上着のポケットを探ると、小さな紫色の布袋を2つ取り出した。

「ポプリよ。孤児院の子供たちにもらったの。エメリーに片方あげるわ」

 孤児院は国や領、あるいは貴族たちからの援助で運営されているが、やはりそれだけでは厳しい。子供たちは様々な小物を作ってはバザーなどで売ってお金を稼いでいる。

 このポプリもそんな商品の一つのはずで、袋の中には子供たちが摘んだ花やハーブが詰められている。

 フロライアは申し訳ないからと固辞したのだが、どうしてももらって欲しいと言われ持って帰って来たのだ。

 

「えっ、それ、お嬢様がもらったものじゃないですか!だめですよ!」

「2つもあっても多いもの。もらってくれないかしら?」

 ポプリをエメリーの手に押し付ける。

「で、でも…」

 なおも遠慮する彼女に、フロライアはにっこり微笑んだ。手に持ったもう一つのポプリを指し示す。

「ほら、おそろいよ」

 

 フロライアの瞳と同じ、紫色の布で作られた2つのポプリ。エメリーは、たちまち顔を輝かせた。

 とても嬉しそうに、ぎゅっと小袋を握りしめる。

「あ、ありがとうございます、お嬢様…!」

 …本当に、2つもあったら困るから渡しただけなのだけど。彼女はいつも素直で可愛らしくて、単純だ。

 

 

「それで、どうしてそんなに憂鬱そうにお茶を運んでいたの?」

 さっきの様子が気になって尋ねると、エメリーは分かりやすく眉を曇らせた。

「…実は、旦那様の所にお茶を持っていくように頼まれたのですけど…」

「ああ…そういうことね」

 

 彼女は昔からドジな所がある。先日も父アンドラの前でいくつもカップを割ってしまい、叱られていた。

 父は使用人の仕事にいちいち口を挟んだりはしないが、エメリーはフロライアの専属の使用人である。他の貴族と会う時に同席する事も多い。

 フロライアは来年からは学院に通うので、その機会はますます増える。この調子では困ると、少々きつく叱ったらしい。

 父はきっともうその事を忘れているだろうが、エメリーは未だに気にしているようだ。

 

 

 父はフロライアが幼い頃はとても優しかったのだが、祖父から侯爵位を継いだ頃から変わってしまった。厳しい顔をする事が多くなった。

 時折、ひどく不機嫌な時もある。理不尽に周囲に当たるような事はしないのだが、そういう時はやはり近寄りがたい。

 

 先日エメリーが粗相をしたのも、運悪く父が不機嫌な時だったらしい。

 フロライアも不機嫌な父は苦手だ。いや、普段でも少し苦手になってしまった。昔はあんなに大好きだったのに。

 今でも十分優しいと思うし、領民からは慕われているのだが、娘であるフロライアには分かる。父は誰に対しても壁を作るようになってしまった。いつでも完璧な領主たらんとしている。

 

 父は息子や娘にも自分と同じ事を求めてくる。

 フロライアはモリブデン侯爵家令嬢として、いつも完璧でなければならない。

 勉強。音楽。ダンスに、社交。それから魔術。どれも完璧に、それでいて優雅でスマートにこなさなければいけない。

 幸い、人よりも少しばかり器用に生まれた。努力さえすれば大抵の事はできた。

 それがどんなにやりたくない事でもだ。

 

 

 うつむくエメリーに、フロライアは優しく微笑みかけた。

「ねえ、そのお茶、良かったら私が運ぶわ。丁度お父様に会いに行こうと思っていた所だから」

「本当ですか!?」

 エメリーはぱっと笑顔になった。

「ありがとうございます、お嬢様…!あっ、私、お庭の掃除も頼まれていたんです。そっちに行ってきます!」

 

 大きく頭を下げて去っていく彼女の後ろ姿を見送り、カートを押し始める。

 ため息が出そうになるのを、喉の奥で飲み込んだ。

 …父に会いに行く所だったなんて嘘だ。本当はあまり会いたくない。

 

 また勉強の進み具合について尋ねられそうだし、父の執務室を訪ねるのは少々気が重い。だが、エメリーがあまりに困った顔をしているから、つい引き受けてしまった。

 自分のこういう部分が、フロライアは嫌いだ。

 心優しい、慈悲深いご令嬢などと皆が褒めてくれるが、本当はただ良い子ぶっているだけだ。

 そういう振る舞いをするのがいつからか身についてしまった。親切そうな言葉、気遣うような言葉が勝手に口から出てくる。内心ではいつも憂鬱で、そんな自分にうんざりしているというのに。

 

 

 

「お父様。入ってもよろしいですか?」

 こんこん、と軽くノックをして扉越しに声をかけると、すぐに「入れ」という返事が聞こえた。

「どうした?」

 その声色に、今日の機嫌は悪くなさそうだと判断したフロライアは、ほんの少しおどけた調子で答える。

「お父様がまたお仕事にかかりきりだと聞いたものですから。ご休憩を提案しに参りましたの」

 フロライアの手元にある茶器のカートを見て、アンドラはふっと笑った。

「…そうだな。そうするか」

 どうやら、今日もちゃんと「正解」の対応をできたらしい。

 

 

「勉強の進み具合はどうだ?」

 カップへ紅い液体を注ぐフロライアに、父が問いかけてくる。

「順調です。学院でも上位の成績を修められるだろうと、先生にもお褒めいただきましたわ」

「ダンスは?お前も来年にはもう、社交界デビューだ」

「明日またレッスンの予定です。でも、先週の授業でも先生には合格点をいただいてますわ。いつデビューしても大丈夫だと」

「そうか」

 

 来年の夏には入学祝いのパーティーがあり、そこで社交界デビューする事になる。

 春になって王都に行ったら、有名デザイナーにドレスや宝石を発注する予定だ。恐らくどこのご令嬢よりも高価で、きらびやかなものを。

 だが、それを見せるべきファーストダンスの相手は決まっていない。正直興味もないしどうでもいい、とフロライアは思う。

 …どうせ相手は父が決めるのだ。自分が本当に望んでいる相手と踊ることなど、万に一つも起こらない。

 

 相手はどうせオットレか、あるいはどこかの名家の令息か。

 父は当初、フロライアが第一王子エスメラルドに近付く事を望んでいたが、どうやらそれを諦めたようだ。王子には既に親しい令嬢がいるからだろう。

 以前からその噂は聞いていたが、王子は昨年の視察の際、たっての希望で彼女の領を訪れたという。よほど仲が良くなければそんな事はしない。

 

 

 フロライアも、その令嬢の事は知っている。父と共に城に行った時、遠くからその姿を見かけたからだ。

 青みがかった銀髪の少女。ほっそりとして儚げで、しかしなぜか、芯の強そうな印象を受けた。貴族の間でも、彼女は実に礼儀正しく賢いご令嬢だと言われているらしい。

 

 そのまま何となく物陰から見守っていると、従者を伴った王子がやってきた。

 彼女の顔が嬉しそうに輝く。さっきまでの気を張った様子とはまるで違う、無邪気で無防備な笑顔だ。

 

 …これは他の者が入り込める訳がない、とフロライアは冷めた思いでそれを見つめた。

 あんなに真っ直ぐに慕われて、心が動かない者がいるはずがない。ましてやあれほど美しい少女なのだ。

 実際、彼女を見た王子もまた、ほんの少し笑っていた。いつでもどこにいても、常に無表情のあの王子がだ。

 

 王子が誰と恋仲になろうとどうでも良い。そう思いつつ、わずかに苛立ちのようなものを覚えた。

 彼女の家は末席とは言え侯爵家だ。魔術師系貴族は以前は冷遇されていたと言うが、現国王はそちらの派閥の支持が厚いと聞く。彼女が特に差別を受けている様子もない。

 彼女が王子妃になるには、すんなりとは行かないまでも、それほど大きな障害はないだろう。

 それが、妬ましい。

 

 

 

 紅茶を飲みながらいくつかの雑談をした後、アンドラはふと思い出したかのように言った。

「そう言えば、キノとエメリーがルビテ村に帰省するんだったな」

「あ、はい。伯父様の具合が良くないとのことで、来週から。お父君も同行する事になったようです」

 ルビテ村はキノの夫でエメリーの父である男の出身地だ。農家の次男だったが、剣の才能があったために騎士として登用され、モリブデン家に仕える事になった。

 キノとは大恋愛の末に結婚したのだと聞いている。

 

「…近頃は魔獣も多い。東の街道を通るように言っておきなさい」

 東の街道は川に沿っていて魔獣の出現率が低いし、他の馬車も多く行き交っているので安全だ。しかし結構な遠回りになる。ルビテ村に行くには北に向かうやや狭い道を通るのが一般的だ。

「分かりました。伝えておきますわ」

 父がわざわざそんな忠告をするなんて珍しい。そう思いつつ、フロライアはアンドラの執務室を後にした。




この挿話は全3話のエピソードになる予定です。
これからエピローグまで、ほぼ毎日更新で行く予定です。どうぞよろしくお願いします。


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挿話・29 彼女の罪と罰・2

 茶器の乗ったカートを厨房に返しに行くと、夕食の支度を手伝っていた使用人が慌ててフロライアを迎え入れた。

「まあ、お嬢様!エメリーったら、お嬢様に頼むだなんて…」

「私の方が頼んだのよ。お父様と二人で話したかったから。それに、エメリーは他の仕事もあったみたいだし」

 それを聞いて、料理人見習いの若い男が口を挟む。

「ああ、そういえば庭の方でお兄さんと一緒にいるのを見ましたね。本当に仲がいいなあ」

「えっ?」

 

 

 急いで庭へ出ると、楽しげな笑い声が聞こえた。

「エメリー!ビスマス!」

「あっ、お嬢様!」

「フロライア様」

 エメリーとよく似たくすんだ灰色の髪。彼はこちらを振り返ると、大きく頭を下げ、柔らかく微笑んだ。

 どきりと心臓が跳ねる。

 

 ビスマスはエメリーの兄だ。賢く、優しい性格の少年で、妹をとても可愛がっている。フロライアとも幼い頃から親しい。

「どうしたの?今日は塾ではないの?」

「今日は早めに授業が終わったんです。だから剣術の鍛錬をしようと思って、こちらの修練場に」

「頑張っているのね」

「はい。お嬢様や旦那様のご期待に応えたいので」

 

 ビスマスは今年の秋には王都の魔術学院に入学予定で、それに向けてずっと塾に通っている。

 貴族ではない彼が学院に入学できるのは、フロライアがアンドラに頼み、モリブデン家の名前で推薦してもらったからだ。学費も援助してもらうことになっている。

 ビスマスは父親譲りの剣の才能も母親譲りの高魔力もあり、性格も真面目だ。必ずモリブデン家に貢献してくれる。そう熱心に頼むフロライアに、始めは渋っていたアンドラもついには折れてくれた。

 

「もう、兄さんったら、いつも旦那様やお嬢様の事ばっかり!私だって兄さんを応援してるのに!」

「もちろん分かってるよ。…ありがとう、エメリー」

 優しく頭を撫でられ、エメリーは嬉しそうに目を細めた。胸がちくりと痛む。

 フロライアの兄ダンブリンは、妹の頭を撫でたりはしない。興味など持っていないからだ。

 兄の関心は、いかに父の期待に応えるかのみにある。冷静で優秀で、きっと父のような良い領主になるのだろうが、フロライアにとっては他人のような存在だ。

 

 

 正直に言えばフロライアは、エメリーが羨ましくて仕方なかった。

 フロライアは一見、エメリーが持っていないものをたくさん持っている。

 誰もが羨む美貌。波打つ蜂蜜色の髪に、艶々とした肌。輝く紫の瞳。教師が褒めそやす賢さ。裕福な身分。きらびやかなドレスに、宝石。

 だがそれらは全て、モリブデン家のものだ。いずれ名家に嫁ぐために磨かれ、与えられてきたもの。

 

 それに引き換え、エメリーは自分だけのものをたくさん持っている。

 鼻にはそばかすがあり、くすんだ灰色の髪は地味だが、愛嬌のある可愛らしい顔をしている。

 そして、優しい兄と父母がいる。他の使用人たちはドジな彼女をいつも叱っているが、それらは愛情が込められたものだ。

 明るく無邪気な彼女は誰からも愛され、いつも温かい人たちに囲まれている。

 

 …何より、彼女には自由がある。

 今はフロライアの専属の使用人をしているが、いずれはその仕事をやめ家庭に入るだろう。

 まだ恋などした事がないらしいが、彼女ならきっと良い相手が見つかる。好きな相手と結婚できる。

 例えば、そう、彼女の兄ビスマスのような優しい男と。

 

 

 ビスマスはフロライアにも優しい。いつも飾らない、自然な笑顔を向けてくれる。

 余計なお世辞を言ったり、取り入ろうとする事もない。フロライアが内心でそういう言葉を嫌っていると、聡い彼は気付いているのだ。

 それでいて、きっちりと身分をわきまえ一線を引いた態度を取ってくる。…憎らしいほどに。

 

 彼の落ち着いた、柔らかな雰囲気が好きだ。プライドばかりが高く、自己主張の強い貴族の子供たちとは違う。一緒にいて心が安らぐ。

 自分が彼に抱くこの感情が、果たして恋なのか、それともただの憧れなのかはフロライア自身にも分からない。

 ただエメリーが羨ましくて、嫉妬さえする。

 兄の隣で無邪気に微笑むエメリー。彼女の代わりに、自分があそこにいられればいいのに。

 

 

「ところで、兄さん。本当にルビテ村に一緒に来てくれないの?」

「ああ。来週は合同訓練があるんだ。前にも話しただろう?王都から来た騎士団も参加する、4年に1回の大きな訓練があるって。それに俺も見習い騎士の一人として加えてもらえる事になったんだよ」

「それは、確かにすごいけど…。伯父さんにも伯母さんにも、もうずっと会ってないでしょ。お祖母ちゃんの作るアップルパイ、兄さんだって好きだったじゃない」

「訓練で王都の騎士団の強さを見てみたいんだ。こんな機会滅多にないんだよ。分かってくれ」

 

「……」

 エメリーはふくれっ面になった。ビスマスは苦笑しながら、再びその頭を撫でる。

「ごめんよ、エメリー。伯父さんと伯母さんによろしく。アップルパイは、お前が俺の分まで食べてくれ」

「そんなに食べられないわよ!…しょうがないから、兄さんの分はちゃんと持って帰って来るわ。北の道を通れば早いもの」

「そうかい?でも、無理はしなくていいよ。気をつけて行ってくるんだ。近頃は魔獣も多いから」

 

 

 それを聞いて思い出した。父のアンドラが、ルビテ村に行く際には東の大きな街道を使うように言っていた事を。

 フロライアは口を開こうとし、またすぐに閉じた。

 …もし、魔獣が出たせいで足止めをされたり、道を引き返す事になったら。そうしたら、1日か2日は出発を見合わせ、帰りが遅れる事になる。

 その間はエメリー抜きでビスマスと一緒にいられるのではないかと、ちらりと頭に浮かんだからだ。

 

 フロライアは訓練の際、モリブデン家の令嬢として王都の騎士団に労いの言葉をかけに行く予定になっている。その時、将来自分の護衛になる予定だと言って、ビスマスも同行させるつもりだった。

 有望な騎士見習いとして彼の剣の腕を褒めれば、騎士団も彼に一目置くかもしれない。

 そうすればビスマスはきっと喜び、自分に感謝するに違いない。

 夢見るように、フロライアはそんな光景を思い描いていた。

 

 エメリーの帰りが遅れれば、その楽しい時間がほんの少し長くなる。

 そう思い、フロライアは父の忠告を伝えるのをやめた。

 

 出発の朝、エメリーはいつも通りの明るい笑顔でフロライアに頭を下げた。

「お嬢様、行ってきます!お土産、持って帰ってきますね!!」

 フロライアは微笑み、「気をつけて」と言って彼女たちを送り出した。

 

 

 

 

 …しかしフロライアの小さな独占欲は、思いもかけない最悪の結果を呼び込んでしまった。

「エメリー…!!父さん…母さん…!!!」

 ビスマスの慟哭が、鋭い刃のように胸に突き刺さる。

 

 エメリーとその父母は、物言わぬ亡骸となって帰ってきた。

 ルビテ村からの帰り道、彼らが乗った馬車が突然現れた中型魔獣の群れに襲われたのだという。

 騎士であるエメリーの父は、乗り合わせた男たちと共に必死に戦ったが、あまりに魔獣の数が多かった。

 馬車馬に乗り命からがら逃げ出してきた者によってそれは知らされ、魔獣の群れはただちに出動した騎士団が討伐したらしい。

 だが結局助かったのは、馬に乗って逃げた者だけだった。

 

 

 フロライアは泣きながらがたがたと震えていた。

 エメリーを、乳母のキノを喪った悲しみ以上に、自らの犯した罪が怖かった。

 こんな事になるなんて思わなかったのだ。

 まさか本当に魔獣に襲われるなんて。それが、優れた騎士であるエメリーの父でも太刀打ちの出来ないような数の群れだったなんて。

 

 生まれてからずっと厳重に警備された屋敷で暮らし、どこに行くにもたくさんの護衛が付き、年の半分を平和な王都の中で過ごす。

 そんなフロライアにとって魔獣とは、人の力で十分に対処できる脅威でしかなかった。

 戦う力を持ってさえいれば、特に恐れる事はない。死ぬのはたまたま運が悪かった者だけ。

 どこかでそんな風に思っていた。

 

 

 …自分のせいで、エメリーたちは死んだのだ。

 もし、この事をビスマスに、父に、皆に知られたら。どれほど軽蔑され、憎まれることだろう。

 怖くて、恐ろしくて、目の前が真っ暗になった。

 歯の根が噛み合わないほどに震え怯えるフロライアの肩に、誰かが手を置いた。

 父だ。

 

「東の街道を通らなかったのか…」

 小さく呟かれたその言葉に、フロライアはびくりと体を強張らせた。

 それに気付いているのかいないのか、父は言葉を続ける。

「お前のせいではない。気の毒だが、彼らは不運だったのだ」

 涙に濡れたビスマスの顔が、こちらを振り返るのが見えた。

 

 

 

 

 数日後。

 ビスマスの様子がおかしいと聞いたフロライアは、彼がここ数日出入りしているという町の図書館にやって来た。

 彼の姿はすぐに見つかった。その異常さも、すぐに分かった。

 顔色が酷く悪い。目の下には隈ができ、頬はこけ、それでいて瞳だけがぎらぎらと光っている。

 何かを調べ回っているようなのは確かだが、一体何を調べているのか。

 直接声をかける勇気はなく、フロライアは彼が何を読んでいるのか司書に尋ねた。

 

 彼が見ているのは魔獣に関する本や資料ばかりだった。

 特に過去100年以上にわたっての、この領に出没した魔獣の記録。それと、住民名簿。

 …どうしてこんなものを。

 そう疑問に思いながら、古い記録をめくっていく。何か気になるものがあるはずだが、見てもさっぱり分からない。

 

 

「…お嬢様」

 しばらくただ記録を眺めていた所にふいに声をかけられ、フロライアは思わず悲鳴を上げそうになった。

「び、ビスマス…!?」

 こちらを見つめる血走った目に、フロライアはぞっとした。

 あの優しかった彼はそこにはいない。

 

「お嬢様。おかしいんです」

「え、な、何?」

 問い返すフロライアに、ビスマスは手に持っていたいくつかの資料を広げて見せる。

 比較的新しい魔獣の記録と、住民名簿のようだ。

 

「ここ十数年、モリブデン領では不定期的に大型魔獣や、中型魔獣の群れが発生しています。明らかに他の領よりも多い数です」

「…え?」

「その割に騒がれていないのは、騎士団の対処がいつも早いからです。…でも、早すぎる。不自然なほどに」

 彼が指さす記録に目を走らせる。何ということのない魔獣の退治記録だが、そう言われてみれば古い記録に比べて解決までの時間が早い。

 だがそれは騎士団の動きが洗練され、連絡手段も充実したからではないのか。家庭教師にはそう教わった。

 

「それに、犠牲者の数が合わないんです。住民の死亡記録と照らし合わせると、魔獣の犠牲になっただろう住民の数が、魔獣の記録の方には少なく記載されている。単なる記載ミスじゃない、明らかに改竄されてます」

「…ど、どういう事?」

「それを聞きたいのは俺の方です」

 

 ビスマスは暗い、冷たい瞳でフロライアを見下ろした。

「旦那様に会わせていただけませんか。お嬢様」

 

 

 

 フロライアは怯えながら、ビスマスの言葉に従った。

 彼を伴い、父アンドラの執務室に向かう。

 怪訝な顔をしたアンドラに対しビスマスは、フロライアにしたのと同じ話をもっと詳細に説明してみせた。

 アンドラはしばらく沈黙した後、小さく嘆息した。

「フロライアはやけにお前に肩入れすると思っていたが。…なるほどお前は、間違いなく優秀だ」

 

 それから、アンドラは語った。

 モリブデン領で起こっている不自然な魔獣の事件は、魔獣の発生をコントロールする魔導具『死神の卵』の実験、あるいはそれを使った壮大な計画のためなのだという。

 それは、黄金の天秤と死神の卵の製作法を記した本を発掘した曽祖父の時代から始まっている計画なのだそうだ。

 長い時間をかけて準備し、完全に再現した死神の卵を量産する体制をようやく整えた。

 

 死神の卵を使う時は、できるだけ犠牲が出ないよう予め騎士団を準備させているが、魔獣の動きを完全に予測する事はできない。それでどうしても死者が出てしまうのだと、アンドラは言う。

 魔獣の記録を改竄したのは、卵の存在を国に気づかれないようにするためらしい。

「犠牲となった者たちには本当に申し訳なく思っている。…だがこれは、将来多くの民を救うためのものなのだ。彼らの犠牲は無駄にはしない。それが私の償いだ。彼らの死を、多くの民を活かす道へと繋げてみせる」

 

 

 きっぱりと迷いなく言い切る父の顔を、フロライアは呆然と見つめた。

 あまりに話が大きすぎてすぐには理解できない。ただ途轍もなく恐ろしい事をしようとしているのだとは分かった。

 アンドラがフロライアを見下ろす。見た事もないほど冷え冷えとした目で。

「お前にはいずれ話すつもりだった。…お前にはやるべき役目がある」

 

 怖気がした。その恐ろしい計画に、フロライアも既に組み込まれている。

 アンドラは更に、ビスマスの方を見た。

「ビスマス。お前にもそれを手伝ってもらいたい。お前ならばきっとやり遂げられる。多くの命を救える。エメリーやお前の父母が犠牲になって守ったものを、守れるんだ」

「……!!」

 信じられない気持ちで顔を上げる。遺族であるビスマスに対してそれを言うのか。

 

 

 しかしビスマスは、驚くほど冷静な、感情の籠もらない声で問い返した。

「…エメリーは。父は、母は、未来のために犠牲になった。そういう事なんですね」

「そうだ。…王国の騎士団の前で、モリブデン領が魔獣の危険に晒される所を見せる必要があった。奴らは長年の平和に慣れ、緩んでいる。危険がすぐそこにある事を忘れている。だから、やらねばならなかった」

 

 父の言い分はとても理解できない。

 きっとビスマスは怒り狂うだろうと思った。家族の死をあれほど嘆き悲しんでいたのだから。

 しかし彼は無言だった。身じろぎもせず、凍りついたかのように動かない。

 フロライアが焦り始めた頃になって、ようやく口を開く。

 

「…分かりました。お任せ下さい。家族の死を、決して無駄にはしません」

 

「び…、ビスマス…」

 彼は愕然とするフロライアを振り返ると、こう言った。

「フロライア様。エメリーのためにも、共に頑張りましょう」

 

 …そこに浮かべられた凄惨な笑みを、フロライアは一生忘れないだろう。



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挿話・29 彼女の罪と罰・3

 ビスマスはきっと家族の死を受け入れられなかったのだと、フロライアは思う。

 大切な家族が、愛する妹が、ただ無為に死んだとは思いたくなかった。そこに意味を、理由を見出したかった。

 だからアンドラの言葉に縋り、計画を絶対に成功させなければならないと思い込んだ。

 

 ひどくねじ曲がった彼の決意を、フロライアは止めようとはしなかった。そんな資格などある訳がない。だって、彼の家族が死んだのはフロライアのせいでもあるのだ。

 ビスマスはそれに気付いているのだろうか。彼は笑顔を見せなくなった。冷徹で、事務的な態度でフロライアに接してくる。

 その冷たい紫紺の目は、まるで「逃げるな」と言っているように見えた。

 

 

 父の計画に協力するしかない。他の道を選ぶ事を、ビスマスが、エメリーが許すはずがない。

 彼と共に父の計画を完遂させるのが、彼らへの償いなのだ。

 

 ビスマスは予定通り学院に入学した。時折顔を見せてはフロライアに、アンドラの指示や必要最低限の情報だけを伝えてくる。

 フロライアもまた、ビスマスに事務的な態度で接した。以前のように不要な会話をする事もない。胸の奥にあった憧れは、捨てて忘れ去る事にした。

 

 

 そうして父の計画に加担するうち、フロライアはただ父の命令に従う事だけを考えるようになっていった。

 愚かで善良な領民、友人、クラスメイトたちに、優しい優しい笑顔を向ける。

 貴族たちに取り入り、情報を集めたり、都合のいい噂をばら撒いたりする。

 死神の卵を使ったと思われる事件が起こっても、見て見ないふりをする。あるいは、悲しみ同情するふりをする。

 

 そもそも、初めからこの道しかなかった。

 父の望む通り作り上げられた道を歩く生き方しか、自分には与えられていない。

 それに自分はどうせ、エメリーたちを殺した罪人だ。嘘をつき、罪を重ねるのがお似合いなのだ。

 

 

 

 …そんなある日、父は一つの命令を下した。

 我が家に滞在する予定の王子を殺せ、と。

 どうも計画が漏れている節がある。王子を暗殺する事で国を混乱させ、無理矢理計画を推し進めるつもりらしい。

 作戦は簡単だ。フロライアがあの令嬢リナーリアに化け、刺客がいる所まで王子をおびき寄せる。

 痴情のもつれか何かという事にして、罪を擦り付けた上で彼女も殺すつもりらしい。殺してしまえば後はどうにでも言い訳できる。

 

 乱暴な作戦だが、それだけ父は焦っているのだろうと思った。

 計画の詳細はフロライアには教えられていなかったが、上手く行っていない事は感じていた。

 特に致命的だったのは秘宝事件だ。父はもっとゆっくり慎重に進めるつもりだったのに、フェルグソンが暴走してあれを起こしてしまったらしい。

 

 

 ビスマスは暗殺作戦への参加を申し出た。ここで失敗したら何もかも終わりだと彼も感じていたからだろう。

 彼は学院にいた事もあり、今まで連絡係や情報収集ばかりをしていたが、剣の腕に優れている。何より、父の計画に忠実だ。望み通り刺客の一人に選ばれる事になった。

 

 王子の死が国に与える影響は計り知れない。そしてフロライアは、直接人を殺した事などなかった。

 恐ろしくてたまらなかったが、ビスマスの鬼気迫る顔を見たら何も言えなかった。

 恐怖を押し殺し、作戦に参加した。

 

 

 だが、作戦は失敗に終わった。父や兄、ビスマスと共にフロライアも捕らえられた。

 王子の暗殺未遂。死罪は免れないだろうが、これで父の計画から解放されると思うと、むしろほっとしている自分がいた。

 ただビスマスへの罪悪感だけがあった。彼はこれで、生きる目的を見失ってしまうのではないか。

 …それでも、彼には死んで欲しくないと思っている自分がいた。

 

 牢の中で、死神の卵によって超大型魔獣が発生し、多くの犠牲が出たという話も聞かされたが、耳を塞いだ。

 どうしようもない。自分には父を止める事などできなかったのだ。

 

 

 

 

「…フロライア・モリブデン。面会だ」

 扉の外からかけられた声に、フロライアは顔を上げた。

 冷たく狭い石造りの牢。ここの囚人となってから恐らく一ヶ月以上経つが、今まで面会などほとんどなかった。許可されていないのだろう。

 それが通されたのだから一体誰かと思ったら、扉の窓から見えたのは青みがかった銀髪の少女だった。

 リナーリア・ジャローシス。あの夜、自分を捕らえた少女。

 

「お久し振りです。お元気でしたか」

 静かなその質問に、フロライアは落ち着いて返答する。

「ええ。元気よ。とてもゆっくり過ごせているわ」

 別に嫌味でも当てこすりでもない。フロライアは今ここで、久しぶりにゆったりとした時間を過ごせている。

 何せここには誰の目もない。完璧なご令嬢など演じなくて良い。

 

「貴女の供述調書を見ました。…自分や父、兄よりも、ビスマス・ゲーレンの助命を願っているとも聞きました」

 取り調べには概ね本当の事を話した。ごく個人的な感情を除いて、だが。

「…分かるでしょう。お父様はどうせ許されない、間違いなく死罪だわ。助命なんて願うだけ無駄。そして私は、自分や兄の命乞いをするほど落ちぶれてはいないわ」

 

「では、ビスマスは?」

「だから、分かるでしょう?彼は被害者よ。命じられてやっただけ。そんな人を道連れにするなんて、私のプライドが許さないわ。助命を願ったのは、それだけの理由よ」

「……」

 ビスマスの事を尋ねられるのは、余計な詮索をされているようで癇に障った。だからわざと突き放すように言うと、彼女は青い瞳を伏せてしばし黙り込んだ。

 

 

「…貴女の言う通りです。モリブデン家は取り潰しになり、アンドラ・モリブデンは死罪。嫡男ダンブリンもです。殿下の暗殺未遂だけが理由ではありません。今回、死神の卵のために超大型魔獣が現れ、多くの犠牲が出ました。あの卵を作り、隠匿してきたモリブデン家の者の罪はあまりに重い」

 引き起こした事態が重大すぎた。父とて、こんな事になるとは思っていなかっただろう。

 

「ビスマス・ゲーレンは黙秘を続けているためにまだ処遇が決まっていませんが…彼の役割は、目立たない容姿を活かしての王都での情報収集や、死神の卵の設置と回収が主だった。それが本当なら、死罪にまではならないでしょう」

 そして彼女は、じっとこちらを見つめる。

 

「貴女は身分を剥奪され、遠い地の修道院に送られる予定です。一生そこから出る事は叶わないでしょう」

「…ど、どうして?死罪ではないの?」

 自分も計画に関わっていたし、直接王子を殺害しようともしたのだ。死罪か、あるいは毒杯での自害を勧められるだろうと思っていたのに。

 

「モリブデン領の民から、貴女への助命嘆願の署名がたくさん届きました。モリブデン家の騎士たちからもです。心優しい貴女が計画に加担していたのは、父に逆らえなかったからに違いないと…。それが死罪を免れた最も大きな理由です」

 フロライアは愕然とした。やっとこれで解放されると思ったのに、まだ生きて罰を受けなければいけないのか。

「署名…!?馬鹿じゃないの!?ずっと騙されていたというのに、私が偽善者だったとまだ気付かないの!?」

 ずっと嘘をついて生きてきた。良いお嬢様のふりを続けてきた。彼らが見ているのはフロライアが作った幻影で、本当のフロライアではない。

 

 

 リナーリアは冷ややかな、しかし大きな感情を孕んだ瞳でこちらを睨んだ。

「私は、貴女の事を許しません。殿下を殺そうとし、あの危険な卵の存在を知りながら計画に協力してきた。そんな貴女を、これから先もずっと許すつもりはありません」

「そうよ!私は許されない罪人だわ!だったら殺すべきでしょう!?どうして助命されるの!!」

 

「…昔の話ですが。貴女は、私を助けてくれた事があります」

 突然話が変わり、フロライアは戸惑った。

「…寒中水泳の訓練の時の話?あれは、ただの点数稼ぎだけど」

「いいえ、それではありません。貴女は覚えていないでしょうが、でも私ははっきりと覚えています」

「…?」

 何の事を言っているのか、心当たりがない。怪訝な顔をするフロライアに構わず、彼女は話を続ける。

 

()()()、手を差し伸べてくれた事を、私は忘れません。私は貴女の優しさが好きだった。たとえ騙されていたのだとしても、あの時私が感じた嬉しさは本物でした。…領民たちが貴女の助命を願ったのも、きっと同じ理由だと思います」

 

 フロライアは目を見開いた。

「彼らは今まで、貴女に感謝を伝えませんでしたか?笑顔をくれませんでしたか?…貴女のやった事が偽りの気持ちからだったとしても、それに対する人々の感謝は本物です。貴女には、彼らの気持ちまでは否定できない」

 どれだけ偽善だと主張しても、受け取る者にとってはそれは善だ。…彼女は、そう言っているのだ。

 

「彼らの気持ちに、心から応える機会だってあったはず。どこかで別の道を選ぶ事だってできたはずです」

「……!!」

「…貴女が受ける罰は全て、貴女がやった事の結果です。それを忘れないで下さい」

 

 言葉を失ったフロライアを一瞥し、青銀の髪の少女はくるりと背を向けた。

「さようなら。お元気で」

 

 

 

「……っ!」

 遠ざかる背中と足音をただ呆然と見送り、がくりとその場に膝をつく。

 拳を握りしめ、ぎりぎりと歯を食いしばる。

 

 

 …思い出す。休日の度に声をかけていた領民たち。モリブデン家の騎士たち。

 お菓子をあげた孤児。労った兵や人足。歌を聴かせた病人。花を贈った学校。

 私はいつも面倒で、そんなものやりたくない、行きたくないと思っていた。

 彼らは私の、モリブデン家の「理想の貴族ごっこ」に付き合わされているだけだと思っていた。

 

 しかしその外面のための慈善活動で救われている者だって、確かにいた。

 彼らは皆笑顔になって、「ありがとう」と私に言っていたのだ。

 

 なのに私は感謝を素直に受け取る事を拒み、自分は偽善者だと思い込んだ。騙される彼らは愚か者だとすら思っていた。

 みんな外面ばかり見て、私の中身など見ようとしない。だから騙されるのだと。

 だがリナーリアの言う通り、彼らの気持ちに応え、胸を張れるような善良な人間になる道だってあったのではないのか。

 

 

 …ビスマス。優しい人。兄のような人。

 学院への入学を推薦した事を伝えると、すごく恐縮して困った顔をし、辞退しようとした。

 推薦したのは彼の気を引きたかったからだけど、でも彼が優秀で才能もあると思っていたのは本当だ。その事を一生懸命説明し、いつか彼の父のようにモリブデン家の役に立って欲しいのだと言うと、やっと受けると言ってくれた。

 

 合格通知が来た時には、本当に嬉しそうに「お嬢様、ありがとうございます」と笑ってくれたのだ。

 エメリーと3人、心から笑いながら喜び合った。

 その時分かち合った温かな気持ちを、ずっと忘れようとしていた。

 

 父の計画は余計にビスマスを追い詰め傷付けるだけだった。どこかでそう分かっていたのに止めようとしなかった。

 責められるのが、憎まれるのが怖かったから。

 罪を重ね続けて、そんなものが償いになるはずがない。ただ逃げていただけだ。

 どれだけ憎まれようが、彼を止めるべきだった。

 

 

 …エメリー。

 冷たくなって帰ってきた彼女の懐には、あの紫色のポプリがあった。ただ袋の口には刺繍入りのピンク色のリボンが結ばれていた。エメリーの一番好きな色。

 荷物の中にはもう一本、全く同じリボンが入っていた。

 あの日エメリーは私に、お土産を持って帰ってくると笑顔で言って出発したのだ。

 

 無邪気で、ちょっとだけ無神経で、ドジばかりする困った子だった。私の方が彼女を助ける事も多かった。

 でも彼女は明るくて、いつも私を楽しませてくれた。その笑顔は胸が温かくなった。

 彼女を助けるたび、私は良い子を演じる自分にうんざりして、でも最後は笑い合っていた。しょうがないわね、と言いながら。

 そんな時、少しだけ私は自分の事が嫌いではなかった。

 

 ずっと彼女が妬ましかったけれど、彼女は確かに私の親友だった。

 彼女がこんな事を望むはずがないのに。罪悪感に溺れ、償いなどと言って、ただ流されるままに父の計画に加担してしまった。

 

 

 …父の事だってそうだ。優しかったのに、突然変わってしまった父。

 父があのように周囲に厳しくなり心を閉ざしたのは、私と同じ理由だったのではないのか。

 本当は父だって、こんな事は間違っていると心のどこかで気付いていたのではないのか。

 

 娘の私が、こんなのは間違っている、やめて欲しいと言うべきだった。

 誰かに助けを求め、計画を明るみにする事だってできたはずだ。

 そうすれば父の怒りを買い、さまざまなものを失っていただろう。それでもきっと、今よりはずっとましだったに違いない。

 

 

 

 今更。今更フロライアは、自分が犯した罪の本当の重さに気が付いた。

 

 他人の本心を知る事を拒み、逃げてばかりいた。

 そこに目を向ける勇気があれば、たくさんの人が巻き込まれ犠牲になる前に止められたかもしれないのに。

 エメリー達にしたのと同じ事を、また繰り返してしまった。

 死ななくていい人達を大勢死なせてしまった。

 父が、ビスマスが、罪を重ねるのをただ見ていた。

 

 

 それでもフロライアは、死ぬ事など許されない。

 生涯罪の意識に苛まれながら、生き続けなければいけないのだ。

 …なんて酷い罰だろう。

 

「…ああ…ああぁっ…!!」

 慟哭と共に落ちた雫が、石床の上にいくつもの染みを作った。



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第197話 2年目の武芸大会

 今年の武芸大会も、概ね好天に恵まれた。

 活き活きと戦う出場者に、熱烈な応援を送る観客達。

 例年のことながら大勢の人が詰めかけ、大盛り上がりである。

 

 

 試合は昨年のようなトラブルに見舞われる事もなく、順調に消化された。

 魔術部門に出場した私もしっかり決勝進出だ。

 

 この部門の試合はポイント制だ。より難易度が高く、より派手な魔術を使った者が大きく有利になる。

 私はあまり派手な魔術は好きではないのだが、多重魔術が得意である。特に複数の属性を同時に使う3重魔術というのは、難易度の面において非常にポイントが高い。

 実用性は度外視し、なるべく見栄えの良さそうな魔術を組み合わせて使用する事で、どの試合も問題なく勝利できた。

 

 決勝戦の相手はユークレースだった。1年生、しかも飛び級入学だというのにさすがの天才ぶりである。

 昨年のタッグ部門優勝者である私への声援が多いが、「ユークレースくーん!!」とかいう黄色い声援も結構聞こえた。

 入学したばかりの頃は少々浮いている様子だったユークレースだが、意外とモテているらしい。

「筋肉女神ー!!ぜひ優勝をー!!!」

 …いや、エンスタットお前それ、もうやめてくれって言っただろ…。魔術に筋肉関係ないし…。

 

 

「…勝者、リナーリア・ジャローシス!!」

 しかし勝負に勝ったのは私だ。ユークレースは「ちくしょう!」と言って悔しがっている。

 

《両者とも実に素晴らしい魔術でした!だが、勝利を収めたのは氷の竜を使って炎のブレスを生み出してみせたリナーリア選手!!》

 これはもう本当に見た目だけの魔術と言って良い。3重魔術の中でも特に難易度の高い組み合わせだが、その割に大した威力はない。

 無理矢理に理由をつけるなら、舞い上がる冷気で視界を塞いだ相手に対し、あえて炎を飛ばす事で意表を突ける…という所だろうか。もっと他にいくらでも良いやり方があると思うが…。

 

《ユークレース選手の炎と風を操る巨人も見事でしたが、操作の精密さと発動の速さにおいてリナーリア選手のポイントが上回ったようですね》

 実況や解説の声が響く中、ユークレースが私を睨みつける。

「お前、結局4重魔術使わなかったじゃないか!超大型と戦った時のやつはどうしたんだ!!」

「あれ、物凄く疲れるんですよ。それに威力が高すぎて、ここで使うのはちょっと…」

 

 あの戦いで使った高圧水弾の魔術は攻撃範囲が狭い分、物理的な破壊力が恐ろしく高い。いくら丈夫な結界が張られていても、大会の闘技場で使うのは憚られる。

 弾の数を減らせば威力も下がるが、そうすると見栄えが悪いしな。何しろ見た目はただの水球と大差ないのだ。非常に地味である。

 

「くっそぉ…」

 不満たらたらの顔をするユークレースと苦笑いで握手を交わし、魔術部門は私の優勝で終了した。

 

 

 

 続いて、タッグ部門の決勝。

《熱戦を制して優勝したのは敏腕生徒会長トルトベイト・ブロイネルと、騎士課程3年首席サフロ・ランメルスベルグのタッグ!前評判通りの強さを見せつけました!》

 

 トルトベイト会長は優秀な魔術師だが、大会にはそれほど興味がなさそうだったので出場には少し驚いた。

 もうすぐ卒業だから実績と思い出作りだろうかと思うが、優勝したのだから大したものだ。

 パートナーは会長とはクラスメイトのサフロ。昨年の大会では兄のウルツと組み、殿下とスピネルのタッグ相手に戦った生徒だ。

 弟が念願の優勝を果たし、観客席で見ているだろうウルツもきっと喜んでいるに違いない。

 

 それにしても女子からの歓声が凄まじい。ほぼサフロへのものだ。兄ウルツは爽やか系の男前で女子にモテまくっていたが、サフロは兄をクールにした感じで、やはり女子人気が非常に高い。

 これは一緒に組んでる会長がちょっと可哀想だなと思っていたら、何かやたらニコニコしながら観客席にぶんぶん手を振っていた。

 あそこに座っているのは…ミメット?何か恥ずかしそうに小さくなっている。おやあ…?

 

 ちなみにカーネリア様とユークレースの組は、準決勝で会長とサフロ相手に敗退していた。

 なかなか良い勝負だったのだが、戦術面で敵わなかったのだ。カーネリア様は直情的なタイプだし、ユークレースは想定外の状況に弱いようで、裏をかかれてしまうと脆かった。

 試合を見る限り、会長もサフロも戦闘になると結構な曲者タイプのようだ。そういう所で気が合って組んだ二人なのかもしれない。

 

 

 

 そして最後に、騎士部門。

《決勝に進出したのは昨年の優勝者、我が国が誇る第一王子エスメラルド・ファイ・ヘリオドール!!数々の武勲はもはや語るまでもないでしょう!その静かなる剣は山の如し!この大会でもサフロ選手やヘルビン選手を相手にいくつもの名勝負を行いました!!》

 老若男女からの凄まじい声援と共に、殿下が闘技場の中央へと進み出る。

 殿下は相当に集中しているらしく、珍しく声援に応える事をしなかった。真剣そのものの表情でスピネルを見ている。

 

《対するは従者、スピネル・ブーランジェ!剣の名門ブーランジェ公爵家に生まれ、王子と共に幾多の戦いを乗り越え、天才剣士の呼び声も高い!本校きっての実力者です!!準決勝では昨年のタッグ部門優勝者スフェン選手を相手に、雪辱を果たしました!!》

 スピネルへの声援もまた凄まじい。女性比率が高く、観客席では彼の髪色に合わせたのだろう赤い旗を振っている女子生徒がたくさんいる。

 スピネルが軽く手を振ると、悲鳴のような歓声が上がった。これサフロより凄いな。

 

 

 お互いに礼をして、試合が始まる。

 まずは小手調べだろう、様子を見ながら軽く打ち合っているようだ。

 殿下の話では、近頃はスピネルに対し5本中2本は取れるようになったが、勝率ではやはり敵わないのだそうだ。

 しかし殿下はここ一番の勝負に強い。この大舞台でもいつも通り冷静に戦っている。十分にチャンスはあるはずだ。

 固唾を呑んで見守る。

 

《ここまで両者、全くの互角!落ち着いた攻防が続いています!どうやらお互いに隙を窺っているようだ!》

《スピネル選手は今までの試合とは打って変わって、じっくり攻める姿勢ですね。対してエスメラルド選手は、守りを重視した得意の戦法です》

 二人はお互いの手の内を知り尽くしている。その上であえて選んだ戦い方だ。

 我慢比べならきっと殿下に分があるはず。スピネルはどこかで勝負をかけに行くだろう。

 殿下はそれを待っているに違いない。

 

 

 …やがて、その時は来た。

 打ち下ろされた剣を受けると見せかけ、スピネルがふっと後ろに身体をずらした。その胸先を殿下の剣がかすめる。

「……!」

 攻撃を躱された殿下に生まれた、ごく僅かな隙。それをスピネルが見逃すはずがない。一気に攻めかかる。

 

《スピネル選手、次々に斬りつけ攻め立てる!息もつかせぬ連撃だ!!》

 防戦一方になり、殿下側がどんどん苦しくなっていくのが傍目にもよく分かる。

 必死に粘り続けているが、このままではまずい。

 冷静さを保っていた翠の瞳に焦りが浮かび、険しくなる。

 

 

「…殿下!!頑張って下さい…!!」

 声の限りに叫ぶ。

 今にも胴に届きそうになっていたスピネルの剣を、殿下は辛うじていなした。

 続いて殿下は賭けに出るかのように、前へと大きく一歩踏み込んだ。放たれる鋭く重い一撃。

 しかしスピネルはまたもやそれを紙一重で避けた。動きを読んでいたのだ。

 

 すかさず飛んできた反撃の刃を避けるため、殿下が膝をつきそうな程に腰を沈めた。

 そこに更なる追撃をしようと、スピネルが剣を構える。一方、殿下の腕は大きく振り切られ姿勢は低く沈んでいて、ここからすぐには構えを戻せない。

 今攻撃されたら、殿下は避ける事も受ける事もできないだろう。絶体絶命だ。

 

 思わず息が止まった瞬間、スピネルがいきなり前につんのめった。

「……!?」

 …殿下だ。身体を深く沈め腕を広げた不安定な姿勢から、足払いを繰り出していた。驚異的な体幹があってこそできる動き。

 完全に体勢を崩されたスピネルの背に、翻った殿下の剣が打ち付けられる。

 

 

「…そこまで!!勝者、エスメラルド・ファイ・ヘリオドール!!」

 わあああああっ!!!と地を揺るがすような大きな歓声が上がる。

《苦しい状況を打ち破り、エスメラルド選手が勝利…!!不利な体勢を逆手に取り、一気に逆転を成し遂げました!!2年連続の優勝です!!!》

「殿下…!殿下、おめでとうございます…!!」

 私も夢中で手を叩き、歓喜しながら飛び上がった。

 凄い。やった。殿下が優勝したのだ。あのスピネルに勝って、優勝した。

 

 万雷の拍手が降り注ぐ中、殿下がスピネルに手を差し伸べる。

「…いい勝負だった」

「ああ。やられちまった。…殿下の勝ちだ」

 そう言いながら手を取ったスピネルは、心底楽しかったと言わんばかりの満足げな笑顔を浮かべていた。

 

 

 

 

 それから一旦休憩を挟み、闘技場の上を清掃してから、大会の表彰式が行われた。

 学院長から優勝トロフィーが手渡される。

 私は去年のタッグ部門に引き続き、2個めのトロフィーだ。部門が違うので少しデザインが違う。

「おめでとう!」という声と拍手が会場中から贈られ、私は頭を下げてから手を振った。

 あまり気が進まなかった魔術部門への出場だが、こうして称賛されるとやっぱり嬉しいな。

 

 会長など他の入賞者たちも、私と同じく観客に手を振っている。

 殿下も感無量という様子で観客に応えている。2年連続で優勝した事もだが、好敵手であるスピネルにこの大舞台で勝てたのがよほど嬉しいんだろうな。

 

「おめでとう、リナーリア」

 殿下に微笑みかけられ、私は笑顔を返した。

「ありがとうございます!殿下も、本当におめでとうございます…!」

「ああ。勝てたのは試合の最中、君の声が聞こえたからだと思う。…ありがとう」

「そ、そんな…」

 

 その時、視界の片隅にやたらとニヤニヤしているスピネルの姿が映り、私は表情を引き締めた。それから思いっきり満面の笑みを浮かべてみせる。

「スピネルも準優勝おめでとうございます!2年連続準優勝なんてすごいですね!!」

「嫌味かてめえ!?」

「え?そうですけど?」

 わざとトロフィーを見せつけてやる。スピネルは準優勝なので、もらったのは賞状だけだ。

 

 

「お前たちは、こんな所でもまた…」

 ドヤ顔をする私と悔しげに顔をひきつらせるスピネルに、殿下が苦笑する。

 そんな殿下を見て、スピネルは笑った。

「でも、悔しいが今回は本当に俺の負けだ。最後のあれは意表を突かれたな」

「スピネルの強さは俺が誰よりも一番よく知っている。それでも最後まで諦めたくなかった。だからチャンスが生まれたんだ」

 

「絶対優勝するって、めちゃくちゃ気合入れて毎日頑張ってたもんなあ、殿下。俺も国王陛下に恨まれたくねえし、これで良かったよ」

「陛下に?」

「おい、余計な事を言うな」

 少し慌てる殿下に、スピネルはにやりと笑う。

「…それに、お膳立てが無駄にならなくて済んだ」

 

 

 …その瞬間。

 ばさばさと、聞き覚えのある羽ばたきの音が空から聞こえた。



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第198話 エキシビションマッチ(前)

「り、竜人…!?」

「竜人だ!竜人が来た!!」

 観客席が大きくどよめき、空を見上げる。私もぽかんと口を開けて頭上の黒い翼を見上げた。

「ら、ライオス…?何故ここに?」

 今年も私の家族は大会を観戦しているが、ライオスは目立つからと連れて来ていなかったはずだ。

 彼は姿を隠せるから、どこかからこっそり見てるかもしれないとは思っていたが。

 

 ライオスは私の目の前に降り立つと、観客席の方を振り返った。

『どうしてもと頼まれたから来た』

 視線の先にあるのは貴賓席…国王陛下と王妃様の特別席だ。お二人は微笑みながらこちらに軽く手を振っている。

 へ、陛下に頼まれて…?いつの間に!?

 

 

 場内に拡声の魔導具を使ったアナウンスが響き渡る。

《えー、カルセドニー・フォウル・ヘリオドール国王陛下の主催により、これより竜人ライオス殿と大会優勝者達とのエキシビションマッチを行います!!》

 観客席がわっと沸いた。

 ライオスとエキシビションマッチ…つまり、親善試合をするという事だ。

 

 思わず周りを見回すが、陛下と王妃様の他、学院長とスピネルだけは驚いた顔をしていない。

「…スピネル!!どういう事ですか!?」

「聞いたろ、国王陛下のたってのご要望だ。表彰式の後で試合できるように予め準備してたんだよ。でも決勝戦の日に竜人が来るなんて言ったら客が殺到して大混乱になるだろうから、今まで伏せてたんだよ」

 そういえば、日程表の閉会式はやけに長く時間を取ってあった。挨拶にしてはずいぶん長いなとは思っていたのだが…。

 

 

「…え、ええええっ!?」

 悲鳴のような驚きの声を上げたのはトルトベイト会長だ。

「た、戦うの!?竜人…竜人さんと!?」

 そうだ、会長とサフロも優勝者なのだ。彼らもライオスと戦うのか。

 

 実況の声がルール説明をする。

《エキシビションマッチは続けて2試合行います。ハンデのため特別ルールとして、ライオス殿1人に対し2人組で戦っていただきます。また、ライオス殿は武器の使用なし、飛行できるのは闘技場の結界内のみとなっております》

 

『案ずるな。手加減はしてやる』

 ライオスが偉そうに腕を組み、スピネルがそれを補足する。

「流血防止の結界もあるしな。しかも王宮魔術師が補強に入る」

 あ、本当だ。王宮魔術師が何人も会場に入ってきている。セナルモント先生もいる。これなら確かに、大暴れしても問題はなさそうだが…。

 

「でもそれは念の為だ。ライオスは魔術も素手での攻撃も、人間が使える程度の威力のやつしか使わない。練習だってさせておいたから大丈夫だ」

「練習?」

「ああ。俺とセナルモント相手に何回か戦った」

『どの程度の威力まで出して良いか、ちゃんと把握している』

 ライオスもスピネルの言葉にうなずくが、本当にいつの間にそんな事を…。

 というか、その組み合わせを基準にした練習で本当に大丈夫か?あのスピネルだぞ?先生だって戦闘はめったにやらないが王宮魔術師なんだぞ…?

 

 

《第1試合はタッグ部門優勝者のトルトベイト・ブロイネル、サフロ・ランメルスベルグ組に行っていただきます》

「…やるぞ、トルトベイト」

 それまで唖然としていたサフロが表情を引き締めた。ライオスを睨んで不敵に笑う。

「さ、サフロ…」

「こんな機会二度とないぞ。あの子に良い所、見せたいんだろ?」

「…あーもう、分かったよ!」

 会長がヤケクソのように叫ぶ。

 

《第2試合は騎士部門優勝者エスメラルド・ファイ・ヘリオドールと、魔術部門優勝者リナーリア・ジャローシス組》

 私は隣の殿下を見上げた。

 …殿下と組んで戦う?二人だけで?

 殿下も驚いた表情だったが、真顔になって私を見つめ返した。

「頑張ろう、リナーリア。君になら安心して背中を任せられる」

「…は、はい!頑張ります!!」

 

 

 

 そして、第1試合。

 殿下やスピネル、他の入賞者達と共に選手用の観戦席から試合を見守る。

 会長とサフロは魔術で動きを封じ込め、剣で直接攻撃をするという、ごくスタンダードな戦法を取ったようだ。

 ライオスには翼があり、空に逃げられると剣で攻撃できなくなってしまうので、特に魔術師はそれを防ぐように魔術を撃たなくてはならない。…しかし。

 

「ちょっ…は、速すぎ…!!」

 会長は必死に魔術を撃ち込むが、半分ほどしか当たっていない。その半分も、小さな光の盾に弾かれ防がれている。

 それでも辛うじてライオスを地上に釘付けにはできているのだが、サフロが繰り出す剣はことごとく避けられるか、やはり光の盾に防がれている。

 

《剣と魔術での激しい連続攻撃!しかし対するライオス選手は余裕の表情!サフロ選手を翻弄しつつ、トルトベイト選手の魔術を完璧に防いでいます!》

《さすが竜人と言うべきでしょうね。2対1でも一切隙を見せません》

 

 

 ライオスは宣言通りかなり手加減しているのだろう、会長やサフロが何とかぎりぎりで防御できる程度の威力でしか攻撃していないのだが、そのスピードと防御力がえげつない。

 動きの速さが人間離れしているし、少しでも油断したら空に飛び上がって光弾を放ってくる。

 手加減の一環なのか適当な所で降りて来るのだが、地上にいた所で剣も魔術も大して効かないし…これ、初見で相手をするのはまず無理だろ。ちょっと同情する。

 

「うあっ…!!」

 サフロがライオスの蹴りをまともに受けて吹き飛んだ。すぐさま跳んだライオスが会長へと迫り、手刀を突きつける。

「…負けました…」

 会長は天を仰ぐようにして両手を挙げた。

 

 

「勝者、ライオス!!」

 審判が片手を上げて宣言する。

《いやあ、凄い動きでした!!やはり竜人の力は伊達ではない!その身体能力を活かし、2人を相手に有利を保ったまま勝利しました…!!》

 それでも、サフロと会長は結構粘ったしよく頑張ったと思う。さすがタッグ部門優勝者だけある。

 

『お前たちも、まあまあよくやった。人間にしては強い方だ』

 ライオスに褒められ、起き上がったサフロと会長は一瞬顔を見合わせ、それから笑い合った。

「ありがとう、ライオスさん…!」

「とても良い勉強になりました!」

 

 うーむ、ちゃんと対戦相手を褒めるなんて、ライオスも成長したなあ…。

 多分そうするようにスピネルと先生に事前に言われていたんだろうけど、彼は正直なので心にもない事を言ったりはしないはずだ。

 観客席からも温かい拍手が送られる。

 手を振る会長の視線を追いかけると、ミメットがそっぽを向きながらも小さく拍手をしていた。

 

 

 

 …そして、いよいよ殿下と私の番である。

 殿下とは何度も一緒に戦ってきたが、二人だけというのは模擬試合を除けば初めてだ。

 しかもぶっつけ本番。魔術部門の決勝戦よりもはるかに緊張する。

 

 なんとか落ち着こうと深呼吸をする私の手を取り、殿下が微笑んだ。

「大丈夫だ。これは試合なんだし、そんなに緊張することはない。楽しんで戦えば良い」

「そ、そうですね…」

 これは命をかけた戦いではない。殿下の背中を守ると言っても、今までとは違うのだ。もっと気楽に戦っていい。

 

「…だが」と殿下は言葉を続け、私の手を強く握りしめる。

「俺は相手がライオスでも、負けるつもりは絶対にない。君が後ろにいるのなら尚更だ」

 その目は、自信とやる気に満ち溢れている。

「勝とう、リナーリア!」

「はい!殿下!!」



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第199話 エキシビションマッチ(後)

 試合が始まった。

 私の役割は決まっている。殿下の剣が届くよう、ライオスを地上に縫い留め続けること。

 さっきの試合がだいぶ参考になった。ライオスはあまり駆け引きを好まず、素直で分かりやすい動きをする。あれだけの力があるのだから、小細工など必要ないのだろう。

 そして、死角からの攻撃が嫌いだ。後ろからの攻撃にはやや大きめに動いて対処する癖がある。それを利用すれば動きを誘導しやすい。

 

 だから私はいつもの水球を大量に呼び出し、殿下が攻撃すると同時に四方八方からライオスに襲いかからせた。

《エスメラルド・リナーリア組の連続攻撃!息の合った連携でライオス選手の翼を封じ込めています!》

《リナーリア選手、さすがの球数ですね。ライオス選手もこれはやりにくそうです》

《エスメラルド選手はいつも通り、堅実で冷静な戦い方でじっくりと攻めています!しかしリナーリア選手の援護があるとは言え、ライオス選手のあの素早い動きに対応できているのはさすがの一言!》

 

 水球は休みなく飛び交ってはライオスに纏わりついている。

 膝をにぶつけて来たかと思えば次は顔を狙ってくる。撃墜しようとすればすっと遠ざかって背後に回る。

 ダメージはほぼ無いのだが、当たれば痛いし一瞬動きを止められてしまう。集中力だって削がれるから無視はできない。

 このようなひたすら妨害するだけの攻撃には慣れていないようで、ライオスはほとんど反撃する事なく殿下と私からの攻撃を捌き続けている。

 

 

 何しろ私はこの手の撹乱と牽制が最も得意だ。本来なら多数の魔獣相手に使う数を1人に向かわせているのだから尚更である。

 ライオスがどれだけ速かろうと、そうそう反撃の隙など与えはしない。常に先回りをし、次の動きを封じる場所を狙って水球を操る。

 

 

 しばしそのような攻防が続いた所で、ライオスは痺れを切らしたらしい。

『ええい、鬱陶しい…!』

 腕を振り、周囲に炎を撒き散らす。

 咄嗟に殿下へ水の盾を展開した。その代償に、近くの水球がいっぺんに蒸発する。

 思わずひやりとしたが、何とか防御が間に合った。これだけ攻められながらでも、こんな威力の炎を放てるのか。しかも一瞬で。さすがだと内心で舌を巻く。

 

 ライオスはそのまま翼をはばたかせ飛び上がろうとしたが、私の水球が翼に当たって動きが止まり、舌打ちをした。

『チッ…!』

 水球は大量にあり、周辺に広く散らしてあるのだ。いくつか蒸発させられた所で、すぐにまた別の水球を飛ばせる。

「はっ…!」

 そこに殿下が追撃をする。やはり光の盾に阻まれライオス本体に届かないが、空中へ逃げ出す事は阻止できた。

 

 空へ飛ばれてしまっては、再び地上に引きずり下ろすまでライオスからの攻撃に一方的に耐えなくてはならなくなる。それだけは避けたい。

 殿下はダメージは与えられずとも、的確にライオスを抑え込み続けている。相手をよく見て対処するのが得意な殿下だからこそできる戦い方だ。

 

 

「殿下ー!!リナーリア様ー!!頑張ってー!!」

 カーネリア様の声援が聞こえる。クラスメイト達もだ。ペタラ様やニッケル、クリード、みんな。

 それにアーゲンやヴァレリー様、ミメット達も。

 

「リナーリア君!!」

 スフェン先輩が拳を振り上げている。シリンダ様にエレクトラム様もいる。

 フランクリンとオリーブ様、ウルツとイネスの姿も見つけた。

 

 

 水球を操り牽制をしながら、ライオスの攻撃を受け止め、撃ち落とす。

 その隙に殿下が翼を、足元を狙って剣を振るう。

 

 …楽しい。とても楽しい。

 去年、タッグ部門創設の話が持ち上がってから。…いや、前世からずっと。

 私はこうして殿下と組んで戦ってみたかった。

 殿下が敵に立ち向かい、私は殿下を背後から守る。そういう役割分担だと言ったのは、まだ幼かった殿下だ。

 あの頃の私は、その期待に応えたくて己の魔術を磨いていた。

 

 

「やれー!!」

 選手用の観戦席から応援してくれているのはスピネルとユークレースだ。それに会長やサフロも。

 闘技場の結界を維持しているセナルモント先生も、声こそ出していないもののしっかりとこちらを見守っている。

 

「みんな、頑張ってー!!」

 あそこで叫んでいるのはお母様だ。きっと私とライオスどっちを応援していいのか分からないんだろう。

 もちろんお父様やお兄様、お義姉様達もいる。コーネルとヴォルツ、スミソニアンまで。

 たくさんの人たちが手に汗を握り、熱狂しながら私達の試合に見入っている。

 

 

 

 殿下が剣を振りかぶった瞬間に合わせ、水球を膜のように広げてライオスの視界を塞いだ。

 ライオスが剣を受け止めながら水球を消し飛ばす。続けて私に向けて放った光弾を、殿下が弾いた。

 

 …まるで心が通じ合っているかのようだ。

 何も言わなくても、殿下が次にどう動くのか手に取るように分かる。

 殿下もきっとそうだ。私がどう動くか分かった上で動いている。

 

 楽しい。

 この時間がずっと続けば良いのにと、そんな事すら頭をよぎる。

 

 

「…リナーリア!!」

 突然、殿下が私の名を呼んだ。

()()をやれ!俺が時間を稼ぐ!!」

 

 何の事なのかすぐに分かった。だが、しかし。

「大丈夫だ!何とかなる!…観客は皆、あれを期待している!!」

 その楽しそうな顔を見て、私はすぐさま決断した。

 

 

「はああっ!!」

 殿下がライオスへ激しい攻撃を仕掛ける。

 息継ぎもせず、後先考えない勢いでの連撃だ。あのライオスですら防戦に回るほどの速度。

 

『…大気に潜みし水よ、集いて球を成せ!』

 両手で構成を広げ、水球を追加で召喚する。全部で32個。

 

『内包し、圧縮し、回転し、力を溜めよ!』

 水球に細かな砂を混ぜ込み、高圧をかけ、回転させる。その全てを一つに集め、さらに圧力をかける。

 巨大な水の弾丸が目の前に生まれた。

 

『発射…!!!!』

 最大の速度で撃ち出されたそれは、絶妙のタイミングでさっと左に避けた殿下の脇をかすめ、ライオスへと向かう。

 

 

 両手をかざして光の盾で受け止めたライオスが、今日初めて唸り声を上げた。

『ぐうぅっ…!!』

 ギイイイン!と金属を激しく擦り合わせるかのような大きな音が鳴り響く。高速回転する巨大な水弾が、光の盾を削っているのだ。

 その音の変化に耳を澄ませる。

 …ここだ!

「殿下!!今です!!!!」

 

 ライオスが水弾を遠く上空へと弾き飛ばした瞬間、電光石火で繰り出された殿下の剣が、その喉元へと突きつけられた。

 

 

 

 

「…勝者、エスメラルド・リナーリア組…!!」

 うおおおおぉっ!!と、どよめき混じりの歓声が湧き上がった。

 

「殿下…!!」

 私は感激のあまり殿下に駆け寄った。

「リナーリア!!」

 殿下が両腕を開いて抱きとめてくれる。

「私達の勝ちです、殿下…!!」

「ああ、やったぞ、リナーリア…!!」

 殿下も私も激しく息切れをしている。苦しい。それでも構わず、腕に大きく力を込めて殿下の身体を抱きしめた。

 

 

《何という結末…!!難攻不落かと思われた竜人ライオス選手相手に、エスメラルド選手とリナーリア選手が勝利しました…!!》

 きらきらと輝く魔力の破片が闘技場の上に降り注ぐ。

 結界の上空部分は横に比べると薄くなっているものだから、ライオスが弾いた私の水弾がそれを破ってしまったのだ。

 王宮魔術師の一人が「なんて威力だ…」と呟いている。

 

《リナーリア選手が撃ったのは、かの超大型魔獣の目を撃ち抜いたという4重魔術でしょう…!!その凄まじい威力すらライオス選手は防ぎましたが、そこに生まれた隙を見逃さずエスメラルド選手が剣を突きつけた!!まさに完璧なタイミングの連携でした!!》

「リナーリア、君はやっぱり凄い!」

「殿下こそお見事でした…!!」

 殿下と二人で力を合わせて勝てた。あのライオスに。殿下も珍しく満面の笑顔だ。よほど嬉しいんだろう。

 

 

 …だが、抱き合ったまま喜ぶ私たちを見るライオスは、めちゃくちゃ不機嫌そうな顔になっていた。

「あっ…」

 慌てて殿下から身体を離す。

「えっ、あっと、ら、ライオスも凄かったです。本当、凄い強かったです」

「う、うむ、手強かった。勝てたのは時の運もある、うん」

『……』

 うわあ…不機嫌なんてもんじゃない。完全にむくれてる。こんな表情豊かなライオス初めて見た…悪い意味でだけど…。

 

 それでも殿下は、ライオスに向かって片手を差し出した。

「…ライオス、俺はとても楽しかった。リナーリアと共に、君を相手に全力で戦えて本当に良かった。素晴らしい時間をありがとう」

「私もです!本当に、凄く楽しかった。ライオスが来てくれたおかげです。ありがとうございました!」

 私も笑顔で感謝し、片手を差し出す。

 

 ライオスはそれで少し機嫌を直したようだ。

『…どういたしまして』

 そう答えて、私の手を握った。続いて殿下の手も、渋々といった様子で握る。

 握手をしながら殿下はライオスに話しかけた。

「今回はリナーリアの力を借りたが、いつか俺の力だけで君に勝ちたい。また戦ってくれないか?」

『……』

 ライオスが片眉を上げる。

 

「貴方は戦いは好きではないと思いますが、このような試合ならたまには良いと思いませんか。私も、また貴方と戦いたいです」

 私も微笑んでそう言ったのだが、ライオスは何故か私を見て顔をしかめた。

『…試合は構わんが、そなたとはもう戦いたくない。そなたの戦い方は、いやらしい』

「えぇえ…!?」

 

 

 

 そこに、ぱちぱちぱち…と拍手の音が響いた。

「まさか本当に勝っちまうとはな。二人がかりではあるが、これで堂々と胸を張って言えるだろ」

 そう言いながら闘技場へと登ってきたのはスピネルだ。後ろにはなんと国王陛下がいる。あ、そうか、陛下が主催なんだった。

 

「エスメラルド、リナーリア。勝利おめでとう」

「はい…!」

「ありがとうございます」

 陛下からの優しいお言葉に、殿下と二人で畏まる。

 

「トルトベイト、サフロも。良い試合であった」

 観戦席で会長とサフロが大きく頭を下げる。さらに陛下は、ライオスの方を振り返った。

「ライオス殿。我が要請に応え、ここに来て戦ってくれた事を感謝する。本当にありがとう。ライオス殿にとっては不自由な戦いだったろうが、その力の片鱗だけでもこの目にでき、感服した」

『…ああ』

 

《皆さん!!選手達それぞれの健闘を称え、大きな拍手を…!!》

 観客席から惜しみない拍手が沸き起こる。

 私達は手を振り、笑顔でそれに応えた。

 

 

 

 更に国王陛下は、殿下の方を見て手招きをした。

「エスメラルド」

「?はい」

 きょとんとしながらも陛下に近寄った殿下は、耳元で何かを囁かれ顔色を変えた。

 

「…ち、父上!それは、しかし」

「どうせ優勝したらそうするつもりだったんだろう?」

「ですが、ここでというのは、さすがに…」

「良いじゃないか。いずれ国中に知られる事だ」

「で、でも」

「これ以上私を待たせるつもりか?」

 

 陛下がにっこりと笑い、殿下はぐっと言葉に詰まったようだった。

 拳を握りしめ、それから私の方を振り返る。何だか少し顔が赤い。

 

 

 殿下は私の正面に立つと、真剣な顔で私を見つめた。

「…リナーリア!!」

「はい!?」

 殿下にしてはずいぶん大声だったので、私はちょっとびっくりしてしまった。

 思わず姿勢を正した私を見て、殿下がごほんと咳払いをする。

 

「…君はずっと、俺を支えてくれた。俺を助けようと努力し、力を尽くしてくれた。…君には本当に感謝している。ただ君に救われたというだけじゃない。俺がどれだけ君に勇気をもらい、背中を押してもらってきたか、それを言葉にするのはとても難しい」

「で、殿下?」

 突然感謝の言葉を述べられて戸惑う。だが、殿下の目はあくまで真剣だ。

 

「君にはこれからも俺を支えて欲しい。俺もまた、君の事を支えたい。…俺が抱いているこの思いを全て伝えるには、きっと気が遠くなるくらいの時間が必要だと思う。それでも君には聞いて欲しいんだ。これからもずっと俺の隣にいて、俺の思いを受け取って欲しい」

 そして殿下は私の手を取り、その場に跪いた。

 

「…リナーリア、君を愛している。どうか、俺と結婚してくれないか」

 

 

 

「……っ…」

 はわ、とか、へあ、とか、おかしな声が漏れそうになるのを必死で飲み込む。

 い、今、殿下、結婚、けっこんって。…けっこん!????

 

 頭が、目がぐるぐる回る。顔中が熱くなるのが分かる。

 待って欲しい。心の準備が出来てない。

 跪いた殿下が私を見上げている。きらきらと澄んだ翠の瞳が。

 私の手を取りながら、私の瞳をじっと見つめている。

 

 激しく混乱したその時、お母様ののんびり声が頭の中に聞こえた。

 …大丈夫、そういう時は、思った事を口にすればいいのよ~。

 

 

「……はい、よ、喜んで…」

 

 気が付いた時にはそう口走っていて、今日一番の歓声が会場を揺るがした。




役割分担の話は挿話・3の会話からの回収です。
次回、エピローグになります。どうぞよろしくお願いします。


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エピローグ※

 帽子のつば越しでも感じられる強い日射しが降り注ぐ中、涼やかな風を胸に吸い込む。

 ちょっと生臭いような、独特の匂いだ。

「海ってこんな匂いがするんですね。何だか意外です」

 そう言った私の隣で、殿下が遠くを見ながら目を細める。

「…しかし、とても美しい」

 

 視界いっぱいに広がる眩しく青い海。

 日射しを反射してきらきらと輝き、引いては寄せる波が白い泡を立てている。

 見上げれば空には白い雲が流れ、海の色とはまた違う鮮やかな青を引き立てている。

 

 

 …ここは、このベリル島の南端にある砂浜である。

 この島の海は全て、魔獣を生み出す恐ろしい場所だ。近付けばすぐに魔獣が寄ってくる。

 そのため人間が海岸に近付く事は禁じられていて、海に面した場所に領地がある私ですら、遠くからしか海を見た事がなかった。

 それが何故こんなすぐ傍まで来ているのかと言うと、船を探すためだ。

 遠い昔、ミーティオがセレナの願いを叶えるために創り上げた船。それは、この浜に隠されているのだと言う。

 

「ミーティオのおっさんが言うには、この辺りっぽいんだが…」

 スピネルが辺りをきょろきょろと見回す。

 首に下げた宝玉に触れたライオスがうなずいた。

『間違いない。ここだ』

 

「分かりました。…では、少しの間お借りして良いですか?」

『ああ』

 ライオスから宝玉を手渡される。それから後ろを振り返ると、セナルモント先生がこちらへと黄金の天秤を差し出した。

 右手に宝玉、左手に天秤を捧げ持ち、静かに呼びかける。

 

流星(ミーティオ)見つけた(トゥーヴェ)

 

 

 

 ゴゴゴゴゴ…と地面が揺れる。

「わ、わ、わっ…」

「リナーリア!」

 下が柔らかい砂浜なのもありバランスを崩しかけた私を、殿下が支えた。

「あ、ありがとうございます」

 危ない、大事な宝玉と天秤を落っことす所だった。

 

 その間に目の前の砂浜は大きく膨れ上がっていた。

 巨大な何かが、滑り落ちる大量の砂の中から姿を現す。

 

「うわ…っ!!」

「お、大きい…」

「これが船…!?」

「すげえ!!」

「これが水に浮くってのか…!?」

 驚嘆の声が背後から聞こえる。私は目と口を大きく開けて、声もなくそれを見上げた。

 波打ち際に現れた大きな影。その先端は尖り、大きな帆柱が何本も立っている。

 

 

「こ、こんなに大きいものなんですね…」

 ようやく声を絞り出す。凄い。大きな屋敷くらいありそうだ。高さもあるし、川を下るための船とはまるで違う。

「これくらいでなければ海は渡れないという事か…?しかし、これでは重さで水に沈んでしまうのではないか?」

「言い伝えによると、海の水は普通の水よりも物が浮きやすいんだそうですが…」

 何でも海の水には塩がたくさん溶け込んでいるかららしいのだが、いざ目の前にするとにわかには信じられない。

 

「…これは調べ甲斐があるねえ…!!」

 先生がにんまりと笑った。ちょっと気持ち悪い笑顔だ。

「魔獣の気配はありませんよね?」

『ダイジョウブ。ソレガアルカラ、近クニコナイ』

 ライオスに尋ねると、彼は片言で答えて私の手の宝玉を指さした。

 彼はもともと古代語しか話せない。ずっと謎の力で言葉を通じさせていたが、あれは宝玉の力によるものなんだそうだ。今は私が持っているのでその力が働いていないのである。

 少しずつ私たちの言葉を勉強しているのだが、まだ発音はあまり上手くない。

 

 

「はしごを持ってきて下さい!予定通り、手分けして調査を始めます!細かい指示はその都度僕が出します!」

 先生が声をかけると、背後に控えていた兵士や魔術師たちが「はい!」と声を揃えた。

 調べる事はいくらでもある。内部の広さ。構造。仕組み。ある程度はミーティオが教えてくれるが、実物を見なければ分からない事もある。

 調査が終わったら一旦ライオスに宝玉を返し、また船を隠す予定だ。

 

 実際にこの船が航海に出るまでには、きっと何年も時間がかかるだろう。

 どのくらいの人間が乗り込めるのか、どんな物が必要なのか、どんな危険があるのか。あらゆる方面から考え、あらゆる場面を想定して計画を練らなければいけない。

 それから乗員を募集し選定する事になる。勇気と強い力、知恵を持つ者たちを。

 

 更に乗員に訓練を行って、物資を用意して…と考えると、想像するだけでも大変な計画だ。

 そしてどれだけ入念に準備をしても、いざ出発してみれば思いもかけないような困難や危険が待ち受けていることだろう。

 だが、それでもやるしかない。これにはヘリオドール王国の未来がかかっているのだ。

 

 

「…殿下?どうしたんですか?」

 無言のままじっと船を見上げる殿下に、私は尋ねた。

「この船が海に出るまで、どのくらいかかるだろうかと考えていた。そう長く時間をかける訳にも行かないが、準備には時間が必要だ」

 殿下も私と似たような事を考えていたらしい。

 この国の人口は確実に増えている。それと共に魔獣も増え、民の被害も増えていく。あまりのんびりしてはいられないが、焦って失敗しては元も子もない。

 

「海に出てからも、新天地を見つけるのには更に時間がかかる。その頃には俺たちの子供や孫の世代になっているかも知れないな」

「そうですね…」

 私はうなずき、それからちょっと焦った。こ、子供…子供かあ…。

 

 

 あのプロポーズを受けてから早一年。

 一応婚約者なんて立場になった訳だけど、未だに実感が沸かないというか、信じられない部分が残っている。

 だってあの殿下と。殿下と!

 いや嬉しいんだけど、すごく嬉しいんだけど、今でも時々「何で?」だとか「本当に良いんだろうか?」だとか思ってしまう。あの殿下と私が、け、結婚って。

 しかも国王陛下や王妃様が物凄くやる気満々で、既に式の準備を始めさせてるし。いや、そりゃまあ、早く結婚して世継ぎを作った方が良いんだろうけど…。

 

 そんな事を考えて一人であわあわしていると、ふいに名前を呼ばれた。

「リナーリア」

「はい!」

 思わずびくっとした私に、殿下の翠の瞳が向けられる。

「楽しみだな」

「え、た、楽しみ!?あ、は、はい、私も、その、が、頑張るつもりではありますが…」

「ああ。頑張って準備をしよう。俺たちは見送る側になるが、この船が旅立つその日は必ず盛大に祝おう」

 

 

「……」

 …子供の話ではなかった。船の話だった。

 突然口を噤んだ私に、殿下が不思議そうな顔になる。

「どうした?」

「な、な、何でもありません!!わ、私も楽しみです!必ず計画を成功させましょう!!」

 

「頼もしいな。君がいてくれれば、どんな事でも上手くいく気がする」

「そ、それは大げさですよ…。あ、もちろん、上手くいくよう精一杯努力は致しますが!」

「すぐにそうやって気負うのは君の困った所だ。そんな所も好きなんだが」

「すっ…!!」

 

 今の私の顔は多分、ものすごく真っ赤になっているだろう。

「…わ、私も、で、殿下が、す、すき…です…」

 消え入りそうな声で言ったそれは、ちゃんと殿下の耳に届いたらしい。私を見て優しく微笑む。

「ありがとう。とても嬉しい」

 

 

 

「…もうすっかりバカップルだな、おい」

 呆れた声が聞こえてきて、私は後ろを振り返った。

「き、聞いてたんですか!!」

「しょうがねえだろ、いくら宝玉の力があるったってちゃんと近くで護衛しとかないと」

 肩をすくめるスピネルの隣で、ライオスも仏頂面をしている。は、恥ずかしすぎる…。

 

「まあまあ、恋人がいない男たちのやっかみだよ、気にする事はないさ」

 横から口を挟んだのはスフェン先輩だ。スピネルが「余計なお世話だ!」と叫ぶ。

「大体、何でお前が付いて来てるんだよ!」

「僕はまだ見習い騎士だけど、いずれは白百合騎士団の一員としてリナーリア君の護衛をする予定だからね。頼み込んで同行させてもらったのさ」

 

 それから先輩は感心したように船を見上げた。

「それにこんな面白そうな物、見てみたいに決まってるじゃないか!いやあ、本当に凄いね。来られて良かったよ」

 その気持ちは分かる。実際に見てみると、想像していた以上の迫力だ。

「ある程度調査が終わったら、私達も中を見せてもらいましょう。先生はミーティオに尋ねたい事がたくさんあるでしょうし」

「おう…」

 スピネルは今から既にげっそりした顔だ。質問攻めにあうのは間違いないだろうしな。

 

 

 

 

 …船の上にはちらほらと人影が見え、何か声をかけ合っている。

 波の音が聞こえる。日射しは強いが、風があるのでそれほど暑くはない。

 魔獣さえいなければ、海はこんなに美しくて気持ちが良い場所なんだな。

 普段は近付けない事を残念に思う。

 

 青い空へ向かってそびえ立つ帆柱に海鳥が止まるのを見上げ、それで私はふと思い出した。

「あの、殿下。この船の名前、私が付けてもよろしいでしょうか」

「もちろんだ。どんな名前を?」

 

「…『蒼穹(アズラム)』。古代語で、深く青い空のことです」

 私の遠い先祖。未来への希望を託して付けられた子供の名前。

「アズラム号か。青は空の色であり、この海の色でもある。この船にふさわしい、良い名前だ」

「ありがとうございます!」

 

 

 アズラム号が出航する日が待ち遠しい。

 かつてその子の母が抱いた夢、願いが叶う、その日が。

 

 遥かなる未来、遠いどこかの地へと思いを馳せ、私は再び空と海を眺めた。

 その新しい大地を私が見る事はない。私はここでこの国を守り続ける。

 たくさんの命を。紡がれていく歴史を。その先の未来を。…一番大切な人と共に、守り続ける。

 それがずっと胸に抱いてきた私の夢、私の願いだった。

 

 かつて描いた夢とは少し立場が違ってしまっているけど、殿下が私の一番大切な人である事は変わらない。

 数々の奇跡と多くの人たちに支えられて願いを叶えた私は、これからもここで生きていくのだ。

 

 

 

 吹き渡る風が髪を揺らし、手に温かなものが触れる。

 

「二人で導き、見守っていこう。この国の未来を」

「…はい」

 

 私は微笑み、その大きな手を握り返した。

 

 

【挿絵表示】

 




これにて完結です。ここまでお読みいただき有難うございました!!
少しでも面白いと思っていただけたなら、評価やいいね、感想などいただけると大変ありがたいです。
物語は完結しましたが、不定期で番外編や後日談なども書いていきたいと思っています。

活動報告も更新いたしました。
作者Twitterでもお知らせやイラスト投稿をしていく予定です。どうぞよろしくお願いいたします。


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後世、歴史書より

◇エスメラルド・デュール・ヘリオドール

 ヘリオドール王国史に名を残す名君。

 四方を呪いの海に囲まれているヘリオドール王国において、初めて人を外海に送るという「蒼穹計画」を成し遂げた事で知られているが、医療施設の拡充や魔獣対策においても様々な功績を残している。

 愛妻家としても有名。クリスマスの日に恋人と共に動物のつけ耳を装着して過ごすという風習を生み出したのはこの王だと言われている。

 カエルの生態について多数の新発見があった観察誌「エスメラルド記録」の著者でもあるが、そちらはあまり知られていない。

 

◇リナーリア・ヘリオドール

 エスメラルド王の妃。生涯エスメラルド王を支え、王国の平和のために尽くした。

 偉大な魔術師でもあり、希少な4重魔術の使い手でもあった。植物系魔術の研究や、超長距離間遠話などの魔導具開発においても有名。

 民間では「希望の騎士ミニウム物語」の外伝「青薔薇の王妃」の主人公として親しまれているが、豊穣の女神の妹・筋肉の女神ナーリアのモデルもまた彼女だと言われている。

 

◇スピネル・ブーランジェ

 エスメラルド王の時代に活躍した剣聖で、剣神とも呼ばれた。剣術を修める者ならば彼の名を知らない者はいない。

 少年時代はエスメラルド王の従者であり、親友でもあったという。エスメラルド王の右腕として王国の発展と平和を支えたが、一線を退いた後も長くヘリオドール王家の剣術師範を勤めた。

「千里を駆けるミロス」の物語が演じられる際、原作には容姿の描写がないにも関わらず、主人公ミロスと親友セリナントスが金髪と赤髪にされる事が多いのは、それぞれエスメラルド王と剣聖スピネルをイメージしているからだと言われている。

 

 

◇セナルモント・ゲルスドルフ

 古代神話王国及び火竜・竜人伝説の研究者。優秀な魔術師であり、王妃リナーリアの師でもあった。

 探知と封印の魔術においても多大な業績を残しており、特にヘリオドール王国の守護竜ミーティオ復活の最大の功労者でもある。

 その著書は現在も多数残されている。

 

◇スフェン・ミニウム

 自身をモデルにした演劇作品及び小説の「希望の騎士ミニウム物語」の作者として知られる女騎士。他にも著作多数。ゲータイト伯爵家の生まれだったが、後に改名した。

 演劇を大衆文化として民間に広げた功労者であり、その自由闊達な作品の数々は現在も愛されている。常に男装していた事で有名で、女性の服装文化にも大きな影響を与えた。

 高名な剣士でもあり、ツァボラ流剣術から派生したスフェン流剣術の開祖でもある。

 王妃リナーリアとは親友であり、長年彼女の護衛騎士を勤めたが、騎士引退後もその交流は続いたと言う。

 59歳の時、「新たな冒険に行く」と言ってアズラム王国への門をくぐったが、その後の消息は不明。

 

◇ヘルビン・ゲータイト

 巨大な船によって島外に出て新しい居住地を探すという「蒼穹計画」に参加、その中核を担った騎士。

 18年の歳月をかけて大陸を旅し、後のアズラム王国の基礎を築いた。アズラム王国では初代騎士団長の地位に就いたとされている。

 前述のスフェン・ミニウムとは姉弟である。

 

◇ニッケル・ペクロラス

 躍動感ある人物と色彩豊かな自然を描く絵画をいくつも残した画家、ペクロラス伯爵。

 エスメラルド王とは友人であり、カエル観察誌「エスメラルド記録」の挿絵も描いている。

 

◇ユークレース・ブロシャン

 歴代の王宮魔術師団筆頭の中でも、特に有名な天才魔術師。

 風魔術をより効率的に扱うための構成の研究において多大な功績を残した。

 幼い頃から神童と呼ばれており、少年時代にはリナーリア王妃と魔術の腕を競い合ったという。

 演劇作品「青薔薇の王妃」の中では、リナーリアに敗北してへそを曲げた所を妻カーネリアに叱られる一節が描かれており、尻に敷かれる男の代名詞にもなっている。

 

 

◇ミーティオ(流星)

 守護神である水霊神の眷属で、ベリル島の守護竜。

 古代には人の姿を取って市井の者と交流し、自分との勝負に勝った者の願いを叶えたという逸話がいくつも残っている。「蒼穹計画」のための巨大船アズラム号を作ったのもこの竜である。

 長い間封印されていたが、エスメラルド王の時代に復活。海から出てくる魔獣を抑えている。

 現在はジャローシス地方にある火竜山に棲んでいるが、ヘリオドール王家及びジャローシス家の者以外の前にはほとんど姿を現さない。

 

◇ライオス・ストーロス

 特に魔獣との戦いにおいて、数々の伝説を残した竜人。

 古代神話王国の生まれで、長く眠りにつき人間とは袂を分かっていたが、若き日の王妃リナーリアとの交流によって和解した。

 死神の卵事件の中で起きたキマイラ戦での活躍は特に有名。作戦に参加していた多くの兵を救った。

 リナーリアの生家ジャローシス侯爵家に身を寄せていたが、後にエスメラルド王とリナーリアの末娘と結婚し、ストーロス侯爵に叙爵された。

 二百年に渡りミーティオと共にヘリオドール王国を守護したが、魔獣との戦いで負った怪我が元で命を落としたとも、病死したとも言われている。

 

◇ギロル・スファレラー

 エスメラルド王の時代に活躍した画家、挿絵師。

 いくつものペンネームを持ち、幅広い画風を使い分けていたため、未だに発見されていない作品も数多いと推測されている。

 筋肉の女神ナーリアを最初に描いた画家として有名だが、彼が描いたのは豊穣の女神であって筋肉の女神ではないという説もある。

 春画師としても知れられており、熱心な愛好家が存在する。

 

◇フロライア・モリブデン

 詩人、小説家。父アンドラ・モリブデンと共に、当時第一王子だったエスメラルド王暗殺未遂事件及び死神の卵事件に関与した罪により、終生を修道院の中で過ごした。

 死後数十年経ってから、旧モリブデン領民が引き取った遺品の中から詩文をしたためたノートがいくつも発見され、有志によって編纂され出版された。

 その静謐かつ繊細な文章は現在も高く評価されている。




これから1~2話完結のショートストーリー中心に不定期で更新するつもりです。どうぞよろしくお願いします。


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大胆なドレス

第199話のエキシビジョンマッチから数週間後くらいのお話です。


 今日は学院の食堂で、カーネリア様を中心とした仲の良い令嬢たち…いわゆる女子会メンバーでのランチだ。

 メンバーはその都度微妙に変わるのだが、今日は珍しくミメットとレヴィナ嬢、スフェン先輩も参加している。

 

「あの、ヴァレリー様、先日は有難うございました。お陰様で何とか間に合いそうです」

「そうなんですね!良かったです!」

 ヴァレリー様は私ににっこりと笑い返した。隣でカーネリア様が首を傾げる。

「何?何の話?」

「ドレスの話です。大急ぎで仕立てなくてはいけないのですが、この時期はどこの仕立て屋も忙しくて注文ができなくて…。それで、ヴァレリー様に懇意の仕立て屋をご紹介いただいたんです」

 

「ああ、卒業式のダンスパーティーの?」

「いえ、そちらではなく…」

 私は恥ずかしくて、うつむきながら小声で行った。

「その、私の…婚約発表パーティーの…です…」

 

 

 

 …貴族の中でも、王子だとか嫡男だとかそれなりの地位にある者が結婚する際には、色々とやる事がある。

 まず両家の間での挨拶。決められた作法があったり家格に合った土産が必要だったりする。

 次に婚約発表パーティーについての相談。両家で話し合い、パーティーの規模や日取り、招待客などを決める。

 これは当然、大きい家になればなるほど豪華で招待客も多いものになる。見栄を張りすぎて借金を抱える貴族というのもたまにいる。

 

 大体の内容が決まった時点で、注文できるものはしておく。

 例えば、会場を飾る花や当日提供する料理の食材などだ。芸人や楽団などを呼びたい場合も、ちゃんと手配しておく。

 この手のパーティーは貴族が王都に集まっている社交シーズンに集中するので、うっかりすると数が足りなくなったり用意できなかったりするのだ。注文は早いに越した事はない。

 

 特に大事なのが、パーティーの時に主役の男女が着る礼服やドレスだ。

 このような慶事の際、高位貴族ならば真新しいものを身に着けるのが常識となっている。

 仕立て屋にデザインを依頼し、好みに合わせて相談、それから製作。普段よりも豪華なものだし、完成までにはかなり時間がかかるので、余裕を持って注文しておかなければならない。

 

 

 そのような諸々の手配の目処がついてから初めて、招待状を作りあちこちに送るというのが一般的な流れなのだが…私の場合、そうもいかなかった。

 何しろ武芸大会の会場、大勢の人間が集まっている中でプロポーズを受けてしまったので、私と殿下の婚約の事はもう王都の誰もが知っている。

 既に皆がお祝いムードになっていて、「婚約発表パーティーはゆっくり準備をして来年にでも」という訳にはとてもいかなかったのだ。

 今年の社交シーズンが終わる前に何とかパーティーを行わなくてはいけない。

 

 なので今、王宮はその件でてんやわんやである。未来の王の婚約発表パーティーなのだから、とにかく盛大に、華々しく絢爛に行わなければならない。

 どうやら国王陛下はそこまで考えずに殿下を唆したらしく、私や両親に大変申し訳ないと謝っておられた。スピネルが言うには、王妃様にこっぴどく叱られてしまったらしい。

 

 

 まあそんな訳で、3ヶ月後には婚約発表パーティーをやる予定ですと聞かされた私と両親は真っ青になっていた。

 第一王子の婚約者ともなれば、パーティーでは上品で豪奢で洗練された…有り体に言えば、物凄く高いドレスを着なければならない。

 問題は値段ではなく納期だ。そういうのは当然手間暇をかけて作られるものなので、ちょっと入用なので数ヶ月で納品してくれませんか?なんてのは無理な話だ。しかも繁忙期にである。

 生地やデザインにこだわらなければ引き受けてくれる店もあるのだろうが、そんなもの着る訳にはいかない。

 

 しかし王家に頼る訳にもいかなかった。

 なぜなら、私の花嫁衣装は国王陛下が用意して下さる事になったからだ。あのエキシビジョンマッチの賞品なのだそうである。

 式の際に身に着ける宝石類は殿下が贈って下さるし、婚約発表パーティーのドレスくらい我が家で用意しなければ面目が立たない。未来の王妃を送り出す家として恥ずかしくないドレスを用意する必要がある。

 

 困り果てた私と両親は権力に頼ることにした。つまり、ブロシャン公爵家である。

 初めはカーネリア様を頼ろうかとも思ったのだが、ブーランジェ家はスピネルが従者をやっていて王家に近い。今回は少々頼みにくい。

 そして、以前振ってしまったアーゲンのパイロープ家に頼むほど私は無神経ではない。あいつもアラゴナ様と婚約したしもう気にしてないと思うが。

 

 ブロシャン家とは魔術師系貴族同士だし、巨亀事件の際に縁ができた。私はここの兄弟とは仲良くしているし、ヴァレリー様はファッションに詳しくあちこちの仕立て屋に顔が利く。

 何とかなりませんかと泣きついた所、快く馴染みの仕立て屋を紹介してくれたのである。腕前は公爵家のお墨付きだ。

 幾度かやり取りをし、納得の行くような素晴らしいドレスを注文できた…らしい。私は今回も周囲に任せっきりである。

 仕方ないだろ!口を出しても採用してもらえないんだから!

 

 

 

 そんな事を思い出しながら、ヴァレリー様に「本当に助かりました」と頭を下げる。

「ヴァレリー様は最初に仕立て屋を呼んだ時にわざわざ同席して下さって。デザインのアドバイスもしていただいたんです」

「お安い御用です。それに、未来の王妃様と伝手を作れたと仕立て屋も喜んでいましたから」

「ええっ!?ずるい!その席に私も呼んで欲しかったわ!!」

 カーネリア様が声を上げ、ヴァレリー様がうふふと笑う。

 

「どんなドレスなのか、とても気になりますわ」

 ペタラ様がおっとりと微笑みながら言う。

「えっと…概ね、ヴァレリー様が提案してくださった通りの形になったんですが…」

「あっ、やっぱりそうしたんですね。…詳しくは内緒ですけど、結構大胆なんですよ!」

「まあ…!!」

 きゃあきゃあと声が上がり、スフェン先輩がニヤッと笑って私を見た。

「リナーリア君の新たな一面を見られそうだね。とても楽しみだな」

 

 うう、ハードルが上がっていく…いや、ドレスは絶対素晴らしい出来になるはずなんだけど、着る私が…。

 私は胸やら腰やらのボリュームが乏しいし、あまり色っぽいドレスというものには縁がなかったのだが、「婚約発表なんですから少し大人っぽく大胆なのにしましょう!」というヴァレリー様の意見に母やコーネルなども賛成したのである。

 

 その結果、肩や背中が大きく開いたかなり大胆なドレスに決まってしまった。

 一応ストールを合わせる予定だが、そのストールも透ける生地のものだし、前世の私なら直視できなかったんじゃないかっていうデザインだ。あんなの本当に似合うんだろうか…ううう…。

 殿下はなんて言うだろう。びっくりしないかなあ。想像しただけで緊張してしまう。

 

 

「実は私も、卒業パーティーのドレスは少し大胆なものにしたんですよ」

「え!ペタラ様も?」

 彼女はいつも控えめでおとなしい印象なのでちょっと意外だ。

「ストレング様に驚いて欲しくて…」

 その照れた表情を見て、皆が微笑ましげな顔になる。

 

「私ももっと色っぽいのにすれば良かったかしら…」

「カーネリア様はいつも通りで良いと思いますよ?あんまり大人っぽくすると、あの子腰が引けちゃうかも知れませんし」

 ヴァレリー様が顎に人差し指を当てながら言う。

 そう言えばカーネリア様はユークと踊る約束をしたって言ってたっけ。

 ユークレースもこの一年でだいぶ背が伸びて大人びたけれど、あのくらいの年頃は年上の女性に対しあれこれ意識するものだからなあ。カーネリア様は不満げだが、あまり色っぽいのは目の毒かもしれない。

 

 

 更にヴァレリー様は、にっこり笑って両手のひらを合わせてこう言った。

「そう言えば、ミメット様もとても素敵なドレスを作られたと聞きました!」

「えっ」

 私はびっくりして振り返ってしまった。

 こういう皆でのランチにも時折参加してくれるようになったミメットだが、基本的にあまり喋らない。今日もずっと無言で人の話を聞いていたのだが、突然話しかけられて驚いたように顔を上げた。

 

「…そ、れは」

「よくぞ聞いて下さいました!!」

 思い切り言葉に詰まったミメットを制し、満面の笑顔を浮かべて話し出したのは隣のレヴィナ嬢だ。

「今回の卒業パーティーに合わせ、ミメット様の兄君のコーリンガ公爵様が、あの人気デザイナーのクリソコラス氏にドレスを発注したんですよ!ちなみにミメット様は興味ないと仰ったので、私が全面的に口を出させていただきました。濃紫地に赤の差し色を入れた本当に素敵なドレスとなっております!」

 

「まあ…」

 赤の差し色が入ったドレスなど、前世では全く身に着けていた覚えがない。いつも黒ばかりだったミメットにしてはずいぶん大胆だ。

「それはいかにもミメット君に似合いそうだね!」

「そうね、すっごく楽しみだわ!」

 皆に盛り上がられ、ミメットが恥ずかしそうに赤面する。

「…わ、私は別に着たくないのだけど、お兄様がせっかく作ったのだし、勿体ないから着るだけなの…」

 

「ダンスのお相手はやっぱり、トルトベイト様?」

「ええ!!もちろん!!」

「レヴィナ!!勝手に答えないで!!!」

 にまにまと笑ったカーネリア様に答えたのは、またもやレヴィナ嬢である。ミメットは赤くなったままぷいっと横を向いた。

 うーむ、もしかしてとは思っていたが、やっぱりそうだったのか…。

「…それは賭けに負けたからで、仕方ないの!!」

 

 

 相変わらずミメットの言う事を大して聞かないレヴィナ嬢が説明してくれたのだが、何でもミメットは「もしも武芸大会で優勝したら卒業パーティーで踊ってもいい」とトルトベイト会長と約束していたらしい。

 どうせできないだろうと高をくくっていたっぽいが、会長は見事タッグ部門で優勝を成し遂げてきたという訳だ。

 会長が武芸大会にエントリーした理由がやっと分かった。今まで婚約者を決めていなかった理由もだ。

 

 私は思わずにっこりとしてしまう。

「良いと思いますよ。会長はちょっとせっかちですが、周りの人の事をよく見ている方です。ミメット様にはぴったりかと」

「そうですねえ。トルトベイト様は誠実そうな方ですし…それに、ブロイネル家は魔術師系貴族の中でも特に穏健派ですから、ご家族に反対される事もないでしょうし。良縁だと思います」

 ヴァレリー様もうなずく。彼女らしい現実的な意見だ。

 

「別にそんなんじゃないの!!」とミメットは怒っているが、実際良縁だと思う。

 ミメットは前より大分ましになったとは言えやっぱり人見知りで口下手だし、彼女の父の時代に起きたいざこざのせいで親しい貴族家が少ない。

 その点トルトベイトは人当たりが良いし、生徒会長として積み上げた実績と培った人脈があるからかなり顔が広い。ミメットの苦手な部分をしっかり支えてくれるだろう。

 そして彼の少しせっかちでおっちょこちょいな所は、意外に堅実でコツコツやるのが得意なミメットならば補うことができる。

 

 

 …まだそうと決まった訳ではないが、トルトベイトになら彼女を任せられる。

 前世で彼女を幸せにできなかった事は私の中でずっと引っかかっていたので、これで少しは安心だ。

 彼の方が、前世の私などよりよっぽどお似合いだと思う。

 

 いつかウェディングドレス姿のミメットを祝福する日を夢見て、私は微笑んだ。

「…とても素敵な卒業パーティーになりますよ!きっと!」

 

 

 

 

「…なあ、スピネル。大胆なドレスとは…一体どんなものだと思う…?」

「いや、俺に訊かれても分かんねえよ」

「だが、しかし、大胆なドレスを着たリナーリアというのは…」

「だから俺に訊くなって。当日を楽しみにしとけばいいだろ」

「それでは心の準備ができないだろうが!!」

「知るか!!そんなもん!!!」



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友達の約束※

 バルコニーでぼんやりと夜空を眺めていると、後ろに人の気配を感じた。

 振り返ったエスメラルドの目に映ったのは、月明かりでもはっきりと分かる鮮やかな赤毛だ。

「おかえり、スピネル」

「おう、ただいま」

 身長こそ昔よりもずいぶん伸びたが、その片頬を持ち上げる笑い方は子供の頃からずっと変わらない。

 エスメラルドの隣にやって来ると、手すりにもたれかかって空を見上げた。

 

「ライオスはちゃんと送り届けて来たぞ」

「そうか、すまないな」

「面倒臭いけどしょうがねえ。いくら空飛べるっても、なるべく俺たちの移動手段に慣れさせた方が良いだろうしな」

 

 ライオスは様子を見る意味もあって、大体週に2回は城に顔を出す事になっている。

 主にセナルモントと話をしたりこの国の文化や言葉を学んでいるようだが、兵の調練の相手をする時もあるようだ。

 最初は来るのを渋っていたが、ずっとジャローシス侯爵邸にいるのも暇なようで、最近は特に不満そうな様子もなく通って来ているらしい。毎回大量の食事や酒を平らげていくそうなので、もしかしたらそれが目当てなのかもしれないが。

 しかし放っておくとすぐ空を飛んで帰ろうとするので、スピネルは時間がある時はライオスを馬車に乗せて送り届けるようにしているのだ。

 

 

「やはりお前は面倒見が良いな。ライオスにもずいぶん懐かれたんじゃないか」

「懐かれてねえし、俺よりでかい男に懐かれても全く嬉しくねえ」

 スピネルは顔をしかめたが、すぐににやにやと笑った。

「ま、殿下よりは仲良くなったけどな」

「俺も努力はしているんだがな…」

 ついため息をつきたくなる。

 ライオスは相変わらずエスメラルドが嫌いなようで、会うと大体睨んでくるのだ。彼はいずれ義弟になるのだから、できればもっと仲良くなりたいのだが。

 

「でも、前よりマシだろ」

「そうだな」

 あのエキシビジョンマッチ以来、話しかけたら一応返事が返ってくるようになった。少しは認めてくれたのだと思う。

「お前のおかげだ。ありがとう」

「ありゃ国王陛下の提案だぞ」

「だが、実現したのはお前が色々と走り回ってくれたからだろう」

 

 あの『お膳立て』を整えるのはなかなか大変だったはずだ。

 学院長や教師たちに許可を取り、王宮魔術師団に結界用の人員派遣を依頼し、セナルモントと共にライオス相手の試合の模擬練習。

 姿を見かけない事が多いのには気付いていたが、てっきり剣の修練でもしているのかと思っていたのだ。今回の武芸大会ではライバル同士、別々に練習したいというエスメラルドの希望を叶えたのだと。

 

「…世話をかけたな」

「これも俺の仕事のうちだ。それに、あいつと模擬練習やるのは結構面白かったからな。いい鍛錬になった」

 心配しなくても、きちんと剣の修練はできていたと言いたいらしい。

「それなら良いんだが」

 

 

 

 再び夜空を見上げる。

 満月までは後数日という所だろうか。今は特に月が大きい季節なので、この時間でも結構明るい。

「武芸大会は楽しかったな。お前に勝てたし、一応はライオスにも勝てた」

「一応でも、勝ちは勝ちだろ」

「一人で勝たなければ本当の勝利とは言えない」

 

「殿下も頑固だよなあ…」

苦笑を浮かべるスピネルの顔を見つめる。

「…だからという訳ではないが。俺はやはり、お前に勝てた事が一番の満足だ。2年連続優勝を目指すと言っていたが、本当の目的はお前との真剣勝負だったからな」

「そうなのか?」

少し不思議そうな彼に、「ああ」とはっきりうなずいた。

 

「一つのけじめのつもりだったんだ。リナーリアに気持ちを伝えるのは、お前に勝ってからにしたかった。どうしても」

「何でだよ?」

 尋ねられて、エスメラルドは少し笑って問い返した。

「心当たりがあるだろう?」

 途端にスピネルが憮然とした顔になる。やはり、心当たりがあるのだ。

 

 

「…あのな。言っとくが、俺はとっくにあいつに振られてるぞ」

「そうか。やっぱりな」

 あっさりうなずいてみせると、彼は驚愕して目を瞠った。

「気付いてたのかよ!?」

「まあ、何となくな」

 

「はあああぁぁ…」

 スピネルは大きくため息をついてその場にしゃがみ込んだ。

「バレてねえと思ってたのに…」

「何年お前と一緒にいると思っている」

「くっそぉ…誰にも言うなよ、絶対。あいつ多分、告白されたって気付いてすらいないからな」

「分かっている、誰にも言わない。…しかし一体、どんな告白をしたんだお前は」

「うるせえ!」

 

 

 きっと彼の事だから、余程ひねくれた回りくどい言い方をしたのだろう。内心で少し呆れると、スピネルは珍しく子供っぽい表情で膨れっ面になった。

「…俺のも、ただのけじめだったんだよ。別に伝えたかった訳じゃない。あいつは友達だ。そう約束したからな」

「約束?」

 初耳だったので少し首を傾げる。

 

「あいつが火竜山の遺跡で行方不明になった時だよ。あん時、俺はあいつじゃなく殿下を助けて、あいつも『殿下を助けてくれ』って言った。…殿下は『二度とあんな事するな』って怒ったよな。それで、俺もあいつも大人しく『わかりました』なんて答えたけどさ…。本当は二人共、言う事聞く気なんかなかったんだ」

「…何?」

 

「俺は、次は絶対両方の手を掴むって決めた。殿下とあいつと、両方助けてみせるって。でも、まだ力が足りないってのも分かってた。だからあいつに言ったんだよ、『俺は次も殿下を助ける』って」

 スピネルもまた、夜空の月を見上げる。

 

「脅しのつもりもあったんだ。いつでも助けられる訳じゃない、だから危ない事はすんなって。…ところがあいつと来たら、『そう言ってくれて安心した』とか言いやがる。たとえ命令を裏切ることになっても、自分より殿下を守って欲しいってさ。信じられるか?目ぇ覚まして家族と会った時には、グシャグシャになって泣いてた癖にだぞ。…でもあいつ、本気で言ってたんだよ」

 

 

「…それは、リナーリアらしいな…」

 今度はエスメラルドが憮然とする番だった。

 どうもあまり納得していない気はしていたが、知らない所でそんな事を言っていたとは。

「それで思ったんだ。ああ、こいつは正真正銘のバカで、…殿下が何より一番大事なんだって」

「……」

 

「まさかあんな七面倒臭い事情があるとは思わなかったけどな。で、まあ、そこであいつに言われたんだ。友達になってくれって」

「しかし、あの時にはもうお前達は友達だったろう。口喧嘩ばかりしていたが、仲が良かったじゃないか」

「俺も結構ショック受けたぞ、まだ友達認定されてなかったのかって。どうもあいつ、マジで友達いなかったから、どこからどこまで友達なのか分からなかったっぽい」

「本当にリナーリアらしいな…」

 

 すっかり呆れている様子のエスメラルドに、スピネルが笑う。

「本っ当バカだよな、あいつ」

「いや、お前にも呆れている。お前も相当にバカだ」

「ああ!?」

 

 

 …その約束を守るために、ずっと気持ちを隠し、わざと伝わらないように思いを告げたのか。

 あんなに器用に何でもこなす癖に、不器用にも程がある。

 そう思ってじっと鋼色の瞳を見つめると、ぷいっと目を逸らした。

「良いんだよ、俺はこれで。…本当に良かったって、心から思ってる」

 その言葉からは嘘は感じられない。己の選択に後悔などしていないのだろう。

 

 腰に差した剣の柄、その先にぶら下がる小さな赤い護符に触れながら、スピネルは言う。

「俺はあんたの従者で、友達だ。誰より大事な友達二人に、幸せになって欲しい」

 

 

 それからスピネルは、エスメラルドを振り返って笑った。

「できるだろ?殿下なら」

 

 エスメラルドもまた、笑って答える。

「ああ、もちろん。俺はお前の主で、友達だからな」

 

「…約束だ」

 月明かりの下、どちらからともなく拳を持ち上げ、軽く打ち付け合った。

 

 

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婚約発表パーティー

「わあ…!リナーリア、とっても素敵よ!!」

 控室の中、お母様が嬉しそうに歓声を上げた。

「ええ、お嬢様、すごくよくお似合いです」

「本当にお美しいです!」

 コーネルやメイド達も口々に褒めてくれ、私は照れながら鏡の中の自分を見つめた。

 

 両肩が露出した鮮やかなブルーのドレス。

 私の瞳の色に合わせて選ばれたその生地には、よく見ると同じ青色の糸でびっしりと細かな刺繍が施されている。

 これは光の当たる角度によって色を変える糸で、一見するとただの青いドレスなのに、動くたびに美しい刺繍が模様となって浮かび上がるという仕掛けなのだ。とても凝っている。

 スカートの裾はゆったりと広がっているのだが、片側には太もも近くまで大きなスリットが入っていて、フリルが何層にも重なっている。一枚一枚は下が透けてしまうほどの薄布だが、上に行くほどたくさん重ねてあるので膝から上は全く見えない。

 

「本当に素敵なドレスですね…。ヴァレリー様には感謝しなければ…」

 スカートの裾を持ち上げながら呟く。両親は値段を教えてくれなかったけど、これ凄い高かっただろうなあ…。

 頼んだ時はかなり大胆なデザインだと思ったが、いざ着てみると思っていた程恥ずかしくはなくて少しホッとした。

 背中はほぼ丸出しで腰の近くまで大きく開いているんだが、こうして正面から見る限りは普通のドレスだからな。

 

 

「ドレスもですが、お嬢様ご自身もとても美しくていらっしゃいます!」

「そうねえ、王子殿下もきっと見とれてしまうに違いないわ」

「そ、そうでしょうか…」

 メイドがとっても力を入れて化粧をしてくれた私の肌は、何だかきらきらと光っている。王都でも人気の最新の白粉なのだそうだ。

 髪も丁寧に結い上げられたくさんの宝石を散りばめられていて、とにかく眩しい。まるで私によく似た別人を見ているかのような気持ちになる。

 

「あの、本当に似合ってますか…?派手すぎませんか?」

「何をおっしゃるんですか!このドレスがこれほど似合う方はこの国にいらっしゃいません!」

「そうです、それにお嬢様は、本日の主役なのですから。誰よりも美しく輝いているのは、当然の事ですよ」

 それはその通りだ。王子の婚約発表パーティーなのに、肝心の婚約者が地味な姿ではお話にならない。

 誰もが納得するほどに美しく、上品で、優雅で端麗でなければ。

 

 

 …しかし、そう思えば思うほどめちゃくちゃに緊張してきた。

 私が?この私が?並み居る貴族たちが納得するような、そんな完璧な婚約者たる姿を見せる?

 本当に今更だが、そんなの無理では…?

 これまで私なりにちゃんと貴族令嬢っぽくしようと努力してきたつもりだが、せいぜい表面を繕う程度のもので…いや繕えていたかどうかも怪しい。

 得意なことは魔術と勉強です。特に戦闘での魔術支援には自信と実績があります。

 いやダメだろ!!それじゃダメだろ!!

 

 ど、どうしよう。なんか本当にダメな気がしてきた。私が殿下と婚約だなんて。

 いや、今から取りやめる事なんてできないんだろうけど、でも殿下にもご迷惑をかけてしまうのでは?お父様やお母様たちにも恥をかかせてしまうのでは?

「あらあ…すっかりガチガチになっちゃってるわねえ…」

 お母様が呟く声が聞こえたが、頭に入ってこない。

 

 胃の辺りがぎゅうっと苦しくなる。手のひらに冷たい汗が滲んでいる。

 だめだ、しっかりしないと。ちゃんと笑顔で招待客に挨拶をするのだ。

 挨拶…あれ、え、どうするんだっけ?まず入場して、それから殿下が挨拶、あ、いや、国王陛下だったっけ?私は何をするんだっけ?

 必死で段取りを思い出そうとした時、コンコンとノックの音が聞こえた。

 

「お嬢様。エスメラルド殿下がお見えです」

「えっ!??」

 私はビクッとして振り返った。もうパーティーが始まる時間か!?と思ったけれど、時計はまだ30分も前を指している。

「…はい、支度はほぼ済んでおりますので、どうぞ中へ」

「私たちは少し席を外しているわね」

 お母様はにっこりと笑い、コーネルやメイド達と共に控室から出ていった。

 

 

 

 そうして残されたのは、礼服姿の殿下と私である。

 細かく美しい刺繍の施された、すらりとしたテールコート。殿下、すごく立派でかっこいいな…。

 いや殿下はいつでも立派だしかっこいいんだけど、今日は特に、何というか、すごい。輝いているようにすら見える。

「殿下、とても素敵です」

「ありがとう。リナーリアも、…とても美しい」

 

 殿下は私を見て感心しつつ、どこか拍子抜けしたような顔をしていた。

 …や、やっぱり、あんまり似合ってないのかな…。

 思わずうつむいた私の耳に、殿下の心配そうな声が聞こえる。

「どうした、リナーリア。緊張しているのか?」

「…はい、あの、すみません…」

 

「どうして謝るんだ?」

「いえ、あの、殿下に申し訳なくて…」

「何がだ?」

「う、上手く振る舞える気がしません。私などが本当に、良いんでしょうか…あっ、いえ、決して殿下のご判断が間違っていたと思っている訳ではないのですが、その」

「……」

 

 

 きつく握りしめた私の両手を、大きな手が包み込んだ。

「大丈夫だ、リナーリア。俺がついている」

 顔を上げると、思っていたよりずっと近くに翠の瞳があった。

「君は誰よりも素晴らしい女性だ。その事を俺はよく知っている。君は間違いなく、未来の国母たるにふさわしい人だ」

 

 でも、殿下に恥をかかせてしまうかもしれない。そう思った私の心を読んだかのように、殿下はゆっくりと諭すように言う。

「上手く振る舞えなくても構わないんだ。誰だって緊張したり失敗したりする。そういう時は、俺がきちんとフォローする。…夫婦とは、そういうものだろう?」

「で、殿下…」

 

「いや、まだ結婚した訳ではないんだが。…だから、その、安心して欲しい」

 少し照れたように言う殿下に、じわじわと胸に温かいものが広がる。

「ありがとうございます…!」

 思わず笑顔になった私に、殿下もまた微笑んだ。

「俺はいつも君に助けられてきた。だから、君が困った時はいつでも俺を頼ってくれ」

「はい!」

 

 …私の隣には殿下がいて下さるのだ。

 殿下と並び立つにふさわしい人間である自信などまだ持てないが、殿下はそんな私を信じ、選んで下さった。

 そのお気持ちに応えるためにも、せめて精一杯堂々と振る舞わなければ。

 

 

 

「…君はやっぱり、笑顔の時が一番美しい」

 嬉しそうに目を細められ、自分が恥ずかしくなる。

 そうだ、着る者が暗い表情をしていたら、どんな美しいドレスだって台無しだ。そんな単純な事さえ忘れていた。

 

「そうですね、このドレスの美しさに恥じないような振る舞いを心がけます!」

 力を込めてそう言うと、殿下は少し首を傾げた。

「何を言うんだ。もちろんドレスも素晴らしいが、それより君の方がよっぽど綺麗じゃないか」

「えっ?」

 でもさっき殿下は、私の姿を見てちょっとがっかりしていたような…。

 

「君は誰よりも何よりも、魅力的で美しい。自信を持って欲しい」

 殿下は優しく微笑むと、私の身体をそっと抱きしめた。

 …そう言えば殿下は、私が何を着ても毎回嬉しそうに褒めてくれている気がする。じゃあさっきの表情は、ただの見間違い…?

 そう思った瞬間、殿下はいきなりバッ!!と腕を解くと一歩後ずさった。

 

 

「…!??」

 何か、物凄い衝撃を受けたかのような顔で自分の両手を見つめている。

 一体何事かと驚く私に、殿下は恐る恐る口を開いた。

「…り、リナーリア、その、背中が」

「え?…ああ、はい、このドレス、背中が開いているんです」

 

 見せるのは少し恥ずかしいが、くるりと回って後ろを向く。

 背中のほとんどが出ているので、抱きしめられると素肌に手が触れてちょっとくすぐったかった。

 あ、そうか、殿下も素肌に触れたからびっくりしたのかな?と振り返ると、両手で顔を覆っていた。耳が赤い。

 

「…なんて大胆なドレスを着ているんだ…!!」

「えっ」

「思ったより露出が少なかったから安心していたのに…そんなのもう裸じゃないか…!!!」

「違いますよ!!?」

 

 

 …この上にちゃんとストールも羽織ると説明したのだが、殿下がキリッとした顔を取り戻すまでにはだいぶ時間がかかってしまった。何やら手をわきわきさせていたので、素手で背中に触ったのが余程衝撃だったのだろうか。

 時間ギリギリになって控室を出ると、めちゃくちゃ笑いを堪えているスピネルがいたので、とりあえず思い切り足を踏んでおいた。

 パーティーの最中、殿下が何故か私の後ろにばかり立っていたのは、気のせいだと思う事にする。



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竜人と絵本

「ヴォルツ、その本はこちらにお願いします」

「わかりました」

 色とりどりの絵本が、机の上に重ねて置かれる。図書館から借りてきたものだ。

「運んで下さって有難うございました。もう下がっていただいて大丈夫です」

「はい」

 ヴォルツが「失礼いたします」と一礼して退室するのを見送ってから、ソファへと座り隣の顔を見上げた。

「…では、ライオス。今日はこの本を使って勉強をしましょう!」

 

 

 今日は学院が休みなので、ライオスの様子を見るためにジャローシス邸へと来ている。

 近頃の彼はかなり人との生活に慣れたようだ。いつもちゃんと上着や靴を身に着けているし、ナイフやフォークの使い方も上手くなった。

 家出の回数も大分減った。山の空気や動物たちが恋しくなるのか度々一人で山へと出かけているようだが、その時は誰かに告げてから行くし、夕食の時間には帰って来るという。

 屋敷の者や私の友人知人達とも、ちゃんとコミュニケーションを取れるようになってきている。

 

 そこで私は、ライオスに現代語を教え始める事にした。

 彼は現在、首から下げている竜の宝玉の力で周囲と意思を通じ合わせているが、宝玉はいずれこの国のために譲ってもらう予定でいるからだ。

 

 ちなみに宝玉の譲渡については、以前恐る恐る打診してみたところ、驚くほどあっさりと了承した。

 これは元々この島の人間のために作られたものだと、彼は知っていたらしい。偶然手に入れたようなものだし、私になら渡しても構わないと言う。

 奇跡の力が込められた宝玉をそんなに簡単に手放していいのかと私達は驚愕したのだが、よく話を聞くと、彼は宝玉の力を自由に使える訳ではないのだそうだ。

 大きな力を引き出せるのは、人間の願いを叶えたり守る時だけらしい。自分自身に危機が迫った時にも使えたが、それは意識してやった事ではなかったとか何とか。

 

『島の守護者たる竜の力は、欲望のままに使えるようなものではないのだ』とミーティオは言っていて、「どんな時どのように願いを叶えられるか検証したい」という先生の提案は満場一致で却下されていた。

 とりあえず、今の所はまだ宝玉をライオスに持っていてもらう事も決まった。彼の元にあるのが一番安全だからである。

 

 

 まあそんな訳で、いずれ宝玉を手放す時のため、ライオスは現代語を学ばなければいけない。

 まだまだ先の話になるだろうし急ぐ必要は特にないのだが、彼は案外乗り気のようだった。

 これは多分、単に暇だからだろう。ライオスは屋敷にいても基本やる事がない。私は学院に通っているし、両親や兄夫婦は外出する事も多い。

 ライオス自身は庭でぼんやり日向ぼっこをしているだけでも別に構わないそうだが、それだと使用人達の方が落ち着かないようだ。

 彼らに気を遣われるのも困るから、何か時間を潰せるものが欲しいと思っていたらしい。

 

 読み書きを覚えれば、一人で本を読んだり勉強もできる。

 そして現代語を話せるようになれば、幻影の魔術で人間に化け、お忍びで外に出る事だってできるようになるだろう。

 それに、さまざまな知識を増やしていくのはライオスにとっても楽しいようだ。学習意欲が旺盛なのはとても良い事だと思う。

 先生の所でも勉強をしているのだが、そちらでは物の名称だとか会話で使える単語を中心に教わっているそうなので、私はもっと詳しく文字や文法を教えていこうと思っている。

 

 

 私は一冊の絵本を手に取ると、机の上に広げてみせた。

 絵本は子供でも分かるように平易な言葉で書かれているものばかりなので、勉強には丁度いいと思ったのだ。綺麗な絵もついているから、ただ文字を読み書きしていくよりも飽きないだろう。

「まずは、私がお話を読んでいきますね。…昔々、ある所に、赤い頭巾をかぶった可愛い女の子がいました…」

 指で文字をなぞりながら、声に出して読み上げる。

 隣のライオスは、真面目な表情で本を見つめているようだ。

 

 そうして何ページか読み進めた所で、ライオスがふと首を傾げた。

『…これは、赤い帽子の少女と狩人が狼を退治する話か?』

「え?知ってるんですか?」

『ああ。昔、ある人間に聞かせてもらった』

「昔って…古代にですか?という事は、この童話は古代から伝えられているもの…!?すごい!!」

 なんてことだ。古い童話だとは知っていたが、まさか古代神話王国時代からあったなんて…。後で先生にも教えてあげなければ。

 いやでも待てよ、これだけでは本当に同じ話なのかどうか分からない。

「もう少し詳しく聞いてもいいですか?それってどんなお話でした?」

 

 

 

「…ふむ、私が知っている話よりちょっと残酷な感じですね。でも大筋は同じです」

 ライオスが語った話を紙に書き出してみたのだが、細かい所で違いがある。頭巾が帽子だったり、狼がおばあさんでシチューを作って女の子に食べさせようとしていたりだとか。

 こういうのって原典は大人向けなのか結構怖い展開だったりするんだよな…などと考え、私はハッと気が付いた。今日はライオスに言葉の勉強をさせるはずだったのだ。

「す、すみません、完全に話が逸れていました」

『我は別に構わん』

 ライオスは特に気にしていないらしい。本を手に取り、ページをめくって絵を眺めている。

 

「そう言えばさっき、人間に聞かせてもらったと言っていましたが…」

『クトナという女だ。研究所で働いていて、我の世話をしていた。戦いのない日には、よくそのような話を聞かせてくれた』

「なるほど。他にどのような話を?」

『8匹の山羊の子供の話に、金の卵を生むアヒルの話。それから、星から金貨をもらう話…』

 

「星から金貨を?その話は知りませんね」

『貧しく身寄りのない少女が、自分の持っているわずかなパンや服を他人に施し与えていく話だ。それに感心した星が、空から金貨を降らせてくれる』

「やっぱり、知りません」

 きっと長い時の中で埋もれ、失われてしまった話なのだろう。

 

 

 私は思わず身を乗り出した。

「…ライオス、これ、とても凄い事ですよ!貴方のおかげで、遠い昔に失われた童話を蘇らせる事ができます!」

『童話を、蘇らせる』

「そうです。なるべく詳しく思い出して、聞かせてくれませんか。それをまとめて、本にして出版しましょう!!」

『本。…絵本にか?』

 ライオスはぱちぱちと瞬きをした。

 

「童話というのは、その時代の文化や生活の知恵、教訓などが含まれているものも多いんです。それを現代に伝える事には、大きな意義があります!」

『文化…意義…そういうものなのか…?』

 どうもあまりピンときていないようだ。

 うーむ、こういうのは人間特有の考え方だろうし説明するのも難しいな…。

 

「あと、子供たちがきっと喜びます。私も子供の頃は、絵本で色んな物語を読むのがとても好きでした。ライオスも話を聞いていて楽しかったんじゃありませんか?本にすれば、そういうお話を他の人達にも広く伝えられるんですよ」

 もう少し身近な部分で凄さを説明しようと試みる。これは分かりやすかったらしく、ライオスは小さくうなずいた。

『…そうだな。クトナの話は、面白かった』

 

 その赤い瞳には、わずかな感傷が浮かんでいるようだった。

 そう言えば彼から古代の人間の名前を聞くのは初めてだな、と気付く。

 ミーティオの話では、ライオスには父を名乗る人間がいたはずだが、彼は今まで一度もそれについて話そうとはしていない。

 先生がそれとなく尋ねてみた時も、研究所に関する事はほとんど答えなかったそうなので、やはりあまり話したくないのだろう。

 いずれ彼が話したくなった時に聞こうと、そう思っている。

 

 

 …そんなライオスが自分から話したのだから、クトナという人は彼にとって特別に親しい存在だったのかもしれないな。

「クトナさんに感謝しなければいけませんね。クトナさんが貴方にお話を聞かせてくれたおかげで、私たちは遠い時を越え、その物語を知る事ができるんですから」

 

 それに、ライオスとこうして家族になる事ができた…と、私は心の中で付け加える。

 もしも人間との間に嫌な思い出しかなかったのなら、彼は人間に関わる事をせず、私の願いを叶えたりもしなかったに違いない。きっと今も山の中で、一人で暮らしていただろう。

 その人がいたから、ライオスは人間や家族というものに興味を持つようになったのではないだろうか。今私がこうして生きているのも、元を辿ればその人のおかげなのかもしれない。

 

 

 ライオスは手に持った絵本をじっと見つめた。

『…そうか。人間はこういう形でも、自分の存在をどこかに残していくのか』

「そう、そうなんですよ!物語を作った人が死んでしまっても、物語そのものや、それにまつわる思い出は残ります。それも本の持つ力の一つなんです。ライオスは賢いですね」

 そう言って褒めると、ライオスはちょっとだけ嬉しそうにした。

 

「やっぱり本を作りましょう。そうすれば、本を見るたびにクトナさんの事を思い出せますよ」

『クトナを…』

 本を出版する方法など私も知らないが、先生かお父様の伝手で何とかなるだろう。魔術師には自ら本を執筆して出版する人も多いし。

 絵本にするなら挿絵が必要になるが、その辺りはギロルに相談してみれば良いかな。人気絵師だから頼むのは難しいだろうが、誰か紹介してくれるかもしれない。

 実際に本が出来上がるまでには大分時間がかかるだろうが、何だかちょっとわくわくしてきた。

 

「そのためにも、しっかり現代語を覚えなければいけませんね。まずはさっき言っていた、星の金貨の物語を話してください。私が文字に起こしていくので、それを使って勉強しましょう」

『ああ、分かった』

 ペンを握って微笑みかけると、ライオスはやる気に満ちた様子でうなずいた。

 それから、記憶を探るような表情で口を開く。

『…昔、ある所に、父も母も亡くしてしまった小さな少女がいました…』



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夫婦カエル

 高くそびえ立つ王城をぐるりと囲む城壁の、その中央にある重厚な門。

 ヴォルツとコーネルを連れた私は、上機嫌でそこをくぐった。

「こんにちは」

 門兵に挨拶すると、微笑ましげに「こんにちは」と返される。上機嫌なのがひと目で分かってしまったらしい。

 少しばかり恥ずかしくなるが、それよりも嬉しさが勝ってしまいすぐに頬が緩む。

 連れの二人と別れ、もうすっかり城内に慣れた様子の衛兵のカーフォルに案内されて城の廊下を進んだ。

 

 

 扉を開けると、すぐに殿下が出迎えてくれた。

「やあ、リナーリア」

「殿下!お帰りなさいませ!」

 殿下は昨日の夕方、毎年恒例の視察から帰ってきたばかりだ。一連の事件が解決した事もあり、去年よりは長めの日程が取られた。

 今日は学院が休みの日だし、殿下からは「良かったら城に来て欲しい」と昨夜のうちに連絡が来ていた。早く顔が見たかった私は、お言葉に甘えて朝から登城してしまったという訳だ。

 私を見た殿下もまた嬉しそうで、同じ気持ちでいてくれたのかなとちょっぴり照れてしまう。

 

 メイドがソファに座った私の前にお茶のカップを置き、「失礼します」と言って退室していく。

 ちなみに、今日案内されたのは殿下の私室だ。

 応接室ではなくこちらに通されるのは珍しいなと思っていると、殿下は何故か向かいのソファではなく私の隣に座った。

 思わずどぎまぎしてしまうが、殿下の方も微妙にそわそわしている。

 な、なんだろうこの空気…。

 

 殿下はごほんと一つ咳払いをすると、小さな箱をテーブルの上に置いた。

「…お土産だ。俺の趣味で選んでしまったから、君が喜んでくれるか分からないんだが…」

「あ、ありがとうございます…!」

 そうか、これを渡したかったから城に来て欲しかったのか。

 

「開けてみてもよろしいでしょうか?」

「ああ」

 心を躍らせながら蓋に手をかける。

 殿下からのお土産なら例え中身が石ころだって嬉しいに決まっているのだが、一体どんなものを選んで下さったのだろう。

 

 

 

「……」

 私は驚きのあまり、大きく口を開けて固まってしまった。

 無言のまま箱の中身を見つめる私に、殿下が慌てる。

「き、気に入らなかっただろうか。すまない」

「い、いえ!違います、逆です」

 私は必死で首を振った。

 

「あの、これ…もしかして、ボリバス領で…?」

 問いかけた私に、殿下が少し目を丸くする。

「知っているのか」

 ああ、やっぱり。間違いない。

「…私、前世でこれを持っていました」

「何?」

 

 

 箱の中に座っている、金と銀のカエルの置物。

 2匹のうちの小さい方、銀色のカエルを持ち上げそっと撫でる。

 どこか愛嬌のある顔立ち。ひんやりとしたその感触も、とても懐かしい。

 

「確か、15歳の視察の時です。私は従者として殿下と一緒にボリバス領に立ち寄って、細工物の店でこれを見付けました。きっと殿下が喜ぶに違いないと思って、こっそりと買ったんです」

 金と銀の2匹のカエル。包んでもらいながら、何だか殿下と私の髪の色のようだなと思った。

「銀色の方は自分で持っていることにして、この金色の方を殿下に差し上げました。…殿下は、とても喜んで下さって…」

「…そうだったのか」

 殿下も驚いた表情で、箱の中から金色のカエルを取り出した。

 

「…まさか、今世でもこれに出会えるなんて」

 しかも、殿下から贈って下さるなんて。

 嬉しさと懐かしさ、感激で、思わず目が潤んでしまう。

「ありがとうございます。…本当に、本当に嬉しいです」

「喜んでもらえて良かった」

 殿下が優しく微笑む。

 

 

「不思議な偶然だが、これを選んで良かった。婚約者に渡すお土産としてはどうかと思って悩んだんだが、むしろ婚約者にこそふさわしいだろうとスピネルが言ってくれてな」

「そうなんですか?」

 ちょっと首を傾げた私に、殿下が照れた表情になる。

「ほら、これは2匹で1対の、夫婦のカエルだろう。だから…」

 

「…夫婦…」

 私はビシッと硬直した。

 夫婦(めおと)のカエル。

 確かに婚約者にはふさわしいだろうが、前世の私はそれを殿下に片方渡してしまった。

 男同士で。

 

 

「ああああああー…!!」

 思わず両手で顔を覆う。

 どうりで!どうりであれを渡した時、周りの人が何かすごい微妙な顔をしてたはずだよ!!

「申し訳ありません殿下…!!私は何てことを…まさか夫婦のカエルだなんて思わなくて…!!」

 言われてみれば金銀のカエルは大きさが違っていて、それは2匹が夫婦であることを示していたのだ。よく見ると金色の方が凛々しい顔をしているし。

 でも私は、そんな事全然気に留めていなかった。

 

 殿下もこれが夫婦だとは気付いていなかったのか、それとも気付いていて黙って受け取ってくれたのか。

「穴があったら入りたい…!!」

 せめて2匹とも渡せば良かったのに、よりによって二人で分け合ってしまった。

 きっと今の私の顔は真っ赤だろう。さっきまでは感激で目が潤んでいたのに、もはや別の意味で涙目だ。

 

「い、いや、気にしなくて良い。俺だって気にしていなかったと思うし。それにカエルはオスよりメスの方が大きい場合が多いから、これは大きさが逆だ」

「…そ、そう言えばそうですね…」

 殿下は私を慰めてくれているようだ。

「何より、君は心を込めてこれを贈ってくれたんだろう?」

「…はい。ずっと殿下のお側近くに仕えられたらと…そんな思いを込めて、差し上げました…」

「だったら君は、何も間違っていない」

 

 

 …やはり殿下は、お優しい。

 殿下はようやく顔を上げた私に微笑みかけると、手のひらの上の金色のカエルをつまみ、私が持つ銀色のカエルに寄り添うように近付けた。

 2匹のカエルの鼻先がこつんと当たり、何だかおかしくなって「ふふっ」と笑ってしまう。

 

「…ありがとうございます。殿下」

 前世の自分のやらかしは物凄く恥ずかしいが、今世でもこのカエルに会えたのは嬉しい。

 殿下が私と同じ物を見付け、私に贈ろうと考えてくれた事が、とても嬉しい。

 

「これは家宝にして、一生大事にします!!」

 力いっぱいそう言うと、殿下は「ぷっ」と噴き出した。

「…リナーリア。君は、俺の家に入る訳だが」

「はっ…!?そ、そうだった…!!」

「王家の秘宝が一つ増えてしまったな…」

 肩を震わせて笑う殿下に、再び顔が赤くなるのが分かる。

 

 

「…そ、それくらい大事にするという意味です!!」

「うん…ありがとう」

 殿下はまだ笑っていたが、やがて笑いを収めてじっと私を見た。

 翠の瞳に私が映っているのが分かり、心臓が大きく跳ね上がる。

 伸ばされた手が、そっと頬に触れた。

 

「俺も一生大事にしよう。必ず」

 呟いたその顔がゆっくりと近付いてきて、私はぎゅっと目を瞑った。

 …私の顔色は、まだしばらく赤いままになりそうだ。



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不思議な小箱・1

 コンコンと軽いノックの音が聞こえ、エスメラルドは剣を磨いていた手を止めた。

「入れ」と言うと、ドアから顔を覗かせたのは案の定スピネルだ。

 何故かきょろきょろとして室内を見回している。手に持っているのは、古びた絵本だ。

 

「リナーリアは来てないのか?」

「いや、来ていないが」

「何だ、そうか。あいつを見かけたってメイドが言ってたから、てっきり殿下の所だと思ったんだけどな」

「セナルモントの所じゃないのか?」

 そう答えながら、静かに剣を鞘に収める。

 

「それがリナーリアが探していた絵本か」

「ああ。ナントカ版…200年くらい前のやつだな。やっと見つけたから、渡そうと思ったんだが」

 スピネルが絵本を示して見せる。隅の方は擦り切れているものの、表紙の絵は鮮やかな色を保っていて綺麗なものだ。

 描かれているのは気取ったポーズで帽子を被り、ブーツを履いた猫。エスメラルドもよく知っている童話だ。

 近頃彼女はライオスに現代語を教える傍ら、古い童話について調べるのに夢中らしい。

 ライオスは今の時代では既に失われた童話をいくつも知っていて、それらをまとめて本にしたいのだそうだ。

 

「じゃあ、セナルモントの所に行ってみるかな」

「なら俺も行こう」

 エスメラルドは剣を腰に差すと、椅子から立ち上がった。

 特に用がある訳では無い。単に、彼女の顔が見たいと思っただけである。

 

 

 

 王宮魔術師団を訪ねると、リナーリアの姿はすぐに見つかった。セナルモントの研究室ではなく、入口近くのロビーにいたからだ。

 数人の魔術師達と共にテーブルを囲み、何やら話し合っている。

「リナーリア」

 後ろから声をかけると、彼女はすぐにぱっと振り向いた。

 

「殿下、スピネル。どうしてここに?」

「ほら、これ。探してたやつ、見付かったぞ」

「あっ!ありがとうございます!」

 リナーリアは絵本を受け取ると、ぱらぱらとページを捲った。

「ああ、これです。間違いありません。王宮の図書室で見た覚えがあったんですけど、何故かあそこになかったんですよね…」

 懐かしそうに微笑みながら、猫の絵をそっと撫でる。

 

「わ、しかもこれ、初版じゃないですか。よく見付かりましたね」

 リナーリアは深く感心している。どうやら珍しいもののようだ。

「レグランド兄貴の伝手だ。返すのはいつでも良いってよ」

「本当に顔が広いですね。今度お礼をすると伝えて下さい」

「分かった」

「ずいぶん古い絵本だそうだが、今の物と何か違うのか?」

「はい。今もこのブーツを履いた猫の絵本は出回っているんですが、それとは少し内容が違うんです。ライオスから聞いた話ともまた違っているようなので、比べてみたくて」

「なるほどな」

 

 

 それからエスメラルドは、魔術師達が集まっているテーブルの方を見た。

 そこには精緻な彫刻が施された緑色の小さな箱が載っている。

「あれは、かなり古い時代の魔導具みたいなんです。詳しくはまだ分かっていませんが、恐らく3000年以上前のものだそうです」

 エスメラルドの視線に気付き、リナーリアが説明してくれた。

 集まっていた魔術師の一人が補足する。

「彫り込まれた文字を解読した所、記憶に関する魔導具だという事は分かったのですが、発動させる方法が全くわからないのです」

 

「記憶に関する魔導具…?」

「はい。動かすにはかなり多量の魔力が必要みたいなので私も協力していたんですが、やっぱり発動しないんですよね。何が足りないのか…」

 困ったように言うリナーリアに、エスメラルドは少し眉を寄せた。

 何だろう。何か分からないが、あの小箱に不思議なものを感じる。

 

 

「少し見せてもらっても良いか?」

 尋ねると、リーダーらしい魔術師が「はい、構いません」と答えた。こんな場所で皆で囲んでいるくらいだし、特に危険なものではないのだろう。

 リナーリアが「よいしょ」と言いながら箱を持ち上げ、手渡してくれる。見た目よりもずっしりと重い。

 掘られている模様は、よく見ると文字になっているようだ。エスメラルドには読むことができないが、奇妙な印象を受ける形をしている。

 

 すると、横から覗き込んだスピネルが小さく首を傾げた。

「何かそれ、前のとこ光ってないか?」

「どこだ?」

 目を凝らしたエスメラルドは、確かに光っている部分がある事に気が付いた。箱の前面部分、彫り込まれた模様の隙間がわずかに光っている。

 

「どこですか?」

 リナーリアもまた箱を覗き込んでくる。

「ここだ」

「ここだよ」

 スピネルと同時にそこに触れた瞬間。

 目の前を光が塗り潰した。

 

 

 

 

「…ここは…?」

 瞼を開くと、あたりの景色が一変していた。

 前後左右に並んでいるのは、ずらりと大量の本を収めた大きな本棚だ。部屋は少し薄暗く、空気はひんやりとしている。

「どうなってんだ、こりゃ」

 隣のスピネルも、眉を寄せながら周囲を見回している。だが他の者の姿は見当たらない。リナーリアも、魔術師達も。

 この本棚の間にいるのは、エスメラルドとスピネルの二人だけだ。

 

「見たところ、王宮の図書室っぽいが…」

「ああ、そういえば」

 道理で見覚えがあるはずだ。封印区画にある禁書庫ではなく、自由に閲覧できる書物が置かれている図書室の方である。

 エスメラルドもたまに足を運ぶことがある場所だが、どことなく違和感がある気がする。

 

 しかしそれよりも、今のこの状況が問題だ。

「転移したのか…?」

 そう呟きつつも首を傾げる。あそこには転移魔法陣などなかったし、転移した時特有の浮遊感も感じなかった。

「あの箱の力か?…って、箱どこ行った?」

「…分からん」

 思わず自分の両手を見つめる。気が付いた時には何も持っていなかった。

 

 

「どうにも妙だが、とりあえず王宮魔術師団の所に戻ろうぜ。あっちでも驚いてるはずだ」

「そうだな」

 いきなり二人が姿を消したのだから、きっと大騒ぎしているだろう。リナーリアも心配しているに違いない。

 エスメラルドはうなずき、本棚の間を歩き出した。そして角を曲がって図書室のカウンターが見えた所で、慌てて本棚の後ろに身を隠す。

 

「どうした?」

「シッ!何か妙だ」

 口の前で人差し指を立て小声で言うと、スピネルはすぐに表情を引き締めた。

 息を潜めて腰を低くし、そっと顔を覗かせて前方を確認する。

 

「…?司書のおっさんじゃねえか。一体何だってんだよ?」

 確かに、そこに座っている人物はエスメラルドも顔を知っている司書だ。名前はマーカスと言ったか。

「いや、おかしい。絶対に変だ」

 自分が知っているマーカスと、あそこにいるマーカスには明らかに違っている部分がある。エスメラルドは、重々しくそれを指摘した。

 

「髪が多すぎる」

 

 

「……。そう言えば、フサフサしてるな」

 微妙な沈黙の後、スピネルも同意した。

 マーカスは元々白髪交じりの黒髪をしていたのだが、ここ数年ほどでかなり生え際が後退した。よく晴れた日などは眩しいほどだ。

 しかしカウンターの上で何かの書類にかりかりとペンを走らせているマーカスの頭には、しっかりと髪が残っている。

 

「かつら…って訳でもなさそうだな。顔もなんか、若い気が」

「一体どういう事だ…?」

 よく似た別人かとも思ったが、それにしてはそっくりすぎる。本人が若返ったかのようにしか見えない。

 思わず二人で顔を見合わせた時、小さなノックの音が聞こえた。誰かがこの図書室に来たらしい。

 慌てて頭を引っ込めた直後、静かに扉が開いた。

 

 

「こんにちは、マーカスさん」

 少年の声だ。高い、どこか生真面目そうな印象を受ける声。

「やあ、こんにちは。また読書かい?」

「はい。今日は夕方まで時間があるので。…これ、ありがとうございました」

「おや、もう読んだのかい。相変わらず早いね」

「とても面白かったので、あっという間に読んでしまいました」

 

 少年はマーカスと親しげに会話を交わしている。

 ずいぶん慣れている様子だが、一体誰だろう。妙に気になる。

「しばらくここにいるつもりなら、ちょっと留守番を頼んでも良いかな。この書類を届けに行きたいんだ」

「はい、大丈夫です」

 少年はやはり生真面目な声で答えた。

「それじゃあ、よろしく頼むよ。リナライト君」

 

「…!?」

 

 その名前に、エスメラルドは思わず顔を上げた。それは以前、彼女から聞いた名前だ。

 驚いているエスメラルドに、スピネルが怪訝な顔をする。

 

 

 マーカスは数枚の書類を手に図書室を出て行った。

 少年はごそごそと棚から本を取り出し、カウンターの横にある机の前に座ったようだ。

 利用者用の読書スペースである。

 エスメラルドとスピネルは無言で目配せをし、本棚の陰からそっと様子を窺った。

 

 大きな椅子に腰掛けて分厚い本に目を落とす、10歳くらいの小さな少年。

 青銀の髪をかき上げる横顔を見て、呆然と呟いた。

「リナーリア…」



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不思議な小箱・2

「確かに似てるな、あの子供…えーと、リナライトだったか?」

 本を読む少年の姿を見つめ、スピネルが呟く。

「それは、リナーリアの前世…俺の従者だった時の名前だ。以前そう聞いた」

「え」

 スピネルはぽかんと口を開けた。

 

「前世?あれが?なんでそれがこんな所にいるんだ?」

「やって来たのは多分、俺達の方だ。あの緑色の小箱の力だろう。魔術師はあれを、記憶に関する魔導具だと言っていた」

 

 あれが一体どんな魔導具なのかは知らないが、記憶に関する魔術ならばエスメラルドもスピネルも知っている。

 数年前、視察の途中で立ち寄ったタルノウィッツ領でリナーリアが使った「意識潜行」。対象者の意識の中に入り込み、その記憶を()るという魔術だ。もし、それと似たような効果を持っている箱だったのだとしたら。

 司書のマーカスが若返っているのも、それで説明がつく。

 

「じゃあ俺達は今、あいつの記憶を見てるってのか?」

「見ていると言うより、記憶の世界の中に入っているように感じるな。こうして触れると、きちんと感触があるし…」

 エスメラルドは本棚に手を伸ばし、一冊の本を取り出した。

 しかし、表紙の文字はぼんやりとぼやけていて読めない。ぱらぱらとページを捲ってみるが、中身もやはり同じだ。

 

「開けるけど、読めねえな。…もしかして、あいつがこの本の内容を知らないからか?」

「ふむ。ここが記憶を元に再現された世界だとするなら、知らないものは再現しようがないという事か」

「こんだけ細かく再現できてるだけで凄いけどな。普通に現実に見えるぞ」

 魔導具の力なのか、それともリナーリアの記憶力が人並み外れて良いからなのか。

 

「しかし、参ったな。これ、一体どうやって戻ればいいんだ?」

「そうだな…あの箱は見当たらないし…」

 考え込んだ瞬間、後ろから声をかけられた。

「…あの、そちらで何をされているんですか?」

 

 

 

 振り返ると、大きな青い瞳がこちらを見上げていた。

 ぎょっとして固まったエスメラルドの顔を見て、少年の緊張した表情が驚きに変わる。

「…で、殿下そっくり…?」

 

「すげえな、近くで見ると本当にあいつの小さい頃そっくりだ」

 感心したような声を上げるスピネルの隣で、エスメラルドは思わず口元を抑える。

「これは…可愛いな…!」

 出会ったばかりの頃の彼女もとても可愛らしかったと記憶しているが、こうして大人の目線で見下ろすとまた違って見えた。

 小さくて華奢で、天使のように愛らしいとはこの事かと真剣に思う。

 

 だが、それを聞いたリナライトはビクッと怯えた表情になった。

「あの、どちらさまですか?何のご用でここにいるんですか?」

 青い目には警戒の色がはっきりと浮かんでいる。エスメラルドはおろおろした。

「ど、どうしよう、スピネル」

「いや、ちょっと落ち着けよ。…えーと、お前はリナライト…だよな?」

「あ、はい、そうです」

 スピネルに話しかけられ、リナライトは少し慌てたように姿勢を正した。

 

「申し遅れました、僕はリナライト・ジャローシス、エスメラルド殿下の従者をしております。この図書室に、何かご用でしょうか」

 背筋をピンと伸ばし、生真面目な口調で彼は名乗った。マーカスに頼まれた留守番をきちんと努めようとしているのだろう。

 

 

「…可愛い…!」

 思わず呟くと、またリナライトがビクッとした。

「それはもう分かったから、口に出すのをやめろ!こいつ怯えてんじゃねーか!」

「すまん、つい…」

 スピネルに突っ込まれ、エスメラルドは反省した。

 リナライトは完全にこちらを警戒している。どうやら不審者だと思っているようだ。

 それでも目を逸らそうとしない所はいかにもリナーリアらしいと、そこがまた可愛く思えてしまうのだが、今はそんな事を言っている場合ではない。

 

「おい、どうする?」

 スピネルが声を潜めつつ尋ねてきて、エスメラルドは少し考え込んだ。

「…ここがリナーリアの記憶の中ならば、この世界の中心は彼だろう」

 ちらりと遥か下にある少年の顔を見る。

「元の世界に戻る鍵は、きっと彼だと思う」

 

「じゃあ、ちゃんと名乗って事情を話した方がいいんじゃないか?こいつなら、殿下が頼めば協力してくれるだろ」

「そうだな。まずは聞いてみよう」

 二人でうなずき合い、リナライトへと向き直る。

 

 

「リナライト。信じられないかもしれないが、俺はエスメラルドだ」

「……は?」

 彼の表情が一瞬で険しくなった。

「確かに似ていらっしゃいますが、殿下は僕と同い年です。あなたのように大きくはありません」

「本当なんだ。俺達は…あー…」

 このリナライトはきっと、魔導具によって作り出された仮初の存在だ。しかし本人にその事を告げて良いものなのだろうか?混乱してしまうのではないだろうか?

 

「…不思議な魔導具の力で、今よりももっと未来の世界からやって来たみたいなんだ」

 エスメラルドは迷った末に、とりあえずそう説明した。

 

「そんな魔導具、聞いた事ありません」

「王宮魔術師は古代の魔導具だって言ってた。まだ使い方が分かってないらしくて調べていたんだが、俺達はたまたまそこに居合わせて、魔導具の力に巻き込まれたんだ」

 スピネルが説明し、リナライトは眉を寄せる。

「あの、あなたは?」

「俺はスピネルだ。スピネル・ブーランジェ。殿下とは友達だ」

 

「…ブーランジェ家の?」

 リナライトは目を丸くし、スピネルを見上げる。

「その髪の色は、確かにそっくりですけど」

「ああ、会ったことあったか?悪いな、昔のことで覚えてない」

 スピネルは適当にごまかし、リナライトはむむっと唇を曲げた。それから、もう一度エスメラルドの方を見る。

 

 

「…本当に殿下だと言うなら、僕の質問に答えて下さい」

「分かった」

 どうやら試すつもりらしい。彼のことはよく知らないので少し不安になるが、エスメラルドは真面目な顔でうなずいた。

 

「ジャローシス領にいる固有種のカエル。その名前を知っていますか?」

 それならばもちろん知っている。とても思い出深いカエルだ。

「ミナミアカシアガエルだろう。体長は約2センチ。鮮やかな黄色に黒い斑模様が入っている」

「!?」

 まさか即答するとは思わなかったのだろう、リナライトは驚愕した顔になった。

 

「…で、では、僕と殿下が初めて会った時に見たカエルを覚えていますか」

 これにも即答する。

「クロツメアマガエル。…君は、それをうっかり踏みつけそうになっていた」

「……!!」

 

 

 リナライトは信じられないという顔でしばし言葉を失い、それから突然ガバッと頭を下げた。

「…も、申し訳ありません!!まさか本当に殿下だとは思わなくて…!!」

「いや、いい。すぐに信じられないのは当然だ」

 必死に謝る彼に、罪悪感でちくちく胸が痛む。

 本当は彼と初めて会った時の記憶などない。リナーリアから聞いて知っているだけなのだ。

 

「俺達は元の世界に戻りたいんだが、方法が分からないんだ。すまないが、協力してくれないだろうか」

 そう頼むと、彼は大きくうなずいた。

「わ、分かりました!頑張ります!」

 真面目そのものの表情で意気込む姿は、やはりリナーリアにそっくりだ。昔からこういう性格だったんだなと微笑ましくなる。

 

「で、お前は分かるか?戻る方法」

 スピネルが尋ねると、彼は眉を寄せ考え込んだ。

「…そんな魔導具、本当に聞いた事ないです。でも、それを使った時の事をもうちょっと詳しく聞かせて下さい。何か分かるかも…」

 だがその時、がちゃっと図書室の扉が開いた。マーカスが戻ってきたのだ。

 

「リナライト君、留守番ありがとう。…おや、そちらの方々は?」

 エスメラルド達の姿に気付いたマーカスが少し目を丸くし、すぐにスピネルが答えた。

「すまない、俺達は城には不慣れで、道に迷って入ってきてしまったんだ。彼が道案内をしてくれるそうだから、もう出ていくよ」

「マーカスさん、失礼します」

 礼儀正しくぺこりと頭を下げたリナライトに、マーカスが微笑む。

「ああ、またおいで」



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不思議な小箱・3

「えっと…あんまり人目につかない方がいいですよね?」

 3人で図書室から出ると、リナライトがこちらを見上げながら言った。

「そうだな。どこかゆっくり話せる所はあるだろうか」

「じゃあ、僕の部屋に行きましょう」

「分かった」

 

 

 廊下を歩きながら、スピネルが尋ねる。

「そういや、ここの世界の殿下…小さい殿下は何してるんだ?」

「国王陛下のお見舞いです。最近お風邪を召されていたんですが、もう大分落ち着いたそうなので」

「ああ、なるほど」

 父は季節の変わり目によく風邪を引く。うつっては困るので熱がある間は見舞いに行けず、症状が落ち着いた頃に行くのが常だ。

 

「だから僕、時間が空いたので図書室に来た所だったんです」

 そう言いながら、リナライトはちらちらとエスメラルドやスピネルを見上げている。何かが気になるらしい。

「どうかしたか?」

「あっ、いえ、凄く大きいなと思って…。殿下、いっぱい背が伸びるんですね」

 

「俺の方が大きいけどな」

 隣で胸を張るスピネルを、エスメラルドは横目で少しだけ睨む。

「もうすぐ追いつくぞ」

「無理だろ。殿下だってもうほぼ成長止まってんだろが」

「無理ではない。きっとまだ伸びる」

 

 

 軽く言い合っていると、リナライトがびっくりしたように目を丸くしている事に気が付いた。

「仲、良いんですね」

「言ったろ、殿下とは友達だって。あと、お前とも友達だぞ、俺は」

「僕もですか!?」

「おう」

「そ、そうなんですか…」

 ちょっと嬉しそうにリナライトはもじもじした。それから「あっ」と何かに気付いたように顔を上げる。

「あの、僕の身長はどうですか?お二人と同じくらい伸びますか?」

 

 期待に満ちたその表情に、エスメラルドとスピネルは無言で顔を見合わせた。何とか言葉を探す。

「あー…俺たちよりは…少し、小さいな…」

「…やっぱり、そうですか…」

 彼はしょぼんと肩を下げた。

 

「君は今いくつだ?」

「10歳です」

「ふむ」

 10歳にしては少し小柄な気がする。食が細いのは前世でも同じらしい。

 その身体つきを見る限り、彼が大きく逞しくなる姿はあまり想像できなかった。今のリナーリアの姿を知っているせいかもしれないが。

 リナーリアがやけに筋肉にこだわっていたのは、もしやこの辺りが原因だったのだろうかと思う。

 

 

「背が伸びないからと言ってがっかりする必要はない。君はとても美…もとい、強くて賢くなる。俺の事を何度も助け、支えてくれた」

 励ますように言うと、彼はぱっと顔を上気させた。

「本当ですか!?僕、未来でちゃんと殿下のお役に立ててますか!?」

「もちろん。この先もずっと、お互いに支え合う事になるだろう」

 

「嬉しいです…!」

 彼はにこにこと笑顔を浮かべた。可愛い。スピネルもこれには微笑ましげな顔になる。

「あいつらしいな」

「ああ…本当に可愛い…」

「だからそれやめろって。いくら殿下でも、犯罪者一歩手前だぞ」

「誰が犯罪者だ!自分の婚約者の昔の姿だぞ、可愛いに決まっている!」

 ついむきになって反論すると、リナライトがぽかんと口を開けた。

「こんやくしゃ…?」

 

 

「あ、いや、違」

 慌てたエスメラルドが否定するよりも早く、リナライトは思い切りスピネルの脛を蹴りつけた。

「痛っっって!!!」

 情け容赦のないその一撃に、スピネルが悲鳴を上げる。

 

「お前だな!!殿下に変なこと吹き込んだの!!」

「違うっつの!!いきなり蹴る奴があるか!!」

「殿下がそんなおかしな事言うはずない!お前が犯人に決まってる!!」

「何で俺って決めつけんだよ!?」

「だって何かいやらしそうな顔してる!!」

「今まで聞いた中でも一二を争う暴言だな!!!!」

 

 スピネルは本気で痛かったらしく、脛を押さえつつちょっと涙目だ。リナライトの方は完全に臨戦態勢で、魔力を集中させ始めている。これはまずい。

「待て、落ち着け!すまない、俺が少し言い間違えただけだ。婚約者ではなく、従者だった」

 急いで割り込んだエスメラルドに、リナライトが目を吊り上げる。

「どんな間違いですか!本当はこいつに変な事そそのかされてるんでしょう!正直に言ってください!」

「違う、本当に間違えたんだ。…スピネルは、俺の大事な親友だ。信じてくれないか」

 

「……」

 彼は不満げにむぅっと唇を尖らせたが、黙って目を見つめ続けると、一応は矛を収める気になってくれたようだ。練り上げかけた魔力を霧散させ、スピネルの方を振り返る。

「…でも、もし殿下に変な事教えたら絶対許しませんので。覚えておいてください」

「お前なあ…」

 スピネルは完全に呆れ顔である。

 

「あいつ、すぐ突っかかってくる面倒な奴だと思ってたが、この頃に比べりゃまだ丸くなってたんだな…マジで痛かったぞ」

 スピネルはエスメラルドにだけ聞こえるようにぼそっと呟いた。

「…うむ…」

 リナーリアは昔まるで友達がいなかったという話を思い出す。

 学院ではカーネリアやスフェンを始め友好関係を広げているから、どうもあまりそんな気はしなかったのだが、今の様子を見てやっと分かった。かつての彼女は、もっと過激な性格だったらしい。

 

 

 

 再び歩き出しながら、エスメラルドはリナライトに話しかけた。

「実は、俺の婚約者が君に少し似ているんだ。だから君を見ているとつい、彼女を思い出してしまってな」

「えっ!殿下、ご婚約されたんですか!お相手はどなたですか!?…あっ、僕に似てるって事は、母上の親戚とか…!?」

「あー…それは…」

 どう誤魔化そうかと悩んでいると、リナライトはハッとした顔になった。

「あ、そうか、未来の事は軽々しく教えられないんですね?そう物語の本で読みました!」

「うむ、まあ、そんな所だ」

 

 スピネルが隣でにやにやと笑う。

「さっきから可愛いとか言ってるのはその婚約者のせいだ。どうせ、子供が出来たらこんな感じかーとか思ったんだろ?」

「…ま、まあな…」

 まだ一年以上先とはいえ、早くも結婚式の準備が始められようとしている今、彼女にそっくりの少年の姿というのは色々と考えるものがある。リナーリア似の男の子というのも良いなだとか。

 

「そういう事だったんですね」

 リナライトは明らかにほっとした様子だ。思った以上に不審がられていた事にちょっと傷付く。

「あの…さっきは蹴ってすみませんでした」

「まあ、分かったんならいいけどよ」

 きちんと頭を下げて謝る彼に、スピネルは苦笑した。

 

「いつかお会いするのが楽しみです!殿下の婚約者!」

「…うむ」

 無邪気そのものの笑顔に、エスメラルドは何とも言えない顔でうなずいた。

 

 

 

 そうこう言っている間に、彼の部屋に着いたようだ。スピネルの部屋と同じ場所である。

 中に入ると、大きな本棚が目に付いた。分厚い本がたくさん並んでいる。

「へえ…」とスピネルが感心したように見回す。自分の部屋とは随分印象が違うからだろう。

 

「たくさん勉強しているんだな」

「はい!立派な従者になって、殿下をお支えしたいので!」

「そうか。ありがとう」

 手を伸ばして頭を撫でると、彼は少し驚いた顔をした。「えへへ」とくすぐったそうに照れ笑いをする。

 

「殿下に頭を撫でられるの、なんか不思議な感じです」

「俺もだ」

 まさかこんな風に彼女の頭を撫でる日が来るとは。いや、正確には彼女自身ではないのだが。

 ふわふわと柔らかく触り心地の良い髪だ。そう言えば、彼女の髪にはほとんど触れた事がない。

 触れてみたいとはずっと思っているのだが、青銀の髪はきらきらと綺麗で、何だか気が引けてしまうのだ。

 

 その点スピネルは、時々からかい混じりで気安く彼女の頭を撫でている。

 妹がいるからそういう行動に慣れているのだろうと思うが、少しだけ恨めしくなってしまう。

「…何で睨むんだよ?」

「何でもない」

 無事に帰ったら、彼女に髪を触らせてくれと頼んでみようと、エスメラルドはひっそり決意した。



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不思議な小箱・4

「…という訳で、光に呑まれて気が付いたらあの図書室にいたんだ」

「でも、転移したって感じじゃなかったな。魔法陣なんて見えなかったし」

 エスメラルドとスピネルは、この世界に来た時の状況を語った。

 リナライトは真剣にそれを聞き、「ううーん…」と難しい表情で首を捻る。

 

「その箱の光ってる部分に触ったのが、魔導具を発動させるスイッチになったんでしょうね。二人で触ったから、二人同時に魔導具に巻き込まれた。そこに書かれていたっていう文字の意味が分かれば、戻る方法も分かるかも…」

「…すまない、見た事もない文字だったから意味は全く分からない。どんな形だったかもうろ覚えだ」

 自分はリナーリアほど記憶力が良くないので、ちらりと見ただけの模様など覚えてはいない。

 スピネルも同じなのだろう、両手を上げて肩をすくめる。

 

 

「じゃあやっぱり、帰る方法は前後の状況から推測するしかないですね…」

「推測とか、お前難しい言葉知ってんなあ」

 スピネルが横から口を挟む。確かに、10歳とは思えない語彙だ。

「いっぱい本を読んでますから!」

 リナライトは得意げに胸を張った。それから、ちょっと恥ずかしそうにごほんと咳払いをする。

 

「えっと、それでですね。そういう魔導具って、目的を果たせば動きを止めるはずなんです。スイッチを押す時、何か目的になりそうな事を考えていませんでしたか?」

「特に、何も」

「変わった箱だなとか、そんな事くらいしか考えてなかったと思うぞ」

 

「うーん…じゃあ、お二人の前に触った人は?」

「そりゃお前だが。お前が何考えてたかなんて分からねえよ」

「あっ、そうか、僕が殿下に箱を手渡したんでしたっけ」

「そうだ。それに、箱に魔力を込めたのも君だったはずだ」

「ええっ…でも、未来の僕が何を考えてたかなんて、僕にだって分かりません」

 リナライトの言う事は最もだった。リナーリアは彼にとっては見知らぬ未来の存在で、その記憶などないのだし。

 

「記憶…記憶か…」

 ここがリナーリアの記憶を元にした世界なのは間違いない。何しろ、あの場にいた者で「リナライト」の姿を知っているのはリナーリア本人しかいないのだから。

 だが、その記憶はあまり他人に見られたいものではないはずだ。

 彼女が生まれ変わっているという事実を知っているのは、自分たちを含めたごく僅かな者だけ。記憶を覗かれれば、他者にその秘密がばれてしまうかもしれない。

 つまりこの状況は、彼女が望んで作り出したものではない。

 

「たまたまあの瞬間だけ、発動する条件が整ってしまった…だから予想外の目的が設定されてしまった…?」

 ただの勘だが、きっとそうに違いないと確信する。

 鍵はやはり、彼女の記憶だ。

 

「…あの時、君は何を思い出していたんだ…?」

 思わず呟きながらリナライトを見下ろすと、彼はとても困った顔になった。

 

 

「…いや、待てよ?」

 スピネルが首を傾げる。

「だったらその目的ってのは、あの図書室にある物なんじゃないのか?目的から離れた場所に出てきたってしょうがねえだろ」

「あっ、なるほど。そういう事か」

 リナライトがぽんと手を叩く。

「その時の僕って、何か図書室に関する話とかしてませんでしたか?」

 

 エスメラルドとスピネルは顔を見合わせると、同時に叫んだ。

「…ブーツを履いた猫の絵本だ!!」

 

 

 

 それから15分ほど後、「図書室で探して来ます」と言ったリナライトが部屋に戻ってきた。

 ぞろぞろと3人でまたあそこに向かえばマーカスに不審がられるだろうし、とりあえず彼に絵本を持ってきてもらう事にしたのだ。

 

「ありましたよ、これの事ですよね?」

「ああ、間違いない」

 ブーツを履いた猫の絵本。スピネルが持ってきたのと同じものだ。

「どこかの貴族が10年くらい前に寄付してくれたものだと、以前マーカスさんが言ってたと思います」

「そうなのか」

 理由は分からないが、今世では寄付されなかったのかもしれない。だから、あの図書室にはなかった。

 

 本を受け取り、ぱらぱらとページを捲ってみる。綺麗な挿絵だ。

「…特に何も起こらないな」

 きっとこの絵本が関係していると思うのだが、触れただけで帰れるほど簡単ではないらしい。

「そもそも、未来の僕は何故これの話をしていたんですか?」

 尋ねるリナライトに、スピネルが答える。

「未来のお前は、この絵本を見たがってたんだよ。でも図書室にはなかったから、俺が兄貴の伝手で探して借りてきた所だったんだ」

 

「僕がこれを…」

 リナライトは何故か、探るようにエスメラルドの方を見た。

「どうした?」

「いえ、あの…。…殿下、この絵本の事、覚えてませんか?」

 

 覚えていない。いや、知らない。

 今のエスメラルドは、彼の主だったエスメラルドではないからだ。

 

 

「……。すまない」

 そう答えると、彼はとてもがっかりした顔をした。

 きっと何か、大切な思い出があったのだろう。

 

「本当にすまない…」

「あっ、いえ!そうですよね。子供の頃の事なんて、覚えてないですよね」

 彼は笑って首を振ったが、やはりどこか悲しそうだ。

 胸の痛みを覚え、エスメラルドは「良かったら、話して聞かせてくれないか?」と言った。

 

「君との思い出を俺も知りたい。いや、思い出したいんだ」

「…分かりました」

 リナライトは、遠慮がちにうなずいた。




このエピソードは次話で終わります!


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不思議な小箱・5

「この絵本を殿下と一緒に読んだのは、僕が城に来てからまだそんなに経ってなかった頃です。本を読むのが好きだと言ったら、あの図書室に連れて行ってくれて…。僕の方が字を読むのが上手かったので、声に出して読み上げて、殿下に聞かせました」

 懐かしそうに、リナライトは語り始めた。

 

「このお話は、粉挽き職人の父親が死に、息子の三兄弟が遺産を分ける所から始まります」

「ああ」

 童話のあらすじを頭の中に思い浮かべる。

 

 父親の遺産は少なく、長男は粉挽き小屋、次男はロバを貰えたが、三男は猫しか貰えなかった。

 三男はがっかりして猫を食べてしまおうか迷うが、思いとどまる。

 すると猫は「私に立派なブーツと袋をください。そうしたら、あなたが貰ったのは素晴らしいものだったと分かります」と言い、三男はその通りにする。

 そうしてブーツを履いた猫は知恵を働かせて王様と親しくなり、悪い魔法使いを倒して大きな城をも手に入れる。最後はお姫様と三男を結婚させて、ハッピーエンドだ。

 

「…殿下は『この猫は偉いな』と言いました。『知恵だけで貧しい三男を見事に出世させてすごい』と。僕は『本当に偉いのは三男です』と答えました。だって猫が三男のために知恵を使ったのは、最初に三男が猫の言葉を信じ、ブーツを与えてくれたからです。殿下は、『なるほど』ととても感心して下さいました」

 絵本を前に語り合う幼い二人。その光景が、目に浮かぶような気がする。

 

「それで殿下と約束しました。この童話の三男と猫みたいになろうって。…殿下はどんな時も必ず、僕のことを信じる。そして僕はたくさん勉強して賢くなって、殿下のために知恵を使う…って」

「そうか…」

 道理でさっき、エスメラルドが覚えていないと聞いてがっかりしていた訳だ。

 彼はその約束をとても大事に思っている。…生まれ変わっても、決して忘れないほどに。

 

 

 エスメラルドはその場にしゃがみ込むと、リナライトの青い目を覗き込んだ。

「教えてくれてありがとう。君に誓おう。俺はもう二度と、その約束を忘れない」

「はい…!!」

 彼はとても嬉しそうに笑った。

 …その瞬間、背後で何かが眩しく光る。

 

「おい、あれ…!」

 スピネルが指差す。光の中に浮かんでいるのは、間違いなくあの緑の小箱だ。

「もしかして、あれが出口か…?」

 もう一度リナライトの顔を見るが、目を丸くして驚いている。彼にもよく分かっていないらしい。

 

「じゃあ、今ので目的を達成したって事か?」

 スピネルは少し考え込み、「なるほどな…」と呟いた。

「どういう事だ?」

「多分あいつは、さっきの約束を殿下に思い出して欲しかったんだよ。別にそのつもりで魔導具を使った訳じゃないんだろうが、あの箱を殿下に渡した時、頭ん中でその事を考えてたんじゃないか?」

 

 …言われてみれば心当たりがある。

 あの絵本を手に取った彼女は、とても懐かしそうで…そして、どこか寂しそうでもあった。

 あれはきっと、失われてしまった前世での約束に思いを馳せていたのだろう。その気持ちが、魔導具に触れた時に目的として設定されてしまったのか。

 

「すみません…なんか、僕のせいだったんですね…」

 原因が自分だと察したリナライトは申し訳なさそうにしている。

 だからエスメラルドは、笑って首を振った。

「いいや、俺はむしろこの世界に来られて感謝している。君に会えて本当に良かった」

「殿下…、ありがとうございます」

 

 

「じゃあ、そろそろ帰ろうぜ。出口がいつまで開いてるか分かんねえし」

「ああ、そうだな」

 とても名残惜しいが、元の世界に帰らなければ。彼女が待っているのだから。

 

「リナライト、本当にありがとう」

「助かった。なかなか楽しかったぜ」

 スピネルと二人で礼を言うと、彼はぺこりと頭を下げた。

「はい。…殿下、スピネルさん。お元気で」

 

 

 その笑顔は寂しそうで、エスメラルドは手を伸ばして彼の頭を撫でた。少し迷いつつも、意を決して口を開く。

「…リナライト。君はこれから、とても辛く、苦しい経験をするだろう」

「え?」

 リナライトがきょとんとしてこちらを見返す。

 

 …分かっている。これは記憶を元に作られた世界であって、過去の世界ではない。彼は記憶が作り出した仮初の存在で、現実ではない。

 ここで何かを伝えても、彼の辿る運命は変わらない。彼の主は命を落とし、彼もまた生死を彷徨う。それは既に起こってしまった事だからだ。

 頭ではそう分かっていても、伝えずにはいられない。

 

「だけど、怖がらなくていい。君ならば大丈夫だ。君は必ず、皆が幸せになれる未来を掴み取れる。俺はそれを信じている」

 

 リナライトは不思議そうにぱちぱちと目を瞬かせた。

 だがすぐに真剣な顔になり、力強くうなずく。

「…分かりました!僕、頑張ります。殿下が信じてくださるなら、どんなに辛くても絶対に諦めません!!」

「うむ。その意気だ」

 もう一度頭を撫でると、えへへ、と彼は照れたように笑った。

 

 

 光の中の小箱に向かい、ゆっくりと近付く。

 スピネルがリナライトに向かい、片手を上げた。

「じゃあな!頑張れよ!」

「はい!あなたも、殿下に迷惑をかけないようにして下さいね!」

「本当一言多いな!」

 

 エスメラルドも、リナライトを振り返って手を振る。

「元気でな」

「はい!大きい殿下にまた会えるの、楽しみにしてます!」

「…ああ!未来で会おう…!」

 

 スピネルとうなずき合い、二人同時に小箱に手を触れると、あっという間に目の前が光に包まれた。

 

 

 

 

「……殿下!!スピネル!!」

「リナーリア…?」

 

 聞き慣れた声。長い青銀の髪。

 こちらを心配そうに見つめているのは、いつもの彼女だ。

 手の中には、あの小箱のずっしりとした感触がある。

「…現実に戻ってきたのか?」

「そうらしいな…」

 隣を見ると、スピネルも夢から覚めたかのような顔をしている。

 

「一体どうなさったんですか?箱がピカッと光ったかと思ったら、急に二人共ぼーっとしだして、びっくりしました」

「ぼーっとしていた?どのくらいの時間だ?」

「まだ1分も経っていませんが…」

 あちらの世界には一時間以上滞在していたと思うが、こちらではほんの僅かしか経っていなかったらしい。

 

「…どうやら俺とスピネルは、この小箱が作った世界の中に行っていたようだ」

「え!?」

「ああ。昔のお前に会ってきたぞ」

「ええっ!??」

 

「ど、どういう事ですか!?」

 彼女と共に、色めき立った魔術師達が集まってくる。スピネルがどうどうとそれを宥めた。

「待て、待て。ちゃんと順序立てて話すから、ちょっと待て」

 

 

「昔の私に会った…?それって…」

 困惑する彼女に、エスメラルドはうなずく。

「ああ。…君は、その、と、とても可愛かった…」

「いや、何で本人相手になると急に恥ずかしがるんだよ」

「う、うるさい!」

 吹き出したスピネルを横目で睨みつける。

 

「…それとだな。俺はリナーリアに、ブーツをプレゼントする必要があると分かった」

「え?ブーツ?」

 大きな青い目を見開いてきょとんとする表情は、やはり彼とそっくりだ。

「そこはガラスの靴にでもしとけよ」と、スピネルがおかしそうに笑う。

「そうだな、じゃあ、ガラスの靴を。ブーツはスピネルにやる事にしよう」

 笑いながらそう言うと、リナーリアはますます訳が分からないという顔をした。

 

「後でゆっくり話そう。…君の思い出話を」

 失われた思い出の話。聞きたいことは、きっとまだまだたくさんある。



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すっとこどっこいの騎士(前)

今回は後日談ではなく、子供時代~秘宝事件直後あたりのエピソードになります。


 ヴォルツ・ベルトランはジャローシス侯爵家に仕える騎士である。

 元々ヴォルツの家はとある伯爵家に代々仕えていて、そこの騎士団の中でもそれなりの地位にあったのだが、祖父が同僚との間に起こした揉め事が原因で放逐されてしまった。

 それから間もなく祖父は病死したが、父母とヴォルツは行き場を失い困っていた。父もまた腕に覚えのある騎士だったが、問題を起こし放逐された者の息子であるために、なかなか再士官先が見つからなかった。

 そこを拾ってくれたのが、ジャローシス家だったのだ。

 

 ジャローシス家は温厚でのんびりとした家風で、その使用人や騎士たちも温和な人間が多かった。

 厳格で何かあるとすぐに殴りつけてくる祖父に育てられたヴォルツは、そんなジャローシス家の雰囲気に初めのうちかなり戸惑ったのだが、すぐに気が付いた。

 ここの人たちは、前にいたあの伯爵家の人たちよりずっと、生き生きと明るい表情をして働いている。

 それはこの穏やかな家風のおかげなのだ。

 

 やつれて暗い顔をしていた父や母も、ジャローシス領に来て働くようになってからはすっかり顔色が良くなり、以前よりもずっと多く笑うようになった。

 この家に拾われた事はとても幸運なのだと、ヴォルツは理解した。

 そしてこの恩を返すために、生涯ジャローシス家に忠誠を捧げようと誓った。祖父から教わった槍術を磨き、立派な騎士となるのだ。

 ヴォルツは祖父に対しては複雑な感情があったが、先祖代々伝わる槍術には誇りを持っていた。

 

 

 まだ幼いが他の子供に比べ体格の良かったヴォルツは、いくつか年上の見習い騎士の少年たちの稽古に参加する事を許された。

 熱心に修業に打ち込んでいたある日、ジャローシス家の子供たちが稽古の見学にやって来た。次男のティロライトと末娘のリナーリアだ。

 この兄妹はこうして時折顔を見せる。ジャローシス家は支援系魔術が得意な家系であり、騎士の動きを観察するのも勉強の一環なのだそうだ。

 

 ティロライトは兄妹の中でも一番気さくで、同い年であるためかヴォルツにもたびたび親しく声をかけてくれている。明るい性格の少年だ。

 そしてリナーリアはヴォルツよりも2歳下。青銀の髪をした美しくおとなしそうな少女で、今まで挨拶くらいしか交わした事がない。

 少女はどうやら人見知りな質のようだったし、祖父に厳しく躾けられて育ったヴォルツは自分の感情を表に出すのが苦手だった。

 この小さな少女からすると、自分のような無愛想な人間はきっと怖いだろうと、ヴォルツは思っていた。

 

 

 稽古では1対1での練習試合が行われる事になった。

 ヴォルツは槍ではなく剣を手に取った。試合となるとリーチの長い槍が有利となり不公平だからだ。

 それに槍は持ち込める場所が限られているので、槍使いだろうと剣術もある程度修めておく必要がある。この国に槍使いが少ないのは、その辺も理由の一つだ。

 

 相手はヴォルツより3つ年上の少年だった。

 年上を相手にヴォルツはなかなかに奮闘したのだが、途中で足を滑らせて相手の剣を避けそこね、怪我を負ってしまった。

 練習用の木剣なのでそれほど深い傷ではなかったが、運悪く剣先が眉のあたりをかすめていた。

 頭部の怪我というものはとにかく血が沢山出る。一瞬にしてヴォルツの顔面は血に染まった。

 

 ぼたぼたと零れる真っ赤な血は、まだ10歳にも満たない少女にはあまりにショックが大きい光景だっただろう。

 リナーリアはわんわん泣き出してしまい、付き添っていた使用人のコーネルは真っ青になりながら彼女をその場から離れさせようとした。

 

 ところが、リナーリアはそれを頑なに拒んだ。

 ヴォルツはとても痛いはずだから、今は傍を離れてはいけないのだと言って譲らなかった。

 慌てて飛んできた医術師が治療を終えるまで、リナーリアは傍らに座り込み、泣きながらヴォルツを励ましていた。

 

 

 ヴォルツは大きく衝撃を受けた。

 まずたった一度名乗っただけのヴォルツの名前を覚えていた事に驚いたし、大して親しくもないはずの自分を泣きながら心配してくれた事には、もっと驚いた。

 後でティロライトから聞いたのだが、彼女は記憶力が良く、ここの見習い騎士の少年たちの名前も皆覚えているのだという。

「人見知りだからなかなか自分から話しかけないけどさ、前からヴォルツの事、すごく熱心に稽古してるって褒めてたんだよ」とティロライトは言った。

 

 それ以来、ヴォルツの中でリナーリアは少し特別な存在になった。

 やがてリナーリアは第一王子と出会い、みるみるうちに親しくなっていったが、ヴォルツは素直に二人の仲を応援したいと思った。

 そもそもヴォルツはリナーリアが自分に振り向く事など初めから望んでいない。身分が違う。

 ただ、彼女が幸せであってくれればそれで良いのだ。

 

 

 それから時は流れ、成長したヴォルツは念願叶ってジャローシス家の騎士となった。侯爵から与えられた仕事は、リナーリアの護衛である。

 誰よりも敬愛するお嬢様の護衛に任じられ、ヴォルツは誇らしい気持ちでいっぱいだった。

 リナーリアから学院の卒業祝いにと贈られた万年筆を大切に懐にしまい、実直に、謹厳に任務に当たっていた。

 

 …だが、しかし。

 ある日リナーリアは、王子に会いに行った城の中で姿を消してしまった。



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すっとこどっこいの騎士(後)

「お嬢様、どうか自分に罰をお与え下さい…!」

 ヴォルツはリナーリアの前に跪き、絨毯に頭を擦り付けそうなくらいに頭を低く下げていた。

 

「あの、ヴォルツ。本当にもう良いですから、頭を上げてください。貴方のその忠義はとても嬉しく思いますが、貴方には何の罪もありません」

「いいえ。自分はお嬢様をお守りできませんでした。それが何よりの罪です」

 ヴォルツは下を向いたまま唇を噛みしめる。

 

 実はさっきからもう、この問答を何度も繰り返している。だがヴォルツは引き下がらなかった。

 …お嬢様は心優しいから、こんな自分でも許そうとしてくれる。

 しかしそれに甘えてはいけない。本当に最悪の事態になっていた可能性だってあったのだ。

 

 

 リナーリアは自分たちと別れた直後にフェルグソン一味によって誘拐され、2週間近くも行方が分からなくなっていた。

 厳重に警備され、人の出入りもしっかりと管理されている城の中で人が攫われるなど、誰一人考えもしなかった。

 落ち度があったのは王宮側だとして、城まで同行したヴォルツやコーネルが責められたりはしなかったのだが、それがむしろ辛かった。

 

 あの日、城内の様子は正月休みのためにいつもとは違っていたのだ。衛兵に任せたりせず、傍を離れないようにするべきだったと己を悔やみ、毎晩ろくに眠れなかった。

 リナーリアは今頃、一体どこでどんな風に過ごしているのか。恐ろしい想像が何度も頭をよぎり、必死でそれを振り払った。

 救出され、無事に王都に帰ってきたその瞬間まで、本当に生きた心地がしなかったのだ。

 

 

「…自分は騎士失格です。どうか罰をお与え下さい」

「でも、私はこうして無事に帰ってきた訳ですし…罰など必要ないかと…」

「それでは自分が納得できません!!」

 

 リナーリアは明るく振る舞っているが、その白い手には魔術を使うために自ら切りつけたという傷が残っているし、元々ほっそりとしている身体はますます痩せてしまった。

 その痛ましい姿に、罪悪感を感じずにはいられない。

 

「分かりました…。では、お父様に決めて頂きましょう。ヴォルツに処罰を与えるべきかどうか」

「いえ、お嬢様。旦那様方は、ヴォルツ様の処遇はお嬢様に一任すると仰っておいでです。ヴォルツ様は昨日既に、これと全く同じやり取りを旦那様方としていらっしゃいましたので」

「ま、丸投げ…!?」

 

 口を挟んだのは、リナーリアの使用人のコーネルだ。ずっと後ろに控えていたので、彼女も話を全て聞いている。

 ヴォルツにとっては同僚である彼女は、リナーリアが攫われたあの日も共に、リナーリアに随行していた。

 彼女もずっと、攫われたリナーリアの身を強く案じていた。こちらを睨んでいるのはきっと、ヴォルツの不甲斐なさに腹を立てているからだろう。

 

 

「お嬢様。どうか処罰を」

「ヴォルツ…」

「どんな処罰だろうと、お嬢様が受けた艱難辛苦に比べれば軽いものでしょう。それでも、どうかお願い致します」

「でも」

 

「お嬢様!自分にけじめをつけさせて下さい…!」

 頭を下げたまま、もう一度繰り返したその時。

 

 

「…ヴォルツ様!!!いい加減になさって下さい!!!」

 

 

 雷のように響いた怒声に、ヴォルツは驚いて思わず顔を上げた。

 コーネルだ。

 リナーリアの横に進み出て、両腕を組み憤怒の表情でこちらを見下ろしている。

 

 …同じ主を持つ者同士、コーネルとはそれなりに長い時間共に過ごしてきた。

 彼女は真面目で無駄口を好まない性格で、いつも落ち着いている。人との会話が苦手なヴォルツにとって非常に付き合いやすい同僚だったのだが、こんなにも怒っている所は初めて見た。

 リナーリアも「こ、コーネル…?」と呆気に取られた顔をしている。

 

 

 コーネルは怒りの形相のまま言葉を続けた。

「さっきから聞いていれば、いつまでもウジウジ、グダグダと…!!いい加減にして下さい!!お嬢様がこんなにも困っているでしょうが!!!」

 

「……」

 ヴォルツは絶句して、リナーリアの顔を見つめた。

 形の良い眉を下げたリナーリアが気まずそうに小さくうなずき、激しく衝撃を受ける。

 

「処罰を受ければヴォルツ様はすっきりするのでしょうが、お嬢様は何一つ喜びません!!どうしてそれが分からないんですか!!」

「…し、しかし、自分は」

「しかしもかかしもありませんよ、このすっとこどっこい!!お嬢様のお気持ちを考えろと言ってるんです!!お嬢様がそんな事を望む方ではないと、貴方だってよく知っているでしょう!!!」

「す、すっとこどっこい…!?」

 

「あの、コーネル、そこまで言わなくても…。ヴォルツは責任を感じている訳ですし…」

「お嬢様、ヴォルツ様を甘やかす必要はございません!!大切なのはお嬢様のご意思です。処罰など必要ない、何を言おうと変える気はないからさっさと引き下がれと、そうはっきりお命じになれば良いのです!!」

「そ、そうですね…」

 リナーリアはコーネルの剣幕に腰が引け気味だった。リナーリアもまた、彼女がこんな風に大声を出して怒る所を初めて見たのだ。

 

 

 ヴォルツはショックのあまり、がっくりとうなだれた。

 …処罰を受けたいという自分の願いは、リナーリアにとっては迷惑でしか無かったのか。

 今更気付いた所で、どうしたら良いのか分からない。

 一体どうしたらこの罪を償えるというのか。

 

 

 

 リナーリアは、言葉もなく肩を落としているヴォルツと怒っているコーネルを交互に見た。

 しばし考え込んだ後、「そうだ」とぽんと手を叩く。

 

「…では、こうしましょう。ヴォルツは今日から暫くの間、私の運動に付き合って下さい。それが罰です!」

 

「…うん、どう?」

 ヴォルツは言葉の意味が理解できず、ぽかんとして繰り返した。

 リナーリアが真面目な顔でうなずく。

「私はこの通り、随分体力が落ちてしまいました。できる範囲で身体を動かすようにとお医者様にも言われてるんですが、事件の後始末が終わるまでは外を出歩く訳にいきません。ですからヴォルツには、屋敷の庭でもできるような運動の指導をお願いします」

 

「…そ、そんなものは、とても罰とは」

「いいえ、私が罰と言ったら罰です。…これは、主人としての命令です!」

 リナーリアはわざとらしく眉を吊り上げて言い切った。どうやらコーネルの意見を取り入れ、命令する事に決めたらしい。

 そして命令だと言われてしまえば、ヴォルツには逆らえる訳もない。

 

「承知致しました…」

 そう言って再び頭を下げると、リナーリアは安心したようにほっと息を吐いた。

 青い瞳を細めて柔らかく微笑み、ヴォルツの目を見つめる。

「ヴォルツ。どうかあまり自分を責めないで下さい。私はこれからも、貴方に護衛をお願いしたいと思っていますので」

 

 

 

 …その日の夕方、帰り際。

「コーネル」と名前を呼んで近付くと、コーネルは少し意外そうな顔をした。ヴォルツの方から声をかける事は珍しいからだろう。

 

「昼間は済まなかった。…おかげで、目が覚めた」

 あの後、命令通りにリナーリアやコーネルと軽い運動をした。

 リナーリアはほんの少し身体を動かしただけですぐに息が上がってしまっていたが、どこか楽しそうにしていて、そのうちにだんだんと分かってきた。

 

 コーネルの言う通り、自分はリナーリアを困らせているだけだった。

 処罰を受けた所で、リナーリアが受けた苦しみが軽くなる訳ではない。そんなものはただの自己満足に過ぎないのだ。

 コーネルが怒ったのも当然だろう。

 

「ありがとう、コーネル」

「いいえ。…その、私も少々言い過ぎました。申し訳ありません」

 コーネルは少し恥ずかしそうだ。取り乱した所を見せたと思っているのかもしれない。

 

「いや、勉強になった。俺はまだまだ足りない部分ばかりのようだ。…どうかこれからも、よろしく頼む」

 深々と頭を下げると、コーネルは頬を赤く染めてあたふたとした。

「それは、ええ、も、もちろん。お嬢様に仕える者同士、ですし…。わ、私の方こそ…」

「ああ。君のような使用人がお嬢様の傍にいてくれて、本当に良かった。俺が言うのもおこがましいが、どうかこれからもお嬢様を支えて差し上げて欲しい」

 真面目にそう頼んだヴォルツに、何故かコーネルは急に無表情になった。

 

 

「…よろしく頼むというのはつまり、『お嬢様をよろしく頼む』と、そういう意味ですか」

「……?他に何がある」

 思わず尋ね返すと、コーネルは無言でヴォルツの顔を見つめた。

 いや、これは見つめると言うよりも睨まれている気がする。

 

 もしや、自分はまた何か間違えたのだろうか?

 そう尋ねようとした瞬間、コーネルはくるりと踵を返した。そのまますたすたと歩き出す。

 かと思うと、突然すごい勢いでこちらを振り返った。

 

「頼まれるまでもありません!!ヴォルツ様よりも私の方がずっと、お嬢様の事を好きですから!!!」

 

 さらに、鼻息荒く付け足す。

 

「…この、すっとこどっこい!!!!」

 

 呆然とするヴォルツを取り残し、コーネルは肩を怒らせて去っていった。



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身体測定

 この学院には身体測定というものがある。

 年に一度冬休み明けに行われ、身長、体重、視力、聴力、魔力量などを調べるものだ。

 年末年始を実家でのんびりと過ごし体重が増えた者も多い時期のため、特に女子からは嫌がられている行事である。

 

 私もまた、前世からこれがあまり好きではなかった。

 いつも測定用紙を誰にも見られないようにコソコソと隠さねばならなかった。

 何故なら、私の身長は平均よりも少し、ほんの少し低かった。そして体重もまた少しばかり足りなかったからだ。

 ちなみにどうして平均値を知っているのかというと、測定用紙には参考として過去数年の生徒の平均値が予め記されているからだ。誰だよこんな余計な事したの。

 これを見て傷付く生徒もいると気付くべきではないだろうかと、私は思う。

 

 そして生まれ変わって女になった私は、幸い身長の方は平均に近い数値にまで伸びたのだが、体重はやっぱり足りていない。

 他の女子は羨ましいだとか何とか言うが、ドレスを着る度に胸に詰め物をする立場にもなって欲しい。胸囲の測定がなくて本当に良かった。

 …別に気にしてないけど、殿下はどう思ってるんだろう。…別に気にしてないけど…。

 

 

 

 測定は男女それぞれ別の場所で行われる。

 私達ももう3年生、身体測定の手順には慣れているのでかなりスムーズに進み、終わった者から続々と教室に戻ってくる。

 女子はあまり結果を見せ合ったりしないが、男子の中にはお互いに見せ合ってあれこれ言っている者も多い。

 殿下とスピネルもその中の一人のようだ。スピネルはニヤニヤしていて殿下は渋い顔なので、何となく内容は想像できる。

 

 殿下だって十分大きいのに…と思いながらつい見ていると、スピネルが私の視線に気付いたらしい。何やら手招きをしているので、そちらに歩み寄る。

「何ですか?」

「睨んでたのはそっちだろ。なんだ?お前ももう伸びなくなってたクチか?」

「ちゃんと伸びてましたよ!!…に、2ミリほど…」

 小さく付け足すと、スピネルは憐れみの籠もった目で私を見た。こいつ殴りたい。

 

「…あっ、でも、体重は4キロ増えてましたよ!」

「体重増えて得意げにしてる女初めて見たぞ…てか4キロ増えてそれかよ、もっと太れよ」

「んなっ…!」

 

 思わずショックを受けるが、すぐに殿下がフォローしてくれる。

「リナーリアは去年の今頃、秘宝事件に巻き込まれてやつれていたからだろう。体重が増えて良かった」

「あー、そういやそうだったな」

 そう、あの頃に比べれば私は格段に健康的になったのだ。あれで反省して、たまにだけどランニングだってしてるし。

 

 

「そういう貴方はどうなんですか?伸びたんですか?」

「さすがにもう伸びねえよ。でも鍛えた分体重はちょっと増えたな。別に見たかったら見てもいいぞ」

 スピネルと、何故か殿下まで測定用紙を差し出してきた。

 正直興味はあったので両手に持って数字を見比べる。用紙には1、2年の時の測定値も書かれているので成長が分かりやすい。

 

 …げ、スピネルの奴190近くあるのか。でっか!

 道理で見上げると首が疲れるわけだ。腹立つ。殿下より3センチも大きいし。

 あ、でも体重は殿下の方が重いな。あとは…殿下、相変わらず耳が良いんだな。ふむふむ。

 

「あれ、スピネル、結構魔力多いんですね」

「俺もおっさんがついてるからな。その影響っぽい」

「ああ、それで」

 スピネルにはミーティオの魂が少し混じっている。竜の鱗の影響で魔力量が増えた私と同じらしい。

 

「そう言えば、リナーリアの魔力量はどのくらいなんだ?かなり多いとは聞いたが」

 殿下に尋ねられ、私ははっと気が付いた。

 二人には見せてもらっておいて、自分のは見せないというのは卑怯である。不公平だ。

 

 私は自分の測定用紙を取り出すと、恥ずかしさで赤面しつつ思い切って差し出した。

「…わ、分かりました…どうぞ、見て下さい…!」

「ち、違う!!そういう意味じゃない!!」

「やめろバカ!!俺達がセクハラしてるみたいだろうが!!」

 

 

 

 仕切り直すように、殿下がごほんと咳払いをした。

「…き、聞きたかったのは魔力量だけだ。もちろん君の事ならば何でも知りたいとは思うが、無理に知りたい訳ではない」

「は、はい。えーっとですね、2万8000くらいです」

「にっ…!?」

 二人が驚愕の顔になる。

 

「マジかよ…平均の3~4倍あるだろ…」

「私も驚きなんですよね…」

 前世の軽く2倍以上ある。ミーティオの鱗恐るべし…私は竜の血が濃いから、特に影響を受けやすかったのだろうという話だが。

 

「だけどユークも2万以上あるらしいですよ?」

「そうなのか。凄いな」

「…ふーん」

 殿下は感心した顔になったが、スピネルはちょっと面白くなさそうだ。

 スピネルとユークレースは元々あまり仲が良くなかったが、近頃ますます険悪な気がする。多分カーネリア様の事が原因だろうけど。

 

 

「…で、でも、殿下も凄いですよ!」

 話題を変えようと話しかけると、殿下は少し戸惑ったようだ。

「凄い?何がだ?」

「体重です!随分増えてますけど、これって筋肉ですよね?」

 

「ああ…まあな。近頃は身長があまり伸びなくなった分、筋肉がつきやすくなったように感じる」

「やっぱり!ひときわ逞しくなられたと思っていたんです…!」

「そ、そうだろうか」

「はい!服の上からでは分かりにくいのですが、こう…胸板が厚くなられたというか…大胸筋が発達されたというか…!」

 

 身振り手振りで大胸筋を表現する私に、スピネルが「お前は本当相変わらずだな…」と心底呆れた顔をする。

 それから、急に面白がるような顔になって言った。

「お前、そんなに筋肉好きなら、殿下にいっぺん触らせてもらったらどうだ?」

「え、良いんですか!?」

「えっ」

「えっ」

 …はっ。しまった、つい食いついてしまった。二人が目を点にしている。

 

「い、いえ、すみません、無理にとは」

「あ…俺も別に、嫌という訳ではないんだが…」

「じゃあ良いんですか!??」

「えっ」

「えっ」

「はっ…!しまった…!」

 

 

 スピネルが頭痛を堪えるように頭を抱え込む。

「…やめろ、俺が悪かった。お前が本気なのはよく分かったから、そういう事は他人がいない所でやれ…」

「そ、それじゃまるで私がいかがわしい事をしようとしてるみたいじゃないですか!!」

「しようとしてんだよ!!お前は!!!!」

 

 

 …結局、いくら何でもまずいだろうと判断してやめた。

 正直ものすごく触ってみたかった。大胸筋。

 その後何がどう伝わったのか、カーネリア様に「セクハラにセクハラ返しはどうかと思うわ…」とジト目で言われたが、もちろん否定しておいた。

 触ってないのにセクハラは酷いと思う。触ってないのに…。



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ヴァレリーの生き方

今回は子供の頃の話(第9話の少し前くらい)です。


 ヴァレリーはブロシャン公爵家の長女として生まれた。

 ふわふわとした少し癖のある髪に、くりくりとした水色の瞳。砂糖菓子のように甘い声に、薔薇色の頬。

 物心がつく頃には、ヴァレリーは既に自覚していた。

 …私って、凄く可愛いんだわ。

 

 

 何しろヴァレリーはどこに行っても大変可愛がられた。

 ただ容姿が愛らしいだけではない。頭の回転が早く人の気持ちに敏い性質で、どのようにすれば相手が喜ぶかを読み取るのが得意だった。

 つまり、生まれつき愛され上手、世渡り上手だったのだ。

 

 そしてヴァレリーは成長するにつれて気が付いた。

 自分は異性からは愛されやすいが、その代わり同性からは激しく嫌われる事がある。

 原因は概ね嫉妬だと思うが、特に理由もなくこちらを嫌ってくる者もいる。そういう少女の中には時折、まるで話が通じない相手もいたりする。

 

 そういうタイプへの対処には少々困ったが、それらも実家の権力や周囲の助けで大体何とかなった。

 特に兄のフランクリンはヴァレリーに優しい。

 兄は人当たりが良く、相手を立てるのが上手い。ヴァレリーがどこぞのご令嬢に嫌がらせを受けている時など、目ざとくやって来てはやんわりとその場を収めてくれる。

 やる時はやるタイプだ、とヴァレリーは兄を慕っている。

 

 ヴァレリーには弟も一人いた。名前はユークレース。

 生意気で少々扱いにくい性格だったが、どうやら魔術に天才的な才能があるらしい。ほんの幼いうちからヴァレリーよりもずっと上手に魔術を使った。

 

 弟に負けるのは少し悔しかったりもしたが、そのうち考え直した。

 弟は才能に溢れているが、その分周囲の人間に合わせるのがとても苦手だ。他の子供達と馴染めず、孤立してばかりいる。

 本人はそれでいいと意地を張っているが、どうにも生き辛そうに見えて仕方ない。

 そもそもヴァレリーは、それほど魔術に情熱がある訳でもない。両親の期待が弟に集中するのはむしろ有り難いと気が付いた。

 

 

 また、ヴァレリーの生まれたブロシャン公爵家は、この国の魔術師系貴族の頂点に立つ家だ。最大派閥であるパイロープ公爵家には及ばないものの、かなりの権力を持っている。

 しかも祖父は現国王からの信頼が篤く、母は王妹。現在、王家と最も良好な関係にある貴族だと言って良い。

 

 しかも領の財政は安定している。

 農業よりも工業に重心を置いているため、他の領のように不作に悩まされたりしない。領の特産である魔石は、今後も需要が途切れないだろう。

 貧しい領に生まれた令嬢はできるだけ裕福な家に嫁ごうと必死だったりするのだが、ヴァレリーにはそんな必要がない。

 

 家の事は兄に任せればいいし、魔術師としての期待は弟が背負ってくれる。ヴァレリーはどこまでも自由な立場だ。

 ヴァレリーは再び自覚した。

 …私って、すごく恵まれてる人間なんだわ。

 

 

 

 そんな訳で、容姿にも立場にも恵まれ愛想も良いヴァレリーは、幼いうちから非常にモテた。

 しかしこれだという相手はなかなか見つからない。

 家柄も顔も良く、兄のようにいざという時は頼れて優しい男がいい…などと考えているのだから当然である。

 相手は選び放題なのだし、ヴァレリーが妥協する理由など一つもない。

 

 同年代で一番高い地位にある少年と言えば、当然第一王子エスメラルドだ。母親似で容姿も良い。

 王子は無口で表情に乏しく、何を考えているのか分からないため親しくなるのが難しいと評判だったが、従兄妹同士という関係もあってヴァレリーとは比較的親しかった。

 確かに付き合いにくくはあるが、子供っぽくてうるさいよりもずっと良いというのがヴァレリーの感想だ。

 

 この国では従兄妹婚は禁止されていない。親同士が同性、つまり兄弟や姉妹だとあまり良い顔をされないが、ヴァレリーの母と国王は兄妹なので問題ないらしい。

 王子に特別好意がある訳ではないが、大人たちはちらほらとそんな話をしてくるし、そういうのも悪くないかなとヴァレリーも子供心に思っていた。

 一番の理由は次期王妃というきらびやかな地位への憧れだ。豪華なドレスと宝石を身に纏い、沢山の者にかしずかれる生活には夢がある。

 

 

 

 だがある時、あの無口な王子に親しい友人ができたという話を聞いた。

 二人は出会ってすぐに仲良くなり、既に頻繁に行き来をしているらしい。

 

 相手はジャローシス侯爵家の令嬢だ。リナーリアという名で、歳はヴァレリーよりも一つ上。

 ジャローシス家は魔術師系貴族にしては珍しく商売上手で、貴族の間でも独特の立場を築いている新興の家である。領が離れている事もあり、ブロシャン家とはそれほど親交がない。

 彼女はあまり身体が丈夫ではないとかでなかなか王都にも来なかったので、面識もなかった。

 

「やって来たと思ったら、最初に仲良くなったのが王子というのはできすぎじゃありません?」と、彼女の噂を聞いた令嬢の一人は少々ご立腹のようだった。

 まあ、気持ちは分からないでもない。あの王子と一体どうやってそんなに親しくなったのだろうという単純な疑問の方が大きいが。

 

 

 興味が湧いたので、城に行った際に王子に直接訊いてみる事にした。

 可愛らしく微笑み、小首を傾げながら尋ねる。

「近頃殿下は、ジャローシス侯爵家のリナーリア様と親しくしていらっしゃると聞きました。一体どんな方なんですか?」

 

 王子は少し黙り込み、ゆっくり口を開いた。

「色々な事をよく知っている。頭がいい」

 それから、何か考えるような素振りで付け足した。

「…話していると、とても楽しい」

 この無口な王子にしては長めのコメントだし、感情を読み取るのが得意なヴァレリーには分かった。これは大分気に入っているな、と。

 

「凄くきれいな方だという噂も聞きましたよ」

「うん」

 この質問には淡白な返事だ。どんな感情なのかさすがに読み取れない。

 斜め後ろに控えている従者のスピネルの方を見ると、彼は肩をすくめてみせた。

「そうですね。でもずいぶん変わったご令嬢ですよ。殿下とは話が合うみたいで、手紙のやり取りまでしていますが」

 

 どこか面白がるような口調だが、さりげなく王子との仲を強調してきた。どうやら彼は、リナーリアと王子が親しくなる事を歓迎しているらしい。

 ヴァレリーは密かにこの従者を高く評価している。何となく自分と似たものを感じるのだ。彼もまた立ち回りが上手く、要領の良いタイプだ。

 そんな彼のお眼鏡にかなった令嬢にますます興味が湧いた。ぜひ会ってみたい。

 

 

 

 その機会は案外早くやって来た。お茶会でたまたま同席したのだ。

 リナーリアは噂通り美しい少女だった。ほっそりとしていて、肌が抜けるように白い。青みがかった銀という珍しい色合いの髪もあって、儚げな印象を受ける。

 

 彼女はかなり緊張している様子だった。お茶会にあまり慣れていないのだろう。

 周りのご令嬢の会話にいちいち大仰にうなずいては口をパクパクさせている。何とか会話に入りたいが、上手く入れないという感じだ。

 肩に力が入りまくっているのが傍から見てもよく分かる。

 

 

 お茶会そのものは一見和やかに進んでいる。

 皆それぞれ他の令嬢の興味を引くような話題を用意してきているのだが、ある令嬢が話したのは、とても鮮やかなピンク色の花が咲く木についてだ。

「…それで、その木の株を分けてもらったんですけど、植えてみたら何故か青い色の花が咲いたんですって!元のお庭でそんな色になったことは一度もなかったそうで、不思議ですわよね」

 

 すると、そこでシュバッ!と手を上げたのがリナーリアだった。少し頬を赤らめながら早口で言う。

「そ、それはきっと、花を植えた土のせいです!元の木はアルカリ性の土壌で育っていて、株分けした先は酸性土壌だったので、その影響を受けて色が変わったのかと思います!た、対処方法としては、乾燥させた卵の殻を細かく砕いて撒くのがよろしいかと…!」

 

 場はしんと静まり返った。今まで無言だったリナーリアが突然発言したから…ではなく、その内容を誰も理解できなかったからである。

「あっ、すみません…つまりあの、土にはそれぞれ性質というものがあってですね…卵の殻に含まれる成分がそれを変えられるんですが…」

 リナーリアはしどろもどろになった。だが、やはり理解できないのでフォローのしようがない。

 なるほど、スピネルの言う通りこれは変わっている。

 

 

 一人の令嬢が少し眉を寄せる。

「リナーリア様って、ずいぶん難しいお話をなさいますのね。私にはちっとも分からないのですけど、もしかして、王子殿下ともこういうお話をされているのかしら?」

「い、いえあの…そういう訳じゃ…す、すみません…」

 リナーリアはしょぼんと肩を落とし、困った様子でうつむいた。

 

 …これはまずいわ、とヴァレリーは思った。

 彼女のかよわい容姿で落ち込んだ顔をされると、まるで相手が虐めているみたいになる。

 ちょっとした嫌味程度だというのに、絵面が非常によろしくない。傍からだとよってたかって責めているかのように見えてしまいそうだ。

 問題は彼女がこれを計算してやっているのかどうかだが、今はとりあえずフォローに入った方が良いだろう。

 

「うふふ、良いじゃありませんか。私にもよく分かりませんけど、リナーリア様はきっとお花に詳しいんですね。素敵です」

 にっこりと微笑みかけると、リナーリアはとても嬉しそうに表情を明るくした。

「はい、そう、そうなんです!すみません、つい説明したくなってしまって…」

 そう言いながら、感謝の眼差しをヴァレリーに向けてくる。助けてもらったと思っているらしい。

 こちらはただ、お茶会の雰囲気が悪くなるのを阻止したかっただけなのだが。

 

 ヴァレリーはこれで確信した。

 …この人、天然だわ。

 

 

 結局、リナーリアは最後まで他の令嬢たちと打ち解けられないようだった。

 彼女は会話が上手くないし、令嬢たちにはいきなり王子と親しくなったという彼女に対する壁がある。

 しかも後で他の子から、スピネルが彼女を庇ってどこぞの令息たちを締め上げたなんて噂も聞いた。

 あの外面のいい従者は、無口な王子よりもよほど令嬢たちと親しく人気がある。当然面白く思われないだろう。

 

 ヴァレリーは彼女に危険の匂いを嗅ぎ取った。

 今後彼女がちゃんと周りの令嬢と仲良くやっていけるなら問題はないのだが、そうならなかった場合。

 嫉妬した令嬢たちはヴァレリーを担ぎ上げて彼女を攻撃しようとするかも知れない。ヴァレリー本人にその気がなくともだ。

 そうなると王子や従者も巻き込み、非常に面倒な事になる可能性がある。彼らはきっとリナーリアの味方をするだろうし。

 

 

 

 これは回避するに限る。

 ヴァレリーは王子の件について、あっさりと戦略的撤退を決めた。

 リナーリア自身は無害のようだが、その周囲には地雷が埋まっている。迂闊に近付いてはいけない。

 次期王妃という立場には若干の未練もあったが、そのために泥沼の争いをする気などヴァレリーにはさらさらない。

 

 かと言って、彼女と親しくなるつもりもない。それはそれで面倒そうだからだ。

 どうも彼女は厄介事に巻き込まれやすい体質のような気がする。

 それに、あの嬉しそうな顔を見て分かった。彼女は助けてあげたくなるタイプだ。本人はそれを自覚していないようだが。

 

 

 誰かと敵対するのも、誰かに肩入れするのも御免だ。

 自分は自分のために、自由で楽しく生きていきたい。

 それがヴァレリーの生き方なのだ。

 

 …でも何だか面白そうだし、程々の距離で見守ろうっと。

 密かにそう思った。



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興味

若干の下ネタを含みますので、苦手な方はご注意下さい。


「殿下、見て下さい。あのカエル、背中にもう一匹背負ってますよ」

 そう言ってリナーリアが指さした先には、2匹重なったカエルがいる。

「本当だな。つがいか」

 

 今日は休日だ。いつもの城の裏庭で彼女と二人、のんびりとカエルの観察を楽しんでいる。

 昨夜降った雨のおかげで、カエルたちの動きは普段よりも活発なようだ。

 

 

「…あ、でもあれ、両方オスですね」

「本当だ…」

 あのカエルはオスメスで少し模様が違うので見分けやすいのだが、重なっているカエルは両方ともオスのようだ。

 カエル達はお互いに雌雄の区別がつけられないのか、あのように同性でつがいになろうとしているのもよく見かける。恐らくは、途中で気付いて異性を探しに行くのだと思うが。

 

「あのままじゃ子供を作れません。ちゃんとメスを見付けられるといいですね」

「そうだな」

 エスメラルドはうなずき、それから顔を上げた。

「…そう言えば、時間は大丈夫か?」

「あっ。そろそろ行かなければいけませんね」

 

 リナーリアは今日これから、ライオスと共に師匠のセナルモントの所に行く予定になっている。詳しくは聞いていないが、何やら魔術の実験がしたいのだそうだ。

 彼女だけが一足早くやって来て、こうして一緒に散歩をしていたのだが、ライオスももう城に到着する時間だろう。

 

「昼食は一緒に取ろう。スピネルを連れて行くから、ライオスやセナルモントも誘っておいてくれ」

「分かりました!」

 

 

 

 リナーリアと一旦別れたエスメラルドは修練場へと向かった。午前中は時間が空いているので、スピネルと共に剣の鍛錬をするのだ。

 修練場に行くとスピネルは既にやって来て素振りを始めていた。

 急いで稽古用の服に着替え、そちらに向かう。

 

 手合わせはかなり白熱した。

 決着を付けるのに時間がかかり、思ったよりも体力を消耗してしまった。

「すっかりいい時間になったな…腹が減った」

「殿下があんなに粘るからだろうが!はー、汗でびしょびしょだ」

「お前だって随分しつこかっただろう」

 冷たい井戸水を浴びた身体をタオルで拭きながら、スピネルとあれこれ言い合う。

 

 

 タオルを肩に掛け、半裸のまま更衣室に向かった。シャツへと袖を通しながらスピネルが口を開く。

「しかし、最近あんまり手合わせできてなかったから良い鍛錬になったな。今のうちにしっかりやっとかねえと、また親父にしごかれる…」

 そうぼやいて、エスメラルドの方を見る。

「殿下も、油断してるとビシバシやられるから気を付けろよ。うちは手練揃いだからな」

「ああ」

 

 スピネルが言っているのは、来月の水霊祭の事だろう。

 王家の者が五公爵領のどこかを訪れ執り行うこの祭礼は、今年はブーランジェ領の番なのだ。

 ブーランジェ家は国でも有名な武闘派の騎士家なので、祭礼の後も数日滞在し、騎士団を見学したり手合わせをする予定も組まれている。

 今年は父である国王の体調も良く、久し振りに親子揃って行けそうなので楽しみだ。

 

「カーネリアがすげえ張り切ってんだよな。リナーリアに色々見せて回るって」

「カーネリアらしいな」

 祭礼には今年もリナーリアを一緒に連れて行く予定だ。

 カーネリアもブーランジェ家の一員として、王家一行を迎え祭礼に出席するはずだが、それよりも自分の故郷を友人のリナーリアに見せるのが楽しみで仕方ないらしい。

 

 リナーリアもまた、ブーランジェ領を訪れるのを楽しみにしている様子だ。

 去年はモリブデン領での暗殺未遂事件、一昨年はブロシャン領での巨亀事件と毎度ばたばたしていたが、今度こそはのんびりと旅を楽しめるだろう。

 

 

 そんな事を考えていると、「ああ、そうだ」とスピネルが思い出したように言った。

「行く時は、あれを忘れずに持って行けよ?」

「あれ?」

「あれだよ、あれ。学院の入学祝いに俺がやったやつ、あるだろ」

 

 …スピネルに、入学祝いに贈られた物といえば。

 ()()の時に使う魔導具だ。

「これは男のエチケットだからな、いざって時ちゃんと使えよ。もし子供ができたら困るってのももちろんだが、こういうとこしっかりしてない男は女に嫌われるからな」と言われて渡された、あの。

 

 

「……一体何の話だ!!??」

 思わず手のひらで壁を叩くと、ばーん!!と激しい音がした。

 

「ちゃんとしとかねーと、結婚前にできたりしたら外聞悪いだろ」

「そういう事を訊いてるんじゃない!!!」

 真っ赤になっているのを自覚しつつ叫ぶと、スピネルはこれみよがしに肩をすくめてみせた。

 

「だってチャンスだろ?こういう機会でもなきゃ、なかなか進展しないじゃねえか。プロポーズしてからもうすぐ1年近く経つってのに」

「ちゃ、チャンス…!?」

「まあ、城じゃやり辛いのは分かるけどな。でも泊まりなら大丈夫だろ。俺らも気付かないふりするし」

 スピネルの言う通り、城は人目が多いし侍女たちには色々と筒抜けなので、それを気にしている部分はある。

 だが、それ以前にも問題があるのだ。

 

 

「…相手はリナーリアだぞ…?」

「もう婚約してんだし、別に嫌がったりはしないだろ。あいつそういうのには理解ある口ぶりだったじゃねえか。殿下が春画本持ってても何も気にしてなかったし」

「それは、そうだが」

 男だった記憶があるからなのか、彼女はその手の話題になっても意外と平然としている。むしろこっちが動揺したくらいだ。

 スピネル曰く「絶対耳年増なだけだぞ、あれ」だそうだが。

 

「しかし、リナーリアだぞ…?」

 彼女は時々、こちらの予想もしないような反応をしてくる事がある。

 まあそんな所も意外性があって良いのだが、この問題ばかりは絶対に間違える訳にはいかない。

 万が一拒否されたりしたらしばらく立ち直れない自信がある。

 

「…そう言われると、俺も自信なくなってくるけどよ…あいつ訳分かんないとこあるからな…」

 スピネルも同じ事を思ったのだろう、何とも言い難い顔つきになった。

 

 微妙な沈黙の後、スピネルは小さくため息をついて上着を羽織った。

「まあいいさ、殿下の好きにしろよ。まだそんなの興味ないとか、式挙げるまでは我慢するつもりだとかなら、別にそれで良いんだし」

「…興味なんてそんなもの、あるに決まっているだろうが!!」

 

 

 つい大声で言った瞬間、ゴンッという音が背後のドアのあたりから響いた。

 スピネルと顔を見合わせ、振り返ってドアを見つめる。

 …物凄く嫌な予感がする。

 

 

 スピネルは無言で歩き出すと、エスメラルドが止める間もなくドアを開けた。

「ひゃあっ」という情けない悲鳴と共に、ドアの陰にいた誰かがつんのめりながら部屋に入ってくる。

 

「…あ、あの、すみません、遅かったので、昼食、呼びに、来たんです、けど」

 リナーリアだった。しどろもどろで、顔は真っ赤である。どこかにぶつけたのか、額も赤い。

 

「あっ、えっと、わ、私……何も聞いてませんので!!!」

 …尋ねてもいないのにそう言ったあたり、完全に答え合わせがされていた。

 

 

「…で、では、あの…さ、先に行ってますね!!!」

 リナーリアは脱兎のごとく駆け出していった。

 ばたばたと遠ざかるその後ろ姿を、ただ呆然と見送る。

 

 スピネルはしばし無言で静止していたが、エスメラルドの方を振り返ると爽やかな笑顔を浮かべて言った。

 

「悪い、俺も先行ってるわ!!」

 

「……スピネル!!!!!!」

 

 エスメラルドの怒声が部屋の中に響き渡った。




リナーリアさんは他人の話なら平気だけど、自分の話は苦手というタイプです。


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二人で飲む酒※

前回の続きの話になります。


 部屋の窓を開けると、夜風がそよいでふわりとカーテンが揺れた。

 昼間は天気が良かったせいでかなり暑かったが、日が沈むとさすがに涼しく、風呂上がりで火照った身体には心地良い。

 賑やかな虫の鳴き声に耳を傾けながら、エスメラルドは夜空へと思いを馳せる。

 …結局、リナーリアとは何も起こらなかったな、と。

 

 

 水霊祭のために訪れたブーランジェ領。ここで過ごすのは、今夜が最後だ。明日の朝には王都への帰路につくことになる。

 無論、とても楽しく思い出深い時間は過ごせたのだ。皆でぶどう畑や大きな聖堂などを見たり、庭園で様々な花を眺めたり、騎士団の訓練に参加したり。

 しかし大勢と一緒の賑やかな時間ばかりで、二人きりの時間というのはほぼなかった。

 

 エスメラルドとて分かっている。自分で行動しなければ何も起こる訳がないのだと。

 だが1日目は到着したばかりでばたばたしていたし、2日目は彼女はカーネリアと一緒だったし、3日目はブーランジェ騎士団との手合わせが盛り上がりすぎたせいで疲労困憊だった。

 

「…いや、全ては言い訳だな…」

 目を伏せながらひとりごちる。

 分かっている。自分が臆病だっただけだ。彼女の部屋を訪ねるような勇気がなかった。

 

 自分と彼女は想い合っているのだ。来年には式だって挙げるし、焦る必要などないとも思う。

 それまでゆっくりと待ち、心の準備を整えればいい。それだけの事だ。

 だがもっと彼女に触れたいという気持ちがあるのも確かで、それは日に日に強くなっていく。

 …スピネルが言った通り、この祭礼の旅行はチャンスだったはずなのに。

 

 

「俺はヘタレだ…」

 大きくため息をついたその時、部屋のドアがノックされた。

「…あの、殿下。私です」

「!??」

 

 エスメラルドはぎょっとして飛び上がり、意味もなくきょろきょろと周りを見て、それから慌ててドアへと小走りで近寄った。

「り、リナーリア?」

 ドアの向こうにいたのは、やはり彼女だ。寝間着の上に薄手のストールを羽織り、こちらを見上げている。

 

「あの、湯上がりのお飲み物を持ってきたんです。…いかがですか?」

 見ると、彼女の横にはいくつかの瓶やグラスが乗ったワゴンがある。

 エスメラルドは一も二もなくうなずいた。

「あ、ああ。入ってくれ」

 

 

 

「…えっと、これ、ブーランジェ領で造られている薬草酒なんです。安眠効果があって寝酒に良いんですが、炭酸水で割っても美味しいそうなので持って来ました。あ、この炭酸水も、ブーランジェ領で採れたものだそうですよ」

 そう言いながらリナーリアはグラスの中に魔術で作った氷を落とし、ライムイエローに輝く酒を注いでいく。

 その頬がほんのりと赤いのは、彼女もまた湯上がりだからか、それとも。

 

「ど、どうぞ…」

 向かい合わせのソファに座ったリナーリアに促され、エスメラルドはグラスを手に取った。

 ゆっくりと傾けると、しゅわしゅわとした刺激が口の中に流れ込んでくる。

「…美味いな。少し癖のある香りだが、それが炭酸水とよく合っている」

「それは良かったです!」

 リナーリアはほっとしたように微笑んだ。

 

「これ、昨日カーネリア様と一緒に訪ねた修道院で造ったお酒なんですよ。見学させて貰ったのですが、とても興味深かったです。そのまま飲むと結構甘いんですけど、こうして割ると飲みやすいんですよね。ぜひ殿下にも飲んでいただきたくて」

「そうだな。喉越しが爽やかで良い」

 

 

 エスメラルドはできる限り落ち着き払って答えたが、内心気が気ではない。

 こんな時間に、女性が一人で男性の部屋を訪ねるというのは、つまりあれではないのか。

 湯上がりに飲み物を持ってくるのは普通は使用人がやる事だし、こうして彼女が来たのはきっとスピネルあたりの差金だろう。あいつは気が利きすぎる。

 いや待て、リナーリアの事だから、本当にただこの薬草酒を飲ませたくてやって来た可能性も捨てきれない。

 

 思わずじっと彼女の方を見つめると、慌てたようにグラスの酒を飲み干し、おかわりの酒と炭酸水を注いだ。

 手元が狂ったのか、先程よりも明らかに酒の比率が高く色が濃い。

 …絶対に動揺している。

 

 

 エスメラルドは一瞬だけ目を閉じた。

 ここで焦ってがっついてはいけない。

 未来の伴侶として、包容力と落ち着きのある所を見せなければいけない。

 彼女の緊張をほぐし、あくまで優しく、余裕を持って事に臨まなければ。

 

「…薬草酒か。複雑な香りだが、きっとたくさんの薬草が使われているのだろうな」

「あ、はい、そうみたいです。何でも100種類以上使っているという話なのですが、レシピは秘密だそうで…シナモンだとかペパーミントだとか香りからいくつかは推測できるんですが、さすがに詳しくは分かりませんね」

「ほう。100種類は凄いな」

 

 思った通り、植物が好きなリナーリアは薬草の話には食いついてきた。

 しかし、エスメラルドは特別薬草には詳しくない。むしろ全く知らない。話を膨らませる事ができない。

「……」

 その場に落ちた沈黙を埋めるかのように、彼女は何度も小刻みにグラスに口をつけては傾けている。

 

 グラスに寄せられる唇は、いつもよりも少し赤く色付いている気がする。

 大きな青い瞳がちらりと上目遣いでこちらを見た。

 かわいい。

 いや、今はそんな事を考えている場合ではない。

 落ち着け。深呼吸…は挙動不審すぎる、素数を数えろ。待て、数えてどうする。

 

 

「き、君は、赤ワインが苦手なのか?」

「えっ?」

 リナーリアはきょとんとした。

 …しまった、酒の話の続きをしようと思ったのに、唐突な感じになってしまった。

「その、前から気になっていたんだ。出された時は飲むが、自分で選ぶ時は必ず赤ワイン以外を選ぶだろう、君は」

 

「…そうですね。あまり、飲みたくはありません。あっ、別に、特に理由はないんですが…」

 慌てて付け足した彼女に、理由がないというのは嘘だなと思う。

 彼女は嫌いだとか苦手だとかではなく、「飲みたくない」と答えた。

 それはきっと、赤ワインに嫌な記憶があるからだ。

 

 あの時聞いた『前世』のエスメラルドの最期の話。

 毒入りのワインを飲まされたのだと、彼女はそう言っていた。

 

 

 

 そして、エスメラルドは思う。

 …完全に話題を間違えた。

 空気が重い。

 

 先程までとは別の意味で居心地が悪い。喉の渇きを覚えてグラスの中身を一気に飲み干す。

 リナーリアが立ち上がり、グラスにおかわりを注いでくれた。

 ライムイエローの酒と、炭酸水。

 グラスの中でしゅわしゅわと泡が立つ音を聞きながら、離れていく彼女の腕を咄嗟に掴んだ。

 

「殿下?」

「す、座ってくれ」

「…はい」

 リナーリアは大人しくエスメラルドの隣に座った。

 緊張した様子で自分のグラスを手元に引き寄せ、3杯目を作る。さっきよりも更に色が濃い。

「…この酒は、美味いな」

「そうですね。私もこれ、好きです」

 

 

「リナーリア」

 彼女がグラスから唇を離したタイミングを見計らって、ゆっくりと言う。

「酒など、赤ワイン以外にいくらでもある。白ワインでも、薬草酒でも、果実酒でも、麦酒だってある」

「……?はい」

「だから、飲みたくないなら断っていいんだ。俺もこれからはもう、赤ワインは飲まない」

「えっ?」

 リナーリアは驚いた顔をした。

 

「ど、どうしてですか?殿下、赤ワインはお好きですよね?」

「嫌いではないが、どうしても飲みたいようなものでもない」

 

 …だって君は本当は、俺が赤ワインを飲む所など見たくないだろう。

 その言葉は口には出さず、代わりに口の端を持ち上げた。

 

「それよりも俺は、君と同じものが飲みたいんだ。君の好きなものを一緒に楽しみたい」

「殿下…」

 リナーリアは一瞬目を見開き、それから嬉しそうに笑顔を浮かべた。

 

 

「…やっぱり殿下は、お優しいです。嬉しいです…」

 ふにゃふにゃと笑いながら、グラスに口をつける。すごくかわいい。

 

「…私、本当はこういう少し甘いお酒が好きなんです。果汁で割ったものが一番好きで…あまりたくさんは飲めないんですけど…」

「ああ」

「でも、炭酸水割りも良いものですね。冷たくすると特に美味しく感じます。…殿下、もう一杯いかがですか?」

「ああ、頼む」

 リナーリアは新たに氷を作ると、自分とエスメラルドのグラスに落として酒を注いだ。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 彼女と二人、ただ無言でグラスを傾ける。

 複雑な甘さと、炭酸の少しの刺激。泡の弾ける音に、氷のぶつかる軽やかな音。

 今度の沈黙は気まずいものではない。むしろ心地の良いものだ。

 彼女と共に過ごす時の、こういう静かな沈黙がエスメラルドは好きだ。

 ようやく平静を取り戻した自分に安心しつつ、しばしの間、この穏やかな空気に身を委ねる。

 

 

 

 …その時、肩に温かいものが触れた。

 さらりと流れる髪の感触。彼女が身体を預けてきている。

 

 落ち着いていたはずの心臓が、再び早鐘を打ち出した。

 穏やかさはどこへやら、緊張が全身に漲る。

 

 今こそ手を伸ばす時ではないのか。

 静かな夜、部屋に二人きり、近くに寄り添っている。

 これ以上のチャンスなどあるものか。

 

 

「り、リナー…」

「……すぅ…」

 

 伸ばしかけた手をぴたりと止める。

 

 …彼女は目を閉じ、静かな寝息を立てていた。

 

 

 リナーリアはあまり酒に強くない。だけど今日は既に何杯も、エスメラルドよりも多く飲んでいる。

 この手の酒は甘くて口当たりが良いが、実はワインなどより遥かに度数が高い物が多い。

 しかも安眠効果があるとも言っていた。

 

 ゆっくりと引っ込めた手で、自分の顔を覆う。

 

「…お約束過ぎるだろう…!!!」

 

 こちらは今夜、とても安眠できそうにないとエスメラルドは思った。



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お姉さまの新たな扉

第85話で登場したエレクトラムお姉さまのお話です。


「うううう…卒業したくありませんわー!!!」

「まあ、まあ」

「落ち着いて」

 叫びながらテーブルに突っ伏したエレクトラムを、スフェンとシリンダはどうどうと宥めた。

 

「確かに、3年間親しんだこの学院に別れを告げるのは寂しいけどね。これは僕たちの新しい旅立ちでもあるんだよ?」

「でも…卒業したら皆さんに会えなくなってしまいますわ…」

 エレクトラムは涙目で呟く。

 卒業式を間近に控えたこの頃、彼女は毎日この調子だ。

 

 

 エレクトラムとシリンダの二人は、スフェンのファンクラブをまとめ上げるトップメンバーだ。

 スフェンにとっては頼れる友人でもあり、学院生活においていつも支えられてきた。

 

 穏やかなシリンダに比べ、エレクトラムはいつも高飛車な態度なのでとっつきにくいように見えるが、その実とても面倒見の良い性格だ。人一倍仲間の事を気にかけていて、メンバー皆から慕われている。

 しかし今は、その情の深さが仇になってしまっているようだ。

 卒業して仲間たちと別れるのが寂しくて仕方ないらしい。

 

「大丈夫よ、卒業したっていつでも会えるわ。皆それぞれの道を行くだけで、スフェン様のファンをやめる訳ではないのだし」

 シリンダはそう言って慰めたが、エレクトラムは涙目のままで睨みつける。

 

「…でも、近頃ちょっと集まりが悪いじゃありませんの!皆して彼氏ができたとか、婚約者ができたとか…。わたくし達の結束はどこに行ってしまったの…!?」

「うん…まあ…それはねえ…」

 嘆くエレクトラムに、スフェンとシリンダは顔を見合わせて苦笑した。

 

 

 

 この学院の女子は、大半が在学中に婚約者を作り卒業後に結婚をする。

 スフェンに熱を上げていたファンクラブメンバーとて、それは例外ではない。

 中にはだいぶ感情を拗らせてしまい、「私はスフェン様一筋です、絶対に男とは結婚しませんわ!!」などと気炎を上げている子もいたのだが、それも近頃はずいぶん落ち着き、恋人を作る者が増えた。

 

 それと言うのも、今の学院内には恋愛旋風が吹き荒れている。

 これはスフェンの親友にして後輩であるリナーリアが、武芸大会の大観衆の目の前で王子エスメラルドからのプロポーズを受けた影響だ。

 

 二人で試合の勝利を喜び合った後での劇的なプロポーズ。

 女子ならば誰しも、あんな風に情熱的に愛を告げられてみたいと憧れるだろう。

 きっと後世ではあの台詞が、演劇やら小説やらで何百何千回と演じられるに違いない。いや、目敏い者は既に公演の準備を始めているかもしれない。

 そう思うほどにドラマチックな一幕で、その煽りを受けて恋人や婚約者を作りたがる女子が急増したのだ。

 

 ハードルが上がりまくってしまったせいで、男子は当初腰が引けている者が多かったが、そのうちに「女子たちが熱に浮かされている今がチャンス」と告白し、成功する者がぽつぽつと現れ始めた。

 そうすると我も我もと皆が後に続き、今学院内では物凄い勢いでカップルが発生しつつある。

 その中にはもちろん、ファンクラブのメンバーだっていたのだ。

 リナーリアはスフェンの友人としてメンバーたちとも親しんでいたので、受け入れやすかったのだろうと思う。

 

 

 スフェンとしては、そんな彼女たちに正直少しホッとしていた。

 自分自身は恋愛に興味などないし、夢を叶えるために女騎士となる道を選んでいる。だが、仲間や友人たちに同じような道を歩んで欲しいとは思っていなかった。

 恋愛や結婚に幸せを見出だせるなら、それで良いと思っている。

 

 何故ならこの学院に通う多くの令嬢たちは、親から結婚を望まれているからだ。

 家族と争ってまで自分を貫くのはとても難しく厳しい道だと、スフェンはよく知っている。

 本当に夢や希望があってその道を選ぶのならば心から応援するが、若さゆえの勢いだけで走り出し、のちのち後悔する事になったら。

 そのきっかけを作ったのが自分だったとしたら。

 そう思うと、少しだけ怖かったのだ。

 

 シリンダなどは「仮にそうなったとしても、スフェン様のせいではありませんわ。それに、結婚したからと言って幸せになれるとは限らないのですし」とシビアな意見を言ってくれていたが。

 彼女は人当たりが柔らかく優しげだが、非常に芯が強いといつも思う。ツンツンしているが涙もろいエレクトラムとはまるで正反対だ。

 

 

 

 …まあとにかくそんな訳で、スフェンの学院卒業と恋愛ブームとが重なった事により、多くのファンクラブメンバーたちがそれぞれの道を歩み出そうとしている。

 

 そしてエレクトラムは、結婚とは違う道を選んだ者の一人だ。

 元々結婚願望がなかった彼女は、卒業後は実家が経営する劇場で働く予定だ。勉強していずれは立派な支配人になり、スフェンが書いた台本で演劇を上映したいと言ってくれている。

 それはとても嬉しいのだが、どうやら恋人や婚約者を作ったメンバーたちとの間に若干の温度差が生まれてしまっているようだ。

 

 これはどうしても仕方のない事だと思う。

 大切な人間、大切な場所ができたのなら、そちらが優先になるのは当然なのだ。エレクトラムだってきっと本当は分かっている。

 しかし感情はそう簡単に割り切れないというのも、当然の話だろう。

 

 

「うう…皆薄情ですわ…」

 めそめそと泣き続けるエレクトラムの肩に、スフェンは優しく手を置いた。

「大丈夫だよ、少しくらい疎遠になったって、僕たちの絆は切れやしないさ。常に側にいるのだけが仲間じゃない。離れていたって、いつでも必ず支えてくれる」

「スフェン様…」

 

 皆と別れ別れになるのは寂しい。

 だが、未来へと踏み出すその一歩は明るく前向きなものであって欲しいというのが、スフェンの願いだ。

 

「それでもどうしても寂しい時は、僕に会いに来るといい!僕はお城勤めになるから、王都にいる君とはいつでも会えるよ。…あ、それに、リナーリア君もだね!彼女はあともう一年学院にいるし、結婚後はお城住まいになるからね。君が会いに行けば、きっと喜ぶよ」

「リナーリアさんに…」

 リナーリアの名前を出すと、エレクトラムは非常に複雑そうな表情になった。

 

「もう、そんな顔をしてはだめよ、エレクトラム。あの時は、ちゃんとリナーリア様にお祝いを言えていたじゃありませんか」

「だって…わたくし、お姉さまですもの。妹の幸せは、ちゃんとお祝いしませんと…」

 嗜めるシリンダに、エレクトラムはなおも表情を曇らせる。

 

 後輩から頼られるのが大好きなエレクトラムは、武芸大会の練習の時に世話をしたリナーリアの事を、大変気に入って可愛がっていた。

 男兄弟ばかりの家に生まれたエレクトラムは姉妹というものにずっと憧れていて、リナーリアから「お姉さま」と呼ばれるのが嬉しくてたまらなかったらしい。

 

 プロポーズの件では娘を嫁に出す父親のごとくショックを受けていたのだが、本人の前では強がって祝福してみせていたのである。

 結構ボロボロな様子だったので多分皆が察していたが、リナーリアは気付いていないようだったのが幸いだ。

 

 

「…でも、リナーリアさん、結婚したらわたくしの事なんて忘れてしまうんじゃないかしら…」

「リナーリア君はそんな人ではないよ。君だって知っているだろう」

「そうなんですけど…」

 睫毛を伏せるエレクトラムの両肩を、スフェンはガシッと掴んだ。

 驚いたその両目をしっかりと見つめる。

 

「あの時、寂しさをこらえて祝福する君はとても立派だったよ。リナーリア君だって、そんな凛々しい君だからこそお姉さまと慕ってくれたはずだ。…それとも君は、気弱で情けないお姉さまになりたいのかい?」

「い、いいえ!そんなの嫌ですわ!!」

「だったら顔を上げて、前を向こうじゃないか。大丈夫、立場が変わったって、変わらないものは必ずあるよ」

 

 力強く励ますと、エレクトラムはようやく少し元気を取り戻したようだった。

「…分かりましたわ!わたくし、立派なお姉さまを続けてみせます…!!」

「うん!その意気だよ!!」

 

 

 

 

 …そして、卒業式当日。

 夕方から行われるダンスパーティーで、タキシードに身を包んだスフェンは、真っ赤なドレスで着飾ったエレクトラムをエスコートしていた。

「うふふ、スフェン様にエスコートしていただけるなんて、とっても光栄ですわ…!」

 エレクトラムは頬を上気させて感激している。卒業式では随分と泣いていたので心配したが、何とか気を取り直したらしい。

 

「先輩、エレクトラムお姉さま、こんばんは!」

 早速声をかけてきたのはリナーリアだ。濃い青紫に、銀糸の刺繍が美しいドレス。エスコートをしているのはもちろん王子である。

「お二人共、今日もとっても素敵です」

「君の方こそ、今日は一段と綺麗だよ。王子殿下もさぞ鼻が高いだろう」

「そ、そんな…」

 

 照れるリナーリアはとても可愛らしく、見ているこちらまで口元が綻んでしまう。

 エレクトラムもスフェンと同じ気持ちのようで、微笑ましげに目を細めている。

「…おっと、そろそろダンスが始まる時間のようだ。リナーリア君、後で僕とも踊っておくれ」

「はい、もちろん!では、また後ほど」

 前奏が始まる中、リナーリアは王子の手を取って去っていった。

 

「リナーリアさん、本当に幸せそう…良かったですわ」

 呟くエレクトラムはやはり、少しだけ寂しそうだった。だがすぐに笑顔に戻りスフェンを振り返る。

「わたくし達も行きましょう、スフェン様!」

「ああ!今夜は目一杯楽しもうじゃないか!」

 スフェンはにっこりと笑って手を差し伸べた。

 

 

 

 それからスフェンは、エレクトラムやリナーリアだけでなくたくさんのファンクラブメンバーたちと踊った。

 皆別れを惜しんでくれているのだ。できる限り多くの子と踊りたいが、さすがにずっと踊りっぱなしではいられない。

 途中で休憩を挟み、壁際にいるエレクトラムの所に向かった。

 

「どうだい、エレクトラム。楽しんでいるかい?」

「ええ、もちろん。このオレンジを使ったカクテル、とても美味しゅうございますわ」

「それは良いね。僕ももらう事にしよう」

 

 ボーイからカクテルを受け取り、一息つきながら会場を見回す。

 誰も彼も、とても楽しそうだ。生き生きとダンスを踊り、あるいは華やかな会話に興じている。

「エレクトラムは、たくさん踊ったかい?」

「何曲かは。でも疲れたので、もう結構ですわ」

 エレクトラムはそう肩をすくめたが、特に疲れた様子には見えない。彼女はスフェンのトレーニングにもよく付き合っているので、令嬢としてはかなりの体力があるのだ。

 

 だが、彼女はあまり踊る相手がいない。

 彼女は多くの後輩女子たちから慕われているが、その棘のある態度のせいで親しい男子がほとんどいないのだ。きっと、家ぐるみで親しくしている何人かと踊っただけだろう。

 

 

 だからだろうか、やがてエレクトラムは遠慮がちに微笑むとこう言った。

「少し早いですけれど、わたくしそろそろお(いとま)いたしますわ。スフェン様は、どうぞ楽しんで…」

 

「…お待ち下さい!!」

 

 高く澄んだ声が辺りに響いた。

 その声の主を見たエレクトラムが、驚愕に目を見開く。

「り、リナーリアさん…!?その姿は…」

 

 驚くのも無理はない。

 リナーリアは長い髪をポニーテールに結い上げ、青いタキシードに身を包んだ凛々しい男装だったからだ。

 

「お姉さまの卒業と新たな門出を祝うため、おめかしをして参りました」

 胸を張るリナーリアを、エレクトラムや周りの者達が唖然として見つめる。

 

 

 スフェンはにやりと笑いながらエレクトラムの顔を覗き込んだ。

「ふふふ、びっくりしたかい?僕の昔の服を貸したのさ。…ああ、アイディアを出したのは僕だけど、君を驚かせて喜ばせたいって言い出したのはリナーリア君だよ」

「わ、わたくしのために?」

「はい。お姉さまが寂しがっているご様子でしたので、少しでも元気付けられたらと…」

「衣装替えや髪のセットには、ファンクラブの皆が協力してくれた。君に気付かれないように、こっそりとね」

 

「……!!」

 感極まったように胸元を抑えるエレクトラムに、スフェンは優しく微笑みかける。

「これで分かっただろう?リナーリア君も、他の皆も、いつだってちゃんと君の事を気にかけてくれている」

「はい…はい…!!」

 目尻に涙を溜め、こくこくとうなずくエレクトラムに、リナーリアがさっと手を差し出す。

 

「…私と、踊っていただけますか?」

「ええ…!!」

 

 

 

 奏でられる音楽の中、エレクトラムと男装のリナーリアは会場中の注目を集めながらくるくると踊っている。

 リナーリアが前世の記憶のお陰で男性側のダンスを踊れるという話を思い出し、ちょっとした悪戯心もあって行った提案だったが、結果は大成功だ。

 エレクトラムは本当に幸せそうにうっとりと頬を染めていて、間違いなく一生の思い出になる事だろう。

 

「…ちょっとばかり、新しい扉を開いてしまった気もするけど…」

 遠くから眺めながら、スフェンは一人呟く。

 エレクトラムだけではなく、幾人もの女子がこの光景に頬を染めている。いや、男子もだ。王子や従者までぽかんとして見つめているので少し笑ってしまう。

 リナーリアは普段はむしろ可愛らしいたおやかな外見をしているのだが、そういう少女が男装をするというのもまた新たな魅力があるようだ。

 

「まあ、いいか!これはこれで!はっはっは!!」

 スフェンは胸を反らして高笑いをした。

 

 …それから10年後、エレクトラムが女性だけで構成される歌劇団を作り大反響を呼ぶことを、この時はまだ予想もしていなかった。




PCを買い替えた際の設定ミスでTwitterアカウントにログインできなくなってしまいました…。
このまま復活できなかったらどうしよう…。


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式の準備(前)

「こちらが、結婚式当日の大まかな段取りとなっております。と言ってもその都度侍女がご案内致しますので、頭に入れておく必要はございません」

「はい」

 

 侍従長が差し出した紙を、私と両親はそれぞれ受け取った。

 入場、楽団の演奏、国王陛下と王妃様の挨拶、殿下と私の挨拶、両親の挨拶…挨拶多いな…。

 どこの結婚式も挨拶は多いものだが、やはり桁が違う。

 とても大まかには見えない細かいスケジュールがずらずらと書かれている。

 

「こちらは挨拶や入場などの際に演奏する曲の候補でございます。お好きな曲、あるいはお嫌いな曲などございましたらお申し付け下さい」

「はい」

 これまたずらずらと曲名が並べられた紙を渡される。

 

「こちらは会場を飾る花の見本でございます。リナーリア様は薔薇がお好きとの事ですので、薔薇を中心にお選び致しました。こちらも、何か要望がございましたらお申し付け下さい」

「は、はい…」

 大量に並べられた花飾りやらプランターやらを示される。見本だけで凄い量だ…。

 

 

 

 今日、私は両親と共に城を訪れている。殿下と私の結婚式の準備のためだ。

 別に王家側で適当に進めてくれて構わないのだが、国王陛下や王妃様は私に気を遣って下さっているようで、できるだけ私や両親の意向を確認してから準備をしたいとの事だ。

 婚約発表パーティーの時はかなり忙しなく、こちらの要望を聞いている暇がなかったせいもあるのだろう。

 

 しかし式への要望をどうぞと言われても、そんなもの考えた事もない。

 侍従長は紙を渡すたびにあれこれ丁寧に説明してくれているのだが、私も両親もただ圧倒されてうなずくばかりだ。

 うちは侯爵家でも一番の新参だし、しょっちゅうパーティーを開くような社交的な家でもない。

 ラズライトお兄様の結婚式の時はそれなりに盛大にやったが、あくまで我が家なりの盛大である。第一王子の式とは規模が比較にならない。

 

 ふと、天井の大きなシャンデリアを見上げる。きっとこの国で一番豪勢なシャンデリア。

 何しろ殿下の結婚式なので、式典のほとんどは当然ここ…城の大広間でやる。

 当日は広いこのホールを埋め尽くすくらいの人が来場するだろう。

 婚約発表の時も、ここで恐ろしく大規模なパーティーをやったのだが、あれを遥かに超える規模になるのかと思うと、思わず気が遠くなってくる。

 両親もきっと同じ気持ちなのだろう、さっきからずっと作り笑いのままでろくに喋っていない。

 

 

「こちらは、当日提供される料理です。ご試食ください」

 目の前に並べられたのは凄まじい数の料理だ。パーティー用なのでどれも一口か二口くらいのサイズなのだが、種類がものすごく多い。

 カクテルグラスに入ったピクルスやサラダ、ハムやパテが乗せられたカナッペ、小さなパイにサンドイッチ、チーズ、串焼きになった肉や野菜、カップデザート…。

 それぞれ何種類もあって、どれも美しく華やかに盛り付けられている。

 

 運んできたのは侍女たちだが、城の料理人が何人も壁際に並んでこちらを見ている。

 うう…視線が集まっていて食べにくい…!

 恐る恐る、ゆで卵が乗ったカナッペに手を伸ばす。

 

「……」

 もぐもぐ口を動かす私に、侍従長が少し心配げな顔になる。

「…お気に召しませんでしたでしょうか?」

「あっ、いえ、とても美味しいです!」

 味は本当に美味しいのだ。…多分。でも、上手く喉を通っていかない。

 

 

「何かお飲み物を…」

 侍従長がそう言いかけたところで、殿下が片手を上げて遮った。

「せっかく出してもらったのに済まないが、一度休憩を挟んで良いか。リナーリアもジャローシス侯爵夫妻もまだあまり空腹ではないようだし、パーティー料理ならば多少時間が経ってからでも問題あるまい」

 

「承知致しました」

 突然の提案だが、侍従長は即座にすっと頭を下げた。

 両親がほんの少し安堵したような表情になるのが分かる。二人も私と同じように、なかなか料理が喉を通らなかったらしい。

 

 …殿下は、私や両親が緊張しているから休憩を提案してくれたんだな。

 そう思いながら横顔を見上げる。

 

「では、ジャローシス侯爵と夫人は別室に案内を頼む。…お茶でも飲んで、しばらくくつろいで下さい」

 殿下の言葉は、前半は侍従長に、後半は両親に対してのものだ。

 両親が「有難うございます」と礼をする。

 

 それから殿下は、私の方を見て微笑んだ。

「リナーリア。少しの間、裏庭を散歩しないか」

「はい!」

 

 

 

 城の廊下を歩いて裏庭に出た私は、思い切り外の空気を吸い込んだ。

 初夏の日射しは少々暑いが、庭の草木を通って届けられる風は緑の匂いが濃く、何だかとても落ち着く。

 

「はあああぁ…」

 吸い込んだ息を大きく吐いた私に、殿下が苦笑する。

「済まない。ずいぶん緊張させてしまったようだ」

「いえ、そんな!…すみません、私も両親も、こういう事には慣れていなくて…」

 ぶんぶんと首を振る私に殿下は少し困ったような顔になったが、無言のまま歩き始めた。

 いつもの散歩コース、カエルがいる池の方向だ。

 

 短く刈られた芝を踏みながら歩いていると、殿下がポツリと言った。

「…君は、結婚式だとかパーティーの準備には興味が無いだろうか?」

「えっ!?…いえ、そのような事は、決して」

「では、興味があるのか?」

「……」

 

 

 私はしばらく黙り込み、池に着いたところで降参した。

「…すみません。興味は、その、正直なところ…。今まであまり持ったことがなかったもので…」

 社交が得意ではない私は、パーティーやお茶会がずっと苦手だった。

 前世でも自分や殿下の婚約発表の時など多少準備に携わったが、やっぱりほとんど口を出さず人に任せっぱなしにした。

 今世では友人ができたおかげで、前世に比べれば大分ましにはなったのだが、それでもやはり特に好きな訳ではない。

 

 うつむく私に「だろうな」と言って殿下はうなずいた。

「実は俺もだ。パーティーに大して興味はない」

 

 …それもそうだった。殿下だって特にパーティーが好きな訳ではない。

 王子というのはどこに行っても注目される。常に人に囲まれ話しかけられ、気が抜けない。

 嫌いとまでは行かなくとも、必要だから出ているだけだし、その準備など尚更どうでもいいだろう。

 

 本当に申し訳ない、と私は肩を落とす。

 今は社交シーズン真っ只中だ。殿下だってお忙しいのに、こうしてわざわざ時間を割いて付き合って下さっている。

 なのに、私はただうなずくばかりでろくに感想も言えていない。文句が無いなら無いなりに、もう少し何か言いようがあるだろうに。

 せめて殿下を拘束しないよう、スムーズに終わらせる努力をするべきだった。

 

 

「…だが、今回ばかりは別だ。俺は、結婚式をとても楽しみにしている」

「え…?」

 私は思わず顔を上げた。

「楽しみ、なんですか?」

「ああ」

 殿下は真面目な顔でうなずく。

 

「理由は簡単だ。…これが、君と一緒にやる事だからだ」

「……」

 

 思わずぽかんとする私を見ながら、殿下は言葉を続けた。

「儀礼に挨拶、覚える事はたくさんあるし、当日はきっと凄く大変な一日になるだろう。とても忙しく、多くの人間に囲まれて、目が回るような思いをするに違いない。だけど、とても大切な思い出になると思う。…俺たちの、一生に一度の結婚式なのだから」




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式の準備(後)

「だから俺は、結婚式が楽しみだ。俺のわがままかも知れないが、できれば君にもいい思い出にして欲しい」

 

 …式を楽しむ。

 そんなの一度も考えた事なかった。ただ役割を、儀礼を、無難にこなす事しか考えてなかった。

 でも殿下の言う通り、結婚式というのは一生に一度の思い出になるイベントのはずなのだ。

 子供の頃私も母に聞かされた。結婚式の思い出。

 準備も、それから当日も色々と大変だったと言っていたけれど、母はとても楽しそうな顔でそれを語ってくれたのだ。

 

 

「…さすがは、殿下です…!」

 思わずそう言ってから、前世の殿下にも同じような言葉で励まされた事があったな、と思い出す。

『大丈夫だ。劇は上手くいく。きっといい思い出になる』

 あれは確か、3年生の芸術発表会の時だ。あの時私は、劇の開演を目の前にして酷く緊張していた。

 

 …殿下は、私が困っている時や沈んでいる時、いつもそうして声をかけてくれる。

 そして、私に大切な事を気付かせて下さるのだ。

 

 思わず目を細めた私に、殿下は不思議そうにした。

「?」

「いえ、すみません。少し思い出していました。前世のこと」

「前世の?…どんな?」

 

「芸術発表会の劇で、私がお姫様役をやらされた時です」

「お姫様…?しかし、君は」

「ええ。女装させられたんです。クラスの皆に決められて、無理矢理。似合ってるとか言われても、私としてはとても屈辱的だったんですが」

 今となっては楽しかっ…いややっぱり腹立つな。ヘルビンは許さない。

 

 

「似合っていたのか…なるほど…」

 殿下は真顔で納得した。

 そう言えば殿下、あの緑色の箱の形をした古代魔導具の中で、前世の私に会ったんだよな。その私はまだ子供だったらしいけど。

 

「その劇の時も、殿下に励まされたんですよね。きっといい思い出になるって。…あ、それに」

「なんだ?」

「冗談で言われたんです。『もしお前が女だったら、俺は婚約の相手に困らなかっただろう』って」

 ついおかしくなってふふっと笑う。

「私は、『そうなった時は考えて差し上げます』って答えました。まさか、本当にそうなるなんて夢にも思いませんでしたけど…」

 

 

 殿下は少し目を丸くして、それからじっと私の顔を見た。

「そうか…」と、やけにしみじみとした様子で呟く。

 

「では俺も、知らないうちに前世での望みを叶えていたんだな」

「ええ?あれはただの冗談ですよ。私の緊張を和らげようと」

「いや、違う。きっと俺は本気だったと思う。君が男だろうと、俺が君という人間に惹かれないはずがない」

「ええぇ…?」

 

 でも確かに、あの時の殿下の表情は真面目だった。

 あくまで例えばの話だし、恋愛感情とかそういうのではないだろうけど、そうだったらいいと本気で思って下さっていたのか。

 

 …私の事を、生涯を共にしたい相手だと、そんな風に。

 

 

「……っ!!」

 ま、まずい。嬉しい。嬉しすぎて顔がめちゃくちゃ緩んでいるのが分かる。

 ニヤニヤが止まらない。

 

 嬉しさと恥ずかしさで悶絶していると、いつの間にか殿下がムスッとした顔になっていた。

「す、すみません、あまりに嬉しくてつい…!」

 反応が気持ち悪すぎて引かれてしまった…と慌てる私に、殿下は「違う、そうじゃない」と首を振る。

 

「俺は、俺に嫉妬している」

「はい?」

「君にそんな顔をさせる、君の主が羨ましい」

 

「……」

 私は再びぽかんとしてしまった。

 あの殿下がヤキモチを焼くなんて…。

 しかも、よりによって相手が自分って。

 そんな事ある?

 

 

「あは、あははっ…」

「…笑わないでくれ。自分でもおかしな話だとは思っているんだ」

 殿下はますますムスッとするが、どうしても笑いを止められない。

「だって、殿下」

「仕方がないだろう。君の事になると、俺はとても平静ではいられない」

 

 ちょっぴり赤くなって横を向きふてくされる殿下に、また笑ってしまう。

 …ああ、やっぱり殿下は、私の主とは違う。

 こんな風に拗ねてヤキモチを焼く所なんて、前世では見た事がなかった。

 二人は同じだけれど、やっぱり違うのだ。

 

 そして、私も。

 いくら記憶があった所で、やっぱり前世の私と今の私は違う。

 リナライトでは決して歩む事がない未来を、私は歩み出している。

 

 

「殿下。機嫌を直してください」

 こちらを振り返った殿下に、精一杯の気持ちを込めて微笑む。

 

「リナライトの主は、前世の殿下だけです。…でも、私の、お、お、夫になる方は、貴方だけでしゅ」

 

 

「…か、噛んでしまった…!」

 私は両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。恥ずかしい。ここは大事な所だというのに!

 本当に私は、肝心な所で締まらないから嫌なのだ。

 絶対に顔が真っ赤になっていると思いながら小さくなる私に、「リナーリア」と頭上から声がかけられる。

 

「ありがとう。俺は幸せ者だ」

 

 見上げた殿下は、とても嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

 いつも表情が控えめな殿下にとってはすごく珍しい、ほんの少し頬を赤らめた、満面の笑顔。

 伸ばされた手を取って立ち上がると、ぎゅっと抱き締められた。

 大きな胸の温かさに、一瞬だけ目を閉じる。

 

 

 

「…そろそろ戻ろうか。皆をあまり待たせるのも可哀相だ」

「はい」

 

 手を繫いで隣を歩きながら、そっと端正な横顔を見上げる。

 …近頃殿下は私に向かって、「一緒に」という言葉をよく使う。

 これは私の意思を尊重しようとしているからだ。

 私達は夫婦になるのだと、二人で共に歩むのだと、言葉と態度で示して下さっている。

 

 私も、いつまでも前世の記憶や関係に引きずられてはいけない。

 今の私は殿下の後ろを付いて歩いていた従者ではない。隣に立ち、歩む者になるのだ。

 王子妃になれば人前に立つ機会が一気に増えるし、人に命令を下したり指示を出す事も多くなる。苦手だからといって、その度に毎回まごついてなどいられない。

 

 思い出は大切だけれど、今世での新たな立場、新たな関係に慣れてゆくために、少しずつでも考え方を変えていかなければ。

 なるべく楽しむ。いい思い出にする。そう前向きに考えて臨めば、少しは苦手意識も取り除ける…はずだ。きっと。

 

 

「…そうだ、殿下。私、パーティーでジャローシス領のバッファロー肉を出したいです」

「それは良いな。ローストビーフかサンドイッチなら、パーティーにもぴったりだろう」

 

「あと、花もです。うちの領には珍しい植物が多いので、来場する方に見ていただきたいです。飾りの一部に使っていただけたらと…輸送がちょっと大変だと思いますけど…」

「ふむ。アーゲンに相談してみるか。パイロープ領はジャローシス領から近いし、その手の輸送は得意のはずだ」

 

「ウェディングケーキの上には、ミナミアカシアガエルをかたどった人形を飾りましょう」

「それは…ううん…それはどうだろうな…?」

 真剣な顔で眉根を寄せた殿下に、私は声を上げて笑った。

 

「冗談ですよ、殿下!」



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川遊び(前)

 ゴトゴトと音を立てて、馬車が動きを止める。

 足元に注意しつつタラップを降りた私は、周囲の景色を見回して隣の殿下を見上げた。

「とても素敵な所ですね、殿下」

「ああ。気持ちの良い場所だ」

 

 青々と茂る木々に、キラキラと日差しを反射して輝く川。

 その水面は穏やかで透明度が高く、泳いでいる魚の影までよく見えそうだ。

 

 …そう、今日の私達は、王都からほど近いとある川のほとりへとやって来ている。

 水深が浅く流れも緩やかで、しかもちょっとした丘の陰にもなっているここは、王都に住む貴族たちが川遊びをする場所として昔から親しまれている、いわゆるレジャースポットだ。

 何故こんな場所に来ているかと言うと、話は数週間ほど前。

 いつものように学院の食堂で、殿下とスピネル、カーネリア様とランチを取っていた時に遡る。

 

 

 

「お願いします王子殿下!うちの新作水着のテストモニターになっていただけませんでしょうか…!」

 殿下に向かってがばっと頭を下げたのは、クラスメイトのアフラ様だった。

 彼女は服飾産業が盛んな領の生まれで、本人も裁縫が得意である。服のデザインに興味があるらしく、毎年芸術発表会の衣装作りなどで活躍しているご令嬢だ。

 

「新作水着とは、どういう…?」

 戸惑いながら尋ねた殿下に、アフラ様が勢い込んで答える。

「殿下もご存知かと思いますけど、昨年、川遊びで伯爵家のご令嬢が溺れる事件があったでしょう。助けようとしたお友達も溺れかけて…」

「ああ、あったな」

 

 私も覚えている。幸い、護衛の魔術師や騎士によって助けられたので全員命に別条はなかったはずだが、危うい所だったとちょっとした話題になっていた。

「あの事件、溺れた原因はご令嬢が着ていた水着にもあったようなんです。ほら、近頃は装飾過多な…裾の長い水着が流行していたでしょう。あれが手足に絡まったみたいで」

「ああ…あれか」

 

 元々この国の水着とは男女共通のシンプルな作りで、肩から二の腕、下は膝のあたりまでを覆う、身体にフィットした形のものだった。

 しかしだんだんとデザインに凝る者が出てきて、特にここ数年は下半身がスカート状になっていたり、肩や腰からひらひらとしたフリルや長いリボンなどが伸びた、それもうドレスじゃないのか?と言いたくなるデザインのものが流行していたのだ。

 主に女性用のものだが、男性用も結構派手なのが作られている。

 

 

「このまま、ああいう装飾の多い水着が流行るのは危険です。そこでうちの領のデザイナーが、動きやすくて可愛らしい、素敵なデザインの水着を新しく開発いたしました。…ですがこの新型水着、従来の水着に比べて少々肌の露出が多いんです。そのせいで敬遠されてなかなか広まらなくて…機能性はバッチリなんですけど…」

「ふむ」

 

「しかし、水着で露出が増えるのはむしろ自然な事なんです!その方が水中での動きを妨げませんし、水から上がった時も乾きやすいので身体を冷やしません。水着というのは本来、布面積を少なくするべきものなんです!」

「ふむ…そうだな」

 アフラ様の主張は理に適っている。殿下も、横で聞いている私たちもうなずいた。

 

「そこで、殿下にテストモニターになっていただきたいんです。うちの新作水着を試していただき、忌憚ない意見を聞かせてくださいませんか。殿下が認めたものとなれば、世間でも受け入れやすくなると思うんです!!」

 …ははあ、なるほど。

 つまりアフラ様は殿下に試してもらう事で、新作の宣伝をしようという訳だ。『あのエスメラルド王子も絶賛!!』とか何とか、そういう売り文句を使いたいのだろう。

 

 しかしいくらクラスメイトとは言え、殿下を宣伝に使うのはどうだろう…?

 私は斜め向かいにいるスピネルの顔を見たが、とりあえず止める気はない様子だ。殿下本人の意志で、モニターとして試すだけという形ならOKって事かな。

 それに、流行りの装飾過多な水着が危険というのも事実だ。もっと安全な水着を流行らせたいという意見には賛成できる。

 

 

「…忌憚ない意見を言って良いんだな?」

 忖度はしないぞという意味だろう、殿下が確認すると、アフラ様は「もちろん!」と力強くうなずいた。

 新作水着が絶対に良いものだという自信があるのだろう。

 

「今度、その水着を男女数着ずつ持ってきます。きっとお気に召していただけると思いますので、どうぞ皆さんで試されて下さい。…本っっ当に!可愛いので!」

 可愛いという点を強調しつつ、アフラ様はちらっと私の方を視線で示した。

 殿下も、ハッとした顔になって私の方を見る。

 …あれっ?もしかして私もモニターの人数に数えられてる…?

 

「分かった。その新作水着、ぜひ試させてもらおう」

 殿下は何故か、期待に満ちた様子でうなずいた。

 

 

 

 …そんな訳で、すぐに私にサイズを合わせた水着が届き、私は殿下達と共に川遊びに行く事になってしまった。

 スピネルとカーネリア様、それからライオスも一緒だ。

 

 私は泳げないし水着も苦手なので正直全く気が進まなかったのだが、「流れの緩い浅瀬だけなら大丈夫だろ。いざって時はちゃんと助けてやるし」とか「新作水着、いいじゃない!私達だけだから恥ずかしがる事もないわよ」とかスピネルとカーネリア様に言われ、しかも殿下がソワソワと物凄く行きたそうにしていたので、断れなかったのである。

 

 まあ夏の暑い時に川で涼むのは楽しいものだし、普段王都から出る機会が少ない殿下が遊びに行きたがる気持ちも分かる。

 水泳訓練の時とは違って「魔術は使うな」なんて言われる事もないだろうし、殿下と一緒なら滞在中は護衛のため周辺の出入りは制限されるはずなので、余計な衆目に晒される心配もない。

 せっかくだから私も行って楽しもう、と考えることにした。

 

 ちなみにライオスは、山や川が好きみたいだからひょっとして行きたがるかな?と思って試しに誘ってみた所、『行く』と即答したので連れて来た。

 彼は時々自分の翼で王都の外に遊びに行っているのだが、私達と一緒というのは滅多にないので嬉しかったらしい。

 近頃はスピネルやカーネリア様ともすっかり打ち解けてるしな。殿下とはやっぱりまだちょっと溝があるんだけど。

 

 

 

 

「…皆様、天幕の用意ができました!」

 護衛の騎士の声で後ろを振り返ると、川原に簡易的な天幕が立てられていた。中で着替えたり荷物を置くためのものだ。

 スピネルが私とカーネリア様に尋ねる。

「お前達は着替えに時間かかるだろ。俺達が先でいいか?」

「はい」

 どうしたって女性の方が身支度に時間がかかるからな。その方が効率的だ。

 

「お兄様達はどんな水着なのかしら!楽しみね」

「そうですね」

 私用の水着は既に渡されているのでどんなデザインか知っているが、他のものはまだ見ていない。男性用はどんなのなんだろう。

 

 

 少しの間川を眺めつつ雑談をしていると、天幕から3人が出てきた。

「わ、わ、で、殿下!」

「まあ!男性用の新型水着って、上は裸なのね!?」

 カーネリア様と共に驚きの声を上げる。

 3人共、膝より少し上までのズボンを履いているだけで、上半身は裸だ。従来の水着とはまるで違う。

 

「えっ、これだけですか?下着とかではなく?」

「そうらしいな。でも言われてみりゃ、男は別に胸を隠す必要ないしな」

「ああ。それにこれなら、きっと水中でも泳ぎやすいと思う」

『我はいつもこれでも構わないぞ』

 久し振りに窮屈なシャツや上着から解放されたせいか、ライオスは上機嫌のようだ。

 

 

「はえぇ…」

 思わず嘆息しつつ、改めて殿下の全身を眺める。

 

「殿下…すごい!凄い格好良いです!大胸筋が…上腕二頭筋も!それに三角筋も素晴らしいです!!いつの間にこんなに腹直筋が割れて…!?」

「お前マジで筋肉しか見てねえな!!!」

「だって凄いじゃないですか!!いえ、前から凄いと思ってましたが、脱いだらもっと凄いです…!!」

 

「…そんなに見つめられると恥ずかしいんだが…」

 殿下がちょっぴり恥ずかしそうにする。

「あ、すみません、あまりに格好良くて…つい…」

 いかん、思わず凝視してしまった。両頬を押さえながら視線を逸らす。

 

「こいつの食いつきっぷりにはちょっと引くが…良かったな、殿下。頑張って鍛えた甲斐があったじゃねえか」

「うむ…」

 スピネルがニヤっと笑い、殿下は照れた顔でうなずいた。本当に格好良い。

 

 すると、横でライオスがむっとした顔になった。

『我だって凄いぞ。いや、我の方が凄いぞ』

「ええ、もちろんライオスも素晴らしく逞しいです。でもライオスの筋肉は見慣れていますので」

『むぅ…』

 ライオスは初めて会った時からずっと上半身裸だったからな。確かに見事な筋肉なんだけど。

 

 

「お兄様だって格好良いわよ!歴戦の勇士って感じ!」

「勇士…?」

「そうですね。スピネルも格好良いです」

「そりゃ、ありがとよ」

 

 苦笑しつつ肩をすくめるスピネルは、殿下やライオスよりは細いのだが、決して痩せている訳ではない。無駄なく引き締まっているという感じだ。

 しっかりと腹筋も割れていて、全身よく鍛えられているのが分かる。

 

 カーネリア様が歴戦の勇士と言っているのは、胸元に大きな傷痕があるからだろうな。ブロシャン領で巨亀と戦った時の傷だ。

 この件に関しては今でも少々申し訳なさを感じるのだが、でもこうして見ると傷はむしろ格好良いような気もする。口に出したら怒られそうなので言わないが。

 

 

「それじゃ、リナーリア様。私達も着替えましょ!」

「そうですね」

 カーネリア様と連れ立って天幕に向かう。

 うう…やっぱり気が重い。あれ着るのかあ…。



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川遊び(後)※

 天幕に入り、荷物の中から水着と日焼け止めを取り出す。

「わあ…リナーリア様の水着も凄く可愛いわね!」

「ええ…でも恥ずかしいです」

 

 上下のセパレートになったコバルトブルーの水着。

 たっぷりのフリルが胸元と腰回りを覆う形になっていて、大きなギャザーのお陰で貧弱な胸や腰のラインが上手く隠されている。

 

 フリルが大量についた水着というのは最近の流行りだったはずだが、しかしこれは露出の多さが従来の水着とまるで違う。

 お腹の部分が丸出しだし、スカートも太ももまでの丈しかない。腕も脚もほぼ全部出ていて、本当に胸と腰だけを隠したデザインだ。

 貴族の常識から考えるととんでもない肌面積の多さだし、私から見てもやっぱり、水着と言うよりは派手な下着だ。

 

「可愛い~!とっても似合ってるわよ!!」

「そ…そうですか…?」

 一応身につけてはみたが、この格好で殿下達の前に出るのかと思うと目眩がしそうだ。

 アフラ様は「慣れれば大丈夫、いずれ絶対流行るわ!!」と断言していたが…これ流行るの?本当に?

 

 

「カーネリア様の水着も、とても素敵です。普段から剣術をやっているから、引き締まっていらっしゃいますよね」

 彼女のパッションピンクの水着は露出度で言えば私のものよりも高く、しかも身体のラインが出るようなデザインだ。

 だが可愛らしくリボンのアクセントが入っていて、彼女によく似合っているように思う。スタイルが良くて羨ましい…。

 

「私もこんなに肌が出ているのはちょっと恥ずかしいわね。でもこれ、今までの水着に比べてずっと身体を動かしやすいわ。泳ぐのが楽しみね!」

「うう…私が溺れたら助けて下さい…」

「あはは、大丈夫よ、任せて!…それよりリナーリア様、髪型を変えましょ。そのままだと邪魔になっちゃうでしょ」

「あっ、はい。お願いします」

 

 荷物から櫛を取り出したカーネリア様が、うきうきと私の髪を解く。

「せっかくだから、普段はやらない髪型にしてみましょう」

「お任せします」

「殿下、きっと驚くわよ~!」

 

 

 

 

「ほー。それが新型水着か。随分と思い切ったデザインだな」

『……?』

「へ、へ、へそが。おへそが出ているぞ」

 

 男性陣の反応は三者三様だった。

 スピネルは目を丸くしつつ感心していて、ライオスはよく分からないという様子だ。まあライオスは水着自体ほとんど見た事ないだろうしな。

 そして殿下は、赤くなりつつ物凄く慌てている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「これ、上下で分かれてるから身体を捻っても布が引っ張られないの。泳ぐ時もきっと楽だわ」

「へえ、それで腹の部分が出てるのか。なるほどな」

「そ、そんなに肌を出していいのか…?」

 ううっ、殿下がめちゃくちゃおへその辺りを気にしている。視線が中空とおへそを行ったり来たりしていて挙動不審だ。

 凄く恥ずかしいが、さっき私も似たような事をしたのでやめてくれとは言いにくい。

 

「お前、コルセットなしでもそんなにウエスト細いのか。内臓どこに入ってるんだよ」

「ちゃんと入ってますよ。見た事はないですけど」

「あったら死んでるっての。これなら両手で掴めるんじゃないか?なあ殿下」

「…!?俺はそんな事はしないぞ!?」

「いや、やれとは言ってねえし…」

 

 スピネルは呆れ顔になると、殿下を肘でつついた。

「それより、他に何か言う事あるだろ」

 

 

 すると、横のライオスが私を見ながら口を開いた。

『変わった髪型だな。初めて見た』

「あ、はい。カーネリア様がやって下さったんです」

「可愛いでしょ!ツインテールっていうのよ!」

 そう、私の髪は頭の両側で結んでくるっと巻き、短めに垂らしてある…んだと思う。結っている所を鏡で見ていたが、私には何をどうやっているのかさっぱり分からなかった。

 

『なるほど、そういうのを可愛いというのか。…姉上は可愛い』

「ありがとうございます」

 私はにっこりした。

 辛抱強く言い聞かせたお陰で、最近のライオスはちゃんと私の事を姉上と呼ぶのである。弟が板についてきたようで嬉しい。

 

 

「ほら見ろ、先越されたぞ」

「あ、う、り、リナーリア」

 スピネルに押された殿下が一歩前に出てくる。

 

「と、とても可愛い。水着も、髪型も、凄く可愛い」

「は、はい。ありがとうございます」

「すごく、とてもすごくかわいい」

「語彙力どこ行った…」

「とても」と「すごく」を繰り返す殿下に、スピネルが片手で顔を覆った。

 

「殿下とリナーリア様って結構似た者同士よねえ」

「それな」

「な、何?」

「えっ、そうですか?」

 

『…それより、我は早く泳ぎたいんだが。ここは暑い』

 焦れた様子のライオスが川を指差し、私達は全員で顔を見合わせた。

 確かに、さっきから日射しがジリジリとして暑い。

「行くか」

「そうですね」

 

 

 

「わっ、冷たい!」

「気持ち良いわねー!」

「お前らあんまりこの辺から離れるなよ?それと、足元が滑りやすい場所もあるから注意しろよ」

 スピネルは相変わらずの保護者ぶりだ。殿下が上流の方を指差す。

「ライオスが既にすごい速さで向こうへ泳ぎ出しているが」

「……。まあ、あいつは放っといても大丈夫だろ…」

 

 ライオスは泳ぎがとても上手かった。山に住んでいる時は自分で魚を獲ったりしていたかららしい。

 背中の翼をしまえるのも、潜る時に邪魔だったからやってみたらできたんだそうだ。そんな理由で…。

 カーネリア様とスピネルもそれぞれ泳ぎ出した。かなり上手い。

 

 

「リナーリア、こっちの岩の陰に小さな蟹がいるぞ」

「え、本当ですか?」

 殿下と二人、岩陰を覗き込む。水が綺麗だから、生き物は皆こういう物陰に隠れているのだ。

 それらを探すのはなかなか楽しいのだが、しかし…。

 

「あの、殿下は泳がないんですか?」

「そうだな。後で泳ぐつもりだ」

 うーん。これは、泳げない私に気を遣ってくれているやつだ。

 それに目を離すと危ないとも思われているのかもしれない。

 

「…殿下。私は水魔術の得意な魔術師です」

「?うむ」

「ですからこういう場所はむしろ得意なんです。泳ごうとさえしなければ、私は水の中では無敵です」

「だが…」

 

 むむむ。信用されてない。ここは一つ、私の実力を見せて差し上げなければ。

「見ていて下さい、殿下。…『うねり流れし水よ、その(うち)に秘めたる力を集めよ!顕現せよ、奔流の(あぎと)!』」

 川の水面が大きな渦を巻き、ズゴゴゴっと激しい音を立てる。

 

 

 やがて渦の中央から姿を表したのは、水でできた巨大な蛇だ。

「こ、これは…!」

「ふふふ、これだけではないんですよ」

 私は水蛇を操って首を水面に近付けると、その上に跨った。

 

「おお…!」

 驚く殿下の目の前で、巨大な蛇が私を乗せたまま鎌首をもたげる。

「どうです、殿下!」

 私は殿下を見下ろしながら思い切り胸を張った。殿下が何故か視線を彷徨わせながらうなずく。

「ふ、太ももが…いや、す、すごい魔術だな…」

 

 しかし、ここからどうするか考えてなかったな。これでどうやって遊ぼう。

 水蛇の上から「えーと…」と周りを見回すと、口をぽかんと開けてこちらを見上げているスピネルと目が合った。

「…よし、行け!!」

「ちょ、おま、何でだよ!!やめろぉお!!!」

 

 

 全力で泳ぎ始めたスピネルの後を追い、水蛇が身体をくねらせながら進む。

「ふはははは!!この私から逃げられる訳がないでしょう!!」

「どこの魔王だお前はー!!!」

 高笑いをする私にスピネルが絶叫する。だがその時、私の前にさっと黒い影が立ちはだかった。

 

『スピネル!ここは我に任せて逃げろ…!』

「ライオス…!」

 どうやら闘争心を刺激されたらしい。冒険ものの絵本で覚えた台詞を言いつつ両手を広げる。

 私は水蛇の上でニヤリと笑った。ライオス相手なら手加減は無用だろう。

 

「行きますよ…!!」

『来い!!』

 

 

 突進する水蛇をライオスが受け止める。この勢いを両腕だけで止めるとはさすがだ。

 だが、こちらもこれで終わる気はない。川の水を吸い上げ、水蛇を更に巨大化させる。

『ぐぅっ…!』

 ライオスが両翼を広げた。周囲に光が集まるのを見て、スピネルが慌てて声を上げる。

「待て!!それはやばい…!!」

 

 凄まじい圧力がライオスの腕から放たれ、水蛇を押し戻す。

 まずい。ぶつかり合う力に水蛇が耐えきれない。

 咄嗟に方向を変え逃れようとするが、迸る水の勢いをすぐに止める事などできない。

「くっ…!!」

 

 だめだ、保たない…と思った瞬間、轟音と共に水蛇が弾け飛んだ。

 空中に投げ出され、思わず悲鳴を上げる。

「ひゃあああっ…!!」

「リナーリア!!!」

 

 

 

「…大丈夫か。リナーリア」

「……」

 …気が付くと殿下の腕の中にいた。

 

 翠の瞳が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。川に落ちる寸前で受け止めて下さったのだ。

「で、殿下…!すみません…!!」

「怪我はないか?」

「は、ははははい!」

 殿下の両腕と胸板の感触に、一瞬で顔に熱が集まる。す、すごい。逞しい。

 

 

 硬直する私の向こうで、スピネルがライオスの頭をぽかりと殴る。

「お前、やりすぎだぞ!少しは手加減しろ!」

『すまん…』

「もう、びっくりしちゃったわ」

 カーネリア様は胸を撫で下ろしているようだ。

 

 ライオスがしょんぼりした顔で私の様子を窺う。

『すまん。大丈夫だったか、姉上』

「え、ええ。大丈夫です」

『しかし、顔が真っ赤だ』

「…これは、何でもないんです!!」

 

 

 

 

 その後私もスピネルに叱られてしまったので、魔術は控えて普通に楽しく川遊びをした。

 殿下は私に泳ぎを教えてくれようとしたのだが、まず身体を水に浮かせるまでに時間がかかり、結局ちっとも泳げないままだった。申し訳ない。

 スピネルはすぐに沈む私を例によってめちゃくちゃ笑っていたが、カーネリア様に思い切り叱られていた。ざまあみろ。

 

 そしてライオスはお詫びのつもりなのか、どこからか物凄く大きな魚を獲ってきて私達を驚かせた。

 まるまる太っていて美味しそうなので、帰ったら城の料理人に調理して貰い皆で食べる予定だ。

 

 

「…今日はとても楽しかった。近いうちにまた来よう。次こそ一緒に泳ぎたい」

 帰りの馬車の中、殿下はそう言って微笑んだ。

「はい!次こそ頑張ります!」

「あの水着、本当に可愛かった。よく似合っていた」

「ありがとうございます。アフラ様もきっと喜びますよ」

「そうだな。彼女には感謝しよう」

 

 向かい側では、スピネルに寄りかかったカーネリア様がすやすやと寝息を立てている。

 スピネルとライオスもウトウトとしているようだ。

 それを見ていたら私もすっかり眠くなってきてしまった。今日はかなり体力を使ったからなあ…。

 

 あくびを噛み殺していると、隣の殿下が囁いた。

「リナーリアも疲れただろう。眠いなら寝ても構わない」

 

 とても申し訳ないけれど、本当に眠い。この眠気には抗えそうにない。

「ありがとうございます…」

 お言葉に甘えて寄りかかると、殿下が小さく咳払いをして身じろぎをした。

 殿下の三角筋、硬いなあ…とぼんやり思い、また顔が熱くなる。

 うう、どうしよう。また赤くなってるの、殿下に気付かれないと良いんだけど。

 

 

 なお、アフラ様には「動きやすいし、とても可愛くて良かった。素晴らしい」と感想を伝えたようで、テストモニターは大成功だったと彼女はとても喜んでいた。

 早速売り込みを始めるそうで、来年辺りには本当に新型水着が流行っていそうな気がする。良かったなあ。

 私も、次にまたあれを着るのが楽しみだ…と、ちょっとだけ思った。



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結婚式

「リナーリア様、もう目を開けても大丈夫ですよ」

 女官の声にそう促され、私はゆっくりと瞼を持ち上げた。

 眼の前にいるのは、輝くほどきらびやかに飾り立てられた青銀の髪の女性。

 …私だ。

 

 今日はついに、殿下と私の結婚式なのだ。

 

 

 

「お嬢様…本当にお美しいです…!!」

「ありがとう、コーネル」

 コーネルは早くも目を潤ませている。

 彼女は今後も私の使用人を続けたいとの事で、今日もこうして王宮の女官たちと一緒に私の身支度を手伝ってくれている。

 

 国王陛下が私のために用意して下さったのは、薔薇のモチーフをふんだんに取り入れたウェディングドレスだ。

 白を基調にして、刺繍やレースにはアイスブルーも使われている。

 最高級の絹を幾重にも重ねてあり、しかも裾がとても長い。

 更に長いヴェールやアクセサリーまで身に着けるので、これ絶対重いやつだ…と戦々恐々としていたら、ドレスは驚くくらい軽かった。軽量化の魔法陣を織り込んでいるらしい。

 

 

「リナーリア様、ジャローシス侯爵夫妻がお見えです」

「あっ、はい!」

 振り返ると、すぐに両親が控室に入ってきた。

「リナーリア…!」

「お父様、お母様」

 

「リナーリア…こんなに綺麗になって…うぅっ…」

 お父様は私の姿を見ただけで、もう泣き出してしまった。

「あなたったら…泣くにはまだ早いわ」

 そう言うお母様も目が潤んでいる。

 私は苦笑を返そうとしたが、つられてうるっと来てしまった。

 

 …前世の私は、結婚できなかった。婚約はしたが、結婚する前にリナライトの人生は終わってしまった。

 両親を式に招く事ができなかったのだ。

 そして今世の私はおかしな令嬢で、両親には心配ばかりかけていた。こうして晴れ姿を見せる日が来て、本当に嬉しい。

 

「お父様、お母様…ここまで育てて下さって有難うございます。私、お二人の元に生まれて本当に良かったです」

「ううぅっ…!!」

「も、もう、あんまり泣かせるのはやめて…!」

 

 両手で顔を覆う両親に、コーネルが泣き笑いの顔になる。

「ラズライト様をここに連れて来なかったのは正解だったかも知れませんね…」

 確かにラズライトお兄様はお父様以上に泣いてしまいそうだ。でもここで泣かなかったとしても、式の最中に絶対泣くと思う。

 スミソニアンと一緒になって号泣する光景がありありと目に浮かんで、私も少し笑ってしまった。

 

 

 

 両親が去ってすぐに殿下がやって来た。

 私を見て眩しそうに目を細め、微笑む。

 

「…本当に綺麗だ。君は間違いなく、この国で一番の花嫁だ」

「あ、ありがとうございます…殿下も、とてもご立派で…素敵です」

 殿下は白地に金をあしらった燕尾服だ。

 本当に素敵なんだけど、あまりに嬉しそうに私を見ているものだから、恥ずかしくてまともに顔を上げられない。

 

 すると、殿下が手を伸ばして私のイヤリングに触れた。

「よく似合っている」

「は、はい」

 このイヤリングやネックレス、ティアラは殿下が贈って下さったものだ。

 私の髪や瞳に合わせたのだろう、濃淡さまざまな色の青い宝石がいくつも使われている。

 

 普段は宝石やドレスにまるで興味がない私だが、今回ばかりは違う。

 …これは私のため、今日という日のために作られた、特別なもの。そう思うと、言葉にならない感動が込み上げて来る。

 宝石やドレスを大切にする人達の気持ちがやっと分かった。これは思い出を彩るものなのだ。

 私はこの先もずっと、この宝石を見るたびに今日の事を思い出すだろう。

 

「殿下…、本当に嬉しいです。ありがとうございます」

 辛うじてそれだけは口にすると、殿下はもう一度嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

「ところで、リナーリア。実は君に会わせたい者がいる」

「私にですか?」

 もうじき式が始まる。こんなタイミングで、一体誰に会わせたいんだろう。

 目を丸くしていると、殿下は「入ってもらってくれ」と後ろを振り返った。

 

「…ボラックスさん!」

 女官が開けた扉から入ってきたのは、白い箱を持った背の低い男。

 この城の薔薇園の管理をしている庭師のボラックスだ。

 私はよくあそこに行くので結構親しくしているのだが、この所は立て込んでいて足が遠のいていた。

 ボラックスの方も忙しいらしく管理棟を留守にしている事が多かったので、会うのは随分しばらくぶりのように思う。

 

 

「リナーリア様、この度は本当におめでとうございます」

 少し窮屈そうに礼服を着たボラックスは、丁寧に頭を下げた。

「どうもありがとうございます。ボラックスさんも結婚式に出席して下さるんですね」

「はい。エスメラルド殿下のご厚意で…。それで、あの、これを」

 ボラックスは酷く緊張した様子で、手に持った箱を私に差し出した。

 

「……?」

 受け取った箱は大きさの割に軽い。

 なんだろうと不思議に思う私に、殿下が言う。

「開けてみてくれ。花嫁に必要なものが入っている」

「はい」

 必要なもの…?

 戸惑いつつ箱を開けた私は、思わず「わっ…!」と声を上げた。

 

 大小さまざまな薔薇を集めた、美しいブーケ。

 一際目を引くのは、鮮やかな深い青色をした大輪の薔薇だ。

 

 

「ボラックスさん、これ、もしかして」

「はい、そうです。天然の青薔薇です。昔リナーリア様にアドバイスをいただいて、改良を重ねてようやくこの色を出せました」

 染めたものではない、天然の青い薔薇。ボラックスがずっと研究していたもの。

 …ついに完成したのだ。

 

「凄い…」

 私は感嘆と共に青薔薇を見つめる。

 薔薇に青の遺伝子を組み入れるための魔術構成。そのアイディアをボラックスに話したのは、確か4年も前の事だ。

 だけど、品種改良には凄く時間がかかる。完成するのはもっとずっと後だと思っていたのに。

 

「凄い!!凄いですよボラックスさん!!こんなに早く作り上げるなんて…貴方は天才です!!」

「いえ、とんでもない。リナーリア様がいなければ、まだまだ完成していなかったでしょう」

 思わず興奮する私に、ボラックスは照れながら笑った。

 

 殿下もまた、私の隣で微笑む。

「完成の報告は俺が最初に受け取ったんだ。それで、結婚式にこれを使えないかと思いついて…。君を驚かせたくて、今まで黙っていてもらったんだ。済まなかったな、ボラックス」

「いいえ、お安い御用です。…今はこの数輪を用意するだけで精一杯ですが、これからもっと増やしていくつもりです」

 

 

「そうだったんですね…」

 私は呟き、それからふと思い出した。

 確かこの薔薇は、完成したら殿下が名前を付けるという約束だったはずだ。

「あの、これには何て名前を付けたんですか?」

 そう尋ねると、ボラックスは何故かにっこりとして、殿下は少し照れた顔になった。

 

「…リナーリア」

「はい」

「そうではなく、リナーリアと名付けたんだ。この薔薇の青色は、君の瞳の色にそっくりだろう」

「え…」

 

 私はしばしぽかんとして、改めて手の中の青薔薇のブーケを見つめ、それからまた殿下を見た。

「わ、わ、私の名前をですか?こ、この薔薇に?」

「ああ。ボラックスも賛成してくれた」

「そ、そんな、でも…」

 

 こんな綺麗な薔薇に私の名前を…?というかこれ、園芸界においてはかなり凄い発明なのに、それに私の名前を付けてもいいのか?

 私の名前が、一つの薔薇の品種として後世に残る事になってしまう。

 驚き恐縮する私の瞳を、殿下がじっと見つめる。

 

「この薔薇があれば、君の瞳がどんなに美しい色だったか、未来にまで色褪せずに伝えられるだろう?」

 

 

「……っ!!で、殿下…!!」

 恥ずかしい。恥ずかしすぎる。絶対、今の私は真っ赤になっている。

「な、なんて…何て事をおっしゃるんですか…!!」

「俺の正直な気持ちだ」

「うううう…!」

 

 嬉しいけど物凄く恥ずかしい。

 ブーケで顔を隠しながら悶絶していると、後ろで微笑ましげに見守っていた女官がちらりと時計を見た。

「皆様、もうすぐお時間です」

「あっ、はは、はい!」

 

 

 

 

 …大広間の扉を前にして、大きく深呼吸する。

 いつもに比べて緊張度合いがマシなのは、手の中にある青薔薇のおかげだろうか。

 

 リナーリア。

 この薔薇の名前。

 今の私の名前。

 

「…殿下。私、リナーリアとして生まれて良かったです」

 

 今なら、心から言える。

 女に生まれ変わって良かったと。

 

 ヴェール越しに見上げると、殿下は「俺もそう思う」と言って小さく笑った。

 

 

 なお、この青薔薇が人々の話題になり、私は『青薔薇の王妃』とか『青薔薇の魔女』なんて呼ばれるようになるのだが…。

 それはまだ、もう少し先の話だ。




リナリアという花が実在しますが、リナーリアの名前は鉱物の青鉛鉱(リナライト)から取ったのでそれとは無関係です。
青鉛鉱で検索するとリナーリアの青がどんな色かよく分かるので、興味がある方はどうぞ!


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お転婆な娘

本編から10年以上後、殿下が国王になってからの話です。


 よく晴れた日の午前、城の図書室の中でスピネルはのんびりと本を広げていた。

 と言っても、本はただのポーズだ。心地よい眠りに誘うための道具と言ってもいい。

 紙の上に並んだ文字は、眺めているだけで眠気をもたらしてくれる…と昔リナーリアに言ったら、信じられないという目で見られた。

 こちらからしてみれば、文字の中の世界にそんなに夢中になれる方がよほど不思議なのだが。

 

 そんな事をぼんやり思い出しつつ、頬杖をつきウトウトとし始めた時、ふと人の気配を感じた。

「…見つけたぞ、スピネル」

 こちらを見下ろす翠の瞳。

「陛下…何でここに?」

 驚きと共に、スピネルは主の顔を見返した。

 

 

 

 第一王子だったエスメラルドが父カルセドニーから譲位され、国王となってから早7年。

 政務にもすっかり慣れたため、始めは相談役として常に側にいたスピネルも、別の場所で働く事が増えた。

 主に城の騎士団や兵に関する業務だが、これが意外に書類仕事が多い。

 

 やろうと思えばできるが書類など好きではないスピネルは、それを回避する方法をすぐに見つけ出した。

 つまり、有能な部下に丸投げする事だ。

 カヴァンスという名前の彼は学院の後輩であり、最初はスピネルの直属の部下として取り立てられた事に喜んでいたが、そのうちに自分がいいように使われていると気が付いたらしい。

 だが根が真面目な人物であるため、毎回ぶつぶつと文句を言いつつ仕事をこなしてくれている。

 

 

 今日もそのカヴァンスの机に書類を残し、のんびりとサボりを楽しもうとしていたのだが、まさかエスメラルドに見つかってしまうとは。

 図書室は涼しいし、静かだし、人の出入りも少ない。昼寝場所としてはなかなか穴場だったのだが、何故ここが分かったのだろう。

 

 そんな思考を読んだかのように、エスメラルドは言った。

「前にヴィヴィアに聞いたんだ。時々ここにお前がいるようだと」

「あいつか…」

 今年11歳になった元気いっぱいの少女の顔を思い出し、スピネルはしかめっ面になった。

 

「あいつ、昨日もいきなり扉の陰から襲いかかってきたぞ。城の廊下で木剣振り回すのはやめろって、何回言っても聞きやしねえ!陛下からもちゃんと叱っとけよ、父親だろうが」

「すまん…俺も何度も注意しているんだが…」

 

 ヴィヴィアはエスメラルドの3人の子供の一番上、第一王女だ。父親譲りの金髪をした美しい少女なのだが、何よりも剣術が大好きで、しかも恐ろしいほどのお転婆である。

 ペントランドから剣聖の肩書を受け継いだスピネルを倒したいという目標を掲げており、事あるごとに「勝負!」と言って襲いかかってくるので、スピネルは非常に迷惑をしている。

 

 

「はあ…。それで、一体何の用だ?」

 わざわざこんな所にまで探しに来たのだから、何か大事な用があるのだろうと尋ねると、エスメラルドは真剣な顔をしてこう言った。

 

「リナーリアが怒っている」

 

「……。よそを当たれ」

「そう言うな、頼む。何とか機嫌を取る方法を考えてくれ」

「スフェンに頼めばいいだろ」

「スフェンはリナーリアの味方だ。手伝ってくれない」

「だからって俺に言われてもな。大体、何やって怒らせたんだよ」

「ネフライトの剣術の稽古に付き合う約束をすっかり忘れてすっぽかした…」

 

 

 スピネルは思い切りジト目になってエスメラルドを見た。

「そりゃ陛下が悪い。素直に謝れよ」

「謝った、ちゃんと謝ったんだ。でも2回目となると許してくれなくて」

「マジで陛下が悪いんじゃねえか…」

「分かっている…反省している…」

 

 ネフライトは2番めの子供で第一王子、つまりエスメラルドの跡継ぎになる予定の少年だ。

 当然リナーリアはこのネフライトの教育には特に熱心で、エスメラルドから直接指導を受ける時間をなるべく取ろうといつも頑張っているらしい。

 

 がっくりと肩を落としているエスメラルドに、スピネルは一つため息をつく。

「まあ、陛下は忙しいからしょうがねえけどよ…」

「リナーリアもそこは分かってくれているんだ。だからめったな事では怒らないし、いつも俺を労ってくれる。…でも、子供の事になると許してくれない…」

「そういうとこ、あいつも母親らしくなったよなあ」

「それは嬉しいんだが、本当に困っているんだ。なあ、どうしたら良いと思う?」

「だから俺に言われてもな…」

 

 

「…お父様、そういう事なら私がお母様に言ってあげましょうか?」

 突然響いた少女の声に、スピネルとエスメラルドは後ろを振り返った。

「ヴィヴィア!」

 

「お前まで来たのか。俺の静かな休憩時間が…」

「何が休憩よ、どうせサボりだったんでしょ?」

「うっせえ」

 腰に手を当てて勝ち気な笑みを浮かべる金髪の少女に、スピネルは渋い顔になる。

 

「それより」と身を乗り出したのはエスメラルドだ。

「リナーリアの機嫌を取るいい方法があるのか?」

「えっ?…別にないけど」

「ノープランかよ!」

「な、ないけど!私が一緒に謝ったら、きっとお母様も許してくれるわ。…多分!」

 

 

「…わかった。頼む、ヴィヴィア」

 適当極まりない提案だったが、エスメラルドは頼る事にしたようだ。溺れる者は藁をも掴むというやつだろう。

 ヴィヴィアはにんまりと笑うと、任せろと言わんばかりに自分の胸を叩いた。

「決まりね!その代わり、スピネルは私と手合わせをするって事でよろしく!」

 

「待て、何で俺が巻き込まれてんだよ!そこは陛下でいいだろ、どうせネフライト殿下と稽古するんだし!」

 すかさず突っ込んだスピネルに、ヴィヴィアが肩をすくめる。

「だって私、ネフライトとは一緒にやっちゃダメってお母様に禁止されたんだもの」

「は?なんで?」

「ヴィヴィアは手加減をまるでしないから、ネフライトがすっかり嫌がってな…」

 

 ネフライトはヴィヴィアよりも2歳下なので、体格も技術も到底姉には敵わない。

 ついでに言えば、父の剣の才能を受け継いだのは姉の方であるらしかった。ヴィヴィアは幼い頃からその片鱗を見せていて、同年代の子供と比べても飛び抜けている。

 ネフライトの方はどちらかと言うとリナーリア似で、本人も剣より魔術に興味があるようなのだが、身体を鍛えるためにもある程度の剣術は嗜んでおかなければならない。

 

「お前なあ…年上なんだから少しは手加減してやれよ」

 スピネルが呆れ顔で見ると、ヴィヴィアはぷいっと横を向いた。

「いいから、早くお母様の所に行きましょうよ。スピネルも一緒よ!」

「俺は行かねえぞ」

「じゃあここでサボってたってこと、皆にバラそっかなあ~」

「……」

 

 

 

 そうして結局、スピネルは2人と一緒にリナーリアの部屋を訪ねる事になってしまったのだが…。

「ヴィヴィア!またお勉強をサボりましたね!」

「ひぇっ…」

 出迎えたリナーリアは、腕組みをして怒っていた。

 

「だ、だって、今日のお勉強は午後から」

「それは先週の宿題をちゃんと終わらせていたらの話です!貴女は半分もやってないじゃありませんか!」

「うっ…」

 ピシャリと言われ、ヴィヴィアは言い訳を引っ込めて小さく身を縮めた。

 

 次に、エスメラルドがじろりと睨まれる。

「陛下も、一体どこで油を売っていたんですか」

「す、すまない」

「私ではなく、スタナム殿に謝って下さい。用事があるそうで、執務室でずっと待っています」

「すまな…わ、分かった…」

 

 

 2人共完全に白旗を上げている。

 これ以上巻き込まれる前に自分は逃げよう…そう思ってスピネルは踵を返しかけたが、すぐに呼び止められた。

「スピネル」

「お、おう」

 恐る恐る振り返る。

 

「カヴァンスにばかり仕事を押し付けてはいけないといつも言ってるでしょう!自分では判断できない書類が溜まっていると、また嘆いていましたよ。早く戻ってあげて下さい!」

「分かった…」

 …やっぱり怒られた。

 これでは今日は、とても昼寝できそうにない。

 

 小さくうなだれたスピネルは、同じようにうなだれているヴィヴィアやエスメラルドと共に、すごすごと部屋を出ていくしかなかった。



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青薔薇と子供達

 春が終わりを迎える5月の末。

 ネフライトはこの季節、城の薔薇園によく足を運ぶ。

 元々好きな場所なのだが、この時季に限って特によく通っているのは、最も好きなあの薔薇が咲き始めるからだ。

 リナーリア。誰より敬愛する母の名が付けられた、とても珍しい青い薔薇だ。

 

「…見てよ、カロール、咲いてる!」

 一輪だけ花開いた青薔薇を指差し、隣に立つカロールに話しかける。カロールも上から覗き込んでうなずいた。

「本当だ。じゃあ、王妃様のとこ行くんですね?」

「うん。すぐ行こう」

 

 この薔薇は花が開いたばかりの時、最も鮮やかな美しい青色を見せる。母の瞳と同じ色だ。

 母もこの薔薇がとても好きで、ネフライトはこれが咲くことを一番に報告したいがために、毎日ここに来ているのだ。

 

 

 

「…母上、部屋にいるかな?」

「うーん、この時間なら多分」

 城の廊下を歩きながらカロールと話す。

 

 彼はネフライトの従者だ。年は2つ上で、今14歳。

 王家の子供には幼い頃から従者として同年代の同性の子供が一人つく決まりになっていて、第一王子であるネフライトにはこのカロールが選ばれた。

 少し能天気なところはあるが、ネフライトにとっては幼馴染であり一番の友人だ。

 

 そうやって歩いていると、前方に不審な人影が見えた。

 金髪に女騎士の服を着込んだ少女が、銅像の陰にしゃがみ込み奥の扉の様子を窺っている。

「あ!ヴィヴィア様だ!」

「うぇ…」

 嬉しそうな声を上げるカロールとは逆に、ネフライトは顔をしかめた。

 …この状況は、いつものあれだ。姉がああして身を潜めて待つ相手は一人しかいない。

 

 

 案の定、廊下の向こうからは赤毛をした長身の男が歩いて来る。

 姉はいきなり銅像の陰から飛び出すと、男に向かって思い切り木剣を突き出した。

「…たあぁっ!!」

 無駄のない素早い動きで胸元を狙ったそれを、男は僅かな動きだけで避け、手刀で叩き落す。

 

「…いったぁ〜い!!」

 

 悲鳴を上げて手の甲を押さえるヴィヴィアを、男…スピネルが呆れ顔で見下ろした。

「お前、本当に懲りねえな。城の中で木剣振り回すのやめろっつってんだろ」

「だって、こうしないとスピネルは勝負してくれないじゃない」

「闇討ちは勝負とは言わねえんだよ!あと本当に危ねえんだよ、周りが!見ろ、通行の邪魔になってるだろうが!」

 

 言われて姉はこちらを振り返った。

「あらネフライト、いたの」

「いたよ。見てたよ」

 

 ジト目になるネフライトの横で、カロールがズイッと身を乗り出す。

「あの、ヴィヴィア様、手合わせなら俺が相手しますけど!」

「えー?嫌よ、あなた私より弱いもの」

「そ、そんな…!!」

 

 ショックを受けるカロールに、こいつも懲りないなとネフライトは思う。毎回振られているくせに。

 そもそもこの姉のどこが良いのかネフライトには全く分からない。乱暴だしガサツだし気が強いし人の話を聞かないし無茶苦茶な事ばっかりするし。

 

 小さい頃から「遊びに行くわよ!」という姉に引きずられて行っては池に落ちたり蜂に追いかけられたり木から落ちたり、とにかくひどい目にばかり遭ってきたネフライトは、心底この姉が苦手である。

 姉にも従者の少女がいるのだが、これまた癖の強い性格で、姉の蛮行奇行を大して止めようとしないのだ。今日も姿が見当たらないし。

 

 

「ネフライト、またお母様のところ?本当お母様の事好きよね」

「別にいいだろ!…姉上も、少しは母上を見習って女らしくすればいいのに…」

 そう言った途端、「ぶはっ」と吹き出す声が聞こえた。

 

「…なんで笑うんですか」

「いや、すまん、何でもない」

 思い切り睨み付けるが、スピネルは口元を押さえて明らかに笑っている。何て失礼な奴だ。

 以前は父の従者だったというこの男は、何かというと母をからかっては怒らせている。その割には父も母もこの男とは仲が良く、全幅の信頼を置いている様子なのが気に入らない。

 

「とにかく、俺はもう行くぞ。じゃあな、ヴィヴィア。ネフライト殿下、失礼します」

「あ、待ってよ!勝負はまだ終わってないんだから…!」

 スタスタと歩き出したスピネルを追って、騒がしい姉は去って行った。

 小さくため息をつき、残念そうに姉を見送っているカロールを促す。

「ほら、行くよ」

「はい…」

 

 

 

 母の部屋を訪ねると、ちょうど来客中だった。

「叔父さん、こんにちは」

「こんにちは」

 褐色の肌に、額から生えた2本の角。

 この国に一人しかいない竜人である叔父ライオスは、直接血は繋がっていないが母の弟という立場だ。この城にはよく遊びに来る。

 

 その叔父の膝の上にちょこんと座っているのは、妹のラピスだ。

「ラピスも来てたんだ」

「うん」

 小さくうなずいた妹の頭をライオスが撫でる。

 ラピスはネフライトやヴィヴィアとは少し年が離れていて、まだ4歳。無口で人見知りな子だが、この異形の叔父には(こと)(ほか)懐いていて、会うたびにこうして膝の上を専有している。

 

「ネフライトはどうしてここに?」

「薔薇園のリナーリアが、一輪だけどやっと咲いたんです。だから母上にお知らせしようと思って」

「まあ、そうなんですね。教えてくれてありがとう」

 ぱっと微笑んだ母に、ネフライトは嬉しくなる。

 美しく優しい母はネフライトの憧れであり理想だ。あの傍若無人な姉などとは全く違う。

 

「早速見に行きましょうか。ライオスとラピスも一緒に。…ヴィヴィアはどうしてるでしょうか?」

「姉上なら、さっきまたスピネル殿を追いかけていきましたよ」

「あの子はまたスピネルに迷惑をかけて…」

 母は一瞬困った顔になったが、すぐに気を取り直して立ち上がった。

「では、私達だけで行きましょう」

「はい!」

 

 

 

「…おとうさまは?」

 廊下を歩きながら、ライオスの腕に抱きかかえられたラピスが母に尋ねる。

「お父様は今、大事な会議の時間です。また別の時に一緒に見に行きましょうね」

「ん」

 

 国王としていつも忙しい父も、妻の名を付けたあの薔薇を愛している。咲いたと聞けばきっと見たがるだろう。

 王妃であり優れた魔術師でもある母も本来は忙しい立場なのだが、末妹のラピスはまだ幼い。

 5歳を過ぎて従者を付けるまではなるべく一緒にいたいという方針だそうで、公務や研究の類はかなり控えている。ネフライトもそうして育てられた。

 

 姉にはすぐマザコンだとか言われるが、ネフライトが母を敬愛するのは、そうやって母と過ごす時間が多かったせいもあると思う。

 若くして既に名君と名高い父の事だって、もちろんちゃんと尊敬しているし。

 

 

「…ああ、本当ですね。ちゃんと咲いています」

 薔薇園の一角にいくつも並んだ青い蕾、その内の一つがしっかりと花開いているのを見て、母は嬉しそうにしゃがみ込んだ。

 こうしてこの青い薔薇を眺める時、父との結婚式の事を思い出しているのだと、ネフライトは知っている。

 

「きれい」

「そうですね、綺麗でしょう。私とラピスの瞳と同じ色ですよ」

 しばし妹と共に見入っていた母だが、ふいにこちらを振り返った。

「ところで、ネフライト。ここには今、このリナーリアが10株ほど植えられていますが」

「はい」

「この中に一つだけ、私がほんの少し魔術構成を書き換えた株が混じっています。…どれだか分かりますか?」

 

 

「……」

 にっこりと笑って問いかけられ、ネフライトは笑顔のまま背中に冷や汗を流した。

 隣でカロールが「健闘を祈る」と言わんばかりに目を逸らす。

「ふふ、私が教えた探知魔術があればちゃんと分かるはずですよ。さあ、どれでしょう」

「は、はい…」

 

 この薔薇は元々、魔術を使い遺伝子情報を書き換えて作られた品種だ。

 だからよくよく見ればその痕跡が分かるのだが、そこから更に些細な違いを見つけ出すのは母が言うほど簡単な事ではない。薔薇の知識、魔術の知識、そして技術が必要になる。

 

 魔力を目に宿してじっと薔薇を見つめる。正直、どれも同じにしか見えない。

 いや、確かに少しずつ違っているのだが、それが自然に生じた違いなのか魔術によって生じた違いなのかの区別がつかない。

 ひたすら薔薇を見比べ続け、やがてネフライトは一つの株を指差した。

「こ、これ…でしょうか、母上…?」

 

 

「…正解です!さすがはネフライトですね!私も鼻が高いです…!」

 にこにこと笑って頭を撫でる母に、ネフライトは何とか笑い返す。

「あ、ありがとうございます…」

 むちゃくちゃ疲れた。

 凄まじく集中したせいで頭がちょっとクラクラする。訓練でたくさん魔術を撃った時よりはるかに疲れている。

 

 …そう、母はとても優しく賢く素晴らしい人だけど、勉強だとか剣や魔術の訓練になると一切の妥協をしないのだ。物凄く高いハードルを、当たり前のように設定してくる。

「陛下と私の子なんですから、絶対にできますよ!」と言うその笑顔には曇り一つなく、だからネフライトは必死で努力するしかない。

 

 ある時父に「母上の期待に応えるのが大変なんです」と相談してみた事があるが、父は重々しくうなずくとこう言った。

「俺も、リナーリアの期待に応えるのは本当に大変だった。リナーリアはいつでも俺を信じてくれて…本当に信じてくれてな…。できないなんて一切思っていないんだ…。だから、死ぬ気で頑張るしかなかった…」

 

 その遠くを見つめる目を見て、ネフライトは全てを悟らざるを得なかった。

 …あの無邪気な期待を裏切るなど、そんな選択肢は存在しないのだと。

 

 

「これなら、次はもっと難しい問題を用意しないといけませんね!」

 上機嫌な母に対し、ネフライトは「お手柔らかにお願いします…」と弱々しく笑い返した。



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宝玉の機能

少し時間が戻って、結婚前のお話です。


「…そうしてオウジサマは、オヒメサマとケッコンし、スエながく、シアワセにくらしました」

 ぱたんと絵本が閉じられ、私はにっこりと笑って拍手をした。

「お疲れ様です、ライオス!とても素晴らしかったですよ!」

 褒められたライオスがちょっと得意げな顔になる。

 

 ライオスの現代語の勉強は順調だ。

 発音はまだ若干ぎこちないものの日常会話くらいなら話せるようになったし、文字も覚えた。

 絵本のように難しい単語が使われていない本ならもう十分読めるようだ。

「これなら、ジャローシス領の民の前に出て行っても大丈夫そうですね」

「ウム…」

「そんなに身構えなくても大丈夫ですよ。私も付いていますから」

 

 

 今年学院を卒業した私は、ライオスを連れ数年ぶりにジャローシス領で冬を越す予定だ。

 何しろ来年には結婚式を挙げるので、一冬まるまるジャローシス領で過ごせるチャンスは今年が最後なのである。

 今のうちにあちらの屋敷の者たちや領民たちに顔を見せておきたい。

 

 ライオスも去年はまだ人間社会に慣れておらず、王都を離れるのは色々問題があるという判断で、ジャローシス領には行かなかった。今年やっと許可が降りたのだ。

 父や母からは領内の話を色々聞いているので、行く事自体は楽しみらしいのだが、知らないたくさんの人間と会うのは少々不安らしい。

 

 

 でもまあ、これも修業と思って頑張ってもらうしかあるまい。

 ライオスがこの国の民にその存在を知られてからもう1年半経っている。

 我が家の一員で貴族という立場である以上、そろそろ人前に出る事に慣れてもらわなければいけない。

 特にジャローシス領の民に親しみを持ってもらうのは重要だ。

 何故なら領内の火竜山にある遺跡は、ミーティオを復活させるための発掘調査が来年にも予定されているからだ。

 

 ジャローシス領やその周辺地域での竜のイメージはあまり良くない。民間に伝わる伝承は、竜が人の敵であるというものばかりだ。

 当時の王が竜の宝を奪った事を正当化するため、良い伝承は残さず悪い伝承ばかり残したのではないかと推測されているが、突然「実はこの竜は島の守護者でした」と言ってもなかなかすぐには浸透しないだろう。

 発掘調査に反対する民が出て来る事は想像に難くない。

 

 

 …だが、この竜人ライオスは違う。

 つい昨年この国の民を守るために超大型魔獣と戦ったという話は小さな子供にまで知れ渡っているし、生きて動いていて直接話もできる。そのインパクトは抜群だ。

 発掘調査に協力してもらうため、いずれミーティオが復活した時のため、ライオスを通じてできるだけ竜のイメージを良くしたいという訳だ。

 そして親しみを持ってもらいたいなら、古代語を宝玉の力で翻訳するより現代語が使えた方がいいだろう。

 

 ちなみにミーティオには少々距離があったライオスだが、若干渋りはしたもののこの件への協力を了承してくれた。

 ミーティオは普段はほとんど出てこないし、宿主であるスピネルは何かとライオスの世話やらフォローをする事も多いので、いつの間にかわだかまりが薄れたらしい。

 最近などむしろスピネルとは仲が良さそうに見える。あいつ面倒見良いからな。

 

 

「…しかし、改めて不思議な宝玉ですよね。一体どういう仕組みで言葉を翻訳して伝えているのか」

 思わずライオスの胸元の赤い宝玉を見つめる。透き通っていて、吸い込まれそうな不思議な魅力がある。

「オレにもわからない。カミのチカラをリヨウした…ええと、キノウ?のようだ」

「まあそうですよね…」と納得しかけ、私はふと首を傾げた。

 

「…機能?ライオスが宝玉の力を使ってやっている事ではないんですか?」

「ちがう。これには、はじめからそういうキノウがある。ニンゲンのためのキノウ」

「えっ!??」

 

 人間のための機能?なら私が持っても同じ事ができる?何のために?

 これはミーティオがセレナのため、島を出て新天地に行く者のために作ったものだ。

 じゃあ、新天地を探すために必要な機能という事に…。

「…み、ミーティオに会いに行かなければ!!」

 

 

 

 

『…その通りだ。神は、この島の外にはいくつもの島や大陸があり、そこには服装や言葉など、あらゆる文化が異なる人間たちがいると言っていた』

「何でそんな大事なことを早く言わないんですか!!!」

 答えたミーティオに、私は思わず叫んでしまった。

 

 確かに考えてみれば当たり前だ。

 同じ島の中ですら、古代と現代では言葉が違う。それなのに、まるで違う遠い場所で生きている人間が、私達と同じ言葉を話す訳がない。

「マジかよ…」と呟いたスピネルの横で、セナルモント先生は何やら考え込んでいる。

 

「たいりく…?大きな陸地?ああ、そうか!海の向こうには、この島より遥かに広大な大地があるんだね!?それを大陸と呼ぶ訳だ!!」

「そこ!?いやそこも驚きではありますけど!!」

『すまない…説明するのを忘れていた』

「このうっかり竜!!」

 そう言うとミーティオはちょっとしょぼんとした。これが島の守護者で私の先祖…ううう。

 

 

『…外の人間がどれほど繁栄しているのかは私には分からないが、新天地を探す際には、きっと様々な者と出会う事になる。そして、生き物は自らの縄張りを侵される事を嫌うものだ。言葉を翻訳する機能があれば、無用な争いは避けられると思った』

 その考えは正しいと思うが、先に言っておいてくれ。心構えがあるのとないのとじゃ全く違う。

 今のうちに分かって良かった…。

 

「その機能って、使えるのは宝玉を持っている当人だけですよね?」

『そうだ』

「では、新天地を見つけ、天秤への門を開いた後はどうなりますか?」

『天秤は残るが、宝玉は消える。門の周辺には結界が張られ、悪しきものが近づけないようになるが、言葉を翻訳する力は失われるだろう』

「やっぱり…」

 

 

「うーん、でも新天地を見つけるまでの間は言葉を通じさせてくれるだけでも、十分と考えるべきじゃないかな。新しい場所、新しいことを始める時には困難はつきものだ。言葉はその内の一つに過ぎないよ」

「…そうですね」

 真面目な口調で言った先生に、私はうなずいた。

 

「でも、出発までにはまだ時間があります。言葉の問題に限らず、想定しうる困難に対処する方法をできるだけ考えましょう。それが私達に出来る事です」

 

「そうだな」

「もちろんだとも」

 スピネルと先生が答え、ミーティオが一歩前に進み出る。

『私も、できる限りの協力をしよう』

 

「…当たり前ですよ!!ミーティオ、貴方にはこの宝玉や船を作った責任があるんです。まずは、他に何か忘れている事がないかしっかり思い出して下さい!!」

 そう叱ると、ミーティオは眉を下げた情けない顔で『分かった…』と答えた。



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勝利の約束※

学院卒業少し前くらいのお話です。


「…勝者、スピネル・ブーランジェ!」

 王子の手が上がり、周囲の野次馬からわっと歓声が上がる。

 対戦相手の生徒は少しの間呆然としていたが、気を取り直したように笑顔を浮かべると、兄と握手を交わした。

 

「お兄様、お疲れ様!」

「…おう」

 試合を終え闘技場のリングから降りてきた兄は、一応返事はしたもののムスッとした表情だ。少々機嫌が悪い。

「じゃあな」と片手を上げると、王子と共にすぐに立ち去ってしまった。

 

 少し肩を落としたカーネリアに、隣にいたヴァレリーがにっこりと笑いかける。

「食堂でお茶にしませんか?私、最近あそこのスコーンがお気に入りなんです」

「良いですね。私もご一緒してもよろしいですか?」

 その隣のリナーリアも同調し、カーネリアは気を取り直して笑い返した。

「そうね、行きましょ!」

 

 

 

 ほんのり温かいスコーンを2つに割り、ブルーベリージャムとクロテッドクリームをたっぷりと付けて口に運ぶ。

 さっくりとした歯ごたえのスコーンにはこの組み合わせがよく合うのだ。

 更に、紅茶を一口。紅茶というのはこういうお菓子を引き立てるためにあるとカーネリアは思っているが、紅茶好きの兄の意見は真逆であるらしい。

 

「…お兄様、今日も不機嫌だったわ」

 ポツリとそう言うと、ヴァレリーがティーカップをソーサーに置いた。

「えーと、スピネル様はこれで先週から5度目の試合でしたよね?」

「そう。…本当、あんな事言うんじゃなかったわ…」

 大きくため息をつく。兄が今やたらと試合を申し込まれているのは、カーネリアが原因なのだ。

 

 

「お兄様より強い人となら、お付き合いしてもいいわ」

 そうカーネリアが言ったのは、今から2年半も前…まだ学院に入学して間もない頃だ。

 その頃は単なる虫除けのつもりだった。兄の剣の腕前は既に噂で広まっていたし、実際にそれが目的で試合を申し込む者はそれほどいなかった。

 やって来るのはよほど腕に自信がある上級生だけで、兄もそういう相手との試合を楽しんでいた。

 

 だが、今は違う。試合を申し込んでくるのは下級生ばかり、それも度胸試しとばかりに遊び半分で挑んで来る者ばかりだ。

 どうせ敵わないだろうが、万が一勝てたらラッキー。そうでなくても箔がつく。そんな気軽さなのである。

 それでも数人程度なら問題なかったのだろうが、命知らずな生徒は思った以上に多かった。

 いっそ思い切り叩きのめせれば良いのだが、下級生相手にあまり大人げない対応もできず、兄はだいぶ嫌気が差しているようだ。

 

 それもこれも、全て…。

「本当に、ユークにも困ったものねえ」

 …ヴァレリーの言う通り、ユークレースが悪い。

 

 

 カーネリアだってもう自覚している。

 仮に兄に勝てる者が現れたとしても、カーネリアがその手を取る事はない。

 自分が待っているのは、あの生意気でひねくれ者でプライドが高い、意地っ張りの年下の少年なのだ。

 

 向こうだってきっとカーネリアが好きに決まっている。

 一緒にいる時間だって長いし、他の女の子と自分とでは態度が違っている。

 

 テストでいい成績を取った時、他の生徒に魔術戦で勝った時、どうだと言わんばかりに最初にカーネリアを見る。

 カーネリアが別の男子と話している時、チラチラとこちらを気にしている。そこで会話を打ち切ってユークレースの方へ行くと、ちょっとだけ上機嫌だ。

 バレンタインに手作りのお菓子をくれた時だって、カーネリアへのものが一番丁寧で綺麗だった。

 

 

 でも、やっぱり何も言ってこないのだ。カーネリアはもう、あと数ヶ月で卒業してしまうというのに。

 最近は王宮魔術師団に通うのが忙しいとかで放課後いつもいないようだし、ランチに誘っても「クラスメイトと食べる」などと断られがちだ。

 どうも避けられている気すらしてくる。

 

 別に卒業したら関係が絶たれる訳ではないけれど、それでもきっと距離が開いてしまう。生活が変わってしまうからだ。

 卒業後はブーランジェ家の女騎士になる予定だが、両親はきっと数年以内に家中の騎士の誰かと結婚するよう勧めてくる。強制はしないだろうが、いつまでも独身でいる事を良くは思わないだろう。

 カーネリア自身、騎士をやりつつ結婚だってしたいし子供も欲しい。

 

 どうして何も言ってくれないのだろう。

 あの賢い少年なら、そのくらいの事はとっくに分かっているはずなのに。

 それとも、自分は思っていたほどに彼の「特別」ではなかったのだろうか。

 下級生たちが兄を倒そうと盛り上がっているのも、カーネリアが誰とも婚約しないままでいるからなのだ。

 

 

「ユークじゃスピネル様には勝てないのは、どうしようもないと思うんですけど…」

「そうですね。そもそも魔術師と騎士では役割が違いますから」

 ヴァレリーの言葉にリナーリアがうなずき、カーネリアは口を尖らせた。

「でも、それなら他にも方法はある訳じゃない?助っ人を連れて来るとか、別の方法で勝負するとか」

 

 チェスだとかカードだとか、あるいはテストの成績でも良い。

 兄はだいたい何でも優秀だが、どれかではきっと勝てるはずなのに。

 

「スピネルが不機嫌なのはそのせいもあると思うんですよね。ユークが何の行動もしないから…まあ、行動したらしたで不機嫌になりそうですけど」

「スピネル様って結構面倒な人ですよね」

「そうなのよ…」

 

 兄の機嫌は日に日に悪くなる一方だ。カーネリアとしてもさすがに申し訳ない。

 もういっそ自分の方からユークに言うべきだろうかとも思うが、でもそれは嫌なのだ。

 だってカーネリアはいつもこちらから彼に近付き、その手を引っ張ってきた。

 こういう時くらい、男らしく向こうから来てくれても良いではないか。

 

 

 

 ついに動きがあったのは、それから更に5日後の事だ。

 昼休みの終わり際、ユークレースに「放課後、闘技場に来い」と言われたのである。

 カーネリアは胸を躍らせた。いよいよ待ち望んでいた時が来たのだ。

 

 …闘技場なら、やっぱり試合をするのかしら?ユークの事だから、きっと勝算があるに違いないわ。

 考えるだけでつい口角が上がってしまう。

 おかげで午後の授業は全く身が入らず、ずっとニマニマとしていたせいで教師にも注意されてしまった。

 

 

 そして放課後。

 カーネリアは深呼吸をすると、わざとゆっくりと歩いて闘技場に向かった。

 本当はすぐにでも走り出したかったが、そんな風に喜んだ態度を見せるのは癪だったからだ。

 闘技場に入るとすぐに、兄の鮮やかな赤毛が見えた。その隣には王子とヴァレリー。同級生たちも近くにいる。

 

「お兄様?どうして観客席にいるの?」

「俺はあの小僧に言われて試合を見に来ただけだ」

 兄は今日もムスッとしている。一体どういう事かと思ったら、闘技場のリングに人が上がってきた。

 ローブを羽織ったユークレースとリナーリア、それから制服姿のミメット。

 

「…試合相手って、リナーリア様なの!?」

「ユークはリナーリア様に勝つ事をずっと目標にしてましたからねえ」

「それはもちろん知ってるけど…」

 入学してから何度も繰り返し魔術戦を挑んで、まだ一度も勝てていないはずだ。だが最近は挑んでいる姿をちっとも見かけなかった。

 本人は修行中だとか何とか言っていたが…。

 

 ヴァレリーがこそっとカーネリアに耳打ちする。

「ユーク、今日はいつも以上に本気みたいですよ。絶対に勝つつもりです。…ほら、リナーリア様はスピネル様に勝ったことがありますし…」

「あ、それじゃあ…」

 リナーリアに勝てば、兄に勝ったも同じという理屈か。近頃忙しげにしていたのもこれのためか。

 

 内緒話が聞こえてしまったのか、兄の顔がますます不機嫌になった。

 話を聞きつけたのだろう、周囲には野次馬の生徒がかなり集まってきている。

 

 

「両者、開始位置に付いて下さい」

 ミメットが片手を前に出して声を上げる。きっとリナーリアに審判を頼まれたのだろう、やや緊張した面持ちだ。

 

「手加減はするなよ。絶対に」

「分かりました」

 ユークレースとリナーリアがお互い静かに杖を構える。

 

「…始め!!」

 

 

 

 

 それから20分後。

「…えっと、凄く頑張ったと思います。本当に凄かったです。でも仕掛けるタイミングがほんのちょっと遅くてですね…私を十分追い込んだという確信が欲しかったんだと思いますが、それが逆に良くなかったというか…」

 がっくりと両膝をついたユークレースに、リナーリアが必死で声をかけていた。

 

 闘技場内にはかなり気まずい空気が漂っている。観戦に来た野次馬達はだいたい皆、今回の事情を知っているからだ。

 この学院の生徒は皆噂好きだし、カーネリアもユークレースも結構な有名人だ。

 

 ユークレースは戦いを有利に運んでいた。凄まじい威力の風と炎の魔術を操り、リナーリアが繰り出す反撃もしっかり抑え込んでいた。

 観客は大いに盛り上がり、ユークレースの勝利に期待する者が多いようだった。

 あのユークレースがついにカーネリアに告白するのか。リナーリアに勝てたならスピネルよりも強いという屁理屈を、カーネリアは、スピネルは受け入れるのか。

 皆、その結末がどうなるか見たがっていた。

 

 

 …しかし、結果はリナーリアの逆転勝利である。

 リナーリアも会場の雰囲気を感じ取っているのだろう、非常に申し訳無さそうにしている。

 だが彼女は悪くないのだ。彼女は手加減などできる性格ではないし、そもそも手加減するなと言ったのはユークレースだ。カーネリアだって、手加減されての勝利など望んでいない。

 ただ、皆ががっかりしているというのも事実だった。

 

「あの、ユーク、これは本当に限りなく引き分けに近い勝負だったというか…」

「…もういい。お前、慰めるの下手くそすぎ」

「!?」

 ボソッと言ったユークレースに、リナーリアがショックを受ける。

 

「どうせ、僕じゃお前には勝てないんだ」

「ゆ、ユーク…」

 くるりと背を向け、ユークレースはとぼとぼと歩き出す。

 

 

「…待ちなさいよ!!」

 

 カーネリアは走って観客席から降りると、闘技場を出ようとするユークレースの前に回り込んだ。

「ユーク、貴方、このくらいで諦めちゃうの!?」

「このくらいとは何だ!!僕はこの2年間ずっと努力してきたんだぞ!?勉強して、練習して、頑張ってきた!…それでもあいつは、僕の上を行く…!!」

 

「たった2年が何よ!!」

 カーネリアはビシッと王子を指差した。

「殿下なんて、お兄様に勝つまで10年もかかったのよ!?それでも頑張ったのは、リナーリア様の事が好きだったからだわ!!」

「はわわっ…」

「そ、それだけが理由ではないぞ」

 リナーリアと王子が揃って赤くなるが、カーネリアはお構いなしに続けた。

 

「ユークだって、私の事が好きなら何年かかっても勝ってみなさいよ!!!」

「…ぼ、僕は、別に…」

「ユーク!!」

 目を背けようとするユークレースの顔を両手で挟み、無理矢理こちらを向かせる。

「好きなんでしょ!?」

「……っ」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ユークレースの頬が赤く染まる。

 ギュッと目を瞑り、歯を食いしばると、それから叫んだ。

 

「…す、好きだ!!!」

 

 周囲から「おおっ」というどよめきが上がる。

 

 

 …やっとだ。やっと、聞きたかった言葉が聞けた。

 強引に言わせたのだが、それでもやっぱり嬉しい。

 カーネリアは満面の笑顔を浮かべた。

 

「だったら私も、ちゃんと待っててあげる!大丈夫、ユークなら絶対にリナーリア様を倒して、お兄様に交際を認めさせる事ができるわ。…だってユークは、天才魔術師なんですもの!!」

 

「……は、離せ」

 ユークレースは少しの間無言で固まっていたが、カーネリアの両手から逃れると、ぷいっと横を向いた。

「…ふん!さっきは、ほんのちょっと弱気になっただけだ。僕は必ずあいつを超える。勝ってみせる。…だから、しっかり見てろよ!」

「ええ…!もちろん!!」

 

 観客から歓声と拍手が沸き起こる。

「良いぞー!!」

「頑張れー!!」

 カーネリアはニコニコと笑い、ユークレースは再び赤くなった。

 

 

 …そして、少し離れた所では。

 

「…あの、できれば早めにお願いします…試合は構わないんですけど、何だか私が悪役みたいでいたたまれないので…」

「何で俺がこんな茶番に付き合わなきゃならないんだよ!!!ふざけんな、俺は二度と見に来ないからな!!!」

「スピネル様、落ち着いて」

 リナーリアは困った顔をし、兄は激怒してヴァレリーに宥められていた。




新連載「流星の天秤~令嬢になった元従者、現従者と共に王子を救う~」を開始しました。
世界の天秤のアナザー(スピネル)ルートですが、似ているけど所々設定が違う、別の世界の物語になります。リナーリアの名字も違っています。
楽しく面白い物語にして行きたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。
https://syosetu.org/novel/325969/

活動報告も更新しております。
世界の天秤の後日談も、のんびり更新で続けていく予定です!


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デーナのやりたいこと

58話(ブロシャン水霊祭編)で登場したアイキンの叔父カーフォルと、135話(秘宝事件編)で登場したメイドのデーナのお話です。


 デーナは、このヘリオドール王国の王家直轄領の生まれだ。

 リンゴを特産とする小さな村に親子3人で住んでいたが、デーナが6歳になった頃に父は病気で亡くなってしまった。

 

 生活に困った母は知り合いの伝手を頼って領内にあるオレラシア城という小城に行き、そこで住み込みのメイドとして働き始めた。

 無論、デーナも一緒に働くことになった。

 貧しい平民においては、子供だろうと働いて稼がなければならない。

 

 

 しかしデーナが働くのは大変だった。

 小さな村での暮らししか知らず、まだ幼いデーナには、城での暮らしは分からない事だらけ。

 しかもデーナは言葉が話せない。まだ生まれたばかりの頃に喉の病気を患い、何とか一命はとりとめたものの、声が出なくなってしまった。

 いくら話そうとしても、喉からはかすれた息しか出てこないのだ。

 

 話せないのでは人に物を尋ねる事が難しい。手話ならば少しはできたが、理解できる者は母以外いない。

 結果、仕事を上手くできずに叱られる事が多く、デーナは物陰に隠れて泣いてばかりいた。

 

 だがどこに隠れても、母はすぐにデーナを見つけ出した。

 母は優しく慰め、励まし、そして最後に必ずこう言った。

「大丈夫よ、デーナ。神様は見ててくれる。頑張って真面目に正直に生きていれば、いつか必ず報われるわ」

 

 デーナは母が大好きだったが、そんなささやかな暮らしは長くは続かなかった。

 ある時父と同じ病に倒れ、それから間もなく亡くなってしまったのだ。

 

 

 デーナは一人になった。

 母の知人や同僚たちの中には親切にしてくれる者もいたが、話せないデーナはどうしても彼らに対して引け目を感じてしまう。

 同年代の少女にたった一人、友達と言える相手もできたが、彼女はやがて結婚して城での仕事を辞めてしまった。

 

 ただ毎日、起きては働き、また眠るだけの孤独な日々。

 主にやるのは野菜の皮むきや皿洗いなどの厨房の下仕事、それに掃除。

 洗濯もたまにやるが苦手だった。仕事そのものよりも、洗濯場の雰囲気が苦手だ。洗濯女たちはとてもおしゃべりで、下世話な話や陰口も多く、聞くに堪えない。

 

 

 

 そんなデーナが、ある時全く違う仕事を言いつけられた。

 城の西側にある塔、その中にいる令嬢の世話をしろと言う。

「この事は誰にも言うんじゃない。行く時は必ず隠し通路を使え」と念を押された。その令嬢の存在を、城の者に気付かれたくないらしい。

 

 西の塔と言えば百年以上前、罪を犯した王族を閉じ込めるために作られたのだと聞いている。そこで狂い死んだ妃の幽霊が出るなんて噂もある。

 正直恐ろしくて仕方なかったが、言われた通りに食事を持って行くと、そこにいたのは美しい青銀の髪をした少女だった。

 まるでおとぎ話に出て来るお姫様のようで、とても罪人には見えない。

 

 思わず混乱していると、少女は静かに話しかけてきた。

「…あの、私、リナーリア・ジャローシスといいます。貴女は?」

 慌てて懐からメモ帳を取り出す。古紙を束ねて作ったもので、表紙にはデーナの名前が書いてある。

 昔いた庭師の老人が時折気まぐれで文字を教えてくれたので、自分の名前や簡単な言葉くらいは何とか読み書きができるようになったのだ。

 

 

 リナーリアと名乗った少女はメモ帳を見て少し目を丸くして、いくつかデーナに質問をし、それでデーナが声を出せない事を理解したようだった。

 

 …きっと酷く哀れんだ顔をされるだろうと思った。あるいは、怒り出すか。

 今まで何度も体験してきた。デーナが声を出せないと知らずに話しかけた者は皆、そのどちらかなのだ。

 

 だが、彼女はどちらでもなかった。

 とても申し訳無さそうに、「すみませんでした。気付かなくて…」と丁寧に頭を下げて謝った。

 デーナはびっくりしてしまった。

 自分のようなみすぼらしいメイドにわざわざ謝る貴族がいるなんて、夢にも思わなかったからだ。

 

 

 リナーリアは、デーナが部屋を訪れるたびに話しかけてきた。

 たまに部屋の外の様子について尋ねたりもするが、ほとんどはただの世間話だ。ここは風が強いとか、鳥の声がするとか、昨夜の食事を残してしまって済まないだとか。

 初めは困惑するばかりだったが、デーナもそのうち、うなずいたり身振り手振りで少しだけ返事をするようになった。

 すると彼女は、ホッとしたように笑う。

 

 彼女はきっと話し相手が欲しいだけなのだろう。この部屋の扉は外から固く閉ざされ、自分以外の人間が訪ねてくる様子はない。

 そう頭では分かっていても、こんなに熱心に何度も話しかけられたのは初めてで、デーナもつい嬉しくなってしまった。

 

 だが同時に、強い罪悪感も感じた。

 彼女は気丈に振る舞っているが、少しずつやつれていっている。一日中、窓もろくにないような狭い部屋に閉じ込められているのだから当たり前だ。

 美しい花が萎れていくのを見るようで、胸が痛んだ。

 

 

 リナーリアははっきりとは言わないが、どうやら攫われて来たのだという事はデーナにも分かっていた。

 この城の主、王兄フェルグソンは尊大で野心のある人物だという噂だ。

 その息子オットレが横柄な態度で使用人達を叱り飛ばしているのも、何度も見た事がある。

 ここにいれば、彼女はきっと酷い目に遭わされてしまう。

 

 早く誰か、彼女を助けに来て欲しい。

 デーナはこっそりと祈った。

 

 

 

 

 …それから数年。

 デーナは今、オレラシア城ではなく王都にある王城で、住み込みのメイドをやっている。

 

 あの事件でフェルグソンの悪事に加担していた者は全て処罰されたが、デーナは命じられてやっていただけであり、リナーリアが外部へ連絡を取る際に協力した功績もあって罪には問われなかった。

 しかし同僚たちからはあまり良い目で見られないだろうという事で、この城に移り住みメイドとして働くよう勧められたのだ。

 リナーリアの口添えもあり、デーナはその提案を受け入れる事にした。

 

 王城はオレラシア城よりはるかに広く、かなり戸惑ったが、ここの使用人達は皆デーナに親切だった。

 きっとリナーリアのおかげだろう。彼女はただ鉛筆を貸しただけのデーナにとても感謝していて、初めてここに来た時も、わざわざメイド長にデーナを紹介してくれたのだ。

 今や王子の婚約者である彼女は昔からよく城を訪れていたそうで、皆が彼女を知っていた。

「自分たち使用人にも丁寧に接して下さる方だ」と評判もすこぶる良く、デーナもそれには大きくうなずいて同意した。

 

 しかも、城には手話のできる人間もいた。家族に聾唖者がいるのだそうだ。

 おかげでデーナは思ったよりもずっとすんなりと、ここの仕事と生活に慣れる事ができた。

 

 

 そして今日も城の廊下の掃除をしていると、後ろから声をかけられた。

「やあ、デーナ」

 箒を動かす手を止めて振り返る。衛兵のカーフォルだ。

 

「もう休憩時間だよ。昼食に行こう」

 少しだけ微笑み、デーナはうなずいた。

 彼とはこの所、よくこうして一緒に昼食を取っている。

 

 

 使用人用の食堂に向かって、2人並んで歩き始める。

「そういや今日、またリナーリア様を見かけたよ。もうすぐ結婚式だから、忙しそうだ」

 

 リナーリアと王子は仲睦まじく、時々一緒に歩いているのを見かける。

 王子はあの事件の時、自ら彼女を助けに来たのだと聞く。デーナの祈りは天に届いた。お姫様を助けに来るのはやはり王子様なのだ。

 まあ彼女は大人しく捕まっていた訳ではなく、自分で助けを呼んだのだが。

 幸せそうなリナーリアを見ると、デーナも思わず嬉しくなる。彼女が救われて良かった。

 

「当日は俺も警備に参加するんだ。ちらっとでも見られたら良いんだけど。きっと凄く綺麗だろうなあ」

 カーフォルはただの衛兵だが、リナーリアとは顔見知りだ。何でもタルノウィッツ領で起きたとある事件の被害者で、その事件の解決にリナーリアが関わったのだという。

 

 彼は事件の影響で王都に移り住む事になったんだそうで、デーナとそっくり似た境遇だ。

 何かと親しく話しかけてくれるのは、きっとそれが理由だろう。

 故郷を離れる寂しさや心細さを知っているから。

 優しい人だと思う。デーナは話せないというのに、それをあまり気にしていないようだ。

 

 そうこう言っているうちに、食堂に着いた。たくさん人がいる。

「食事が終わったら、いつもの場所で勉強しよう」

 デーナは真面目な顔でうなずいた。

 

 

 

 実は今デーナは、カーフォルに改めて文字を教わっている。

 読む方はもう大分上達したが、書く方はまだ難しい。

 カーフォルから借りた本を見ながら、真剣な顔で書き写して行く。

 

「デーナは熱心だから、俺も教え甲斐があるよ。アイキンもこれくらい真面目に勉強してくれたらなあ」

 アイキンはカーフォルの甥だ。両親が亡くなったために引き取って育てているのだと言う。

 デーナも何度か会っているが、明るく元気いっぱいの少年だ。

 カーフォルは勉強して商売でもやって欲しいようだが、本人は騎士になりたいと言っている。

 

「でも、こんなに一生懸命覚えてるのはどうしてだ?誰かに手紙でも書きたいとか?」

 尋ねられ、デーナは顔を上げてうなずいた。

 それから、書き取りをしていた紙の隅にある名前を書く。

 

「…リナーリア様に?」

 デーナはうんうんとうなずき、さらに文字を書く。

「ありがとう、おめでとう…。そうか、感謝とお祝いの手紙か。なるほど」

 カーフォルはにっこりと笑った。

 

 

 以前とは比べ物にならないほど居心地の良いこの職場を、生活を、デーナはとても気に入っている。

 周りの人達からも、「ここに来たばかりの頃より元気になったね」だとか「若々しくなったんじゃない?」だとか言われる。

 以前は年よりも老けて見られたためによく30代に間違われたのだが、近頃はそれがなくなった。デーナは実はまだ20代なのである。

 生きる事が楽しいと、人は若くなるものらしい。

 

 いつかはきっと報われると言った母の言葉は本当だった。

 それをもたらしてくれたのは、神様ではなくリナーリアだったけれど。

 囚われのお姫様だった彼女は自分で運命を切り開き、ついでのようにデーナの運命まで変えてしまった。

 

 

 …その感謝を、彼女のこれからの幸せへの祝福を、自分の力で伝えたい。だから文字を練習しているのだ。

 こんな風に自ら何かをしたいと思うこと自体が、デーナにとっては新鮮だった。

 

「リナーリア様もきっと喜んで下さるよ」

 優しくそう言ってくれるカーフォルに、デーナはほんのりと頬を染めてうなずいた。

 本当は彼にも感謝の手紙を送ろうと思っているのだが、その事はまだ秘密だ。



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新たな女神の伝説

 静かな室内に、カリカリと鉛筆を走らせる音が響く。

 詩文の問題で出てきた作者名が思い出せず、カロールは懸命に記憶を探った。

 何だっけ。ディなんとか、いやヴィなんとかだっけ…?

 目を閉じて考え込んだ時、すぐ横から聞こえていた鉛筆の音が止まった。

 

「できました!」

「えっ、早っ!」

 驚いて顔を上げると、隣のネフライト王子は母親譲りの青銀の髪を揺らして少しだけ得意げな顔をした。

 答案を受け取った教育係が赤鉛筆を持ち、素早く採点していく。

 

「…大変よくできました、満点です。これなら、明日の午後はお休みを差し上げて大丈夫ですね」

「やった!」

 喜ぶ王子に少し焦る。

 自分は従者だというのに、このままでは置いて行かれてしまう。せっかくのお忍びのチャンスなのに。

 

 カロールは必死に鉛筆を動かし、それから10分ほど後。

「はい、カロール様も合格です」

「やったね!!」

 カロールとネフライトは笑顔でハイタッチをした。

 

 

 

 …ネフライトが「城下町に行きたい」と言い出したのは、つい3日ほど前の事だ。

 カロールは初めちょっと驚いた。ネフライトが自分からこういう事を言うのは珍しかったからだ。

 

「どこか行きたい場所でもあるんですか?」

「うん。ギロルっていう画家の個展に行きたいんだ」

 それを聞いてカロールは思わず脱力した。

 

「…それって確か、この前陛下と王妃様が行ったやつですよね。王妃様が若い頃モデルをした絵も展示されてるっていう…」

「そう!僕はその日別の用事で連れて行ってもらえなかったから、どうしても見に行きたいんだ!」

「まあ良いですけど…もうちょっと他に興味持ちましょうよぉ」

「いいだろ、別に」

 

 少し頬を膨らませるネフライト。

 カロールの主であるこの少年は、将来はこの国を継ぐ予定の第一王子だ。

 控えめだが穏やかな性格、両親に似て容姿は整っているし、勤勉で頭も良い。実によくできた王子なのだが、一つ困った点を挙げるとすれば、とにかく母である王妃の事が大好きだという点だ。

 確かに美人だし優しいし素敵な人だとはカロールも思うが、もう14にもなるというのに二言目には「母上」というのは、将来が少々不安になってくる。

 

 

「そうだ、姉上には内緒にしてよ。城下町に行くなんて言ったら絶対付いて来るから」

「別に一緒に行けばいいじゃないですか」

「やだよ!姉上が大人しく絵なんか見るわけないだろ!すぐ飽きて他のとこ行こうとするに決まってる!」

「それは…確かに」

 

 ネフライトの姉のヴィヴィア王女は弟とは真逆の活発的な性格だ。一つ所にじっとしている事がないので、絵の個展のような静かな場所とは致命的に相性が悪いだろう。

 そのパワフルで気の強そうな…というか強い所がカロールには好みだったりするのだが。あと顔がすごく可愛いし。

 

「じゃあヴィヴィア様は置いといて、誰か連れて行きたいご令嬢とかいないんですか?城下町にお忍びと言えば、デートの定番じゃないですか」

「いる訳ないよ」

「やっぱりですか…」

 

 まあ王子にとってご令嬢達とは皆、向こうからグイグイとやって来るものだ。腰が引けてしまう気持ちも分かる。

 特に積極的なのはランメルスベルグ侯爵家のスティーラ嬢などで、このご令嬢がまた気が強い。しかもヴィヴィア王女の自称ライバルで、犬猿の仲だったりする。

 

 ネフライトは二人の喧嘩に巻き込まれる事も多く、姉の次くらいにスティーラの事を苦手としているようだ。

 カロールから見れば彼女もとても魅力的だし、内心応援していたりもするが、「母上こそ理想の女性」と言うネフライトの好みからは大分外れているのも事実だ。

 今の所進展しそうな様子は全くない。

 

「とにかく、個展の期間中に行けるようにしてよ」

「分かりました」

 この手のスケジュール調整も従者の仕事の一つだ。それに絵にはあまり興味はないが、城下町に行けるのは嬉しい。

 カロールは女官や教育係と相談し、今週分の座学の予習を済ませテストに合格したら、お忍びに行っても良いという約束を取り付けたのだった。

 

 

 

 …そして、テストの翌日。

 使用人風の服に身を包んだ痩せた男を見て、カロールとネフライトは目を丸くした。

 

「あれっ?今日はセナルモント先生が護衛魔術師なんですか?」

「うん、何だか皆忙しいらしくてねえ。『あんたもたまには働け!』ってユークレース君に頼まれちゃったんだよ」

「それは頼まれたと言うか…」

 

 王宮魔術師のセナルモントは、王妃リナーリアの魔術の師匠だ。王子は直接師事している訳ではないが、母親に(なら)ってこの男を先生と呼んでいる。

 変わり者だが優秀な魔術師で、昔から考古学研究ばかりしているが、今は特に古代の封印に関して調べているのだと言う。

 王妃によれば国にとってかなり重要な研究らしいのだが、詳しい事はカロールにはよく分からない。

 公爵家出身とは言え20歳以上も後輩のユークレースに顎で使われているくらいだし、本当は大した事ないんじゃないかとちょっと疑っている。

 

 

「でも、先生って全然使用人っぽく見えないよね」

「うーん、そうかなあ?」

「そうですね。せいぜい教師って感じです」

 いかにも学者然とした雰囲気のせいか、変装が少々浮いているような気がする。

 

「きっと教師を首になって使用人になったんですよ」

「酷い設定だなあ!」

 ぼやくセナルモントに、ネフライトとカロールは同時に吹き出した。

 

 

 

 それから馬車に乗って城下町へと向かった。セナルモントの他に2名の護衛騎士も一緒だ。

 着いたのは小さめだが小綺麗なホールだった。受付で料金を払って簡易なパンフレットを貰う。

「ギロルは所用にて席を外しておりますが、何かありましたらお申し付け下さい」

「はい」

 受付嬢にうなずき、ひんやりした空気が満ちる展示室へと入った。

 

「わあ…、凄いですね」

「うん」

 ネフライトと共に一つ一つの絵をじっと見ていく。

 どの絵も美しい。色彩のコントラストが強く、印象に残る。

 

 豊穣の女神を描いた絵が特に多いが、時々風景画なども混じっているようだ。

 銀の髪をして狼を連れた女性の絵もちらほらある。これも何かの女神らしいが、どことなく王妃に似ているような気もする。

 

 

 やがてネフライトが「あっ」と小さく声を上げた。

 見上げているのは銀の髪をした女神の絵。

「あ、これ、王…じゃなくて、えっと」

「うん。これだ。母上だと思う」

 

 並んでいる絵の中でも比較的古いもののようだ。タイトルは『新たなる女神』。

 幻想的なタッチで描かれていて、流れる青みがかった銀の髪と繊細な面立ちが王妃によく似ている。

 若い頃にモデルをしたという絵は、きっとこれだろう。

 

「凄く綺麗だ…」

「うむ。まさに我が女神の姿そのものでありますな」

「!?」

 突然答えたその声に、ネフライトとカロールはビクッとして横を見た。

 30代半ばくらいだろうか、物凄く立派な逞しい体格をした貴族らしき男だ。胸板がはち切れんばかりに分厚く、丸太のように太い腕をしている。

 

 

「えっと、この絵の女神を知っているんですか?」

「絵の事は知らぬが、描かれた女神の事は知っております。まこと美しき、我が女神であります」

「はあ…?」

 何だかよく分からない。

 王子と二人首を傾げていると、「おやあ?」とセナルモントが声を上げた。

 

「これはまるで、古の戦女神だねえ」

「先生も知っているんですか?」

「うん、何年か前に発掘された古文書で、僕が仕事の合間にちょっとずつ翻訳してるやつなんだけどね。神話を集めた本みたいで、それに書かれてる女神によく似てるよ」

 

「それってどんな女神ですか?」

「ちょうどこんな感じに銀の髪をした美しい少女で、狼を連れてるんだ。どうも豊穣の女神の妹らしいんだけど」

「へえ。豊穣の女神に妹がいたなんて初耳だなあ」

「歴史の中で埋もれた神話なのかもねえ。何だか、戦士の強く鍛えられた肉体に加護を与えるらしいよ」

 

「鍛えられた肉体…つまり筋肉!!?」

 横で聞いていた逞しい貴族が物凄い勢いで食いついた。

 

「うん、そうだね、筋肉の加護と言ってもいいかもねえ」

「その女神とは、何という名前なのだ!?」

「古代語だから発音が難しいんだけどねえ、ノウリアとか、ナウレアとか、そんな感じだね」

「ナーリア…筋肉女神ナーリア…!!!!」

 

 微妙に発音が違っている気がするし戦女神じゃなくなっている。

 しかし、逞しい貴族は何やら感動に打ち震えていて突っ込みにくい。

 

 

「某、エンスタット・スペサルティンと申す者。某にもその神話を読ませてはくれまいか!?」

「おや、スペサルティン家の方でしたか。でしたら構いませんよお。僕は王宮魔術師のセナルモント・ゲルスドルフです、いつでも訪ねて来て下さい」

 

 セナルモントに向かって名乗った男に、カロールは思わず驚く。

 スペサルティン家と言えば魔術師系の貴族のはずだが、男の洋服越しにもムキムキと盛り上がった筋肉は、どこからどう見ても魔術師には見えない。

 王子も同じ感想であるらしく、二人で顔を見合わせた。

 

 

 

 その日の夜。

 夕食の席で王子が今日あった出来事を話すと、王妃は思い切りゲホゴホとむせ返っていた。

「あ、あの方、まだ筋肉女神とか言ってるんですか!?」

「揺るがぬ信仰心だな…」

 国王陛下は何やら苦笑していて、ヴィヴィアが首を傾げる。

 

「お父様もお母様も、その逞しい貴族の方をご存知なの?」

「ああ。エンスタットとは学院のクラスメイトだったんだ」

「そうなんですか」

「筋肉女神というのは、エンスタットが…」

「陛下!」

 王妃に横から睨まれ、国王が口を噤む。

 

 ただし国王は、食後にこっそりとネフライトに囁いていた。

「今度、スフェンに聞くと良い」

 

 

 後日、王妃の守護騎士であるスフェンに尋ねてみると、エンスタットについて面白おかしく語ってくれた。

 何でも王妃とスフェンが学生時代に武芸大会で優勝した際、一回戦で戦ったのがあのエンスタットだったのだそうだ。

「自分が勝ったら結婚を前提に交際して欲しい」という条件で戦いを挑み、負けた後も王妃を筋肉女神と崇めていたという。

 

 優勝した事は有名なので知っていたが、筋肉女神の話は初めて聞いた。

 ヴィヴィアは「お母様が筋肉女神!!」と笑い転げていたが、ネフライトは何とも言えず複雑な顔だ。

 

「…ねえ、僕もその筋肉女神を信仰するべきだと思う?」

「いや、好きにすれば良いんじゃないですかね…」

 真剣に問われ、カロールはそっと目を逸らした。




第80話にて登場したエンスタット君です。
今も元気に筋肉を鍛えていますが、リナーリアに似た女神の絵があると聞き、個展にやって来たらしいです。
ギロルは第117話で登場した挿絵師さんですが、この頃には画家としても名を上げ始めています。


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小さな赦し

 畑の土の上に伸びた草に手を伸ばし、ただ無心で引き抜いていく。

 昨日降った雨のお陰で土は柔らかく、いつもよりも抜きやすい。引き抜いた草を脇に捨て、フロライアは何とはなしに曇り空を見上げた。

 草むしりには丁度良い天気だ。日差しが強い時の畑仕事は、年老いた身には少々辛い。

 

 上を向いた拍子に被った麦わら帽子が風に飛ばされそうになり、慌てて押さえる。

 今日は少々風が強いが、フロライアはこのような風が嫌いではなかった。モリブデン領…今は違う名前になっているけれど。あそこも、風の強い土地だったから。

 ずっと昔に別れを告げた遠い故郷。二度と足を踏み入れる事のない場所。

 

 物思いに沈みかけた時、後ろから声がかかった。2年前にこの修道院に来たばかりの若い修道女だ。

「フロライアさん。そろそろ昼食の時間ですよ」

「ありがとう。今行くわ」

 よいしょ、とゆっくり立ち上がると少し腰が痛んだ。

 柔らかい土を踏んだせいで靴は泥に汚れている。軽く拭いてから中に入った方が良さそうだ。

 

 

 全員が食堂に揃い、昼食のパンとスープが配膳された所で、皆で祈りを捧げる。

 今日の糧を得られた事を神に感謝する祈りだ。

 いつもならばその後すぐに食事を始めるのだが、今日は修道院長が一言付け足した。

「今朝方、報せがありました。昨日、先王妃リナーリア様が亡くなったそうです」

 

「まあ…」

「あのお方が…」

 並んだ修道女達が少しざわめく。

「生涯を国のために尽くされた立派なお方でした。夕方の礼拝の時にご冥福をお祈りいたします。…草花をこよなく愛された方でしたので、お花の用意をお願いします」

 

 昼食後は、年若い修道女達が中心になって花を摘みに行くようだった。

 通りすがりにフロライアも誘われたが、「畑の草むしりがまだ終わっていないから」と断った。

 まだ若い彼女達は、フロライアが何をして、何故ここにいる人間なのかを知らない。

 …もしかしたら、知っていて気にしていない者もいるのかもしれない。まだ生まれていなかった者も多いだろうから。

 あの事件からはもう、40年以上も経っている。

 

 

 

 畑の中にしゃがみ込み、また草を引き抜いていると、草の陰から一匹のカエルが飛び出した。

 少しだけ驚いたが、ぴょんぴょんと跳んで逃げていくカエルを黙って見送る。

 若い頃は虫だとかカエルだとかは苦手だったが、今ではすっかり慣れた。もう何十年も畑仕事を続けているのだから当たり前だ。

 特別好きにはなれないけれど。

 

『リナーリアは俺のことなど関係なく、元々生き物が好きだ。だから大事にしようとする。君とは、違う』

 遠いあの夜に聞いた言葉が蘇る。

 

 今なら分かる。フロライアはリナーリアが嫌いだった。

 王子の言った通り、彼女はフロライアとは何もかもが違った。いつでも真剣で、何にでも真面目だった。

 正しい行いをする事を、大切なものを守るために戦う事を、何一つ迷わなかった。

 その愚かしいほどの真っ直ぐさが、妬ましかった。

 

「…私よりも早く、逝ってしまったのね…」

 ポツリと呟く。

 まだ60をいくつか過ぎたばかり。貴族としてはやや早い死だ。

 きっと忙しい人生だったのだろう。フロライアには想像もつかないような多くの苦労をしたはずだ。

 でも、満足して逝ったに違いないと思う。彼女は、目標のための努力を惜しまない人だったから。

 

 彼女が立てたいくつもの功績は、この僻地の修道院にまで届いていた。

 新しい魔術や魔導具の開発。福祉や医療の拡充。…そして、島の外への進出。

 夫である前国王エスメラルドを支え、現国王ネフライトを育て上げた。

 ネフライト王は堅実で温厚な王であるという。この国の平和は、まだこれからも守られていくだろう。

 

 

 草むしりを終えて立ち上がった時、ふと近くに植えられた薔薇の花が目に入った。

 薔薇が好きだったリナーリアは国民の間では青薔薇の王妃と呼ばれていた。

 青薔薇は珍しいものなのでここにはないが、彼女が学院で時々着けていた白い薔薇の髪飾りの事を思い出す。

 あれは彼女のために王子殿下が贈ったものに違いないと、皆が噂をしていた。

 

「……」

 ポケットに入れてあった剪定用のハサミを取り出し、一輪の白薔薇を摘み取った。

 丁寧に棘を取った所で、あたりに鐘が鳴り響く。

 礼拝の時間だ。

 

 

 礼拝堂に行くと、既にほとんどの修道女達が集まっていた。

 祭壇には沢山の花が飾られ、どこからか用意されたリナーリアの小さな肖像画が置かれている。

 フロライアは無言でそこに近付き、持ってきた白薔薇を花瓶の中に加えた。

 

 …彼女はあの日、牢の中のフロライアに向かって「これから先もずっと許す気はない」と言った。

 でも、この花くらいはきっと、黙って受け取ってくれるだろう。

 

 

 

 礼拝はいつも以上に静かで厳かな雰囲気で行われた。

 リナーリアがこの国にどれほど貢献をしたのか、どんな若い者でも少しくらいは知っている。

 フロライアもまた冥福を祈った。

 自分などが祈るまでもなく、彼女は天国に行けただろうけれど。

 

 礼拝とささやかな夕食を済ませた後、フロライアは修道院長に呼ばれた。

 どうしたのだろうと思いながら部屋に入ると、フロライアよりもいくつか年嵩の老いた修道院長は、机の引き出しから一枚の小さな紙を取り出した。

 

 差し出されたそれを受け取る。

 白い厚紙に、風景画が印刷されている。未使用の絵葉書のようだ。

 どこか懐かしさを感じさせる、のどかな田園風景。その隅に描かれたサインが気になり、目を細めて確かめる。

 …ビスマス・G。

 

 

「…これは!?」

「リナーリア様からです」

 思わず顔色を変えたフロライアに、修道院長は静かに答えた。

「私宛に手紙が届きました。お亡くなりになる少し前に書かれたもののようです。絵葉書はその手紙に同封されていました。…貴女に渡して欲しいと」

 

「……」

 動揺しながら絵葉書を見つめる。この絵を描いたのは、まさか。

「その絵葉書は、ジンサイン刑務所で作られたものだそうです」

「!」

 

 必死で記憶を探る。

 確か、老いた者や傷病があって身体が不自由な者ばかりが服役する刑務所だったか。そこでは身体に負担の少ない小物作りや軽作業をするのだと聞いたような気がする。

 絵葉書作りも、それの一環なのだろうか。

 

 

「…こ、これを、描いた人は…まだ、生きているのでしょうか」

「ええ。その方は昔は鉱山近くの刑務所に服役していたけれど、10年以上前にそこで起きた崩落事故に巻き込まれ、近くにいた者を庇ったために左腕が動かなくなったのだそうです。それでジンサイン刑務所に移されたと、手紙には書いてありました」

 

 …ああ。彼は今も、罪を償っているのだ。

 そこで誰かを助け、障害を負った。

 

 胸が強く締め付けられ、涙が溢れる。

 懐かしい、遠い遠い記憶の中の彼の笑顔。あの日家族を失うまでは、ビスマスはとても優しかった。

 あの頃の優しさを、今はきっと取り戻せたのだろう。

 

 

 黙って涙を流すフロライアに、修道院長が言葉を続ける。

「手紙にはこうも書かれていました。フロライアさん、貴女の罪に対し、僅かな恩赦を与えると。…これより先、貴女は外に自由に手紙を出す事ができます。どんな場所、どんな相手に対しても」

「……!!」

 

 罪人であるフロライアは、今まで自由に手紙を出す事ができなかった。宛先は限られ、中身も検閲されていた。

 元々、手紙を出したい相手などほとんどいなかった。貴族の友人達は当然連絡を断っていたし、かつての家臣や領民達と時折近況を交換していた程度だ。

 

 唯一手紙を出したい相手…ビスマスには送れなかった。送れないと諦めていた。

 同じ事件に関わった罪人同士での連絡など許されない。

 それに、彼がどこにいるのかをフロライアは知らなかった。生きているのかどうかすら、知らされなかった。

 

 …だが、彼は生きていた。

 涙に滲んだ視界に映る、田園を描いた絵葉書。

 これは今いるというジンサイン刑務所から見える風景を描いたものだろうか。

 

 

「…良かったですね」

 修道院長の暖かな手が肩に乗せられ、フロライアは小さく嗚咽を漏らした。

 こんな風に泣くなんて、一体何十年ぶりだろう。

 

 やっと彼に伝える事ができる。あの頃はとても言い出す勇気がなかった、謝罪の言葉を。

 彼はきっと許してくれないだろうけれど、それでも。

 

 

 リナーリアに深く深く感謝を捧げる。妬ましくて、少し嫌いだった彼女に。

 彼女もきっと私の事が嫌いだった。いや、憎んでいただろう。彼女の大切な人を殺そうとしたのだから当然だ。

 別れ際に「さようなら。お元気で」と言った、あの冷たい一瞥をよく覚えている。

 

 でも、とても真っ直ぐで優しい彼女は、もしかしたら私の事を長い間気にしていたのかもしれない。まるで喉の奥に刺さった小骨のように。

 だから最後にこうして、小さな恩赦とこの絵葉書をくれたのだろう。

 

「ありがとう、リナーリア様…ありがとう、ございます…」

 今は遠い空にいる彼女に呼びかけると、脳裏の彼女は少し微笑んだ気がした。




フロライアはこの後も10年以上長生きしました。
エスメラルドもこの時点ではまだ存命で、もう少し長生きします。
第166話で「俺は決して、君を置いて死んだりはしない」と言った約束をちゃんと守りました。


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王女とクリスマスツリー

「ヴィヴィア!!またお勉強をサボりましたね!しかも、窓から逃げるなんて…!」

 今日も落ちた母リナーリアの雷に、ヴィヴィアは小さく首をすくめた。

 

「学業も大事だと何度言えば分かるんですか!あともう2年もすれば学院に入るんです、今からちゃんと勉強しておかないと、授業についていけなくなりますよ!」

 母の口調は厳しい。こうして叱られるのは毎度の事で慣れっこなのだが、今日は何だかいつもより怒っているような気がする。

 

 またスピネルに襲いかかろうとして、廊下の花瓶を割っちゃったからかしら。

 それとも、勉強部屋から逃げる時にカーテンを破っちゃったから?

 剣術の稽古で力を入れすぎて、ネフライトを半泣きにさせたせいかも…。

 これはお説教が長くなりそうだわと内心で思っていると、母は言葉を切って静かに見下ろしてきた。

 

 

「…ヴィヴィア、あなた、ちっとも反省していませんね?」

「そ、そんな事ないわよ?」

「お説教が終わったら、また剣の稽古に行こうと思っているでしょう」

「……」

 完全に見透かされている。ヴィヴィアは内心で冷や汗をかいた。

 

「…剣が好きなのは分かります。好きな事に真っ直ぐに打ち込めるのはあなたの長所です。才能もあると、私だって思っています」

「だ、だったら」

「だけど、好きな事だけをやっていればいいという訳にはいきません。あなたは王女なのですよ。王家の者として、国や民の役に立つ事を…」

 

「何でよ、別に良いじゃない!どうせ王様になるのはネフライトだわ。それに、剣だって国の役に立つもの。強くなって騎士になれば、それで皆を守れるでしょ!」

「ええ、その心がけは立派です。でも、騎士というのは強ければそれで良いというものではありませんよ。ネフライトを泣かせて、スピネルに迷惑をかけて、メイド達を困らせて…。それがあなたの騎士道なんですか?」

「うっ…」

 

 思わず言葉に詰まると、母は小さくため息をついた。それから少し考え込む顔になる。

「あなたはもう少し、周りの事に目を向けなくてはいけません。…そうですね、一ヶ月後に、中央広場でクリスマスツリーの点灯式があるでしょう。あれを点灯する役を、あなたがやりなさい」

 

「えっ?…私が?」

 ヴィヴィアはびっくりして口をぽかんと開けた。

 あの大きなツリーの点灯は、毎年王妃である母が魔術で行っているものだ。

 ヴィヴィアも王女として何度も出席しているが、凄く難しい魔術だったような気がする。

 

「少々難易度は高いですが、今から練習すれば何とかなるでしょう。ビリュイに指導をお願いしておきます」

「え、えっ」

「きちんと役目を果たすように。…これは命令です」

 有無を言わせぬ口調でそう告げ、母はにっこりと笑った。

 

 

 

 

 …クリスマス近くになると家の中や街角にある木々を飾るのは、元々は古代にあった風習なのだという。

 ヴィヴィアの父であるエスメラルド王がそれを復活させたのは、今から15年ほど前の事。

 冬の殺風景な街を彩るこの風習は、王都の民に歓迎され、瞬く間に国中に広まったらしい。

 

 そしてこの王都で最も有名なのが、中央広場にある大クリスマスツリーだ。

 広場にもツリーが欲しいという民の声に応え、エスメラルドが遠くから大きなモミの木を運ばせ植えたものである。

 始めは城の兵士が脚立を使って飾り付けをしていたのだが、5年ほど前から魔術によってツリーを光らせる方式に変更された。

 

 

「…このツリーを七色に光らせる魔術を開発したのが、他ならぬ王妃リナーリア様です」

「ええ。もちろん知ってるわ」

 ビリュイの説明にヴィヴィアはうなずき、それから半眼になって横を見た。

 

「…で、なんでネフライトまでいるのよ?」

 母の命令に従うべく、王宮魔術師ビリュイの元に練習にやって来たヴィヴィアだったが、そこには2歳下の弟ネフライトがいたのだ。

 この前泣かせた事はもう気にしていないようで安心したが、一体何故いるのか。

 

「だって、姉上ばっかりずるい!僕だって母上の作った魔術覚えたいんだもん!」

 ネフライトは父譲りの翠の目に真剣な光を浮かべていて、ヴィヴィアはちょっと唇を尖らせた。

「いつもは遊びに誘っても全然付き合いたがらない癖に、こんな時だけ…。まあ良いけど」

 

 この弟は母に似て魔術が好きなのだ。

 まだ幼いが自分よりもよほど上手に魔術を使うし、一緒に練習しても別に問題はないだろう。むしろ手助けしてもらえるかもしれない。

 

 

 ビリュイは姉弟の様子を微笑ましげに見ると、背後の黒板に大きな紙を貼り付けた。

「では、早速説明に入ります。まず、こちらが魔術構成図です」

 

「…な、何これ!?」

 そこに描かれた複雑怪奇な図面に、ヴィヴィアは悲鳴を上げた。

「すごい、細かい!さすが母上…」

「さすがって…」

 感心して食い入るように構成図を見つめる弟を、ヴィヴィアは信じられない気持ちで見る。

 

「ざっくりと解説しますと、この部分が基本となる発光の構成。こちらの部分が光の色を指定する構成。7色分あるのでかなりの面積を占めていますね。ここは周囲の明るさに合わせて光の強さを調節する構成で、そしてこっちが一定時間ごとに点滅させるための構成です」

 聞いているだけで頭が痛くなりそうだ。こんな複雑で難しい魔術、今まで一度も使った事がないし、使える気もしない。

 

 蒼白になるヴィヴィアの横で、弟が「はい!」と元気に手を挙げる。

「ここの部分はなんですか?」

「ああ、よく気が付かれましたね。これは長時間魔術を維持するための構成です。ツリーは3日間ほど光らせますから」

「そっか!なるほど!」

 ネフライトはやる気満々の様子だ。本当に信じられない。

 

 それからビリュイは、姉弟の顔を交互に見た。

「ヴィヴィア様、ネフライト様。難しい魔術ですが、頑張って練習いたしましょう」

 

 

 

 ビリュイによる魔術指導はなかなかに厳しかった。

 ヴィヴィアはすぐに投げ出したくなったが、「点灯式で失敗したら恥をかくのは姫殿下ですよ」と言われれば、練習しない訳にもいかない。

 

「でも、こんな魔術覚えたって絶対何の役にも立たないじゃない…ツリーを点灯させる以外、使い道ないでしょこれ…」

「パーティーの飾り付けにも使えるよ?」

「そんなの魔導具でいいわよ!」

「魔導具の飾りより、この光の魔術の方がずっと綺麗だよ。姉上だって知ってるでしょ」

「でもぉ…!」

 

 ぶうぶうと文句を言うヴィヴィアに、ビリュイが苦笑する。

「確かに、この魔術自体は使い道が少ないものです。でもこれに使われている構成は、幅広く色々な魔術に応用が利きます。使いこなせるようになった暁には、他の魔術も必ず上達している事でしょう。王妃様もそう考えて、ヴィヴィア様に習得をお命じになったはずです」

 

「私は魔術なんかより、剣術がやりたいのに…」

 つい頬を膨らませた時、コンコンと部屋のドアがノックされた。

 そこから姿を表したのは、赤毛を一つ結びにした背の高い男。

 

「よう、頑張ってるか?差し入れ持ってきたぞ」

「…スピネル!」

 

 

 

 スピネルが持ってきたのは、可愛らしく飾り付けられたカップケーキだった。

 メイドによってお茶が運ばれ、しばしの休憩を取る。

 

「リナーリアにお前の様子を見てきてくれって頼まれてな」

「お母様に?」

「ああ。で、どうだ?やれそうか?」

「全然ダメ。もう2週間も練習を続けてるけど、ちっとも使える気がしないわ…」

 

「ネフライト殿下は?」

「僕もまだ無理。でも、もう少しで出来そうな気がする」

「ほう。さすがですね」

 褒められて、ネフライトはちょっと得意そうな顔になった。

 

 逆に顔をしかめるヴィヴィアに、スピネルはニヤリと笑う。

「いつも熱心に勉強してる王子殿下と、剣ばっか振り回してるヴィヴィアじゃ、差が出るのは当然だな」

「何よ、スピネルまで!いいでしょ、私には剣があるもん!」

「それじゃダメだから、リナーリアはこれを勉強させてるんだろ」

 

「…私はお母様やネフライトとは違うもん。魔術なんてできないわ」

「そんな事はねえよ。お前は母親譲りの魔力がある。やると決めたら必ずやる頑固さだって、昔のあいつにそっくりだ。それが出来ないってのは、単にやる気がないだけだ」

「……」

 黙り込んだヴィヴィアに、スピネルはやれやれと苦笑した。

 

「まあ、リナーリアがお前に点灯式をやれっていう一番の理由は、他にあると思うけどな」

「何よ、それ?」

「さあな、自分で考えろ。…とりあえずは練習を頑張れ。上手くやれたら、少しはご褒美をやってもいい」

「本当!?手合わせしてくれるの!?」

「上手くやれたら、な」

 

 スピネルは立ち上がると、ひらりと手を振って部屋を出て行った。

 その後ろ姿を見送り、ぎゅっと拳を握る。

「…やってやろうじゃない!!」

 

 

 

 

 そして、点灯式当日がやって来た。

 夕暮れの中、正装に身を包んだヴィヴィアは胸に手を当て深呼吸をする。

 

「頑張れ、ヴィヴィア」

「はい、お父様」

 小声で励ましてくれる父にうなずき返し、広場の中を見回す。

 等間隔に並んだ護衛騎士達の後ろには、民衆がぎゅうぎゅうに詰めかけている。

 王族が自ら広場を華やかに輝かせるこの点灯式は、王都に住む者達に大人気の行事なのだ。

 

 ヴィヴィアも王女としてもう何度も見てきた光景のはずなのだが、今日に限っては彼ら一人一人の表情がよく見える。

 あのたくさんの人々の、期待に満ちた視線を意識せずにはいられない。

 お母様もいつもこんな気持ちだったのかしら…と、緊張しながら思う。いざこうして行事の主役になってみれば、傍で見ているのとは大違いだ。

 

 

「…それでは、ヴィヴィア第一王女による点灯を行います!」

 名前を呼ばれ、大きなモミの木の前へと進む。

 …大丈夫、必ず成功するわ。あんなに頑張って練習したんだもの。

 

 父や母、弟と妹、そして大勢の民衆が見守る中、ヴィヴィアは両手をツリーに向かってかざした。

 

 

「…わあっ…!」

 

 周囲から歓声と拍手が沸き起こる。

 見上げた大きなツリーには、無数の小さな光が灯されていた。

 赤、青、黄。鮮やかな七色の光が、暗くなり始めた空の下で瞬いている。

 

 …やった。成功だわ。

 ホッとすると同時に、喜びが湧き上がる。

 頬を紅潮させながら振り返ると、母と妹は笑顔で拍手をしてくれていた。父や弟も誇らしげな顔をしている。

 たまらなく嬉しい。

 

 ドレスの裾を持ち上げ、少しばかり早足になって家族の元に戻ると、普段は無表情な父が「よくやった」と笑って褒めてくれた。ますます喜びが湧き、えへへと笑う。

 すると、母がニコニコとしながらヴィヴィアの肩に手を置き、耳元で小さく囁いた。

「よくご覧なさい、ヴィヴィア。ここに集まった人々の顔を」

 

 ヴィヴィアは振り返り、周りの人々の顔を見た。

 男。女。子供。老人。

 誰も彼もが皆、笑顔だ。

 嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうにして、美しくきらめくクリスマスツリーを見つめている。

 

 

「…どうです?この笑顔は、あなたの魔術によってもたらされたものなんですよ」

「……」

 

 言葉にならず、ヴィヴィアはただ無言で彼らを見つめた。

 胸がいっぱいで、とても熱い。母が毎年自ら点灯をしていたのは、きっとこれが見たいからだったのだ。

 父や母がよく言う「国」だとか「民」という言葉。その本当の意味が、少しだけ分かった気がする。

 

「この光景をよく覚えておきなさい。これが、私達が…あなたが、守り育てていくべきものです。剣は確かに、人を守れます。だけど、魔術はこのように人々を笑顔にする事ができます。もちろん、どちらが偉いというものではありません。どちらも国にとっては必要なものです」

「…はい」

 

 ヴィヴィアは素直にうなずき、傍らの母を見上げた。

 優しく穏やかな微笑み。いつもお説教ばかりで口うるさいけれど、こういう時の母は、確かにこの国の王妃なのだと思わずにいられない。

 

「もちろん、他にも大切なものはたくさんあります。剣だけでも、魔術だけでもいけません。ヴィヴィア、もっとたくさんのものを見て、たくさんの勉強をし、たくさんの人を知りなさい。…それはあなたを豊かにし、いつか必ずあなたの役に立ちます」

「はい。…ありがとう、お母様。私、このお役目をやって良かったわ!」

 

 

 すると、横で話を聞いていた弟が頬を膨らませた。

「姉上ばっかりずるい…僕だってこの魔術、使えるようになったのに…」

「あら、じゃあ来年はネフライトが点灯役をやりなさいよ。私、その頃には絶対この術を忘れてるもの」

「まあ」

 母が呆れた声を出す。

 

「確かに楽しかったし、やって良かったけど…私はやっぱり、剣術がやりたいわ。もっと強くなりたいの」

「ヴィ、ヴィヴィア…」

 困り顔になった父と母に、ヴィヴィアは「でも」と続ける。

「剣以外の事もやるべきだっていうのも、ちょっと分かったわ。これからは、もう少し他の勉強もする」

 

「そうか…。良かった」

「ええ。分かってもらえて安心しました」

 ホッとした様子で微笑み合う父と母に、ヴィヴィアはニッと笑った。

 

「…だから、スピネルにはちゃんと約束を守るように言ってよね!一回や二回の手合わせじゃ、絶対に許さないんだから!」

 

 

「へっくし!…今日は、なんか冷えるな…」

 その頃、城で留守番をしていたスピネルは、背筋に悪寒を覚えていた。



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