底辺キング (シェーク両面粒高)
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ジュニア級
第1話 よくあること


ストーリー最終章に感化されたので初投稿です。

トレーナー、ウマ娘、設定にオリジナル要素があるので注意してくれよな~頼むよ~。


 8月の澄み渡る青空の下、新潟レース場の真っ青なターフを駆ける足音がにわかに大きくなってきた。観客はまだ少なく、歓声もほとんどないせいか地面を踏みしめる音が観客席までよく聞こえてくる。

 

 ウマ娘たちが一団となって猛然とゴールへ向かって来た。

 最後の直線、残り1ハロンを残すのみ。

 

『バ群から抜け出した! 半バ身、1バ身と離していく!』

 

 実況の声がレース場に響く。その声はレース関係者席にいるトレーナーの俺にも当然聞こえていた。

 今日の気温は30℃を超えている。日本海側だといっても暑さは東京と変わりない。背中に伝う汗を感じながらその勝負の行方を見守っていた。

 

 ラスト100mで抜け出したのはゼッケン4番だった。

 

『後続は少し苦しいか!? 差は縮まらないぞ! これは勝負あったか!?』

 

 接戦となる2着争いを尻目に、ゼッケン4番をつけたウマ娘がそのまま先頭でゴールラインを駆け抜けていった。

 

『今、1着でゴールイン!』

 

「やったぁ!」

 

 1着でゴールしたウマ娘は喜びの声を上げ、満面の笑みで両の拳を握っていた。見ているこちらが恥ずかしくなるようなその喜びようは、遠目からでもよく分かった。

 

「よしっ! よしっ!」

 

 それにしてもこの喜びようだ。言っておくが、このレースは今日のメインレースでもないし、重賞でもない。勝ったからといって紙吹雪が舞うわけでもなく、地鳴りのような歓声が上がるわけでもない。

 あるのはまばらな拍手だけ。

 

「やったんだ……! 私、やったんだ!」

 

 勝利を噛みしめている彼女の目に、光るものが見えたような気がした。

 

「……」

 

 帽子を脱いで、空を見上げた。

 雲1つない夏空は、勝利したウマ娘を祝うかのように晴れやかだった。

 

 ……いつまでもここにいる訳にはいかない。

 

「……行くか」

 

 電光掲示板に目をやってから帽子を深くかぶり重い腰を上げた。

 トレーナーとして、彼女の元へ行くために。

 

 向かうのはもちろん、ウィナーズサークルではない。

 

 ◇

 

 向かったのは地下バ道。外は炎天下なのに、ここの空気はどこかひんやりとしていた。先程のレースで負けたウマ娘たちがこちらに向かって歩いてきていた。

 人目もはばからず泣いているウマ娘、無表情で淡々としているウマ娘、肩の荷が下りたとでも言いたげに卑屈そうな表情をしているウマ娘、唇を噛んで悔しそうにしているウマ娘など、その様子は十人十色だった。

 その中から自分のチームに所属しているウマ娘を探す。

 

「……うぅ…………」

 

 ……いた。ゼッケン11番をつけた栗毛のウマ娘が俯いてこちらに歩いてきている。

 俺の存在に気付いた彼女がその顔をあげた。

 

「……あ、トレーナー、さん……」

「……お疲れさん」

「…………はい……っ」

 

 こちらを見るその栗色の双眸には光るものがあり、それは既に頬を伝っていた。普段の元気いっぱいな姿からは想像もできないほど、彼女は悲しそうに涙を流していた。

 このレースに負けた悔しさも当然あるだろう。しかし、泣いている理由の大部分はおそらくそれではない。

 

「伝えておくことがある。そのままでいいから聞け」

「……は、い…………っ……」

 

 彼女は分かっている……いや、学園のウマ娘なら誰だって知っている。

 今のレース、8月の“クラシック級未勝利”で負けることのその意味を。

 それが現実だということを彼女に突きつけなければいけない。それはトレーナーの重要な仕事でもある。

 

「おそらくお前は退学になる」

「っ……」

「近いうちに学園の先生やお前の両親を交えた話し合いをする。内容はお前のこれからについてだ」

「……」

 

 彼女は下を向いてゆっくりと首を縦に振った。首の動きに合わせて涙がポロポロと流れ落ちていた。

 

「日時が決まったらまた連絡する。あと、これからトレーニングには自由参加でいい」

「…………」

「今日、親はここに来てるか?」

「……はい。観客席に、父さんと母さんが……」

「分かった。ここで解散にするから、シャワーを浴びて着替えたら両親のところへ行ってやれ。外泊許可は俺がやっとくから、今日と明日ゆっくりしてこい」

 

 彼女は再び首を小さく縦に振った。

 それを見た俺は彼女に背中を向けて歩き始めた。

 

「あ、あのっ……!」

「どうした?」

 

 その場で立ち止まっていた彼女に呼び止められた。振り返ると、彼女は顔を上げて未だに涙の溢れる目でこちらを見つめていた。

 

「今まで……ありがとうございましたっ!」

 

 彼女は栗色の髪を揺らして真っ直ぐに深くお辞儀をして、涙声でお礼を言った。

 

「……ああ」

 

 そう返した俺は再び歩き進めた。振り返らなくても、彼女は頭を下げたままであることは分かった。

 

「さて、もう一仕事か……」

 

 次に向かうべき場所へ歩みを進めた。

 

 彼女の最後になるであろう中央のレース結果は、9番人気3着だった。

 

 ◇

 

 地下バ道から抜け出し観客席に向かう。目的はもちろん彼女の両親と話すためだ。

 

「あれか……敬語、敬語と」

 

 新潟レース場観客席の指定席にその2人がいた。眼鏡をかけた温和そうな父親と、彼女とよく似た綺麗な栗毛のウマ娘の母親がターフに目をやって話していた。以前より何度か面談はしていたので、お互いの顔は知っていた。

 近くに行くと、両親も俺に気付いたようだった。母親がこっちに声をかけてきた。

 

「トレーナーさん」

「お世話になっています。観客席におられると娘さんより話を聞いていたので参りました」

「わざわざご丁寧に……ありがとうございます」

 

 落ち込んで沈んでいるという様子ではないが、2人とも表情は明るくない。

 まずはトレーナーとして言うべきことがある。

 

「娘さんのお力になれず、申し訳ございませんでした」

 

 帽子をとって深く頭を下げる。両親ともに今日のレースに負ける意味を当然知っているはずだ。

 どんなことを言われても、受け入れる気持ちでいた。

 

「……トレーナーさん。そちらの席、空いているようですから、お座りください」

「……はい」

 

 父親から声がかかった。頭を上げて、言われる通り席に腰を下ろし彼らに向かい合う。俺に目を合わせた父親が話を続ける。

 

「娘は……あの子はこれからどうなりますか?」

 

 父親の目と言葉が不安に揺れている。

 自分の娘の将来が見通せなくなったのだから、当然の反応だろう。

 

「おそらく数日中に退学通知が学園より届きます。それから日程を調整し、ご両親と娘さんご本人、学園の教師、そして私を交えてこれからの進路について話し合いの場がもたれます。その進路についてですが────」

「トレーナーさん。負けた後、あの子はどんな様子でしたか?」

 

 そこで、黙って聞いていた母親が俺の声を遮った。娘と同じ栗色の瞳が俺に突き刺さっていた。

 

「お前、せっかくトレーナーさんが話をしてくれているのに……」

「いえ、配慮に欠けていました。申し訳ございません」

 

 負けて退学した時の話がスラスラ出てきたので、母親に不快感を与えてしまっただろうか。

 仕方ねえだろ、と心の中で言い訳する。ウチのチームでクラシック級未勝利に勝てなかったのはこれで今年3人目だ。今年3回目にもなれば多少は流暢にもなる。

 そもそもこれは毎年やっていることだ。もう俺自身が説明することに慣れてしまっている。

 

「レース直後に地下バ道で会いました。……涙を流して泣いておられました」

「……そうですか」

 

 母親は目を伏せて胸に手を当てた。心の中で何かを確かめているような様子のあと、口を開いた。

 

「私も覚えています。私の、最後の未勝利戦でのレースのこと」

「お前、トレーナーさんにいったい何を」

「いえ、お父様……お母様、続けてください」

「私も必死でした。人気薄で私も含め誰も勝てるとは思ってなかったでしょう。でも私は勝てました。ハイペースになったおかげで、前が総崩れになった結果でしたが」

 

 静かな、落ち着いた口調で話は続いていく。

 

「未勝利戦で勝ったおかげで、私は学園生活を全うすることができました。その後は1勝もできないどころか、掲示板に載ることすらできませんでしたが。そんな私から生まれた子だから、この結末になることを私はどこかで分かっていたのかもしれません。……いや」

 

 母親の言う通り、足の速さは遺伝する一つの要素だ。足の速さ以外にも、脚質や怪我のしやすさなども遺伝すると言われているが、もちろん一概には言えない。

 重賞未勝利ウマ娘からG1を勝つウマ娘が生まれることだってよくある話で、その逆だって珍しくない。

 

「このレースを見る今この瞬間まで、私は色々なことに分からないフリをしていただけだったんです。そのことにやっと気付けました。みっともない言い訳を並べ立てて、醜態を晒すところでした。トレーナーさんに対しても……あの子に対しても」

 

 母親は伏し目をやめて俺と目を合わせた。毛色と同じ色の大きな瞳に吸い込まれるように感じた。

 

「トレーナーさん。今まであの子がお世話になりました。本当にありがとうございました」

 

 綺麗な栗毛を揺らして母親は頭を下げた。その姿に先程の地下バ道の彼女が重なったように見えた。

 

 母親が何を言いたかったのか、その心の中でどんな葛藤があったのか、俺には分からない。分かるはずもない。

 俺はただ、母親が何かを受け入れたということだけが理解できた。

 

「月に1回、あの子の状態や様子について詳細に報告していただいたおかげで、私たちも安心してトレーナーさんにあの子を任せることができました。こんなに丁寧な対応をしてくださるトレーナーは珍しいと聞きます」

「いいえ、私は当然のことをしただけで──」

「重ねてになりますが、今まで本当にありがとうございました」

「ありがとうございました……!」

 

 両親ともに頭を下げられた。

 

「お2人とも頭を上げてください。娘さんの明るい性格は厳しいトレーニングの時もチームの雰囲気を良くしてくれました。トレーナーとして、お礼を言うのはこちらのほうです」

 

 どこかズレたことしか言えない自分に歯がゆさを感じた。

 

 頭を上げた両親と改めて向き合った。

 

「着替えた後、こちらに来るように言っています。月曜日に学園に戻ってきていただければ構わないので、今日と明日、娘さんと過ごしていただければ」

「はい、あの子とはゆっくりと話をしようと思います。今までのことも、これからのことも」

 

 そう言った母親の目は優し気な暖かい光に満ちていた。

 

 もう時間だ……話はこんなものだろう。もう一度頭を下げたあと腰を上げた。

 

「では、私はこれで失礼します。また、話し合いについては連絡します」

「分かりました。よろしくお願いします。トレーナーさん」

 

 やるべきことは終わったと判断した俺は2人に背を向けて歩き始めた。

 

 

 観客席と人の間をすり抜けて出口を目指す。

 その道すがら、自身にしか聞こえないように独り言を言いながら歩みを進めた。

 

「ありがとう、ありがとう、って親子揃って言いやがって……」

 

 観客席の出口で振り向いて両親を一瞥した。まだ話をしている2人が目に入った。これから先のことを──娘のことを話していることは想像に難くない。

 

「クソッ」

 

 俺は観客席をあとにして駐車場へ向かった。

 

 ◇

 

 新潟レース場の関係者専用駐車場に着いた。自分のワンボックスカーに乗り込みながら栗毛の彼女とその両親ことを考える。

 

「これで、終わりか……」

 

 車のエンジンを掛けながら独り言ちる。

 

 彼女は8月末のクラシック級未勝利で負けた。これが意味するのは彼女がもうトレセン学園にいられないということだ。クラシック級の8月までに一度もレースに勝利できないと、学園から退学が言い渡される。故障したウマ娘や、何らかの理由でレースに出てないウマ娘が例外として退学にならないこともあるが、そんなことは希だ。トレーナーになって10年近く経つがそんなウマ娘は数人しかいなかった。それが認められるのは学園やURAに潜在能力を買われたウマ娘だけだ。

 担当トレーナーである俺から贔屓目に見ても、彼女にそんな潜在能力はないように思えた。……ただ、俺が引き出せてないのかもしれないが。

 

 ウマ娘の世界、特にここ中央は残酷だ。才能の無い者は容赦なく切り捨てられ、毎年何百人というウマ娘が退学に追い込まれている。入学してきたウマ娘の内、7割はクラシック級の8月末までに……つまり1年と半年足らずでトレセン学園に別れを告げる。

 年端もいかない10代後半の女の子たちに厳しい現実が突きつけられている。

 

 “お前は遅い”と。

 “お前は弱い”と。

 

 今日のレースの結末を見れば、彼女は未勝利戦を勝てるレベルではなかったということになるだろう。彼女は才能がなかったと、足が遅かったのだと。単純で明快、実に理解しやすいし、それは正しい。

 

 だから、トレーナーとしてこの結末を素直に受け止めることができる。

 そもそも、自分のチームのウマ娘が未勝利戦を勝てず退学することにも慣れている。

 

 ────なんてことは一切ない。 

 

「なにか、もっと出来ることがあったはずだろうが……!」

 

 運転席側の窓ガラスへ思いっきり右拳を叩きつける。ドンッと低い音のあとに右拳に鈍い痛みが走った。

 

「戦法、条件、適性、トレーニング、栄養、メンタル……やらなきゃなんねえことはもっと無かったのか!? 詰められるところは無かったのか!?」

 

 最後の未勝利戦を負けて悲しんでいるウマ娘を見ることは本当に最悪の気分になる。勝たせてやれなかった悔しさと自分への怒りが混ざりあったこの感情には、いつまで経っても何度経験しても慣れることができない。

 心の中で彼女と過ごした日々を思い返していると、遅すぎる後悔に苛まれた。もちろん、自分の持つ知識と経験を全て彼女に注いだつもりだ。彼女だけじゃない、これまで担当してきたウマ娘全員に対して一切妥協してこなかったと自負している。

 

 しかし、しかしだ。それでも考えてしまうのだ。トレーナーとして、もっと他に出来ることはなかったのかと。

 そうすれば、彼女は勝てたのではないのかと。

 

「……?」

 

 そこで違和感に気付いた。こういった感情になることはいつものことだが、今回はその昂ぶりがより強いように感じる。

 今年すでにクラシック級未勝利を勝てなかった2人の時と何かが違う。栗毛の彼女とは他の2人に比べて特別仲が良かったわけでもない。基本的にトレーニングの時しか関わりがないし、プライベートでは食生活について口を出すぐらいで、レース関係以外で一緒に出掛けたりしたこともない。

 

 

 そこで──

 

 

『────』

 

 

 ──不意に、2つの姿が重なった。

 

 

 

「ああ……」

 

 今日負けて泣いていた、普段は元気いっぱいな栗毛のウマ娘。今更、そのことに気が付いていまった。

 

 

 ────『トレーナーさんっ!』────

 

 

「…………」

 

 彼女は()()()によく似ていたんだ。

 

 毛色も、顔も、声も、体格も、何一つ似てないっていうのに。

 

「クソッ!」

 

 心の奥底から浮き上がってきた記憶を再び下へ下へと押し込めて、吐き捨てるように言った。

 

「……何もかも、足りねぇんだ」

 

 最後の言葉は行く当てを探して虚空へ消えていった。

 

 右手の鈍い痛みは、まだ消えていなかった。




オリ設定という名の暴挙その1

・トレセン学園は高等部のみ(中等部は存在しません)で、入学した時点でジュニア級になります。
 高等部1年12月まで→ジュニア級
 高等部1年1月~高等部2年12月→クラシック級
 高等部2年1月以降→シニア級
・未勝利で勝てなかったら退学とかいう理不尽設定。


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第2話 進路相談

 夏休みも開けた9月。あの新潟のレースから1週間が経過していた。

 あのレースから3日後に、栗毛のウマ娘へ学園から退学通知が届いた。それを受け面談の予定が決まり、今日は土曜日だが彼女本人と両親、トレーナーの俺、そして学園の担任教師と5人で話し合いをしていた。もちろん、退学後の進路について。

 今は担任教師の中年女性が話している。学園の空き教室を使って、俺と教師は机を挟んで3人と向き合っていた。

 

「ご実家近くのいくつかの高校に転入を受け入れてくれるか聞いています。感触としてはおそらく大丈夫だと思いますよ。これまでにもトレセン学園のウマ娘を受け入れてくれた実績がありますし」

 

 教師がいくつか学校を紹介している。どれもヒトも通う、レースとは関係ない学校だ。

 

「他にも就職を目指すならいくつも募集が来ていますよ。レスキューとか身体性を生かせる職業が多いですけどね」

「就職は考えてないです」

「あらそう? 分かりました。学園の担任としては以上よ。トレーナーさんはどうかしら?」

「はい。では次は私から」

 

 退学通知を受けたウマ娘には大きく分けて3つの進路がある。

 1つ目に学校へ転入すること。普通科の高校へ転入することもあれば、専門学校を目指すウマ娘もいる。レースを目指さなかったウマ娘もいるので、どの学校にも人数は少ないながらもウマ娘は在籍していることが多い。

 2つ目に就職すること。レスキューや警察の特殊部隊から、映画のスタントマンや建設業など優れた身体性が必要な職業からは引っ張りだこである。もちろん事務的な仕事を選ぶウマ娘もいるが、そういうウマ娘は高校転入を選ぶことがほとんどだ。

 3つ目に地方へ移籍すること。URAが運営する中央以外の地方トレセン学園に受け入れてもらい、再びレースに身を投じることになる。地方で結果を残して再び中央を目指すウマ娘もいれば、そのまま地方に活躍の場を見つけるウマ娘もいる。

 進路の割合的には1つ目と3つ目がそれぞれ4割超え、残りは1割強が2つ目の就職を選ぶ。

 

 学園の教師が1つ目と2つ目の紹介を、そして担当トレーナーである俺の仕事は3つ目の紹介だ。

 

「地方のトレセン学園やトレーナーから出ている募集を見たり、直接問い合わせをしてみました。受け入れてくれる地方トレセンはいくつかありました。ただ……」

 

 用意してきた資料に目を落としてから言葉を続ける。

 

「トレセンに近い南関からは良い返事をもらえませんでした。受け入れてくれそうなのは高知か佐賀、あと金沢ももしかしたら」

 

 南関とは関東にある4つの地方トレセン学園の総称で、大井・船橋・浦和・川崎のことを指す。地方の中では最もレベルが高いと言われている。

 

「どこもあなたの実家からは遠いわねえ」

「ええ。でも地方トレセンに移籍するなら南関であっても結局は寮生活ですから」

「確かにそうね」

 

 俺と教師が話している前で、3人は小声で何かを話している。内容は聞き取れないが、聞かれたくない内容を話しているような雰囲気ではなく、お互いに何か確認するような様子に見えた。

 

「どうかしら? 今すぐ決める必要はないから、お父さんとお母さんと話し合ってからでいいのよ。進路が決まるまでトレセン学園にいていいのだから、よく考えて──」

「いえ! 私の答えは決まっています」

 

 こちらを真っすぐに見つめる栗毛のウマ娘。横にいる母親譲りの栗色の大きな瞳に射抜かれる。

 

「地方でレースを続けます! 佐賀でも高知でも、どこでも大丈夫です!」

「!」

 

 彼女の快活な声が耳に届いた。

 1週間前、新潟の地下バ道で泣いていた彼女の面影はどこにも無く、これまでずっと見てきた姿があった。

 

「ご両親はそれでいいのですか?」

 

 俺は彼女の両隣にいる両親に目を移す。母親が先に口を開いた。

 

「ええ。この子とも、主人とも沢山話しましたから」

「私と家内も、地方トレセンへの移籍に異存はありません。この子の意志を尊重します」

 

 率直に言って意外だった。レース後の彼女の様子や母親の語った言葉から、てっきりレースを諦めるとばかり思っていた。それに、彼女はあれからトレーニングに一回も出てこなかったからだ。

 もしかしたら──

 

『もうレースはいいかな……どうせ、地方に行っても同じだよ』

 

『走る気はないです。やっても無駄だと、この身をもって知りました』

 

 ──今年未勝利戦を勝てなかったウチのチームの2人が既に面談を終え高校への転入を選んでいたので、俺の勝手な先入観もあったのかもしれない。

 

「そうですか……」

 

 両親の賛成の声を受け、栗毛のウマ娘がこちらに身を乗り出してくる。

 

「だからトレーナーさん。地方への移籍、お願いしますっ!」

「分かった。分かったからそんなに身を乗り出すな」

「えっ? あっ、ごめんなさい!」

「ふふっ、トレーナーさん、仲が良いのね」

「ちょっと先生、そういうのは……」

 

 チームのウマ娘とはトレーニング時しか関わりがないので、彼女と特別仲が良いこともなく、他のウマ娘と距離感は変わらなかったと思う。仲が良さそうに見えるのは、彼女の元々の明るい性格のせいだろう。

 しかし、アラサーとはいえ俺は20代の男性トレーナーなのだから、そういうのは勘弁してもらいたい。若い男性トレーナーとその担当ウマ娘が……というのは決して珍しいことではないのだ。

 

「「…………」」

 

 気のせいか俺を見る両親の視線が痛い。

 俺はわざとらしく咳払いをしてから口を開いた

 

「……分かりました。移籍の件、打診してみます」

「ありがとうございますっトレーナーさん! トレーニングも出ていいですよね?」

「あん時に自由参加だって言ってただろ? 誰もトレーニング出るなとは言ってねえぞ」

「そうでしたっけ? あの2人もトレーニング行ってないみたいだから参加したら駄目なのかと思ってました」

 

 コイツ話聞いてねえな、と思ったが、レースに負けたあの時はそんな余裕が無かったということだろう。

 いつの間にか母親がきょとんとした様子でこっちを見ていた。

 

「トレーナーさんって生徒に対してそんな感じで話されるのですね。これまでの面談やこの前会ったときも、メールでも凄く丁寧な感じでしたのに」

「え、いや、まあ」

「うふふっ、そっちの方が自然で似合ってますよ。トレーナーさん」

「そうだメール!」

 

 メールという単語に反応した栗毛のウマ娘が再び身を乗り出してくる。

 

「トレーナーさん、月に1回父さんと母さんにメールで私のこと教えてたらしいじゃないですか! この前母さんから初めて聞きましたけど、何教えてたんですか!?」

「何って、体調とかトレーニングの内容とかレースに関することだけだ」

「本当ですか~?」

「最初にちゃんと伝えたと思うんだが……お前やっぱ話聞いてなかっただろ」

「トレーナーさんの言ってることは本当よ。見たかったら後から見せてあげる」

 

 母親がスマホを掲げて娘に見せる。

 彼女は後から見せてね、と母親に言うと乗り出した身を引いていった。

 

「それではトレーナーさんに地方トレセンへ移籍を打診してもらって、その結果が出たらまたこうやって話し合いをしましょう。それで良いですか?」

 

 教師がそう言って場をまとめた。全員がそれに同意してその場は解散になった。

 教室から出ていった3人を教師と見送った。

 

 ◇

 

「あの娘、元気そうでよかったわね? 坂川くん」

 

 坂川健幸(さかがわけんゆき)、というのが俺の名前だ。教師と2人になった教室で、栗毛のウマ娘のことについて話していた。

 

「ええ。未勝利戦のレース直後は泣いてとても落ち込んでいたので、もうレースは選ばないとばかり」

「そうだったのね。ご両親も賛同してくれて、こんな和やかに終わる面談も私は久しぶりだわ~。ただでさえ、この時期の面談はピリピリしてることが多いから」

 

 今のように地方への移籍を親も認めて円満に終わるというのはそんなに多いケースではない。子どもが地方への移籍を希望しても、親がレースは諦めろと譲らないケースや、逆にレースを辞めたい子の親がレースに執着し無理矢理地方への移籍を希望するケースもある。親子喧嘩よろしく口論が始まったりすることも珍しくない。その矛先がトレーナーに向かうこともよくある。

 

『お前の指導やトレーニングが駄目だったんじゃないのか!?』

 

『あなたみたいな底辺トレーナーじゃなくて一流トレーナーなら私の娘はもっと……!』

 

「…………」

 

 そう怒鳴られた数日前の面談を思い出してしまい、苦い思いが胸に広がった。

 

「彼女が活躍できるような……頑張りたいと思うような場所を見つけてあげたいです。レースを選んだ彼女が後悔せず、真っ直ぐでいられるように」

「そうね! 私も情報集めてみるわ」

「ありがとうございます。またよろしくお願いします」

「ええ、また進展あったら連絡お願いね」

 

 教室に残る教師と別れて、俺は教室を出て行った。今日のトレーニングは午前中で既に終わっており、急な用事もなく時間をたっぷりと使える。

 

「色々、調べねえとな。土日は地方もレース開催してるから、電話するのはどうするか……でも月火と休んでるとこもあるしな……メールだけでもしとくか……」

 

 トレーナー室に足を向けつつ、これからやるべきことを呟きながら頭の中で計画立てていった。

 

 足取りが軽いと思うのは、多分気のせいではないだろう。

 こんな気持ちになるのは久々だったのだ。

 

 ◇

 

 教師は一足先に出ていった坂川の背中を見送った。

 悪い目つき、スポーツ刈りから少し伸びた無造作な短髪、ウマ娘に対してのぶっきらぼうな言葉遣い……敬語をうまく使いこなしてはいるが、その見た目や口調から丁寧な言葉を話す姿が似合っているとは言い難い。栗毛のウマ娘の母親が言ったとおり素の言葉遣いの方が似合っている。

 

「見た目によらず、真面目ねえ」

 

 多くのトレーナーを見てきた学園の教師にとって、坂川が真摯にウマ娘と向き合っていることはすぐに分かる。さっきの彼女とも良い信頼関係も築けているのだろう。

 決してそれは当たり前のことではない。坂川のような重賞やGⅠ戦線とは縁のない、未勝利戦や〇勝などの条件クラスをウロウロするようなウマ娘ばかりを担当するトレーナーは、普段のトレーニングや、こういう退学後の進路を考えるときでも雑な仕事をすることが多い。

 そういうトレーナーの熱意がない仕事ぶりを見ると非難したくなることもある。しかし、結果を残せていないトレーナーがそうなるのも仕方ないと同情するところもある。

 

 ウマ娘に恵まれ実績を残せたトレーナーや、一流チームを引き継いでサブからチーフになったトレーナーには、次々と有力なウマ娘がチームに入ってくる正のスパイラルとなることが多い。

 逆に実績のないトレーナーのスカウト活動は困難を極める。そんなトレーナーへは、選抜レースや模擬レースでも結果を残せていない、足の遅いウマ娘が結果的にあてがわれる。その中から活躍するウマ娘も出てくるが数はとても少ない。そんなチームは注目もされず、次のスカウトもうまくいかない。なので、次に入ってくるのもまた足の遅いウマ娘となり、負のスパイラルに陥ってしまう。

 一流トレーナーはチームを紹介する冊子でも大きな扱いで数ページにわたることもあるが、坂川みたいな弱小トレーナーのチームの紹介なんて、1ページに4チームぐらいで纏められて実績を簡潔に載せてあるだけだ。最も、載せるような実績がないのも確かだが。

 

 ウマ娘にとってもその親にとっても、厳しい試験を通って中央のトレセン学園に入学してきたのだから実績のあるトレーナーのチームに入りたいというのが普通の考えであろう。それに、勝てなかったら退学になってしまうのだから、良いトレーナーを求めることは当然のことと言えるだろう。メジロやサトノなんかは贔屓のトレーナーにウマ娘を斡旋したり、面談にてトレーナー選抜を行ったりしている。

 あとは物好きなウマ娘や練習で主導権をとりたいウマ娘が新人トレーナーや弱小トレーナーを選ぶこともあるが、そんなことは(まれ)だ。

 

「坂川健幸くん、か……」

 

 しかし、坂川も最初から注目されない弱小トレーナーだったという訳ではない。

 今、大活躍している彼の同期2人と並んで、大いに期待されていた時期はあった。何しろ10年前、当時は年によって1人も合格者が出ないこともある中央のトレーナー試験において、高校3年生の3人が合格した年があった。坂川はその1人だったのだ。

 それから今現在、2人のトレーナーは毎年GⅠウマ娘を輩出する一流トレーナーになる一方、坂川はこれまで1人も重賞ウィナーを出せずにいる。その2人と坂川の差は大きく広がっていた。

 

 何故そんなことになったのか。

 

「原因は、まあ……」

 

 その理由の一端は、間違いなく坂川と()()()()()に関係することだ。

 

 当時在籍していた学園の教師やトレーナーなら、自分以外にも知っている者もいるはずだ。

 学園側が隠蔽工作を図ったおかげでメディアには漏れず記事にはならなかったが……

 

「……()()()()()を起こしたトレーナーとは思えないわね。ほんと」

 

 ウマ娘と真摯に向き合う今の坂川から、あのような事件を起こしたとは考えられない。が──

 

「それとも起こしたからこそ、なのかしら?」

 

 ──と邪推せずにはいられない教師であった。




主人公の名前は実馬キングヘイローに関わった人々から一文字ずついただきました。

2023年10月15日、モブキャラを名無しに変更しました。


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第3話 グッバイヘイローの娘

 面談があった9月上旬から時は流れ、9月下旬になっていた。

 栗毛のウマ娘の退学後の進路については早々に金沢のトレーナーと話がついた。10月より金沢トレセン学園へ移籍することになり、彼女と母親が最後の挨拶としてトレーナー室までやってきていた。

 

「トレーナーさんっ、今までありがとうございました!」

「おう。気をつけてな。頑張れよ」

「はいっ!」

 

 顔を上げて満面の笑顔をこちらに向ける栗毛のウマ娘。こんなに清々しく、明るい別れなんて本当に久しぶりだ。

 彼女とは逆に母親が次は頭を下げた。

 

「トレーナーさん。この子が今までありがとうございました。進路もよくしてもらって」

「いえいえ、私は何もしていません。お礼なら金沢のトレーナーに言ってください」

 

 俺は金沢のトレーナーとやり取りしてOKをもらっただけだ。書類仕事や手続きは担任教師がやったことだし、謙遜でなく本当に大したことはしていない。

 

「それじゃあトレーナーさん、またっ! 母さん、行こう!」

「はい。ではトレーナーさん、これで失礼します」

「2人ともお気をつけて」

 

 2人が背を向けてトレーナー室の出入り口に近づいていくにつれ、少しずつ背中が小さくなっていった。

 

「……なあ」

「? 何ですか?」

「あ、いや……」

 

 こっちを振り向いてきょとんとした顔をする栗毛のウマ娘。無意識に彼女を呼び止めてしまった。特に言うことなんてないのに。

 何か言わないといけないと頭の中で必死に探した。咄嗟に浮かんだ言葉は──

 

「金沢レース場のダートは内側が深いから、外を回した方がいいぞ」

「…………」

 

 その場の空気が固まった。母親も娘と同じような表情をしている。こんな時に思うのもなんだが、栗色の髪と瞳が母娘でよく似ている。

 

「……ぷっ、あははっ! はいっ、分かりました! 今言うことじゃないなんて、思ってませんからね!」

「くっ……」

「もしかしてトレーナーさん、私と別れるの寂しかったりします?」

 

 それはおそらく間違いではない、と思う。

 

「……済まなかったな。気の利いたことも言えなくてよ」

「いえいえ! はいっ、分かりましたよ、金沢のダートは内側がキケンってこと! ……って母さん?」

「…………っ……っ」

「……?」

 

 母親が口に手を当ててそっぽを向いている。その体は小刻みに震えていた。綺麗な栗毛も揺れている。

 

「あーっ! 母さん笑ってる!」

「……っ、いえっ……もう、だいじょぉぶです。すみません」

 

 こちらに向き直した母親の表情は元に戻っていたが、大丈夫と言った時の声は上ずっていた。

 扉の前に立った2人が改めて俺の方に向き直す。

 

「引き留めて悪かったな。今度こそさよならだ。何かあったらいつでも連絡してくれ」

「はい! それでは!」

 

 母娘が頭を下げてからトレーナー室を出ていった。

 

「スケジュールの確認でもするか……」

 

 さっきまでにぎやかだったトレーナー室は静寂に包まれたが、不思議と寂しさは感じなかった。

 

 ◇

 

 彼女らが去ってから、俺はこれからの予定をホワイトボードに書いて整理していた。今ウチのチームに所属しているウマ娘のトレーニング計画やレース予定の詳細も書き込み、年末までのスケジュールを調整していく。

 そこであることに気が付いた。

 

「……そうだ。アイツら退学したから人数増やさねえとな」

 

 元々ウチには今年度始まった時点で3年が2人、2年が4人の計6人のウマ娘が所属していたが、今年は2年が栗毛のウマ娘を含めて3人が退学になってしまったので残りは3人になっている。その上、3年の2人は今年度で卒業予定で、大学受験の勉強のためほぼ引退状態にある。トレーニングには自由参加だが、出てくることはほとんどない。したがって、ウチは実質的に2年の1人だけのチームになっている。

 しかし、1人だとトレーニングに支障が出るかと言えばそうでもなく、俺たち弱小トレーナーたちはどこも似たような状況なので、日常的に合同トレーニングを実施している。併せやレース形式ならそれでいいし、筋トレや単走ならもちろん1人で問題ない。

 問題はチーム運営に関わることだ。

 

「5人必要だから、最低あと2人か」

 

 チーム運営には最低5人以上の所属ウマ娘が必要になってくるのだ。

 

「スカウトてぇと、今年の1年……」

 

 2年になったウマ娘はほぼチームに所属しているので、集めるとなったら今年の1年──つまりジュニア級のウマ娘をスカウトすることになる。

 しかし、これが中々上手くいかない。今の時代、トレーナーの実績なんてスマホですぐに調べることができるから、弱小トレーナーがいくらスカウトしたって靡いてくれるウマ娘なんていないに等しい。

 それならば、他の魅力で……と言いたいところだが、俺は実績も無ければ、イケメンでもない、ましてや年頃の女の子の興味を惹くようなトーク力もない……現実は非情である。

 

 では、ウマ娘を集められなかったトレーナーはどうしたらいいのか。

 

「……また年明けを待つしかねえのか」

 

 救済措置と言っていいのか分からないが、それを解決する方法はある。年明けに、チームに所属していない1年のウマ娘は人数が足りないチームへと強制的に振り分けられるのだ。

 年明けまで残っているウマ娘は、能力が低くスカウトされなかったか、目的や事情があってチームに所属していないかの2パターンで、前者の割合が圧倒的に多い。

 

 何を隠そう今年いた6人のうち5人が年明けの自動振り分けでウチのチームに配属されたウマ娘なのだ。もちろん声をかけてスカウト活動もしていたが、ここ2年は不調で1人しかスカウトできなかった。

 しかし、その1人が今年のクラシック級で勝ち上がってくれたのだ。やはりスカウト活動は重要だと言わざるをえない。

 

 スカウトの良い機会となる、チームに所属していないウマ娘が参加できる選抜レースは4月・6月・9月・12月にあり、すでに今年3回目となる9月の選抜レースは終わっていた。俺は丁度その時金沢のトレセン学園まで赴いていたのでレースを見ることができなかった。

 まあ、仮に見ていたとしてスカウトが成功したとは思わないが。それならまだ切羽詰まっているウマ娘が多い12月の選抜レースの方が成功しやすい。

 

「だからってこの時期何もしねえのもなあ」

 

 自動振り分けでチーム人数は補充されるので、退学が絡んでチームが5人未満になった場合では学園側から警告や罰則はない。警告や罰則が出るのはチームから離脱者が多数出たり、自動振り分けでの配属を拒否したりして5人未満になる場合だ。

 なので退学で人数が減ったチームの俺は特に焦る必要もないのだが、スカウトせずに自動振り分けを待つだけというのもチームを運営するトレーナーとしてどうなのだろうか、と思う次第である。

 

「──あ、そういや」

 

 トレーナー用の椅子に深く腰掛けたところで、あることを思い出した。

 整理整頓しているとは言い難いデスクから書類を探す。積み重ねられた書類を捲っていくと、目的の書類が見つかった。上の書類を崩さないように、慎重にそれを引き抜いた。

 

「そうだそうだ」

 

 その書類の内容を要約すると以下のようになった。

 

「ウチのチームにスタッフ研修課程の1年生が1名配属となります……ねえ」

 

 トレセン学園には少人数だがスタッフ研修生コースのウマ娘がいる。走ることを目的としておらず、入試はペーパー試験(そのペーパー試験は超難関らしい)のみで、研究を目的としたウマ娘たちだ。

 スタッフ研修生のウマ娘は1年の2学期からそれぞれチームに配属される。卒業研究でのテーマをそこで見つけて、3年の発表に向けてデータ収集や実験に取り組んでいく。

 

 そしてスタッフ研修生のウマ娘はチームの人数としてカウントすることになっている。なので、今思い出したという訳だ。

 

「しっかし、ウチのチームに来るなんて物好きなウマ娘もいたもんだ」

 

 スタッフ研修生は本人が希望するチームに配属することになっている。なので、このウマ娘は進んで俺のような弱小トレーナーのチームに来たということだ。

 変人が多いと言われているスタッフ研修生だが、どんなウマ娘なのだろうか。ウチのチームでスタッフ研修生を受け入れるのは初めてだったのだ。

 

「えーっと、名前は……」

 

 書類に書いてあるそのウマ娘の名前に目を通そうとしたその時だった────

 

 

「ちょっとちょっと! 失礼しまーすっ!」

 

 

 ──バターンッッ!!! と大きな音を立ててトレーナー室の引き戸がもの凄い勢いで開かれてストッパーに叩きつけられた。

 

「はあ!?」

 

 そこに姿を現したのは薄緑がかった芦毛のウマ娘だった。荒い息をついて急いだ様子の彼女は速い足取りで俺がいるトレーナー用のデスクまでやってきた。

 

「ここ、少しの間ここ貸してください!」

「なんだお前!?」

「匿ってください~。セイちゃん一生のお願いです~」

 

 芦毛のウマ娘はそそくさとデスク下のスペースに潜り込んできた。

 

「なんなんだよ!」

「しぃ~。説明はあとで、ねっ?」

 

 人差し指を口の前に立てて小悪魔的にウィンクした彼女に一瞬目を奪われていると、再びトレーナー室の戸が開かれた。

 

 

「失礼するわ!」

 

 

「今度は何なんだ一体……って、あ──」

 

 そこには緑のリボンで髪を鹿毛を結ったウマ娘の姿があった。俺はその姿を見て息を飲んだ。

 

 入り口に立っているのは見覚えのあるウマ娘だった。GⅠを7勝した母を持つ超良血のウマ娘、キングヘイローだった。入学時から注目されていたウマ娘で、この学園にいる者なら誰だって知っているほど有名なウマ娘だった。その物腰からワガママ令嬢と陰で呼んでいるトレーナーもいるらしい。

 

「キングのことを知っているって顔ね。まあ当然だわ! おーっほっほっほ!」

 

 お嬢様の高笑いがトレーナー室に響く。

 目線だけでデスク下の芦毛の彼女を見ると、両手を合わせて頼み込むような仕草をしながら口の動きだけで『お・ね・が・い・☆』と俺に伝えていた。

 ……☆はどこから出てきたんだ。

 

「坂川トレーナーでいいのかしら? あなた、スカイさんを見なかった?」

 

 俺の名前をなんで知っているのかと尋ねそうになったが、多分入り口のネームプレートを見ただけだろう。

 

「スカイ? 誰だそれは?」

「セイウンスカイ。芦毛でショートカットのウマ娘よ。見なかった? この辺りに逃げ込んだのだけれど」

 

 この状況から察するに、セイウンスカイ、というのがデスクの下でうずくまっているウマ娘の名前なのだろう。

 キングヘイローから見て完全に死角になっているデスク下をチラッと見やった。

 

「…………」

 

 どうするか。匿うか、売るか。

 

 天秤はすぐに傾いた。

 

 ──まあ、俺も鬼ではない。

 

 俺は椅子を離れて、デスク下を指さした。

 

 ──鬼ではないが、わざわざコイツに気を遣ってやる義理もない。それにコイツ、引き戸を強く開けすぎなんだよ。あれで俺の機嫌を損ねたな。

 

「ここにいるぞ。ほら、このデスクの下」

 

「へ?」

 

 セイウンスカイは驚愕の顔でこちらを見たかと思うと、のそっとデスク下から出てきて俺に抗議を始めた。

 

「ちょ、ちょっと、トレーナーさん!? 流石に酷いんじゃないですか~!? こういう時は空気を読んで──」

「空気を読めだあ? こんな見ず知らずのウマ娘にかけてやる情けなんぞないわ! ウマ娘のバカ力で思い切り戸を開けやがって……ウチみたいな弱小はただでさえ予算が少ねえのに壊れたらどうしてくれんだ!?」

「いやまあ、それは謝るけどさあ……」

「ス・カ・イ・さ・ん」

 

 キングヘイローがセイウンスカイの背後に詰め寄っていた。

 

「やあキング。今日はいい天気だねえ~。こんな日は青空の下でのんびりゴロゴロ昼寝でも──」

「白々しいっ! もう模擬レースが始まるのよ! 早く来なさい! 今日という今日は逃がさないわ……あなたたちっ!」

 

 キングヘイローがそう呼びかけると、いつの間にか現れたネコ目のウマ娘とボブヘアのウマ娘の2人がセイウンスカイの脇を抱えた。見たことがないウマ娘たちだが、キングヘイローの友達だろうか。

 

「連れて行って!」

「うにゃあぁぁああぁ。今日はセイちゃん走る気0%なのに~」

「今日だけじゃないでしょう全く……今日こそはあなたに……っと、坂川トレーナー、失礼したわ」

 

 2人に引きずられるようにして、セイウンスカイとキングヘイローがトレーナー室から出ていった。

 

「…………嵐みたいなやつらだったな」

 

 嵐の前の静けさではなく嵐の後の静けさの中、先程キングヘイローが言っていたことを思い出す。

 

「今日ジュニア級の模擬レースがあんのか。調べてなかったな」

 

 今日はトレーニングコースが使えないと聞いていたのだが、ジュニア級の模擬レースがあること知らなかった。あの口ぶりならキングヘイローとセイウンスカイも出るのだろう。ただでさえ今年のジュニア世代は有望株揃いだと聞く。もしかしたらまだチームに所属していないウマ娘が走るかもしれないので、スカウトのいい機会になるかもしれない。

 そして今、俺の頭の中を占めているのはキングヘイローのことだった。

 

「キングヘイロー、か……」

 

 キングヘイローのレースはビデオでしか見たことがない。丁度今からはやるべきこともないし、レースを生で見るのは良い機会になるかもしれない。現場の雰囲気やウマ娘の息遣いなど、ビデオでは分からないことがたくさんある。

 

 ──なぜ俺がこんなにキングヘイローのことを気にしているのか。それには確固とした理由があるのだ。

 その理由とは、キングヘイロー本人ではなく違うところにあった。

 

「あのグッバイヘイローの娘だもんなあ、アイツ」

 

 何を隠そう、俺はグッバイヘイローの現役時代の大ファンだったのである。

 多士済々の同期のライバル達としのぎを削ったジュニア級からクラシック級の華々しい活躍。

 突如他国から移籍してきた年上のウマ娘に完膚なきまでに叩きのめされ、自身の衰えとも戦いながら懸命に立ち向かったシニア級。

 そのどれもがストーリー性に満ちていて、多くの人の心を惹きつけたのだ。あれから20年近く経った今でも彼女のファンは多い。現在は勝負服のデザイナーとして活躍していることもあり、そのファン数は年々増加する一方だ。

 

 どうせスカウトしても断られるだけなのだから、後からビデオでレースを見返すだけでいいと思っていたので、これまでレースを生で観戦しなかった。

 しかし、今はとにかく見たくなってしまった。グッバイヘイローの娘の走りを、直に。

 

 こう思ってしまうのはキングヘイローと初めて直接話した影響だろうか。……多分、そうだ。

 

「……見に行ってみるか」

 

 俺は準備をしてから小走りでトレーニングコースへと向かった。




オリ設定という名の暴挙その2

・高等部1年1月(クラシック級に突入時)に、トレーナーがついていないウマ娘はチームの人数が少ないチームへ強制的に配属される。


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第4話 模擬レース/前

「……人集まりすぎじゃねえか? 本当に模擬レースかよ」

 

 トレーニングコースに到着すると、そこには多くのギャラリーがすでに駆けつけていた。学園のウマ娘たちはもちろん、スカウト目的と思われるトレーナーたちがコース周りやスタンドに詰めかけており、模擬レースとは思えないほどの盛況ぶりだった。

 

「どこで見ようかね……おっ」

 

 良い場所を探してスタンドを歩いていると、知っている顔を見つけた。

 

郷田(ごうだ)さん。横いいか?」

「あん? ああ、坂川か。好きにしろぃ」

 

 俺は郷田と呼んだ初老の男性の横に腰を下ろした。

 

「選抜レースみたいに人集まってんなあ。そんなに有名どころが走んのか?」

「お前~何も知らずに見に来たのかぁ?」

「しょうがねえだろ? 最近は進路探しで忙しかったんだ」

「ああ……栗毛のアイツ、今日で最後だったか?」

「そうそう。さっき最後の挨拶に来てくれたとこだったんだ。相変わらず元気で安心した」

「そうか、良かったな! お前もお疲れさんだのぉ」

「労いのお言葉どうも。郷田さんとこは今年退学ゼロだったろ? 凄いわ」

「かっかっか! これが敏腕トレーナーの実力よぉ!」

「へいへい」

 

 俺と軽口を叩き合っている郷田という男は初老のベテラントレーナーだ。深く皺の刻まれた険しい顔をしているが、話してみると結構取っ付きやすい性格をしている爺さんだ。

 本人は敏腕トレーナーと今さっき自称したが、現状を考えると正直微妙なところである。昔はGⅠには手が届かずとも年に1回は重賞を勝てる実力派中堅トレーナーだったが、ここ数年は重賞勝利に縁が無く、未勝利戦で四苦八苦するウマ娘もチームに多くいる。しかし、今年は郷田のチームのクラシック級全員が未勝利戦を勝ち抜けていた。

 彼の経験に裏付けされたトレーニング法や調整法は確かで、トレーナーとして俺がこの人から学んだ部分は多数ある。一方で熱血というか、根性論が先行しすぎてしまうことが玉に瑕だが。

 

 何故そこまで知っているのかと言うと、郷田のチームとウチのチームはよく合同トレーニングを行う仲だからだ。

 何年か前にトレーニングコースでの練習時間と場所がたまたま被ったことが続いたことで知り合い、お互いチームの人数が少ないこともあって、それから自然と一緒にトレーニングすることが増え現在に至る。

 だから郷田は栗毛の彼女のことも知っていたのである。

 

「で、誰が出走するんだ?」

「本当に何も知らねぇのか? 仕方ねえ、儂が教えてやろうか」

「助かる」

 

 郷田はズボンのポケットから折りたたまれた紙を取り出し、それを開いて話し始めた。

 

「まずはキングヘイロー。海外競バ好きのお前なら知っているだろぅ? あのグッバイヘイローの娘だ」

「さすがに知ってる」

 

 その名前を聞いた瞬間、さっきの騒動が頭の中で甦ってきた。

 

「他にはメジロ家のメジロランバートやディヴァインライト、エモシオンといった来年のクラシック級の主役候補が雁首揃えてやがる」

「確かに中々のメンツだな」

 

 郷田が言ったそれはキングヘイローを含めデビュー前から有望株として名を揚げていたウマ娘たちだった。

 しかし、このメンツぐらいでここまで人が集まるだろうか。

 

「もしかしてそいつらだけ?」

「んなわけねえだろダボ! そいつらより()()()()()2人がこの模擬レースに参加することになった! その名は──」

 

「グラスワンダーとスペシャルウィークのことッスね! 伯父さん!」

 

 郷田の声を遮ったのは若い女の声だった。いかにも体育会系女子でしたよと言わんばかりの声と見た目の持ち主は、背後から現れると俺の横に腰を下ろした。

 

「マコ……お前、儂の台詞を取りおってからに……」

「勿体ぶりなんスよ伯父さんは! 坂川さんもお疲れさまッス!」

「おう、お疲れさん。マコも見に来たのか?」

「もちろんッスよ。これを見逃す手は無いッス!」

 

 このマコと呼ばれている快活な20代中盤の女性は郷田マコ。初老の郷田、もとい郷田正男(まさお)トレーナーの姪っ子である。昨年トレーナーになったばかりで、今は伯父である郷田のサブトレーナーとして経験を積んでいる。学生時代は陸上で長距離選手として鳴らしていたらしい。

 

「なあマコ、このレースにでるウマ娘のこと──」

「このレースのウマ娘についてッスか!? 了解ッス! 今年のジュニア世代は誰もが知っての通り、超有望なウマ娘が揃ってるッス! その中でも世代トップとの呼び声高いのがグラスワンダーとスペシャルウィークッス!」

 

 マコは脇に抱えていた分厚いファイルを開いてパラパラと捲りながら目を輝かせて語り始めた。

 ファイルの中の資料はウマ娘についてのプロフィールやこれまでの模擬レースや選抜レースの結果がまとめてあるものだ。マコはこれをいつも持ち歩いており、詳細が知りたいウマ娘のこと聞くと今のように目を輝かせながら教えてくれる。

 このマコという女は見た目は体育系だが中身は筋金入りのウマ娘オタクなのである。しかも語りたい系の。

 

「これまでのレース実績もさることながら、アメリカ生まれの帰国子女グラスワンダー、生みの親を早くに亡くしたスペシャルウィークと話題性も抜群、すでにクラシックはこの2人で決まりと話す記者もいるッス! どうッスか坂川さん!?」

「どうですかと言われてもな……一応それぐらいは知ってるぞ」

「じゃあ次はキングヘイロー! 母は言わずと知れたGⅠ7勝ウマ娘! 現在は勝負服の超一流デザイナーで────」

 

 マコの乱射されるトークにいつものことながら圧倒される。

 俺が知りたいのはウマ娘のエピソードでなく、これまでのレース成績についてなのだが。まあ、グラスワンダーとスペシャルウィークの成績なんて聞かずともある程度は知っているし、別にいいか……

 

 キングヘイローから続き、先程の郷田の話に出ていたディヴァインライトやエモシオンなど、このレースでの注目ウマ娘についてマコは語り続けた。俺が話の途中で口を挟んで訊くと、模擬レースなどの結果も教えてくれた。

 

「────ッス! こんなとこッスね!」

 

 一通りマコが語り終えた。まさにマシンガントークと呼ぶに相応しい語りだった。

 

「……あれ?」

 

 そこであることに気付いた。

 

「どうしたッスか?」

 

 あの名前(セイウンスカイ)が出てきていない。今日のレースには出ないのだろうか。キングヘイローが直接引っ張っていく様子からして速いウマ娘かと思ったのだが。

 

「セイウンスカイってウマ娘は今日走らないのか?」

「ああ、セイウンスカイッスか? 出走予定にはなってるッスよ。えーっと──」

 

 セイウンスカイのページまでパラパラと資料を捲っていったマコだったが、そのページを見るなり渋い顔をした。

 

「正直、データあんまないッス」

「へえ、マコがデータ持ってないって珍しいな。なんでだ?」

「このウマ娘、トレーニングしてる姿は見かけないッスし、模擬レースにもほとんど出てないッス。でも今月の選抜レースで2着に入ったりと実力あるんスよねえ。もしかしたら気性難かもしれないッスね」

 

 トレーナ室での一件を思い出すと気性難というよりサボり癖のあるウマ娘のようだったが……何にせよ、曲者の匂いがすることは確かだ。

 

「よくセイウンスカイのこと知ってたッスね? 坂川さんがジュニア級のウマ娘に興味を示すなんて気になることでもあったッスか?」

「引き戸が破壊されそうになった」

「意味不明ッスけど、何かあったってことだけ分かったッス」

 

 疑問はあるものの、セイウンスカイがどんなウマ娘かはこのレースを見れば分かるだろう。ただ所詮このレースは模擬レースなので、サボり癖のあるウマ娘なら手を抜いて走る可能性もある。

 

 というか、そもそも何故ただの模擬レースにクラシックを狙えるようなウマ娘が勢揃いしているのだろうか。マコに聞いてみることにしよう。

 

「そもそも、なんで模擬レースにこんなメンバーが揃ってんだ?」

「聞いた話によると、キングヘイローが声をかけて集めたみたいッスよ」

「そりゃまたご苦労なことだな」

 

 わざわざメンバーを揃えたってことは、情報収集か、自分の力を試したいか、はたまた自分の力を誇示したいか、考えられるのはそんなところだろう。

 まさかトレーナーの指示でもあるまいし──と、考えが至ったところでマコに聞かなければいけないことがまた一つ出てきた。

 

「マコ、この模擬レースに出るウマ娘って皆トレーナー誰か決まってんのか?」

「ちょっと待ってくださいッスよ……えーっと、決まってるウマ娘がほとんどっすね。誰が聞きたいッスか?」

「グラスワンダーは()()のとこだから知ってる。メジロはどうせあの家が贔屓してるどっかだろ。デビュー済みじゃない奴を頼む。そうだな……スペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイローは?」

「その3人ッスね……スペシャルウィークはチームシリウスの天崎(あまさき)トレーナー、セイウンスカイはチームアルバリの横水(よこみず)トレーナー……って! この2人って……!」

「…………」

 

 マコの口からは思いもよらない2人の名前が出てきた。

 

 よく知っている2人だ。腐れ縁といってもいい。

 

 しかし、今の俺にとってはもう遠くなってしまった雲の上の存在の2人だ。

 この世界に入った時は3人が横一線に並んでいたのに、今は俺1人だけ取り残されてしまっている。

 

「坂川さんの同期じゃないっスかあ! 10年前の、高卒18歳で合格したあの3人──あっ……」

 

 マコの上がりかけていたテンションが急降下した。

 

「あの……坂川さん、すいませんッス」

「ああ? なんで謝るんだ?」

「いやだって……その」

 

 ばつが悪そうにこちらをチラチラ見るマコ。

 この話題でこの感じ、既視感がある。こいつもしかしてまた──

 

「また俺に気でも使ってんのか?」

「まあ、そうッスけど……」

 

 なぜか知らないが、俺が同期の天崎と横水にコンプレックスを抱いているとマコは思っているらしい。今までにも、俺の前であの2人の話題が出た時にマコと同じような会話をした経験がある。

 

「気にする必要はねえって言っただろ? 大体、俺があの2人と比べられて落ち込むような奴に見えるか?」

「見えないっス」

「即答かよ……だから気にすんな。気遣われる方が嫌だからな」

「……分かったッス!」

 

 マコの表情に笑顔が戻ってほっとした。

 

 一段落したところで話を戻した。

 

「スペシャルウィークはシリウスの天崎のとこか、こりゃまた大物が入ったな」

 

 スペシャルウィークは今月頭にはまだフリーだと聞いていたから、天崎は選抜レース後に契約へこぎつけたのだろう。実績もさることながら、昔から妙にウマ娘に好かれる奴だったので逆スカウトかもしれないが。

 

「押しも押されぬトップトレーナーの1人っスからね! メジロマックイーンやライスシャワーをはじめ何人もDTL(ドリームトロフィーリーグ)に送り出し、数年前のナリタブライアンはクラシック三冠を達成。そのブライアンもDTLに……ほんと、凄いッス!」

「……そうだな。それにサイレンススズカだっけか、少し前にシリウスに移籍したんだろ?」

「そうッスよ! 坂川さんも知ってたッスか」

「あれだけニュースになればな……」

 

 先週、サイレンススズカが天崎のチームシリウスに移籍したというニュースはトレーナーの間で瞬く間に広がっていた。ダービーでは大敗したとはいえ、ジュニア級の時にはそのポテンシャルの高さで少し騒がれたウマ娘だ。中には『こいつにクラシックは全て持っていかれる』とまで言ったトレーナーもいたほどだった。

 

「ダービーは駄目だったが天崎がどうせ立て直してくるだろ。まあ、それはいいとして、セイウンスカイは横水か……」

「なんスか? そのトーンダウン。横水トレーナーがどうかしたんッスか? トロットサンダーやサクラローレルをDTLに導いてますし、なんの心配もいらないと思うッスけど……あ、もしかして手強いなーとかそんな感じっすか?」

 

 横水は生真面目が服を着て歩いているような奴だが、クセのあるウマ娘の扱いが昔から格段に優れていた。そんな横水とサボり魔のセイウンスカイ……妙な感じがする。

 

「……いや、何でもねえ。ただ、横水がトレーナーならセイウンスカイはちゃんと走らない可能性が高くなったな。横水なら模擬レースでは情報収集させることが多いから」

「やっぱ坂川さん、同期なだけあってよく知ってるッスねえ。メモメモ、と」

「で、キングヘイローは?」

「ああ、キングヘイローはトレーナーついてないッスよ。未だにスカウトには靡かないし、あの気性難ッスから敬遠する中堅やベテラントレーナーもさらに増えたとか」

 

 ウマ娘を集めたキングヘイローにトレーナーがついてない……なら今回の模擬レースの話は見えてくる。

 大方、実力のあるウマ娘たちを倒して有名トレーナーにスカウトしてもらおうとか、選抜レースのリベンジとか、そういう魂胆だろう。同じような企みをするウマ娘はこれまでにも何人か見たことがある。

 

「ありがとう、マコ。てかお前それだけの情報よく集められたな」

「仲良くしてるジュニア級の子が何人かいるんスよ~。ちゃんと、見返りはあげてるッスから。持つべきものは友達ッスね!」

 

 トレーナーとウマ娘という関係にしろ、情報の見返りをあげる関係にしろ、それは果たして友達と呼んでいいのだろうか。

 などど考えているうちに、トレーニングコースで動きがあった。

 

「……おっと! 模擬レース始まるみたいッスよ!」

 

 発バ機が用意されてその周辺に出走予定のウマ娘が集まっている。その中にはキングヘイローの姿もあり、その横には制服から体操服に変わったセイウンスカイがいた。

 遠目からなので細かい表情までは伺えないが、キングヘイローが他のウマ娘に対して何かを宣言している様子が見てとれた。

 

「おいマコ、ビデオ用意しとけよ」

「了解ッス!」

 

 郷田に指示されたマコがビデオカメラのスイッチを入れて構える。

 そうしているうちに枠入りがどんどん進んでいく。キングヘイローは気合十分といった様子ですぐに収まった。そして──

 

 ──ピィーッ

 

 と、監督する教官の笛の音がレースの始まりを告げ、ゲートが開かれた。

 

 芝1600m・左回り・10人立て、注目必死のジュニア級模擬レースがスタートした。



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第5話 模擬レース/後

 時は模擬レースの発走から少し遡る。

 

 キングヘイローは模擬レースに集まったウマ娘たちを見渡した。みんな各々準備運動に勤しんでいる。

 周囲や観客席にはウマ娘やトレーナーが多く集まってがやがやとしていた。

 

 この模擬レースに出るウマ娘の大半は私が声をかけて集めたメンバーだ。私と勝負するにふさわしいメンバーを揃えることができたと自負している。スペシャルウィーク、グラスワンダー、セイウンスカイ、そして私を含め、来年のクラシック路線の主役と目されているウマ娘たちを集めたことには理由がある。

 

(このメンバーで勝って私の実力を……私が一流のウマ娘だと証明するのよ!)

 

 単純なこと、私の実力が一流だと証明するためである。

 私が一流のウマ娘だと知らしめる予定であった今月の選抜レースでは、セイウンスカイとスペシャルウィークに負けてしまい3着だった。あのレースではセイウンスカイに先頭に押し出され、力んでしまい実力を発揮できなかった。セイウンスカイにかわされ、スペシャルウィークに外から差されてしまったのだ。

 

(選抜レースはスカイさんの策略が見事だと言うしかないわ。けれど、キングは二度も同じ轍を踏まないのよ!)

 

 選抜レースではセイウンスカイを捕まえるべく、スタートダッシュに全力を注いだことが敗因だったと分析している。以前あった授業でのレースでセイウンスカイに逃げ切られてしまった経験があったので、その二の舞を避けるためであった。

 今回の戦法は中団からの差しでいく予定だ。中団にいれば、前方のセイウンスカイや後方のスペシャルウィークが動いたときに反応しやすい。グラスワンダーは先行~差しの戦法なので、もしかしたら私と同じ位置での実力勝負になる可能性があるが、それなら私は勝つ自信がある。というか、実力勝負で負ける訳にはいかないのだ。

 

(だって私は一流のウマ娘なんだから!)

 

 この模擬レースに勝って、まずは内外にキングヘイローの実力を知らしめる。来年のクラシック路線の真の主役はグラスワンダーでもスペシャルウィークでもない、このキングヘイローだと認めさせるのだ。

 

 まずはレース前に目の前のウマ娘たちに宣戦布告をするとしよう。私は仁王立ちでレースに出るウマ娘たちと向き合った。

 

「おーほっほっほ! 今日模擬レースにお集まりの皆さん、私の誘いに乗ってくれてまずはお礼を言うわ。そして、このキングに挑戦する権利をあげる!」

 

 私の高らかとした宣言に対し、一瞬きょとんとする同期のウマ娘たち。その中で一番に反応したのは、やんわりと微笑んでいるグラスワンダーだった。

 

「キングちゃんがそう言うのですから、全力で挑ませていただきますね~。模擬レースといえど、負けるつもりはありませんよ」

 

 淑やかさの中に鋭い刃を忍ばせているような雰囲気のグラスワンダー。世代筆頭との呼び声高い通称“怪物二世”だ。

 

「私も、キングちゃんやグラスちゃんには負けないよ! 日本一のウマ娘になるんだから!」

 

 力強く言い切ったのはグラスワンダーと双璧を成すスペシャルウィーク。未デビューだが、これまでの選抜レースや模擬レースの結果から大いに期待されている。その証拠に、彼女は今月トップチームの1つであるチームシリウスと契約を結んでいた。

 

「いや~速いウマ娘ばかりだねえ~。セイちゃんじゃ勝負になるか分かんないよ」

 

 両手を頭の後ろに組んで、のんびりした口調で話すセイウンスカイ。

 こうは言っているが、選抜レースではこの娘にも負けたのだ。スペシャルウィークが1着、セイウンスカイが2着、そして私が3着だった。

 

「スカイさん、その手には乗らないわよ。一流のウマ娘として、貴方の策に嵌るわけにはいかないわ!」

 

 このウマ娘は全く油断できない。戦法もさることながら、純粋に速いのだ。本人があの様子なのでまだ注目度は低いが、クラシック級では必ず強敵になるだろうウマ娘だ。いつの間にかトップトレーナーの1人である横水と契約を結んでいたし、本当に抜け目がない。

 

「やだなあキング、私はさっきまでサボろうと思って逃げてたんだよ? そんななのに策が用意できるわけないじゃん」

 

 セイウンスカイは頬に片手を当てて、もう片方の手をひらひらとさせている。本人の言う通りレース前になっても現れず、私自らが探しに行ってなんとか連れてくることができた。

 

「キングも肩肘張らずさ、力を抜いて楽しく走ろうよ~」

「そうだね! 勝負も大事だけど、セイちゃんもキングちゃんも楽しく走ろっ!」

「あらあら、スぺちゃん、私は仲間外れですか~?」

「グラスちゃん? そんなことないよ! グラスちゃんも一緒にレースを楽しもう!」

「……ふんっ。まあいいわ、纏めてこのキングにかかってきなさい!」

 

 和気藹々とした空気ではあるが、みんな本気で走る気でいるようで安心した。全力を出した相手を倒してこそ私の評価と価値が上がるのだ。この3人以外も速いウマ娘が揃っている。10人の誰が1着を取ってもおかしくない。

 

「模擬レース始めるぞー。発バ機移動するからこの辺に待機しろー」

 

 教官の声が10人にかかる。スタート位置に簡易型の発バ機が用意され、その前で準備が整うのを待つ。

 ほどなくして枠入りの指示がでた。私は深呼吸をしてから1枠1番へ、スペシャルウィークとグラスワンダーがそれぞれ4枠4番と5枠5番、セイウンスカイは大外8枠9番に収まった。

 

 全員の枠入りが完了した。あとは教官のホイッスルとゲートが開くことを待つだけ。

 

 そして、

 

 ──ピィーッ! 

 

 ガシャン! と音がしてゲートが勢いよく開く。

 

 自らの力を証明するため、私は走り始めた。

 

 ◇

 

 出遅れもなく揃ったスタートからレースは中盤へと進み、バ群は向こう正面のストレートを過ぎて第3コーナーへと差し掛かっていた。

 ターフを踏みしめる感触を確かに感じながら、模擬レース用に立てられた10のハロン棒を目線だけで確認する。つまり残りは1000mだ。

 

 スタートからセイウンスカイが大外からハナを切り、2番手から3、4バ身離してレースを引っ張っていた。

 私は狙い通りに中団のバ群の中で4番手グラスワンダーの後ろを取り5番手、後ろにいるスペシャルウィークは詳細に確認できないがおそらく殿。スタートからここまでで隊列は変わらずにきている。誰もまだ動きはない。

 

 最後の直線は500mを超え、東京レース場を模したコース形態。仕掛け時を考えながら先頭を走る芦毛の逃亡者に目をやる。こちらからその表情は窺えないが、セイウンスカイには警戒しないといけない。彼女の一挙手一投足に注意しながら走っていく。

 

 第3コーナーを過ぎ、バ群は第4コーナーに入る。

 先頭に立つセイウンスカイが作り出すペースに私を含めた9人が付いていく。ここまでペース的には速いように感じるが──

 

(スカイさんは──)

 

 コーナーでもセイウンスカイから目を離さずに必ず視界に入れておく。

 いつ動く? いつ動く? いつ動く? いつ──

 

(──! きたっ!)

 

 セイウンスカイの姿勢が一気に前傾姿勢になり、それに合わせて急加速する。セイウンスカイが第4コーナーでスパートをかけ後続を突き放しにかかった。

 見る見るうちに2番手との差が開いていく。その差は5バ身から6バ身へと変わっていく。

 

(置いていかれる訳にはいかないわ!)

 

 置いていかれないために足の回転速度を上げる──速く、速く、より速くっ! 

 

 未だに動きのないグラスワンダーを抜き、最後の直線に入る手前で3番手まで順位を上げた。私からセイウンスカイまで5バ身まで再度距離を縮める。

 

(この直線で、この差なら!)

 

 末脚には自信がある。その自信をエネルギーに変え、足からターフへ叩きつけていく。残すのは最後の直線のみ。

 セイウンスカイとの差がぐんぐんと詰まってくる。5バ身、4バ身……途中で2番手のディヴァインライトを交わした。

 

 3バ身、2バ身──残りは400mを切った。

 

(これなら、捉えらえるわ!)

 

 以前は逃げ切られたが二度目はない。後ろから追ってくる足音が聞こえるが、そんなのはもう関係ない。

 セイウンスカイに迫る、迫る、迫る────

 

(────え)

 

 そこで起こった、決定的な違和感に私は気付いた。

 

(──あれ)

 

 セイウンスカイに迫っている。それは間違いない。もう彼女とは半バ身もない。横顔も見えそうなほど。

 でも、この感覚はおかしい。

 

(足が動か──)

 

 足が回らない。

 

(呼吸、が──)

 

 息が苦しい。体、顔が起きる。

 

 景色の進みが遅くなる。

 

(失速、してるっ!?)

 

 明らかに失速しているのが分かる。

 

 ──まだ、ゴールまで200m以上あるのに! 

 

(スカイさん、は──!)

 

 同じ様に──いや、私以上に失速しているセイウンスカイが後退していく。その表情はいつもの飄々とした様子などなく苦悶に満ちていた。

 

(どういうこと? ──スカイさんは後でいい。今は走りに集中するのよ!)

 

 まだレースは終わっていない。今、先頭に立っているのは私なのだ。

 

 だが、それを許さないとばかりに後続が襲い掛かってくる。

 後ろから、ターフを穿つような強烈な足音が2つ、間近まで迫ってきている。間違いなくあの2人が私を捉えようとしているのだ。

 

(負ける、わけには……)

 

 負けるわけにはいかない。そんなことは許されない。死に物狂いで全身に動けと鞭を打つ。

 

(……いかないのにっ!)

 

 しかし、いくら心に鞭を打っても、心臓は、肺は、手は、足は、体は、言うことを聞いてくれない。

 

 残り200mを過ぎた地点。無情にもその瞬間は訪れる。

 グラスワンダーが私を抜き去る。次いでスペシャルウィークが大外から追い込んでくる。見る見るうちに2人に離されるのは私。

 1バ身、2バ身、3バ身……小さくなる2人の背中を、喘ぎながら睨みつける。

 

(この私が、また……)

 

 睨みつけないといけない背中がまた1つ、2つと増えていく。先頭の2人以外にも後続に交わされてしまっているのだ。

 

(負け──)

 

 まず先頭の2人がゴールイン。それに続いていく他のウマ娘。

 

 私は重くなった足を懸命に回しながら、なんとかゴールにたどり着いた。

 

(っ……!)

 

 一流を証明する予定であった模擬レースは、無残な惨敗で終わってしまった。

 

 

 

 

「はあ……はあ……ッ……はあ……」

 

 ゴール後、膝に手をついて酸素に喘ぐ息を整える。

 あちこちで歓声と拍手が起こっており、自分の呼吸の音はそれにかき消されていた。

 

 1着グラスワンダー、1バ身差で2着スペシャルウィーク。レースはグラスワンダーが勝利した。

 私は8着、セイウンスカイは10着で最下位という結果になった。

 

 また……また、負けてしまった。しかし、いつまでも下を向いているわけにはいかない。

 

「くっ……」

 

 唇を噛みながら顔を上げた視線の先にはグラスワンダーとスペシャルウィークが健闘を称え合っている姿があった。

 

「やっぱり……グラスちゃん、凄いね……はあ、はあ」

「ふぅ、ふぅ……スぺちゃんには、負けませんよ」

「次は私が勝つ、から……あっ、キングちゃん!」

 

 2人を見ていた自分にスペシャルウィークが気付いたようだ。

 

「キングちゃんもお疲れ様!」

「え、ええ……」

 

 スペシャルウィークに続いてグラスワンダーもこちらにやってきた。

 

「次もまた、お願いしますね。キングちゃん」

「……次」

 

 次。

 そう、次だ。

 私は、一流のウマ娘であるキングヘイローなのだ。

 

 呼吸を無理やり落ち着かせ、レース後のウマ娘と観客に向かって声を張り上げた。憎たらしいほどの笑みを顔に貼り付け、胸を張った。

 

「おーほっほっほ! 次こそはトップを譲らないわ! キングの走りはこの程度じゃないんだから!」

 

 静まり返る周囲のウマ娘とトレーナー。その中から注がれる冷たい視線。

 

 そんなことは……そんなことは、自分が一番分かっている。

 

「……っ」

 

 言うことは済んだ。引き上げようとすると──

 

「うんっ! また走ろう、キングちゃん!」

 

 宝石のように輝く瞳のスペシャルウィーク。

 

「次も私が勝ちますよ~」

 

 青く燃え盛る瞳のグラスワンダー。

 

「あなたたち……」

 

 応えてくれたこの2人へ、感謝を込めて改めて宣戦布告する。

 

「……勝つのはこのキングよ! 次のレースを楽しみに待っていることね!」

 

 そう高らかに言い放った。

 

「それでは失礼するわ!」

 

 私はトレーニングコースから出るためにコースを背に歩みを進めた。

 

 また、悔しさだけを残したレースになってしまった。

 

 

 

 

 コースから出る途中、あることに気付いた。

 

「……って、スカイさんは?」

 

 振り返ってコースを見渡す。そういえば、ゴール後から姿が見えない。

 

「もう帰ったのかしら?」

 

 気分屋の彼女のことだ。最下位に負けてしまって、むくれてすぐ帰ったのかもしれない。

 それにしてもあのレース中の顔、あんなに苦しい表情で走るセイウンスカイは初めて見た。

 

「スカイさんらしくなかったわよね……故障、かも……心配だわ……」

 

 いつも飄々としている様子のセイウンスカイはその本心が見え辛い。今日もレースをサボろうとしていたが、気が乗らないのではなく、他の要因もあったのかもしれない。故障もしていないか心配だ。

 

「もしそうなら……」

 

 もし無理に誘ってしまったのなら……次に会った時のことを考えながら、校舎のある敷地へ足を踏み入れる。そこで自身の体を見下ろした。

 

「……ドロドロね」

 

 自身の肢体を見ると跳ねた土であちこち汚れてしまっている。なので寮に戻る前に水洗い場へ寄ろうと考えた。コース近くにある水洗い場の周辺はレースを見ていたウマ娘たちで混んでいるので、誰もいなさそうな水洗い場を探すことにした。

 

 何より、独りになりたかったのだ。

 

 ◇

 

 観客席の物陰、そこにセイウンスカイはある女性と2人でいた。

 

「トレーナーさんさあ。こんな指示、セイちゃんはよくこなせたと思うのです。ご褒美が欲しいなー、なんて」

「よくやった。何が欲しいのか言ってみろ」

 

 セイウンスカイと話しているのは妙齢の女性トレーナーだった。スラッとした細い肢体に、レディーススーツをかっちりと着こなしている。

 30歳に届かない年齢の女性であるのに、その物腰は年齢にそぐわず自信に満ち溢れている。

 

「そうですねえ~、じゃあトレーニングを休んで釣りに行ってもいい?」

「構わない」

「ほんと? じゃあ~早速明日お休みってことで~。今日頑張った分、充電が必要なんです」

「分かった」

「やった!」

 

 小さくガッツポーズをするセイウンスカイ。

 

「以上だ。帰っていいぞ」

「あ~、その前に」

 

 踵を返していた女性トレーナーをセイウンスカイは引き留めた。

 

「今日の指示の意味、聞かせてもらえます? 『ハイペースからスパートをかけて最後2ハロンまでで体力を使い切れ』……なんて相当無茶な指示だと思いますよ?」

 

 どこか試すような口調のセイウンスカイ。女性トレーナーは振り返りセイウンスカイの方に向いた。

 

「聞きたいのか?」

「はい」

「まず1つ目は、周りのウマ娘の実力を測ること。ただ単に足の速さもそうだが、ペースを読めるかどうかを試した」

「私もそうじゃないかな~て考えてました。まずってことは、いくつもあったりします?」

「ああ、全部聞かせてやるぞ? 2つ目はお前の実力を隠すためだ。模擬レースで勝ちにいく必要などない。トゥインクルシリーズで勝てばいい。3つ目、ハイペース逃げをするウマ娘だと印象付けること。理由は言わなくても分かるな?」

「私に付いていったら潰れるって思わせること。撒き餌、かな?」

「そうだ。察しがいいな」

「いや~セイちゃん聡明! キャハ☆」

 

 セイウンスカイのウィンクを無視して女性トレーナーは続けた。

 

「4つ目、お前がマイルで持たないと思わせること。ラップを見ればそんなことはないとすぐに分かることだが、一度惨敗するだけで騙されるトレーナーやウマ娘は案外いるものだ」

「なるほど~って、まだあるんですか~?」

「あと2つだ。そして5つ目、お前の実力を測ること」

「……ふ~ん」

「その様子だと、察していたか? 絶対能力が違う怪物級のウマ娘なら暴走しても押し切れるし、後続をもっと離すことができただろうが、お前はそうではなかった」

「そっか~セイちゃん試されてたのか~」

「そして6つ目、これが最後で最も重要だ。お前が私の指示に従うかどうか」

 

 女性トレーナーはそう断言した。

 

「全部が全部、試されていたってことですね。そんなとこかなとは思ってたけど、やっぱり気分は良くないな」

 

 セイウンスカイには先程までのおちゃらけた気配が消えていた。少し眉根を寄せて女性トレーナーと目を合わせた。

 

「試したことについては謝ろう。だが、私のチームに入ったウマ娘にはどんな形であれやっていることだ。私の指示に従うか、否か。指示が聞けないならチームを辞めてもらっている」

「なら、私は大丈夫ってことですよね?」

「ああ」

「ふぅ~、一安心一安心!」

 

 また元の調子のセイウンスカイに戻っていた。セイウンスカイはキングヘイローに連行されるまでサボろうと思っていたことを思い出し、内心冷や汗をかいていた。

 

「心配するな。これからも一緒にやっていこう。お前は怪物ではないが才能がある。その足と、その頭が」

「な~んかしっくりこないけど、褒められてるんですよね?」

「ああ、お前と私ならGⅠに手が届く」

「GⅠだなんてそんな、セイちゃんには恐れ多くてとてもとても」

「そうか? お前の目はそう言っていないぞ?」

「……」

 

 セイウンスカイの顔から上っ面の笑みが消える。

 この女性トレーナーは上手く人の心をくすぐってくる。

 

「私に期待しろ、セイウンスカイ。グラスワンダーを、スペシャルウィークを倒そうじゃないか」

「そう言われると弱いなあ。……セイちゃんも頑張ることにします。横水トレーナーさん。こっちこそ、よろしくお願いします……ね?」

 

 セイウンスカイとその担当トレーナーであるチームアルバリのチーフトレーナー、横水幸緒(さちお)。日の当たらない陰で行われた、2人の会話だった。

 

 そして最後にボソッと、

 

「……キングはそこに入ってないのか」

「セイウンスカイ? 何か言ったか?」

「何でもないですよ~」

 

 その呟きは横水には届かなかった。

 元より、届かせる気もなかった。



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第6話 仮面と素顔

「グラスワンダーは強いッスね~。まさに怪物ッス!」

「能力が頭1つ抜けてるな。レースセンスもあるし。本当に今月メイクデビューしたウマ娘か?」

 

 帰っていくウマ娘やトレーナーが横を通り過ぎていく中、俺は観客席でマコと模擬レースの振り返りをしていた。

 

「儂は帰る。マコ、帰ったら儂のパソコンにレースの動画入れとけぃ」

「了解ッスよ、伯父さん」

 

 郷田が席を立って去っていった。

 俺とマコはレースの分析を始めた。

 

「で、坂川さん、今のレースはどんなレースだったんッスか?」

「セイウンスカイが作ったハイペースのレースだ。ついていったウマ娘は潰れて、ペースを読んだウマ娘が勝った。簡単に纏めるとこんなもんだな」

 

 自分のストップウォッチで記録したラップタイムを書き起こしたメモ帳に目を落とす。

 

「にしてもこのラップは異常だな。ほれ見てみろ、800mから1200mまでの2ハロンのタイム」

 

 メモ帳をマコに見せた。

 

「どっちも11秒台前半!? これじゃスプリントじゃないッスか」

「序盤からハイペースで飛ばして4角辺りからこれだからな。これで走ればそりゃバテて最下位に落ちるわ」

 

 このレースではセイウンスカイは正気の沙汰とは思えないラップを刻んだ。それはなぜか。

 

「セイウンスカイも舞い上がったんじゃないッスか? そうじゃないとこんな走り方しないッスよ」

「……言ったろ。セイウンスカイのトレーナーは横水だ。十中八九アイツの指示が入ってる。だからマコ、セイウンスカイを記録するなら今のレースは参考外にしとけ。全く参考にならん」

「了解ッス! えーっと“ハイペースで殺人ラップを刻むも横水トレーナーの指示の可能性大。当レースは参考外”……っと」

 

 マコがファイルの書類にボールペンを走らせる。

 

「でも、この時期にこのラップを刻めることは能力の証明になる。前半ハイペースでラップを刻んだのもアイツの指示なら、セイウンスカイは相当強いウマ娘だ」

「“ただしラップを刻み実行する能力とその走り自体は評価すべきか? 坂川『相当強いウマ娘かも』”……っと、こんなもんッスかね」

 

 セイウンスカイの記録を取り終わったようだ。マコは毎回レースがあったら結果だけでなくレースの中身をこのように記録している。その勤勉な態度は殊勝で良い事だが、俺が居合わせた場合その内容は俺に任せっきりなる。

 まあ、頼られているようで悪い気はしないのだが。

 

「他のウマ娘はどうッスか?」

「グラスワンダーとスペシャルウィークは実力的に順当だな。さっきも言ったけど意外とレースセンスが良いってことか。セイウンスカイに釣られず直線までよく我慢してた。他に気になったウマ娘は……逆に我慢できなかったキングヘイローか」

「キングヘイローッスか! 直線でセイウンスカイを捉えて勝つかと一瞬思ったッスけど、最後は足が上がってたッスね」

「あいつは1着2着の2人と違って全くペース読めてなかったな。バ群の中での走り方とか色々あるが、2人と比べたら完全に実力不足だ。何もかも足りねえ」

「えらく辛口ッスねえ」

「本当の事だからな。それにあのグッバイヘイローの娘だし。俺、グッバイヘイローのファンだったし」

「え、そうなんスか? 坂川さんが海外のレース好きなのは知ってたッスけど」

「ガキの頃にアメリカのレースに夢中になってなあ、そん時に活躍してたウマ娘なんだよ」

「好きなウマ娘の子だから厳しい評価になると。……“坂川、愛するウマ娘の子には厳しい。親気取りか? ”」

 

 パラパラとファイルを捲って最後の方にあるページを開いてボールペンを走らせるマコ。

 ……聞き捨てならない台詞が聞こえた気がする。

 

「おい! 何書いてんだコラ」

「坂川健幸の個人ファイルッス」

「お前そんなの作ってんのか!? キモいわお前、早く破棄しろ!」

 

 そんなおぞましいモノをマコが作っていたことに戦慄を覚える。一体何が書いてあるのだろうか。

 

「破棄しませんッス! あと、レディに向かってキモいは酷いッス!」

「キモいっつったのはその坂川健幸個人ファイル作成についてだっつうの! その書類渡せ!」

「嫌ッスゥゥッ!」

 

 ファイルを取り上げて破り捨ててやろうと思ったが、マコの巧みなガードを突破することができなかった。

 

 ◇

 

 レースの振り返りはこんなもんだろう。マコと引き上げる準備をする。

 

「マコ、その動画明日でいいから俺にもくれよ」

「了解ッス。じゃあ明日持っていくッスね。お疲れ様ッス」

「お疲れさん」

 

 マコとは観客席を出たところで別れた。仲良くしているジュニア級のウマ娘のところに情報収集に行ってくるらしい。

 俺はやることがないのでトレーナー室に帰ろうとしたのだが──

 

「……混み過ぎだろ」

 

 コースの外から校舎にかけて、模擬レースを見に来ていたウマ娘やトレーナーでごった返していた。

 さっきのレースを話題にしているウマ娘やトレーナーもいれば、レースを見た流れで雑談に興じている奴らもいる。他にも、それに乗じて未契約のウマ娘を狙ってスカウト活動をしているトレーナーもいる。

 選抜レース後はこのようにカオスになることが多いが、模擬レースでこんなことになるとは。つくづく注目度の高いレースだったのだろう。

 

「遠回りするか」

 

 人混みは好きではないので、模擬レースが行われたトレーニングコースから少し離れたところにある障害用トレーニングコースの周りを経由して帰ることを選択した。

 

 

 

 狙い通りこちらの道は空いていた。たまに障害ウマ娘と会うくらいで、ほとんど誰も見かけなかった。

 

「そりゃそうか。レースもあったし、わざわざこんな道通らねえもんな」

 

 そう独り言ちながら校舎のある敷地に入っていく。そこで、気になるものを見つけた。

 

「……ん?」

 

 障害用トレーニングコースから校舎の敷地に少し入ったところにある小さな水洗い場に1人のウマ娘の姿があった。大きな水洗い場が障害用トレーニングコース寄りに設置してあるので障害ウマ娘の多くはそっちを使うのだが……

 

「あのメンコ……!」

 

 耳から外した青い2つのメンコが洗い場の上に置かれている。そしてその横には耳飾りと思われる緑のリボンもあった。

 どちらも既視感がある。先程まで見ていたものだ。

 

「キングヘイロー……か」

 

 キングヘイローは頭から水を被ったのか、鹿毛の髪が艶やかに濡れていた。タオルを首にかけ、水洗い場の壁に両手をついて俯いていた。

 

「どうすっかな……」

 

 敷地に入るには水場の近くを通らないといけないのでおそらく気付かれる。独りになりたいがためにこの水洗い場を選んでいるのだろうから、そこに行くのもデリカシーのある1人の大人としてどうかと思うところである。

 引き返そうか……などと考えていたところで、キングヘイローが顔をあげて振り向いた。目が合うのは自然のことだった。

 

「あなたは……確か、坂川トレーナー」

「キングヘイローだったな。お疲れさん」

 

 気付かれたものは仕方がない。独りにしてやるためスルーして通り過ぎようとしたが────キングヘイローが声をかけてきた。

 

「っ……おーっほっほっほ! 一流のウマ娘はどこにいようとも人を引き寄せてしまうのね! おーっほっほっほ!」

 

 濡れてベタっとした髪と、泥を落とすために濡らしたであろう四肢。疲労もあるだろうし見た目はボロボロだ。尻尾は滑らかに動いているが、耳は垂れてしまっている。

 どうして、そこまでするのだろうか──そんな疑問を訊くのは野暮だ。しかし、せっかくここで出会ったのだからレースの話をしたくなった。

 

「今日の模擬レース見てたぞ」

「そう!? 一流の走りは次のレースでお見せするわ! キングの本当の実力はもっともーっと凄いのだから! おーっほっほっほ!」

 

 高笑いをするキングヘイロー。

 正直、痛々しくて見ていられない。マコの話によるとこれをずっと続けているらしいから驚きだ。

 

「本当の実力、ねえ」

 

 俺はキングヘイローには聞こえないようにボソッと呟いた。

 

「何か言った坂川トレーナー? この一流ウマ娘であるキングとの出会いに感動して声もでないのかしら? 今ならあなたにキングへ自らを売り込む権利をあげるわ! おーっほっほっほ!」

「……?」

 

 キングヘイローの高笑いが続いている。

 こいつは俺がスカウトのために探しに来たと思っているのか? だがそれはあり得ない。彼女が弱小トレーナーである俺の担当ウマ娘になることはないだろう。

 

 だから、偶然出会ったこの瞬間が俺とキングヘイローが直接話す人生最後のチャンスかもしれない。

 どんな話をするか逡巡したが俺の考えていることを話そうと、そう思った。

 

「殺人ラップのハイペースについていって自滅することが一流のウマ娘のやることなのか?」

「──え」

 

 キングヘイローの作られていた仮面が剥がれかけていた。痛々しい笑顔を作るために閉じられていた瞼が開き、彼女の瞳が現れる。

 その瞳は驚きで揺れていた。

 

「これ、やるよ。今日のレースのラップだ」

 

 模擬レースのラップタイムが記されたメモ帳を破いてキングヘイローの足元に放る。彼女はそれに目を落とした。800mから1200mの2ハロンのタイムには万年筆で何重にも丸を付けて強調してあるから、嫌でもそこに目が行くはずだ。

 

「丸で囲んだところが800から1200の2ハロンのラップだ。セイウンスカイはおそらくそこで意図的に暴走した。お前はついていって自滅した。グラスワンダーはペースを読んで追い出しを待って勝ちに持っていった」

「……あなたは一体何が言いたいの?」

 

 キングヘイローの仮面は完全に剥がれ落ちた。貼り付けた痛々しい笑顔から不信感と不快感の混ざりあった表情に変わり、それが俺に向けられていた。

 

「俺は今日のレースの回顧をしているだけだ。せっかくそのレースを走った1人に会ったんだから、ただ喋りたくなった」

「あなたは、私をスカウトしに来たのではないの……!?」

「ああ? 違えよ。そもそも、お前が俺のスカウトを受けるわけないだろ?」

 

 キングヘイローの表情に疑問の色が混じる。

 コイツ、顔に出やすいな……それとも弱ってるからか?

 

「お前が一流のトレーナーを求めているってことはトレーナーの間に知れ渡ってる。あなたは私のトレーナーに相応しくないって言って、多くのトレーナーの誘いを断っていることもな。そこにあるスマホで“坂川健幸”について調べてみろ。俺の言っている意味が分かる」

「……」

 

 キングヘイローはメンコの横に置いてあったスマホを手に取り画面をタップし始めた。しばらくして指が止まり、画面を睨むように見つめていた。

 

「坂川健幸……トレーナー歴10年……GⅠ勝利数0……GⅡ勝利数0……GⅢ勝利数0……!」

「俺の言ってることが分かっただろ? トレーナー10年やって重賞勝利0。一流どころか、二流、三流ですらない。弱小、底辺……そう呼ばれるのが相応しいトレーナーだからな」

 

 トレーナーのヒエラルキーの階層で言えば間違いなく最底辺に位置するトレーナー、それが坂川健幸だ。

 

「……ええ、そう。あなたは私とは縁のない人みたいね。それで、あなたは何が言いたいの? 口だけで一流じゃないって? 他のウマ娘やこれまでのトレーナーみたいに私に現実を知れって言いたいの? お母さま(あの人)みたいに……お前には才能がないって、そう言いたいの!? そういうことならおあいにく様、十分間に合っているわ」

「……」

 

 キングヘイローからはっきりと敵意が感じられた。だが、その敵意は俺だけに向けられたものではないように感じる。

 俺以外に……他のウマ娘、これまでのトレーナー、それとあの人、か。

 

「私は何を言われたって一流と言い続けるわ! 嘲笑(わら)いたければ嘲笑(わら)いなさい! キングは後退しない。決して首を下げない。そういう覚悟で、私はここに来たんだもの!」

 

 喋り終えて一つ息をついたキングヘイローと再び目線が合う。睨みつけるキングヘイローと、それを観察するように見る俺。

 そのキングヘイローを見ていて瞬間的に心がざわついたように感じたが、すぐにどこかに消えてしまった。

 

「絶対に、認めさせてやるんだから……!」

 

 キングヘイローはそう言って、潤んだ瞳で相変わらず俺を睨みつけてくる。

 よくもまあ、そこまで真っすぐに相手を睨みつけられるものだと感心していると、自然と1人のウマ娘の姿を思い出してしまった。

 

(こいつ、やっぱり……)

 

 思い出してしまったことによってつい笑ってしまいそうに……いや、もう我慢できなかった。 

 

「……くっ」

 

 そうか、これがキングヘイローか。

 

「くっくっく……」

「……? あなた、本当に嘲笑(わら)って……っ!」

 

 この負けん気の強そうな表情。

 諦めてなるものか、負けてなるものかという不屈の姿勢。

 そして、現実に打ちのめされたこの現状。

 

 

 そっくりじゃないか。幼い頃画面の向こうに映っていた、シニア級のグッバイヘイロー(母親)に。

 

 

「はっはっは! ……いや、スマン思い出し笑いしてしまった」

「思い出し笑い!? あなた、どこまで無礼な人なの……!」

「いやースマンスマン。邪魔して悪かったな。じゃあな、キングヘイロー。いいトレーナーが見つかるといいな。そのラップ書いた紙、やるよ」

 

 キングヘイローは先程の模擬レースで惨敗したとはいえ今月の選抜レースでは3着だ。気性が問題視されているとしても、能力と血統から放っておかない中堅以上のトレーナーは必ず現れるだろう。本人もどこかで落としどころを見つけられるはずだ。

 話を終え、キングヘイローの前を通りすぎようとした。

 

「はあ!? あなたは一体何がしたかったのよ!?」

「だから、レースの回顧をしただけって言っただろ? トレーナーの話になったから俺のことを絡めて適当に話しただけだっての」

「意味が分からないわ! 結局、他のトレーナーみたいに私を貶しただけじゃない!」

「……む」

 

 そこまで言われたら俺も流石に思うところがある。最後にトレーナーらしいことをしてやるか。

 

「──中団バ群で控えているときと抜け出す時のフォームが明らかに違う。バ群にいるときは全身に力が入りすぎた。あれじゃ必要以上に消耗する。克服するなら競られるトレーニングしてフォーム自体を修正するか、バ群から距離を取る戦法を試せ。これは最優先に取り組め」

「はあ?」

「ペースを読めないなら体内時計を意識したトレーニングをしろ。訓練方法は教本にもたくさん載ってるし、自分に合う方法を選んだらいい。ストップウォッチを使うにしても色々なやり方がある。トレーナーが決まったら素直に相談するのが吉だな」

「いきなり何を──」

「東京レース場で4コーナーの手前から仕掛けるのは愚策だからやめとけ。レース場ごとに形状や起伏があるから、デビュー前に頭に叩き込んでイメトレしとけ。過去のレースを見ても勉強になる。自分と似た性質のウマ娘を探せ」

「──なんで、そんなこと」

「1つ、褒めといてやるよ。4コーナーでセイウンスカイを捕まえようとスパート掛けた時の脚は良かったぞ。位置取りを下げておいて、もう少し我慢すればどうにかなってたかもな。グラスワンダーとスペシャルウィークに勝てたかは分からんが」

「あなた、変よ……」

 

 アドバイスしてやってるのに失礼な奴だ、と喉まで出てきていたが、それより面白いセリフを思いついた。

 

「最後に」

「……なに?」

 

 ちょっとからかってやろう。

 

「首は下げないとかカッコいいこと言ってたが、レースの時は首を下げろアホ。最初から頭が高すぎるんだよ。そうだな……毎日土下座でもすればいいんじゃねえか? 頭が上手い事下がるようになるかもなー」

「あ、あほ!? ど、土下座って……! 品性を疑うわ! やっぱりあなた、最っ低ね!」

「おう、最底辺のトレーナーだ。じゃあなキングヘイロー。最近、障害ウマ娘の連中が合同で夜錬してるから、さっさと済ませないとかち合うぞ」

「え!? いや、ちょっとあなた! 待ちなさい──」

 

 ──もう彼女と話す機会はないだろう。

 

 水洗い場でぎゃーぎゃー言っているキングヘイローを背に、敷地の奥へ足を進めた。

 

 チラッと振り返ると、そこに疲れ切ったような痛々しいキングヘイローの姿はなく、耳をピンと立て、引き上げる準備に悪戦苦闘しながら急いでいる元気な1人のウマ娘の姿があった。

 

 ◇

 

「全く、何なのよあのトレーナーは……」

 

 タオルで水に濡れた部分を拭いたあと、足早に水洗い場から去ろうとするキングヘイロー。

 水洗い場から20mもいかないところで、地面に落ちている黒く細長いものを見つけた。

 

「これは……?」

 

 思わず落ちていたものを拾い上げる。長さは20cmほどで、細長く長方形をしている革製のケースのようだ。中に何か入っているのか、真ん中が細長く膨らんでいる。

 ケースには何も書いておらず、モノが何かも分からないので、ケースの中から細長いものを取り出して見てみた。

 

「これ、万年筆よね?」

 

 出てきたのは黒光りする万年筆だった。回しながら外観を眺めていると、蓋の部分に英字の筆記体で金色のネームが入れてあった。

 

「“K.Sakagawa”……って!」

 

 サカガワ──坂川! 

 さっきの意味不明なトレーナーで間違いない。

 

「落としたってこと?」

 

 万年筆を見るに安物ではなく、微細な傷が入りながらも綺麗に保たれていることが分かる。大事に使っているのだろう。

 使い捨てボールペン程度なら届けずとも罪悪感はないが、おそらく本人が大切にしているであろう万年筆だ。これは坂川に返すべきだろう。だが、再び坂川と会うのに気が乗らないことも確かなのだ。

 

「届けた方がいいわよね。でも……」

 

 万年筆を手にどうするか思案していると、複数の足音が校舎の方から聞こえてきた。坂川が言っていた、障害ウマ娘たちだろうか? 

 

「~~っ、もうっ!」

 

 こんな状態を他のウマ娘に見られるわけにはいかない。

 キングヘイローは万年筆を手にしたまま、寮を目指して小走りに歩き始めた。



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第7話 一流のトレーナー?

「ない……ない……どこにもない……一体どこにやったんだ……」

 

 模擬レースの翌日の午前中、俺はトレーナー室の物を手あたり次第ひっくり返していた。というのも大事な万年筆をなくしてしまったのだ。昨日はそれを持っていた。模擬レースを見た際、それを使ってメモ帳にラップタイムを書いたりしていたからだ。だから昨日は確かに持っていた。

 今朝トレーナー室へ来て早々見当たらないことに気付き、それから数時間トレーナー室の中を探し回っているのだが一向に見つからない。

 

 これだけ探しても見つからないのだから、トレーナー室にはないということだろう。昨日は模擬レースのために学園中を歩き回っていたため、その時に失くした可能性を考え、少し前に学園の事務へ拾得物の照会をした。しかし、万年筆は届いていないらしく、もし該当しそうなものが届いたらこちらに連絡してくれと事務に伝えておいた。

 

 手詰まりになってきた。最終手段は直接探しに行くことだが、他にやっておくことや見落としたことはないだろうか。

 

「昨日と言えば……あ!」

 

 そこで1つ案が浮かんだ。昨日会っていたマコに聞いてみるのはどうだろうか。もしかしたらあっちの荷物に紛れ込んでいるかもしれない。

 

 善は急げよろしく、俺はすぐさまマコに電話をかけた。数コール後、あの快活な声が聞こえてきた。

 

『はい! どうしたッスか坂川さん』

「突然すまん。マコお前、俺の万年筆知らない? 名前の入った黒いやつ。黒い革のケースに入ってんだけど」

『ああ、あれッスか。どうしたッスか? 失くしたんスか?』

「そうだ。見当たらねえんだ。昨日模擬レースを見たときは持ってたんだが」

『なんで万年筆を外に……ってあー、昨日坂川さんドレスシャツだったッスもんねえ。いつも作業服なのに珍しいと思ったんスよ。坂川さん、綺麗目な恰好の時は万年筆持ち歩いてますもんね。今時、記者でもないのに持ち歩くもんでもないと思うッスけど』

「……人の勝手だろ。放っとけ」

 

 マコの言う通り昨日はドレスシャツとスラックスで割とフォーマルな装いにしていた。昨日は栗毛のウマ娘とその母親が会いに来ていたから流石に作業服で応対するわけにはいかなかったのだ。

 

 学園にいるときの俺は基本的に作業服で、週末のレースを見に行くときなどはフォーマルな恰好をしている。普段万年筆はトレーナー室から出すことなく机の引き出しに入れており、一方で自分の担当ウマ娘のレースを見に行くとき──つまりフォーマルな恰好のときには持ち歩いている。

 昨日は模擬レースだったので持っていく必要はなかったのだが、そんな恰好をしていたせいか無意識にポケットに入れてしまっていたようなのだ。

 

『こっちでも探してみるッス。伯父さんにも聞いておくッスよ』

「ああ、頼む。見つかったら連絡くれ」

『はーい。じゃお疲れ様ッス。……あ、昨日の模擬レースの動画、夕方にでも持っていくッスね』

 

 通話の切断音が耳に当てたスマホから聞こえた。スマホを顔から離して机の上に置く。椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げてからため息をついた。

 

「なんで……クソッ」

 

 自分を責める。あの万年筆は昔、()()()から貰ったものだ。ただの贈り物ではなく、俺にとって大きな意味を持つものだ。

 

 

 あの万年筆は、()()()()()()()()()()であり、()()()()()()()でもあるのだ。

 

 

 ……いつまでもこうして自責の念に駆られていても仕方がない。

 

 とりあえず昼が過ぎるまでマコと学園からの連絡をしばらく待つことにした。もしそれでも見つからなければ、昨日通った自身の導線を辿ることにしよう。

 考えが纏まったところで目の前の惨状に目を向ける。

 

「……片付けるか」

 

 目の前には物があちこちに散乱して散らかったトレーナー室が広がっていた。それを見てげんなりとしながらも、俺は立ち上がって片付けに取りかかることにした。

 

 ◇

 

 来客がトレーナー室の扉を勢いよく開けたのは、時刻が正午を回り片付けも終わって昼飯を食べているところだった。あれから学園の事務とマコから電話はかかってこなかったので、これはいよいよ学園を徘徊して探すしかなくなってきたかと覚悟を決めながら昼飯のカップ麺を啜っていると、バーンッと引き戸がストッパーに叩きつけられる音と、少女の声が耳に届いた。

 

「失礼しますよ!」

「ああ!? 戸はゆっくり開けろって言ってるだろうが!」

「そんなことは初めて聞きましたね。これからは気を付けることにします」

「は!? ……って誰だお前?」

 

 扉を開けてトレーナー室の中に入ってきたのは黒鹿毛の髪の毛を腰まで伸ばした青縁眼鏡のウマ娘だった。制服の上に羽織っている飾り気のない白衣が目を引いた。

 

「…………」

「黙ってねえで名乗れ」

「……わたしのことはちゃんと通達が行っていると思いますけど」

「通達? んなことは何も…………んん?」

 

 改めて彼女の恰好を見る。その羽織っている白衣、同じようなものを着用しているウマ娘を見たことがある。確か、日常的に白衣を着用しているウマ娘たちと言えば────

 

「お前、スタッフ研修のウマ娘か」

「ちゃんと知ってるじゃないですか。そうですよ。今日から配属になります。放課後に来てもいいんですけど、トレーナーさんがトレーニングに行って入れ違いになるのは御免なので昼休みの今、挨拶に来たんです」

 

 彼女はそう言ってトレーナー室の中に入り後ろ手に引き戸を閉めると、俺のいるトレーナー用デスクの前まで来て右手を胸に当て堂々とした様子で自己紹介を始めた。

 昨日、その配属の書類を見たことをちょうど思い出した。

 

「初めまして、わたしはスタッフ研修課程1年のスタティスティクスペティと申します。ペティでいいですよ」

 

 長いストレートの黒鹿毛をさらっと揺らして小さく礼をしたスタティスティクスペティことペティ。

 昨日書類で確認した名前と、彼女が名乗ったそれは一致していた。

 

 何とまあ、言動にしろ言葉使いにしろ態度にしろ、小生意気というか癖のあるウマ娘だなというのがペティに対する俺の率直な第一印象だった。

 そして、ここに来たからには訊かなけばならないことがある。

 

「俺は坂川健幸だ。単刀直入に聞くぞ。なぜ俺のチームに配属を希望した?」

「ふふ、それは──」

 

 俺の問いに対し、ペティは口角をあげてにやっと笑ってから、どこか芝居がかったように右手を勢いよく上げて人差し指で俺を指さした。

 

「──トレーナーさん、あなたは一流のトレーナーだからです!」

「……は?」

 

 理解ができないセリフをペティは言い放った。

 

 ◇

 

「確かこの辺……よね」

 

 坂川の万年筆を拾った翌日、つまり模擬レースの翌日の昼休み、キングヘイローはそれを坂川へ届けるべくトレーナー室が集まっているトレーナー棟までやってきていた。

 あれから万年筆をどうするか悩んだ末、自ら坂川へ届けることにした。学園の事務か担任の教師か駿川たづなに渡せば坂川まで届けてくれるだろうが、わざわざそれを選ぶ気にはなれなかった。

 

(それじゃ私がアイツから逃げているみたいじゃない!)

 

 私の一流としてのプライドが何事からも逃げるなと訴えてきたのだ。

 

 昨日の坂川は模擬レースに関して貶してきたかと思えば、唐突にいくつかアドバイスをしてくれた。その一瞬だけは見直したが、その後は土下座の練習をしろと馬鹿にしたことを言ってきた。結局、私は坂川に遊ばれていただけだったのだ。

 これから先、私を馬鹿にする坂川のような人間との出会いはいくつもあるだろう。だから、ここで逃げる選択肢を選んではいけない。一流のウマ娘として、キングヘイローとして、何事からも逃げることは許されないのだ。

 

 それにしてもあの時の自分はらしくなかった。模擬レースに負けたダメージが多少あったとはいえ、初対面に近い坂川相手に自分のことを喋りすぎたし、感情的になりすぎていた。

 

「……あの部屋」

 

 ここまでの道程を思い返しながら人気のないトレーナー棟の廊下を歩いていると、気付けば坂川のトレーナー室まで数メートルのとこまで来ていた。引き戸が少し開いているのか、部屋からは明かりが漏れている。

 更に近づくと、中から話し声が聞こえてきた。女の声と男の声。男の声で『──坂川健幸だ』と聞き覚えのある声がした。坂川の声で間違いない。

 

「来客? 取り込み中かしら? 出直した方が──」

 

 と考えながらつい引き戸のすぐそばまで近づくと、女の声が外にいる私にまではっきりと届いた。

 

『トレーナーさん、あなたは一流のトレーナーだからです!』

「へ? ……っ!」

 

 思いもよらない言葉に思わず声が出てしまった私は慌てて手をやって口を塞いだ。

 

「……」

 

 どういう話をしているのだろうか。

 無意識の内に息を潜めてその会話に耳をそばだてた。




スタティスティクス(統計学)+ペティ(統計学の父)
スタッフ研修のオリウマ娘です


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第8話 底辺トレーナー

「どういうことだ?」

 

 奇想天外なことを言いだしたペティは俺に向けていた右人差し指を下ろすと、もう片方の手に持っていたタブレットを操作しながら得意げに話し始めた。

 

「あなたのことは調べましたよ。トレーナーさんの経歴やこれまでの担当ウマ娘の成績。全て調査しました」

「……」

 

 “全て”──一体どこまで俺のことを知ったのだろうか。言いようのない感情を胸にペティの話を聞く。

 

「坂川健幸28歳、トレーナー歴10年。高校3年在学時にトレーナー試験に合格し高校を卒業するとともにトレセン学園所属トレーナー職へ。最初の2年はトップトレーナーの1人である清島(きよしま)トレーナーの運営するチームアルファーグのサブトレーナーに就任。2年後、チームアルファーグを離れ独立し現在に至る」

 

 タブレットから視線を上げてチラッとこちらを見るペティ。どうだ、と自信のある表情をしているが、今喋った内容なら誰だってネットで調べられる程度の情報だ。

 

「独立してからの8年間、これまで重賞勝利数0。リステッド勝利が成績としては最高。毎年のように退学者を出し、今年のクラシック級ウマ娘は4人のうち3人が未勝利戦を勝てずに退学。現在所属する中央のトレーナーの中でも最底辺の成績と言わざるを得ません。が、しかし」

 

 タブレットを見るペティの眼鏡がタブレットの光を映している。ペティは声の調子を上げていく。

 

「トレーナーさんの担当ウマ娘について詳細に調査しました。その結果、そのウマ娘たちにはある特徴と傾向があることが分かりました。2つある内の、まず1つ目」

 

 俺の担当ウマ娘の特徴と傾向……それを聞いて少し興味が湧いた。

 

「未勝利戦で距離や芝ダートなど条件を次々と変えること。距離なら1ハロンの延長短縮なんてもんじゃありません。前走は左回り1200を走っていたウマ娘が、次走は右回り2400の未勝利戦に出走するなんてこともありました。さらに芝、ダート、障害の3つ全てに挑戦するウマ娘だっていました。一見、ただ投げやりに決めているように見えますがしかし、それはいつまでも続く訳ではありません。どのウマ娘も未勝利戦の途中からは同じ距離やバ場のレースに絞るようになります。つまり、無闇に変えるのではなく、トレーナーさんの分析によって適性距離やコースを模索しているのだと推察できます」

 

 ペティが言ったことは一応事実ではあった。俺は担当ウマ娘が未勝利で勝てないと、分析のもと積極的に次走の条件を変えることが多い。

 しかし、それについてあえて反論してみる。穴を見つけたからだ。

 

「後半の推察は根拠がないな。俺がどうして無闇にそれを変えていないと言い切れる? ただ適当に出走登録しているだけかもしれないし、ウマ娘本人に任せているかもしれないだろ?」

 

 ペティが言った未勝利戦での条件変更が事実だとしても、それが無闇な変更ではないと判断できる根拠が示されていない。

 

「…………」

「どうした?」

 

 タブレットを見たまま押し黙るペティ。そしてタブレットの上を滑らせる指の速度を上げたかと思うと──

 

「ふっふっふっふ」

 

 ──顔を上げて不敵に笑い始めた。その反論が来るのは分かってましたよ、まんまと餌に釣られましたね、と言わんばかりの笑みだった。

 

「言っておきますけどね、距離やバ場を色々試しているトレーナーなんて他にいくらでもいるんですよ。これだけじゃわたしの興味は惹かれません。その根拠と、あなたが一流のトレーナーだとわたしが言うその理由、どちらも説明できるのが2つ目の調査結果です」

 

 ペティの眼鏡がタブレットのバックライトを反射してより怪しく光っているように見えた。

 

「距離やバ場……適性が定まったあとの未勝利戦の話をしましょう。トレーナーさんの担当ウマ娘はだいたいどのレースでも下位人気ですが、ほとんどのレースで人気より上位の着順になっているんです。具体的な例を挙げると……そうですね、1か月前、新潟レース場の未勝利戦で負けて退学になってしまったウマ娘を取り上げましょう」

 

 ペティはタブレットの上で素早く指を動かしている。

 新潟の未勝利で負けたウマ娘……昨日母親とあいさつに来て、金沢トレセン学園に移籍した栗毛のウマ娘のことだ。

 

「最後の新潟のレース、彼女は9番人気3着でした。前走は6番人気4着、前々走は12番人気5着。レース場は違いますがいずれのレースも芝1600m、左回りでした。彼女はそれまで1200mから2400mまでの未勝利戦を走って掲示板さえ載らなかったのに、最後の3走は全て掲示板に入りました。トレーナーさんが最近担当されたウマ娘の中でも、このウマ娘の結果はその特徴や傾向をよく表しています。適当に出走させていたのなら適性も見出せませんし、こんな結果にはならないのですよ」

 

 ペティはタブレットを動かす指を止めて、俺を改めて見据えた。得意げな目が眼鏡越しに覗いている。

 

「トレーナーさんもご存じでしょうが、人気とはいい加減に決められたものではありません。ファンの数が関与するところもありますが、URAがレースやトレーニングの状況を踏まえ、実力を厳密に評価することでレースでの人気が決まります。未勝利戦において、人気を上回る結果を出すウマ娘の割合が他のトレーナーたちに比べて群を抜いて高いのです。他の、とは勿論トップトレーナーたちも含めてです」

 

 ペティの話が佳境を迎えているように感じる。思うところはあるものの、それを俺は相変わらず黙って聞くことに徹していた。

 

「つまり、トレーナーさんは各ウマ娘たちの絶好の適性を見つけ、尚且つレースで人気以上の結果を出させていたということになります。それも稀にじゃなく、ほぼ毎年、どの担当ウマ娘でもです。そこで、冒頭の結論に戻ります──『あなたは一流のトレーナー』──。こんなことをやってのけるトレーナーは間違いなく一流です。重賞0勝だとかそんなことは関係ありません」

 

 ペティは眼鏡をわざとらしく中指で上げながら、話をまとめにかかった。

 

「だから、坂川健幸というトレーナーに興味を持ちました。レースでの戦略やウマ娘への指示内容、またどんなトレーニングをやっているのか好奇心が湧いたんです。以上が配属を希望した理由です。わたしの目的や研究テーマは……追々ということで。どうですか? 納得してもらえましたか?」

 

 ペティは話をまとめ終え、タブレットを再び脇に抱えた。

 

「そうだな……」

 

 矢継ぎ早に話されたペティの話を聞いて、俺はいくつのもの疑問や反論が浮かんでいた。

 総じて買い被りというか過大評価なその内容は、事実とペティ個人の考えが混同していて突っ込みどころが多くあった。取りあえず、印象に残る箇所を尋ねてみることにしよう。

 俺が一流のトレーナーだと言い切ったことについてだ。

 

「じゃあ質問だ。お前は俺のことを一流のトレーナーだと言った。本当にそうか? 確かに担当ウマ娘を人気以上に持っていったことは事実かもしれない。でも俺は結局、未勝利戦に勝たせてやれてないんだ。今年は4人中3人もだ。それはどう考えるんだ? お前の言う一流トレーナーなら、人気以上とか言わずに勝たせていたかもしれないぞ」

 

 もし本当に俺がペティの言う通り腕のある一流トレーナーなら、担当ウマ娘を未勝利戦勝利へ導くことができたのではないか? という問いだ。ペティを試すような気持ちで返答を待った。

 ペティは俺の質問を聞いて、目を丸くしてきょとんとしていた。拍子抜けといった様子のペティは簡単すぎてつまらない問題の答えを言うような調子で口を開いた。

 

「そんなの、担当したウマ娘に()()()()()()()んですよ。()()()()()()()()んです」

「!」

 

 

 ペティから返ってきたその答えを聞いて、時が止まったかのように感じた。それと同時にこれまでに退学していった担当ウマ娘たちの顔が瞬時に脳裏に浮かんできた。

 

 

 才能がない? だから仕方がない? 

 

 

「……なんて言った?」

「才能がないんですよ。これも調べて分かったことですけど、トレーナーさんとこに配属されるウマ娘って模擬レースや選抜レースでも最下位のウマ娘ばかりですよね。今年退学になった3人も配属前の学園内レースで軒並み最下位です。そんな見込みのないウマ娘たちを退学になったとはいえあの着順まで持っていくのですから見事と言うほかありません。どのウマ娘もトレセン学園に入学はしてるんだから最低限の才能はあるんでしょうけど、どうしても優劣は付きます。それに今年勝ち上がったカレンモエさんは去年唯一スカウトしたウマ娘でしょう? それが証明してますよ」

 

 未勝利戦に勝てないウマ娘には元々才能がなかった。だから勝ち抜けず退学になってしまった。

 

 ペティが言っているそれは事実かもしれない。大多数の人が同様の意見を持つかもしれない。

 

「それは違う」

 

 しかし、トレーナーとして、坂川健幸として、それを認める訳にはいかないのだ。

 

「才能がないって? そんなこと、なんでお前に分かるんだ?」

「え?」

「どうしてそこで、俺が能力を引き出せていないって可能性を考えない?」

「それはレースとかタイムを見れば明らかじゃないですか? いくら能力を引き出せたって、才能の多寡は否定できないと思います。確かに腕のないトレーナーはそういうこともあるでしょうけど、トレーナーさんに限ってその可能性は低いでしょう。一流トレーナーだろうがトップトレーナーだろうが、策を尽くしても無駄なウマ娘はいるものですよ」

 

 頭の奥が熱を帯びてきているように感じる。

 かすかに残る冷めた客観的な自分がそう分析していた。

 

「お前は最後の未勝利戦で負けて、泣いているウマ娘を見たことがあるか?」

 

 意地の悪い問いだ。経験のあるトレーナーがトレセン学園1年のウマ娘に訊くことではない。

 

「なんですか突然……無いですけど」

 

 予想された答えを言うペティ。

 

 目を閉じると今でもはっきりと思い出せる。

 ゴールイン後のレース場の上で、地下バ道で、控え室で、帰りの電車で、帰ってきたトレーナー室で、唇を噛みながら泣いている担当ウマ娘たちを。

 

「俺はそんな担当ウマ娘を何人も何人も経験してきた。あれはな、トレーナーとして本当に最悪な気分になるんだよ。大雨のなか、地面を這って延々と泥水を啜っているようなそんな気分だ」

 

 いくら経験を積んだって一向にそれに慣れることはなかった。

 

 いや、ウマ娘を担当する1人のトレーナーとしてそれに慣れてはいけないと俺は思う。

 

「……?」

 

 ペティは見るからに困惑している。突然始まった意味不明な自分語りを聞かせられたらそうなるのも自然だ。

 

「さっき言ったな? 才能がないから仕方なかったって。そんなこと、トレーナーとして認めるわけにはいかねえんだよ……!」

 

 無意識のうちに言葉尻に力が入った。

 

才能(ポテンシャル)の多寡なんてのは測れるものじゃない。それにな、能力(パフォーマンス)の上限は誰にも分からねえんだよ。だからトレーナーは……俺は、退学する担当ウマ娘を見るたびに後悔するんだ。『もっとできることが他にあったはずだ』ってな」

「……」

「本当は途轍もない才能が眠っているのかもしれないのに、俺のトレーニングが悪かったから、戦略が間違ってたから、適性を見出すことができなかったから能力を引き出せていない……そんな風に俺は考える」

 

 ペティは黙って、眼鏡の奥の視線をわずかに下げて俺の話を聞いている。困惑しながらも、何か考え込むような様子だった。

 

「……坂川健幸ってトレーナーはな」

 

 そこまで俺の担当ウマ娘について調べてくれたんだ。教えてやろう、坂川健幸というトレーナーとはどういう人間か。

 

「適性、戦略、トレーニング……担当ウマ娘の能力を最大限に引き出すためなら、何だって俺はやってやる。それが失敗して、何度悔しい思いをしようが、惨めな思いをしようが、俺は絶対に諦めない。今担当しているウマ娘を絶対に勝利へと導いてやる……そんな気概でやってんだ」

「…………」

「正直、人気以上に持ってくるって話をされたとき、俺には嫌味にしか聞こえなかった。『結局、未勝利戦を勝たせる手腕は無かったんだろ?』ってな」

 

 そして最後に、譲れない俺の信念をペティに伝えることにした。

 

「才能が無いからって決めつけて、勝てない理由をウマ娘に押し付けるトレーナーは、トレーナー失格だ」

 

 才能がないと結論付けるのは簡単だ。

 だが、それを認めてしまえば俺はトレーナーでいられなくなる。何より、今まで涙とともに去っていった担当ウマ娘たちに背を向けてしまうことになる。

 

「……ふぅ……」

 

 喋り終わった俺は大きく息をついた。

 

 初対面のガキに少し喋りすぎたかと若干内省したが、別に隠していることでもないので、言い切ってやった達成感のようなものを感じていた。

 ……しかし、今更ながら30近くにもなって青臭いセリフを吐いたもんだと羞恥心が急にこみ上げてきた。

 

 しばしの沈黙が流れたあと、ペティは下に向けていた視線を上げた。眼鏡の奥の黒い瞳が真っすぐに俺を見据えて、静かに口を開いた。

 

「やはり、トレーナーさんのところへ配属希望を出したのは正解でした。うまくいかなくても、あらゆる試行を積み重ねて勝利を目指すその不屈の精神。才能の云々に関してはわたしも持論がありますが…………今はやめておきましょう。人気の話については、不快にさせたのなら謝りますよ」

「お、おう」

 

 ペティは最初に自分の調査報告を得意げに話すような様子ではなく、落ち着いた様子で言葉を紡いでいた。

 

 このウマ娘、変に物分かりが良くないだろうか。偏屈そうな印象を受けたので、もっと感情的に反論してくるかと予想していたのだが、すんなりと納得しているようで逆に腑に落ちない気持ちだ。あれだけ好き勝手に喋った俺自身がそういう気持ちになるのもどうかと思うが。

 それにこの違和感を感じるほどの俺への過大評価は一体なんなのだろうか? 

 

 

 

 ──最初、俺のことについて全て調べたとペティは言っていたが、()()()()には辿り着かなかったようで安堵した。

 スタッフ研修生といえど、学生にURAの隠蔽工作を暴くことはできなかったようだ。

 

 

 

「失礼な言い方になりますが、トレーナーさんの事気に入りました。あなたが目指す勝利への道……配属されたスタッフ研修課程のウマ娘として────ん?」

 

 そこでペティは言葉を切ったかと思うと、何かに気付いたかのように後ろを振り向いた。両耳を忙しなく動かして何かを聞き取ろうとしているかのようだ。

 そしてつかつかと歩いて出入口まで近づき、引き戸を開けた。

 

「誰ですか!?」

「あっ……!」

 

 開いた引き戸から1人の制服姿のウマ娘が姿を現した。驚いているような、焦っているような表情をしているそのウマ娘は、緑のリボンで小さくサイドテールを結った髪型をしていた。

 

 昨日出会ったウマ娘、キングヘイローだった。




チャンじゃなくてモエです

ウマ娘時空って便利☆


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第9話 底辺 vs キングヘイロー

 私は廊下で息を潜めて坂川とペティの会話の一部始終を聞いていた。沢山の情報が一気に入ってきて、頭がまだ整理できていない。

 

「…………」

 

 しかし、彼の語った言葉が妙に耳に残っていることは確かで──

 

『何度悔しい思いをしようが、惨めな思いをしようが、俺は絶対に諦めない。今担当しているウマ娘を絶対に勝利へと導いてやる……そんな気概でやってんだ』

 

 それはおそらく彼の信念。どこかで似たような意味の言葉を最近耳にした気がする。

 

 そう、それは自分の口からだ──

 

『キングは後退しない。決して首を下げない。そういう覚悟で、私はここに来たんだもの!』

 

 自身の才能を示すために、どんなことがあろうとも屈することなく立ち向かおうと決めたその在り方。

 それはキングヘイローというウマ娘としての矜持とも言えるもの。

 

「…………」

 

 今の感情をうまく表現することができないでいた。

 それでも、自身の中で変化があったことは認識できていた。

 

 それは坂川という1人のトレーナーへの見方が昨日とは一変したことだ。

 昨日の会話から、彼は結果を残せていない現状に何の不満も抱いていないような、不真面目で不甲斐なくて情けなくて口も悪くて見た目も冴えなくて実績も性格も最低で、決して私とは相容れることのないトレーナーだと思っていた。

 しかし、こうも思っていた。今までスカウトしてきたトレーナーはあんな的確で技術的なアドバイスは話してくれなかったのだ。こちらを持ち上げるような誘い文句や母親の話をするトレーナーばかりだったので、スカウト目的ではなかったとはいえ坂川の言葉を新鮮に感じたのも事実だ。

 

 

 昨日の彼との会話と今日聞いてしまった会話を受けて、キングヘイローの中には1つの思いが生まれていた。

 

 

「坂川健幸、あなたと……私は──」

 

(って、あっ!)

 

 それが言葉として思わず漏れてしまったことに気付いたとき、部屋の中から足音が聞こえてきた。つかつかとこちらに向かってきている。多分中にいるペティというウマ娘だろう。

 このタイミングでは逃げられないし、かといって何もしないで盗み聞きしていたと思われるのも癪だ。どうしようか、どうしようかと心の中で右往左往しているうちに、その引き戸が開かれた。

 

「誰ですか!?」

「あっ……!」

 

 薄暗い廊下を灯りが照らす。部屋の中にいたのは、目の前で怪訝そうな表情をしているペティとデスクの椅子に座って眉間に皺を寄せている坂川だった。

 

 ◇

 

「あなたは? もしかして盗み聞きですか? いい趣味してますね」

 

 ペティが扉を開いた先にいたキングヘイローは傍から見ても焦っているように見えた。

 

「キ、キングが盗み聞きなんてするわけないじゃない! 今ここに来たばかりよ!」

「キング……? ああ、あなたキングヘイローですか?」

 

 ペティはキングヘイローのことをかろうじて知っていたようだ。トレーナーの間だけでなく、学園のウマ娘の間でもある程度名前と顔は通っているのだろう。

 

「ええ! 私はキングヘイロー、一流のウマ娘よ! キングのことよく知らないあなたには特別にキングコールを聴く権利をあげるわ! その時を楽しみに待つことね!」

「はあ……よく分かりませんが、トレーナーさんに用事ですか? 私は話が終わったのでちょうど良かったです」

 

 俺に背中を見せていたペティが白衣をなびかせてこちらに振り返った。

 

「話もできましたし、これで失礼します。今日の午後からお世話になりますが、放課後はどうすればいいですか?」

「……とりあえずここに来い。ウチのウマ娘と顔合わせする必要もあるし。ウチの、って言っても今はカレンモエしかいないけどな」

「分かりました。じゃあまた放課後来ますね」

 

 そう言ってペティはキングヘイローの横を通り過ぎ、トレーナー室から去っていった。残ったのは扉の前でばつの悪そうな顔をしているキングヘイローとそれを眺めている俺の2人だった。

 

「「…………」」

 

 両者とも無言の時間が流れる。埒が明かないのでこっちから切り出すことにした。

 

「よう、何か用事か? キングヘイロー」

 

 俺がそう声をかけると、キングヘイローは大きくため息をついてからトレーナー室の中に入ってきた。振り返って引き戸をきっちりと締めてから、デスクの前までやってきた。

 

「これ、あなたの物でしょう?」

 

 そういってキングヘイローは黒い革製の細長いケースを取り出してデスクに置いた。

 

「お前! これをどこで!」

 

 見間違うはずもない。今日の朝から探していた万年筆のケースだ。急いで中を確認すると、見慣れた万年筆の姿がそこにあった。

 

「良かった……!」

 

 安堵した俺はケースに入った万年筆を両手で優しく包み込んで祈るようにそう言った。もしかしたら見つからないかもしれないと思って気が気でなかったので、心の底からの言葉だった。

 そんな俺を見たキングヘイローは静かに諭すように口を開いた。

 

「そんなに大事なものなら、不用意に落とさないことね。あなたと昨日会話した水場の近くに落ちていたわ」

「返す言葉もねえ。いや、本当にありがとう。もしかして届けるためにここまで来てくれたのか?」

「……ええ、そうよ」

 

 わざわざそんなことしなくても学園の教師にでも渡せば届けてくれただろうに。律儀と言っていいのかは分からないが、親切な奴だ。

 

「感謝してもしきれねえ。何かお礼をしたいぐらいだが」

「そんなもの必要な──お礼、ね。じゃあ、聞きたいことがあるのだけど、いいかしら?」

「? ああ、なんでも構わないが……」

 

 キングヘイローは胸の下で腕を組んで、真剣な目をしていた。

 

「あなたはどういうトレーナーになるつもり?」

「……ん?」

 

 どういうトレーナーとはどういうことだろうか。質問の意図が全く読めない。

 

「あなた、悔しくても惨めでも、それでも諦めないんですってね」

 

 さっきのペティとの会話のことだと瞬時に分かった。

 

「! やっぱり盗み聞きしてやがったのか!?」

「キングが盗み聞きなんてするわけないでしょう失礼ね! たまたま廊下にいたらこのキングの優秀な耳に聞こえてきたのよ! だいたい、戸をきちんと閉めない方が悪いわ!」

「やっぱり盗み聞きじゃねえか……」

 

 小声で突っ込みを入れつつ、その質問の本心を探ってみる。

 

「で、何だその質問は。茶化すわけじゃなくて、本当に意味が分からねえ」

「……そうね、質問を変えるわ。あなたは一流のトレーナーなのかしら? ペティさんが熱弁を振るっていたけれど」

 

 可笑しなことを言う。俺が一流のトレーナーであるはずがない。

 

「ペティのアレは過大評価だ。俺は重賞を1個もとれない弱小、底辺のトレーナーだ。真の一流トレーナーなら重賞だろうが未勝利戦だろうが勝たせられるからな。俺が一流のわけがない」

「……そう。なら次の質問、あなたは一流のトレーナーになれる人かしら?」

「そんなこと分からないに決まってるだろ。まあ、なれたらいいんじゃねえか?」

 

 軽い返答をした俺に向かってキングヘイローが睨みつけてくる。まるで昨日みたいだなと思い出しながらキングヘイローと目を合わせていると、その睨みつけている顔がすっと解けていった。

 

「あなた、口だけね」

 

 見下すような、どこか失望したような口調でキングヘイローはそう言った。

 

「あ?」

「あなた、一流のトレーナーになりたくないの? 絶対に諦めないとか、ウマ娘を絶対に勝たせてやるとか言っていたけど、そんな口ぶりなら本気で目指してはいないように見えるわ。その2つを貫き通した先に一流トレーナーの称号があるのではないの?」

「何が言いたいんだ?」

 

 まるで昨日の会話とは逆の立場のように俺はそう言った。

 ここまで話しても俺はキングヘイローの真意を掴めずにいる。これではまるで、俺に一流トレーナーを目指せと言っているようなものだ。

 

「あなた、カッコいいことを言いたかっただけで、別に本気でないんでしょう? 上っ面の言葉ばかりで本当は大して悔しくも惨めでもないんでしょう?」

「……ああ?」

 

(何だコイツは、何か目的でもあんのか?)

 

 おそらくキングヘイローはわざと俺を煽っている。直感ながらそう感じた。そうでなければ、昨日の意趣返しにしては回りくどすぎる。どうでもいいなら、興味がないなら、黙って帰ればいいだけのことだからだ。

 

「へらへらして、担当ウマ娘が負けても『俺は底辺トレーナーだ』って言って言い訳を重ねてきたんでしょう!? 『絶対に勝たせる』とか、聞いて呆れるわ! 一流のトレーナーになれるかどうかの前に、あなたは一流のトレーナーになろうとさえしていないのよ! そんな半端な覚悟で一流のトレーナーになれるわけがないし、その資格もないわ!」

「…………」

 

 キングヘイローは厳しい口調で俺を責め立てるように言った。

 わざとだとしても、ここまで言われたら黙ってはいられなかった。

 

「……好き勝手言いやがって」

「あら、また何か言い訳?」

「大して悔しくない? 惨めでもない? ……んなわけねえだろうが!!」

 

 デスクを右の拳で思い切り打ち付けた。木製のデスクがドンと音を立て、右の拳にいつかの新潟のときのように鈍い痛みが入った。

 

「担当ウマ娘が負ける度に最悪な気持ちになるんだよ! これは10年間何一つ変わらねえ!」

「……」

 

 キングヘイローはじっと俺を見ていた。

 

「それに一流のトレーナーになりたいかだと……なれるなら今すぐなりたいに決まってんだろうが! なれるならいくらでも一流になってやるよ!」

「……!」

 

 今のこの状況(底辺)に陥ったのが()()()()()()だとしても、現状に満足したことなんて一度も無い。一流のトレーナーだと名声を得たいし、リーディングトレーナーにだってなりたい。トレセン学園のどのトレーナーだってそう思っているはずだ。

 今でも常に上を目指し、1つでも多く担当ウマ娘を勝たせられることを(こいねが)っている。

 

 キングヘイローは考え込むように下を向いてから、顔を上げて再び声をあげた。

 

「ならさっきの質問で一流トレーナーになると言い切ってみなさい! 『なれたらいいな』なんて言って逃げているから──」

「口にする言葉がすべて本心だと思うなよキングヘイロー! お前はまだガキだからそこが分かってねえんだ! だいたい、結果が伴ってないのにお前みたいに一流一流なんて普通は言えねえんだよ! んなことする奴はピエロか現実が見えてないアホだ!」

「ガ、ガキ……ピエロ、アホですってぇ……! それはともかく! 人前で一流と言い張ることで背負うものがあることぐらい、理解しているわ!」

 

 俺とキングヘイローは睨み合っていた。会話はヒートアップしていたが、この無言の睨み合いが10秒ほど続くと一旦落ち着きの様相を見せた。

 

「「…………」」

 

 お互い目線を外し無言の時間が続く。売り言葉に買い言葉の要領でまた言い過ぎてしまったようだ。今日はペティといいキングヘイローといい俺の癇に障ることばかり言ってくる。

 

 俺は少し冷えてきた頭で次に何を言うか考えていると、キングヘイローの方が口を開いた。

 

「……ちょっと、いいかしら」

 

 声を落として、落ち着いた様子でこちらを伺うようにキングヘイローはそう言った。

 

「今度はなんだよ……」

「もしあなたが私のトレーナーだとして、私がGⅠを勝ちたいと……一流のウマ娘になりたいと言ったらあなたはどうする?」

「……なんだその質問」

「いいから! 答えて」

 

 静かだが有無を言わさぬ真剣な様子のキングヘイロー。

 質問自体に疑念を抱きながらも、その仮定を考えてみる。もしキングヘイローが担当ウマ娘でGⅠを勝ちたいと、一流のウマ娘になりたいと言ったら──

 

 

「もしお前が担当ウマ娘なら」

 

 

 もしそうなら、俺の担当ウマ娘であるキングヘイローがそう言うなら、俺の答えは決まっている。

 

 

「────GⅠを勝たせてやる。お前を、一流のウマ娘にしてやるよ」

 

 

 俺がそう言い切ると再び静寂がトレーナー室を包んだ。

 キングヘイローはそっぽを向くように横を向いた。なのでこちらからその表情は窺えないが、耳と頬が若干赤くなっている気がする。そして小声でなにか唸っているのが聞こえた。

 

「……~~~~っ」

 

 この時間で俺の頭は改めて今の質問の意味を考えていた。

 俺がキングヘイローのトレーナーだったらという仮定。キングヘイローがGⅠを勝ちたい、一流になりたいと言った時に俺はどうするかという仮定。

 そして俺に一流トレーナーになれと言わんばかりの先程までの話。

 

(それじゃまるでこいつは俺に────)

 

 と、考えたところでキングヘイローがこちらを向いた。そしてあの笑みであの高笑いを始めたのだ。

 

「おーっほっほっほ! これまでのキングへの不躾けな振る舞いを不問に付してあげる! 寛大なこのキングに感謝しなさい!」

「は?」

 

 いきなりキングヘイローは意味不明なことを言いだした。

 

「まったく、キングの冴えわたる計略には我ながら惚れ惚れするわ!」

「一体何を言ってんだお前は? 頭おかしいのか?」

 

 俺はそう言う他なかった。何を言ってるのかさっぱり分からない。

 

「このキングに対して頭がおかしいですって? ()()()()そういう戯言は慎むことね」

 

 キングヘイローは自信にあふれたような様子で、こちらに手を差し出した。

 

 これから……? もしかして彼女は────

 

 

「一度しか言わないからよく聞きなさい!」

 

 

 ────それが俺の勘違いでなければ、おそらく彼女は。

 

 

「あなたには私の────」

 

 

~~♪♪ 

 

 

 そこで突然鳴り響いたのは軽快な機械音。着信音だと思われるそれはキングヘイローから聞こえていた。

 

「もうっ! いいところだったのに一体誰が──」

 

 キングヘイローはスマホを取り出して画面を確認した。電話をかけてきた相手が表示されているであろうそれを見て、キングヘイローは露骨に顔をしかめてこう呟いた。

 

「お母さま……」

 

 お母さま──キングヘイローの母親となると、電話をかけてきたのはグッバイヘイローその人なのだろうか。

 

 トレーナー室に着信音だけが鳴り響いていた。



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第10話 底辺 vs グッバイヘイロー

 トレーナー室に軽快な着信音が流れている。

 キングヘイローはそれを発するスマホの画面を恨めしく見ていた。

 

 ~~♪♪ ~~♪♪ ~~♪♪ ……

 

 3回、4回と着信音が繰り返される。

 キングヘイローは何もアクションを起こさなないままでいた。

 

「……」

 

 この状況は一体何なのだろうか。電話に出るなら出ればいいし、後でかけ直すなら切ってしまうか一言だけ話せばいいだけのことだ。それとも俺がいるから出たくても出られないのだろうか。

 こうしていてもどこか居心地が悪いので、とりあえず俺から働きかけてみることにした。俺はトレーナー室を出ていこうと椅子を立った。

 

「取らないのか? 俺は外に出とくから電話したかったらしてもいいぞ」

 

 キングヘイローは立ち上がった俺に目をやったが、すぐにスマホの画面に視線を戻した。

 

「……いいの。あえて取らないだけで──しまっ、落ち──っ!」

「ん?」

 

 キングヘイローの焦った声の直後にカツ、と床に何かが落ちる音。それと同時にピッ、と鳴り響いたのは電子音。

 

『……もしもし? もしもし?』

 

 そして聞こえてきたのは女性の声。その発生源はキングヘイローではなく、床に落ちたスマホだった。

 

「……っ」

 

 キングヘイローはスマホを拾い上げ、胸の前で構えたそれと向かい合う。その表情は先程の恨めしそうな雰囲気の中にどこか弱気な色が見え隠れしているように見えた。

 

「どうして……つながっちゃうのよ……!」

『ねえ、どうしたの? いるなら反応したら? キング』

「! …………っ……ごきげんよう、お母さま」

 

(『お母さま』……やっぱりキングヘイローの母親、グッバイヘイローか)

 

 そう言われてみるとスマホから聞こえる声は聞き覚えのあるものだった。ガキの頃にテレビで見ていた現役時代から、勝負服のデザイナーとして度々メディアでインタビューを受けている今現在まで、幾度となく聴いたことがあるグッバイヘイローの声のように思えた。

 

『はあ、やっと返事が返ってきたわ。まったく、子どもなんだから』

「……簡単に子ども扱いしないで。電話に出にくい状況だってあるでしょう? 今は平日のお昼なのよ」

 

 通話が始まってからというものの、何とも気まずいというかぎこちない雰囲気である。親子喧嘩でもしているのか、それとも元々親子関係がイマイチうまくいっていないのだろうか。

 

『この前、放課後はトレーニングと勉強で忙しいし、夜の電話は同室の子に迷惑がかかるからって言ってたのはどこの誰だったかしら?』

 

 キングヘイローは押し黙る。スマホを見る目がより一層厳しいものになるが、同時にその弱気な表情もより明確になってきた。

 

「……それで、何か用かしら? お母さまも暇つぶしに電話をかけてきたのではないでしょう?」

『そうね。……見たわよ。昨日の模擬レース』

「!! ……どこで、それを」

『さあね。それにしても、無様な敗北だったわね』

「…………っ……」

 

 キングヘイローの表情が歪む。強気そうに吊り上がった眉や自信にあふれる瞳は影を潜めていた。

 

 グッバイヘイローは中々にキツいこと言う母親のようだ。それだけキングヘイローにかける期待が大きいということだろうか。わざわざ模擬レースの映像を手に入れて確認し、翌日である今日に連絡を入れてくるのだから、よほど娘のことが気になっていることは確かだ。

 

『ペースも読めず直線で沈んでいてくあなたと比べたら、グラスワンダーさんとスペシャルウィークさんの走りは素晴らしいものだったわ。末脚、勝負勘、ペースを読む力……どれもあなたとは比較にならない』

「…………」

 

 流石はGⅠ7勝ウマ娘、あのレースがどんなレースだったかはちゃんと分析できているらしい。

 

『あんな子たちが同期だなんて、諦めという感情も沸いたんじゃない? ……レースの世界はそんなに甘いものではないのよ』

「…………」

『それにキング、トレーナーはついたの?』

「…………」

『……まだ、ついてないのね。もうすぐ10月になるのに』

「…………」 

 

 キングヘイローは完全に押し黙ってしまった。

 

 ……ここまで言われると可哀想に思えてくる。親なりに心配しているような感じではあるのだが、如何せんここまで厳しいことを言われた子どもの方はたまったものではないだろう。正論を絡めてくるのだから、キングヘイローがそれに反論できるはずもない。

 それに先程の言葉が気になる──『諦め』。不甲斐ない娘に発破をかけるための電話かと思ったがどうも違うらしい。

 グッバイヘイローはキングヘイローにレースを辞めさせたいのだろうか。

 

『なら、もう諦めて帰ってきなさい。人生はレースだけじゃない。ほかの道のほうが幸せになれるわ』

「……」

 

 

 どうやらそのようだった。グッバイヘイローはキングヘイローがレースをすることに反対の立場だったのだろう。

 そこでふと思い出した。水場で出会った時にキングヘイローが言っていたあのセリフ──

 

 ──『絶対に、認めさせてやるんだから……!』──

 

 あれは周囲の他人だけではなく、おそらくこの母親にも向けられていたセリフなのだろう。

 

 レースに反対する立場の母親を認めさせたい。

 

 なるほど、この母親との関係性なら納得できることだ。

 

『あら、(だんま)り? 本当に子どもなんだから』

「…………子ども扱いしないで、って言ってるでしょう……」

 

 やっと絞り出されたキングヘイローの声は初めて聴くほどに弱々しかった。スマホを見つめるその瞳は潤んでいるように見える。

 

 母娘の関係に他人が口を出すべきではないのは分かってはいるが、キングヘイローの様子を見ているとつい口を挟みそうになってしまう。トレーナーもついておらずまだデビューもしていないのだから、ここまで言うことはないだろうと思う。

 

 そう考えているところにグッバイヘイローの決定的な言葉が言い渡されることになる──

 

 

 

『あなたに走りの才能はない。諦めなさい』

 

 

 

 ──走りの才能がない。だから諦めろ。

 

 グッバイヘイローはそう言っている。その言葉は俺にとって大きな爆弾だった。今日何度言ったか聞いたか分からない、才能についての話。

 そして再び昨日のキングヘイローのセリフが思い出された。

 

 ──『あの人みたいに……お前には才能がないって、そう言いたいの!?』

 

 あの人とはおそらく母親の事だったのだ。この様子だと学園に入る前からそう言われていたのだろう。なら、これまでのキングヘイローの言葉や態度にも納得のいく部分がある。

 自身の才能を否定する母親を認めさせたい。だから一流のウマ娘を目指して走る。

 そう考えるとあべこべだ。母親は才能がないからレースを辞めろと言う。娘は才能を証明するためにレースをすると言う。どちらかが折れない限り両者は決して交わることはない。

 

 子どもにレース辞めろと言う親──今まで俺が担当してきたウマ娘の中でもそんな親は少なからずいた。責任のある親として、子どもを想う親として、それを言うのは当然の権利だ。

 しかしだ。それでもレースを選ぶかどうか、最終的にはその当人のウマ娘が選ぶべきだと俺は思う。たとえこの先どんな結果が待っていようとだ。

 

 だから俺はグッバイヘイローの物言いが単純に気に入らなかった。

 

(……しょうがねえな)

 

 少しちょっかいをかけてやろう。

 

 母娘関係に口を出すことができないことには変わりない。レースを辞めろと言う母親の考えを否定することはできない。間に入ることなんて他人の俺には許されない。

 ということは否定もせず間にも入らなければいい。母とも娘とも違う立場にいればいい。

 

 間を取り持つなんてことにはならない。ただ俺とグッバイヘイローが相対するだけのことだ。

 

 現役時代からの大ファンとして、グッバイヘイローに俺の熱い思いをお見舞いしてやろう。

 

 ◇

 

 それはこれまで何度も言い聞かされたことばかりだった。

『あなたには走りの才能がない』『諦めて帰ってきなさい』『レース以外の道を見つけろ』……いつもその言葉を聞くたびに反骨心が沸いていたのだが、今日はどうしても言い返せないでいた。それは昨日の模擬レースの結果が影響しているのは自分でも分かっていた。認めたくはないが、今の自分は弱気になっていると思う。

 

 ──現役中も、引退してデザイナーになってからも私のことはほったらかしにしていたくせに、今更この歳になってから急に母親面しないで欲しい。

 

 そんな気持ちをいつも奥底に抱えていながら、無言で母の言葉を聞いていた。

 

「あの~ちょっとよろしいですか?」

「え?」

 

 その時だった。立ち上がっていた坂川が目の前まで来て声をかけてきた。彼はスマホに向かって話しかけている。

 状況が飲み込めない。この男はどうするつもりなのだろうか。母と話したいということなのだろうか。

 

『誰!? ……男? キング、あなたまさか学園をサボって男と逢引き──』

「なっ!? そんなわけないでしょう! この男は──」

「私はトレセン学園でトレーナーを務めております、坂川健幸と申します~」

『! トレーナー!? どういう状況なの? 聞こえているのでしょうキング、説明しなさい』

「えっ!? そ、それは……」

 

 突然のことで頭がこんがらがっている。目の前の坂川の気味の悪い媚びるような声色と敬語に気を取られている場合ではない。しかし、母にこの状況を説明するのも難しい。

 

「キングヘイローさんのお母さま……グッバイヘイロー様でよろしいでしょうか。たまたま近くを通りかかったトレーナーでして、話を聞く気はなかったのですが、声が聞こえたものですからついお声をかけさせていただきました」

『え、ええ……それで、学園のトレーナーがどうしたのかしら。何か娘に問題でも? 通話が禁止の場所だったのかしら?』

 

 母はあからさまに動揺しているように聞こえる。坂川は私の手からスマホを静かに取り上げた。

 

「な、なにす──」

「いえ、そういう訳ではないのです。娘さんに非はありません。ただ私が話したいだけでして」

 

 スマホを勝手に取られたことに抗議する私を無視して坂川は母を会話を続ける。

 

『話したい? 何を? あなた、私とどこかで会ったことでもあるのかしら?』

「いえいえ、実は──」

 

 坂川はその媚びるような声色のまま、プレゼンでもするかのようにわざとらしく喋っている。これまでのぶっきらぼうな口調を知っているだけに余計気色悪さを感じてしまう。

 

「私、幼い頃からグッバイヘイロー様の大ファンなのです! だからそのお声を聴いたとき、居ても立っても居らず、話しかけてしまった次第であります! 少しの間でいいので、お話をさせていただけませんか」

『はあ……?』

 

「────っ!」

 

 ──その言葉を聞いた瞬間、感情が一瞬にして冷え込むのを感じた。

 

「…………」

 

 坂川は今何と言った? グッバイヘイローの大ファン? 今まで母のことなんて一言も話していなかったのに……

 

 ということは私にあんなアドバイスをしてくれたのも、結局私がグッバイヘイローの娘だったからなのだろうか。

 

(…………そう、結局はこの男も同じだったってわけね)

 

 口にしてないだけで、坂川も私の後ろにグッバイヘイロー(母親)の姿を見ていただけだったのだ。キングヘイローという1人のウマ娘でなく、グッバイヘイローの娘として私を見ていたのだろう。

 これまで私に言い寄ってきた他のトレーナーたちと何の変わりもない。坂川もその内の1人というだけだったのだ。母との会話とこの態度がそれを物語っていた。

 

(何よ、ちょっと期待した私が馬鹿みたいじゃない……)

 

 今日のここでの会話から、このトレーナーとなら……と考えていたが、そんな考えは跡形もなく消え去ってしまった。

 

(ほんと、へっぽこだわ……)

 

 自分自身が情けなくて涙が出そうになる。人を見る目もまだまだ未熟なことに気付いて落ち込んでしまう。

 そんな私の心の動きとは関係なく、坂川と母親の通話が続く。

 

「初めて拝見したのはアケダクトのGⅠ、デモワゼルステークスです! 私は幼い頃から海外競バにハマっていて、偶然のそのレースをテレビで拝見していたら、10バ身差の圧勝で見事初GⅠ制覇! 栗毛を靡かせる優雅なそのお姿と華麗な走りに私の心は奪われたのです! それからあなたのレースは引退まで全て欠かさず拝見いたしました」

『……そう、ありがとう。……娘に代わってもらえる?』

 

 母の声からうんざりしている様子が目に浮かぶ。現役の時から今まで、それこそ星の数ほどの賞賛を受けてきた母だ。この程度の言葉は耳にタコができるぐらい聞いてきたはずだ。この坂川のように私の目の前でも、母を称える人を数えきれないほど見てきた。

 

「いえ、そうおっしゃられずにあともう少しだけ! お時間は取らせませんから」

『……』

 

 坂川は無理にでも会話を続ける気だ。そこまでして……いや、それだけ彼にとって母は憧れの存在だったということだろう。

 

「ジュニア時代にGⅠを2勝! そしてその勢いのままクラシック級へ! ラスヴァージネスステークスで同期のライバル、ウイニングカラーズと初対戦してクビ差の勝利! サンタアニタオークスはウイニングカラーズに3着と敗れてそこから2人は別々の道へ! グッバイヘイロー様はティアラ路線、ウイニングカラーズはクラシック路線に進み、それぞれ成績を残した両者はアメリカ競バの総決算BCディスタフで相見え、1つ上の無敗の最強ウマ娘パーソナルエンスンと3人での熱い叩き合い! 3着に敗れてしまうも、あのレースは伝説に残る名勝負でしょう! 長い休養もなくレースに出るそのタフさ、熱いライバル関係とレース、どれもこれも最高でした!」

『……』

「ご本人に直接私の思いを伝えられたこと、光栄に思います」

 

(本当に、ファンだったのね……)

 

 私でもうろ覚えとなっているレース名などをここまで適確に思い出せるのだから、ここまで詳しく知っているとなると、大ファンだというのは偽りではないだろう。この調子なら母の全てのレース結果が頭に入ってそうだ。

 

『もういいかしら? そろそろ──』

「いえ! これだけでは私の思いをまだお伝えできていません! ファンの私が思う、グッバイヘイロー様の1番の魅力──」

 

 そこで坂川はもったいぶったように間を開けて──

 

「グッバイヘイローの一番の見せ場、シニア級について語らねえとなあ」

『……!』

 

「へっ……?」

 

 私は2つの意味で驚いていた。坂川の気色の悪い敬語から普段の口調に戻ったことと、坂川の放ったその言葉の内容についてだ。特に驚いたのは後者のほうで、母の一番の見せ場はシニア級と言い切ったことだ。

 

(どういうこと?)

 

 私も母の成績は知っている。坂川が言ったように、母はクラシック級で特に顕著な成績を残しておりクラシック級のBCディスタフまででGⅠ6勝をあげている。一方で母はシニア級でGⅠは1勝しかあげておらず、成績だけで言えばクラシック級の方が圧倒的に良いのだが────

 

「何と言ってもアルゼンチンから移籍してきたウマ娘バヤコアとの戦いだ。初対戦、サンタマルガリータ招待H(ハンディキャップ)から始まりヴァニティHまでバヤコアに4連敗ときた! 初対戦は2バ身差だったのが勝負を重ねるごとに着差は広がり4戦目ヴァニティHでは8バ身差の3着敗退!」

『……あなた……っ!』

「デルマーのGⅡではバヤコアの不調もあって勝利するが、スピンスターステークスで11バ身差の2着! そして最後の対決となったBCディスタフではレコード勝ちするバヤコアからなんと17バ身差の6着敗退! 同期のウイニングカラーズも9着で2人もろともバヤコアに蹂躙されましたとさ」

 

「な、なにを……!?」

 

 それまでの母を称賛する言葉はどこに行ったのやら、坂川は徹底的に母を貶している。もちろん母がバヤコアというウマ娘にシニア級で負け続けたことは知っている。そのBCディスタフで一度現役に区切りをつけた母は次のステップへ──日本で言うドリームトロフィーリーグへ──進んでいくのだ。

 

『あなた、坂川と言ったかしら。とんだ食わせ者だったようね』

「おいおい、まだ終わっちゃいないぞもうちょっと語らせてくれ。グッバイヘイローの1番の魅力をな」

 

(まだ、何かあるの?)

 

「俺はバヤコアに負けた時にカメラに抜かれてたグッバイヘイローの表情が好きでなあ。バヤコアとの初対戦時に2バ身差で負けた時、あんたはレース後に歯を食いしばりながら悔しそうにしてたんだが、それがレースを重ねるごとに変化してくるんだ。4戦目ヴァニティHの時には悔しそうにしながらも力が抜けた表情、そして最後の対決7戦目BCディスタフで17バ身つけられた時には呆然として少し笑ってたんだ。あの時のグッバイヘイローの気持ちは誰だって分かるんじゃねえか……『何もかもが違い過ぎる。ああ、私はバヤコアさんにはどう足掻いても勝てないんだ』ってな感じだろう。どうだ? 正解か?」

『……っ!! 坂川!』

「おお、大体合ってたみたいだな。バヤコアと対戦を重ねるごとに絶対的な彼我の差を痛感して悔しさから諦めに変わっていく……あの過程がグッバイヘイローの1番の魅力で、俺が大ファンになった理由だ。バヤコアがいなけりゃGⅠ10勝だったのになあ! ハッハッハ! マジで最高! 傑作だったわ!」

『~~っっ!!!』

 

 電話越しにも母が怒っているのが分かる。母の表情や様子が容易に目に浮かぶ。

 

 話を要約すると、この坂川という男はバヤコアに負け続けたグッバイヘイローが好きなのだと言っているのだ。

 なんて……なんて、趣味の悪い……

 

「よし、言いたいことは……っと、最後に1つだけ言い忘れてた」

 

 母のことなんてお構いなしに坂川は続けた。

 

 

 

「グッバイヘイロー、お前はあそこで()()ってのを知ったのか?」

 

 

 

『!! ………………』

 

 母は沈黙したままだった。

 

「……なるほどな」

 

 坂川はその沈黙から何かを得たのだろうか、納得のいった様子だった。

 

「言いたいことは言った。ほらキングヘイロー、スマホ返すぞ」

「え!? ちょ、ちょっと!」

 

 待って待って。こんな状況で返されても困る。

 もはや何を話していたかも忘れてしまうほどの坂川の話だった。

 

「……えーっと、お母さま?」

 

 すこし気を遣うように、おそるおそる返答を待つ。

 

『…………キング』

 

 母は幾分か落ち着いたようだが、それでも気が立っているのが分かる。

 

『悪いことは言わないわ。トレーナーを探しているのなら、この男をトレーナーにすることだけは止めておきなさい』

「え?」

『この男だけは絶対に駄目。いいから、私の言うことを聞きなさい!』

「なっ……!」

 

 これまでの諭すような言葉ではなく、強制的に言うことを聞かせるような母の言葉に戸惑いが生まれた。普段こういう言い方をする人ではないのは娘の私がよく知っている。おそらく坂川の言葉がよほど効いたのであろう。

 

「…………わ」

『……わ?』

 

 それは分かっているのだが、だからといって母の言うことを素直に聞ける私ではない。親にこんな言い方をされてたら反発をしたくなるのが子どもである。

 

「私のことは私自身が決めるわ! お母さまは口出ししてこないで!」

 

 母を気遣う気持ちはどこへやら、感情に任せて言い切った私はその勢いで通話ボタンを押した。

 

「はあ……はあ……」

 

 通話が終了し、スマホの画面がホームへと切り替わったタイミングで顔を上げると、こちらを見ていた坂川と目が合った。

 

「なんだ、通話切ったのか?」

 

 意外そうな表情をしている坂川の姿がそこにはあった。




(ウマ娘)オタク特有の早口でしゃべるトレーナーさん


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第11話 底辺キング

「お母さまにあんなことを言うなんて、どういうつもりだったの!?」

 

 通話を切ったキングヘイローはスマホを仕舞ってから俺に近づき詰め寄ってきた。眉をひそめながら上目遣いをするキングヘイローと視線がぶつかった。

 

「俺はただファンとして熱い思いをグッバイヘイロー様へお伝え申し上げただけだ」

「熱い思い? どう聞いてもお母さまを馬鹿にしてるようにしか聞こえなかったけど!?」

「はあ~……」

 

 母親に諭されて涙目になっていた姿はどこへやら、キングヘイローは再び持ち前の強気さを取り戻していた。

 溜息をついた俺はデスクの椅子に勢いよく座り込んだ。グッバイヘイローと話しているとき、知らず知らずのうちに体に力が入っていたようで座ると体が楽になった。一気に喋ったせいか喉も乾いていた。

 

「グッバイヘイローが気に入らなかったからちょっと、な」

「気に入らない?」

「お前の母親が言っただろ? お前に才能がないからレースを諦めろって。それが気に入らなかった」

「……そう」

 

 今日幾度となく交わされた才能に関する話。グッバイヘイローのそれは俺の信条と真っ向から対立するものだった。その内容とそれを聞いて涙目になっているキングヘイローを見て我慢ができなかったというわけだ。

 

 あと、グッバイヘイローに言ったことは一応全て俺の本音ではある。グッバイヘイローがバヤコアに負け続け悔しさから諦めに変わっていく様子が俺は気に入っていた。

 最盛期を迎えライバルとしのぎを削ったジュニア級からクラシック級。衰えに抗いながらもバヤコアと戦ったが遂には大舞台で勝利できなかったシニア級。山はあったがその後は谷しか無かった1人のウマ娘の物語として、その儚さに尊ささえ感じていた。

 昔、()()2()()にこれと同じことを言ったら「……お前は趣味が悪いな」だの「私には分かんないかなー?」と大不評だった。

 

 今のようにそれをグッバイヘイロー本人に揶揄しながら言ったら案の上だったのだ。ちょっとからかうぐらいの予定だったのに、予想以上に効果は抜群だったので途中から少し楽しくなってしまってあのような演技ぶった物言いになったのが事の顛末であった。

 しかしながらグッバイヘイローについて収穫もあったので実行した甲斐があった。

 

 俺はデスクにあるペットボトルの水を一口含んで乾いた喉を潤してから話を続けた。

 

「俺とペティの話を聞いてたなら俺の考えは分かるだろ? なんで才能がなかったらレースを諦めないといけないんだ? 才能なんて関係ない。レースを選ぶかどうかはそいつ自身が決めることだろ」

「……」

 

 トレーナー坂川健幸としての考え方は今言った通りだ。しかし、グッバイヘイローにはグッバイヘイローの考え方があることも理解はしている。これまでの人生経験、GⅠ7勝したウマ娘、そして1人の親として導き出されたものがあの答えなのだろうが、俺とは相容れないものだ。

 

「あれと比べたら、自分が一流と証明するために、認めさせるためにレースに挑むってお前のスタンスの方がいい。そっちのほうが俺と────ん?」

 

 そこまで言いかけて唐突に俺は気付いた。

 

『そっちのほうが俺と』……その後に俺は何を言おうとしたのか。

 おそらくそれは『気が合う』だとか『好みだ』とかと続いたのだろう。

 

 ここまで来てようやく俺は分かった。坂川健幸とキングヘイローは似通っている部分が1つあるのだ。それはこれまでのことからも明らかで、それが何かは言葉にすることも野暮なこと。

 

 諦めずに挑み続ける、ということ。

 

(こいつと、俺が、か……)

 

 不思議な感情が胸に芽生えていた。妙に納得がいったというか、親近感が湧くというか、俺とキングヘイローの立ち位置が一気に近くなったように感じていた。

 

(案外、悪くねえのかもしれないな)

 

 急に現実的なことを考えてしまっている。それはつまり、キングヘイローをスカウトするということだ。コイツの担当トレーナーになってレースに挑んでいくのも悪くないなと思ってしまっている自分がいた。

 それに、グッバイヘイローから電話がかかってくる直前、キングヘイローはなんと言おうとしていたのか。話の流れからおそらく()()()()()()()なのだろうと都合の良いように勝手に解釈していた。

 気付けば俺はキングヘイローをスカウトする気満々になっていた。こういうとき底辺トレーナーの自分が恨めしくなる。素質のあるウマ娘へのスカウトが成功する可能性を感じてしまったら、飛び付かずにはいられないのが底辺トレーナーの性だ。これまで一流トレーナーにしか興味がないとの噂を耳に入れていたこともあって、俺のスカウトが成功する確率は0%だと思っていたのだ。

 

 そういう風にあれこれ考えていると、しびれを切らしたのかキングヘイローが口を開いた。

 

「なんで急に黙るのよ……?」

「いや……」

 

 色々ごちゃごちゃと考えていても仕方がないと考えた俺はついに決心を固めた。失敗しても俺に損なんてないのだ。この勢いに従うことにした。

 

 

「キングヘイロー。お前、俺のチームに入らないか?」

 

 

「………………へっ?」

 

 

 数秒間の沈黙の後にキングヘイローの素っ頓狂な声がトレーナー室に響いた。俺は座してその返答を待った。

 キングヘイローは怪訝そうな顔をして、俺のスカウト文句に返答した。

 

「お母さまに暴言を吐いたかと思えば、次はいきなりなに? このキングをスカウトしようっていうの? ……お断りね。あなたは底辺トレーナーなんでしょう? キングは一流のトレーナーしか求めていないわ」

「……そうか」

 

 見事なまでの玉砕であった。ここまですっぱり断られてしまうと、内心で期待していた自分が恥ずかしさを覚えた。俺は思わず俯いてデスクに目を落とした。

 

 するとすぐさま、頭上からキングヘイローの声がかかった。

 

「でも、キングは寛大だからもう一度だけチャンスをあげるわ!」

「は……?」

「すべてはあなた次第よ。間違えないことね」

 

 ……どういうことだろうか。

 

 話の意図が読めていない俺に対し、キングヘイローは厳かに言い放った。

 

 

「あなたはどういうトレーナーになるつもり? 聞かせてごらんなさい」

 

 

 中途半端な答えは許さないとキングヘイローの声と目が告げていた。

 

 それはグッバイヘイローから電話がかかってくる前にした問答だ。あの時の俺は質問の意味が分からないと言って答えることを拒否した。

 正直、何を言ったらキングヘイローが靡いてくれるのか俺には分からない。しかし、もうお互いに本音をぶつけあったのだから誤魔化したって意味はない。

 

 これまでやってきたように俺は俺なりに、その上でキングヘイローの期待に沿えることを言うのだ。

 

 それしかない。それしかできない。

 

 キングヘイローの明るい茶色の瞳を見据えて俺は口を開いた。

 

「俺は一流トレーナーになる。お前に必ずGⅠを勝たせてやる。一緒にトゥインクルシリーズを席巻してやろうじゃねえか。それで──」

「…………それで?」

「日本に、世界に……母親に、グッバイヘイローに目にもの見せてやろう」

「…………」

 

 トレーナー室に今日何度目か分からない静寂が訪れる。

 

 しばらくして、キングヘイローが肩の力を抜いたように一つ息を吐いてから言った。

 

「あなた、案外おばかな人だったのね。重賞をひとつも勝ってないトレーナーが言えることじゃないわ……でも」

「……!」

 

 そこでキングヘイローの表情が一変した。真剣だった表情から、あの勝気な笑みのなかに柔らかさを含ませた表情へと変わったのだ。

 

「それ、嫌いじゃないわ。世界にキングの名を知らしめて、皆に……お母さまにキングを認めさせる。うん! いいじゃない!」

 

 どうやら俺は間違えなかったようだ。

 

「覚悟はいい? 一流を目指すからには、笑われて、後ろ指をさされて、泥にまみれても、決して諦めてはならないのよ」

「ああ、分かってる」

 

 そんなことは百も承知だ。覚悟なんざいくらでもできている。

 

 キングヘイローは俺の返答を聞いて満足そうに頷くと、腰に手を当てて胸を張って高らかに声を上げた。

 

「私は一流のウマ娘キングヘイロー! 一度しか言わないからよく聞きなさい!」

 

 キングヘイローは俺に向かって真っすぐに手を差し出した。

 

 

 

「あなたに、キングのトレーナーになる権利をあげるわ!」

 

 

 

「ああ、これからよろしくな。絶対に、お前にGⅠを取らせてやる」

「! ……」

 

 キングヘイローは虚を突かれたかのような反応を見せたあと、首を横に振ってから俺の言葉を正した。

 

「いいえ、それは違うわ! 私と()()()()()でGⅠを取るのよ!」

 

 

 

 

 ──こうして、坂川健幸とキングヘイローは契約を結んだ。

 

 

 

 底辺と一流、交わることのない2つが今ここに交わり、そして始まりを告げた。




工事完了です……(達成感)


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第12話 顔合わせ

今回より未実装ウマ娘が主要キャラの1人として登場します。
苦手な方はご注意を。


「よし、揃ったな」

 

 昼休みにペティとキングヘイローが尋ねてきて、2人が俺のチームの一員となった日の放課後、俺のトレーナー室には作業服の男が1人と制服を着たウマ娘が3人、計4人の人影があった。

 まず1人目はこの部屋の主で他の3人の担当トレーナーである坂川健幸ことこの俺だ。

 

「まずは新入りの2人、自己紹介してくれ。意気込みとか目標とかもな、大雑把でいいから」

 

 俺は向かい合っているキングヘイローとペティに対してそう言った。

 今から新しくチームに入ってきたウマ娘との顔合わせである。

 

「今更このキングについて自己紹介するまでもないのでしょうけど、いいわ!」

 

 2人目は今喋ったキングヘイロー。髪の毛をかき上げてから腰に手を当てて話し始めた。

 

「私はキングヘイロー! トゥインクルシリーズを席巻し、世界に名を轟かす一流のウマ娘よ! あなたたちには、キングの快進撃を間近で目撃できる権利をあげるわ!」

 

 キングヘイローは自信たっぷりに俺含めた3人を見回していた。そうしていると俺と目が合ったので、目標について改めて聞くことにした。

 

「で、目標は? 具体的なものがあるなら言え」

「もちろん、GⅠを総なめにすることが目標よ! 強いて言うなら……そうね、まずは手始めにクラシック三冠を制して三冠ウマ娘を目指すわ! キングにとっては三冠すらも通過点なのよ! おーほっほっほ!」

 

 キングヘイローは満足げに高笑いしている。

 

 手始めに三冠ウマ娘とはこれまた大きく出たもんだ。キングヘイローの横にいる3人目、ペティはそれを聞いて眉をひそめていた。

 こんなビッグマウス、ほぼ初対面であるペティが聞いたらこんな反応するのも無理はない。

 一方で、俺の横にいる4人目に視線を移すと、表情を一切変えずにそれを聞いている姿が目に入った。

 

 なし崩し的に拍手をしてキングヘイローの自己紹介に区切りをつけた。

 

「よし、じゃあ次」

 

 俺は4人目から視線を外し、ペティを見てそう言った。

 ペティはひそめていた眉を元に戻して話し始めた。

 

「スタッフ研修課程1年のスタティスティクスペティです。長いのでペティでいいですよ。私はレースには出ませんので、裏方の仕事や研究データの収集をする予定です。目標と言うか、その研究テーマはまだ詳細に決まっていませんが、ウマ娘の筋か動作に関係することを調べようと思います。筋繊維の質と故障との関係とか、動作解析とか……そんなところですね。これからよろしくお願いします」

 

 3人分の拍手の音がぱちぱちと鳴る。

 

「モエ、お前の番だ」

 

 そして残るは最後の4人目。3年は受験で実質引退、他の2年は未勝利で勝てず退学になってしまっていたので、俺のチームに所属していたただ1人のウマ娘ということになる。

 

「……カレンモエ。よろしく」

 

 必要最低限の挨拶を終えて口を閉ざしたのは芦毛のウマ娘、カレンモエ。俺のチームの2年で唯一勝ち上がったウマ娘である。

 

 この自己紹介を聞いて、キングヘイローがまず口を開いた。

 

「よろしくお願いするわ。カレンモエさん」

「話には聞いていましたけど、近くで見ると本当に似ていますねえ~。カレンモエさんのお母さん……カレンチャンにそっくりです。キングヘイローもそう思いませんか?」

 

 ペティは前かがみになり、眼鏡の奥にある黒い目を細めて興味深くなめ回すようにカレンモエの全身を見ていた。その視線は足先から頭の先まで数回ほど往復していた。

 

「キングでいいわよ、ペティさん。……そうね、似ているような気もするわ」

 

 この2人が言っている通り、カレンモエの母親はスプリンターズステークスと高松宮記念を勝利してGⅠ2勝を挙げ『閃光乙女』と呼ばれた名スプリンター、カレンチャンその人だ。その走りに加え、現役時代からウマスタグラムなどSNSでの影響力も大きいウマ娘である。現役を引退し母親になった今でも数百万のフォロワーを抱えているそうだ。俺はSNSをやらないので細かいところまでは知らないが、今でも頻繁にウマスタへ画像をアップしているらしい。

 実際に会ったことはなくとも、どんな雰囲気のウマ娘かはこの2人も知っているだろう。

 

 そんなカレンチャンの娘ことカレンモエは──

 

「…………」

 

 ──2人に言われたことなど意に介さないといった様子で黙っている。カレンモエの人となりを知っている身からすると、これが彼女の平常運転である。

 

 カレンチャンより芦毛の色が更に白っぽかったり髪の長さが少し長かったりしているが、ペティが言った通り見た目は確かに母親とそっくりだ。母と同じ形のカチューシャ式のメンコはピンク、左耳に着けているリボンの髪飾りは黄色と色違いなだけ。全体的な背格好もよく似ている。

 以前、あるレースにおいて、実況が勘違いしたのかは知らないがレース途中からカレンモエのことをカレンチャンと呼んでしまう事件もあったくらいだ。

 

 しかしながら、中身もそうとは限らない。

 

「あーでも、カレンチャンの方がもっと胸があったような──あっ! すいませんつい口に……」

「…………」

 

 ペティが口を滑らせていた。

 ……言っておくが、中身とは胸のことではない。

 

「カレンモエさんごめんなさい! 怒らせてしまいましたか……?」

 

 申し訳なそうにペティは謝罪していた。

 伏し目がちなカレンモエは、沈黙のあとその小さな口を開いた。

 

「別に、怒ってないよ」

「よ、良かったです……」

 

 そしてカレンモエは一息置いてから再び口を開いた。

 

「……“カレン”はいらない。モエ、でいいよ」

 

 

 ──『“カレン”はいらない。モエ、でいいよ』──

 

 

 ……カレンモエのそれを聞いて、いつか俺も同じことを言われたことを思い出していた。

 

 

「あっ、分かりました。モエさん、ですね」

「…………」

 

 カレンモエはまた固く口を結んでしまったので、再びトレーナー室は沈黙に包まれた。俺と向き合っているキングヘイローとペティからどうしたらいいのかと俺に視線が寄せられた。

 まあ、カレンモエがどんなウマ娘かは2人とも次第に分かってくるだろう。

 

「以上だそうだ。改めて、キングヘイローとペティ、ウチのチームに来てくれてありがとう。これからよろしく頼む。今日はこれからトレーニングだが、その前に軽くミーティングだ。練習予定とかチーム全体のスケジュールについて粗方説明しておくぞ」

 

 立っていたウマ娘たちに座るように促した。キングヘイローは来客用のソファーへ迷わず腰を下ろして足を組み、ペティとカレンモエは備え付けのパイプ椅子に座った。

 俺はホワイトボードを押して3人の見えやすい来客用テーブルの前まで移動させた。

 

「ウチのチームは基本的に毎日トレーニングがある。レースがある週末や、模擬レースとかでコース使えない場合は別だがな。その都度連絡をいれるから、あとから携帯の連絡先を俺に教えてくれ……何だ?」

 

 ホワイトボードに話した内容を書いてからウマ娘たちの方へ振り返ると、ペティが右手を挙げてこちらを見ていた。

 

「休みって無いんですかね? テストとかあるときは休み欲しいんですけど……」

 

 ペティはスタッフ研修課程のウマ娘だ。スタッフ研修課程のテストは相応に難しいと聞き及んでいる。

 

「ウチは決まった休養日がないから、テストに限らず休みたいときは言ってくれ。特にお前はスタッフ研修生で課題もテストも大変だろうからな」

「分かりました。ありがとうございます」

「キングヘイローも分かったな? お前もたまになら休んでもいいぞ?」

「私をなめないでくれるかしら!? キングは一流のウマ娘だもの、課題もテストもトレーニングも全て完璧にこなしてみせるわ! おーほっほっほ!」

「………………」

 

 高笑いするキングヘイローの背中をペティは恨めしく横目で見ていた。受け取り方によってはペティにとってキングヘイローのそれは嫌味のように聞こえたのだろうか。

 スタッフ研修課程は課題の量も多くテストの難易度も高いのだから仕方ないと思うのだが。

 

「トレーニングについては聞くより実際に体験した方が早いから説明は省くぞ。習うより慣れろってやつだ。言っておくが、ウチのトレーニングはハードだぞ。覚悟しておけ」

「望むところだわ!」

「……頼もしい限りだな」

 

 トレーニングを言葉で説明しても煩雑になるだけだから、説明は省くことにした。特にキングヘイローは修正しなければならない課題が数えきれないほどある。あの模擬レースを見ただけでこうなのだから、トレーニングを通して付き合っていくと更に色々課題が出てくることは容易に想像に難くない。

 しばらくは付きっきりでトレーニングする必要があるから、カレンモエよりもキングヘイローに付く時間が多くなるだろう。

 

「モエ、ミーティング終わったら部室まで2人を案内してやってくれ」

「分かったよ、トレーナーさん」

 

 カレンモエは俺に頷きを返してくれた。

 

 そのカレンモエだが、今週末は彼女にとっても重要な日だ。それを2人に伝えることにする。

 

「よし、じゃあ最後はスケジュールの確認だ。早速だが、今週末は京都レース場でモエ……カレンモエのレースがある。日曜の12R、クラシック級以上2勝クラス、芝1200mのレースだ」

 

 キングヘイローとペティの顔がカレンモエに向けられた。

 カレンモエはこれまでと変わらずすました顔で俺の話を聞いていた。

 

「金曜の昼過ぎにトレセン学園を出る予定だ。折角の先輩の晴れ舞台だ、チームの一員として、お前ら2人も一緒に行くぞ。観客として見るのと、関係者として見るのとは全然違うからいい機会になるだろ。京都レース場の勉強にもなる。2人ともいいな?」

「ええ。構わないわ」

「私も大丈夫ですけど、レースの登録って木曜日じゃありませんでしたっけ? 今日はまだ水曜日なので、出バ投票は明日だから出走は確定していないと思うんですけど、モエさんは出走できるんですか?」

 

 流石はスタッフ研修生といったところか、出バ投票についての知識もちゃんと身につけているらしい。

 

「そこらへんは大丈夫だ。これまでの成績と前回のレースからの間隔から考えてほぼ100%出走できる。未勝利戦とかと違って、そこまで激戦区というわけでもないからな」

「なら良かったです」

 

 レースにエントリーすれば誰でも出走できるわけではない。出走できる人数には限りがあるので、もし超過した場合には様々な基準により除外されるウマ娘が出てくるのだ。

 今述べたように、これまでの競走成績が良かったり、前走から出走間隔が長いと優先的に出走することができる。カレンモエは3ヶ月前の7月に函館レース場で行われたクラシック級以上1勝クラスで1着だったため、問題なく出走できると確信している。

 

「じゃあ次はキングヘイローのメイクデビューについてだが、俺から提案が1つある」

「ついにキングが華麗なデビューを果たす日が決まるのね! いいわ、トレーナーの立てた計画を聞かせてご覧なさい。覇道を歩むその記念すべき1走目はいつになるのかしら?」

 

 気取った言い方をするキングヘイロー。

 

 キングヘイローのメイクデビューについては、今日の昼休みの後から今までの時間を使って考えていた。トレーニングでの走りの修正期間を考慮に入れると早くても1ヶ月以上先を予定していたのだが、あるものを見てその考えが変わった。

 そのあるものとは、カレンモエが出走する日に行われる京都レース場のレース予定表である。

 

「お前のメイクデビューは──」

 

 その日の2Rにはこうあったのだ。“ジュニア級メイクデビュー”と。

 

「モエと同日同所。京都レース場、日曜の2R、ジュニア級メイクデビュー、芝1600mだ」

「…………?」

 

 トレーナー室の空気が固まる。間の抜けた顔をしたキングヘイローが面白くて笑いそうになってしまったが、表に出さないようそれを堪えて話を続けた。

 

「つまり、お前のデビューは4日後の日曜だって言ったんだ。良かったな、覇道だかなんだか知らないがすぐにデビューだ」

 

「は、はあああああああ!!??」

 

 キングヘイローは大声を上げてあんぐりと口を開けていた。

 やはりこのキングヘイローというウマ娘は顔や態度に感情が出やすいようだ。そこまで驚かれると計画立てた甲斐があった。

 

「よし、そうと決まったことだし早速トレーニングだ。さっさと着替えてトレーニングコースに来い」

 

 俺はそう言って3人を促した。

 

「ちょっと、トレーナー! あなたね──」

「……部室行くよ」

「キング、早く来ないと置いていきますよ」

「あっ! ちょっと……~~っ! トレーナー、後でちゃんと理由を聞かせなさい!」

 

 すぐに部室へ向かおうと退室するカレンモエの後を追って、キングヘイローもトレーナー室から出て行った。

 

「……」

 

 あと4日とは言ったが、金曜日の午後に出発するのだからトレーニングの時間は実質的に今日と明日の2日間しかない。そんな2日間で何かできるかというと──

 

「──ま、特に何もできねえよ」

 

 俺は1人になったトレーナー室でそう独り言ちた。




カレンモエのカチューシャとリボンの配色は実馬のメンコの色からいただきました。


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第13話 メイクデビュー

「……ふぅ」

 

 控室の鏡に映る自分の姿を見て大きく息をついた。鏡の向こうの自分は翠の勝負服に身を包んでおり、強張った面持ちでこちらを見返していた。

 その鏡の端に視線を移す。そこには見切れるようにスーツ姿の男が映りこんでいた。

 

「なんだ、いっちょ前に緊張してんのか?」

 

 坂川はポケットに手を突っ込んで、とてもレース前とは思えない、からかうような口調で話しかけてきた。普段からスーツを着ていないせいなのかは分からないが、微妙に着崩れているのが気になる。

 

「そんなわけないでしょう? 記念すべきキングのデビュー戦なのよ。昂ぶりはすれど緊張なんてするはずないじゃない」

「それなら別にいいけどな」

 

 そこまで緊張はしていない……と思う。それよりもいよいよ始まる自分のデビュー戦に期待を抑えらない気持ちが多くを占めている。自分専用の勝負服を着て走る日をどれだけ待ち望んでいたか、坂川には想像がつかないだろう。この勝負服で走って結果を残し、母親に認めさせる……まずはそのスタートラインを目指して今までやってきたのだ。

 

 まあ、こんなに早くデビューが来るとは予想していなかったのだけれど。

 

「どうした? そんなに睨みつけて。俺の顔になんかついてるか? 髭は朝剃ったんだがな」

 

 緊張感の欠片もない坂川は顎や口の周りを手で触りながら鏡をのぞき込んでいた。

 

「……」

 

 4日前の水曜日、このトレーナーと契約を結んだその初日に突然デビュー戦が決まった。あれからなぜ今日デビューなのか訊いてもその理由は答えてくれなかった。

 トレーニングだって、その日と翌日だけ軽く流しただけで、金曜日は京都へ移動、昨日は京都レース場の施設の確認や軽いランニングやストレッチ程度でレースへの準備はまともにできなかった。坂川はトレーニングの時も遠巻きに見ているだけで、走りのアドバイスなんて一つも無かった。

 今更になってしまうが、この人は実は何も考えていないんじゃないかと疑ってしまい、本当にこのトレーナーで良かったのかと初日にして思ってしまうこともあった。

 

「……なにもないわよ」

「お、そうか?」

 

 坂川に恨めしい視線を送っていたが、視線を外して改めて鏡の前で自分の勝負服の着こなしを確認した。

 ……うん、完璧に着こなしている。ズレている箇所もないし、ボタンの留め忘れもない。自分の肌に吸いつくような生地の感触は心地よささえ感じられた。レースで走ったら乱れてしまうとはいえ、それまでの身嗜みを完璧にしていなければ、一流を目指すキングヘイローとして自分が許せない。

 

「それより俺の指示、ちゃんと頭に入ってるな?」

「ええ、問題ないわ」

 

 今日のレースにあたって坂川から1つだけ指示があり、その内容自体はさして難しい指示ではないのでこなせる自信はあった。

 

「それならいい──」

 

 そこで坂川の声を遮って、控室のスピーカーからアナウンスが流れた。

 

『2R、ジュニア級メイクデビューに出走予定のウマ娘はパドックへ向かってください』

 

「時間だな……キングヘイロー」

「なにかしら?」

 

 扉へ向かった私に坂川が真剣な顔で声をかけてきた。

 

「気楽に走れとは言わねえ。思いっきり頑張ってこい! お前の走りを、その力を見せつけてこい!」

「……ふふっ」

 

 ここまでずっとヘラヘラしていたと思ったが、レース直前になったらこのトレーナーは()()なるのか。

 ベタではあるが、なかなか士気が上がることを言ってくれる。

 

 流石はいちトレーナーといったところなのかしら? 

 

「私を誰だと思ってるの? トォーーーーゼンでしょ!? 言われなくても私の一流の走りを観客に見せつけてあげるわよ! 今日、日本中にキングヘイローの名前を覚えさせてやるんだから!」

 

 啖呵を切って、胸を張って控室を出ていった。

 

 いよいよ始まるのだ。キングヘイローの……私のレースが。

 

 一流のウマ娘であると証明するために。そしてそれを皆に……お母さまに認めさせるために。

 

 ◇

 

 俺はパドックでキングヘイローの様子を見たあと立ち見のスタンドへ戻り、最前列のゴール付近に陣取っていたジャージ姿のカレンモエと制服姿のペティを見つけ出した。カレンモエは黙って真っ直ぐにターフへ目をやっており、ペティは何かブツブツ言いながら新聞を開いていた。

 

「ここにいたか」

「トレーナーさん、お疲れ様です。キングの様子はどうでしたか?」

 

 ウマ娘専門のスポーツ新聞から目を離したペティが俺にそう尋ねてきた。新聞を折りたたんで片手で持ったペティの横に俺は陣取り、ターフとスタンドを区切る柵にもたれかかった。

 

「気合い十分、大丈夫そうだ。パドックでも堂々としたもんだったぞ。おっほっほって笑ってたしな」

「キングってパドックでもそんな感じなんですね……大物というか何というか」

 

 前方(ターフ)に目を移すと、1Rに出ていたウマ娘たちが地下バ道へ引き上げていくところだった。

 もう間もなくキングヘイローの出番がやってくる。地下バ道でも見送ろうかと思ったが、パドックでの様子を見て必要ないと判断した。

 

「そういえばトレーナーさん、昨日ミーティングの時キングに『逃げるな』って言ってましたよね。あれはどうして?」

「ああ、あれか」

 

 ペティが言っているのは、昨日ミーティングしたときに皆の前で話していたことについてだ。

 このレースにあたって、俺はキングヘイローに1つだけ、『逃げだけはするな』と指示をした。

 

「メイクデビューの逃げはその後のレースに響くことが多いんだよ」

「響く?」

「控えたウマ娘と比べて、ジュニア級でその後の成績が落ちるウマ娘が多いんだよ。これはデータでも出てるから興味があんなら調べとけ」

 

 ペティにその調査データが載っていた学術雑誌(ジャーナル)を教えてやった。

 

「あとは折り合いのための教育だな。これからのこと考えると戦法の幅は多いに越したことはねえ」

「教育、ですか」

「キングヘイローのレースは映像で見たが、セイウンスカイに押し出された9月の選抜レース以外は逃げてねえし、大丈夫だと思うがな」

 

 折り合いについてはメイクデビューから意識しておく必要があると俺は考えている。メイクデビューで逃げてしまうと、次のレースで控えようとしても折り合いを欠くことがままあるのだ。折り合いの修正というのはウマ娘にとってもトレーナーにとっても大変骨の折れる仕事である。

 学園のレースではキングヘイローは中団で進めることが多かった。まあ、バ群の中での走り方には問題はあるのだが……

 

 何を隠そう、今日デビュー戦を決めたのはキングヘイローの問題点を早く明らかにするためである。あの模擬レースだけでも、フォームやペース読みなどの修正が必要な箇所が出てきたのだ。まだ他にあるかもしれないし、トレーニングだけでは表出してこないものがあるので、それを洗い出すために急遽デビューを決めたというわけだ。キングヘイローはクラシックを狙っているのだから、皐月賞に間に合わせるためにも修正する時間はあるに越したことはない。

 仮に問題なくうまくいって勝てるのならそれはそれで結果オーライであるが──

 

「まあ、なるようにしかならねえな」

 

 あとは、レースを待つだけだ。

 

 ◇

 

 ペティと話しているうちに2Rに出走するウマ娘たちが地下バ道から出てきた。メイクデビューとあってどのウマ娘も勝負服を着ている。ゲートまで走っているウマ娘たちの中には、翠色の勝負服に身を包んだキングヘイローの姿もあった。

 

「キングは勝てると思いますか? 2番人気ですけど」

 

 電光掲示板を見ているペティにつられて前方に目を移す。キングヘイローは1番人気のトレアンサンブルとはそこまで差のない2番人気だった。

 実力では1番人気でもおかしくないのだが、火曜日に模擬レースを走ったばかりであったり、そもそもトレーナー契約を結んだのがここ数日のことであったりと不安要素が多いので嫌われた……と、俺の見たネットニュースに載っていた。

 

「他のメンツのレース映像は確認したが、実力的に勝機は十分にある。でもレースでは何が起こるか分からねえからな。断言はできん」

「なるほど……三冠ウマ娘になると言ったその手並み拝見といったところでしょうかね」 

 

 観客席の騒がしさが少しずつ増してきているなか、ターフビジョンにウマ娘たちがゲート前で待機する姿が映し出されている。それに合わせて実況の声も聞こえてきた。

 

『15人、1600mで行われますジュニア級メイクデビュー。何と言っても注目は、人気を集めている2人のウマ娘でしょう! まずは1番人気、トレアンサンブル!』

 

 実況に合わせて白と紫を基調とした勝負服を着たウマ娘、トレアンサンブルに映像が寄った。彼女は深呼吸をしながらゲートを見つめていた。

 

『そして2番人気、キングヘイローです!』

 

 映像が切り替わりキングヘイローが映される。キングヘイローはキョロキョロ辺りを見回してカメラを見つけ出したと思うと、カメラ目線でこれ見よがしに髪の毛を払ってポーズを決めていた。顔はドヤ顔以外の何物でもない。

 

「なにやってんだアイツ……」

 

 パドックならまだいいのだが、レース前だというのに()()はどう評価したらいいのか表現に困る。緊張感がないのかそもそもメンタルが強いのかは分からないが、緊張してあがっているよりは良い……か? もしかしたら逆に、緊張している自分を隠している可能性もあるかもしれないが。

 

『2人にはある共通点があります。それは2人とも良血のウマ娘だということです!』

 

 そのアナウンスが流れた途端、キングヘイローの表情が曇った。そしてすぐにカメラが切り替わり、俯瞰のカメラでウマ娘全員を映し出していた。

 

『トレアンサンブルは日本で活躍したあのダイナアクトレスの娘。対してキングヘイローはアメリカGⅠ7勝のグッバイヘイローの娘です! 非常に注目のメイクデビューと言えるのではないでしょうか? 解説の────』

 

 実況と解説がテンポよく掛け合っている。

 実況が言った通り、1番人気トレアンサンブルの母親は日本のマイル路線で大活躍したダイナアクトレスだ。グッバイヘイローを母親にもつキングヘイローとは似たような境遇になるのかもしれない。

 

 実況と解説の掛け合いや煽りによって、観客席も次第に熱を帯びてきているように感じる。さっきよりも背後のざわつきが大きくなってきた。

 

『さあ、枠入りが始まりました!』

 

 画面の向こうのウマ娘たちが続々とゲートに入っていく。キングヘイローは6枠10番にすんなりと収まり、最後に大外8枠15番へ黄色の勝負服を着たウマ娘が入った。

 

『ゲートイン完了……』

 

 騒がしかった観客席が一瞬にして静まる……そして──

 

 

『──スタートしました!』

 

 

 ゲートが開き、一斉にウマ娘たちが飛び出した。キングヘイローも出遅れることなくスタートを切った。出足は良い。

 

『揃ったスタート! ハナを主張したのはケンベル、その後に同じ6枠のキングヘイローとテイエムラシアンが続きます』

 

 第3コーナーに向けたバックストレッチをウマ娘たちは駆けていく。

 

 キングヘイローは2番手を追走。相変わらず頭は高いが力んでいるようには見えず、すんなりと番手につけている。

 

『縦に長くなってきたバ群は早くも第3コーナーに入っていきます! どのウマ娘も大きな動きはありません!』

 

 スピードについていけないウマ娘が早くもスピードダウンして隊列が広がってきているが、個々の順位自体は大きく変わっていない。

 中団から後方のウマ娘たちが上がる構えを見せているなか、キングヘイローは変わらずに2番手でコーナーに入っていった。隣にいたテイエムラシアンに競られることもなく、スムーズな走りができているように見える。ここまでは順調だ。

 

 しかし問題はここからだ。手元のストップウオッチで通過タイムを測っているが、ペース的には平均からややスロー気味。2番手の位置取りは良いが、果たしてキングヘイローの脚は残っているのか。

 

『第4コーナーから直線に入ってきた! さあ、抜け出してきたのは──』

 

 バ群の中から絶好の手ごたえで上がってきたウマ娘が1人。そのウマ娘は翠の勝負服(エメラルド)に身を包んだ──

 

『キングヘイローが楽な手ごたえで上がってきたっ!!』

 

 ──キングヘイローだ。2番手からケンベルを交わして最後の直線で先頭に立った。力強くターフを蹴ってゴールを目指すその脚色は衰えていない。

 

『後続も追い込んでくる! キングヘイローは後続の14人を抑えることができるのか!? おっとぉ!? 1番人気のトレアンサンブルは伸びが苦しいか!』

 

 絶好の手ごたえのキングヘイローとは対照的にトレアンサンブルは中団から抜け出せないでいる。表情も苦しそうで、もういっぱいいっぱいといった走りだ。あれではもう届かないだろう。

 

 ターフビジョンから目線をターフに移す。右方から目の前のゴールへ向かってくるウマ娘たちの姿が大きくなってきた。キングヘイローが14人を従えて懸命に走っている。

 

『残り100! ユウキレインボーとタニノハレム、そしてその外からアドマイヤディオスが突っ込んでくるっ! キングヘイロー粘れるか!?』

 

「……」

 

 僅かではあるが躯幹が左右にぶれている。このままでは真っ直ぐに走れず斜行してしまう可能性がある。

 しかし、キングヘイローの脚は衰えていない。真っ直ぐに走ろうと必死に前を向いている。

 

『しかしっ! キングヘイローは先頭を譲らない!』

 

「行け……!」

 

 口をついて出た言葉には、自分でも驚くほどの力が入っていた。

 

 そして、その時はやってきた。

 

 キングヘイローが先頭でゴールラインを駆け抜ける。

 

『キングヘイローが今1着でゴールインッ!! デビュー戦を見事勝利で飾りました!』

 

 観客の歓声とともに、真剣な表情のキングヘイローがゴールラインを捉えて目の前を通り過ぎていった。

 

「勝ち、やがった……」

「おお……おおー!」

 

 驚いている俺とペティがそれぞれ口を開いた。

 

 走り終えて息を整えたキングヘイローは、涼しい顔で歓声の上がるターフへ向かって手を振っている。

 

「キングやりましたね!」

「あ、ああ……」

 

 ピョンピョンと跳ねていた興奮気味のペティはズレた眼鏡を指で押さえて直していた。

 

「……」

 

 カレンモエは、ぱち、ぱちと間の開いた拍手をターフへ送っていた。

 

「口だけじゃなかったんですね。しっかりと勝ちきるとは正直キングを嘗めてました、反省です……あ、キングこっち来ますよ!」

 

 キングヘイローは時折かけられる声にお礼を言って、あちこちに手を振りながらこちらに向かってきた。

 得意げに胸を張るキングヘイローが俺たちの前に仁王立ちになった。

 

「おーっほっほっほ! その(まなこ)にキングの走りを焼き付けることができたかしら? あなたたちには私を褒め称える権利をあげるわ!」

「キング、良い走りでしたよ! よく粘りましたね!」

「…………おめでとう」

 

 ペティとカレンモエが各々に声をかける。

 

「ええ、ええ! 2人ともありがとう。トレーナーは、何かないのかしら?」

「……キングヘイロー、もうちょっとこっち来い」

「? なにかしら?」

 

 キングヘイローと柵を挟んで至近距離で向かい合う。汗で濡れた鹿毛、上気して薄く赤みを帯びた顔、キックバックで受けた芝や土が付いた勝負服とその肢体が目に入ってくる。

 

「ちょっと横向け」

「ええ……?」

 

 そして──

 

「よくやった!」

 

 ──バシッ!! っと俺の想いをすべて込めて、その背中を平手で叩いた。

 

「っっ!! ちょっと、痛いじゃない! いくらウマ娘が丈夫でも、痛いものは痛いのよ!」

「はっはっは! やるじゃねえか! よくやったな!」

「もうっ……ふんっ、今日のところは許してあげるわ。寛大なキングに感謝するのね!」

 

 担当ウマ娘が……キングヘイローが勝った嬉しさが今になって湧き上がって胸の中を満たしている。

 勝てたこと自体への嬉しさに加え、これでキングヘイローは勝ち上がりになるので、これで2年で退学になることはない。そのことに一安心している自分もいた。

 

「どこか痛むところや違和感があるところはないか?」

「何も問題はないわ。何なら3Rに出たっていいのよ?」

 

 歩様も乱れていないし、本人がそう言うのならある程度信じていいだろう。

 しかし、後々問題が出てくる場合があるので注意を払っておく必要はある。

 

「ウイナーズサークルから引き揚げたらインタビューがあるだろうから控室で待っとけ。俺も今すぐ行く」

「分かったわ」

 

 そうしてキングヘイローと一旦別れた。彼女は観客に応えながらウイナーズサークルへ向かっていった。

 

 俺は身を翻しながら、控え室を目指して速足でスタンドを駆けていった。

 

(コイツなら、クラシックだって夢じゃねえぞ……!)

 

 その胸に、これからの確かな期待を抱きながら。




ダイナムヒロインちゃんが好きです……(告白)

拙作は全て実名でウマ娘を出してるので、ダイナアクトレスとさせていただきました


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第14話 特訓

 この部屋の主になった頃よりも滑りの悪くなった戸を引くと、ひんやりした朝の空気が首もとを撫でた。一つ息を吐くと、その息の温かさを感じるぐらいの季節になってきた。

 

「寒くなってきたな……」

 

 入り口横のスイッチを押して電気をつけて、トレーナー室に入る。脇に抱えた雑誌を無造作にテーブルに投げ置いてから、電気ケトルを手に取って水道の水をそれに注ぐ。手首に確かな重みを感じてきたら水を止め、蓋を閉める音とともに台座に置いたケトルのスイッチを入れた。

 湯が沸くのを待つ間、パイプ椅子に座ってテーブルに置いた雑誌……表紙にエアグルーヴとバブルガムフェローの一騎打ちとなった天皇賞秋の写真が使われている月刊トゥインクルを開く。目次を見て目当ての記事を見つけたら、そのページまで捲っていった。そのページに到達すると活躍したジュニア級ウマ娘の特集ページが目に入った。そこの見出しには──

 

『黄菊賞 キングヘイロー 圧巻の末脚!』

 

 ──と大きく文字が躍っていた。その横にはもちろん、自慢げにポーズをとるキングヘイローの姿が載っていた。

 もう見慣れてしまったその顔を見てから、椅子の背にもたれてそのレースの詳細に目を通した。

 

『4コーナーを回って最後方にいたキングヘイローは最後の直線でごぼう抜き! 上がり3F最速34.8秒はなんと上がり2位に0.5秒差!』

『頭角を現し始めたキングヘイロー、次走は東京スポーツ杯ジュニアステークスを予定している。2()()()()()の重賞初制覇へ期待が膨らむばかりだ』

 

 “カチッ”

 

「…………ん」

 

 記事を読み終わるとほぼ同時に乾いたプラスチックの音が耳に届いた。電気ケトルの湯が沸いたようだ。

 立ち上がって雑誌をデスクに放り、椅子を離れてマグカップにドリップコーヒーのパックをセットして、そこにゆっくりと湯を注ぐ。湯がコーヒーの粉にゆっくりと染み込み、湯気に乗って香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。

 ドリップし終わったパックを取り出し、落ちる滴のタイミングと格闘してからパックを水道の三角コーナーに捨てたあと、デスクにあるコースターにマグカップを置きながら椅子に腰を下ろした。一つ大きく伸びをすると、それに躯幹の筋が心地よい痛みで応えてくれた。

 

 

 

 改めて、メイクデビューから先週の土曜日に行われた黄菊賞のことを思い返す。

 

 メイクデビューで勝利したキングヘイローの状態は健康体そのもので、レースのダメージは全くないと言っていいほどだった。筋や腱の著明な炎症もなく各関節の動きも良好で、模擬レースから中4日でレースに臨んだとは思えなかった。

 これなら中2週でもいけると判断した俺はキングヘイローと話し合い、1勝クラスの黄菊賞へ出走を決めた。

 

 その黄菊賞の結果は先程読んだ月刊トゥインクルの記事の通り、上がり最速の末脚で1バ身差の勝利。着差以上に強いレースで、改めてキングヘイローに秘められたポテンシャルの高さを感じた。

 今週の様子を見ていると黄菊賞の疲労やダメージもほどんどない。このタフさはクラシック級で年11走、シニア級で年9走を走り切った母親のグッバイヘイローから受け継いだものだと思わざるを得ない。丈夫な良い体を母親から譲り受けたようだ。

 

 このまま問題がなければ次走はGⅡの東京スポーツ杯ジュニアステークスに出走予定であると、レース後のインタビューで乙名史に伝えた。重賞ということもありメンバーはこれまでよりも揃うだろうが、12月のジュニア級GⅠを目指すウチとしては出走する権利を取るためにも避けて通れない道だ。

 キングヘイローの重賞初挑戦……重賞に出ること自体が一握りのウマ娘に許されないこのトゥインクルシリーズにおいて、キングヘイローは順調と言っていいだろう。

 

「重賞初制覇、ねえ」

 

 その記事に載っている2人揃っての重賞初制覇という文字。その2人とはもちろんキングヘイローと坂川健幸()のことを指す。この記事を書いた記者は乙名史悦子、キングヘイローのメイクデビューと黄菊賞のレース後インタビュアーを務めた女だ。人柄との印象とは裏腹に、記事はしっかりと真面目に書く記者だ。俺が重賞未勝利だということには、黄菊賞の時のインタビューでも触れられた。

 

「たしかに初めて、になるのか」

 

 出走経験こそあるものの、トレーナー坂川健幸はこれまで重賞を勝ったことがないのは周知の事実である。

 

 しかし、()()()()()()()()()()()()は、それは正しくない。

 

「……」

 

 なみなみに注いだマグカップに口をつけ、舌に広がるコーヒーの熱い苦みを飲み下す。体の中心部へ向かっていったそれが消えることを感じてからもう一度口をつける。

 今日からのトレーニングメニューを頭の中で計画立てながら、マグカップが空になるまでそれを繰り返した。

 

 ◇

 

 その日の放課後、部室にチーム全員を集めた。ジャージに着替え終わったキングヘイローとカレンモエ、制服に白衣を羽織ったペティが俺の方を見ている。

 

「今から約3週間後、キングヘイローが初の重賞、東京スポーツ杯ジュニアステークスに出走する。東京レース場、1800mだ」

 

 既に3人とも知っていることではあるが、話の切り出しとしてそう言った。

 

「勝ち上がったウマ娘が出てくるんだ。今までよりも相手のレベルが上がるぞ」

「おーっほっほっほ! どんなウマ娘が相手でも、勝つのはこのキングよ!」

「本人はこの調子だが、口で言うほど重賞を勝つのは簡単じゃない。そこで今日からキングヘイローの特訓を行うことにする」

「特訓……何をするんですか?」

 

 ペティがキングヘイローを差し置いて俺に質問してきた。

 

「フォームの修正だ。キングヘイローには直接言ったことがあるが、バ群の中でのフォームが崩れてんだよ」

 

 これはかねてからキングヘイローに言ってきたことだ。あの模擬レース含め、他のウマ娘と間隔が狭まってくると途端にフォームが崩れてしまう。フォームの崩れは速度低下や体力の消耗に直結することは説明するまでもないだろう。

 

「今までは調整重視のメニューだったが、今日からは実践的なトレーニングを行う。レースへ向けての調整も合わせたら時間がないうえに、無駄な疲労も溜められない。短期集中でいくぞ、いいな?」

「当然よ。そこまで言うならキングに相応しいメニューを考えたのでしょう?」

「ああ、取りあえずお前にはアレを……見た方が早いか。モエ」

 

 カレンモエの方を向いて声をかけた。

 

「なに……?」

「ジャージとインナーを脱いでブラを見せてやれ」

「へっ!?」

 

 俺の言葉を聞いてキングヘイローが素っ頓狂な声を上げた。

 

「……分かったよ」

「モエさん!?」

 

 カレンモエはジャージのチャックをゆっくりと下ろして前を(はだ)けさせると、白いインナーが中から顔を覗かせた。布擦れの音を立てながらジャージを脱いでそれをテーブルに置くと、今度はインナーの裾に手をかけた。

 

「な、何をしてるの!? やめて!! トレーナー! あなたどう言うつもりで、ああっ!?」

 

 焦っているキングヘイローを意に介さず、カレンモエは裾をまくり上げた。髪の色にも劣らない、腹部の白い素肌と臍が見え、更に胸もとまで捲っていくと下に着ている黒い何かが見えてくる。

 

「トレーナー!! 目を瞑り──」

「トレーナーさん……これでいい?」

「ああ、ありがとう」

「……え?」

 

 カレンモエがインナーを胸もとまでまくり上げたそこには、胸から上を覆う黒いウェアが姿を現した。形は似ているが、もちろん下着(ブラジャー)ではない。

 

スポーツ用のGPSトラッカー(デジタルブラジャー)だ。背中側にセンサーを入れて、走行距離や速度が分かるだけじゃなく慣性計測、つまり加速度計やら角速度計やらが付いた……どうした?」

「紛らわしい言い方をしないでっ!」

 

 キングヘイローは顔を赤くして俺に食ってかかってきた。

 まあ、存在を知らなければこんな反応にもなるか。

 

「いきなり下着を見せろなんて言う訳ないだろうが。んなことしてたらトレーナー免許剥奪どころか逮捕されるわバカタレ」

「ばっ……また私にばかって……く、くぅ~~!」

「わたしはモエさんのデータ収集手伝ってたので知ってましたよ。トレーナーさんの言い方にはちょっと驚きましたけど」

「というか、お前これまでモエと一緒に着替えてただろ。普通の下着じゃねえって気付かなかったのか」

「他人の下着をじろじろ見るなんてはしたないこと、キングはしないわ!」

 

 ペティには前々からカレンモエのGPSトラッカーのデータ収集や整理を頼んでいた。整理のついでにデータ自体の説明やそれぞれの記録項目とトレーニングとの関連性についての持論を教えてやると、目を輝かせてそれをメモしていた。やはりスタッフ研修生と言うべきか、数値化されるデータには目がないようだ。

 

 俺はカレンモエにインナーを下ろしてジャージを着るように促すと、それに従ってカレンモエは服装を整えた。

 

「要はこれでお前のフォーム修正に取り組むってことだ。これからトレーニングの時には絶対にこれを着けろ」

「……分かったわ。それで、私のはどこにあるの?」

「ここにある。取りあえず上から着てみろ」

 

 トレーナー室からサイズ違いのデジタルブラを幾つか見繕って持ってきていた。その中で1番大きいものをキングヘイローに渡して、ジャージを脱いだインナーの上から着てもらった。すると──

 

 

「「「「…………」」」」

 

 

 謎の静寂が部室を包み込んだ。

 

 その原因を探るべく、1人1人に目を移す。

 

「……」

 

 まずは無言で自身を見下ろすキングヘイロー。

 

「……」

 

 同じく無言でキングヘイローを見るカレンモエ。

 

「これは……ちょっと駄目ですね」

 

 スタッフ研修生にあるまじき曖昧な表現で濁すペティ。そして、

 

「お前結構胸デカいんだな。胴回りも太いし」

 

 デジタルブラが胸もとで引き延ばされ、アンダーバストを締め付けている状態のキングヘイローを見て正確に批評した俺。

 端的に言ってサイズが合ってない。パツパツだ。

 

「もっと大きいやつ部屋から持ってこねえと……ん? どうした?」

 

 キングヘイローの顔を見ると、さっきよりも更に顔を赤くして涙目になり、眉をつり上げてこちらを睨んでいた。

 

「さいっっていっ!!!」

 

 閉め切った部室の外に聞こえたんじゃないかと思うほどの、キングヘイローの怒声が上がった。

 

 ◇

 

 あの後、坂川が持ってきた私に合うサイズのデジタルブラを着てトレーニングに臨んでいた。

 

「はあっ、はあっ」

 

 今は15-15(1ハロン15秒)よりも遅いゆっくりとしたペースでトレーニングコースを周回している。私1人だけ走っているのではなく、3馬身ほど後ろにカレンモエが追走してきている。

 

「……っ……っ」

 

 自分の足音に紛れて、カレンモエの微かな息遣いがこちらまで聞こえてきている。

 それに気を向けながら走っていると、その息遣いが急にこちらへ近づいてきた。

 

「!」

 

 コーナーに入る直前で外からカレンモエが並びかけてきたので、指示通りレース時のようにペースを上げる。カレンモエは私にバ体を合わせ、肩がぶつかりそうになるほどにこちらに競りかけてきた。

 外から被せられるように、強いプレッシャーを感じる。

 

「くっ……!」

 

 コーナーの進路取りも難しい。外にカレンモエがいるせいでわずかでも外に膨らむことができない。まさにぴったりと言う他ないほど、カレンモエは私の真横についてきていた。

 肉体的にも精神的にも、私は走りに窮屈さを感じていた。

 

「ふっ…………ふっ……」

 

 ちらりと横を見ると、先程よりも大きくなった息遣いの音を奏でているカレンモエが目に入った。彼女は前を向いており、いつもの平坦な表情を変えることなく並走している。

 

(なんで、そんな余裕なのよ──)

 

 と考えたところで、自分の左耳に着けているウマ娘用のイヤホンから坂川の声が聞こえてきた。

 

『モエを意識しすぎだ、体幹が右に回旋してるぞ! 相手を確認するなら目線だけで見るか、顔は向けても絶対に躯幹は動かすな分かったか!』

「分かったわよ!」

 

 左手首に巻かれているスマートウオッチと無線で繋がれたイヤホンから坂川の声が私へ浴びせられる。このスマートウオッチは常に坂川と通話状態になっており、何かあると今のように坂川から話しかけてくるのだ。走っているときでも聞こえるように音量を大きめにとっているので、まるで叱られているかのように感じる。ちなみにこちらからの音は坂川には届かず一方的な通話となっているため、先程の私のように返事をする必要はない。

 

 そしてコーナーを過ぎて直線に入ると、カレンモエがすっと後方へ引いていく。再びカレンモエは3馬身ほど後ろから私を追いかける元の形になったことを確認すると、元のゆっくりとしたペースに落とした。

 

 

 今日から始まったトレーニングでは、今のようにカレンモエに競りかけられることを繰り返していた。先程のように外からだけでなく内から競られたり、後ろからプレッシャーをかけられたり、逆に前に出られてそのすぐ後ろを追走したりと、様々なシチュエーションでそれは続いた。

 競られるたびに、リアルタイムでGPSトラッカーの計測データを確認している坂川から逐一修正の声が入る。

 

『休憩だ。2人とも戻ってこい』

 

 それから何度か繰り返したあとそう指示が入り、その通りにチームの元へ戻った。流れ出る額の汗をジャージで拭いながら戻っていったそこには腕組みをした坂川と、計測データが記されたタブレットを確認するペティと、ビデオを撮り終えたタブレットを脇に抱えている郷田マコ──以前から度々坂川と会話していたのを見たことがあり、今日改めて紹介された──がいた。

 マコはこちらを労いながらドリンクとタオルを渡してくれた。

 

「2人ともお疲れさんッス!」

「ありがとう、郷田さん」

「キングちゃん、そんな郷田なんてよそよそしいッスよ! マコ、でいいッスよ」

 

 マコとはほとんど初対面に近いのだが、このようにグイグイと距離を詰めてくる。

 

「分かったわ。マコさん」

「うんうん。いや~坂川さんも隅に置けないッスねえ~。こんなに有望で美人なウマ娘をスカウトしたなんて!」

「有望、美人……おーっほっほっほ! マコさん、あなた“分かってる”わね!」

「お前は何も分かってないようだがな」

「……トレーナー」

 

 マコに褒められていい気分に背後から水が差された。ドリンクに口をつけながら振り向くと、ペティの持っていたタブレットを手にした坂川が立っていた。

 

「これを見ろ。今さっきの計測データだ」

 

 坂川が様々なグラフが映っているタブレットを見せてくる。

 

「これが速度、こっちの横並びのグラフが慣性計測のグラフ、上から加速度計、角速度計、磁針計で、それぞれx軸y軸z軸の3軸で──」

「? 分かったわ……?」

 

 強がってそう言ったが、正直何が何だか分からない。いや、どのグラフが何を表しているかは分かるのだが、そのグラフが何を意味するかは分からなかった。

 

「このグラフだけ見たって分かんねえだろ……マコ、さっきの映像を」

「了解ッス!」

 

 マコがタブレットを操作して映像を用意する傍ら、坂川は2つのグラフを横並びにして拡大して見せた。

 

「左が通常の走り、右がモエに競りかけられたときの速度のグラフだ。これなら簡単だから分かりやすいだろ」

 

 横一線の綺麗な直線になっている左のグラフに対し、右のグラフは上下に揺れて歪な直線になっていることが一目で分かった。

 

「競られたときに速度が安定していないってことがこれで分かる」

「ふ、ふん! 聡明なキングだもの、それぐらい分かるわ!」

「……なんでそれが起こっているのか。それを慣性計測と映像を合わせて分析する。マコ、用意はできたか?」

「準備万端ッスよ!」

 

 坂川は大量のグラフをタブレットに映しだした。ずらっと表示されるそれに少し辟易してしまう。

 

「グラフの意味や何を表してるかはおいおい覚えていけばいい。これと対応する映像を見るぞ」

 

 マコが差し出した映像を一緒に見る。さっき、コーナーでカレンモエに並びかけられたときの映像だった。

 それを見ていると、確かに自分のフォームが崩れているのが分かる。カレンモエに気を取られて体が外に開きそうになっている。

 

「さっき指示を送った通り、頭の動きに合わせて体がほんの少し外側へ回旋してるだろ。他にも上体が起き上がったりもしてる。慣性計測のグラフと照らし合わせると、進路が左右にブレてコーナーを滑らかに回れていないことも分かる。ピッチとストライドも乱れてそうな感じだ。あとから動画を重ね合わせて各関節の動きも見るぞ」

 

 次々と私の問題点が坂川から提示された。

 

「……」

「これ以外にもまだまだあるが、今の所はこんなもんだな」

「……」

「どうしたそんな黙って。もしかして落ち込んでんのか?」

 

 坂川が挑発するように突き放した言い方をする。

 

 私が、キングヘイローが落ち込む? 見当違いも甚だしい。

 私は今、期待に震えていたのだ。 

 

「おーっほっほっほ! このキングは落ち込む? そんなはずないでしょう! むしろその逆、キングの才能が改めて証明されただけよ!」

「……」

 

 キングヘイローというウマ娘のことを何も分かっていないこの担当トレーナーに教えてあげよう。

 

「仮に課題だらけとしても、キングはここまで無敗(2戦2勝)なのよ? もしそれを克服できたらもっと凄いウマ娘になるってことじゃない! 落ち込むなんてあり得ないわ!」

 

 つまり、キングヘイローというウマ娘にはまだまだ伸びしろがあるということ。それが分かったのだから、悲観する必要なんてないのだ。

 取り組むべき課題があるというのは良いことだ。目標があるとモチベーションにも繋がるし、日々のトレーニングを無為にこなすことも少なくなる。何となく無為にトレーニングできるほど、トゥインクルシリーズの時間は残されていないのだ。

 

「よくやったわトレーナー。あなた、中々やるじゃない。褒めてあげてもいいわ」

 

 坂川というトレーナーの人間性は置いておいて、今の所その手腕を認めてやっても良いと思う。最先端の現代機器を利用して、素早く的確に修正点を見つけてくれた。映像と一緒に確認することで私自身も理解できた。

 ひとまずトレーニングについては、このトレーナーを信用してもいいと思う。

 

「落ち込んでねえようで何よりだ。クラシック三冠を、GⅠを目指そうってんだ。こんなとこで自信をなくしたらどうしようかと思ってたぞ」

 

 目の前の作業服姿の男がそう言った。

 このトレーナーのこと、少しずつ分かってきた気がする。さっきみたいにキツい言い方をするときは、こちらを試したり奮い立たせようとしているのではないだろうか。

 

 決して首を下げないキングには、案外合っているのかもしれないわね。

 

「ほれ、休憩は終わりだ。もう1本行くぞ」

「ええ! モエさん、お願いするわ」 

「……ん」

 

 コクっと頷いたカレンモエと再びコースへ向かっていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 トレーニングは次の日も、また次の日も、調整期間直前まで集中的に続けられた。

 

 またレースが近づくにつれ、トレーニング後に坂川の解説付きで過去の様々なウマ娘のレースを見て、戦略やレース中の判断についての勉強会も行われるようになった。バ場状態の確認から始まり、なぜそのレースに勝てたのか、逆にどうしたら勝てたのかなど、それは夜遅くまで続くこともあった。トレーニング後だったので疲れて眠くなることもあったし、その勉強会のあと学園の課題をしていると深夜を回ることもあった。しかし、その度に自分に鞭を入れて奮い立たせ、全てを全力でこなしてきた。

 最初の顔合わせの時に坂川が言った通り、なかなかにハードな日々ではあったがこの程度で音を上げる私ではない。レースを迎えるその日まで、精力的に取り組んできたつもりだ。

 そうしていると、あっという間に月日が過ぎていった。

 

 

 

 そして初の重賞、東京スポーツ杯ジュニアステークスがやってくる。




GPSトラッカーとは所謂カ〇パ〇トのアレをモチーフにしてます。
サッカー選手が下に着てるアレです。


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第15話 東京スポーツ杯ジュニアステークス

感想欄の返信でチラッと書いたのですが、拙作のウマ娘はみんな勝負服を持っていて、GⅡやGⅢでも勝負服を着ています。

あと、東スポ杯は2022年現在のGⅡとしています。


『さあ、やってまいりました! 東京レース場芝1800mで行われます、GⅡ、東京スポーツ杯ジュニアステークス! 曇り空の下、今年も注目のウマ娘たちが揃いました。早くも枠入りが進んでいます』

 

 発バ機を前に枠入りの順番を待っていると、聞き覚えのある女性実況の声が聞こえてきた。たしか赤坂という名前の眼鏡をかけた女性アナウンサーだったはずだ。

 

『奇数番のウマ娘たちが枠へ入っていきます。2番人気のマイネルラヴが今入りました』

 

 警戒すべきウマ娘、赤い勝負服のマイネルラヴが鹿毛をなびかせながら枠に入っていく姿を後方で見つめる。坂川にレース中はこのウマ娘の動きを把握しておけと口酸っぱく言われていたことを思い出す。

 

 程なくして偶数番のウマ娘の枠入りになった。

 

『1番人気、キングヘイローが8番ゲートに入りました。前走で見せた驚異の末脚、本日は見られるでしょうか!?』

 

(1番人気……いい気分ね! せいぜい期待していなさい!)

 

 ゲート内で待機しながら心の中で実況にそう応える。

 

 今日のレース、私は初めて1番人気に指示された。“1番”……その響きはやっぱり気分が良いものだ。

 外野もキングヘイローというウマ娘を認めてきている証拠だ。この前のレース、雑誌にも結構大きく特集されていたし。キングヘイローの名は着実に広まってきている。

 

『大外のアイアムザプリンスがゲートに入ります……これもおさまって……』

 

(……集中、ね)

 

 目を瞑って雑念を振り払う。

 初の重賞だ。油断が許されないのは十二分に理解している。

 

(……)

 

 足を一歩引いて、スタートに備えて構える。

 

 ──ガシャンと音がして目の前の視界が一気に開けた。

 

『スタートしましたっ! ほぼ揃いました12人、スーパーグランザムが行きました!』

 

 私自身はほんの少し遅れたが二の足で前目につける。先頭にいる2人のウマ娘の後ろに4人並ぶ形の一番外側にポジションを取ることになった。

 

『マイネルラヴも3番手につけることができました。そしてその外にはキングヘイロー!』

 

 私のすぐ隣……内側にいるマイネルラヴに並びかけ、並走するような形になった。

『見るときは目線か顔だけ向けろ! 絶対に体は動かすな!』……と言われ続けた今日までのトレーニングを思い出しながら、視線だけマイネルラヴの方を見ると──

 

「「……!」」

 

 バ体が合いそうなほど近くで、お互いの視線がぶつかり合った。

 

(あなたも、私のことを意識してるってわけね! ここは譲れな……いえ)

 

 瞬間、熱が入りそうになった頭が、今日までのトレーニングの記憶によって冷静にさせられた。

 

(ここは……)

 

 ◇

 

 数日前へと時間が巻き戻る。

 

「今週末、いよいよ東京スポーツ杯ジュニアステークスだ。特訓は今日で終わり。明日からは調整に入るぞ」

「はあ……はあ……ふっ……」

 

 トレーニングを終え、坂川の前で息をつく私。これまで毎日、併せて走るトレーニングをこなしてきた。その相手はカレンモエであったり、マコの伯父である郷田正男のチームのウマ娘であったり、その日によって変わっていた。

 

「これまでの特訓の成果だが……」

 

 坂川が眉間に皺を寄せながらタブレットを見ている。そのタブレットにGPSトラッカーのデータが映っていることは確認しなくても分かる。

 

「全然駄目だな」

「く、くう~~~~!」

 

 バッサリと切り捨てる坂川のそれを聞き、思わず悔しくて声が出る。

 自分でも理解できている。近くにウマ娘がいるときのフォームの崩れを改善することはできなかったのだ。

 

「……ふんっ! 本番のレースではきっちりと修正して見せるわよ。キングは一流のウマ娘だもの、本番に強いところを見せてあげるわ!」

「練習でできてないのにレースでできる自信がどこから来るのか知りたいもんだな」

「その心意気を持つことが大事なの!」

 

 まず決意して宣言すること……強がりと言うのかもしれないが、得てしてそれは重要なものだと思う。

 

 このあともフォームが改善されなかったことについて嫌味を言われるかと心の中で身構えていた。しかしそうはならず、坂川の口からは意外な言葉が出てきた。

 

「だが収穫もあった。この収穫だけでも特訓した甲斐があったってもんだ」

「収穫?」

 

 坂川の言っている収穫とは何なのか、自分では見当もつかない。フォームが改善されたとも思えない。これまでトレーニングの終わりのたびに部室でGPSトラッカーのグラフを見てチームのみんなと振り返りをしていたのだ。グラフの意味も少しは分かるようになってきたので、尚更フォームが良くなったとは思えない。

 

「キングヘイロー、何だと思う?」

「……もったいぶってないで教えなさい。正直言うと、フォームが良くなったという手ごたえはないわ。競られたらどうしても崩れてしまうの」

「なんだ、ちゃんと分かってるじゃねえか」

「え……?」

 

 今のどこにその収穫があったのだろうか。

 

「自分自身でフォームが崩れるっていう自覚ができただろ? あの模擬レースまで、そんな自覚はあったか?」

「あ!」

 

 確かに坂川の言う通りだ。これまで走っているときに自分のフォームが崩れているなんて意識はひとつも無かった。それが今回の特訓でのビデオやグラフのフィードバックによってそこに意識が向くようになった。

 坂川の言う通り、自覚ができるようになったのかもしれない。

 

「特訓の期間もあんまりなかったからな、それが分かっただけでも上出来だ。よくやったな、キングヘイロー」

「……ふふんっ! トーゼンよ! キングにはそれぐらい、分かっていたわ!」

 

 ここに来て急に褒められて、それで生じた照れを隠すためにそんな言葉が出た。

 坂川は私に遠慮するということを知らない。駄目なところはストレートに駄目と厳しい言葉が飛んでくる。そんな、これまでずっと厳しくされてきた坂川に褒められることが嬉しいなんて……

 

(案外私も単純……って、いやいやいや!)

 

 と、心の中で自分と戦っていた私なんて坂川は露も知らないだろう。

 

「お前と洗い場で出会った時、バ群の中でのフォームの崩れについて俺が言っていたことを覚えてるか? 『競られるトレーニングしてフォーム自体を修正するか、バ群から距離を取る戦法を試せ』って言ったんだが」

「覚えてるわよ」

 

 あんな出会い、そうそう忘れないだろう。

 

「フォームの崩れが自覚できたってことは、バ群から距離を離してレースできるようになったってことだ。だから、週末のレースに向けての指示、まず1つ目だ」

 

 坂川は人差し指を真っすぐに立てた。

 

「序盤に他のウマ娘が近づいてきてフォームが崩れてると感じたら、すぐに距離をとれ。ポジションを下げたって構わねえ。初の1800だ、終盤は仕方ないにしても、序盤の体力消耗は出来るだけ避けるんだ」

 

 ◇

 

 再びレースへ時は戻る。

 

 坂川に言われた指示を思い返して決断した。

 

(ここは……焦らない。譲るべき)

 

 加速をつけて私より1バ身先へ抜け出すマイネルラヴを無理には追わないことにした。すぐ後ろにはそれを追ってくる中団勢の足音が聞こえる。

 外を回ってしまうことになるが、ここは無理に内側に入らず、前方とも後方とも距離を保ったまま走ることを選択した。

 

 マイネルラヴの2バ身後ろを追走するようにバックストレッチを駆けていく。

 

『向こう正面残り1200mを通過します。先頭に立ったのは盛岡トレセンのスーパーグランザム1馬身ほどのリード。2番手レオチャレンジャーその後ろにマイネルラヴがつけます』

 

 後続集団がコーナーへ向けて差を詰めてきている。私と他のウマ娘との距離が急に縮まった。

 

(内側へ入るスペースはもうない! このまま外を……あっ、フォーム、が)

 

 内へ入る選択肢はもう残されていない──そう考えるのと同時に、フォームが崩れることが分かった。

 この感じは、多分上体が起きてしまっている。

 

『残り1000m通過。5番手ランドパワーの外にキングヘイローがいます! ウマ娘たちが一塊になって第3コーナーへと向かっていきます!』

 

 バックストレッチが終わり、第3コーナーへ。わざと外に膨れながらコーナーに入っていく。

 

(フォームは、多分、大丈夫なはず!)

 

 膨れたことで内のウマ娘から少し距離をとってフォームが修正できたことを感じると、前のマイネルラヴを視界に入れながらコーナーを回っていく。

 

(これが、本物の東京レース場……!)

 

 これまで散々学園内レースで走ったコースと目の前の景色を重ね合わせながらコーナリングしていく。

 

 内側にも、後ろにも、そして外からもウマ娘たちが迫ってきている。アイアムザプリンスが外から私に追いすがってくる。

 

(ここからは……トレーナーの言う通りに!)

 

 そこで思い返したのは、レース前日の事だった。

 

 ◇

 

「で、2つ目の指示ってなんなの? 結局今まで教えてくれなかったけれど」

「そこはあれだ。各陣営の調子を見ないといけなかったからな」

 

 数日前のトレーニング中に言われた1つ目の指示に加えて、もう1つの指示が坂川の口から語られようとしていた。

 

「まずは復習、あの8着に負けた模擬レースの敗因は?」

 

 いきなり嫌なレース(トラウマ)の話を掘り返してきた坂川。からかっているのかと思ったが、彼の顔は真剣だった。

 

「ペースを読めなかったことと、追い出しが早かったこと、かしら」

「その通り。俺があの時言ったこと覚えてたか」

 

 忘れる訳がない。それにあれからマコに動画をもらって自分でもレースを見返したのだ。

 自分が敗北したレースを見返して敗因を分析することは、これまでの学園内レースでも行ってきたことだ。

 

「ペースを読んだりペース感覚を養うトレーニングはしてないから、自分自身で仕掛け始めることは止めろ。超スローになって前残りになったら仕方ないって考えるぐらいで行け。ポジションは自分がスムーズに運べるところでいい。前か後ろかにこだわるな」

「それ、私に展開待ちでレースをしろって言ってるのかしら?」

「現実的な観点で話してるだけだ。大事なのはもう1つの敗因、追い出しが早かったことだ……今回、追い出しは最後の直線まで絶対に待て」

「……ええ、分かったわ」

 

 模擬レースではそれで負けたのだから、坂川の言うことはもっともだ。それには素直に従うことにした。

 

「そんで最後の500mを過ぎたら抜け出しそうなウマ娘を1人、目をつけろ。そいつを目標にするんだ」

「目標……標的(ターゲット)にしろってこと?」

「そうだ。最後の直線に入る直前、コーナーなら後ろのウマ娘も確認しやすい。脚色のいいウマ娘をそこで頭に入れろ。人気どころのマイネルラヴかアイアムザプリンスは最低限確認しておけ。特にマイネルラヴは仕上がりが良い。くどいかもしれんが、確認するときは目線か顔だけ動かせよ」

 

 言われたことを手元にあるノートに書き終わった私を見てから、坂川は口を開いた。

 

「コーナーで後方から捲られても絶対に焦るなよ。なあに、前走の黄菊賞の脚があれば大丈夫だ」

 

 私と目を合わせた坂川は口元に笑みを浮かべ、不敵に笑っていた。

 

「思いっきり、お前の脚を爆発させてやれ! ブチかましてこい!」

 

 私は自分の自信を示すように胸を張った。

 

「言われなくてもそのつもりよ!」

 

 ◇

 

 坂川に言われた通り、コーナー出口で有力ウマ娘の脚色を確認して頭に入れておいた。

 

『最後の直線に入った! 先頭はスーパーグランザムか!? レオチャレンジャーとマイネルラヴの2人が並んで先頭3人横一線!!』

 

 そして直線に入り、残り500mを通過。

 

 私の左前方で3人のウマ娘が先頭で並びかけ、後ろからはアイアムザプリンスが迫ってくる。

 私は再度見える範囲でそれぞれの脚色を見──。

 

(やっぱり、このマイネルラヴって娘……!)

 

 脚色を見るまでもなく、加速して先頭へ抜け出したマイネルラヴ。

 後ろから来ていたアイアムプリンスはズルズルと下がっていくのが見えた。この娘はもういい。

 

 ──標的はただ1人(マイネルラヴ)

 

(ここでっ!)

 

 マイネルラヴの外から、ここまで溜めていた脚を一気に開放する。

 

「はああああああっ!」

 

『400を通過! 先頭はマイネルラヴ! そしてキングヘイローが外からやってきたっ! キングヘイローかマイネルラヴか、2人のマッチレースになるのか!?』

 

 先頭へ躍り出た私とマイネルラヴ。

 

 曇天模様の空の下、観客席から沸き起こる歓声を耳に捉えながら、脚を上限(レブ)まで回す、回す、回す! 

 ターフから足底に跳ね返ってくる反力に心地よささえ感じながら、脚を前へ、前へ、前へと踏み出す! 

 

 あの時……模擬レースの時とは違う。

 

(キングは、キングヘイローは、私は……!)

 

『200を通過! マイネルラヴ! キングヘイロー! そしてここで、キングヘイローが先頭に変わったっ!!!』

 

 マイネルラブとの距離を測りながら、バ体を合わせないように外へ向かって駆けていく。

 高低差2mの坂なんて、なんてことはなかった。

 

『さあ先頭はっ、キングヘイロー2バ身のリード!』

 

(そうよ! 私はっ!)

 

 そこで突如脳裏に浮かび上がったのは、どこかで見ているであろう、グッバイヘイロー(お母さま)の顔。

 

 彼女に見せてやろう、この脚を! 

 

 彼女に見せてやろう、この勝利を! 

 

(一流のウマ娘、キングヘイロー、なんだから!)

 

 

 彼女に見せてやろう(目に焼き付けろ!)、キングヘイローというウマ娘を! 

 

 

「はあああああああああっっっ!!」

 

 

『キングヘイローが、今っ────』

 

 

 後ろからは何も来ない。ここには輝く翠ただひとつ。

 

 

『先頭でゴールインッ!!!』

 

 

 ────私は、やれる! 

 

 

 ただ私だけのゴールラインを駆け抜けた。

 

 

『3戦3勝で重賞を制し、来年のクラシック戦線の主役へ堂々と名乗り上げました、キングヘイローです! しかもレコード! レコードです!』

 

 

 私の勝利と電光掲示板に表示された“レコード”の文字。

 それを目の当たりにして、曇り空を吹き飛ばすような歓声を上げる観客たちに私は手を振った。



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第16話 追憶への入り口

ウマ娘時空って便利☆(8話ぶり2回目)


「やったやったやりました! しかもレコード! キング凄いです! トレーナーさんもおめでと……あれ?」

 

 キングヘイローの勝利に両手を上げてその興奮を表すペティの横で、黙っている俺はウイナーズサークルに向かうキングヘイローの後ろ姿を目で追っていた。キングヘイローはゴール後すぐに誘導員に連れられたため、俺たちのいる立見席のところには寄らなかった。

 

「トレーナーさんも重賞初勝利ですよね? なんでそんなに落ち着いてるんですか?」

「……あのなあ、俺はこれでもいい大人なんだ。お前みたいに飛び上がって喜ぶなんてしねえよ……ちゃんと嬉しいぞ」

 

 俺はタイムを記録していた手帳と万年筆をジャケットの内ポケットへ入れた。

 

「ならいいんですけど」

「この後インタビューとか写真撮影あって長引くから、モエと先に帰ってていいぞ」

「いやいや! チームの一員としてキングを出迎えますよ! モエさんはどうしますか?」

「…………」

 

 カレンモエはターフへ……いや、キングヘイローのいるウイナーズサークルの方をじっと見ていた。ウイナーズサークルではキングヘイローが撮影に応じている。優勝レイを肩に掛けて、これ以上ないほどのドヤ顔でポーズをとっていた。

 

「モエさん?」

「……モエも残るよ」

「そうですか? じゃあわたしたちも控室に行きましょうよ!」

「……ん」

 

 カレンモエはコクッと小さく頷いた。

 

「分かった。それじゃあ行くか」

 

 俺は2人に声をかけて、キングヘイローの控室へ向かうために歩き始めた。俺の後から2人がついて────来なかった。

 後ろへ振り向くと、ペティはついてきているのだが、カレンモエはまたウイナーズサークルの方を見ているようだった。

 

「モエ? どうした」

「……ううん、ごめん。今行くよ」

 

 カレンモエはそう言ってこちらを向くと、歩みを進めて俺の後を追ってきた。

 

 

 ◇

 

 

 ウイナーズサークルから目を離し、もう1年以上一緒にいる男性(ひと)の背中を見ながら、その後を追っていく。

 

(……トレーナーさん……重賞…………モエが……っ)

 

 

 歩きながら、ぎゅっ、とひとりでに握りしめられた手に、誰も……その本人でさえ、気付いていなかった。

 

 

 ◇

 

 控室前で待っていると、これまでで一番の声量であの高笑いをしながらキングヘイローが現れた。

 

「おーっほっほっほ! レコードを記録した最高の走り、その目に焼き付けたかしら!?」

「ちょっと、凄すぎますよキング! 重賞制覇、おめでとうございます!」

「……おめでとう。レース、すごかった」

「よくやったな、キングヘイロー」

「ふふふっ、もっと、もっと褒めていいのよ! あなたたちにはキングを褒め殺す権利をあげるわ!」

 

 その後も三者三様に褒めると、キングヘイローはこれ以上ないほど喜びはしゃいでいた。ここまで嬉しそうにしているのを見ると、微笑ましいと思うほどだった。

 

 キングヘイローは一通り喜び終えると、一転挑発的にキザッたらしく俺を指さした。

 

「あなたもこれで重賞トレーナーよ。これでもう底辺とか弱小だとか、自分を卑しめるようなことを言うのはもうやめなさい。分かった?」

「……ああ、そうだな」

 

 キングヘイローにそう言われて、改めて自分が重賞を勝利したトレーナーになったことを理解する。確かに、今現時点において俺は底辺でも弱小でもないのかもしれない。

 ()()()()にもいろいろ考えて黙っていると、気づけばこちらを見ているキングヘイローが怪訝な表情に変わっていた。

 

「あなた、どうかしたの? なにか様子が……」

「キングもそう思いますよね? メイクデビューの時も黄菊賞の時もトレーナーさん声上げて笑って喜んでたのに、キングがゴールしてからずっと心ここにあらずって感じなんですよ」

 

 ペティが言ったことを聞いてキングヘイローは考え込むような仕草をしてから口を開いた。

 

「そう、分かったわ。トレーナー、あなた感激しすぎて現実味がないのね! それともキングのレースが衝撃的すぎて我を忘れているのかしら!? おーっほっほっほ!」

 

 自分の様子がおかしいのは俺自身も分かっている。流石にこの態度のままではいられなくなったので、なんとか取り繕うために誤魔化す言葉を探した。

 

「……これからのことを考えてたんだよ。12月のGⅠのことをな」

「!」

「朝日杯になるかホープフルになるかは分からねえが、狙いに行くぞ。この後のインタビューでもそう言う予定だ」

「言われなくても私もそのつもりよ。望むところ、と言ったところね。ふふっ、いよいよ私がGⅠに……」

 

 なんとか、誤魔化せたのだろうか。

 

 しばらくしてから、インタビューの準備が整ったと運営スタッフが連絡しにやって来た。

 

 ◇

 

 さすがは重賞だけあって、インタビューや写真撮影も分かっていた通り長丁場になった。

 普段の勝利ならトゥインクルシリーズの雑誌記者に応えるだけでよいのだが、重賞にもなると新聞記者やテレビ局のインタビュアーも相手にしなければならず、小規模な会見みたいになっていた。

 それら全てから解放されると、すっかり外は暗くなっていた。

 

 3人と一緒にトレセン学園に帰って寮へ送り届けてから、俺は再び街へと繰り出して、ドヤ街の居酒屋を一人でハシゴしていた。

 そのままトレーナー寮に帰る気にはどうしてもなれなかった。

 

 

 ……いろんなことを思い出してしまっていた自分がいたのだ。

 

 

「……ふぅ」

 

 軽い木製の引き戸を閉め、くたびれた暖簾をくぐって居酒屋から外に出ると、冷たい外気が体を迎えた。すえた匂いのするドヤ街から酔い覚ましをかねて当てもなく歩いていると、気づけば賑やかな表通りの繁華街までやってきていた。

 もう時間も遅く、アルコールも大分回っているので次を最後の一軒にしようと考えながら人混みの中を避けて歩いていると、

 

「おい、坂川か?」

「え?」

 

 聞き覚えのある渋い男性の声がすれ違いざまに俺を呼び止めた。褐色のスーツに身を包んだその男性は──

 

清島(きよしま)先生……」

 

 俺の恩師であり師匠、今年もリーディングトレーナーの座に君臨し、名実ともにトレセン学園の頂点に立つチームアルファーグのチーフトレーナー、清島義郎(よしろう)その人だった。

 

「お前も飲んで……るな、酒臭せえぞ。1人か?」

「……はい。先生も?」

「俺は偉いさんたちとの付き合いだ。今さっきそれが終わってな。このあと空いてんなら、久々に2人で飲みに行くか?」

 

 清島はネクタイをわざとらしく緩めながらそう言った。トップチームのトレーナーである清島のことだ、URAなどのウマ娘界隈だけでなく様々な業界とのつながりを持っているから、その関係の付き合いだろうと推測した。僅かに白髪が混じり始めた髪を整髪剤できっちりセットしており、余所行きのかっちりした恰好をしていた。

 

「はい。俺ももう一軒行こうと思ってたので」

「よし決まりだ! 店は?」

「いえ、特に決めてないです」

「じゃあ適当に選ぶか。今日は堅苦しい店ばっかりで嫌になってなあ」

 

 そうして2人で話しながら、大通りから一本入った道の隠れ家的な飲み屋に入ることにした。

 

 ◇

 

 俺と清島はカウンターに並んで座り、乾杯してから話し始めた。俺はグラスで芋焼酎のお湯割り、清島はお猪口で熱燗を飲んでいた。

 

「久しぶりだな。こうして飲むのは何年ぶりだ?」

「この前は確か……2年前ぐらいじゃないですか?」

「もうそんなになるのか」

 

 自分でそう言って改めて時が経ったことを実感する。この前飲んだ時も今日みたいに偶然繁華街で出会ったのだった。今日とは違いあの時はお互い時間も無かったので、大した話もせずに別れたのを覚えている。

 

「お前、今日重賞勝ったんだってな」

 

 今日のレースにアルファーグのウマ娘は出てなかったはずだが、流石に知っているか。

 

「……ええ」

「その割には浮かねえ顔してんな。嬉しくなかったのか?」

「そんなはずないでしょう。嬉しかったですよ。本当に」

 

 改めて今日キングヘイローが勝った瞬間を思い出す。俺の言葉に偽りはない。アルファーグのサブトレーナーを辞めてから8年、必死にもがき続けてやっと勝てた重賞だ……心の底から喜んでいた。

 

 ──しかし、胸の内にあった想いと感情はそれだけではなかった。

 

「……でも」

「でも、なんだ?」

 

 これを聞いてくれることができるのは、唯一この世界で清島だけだろう。

 

 坂川健幸()の全てを知っている、この人だけだ。

 

「昔の……アルファーグにいた時のことを、少し……」

「……そうか」

 

 清島はそこで日本酒の入ったお猪口に口をつけた。飲み干して空になった彼のお猪口にとっくりから酒を注いだ。

 

()()()が重賞を勝ったときのことでも思い出したか?」

 

 まさに清島の言う通りだった。流石、俺の師匠と言うほかない。

 俺はグラスに入っている焼酎を飲み干した。のどを通るアルコールの感触と鼻から抜けていく芋の匂いを感じた。

 

「はい。3戦3勝で重賞制覇……アイツと全く同じでしたから」

 

 アイツ……俺がアルファーグのサブトレーナーとして働いていたときに、実質的に俺の担当だったウマ娘。

 

 不意に浮かんできた彼女の姿が、キングヘイローが勝った姿と無意識のうちに重なっていたのだ。

 

「アイツは──」

 

 彼女の名前を口にしようとして、刹那それを躊躇ってしまった。今でもDTLで活躍する彼女の名前をテレビやメディアでよく耳にはするものの、口に出すのは随分と久しい。

 1秒にも満たない()の後、彼女の名を口にした。

 

 

「キタサンブラックは、元気ですか?」

 

 

 彼女がくれた万年筆の感触を、今も内ポケットに感じていた。




当作品はイクイノックス号を全力で応援しています。


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追憶1 叶わなかった願い

 思い返すのは10年前、トレーナーになって3か月ほど経過した日のこと。

 

 あの日は、初夏を感じさせるような陽気の日だった。

 

「お前もウチのチームに入って3か月ちょっとか……そろそろ、担当を1人ぐらい持ってもいい頃合いだな」

「担当、ですか?」

「ああ。研修とかの座学もいいが、そろそろ実践に移らねえとな」

 

 トレーナー初年度には学校の授業のように毎日研修という名の座学が行われていた。その日の研修を終えて夕方にアルファーグのトレーナー室へ戻ると、清島が唐突にそんなことを言いだした。

 

「俺のチームにいるウマ娘を1人、お前に担当してもらう」

 

 そう言われて胸が高鳴ったことは今でも鮮明に覚えている。ついに自分も1人のトレーナーとして歩き出すのだと、期待感に胸を躍らせていた。

 

「書類上はチーフの俺のウマ娘ってことになるが、実質的にお前の担当ウマ娘ってことになる。トレーニングメニューとかレース選択とか、全てお前に一任する」

「俺が、全部やるってことですか」

「もちろん俺に報告はしろよ。根拠に基づいたメニューの立案と、その意義や目的をきっちり説明できるなんてのは最低限だ。漠然として曖昧なモンは一切許さねえ……ま、お前なら大丈夫だろうがな。研修の成績、同期の3人の中じゃお前が一番らしいじゃねえか」

「恐縮です」

 

 俺の同期──シリウスのサブトレーナーである天崎と、アルバリのサブトレーナーである横水──の中で、俺は座学の成績でトップに立っていた。

 

「ただレースやトレーニングの事だけを考えてればいいってもんじゃねえ。相手はアスリートといっても、10代後半の……普通の女の子だ。それを忘れるなよ」

「はい! 肝に銘じておきます」

「……お前、まだ18か19だろ? 可愛げのねえ言葉を使うなあ」

「いえ、すいません……?」

「謝らんでいい。よし、じゃあアイツに会いに行くか」

「アイツ?」

「お前の担当ウマ娘だよ。会ってからのお楽しみってやつだ」

 

 清島が椅子から立ち上がってトレーニングコースに向かっていった。俺もその後に続いた。誰になるのだろうと予想しながら歩いていたが、全く見当がついていなかったことを覚えている。

 

 実は、サブトレーナーとしてトレーニングの手伝いをしたことはあるものの、俺はそれまでチームのウマ娘とはまともに接したことがなかったのだ。トレーナーになってから研修が予想以上に忙しく時間が取れなかったからである。もちろん名前と顔程度は知っているが、それだけだ。

 アルファーグは所属するウマ娘の人数も多く、サブトレーナーだって何人もいるトレセン学園屈指の大所帯だから……というのは、ただの言い訳。

 

 トレーニングコースに着くと、清島は先輩サブトレーナーの元へ行きそのウマ娘がどうしているか尋ねた。

 

「ああ、アイツですか? ちょっと前に、体調が悪くて倒れた別のチームのウマ娘がいて、それを見つけるや否やすぐに背負って保健室へ飛んで行ってしまいました」

「あのお人好し……相変わらずだな」

 

 そうして保健室へ行ったウマ娘を待つこと数十分。遠くから凛とした声が聞こえてきた。

 後から本人に聞いたところ、倒れたウマ娘の目が覚めるまで待っていたらしい。

 

「すいませーん! 保健室まで連き添いに行ってました!」

 

 ウマ娘が1人、黒い髪と尻尾を揺らしながらこちらに向かって走ってきている。

 

「おーい、こっち!」

 

 先輩サブトレーナーが彼女に向かって手招きをすると、方向を変えて清島と俺がいるところまでやってきた。乱れた息を整えてからすっと背筋を伸ばすと、彼女は俺たちに頭を下げた。

 

「勝手にトレーニング抜け出してごめんなさい! 倒れた子を見たら、考えるより先に体が動いてしまいまして……」

「それは別にいい。よく助けてやってくれた……誰でも出来ることじゃない」

「あ、ありがとうございます!」

 

 彼女は清島に勢いよくまた頭を下げた。

 

「今日はお前に話があるんだ。コイツのこと、当然知ってるな?」

 

 清島が横にいる俺を親指で指し示す。

 

「はい。サブトレーナーの坂川さんです。どうかしたんですか?」

「坂川、コイツが()()だ。ここから先はお前が言え」

 

 彼女は不思議そうに俺の顔を見つめていた。

 

(この娘が、俺の──)

 

 改めて彼女を見る。

 黒い髪に曲線を描く流星が一筋。

 天性のものを感じさせる優れた体躯。

 そしてこちらを見る大きな緋色の瞳。

 

 意を決して、俺は口を開いた。

 

「今日から俺がキミのトレーナーを担当することになった」

「え……どういうことですか?」

 

 彼女は話の意図を汲み取れていないようだった。説明不足が過ぎたと反省して、どう説明したものかと考えていると、清島が助け舟を出してくれた。

 

「お前はアルファーグのウマ娘のままだが、これからは坂川がお前のトレーニングを見たり、メニューを考えてくれる。どのレースを目指すかも2人で決めろ。まあ、実質専属のトレーナーみたいなもんだ」

「坂川さんが、私の専属のトレーナーさん……」

 

 彼女はきょとんとして、その視線を清島と俺との間で往復させていた。

 

 もしかして、彼女は嫌だったのだろうか。今年トレーナーになったばかりの新人ではなく、清島や経験豊富な他のサブトレーナーに見て欲しかったのではないだろうか。

 気がついてないだけで、これまでに俺はなにか嫌われるようなことをしてしまっていたのかもしれない。

 

 

 そんなことを考えていた俺の不安を、彼女の笑顔が吹き飛ばしてくれた────

 

 

()()()()()()()()! これから、よろしくお願いします!」

「え、あ、ああ。こちらこそ、よろしく……」

 

 真っ直ぐな彼女があまりにも眩しく見えて、たじろいでしまった。

 

「私、誰かに勇気や元気をあげられるウマ娘になりたいんです!!」

 

 唐突に語られた彼女の夢はあまりにも抽象的であったが、とても尊く感じられた。

 

「ああ、それを叶える手伝いを俺にさせてくれ。改めて……俺は坂川健幸、キミのトレーナーだ」

「キタサンブラックです! こちらこそ、これからずっと、この先どこまでも! よろしくお願いします!」

「よろしくな。キタサンブラック」

 

 

 それはきっと、どこにでもありふれている、新人トレーナーとウマ娘の出会い。

 

 ずっと彼女のトレーナーでいる──────それが叶わなかったなんて、この時の俺は知る由もない。




これから今話のように過去話をちょくちょく挟んでいく予定です。


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第17話 立ち塞がるモノ

「キタサンブラックは、元気ですか?」

 

 意を決してキタサンブラックのことを清島に尋ねた。彼女は今でもアルファーグに所属し、DTLの中長距離で大活躍している。

 

「アイツは相変わらずだ。今はWDTへ向けて追い込んでる最中でな。学園のウマ娘たちなら故障しちまうような強度のトレーニングを毎日消化してる。身体の強さは変わってねえよ。元気っちゃ、元気だな」

「そうですか……」

 

 キタサンブラックはトゥインクルシリーズの時から一日に坂路を3本こなしたりと、その身体の強さは光っていた。普通は衰えきる20代中盤になっても、一線級の成績を残している要因はそのハードトレーニングとそれに耐えうる強靭な身体によるものだろう。

 

 

 DTLは7月にあるサマードリームトロフィーことSDTと1月にあるウィンタードリームトロフィーことWDTの大レース2つで構成され、それぞれSMILE区分で5レース開催される。キタサンブラックは主にL(long、ロング:2101m~2700m)かE(extended、エクステンデッド:2701m以上)に参戦している。

 今年のWDT決勝は阪神レース場で行われる予定だ。

 

 DTLとは基本的にトゥインクルシリーズで大活躍したうえで全盛期を過ぎてしまったウマ娘が移籍するリーグだ。学年が被らずトゥインクルシリーズで相まみえなかったウマ娘たちの対決が実現する、その名の通り夢のレースでどちらかと言うとショー(見世物)の意味合いが強い。なので『ショーだから』と割り切って故障しない程度にそこそこに走るウマ娘が多いのだ。元々、トゥインクルシリーズでは命を賭しながら走って結果を残した彼女たちなのだから、走っている姿を見られるだけでもファンとしたら喜ぶべきことだろう。

 

 しかしながら一方で、トゥインクルシリーズと同じように本気で走り、DTLの優勝を目指し更なる研鑽を積んでより強くなるウマ娘もいる。キタサンブラックはまさにその1人だ。

 

「予選も圧勝でしたよね」

 

 決勝レースに出走するためにはいくつか予選を勝ち上がらければならない。

 今年のキタサンブラックは最終予選である準決勝レースで勝利し、WDTのエクステンデッド部門で決勝レースに駒を進めていることを俺は知っていた……知っていたというか、テレビでしっかりと見ていた。

 

「キタサンブラックはあの程度のメンツには負けねえよ。唯一メジロマックイーンが難敵だったが、終わってみれば3バ身差だ」

 

 チームシリウスの看板ウマ娘メジロマックイーンもDTLにて活躍しているウマ娘の一人だが、それも寄せ付けず逃げ切って3馬身差の圧勝。メジロマックイーンも衰えが見られるとはいえ、まだまだ健在という姿を見せつけていた。

 

「決勝はどうですか。今年は阪神の3200mですが……いや、聞くだけ野暮でしたね」

「アイツに距離、コース、馬場なんて関係ねえ。ちょっと今年の敵は強いけどな。なあに、アイツなら勝ってくれるさ」

 

 どんなレース、どんな相手でも勝ち切ってきたキタサンブラックへ清島からの絶大な信頼が伺えた。

 

 そこで会話が途切れ、お互い肴と酒を口に運んでいた。店内に流れる静かなピアノとパーカッションのBGMだけが間を流れている。清島とは10年来の師弟関係だ、無言の時間が続いても苦痛なことなんて一切ない。

 

 ……しかし、この無言の時間の中、俺の心の奥底から聞こえる声があった。

 

 

『キタサンブラックは今でも俺のことを恨んでいますか?』

 

 

 そんな情けない言葉が泡のように浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していたのだ。

 ずっと心の底に押し留めていた言葉なのに……アルコールが回って酔いすぎたのだろうか。

 

 しかし、それを訊く資格を俺は持っていない。手に入れることはもうできない。それを聞いて楽になることは許されない。

 

 それだけのことを、彼女にしてしまったのだ。

 

「…………」

「……今年のウチのジュニア級だがな」

「アルファーグの?」

 

 黙っている俺のことを察したのか分からないが、清島は話題を変えて話し始めた。

 ……いや、きっと清島は気付いている。そういうことには敏い人だ。伊達に長年トップトレーナーとして多くのウマ娘や業界人とか関わってきた人ではない。

 

「グラスワンダーがまず12月のGⅠをいただく予定だ」

 

 キングヘイローが模擬レースにて完敗した栗毛の怪物、グラスワンダーは何を隠そうアルファーグのウマ娘である。

 

「12月のGⅠ、どれに出るんですか?」

有望なジュニア級(キングヘイロー)がいる敵チームに教えると思うか?」

「敵チーム……」

 

 そう言われて俺はもうアルファーグと袂を分かった身だということを改めて認識する。改めて思い返してみると重賞に縁のなかった俺にとって、清島と対立するということがこれまで無かったのだ。

 

「なに呆けた顔してんだ」

「いえ、すんません」

 

 清島に言われて自分の表情に気付いた。清島と争える立場まで来られたことに驚いていたのだろうかと、心の中で自分に問いを投げた。

 

「グラスワンダー、いいウマ娘をスカウトされましたね」

「アイツはGⅠを複数取れる逸材だ。育成失敗は許されねえ。いいプレッシャーだ、心地いいぐらいにな」

 

 将来有望なウマ娘を担当するプレッシャーを心地いいと言えるトレーナーが清島以外にどれだけいるだろうか。そんなトレーナーはほとんどいないはずだ。

 

「それにもう1人、GⅠを狙えそうなウマ娘もいる」

「もう1人?」

「敵チームに情報を渡したくねえが、お前だから特別だ。エルコンドルパサーってウマ娘、聞いたことあるか?」

「今月のメイクデビューで勝ってましたよね。ダートのマイルでしたか」

「なんだ、知ってたか」

「アルファーグのウマ娘ですし知ってますよ。それに最後尾からごぼう抜きで2着に7バ身差でしょう? あんなパフォーマンスされたら、そりゃあ」

 

 清島のチームだけでなく、主要なトップチームのウマ娘の成績は大体追っている。まあ、マコの集めるデータにも世話になっているのだが。

 エルコンドルパサーは確か顔に覆面のようなものを被っているウマ娘だった気がする。俺が言った通り、メイクデビューのパフォーマンスはえげつなかった。

 

「海外生まれなのもあって、海外志向が強いウマ娘でな。ゆくゆくは海外挑戦しようと画策している」

「ダートで海外……ドバイかサウジ、もしかしてアメリカ(ブリーダーズカップ)ですか?」

「まだ分からん。芝適性も見てからだ。まあ楽しみにしとけ」

 

 

 清島との飲みはその後も国内外のレースの話やURA上層部の話などで弾み、気づかないうちに夜が更けていった。

 

 2人で店を出ると、空は微かに明るくなり始めていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 12月初旬の週末、午前のトレーニングが終了したあと、あるレースを見るために俺のチーム全員がトレーナー室に集まっていた。

 

「このスフレおいしいですねえ」

「お気に召したのなら何よりだわ。良かったらそのパティシエの店、教えるわよ?」

「あ、いいんですか? へ~こんなところにお店あるんですね……ってたっか! 高すぎませんか?」

「そうかしら? でも、良いものが高いのは当たり前でしょ」

「……これがお嬢ってやつですか」

 

 スマホを見ながらやいやい話しているキングヘイローとペティ、テレビを見ながら小さな口でもそもそと洋菓子を食べているカレンモエがテーブルを囲んで椅子に座っている。

 キングヘイローが持ってきた菓子がテーブルの上に所狭しと並んでいた。お洒落すぎて読めない英語のロゴが描かれたパッケージをいくつも持ってきていて、菓子に詳しくない俺でも高級洋菓子店のものだとみて分かる。 

 3人はメインまでのレースを見ながらお茶をしていた。所謂ヌン活というやつである。3人が飲んでいる紅茶の葉もまたキングヘイローが持ってきた高そうなものだった。しかも自前のティーセットまで持ってくるとは、キングヘイローは上流階級の子どもなのだとつくづく感じた。ティーカップを手に取る所作も流麗でさまになっている。

 

 オッサン禁制の華やかな女の子空間に入れない俺は、余計な糖分を取り過ぎるなよと3人に釘を刺したのちデスクで100均のマグカップに入った薄いインスタントコーヒーを啜っていた。

 そうしているとテレビから実況と解説の声が聞こえてきた。壁時計に目をやると時刻は午後3時20分を回っていた。

 

『中山レース場、雨は降っておりませんが、非常に(もや)って──』 

 

「そろそろ始まるぞー」

 

 俺の声に反応して3人とも耳がこちらへピコピコと動いたあと、黙ってテレビに向き直った。……こういうとき、ウマ娘は分かりやすくていい。

 

 それから間もなくGⅠのファンファーレと歓声が流れる。

 

『──レース場の照明に火が入っています。その中で行われます、朝日杯フューチュリティステークス。グラスワンダー一本かぶりのレースになりましたが、今日はどのようなレースを見せてくれるのか、我々も非常に楽しみです』

 

 “グラスワンダー”の名前が出た瞬間、キングヘイローの耳がきゅっと引き絞られるのを俺は見逃さなかった。尻尾はいつも滑らかに動いて感情が読み取れないキングヘイローだが、耳はそうでもなかった。

 

 テレビの中で枠入りが進み、あっという間に発走となった。

 

『ゲートは開いてスタートしました! グラスワンダーのスタートはまずまず──』

 

 そしてレースは進んでいく。

 

 

 

 

 

 レースは第4コーナーから直線へと差し掛かっていた。

 

『グラスワンダーが早くも4番手! 外目をついて、さあ! どこまで千切るんだグラスワンダー!!』

 

 実況の力強い声に反応するかのように、外に持ち出したグラスワンダーは直線で抜け出して1着でゴールした。

 模擬レースで見た時より走りが力強くなったように見える。まるでターフを穿つように叩きつける走りは圧巻そのものだった。シニア級でも通用するのではないかと思うようなレースっぷりだった。

 

『やっぱり強かったグラスワンダー! これが新しい栗毛の怪物です!』

 

 驚異的な走りで優勝し晴れてGⅠウマ娘となったグラスワンダーを実況と解説がその後も褒めちぎっていた。

 

「相手にとって不足は無いわね」

「グラスワンダーも強いですね。キングも三冠は大変そうです」

「強敵を倒してこそ一流のウマ娘よ。グラスさんがここまで強いのならそれを上回るだけね」

 

 キングヘイローはそう言って目を閉じてティーカップに口を付けた。

 ここまで無敗で勝ってきたことで余裕が出てきたのだろうか。何にせよ、精神的に余裕があることは良いことだ。

 

 そしてテレビに映った着順掲示板を見て、ペティは口にある菓子を飲み込んでから言った。

 

「んっ……2着マイネルラヴと2バ身半差ってこれ、キングの東スポ杯と全く同じじゃないですか」

 

 今のレースにはキングが前走で負かしたマイネルラヴも出ていたのだ。ペティの言う通り、グラスワンダーがつけた着差と全く同じだった。

 

「単純な比較にはならないでしょうけど、キングも負けてないってことですね」

「次対戦したときはグラスさんよりキングが明確に上だってことを証明してあげるわ! おーっほっほっほ!」

「グラスワンダーとの対戦を考えるより、まずは目先のレースに集中しろよ」

 

 キングヘイローは今月末に行われるGⅠ、阪神レース場2000mで行われるホープフルステークスに出走予定である。クラシックを見据えての距離延長、さらに初の阪神レース場とあって不安材料は多いことは確かだ。

 そして何にせよGⅠだ。甘い算段と不確かな実力で勝てるものではない。俺にだってGⅠ勝利は未知の領域だ。

 

 今はフォームやペース感覚の改善を試みながらも、疲労の蓄積を考えてトレーニング量を調節している。ホープフルに出れば3か月足らずで4走になってしまうので、主観的にも客観的にも体調や身体に変化がなくとも注意しておくに越したことはない。

 ウマ娘は故障をすればそれで全て終わりなのだ。

 

 

 

 レースが終わってお茶会兼レース観戦兼敵情視察がお開きになった。

 片付けが終わると、3人は一緒にトレーナー室を出ていった──と思ったら、ペティが数分後トレーナー室に戻ってきた。

 

「どうした? 忘れもんか?」

「あのー……一応言っておくべきかと思いまして。最近のモエさんのことなんですが……」

「……ああ」

 

 その名前を聞いてペティが何を言いたいのか、俺はすぐに気付いた。

 

「そのことは()()()()()()()よ。心配してくれてありがとうな」

「なんだあ、なら良かったです」

「なんか気付いたら、また言ってくれ」

「はい。じゃあ失礼します」

 

 そう言ってペティは再び去っていった。

 

 俺はカレンモエのGPSトラッカーの記録が入っているタブレットを取り出して、そのデータを確認した。カレンモエのデータは主にペティに整理、解析させていた。だからそれに気付いたのだろう。

 

「3週間ぐらい前から……だな」

 

 3週間前というと、ちょうどキングヘイローの東スポ杯あたりだ。そこから今日までカレンモエのトレーニング量が段々増加しているのだ。

 

「こんなこと、今まであんまり無かったんだがな」

 

 カレンモエは俺が指示したトレーニング量以上をこなしている。最近はウェイトに行っている時間も以前より長い。俺の担当ウマ娘になる前はまだしも、担当になってからはそんなことは無かったのだ。

 

「キングヘイローに感化されたか……? 分かんねえな」

 

 なぜこんなことになっているのか原因は分からない。トレーニング量としてはまだ許容範囲内なので今のところは放っておいているのが現状だ。モチベーションが上がっているのは悪い事ではないし、前走から間隔も開いている。それに出走予定の1月2週目のレースまで間もあるからだ。

 しかし、この傾向が続けばいずれは話を聞かなければならない。

 

「担当になる前もこんな感じだったな……」

 

 カレンモエが担当ウマ娘になる前、少しの間彼女のトレーニングを見ていた期間があった。あの時も、オーバーワーク気味であった彼女に苦労したのだ。

 

 マグカップを傾けてコーヒーを口に流し込んだ。

 

「……またカレンチャンがらみか?」

 

 すでに冷めきっていたコーヒーの苦さが口の中で広がっていた。




ホープフルSなどレース名は現在のものですが、レース場は当時の競馬場にしています。


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第18話 敗北と年末のトレセン学園

 冬場の地下バ道の空気が肌を刺すのを感じながら、コートの上からでも体温を奪うようなコンクリートの壁に背をつけて静かに待っていると、レースを終えたウマ娘たちの足音が次第に大きくなってきた。

 

 こちらにやってくるのは、今のレース……ホープフルステークスで敗北した13人のウマ娘たちだ。その中に翠の勝負服に身を包んだウマ娘もいた。

 

「……~~っ!」

 

 地下バ道の照明に当てられた彼女の顔は、いかにも悔しそうにしていた。

 

 顔を上げた彼女が俺に気付いた。彼女が近くまで来るのを待ってから声をかけた。

 

「おう」

「トレーナー……わざわざここまで迎えに来たの? ヒマな人ね」

 

 俺は壁から背を離し、悪態をつくキングヘイローの歩調に合わせてその隣を歩く。

 

「レースに勝つってのは簡単なことじゃねえ。GⅠなら尚更……なんてどうでもいい話は聞きたくなさそうだな」

「あなたの言いたいこと、言っていいわよ。今ならキングが特別にその権利をあげるわ」

 

 初めての敗北でセンチメンタルにでもなっているのかと思ったが、まだ余裕はあるようだ。泣きでもしようものなら慰めてやろうと思ったがその必要はないらしい。

 

「お前も分かってるだろうが、敗因は最後の直線にある」

「ええ……そうね」

 

 内の方で第4コーナーを回ってきたキングヘイローは最後の直線にて前のウマ娘を交わすために最内へ進路を取った。しかし、キングヘイローが最内へ潜り込む直前に、その前を走っていたウマ娘が内へ斜行し進路が防がれたのだ。キングヘイローはブレーキをかけ慌てて外から抜き返すもスピードに乗り切れず、更にその外からスムーズに追い込んできたロードアックスに最後は差されてしまった。

 

 レース結果は1と1/4バ身差の2着。初のGⅠホープフルステークスはなんともほろ苦く、悔しい結末となった。

 

「勝負を急ぎ過ぎたな。前のモーリサバイバルが追い出す前に内へ仕掛けてしまったお前の判断ミスだ。外へ進路をとるか、後ろのロードアックスに合わせて追い出すべきだった。それに尽きる」

「……」

 

 トレーナーらしいことを俺は言っているが、今のはトレーナーでなくたって誰がレースを見ても分かるようなことだ。実際に走っていたキングヘイローなら言わずとも理解していることだろう。

 

 なぜそんな当たり前のことを言うのかというと、それ以外特に問題点は無かったからなのだ。客観的に見て、キングへイローのレース運び自体は悪くなかった。

 

「キングヘイロー」

「……なにかしら?」

「今日のレース、良かったぞ」

「? あなた、もしかして褒めてるの?」

「ああ。あのイン突きは限りなく正解に近かった」

 

 問題の最後の直線だが、3番人気モーリサバイバルの実力を過小評価してなかったからこそ、キングヘイローは早めに追い出したのだ。前で止まらない可能性を考えると、その判断は間違っていなかった。ただ、結果的には間違っていたというだけ。

 最内の選択についても、トレーニング後のレース勉強会でイン突きを取り上げたこともあったのでそれから発想を得たのだろう。

 それと最後の直線まで周りにウマ娘がいる状況でフォームを大崩れさせることなく、我慢して走れていた。

 

 それを言葉にして伝えてやる。

 

「モーリサバイバルがもし斜行してなかったら、あのまま最内で伸びてお前が1着だった可能性も十分にあった。それに道中は内の方でウマ娘に囲まれてたが、よく我慢して走れたな。フォームの崩れも小さかった」

 

 レース中の判断と安定してきたフォーム……着実にトレーニングが身になっている。キングヘイローは確かに成長している。

 

「ふんっ! 慰めてくれているところ悪いのだけれど、負けた私には何も響かないわ」

「慰めてなんかねえよ。ただ事実を言ってるだけだ。今日はお前の日じゃなかった……そんだけだよ」

 

 事実を踏まえたうえで褒めるべきところは褒める。反省すべきところは反省する。忖度したって仕方がないのだ。

 

 キングヘイローは変わらず歯噛みして悔しそうにしている。この様子を見ていると、負けてしまったがその闘志に陰りはないようだ。

 

「まだ最初のGⅠが終わっただけよ! 次のGⅠこそは……皐月賞こそは……!」

「それでいい。帰ったら反省会だ。勝てたかもしれないポイントが他にもあるかもしれねえ。走りの細かいところもチェックするぞ」

「ええ! いくらでもやってやるわ!」

「言っといてなんだが、その前にウイニングライブ頑張ってこいよ」

「誰に向かって言っているのかしら? 完璧に仕上げてるからよく見ておきなさい!」

 

 俺とキングヘイローは前だけを見据えて、地下バ道をあとにした。

 

 ちなみに、キングヘイローのウイニングライブのダンスはキレッキレだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 年内最後のGⅠホープフルステークスを終えて大晦日をむかえたトレセン学園。キングヘイローは実家に帰らず学園に残りトレーニングに努めていた。

 

 実質的な冬休みになったので、学園内の人気(ひとけ)も減るかと思ったが意外とそうでもなかった。年始すぐにも開催されるレースのため大晦日から正月も学園に残っているウマ娘はそれなりにいた。

 同じチームのカレンモエも1月2週目のレースに出るにあたって学園に残っていた。もちろん坂川も学園に残っている。ペティはいないが、元旦の午後……つまり明日には戻ってくるらしい。彼女曰く「正月はお客さんが多くて嫌になる」とのこと。彼女の家庭については全然知らないが、私と同じくそれぞれ事情があるのだろう。

 私もスケジュール的には実家に帰ることもできたのだが、このトレセン学園に入ってからは実家に帰らないと決めていた。結果を残すその日まで母に会うことはできない。母に会ったってまた何かを言われるだけだ。ホープフルのあと母から電話がかかってきたが取らずに切っていた。

 

 私はウェイトトレーニングを終え、トレーナー室に戻ってきていた。次の弥生賞まで時間があるので、今は基礎的な筋力やスタミナ強化を目的にトレーニングが組まれている。坂川に提示されたメニューを今日も完ぺきにこなしてきた。

 

「ウェイト終わったわよ」

「お疲れさん。あとはストレッチしたら上がっていいぞ。筋トレの後だからストレッチも軽くな」

「分かったわ」

「……あ、おいキングヘイロー」

 

 そう言われてトレーナー室を出ていこうとしたら坂川に呼び止められた。

 

「なに? ……と言うか前々から思っていたのだけれど、キングヘイロー呼びよねあなた」

「あ? なんか問題あんのか?」

「キング、でいいわよ。煩わしいでしょ?」

「分かったよ。キングだな。それでだ、モエはまだウェイト室にいたか?」

 

 訊いてきたのはカレンモエのことだった。私がウェイト室に着いたときには既にウェイトトレに取り組んでいたのに、出てくる時もまだトレーニングに励んでいた。

 

「ええ。私が出る時にもまだトレーニング中だったわ」

「……そうか。分かった」

 

 坂川は椅子に座ったまま腕を組んで何か思案する様子だった。

 

「何か伝言でもあるなら伝えに行ってあげてもいいわよ?」

「いや、別にいい」

「そう? ならいいけ──」

 

 ~~♪♪ ~~♪♪ ~~♪♪ ……

 

 私の声を遮るように鳴り始めた音は、自分のポケットから聞こえてきた。

 ……誰だろうか。多分母親ではないだろうかと考えながら恐る恐るスマホを取り出し画面を見ると、

 

 [スタティスティクスペティ]

 

 と表示されていた。どこか安堵するとともにペティから電話をかけてくるなんて珍しいと思いながら電話に出た。

 

「ペティさん?」

『キング~助けてくださいよ~』

「……いったいどうしたの」

 

 助けを求めるペティの声に切羽詰まった声色など一切なく、めんどくさくて泣きつくような様子だった。例えるなら、クラスメイトに課題を写させて欲しいと頼み込むような雰囲気だった。

 

『父さんの知り合いのヒトやらウマ娘がいっぱい挨拶に来てて~。今日まだ大晦日なのにですよ。はあ、私も早く学園に戻りたいです。早く明日にならないですかね』

 

 どうやらただ愚痴を聞かせるために電話をかけてきたらしい。仕方ない、話だけでも聞いてあげよう。

 

「そういう付き合いは大事よ。億劫でも人とのつながりは大切になさい」

『そんなこと言ったって~。こちとら課題もあるのに~……なんでわたしがお茶出す手伝いしなきゃならないんですかね……もう、父さんめ……』

「あなたのお父上、人脈が広い方なのね。なんのお仕事をされているの?」

『父さんですか? キングには別に言ってもいいですけど……今どこにいます? まさかトレーナー室じゃありませんよね?』

 

「俺に聞かれて困ることでもあんのかペティ?」

 

 そこで坂川が口を挟んできた。スピーカーを通して話しているので、もちろん今の会話は全て坂川に筒抜けであった。

 

『その声はトレーナーさん!? ちょっとキング、早く言ってくださいよ!』

「早くも何も、一言も言うタイミング無かったでしょう」

「スタッフ研修のウマ娘の親と面談することはないが、そこまで言うならお前の父親の正体が気になるな。どっかの社長とか……もしかして、URAの偉いさんじゃねえだろうな?」

『……ふふっ、秘密ですっ☆』

「「…………」」

 

 これまで聞いたことのないような甘い声でぶりっ子を演じるペティに私と坂川は言葉を失ってしまっていた。

 

『まあまあ、父さんのことはいいじゃないですか……それよりトレーナーさん』

「なんだ?」

『前に何回か言いましたけど、明日のWDT、トレーナー室のテレビで見てもいいですか? 寮の談話室はたぶん騒がしくなるから、トレーナー室でゆっくり見たいんですよ』

 

 WDTとはウインタードリームトロフィーのことだ。明日の……毎年元旦の午後に決勝レースが行われる。

 そういえば確かに以前ペティが坂川にそのようなことを言っていた記憶がある。

 

 ペティの言葉を聞いて、坂川は頭の後ろに手を組んで目を瞑って何かを考え込むようにしていた。数秒間の空白の後、その体勢のまま彼は口を開いた。

 

「……別に、いいが」

『やった! じゃあ明日行きますね! それじゃ! トレーナーさんもキングも良いお年を!』

 

 その言葉を残して通話は切断された。騒がしかったスマホを一目見てからポケットにしまった。

 

 それから訪れたトレーナー室の静寂を破ったのは坂川だった。

 

「ペティの家の話で思い出したんだが、親のアドレス結局教えてくれねえのか?」

 

 親のアドレスを教えろ──どうやら坂川は月に一回、担当ウマ娘の様子や状況を親にメールで報告しているらしい。そのためにこれまで何度か坂川に同じことを催促されていた。

 しかし、私にそれは必要ない。送るのなら母親のアドレスだが、レースに反対している母親にわざわざ報告する義務なんてないし、そもそもメールに目を通すかも分からないのだ。

 

「前にも言ったでしょ? その必要はないわ」

「つってもなあ、一応トレーナーとしての俺のポリシ―なんだが。お子さんを預かるトレーナーとして最低限の──」

「何度も言わせないで」

「……分かったよ」

 

 有無を言わせない私に引き下がった坂川。……考えてみると、私が坂川に言うことを聞かせるなんて、これまで中々無かったことかもしれない。

 おずおずと引き下がる彼を見るのは、なんだか少し気分がいい。

 

「じゃあストレッチに行って上がるわ。良いお年を、トレーナー」

「ああ」

 

 そうして今度こそ私はトレーナー室を去った。

 

 

 ジュニア級は今日で終わり、明日から私もいよいよクラシック級だ。本格的に始まるトゥインクルシリーズを前に、私は歩を進めた。

 

 ◇

 

「と言っても、これは俺のポリシーだからな。そう簡単には譲れねえんだ。悪いなキング」

 

 誰もいなくなったトレーナー室で、PCに保存してある今月のキングヘイローに関する報告書のファイルを開きながら俺はそう独り言ちた。

 確かにキングヘイローの母親のメールアドレスは知らない。だが、やりようはいくらでもあるのだ。

 

 インターネットブラウザを起動し、そこのブックマークから目当てのサイトを開いた。

 何を隠そう、グッバイヘイローが代表を務めている勝負服制作会社のサイトだ。

 

「えーっと、あったあった」

 

 そこのお問い合わせフォームを開くと、テキストの記入欄が現れた。そこに報告書をコピペして送信した。

 実はキングヘイローを担当してから毎月、ここに報告書を送っていたのだ。

 

「まあ、見てるかは分からんが、送らねえよりマシだろ」

 

 これは会社が運営しているサイトなので問合せを確認する社員がスパムか悪戯メールだと弾く可能性が高い。しかし、グッバイヘイローが見る可能性だって無いわけではない。以前の模擬レースの情報まで手に入れていたあの女のことだ。娘の動向を気にしている可能性は十二分にある。苦肉の策であることに変わりはないので本当はアドレスが欲しいのだが娘があの様子では難しいだろう。

 一応俺やキングの名前などは明記しないようにはしている。書いてあるのは本人の状態やおおまかなトレーニングメニューや方針なので悪用はされないだろうが、リスクのある行為には違いないので一応そうしておいた。

 

 送信できたことを確認しブラウザを閉じると同時に、トレーナー室の引き戸が開く音がした。

 姿を現したのは汗にまみれたカレンモエだった。

 

「……お疲れさん」

「うん」

「軽くストレッチして上がっていいぞ」

「分かった。じゃあね、トレーナーさん」

「ああ、良いお年を」

「……良いお年を」

 

 そうして踵を返してカレンモエはあっという間にトレーナー室を出ていった。

 

「明らかにオーバーワークだな……こりゃ年明けすぐに調整だな」

 

 ウェイト室にいる時間や今の疲労度からして、そのことは目に見えて明らかだった。カレンモエのレースは1月2週目の2勝クラス、乙訓特別へ向けてトレーニング量を調節しなければならない時期にきている。今日のウェイトだって、負荷を軽くして量自体も少なく指示していた。

 担当する前は別として、担当してから今まで俺の言うことには従順だったのだが、ここにきて彼女に何か変化が生じている。

 

「明日から新年か……」

 

 明日。

 元旦。

 キングヘイローがクラシック級へ。

 カレンモエがシニア級へ。

 

 そしてWDT──キタサンブラックが出てくる。

 

「…………」

 

 さまざなことに思いを馳せながら、PCの電源を落とした。




ジュニア級完了です…(達成感)


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追憶2 過ぎゆく日々

 キタサンブラックを担当するようになってからおおよそ3ヶ月経過して、季節は秋を迎えていた。

 

 トレーニングコースにてキタサンブラックを待っていると、こちらにやってくる人影があった。チーフトレーナーである清島だった。

 

「お疲れ様です、先生」

「おう。どうだ、調子は」

 

 ここでいう調子とはもちろん俺の事ではなく、キタサンブラックについてだろう。

 

「キタサンブラックの体調や状態には問題ありません。故障もなく順調そのものです。ただ……」

「ただ、なんだ?」

「俺が担当してからさらに身長が伸びたようで、それに筋肉系が追いついていません。夏合宿での筋力強化は予定通りうまくいったのですが……」

「筋肉の強化より骨格系の成長が勝っているってことだな?」

「はい」

 

 清島に言った通り、筋肉系が体に追いつかないほどにキタサンブラックの身体の成長は著しかった。

 

「ってことはだ、メイクデビューはどう考えてんだ。そろそろデビューだって先月あたりにキタサンブラックが言って喜んでたって聞いたぞ」

「メイクデビュー……」

 

 目下、俺の悩みどころはそれだ。夏合宿の前は今月……9月か10月あたりにデビューしようと彼女に話していた。仮に何も問題がないのなら、その予定でいたのだが──

 

「今のお前の考えでいいから聞かせてくれ」

「タイムや同期のウマ娘との模擬レースの結果から、今月や来月にデビューしても勝てる可能性は高いと考えています。しかし、骨格系の成長に伴いフォームの変化が予測されますし、こんなアンバランスな状態では故障するリスクを否定できません。正直、もう少し時間が欲しいです。なのでメイクデビューはもう少しあと……12月か、年明け1月ぐらいを考えています」

「それ、キタサンブラックには話したのか?」

 

 ……痛いところを突かれた。

 

「いえ、まだ話していません」

「そういうことは早く話しとけよ。メイクデビューってのは全てのウマ娘にとって特別なもんだ。前にも言ったが、あれだけの身体能力をしたウマ娘も中身はただの女の子だ。トレーナーとウマ娘に限らねえが、信頼できる関係を築くことは何より大事だからな。言うべきことは迅速に、隠し事は一切なし、だ」

「……分かりました」

「何度も言ってるが、キタサンブラックはお前に全て任せる。しっかり2人で話し合え」

「……はいっ」

「おう。じゃあ今日も頼むぞ」

 

 清島はそう言ってその場を離れていった。

 

「話し合え、か」

 

 その場に1人で残った俺はそう独り言を言った。

 以前メイクデビューの話をしたとき、キタサンブラックは飛び跳ねる様に喜んでいたのを覚えている。その彼女に水を差してしまうことに申し訳なさを感じながらも、清島に言われた通り話をしないといけないと感じていた。

 

 今日の練習メニューを確認しようとファイルを開いて目を通しているところに、またしても俺に話しかける声があった。

 

「よう!」

「先輩。お疲れ様です」

 

 話しかけてきたのはアルファーグの先輩サブトレーナーだった。このチームでは古株のサブトレーナーだ。この先輩は俺がキタサンブラックの担当が決まった時にその場にいた人でもある。年齢は聞いたことがないが、見た目からしてアラフォーといったところだろうか、渋い髭を生やした細身の男性だった。

 先輩は生理学や薬学についてかなりの見識を持っている。トレーナーの職に就きながら大学に通い、その分野の博士課程もクリアしたという間違いなく優秀な人物だ。

 

「さっきの話、聞こえてたぞ」

「ああ、いやお恥ずかしいです」

 

 照れ隠しに後頭部へ手をやった俺に、先輩は笑顔で返してくれた。

 

「まだまだお前は1年目だぞ。これから色々学んでいきゃいいさ」

「はい。ありがとうございます」

「さっきの話だけどな、チーフの言った通り、ウマ娘には何でも包み欠かさず話した方がいいぞ。これは俺の経験談でもある」

「先輩も、昔何かあったんですか」

「そりゃあもう、両手足の指じゃ数えられないほどあるさ!」

 

 それはさすがに多すぎではないだろうか、と心の中でツッコミを入れた。

 

「俺の失敗談は聞きたかったらいくらでも言ってやるが、それで分かったのはウマ娘の信用を失えば二度と戻らないってことだ」

「二度と、ですか……」

「一度でもやらかしたら、亀裂は埋められないまま終わることがほとんどだったよ。だってウマ娘たちは基本的に3年しか学園にいないんだからな。それにトレーナーを変える権利だって持っている。まだ10代のお前に言っても分からんかもしれねえが、時間が過ぎるのは滅茶苦茶早えぞ。1年、2年なんてあっという間だ」

「そうですか……」

「ま、今回みたいな話ならまだ伝えやすいし気楽に行け気楽に。キタサンブラックは気のいいウマ娘だからな、お前の言うことなら分かってくれるさ」

「……分かりました!」

「頑張れよ~。ほらっ! これやるよ」

 

 先輩はズボンのポケットから取り出した何かを俺に投げつけてきた。反射的にそれをキャッチすると、俺の手のひらには包装された2錠の白い錠剤があった。

 

「何ですかこれ?」

「ただのビタミン剤だよ。成分的に不安やストレスに効果あるかもってな~。あ、いらねえなら捨ててくれていいぞ」

「いえ、ありがとうございます」

「そうか? じゃあな、坂川」

 

 餞別にビタミン剤を渡してくるなんて変わった人だと思いつつ、色んな人に気にかけてもらっているこの現状に改めて感謝しながら、今日俺はキタサンブラックにメイクデビューについて伝えようと決心した。

 

 ベンチに座ってカバンからあるノートを取り出した。

 そのノートはキタサンブラックを担当し始めてから作ったノートで、キタサンブラックについてその日のトレーニング内容と評価から些細な普段の様子、加えて俺が思ったり考えたりしたこと、そして今みたいに指導されたことなどが書き連ねてある。

 もう何冊目か分からなくなったそのノートへ先生と先輩のアドバイスを記入しながら、彼女が来るのを待った。

 

 ◇

 

「トレーナーさん! 今日もトレーニング、よろしくお願いします!」

 

 それから間もなくしてトレーニングコースに姿を現したキタサンブラックは、いつものように俺に頭を下げて挨拶した。

 

「キタサン、メイクデビューのことなんだけどな」

「メイクデビュー!? ~~~~っ! やっと、やっとですね! あたしの想いをみんなに届けて笑顔に……。いつになるんですか!?」

 

 キタサンブラックは両の拳を握りながら目を輝かせて俺にそう訊いてきた。

 その様子に一瞬身が引けたが、俺は覚悟を決めて口を開いた。

 

「そのデビューなんだが、先延ばしにすることにした。早くてもデビューは12月以降だ」

「──へ?」

 

 俺の言葉を聞いて、表情が固まるキタサンブラック。

 当たり前だ。清島が言ったとおり、トゥインクルシリーズにデビューすることは全てのウマ娘にとって特別なことだ。トレセン学園の入学式よりも栄誉ある日とまで言われることもある。

 それを分析不足のまま無責任に伝えた俺が悪いのだ。

 

「ど、どうしてですか? だってトレーナーさん、合宿の時にこの調子なら10月にはデビューできるって……」

「すまない。説明させてくれないか」

「はい……」

 

 キタサンブラックはすっかり意気消沈して、耳も尻尾も垂れてしまっていた。

 ここは誠心誠意、あるがままを話すしかない。

 

「夏合宿の始まる前と終わった後にさ、施設に行って筋力測定したの覚えてるだろ」

「はい……」

 

 夏合宿の前後において、俺は外部のスポーツ研究施設に話をつけて、専門的な機器を使ってキタサンブラックの筋力測定をしていた。

 

「でもそのとき筋肉はついたって、トレーナーさんが──」

「俺が言った通り、筋力は強化できていたんだ。目標値も達成してた。合宿のトレーニング、頑張ったな」

「なら、なんで」

「……お前、身長伸びたよな。縦に伸びるだけじゃない……肩幅とかも広くなったんだ、この数か月で。最近、服が小さく感じたことはないか?」

「う……確かに、そうですけど」

 

 キタサンブラックはジャージの裾を下に引っ張った。自分で今言って気付いたが、丈が以前よりも短くなっているような気がする。

 

「あのあと、その施設の運動器専門のドクターに相談して、今のお前の体格にはまだ筋肉量が不足してるって結論になったんだ。骨格の成長に伴ってフォームを作り直す必要があるかもしれないし、それにこの状態で全力でレースを走ったらどうしても故障のリスクが付きまとうんだ。フォームの見極めと修正にも時間を使いたいし、出来るだけ故障のリスクは低くしたい。お前の頑張りが足りないとか、今のままじゃレースに勝てないって訳じゃないことは分かっていて欲しい」

「……」

 

 眉を下げて、俯いたキタサンブラックはそれで黙りこくってしまった。

 

 彼女との間に沈黙の時間が流れる。永遠にも思えるその間、どんなことを言われるか俺は想い巡らしていた。

『嘘つき』『無責任』『新人トレーナーなんて信用できない』『トレーナーを変えてデビューします』────考えれば考えるほど、想像は悪い方へと向かっていた。

 現状デビューして勝てる実力があるのに、それを延ばせと言っているのだ。まず勝ち上がることが重要なトゥインクルシリーズ、デビューを遅らせることはそれだけ未勝利戦に挑める回数が減るということだ。退学になったら元も子もない。

 

 それにデビューが遅いと、レース後の状態によっては全てのウマ娘の憧れであるクラシック路線かティアラ路線に間に合わない可能性だって高くなる。キタサンブラックが落胆するのも無理はない。

 

「トレーナーさん」

「……ん」

 

 心の中で身構えて、彼女の言葉を待つ。

 

「デビュー、したかったです。ダイヤちゃんにも、友達にも、父さんにも、お弟子さんたちにも……みんなに来月までにはデビューするからって既に言っちゃってたんです」

「……すまない」

 

 俺は彼女に頭を下げ、そのままの姿勢で次に彼女が口を開くのを待った。

 

「トレーナーさん……」

「……」

 

 その後に続く言葉に俺は見当もつかない。

 そして顔を上げた彼女が言ったのは──

 

 

「すみませんでしたっ!!!」

 

 

「……んん?」

 

 キタサンブラックの口から飛び出てきたのは、予想だにしないことだった。

 

 なぜ彼女は謝っているんだ? 

 彼女の言葉に脳内が翻弄されている状態で頭を上げると、真剣な彼女の顔がそこにあった。

 

「なんで謝るんだ?」

「なんでって……なんでですか?」

「ええ……?」

 

 致命的に話がかみ合っていない。

 埒が明かないので彼女の話を聞くと、デビューできなかったのは自分のせいだと言い出したのだ。

 

「トレーナーさんは夏合宿頑張ったって言ってくれましたけど、あたしの努力が足りなかったんです!」

「いや、俺の見通しが甘かったからお前をぬか喜びさせたんだ」

「違います! あたしがもっとトレーニングして筋肉をつけてれば、トレーナーさんの予定通りデビューできていたはずです!」

 

 俺の分析が足りていないのに、デビューの時期に関して彼女に伝えてしまった無責任な俺の言動が全ての元凶だ。彼女に落ち度なんて一切ない。

 俺はそれについて謝っているのだ。

 

 無責任な言動を謝っている俺と、自身の実力不足を謝っているキタサンブラック、両者がかみ合うはずもない。

 

「まだまだ下積みしないとですね……」

「いやいや、お前は十分すぎるほど頑張ってたんだって! ……聞いてるか?」

「こうしちゃいられない! トレーナーさんっ、あたし外周走ってきます!」

「おい、ちょっと──」

 

 方向転換して駆けだしたキタサンブラックの背中があっという間に小さくなる。

 

「昨日と同じメニューでいいからなー! 無理はすんなよー!」

 

「はーーいっ!」

 

 遠ざかるキタサンブラックからの声を聞いた俺は息をひとつついて、その背中を見送った。

 

 

 

 

 そのわだかまりは小さなものであったが、それが解けたキタサンブラックと俺。

 

 

 文字通り二人三脚の俺と彼女との日々はこうして過ぎていった。



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第19話/追憶3 それぞれの……

途中で回想入るのでこんなサブタイトルになりました。
冒頭の時系列は現在です。


『さあ最後の直線っ! 先頭はキタサンブラック! キタサンブラックですっ!』

 

 元旦夕方のトレーナー室、俺のチーム4人が見ているテレビでは、今年のWDT最終レースとなった阪神3200mのレースが大詰めを迎えていた。

 阪神レース場の内回りを回ってきたDTLの精鋭ウマ娘たちが最後の直線へ向いた。4コーナーで逃げウマ娘を擦り潰し、番手から先頭に立ったのはキタサンブラック。

 

『キタサンブラックが3バ身リード! それを追って外からビワハヤヒデとナリタブライアンが差を詰める! その後ろ故障明けのライスシャワーは伸びがないか! メジロマックイーンも少し苦しいッ!』

 

 内ラチ沿いに走りリードを広げるキタサンブラック。後続のウマ娘たち全員がそれを捉えようと追い込んできている。現在2番手のビワハヤヒデとナリタブライアンが競うようにキタサンブラックのすぐ外からその末脚で迫っていた。

 

「うおお、熱い、熱いです!」

「すごい気迫ね……」

 

 眼鏡の奥の黒い瞳を輝かせているペティと、固唾を飲んでレースの行方を見守るキングヘイロー。

 

 レースは残り200mを切っていた。キタサンブラックは2番手集団のビワハヤヒデとナリタブライアンから2バ身のリードを保っている。キタサンブラックは黒い髪を振り乱しながら必死に走り、押し切り態勢に入っていた。

 

『キタサンブラックリードは1バ身半! 差は縮まるが粘る粘るキタサンブラック! 抜かせない、抜かせないぞキタサンブラック!』

 

 最後の直線の攻防を見ていると、デスクの下で握られた拳に思わずぐっと力が入った。

 キタサンブラックの逃げや先行から粘りこむスタイルはいつものことであるものの、やはり見ている方からするとハラハラするものだ。

 しかし、その勝負根性で抜かせないこともよく知っている。

 

『これが王者の走りだっ!! 今、キタサンブラックがゴールインッ!』

 

 キタサンブラックが1バ身リードしたままゴールラインを駆けていった。

 

『頂点に立ったのはキタサンブラックです! SDTに続きエクステンデッド部門連覇! 2着争いビワハヤヒデとナリタブライアンは写真判定です!』

 

 テレビではゴールして息を整えたキタサンブラックが大歓声のスタンドへ笑顔で手を振っている。トゥインクルシリーズ時代のあどけなさの残る少女から立派な大人の女性となった彼女は柔らかく微笑んでいた。

 しかしながら、その笑顔はあの頃と全く変わっていなかった。

 

 

「……ふぅ……」

 

 キタサンブラックが勝利したことと無事に走り切ってくれたことに安心した俺は小さく安堵のため息をついた。

 

「キタサンブラック、長距離ならまさに敵なしですねえ」

 

 ペティがしみじみと感心するようにそう言った。

 

「王者の走り、ね……確かに凄みを感じる走りだったわ」

 

 キングヘイローはゴールする瞬間の実況の言葉を噛みしめていた。

 

「…………」

 

 カレンモエは黙ってテレビの画面をじっと見ていた。

 

 三者三様の反応を見せた3人は余韻に浸りながら今日のWDTについて話し始めた。

 

 

 

 会話も段々と落ち着いてきて、もうすぐ解散かと考えながらその様子を静かに眺めていると、ペティが何か閃いたように急にこちらを向いた。

 

「トレーナーさん、この後ヒマですか?」

「ああ? 何かあんのか?」

「せっかく元旦にチームが勢揃いしてるんですから、このあとみんなで初詣に行きましょうよ!」

「初詣か……まあ、いいぞ」

「やった!」

 

 今日はキングヘイローとカレンモエも午前中にメニューを終えている。俺はこの後学術雑誌(ジャーナル)を読むか、カレンモエが出走する乙訓特別に出そうなウマ娘でも調べる予定だったが、特に急ぎの仕事でもなかったのでペティの提案を受け入れた。

 

「キングもいいでしょう? トレセン学園の近くのあの神社、行きましょうよ」

「私は構わないけど、混雑しているところは嫌よ。キングに人混みはふさわしくないわ」

「なんとワガママな……あの神社は混んでるんですよねえ。どうしますか」

 

 ペティの言う通り、その神社は毎年のように混んでいる。その神社がウマ娘ゆかりの神社なこともあって、トレセン学園の関係者やウマ娘が参りに行っているのだ。

 うんうんと悩んでいるペティに助け舟を出してやった。

 

「トレセン学園から離れるが、ウマ娘ゆかりの小さい神社があるぞ。あそこなら有名じゃねえから人もいねえだろ」

「そこ、電車とかバスで行けるとこです?」

「近くに電車とバスは通ってねえな……しゃあねえ、車出してやるよ」

「ほんとですか? 太っ腹ですねえトレーナーさん。モエさんも行きますよね?」

 

 ペティに話を振られたカレンモエは伏し目がちに視線を下に向けたあと、それに返答した。

 

「……モエはいいや。3人で行ってきて」

「え、何か予定あるんですか?」

「うん……モエ、もう行くね」

 

 カレンモエはそう言うと立ち上がってトレーナー室出入り口へ向かっていった。

 ……俺の予想なら、多分()()()()()()なのだろうと思う。彼女が引き戸に手をかけようとした瞬間に、俺は彼女の背に声をかけた。

 

「モエ、テジタルブラは着けとけよ。記録用のタブレットも持っていけ」

「……! …………うん」

 

 カレンモエはこちらに背を向けたまま振り返らずに返事をして、棚に置いてあったタブレットを手にした。

 

「無理だけはすんな」

「分かってるよ……」

 

 カレンモエは引き戸を静かに開けてトレーナー室から出ていった。

 

 カレンモエが返事をしたことで彼女の動向は確定した。彼女はこのあと自主トレに向かうつもりなのだ。

 引き止めるべきか迷ったのが正直なところだった。もし俺の声に反応せず、デジタルブラを着けないというのなら強引にでも引き止めていたと思う。

 しかし、彼女は俺の言葉に返事をした。ここは彼女を信じるとしよう。

 

 もしこれでもオーバーワークになってしまうなら──

 

「…………」

 

 そうなったなら、相応の対応をしないといけない。まあ、どっちにしろ明日から調整だ。

 

 

 宙を見ながらそう考えていると、気づけばキングヘイローとペティがこちらを見ていた。ペティは勿論だが、今の会話を聞いた以上、キングヘイローもカレンモエの現状についてある程度は察しているだろう。

 これからどうするのか、2人はそんな声が聞こえてきそうな顔をしていた。

 

「モエ自身に任せる」

「それでいいの? 初詣もいいけれど、あなたはモエさんといるべきじゃない?」

 

 確かにキングヘイローの言ったそれは御尤(ごもっと)もだ。だが今日はカレンモエ本人に任せたのだ。これで俺が残ったのではカレンモエを信頼してないと言っているようなものだ。

 

「心配してないって言うと嘘にはなるが……俺はモエを信じる」

「……モエさんのこと、信用してるのね」

「まあ、もう1年以上の付き合いになるしな。……ほれ、車持ってくるから校門前に集合な。戸締りするから出ろ」

 

 俺はそう言ってキングヘイローとペティと共にトレーナー室を出て、そこで2人と別れた。俺は車のキーを取りにトレーナー寮の自室へ向かった。

 

 ◇

 

 坂川と別れたわたしはキングヘイローと共に外套を取りに寮へ向かっていた。

 

「モエさん、大丈夫かしら……やっぱり、心配だわ。ねえペティさんも──」

「…………」

「ペティさん?」

 

 キングヘイローが何かを言っているが、その内容が頭に入ってきていない。わたしは下を向きながら、先程のことを思い返していたからだ。

 

「ペティさん、どうかしたの?」

「……あ、いや、何でもないですよ。すいません、何ですか?」

「モエさんのことよ」

「トレーナーさんがああ言ってるんだからわたしたちも信じましょうよ。大丈夫ですよ、きっと」

「そうだといいのだけれど……」

 

 キングヘイローが頬に手をやりながら憂うようにそう言った。

 カレンモエとカレンモエを心配するキングヘイローには申し訳ないのだが、今のわたしは別のことで頭がいっぱいになっていた。

 

「…………」

「……さっきから様子が変よ。どうかしたの? 体調が悪いのなら無理に──」

「いえ、体調が悪いわけではないんです。ただ、少し考え事ですよ」

 

 思い返しているのは先程の──WDTでキタサンブラックが走っているときの坂川の反応のこと。他のWDTの4レースでは見せなかったその表情と様子をわたしは覚えている。

 キタサンブラックのレース中から彼は緊張でもしているかのように強張った表情をしていた。それにゴールした時、彼は確かに小さく息を吐いた。まるで、緊張感から解放されて安心したとでも言うかのように。

 

 わたしは彼のそれを見逃さなかったのだ。と言うか、見逃さないようにしていた。()()()()()()()()()()()()()()()W()D()T()()()()()()のだ。

 

「やっぱり……でも」

 

 不意に出てしまった言葉に、キングヘイローがますます怪訝そうな顔をする。

 

「何がやっぱりなの? でも?」

 

 流石にここまで来てしまうとキングヘイローも訝しんでくる。そろそろ頭も話題も切り替えないといけない。

 

「あー、ごめんなさい。キング、本当に何でもないんです」

「……何でも相談に乗るわよ? 悩みがあるなら誰かに話すのが一番いいのよ」

「そうですね……もし何かあればお願いするかもです。ささ、初詣ですよ! 行きましょう行きましょう!」

 

 わたしはキングヘイローと初詣の話をしながら薄暗くて寒さの厳しい廊下を歩いていった。

 

 

 ◇

 

 

 2人を乗せて車を30分ほど走らせると目的の神社に着いた。俺の予想通り参拝客は多いものの、待つ必要はないほどで立ち止まることなく本殿までたどり着くことができた。

 

「ほれ、お前ら先にいけよ」

「分かりました! キング、先に行きますね」

「はいはい」

 

 キングヘイローにそう声をかけたペティは鈴をしゃりんしゃりんと鳴らしてから賽銭箱に小銭を放った。コトン、カラカラ、カシャンと小銭が転がる音が終わると、ペティは礼をしてから拍手をして拝んだ。

 

「──」

 

 何かをお願いしてるのか祈っているのか分からないが、ペティがそうして固まること数秒後、それは終わり再度頭を下げた彼女はこちらへ振り向いた。

 

「終わりましたよ」

「私の番ね」

 

 そうしてキングヘイローもペティと同じように参拝する。迷いなく参拝する流れるような所作を見ていると、さすがに育ちの良さというものを感じた。

 

「何をお願いしたんだ?」

 

 キングヘイローを待っている間、ペティにそう訊いた。

 

「言う訳ないじゃないですか。恋する乙女の秘密ですよ。禁則事項です」

「お前が恋する乙女だあ?」

「なんですか。わたしも今を生きる立派な女の子なんですよ。もしかしてバカにしてますか?」

「してねえけどよ……」

 

 そう言われてコイツ等がまだ10代中盤の子どもであることに再度気付かされる。『恋する乙女の秘密』……やはりペティも思春期のガキ、意外と気になる男でもいるのかもしれない。10年前よりトレーナーの合格者数が増加傾向である最近では20前半から中盤の若々しいイケメントレーナーも多くなっているし、学園外の高校生や大学生と付き合っている話だってよく耳に入ってくる。スタッフ研修生だから、そういう色恋沙汰よりデータや数字の方に興奮するようなウマ娘かと思っていたが──

 

「……何かものすごく失礼なこと考えてませんか?」

「んなわけねえだろう」

「終わったわよ。はい、トレーナーの番……何を話しているの」

 

 いつの間にかキングヘイローが参拝を終えていた。

 

「トレーナーさんが私のお願いした内容を無理矢理聞き出そうとしていたんですよ」

「トレーナー……そんなみっともないことは止めなさいよ……」

 

 キングヘイローは呆れるようにそう言った。

 

「何が無理矢理だ!」

「いいえ無理矢理でした。まるでわたしの秘密を暴きたいが如く距離を詰めてきて──」

「勝手に言ってろ。チッ……」

 

 捏造し始めたペティに舌打ちした俺は2人の横を通り過ぎて参拝に向かった。

 

 2人に倣って参拝する。こうやって祈ることに効果があるのかどうかは別にして、せっかく来たのだから何かをお願いしようと思った。

 キングヘイローとカレンモエのトレーナーとして、彼女たちに大きいところを取らせてやれるようにだとか、故障せず安全にレース人生を送って欲しいだとか、そんな月並みなことを願っていた。……ペティのことも、良い研究が出来て成果があがりますようにとお願いした。

 

(こんなもんか……参って祈るなんて何年ぶり……あ……)

 

 初詣で参拝するなんていつぶりだろうかと考えていると、不意にあの顔が心に浮かんできた。

 

 以前……いや、トレーナーになってから初めて初詣に行った時のことが止め()なく浮かんできた。それを止めることはできなかった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

「何をお願いしたんだ?」

 

 参拝を終えたキタサンブラックがこちらにやって来た。

 

「レースで勝てるようにってお願いしました! もうすぐメイクデビューですから!」

「そっか」

 

 彼女が言う通りメイクデビューを今月末に予定していた。骨格系の成長に筋肉系がやっと追いついたのだ。

 

「ここまで頑張って身体を作ってきたんだ。お前は勝てるよ。俺が保証する」

「そこまでトレーナーさんに言われると……えへへ、ありがとうございますっ!」

 

 キタサンブラックは頬をかいて照れくさそうにしていた。

 

 改めて説明すると、彼女は元々優れていた身体をしていたにも関わらず、俺が担当してからも身体が成長していた。しかし、成長する身体に筋肉が追い付いていなかったので、完璧な状態へ仕上がるまでデビューを見送っていたのだ。

 厳しいトレーニングを経てフォームが完成し、やっと身体が仕上がったと判断できたのが年末あたりだったのだ。

 

「トレーナーさんこそ、何をお願いしたんですか?」

 

 俺はキタサンブラックに促され、先に参拝を終えていた。

 秘密にしておこうかと思ったが、彼女は自身のことを話してくれたので俺も言うことにした。

 

「……キタサンが怪我無く無事に走り続られるようにって、GⅠを取れるようにって……あと、お前がみんなを笑顔にできるようにってお願いしたよ」

 

 そこまで言ってから恥ずかしさを感じてきた。そして思い返せばキタサンブラックの事しかお願いしてないことに気付いた。

 外気は冷たいのに顔に熱さを感じてしまう。顔、赤くなってないといいが……と考えながら彼女を見ると、目を真ん丸にして頬を赤く染めている彼女の顔が目に入った。

 

「いや~照れちゃいますね~……あたしのこと、いっぱいお願いしていただいてありがとうございます、トレーナーさんっ!」

「……おう」

「トレーナーさん、顔が赤……いや、なんでもないですっ! ……えへへ」

 

 顔を真っ赤にした俺とキタサンブラック。目を合わせてお互い恥ずかしそうにはにかんだ後、2人で参道を戻っていった。

 

「それにしても、よくこの神社知ってたな」

「小さいころからここの神社通ってたので! 家族やお弟子さんともよくお参りに行ってました。なんせウマ娘の神様を祀っている神社ですから!」

「そうなのか。今日は車も出してもらってるし、ありがとうな」

 

 2人で初詣に行こうと話になると、キタサンブラックが実家に電話して彼女の父の弟子に車を出してもらうことになったのだ。俺はまだ車どころか運転免許も持ってなかったので、その言葉に甘えることにした。

 そしてやって来たのがこの神社。ウマ娘を祀った神社がこんな場所にあるなんて俺は全く知らなかった。

 

 神社を出て駐車場に行き、鎮座している黒塗りのセダンに2人で乗り込んだ。運転席には弟子が座って待っていた。

 

「お嬢とトレーナーさん、良い参拝にはなりましたかい?」

「ええ。車を出していただいてありがとうございます」

「いやいや、お2人のためなら何でもやりますよ! それで、この後は学園に戻ればいいんですよね?」

「はい、お願いしま──」

「いいや!」

 

 と、そこで俺の声を遮るキタサンブラックの声があった。

 

「行きましょう! あたしの家へ!」

「え?」

「2人で新年の誓いを立てに行きましょう!」

「ど、どういうことだ……?」

 

 いきなりの話に頭がついていかない。

 

「今日、実家の新年会があってみんなが集まっているんです! みんなにトレーナーさんのこと紹介したいですし……いいですよね?」

「え……あ、ああ」

「よしっ! 車出して!」

「へいっ! お嬢の頼みとあらば!」

 

 キタサンブラックの勢いに押された俺は生返事をしてしまい、気づけば車は彼女の実家にたどり着いていた。

 

 

 

 その後は……キタサンブラックの父親と会い、弟子たちに言われるがままに彼女と2人でデュエットして歌を歌ったり、新年会に参加してたくさん飲み食いしたりと、大騒ぎしたことを覚えている。最初は彼女の父の存在感というか威圧感に一歩引いてしまって緊張していたが、次第に打ち解けられていたように思う。彼の弟子たちも俺によくしてくれていた。果てには父と弟子みんなが熱唱して、最後に「娘を(お嬢を)よろしくお願いします!!!」と頭を下げられて、新年会は締められた。

 

 活気があるというか、人情味があるというか……キタサンブラックの周りの人たちの暖かさを感じた1日になった。

 

 

 ◇

 

 

「何をお願いしたんですか?」

「結構長くお祈りしていたわね?」

「お前らが教えねえんだから、俺も教えん」

「トレーナーさんの事だから、きっとわたしたちの事でしょうけどね。『キング、モエ、2人ともGⅠ取れるように!』とか絶対にお願いしてますよ」

「……」

 

 からかうように言ったペティの内容が図星だっただけに二重で腹が立った。

 少しやり返してやろう。

 

「ペティがイケメンの彼氏を捕まえれるようにって祈っといた」

「はあ? そんなくだらないことを祈ったんですか? ウマ娘の神様も可哀想です」

「なっ!? お前さっき……チッ、嘘つきやがったな」

「あんな頭の悪そうな話、信じる方が悪いですよ」

 

 全く動じなかったペティを尻目に先程よりも人が少なくなってきた参道を戻り始めた。数歩遅れてキングとペティが付いてきていた。

 

 空を見上げると、空はもう夕闇へと移り変わっていた。

 

 

 ◇

 

 

 走る、走る、走る────

 

 すっかり暗くなり照明が点いたトレーニングコースにて坂路を走る芦毛のウマ娘が1人。

 

「はあっ……はあっ……まだ、まだ」

 

 坂路を上り終えた彼女は、置いてあったタブレットを拾い、次はウッドチップコースにて走ろうと足を向けていた。

 

(こんなことじゃ……このままじゃ、ダメ)

 

 いくら走っても足りない。足りないのだ。

 

(もっともっと……じゃないと)

 

 頭に浮かぶのは1人の男性の顔。あの人と過ごしてもう1年以上も経つのに、自分は彼に何も返せていない。それどころか2勝クラスで躓いてしまっていた。

 

 キングヘイローのデビュー戦と同日の2勝クラスで3着に終わってしまった自分。それから破竹の3連勝を決めて重賞を取ったキングヘイローと比べると、情けないにもほどがある。

 GⅠどころか重賞に出走することさえできていない自分に腹が立って仕方がなかった。

 

 そして坂川以外にもう1人、頭に浮かんでいる人物の顔があった。それは自分によく似た────いや、()()()()()()()()()()()のだ。短距離界を席巻した、自分の実の──

 

「……」

 

 彼女を頭の片隅に追いやった。彼女と自分は違うのだから。

 

 誰もいない無人のウッドチップコースにたどり着き、走る準備を整える。

 

「モエは……トレーナーさんに──」

 

 それを口にした瞬間、今日の昼間、彼に言われた言葉が頭をよぎった

 

『……無理だけはすんな』

 

「あっ……」

 

 自分のトレーニング量が増えていることに彼は気付いているだろう。デジタルブラで記録しているのだから当然だ。

 

 ウッドチップを踏みしめたまま、心の中で鬩ぎ合いが起きていた。

 ……やがて、彼の言葉がその鬩ぎ合いに勝利した。

 

「…………今日は、これで」

 

 走らずにウッドチップコースから出ようと、学園の方に足を向けた。

 

 彼は私を止めなかったということは、自分を信用してくれているということ。それを……彼を裏切ることはできない。

 

 トレーニングコースをあとにするカレンモエ。

 冬の冷たい夜風が彼女の芦毛の髪をなびかせていた。



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幕間
第20話 乙訓特別


 カレンモエの元旦の自主トレの走行距離をデータで見返すと、思ったほどの距離を走っていなかった。その日は一応俺の言うことは聞き入れてくれたということだろう。

 次の日からカレンモエは調整に入った。ここでもオーバーワークになっては元も子も無いので、トレーニング中俺は彼女に付きっきりでいた。俺が目を光らせていたのでさすがに彼女はおとなしくしていた。

 

 そして今日はレース本番。

 

 京都レース場にて迎えた乙訓特別、ゴールを目指してホームストレッチを15人のウマ娘が走っている。

 その中でカレンモエが番手集団の中でスパートをかけていた。15人中唯一の芦毛の髪と尻尾がよく目立っており、団子になった集団の中にいてもどこにいるかが一目瞭然だった。

 

 だから、カレンモエの伸びがないことも観客席からよく分かった。 

 

『抜け出したのは3番ヒルノマゼラン、1着でゴール! 2着争いは5番キャスパリーグと8番ピエナミントですが、キャスパリーグが優勢か! 1番人気14番カレンモエは4着まで!』

 

 接戦ではあったが、実況の言う通りカレンモエは4着になった。デビューから5戦目にして初めて3着を逃した彼女は俯いて肩を上下させて息を整えていた。観客席から遠いこともあるが、垂れ下がった髪によって彼女の表情はこちらからはうかがい知れない。

 

 惜しいレースではあった。しかし、これで去年の10月に引き続き、またしても2勝クラスの壁に跳ね返される結果となった。

 

「モエさん…………」

「……残念ね……」

 

 落胆した声を上げるペティとキングヘイロー。重苦しい空気が俺たち3人を包み込んでいた。

 

「地下バ道行ってくる。お前らはそこにいろ」

 

 心配そうな顔をした2人にそう告げて、俺はカレンモエを地下バ道へ迎えに走った。

 

 ◇

 

「はっ、はあっ……」

 

 急いで地下バ道に駆けつけ横道から出ていくと、乙訓特別で敗北したウマ娘たちとかち合うようになった。

 黙って歩いているウマ娘もいれば、俺より速く駆けつけたトレーナーに慰められているウマ娘もいる。ちょうど目の前をベテランの女性トレーナーと涙目のウマ娘が通り過ぎると、その向こうにカレンモエの姿があった。

 

「モエ!」

「っ!? トレーナー、さん……」

 

 こちらに気付いていないカレンモエを呼び止めると、彼女は立ち止まってこちらへ顔を向けた。

 足が止まった彼女に早足で近づいていくと、

 

「──っ!」

 

 カレンモエは顔を背け俺から逃げるように走り始めた。

 

「おいっ! モエ!」

 

 呼び止めようと声をかけても彼女の足は止まることはなく、体操服姿の背中がどんどん小さくなっていく。追いかけようと駆けだしたが、ウマ娘の足に追いつけるはずもなく、10歩足らずで走ることをやめた。

 これまでにカレンモエがレースで敗北したことは今日を除いて2回あるが、今日のような反応は初めてだった。

 

「……」

 

 気を取り直して歩き始める。トレセン学園が近い東京レース場ならまだしもここは京都レース場だ。何度かレースで来ているとはいえ、あの格好のままどこかに行くことはないだろう。素直に控え室に戻るはずだ。

 そう当たりをつけて控え室に戻ると、中から明かりが漏れていた。ひと先ず普通に戻ってくれたことに安堵した。

 

「おーい、モエ……あれ」

 

 ノックしてから中に入ろうとノブを回したが鍵がかかっていた。

 

「これ開けてくれねえのか? それとも、着替えてんならそう言ってくれ」

 

 中に聞こえるよう声のボリュームを上げてそう言いながらガチャガチャとノブを回したが、中からは何も反応は無かった。

 

(まさか、ここにいねえのか? でも電気ついてるしな……)

 

 控え室の中にカレンモエがいるかどうかが知りたくて、とりあえず中から物音はしないかとしゃがんで扉に耳を当てようとすると──

 

「坂川さん、なにしてるッスか…………!?」

 

 扉に耳を当てたタイミングで、後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。マコのその声はまさにドン引きしているという声色以外何物でもなかった。マコがどんな顔をしてるか見なくても容易に想像がつく。

 

「しっ! 黙ってろマコ!」

「いやだって……みんな見てるッスよ……」

 

 俺が今どんな動作をしているかは俺自身がよく分かっている。すれ違うレース関係者やウマ娘の辛辣な視線が痛すぎるが、それよりも控え室の中にカレンモエがいるかどうかが俺の最優先事項だった。

 

 そうして耳を扉に当てていると、かすかに中から物音が聞こえてきた。

 

「良かった……」

「何が良かったんスか!? まさか、モエちゃんの着替えの布擦れの音が良いとかそういう──」

「言いがかりはやめろ」

「これのどこが言いがかりッスか!? 現行犯ッスよ現行犯!」

 

 掛かり始めたマコに現在の状況を説明した。マコは渋々ながらも納得はしたようだった。

 

「坂川さんの言うことも分かんなくはないッスけどお……モエちゃんだって小さい子どもじゃないんスから、そんな脱走なんてするはずないッスよ」

 

 俺とマコはカレンモエのいる控え室の扉から少し離れて、小声で話し始めた。

 

「最近モエちゃんの練習量多かったらしいじゃないッスか。それでなんかあったんッスか?」

「お前なんで知ってんだよ」

「なんでって……ことあるごとに坂川さんとこのトレーニング手伝っているのは誰だと思ってるッスか? 私、一応伯父さんとこのサブなんスけど」

「つってもデータは見せてねえだろ」

「ペティちゃんがボヤいてたッスよ」

「あいつ……」

「ボヤかせるほどの、ってことッスよ。オーバーワークとか、すぐに止める人だと思ってたッス」

「ジュニアの時と比べて身体もできてきてたし、ギリギリ許容範囲だっただけだ。もしそれを超えるならすぐに止めてた。……あと」

「?」

「俺の判断がすべて正しいってわけでもねえからな」

「……へえ、坂川さんでもそんなこと言うんスね」

 

 なんだよそれ、とマコの言葉の真意を探った。

 

「坂川さんって『俺の理論と考えが絶対に正しいんだ!』って言うタイプの人だと思ってたッス」

「……んなわけねえだろ」

 

 自分が全て正しいと思えたのなら、どれほど良かっただろうか。マコの言葉で間違い続けた昔のことを思い出してしまった。

 

「てか、お前テンション低いな」

 

 マコがいつもの明るい調子ではないマコにそう訊ねた。まさか俺のあの格好を見てそうなったわけではないだろう。

 

「前のレースでウチのチームのウマ娘負けちゃいましたからね……って、あ! こんな道草食ってる場合じゃ無かったッス! 次のレースにもウチの子でるから行かないと! それじゃ坂川さん、失礼するッス!」

「おう」

 

 いつものジャージ姿ではなく、フォーマルな恰好をしたマコが急ぎ足で去っていった。

 

「おっと、坂川さん!」

 

 その背中を眺めていると、マコが通路の曲がり角でこちらに振り向いた。

 

「女の子はみんなデリケートッスからねー! ちゃんとアフターケアしてあげるッスよー! 女子からのアドバイスッス!!」

 

 マコはそう言うと、俺が返事をする間もなく角を曲がっていった。

 

「デリケート、アフターケアねえ……」

 

 マコの言ったそれの意味を考えながら、俺はカレンモエが出てくるのを待った。

 

 ◇

 

 それからカレンモエが出てきたのは数十分後の事だった。

 

 いつ出てくるか分からなかったので、キングヘイローとペティにはマコと別れてから早い段階で先に帰るようにスマホで連絡した。新幹線の乗車券は各自に持たせており、連絡を受けた2人は俺に何か訊いてくるわけでもなく、『分かったわ』『了解です』と素直に従ってくれた。

 

 出てきたカレンモエは制服に着替え、荷物の入ったショルダーバックを肩にかけていた。表情は相変わらず平坦でいつもと変わりないのだが、やはり雰囲気はどこか違うように感じた。

 

「ずっと待ってたの?」

「おう。お疲れさん。帰るか?」

 

 先程の地下バ道の事には触れなかった。

 

「うん……」

 

 カレンモエは小さく頷いて返事をしてくれた。

 

「あっちのスペースで軽く身体の状態を確認するぞ。怪我とか、痛いところはないか?」

「大丈夫……疲れてるけど、変に痛いところはないよ」

「ならいいんだ。行くぞ」

 

 そう言って歩き出した俺の一歩あとを、カレンモエはついてきた。

 

 そうやって歩きながら、俺は先程マコに言われたワードを心の中で復唱していた。

 

(女の子……デリケート……アフターケア……)

 

 ようするにカレンモエに対してなにかしら働きかけろと言うことなのだろうが……

 

(どうしたもんか……)

 

 当の俺は何も思い浮かばずにいた。

 

 ◇

 

 負けたウマ娘のフォローをすることはトレーナーとして必要不可欠なことだ。

 マニュアルや論文、研修などでメンタルケアの知識をトレーナーはみんな身につけているものの、適切に対応できるかどうかはそのトレーナー自身にかかっている。いくら知識を身につけても相手は生身のウマ娘なのだから、どう言えば正解だなんて中々分かるものではない。

 そういうのが苦手ならメンタルケア専門の人間を外部から招いているトレーナーもいる。それぐらい負けたウマ娘のフォローは重要であり、尚且つ難しいものだ。なんせ相手は精神的にも未熟な10代後半の女の子なのだから。

 

 つまり何を言いたいかと言うと、俺はカレンモエにかける言葉を見つけられずにいたのだ。

 

「「……」」

 

 新幹線にて俺とカレンモエは並んで座っている。窓側の席にて外を見ている彼女の隣で、俺は腕を組んであれこれ思案していた。

 

 これまでそういう経験が無いわけではない。むしろ同じ年数トレーナーをやってきた中なら多い方だと思う。なんせ俺は未勝利戦で勝てないウマ娘を何人も見送ってきたのだ。担当のウマ娘が負けるたびに、声をかけてフォローしてきた。

 優しく励ましてあげたり、逆に発破をかけるようなことを言ったり、そのウマ娘の気持ちが前を向くようなフォローを心がけてきた。うまくいくこともあれば、失敗したことも数知れず──笑顔になったり、さらに泣かれたり──未だにどんな言葉を選べばいいのか、俺には分からないままだ。

 トレーナーとしての経験を積めば分かる日が来るのだろうか。

 

「……」

 

 安易に『お前は頑張ってたよ』と言うのは愚の骨頂だろう。オーバーワーク気味だったカレンモエのことだ、あれだけ努力しても届かなかった……つまり、お前は努力しても無駄だったんだという意味で受け取られる可能性もある。そこで自分には才能がないと本人が思ってしまったらそれで終わりだ。勝手に自身の限界の線引きをしてしまうことに繋がりかねない……まあ、そう言われて逆に火のつくような奴もいるだろうが。

 それにあのオーバーワークはトレーナーとして否定しなければならない。重要なのは正しい方向へ向かせることだ。

 

 だからって『トレーナーの俺が全て悪い』と言うのなんて問題外だ。敗北した責任をトレーナーが全て負うのは美しいようにも聞こえるが、走っているのはウマ娘なのだ。レースに出たその本人を全く尊重していないそんな言葉を言うトレーナーは一体何様なのだと俺は思う。

 敗北した責任は、どんなことであれ2人で負うべきものだ。それがトレーナーと担当ウマ娘という関係のあるべき姿ではないのだろうか。

 でも、その言葉が効果的なウマ娘もいるかもしれない。俺の矜持なんてメンタルケアには何の関係もないのだから。

 

「…………」

 

 色々小難しいことを考えていたものの、結局考えは纏まっていない。

 変に後ろ向きにならず、正しく前へ向けるようなフォローを……言葉にするのは簡単だが、それを考えつくのはいつも難しい。

 

 更に今回のカレンモエの場合、オーバーワークについても絡んでくるので余計に複雑な話になっている。それに関しても話をしないといけないのだ。

 

(…………ん)

 

 考えを纏め結論を出すために、俺は目をつむりながら頭を整理していた。

 

 

 

 ──そうして微睡んでいることに、俺は気付かないでいた。




お察しの方もいるかもしれませんが、幕間と題して少しの間カレンモエの話が続きます。

(あまりキングの出番は)ないです。

(キング好きの皆さま)すいません許してください!なんでもしますから!


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白夢1 スプリント女王の娘

例によって回想です。


 あれは一昨年の8月のいつだったか、夏合宿の中休みにトレセン学園に戻ってきたときのことだった。

 

 その日は1日中研修の資料作成に勤しんでいた。日が暮れてきてもそれは終わらず、トレーナー室で晩飯であるカップラーメンを啜ったあと腹ごなしにトレセン学園を散歩してトレーニングコース横にさしかかると、誰かが走っている音が聞こえてきた。

 

「1人……か?」

 

 最初はどこかのトレセン学園に残ったチームがトレーニングしているのかと思ったが、暗くなりかけているトレーニングコースを目を凝らしてみてみると、そこにいたのは体操服姿をした芦毛のウマ娘1人だけだった。他のウマ娘も、トレーナーと思われる人物もどこにも見当たらなかった。

 

 そのウマ娘が気になった俺はトレーニングコース出入り口の階段の中段辺りに腰を下ろしてそのウマ娘が走る姿を見ることにした。まあ、トレーナー室に帰っての資料作成に嫌気がさしていたこともあったのだが。

 

 ザッ、ザッとウッドチップコースを駆ける足音が小さいながらも聞こえてくる。夏休み夕暮れのトレセン学園は人気(ひとけ)が少ないせいもあって、トレーニングコースも学園も閑散としていたので、セミやひぐらしの鳴き声以外余計な音がしない環境であった。

 

「ん~……」

 

 休みなく走り続けている彼女の走る姿を見て、思わず声が漏れてしまった。

 

「動きがかてえな~」

 

 俺は彼女の動きから全体的に硬さを感じていた。実際に近くで見たり触ったりしないと分からないことではあるが、身体がまだ仕上がっておらず、まだまだ身になっていないようにも思える。

 総じてしなやかさに欠け、どこか危うさや弱々しさを感じるような印象がした。

 

 

 気付けば日が落ちかけて更に暗くなってきたところで、彼女はトレーニングを終えてこちらの階段に向かってきた。タオルを首にかけて、飲料の入ったボトルとストップウオッチや記録用のメモなどを入れてるであろうポーチを手に持っていた。

 

「はっ……はあ……」

 

 ハードな走り込みを終えた彼女の落ち着きつつある息遣いが段々と大きく聞こえてくる。

 彼女が階段の最初の段差に足を乗せたところで、俺は声をかけた。

 

「よう」

「…………」

「おいおい、無視かよ」

 

 息を整えた彼女は俺の存在など気にもかけず、俺の横を通り過ぎていった。薄暗くなった中で見えたその横顔に、俺は既視感を感じた。以前どこかで会ったか学園内のレースで見たのだろうか?

 

「お前、トレーナーは? 毎日この時間走ってんのか? なあ、ちょっと暇なら話しようぜ」

「…………」

 

 それが知りたかったのと苛つかせたら何か反応が返ってこないかと期待して、わざと気に障るような口調でそう訊ねたが、彼女は何も聞こえていないかのように去っていった。彼女の芦毛の髪が階段を上り切った先へと消えていった。

 

「取り付く島はなんとやらだな……」

 

 全く手ごたえのなかった彼女との邂逅を経て、その日は何もなく終わった。

 

 

 ◇

 

 

「まーた今日もやってんな」

 

 翌日、俺は昨日の時間より早くトレーニングコースに駆けつけていた。せめて明るいうちにその顔でも拝んでやろうと思い、双眼鏡を片手に俺は階段に腰を下ろした。

 まだ日も高いこともあって、芦毛の彼女以外にも学園に残っているウマ娘やトレーナーがちらほらいた。

 

「さて、アイツは……」

 

 双眼鏡を目に当てて彼女を見る。彼女はちょうど走り終えて顔を上げてドリンクに口をつけていたので、その顔がよく見えた。白い肌と整った目鼻立ちが双眼鏡の先に映っている。

 

「芦毛であの顔……どっかで…………あ!」

 

 それを見て数秒でピンとくるものがあった。昨日の既視感の原因が分かった気がした。

 あの顔と芦毛……俺の記憶が正しければおそらくアイツは──

 

 双眼鏡から目を離した俺はスマホを取り出して電話をかけた。

 

「もしもし、マコ? ちょっと教えて欲しいことがあんだけど──」

 

 

 

 

 

 彼女は今日も真っ暗になる手前まで走っていた。すでに他のウマ娘やトレーナーはトレーニングコースから引き揚げていた。

 昨日と同じように、彼女は階段を上がってくる。

 

「お前、カレンモエだろ?」

「…………」

 

 これを言っても同じように無視し、歩みを止めないカレンモエ。

 彼女がカレンモエであることはもう間違いない。近くで見れば見るほど、母親のカレンチャンによく似ている。

 今年の春にあのカレンチャンの娘が入学してきたと耳に挟んだことも思い出して、マコに確認の電話もしていた。

 

「まだトレーナーついてないんだってな。トレーナーついてないなら何で教官主導の夏合宿に行ってないんだ? トレーナーのいないジュニア級の同級生、みんなそっちに行ってるだろ?」

 

 トレーナーのいないウマ娘たちが合宿に行く大きな利点として、メニューの考案や自分の走りを教官に見てもらうことができることが挙げられる。確かにメニューは大人数でやるから必ずしも自分に合ったものとは言えないかもしれないが、教官も一応その道の指導者である。間違ったことは言わないだろうし、訊けば自身の走りも指導してもらえる。自分ひとりで取り組むよりそちらの良いのは明らかだ。

 

「…………」

 

 カレンモエは俺に対して一瞥もせず、横を通り過ぎていった。

 

 普通に考えて、夏合宿に行ってないことには理由があるはずだ。故障でもしているのかと思ったが、このトレーニングメニューからそれは考えにくい。

 それに彼女にトレーナーがいないことはさっきのマコとの通話で確認済みだった。ならば、俺がいくら口出ししたって問題はないはずだ。

 

(これでもまだ無視か……ならいっそ──)

 

 無視されて続けて埒が明かないことに業を煮やした俺は、振り返って彼女の背中に声をかけた。

 結局のところ、俺が言いたいことはこうだった。

 

「カレンモエ、俺のチームに入らないか?」

「…………」

 

 あと数段で階段を上りきるところで、カレンモエの足がそこで初めて立ち止まった。

 足が止まったということは、多少なりとも彼女の感情を揺らすことができたということだ。

 

 彼女は振り向き半身になって俺を見下ろした。

 

「……なんで、あなたはモエをスカウトするの」

 

 ボソッと、小さな声で囁くように言ったカレンモエ。

 

(コイツ、この歳で一人称モエかよ……そういえば、母親も自分のことカレンって言ってたっけか?)

 

 裏でそんなことを考えながら、会話を進める。

 

「俺がスカウトする理由か? そんなの──」

 

 

 ……そんなの? 

 

 

 

「……何でだろうな?」

「……………………」

 

 

 

 一体俺は何を言っているのだろうか? 

 俺はスカウトした理由を訊かれて、頭が真っ白になってしまっていた。

 

 あまりにも意味不明な返答に対し、カレンモエの伏し目から覗く鮮やかな鋭い瞳が俺を射抜いた。

 

「…………」

「あ、おい!」

 

 カレンモエは向こうへ向き直り、再び階段を上っていった。すぐに上までたどり着き、その姿が下から視覚的に阻まれて見えなくなってくる。

 

(マズい……!)

 

 さっきの誘い文句が失敗だったのは火を見るより明らかだった。ヤケクソになった俺はトレーニングについてだけでも言おうと声を張った。

 

「フォームがまだ全体的に硬い! もうちょっとストレッチに時間を使ってみろ! ハードルドリルもやってみたらいい! 言っとくが障害レースのハードルじゃなくてヒト用のハードルだ! ハードルはグランド横の倉庫に入ってるから誰でも自由に使っていい! あと、加速走! もうちょっと距離を延ばせ、多分トップスピードに乗ってねえからしっかりトップスピードに乗れるまでな!」

 

 そこでピタッと一瞬だけ歩みを止めたカレンモエであったが、何もなかったかのようにまた歩き出した。今度こそその姿は見えなくなった。

 

「やっちまったかなあ」

 

 俺は肩を落としながら立ち上がって尻の汚れを払った。

 

「これじゃあスカウト無理だわな……何やってんだ俺……」

 

 カレンモエとのやり取りを経て、自分のスカウト能力の無さを再認識した。会って2日目の子にがっつきすぎだろ、と心中で自分に突っ込むと、底辺なんだからしょうがねえだろ明日会えるかどうかも分かんねえんだから、と反論が返ってきた。

 まあ、経験が足りてないのは事実である。なにせ、トレーナー歴こそ9年目だが()()()()()()()()()()()()()()4()()()なのだ。スカウトできた人数どころか場数自体まだまだ少ない。

 

 

「はあ……」

 

 彼女についてマコと通話した時のことを思い出しながらトレーナー室への帰路に就いた。

 

 

 

『スカウトするんスか? カレンモエちゃんの走り、そんなに良かったッスか?』

『走り自体は大したことねえな。速いことは速いがちぐはぐだ』

『ならなんで気になるんスか?』

『それは、あれだ。企業秘密だ』

『はあ? なんッスか……ああっ! もしかして、カレンモエちゃんが可愛かったからじゃないッスか!? あの子、めちゃくちゃカワイイって学園内で評判なんッスよ! 天真爛漫な小悪魔系美少女カレンチャンと違ってクール美少女なカレンモエちゃん! やっぱり坂川さんも男だったんスねえ! 私も会いたいッス! 合宿から帰ってきたら会わせてくださいよう坂川さん!』

『もう切るぞ。お疲れ』

『え、なん────』

 

 

 

「気になった理由、か」

 

 電話でマコに言われたことが頭をよぎった。その時は深く考えず出まかせで企業秘密だとは言ったが、はっきりとした理由は見いだせていなかった。

 改めてなぜ俺がカレンモエをスカウトしようと思ったのかを考える。俺は母親のカレンチャンのファンでも何でもないので、娘だから気になるわけでもない。

 たまたま? トレーナーがついてないから? カワイイから? 

 

「違う……」

 

 そうじゃない。

 昨日と今日カレンモエの走っている姿を見て、何か俺は思ったはずだ。

 

 それは何だ?

 

「……そうだ」

 

 カレンモエのその表情と雰囲気を思い出す。

 

 そこでやっと気づいたことがあった。それは──

 

「なんで、あんな苦しそうに──」

 

 

 何かに追い詰められるように走るカレンモエが気になっただけだったのだ。

 

 それをなんとかできないかと思った。それだけだった。



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白夢2 世話焼き

 カレンモエと出会ってから3日目の朝。今日で夏合宿の中休みが終わるので、明日の朝までには車で片道2時間かかる合宿所まで戻らないといけない。

 資料作成を昨日までに終えた俺は午前中からトレーニングコースに繰り出していた。普段の学園時の放課後には遠く及ばないものの、夕方近くよりも断然ウマ娘とトレーナーの数は多い。

 

 夏合宿をしない理由はチームやウマ娘によって様々だ。

 故障関係……もとより学園で療養中であったり、合宿中に故障して学園に戻されたりなど。

 勉学や就職関係……大学受験や就活のため合宿どころかトレーニングも行わないウマ娘もいる。俺のチームの3年も毎年これで合宿にはいない。

 チームの特色……サマースプリントシリーズなど夏のレースに参加するウマ娘が多いチームは学園に残ることが多い。1人や2人ならまだしも、人数が多いと避暑地である合宿所とローカルのレース場との行き来が面倒で管理も煩雑だからだ。

 また、中には「合宿に意味はない」と言うトレーナーもいる。夏合宿にて成長するウマ娘が多いのは事実なのだが、客観的な根拠は示されていない。その言い分は俺も理解できないことはない。ただ、一般的に俺みたいな弱小底辺チームは合同でトレーニングしてくれる相手が必要なので、その擦り合わせや付き合いを兼ねて合宿に参加している。今年だって、郷田のチーム含めそのほか数チームと一緒に小規模の合宿施設を借りて実施している。メジロやサトノなんかは専用の合宿所を持っているし、中には海外に行くチームだっている。

 

 だから目の前でトレーニングに勤しんでいるウマ娘たちは大半が残ったチームのウマ娘か、リハビリがてら軽く運動しているウマ娘だ。

 その中で1人でトレーニングをしているウマ娘を見つける。濃い白色をしたカレンモエの芦毛とピンク色のカチューシャ式メンコは遠くからでも目につき、双眼鏡を使わなくてもすぐに分かった。

 

「おっ、あそこか。毎日この時間……午前中からあの時間までやってんのか」

 

 見ればカレンモエはターフに座り込んでストレッチをしていた。今は準備運動なのだろう。

 それをいつもの階段に腰を下ろして遠くから眺める。彼女は足を開いて体を倒したり、寝そべって体を捻ったりしていた。

 

「別段、関節可動域は狭くねえな。柔らかくもねえけど」

 

 彼女の柔軟の様子を見て俺はそう評価した。走り方の硬さを見て関節可動域の狭さに原因があるのではないかと予測していたのだがどうやらそうではないらしい。

 

 8月の暑さに耐えかね、シャツを襟をパタパタしながら団扇で仰ぐ。気休め程度にしかならない温い風が胸もとを撫でていた。

 

 

 座位や臥位での柔軟運動を終えたカレンモエは立ち上がりコースのラチ沿いを歩き始めた。体を慣らすためのウォーキングかと思ったが、その足はコース横の倉庫へ向かっていった。倉庫に入ってしばらくすると、ヒト用のハードルをいくつか抱えて出てきた。

 

「アイツ、昨日の俺のアドバイスを……いや」

 

 俺が昨日言ったそれを聞き入れてくれたのかと思ったが、そこでその考えを踏みとどまった。もしかしたら俺に言われるまでもなく、元からやっていたのかもしれない。

 

 彼女は元の場所に戻るとハードルをまとめて下ろした。その後、立ったままスマホで何かをしていた。画面を横にして、動画でも見ているかのような様子だったが──

 

「カレンといえばアレかもなー」

 

 彼女の母親、カレンチャンは現役時から始まり今でもウマスタはじめSNSでの活動を積極的に行っている。俺は実際にカレンチャンのSNSなんて見たこともないし微塵も興味はないが、娘も同じようなことをしていても不思議ではない。

 あれはショートビデオでも撮っているのではないだろうか。近くにいない俺はその判別を出来るはずもないのだが。

 

 何かを終えたのか、彼女はスマホを荷物があるところに置いて、ハードルを1メートル間隔で並べ始めた。

 ハードルを並べ終えるとその前に立ち、再びスマホを手に取って画面を見ながらハードルをまたぎ始めた。

 

 そのハードルまたぎは遠目から見てもかなりぎこちなかった。

 

「ありゃハードルドリルやったことねえな」

 

 一目でカレンモエがハードルドリル初経験だということが分かった。スマホを見ているのは何かサイトか動画でも見ながらやっているのだろう、彼女は時々止まってスマホを注視していた。

 ……あんな方法じゃ、せっかくやっても効果は出ない。

 

「いっちょやるかあ」

 

 そう言って決意を固めた俺は、腰を上げ早足で階段を降りていった。

 

 

 

「ちょっと待て」

 

 カレンモエがスマホを片手にぎこちなくハードル跨ぎをしているところに俺は声をかけた。

 彼女はスマホから顔を上げて俺の方を見た。

 

「……なに?」

「ハードルドリル初めてなんだろ? 教えてやるよ……高さがまず合ってねえな」

 

 ハードルを見ると明らかにその高さが高かった。カレンモエの足の長さを見てそれの高さを合わせてやった。

 

「高さはこれくらいだ。残りのやつもこの高さに合わせよう」

「……」

 

 カレンモエは返事をしなかったが、俺と2人でハードルの高さを調整し始めた。

 

「こんなもんだな。よし、前からハードル跨いでみろ」

「……うん」

 

 俺の言う通りにハードルをゆっくりまたぎ始めたカレンモエ。その足の使い方を見て俺はすぐに口を出した。

 

「踵が浮いてるぞ。足裏べったり地面につけてつま先は前に向けたまま。躯幹は回旋させるなよ」

「こう……?」

「ああ、それでいい。骨盤もあんま動かすな背筋は真っすぐで……そう、膝は高い位置でな。それで続けてみろ」

 

 カレンモエは俺が指摘した箇所を修正してハードルを跨ぎ続けた。数回往復した後、異なるやり方を彼女に伝える。後ろから、膝を伸ばして横に足を上げながら、横から、ステップしながら……などなど、ハードルドリルの基本的なメニューを彼女に教える。もちろん、それぞれの注意点も一緒に。

 

 彼女は飲み込みも覚えも早く、スムーズにトレーニングは進んだ。

 

「よし、ハードルドリルはこんなもんだ。股関節周りの良い運動になるから、ちゃんと頭に入れとけよ」

 

 カレンモエは俺が教えたとおりにハードルドリルを一通りこなした。

 昨日の態度から反発されることも予想していたが、反発されるどころか従順に俺の言うことを聞き入れて実践していた。

 

 そのことについて変に突っ込むのも野暮なので、この流れに乗ることにした。

 

「次は? なにするんだ?」

「……じゃあ──」

 

 と、カレンモエは次に行いたいトレーニングについて話し始めた。

 

 俺は勿論、それについての指導をしてやることにした。

 

 ◇

 

 それから1日中、俺はカレンモエに付きっきりで指導した。

 

「もう夕方だ、今日はこんなところにしといたらどうだ?」

「……分かったよ」

 

 あっという間に日は傾き始め、下りてきた太陽は赤みを帯びていた。

 

「どうだ? 同じトレーニングでもちゃんとやると違うだろ?」

「それは……うん」

 

 これまでカレンモエは自己流でトレーニングを行っていた。その内容自体は教本やネットから引っ張ってきているのだろうが、自分が実践するとなると話は別だ。気づかない修正点というのは必ず出てくるものだ。

 

「じゃあ、ストレッチして上がろう」

 

 俺の言葉を受けてカレンモエはターフに座り込み、ストレッチを始めた。足を開いたり体を捻ったりしている彼女を見て、ストレッチを手伝ってやろうと俺は彼女に近寄った。

 

「ストレッチ、ちょっと手伝ってやるよ……触っても大丈夫か?」

「……大丈夫だよ」

「よし、じゃあ寝そべってくれ」

「うん……こう?」

「そう、まずは腰を伸ばすか。足を上げて顔のところまで持ってこい……後転するみたいにな」

 

 仰向けに寝た状態で、頭から肩のあたりまでを地面につけたまま、両膝と顔がくっつくような姿勢を取らせた。上から見るとカレンモエの背中から臀部、大腿が丸見えになる体勢だ。俺は彼女の躯幹の角度を調節したり、脚を上から抑えた。

 トレーナーがいないジュニア級のウマ娘は他人に体を触られることに慣れていない奴が多い。ましてや俺は男なので細心の注意を払って体を触る。セクハラだ痴漢だ変態だと言われたらたまったものではない。だから先程体を触るとあらかじめ言ったのだ。蹴られたりでもしたら文字通り命が危ない。

 

 そんな心配を少ししていたのだが──

 

「…………」

 

 カレンモエは抵抗を示すことなく、俺のされるがままに身を預けてくれていた。

 

「じゃ、次行くぞ」

「うん」

 

 ブルマから伸びる白い肌の太ももに触れると、しっとりと汗ばんでいるのが掌に伝わってきた。

 その後も直接的に体や脚を触って抑えたりしたが、彼女はその態度を崩さないでいた。チラッと確認した表情も何も変わらない。こうも反応しないウマ娘も珍しいなと思いながらストレッチを続けた。こちらとしてはやりやすくて助かる。もしかしたら学園へ来る前に養成所やポニースクールにでも通っていたのかもしれない。

 

 ……そこでふと、キタサンブラックを担当して間もないころ、彼女のストレッチの手伝いをしたことを思い出した。

 触られ慣れてない彼女と触り慣れてない俺がぎこちなくやるストレッチを見て、『お前ら2人とも顔が真っ赤っかじゃねえかよ』って先生にからかわれたっけな……

 

(……なに思い出してんだ俺は)

 

 10年近く前のことに思いを馳せそうになったが、気を取り直してカレンモエを触る手に集中した。

 

 その中で、彼女の関節可動域や筋肉の具合などを確かめていたのは言うまでもない。

 というか、そのためにストレッチに手を貸したまである。

 

(なるほどな……)

 

 直に触れたことによって、カレンモエの関節や筋腱の状態から多くの情報が得られた。

 

 これを基にして彼女へのアドバイスを考える。明日以降数日のものと長期的なビジョンを含めたものを頭の中で組み立てる。

 明日で合宿所に戻るので、今日で彼女のトレーニングを見るのは終わりだ。それどころか、スカウトに取り合ってもらえなかった以上、もう彼女と関わることも無いかもしれないので、最後に彼女の手助けになればと考えたのだ。

 それで模擬レースや選抜レースで良い結果を残し、力のあるトレーナーにスカウトされたらそれ以上のことはないだろう。

 

 

「ほらよ、これで終わりだ」

「……ありがとう」

 

 ストレッチを終えお互いに立ち上がると、意図せず向き合う形になった。カレンモエは伏し目がちの目で俺を真っすぐに見ていた。

 

「…………」

 

 じっと俺を見ている彼女へアドバイスを口にしようとすると──

 

「これから──」「あのっ……!」

 

 ──俺とカレンモエが同時に口を開き、声が重なった。

 

「「…………」」

 

 声が重なった次はお互いに無言の時間が続く。はあ~、と息をひとつついた俺は彼女の話を先に聞くことにした。

 

「そっちが先に言ってくれ。なんだ?」

 

 カレンモエは顔を俯け視線を下に落とし胸の前で自身の両手を重ねてぎゅっと握ると、意を決したように顔を上げた。

 

「明日からも……トレーニング、見てほしい……」

「ああ!?」

 

 思いもしなかった言葉に驚きのあまり俺は声を荒げてしまった。

 

(何を言ってんだコイツは……)

 

 まさかこんなことを言われるとは予想だにしていなかった。カレンモエは俺のスカウトを断ったのだ。それなのにトレーニングを見て欲しいと言っている……(てい)よく俺を利用しようとしているのか? そんな(したた)かなウマ娘には見えないのだが、よく考えなくともコイツはカレンチャンの娘だ。母親もあの天真爛漫な笑顔の裏に計算高い面があるとかないとかそんな話を聞いたことがあった。

 しかも、『明日()()』と彼女は言った。明日だけでなく、明後日もその先も見ろと言うことなのか? 

 

(いや、待てよ)

 

 もしかして俺のチームに入りたいということか。『これからもモエのトレーニングを見て! (意訳)』ってことなのだろうか。俺の指導を受けて彼女は感銘を受けたのかもしれない。

 そんな回答が脳内で弾き出された俺は、また待つことができなかった。

 

「それは、俺のチームに入ってくれるってことか?」

「? え……? あ……違うよ」

「はあ!?」

 

 またしても声を荒げてしまった。

 つまりなんだ、担当ウマ娘になる気はないが、トレーニングは見てくれって言っているのか? そんな都合の良いトレーナーがいるとコイツは思っているのか? 

 

「……だめ?」

 

 小首をかしげ不安の色が見える彼女の瞳が俺を捉えていた。

 

(…………)

 

 最初からアドバイスする気でいたし、担当ウマ娘になってくれないからと助けを求めるウマ娘を突き放すのもトレーナーとして……いや、坂川健幸という一人の人間してどうなのかと思うところである。

 言っておくが、夏合宿そっちのけでカレンモエの面倒をみるのは論外だ。8月末に勝ち上がりをかけた未勝利戦に出る俺のチームの担当ウマ娘が3人もいる。学園に残れるのかどうか、一番重要な時期だと言っても過言ではない。だから必然的に夏合宿のトレーニング後にトレセン学園へ顔を出すということになる。

 

 そうなると、高速道路を使って片道2時間の合宿所との往復になる。夏合宿のトレーニングは朝早くに始まり、昼過ぎか遅くても夕方になるまでには終わるので時間的にこなせないこともない。

 しかし、そこで金の話が上がってくる……毎日往復4時間分のガソリン代と高速代はもちろん自腹だ。俺みたいな底辺トレーナーはもらえる給料も相応に低い……完全なる実力主義であるトレーナー業は給与形態も完全なる実力主義なのである。端的に言ってそんなに余裕のある経済状況ではないのだ。トレーナー室にて薄めたインスタントコーヒーを100均のマグで飲みカップラーメンを啜る俺にとって、その交通費はとてつもなく重い。

 

 ──が、もう俺の答えは決まっていた。どうやら俺は都合の良いトレーナーらしい。

 

「しょうがねえな。分かったよ」

「いいの……?」

「お前が頼んできたんだろうが。俺のチームは夏合宿しててな、帰ってきてからになるからトレーニング見るのは早くても夕方だぞ。それでもいいのか?」

「うん……お願いします」

 

 カレンモエは小さく頭を下げた。

 

「ただし、俺の言うことには従ってもらうぞ。反対するようならこの関係も終わりだ……お前も、自分の意に沿わないトレーニングなんてやりたくないだろ」

「…………分かったよ」

 

 少しの間逡巡する様子を見せたカレンモエであったが、納得したように返事をした。

 

「それなら明日のトレーニングについて1つ指示だ。午前中はオフにして昼過ぎ……いや、14時ぐらいからスタートしろ。いいな?」

「え? なんで……?」

「反対するならって言ったぞ俺は。どうだ、聞けるか? 言っとくが、お前の状態を見ればトレーニングしてたかどうかなんてすぐに分かるぞ」

「…………」

 

 カレンモエは黙り込んだ。その表情を見ると、その形のいい眉根に皺が寄っていた。

 

 さて、コイツはどう出るか。

 

「……言う通りに、する」

「分かった。じゃあ今から明日のメニュー書いてやるから少し待ってろ」

 

 ポケットに入れていたメモ帳を取り出してペンを走らせる。考え自体は纏まっていたので、右手のペンは淀みなく動いた。

 書き終えたそれを破いてカレンモエに渡した。受け取ったカレンモエはそれをじぃっと見ていた。

 

「ちゃんとその通りにやれよ、カレンモエ」

「……いらない」

「ん?」

 

 いらない? 

 何のことか聞き返す前に、カレンモエが口を開いた。

 

 

「“カレン”はいらない。モエ、でいいよ」

 

 

 決意するかのように放たれたカレンモエのその言葉はとても印象に残るものだった。

 

「俺は坂川健幸だ。じゃあな、モエ」

「……え? さっき、そっちも何か言おうとしてなかった……?」

「……なんでもねえよ」

 

 もう言う必要は無くなったのだ。

 

 別れを告げた俺はその場を去った。

 

 階段を上る途中で立ち止まってコースを振り返ると、出した道具を片付けているカレンモエの姿があった。

 

 

 午前中をオフした理由だが、今までのハードトレーニングの影響か筋自体が熱を持って硬さやつっぱり感を持っていたからだ。ストレッチをしているのに筋緊張がうまくとれていなかった。彼女の表情や様子から痛みがあるのかどうかは読み取れなかったが、あれなら強い筋肉痛もあるはずである。もし関節痛でもあろうものなら即刻トレーニングは中止させていた。

 しかも今は真夏でこの暑さの中、朝から暗くなるまでトレーニングをしているのだ。あんな身体的に疲労がたまりまくった状態でトレーニングをしても効果がないばかりか体調を崩してしまうことは想像に難くない。現に彼女のフォームはお世辞にも整っているとは言い難い。それに熱中症で倒れる可能性だってあるだろう。

 この短期間……夏休みが終わるまでになるだろうが、練習したがりの彼女にブレーキのかけ方を教えなければならない。

 

「……ハードな夏休みになりそうだな」

 

 そう独り言ちた俺は再び階段を上り始めた。



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白夢3 虎穴に入らずんば虎子を得ず

冒頭に出てくる2人はただのモブです。


 俺はトレセン学園の関係者用駐車場に車を止め、荷物の入ったバッグを手にトレーナー室へ向かっていた。

 

「やっぱこうも毎日運転すると疲れるな……」

 

 カレンモエに頼まれてトレーニングを見るようになってから1週間ほどが経過していた。毎日往復4時間の道のりは中々にハードなものだった。クルーズコントロールがついた車にしておくべきだっと改めて後悔していた。ケチって先進装備のほとんどついていない中古ミニバンにしたツケがここに来て回ってきていた。

 

 

 寮に戻るのも面倒くさいので、直接トレーナー室へ足を運ぶ。トレーナー室に荷物を置いて、必要な計測機具だけ持ってトレーニングコースへ向かった。

 コースを一望できるところまで進むと、そこにはいつものように1人でトレーニングに取り組むカレンモエが──

 

「ん? 誰だあのウマ娘」

 

 ──いなかった。いや、カレンモエはいるのだが、その彼女は足を止めて見覚えのないウマ娘と話していたのだ。

 

「学園の友達か?」

 

 そんなことを考えながら彼女たちに近づくと、段々とその会話内容が聞こえてきた。

 

「え~ホントにウマッターもウマスタも、SNS何もやってないの~?」

「うん」

「だってお母さんカレンチャンなんだよね? ()()()?」

「だって、やりたくないから」

「みんなやってるのにそんなの()()()()ない? しかもあのバズりまくってるカレンチャンの娘だったら、フツーやるっしょ。もしかして初対面だからって警戒してる?」

「本当に、やってないから……」

「な~んだ、残念。せっかく繋がれると思ったのに、()()()()()──」

「…………」

 

 カレンモエがどこか苛ついているように見える。表情はほぼ変わっていないのに、だ。

 

 これまで接してきて少しなりとも彼女のことが分かってきていた。

 無表情というわけではないのだが、すました表情で言葉数も少なく、顔からも言葉からも感情が読み取りづらい。マコが『クール美少女』という表現した理由も分かる気がする。

 

 今、彼女の口調と態度が変わっていた。その変化はごく僅かなものだ。初対面の奴やカレンモエをちゃんと見てこなかった奴には絶対に分からないだろう。

 

「何やってんだ」

 

 カレンモエと話しているウマ娘の背後まで来て俺はそう声をかけた。

 

「わああ! ……ってウチのトレーナーじゃねーじゃん。もしかしてカレンモエちゃんのトレーナー?」

 

 自分の担当トレーナーと勘違いしたのか、驚いた様子で飛び上がるように振り向いた体操服姿のウマ娘。鹿毛の髪に髪飾りを多くつけており、爪にはきらきらするネイルが光っていた。

 

「担当じゃねえが、色々あって短期間だけ面倒見てるだけだ。モエと何してんだお前」

「わたし? 合宿中にケガしてさー、軽かったんだけど。診察の関係で今日だけ学園で軽くトレーニングやってたらカレンモエちゃん見つけて──」

 

「おらあああああ! 何サボってんだあああああ!!!」

 

 そこで遠くから怒鳴り声が聞こえ、その声の主である男性がこちらに向かって走ってきた。

 

「ヤッベ! 今度こそウチのトレーナーじゃん! じゃねー!」

 

 そのウマ娘は急いで俺たちの元を離れていった。ケガをしていると言っていた通り、ジョギング程度の動きで彼女のトレーナーから逃げていたがそこは彼女もウマ娘、人間のトレーナーが追いつけるはずもなく、その姿はトレーニングコースの外へ消えていった。トレーナーは途中から諦めて歩いてコース外へ出ていった。

 

「なんだよ、絡まれてたのか?」

「別に、話しかけられただけだよ」

 

 それを絡まれたというのではないかと口に出さずに突っ込んでおいた。

 

「そうか。じゃあトレーニングに戻れよ。どこまでやったんだ?」

 

 そうして今日もカレンモエとのトレーニングが始まった。

 

 ◇

 

「今日はここまでだ」

「え? だってまだ……」

 

 本日のトレーニング終了宣言に対しカレンモエは引き下がらなかったがそれは当然かもしれない。今日のメニューを半分程度しか消化していなかったからだ。現に日は傾いてきているとはいえ、夏の太陽はまだ輝いていた。

 

 トレーニングを切り上げた理由を彼女に伝える。

 

「お前の走り、大分崩れてんの分かるか? フォームもペースもぐちゃぐちゃだ。集中もできてねえだろ。これでトレーニングする意味はない。以上」

「…………」

 

 自分の体に目を落とし、何かを考えこんでいる様子のカレンモエ。これまで一緒にトレーニングしてきて分かったことだが、彼女はこうやって黙って何かを考え込むような仕草をちょいちょい見せてくる。

 

「だから今日は……そうだな。今から俺のトレーナー室まで来い。スポーツ医学の勉強でもするか。その辺の知識つけんのも悪くねえだろ」

「……分かった」

「よし。クールダウンしたらシャワー浴びて着替えて来い。俺のトレーナー室は──」

 

 カレンモエに俺のトレーナー室の場所を伝えて、俺は先にトレーナー室へ向かった。

 寮に帰ってシャワー浴びて髪乾かして着替えてだから時間もかかるだろうし、冷房でもかけて涼しくしといてやろう。

 

 ──上手くいけば、長話になるだろうしな。

 

 ◇

 

 トレーナー室の冷房が効いて涼しくなってきたところでカレンモエがやって来た。ノックして入ってきた彼女は体操服とブルマから着替え、Tシャツとハーフパンツというラフな出で立ちにペンケースとノートを持っていた。風呂上がりだからかピンクのカチューシャ型メンコは外していた。

 

「おう、ソファーでも椅子でも好きなところに座ってくれ」

 

 カレンモエは椅子に座ってテーブルにペンケースとノートを開き準備し始めた。

 ……ここまで勉強する気満々だと、若干の罪悪感が湧いてきた。

 

 なぜ罪悪感があるのかと言うと、俺はスポーツ医学の話をする気なんてさらさらなかったのだ。率直に言うと彼女を騙したのだった。

 何故かというと、トレーナー室で彼女と話す機会を作り、彼女自身のことを知りたかったからだ。 

 

 俺の管理により彼女の疲労はうまく軽減できており、今日の状態自体は良かったのだ。なのにトレーニングでは大きく崩れていた。

 身体面で問題がないのなら、精神面で何か変化があったのかと疑うのはごく自然のことだろう。

 

 

 偶然目にした名も知らないウマ娘との会話が原因かもしれないと考えつくのに時間はかからなかった。一部しか聞き取れなかったが、その内容を俺は聞いていた。

 その会話では何を話していたのか……ウマッター……SNS……

 

 

 そして……カレンチャン。

 

 

 『“カレン”はいらない』と彼女が言ったことを脳裏をよぎった。

 

 

 テーブルを挟んで彼女の正面の椅子に俺は腰を下ろした。

 

「お前、今何を目指してるんだ?」

「目指す……?」

「何を目標にやってるかってことだ。まあこの時期だと来月の選抜レース……そうだな?」

「うん」

「だろうな。どの距離で出るんだ?」

「まだ決めてないけど、1800か2000で出るつもり」

「1800か2000だあ!?」

 

 予想だにしない答えが返ってきて俺は声のボリュームを一段階上げざるを得なかった。てっきり1200(スプリント)から1600(マイル)だと思っていた。だって、こいつはカレンチャンの娘──

 

「なに……?」

「いや、何でもねえ。中距離を目指すんだな。……なんでだ?」

 

 ──さあ、少しずつ探りを入れていくことにしよう。

 

「……それ、答えなきゃだめなの?」

「目指す距離によって勉強会の内容も変わるんだよ。その理由を知りたいのは当然だろ」

 

 完全なるでまかせである。元より勉強会なんぞする気はない。

 

「……たいしたことないから、別いいでしょ。それに中距離を走ることが何かおかしいの? クラシック路線やティアラ路線を目指すのは普通でしょ?」

 

 カレンモエはばつが悪そうに小さくそっぽを向いた。

 これまで接してきて一番と言えるほど彼女は饒舌になった。

 

(隠したい……いや、言いたくない理由か……大体予想はつくけどな。GⅠ取るような母親を持つウマ娘……)

 

 俺はコイツの担当トレーナーでもないので、ここまで立ち入る必要はないのだろう。お助け大将(キタサンブラック)でもあるまいし、それほど関係の無い他人にここまでする理由なんてないのかもしれない。

 しかし、1人で走っているときの追い詰められているような表情と、今日の崩れてしまった彼女がどうしても気になってしまった。

 その姿とハードワークが繋がっているのなら、そこを何とかできないかと思ったのだ。もしこのまま、デビューもしてない現状でこんな調子なら、遠くない未来でこいつは必ず自分に潰されてしまう。

 

「まあ、おかしくはねえな……だが」

 

 彼女がそんな態度をとるならこっちも突っ込んでいくだけだ。虎穴に入らずんば虎子を得ずである。

 ……この短い付き合いの中で、少なからず情が移ったことは否定できない。

 

 俺の方を伺うように視線を寄こすカレンモエを切り崩さんと、本題を投げかけた。

 

「母親のカレンチャンは1200(スプリント)でGⅠ2つ取ってんのに、なんで1200にしないんだ?」

「…………関係、ないでしょ」

「関係あるだろ。母親や近親の得意な距離を参考にすんのは普通のことだろうが」

「あなたには、関係ないって言ってるの……!」

 

 カレンモエの言葉には明確な感情が乗っていた。予想以上の反応が返ってきた。

 それに少し安堵する。感情的になってくれるなら、やりようはいくらでもある。一番最悪なのは黙り込んで取り合ってくれないことだからだ。

 

「確かにお前は俺の担当ウマ娘でも何でもない。でもここまで面倒見てきてやったんだ、完全に関係ないとは言わせねえぞ」

 

 恩着せがましいかもしれないが、まずは表面上だけでも彼女を繋ぎ止めておく理由が欲しかった。

 

「それに選抜レースに出るのなら、お前に1番適したレースを選ばせてやりたい。なんでそんなに苛ついてんのか知らねえが、俺は何か間違ったことを言っているか?」

 

 次は俺の話すことの正当性を彼女に印象づけようとこう言った。

 適したレースを選びたいというのは本音ではあるが、狙いはそこだけではない。

 

 あえて、母親のことを強調するように──

 

「確かに、距離適性を決めつけることだけは絶対に駄目だ。()()()()()1()()()()()()()()()。でもだ、さっきも言ったがカレンチャンはスプリントのスペシャリストだ。お前にスプリントの適性がないと考える方がおかしいだろ」

「……あなたも結局、そうなんだ……」

「ん? 何か言ったか?」

 

 カレンモエは逸らしていた目に──カレンチャンとは違う、澄んだ青色の瞳に──強い感情を宿らせ俺を見返していた。

 

「モエは……モエは! カレンチャンとは違うっ! 一緒にしないでっ!!! 押しつけないでっ!!!」

 

 静かに怒気を含ませた悲痛な叫びが、俺に浴びせられていた。




カレンモエの目の色は「モエ」がハワイ語であることから、ハワイの空と海を連想して。また、運命レベルのなにかを感じるであろう実装されてないウマ娘の勝負服から連想しました。


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第21話 夢から覚めて

キングのZONe何個も買っちゃいました……(小声)


 かすかに、何かが聞こえてくる。

 

 ──…………さん──

 

 開きかけた瞼の向こうに光を感じる。

 

 ──…………ナーさん──

 

 頭の中はまだうっすらと靄がかっており、視界もぼんやりとしているが、徐々にどちらとも輪郭がはっきりしてきているような気がする。

 

 ──……レーナーさん、起き──

 

 目の前に誰かがいるのが分かる。たぶん、この声の主だ。呼んでいるのは──

 

 

「トレーナーさんっ、起きて……!」

 

 

「……えあっ?」

 

 視界いっぱいに芦毛のウマ娘の顔が映っていた。そのウマ娘は不安そうな澄んだ青色の瞳でこちらを見つめていた。

 

「……モエ?」

「もう、やっと起きた……着いたよ。降りないと」

「着いた……降りる?」

 

 カレンモエが目の前から離れて、そこで意識が急に鮮明になった。辺りを見回して状況を確認し、その中で車内の電光掲示板に目を向けると、そこには目的の駅の名前が表示されていた。

 

「うおっ! やべえ」

 

 急いで席を立ちあがり、荷物を持って半分走るように通路を進む。後ろについてくるカレンモエと一緒になんとか新幹線を降りることができた。

 

「はあっ……間一髪だったな」

「……良かった。間に合って」

「ああ、そうだな──あ?」

「? どうしたの? 忘れもの?」

 

 妙にすっきりした頭でこれまでの経緯を思い出す。一体何が起こったのか。

 

(えーっと、確か)

 

 乙訓特別でカレンモエが負けて……控室から中々出てこなくて……2人で新幹線に乗って……どんな話をするか考えて……考えを纏めるために目を瞑っ──! 

 

(まさか、まさか……!)

 

 たどり着いた事実に愕然としてしまった。

 

(ね、寝ちまったのか!?)

 

 カレンモエに何を話すか考えを纏めるうちに寝てしまい、果てに目的の駅まで爆睡していたというなんとも間の抜けた事実を直視できないでいた。

 

(ありえねえだろ……暢気に寝てたってのか!? アホすぎるにもほどがある!)

 

 そして気付いてしまった。自分が何もしていないことに。

 

 負けたカレンモエのフォロー? 馬鹿を言え。

 カレンモエの気持ちを前向きに? とんでもねえ。

 

 お前()はただ2時間寝てただけじゃないか……! 

 

(どうする……!? このままじゃ……)

 

 

 

 頭の中で自分自身を非難してくる声から逃れるうちに、気付けば在来線の電車にカレンモエと乗り換えていた。

 

 隣に並んで立つカレンモエを見る。ほどなくして彼女は俺の視線を感じ取ったかのようにこちらを向いた。

 

「なに?」

「い、いや、何でもねえ」

「そう……?」

 

 カレンモエと一緒に歩んできた約1年半、彼女の表情や態度が変わらなくても何となく雰囲気で感情を読み取れるようになってきていたのだが、俺自身が焦っているせいが今は何も分からない。いつもと同じようにしか見えない。レース後は気が立っているようだったり、逆に落ち込んでもいたりしているようだったが……

 

 ◇

 

 焦る気持ちとは裏腹にこんな人の多い電車の中で何か話をするなんてできるはずもなく、無情にもトレセン学園最の寄り駅に到着した。

 

 そして何もできないままあれよあれよという間に栗東寮に着いてしまった。ウマ娘の寮にトレーナーが入ることは許されないので、入り口前で俺は足を止めた。

 

「……トレーナーさん、また明日」

「あ、ああ……じゃあな──」

 

 カレンモエが前に出て、入り口へ足を向ける。

 

(ってこれで良いわけねえだろ! どうする……どうする……)

 

 そう考えている間にも、彼女の背中が小さくなってくる。

 

(今から呼び止めて時間を作るか? トレーナー室に呼んで……いや、もう時間も遅いし現実的じゃねえ)

 

 彼女は入り口の扉に手をかけた。

 

(今日は無理……ってことはだ……2人で話……これしかねえ!)

 

 そこで浮かんできたのは、東スポ杯のあと清島と2人で飲みながら話をしたことだった。

 ──後から客観的に見ると、自分でもなんでここまで焦っていたのか分からない。

 

「──おいっ! モエ!」

「……?」

 

 カレンモエは扉に手をかけたままこちらへ振り向いた。

 

「明日の夜、空いてるか?」

「……どうしたの?」

「外にメシでも食いにいかねえか?」

 

 俺が苦し紛れに出した結論は、明日食事に誘ってその場で話をしようということだ。

 なんとも捻りのない、ただただ普通で回りくどい誘いである。それに話をしたいのならトレーニング後のトレーナー室で良いではないかと、口を出した後に思ってしまった。

 

「…………」

 

 カレンモエは向こう側へ向き直った。黙って下を向き、何かを考えているような様子だった。

 

「……2人?」

「は? なんだって?」

「ごはん、2人で行くってこと?」

 

 当然俺はそのつもりだ。オーバーワークについての話と負けたレースのフォローをしようというのだ、キングもペティも連れて行く必要はない。

 もしかしてカレンモエは打ち上げの食事会みたいなものだと考えていたのだろうか? 

 

「そうだ。俺とお前の2人だ。駄目か?」

「…………………………」

「どうした?」

「…………………………」

「おい?」

「──よ」

「ん?」

「いいよ。予定空けとくね」

「おお、そうか! 時間と場所はまた……明日のトレーニングの時に」

「うん」

 

 カレンモエはそう返事をすると、その姿を栗東寮の中へ消した。彼女の芦毛もその背中も見えなくなった。

 

「……」

 

 なんとか話す場を設けることにこぎつけることができたようだ。取り合えず一安心なのだが……

 

「どう話したもんか……」

 

 結局のところ、何も考えは纏まっていなかった。

 

 ◇

 

 迎えた翌日の放課後。

 キングヘイローのトレーニングから一時的に離れて、部室でカレンモエの身体の状態をチェックしていた。昨日控室から出てきた後に軽く確認はしていたが、翌日になって改めてレース後に過度な疲労や故障がないか見極める必要があったのだ。ここまで見る感じ、筋肉痛はあるものの下肢の筋腱に異常な所見は認めなかった。

 今は床に敷いたマットへ寝転んでもらって彼女の上体を診ていた。

 

「次、体捻ってみろ。痛みは無いか?」

「……ここに、ちょっと」

「脇腹か……触るぞ」

 

 ジャージとインナーを捲り、カレンモエが動作時痛を訴えた左の脇腹を触る。筋の走行を確かめながら触ると、確かに筋の張りが感じられた。しかし、熱は持っていないし著明な腫れもない。これほどなら大して問題はなく経過観察で十分だろう。痛みが治まらなかったり、増悪しないかだけ注意しておく必要がある。

 合わせて周辺の筋も確認するために手を這わす。周囲の筋も硬さはあるものの、圧痛もなさそうだし、大丈──

 

「…………んっ……」

「おっと、スマン……」

 

 無意識のうちにずっと触っていたせいか、カレンモエが小さく声を漏らしたので急いで手を離した。

 

「脇腹、熱も持ってねえし心配はいらん。痛みが軽くならなかったり、逆に強くなってきたらすぐに言え」

「分かった。他は大丈夫」

「じゃあ立って、部室の外で軽く走ってみろ」

 

 ジャージとインナーを下ろしてカレンモエは上体を起こし立ち上がった。2人で部室の外に出て、彼女にジョギングのように走ってもらった。

 

「痛みは?」

「筋肉痛はあるけど……」

「関節は大丈夫なんだな?」

「うん」

「ならいいぞ。終わりだ」

 

 走っているカレンモエを止めた。

 

 フォームの崩れも無いし酷い痛みも無い。この様子なら問題ないだろう。乙訓特別にて最後伸びきれずに終わったのを見ていただけに一抹の不安もあったのだが、身体には故障もなさそうで安心した。

 

「よし、今日はプールで軽く水中ウォーキングして、ストレッチしたら上がれ」

「うん」

「それと、今日の夜のことだがな……」

「…………」

 

 カレンモエがじぃーっと俺の方を見つめてきた。その視線にどこか言いにくさを感じながらも、今日の夜について彼女に伝えた。

 集合場所は最寄り駅前、時刻は19時ごろで、夜間外出届けを出しておくように……ファイルに挟んでいたトレーナーの承認印が押された外出届けを彼女に渡した。

 学園から一緒に行ってもいいのだが、昨今の男性トレーナーとウマ娘の関係を鑑みるに夜に2人で大っぴらに行動するのは避けた方が良いと判断した。今日の俺たちみたいにトレーナーが担当ウマ娘と2人で食事に行くなんてそんな珍しい事でもないのだが、だからと言って目の届きやすい学園前からあえて一緒に行動することはない。万が一、変な噂でも流れたらカレンモエに迷惑がかかるし、面倒ごとは避けたいのだ。

 

「なんか食いたいもんとかあるか?」

「トレーナーさんの好きなものでいいよ」

「つってもなあ……あんま期待すんなよ」

 

 年頃の女が好きそうな店になんて入ったことのない俺がカレンモエの期待に応えられるなんて思っていないのだが、お任せとは……中々にハードルが高い。

 

「俺はキングのトレーニングを見に行ってくる。また後でな」

「うん……」

 

 カレンモエに背を向けた俺はキングヘイローのトレーニングを見るべくトレーニングコースに足を運んだ。

 

 

 ◇

 

 

 時刻は18時30分、駅前の広場に到着してカレンモエを待ってると、それから10分もしないうちに彼女は姿を現した。

 

「おう、来たか……って」

 

 俺に駆け寄ってきたカレンモエを見て、一瞬言葉を失ってしまった。

 

「……? どうしたの? なにか変?」

 

 カレンモエは身を小さく翻して自身の服装を見下ろしていた。

 

「いや、別に変じゃねえんだ。むしろ……」

「?」

「なんつーか、やっぱりお前、お洒落なんだな」

 

 カレンモエの格好を見て口から出たのはそんな月並みな感想だった。

 彼女は落ち着いたブラウンのコートと長いスカートに短いブーツを履き、黒いマフラーを首もとに巻いていた。手には小さな手提げバッグを持っている。そんな格好だからか、彼女の白い芦毛が対照的によく映えていた。ピンクのカチューシャ型メンコと黄色のリボンは外し、シックな模様の入った黒いメンコを耳につけていた。ほんのり化粧もしているようだ。

 ファッションに疎い俺からしても、カレンモエの着こなしは大人びていてそのセンスの高さを感じるものだった。

 

 対して俺はジーパンにカジュアルシャツ、その上にダウンを羽織っているだけでお洒落とはほど遠く、近くのスーパーに買い物でも行くような格好だった。

 服やファッションには興味がないし、学園では普段から作業服でいる人間だ、普通の格好をしているだけでも存分に褒めてほしいところである。

 

 ──これは坂川のあずかり知らない余談になるが、カレンモエのコーデはAラインのロングコートとロングスカート、それに黒系で統一したマフラーとショートブーツとハンドバッグを合わせ、カジュアルながらもきちんと感を演出したものとなっていた。

 

「そう? 普通だけど」

「いつだったか、前に私服見たときもお洒落だなと思ってたんだよ。ジャージ以外持ってねえってウマ娘だっているからな。お前、服とか好きなのか?」

「うん。好きだよ。色んなコーデ考えるのも好き」

「そうか。お前の母親もなんかそういう服とかのコーデ? 詳しいんだろ? 話とかすんのか?」

「ママと? するよ。ママは今でも服飾のモデルもやってるから凄く詳しい」

 

 自然と会話が繋がる。彼女はキングやペティなど複数人その場にいる時はあまり喋りたがらないようなのだ。他の人やウマ娘とどうかは知らないが、俺と1対1になると案外喋ってくれる。今日のカレンモエはいつになく饒舌だった。

 

「ねえ、トレーナーさん」

「なんだよ」

「モエ、カワイイ?」

「はあ? ……さあな、まあ今日のカッコはいいんじゃねえか」

「……ふふっ」

 

 そんな他愛もない話をしながら、駅のホームへと2人で向かった。その中で1つ思うことがあった。

 

(なんかコイツ、昨日のこと引きずってるって感じじゃねえな……むしろ、どこか元気そうな……?)

 

 ◇

 

 在来線に乗って、数駅先の駅で降りた俺たちは繁華街へ向かった。大通りに着いたそこは、平日の夜なので休日よりも人は少ないがそれなりに人であふれていた。

 

 そうして大通りから一本横道に入った。俺が目指していた店──以前、清島と会った時に入った隠れ家的な居酒屋がそこにあった。清島と来た時に、奥の方に個室があったのを覚えていたのだ。

 

「……もしかして、ここ?」

 

 心なしか、カレンモエが若干引いているように感じる。

 

 まだ10代のガキを酒を出す店に連れて行くのもどうかと思ったが、メシも旨かったしなにより個室なら他の目を気にせずに済む。普通のファミレスとかの雑音が混じる店よりは話がしやすいとの判断だった。

 なお、なら静かなフランス料理やらイタリア料理やらの個人店に連れて行けばよいではないかとの反論は受け付けない。俺はそんな洒落乙な店に行ったことなんてないのだ、無理を言わないで欲しい。ドヤ街の汚い飲み屋に連れていかないだけ良識があると言っていいだろう。

 

「ああ、個室を予約してある。前来たんだがメシが旨かったんだ。居酒屋だから抵抗あるかもしれねえが、まあ入ってみろ」

「……トレーナーさん」

「どうした?」

 

 店の扉を開ける直前でカレンモエが立ち止まった。

 

「前って、誰かと来たの?」

 

 振り向くと、カレンモエの瞳が俺の目の奥を覗き込むように見つめていた。それに少し居心地の悪さを感じながらもそれに答えた。

 

「前? あーこの店にか。アルファーグの清島先生とだよ。俺が昔世話になってたのは知ってるだろ? 飲みに歩いているときにばったり会ってな」

「……ふーん、そう……」

 

 誰と来たかなんて気になるもんなのかと疑問に思いながら、俺は扉を開いて中に入っていった。バイトと思わしき女性の店員に名前を告げると、店の最奥にある隔たれた個室に案内された。ついてきた俺の連れが若いウマ娘だと分かると訝し気な目で見られたが気にしないことにした。

 引き戸を開けて個室に入ると、中はテーブルを挟んで2人ずつ座れるようになっていた。上着を掛けて、カレンモエと向かい合うように座りながら、4人座れるならキングヘイローとペティも連れてきてもいいかもなと考えていた。ペティはともかく、お嬢のキングヘイローがこんな店に入るかどうか分からないのだが。

 

 メニューを開いてカレンモエに差し出した。

 

「なんでも好きなの頼め。もちろん酒は絶対に飲むなよ」

「……トレーナーさんは、お酒飲む?」

「は? 飲むわけねえだろ」

 

 この店には話をするために来ただけで、酒を飲みたいから来たわけではない。

 

「……決まったよ」

 

 カレンモエがそう言ったので、呼び鈴を押した。俺は前来た時に頼んだものを適当に注文しようと思っていた。

 すぐに扉が開かれ、先程の店員の女が注文をとりに来た。

 

「ご注文お伺いします」

 

 カレンモエの注文を済ませた後に俺も注文をした。2人の注文を受け、お決まりのセリフを店員の女が言う。

 

「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」

「ええ、それで──」

「ちょっと、待って」

 

 カレンモエは口を挟んで店員の女を呼び止めると、メニューを指さして追加で注文をしているようだった。

 

「……?」

 

 時折2人がチラッとこちらを向いていることに、何かの違和感を感じていた。

 

 それの意味が分かるのは、そのすぐ後のことだった。

 

 

 

 

 

「モエ、お前何を……」

 

 店員が運んできたものを見て俺は絶句してしまった。

 テーブルの上に並べられたのはつき出しの料理と黄金色の液体が入ったビールグラス、赤い液体が入ったワイングラス、とっくりとお猪口、透明な液体が入った何かのロックグラス、枡の中に乗せられたこれまた透明な液体がなみなみと入ったグラスなどなど、様々な飲料が入ったグラスやコップだった。

 

 つまり、所狭しと俺の前に置かれたのは大量の酒だった。カレンモエの前にはにんじんジュースのグラスが1つだけ。

 

「お飲み物は以上でよろしかったでしょうか」

「はい」

「失礼いたします」

 

 言葉を失っている俺を差し置いて返事をしたカレンモエはストローでジュースを軽く吸っていた。

 

「どういうつもりだモエ! いったい何を──」

「──飲んで」

「はあ?」

「飲んで、トレーナーさん」

 

 有無を言わせないカレンモエの姿勢に押されそうになったが、これぐらいで誤魔化せられる俺ではない。

 

「ふざけるのもいい加減にしとけよ。なんでメシを食いに来たかぐらいお前も分かってるだろ」

「……うん」

「ならなんでこんな──」

「ごはん、食べた後にしない? 話があるのは、モエも分かってるから……」

 

 先程までの態度とは打って変わって、カレンモエはしおらしい雰囲気を醸し出していた。

 

「……しょうがねえ。飯を食った後だぞ」

 

 悪ふざけしたのか知らないが、反省してそうな様子であったし、俺はカレンモエの態度と言葉に折れる形となった。

 

 ……その判断を後悔するのに時間はかからなかった。

 

 ◇

 

「…………うぅ~~……」

 

 俺は肘をついた手で額を抑え、脳に回ってくるアルコールと戦っていた。

 

「トレーナーさん、酔ったの?」

「ああ~? 酔ってるとは思うが、まだ大丈夫だ……」

「そう? まだ余ってるよ……最後、これ飲む?」

 

 そうしていつの間にか向かい側ではなく俺の横に席を移していたカレンモエが新たなグラスを差し出してくる。その中には琥珀色の液体に大きい氷が浮かんでいた。口にすると、ウイスキーの木の香りが鼻腔から抜けていく。

 

 なんでこんな状況になっているのか振り返るまでもない。食事の傍ら既に来ていた酒を飲んでいると、だんだんとアルコールが回ってきて現在に至ったのだ。

 話をした後から飲めば良かったと今になって思うのだが、カレンモエが「熱いの冷めたらもったいないね」と言ったことから始まり、それに同意して熱燗やお湯割りだけでも飲んでしまったのが致命的であった。

 やはり熱い酒は回るのが速いと思った時にはもう遅かった。アルコールにて抑制が効かない状態になってしまい、カレンモエが次々と渡してくる酒を彼女の挑戦と受け取って飲んでしまっている自分がいた。俺自身、ザルとは言わないまでも酒には強い方だったので、それでも話をする自信はあったのもいけなかった。

 

 結果、このザマだった。

 

「お待たせしましたー、お冷になります…………」

 

 俺が頼んだお冷をテーブルに置いた店員の女が、(けが)らわしいものでも見るかのような視線を俺に送ってから扉を閉めて出ていった。ああいう目になってしまうことも無理はないと残った冷静な頭で考える。

 目の前の客は、未成年のウマ娘を横に侍らせ酒を注がせるアラサーの男だ。どれだけヤバい絵ヅラか説明するまでもないだろう。

 

 ウイスキーのロックを最後に一飲みしてグラスを空けた。これでカレンモエが追加注文したものを含めてテーブル上の酒は全て片付いた。

 来たばかりのお冷やを口に含む。アルコールばかり飲んで乾いていた喉が潤うのを感じてから、横にいる彼女に本題を切り出すことにした。

 

 正直俺は酩酊状態だが、酔っているか酔っていないかは関係なく、トレーナーとして今は言うべきことは言わないといけないのだ。

 居住まいを正して、横にいるカレンモエの横顔に目を据えた。

 

「モエ、昨日までのことだがな」

「……」

「なんで、あんなオーバーワークしてたんだ? あの夏休みは別にして、これまでそんなことしてこなかっただろ」

「……」

「黙ってても分からねえぞ」

「……言いたくない……」

 

 カレンモエは俺と向き合わず、ストローでグラスの中の氷をゆっくりとかき回しながらポツリとそう言った。

 

「俺には言えねえことなのか?」

「……」

「俺に不満があるなら何でも言って欲しいんだ。トレーニングの内容でも、俺自身のことでも……それとも、またカレンチャンがどうとか言われたのか?」

「トレーナーさんに、不満なんてないよ……ママのことも関係ない……全部、モエが……」

 

 こちらに向いたカレンモエの澄んだ青色の瞳が目に入る。言いたくないと言葉では言いながらも、何かを訴えるようなその瞳を見て、思い出されることがあった。

 

 ◇

 

 酔って赤くなっていながらも真面目な顔をする彼を見て、あの日を……彼が自分に踏み込んできた日のことを、思い出していた。



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白夢4 待ち人

話の切り所さんが見つからなかったので長いです


 

 

『モエちゃんはお母さんにそっくりだね』

 

 

 いつからだろう、その言葉が煩わしく聞こえてきたのは。

 幼い頃は誇らしかったはずなのに。

 

 

『モエちゃんはお母さんとは似てないね……顔はそっくりなのに』

 

 

 いつからだろう、そう言われるようになったのは。

 そう望んだはずなのに、なんでそれさえも煩わしく聞こえるの? 

 

 

『お母さん』『母』『子ども』『娘』

 

 

 ────『カレンチャン』────

 

 

 どうして、いつもその名前が出てくるの? 

 

 ここにいるのは、『カレンモエ』だよ……? 

 

 ◇

 

「モエは……モエは! カレンチャンとは違うっ! 一緒にしないでっ!!! 押しつけないでっ!!!」

 

 テーブルを挟んだ向こう側にいる男──坂川というトレーナーは腕組みをして微動だにせずにこちらを見ていた。

 

 

 1週間ほど前、この夏休みの間やってきた通りにトレーニングをしていると、コース横の階段に座っている1人の男がこちらを見ていることに気がついた。

 半袖の作業服を着ていたので用務員関係の人かなと思っていたけど、近くを通りがかったときに見た彼の襟にはトレーナーのバッジが光っていた。その際に声もかけられたけど、どうせ()()()()トレーナーと同じだと思って無視をした。見た目も冴えなかったし、そのからかうような口調からしてまともなトレーナーとも思えなかった。

 

 どうせこのトレーナーもこれまで声をかけてきたトレーナーと同じ……カレンモエがカレンチャンの娘だから声をかけてきたんだ。カレンモエを見ずにカレンチャンしか見ていない……そうでしょ? 

 

 

 その男は次の日もいた。それも前日よりも早い時間から。

 前日と同じように彼の横を通り過ぎようとすると、自分の名前を言い当て、なんでトレセン学園に残ってトレーニングをしているのか訊いてきたけど無視をした。来月の選抜レースにて優秀なトレーナーたちにスカウトされることを狙っている自分としては彼と話す必要が無かったから。

 名前が分かることはそこまで不思議ではなかった。自分はカレンチャンと見た目は似ているのだから、昨日の時点で気付いていたのだろう。

 しかし、無視をしたのにも関わらず彼はいきなりスカウトしてきた。応じるつもりは無かったのだけど、ここまで突拍子もないスカウトも初めてだったので、その真意を確かめてみたくなって、スカウトした理由を訊いた。

 どうせ、この男もカレンチャンの名前を出すんでしょと考えてその答えを待つと、帰ってきたのは「……何でだろうな?」という予想の斜め上をいくものだった。返事をするのもバカらしくなったので無視して再び歩き出すと、彼は何を思ったのかトレーニングについてアドバイスを言い始めた。

 

(今の……)

 

 ちょうど、自分で考えるトレーニングに限界を感じているところだったのでそのアドバイスは思わぬ収穫であった。これまで図書室の本やネットで調べて色々なメニューを考えていたが正直行き詰っていたのが本音だ。試してみる価値はあると思った。

 

 

 そしてその翌日、出会って3日目も彼はいた。それも午前中から。

 昨日聞いたハードルドリルをネットの見様見真似でやっていると、彼は直接こちらにやってきて声をかけてきた。これまでの様子とは打って変わって真面目にアドバイスをしてくれるので、それを素直に聞き入れることにした。

 

 彼の指導の下で何日もトレーニングを取り組んでいくと、とても身体が楽に動いた。走ること自体とても気持ちいいし、タイムも良くなった。

 正直すごく驚いていた。簡単に指導されるだけでこんなに違うのと。ポニースクールの指導者や教官とは違う……これが中央トレセンのトレーナーなのだと感心した。

 

 話は戻り出会って3日目。トレーニング終わりに彼がストレッチを手伝うと言い出した。

 その言葉にかなり警戒したけど、彼を試す気持ちでストレッチを手伝わせた。ポニースクールの時から指導者に身体を触られることには慣れているので別に誰が触ろうとも何とも思わない。でも、その手つきや表情から分かることがある……男性の場合は特に。緊張してこわごわと触る人、なんとも思わない人、適当に速く終わらせたい人、そして下心のある人。

 彼の手が自分の肢体に伸びてくる。その手つきや表情を彼に気付かれないように確認する。

 

(……この人)

 

 彼はとても真摯で真面目だった。その手つきも表情も。

 いろんな箇所を触るものの、その時間は最低限でこちらに気を遣っているのが分かる。それにその表情は真面目を通り越して厳しい顔をしていた。体を触って何か思うところでもあったのかな? 

 

(とりあえずは……少しは、信用してもいいかも)

 

 そう思ってこれから少しの間トレーニングを見て欲しいと頼むと彼は引き受けてくれた。その会話の途中でまたスカウトされかけたけど、彼のウマ娘になる気は無かった。

 

 彼をいいように利用するのは悪いとは思ってる。でも、自分の目標は来月の選抜レースで優秀なトレーナーたちの目に留まることだ。そのトレーナーの中で『カレンチャン』ではなく『カレンモエ』の走りを見てくれる人を見つけ出す……そのためにここまで頑張ってきたんだから。

 

 

 彼とのトレーニングは順調に進んだ。トレーニング量を減らされたことに不満はあったけど、そうしないと指導してくれないと言うのだから納得した。なにか考えがあってのことだろうし。

 

 そして今日のトレーニング中、名も知らないウマ娘が話しかけてきた。これまで何度も何度も聞いてきたことを話す初対面の先輩ウマ娘。どうしてこうもみんな同じことを言うのと、内心苛立ちながら彼女と話していた。幸い、坂川と彼女のトレーナーが来たおかげで彼女との会話は早々に打ち切ることができた。

 

 トレーニングを切り上げスポーツ医学の勉強をすると言い出した坂川。彼の言う通りトレーニングに身が入っていないことは自分でも分かっていたので、納得して座学へと頭を切り替えた。

 

 

 それで時は現在へと至る。執拗にカレンチャンの名前を出す彼に煮えくり返った自分がそこにいた。

 

 坂川は相変わらず腕を組んでこちらを観察するように見ていたが、その姿勢のまま口を開いた。

 

「母親のカレンチャンと同じが嫌だから、選抜レースで中距離を選ぶのか?」

「……比べられるのが、嫌なだけだよ」

 

 カレンチャンと比較されること自体が嫌なのだ。母と同じだということが嫌なわけではない。

 

「お前、カレンチャンと仲はいいのか?」

 

 意図が分からないことを訊いてくる坂川。もうここまで来たら隠すこともないので答えてあげた。

 

「ママとは仲は悪くないと思う。電話もするし」

「そうか。今日のあのウマ娘との話からして嫌ってんのかと思った」

「ママが好きなものがモエも好きとは限らないでしょ。ママはSNSするけどモエはしない。モエはSNS好きじゃない」

 

 母は自分が生まれる前、それこそトレセン学園に入る前からSNSを利用し多くのフォロワーを得ていたと聞いている。その勢いは今も衰えず、年を経るごとにフォロワーが増えている現状だ。娘の自分が言うのもなんだが、カレンチャンは今でもすごく綺麗だし、アップする写真もセンスがあると思う。

 でも、自分はSNSをやろうとは思わなかった。自分のことをスマホで撮ってネットにアップするというのは、自分を見せびらかしているようでどうしても性に合わなかった。幼い頃からずっと、母と違って目立つことや注目されることは苦手だった。

 母も別にSNSを強要してこなかった。まあ、母のSNSには昔から自分がよく登場してはいたのだけれど……

 

「なるほどな。カレンチャンと比較されること……それに、比較してくる奴らも嫌いってとこか。比較されたくないから、短距離を選ばず中距離を選ぶってことだな?」

「……」

「合宿に行かないで1人でトレセン学園でトレーニングしてんのも、そんな奴らと接するのが嫌だって……そんなとこか」

「……」

 

 口をつぐんで彼から目を逸らす。その通りなのだけど、こう言葉にされると素直に肯定したくなくなった。

 合宿になると、普段関わりのない人達と接することが多くなる。今日の先輩との会話のように、あんなやりとりが何度も行われることは容易に想像できた。

 

「何と言うかまあ……」

 

 坂川は頭の後ろで手を組んで椅子にもたれながらそう言った。

 

「アホだなあ、お前」

 

「……っ!?」

 

 まるで出来の悪い生徒に呆れるかのような口調とその内容に対し、驚きとワンテンポ遅れて怒りがやってきた。

 

「なにを──!」

「しゃーねえ。これから授業だ。まずは母ちゃんと比べられるのが嫌だから中距離を選んだってことだが……」

 

 彼は再び腕を組んでこちらを見た。

 

 その見下すような態度が本当に気に食わない。

 

「負けた時のことを考えてんのか?」

「え……?」

「その様子じゃそこまで考えてねえな」

 

 予想しないところを突かれた。思考が追いつく前に彼が話を続けた。

 

「中距離で勝てれば確かに比較する声は少なくなるかもな。でもな、負けたら今よりもっと言われれるぞ。『カレンチャンの娘なのに中距離なんて』って絶対に言われまくるだろうな。お前、それに気づいてんのか?」

「……」

「勝ち続ければ別だが、中央ってのはひとつ勝つだけでも簡単なことじゃねえ。適性も考えず、そんな適当な理由で選んで勝てるのは選ばれた一握りのウマ娘だけだ」

 

 この男が言っていることを理解する前にある言葉が気に障った。

 彼は今なんて言った? 自分が中距離を選んだ理由を『適当な理由』だと言ったの? 

 

 モエのことを何も知らないくせに! 

 

「あんまり中央を無礼(なめ)てると痛い目見るぞ。ウマ娘もトレーナーもみんな死に物狂いで適性距離を探してんのに。お前は中央でひとつ勝つってことの大変さを知らねえんだ」

「……結局、あなたもカレンチャンと同じ短距離を走れって言いたいんだ……!」

「はあ? いつ俺がカレンチャンと同じ距離を走れって言ったんだ? 俺はあえて中距離を走る理由を訊いただけだ。例外もあるが、ウマ娘ってのは血縁関係と適性距離が似ることが多い。……安易に適性距離を決めつけるのは絶対に駄目だが、カレンチャンの娘ならまずはスプリントを選ぶのが普通だろ。1回走って合わないなら距離を変えたらいいんだよ」

「だからっ! カレンチャンを押しつけるのはやめてって、言ってる……!」

「……重症だな、こりゃ。話にならん」

「もういいよ。無駄な話ばかりするなら帰る。明日からトレーニングも見てくれなくていい……さよなら」

 

 もう二度と会うことはないという意味の「さよなら」を言って、閉じたノートとペンケースを持ち席を立った。

 

「ちょっと待ってくれ」

 

 自分が立ち上がったのを見るや否や坂川は呼び止めた。

 ここまで言われて、待つと思っているの? 

 

「なに? もう話すことは無いよ」

「俺はまだ話があるんだ。今日はこれから暇だろ? もうちょっと付き合ってくれよ」

「……」

「怒らせたんなら謝る。すまねえな。ああいう言い方しかできねえんだ」

 

 ……本当だろうか? アホだと言ったり最後は話にならないとか言ったり、わざと怒らせているようにしか思えないけど。

 

「……話ってなに? へんなこと言ったら、帰るから」

「分かった。ありがとうな」

 

 再び席に腰を下ろす。謝った坂川に免じてその話を聞くことにした。

 しかし、これが最後通告。彼に言った通り、気に障るようなことを言うなら帰るつもりだ。

 

 彼がしたい話……だいたい予想はつく。この様子だと、スポーツ医学の座学なんてする気はないのだろう。なら──

 

「んな警戒すんなよ。スカウトするとかそんなんじゃねえからよ」

「……え? スカウト、しないの?」

 

 自分の胸中を察したかのように坂川はそう言った。スカウトしたいのだという予想は一瞬にして外れた。

 

「しねえよ。お前だって俺みたいなトレーナーは嫌だろうが。と言うか既にこっちは2回も断られてるしな。今更なんの期待もしてねえ。だから楽に聞いてくれ」

 

 彼は組んでいる腕を解き、居住まいを正して話し始めた。

 

「お前は、他人が自分とカレンチャンを比較してくるのが受け入れられないんだろ?」

「…………」

 

 またその話……席を立ってしまおうかと思い、足に力を入れて立ち上がる前に坂川は言葉を続けた。

 

「受け入れられない物事は大きく2つに分けられるんだ。それが何かわかるか?」

「…………?」

 

 急に言われたその話に足の力が無意識に抜けた。何が言いたいのかも分からないし見当もつかないけど、興味が全く湧かないと言われたら嘘になる。

 黙って彼の次の言葉を待った。

 

「その2つってのは、自分でどうにかできる事と、自分でどうにかできない事だ」

 

 自分でどうにかできる事と、できない事。その言葉の意味を考えている間に坂川の話が進む。

 

「これをお前に当てはめる……他人がお前とカレンチャンを比較することはどっちだ?」

「…………」

 

 それを考えてみる。

 答えがまだ出ていない状況で視線をめぐらすうちに坂川と目が合うと、彼は口を開いた。

 

「それは自分じゃどうにもできない事なんだ」

「……」

「お前が俺に言ってるみたいに喚いたって、誰も何も変わらねえ。それとも比較してくる全員に『カレンチャンと比較するな!』とでも言うつもりか? ありえねえだろ」

「……っ!」

 

 これまで鳴りを潜めていた坂川の言葉が再び挑発じみたものに変わる。それに抵抗感を感じるが、続きを聞いてみたい自分もいた。

 

「じゃあどうにもできない事はどうすればいいのか。それはな、そのまま受け入れるしかねえんだよ。だってどうすることもできないんだぜ? それ以外に何か方法があるか?」

「……」

「そもそもだ。カレンチャンはスプリンターズステークスと高松宮記念を勝った名スプリンターだぞ? 日本の短距離路線の頂点を極めたウマ娘の1人だ。しかもSNSであれだけブームを巻き起こしていた。それに娘がいて、トレセン学園に入学して、あまつさえ顔がそっくりときた。これで比較するなと言う方がおかしいんだよ。見た目が瓜二つなのは、まあ不運ではある。毛色でも違えばここまで言われることは無かっただろうがな」

 

 坂川は息をついてから話を続ける。

 

「あのな、母親と比較されたくなけりゃトレセン学園になんか入らなきゃ良かったんだ。母親と比較されるのが嫌ならそもそもレースを選ばないって選択肢があっただろうが。自分の意志でお前は今ここに立ってんだろう? なら、受け入れるしかねえんだ」

 

 坂川が言うそれを黙って聞き、その内容を一つ一つ噛み砕いていく。

 

 カレンチャンは名スプリンターで短距離路線の頂点を極めたこと──それを否定する気はない。

 カレンチャンの娘だから比較されるのは仕方ないということ──それは自分ではどうしようもない事で、彼に受け入れるしかないと言われても、それは受け入れられない。

 トレセン学園に入らない、レースを選ばない──ウマ娘にそれを言うの? ウマ娘ならレースを選ぶのは当然のことで、ポニースクールに通っていた自分がトレセン学園に入ることに何もおかしいことはない。そもそも、自分は走ることが楽し──

 

 

(──あ、れ?)

 

 

 今、なにかとてつもない()()を感じた。この違和感は、いったいなに? 

 

 

(なに……これ? モエは今、走ることを──)

 

 

「どうした?」

 

 その違和感の正体を確かめるために心の中を探っていると、気づけば坂川が軽く顔をしかめながらそう訊いてきた。どこか心配しているような声のトーンだった。

 

「……なにもないよ」

「話、続けてもいいか? ……嫌だったら、今すぐ出て行ってもらって構わない」

「……続けて」

 

 彼は首を小さく縦に振った。

 

「しかしだ、どうにかできる事とどうにかできない事は完全に隔たってるわけでもない。それが変わることだってある。例えばお前が中長距離のGⅠを取れば、カレンチャンを押しつけられることは少なくなるだろうな。でも、それは達成できればの話だ。お前はデビューもまだでスタートラインにすら立っていない。現状、それは自分じゃどうにかできない事なんだよ」

「……」

 

 例え話までされて、ここまで言われれば否が応でも理解できる。これまで必死に抗っていた現実に、彼は正面から受け入れろと言っている。

 

 

 カレンチャンと比較されるのは仕方のないことで、それを今の自分はどうすることもできなくて、だから受け入れるしかないって、そういうことだよね……

 

 じゃあ……じゃあ、モエはこれからも我慢しないといけないの? これまでもずっと、ずっと我慢してきたんだよ……? 

 

 

 もう……もう嫌だよ……『カレンチャン』じゃなくて、『カレンモエ』だけを見てほしいよ……

 

 

「じゃあ、モエはどうすればいいの……どうすることもできないのは分かったけど、でも受け入れることもできないよ……」

 

 俯いて喉から絞り出したその声は自分でも驚くほどに弱々しかった。

 

 顔を上げて坂川と目を合わす。彼のその表情から感情は読み取れない。眉をひそめているのは変わらないけど、語りかけるように彼は話し始めた。

 

「そんな難しい事じゃないんだけどな。てか、単純なことだ」

「え……?」

「今までの話を整理すると、周りの奴らがカレンチャンと比較することはどうすることもできない物事で、それは受け入れるしかない。でも、お前は受け入れられない。だから苛ついてる。そうだろ?」

 

 ただ坂川をじっと見た。

 

 彼はそこで一息入れて、問いに対する答えを言い放った。

 

「それはそれでいいんじゃねえか? 受け入れられなくて、苛ついてもよ」

「……は?」

 

 思考が止まる。

 

 なにそれ? 解決どころか答えになってないよ。

 

「今、何の答えにもなってないって思ったろ?」

「……」

 

 図星だったのでどこか居心地が悪くなったが、開き直って彼の言葉を待った。

 

「ちゃんと説明する……これは俺の推察にしか過ぎんが、お前が苛ついてることは2つある。カレンチャンと比較されること自体と、比較する奴ら。これがまず1つ。これは分かるな?」

 

 それは分かる……というか、2つ? それだけじゃないの? 

 

 他に私が苛ついていることって──

 

「そして2つ目……お前は多分、それをどうにもできない自分に対して苛ついてんだよ。どうだ?」

「────」

 

 それを聞いた瞬間、何も言葉が見つからなかった。

 

 その通りかもしれないと、気づかされた自分がいた。

 

「……まあ、そんな感じだろうとは思ってた。何も変えられない無力な自分に苛つくから、この夏休みのハードなトレーニングに繋がってたんじゃねえか、ってな」

 

 それを否定することは、今の自分にはできなかった。

 

「カレンチャンと比較されるのを受け入れられなくて、苛つくのは仕方ねえ。でもな、他人に加えて自分に対しても苛ついてたら疲れちまうんだよ。だからよ、そこを我慢するというか……いや、その時が来るまで自分のことは放っときゃいいんだ」

「……どういうこと?」

「比較されることやそれを言ってくる他人に苛ついたっていい、煩わしく思ったっていい、腹を立ててもいい。でも、自分にその原因を求めて追い詰めるのはやめろって言ってんだ。そうしたって現状は何も解決しねえからな」

 

 カレンチャンと比べられることについて怒ってもいい。でも、自分に怒るのはやめろ……と、彼は言っている。

 

「俺は30年近く生きてきたが、大半の悩みはな、あるきっかけや時間の積み重ねが解決してくれるもんなんだよ。お前のそれがいつになるとか、どんな形になるかは俺にも分からん。もしかしたら遠くない未来で案外あっさりと解決できるかもしれねえ。比較されても何も思わねえようになるとか、受け入れて納得できるようになるとかな。腹を立てて怒って、憎んだその先に見えてくるモンだってある。だから苛つくことが駄目だと俺は思わん。……ま、どんな形でもよ、折り合いをつけられる日がいつか絶対にやってくる。それまで色々放っとけ。そう考えればよ、受け入れられなくて苛ついたとしても心に余裕ができると思うんだよ」

 

 これまでに自分の中に存在しなかったなにかが、静かに心に入り込んできていた。

 

「まあ俺なりに言うとだ。誰に何を言われても、『まーたカレンチャンって言ってるよコイツ』ってぐらいに軽く思っときゃいい。そこで苛つくのはストップ、今の自分に苛つくのは無し。だって、いつか解決できる日が必ずやって来るんだから。要はな、心の持ちようなんだよ」

 

 入り込んできていたそれが、ゆっくりと心に広がっている。

 

「だから、受け入れられなくたって、別にいいんだよ。お前はお前……カレンチャンとは違う、カレンモエなんだからな」

 

 

「……! あ……」

 

 

 ──『カレンモエなんだからな』──

 

 心を満たした暖かいそれは今は全身に広がっていた。それをとても心地よく感じる。

 

 受け入れられない……そう思うことを彼は肯定してくれた。そして、それに対する……彼に言わせれば、『心の持ちよう』も教えてくれた。

 

 でも、彼の言葉を思い返すと──

 

「なんか、すごく投げやりのような……」

「ちゃんと分かってんじゃねえか。どうせ自分には何もできねえんだから、あとは未来に全てお任せってな」

「なんだか、夏休みの宿題を後回しにする子みたい」

「あ~、確かにそんな感じなのかもな」

「ふふっ、なにそれ……あ」

 

 彼が納得する姿がどこか可笑しくて、不意に笑ってしまった。人前ではほとんど笑わないのに、あまりにも自然に笑ってしまったことに自分で驚いてしまっている。

 

「お、やっと笑ってくれたか。ちょっとは心、(ほぐ)れたか?」

「……」

 

 恥ずかしくて仏頂面をしてそっぽを向いた。

 

「少し話は変わるが、今みたいにもっと肩肘張らずによ、気負わずに走ってくれ。正直見てらんねえんだよ、走ってるときのお前。全身から出てるんだよ……『苦しいよ』『楽しくないよ』ってな。気づいたのは後からだが、初日からそれが気になったんだ」

「……あ、れ?」

「ん? どうした」

 

 ちょっと前、会話の中で感じたズレと違和感……それを思い出すとともに、泡となって解けていった。

 

 そうだ、自分はもともと走るのが好きだったんだ。だから速く走りたいと思ってトレセン学園に入学したのだ。何の変哲もない、ウマ娘としてはありふれた理由。

 カレンチャンなんて関係ない、『カレンモエ』という1人のウマ娘としての意思。

 そんな当たり前だったことを、自分は忘れていたんだ。

 

 思い出させてくれたのは、目の前の男性(ひと)

 

「……ううん。何でもないよ」

「そうか? まあ正直言うとだな、お前のその不満たらたらで走ってる姿を見て気になったから声をかけたんだよ」

「え? モエがカレンモエだから声をかけたんじゃないの?」

「カレンモエかもしれねえと思ったのは2日目の明るいときに顔を見てからだ。そういやカレンチャンの娘が入学したとか聞いたのを思い出してな。ジュニア級のウマ娘は知り合いに詳しい奴がいるから、情報をそいつに頼ってんのが仇になった。確証は無かったし、外れたら格好つかんかったが、名前が分かって良かったよ。お前名前とか教えてくれなさそうだったしなあ。そこだけは見た目が似てたことに感謝しなきゃな」

「…………」

 

 てっきり、最初からカレンモエだと知っていて声をかけたんだと思っていた。

 

 つまり、自分がカレンチャンの娘でなくてもよかったってこと。それはただ、『カレンモエ』という1人のウマ娘である自分を見てくれてたってこと……? 

 

「…………」

 

 

 この男性(ひと)はもしかして、モエがずっと待ってた────

 

 

「よし、話は以上だ。授業は終わり。ちょっとは心、楽になったら良かったんだがな」

 

 坂川は席を立ってデスクへ向かい、デスクの椅子に座った。

 

「明日からは俺はもうトレセンには──って、もうトレーニングも見なくていいって話だったな」

「え? ……あ!」

 

 そういえば、カレンチャンのことを執拗に言われて一度帰ろうとしたときにそんなことを言った気がする。

 

「俺、明日からはずっとチームにつかなかきゃいけねえから、もう夏休みはトレセンに来れないんだよ。選抜までの練習メニューでも組んでやろうかと思ったんだが──」

「……いる!」

「は?」

「それ、欲しい。選抜レースまでの練習メニュー、作って欲しい」

「……分かったよ。ちょっと待ってろよ。と、その間に」

 

 坂川はパソコンを操作して、隅にあるプリンターで何かを印刷した。何枚もあるそれを纏めてファイリングして渡してきた。

 

「ちょっと時間かかるから、ほれ。これやるから読んどけ」

「これは?」

「栄養学……食事について俺がまとめたもんだ。俺のチームのウマ娘にはみんな渡してるんだが……特別だぞ? これやるから、読んで時間つぶしてろ」

 

 ファイリングされたそれに目を通す。そこには基本的な栄養素の解説や、その栄養素を含む代表的な食材や料理がまとめてあったり、身体づくりの目的に応じた栄養の採り方が記してある。食堂のメニューもまとめてあり、どのメニューを食べればどんな栄養素が採れるかも分かる。

 栄養学の知識がない自分にとっても、とても分かりやすく書いてあった。

 

 それに関心しながら目を通していると、ほどなくしてまたプリンターが動き出した。

 手もとにあるものと同じようにファイリングしたものをテーブルに乗せ、彼はさっきまで長く話していた席に再び座った。

 

「ほら、できたぞ」

「ありがとう……」

「と、その前にだ」

 

 自分が手に取ろうとしたファイルを取り上げるように、坂川は自身の元へそれを引き寄せた。

 

「……渡してくれないの?」

「またちょっと話をするぞ。選抜レースへ向けてだ」

 

 彼はファイルをテーブルの脇へ除けた。

 

「選抜レース、1200mを走って欲しい。理由は説明するから聞いてくれ」

「……うん」

「ありがとな」

 

 彼は真剣な顔でこっちを見つめてきた。

 

「さっきまで言ってたように、お前の母親がカレンチャンだからスプリントを選ぶってのもある。でもそれより、俺がお前にスプリントを選んで欲しい本当の理由は他にある」

「……それは?」

「お前自身の走り方についてだ。お前、走り方が硬いんだよ。お前のストレッチをしたついでに確認したんだが、関節可動域が狭いわけじゃない。筋肉も硬さがあるわけじゃない。トレセン学園に入ってから、身長や体重が伸びたり増えたとかは?」

「ううん、あんまり変わってない」

「となるとだ、多分身体がまだ成長しきれてないんだよ。それ由来の走りの硬さだ。お前のその走りの硬さはな、レースで全力で走ると他のウマ娘より身体にダメージを多く受けるんだよ。こんな状態で負荷のかかる中距離を走って欲しくねえ。受けるダメージによっては最悪故障することだってある。それだけはどうしても避けて欲しい」

 

 そんなこと、これまでトレセン学園の教官にも言われたことはなかった。彼は1週間ほど見ただけで、ここまで分かることがあるんだと感心した。

 

「今年の夏休みみたいなハードワークも出来りゃやめて欲しい。お前の身体診たとき、すげえ疲労溜まってたんだぞ。だからトレーニング量減らしたんだ。だから途中から走るの楽になっただろ?」

「うん……タイムも良くなったし」

「それぐらいトレーニングでも受けるダメージがデカいんだよ。身体が成長を始めるまで絶対に焦らないでくれ。ゆっくり、ゆっくりでいいんだ。……本音を言えばな、ダメージの大きい選抜レースに出るのもやめて欲しいぐらいなんだよ。でもお前が選抜レースに出たいなら仕方ねえ。トレーナーだって見つけねえといけねえし、それは分かる。だからだ」

 

 そこで彼は脇に退けていたファイルを開いてこちらに向けて差し出した。そこには日による練習メニューが記されている。

 

「この1週間、どれだけ負荷をかければどれだけ疲労溜まるかを分析したうえで、それを踏まえて疲労を最小限に抑えたメニューにした。もちろんスプリントを走ることを想定したもんだ。酷い負荷がかかるトレーニングはほとんど入れてねえ。調整重視で選抜レースの日に最大限のパフォーマンスを発揮できるように考えた。追加のトレーニングは絶対にやるなよ。逆に動きにくいと思ったんなら、減らすのは全然かまわん」

 

 彼はファイルを閉じて、テーブルの中央にそれを置いた。

 

「もしお前が選抜レースで1200mを走るってんならこれを渡す。もしそれでも中距離目指すってんなら……これは渡せん。どうする?」

「…………」

 

 自分の胸に両手を重ねて目を伏せた。胸の中で彼の言葉を繰り返す。

 彼はちゃんと『カレンモエ』を見てくれていた。それは自分がずっとずっと欲しかったもの。

 

 ──ああ、こんなにも胸が暖かい。

 

 答えは決まっていた。

 

「分かったよ。選抜レースは1200mにする」

「おお、そうか! ならこれ渡しとくぞ。頑張れよ」

「うん……ありがとう」

「良いトレーナーが見つかるといいな」

 

 その言葉に胸がちくりとした。

 

「トレーナーか……そうだ、トレーナー探しか。1つ言っておくことがある」

「……え?」

 

 一瞬こっちの考えてることが知られたかと思ったけど、そうじゃないみたい。

 

「選抜レース、結果が良ければトレーナーが何人も群がってくるだろうが、誰か決められないときはお前のデビュー時期について訊いとけ」

「う、うん」

「選抜レースでお前の走りの硬さを見抜けない奴は論外だ。それに気づけた奴は絶対にデビューは遅れるって言ってくる。すぐ来月にでもデビューしようとか言う奴は……悪い事は言わん、やめとけ」

「うん……そうする」

「もし良さそうなトレーナーがいなかったら……そうだな、俺が──」

「……!」

 

 その言葉に期待をしたのだが、その期待はすぐに消え去った。

 

「──昔世話になってた先生のチームに口きいてやるよ。名前聞いたら驚くぞ、誰でも知ってるトップチームだから……おい、どうした?」

「べつに」

 

 またそっぽを向いていると、彼は不思議そうにそう言った。

 

 素直になればいいのかもしれないけど、なんか今日この場で言うのは、負けた気がするから。

 

「ま、そういうことだ」

 

 坂川は立ち上がって手を組んで伸びをした。

 

「ほれ、帰った帰った。俺、すぐに合宿所に行かなきゃなんねえんだ」

「うん」

 

 彼にもらった栄養学と練習メニューのファイルを持って自分も立ち上がった。

 

「ありがとう、()()()()()()()

「おう、じゃあなモエ。達者でな」

 

 トレーナー室の扉に手をかけながら振り向いた。

 

 すぐにまた会うことになるだろうから、トレーナー室を出ていくときも寂しさは感じなかった。

 

「うん。さよなら」

 

 一度目の「さよなら」とは違う意味のさよならを告げて、トレーナー室から去った。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 そして来る9月の選抜レース────

 

『抜け出したのはカレンモエだ! 一気に先頭に立つっ! 残り200!』

 

 2番手から加速して、最後の直線で逃げていたウマ娘を交わした。

 

(このまま……!)

 

 あとは後ろを抑えるだけ! 

 

『後続が広がって追い込んでくるが、カレンモエまで届くかどうか!』

 

(抜かせない……絶対!)

 

 番手を走りながら溜めた脚を解放する。

 他のウマ娘たちがすぐ後ろ……いや、もう横に見えるところまで来ている。

 

(負けたくない……! 勝ちたい……!)

 

「──────っっ!!!」

 

(動いて……動いてっ! モエの脚っ!)

 

 他のウマ娘に目もくれず、前だけを見据えながらゴールラインを駆け抜けた。

 

 ──前には、誰もいなかった。

 

『カレンモエ! カレンモエだゴールインっ!!! 半バ身差凌ぎきりました、1着カレンモエです! 2着以下は横一線!』

 

「はあっ……はあっ……」

 

 息も絶え絶えのまま、真っ青な秋空を見上げる。

 

(やった……やったっ!)

 

 これまでずっと目標にしていた選抜レースで1着を取ることができた。心の中でガッツポーズをして、満たされる嬉しさを噛みしめていた。

 

 

 呼吸を落ち着けてコースから引き上げると、そこには多くのトレーナーが既に待ち受けていた。

 

「カレンモエさん、ちょっといいかしら?」「ぜひ俺のチームに入ってくれ!」「話をしよう」「と、通して~。チームシリウスです! カレンモエちゃん、私のチームはどうかな?」「僕と一緒にGⅠを目指さないか!」「ほら伯父さんスカウト行くっスよ!」「おい、押すなあ! ぐぐぐ、なんだあこの人混みは……マコ、頼む……」「ちょっと、伯父さん大丈夫っスか!?」

 

「…………」

 

 こんなにたくさん集まってくれたトレーナーたちには申し訳ないのだけれど、もう自分の心は決まっている。

 

(……いなくなってる)

 

 観客席を見回すと、レース前にはいた彼の姿が消えていた。

 

「……あの、ごめんなさい……」

 

 群がってくるトレーナーたちに頭を下げて、半ば逃げるようにその場から離れた。

 

 目指す場所はただひとつだった。

 

 ◇

 

 制服に着替え、トレーナー棟までやって来た。今、自分は彼のトレーナー室の扉の前に立っていた。

 ノックをすると、中から「どうぞ」と彼の返事が返ってきた。引き戸を引いて、トレーナー室の中に入った。

 

「失礼します」

「……は? モエ? お前……」

 

 デスクの椅子に座っていた彼は驚いたような表情から、何かを悟ったかのような表情に変わった。

 

「あんだけトレーナーいても、いいトレーナーいなかったのかよ……しゃーねえな、清島先生に口きいてやるよ」

 

 彼はこの期に及んで勘違いしているみたいだった。

 

 ちょっと、鈍いんじゃないかな……? 

 

「トレーナーさんがいい」

「はあ?」

「……あなたが、いい。モエのトレーナーになって欲しい」

「…………」

 

 彼は口を開けたまま数秒固まっていたが、椅子から立ち上がって自分の目の前までやってきた。

 

「お前、2回も俺のスカウト断ったじゃねえか」

「……ごめんね?」

「なんで謝るんだよ……選抜レースで1着になったんだぞ、トレーナーなんて選り取り見取りだったろうに……俺で、いいんだな」

「うん。あなたがいい」

 

 ……2回も言わせないで欲しい。ちょっと……いや、けっこう恥ずかしいよ……

 

「分かった。モエ、これからよろ──」

「──ちょっと、待って」

「はあ? なんだよ?」

「大事なこと、訊くの忘れてた」

「大事なことだあ?」

「……モエのデビュー、いつになる?」

 

 それはトレーナーを選ぶときに、彼に訊いておくようにアドバイスされたこと。

 

「お前それ…………デビューは遅くなる。今年は無理かもな。ゆっくり、やっていくぞ」

「……うんっ!」

「坂川健幸だ、これからよろしくな。モエ」

「モエの方こそ、よろしくお願いします……!」

 

 ◇

 

 これは彼と出会ってから契約を結ぶまでのお話。

 

 彼は自分の全てを変えてくれて、『カレンモエ』を見てくれた男性(ひと)だった。

 

 ──ほんとうに、“夢”のような出会いだったって、今でも思う。

 

 

 そんなことを、彼の顔を見ながら思い出していた。




由来:冠名+夢(ハワイ語)


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第22話 夢へと向かう

 ……気を取り直したのはいいが、頭はそれについてきていなかった。端的に言うとアルコールが回りすぎていたのである。

 

「…………」

 

 隣にいるカレンモエは俯いて口を噤んでいる。先程、なぜオーバーワークをしたのかその理由を彼女に尋ねた。俺の予想では俺への不満かカレンチャンがらみで苛ついたのかと思ったが、本人が言うにはどうやら違うらしい。『全部、モエが……』と彼女は言った。その言葉を鵜呑みにするなら、オーバーワークの原因は彼女自身にあるということだろう。

 その原因を聞き出したいのだが、彼女はそれを話してくれる様子ではない。それほどまでに俺に話したくないことなのだろうか。

 

(──いってえ……)

 

 そこまで考えついたところで頭痛に襲われて思わずこめかみを抑えた。深く考えることをアルコールに侵された脳が許してくれなかった。

 

「トレーナーさん、大丈夫?」

「……ああ」

 

 カレンモエに声をかけられて少しだけ意識がはっきりした。グラスに入ったお冷やを飲み干すとその意識がまた少しだけ明瞭になった。

 

「分かった。話してくれねえなら、無理には訊かねえ」

「…………」

「……なあモエ、俺とお前が契約する前の夏休みにトレーナー室で話したこと、覚えてるか?」

「覚えてる。忘れるわけないよ」

 

 周りにカレンチャンを押し付けられ、どうすればよいか分からなくなっていたカレンモエと話をしたのだ。苦しそうに走る彼女へ少しでも手助けになれるようにと、俺の経験から知ったことも交えて色々喋ったことを思い出す。

 

「あの時、ゆっくりやっていくって言っただろ?」

「……うん」

「それはな、今でも変わらねえ……前走で負けたから焦ったのかもしれねえが、レースはこれからもあるんだから、こんなオーバーワークしてたら──」

「でもっ! それじゃあモエは……っ」

 

 そこまで言ってカレンモエは言葉を切って苦しそうな表情をして再び下を向いた。

 その表情から去年の夏休みの彼女が思い出された。こんな表情をさせないためにやってきたのに……俺はやっぱり未熟なままだと痛感する。

 

 そんなことを考えながら今の会話内容を振り返る。どうやら焦っているというのは当たっているらしい。

 ではなぜ焦っているのか。その原因となったものは何だろうか。俺の知っている範囲で何か無かったか、彼女についての記憶を遡る。

 そして辿り着いたのはグラスワンダーの朝日杯を見た後のこと……ペティがカレンモエのオーバーワークを伝えてくれた日だ。あそこで俺は確か──

 

 ──「3週間ぐらい前から……だな」──

 

(そうだ……あの日から3週間前はキングの東スポ杯だったはずだ)

 

 キングヘイローの東スポ杯あたりからカレンモエのオーバーワークが始まっていたことを思い出した。

 

 そこまで考えが至ると結論はスムーズに導き出された。

 

「お前、キングに対抗心でも燃やしてたのか?」

 

 鮮烈な走りで重賞初制覇したキングヘイローを目の当たりにして、感化されたと考えるのは自然なことだろう。その証拠に──

 

「…………」

 

 カレンモエは俯いて黙ったままだ。沈黙は肯定ととって良いだろう。

 なら言うことは決まっている。

 

「これもあの時言ったな。お前はお前……カレンモエなんだ」

「……」

「別にキングを意識する必要なんてない。ジュニア級で重賞を勝てる奴もいればシニア級で初めて勝てる奴もいるんだ。気にする必要はねえんだよ」

 

 トゥインクルシリーズにおけるキングヘイローの滑り出しは順調そのもので、ホープフルで負けたとはいえ同世代では上位5本の指に入るレベルだ。そんな走りを同じチームの後輩が成し遂げたのだから意識するなと言う方が無理な話だろう。これまで俺のチームや合同トレーニングするウマ娘に重賞を勝つような奴はいなかったから、キングヘイローに影響されて次は自分もと思うのはごく自然な話だ。

 そう考えると筋が通った話のように思えた。

 

 ──だから、否定されるなんて俺は思ってもいなかった。

 

「……ちがうよ」

「え?」

「ちがうよ……トレーナーさん。そうじゃないの」

 

 俺の考えていた浅はかな仮説は一瞬にして崩れていった。となると、あの沈黙は肯定でも何でも無かったのだ。

 

「…………」

 

 言葉を失ってしまった俺は顔を上げたカレンモエの視線を受け止めた。変わらず何かを訴えるような顔をしていた。

 

 どうやら俺は間違えてしまったらしい。

 

「……そうか」

 

 勘違いした自分に落胆する中、そう捻り出すのが精一杯だった。

 

「「………………」」

 

 2人とも無言の時間が続く。

 酔った状態でなんとか考えついたことが否定されて俺はもう何も考えられないでいた。話の糸口を摑むことができず、目の前のテーブルに並んでいる空になった酒のグラスをただ見つめることしかできなかった。

 

 カレンモエは口を開こうとしない。でも何を言ったらいいのか分からない。

 つまるところ、俺は彼女のことを何も分かっていなかったということだろう。今だってどうすればいいのか分からない。

 敗戦のフォローだとか、オーバーワークの原因を探るとか、俺には到底無理なことだったのだと今になって悟った。

 

(──なら)

 

 となると、俺ができることは1つだ。

 

 最初から全て正直に話すべきだったのだ。

 

「分かってるとは思うが、今日お前をメシに誘ったのはな、昨日の負けとオーバーワークについて話をしたかったからなんだよ」

「……」

「正直、お前が何を考えてるのか俺には分からん。昨日負けたのに今日そこまで落ち込んでなさそうな理由も、これまでオーバーワークしてた理由もだ。俺が分からなくてお前が教えてくれないなら、聞き出そうなんて最初からどっちも無理な話だったんだろうな」

 

 これは最初から破綻した話し合いだったのだ。

 

「だから俺の言いたいことだけ言うぞ。あんなオーバーワークはもうやめろ」

「……」

「理由がどうであれ、お前が勝ちたいって焦ってんのだけは分かる。でも目先の結果だけ求めて自分を追い込むのはお願いだから我慢してくれねえか」

「……」

「負けてもいいとは言わない。負けたら悔しいのも分かる。でも、勝てなかったとしても焦らないでくれ……俺が絶対にお前の力になってやるから……」

「トレーナー、さん……」

 

 喋っているうちに酒が更に回ってきてまた意識が朦朧としてくる。目を瞑ればすぐにでも寝てしまいそうだ。

 

「……でも、勝てないと、モエはトレーナーさんに何も返せないよ……」

 

 カレンモエが言ったそれは明らかに間違っていることだった。訂正しなければならない。

 

「何言ってんだモエ……もうすでに、俺はお前からたくさんのものを貰ってるんだ」

 

 カレンモエが坂川健幸についてきてくれている。

 ウマ娘を導く1人のトレーナーとして、これ以上のことなんてあるのだろうか。

 

 実力も実績もなくて、人間的な魅力もなくて、過去に取り返しのつかないことをして、それでもトレーナーを続けている、こんなどうしようもない俺に──

 

「お前が俺のそばにいて、元気に走ってくれるだけで、それだけで俺は嬉しいんだ……」

「ぁ……」

 

 顔を上げたカレンモエの目がいつもより大きく見開かれた。澄んだ青色の瞳に俺の姿が映っていた。

 

 自分でも何を言っているのか分からない。アルコールのせいか素直に言葉が出てくる。プロポーズでもあるまいし、言っててなんて臭い台詞だろうかと思う。たぶん、素面ならこんな台詞口に出さなかっただろう。

 

 しかし、紛れもない俺の本心だ。

 

「……俺に至らないところがあるのも分かる。でももっと俺を頼ってくれねえか?」

 

 信頼とはその姿勢や結果を残すことで得るものだ。それを言葉で得ようとするのは本音を言うと情けないことではある。でも言うしかなかったのだ。

 

「……トレーナーさん」

「ん?」

「やっぱりトレーナーさんはモエのこと、分かってない」

 

 言葉とは裏腹に柔らかい態度になったカレンモエではあるが、こうもはっきり言われては立つ瀬がない。

 

「……悪いな」

「ううん。今はそれでもいいかな」

「……?」

 

 カレンモエが何を言っているのか分からない。それを考える間もなく彼女は続けた。

 

「トレーナーさん、無理なトレーニングしてごめんなさい」

「え……あ、ああ……」

 

 脈絡のない突然の謝罪に虚を突かれた。

 

「無理なトレーニングはもうやめる。トレーナーさんに言われたとおり……また、トレーナーさんと一緒にゆっくりやってきたい」

「ああ、そうだな……一緒に、な……」

 

 俺の言葉はカレンモエに響いたのだろうか。それは分からないが、彼女はオーバーワークをやめると言ってくれた……それだけで十分だ。

 

「…………ぅ……」

「……トレーナーさん?」

 

 そこで安心してしまったのだろうか。急激に眠気が襲ってきた。決して吐きたい訳ではない。

 

 話も纏まって一応目的は達成できたように思うので、もうこのへんでお開きにすることにしよう。目の前の酒も料理も平らげたし、このままでは昨日の新幹線の中のように寝てしまうだけだ。

 時計を見ると、時間もそれなりに経過して遅い時間になってきていた。

 

「もう遅いし出るか……モエ、先に店の外に出とけ。俺はトイレ行ってから会計するからよ」

「分かったよ。ありがとう、ご馳走様でした。トレーナーさん」

 

 横に座っているカレンモエに退いてもらって席を立ち、ダウンを脇に抱えて彼女より先に個室を出た。

 

 

 ◇

 

 いつもよりおぼつかなくなった足取りで個室を出て行った坂川を見送った。

 

「…………」

 

 今日のここでの会話を思い返すと、その理由はどうであれ、結局自分は去年の夏休みと同じことをしていたことに気付かされた。

 

 キングの走りを見て焦燥感に駆られたのは事実だけれど、それが根底にある原因ではなかった。

 思わず彼に言ってしまった『何も返せない』という言葉。それが自分の想いだった。

 

『カレンモエ』のことを見てくれて、これまで支えてきてくれた彼にただ何かを返したい。それだけのことだった。

 2連敗したせいでその焦りが彼の言うオーバーワークに繋がってしまったのだと思う。それに、キングの方に彼が行っちゃうと思ったことも否定できない。

 

 

 でも、もう焦らなくてもいいんだ。

 

 だってトレーナーさんはモエと一緒にいるだけで嬉しいと言ってくれた。

 その言葉がどれだけモエの心を暖かくしたのか、トレーナーさんは知らないでしょ? 

 

 

 ──他の誰でもない、モエはモエのペースで勝利を目指す。もちろん、トレーナーさんと一緒に……ね? 

 

 ◇

 

 

 帰りの電車内、時間も遅く帰宅のピークを過ぎていたせいか思ったよりも乗客は少なく、俺とカレンモエの2人とも席に座ることができた。ロングシートは端3人分が空いており、端に俺が座りその横にカレンモエが座った。結局、カレンモエの横には誰も座らなかった。

 

 店を出てから少し時間は経っているが、相変わらず酒に酔ったままだった。もっと若い頃……20歳になったばかりの頃は酔いなんてすぐに醒めていたはずだったのだが……年のせいか、それとも運動不足や不摂生が祟って肝機能が落ちているかどちらかだろう。

 

 そんなどうでもいいことを考えながらふとカレンモエに目を移すと、目を閉じてうつらうつらとしている彼女の姿が目に入った。

 

「……ん……すぅ……」

 

 昨日のレース自体の疲労もまだ残っているだろうし、そもそも時間も遅い。眠くなるのは当然の事だろう。これを見ると今だけは俺も寝る訳にはいかない。居酒屋から駅まで歩いてきたおかげで、幸い眠気はなくなっていた。

 

 電車がブレーキ音を鳴らしながら駅に停車した。学園の最寄り駅の2つ手前の駅だった。

 

『ドアが開きます』

 

 アナウンスと共に乗客の乗り降りが行われた。ドアの方を横目で見ると、降りるよりも多く乗客が乗ってきた。続々と入ってくる乗客はそれぞれ空いている座席に腰を下ろし、それはカレンモエの隣の席も例外ではなかった。30代ぐらいの男性が体を反転させ彼女の隣に腰を下ろそうとしていた。

 ちょうどその時、舟を漕いでいたカレンモエの上体がその男性が座ろうとしている方へ傾いた。

 

「っと……!」

 

 カレンモエと男性が当たってしまわないように、瞬時に彼女の肩に手を回してこちらに体を抱き寄せた。俺の胸と肩の間ぐらいに彼女の頭があり、見下ろすと目の前には芦毛の髪と黒いメンコを被せた耳があった。同時に、シャンプーの匂いか香水の匂いかは分からないが女子らしい彼女の良い匂いが漂ってくる。

 

「……………………すぅ……すぅ……」

 

 カレンモエの寝息が聞こえてくる。ここまでして起きないということは身体的にも精神的にもよほど疲れていたのだろう。もしかしたら、俺との話し合いもプレッシャーになっていたのかもしれない。 

 

 腕を戻そうとしたら一度カレンモエをどかさないといけないため、到着するまで肩に手を回したままでいることにした。あと10分足らずで最寄り駅に到着するし、変に動かして起こしても可哀想だと思ったからだ。周りにトレセン学園の関係者やウマ娘がいないことは確認していたので、おそらく誰にも見られていることはないだろう。

 

 

 そしてその体勢のまま最寄り駅に着いた。寝ていたカレンモエを起こして一緒に電車を降りて、それぞれ帰路についた。

 

 

 昨日から色々あったが、なんとか丸く収まったようだった。

 

「さて、また明日からだな……」

 

 カレンモエは2勝クラスを勝ち上がれるように。

 キングヘイローは3月の弥生賞に向けて。

 

 明日からのことに思いを馳せながら、今日という日を終えた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 自室のドアを開けると、勉強机に向かっているルームメイトが目に入った。

 そのルームメイトはこちらを見るや否やペンを放って抱き着いてきた。

 

「お帰り~モエちゃんっ」

「……ただいま」

「で、で! どうだったの? 愛しのトレーナーさんとのデートは?」

「……デートじゃない……」

「愛しのトレーナーは否定しないんだねえ」

「……」

 

 騒がしいルームメイトを引きはがして自分のベッドに座り、メンコを外してベッド脇に置いた。

 

「そんなカワイイカッコして出かけて、デートじゃないなんて……もう、素直じゃないなあ」

 

 いつになくテンションの高いルームメイトはニヤニヤしながら彼女のベッドに座り込んで自分と向かい合った。セミロングの鹿毛と赤く縁どられた白い星の耳飾りが右耳で揺れていた。

 こんな緩い調子の同い年のルームメイトだが、レースになるとスイッチが切り替わったかのように真剣になる子だ。彼女もスプリント寄りのウマ娘で、初めて一緒に模擬レースに出たときにそのことを知った。でも今彼女はダートを主戦場にしているから、トゥインクルシリーズで戦うことはないのだけれど。

 

「……着替える」

 

 立ち上がって服を脱いでルームウェアに着替えたら、次はベッドに倒れこむようにして寝転んだ。壁側に置いている大きいクッションを引き寄せて顔を埋める。

 

 そうして思い出すのはさっきの電車でのこと。

 

「~~~~っ!」

「どったのモエちゃん、そんな足パタパタさせて……カワイイんだけど~」

 

 自分でも知らないうちに足が動いていたらしい。そう言われて足パタをやめた。

 でも、それもしょうがないと思う。

 

 ──全部……全部、トレーナーさんのせい……

 

「…………」

 

 肩に手を回され抱き寄せられたときの感触を思い出す。ほとんど寝ているような状態だったのに、彼の胸に顔を埋めるような体勢になっていることに気付くと、それまでの眠気なんてどこかに吹き飛んでしまった。

 起きるタイミングを逃して寝たフリをしていると、なんと彼は最寄り駅まで肩に手を回したままだった。

 

 どうすることもできず、ただ彼の匂いをかぎながら寝たフリを続けるしかなかった……いつもの彼の匂いと、ちょっと汗臭い匂いと、そしてお酒の匂いを今でも覚えている。

 あと、寝たフリを続けるために、耳と尻尾が動かないようどれだけ頑張ったか……

 普段ならあんなことをする人じゃないと思う。多分だけど、素面の彼なら寝ているところを叩き起こすんじゃないだろうか。

 

 最初から彼にお酒を飲まそうと思っていたわけではない。でも彼に居酒屋に連れてこられて、いろんなことが頭をよぎった結果お酒をたくさん注文してしまったのだ。

 レースやトレーニングについての話だとは分かっていた。普段なら言いにくくても酔った彼なら言いやすくなるかもとか。彼の本音が聞けるかもとか。酔った彼を見てみたいとか。前に読んだ雑誌に大人の男は酒を注いでくれる女にキュンとすると載っていたとか。ママがパパを落とすときにお酒を使ったことがあるとかないとか……

 

 飲ませ過ぎたかと思ったけど、普段の彼なら言いそうにないようなことも聞けたし、これからについてうまく纏まったように感じたので、結果としては良かったんだと思う。顔を赤くして唸る彼はカワイかったし……それに、電車であんな──

 

「──」

 

 そうしてクッションに顔を埋めていると、心なしか段々彼の胸のように感じて、あの電車の中でのことをまた思い出してきてしまった。

 

「~~~~っ!」

「うわあ!? ほんとうにどうしたのモエちゃん!?」

 

 また足をパタパタとさせてしまった。ぼふぼふとベッドが音を立てている。

 普段は絶対にこんなことしないのに……彼が変なことするから、自分も変になってしまったかも。

 

 ……そしてあの時、心の中である人の言葉を思い出していた。そのある人とは自分の母親であるカレンチャン。そしてその言葉とは、気になる男性に使えるアプローチの中のその1つ。ママは結婚する前、パパに使ったことがあるらしい。

 

「……見て見ぬフリなんて、難しいよ……」

「え? 何か言った?」

「…………いや……」

 

 クッションに顔を埋めたまま、今思った率直な気持ちを彼女に告げた。

 

「ゼルちゃん……」

「なに?」

「やっぱりママって……凄いよ」

 

 ゼルちゃんことルームメイトはそのあともモエちゃんどうしたのどうしたのと詰め寄ってきた。

 

 結局、その日は彼女と夜更かしして色んなことをお喋りした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 あの話し合いから1ヶ月、彼にトレーニングの内容を改めて見てもらい、相談しながら真剣に取り組んでいった。トレーニング量や負荷に心配があるときはちゃんと彼に伝え、それに応じたトレーニングを行った。彼は自分の身体の状態を把握しながら、可能な範囲でトレーニングの量やメニューを調整してくれた。

 

 

 

 そして迎えた2月、小倉レース場でシニア級2勝クラスの紫川特別に出走していた。距離は今までと同じ1200m。

 

 

 

 道中4番手から2番手に押し上げて、迎えた最後の直線で先頭へ抜け出した。

 

『カレンモエ先頭! ヒロイックアゲン2番手! カレンモエだ! 突き抜けた突き抜けた!』

 

 後ろから誰も来る気配もないままに、ゴールラインを駆け抜けた。

 

『そのままリードを広げて……今カレンモエが1着でゴールインッ! 2バ身差をつけましたカレンモエ、完勝です!』

 

(勝った……やったっ!)

 

 ゴール後右手で小さくガッツポーズをして、息をつくのも忘れて観客席に目を向ける。もちろん見るのは彼がいるところ。

 

 彼とキングヘイロー、ペティがこちらに手を上げている。歓声と拍手のせいで何を言っているかは聞こえないのが残念だけど。

 

 その中で彼と目が合った気がした。ちょっと遠いから、ほんとうに目が合ってるかは分からない。でも、なぜか、目が合ったと感じている自分がいた。そこで彼の笑顔が目に入った。

 

 ──ああ、これだ……これが欲しくて、モエは……

 

 笑って喜んでくれている彼を見ると、なんだかこっちまで暖かい気持ちになってくる。

 

「…………ふふっ」

 

 彼に見えてるかは分からないけど、彼に向かって、小さく笑い返した。




(幕間カレンモエ編)終わりっ! 閉廷! 以上! みんな解散! キミ(ゼルちゃん)もう帰っていいよっ!

ゼルちゃん(????ゼル)
モデルは実馬カレンモエと同世代、同厩舎、同父、さらに母父が同系統のあの馬です。(出番はもう)ないです……たぶん。


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クラシック級前半
追憶4 同期


新章の頭に回想を入れていくスタイル。


 キタサンブラックを担当してから数日後の夜のこと。俺は新人トレーナー寮の談話室にいた。

 

 新人トレーナー寮とは、2年目までの新人トレーナーが強制的に入れられる寮のことだ。1人部屋こそ与えられるものの、普通の独立したトレーナー寮と違い食事や風呂は共同、掃除なども持ち回りでするなど共同生活を強いられる。門限も決められており、夜遊びなんてもっての外だ。

 新人トレーナー寮は2棟ありそれぞれ男子寮と女子寮に分かれている。2棟は渡り廊下で繋がっており、その渡り廊下から食堂や風呂、談話室に連絡している。

 

 普通のトレーナー寮があるのだから、1年目からそっちに入れてもいいのではという声も毎年あがっているらしいのだが、昔からの風習やら習わしやらで今日(こんにち)まで続いているらしい。

 共同の寮と言っても、今在籍しているのは俺含めた同期の3人と一つ上の代を合わせて10人にも満たない。これでも多い方らしいが。

 

 俺が談話室でいつものように過ごしていると、後ろから足音が近づいてきていた。椅子に座ってテレビを見ている俺のすぐ背後でスリッパが床に擦れる音が止まった。

 

「坂川、女子の入浴終わったぞ。男子の番だ、入ってくれ」

 

 その性格を表しているかのような、凛とした落ち着いた声で横水幸緒は言った。チームアルバリのサブトレーナーを務めている俺の同期の女子だ。

 

 俺はテレビの方を見たまま返事をした。

 

「分かった。ありがとう横水。天崎ももう上がったんだな?」

「ああ、もう出てくるよ……今日は一体何を見てるんだ?」

 

 俺の余暇の過ごし方……談話室にある何インチだか知らないが大きなテレビをモニター代わりにノートPCから出力して、過去のレースを視聴することだ。ジャンルは専らアメリカのダートで、そのことを既に横水も天崎も知っている。

 ノートPCの画面や1人部屋備え付けの小さなテレビより、大きな画面の方が迫力があって良い。

 

「これか? セイフリーケプトのBCスプリント」

「……画質が荒いな」

「そりゃ、ちょっと昔のレースだからな。このレース知らねえの横水? 名迷レースだぜ?」

「めいめい……? 前にも言ったが、私は昔のものはあまり見ないよ。海外のダートなら尚更な」

 

「坂川くん今日はなんのレース見てるのっ?」

 

 横水のさらに後ろから、まだ少女のあどけなさが残りながらも芯の一本通った声が聞こえてきた。チームシリウスのサブトレーナー天崎ひより、俺の同期の女子である。

 天崎にこのレースについて説明をしてやると、彼女は首をかしげて頭上にはてなマークを出していた。天崎も知らなかったようだ。

 

 横水と天崎はそれぞれ俺の隣にある椅子に腰を下ろした。横水は飾り気のない無地のTシャツにジャージの長ズボン、天崎はふわふわでモコモコしたルームウェア(ジェラなんちゃらと天崎は言っていた)を着ていた。2人とも風呂から上がったばかりで顔もほんのり上気し、髪の毛もまだ完全に乾いていない。

 入寮当初はいけないもの(風呂上がりの女子)を見ているようで目のやり場に困ったが、3か月以上も経てばもう慣れてしまっていた。……だからって、全く動揺しないということはない。俺も一応思春期で健全な男子なのである。

 

 天崎のはてなマークを受けて、横水が口を開いた。

 

「ほら、ひよりだって知らないじゃないか」

「お前らトレーナーなんだから過去の名レースぐらい知っとけよ」

「坂川くんの昔のレースの知識すごいよね。私ももっと勉強したほうがいいかな?」

 

 そう話しているうちにモニターに映っていたレースが終わった。セイフリーケプトがデイジュールを差し返してゴールした。

 それを見て1人で唸っていると天崎が声をかけてきた。

 

「そういえばさ。坂川くんウマ娘担当することになったんだって?」

「え? なんで知ってんだ」

 

 そのことはこの2人にはまだ話していなかった。別に隠すつもりは無かったが、改まって言う機会も無かったのだ。

 

「シリウスの人たちが話してるの聞いちゃったの。いいな~、3人の中で担当一番乗りか~」

「私も知ってるよ。父さ……チーフからその話を聞かされた」

「……アルファーグの誰かだな。言いふらしてんのは」

 

 全くプライバシーの何もあったものではなかった。一体誰が広めているのだろうか。先輩サブトレーナーか、所属しているウマ娘か。

 

「チーフは清島トレーナーから聞いたと言ってたぞ」

「先生が!? なんでだ……」

 

 予想だにしない名前が挙がった。横水が言うなら嘘ではないだろう。

 

「自慢げに話していたと聞いたぞ。それだけ、お前が期待されている証拠だろう」

「そうなのかねえ」

「お前は優秀だからな。トレーナー試験でも研修でも私たち3人の中で一番なんだから」

「偶々だろ。俺とお前の成績ほとんど変わらねえし」

 

 確かに俺の成績はこの3人の中では最も優れていた。しかし横水とは僅差だし、天崎ともそんなに差があるわけではない。自分で言うのもなんだが、難関のトレーナー試験を潜り抜けてきた3人だ。そこに大きな差はない。

 

「しかし、シリウスにもアルバリにも広まってるとはなあ」

「やっぱりそれだけみんな坂川くんのこと注目してるんだよ。はあ~早くウマ娘担当したいな。ねっ、(さっ)ちゃん?」

「……それを聞いて私も担当したいとチーフに言ったんだが一蹴されたよ。『お前にはまだ早い』と」

「うひゃ~やっぱり幸ちゃんのお父さんは厳しいねえ。私ももっと頑張って2人に追いつかないとね!」

 

 天崎が言う通り横水が所属しているチームアルバリのチーフは横水の父だ。横水家は代々トレーナー一家としてその名を馳せている。父のことを頑なにチーフと呼ぶのは私情を挟まない横水らしいが、少し前の会話のようにボロが出ることもある。

 

 そこまで話したところで、話の本筋が逸れていることに横水が気付いた。

 

「っと。そうだ坂川、風呂だ。行ってくれ」

「あ~? あと1レース見たらな~」

「全く……」

 

 俺はそう言ってお気に入りのレースを流し始めた。ゲートイン中の映像を見て天崎が興味津々と言う風に訊いてきた。

 

「これは何のレース?」

「バヤコアのBCディスタフ。1回目……ガルフストリームのやつ」

 

 そうしてレースがスタートすると、3人とも黙ってモニターを見ていた。

 

 レースは最後の直線へ。直線で先頭に立ったウマ娘の姿がアップになった。

 黒めの長髪を靡かせているそのウマ娘は舌なめずりをしたかと思うと、一気にスパートをかけ後続の追撃を許さず1着でゴールした。その勝ったウマ娘こそバヤコアその人である。電光掲示板にはレコードの文字が表示されていた。

 

「横綱相撲だな、強い」

「舌ペロってしたの、可愛いんだけどなんか怖いね……」

 

 と、横水と天崎は個々人の感想を述べた。

 俺はその後もゴール後の映像を見ていた。

 

「……おい坂川。レース終わったぞ。今度こそ風呂に」

「もうちょっと待ってくれ。見どころは今から──来た来た!」

 

 レース後の映像が栗毛のウマ娘の姿を捉えた。綺麗な栗色のサイドテールに一筋白い流星が流れている見目麗しいそのウマ娘は荒く息をつきながら立ち尽くし、勝利したバヤコアの方を呆然と見つめていた。

 

「このウマ娘がどうかしたのか?」

「知らねえのか!? 西海岸のスーパーアイドル、グッバイヘイローだ!」

 

 俺は2人にグッバイヘイローについて簡潔に説明した。もちろんバヤコアに負け続けて悔しさから諦めに変わっていくその過程を俺が好いていることも話した。

 それを聞いた2人は、

 

「……お前は趣味が悪いな」

「私には分かんないかなー?」

 

 と俺を白い目で見ていた。この2人には理解してもらえなかったようだ。

 

「……風呂入ってくる。先輩にも言ってくるわ」

 

 2人に理解してもらえず少しだけ気落ちした俺は立ち上がってPCとテレビを繋いでいるケーブルを外した。片づけが終わった俺は風呂に入るためにノートPCを抱えて談話室を出ようとしたが、天崎から声がかけられてたので、立ち止まって振り向いた。

 

「坂川くん! そう言えばその担当するウマ娘の子、名前何て言うの?」

 

 それを聞いた俺は、彼女の顔を思い浮かべながらそれに答えた。

 

「キタサンブラック。いいやつだよ。またお前らにも紹介するわ」

 

 そう言って、今度こそ俺は談話室から去った。

 

 

 

 坂川健幸、横水幸緒、天崎ひより────同期3人による、新人トレーナー寮での1コマである。()()()()()()()の、まだまだ無邪気な3人組。

 

 今ではもう、戻ることのできない日々だ。




これからの展開のことを考え、念のためアンチ・ヘイトのタグを追加しました。


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第23話 宣戦布告

キングのインタビュー時の口調、悩んだんですけど一応公の場ってことで敬語にしてます。


「──次はキングヘイローさんと坂川健幸トレーナーです。こちらへどうぞ」

 

 3月上旬のトレセン学園の一角、専らメディア対応に使用される会議室にて簡易的なインタビューが行われていた。なんのインタビューかと言うと、今週末に行われるクラシック三冠路線の重要な前哨戦、弥生賞に出走するウマ娘とそのトレーナーたちに対してのものだ。

 GⅠにでもなればテレビ局のカメラが入って記者会見のようになるのだがそこはGⅡ弥生賞、集まっているのは主に新聞記者やウマ娘関連の雑誌記者だった。しかし、注目度の高いクラシック級のレースだけあって、並の重賞よりも記者たちは多く集まっていた。

 

 並んで立った俺とキングヘイローに向かって、URAとつながりのある大手テレビ局の男性アナウンサーが代表して質問をしてきた。

 

「まずは去年のホープフルステークス、2着と惜しい結果でしたが振り返っていただけますか? キングヘイローさんからどうぞ」

「敗北は真摯に受け止めています。でも、私の走りはあの程度ではありません。弥生賞ではキングヘイローの真の走りをご覧に入れましょう」

「力強いお言葉、ありがとうございます」

 

 キングヘイローは不敵な笑みを浮かべて自信満々に答えていた。

 

「坂川トレーナーは前走のホープフルステークス、どのように思われましたか?」

「キングヘイローは一生懸命走ってくれました。運が向かなかったとは思いますが、それもレースですからね」

「運が向けば、勝てていたと?」

 

 内心で舌打ちした。ちょっとでも食いつけるような回答があるとこの様だ。

 俺は今モーリサバイバルの斜行について言及した。レース後の回顧にてメディアがその不利について取り上げていたので、この場にいる記者たちは「運が向かなかった」という言葉の意味を分かっていることだろう。

 アナウンサーや記者には悪いが彼らのお望みの言葉はやらないことにした。

 

「勝てたとは思っていませんよ。勝ったウマ娘は強かったです。弥生賞にその名前がないのは残念ですが、いつかリベンジしたいですね」

 

 アナウンサーは質問した時と同じく顔は笑みを湛えたままであったがその胸の内は透けて見えるようだった。どうせ面白くないテンプレート的な答えだとか思っているんだろう。

 

「そうですか。ありがとうございます。では次の質問に──」

 

 

 そうしてこれまでのトレーニングについてや現在の状態についてのインタビューが始まった。先程と同じようにキングヘイローと俺を行ったり来たりの受け答えが行われていった。

 

 キングヘイローは目立った失言もせず答えていた。ホープフルステークスのときは記者会見があったのだが、そのときもうまく対応していたことを思い出す。育ちの良さか両親の教育によるものか、はたまた練習でもしていたのかは知らないが、こいつはメディア対応というものをよく分かっているようだ。ただ、大言壮語のきらいはあるが。

 

 定型的な内容のインタビューも一通り終わりそうになったところで、アナウンサーはキングヘイローをスルーして俺だけへの質問をしてきた。

 

「この弥生賞には坂川トレーナーの同期である天崎トレーナーと横水トレーナーのウマ娘も参戦されます。同じレースに3人の担当ウマ娘が揃うのは初めてだと聞いておりますが、何か意識されたりとか、そういうことはありますか?」

 

 ……訊かれるだろうと予想はしていたが、やはり来たか。

 

「特別な意識はありません。走るのは私ではなくキングヘイローですから。私は彼女の力を引き出せるよう努めるだけです」

 

 本音を言うと意識してなくもないが、今言った通りレースで走るのはキングヘイローだ。トレーナーだからこそ、そこをはき違えてはいけない。

 

「ありがとうございます。ではキングヘイローさん、最後に意気込みの方をひと言」

「誰にも負けるつもりはありません。弥生賞を勝って、クラシック三冠達成への足がかりにします」

 

 そうキングヘイローが言った瞬間、記者たちが「おお」と色めき立った。やっぱり言いやがった、というのが俺の素直な感想だ。許されるならこの場でデカい溜息でもついてやりたいところだ。

 

「キングヘイローさんは三冠ウマ娘を目指しておられるのですか?」

「いいえ。目指している、というのは誤りです。私にとって三冠は通過点でしかありません。三冠は獲って当然、キングヘイローは超一流のウマ娘なのですからっ!」

 

 これ見よがしに肩にかかった鹿毛をふぁさっと手の甲で払いのけながらそう言い切ったキングヘイローを前にして、記者たちのざわめきが大きくなった。

 現実にクラシック制覇を狙える位置にいるウマ娘がこんなビッグマウス、そう反応するのも当然だ。あまりレース前から注目されたくないのだが、コイツにそう言っても無駄だろう。

 

「坂川トレーナーも同じお考えなのでしょうか?」

 

 キングヘイローのとばっちりがこっちに来てげんなりしながらそれに答えた。

 

「……本人のモチベーションが高いのは良いことだと思います」

「キングヘイローさんなら三冠ウマ娘になれると?」

「それに挑戦するためにも、まずは目の前の弥生賞で良い結果を残せれば」

 

 否定しても後から横のコイツに何か言われるだろうし、だからといって肯定することもない。実際出来るかどうかなんてやってみないと分からないからだ。

 取りあえず、言葉を濁すことはできた……か? 

 

「……応援しています。以上でインタビューを終了といたします。キングヘイローさん、坂川トレーナー、今日はありがとうございました」

 

 面白い発言を引き出せて満足だと言わんばかりにアナウンサーの貼り付けた笑みが深くなっているのを見ると、どこか負けた気分になった。

 

 

 

 インタビューから解放されて会議室から通路に出ると、キングヘイローが不満たっぷりといった様子だった。

 

「キングのトレーナーなのだから、あそこは一流らしく三冠ウマ娘になれると言いなさいよ!」

「お前が言うのは勝手だが俺が言うわけねえだろうが。前にも言ったが実績も伴ってないのに大口叩くのはアホかピエロだ」

「ふんっ! なら実績を積めばいいだけのことでしょ? 弥生賞を勝ったらあなたも三冠制覇を宣言するのよ!」

「考えといてやるよ。勝ったら、な」

 

 2人でそんな会話をしながら通路を歩いていると、曲がり角を曲がった先に2人のウマ娘がいた。どちらも見覚えのある……どころではない。キングヘイローと含め、戦前から3強と称される──

 

「あ、キングちゃん!」

「やっほー、キングもインタビュー終わったんだ?」

「スぺシャルウィークさん、スカイさん……ええ。今終わったところよ」

 

 スペシャルウィークとセイウンスカイがそこにいた。キングに気付いた2人はこちらまでやって来た。

 

「キングちゃんのトレーナーさん、こんにちは!」

「ども~」

「ああ」

 

 スペシャルウィークが大きくお辞儀をし、それに合わせてセイウンスカイも小さく俺に頭を下げた。

 

「それよりさ~キング、聞いたよ?」

「え?」

「三冠ウマ娘になるって! いや~、三冠が通過点とはさすがキング、言うことが違うねえ」

 

 セイウンスカイは流し目でキングヘイローを見てからかうような口調でそう言った。

 

「! 三冠……ダービー……」

 

 それを聞いたスペシャルウィークの纏う雰囲気が一変した……柔らかいものから厳しいものへと。敵意とはまた違う、譲れない対抗心みたいものが目に見えるようだ。

 

「なんでそれを……って、あなたさっきのインタビュー聞いてたの?」

「会場に忘れものしちゃってさ、それを取りに行ったときにねー」

「キングちゃんでも、クラシックは……日本一のダービーウマ娘は渡せないよ……!」

「スペシャルウィークさん? ……悪いけれど、誰であろうと一冠も渡す気はないわ」

「おお~お2人ともバチバチですな~。セイちゃん2人が怖くなって弥生賞の出走取り消すかも?」

「ええっ!? セイちゃんごめんね……私、そんなつもりじゃ」

「……ウソに決まってるじゃない」

「え!? そうなの?」

「……てへっ☆」

 

 セイウンスカイは茶目っぽく舌を出してウィンクした。所謂テヘペロと言うやつだった。

 

 レースは週末だというのに、どいつもこいつもお互いに火花を散らしていた。今のところは良いライバル関係のように見えるが……

 その後もきゃっきゃと話が続くので、遠巻きに見ていた俺は痺れを切らした。

 

「キング、俺はもう行くからここで解散でいいぞ」

「ええ、分かったわ」

 

 明日の予定を軽く伝えて、俺はその場を離れた。

 

 

 

 通路を抜けてエントランスに出ると、そこには数人のヒトが集まって会話に興じているのが目に入った。改めてまじまじと見るまでもない、今の弥生賞のインタビューに出ていたトレーナーたちだろう。

 その証拠に、その中には知っている顔が1つあった。弥生賞に出走するスペシャルウィークの……チームシリウスのチーフトレーナーである。

 

(あいつに見つかったらめんどくせえな……)

 

 と思った俺はその集団から出来るだけ距離をとって出入り口へと向かっていった。気付かれないように、極力足音を消しながら歩いて──

 

「あっ!? じゃあこれで失礼します。おーい、坂川くん!」

 

 ──いたのだが、その努力は水の泡と化してしまった。

 聞き覚えのある、少女らしさを残したその声の主が集団から抜け出して、俺のすぐ背後まで近づいてきていた。

 

「坂川くん久しぶりっ」

 

 その声の主が俺の手首を取って、俺を振り向かせた。

 目の前に、ふわっとした亜麻色の髪のやや小柄な女性……天崎ひよりが俺の手首を握ったまま笑顔で立っていた。

 

「……なんだ天崎。何か用か」

「反応が冷たい!? せっかく数年ぶりにこうして会ったのに、その反応はないよ坂川くん!」

 

 俺が天崎の手を振りほどくと、彼女は「もうっ」とぷりぷり怒っていた。

 

「久しぶりに会って、話したいなーって」

「俺はお前に話すことなんてねえよ」

「またそんなこと……あっ!」

「なんだよ」

「ちょっと坂川くん、一緒に来てっ!」

「は? お、おい」

「まだいるかも!」

 

 急いだ様子の天崎は再度俺の手首を取り、引っ張って早足で歩き始めた。俺が来た通路とは反対方向の通路へ俺は連れていかれている。

 言葉から察するに誰かと会わせたいということだろうが……予想される人物に1人、心当たりがある。

 

「どこに行くんだよ……」

「ええっと、確かこっちに……あっ! いたっ!」

 

 しばらく通路を進み何度か角を曲がると、その先に流れるような黒髪をしたスーツ姿の女性の後ろ姿が見えた。

 その心当たりのある人物だった。

 

「おーい、幸ちゃん!」

 

 天崎が幸ちゃんと呼んだその女性……セイウンスカイが所属するチームアルバリのチーフトレーナー横水幸緒は立ち止まってこちらを振り返った。彼女は俺たち2人を見て、一瞬だけ目を丸くしたあと、いつもの切れ長の鋭い目つきに戻った。

 

「横水……」

 

 横水と……いや、横水と天崎、2人とも昔から……それこそ寮で一緒だった20ぐらいのころから外見はそんなに変わっていない。むしろあれから大人びて綺麗になったとさえ思えるぐらいだった。外見的にはただ年齢を重ねただけの俺とは雲泥の違いだった。

 横水と直接こうやって向き合うのは8年ぶり……俺が寮を出ていったとき以来だった。

 

 立ち止まった横水の前まで来たところで、ようやく天崎の手から俺の手首が解放された。

 

「坂川……久しぶりだな。同期勢揃いとは懐かしいな」

 

 横水はそう言って小さく笑みを浮かべ、俺との距離を詰めてきた。

 こうして3人でいると、10年前……寮で一緒に過ごしたあの楽しかった日々を──

 

「なあ、坂川」

 

 ──思い出すなんてことは、あり得ない。

 

「よくもその顔を、のこのこと私の前に出せたな……!?」

「ぐっ……」

 

 横水は俺の胸ぐらをつかんで、そのまま勢いよく通路の壁へ押し付けた。俺は反射的に顎を引いた。顎を引いていなかったら後頭部をコンクリに打ちつけていただろう。

 

「幸ちゃん!? 何してるの、やめて!」

 

 横水は止めに入る天崎など歯牙にもかけず、それどころかより力を入れて俺の胸ぐらを捻じり上げた。眼前には怒りに染まった横水の顔があった。

 

「やっとまともにクラシックに挑戦できるから得意にでもなっていたか? お前みたいな最低のトレーナーが? いいご身分だな……!」

「…………」

 

 強く胸ぐらをつかまれてるとはいえ、男の俺より女の横水は身長も低いし腕力も劣る。声を出すことぐらいはできる。

 でもそれに俺は反論できなかった。横水の言った通り得意になっていたかもしれないし、俺が最低のトレーナーということに俺自身何の異論もない。それだけのことをしてしまったのだから。

 8年前、最後に会った時に激高していた横水は、変わらない姿で今もそこにいた。

 

「お前が未だにレースに関わっているというだけで虫唾が走る。だいたい、なぜお前はまだトレーナーを辞めてないんだ? ()()()、さっさと辞めていれば良かったのに……!」

「幸ちゃん! もうやめてよ!」

 

 天崎の悲鳴に近い声が上がる中、今の横水の言葉が引っかかった。

 

 それには、反論しなければならなかったのだ。

 

「…………ああ。確かに、あの時辞めれば良かったかもな」

 

 横水の怒りの表情に刹那の淀みが生まれた。胸ぐらをつかむ手も一瞬緩んだ。

 しかし、どちらともすぐに元に戻った。

 

「今更、何を言ってるんだ……!?」

「でも、既にここまで来ちまったんだよ。だからもう、辞めることはできねえんだ」

 

 あの時、愚かにも俺はトレーナーを続けると選択してしまった。

 だから、今の俺には担当した数多のウマ娘が心の中にいた。重賞を勝たせてやれなかったウマ娘たち、重賞に出走すらできなかったウマ娘たち、オープンまで勝ち上がれなかったウマ娘たち。

 

 そして、未勝利戦を勝てずに退学してしまったウマ娘たち。

 

 多くの担当ウマ娘を見て、そして見送ってきた。それに報いようなんて思ってはいない。そもそも勝たせてやれなかった時点で、もう報いることはできないのだから。

 

 

 ただ、俺は彼女たちを覚えている。だから、辞めることはできない。

 

 

「…………」

 

 横水の目を正面から受け止めて見返す。こんなことを口に出す必要はない。トレーナーは辞めないと、それだけを言った上で目線に意志を乗せた。

 

「……チッ」

「ぐ……」

 

 横水は舌打ちをして突き飛ばすように胸ぐらをつかんでいた手を離した。そうして俺と距離を取ると、天崎の方を一瞥した。

 

()()、お前もいい加減にしておけよ……!」

「……」

 

 横水にそう言われると、天崎は黙りこくって下を向いた。

 横水は身を翻してその場を去っていった。カツカツと床を反響するヒールの足音がだんだん小さくなっていった。

 残された俺と天崎は無言のまま立っていた。まだかすかにヒールの音が聞こえてくるうちに、天崎は口を開いた。

 

 

「なーんだ、思った通りの反応すぎてちょっと拍子抜けだなー。ね? 坂川くん」

 

 

 心底がっかりしたと、そんな言葉とは裏腹に顔を上げた天崎は天使のように微笑んでこちらを見た。ヒールの音は完全に聞こえなくなっていた。

 

「んなとこを見たいから俺を横水に会わせたのか」

「うん。でも、もしかしたらクラシック路線に来た坂川くんに感動して抱き着くなんてことも1%はあるかもと思ってたよ」

「くだらねえ……」

「ほんと、情熱的だよね幸ちゃんは。自分のことじゃないのによくあんなに怒れるよね。面白いけどつまんない女。というか止めに入る演技ぶった私を2人ともよく怒らなかったよね。ふざけるなって怒られるかと……いや、最後に幸ちゃんに怒られたね」

「……だからお前に会いたくなかったんだよ」

「えー冷たいなあ」

「じゃあな」

 

 踵を返し、天崎を放っておいて俺も元いた道へ戻ろうと歩き始めた。

 

「坂川くんっ!」

「……今度は何だよ」

 

 うんざりしながら振り向くと、蠱惑的な笑みを浮かべて近寄ってきた天崎が──

 

「弥生賞、楽しみにしておいてね。スぺちゃんが、みんなぶっ潰してあげるから」

 

 ──俺の耳元で、まるで恋人に甘い言葉を囁くような声色で、そう宣戦布告した。



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第24話 弥生賞

 3月8日、中山第10レースアクアマリンステークスに出ていたウマ娘たちが全て引き上げ、第11レース報知杯弥生賞に出走するウマ娘たちがパドックから地下バ道を進んでいた。

 

「そういえばさ、2人とも知ってる? 私たち3人のトレーナーさんたちって同期らしいよー」

 

 レース前の緊張でピリつく空気なんてどこ吹く風のセイウンスカイはのんびりと世間話をするようなトーンでそう言った。

 

「そうなの!?」

「私は知っているわよ。弥生賞のインタビュアーが言っていたわ」

 

 この前のインタビューで坂川にだけそんな質問をしているのを覚えていた。数奇な運命もあるものだと、それを聞いたときに思っていた。

 

「キングのトレーナーさんって、その話とかする?」

「聞いたことないわね。尋ねたこともないわ。何かあったの?」

「前にトレーナーさんにそのことを訊いたんだけど、そうしたらトレーナーさん私を無視したあげく露骨に機嫌が悪くなってさー。その日のトレーニングでセイちゃんは地獄を見ましたとさ。『今でも仲いいんですか?』って訊いただけなのに……とほほですよ」

 

 セイウンスカイはわざとらしくやれやれと両肩をすくめた。

 それを見ていると、あまりにも普段と変わらない彼女の様子に私も流されそうになってほどよい緊張感が崩れそうになったが、気を取り直すように背筋を伸ばして前を向いた。

 

「スカイさん、もういいかしら?」

 

 私は歩くペースを速めて2人より一歩前に出た。

 

「キングちゃん、一緒に行かないの?」

 

 引き留めたスペシャルウィークの方を振り向いた。

 

「スペシャルウィークさん、これは本番であって練習じゃないの。正真正銘の真剣勝負なのよ。ここまで来て慣れ合うつもりはないわ」

「……うん、そうだね。私、忘れてたよ。これは本番……レースだもんね!」

「ええ、そうよ。先に行くわ」

 

 力強い紫紺の瞳へと変わったスペシャルウィークを視線を交わした。私はまた前を向き、後方でまた何か会話している2人を尻目に光の差す出口へ向かって歩みを進めた。

 

 

 東京レース場と比べると短い中山レース場の地下バ道を抜け、右へカーブする道を進むと視界が開けた。右方にいる観覧スペースの観客たちが目に入り、私がグランプリロードに姿を現すと彼らのざわつきがにわかに大きくなった。

 グランプリロードに詰め掛けていた老若男女から頑張れよー、応援してるよー、と様々な声援が浴びせられた。これまでのどのレースより……レース場は違えど、それこそホープフルの時より観客が詰めかけているようだった。世間のクラシックへの注目度を身をもって知ることとなった。

 

 ターフへ足を踏み入れると同時に実況の男性の声が中山レース場に響き渡る。

 

『姿を現したのは3強の一角キングヘイローです。僅差ではありますが、堂々の1番人気に推されています!』

 

 1番人気に評価されたことに一種の達成感を得たが、それに浸っている余裕はなかった。これは皐月賞へ向けての最大の前哨戦と言っていい弥生賞だ。油断や慢心は何一つとして許されない。

 

『GⅠホープフルステークスは惜しくも2着でしたが、昨年11月の東京スポーツ杯ジュニアステークスのレコード勝ちは記憶に新しいところでしょう。ここを勝って、順調に皐月へ駒を進められるでしょうか』

 

 過ぎ去ったジュニア級の栄誉を背にして、気合をつけてゲートまで走っていった。横目でチラッとスタンドを見ると、ゴール前の最前列に見慣れた3人の顔があった。

 たどり着いたゲート前にて緊張を落ち着けながら他のウマ娘が揃うのを待つ。

 最後にスペシャルウィークがやってきて13人がゲート前に集まった。

 

 ~♪ ~♪ 

 

 スターターが旗を振って流れたファンファーレが鳴り終わったら目を開けた。真っ青な空から降り注ぐ太陽に照らされた眩しいターフに目を慣らしていると、奇数番のゲートへの枠入りが指示された。

 誘導員に連れられるまでもなく、早めにゲートに入りその時を待つ。

 

 大外のスペシャルウィークが枠入りしたのを横目で確認した。

 3番ゲートの中で息を大きく吸って吐いて、片足を引いて前傾姿勢になり構える。

 

 ──ガシャン! 

 

 5度目のゲートが今開き、前足に体重を乗せ思い切り踏みつけてスタートを切った。

 

『皐月への想いを胸に秘め、13人今スタートしました。先行争いはキーゴールドが行ったが──』

 

 1枠1番のキーゴールドが好スタートを決めてハナを切った。私自身スタート自体良くはなかったが内枠だったこともあり、逃げる彼女の後ろのポジションをとることができた。

 私は彼女に2バ身ほど遅れる形でその後を追走するが、その外から複数の足音と気配が忍び寄ってくる。一番外からやって来た白い勝負服の芦毛のウマ娘がキーゴールドに並びかけていった。

 

『──セイウンスカイがスーッとキーゴールドとバ体を合わせます』

 

 セイウンスカイはキーゴールドの方を一瞥することもなく、当然のようにハナを奪い返した。セイウンスカイに遅れて2人のウマ娘……フジラッキーボーイとマイホームタウンが外から私に競りかけてきた。

 

「……」

 

 落ち着いて対応を考える。東スポ杯と同じように、楽に走れるポジションを……と考えた私は主張することなく、内ラチ沿いに他のウマ娘と距離を取って走ることを選択する。

 するとフジラッキーボーイは私を交わしてそのまま順位を上げていった。マイホームタウンはその後をなぞるように続いて私を抜いていく。2人とも私と肩がぶつかりそうなギリギリのところを走っていった。

 

「……っ」

 

 これまで受けてきたものとは比較にならないこのプレッシャー……勝利に懸ける強い意志がこんなにも伝わってくる。顔程度しか知らないウマ娘たちだが、学園で見かけた姿からは想像できないような形相とその空気感。

 気を抜けば、一瞬でこっちがやられる。

 

(これが……上等よっ!)

 

 熱くなる心とは裏腹に周りを冷静に見ながら走っていく。

 

『ハナを主張したセイウンスカイ、先頭に立ちました。バ群は第1コーナーへ入っていきます』

 

 コーナーを回りながら前を見ると、セイウンスカイがスイスイといった様子で先頭を走っている。セイウンスカイと私とは4バ身か5バ身の差。

 私の目の前には追い抜いていったウマ娘が一塊になって走っている。セイウンスカイとは2バ身から3バ身の差。

 まだ序盤から中盤、焦ることはない──が。

 

『向こう正面に入っていきました。先頭はセイウンスカイ、芦毛の髪が靡いています。第3集団あたりにキングヘイローがいます』

 

 他のウマ娘と距離を取って走りやすい場所を確保するためにここまで順位を下げていたが、それでもやっぱり走りにくい。前のウマ娘との距離は近いし、後ろからも他のウマ娘がやってきている。

 直感的に綺麗なフォームでは走れていないって分かる。でもこれで行くしかない! 最初から最後までスムーズに走れるなんて、最初から思ってないのだから! 

 全方位から押しつけられる強烈なプレッシャーを感じる……これが1番人気で走るってこと! 

 

(早めに外に出さないと……!)

 

 前には番手集団。このまま内側に閉じ込められたら前壁になってしまう。それだけは避けなければ。

 それにこのペースはどうやら、そんなに速くない──! 

 

(やっぱりトレーナーの言っていた通りじゃない!)

 

 レースに向けてのミーティングで、弥生賞はスローペースになることが多いと聞いていた。もちろん、逃げウマ娘や先行争いなどでどうなるかは分からないが、傾向として頭に入れておけと言われていた。

 

 

 ここまでのトレーニングを経て、ペースが速いか遅いかぐらいは判断がつくようになっていた。

 

 色んなペース感覚を養うトレーニングを試した日々を思い出す。坂川にそれこそ色々言われたが、彼は私に合うトレーニング方法を試行錯誤したうえで考えてくれた。

 色々試したけれど、ストップウオッチを使って時間に足を合わせるトレーニングではペース感覚は掴めなかった。なので、ペース感覚のトレーニングの前に全力ダッシュをしてタイム計測をし、その日の調子を客観的に判断したうえでインターバル走をして感覚のすり合わせを徹底的に行った。

 この調子でこの感覚で走ったらこのタイムだと、それを体と頭に覚えこませる。絶不調の時にこのペースで走ってこの脚の疲労感ならこのタイム、絶好調の時もしかり。もちろん、前や後ろにカレンモエや郷田のチームのウマ娘を配置して、実践的なレースを想定したトレーニングも行った。

 坂川の総評のような言葉が今でも耳に残っていた。

 

『細かいとこまではまだ無理だが……1000m60秒より極端に速いか遅いかぐらいは分かるようにはなってきたな。悪くねえ』

 

 今日は昼に全力ダッシュをして今の調子を判断していた。

 絶好調とまでは行かないが、普段よりも調子は良い。

 

 

 そのタイムと今日の感覚をすり合わせてペースを判断した結果、60秒より遅いという判断につながった。

 なら、仕掛けは早く。遅れては絶対に駄目だ。

 

『さあ縦長の展開になりました。先頭で引っ張るのはセイウンスカイ! 無傷で皐月へ向かえるのか? バ群は凝縮して向こう正面から第3コーナーへと向かっていきます!』

 

 もうすぐバックストレッチが終わる。8のハロン棒が過ぎて、第3コーナーを入ったところに立ててある6のハロン棒が見えてきた。

 私のすぐ外に追い上げてきたローランタイムリーがそのまま加速してコーナーへと向かっていく。

 前は完全にバ群が固まっている。このペースのまま内にいることが敗北を意味することは明らかだった。ローランタイムリーが私を交わす瞬間を見計らい、その後ろからさらに大外に出そうと画策する。

 

(彼女の後に続いて外に出せば──今っ!)

 

 6ハロン棒を通過し、彼女が完全に私の前に出るか出ないかのタイミングで外へ進路を取ろうとした──

 

(え──)

 

 ──が、そのローランタイムリーのすぐ後ろから、得体の知れない暴風がやってきた。音を立てて空気を切り裂きながら、ローランタイムリーの加速なんて目じゃないスピードで突っ込んでくるモノの正体は──

 

(スペシャル、ウィークさんっ……!?)

 

 スペシャルウィークが暴力的な速度のコーナリングで外から私へと並びかける。外に出せるスペースは一瞬にして消え失せた。

 外に膨らまないよう慌ててブレーキをかけた。間一髪間に合ったが、バランスは崩れた。

 

「──くうっ!」

 

 そしてこのレースのどのウマ娘よりも近くまで、彼女は私にバ体を寄せてきた。

 コンマ1ミリも外に膨れることは許さないと、そのまま進路のない内で死んでいろと、そう言わんばかりのコース取り。

 

「「────」」

 

 すれ違いざま、彼女と目が合うのは必然。いつもの温和で天然な友人のスペシャルウィークはいなかった。勝利への渇望と無慈悲な冷酷さを併せ持った強敵がそこにいた。

 

 ──これは本番だよ、キングちゃん。

 

 声は出していないのに、彼女がそう言ったかのよう感じた。

 

 刹那のアイコンタクトを終え、スペシャルウィークは外を回してそのまま第4コーナーを捲っていく。その外にスノーボンバーが遅れてついてきている。

 その2人の外を回っていたのでは、直線の短い中山では絶対に間に合わない──! 

 

(私だって!)

 

 なら、私はスペシャルウィークを利用するまでだ。彼女のすぐ背後に張り付き、離されないように第4コーナーから直線へ入っていく。

 先頭の方へ目を移すと、セイウンスカイが内ラチ沿いにスパートをかけていた。だが、今はスペシャルウイークだけに集中する。

 

 スペシャルウィークを交わせなければ勝利はない────本能がそう告げていた。

 

(直線で抜き返すだけよっ!!)

 

 そして直線に向いた瞬間、逆にスペシャルウィークに2バ身差をつけられてしまった。コーナーリングを失敗しただろうか。

 考えている暇はない。私自身を信じて、あとは末脚を爆発させるだけ! 

 

 上限(レブ)まで脚を回して一気に加速する。体に当たる空気抵抗が一気に増す。これでスペシャルウィークを捉えて──! 

 

 

 

(──?)

 

 

 スペシャルウィークを捉えて──

 

 

(──え?)

 

 

 捉えて……

 

 

(なんで──!)

 

 

 捉えるどころか、その差は広がる一方。思い描いていた勝利への道筋が瞬時に瓦解する。

 

 スペシャルウィークとの差が2バ身、3バ身と開いていく。目の覚めるような切れ味の末脚で駆けていくスペシャルウィークの背中が一瞬にして小さくなった。

 

(まだ、まだよ! キングは末脚はこんなものじゃないわ!)

 

 まだ挽回できる。私の末脚は誰にだって負けないのだから。

 気持ちを強く持って、私の持てる力全てを脚へと注ぐ。

 

 それでも、スペシャルウィークとの差は詰まらない。

 むしろ広がるだけ。

 その差は4バ身。

 

 ──な、んで……なんで!! 

 

 そこでやっと気づいた。気づいてしまった。

 コーナーから直線、直線からここまで、私はスペシャルウィークに離されるだけ。それが意味するのは──

 

(そんな──)

 

 スペシャルウィークがキングヘイローより速いという事実。

 キングヘイローがスペシャルウィークより遅いという事実。

 

『逃げるセイウンスカイ! 追い込んでくるスペシャルウィーク! その差が3バ身、2バ身──』

 

 遠くに見える2人の背中。スペシャルウィークどころか、セイウンスカイの背中も遠いまま。

 

『1バ身、体半分、並んだ、変わった、スペシャルウィーク今ゴールインっ!』

 

 完全に2人の世界となった1着争いをはるか後方から見ることしかできない。

 

(これじゃ、あのときと──)

 

 その2人の姿と、あの模擬レースでのグラスワンダーとスペシャルウィークの姿が重なった。

 

(──何も変わらない、じゃない)

 

 足の力が抜け、ただ無心でその2人の背中に手を伸ばしそうになる。もう届くことのないその背中に向かって。

 

 こうすれば、届くのかしら──

 

 

 

 

「まだレースは終わってねえぞバカ!!!!! 気張れキング!!!!!!」

 

 

 

 

 ──と、大歓声の観客席の中から、聞きなれた声がひとつ、耳に届いた。

 全力で張り上げられたその声は、耳に届いた。

 

 坂川の、声だった。

 

「──っ!!!!!!」

 

 その声によって胡乱な意識が一気に鮮明になった。はるか前方に気を取られていたが、私のすぐ左にスノーボンバーがいた。死力を振り絞るといった様子の彼女は斜行しながらもゴールへ向かって走っている。

 この娘にまで負ける訳にはいかない! 

 

「あああああっ──!!!」

 

 どんな醜態だろうが気にしない。苦しくて顔が上を向こうが、悔しくて涙が出ようが、叫ぶように声を上げようが、頭の中もフォームもぐちゃぐちゃだろうが、1つでも順位を上げなければ! 

 

「「ああああああああああああっ────!!!!!!」」

 

 2人して叫びながら、ゴールラインを駆け抜けた。

 ゴールする瞬間、私より前に彼女はいなかった。なんとか凌げたようだった。

 

『最後はスペシャルウィークがセイウンスカイを捉えました! きさらぎ弥生で、皐月は見えたか!? その後離れまして3番手キングヘイロー!』

 

「はあ、はあ……ぐ……ッ」

 

 膝をついて見上げた先にいるのはスペシャルウィーク。

 片手を上げて喜んでいるその姿は、未だ遠いままだった。



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第25話 一流って?

 ウイニングライブを終えて、控え室にてライブの衣装から制服へと着替え終わり、部屋の外へと声をかけると3人が中に入ってきた。

 真っ先にペティが私に駆け寄ってきて、それにカレンモエが続いた。

 

「お疲れ様ですキング。ライブ、良かったですよ!」

「ええ、ありがとう」

「……体は、大丈夫?」

「大丈夫です。気を遣っていただいてありがとうございます、モエさん」

「この後も、注意してね。次の日に痛くなることだってあるから……」

 

 こちらを気遣ってくれている2人に感謝を述べると、2人の頭越しに坂川が姿を現した。

 

「本当に身体はなんともないんだな?」

「さっきモエさんに言ったでしょう。あるのはレースとライブの疲れだけよ。ライブだって、一流……らしく踊れていたでしょう?」

 

 ──ずきっ、っと。

 

 今、『一流』と言ったときに、胸に鈍い痛みが走った。

 なんで? こんなこと、今まで無かったのに。

 

「まあライブは問題なかったが……ほら、さっさとそこに寝ろ」

 

 言われる通りに床に敷いたマットの上に寝転んで、坂川による体のチェックを受ける。筋肉を触られたり、関節を動かされたり、逆に自分で動かしたり……それは10分足らずで終わった。

 

「言った通りでしょう?」

「今は問題ないな。でもあんなレースの後だからな……何か変に思ったらすぐ言えよ」

 

 あんなレース……彼にその気がないのは分かっているのに、何気なく言われたその言葉に棘を感じてしまう。

 レースが終わってから今まで、彼はレースの内容について一言も触れていなかった。明日には今日のレースの振り返りをするとは思う。でも今何も言ってこないのは、気を遣われているのか、言及する必要もないほど論外なレースだったのか、彼の思いは分からない。

 

 ──『まだレースは終わってねえぞ!!!!! 気張れキング!!!!!!』──

 

 最後の直線、気を抜いて足を緩めてしまった私にかけた彼の言葉が今でも耳に残っている。あんなことをしてしまった自分を思い出すと、苦い気持ちでいっぱいになり無意識に下唇を噛んでしまった。

 

「よし、帰るぞ。忘れもんがないかだけ確認──」

 

 ~~♪♪ 

 

 そして流れ出した、聴き馴染みのある軽快な電子音。

 

「……」

 

 その発生源は、もちろんスカートのポケット。

 スマホを取り出して発信者を確認すると、母の名前があった。

 

「……っ」

 

 その名前を表示されたスマホを恨めしくじっと見つめてしまう。出ようか、出まいか悩んでいると、

 

「キング、先に行ってるぞ。()()()()()()()()。駐車場の車の場所は覚えてるな?」

 

 坂川がこちらに背を向けた。

 中山レース場までは4人で坂川の自家用ミニバンに乗って来ていた。

 

「ええ。覚えてるわよ」

「なら先に行っとくぞ。モエ、ペティ、行くぞ」

「え? ああ、はい……」

「……うん」

 

 坂川は後ろ髪を引かれている2人を連れて控室を出ていった。

 控え室に残されたのは私と鳴りやまないスマホのみ。応答ボタンも拒否ボタンも押す勇気が出ないまま画面を見つめる。

 

「どう……しようかしら……」

 

 どうせ出たって、また母に何か言われるだけだ。今日の弥生賞……スペシャルウィークとセイウンスカイに完敗した私を見て、さぞ言いたいことが沢山できたことだろう。

 なら別に、出ないで逃げても──

 

「──逃げ……?」

 

 私は今何を考えていた? 母の電話に出ないことを『逃げ』だと考えたのか? 

 

「このキングが、逃げるだなんて……」

 

 一流であると証明するために、どんな困難にも立ち向かうと心に決めていた。なのにレースで負けた上に母から逃げていて、決して首を下げないなんてよく言えたものだと自嘲気味に笑った。

 

「…………」

 

 大きく息を吸ってゆっくりと吐いたのち、意を決して応答ボタンを押した。

 

「……もしもし」

『やっと出たわね、キング。また無視したのかと思ったわ』

 

 ホープフルのときのことを言っているのだろう。あの時は電話を無視したのだ。なので母と話すのは坂川と契約した日以来となる。

 

『周りには誰もいないのかしら?』

「私1人よ。トレーナーもいないわ」

『トレーナー? ああ、そう言えばあの坂川という男と契約したのだったわね。私、忠告したはずだけれど? あの男はやめておきなさいって』

「私のことは私で決めるって言わなかったかしら? お母さまには関係ないでしょう?」

 

 電話越しに行われるいつもの売り言葉に買い言葉の応酬。このあと、母がどんな話に持っていくのか容易に想像がつく。

 

『見ていたわよ、弥生賞』

「……そう」

『スペシャルウィークさんとは4バ身か5バ身といったところかしら。見どころもない、惨敗だったわね』

「…………」

 

 想像はついていた。だからといって、それに言い返すことができるわけではなかった。

 

『スペシャルウィークさん、息を飲むような素晴らしい末脚だったわ。レース運びも完璧。あなたはコーナーで外から被せられた挙句、末脚でも完敗。あなたが彼女に勝っている点は何も無かったわね。今度こそ思い知ったでしょう……絶対的な才能の差を』

「……っ……」

 

 母が言ったことを理解できてしまう自分が悔しい。キングヘイローとスペシャルウィークという2人のウマ娘の実力差を痛感した当事者の身としては、それを面と向かって否定することが難しかった。

 

『そのスペシャルウィークさんに加えて、僅差だったセイウンスカイさん。それにケガで休んでいるグラスワンダーさん……こんな強いウマ娘たちが同期にいて、不幸だったかもしれないわね。でも、これも運命』

 

 どうせ、母が言うことは決まっている。

 

『まだ遅くはないわ。これ以上醜態を晒す前に帰ってきなさい、キング。何度も言っているけど、レース以外の道もあるのよ』

 

 予想に違わない言葉がスマホから発せられた。

 そちらが何度も言うのなら、こっちも何度だって言ってやる。

 

「……いわ」

『なにか言った?』

「帰らないわ。トゥインクルシリーズで私は、キングヘイローは一流のウマ娘であると証明するのよ!」

 

 確かに今日のレースは惨敗してしまったかもしれない。弱気にもなっているかもしれない。だが、その程度でレースを辞めて帰るほど私は柔なウマ娘じゃない。()()()()()()()()()と証明するまで走り続けると決意してトレセン学園に入ったのだから。

 

 ──また、ずきっと、この胸に鈍い痛みが訪れていた。

 

『……一流……あなた、その言葉をよく使うわね』

「……え?」

 

 その言葉に虚を突かれた。母が一流について言及したことはこれまで一度も無かったからだ。

 

『キング、あなたにとって一流とはなに? GⅠを取ることかしら? それとも、インタビューで言ってたように三冠ウマ娘になること?』

「……ええ、そうよ! GⅠウマ娘に……三冠ウマ娘になることよ!」

 

 あの弥生賞前のインタビューのことを知っていた母に内心驚きつつ、そう言い放った。

 

『三冠ウマ娘になれなかったら、あなたは一流のウマ娘にはなれないってことかしら?』

「そ、それは…………ふんっ、そんな仮定はいらないわ。私は三冠ウマ娘になるのよ。そのことしか考えてないわ」

『そんな子どもじみた妄言こそいらないわ。ならクラシックで1つでも負けたらトレセン学園を辞めるの? そうじゃないわよね。あなたはまた違うこと……いえ、同じことを言って辞めないでしょうね。一流のウマ娘になる、って』

 

 冷徹に詰めてくる母の言葉に言い返すことができない。

 

「…………」

『だから、もう一度聞くわ。あなたの言う一流のウマ娘ってなにかしら?』

「私の……一流……」

『クラシック三冠? 天皇賞? ジャパンカップ? 有馬記念? KGVI&QES(キングジョージ)? チャンピオンステークス? ブリーダーズカップ? 凱旋門賞? この中の1つでも? 複数勝ったら? 全て勝ったら? GⅠ勝つにしてもいくつ勝てばあなたの言う一流に届くのかしら? 1勝? 2勝? 3勝……』

 

 そこで言葉を切って、一瞬の空白の後、母はそれを言った。

 

『それとも、私のGⅠ7勝を超えれば、かしら?』

 

「──────」

 

 私は言葉を失ってしまっていた。なにも頭に言葉が浮かんでこない。母の問いに対しての答えを持っていない。

 

『……また、(だんま)り。いい? あなたがそれを分かっていないようなら』

 

 いつの間にか、ずきずきと胸は痛いまま張り詰めていた。

 

『一流になんて、なれやしないわ』

 

 プツッ、とスマホの通話がそこで切られた。

 掌にあるのは自分のスマホなのに、何か得体の知れないもののように見えた。

 

「……私の、一流…………」

 

 頭の空白は埋まらないままだった。

 

 ◇

 

「ねえ、トレーナーさん」

「ん?」

「ちょっと……」

 

 電話のかかってきたキングヘイローを置いて駐車場へ行く道すがら、カレンモエは俺に並びかけて耳をよこせと手招きをした。彼女の身長に合わせる様に横に傾き軽く屈むようにすると、俺の耳に彼女は口を近づけた。吐息と髪の毛が当たり、それにくすぐったさを感じながら彼女の言葉を待った。

 

「あの電話って、もしかしてキングのお母さん?」

「……!」

 

 後ろでスマホを弄りながら歩いているペティに聞こえないようにか、耳元にて小声で囁かれたそれはキングヘイローのことだった。

 先程の電話……スマホの画面を見たわけではないが、電話をかけてきたタイミングとキングヘイローのあの様子から十中八九グッバイヘイローだろう。ホープフルの時も今日と同じくウイニングライブ後の控室にいる時にかかってきていた。

 

 次は俺がカレンモエの耳に口元を近づけた。ピンクのカチューシャ式メンコが被せられた耳がピンと立っていた。

 

「お前、キングと母親の関係のこと知ってんのか?」

「ううん。何も知らないよ。グッバイヘイローさんが凄いウマ娘だってことぐらいしか」

「ならなんで母親だって分かったんだ?」

「……なんとなく、だよ。苦しそうに見えたんだけど、それだけじゃない気がして。誰なのかなって考えたら……」

 

 母親に思い至ったということか。もしかしたら、カレンモエも同じように母親から電話がかかってきたことがあるのかもしれない。まあ、グッバイヘイローみたいなことをカレンチャンは言わないだろうとは思う。何度か面談でカレンチャンと会っているので、娘に対する母のスタンスみたいなものはある程度分かっているつもりだ。

 それに、カレンモエは自身とキングヘイローを重ね合わせたのかもしれない……偉大なウマ娘を母を持つという、同じ境遇のウマ娘として。

 

「で、それを知ってお前はどうしたいんだ」

「……どうするとか、そういうのじゃなくて……」

 

 言い淀むカレンモエであったが、少し考え込むようにしてから口を開いた。

 

「モエも分かること、あるかもしれないから。何か助けてあげられないかなって」

 

 それを聞いて何というか、素直にカレンモエの健気さに感心してしまった。

 が、そんな善性だけで事態は何とかなるものではない。そこに釘を刺したうえで、彼女の言うことを尊重してやることにした。

 

「キングとお前とは違う……母親も、母親との関係もな。だから、全部理解できるとは思わない方がいいぞ」

「……そうかも、ね……」

「でも、もしキングが悩んでそうなら、手を貸してやってくれ。お前らみたいな……凄いウマ娘を母親に持つ奴にしか分からねえこともあるだろう。話を聞いてやるだけでもいいから、な」

「! ……うん、分かったよ」

「ああ、頼む」

 

 こいつなりに後輩を気にかけて……意外と面倒見がいいのかもしれない。

 

「なんだよ。ちゃんとお前も先輩やってんじゃねえか」

「……なに、それ」

 

 そういうことじゃない、とカレンモエにジト目で睨まれてしまった。

 

 ◇

 

 乗り込んだミニバンの運転席にてキングヘイローを待っていると、俺のスマホに一通のメールが入った。何の気なしにそのメールを開いた。

 

「……!!」

 

 差出人とその内容を見て、思わず舌打ちが出そうになった。そのメールに返信する。簡単に『了解 行く』とだけ。

 

「……はあ」

 

 スマホをズボンのポケットにしまうと、後部座席にいたペティが身を乗り出してきた。

 

「キングですか?」

「ちげえよ。トレーナーの業務連絡」

「なーんだ。大変ですねえ」

 

 興味を無くしたペティは後部座席に引っ込んでいった。

 

 

 

 それからしばらくしてキングヘイローが姿を現し車に乗り込んだ。表情はレース後と同じように冴えないままであった。

 

 そしてその帰り道にて、運転しながら先程送られてきたメールを思い返していた。そのメールの差出人は……天崎ひより。内容は以下のようなものだった。

 

『今日の23時ぐらいに2人でお酒でも飲みに行かない? スぺちゃんの祝勝会したあとになるから遅くてごめんね~。あ、もし断ったら坂川くんのチームの子に()()()()()からね……? 場所は──』



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第26話 密会

 天崎に指定された場所は大企業のビルや一流のホテルが並び立つ摩天楼のお膝元だった。人の熱量や賑やかさのある繁華街と比べ冷たくて無機質な印象を受け、どこか落ち着かない心地で彼女を待っていた。

 腕を組んで目を瞑ってしばらく待っていると、こちらに向かってくる足音と声が聞こえてきた。

 

「待った?」

「そこそこな」

「えー……まだ11時になってないじゃん。坂川くんが早く来すぎなんだよ~」

 

 まるで仲の良い友人みたいに、天崎は俺をからかうようにそう言った。

 

「で、どこで飲むんだ?」

「ちょっと行ったとこのホテルに入ってるバー。夜景がきれいでお気に入りなの。じゃあ、行こっか?」

 

 歩き出す天崎に続きその後をついていく。頭の中では彼女が何を考えて俺を誘ったか考えながら。

 

「もうっ、坂川くん! せっかく2人なんだから並んでお喋りしながら歩こうよ。そんなことしてたらウマ娘にモテないよ?」

「…………」

「無視しないでよ~。ふふっ、でもその反応は……坂川くん、やっぱウマ娘にモテてないんだ? 淋しいんだ~」

「しょうもねえ……」

 

 俺の横に並んできた天崎は俺に身を寄せて、俺の右腕に触れてくる。

 

「ねえ、ならさ──」

 

 彼女は背伸びをして、俺の耳もとで甘く囁きかけた。

 

 

「──飲んだあと、いっしょにホテルに泊まる? 相手してあげよっか?」

 

 

「っ!」

 

 右腕に絡みついてきた天崎の腕を振り払った。

 

 こいつはそういうことを平気で言う女なのだ。俺の誤解などではない。

 

「よくも自分が心底嫌ってる人間にそんなことが言えるな。気持ちわりぃ……」

「えー、別に嫌っている人ともできるよ。ま、実を言うと坂川くんとなんていくら金を貰って頭を下げられたって、こっちからお断りだけどねー。坂川くんが本気にしてないようで良かった。そういうとこ、好きだよ?」

 

 本音がどこにあるか分からない彼女の軽薄な言葉を聞いていると、酒も飲んでないのに頭が痛くなってくる。思わず顔をしかめるほどに。

 

「お前、昔より大分イカれたな」

「失礼だなー。その言い方じゃ最初からイカれてたみたいじゃん。最初の2年……新人寮にいるときはまともな普通の女の子だったよ……ウマ娘を思いやる優しい女の子だった。そんな私をこんなになるまで壊したのは坂川くんでしょ?」

 

 それは誤解でしかない。俺は天崎に何もしてない。俺達2人は良くも悪くもただの同期だっただけだ。でも彼女は俺にこう言ってくるのだ。

 

 お前が私を壊したんだ、と。

 その言葉の真意を俺は知らない。

 

「……何回も言うが、俺はお前に何もしてねえだろ」

「直接的にはね。でも、きっかけは100%坂川くんだよ。その張本人にイカれたとか言われたんじゃ、ひよりちゃんもやるせないよね」

「……んとに、お前がなんでウマ娘に好かれるのか未だに分からねえ」

「あの娘たちの前では『ちょっとドジだけど一生懸命なトレーナーさん』としてちゃんとしてるからね。あとはそうだね……主人公補正ってやつかも?」

「主人公だあ? はっ、お前が主人公の話なんてろくでもねえだろうな」

「酷い!? ……でもまあ、それは否定しないよ」

 

 俺から背けた天崎の表情がほんの僅かに陰る。やっと、彼女の本音が垣間見えた気がした。

 

「やっぱり積もる話はたくさんありそうだね……さ、着いたよ」

 

 天崎が足を止めた建物は、五つ星がつけられたことで有名な超一流ホテルだった。

 

 ◇

 

 エレベーターでかなりの上階まで上がり、入り口の重厚な扉をくぐってバーへ足を踏み入れる。一面がガラス張りにされ東京を全て見渡せられそうな夜景を背に、厳かな内装が2人を迎えた。絢爛豪華なんてものじゃない、荘厳ささえ思えるようなバーだった。……普通なら、俺みたいな一般人には一生縁のない場所だろう。天崎にドレスコードで来いと言われていた時点で、高級バーだと大方予想はついていた。

 

 天崎が出迎えた正装の店員に一言かけると、その店員が先導してバーの奥の方へ案内してくれた。その様子だけでも天崎が常連だとうかがえた。

 湧き上がってくる物珍しさから店や他の客を見回したい欲を押さえつけながら天崎のあとに続いていった。案内された先はガラス張りのすぐ外の夜景がよく見える場所で、黒光りする丸テーブルに沿うよう半円形にソファーが並べられていた。天崎がソファーに腰を下ろした位置が2時だとするなら、俺は10時の位置に腰を下ろした。

 天崎が銘柄のよく分からない──おそらく高級なワインかなにかだろう──酒をオーダーした。メニューには聞いたことも見たこともない名前の酒が並んでいたが、かろうじて知っていた銘柄のクラフトビールがあったのでそれをオーダーした。

 

「こういうバーとか、坂川くんはよく来る?」

「こんな高そうなとこ、来るわけねえだろ」

 

 俺が行くのはドヤ街の飲み屋やよくて繁華街の飲み屋だ。それに飲みにだってそんな頻繁に行くわけではない。

 

「あはっ、そうだよね。坂川くんの給料じゃここみたいなとこ来られないもんねえ。だって、坂川くんの年収、たぶん私の週給ぐらいでしょ? もしかしたら週給もないんじゃない?」

「さあな」

「……なにその反応つまんない。もっと悔しそうにしてよ。同期の女にこんなに差をつけられてるんだからさー。女に年収負けるって惨めでしょ?」

 

 ぶーぶーと、無邪気にしか見えないがその実邪気しかない天崎の言葉にため息をついた。俺は給料の話をされても劣等感なんて感じないし特に何も思わない……こともない。全く気にしてないと言えば嘘になるが、金のためにトレーナーをやってるわけではない。あとは単に強がりで気にしてないふりをした。

 トレーナーは担当ウマ娘の活躍によってインセンティブが与えられる。GⅠはじめ重賞を勝ちまくり、DTLでも活躍するウマ娘がいる天崎の年収は数千万じゃきかない。億も軽く超えて、何億かという話になるだろう。

 

「俺に年収でマウントをとりたいから今日呼び出したのか?」

「こんなのただの世間話だよ。気を悪くさせたら、ごめんね……?」

 

 ごめんねの「ご」の字も気持ちが入っていない猫なで声の謝罪を潤んだ上目遣いに繰り出す天崎。男が好きな女の仕草を完璧に理解している所作だった。本性を知らない男なら胸のひとつでも高鳴らせていたかもしれない。

 

「ならなんで呼び出しだんだ……」

「この前坂川くんの顔見たら話したくなったの。弥生賞勝って気分良かったし、お酒も飲みたかったしね。みんなの前じゃお酒飲めないし。いいじゃん、今日は私が奢ってあげるから。こんな遅くに来てくれてありがとね」

 

 だからといって負けたチームのトレーナーを呼びつけるとはどうなのか。

 

 メールの内容が本当ならここに来る前チームシリウスは祝勝会をしていたことになる。天崎もウマ娘の前では流石に飲酒できないらしい。

 ……カレンモエの前で泥酔した自分とは対照的だった。

 

「お待たせいたしました」

 

 いつの間にかウェイターが酒を持ってきていた。俺の前にビールの入ったグラスが、天崎の前に白ワインが入ったワイングラスが置かれた。

 

「じゃ、スぺちゃんの弥生賞勝利に乾杯!」

「…………」

「あっ、もうっ! 乾杯ぐらいしようよー」

「そんな乾杯、するわけねえだろうが」

 

 天崎が差し出したグラスを無視してビールに口をつけた。エールビールらしい華やいだ風味が口いっぱいに広がった。

 

「ね? 言った通りだったでしょ。スぺちゃんがみんなぶっ潰してあげるって」

「……強かったな。スペシャルウィーク」

 

 そこを否定する気はない。コーナーにてキングヘイローを抑え込んだレース巧者ぶりといい、他のウマ娘を圧倒したあの末脚といい、あれを強いと言わずになんと言うのか。

 

「キングへイロー、大したことなかったね。不調だったの?」

 

 逆にそう言われて頭に血が上りそうになったが、それを沈めて答えた。

 

「体調は悪くなかった」

「ふーん、ならあんなもんだったってことだね。もっとキレる脚だと思ったのに。それとも距離? どっちにしても、これじゃあ皐月賞はセイウンスカイとの一騎打ちかな?」

「皐月までそんな簡単にいくと思うなよ」

「へえ、自信あるの? あんなに道中かかって力んでたし、見たところ問題だらけだけどねあの娘」

「……たぶん、今年の皐月の中山2000は実力の話だけじゃねえからな」

「ん? どういうこと? ……ああ、そういうこと。あれはねえ……」

 

 その言葉だけで天崎は俺が何について言っているか理解したらしい。あまり認めたくはないが、コイツはコイツで優秀なトレーナーだ。そうでないとシリウスのチーフなんて務まらないし、ここまで結果を出せないだろう。

 

 天崎は飲み干したグラスをテーブルに置いて、ウェイターを呼びつけ次の注文をした。ウェイターが去るとソファーに身を沈め頬杖をついて煌びやかな夜景に目を移していた。

 

「弥生賞勝ったのは良かったんだけど、グラスワンダー出てこないから張り合いがないなー。皐月も間に合うか分かんないらしいし」

 

 グラスワンダーは年明けからフォームの崩れがあり、トレーニングに取り組んでいるものの調子が上がらないとのことで出走を回避していた。

 ──グラスワンダーの骨折が判明するのは、この1週間後のことである。

 

 天崎はウェイターが運んできた赤ワインの入ったグラスを手に取り、夜景に向けてワインを透かすように眺めた。その口元には笑みが浮かんでいた。

 

「今度こそ、アルファーグを……清島をぶっ潰せると思ってたのに」

 

 天崎はグラスに口をつけ、赤ワインを一気に飲み干した。空になったグラスを見つめ、それをそっとテーブルのコースターへ置いた。

 

「……そこは変わらねえな。先生のこと、まだ敵視してんのか」

「当たり前でしょ。あのオッサンがいなかったら、私はもっと、もっと……」

 

 何年か前に話したときにも同じようなことを彼女は言っていた。

 天崎……チームシリウスは中央でも最上位に位置するチームだ。だが、未だにリーディングになったことはない。いつもその上にチームアルファーグの清島義郎がいたからだ。

 

「ま、坂川くん倒したからちょっとは気が晴れたけどね。実質アルファーグみたいなもんでしょ、坂川くん」

「意味わからん。今じゃ関係ねえだろ」

「でも弟子みたいなもんじゃん。だから坂川くんも敵だよ。ほんと、目障り」

 

 俺がアルファーグの人間だったこと、天崎が壊れてしまったきっかけであること……それらが合わさって、彼女は俺にも敵愾心を抱いているらしい。だから今日会ったとき、俺を心底嫌っているという言葉に対し、彼女は否定しなかったのだ。

 

「WDTでキタサンブラックにはやられたからさ、最悪だったよ。清島と坂川くんの2人にやられたようなもんだからね」

 

 元旦のWDTにはシリウスからナリタブライアンとメジロマックイーンが出走していた。ナリタブライアンがビワハヤヒデとハナ差の3着に敗れ、メジロマックイーンは着外に沈んでいた。

 

「……キタサンブラックは先生のウマ娘だ。俺には何の関係もない」

「何言ってるの? セントライトまでは間違いなく坂川くんのウマ娘でしょ。あれを清島だけのウマ娘って言うのは無理がないかな? ま、あの娘に()()()()()しといて俺のウマ娘だーって言うのに抵抗あるのは分かるけどね」

 

 ……この言動から察せられるように、俺とキタサンブラックに何があったか天崎は全て知っている。

 

「ブライアンちゃんもマックイーンちゃんも駄目だねあれ。特にマックイーンちゃん、完全にピークアウトしてる。まあまだ決勝には出られるし、賞金咥えて帰ってきてくれるから()()使()()()()()()()けど」

 

 賞金を咥える、使ってやってる……か。

 

「本当に相変わらずだな。ウマ娘をことをなんだと思ってんだ」

「うん? ウマ娘なんて、私にとって金と名声を得るための道具だとしか思ってないって前から言ってたでしょ。忘れちゃった?」

「……」

 

 天崎はあっけらかんとそう言い切った。ウマ娘は利用するモノでしかないと。それが当然であると。なにかおかしいことはあるかと。

 ちょうど髪をかき上げたその左手首には数百万は下らないスイス製のレディース用高級腕時計が光り、指には鮮やかな宝石がついた指輪が存在感を放っている。首には白銀のネックレス、耳に宝飾のついたイヤリング……など、どれもこれも相当の値段がするであろうアクセサリーを身につけていた。

 

「でもそれの何が悪いの? さっきマックイーンちゃんのこと悪く言ったけど、あの娘には海外の大学病院と提携して先端医療のケアだってしてあげてる。シリウスのウマ娘を勝たせるためなら手は一切抜かないし、いくらだって金を注ぎこんでる。それに私はウマ娘たちの前ではうまくやってるし、それで彼女たちは結果残せてんじゃん。こんな私を痛いほど信頼しちゃってさ。私の本性がどうとか、ウマ娘たちには関係ないよね」

 

 天崎がシリウスのウマ娘のために努力し注力していることは事実ではあるのだろう。だから、一概に彼女の言うことを否定できないでいた。

 彼女の心の内がどうであれ、その手腕でシリウスが結果を出しているのは疑うべくもないことだ。そもそもこのトレセン学園……いや、社会においては結果を出すことこそが重要なのだ。社会に出て現実を知った者なら誰だってそう言うのではないだろうか。

 

「私は清島を倒すためならなんだってやるよ。メジロ家とパイプ作ったり、全国の養成所やポニースクールを回ってシリウスに入れてもらう話だってつけてるんだから」

「……そこまでする必要があるのか?」

「ある。そうしないと私はリーディングに……清島を倒せない……倒せないんだよ……」

 

 天崎はそう言い切った。これまでの口調とは打って変わって、静かに語るように口を開いた。

 

「私のトレーナーとしての実力は私自身が一番よく知ってる。私には才能がない。だから他の誰よりも才能をもったウマ娘が必要なの」

「……そんなことはねえだろ、お前だって──」

「ううん、私は劣ってるよ。そりゃ普通のトレーナーよりは優れてると思うけど。坂川くんや幸ちゃん、清島と比べたらどうしても劣ってる。それぐらいは分かっちゃう。それこそ新人のときから、ずっと……」

 

 天崎は自嘲気味に笑って俺から目を逸らした。

 

 

「だから、私は壊れちゃったんだよ」

 

 

 その先にある夜景を眺める彼女の横顔がとても寂しそうに見えた。

 

「……んー、やめやめ! お酒回っちゃったかなあ、こんなこと話すなんて」

 

 天崎はまたウェイターを呼びつけてオーダーした。

 

「あんま飲みすぎんなよ」

「これで最後にするから。坂川くんは?」

「……今のと同じやつを」

「かしこまりました」

 

 ウェイターが去ったタイミングで俺は席を立った。

 

「トイレ行ってくる」

「奥の方にあるよ」

「分かった」

 

 天崎は夜景から目を離さないまま静かに佇んでいた。

 

 こちらは見ていないようだった。

 

 

 

「ちょっと、すいません」

「いかがされましたか?」

 

 天崎から死角になった場所にて、近くにいたウェイターに声をかけた。

 

 ◇

 

 トイレから戻り、今度は他愛もない話をしながら俺は先にビールを飲み干した。

 

「俺、帰っていいか」

「えー……うん。いいよ。今日は付き合ってくれてありがと」

「人を脅しといてよく言えるなそのセリフ」

「え? ……ああ、あれか。どうせ坂川くん、キタサンブラックのこと誰にも言ってないんでしょ? だって話が広まったらあの娘に迷惑掛かるもんね?」

「……」

「でも今日楽しかったよ。素で話せるの坂川くんと幸ちゃんしかいないからさ」

「お前、横水とは飲みに行ってんのか?」

「飲むどころかほぼ絶縁状態だよ。私みたいなの、幸ちゃんが好いてるわけないじゃん」

「まあ、だろうな」

「ま、そんなだからさ、誰かと気兼ねなく普通に話せるのって本当に久しぶりだったの。……じゃあね、坂川くん。また飲もうよ」

「勘弁してくれ」

 

 そう言い残して俺はバーを去った。

 

 ──10年前、寮で笑い合っていた3人組はもう過去のものとなっていた。

 

 ◇

 

 天崎はウェイターをまたまた呼びつけた。といっても、今度は会計をするためだった。

 

「ご必要ありませんよ」

「え?」

「先にお帰りになられた方から頂戴しております」

「え、ええ? 私が奢るって言ったのに……あの低年収……」

 

 ウェイターを帰して、薄暗い天井を見上げながらポツリと独り呟く。

 

「坂川くんは変わらな……いや、変わっちゃったのは私と幸ちゃん、か……」

 

 ◇

 

 ホテルを出て俺はタクシーを捕まえて乗り込んでいた。ドアと窓ガラスの境目の段差に肘を乗せて流れる風景を見ていた。

 

 気合を入れて持ってきていた財布はずいぶんと軽くなってしまった。

 

「高すぎだろ。酒を数杯飲んだだけだぞ。テーブルチャージってのもあるんだよな確か。……はあ、明日からまたインスタント生活だな」

「お客さん、どうかしましたか?」

「……いえ、なんでもないです」

 

 タクシーは深夜の東京を快調に飛ばしていった。



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第27話 皐月へ向けて

キングのZONeタオルを無事手に入れられたので初投稿です(ご満悦)


『あなたの言う一流のウマ娘ってなにかしら?』

 

 昨日の母の言葉が耳から離れない。何をしていても、ふとそのことについて考えてしまう。

 一流のウマ娘であると証明する。そして母に私を認めさせる。それこそがトゥインクルシリーズで走る目的。

 

 ──なら、何を成し遂げたら一流のウマ娘となるのだろう? 

 

『私のGⅠ7勝を超えれば、かしら?』

 

 確かにそうかもしれない。数々の名声を得ている母のGⅠ7勝を超えれば間違いなく一流だろう。もしそうなったら、否が応でも母は私を認めざるを得ない。目的は達成される。

 

 ──もし、GⅠ7勝できなかったら? 

 

 GⅠ7勝に届くなくとも、一流だと思うウマ娘はたくさんいる……と思う。例えば元旦のWDTに出ていたナリタブライアンなんかはGⅠを5勝しているが、彼女を一流のウマ娘だと認めない者はいないだろう。彼女も間違いなく超一流のウマ娘だ。

 

 ──GⅠを勝てなかったら? 

 

 GⅠを勝てなくとも、GⅡやGⅢで勝って活躍したウマ娘もいる。間違いなくその時代を彩る一線級のウマ娘のはずだ。彼女たちは一流でない……二流だと誰が言える? 彼女たちも間違いなく一流だ。

 

 ──なら、重賞を勝っているキングヘイローは既に一流のウマ娘? 

 

 それだけは違うと言い切れる。自分が望んだ結果はまだ得られていない。キングヘイローは一流のウマ娘だが、昨日の弥生賞で惨敗したのに一流だなんて私が認めない。認めさせない。

 

 ──つまるところ、一流のウマ娘って? 

 

 …………一流の、ウマ娘。

 

 堂々巡りで結局最初の疑問に戻ってきてしまった。

 

 私はその明確な答えを持っているの? 一流がなにか分かっているの? 

 

『あなたがそれを分かっていないようなら、一流になんてなれやしないわ』

 

 …………今考えても、答えは見つからないままだった。

 

 

 私の決意を込めたはずの「一流のウマ娘」……それがこんなにもあやふやなものなんて、思いもしなかった。

 

 

 ◇

 

「おい……おい! 聞いてんのかキング!」

「……えっ」

 

 その声につられて急に意識が引き上げられた。お尻に感じるパイプ椅子の硬い感触が戻ってきた。

 私がいる場所はトレーナー室。テーブルを挟んで向かいにいる坂川が腕組みをしてこちらを訝しむように見ていた。

 

「ごめんなさい。何の話だったかしら?」

「昨日の弥生賞の振り返りだ。何のためにここにいると思ってんだ?」

「……そうだったわね」

 

 PCから出力されたモニターに目を移すと、昨日の弥生賞が流れていた。画面はスペシャルウィークが3コーナーで外から捲っていく様子が映し出されていた。その内には、窮屈そうに走る翠の勝負服に身を包んだウマ娘がいた。

 

「ペティさんとモエさんは?」

「はあ!? お前……モエはトレーニング中でそれにペティが付き合ってんだ。さっき言っただろうが」

 

 確かにそんなことを言っていたような気がする。

 

「モエのトレーニングが終わったら2人ともトレーナー室に来るように言ってる。あいつらにも昨日のレースを見て思ったことを言ってもらう予定だ。今日のメニューは軽めだからもう少ししたら来るぞ」

「……ええ、分かったわ」

 

 最後の直線を映したモニターを見ながら返事をする。スペシャルウィークとセイウンスカイがアップで映っており、2人のゴール後4バ身ほど遅れて3位争いをしている自分がゴールラインを過ぎていった。

 それを見ていると、不意にその時のことを思い出してしまった。2人に圧倒されて、足が緩んでしまった私のことを。

 

「ねえ、トレーナー」

「あん? なんだ?」

「昨日の最後の直線……ごめんなさい」

「…………」

 

 自分でもなぜあんなことをしてしまったのか分からない。1着になれないから勝負を投げてしまったと見られても仕方ないことだ。これに関しては私が全て悪い。

 

「なんで俺に謝ってんだ? 意味が分からん」

「……え?」

「俺に謝るぐらいなら自分に謝っとけアホ。……今まで努力したからこそあの場所に立てて3着になったんだ。その努力を放り投げようとしたアホな自分にな」

「……」

 

 そう言われてあの愚行の意味について改めて考えさせられた。そして絶対にあってはならないことだと再認識した。

 

「そうね、そうするわ。もう二度と、あんなことはしない」

「当たり前だ……なあ、キング」

「なに?」

「ライブの後の電話、あれグッバイヘイローか?」

 

 ──やっぱり、分かるわよね。あのタイミングで電話をかけてくるのなんて、お母さましかいないもの。

 

「どうして?」

「負けた悔しさもあるんだろうが、今日の落ち込みようは普通じゃねえからな。ボーっとしてるし、またグッバイヘイローになにかキツいこと言われたんじゃねえかってな」

 

 今の私の状態に母が影響しているのは間違いない。でも、彼が思っているような「キツいこと」を言われたのではない。

 

「確かに、あれはお母さまだったわよ。また小言を言われたわ。でも落ち込んでいるわけではないの」

「……はあ?」

「これは私の問題……だと思う」

「……」

 

 暗に坂川には言う気はないと伝える。これは自分自身で解決しないといけない問題だからだ。

 

 彼は黙り込んで何かを考え込むような仕草を見せた後に口を開いた。

 

「悩んでることがあるなら、誰かに言ってみるのも手だ。俺じゃなくても、ペティやモエ、学園の友達だっていいからな」

「……」

 

 返事をするわけでもなく、頷く訳でもなく、曖昧な対応をした。どうしたらいいのか、正解が見えないままだったから。

 でも、頭の片隅には残しておくことにした。

 

「……と、んな話してたら時間経っちまったな。さっさと始めるぞ」

 

 

 坂川はそう言うとレース映像をスタート前まで巻き戻して再度流し始めた。

 

「まずスタート、出遅れとは言わねえが遅い」

 

 左右のゲートにいた2人のウマ娘の間を割って前に出てくる私の姿があった。手元に用意しておいたノートに坂川に言われたことを書き込む。

 

「二の足でなんとか前の位置を取って内につけたのは悪くねえ。で、こっからだ」

 

 バ群は第1第2コーナーを回る場面だった。画面の中の私はコーナーの途中でフォームが崩れ、上体が起き上がっていた。

 

「外から寄られたからな、仕方ない部分ではある。で、ここから向こう正面だが、お前ポジション下げたよな。それはなんでだ?」

「周りにウマ娘がいたから、走りやすいポジションを選んだの。東スポ杯のときと同じように」

「なるほどな……ペースは読めてたか?」

「1000m通過で60秒より遅いということは分かったわ」

「セイウンスカイの1000m通過は61.2秒だ。当たってるぞ。トレーニングの成果が出たな。やるじゃねえか」

「……当然でしょ。キングを誰だと思っているの?」

 

 この坂川という男、前々からなのだが厳しい言葉が来たと思ったら突然褒めたり優しい言葉が飛んでくる。

 ……嬉しいなんて、思ってないんだから。

 

「上げて落とすようで悪いんだが、ペースが遅いって分かってんのになんでポジション下げたままにしてんだ? 結局3コーナーでスペシャルウィークに蓋されてるし、はっきり言って仕掛けが遅すぎる。暢気すぎんだよ」

 

 褒められたと思ったら次は厳しい言葉が飛んできた。

 まあ、坂川の物言いにはもう慣れた。ぶっきらぼうで口は悪いけど、内容自体は的確だ。

 

「何度も外に出して捲っていこうと思ったわよ。でも後ろや外から接近されるとフォームが崩れるって意識があったから……あなたの言う通り、仕掛けが遅れたのかもしれないわね。それでローランタイムリーさんの外に出そうとしたのだけれど……」

「すでにスペシャルウィークが来てたってわけか」

「ええ。外からこっちに物理的に押されてるって思うほどだったわ。あのスペシャルウィークさんのプレッシャー……」

「これ見るに、お前を抑え込むためにあえて併走するようにコーナー走ってるからな。あいつが一枚も二枚も上手だったってことだ」

 

 坂川がスペシャルウィークを褒めたのを聞いて、思いのほかイラっとしてしまった。

 ……そんなあっさりと認めないでよ、このへっぽこ。

 

「で、3、4コーナーから最後の直線。はっきり言ってスペシャルウィークの末脚は次元が違った。お前より0.8秒速い上がり3F。そして逃げてお前と同じ上がり3Fを繰り出したセイウンスカイ」

 

 最後の直線を改めて映像で見るとスペシャルウィークの末脚は強烈だった。1人だけ早送りに見えそうなその脚でセイウンスカイを捉えきった。

 

「ここまで見て……そうだな、まずはどうしたらスペシャルウィークに勝てたか考えろ。……言っとくが、スペシャルウィークより速い末脚でねじ伏せるとかはなしだ」

「……」

 

 実は、それを考えないでもなかった。

 ……なんで、ちょっと頭をよぎったことが分かるのよこの男……

 

 気を取り直して彼の話と私の考えを合わせると、答えは自然に導き出された。

 

「もっと仕掛けを早くするべきだった、かしら?」

「正解ではあるが、満点ではないな。それは手段であって目的じゃねえからな」

「……どういうこと?」

「仕掛けを早くすることで得られることはなんだ?」

 

 彼の言っている意味を考える。

 手段であって目的じゃない、仕掛けを早くして得られること…………仕掛けを早くするという手段によって得たい目的……いや、得たい結果か。

 そういうことなら──

 

「スペシャルウィークさんに対するマージン?」

「ま、そんな感じだ。後方から捲ってくるスペシャルウィークに対してあらかじめ距離を稼いでおくことが必要だったわけだ。となると、マージンを稼ぐ手段は仕掛けを早くすることだけじゃないよな? ほら、そういう考えでレースをもう一回見てみろよ」

 

 言われるとおりにモニターのレースを見る。スタートから──

 

「──あ」

「そういうことだ。レース後半からの仕掛けだけじゃない。このスタート1つでもマージンを稼ぐ手段になる。スタートが良かったら二の足にスタミナを使わなくて済むし、四方八方からプレッシャーをかけられることなくもっと前でスムーズにレースを運べてたかもな。それこそセイウンスカイの後ろ辺りでよ。そしたらフォームも崩れず消耗も抑えられて、お前の最後の末脚もキレてたかもしれねえ。お前の本来の末脚はあんなもんじゃねえからな」

 

 バックストレッチに進んでいくモニターのレースを2人で見つめる。

 

「それにこの道中でポジションを落としたことが間違いだとは思わない。それで東スポ杯は勝ってるからな。ホープフルのイン突きみたいに結果的に間違ってたってだけだ。だが、自分のスムーズなレースをできれば勝てるほど中央の重賞は……GⅠは甘くねえぞ。時には他のウマ娘を邪魔したり潰したりする必要がある。それこそ、昨日のスペシャルウィークがお前にやったみたいにな」

「邪魔や潰すなんて、そんなことをしなくてもキングは勝ってみせるわよ!」

「……言い方が悪かったな。他のウマ娘に対応して走れって言ってんだ。相手の土俵に引きずり込まれるな」

「そう、ね……」

 

 言い直してもあまり意味は変わってないような気はするが、なんとなく彼の言わんとすることは理解できたような気がする。

 

「だから向こう正面で動いても良かったんだが……周りとこの近さなら確かに難しいな。お前なら余計にな」

「……なによ。私だから出来ないって言いたいのかしら?」

 

 精一杯恨めしい目で彼を見てやった。

 

「フォームが崩れやすいからってお前も分かってんだろうが……そんな顔すんなよ。でも勝つには一瞬の隙を狙うしかなかった。それこそ追い上げてくるスペシャルウィークの前に強引に割り込むとかな。それを逃したのはお前だ。……次はセイウンスカイ。コイツに勝つにはどうしたらいい? 逃げてお前と同じ上がりだ」

 

 逃げたうえで私と同じ上がり……そんなのどうしたらよいのだろう。単純に考えるなら──

 

「──私が逃げる、とかかしら?」

「……」

 

 坂川が黙ってしまった。一度も逃げたことがない私が逃げるなんて、流石に馬鹿馬鹿しすぎただろうか。

 

「それはありだ。キング」

「へ?」

 

 予想と真逆のことを言う坂川。てっきりまた何か言われるかと思っていた。

 

「普通に考えるならポジション取りの問題だ。セイウンスカイより前にいればいい。でもお前が逃げて同じ上がりを使えるとも限らない。なら逃げ以外ならどうしたらいいのか……どうだ?」

「……思いつかないわ」

「さっき言っただろ? セイウンスカイは気持ちよくレースをしてたな」

「?」

 

 そう言われても何も思いつかなかった。

 答えが見つからない私を見て、坂川は口を開いた。

 

「気持ちよくレースをさせないんだよ。セイウンスカイに勝つだけなら、後ろからつついてプレッシャーかけてやればいいんだ。他のウマ娘がお前にやってきたみたいにな。かからせてオーバーペースにしたり、消耗させればこっちの勝ちだ。あとはさっき言ったみたいにこっちが逃げて主導権を奪うってことも選択肢に入る」

「……」

 

 その坂川の物言いに抵抗感を感じる。他のウマ娘を邪魔して力を削げと言っているのだ。

 本音を言えば真正面からお互い全力を出して戦いたい。でも、それだけでは勝てないことも知ってしまったから、彼の言葉を否定はできなかった。

 

「今までのお前は自分のことばかりに目を向けすぎだったんだ。それで勝てるならいいが、現実は甘くねえ。そろそろ他のウマ娘の走りに応じたレース運びしていかねえとな」

「ええ、分かったわ」

「とりあえず大部分はこんなとこだな。皐月賞まであと1ヶ月、やれることやるしかねえ」

「望むところよ!」

 

 彼はレースの映像をいったん止めて、テーブルのマグカップに口をつけたあとに口を開いた。

 

「ま、ひとつひとつだ。まずはスタートだが──」

 

 そこで、坂川の言葉を遮るように扉が開く音がした。トレーナー室の入り口に目を移すと、ペティとカレンモエが立っていた。

 

「モエさんのトレーニング終わりましたー」

 

 ペティはそう言うとずんずんとトレーナー室に足を踏み入れ、タブレットをPCにつなぎデータを移し始めた。

 一方、ペティに一歩遅れて入ってきたカレンモエは──

 

「──? どうしたの、トレーナーさん……?」

 

 坂川に見つめられて困惑しているような様子だった。表情はほとんど変わらないが、そんな気がする。

 

「なあ、キング」

「なにかしら?」

 

 坂川はこちらを向いて得意げな顔でカレンモエを親指で指さしてこういった。

 

「モエにスタートつきっきりで教えてもらえ。贔屓目無しにモエのスタートは今の中央でもトップクラスだ」

「……? モエが、キングに教えればいいの?」

「ああ。厳しくしてやってくれ、先輩」

 

 

 かくして、皐月賞へ向けたトレーニングが始まる。




実馬カレンモエはスタートすごくはやいです(小並感)
カレンチャン電撃復帰となった2021年函館スプリントステークスとか見てて本当に気持ちいいです
見たことない方はぜひぜひ


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第28話 先輩と後輩

 翌日のトレーニングコース、坂川が手動の簡易式小型ゲートを用意していた。これまでスタートの練習は何度も行ってきていたので、そのゲート自体は見慣れたものだった。

 しかし、カレンモエと一緒にスタートの練習をすることは初めてだった。アップやクールダウンを除けば、今日みたいに私のトレーニングに付き合ってもらう以外カレンモエとは基本的に別のメニューをこなしているからだ。

 

「よーし、早速やるぞー。2人ともゲートに入れ」

 

 坂川に声をかけられて、カレンモエと同時にゲートに入った。

 これまで彼女のレースを応援しに見に行っていたので、スタートが速いことは知っている。でも、私だってこれまで十分にトレーニングを積んできたのだ。弥生賞では、少し失敗したのだけれど……教えてもらう立場とはいえ、負けるつもりはない。

 

「行くぞ。100mまで走り抜けろ。キングはまずモエのスタートを体感してくれ」

 

 片足を引いて構える。私に遅れて、隣のカレンモエが片足を引いた。

 

 彼が中央トップクラスと言ったスタート、見せてもらおうじゃない! 

 

 ──ガシャン! 

 

「──っ!」

 

 前の脚を力いっぱい踏ん張って、前への推進力を得ながらゲートを出る。

 まずは1歩目が踏み出された。手ごたえは良い。思い描いていた理想に限りなく近い。

 

(よし、いいかん──)

 

 ──ヒュン。

 

 2歩目、3歩目を踏み出していく私の横で、なにかが風を切り裂く音がした気がした。

 

(──じ?)

 

 その音がするや否や、カレンモエが半バ身、1バ身と私の前に抜け出していく。

 脚を踏み出すごとに差が広がっていった。

 

「ええっ!?」

 

 走っているのに思わず声が出てしまう。二の足で追い上げようとしても差は縮まらない。

 そしてその差は縮まることなく、むしろ離されて100mを通過した。最終的に2バ身ほどの差がついた。

 

 走り終えた私とカレンモエは、2人でまたゲートまで戻っていった。そこにはもちろん、坂川が待ち構えていた。

 

「おい、一発目からスタートミスったな?」

 

 坂川にそう言われる。自分ではむしろ成功したと思うぐらいだったのだけれど、カレンモエにあれだけ差をつけられたら彼の目にそう映るのも無理はない。

 

「ふん、次こそは──」「うん、ちょっと力んじゃった」

 

 私とカレンモエは同時に口を開いた。

 坂川はカレンモエの方を向いていた。

 

「私じゃないの?」

「は? お前のスタートは別に悪くなかっただろ」

 

 お前は何を言ってるんだと、そんな感じで坂川は私にそう言った。

 

 ということは、失敗してあの速さだってこと!? 

 

「モエのスタートがあんなもんだと思ってんのか? スプリントで確実に番手を取れるモエのスタートがあの程度のわけねえだろ。で、モエ、どこをミスったんだ?」

「ゲートが開いた瞬間の反応が悪かったかな……」

「分析できてるならいい。次も頼むぞ」

「うん。次は大丈夫」

 

 坂川とカレンモエがそう言葉を交わしてから2本目が始まる。またゲートに入って、そして──

 

 ──ガシャン! 

 

 開いた瞬間、一歩目を踏み出したと思ったときには、なんとカレンモエは私より前に躍り出ていた。

 

(っ! 反応早すぎない!?)

 

 そしてスタートダッシュでぐんぐんと差が開いていく。

 

(スタートしてからの行き脚も……こんなに速いの!?)

 

 私のスピードが乗ってくる頃には、カレンモエは100mを過ぎていた。その差は4バ身ほど。

 遅れて私も100m地点を通過した。

 

(これが、中央トップクラスのスタート……!)

 

 全く追いつける気がしない。まざまざと差を見せつけられた結果となった。

 

「どうだ、体感したか? 言ったろ? モエのスタートは速いってよ」

 

 戻ってきた私を坂川が出迎える。彼が得意げな顔をしているのを見てなぜか悔しい気持ちになった。

 カレンモエは表情を変えず、それを横で聞いていた。坂川に褒められて嬉しいのか、当然だと思っているのかも分からない。

 

「確かに、モエさんの走りは速いわね……今のところは追いつける気がしないわ。でも、できることはある。どこを直せばいいのかしら?」

 

 追いつけなくとも、近づくことはできるのでないか。そう考えて坂川に訊くと、

 

「モエにつきっきりで教えてもらえって言っただろ。てなわけで、俺はトレーナー室に帰るわ」

「ええ!?」

「たまにはペティにも何か教えてやろうかと思ってな。おい、ペティ」

「なんですか?」

 

 少し離れたところでタブレットを弄っていたペティがこちらにやって来た。

 

「トレーナー室に戻るぞ。なにか座学で教えて欲しいことはあるか?」

「へ? トレーニングはどうするんです?」

「2人でだけやってもらう。キング、ゲート使うときはあっちにいるマコに言ってくれ。話はしてある」

 

 坂川が指さしたところには郷田のチームがトレーニングを行っていた。

 

「トレーナーさんはトレーニング見なくていいんですか?」

「スタートの感覚的な話をモエにしてもらおうと思ってな。今日はいいだろ」

「まあ、トレーナーさんがそう言うなら……じゃあ、統計学教えて欲しいです! ちょっと難しくて」

「どこまで授業でやったんだ?」

「今は回帰分析やってます」

「回帰か……マルチコとかめんどくせえよなあ」

「まるちこ?」

「……まだ重回帰はやってねえのか。ま、基礎的なとこから教えてやるよ。ソフトで解析するだけじゃ何にもならねえからな。解析の意味を知らねえと」

「はい! お願いします!」

「ちょ、ちょっとトレーナー!?」

 

 そんな会話をしながら、目を輝かせたペティは早くもコース外へと向かって歩き始めていた。

 一方、坂川はカレンモエに手招きして呼び寄せていた。

 

「モエ、ちょっと来い」

「……ん」

 

 カレンモエは小さく頷き返してから坂川の元へ行った。

 近くに来たカレンモエに坂川は何か耳打ちをした。そして口元を彼女の耳から離し、バシッと彼女の背中を軽く叩いた。

 

「頼んだぞ、先輩」

「……もうっ……」

 

 カレンモエはペティの後を追っていく坂川の背中をじっと見ていた。その背中が小さくなると、カレンモエは彼から目線を切り、こちらに振り向いて私の目の前までやってきた。

 

「…………スタートの練習、する?」

「え、ええ。お願いします」

 

 そう言えば、カレンモエとこうして1対1で向き合うというのは初めてのことだった。

 

 ◇

 

 郷田マコを呼んでカレンモエと一緒に何本かスタートの練習をした。結果は……言うまでもないだろう。

 絶好のスタートを切ったと思っても、常にその遥か先にカレンモエがいた。坂川がいたときにした彼女の一本目のスタートがどれだけ失敗したスタートだったのか、今なら分かってしまう。

 

「マコさん、ありがとう」

「もういいッスか? 分かったッス! 私あっちにいるから、また何かあったら言ってね!」

 

 カレンモエに声をかけられたマコは再び郷田のチームの元へ戻っていった。

 

「じゃあ、キング。モエがゲート開くから、今度は1人でスタートやってみて」

「……分かりました」

 

 指示通りに1人でゲートに入った。ゲート内でカレンモエの視線を感じながら片足を引いて構え、ゲートが開くのを待つ。

 

 ──ガシャン! 

 

 ゲートが開いた音と同時にスタートを切る。さっきまでと同じように100mまで走ってまたゲートまで戻ってきた。

 カレンモエに今のスタートについて尋ねた。

 

「モエさん、どうでしたか?」

「ん……最初の数歩、膝が伸びてる。膝から下が先にいっちゃってブレーキになってる。もっと膝曲げる感じの方がいいよ。あと、体が起きるのが早いかな。スタートから少しは体前に倒したままだよ。やってみて」

「は、はい!」

 

 言われたことを頭の中で反芻して再びゲートに入る。同じようにスタートして100m走り終え、カレンモエの元へ行った。

 

「体を倒そうとしすぎかも。腰が引けちゃって体が曲がってる。体と後ろの脚が真っすぐ一直線になるってイメージ、かな」

「分かりました……一直線、体と脚……」

「……あとキング、スタートの時なんだけど、どこに意識を持っていってる?」

「意識ですか? えーっと……」

 

 そういえば坂川が感覚的な話をしてもらうと言っていた。さっきまでは技術的な話だったので、これが感覚的な話だということなのだろうか。

 

「前に出している足裏ですね。ゲートが開いた瞬間、思いっきり踏ん張るように」

「…………」

 

 私がそう言うと、カレンモエはじっと私の足を見て何かを考え込んだのち、口を開いた。

 

「あんまり、それ良くないかも……モエの場合はだけど」

「足裏は駄目なんでしょうか?」

「人によって違うのかもしれないけど、モエは体か股関節……身体の中心に意識を持っていってる。あんまり足とか末端の方に意識いっちゃうとうまくスタート切れないし、力が入りすぎてリラックスできないよ」

「……なるほど、ですね」

「うん。一回それでやってみて」

 

 ゲートに入って片足を引いて構える。躯幹と股関節のあたりにぼんやりと意識をもっていき、ゲートを開くのを待つ。

 

 ──ガシャン! 

 

「──!」

 

(良いんじゃない!?)

 

 そう意識してスタートした結果、ゲートが開いた瞬間の反応がこれまでで一番良いことに自分で気がついた。戻ってきてカレンモエにさっきのスタートについて訊くと、その感覚は間違っていないようだった。

 

「今の、良かったよ。反応早かった」

「ありがとうございます、モエさん!」

「……でも」

「え?」

 

 褒められて浮かれたのも一瞬のことであった。

 

「さっき言ってた膝の曲がりとか体の前傾はちょっと……失敗だったね」

「わ、分かりました! 次は修正してみせます!」

 

 どうやら感覚的なものに意識を向けすぎて、技術的なことがおざなりになっていたようだ。気を取り直して次のスタートに取り組むことにした。

 

「でも、あまりスタートの反応だけに気を取られすぎてもだめだよ。二の足がつかなかったら結局スタート遅くなるから。だからスタート後の数歩をバランス良く、ね?」

「はいっ!」

 

 そうしてカレンモエとのスタート練習は続いていった。

 

 ◇

 

 日が沈みかけ、他のチームのウマ娘たちが少なくなってきている中、まだトレーニングは続いていた。

 

「はあ……はあ……また、駄目ね……なんで……っ!」

 

 感覚的・技術的に関わらず、何かを意識するとその他のものがおざなりになってしまうのが現状だった。認めたくないけれど、自分の要領の悪さを痛感していた。歯がゆい気持ちで胸はいっぱいになっていた。

 

 そんな私を見かねたようにカレンモエは声をかけてきた。

 

「……キング、今日はもうやめよう……かな。疲れてない?」

「いえ、まだまだ私は大丈夫です!」

 

 私はもっともっと練習したい。できないのなら、できるまでやるしかないのだから。

 

「……キング、なんか焦ってる感じする」

「当然です! だって皐月賞まで1ヶ月と少ししかないんです!」

「……ん……」

 

 皐月賞まであと1ヶ月強……スペシャルウィークとセイウンスカイとの差を埋めるためには1日も無駄にできない。悠長に妥協している時間なんて残されていないのだ。

 

「……やっぱり……今日はやめるよ」

「私はまだできます!」

「だめ」

「っ……」

「今日はもう終わり……ね?」

 

 カレンモエは持ってきていたドリンクなどの荷物を手にした。彼女の言葉通り、今日のトレーニングはこれで終わりなのだろう。

 

 焦る気持ちばかりが先行してしまう。彼女を説得するか、カレンモエを帰らせたあとに1人でトレーニングしようかと考えていると、

 

「……ねえ、キング」

「……?」

 

 カレンモエはスマホを取り出して、その待ち受け画面を私に見せてきた。そこには現在の時刻が表示されていた。

 ……彼女のスマホの待ち受けが坂川と彼女のツーショットなのは気にしないようにした。

 

「もうこんな時間、だから……」

「ええ……?」

 

 遅いからもうトレーニングは止めろということだろうか。

 

「これから……学園の食堂、行かない? ごはん、一緒に食べよう?」

「え……」

 

 予想の斜め上の答えが返ってきていた。



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第29話 似た者同士?

 学園の外は完全に日が落ちてしまい、昼ならさんさんと太陽の光が降り注いでいる窓からの景色は今真っ暗になっていた。

 夜の食堂はトレーナーや学園の職員、そしてウマ娘が点在するようにいて、昼の賑わいと比べるととても静かなものだった。

 

 そこの1つの丸テーブルにて、私とカレンモエは向かい合って座り食事をとっていた。

 

「「…………」」

 

 まだ食べ始めて数分しか経っていないけれど、カレンモエとの間に会話は無かった。その中で今の状況について改めて考えてみた。

 実はカレンモエと2人だけで食事をとるのは初めてのことだった。ちなみに言うなら学園の食堂で夕食をとるのも私にとっては初めてだった。普段の夕食は寮の食堂を使っているからだ。

 ちらっと、視線だけ動かしてカレンモエの姿を見やった。彼女は小さい口を動かして、伏し目がちに食事をとっていた。

 

「……ねえ、キング」

「な、なんでしょう?」

 

 見ていたことを気づかれたのだろうか、カレンモエが私に話しかけてきた。別に悪いことをしているわけではないのだけれど、なぜか後ろめたさを感じていた。

 カレンモエは食事に目を落としたまま言葉を続けた。

 

「キングって、自分のお母さんと仲は良い?」

「! ……それは」

 

 突然振られた母親に関しての話題。それに驚くとともに、カレンモエがなぜこんなことを訊いてきたのかと疑問が沸き上がった。

 

「…………」

 

 それにどう返すか考えるため、少しの間黙り込んだ。カレンモエは単なる会話の話題として訊いてきたのか、別の意味があるのか。あとその内容自体……自分と母の仲について考えた。

 結局、主観的な感情は言わず、客観的な視点から当たり障りなく答えることにした。

 

「母との仲は……あまり良好とは言えないと思います。母にトレセン学園への入学を反対されまして、それに反発して入学しましたから」

「……そうなの」

「はい……」

「…………」

 

 食器の音のみが2人の間を行き交っていた。

 

(え、終わり?)

 

 再び無言になったカレンモエはさっきと変わらない様子で口にものを運んでいる。と思っていたら──

 

「モエはね」

「え? あ、はい。なんでしょう?」

「ママとは仲良いと思う」

「そうなんですね」

「うん……」

「…………」

 

 再び無言の時間が訪れた。

 

(え、どういうこと?)

 

 カレンモエの発言の意味が分からず、何を言いたかったのか考えていたら──

 

「……でもね、ママと……カレンチャンと比べられるのは、ずっと嫌だったの。いや、今も嫌かな」

 

 ──おそらくそれは彼女の本音だった。

 

「それは──」

「モエ、カレンチャンにそっくりだから……キングはそういう経験、ある? お母さんと、比べられたこと」

 

 改めて思い返すまでもなかった。

 

「ええ。たくさんあります。トレセン学園に入ってからも、勧誘してくるトレーナーによく母のことを言われました」

「モエもそうだったよ。モエもたくさん言われた」

 

 よくよく考えると、キングヘイローとカレンモエとウマ娘は似たような境遇なのかもしれない。母親が元中央のウマ娘というのはそこまで珍しいものでもないけれど、GⅠを複数勝ったウマ娘の子どもなんてほとんどいないだろう。

 キングヘイローとカレンモエは年齢も違うし接点もない。でも、そんな共通点を持った2人のウマ娘が坂川というトレーナーの元で偶然にも出会ったのだ。

 

「キングは、お母さんとのことで悩んでることとか、ある?」

「……」

 

 否定できず、下を向いて食事をする手を止めた。どちらかといえば肯定を示す沈黙だった。

 

 ──あなたの言う一流のウマ娘ってなにかしら? 

 

「ある……みたいだね。もしよかったら、教えて欲しいな」

 

 その言葉を聞いて思わず顔を上げると、手を止めてこちらを見ていたカレンモエと目が合った。表情はいつもと変わらず平坦なのだが、その雰囲気も声色もどこか暖かい気がした。

 これは彼女が相談に乗ってくれている……ということなのだろうか。はっきり言って、これまでカレンモエとそんな深い関わりがあったわけではない。トレーニングは基本的に別だし、部室で会話に華が咲くってこともなかった。

 しかし、今この瞬間彼女は私に大して気を遣ってくれている。彼女が無口であることを差し引いても、彼女は私に対して興味がないんだなと、そんなことを思っていたけれど……それを改めなければならないと内心反省した。勝手な印象や先入観だけで人を判断してはならないのだ。

 

 でも今回の話は母との関係のことではない。それについて思わないこともないが、今私を悩ませているのは一流のウマ娘とはなにかということ。これは私に端を発することだ。

 これは誰にも相談できない……いや、相談するべきではなく、自分で見つけ出さないと意味がない。

 

「心配してくださってありがとうございます。でも……」

「うん」

「これは、私自身で解決しないといけないことですから」

 

 静かに決意するように、カレンモエにそう告げた。

 

「そう……分かったよ。でも、ひとつ聞いて欲しいの」

「はい……?」

「もし悩んでることが今の自分に解決できないことなら、一回考えるのをやめてみてもいいんじゃないかな」

「考えるのをやめる? ……それはどういう」

「モエも経験あるんだけど……悩みすぎたら疲れちゃうから。悩んでることって、いつか答えが出て折り合える日が来るんだって。今答えが出ないなら、その答えを探しながらって……そう考えるのはどう?」

「……答えを、探しながら……」

「うん。それは絶対にいつか見つかるから。そう考えたら、心が少し楽にならない?」

 

 答えが見つからないのなら、それを探しながら歩んでいけばいい──今、無理に悩む必要はないと、カレンモエはそう言っている。

 胸が軽くなり、憑き物が落ちたような気がした。

 

「……確かにそう考えると、少し気持ちが軽くなる気がします」

 

 本当にそう思った。カレンモエというウマ娘はこういう考え方ができるのかと感心してもいた。でも、さっきの話し方からすると、誰かから教えてもらったような言い方をしていたけれど。

 

「そう? なら良かった……悩んで焦るのはキングらしくないって、モエは思うから」

 

 そこまで言われて、今までの自分がずっと後ろ向きだったことに改めて気づかされた。

 

「確かに、私……キングヘイローらしくなかったかもしれませんね! おーっほっほっほ!」

 

 高笑いをしたあと、カレンモエの鮮やかな青い瞳をじっと見据える。

 

「ありがとうございます。考え方を変えて……前を見て、進んでいこうと思います」

「うん。皐月賞もすぐだから、頑張らないとね。モエもできることならなんでも手伝うよ」

「はい! よろしくお願いしますっ!」

 

 一流のウマ娘……今はそれが何かまだ分からないけれど、進んでいったその先に答えがあると信じよう──

 

 ◇

 

 

 

 

 スタートの特訓を始めて数日が経過していた。

 

 キングヘイローは簡易ゲートの中で構え、ペティが開閉用のレバーに手をかけている。

 

「キング、行きますよー」

「ええ、いつでもいいわよ!」

 

 ──ガシャン! 

 

「──ッ!」

 

 開いたゲートから勢いよく飛び出していくキングヘイローのフォームや足の運びを見る。

 洗練されているとは言い難いが、なんとか様にはなってきていた。極端に出遅れる頻度も低くなり、行き足もつくことが多くなった。初日に比べると大きく進歩していた。

 

「なあ、モエ」

「……?」

 

 俺はすぐ隣で一緒にキングヘイローのスタートを見ているカレンモエに声をかけた。

 

「お前、キングに一体何言ったんだ? 母親のこと、話したのか?」

「…………」

 

 キングヘイローから目を離さないままそう訊いたが、カレンモエの返答は無かった。

 100m走り終えたキングヘイローは再びゲートに向かっていた。

 

「……おい」

 

 痺れを切らしてカレンモエの方を向くと、それに気付いたのか彼女も顔を上げてこちらを向いた。

 自然と目が合ったと思ったら、彼女は人差し指を口元に立ててこう言った。

 

「ヒミツ……だよ」

「はあ?」

「女の子同士の大切な話だから、他の人には言えないよ。それに……」

「それに?」

「トレーナーさんには……いや、トレーナーさんだからこそ、絶対に言えないかな」

「なんじゃそりゃ」

 

 俺には絶対に言えない……もしかして、俺の悪口でも言って盛り上がったのだろうか。それで結束したとかそういうことだろうか。確かに上の立場にいる人間の悪口で結束するというのはよくあることだ。それがキングヘイローのガス抜きにでも繋がったのだろうか。自慢ではないが、悪口を言われる心当たりはいくらでもあった。

 てっきり母親のことでうまく話したのかと思ったのだが……

 

「まあいい。何話したか知らんが、うまくいったならいいんだ。やるじゃねえか、モエ」

 

 労いの意味をこめてカレンモエの肩にポンと手をやったあと、キングの元へと歩き出した。さっきのスタートの修正をするためだ。

 

 

「あの日トレーナーさんが言ってくれたことだもん。言えるわけ、ないよ……恥ずかしい……」

 

 

 背後でカレンモエがボソッと何か言ったようだが、聞き取れなかった。立ち止まって振り向くと彼女は俯いていて、その表情は見えなかった。

 

「ん? 何か言ったか?」

「……なんでもないよ。ひとりごと」

「は? ああ、そうか……」

 

 俺は特に気にも留めず、再び歩き出した。

 

 

 

 

 その日以降、スタート以外にもフォームの見直しや本番の展開を想定した疑似的なレースに取り組んでいると、時は瞬く間に過ぎていった──

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 週末に皐月賞を控えた4月の2週目の木曜日の午後、授業を終えた俺のチームのウマ娘3人がトレーナー室に集まっていた。

 1枚のプリントがテーブルの中央に置かれ、それを4人で囲むように立っていた。そのプリントとは──

 

「キングは6枠12番だ」

 

 ──皐月賞の枠順が載った出走表だった。今日の午後に皐月賞の枠順が発表されたのだ。

 

「どうなんですか、トレーナーさん? 6枠12番っていうのは」

 

 出走表を見てペティがそう訊いてきた。

 

「悪くねえ。最悪なのは極端な枠になることだったからな」

「ツイてますね。キング」

「おーっほっほっほ! 運というのは実力で引き寄せられるのよ!」

「なんですかそれ……」

 

 キングヘイローがお決まりの高笑いとよくわからない理論を展開していた。

 弥生賞の直後はこんな高笑いすることも少なかったのだが、モエと話してから完全に調子を戻したようであった。

 

 ペティはキングヘイローにツッコミを入れた後再びプリントに目を落とした。

 

「えーっと……セイウンスカイが2枠3番……スペシャルウィークが8枠18番大外ですか」

 

 目下、キングヘイローの有力なライバルとなる2人の枠順はペティの言った通りだった。

 

「で、トレーナー。キングに相応しい一流の作戦を教える権利をあげるわ。枠順が出たら話すと言っていたでしょう?」

「…………」

「トレーナー?」

 

 キングヘイローが言った通り、枠順発表後に皐月賞のレースプランを本人に伝える予定で、そのつもりだ。言いたくないから黙っているのではなく、頭の中でそのプランの最終確認をしているだけだった。

 

 なんせ()()()()()()()()()2()0()0()0()m()()()()なのだ。俺からしても、このプランを口にするのは勇気が要る。

 

「キング」

「ええ、言ってごらんなさい?」

「セイウンスカイだけマークするぞ。スペシャルウィークは捨てていい。無視だ」

「……ええっ!?」

 

 キングヘイローの驚いた声がトレーナー室で上がり、そして消えていった。

 

 

 ◇

 

 

「8枠18番かあ……」

 

 デスクにもたれ噛みしめるようにそう呟くのはチームシリウスのチーフトレーナー、天崎ひより。

 その目の前にいるのは不思議そうな顔をしているスペシャルウィーク。彼女にとって、天崎が悩むような姿を見せるのは珍しいものだったのだ。

 

「トレーナーさん、枠順、どうなんでしょうか?」

「大丈夫だよ。コーナーまで長いし、スぺちゃんは差しか追い込みだからあんまり関係ないかな。逆に包まれたりしないぶんラッキーかもね」

「そうなんですか!? 良かったです~」

 

 安心した様子のスペシャルウィークとは裏腹に、天崎の心は冷え切っていた。冷静に今置かれた状況を理解していたのだ。

 枠順が関係ないなんて、全くの嘘だった。

 

「これまで一生懸命頑張ってきたんだから絶対に勝てるよ、スぺちゃんなら。私は信じてる」

「トレーナーさん……! はいっ! 私、頑張ります!」

「うんうん。そうと決まればトレーニングに行くよ! シリウスのみんなもきっとコースで待ってる。皐月賞は3日後、きっちり最後の調整だよ!」

「はいっ! よろしくお願いします、トレーナーさんっ! 私、先に行きます!」

「あっ、ちょっと待って、スぺちゃん」

 

 身を翻してトレーナー室を勢いよく出ていこうとしていたスペシャルウィークを天崎は引きとめた。

 

「なんでしょうか?」

「今日のトレーニングのあと、ごはん食べに行こっか」

「え?」

「私と2人で、しかも食べ放題のお店だよ!」

「え……ええっ!?」

 

 スペシャルウィークは尻尾と耳をピーンと立てて、驚きのあまりか声のボリュームが1段階も2段階も上がっていた。

 

「ちょっとスぺちゃん! しぃー、しぃーだよ。マックイーンちゃんとかワールドちゃんがどっかで聞いてるかもしれないから!」

「ああぅ、ごめんなさい! でもトレーナーさん、大事なレースの……しかもGⅠの前にいいんでしょうか……?」

「GⅠだからこそだよ。直前ぐらい、好きなものいっぱい食べて英気を養わないと、ね?」

「英気を……はい! 分かりました!」

「じゃ、あとからスマホに連絡いれとくよ。くれぐれも他の娘たちに気づかれないように! それじゃコース行ってアップしよっか」

「はいっ、行ってきます!」

 

 スペシャルウィークはそう返事をすると駆け足で扉を出ていった。

 

「あっ、アップ終わったらジハードちゃんとの併せだからねー!」

「はーいっ!」

 

 スペシャルウィークの声が空いたままの扉から聞こえてきた。

 

 扉から廊下を見やり彼女が完全に去ったことを確認したのち、扉を閉めてデスクの椅子に戻った天崎は先程の会話について思い返した。

 英気を養うというのも真っ赤な嘘だったことを。

 

 1人になり静かなトレーナー室にて、天崎は口を開く。

 

「ここが緩めどきだね。皐月のあとに緩めるのはダービーに間に合うか微妙だったからちょうど良かった。スぺちゃんの目標はあくまでダービーだもん。それが彼女のモチベーション。ダービーに勝てないと、自信を無くして使()()()()()()可能性もあるからね。枠順良ければ皐月も狙ってよかったけど……」

 

 まるで誰かに言い聞かせるように喋りながら、出走表に再び目をやった。

 

「セイウンスカイが2枠3番だもんね。スぺちゃんなら勝てなくもないけど、ちょっと厳しいな……レース終わったらURAに意見書でも出そうかな」

 

 

 ◇

 

 

「2枠3番、スペシャルウィークの8枠18番と合わせると最高の枠順だな」

「そんなプレッシャーかけないでくださいよ~。そんな言い方だと、まるでセイちゃんが──」

「勝てるぞ。セイウンスカイ」

 

 コースに座り込んでアップをしているセイウンスカイに向かって、そう言い切ったのは横水幸緒だった。

 

「ずいぶんはっきり言いますね」

「今年の皐月のバ場と枠順、お前のウマ娘としての能力、そして相手関係から考えたら自明のことだ。何も驚くべきことではない」

「トレーナーさんは私を買い被りすぎですって~。100%勝ちレースだった弥生賞を落としたのはどこの誰でしたっけ?」

 

 セイウンスカイの言葉は自嘲めいているようだったが、その声の調子は明るかった。

 であるならば、その後に続く横水がどんなことを話すのか分かっているのだ。

 

「確かにウマ娘としての純粋な性能(スペック)だけならお前はスペシャルウィークに劣るだろう。実際、弥生賞の中山2000mでは敗北を喫した。だがそれをひっくり返すのがレースセンスや戦略……そして今年の皐月賞の中山2000m、つまり──」

「──()()()()()()()、ですね?」

 

 セイウンスカイが言葉を継いでそう言うと、横水は口角をわずかに上げ、目を閉じて満足そうに軽く頷いた。それを見たセイウンスカイもしてやったりと言いたげに笑みを浮かべていた。

 

「ほら、さっさとアップを終えろ。じきにブラックホークもロードワークから戻ってくる……本番まで徹底的に詰めるぞ」

「了解で~す☆ さあー、セイちゃんも頑張っちゃおうかな。よっと」

 

 丁度アップを切り上げ立ち上がったセイウンスカイは「そういえば」と前置きして横水にあることを尋ねた。

 

「トレーナーさん、キングはどうですか?」

 

 それを聞いた横水の纏う雰囲気が瞬時に鋭いものに変わる。普段から鋭利な刃物のような態度の彼女だが、それがいつにも増して鋭くなっていた。

 

「……気にする必要はない。あの不安定な走りとレースセンスのなさ、それが1ヶ月で改善できるとは到底思えないからな」

「そうですか? でも、持ってるものは最上級じゃないですか。それこそスぺちゃんみたいに。これまで皐月賞の話は腐るほどしてきましたけど、キングの話はほとんど無かったですよね。私が気づいてないとでも思いました?」

「何が言いたい? 言いたいことがあるなら言ってみろ」

 

 半ば問い詰めるような横水の様子なんて歯牙にもかけないセイウンスカイは頭の後ろに両手を組んでニヤッと笑っていた。

 

「トレーナーさんが有力候補のキングをあえて避ける理由を考えたんですよ。もしかして、キングのトレーナー……坂川って人が理由だったりします?」

「坂川? はっ、あんな最低のトレーナーのウマ娘なんて気にする方が──」

「最低、ね。トレーナーさんがそこまで言うなんて、それが答えを物語っていると思いません? 私情ですよねそれ。やっぱりあの人が関係してみてたみたいですね」

 

 そうセイウンスカイに切り返された横水は言葉を詰まらせた。

 

「ねえ、トレーナーさん。坂川って人となにかあったんですか? 同期ってことぐらいは知ってますし、この人の経歴気になるところがあるんですよね。アルファーグのサブトレとしてキタサンブラックの記事に度々出てきたのに、セントライト記念を最後に一切記事に登場しなくなってるんですよ。しかもその年にアルファーグのサブトレを辞めて独立。いったいこの期間に何が──」

「お前の仕事はトレーナーの過去を漁ることか? 結構なことだな。明日にでも退学してゴシップ雑誌の記者になったらどうだ?」

 

 話題を強制的に打ち切った横水はコース外からこちらに近づいてくる1人のウマ娘に目をやった。

 

「ブラックホークが戻ってきたぞ。さっさとトレーニングに移れ。これ以上私の言うことを聞けないようなら──」

 

 このセリフが出るということは相当に横水が怒っていることをセイウンスカイは知っていた。なので、ここで引くことにした。

 

「──契約を解除するんでしょ? それは勘弁してほしいなあ。ごめんなさい。余計なこと言い過ぎました」

「お前は皐月賞のことだけ考えておけばいい。さあ、ブラックホークを逃げウマ娘に見立てて、番手のシミュレーションの最終確認だ」

「コウエイテンカイチちゃんが逃げるって会見で言い切ってましたもんねえ。じゃあ、行きますか~」

 

 

 ◇

 

 

 三陣三様の枠順発表日を経て、舞台はGⅠ皐月賞へ──



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第30話 皐月賞

 1か月前に走った弥生賞の中山レース場とは同じとは思えないほどスタンドのざわつきは大きいものだった。ゲート前で待機するなか、その11万人のざわつきがこれでもかと耳に届いていた。

 目を瞑ってファンファーレが鳴るのを待つ間、数日前に行われた皐月賞の記者会見でアナウンサーに訊かれたことを思い出していた。

 

 

『三冠ウマ娘になるという目標は、今でも変わりませんか?』

 

 

 意地の悪い質問だった。その質問には『弥生賞で完敗したのに、まだ三冠を口にするのか?』という含みを持たせているのだろう。なんせそのアナウンサーは弥生賞の時と同じ男の人だったからだ。

 ニコニコと目だけ笑っているそのアナウンサーに対して、私はこう言い切ってやった。

 

 

『もちろん! 三冠を目指すことに変わりありません。……皐月賞でのキングの走り、楽しみにしておくことね! おーっほっほっほ!』

 

 

 敬語を使わずに私が高らかに宣言したことを見て、彼の表情が一瞬固まったのを私は見逃さなかった。その瞬間はとても良い気分だった。

 

 ~♪ ~♪ 

 

『11万人の歓声が沸き起こります! 今年の皐月を取るのは3強か、はたまた新興勢力か!?』

 

 ファンファーレの生演奏と観客の拍手を聴き終え、目を開けて軽く体を動かす。手や背筋を伸ばしたり、ステップを踏むように足踏みしたり。

 そうしてターフを踏むと芝の根元の方はまだスッキリしていない感触があった。午前中まで稍重だったバ場は快晴により良に回復したと発表があったのだが、晴れ通しの良バ場とは違うものだった。

 

「奇数番ゲート入れー!」

 

 誘導員の言葉を受け続々とウマ娘たちが入っていく。これまでのレースで会ったウマ娘もいれば、私とは初対戦となるウマ娘だっていた。

 

「セイウンスカイ、どうした?」

「……え?」

 

 声がした方を向くと、自分の身を抱くよう手を回しているセイウンスカイがいた。その様子を複数の誘導員が心配そうに眺めていた。

 

「セイちゃん、ちょっと緊張しちゃいまして動悸が……にゃはは」

「どうする? 発走除外にするか?」

「いえ! 大丈夫です。枠入り、少し歩いて落ち着いてからでもいいですか?」

「いいぞ、分かった……おーい、偶数番のウマ娘ゲートに入ってくれー」

 

 辺りを確かめるように歩いているセイウンスカイを目線で捉えながら12番ゲートに入っていった。心配なので一言声をかけたかったのだが、誘導員がこちらにやって来て背中を押してきたので出来なかった。

 ゲート内で待機し他のウマ娘の枠入りを待つ。順調に枠入りは進み、そのなかでセイウンスカイもゲートに入ったようだった。

 

『最後にいまゆっくりと、チームシリウスのスぺシャルウィークが18番ゲートへ向かいました』

 

 カレンモエとのトレーニングで染みついたスタートの感覚を呼び起こしながら、足を引いて構える。意識は股関節から体の中心、腰は伸ばし前傾を崩さないように。

 

『クラシックの第1関門、皐月賞フルゲート18人2000m……』

 

 ──ガシャン! と音がしてゲートが開いた。

 

『スタートしましたっ!』

 

 四肢の肢位に注意しながら、あくまでリラックスした状態でスタートを切った。

 

「あぅ!」「いたっ!」

 

 右隣の11番のウマ娘が出遅れて右に寄れ、更に右の10番のウマ娘にぶつかったようだった。そのぶつかった反動でこちらにも寄ってきたのだが、もうその時に私はそこにはいなかった。

 つまり、スタートは上手くいったのだ。行き足よくまわりから抜け出すように駆けていき、外側からバ場の内側へ切れ込んでいく。

 

(上出来じゃない。さすが(キング)!)

 

 そう心で自画自賛しながらさらに内へ内へと向かう。ハナに立ったコウエイテンカイチを視界に入れてバ群から抜け出すと、ちょうど私の真横にあのウマ娘が──セイウンスカイが私と全く並走するように走っていた。

 

「「──!」」

 

 私に気づいたのかセイウンスカイは目線を一瞬だけこちらに寄こしたようだった。私は意識的に前を向いていたため目は合わなかった。そのまま第1コーナーの直前まで彼女と併走する。

 視界の端で捉えた彼女は引っかかり気味ではあるものの快調に走っていた。

 

(体調は問題ないようね。良かったわ……)

 

 そう内心で安心したのも束の間、セイウンスカイは先頭のコウエイテンカイチから2バ身後ろに位置取り第1コーナーへと入っていた。私はセイウンスカイの真後ろにぴったりポジションを取ってコーナリングしていく。

 

『逃げを宣言していましたコウエイテンカイチが、17人を引きつける形で1コーナーから2コーナーへと入っていきます!』

 

 ここまではおおむねプラン通りだった。予定通り、徹底的にセイウンスカイをマークしてレースを進めていけそうだ。

 

(まず1つクリアね!)

 

 今日のレースプランには大きく2つのポイントがある。セイウンスカイを徹底マークすることがまず1つ。そしてもう1つは内ラチ沿いの──

 

(──これが、グリーンベルト……!)

 

 内側に目をやると、真新しい綺麗な芝が顔を覗かせている。2週間前、BコースからAコースに変わったことで出現したこれがグリーンベルトだ。つまり、内側の芝の状態が極端に良いということ。私が走っているのはちょうどその境目から外といったところだ。

 このグリーンベルトを可能な限り利用する。それがもう1つのポイント。

 

 ──『今年の皐月は内のグリーンベルトを上手く使えたウマ娘が勝つ。スタート失敗して後方から大外ぶん回しになったら終わりだと思え』

 

 枠順が発表された時点でそう言い切っていたのは坂川。グリーンベルトの存在自体はそれより前から知ってはいたのだが、そこまで効果のあるものだとは思いもしなかった。

 

『バ群は向こう正面へ入りました! コウエイテンカイチが先頭、セイウンスカイがっちりと2番手、内に半バ身遅れてエモシオン、その後ろ外目にキングヘイローがいます!』

 

 4番手のまま第2コーナーを抜けてバックストレッチを駆けていく。位置取りは大きく変わらずバ群がそのまま進んでいく。バ場を考えると弥生賞よりはペースが速い気がする。だからだろうか、弥生賞のような激しいポジション争いは起きていなかった。

 私とセイウンスカイの間は変わらず2バ身差で、私は彼女の少し外側を追走。その中間地点の内側にエモシオンがいる。つまり私の右斜め前にエモシオン、そして私の半バ身から1バ身右斜め後ろに2人のウマ娘。

 セイウンスカイは内にエモシオンがいるものの、ぎりぎりグリーンベルトを通りながらレースを進めている。

 

 理想を言えば内ラチ沿いにグリーンベルトをロスなく回ることがベストだろう。でも、そうしないのには理由があった。それは──

 

 ──『大事なのはセイウンスカイのマークとグリーンベルトを利用することだが、最優先はセイウンスカイをマークして、いつでも捉えられる位置にいることだ。()()()()()()()はグリーンベルトに拘るなよ。無理して内に行かず、セイウンスカイの左斜め後ろの位置を狙え』

 

 ということだ。今重要なのはセイウンスカイをマークして、いつでも彼女に並びかけられるポジションを取り続けること! 

 

 バックストレッチから第3コーナーへ近づくに従い、後ろのウマ娘たちが揃ってポジションを上げてくる。前後の間隔が詰まってきた。後ろから感じるのは殺気の塊。ウマ娘たちの勝利への渇望そのもの。

 

(この位置は守るっ! フォームだって、絶対に崩してあげないんだからっ!)

 

 弥生賞と何ら変わりない全方位からのプレッシャーを跳ね返しながら第3コーナーへとバ群は突入していく。フォームは崩れていない。

 

『先頭は3コーナーへと入っていきます! セイウンスカイがコウエンテンカイチとの差を詰めていきます。コウエイテンカイチはいっぱいか?』

 

 第3コーナーに入り、セイウンスカイがコウエイテンカイチの外側から進出を始めている。目の前のはためく白い勝負服がふわっと翻りながら、その勢いを急激に増していく。彼女の完璧なコーナリングであっという間に半バ身まで距離が縮まっていた。

 

 ──今、だ。

 

(ここだわ! 今っ!)

 

 ──『重要なのは直線に入るまでにセイウンスカイを捉える……つまり、第4コーナーまでにセイウンスカイに並びかけることは勝利への絶対条件だ。弥生賞と同じ轍を踏むな! 思いっきりバ体を合わせてやれ! 絶対に、絶対に奴を逃すなよ!』

 

 脳裏に流れた坂川の声はもうどこかへ通り過ぎてしまった。理解し終えた言葉を残す必要はない。

 脳細胞の血流さえも、全て走ることへと集約させなければならないのだから! 

 

(──絶対に逃がさないっ!)

 

 左後方から来ていたウマ娘に並ばれる前に、瞬時に速度を上げてセイウンスカイとの距離を詰める。

 そのセイウンスカイは第4コーナーでコウエイテンカイチに並びかけ、今にも交わそうとしていた。その外へと私も追いすがっていく。1バ身、半バ身、彼女の横顔が見えるところまで。

 

『セイウンスカイはコウエンテンカイチにバ体を並べるっ! そしてその直後にキングヘイローだ! キングヘイローがセイウンスカイに取りついたっ!!』

 

 コウエイテンカイチを交わしたセイウンスカイ。

 その外から並びかけるキングヘイロー()。バ体は完全に横一線。

 

 お互い、意識するなと言う方が無理な話だった。

 

「──へえ!」「──っ!」

 

 私について来れたんだ? と言いたげにセイウンスカイがこちらに視線を寄こし、浮かべるのは好戦的な笑み。

 その視線を真正面から受け止め睨み返す。

 

 第4コーナーから直線にかけて、内側へ寄せてセイウンスカイにプレッシャーをかけ続ける。これまでのレースで私が他のウマ娘にやられてきたように。私を意識しろ、あなたにだけは負けない、絶対に勝ってやる、そんな思いを込めながら。

 

「──ふっ!」

 

 直線の入り口で発されたのはセイウンスカイの呼吸音。セイウンスカイは無理矢理ともいえるコーナーリングで更に内へ切れ込みラチいっぱいへバ体を寄せた。

 そのコーナリングがもたらしたのは最内のグリーンベルトの使用権と、私との2バ身の差。

 

(っ……やられた)

 

 彼女を先頭にして、スタンドの大歓声に包まれながら最後の直線へと入っていく。全てが決まる310mへ。

 

『ここで先頭はセイウンスカイだ! セイウンスカイ逃げるっ! その外にキングヘイローが追ってくる!』

 

 コーナリング性能の差で離されたが、こちらもグリーンベルトの上を走れている。

 準備は整った。あとは末脚を爆発させるだけ。セイウンスカイを捉えるだけ! 

 

『キングヘイローが追うっ! キングヘイローが追うっ! セイウンスカイリードは2バ身!』

 

 トップギアに入れてエンジン全開で脚を回す! 綺麗な芝を抉るように、全て力をここに注ぐ! 

 取り込む酸素が、体中の全てのエネルギーが、全て枯れ果てるまで捧げよう! 

 先頭にいるあの白を交わす、それだけのために────

 

 

 ────ずくん。

 

 

(──あ)

 

 背後から感じるなにかに、胸の鼓動がひとつ、大きく跳ねた。

 形容しがたい、謎の感覚が体全体に響いた。でも──

 

(──今の、は)

 

 私はそれを知っていた。()()()()()()()()()1ヶ月前の中山レース場(弥生賞)で。

 

 後ろから来た吹き荒れる暴風が、全てを蹴散らさんとばかりに迫ってきていた──

 

『外からスペシャルウィーク来たっ! スペシャルウィークが大外からやってくる! 早々とスペシャルウィーク3番手! あっという間にキングヘイローと半バ身差!』

 

(スペシャル、ウィークさん……!)

 

 スペシャルウィークが猛烈な勢いで外から突っ込んできた。今にも私を捉えそうなその見事な末脚で。

 さっきまではいなかった。姿さえ見えなかった。なのにその差は一瞬で半バ身まで詰め寄られていた。

 

(大外だった、はず……)

 

 彼女は大外枠だった。だから外からやって来た。グリーンベルトを使う余裕なんて無かったはずだ。今だって彼女が走っているのはグリーンベルトの外。

 ここから導き出されるのは1つの結論。

 

(グリーンベルトを一切使わず、大外を回してここまで来たっていうの!?)

 

 驚愕に値するその事実。スペシャルウィークはウマ娘としての性能だけでここまで追い上げてきたのだ。グリーンベルトやポジションの不利を跳ねのけ、大外のロスをものともせず。

 彼女は自身の性能ただそれだけで全てをねじ伏せようとしていた。

 

 ウマ娘として圧倒的な能力の差を痛感させられていた。

 

 ──だが、しかし。

 

(でも、譲れないのよ!)

 

 そんな弱音に頭を支配されている場合ではない。コンマ何秒かの世界で頭を切り替えた私は再び走りに集中する。

 どれだけ性能の差があろうが負けられないのだ。後ろから迫るスペシャルウィークにも、前で逃げるセイウンスカイにも。

 

 

 ──だって私は、一流のウマ娘なんだから! 

 

 

「はあああああ──っ!」

 

 グリーンベルトに蹄鉄を叩きつける。

 

『さあ先頭はセイウンスカイ! キングヘイローから2バ身のリードをキープ!」

 

(絶対に、負け……ない……っ)

 

 上限(レブ)を超えてなお脚を回す。

 セイウンスカイとの差は縮まる。スペシャルウィークとの差は縮まらない。

 

『懸命にキングヘイローが追ってくる! その差1バ身! スペシャルウィークは3番手!』

 

(GⅠを……取るんだから……っ、皐月で、勝つんだから……っ)

 

 最後の100mを、命を賭してと言っていいほど必死で追い上げる。弥生賞の時のように惨めに後ろで見ていた私じゃない。今、間違いなく3強として争うことができている。

 

(私は一流……一流なんだ……から……っ…………)

 

 皐月賞を、GⅠを、その手にできる位置に間違いなく私はいる。セイウンスカイの背中がすぐ手の届くところまで来ているのだ。

 あともう少し、本当にあともう少しなのに──

 

『セイウンスカイ逃げる! セイウンスカイ逃げる! キングヘイローは半バ身まで追いつくが──』

 

 ──無情にも、その瞬間は訪れてしまった。

 

 ゴール板がすぐ目の前に見えた。見えてしまった。

 まだ、私は、セイウンスカイに、追いついていない、のに。

 

(いち、りゅう……に……)

 

 セイウンスカイの横顔は見えそうで見えない。

 だって、私は交わせなかったのだから。

 先頭でゴールラインを捉えたのはセイウンスカイだったのだから。

 

 

『セイウンスカイ粘って粘ってゴールインッ!!! 勝ったのはセイウンスカイ! セイウンスカイ左手! キングヘイローとスペシャルウィークの追撃を振り切りましたっ!!!』

 

 

 1着でゴールし、脚を緩めながら左手を大きく上げるセイウンスカイ。

 それを見る事しかできないキングヘイロー()

 

 また手は届かなかった。三冠の夢は早くも砕け散った。



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第31話 夢の跡

アストンマーチャンのストーリーがすごく良かったので初投稿です(小並感)


 まだ収まらないスタンドの歓声は地下バ道にまで聞こえるほどだった。今は表彰式に向けての準備が整うまで優勝レイをかけて写真撮影をしているところだろう。

 

 俺たち3人は地下バ道から控室への入り口近くでキングを待っていた。俺たちのようなトレーナーやチームのウマ娘が周りにはたくさんいた……もちろんチームシリウスの連中も。

 すると次第に皐月賞で負けたウマ娘たちが続々と姿を現してきた。キックバックと汗で勝負服を汚し、俯いている彼女たちをそれぞれのチームが迎えに行く。それを受け入れるウマ娘もいれば、払いのけて足早に去っていくウマ娘もいた。敗北した時の態度や様子はそれこそウマ娘によって十人十色だ。

 

 キングヘイローより先にスペシャルウィークが姿を現した。彼女にチームシリウスの面々が近寄っていく中で、真っ先に駆け寄ったのは緑のメンコを着けた栗毛のウマ娘……サイレンススズカだった。

 

「スぺちゃん……」

「スズカさん……負けちゃいました。応援してもらってたのに……ごめんなさい」

 

 耳と尻尾を垂らして意気消沈しているスペシャルウィークを囲むようにして励ましているチームシリウス。その中で、天崎の声が俺の耳にまで届いていた。

 

「スぺちゃん、お疲れ様」

「トレーナーさん……」

「悔しいけど、今回は相手を褒めるしかないよ」

「はい……セイちゃんもキングちゃんも、弥生賞より強かったです」

「そうだね。スぺちゃんのライバルたちもみんな強くなってる。それは認めないといけないね。認めた上で、次の日本ダービーではその強いセイちゃんやキングちゃんに勝たないといけない。日本一のウマ娘になるために、ね」

「っ……はい、お母ちゃんと約束、しました、からっ……」

 

 スペシャルウィークは声に詰まり、涙声になっていた。

 

「ねえ、スぺちゃん」

「はい……」

「でもね、いいレースだったよ。スぺちゃんはシリウスの誇りだよ」

「ト、トレーナーさ……」

 

 ちょうど俺たちの横にて立ち止まったチームシリウスの輪の中心で、天崎はスペシャルウィークを抱きしめて頭を優しく撫でていた。

 

「今はいっぱい悔しがって、泣いていいから」

「っ……ううっ……ぐすっ」

「私も、シリウスのみんなもスぺちゃんを信じてるから。また、みんなで頑張ろうね」

 

 天崎が抱きしめたスペシャルウィークを離すと、彼女は嗚咽を漏らし泣き始めていた。歩みを進めるチームシリウスの方を横目に見ていると、こちらに目線をやった1人のウマ娘……サイレンススズカとはたと目が合った。偶然顔を上げた先に俺がいたという感じだろう。

 

「……」

 

 目が合ったのも束の間、サイレンススズカはスペシャルウィークの方へ顔を向け、その姿をシリウス一行とともに控室の方へ消していった。

 

 他のウマ娘やトレーナーが次々と俺たちの横を過ぎ去っていくなか、皐月賞で負けたウマ娘の中で一番最後に姿を現したキングヘイローがこちらに歩いてきていた。

 汗で濡れ乱れてしまった前髪が垂れているため、俯いている彼女の目元は見えなかった。泣いてはいないようだが、口元は何の感情も映しておらず、ただ一直線に引き結ばれているだけだった。だが……

 

(ああ──)

 

 その表情を見て、()()()()()()()()

 

「キング……!」

「……」

 

 ペティとカレンモエがキングに駆け寄っていく。

 

「ペティさん……モエさん」

「大丈夫ですか?」

 

 キングヘイローはそこで顔を上げた。悔しそうに眉根を寄せているが、瞳が濡れていることはなかった。

 

「ええ。体は大丈夫よ」

「あ……なら良かったです」

 

 キングヘイローは淡々とそう答えたが、ペティは大丈夫と訊いたことはおそらくそういう意味ではなかったのだろう。多分、ペティはレースに負けたことを言っている。

 

「レース惜しかったですけど、凄い走りでした! キングは悔しいと思いますけど、2着は十分誇れると思います!」

「ええ。届かなかったけれど、手ごたえは掴んだわ。ダービーこそは絶対に勝ってみせるわ! おーっほっほっほ!」

「そうですよ! キングならダービー勝てますっ!」

 

 高笑いをして歩みを進めるキングヘイローにペティが付き従うように歩いていく。その2人の姿を後ろから見守りながらカレンモエとその後をついていった。

 

「ああ、そうだったわ。ペティさん?」

「どうしました?」

「控室のドリンクもう無くなっていたのよ。あなたに新しいものを買ってくる権利をあげるわ!」

「いいですよ! じゃあ行ってきますね!」

 

 上から目線のキングヘイローに普段のペティなら悪態の1つでもついたのだろうが、今日は素直に言うことを聞いて早足で歩いていった。弥生賞のときもそうだったが、こんなときのペティは意外と相手に気を遣っている。

 

「ねえ、トレーナーさん……」

 

 カレンモエは去ったペティの方を見やったあとに、何かを訴える様に俺の目を見てきた。それで、彼女が何を思い何をしようとしたのか直感的に理解した。

 キングヘイローの様子を見て、おそらく俺と同じようにカレンモエも()()()()()()のだ。なぜなら、カレンモエもこういう表情をするウマ娘と相対するのは初めてのことではなかったからだ。

 

「……ああ、分かった」

「うん」

 

 カレンモエはペティの後を追っていきその姿を消した。残されたのは俺とキングヘイローの2人のみ。俺たちの間に会話はなく、彼女の歩調に合わせて2mほど後ろを歩いていくと、ほどなくして控室にたどり着いた。

 中に入り後ろ手に扉を閉める。キングヘイローは部屋の中央まで足を進めたが、突然その場で足を止めた。俺からは彼女の背中しか見えない。汗に濡れた後ろ髪の間から、首元から肩甲骨にかけての素肌が見え隠れしていた。

 

「トレーナー、私の走りはどうだったかしら?」

 

 キングヘイローは俺に背を向けたままそう問うてきた。

 

「悪くなかった」

「ミスや修正点はあったのかしら?」

「結果的に後から見れば何とでも言える。俺の目から見たら、お前は今の実力を出し切ってたよ。終始フォームも崩れず、リラックスして走れてた」

「…………」

「よく走ったな。立派だった」

「ふんっ……1着じゃないと、意味がないのよ…………」

「俺はそうは思わねえけどな」

「なによ…………今日のあなた、らしくないわ…………なんでそんな優し……」

 

 黙り込んだキングヘイローは首を下げて下を向いた。

 

「……あともう少しだったわ。すぐそこに……本当にすぐ目の前に、皐月があったの」

「……そうか」

「でも、私の手をすり抜けていった。いくら走っても、差は縮まらなくて、届かなくて……っ」

「……」

 

 彼女の放つ声が詰まり始めているのと同時に、両肩が小刻みに震えている。

 

「私はっ……キングヘイローは、っ……一流のウマ娘、なんだから……勝たなきゃ、いけなかったのよ……っ」

 

 そこで、彼女は限界を迎えた。彼女の嗚咽だけが部屋を満たしていく。

 

「──くっ、ぐすっ……うううっ……あと、あとすこし……っ……ほんとうにすこし……っ、だったのにぃ……くうっ……」

「……」

 

 泣き声を上げるわけでもない。キングヘイローは手袋をはめた両手を強く握り締めながら、ただ漏れ出てくる嗚咽に抗っていた。レースが終わってからここまで我慢してきた彼女のそれが一気に溢れ出していた。

 地下バ道で彼女が姿を現したとき、そのときの表情を見て我慢していたのは分かっていた。俺だけでなくカレンモエも。なぜなら、同じ表情をしてきた担当ウマ娘を見てきていたからだ。カレンモエも同期のウマ娘が負けた時の姿を見て知っていたのだ。

 

「……よくここまで、我慢したな」

「こんな姿、見せられるわけっ……ううっ……一流の、キングがっ……ぐすっ……ペティさんにだって……っ」

 

 キングヘイローの嗚咽は止まることがなかった。その様子をただ見つめることしかできないでいると、扉の外から話し声が段々近づいていた。

 それが扉の前で止まったかと思うと、勢いよく扉が開かれた先にはペティとカレンモエがいた。

 

「買ってきましたよー!」

「ペティ、ちょっと……!」

 

 入ってきたペティの後ろに、ペティの肩に手をかけてカレンモエが大きめの声を上げていた。カレンモエも頑張ったようだが、引き留められなかったようだった。

 

「キング! ドリンクを──って」

 

 部屋に足を踏み入れ、嗚咽を漏らしているキングを見たペティはすぐさまその状況を理解したようだった。

 

「キング……」

「うっ……くうっ……うううっ、ぐすっ……」

 

 結局、彼女が落ち着くまでしばらく時間を要した。

 

 

 

 ◇

 

 

「……」

 

 テレビの中継が終わり、スマホに手を伸ばす。発信履歴から自分の娘の名前を探しそれをタップしたのだが、あとは通話ボタンを押すだけのところで手が止まってしまった。

 惜しくも2着に敗れた彼女の気持ちを考えていると、自然と思い出されるのは昔の自分のこと。バヤコアというウマ娘に負け続けて終わった、あるウマ娘のこと。

 だからだろうか、おそらく自分は今の彼女の気持ちが手に取るように分かる。

 

「……っ」

 

 スマホは操作せず静かにテーブルの上に置いて、椅子にもたれて宙を眺めた。

 当時の想いは未だに色褪せず胸の内に残っていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 泣き止んだキングヘイローのウイニングライブの準備をカレンモエとペティに任せて、俺は当てもなく関係者専用の通路を歩いていた。着替えもそうだが、泣きはらした顔を誤魔化すため2人が懸命にメイクを頑張っている。

 レースに負けたウマ娘に躍らせるというのは酷なものだといつも思う。しかし、それもこなしてこそ中央のウマ娘だというのも理解している。

 

 ドブの水を腹いっぱい飲みこんだような、相変わらず最悪の気持ちになった心を持て余しながら歩いていると、思い浮かんでくるのは泣いていたキングヘイローの姿だった。

 

「クソッ!!」

 

 通路の壁に思い切り右手を叩きつける。ジンジンと痛む右手を感じると、いつかの新潟レース場のことが甦ってきた。

 未勝利戦とGⅠ、舞台と状況は違うとはいえ、あんな思いを担当ウマ娘にさせないために俺はやってきていたはずだ。なのにまた担当ウマ娘を泣かせてしまった。最悪の気持ちが体全体を侵していた。

 何度も何度も何度も何度も散々味わってきたものとはいえ、それに慣れることはなかった。これまでに経験してきたこれは嫌になるほど昔から全く変わらない。

 

 そこでキングヘイローに加えてもうひとつ、別の光景が浮かんでくる。10年経った今も鮮明に覚えている、彼女とその光景。

 

「…………」

 

 最初にこの気持ちを味わったそのとき……考えてみれば、それは全く同じ舞台だった。中山レース場の──

 

「キタサン……俺は……」

 

 ──キタサンブラックの皐月賞と。

 

 胸ポケットから万年筆を出してそれを見つめた。彼女(キタサン)から貰って、彼女(キング)とを繋げてくれたそれに自分の顔が映っていた。曲面に映ったその顔は10年前の俺なのか、今の俺なのか、判別がつかなかった。

 

 俺は、あの頃と何も変わってないのだろうか。




「死にゆく僕とアストンマーチャン」というタイトルで、末期がんであることを隠したトレーナーとアストンマーチャンのお話の電波を受信しました。
(書く難易度クソ高そうなので今のところ書く気は全く)ないです。


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第32話/追憶5 楔

当作品はイクイノックス号(父キタサンブラック母父キングヘイロー)を全力で応援しています(23話ぶり2回目)
やったぜ。

冒頭は過去編です


『キタサンブラック凌ぎました! 重賞ウマ娘たちを見事撃破! 無傷の3連勝で皐月へ向かいます!』

 

 スタンド最前列にいる俺の眼前で行われていたレースはGⅡスプリングステークス。皐月賞の優先出走権が与えられるトライアルレースだ。5番人気のキタサンブラックは共同通信杯を勝ったリアルスティールと朝日杯FSを勝ったGⅠウマ娘ダノンプラチナを倒し、晴れて重賞ウマ娘になると同時に皐月賞への切符を手にした。

 

「やりましたっ! トレーナーさん!!!」

「凄いぞキタサン! やったな!」

 

 勝利してスタンドにいる俺の元へ駆け寄ってきた飛び跳ねんばかりのキタサンブラックとハイタッチをした。間近で見る彼女の満面の笑みが眩しかった。

 

「えへへ。すごく嬉しいです! これでスタンドのみんなも笑顔に──あれ?」

 

 そう言いながら彼女は俺の背にあるスタンドの観客を見回した。するとその笑顔に陰りが生じた。

 スタンドの観客は()()()()()()盛り上がっていなかった。歓声や拍手などは既に鳴りやみ、ざわざわとした喧騒が残っているだけ。すで帰ろうとターフに背を向けている観客もいる。

 大歓声を……みんなに笑顔を、と言っていた彼女の望む形ではなかったのだろう。

 

「なんか、思ってたのと……」

「……キタサン」

 

 最初から注目されているウマ娘と、そうでないウマ娘はどうしてもいる。スプリングステークスでのキタサンブラックは5番人気と上位人気だったとはいえ、華のある重賞ウマ娘4人が集まったこのレースではどちらかというと伏兵扱いだっただろう。それにレース自体も番手から押し切ってクビ差粘った勝利で、所謂派手な勝ち方ではない。後方からキレる末脚で追い込んでくるウマ娘や、着差をつけて圧倒するウマ娘に比べるとどうしても地味に映ってしまう。

 それにキタサンブラックは父親が著名な人物だが、レースの世界においてはまた別だ。このレースで言うなら、叔母が世界的なウマ娘で超良血のリアルスティールの方がレース界隈で注目を集める……華があるウマ娘であるのは言うまでもない。

 一概には言えないが、観客が盛り上がるのは人気を集めているウマ娘がしっかりと勝つレースだろう。人気があると言うのはそれだけ勝つことを期待している人が多いからだ。悲しいかな、人気薄が勝って白けるという人はいるものだ。

 

「おい、早くウィナーズサークルに行け。職員たちが待ってるぞ」

「あっ、はい! 分かりました清島先生! トレーナーさんっ、行ってきます!」

「ああ……」

 

 俺たちを見かねたのか、清島が顔を出してキタサンブラックをそう促した。清島は彼女を目で追いながら口を開いた。

 

「実力と華はイコールじゃねえからな」

「それは、分かっていますけど……」

「なあに、アイツもまだまだこれからだ。それより──」

 

 清島はニカッと笑いながら俺の頭をガシガシとかき回し始めた。

 

「な、なにすんですか!?」

「重賞初制覇だ。お前もよくやったな! キタサン、お前に任せて正解だったわ」

「ありがとうございます……でも、これはっ!」

 

 失礼だと思いながらも清島の手を払いのけて、距離を取って向かい合った。

 もう俺も20歳(ハタチ)になるのだ。この歳で頭を撫でられるのは恥ずかしいことこの上なかった。

 

「俺もうすぐ20ですよ!? もうガキじゃないんですから」

「何言ってんだ、社会じゃ20から30なんてまだまだガキだ。今10代のお前なんて赤ん坊と一緒だ。分かってねえなあ」

「そうだとしても……いや、そうじゃなくて、頭を撫でるのは止めてくださいよ! て言うか、先生だってまだギリギリ30代じゃないですか!」

 

 乱れた髪を整えながらそう言った。

 

「お前、中々言うようになったじゃねえか。配属したての時のクソ丁寧な感じ気持ち悪くてなあ……あ、おい坂川、俺の代わりにトレーナーインタビュー受けといてくれ」

「え!? こういう時はチーフトレーナーが……先生が受けるものじゃないんですか!? キタサンのメイクデビューのときだって先生が」

「別に決まってねえよ。俺は付き合いがあるから、お前がキタサンと一緒にインタビュー受けてくれ。ほら、写真撮影終わったらすぐだぞ。場所は分かるな?」

「分かりますけど……」

「じゃあ行ってこい!」

 

 インタビューを受けることは別に嫌ではなく、むしろ表舞台に出れて嬉しいまであるのだが、こんな1年目か2年目か分からない若造がチーフトレーナーを差し置いてインタビューを受けるのは出しゃばっているようで少し抵抗感があったのだ。

 

 清島に物理的にも背中を押された俺はその足でインタビュースペースへ向かった。

 キタサンブラックと肩を並べて行われた初めてのメディア向けのインタビューはなんとか無事に終えることができた。緊張して何を喋ったかあまり覚えてなかったが……

 インタビュー後キタサンブラックに俺の受け答えは大丈夫だったか聞くと、「堂々とされてましたよっ!」とのことだったので無難に済ますことができたと思いたい。

 

 

 ◇

 

 

 スプリングステークスから時が過ぎ、皐月賞を次週に控えたある日。キタサンブラックと俺はアルファーグのサブトレーナー室を使って皐月賞についての作戦会議をしていた。アルファーグほどのサブが何人もいる大所帯のチームになると何部屋もサブトレーナー室が与えられる。チーフトレーナー室より一回り小さいその部屋の中央にあるテーブルで、俺とキタサンブラックは向かい合っていた。他には誰もいない。

 

「皐月賞も番手、先行策でいくぞ。誰も行かなかったら逃げてもいい」

 

 先程までは特別登録のあったウマ娘たちを分析し整理していた。それが終わって今は具体的な作戦や戦略の話になっていた。

 

「メイクデビュー以外の2戦はどれも2番手からのレースで勝ててる。難しいことは考えず、皐月賞も前目につけて戦い慣れた作戦で…………なあ、キタサン」

「……はい」

 

 キタサンブラックの方を伺うと、彼女は押し黙って浮かない顔をしていた。最近、皐月賞に近づくにつれてこのような表情をすることが増えてきていた。先程のウマ娘の分析でも、どこか上の空で何かを考え込んでいるようだった。具体的なレースの展望の話になるので、この状態のままは看過できなかった。

 

「思ってること、なんでも言ってくれていいからな。なあ、なに悩んでるんだ?」

「……このままで、いいのかなって……」

「このまま?」

「クラシック三冠……みんなを楽しませることができるんでしょうか? 少し前……スプリングステークスを勝った時からそう思うようになったんですけど……」

 

 俺が実質的なトレーナーに決まった日にも、彼女は「元気や勇気を与えられるウマ娘になりたい」と話していたことを思い出す。レースを見てくれた人たちを楽しませて笑顔にする……それが彼女がレースを走る意義であり目的なのだ。

 だからスプリングステークスで勝ったときの観客の薄い反応がまだ記憶に残っているのだろう。観客がみんな笑顔になり大歓声で迎えてくれるという、描いていた理想と現実とのギャップに彼女は戸惑っているように見える。

 

「強い弱い以前に、そもそもあたしには足りないものがあるんじゃないかって。それは──みんなの目に留まるような『派手さ』……無敗で3連勝しても、あたしはあまり注目も期待もされてません……あたしは、クラシックの主役になんてなれるんでしょうか……?」

 

 皐月賞の前評判においても4番人気か5番人気に納まるだろうというのが世間の大方の予想だった。無敗の3連勝で重賞制覇したウマ娘としては確かに評価は低いのかもしれない。しかし、なんせ彼女より上位人気のウマ娘たちは彼女が言ったように『派手』なのだ。

 無敗で弥生賞を制し既に重賞2勝のサトノクラウン、前走でキタサンブラックの2着も評価は揺るがない超良血の共同通信杯覇者リアルスティール、セントポーリア賞で5バ身差の圧勝劇を演じたドゥラメンテが3強を形成していた。3人全員が全レースで上がり3F上位3位までに入っており、切れ味のある末脚を生かした『派手』なレースをしてきていた。特にドゥラメンテは2敗しているとはいえ全レースで上がり3F最速を記録していた。

 

 レース実績だけ見るなら、4戦2勝で重賞未勝利のドゥラメンテより3戦3勝の重賞ウマ娘キタサンブラックの方が人気するのが普通だろう。しかし、ドゥラメンテのレース内容まで目を向けるとまた違った見方になってくる。セントポーリア賞の圧勝はもちろん、掛かり気味でほぼ暴走しながらもリアルスティールの2着に入った共同通信杯も負けて強しと言えるものだった。

 一方のキタサンブラック、3戦中2戦は2番手からの押し切り勝ち。ドゥラメンテと比べると地味と言わざるを得ない。……しかし、もっと細かいところに目を向けると、メイクデビューは超スローを後方からの末脚勝負で勝利、2戦目の1勝クラスは逃げウマ娘の速いペースを追って押し切り3バ身差の勝利、スプリングステークスは超スローを番手から押し切りリアルスティールに勝利……と、その3戦とも違った勝ち方をしたことは、内容的に非常に価値のあるもので評価されるべきだと思う。力のないウマ娘では決してできない芸当だ。

 

「可能性はあると思うけどな。キタサンが頑張って走る限り」

「こんなあたしでも……ですか」

「ああ。キタサンが強くなって良い走りをしたら、絶対に見てくれる人は増えてくる。あと、キタサン」

「はい?」

 

 勘違い……とは違うが、すでにキタサンブラックという1人のウマ娘から元気と勇気をもらって笑顔になっている奴がいるってことをちゃんと知っておいてもらわないと。

 

「さっきあまり注目も期待も──とか言ってたが、俺はめっちゃ注目してるし、期待してるぞ! 俺はお前が勝ったら嬉しいし、元気も貰ってる! だいたい、お前の走りが好きなんだよ俺は! 番手からの押し切りなんて王者のレース運びだぞカッコいいじゃねえか!」

「……えっ、えええ!? そんなっ、トレーナーさん……好きって……えへへ」

 

 勢いで色々言ってしまった気がする。でも、嬉しそうにはにかんでくれてるキタサンブラックをみるとこっちも嬉しくなって……少し照れるというか、恥ずかしい。ごまかすように矢継ぎ早に言葉をつないだ。

 

「あ、俺が逃げや先行が好きだからそうしろって言ってるわけじゃねえからな! ……絶対に、皐月賞勝つぞ!」

「ふふっ、はいっ! あたし、頑張ります!」

 

 キタサンブラックに明るい表情が戻った。やっぱり、この元気いっぱいな顔の方が彼女によく似合っている。

 

 

 そして改めてレース運びについての話をした。暗い表情をしていたさっきまでと違い、表情をコロコロ変えて俺の言うことを相槌を打ちながら聞いてくれていた。

 話がまとまり、彼女と作戦の共有が終わったのは話し始めてから1時間近く経ったあとのことだった。話を終えた俺はノートを取り出して今の話し合いのことを書き込み始めた。キタサンブラックを担当してからつけるようになったノートはもう10冊を優に超えている。清島や先輩に指導されたことや普段のトレーニング内容とその評価、彼女の些細な普段の様子、加えて俺が思ったこと……皐月賞が近づいてきた今では「彼女を勝たせてやりたい」とか「彼女の笑顔が見たい」とか、本当に書く必要があるのか判断に困る気恥ずかしいことも一応書いていた。こうして書くことで、俺自身への決意に繋がる気もしたからだ。それにどうせこのノートは自分しか見ないので、別に問題ないだろう。

 

「あっ! その万年筆使ってくれてるんですね!」

「ああ。これ凄く書きやすいんだよ。ありがとうなキタサン」

「えへへ……喜んでもらえたなら嬉しいです!」

 

 スプリングステークスを勝ったあと、彼女から日頃の感謝の証として名前入りの万年筆をプレゼントされた。正直言ってものすごく嬉しかった。

 万年筆を使うのは初めてだったのだが、使ってみると手に馴染みしっくりきたので普段から愛用していた。

 

「前から気になってたんですけど、トレーナーさんってノートに何書いてるんですか?」

「うん? これか? 普通に普段のトレーニングのこととか、今の話みたいに作戦のこととかいろいろ纏めたりしてるんだ」

「そうなんですか。纏めたやつ、あたしも見ていいですか?」

 

 そう言って覗き込むように俺の背に回ってくるキタサンブラックに対し、俺は反射的にノートを閉じた。これを彼女に見られるのは駄目だ。見られたら多分俺は恥ずかしくて悶絶して死ぬ。

 

「あれ、見たら駄目なんですか?」

「……ああ、まあな。トレーナーだけの情報とかあるから」

 

 トレーナーだけの情報ってなんだよ、と心の中で自分に突っ込んだ。

 

「そうなんですか。あたし、ノート書いてるトレーナーさん好きですよっ! なんか、知的な感じでカッコいいです!」

「……んだよそれ」

 

 外見や見た目を褒められた経験があまりなかったので、それが妙にくすぐったかった。照れていない……と言ったら嘘になる。

 そんなこんなで、本日の話し合いを終えた。あとは皐月賞へ向けて着実に準備をするだけだ。

 

 

 

 

 ──物事が順調なときは、なんでも良い方へ転がっていくものだ。彼女が悩みを抱えていたそれも解決し、この時の俺たちは何もかもがうまくいっていたと思う。

 だが、これは最初の綻び。ちいさくちいさく、でも穿たれて開いてしまった小さな穴。それが広がっていくのは皐月賞が終わったあとからのこと。それがのちに、俺が彼女の全てを踏みにじることに繋がっていくのだ。

 俺と彼女を別つ楔は、すでに打たれてしまっていた──

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 迎えた皐月賞。

 

『外からドゥラメンテ!!! 外からなんと、ドゥラメンテ!!! これほどまでに強いのか!!!』

 

 他のウマ娘が止まって見えるかのような別次元の末脚でドゥラメンテは14人をねじ伏せた。キタサンブラックの弛まぬ努力も、俺たちが立てた作戦も、全てドゥラメンテの前に屈した。さらに彼女に与えられたのは皐月賞史上最高のレーティング。

 

 

 そして俺を待ち受けていたのは──

 

「トレーナーさんっ……ごめんなさい……っ、期待に……ぐすっ、うあ、うわあああああん!」

 

 ──大粒の涙を流して泣き声を上げる、3着に敗れたキタサンブラックだった。

 

 初めて敗北し泣いている彼女を目の前にして、悲しみや自分への怒り、不甲斐なさ、情けなさが混ざり合った形容しがたい最悪な気持ちになった。

 これから数え切れないほどこれを経験することになるのを、俺はまだ知らなかった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

「──♪! ──♪ ──♪!」

 

 キラキラ光る華々しいウイニングライブの舞台でキングヘイローは踊っていた。会場の最後方で俺は見ているが、踊り自体は完璧に見えた。普段の彼女の努力の賜物だろう。

 ……ただ、モニターでアップになったときに映る彼女の表情は別だった。笑顔を作れてはいるが、普段の彼女を知っている俺にとったらそれはぎこちないものでしかなかった。何かをこらえているような、硬くて強張った笑顔だ。そうしないと決壊してしまうからだろう。

 

「…………」

 

 担当ウマ娘の……キングヘイローのそんな痛々しい姿は見ていられなかった。本音を言えば目を逸らしたいぐらいだ。

 しかしトレーナーとしてそれは許されない。

 

「絶対だ……ダービーは、絶対に勝たせてやる……!」

 

 組んでいる腕に力を入れて口にしたそれは彼女たちの歌声と観客の歓声に消えていく。

 

()()、しくじるわけにはいかねえんだ……!」

 

 

 ──無意識のうちに彼女とキングヘイローを重ね合わせていたから出た『また』という言葉。それに俺は気づいていない。

 

 

 ライブを見る俺の手の中にはずっと万年筆が握られていた。

 

 

 ──果たして、俺は本当にキングヘイローを見ていたのだろうか。その答えが出るのは、ダービーが終わった後のことだった。



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追憶6 割れたマグカップ

 日本ダービー当日、俺はパドックでのお披露目を終えたキタサンブラックを地下バ道の入り口で待っていた。

 

「あれ、トレーナーさん?」

「おう」

 

 俺の姿を見つけたキタサンブラックは目を丸くしていた。それもそうだろう、普段の俺はパドックを見終えるとすぐスタンドに戻っていたのだ。確かに地下バ道まで降りて行って見送るなんてことは初めてだった。

 

「トレーナーさん、どうされたんですか? 地下バ道まで来られるなんて……何かあったんですか?」

「いや。特に何もないんだが……」

 

 明確な理由があったわけではない。作戦は予定通りで変更はないし、伝えるべきことはもう何もない。

 ただ、気づけば足が地下バ道に向かっていたのだ。

 

「せっかくのダービーだし、見送ろうかと思って」

「そうなんですか。ありがとうございます! 心強いですっ!」

 

 大一番の前ではあるが、こう見る限りキタサンブラックはリラックスできている様子だった。自身に派手さがなくて悩んだりと、普段の印象とは裏腹にナイーブな面もあるのだが、今日の彼女は自信に満ちているように見える。

 彼女と肩を並べて東京レース場の長い地下バ道を歩いていく。周りには俺たちと同じようにトレーナーやチームメイトと共に歩んでいくウマ娘たちが何人もいた。

 その道すがら、彼女に激励の言葉をかけてやる。

 

「ここまで出来ることは全部やった。厳しいトレーニングにも耐えたキタサンなら、必ず勝てる。俺は信じてるよ」

「……はいっ!」

 

 皐月賞から今日のダービーまで、彼女にはハードなトレーニングを課してきた。清島や先輩の助言を受け内容を精査しつつ、故障しないギリギリのラインで毎日のメニューを組んでいた。

 皐月賞のあとしばらくは敗北によるショックで何も手がつかない様子だった彼女だが、色んな人の励ましによって、敗北をうまくバネにしてトレーニングに取り組めていた。俺のメニューに、彼女は全力で応えてくれた。

 何も不安はない。彼女が全力を出せば必ず結果はついてくると俺は確信していた。

 

「よしっ! キタサン、行ってこい! スタンドを、観客を、アルファーグの皆を……俺を、そしてお前も、笑顔にしてきてくれ!」

「はいっ!!! 行ってきます!!!」

 

 立ち止まった俺を置いて、キタサンブラックは地下バ道の先に見える光へ進んでいく。彼女の姿が見えなくなるまで見送ろうとその背中を見つめる。

 そして光の中へ消えていく直前、彼女はこちらを振り向いて、俺に向かって笑顔で手を小さく振った。

 

「……頑張れ」

 

 前を向いて本バ場に出ていった彼女の姿を見送って、そう小さく呟いた俺は急いでスタンドへ駆け出していった。

 

 

 ──俺と彼女が思い描いた希望にあふれる青写真がただの絵空事と化したのは、ほんのすぐ後のことだった。

 

 ◇

 

『先頭はドゥラメンテだ! 1バ身半リード!』

 

 バ群から突き抜けたのは、赤と黒の勝負服に長髪を靡かせたウマ娘だった。まだ記憶に新しい皐月賞が脳裏に蘇ったのは俺だけではないだろう。

 逆にキタサンブラックはバ群の中へ沈んでいた。

 見ているこの光景が現実だと受け入れられない。たちの悪い夢としか思えない。

 

「そん、な……」

 

 呆然とする俺の目の前をドゥラメンテが駆け抜けていった。巻き起こった風が、俺の髪を撫でた気がした。

 地鳴りのような歓声が俺の背後から湧き上がった。

 

『二冠達成ドゥラメンテゴールイン!!! 難なく直線抜け出しました! 阻むものは誰もいません! しかも勝ち時計はダービーレコード!』

 

 皐月賞史上最高のレーティングに続いて、ダービーでのレコードタイムを叩き出したドゥラメンテ。完勝だった。

 実況がレコードのことを言った瞬間、歓声が更に大きくなった。

 

 キタサンブラックが走ったこれまでのレースで、間違いなく一番の歓声が上がっている。振り返ってスタンドの観客たちを見ると、みな興奮冷めやらぬ様子でターフに目をやっていた。

 確かにスタンドの観客は笑顔になっている。しかし、それは二冠ウマ娘ドゥラメンテに向けられたものであって、14着に敗れたキタサンブラックに向けられるものではなかった。

 彼女が一番に望んだものだったのに。

 

「なんで……だ……」

 

 現実を直視できない俺はそう言うしかできなかった。俺の視線の先には、肩で息をしながら膝に手をついてうなだれているキタサンブラックの姿があった。

 

 実況が賞賛を続ける言葉を背にウイニングランをしているドゥラメンテ。

 一方、足取り重く本バ場から引き揚げていくのは敗北したウマ娘たち。

 

「……坂川」

「先生……っ!」

「あっ、おい!」

 

 声をかけてきた清島を振り切るようにして俺は走り出した。キタサンブラックに会うために。

 それに、結果を残せなかった俺が彼に会わせられる顔なんてあるはずない。

 

 ◇

 

「はあっ、はあっ……あ……」

 

 地下バ道から控室の並ぶ関係者専用通路に繋がる場所にて、キタサンブラックを見つけた。

 駆け寄っていくと、俺に気づいた彼女は顔を上げて俺の方を見た。

 

「キタサン……!」

「トレーナー、さん……?」

「……っ」

 

 呆然自失では足りない……目に(いろ)がなく、感情が消えた彼女の表情を見て、俺は言葉を失ってしまった。

 

「……お疲れ。とりあえず、控室に戻ろう」

「は、い……」

 

 キタサンブラックを先導して一緒に控室に戻った。椅子に座らせた彼女にドリンクを渡したが、彼女はそれに口をつけることなく手に持ったまま俯いていた。

 俺は椅子に座って、一言も発さない彼女と向かい合った。

 

 しかし、かける言葉が見つからない。

 沈黙だけが2人の間に流れていた。

 

「…………なあ、キタサン」

「……」

 

 彼女は黙って俯いている。

 

「……ケガとかはないか?」

 

 結局、当たり障りないことしか言えない自分に心の中で歯噛みをした。

 

「大丈夫です……」

「……なら良かった」

 

 また沈黙が訪れそうになったが、それを嫌った俺は話を続けた。どうせ、黙って考えていても答えは出ないように思えたから……臆病で、後ろ向きな自分が嫌になる。

 

「キタサン、あのな──」

 

 そこで、俺の言葉は途切れた。

 

「──あ」

 

 ぽたっ、と。

 下を向いた彼女の顔から流れ落ちた、光るなにかが床に落ちたのを見たからだった。

 

「キタサン……!」

 

 思わず彼女の両肩に手をやって体を起こさせた。すると、顔を上げた彼女を目が合った。

 

「……っ」

 

 彼女の表情からは感情が消えているのに、虚空を映している緋色の瞳からは大粒の涙が止めどなく流れていた。

 

 ◇

 

 その後すぐに清島や先輩、チームメイトなどのアルファーグの面々が控室にやってきた。加えて、父親やその弟子たち、そして一つ下で昔なじみのサトノダイヤモンドまでもやってきていた。

 文字通り、絶望したように無表情で涙を流していたキタサンブラックだったが、次第に顔もくしゃくしゃになってきて()()()泣き始めた。みんなで彼女を宥めて励ましてなんとか気を落ち着かせたところで、着替えもあるとのことで一旦控室の外に俺は出ていた。

 

 俺は関係者専用エリアの廊下に置かれている長椅子に座っていた。膝に置いた拳を握りしめ、奥歯が砕けそうなほど噛みしめていた。頭の中にあるのはもちろん、キタサンブラックのダービーについてだ。

 

 惨敗の原因は一体なんだったのか。

 

「……なんでだ」

 

 この負け方は尋常ではない。皐月まで無敗、負けた皐月も3着。ここまで大崩れするのは初めてのこと。

 熱に浮かされたように熱くなっている頭を冷ましながら、敗因を洗い出していった。

 

 調子? ……調整はうまくいっていた。客観的に見ても絶好調だった。今年5戦目になるが疲労には最大限の注意を払ってトレーニングメニューも組んでいた。調子や疲労のせいだとは考えにくい。

 

 実力不足? ……正攻法の戦い方で皐月賞3着のウマ娘だぞ? 展開が向いて棚ぼたで取った3着ではないし、それに一度はリアルスティールにも勝っているんだ。何より、彼女に地力があるのは俺がよく知っている。

 

 バ場が合わない? ……相手関係があるので単純な比較はできないが、東京レース場のメイクデビュー1800mと1勝クラス2000mでは勝利している。東京が苦手ということはないだろう。

 

 そうして考えられる要因を1つ1つ潰していった。

 

「……なら考えられるのは2つ。1つはレース展開」

 

 キタサンブラックは逃げウマ娘の後を2番手で追走した。逃げウマ娘の前半1000m通過は58.8秒で確かに速いペースではあった。しかし、1000m通過後から4Fは12秒中盤のラップでペースが緩んでいた。なのでハイペース一辺倒のレースという訳でもない。前半が淀みなく流れた分、後半でのスタミナが持たなかったのだろうか? 

 タブレットでURAの速報サイトにて結果を見ると、逃げ~先行したウマ娘たちは下位に沈んでいる傾向ではある。しかし、ハナを切った逃げウマ娘はキタサンに先着。それにキタサンブラックのすぐ後ろを走っていた3番手のウマ娘は5着で掲示板。彼女たちが実力以上のものを発揮したとか、得意な展開だったのかもしれないが、逃げ先行が全滅というレースでもない。

 これ以上は個別のラップを見て詳しく分析する必要があるが、厳しいレース展開ではあったが全く向かなかったという訳でもなさそうだ。展開だけでこれだけ惨敗してしまったとは思えない。

 

 となると、考えられるのはもう1つの可能性。

 

「なら、距離適性……か?」

 

 距離適性……それはトレーナーとウマ娘が必ず直面する課題だ。適性が広いウマ娘もいれば、適性から1ハロン違えば全く実力を発揮できないウマ娘もざらにいる。

 すんなりと適性が決まるウマ娘がいる一方で、中々それを見つけ出せないウマ娘もいる。トレーニングや模擬レースでは問題なくとも、本番のレースになると全く通用しなくなるというのは珍しい話ではないからだ。

 母親や親族の距離適性や筋の特性など様々な判断材料を集めてそれを模索していくのだ。レース生活が終わるまでに見つかればいいが、最後まで迷走したまま現役を終えるウマ娘だって少なくない。

 

 キタサンブラックのことを改めて整理してみよう。

 

 ダービーまでに走ったレースは1800mと2000mが2戦ずつで、それぞれ東京と中山で1戦ずつ。敗れたのは中山2000mの皐月賞で3着と、東京2400mのダービーで14着。

 敗れたとはいえ皐月賞は善戦。一方、2ハロン伸びたダービーでは惨敗。レース結果だけから考えるのなら、キタサンブラックには2400mは長すぎる。それより短い……つまり、距離適性は2000m前後だと推察できる。

 

 しかし、レース結果だけで判断はできない。他にも裏付けできることを考える。

 

 まず考えたのはキタサンブラック自身のこと。

 彼女は他のウマ娘よりも体格が良く体重も重い。今日ダービーに出走したウマ娘の中でも、彼女は抜きんでた体格をしていた。一般的に体格の良い筋肉質のウマ娘の方が短距離の適性があると言われている。

 

「いや……確か……」

 

 あとから読もうと思って以前にダウンロードしていた学術雑誌に載っていた調査データのPDFを開く。それは体重が距離適性に関係しているのではないかという予想を検証した調査結果だった。

 結果は、クラシック級まではマイルやスプリントなどの短距離ウマ娘の方が体重が軽い傾向にある一方で、シニア級2年目以降は短距離ウマ娘の方が重くなるというものだった。

 筆者の考察をかみ砕いて得た自分なりの見解……体格が良く体重が重いからといって必ずしも短距離には合うとは限らない。しかし、勝ち抜いたウマ娘たちで構成されるシニア級2年以降では体重が重いウマ娘が多いと言うのが事実なら、体重が重いウマ娘は短距離路線の方が成績を残せる可能性があるということ。

 これはキタサンブラックの短距離適性があることを示唆するひとつの材料になった。

 

 それならと、次に重要なファクターについて考える。それはキタサンブラックの血統についてだ。

 

「確か、キタサンのおばあちゃんは……」  

 

 彼女の血統について担当したての時に調べたことを思い出し、タブレットに保存しておいたデータを見る。

 母親はレースに出ていないが、祖母は中央の芝とダートで走っていた。芝1600mの京都ウマ娘ステークスと芝1200mの札幌スプリントでいずれも5着、掲示板入りを果たしている。加えて、母の姉に当たる叔母も中央の芝1200mで勝っている。

 これらは短距離適性への裏付けとしては十分なものだろう。キタサンの現状を見るに、スプリントの適性はなさそうだが、短い方が合っている可能性は十分にある。

 

「…………」

 

 頭の中で段々と答えが固まりつつあった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「うえ、もうこんな時間かよ……俺は先に上がるわ」

「はい、お疲れ様です」

「……あんま根詰め過ぎんなよ坂川。ちゃんと寝てんのか?」

「ありがとうございます。大丈夫です」

「答えになってねえ……じゃあな」

 

 先輩は荷物の入ったバッグを背負ってサブトレーナー室を出ていった。夜も更けたこの部屋に残されたのは、パソコンと向かい合っていた俺1人だけだった。

 外部からは何の音も入って来ない、時が止まったかのように静かな部屋で、俺がキーボードを叩く音だけが響いている。

 

「……」

 

 ダービーの敗北から数日が経過していた。負けたあの日から、俺はキタサンブラックの敗因の分析と次走についてのプラン立てに注力していた。

 トレーニングに関わるとき以外、空いている時間は全てそれに当てていた。言葉通り、寝る間も惜しんで。

 そうして導かれた結論は、やはりキタサンブラックに2400は長すぎたというものだった。彼女の距離適性外だったからこそあのダービーで惨敗に終わったのだ。

 

 GⅠを勝たせてやりたい。皆に勇気や元気をあげられるウマ娘になりたいという彼女の夢を叶えさせたい。

 もう二度と彼女にあんな顔はさせたくない。俺が一番見たいのは満開の桜のように笑う彼女なのだ。

 

「キタサンが勝てる、レースを……」

 

 そのためにはレース選びが重要なのは言うまでもない。

 だから、この選択になるのはごく自然なことだった。その考えが口をついて出た。

 

「菊花賞はパスだ」

 

 俺はキタサンブラックを菊花賞には出さない。

 彼女はもっと短い距離……実績のある2000mかそれ以下が距離適性なのだ。秋のレースで2000m前後のGⅠと言えば──

 

「天皇賞秋か、マイルチャンピオンシップだ。12月は香港にしよう」

 

 この秋は、キタサンブラックには天皇賞秋かマイルチャンピオンシップを目指してもらうことにする。もし好成績なら年末の2000mの香港カップか1600mの香港マイルに登録する。ここらで海外遠征を経験するのも悪くはないだろう。招待が来なければ来年の大阪杯あたりを目指してプランの組み直しだ。

 3000mの菊花賞と2500mの有馬記念は論外だ。走ったってまた惨敗するだけ、結果は目に見えている。負ける戦いに出走させるバカなトレーナーが一体どこにいるのか。

 

 

 負けて泣いているキタサンブラックの姿なんて、もう二度と見たくない。

 

 

 秋初戦は叩きでセントライト記念。善戦なら秋天、これでも大負けするようなら距離を一気に短縮してマイルチャンピオンシップだ。

 しかしまだ確定ではないからキタサンには言えない。最後まで見極めて判断したうえで、秋天かマイルチャンピオンシップかを彼女に伝えよう。

 

「……コーヒーでも飲むか」

 

 とりあえず思考が纏まり一段落したので、コーヒーを飲んで一服しようと思い立った俺はデスクに置いてあったマグカップを手に取り簡易キッチンへ向かった。

 その道すがら、手からマグが滑り落ちる感覚──

 

「──あっ!」

 

 手が滑ったのか手が緩んだのか分からないが、俺はマグを取り落としてしまった。パリンと乾いた音がして、白色のマグが割れてしまった。

 

「やっちまったか……いつっ!」

 

 片付けようと割れている破片に手を伸ばすと、指に鋭い痛みが走った。どうやら尖ったところに触ってしまったようで、その痛んだ箇所を見ると指の腹から血が溢れるように流れていた。そこそこ深く切ってしまったらしい。寝不足が祟ってボーっとしていたのだろうか。

 

「何やってんだ俺は……」

 

 割れたマグの破片は一旦置いておいて、指にティッシュを当てて血が止まるのを待った。

 

「…………」

 

 しかし、血は流れ続けて中々止まらなかった。

 

「……痛え」

 

 静謐に満たされたこの世界で、血だけが流れ続けていた。

 当てているティッシュが赤く、赤く染まっていった。

 

 

 割れてしまったマグはもう元に戻らない。

 流れ出る血は止まらない。




体重に関して調査したデータはJRAの競走馬総合研究所HPの『サラブレッドのスポーツ科学』を参考にさせていただきました。
(https://company.jra.jp/equinst/magazine/pdf/79.pdf)

2024年2月18日、ドゥラメンテの風貌について微修正。


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第33話 選択

「はっ……はっ……」

 

 鳥もまだ寝ているような早朝、澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込みながら河川敷を走っていく。川のせせらぎと河川敷沿いに植えられた葉桜が風に揺れる音が心地よい。

 初の2400m……距離延長となるダービーへ向けロードワークに出る時間を早くしてしばらくが経過していた。時間を早くしたのはその分ロードワークの距離も延ばしたからだ。

 

「はっ……ふぅ……」

 

 折り返し地点となる橋に辿りついたので、一旦足を止め首にかけていたタオルで汗を拭って一息ついた。

 橋の欄干にもたれて息が整うのを待っていると、私が来た方とは逆の道からランニングパーカーのフードを深くかぶったウマ娘が走ってきていた。

 

「……っ……っ……」

 

 近づいてきた彼女はフードを深くかぶっているためその顔はうかがえず、かろうじて口元が見えるだけだった。彼女の一定の息遣いが聞こえてきたのも束の間、私の目の前を通り過ぎて走り去っていった。

 

「……速いわね」

 

 彼女の背中を目で追って思わずそう独り言ちる。私より明らかに速いペースを保って彼女は走っていた。息を乱さず走るその姿から並のウマ娘でないことは一目でわかった。

 ロードワークの時間を変えてから度々このウマ娘を目にしていた。いつも目にするのは学園の方に向かって走っていく姿なので、私より早い時間に出て長い距離を走って帰ってきているのだろう。

 

「一体誰なのかしら……?」

 

 会話を交わしたことなどなく、顔も見えない。分かることと言えば、フードの内に見える肩にかからない程度の黒い髪とランニングパーカーの下から出ている黒い毛色の尻尾だけだった。意図的にフードで顔を隠しているのなら、もしかしたら有名なウマ娘なのかもしれない。

 それから数分後、休憩を終えた私はロードワークを再開した。すでに見えなくなっていた彼女の姿を追うように同じ道を走っていく。これまでのことを頭の中で整理しながら。

 

 

 クラシック第1戦、皐月賞でセイウンスカイに半バ身差の2着に敗れてから2週間あまりが経過していた。負けた後は泣くのを抑えられなくて、みっともなくみんなの前で泣いてしまった。一流にあるまじき失態だった。

 こんな顔ではライブに出られるか我ながら心配したのだが、カレンモエとペティがうまくメイクで誤魔化してくれてなんとかライブをこなすことができた。特にカレンモエのメイクの技術には驚かされた。本人は親の影響と言っていたが、そこらのメイクアップアーティストよりは上のように思えた。肝心のライブのダンスは完璧に一流のウマ娘らしくこなすことができた。

 

 あの日のことを思い出すと今でも悔しくて唇を噛んでしまう。負けてからしばらくはその時のことが夢にも出てきて何度か飛び起きていたほどだ。

 しかし、その皐月賞自体は収穫があったレースだった。確かに細かいミスはあったのだが、大きくフォームを崩すことなく、自分から動いてレースをすることができた。負けたとはいえ弥生賞の差は埋めることができたし、結果的にはスペシャルウィークも抑えられることができた。セイウンスカイには負けてしまったが、あと少し距離があれば抜くことができたように思えた。だから、距離が延びるダービーでは逆転する可能性は十分にあると手ごたえをつかんでいた。

 そう、次に向かうは日本ダービー……同世代の頂点を決めるレースだ。青葉賞からやってくるウマ娘以外は未経験の2400m。その距離に対応するために早朝のロードワークの量を増やしているのだ。今日も坂川の指示通りの距離とペースで走っていた。

 

「……はっ、はっ、はっ……」

 

 皐月賞が終わったあとから坂川の様子が段々ピリピリしてきていることを感じていた。だからといってメニューが激化するということはなく、課題の修正と継続する基礎トレ、そしてダービーへ向けた調整を織り交ぜたものを立案してきてくれていた。彼が立てるメニューには何の不満もなく納得できるものだった。疑問に思うことを言ってもちゃんと根拠を提示して説明してくれるし、私の要望も聞いて柔軟に対応してくれる。彼の担当になって8か月ほど経つが、ここまで来たら彼の手腕を疑うことはない。言葉遣いや態度や身嗜みは別として、気づけばトレーナーとしての彼に信頼を置いている自分に気がついた。

 

(最初の出会いから考えたら……分からないものね)

 

 他のトレーナーを知らないので言い切ることはできないが、坂川健幸は中央の中でも優秀なトレーナーだと私は思っている。

 でも、そこでひとつ疑問が浮かんでくる。彼はおそらく優秀なトレーナーだ。なのになぜ私まで重賞ウマ娘を送り出せなかったのだろう。

 契約を結んだあの日、ペティと坂川との会話にて学園内のレースで最下位のウマ娘ばかり当てがわれたと言っていたが、やはりそれが関係しているのだろうか。そもそも、なぜそんなことになっていたのだろうか。

 ただの偶然?

 

「…………」

 

 それに重賞とは縁のなかったトレーナーなのに、私の重賞では焦っていたり緊張したりしている素振りなんて一切彼はしていなかった。まるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 彼は以前アルファーグというトレセン学園屈指のチームにサブトレーナーとして所属していたことは知っていたので、その時に経験でもあったのだろうか。それとも、彼の元来の性格が図太いだけなのかもしれないけれど。

 

「……私、トレーナーのこと、あまり知らなかったのね……」

 

 坂川健幸について、私はあまりにも知らなさすぎる。そんなことに今やっと気がついた。

 

 

 いつの間にかトレセン学園が見えるところまで来ていた。そして間もなくゴール地点であるトレセン学園の校門前に到着した。

 

「はあ、はあ、はあ、ふう……よしっ!」

 

 息を整えて手首に巻いたスマートウオッチで時間を確認する。坂川の指定した通りのペースで走り切ることができていた。

 クールダウンがてら歩きながら達成感を手にする。最初はなかなかペース通りに走れなかったので、この達成感もひとしおだった。

 

「この調子で……ダービーは、必ず……!」

 

 三冠にはなれなかったがいつまで悔やんでも仕方がない。ダービーウマ娘になって世代の頂点に立ち、私が一流のウマ娘であると証明──

 

「……一流」

 

 そこまで考えついたところで思わず足が止まってしまったが、考えを振り払うように頭を左右に振って再び歩き出した。一流とはなにかを考えるのを置いておこうと決めたのだ。カレンモエの言っていた通り、進んでいった先に答えが見つかることを信じよう。

 

 今はダービーに集中するだけだ。

 

 ◇

 

 同日、放課後。

 

「トレーナーさん、ちょっといいですか?」

「なんだー?」

 

 トレーニングコースへ向かう前にトレーナー室にて道具やら機器やらを準備していると、同じように準備しているペティから声をかけられた。キングヘイローとカレンモエはここに顔を出したあと部室へ着替えに行っていた。

 機器が見つからないとかトレーニングのこととか他愛もない話だろうと思っていた。

 

「トレーナーさんって、担当がダービーに出るのは初めてなんですか?」

「俺のこと調べたんじゃなかったのか? ダービーどころか、俺の担当が初めてGⅠに挑戦したのがキングのホープフルだぞ」

 

 予想通りただの世間話だったようだが、その次にペティの口から予想だにしない名前が発せられた。

 

「キタサンブラックは違うんですか?」

「……お前」

 

 緩い頭を切り替えて考えを巡らす。ペティはどういう意味で訊いているのかを。

 昔の情報を漁れば、俺がアルファーグ時代にキタサンブラックのインタビューに答えているものにたどり着くことはできるだろう。しかしどこまで詳細に知っているかは分からない。

 当たり障りなく答えることにする。場が流れてくれればいいが。

 

「確かに当時キタサンブラックのトレーニングをちょっと見ていたことはあるがな。アイツのトレーナーは清島先生だ。サブの立場でちょっとトレーニングを見ていただけでダービーに挑戦したって言うのなら、俺はアルファーグ時代に経験してることになるな」

「ちょっと見ていた、ですか」

「……ああ」

 

 本当はちょっとどころではない。セントライトのあとに()()()()が起こるまで俺がキタサンブラックの全てを管理していた。

 そこに食いつかれてペティに対しての疑念が大きくなってくる。彼女は何を知っているのだろうか? 

 

「キタサンブラックはダービーで負けてましたよね」

「そうだな、14着だった。あそこから菊花賞勝ってその後GⅠを勝ちまくるんだから、さすがは清島先生だ」

 

 平静を装って、できるだけ他人事のように話す。と言っても、今話したことは紛れもない事実だ。

 そうしているうちにタイミングよく準備が整ったのでこっちから話を切り上げることにした。

 

「よし、俺は先にコースに行っとくぞ。お前も早く来いよ。鍵はデスクの上に置いとくから戸締りだけしといてくれ」

「はーい」

 

 ペティの返事を背中に受けて俺は先にトレーナー室を出ていった。

 廊下を歩く道すがら、先程のペティについて考える。

 

「……考えすぎか……?」

 

 ペティの真意は分からない。ただ調べて知って気になったからキタサンブラックについて訊いただけなのかもしれない。今でも活躍する彼女についてただ興味を持ったとかそんなところかもしれない。

 何にせよこちらから探りを入れるわけにもいかないので、このまま何もしないのがベターだろう。彼女が何かを知っていて、追及してくるならまた対応を考えないといけない。

 俺のことなんてどうでもいいが、あの話が漏れてキタサンブラックに迷惑がかかることだけは避けなくてはいけない。

 

 それよりもキングヘイローのダービーだ……彼女にGⅠを取らせてやると約束したのだ、今度こそ勝たせなければいけない。彼女のあんな顔を見るのはもう御免だ。

 それと──

 

『キタサンブラックはダービーで負けてましたよね』

 

 「……」

 

 キングヘイローとキタサンブラックには何の関係もない。しかし、キングヘイローのここまでを見ているとどうしてもキタサンブラックと重ねて見てしまう自分がいる。

 

 今でも自分は未熟だと思う。でもこの10年で知識も経験も積んできたのだ。10年前、最低最悪なことをしたクソガキの自分よりは成長したはずだ。

 

「……やるしかねえんだ」

 

 1分1秒も惜しい。足早にトレーニングコースへ向かった。

 

 ◇

 

 坂川の背中を見送ったトレーナー室にて、彼の足音が遠ざかるのを確認してから準備する手を止めた。彼が出ていった扉に目をやると、自然と口をついて出る言葉があった。

 

「──うそつき」

 

 呟いたそれは虚空へ消えていった。

 

「……」

 

 おもむろに白衣のポケットからスマホを取り出し、画像や写真を管理しているアプリを開く。そして10年ほど前の日付を選んで、一覧に表示された画像から目的のものを開く。

 それは自分が10年前に撮影したものだった。スマホを変えるたびにデータを移していて、今のスマホにもその写真が入っている。幼い頃の自分が撮ったそれは傾いていてブレている、お世辞にも上手に撮影できたものではなかった。

 

「……知ってるんですから。()()()()()()()()()()

 

 

 スマホには、若い短髪の男と黒髪のウマ娘の2人がこちらを向いて仲睦まじく笑っている写真が映っていた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

『おにいさん、おねえさん。しゃしんとりますよ!』

『え? なんで撮るんだ?』

『しゃしんとるのすきなんです!』

『ふふっ、可愛く撮ってね! ほらトレーナーさんっ』

『……分かったよ』

『わらってください! はい、ちーずっ!』

 

 

 

『とうさん。おにいさんとおねえさん、とってもやさしかったよ!』

『坂川とキタサンか。父さん自慢のおにいさんとおねえさんだ。きっと2人は大物になるぞ』

『うん! わたし、とうさんのあるふぁーぐにはいったらおにいさんのうまむすめになって、おねえさんみたいなうまむすめになるっ!』

 

 

 

 ◇

 

 

 

 時は流れ、日本ダービーの出走表が出た木曜日になっていた。キングヘイローは1枠2番に入った。

 これまでやるべきことは全てやった。トレーニングはもちろん、調整も完璧だ。キングヘイローは絶好調を維持している。俺が今まで担当したウマ娘の全てのレースの中で5本の指に入るぐらい彼女は仕上がっている。

 あとは本番の作戦を確認するだけだった。ひりつく空気がトレーナー室を包んでいる。

 

「枠は悪くない。ミスさえなければ内でロスなく回せる」

 

 俺の言葉を真剣な顔で聞く3人。すでに大まかな作戦は伝えてある。その作戦のためのトレーニングを今日まで取り組んできたのだ……他の陣営にそれを気づかれないよう、うまく偽装しながら。

 

「前から言っている通りの作戦で行く。変更はない」

 

 俺が立てた作戦、それは──

 

 

「『逃げ』で行くぞ。分かったな、キング」

「ええ、覚悟は決めているわ! 2400、逃げ切ってみせるわよ!」

 

 

 ──果たしてどのような結果をもたらすのだろうか。勝利か、それとも──

 

 日本ダービーまで、あと3日。



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第34話 日本ダービー/前

 ダービー当日の控室、2人しかいない部屋の中は緊張感に包まれていた。パドックに呼ばれる時間が刻一刻と迫っていた。

 

 私は既に勝負服に着替えていた。鏡を見て着こなしやヘアースタイルの乱れがないかチェックし終えると、坂川から声がかけられた。

 

「軽く身体を動かしながらでいいから聞け。作戦の最終確認だ。返事もしなくていい」

 

 アップを済ませた体を冷やさないように軽く四肢を動かしながら坂川の言葉を待った。

 

「作戦は『逃げ』。変更はない。他に逃げようとしてくるウマ娘はいるだろうが、1枠2番の内枠のアドバンテージを生かせば必ずハナに立てる。かっ飛ばす玉砕逃げ以外には絶対に先頭を譲るな。そして重要なのはセイウンスカイより前の位置をとることだ」

 

 これまで散々聞いたレースプランについて、普段より力の入った坂川の言葉を耳に入れながら整理する。

 

「他に行くウマ娘がいないなら、セイウンスカイはハナに立とうとするだろう。だが、皐月賞で番手に控えて勝ったアイツは無理に競ってまでハナには立たないと予想する。未経験の2400mではリスクが高すぎるからな。お前の話から察せるセイウンスカイの人物像と、アイツの担当トレーナーである横水のクレバーさを考えれば控える選択肢を取る可能性が高い。もし仮に無理やりハナに立とうとするなら、それはそれでいい。最初の直線で体力を削ぐように競ってから奴に先頭を譲ってやれ。それが出来るトレーニングは積んできたんだ、自信を持っていけ」

 

 弥生と皐月どちらもセイウンスカイの後塵を拝している私に対して、彼が練った作戦がそれだった。上がり3ハロンは弥生賞で同タイム、皐月賞で私の方がコンマ1秒速いだけと、末脚に差がないと判断した彼は彼女の前にポジションを取ることを提案してきた。

 彼女より前……それは必然的に逃げとなるのだ。

 

 私もそれには納得済みだ。私の方がキレる脚を持っていると信じたかったけど、実際のタイムを示されると何も言えなかった。

 このレースは日本ダービー、プライドなんかにこだわっている場合じゃない。この大舞台にて、望むのは勝利のみ。

 

「そして、肝心な逃げた時のペースについてだが、その前に状況を整理するぞ。今のバ場コンディションは稍重。時計は例年より1秒以上かかっている。だが今日のこれまでのレースを見ていると差しも決まってるし、昨日の重バ場からは回復傾向にある。だから差を離して逃げれば差されずに勝てるって単純な話にはならねえ」

 

 昨日は雨が降っていて、芝コースは重バ場で開催されていた。今日は坂川が言った通り1Rから降雨はない。私も午前中のレースを見ていたが、バ場は段々と良くなってきているものの良バ場には程遠いように見えた。

 

「そして相手関係。目下、一番の強敵になるのはセイウンスカイとスペシャルウィークだ。セイウンスカイはポジション取りで優位に立つとして、あとは対スペシャルウィーク……現段階において、純粋なウマ娘としての能力だけならお前はスペシャルウィークに負けている」

「…………」

 

 スペシャルウィークの末脚を一番近くで体感した身として、それは理解できることではあるが、そう言葉にされると反発したくなる。実際、数日前に同じ話をされたときに反発したが、彼には「悔しいだろうが受け入れろ。勝つためだ」と一蹴されてしまった。

 でも、そこまではっきり言わなくてもいいじゃない……おばか。

 

「何度も言ってるがスローにしてよーいドンの瞬発力勝負にはするな。セイウンスカイに勝ててもスペシャルウィークには負けるぞ。だから──」

「ミドルからハイペース、よね」

 

 私が言葉を継いだことで、坂川が一瞬だけ言葉を噤んだ。

 

「……ああ。状況によっても変わるが、基本路線はハイペース。それでスペシャルウィーク含めた後続の脚を削ってやれ。そして、意識しておくポイントは途中で息をいれることだ。1000mを通過して、向こう正面から3、4コーナーの間に絶対にペースを緩めて息を入れろ。でないとお前が潰れるぞ。あと、バ場を頭に入れたペースで走るように。良バ場想定のペースにはするな」

 

 スタートダッシュでハナを取り、ハイペースで逃げた上で息を入れ、最後の直線に残った全てを注ぎ込んで逃げ切る。それが日本ダービーでのキングヘイローの作戦だ。

 逃げとしては王道の戦略だが、一度も逃げたことがない私が逃げることで、他のウマ娘たちは必ず後手に回りこちらが主導権を握れる……と、坂川は言っていた。

 

「以上だ。頭は整理できたか?」

「ええ」

 

 今は最終確認だけなので大雑把な内容だが、これまでのミーティングで細かいところまで詰めていた。具体的なラップや様々なレース展開を想定し、来る日も来る日も実践を意識したトレーニングを繰り返していた。肉体労働か頭脳労働か分からなくなるほど、身体と頭の両者をフルに使ってヘトヘトになった日々が思い出された。

 だけど、全てはダービーを勝つためだと思えば苦にはならなかった。

 

「今日のお前は仕上がっている。うまくレースを運べれば絶対に勝てる」

「珍しいわね。あなたがそんなことを言うなんて」

「……なんだと」

 

 不機嫌そうな顔をした坂川に対して、思ったことをそのまま言ってやった。

 

「普段のあなたなら、『絶対に勝てる』なんて言わないと思うのだけれど」

「大一番だからな。こう言えばお前の気持ちもアガるんじゃねえかと思ってな。それに勝てるってのは冗談じゃねえぞ、本当にそう思ってる」

「……ふふっ。悪くないわ、それ」

 

 彼はレースや走りに関しては真摯だ。駄目なところは容赦なく指摘し、良いところは評価する人間だと知っている。だからこそ、彼が『勝てる』と言ったことは嘘じゃないって分かるのだ。

 

『9R、東京優駿に出走するウマ娘はパドックへお集まりください。繰り返します──』

 

 そう流れた控え室のアナウンスを聞いた私は、体を動かしてズレた黒の手袋(グローブ)とニーソックスを直してから彼と向き合った。

 

「ダービーは私が勝つわ。キングヘイローが世代の頂点だと証明してみせる。そして、お母さまに今度こそ私を認めさせるわ」

「……ああ、お前ならできる。行ってこい」

「ええ! キングが1着で駆け抜ける瞬間をその眼にしっかり焼きつけなさい! おーっほっほっほ!」

 

 高笑いしたのちにドレッサーに置いたままにしてある自分のスマホを一瞥してから、私は控室を出てパドックに向かった。

 

 

 ◇

 

 

「……あら、あなた……」

 

 パドックを終え地下バ道へ入ったところで、そこに坂川の姿があった。

 

「ここまで見送りに来たの?」

「ああ」

 

 彼が直接地下バ道まで来るのは初めてのことだった。

 控室で啖呵を切って出ていたのが少し恥ずかしいじゃない……と、それは置いておいて、何か用があるのだろうか。

 

「珍しいわね。何かあったの?」

「…………」

「?」

 

 坂川は宙に目を逸らして黙り込み、考え込むようにしてから口を開いた。

 

「いや、別に何もねえぞ」

「なによそれ」

「まあ、強いて言うならだ。お前、自分の手見てみろ」

「手……?」

 

 彼にそう言われて、自分の手のひらを見る。

 

「……え」

 

 すると、その手は小刻みに震えていたのだ。それを収めようと思って力を入れたり、手を握ったり開いたりしても震えは止まらなかった。

 

「緊張してんのか?」

「……そんなつもりはないのだけれど」

 

 心臓の音がうるさく高鳴っていることもない。頭がボーっとすることもない。だから緊張しているとは思っていない。

 では、この収まらない手の震えは一体なんなのだろうか。

 

「なあ、キング。返し馬、第1コーナーの方から周っていけ」

「へ? それ、大丈夫なの?」

 

 ダービーのゲートは地下バ道からコースに出ると左手にある。普通なら、本バ場入場したウマ娘たちはスタンドの前にあるホームストレートを逆方向に進んでゲートに向かっていくのだ。

 坂川はそれとは逆……つまり、今から走る左回りのコースをなぞるように走れと言っているのだ。

 

「問題ない。緊張……してるのかどうかは知らねえが、バ場の確認がてらちょっと走って気を落ち着けろ」

「……考えておくわ」

「…………はあ~、おい。しゃきっとしろ!」

 

 ぱちっ、と乾いた音と衝撃が私の背中から聞こえてきた。彼は私の背中を平手打ちしたのだ。しかも、わざわざ素肌の出ている肩甲骨の間あたりを狙って。

 メイクデビュー勝利後に叩かれたときみたいだった。

 

「いたっ! ちょっと! なにするの!」

「んな湿気たツラしてるからだアホ! 泣いても笑っても、一生に一度の舞台なんだからよ、んなガチガチじゃもったいねえだろ?」

 

 そんな顔を私はしていたのだろうか。鏡のないこの状況では、確認しようもないけれど。

 

「弥生賞の振り返りの時に言ったな。今までお前が頑張ってきたから、今この場所に立ててるんだ……ダービーでもそれは変わらん。これまでの自分を無駄にするなよ。お前の全部を今日、このダービーにぶつけてこい!」

 

 彼はそうしてもう一度私の背中を平手打ちした。

 

「いっ!? もうっ!! 2回も叩かないでくれるかしら!!!」

「そんだけ大声が出せれば上出来だ……ほら、今度こそ行ってこい!」

 

 手荒に送り出した彼はそこで足を止めた。

 並んでいた2人の肩は、今は1つだけ。でも、不安なんてこれっぽっちも感じない。

 

「言われなくても行ってくるわよっ! あなたはさっさとスタンドに戻ってなさい!」

 

 手の震えはもう収まっていた。

 

 

 ◇

 

 

 スタンドにいる超満員の観客の僅かな間を縫うようにして元の場所へ戻った。

 

「あ、トレーナーさん……」

「なんだ、どうした?」

 

 ペティとカレンモエがいる観客席の最前列へ戻るとペティが不安そうに俺を一瞥してからターフに目を戻した。

 それにつられて俺も目をやると、すでにウマ娘たちはゲート前に待機していた。キングヘイローのそばにはセイウンスカイがおり、何か話かけられているようだった。

 

「キング、1人だけ遠回りでゲートに向かってったんですけど……」

「俺が言ったんだ。リラックスさせるためと、渋ったバ場の確認のためにな」

「なんだ、そうだったんですか……キング、舞い上がっちゃって間違えたのかなと思ったので」

 

 キングヘイローは地下バ道で俺がアドバイスした通りに順回りでゲートへ向かったようだった。大観衆のスタンドの前を通らないで済むので、1人で走ることでうまく気を落ち着けられたらいいのだが。

 待ち構えていた地下バ道でキングヘイローの手が震えていた時は内心少し焦ったが、本バ場に向かうときはその震えもなくなっていたので安堵していた。

 

 ひとつ息を大きく吸って吐き、ターフにいる翠をじっと見る。

 視界の端に吹奏楽器に口をつけようとしている演奏隊を捉えた。

 

「……さあ」

 

 ファンファーレが鳴り響き、あちこちで湧き上がった歓声が誘爆するかのように広がっていった。

 

 収まる気配のない歓声の中、ゲートに各ウマ娘が入っていく。キングヘイローもすんなりとゲートに入った。

 全ウマ娘ゲートイン完了。あとはゲートが開くのを待つだけ。

 

『──スタートしました!』

 

 実況の声と開かれるゲート。

 18人のウマ娘たちが一斉にスタートした。



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第35話 日本ダービー/後

『スタートしました!』

 

 目の前のゲートが開き、前方へのターフが一気に目に入ってきた。瞬時に反応して脚を踏み出す。

 一歩目はそんなに早くなく、周りのウマ娘たちより早いスタートとは言い難かったが、二の足はついて順調に加速して抜け出していく。

 

(よしっ! このまま──)

 

 逃げの戦法をとる私にとってスタートのミスは絶対に許されないことだった。一先ず第一関門は突破。今一番前にいるのは(キングヘイロー)だ。

 

『お!? キングヘイロー果敢に行きましてハナを切るか? ミヤシロブルボン、そしてその外をついてセイウンスカイ! なにが行くんだ!? 誰が行くんだ!?』

 

 ひと際大きくなったスタンドの大歓声を浴びながらホームストレッチを駆けていく。聞こえてくる実況の言う通り、私の外から何人ものウマ娘が迫ってきた。目だけ動かしてその外の方を見ると、ちょうど白い勝負服を着た芦毛のウマ娘が1人抜け出してきたところだった。

 セイウンスカイが私よりも少し前に出ただろうか。彼女は抜け出したと同時に内へ切れ込んで私の方にやって来た。そのまま私を交わして先頭に立とうとしたのだろう。

 

 しかし、そうはならない(先頭には立たせない)。速度を上げた私は既にコーナーへと差し掛かっている。内ラチに身を寄せて、快調にコーナーへ侵入していく。

 

『各ウマ娘第1コーナーへと入っていきます。なんと先頭に立ったのはキングヘイローだ!』

 

 前に誰もいないコーナーを回っている。右斜め後ろにいるセイウンスカイの存在感を感じる。

 

(スカイさんは!? 抜いてくるかしら!? ……いや、これは)

 

 彼女の足音と雰囲気にアンテナを張りながら第2コーナーへ入っていく。どうやらこちらに迫ってくる様子はない。

 となると、セイウンスカイは控えたことになる。

 

(本当に控えたわ……ならこれで、私のやるべきことはただ一つね)

 

 私のやるべきこと──ペース配分をして、このまま先頭で2400mを逃げ切ること! 

 

 セイウンスカイを含めた17人を従えて私は走っていく。後ろからターフを踏みしめる蹄鉄の音がこれでもかと聞こえていた。この音全てが私を狙い、私を倒そうと私の背中を見ているのだろう。これまでとは比べ物にならないプレッシャーが背中に圧し掛かってくる。決して逃げだからだけじゃない……これは東京優駿、日本ダービー。全てのウマ娘が焦がれる正真正銘頂点を決めるレースなのだ。

 

 第2コーナーが終わろうとしている。後ろとの間隔は変わらない。捲って来るウマ娘もいない。後ろの細かい隊列は分からないが、私が先頭であるのと後ろにセイウンスカイがいることだけは分かる。さっきの返しで1周回ったおかげで、稍重のバ場に戸惑わずに走れている。

 

『さあ向こう流しに入ってきます。なんと先頭はキングヘイロー! そしてセイウンスカイは抑える作戦にでました!』

 

 緩やかな下り坂を下って向こう正面に入ると視界が開ける。その先には第3コーナーが見える。あそこに向かってペース配分をしながら走っていくのだが──

 

 

(──あれ?)

 

 

 ──そこで、何か違和感を感じた。

 体の不調ではない。痛みがあるわけでもない。でも、ターフを踏む足がいやに軽い……いや、軽すぎる。

 そして気付けば足だけでなく、体の中心からどこかふわふわとした感触が体全体に広がっていった。足も体も頭の中もぼんやりと宙に浮かんでいるように感じる。

 

 これは一体何なのだろう。それに──

 

(こんなに、遠かったかしら……?)

 

 東スポ杯で走っているから東京レース場の経験はある。しかし、理由は分からないけどその直線がとてもとても遠くに見えた。まるで地平線の向こうまで続いているかのように──

 

(──あ、れ……?)

 

 今私に何が起こっているの? 

 

 分からない。

 分からない。

 分からない。

 分からない。

 

 でも、走るしかない。

 

 体も頭も真っ白に塗りつぶされるような感覚とともに、私はバックストレッチを進んでいった────

 

 

 ◇

 

 

 最初の1000m地点を過ぎて向こう正面に入ったキングヘイローを見ながら、1ハロンのラップを取っている手もとのストップウオッチに目を落とす。

 

「60.6……!」

 

 60.6秒。

 

 ダービー前に行われた7Rと8Rの芝2000mでの1000m通過タイムはそれぞれ62.6秒と61.7秒だった。稍重のバ場と2400m、それを考慮に入れると確かに速い。しかしまだ大丈夫だ、ここから息を入れてペース配分すれば逃げ切れる。このペース程度で潰れるようなウマ娘ではないことは今までのトレーニングで俺が一番よく知っている。

 ここでペースを落として()()()()()()()()()()何も問題は────

 

 

「──は?」

 

 

 ずっと目に捉えていた翠は先頭で向こう正面を走っている。隊列や状況には先程と何の変わりもない。

 ──ただ、次第に頭が更に高くなり手足の振りがぐちゃぐちゃになってきていた……()()()()()()()()()()()()()()()()のを除けば。

 最初は故障かと思ったが、どこかかばう様子もないしスピードは落ちていないので違うだろう。それにまだ2000mにも全然達していないのでスタミナ切れなんてこともないだろう。

 なら一体……

 

「トレーナーさん、あれ……」

「…………あぁ……」

 

 ペティとカレンモエが不安そうな目をターフビジョンへ向けている。ずっと一緒にやって来た仲間だ、ここまでフォームを崩していれば彼女らだってそのことぐらいは分かる。

 

 なぜこんなことになっているか理解が及ばない。フォームを安定させるためにそれこそ担当した当初から気を遣っていたのだ。トレーニングは着実に実を結んでいた。事実、フォームが安定したことによって皐月賞の好走に繋がったのだ。

 今日のダービーで、フォームを乱す要因があったのだろうか? それは一体何だ? 

 

 

 何か、重大なことを見落としている気がする。

 

 

 緊張? それもあるだろうがそうじゃない気がする。これまでも緊張は少なからずしていただろう。もっと大きなことだ。もっと単純に、これまでの6戦と決定的に違うことは何だ──

 

「──!」

 

 そこまで思い至って、何かが頭の中で繋がる音がした。

 今までのレースでは、目標となるウマ娘を決めてマークする作戦で走ってきたのだ。

 

 だが──

 

「まさか……」

 

 ──原因はそれなのか!? 

 

 懸命に走っているキングヘイローの()()()()()()()()。当たり前だ、()()()()()のだから。

 

「──キング!」

 

 気づけば、欄干に手をやって身を乗り出すように俺は叫んでいた。

 

 向こう正面にいるアイツ(キングヘイロー)に届くはずもないのに。

 届いたって、なんの意味もないのに。

 

 全ては手遅れだった。

 

 

 ◇

 

 

 ただ、無心に走っていた。ペース配分が上手くいったかどうか、今の私には判断がつかない。

 

(いつの間に最終コーナー……!?)

 

 気づけば、私は最終コーナーを回っていて先頭で最後の直線を迎えていた。走りに集中しすぎて、周りの風景が目に入っていなかったのだろうか? 

 でもそんなの関係ない。あとは全力で走り切るだけなのだから。

 

(それでも証明してみせる……!)

 

 最後の直線に入り、回す脚に力を入れてスパートをかける。ここからは出し惜しみなし、先頭でゴール板を捉えるだけ! 

 

(キングである証明を────え)

 

 そう心で決意した瞬間だった。

 私のすぐ外を、芦毛のウマ娘が悠々と交わしていった。

 

『逃げますキングヘイロー! しかしっ、その外セイウンスカイがこれを捉えたか!?』

 

 私を抜かしてぐんぐんと前に進んでいくセイウンスカイ。そしてそれに続く他のウマ娘たち。ここまで私の前には誰もいなかったのに、続々と後続のウマ娘たちが前へ躍り出てきている。

 私は最内で、取り残されるように後退していく。

 

(────え? なに、これ……?)

 

 そう思わずにはいられない。何が起こっているのか、脳が理解を拒んでいる。

 

『セイウンスカイがここでっ、満を持して先頭に立った! キングヘイローは下がっていく!』

 

 分かりたくない。

 分かりたくない。

 分かりたくない。

 分かりたくない。

 

 分かりたく、ない……

 

「──ッ! くはッ……あぐっ、はっ、はあっ、はあっ……!」

 

 そこでやっと、自分が息が苦しいことに気がついた。のどが喘ぐように酸素を求めている。

 泥沼を走っているかのように脚が重く、そして鈍い。あれだけふわふわ軽かった脚が、今はまるで鉛になったみたいに感じる。

 

『400を切って坂を上がってくる! そしてその外から、間を割ってスペシャルウィークがやってきたっ! 間を割ってスペシャルウィーク!』

 

 他のウマ娘の間からやっと見えた先頭の方では、猛烈な勢いのスペシャルウィークが先頭に抜け出していた。

 

『セイウンスカイとスペシャルウィークが、並ばない! 並ばない! あっという間に交わした! あっという間に交わしたっ!』

 

 翼が生えたかのような末脚で、スペシャルウィークは私たちを置き去りにしていく。まるでここから空へ飛び立つかのように、その背中が小さくなっていく。

 

(あ、あぁ……そんな──)

 

 

 ──視界が滲む。汗が目に入ったのかしら。 

 なんて、どこまで白々しいのだろう。これは汗ではないと、私自身が一番よく分かっているのに。

 

『さあ、抜け出したスペシャルウィーク! これはセーフティリードか!? 断然強い!』

 

 目は閉じない。決して頭は下げない。前だけを見る。前だけを見ると、独走状態に入ったスペシャルウィークと私を追いこしていく何人ものウマ娘たちが嫌でも目に入ってくる。それに、それらを見る視界の端から大粒の何かが目から流れていくのだ。

 レースは終わっていない。レース中にこんなになるなんて、本当に不格好。

 

 また、あの模擬レースを思い出したから? 

 スペシャルウィークに負けて悔しいから? 

 ダービーでこんな情けない走りをしてしまったから? 

 坂川やカレンモエ、ペティの期待に応えられなかったから? 

 自分の力が足りないと分かってしまったから? 

 母に言われてきたことが頭の中でフラッシュバックしたから? 

 

「ううっ……くっ……私、は……!」

 

 思わず前へと手を伸ばす。

 でも、伸ばした手はただ空を切るだけ。

 

『先頭はっ! スペシャルウィーク、ゴールインッ!!! 夢を掴んだスペシャルウィーク!!!』

 

「ぁ……」

 

 だって、そこにはなにもないのだから。

 

『ついにダービーウマ娘の夢を掴み取りました! このガッツポーズ、このガッツポーズです!』

 

 私はまた、なにも掴めないまま。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 スタンドの最上部……関係者しか入れない専用の観客席を立つ1人のウマ娘がいた。

 

「キタちゃん? もういいの?」

 

 それを呼び止めるのは額にひし形の流星があるウマ娘だった。彼女は今立ったウマ娘の隣に座ってレースを観戦していた。

 呼び止められたその言葉に対し、キタちゃんと呼ばれたウマ娘は小さく頷いた。

 

「そう。なら、私も行こうかな」

 

 呼び止めた方のウマ娘も立ち上がり、先に行ったウマ娘のあとを追っていった。



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第36話 現在地

 世代の頂点を決める今年の日本ダービーはスペシャルウィークが圧勝した。

 生まれの母親が早くに亡くなったという生い立ち、北海道からやってきたという経歴、切れ味鋭い末脚を生かした派手な勝ち方、そしてトレセン学園屈指の人気チームであるシリウスの所属、それらが揃った彼女の人気は元から非常に高かった。1番人気で期待に応えて勝利したのも手伝い、背後のスタンドは揺れているかと思うほどの盛り上がりになっていた。

 

 キングヘイローのゴールを見届けた俺は柵を力いっぱい握りながらうなだれていた。まるで……いや、文字通り俺は受け入れられない結果から目を逸らしていた。

 

「……たぶん、キングは14着……です」

「……!」

 

 ペティが力なく着順を口にした。

 それを聞いて、思い出すなという方が無理な話だった。瞬時にあの時の光景が蘇ってきた。

 

 キングヘイローは、キタサンブラックと全く同じ着順(14着)だった。

 

「あ! キングが……」

 

 ペティのその声につられて顔を上げた。

 俺たちに背を向けているキングヘイローは地下バ道へ歩みを進めているようだった。その足取りは遅く、とてもゆっくりとしたものだった。

 顔が見えないため今の彼女の心情は量れない。だから、脳裏に蘇ってきたのはあの時の──ダービーに敗北した時の、絶望したキタサンブラックの顔。

 

「……っ!」

「あっ! トレーナーさん!?」

 

 ペティと押し黙っているカレンモエを置いて、考えるよりも早く俺は駆けだしていた。あの時と同じように。

 

 ◇

 

 なぜあんなにキングヘイローは崩れてしまったのか、敗因はなんだったのか……敗北した今、それを弾き出そうと半ば勝手に俺の頭は回っていた。

 おそらく……いや、こんなことになってしまった原因は、間違いなく俺が彼女に逃げを強要してしまったことだ。

 

 前走となる皐月賞まで、多くのレースで俺は彼女に”標的”を設定して走らせていた。東スポ杯ならマイネルラヴを標的にし1着、負けたとはいえ皐月賞ではセイウンスカイを標的にして2着と、前にいるウマ娘をターゲットにする作戦で結果を出していた。

 

 一方、俺はダービーで逃げを選択した。理由は対セイウンスカイとスペシャルウィークを考えてのことだった。

 末脚は互角なのだからセイウンスカイより前のポジションを取るため。

 スペシャルウィークとはウマ娘としての能力が違うのだから出来るだけ前に行ってリードを取っておくため。あわよくばハイペースで能動的に相手の脚を削るため。

 この2つを大きな理由としていた。

 

 そこまで考えついて、今になってやっと気づく。

 

「どこに、アイツが……っ!」

 

 

 ”逃げ”という作戦の中に、キングヘイローの姿がどこにも無いことに。他のウマ娘にばかり目が行っていて、キングヘイローというウマ娘を全く見ていないことに。

 

 

 そもそも、フォームを崩しやすい彼女にとって、レースでフォームを崩さず走ることは当初から最優先の課題だったはずだ。だから、簡単にフォームを崩さなくなるように色々な外的負荷をかけるトレーニングを欠かさず行っていた。

 そして本番となるレースで標的を置くことは、考えることを限定させ、余計なことに注意を向けないためでもあった。

 キングヘイローというウマ娘は要領の良い器用なウマ娘ではない。そんな彼女の注意が他の色んな所に向けられると、フォームが疎かになる可能性が高かったからだ。

 

『俺の目から見たら、お前は今の実力を出し切ってたよ。終始フォームも崩れず、リラックスして走れてた』

 

 皐月賞の後、泣き始める前の彼女に向かって俺はそう言った。トレーニングが身になりフォームを崩さず自分の力を発揮したからこそ、負けたとはいえあの2着につながったのだ。

 なのに俺はデータで彼女を押さえつけて勝手なエゴで逃げさせ、この結果を招いてしまった。言い訳は許されない。

 

 奇襲のような作戦が本番ではうまくいかないなんてのは重々承知している。だから逃げを成功させるためトレーニングで徹底的に鍛えたつもりだった。色んなシチュエーションを想定して行い、手ごたえももちろんあった。失敗して不安な状態なのにぶっつけでやらせるほど俺は無責任じゃない。

 でも、いくら手ごたえがあっても、トレーニングでうまくできていても、出た結果はこれ(敗北)だ。逃げにより標的を失くされ、いつもの走りができなくなった彼女はフォームとペースを崩して大敗した。

 

「……策士策に溺れるってか? 笑えねえ……」

 

 どこまでいっても走っているのはウマ娘だ。ウマ娘を尊重する意味でも、どんな結果であれトレーナーとウマ娘の2人で責任を負うというのが俺の信条だった。

 でも、このダービーはどうだ? どう考えても俺の責任にしか思えない。自身の信条は自身が招いた結果により否定されることとなった。一生に一度の大舞台を俺が台無しにしたのだ。

 

 俺はキングヘイローを信じてやるべきだった。彼女が持つ輝かしいまでの力を引き出すことに注力するべきだった。

 彼女を否定し正攻法では勝てないと決めつけ、自分のエゴを押しつけた……なんて、なんて醜悪なのだろう。

 

「……俺は……」

 

 どれだけ経験を培ったって、どれだけ知識をつけたって、俺はあの頃から何も変わってなかったのだ。 

 キタサンブラックを踏みにじったあの頃の俺から──

 

 ──最低のトレーナーである、坂川健幸から。

 

 

 

 

 たどり着いた地下バ道にて息を整えながら待つこと数分、他のウマ娘たちにまざってキングヘイローが姿を現した。

 俺は道の真ん中で待ち構えるように立っていた。俯いて歩いてきた彼女は俺の前で立ち止まった。

 

「キング……」

「…………」

 

 俺の呼びかけにキングヘイローは応えない。ただ黙って俯いたままだった。

 その姿がダービー後のキタサンブラックと重なる。絶望に染まったキタサンブラックのあの時の表情が脳裏を染め上げていく。

 

「……すまなかった。お前に逃げさせた俺の責任だ。もっとお前の力を発揮できるようなレース運びにするべきだった。お前の力を信じるべきだった……」

 

 キングヘイローに頭を下げる。

 謝って解決する話ではない。でも、俺は謝るしかなかった。謝るしかできなかった。

 

 ──俺は一体、誰に謝っているんだろう。

 

「…………」

「……ないで」

「……? なん──」

 

 キングヘイローは俺の胸ぐらを両手でつかみ体を起こし、勢いよくその顔を上げた。

 

 

「私をっ!!!!! バカにしないでっ!!!!!」

 

 

 鼓膜が震えるような大声が地下バ道いっぱいに響いた。

 彼女の頬にはぽろぽろと、大粒の涙が流れているのに、その瞳は強い意志を宿して俺を真っすぐに見ていた。泣きながら、こんな表情ができるなんて──

 

 ──キングヘイローに重なって見えていたキタサンブラックが霧散していった。

 

 

「走ったのは(キング)っ!! あなたの作戦を受け入れたのも(キング)よ!! (キング)を嘗めないでっ!!!」

 

 バカにするな、嘗めないで……彼女の口から放たれたそれの意味を、俺は理解できないでいた。

 激流のような感情を乗せて叩きつけられる彼女の言葉に気圧されながらも、俺もなんとか言葉を返す。

 

「何を言ってんだ!? お前のことを何も考えず、逃げさせたからこんな大敗に──」

「もう一度言うわよ! 走ったのは、ダービーに出たのはキングヘイローよ! 作戦通り逃げて、舞い上がって、ペース配分に失敗して、フォームを崩して、負け……負けたのは私なのよっ!!! ペティさんにも、モエさんにもあれだけ協力してもらって、必死にトレーニングしたのに、あなたの作戦に……みんな(あなたたち)の期待に応えられなかったのが私なのっ……!!!」

「違う! 俺が──」

「違わないっ! これを否定するのはキングのプライドにかけて許さないわ!」

 

 全ては俺の作戦が招いたことだ。でも、当のキングヘイローは真っ向からそれに対立している。

 

 気づけば、胸ぐらをつかんでいる彼女の手が小刻みに震えていた。彼女の涙が地下バ道の照明を反射させ、光り輝きながら散っていた。

 

「あなたが間違えたかどうかなんて、私には分からないわ! 私に分かるのは、私がミスをして無様に負けたことだけよ! ……それだけ、なのよ……っ」

 

 キングヘイローは胸ぐらをつかんだまま、再び顔を俯けた。彼女の震えは手から全身に広がり、肩を小刻みに揺らしていた。

 

 彼女はGⅠを勝つことに……このダービーにかけていた。それを大敗してしまった精神的なショックは計り知れない。

 人より一倍も二倍もプライドが高くて、責任感が強いウマ娘だとは分かっている。でも、お前()のせいだと、お前()の作戦が悪かったのだと思えば楽になれるのに。こんなに苦しそうに、悲しそうにしなくて済むのに──

 

「もし……もし! 仮にあなたの作戦が間違っていたというのなら……いえっ! たとえそうだったとしても! それはあなたと私が、トレーナーと担当ウマ娘2人が負うべき責任なのよ!」

「! それ、は……」

 

 ──心がざわつく。

 

 敗北した責任はトレーナーとそのウマ娘2人で負うというのが俺の信条だった。

 失念していたのは、俺とキングヘイローが本質的に似通っている部分があるということ。それを契約の時に感じたはずだ。

 

 俺はなぜ、キングヘイローが俺と同じ考え方をしていると思わなかったのか。

 

 

「私とあなたで、勝つって言ったじゃない……なら負けたときもそうじゃないの……? あなただけのせいにしないでよ……そんなの、ずるいわ……」

 

 

 消え入りそうな声で告げられたそれが、俺の中に染み込むように入ってくる。

 いつの間にか、胸ぐらをつかまれていた手の力が緩んでいた。俺のワイシャツをつかんだままの手は、まるで縋るように俺の胸に押し当てられている。

 

 

 ──『私とトレーナーでGⅠを取るのよ!』──

 

 

「……あぁ……」

 

 彼女と契約を交わした日、あの時彼女がそう言っていたことをやっと思い出した。

 2人で勝利を目指すのなら、その敗北も2人のものだと。分かっていたことなのに、俺はそこから目を逸らそうとして……自分に責任を求めることで逃げようとしていたのだ。彼女とのことだけじゃなく、これまでずっと。

 

 トレーナーとして間違い続けてきた俺はまたしても間違えるところだった。

 それに気づかせてくれたのは、キングヘイローの気高い高潔さだったのだ。この年になって、まだ学生であるウマ娘から教えられることがあるとは……どうやら俺は全く未熟だったみたいだ。

 

 俺は最低なトレーナーだと思う。あの過ちは許されないことで、俺はその十字架を一生背負っていくしかない。

 

 でも、前を向くことはできる。

 

「……そうだったな」

 

 もう言葉は探さなくていい。励ましの言葉も、慰めの言葉も、優しい言葉だって要らない。

 俺が口にするべきは、俺たち2人の現在地点だ。

 

「まだまだだな……全然ダメだ。俺も、お前も。足りねえものが多すぎる」

「! う、うぅ……ぐすっ、なんてへっぽこなのかしらぁ……私たちはあ……」

「ああ、そうだな。俺たちはへっぽこだ。さあ、行くぞキング。いつまでもここにいるわけにはいかねえ。帰ったら大反省会だ」

 

 キングヘイローの背中を労るようにぽんと叩き、控室への道を促した。

 

 気づけば、地下バ道にはもう誰もいなかった。

 

 ◇

 

 大敗を喫した日本ダービー。

 

 しかし、それは俺とキングヘイローを成長させ、俺たちの関係を力強く一歩前へと進ませた気がする。

 

 

 

 あと、これを蛇足と言うには気が引けるのだが、控室に戻ってしばらくすると、例によってグッバイヘイローから電話がかかってきた。

 それに対してまだ涙目気味であったキングヘイローは──

 

『もしもしキング? ダービー、見てい──』

「今は電話する気分じゃないの! ごきげんようさようならお母さまっ!」

 

 と、勢いよく通話を切っていた。

 

 それを見たペティは目を丸くしたあとケラケラと笑い、カレンモエは表情柔らかく目を細めていた。



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第37話 野暮

 昼下がりのトレーナー室には、研修会の発表資料について郷田マコが相談しにやって来ていた。

 

「内容はこんなもんでいいが、レイアウトもうちょっと考えろ。色使いすぎで見にくいんだよ」

「う……ついカラフルにしちゃうんスよねえ」

「あと全体的に視線の誘導も意識しとけ。例えばこのスライドなら、こっからこういう風に──」

「お〜なるほど。分かったッス。持って帰って修正しとくッス」

 

 それも一段落して、マコは大きく伸びをした。

 

 ダービーに続いて安田記念も終わり、東京開催のGⅠラッシュの喧騒も落ち着いた6月の下旬。

 目下、この時期のトレーナーたちを賑やかすイベントと言えば──

 

「そう言えば坂川さん! 今週は選抜レースッスよ!」

「げ、もうそんな時期かよ」

「新入生はちゃんとサーチしてるッスか?」

「してるわけねえだろうが」

「なんでそんなエラそうなんスか……」

 

 ──そう、チームに所属していないウマ娘たちで行われる選抜レース。それが今週末に迫っていた。

 安田記念が終わった頃に「そういやそろそろだな」ぐらいには思っていたのだが、それからすっかり抜け落ちてしまっていた。

 

「坂川さんのチーム、最低でも2人は集めないといけないッスよね?」

「そうだな。3月で2人が抜けちまったから」

 

 改めて整理すると、1チームに最低5人のウマ娘が所属してないといけない。俺のチームのように5人未満の場合、年明けの1月に強制的にチームに所属していないウマ娘が割り振られるのだ。

 俺のチームでは所属していたシニア級のウマ娘が大学進学を選び、3月に学園を卒業したため2人欠員が出ていた。

 

「今年のジュニア級はどうなんだ? 目ぼしいウマ娘とかいんのか?」

「そりゃあ何人もいるッスよ! なんと言っても大注目はティアラ二冠ウマ娘ベガの娘アドマイヤベガ!」

「あー、あのウマ娘の子どもか」

 

 マコはファイルを開いて調査したデータと写真を見せてきた。写真はご丁寧にも制服姿と体操服姿のものがあった。隠し撮り以外の何物でもない。制服姿と体操服姿、2枚も用意する必要性を感じない。ただ単にマコが撮りたかっただけだろう。

 アドマイヤベガの全体像を映した写真を見ると、左足が若干内に曲がっていた。親のベガも確かそうだった記憶がある。

 

「他にもナリタトップロード! テイエムオペラオー! スティンガー! トゥザヴィクトリー! それから────」

 

 次々にページを捲って見せてくるウマ娘たちを流し見しながら顔だけ頭に入れていく。

 

「────とまあ、こんなもんッス!」

「なるほど。サンキューな」

 

 そんな淡泊な俺の反応が気に入らなかったのだろうか、マコは口をとがらせていた。

 

「……坂川さんってほんっっっと、ジュニア級に興味ないッスねえ」

「有名どころのウマ娘知ってたからって、スカウトできるもんでもねえだろ」

「去年はキングちゃん、一昨年はモエちゃんスカウトできたじゃないッスか。2人とも有名どころッスよ。しかも、確か私に情報訊いてきてたッスよね、2人とも。やっぱ知っておくことは大事ッスよ」

「それはそうだが……」

 

 確かに2人ともマコからあらかじめ情報を入れていた事実はある。

 スカウトに関してもマコの言う通りなのだが、なんと言うか、2人のスカウトへ至った経緯は中々に紆余曲折あったもので、所謂正統派のスカウトとは違う気がする。知っていたからどうにかなったというものでもない。

 改めて思い返すと、よくあの2人は俺のチームに入ってくれたもんだと思う。2人とした言い争いの内容は今でもはっきりと覚えていた。

 

「この1年、キングちゃんの活躍で坂川さんの名前もウマ娘たちに通ってきてると思うッス。なんせ東スポ杯制覇にホープフルと皐月賞でGⅠ2着2回、今年のクラシック主役の1人キングヘイローのトレーナーなんスから」

「そんなもんかねえ……」

 

 レース関係でインタビューに答える頻度は高くなったが、名前が通っているという実感は全くない。SNSなどをしていればフォロワー数で目に見えるのかもしれないが、生憎俺はSNSに興味もなければ始める予定も全くない。

 

「だから靡いてくれるウマ娘もいると思うッスよ!」

「どうだか」

 

 自分には年頃の女の子が好むようなトークスキルもないし容姿だってお世辞にも優れてるとは言えない。そんな簡単にはいかないだろう。トレーナーとしての実績を重視するウマ娘もいるが、第一印象や見た目で判断するウマ娘だって多いのだ。

 しかし、好印象を与えたいから綺麗ごとを並べて希望を持たせるような無責任なスカウト文句も言いたくない。俺はクソがつくほどのリアリストなのだ。

 それにスカウトするのは誰でもいい訳でもない。そのウマ娘の走りに興味を惹かれないとスカウトはしない。こっちが選べる立場にないと理解はしているが、そこはトレーナーとしての俺のポリシーだ。

 

 駄目なら駄目で年明けに配属ウマ娘を待つだけだ。スカウトしたウマ娘だろうが、配属されたウマ娘だろうが、俺がやることに……全力を注ぐことに変わりはない。

 

「おっと、そろそろ私戻らないと」

 

 掛け時計に目をやったマコは荷物を纏めて立ち上がった。

 

「じゃあ坂川さん、お疲れッス。スライド見てくれてありがとうございましたっ!」

「ああ。またな」

 

 足早に彼女はトレーナー室を去っていった。

 

 今のように研修の資料作成や、提出が求められる年次のマネジメントレビューなどの書類仕事の際は、昔人間の郷田でなく俺に頼ってくることが多い。

 

「もっとしっかりして欲しいもんだが……まあ、悪い気はしねえけど」

 

 俺も色々教えるかわりに、マコからジュニア級のウマ娘の情報を教えてくれるので、そこはギブアンドテイクでうまく成り立っているのかもしれない。

 

「……俺も仕事に戻るか」

 

 気を取り直してPCに向かい合い、自身の仕事にとりかかった。

 

 ◇

 

 完全に日が落ちて暗くなったトレセン学園。仕事を終えた俺はトレーナー寮へ向かっていた。

 

「時間かかっちまったな……」

 

 トレーニング後に夏合宿の申請書類を仕上げたり、日程調整の計画を詰めたりしていると、思ったより遅くなり夜も更けてしまっていた。

 外に出ると思いのほか夜風が涼しく、疲れた体と頭に効いて心地良かったので、何の気なしに遠回りしていた。

 

「ん……?」

 

 その道すがら、トレーニングコースの近くを通りがかると誰かが走る音が聴こえてきた。ターフを走っているであろうその足音は1人分だけだった。

 

「こんな時間まで走ってる奴いんのか?」

 

 練習熱心なのは感心するが、トレーナーとしての経験上こんな夜まで走っているウマ娘は大抵まともじゃない。嫌なことがあって一時的にヤケクソになって走ってるならまだいい方で、抱えている精神的な問題を走りや無理なトレーニングにぶつけているケースが多い。

 ……昔の、ウチのどっかの誰かさんみたいに。そういえば、あの時とよく似たシチュエーションだった。

 

「さて、どんな奴か顔だけでも拝んでやるか」

 

 その足音に誘われるままコースを一望できる位置に出ると、予想通り走るウマ娘の影がひとつあった。

 

「速えな……!」

 

 ──速い。

 洗練されてはいない。しかし、粗削りさを感じさせるその走りの中に、確かなスピードを秘めていることは一目で分かった。

 

「どこのチームのウマ娘だ……いや、あいつは……!」

 

 ちょうど照明の下を通ったときにその顔が明るみに出た。暗めの鹿毛に右耳だけに着けられた青いメンコが特徴的なそのウマ娘は──

 

「アドマイヤベガか!」

 

 その姿は昼間にマコに見せられた写真と合致していた。

 昔、桜花賞とオークスを制したGⅠ2勝ウマ娘ベガの娘であるアドマイヤベガだった。マコによればこの世代で最も注目を集めているウマ娘の1人とのことだった。まだチームには所属しておらず、今週末の選抜レースに出場予定らしい。

 ……名ウマ娘の娘というと、ウチにいるどっかの誰かさんと誰かさんが自然と頭に浮かんでくる。

 

 マコに写真を見せられなければ誰か分からなかっただろう。彼女の言うことは正しかったと思い直し、心の中でお礼を言っておいた。また後ほど本人にも直接言っておこう。

 

 ちょうどアドマイヤベガは足を止めて息をつき顔を上げていた。その視線は上へ……いや、空へ向けられているようで、物思いに(ふけ)っているように見えた。

 

「なんか悩んでんのかねえ」

 

 意味ありげな仕草を見せているアドマイヤベガを見て、そう思わずにはいられなかった。彼女もウチの2人と同じように、親のことで一悶着あったりするのだろうか。

 

「しっかしまあ、いい走りするなあ……」

 

 単純に速い。再び走り出した彼女を見ていると、ジュニア級で最注目だと言われているのも頷ける。ベガの娘というだけでなく、実力そのものが評価されているのは明らかだった。

 何周も何周も、何かに追い立てられているかのように彼女は延々と走り続けていた。あれだけ走れば疲労も相当なものだろうに。

 

「どうすっかな。やっぱ声かけるべきか」

 

 一昨年のカレンモエ、去年のキングヘイロー。2年とも偶然の出会いだったとはいえ、声をかけたからこそスカウト活動は実を結んだ。そして今年のアドマイヤベガ。正真正銘世代の1番手レベルというマコの話が本当なら、そんなウマ娘と1対1で話せる機会なんてそうそうないだろう。これからのトレーナー人生でももう一度訪れるかどうかではないだろうか。

 

 ちょうど、俺が見ているところから近い場所で彼女は足を止めた。近いと言っても、コースにいる彼女と高い位置にある外周の舗装路にいる俺とは距離があるが。

 

「……よし」

 

 意を決して階段を下りていく。

 

「……大、丈夫か?」

「えっ?」

 

 階段を下りていく足が止まる。

 返事をしたのはアドマイヤベガ。しかし、声をかけたのは俺ではない。若い男の声だった。その声のする方……コースの照明が当たらない場所をよく見ると、そこに誰かがいた。

 どうやら先客がすでにいたらしい。

 

「あっ……いや」

「? ……平気。いつもやってることだから」

 

 アドマイヤベガの元にその声の主が歩み寄り、その姿が照明に照らされ露わになった。

 確か、今年トレーナーになったばかりの新人トレーナーだった。新年度のトレーナー会議にて、新任トレーナー挨拶での自己紹介を遠目から見聞きした程度しか知らないが、容姿も整っており、誠実で爽やかな好青年との印象が残っていた。

 どっかの作業服で冴えない見た目の胡散臭そうなアラサートレーナーとは対極にいそうなトレーナーだった。

 

「いつもこんな時間まで?」

「だいたいは」

「……辛くないのか?」

「ない。……勝つために、必要なことだから」

 

 たどたどしく交わされる会話から、2人はあまり面識がないことが察せられた。

 幸か不幸か、お互い相手のことにだけ注意が行っているようで、階段を下りかけで固まっている俺には2人とも気づいていないようだ。スポットライトに当てられた舞台のように、コース上には2人だけの世界が展開されていた。

 暗闇の階段にいる俺は文字通り蚊帳の外だった。

 

(……縁がねえってのは、こういうことを言うんだろうな)

 

 この場を去る決断をした俺は2人に気づかれないよう静かに踵を返した。新人トレーナーのスカウトのチャンスに横槍をいれようとするほど、俺は野暮な人間ではない。

 

 

 無事2人に気づかれずコースから離れることができた。彼のスカウト活動はうまくいっただろうか。もしかしたら他に懇意にしているトレーナーがいるかもしれないし、この時期なら選抜レースが終わったあとにしてくれと言われそうではあるが。

 どっちにしろ、彼女がデビューしたら分かる話だ。

 

「アドマイヤベガ……新人には荷が重いだろうがな」

 

 既にこの時点であんなに速いのだから、ジュニア級かクラシック級で大きいところは取れるかもしれない。

 しかし、あの曲がった左脚を考えると、故障には最大限の注意を払わなければならない。シニア級からDTLまで長く走り続けるのならあの脚のケアは不可欠だ。トレーニング量と故障のリスクを天秤にかけて、その都度正確な判断を下し続ける必要がある。相当な知識と経験がなければ難しいだろう。

 

 それでも、あの青年が彼女と向き合って、熱意をもって最大限の努力をするならば──

 

「ま、頑張れよ。新人」

 

 自然とそう口にした自分がもう若者でないと、少しだけ嫌になった。

 

「……やっぱ、もったいねえことしたかなあ」

 

 そして、ほんの少しではないくらい後ろ髪を引かれる思いも残っていた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 某日。あるハンバーガーショップにて、1人のウマ娘が恋愛小説を読みふけっていた。黒鹿毛でサイドと前髪をふんわりと流してセットしたボブカットに、黒地に黄色のラインが一本入ったメンコを左耳にだけ着けているウマ娘だった。

 そんな彼女の元へ、恰幅の良いスーツ姿の初老の男性が急いだ様子で駆け寄っていった。

 

「お嬢様……探しましたぞ! また、このような俗な店に……!」

「あら執事(バトラー)。忙しそうね。何か用かしら?」

 

 ウマ娘は文庫本から目を離さず、つまらなさそうにそう訊いた。至福の時間に水を差されたのだから、無理もなかった。

 

「しらばっくれないでください! ……家庭教師がお待ちになっています。さあ、屋敷へお戻りください」

「嫌よ。今日はこれから予定があるもの。幼稚園のお遊戯会に行くのよ」

「幼稚園ですと!? 病院や施設じゃ飽き足らず、そんなところにまで出入りしているのですか! 無駄な社会奉仕もほどほどにしていただきたい!」

「……はあ。いいシーンだったのに」

 

 彼女はため息をついて読みかけの文庫本を閉じた。横でこんな騒がれては小説なぞ読めたものではない。せっかくのロマンチックなクライマックスシーンが台無しだった。

 ……ほんと、野暮な男。

 

「分かったわよ。行くわ」

「おお……やっと聞き入れてくださいましたか。下に車を待たせております。さあ、こちらに」

 

 バーガーやポテトの包装紙を捨て、執事に促されるまま店を出る。そこには黒塗りのリムジンが停まっていた。

 リムジンに近づくとドアが自動で開けられ、そのウマ娘を迎えた。

 

「ねえ執事(バトラー)

「? ……いかがされましたか?」

 

 リムジンに乗り入れる直前、彼女は立ち止まった。

 

「車は嫌いなの。知ってるでしょう?」

 

 彼女はそう言うと身を翻して走り始めた。

 逃げ出したのだ。

 

「なっ!? お、お嬢様ぁ!」

「私は自由な精神でいたいの! 私が従うのは私の心だけ! 勉強なんてクソ喰らえだわっ!」

 

 本気で走っているウマ娘にヒトである執事が追いつけるわけもなく、小さくなる背中に向かって叫ぶことしかできなかった。

 

「ダイアナお嬢様ぁ! い、何処(いずこ)に〜!?」

 

 

 

 

 ──ダイアナと呼ばれたウマ娘と坂川健幸が出会うのは、まだ先の話。



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第38話 ある夏の日

ウマ娘って英語でどう表現するんですかね? uma musume? horse girl?
海外リリースのタイトルはuma musumeとなっていますが、本編中ではどう言われてるんでしょう?
今回は字面が良い方のhorse girlと表現してますのであしからず


 トレーナー室の窓から見える屋外では、夏の日差しがこれでもかと降り注いでいた。

 そんな炎天下の屋外に対して、冷房の効いた部屋の中は快適そのものだった。暑さが苦手な私にとって天国と言っても差し支えないほどに。

 

 ノートに走らせていたペンをテーブルに置いた。と言うのも、来週からの授業の予習を終えたわけではなく、テレビに映っているレースをちゃんと見るためだった。

 椅子にもたれて背をひと伸ばししてから、気を取り直してテレビに向かい合った。

 

『さあ、ゲートイン完了した13人……スタート!』

 

 今日は6月1週目に行われたあのダービーから約1ヶ月後。もうそろそろ1学期も終わりかという7月2週目の日曜日。

 

 トレーナー室のテレビにはレース界上半期の総決算、宝塚記念が映し出されていた。

 

 発走前、メジロ家のウマ娘にトラブルがあったようで、スタートが遅れていた。発走直前まで私は予習に取り組んでいたので、実際に何があったかは知らないが、マイクに拾われたそのウマ娘の『ほわ~!?』という声だけは耳に入っていた。

 

 レースは進み、最後の直線。

 

『さあ先頭はサイレンス! サイレンススズカ! サイレンススズカ逃げ切った! 逃げて差す走りで、見事グランプリの座を手にしましたっ!!』

 

 後続の追撃を振り切り、サイレンススズカが1着でゴールした。

 

「また逃げ切りか。すげえな。5連勝でGⅠ制覇かよ。強えなあ」

 

 そう言ったのはデスクからテレビに目をやっている坂川。腕を組んで感心しているようなその姿は、トレーナーというよりただのいちファンのようにしか見えない。

 

「…………」

 

 ソファに座っているのは無言のカレンモエ。レースが終わると、それまで読んでいたファッション雑誌に再び目を落とした。

 

 現在、トレーナー室にはその3人がいた。

 残るもう1人……ペティはいない。レース好きの彼女がいない理由はいたって単純、学期末のレポート課題が苛烈を極めているからとのこと。

 

「ふぅ……」

 

 レースを見終え息をついた私は汗のかいたグラスに口をつけた。アールグレイの余韻が喉から鼻へと抜けていった。

 

 置いたグラスの中の氷が、からん、と音を立てた。

 

 すっかり、夏だった。

 

 ◇

 

 今日は午前中でトレーニングが終わり、午後からは自由時間だった。

 

 これまで、強制ではないにしても、GⅠのある日曜午後はトレーナー室でレース鑑賞することが多かったこともあり、トレーニング後のシャワーと昼食を終えた私は今日も何の気になしにトレーナー室へ足を運んでいた。まだ手を付けていない予習があったので、それをこなすついでにレースを見ようと思っていた。

 

 トレーナー室に入ると既にカレンモエがいた。後から坂川に訊いたところによると、2月の紫川特別が終わった頃から、彼女はトレーニングのない土日にはこうしてトレーナー室で時間を潰すことが多いらしい。

 

 ……なんて露骨な。

 

「…………」

 

 彼女はソファに腰かけてファッション雑誌を読んでいた。見る気は無かったのだが、ちらっと見えてしまったその表紙には『年上男性を夢中にさせるコーデ』だとか、『大人な彼が好むヘアメイク特集』と書いてあるようだった。

 年上男性……大人な彼……

 

「…………」

 

 デスクで何やら作業をしていた坂川と目が合ってしまった。

 

「……あ? どうしたキング」

「……何もないわよ」

「はあ? んだよ」

 

 彼は再び作業に取りかかった。

 

 

 ……カレンモエのことも、坂川のことも、あまり深くは考えないことにした。

 

 

 気を取り直して予習に精を出すことにした。トレーナー室は会話らしい会話はなく、それぞれが気ままに各々したいことをしていた。つけっぱなしにしてあるテレビは中央のレースがライブで流れており、気がつくとそれがいつの間にか宝塚記念を映していた。

 

 レースはサイレンススズカが一度も先頭を譲らず勝利した。強い勝ち方だった。話には聞いていたし、あの金鯱賞なんかはテレビで見ていたのだが、GⅠまでも逃げで勝ってしまった。今更にはなるが、ダービーで私が上手くやればこんな結果になっていたのだろうか。引きずっている訳ではない。でも、そう思ってしまったのが素直な私の気持ちだった。

 テレビでは、チームシリウスの面々がターフに出てきてサイレンススズカを激励する様子が映っていた。その中にはスペシャルウィークの姿もあった。満面の笑みで、心からサイレンススズカを祝っているように見えた。普段の学園で目にする、温和で天然な普段のスペシャルウィークそのものだった。

 それをスタンドの大歓声が包んでいた。その中、控えめにはにかむサイレンススズカの肩に優勝レイがかけられた。

 

 私はそこまで見ると、時々テレビに目をやりながら予習を進めた。

 坂川はウイニングライブまで全て見終えると、おもむろに立ち上がりPCとテレビをケーブルでつなぎ始めた。

 

「いいレースだったな。あんなレース見せられたら、名レース見たくなっちまう」

 

 テレビに彼のPC画面が映し出されたかと思うと、ほどなくしてレース映像が流れ始めた。

 

──── comes into her final furlong! And she's got a 5, a 6 length lead as they come to the wire! A Triple Crown winner, A Breeders' Cup winner, A horse girl of a lifetime!!!!!*1

 

──── steals the show!!!!!*2

 

This is unbelievable! ──── !!! What a performance, one we'll never forget!!! Looked impossible, but it is ────, still unbeaten!*3

 

She's gonna destroy this field! Oh, Super filly! You bet what's the final margin!? She might have won by 20!!!!!*4

 

──── takes off!!!!!*5

 

 流れていたのはアメリカのレースばかりだった。

 坂川は「いやーいいな」とか言いながらしみじみとそのレースを見ていた。

 目をキラキラ輝かせて、好きなものを見る子供のようだと思った。

 

「…………」

 

 母の大ファンだと言うのだから、アメリカのレースが好きなのは何となく察してはいた。

 

「トレーナー、あなた過去のレースを見るのが好きなの?」

「ああ、昔っからレース見まくってたからなあ……特にアメリカのダート。それが高じてトレーナー目指したようなもんだしな」

 

 こうも楽しそうにレースを見る彼を見ると、本当にレースを見るのが好きなんだろうと思う。

 

「それでお前の……そうだ、このレースでも見るか」

 

 そう言ってまた違うレースを流し始めた。これまでのレースより画質が荒く、古いものだと分かる。

 ゲートインするウマ娘たちの中に1人、見覚えのあるウマ娘がいた。光り輝く栗色のサイドテールに一房白い流星が流れており、黄色と薄い灰色を基調とした勝負服で、ひときわ短いスカートが目を惹く見目麗しいウマ娘は──

 

「ちょっと! これお母さまじゃない!!!」

 

 現役時代のグッバイヘイローだった。しかも、今の私と全く同い年の時の。

 

「お前を見てたら思い出してな。またレース見たくなった」

「と……止めなさいよ!!!!!」

「こう見るとお前と母ちゃん、あんま似てねえな。髪型も髪色も違うし」

 

 勢い良く立ち上がった私の抗議など意にも介さない坂川はそのままレースを流す。

 関係がうまく行っていない母の姿なんて見たくないとか、そういうことではなく、ただ単に母親の若い頃の映像を皆で見るのが恥ずかしかった。

 そりゃ、小さい頃は母のレースを何度も何度も見返していたけれど……それとこれとは話が違う! 

 

「……この栗毛のウマ娘が、キングのお母さん?」

「え、ええ。そうですけど……」

「へえ……」

 

 ずっと雑誌を読んでいたカレンモエが顔を上げてテレビの方を見ていた。

 坂川だけならテレビの電源コードを引っこ抜いてやろうかと思っていたが、カレンモエが見ているのならどうにもやりにくい。

 

「~~~~~~っ! ……はあ」

 

 観念して脱力した私は崩れ落ちるように椅子に座った。

 

 坂川が選んだそのレースは母がクラシック級の時のBCディスタフ。これも昔、何度も見たレースだった。母が負けたレースではあるが、BCディスタフ史上最高のレースの1つに数えられるものだった。坂川が選んだ理由も分からなくもない。

 

 先頭で逃げる芦毛のウマ娘はウイニングカラーズ。母の同期でライバル。ティアラ路線のウマ娘ながらケンタッキーダービーを制した名ウマ娘だ。実は私も何度か会ったことがあり、口数少ないお姉さんってイメージが残っている。

 彼女に続いて2番手でレースを運んだグッバイヘイロー。最後の直線を迎え、ウイニングカラーズを捉えようとするがなかなか差が縮まらない。

 追いすがるグッバイヘイローの外から、黒い勝負服に身を包んだウマ娘がやって来た。このレースに勝ち、13戦13勝無敗で現役を退くことになる、“パーフェクト”の異名をとったウマ娘、パーソナルエンスンだった。

 

Personal Ensign! A dramatic finish!!! And here is the wire!!! And it is ... Personal Ensign there!!! With Winning Colors in a photo! Very close!*6

 

 グッバイヘイローを追い抜いて、ウイニングカラーズとほぼ同時にゴールイン。写真判定の結果、パーソナルエンスンが勝利した。グッバイヘイローは2人から半バ身離された3着だった。

 

「今見てもいいレースだな。お、映るぞ。西海岸のスーパーアイドルのご尊顔が」

 

 坂川そう言うのと同時に、グッバイヘイローがアップに映し出された。目を瞑って天を仰ぐ母の顔には、悔しさが溢れていた。

 

「たまんねえな。いい顔するわ。悔しがる時の顔はおま……いや、なんでもねえ」

「趣味が悪いわね……!」

 

 母と電話してた時に言っていた、母の悔しい顔が好きだというのもどうやら本当らしい。

 趣味は悪いと思う。心の底からそう思う。

 

「…………トレーナーさん……ああいうウマ娘が……」

 

 カレンモエは何か得心が行ったようにそう小さく呟いていた。

 ……いや、それは違うんじゃないだろうか。何がとは言わないけれど。

 

 寄ってきたカメラに抜かれていると気づいた母はすぐに笑顔に切り替え、「応援ありがとー!」と言ってカメラに向かって手を振った。

 昔の母は西海岸で絶大な人気を誇っていたこともあって、アイドル的な活動も積極的に行っていたらしい。

 今の母からは想像もできないアイドル然とした対応を目にすると、こっちが恥ずかしくなってくる。

 

「さすがは西海岸のスーパーアイドル様だな。プロ意識が半端ねえ」

「~~~! もういいでしょ! 消しなさいよ!」

「おっと、ウイニングライブまで見るぞ。なんせパーソナルエンスン、ウイニングカラーズ、グッバイヘイローの名ウマ娘揃い踏みのライブだからな。このライブもいいパフォーマンスだったんだよなあ」

「モエも、見てみたいかも」

「……はあ、好きにしてちょうだい……」

 

 私は色々諦めた。

 

『──♪ ──♪! ────♪♪』

 

 ウイニングライブでは、グッバイヘイローはこれでもかというほど笑顔を振りまきながら、アドリブで投げキッスなんかしたりして、素晴らしいクオリティのダンスを披露していた。

*1
2015 Breeders' Cup Classic - American Pharoah https://youtu.be/kPACACzYbJc?t=125

*2
2016 Breeders' Cup Classic - Arrogate https://youtu.be/Vkj3jtY-RPY?t=137

*3
2009 Breeders' Cup Classic - Zenyatta https://youtu.be/ud_XPH6Eix4?t=119

*4
2009 Kentucky Oaks - Rachel Alexandra https://youtu.be/hImo7k1wGyE?t=105

*5
2022 Breeders' Cup Classic - Flightline https://youtu.be/F99dOD8_8BM?t=100

*6
1988 Breeders' Cup Distaff - Personal Ensign https://youtu.be/lSpBui9UIkM?t=132




英語実況は意図的に名前を抜いて無駄にクイズ形式っぽくしてみました……
 

*1~*5は実況が印象的で有名なレースを選びました。描写した実況が始まる位置でリンク貼ってます。
見たことない方はぜひぜひ。


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第39話 邂逅

イクイノックス強スギィ!(今更)
当作品はイクイノックス号(父キタサンブラック母父キングヘイロー)を全力で応援しています(8話ぶり3回目)


 7月も下旬になり、1学期が終わる週に突入していた。今週が終われば夏休みになり、俺たちのチームも夏合宿に向かうことになる。

 

 キングヘイローはダービー後休養に入り、秋の始動を目指していた。ダービーでのダメージもなく、数日後から通常のトレーニングに戻ることができていた。いつも思うのだが、本当に頑丈な身体をしているようで、管理するトレーナーとしては頼もしいほどこの上ない。

 

 一方、カレンモエは8月下旬に小倉レース場で行われる3勝クラスの佐世保ステークスへ出走を予定していた。勝利した2月の前走から調子が思うように上がらず、脚部不安もあったことから時間をかけてゆっくりと調整して状態が良化してきたのがここ1ヶ月の話だった。

 

 ペティは今までと変わらない。トレーニングのデータを取りつつ、それを生かしてどんな研究するか模索中だ。頭の良いスタッフ研修課程の生徒だけあって、データ整理や分析を要領よくこなしている。テーマさえ決まれば順調に進んでいくだろう。

 

 そんな俺のウマ娘たちは今日も今日とて放課後トレーナー室に集まり、いつもならトレーニングに向かうところなのだが……

 

「雨、やまないですねえ……」

 

 タブレットを抱えたペティが物憂げに窓へ目をやっている。

 窓の外は大荒れ模様だった。吹き荒ぶ風が木々の枝葉を揺らし、黒く濁った雲からは雨が降り続いていた。

 早朝に比べればマシになったとはいえ、まだまだ天候が回復しているとは言い難い。こんな天気ではコースでトレーニングなんてできない。大荒れの不良バ場を想定したトレーニングをしたいと言うのなら話は別だが……

 

「待っていても仕方ないわ。朝のランニングもできていないし、外回りのロードワークだけでもしてくるわね」

「ちょっとキング、こんな天気で行くんですか?」

「心配いらないわ。合羽は着ていくし、またこれ以上荒れてくるようなら戻って来るわよ」

 

 天候の回復を待っていたキングヘイローは立ち上がって扉へと向かっていった。

 

 心配ではあるが、本人がそう言うなら任せてもいいと判断した。

 

「気をつけて行って来いよ。帰ってきて風邪ひいて体調崩したら承知しねえからな」

「誰に言ってるのかしら? キングは体調管理も調整も一流なのよ。おーっほっほっほ!」

 

 キングヘイローは高笑いをしながらトレーナー室を出ていった。体の強い奴なので、そこまで心配することもないだろう。

 最近疲労が溜まり気味だったカレンモエは、今日は元々プールで軽く調整する予定だったので、既にプールへ向かっていた。こんな天候の日の屋内施設はウマ娘でごった返しているだろうから、自由に何でもできるという訳ではないだろうが、それも仕方ない。

 

「キング、無理しないといいんですけど」

「ガキじゃねえんだから大丈夫だろ。いや、まだまだガキだが」

「どっちなんですか」

 

 残されたのは俺とペティだけ。手持ち無沙汰となったので、仕事場周りの整理でもするかと積んであるデスクの書類に手を伸ばした。

 

「トレーナーさん、お話いいですか」

「なんだ? 研究についてか? まさか、キングと一緒に外に出るとか言うんじゃねえだろうな」

「違いますっ……研究についてでもないです」

「だったらなんだよ」

 

 ペティは居住まいを正して、デスクを挟んで俺と向かい合った。

 俺は手を止めて彼女の言葉を待つ。

 この雰囲気からして、軽い話題ではないことは確かだ。

 

「トレーナーさんのことについてです」

「……どういう意味だ」

「トレーナーさんの……坂川健幸の過去についてです」

「…………」

 

 やはり来たか、というのが素直な気持ちだった。ダービー前、2人きりになったトレーナー室で意味深なことを訊いてきたことが思い出される。

 ペティは俺のことを……多分だが、アルファーグで何があったかを知りたがっている。

 

「なんだ。俺のガキの頃の話か? その頃のことならなんでも話してやるぞ」

「惚けないでください。トレーナーさんなら、わたしが何について訊いてるか分かるでしょう?」

「分からねえな。逆に訊くが、お前は俺の何を知ってるんだ?」

「あなたがアルファーグにいて、途中までキタサンブラックのトレーナーだったことは知っています」

 

 当たりだった。

 だが、俺がセントライト記念まで彼女のトレーナーだったなんて、過去の記事を掘り返せばいくらでも出てくることだろう。そこまでは特に驚きもしなかった。

 問題は、ペティがどこまで知っているのか。

 

「で、それがどうしたんだ? 確かにネットや雑誌で昔のことを調べたら俺とキタサンブラックのことは出てくるだろうな。それが何か問題なのか?」

「この前、トレーナーさんはキタサンブラックのことを少し見ていたと言っていました。でも実態は専属トレーナーのようなものだったんでしょう?」

「ああ、そうだな。確かに俺はアイツに付きっきりでトレーニングを見ていた。レースプランも立てていた。なんだ、嘘をついてたことを怒ってんのか?」

 

 こうしていると、俺はキタサンブラックとのことを隠したいように見えるかもしれないが、それは半分正解で半分間違っている。

 俺は別に自分のしたことがバレたっていい。最低なことをした最低の人間だ。今更保身なんてどの面下げてできるだろうか。

 しかし、バレて広まりでもしたらキタサンブラックに少なくない迷惑がかかってしまう。メディアから世間一般に知られたら最悪だ。それだけは何としても避けなければならない。彼女が積み上げてきたものを台無しにしてしまうことになる。

 ペティに全てバラしたとして、彼女がその話を拡散しないという確証はない。ただの好奇心で探ろうしているのなら、俺は一切話す気はない。

 

「わたしが訊きたいのは、なぜアルファーグと……キタサンブラックと別れることになったのか、です」

 

 核心を──何があったかを教えろと、ペティはそう言っていた。

 

「俺はあの時2年目のペーペーだぞ? サブの元で実績を積んできたウマ娘が直接チーフの管理下になっただけだ。よくある話だろ? それに俺はさっさと自分のチームを持ちたかったんだ。事実、俺はその年でアルファーグを辞めて、3年目から独立してる。辞めるんだからキリの良いとこでチーフに管理を委ねるのは自然なことだろ」

 

 これは清島やURA上層部とも口裏合わせをして用意したものだった。探ってくる者やメディアに対応するためだ。

 こちらを見るペティの表情からは彼女の猜疑心が透けて見えるようだった。

 

「……どうしても、話す気はないってことですか?」

「意味が分からん。今話した通りだが」

 

 話せることなど無い……暗にそう彼女に伝えた。

 ただ、気になったことが一つあった。

 

「一つ訊きたいんだが、もし仮に俺が何かを隠してるとするなら、なんでそれをお前は知りたいんだ?」

「……わたしが知りたい理由ですか」

 

 ペティは俺から視線を逸らして黙り込んでしまった。

 雨が窓を叩きつける音だけが支配するトレーナー室。その中で──

 

()()()()()

 

 ──彼女はぽつりと零すようにそれを口にした。まるで、それが仕舞っていた大切なものかのように。

 

「……は? おにい──」

「わたしのことは、知っていますか?」

「お前……なにを」

 

 お互い質問に質問の応酬を繰り返してたどり着いたのは、ペティのその言葉だった。

 今まで見たことのない、切実に訴えるような彼女の視線が俺に突き刺さる。そして彼女の手には、いつの間にかスマホが握られていた。

 

 俺は彼女の言葉の真意を理解できずにいる。“おにいさん”と言うのは俺のことだろうか。もしそうならなぜ“トレーナーさん”ではなくそう呼んだのか。

 また“知っていますか”とはどういうことだろうか。彼女もまた何か隠していることを示唆しているとだけは分かるが、頭の中にその先は空白しかない。

 

「…………」

 

 “おにいさん”、そして彼女の隠していること。

 彼女がこう訊いてくるということは、俺はそれを知る機会があったということか? それとも俺が何か忘れているのか? 

 ペティの言ったことが、俺とキタサンブラックのことを知りたがる理由に繋がってくるのか? 

 

 ……分からない。今の俺の中に、その答えはない。

 

「……そうですか」

 

 ペティは自嘲気味に薄く笑っていた。そう言った彼女は、とても寂しそうに見えた。

 

「……変なこと言ってすいません。トレーナーさん。今言ったこと、忘れてください!」

「は……?」

 

 さっきまでの哀切を含ませた態度はどこへやら、いつもの表情と声のトーンでペティはそう言った。

 

「さ、わたしも解析済ませないと。データも見返しやすいように纏めますか」

「おい……」

 

 振り返って表情の見えないペティは俺に呼びかけられて、時が静止したかのように動きを止めた。

 

「すまねえな。もしその時が来たら……話すか考える」

 

 最後のやり取りから察するに、訊き出そうとしている理由は単なる好奇心ではないのだろう。

 でも、現段階で彼女に言えることはない。時が流れて、何かきっかけがあったら、教えてやるとだけ伝えることにした。

 逆に言えば、それがなければ教えないということでもあるが。

 

「……何のことですか? トレーナーさんの言うことは分かりません」

 

 持参していたノートパソコンの前に座り、ペティはカタカタとキーボードを叩き始めた。

 

「……ありがとうな」

 

 白衣を着ているその背中に向かってそう呟いた。

 それが彼女に聞こえたか、俺には分からない。

 

 ◇

 

 その後作業に勤しんでしばらくするとカレンモエがプールから戻ってきた。話を聞くと、やはりプールは激混みで自由にトレーニングできなかったらしい。

 

 戻ってきたカレンモエも加えて、3人でキングヘイローがロードワークから戻ってくるのを待っていた。

 窓へ叩きつける雨も無くなり、木々を揺らす風も今では大分収まっていた。俺が課している距離から考えると、時間的にはとっくに戻ってきている頃合いなのだが……どこまで走りに行っているのだろう。あちらの方は雨が強くて足止めでも食らっているのだろうか。

 

「ペティ、キングに連絡とってみてくれねえか」

「はい。流石に遅すぎますもんね」

 

 ペティがスマホでキングに電話するが、コール音が鳴り響くだけだった。

 

「……出ませんね」

「キング、デジタルブラかスマートウオッチ着けてたよな?」

「はい……あっ! そういうことですか。ちょっと待ってくださいよ」

 

 俺たちが使っている機器のGPSで現在地を探るというものだった。言葉にせずとも、ペティは理解したようだった。

 

「えーっと、キングは…………え?」

 

 ペティの眼鏡の奥にある目が大きく見開かれる。

 

「どうした?」

「どういうことでしょう……これ……」

 

 ペティの元へ行き、差し出されたタブレットに目を落とす。そこには現在地に加えて走行距離や走行時間が記されていた。

 

「──はあ!?」

 

 それは走行距離と走行時間が俺の課したものを大幅に超過していた。オーバーワークでは収まらないほどに。

 キングヘイローは努力家だが無理なトレーニングはしない奴だ。明らかにこれはおかしい。

 

 そして今、キングヘイローがどこにいるのかというと──

 

「トレーニングコース……!?」

 

 ──GPSが指し示す場所はトレセン学園のトレーニングコースだった。マップを拡大すると、彼女を示す赤い点が動き続けている。コースでまだ彼女は走り続けているのだ。リアルタイムの速度を見るに軽いランニングどころではなく、レースで走るかのような速度がタブレットに表示されている。

 

「──行ってくる!」

「あっ、私も行きますよ!」

「……」

 

 ペティは返事をして、モエは返事をせずに、トレーナー室を出ていく俺の後を追ってきた。

 

 どうにも嫌な胸騒ぎがしていた。

 

 

 ◇

 

 

 坂川たちがトレーナー室を出た頃から時間は巻き戻る。

 

 

 校外を走っていた私は決められた折り返し地点でUターンし、トレセン学園へ向かって走っていた。出た時より雨風はやんできており、幾分か走るのが楽になっていた。

 

 ──ぱしゃ

 

「……?」

 

 無心で走っていたせいか、いつの間にか後ろの方からやってきていた足音にやっと気がついた。水溜まりを踏みしめる音が段々と近くなってくる。

 

 ──ぱしゃ、ぱしゃ

 

 私より明らかに速いペースで走ってきている。私に追いつけるということはウマ娘だろう。私以外にも、こんな天気の中で走っているウマ娘もいたのね……ぐらいに考えていた。

 

 ──ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ

 

 その足音は私のすぐ背後まで来た。私より速いなら進路を譲ろうと端に寄った。

 

 

 

「こんにちは」

 

 

 

「……っ、え?」

 

 足音の主は私を追い抜かず、私と肩を並べるようにして併走していた。少女性を秘めながらも大人びたその声は全く息を切らしていなかった。

 そのウマ娘は私と同じように合羽を着ていた。深くフードを被って顔は見えないが──

 

(このウマ娘……!)

 

 ──見覚えのあるウマ娘だった。早朝のロードワークで時々見かけた、恐ろしくハイペースで走っているウマ娘だ。その証拠に、フードの中には肩までかかるくらいの黒髪が見て取れるし、合羽の下にある黒い毛色の尻尾も確認できる。背格好もあのウマ娘と全く同じだった。

 

 

 声をかけてきた謎のウマ娘。彼女がいったい何者なのか、この時の私は知る由もない。



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第40話 フードの下

 追い上げてきた謎のウマ娘は私に併走したまま話しかけてきた。

 

「キングヘイローさん、だよね」

「はっ、はっ……ええ、っ、そうよ」

 

 今走っているペースは間違いなく速いのに、息を切らしかけている私と違って、彼女は息が全く切れていない。まるで立ち止まって世間話でもしているかのように、彼女の口調は穏やかだった。

 どれだけ強靭な心肺機能をしているのか。薄気味悪ささえ感じてしまうほどだ。

 

 これ以上、このペースで走りながら話すのは限界だった。ペースを大きく緩めると、それに謎のウマ娘もつき従った。

 

「おーっほっほっほ! 知っていて当然よね、キングは一流のウマ娘だもの! キングのことを知っていた殊勝なあなたには名乗る権利をあげるわ!」

 

 話しかけてきた理由。何か用があるのか、ただ見かけたからなのか。それも気になるが、まずは相手が誰か知ることが先決だった。

 

 

「ダービー14着。日本一を決める最高の舞台で、よくあんな拙い走りができたね?」

 

 

「っ!?」

 

 足を止める。

 すると彼女は立ち止まった私の数歩先でこちらを振り返った。深くかぶられているフードの下から見えるのは、感情の読めない口元だけ。

 口調こそ明るいが、内容も含め私に対する友好的な色は感じられない。

 

 直感的に感じるのは、強い敵意のようなもの。

 

「……気に入らないわね。キングは名乗らない礼儀知らずと話す気なんてないわ。誰なの、あなた」

「あたしの正体が知りたいんだ? ……そっか、なら」

 

 彼女は妙案を思いついたかのように手を叩いた。

 

「勝負、しない? もしキングヘイローさんが勝ったらあたしの正体と──」

 

 彼女の口元が笑みを浮かべた。

 

「──あたしと坂川健幸の関係について。あたしとあの人の間に昔あったこと、教えてあげるよ」

「……は?」

 

 あまりにも唐突過ぎて耳を疑った。

 出てきたのは坂川健幸(トレーナー)の名前。彼と彼女の関係性とは? 

 

「……あなたはトレーナーの昔の担当ウマ娘なの?」

「どうだろうね? キングヘイローさんが勝ったら、全部教えてあげるよ」

 

 どうやら勝負とやらに勝たないと1ミリも教えてくれる気はないらしい。

 

「勝負内容は、あたしとキングヘイローさんとで走って、あなたが一度でも1バ身リードできれば勝ち。どう?」

「距離……ゴールは? どこまでに私は抜けばいいの?」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ここから学園に戻るまでと、それでも無理なら学園のトレーニングコースでやってもいいよ。こんな天気なら、誰もコースにいないだろうから邪魔は入らない」

「…………」

 

 どうやら彼女は私を完全に下に見ているらしい。

 こっちを完全に嘗め腐っている勝負内容だ。何もリミットを設けないということはつまり、私の敗北条件は──

 

「私が諦めたら、私の負けってことね」

「そうなるね」

「嘗められたものね。それで、あなたが勝ったら?」

「何もいらないよ」

「……どれだけ私を……!」

 

 そう。このキングヘイローに対して、諦めることを敗北条件に設定した。しかも彼女が勝利した場合の報酬はない。

 このウマ娘は只者じゃない。でも、あからさまに見下されて黙って引くほど、キングのプライドは安くなかった。それに坂川と彼女の関係性だって気になる。

 

 彼女は何か思うところがあって私に喧嘩を売ってきた。じゃないと向けられるこの敵意と状況に説明がつかない。

 

「いいわ。やってやろうじゃないっ!」

「うん。じゃあ、やろっか」

 

 そのウマ娘が背を向ける。

 

「先に走って。キングヘイローさんをあたしが追い抜いてからスタートね」

「ええ。いいわよ……っ!」

 

 思い切りダッシュして、立ち止まった彼女を通り過ぎる。スタートで差を広げて、追い抜かす彼女のスタミナを削るつもりだったが──

 

「──よしっ、これでスタートだよ!」

「なっ!?」

 

 彼女は一瞬にして私の前方に躍り出た。その背中が1バ身、2バ身と離れていく。

 

「ついて来れる?」

「……っ!!!」

 

 安っぽい挑発。それに乗せられ、彼女を追っていく。

 

 ◇

 

 トレセン学園の校門に着いた私は足を止めて肩で息をしていた。

 

「はあっ! はっ、はあっ……くっ!」

「……ふぅ、あたしの勝ちだね」

 

 息を乱している私とは対照的に、謎のウマ娘は一息で呼吸を整えた。

 

 結果として、私は彼女に追いつけなかった。終始1バ身から3バ身ほどリードを取られ、そのままトレセン学園まで到着してしまった。

 彼女の作り出すハイペースにはなんとか食らいつけた。隙を見てスパートをかけて追い抜きも図った。しかし、その度に彼女もペースを上げてきて、結局抜くことはできなかった。

 走っていて感じたのは、彼女は全然本気を出していないということ。現に息だって全く上がっていない。彼女はただ私に合わせて戯れるように走っただけだ。

 

「あなたは……っ、いったい……」

 

 余りにも圧倒的な差。全く底が見えない彼女の力。スペシャルウィークとの間に感じた差なんて可愛いものだった。

 

 だからこそ気になってくる。これほどまでの実力者と坂川健幸(重賞未勝利だったトレーナー)との関係を。

 

「どうする? コースでまだやる? あたしはまだまだ大丈夫だよ」

「はっ、はっ……当たり前、でしょう……! キングは諦めないのよ!」

「そうこなくっちゃ!」

 

 坂川のこともあるが、私のプライドにかけて、おいそれと負けを認めるわけにはいかない。私はキングヘイローなのだ。

 

 彼女の後に続いてトレーニングコースへ向かった。

 

 彼女の言った通りコースには誰もいなかった。鉛色の空の下、完全に私と彼女の2人だけの世界が広がっていた。

 ターフに足を踏み入れると、足裏に感じる柔い感触と、濡れて重くなった芝が足に纏わりついてきた。これ以上ない不良バ場だった。

 実戦で不良バ場の経験はないので不安がないと言ったら嘘になるが、四の五の言ってられない。

 雨はやんでいるので合羽を脱いでジャージにハーフパンツ姿になる。彼女も同じように合羽を脱いでランニングパーカー姿になり、ご丁寧にフードを被って顔を隠していた。

 

「さあ、やるわよ!」

「さっきと同じで、あたしが追い抜いたらスタートで」

「……ふっ!」

 

 重い芝の感触を確かめながら、ぬかるんだ地面を抉るように走り出す。

 悪くなったバ場では下からの反力は大きく減衰する。だから良バ場よりも純粋にパワーが必要になってくるのだ。

 

 追い抜いた私を、彼女は瞬時に追いついて前に出る。これぐらいではもう驚かなくなった。

 問題は次──

 

「……え?」

 

 私の前に出た彼女だが、明らかにペースが上がっていない。さっきまでの走りはどこにいったのか、走りにくそうにしている彼女がいた。躯幹も左右にブレて見るからに不安定だ。

 別の意味で私は驚くこととなった。

 

(もしかして……不良バ場が苦手なの?)

 

 なら好都合だ。キックバックを食らうのは好きではない。ここで抜かしてしまって、早々に勝負を終わらせてしまおう! 

 

「──はああああっ!」

 

 声を上げて、体のスロットルを思い切り踏む。

 ぐんぐんと加速して彼女の半バ身後ろまで迫った。

 

「っ!?」

 

 彼女が驚いたように私の方へ振り向く。

 気づいてももう遅い! スピードは私が完全に勝っている! このまま、追い抜く! 

 

 ──彼女の内に潜り込み、並びかけた瞬間だった。

 

「……なんて、ね」

 

 内から抜かそうとする私へ、彼女はバ体を寄せてきた。

 

「なっ!? くっ……!」

 

 内ラチと彼女に挟まれ極端に狭いスペースに押し込められる。内ラチとも彼女とも、1センチでも左右にズレれば当たってしまうだろう。

 結果、私のスピードは削がれ、彼女を追い抜けず肩を並べたまま走る。ここからエンジンを再び吹かして加速──

 

「うううっ! ……ああっ、しまっ!」

 

 ──できず、上体のバランスを崩したことで脚も乱れ、芝に脚を取られた私は前のめりに転倒してしまった。

 

「ぐっ!」

 

 ターフの水分がジャージを濡らし、頬には泥がついた。

 気にせずすぐに立ち上がる。擦りむいたのか、両膝にヒリヒリとした痛みを感じる。

 

「はあっ、はあっ……!」

「…………」

 

 謎のウマ娘は数メートル先で私を見ていた。口元は固く引き結ばれていた。

 

「……続き、行くよ。このまま始めるよ」

「ええ……!」

 

 彼女は走り出す。

 今みたいにバ体を寄せてくるのなら、外から強引に抜いてやろうと画策して私も走り出したが──

 

「え……!?」

 

 ──ぐんぐんと彼女と私の差が開いていく。

 先程までのペースとはあまりに違う。速すぎる。良バ場での走りかと一瞬思ったほどだ。

 それに走り方も……不安定な走り方なんてどこに行ったのか、体に鋼の芯が入っているかのように全くフォームがブレていない。不良バ場なんてものともしていない。

 

 さっきまでの走りは全くのブラフ。これが彼女の本当の走り。

 

(また、手を抜いたってわけ……!)

 

 どれだけ私を嘗めて見下したらここまで出来るのだろうか。キングのプライドにかけて、やられっぱなしで済むわけにはいかないのだけれど──

 

「く、くうううう!」

 

 ──追いつけない。差は開くだけ。抜かすとか抜かせないとかそんな問題ではない。10バ身は軽く離されていた。

 良バ場のように上手く加速していかない。どうしても芝に足を取られてしまう。

 

「っ……?」

 

 なんとか追いつこうと見ていた前方の背中が7バ身、5バ身、3バ身と近づいてくる。

 私の速度は変わっていない。ということは、彼女が速度を下げているのだ。

 

(今度は一体なにを……!)

 

 彼女がわざとペースを緩めていることぐらい、これまでの彼女のやり方を見ていれば自明の理だ。

 仕掛けられた罠にむざむざかかってやることはない。私は速度を維持して様子を見る。

 

 2バ身、1バ身、半バ身と彼女との差が縮まる。

 

 そして肩を並べるまで下げたかと思うと、バ体を私にぶつけてきた。

 彼女の肩が私の肩に押しつけるようにぶつけられる。まるで金属の塊にぶつかったかのように感じた。

 

「!? ぐあっ!」

 

 それを食らった私は姿勢を保てず、前方へ投げ出され、横向きに身体が転がっていく。

 止まった時には、全身が芝と泥にまみれていた。

 

「うっ、ううっ……」

 

 体中が痛い。当たり前だ。不良バ場とはいえ、ほぼ全速力で走っていた勢いそのままに地面へ叩きつけられたのだから。

 

 痛みに負けず体を起こして、私を見下ろしている彼女の方へ向く。

 

「あなたっ……こんな……危険な……!」

「…………」

 

 彼女は応えない。ただ私を見下ろしているだけ。

 

 ──そんな位置関係だったから、フードの下にある彼女の顔が見えてしまった。

 

「……! あなた、は……」

 

 

 黒髪のなか、額に曲線を描く流星が一筋。

 両耳に花を模したブローチと、右耳にだけ結ばれる赤紐リボン。

 見下ろす大きな緋色の瞳。

 

 

 見覚えがあった。今年の初め、トレーナー室でWDTを見たときにその姿がテレビの向こうにあった。

 

 

「キタサンブラック……?」

 

 

 トゥインクルシリーズでGⅠ7勝。DTLで中長距離にて絶対王者として君臨しているウマ娘。

 間違いなく、今のトレセン学園で頂点に位置するウマ娘だ。

 

「あれぐらいで倒れるとは思わなかった。この程度で終わりだなんて言わないよね。キングヘイローさん」

「……っ!」

 

 その言葉には、これまでの明るい声色が消え失せ、代わりに恐ろしいほどの冷たさを含んでいた。

 鋭く細められた緋色の視線が、私に突き刺さっていた。



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第41話 再会

 トレーナー室を飛び出てトレーニングコースへの道を急いだ。しばらくしてペティとカレンモエもついてきて、ヒトである俺のペースに合わせて後ろからつき従っている。

 雨が上がり静まり返った学園を駆けて、トレーニングコースが一望できるところまでたどり着いた。

 

「……! あれか!」

「キングと……誰でしょう? もう1人いますね……」

「レースでもしてんのか……?」

 

 照明が焚かれたトレーニングコースで、向こう正面で走っているウマ娘の姿が()()あった。

 頭が高いフォームから、後ろにいるのがキングヘイローだと分かる。データによると相当な距離を走った後だからか、フォームは崩れてしまっていた。

 2人は向こう正面から第3コーナーを回ってこちらにやって来ていた。

 

 ──問題は、その前を走るフードを被ったウマ娘。

 

「──!? あ、ああ……」

「……どうしたの?」

「なんで……なんでだ……なんでだ……」

「ちょっと、トレーナーさん……? 変、だよ……大丈夫?」

 

 理由を求めるうわ言だけが自分の口から零れていく。

 

 前を走るウマ娘のフォーム。それを一目見た瞬間、彼女が何者か分かった。

 なぜなら、あのフォームは10年前の俺が彼女と2人で作り上げたフォームだからだ。

 

 

 俺が見間違うはずがない。見間違えるわけがない。

 

 

 自分でも分かるほど、コースへ降りていく足取りがおぼつかなくなっていた。

 後ろからカレンモエとペティが声をかけてくれるが、それが頭の中で意味を結ばなかった。

 

 第4コーナーからホームストレッチに入った2人は競り合うように──いや、競り合ってはいなかった。フラフラと走るキングヘイローに、謎のウマ娘がバ体を寄せて一方的に削っているだけだ。

 コースに降りて芝に足を踏み入れた俺たちに近づいてきたのも束の間、削りに耐えきれなくなったキングヘイローが崩れ落ちるように倒れてしまった。起き上がろうとしているが力が入らないようで、再び体が芝に沈んでいく。

 

「っ! おい! キング!」

 

 倒れこんだキングヘイローを目にしたことで意識がはっきりした俺は彼女の元へ走っていく。

 

 その時だった。

 立ち尽くしたまま微動だにせず、起き上がれないキングヘイローの方を見ていた謎のウマ娘が自らのフードを取り払った。

 

 フードの中から黒髪をしたウマ娘の顔が明らかになった。

 フードが取れたウマ娘の顔が走ってきている俺の方へ向けられた。緋色の瞳が10年ぶりに俺を捉えた。あの時……彼女の家の前で別れた時以来だった。

 この10年間、片時も彼女を忘れたことはなかった。ずっと心のどこかに彼女の姿があった。

 

 

 キタサンブラックだった。

 

 

「……っ」

 

 感情が読めない彼女の視線を受けて、足が止まった。止める他なかった。

 

 彼女は何も言わなかった。

 少女から大人の女性になった彼女を前にして、俺は何も言えなかった。

 

 

 どうしたらいいのか、分からなかった。

 

 

 ◇

 

「キング、大丈夫か!?」

「……? トレーナー……?」

 

 過度な疲労で朦朧とするなか、顔を上げると坂川が私の元へやってきた。いつの間にコースへやってきていたのだろう。

 力が入らずボロボロになった身体に鞭打って何とか立ち上がろうとしていた私を彼が抱えて起こした。

 

「怪我はねえか? 痛むところは?」

「ええ……特別、痛むところはないわ……ただ、力が入らなくて」

「濡れた芝の上ですまねえが、体触るぞ!」

 

 そうして彼は私の筋や関節を触ったり動かしたりして手早く確認し始めた。

 筋肉痛と思われる痛みはあるが、関節痛や過剰な痛みは感じなかった。改めて私の身体を見下ろすと、手足のあちこちに擦り傷があり血が流れていた。

 

「……大丈夫そう?」

「ああ、故障はないみたいだ……良かった」

 

 安堵した様子の彼は一転、真剣そうな表情に変わった。彼はチラッとキタサンブラックの方を見やった。

 

「お前、あいつと知り合いだったのか」

「いいえ……今日、初めて話しかけられて──」

 

 これまでの経緯を簡単に説明した。坂川のことをダシにされたことは言わなかった。

 

「……そうか」

 

 彼はキタサンブラックの方を向いた。

 

「なんで、こんなことをした……?」

「…………」

 

 キタサンブラックは何も答えない。ただ、こちらを見ているだけだった。

 

 

 

「俺が憎いなら! そんなに……今もそんなに俺を恨んでるなら!」

 

 

 

 坂川が自身を呪うようにそう吐き捨てた。

 こんな風に話す彼を、私は知らない。

 

「……俺に、何かすればいいだろうが………………こいつは、関係無いだろう……」

 

 彼は絞り出すようにそう言ったきり下を向いてしまった。彼の横顔からは噛みしめている下唇しか見てとれない。

 

 その感情が何なのか、私には分からない。

 

「…………」

 

 キタサンブラックは座り込んでいる私と坂川に踵を返して歩き始めた。

 彼女は少し離れた位置で私たちを見守っていたペティとカレンモエの横を通り過ぎる際、足を止めて前を向いたまま口を開いた。

 

「本当に、そこにいるんだね」

「……わたしがどのチームにいようが、わたしの勝手でしょう」

 

 それに反応したのはペティだった。

 

「……そうだね」

 

 そう言うと、キタサンブラックは再び歩き始めて去っていった。

 

「…………おねえさん……」

 

 ペティは視線を落として、ぽつりとそう呟いた。

 

 キタサンブラックが姿を消すまで、4人が皆その場で固まっていた。

 その中で、一番最初に動き出したのはカレンモエだった。彼女は私の元へ駆け寄ってきた。

 

「キング、大丈夫なんだよね? トレーナーさん」

「あ、ああ……怪我はない」

「じゃあモエが寮まで送ってく。こんな格好でいたら風引いちゃう。早くシャワー浴びて着替えよう。それに傷の消毒もしないと。いいよね、トレーナーさん」

「そう、だな……」

「それなら」

「ちょっ……モエさん?」

 

 カレンモエはしゃがんで背を向けたと思ったら、座り込んでいる私の腕を彼女自身の首に回して私をおぶり始めた。太ももに手を回され軽々と持ち上げられた。私の濡れた身体についた泥や血が、彼女のジャージを汚していく。

 

「そんな……私、独りで歩けます」

「行くよ。掴まってて」

「……はい。お願い、します」

 

 有無を言わさぬ様子のカレンモエに折れる形となった。

 彼女の首に回した腕にきゅっと力を入れてしがみつくようにすると、彼女はゆっくりと走り始めた。

 揺れないように配慮してくれてるのか、掴まってる私に走っている振動はほとんど来ない。

 

「……」

 

 カレンモエに身体と頭を預け、少しの間目を閉じた。

 

 ◇

 

 キングヘイローをおぶって行ったカレンモエを見送り、残されたのは俺とペティの2人のみ。

 ただ立ち尽くしている俺の近くに来た彼女の瞳は不安げに揺れていた。

 

「トレーナーさん……」

「…………」

 

 ペティは何か言いたげに口を開きかけるが、それが音を成すことはなく唇が引き結ばれた。

 

「……ペティ、キングとモエに今日はもう休めって連絡しといてくれ」

「え、ええ……分かりました」

「お前も帰っていいぞ。また明日な」

「はい……」

 

 俺はコース外へ向かって歩き出した。

 

「あ、あのっ! トレーナーさん」

「……なんだよ」

 

 振り向くと、ペティはためらうような仕草を見せた。

 

「さっきの……キタサンブラックとのこと、ですけど……トレーナーさんと──」

「すまん。今日は独りにしてくれねえか。…………ちょっと整理する時間が欲しいんだ」

 

 俺はペティの言葉を待たずに歩を進めた。

 

「……はい」

 

 消え入るような返事だけが耳に届いた。

 

 ◇

 

 私はカレンモエにおぶられたまま栗東寮の自室に戻ってきた。

 彼女は私を自室まで送り届けると、寮長に救急箱を借りに足早に去っていった。

 

 部屋に備え付けのシャワーで泥や血を流し始めると、手足のあちこちにピリッとした痛みが走った。

 

「いっ!」

 

 痛みがする箇所を見やると、そこには生々しい擦り傷がいくつもあった。

 

「……これ、おフロに入るのは無理ね……」

 

 とてもじゃないが、この状態で入浴する気にはならなかった。入った瞬間四肢の擦り傷が痛むのが目に見えていた。浴槽に入る他のウマ娘に迷惑にもなるし、今日は大浴場に行くのは無しにしよう。

 シャワーだけで汚れを落とす。まだ出血が止まっていない生傷も多数あり、湯が触れるたびに感じる痛みを我慢しながら泥や血を流していく。

 

「……ったいわね……」

 

 痛みと格闘しながら汚れをおおかた流し終え、シャワー室を出た。部屋にはカレンモエが既に救急箱を携えて佇んでいた。汚れたジャージから着替えたようで、Tシャツ姿だった。

 

「モエさん……ありがとうございます」

 

 身体だけさっと拭き、下着を着けてから、手っ取り早くキャミとショートパンツを身に着けた。

 

 カレンモエに座るよう促され、ベッドに腰を下ろす。彼女に差し出すように足を投げ出した。

 

「……じゃあ、消毒してくよ」

「はい。お願いします……っ!」

 

 カレンモエは消毒液を染み込ませた脱脂綿で、あちこちにつけられた擦り傷をテキパキと消毒していく。シャワーに晒したときとはまた違う、染み込むような痛みに耐える。出血が続いている箇所には絆創膏が貼られていった。

 

「次、腕」

 

 腕も前腕から肘、そして上腕にも少し傷がついていた。

 走っている途中から意識が朦朧としていたので、何回転んだか正確には分からないが、この傷の量を見るに両手の指では足りないだろう。

 

「……はい。終わり、だよ」

「ありがとうございます。モエさん」

「右膝の傷、まだ結構血出てるから、こまめに絆創膏替えてね」

「分かりました」

 

 右膝には正方形をした大きい絆創膏が貼られていた。今回つけられた傷の中でも随一大きく、痛みも酷い箇所だった。

 

「ペティから連絡来てたけど、今日はもう休んでくれってトレーナーさんが。じゃあね」

「分かりました……あの、モエさん……!」

「……?」

 

 救急箱を手にして立ち上がったカレンモエを呼び止めた。

 

「その……トレーナーのこと、なんですけど……」

 

 呼び止めた理由は坂川健幸……私たちのトレーナーについて。

 カレンモエに運ばれているときからシャワーを浴びている間は考えないようにしていた。考え続けると、答えが出なくて深みに嵌ってしまいそうな気がしたから。

 今は身体的にも精神的にも余裕ができてきたので、余計にそのことが気になり始めていた。あんな目に合わされたことに文句がないわけではないけど……それよりも、彼とキタサンブラックが出会った時の反応が鮮明に目に焼き付いている。

 

 感情的になって嘆いているように見えた坂川と、ずっと黙っていたキタサンブラック。

 彼女が言っていた、坂川との関係。彼女が私に向けた、強い敵意のようなもの。

 

 あの様子を見るに、2人は単なる昔の知り合いではない。坂川が言ったことを言葉通りに受け取るなら、キタサンブラックは彼を憎んでいる、恨んでいるということになる。

 彼女はアルファーグというチームのウマ娘で、彼は昔そこでサブトレーナーをしていた。繋がりがあるとすればそこだろうか……私に分かるのはそれぐらい。具体的なことは何も分からない。

 だって、私は彼について知らないことばかりだから。

 

「…………」

 

 彼女はベッドに座る私の横に腰を下ろした。

 

「モエさんは、トレーナーとキタサンブラックについて知っていますか?」

「……なにも知らないよ」

「そう、ですか……」

「……キングは……あのウマ娘と何があったの?」

 

 私は彼女に今日の経緯を話した。

 ロードワーク途中に突然話しかけられたこと。

 坂川との関係性をダシにされて、持ちかけられた勝負に乗ったこと。

 勝負では全く彼女に敵わず、コースではバ体をぶつけられ続けて倒れてしまったところに皆がやってきたこと。

 

「……そう。大変だったね。怪我無くて良かった……今、痛むところはない?」

「はい。擦り傷以外は大丈夫です」

 

 四肢の擦り傷は痛むものの、関節や靭帯を痛めたような嫌な感じは無かった。それだけは不幸中の幸いといったところだろうか。

 

「……モエはなにも知らないけど……ペティは、キタサンブラックと知り合いみたいだったよ」

「! そう言えば……」

「うん……さっき、モエたちの横を通り過ぎたとき、ペティと話してた。お互い、ただ知ってるって感じじゃなかった。ワケありって感じ」

 

 ペティがキタサンブラックと知り合い? 

 DTLの現役最強ウマ娘といちスタッフ研修課程のウマ娘、そこにどんな繋がりが……

 

「ペティさんに訊けば、教えてくれるのかしら……」

「……さあ、モエには分からないよ」

「モエさんは気になりませんか? トレーナーとキタサンブラックのこと」

「…………」

 

 平坦な表情のまま宙に目をやるカレンモエ。相変わらず外見的な感情の発露に乏しいが、今の彼女が言葉を選んでいることぐらいは分かる仲になった。

 

「……ならないことは、ないよ。でも…………」

「でも……?」

「トレーナーさんのこと……モエはちゃんと知ってるから。それに今、トレーナーさんのそばにいるのはモエ……たちだから」

「……」

 

 訥々と彼女は語ったそれを、全て理解できたとは思わない。

 でも、何を言わんとしたかぐらいは分かる気がする。

 

「だから……トレーナーさんが話したいなら、それでいいと思うし、話したくないなら、それでいいと思う。話したいなら、聞いてあげたいよ。でも、トレーナーさんが話しても話さなくても、何も変わらないと思うな」

 

 カレンモエはこっちを向いて、薄く微笑んだ。

 

「モエはモエだし、トレーナーさんはトレーナーさんだから」

 

 ──彼女は坂川を信頼しているのだ。この笑顔が、それを証明している気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 消灯時間になり、潜り込んだベッドの中で色んなことを考えていた。

 

 カレンモエは、坂川が話しても話さなくてもどちらでも良いと言っていた。

 何も変わらないからと。彼と接しているのは自分だからと。

 

 

 でも、私はそうは思わなかった。

 

 

 私は知るべきだと思う。

 

 

 キングヘイローと坂川建幸は、担当ウマ娘とトレーナーなのだから。

 2人でG1を取ると、誓ったのだから。

 

 ◇

 

 

 その日は眠れなかった。自室に置いてある酒を片っ端から開けて、流れ作業のようにアルコールを身体に入れていった。

 そうやって自分を罰していないと、俺自身が耐えきれなかった。アルコールの快楽なんて、全く訪れなかった。

 

「……ぐ」

 

 代わりに訪れたのは、胸元から逆流してくる感覚。

 吐き気に耐えながらトイレに行った。

 

「う────」

 

 吐く。

 

 吐く。

 

 吐く。

 

「ぉ、え──」

 

 吐く。

 

 吐く。

 

 酒を全部吐く。

 

 苦しくて、泪で世界が滲む。

 

 吐ききって、胃がカラになっても、胃の痙攣は収まらない。

 

「ぅぉえ────」

 

 吐けるものが無いのに、嘔吐の反応だけが俺を襲う。

 

 口から零れていくのは唾液と胃液が混ざりあったもの。

 

「ぐっ、はあ、はあ」

 

 吐き気は収まっても、アルコールに侵された頭は割れるように痛く、そして重い。

 

「はっ、はあっ……」

 

 これは単なる自傷行為以外の何物でもない。

 ダービーの後、自分を責めることはただの逃げだと気づいたのに、性懲りもなく俺は自分を痛めつけて逃げている。

 

 でも今日だけは……今日だけは、許してくれないだろうか。

 

「……ははっ」

 

 そう考えて、乾いた笑いが漏れた。

 

「誰に、許して欲しいんだ……」

 

 キタサンブラック? 

 

 キングヘイロー? 

 

 ペティ? 

 

 カレンモエ? 

 

 清島先生? 

 

 キタサンブラックの家族やその弟子たち? 

 

 神様? 

 

 それとも、坂川健幸(俺自身)? 

 

「何が、許してくれないか、だ……バカが……!」

 

 そこまで思考が至って、やっと意識がはっきりし始めた。

 

 

「許されねえんだよ! (なんに)も、誰にも! なに(ほう)けてんだバカが! 全部背負うしかねえだろうが! 全部お前()のせいなんだからな!」

 

 

 正気に戻れてきた感覚があった。

 

 トイレを出て、キッチンでうがいをしてから水を飲んだ俺はベッドに寝転がった。

 少しは冷静になれた頭は、これからのことを考えていた。

 

「……話すときが、来たのか」

 

 キタサンブラックがキングヘイローにあんなことをしたのは考えるまでもなく俺が原因だろう。キングヘイローには何の関係もないのに巻き込んでしまい、下手したら怪我に繋がりかねない事態になるところだった。

 驚いたことに、ペティはキタサンブラックとどうやら面識があるようだった。どういう関係性かは不明だが、これでは昔のことをはぐらかしておくことにも限界がある。それに、彼女の正体も探る必要がありそうだ。

 カレンモエも、皆が動けないなか率先して動いてキングヘイローの介抱をしてくれた。何が起こっているのか知りたくないはずがないのに。

 これで彼女たちに何も話さないのは真摯ではないし、筋が通らない。

 

「…………」

 

 いつか来るかもしれない、とは思っていた。

 

「…………あいつら、どう思うんだろうな」

 

 この期に及んで、女々しくそう考える自分に心底嫌気がさした。

 

 ベッドから起きて、ソファに座り込んだ俺は窓の外の白んできた空をただ見ていた。

 

 朝日を迎えるまで、俺はずっとそうしていた。



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第42話 来客

 一睡もせずに迎えた次の日。

 早朝の学園の資料室にてあるウマ娘の個人情報を調べていた。ウマ娘の詳細な個人情報は資料室にあるスタンドアローンのPCでしか閲覧することができないからだ。

 

 そのウマ娘とは──

 

「あった。”スタティスティクスペティ”……」

 

 言わずもがな、これまで意味深な言動を繰り返していたペティについてだった。俺のことを話すにしても、知りうる限りの情報は出来るだけ知っておきたい。彼女を信頼してはいるのだが……これは大人としての汚さ、だろうか。

 家族構成や経歴など、基本的な情報から手掛かりが得られるかは分からないが──

 

「な……!?」

 

 ──真っ先に目が行ったのは家族構成の欄だった。そこの父の欄によく知っている男性の名前があった。

 そして、彼女が昔所属していたポニースクールのチーム名。

 

「…………」

 

 それを見て、色々納得できることがあった。まだ不明なことはあるが、ペティというウマ娘の輪郭がはっきりしてきたような気がする。

 

 PCをシャットダウンして資料室を出た。トレーナー室に戻って、彼女の父に電話をかけよう。確かめるべきことがある。

 本当は直接会って話したいが、昔からの関係やキタサンブラックの存在もあり、学園内で表立って会うことはしていないのだ。

 

「先生の娘、か」

 

 ペティの父……その正体は、俺の師匠でありアルファーグのチーフトレーナーである清島義郎だった。

 

 ◇

 

 ウマ娘には苗字がつかない。基本的に生まれつき得たその名前を名乗っている。だからペティが清島の娘だと気づけなかった。

 

 トレーナー室に戻った俺はすぐさま清島に電話をかけた。

 

『どうした坂川』

「おはようございます先生。少しお伺いしたいことが」

『まあ、大体分かる。キタサンだな?』

 

 その名前が出て一気に頭が冷える。

 確かに、このタイミングで俺が清島に電話をかけるなら、昨日あったことについてだろう。彼も昨日のことを知っているようだった。

 

「いえ。キタサンのこともあるんですが……それより、ウチのチームにいるスタティスティクスペティというウマ娘のことです」

『……その様子じゃ、気づいたか』

「ええ。今日資料室で調べまして」

『隠してたわけじゃねえんだ。ただ、ウチのも俺が親だとお前には伝えてないみたいだったからな。もし不快にさせたら謝る』

「いえ、それは別にいいんです」

 

 本音だった。娘だと伏せられていたことに対しては特に思うところはなかった。

 

「娘さん、どうも俺のことを……俺とキタサンのことを知りたいみたいで」

『…………やっぱりか』

「俺たちのこと、娘さんには……?」

『言うわけねえだろバカ野郎』

「……ありがとうございます。先生が良ければですけど、娘さんのこと教えてくれませんか」

『知りたい理由を聞かせてくれるか?』

「俺とキタサンのこと、チームのウマ娘に話そうと思うんです」

『! そいつらは信頼でき……いや、だからこそか』

 

 話が早くて助かる。

 

「はい。娘さん以外の2人は言いふらすようなウマ娘ではありません。断言します。娘さんのことも信じてはいるんですが、確証を持てなくて。ただの好奇心ではないとは思うんですが」

『……分かった。お前がそう決めたんなら何も言わねえよ。さて、どこから話したもんか……』

 

 ◇

 

 清島から自身の娘であるペティに関して話されたことを纏めると以下のようなものだった。

 俺が知りたかったのは彼女の詳細な経歴と、彼女と俺たちとの関係、この二点だった。

 

 まず一点目。ペティの詳細な経歴について。

 幼い頃からポニースクールに通ってトレセン学園を目指していたが、思うような競争成績を残せず、中学から勉学一本に切り替えてスタッフ研修課程を目指したこと。

 無事合格してトレセン学園の門をくぐったこと。

 基本的に清島は放任主義で、どのチームに入るかも強要しなかったこと。彼は俺のチームに入ったと知った時は驚いたと同時に納得もしたこと。それに俺ならちゃんと指導もしてくれるだろうと安心したこと。

 清島の娘だと隠していたわけではなく、彼女自身が俺に明らかにしてなかったので言う理由もなかったとのこと。娘だからといって気を遣われるのも望んでいなかったこと。

 

 これが一点目。

 

 

 そして二点目。核心に迫る、俺とキタサンとの関係。

 その前に、彼女が通っていたポニースクールのチーム名を確認して俺自身が思い出したことがある。

 トレセン学園ではウマ娘たちを招いて、学園の案内やトレーニング体験させるオープンキャンパスがあるのだが、このチームが来たときにちょうどアルファーグが担当だったのだ。詳細な日時は思い出せないが、あれはキタサンブラックがスプリングステークスに出走する少し前だったから、おそらく彼女がクラシック級の年の3月ぐらいの話だ。

 その中にどうも幼いペティがいたらしい。しかも俺とキタサンと会話したのことだった。当の俺は何も覚えていないが……

 

「娘さん、俺のこと”おにいさん”って呼んだことがあるんですけど。その時なんですかね?」

『ああ、お前のことおにいさんって呼んでたぞ。あと、お前が独立してからキタサンとは何度も会っててな。キタサンのことはおねえさんって呼んでる』

 

 そう聞いて以前のペティの意味深な態度に納得がいった。

 彼女は俺に出会ったときのことを思い出して欲しかったのだろうか。

 

『どうもウチのはお前らのことが気に入ったらしくてな。あの後すぐのスプリングステークスで勝ったのもタイミングが良かったみたいだ。小さい頃はお前の担当ウマ娘になって、キタサンみたいなウマ娘になりたいってよく言ってたよ』

 

 だが、ペティも成長するにつれて様々なことが分かるようになってきた。俺がアルファーグを離れて、キタサンブラックとは袂を別ったことに気づいたのだ。

 

 

 “なんでおにいさんとおねえさんは一緒にいないの?”

 

 “おにいさんとおねえさん、あんなに仲良かったのにおかしいよ。ケンカしてるなら仲直りしてって言ってよ、父さん”

 

 

『ってな風にな。俺だけじゃなく、キタサンにも会う度にしつこくお前とのことを訊いてたんだ。でも、キタサンも教えてくれないってのが段々と分かってくると、訊くのもやめたみたいだ』

「…………」

『中学の時にはお前やキタサンの話、一切しなくなってたんだが……その様子を聞くに、やっぱ知りたかったみたいだな。お前のチームに入ったって聞いたとき、そうかもしれねえとは考えたが……』

 

 昔出会った俺たちのことを、ペティはずっと覚えていたのか。

 それを知りたいがためだけに、俺のチームに入ったのだろうか。

 

「どうしてそこまで、俺たちのことを……」

『さあな。俺が知ってんのは、昔お前たちを気に入ってたってことだけだ。もし話してやるなら、訊いてみたらどうだ?』

「……そう、ですね」

 

 彼女の本心は分からないままだった。当たり前だ、清島は彼女ではないからだ。

 彼の言う通り、知りたいのなら彼女に直接確かめるしかない。

 

『それよりだ……キタサンがお前んとこのに迷惑かけたらしいな。何があった? 詳しいことは知らねえんだ』

 

 詳細まで知らない彼に昨日のことを説明した。

 

『そうか……キングヘイローにケガはねえんだな?』

「ええ。擦り傷はあちこちにありましたが」

『……すまなかったな。アルファーグのチーフとして謝る。アイツには俺からキツく言っておく。病院にかかるなら金はこっちが負担する』

「………………」

『どうした?』

「俺のせいですよね。キタサンがキングにあんなことをしたのは」

 

 つい口から本音が零れてしまった。

 こんな情けない言葉、言いたくなかったのに。

 

『お前……』

「10年経った今でも、キタサンは俺のことを──」

『やめろ!』

 

 清島の怒鳴り声が俺の声を遮った。

 

『今更、んなこと言って何になる……今回のことは全てこっちが悪い。お前が気に病む必要はない』

「……先生」

『なんだ』

 

 止まれなかった。止めようがなかった。

 ずっと訊きたくて訊きたくて……でも、訊けないことだった。

 

 その答え次第では、俺とキタサンブラックの関係が本当の意味で全て終わる気がしたから。

 ……なんて、今になって何を考えているのだろうか。

 

 もう既に、終わっているのに。

 

 終わらせたのは俺なのに。

 

「キタサンは……俺のこと、なんて思ってるんですか」

『……坂川』

「教えてくれませんか……」

『…………』

 

 キタサンブラックはずっと俺を憎んでいるのか。恨んでいるのか。

 こんなことが起こってしまったのだから、答えは分かりきっている。改めて訊くまでもないことだ。

 

 でも、昨日の彼女はそれを言葉にしてくれなかった。会話さえしてくれなかった。

 清島でもいいから、直接言葉にして形にしてほしかった。そうすることで全てに区切りをつけたかった。

 

 単なる俺の我が儘だった。

 

『答えられねえ』

「え?」

『あれから一度も、キタサンがお前について口にしたことはない。だから答えられねえ』

「そうですか……」

 

 胸の内では答えを得られなかった落胆と、答えを聞かずに済んだ安堵がない交ぜになった。

 

『なあ坂川』

「はい?」

『俺の憶測でしかねえが……キタサンは……』

「どうしたんですか?」

 

 こんな歯切れの悪い清島も珍しい。

 

『いや……なんでもねえ』

「ええ……?」

『気にしないでくれ。……いいか、今回のことはお前のせいじゃない』

「……」

 

 清島はそう言ってくれているが、素直に肯定することはできなかった。

 

『……キタサンとのこと、本当に話すんだな? 後悔はしねえか?』

「……はい。もう、決めましたから」

『そうか。分かった。じゃあな坂川。また出会ったら飲みにでも行くか』

「はい。失礼します、先生」

 

 清島が通話を切るのを待ってからスマホをしまった。

 

 その直後、俺が電話を終えるのを見計らったようにトレーナー室にかん高い音が鳴り響いた。その発生源はトレーナー室に設置されている内線電話だった。さっきの清島との話を頭の中でまとめる時間も与えてもらえなかった。

 

「内線? 一体なんなんだ……?」

 

 知り合いからならスマホにかかってくるはずだから、十中八九トレセン学園の事務局や窓口からの電話だ。提出した書類に不備でもあったのだろうか。

 ここ数ヶ月は鳴ったこと自体無かったので、少し緊張しながらその電話を取った。

 

「はい」

『トレセン学園事務局です。坂川トレーナーでよろしいでしょうか?』

「ええ、そうです。何か?」

『お客様がお見えです。至急、指定の応接室までいらしてください』

「は? 客人ですか?」

 

 今日誰かと会う予定なんて無いはずだ。人違いではないだろうか。

 不信感を持ちながらそのお客様とは誰かを尋ねた。

 

 

 

『サトノダイヤモンド様がお越しになっています。既に応接室でお待ちです』

 

 

 

 その名前を聞いて納得がいった。

 昨日の今日だというのに行動の早いやつだと、どこか他人ごとのようにそう思った。

 

「……承知しました。すぐ伺います」

 

 内線電話を切り、その足でトレーナー室を出た。

 

 

 

 

 

 指定された応接室の扉のノックし中に入った。応接室は小型で、少人数で使用することを想定された部屋だった。事務局の職員が言った通り、中には1人のウマ娘がいた。

 手入れの行き届いた亜麻色の長い髪をしたウマ娘……サトノダイヤモンドはこちらに背を向けて窓の外を見ていた。

 

「お待ちしておりました。坂川さん」

 

 こちらへ振り向いたサトノダイヤモンドは笑顔を浮かべていた。だが、歓迎しているわけではないだろう。ここまで感情の読めない笑顔というのも中々お目にかかれない。

 

「お久しぶりです。キタちゃんとのことがある前ですから……10年ぶりくらい、でしょうか?」

「そうだな」

 

 彼女はキタサンブラックと幼い頃からの親友で、2人は学園在籍時も仲睦まじくしていた。俺がアルファーグにいた頃は彼女とも頻繁に会っており、よく話もした間柄だった。しかし、キタサンと袂を分かってからは一度も会っていなかった。

 

 改めて彼女を見る。御令嬢よろしく純真無垢な可憐さと蠱惑的な雰囲気が同居した昔の彼女から、今は魅力的な大人の女性になっていた。2人を見ていると、時間の流れを嫌でも痛感させられた。

 DTLを数年前に引退した彼女は、今はサトノ家の家業を継ぎ会社経営の手伝いをしながら、ウマ娘の後進の指導に当たっている。確か、担当していた新人男性トレーナーも彼女と共に若くして引退しサトノ家の養成所に入っていたはずだ。

 

「……話をするなら、俺のトレーナー室でも良かったんじゃねえのか」

「いいえ、ここが良いのです。学園の応接室は、ウマ娘の聴力でも外から盗み聞きできないよう、防音がしっかりしていますから」

 

 彼女の言ったように、ウマ娘の優れた聴覚に対応してる学園の応接室の防音機能は非常に高い。先程俺が入室した時だって、中からの声が聞こえないから返事を待たなかったのだ。

 そこまでして外に聞かれたくない理由……おそらくだが、昔の話もする気なのだろう。

 

「そして、外から盗み聞きできないということは……」

 

 彼女は俺の横を通り過ぎ、俺が今入ってきた扉へ向かった。

 

 

 

()()()()()()()、外には漏れないということです」

 

 

 

 カチャリ、と扉の内鍵が閉められ、サトノダイヤモンドが笑顔でこちらを振り向いた。

 

「さあ、坂川さん。お座りください。お話、しましょう……?」



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第43話 10年前のこと

 設えられたソファに腰を下ろすと、サトノダイヤモンドは俺の真正面に座った。

 

「なぜ私があなたを呼び出したのか、改めてお伝えするまでもないですよね?」

 

 彼女の柔和な態度が硬質なものに変容してきた。

 

「昨日のことだろう。お前は何が聞きたいんだ」

「昨日、キタちゃんとあなたとの間に何があったのか、です。一から説明していただけますか」

 

 昨日のことについて詳しく知らないのか、それとも知った上で俺を試しているのかは分からない。

 どちらにしても、こちら側としては正直に話すだけだ。

 

 昨日のことを俺が知っている範囲で包み隠さず話した。

 サトノダイヤモンドはこちらをじっと見て黙ったまま俺の話を聞いていた。

 

 

 

「──そんなところだ」

「…………キタちゃんから聞いた話と、相違ないですね」

 

 やはりキタサンブラックと話をしていたようだ。

 なら、今日サトノダイヤモンドが俺を呼び出したのはキタサンブラックも一枚噛んでいるのだろうか。それともサトノダイヤモンドの独断で行動しているだけなのか。

 

 サトノダイヤモンドはなにか考え込んでいるように黙っていた。しばらくした後、重々しく口を開いた。

 

「…………なぜ、キタちゃんに()()()()()をしたのですか」

「は?」

「10年前の、あの時のことです」

「……」

 

 やはりこの話になるのか、というのが俺の正直な感想だった。

 俺と彼女は10年前の事件が起きてから、会ってもいないし話したこともない。彼女が俺を問い詰めるのは何らおかしい事ではないのだ。そこから全てが始まっているのだから。

 今回のことは間違いなく10年前のことが起因している。もしかしたら、10年前のことを訊き出すために俺を呼んだのだろうか。

 

 長いまつ毛の下の、強かな意思を宿したサトノダイヤモンドの瞳がじいっと俺を射抜く。

 半端な答えも、話題を逸らすことも許されないのは火を見るより明らかだ。

 

「俺が最悪なぐらい未熟でバカだったからだ。キタサンのためだとか言って、俺は自分のことしか考えていなかった。それに尽きる」

「キタちゃんが傷つくと思わなかったのですか?」

「……思わなかったんだろうな。だから()()()んだ」

 

 そう言うと、サトノダイヤモンドの目つきがさらに険しくなった。耳も引き絞られていた。

 

「本当に……本当にっ!」

「……」

「あなたはっ、何も思わなかったのですか!?」

 

 

 

 感情を露わにしてきた彼女をどこか俯瞰で見ている自分に気づく。

 だからだろうか。次に彼女が発する言葉が直感的に分かってしまった。

 

 

 

 

「キタちゃんに────」

 

 

 

 

 桜色をした彼女の唇から、それが言い放たれる。

 

 

 

 

 

 俺がキタサンブラックにしてしまった、最低最悪の所業が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ドーピングさせて!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 久しくその言葉を聞いた。

 

 競争能力を向上させるために筋、神経、血液成分、代謝、内分泌系に作用する禁止薬物を使用する行為、ドーピング。

 ウマ娘のレースだけでなく、スポーツにおいて絶対的な禁忌とされるもの。

 

 それこそが、俺の過ち。

 

 

 俺はあの時、キタサンブラックを騙してドーピングさせた。

 

 

「……さっきも言ったろ。俺は自分のことしか考えてなかったからドーピングさせたんだ。キタサンの気持ちを少しでも考えてたなら、騙してドーピングなんてするはずねえだろ」

「……っ」

「坂川健幸はキタサンブラックにドーピングさせた。その事実が全て物語ってる」

 

 至る道筋がどんなものであろうと、坂川健幸という人間が選んだのはドーピングという行為だ。

 それが事実なのだ。

 

 どこに弁明の余地があろうか。

 仮に弁明したとして、それはただの言い訳にしかならない。

 

 

 サトノダイヤモンドが立ち上がって、俺の目の前にやって来た。

 そして──

 

 

「────っ!」

 

 

 ──ばちっ、と乾いた破裂音が俺の左頬から聞こえた。続けてヒリつく感覚と痛みが同じ箇所に訪れた。

 

 俺はサトノダイヤモンドにぶたれたのだ。

 ただ痛いだけで済んだのだから、ウマ娘の力を考えれば相当に手加減されたものだろう。親友を傷つけた仇のような存在の俺に対して、この程度で済んで良かったとさえ思える。

 

「……ごめんなさい。手をあげたことは謝ります」

「…………」

 

 彼女は力なくうなだれていた。

 こういうところで謝ってしまうのが彼女の育ちの良さや性格の良さに起因するものなんだろう。

 サトノダイヤモンドは優しいウマ娘だ。実際に接していたから分かる。そんな彼女に暴力を振るわせる所業をしたのが坂川健幸だ。

 

「キタちゃんをあんなに傷つけたあなたを、私は一生許しません」

 

 当然だ。

 担当ウマ娘にドーピングさせたトレーナーなんて、それだけでレースに関わるウマ娘からしたら唾棄すべき存在だ。そしてそのドーピングされたウマ娘が自身の親友なのだ。こうして口をきくだけでも不快に感じていることだろう。

 

「あなたは今……」

「……今、なんだ?」

「キタちゃんのことをどう思っているのですか? あなたの担当じゃなくなってからトゥインクルシリーズで名を上げ、DTLでも絶対的な王者であり続けるキタちゃんを見て、あなたは一体何を思ったのですか?」

 

 二転三転と話題が変遷する。……いや、変遷しているように俺が思えてしまうだけだ。

 俺とサトノダイヤモンドの関係は10年前に止まったままだった。それが今動き出しただけなのだ。

 だから今、ドーピングしたときの話と、それ以降の話を俺に訊ねているのだ。

 

 

 親友が道半ばまで共にした坂川健幸がどういう人間だったか。それを見定める最終確認だ、これは。

 

 

「そもそも、あなたはキタちゃんのレースを見ていたのですか?」

「ああ、見ていた。勝ったレースも負けたレースも全て」

「……そう、ですか。それで、あなたの手から離れたキタちゃんを見てどう思ったのですか」

「良かったと、思ってる」

「……」

「キタサンは昔から、自分の走りでみんなに元気や笑顔を与えたいと言っていた。それは達成されたんだ。GⅠ7勝だぞ? ルドルフに並ぶ快挙だ。加えて、表彰式での歌唱やウイニングライブでのあのパフォーマンス……レース場は大歓声に包まれてた。メディアにだってたくさん出た。日本でキタサンブラックを知らない奴なんていないだろう。間違いなく、アイツは多くの人間やウマ娘に感動を与えた。元気と笑顔をみんなに与えることができた。夢は叶ったんだと思う。……本当に良かった」

 

 一拍置いて、俺はただ事実を口にした。

 

「俺みたいな最低のトレーナーから離れられて、本当に良かった。キタサンも喜んでるだろう──」

「っ!!」

 

 ばちっ! 

 

 と。俺が言い終わる前に再びさっきと同じ衝撃が左頬に走った。

 俺はまたサトノダイヤモンドにぶたれた。しかも、さっきより強い力で。

 

「今度は謝りませんっ!」

「な……!? お前……?」

 

 驚いた。

 

 俺が見上げたサトノダイヤモンドの目に、涙が浮かんでいたから。

 

「キタちゃんは……今のキタちゃんは! 身体もボロボロで、もうとっくに限界を迎えてるんですっ!」

「は……?」

「そんなキタちゃんがどんな思いで今も走り続けているのか、あなたは知っていますか!? 知らないでしょう……!」

「一体なにを……」

 

 今日一番、サトノダイヤモンドは感情を爆発させていた。

 理由はわからない。見当もつかない。

 

 身体がボロボロ……未だにDTLの中長距離で頂点に立っているキタサンブラックが!? 彼女に関するニュースや情報は余すことなく収集しているし、レースだって見ている。そんな兆候は見受けられなかった。

 だが、サトノダイヤモンドが嘘をつく理由がない。限界を迎えているというのはおそらく事実なのだろう。

 

 それをなぜ、今俺に伝えたのだろうか。その真意は? 

 

「……本日は突然お呼び出しして申し訳ございませんでした。失礼します」

 

 感情を無理やり落ち着けた様子のサトノダイヤモンドはそう言って応接室を出ていった。

 

「……どういうことなんだよ……」

 

 部屋に残されたのは、なにも分からない男一人だけだった。

 

 左の頬には未だにじんじんとした痛みがあった。

 

 ◇

 

 その日の放課後、トレーナー室にて俺のチームのウマ娘たちを待っていると、キングヘイローが最初にやって来た。

 

「おう、お疲れさん」

「ええ。って!? トレーナー、その顔……」

「ん? ああ、これか」

 

 彼女の指摘を受けて、湿布を貼ってある左頬に手をやる。あれから段々と腫れてきたので冷やしたのちに湿布を貼っていた。

 

「午前中に歯医者に行ってきてな。腫れたから湿布貼ってんだよ」

「嘘よ。誰にやられたの!? キタサンブラック!?」

「歯医者に行ったんだ。()()()()?」

「っ!」

 

 今話す気はないと、はっきりとそう拒絶した。

 全部話した後なら伝えてもいいが、今彼女に伝えるとこのまま飛び出していってしまいそうな気がするからそうした。それにこの痛みの程度なら、数日もすればきれいさっぱり治るだろう。どうということはない。

 

「それより、身体はどうだ?」

 

 何か言いたげな彼女を制して、先に俺が口を開いた。

 

 キングヘイローの両腕に絆創膏がいくつも貼られていた。脚はニーソックスで隠れているため分かりにくいが、よく見ればそのニーソックスの膝辺りをはじめ膨らみがあちこちに見て取れる。まだガーゼか絆創膏を貼っているのだろう。

 

「……擦り傷や切り傷が痛いだけで、他は問題ないわ。一流のキングの身体なら、数日もすれば治るわよ」

 

 数日で治るという、俺自身の頬の腫れに感じていることと同じように話すのを見て、少しおかしくなった。

 

「そうか、なら良かったんだ。キング、昨日のこと……すまなかった」

「……どうしてあなたが謝るのかしら? それに、私が聞きたいのは謝罪じゃないわ」

 

 キタサンブラックとのことを教えてと、彼女は言ってきた。

 

「アイツとのことは……話すつもりでいる」

「!」

「だが、今ここでは話せねえ。どこで誰が聞いてるか分からねえからな」

「……そんな、内容なの」

「そうだ」

 

 ──キタサンブラックに昔ドーピングさせた。それをURAにもみ消してもらった。

 

 そんなこと、このトレーナー室で話せない。話が漏れたら全てが終わりだ。

 

「だから今週末からの夏合宿でお前らに話す。あんな誰もいない田舎なら、邪魔も入らねえだろうしな……おい、お前らも早く入ってこい」

 

 つい先程から扉の向こうにウマ娘の影が見えていた。ウマ耳の形や背格好からモエとペティだということは分かっていた。

 扉を開いた2人は、難しそうな顔をして入ってきた。

 

「お前らも聞いてたな? ちゃんと話すから、それまで待ってくれ。頼む」

 

 3人に頭を下げてから、今日のトレーニングへと向かった。

 

 

 

 キングヘイローは擦り傷がまだ治ってないので室内で別メニュー。カレンモエもウェイトを中心としたメニューをこなした。

 

 キタサンブラックは姿を現さなかった。清島の言うことを聞いてくれた……ということなのだろうか。

 

 

 そしていよいよ、夏合宿へと舞台は移っていく──

 

 

 ◇

 

 

 ほぼ同時刻、一番広いメイントレーニングコース……トレセン学園のトップチームたちが使用しているそのコースにて、あるチームのウマ娘たちがトレーニングをしていた。

 

 そのチームとはアルファーグ。先頭を走るキタサンブラックに、グラスワンダーとエルコンドルパサーが追いすがっていた。

 2人の次走予定……毎日王冠の1800mを想定した模擬レースを行っていた。

 

「ふぅ、ふっ……! 必ず、捉えて……っ!」

「はあ、はあ! くうううう~~~~~~、追いつけないデース!」

 

 朝日杯FSを無敗で制したグラスワンダーと、NHKマイルカップを無敗で制したエルコンドルパサー。2人とも紛うことなき無敗のGⅠウマ娘で、スペシャルウィークやセイウンスカイと並んでクラシック級を代表する実力者である。

 しかし、そんな2人を歯牙にもかけないように突き放していくのがキタサンブラック。彼女の適性より短い1800mであるのに、全く問題にしていなかった。

 

 結局2人は追いつけず、勝利したのはキタサンブラックだった。

 彼女は遅れてゴールを駆け抜けた2人に声をかけた。

 

「ふうっ……2人ともお疲れ様! 走り、良かったよっ!」

「ふっ、ふっ、はあっ……あ、ありがとうございました……まだまだ、精進せねばですね」

「ぜえ、ぜえ……悔しい~~~~! もっともっと、速くなってみせます!」

「あはは! 2人ともその意気だよっ! 毎日王冠にはサイレンススズカちゃんが出るかもなんでしょ? あの娘、もしかしたら今のあたしより強いかもしれないよ?」

「「キタサン先輩以上……」」

 

 そんなやりとりをする3人の元へ1人の人影が近づいてきた。

 

 チーフトレーナーの清島だった。

 

「トレーナーさん、お疲れ様です」

「お疲れさまデース!」

「ああ……キタサン、ちょっといいか」

「……はい。じゃあ2人とも、トレーニング頑張ってね」

 

 返事をするクラシック級の2人に背を向けて、清島とキタサンブラックはトレーナー室へと向かった。

 

 

 入室した2人は向かい合った。

 

「昨日、なぜあんなことをした?」

「…………」

「……黙ってても分からねえぞ、キタサン」

「…………」

 

 トレーナー室に沈黙が訪れる。

 

「…………」

 

 ──口を噤んだキタサンブラックの表情は、苦しそうに歪んでいた。そしてどこか、悲しそうでもあった。

 

「……話したくないんだな」

「…………すみません。清島先生」

「俺に謝らなくていい…………話したくないならそれでいい。でもな、二度と昨日のようなことはするな。いいな……!」

 

 怒気をはらませてそう言った清島に対し、キタサンブラックは小さく頷いた。

 

「ならいい。今日はもう上がれ。来週はSDT決勝だ。……歩様、乱れてるぞ。身体のケアだけしとけよ」

「……はい。失礼します」

 

 キタサンブラックはそうして部屋を出ていった。

 

「…………キタサン。お前は……」

 

 1人になったトレーナー室で、清島の言葉はそれ以上紡がれることはなかった。



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第44話 夜のあぜ道

 トレセン学園では1学期が終了し長い夏休みへ入った。

 学園主導の合宿に身を寄せるチームもいれば、サマーレース遠征のために学園に残るチームもいた。チームの枠にとらわれず、グループの持つ合宿所兼療養所で夏を過ごすメジロ家やサトノ家のウマ娘なんかもいた。

 

 俺たちのチームは郷田のチームなど、似通った人数の数チームと合同で北関東の山間部にある合宿所に来ていた。近くに大型の商業施設こそないものの、車で10分ほど行けば田舎街ながら一通りの店は揃っている所だった。

 

 ここ数年継続して利用しているその合宿所は、廃校となった小学校を改築してできた施設だった。URAが直接運営している数多くある合宿所のひとつで、まだ改築されて10年未満なので施設自体は新しく、マシンなどの機器も揃っていた。

 食事などもURAから手配された調理師たちが食材を含めてちゃんと準備してくれる。もっとも、メニューはトレーナー陣があらかじめ合宿前に一通り提案しておく必要があるが。

 

 ウマ娘たちは貸切バスで移動。足が欲しいトレーナー陣はそれぞれの自家用車で移動していた。道中運転していると、カレンモエの面倒を見るために一昨年往復しまくったときのことを自然と思い出していた。あの時はよくもまあ、毎日あれだけ運転したものだ。もう2年も前だというのに、つい最近のように感じられた。

 

 初日の午前中は移動。午後は、ウマ娘たちはコースのスクーリングやトレーニング施設の確認後自由行動となっていた。

 トレーナー陣は改めてスケジュールの確認と打ち合わせをした。基本的には各チーム各ウマ娘ごとの集中的なトレーニングになるが、併せや模擬レースの予定も組んでいるので、その最終的なすり合わせをエントランスの広間で行った。

 

「──以上だ。解散。明日からよろしく頼むぞぅ」

 

 最年長でまとめ役の郷田が締めてそれもお開きになった。

 そうなると、トレーナー陣も今日はヒマになる。明日に備えて荷ほどきがてらゆっくり部屋で過ごす奴や、早速街の方へ買い出しに行く奴など過ごし方はそれぞれだ。

 

 何の気なしにトレーニングコースに出ると、体全体を真夏の空気が迎えた。

 目の前には元々の小学校グラウンドよりも数倍広くなったコースが目の前に広がっていた。流石にトレセン学園のコースよりは狭く、バ場の種類も少ないが、この人数で合宿する分には十二分なものだ。URAの管理も行き届いており、太陽に照りつけられた青々とした芝の眩しさに思わず目を細めた。

 コース全体を見渡すと、スクーリングがてら軽くランニングしているウマ娘たちが何人もいた。その中にウチのチームの2人の姿もあった。

 

 そして、ウチのチームのもう1人……ペティは、そんなウマ娘たちの様子を建物の影にて見守っていた。普段は下ろしている、腰までの長さの黒鹿毛をポニーテールにしており、そのうなじには汗が光っていた。長い間、こうして外にいるのだろう。

 

「おう」

「あ、トレーナーさん」

「影にくると意外と涼しいな」

 

 コースに目をやったまま、彼女に並び立った。

 彼女には話しておかなくてはならないことがある。それを口にした。

 

「お前、先生の娘なんだってな」

「…………はい。そうですよ」

 

 少し間を置いて、静かに彼女はそう言った。

 

「隠してたこと、怒ってますか?」

「怒らねえよ。むしろ、お前が怒ってんじゃねえのか? お前のことを覚えてなかった俺に」

「! どうしてそのこと……もしかして、思い出して──」

「悪い。思い出してはねえんだ。お前の父親に……清島先生に聞いた」

「……なんだ、そうだったんですか」

 

 ──ずるいなあ、と。ペティは独り言のようにそう言った。

 俺のチームに入って約1年、初めて敬語じゃない彼女の言葉を聞いた気がする。

 

「昔、ポニースクールのオープンキャンパスでトレセンに来た時に、俺とキタサンに会ったんだってな」

「……はい。その通りです。スクールのウマ娘たちに馴染めず、1人でフラフラしてた私に声をかけてくれたのがおにいさんとおねえさん……トレーナーさんとキタサンブラックだったんですよ」

 

 そう説明されても、その当時のことはまるで思い出せなかった。ここまで覚えていないとなると、ペティに対して大きな罪悪感を感じた。

 

「……すまねえな。思い出せない」

「もう10年前のことですから、仕方ないですよ。むしろ、そんなことを今でも覚えているわたしの方がおかしいのかもしれません」

「それは絶対にない。悪いのは、忘れちまってる俺だ」

「……これを」

「なんだ?」

 

 ペティはポケットから取り出したスマホを操作して俺に渡してきた。

 その画面には10年前の俺とキタサンブラックのツーショットが映っていた。ぎこちなく口元だけ笑っている俺と、俺に身を寄せて満面の笑顔でピースをしているキタサンブラックが並んで立っていた。今ではもうあり得ない、しかし10年前は当たり前だった光景だった。

 

 それを見せられて、脳裏をかすかによぎるものがあった。

 キタサンブラックと一緒に写真を撮られたようなことを思い出した。でも、思い出せたのはそこまでだった。

 

「お前が撮ったのか?」

「はい」

「確かに、写真を撮られたような覚えがある」

「最後、別れる時に撮ったんです。そのあとすぐ、2人はスプリングステークスに勝つんですもん。ほんの少し前に会ったおにいさんとおねえさんがテレビの向こうで華々しく活躍してる……あの頃のわたしにとって、2人はヒーローだったんです。2人が勝って誇らしかったですし、憧れでした。2人はもっと活躍して、私だけじゃなく、日本中のヒーローになるんだって疑いませんでした」

 

 大切なものをひとつひとつ引き出しから取り出すように、ペティは当時の心境を語った。こんなに俺たちを想っていてくれていたなんて、思いもしなかった。

 

「そんな2人が、いつの間にか一緒にいなかったんです。子どもながらレースや情報はテレビや雑誌、ネットのニュースで追っていました。でも、キタサンブラックが菊花賞を勝ったとき、トレーナーさんはどのメディアからも姿を消していた。あんなに仲の良かった2人だったのにおかしいと思いました。でも、父さんに訊いても何も教えてくれない。キタサンブラックと会った時に訊いても口を噤むだけ。尚更おかしいと思いました。トレーナーさんにいたっては、どこに行けば会えるかも分からない。トレーナーの名簿には載っていましたから、中央に在籍していることだけは知っていましたけど」

「……菊花賞前からその年度の終わりまで、俺は地方に行っていたからな」

「……そうだったんですか」

 

 ドーピングが発覚してからその年度の終わり、つまりアルファーグを正式に離れるまで俺はURAの指示で全国の地方トレセンを数週間ごとに転々としていた。研修のための出張というのが表向きの理由で、実際は中央から離れさせるためだった。

 

「子どもながら、手詰まりになったことが分かりました。わたしのヒーローたちがどうなったのか知りたかったですけど、諦めるしかなかった。その後、GⅠをいくつも勝って現役最強に登り詰めたキタサンブラックを見るのは嬉しかったです。でもトレーナーさんはどこにもいなくて……胸のつっかえは取れないままでした。時間だけが過ぎて、あっという間にキタサンブラックはトゥインクルシリーズからDTLへ。わたしはポニースクールに学校にと忙しくなって、気づけば小学生を終えていました」

「そっから勉強一本に切り替えて、トレセンに入ったんだったか」

「そんなことまで聞いてるんですか。父さん、何でも話しすぎなんですよ……。ええ、走りの才能がないことは分かったので。ならスタッフ研修課程の枠でトレセン学園に入ってやろうと思って勉強したんです。将来的にはウマ娘に携わる仕事がしたかったですし」

「……なあ、ペティ」

「なんですか?」

「入学したお前は、俺とキタサンのことを知りたかったから俺のチームへやってきたのか?」

 

 彼女の話を聞いていて、そこがどうしても気になった。最初トレーナー室に彼女がやって来たとき、俺のチームの未勝利戦のウマ娘の傾向や成績を熱弁していたことを思い出す。

 俺のチームに来たいからあんなデータを見つけたのか、それと関係無く偶然あのデータを見つけたのか、どっちが先なのだろうか。

 

「う~ん、難しい質問ですね。はっきり言ってしまうと、トレーナーさんとこのウマ娘を真っ先に調べたことは事実です。でもそこで面白そうなデータが見つからなかったら、トレーナーさんのチームには入ってなかったと思います。スタッフ研修生のキャリアを考えて、自分の益になるチームに行きたかったですから。もし違うチームに行ってたら、ただトレーナーさんと理由をつけて会って、なんとかキタサンブラックとのことを訊き出そうとしてたと思います。ずっと、知りたかったことでしたから」

「そうか……」

「でも、最初に会ったときに言ったことは本心です。本音を言うと、トレーナーさんとこのウマ娘を調べて少し嬉しくなりました」

「嬉しい? 何でだ?」

「やっぱり、トレーナーさんは凄いんだなあ、って思ったんです。……最初に会ったとき、わたしのことに気づいてくれてればもっと嬉しかったですけど」

 

 話し終えたペティは大きく息をついたあと、笑ってこちらを見た。付き物が落ちたような笑顔だった。

 ここ最近はペティとぎこちない関係になっていたので、そんな笑顔を見れてほっとした気持ちになった。

 

「話してくれてありがとうな。……今日の夜、お前らに話そうと思う。俺とキタサンのことを」

「……そうですか。なんか複雑です。これまで知りたかったのに、いざ教えてもらうとなると──」

「……言っておくが、気持ちのいい話じゃない。話を聞いた後、お前らが俺を見限ったって何もおかしくない」

「…………」

 

 それにペティは答えなかった。

 

「夜、散歩でもしながら話そうかって考えててな。後からお前らに集合時刻と場所を連絡するわ。キングとモエが戻ってきたらそう言っといてくれ」

「……はい」

 

 俺はそう言い残すとコースを離れた。

 

 

 

 ──ついにやってきた。全てを話す時が。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 坂川が指定したのは、完全に日が沈んで暗くなった時間帯だった。

 指定された通り、合宿所を出て舗装路を数分歩いたところにある、自販機が何台も置いてあるバス停へ向かった。スポットライトが当たっているみたいに明るいそこに、坂川の姿があった。

 

「お、キングか。もう来たのか」

「ええ。モエさんとペティさんは?」

「来てねえよ。まだ30分前だぞ。お前が早く来すぎなんだよ」

「……もう来ているあなたが言うことかしら?」

 

 坂川はベンチに座って缶コーヒーを飲んでいた。

 

 集めた張本人とはいえ、自分よりも早く来ている彼にそう言われるのは納得できなかった。

 

「お前も何か飲むか? あとは寝るだけなんだから、ジュースとか糖分の多いもんは無しな」

「……じゃあ、ミネラルウォーターでいいわよ。あなたに奢る権利をあげるわ」

「分かった。水だな」

 

 坂川は自販機でミネラルウォーターを買うと、それを私に差し出した。

 それを受け取った私はベンチに腰掛けた。私から一人分空けて、坂川も再びベンチに座った。

 

「ねえ、トレーナー」

「ん?」

「あなたの過去に何があろうと、私はそれを受け止めるわ」

「……は?」

「な、なによっ」

 

 坂川は目を丸くしてこっちを見ていた。

 

 さっきのセリフ、実はけっこう勇気が要った。なのに、何なのかしらこの反応は。おばか。

 

「いや、すまねえ。気を使ってくれてんだな。ありがとな」

「……ふんっ」

「でもな、俺の話を聞いてから、どうするか考えた方が良い。俺を見限って、チームを変えたって別にいいんだ。俺は止めねえよ」

「なっ、にを……!」

 

 カチンと、頭にきた。

 流石に今の言葉は聞き逃がせない。私がそんなことをするウマ娘だと──

 

「……なんだ。お前らみんな、来るの早えんだよ」

「トレーナーさん。キングも、もう来てたんですか」

「……」

 

 ペティとカレンモエが姿を現したので、喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。

 

「おし。揃ったし行くか」

 

 立ち上がった坂川は、コーヒー缶をゴミ箱に捨ててから歩き出した。

 

 彼のあとを、私たち3人が付いていく。

 

 バス停から離れ、田んぼの間を通る、車が1台通れるぐらいの道を歩いていった。

 夜の涼風によって、辺りの稲が音を立てて揺れていた。

 

「話す前に頼みがあるんだ。今から話すことは絶対に口外しないでくれ。親しい友達にも、親にもだ。約束できるか?」

 

 私たちは3人とも肯定の返事をした。

 

「ありがとうな……さて、何から話すかな」

 

 前を歩く坂川の表情は見えない。

 

「ま、最初から順を追って話すか」

 

 いつもと変わらない調子だが、どこか淡々とした口調で彼は語り始めた。

 

 

 

 トレーナーになりアルファーグに入ったこと。

 

 キタサンブラックの担当になったこと。

 

 キタサンブラックと二人三脚で、トゥインクルシリーズに挑んでいったこと。

 

 メイクデビューからスプリングステークスまで順調にいっていたこと。

 

 皐月賞で初めての敗北を喫したこと。

 

 ダービーで惨敗したこと。

 

 ダービーでの敗北から、距離短縮を考えていたこと。

 

 

 そして、そこから話は続いていく。

 

 次に彼が話し始めたのは、キタサンブラックがクラシック級のときの秋のことだった。



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追憶7 分水嶺

 夏の合宿を終え、9月に入ったばかりのサブトレーナー室には2人のトレーナーの姿があった。

 アルファーグのサブトレーナーである俺とその先輩だった。もっとも、そのうちの1人はもうすぐトレーナーでなくなるのだが。

 

「本当に辞めるんですね。先輩」

 

 先輩トレーナーはサブトレーナー室にある自身の荷物や書類などをまとめてダンボールに入れていた。普段から俺が世話になっている先輩で、生理学や薬学に精通しており、博士号も持っている優秀な人物だ。

 その彼だが、海外を拠点とする世界有数の製薬会社にヘッドハンティングされる形でトレーナー辞めることになっていた。トレーナーになっても大学で研究を続けており、先日出した論文の成果が評価されたらしい。

 

「なんだ、寂しいのかよ?」

「いえ、そうでもないです」

「おい!? そういう時は嘘でも寂しいって言うもんだろうが!」

「……先輩はトレーナー辞めて、心残りとかありませんか?」

「どうした急に。そうだな……やりがいもあったし、金も貰えたし、ウマ娘みたいな可愛い女の子たちとずっと接せられたし、楽しかったぜ。ただまあ……GⅠは取りたかったな」

 

 彼の担当したウマ娘から重賞ウマ娘は何人も輩出していたが、結局GⅠウマ娘は出せなかったのだ。

 こんな優秀な人でもGⅠを取れないなんて……やはり、G1を勝つことは容易ではない。

 

「それぐらいだな。ヒトやウマ娘と接するのも楽しかったが、やっぱ俺には研究職が肌に合ってた。研究ってうまく行っても行かなくても、自分だけ悩んでればいいから気楽なもんだよ。大学じゃなくて企業に入るんだから、これからはそうもいかないんだろうけどな。ま、今回の話は渡りに船ってところだ。あんなデカい会社、中々入れるもんでもないからな。……よし、今日はこんなもんでいいか。残りはまた後日だな。じゃあな坂川。最近ずっと言ってっけど、根詰め過ぎんな。ほどほどに頑張れよー」

 

 彼は段ボールを抱えて出ていった。彼の担当だったウマ娘は俺以外のトレーナーに振り分けられており、もうトレーニングを見る必要はなくなっていた。

 

「……ほどほどに頑張れ、か」

 

 彼に言われたそれに、素直に従うことはできなかった。

 

「ほどほどに頑張る程度じゃ、GⅠなんて……」

 

 そう独り言ちた俺は気を取り直してトレーニングの準備を始めた。

 

 

 キタサンブラックにGⅠを勝たせる。そのためにはどんな努力だって惜しまない。

 今の俺にはそれしか頭になかった。

 

 まずは前哨戦、今から3週間後のセントライト記念へ向けてやれることをやるだけだ。

 

 ◇

 

 キタサンブラックのトレーニング量は春の頃とは比較にならないぐらい増えていた。正確に言えば、俺が増やしていた。故障につながらないギリギリのラインを攻めていた。

 

「もう一本だキタサン! いけるな!」

「ふっ、ふっ、……はい! まだまだ、大丈夫です!」

 

 坂路から上がってきたキタサンブラックに休憩させることなく、すぐさま次の一本に向かわせた。

 彼女はダッシュで坂路の下へ戻り、幾度目かとなる坂路を駆け上がってきた。

 

「遅い! タイムが落ちてるぞキタサン」

「はあっ、はあっ。す、すいませんっ」

 

 トレーニングは苛烈さを極めていた。彼女はそれに耐えうる体を持っているとはいえ、他のウマ娘にこんな過酷なトレーニングを課してたら十中八九潰れてしまうような負荷をかけていた。

 でも、この程度でタイムが落ちていては駄目なのだ。理想のタイムに全然届いていない。

 

 ……ここまでスパルタにして、俺自身心を痛めないと言ったら嘘になる。

 しかし、勝つためには必要なのだ。セントライト記念を。そして、秋のGⅠを。

 

「……次は芝コースに戻るぞ。水分補給したらすぐに来てくれ」

「はいっ!」

 

 元より、事前の話し合いでこのトレーニングについてはキタサンブラックにも納得してもらっている。だから彼女を信じて、俺は可能な限りのハードトレーニングを課すだけだ。

 

 

 日本ダービーでの惨敗から、キタサンは中々立ち直れないでいた。日常的に話していてもどこか浮かない表情をしていたし、トレーニングにも身が入っていなかった。身体は問題なかっただけに、当時の俺は焦っていたことを覚えている。

 やっと立ち直れたのは6月も下旬になってからだった。親友であるサトノダイヤモンドに献身的に励ましてもらったり、同期のウマ娘たちと何かあったことがきっかけで、本来の調子を取り戻していった。それ自体は良かったのだが、メンタル面では何もサポートできなかった自分に無力感も感じていた。

 ……悔やんでいても仕方ない。今はやれることをやるだけだ。

 

 

「よし、行くぞ……スタートっ!」

「っ! はあああああっ!」

 

 声を上げて気合をつけながらキタサンブラックはターフを駆けていく。

 決して甘やかさない。一切妥協しない。俺は心を鬼にしてトレーニングに臨んでいた。

 

「次は併せだ! 競られても絶対に掛かるなよ! ペースを維持するんだ!」

「ふっ、ぐうっ、はあっ、はっ……はっ、はい!」

「全然駄目だ! もう一本!!!」

 

 

 全てはGⅠを取るため。

 キタサンブラックの夢を叶えるため。

 

 そのためだったら、なんだってやってやる。キタサンブラックに嫌われたっていい。

 たまにキタサンブラックが俺の体調を気遣うようなことを言ってくるが、その度に一蹴していた。いくら寝不足になっても、体調を崩しても、絶対に表に出ないようにしていた。

 彼女に余計な心配をかけたくないのだ。彼女には自分のことだけに目を向けてくれればいい。

 

 

 ──そうして過酷なトレーニングを続けていると、すぐにセントライト記念の日はやって来た。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 中山レース場2200m、3着までに菊花賞への優先出走権が与えらえるセントライト記念(GⅡ)。

 キタサンブラックは6番人気でレースを迎えた。ダービーで惨敗したからか、人気を落としていた。同じ中山での皐月賞で3着になったウマ娘の人気ではなかった。……舐められたものだった。

 

 9月の最初の週こそハードトレーニングを課していたものの、疲れも出てきていたことから、その次の週から今日まではトレーニングを大きく緩めて疲労を溜めないようにしていた。あくまで目標は来月のGⅠ、仕上げはするが仕上げし過ぎずを意識して調整した。

 

 その結果は──

 

『キタサンブラックが2番手から抜け出した! 後続も迫って来たが抜かせない! キタサンブラックゴールインッ! 2着以下は接戦!』

 

 ゆったりとしたペースを番手につけたキタサンブラックが直線で抜け出し勝利した。4コーナーで逃げウマ娘に並びかけ、沈んでいく逃げウマ娘を尻目に、先頭に立った彼女はそのまま押し切った。

 これでスプリングステークスに続いて重賞2勝目。6番人気を覆す見事な勝利だった。この仕上げでどうなるか心配だったが、しっかりと勝ち切ってくれた。

 

「……“2200には対応可能。ただし、スローペースを番手”」

 

 ウイニングランをしているキタサンブラックを見やったあと、ノートにそう記した。

 

 2200mと距離に不安があったものの、キタサンブラックは克服して勝利した。夏合宿からのハードトレーニングに耐えてきたキタサンブラックが報われる結果となった。

 1着になったので、菊花賞の優先出走権を得た。だが──

 

「セントライト記念で1着。なら……」

 

 ──菊花賞には向かわない。3000mは彼女の適性外だからだ。

 セントライト記念で善戦し2000mへの適性を改めて確認できたなら天皇賞秋、明らかに失速して惨敗してしまうようなら距離短縮してマイルチャンピオンシップと最初から決めていた。

 

「天皇賞秋だ」

 

 天皇賞秋──東京2000mのGⅠ、秋の盾を巡る下半期の中距離王者決定戦。

 

 俺が選んだのはシニア級が中心となるこの大一番だった。厳しい戦いになることは百も承知だ。だが、キタサンブラックは既に東京2000mで勝利した経験がある。これ以上ない絶好の舞台だ。

 

 天皇賞秋まであと1ヶ月強。メンバーレベルはこれまでの比ではない。今のキタサンブラックのままじゃ足りないのは明らかだ。

 

「……浮かれてる暇はねえ」

 

 ウイナーズサークルで記念撮影に応じる笑顔のキタサンブラックから目を離し、スタンドをあとにした。

 

 

 ◇

 

 

 その翌日、サブトレーナー室にキタサンブラックを呼び出した。もちろん、次の出走レースについて伝えるためだ。

 

「キタサン、昨日はよくやった。身体の調子はどうだ?」

「ありがとうございますっ! 身体の方は万全です!」

「そうか、良かった。昨日言い忘れたけど、ライブも良かったぞ」

「本当ですか!? えへへ、嬉しいですっ! ……ハァア~~ン! よおし、喉の調子もまだまだ絶好調ですっ!」

 

 昨日のレースの疲労なんてどこに行ったのか、演歌歌手のようにこぶしを効かせた発声練習をする彼女は元気いっぱいのようだった。

 

「なあキタサン、次走のことなんだが」

「はいっ! 菊花賞ですねっ! クラシック最後の一冠、絶対に──」

「天皇賞秋に行く。菊花賞はパスだ」

「──え」

 

 彼女は一瞬にして真顔になった。真ん丸になった緋色の瞳が真っすぐにこちらを見ていた。

 俺が今言ったことが理解できないと、聞き間違いではないかと、彼女の態度が如実にそう物語っていた。

 

「ど、どういうことですか。だって、セントライト記念で菊花賞の優先出走権を取ったのに……」

「3000mは距離適性外だからだ。キタサンに長い距離は合わない。お前の適性は10ハロン……2000m前後だ。ダービー14着、忘れたわけじゃないだろう」

 

 俺はキタサンにこの結論に至った理由を説明した。戦績やレース内容、血統、体格など、俺が考えた経緯を包み隠さず話した。セントライト記念の結果次第で、天皇賞秋かマイルチャンピオンシップどちらに出走するか決めようと考えていたことも。

 

「じゃあ最初から菊花賞は……」

「選択肢に入っていなかった。セントライト記念に出したのは優先出走権を取るためじゃなくて、叩きと距離適性の見極めのためだったんだ」

「でも、トレーニングを積んだ今のあたしなら3000mだって……それに皆だって3000mは初めてなんですし、気合入れて、頑張って走れば絶対に大丈夫です! 今度こそ勝ってみせますっ!」

 

 彼女は納得していないようだった。そこまでして菊花賞にこだわる理由が俺には分からなかった。一生に一度のクラシックだからだろうか。

 

「……ウマ娘の距離適性を甘く見るな。努力で距離を克服できないことは、これまでのウマ娘たちが証明してる。才能、能力、血統……生まれ持ったものが距離適性を決めるんだ。……確かにその通りにならないウマ娘もいる。でも、お前はダービーで惨敗してる。それが何よりの証明だ。セントライト記念はスローペースを番手につけたから粘り勝ちできた。あと1ハロン伸びたり、ペースが速ければ後ろから差されてたかもしれない」

 

 畳みかけるように言葉を継いでいく。

 

「そんな…………でもっ!」

「主役になりたいんじゃないのか? 同世代だけの長距離GⅠの菊花賞より、クラシック級で天皇賞秋を勝つ方が遥かに価値があるし、絶対に注目される。一気にお前はトゥインクルシリーズの主役になれる。レースを見ているみんなに元気と笑顔を与えられる。お前の夢は菊花賞に出ることか? 違うだろ、G1を取ることだろう?」

「……」

「……キタサン、どうしてそこまで菊花賞にこだわるんだ?」

「それは…………約束、しちゃったから……」

 

 彼女は何か小声でつぶやいたようだが、俺には聞き取れなかった。

 

「今年の天皇賞はチャンスなんだ。宝塚を勝った現役最強格のラブリーデイは多分出てくるだろうが、去年勝ったスピルバーグは絶不調、ジェンティルドンナやジャスタウェイはトゥインクルシリーズ引退……抜けた絶対的な王者はいないし比較的層が薄い。ダービーで3着のサトノクラウンも出るらしいが、2000mなら十分巻き返せる。俺はキタサンなら勝てると思ってるから、天皇賞に出て欲しいんだ。頼む……!」

 

 俺は彼女に頭を深く下げた。

 

「なっ! 頭を上げてくださいトレーナーさんっ……」

 

 言われた通りに頭を上げると、下を向いて険しい顔で考え込んでいる彼女が目に入った。胸の内で何かがせめぎ合っているような、そんな様子に見えた。

 

「…………はい。分かりました。天皇賞秋に出ます」

「! そうか! 良かった!」

 

 なんとか彼女の同意を得られた。絶対に嫌だと言われたらどうしようか悩みどころだったが、彼女も分かってくれたようだ。

 

「じゃあ、また今日からよろしくな! 絶対に秋の盾を取るぞ! クラシック級で天皇賞を勝って、みんなをあっと驚かせてやろう!」

「……はい……」

 

 まだ心残りがあるのか、歯切れの悪い返事だった。でも時間が経てばちゃんと納得してくれるだろう。

 

 

 

 ──これが誤った選択だとは、当時の俺は微塵も思っていなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 キタサンブラックに天皇賞秋への出走を伝えてから約2週間が経過していた。

 10月にも入り、天皇賞秋へ向けてのトレーニングに臨む日々が続いていた。

 

 

 過去5年の天皇賞秋の勝ちウマ娘の傾向を見ると、そのうち3人が上がり3ハロン最速、残りの2人は上がり3ハロン2位と上がりの速さを要求されるレースとなっていた。勝つことを考えるなら、絶対的な上がりの速さは必要になってくるように思える。

 しかし、その5人のウマ娘全員が中団や後方からの差しウマ娘であったので、前目につけるキタサンブラックとは事情が異なってくる。先行から粘って掲示板に入ったウマ娘が何人かいるので、そのウマ娘を基準にしてメニューの参考にした。

 

 その中でも注目したのが昨年と一昨年とも2着に敗れたジェンティルドンナ。どちらも先団につけてレースを運んだウマ娘だ。上がり3ハロンは34.4秒と35.8秒となっていた。キタサンブラックは東京2000mのクラシック級1勝クラスで34.7秒を記録しており、その2つとは遜色ないように思える。時期は違うが、ジェンティルドンナの天皇賞秋は東京開催9日目、キタサンブラックの1勝クラスは8日目と、条件的にはほぼ同じ。これが天皇賞秋を選んだ理由のひとつだ。

 しかし、レースペースによって上がりのタイムは上下するのだ。だからこれで足りているとは言い切れない。ジェンティルドンナはジャパンカップで32.8秒を出せるウマ娘だ。それを考えに入れるなら、条件さえ整えば……もっと言うならトレーニングでそれぐらいのタイムを出せないと勝利には至らない。なにしろジェンティルドンナは2着に負けているのだ。相手関係のこともあるとはいえ、そのタイムを数ある目標のひとつとしてトレーニングを行っていた。

 

 ついでに言うなら東京2000mの持ちタイムはキタサンブラックが1勝クラスで2:01.4、去年の天皇賞秋勝ちウマ娘スピルバーグが1:59.4と圧倒的に足りない。しかし、1勝クラスは半年以上前のことだし、単純比較はできないがコーナー4つの中山2000mの皐月賞でキタサンブラックは1:58.8と、2000mで2分を切るタイムで走ることができるのだ。これも天皇賞秋を選んだ理由のひとつだった。

 

 夏合宿を経て上がりの速さはぐんぐんと伸びて来ていたので、少し前まである程度の期待感があったのだが────

 

 

 ここに来て、その期待感は悪い方向へ裏切られることになっていた。

 

 キタサンブラックが俺の目の前を駆け抜けていき、設定したゴールラインを越えていった。

 

「はあっ、はあっ、トレーナーさん、タイムどうでしたか」

「……目標に届いてない。休憩したらもう1セットやるぞ」

「はっ、はっ……はいっ……わかりました」

「ほら、これ」

「あ、ありがとうございますっ」

 

 地面にへたり込んだキタサンブラックにタオルとドリンクを渡したのち、今の基準に達していないタイムをノートに書き込んだ。これまで記録していたタイムの一覧表と今のタイムを見比べてみた。

 

(……タイムが落ちてる)

 

 トレーニングのタイムが全然伸びない。むしろ、タイムが落ちていて上がり目が見られない。

 彼女の歩んできた成長曲線を考慮して立てた予測からすると、もっとタイムは良化するはずだと想定していた。でも、現実はそうなっていない。逆に下降線を描いている。

 このままじゃ、天皇賞秋を勝てるレベルまで引き上げることができない。

 

 俺の内心は焦燥感に駆られる一方だった。

 

「はっ、はっ……はあっはっ……」

「……」

 

 未だに息が整わないキタサンブラックに目をやる。

 ここ最近のトレーニング量は以前にも増して苛烈になっていた。清島から「無理をさせるな」と注意を受けたぐらいだった。客観的に見て、量と質を高い次元で要求する俺のトレーニングをこなすだけでも凄いものだと思う。……このトレーニングを課して彼女を苦しめている張本人が思うことではない。

 このままではうまく行かないことだけは分かった。考える時間も欲しかったし、俺は彼女を休ませることにした。

 

「……キタサン、今日はもうやめとこう。トレーニングは終わりにしよう」

「はっ、はっ…………えっ? いえ、あたしは大丈夫です! 元気いっぱいなのでっ! このまま続けてください!」

「いや、今日はこれで上がろう。最近ずっとハードだったし、休みも無かったからさ。ストレッチだけ入念にやって、ゆっくり休んでくれ」

「……はい。トレーナーさんがそう言われるなら……」

 

 キタサンブラックを地面に寝転ばせ、筋肉や腱の状態を確認しながらストレッチの手伝いをしてやった。

 確かに疲労はある。でも、目立った筋の突っ張りや炎症があるわけでもない。身体の状態に何も問題はないことにひとまずは安堵した。

 

「俺は片付けてからトレーナー室に戻る。キタサンは寮に帰ってくれていいよ。じゃあな、お疲れさん」

「……お疲れ様でした。ありがとうございました。また明日もよろしくお願いします。トレーナーさん……」

 

 

 

 キタサンブラックと別れ、出した用具を片付けた俺はトレーナー室に戻った

 

「いろいろ見直さねえと……」

 

 タイムが伸び悩んでいる原因があるはずだ。それを解決するためにも、これまでのトレーニングのデータを見ながら分析し始めた。



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追憶8 凡人たち

 時間を忘れて分析に没頭した。トレーナー室に戻ったとき、窓から覗く外はまだまだ明るかったのに、気づけば真っ暗になっていた。

 

「…………」

 

 いくつか、不調の原因として考えられるものを洗い出した。それを書き出したホワイトボードに目をやった。

 

 

 “高負荷のトレーニングによる疲労の蓄積。身体の変化”

 “不適切なトレーニングメニュー”

 “メンタルの問題。モチベーションの低下”

 “成長の停滞。早熟の可能性”

 “才能(ポテンシャル)の限界。能力(パフォーマンス)の限界”

 

 

 最悪な文字列が並んでいた。目にするだけで陰鬱な気持ちになってくるが、ひとつひとつ考察していくしかない。

 

 

 

 まずは“高負荷のトレーニングによる疲労の蓄積。身体の変化”。

 

 疲労はある。それは間違いないが、許容範囲を超えるものではない。毎日トレーニング後に身体の状態確認しているが、大きな問題は見受けられない。自覚症状の訴えもない。フォームが崩れていたり、身長体重が変化しているわけでもない。脚長も変化ないし、左右差があるわけでもない。

 状態が変わらないのなら、タイムが段々落ちてきていることに説明がつかない。

 触診ではわからないだけで、どこか痛めているのか? 彼女には少しでも違和感があれば伝えるように言っているし、ほんの少し前……セントライト記念の後に精密検査をしたときには何も見つからなかった。もう一度精密検査をするべきだろうか。

 でも、何も見つからなかったら? 

 

 ……現時点で明確な答えは出せなかった。

 

 

 

 次は“不適切なトレーニングメニュー”。

 

 基本的なメニューはそのままに、その時々の状態や目指すレースによって柔軟に変えている。メニューは定期的に清島に見てもらって修正しているし、不適切というものにはなっていないはずだ。

 

 ……しかし、今のメニューが完璧だという確証はない。清島は直接キタサンブラックを見ているわけではないからだ。

 

 

 

 3つ目は“メンタルの問題。モチベーションの低下”だ。

 

 天皇賞秋に出走すると決めてから、キタサンブラックの持ち前の明るさや元気さが戻らないままだった。

 接しているときは元気な様子や笑顔を見せてくれるのだが、独りの時の彼女は考え込んで悩んでいるような仕草を度々見せていた。

 その様子から察するに、菊花賞への未練があるのだろう。それも時間が解決し、彼女も次第に納得してくれると考えていたのだが、どうもそうはいかないようだった。

 

 これらが元気の無さやモチベーションの低下につながり、トレーニングに影響しているのなら、対応を考えないといけない。しかし、どんな話をすればいいのか分からない。この時期に話がこじれる事だけは避けたいので、やはり様子見が正解だろうか……?

 

 

 

 

 最後の2つ“成長の停滞。早熟の可能性”と“才能(ポテンシャル)の限界。能力(パフォーマンス)の限界”。

 

 正直、これは考えたくない。もしそうだった場合、打つ手がないからだ。

 しかし、答えとしては一番しっくりくるのだ。

 

 キタサンブラックは順調な成長曲線を描いてきた。ジュニア級を丸々身体作りに費やし、クラシック級になってから目覚ましく成長した。スプリングステークスを勝ち、GⅠの皐月賞は3着。ダービーでは大敗したが、セントライト記念には勝てた。

 重賞2勝、GⅠで掲示板。立派な競争成績だ。

 

 その成長がここで頭打ちだったら? 

 タイムが伸びないのは、彼女が早熟で、今が競争能力のピークだからではないだろうか? 

 

「…………」

 

 過去のトゥインクルシリーズを振り返ると、ジュニア級やクラシック級で全盛期を迎えて終わっていったウマ娘なんていくらでもいる。

 皐月賞やダービーで好走しても、その後全く成績を残せず引退していったウマ娘なんて、それこそ掃いて捨てるほどいる。

 

 ──キタサンブラックがそうでないなんて、誰が言える?

 

 過去10年を遡り、キタサンブラックと似た成績……皐月賞5着以内かつダービーで10着以下のウマ娘のその後の成績を調べてみた。該当するウマ娘は10人いた。その内の1人はダービー後未出走なので、実質9人だった。

 その結果は、GⅡを勝ったのが1人、GⅢを勝ったのが4人、重賞を勝てなかったのが残りの4人だった。

 悪くはない。しかし、GⅠには誰1人として届いていなかった。

 

「……嫌なデータ見つけちまったな……」

 

 ウマ娘のピークは短い。それに、ウマ娘が衰える予兆なんて誰にも分からないのだ。ある日を境に全く走れなくなるなんて珍しくもない。彼女は今が全盛期で、ここが才能(ポテンシャル)能力(パフォーマンス)の限界点の可能性だって十分にある。シニア級になって衰えない保証なんてどこにもない。

 彼女がGⅠを取れるチャンスは今だけ……今年の、この天皇賞秋だけかもしれない。

 

 もしそうなら、絶対に失敗できない。正解を見つけ出すしかない。

 

「GⅠを取らせてやるんだ……絶対に……」

 

 彼女の夢を叶えさせたい。何より、彼女に喜んでほしい。彼女に心の底から笑ってほしい。

 自分がトゥインクルシリーズの主役なんだって、自分は凄いウマ娘なんだって、そう自分を認めさせてやりたい。

 

 ……そのために、俺はどうしたらいいんだろう。

 

 ◇

 

「……くそっ…………どうすりゃ……」

 

 それから、その他にも様々なことを分析した。でも、いくら考えても答えが出なかった。

 ここまでやって、やっと俺は認識する。俺はデータや数字に表れない抽象的なものにめっぽう弱いのだ。

 

 書類が広げられたテーブルの上に俺は頭を抱えて突っ伏していた。どうしたらいいのか、何が正解なのか分からない。

 既にピークを迎えていて、今は衰えに入ってしまっている可能性を考えると、焦りばかりが募ってしまう。

 

 俺は完全に行き詰っていた。

 

 精神的にギリギリまで追い詰められていた。

 

 

「おいおい、こりゃあ見事な荒れっぷりだなあ」

 

 

「……え?」

 

 その声に思わず顔を上げると、いつの間にか部屋の中に先輩トレーナーがいた。入ってきたことに全く気づかなかった。

 彼はテーブルにぶちまけられた書類や、びっちりと書き込まれたホワイトボードに目をやっていた。

 

「先輩? どうして……?」

「最後に寮に残してたモンがないか見に来てたんだよ。そんで偶然トレーナー棟を通りがかったら電気ついてたから顔出したんだが……何かあったのか?」

「……実は──」

 

 渡りに船だと思って、キタサンブラックのことについて彼に話した。

 

「…………なるほどな」

「俺、どうしたらいいんでしょう」

「……なあ、坂川。今から飲みに行かねえか?」

「え?」

「長い話になりそうだしな……アドバイスになるかは分からんが。どうだ?」

「はい……いいですけど」

「よしっ、決まりだな。さあ行こうぜ! ……っと、ホテルに荷物だけ置いてから行くわ。駅前で待っててくれ」

 

 俺は先輩に連れられて繁華街へ向かうことになった。

 俺はノートに今日考えたことをまとめてから駅へ向かった。

 

 ◇

 

 連れてこられたのは普通の居酒屋だった。先輩は最初バーに行くつもりだったらしいが、俺が晩飯を食べてないことを伝えたら「なあらメシ食えるとこだなー」と目についたこの店を選んだらしい。

 案内された個室のテーブル席にて適当に注文し、運ばれてきた酒や食べ物を口にした。

 

「そういや先輩って、いつから会社のほう行かれるんですか?」

「明日」

「は? 明日ですか!?」

「おう。明日飛行機でアメリカの本社に行く予定」

「なっ!? こんなとこで酒飲んでていいんですか?」

「別にいいんだよ。準備は済んでるし、発つのは夕方だ」

「じゃあ、今日が本当に最後なんですね」

「そうだ、最後に忘れモンはねえか一応寄ったんだよ」

 

 他愛もない話をしながらアルコールを体に入れていく。お互い顔も赤らんできて、程よいぐらいにアルコールが回ってきてから、話が始まった。

 

「俺はトレーナーとして天才じゃなかった。15年近くトレーナーやって、俺の同期やチーフがバンバンGⅠウマ娘を育ててんのを見てると、嫌でもわかる」

「急になんの話を……?」

「まあ聞けよ。キタサンブラックとお前にも関係ある話だ……多分な」

 

 そう言われるならと、彼に話を促した。

 

「同期にもチーフにも知識量だけは負ける気がしなかった。ウマ娘に関する海外の論文も死ぬほど読み漁ったし、学会にだって参加しまくった。客観的に見て、知識量は学園のトレーナーで1、2を争うレベルだったと思う。……でも、俺は結局GⅠウマ娘を1人も出せなかった。知識とトレーナーとしての実力はイコールじゃないって、身をもって知った。改めて考えりゃ、当然のことだけどな」

 

 知識と実力がイコールではない……彼がそう言うのを聞いて、複雑な気持ちになった。

 

「その一方で、神に選ばれたようなトレーナーってのが事実いる。そいつが接しただけで多くのウマ娘が才能を爆発的に開花させる。何人も見てきたよ、そういうトレーナー。チーフも……清島チーフもその1人だよ。ああいう人達を天才って呼ぶんだろう」

 

 輝かしい成績を残し、今年もリーディングを快走している清島。その手腕をまだ俺は身近に感じたことはないが、彼が言うならそうなのだろう。

 

「俺は天才じゃなかった。そして……坂川。お前もたぶん、天才じゃない。俺と同じ凡人だ。よく似てるよ、俺とお前は。貪欲に何でも知識を吸収する姿勢とか、無駄に回る頭とかな。……それが結果に結びつかず悩んでるのなんて、昔の俺そのまんまだ」

「……昔の先輩も、俺みたいに悩んでたんですか?」

 

 俺がそう言うと先輩の表情が一瞬だけ陰った。

 

「ああ。最初に担当したウマ娘がいてな。引き合わされたお前とキタサンの関係と違って、俺自身がスカウトしたウマ娘だったんだ。身体は弱いし、ガラスの脚って表現がぴったりなくらい脚が脆くてな。実際、現役中何回も故障に泣かされたウマ娘だった」

「それは……大変だったんですね」

「……どうなんだろうな。ま、そいつが変わったウマ娘でな。芝中距離が適性なのに選抜レースでは出走枠がないからってダート短距離走ったり、契約したらいきなり美術館に連れていかれたり、色々振り回されたもんだ。見た目も中身もまんま深窓の御令嬢なのに、変なとこで強情だったり悪戯っぽかったりしてな。…………ああ、今でもこんなに覚えてるもんなんだな……」

 

 そう話す先輩は懐かしむように……そして、どこか哀しそうに見えた。

 

「そいつは契約したあと、こう言ったんだよ。『今、この瞬間に輝かせるために命を賭すことは、私に許されたただ1つの権利なのです』『私は私自身の生きた軌跡を、『今』にひと筋、残したいのです』……ってな。いつ砕け散るか分からない脆すぎる身体だってのに、よくそこまで覚悟を決められるなって感心したもんだ」

「先輩はどう答えたんですか?」

「『俺もアルダンが輝けるよう──』って、何言わせんだ! あー恥ずかし!」

 

 そう言う先輩は手うちわで顔をパタパタと扇いだのち、気を取り直すように咳ばらいをした。

 

「『今』を輝かせんと突き進むあいつを、これから精いっぱい支えていこうって、そう思った。……今のお前と同じだよ。彼女にどうしてもGⅠを取らせてやりたかった。あいつの宝石のような願いを叶えてやりたいって……そう思ってたんだ……」

 

 ……彼のウマ娘はGⅠを取っていない。ということは──

 

「でも、GⅠは取れなかった。ダービーでクビ差の2着、天皇賞秋でアタマ差の2着と3/4バ身差の3着。それで終わりだった。……俺、すげえ頑張ったんだぜ? ガラスの脚に爆弾がついてたようなウマ娘だったからな、毎日のダッシュ一本の負荷にも注意を払いながらトレーニングしてた。今でも、あの時の俺は極限まで努力したって言い切れる。大学の研究なんてそっちのけだったよ。……でも駄目だった。シニア級3年まで走らせて、その内半分の期間は故障していた。結果的にはGⅡをひとつ勝てただけだった。……あいつの夢は叶わずに終わった。生きた軌跡、少しは残せたのかもしれない。でも、その輝きは限りなく淡いものだった。あいつが心の底で望んでいたような輝きは得られなかった」

 

 彼の言葉が重く胸に圧し掛かってくる。彼とそのウマ娘の行く果てが、自然と俺とキタサンブラックの行く果てと重なってしまう。

 

「現役最後のレースになったジャパンカップで、14着に負けて戻ってきたあいつの顔がな……今でも忘れられないんだ。ずっと怪我と戦って、苦しい思いに必死に抗ってきたあいつが、初めて諦めた顔をしていた。そしてあいつは引退して……今は、どうしてるか知らない。暖かい家庭を築いて、好きな絵でも描きながら幸せに暮らしてくれてたらいいんだけどな……」

 

 そのウマ娘の表情のことを聞いて、自然と思い出されるのはダービーを負けた後のキタサンブラックのこと。

 

 彼の話を聞いてると、キタサンブラックのことばかり思い描いてしまう。

 このまま勝てずに終わってしまった未来のキタサンブラックを。

 

 ……それだけは嫌だ。

 

「あいつが引退したあと、俺は何人かのウマ娘で重賞を勝てた。でも、どんなに努力しても、GⅠには誰も届かなかった。俺のトレーナー生活では、どんなに努力しようが結果を残せなかった事実だけが残った。……この15年、悔しい思いばっかりだった。俺じゃ駄目なんだって、嫌というほど身に染みた。結局は、結果を残すことこそが全てだと思い知らされた」

「……そう、ですね」

「ああ。最も重要なのは結果を出すことだ。過程じゃない。ウマ娘に当てはめたらわかりやすい。才能があって、普通に努力してGⅠを取ったウマ娘と、才能がなくて、死に物狂いで24時間365日正しい方向に努力しても未勝利戦で二桁着順で終わり退学したウマ娘。どっちが賞賛される? 褒め称えられる?」

「……前者です」

「そうだ。才能の有無も、努力でさえも、結局のところ過程でしかない。過程に意味はない。結果が全てだ」

 

 そう言った彼は突然窓の外へ目をやり何かを指さした。

 

「坂川、見えるかあれ」

「? 建設中のビルですか?」

 

 居酒屋の窓から、建設中の高層ビルが見えていた。巨大なクレーンが上に載っており、深夜の漆黒に佇むその姿はさながら得体の知れない化け物のように見えた。

 

「あの建ててるビル、まだ創業して10年未満の企業のなんだぜ。なあ、真面目に真っ当に立派なことをやってるだけで都心にあんなビルが10年足らずで建つと思うか?」

「……先輩は、何が言いたいんですか」

「言うまでもないだろ。()()()()()()だ」

 

 この話の流れから、彼が言わんとしてることはわかる。でも、自分の口から言いたくなかった。

 

「過程に意味がないって、さっき俺は言ったな。つまり、結果が伴えば過程なんてどうでもいいんだ。もっと言うなら、結果を出すためなら、過程で何をしてもいいってことにならないか?」

「先輩、それは……!」

 

 話の雲行きが怪しくなってきた。

 どういうことだ? こんな話の持って行き方……まるで──

 

「……今日学園に来て、最後にお前に会ったのも、何かの運命なのかもな。本当はアメリカに持って行って、さらに詳しく成分や作用機序の解析をする予定だったんだが」

 

 彼はポケットから手のひらに乗る程度の大きさをした白い無地の紙袋を取り出して俺の方に差し出した。

 それを受け取り紙袋の中を覗く。

 

 

 その中に、錠剤が入った真空パックがいくつもあった。

 

 

「これ、は……?」

 

 

 訊きたくない。聞きたくない。

 でも、直感的に分かってしまっている自分がいる。これは先輩が普段くれるビタミン剤とはわけが違う。

 

 ビタミン剤とは比べ物にならないぐらい禍々しいものだ。

 

 

 

「お前が思っている通りのもんだよ。クスリだ。競争能力を著しく向上させる、な」

 

 

 

 これは、禁止薬物だ。

 

 

 

「……先輩っ!!! なにやってんですか……!」

「おいおい、そう興奮すんなよ」

「なにを! ドーピングなんて、絶対に許したら駄目です! いくら結果を残したいからといって、絶対に手を出しては──」

「落ち着けって! ちょっと話を聞いてくれ。……言っとくが俺は使ったこともないし、お前に使わせるためでもない」

 

 信用できない。

 使ったことがない? どこにその証拠があるのか。

 俺に使わせるためでもない? ならここで俺に渡して見せる必要がない。

 

 彼の真意が全く見えない。

 だが、この話の流れからして、俺に使わせようとしていることは明らかだ。

 

「知っての通り、俺は薬学が専門分野でな。こういう世界にいると、そういう情報も入ってくるんだ。トレセン学園のごく一部のトレーナーの間で流通しているクスリの成分がどんなもんか、興味があって手に入れたんだ」

「流通!? トレセンでドーピングが蔓延してるんですか!?」

「ごく一部だって言っただろ。蔓延はしてない。ただ、常習的に使っているトレーナーはいる。……安心しろ、清島チーフ含めアルファーグのトレーナーは使ってねえよ。清島チーフみたいな天才にはこんなもん必要ないからな」

 

 嘘としか思えないような衝撃的な事実が彼の口から語られる。

 

「でもっ! ドーピングなんかしてたらレース後の検査で──」

「そのクスリはレースで使うもんじゃない。トレーニング時に使うクスリだ。URAはレース後のドーピング検査は行っているが、学園での抜き打ち検査は行っていない。だから、クスリの残留にさえ気をつければバレるリスクは限りなく低い」

「──そんな」

「このクスリ、色んな成分を使ったハイブリッドでな。スピードやスタミナを高めるから普段より高負荷のトレーニングをこなせるようになる。加えて、トレーニング効果自体を高める効果もある。そのふたつの相乗効果で飛躍的なトレーニング効果が期待できる。夢のような代物だ。長期的に服用すると副作用のリスクはあるが、短期的には副作用はほぼない。せいぜい血液凝固が阻害されるぐらいだ。よく出来てる」

 

 彼は続けてそのクスリの用法や体内の残留時間について説明し始めた。

 

 彼が語ったクスリの効果がとても甘く聞こえた。

 禁止薬物でなければ、喉から手が出るほど欲しいと思ってしまった。

 

「……俺に使わせるためにじゃないって言われましたよね。なら、なんで見せたんですか?」

「お前に使えって強制している訳じゃないんだ。ただ、選択肢を用意してやろうと思ってな」

「選択肢……?」

「ああ。そもそもの話……お前とキタサンの話に戻るぞ。お前が悩んでることに対して、トレーナー15年やってきた今の俺から言えるのは、『諦めて受け入れろ』ってことだけだ」

「キタサンのGⅠ勝利を諦めろって言うんですか」

 

 できるわけがない。

 

「ああ、そうだ。トレーニング内容は問題ない……逆に良いぐらいだ。量は確かに多いが、2年目であそこまでの分析とメニューの組み立てがよくできたもんだ。感心したよ。あれで勝てなかったら、仕方ないって受け入れるしかないんだよ。キタサンのピークの話もそうだ。今が全盛期で落ちるだけなら、そういうもんだったんだってことだ」

 

 そう諦められたらどれだけ楽だろう。できないからこうして相談しているのに。

 

「お前はキタサンが初めてのウマ娘だから、GⅠを取らせたいって気持ちは痛いほどわかる。でもな、ウマ娘を何十人も担当してくると、次第に諦めがつくようになる。……いや、諦め方が上手くなるって方が正しいな。直に()()()慣れるさ」

 

 彼はグラスに入ったウイスキーを呷ってから話を続けた。

 

「だけどな、もしも……もしもの話だ。俺がトレーナー1年目に戻って、アルダンをまた担当して、手もとにそのクスリがあって、それを使えばGⅠを取れると……あのわずかな(絶望的な)差が埋められるなら──」

 

 彼がこの先何を言うのか、言葉にせずともわかってしまう。

 

「──俺はクスリを使う。あいつがGⅠを勝てるなら、喜んで手を汚してやる」

「……何を言ってんですか……そもそも、そのウマ娘がドーピングを受け入れるかどうかは──」

「なぜ本人に言う必要があるんだ? あいつはクスリなんて自分からは死んでも使わない。なら本人に言わなけりゃいいだろ? 適当にビタミン剤やプロテインにでも混ぜて摂取させればいい。ドーピングを知ってるのは俺だけでいい。本人にもURAにも、バレなけりゃいいんだ。違うか?」

 

『ウマ娘には何でも包み欠かさず話した方がいいぞ』

 

 以前、そう言っていた彼と同一人物だとは思えない。これが彼の本性だというのだろうか。

 

「それは……」

 

 言い返せない。

 

「…………」

 

 

 

 

 なんで俺は言い返せないんだろう……? 

 

 

 

 

「俺はな、今でもあいつのことを夢に見るんだよ。どんな夢だと思う?」

「……分かりません」

「夢の内容はいつも一緒だ。あいつがGⅠを勝って、笑ってる夢さ。……最高(最低)の夢だろ?」

 

 先輩が伝票を手にし、自身の荷物も持って席を立った。

 テーブルの上に白い紙袋は置いたままだった。

 

「お前も、もしかしたら同じような夢を見るかもな。……じゃあな、坂川。これでお別れだ。今まで楽しかったぜ」

「先輩、待っ──」

「それはお前の好きにしたらいい。……嫌なら捨ててくれ」

 

 先輩は俺の引き留めに足を止めることなく去っていった。

 

「……」

 

 目の前に置かれた紙袋を凝視する。

 紙袋は居酒屋の照明に当てられ、鈍い光を放っているように見えた。

 

「…………」

 

 

 

 

 

 ……いつまでそうしていただろう。

 

「……っ!」

 

 俺は──

 

「クソッ……!」

 

 ──その紙袋を懐に入れた。

 

 入れてしまった。

 

 

 ◇

 

 

 

 戻ったトレーナー室にて、ソファにもたれて目を瞑っていた。あの紙袋はデスクの引き出しに入れていた。

 酔いが醒めた頭でずっと考え込んでいた。

 

「……」

 

 目を開けて、手にしていた万年筆を目の前に掲げた。彼女から貰ってから毎日使っているのに、それはまだ新品のように綺麗に光り輝いていた。

 

 ──結論が出た。

 

「…………俺は」

 

 

 俺だけが手を汚せばいい。

 罪の意識に苛まれていればいい。

 騙した罪悪感で押し潰されてればいい。

 

 

 傷がつかないように、万年筆をケースにしまった。

 

 

 

「……俺は」

 

 

 

 キタサンブラックが勝てれば、それでいい。

 

 

 

「俺は──」

 

 

 

 キタサンブラックが夢を叶えて、笑って喜んでくれるなら、それでいい。

 

 

 

 

 

 

「──最低のトレーナーだ」

 

 

 

 

 

 



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追憶9 破綻

 翌日、キタサンブラックへ昼までにサブトレーナー室に来るようメッセージを送った。

 

 彼女は授業の休み時間にやってきた。

 

「おはようございます、トレーナーさん! それで、ご用事ってなんでしょうか?」

「ああ、いつも昼に飲んでもらってるビタミン剤なんだが」

 

 俺は真空パックに入った錠剤を差し出した。

 心臓が痛いぐらいに跳ねていた。心臓の音がうるさくて、キタサンの声もかろうじて聞こえるぐらいだった。

 

「今日、これ追加で飲んでくれるか?」

「はい。わかりました!」

 

 キタサンブラックは何の疑いもなくそれを受け取った。

 

 

 

 

 ────本当にいいのか? 

 

 

 

 

 そう考えている間に、彼女はそれをスカートのポケットに入れた。

 

「あたし、栄養のこととかあまりわかんないですけど……いつも気を遣っていただいて、ありがとうございます! それじゃトレーナーさん、放課後、よろしくお願いします!」

「…………キタサン……っ」

「? どうかされました?」

 

 踵を返した彼女を呼び止めた。

 振り返った彼女は不思議そうにこちらを向いた。

 

「……いや、なんでもない。また放課後な」

「はい!」

 

 キタサンブラックはサブトレーナー室から出ていった。

 独りになったサブトレーナー室で、この前まで先輩のものだった無人のデスクに自然と目がいった。

 

 

 ──もう後戻りはできない。

 

 

 心臓の鼓動は未だ鳴りやんでいなかった。

 

 ◇

 

 放課後になり、キタサンブラックとのトレーニングに臨んでいた。彼女の様子は変わりなく、いつもと同じように見えた。

 

 そして、遂にタイムを測るトレーニングになった。これまでと同じように、1ハロンごとのタイムを測って記録していった。

 彼女が設定したゴールラインを通り過ぎた。足を緩めて流す彼女を確認すると、最後の1ハロンのタイムを記録用紙に書き込んだ。

 

 今のタイムと昨日のタイムを見比べると、思わず声が漏れ出た。

 

 

「…………これ、は……」

 

 

 昨日のタイムを見ると、13秒台ぐらいから入り、12秒台の時計が連続して最後の2ハロン目で11秒台、最後の1ハロンで12秒台となっていた。

 対して今日のタイムは、13秒台から入るのは変わらないが、途中から11秒台の時計が連続していた。そして極めつけに叩き出されたのが、最後の3ハロン全て10秒台というタイム。しかも加速ラップでラスト1ハロンは10秒前半。

 

 

「──駄目だ。これは」

 

 

 速すぎる。

 

 こんなタイム、担当してから見たことがない。それどころか、アルファーグのウマ娘でもこんなタイムを出しているのを見たことがない。

 

 

 これがドーピングの力だというのだろうか。

 

 

 

 

 おぞましい、と思ってしまった。

 

 

 

 

「駄目だ、駄目だ駄目だ。こんなの駄目だ……!」

 

 

 

 こんなタイム、今のキタサンブラックが出していいタイムじゃない。

 

 このタイムを目の当たりにして全身が粟立った。熱に蕩けていたような頭も急速に冷やされたように感じた。

 また、昨日と今日のことで頭が混乱してきた。頭の中がぐちゃぐちゃで、思考がまとまらなかった。

 

 

 ──何をやってるんだ俺は……! ドーピングなんて……こんなタイム…………こんなの、許されることじゃ……! 

 

 

 頭がこんがらがって、情緒が不安定になってきたのが分かった。表現し難いほどの焦燥感に駆られていた。

 

 昨日考えに考え、悩みに悩んで、強い決意を持ってクスリを使うと判断したそれは、記録されたタイムによってあっさりと破壊されることになった。

 幸い、キタサンブラックに渡したクスリは今日の1回分のみ。明日からは摂取させなければいい──

 

「トレーナーさんっ! 今のタイムどうでしたか!? あたしとしては、すごく手ごたえがあって!」

「あ! おいっ、キタサ──」

 

 キタサンブラックは俺の持っていた記録用紙を覗き込んだ。見せないようにしようとしたが遅かった。

 彼女はそのタイムを見てしまった。

 

「ええっ! このタイム……~~~~っ!! やったやった! すごくいいタイムですよね、トレーナーさんっ!」

「え、あ……」

「あたし、こんなタイムで走れるようになったんだ……! トレーナーさんのトレーニングのおかげです! やっぱり、トレーナーさんは凄い!」

 

 ──違う違う違う! これはクスリのせいなんだ! 

 

 なんて、言えるはずがなかった。

 

 タイムを見た彼女は飛び跳ねるように喜んでいた。

 このトレーニングのあとは息を整えるのに時間がかかるのに、彼女は平気な様子だった。今の自分が異常だということに彼女は気づいていないようだった。

 

「このタイムなら……! ……トレーナーさん」

 

 一転、彼女は真剣な表情をして俺に向き直った。

 

「……どうした?」

「今日のトレーニングの後、お話したいことがあるんです。お時間よろしいですか?」

「ああ、別に大丈夫だが……何の話だ?」

「それは……その時で。じゃああたし、もう1本行ってきますっ!!」

「あ、おいっ!」

 

 彼女はあっという間に走りに行ってしまった。

 

 ◇

 

 トレーニング後、制服に着替えたキタサンブラックがサブトレーナー室にやって来た。先輩がいなくなって現状俺だけの部屋になっているこの場所で、彼女と向かい合った。

 まだ頭は混乱していて、焦燥感は消えていなかった。

 

「どうしたんだ改まって」

「あの……トレーナーさんにお願いがあって」

「お願い?」

「はいっ!」

 

 彼女の目は意を決したように強い光を宿していた。

 

 

 

「あたし、菊花賞に出たいですっ!!!」

 

 

 

「……は?」

 

 耳から入ってきた彼女の言葉を、脳が理解することを拒んでいる。

 その言葉で、精神的な余裕が消え失せていく。

 

 

 ──今更、何を言ってるんだ? 

 

 

 

「今週までですよね。菊花賞の出走登録」

「……ああ」

 

 彼女の言った通り、今週末が菊花賞の出走登録の締め切り日だ。

 

「トレーナーさん! あたし、どうしても菊花賞を走りたいんです! 天皇賞秋じゃなくて、菊花賞に出させてくださいっ! お願いします!!!」

 

 立ち尽くしている俺に対して、彼女は勢いよく頭を下げた。

 

 

 

 ──あのとき、お前は了承したじゃないか……

 

 ──俺が、どれだけ考えて天皇賞秋を選んだか知っているのか……? ダービーが終わってからお前に直接伝えるまで、天皇賞秋で間違いはないかと何度も何度も分析したのに…… 

 

 

 

 爆発しそうになる感情をなんとか抑えながら、口を開いた。

 

「……理由を訊いてもいいか?」

「はい! ……あたし、ある友だちと約束したんです。菊花賞に出られないその娘の代わりに、菊花賞を取るって!」

 

 

 

 ──友だちとの約束? そんなものに、俺の血の滲むような努力が否定されるのか……? 

 

 

 ──菊花賞に出るなら、全てのメニューの組み直しが必要だ。天皇賞秋のために作られたメニュープランをぶち壊して、今から俺に新しくメニューを作れってのか? 毎日のメニューひとつひとつが、時間をかけ熟考を重ねて作ったものなのに……

 

 

 

 

 ──第一、菊花賞の3000mはお前の適性外だって伝えただろうが……! お前は今がピークかもしれなくて、GⅠを取る最期のチャンスの可能性だってあるのに、そんな大切な時期になんで負けにいくような真似をしなくちゃならないんだ……! 

 

 

 

 

 せき止めようとしても、抑え込もうとしても、体の奥底から自分の声が聞こえてくる。

 

 追い詰められた自分から聞こえてきたのは、()に支配された自分本位な言葉。

 

 

 

 

 ──そんな理由でレースを選んでGⅠを勝てるなら、誰がこんなに苦労するか……! 約束なんて、くだらない……! 

 

 

 

 

「って、あの娘と約束したのはあたしだけじゃなくて、もう1人いるんですけどっ。夏合宿のときに──」

 

 キタサンブラックの口から放たれた、その約束をしたウマ娘と言うのは、皐月とダービーで二冠に輝き、故障により菊花賞を回避していたあのウマ娘……ドゥラメンテだった。

 もう1人のウマ娘とは、キタサンブラックがスプリングステークスで勝利し、皐月とダービーでは先着されたウマ娘……リアルスティールだった。

 

 彼女らと仲良くなったのはダービーが終わってからのことらしく、それが立ち直るきっかけになったらしい。確かに、キタサンブラックがダービーの惨敗から元気を取り戻した時期と合っている。

 

 

 

 ──いつの間に()と仲良くなっていたんだ……! あいつらは倒すべき敵であって、間違っても仲を深める対象じゃない……! 

 

 

 

 裏切られた気持ちになった。

 

 

 キタサンブラックは何も裏切ってなんかないのに。

 

 

 彼女はただ友だちと友情を育んだだけなのに。

 

 

 

 

 

 俺の弱い心はもういっぱいいっぱいだった。

 

 

 

 

 

「だから、お願いします! トレーナーさんが()()()()()()()()尽力してくださっているのは知っています! でもっ、それでも菊花賞に出たいんです! 絶対に勝ってみせます! トレーナーさんっ、どうかお願いしますっ!!!」

 

 

 

 尽力。

 

 

 これまでの俺の苦悩や努力が、たったその一言だけに集約されていた。

 

 

 そのことが────許せなかった。

 

 

「……キタサン」

「はいっ」

 

 

 ダムが決壊するかの如く、感情の激流が心から溢れて出てきた。

 

 

 

 

 

 限界だった。

 

 

 

 

 

 一度溢れたものを止める(すべ)は無かった。

 

 

 

 

 

 歩みを進め、頭を上げたキタサンブラックの目の前に立つ。

 

 

「……っ!」

「トレーナーさん……? え──」

 

 

 手を振り上げて、彼女の頬へめがけて、それを振るった。

 

 

 

 バチッと、小さな破裂音が響いた。

 

 

 手のひらには、彼女の頬を張った感触が残っていた。

 

 

「──トレーナーさん、どうして……」

 

 

 何が起こったのかわからないと、呆然として自身の頬に手をやっているキタサンブラック。驚愕で見開かれた彼女の大きな瞳に俺が映し出されていた。

 

 俺はいったいどんな表情をしているのだろうか。

 

 でも、彼女の瞳に映る自分の顔を見る余裕は無かった。

 

「キタサン……!」

「ト、トレーナーさ……っ!?」

 

 再び俺に近づかれた彼女は目を瞑った。またぶたれると思ったのだろう。

 俺はそんな彼女の両肩を掴んで詰め寄った。

 

「お前は、なんで……!」

 

 

 

 ──全部、お前のためなんだ。

 

 

 

 ──お前の担当になってからの俺の日々全てを、お前に捧げてきたんだ。

 

 

 

 ──毎日のメニューも、体調管理も、栄養管理も、レースプランも…………ドーピングに手を染めたのだって、お前を勝たせるためなんだ。

 

 

 

 ──お前にGⅠを取ってほしいから。

 

 

 

 ──お前に笑ってほしいから。喜んでほしいから。

 

 

 

 ──お前の夢を叶えてほしいから。

 

 

 

 ──それだけだ。俺はそれだけでいいんだ。なのに……なのに!!! 

 

 

 

「──なんで、分かってくれないんだ……!!!」

 

 

 

「!? わかっ……っ!?」

 

 俺の言葉の真意を理解できない彼女の両肩を強く握って揺さぶった。

 

 なおも詰め寄る俺に対し、彼女は後ずさりし始めた。

 

 キタサンブラックの瞳は潤んでいた。

 

「いやっ……やめてください……トレーナーさん……」

「こうでもしないと! お前は分からないだろうが!」

「ごめんなさい! 気に障ったならあやま──」

「っ!!」

 

 謝るとか謝らないとか、そういう話ではないのだ。

 

 苛立ちを抑えられない俺はまた手を振り上げた。

 

「っ、いやっ……!」

「──ぐっ?」

 

 俺が手を振るう前に、キタサンブラックが俺を勢いよく突き飛ばした。

 ウマ娘の力によって俺の上体は大きくのけぞり、ほとんど吹っ飛ばされるように後退していく。体が倒れてしまわないように、必死に足を後方に出してバランスを取ろうとしたが、突き飛ばされた勢いが圧倒的に勝った。

 視線が上転し、天井の照明が目に入ってくる。そのまま金属製のラックやパイプ椅子などの備品が固めてあるスペースに倒れ──

 

「!! トレーナーさんっ、危ない──!」

 

 俺に向かって飛び込んできたキタサンブラックが、俺の頭を胸に包み込むように抱いてきた。

 しかし勢いは殺せず、俺は彼女もろとも後ろの金属ラックに頭から突っ込んでいった。

 

「ぐうっ!?」「っ、うっ──」

 

 突っ込んだ衝撃で、けたたましい音とともに立てかけてあったパイプ椅子や金属製のラックが倒れ、機材などが俺たちの上に落ちてきた。

 俺はキタサンブラックの胸に抱かれ、守られるように倒れていた。倒れた際に打ったのか背中に痛みがあるものの、それ以外は特に痛みを感じる箇所は無かった。頭も衝撃ひとつさえなく、俺は無傷で済んだ。

 

「キタサン、大丈夫か!?」

 

 俺よりもキタサンブラックの方が心配だった。俺をかばって金属ラックに頭から突っ込んだのも、落ちてくる機材からも守ってくれたのも彼女なのだ。

 

「キタサン……?」

 

 俺の呼びかけに彼女は反応しない。未だに彼女は俺を胸に抱きしめたままだ。

 

 嫌な予感が胸をよぎった。

 

「くっ!」

 

 俺は上に乗ったものを除けて起き上がり、彼女の上体を確認した。

 

「おい、キタサン! しっかりしろ!」

「────」

 

 彼女は気を失っているようだった。声をかけても反応しないので、意識レベルの確認のため耳元で声をかけるか頬を軽く叩こうとして、彼女の頭の方まで行くと──

 

「──え?」

 

 ──彼女の頭から血が流れていた。

 

 流れた血は床へと滴っていき、その血だまりを徐々に広げていった。

 

「っ!」

 

 俺は使ってないハンカチを取り出し、止血するために傷口を探し出してそれを強く押し当てた。思ったより傷口が大きい。

 

「どうする……!?」

 

 焦る頭で対処を考える。

 止血はとりあえずこれでいいだろう。問題なのは頭部への衝撃のほうだ。気を失うほどの衝撃を頭部に受けたのなら、脳の損傷がないか心配だ。すぐさま病院で頭部の検査をする必要がある。万が一何かあれば取り返しのつかないことになる。保健室で悠長に回復を待つ余裕は無い。

 

 ちょうどそこで扉が開かれた。その先にいたのは、アルファーグのウマ娘だった。

 

「なんかすごい音聞こえたんですけど──って、キタちゃんと坂川トレーナー!? ちょ、大丈夫なんですか!?」

「すまない! 救急車を呼んでくれないか!? 頭を打って意識がないんだ! 頼むっ!」

「は、はいっ!」

 

 そのウマ娘はスマホを取り出して119番をしてくれた。俺は途中で電話を替わって症状を説明した。10分もせずに着くとのことだった。

 

 

 電話してくれたウマ娘には清島に伝えるよう頼んだので、この場を離れていた。

 

「……キタサン、大丈夫だ……大丈夫だからな……」

 

 

 永遠にも思える時間の中、俺はずっと彼女の頭の傷口を抑えていた。ハンカチには血が()み、それを赤黒く染めていた。

 

 

 

 

 結局、キタサンブラックは救急車が来ても意識を取り戻さなかった。同時に血も中々完全に止まらなかった。

 

 

『せいぜい血液凝固が阻害されるぐらいだ』

 

 

 俺は彼の台詞を忘れてしまっていた。

 

 

 ◇

 

 

 搬送された病院にて、俺と清島はキタサンブラックの精密検査が終わるのを待った。

 彼女の父親と母親はコンサートのツアーの真っ最中らしく遠方にいるようで、今日中には来られないとのことだった。なので、代わりに俺たち2人に診断結果を聞いてほしいとの願いがあった。

 

 清島にはキタサンと少しもめて言い合いになってそうなったと濁した。しかし、ことが落ち着いてからちゃんと説明しろと釘を刺された。

 

 

 しばらくして、医者が俺たちの前に姿を現した。眼鏡をかけた真面目そうな風貌の中年男性だった。

 

「キタサンブラックさんのご両親から話は聞いています。清島様と坂川様ですね? どうぞこちらに」

 

 俺たちは医者に診察室へと促された。

 

「キタサンブラックは大丈夫なんですか?」

「ええ。頭部CTの画像からは特に異常は認めませんでした。しばらくすれば意識も戻るでしょう。意識が戻ったら問診をして、なにかしら症状があるようならMRI検査も検討しましょう。今は病室に移られて休んでおられますよ」

「そうですか……良かった」

 

 肩の荷が下りたようにほっとした。ひとまずは安心した。

 

「……ただ」

「え?」

 

 医者の穏やかだった口調が硬くなった。

 

「出血が中々止まらなかったもので……流石に異常だと思い、血液検査をさせていただきました。検査技師もいましたので、より詳細な検査もしました」

「──え」

「当院はトレセン学園から近いこともあって、トゥインクルシリーズに出る多くのウマ娘を診てきた歴史があります。歴史があるということは、その分多くのデータも蓄積されているということです。またそのような歴史からスポーツ方面に強い病院でもあります」

「……医者(せんせい)、何が言いたいんですかい?」

 

 ずっと黙っていた清島が口を開いた。

 

 

 

 

『せいぜい血液凝固が阻害されるぐらいだ』

 

 

 

 

 

 そこでやっと彼の台詞を思い出した。

 

 

 心臓が暴れるように跳ねていた。

 

 

「まだこれは私と技師だけしか知らないことです。まことに残念なことではありますが……彼女の血液から異常な成分や正常値から外れた値が検出されました」

 

 これから医者が何を言うのか、分かってしまった。

 

 

「彼女に、ドーピングさせていましたね? 清島様、坂川様」

 

 

 そう彼の口から言い放たれた。

 

 

 

 そうしてやっと、どれだけ罪深いことをしたのか、俺は気づくことになった。



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追憶10 罪を犯すということ

「バカな! そんなことあるわけないだろう!!! 何かの勘違いか、検体を間違えたんじゃないのか!?」

「いいえ、残念ながら事実です。私と検査技師2人で確認しましたから。疑われるなら、あなた方の目の前で再び採血して検査しましょうか?」

「ああ、そうしてくれ! ドーピングなんてするわけが──」

「先生」

「──なんだ、坂川?」

「すいません…………俺、です……」

「!? まさか……お前……!」

「……よろしいでしょうか。私も技師も、マスコミに垂れ込もうなどとは思っていません。しかし、多くのウマ娘を診てきた当院の医師として、この事実を秘することはできません。トレセン学園とご両親には連絡させていただきます。……以上です。今日はお引き取りを。キタサンブラックさんのことは我々が責任をもって経過を観察します」

 

 ◇

 

「一体どういうことだ!!!」

「ぐっ……」

 

 診察室から解放された俺は、病院の駐車場にある清島の車の中で胸ぐらをつかまれていた。

 

「ウマ娘にドーピングだと!? 許されることじゃねえ!!! ウマ娘のことを……キタサンのことをなんだと思ってやがる!」

「すいません……すいません……」

「謝ってるだけじゃ分かんねえだろうが! 全部だ! 全部説明しろ!」

 

 清島に言われる通り、クスリを使うに至った経緯やその後のことを包み隠さず話した。俺がキタサンブラックを勝たせたくて悩んでいたことも、先輩にクスリをもらったことも、今日初めて使ったことも、使って後悔したことも、サブトレーナー室で出走レースを巡ってキタサンブラックと揉めたことも。

 清島は怒ってはいたが、俺の話を静かに聞いてくれていた。

 

「アイツがクスリをくれたってのか!?」

「はい……」

「何やってんだアイツは! 今はまだ飛行機か? ……どっちにしろアメリカに行ったんだ。もう連絡つかねえと思っといた方がいいな……」

 

 清島は俺の胸ぐらをつかんでいた手を離した。

 

「バカが……そんなに自分を追い詰めるまで、なんで相談してこなかったんだ……!」

「…………」

「いや、相談したのがアイツだったのか。クソッ! ……本当に、今日の1回だけなんだな? クスリを使ったのは」

「はい……それだけは信じてください……」

「……分かった」

 

 そして清島は車を発進させ、運転しながらこれからのことを話してきた。

 

「お前は帰ったら寮の部屋から出てくるな。俺からの連絡があるまでずっと待機だ。新人寮の他の奴らと接触するなよ。あと俺以外からの電話やメッセージには反応するな。キタサンブラックにもだ」

「え……」

「学園関係者もそうだし、マスコミが嗅ぎつけて動き回るかもしれねえ。それに……俺もお前も、これからどうなるか分からんからな」

「そんな……」

 

 この言い方だと、俺だけじゃなくて彼まで罰せられ──

 

「先生は関係ないです! 俺が悪いんです! ……帰ったら俺がやったこと全部、学園に言いに行きます! だから先生は──」

「ガキは黙ってろ! いいか、キタサンブラックの所属はアルファーグだ。俺の担当ウマ娘だ。だから責任は全て俺にある。お前はサブトレーナーとして()()()()()面倒を見てただけだ」

 

 何を言ってるんだこの人は。これじゃまるで、彼が俺を庇うつもりにしか聞こえない。

 

 そんなことはさせたくない。何も悪くない彼が……今まで散々世話になってきた恩師と言える彼が、罪を被る必要なんて一切ない。

 

 

 全て俺が悪いんだ。俺だけが罰を受ければいい。

 

 そんな風に思っていた。

 

 

「俺がやったって言います。先生は何も──」

「あのな。キタサンブラックのこともそうだが、お前をサブとして雇ってんのはチーフである俺だ。チームの誰かが何かをしたら、責任を取るのは頭の俺なんだよ。……テレビで悪いことをした企業の謝罪会見を見たことがあるだろ? 社員が不祥事を起こしたとき、謝るのは社長とかの偉いさんだ。それと一緒だ」

 

 子どもを諭すようにそう言われた。

 そういうものだと理解はできるが、納得はできなかった。でも、言い返すこともできなかった。

 

 ──このときの俺はまだガキだったと思う。悪いことをすれば自分だけが責任を取ればいいとばかり考えていたのだ。それが大人だと思っていたし、それで済むと思っていた。

 でも現実はそうじゃない。社会はそんな単純になっていない。

 

「帰ったら学園には俺から言いに行く。さっきも言ったが、寮の部屋から出てくるなよ。俺以外の電話やメールは無視。誰かが部屋に来ても居留守を使うんだ。いいな?」

「……はい」

 

 自分が情けなかった。

 

 

 間もなくトレセンに着き、俺は数日分の食料品を買ってから新人寮の自室へ向かった。俺のデスクの棚に入ってる例のクスリは清島に場所を教えてあり、彼が回収することになっていた。

 

 部屋に戻った俺は軽く食べてから布団に入った。

 

 

 

 

 ──俺はずっと、ドーピングのことを知らされたキタサンブラックがどう思うのかを、意識的に考えずにいた。

 

 

 考えるのが、怖かった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 次の日の午前中、清島から連絡が入った。今回の事件の事実調査のため、学園やURAが呼び出しているとのことだった。

 昨日から今日までにアルファーグのサブトレや同期の天崎からメッセージや電話が入っていたり、扉をノックして呼びかけられることがあったが、清島の指示通り無視していた。

 

 すぐさま準備をして、本部棟へ向かった。

 本部棟に入るとそこには清島が待っており、2人で指定された会議室へ向かった。

 

「いいか、余計なことは喋るなよ。訊かれたことにだけ答えろ」

 

 俺はそれに頷いて、清島のあとをついていった。

 

 会議室に入ると、URAか学園の上層部の者と思われるスーツを着た人間が5人ほど。どれも鋭い眼光を……社会を勝ち抜いてきた人間特有の目をしていた。あとは学園側の秋川やよいと駿川たづなが出席していた。この2人の表情は見るからに明るくない。

 もっと大人数でのものを想像していたので、思ったより規模が小さいことに少し驚いた。

 

 俺たちが入室すると、真正面の中央に座している、髪をオールバックにした糸目の男が口を開いた。

 

「揃いましたね。それでは始めましょう……っと、その前に。皆さん、スマホやICレコーダーの類を持たれていたら机の上に出していただきたい」

 

 言われるとおりに皆がスマホを取り出して机の上に置いた。

 

「では会議が終わるまでこれらはお預かりします。万が一にも録音などは許されないのでね。それと……おい」

「はい。かしこまりました」

 

 彼の後ろに控えていた、秘書らしき女が輪のついた棒みたいなものを取り出した。テニスラケットを一回り小さくして、ガットを無くしたような形状をしていた。

 

「金属探知機です。念には念を入れて……ね」

 

 ──ここまでしなきゃいけないのか、というのが素直な気持ちだった。事の重大さが、俺が犯した罪の大きさが今になってやっとわかってきたような気がした。

 

 1人1人立たされて、金属探知機のチェックを受けた。服の装飾品以外のペンなどの小物類は全て取り上げられた。

 

 秘書はスマホや小物を持って退室していった。

 そうしてまでやっと本題が始まった。

 

「まずは事実確認をしましょう──」

 

 彼の口から今回の事情調査に至った経緯が話された。

 

 昨日の夜、入院したキタサンブラックが検査の結果ドーピング陽性となったと清島から連絡を受けた。

 確認のために病院に連絡すると、例の医師が直接学園に出向いて説明しに来た。その医師が清島と俺にその事実を伝えたと言ったらしく、それで俺たちが呼ばれた。

 

「URAはいかなる時と場合でも禁止薬物の使用を認めておらず、徹底したアンチドーピングを掲げています。ご存じですね? もし発覚したら厳罰が待っています」

 

 そんな前置きを聞いてから、ドーピングに至った経緯の事実確認に入った。

 清島は変に着色することなく、俺がやったことや、クスリの出どころなど、最低限の事実だけ話した。

 俺はずっと黙って話を聞いていた。

 

「キタサンブラックだけ、ですか。アルファーグが常習的にドーピングを用いたトレーニングをしていたわけではないと?」

「ああ」

「ふむ……本当ですか? 今から抜き打ちでスクリーニング検査を行っても?」

「好きなようにしてくれ」

「……いえ、試すようなことを言って申し訳ございません。そんなことはしませんよ。URAとしても、事を荒立てたくはないのでね。……それで、坂川くん」

 

 清島と話していたその男の顔がこちらを向いた。

 

「キミの話を聞こうか。今、清島さんが言ったことは事実ですか?」

「はい。間違いありません」

「認めるのですね。キミがキタサンブラックにドーピングさせた張本人だと」

「待ってくれ! この件は俺の管理不行き届きだ。こいつには──」

 

 話に割って入ってきた清島を、男は手で制した。

 

「私は坂川くんと話しているのです。どうですか、認めるのですか?」

「……はい。俺がやりました」

 

 この場にいる皆の視線が俺に注がれている。

 その視線がどんな感情を映しているのかが怖くて、顔を上げることができなかった。ただ下を向いて話すだけだった。

 

 俺はクスリの投与に至った経緯を自分の口から話した。

 詰られたり非難されるかと思ったが、誰も口を挟まず、俺が1人で話すだけだった。

 

「なるほど。キタサンブラックを勝たせたいがあまりにねえ……トレーナーとしては当たり前の感情なのかもしれないが、短絡的で愚かな選択をしたものですね。……おっと失礼。私の所感など必要ないですね」

 

 男は周りと目配せをすると、納得いったように息をついた。

 

「本日は以上です。今、預かったものを取ってきますのでしばらくお待ちください。言うまでもないですが、今日のことは他言無用でお願いします。……お2人の処分については、また後日に。改めてお呼びします」

 

 呼び戻された秘書にスマホなどの持参物を返却され、追い出されるように俺と清島は退出させられた。

 

 言い方は不適切かもしれないが、思ったよりあっさりしたものだった。もっと時間をかけて事実関係を確認されるかと思っていた。

 

「お前は引き続き寮の部屋に籠ってろ。いいな」

「……はい」

 

 清島とは本部棟を出て別れた。

 

 俺はできるだけ人目につかないよう、物陰に隠れながら新人寮に戻った。

 

「……誰もいないな」

 

 外から寮のエントランスに人影がないことを確認してから中に入った。

 

「あっ! 坂川くん!」

 

 足音を立てないように靴を脱いだところだった。外からは死角になっている通路の角から天崎が姿を現した。タイミングが悪いとしか言いようがなかった。

 

「よう。天崎」

「『よう』、じゃないよ! ……どうしたの? 昨日の夜も今日の朝もごはん出てこなかったし、メールも返信してくれないし……心配したんだよ?」

「なんでもねえ。ちょっと忙しくて、用事があっただけだ」

「えっ?」

「じゃあな」

「ちょ、ちょっと!」

 

 強引に話を切り上げようと思ったが、お節介な彼女はそうさせてくれなかった。

 

「アルファーグのウマ娘、誰だかは知らないけど病院運ばれたんでしょ? 大丈夫なの?」

 

 落ち着いて、なんとか誤魔化せる方向へ舵を取るよう意識する。

 

「ああ。先生から関係者以外に話すなって言われてるから、これ以上は言えないんだ。心配してくれてありがとうな……俺急いでるから」

「あ、待って待って!」

「なんだよ。これ以上は──」

「……坂川くん、幸ちゃんのお父さんのこと、知ってる?」

 

 不安そうに彼女はそう尋ねてきた。

 

「? なんかあったのか?」

「……いや、知らないならいいよ。引き留めてごめんね! 今日の晩ごはんはみんなで一緒に食べようね!」

「……ああ」

 

 曖昧にそう頷いてから自室へ向かった。

 

 

 

 

 結局その日も俺は自室で食事をとった。

 

 夜には、何度も扉をノックする音と天崎の心配そうな声が室内まで聞こえてきたが、布団をかぶってやり過ごした。

 

 

 ◇

 

 

 その2日後、清島から電話がかかってきて、再び本部棟に出向くことになった。

 

 彼もこの2日間自由に動けなかったらしく、情報を集めながら話が漏れないよう陰で立ち回っていたらしい。

 

 

 2日前と同じ部屋に入ると、中にはまた同じ面子が顔をそろえていた。スーツを着た男達数人と、秋川やよいと駿川たづなだ。

 

「お待ちしていましたよ。さあ、お座りください」

 

 前と同じように、糸目の男が話を進めるようだった。

 

「本題に入りましょう。私たちは意識を取り戻したキタサンブラックと接触しました。その上で事実確認をもう一度行います。坂川くん、よろしいですか?」

「はい……あの、キタサンブラックは、大丈夫なんでしょうか……?」

 

 彼女の容体が気になった。接触したなら知っているはずだ。

 

「は? ……ええ。意識障害もなければ記憶障害もなくて、精神機能は問題なし。身体も至って健康とのことでしたよ。私たちの聞き取り調査に対しても、しっかりと答えてくれました」

「そうですか……良かった。ありがとうございます」

 

 無事と聞いて、内心で胸を撫でおろした。

 

「しかしまあ、ドーピングなんて非道なことをしといて、そのウマ娘のことが気になるもんですかねえ。キミもおかしな男だなあ」

「ちょっと、そんな言い方……」

 

 俺を詰った彼に抗議の声を上げて立ち上がってくれたのは駿川たづなだった。

 

「? 私は至極真っ当なことを言ったつもりですが。本当に彼女の身を案じられる人間なら、最初から副作用の可能性のあるドーピングなんてしないでしょう? それに、バレればその娘のレース人生は滅茶苦茶になるのですよ?」

「しかしっ、トレーナーさんは──」

「自重ッ! ……たづな、気持ちはわかるが……」

「よろしいですか? 駿川さんもお座りください。話を始めますよ」

 

 窘められた彼女は静かに椅子へ腰を下ろした。

 

 その一連を見ていた俺には、今のこの男の言葉が胸に深く突き刺さっていた。

 

 

『本当に彼女の身を案じられる人間なら、最初から副作用の可能性のあるドーピングなんてしないでしょう?』

 

 

 全くもってその通りだった。正論以外の何物でもなかった。

 

 

 

 ──俺は、本当に彼女のことを大切に思っていたのだろうか? 

 

 

 

「昨日、自宅へ戻ってきたキタサンブラックと彼女の両親に、今回のことについて聞き取り調査と事実確認をしました。概ね、坂川くんと彼女の言い分は一致していました。ただ当然と言ったらいいのか、ドーピングのことは知らなかったようでしてね。それを彼女に伝えると放心状態になって、しばらく話ができないぐらいでしたよ。話せる状態に戻っても、信じられないと、嘘だと、聞き入れてくれませんでした。逆にご両親……特に父親の方は激怒しておられました」

「────っ」

 

 さらっと彼から語られたキタサンブラックの様子が容易に想像できてしまう。

 頭の中に描いたその光景が俺の心を抉っていく。

 

「事実確認ができたところで本題に入りましょう。要するに、あなた方の処分に関してです。キタサンブラックに関しては完全なる被害者のようなので処分は今の所検討していません。レース後の検査で発覚したわけではないですから失格や降着もありません。ただドーピングが実は常習的だったり、あなた方が庇ってるだけで故意であると発覚したら検討します。次はお2人について。坂川くんが犯した行為は以下の通り。ウマ娘への禁止薬物投与。ウマ娘への暴力行為……これは平手打ちして彼女に詰め寄ったこと。……どちらも悪質ですね。禁止薬物投与だけでもトレーナーライセンス剥奪ものなのに。以上を加味して坂川くん、キミには────」

「頼む! コイツにはどうか──」

「ちょっと清島さん、口を挟まないでいただきたい」

「こいつのことを気にかけてやれなかった俺の責任でもある! それに、クスリを持ってきたのも俺のとこの奴だ! 全部俺の管理不行き届きが原因だ。俺にはどんな処分が下ってもいい! だから──」

 

 必死に庇ってくれている清島を見ていると、無意識的に唇を血が滲むほど噛みしめてしまう。

 この人は何も悪くない。自分は庇われるような価値のある人間じゃない。

 

 もういい。そこまでしないでくれ──と清島を止める前に、男の方が一喝した。

 

「しつこい!! ……坂川くんには──」

 

 苛立ちを抑えた彼が、清島の声を遮って口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「減給と、しばらくの間、地方トレセンへの出張研修を命じます。清島さんには減給のみ。以上です」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「……は?」」

 

 

 俺と清島の声が重なった。

 

 

 聞き間違いにしか思えない。

 

 

 

 だって、あまりにも処分が軽すぎる。

 

 

 

「ま、そういう反応になるでしょうね。普通なら2人ともトレーナーライセンス剥奪でもなんらおかしくないですから」

「……どういうことだ。説明してもらえるか」

「ええ。いいですよ。端的に申し上げると、URAはこの事件を明るみに出したくないのです」

「! もみ消すってことか……!」

「はい。今このタイミングでチーフトレーナーである清島さんと、10代という若さで鳴り物入りでトレーナーになり、キタサンブラックの活躍でメディアにも露出するようになってきた、将来を嘱望されている坂川くん2人のライセンスを剥奪したら世間は黙ってくれません。ライセンス停止だって同様で、必ず理由を調査する者が現れるでしょう。それは避けたいのです。なのでURAはこの事件を闇に葬り去ることにしました。トレセン学園を……トゥインクルシリーズを守るためにも、ね」

 

 嫌な微笑を浮かべた男が話を続けた。

 

「今のアルファーグはトゥインクルシリーズのリーディングチームです。世間からの人気も注目度も1、2位を争うようなチームだ。キタサンブラック以外にも、ジュニア級、クラシック級、シニア級それぞれにGⅠレベルのトップウマ娘たちが揃っています。……そんなあなた方がいるチームにドーピングが発覚したらどうなります?」

「……それは」

「考えるまでもない。アルファーグがバッシングされるだけじゃ留まらないでしょう。他のチームにも多大な影響を及ぼし、トゥインクルシリーズそのものに大きな影を落とすことになる。トゥインクルシリーズの、レースの人気が著しく低下する可能性は決して低くない。観客が減りスポンサーの多くが降りるとなると、トレセン学園の資金繰りも厳しくなるでしょう。設備の維持や、食事だって十分に賄えなくなるかもしれません」

「…………」

 

 清島は考え込むように黙り込んだ。

 

「ドーピングに関係なく、懸命に頑張っているトレーナーやウマ娘たちが不当なバッシングを受けてしまうことだって十分あり得ます。それはあなたたちも望むところではないでしょう?」

「それはそうだが……」

「もっと大きい事件だった場合……例えば清島さんが首謀でアルファーグ全体にドーピングしていたとか、クスリを横流しして複数のチームがドーピングしていたとかなら打つ手はありませんでした。ドーピングで何人ものウマ娘が結果を残していたなら、真っ当に頑張っているトレーナーから反発の声を上げるだろうから、もみ消すのは難しいでしょう。URAはドーピング排除へ実力行使していくしかなかった。しかし今回は幸運にも、ただ一個人が持っていたクスリを、魔が差して1人のウマ娘に1回トレーニング時に使ってしまったというだけだ。事態の収拾は非常に容易ですし、レースで使ったわけではない。もし情報が他のトレーナーに漏れたとしても、この程度ならそこまで反感を買わないかもしれません。それどころか、坂川くんの心情を汲み取って同情してもらえることすらあるかもしれません。トレーナーは皆、担当ウマ娘を勝たせたくて必死ですから。……トレセン学園というのは良くも悪くも村社会です。トレーナーたちの仲間意識というものはあなたたち自身がよく理解しているでしょう? トレーナーもウマ娘もみんな夢を追って、必死に努力しているこの尊いトレセン学園を守りたいですよね?」

「てめえ……!」

 

 小バカにしたような口調の男を、清島は睨みつけた。

 しかし、それは逆効果だったようで、その男は満足そうに笑みを浮かべた。

 

「トゥインクルシリーズというのはつまるところただのエンターテインメント。ショービジネスなんですよ。若くて見目麗しいウマ娘を走らせ踊らせ歌わせ、客に興奮と感動を提供する娯楽的な興行なのです。それ以上でも以下でもありません。避けられるイメージダウンなら、避けなければね」

 

 清島はあからさまに苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 

 彼のこの考えが正しいのか正しくないのか、分からなかった。ただ俺にとって、決して好ましいものではなかった。

 

「という訳で、このドーピングは無かったことにします。だから処分もこれだけ軽い、減給としたのです。表立たせたくないのでね。検査結果を知る医師と検査技師にも既に話はつけてあります。もちろんいくらか金は握らせます。ああそういえば、クスリを提供した彼に話を聞こうと連絡を試みましたが、無理でした。製薬会社の方に連絡しても理由をつけて断られました。まあ、トレーナーを辞めた身ですし、国外にいるのでどうしようもできませんけどね。……それと、キタサンブラックの今後についてです。本人と両親とも相談しましてね」

 

 男は机の上で手を組んで話し始めた。

 

「結論だけ最初に申し上げると、キタサンブラックはアルファーグ所属のままで良いそうです」

「はあ!? どういうことだ……?」

 

 声を上げた清島と同じように、俺も内心では驚いていた。

 

「彼女の父親は清島さんの人となりを随分と気に入っておられるようでして……キタサンブラックがチームに所属してから、何度も会って食事に行かれているとか」

「……ああ。そうだ。よく酒を飲みに行く仲になった」

「だからですか。父親に今回の事件を説明しても清島さんへの信頼は変わっていないようでして。管理不行き届きがあったとしても、あなたはどちらかというと被害者ですからね。それを父親も理解しているようでした。だから清島さん本人がキタサンブラックを担当してくれるなら是非アルファーグのままで頼むと。この時期にチームを変えるのもおかしいので、父親の言うとおり彼女にはアルファーグに残ってもらうことにしました。ただ──」

 

 彼が何を言うのか分かる。俺は駄目だってことだ。

 

「──坂川くんは別だと。キミがアルファーグを辞めるのが絶対条件です。父親は坂川くんのライセンス剥奪を希望されていましたが、表立てないためだと説明し、一応は納得していただきました。彼も、娘がドーピングしていたと公にはされたくないようでしたので」

「……」

「ただ、すぐにチームを辞められてはマスコミに嗅ぎつけられる可能性がある。あなたがこの時期にいきなり辞めるのは不自然極まりないですから。だからと言って、アルファーグにいるのにキタサンブラックと関係を断つのは難しいですし、籍だけ置いて学園内で独立したかのように別行動するのも怪しまれる可能性があるし、父親も納得しないでしょう。だから、私たちが描いた坂川くんのシナリオはこうです」

「……それは」

「キタサンブラックは秋のGⅠへ向けて、実績のないサブの坂川くんからチーフである清島さんの元へ管理が移った。それに合わせて、坂川くんはアルファーグ所属のまま地方トレセンへ研修へ向かった。元々独立志望があって、その勉強の一環のためだった。でも、この先本当に独立するかはまだ決まってなかったので、籍はアルファーグに置いていて清島さんもそれを認めていた。そしてタイミングの良いところで中央に戻り、同時にアルファーグを脱退し独立。……というのはいかがでしょう。これならアルファーグを辞めず、キタサンブラックにも会わずに済みます。彼女とは物理的に離れてもらいます」

「そのための、地方トレセンへの出張研修ですか」

「ええ。正確には処分と言うより辞令みたいなものですね。これなら自然な流れだと思いますが。もし探りを入れてくる者がいたとしても、この設定で答えればいい」

 

 彼の話した架空のシナリオは、確かに筋が通っていた。

 

「どうですか。よろしいですか? まあ、あなた方に拒否する権利など──」

 

 そこで、扉をノックする音が室内に響き、彼は話すのを止めた。

 

「……邪魔は入れるなと言ってあったのだが」

 

 彼は扉から顔を出して、外にいる人物と話をしているようだった。

 

「──わかった。すぐ行く。……皆さん、申し訳ございませんが、しばらくお待ち下さい」

 

 彼はそう言うと、部屋から出ていった。

 

 

 

 それから10分ほど経ったころ、彼が部屋に戻ってきた。彼は急いだ様子で元の席に座った。

 

「申し訳ございません。お待たせして。突然ですが、今日はここまでといたします」

 

 その言葉を受けて、彼以外の者は皆訝しむような視線を彼に送った。

 一体何があったのだろうか。

 

「と言うのも、今、キタサンブラックの父親から電話がかかってきましてね」

 

 その名前が出て、室内に緊張感が走った。

 

「キタサンブラック本人ができれば今すぐお2人と……特に、坂川くんと話したいと言われているようでして」

「────」

 

 それを聞いて、頭が真っ白になった。

 しかし、段々と恐怖心が俺の心を満たしていった。

 

「お2人はこの後すぐキタサンブラックの自宅へ向かってください。彼女と両親がお待ちです」

 

 彼女と会うことが、こんなに怖く感じるなんて、思いもしなかった。

 

 

 ◇

 

 

 ここからは坂川健幸が知らない一幕。

 

 

 

「少々処分が軽すぎるのではないかね?」

 

 清島と坂川、そして学園側の秋川やよいと駿川たづなが退室し、残されたURAの取締役の1人……丸顔の初老の男がそう口にした。話しかけた相手は先程まで坂川と清島相手に饒舌に話していたオールバックの糸目の男だった。

 

「これぐらいが妥当でしょう。私たちの目的はこのドーピング事件を闇に葬ることですから」

「それは分かるが……坂川だけでもライセンス剥奪で良かったんじゃないか? マスコミには圧力をかけておけばどうとでもなるだろう?」

「いえ、坂川くんだけはライセンスを剥奪してはならないのですよ」

「? どういうことだ?」

 

 ──相変わらず愚鈍な男だ。

 

 と、丸顔の男に対して、糸目の男はそう思った。

 

「もし坂川くんのライセンスを剥奪したら、彼には失うものが何も無くなるのですよ。トレーナーを辞めさせられた彼が逆恨みしてドーピングのことを私たちの息のかかっていないマスコミにリークしたり、ネットで発信したりするかもしれません。彼は少し悩んだからといってウマ娘にクスリを与えたり、カッとなって暴力を振るう、非常に短気な人間です。……ドーピングが表沙汰になることを避けるためには、彼のライセンス剥奪はリスクが高すぎるのです」

「おお、なるほど……」

 

 坂川や清島に対しては、マスコミに嗅ぎつかれないためにライセンスを剥奪しないと説明していた。確かにそれも理由の一つではある。

 しかし、今話したことが一番の理由だった。

 

 トレーナーを辞めさせられた坂川がどんな行動をとるか予想がつかない。反省して殊勝な態度を取っているように見えるが、本心ではどう考えているか分からない。メディアに情報を流したり、ドーピングをネタに、逆にこっちが強請(ゆす)られる可能性だってある。

 それなら彼には首輪をつけた(トレーナーの)ままで、URAのコントロール下に置く方がリスクは低いと判断したのだ。

 

 また彼自身がどうしてもトレーナーを辞めたいというのであれば、ほとぼりが冷めた頃合いを見計らって辞めてもらうつもりでもあった。今回の件で重要なのは、彼の逆恨みや怒りの矛先を逸らすことなのだ。辞めさせられるのと、自分から辞めるのでは大きく意味が異なってくる。

 

 それでも彼がメディアに情報を流すようなら、清島に言ったように抜き打ち検査などを導入してドーピング排除を徹底的に推し進めていくだけだ。

 一時的に人気は落ちるだろうが、クリーンであることをアピールすれば、時間はかかっても人気が戻る可能性は高い。そのための算段もいくつか考えてある。

 もし人気が戻らないなら……URAという泥舟を捨てればいいだけのこと。

 

 ──この糸目の男はトゥインクルシリーズに大して執着はない。彼は優秀なビジネスマンとして別の企業からURAへやってきた人間で、トゥインクルシリーズを単なるビジネスモデルの一つだとしか考えていない。

 URAが沈むなら、また別の企業に行けばよいだけだ。

 

「地方に研修に行かせると言っていたが、どのくらいの期間の予定なのだ?」

「短ければ1年ほど。長ければキタサンブラックのトゥインクルシリーズ引退までと考えています。いたずらに長すぎても、坂川くんの反感を助長させるだけでしょうから。そのあたりは状況を見極めながらといったところです」

「ふむう……しかし、早すぎると問題は起きないかね? キミも言った通り、少なからずトレーナーや教師陣にはドーピングの話が漏れるだろう。その噂の熱が冷めないうちに、彼が中央に戻ってきて活躍しようものなら、それを知っている奴からドーピングを疑われて蒸し返される可能性も……」

 

 糸目の男はきょとんとした。この丸顔の男にしてはまともな意見だったからだ。

 

「……その点については考えがあります。彼は中央に戻ってきても、()()()()()()()()()()()()()()()。クスリなんて絶対に使っていないと、誰でも分かるほどに。……まあ、やり過ぎたら彼の反感を買うかもしれないので、これも状況を見極めてですね。2、3年といったところでしょう」

 

 糸目の男は嗜虐的な笑みを浮かべていた。

 

「彼にはせいぜい、底辺を這いつくばってもらいましょう」



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追憶11 告白

 俺を助手席に乗せた清島の自家用車はキタサンブラックの実家へ向かっていた。車内は会話もなく、ただラジオだけが流れていた。

 俺は窓の外に流れる景色に目をやりながら到着を待っていた。

 

 ずっと考えていた。坂川健幸という人間は何者なのかを。

 

 それを踏まえて、彼女にどう接するべきなのかを。

 

 

 

 気づけば車は彼女の実家の正門が見えるところまで来た。

 周りの塀よりひときわ背の高い木製の大きな正門の前に父親の弟子と思われる男が立っていた。俺は以前、正月に招かれたときにその男を目にしたことを覚えていた。おそらく俺たちを待っていたのだろう。

 正門の前に車を着けた清島は正門を開けてもらうため、近寄ってきた弟子の男に窓を開けて声をかけた。

 

「清島だ。門、開けてくれねえか」

「清島さん、お待ちしてました。師匠が清島さんとまずサシで話したいと待っておられます。今すぐ開けるので、どうぞお入りください。ただ──」

 

 弟子の視線が俺に向けられた。

 

()()()()()は別です。師匠から、ウチの敷居を跨がせるなと仰せつかっていますので。ここで降りていただきます」

「……分かりました」

「……坂川」

 

 俺が助手席から降りると、開けられた正門の中へ清島の車とその弟子が消えていった。正門は再び閉じられ、ねずみ一匹通しそうにないそれが俺の前に立ちふさがっていた。

 

 

「…………当然だよな」

 

 

 精神的にも物理的にもキタサンブラックの家に拒絶された俺はただ立ち尽くすしかなかった。スマホを弄る気になんてなれず、ただ下を向いていた。

 

 

 偶然か必然か、1人でいる時間ができた。

 

 だから俺は自分自身を見つめ直すことにした。

 坂川健幸という人間の本質と本性について。

 

 ……俺は自分のことが分からなくなっていた。

 

 

「…………」

 

 

 坂川健幸はキタサンブラックのことを大切に思っていると、そう俺は自覚していた……この事件があるまでは。

 でも、本当にそうだろうか? 

 

 

「……俺は……」

 

 

 キタサンブラックを大切に思っている人間が、彼女を騙してドーピングして、その上暴力まで振るうだろうか? 

 

 ドーピングのことで頭が混乱して追い詰められていた状況とはいえ、菊花賞に行きたいと彼女が告げたとき、俺はどんな考え方をしていただろうか? 

 追い詰められた状況で精神的な余裕がなかったからこそ、その人間の……坂川健幸の本心が出てきたのではないだろうか? 

 

 

 

 

 

 ならば、坂川健幸という人間の本質と本性とは──

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 清島が家の中に入ってから1時間ほどした頃だろうか。その正門が突如として開かれた。

 中から姿を現したのはさっきの弟子とは違う男……俺と同世代くらいの若い男の弟子だった。

 

 彼は憎しみを込めた目で俺を見ていた。目の前の男が許せないと、その表情と態度が物語っていた。

 

 

 

 人の信頼を裏切るというのは、こういうことなんだと、やっと理解できてきた。

 

 

 

「……入れ。お嬢がそこで待っている」

「……はい」

 

 促されるまま敷地内へ足を踏み入れると、視界いっぱいに広がる日本庭園の中心に何人もの人影が見えた。十数人の弟子たちと彼女の両親が俺を待ち構えていた。皆が皆、厳しい表情をしていた。正月に笑顔で迎えてくれた面影はどこにも無かった。

 清島は父親の隣に並んでいた。

 

 

 

 そして、その中心にいたのは、頭に包帯を巻いたキタサンブラックだった。

 

 

 

 その光景はまるで、中世の公開処刑場のようだと思った。

 

 

 

「トレーナーさんっ……」

 

 キタサンブラックが俺に駆け寄ってきた。数日会ってないだけなのに、久しぶりに会ったように感じた。

 彼女にいつものような溌剌さはなく、緋色の瞳は不安に揺れていた。耳も尻尾も垂れ下がってしまっていた。

 

「……身体は大丈夫なのか」

「はいっ。今はもう、元気いっぱいです。……突き飛ばして、ごめんなさい! トレーナーさんこそ、お怪我はありませんでしたか?」

「俺は傷ひとつ負ってないよ……庇ってくれて、ありがとうな」

「いえっ! あたしはお助けキタちゃんですから! お怪我がないなら良かったです!」

 

 俺が暴力を振るったことを問い詰めないでくれている。

 明るく振る舞っているつもりだろうが、言葉の節々が震えていた。強がっていることは明白で、その明るさが痛々しさを一層引き立たせていた。

 

「あの、トレーナーさん……」

「……なんだ」

「嘘……ですよね。ドーピングなんて」

「……」

「み、みんな、変なこと言うんですよ! トレーナーさんがそんなことする人じゃないって、あたしが一番知ってますから!」

 

 おそらく本心では分かっているだろう。でもここまでして、彼女は健気にも俺のことを信じてくれている。

 

 

 その信頼を今から俺の手で壊さなければならない。

 

 

「も……もしっ、そうだったとしても、なにかの間違いですよねっ? 誰かに騙されたとか、ビタミン剤と間違えちゃったとかですよねっ? あはは、トレーナーさんも、おっちょこちょいだなあ……」

「……」

 

 間違いだったのだと、その気はなかったのだと、そう嘘をつけば彼女は許してくれるだろうか。

 ……そんな嘘言えるわけがない。言った瞬間、俺は人間でなくなる。畜生以下の存在に成り下がる。

 

「…………なんで、なんで何も言ってくれないんですか……トレーナーさん……何か、言ってください……お願いします……」

 

 

 赦しを請うなんて、許されない。

 

 

 これ以上、嘘を重ねられない。

 

 

 真実を話すしかない。

 

 

 

 ──『本当に彼女の身を案じられる人間なら、最初から副作用の可能性のあるドーピングなんてしないでしょう? それに、バレればその娘のレース人生は滅茶苦茶になるのですよ?』──

 

 ドーピングさせたという事実から導き出される、坂川健幸という人間の本質を。

 

 

 

 ──そんな理由でレースを選んでGⅠを勝てるなら、誰がこんなに苦労するか……! 約束なんて、くだらない……!──

 

 菊花賞を選ぶと言った彼女に対し暴力を振るい、そしてあの時心の奥底から湧き上がってきた、坂川健幸という人間の本性を。

 

 

 

「ごめんな。キタサン」

「え──?」

 

 

 

 覚悟を決めろ、坂川健幸。

 

 

 

 俺と彼女の関係は、おそらく今日で終わりを迎える。

 

 

 

 ならせめて最期だけは、彼女に正直であるべきなんだ。

 

 

 

 それがせめてもの、彼女への贖罪だ。

 

 

 

「いいや。俺は俺の意思で、お前を騙してドーピングさせた」

「そ……そんな……噓ですっ……噓っ……」

「嘘じゃない。話を聞いてるかは知らないが、あの日の午前中、お前を呼び出して白い錠剤を渡しただろ。あれがクスリだ」

「いやっ……いやです……信じません……聞きたくないです…………」

 

 キタサンブラックは見てて可哀想になるほど取り乱し始めた。

 

「分からないならもう一度言ってやる。俺は俺の意思で、禁止薬物だと知っていて、お前を騙して、ドーピングさせた」

 

「ぅあああああぁぁぁ────!」

 

 

 絶叫が響いた。

 

 

 

 涙が溢れていた。

 

 

 

 愁嘆場めいた俺たちのやり取りを、彼女の後ろにいる清島以外の人間たちは怒りをにじませながら見ていた。

 怒りの矛先は全て俺に向いていた。

 

 

 

 表沙汰にならないだけで、彼女にはドーピングしたという事実が一生刻み込まれる。今後どれだけ成績を残しても、クスリに一度汚されたことが彼女を苛み苦しめるだろう。

 

 

 

 キタサンブラックは下を向いて涙を流したまま、嗚咽に必死に抗いながら口を開いた。

 

「どうしてっ……ですかっ……」

「……何がだ」

「どうして、ドーピングなんてっ……」

「…………」

「昔から……いつから使ってたんですか……」

「……使ったのはあの日だけだが、それを俺が言って、今のお前は信じられるのか?」

「…………っ……」

 

 俺は彼女のことを本当の意味で想っていなかった。だからドーピングさせた。

 彼女のことを想っていたなら、ドーピングなんて凶行に走るわけがない。

 そう、ドーピングをさせたという結果が、俺という人間の本質を明確に表している。

 

 そんなことを思う中、自然と湧き上がってくるものがあった。

 

 ──何をやってんだ俺は……! 

 ──もう二度と泣かせないと誓ったのに、なんで俺がキタサンを泣かせてるんだ……! 

 

 

「…………っ!」

 

 

 声が震えないよう必死に喉へ力を入れる。

 奥歯を食いしばり、平静を保つよう努めた。

 

 

「ドーピングさせたのは、トレーニングで結果が出なかったからだ。あのクスリ、トレーニングで使うためのクスリでな。天皇賞秋を勝つには必要なタイムに届いていなかったから使った。あの日にタイムを出せたのはドーピングのおかげなんだよ。……こんなヘマしなければ、お前にも、URAにもバレることは無かった」

「そんな……っ……」

 

 

 この調子で一気に全て話してしまおう。

 こういう口調で一気に捲し立てないと、言葉に詰まって喋られなくなると思うから。

 

 無意識的に、両手の感覚が分からなくなるほど力を入れて握りしめていた。

 

 

「他にもある。お前はウマ娘として今がピークの可能性があった。最悪、GⅠを取れるのは今回の天皇賞秋が最後かもしれなかったからな。それもクスリを使う一押しになった」

 

 

 泣きじゃくるキタサンブラックに言葉を叩きつける。

 

 

「現状、天皇賞秋でも勝てるか分からなかったのに、菊花賞に行きたいと聞いたときは耳を疑ったよ。2400mのダービーで惨敗したのを忘れたのか? 長距離は適性外なんだよ。あんだけ説明したのに分かってなかったのか? …………友達との約束だって?」

 

 

 大粒の涙が地面に光り輝きながら落ちていく。彼女はずっと泣いているからか、その泣き声もかすれてしまっていた。

 

 

 俺が口にしているのは、正真正銘、あの時に俺が思ったことだ。

 

 

「そんな理由でレースを選んでGⅠを勝てるなら、誰がこんなに苦労するか。約束なんて、くだらない」

 

「ううっ……うわああああああああああああああああ────!」

 

 

 

 二度目の絶叫。

 

 

 

 彼女は友だちとのかけがえのない約束を貶され、遂に崩れ落ちるように座りこんでしまった。

 

 

 

「信じてたのに……あたし、トレーナーさんのこと、ずっと…………信じてたのに…………」

「……」

 

 

 

 

「……っ…………ひどい…………ひどいです……っ……」

「……」

 

 

 

 

 彼女の言葉ひとつひとつが胸の奥に突き刺さる。

 

 

 

 

 

 

 そして、涙に濡れた彼女の瞳の奥に、怒りがかすかに滲んだのを見た。

 

 

 

 

 

 

 そんな目で見られるのは、つらかった。

 

 

 

 

 

 

「…………っ……トレーナーさんは…………あたしのこと…………」

 

 

 

 

 

 どう思っていたのか、とその後に続くのだろう。

 

 

 

 

 

「……俺は──」

 

 

 

 

 

 おそらく最後に交わす言葉になる。これで、俺と彼女は終わる。

 

 

 

 

 

 ふいに、今までの思い出がフラッシュバックした──

 

 

 

 

 

『キタサンブラックです! こちらこそ、これからずっと、この先どこまでも! よろしくお願いします!』

 

 

『トレーナーさんは夏合宿頑張ったって言ってくれましたけど、あたしの努力が足りなかったんです!』

 

 

『レースで勝てるようにってお願いしました! もうすぐメイクデビューですから!』

 

 

『いや~照れちゃいますね~……あたしのこと、いっぱいお願いしていただいてありがとうございます、トレーナーさんっ!』

 

 

『やりましたっ! トレーナーさん!!!』

 

 

『あっ! その万年筆使ってくれてるんですね! えへへ……喜んでもらえたなら嬉しいです!』

 

 

『そうなんですか。あたし、ノート書いてるトレーナーさん好きですよっ! なんか、知的な感じでカッコいいです!』

 

 

『トレーナーさんっ……ごめんなさい……っ、期待に……ぐすっ、うあ、うわあああああん!』

 

 

『本当ですか!? えへへ、嬉しいですっ! ……ハァア~~ン! よおし、喉も調子もまだまだ絶好調ですっ!』

 

 

 

 

 

 

 ──ごめんな、キタサン。俺は最低のトレーナーだったんだ。

 

 

 ──心も体もこんなに傷つけて、ごめんな。これで終わりにするから。

 

 

 ──ごめんな。さよならだ。

 

 

 

 

 最後の言葉を言おうとして、脳裏を一瞬よぎったのは先輩の声だった。

 

 

『過程に意味はない。結果が全てだ』

 

 

 

 ──ああ、先輩、確かにそうですね。……あなたのこと、恨んではいませんよ。悪かったのは俺の弱い心と、醜悪な本質と本性ですから。

 

 

 

 キタサンブラックにGⅠを勝ってほしい。夢を叶えてほしい。笑ってほしい。

 そんなことを願っていたという俺の過程に、一体何の意味があるというのだろう? どんな思いを抱いていようが、たどり着いた結果は暴力とドーピングだ。その結果はもう変えられない。

 

 

 

 坂川健幸がキタサンブラックのことを想っていたなら、信じていたなら、本当に大切に思っていたなら、いくら勝たせたいからって、暴力やドーピングなんて結果には至らないのだ。

 俺は自分のことしか考えていない、自分本位で利己的な人間なのだ。利他的なら、キタサンブラックを心の底から思いやれる人間なら、こんなことをするはずがない。

 

 

 

 

 

 

 

 だから、暴力とドーピングという結果から導かれる俺の本心とはこういうことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 大切じゃなかったから、暴力を振るいドーピングで(けが)したのだ。

 認めたくなかった。でも、いくら考えてもこの結論にしか至れなかった。

 

 

 

 

 

 

「俺はお前のことを大切になんて思ってなかったんだよ。だからお前をぶって、ドーピングさせたんだ」

 

「う、あ────」

 

「もうやめろおっ!!!!!」

 

「ぐっ……」

 

 

 いきなり視界に弟子の若い男が割って入ってきて、俺の頬を殴りつけた。さっき正門を開けてくれた男だった。

 頭が揺らされるような衝撃と頬の痛みを認識する前に、彼に胸ぐらをつかまれ引き寄せられた。

 

 吊り上がった形の良い眉の下の目は赤くなっており、潤んでいるように見えた。他人のために泣けるなんて、どこまでお人好しでいい奴なんだろう。

 

「お嬢をそんなに傷つけて、何がしたいんだ! お前がそんなクソ野郎だとは思わなかった! 最低の男だ! お嬢も、師匠も、俺たちも、みんなお前のことを信じていたのに……! 許さない……!!!」

「……俺はこういう人間だ。勝手に信じたのはそっちだろう」

「っ!!!!! このおっ!!!!!」

 

 2発、3発と殴られる。俺は抵抗せず、彼にされるがままになっていた。口の中は鉄の味が広がっていった。

 

 誰も止める者はいなかった。キタサンブラックも、涙に濡れた瞳でただ殴られる俺を見ていた。

 

「はあ……はあ……くそっ! お嬢、大丈夫ですか……」

 

 殴って気が済んだのか、俺を解放した彼はキタサンブラックの元へ駆け寄って彼女の肩を抱いた。

 

 

「……おい」 

 

 

 地の底から響いてくるような、重い声が俺にかけられる。

 

 彼と入れ替わるように俺の前に立ったその声の主は、キタサンブラックの父親だった。まさしく鬼の形相だった。

 

 

「二度と俺たちの前に姿を現すな。今日だけは清島の顔に免じて見逃してやる。さっさと失せろ……!」

「……はい…………娘さんのこと、申し訳ございませんでした……」

「……」

 

 

 父親に頭を下げたあと、俺は背を向けて歩き正門の外へ出た。

 ほどなくして清島が運転する車が門から出てくると、即座に門は閉じられた。

 

 車に乗り込んだ俺は、殴られた頬を抑えて俯いていた。

 

「……すいません。先生…………」

「なんであんなことを言ったんだ……取り繕うこともできただろう…………」

「俺が実際にそう思っていたからです。俺は自分がそういう人間だと分かったからです。せめて……せめて、最後だけは正直に話すべきだって、思ったんです」

「…………お前は、それだけじゃねえだろうが……」

 

 そこで会話は途切れた。

 頬が痛む。口内の出血は止まらない。目を瞑って痛みに耐える。

 

「…………」

 

 キタサンブラックの泣き叫ぶ姿がまだ瞼の裏に焼きついている。

 

「…………」

 

 俺と彼女の行く末は平行線をたどり、もう二度と交わらないだろう。

 俺と彼女の関係は終わったのだ。彼女と話すことも、笑い合うことも、悔しさや喜びを分かち合うことも、もう永遠に訪れない。

 

 

 

「……っ」

 

 

 赦されないのに。

 

 

「……っ……っ……」

 

 

 彼女をあれだけ傷つけたのは、俺なのに。

 

 

「……っ…………くっ……」

 

 

 俺は彼女にドーピングをさせた最低の人間なのに。

 思い通りにいかないからって暴力を振るう屑みたいな人間なのに。

 

 

 

 

 

 なんで、俺は泣いているんだろう。

 

 

 

 

 

「……っ……ぐっ……っ」

 

 止めどなく涙が流れ落ちていく。

 

「人間ってのは理屈だけじゃねえんだよ、バカ野郎……」

 

 

 

 分からない。

 

 俺は何も分からない。

 

 

 

「……お前が、キタサンを大切に思ってないわけ、ねえだろうが…………」

 

 

 

 泣いてる理由も。

 

 キタサンへの思いも。

 

 

 

 



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追憶12 悪夢

 この日はそれで終わらなかった。

 

「話は聞いたぞ! ふざけるな!!!」

「…………」

 

 キタサンブラックの家から新人寮に帰ってきた俺をエントランスで待ち構えていたのは激高していた横水だった。ドーピングのことを口にはしないが、それしかないだろう。

 情報が漏れるのが早すぎる。彼女に詰め寄られるなか、頭の中でその情報源を考えた。

 

 彼女の一族は代々トレーナーを多く輩出し、トレーナー以外にもURAの上層部に一族の人間を何人も送り込んでいる。情報源を聞けていはいないが、おそらくそこからではないかと当たりをつけた。あのスーツを着た男の中に、一族の人間がいたのかもしれない。

 

「何か言ったらどうだ!? あんな行為、トレーナーとして、人間として、屑のすることだ!!!」

「…………」

「なぜ、そんな平然としているっ!? ウマ娘を傷つけて、なんとも思わないのかっ!?」

「…………」

「っ!!! このっ!!! 何か答えたらどうだ!!!」

 

 口を噤む俺に堪忍袋の緒が切れた横水は、胸ぐらをつかんできた。

 

「その頬の傷も、どうせキタサンブラックか清島トレーナーに殴られたんだろう!!!」

「……似たようなもんだな」

「! お前……いろんな人やウマ娘にお世話になって、それをあんな仇で返したのかっ!? なんて見下げ果てた奴なんだ!!! そんな奴だとは思わなかった!!!」

 

「ちょっ!? 幸ちゃんの声がすると思ったら……なにやってんの!」

 

 そこで、騒ぎを聞きつけたのか、天崎がエントランスへやって来た。ちょうど、横水が手を振り上げたときだった。

 

「ダメだよ幸ちゃん! 手を離してっ!」

「うるさいっ! 邪魔をするなひより!」

「ダメだって!!!」

 

 天崎は俺たちの間に強引に割って入り、俺と横水を引きはがした。

 

「なんでそんな怒ってるのっ! 何があったって、暴力はダメだよ! ……って、坂川くん、その顔……!」

 

 天崎は殴られて腫れあがった俺の頬を見て、目を見開いていた。

 

「幸ちゃんに叩かれたの!?」

「……違う。横水にはなにもされてない」

「……そっか。幸ちゃん。もう一回言うけど、暴力はダメだよ。……そもそも2人とも、何があったの?」

「こいつは──」

 

「なにかあったんスか?」「ケンカですか?」

 

 横水がドーピングのことを口にする前に、騒ぎを聞きつけた新人寮の後輩トレーナーたちがぞろぞろとエントランスに顔を出した。

 

「──くっ! くそっ!」

 

 横水はドーピングのことを口にせず、そのまま踵を返して自室へ戻っていった。未だに怒っている様子の彼女の背中を、天崎と2人で見送った。

 

「あ、あはは。ごめんね~。何でもないよ」

 

 天崎は俺の前に立ち、手を上げて後輩たちに軽く振り、俺の顔が彼らから隠れるようにしてくれた。

 

「? ならいいんスけど」「まあ、そう言われるなら……」

 

 そうして後輩たちは去ってくれた。

 

「ふう、なんとか誤魔化せたかな……?」

「……ありがとうな天崎。じゃあ──」

「待って」

 

 彼女は俺の手を掴んで引き留めた。

 

「……何だ?」

「その顔、ちゃんと処置しないと。顔に血もついてる。氷嚢と湿布用意してくるから、部屋行こう。ここじゃ目立つし」

「後から自分でやる。俺に構わないでくれ」

「ダーメッ! 私が構いたいから構うの。何かあったとか訊かないから。それだけさせて。お願い」

 

 俺を見つめてきた彼女の目は、嘘をついていなかった。

 

「……勝手にしろ」

「! うんっ! 部屋の鍵、開けててよ!」

 

 俺の手を解いた彼女は小走りで救急箱を取りに行った。

 

 

 俺は部屋に戻り扉を閉めると、内鍵に手をかけた。

 

「…………」

 

 しかし、鍵をかけず手を離した。

 数分後、天崎が息を切らしながらやって来た。

 

「坂川くん、鍵かけないでいてくれたんだね。ありがとっ」

 

 天崎は部屋の中へ入ると、暖かい濡れタオルで俺の顔を拭き始めた。

 

「血、よく見ると口元にいっぱい付いてる……痛かったらゴメンね」

「……っ!!」

 

 彼女が拭いたところに激痛が走った。

 

「わわっ、ゴメンっ!」

「大丈夫だ……頼むわ」

「! ……うんっ!」

 

 時々痛みに襲われながら、彼女が拭き終わるのを待った。

 

「よしっ! これでおっけー。坂川くん、これ氷嚢ね。氷の予備、冷凍庫に入れておくから。冷やすの終わったらこの湿布貼ってね。それじゃ!」

「……本当に何も訊かないんだな」

「? そう言ったじゃん」

 

 扉に向かおうとしていた天崎は、こちらへ振り返ってきょとんとした目で俺を見ていた。

 

 正直なことを言うと、俺は彼女に話を聞いてほしかった。おそらく、多くの敵意を向けられて、弱っていた俺に優しくしてくれた彼女に甘えたかったんだと思う。

 

 しかし、キタサンブラックのためにドーピングのことを他人に話すことは許されない。

 

「天崎。俺、この後すぐ地方へ行くことになるんだ」

「へっ? レース見に行くってこと?」

「いいや。中央を離れて地方トレセンへ勉強しに行くんだ。だからしばらくの間、お前らとは会えなくなる」

「え……? 坂川くん、キタちゃんはどうするの? もうすぐ天皇賞秋じゃん」

「キタサンは清島先生が見ることになった」

「……もしかして、幸ちゃんが怒ってるのって、そのことと関係あるの?」

「…………」

 

 沈黙は肯定を示していた。

 

「そう…………ねえ、坂川くん」

「なんだ?」

「幸ちゃんのこと、あまり気にしないであげてね。今、すごく大変そうだから」

「何かあったのか?」

「……実はね。数日前、幸ちゃんのお父さん、脳卒中で倒れちゃったの」

「なっ!? お父さんって、アルバリのチーフのだよな?」

「うん。まだニュースにはなってないから、公にはなってないんだ」

 

 チームアルバリとは横水の一族が代々チーフトレーナーを務める伝統のあるチームだ。そこのチーフである父親が倒れたのだから、大変と一言では済ませられないぐらい大事(おおごと)だ。

 

「父親は大丈夫なのか?」

「一命は取り留めたみたいなんだけど……右半身に重い麻痺があって手足がほとんど動かせないんだって、座ってるのもままならないみたい。それに失語症っていうのになって、言葉のやり取りも難しいとか……」

「……そんな状態じゃ、トレーナーなんて無理だろうな……」

「うん。でも、大変なのはそれだけじゃなくて……」

「まだ何かあるのか?」

「幸ちゃんのチームって、横水の人がチーフをする世襲のチームじゃない? だから、次は幸ちゃんがチーフになる予定なんだけど……」

「そうか。確かに大変だな……でも、経験豊富なサブトレーナーが何人もいるし、その人たちに支えてもらえれば、横水ならきっと──」

「そこなんだよ。坂川くん」

「は?」

「そのサブトレーナーたちが、みんなアルバリを辞めちゃったんだよ。それで、辞めたサブトレーナーたちで新しいチームを作るみたいなんだ。アルバリのウマ娘をほとんど引き抜いて」

「それは……」

「お父さんは厳格な人で、サブにもウマ娘にも厳しかったから、不満が溜まってたんじゃないかって、幸ちゃんは言ってた。あと、自分の力が足りないって……」

 

 父親が気に入らなかったから、その娘を見捨てたということだ。アルバリというチームに入ったのなら、娘が継ぐことぐらい最初から分かっていたはずだ。

 なんて(むご)い話なのだろう。そこまで冷徹になれるものなのだろうか。

 

「残されたのは幸ちゃんと2人のウマ娘だけ。1人は故障で満足に走れないサクラローレルって娘と、地方からやってきたばかりのトロットサンダーって娘だけなんだって」

 

 話を聞くだけでも手を焼きそうなウマ娘たちだ。他人のサポートも受けれない状況下でそんなウマ娘の面倒を見るなんて、まだ2年目で新人同然のトレーナーには荷が重すぎる。

 

「幸ちゃん、精神的にすごく追い詰められてて……だから坂川くんも、今日のことは気にしないでくれると嬉しいな。幸ちゃんもあんなことしたくてしたわけじゃないと思うから」

「…………」

 

 それはどうだろうか。

 確かに追い詰められてストレスが溜まっているのは事実なのだろう。しかし、あの怒りは……ドーピングに対する怒りは本物だと思う。

 それに目の前にいる天崎だって、ドーピングのことを知ればどう思うか分からない。さっきの横水と同じような反応をするかもしれない。

 

「それじゃね。私も部屋に戻るよ、お大事にね、坂川くん。もし地方に行く日が決まったら教えてね」

「……ああ、ありがとうな」

「いいえ、どういたしまして!」

 

 天崎は歯を見せて笑い、部屋を出ていった。

 

「……」

 

 久しぶりに、他人と普通の会話をした気がした。

 

 

 天崎からもらった氷嚢を頬に当てて、ベッドに寝転んで目を瞑った。

 すると強烈な眠気に襲われ、俺はすぐに意識を手放した。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

『トレーナーさん、やりましたっ!!! あたし、GⅠを勝てたんですっ! 観客の皆さん、みんな喜んで笑ってくれてる……! これであたしも主役になれましたよねっ!!!』

 

 優勝レイを肩にかけたキタサンブラックが目の前で笑っていた。

 

『言葉にできないぐらい嬉しいですっ! 今、ここで歌ってもいいですか!?』

 

 眩しくなるような笑顔だった。

 

『え? ダメ? ~~~~っ! いや、もう我慢できませんっ! 感謝の気持ち、歌い上げます!』

 

 ウイニングライブを待たず、キタサンブラックはターフで歌い始めた。

 

 彼女と同じように、俺も満たされた気分だった。嬉しい思いで心がいっぱいだった。

 歌の合間にちらっと俺に視線をやる彼女がとても愛おしく思えた。

 

 

 

 

 ──そこで、夢は覚めた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「っ! はあ、はあ……」

 

 目が覚めると、つけっぱなしにしてある室内灯が目に入った。体を起こして時計を見ると、針は深夜を示していた。

 

「……夢、か……っ」

 

 無意識的に触った頬に痛みが走った。寝る前より本格的に腫れてきたようで、少し喋りにくい。枕元には温くなった氷嚢が転がっていた。

 

「…………」

 

 今見た夢がまだ脳裏に残っていた。

 

 昨日の今日でこんな夢を見るなんて、俺はどれだけ浅ましい人間なんだろうか。

 本当に救いがない。

 

 

『夢の内容はいつも一緒だ。あいつがGⅠを勝って、笑ってる夢さ。……最高(最低)の夢だろ?』

 

 先輩がそう言っていたことを思い出した。

 どうやら俺も同じような夢を見たようだ。だが……

 

 

最高(最低)の夢どころじゃねえよ……」

 

 

 間違いなく幸せな夢だった。俺が焦がれ続けた光景だった。

 

 しかし、幸せの絶頂から覚めると、地獄のような現実が待っていた。

 自分の薄汚い欲望を目の前に突きつけられた夢だった。

 

 

 

「……悪夢だろ、これは」

 

 

 

 

 目が冴えてしまった俺は湿布を頬に貼ってから荷物の整理を始めた。

 地方に行くための荷造りだ。



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追憶13 遠い空の下で

 それから数日後、俺は北海道の地を踏んでいた。

 先ほど新千歳空港に着いた俺はバスに乗っていた。出張研修とは名ばかりの辞令により、門別トレセンへ行くためだった。

 

「……」

 

 本州とは趣の異なる風景を眺めながら、キタサンブラックとの袂を分かってから今日までのことを思い返していた。

 

 

 

 あの日の翌日、再び本部棟に呼び出されURAの重鎮たちと会った俺に、正式に地方トレセンへの出張研修が命じられた。この出張研修がいつまで続くかも、またそのトレセン学園にどのぐらいの期間滞在するのかも、追々決定してから伝えられるとのことだった。

 

 研修……その仕事内容はというと、決まっていなかった。URAは地方トレセンで空いているトレーナー寮の部屋の使用許可をとっただけで、仕事までは確保していなかった。していないと言うより、最初からする気がなかったのだろう。だって、今回のこれはただ俺を中央から遠ざけることが目的だからだ。

 あくまで仕事は自分で見つけろと、そう糸目の男から言われた。

 

 新人寮の部屋からはどちらにしろ今年度で出ていかなければならないので、急いで私物を運び出して準備をした。準備には天崎が手伝いに来てくれた。横水から話を聞いたかどうか、それは訊かなかったが、彼女は普段通りの調子で手伝ってくれた。

 

 

 

 そして今に至る。

 

 

 

「……もうすぐだな」

 

 スマホのマップを見ながらそう独り言ちた。もう10分もせずに着くはずだ。

 スマホをしまってから、湿布を貼った頬を軽く撫でた。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 門別トレセンに来てから数日が経った。

 

 普段のレースが行われるナイターの時間帯を見計らって、俺はコースをその足で歩いてスクーリングをしていた。

 ほぼ無人のダートコースを一歩一歩確かめながら歩いていく。地方のコースとしては最大級の広さなので、1周するだけでも少し時間がかかる。

 

「……確かに、深い感じはするな」

 

 ローカルシリーズ開催地である地方のコースの中でも、門別の砂厚が厚いことは知っていた。他の地方トレセンのコースを実際に歩いたことがあるわけではないが、こうして実体験して確認しておくことは大切だと思っていた。

 

 そして、こうして歩くことで新しく発見することもある。

 ちょうど、ひゅうと、潮の香りを含んだ風がコースを吹き抜けていった。

 

「さみぃな……」

 

 ここ門別レース場は海から近いところに位置しているため、海風がここまで吹き付けるのだ。もうすぐ冬だからか、その風は冷たいものになっていた。

 

「これで霧が発生することもあるんだろ。風が苦手なウマ娘とか、霧を未経験のウマ娘なんかを走らせるときは頭に入れとかねえと……」

 

 ウマ娘の中には、強風で体が煽られたり、霧などで視界が開けないと予想以上にパフォーマンスを落とす奴がいる。もしこの門別でウマ娘を走らせる場合はあらかじめ注意をしなければならない。

 

「よし、ノートに書き……って」

 

 左手に持ったノートに今思ったことを書き止めようとしたが、その左手には何もなかった。

 

「そうだ……先生に渡したんだったな」

 

 キタサンブラックを担当するようになってからつけていたノートは、こちらに来る前に清島に全て渡していた。十数冊に渡るそれは、彼女のトレーニングデータも全て記入してあり、各種トレーニングの効果とその評価もつけてあった。他にも、俺が普段何気なく思ったり考えたりしたことなども書かれていた。

 これから清島が彼女を担当するうえで少しでも参考にしてくれればと思い渡した。彼みたいな超一流のトレーナーには必要ないかもしれないが……どっちにしろ、俺にだってもう必要なくなったものだ。捨ててしまうより、渡した方が良いだろう。

 

 胸ポケットから代わりとなる小さいメモ帳を取り出して、それに記入した。……やっぱり書きにくい。空いた時間にでも新しいノートを買いに行こう。

 

「……こんなもんか」

 

 一通りスクーリングを終えたので引き上げることにした。次は雨が降ったりしてバ場状態が変わったときにスクーリングしようと決めた。

 

 

 ◇

 

 

 翌日の午後、ウマ娘がコースに出てきてトレーニングし始めた。各トレーナーの元でウマ娘たちが懸命に走っている姿は、中央となんら変わりは無かった。

 それぞれのチームのウマ娘やトレーニングメニューを見て、中央との違いやそのメニューの意義などを自分なりの考えで書き出していった。ある程度自分の考えがまとまって形になれば、トレーニングをしていた各トレーナーに話を聞きに行こうと思っていたのだ。

 突然中央から研修目的でやってきたトレーナーを受け入れてもらうためには、それぐらいは必要だと考えていた。何の考えも持たず教えを乞うのは失礼だと思ったからだ。

 

 こっちに来た日に全てのトレーナーにあいさつ回りをした。やはりと言っていいのか、歓迎した様子はなく、奇異の目や訝しむような態度を取る人がほとんどだった。正直、当然の反応だと思う。こんな時期に中央2年目のトレーナーが1人で研修にやって来るなんてほとんどないだろう。

 いつまで門別にいるかは分からないが、長くなるかもしれない。少しでも受け入れてもらうために、余所者の俺は出来る限りのことをしないといけない。できればトレーナーの誰かと仲良くなって、サブトレーナー扱いでチームに入れてもらえれば理想なのだが……

 

 

 

 

 

 トレーニングが終わり学園の校舎に戻ると廊下で若い男女1組のトレーナーを見かけた。男の方はさっきのトレーニングで俺が今日よく観察していたチームのトレーナーだった。2人は先の方の曲がり角を曲がっていった。

 

「……よし。いってみるか」

 

 ちょうど考えもまとまっていたことだし、あの男トレーナーに話を訊いてみようと追いかけた。

 俺が曲がり角に差し掛かったときだった。2人の会話が俺の耳にまで届いてきた。

 

「今日もスタンドに座って、ずーっと何か書いてただろ?」

「ああ、あの男ね。坂川だっけ?」

 

「! ……」

 

 俺の名前が聞こえて、曲がり角を曲がる前に足が止まった。会話は相変わらず聞こえてくる。2人はその先で立ち止まって話をしているらしい。

 

「お前知らねえの? 有名だろ。10代で中央のトレーナーになったんだぜ?」

「それ、信じらんないだよねー。あんな冴えない男、そうは見えないんだけど。つーかそんなガチエリートくんがなんで門別に来てるの?」

「地方の勉強をしたいんだとよ。雑誌の記事とか見てたら、確か今年のクラシック級のウマ娘の面倒見てたらしかったが……そうだ、先月セントライト記念を勝ったキタサンブラックだ」

「なにそれ!? 中央で重賞取れるウマ娘捨てたってこと!? 地方の私たちにとったら、そんなウマ娘担当できるなんて夢みたいなことなのに……選りすぐりのエリートは羨ましいわね」

「それほっぽり出して地方に来たんだから、よっぽど地方に行きたかったんだろうな。ま、アルファーグのチーフが面倒を見るようになっただけかもしれねえけど」

「……いや、なんかあったんじゃない? ほら、ほっぺに湿布貼ってるでしょ? 案外、担当ウマ娘に手を出そうしてぶたれて、チームにいられなくなって傷心旅行中とか?」

「お前……ぷっ、くくっ……それありえるかもな。面白いじゃん、お前訊いてきてくれよ」

「いーやっ。あんたが訊いてきてよ。『勘違いしちゃったのか?』って。あははっ!」

 

「…………」

 

 

 

 俺は踵を返し、足音を立てずその場を去り、寮へ戻った。

 伝えるべきことをまとめたメモ用紙は握り潰してゴミ箱に放った。

 

「ああ思われるぐらい、どうってことない」

 

 ドーピングが漏れていないなら、俺がどう思われたっていい。仮にアイツらが話していたような事情が事実なら、どれほど良かっただろうか。あんなのただの笑い話だ。

 でも、なんで俺はあそこで話しかけず立ち去ったのだろう。どう思われてもいいなら、気にせず話にいけばいいだけなのに。

 

「いや、違う。……そうか」

 

 そこで気づいた。

 キタサンブラックのことがあってから、俺は自分自身がどういう人間かについてよく考えるようになっていた。

 

「怖かったんだな。俺は……」

 

 俺は臆病な人間だったんだろう。謂れのない悪口を言われることが我慢できなかった。

 だから、あそこで逃げたんだ。そして今、もう一度話しかける気にもなっていない。他のトレーナーにも同じように思われてるんじゃないかって怖くなってもいる。

 

「明日からどうすっかなあ……」

 

 

 その日は考えることを放棄して眠りについた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 それから少し時は流れ、10月下旬になっていた。

 

 あの一件での恐怖心は残っていたが、克服のためにもなんとかトレーナーたちに話しかけ、トレーニングについての話を聞いた。件の男女のトレーナーにも話を聞きに行った。

 彼らが本心はどう思ってようと、ウマ娘についての話なら相手は真摯に答えてくれたようだった。その話や考えから得るものはたくさんあった。

 

 レースの開催日はバ場整備や入場してくる客の案内などの雑用を進んで引き受けるようになった。少しでも力になって馴染もうと思ったのだ。

 でも、未だにどこかのチームに世話になれてはいなかった。疎外感は中々拭えなかったし、まだまだ余所者だとの実感があった。

 

 

 

 

 今日は10月25日の日曜日で、基本的に火曜日から木曜日のナイターがレース開催の門別トレセンにとっては休みの日だった。

 俺はトレーナー寮の自室にて、テレビに向かい合っていた。

 

『季節が進んだ秋風に、ターフが靡いています──』

 

 実況の男性アナウンサーの言う通り、テレビ画面には風に揺れる京都レース場のターフが映し出されていた。

 クラシック最後の一冠をかけた菊花賞がまさに今始まろうとしていた。

 

 ゲート前にいるウマ娘たちをカメラが映すと、その中に大きく深呼吸するキタサンブラックの姿があった。彼女は5番人気でレースを迎えていた。

 彼女は天皇賞秋ではなく、菊花賞を選んだことを俺はニュースや雑誌で知っていた。

 菊花賞に出られない二冠ウマ娘と約束のためなのだろう。

 

「……」

 

 長距離が彼女の適性外であるという考えは今でも変わらない。本音を言えば天皇賞秋に出てほしかったが、それが彼女の勝利を願わない理由にはならない。

 彼女は一生懸命努力していた。俺がそれを一番知っている。……もっとも、それを(けが)したのは俺なのだが。

 こんな俺が彼女のレースを見る資格があるのかと、そんなことを自問自答したこともあった。でも、結局俺はこうしてテレビの前に居座っていた。

 

「……頑張れ。キタサン」

 

 彼女が4番ゲートに入るのを見守り、祈るような気持ちで発走を待った。

 

『今年は戦国菊花賞です……スタートしましたっ!』

 

 1人大きく出遅れたが、その他のウマ娘たちはまとまったスタートを切っていた。

 

 キタサンブラックはスタートも良く、5番手から6番手あたりの内ラチ沿いに位置取りレースを進めていた。

 ポジション取りとしては悪くない。1勝クラスからセントライト記念までは大体2番手でレースを進めていたことに比べれば後ろだが、菊花賞は3000mの長丁場だ。位置に拘り過ぎても良くない。

 

 ウマ娘たちは正面スタンド前へとやってきた。外枠の2人が先頭を走り、その後は縦長の隊列が続いていた。ポジション争いは落ち着いているようだった。

 

『最初の1000mは1分ちょうどぐらいで行きました。ほんのりと菊薫るゴール前を通過して、各ウマ娘力がみなぎります18人──』

 

 ウマ娘たちは落ち着いた流れで2コーナーから向こう正面に入っていった。

 そこで中団にいたウマ娘たちの何人かがポジションを上げて先団に取りついていった。第1、2コーナーで緩くなった流れを見越してのことだろう。

 

『リアファル、1番人気の重圧をどう跳ね返すか──そして外から行った行ったアルバートドック! そしてミュゼエイリアンも上がって先頭に立つ! 先団のあたりは出入りが激しくなりました!』

 

 それに呼応するかのように、他のウマ娘たちもこぞって前へと上がっていく。一気に流れが激しくなっていく。

 

 キタサンブラックはというと、追い抜いてくるウマ娘は追わず、位置を下げることも厭わず、内ラチ沿いでじっと我慢していた。

 それでも第3コーナーへ近づくにつれて、ポジションを前へと押し上げ始めた。

 

『目まぐるしく順位が入れ替わります! 坂の下りに入って800を切りました!』

 

 3コーナーに入った頃には先団にウマ娘が殺到するかのようにひしめき合っていた。

 後方に置いて行かれている数人のウマ娘を置いて、坂を下りながらほぼ一塊になって第4コーナーから最後の直線へと入っていった。

 

 キタサンブラックは冷静に最内で構えていた。他のウマ娘たちに釣られて掛かることもなく、あくまで自分のペースを貫いていた。

 道中のロスなんてない、完璧な立ち回りだった。

 

 あとは前をこじ開けるだけだった。

 

「行け……行けっ! 頑張れキタサン!」

 

 テレビの先に映る彼女に向かって無意識的に声が出た。痛くなるほど拳を強く握っていた。

 

『第4コーナーから直線に入りました! 菊へと迫る最後の直線です! ミュゼエイリアンが先頭だ! そして──』

 

 

 

 キタサンブラックが猛烈な勢いで内から抜け出しにかかっていた。

 

 

 

『内からキタサンブラック! 最内からキタサンブラック、キタサンブラックだ!』

 

 空いた最内を突こうとしたキタサンブラックだったが、先頭を走っていたミュゼエイリアンが最内に寄り、進路が防がれる格好になった。

 

「まだだ! まだ行ける! 外に──」

 

 残り200m。

 俺の声が聞こえたかのように、キタサンブラックは外に進路を取り、前を走るミュゼエイリアンとそれを捉えにかかるリアファルの間をこじ開けて抜け出していく。

 

『狭いところからキタサンブラックが追ってきた! キタサンブラックが先頭! そして……真ん中からリアルスティールだ!』

 

 内から先頭に躍り出たキタサンブラックを捉えようと、バ場の真ん中からリアルスティールが猛烈な勢いで襲い掛かってきた。リアファルも粘ってはいるが、勢いが減衰している。

 

 最後の一冠はキタサンブラックとリアルスティール、この2人に絞られた。

 

 

 

 スプリングステークスで1着と2着。

 皐月賞で3着と2着。

 ダービーで14着と4着。

 

 

 

 幾度となく鎬を削ってきたライバル。

 最後の一冠をかけたこのクラシック最後の大舞台。

 そして、ドゥラメンテと約束した2人。

 

 ──決着をつける時がきた。

 

『内からキタサンブラック! 真ん中からリアルスティール!』

 

 残り50mを切って1バ身リードしたキタサンブラックを猛然と追い詰めるリアルスティール。

 

「キタサンっ、頑張れ!」

 

 

 歯を食いしばって、追撃を振り払おうと必死に走っているキタサンブラック。

 

 懸命に追い込んで差し切ろうとしているリアルスティール。

 

 

 勝負の行方は────

 

 

 

『内からキタサンブラックだ!! 祭りだ! 淀はキタサン祭りだ!』

 

 

 

「行け──!」

 

 

 ────猛追するリアルスティールを、キタサンブラックがクビ差凌ぎ切った。

 

 

『キタサンブラックだ!!! キタサンブラック1着!!! キタサンブラック、初のGⅠ制覇です!』

 

 

 クラシック最後の一冠、勝ったのはキタサンブラックだった。

 

「やった……? やった……!」

 

 テレビの向こうでは、走りを緩め自身が勝ったことを認識したキタサンブラックが満開の花のような笑顔を見せていた。

 

 

 ──その笑顔は、すぐに滲んで見えなくなった。

 

 

「──え?」

 

 

 テレビがおかしくなったのかと思った。

 

 

 違った。

 

 

 目から涙が流れて出ていた。

 視界が涙で滲んで、テレビの画面がよく見えなかった。

 

「んだよ……クソ……っ」

 

 

 涙を何度も何度も拭っても、次から次へと溢れてくる。前が見えない。

 

 遅れて、嗚咽がやって来た。

 

 勝ったキタサンブラックの姿を見たいのに。

 

 

「……っ……」

 

 

 そしてこの一瞬で、様々な思いが胸に去来した。

 距離適性を間違えていただとか、なのにあんな非道いことを言ったりしてしまっただとか、結局何もかも俺は足りなかったのだとか、再び後悔の念が襲ってきた。

 

 

 ──でも、それよりも。

 

 

「っ……っ……っ……」

 

 

 

 

 

 ──キタサンブラックがGⅠを勝ててよかったと。夢が叶ってよかったと。努力が報われてよかったと。嬉しい気持ちがただただ胸を満たしていた。

 

 

 

 

 

「……っ……よかった……よかったなあ、キタサン……!」

 

 

 

 

 

 テレビから聞こえる音声は、大歓声の中キタサンブラックが笑顔を振りまきながらウイニングランをしていることを伝えていた。



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追憶14 底の景色

 いくつかの地方トレセンを巡って約半年後の4月、俺は中央に戻ってきていた。一時的にではなく、この4月から中央で再び働くことになったのだ。もちろんアルファーグを辞めて1人のトレーナーとしてだ。

 

 備え付けのものしかないトレーナー室に俺はいた。

 荷開きをしていない段ボールが部屋の隅に積まれていた。

 

「まさか、1年もしないうちに早く戻ってくるとはな……」

 

 ◇

 

 つい1週間ほど前……つまり3月の下旬、佐賀トレセンにいた俺に一本の電話が入った。

 

『坂川さんにURAから呼び出しがかかっています。数日中にトレセン学園の本部棟まで来て欲しいと』

 

 中央の事務局からそんな簡潔な電話があって、急いで準備をして中央へ戻った。

 本部棟に行くと、再びあの糸目の男と会ってこれからのことについて説明を受けた。

 

 

 

『地方への研修は終わりです。アルファーグのサブは3月末をもって辞めてもらい、4月より中央で独立したトレーナーとして働いてもらいます』

『はい。……早いですね』

『こっちも色々あるのですよ。いくつか条件を。まず、キタサンブラックとは一切の関りを()ってもらいます。会ったり話しかけるなんてもってのほかです。彼女の視界に入らないぐらいでお願いします。ちなみに彼女は携帯の番号やアドレスを変えているので、連絡を取ろうとしても無駄ですよ』

『……今更、彼女と関わろうと思いませんよ』

『そうですか? あと、アルファーグのトレーナーやウマ娘についても基本的には関りを持たないようにしてください。彼女の父親から徹底的に排除しろと言われておりますので』

 

 彼女の父親の怒りは収まっていないらしい。当然だ……永遠に収まることはないだろう。

 

『もうひとつ。今から数年間、ウマ娘のスカウトを禁止といたします』

『ということは……』

『この数年、あなたのチームは1月の自動振り分けで配属されたウマ娘のみとなります。スカウト活動は行わないでください。もしウマ娘側からあなたのチームに入りたいと言われても断ってください。いいですね?』

『分かりました』

 

 ──スカウト禁止により彼らが何をするつもりだったのか、このときの俺は知る由もなかった。

 

『だからまあ、極端なことを言えばあなたは1月までやることはないんですよ。それまで好きに過ごしてください。スキルアップに励んでも、再び地方に行ってもいいですし、海外に行ってもいい。仕事せず遊んでいても構いません』

『……それなら、1月まで地方送りにしておけば良かったのでは?』

『こっちにも色々あると言ったでしょう。どうですか。受け入れられますか?』

『……はい。分かりました』

『そうですか。なら4月からまた頑張ってください。空いているトレーナー室、今から案内させます。……それと、キミとキタサンブラックの事件について、トレーナーや教師の間で噂が広まっています。ドーピングの事実まで知っている者はごく少数のようですが、何かしらあった……暴力を振るったとか、そのような噂が流れています。救急車を呼んで騒ぎになったからでしょうね。……噂のことを念頭に置いて、行動していただきたい』

 

 そうして糸目の男と別れた。

 

 

 ◇

 

 

 

「やるべきことは死ぬほどある」

 

 スカウト活動ができないので、今から1月までウマ娘の面倒を見ることはない。

 しかし、悠長にしている暇なんてないのだ。俺には足りないものが多すぎる。

 

 まずは単純な知識と実力。

 キタサンブラックのことにしてもそうだ。彼女は菊花賞1着のあと有馬記念で3着となった。俺の長距離適性がないとの考えは完璧に間違っていたのだ。まだ分からないが、早熟だったという分析もおそらく間違っていた。

 データや数字に固執した、短絡的で凝り固まった考えだった。もっと柔軟に考えるべきだったのだ。

 距離適性の壁があるウマ娘は多い。それ自体は間違っていない。でもキタサンブラックはそうじゃなかった。……実際にレース走ってみないと分からないと言うのも事実なのだろう。それを認めなければならない。データだけで適性を導き出そうとした俺のスタンス自体が間違っていたのだ。

 あの時タイムを落としていたのだって、何か特定の原因があったのではないのだろう。行きたくない天皇賞秋へのモチベーションが上がっていなかったとか、理由無くなんとなく調子が悪かったとか、目に見えない疲労があったとか、色々な要因が複合的に重なったことによるものではないのだろうか。

 

 ウマ娘も生身の生き物だ。全てがデータや数字で分かると思ったら大間違いなのだ。それを俺は分かっていなかった。だから必要以上に自分を追い詰めて、クスリなんてものに手を出してしまった。……キタサンブラックを傷つけ(けが)してしまった。

 データは嘘をつかない。だが、取り扱うのは人間なのだ。

 

 スタンスを、ウマ娘との向き合い方を、考え方そのものを変えていかなければならないのだ。

 

 俺はデータや数字では表せない抽象的なものに弱い。その弱い部分ももちろん埋めていかなければならない。

 しかし、データや数字の分析だって今のままで十分ではない。突き詰める余地はまだまだある。

 

「もっと、いろんな知識や理論を取り入れねえと」

 

 そのために研修や学会には積極的に参加しよう。

 あの糸目の男が言ったように、地方トレセンをもっと巡っても良いだろう。去年10月からの研修では門別、盛岡と水沢、笠松、佐賀……それぞれ大体1ヶ月ほど滞在した。正直、どこもあまり馴染めなかった。でも得たものは確実にあった。南関をはじめ、まだ行けていない地方トレセンは多いので、予定を立てて勉強しに行く必要がある。

 

「……やってやる」

 

 俺は許されない過ちを犯した。本当なら、URAの決定に逆らって自分からトレーナーを辞めるべきだったのかもしれない。地方にいた時にそのことも考えた……でも、結局は辞めることができず、中央に戻ってきた。

 俺はどうやったってキタサンブラックに償うことなんてできない。それぐらいは分かっている。

 

 でも、トレーナーを続けることを選んだからには担当したウマ娘たちを必ず勝利へと導いてみせる。

 

「次は失敗しねえ……!」

 

 そう決意して、俺は再スタートを切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──そして時は流れ1月になった。

 

 俺のトレーナー室に5人のウマ娘がやって来た。自動振り分けにて俺のチームに配属されたウマ娘たちだった。

 

「お前たちのトレーナーになった坂川健幸だ。最初に自己紹介と……そうだな、目標もあったら言ってくれ」

 

 横一列に並んだウマ娘たちが各々返事をしてくれた。

 

「──です! 私はダービーウマ娘になりたいですっ!」

「──だ! オレはスプリンターズステークスだな!」

「──よ。そうね。とりあえず重賞ぐらいは勝ちたいかしら」

「──です……うう~、わ、わたしは……1回勝てれば、その……」

「──。……特にありません」

 

「そうか。分かった」

 

 俺は彼女たちの顔を見回して大きく頷いた。

 

「お前らの目標を……夢を叶えられるよう、これから頑張っていこう! これからよろしくな!」

 

 俺がそう言うと、5人とも顔に希望が灯ったように見えた。

 

 4月から1月まで出来る限りのことはやってきた。今の俺は去年までの俺より成長していると断言できる。

 確かに5人とも学園内での模擬レースや選抜レースでの成績は芳しくなかった。だから1月までチームが決まらず、自動振り分けで回ってきたのだろう。

 しかし、アルファーグでの経験と、更に積み重ねた知識……それらを生かすことができれば、結果は(おの)ずととついてくると思っていた。

 

「トレーナーさんっ!」

「どうした?」

 

 初日の顔合わせの後、ダービーウマ娘になりたいと言ったウマ娘が俺に声をかけてきた。

 

「トレーナーさんって、若いのにトレーナーになった凄い人なんですよね! 私、テレビで特集されてるの見たことあります! それに、去年まであのアルファーグにいたって!」

「凄いかどうかは分からないが、アルファーグにはいたな」

「いえ、凄いです! 私、そんなすごいトレーナーさんのウマ娘になれて良かったです! パパが、トレーナーさんなら大丈夫だって!」

 

 そのウマ娘は目をキラキラさせて俺を見ていた。期待と希望にあふれた瞳だった。

 

「……ダービーウマ娘目指して、頑張っていこうな!」

「! はいっ!」

 

 その期待に応えられるよう、俺も心の中で決意を新たにした。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 そして月日は流れて9月になった────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────俺のチームに配属された5人全員が、未勝利戦を勝てず退学になった。

 

 

 

 

 

 

 

「…………はあっ……」

 

 今、最後の1人の面談が終わって、俺は教室からトレーナー室に戻ってきていた。退学になったウマ娘のこれからの進路を決めるために行う、本人や両親との面談だった。

 俺は誰もいないトレーナー室のソファに身体を預け、腕で顔を覆っていた。

 

 先程までの光景がまだ目と耳から離れない。

 

 

 

「この能無しが! お前のせいで娘が勝てなかったんだ!」

 

 そう父親に(なじ)られた。

 

「だから、こんなトレーナー反対だったのよ! 10代でトレーナーになったとか、アルファーグにいたとか、名ばかりで実力が伴ってないじゃない! やっぱり振り分けられる前に、ちゃんと実力と実績のあるトレーナーに私たちからアプローチをかけておくべきだったんだわ! だいたい、チーム全員が未勝利を勝てないとかありえないのよ! きっと無能すぎてアルファーグを辞めさせられたんだわ!」

 

 母親がヒステリックに叫んでいた。

 

「……ひっく……ううっ……」

 

 ダービーウマ娘になりたいと言っていたウマ娘は泣いていた。

 

 

 

 地獄のような光景だった。

 

 

 

「申し訳ございません……私の力不足です……」

 

 俺は頭を下げてただ謝るしかできなかった。

 

 

「謝って許されると思うのか!」

「そう言うなら責任取りなさいよ! ウチの娘を勝たせてよ!」

 

 

 延々と責められる。

 

 俺ができるのは両親の怒りや憎しみを真正面から受け止めることだけだった。

 

 

 

 

 

 

 面談を終えた。結局彼女はレースを引退し地元の高校に転入することになった。

 

 3人が出ていったあと、同席していたベテランの担任教師の男性に声をかけられた。

 

「坂川くん、大丈夫かい?」

「…………正直なところ、あまり……。他の4人の時も、今日みたいに親に何か言われることはあったんですけど、ここまで言われたのは初めてでした……」

「……言いたくないけど、こんなの珍しくも無いよ」

「そうなんですか…………」

「うん。坂川くんはアルファーグにいたから、こんなことがあるなんて()()()()()()()だろう? あんなチームにいるのは最低でも重賞を取れるようなウマ娘ばかりだからね。未勝利戦にすら勝てないウマ娘がいるなんて、別世界の話みたいに思えるんじゃないかな? こうやって、絶望して怒ったり泣いたりする親やウマ娘がいることもね」

 

 否定できない。

 未勝利戦に勝てないウマ娘がいることは当然のこととして知っていた。

 でも、この教師が言った通り、アルファーグにいるウマ娘は最低でも重賞を取れるような……GⅠ級のウマ娘ばかりだったから今まで実際に携わる機会はなかったのだ。

 俺は気にかけてさえいなかった。

 

「これもウマ娘の……トレセン学園の姿だよ。ほんの一握りのウマ娘が栄光を掴む一方で、その数十倍、数百倍の……もっとかもな……ウマ娘たちが涙を呑んでトレセン学園を去っていった」

 

 教師は持ってきていた資料を脇に抱えて立ち上がり、座っていた椅子の背を撫でた。

 

「勝者の椅子は限られた数しかない。だから、それは避けられないし、これからも変わらないだろう。仕方ないと言えば仕方ない。勝ち上がれないウマ娘を担当するなんて、それこそ貧乏くじを引いたみたいなもんだよ。損な役回りさ……誰かが引き受けないといけないんだ。今のキミのようにね」

 

 教師はそう言って先に教室を出ていった。

 

 

 

 

 

 意識が今へと戻ってきた。

 ソファの背もたれから体を起こして、ひとつ息をつく。

 

「何もできなかったんだな……俺は……」

 

 彼女たち5人全員に俺の持てる全ての知識と技術を注いだ。これまでキタサンブラック1人しか担当したことがなかったから、一気に5人も担当するのは正直骨が折れた。

 でも、段々慣れてきて要領も分かってくると、スムーズにトレーニングを進めることができた。手ごたえだってあった。

 

 

 しかし、誰一人として勝てなかった。それどころか、誰一人掲示板にさえ入れなかった。

 

 

 最後の未勝利戦を終えた5人のウマ娘たちの顔が今でも鮮明に思い出せる。

 

 人目もはばからず大泣きしたウマ娘。

 負けた現実を認められなくて物に当たるウマ娘。

 髪の毛を掻きむしって取り乱していたウマ娘。

 何が起こっているか分からず呆然としているウマ娘。

 この結果を分かっていたとばかりに諦めの溜息をついたウマ娘。

 

 

「……」

 

 

 未勝利戦を勝てなかったウマ娘と向き合うのが辛かった。

 全てが終わってしまった彼女たちになんて言葉をかけていいのか分からず、俺は立ち尽くしているだけだった。ただ面談のことを言って聞かせるしかできなかった。彼女たちの姿がキタサンブラックが負けた時の姿と重なって、余計に辛くなっていた。

 ……悔しかった。

 

 その後の面談も心に堪えた。

 重い雰囲気になることぐらいは承知していた。ウマ娘本人や親から何か言われるだろうと覚悟もしていた。

 でも、他人から純粋な怒りや憎しみをぶつけられるのがこんなに怖いものだとは思わなかった。彼らの言葉のひとつひとつが俺の心を抉っていった。

 あの5人の親が全員そうだったわけではない。冷静に現状を把握して、俺を気遣って話してくれる親もいた。でも……悟ったかのようにどこか諦めた雰囲気があり、それも俺の心をじわじわと削っていった。

 ……遅すぎる無念と後悔が心の奥底で渦巻いていた。

 

 

「勘違いしてたんじゃねえのか……? 足りねえんだよ……何もかも……」

 

 

 勝たせてやれなかった悔しさと自分への怒りが混ざりあった感情が湧いてくる。

 

 俺は勘違いしていたのだ。

 足りないと言いながらも、新人研修では同期で一番だったり、1年目でキタサンブラックに重賞を勝たせた過去から、心の奥底で得意になっていたことに気がついた。無意識的に俺は自分を()()()トレーナーだと思っていた。

 ……驕りでしかなかった。キタサンブラックが凄いウマ娘だっただけの話だ。

 

 俺は天才じゃない。凡人だ。実力も経験も知識も不足していて、担当ウマ娘1人さえ満足に勝たせることのできない、力不足のトレーナーだと理解しなければならない。

 中央に戻ってから今日まで、一切手を抜かずに努力した。でもそれでは足りなかったのだ。

 

 今から4ヶ月後……次のウマ娘が再び配属される1月まで、時間は残されていない。

 無力感に苛まれるのはもう御免だ。

 

「次こそは……必ず……」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 12月24日、有馬記念。キタサンブラックのトゥインクルシリーズ引退レース。

 俺はトレーナー室のテレビでその模様を見ていた。

 

『これが! 現役最強ウマ娘の引き際だぁ!!!』

 

 キタサンブラックが逃げ切って優勝。ルドルフに並ぶGⅠ7勝目を手にするとともに、現役最強のままトゥインクルシリーズを去ることになった。ジュニア級からシニア級2年までの約4年間を最高の形で締めくくった。

 こぼれるような笑顔をした彼女を大声援が包んでいた。……成長した彼女はあの頃よりも少し大人びた顔になっていた。

 

「……夢が叶って、本当によかったな。お前は立派だよ、キタサン……」

 

 彼女はトゥインクルシリーズの主役にとどまらず、日本の主役となった。日本の誰もが彼女を知っているし、その明るいキャラや王道路線を戦い抜く姿から凄まじい人気を誇っていた。

 テレビや雑誌などのメディアに引っ張りだこ。グッズだって飛ぶように売れているそうだ。

 

 並外れた実力と人気を併せ持つ歴史的名ウマ娘。それがキタサンブラックの現在の姿だった。

 

 ほんの数年前、俺のそばにいたとは思えない。完全に別世界の住人だった。

 

 結局俺はキタサンブラックのレースを全て見ていた。レースだけでなく、追い切りの映像が出たら状態やフォームをチェックして、ニュースや記事の情報も目を通していた。

 ……もう自分の担当ウマ娘でもないのに。俺が彼女に指導することなんて永遠に訪れないのに。でも、気がつけばそうしている自分がいた。

 なんでこんなことをしているのか自分でも分からなかった。彼女が心配だったのか、応援しているだけなのか、自分の中で答えは出なかった。

 これを彼女が知ったら嫌がるだろうか。……俺なんかに気にかけられるどころか、レースを見られることさえ嫌かもしれない。

 でも、彼女がそう思っているかもしれないと考えても、俺はそれを止めることができなかった。

 

 

 

 

 ウイニングライブでアンコールに応え最後の曲を歌い終えたキタサンブラックは、マイクを持って観客に呼びかけていた。

 

『みなさんっ! 今日はこんなハレの日にお集まりいただき、ありがとうございますっ!!!』

 

 観客が大歓声でそれに応える。

 

『ご存知とは思いますが、あたしは今日でトゥインクルシリーズを引退して、ドリームトロフィーリーグへ移籍します! だからっ、トゥインクルシリーズのウマ娘キタサンブラックとしてはっ、今日が最期の走りと歌になります! だから、みなさんにお聞きしたいんですっ!』

 

 DTLへの移籍……前々から報道で出ていた通りだ。

 

 カメラが真正面から彼女を捉えた。本人は観客席を見ているのだろうが、角度的なものなのか完璧にカメラ目線になっていた。なので、彼女と目が合っているような気がしてしまう。

 俺は彼女の緋色の瞳に見つめられていた。

 

 

『あたしの走りで、あなたに笑顔と元気を届けられましたか?』

 

 

『あたしの歌で、あなたに感謝の気持ちを伝えられましたか?』

 

 

『あたしは、あなたの夢になれましたか?』

 

 

 その問いかけのどれもに、観客は大歓声を送って肯定し、サイリウムを振っていた。

 

『……っ…………』

 

 そんな様子を見て感極まったのか、キタサンブラックの瞳が潤んだ。

 

『……ありがとうございますっ!!!!! こんなに応援してくれるみなさんがいて、あたしは果報者ですっ!!! ドリームトロフィーリーグでも、笑顔と元気を届けられるよう頑張りますっ!!! これからもどうか、応援よろしくお願いしますっ!!!!!』

 

 彼女はそう締めて、舞台は幕を下ろした。まさしく大団円だった。

 

 夢を叶えた彼女の姿を見て、感慨深いものが心を満たしていた。

 

「俺も、もっと頑張らねえと……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして1月がやって来た。今年は6人のウマ娘が自動振り分けで俺のチームに配属となった。

 新しく決まったその6人の学園内でのレース結果を調べていた。

 

 その結果を見て、得心が行った。

 

「…………そういうことかよ」

 

 あの糸目の男が俺にスカウト活動を禁止させて、何をしたかったのか分かったのだ。

 

 

「去年のウマ娘も、今年のウマ娘も、みんな模擬レースや選抜レースで最下位の奴らばっかじゃねえか……」

 

 

 俺のチームに配属されたウマ娘たちは学園内のレースで軒並み最下位のウマ娘ばかりだったのだ。過去を遡っても良くてブービー、上位に入ったウマ娘は1人もいない。距離ごとの最下位のウマ娘たちを選抜して俺のチームに送り込んでいるようだ。

 ここまで露骨なら偶然ではないだろう。おそらく意図的にそうしている。

 

「そんな奴らを俺に担当させて……何が目的だ……」

 

 学園の落ちこぼれ──彼女たちをこう言いたくはないが──ウマ娘たちを俺のチームに送り込んでいるのは分かった。

 しかし、その目的は分からない。単なる嫌がらせなのか。勝てる見込みのないウマ娘を体よく送り込む掃き溜めにしているのか。……俺に期待して、ということは無いだろう。

 

「……考えても仕方ねえ」

 

 その真意がどうであれ、やることは変わらない。

 

「今度こそ……絶対に……」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 そして再び9月────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────また、6人全員が未勝利戦を勝てず退学になった。

 

 

 



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追憶15 ひとつ

 トレーナー5年目の1月。つまり、2回目に配属された6人が全員退学してから数ヶ月後のこと。

 俺のトレーナー室には新しく振り分けられた5人がやって来ていた。……学内レースの成績も、これまでの11人と同じような成績だった。最下位しか経験していないウマ娘たちだ。

 

「俺が坂川健幸だ。今日からお前らのトレーナーになる。これからよろしく頼む」

 

 俺が挨拶したあと、新しく来た5人に自己紹介させた。

 自己紹介が終わると、その5人は不安そうな表情を見せた。

 

 ……だいたい何を言いたいのか予想はつく。

 

「疑問があるなら何でも言ってくれ」

「……トレーナーさん」

「なんだ?」

 

 代表するように口を開いたのは責任感の強そうな青鹿毛のロングヘアーをしたウマ娘だった。

 

「あなたのこのチームは、一人も未勝利戦を勝ち抜けていないと……誰一人1勝すらできていないというのは事実ですか? それどころか、あなたはトレーナーになってから誰も勝たせていないというのも事実でしょうか?」

 

 残りの4人はその言葉に同意するような反応を見せた。

 

 予想は当たった。

 このご時世、スマホを使えばトレーナーの成績なんて簡単に調べられる。坂川健幸が担当したウマ娘が誰一人として勝てていないのは事実だ。中央に戻ってから担当した11人もそうだし、キタサンブラックだって、担当のようなものだったとはいえ所属は元からアルファーグで清島のウマ娘だ。

 URAが管理する個人記録のデータベースには、俺が1勝もしていないと示してある。それをこの5人は見たのだろう。

 

「事実だ」

「……そうですか」

 

 その青鹿毛のウマ娘と他の4人は目を合わせアイコンタクトをしてから俺の方を向いた。

 

「失礼ながら言わせてもらいます。私たちは1勝もできないトレーナーのあなたを信用できません。先輩が言っていました……『あの坂川ってトレーナーのチームに入ったら終わりだよ。誰も勝てないから』って」

 

 そういう噂も広まるだろう。だって事実なのだから。

 

「私たち5人は……落ちこぼれです。でも、勝たせられないあなたに実力がないのも明白です。ここに来る前に5人で相談しまして、トレーニングのメニューや方法は私たちで決めることにしました。私たちはもっともっと頑張らないといけないんです。よろしいですか?」

 

 初めてのパターンだった。これまでトレーニングをサボる奴はいたが、こうも真っ向からお前には従わないと言われるのは初めてだった。

 ……当然かもしれない。1勝もできなかったという結果が現状を招いているのだ。

 

「…………」

 

 青鹿毛のウマ娘が言ったことを考える。

 はっきり言って自殺行為だ。入学して1年も経たない奴らだけでそれぞれに適切なメニューを考えられるわけがない。俺だって足りないのは承知しているが、こんな初心者たちに任せるよりはマシだろう。

 この中で誰か1人でもそんなメニューが考えられるなら、それこそ学内レースの各距離で最下位を独占している事実と合致しない。誰か1人ぐらいは上位に入れているだろう。

 

「1ヶ月だ」

「はい?」

「1ヶ月だけ俺に時間をくれ。もしそれで俺のトレーニングに納得できないなら……自分たちで好きにやってくれたらいい。どうだ?」

「……少し、待って下さい」

 

 5人は輪になって相談し始めた。

 

 

 しばらくしてから結論が出たようで、輪を解いて5人が俺と向き合った。

 

「いいでしょう。1ヶ月間だけ……1月末までなら」

「ありがとう。なら早速トレーニングに入るぞ。っとその前に。これをお前らに渡すから着けてくれ」

 

 俺は立ち上がってスマホを一回り小さくして厚くなった形のものを渡した。

 

「これは……?」

「スポーツ用のGPSトラッカー、通称デジタルブラだ。そこの収納ケースに入っているウェアの背中側にセンサーを入れて使う。走行距離や速度が分かるだけじゃなく慣性計測、つまり加速度計や角速度計やらのセンサーが付いてる。それをタブレットで管理して、お前たちの走行距離や速度をリアルタイムで計測したり、ビデオと合わせて走行フォームの解析や走るときの癖を見つけ出して修正するために使う。これからトレーニングをするときは絶対に着けてくれ」

 

 去年の途中から俺はこのGPSトラッカーを導入していた。データや数値で具体的に示せるものを突き詰めようとしてたどり着いたのが他の競技で使われているこれだった。去年はデータ解析に時間がかかり、その解釈もうまく導き出せなかった。でも、使い慣れてくるうちにウマ娘たちの修正点が明らかになって、より良い指導ができるようになった。去年のウマ娘たちは上位入線を果たせるようになり、掲示板に入れるまで順位を押し上げることができた。そう意味では効果はあったのだろう。

 

 

 ……しかし、いくら順位を押し上げることができても、俺は結局1人も勝たせることができなかった。2着や3着を何度とっても、未勝利戦では意味がないのだ。

 

 

 彼女たちは渡されたGPSトラッカーを不思議そうに眺めていた。

 

「あ、それと後から親の連絡先教えてくれ」

「? どうされるのですか?」

「1ヶ月に1回、トレーニングの内容や方針を親に報告するんだよ。気になるなら親に送った文書をお前らにも見せてやるよ」

 

 これは今年から始めることだ。

 去年の面談もそうだが、親からトレーニングメニューや内容について問いただされることが多かった。それならあらかじめ連絡しておこうと思ったのだ。親もメニューについて口出ししたいなら返信してくれるだろう。

 親が怒ったり悲しんだりしているのも見たくなかった。ウマ娘も親も、色んなことに納得してくれるならと思って始めることにした。

 

「よし、じゃあ部室まで行くか。着替えたらサブコースに集合な。ウェアのサイズは一通りそろえているが、サイズ合わなかったら言ってくれ」

 

 俺はウェアが入った衣装ケースを抱えて彼女らを先導して部室へ行った。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 それから3ヶ月経ち4月になって、いきなり本部棟に俺は呼び出されていた。

 待っていたのはあの糸目の男だった。中央に帰ってきて以来だったから会うのは3年ぶりだった。

 彼は書類から目を上げた。

 

「お久しぶりです。お元気ですか? 坂川くん」

「ええ」

「さて、今日呼び出した理由ですが、単刀直入に言いましょう。今年よりスカウト活動解禁です」

「……そうですか」

「ええ。また、頑張ってくださいね」

「……はい。失礼します」

「あ、坂川くん」

「まだ何か?」

「キミ、いい顔になりましたね」

「はあ……?」

 

 意味不明だった。何にも嬉しくなかった。

 

 部屋を出て、本部棟の廊下の窓ガラスに映る自分の顔を見た。キタサンブラックを担当していた数年前と比べると、倍以上の時が流れたかのように老けてくたびれていた。目も据わってるように見えた。とても20代前半だとは思えなかった。

 GPSトラッカーのセンサーの波形とビデオを使っての動作解析と修正点の考察や、適性を探るための推察、資料集め、トレーニングの理論の構築などで慢性的に寝不足であるのと不摂生の賜物だろう。見た目は完全に30代だ。

 

「どこがいい顔なんだよ……」

 

 

 

 

 

 

 

 坂川が去ったあと、糸目の男は書類に目を戻した。その書類には坂川のチームのウマ娘の戦績が載っていた。

 URAで勤めるにあたって、糸目の男はトレーナー試験を合格できるレベルの知識を頭に叩き込んでいた。仕事の片手間にそれができるくらいには彼は優秀だった。

 だから、彼にはその戦績を見て思うところがあった。

 

「この短期間でここまで持ってくるとは……凄まじいな」

 

 その戦績を見て、彼は素直に感心していた。称賛と言ってもいいくらいだった。予想をはるかに超える好成績を残していたのだ。

 

 坂川も気づいているだろうが、彼のチームには学内レースで全く結果を残せなかった万年最下位のウマ娘ばかりを集めていた。以前丸顔の男に説明した通り、ほとぼりが冷めるまで大人しくしてもらうためだった。

 はっきり言って、そんなウマ娘たちなんてトゥインクルシリーズに出ても全く勝てない。掲示板なんて夢のような話だ。普通に最下位になるだけならまだ御の字で、タイムオーバー連発が当たり前だ。現に彼が担当した最初の5人はまさしくそうだった。

 それほど走りの才能の差とは残酷なものだ。勝ち上がれるウマ娘とそうでないウマ娘には断然たる差がある。

 

 しかし、2年目で彼はチームの何人も掲示板に乗せ、あまつさえ2着に入ったウマ娘も出した。

 彼のチームのウマ娘の成績で目を惹くのが距離や芝ダートなどの条件を変えて結果を残すということだ。何人か例を挙げるなら、学内レースでは芝のスプリントを走っていたがダートの中距離で3着に入ったウマ娘がいたり、デビューは東京2000mだったウマ娘がその後は右回りの1400mに絞って出走し掲示板を繰り返していたウマ娘がいた。

 当然のことながら、距離や芝やダートによって理論や適するトレーニング法は異なる。だから必然的にトレーナーも分野によって得手不得手があるのは自明のことだ。スプリント重賞を勝つウマ娘を多く送り出しているトレーナーもいれば、長距離を得意として菊花賞や天皇賞春に強いトレーナーだっている。それはトレーナー各々が経験を積んで確立された理論やトレーニング法を持っているからだろう。

 だが彼は違う。彼は中央に戻ってからまだ3年ほどしか経っていない。確かにGⅠなどの大舞台ではないが、条件を変えたウマ娘たちの成績が軒並み上がっている。適性を見つけ出しただけと言えばそうかもしれないが、成績を残すからには必ずそこに何かしらの思惑や考えがあってのこと。そして条件を変えるからにはそれに合ったトレーニングをこなさなければならない。先程挙げたスプリントからダート中距離へ変えたウマ娘なら、肉体的にも変えていかなければならないし、フォームはもちろんペース感覚だって全く異なる。それを彼が教え込んでいないと考える方が難しいだろう。

 

 実績のあるベテラントレーナーならまだ分かる。積み重ねたものがあるからだ。だか、彼はトレーナーになって数年しか経験がなく、新人に毛が生えた程度だ。

 加えて、彼に寄越したのはトレセン学園で最も才能がないと思われるウマ娘たちだ。

 

 それでこの成績……これを凄まじいと言わずになんと言うのか。驚異的な手腕だ。

 こんな芸当、今GⅠ戦線にいるトレーナーでもできるかどうか……いや、ほとんどのトレーナーができないのではないだろうか。GⅠを勝たせるのと未勝利を勝たせるのでは求められるものは違うが、それでもできるのは一握りのトレーナーぐらいだ。

 

 彼も()()()()()()()だったのかと……そんなことを思いながら今日彼と会った。

 しかし、それは思い違いだった。彼の顔を見た瞬間に分かった。彼を天才だと考えたことを失礼だとさえ思った。

 

「いい顔になったというのは、本音ですよ」

 

 

 

 あの顔は、心身を擦り減らして足掻いている人間の顔だ。

 

 

 

「でも哀しいかな、キミを褒めてくれる人なんていないだろう。未勝利戦で足掻いている底辺トレーナーなんて、誰も見向きなどしないのだから」

 

 糸目の男の目的は達成されていた。坂川は底辺を這いつくばっていた。メディアから彼の姿は完全に消えていた。学園でもあの事件は単なる諍いのひとつとして鎮火した。

 だからスカウト活動を解禁したのだ。

 

「そこまで出来るのに、なぜドーピングなんてしたのだか……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ああ、いや」

 

 糸目の男の呟きは続いた。さっきの独り言に訂正すべき箇所があったからだ。

 

「『誰も』ではなかったな。少なくとも()()だけは──」

 

 彼は一人のウマ娘を思い浮かべていた。

 

「……キミが彼を想う理由、少し分かった気がしますよ」

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 自分たちでメニューを考えると言っていたウマ娘たちだが、1ヶ月間俺が指導すると、彼女たちは俺を認めてくれた。2月以降も俺の指導の下でトレーニングを続けていた。GPSトラッカーやビデオのデータを生かした理論的なトレーニングをしたり、各トレーニングの意義や目的を詳しく説明したり、彼女たちの希望や疑問、不安も聞いてあげて、できるだけ寄り添ったメニューを作ったのも良かったのかもしれない。

 彼女らを勝たせるために、未勝利戦では分析した根拠のもと条件をよく変えた。距離はもちろん、芝かダート、レース場など、合うと思われる適性を必死に探した。……俺がキタサンブラックで誤った経験もあったのだろう。

 トレーニングも適性探しも概ね上手くいっていた。5人全員掲示板にだって入れることができた。

 

 ……だが、そこまでだった。すでに4人、最後の未勝利戦を敗北で終えていた。

 

 

 残る1人は責任感の強い青鹿毛のウマ娘だった。

 今日は最後となる8月末の未勝利戦。負ければ退学のレースが始まろうとしていた。もうすぐパドックに呼ばれることだろう。

 

 俺は彼女がいる控室に飛び込んでいった。

 彼女は緊張と不安で押しつぶされそうな表情をしていた。当たり前だ。負ければ全てが終わりなのだから。

 

「トレーナーさん……いきなり出ていかれたと思ったら、どこに……?」

「はあ、はあ……レースと芝の状態を見に行ってたんだ。いいかよく聞け。作戦を変えるぞ」

「え?」

「開催日数が進んで内側の芝が荒れてる話は頭に入ってるな?」

「はい。だから4コーナーで荒れてない外に出せるようにって。スムーズに外に出せるように前目につけろってことですよね。あと、一番人気の娘の外側を走って蓋をしてやれって……」

「それは全部忘れてくれ。時間がねえから今から言うこと頭に入れろよ。作戦は逃げだ。その荒れた内側をロスなく回していけ」

「へっ!? ど、どういうことですか!?」

 

 ポイントは内側のバ場状態。内側は開催日数が進んで芝が荒れていること。加えて、今日の未明まで雨が降り続いていた影響で重バ場になっていたことだ。

 

「確かに内側の芝は荒れている。でも、ここのレース場は内側から芝が乾く傾向があるんだ。それを確かめに今レースを見に行ってた。今さっき行われたレースで6着に負けはしていたが、最内の荒れたバ場を通ったその6着のウマ娘が最後一番伸びていた」

「! と言うことは……!」

「ああ。荒れてるがおそらく内側のバ場は乾いてきている。良バ場の方が得意なお前にとって、芝の状態が良い外の重バ場を走るより内を走った方がいい。逃げるのはその最内を誰にも取らせないためだ。幸いお前は1枠1番の絶好枠、スタートさえ失敗しなければ大丈夫だ」

「分かりました……でも、私本番で逃げた事なんて……」

「お前は体内時計がしっかりしてる。練習では何度もやってるんだ心配ない。それに、今まで逃げたことのないお前が逃げて最内を通ることで他のウマ娘は後手を踏むはずだ。だから──」

 

 そこで控室のスピーカーからパドックに向かうようにとの放送があった。

 

「トレーナーさん、私っ……」

「逃げで最内を回すんだ! お前ならできる! ……俺を信じてくれ! 頼む……!」

「……」

 

 彼女はこくんと頷いて、緊張した面持ちで控室を出ていった。

 

「……頑張れ」

 

 

 

 

 

 

 パドックでのお披露目を終えた彼女を地下バ道で迎え、ペースなどの確認をしてから送り出した。

 急いで観客席に戻ると、ゲートインが始まっている所だった。

 

 そしてあっという間にスタートした。

 

 

 青鹿毛の彼女は俺の指示通りハナに立った。しかし──

 

「っ! クソ……」

 

 競りかけてくるウマ娘がいた。そのウマ娘はペースが速くなることも厭わず、強引にハナを奪おうとしていた。

 そこで初めて、俺は競りかけてくるウマ娘がいた時の対応を指示しなかったことに気づいた。ハイペースに付き合うなら譲れと言っておくべきった。

 後悔しても遅い……と考えた瞬間だった。

 

「! あ……」

 

 まるで俺の心の声が聞こえたかのように、青鹿毛の彼女はその暴走するウマ娘にハナを譲った。

 

 そしてレースは最後の直線に入ってきた。

 彼女は暴走して力尽きたウマ娘を交わして早々に先頭に立った。もちろん最内の荒れたバ場の上を走っている。

 対して他のウマ娘は外を回していた。

 

「行け……頑張れ……頼む……!」

 

 彼女たちが目の前にやって来た。先頭を走っている彼女を捉えようと、後ろから死に物狂いで追い込んでくる。

 これは1着以外全員が退学になるレースだ。彼女たちみんなが今までのレース人生をかけて挑んでいる。

 

 そしてその青鹿毛のウマ娘は──

 

「……は!?」

 

 ──後続を突き放していった。

 

 後方のウマ娘たちと全く脚色が違う。1バ身ぐらいまで接近してきたウマ娘たちとの差を逆に2バ身、3バ身と広げていく。

 

 ゴールは目前だった。

 

「────」

 

 青鹿毛のウマ娘が1着でゴール板を過ぎるのを見て、俺は言葉を失っていた。

 何が起こったのか分からず、呆然としていた。

 

 そして気づけば、瞳を潤ませながら笑顔の青鹿毛のウマ娘が俺の目の前に立っていた。まだ息も絶え絶えで、汗にまみれ顔も上気していた。

 

 

「トレーナーさんっ! 私っ、やりましたあっ!!!」

 

 

 彼女は汗と喜びの涙を散らしながら両の拳を握っていた。

 

 

 

 

 

 小手先の作戦だったかもしれない。

 でも、何年もずっと必死に頑張ってきて、数えきれないほど悔しい思いを経験して、足掻きに足掻いて、それでやっとひとつ勝たせることができた。

 

 

 GⅠでも重賞でもない、トゥインクルシリーズにおいて最低ランクの格であろう未勝利戦での、ただの1勝。

 

 

 その1勝が、担当ウマ娘を勝たせることが、担当ウマ娘が笑顔を向けてくれることが、こんなにも……こんなにも、心の底から嬉しかったのだ。

 

 

 



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追憶16 そして今へ

追憶編クライマックスです


 青鹿毛のウマ娘は未勝利戦を勝ってから連勝を飾って一気にオープンクラスまで駆け上がり、シニア級ではリステッド競争も勝った。未勝利戦で停滞していたのが嘘のような活躍だった。

 うまくいくときはこうも順調に行くのかと多少驚いたのを覚えている。

 

 シニア級2年の3月……つまり高等部3年でのトレセン学園卒業を選び、大学進学すると決めた彼女は夏場に行われたGⅢに引退レースとして出走した。最初で最後、初めての重賞だった。

 結果は15人中12番人気で8着……掲示板には入れなかったが、レースを走り切った彼女は晴れ晴れとした表情をしていた。

 

 

 今日は3月。その青鹿毛のウマ娘の卒業式だった。

 桜の花びらが舞い散る中庭の一角にて、卒業式を終え卒業証書を携えた彼女が俺の目の前にいた。

 初めて自分のウマ娘をここまで持ってこられたことを思うと、俺自身も感慨深いものがあった。

 

「うわああああん! 先輩、マジで卒業しちゃうんですかあ~~……ううっ……」

「なに泣いてるの、もう。前から分かってたでしょ」

「あっという間でした……今までありがとうございました」

「うん、こっちこそありがとね。楽しかったよ!」

 

 青鹿毛のウマ娘は一つ下のシニア級1年の後輩ウマ娘2人と最後の別れを交わしていた。この2人は未勝利戦を勝ち上がった俺のチームのウマ娘だ。

 それを少し遠巻きに見ているのが二つ下のクラシック級のウマ娘3人。今年1月の振り分けでやって来たウマ娘だ。青鹿毛のウマ娘は引退レース後も受験勉強の気分転換を兼ねて月に数回トレーニングに顔を出していたとはいえ、彼女の引退後にチームに入ってきた3人はどう言葉をかけたらいいか分からないといった様子だった。

 

「卒業おめでとう。大学でも頑張れよ」

「トレーナーさん……」

 

 声をかけると、こちらを向いた彼女と目が合った。

 

「……あっち、行くよ」

「えっ!? なんでなんで!? もっと先輩といたい──」

「空気を読みなさいバカ! ほーら!」

 

 後輩2人は彼女から離れてクラシック級の3人の元へ行った。

 

「トレーナーさん、あの……」

「ん? なんだよ」

「……ごめんなさい!!」

「はあ!? なんだいきなり!?」

 

 彼女は大きく頭を下げて謝ってきた。

 

「……最初に会ったときのこと、覚えてますか?」

「は? ああ、そりゃあな」

「あの時、トレーナーさんに失礼なことを……本当にごめんなさい! ずっと謝りたかったんです」

「失礼だあ?」

 

 彼女によると、初対面時に『私たちは1勝もできないトレーナーのあなたを信用できません』だとか『勝たせられないあなたに実力がないのも明白です』だとか言ったことを謝りたかったらしい。

 

「そんなの気にしてたのか? 配属されたチームのトレーナーが1勝もできてなかったら誰だって不安になる。別に俺は何も気にしてねえぞ。それにお前らは結局俺の指導に従ってくれたしな」

「それでもです! トレーナーさんのこと何も知らずに……みんなに合った的確なメニューの作成もそうですし、あんなに私たちのことを考えてトレーニングしてくれる人だったのに……ごめんなさい!」

「気にしてねえって言っただろうが……ったく、クソ真面目なとこは最初から全然変わんねえな」

 

 彼女に頭を上げさせた。心底申し訳なさそうな顔をしていてるので、なんだかこっちが居たたまれなくなってきた。

 

「1勝もしていなかったのも、俺に実力がなかったのも本当のことだ。現に、お前以外の同期4人は退学にしちまったからな」

「でもっ、4人ともみんな惜しかったです。配属される前、私たち5人はみんな超のつく落ちこぼれでした。そんな私たちを惜しいところまで……私に至ってはリステッド競争を勝てるまで育てていただいて」

「……いいか。自分自身をそう簡単に過小評価するな。ウマ娘の才能(ポテンシャル)能力(パフォーマンス)の最大値ってのは誰にも分かんねえんだよ。お前の力を最大限引き出せたなら重賞やGⅠだって勝ててたかもしれねえ。それこそ俺じゃなく、他のトレーナーなら──」

「私はそうは思いませんっ! トレーナーさんじゃなかったら私は未勝利も勝てなかったと思いますっ!」

「……そうかい」

 

 そこまで言われるなら素直にその言葉を受け取っておこう。……正直、そう言われて嬉しかったのが本音だ。

 

「……お前が俺に最初の1勝をくれたんだ。リステッド勝ちもな。ありがとうな。お前の力になれたなら、良かったよ」

「はいっ! 私、トレーナーさんのウマ娘で良かったですっ!」

 

 ストレートな表現に、柄にもなく鼻の奥がツンとする。

 こんな風にウマ娘が信頼して付いてきてくれたことこそ、トレーナーとして幸せなことなんだと思う。

 本当のことを言うなら、俺に最初の1勝をくれたのはキタサンブラックかもしれない。でも、この青鹿毛のウマ娘も間違いなくトレーナー坂川健幸に最初の1勝をくれたウマ娘だ。

 

「先輩とトレーナーさん! 記念写真撮りましょうよう! ほらほら、こっち来て!」

 

 さっきまで青鹿毛のウマ娘に泣きついていた後輩ウマ娘がそう言って手招きしていた。桜の木の下に俺のチームのウマ娘たちが集まっていた。

 

「はいはい、分かった」

 

 俺は後輩たちの元へ歩き出した。主役である青鹿毛のウマ娘も俺の後に──

 

「ん? どうした? 早く来いよ」

 

 ──続いていなかった。彼女はその場に立ち止まったまま俺を見ていた。さっきまでの表情と違う……どこか、儚げな表情をしていた。

 

「……今行きます!」

 

 明るい表情に戻った彼女は早足でこちらにやって来た。

 一歩遅れてやって来た主役を中心に据えて桜の木の下で記念写真を撮った。

 

 

 こうして、青鹿毛のウマ娘の中央での学園生活は幕を下ろした。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ──記念写真を撮ろうと、後輩に呼ばれて歩き出した坂川の背中に向かって、青鹿毛のウマ娘は口を開いた。

 

「いつか、トレーナーさんが凄いトレーナーだってこと、証明してくれるウマ娘が現れたらいいですね。……私には無理だったから」

 

 その呟きは誰の耳にも届くことなく、春風に乗せられ消えていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 多くの出会いと別れを繰り返し、俺のトレーナー人生は続いていった。

 

 

 スカウト活動は解禁されたが、あまりうまく行かなかった。俺のチームに入ると勝てないとは言われなくなったものの、結果が芳しくないのは変わりなかったし、加えて俺はあまり口が上手くなかったからだろう。スカウトするからって嘘や過大な期待を抱かせるようなことも言わないこともある。もっと容姿が良くて、彼女らの興味を惹くようなトークでもできれば違ったのかもしれないが。

 スカウトで入ってくるのは年に1人いれば良い方で、多くは1月の自動振り分けで配属されるウマ娘だ。そのウマ娘もこれまでと同じように学内レースで最下位だった奴が多い。

 

 未だに俺は入ってきたウマ娘全員を勝たせることはできてない。でも、その年に入ってきた世代のウマ娘のうち1人以上は勝たせられるようにはなった。進歩といえば進歩したと思う。でもまだまだ全然足りないのだ。

 

 

 トレーナーのヒエラルキーがあれば、俺は最底辺に位置にしているトレーナーだろう。

 そんなトレーナー人生を送る俺に対し、あの2人は華々しい活躍をしていた。

 

『チームシリウスの天崎チーフトレーナーです! 今年は既にGⅠ4勝! その活躍の秘訣は──』

『一方、こちらも先週のGⅠを制された横水チーフトレーナーです! 少数精鋭ながら、所属ウマ娘たちの成績は輝かしく──』

 

 担当ウマ娘たちが重賞やGⅠを勝ちまくり、メディアによく露出している2人を見て思うことがある。

 俺も未熟でなければ、間違わなければ、ああなっていたのだろうかと。

 俺がアルファーグに残った世界線があったら……ドーピングなんてすることなく、キタサンブラックを無事勝たせられた世界線があったのなら、俺もGⅠ戦線で今頃活躍していたのだろうか。

 

 でも、もしそうだったら、こうなる前の俺と同じように未勝利戦で必死に頑張っているウマ娘たちがいることなんて()()()()()()()だろう。知識としては知っていても、経験して実態を理解していなかっただろう。

 

 しかし、分からないのが悪いことなのかとも思う。 

 

 GⅠ戦線にいるから上等なのか? 未勝利戦で足掻いているから下等なのか? 

 未勝利戦で勝てず泣いているウマ娘たちがいる現実を知っているから上等なのか? GⅠ戦線の華やかでキラキラした夢の舞台しか知らないから下等なのか? 

 

 違う。

 

 どっちが上等で、どっちが下等かなんて話ではない。比較すること自体が間違っている。

 立ち位置や場所が違えど、それぞれが選んだり与えられた場所で戦っているのだ。そこに優劣は無いし、貴賤も無いと俺は思う。

 

 悩みだって一緒だ。その立ち位置や場所での悩みがそれぞれある。……俺で言うなら、昔はキタサンをGⅠを勝たせたくて、今は担当ウマ娘みんなに未勝利戦を勝たせたくて、という風に。どっちも俺は悩みに悩んでた……後者は現在進行形で悩んでいる。こう言えば、どっちの悩みが良いとか悪いとか、そんな話にはならないと思う。

 ……まあ、底辺トレーナーの俺が言うのだから、負け犬の遠吠えだと言われればそれまでだが。事実、客観的な優劣の評価は付いて回る。勝鞍はちゃんと記録に残るし、もらえる金だって上と下では雲泥の差だ。

 

 しかし、外的な環境の幸せと内的な心の幸せはきっと違うのだ。GⅠをいくら勝っても満たされないウマ娘もいれば、未勝利戦を勝つことで満たされるウマ娘もきっといるだろう。有り余る金と権力があっても満たされない人間がいれば、質素な生活でも幸せを感じて満たされる人間がいるように。

 注目されて取り上げられるのはGⅠ戦線で華々しい活躍をするウマ娘だ。でも、誰からも注目されない未勝利戦や条件クラスのウマ娘たち一人一人にも多くの物語がある。そこには尊い努力があるし、かけがえのない笑いや喜び、そして涙がある。GⅠ戦線のウマ娘となんら遜色はない光景が広がっている。アルファーグと現状を経験した俺だからそう言える。

 

 

 

 俺が今いるのはトレセン学園の底辺だ。勝利の美酒なんてほとんど味わえなくて、負けて苦汁を舐めることが圧倒的に多い。負けたウマ娘や退学になったウマ娘を経験するのは何度経験しても耐え難い気持ちになる。先輩はいつか慣れると言っていたが、俺は全く慣れそうになかった。

 負けて終わってしまったウマ娘たちにはどうやっても贖うことはできない。今でも後悔ばっかりだ。

 でも、だからこそひとつ勝つということの大変さと素晴らしさを知ることができた。たとえ未勝利戦であっても、担当ウマ娘が勝ってくれれば最高の気持ちになれる。力になれて良かったと、トレーナーをやってて良かったと、心の底からそう思わせてくれる。

 

 

 そして気がつけば、たくさんの担当ウマ娘たちが俺の胸に刻まれていた。キタサンブラックはもちろん、中央に帰ってきて担当し、退学になったウマ娘たち、勝たせられたウマ娘たち……まるで降り積もる雪のように、彼女たちの存在がどんどんと胸の内で積み重なっていった。トレーナーを続ける限り誰一人として忘れることはないだろう。

 今現在担当しているウマ娘と過去となったウマ娘、その存在が今の俺を突き動かしている。

 

 俺は彼女たちを覚えているからトレーナーとして進んでいけるし、進んでいかなければならない。トレーナーを続けると選択してしまった以上、中途半端に逃げ出すことは許されないことだと思う。……ドーピングさせたという十字架も、一生背負っていかなければならない。

 

 

 

 明確に言葉にしたことはなかったが、ぼんやりとそんな風に考えながらトレーナーを続けていって、出会ったウマ娘が──

 

 

『……あなたが、いい。モエのトレーナーになって欲しい』

 

 ──カレンモエであったり、

 

『あなたに、キングのトレーナーになる権利をあげるわ!』

 

 ──キングヘイローであった。

 

 

 

 これが、坂川健幸というトレーナーが現在に至る道程だ。

 

 

 

 

 




主人公の過去編である追憶はこれにて一応終わりとなります。
と言っても、まだ描写していないシーンがいくつかあるので、これからも過去編はちょくちょく挟んでいく予定です。


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第45話 滲んだ星空

時系列は現在……夏合宿初日の夜へと戻ります。


「まあ、俺の話はこんなもんだ。……のど乾いたな」

 

 私たちは辺りを一回りしてスタート地点であった自販機が並んでいるバス停に戻ってきていた。

 坂川は自販機でペットボトルのお茶を買うと、それを勢いよく呷った。

 

「っはあ…………初めてだ。こうやって誰かに話したのは」

 

 彼はベンチに腰を下ろして背を預けた。

 その彼に向かい合うように私たち3人は立っていた。

 

「もう一度言うが、キタサンの話だけは誰にも言わないでくれ。頼む……」

 

 彼は私たちに向かって頭を下げた。私も含め、カレンモエとペティもそれに頷いて同意した。

 

「ありがとうな。……で、どうだった俺の話は? 幻滅したか?」

 

 彼は普段と変わらない口調で私たちにそう訊いてきた。

 

 正直、彼の話を聞いた感想は一言で表せない。

 彼が様々な経験をしてきたのも分かった。辛い体験をしてきたのも分かった。彼がどこか()()ているのも分かった。

 でも、幻滅するなんてことは無かった。

 

「確かにあなたがキタサンブラックにした行為は許されないことだと思うわ。でも、だからってあなたを見限るなんてことにはならない」

「…………」

 

 私の言葉にカレンモエは小さく頷いた。

 だが、もう1人は違った。

 

「少し、考える時間をください……」

 

 考え込んでいる様子のペティは踵を返して私たちに背を向けた。

 

「他のチームに行きたかったら行っていい。移籍申請の用紙なら様式を後からメールで送ってやる」

「チームを辞める気はないです。でも……今は独りで考える時間が欲しいんです」

「……そうか」

 

 彼女はそう言って宿舎の方へ戻っていった。

 

「お前らも帰っていいぞ。夜遅くまで長々と付き合わせて悪かったな」

「……そう。それじゃ、私も失礼するわ」

「ああ。……キタサンブラックが俺のことを憎んでるから、この前お前にあんなことをしたと思うんだ。お前には迷惑かけたな……すまない。……また明日な」

「……もう一度言うけれど、あなたが謝る必要はないわ」

「……」

「おやすみなさい」

 

 私もペティに続いてその場を後にした。

 

 

 

 

 宿舎へ帰る道すがら、私は彼のことを考えていた。

 あの場に残って、彼のことをもっと色々訊きたい気持ちもあった。彼の行動の意味やそのときの感情について知りたいこともあった。

 彼を見限っていないというのは本音だ。でも、ドーピングの話が出たときは流石に驚いた。そんなことをする人間だとは思っていなかったから。あの瞬間は、目の前にいる坂川が得体の知れない化け物のように見えた。

 レースに臨むトレーナーとして許されない過ちだとは思う。ウマ娘としても、騙してドーピングさせるトレーナーなんて許してはならない。

 しかし、それだけで彼は悪だと決めつけるほど私は単純でない。彼の主観という話を差し引いても、ドーピングに至る道筋は決して同情できないものじゃない。当時の状況と先輩トレーナーの存在によりドーピングへ至ってしまったこと……起点であった彼に非があるとはいえ、彼だけが絶対的な悪という訳ではない。当時の彼はトレーナー2年目……私たちとそう年齢は変わらない若者だったのだ。

 

 あと引っかかったのは彼の考え方……うまく言葉にはできないけれど、彼は()()ている……そんな気がする。

 

 でも──

 

「……()()()()()

 

 ──そう。それよりも、今の私の頭に中にあるのは私自身の……()()()()()()()()()()()()()のことだ。

 

 彼には申し訳ないかもしれないけど、それよりも私は()()()()()()()()()()が気になっていたのだ。彼の話を……いや、彼がたどってきた歩みのことを聞いて、そのことが頭を徐々に占めるようになった。

 

 彼にかけてあげたい言葉はあったが……今はまあ、カレンモエがいるなら大丈夫だろうと思った。……私より彼女の方が長い時間を過ごしているし、たぶん彼女の方が彼のことをよく見ている。

 

 だから彼と話を続けず、こうして独りで帰ってきたのだ。ペティと考えていることは違うだろうが、独りで考える時間が私も欲しかった。熱に浮かされたような頭を冷やしたくなかった。この熱を持った状態のうちに考えたいことができた。

 

 

 彼の話に……“一流”の手がかりがあるような気がしたのだ。

 

 

 彼は自分のことを底辺にいるトレーナーだと言っていた。初めて会った時も彼はそう言っていた。『トレーナー10年やって重賞勝利0。一流どころか、二流、三流ですらない。弱小、底辺……そう呼ばれるのが相応しいトレーナーだからな』と彼が言っていたことを私は覚えている。

 

 でも、本当にそうだろうか。

 

 彼自身が間違えてきたことも分かる。結果を出せなかったことも分かる。しかし、今の私は彼が死に物狂いで努力してきたことを知っている。どれだけ辛い目に遭おうが折れずに立ち向かってきたことを知っている。

 彼はその部分を殊更強調して話さなかったが、話の節々からそれは察せられた。キタサンブラックのこともそうだし、中央に戻って来てから担当したウマ娘たちにだって、彼は必死に努力してきたのだろう。

 他でもない、彼のトレーニングを受けてきたウマ娘であるから分かる……彼のトレーニングメニューには必ず明確な理由と目的が存在しており、その結果の評価や考察を含めて全て論理的に導き出している。一朝一夕でできるものではない。それらは彼の中にある膨大な知識量や理論の数々を前提に、気が遠くなるような成功と失敗の試行錯誤を繰り返して研鑽されたものだ。

 ……以前、あるトレーニングメニューの理論について彼に尋ねたところ、口頭で長々と説明を受けたあとに彼は参考とした論文のPDFをメールに添付してたくさん送ってきたことを思い出した。海外の論文も多数あった。

 

 でも、そこまで努力しても結果は芳しくなかった。カレンモエの同学年も3人退学にしたと聞いているし、私を担当するまで重賞を勝てなかった。彼の話にあった青鹿毛のウマ娘がリステッドを勝ったのが最高の成績だった。

 そうだ、彼の言う通り()()()()を見るなら彼自身が底辺だというのは正しい。

 

 では、彼のことを知った私も坂川健幸は底辺トレーナーと切って捨てることができるだろうか? 

 どれだけ努力しようが、結果が出ていないお前は底辺なのだと。

 

「……できない」

 

 出来ないのだ。以前の……彼と初対面の時の私は出来ていた。

 彼の話を聞いてしまった私はそんなこと出来ない。どうしてもそう思えない。それどころか、それほどまでに辛い経験をしても決して折れずに研鑽を重ねてきた彼は一流──

 

「……どういうことなの……」

 

 ──と一瞬でも考えてしまった自分がいた。

 

 契約直前、トレーナー室で彼とペティの会話を耳にしたとき、彼と私に共通点があることを見出していたことを思い出す。それは彼も私も諦めずに上を目指す在り方だということ。何があっても首を下げないということ。

 そうだ、私と彼は似ているところがあるのだ。

 

 そうして坂川健幸からキングヘイローへと繋がってくる。キングヘイローとは、己が一流のウマ娘だと証明するために走っているウマ娘だ。

 

 私にとっての一流をいったん整理してみよう。

 キングヘイローは一流のウマ娘だ。

 そんな私は自分が一流のウマ娘であると証明するためにトレセンに入った。そして、レースに反対する母親……グッバイヘイローに自分のことを認めさせるため。

 しかし、今になったら分かるのだが、私の中では一流のウマ娘の姿が定まっていなかった。クラシック三冠を達成すれば、GⅠをいくつも勝てば、勝ち続ければ一流のウマ娘だと、そんなことを考えていた。

 それを指摘されたのが弥生賞が終わったあとの母からの電話だ。私は母に『あなたの言う一流のウマ娘ってなにかしら?』と訊かれた。私は答えることができなかった。

 そして母から最後に『あなたがそれを分かっていないようなら、一流になんてなれやしないわ』と告げられた。

 

 ……はっきり言って癪だが、母が言ったことは正しいと思った。目指している一流のウマ娘とは何かが分かっていないのに、証明するなんて到底無理な話なのだ。

 私はその後悩みに悩んだ。キングヘイローにとって、目指す一流のウマ娘とはどんなウマ娘なのか、何を成し遂げたら一流のウマ娘を証明できるのか分からなかったから。私の決意を込めたはずの『一流のウマ娘』……それがこんなにもあやふやなものなんて、思いもしなかったから。

 

 結局思考は堂々巡りで答えは出なかった。しかし、そこに手を差し伸べてくれたのがカレンモエだった。

 皐月賞の前……スタートのトレーニング後、カレンモエに誘われて夜の食堂で食事の席に着いた。そこで、今答えが出ないで悩んでいるのなら、その答えを探しながら歩んでいくのはどうかと言われた。いつか答えが出る日が来るからと。

 その考え方は悩んでいた私を楽にしてくれた。胸が軽くなり、憑き物が落ちたような気がしたのを覚えている。

 カレンモエのアドバイスもあり、その後は一流について考えないようにしていた。時が来ればその答えが出るから、それまでは気にしないでいようと。

 

 そして、今改めて一流について考える機会が訪れていた……いや、考えるというよりは、考えさせられてしまっていると言う方が正しいか。

 坂川健幸というトレーナーのこれまでの歩みを聞いたことによって、なぜ私は“一流のウマ娘”のことがここまで気になっているのか。そして、こうも心が揺さぶられているのか。

 

 その答えは……彼の話を聞いた私は、一流のウマ娘の答えを今導き出せるのだろうか。

 

 

 キングヘイローが目指すべき一流のウマ娘とは? 

 グッバイヘイローを認めさせる一流のウマ娘とは? 

 

 

「……ダメだわ……まだそこにはたどり着けてない……」

 

 ……その答えは出そうになかった。頭が熱に浮かされているからではないと思う。

 おそらくだが、私にはまだ一流のウマ娘とは何か掴むためにはまだ何か()()()()──

 

「足りない……?」

 

 思考の果てに出てきた“足りない”という言葉。

 その言葉には聞き馴染みがある。と言うより、さっきの彼の話でよくそのワードが出て来ており、とても印象深く心に残っていた。彼が昔の話を語るうえで、力の及ばなかったと思われる時に度々口にしていた。

 

「…………トレーナー、あなたは──」

 

 繰り返される“足りない”……おそらく彼は今でもそう思っているだろう。トレーナーとしての自分が足りないと。それは実力的なものなのか、実績的なことなのか、それとも別のことなのか……全部ひっくるめてなのか、当人ではない私では分からない。

 

 でも、そこまで考えが至ってとふと思うことがあった。これは単純な疑問だ。

 

 

 

 

 

「──どうすれば、どうなれば、“()()()”のかしら……?」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「モエ、お前は帰らないのか?」

「……トレーナーさんはモエに帰ってほしいの?」

「は? いや、そういう訳じゃねえけど……まあ夜も遅いしな。……どうだった、俺の話を聞いて」

 

 何を言われても受け入れるつもりでいた。

 

「キングの言ったこととモエも変わらないよ。ドーピングはびっくりしたけど、だからって何も変わらない。モエはモエで、トレーナーさんはトレーナーさん。それで、モエはトレーナーさんのことを知ってる。……でも、今だから言えるけど、聞けて良かったって思う」

「良かった……? こんな話をか?」

「うん。……んー……そっか…………じゃあ」

 

 彼女の澄んだ青色の瞳が俺を捉えた。

 

「トレーナーさんは、モエのこと大切?」

「! ……」

 

 唐突に訊かれたそれは返答に困るものだった。さっきの話とどんな脈絡があるかも分からなかった。

 俺は思わず顔を下に向けた。

 ……答えようとしたが、口にするのを無意識的に躊躇してしまった。

 

 

 なぜなら、誰にも言ったことがないからだ。担当したウマ娘に対して……おそらく俺は心ではそう思ってるのだろうが──

 

 ──え……?

 

 と考えたところである光景が頭をよぎった。

 キタサンブラックに大切じゃないと言ってしまった、あの時のことだ。

 あの時の俺は自分のことが分からなくなって……ドーピングさせて暴力を振るった自分はそうなんだとしか考えられなくて。

 

 

 ──でも……俺は……本当は、キタサンにも……

 

 

 自分の気持ちを、思いを、確かめるように声という形にしようと試みた。

 けれど中々出てこない。

 

 

「ねえ、言ってほしいな」

「俺は……」

 

 

 顔を上げてカレンモエの表情を改めて見る。目尻が少し下がって、優しげな表情を彼女はしていた。

 逃がしてくれそうになかった。意を決して、カレンモエへの気持ちを口にした。

 

「ああ……大切に、思ってる」

「……うんっ、ありがとう。モエ、うれしいよ。トレーナーさんに大切って思ってもらって、うれしい」

「そう、か……」

 

 なぜだろう。彼女のその言葉が胸に入ってくる。でも、怒りや憎しみをぶつけられたときに感じるような突き刺さる感触ではもちろんなかった。

 むしろ真逆だ。心地よささえ感じられ、暖かいものに満たされてくるような──

 

「……モエも、トレーナーさ……ううん」

「……?」

 

 そしてカレンモエは笑って──俺に優しく笑いかけてくれた。

 

 

 

「モエも、()()()()さんのこと、大切だよ。大切に思ってる」

 

 

 

「──っ」

 

 そう言われた瞬間、熱いものがこみ上げてきた気がした。

 

 

 

 

 ──カレンモエは明確な意図があって言ったわけではない。

 坂川の問題を言語化できるわけでもない。だが、本質的なものをおそらく掴んでいた。彼は他人や状況に否定されてきた……そして何より、彼は今でも自分自身に否定され続けていることを。

 だから大切(これ)が出てきたのだ。

 その真意は哀れみでもない。憐憫でもない。同情でもない。

 

 ──彼女自身が彼に言いたかったから言ったのだ。伝えたいから伝えたのだ。ただ単純なことだった。

 担当ウマ娘とトレーナーだけの関係ではなく、カレンモエという一人のウマ娘は坂川健幸という人間をこう思っていると……それだけのことだった。

 

 

 

 

「っ……俺はっ……」

 

 そんな資格はないのだと、そう言おうとした。

 

 俺はお前の力になれていないのに。

 過ちばかり犯してきた最低の人間なのに。

 そんなことを思われるような価値のある人間じゃないのに。

 

 でも、それを言うのは……考えるのは憚られた。なぜなら──

 

「……うん?」

 

 目の前でこの表情を向けてくれるカレンモエに背を向けることになるからだ。

 大切だと言ってくれたことを否定するのは……カレンモエを否定することになるから。今まで俺についてきてくれて、こんな話を聞かされてもここにいてくれる彼女だから。

 

 彼女が俺へ向けてくれるこの気持ちはとても尊いものだと思ったから。

 

「……いや……ありがとうモエ。俺も……その……嬉しい」

「! ……うんっ。トレーナーさんがうれしいなら、モエもうれしいよ」

 

 うれしいことばっかりだね──と彼女は微笑んで、ベンチに座っている俺の隣に腰を下ろした。

 

「モエね。来年も学園に残ろうと思うの」

「え?」

「ほとんどのウマ娘はシニア級2年の3月に卒業を選ぶでしょ? だからみんなシニア級1年で走るのを辞めちゃう。でもモエはシニア級2年になっても、3年になっても……モエが走りたいと思う限り走ろうって」

「……そうか」

 

 カレンモエは現在シニア級1年……高等部3年だ。今この段階で夏合宿に参加していることや、これまでの親を交えた面談でもそれとなく現役を続けることを匂わせていたが、初めてはっきりと言葉で示してくれた。

 納得するまで走りたい……口で言うのは簡単だが、おいそれと決められることではない。大事な時間を棒に振る可能性だってあるからだ。

 

「ねえ、トレーナーさんはずっとそばにいてくれる? モエが走り続ける限り、一緒にいてくれる? ……モエは一緒にいたいな」

「っ……」

 

 気のせいではなかった。こみ上げてくるものが確かにあった。

 

 『お前がいいなら』……浮かんできたその言葉は泡となって消えていった。

 言うべきことじゃ……いや、違う。俺が言いたいのは、俺の本当の気持ちはそうじゃない。そこを履き違えてはいけない。

 ……いい加減目を背けるのはやめろ、と自分に心の中で言い聞かせた。

 

「……ああ。お前が走り続けるなら一緒にいる。俺も、お前と一緒にいさせてほしい……」

「! えへへ……うれしいな」

 

 ことん、と肩に何かが乗せられた感触がした。

 横を見るとカレンモエが俺にもたれかかり、俺の肩に彼女の頭が乗せられていた。芦毛の髪が目と鼻の先にあり、彼女の体温と髪の毛の感触が感じられた。

 

「前、トレーナーさんが言ったの覚えてる? モエがそばにいてくれるだけでうれしいって。モエもそうだよ。……こうしてるだけでうれしいんだよ?」

「……っ……」

 

 彼女はこちらを見ないでいてくれた。

 

 何で俺はこうなっているんだろうか。こんな歳になって情けないと思う。

 こうなっている理由は分からない……でも、キタサンブラックと別れたときとは違う気がする。

 

 多くの星が瞬いているであろう夜空を見上げても、どれもぼやけてしまっていた。

 

 けれど、その景色は綺麗だと思った。不鮮明であっても、視界いっぱいに広がる星空は綺麗だった。

 

 

 ◇

 

 

 宿舎に帰り、割り当てられた自室に戻ろうと廊下を歩いていると、曲がり角でちょうど向こうから来た人とぶつかった。

 頭の中でずっと考え事をしていたせいで、注意力が散漫になっていた。

 

「っ!? ごめんなさい。大丈夫?」

「あっすいません……って、キングちゃん? そっちこそ大丈夫?」

 

 ぶつかった相手は郷田マコだった。

 

「キングちゃんどこか行ってたの?」

「はい。少し散歩に……」

「そっか。早く寝ないと明日に響くからほどほどにね。坂川さんの夏トレめちゃくちゃハードだから。じゃあ、おやすみ!」

「ええ。おやすみなさい」

 

 彼女はそう言って宿舎の出口の方へ向かっていった。

 

「……そうね」

 

 考えごとは尽きそうにない。でも、トレーニングに影響するようでは一流のウマ娘と言えない。

 クラシック級になってから悔しいことばかりだった。秋にはリベンジするためにもこの夏が重要なのは言うまでもないだろう。

 

「今は切り替えないと」

 

 明日からの夏トレに向けて、気持ちを切り替えていこうと決意した。

 

 

 ◇

 

 

 ベンチに座った俺の肩にカレンモエがもたれかかっている。彼女は寝ているわけではない。でも、俺たちの間に会話は無く、ただそうしているだけだった。溢れそうだったものは流れることなく、気がつけばおさまっていた。

 そうしてどれくらいの時間が経過しただろうか。数分だったかもしれないし、10分は優に経っていたかもしれない。

 

「あっ!」

 

 そんな時だった。前方に人影があった。その声と背格好は聞き覚えも見覚えもあるものだった。

 

 面倒なことになったと、直感的にそう思った。

 

「ちょ!? 坂川さんとモエちゃん? な、な、なにしてんスかあ!? こんな夜更けに、2人で寄り添って──」

「マコ!?」

「……ぁ」

 

 もたれかかっていたカレンモエから離れるように俺は反射的に立ち上がった。

 

「ど、どういうことッスか坂川さん!? 最初は地元のカップルがイチャつきやがって死ねと思ったッスけど……ま、まさか坂川さんとモエちゃんだなんて。まさか2人は──」

 

 あまりよろしくない誤解をしているようだった。

 

「誤解だ! ただちょっと……そう、少し話をしてただけだ。お前こそなんでこんなところにいるんだ?」

「私は飲み物でも買おうと思っただけッスよ。こっちの自販種類沢山あるから」

 

 そういうマコの手には財布が握られていた。

 

「そんなことより! ちゃんと説明してくださいッスよ! この状況、言い逃れできないと思うッスけど。そうならそう言ってくれたらよかったのに。水臭いっすよ坂川さん! 大丈夫ッス、今どきトレーナーとウマ娘なんて珍しいもんでもないッスよ! やっぱ坂川さんも男だったんスねえ!」

 

 彼女の目は爛々と輝いていた。その口調は純度100%の好奇心を隠し切れないでいた。

 

「だからそうじゃねえって……モエも何か言ってくれ」

「……」

 

 俺がそう言うとカレンモエは静かに立ち上がり俺の横に立った。

 

「……トレーナーさん、ちょうどいいし、バラしちゃおうよ」

「は?」

「トレーナーさんとモエが、前からそういう関係だったってこと」

 

 俺の腕に彼女が絡みつき身を寄せてきた。彼女の色んなところが腕に触れていた。

 

「はあ!? お前何を──」

「やっぱり! モエちゃん、本当なの?」

 

 ありもしない事実を公言したカレンモエへの抗議はマコの声にかき消された。

 

 ──何を考えているんだコイツは!? 

 

「うん。週1回はお出かけしてデートもしてるよ」

「えーほんとう!? 坂川さんいつの間に……隅に置けないッスねえ」

「意味の分からん嘘ばっかついてんじゃねえ! お前とデートなんて──」

「……お出かけはしてるでしょ?」

「お出かけだあ? ……ん?」

 

 そう言われて今までのことを思い返す。

 確かにここ半年ぐらいは週1回カレンモエと出かけている。というのも、2月の紫川特別が終わったぐらいから彼女は土日のトレーニング後もトレーナー室に姿を現し夕方から夜にかけて居座ることが多かったのだ。俺は土曜か日曜どちらかの夜は大体外食をするため、彼女の予定が空いてればメシに連れて行ってやっていた。電車などの公共交通機関は人の目が気になるので主に車で行っていた。

 まさかそのことを言っているのか? 

 

「あれはメシ食いに行ってるだけだろうが!」

「でも、ごはんだけじゃなくて買い物も行くでしょ?」

「お前が『ついでに寄ってほしいところがある』って言うから連れて行ってやってるだけだろう」

 

 シューズ屋だったり蹄鉄屋だったり、他には雑貨屋や服屋など、通り道のついでに寄ってやることは確かにあった。車の中で待ってるのも手持ち無沙汰なので一緒に店へ入ってはいた。

 ……あれはデートなのか? いや、そんなはずはない。ただの買い物だし、どちらかと言うと足として使われているだけではないのか? 

 

「いい加減なことばっか言ってんじゃねえ! ……そろそろ離せ」

「ぁ……」

 

 カレンモエの力が緩んだ瞬間を見計らい、絡みつかれていた腕を引き抜いた。

 

「マコ、分かっただろ。モエが俺たちをからかって遊んでるだけだ」

「え~ほんとッスかあ? モエちゃんそういうタイプじゃないと思ってたんスけどお……」

 

 マコの言う通りカレンモエはからかうような言動をするタイプではない。俺と2人の時は喋ってくれる彼女ではあるが、あまりそういう一面は見たことがなかった。だからまあ、今回のこれは気の迷いみたいなもんだろう。

 

「……ったく」

 

 一先ず騒動が収まりそうだったので、俺は手に持っていたペットボトルの茶を飲もうと蓋を開けた。そしてそれに口をつけようとした瞬間、偶然横目に見たカレンモエと目が合った。

 

「…………」

 

 いつも通りのフラットな表情だった。

 でもどこか不満げな……そして悪戯っぽい感じを抱いた。

 

 

 ものすごく嫌な予感がした。

 

 

「……ひどいよ。トレーナーさん」

「え? どういうことモエちゃん?」

 

 俺は茶を飲んでいた。

 

 

「モエのこと、抱いてくれたのに……肩を

 

 

「ぶふうっ!? ゲホッ、ゲホッ!?」

 

 飲んだ茶は気管に入ってしまった。これ以上ないほどむせた。

 

「ぶっ!? も、もうそこまで!?」

 

 何も飲んでいないマコも吹き出していた。なんでだ。

 

「それは流石にアウト! 完全アウトッス坂川さん!!!」

「ゲホッ! ゴホッ! 肩を……っ、だろ! そこ……っゴホッ、はっきり、ゲホッ、言えアホ!」

 

 彼女は最後に小さく「肩を」と言っていたが、俺に聞こえていただけでマコには聞こえていなかっただろう。それを聞こえているのといないのでは大きく意味が異なってくる。

 

「モエ、寝てたから……でも、モエを気遣ってくれてるの分かったよ。優しいなあって思った」

「モエちゃんの寝込みを!? はい犯罪! それは犯罪ッスよ坂川さん! 坂川さんのケダモノ! ……同意があればいいんだっけ……いやいや、一体何してんッスかあ!? 寝てるモエちゃんがカワイすぎて我慢できなかったんスかあ!?」

「ゴホッ、ゴホッ……おえ……んなの、嘘に決まってんじゃ……あ?」

 

 ようやくむせ終わって落ち着きを取り戻せた。そして清明になった頭で考える。

 

 肩を抱く……寝てた……まさか!? 

 思い当たる節があった、あれはカレンモエが乙訓特別で負けたあとメシを食いに行って酒を飲まされた時の話だ。帰りの電車で舟を漕いでいる彼女を引き寄せようとして肩を抱く形になったことがあった。

 そのことを言っているのか!? と言うか肩を抱いたことなんてあれ以外に思い浮かばない。

 

「お前あんとき起きてたのか!?」

「……何のこと?」

 

 すっとぼけるカレンモエ。こういうとき、彼女の平坦な表情は効果を十二分に発揮することを知った。

 

「~~~~っ! 坂川さんっ……!」

「なんだよ!?」

 

 マコはいつの間にかスマホを取り出して懸命に何か操作していた。

 そしてほどなくして、俺のポケットに入ってるスマホにメッセージの着信が入った。スマホを開くと予想通りLANEにマコからのメッセージが来ていた。

 

「何だ……?」

 

 そのメッセージを確認すると、聞いたこともない建物と住所が送られていた。近くの街にそれはあるようだった。

 だがしかし、よくよくその建物の名前と外観を確認するとそれが何か分かった。それは大人の営みをするホテルだった。

 

 マコは暴走していた。

 

「バカか! こんなとこ行くわけねえだろが!」

「ええ!? じゃあ宿舎で……ってことッスかあ!? あそこの壁意外と薄いし、その……声とか……音とか……多分他の人に聞こえるッスよ……まさか聞かせたいとか──」

「ああもう! そう言うことじゃねえんだよ! ……モエ、もう勘弁してくれ……」

 

 どうしようもなくなったので、俺はカレンモエにそう懇願するしかなかった。

 

「……うん。ふふっ、ごめんね……?」

 

 カレンモエは悪戯っぽくそう言うと、ただ俺とマコをからかっただけだと弁明してくれた。

 一応マコからの疑いは晴れたようだった……納得はしていないような、訝しむような表情はしていたが。

 

 ちなみにその後俺がマコにジュースを奢ってやることになった。なんでだ。



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追想1 消失

当作品はイクイノックス号(父キタサンブラック母父キングヘイロー)を全力で応援しています(17話ぶり4回目)
想像を絶する強さでビックリしちゃいました……


追“憶”ではなく追“想”です。
あるウマ娘の過去編となります。


『俺は俺の意思で、禁止薬物だと知っていて、お前を騙して、ドーピングさせた』

 

 

 

 ──うそ、ですよね……そんなこと、トレーナーさんは……

 

 

 

『そんな理由でレースを選んでGⅠを勝てるなら、誰がこんなに苦労するか。約束なんて、くだらない』

 

 

 

 ──トレーナーさんはそんなこと言いません……何かの間違いで…………

 

 

 

 ──だって、トレーナーさんはあたしのことを、きっと大切に──

 

 

 

 

『俺はお前のことを大切になんて思ってなかったんだよ。だからお前をぶって、ドーピングさせたんだ』

 

 

 

 

 ◇

 

「っ──!」

 

 掛け布団を跳ねのけて勢いよく体を起こした。

 

「──っ、はあっ、はあっ……ゆめ……?」

 

 視覚に入ってくるのは暗い自室。うっすらと見える室内の掛け時計は真夜中を示していた。

 聴覚に入ってくるのは向かいのベッドでは寝息を立てている同室の娘の安らかな寝息と、自らの浅く速い息遣い。

 びっしょりと汗をかいてしまっているようで、寝間着に纏わりつく感触が酷く気持ち悪い。

 

「……また、だ……」

 

 少し前の……あの日のことを夢見たのはこれで何度目になるだろう。こうやって坂川のことを頻回に夢に見るからか、あの日の光景がまだ色濃く脳裏に残っている。

 その光景を頭の片隅に追いやり、同室の娘を起こさないように静かに体の汗だけタオルで拭って再びベッドへ入った。目をぎゅっと瞑って眠ろうと努めた。

 

「…………」

 

 

 

 周りの人からは、坂川のことなんて忘れろと言われた。

 社会にはああいう悪い人間がいるのだと。あんな人間がトレーナーになって運が悪かったのだと。

 

 

 

 

 結局、寝入ったのは空が白んできた頃だった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 午後のトレーニング、寝不足を感じさせないよういつも以上に気合を入れて臨んだ。

 

「清島先生! 今日もトレーニングよろしくお願いします!」

「おう。菊花賞まであと1週間と少し……時間はねえが、調整しながらもみっちりやっていくぞ」

「はいっ!」

 

 クラシック最後の一冠、菊花賞まで10日を切っていた。天皇賞秋には向かわず、あたしは菊花賞を選んだ。

 

 そしてトレーニングが始まった。

 メニュー自体は坂川の元でやっていたものと大きくは違わなかった。回数や距離などが少し違っているぐらいで、違和感なくスムーズにこなせることができた。

 

「はあああああっ!」

 

 清島の目の前で課された終い重視のダッシュをこなした。最後の一本を終え、指導を受けるためにあたしは早足で彼の元へ戻ってきた。

 

「清島先生! あたしの走り……フォームとか、どうでしたか!? 直すとこがあれば──」

「無い」

「──え」

()()()()()()()()。それでいいぞ」

「そうですか……」

「ああ」

 

 ──今日も()()だ。

 清島の元でトレーニングするようになったものの、彼に指導を仰いでもこんな感じで修正点はないと言うのだ。

 ……おそらくだけど、あんなことがあったあたしに気を遣っているのかもしれないと思った。あと、菊花賞の本番が近いからあえて直さずにいるとか。でも、万全を期したいあたしとしては、どんどん指導して欲しかった。

 それに彼は超一流のトレーナーだ。彼の目から見て未熟なあたしに直すところがないと言う方がおかしい。

 

「清島先生、遠慮せずおっしゃってください! あたし、絶対に菊花賞までには直して──」

「……キタサン、もう一度言うぞ。()()()()。フォームもタイムも何も問題ねえ。無えものをどうやって直したらいいんだ?」

「…………」

 

 言葉に詰まる。

 彼の言ったことをその意味の通りに受け取っていいのかな。

 

「次行くぞ。併せだ」

「っ、はい!」

 

 

 考える間もなく、次のメニューへ移っていった。

 アルファーグの先輩ウマ娘との併走トレーニングだった。内側を走るあたしに対して、その先輩ウマ娘が外からプレッシャーをかけてきたり、後ろから煽ってきたり、前で加減速をしたりしてくるので、その対応が求められた。

 似たようなトレーニングは何度もしたことがあった。ペース、フォーム、リズムを崩さないようにし、尚且つ掛からないように走った。

 

 指定された距離を走り終え、先輩ウマ娘と一緒に清島の元へ帰っていく途中だった。

 

「いやー参った。キタちゃんやっぱ凄いね!」

「そうですか! ありがとうございます!」

「私はキタちゃんと併せすんの初めてだけど、話に聞いてた通りだったよ」

「話ですか?」

「うん。全く走りを崩さなくなったって」

 

 彼女の口からは同じアルファーグで彼女の親友と呼べるウマ娘の名前が出てきた。そのウマ娘とは坂川の元で何度も併せのトレーニングをしたことがあった。

 

「あいつがさ、『キタちゃんに意地悪しても全然動じなくなったんだもん! つまんなーい』ってぷりぷりしてたの。最初は『キタちゃんペース乱したり掛かったりしてて楽しかったーぐへへ』とか言ってたのに。あ、性格悪すぎだろって一発頭はたいてやったから!」

「は、はあ」

「うんうん。キタちゃんも成長してるんだねえ……というか、いつの間にそんなキレる脚使えるようになったの? 最後の末脚ビックリしたよっ!」

「あ、いやあ……ありがとうございますっ!」

「じゃ、この後も頑張ってねー!」

 

 彼女はそう言ってアルファーグの別のサブトレの元へ行った。

 あたしも清島の元へ戻った。

 

「おう、お疲れ。良かったぞキタサン。ほらタオル」

 

 清島からタオルを投げ渡された。

 

「ありがとうございます。それで清島先生、今の走り……」

「今のも直すところは無い。お前は完璧にこなしていた」

「な、なら良かったです! ありがとうございますっ」

 

 ここまで良いように言われると腑に落ちなくなる。でも、先輩ウマ娘もそう言っていたことから裏付けもあると言えばある。

 それに、これまでにやったトレーニングは坂川の元で──

 

「……っ!」

 

 ふいに坂川の顔が頭に浮かびそうになったので、頭を左右に振って思考を振り払った。

 

 ……清島の言葉を信用するなら、下手に疑う必要はないと思った。

 

「キタサン、休憩終わったら次行くぞ」

「はいっ。お願いしますっ!」

 

 そうしてトレーニングは続いていった。

 結局、特に修正点らしい修正を求められることもなく、今日のトレーニングは幕を下ろした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──トレーニングを終え、トレーナー室へ戻ってきた清島はポツリとこぼした。……ここにはいない彼に向けての言葉だった。

 

「……バカ野郎が……良い仕事しすぎなんだよ。俺がやれることなんて、調整だけじゃねえか……」

 

 確かに彼女は天皇賞秋用の調整を受けてきていた。菊花賞を勝てるかどうかは分からない。

 だが、良い勝負はできると、リーディングトレーナーとしての第六感がそう告げていた。

 

 おそらく彼女は枯れてはいない。むしろ──

 

「お前が種を蒔いて、肥料をやって、芽を出させて、蕾を膨らませたんだ。あとは花を咲かせるだけ……俺に任せとけ、坂川」

 

 

 ──開花の時はすぐそこまで迫っていた。

 

 

 ◇

 

 

 

 菊花賞を数日後に控えていた。

 調整重視の軽めのトレーニングをこなしたあたしは、清島の指示によって運動器専門の研究施設へ行って検査を受けることになった。なにも故障や不調があるわけではなく、本番前の最終的な確認のためだった。

 似たような施設には坂川にも何回か連れていかれたことがあった。今日行く施設は清島の管轄のウマ娘がよく利用しているところらしい。

 

 改装したのか真新しい施設に入り、受付に予約を入れていたことを告げるとすぐに中へ通されて、様々な検査が始まった。概ね、坂川に連れていかれた施設で受けた検査と同じようなものだった。

 

 

 

 

「……ふう、これであとは結果を受け取って話を聞くだけだったよね」

 

 検査を一通り終え、診察室のような場所でドクターが来るのを待っていた。結果を受け取るのと、その分析について聞くためだ。清島の話によると、変人だが信頼できる人物だと言っていたが──

 

 

「お待たせー」

「はいっ! キタサンブラックです! よろしくお願いします!」

 

 姿を現したのは30代ぐらいの人間の女性だった。長い髪の毛をシュシュで纏めて肩から前に垂らしていた。全体的に気怠そうな印象を受けた。

 

「よろしくねー。えっと……あー、あなた清島さんとこの娘だったの。なになに……菊花賞出走予定なの?」

「はいっ!」

「元気ねえ……それじゃ、検査の結果だけど──」

 

 検査結果が表示されていると思われるタブレットを眺めていた。

 ──その目が一気に輝きを増したのを見た。

 

「──素晴らしい! あなた、本当にいい身体してるわ!」

「へ……? あ、ありがとうございます……」

 

 いきなりテンションが上がった彼女に辟易してしまった。

 

「故障なし、もちろん疑われるところもない。健康そのもの! でも! でも! そんなことよりあなたの筋肉が素晴らしすぎるわ!」

「ありがとうございます! 故障がないなら良かったです! ……へ?」

 

 取り合えず故障がないと聞いて一安心した。これで菊花賞に全力で臨める。

 でも、筋肉が素晴らしいってどういうことだろう? 

 

「あの、筋肉が素晴らしいって言うのは……?」

「ふふっ。聞きたいわよね。いいわ、あなたの筋肉がどれだけ素晴らしいか説明してあげようじゃない!」

 

 テンションが上がり続ける彼女を見ていると、清島が変人だと言った意味が分かるような気がした。

 

「まず筋肉の質! 筋肉がしなやかで柔軟性に富んでいるのに、筋力そのものがものすごく強いの! しなやかさと筋力をこれだけ高いレベルで両立できている筋肉なんて、いくらトレセンのウマ娘と言えど滅多にお目にかかれないわ! あなたの身体が元々持っているポテンシャルが良いのはもちろんだけど、トレーニングそのもので付く筋肉とウェイトで付く筋肉のバランスを緻密に考えてストレッチングもしっかりしないと、こんな筋肉にはならないの! それに遅筋と速筋のバランスも素晴らしい……まさに理想的な筋肉だわ!」

 

 彼女が行っていることを全て理解できたとは思わないが、とりあえずあたしの筋肉は良いということだけは分かった。

 ……彼女の話はそれで終わらなかった。

 

「そしてその筋肉の付き方! 下肢の筋も躯幹の筋も、上肢の筋でさえも、全く左右差が見られない! 両側に均等な筋肉を……と、口で言うのは簡単だけど、実際にそうするのは至難の業よ! 弱い方を鍛えればいいとかそんな単純な話じゃないからね! 普段のトレーニングやウェイトの方法一つにも細心の注意を払わないとこうはならないし、なにより左右差があるかどうかを常にモニタリングして評価してないと不可能だわ! あなたのこの筋肉なら、右回り左回りどっちもしっかりと対応できるでしょう! それから──」

 

 その後も話は続いていった。内容も段々難しくなっていって、あたしには理解できないことばかりだった。でも、褒めてくれているのだけは分かった。

 

「──ざっとこんなところかしらね! ふうっ。ふふっ、あなたの身体を診てたらねえ……」

「? どうかされましたか?」

 

 彼女は意味ありげな視線を私に送ってきたかと思うと、その口を開いた。

 

 

 

 

「あなた、トレーナーに大切に思われてるんだなあ、って感じちゃうわ」

 

 

 

 

「──っ!?」

 

 その言葉を聞いてすぐにあたしの頭に蘇ったのは──

 

 

『俺はお前のことを──』

 

 

 ──違う! あの人は……

 

 

 

 でも、この身体をつくってくれたのは──

 

 

 

 

 ──違う! 

 

 

 

 

 あたしの心のせめぎ合いなんて微塵も気づいてない彼女が話を続けた。

 

 

「ねえねえ。あなたのトレーニング担当してるトレーナーって誰? ちょっとその人に話聞いてみたいわ」

「……清島チーフです」

「それは嘘よ。確かにあの人も身体作りは上手いわ。でも、あの人のウマ娘何人も見てきたけど、これだけ左右差失くして完璧に作り上げてる娘みたことないもの。あ、筋力トレーニングをしてくれるトレーナーが別に……いや、でもこれ実際のトレーニングも考慮に入れないと成り立たないしねえ」

「…………」

 

 あたしは口を噤んで下を向いた。

 

「……なに? もしかして、そのトレーナーとケンカしてるとか?」

「っ!? なんで……」

 

 実際にはケンカなんて軽いものではないけど、坂川と違えたことを突いてきた彼女には驚いた。

 

「いや適当。それかそのトレーナーと私を話させたくないかのどっちかなって思っただけよ」

「……」

 

 どうやら墓穴を掘ったらしい。

 

「なーに? ケンカしてるの?」

「はい……」

「結構深刻みたいねえ。そんなこっぴどいケンカだったの? ……そのトレーナーって、男?」

 

 小さく頷いて肯定した。

 

「ふーん。ねえ、なにか悩んでることあったら、おば……お姉さんに話してみなさい! ほら、私こう見えても──」

 

 そう言って彼女は指輪がはめられている左手の薬指を掲げて見せた。

 

「──ね? だから、男のことだって少しは分かるわよ」

「…………」

 

 相談しようか逡巡した末、できるだけ内容はぼかして話すことに決めた。

 トレーニングに復帰してから、ずっと心が(もや)ついていたから。何も知らない人に相談するのは気が楽だし、ちょうどいいと思った。

 

「あの……」

「うん?」

「さっき、大切に思われてるっておっしゃいましたけど……あたし、その人にお前なんて大切じゃないって言われて」

「は? なにそのクソ男。最低な男ね。さっさとここに連れてきなさい。ヤキ入れてやるわ!」

「ええ!? いや、そんな……」

 

 いきなり暴走しそうな彼女を宥めた。……あたしが相談してるんだよね? 

 

「まあ、あなたの様子を見るに何かあったんでしょう。それで彼に大切じゃないと言われたと」

「はい……」

「……あなたの身体を診てね、大切に思われてるって感じたのは本当よ。そして、それは間違ってないって私は確信できる」

「……え?」

「さっき説明したけど、これだけ完璧な身体作るなら、時々思い出したように身体作りするだけじゃ100%できないわ。これはね、()()()、毎日欠かさずあなたの身体のことを考えてないと作れないもの。ウェイトの時も、実践的なトレーニングの時も、ずっと常に気を配らないとこんな身体にはならない。担当したトレーナーの熱意の塊みたいな身体よ。断言していいわ」

「……」

「それだけじゃダメ。筋肉や身体作りの専門的な知識は必要だし、的確なストレッチングだって必要。何より、あなたの筋力のウィークポイントや、どこに筋肉が付きやすくて、逆にどこに付きにくいかとか特徴を全て頭に入れてあるのが大前提よ。清島さんもそれは分かってるでしょうけど、他のウマ娘も担当しながらあなたみたいな身体を作るのは清島さんでも無理ね。知識よりも何よりも、全ての時間をあなたに割くぐらいじゃないと、この身体は作れない」

 

 分からない。彼女の言っていることが分からない。

 言ってる意味じゃなくて、彼女の言いたいことが分からない。

 

「あなたのトレーナーはね、四六時中あなたのことを考えてるわ。で、絶対大切に思われてる。身体を診てると『大切だぞ~』ってその男の声が聞こえてくるもの。うえ、キモ」

 

 笑わせようとしたのかコミカルに彼女はそう言ったが、私は笑えなかった。

 だって、何もかもよく分からなかったから。

 

 彼女の言ったことと、坂川があたしにしたことが矛盾しているから。

 

「……分からないんです。そう言ってくれますが、あの人はあたしに……」

「はあ。事情は分かんないけど、面倒臭そうな男ねえ。…………もしかして、その男と()()だったりする?」

 

 彼女は小指を立てて見せた。

 あたしは勢いよく首を横に振った。

 

「ふうん、そう。……あのね、キタサンブラックさん。男ってのはね──」

 

 彼女はあたしの目を覗き込むようにして口を開いた。

 

「──みんなバカなんだから! それをね、分かっておきなさい」

「ば、ばか……」

「そうよ。バカよ」

「はあ……」

「ま、これ以上は事情を知らない私が言っても仕方ないわね。……じゃあね、キタサンブラックさん。今日は帰りなさい。またいつか会いましょう」

「え、はい。ありがとうございましたっ!」

 

 彼女はそう言うとすぐに席を立って診察室の奥へと消えていった。

 

 

 あたしも診察室を出て、施設をあとにした。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 10月25日、京都レース場で行われた菊花賞に出走した。

 

 あたしは中団から内を突いて勝利した。夢にまで見たGⅠ制覇だった。

 

「皆さん、応援ありがとうございます!!!!! ありがとうございます!!!!!」

 

 花吹雪が舞う中、あたしはウイニングランを行いながら大歓声を送ってくれる観客に向かって手を振りながらお礼を言った。

 

(これだ……! あたしが欲しかったのは、この景色なんだ!!!)

 

 ずっと夢に見ていた景色が目の前にあった。

 みんなに笑顔と元気を与えることができていると、あたしは主役になれたんだと、心の底から実感できた。

 

 そしてウイニングライブを待たず、感情が抑えられなかったあたしは表彰式でのインタビューにて1曲歌わせてもらった。心を込めて歌った。観客も手拍子してくれて、その場がすごく盛り上がったのを感じた。

 

 地下バ道ではドゥラメンテとリアルスティールが待ち構えており、2人に祝福してもらった。出走できなかったドゥラメンテと2着に負かしたリアルスティール……2人とも悔しくないはずがないのに。それでもこうやって祝ってもらえて嬉しかったし、そんなことができる2人はすごいと思った。

 そしてこの先もまた戦おうと約束を交わした。お互い次は勝つと。みんなでトゥインクルシリーズを盛り上げていこうと。

 

 

 そしてGⅠ勝利でのウイニングライブをこなした。センターに立って歌うのは本当に気持ちが良かったし、観客の盛り上がりも最高だった。今日のこの日のために頑張ってきたんだって、そう思えた。

 

「皆さん!! 今日はありがとうございました!!! また次もこうやって皆さんの前で歌って、元気や笑顔をプレゼントするためにがんばります!!! また、応援よろしくお願いしますっ!!!!!」

 

 ライブを終えて観客に向かってそう言うと、更なる歓声がライブ会場を包んだ。あちこちでサイリウムが揺れていて、本当に綺麗だった。

 あたしも呼びかけられる声の方を向いたりして、笑顔で手を振った。

 

(ああ……幸せだなあ……!)

 

 喜んでくれてる親や弟子たち、サトノダイヤモンド含めた知り合いのウマ娘たち、そして暖かい観客たちがいて、良いライバルたちに恵まれて、これ以上ないほどの幸福感に満たされていた。

 

 

 

 

 ────瞬間、見ている光景に違和感を感じた。

 

 

 

「──え」

 

 

 

 何が起こったのか分からなかった。いや、厳密に言えば何も起こってはいない。

 ただ、恐ろしく気持ちの悪さを感じた。

 

(なにこれ……)

 

 目の前の光景に強烈な違和感を感じる。

 なにかが足りないような……そう、例えるなら、()()()()1()()()()()()()()()()()()()()()()()()を見ているような感じがした。

 

(……どういうこと、なんだろう……)

 

 その違和感はステージを降りたあとも()()()のように心に残り続けた。

 

 理由は全く分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 それから2か月後の有馬記念

 いい走りは出来たがゴールドアクターの3着に終わった。でも、初めてのシニア級との戦いでここまでやれることが分かり、確かな手応えを感じ、自信にもつながった。

 

 3着なので今度はセンターではなかったけど、しっかりとライブをこなした。あたしの名前を呼んでくれる観客もいて、すごく嬉しかった。

 

 

 

 ……ただ、菊花賞のライブの時に感じた違和感は残り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 有馬記念の次の日、あたしは清島に呼ばれてトレーナー室までやって来ていた。

 

「失礼します! 清島先生、なにか御用でしょうか?」

「おう、キタサン。今年はご苦労だったな。GⅠの菊花賞含む重賞3勝に最後は有馬記念3着。成績は申し分ない。よく頑張った!」

「ありがとうございます! それも、清島先生のおかげですっ!」

「……ああ」

 

 労いの言葉をかけられた。そのために呼ばれたのかな? 

 昨日のうちに反省会は済ましていたので、呼ばれた理由には見当がついていなかった。

 

「キタサン」

「はい?」

「……今日呼び出したのは、()()のためだ」

 

 そう言って清島がテーブルに何か置いた。それは大きめの紙袋だった。中に何か入っているようだ。

 

「本当はトゥインクルシリーズを終えるときに渡そうかと思ったんだが、GⅠも勝ったしキリがいいと思ってな」

「プレゼントですか? ありがとうござ──」

「違う。中身は自分で確認してくれ。それで、お前が判断してくれ」

「……どういうことですか? って、どこ行かれるんですか?」

 

 清島は私の問いに応えず、その足で扉の方へ向かっていった。

 

「中に入ってるモン……必要なかったら、そのままテーブルの上に置いといてくれ。明日にでも全部処分する。もし……いや、それはお前に任せる。お前が見るべきものだと思う。とにかく、()()必要な部分はすでにコピーしてある。……俺はしばらく部屋を空ける」

「えっ!? 先生、待っ──」

 

 呼び止める間もなく清島はトレーナー室を出ていった。

 残されたのはあたしと正体不明の紙袋のみ。

 

「一体、なんだろう……?」

 

 早速その紙袋に手を伸ばし中身を確認した。

 どこかで見たことのあるものだった。

 

「……? これは──」

 

 

 その中には十数冊のノートが入っていた。

 

 




次回より夏合宿へと戻ります。


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クラシック級後半~シニア級
第46話 夏合宿開始


 かくして夏合宿は始まりを告げた。

 夏合宿と言っても、トレセン学園の時とがらりとメニューが変わるわけではない。個々のウマ娘の課題は変わないからだ。

 ただ、その課題修正のために多くの時間を割くことができるし、逆に新しい課題を見つけたりすることもできる。コースは自由に使えるし施設内にあるマシンだって使い放題、基本的に思うようなトレーニングをこなすことができる。

 

 しかし、トレーナーとしては気を付けなければならないことがある。得てして夏合宿はハードワークになりやすいし、そもそも夏の暑さに弱いウマ娘は多いからだ。トレーニング量の調節や、ウマ娘の体調管理や故障にはより注意を払っておく必要がある。がむしゃらにトレーニングを課すトレーナーは下の下だ。

 そのウマ娘の体力と耐久性の限界値を見極めながら、最大限のトレーニングを課していく必要がある。……端的に言えば、結局夏合宿のトレーニングにはかなりハードなのだ。

 

「がんばれー! しっかり走ってねー!」

 

 一緒に合宿をしている若い女トレーナーの声があたりに響いていた。

 

 午後になって日は完全に上りきり、中空でその姿を輝かせていた。朝の涼しい空気なんてどこに行ったのか、炎天下の夏が広がっていた。

 日よけのテントの下にいる俺の目線の先にも俺のチームのウマ娘が2人、併走トレーニングをこなしていた。そして俺の隣にはいつものようにペティがいた。

 

「波形はどんなもんだ?」

「モエさんは相変わらず安定してますね。キングも相変わらず不安定です」

「……いつも通りだな」

 

 タブレットに表示されるGPSトラッカーの波形をペティは眺めていた。

 

 

 昨日の夜、俺の過去のことを3人に話した。

 キングヘイローとカレンモエは話し終えたときに見限らないと言ってくれたが、ペティは違った。彼女は俺のチームを辞める気は無いと話してはいたが、気が変わっても何もおかしくないと思っていた。

 翌日、ペティと朝食の前に顔を合わせたときの会話を思い出す。

 

 

『なんか色々考えたんですけど……やっぱり、トレーナーさんのチームでお世話になりたいです』

『……そうか。いいんだな?』

『はい。ドーピング(あんなこと)をしたって事実を受け入れられなかったんですけど……』

『あれは許されることじゃない。どんな理由があってもだ』

『はい、わたしもそう思います。でも……トレーナーさんの話を聞いてるとそれだけじゃないって思いましたし、おねえさんと別れてからトレーナーさんが頑張ってたのは、データを直に調べたわたしが良く分かってますから』

『……ありがとうな。これからも頼む』

 

 

 そんな会話をした。色々な葛藤があったようだが、ペティは一応は受け入れてくれたようだった。こんな俺を受け入れてくれて、感謝する他なかった。

 ペティを含め他の2人とも昨日の夜の会話なんて無かったかのように、いつも通りに接してくれた。……彼女たちの優しさに救われた形となった。彼女たちがそうしてくれているのだから、俺も気にしているような素振りをするわけにはいかない。

 

 走っている2人もいつも通りなら、俺とペティもいつも通り。気持ちを夏合宿に切り替えて、俺も全力で彼女たちに応えようと決意した。

 

「これで最後の一本だ! ゴールだと思って全力で走ってこい!」

 

 スマートウオッチを通じて2人にそう指示を出す。

 するとカレンモエが先に進出してコーナーを回って直線に入ってきた。キングヘイローは3バ身ほど遅れる形で直線に向き、カレンモエの外へ位置取った。

 後ろから末脚を発揮するキングヘイローがその差をぐんぐんと縮め、カレンモエを交わして1バ身ほど抜け出したところで設定したゴールを通過した。やはり末脚の破壊力ならキングヘイローは一級品だ。

 

「お疲れですっ」

 

 ペティがゴールした2人にドリンクとタオルを渡しに駆け出していった。立ったまま息を整えるカレンモエとへたり込んでしまったキングヘイローの元へ俺も近づいていった。

 

「お疲れさん。しばらく休憩だ。暑いならテントの下に行くか、冷房効いてる施設の中へ行ってもいいぞ。……大丈夫か、キング」

「ぜえっ、ぜえっ……き、キングはこの程度じゃへこたれないのよ……菊花賞だけは、絶対に取るんだから……」

「お前やっぱ夏弱いんだな。いや、夏って言うより暑さか」

「……ぜえっ、はあっ……夏も暑さも、優雅なキングには相応しくないわ……!」

「強がってんのか弱音吐いてんのかどっちだよ。まあまだ初日だ焦んなよ。キングは今日はこれでトレーニング終了な。ペティ、施設の中に連れて行って、クールダウンとストレッチ手伝ってやってくれ。終わったらお前も今日は上がっていいぞ」

「はーい。行きますよ、キング。ほら立って」

 

 熱中症までは行かないがキングは完全にバテていた。午前中のトレーニングから気合が十二分に入っており、最初からフルスロットルで走っていたせいだろう。むしろここまで体力を持たせたし、最後によくカレンモエを交わしたもんだと内心では感心していた。

 一方のカレンモエ。息はまだ整っていないが、キングヘイローみたいにバテてるわけではなさそうだ。

 

「モエはどうだ?」

「ん……疲れてるけど、まだ行けるよ」

「よし。なら少し休憩取ってから次行くぞ。……来月は本番だからな、身体に違和感があったらすぐに言えよ」

「うん。分かってる。モエは大丈夫だよ」

 

 カレンモエは来月の8月……もう今は7月下旬なので正確に言えば1ヶ月もないが、小倉レース場で行われる3勝クラスの佐世保ステークスに出走を予定している。メイクデビューと紫川特別と全く同じ条件の小倉1200mのレースだ。小倉1200mで既に2勝を上げているので、適性は問題ないだろう。

 

「最後は加速走だ。疲労が溜まっている今の身体で出せるところまで出せ。違和感あればすぐに止めること。いいな?」

「……ん」

 

 カレンモエは軽く頷いて再びコースへ戻った。

 

「……」

 

 タブレットに映るリアルタイムで計測するセンサーの波形に目をやりながらも、走るカレンモエの姿を見ていた。

 

 外的要因によって走りを崩しやすく、今でも多くの問題を抱えるキングヘイローと違い、カレンモエはそう簡単に走りを崩さないし、非常に安定したものになっている。

 中央のスプリント界でもトップレベルのスタート。確実に番手を取り先行できるスピード。他のウマ娘に寄られてもペースやフォームを崩すことのない精神力。そもそものレースセンスの良さ。それらを生かしたそつの無いレース運び。

 さっきキングヘイローに抜かれたように爆発的な末脚こそないものの、全てが高水準で纏まっているのがカレンモエというウマ娘だ。その末脚だって紫川特別では上がり3ハロンのタイムは上から2番目だった。

 だから今まで負けても4着と、大崩れせずここまで来られているのだろう。

 

 しかし、既に高水準で纏まっているということは、明らかな修正点がないということでもある。

 カレンモエは課題や修正点に目を向ければいいキングヘイローのようなウマ娘ではない。だから、トレーナーとしては彼女の実力自体……もっと言うなら足の速さをどこまで伸ばしていけるかという話になってくる。

 

 

 足の速さ自体を底上げするためのトレーニングは未勝利に勝てないウマ娘を相手にいくらでも俺には経験がある。

 しかしただ鍛えればいいという訳ではなく、身体の成長度合いに合わせないといけない。無理に強化したって生かしきれない無駄な筋肉がついたり、左右差が出てきてしまうからだ。……未勝利戦で勝てないウマ娘たちにはクラシック級1年の8月と、明確なタイムリミットがあったから、そうとも言ってられなかったが。

 更にトレーニングの負荷や方法を工夫したり、新しいトレーニングを導入していけば効果は上がっていく可能性は高い。実際、それで俺はこれまでのウマ娘の能力を向上させてきた。

 それにセンサーの波形にしても、安定しているとはいえ全てが完璧ではない。僅かな箇所でも詰められるところは残されている。

 

 カレンモエはジュニア級の時身体が全然成長してなかったことや、母親のカレンチャンが晩成傾向であることを考えると、シニア級1年目とはいえまだ焦ることはないと思う。それに──

 

『モエが走りたいと思う限り走ろうって』

 

 ──そう彼女は言ってくれた。俺が焦っていては元も子もない。やれることをひとつひとつ、全力でやっていくだけだ。

 

 ◇

 

 その日の夕方、大方どのチームのウマ娘もトレーニングを終えてエントランスに集まっていた。今日は夏のDTL……SDTの決勝があるからだ。

 エントランスにある大きなテレビの画面に映るスターウマ娘たちの共演に、ウマ娘とそのトレーナーたちもが夢中になって沸いていた。

 俺は最後方で壁に背を預けてそれを見ていた。

 

 そして今からはSMILE区分のL……今年のロング部門、阪神2400mのレースが始まろうとしていた。

 そこにはキタサンブラックの姿があった。

 

『絶対王者、一番人気キタサンブラックは今回エクステンデッド部門ではなくロング部門への出走になります! ミホノブルボンやナリタブライアン、ウイニングチケットなど、強豪ひしめく最強決定戦! 真夏の栄冠は誰の手に!?』

 

 実況の言うとおり多士済々の顔ぶれが揃っていた。キタサンブラックでも一筋縄ではいかないだろう。

 

 この舞台である阪神レース場の2400mはチャンピオンコースと言うに相応しいコースで、最後の直線の坂を2回登るパワーに加え、その直線も約470mと東京レース場に次ぐ長さで瞬発力やスピードも求められる。若干内枠逃げ先行が有利なきらいはあるが、差し追い込みも決まりやすいし外枠が明確に不利というわけではない。それぞれのウマ娘の実力が反映されやすいのだ。

 つまり、単純に一番強いウマ娘が勝つ。阪神2400mとはそういうコースだ。

 

『──スタートしましたっ!!!』

 

 実況の声が上がり、ウマ娘たちは発走した。

 外枠だったキタサンブラックはいつものように前へと出ていく。ハナを取るかと思われたが、彼女はミホノブルボンの後ろにつく形で2番手に控えたようだった。

 隊列としては先頭を走るミホノブルボンの2バ身ほど後ろにキタサンブラックが続き、そのあとに後続が塊になってついてきている。その中にはナリタブライアンの姿もあった。

 

 レースは後半へと移っていく。

 先頭のミホノブルボンは精密機械のようなラップを刻みながら第3コーナーへと進入していく。そして第4コーナーへ差し掛かったあたりからキタサンブラックが徐々に追い上げて来ていた。もちろん後続集団を引き連れて。ミホノブルボンとキタサンブラックの差は半バ身ほど。

 

『第4コーナーを通過し直線へ向きました! ミホノブルボン粘る粘る! キタサンブラックは捉えることができるか!? そしてナリタブライアンが外に持ち出して上がってきたぞっ!!!』

 

「すっご!」「誰勝つのかなー!?」「いけいけー!」

 

 最後の直線に向いて観客と実況のボルテージが上がるのにつれて、エントランスで見ているウマ娘やトレーナーたちも盛り上がっていた。

 

 残り300m。

 キタサンブラックはミホノブルボンに並びかけ、半バ身ほど前に出た。

 

『やっぱり強いのかキタサンブラック!? WDTに続いて、またも仁川は祭りになるのか!? 外からナリタブライアンも物凄い脚で突っ込んでくるぞ!』

 

 バ場の中央では抜け出したナリタブライアンが猛烈な勢いで前に迫って来ていた。他の後続は来ておらず、どうやらこの3人で決まりそうだ。

 キタサンブラックはというと、ミホノブルボンを交わし──

 

「──は?」

 

 思わず声が出た。なぜなら、キタサンブラックがミホノブルボンに差し返されているからだ。

 驚異的な粘り腰が武器の一つであるキタサンブラックにとって、差し返される場面というのはほとんど見たことがなかった。

 

『なんとミホノブルボン再加速!!! まだスタミナを残していたのかっ!!!』

 

 クビ差ミホノブルボンが前に出た。

 残り200m。

 

『ナリタブライアンが前に迫ってくる! 前に迫ってくる! 先頭とは3バ身!』

 

 ナリタブライアンが暴力的な末脚を発揮してその差をあっという間に詰めてくる。キタサンブラックは半バ身ほどミホノブルボンに遅れている。

 残り100m。

 

 

 ──無理か……! 

 

 

 そんな考えが頭を過ぎった瞬間だった。

 

 

 キタサンブラックが息を吹き返して、ミホノブルボンとの差を縮めていく。

 

『キタサンブラック!? キタサンブラック差し返す! 差し返されたミホノブルボンを差し返すっ!!!』

 

 キタサンブラックがミホノブルボンに追いつき、なんと差し返した。火の出るような競り合いの末、アタマ差前に出た。

 残り50m。

 

 

『差し返したキタサンブラックっ! 粘るミホノブルボンっ! なんという激戦だ! 外から追い詰めるナリタブライアンっ! 勝つのは──』

 

 

 エントランスの盛り上がりも最高潮になる。カメラも完全に3人だけをアップで映し出していた。

 

 そして1着でゴールしたのは──

 

 

『キタサンブラック抜け出したっ! 1着でゴールインっ!!! ナリタブライアンはクビ差の2着! 3着は半バ身遅れてミホノブルボンとなっております!』

 

 

 キタサンブラックだった。驚異的な勝負根性を見せて再度差し返して頂点をもぎ取った。

 

『絶対王者の牙城、未だに崩れず! このロング部門でも優勝はキタサンブラックですっ!!!』

 

 息を整えたキタサンブラックは顔を上げてウイニングランへと向かっていった。

 

 

 ◇

 

 

 8月に入り、夏合宿の生活に皆が慣れてきたころだった。

 

 トレーニング開始前に3人を集めて今日の予定の確認をしていた。

 

「今日のメニューだがな。キング、予定通りお前は午前練の終わりに別のチームの奴と模擬レースするぞ」

「ええ! いいわよっ! キングの実力、今日も合同合宿の皆さんにお披露目といこうかしらっ! おーほっほっほ!」

 

 相変わらずの高笑いをあげるキングヘイロー。初日はバテてどうしようかと思ったが、数日で体調を戻してきて、夏トレにも対応できるように体力の配分を出来るようになっていた。

 

「それで、今日の相手って?」

「今回の相手は1人だ。お前と1対1のマッチレースになる」

「……1人? いつものように多人数じゃないの?」

「ああ、1人だ」

 

 自信満々な顔が疑問の色の染まったところに、俺は相手の名前を告げた。

 

「相手はアドマイヤベガ。まだデビューしていないジュニア級のウマ娘だ」

 

 



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第47話 若駒たち

 アドマイヤベガとの模擬レース日の前日。その時はまだ彼女との模擬レースは決まっていなかった。

 昼休憩中、俺はそのことについて頭の中で計画立てていた。

 

 そもそもの話、キングヘイローは大きく分けて2種類の模擬レースを行ってきていた。

 ひとつはレース運びを課題とした模擬レースだ。これまでのレースの通り、彼女の大きな問題は様々な要因により走りを崩しやすいという不安定性である。それの対応や解決のため、できるだけ多くのウマ娘を集めてレースをし、時には相手の何人かにキングヘイローにプレッシャーをかけてもらうよう協力してもらっていた。この形式の模擬レース自体は既に夏合宿でも行っていた。しかし、ここで問題が浮かび上がってきた。

 

「……あいつ、思ったより簡単に勝っちまうもんなあ」

 

 その問題とは走りを崩されてもキングヘイローは勝ってしまうことだ。なぜなら相手にするウマ娘たちとは実力が釣り合っていないからだ。

 

 この合宿に合同で参加しているチームのウマ娘たちは条件クラスのウマ娘が多く、一番良くて重賞で掲示板に入ったことがある程度だ。キングヘイローを除けば、ダートのGⅢで2着に入ったシニア級のウマ娘が戦績としては一番良いだろう。

 

 対してキングヘイローは重賞を取っているし、ダービーで大敗したとはいえ弥生賞3着皐月賞2着で芝中距離の実力的には世代で最上位に位置するウマ娘だ。

 実績的にも実力的にも、芝中距離での拮抗した相手というのがこの合宿所には()()()()いないのである。だから多少走りを崩されても、簡単にとは言わないまでも持ってるスペックだけであっさり勝ってしまうのだ。正直この合宿所にいるメンバーじゃ頭が一つも二つも抜けている。

 カレンモエも単なる実力だけを考えれば相手にならないことはないのだが、そのダートGⅢ2着のウマ娘も含めて適性が違いすぎる。とてもじゃないがカレンモエたちに芝中距離の模擬レースは走らせられない。

 

「まあ、分かってたことではあるんだがな……」

 

 こういうことになるのは今年のウチの合同夏合宿に参加するチームを知ったときから分かっていた。……今まで郷田には世話になっていたので今年もこの合同夏合宿に参加していたが、来年からは違うチームとの合宿を考えた方が良いかもしれない。

 しかし、先ほど挙げたようにその模擬レースでの課題は勝つことではなくレース中の対応が主なので、ぶっちゃけ勝敗なんてどうでもいいのだ。それをキングヘイローもちゃんと理解しているので、そう考えるだけなら別に問題でもないのかもしれない。それに勝って気分を良くする方が彼女の精神的には良い。彼女は気分を乗せてやった方がその後のトレーニングのパフォーマンスも上がるからだ。

 

 だが次走までの間、拮抗した相手との模擬レースがないというのも問題ではある。レース感覚や勝負感が鈍ってしまうからだ。

 秋も3戦から4戦を予定しているので、身体の負担を考えて夏合宿中のレース出走は考えていない。いくら丈夫な身体といえど、どこに故障の落とし穴が待っているか分からない。

 

 そこで話が繋がってくるのが2種類の内のもうひとつの模擬レース……実力が拮抗した相手との本番さながらの模擬レースだ。トレセン学園にいたときも実力が拮抗してそうなウマ娘が出ている模擬レースに参加してそれを行ってきた。

 それをこの夏合宿でもやりたいのだか、如何せん釣り合う相手が──

 

「いねえことも、ないんだなこれが」

 

 ──いるのだ。実は心当たりがあった。

 今年から新たにウチの合同夏合宿に参加してきた新人トレーナーとそのウマ娘がいたのだ。

 

「まさかここで再び会うとはなあ……」

 

 そのウマ娘とはアドマイヤベガ。俺が声を掛けそびれてスカウト未遂に終わったジュニア級のウマ娘だった。

 未デビューではあるがその速さは折り紙付きだ。俺は実際に彼女の走りを見たのだが、近い将来GⅠを取れるのではないかと思わせるぐらいの走りをしていた。この世代の筆頭候補だと言っていたマコの話にも頷ける。

 ジュニア級だが、実力的にはこの合宿所にいる芝中距離のウマ娘の中でトップだろう……もちろん、キングヘイローを除いて。

 

「相手としては申し分ない、が……」

 

 普通なら彼女と新人トレーナーである彼に模擬レースを頼めばいい。単純な話だ。悩むことなどないのだが……

 

「模擬レース、受けてくれるかねえ……」

 

 しかし、気がかりなことがあった。

 アドマイヤベガはこの夏合宿にて、ずっと1人でトレーニングを行っていた。彼女のトレーナーは遠くから見ているだけだったのだ。

 

 

 ◇

 

 その日の夕方。

 コースからはほぼ全てのチームが引き上げており、昼間のような活気は失せていた。キングヘイローとカレンモエもとっくにトレーニングを終えており、今頃は晩飯まで時間を潰していることだろう。

 そんな閑散としたコースには未だに走り続けている1人のウマ娘と、それを遠巻きに見つめながらメモを取っている1人のトレーナーがいた。これは夏合宿が始まってから毎日目にする光景だった。

 

 

「……今日もか」

 

 

 ……今日もビデオは撮っていないようだ。

 

 

「……」

 

 俺はコース脇にいる彼の元へ行って声を掛けた。

 

「よう。お疲れさん」

「あ、坂川さん。お疲れ様です」

 

 彼がアドマイヤベガの担当トレーナーだ。まだ今年トレーナーになったばかりの新人で、爽やかな見た目と整った容姿が好印象な若者だ。端的に言えば爽やかイケメンである。それに近づくと香水かなにか知らないが良い匂いするし。

 彼とは昨日初めて直接話した。礼儀正しいし気遣いもできる、出来た若者だと思った。

 俺が合格した10年前と違い、トレーナー不足を解消するために今はトレーナー試験の合格ラインも引き下げられており、毎年軽く10人以上は合格者が出ている。だからだろうか、彼のような若いトレーナーも最近は多くなっていた。

 

「まだ走らせてんのか」

「はい。でも、もうすぐ終わると思いますよ」

 

 彼は手に持っているクリップファイルに目をやってそう言った。そこにはおそらくトレーニングメニューがあるのだろう。

 昨日少し話をしたところによると、トレーナーである彼は口出しせず、彼女が1人で出来るトレーニングを行っているらしい。二人三脚で出来るトレーニングも提案したが、悩んだ末彼女が選んだのは1人で出来るトレーニングの方だったと彼は言っていた。

 確執がある……というわけではないと思うのだが、お互いの距離を測りかねているような印象を抱いた。まあ、まだ2人は契約して2か月も経っていない。新人トレーナーとその初の担当ウマ娘、お互いまだまだ難しいところもあるのだろう。良い言い方をすればまだ初々しく見える。

 

(……俺とキタサンはどんな感じだったんだろうな)

 

 ふとそんなことを思った。

 他人からどう見られていたかは分からないが、距離を測りかねるなんてことは無かったと思う。キタサンブラックは気のいいウマ娘だったし、あっちから俺に距離を詰めて来てくれた。

 アルファーグという恵まれた環境で、才能もあって性格も良いウマ娘と巡り会えたのに、なんで俺はあんな──

 

(──今は、そんなことを考える時じゃねえだろ……)

 

 無意識的に昔のことに思いを馳せそうになった。……少し前、3人に昔のことを話したからだろうか。

 頭を切り替えて、目の前の新人トレーナーに話を切り出した。

 

「なあ、お願いがあるんだが──」

「はい?」

 

 俺は彼にアドマイヤベガとの模擬レースを依頼した。1対1で2人を走らせて欲しいと。

 

「俺は全然大丈夫です! トレーニングから戻ってきたらアヤベに話してみます」

「受けてくれそうか? アドマイヤベガは1人でずっとトレーニングしてんだろ?」

「正直、話してみないとどうにも。実を言うと、そろそろデビューを考える時期なので模擬レースで実践を積ませてやりたいんです! これまで、アヤベは模擬レースには消極的で……まあ、模擬レースどころか俺とのトレーニングもまだ受け入れてくれてないんですけど……でも、ちゃんと話してくれたら分かってくれると思います! それに、クラシック級で活躍するキングヘイローさんとの模擬レースなんて、こっちからお願いしたいぐらいです!」

「お、おう。そうか。頼むな」

 

 爽やかな見た目なのにこんな熱血な面もある。こういうところにアドマイヤベガは惹かれたのだろうか。こういう奴を好むなら、俺とはどっちにしろ合わなかっただろうな……

 

「おーい! アヤベ、お疲れさま」

「……ありがとう」

 

 ちょうどトレーニングを終えて戻ってきたアドマイヤベガに彼が駆け寄ってタオルとドリンクを渡す。

 タオルを貰って汗を拭った彼女の視線が俺へと向いた。

 

「トレーナーさん、この人は確か……」

「坂川健幸さんだ。あのキングヘイローさんのトレーナーさんだぞ。実は──」

 

 彼はアドマイヤベガに模擬レースのことを話した。

 最初の方はどちらかというと拒否的と言うか、悩んでいるような様子だったが、熱意の塊をぶつけるような彼の話を聞いていくうちに、次第に折れたという格好になった。

 

「……ええ、分かったわ。あなたがそこまで言うなら……」

「そうか! ありがとう」

「でも……その、私は……」

「どうしたんだ?」

 

 そう言って彼女は選抜レースについての斜行について話し始めた。

 彼女は選抜レースにて斜行し他のウマ娘を妨害して降着になっていた。これまで模擬レースを受けてこなかったのはその斜行のことが頭にあったかららしい。

 そんな会話が聞こえていた俺は横から口を挟んだ。

 

「気にすんな。1対1のマッチレースだから斜行しても妨害にはなりにくい。それに身長はお前とキングヘイロー同じようなもんだが、体重は──」

 

 そこで俺はキングヘイローの体重を口にした。毎日体重は量らせているのでもちろん頭に入っていた。

 

「どうだ? お前よりは重いだろう? ちょっと斜行されてぶつかられてもアイツはびくともしねえよ。クラシック級とジュニア級、身体の出来も違う。それにレース本番じゃ斜行まがいのことなんていくらでもある。お前らが気には……ん、どうした?」

 

 そこまで話して、新人トレーナーの方が苦笑いを、アドマイヤベガはばつの悪そうな表情を浮かべていた。

 

「いやその……一応女の子であるウマ娘の体重を言っても……大丈夫なのかって」

「は? 別に気にするもんじゃねえだろ」

「……確かに。そうかもしれませんね」

 

 そう言った彼にアドマイヤベガはじろっとした視線をやった。

 

「あ、俺は他人には軽々しく体重を言わないからな!」

 

 彼は弁明するのを見て疑問に思った。他人に担当ウマ娘の体重を教えるのは問題なのか? 一般の女ならまだしも、トレセンのウマ娘はレースを走るアスリートだ。別にそこまで隠しておく情報でもないだろうに。

 

「取りあえず、オーケーってことでいいんだな。なら時間は明日の昼前……11時半ぐらいで。距離は2000mの右回りでいいか?」

「はい。アヤベも大丈夫?」

「ええ」

「よし決まりだな。事情が変わって無理ならいつでも言ってくれよ。……あ!」

 

 そうしてコースを去ろうとしたところで、言い忘れたことがあったことに気がついた。俺は彼を呼びつけて彼の耳もとに口を寄せた。アドマイヤベガには内容を聞かれたくなかったからだ。

 

「お前、明日の夜予定開いてるか?」

「え? はい。別に何もありませんけど」

「そうか。なら、もし明日ウチのキングが模擬レースに勝ったら、ちょっと付き合ってほしい」

「食事ですか? 別に勝ち負けとかそんな──」

「メシじゃねえんだ。あと、こっちが負けたら俺はそれに口を出す権利はないからな」

「……?」

「もしそうなったらレースの後に声かけるわ。じゃあな」

 

 俺はそう言って彼と別れた。

 疑問符が顔に浮かんでいる彼は、怪訝な表情をしたアドマイヤベガに話しかけられていた。

 

 

 俺がしようとしていることははっきり言って褒められたものじゃない。同じチームでもないトレーナーにこんなことをするのはタブーだからだ。

 

 

 

 

 

「あ、そうだ」

 

 自室に戻った俺はLANEを開いてキングヘイローにメッセージを送った。“お前の今日の体重を他のトレーナーとウマ娘に話したけど何の問題も無いよな?”と。

 

「……ん?」

 

 すると秒で返事が返ってきた。

 

 “おばか!”と。

 

「怒ってんのか? やっぱりよく分かんねえなあ」 



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第48話 よぎる記憶

「ってなわけでいよいよ模擬レースだ。今から休んでレースに備えろ」

「はあっ、はあっ……分かったわ」

 

 時刻は11時。11時半発走の模擬レースまであと30分といったところだった。

 トレーニングを終えたキングヘイローは建物の日陰に入って座り込みその体を休めていた。

 

 アドマイヤベガと普通に走ればキングヘイローが勝つ可能性が高いので、出来れば競ったレースをしてほしい俺としては、ハンデという訳ではないが普通にトレーニングをさせてある程度疲労がある状態で走らせることにした。もちろん負荷量には十分注意している。疲労が溜まりすぎた状態で出走させて怪我でもさせれば元も子もないからだ。

 

 座って壁に背をもたれさせてドリンクを飲んでいるキングヘイローと並ぶように、立っていた俺は壁に背をもたれさせた。日差しが当たらない分いくらか暑さはマシだった。

 

「身体、問題は無いな?」

「んぐっ、ぷはあ……30分もすれば平気よ」

「ならいい」

「ねえ、あのアドマイヤベガって娘。速いの?」

「速い。将来、最低でも重賞を取るレベルだろうな。ジュニア級の世代筆頭候補だ。順調ならGⅠも取れるかもな」

「……そう。おーっほっほっほ! キングの相手に相応しいわね! 相手にとって不足はなし、ね!」

「だが、普通に走ったなら今のお前の方が確実に速い。だからレース前にこんだけ負荷かけたんだ。対してアドマイヤベガは模擬レースのために朝から調整してるみたいだからな。相手はほぼ100%で来るぞ。こうなるとお前が勝てるか分からねえ」

「ふんっ。担当トレーナーならどんな状況でも担当ウマ娘が勝てると信じるべきじゃないかしら?」

「朝にも言ったが実戦さながらの拮抗した相手とのレースがしたいんだよ。でも、俺は負けてもいいとは言ってねえぞ。やるからには絶対に勝て」

「あなたに言われるまでもないわ。勝つのはこのキングよ。……それで、今回のレースどう走ればいいのかしら? あなたのことだから、また課題か何か指示があるのでしょう?」

「…………」

「……黙ってどうしたのよ」

 

 驚いたというか、彼女の言う通り課題を与えるつもりだったので面食らってしまった。

 彼女と出会ってもう1年になる。それを察されるぐらいには付き合いも長くなったということだろうか。

 

「いや、その通りだ。今回、全体として大きな目的が一つ。それに関する具体的な課題は二つ。マッチレースにしたのは理由がある──」

 

 そうして俺はキングヘイローにふたつの課題を提示した。

 

 ◇

 

 2人分の手動式の簡易ゲートが用意され、その前で軽く身体を動かしていた。すでにトレーニングをこなして身体には疲労があったので、アップは最低限で済ましていた。

 

 コースには私たち2人だけ。コースの周囲には合宿所に来ている他のウマ娘やトレーナーが観客のように居座っている。

 私たち2人に皆が注目している……良い気分だ。

 

「…………」

 

 私から少し離れたところで、アドマイヤベガが無言でアップしていた。

 私は彼女と話したことがない。というか、彼女が誰か他のウマ娘と話している姿を見たことがない。物静かというだけでなく、周りとは関わろうとしないように見える。

 彼女も私やカレンモエと同じく、GⅠを複数勝ったウマ娘を母に持つウマ娘だ。話をしたら意外と気が合うのかもしれないが、今はレース前だからやめておくことにした。

 

 でもまあ、せっかくこの(キング)と一緒に走れるのだ。挨拶ぐらいはしておこう。

 

「おーっほっほっほ! 私はキングヘイロー、一流のウマ娘よ! キングと走れること、光栄に思うことね。胸は貸してあげるわ。お互い全力で走りましょう、アドマイヤベガさん」

「……ええ」

 

 こちらには目もくれず、そっぽを向いたまま目を閉じて彼女はそう答えた。

 レース前で集中したいのか、それか気が立っているのかもしれない。盤外戦なんてしたくないし、彼女の邪魔をするのは気が引ける。これ以上話しかけるのはやめることにした。

 

 そうしているとゲート役である他のチームのトレーナーから声がかかった。公平性を期すために私たちとは関係のないトレーナーがゲート役をすることになっていた。

 

(よしっ!)

 

 心の中で気合を入れて2枠へ向かっていった。ゲートに収まるまでの間、気を落ち着かせるために頭の中を整理した。

 模擬レース。右回り。距離は2000m。コースはトレセンより小さいので、向こう正面2コーナー過ぎたところからのスタートでコーナー6つの小回りの形態。与えられた課題……その一つは──

 

 ──彼女より前でレースを運び、内ラチ沿いに走ること。そのためにはスタートの失敗は許されない。

 

「……ふぅ」

 

 そこまでしてやっと頭が冷静になってきた。

 

 遅れてアドマイヤベガがゲートに入ってから、私が片脚を引いて構えた。

 

 

 そして間もなく、鈍い金属音がしてゲートが開いた。

 

 

 スタートを決めて先頭へと躍り出た。足音で後ろにいるアドマイヤベガの位置を確認しながら内へと切れ込んでいく。マッチレースなのでお互いの足音しかしないため、視覚で確認せずとも相手の位置が分かりやすい。

 

 まず最初の課題はクリア……内ラチ沿いに彼女の前でレースを運べる形となった。

 

 坂川からペースについてはハイペースでなければ自由にしていいと言われた。アドマイヤベガが来なければ超スローに落としていいとも。

 

(……まるで逃げてるみたいね。これじゃダービーと──)

 

 思い出しそうになったダービーの記憶を頭の隅に追いやって消した。あれはもう終わったことだ。経験として活かしはすれど、今更悔やんだって何の意味もない。

 

 確かにマッチレースとはいえ、この形が逃げになっていることに変わりはない。

 しかし、このレースの目的は逃げることではないのだ。

 

(目的は逃げじゃなくて、後ろの相手をマークする……!)

 

 レース前に交わした坂川との会話を思い出した。

 

 ◇

 

「今回のレースの目的は、後ろにいる相手をマークするってことだ」

「後ろの相手を?」

「ああ。そうだ」

 

 これまで私は本番でマークする作戦を取って走ることが多かった。逃げたダービーは除くとしても、弥生賞と皐月賞ではセイウンスカイを、東スポ杯ではマイネルラヴをマークして走った。2人とも私の前を走っていたウマ娘だ。

 

「話を整理するぞ。デビューしたころに比べると、お前はスタートも上手くなったし、追走スピードも速くなった。今のお前は前目でレースを運ぶことが出来ている。だからこそ、後ろのウマ娘をマークする技術が必要になってくる」

「確かに、それができれば作戦の幅が広がるわね」

「ああ。ダービーの敗戦で俺も気づいたが、お前は誰かマークする相手を設定する方がおそらく走りやすい。だが今のままじゃ、前にいるウマ娘しかマークできない。それで今回のレース……後ろのウマ娘をマークするって話に繋がる」

「それならわざわざ今日みたいな舞台じゃなくてもいいんじゃないかしら? 昨日までだって他のウマ娘と模擬レースしてたのだし、そこでやっても──」

「いいか。今から俺は事実だけを言うぞ。今回アドマイヤベガ相手にマッチレースを申し込んだ理由だ。まず一つ、この夏合宿にいるアドマイヤベガ以外のウマ娘じゃお前の相手にならない。分かるだろ」

「……ええ。まあ、それは」

 

 これまで合同夏合宿に来ている他のウマ娘と多人数での模擬レースをしてきた。主にバ群の中での競り合いを課題として臨んでいたが、多少失敗して走りを崩しても負けなかった。ここまでの模擬レースで私は全勝だったのだ。

 一緒に走ってくれたウマ娘を貶す意図は全くない。心の底から感謝している。でも、物足りないというのも事実だった。

 

「絶対的なスピードが違う。普通に走るだけでお前は他のウマ娘に難なく勝てるだろう。遅い相手をマークしたって仕方ないし練習にならないからな。ペースを遅くしてやってもいいが、俺としてはできるだけ本番を想定したい。だからお前に対抗できそうなウマ娘……ジュニア級で最高峰の実力を持つアドマイヤベガ相手にマークの練習をするんだ。失敗したら負けるって緊張感も生まれる。もしアイツがレース受けてくれなけりゃ、どこか別の場所で合宿してるチームと連絡とって模擬レースやろうと思ってたぐらいだ。そしてもう一つ、これはマッチレースに関する話だ。……お前は器用なウマ娘じゃない。色々な課題を要領良くこなせるタイプじゃない」

「……」

 

 横目にギロッと彼を睨んでやった。

 

「怒んなよ。事実を言ってるだけだ。……お前だって、そろそろ分かってんだろ。俺だって言いたくて言ってるわけじゃない」

「……ふんっ」

 

 認めたくない。でも、認めざるを得ないというのも理解できる。彼の言う通り、私はことレースに関しては要領の良いタイプではない。

 しかし、認めるのとそれを言われて怒るのは別の話だ。

 

「不器用なお前には課題を限定してやりたかった。だからある程度拮抗した実力のウマ娘とのマッチレースがしたかったんだ。1対1なら相手の位置取りも把握しやすいし、マーク相手以外のウマ娘に走りを乱されることもない。モエ相手に普段から似たようなことはしてるが、トレーニングはトレーニング、レースはレースだからな」

 

 結局、何だかんだ彼は私のことを考えてくれる。言い方に難があるけれど……たぶん、彼のこれは直らないだろう。

 仕方ない。キングとして、その程度は受け入れてあげよう。

 

「分かったわよ。それで二つの課題っていうのはなに?」

「一つ目、スタートを決めて前に出ること。そして内ラチ沿いを走ること。そして二つ目……」

「……どうしたの?」

 

 坂川はそこで言い淀んだ。

 

「これを伝えるかどうか迷ったんだ。いや、二つ目の課題じゃなくてだな」

「?」

 

 微妙に煮え切らないような彼は観念したように口を開いた。

 

「アドマイヤベガは何となくだがスペシャルウィークに似ている気がする」

「スペシャルウィークさんと?」

 

 出てきたのは私たちクラシック級の頂点に立っているダービーウマ娘、スペシャルウィーク。目下、セイウンスカイと並んで最大の相手だ。

 

「あの抜群に切れる脚……天性のものを感じさせるあの走りはスペシャルウィークとよく似ている。俺の印象ってだけだが……」

「……それで?」

「今日はアドマイヤベガをスペシャルウィークだと思って走れ。弥生賞でも皐月賞でもそうだったように、次に対戦したときもスペシャルウィークは後ろから捲って来る可能性は十二分にある。そのための二つ目の課題だ。このコースは小さいから最後の直線も短い。あいつは十中八九コーナーで()()()()()()だろう。だから──」

 

 ◇

 

 レースは第3コーナーに差し掛かってきた。

 先頭は私、その3バ身か5バ身後ろにアドマイヤベガいる。レースが始まってからこの距離は変わっておらず、同じような間隔を保っていた。私は特にペースコントロールしている訳じゃないけど、アドマイヤベガが自らその間隔を維持しているようだった。

 

 マークして意識をやっている後ろからヒリつくような視線と気配を感じる。物陰から獲物を狙う肉食獣のようなプレッシャーを感じる。

 

(確かに、スペシャルウィークさんってトレーナーが言ったの、分からないでもないわね……! ──っ!? 来た!?)

 

 第3コーナーから第4コーナーに差し掛かったところで、後ろの足音が急激に近づいてきた。彼女と私の距離がぐんぐんと縮まってる。

 確かにその圧力と雰囲気はスペシャルウィークと似ているかもしれない。

 

 第4コーナー中間まで来たところで、私のすぐ左斜め後ろまでアドマイヤベガが迫って来ていた。私との差は半バ身といったところ。このまま私を捲って最後の直線で先頭に立とうとする気だ。

 

「はっ、はっ──」

 

 彼女の確かな息遣いがすぐそこにあった。

 

(そう簡単には──)

 

 彼女が来たのと同時に私もペースアップした。ピッチを上げ、加速してトップスピードへ持っていく。

 

(──行かせないわよ!)

 

「はっ、くっ!?」

 

 アドマイヤベガの息が一瞬乱れた。

 私と彼女は併走するように最後の直線へ入ってくる。

 

 これこそ、与えられた課題の二つ目……彼が言ったのは『アドマイヤベガがコーナーで捲ってきたら、加速してペースを合わせて捲らせないようにしろ。そして、微妙にわざと外へ膨らみながらあいつのラインを潰してやれ。スムーズに走らせるな。そしてお前が前か、最低でも並んだ状態で最後の直線に入って来い』ということだった。

 

 最後の直線、半バ身ほど前で私がリードしている。目論見通り、捲らせずに立ち回ることができた。コーナーを回る自然の遠心力に任せて、外に膨れて相手のラインを乱した。

 レース運びのテクニックの一つとはいえ、最初の頃はこういう風に他人の力を削ぐような走りをしたくなかった。本音を言えば、今でもしたくない。

 

 でもそれでは勝てないと現実を知ってしまった今、受け入れる必要があるのだ。

 

 あのダービーで、地上から飛び立つかのような末脚で全てを置き去りにしていったウマ娘を目の当たりにしたから。

 

 

『最後の直線に入ったらあとは末脚勝負だ……疲れてるとはいえ、ジュニア級のウマ娘に負けんじゃねえぞ。言ってしまえばこれは対スペシャルウィークを想定したレースだ。絶対に勝ってこい!』

 

 

「はああああっ!」

 

 残り100m。私は完全にトップスピードに乗っている。でも後ろのアドマイヤベガも食い下がってくる。足音の位置から察するに、おおよそ1バ身ほど後ろ。

 気を抜けば一瞬でやられると本能が告げていた。

 

 

(本当にジュニア級!? 勘弁してほしいわね……!)

 

 

 

 ──でも抜かせない! 勝つのは私、キングヘイローなんだから! 

 

 

 

「はあああっ!!!」「──はあっ!!!」

 

 

 お互い死力を尽くしてゴールラインへ向かっていく。

 

 そしてそのゴールラインを先に迎えたのはキングヘイロー()だった。

 ゴール後、レースを見ていたウマ娘やトレーナーからのささやかな歓声や拍手が私たちに贈られた。

 

「よしっ!!! はあっ、はあっ……」

 

 ──勝った! 

 

 アドマイヤベガは私から1バ身半から2バ身ほど遅れてゴールしたようだった。一時は1バ身まで迫られたが最後の50mぐらいで私が突き放す格好になった。

 課題を実践し、勝つことができた。確かにこの手に掴めたものがあった。

 

「……はっ、はっ……」

 

 息を整えているアドマイヤベガに近寄って、手を差し出した。

 

「ありがとう。アドマイヤベガさん。いいレースだったわ」

「……ええ」

 

 彼女は私の手を取ることなく、コース外へと向かっていった。

 

「……」

 

 受け取られなかった自分の手のひらを見つめた。

 

「勝った方から声をかけるのは、やっぱりやめた方がいいのかしら……」

 

 そうも思ったが、これはあくまで模擬レースだから……とも考えた。結局答えは出なかった。

 

 

 

 

 

 坂川たちがいる元へ戻ってくると、カレンモエとペティが迎えてくれた。

 

「ふふっ、これがキングの実力よ!」

「お疲れさまですキング」

 

 ペティからもらったタオルで汗を拭っていると、坂川が私の目の前に立った。

 

「指示通り、完璧に課題を遂行したな。しかも勝った。上出来だ」

「私を誰だと思ってるの? キングヘイローよ! 当然の結果ね!」

「よくやった。今日は褒めてやる。身体に異常ないなら昼の休憩に入れ。午後練はモエはいつも通りの時間に、キングは休息も兼ねて30分遅らせて始める。いいな?」

 

 私たちは3人は各々返事をした。

 

「よし。そのまま解散でいいぞ。お疲れさん」

 

 彼はどこかへ向かって歩き出した。

 

 ◇

 

 俺が向かったのはアドマイヤベガとその新人トレーナーの元だった。

 人目につきにくい物陰にて2人は話していた。その様子を見ると、負けた彼女を彼が必死に宥めているようだった。

 

「ちょっといいか?」

「あっ!? 坂川さん」

「勝ったのはキングだ。それで今日の夜のことだが……こっち来て、耳貸してくれ」

「は、はい!」

 

 アドマイヤベガのウマ耳に聞こえないように、彼の耳元で小声で囁いた。

 

「今日の夜、晩飯が終わったら俺の部屋に来い。……お前がアドマイヤベガに課してるメニューと、出来ればフォームを撮影したビデオをあるだけ持ってきてくれ。USBメモリーがあったらそれも持ってこい」

「えっ!?」

「そういうことだ。……大丈夫か? もしどうしても嫌ならやめるが……予定入れたりしたのか?」

「いや、大丈夫ですよ! ……そういうことでしたか」

「まあ、そんなとこだ。待ってるぞ」

 

 俺はそう言ってその場を離れた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「お邪魔します!」

「おう。入ってくれ」

 

 晩飯を食ったあと、アドマイヤベガのトレーナーが俺の自室にやって来た。その脇にクリップファイルやタブレットを抱えて。

 

「何をするか言わなくても分かるだろ。本当は他のトレーナーのトレーニングに口出しすんのはタブーみたいなもんなんだが……いいか?」

「いえ! ぜひこちらからお願いします! 俺の作ったメニュー見てくださるってことですよね」

「ああ」

 

 彼女の走る姿やその内容を見ていて気になることがいくつかあった。そのことを彼に訊いてみたかったのだ。でも、俺も言ったように他のトレーナーのメニューに口を出すのは暗黙の了解でタブーとされている。

 だから今回は俺が勝つことによって、口出しする権利を得たのだ。大分強引ではあったが……彼の様子を見るに上手くいったようだ。それに模擬レースに彼女を出してくれた恩義もある。

 

「まずその前に……あいつの選抜レースを見たことがあるんだが、フォームがその時と今で変わってんぞ。気づいているか?」

「え? 本当ですか?」

 

 やはり彼は気づいていなかったようだ。これだけでも彼を呼び出した甲斐があった。

 

「アドマイヤベガの左脚が曲がってんのは知ってるよな」

「はい」

「今更説明するまでもねえが、脚が曲がってると、その脚だけじゃなく逆の脚にだってでかい負担がかかる。そうやって負担かかってバランスが崩れてくるとフォームもおかしくなるんだよ。それとは逆に、別の要因……例えば身体の成長度合いや筋肉量の増加でフォームが変わることで脚に負担がかかりやすくなることだってある」

「……今のフォームは駄目ってことですか?」

「分からん」

「へ?」

「だって俺はあいつの担当じゃねえからな。今のフォームの変化が良いか悪いかを判断できる情報を持ってないし分析もしていない。だから軽々しく良いとか悪いとか言えねえよ。そのウマ娘個々人によっても適したフォームは異なるし、芝やダート、距離によって理想のフォームは違う。ただ、フォームが変わってることだけは見て分かった」

「…………」

「その辺一緒に分析してやろうと思ってな。もちろんお前が良かったらだが……」

「そんな! こちらからお願いしたいぐらいです! 俺、全然そういうの分からなくて……坂川さんが一緒に見ていただけるなら、お願いします!」

「そうか。じゃあ、分析していくか」

 

 そうやって彼が持ってきたビデオを確認しながら分析を進めた。今日の模擬レースの映像は俺も撮影していたので、それも用いた。

 

 ◇

 

「ふう、こんなもんだろ」

「ありがとうございます! ……良かった」

 

 分析が進み、今のフォームの変化は悪い変化ではないという結論に至った。それを聞いた彼は安堵のため息をついていた。

 

「……ひとつ言ってもいいか?」

「何でしょう?」

「脚の曲がりによる故障は致命的なものになることが多い。だから毎日のフォームチェックは絶対に必要なんだ。これからは毎日数分でもいいからビデオを撮って映像を残せ。昨日との、一昨日との、1週間前との、2週間前との、1か月前との……それよりもっと前もだが、フォームの変化の評価をするようにしろ」

「……俺にできるんでしょうか」

「できるかどうかは関係ない。俺みたいに分析できなくてもいいから、今のお前ができることを最低限しろって話だ。……こんなことは言いたくないが、故障した後に後悔したって遅いんだからな」 

「…………はいっ。頑張ります」

「おう。頑張れ」

 

 時計をチラッと見ると、もうすぐ日付を越える時間になっていた。

 

「時間遅いがまだ大丈夫か?」

「全然大丈夫です!」

「よし。次はトレーニングメニュー見せてみろ」

 

 

 

 そうして彼女に課しているトレーニングメニューの駄目出しを始めた。確かに工夫の跡はある。だが、いかにも新人が頑張りましたって程度で、所詮教本に毛が生えたくらいのものだった。

 それぞれのメニューの根拠を尋ねると、一応理由や目的はあるものの根拠が薄かった。なので参考になりそうな理論や論文を彼に渡して詳しく説明した。海外の論文がいくつもあったので、俺が作成していた日本語訳のまとめを彼のUSBメモリーに入れてやった。

 説明してやっていると彼は「こんなのあるんですか!?」「すごいな~」「分かりやすいです」「全然知らなかったです! 本当に勉強になります!」と感激していた様子だった。

 ……まあ、悪い気はしなかった。俺も単純なものだ。

 

 

 全てが終わった時には空はすでに明るくなっていた。熱中しすぎて時間を忘れていたようだ。

 

「今日は完徹確定だな……お前は大丈夫か?」

「体力には自信があります。大丈夫ですよ。坂川さんこそ、こんな時間まで付き合っていただいて……」

「俺は寝不足には強いんだ」

 

 そう強がって返した。実を言うと、アラサーになってから寝不足は堪えるようになってきていた。

 

 

「ほれ、帰った帰った。俺もちょっと休むわ」

「ありがとうございました。……あの、坂川さん」

「なんだ?」

「どうしてここまで? いや、俺は凄い勉強になったし、助かったんですけど……どうしてかなと」

「……気が向いただけだ」

 

 確かに彼もアドマイヤベガも俺にとって赤の他人だ。夏合宿で一緒になっただけの存在だ。

 でも、アドマイヤベガの姿をあの夜俺は目にしていた。未練ではないが……おそらく俺自身が言ったように気が向いただけなのだと思う。

 

 あの夜に俺も声をかけようとしていたことは言わなかった。言う必要もないと思った。

 

「あとはお前次第だ。それに、アドマイヤベガ含めて1月になったら嫌でも最低5人は担当しなきゃならない。今のうちにできることはやっとけ」

「そうですよね……俺にできるかな……」

「できるかどうかは分からん。でもやるしかねえんだ。……まあ、どうしても悩み事があったら相談に乗ってやらんでもない」

「本当ですか? じゃあ、またよろしくお願いします!」

 

 そう言って彼は俺の部屋を出ていった。こんな朝方だと言うのに元気な奴だ。

 

「ん~。俺もちょっと休むか」

 

 背筋を伸ばした後、俺は息抜きがてらアメリカのダートのレースを鑑賞した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏合宿最終日。今日をもって夏合宿の全日程は終了する。

 

 その約1ヶ月に渡る夏合宿が今まさに終わりを迎えようとしていた。

 

「──よしっ! よくやった! これでトレーニング終了だ!」

 

 最後の走り込みを終えたキングヘイローとカレンモエが芝に横たわって荒い息をついていた。

 

「お疲れさん。2人ともよく頑張ったな」

「キングもモエさんも、よくこのトレーニング量を耐えきりましたね……見てるだけでげんなりするぐらいでしたよ」

 

 そんな軽口を叩きながら2人にドリンクとタオルと配るのはペティ。今更だが、ビデオ撮影やデータ整理に加えてこういうマネージャー的な役割もしっかりとこなしてくれているので、実を言うと俺としてはかなり助かっている。

 

「はあ、はあ、はあ……菊花賞は絶対に勝つんだから……このぐらいのトレーニング、こなして当然よっ!」

 

 キングヘイローもカレンモエも2人は俺の課したトレーニングを最後までこなした。もちろん、疲労度を見て内容の微修正は行っていたが、それでも凄まじくハードなものだった。2年目のカレンモエはともかく、暑さに弱いキングヘイローがどうなるか最初は不安だったが、持ち前の根性で最後まで走り切った。

 

「……あ。キング、ストレッチ始めるときは俺に言え。ちょっとお前の身体の状態確認しときたい」

 

 座り込んでドリンクを胃に流し込むように飲んでいるキングに向かって俺はそう言った。

 

「んくっ……はっ、はあっ……今日も? いいわよ。あなたにストレッチする権利をあげるわ」

「じゃあ始めるぞ」

 

 早速ルーティンとなっているストレッチを機械的にこなしていった。やはりと言うべきが、最終日だけあってかなりの疲労があるようだ。

 

「……よし。次は筋肉触っていくぞ。関節も動かす。触られて嫌に感じたら言えよ」

「ええ」

 

 一通り終わらせたので、次は身体のチェックに入った。

 

 下肢と臀部の筋肉を入念に確認していく。加えて関節可動域も確認する。

 

「…………」

「んっ……」

 

 キングヘイローの口から悩ましげな吐息が漏れるが、無視して続ける。彼女の太ももや臀部……つまり尻を手全体で何度もなぞったり揉んだりするように触って筋肉の状態を確かめる。

 

「……いいぞ。終わりだ」

 

 そう言ってキングヘイローを解放してやった。

 

「…………」

 

 今触って得られた情報を頭の中で整理する。

 夏合宿中を通して今のように……最近は特に彼女の身体の状態を念入りに確認していた。

 

 

 だから、彼女の身体が段々と変化してきてることに俺は気がついていた。

 

 

 

「黙り込んでどうしたのよ?」

 

 立ち上がったキングヘイローが訝しむような眼差しでこちらを見た。

 

「何もない……わけじゃねえが。少し思うところがあるだけだ」

「思うところ?」

「ああ。だがまだその片鱗ってだけでな。まだ判断を下すのは難しい。もうちょっと様子を見ねえと……こればっかりは時間を経ないとどうなるか分からん」

「……? なにを言ってるの?」

「まあ時期が来るか、俺の頭の中がまとまったら話す。ほら、さっさとシャワー浴びて来い。汗くせえぞ」

「っ!? なんてデリカシーの無い……!」

「俺にデリカシーがあると思ってたのか? とんだ見込み違いだな」

 

 やいやいと言い返してくるキングヘイローを無視して俺は一足早くその場を去った。

 

 

 

 

 

 周りに誰もいなくなってから俺は口を開いた。

 

「あの筋肉の付き方……やっぱりあいつの適性は……」

 

 ──そして頭に浮かんできたのは、キタサンブラックとのこと。

 

 

 

「短距離……なのか」

 

 

 



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第49話 京都新聞杯

実況は杉〇清でお送りします


 夏合宿から約1ヶ月半後の10月18日、京都レース場のターフに私はいた。

 もちろんレースに出るため。そのレースとは京都レース場芝2200m、京都新聞杯(GⅡ)。11月8日に行われるクラシック最後の一冠、菊花賞へのステップレースの1つだ。

 

『曇り空の京都レース場、第11レース京都新聞杯の出走が迫ってまいりました。主催者発表によると第9レースでは重だったバ場は稍重まで回復して──』

 

 有名な男性実況アナウンサーの声がゲート前で精神統一を図っている私の耳に入ってくる。

 彼の言う通り、台風の影響で今日のバ場は重い。稍重に回復したとはいえ、直前まで重だったのだから限りなく重に近い稍重といったところだろう。

 私は重いバ場にそこまで苦手意識を持っていない。キタサンブラックとトレセン学園で走った不良バ場のコースは別として、メイクデビューは稍重で勝っているからだ。ダービーも稍重だったが、バ場とペースの関係性があったとしてもあれは私の暴走による負けだから、バ場が直接響いたわけではない。

 

「ふう……」

 

 気を落ち着けたことを心の中で確かめてから目を開く。前方にはゲートが鎮座し、私の周りには出走予定の立ち止まっているウマ娘や、緊張を紛らわすように身体を動かしているウマ娘がいた。

 

 その中に今年のダービーで勝ったスペシャルウィークの姿もあった。

 

『──さて、何と言っても注目はスペシャルウィーク。ダービー以来の出走となります。もちろん圧倒的1番人気!』

『パドックを見てきましたが、仕上げ切っていたダービーと比べると体重の増加はあるようですが成長分でしょう。菊花賞へ向けて、良いレースを期待したいですね。圧勝もあるかもしれません』

 

 そんな実況と解説の掛け合いが聞こえてくる。

 

『対する2番人気は少し水をあけてキングヘイローです。前走阪神2000mのGⅡ神戸新聞杯3着からの巻き返しはなるか』

『神戸新聞杯は1着から2バ身差程度の3着で大負けしたわけではありませんからね。皐月賞2着の実力を発揮すればいい勝負は出来るでしょう。ダービー2着、前走の神戸新聞杯でも2着と彼女が負けたボールドエンペラーが3番人気になっているあたり、実力は評価されているようですね。キングヘイロー、春に騒がせた三強の一角としての力を示したいところです』

 

「……ふんっ。言われなくても示してあげるわよ」

 

 実況と解説が言う通り、休み明けとなった9月20日の神戸新聞杯では3着に敗れた。調子は悪くなかったが、速めのペースを前に着けたこともあって、最後の最後で甘くなってしまった。坂川は休み明けだからそこまで勝敗に拘らなくていい、不利なレース展開でよく3着に粘ったと珍しく慰めてくれたが、やっぱり負けはとても悔しい。

 

『三強と言えば、先週はここ京都大賞典でセイウンスカイがあっという結果を残してくれましたね~』

『いや~先週は凄かったですね! 毎日王冠のサイレンススズカもそうでしたが、京都大賞典のセイウンスカイも逃げ切り勝ちとは!』

 

「!」

 

 セイウンスカイは1週間前の京都大賞典にてシニア級のウマ娘相手に逃げ切って勝利していた。私もトレーナー室のテレビで坂川らと一緒にレースを見ていた。逃げて後続と大きく差を離し、変幻自在のペースコントロールで息を入れて勝ちまで持っていった。

 シニア級相手に勝つだけでも凄いのだが、その相手と言うのがまあ凄い。去年クラシック級で有馬記念を制したシルクジャスティス、天皇賞春の覇者メジロブライト、天皇賞春と宝塚記念のGⅠで2着2回のステイゴールドなど、シニア級の超一線級が揃っていたのだ。

 そんなウマ娘相手に勝利を収めたテレビの向こうのセイウンスカイに対し、私は自然と拍手してしまっていた。ライバルとは言えど、それ以前に私たちは同学年で友人同士。彼女が誇らしげに左手でガッツボーズして喜んでいるのを見て、私も心底嬉しくなった。……なお、坂川は頭を掻きながら「やってくれるな……」と難しい顔をしていた。

 

 

 私も負けていられない。セイウンスカイにも。そして私の視界の端で──

 

 

「よしっ!」

 

 

 ──気合を入れているスペシャルウィークにも。

 

 

(絶対に勝つわ!)

 

 

 ~~♪ ~~♪! 

 

 

 ファンファーレの演奏が終わり、スタンドからの歓声が上がる。スタート位置が正面スタンドの前で距離が近いせいか、歓声に包まれるように感じた。

 

「入れー」

 

 誘導員の声に導かれ、私はゲートへ向かっていった。今日の私に与えられた枠は8枠15番。16人でのレースなのでほぼ大外の枠になっていた。

 ゲートに入り、その中でスタートを待つ。順調に枠入りが進み、私の左隣である16番グリーンプレゼンスが収まって一瞬の静寂──

 

 ──ゲートが開く。

 

『さあ飛び出した! ダービーウマ娘スペシャルウィークのスタートもまずまずであります。さて、どんなレースをするんでありましょうか』

 

 私のスタートもまずまずといったところで、順調に加速していきながら外から先団を伺うように進出していった。

 バ群の中から2人のウマ娘が先頭へ躍り出るのが見えた。

 

『注目の先行争いですが、サクラナミキオーが行こうとしております。それからランスルーザターフ』

 

 2人のうちランスルーザターフが先頭に立ち、その後にサクラナミキオーが続いた。第1コーナーを入る辺りでその差は1バ身と言ったところ。

 その2人から更に2人のウマ娘を挟んで、私は先頭から6バ身ほど後ろにいた。内に2人のウマ娘を置いて外側を走っており、5番手か6番手といった位置で先行していた。

 そしてスペシャルウィークは────いた。特徴的な前髪の白い流星が見えた。最小限に首を振り右後方を確認してその姿を視界の端に収めた。

 

『スペシャルウィークは後ろから5、6人目といったところであります。中団よりちょっと後ろといったところ』

 

 スペシャルウィークはバ群に包まれるようにして後方にいた。

 

(予想通り……といったところかしらね)

 

 これまでのレース全てでそうだったように、私が前で彼女が後ろからという展開になりそうだ。

 

 

 作戦通り、後方にいるスペシャルウィークをマークして走る──! 

 

 

 第2コーナーを抜けて向こう正面に入っていく。

 私は5番手あたりの位置を維持して駆けていく。他のウマ娘にも大きな動きは無い。ペースは……はっきり言ってよく分からないが、速くもないが遅くもない気がする。

 間もなく目の前に上り坂がやって来た。バックストレッチの中間あたりから始まるこの急坂の影響もあり、ペースが少しずつ緩んできているようだ。

 

(この坂……やっぱりキツイわね……!)

 

 京都レース場の高低差4.3mの坂。この坂を上るのは2戦目の黄菊賞以来だ。ストライドとピッチを変化させて坂に対応させた走りに変えるが、やっぱり脚への負担は大きく、一気に疲労が溜まっていくのを感じる。

 残り1200m地点から始まる急坂を100m上ると緩やかな上り坂が姿を現した。

 ストライドとピッチをまた微調整して残り1000mを示す10のハロン棒を通り過ぎると、第3コーナーにある上り坂の頂点が見えてきた。

 

(第3コーナー! ここで──)

 

 レース前の打ち合わせ通り、ここでスペシャルウィークの位置を確かめようと思い右後ろを振り向いた。さっきまでは私の右後ろ後方のバ群の中にいたからだ。

 

(スペシャルウィークさんは今どこに────え?)

 

 振り向いた後方にスペシャルウィークはいなかった。

 いきなりのことで頭の中が真っ白になる。一瞬、故障の文字が頭の中でよぎった。

 

(──いや)

 

 そんな考えはすぐに取り消された。なぜならこれまでに何度も聞いていた足音が確かに耳に届いているからだ。全てを置き去りにする、あのバネの塊のような足音が。

 

 私はある種の確信をもって左後方へ振り向いた。するとそこに、外へ持ち出して進出してきているスペシャルウィークの姿があった。彼女はバ群を抜け出し外から勝負を仕掛ける気だ。

 あの暴力的な速度の捲りがやってくる……!

 

(やっぱり……っ!)

 

 そうして目が合った。刹那の瞬間だけ、スペシャルウィークと。それはあの弥生賞を思い出させた。

 普段の温和で抜けている様子なんて消え失せている、世代の頂点に立ったダービーウマ娘がそこにいた。

 

 

 

 ──ねえ、キングちゃん。行くよ……? 

 

 

 

 そんな彼女の声が聞こえた気がした。

 

 

 立ち向かってみせろと。

 迎え撃ってみせろと。

 日本一になったダービーウマ娘である自分に抗ってみせろと。

 

 彼女の瞳がそう私に訴えていた。

 

(っ! 上等よ!)

 

『行った行った! スペシャルウィークの始動であります! 京都レース場の坂を上るスペシャルウィーク、ダービーウマ娘!』

 

 前を向く。もう後ろは見ないでいい。後ろからやって来る気配とその足音が彼女の位置を何よりも示しているから。

 

『スピードとキレは抜群! そして夏を越してパワーもつけたスペシャルウィークが外を通って上がっていった!』

 

 坂を上り切り、眼下に広がる坂を下っていく。

 坂の下りを利用し速度を上げて、私も外を回して前に進出。先頭との差を縮めていく。

 

(来てる……来てる!)

 

 すぐ背後に嫌でも感じる。圧倒的な強者のプレッシャーを。

 私のすぐ1バ身左後ろに間違いなくスペシャルウィークがいる。

 

(これまでの捲られっぱなしの(キング)じゃない! 見てなさい!)

 

 下り坂を利用してさらに加速。スペシャルウィークに捲らせないよう彼女と同等以上まで速度を上げていく。

 

(ダービーの後も、夏合宿も、夏合宿が終わってからも……その成果を今出す時よ!)

 

『前にキングヘイローがいる! 場内大歓声! そしてスペシャルウィークと一緒にキングヘイローも動いたっ!』

 

 坂を下り終え、残り600mのハロン棒を横目に通過して第4コーナーへ入った時には私は先頭まで躍り出ていた。形としては私も外から捲っていったということになる。

 その左後ろ……いや、もう左横と言った方がいい。私の半バ身だけ遅れて外側にスペシャルウィークが上がってきた。私は彼女にぴったりとマークされている。

 お互いがお互いをマークしていた。だからこの展開は必然なのかもしれない。

 

 コーナーを回るときに遠心力に任せて自分の走りやすいように少し膨れながら────アドマイヤベガとの模擬レースを体で思い出しながら────最後の直線へと向かっていく。これで少しは彼女のラインを乱せたはず! 

 

『キングヘイローがダービーの借りを返すのか!? スペシャルウィーク2番手!』

 

(ダービーの借りも! 弥生賞の借りも! 今ここで返すっ!)

 

 そして私たち2人は並ぶようにして先頭で最後の直線に入った。

 

『スペシャルかキングヘイローか!? スペシャル楽に交わすのか!? いや──』

 

 ここから先はキングヘイローとスペシャルウィークの追い比べ。残り400mを速く走り切った方が勝つ──! 

 

「はあああああっ!」

 

 バ体を合わせて走る。残り300m。死力を出し尽くす! 

 コーナーを回ってすぐのところでは前に出られそうになったが、今はまた私が半バ身ほど前に出ていた。私はバ場の4分どころから真ん中あたりを目指して僅かだが斜めへ走っていく。坂川に言われた通り、バ場の良いところを走るためと、スペシャルウィークの走りを少しでもスムーズにいかせないため。

 明らかな妨害はしない。あくまでクリーンな戦いの範囲内での行いだ。

 

『2人! 2人でありますが、もう一度キングヘイロー! このウマ娘はゴール前もう一度伸びるぞ!』

 

 残り200mを過ぎる。

 僅かに私がリード。まだ粘れている。この差をあと1ハロンでいい──

 

(絶対に持たせるわ! 持たせたら私の勝ちなんだから!)

 

 京都新聞杯は完全に私とスペシャルウィークのマッチレースになっていた。ずっとバ体を合わせて、お互いに身を削るかのようにゴールへ向かっていく。

 横を見ている余裕は無い。ただ、彼女の荒い息遣いや風を切る感触、そして視界の端に見え隠れする翻った勝負服が彼女の存在を伝えてくれる。

 

 この世界は今、私と彼女の2人だけ。

 

『さあスペシャルかキングか!? この2人だ! 火花が散る! 火花が散る! 火花が散る!』

 

 残り100m。

 私とスペシャルウィークは完全に並んでいる。

 脚がちぎれてもいい。今持てる全ての力を全て脚に注ぐ。重いバ場へと脚を叩きつけるように走っていく。

 

 ここまで来て負ける訳にはいかない! 前哨戦だからとか、ステップレースだからとかは関係ない! 

 

 

 ──瞬時に想起されたのは神戸新聞杯、ダービー、皐月賞、弥生賞、ホープフルステークス、ジュニア級9月の模擬レース……敗北したレースのこと。

 

 

 もう…………もう、悔しい思いはいらないのよ! 

 

 

「はあああああああああ!」

 

 

『外がダービーウマ娘! 内がキングヘイロー!』

 

 

 残り50mを過ぎて、ゴールまで30mもないところだった。

 

 

(──え?)

 

 

 スペシャルウィークが私より僅かに前に出た。

 

(ま、だッ!)

 

 その差を埋めようと脚に力を入れる。

 数ミリでもいい、ストライドを広めないと。

 コンマ1秒でもいい、ピッチを上げないと。

 

 そうしないと、このまま負けてしまう──

 

「ああああああああああああああ!」

 

 ほとんど叫ぶように声を上げながら追う。

 

 

 でも、差は縮まらない。

 どうやっても縮まらない。

 

 ゴール板まであと10m。

 

 

『キングヘイローも伸びるが──』

 

 

 全部絞り出した。今まで私が培ってきたものを全て絞り出した。

 トレーニングした成果もちゃんと出せた。レースも事前の作戦通りに運んだ。ほぼ理想通りにレースを進めた。

 

 

 ──でも、なんでこの差は埋まらないんだろう。

 

 

『──僅かに外だあっ!!!』

 

 

 ゴール板を迎えた。クビ差、スペシャルウィークが前に抜け出して。

 

 

 ──私は2着に負けた。

 

 

「はあっ……ぐっ、はっ、はっ──」

 

 私は膝をついて息を整える。

 観客は大歓声。スペシャルウィークの勝利を祝っている。

 

「──キングちゃん! はあ、はあ」

「はっ、はっ……っ、スペシャルウィークさん……」

 

 俯いていた顔を上げると、そこには私と同じように荒い息をついたスペシャルウィークがいた。

 

「はあ、はあ……キングちゃん、大丈夫?」

「え、ええ。はっ……はっ、息が、まだ整わないだけ、よ……」

「そっか。はあ……っく、私と一緒だね! いいレースだったね! キングちゃん!」

 

 スペシャルウィークはそう言って私に手を差し出した。立ち上がるのに手を貸してくれるということだろう。

 その手を見てから、改めて手を差し出す彼女を私は見た。

 

 私はその手を取った。

 

 

 ──間違いなく全力を尽くした。作戦通りだった分、私の方がレース展開としては有利だったはず。

 

 

「はっ……ええ。いいレースだったわ!」

「うんっ! 菊花賞も、頑張ろうね!」

 

 お互いを称え合った。

 

 ──コーナーでの膨らみや最後の直線の進路など、彼女の走りは少しながらでも乱せたはず。

 

 

「おーっほっほっほ。クラシック最後の一冠を手にするのはキングヘイローよ! ……次こそは負けないわ。スペシャルウィークさん」

 

 

 ──なのに、負けた。

 

 

 彼女の手を取りながらもほぼ自力で立ち上がった。

 

 立ち上がってスペシャルウィークと向かい合うと、彼女の宝石のように輝く瞳と目が合った。

 その瞳が眩しくて、顔を背けてしまった。

 

「……スペシャルウィークさん、ウィナーズサークル行かなくていいの?」

「あっ!? そうだった! ありがとうキングちゃん!」

 

 彼女はそう言って足早にウィナーズサークルへと向かった。

 その背中を私はただ立ち尽くして見送る。

 

「……」

 

 

 ──夏合宿を経て私は確実に成長していた。その上で死力を尽くした。レース展開も向いた。対策もうまくいった。力を120%発揮したこれ以上ないレースだった。

 

 

 じゃあ、なんで負けたのだろう。

 

 

 ……考えるまでもない。今感じていることを、いつか前にも感じていた。

 

 

 ──スペシャルウィークの方が速いから。

 ──キングヘイローの方が遅いから。

 

 

 私が完璧に走っても、策を弄しても、スペシャルウィークはただ足の速さだけで私をねじ伏せて上回った。

 この敗北は惜しいクビ差ではない。実力を発揮できず大敗したダービーよりも、私と彼女の差は大きいと感じた。

 

「……」

 

 心のどこかで思っていた。実力を付ければ絶対に勝てると。セイウンスカイにだって、スペシャルウィークにだって勝てると。

 

 

 クラシック最後の一冠、菊花賞を取れると。

 

 

 そんな楽観的な未来予想図を勝手に描いていた自分に今更気づいた。

 

 

 ──全力を出し尽くしても勝てないと言うのなら……

 

 

「…………」

 

 

 小さくなった彼女の背中を見つめる。彼女がスタンドに近づくと、更なる歓声がスタンドから上がっていた。

 

 

「……私は……」

 

 

 

 ──どうやったら、あんな怪物(バケモノ)に勝てると言うの……? 

 

 

 

 何かが折れる音が、体の奥から響いた。

 

 

 

 



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第50話 走る意味

 京都新聞杯の翌日、俺はトレーナー室で昨日のレースを見返していた。

 最後の直線でのキングヘイローとスペシャルウィークの競り合いが目の前のPCのモニターに映し出されていた。ほどなくして、スペシャルウィークがクビ差抜け出してゴールした。

 

「……これで勝てねえか~」

 

 何度見てもキングヘイローは2着になる。こうして何度も見ていればいつか勝つんじゃないかと思わせるような最後の直線でのデッドヒートだった。

 当日目の前で見ていたときは悔しさのあまり観客席の柵を思わず蹴りつけようとしたぐらいだったが、時間を置くと冷静になれていた。

 

「でもまあ、うまくやったな……ちゃんと成長してるぞ、お前は」

 

 キングヘイローはほぼ事前の作戦通りにレースを運んだ。後方にいるスペシャルウィークをマーク、進出してきた彼女に捲らせないように一緒に上がっていくなど、うまく立ち回っていた。担当してからのことを思えば少し感慨深くなった。

 ただ全てが完璧だったという訳でもない。ペースや進出し始めるタイミングなど、見返せば修正すべき点はあったように思えた。例えば追い出しをほんの一瞬遅らせれば、最後もう少し粘りこめてたかもしれない。

 

 それで今日はキングヘイローと京都新聞杯の振り返りをする予定だった。京都から東京に帰ってくるともう時間も遅かったので、昨日は最寄り駅に着き次第解散としていた。

 

「しかし、昨日はなんかいつもと違ったな……」

 

 昨日、2着に負けて控室に戻ってきたキングヘイローの様子が気になっていた。これまでの敗北したレース後は泣いたり怒ったりして感情を発露することが多かったのだが、今回は口数少なく終始沈んだ様子で顔を俯けていた。弥生賞で負けた時も似たような感じだったが、その時よりも落ち込んでいるように見えた。

 俺はレース内容についてその場では触れず、ただ彼女を労った。さっきの独り言の通り、昨日の彼女は上手くやったのだ。フォームだって大崩れしてないし、明らかなミスらしいミスはなかった。

 

「スペシャルウィークに負けたのが効いたのかねえ……」

 

 原因として考えられるのはそれだった。あの展開でキングヘイローを差し切ったスペシャルウィークは改めて恐ろしいウマ娘だと思った。これまでどちらかというと後方からぶん回すマイペースなレース運びをしてきたウマ娘だったから、ああやってバ体を合わせてやったら走りが崩れたり怯んだりする可能性を考えたのだが……俺の目論見は外れた。あんな勝負根性も持っているとは思わなかった。その点を考慮すると、キングヘイローに落ち度はなく、この作戦を立てた俺に全て非が──

 

「──おっと、その考え方はやめねえとな……でもなあ」

 

 そこまで考えて思考を一旦止めた。

 ダービーの後に彼女に言われた通り、勝利も敗北も俺たち2人のモノだ。どちらかが絶対的に悪いと思い込んではいけないと、そう彼女は俺に教えてくれた。

 だが、事実として走っている彼女とトレーニングを課したり作戦を授ける俺とで役割は分担されている。ウマ娘とトレーナーである以上、そこの違いは存在しているので、そこはちゃんと分けて考えるべきだ。

 敗北したという事実は2人のモノ。しかし、具体的な原因はそれぞれ分けられたモノ……うまく言葉にできないが、そんな感じだろうか。

 

 今回のことも、うまく作戦がハマったからあそこまでスペシャルウィークに肉薄できたのかもしれない。

 

「ま、やるべきことをやるだけだ。次は菊花賞か……」

 

 夏合宿にて秋の予定を計画立てた。キングヘイローは迷うことなく菊花賞を選択した。一生に一度のクラシック三冠、当然の選択だろう。

 叩きとして神戸新聞杯の出走は確定として、身体が問題無ければ京都新聞杯でもう一叩きするというスケジュール通りにここまで来ていた。

 

 菊花賞まであと3週間を切っていた。

 

「…………」

 

 

 ──頭をよぎるのは、彼女の身体の変化のこと。

 

 

「いや、まだ早計だ……」

 

 頭からその考えを振り払って思考を元に戻す。

 

 京都新聞杯の振り返りで何を話すか考えながら放課後を待った。

 

 ◇

 

 放課後、トレーナー室にはペティとカレンモエがやって来ていた。この後は2人だけでトレーニングに行ってもらうので、内容だけ指示して送り出そうとしたところでキングヘイローが部屋に入ってきた。

 

「あ、お疲れ様ですキング……って!? どうしたんですかその顔!?」

 

 ペティの驚きの声につられて彼女の顔を見る。

 ……目の下に酷い隈が出来ていた。

 

「……別に、大丈夫よ」

「いや大丈夫じゃ……ねえ、トレーナーさん」

「…………」

 

 黙ってキングヘイローを見つめる。彼女は視線を逸らして俯いていた。

 ……だいぶ、重症のようだった。

 

「モエ、ペティ、今日はトレーニング終わったらここに寄らずに上がってくれ。京都新聞杯の振り返りには参加しなくていい。ペティ、タブレットは持って帰ってくれ。モエはセンサーを。2人ともなくすなよ。いいか?」

「あ、はい……分かりました」

「……うん」

 

 2人は返事をしてトレーナー室を出ていった。物分かりの良い2人で助かる。

 部屋の中には立ち尽くしているキングヘイローと俺が残された。

 

「いつまで突っ立ってんだ。座れよ。昨日のレースを振り返るぞ」

「……ねえ」

「なんだ」

「私は、スペシャルウィークさんに勝てるの?」

 

 やはりか、という気持ちが胸を占めた。

 

「唐突だな。一体どうしたんだ?」

「答えてよ」

「はあ?」

「答えなさいよ。キングヘイローってウマ娘のこと、トレーナーのあなたなら全部分かってるでしょう」

「それは驕りだな。全部なんて分かるわけねえだろ」

「はぐらかすのはやめてっ!」

 

 隈に縁どられた弱々しい視線が俺に向けられた。この様子じゃまともに寝ていないのだろう。

 昨日のレースの疲労もあるのに眠れていない……肉体的にも精神的にも極めて脆弱な状態だ。だからこんなにも余裕がなく感情的になっているのではないか。

 

「少し寝ろ。レースの振り返りは明日でいい。自室に戻ってもいいし、そこのソファーで寝ても──」

「答えてよ! 私はスペシャルウィークさんに勝てるのっ!?」

「……はあ」

 

 埒が明かなかった。

 言うことを聞いてくれないなら仕方ない。話し合うしかないのだろう。

 

「分かった。話をするにしてもまずは座れよ。そうしねえと俺はお前と一切口は利かん」

「…………」

 

 キングヘイローはレースの振り返りするテーブルの所の椅子ではなく、ソファーに腰を下ろした。

 そして俺もソファーに……彼女の真正面に座り、目を合わせる。

 

「お前がスペシャルウィークに勝てるのか、か」

「ええ。菊花賞で私は彼女に勝てるの?」

「それが俺に訊きたいことか?」

「そうよ。あなたなら分かるでしょう?」

「分からねえよ」

「……なによ。やっぱり答えてくれないんじゃない……」

 

 彼女は苛立ちを増したというよりは意気消沈したように見えた。

 

「レースなんてのは水物だ。何が起こるか分からん以上、勝てるかどうかなんてのは分からん。重要なのは勝てるかどうか考えるんじゃなく、勝つためにレースに出るってことだ」

「……」

「第一、スペシャルウィークに勝てたとしても菊花賞に勝てるかは別の話だ。アイツに勝ったって1着じゃなかったら意味がねえし、京都大賞典で現役最強レベルのウマ娘を倒したセイウンスカイだっている。だから──」

「──私が訊きたいのはそういうことじゃないわ!」

 

 一転、彼女は溜めていた怒りを放つように声を上げた。

 

「…………」

 

 まあ、そうだろう。キングヘイローが俺に訊きたいのはそんな単純なことではない。

 彼女は俺からこの質問の答えを欲しているのではない。この質問はそう形作られただけで、真意はおそらく別のところにある。

 眠れないほど悩んだ末に、その感情の行き場を無くしてこうして俺にぶつけているのだ。

 

「怖くなったか?」

「……怖い? なにが?」

「お前は自分じゃ菊花賞を勝てないって、自分はクラシックを取れずに終わるって、そう思って怖くなったんだろう?」

「……っ!」

 

 彼女は歯を噛みしめていた。ギリッと音が聞こえるかと思うほどに。

 

 

 おそらくキングヘイローは今になって初めて現実と真正面から向き合っている。と言っても、今まで全く現実に向き合っていなかったわけではない。

 彼女は当初クラシック三冠を制覇し三冠ウマ娘になることを目標としていた。しかし、セイウンスカイが皐月賞を取り三冠ウマ娘の夢は早々に潰え、ダービーもスペシャルウィークに勝たれてしまった。

 彼女に残されたのは菊花賞。夏合宿でも彼女は度々菊花賞のことを口にしていたことから、菊花賞に並々ならない思いを抱いているのが分かった。クラシック三強と謳われた1人として、キングヘイローというウマ娘のプライドにかけて、最後の一冠だけはなんとしても勝つと決意していた。……そんなところではないだろうか。

 

 しかし、京都新聞杯の敗北でその決意が揺らいだ。菊花賞に直面するこのタイミングになって、彼女は今置かれている現状から目を逸らせなくなった。

 今の自分では勝てず、一冠も取れずに終わってしまう未来が見えてしまったのだろう。

 

 これはレースに挑むウマ娘誰にでも訪れる瞬間だ。理想の自分と現実の自分とのギャップに気づいてしまった。

 ウマ娘に限らず、この社会に生きる者なら多くの者が経験したことがあるのではないだろうか。……逆に、中にはそんなことに気づかずに済むような者もいるだろうが。

 こればっかりは時間をかけて、理想と現実を擦り合わせて妥協して受け入れていくしかない。

 

 

 それに、今のキングヘイローと同じような境遇に陥ったウマ娘を俺は……いや、俺だからこそ何人も知っている。

 彼女の今の状態は、最後の未勝利戦に挑んできたウマ娘たちとよく似ているような気がする。

 

 奇跡でも起こらない限り勝てないと分かってしまって。

 でも、それでも退学を避けるために、自らのレース人生を続けるために立ち向かうしかなくて。

 

 

 そして挑んでいったあのウマ娘たちと。

 

 

「あなたもそう思ってるんじゃないの……?」

「は?」

「私じゃ菊花賞を勝てないって! スペシャルウィークさんにも、セイウンスカイさんにも勝てないって!」

 

 ……この状況で、勝てると言えたらどれだけ楽だろうか。中央に戻ってきた頃は、そんな無責任極まりないことを担当ウマ娘に言って多くの痛い目を見てきた。

 キングヘイローのダービーのときも気分を上げさせるためだとか言って、同じようなことを言った。メンタルのためだと考えたそれが正しかったのか、今でも分からない。

 

「勝つか負けるかで言ったら、負ける可能性の方が高いだろう」

「っ!」

「スペシャルウィークはそもそもスペックが違う。これまで一緒に走ったお前が一番分かってるだろう。お前も限りなく上澄みのウマ娘だが、スペシャルウィークは上澄みの中の上澄みだ。そしてセイウンスカイ。皐月もそうだが何と言っても京都大賞典の勝利。逃げのペース配分が上手くいったとしても、全て計算づくでレースを作ったのは奴だ。距離が違うとはいえ、今年の春の盾を取ったメジロブライトに勝った……単純に考えれば、天皇賞春を勝てるレベルのウマ娘が菊花賞に出てくる。お前に限った話じゃない、この2人相手に優位に立てるウマ娘なんて歴代でもほとんどいねえよ」

 

 キングヘイローは俺に食ってかかるように身を乗り出していたが、俺の言葉を聞くと身を引いて顔を俯けた。

 

「……なによ。結局そうじゃない。あなたも私は勝てないって思ってるのよ」

「勝てないなんて思ってねえ。これは事実関係から推察できる、単なる可能性の話だ。それにレースでは何が起こるか分からないって言っただろ」

「一緒よ。何も起こらなければ、実力通りに走れば私は勝てないってことでしょう?」

才能(ポテンシャル)能力(パフォーマンス)の最大値ってのは誰にも計れるものじゃない。昔の有馬記念で14番人気のダイユウサクが圧倒的1番人気のメジロマックイーンをレコードで下したように、その時になってみねえと何も分からん。もしかしたらお前もそうなるかもしれないし、二桁人気のウマ娘がみんなひっくり返して圧勝するかもしない」

「…………そんなの詭弁だわ」

 

 会話は平行線を辿っていた。

 

 キングヘイローは目を伏せた。

 

 

 

 

「……勝てないのに。何も証明できないのに──」

 

 

 

 

 その口調はひどく弱々しかった。

 

 

 

 

「──走る意味なんて、あるのかしら?」

 

 

 

 

「……!」

 

 

 普段の彼女なら、今までの彼女ならこんなことを言わなかっただろう。

 なのに今こんな弱音を吐いているのは敗北によるショックと極度の疲労のせいなのか、ただ強がってただけで心の中に元々あったものなのか、俺には分からない。これは真意なのか、ただ口を突いて零れた泡沫なのかも分からない。

 

 だが、彼女の言葉をこのまま無視するわけにはいかない。

 ちゃんと目を覚まさせてやらないといけない。

 

 キングヘイローのトレーナーとして。彼女の走りを一番近くで見てきた者として。

 

「お前は勝てないなら、報われないなら、走るのを辞めるのか?」

「…………」

「別にそれを否定するわけじゃない。そんなウマ娘もいるだろう。だがな、お前もそうなのか?」

「……私は……」

「走る意味ってお前は言ったな。お前の走る意味……理由は一体なんだ?」

「……それは…………」

 

 彼女は散々言っていた。

 一流のウマ娘であると証明するのだと。グッバイヘイローに自分を認めさせるのだと。

 

「お前はどうしたいんだ? なんでトゥインクルシリーズで走ってるんだ? もう一度訊くぞ、お前の走る意味、理由ってのはなんだ!?」

「……いっ、一流よ。私が……キングが、一流のウマ娘だと証明するためよ……」

「なら訊くぞ!」

 

 これを曖昧にしてはいけない。彼女の口から答えを聞くべきときだ。

 

 

 

「そもそもの話だ。お前にとって一流のウマ娘ってのはなんだ!?」

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 彼の言葉を聞いた瞬間、どくん、と心臓が跳ねた。

 そして瞬時にフラッシュバックしたのはあの言葉。

 

 

 

 ──『あなたの言う一流のウマ娘ってなにかしら?』──

 

 

 

 同じだった。坂川健幸とグッバイヘイローは同じことを言っていた。

 そのことに無性に腹が立った。

 

 でも、訊かれたからには答えないといけないと思った。

 私としても、いい加減答えを出したかった。

 

 

 ……一流のウマ娘について。

 

 

 昨日負けたことで、有り体に言えば私は走る意味が分からなくなった。

 

 私は自分が一流のウマ娘だと証明したかった。そのために三冠ウマ娘になることを掲げて走った。最大限努力して、一切妥協しなかった。手を抜いたことなんて一度もなかった。

 けれどライバルのスペシャルウィークとセイウンスカイの躍進により、待っていたのは一冠も取れそうにないという現実。努力しても届かないという現実。

 そんな現実に直面した。菊花賞で勝てるイメージがこれっぽっちも湧かなかった。

 

(……そうよ)

 

 勝てないから私はこんなにも悩んでいる……やはり答えは明白だ。

 

 やっぱりGⅠを……いや、何よりもまず勝つこと。それが一流のウマ娘だ。

 これまでもやもやしていたのはGⅠをいくつ勝つとか、どのレースを勝つととか、その中身が分からなかったからだ。

 

 

 

 ──『あなたがそれを分かっていないようなら、一流になんてなれやしないわ』──

 

 

 

 母にそう言われた直後から色々悩んでいたが、やっぱり何よりも勝つのが名ウマ娘で一流のウマ娘の条件だ。

 シンプルで良いと思った。どれだけ重賞やGⅠ勝てれば良いとかその中身はまだ分からないけれど、“勝利”は共通しており確定している。

 

 だから、彼にそう言ってやろうと思った。一流のウマ娘とは、勝つウマ娘のことだと。

 

 

 坂川に目を合わせる。彼は真っ直ぐに私を見つめており、逃げることは許さないとその瞳が物語っていた。

 

 そんな彼に向かって口を開く。

 

 

 

「……一流のウマ娘は──」

 

 

 

 勝つウマ娘だ。間違いない。勝てるウマ娘こそ、一流のウマ娘。

 

 

 

「────」

 

 

 

 言葉が途切れる。その先が出てこない。

 

 

 

(──なんで)

 

 

 

 なんのことはない。勝てるウマ娘こそ一流のウマ娘だと言うだけだ。

 

 一流に必要なのは何よりもまず勝利だと。

 

 

 勝利することこそ一流の証明なのだと。

 

 

 

(──なんでっ……!)

 

 

 

 

 でも、どうしてもそれが言えない。

 

 

 

 目の前にいる男を見ていると、どうしても勝利こそ一流だと言うことができない。

 

 

 

 

 

 ふいに思い出したのは、彼の過去の話を聞いた夜に独りで考えたこと。

 

 

 ──彼のことを知った私も坂川健幸は底辺トレーナーと切って捨てることができるだろうか? どれだけ努力しようが、結果が出ていないお前は底辺なのだと。

 

 ──彼の話を聞いてしまった私はそんなこと出来ない。どうしてもそう思えない。それどころか、それほどまでに辛い経験をしても決して折れずに研鑽を重ねてきた彼は一流──と一瞬でも考えてしまった自分がいた。

 

 

「……どうした?」

「っ……」

「一流のウマ娘ってのは、なんだ?」

「……いち、りゅうは……」

 

 

 まとまりかけていた頭の中の考えが急速に崩れていく。

 今の自分は、過去の自分によって否定されていく。

 

 私は何もかも分からなくなった。

 

 

────ない

「なんだって?」

 

「分からないっ!!! 分からないのよっ!!! 一流のウマ娘も!!!!! 走る意味もっ!!!!!」

 

「あっ!? おいっ、どこ行くんだ!?」

 

 

 私はトレーナー室を飛び出ていった。

 

 まるで、逃げ出すように。

 

 



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第51話 一度きりの魔法

 トレーナー室を出てから当てもなく何時間も走り続けた。何を考えるでもなくただ無心に、だけれど何かに追われるような焦燥感に駆られながら。

 ……いや、何を考えるでもなくと言うより、何も考えないようにと言う方が正しい。

 

「はっ、はっ、はあっ……」

 

 制服姿のまま学園を出て、人目に付かない裏道や見知らぬ路地を選んで走り、いつの間にかあたりは真っ暗になっていた。

 スマホはトレーナー室にカバンと一緒に置いてきてしまったようで、時間を確認できるものはないけれど、ここから帰るとなるとおそらく寮の門限は過ぎるだろう。怒られるのは仕方ないにしても、いい加減に戻らないといけない。

 

「……はあ……何やってるのかしら、私……」

 

 顔を伝ってくる汗を袖で拭う。汗で肌にへばり付いた制服に嫌気が差す。

 

 大きい道に出て青い看板の道路案内標識を探して見つけた。知っている地名だったが来たことは無い場所だった。大分遠くまで来てしまっていたようだ。

 道路案内標識に従ってウマ娘専用レーンを走って学園まで戻った。

 

 

 

「どうしようかしら……」

 

 学園の前まで来てどうするか悩む。

 カバンやスマホなどの荷物をトレーナー室に忘れてしまった。それを取りに行くべきか迷うが、こんな遅い時間なのでそもそも坂川がトレーナー室に残っているのか分からないし、荷物もトレーナー室にあるのか坂川が持っているのかも分からない。

 何より彼とは顔を合わせづらかったし、話したくもなかった。結局頭の中はごちゃついたままだし、何を話していいのか分からなかった。

 でも今日の課題や予習に必要な教科書やテキスト、ノートはカバンに入っているので取りに行かなければならない。

 

「……モエさんからトレーナーに連絡してもらうようにお願いしようかしら」

 

 同じ栗東寮のカレンモエにそうしてもらうしかない。トレーナー寮に坂川がいるのは知っているが、どの部屋かは知らないし……

 

 そうして足を寮の方向へと向けた瞬間だった。前方から誰かがこちらにやって来ていた。まもなくしてその姿が街灯の下に晒された。

 

「おっと~? ……やっぱ夜釣りは大物が釣れるねえ」

「……スカイさん?」

 

 現れたのはジャージ姿のセイウンスカイだった。夜釣りと言う割には釣り道具なんて持っておらず、いつものように頭の後ろで手を組んでいた。

 

「……スカイさん、こんな夜遅くに何してるの? 門限は過ぎてるでしょう。門限破りなんて見過ごせないわね」

「え~? 今のキングがそれ言う? ……で、何してんのさキング」

「……」

「規則とかに厳しくて真面目なキングが門限破って油売ってるなんて珍しいじゃん。ははあ~、もしかして不良ウマ娘に目覚めちゃった?」

「……そんな時もあるわ。私のことは放っておいて」

「それがそういう訳にもいかないんだよねえ」

 

 彼女はスマホを取り出して画面を見せてきた。そこにはLANEでのやり取りが表示されていた。私たち同世代のグループ……私も入っているグループでのやり取りだった。そこにはいなくなった私を探している様子が見て取れた。スペシャルウィークやグラスワンダーなども一緒に探しているようだ。

 

「そういう訳でさ。ちなみに私たちは寮長から許可貰ってるから門限破りじゃないんだよ。残念でした~」

「……迷惑、かけたのね……ごめんなさい」

「別に~。私としては普段散歩できない時間に散歩できて良い気分転換になったし。あ、みんなに連絡しとくね。えーっと、“キング発見”っと…………うわっ、みんな返信速いなあ」

 

 彼女のスマホから通知音と思われる軽快な電子音が何度も鳴り響いていた。

 本当に心配をかけたみたい……後からみんなに謝らないと。

 

「ん~……」

 

 セイウンスカイはスマホの画面を見ながら何かを考え込むように小さく唸っていたかと思うと、スマホを操作し始めた。

 

「これでよしっ、と。じゃあさキング、このままちょっと散歩に付き合ってよ」

「……えっ!? でも、探してくれてる皆さんに──」

「皆には連絡したから大丈夫だよ。いいじゃんいいじゃん。月も綺麗だし夜風は気持ちいいし、絶好の散歩日よりだからさ。さあ出発~」

 

 彼女はそう言って寮とは反対方向へと歩き出した。

 ……本当にマイペースな娘だ。

 

「ちょっと、スカイさん!? ……もうっ……」

 

 慌ててその後を追いかけ彼女に並んだ。

 

「「…………」」

 

 私たち2人の間には足音があるだけだった。

 

 

 特に会話らしい会話の無いまま、私たちは河川敷の近くまで来ていた。

 

 

「で、どうしたのさ。今日、あんな顔で学園に来てさ。何かあったの?」

「あんな顔……」

「メイクで隠したつもりだったかもしれないけど、全然隠れてなかったよ?」

「……分かってるわよ」

 

 一睡もできずに迎えた朝、洗面台の鏡に写った私は絶望的な顔をしていた。目の周りの隈を含め、メイクで誤魔化そうとしたけどできなかったことは私がよく分かっている。

 

「当ててあげよっか? 昨日のレースのことでしょ?」

「っ!?」

「おお~、ビンゴだ。セイちゃんの勘も捨てたもんじゃないなあ。って言っても、昨日の今日だしそれしかないでしょ」

 

 セイウンスカイは敏いウマ娘なのは知っている。でも、こうも簡単に当てられると、そこまで自分は分かりやすいだろうか。

 

「確かにキングは負けたけど惜しかったじゃん。私なら、今のスぺちゃんにあそこまで迫れたら万々歳だけど」

「…………私は、そうじゃなかったわ」

「ふうん、そっか」

「……ねえ、スカイさん。あなたは──」

 

 彼女に訊いてみたかった。

 日常会話の延長線上で似たような話をしたことはあるが、真剣に話を訊くのは初めてかもしれない。

 

「何のために走っているの?」

「走ってる理由、ってこと?」

「ええ。走っている理由、意味。あなたはなぜ走ってるの?」

「…………ははっ」

「な、なんで笑うのよっ!」

「いや、ゴメンね? キングのことを笑ったんじゃないよ。ちょっと前、ある娘と同じような話をしたな~って思い出して。しかも似たような場所だし」

「……?」

「まったく。セイちゃんもキングに負けず劣らずお節介なのかもね」

 

 そうして彼女は自身が走る理由を語りだした。

 小さい頃から周囲から期待されるようなウマ娘でなかった彼女が、あるレースで策略を巡らせて大番狂わせで勝利したこと。その時の興奮と気持ち良さが忘れらないと言う彼女は、当時のことを思い出しているかのように嬉しそうだった。

 

「京都大賞典もほんと気持ち良かったなあ。私は4番人気で相手はシニア級の猛者たち。いくら皐月賞ウマ娘って言ったって、たぶんほとんどの人が私のことをナメてたんじゃないかな? クラシック級のウマ娘がメジロブライトたちに勝てるわけないってさ。作戦がバシッとハマってさ、それをひっくり返したときの気持ち良さは今も忘れないよ」

 

 彼女はその感触を確かめるように自身の手を見つめて握った。形になくとも、握って掴んだものがそこにあるのだろう。

 

「じいちゃんの期待ってのもあるけど、結局のところ走るのは私自身のため。私の走りでみんなをあっと言わせたいっていう夢。それが私の走る理由かな」

「……スカイさんらしいわね」

 

 心の底からそう思った。

 

「走る理由なんてさ、そのウマ娘次第じゃない? 高尚な目的を持ってる娘もいれば、単純に勝ちたいからって理由だけで走ってる娘もいっぱいいると思うな。上位の……GⅠウマ娘や、DTLに上がれるようなウマ娘みんなが高尚な理由を持っているわけじゃないよ。多分だけどね」

「そうなのかしら……」

「それに理由ならキングだっていつも言ってない? 一流のウマ娘を証明するんだ~って。それじゃないの?」

「…………そう、なのだけれど」

 

 言葉に詰まる。確かに彼女の言う通りだが、一流のウマ娘が何なのか分からなくなった。だからどう証明したらいいのかも分からない。

 

「私は……キングヘイローが走る理由が分からなくなったのよ……」

「……そっか」

 

 セイウンスカイはそれ以上私に訊いてこなかった。

 少しの間沈黙が続いたが、それを破ったのはセイウンスカイだった。

 

「理由が分からないって、悪い事なのかな?」

「……え?」

「別にいいじゃん。分からなくたってさ。『これだ!』って決めなくてもいいんじゃない? たぶん、走ってるうちに見つかるかもだし、別に見つからなくてもいいじゃん。難しいこと考えず楽に行こうよ、キング」

「…………」

 

 彼女に言われたそれは、いつかカレンモエに言われたことと……分からないなら探しながら、という考えと似ている気がした。

 でも、どうも今はそれに頷くことができない。走る理由や意味が見えて来ていたら良いが、今は逆に何も見えなくなっているから。

 

「……」

「あ~もうっ。世話が焼けるなあ……仕方ない。敵に塩を送るのは今回だけだよ」

「……?」

「キングは走る理由、見失ってるだけなんでしょ。なら今だけ、優し~~~~いセイちゃんがキングに走る理由をあげるよ。貸しひとつだからね?」

「スカイさん……?」

 

 セイウンスカイは私の前に躍り出た。そしてこちらを振り返り私と真正面から向き合う形となる。

 彼女からこれまでの緩い雰囲気が消え去り、レース中のような真剣さしかないような表情に変わった。

 

「──私は皐月賞ウマ娘、セイウンスカイ」

「いきなりなにを──?」

「ダービーウマ娘スペシャルウィークも、三強の一角キングヘイローも、菊花賞でまとめて倒す」

「……!」

 

 彼女はそう高らかに宣言した。不真面目さなどなく、秘めたる強い意志を感じさせた。

 

「私が二冠目を取って、スペシャルウィークでもキングヘイローでもなく、セイウンスカイこそがクラシック路線の最強ウマ娘だって証明する。私が最も強いウマ娘だって証明する」

 

 今の彼女はのんびり屋でマイペースな友人セイウンスカイではない。皐月賞を勝ったGⅠウマ娘セイウンスカイだった。

 

「かかってきなよ、キング。キングにはクラシック一冠も取らせてあげない。無冠のまま終わらせてあげるよ。私が二冠ウマ娘になるのを、後ろの方で指をくわえてただ見ていればいい」

 

 そして一層強い口調と鋭い眼光で彼女は言い放った。

 

 

 

 

 

「私を止めてみろよ、キングヘイロー」

 

 

 

 

 

 これは嘘じゃない。紛れもない彼女の本心だ。

 

 同時に彼女が私に理由をくれているのだ。

 意味や理由が分からないなら、今この瞬間だけ……菊花賞だけは彼女自身を倒すことを目標にしろと。

 

 

 彼女は知っている。挑発をされて黙っているほど、キングヘイローは我慢がきくウマ娘ではないことを。

 

「「…………」」

 

 再び沈黙が訪れ、川に乗せられた秋の夜風があたりを吹き抜けていった。

 

 応えるべきは、私だ。

 

「ふんっ。高慢ね。スカイさん、なんでもあなたの思い通りにいくと思ったら大間違いよ」

「どうかな? 私にはそう言えるだけの実績がある。否定したいなら、ターフで証明してみなよ」

「臨むところよ」

 

 お互い無言で厳しい視線をぶつけ合う。

 

「「…………」」

 

 だが、それは長く続かなかった。

 

「「……っ……くっ……ぷぷっ」」

 

 そうして誰もいない河川敷にて、私たち2人の笑い声が響いた。

 お互い涙が出るほどの笑いだった。

 

「何よ『止めてみろ』って! スカイさん、カッコつけ過ぎよ!」

「キングもそれに乗ったじゃん、もー! 私も口にしたら結構恥ずかしかったんだから!」

 

 時間をかけて笑いが収まってから、セイウンスカイはスマホを取り出した。

 

「キング、ほらこれ見て。昨日の京都新聞杯後のスぺちゃんのインタビュー」

 

 彼女がこちらに差し出した画面には勝利者インタビューを受けるスペシャルウィークがいた。

 

『キングちゃんも強いし、セイちゃんも強いけど、菊花賞も勝つために頑張ります! 私も負けてられません』

 

「ってさ。スぺちゃんもキングを待ってるよ」

「……ええ」

「スぺちゃん、キングがいなくなって凄く心配してたよ」

「分かってるわ。帰ったら探してくれた皆さんに、謝って……あと、お礼を言うわ」

「うん。それがいいよ。さあ帰ろ帰ろ」

 

 月明かりの下、肩を並べて寮までの道のりを歩く。

 

「まあでも、今日はトレーニングサボったし、ちょうどいい運動になって良かったよ」

「サボったって……あなたのトレーナーに怒られないの?」

「怒るよ。嫌味も言われる。でも強制はしないんだ。私がサボるのもあの人は考慮に入れてるから。本当にトレーニングに参加して欲しいときは連絡来るし」

「……そう。そのトレーナーとちゃんと信頼関係が築けているのね」

「ううん。信頼は無いよ。信用はあると思うけど」

「え?」

 

 信頼が無いが信用はある? 

 彼女はよく分からないことを口にした。

 

「あなた、トレーナーとうまくいってないの?」

「うまくはやってるよ。でも仲は良くないってだけかな。……いや」

 

 あっけらかんとそう言った。俄かには信じがたいことだ。

 

「私と仲が良くないって言うより、トレーナーさんと仲の良い人やウマ娘って()()()()()()と思うよ。あの人はそういう人だから。何て言うのかな……利害が一致してる……ビジネスパートナー? そんな感じかな、私とトレーナーさんは。まあトレーナーさんの話はいいじゃん。……あ、そこのコンビニ寄らない? ごはん食べてないからおなか減ってさあ」

 

 気づけば私も何も食べてない。今になってやっと空腹感に気づいた。走ってきたせいか、一度気づいた空腹感はそれはひどいものだった。

 それはそうと、セイウンスカイも夕食を食べずに探してくれていたことに罪悪感を覚える。おそらく他の娘たちもそうなのだろう。

 

「奢ってあげたいけど、スマホも財布もないわ」

「別にいらないよ」

 

 

 そうしてコンビニに寄ってから寮に帰った。私も食べるものを彼女からもらったが、探してくれていた友人たちを思うと口にできなかった。

 

 寮の前にはスペシャルウィークやグラスワンダー、エルコンドルパサーなど、友人たちが私たちの帰りを待ってくれていた。

 心配をかけたと謝ると、みんな安堵の表情を浮かべた。

 こんなに心配をかけて申し訳なく思う気持ちと、こんなに心配してくれていたという嬉しい気持ちが心の底から湧き上がってきた。

 

 

 寮長からはたっぷりとお叱りを受けた後、彼女から私のカバンやスマホを渡された。どうやら坂川が寮まで持ってきて彼女に渡したらしい。

 

「……」

 

 明日、また彼と話さなければいけない。

 

 でも、今日出ていったときのような迷いはない。今だけ、セイウンスカイに走る理由を私は貰ったから。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 戻った自室にて、スペシャルウィークのインタビューを巻き戻して最初から再生した。

 

『バ場が重くてうまく走れませんでしたけど、勝てて良かったですっ!』

 

 スペシャルウイークは笑顔でそう言っていた。

 

「スぺちゃん、うまく走れなくてキングに勝つんだもんな……」

 

 これは意図的に見せなかった。キングヘイローのメンタルを考えると邪魔でしかなかったから。後から彼女が見る可能性も考えたが、だとしてもあの時は必要ないと判断した。

 

「意気消沈しているキングに勝ったって、面白くもなんともないからね。それに──」

 

 開いていた動画のタブを閉じて、ベッドの枕元に置いた。

 

「本気のスぺちゃんも、復調したキングも…………勝つのは、私だよ」

 

 

 

「……スぺちゃんに続いてキングにも似たようなことしたってバレたらトレーナーさんにドヤされるなあ…………ま、言わなきゃ分かんないし…………勝てばいいんだし、ね?」

 

 



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第52話 進んだ針

 翌日の放課後、キングヘイローはトレーナー室にやって来た。

 カレンモエとペティは既にトレーニングへ送り出した後だった。

 

「よう。どうだ調子は」

 

 普段の調子で俺はそう訊いた。

 

「まあまあね」

 

 そう言って彼女はデスクを挟んで俺の前まで来た。その顔色は昨日のような酷いものでなく、いつものように血色の良い顔をしていた。目の周りの隈も消えていた。

 どこか吹っ切れた様子だった。昨日、あの後何かあったのだろうか。

 

「昨日は勝手に出て行って、心配かけてごめんなさい。荷物も、寮に届けてくれたって聞いたわ」

「別にいい」

「……」

 

 なにか言いたげな表情をしたキングヘイローに恨めしく睨みつけられた。

 

 出ていったのならまだしも、寮の門限を破るまでとは思わなかったからそこそこには心配していた。しかもご丁寧にスマホをここに置き忘れていっているのも手伝った。

 寮から帰ってきたと聞いたときにはやはり安心したのを覚えている。

 

「……昨日は俺もすまなかった」

「謝らなくてもいいわ。あなたに非はないのだもの」

 

 キングヘイローはそっけなくそう言うと、テーブルの所にある椅子へ座った。

 

「京都新聞杯の振り返りをするわよ。トレーナー、あなたにレースの修正点を指摘する権利をあげるわ」

「言われなくてもやるぞ。昨日すっぽかしたせいでトレーニングの予定が狂ってる。さっさとやって終わったらすぐにトレーニングだ」

 

 ……彼女が昨日のことについて触れないのなら、それでいいと思った。積極的に訊くものでもないし、もし昨日のように思い悩むのでないなら答えを急ぐものでもないからだ。

 

 

 俺もテーブルについて、モニターにレース映像を流しながらもいつもの回顧を行った。

 

 

 

 それほど問題点の多いレースではなかったので、レース回顧自体はスムーズに進み、いつもより時間をかけずに終わった。

 

「よしっ。さあ、トレーニングに行くわよ。トレーナーも準備を……って、どうかしたの?」

「…………」

 

 回顧が終わって椅子から立ち上がったキングヘイローが、椅子から立ち上がる様子の無い俺を見て目を丸くしていた。

 

「ちょっと座ってくれるか?」

「……なに?」

 

 心の中である決心をして口を開く。

 これまで感じていた彼女の身体の変化についてだ。昨日の彼女の様子を見ていて、話すべきなのだと判断した。

 

「夏合宿の頃からだが、お前の身体を俺がよく確認してたのを覚えているか?」

「ええ。確かに触られる回数が多いと思ったけれど……」

「お前の身体が成長に従って変化してきてるんだ」

「? それは普通のことじゃないの?」

「いや、そうじゃなくてだな……」

「…………もうっ! 言いたいことがあるならはっきりと言いなさい!」

 

 こっちの気も知らないで言ってくれる。

 

 でもまあ、こう言うのだから伝えよう。今日の彼女ならおそらく大丈夫だろう。ショックを受けるかもしれないが……その時はその時だ。

 

 何がどうなっても受け入れる覚悟はできている。それぐらいの余裕を持てるようになったんだ。

 ……10年前と違って。

 

「お前の身体は短い距離を走る身体になってきている。はっきり言ってしまえばマイラーやスプリンター寄りの身体になってきてるってことだ」

「……え」

「これまでお前にはどんな距離にも対応できるような身体作りを心掛けてきた。クラシック路線を目指していたから、長距離も走れるような筋肉を意識して身体を作ってきたんだ。でも身体の成長方向までは誤魔化せない。お前の脚や臀部はじめ股関節回り……上半身もそうだが、お前のその筋肉質な身体はマイルやスプリント向きだ」

「……」

 

 キングヘイローは考え込むような仕草を見せたが、すぐさま口を開いた。

 

「それじゃ、私は菊花賞を走っても勝てないと言うこと?」

「そういうわけじゃない。今はまだそんな影響は出ていない。さっきも言ったが、元からお前にはどんな距離も走れるように注意して身体を作ってたし、ダービー終わってからはトレーニングメニューも長距離に寄せてた。現状は問題なく菊花賞で勝負できる。だがクラシック級の内は誤魔化しが効いても、身体が完成形へと成熟するシニア級以降はどうなるか分からん」

 

 一度そこで言葉を切ってから再度続けた。

 

「ただまあ、身体がその適性向きじゃなくても走れるウマ娘はいる。あくまで傾向ってだけだ。ウマ娘みんなに当てはまるもんじゃない。あきらかに短距離向けの体なのに長距離走れるウマ娘だっているし、その逆だっているからな。だから身体つきだけで適性を決めることはできない。適性ってのは走ってみないと……その時になってみないと分からねえんだ」

 

 菊花賞と天皇賞秋をめぐって過ちを犯したキタサンブラックとのことで、俺は身をもって知った。

 身体、体重、成績、血統……未熟な俺が考えたそれらを彼女は覆していった。

 

「もしお前がスペシャルウィークやセイウンスカイと戦いたくないって言うなら…………」

「なら、なに?」

 

 言葉に詰まってしまう。

 

 だが、ここまできて伝えないわけにはいかない。

 

「菊花賞を選ばず、短い距離……例えばマイルチャンピオンシップに行ってもいい。今なら天皇賞秋でもいい。クラシックを諦めることになるが……」

「…………」

 

 キングヘイローは黙り込んで俺を見ている。

 心の奥底を見透かされているように俺が感じるのは、俺が弱気になっているからだろうか。

 

「それだけ?」

「……は?」

「それだけなの? 私に距離短縮を勧める理由は」

「いや、それだけじゃない」

 

 

 俺は彼女の精神的な面を指摘した。何度か言っているが、彼女は器用なウマ娘ではないことを。

 トレーニングで改善はしてきているが、依然として他のウマ娘に寄られたり邪魔されたりすると走りを崩しやすいのだ。単純な話、レースの距離が長ければ長いほどそのリスクは高くなる。

 また長距離は得てしてペースが変わりやすいし、コーナーの数も多い。その分だけ考えることが増えて走りに集中できないことや、バ群が密集する機会が必然的に増すと、その分だけ掛かったり走りを乱される可能性は高くなる。

 

 以上のことを頭に入れつつ、彼女の力が発揮できるレースやシチュエーションを考える。

 これまでのレースを例として挙げるなら、キングヘイローが最も高いパフォーマンスを出したのは東スポ杯ジュニアステークスだろう。東京の1800mのワンターンで、レース内容はペースを気にせず他の人気所であるマイネルラヴをマークする形で進めた。それがレコード勝ちに繋がった。

 1人をマークするなど頭のタスクは必要最低限に、コーナーも少ない方が彼女の全力を発揮しやすいのではないかと考えた。

 加えてゲートはうまくなったし行き脚も速いのは距離短縮に生きるとも。

 

 

 そう彼女に話した。

 

 

「全てあなたの言うことが正しいとして、それじゃ私には中長距離は全く合わないってことになるわね」

「そうとも限らない。ようは走りを崩さなければいいんだ。菊花賞や有馬記念でコーナーが6つあろうが、走りを崩されなければ力を発揮できる可能性は十分にある。コーナー4つの皐月賞や京都新聞杯では好走してんだからな」

「……結局どういうこと?」

「こんだけ言ったが、適性含め何もかも決めつけちゃダメなんだ。ウマ娘の可能性ってのは考えだけで測れるものじゃない。……だから、俺が示したかったのは──」

 

 

 俺はキングヘイローに強制したいんじゃない。

 ……するべきじゃなかったんだ。キタサンブラックにも。

 

 

()()()()()()()()()だ。()()()()()()()だ。もし……もし、菊花賞のことで悩んでるなら、()()()()()()のもひとつの手だってことを、言いたかったんだ」

「…………違う道を、選ぶ……」

「ああ」

「……そう。あなたの言いたいこと、やっと分かったわ」

 

 

 俺はあの時、キタサンブラックにもこう言うべきだったんだろう。

 

 

「お前が決めてくれ。このまま菊花賞に行くか、路線を変更して距離短縮への道を歩むか。どっちを選んでもいい。決められないなら、俺も一緒にまた考えてやる」

「…………」

 

 そこでやっと彼女は目線を下げた。考えているのだろう。

 

「大事な決断だ。早い方がいいが、別に今日じゃなくても────」

「いいえ。先延ばしにする必要はないわ。もう決めてあるもの」

 

 また彼女は俺を真正面に見据える。その瞳には強い意志が宿っている。

 どうしてこうも昨日と今日でこんな様子が違うのか不思議にさえ思えてくる。

 

「……トレーナー」

「なんだ」

「あなたの心の中には今、キタサンブラックがいるのでしょう?」

「────」

「いえ、今だけじゃない。ずっと、でしょう?」

 

 

 

 言葉を失った。

 

 それは誰でもない俺が一番よく分かっていた。だからそれについての驚きはなかった。

 

 俺が驚いたのは、彼女がそれを指摘したということ。

 

 

 

「……これは俺とお前の話だ。あいつは関係な──」

「あるわよ。私、分かったわ。()()()()()()()()()()()()()()()()()の起点は、キタサンブラックだってこと」

「キング、お前なにを……」

 

 話の要領を得ない。

 しかし、その言葉の意味を考える前に、彼女の口から答えが発された。

 

「でもあなたの事情なんて関係ない。私は菊花賞に行くわ」

「!」

「言っておくけど、あなたの都合なんて本当に関係ない。謙遜じゃなくて、これはただの真実。私が、私のためにこの道を選ぶの。()()したのよ。菊花賞で戦うって。スカイさんが、スペシャルウィークさんが待ってるの」

「……約束、か……」

 

 

『あたし、ある友だちと約束したんです。菊花賞に出られないその娘の代わりに、菊花賞を取るって!』

 

 

 不意にキタサンブラックの声がフラッシュバックした。

 

 運命のめぐり合わせか、神様のイタズラか、偶然か必然か……その言葉をまた聞くとは思わなかった。

 

 

「この菊花賞だけ、あの娘は私に走る意味と理由をくれたの。逃げるわけにはいかない」

 

 

 彼女の瞳に迷いはなかった。

 

 

「……そうか」

 

 

 言いようのない気持ちが胸に広がった。

 

 

 キタサンブラックとキングヘイローは、俺が関わった2人は似たような境遇を経た。

 だが俺は一方には押し付けて、一方には選ばせた。

 

 

 担当ウマ娘を勝たせてやりたいという気持ちに変わりはない。キングヘイローとキタサンブラック、2人ともに対しても強くそう思っている。

 でもキタサンブラックに俺は許されないことをしてしまった。

 

 

 

 ──俺は弱かったんだ。

 

 昔の俺は勝たせてやりたい気持ちを履き違え、何があっても受け止めてやる覚悟が無かった。それが怖くて堪らなかった。

 

 

 

 

 正直、どうしたら正しいのかなんて今でも分からない。

 

 

 

 胸に広がるこれは何なのだろう……うまく表現ができない。でも──

 

 

 

 

 

 

 

 ──これで良かったのだと。そう俺は思えたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 彼女が決めたのなら、俺も迷ってはいられない。迷っていてはいけない。

 

 いつものように全力で彼女に応えるだけだ。

 

 

「分かった。菊花賞だな…………よし、じゃあ早速トレーニングに行くぞ」

「……もちろんよ! あなたに菊花賞を勝てるようにキングを仕上げる権利をあげるわ」

「意味の分からねえこと言ってねえでさっさと着替えてコースに出て来い」

 

 

 そうして俺たちは2人でトレーナー室を出ていった。

 

 

 

 

 

 

 足りないものはまだまだ多くある。

 

 

 それでも、少しだけでも前に進めた……そんな気がした。

 

 

 



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第53話 菊花賞

 11月8日、菊花賞当日。

 京都レース場の地下バ道にて、セイウンスカイが私を待ち構えていた。

 

「やあキング」

「……スカイさん」

 

 彼女はもたれていた壁から背を離してこちらを向いた。

 

「スぺちゃんは?」

「パドックを出たところでチームシリウスの皆さんに迎えられていたわ。……先週()()()()()があったから、元気がないみたいだったけれど……」

「……そっか」

 

 彼女は私と歩調を合わせて歩き始めた。

 

「今日で終わるんだね。私たちのクラシック」

「そうね」

「早いね~。あっという間だ」

 

 4月の皐月賞から始まったクラシック三冠を争う戦いは今日ここで終結する。

 色んなことがあった。でも気づけば一瞬で過ぎ去り、今に至っていた。

 

「スカイさん、最後の一冠は私がもらうわ。最も強いウマ娘はキングヘイローなんだから!」

「おお。いつものキングだ。……()()()()

 

 彼女の纏う雰囲気が変わる。しかし、捉えどころのない雲のようなふわふわとした緩い空気は変わらず漂っていた。

 

「ねえ、見てキング」

「?」

 

 セイウンスカイは前方を見据えてそう言った。私たちの前方にはレース場へと通じる出口が見えていた。

 

「ほんと、今日は良い天気だね。気持ちいいぐらいの青空だよ」

 

 差し込む光に交じり、彼女の言うような青色も確かに見えていた。

 

 

「今日は、良い日になる気がするんだ」

 

 

 それは宣戦布告か、勝利宣言か。

 

 

 2人で歩みを進め地下バ道の出口へとたどり着くと、京都の澄み渡る青空が私たちを迎えた。

 

 

 

 ◇

 

 

『西日に向かって飛び出す、17人がスタートを切った!』

 

 

 ──これ以上ないと言えるほどの青天の中の菊花賞だった。

 

 

『さあ何が行くのか……セイウンスカイ、セイウンスカイが行った! おお、5番手にキングヘイローです。ちょっと掛かり気味』

 

 

 ──5番手あたりにつけた私は、必死に自分を落ちつけながら走っていた。

 

 

『さあ、このように縦長になってこれから第1コーナーへと向かいますが、セイウンスカイが先手を取った。京都大賞典を再現することができるかどうか』

 

 

 ──後続を離した先頭で靡いている芦毛と白い勝負服をずっと視界に入れながら走っていた。あっという間に向こう正面の直線が過ぎ、第3コーナーに入っていた。

 

 

『早くも第3コーナーの下り! スペシャルウィークは外を通って上がって来るが、この手ごたえはどうなんだ!?』

 

 

 ──後ろからやって来るスペシャルウィークの気配を感じながらも、最後の直線に向かって前へと詰めていく。芦毛の彼女を捕まえるために。

 

 

『最後の直線! セイウンスカイ逃げ切るのか!? ハククラマ以来逃げ切り成るのか!?』

 

 

 ──でも、先頭に立つ彼女の背中はあまりにも遠くて。

 

 

『セイウンスカイ先頭だ! 逃げた逃げた逃げた! セイウンスカイが逃げた! エモシオンが2番手! 外を通って、外を通ってようやくスペシャルウィークが上がってきた! 内からキングヘイロー! しかしっ──』

 

 

 ──他のウマ娘と一緒に、外には私を追ってくるスペシャルウィーク。気づけば、私の前にいるウマ娘たちはあのデビュー前の模擬レースに出ていたウマ娘たちだった。

 

 ──スペシャルウィークの勢いは私よりも遥かに(まさ)っていて。でも、それでもセイウンスカイは捉えられそうになくて。

 

 

『──セイウンスカイの逃げ切り! 逃げ切った逃げ切ったセイウンスカイ!』

 

 

 ──3バ身半差の圧勝。その背中に届かなかった。スペシャルウィークも、私も。

 

 

 ──その背中が遠い。なんて、なんて、遠いのだろう。

 

 ──走っても、手を伸ばしても、何をしても届きそうになくて。縮まるような気さえしなくて。

 

 

『セイウンスカイ逃げ切った! まさに今日の京都レース場の上空と同じ──』

 

 

 ──5着に終わり見上げた空は澄み切った青空だった。

 

 

 

 

 ──私のクラシックが終わった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

「待って。トレーナーは……ここにいて」

 

 菊花賞後の控室には5着に負けて戻ってきたキングヘイローと俺がいた。彼女はスマホを取り出して、恨めしいとまではいかないがじいっと眉根を寄せてそれを見ていた。

 その様子を見た俺たちは控室を出ていこうとしたのだが、俺だけは彼女に引き留められた。カレンモエとペティは空気を読んだのかそのまま控室を出ていった。

 

「……いいのか?」

「ええ。あなたには聞いていてほしい」

 

 地下バ道で彼女を迎えたが、泣くわけでもなく、悔しがるわけでもなく感情を露わにしなかった。だが、呆然としているわけでもなく、絶望しているようでもなく、感情が読めなかった。

 

「…………ふぅ……」

 

 キングヘイローは大きく息をついたあと、スマホを操作し始めた。

 控え室の壁にもたれて腕を組んだ俺はそんな彼女をただ見ていた。

 

 スマホの上で滑らせていた彼女の指が止まると、コール音が鳴り始めた。薄々分かっていたことだが、彼女は誰かに電話をかけているらしい。

 ……このタイミングで電話を掛ける相手といえば彼女しかいないだろう。

 

 

『……もしもし、キング?』

「ごきげんよう、お母さま」

 

 お母さま……グッバイヘイローの声がスマホから聞こえてきた。

 

『あなたから電話をかけてくるなんて、どういう風の吹き回しかしら?』

「別にいいでしょう? 私からかけてはいけないなんて決まりはないんだもの」

『……それはそうね。で、何の用かしら?』

「菊花賞、どうせお母さまは見ていたんでしょう?」

『ええ。見ていたわよ。セイウンスカイさん、素晴らしい走りだったわ。計算しつくされたペースコントロールと、それを叶えるだけの頭脳と競争能力……二冠ウマ娘に相応しいわね』

 

 前に聞いたとき……デビュー前のトレーナー室で電話がかかってきたときと同じように、グッバイヘイローは勝った相手のことを褒めていた。

 

『あなたは5着だったかしら?』

「……ええ、そうよ」

『そう。このタイミングで、あなたから電話をかけてくるってことは、ようやく決心がついたのかしら?』

 

 グッバイヘイローはそのスタンスを崩さない。

 

『もういいでしょう、キング。トゥインクルシリーズは諦めて帰ってきなさい。今度こそ分かったでしょう……才能の差、というものを』

「…………」

 

 押し黙るキングヘイロー。無言の時間が控室に流れていた。

 

『……今日も(だんま)り。ならなぜ電話を──』

「お母さま。今日は話したいことがあるの」

 

 グッバイヘイローの声を遮って、キングヘイローはそう言い切った。

 

『何かしら、話したいことって』

「……私のことよ。あなたの娘の、キングヘイローってウマ娘のこと」

『…………何を』

「私がこのトゥインクルシリーズを走ってきて、思ってること、感じてきたこと。それを話すわ」

『それを私が聞いて一体何になると言うの? どうせ学園は辞めないと──』

「いいから聞いて」

『……』

 

 キングヘイローの有無を言わせない口調に押されてかグッバイヘイローは黙った。

 話してみろ聞いてやる、ということなのだろう。

 

「私は自分が一流のウマ娘だって証明するためにトレセン学園に入ったわ。そして……反対して、帰って来いって言うお母さまに私を認めてもらうために」

『! …………』

「そのために私は三冠ウマ娘を目指した。私はそれができると思ってたわ。お母さまは才能がないと言っていたけれど、私はそうは思わなかったの。走りの才能はあると思ってたし、そのためにできることは何でもすると決意して、その通りに妥協せず全力で努力してきた。私の才能に努力が加われば、絶対に成し遂げられるって。……スペシャルウィークさんにも、スカイさんにも勝てるって信じていたわ」

『…………』

 

 語られ始めた娘の言葉を、母親は黙って聞いている。

 

「ホープフルは負けたけど、ジュニア級は順調だったわ。おかけでクラシック路線では三強の一人なんて言われて。でも、弥生賞で差を付けられて負けて……実を言うと、()()()()()()()()()の。それに弥生賞後のお母さまの電話で、私は三冠ウマ娘になることが一流のウマ娘を証明するのかどうか分からなくなったわ」

『……』

「そのことは分からないままだったけど、先輩の助けもあって一流のことは引きずらずに済んだの。そしてクラシック一冠目の皐月賞、私は負けた。三冠ウマ娘の夢は叶えられなくなった。……本当に悔しかったわ。でも同時に手ごたえもあった。スペシャルウィークさんの走りには驚かされたけど、彼女には勝ったし、弥生賞でつけられた差は縮んだように思えたから」 

 

 聞いていると自然と皐月賞の後、控室で泣いていた彼女が思い起こされた……あの時の俺の感情も一緒に。

 

「でもダービーはちぐはぐな走りで大敗。夏を越しての神戸新聞杯も普通に負けて、京都新聞杯は120%の力を出したのにスペシャルウィークさんに負けた。もう三強なんて呼ばれなくなって…………ああ……そうね、私はもう()()()()()()()()()()。走る理由も分からなくなって、でも友人が走る理由をくれて……まだ私のことを三強の一人だって言ってくれて……そして今日の菊花賞で──」

 

 キングヘイローが語る自身の歩みは今日へとたどり着いた。

 俺はただ彼女の言葉を待った。

 

「5着に負けたわ。三冠ウマ娘を標榜して臨んで、一冠も取れずに私のクラシックは終わった。GⅠを取るどころか、あのジュニア級の東スポ杯以来、勝つことさえできなかった。ホープフルから数えて7連敗。……ねえ、お母さま」

『…………なにかしら』

「お母さまは嘲笑(わら)うかしら? ……っ……言った通りでしょうって……無様ねって……醜態を晒して情けないわねって……っ……」

『……………………』

 

 少しずつ詰まり始めたキングヘイローの問いかけに、グッバイヘイローは答えない。

 

「お母さま…………私は、ね……っ…………」

『……』

 

 キングヘイローは堪えながら、言葉を絞り出してそれを口にした。

 

 

 

 

 

「──悔しいわ。どうしようなく、悔しいの……っ……」

 

 

 

 

 

 

 彼女の頬には光るものが伝っていた。

 

『…………そう』

 

 グッバイヘイローの声色は変わらない。涙声に濡れた娘の声を聞いてどんな感情が揺れ動いているのか、それとも揺れ動いていないのか、それは俺には分からない。

 

「分からないの。私が勝って一流のウマ娘だって証明したかった…………っ、でもっ、できなかった。満足に勝つことさえできない……こんなっ…………くっ…………こんな結果にたどり着いてしまった」

『…………』

「今日、()()()()()()()の…………ううん、理解したの……っ…………私は弱いんだって。縮めるどころか、差は広がるばかりで……。私はっ、スペシャルウィークさんやスカイさんに比べて劣っているんだって」

『………………

 

 ……僅かだが、グッバイヘイローの息遣いが聞こえてきた気がする。

 

 キングヘイローは涙を流しているものの、少し持ち直していた。

 

「走りでは劣ってるってことを……埋められない差があるってことを、何より私自身が実際のレースでそれを感じてた。……認めたく、なかったわ。ただの杞憂、気が弱くなってるだけだって思いたかった。だから勝てば……結果で示せば、菊花賞で勝てば全てひっくり返せると思っていた。でも、できなかった…………」

『…………』

「お母さまに言われた、一流のウマ娘の意味…………それも結局、分からないまま…………走って負けて、自分が目指す一流のウマ娘の正体も分からないままで…………私は──」

『……もういいのよ、キング』

 

 キングヘイローはメンタルが強靭なわけじゃない。一方で何も感じないわけでもない。

 負けて、普通に傷ついている。他のウマ娘と同じ……普通のウマ娘なんだ。

 

 ……口を挟んだグッバイヘイローの声色は少し柔らかくなったような気がした。

 

『十分やったでしょう。うちに帰ってきなさい。もうレースなんて走らなくていいの。あんな残酷な世界であなたは──』

「嫌よ。私は走るわ」

『──え』

 

 キングヘイローは明瞭にきっぱりとそれを否定した。彼女の目はまだ潤んでいるものの、強い意志が光っていた。

 逆に不意を突かれたような声はグッバイヘイロー。

 

「負けて悔しいって、一流が何か分からないって言ったけど、私は諦めるなんて一言も言ってないわ」

『……キング』

「自分の現状は分かっているの。私は……お母さまや──キタサンブラックのような、ウマ娘じゃないってこと」

 

 キタサンブラックと口にしたときに、キングヘイローは俺に視線を寄こした。

 

「正直それは受け入れたくないし、認めたくないわよ。でも現時点で、スペシャルウィークさんやスカイさんに比べて私が劣ってるのは事実なの。だけれど、それが走ることをやめる理由にはならないでしょう? それに今は劣っているのだとしても、この先は分からない。…………もしかしたら、また次も負けるかもしれない、その次も負けるかもしれない。でもその次は? その次の次は? 第一、彼女たちに勝つことが全てか…………あ!」

 

 彼女は何か思いついたように声を上げた。何かを発見したような、そんな様子だった。

 

「今、喋っていたら気づいたことがあったわ」

『…………』

「一流のウマ娘についてよ。彼女たちに勝つことが一流なのかしら? 負けたらもう一流だって証明できないのかしら? そもそも、勝つってどういうことなの? GⅠで勝つってこと? GⅡで……あの弥生賞や京都新聞杯で勝っていれば私はGⅠを勝てなくても一流だったのかしら?」

『話の脈絡がないわね。あなたは一体何を喋ってるの? ただ疑問を羅列しているだけじゃない』

「私だって分からないのだから仕方ないでしょう?」

『……減らない口』

「今お母さま相手に喋っていて、見えてきたことがあるわ。私の目的は彼女たちに勝つことじゃない。それはあくまで一流を証明するための手段として私が考えていたことだったのよ!」

 

 彼女の頬を伝うものはもう何も無かった。その声には力強さが戻っていた。

 

「私が走る目的、理由、意味はキングヘイローが一流のウマ娘だって証明すること。そして何よりも大前提として、一流のウマ娘とは(キング)が定義するものよ。だって私が証明するんだから。その一流のウマ娘が何かというのも、証明できるかできないかも、決めるのは誰でもない私なのよ……!」

『何を言うかと思えば……結局、何も分かってないってことじゃない』

「だから私も分からないって言ってるでしょう? ……そう、分からないのよ。だから……」

『……だから?』

「そうよ! それを探すために走るのよ! 私は走り続けることで一流のウマ娘が何かを探して、そして証明する。ただ見つかるのを待ってるんじゃない、走ることで見つけていくの。私が、私だけの一流のウマ娘を見つけていくのよ!」

『……はあ……』

 

 グッバイヘイローがため息をつく理由も分かる。

 確かにキングヘイローの言うことはまとまっていないし要領を得ていない。ただ彼女は頭の中で繋がりつつある自分の在り方について、頭の中に浮かんだことを未整理のまま口にしているだけだ。

 しかし今この瞬間も彼女は必至に自分の在り方を探している。その糸口を探そうと必死になっている。

 

『もういいかしら? ……まったく、自分から電話をかけてきたと思ったら……』

「……お母さま」

『なに? 私も暇ではないの。あなたの支離滅裂な戯言に付き合うのは──』

「これで最後よ。私のレースを、私の走る姿を見てなさい。……それだけよ」

『……はあ。ほんとうに、バカな娘』

 

 そうして電話は切れた。

 

「なによバカって! トレーナーといいお母さまといい! バカバカ言い過ぎなのよ!」

「俺もかよ。……おっと、ライブあるんだから準備しとけよ。バックダンサーでもライブはライブだ」

「えっ? あっ! もうこんな時間じゃない! トレーナー、ペティさんとモエさん呼んでくる権利をあげるわ。2人には私の準備を手伝う権利をあげるって言っておいて」

「呼んできてはやるが2人にはお前が言えバカ」

「バっ!? あなたねえ~! センターの3人を食ってやる一流のダンスを披露してあげるから、しっかりキングのこと見てなさい!」

「はいはい。言われなくてもちゃんと見ててやるよ」

 

 俺は2人を呼ぶためにさっさと控室を出ていった。どうせライブ用の服に着替えるのに出ていかなけりゃならないし。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ──駆け抜けたクラシック。思い描いた未来予想図のようにはいかなかった。悔しい思い出ばかりが心に残っていて。

 

 ──一流のウマ娘が何なのかなんて分からなくて……つまるところ、私は分からないことばかりだ。

 

 ──でもこんなに悔しくて、悔しくて、悔しくて堪らないから、分からないことばかりだから、私はまた走り出せる。いや、走らなければならない。

 

 

 ──私はまだ走り出したばかりだ。

 

 



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追想2 変わらないもの

 実は、好きなものはたいていひと目惚れだ。

 

 

 例えばダイヤちゃん……サトノダイヤモンドと小さい頃に初めて会ったとき、幼いながらに“この娘とはずっと仲良くできる気がする”って、直感めいたものがあった。そしてその通りに、彼女はかけがえのない親友になった。

 

 ひと目惚れとは違うけど、例えば先生……清島に声をかけられたとき、『面構えがいい』なんて言われてびっくりした。でも、この人なら自分を任せてもいいって、そう思えた。そして彼とともにあたしはGⅠを7勝した。

 

 

 でもあの人……坂川健幸と会ったとき、実を言えば特に何も思わなかった。サトノダイヤモンドや清島に感じたような直感は訪れなかった。

 

 彼と初めて会ったのはチームアルファーグに入ったときに行われたチーム全体の顔合わせだった。あたしは新しくチームに加わったジュニア級のウマ娘の一人として、彼はサブトレーナーの一人として自己紹介をした。他のサブトレーナーに比べて若い人だなって印象が残ったぐらいだった。

 後から聞いた話になるけど、難関のトレーナー試験をあたしとそう変わらない歳で合格した人って聞いて、凄い人なんだな、頭がいい人なんだな、期待されてるんだなって思ったことを覚えていた。

 

 彼があたしの担当になるまでは、そんな程度の印象しかなかった。

 

 

 彼が担当になると紹介されたあの日も、彼がトレーナーだからと言うより、専属のトレーナーがつくことへの嬉しさの方が勝っていた。

 

 こんな風に思っていたなんて、彼が知ったら幻滅するかな? 

 

 

 でももうそんなのどうだっていい。

 

 幻滅される機会なんて、もう訪れないのだから。

 

 

 

 彼とあたしはもう────

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「これって……」

 

 清島から渡された紙袋を開けて中身を取り出すと、十数冊のノートが姿を現した。

 あたしはこれが何か知っている。だって、あの人がその手に毎日持っていたものだから。

 

「トレーナーさんのノート……だよね」

 

 その表紙には油性マジックで簡潔に“記録ノート”と書かれており、下の方には“坂川健幸”と持ち主の名前が記してあった。それぞれナンバーが振ってあった。

 

 トレーニングの時以外でも、彼がこのノートに何かを書き込んでいる姿を度々見かけた。その中身を見せてもらったことがなかったので、何が書いてあるかまでは知らなかった。記録ノートというのだから、あたしのトレーニングについて書かれているのだろうけど……

 

「先生は……これを……」

 

 これを清島が持っているということは坂川から渡されたということだろう。でもそれ自体は問題じゃないし不思議じゃない。

 問題なのは、なぜ清島がこれを私に見せるのかということ。

 

「あたしが見るべきもの……」

 

 そう清島は言っていた。この中に、あたしが見ておくべきものが記されているのだろうか? これからのトレーニングで必要なものが描かれているとか? 彼は必要ないなら処分すると言っていたから、一応あたしに話を通したとか? 

 ……なんて、色々考えていても見ないことには答えは出ない。

 

 “No.1”と記された一番上のノートを手に取った。これがたぶん、二十冊近くある中の最初の一冊。

 

「…………」

 

 それを開こうとする手が止まった。理由は分からない。

 でも気を取り直して開いた。

 

 開いたそこには坂川が専属トレーナーだと告げられた日付が記されていた。

 1ページ目からはあたしの身長や体重など基本的なプロフィールが載せてあり、そこから予定しているトレーニングメニューが書き記されていた。どうやらこのノートはあたしを担当してから作られたものらしい。

 

 パラパラと捲っていくと、毎日のトレーニングの記録が記されていた。行われたトレーニングの効果と評価が記載されており、他には身体作りの計画や見通しも立てていたようだった。

 清島から聞いたものと思われる助言もあちこちに書かれており、それで毎回のトレーニングに試行錯誤する様子が読み取れた。実際にあたしがやらなかったメニューも多く書かれていた。

 

「先生が見せたかったのって、これ……?」

 

 確かにあたしが今までに経験のないメニューが載せられており、加えて根拠となった理論や論文のタイトルも一緒に記されていた。

 これを見て勉強しろってことなのかな? 

 

 でも、それならそう言えばいいだけじゃないだろうか。

 

「あんな回りくどい言い方しなくても……」

 

 そう口にしながら流し読みしていく。一冊目を読み終え、二冊目でも同じように読んでいく。ここまで来るとノートを書くフォーマットも安定してきているようでかなり読みやすくなってきた。一応気になったメニューやあたしの身体や筋肉についての記載があればスマホにメモだけしていた。

 

 ほとんど手を止めることなくノートを読み進めていく。トレーニング以外にも、清島や他のサブトレからのアドバイスと思われるものもメモ書きのように残されていた。

 

 

「……!」

 

 

 あるページで手が止まった。その日付はジュニア級の夏合宿が明けた9月の某日。

 ……覚えている。メイクデビューの予定を先延ばしにすると伝えられたあの日だ。

 

 前のページにあったあたしの身体の変化や運動器専門の施設の人と相談した内容を踏まえて、そこにはメイクデビューを先延ばしにする理由が詳細に書かれていた。あたしもはっきりと覚えてはいないけど、その時に言われたこととここに書いてあることは同じだったと思う。

 でも一番目についたのはその箇所ではなかった。それは文章の最後の方に記されていて──

 

 “キタサンを勝たせてやりたい。でも、目の前の勝利だけにとらわれすぎてはいけない。勇気や笑顔をあげられるって夢を──”

 

「──っ!」

 

 と、そこまで読んで思わず目を逸らしてしまった。

 

 ……あまりにも鮮やかな光を放っていたから。

 

 

 

「……トレーナーさん…………」

 

 

 

 

 “──叶えさせてあげたい”

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 これは坂川の心の中……なのだろうか。

 

 

 

 

 改めてその文に目を落とすと、あたしを勝たせてやりたいってことと、あたしの夢を叶えさせたいってことが書いてあった。

 以前の彼はこういうことを稀に口にしてくれることがあった。そう言っていたことが彼の本心だと分かって嬉しくなった。

 

「……でも……」

 

 あたしのことを想ってくれていた彼がどうしてドーピングなんて行為に繋がっていくんだろう? 

 ……もし今みたいに彼の気持ちがこのノートに書かれているのなら、あの日へと至る彼の心の移り変わりを知ることができるのだろうか。

 

 

「…………怖いよ……」

 

 

 彼の気持ちがどんな風に変わっていくのか。あたしに対してどう思うようになっていったのか。

 それを知るのが怖かった。ひどいことが書いてあるんじゃないかって考えてしまった。

 

「……でも……」

 

 知りたい気持ちに嘘はつけなかった。

 あたしは再びノートを捲り始めた。

 

 

 身体作りの日々を経て、年が明けてのメイクデビューについての記載にたどり着いた。レース自体の評価や分析に加えて、またもそこには添えるように彼の気持ちのようなものがノートの端に書かれていた。

 

 “無事勝たせることができてほっとした。キタサンの笑顔を見るとこっちも嬉しくなる。正月に神社でお願いしたのが……いや、これはキタサンの頑張りの結果だ”

 

 それを読んで自然と2人で行った初詣を思い出した。あれからまだ1年ぐらいしか経っていないのに遠い昔のように思えた。

 

 その後も読み進めるノートのあちらこちらで“キタサンを勝たせてやりたい”とか“勝ったキタサンの笑顔が見たい”とか書かれているのを見ると少し照れくさくなった。

 

 

 ほどなくして府中での1勝クラス、そしてスプリングステークスへとノートは続いていった。

 

「あ……これ……」

 

 スプリングステークスの後にあたしが悩んでいる様子を彼が気にしていることが書かれていた。

 確かにあたしはあのレースの後、思ったような盛り上がりにならなくて少し落ち込んでいた。でも彼に励ましてもらって元気を貰って前向きになれた。あたしの走りが好きだって言ってもらえて嬉しかったし、少し恥ずかしくてこそばゆかった。

 

 そして締めには──

 

 “皐月賞、絶対に勝利を目指す。キタサンの夢を叶えてあげるために”

 

 ──と書かれていた。

 

「…………」

 

 皐月賞でキタサンブラックがどうなったのか、他でもない自分自身が一番よく知っている。

 

 

 皐月賞敗戦後のノートに書き記された“ダービーこそは必ず勝たせる”という言葉に胸が痛んだ。結局はそれも叶わず、皐月賞に続いてダービーでも彼の期待を裏切ってしまうことになるのだから。

 

 皐月賞以降も読み進めていく。気づけばスマホへメモはしなくなっていた。

 これまでよりも1ページ1ページの密度が上がっていた。トレーニングの評価や考察などの文章の量が以前よりも多い。それに付属して参考にされた論文のタイトルがあちこちに書かれていた。あたしが知らない単語や意味に加え、英語のものも多くあって、全ては理解できていない。

 でも彼がダービーのために更に頑張ってくれていることは痛いほど伝わってきた。

 

 ダービーの直前まで読み進めても、彼は“キタサンの夢を──”とか“勝って笑ってくれたら──”とか、瑞々しいまでの彼の思いが書かれていた。

 

「ダービー……」

 

 捲ったページのノートの日付は5月の下旬。つまりもうすぐあのダービー……あたしがみんなの期待を裏切って14着に敗れてしまったあのレースを迎えることになる。

 あの日のことは今でも覚えている。ゴールラインを越えた瞬間、何が起こったのか分からなかった。絶対にダービーウマ娘になると誓って頑張ってきたのに、勝つどころか二桁着順に敗れた現実を受け入れられなかった。負けてから控え室に戻るまでボーっとしていて、気づけば坂川や清島、サトノダイヤモンドやチームのみんなが部屋の中にいて、泣くあたしを慰めてくれた。

 

 ダービー後のノートには敗北した理由についての考察が書かれてた。その日だけにとどまらず、何日かに渡って彼はずっと敗因について考えていたようだ。そして出された彼の結論は“距離適性”だった。2400mはあたしにとって長すぎる可能性が高いと。

 

「この頃から、トレーナーさんは……」

 

 あたしが距離適性のことについて伝えられたのはセントライト記念のあとだ。だからその4ヶ月ほど前から彼はそう考えていたことになる。

 初めてそれを彼に伝えられたとき、はっきり言ってショックだった。何の迷いもなく菊花賞に行くのだと思っていて、立ち直らせてくれた友達との約束もあったから。最後の一冠こそはと思ってトレーニングしていたから。

 でも天皇賞秋を選ぶ理由を一生懸命説明してくれている彼を見て、あたしは頷いてしまった。難しいこともあったので彼の言うことを全て理解できたとは思わないけど、だからって間違っているとも思えなかったから。

 

 そして何よりも、ずっとあたしを支え続けてくれていた彼の言うことだったから。

 

 ダービー後のノートは更に書き込みの量が増えていた。余白を嫌うかのようにページにびっちりと文字が並んでいた。距離適性については2400mは長すぎるという結論が出た後も、色々な論文や学会での資料を基に何度も何度も再考しているようだった。それだけ彼にとっても難しい……悩ましい判断だったんだと思う。

 それでも最終的に行きついたのは、あたしの適性は2000m前後という答えだった。

 

 

 ノートも夏を越えて秋になっていた。数ヶ月前の時のことを思い出すと、秋は特にトレーニングがハードになっていて、あたしたちの間の空気も良い意味で張り詰めていた。

 読み進めると、このハードなトレーニングについて彼の思うところもあったことが分かった。

 

 “最近のトレーニングの負荷はかなりのもので、キタサンもしんどそうだった。先生にも少し注意された。過負荷や怪我にはつながらないように絶対に注意しなければならない”

 “こんなトレーニングばかりやってたらキタサンに嫌われるだろか。関係性が悪くなることだけは避けたいが……キタサンが勝てるなら、俺は別に嫌われたって……”

 

 ……彼も悩んでいたようだ。

 あたしはそんなことで嫌ったりはしないのに。彼があたしのために頑張ってくれてたこと、ちゃんと分かってるのに──

 

「……え?」

 

 そう思って妙な引っかかりを覚えた。

 

「……?」

 

 少し考えてもその違和感は消えなかった。そんな胸のもやもやを紛らわすようにページを再び捲り始めた。

 

 

 セントライト記念を終え、ノートには天皇賞秋の勝利を目指す日々が書かれていた。相変わらず物凄い書き込みの量だった。……彼が天皇賞秋にどれだけ懸けていたのかがひしひしと伝わってくる。

 読み進めるとあの日が……ドーピングされたあの日が段々と近づいてきていた。

 

 いつの間にか手に取ったノートは最後のものになっていた。そしてドーピングされた前日にたどり着いた。トレーニングであたしがタイムを出せない不調な日々が続いて、その原因として色々なことを考えていたようだった。

 

 “高負荷のトレーニングによる疲労の蓄積。身体の変化”

 “不適切なトレーニングメニュー”

 “メンタルの問題。モチベーションの低下”

 “成長の停滞。早熟の可能性”

 “才能(ポテンシャル)の限界。能力(パフォーマンス)の限界”

 

 いくつか挙げられたその項目に、ひとつひとつ彼の見解や考察が書かれてた。こういうことは今まで直接言われたことが無かったので、未知のものを見るような怖さがありながらも読むことを止められなかった。

 

 3番目の項目……メンタルについての記載で、あたしが悩んでいることについて彼が気づいていることが分かった。気づかれないようにしていたつもりだったけど、やっぱり彼にはバレていたようだった。

 彼の見立て通り、あたしはずっと菊花賞に出たかった。だからトレーニングのタイムが良化した……おそらくそれはドーピングのおかげだったんだろうけど、あの日に彼に菊花賞に出たいと伝えた。タイムを出してあたしの力が成長してるってアピールできれば、彼も認めてくれるって思ったからだ。

 ……でも、そうはいかなかった。そう言ったあたしに彼は手を振り上げて────

 

「っ!」

 

 頬に伸ばしそうだった手を引っ込めた。思い出しそうになったその時の記憶を振り払い、ノートの次の項目へ進んだ。

 

 その下の“成長の停滞。早熟の可能性”と“才能(ポテンシャル)の限界。能力(パフォーマンス)の限界”はまとめて書いてあった。タイトルには下線が引かれて目立つようにしてあり、パッと見たところ内容はこれまでの3つの項目のどれよりも多い文章量だった。

 

「停滞……早熟……限界……」

 

 あまり良いイメージのない単語が並んでいた。これまでで一番読むのが怖い。

 しかし、意を決してそれを読み始めた。

 

「……あ…………」

 

 そこにはあたしのウマ娘としての能力や成長曲線の予想から、天皇賞秋が最後のGⅠを取る機会になるかもしれないという彼の予想が書かれていた。あたしだけのデータだけじゃなく、これまでの歴代の他のウマ娘のことも参考にしていたようだった。肯定する材料と否定する材料を比較して思考を繰り返していたようだ。

 この文章量といつもより少し乱れた字から、彼の痛々しいまでの苦悩がこの文章から伝わってきた。

 

「……トレーナーさん、ここまで…………」

 

 文章の最後にはこれまでのように彼の気持ちが書かれていた。

 

 “行き詰っているのは確か。どうしたらいいのか、何が正解なのか分からない。既にピークを迎えていて、今は衰えに入ってしまっている可能性を考えると…………絶対に失敗できない。正解を見つけ出すしかない”

 

「……」

 

 そして締めに、一番最後に書かれていたのは──

 

 

 

 

 

 “キタサンの夢を叶えさせたい。何より、キタサンに喜んでほしい。心の底から笑ってほしい。自分がトゥインクルシリーズの主役なんだって、自分は凄いウマ娘なんだって、そう自分を認めさせてやりたい”

 

 

 

 

 

「──え?」

 

 

 思わずページを捲った。その先は白紙で何も書かれていなかった。今の記述が彼のノートのゴールだった。

 

 

「────え?」

 

 

 このノートを読むにあたっての、あたしのさっきまでの気持ちを思い出す。

 

 

 

 ──彼の気持ちがどんな風に変わっていくのか。あたしに対してどう思うようになっていったのか。

 ──それを知るのが怖かった。ひどいことが書いてあるんじゃないかって考えてしまった。

 

 

 

「…………あ……え……?」

 

 

 

 

 

 はたしてそれは書いてあっただろうか? 

 

 

 

 

 

 ──『俺はお前のことを大切になんて思ってなかったんだよ。だからお前をぶって、ドーピングさせたんだ』

 

 ──キタサンの夢を叶えさせたい。何より、キタサンに喜んでほしい。心の底から笑ってほしい。

 

 

 

 

 今のあたしが思う彼に対しての人物像と、目の前のノートが示す彼の人物像が決定的に乖離していた。

 

 

 

 

「……トレーナーさん…………え……あれ…………?」

 

 

 

 

 彼の思いは変わっていただろうか?

 

 

 

 




例によって続きとなる追想3はまたしばらく先になります


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第54話 新顔

当作品はイクイノックス号(父キタサンブラック母父キングヘイロー)を全力で応援しています(10話ぶり5回目)

大外からごぼう抜きとか強スギィ!


 年が明けた2月1週目の日曜日の東京レース場。

 今まさに東京新聞杯(GⅢ)のゲートが開こうとしていた。6枠11番にキングヘイローの姿があった。

 

『これも収まります…………スタートしました! ほぼ揃いました。内から2番人気ケイワンバイキングが出てまいります。キングヘイローも先行してまいりました!』

 

 シニア級を対象とした府中でのマイル重賞、東京新聞杯。キングヘイローは1番人気でレースを迎えていた。

 メイクデビュー以来となる1600mのレースとなった彼女はスタートを難なく決めた。勢いに任せれば先頭に立って逃げれそうなぐらいの勢いではあったが、主張してくるウマ娘3人を先に行かして2番手集団の外側でレースを進め始めた。

 位置取りとしては問題ない。

 

 先頭の3人から3バ身ほど離された2番手集団で向こう正面から第3コーナーへ入っていった。

 

『欅を越えて800mの標識を通過しました。先頭から3バ身ほど開いてマウンテンストーン、その外にキングヘイローが追走しています。現在4番手の外!』

 

 先頭集団は第4コーナーを回って残り600mのハロン棒を通過して直線に入っていった。

 その後ろで、キングヘイローはじわじわと差を詰めながらコーナーを回り直線を向く。

 

 ……手ごたえは良い。これなら──

 

『直線に向いてさあ先頭はケイワンバイキング体半分のリード! マイネルマックスが2番手で400mを通過! そしてその外をついてはキングヘイローが上がってきたっ!』

 

 先頭の3人の外に持ち出したキングヘイローはあっという間に2番手のウマ娘までを交わした。他のウマ娘とは手ごたえが違っていた。

 

 残り200mを過ぎ、抜け出た先頭のケイワンバイキングを狙って更にキングヘイローは加速し続ける。

 

『ケイワンバイキング2バ身ほどのリード! しかし外からキングヘイロー並んできたっ!』

 

 キングヘイローは並んだその勢いのまま抜き去っていった。完全に先頭に抜け出た彼女は1バ身、2バ身と差を広げていく。

 その光景を見て俺の周りにいる俺のチームの連中も色めき立ち、彼女たちの応援する声も一層大きくなっていた。

 

『キングヘイロー2バ身のリード! 後ろからシンボリフェザー、ロードアックスも差を詰めてくるが──』

 

 ゴール前、後方で接戦となる2、3着争いを尻目にキングヘイローは3バ身とその差を広げてゴールラインを駆け抜けていった。

 

『キングヘイローが1着でゴールインッ!!! 2番手はケイワンバイキング残したかっ!?』

 

 GⅠほどではないにしても、背後のスタンドの観客からは歓声が上がって彼女の勝利を称えていた。もちろん、俺のチームの4()()()()()()たちも。

 俺は小さく拳を握っていた。

 

『キングヘイローです! 久々の勝利となります! 一昨年の東京スポーツ杯ジュニアステークス以来、またこの東京で重賞を勝ちましたっ!』

 

 一方、キングヘイローは派手にガッツポーズをするわけでもなく、負けた時と同じように淡々とした様子でウィナーズサークルへ向かっていた。

 

 

 ◇

 

 

 ウイナーズサークルから戻ってきたキングヘイローと合流した俺は、設置されたインタビュースペースのバックパネルの前で記者たちを相手にしていた。勝利者インタビューというやつだ。

 某テレビ局の男性アナウンサーのインタビューはレースの振り返りから始まり、今はテンプレ的な勝利の感触について触れていた。

 

「キングヘイローさん。改めてにはなりますが、1年と3ヶ月ぶりの勝利となりました。今のお気持ちはいかがですか?」

「嬉しいです」

 

 あくまで淡々とキングヘイローは答えていた。

 

「前走の有馬記念から距離短縮となるマイル戦となりました。その意図は?」

「トレーナーとも相談して、今の私に合うレース選択をしました」

 

 アナウンサーはマイクを俺に向けた。

 

「坂川トレーナー、キングヘイローさんと相談されて東京新聞杯を選ばれたようですが、どのような思惑があったのでしょうか?」

 

 色々分析してこのレースを選んではいたのだが、馬鹿正直に答えるには時間もないし必要もない。当たり障りなく答えることにした。

 

「菊花賞、有馬記念と長い距離で負けが続いていましたから。彼女が言ったように、一度マイルを試してみるのも良いと思い出走を決めました。無事結果が出たのでほっとしています」

「このあとの出走予定など聞かせていただけますか?」

「まだ何も決まってはいませんが、3月か4月のレースに出る予定です」

「3月か4月……GⅠとなると、大阪杯でしょうか?」

「かもしれませんね」

「マイルとなると5月にヴィクトリアマイル、6月に安田記念がありますが」

「選択肢のひとつですね」

「なるほど…………以上、勝利者インタビューでした。キングヘイローさん、坂川トレーナー、ありがとうございました」

 

 

 2人で軽く頭を下げてからその場から離れ、控え室へ向かった。

 その道中の廊下でキングヘイローが口を開いた。

 

「……大阪杯に行くの?」

「今のところ行く予定はねえな。前に話して決めただろ。あくまで上半期の大目標は安田記念だ」

 

 公の場ではああ言ったものの、大阪杯は今のところ出走予定には入っていなかった。

 

「だから次走もマイル前後……3月のマイラーズカップか中日新聞杯、中山記念あたりだな。お前がどうしても大阪杯に出たいって言うなら話は別だが」

「…………」

「なんだよ」

「……はあ。大阪杯に行くかもってさっき言ったから少し驚いただけよ。隠すことなんてないじゃない。はっきりと安田記念が目標だって言えば良かったでしょう? 一流らしく、堂々としていればいいのよ」

「俺たちに得があるならそうするが、言ったところで得なんてねえしな。お前が言いたかったら別に言っていいぞ」

「なら次走の後に宣言するわ」

 

 そう言った彼女に対し、さっきから気になっていることを尋ねた。

 

「勝ったにしては落ち着いてるな。どうかしたのか?」

 

 彼女はレース後からあまりにも淡々としていて不気味なぐらい静かだったのだ。メイクデビューから始まり東スポ杯の時も、当時の彼女はしっかりと喜んでいた。

 

「何もないわよ。久々に勝ったんだもの……しかも重賞。嬉しいわ。ただ──」

 

 キングヘイローは俺から目線を外して前方を見据えてその続きを口にした。

 

「我慢できるなら、負かした相手の前で喜ぶのは…………って、思うようになっただけよ」

 

 これまでの経験で、彼女の考え方が変わってきたのかもしれない。

 

 

 

 なんてことを話しているうちにキングヘイローの控室にたどり着いた。中からはウチのウマ娘たちの話し声が聞こえていた。

 キングヘイローが扉を開けて中に入ると4人のウマ娘の姿があった。

 

「キングお疲れ様です! 先行して上がり最速タイ。ラップ的にも優秀です。文句なしの勝利でしたね。おめでとございます!」

「……おめでとう」

「ありがとう。ペティさん、モエさん」

 

 真っ先に声を掛けてきたのは見慣れた2人。

 

「キング! あなたほんとうに凄いわっ! 圧倒的だったじゃない!」

「ありがとう。ダイアナさん」

 

 キングヘイローに駆け寄って抱きついたのは新顔のウマ娘の1人だ。

 キングヘイローがダイアナと呼んだウマ娘……去年の11月に俺のチームに入ってきた、今現在クラシック級のウマ娘ダイアナヘイローだ。サイドと前髪をふんわりと流してセットしたショートボブの黒鹿毛で、黒地に黄色のラインが一本入ったメンコを左耳にだけ着けているウマ娘だ。

 彼女がウチのチームに入ってきた経緯だが……端的に言うとキングヘイローに運命的な何かを感じたかららしい。

 

「……」

「キングどうしたの? キングって勝った後はクールに決めるタイプなのかしら?」

「…………ふふっ──」

 

 キングヘイローは小さく笑ったかと思うと、堰を切ったようにいつもの高笑い声が上がった。

 

「おーっほっほっほ! ダイアナさん、キングの完璧な走りをその眼に焼き付けたかしら!?」

「へっ? ええ、もちろんよ! 素晴らしい走り、一流の走りだったわ!」

「ええ、ええ! そうでしょう! ダイアナさん、あなたにはキングと一緒に笑う権利をあげるわ! 行くわよっ」

 

「「おーっほっほっほ!」」

 

 2人しての高笑いが控室に響いた。

 

 あれだけ頑張っていたのにクラシック級は悔しい敗北の連続だったから彼女も喜びもひとしおだろう。

 勝って喜びを爆発させているキングヘイロー見ているとこっちも嬉しくなる。

 

 そして俺は残るもう一人の新顔に視線を移した。キングヘイローに声を掛けるタイミングを見計らっているのか、遠目からその様子を見ているようだった。

 俺は()()()()()()()()()彼女に話しかけた。と言うのも、彼女にはこの2日間で課した課題があったので、その進捗を尋ねるためだった。

 

「スズカ、どうだ。課題の方はうまくできそうか?」

「トレーナーさん……はい。メモは取ったんですけれど……」

 

 自信無さげに返事をしたのはサイレンススズカその人だった。去年の宝塚記念を勝ってGⅠウマ娘になり、毎日王冠でアルファーグのエルコンドルパサーとグラスワンダーを退け、そしてあの天皇賞秋で────

 

 彼女は車椅子から俺を不安そうに見上げた。

 

「ですけど、何だ?」

「いえ、ちゃんとできるか不安で……」

「最初からなんて誰もできねえよ。つーかできるならこんなことやる意味ねえからな。できないからやるんだ。お前なりの考えや言葉でいいから。期限は設けねえが、来週も同じことやってもらうぞ」

「は、はい……頑張ります……!」

「12Rももうすぐ始まるから、時間を見てスタンドに行くか」

 

 俺がサイレンススズカに課している課題とは、土日の中央のレースを全て見た上で勝ちウマ娘の短評を書くというものだ。

 彼女は逃げで中央を席巻したウマ娘だが、話を聞いているとシリウスに移籍してからは走りたいように、思うままに走れと言われていたようで、作戦を立てたりやレースの分析はあまりしていなかったようだ。シリウスの前のチームではそのことを意識して色々勉強していたらしいが、移籍後に覚醒したことを考えると天崎の判断は正しかったのだろう。

 ……しかし、俺としては前のチームのトレーナーの気持ちの方が理解できる。おそらく、俺がサイレンススズカを最初に担当しても()()するだろう。

 

 サイレンススズカはチームシリウスの……天崎の所にいたウマ娘だ。彼女について俺と天崎の間に一悶着あった末にウチのチームに移籍することになったのだ。何があったかはまた後の機会に語るとしよう。

 

 思うところがある俺は、復帰に向けてのトレーニングに加え、このように座学的なこともサイレンススズカに叩き込んでいた。

 

「キングさん、おめでとうございます」

「ありがとうございますスズカさん!」

 

 高笑いが終わってダイアナヘイローから解放されたキングヘイローにサイレンススズカは話しかけていた。

 取りあえずは皆仲良くしているようで一安心した。

 

「俺は出るわ。キングはウイニングライブの準備忘れずにな。スズカは12R始まるまでにはスタンドに来いよ」

 

 俺はそう言い残してきゃっきゃと騒ぐ控え室をあとにした。

 

 

 

 

 センターで踊るキングヘイローは本当に嬉しそうで、輝いて見えた。

 

 

 

 

 シニア級2年のカレンモエとサイレンススズカ、シニア級1年のキングヘイロー、クラシック級のダイアナヘイロー、スタッフ研修課程のペティ。以上の5人がウチのチームのウマ娘だ。

 年末までに5人揃ったことから、去年に引き続き振り分けされたウマ娘がいない状態で俺は今年を迎えた。……振り分けられたウマ娘がいないというのも、何か不思議な感じがした。

 

 去年11月に初めての重賞京阪杯に挑戦し惜しくも2着に敗れ、次走は3月のオーシャンステークスに出走予定のカレンモエ。

 天皇賞秋で左脚を骨折し、紆余曲折ありウチのチームに移籍してきたサイレンススズカ。

 マイル路線を選び東京新聞杯を快勝し、上半期のマイル王決定戦GⅠ安田記念に照準を定めたキングヘイロー。

 1月のメイクデビューで勝利、エルフィンステークスで2着に敗れるが、3月のフィリーズレビューにて桜花賞優先出走権を狙うダイアナヘイロー。

 

 

 

 今年もまた新たな1年がスタートしていた。

 

 




ダイアナヘイローについては第37話で少しだけ描写してます


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第55話 Her fairy-tale ending

fairy-tale ending:直訳するとおとぎ話の終わり。意味合い的には大団円とかハッピーエンドって感じです


 私が勝利した東京新聞杯から約3ヶ月前……菊花賞が終わった頃へと遡り、そこから今に至るまでを振り返っていく。

 

 

 菊花賞が終わってからも様々なことがあった。

 順を追って整理をすると、11月の菊花賞が終わってから1週間も経たずにダイアナヘイローというジュニア級のウマ娘がチームに加入した。もっとも、彼女がチームに入った要因というのは私にあるのだけれど。

 どうも彼女は私に『運命的な何かを感じる』らしい。対する私も、初対面なのにどうも他人とは思えない何かを彼女に感じていた。妙な親近感というか……不思議な感じだ。そうとしか説明できない。

 

 11月の末にはカレンモエがGⅢ京阪杯に出走。初めての重賞挑戦であったが1番人気に支持されていた。何気に彼女は出走してきたレース全てで1番人気を背負っていた。

 結果はクビ差の2着。非常に惜しい結果となっていた。レースを終えて帰ってきた彼女はいつもと変わらない様子だったが、やはり悔しさみたいなものはにじみ出ていた。

 

 

 そして12月。クラシック級最後のレースは有馬記念を選んだ。坂川とも相談して、年が明けてシニア級になってから距離短縮したレース選びをしようという運びになった。菊花賞でも5着と大負けはしていないし、坂川の言うように私の身体が短い距離に向く成長をしているなら、2500mの有馬記念に出られるのは最後かもしれないからだ。

 

 年末の有馬記念へ向けてのトレーニングに暮れていた12月の中頃のある日、坂川がさらっと爆弾発言を投下した。

 

「サイレンススズカがウチに移籍することになった。書類上の正式な移籍はホープフルの次の日になるから、それまでは絶対に外部へ漏らすなよ。今も入院してるから、顔合わせはまたそのうちな」

 

 事情を知っていたらしいカレンモエ以外の私たち3人は驚きのあまりポカンとしていた。移籍はまだ良いとしても、なにせそのウマ娘がビッグネームすぎたからだ。

 スペシャルウィークと同じ超強豪シリウスで、夢のような凄まじい逃げでGⅠを制して、そして天皇賞秋で故障により大怪我を負った……あのウマ娘がウチのチームに入ってくる? 冗談にしか聞こえなかった。

 彼女のケガは再起不能レベルで、レースへの復帰は難しいだろうと報道されてた。

 

 どんな経緯があって移籍してきたか彼は話してくれなかった。おそらくだけれど、サイレンススズカ本人だけでなくシリウスのトレーナーとも関係あるのだろう。坂川とシリウスのチーフトレーナーである天崎は同期だから、その繋がりかもしれない。

 

 ……ちなみに12月に入って坂川は難しい顔をしてパソコンに向き合っていることが多かった。どうやら年末に研究の発表会があるらしく、それの準備とのことだった。

 

 

 そんなこともありながら迎えた有馬記念。クラシック路線3強と呼ばれていた過去の栄光なんて見る影もない私は10番人気でレースを迎えた。いくらシニア級の一線級が揃うレースであっても、二桁人気になるなんて本音を言えばものすごく悔しかった。今まで同世代相手とはいえ3番人気を外したことが無かったので、見返してやりたいという気持ちが強かった。

 今年の有馬記念にはクラシック二冠ウマ娘セイウンスカイとグラスワンダーがいた。他にも多くのGⅠウマ娘がいた。

 ダービーや菊花賞と同じぐらい強く勝利を目指して臨んだが結果は6着。人気よりは上の着順に来られたけれど、勝利どころか掲示板を外してしまった。

 

 負けて悔しい思いをしたが、それと同時にどこか誇らしくもあった。私と同じくクラシックを走ったセイウンスカイが4着になってしまったものの、同世代のグラスワンダーが有馬を制したからだ。日常で接する上で、怪我で満足に走れない頃の彼女の姿を知っているだけに、その苦労が報われて本当に良かったと思う。グランプリを勝って喜んでいる彼女に、私は惜しみない拍手を送った。

 

 少し時間は遡るけれど、11月のジャパンカップではエルコンドルパサーが優勝。スペシャルウィークは3着だった。ダービーを圧勝した彼女が東京2400mで負けるなんて想像もつかなかったけれど、勝ったエルコンドルパサーの強さにも驚かされた。

 このジャパンカップや有馬記念に加えて、私が東スポ杯で勝ったマイネルラヴがスプリンターズステークスを制したこともあり、私たちの世代が物凄く強い世代……“最強世代”かもしれないなんて声もちらほら耳にするようになった。そう言われるウマ娘の中におそらく私は入っていないけれど、私の友人と呼べる彼女たちがみんな努力しているのを知っているだけに嬉しく、そして誇らしく思えた。

 

 

 再び有馬記念へと話を戻す。

 実はレース後、あるウマ娘と私は話をした。彼女も有馬記念に出走すると分かった時に、できれば話をしてみたいと思っていた。メディアのニュースでも、おそらく引退レースとなるという話を聞いていたから。

 

 そしてそれは叶った。レース後、ターフとグランプリロードの境目へ差し掛かったところでの出来事だった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 そのウマ娘を初めて()()したのはあの天皇賞秋だった。

 

 菊花賞を1週間後に控えた日曜日、調整重視のトレーニングを午前中で終えた私はチームの皆と一緒にテレビでそのレースを観戦していた。サイレンススズカが圧倒的一番人気に支持されたレースで、勝つか負けるかよりどんな勝ち方をするかが話題になっていたことを覚えている。

 そしてその結果は────あまり語りたくないのだが、凄まじいスピードで大逃げしたサイレンススズカは大欅を越えたところで故障発生し競争中止。テレビから聞こえていた歓声が一気に悲鳴に変わっていた。故障した左脚がテレビに映っており、思わず顔を背けたくなった。実際、一緒にテレビを見ていたペティは目を逸らしていた。

 しかしレースは続いていく。サイレンススズカがいなくなったことで波乱となった天皇賞秋を制したのは、6番人気の栗毛のウマ娘オフサイドトラップだった。

 

『オフサイドトラップ先頭! 内からステイゴールドも追い上げるが、オフサイドトラップ1着でゴールインッ!!! なんとシニア級4年、オフサイドトラップ!!! 悲願のGⅠ初制覇っ!!!』

 

 これまでの重賞レースでその名前を聞いたことはあった。でもシニア級4年であることを含め彼女のことを私はよく知らなかった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を乗り越えて、重賞3連勝で頂点へ! シニア級4年、オフサイドトラップです!!!』

 

「……凄い…………」

 

 実況を聞いて、そんな言葉が自然と口から零れた。

 

 まだサイレンススズカが故障した余波のざわめきが残るスタンドの前に彼女は来ると、ぽつぽつと拍手が起こり始めたスタンドに向かって笑顔で頭を下げた。観客もそんな彼女に暖かい歓声を送って迎えていた。そこに彼女のトレーナーと思われる男性や、同じチームと思われるウマ娘たちが笑顔で彼女に駆け寄って抱き合っていた。その中にはサイドテールにサンバイザーを着けたウマ娘もいた。

 彼女を含めたチームのウマ娘とトレーナーに涙は無かった。笑顔だけがそこにあった。彼女たちの苦労や想いを外野の私たちには知る由もないけれど、その笑顔が全てを物語っているように見えた。

 

 

 そのレース以降、彼女のことを度々考えるようになった。

 私の3倍以上の現役生活を過ごし、私の3倍近い数の敗北を経験し、何度も屈腱炎に苛まれて休養を余儀なくされて、それでも彼女は走り続け、あの天皇賞にてGⅠを取った。

 そこには数えきれないほどの悔しさや苦しみ、そして葛藤があったはずなのだ。……私が共感するなんて恐れ多くて口が裂けても言えないけれど、感じ入ることがあるのは確かだった。

 

 オフサイドトラップを知った私は次第に彼女と話してみたいと思うようになった。一流のウマ娘とは何かを探す手掛かりになる気がしたから。

 でもシニア級4年のウマ娘や彼女のチームと関係性は全くないので、その機会は訪れなかった。トレーニングで偶然目にするなんてこともなく、そうやって日々が流れていって有馬記念にたどり着いた。

 

 

 

 そして有馬でレースが終わったあと、彼女の背中を見つけた私は話しかけることにした。

 

「あの、少しよろしいですか?」

「……へ? わたし?」

 

 黄色と青が主で赤をアクセントで差してあるパンツスタイルの勝負服が翻った。振り返った栗毛のウマ娘はオフサイドトラップその人だった。

 

「あなたはキングヘイローさんだよね? どうしたの?」

「……オフサイドトラップさんと、お話をしたいと思いまして。ここから控室に帰るまでで良いので……いかがでしょうか?」

「お話? なんかわたし、レースでやらかしたかな!? もしかして斜行とか!?」

 

 インタビューなどの大人びた感じとは違って(実際歳はいくつも上だけれど)、すごく親しみやすい印象を受けた。

 レースでの不利とか、そんな話ではないと否定すると彼女はホッと息をついていた。

 

 あなたのことについて話が聞きたいと、そう伝えた。

 

「わたしの話? いや~面白くもなんともないと思うけど。……どうして聞きたいの?」

「それは…………失礼な物言いになるかもしれませんけど……」

「全然気にしなくていいよ。何でも言ってみて」

「……天皇賞を勝たれるまで、多くの敗北や怪我を経験されてきたと存じております。なぜ貴女はそこまでして走れたのですか? なぜ貴女は今まで走り続けたのですか? それを……知りたくて」

「…………」

 

 彼女の無言の視線を感じた。彼女はじいっと私を見ていた。

 

「……そっか」

「?」

 

 何かに納得したように彼女は頷いた。

 

「いいよ。ゆっくり歩きながらでいい?」

「! ありがとうございます……!」

「別にいいよ〜。そうだなあ、せっかくだし最初から話そうかな。さっきも言ったけど、あんまり面白い話じゃないし、それにキングヘイローさんの参考ならないと思うよ?」

「いえそんな! ぜひお聞きしたいです!」

 

 肩を並べて私たちはグランプリロードへ歩き出した。

 

「わたしさあ、実はメイクデビューの前から右脚悪かったんだよね。トレーニングしたあとに右脚がよく熱持っててさ」

 

 そうやって彼女は語りだした。

 

「でもまあ最初の内はなんとか上手くいって、若葉ステークス勝って3連勝! それで皐月賞とダービーに挑戦! ……したまでは良かったんだけど、7着8着とあんまり振るわなくて。後ろの方でブライアン強えーって思いながら走ってたっけ。それで秋に向けて7月のラジオNIKKEI賞に出たあとに()()()が来るの」

「最初……屈腱炎、ですよね」

「うん。右脚の屈腱炎。ついにここで一度目のトラップ発動。もう酷いほど腫れちゃってさ。毎日毎日氷で冷やしたり、レーザーやマイクロ波当てたりして何とかしようとしてたんだ。アイネスさん……チームの先輩にさ、私と同じように屈腱炎になったウマ娘がいたから、トレーナーも屈腱炎に対処するノウハウを持っててね。トレーナーやアイネスさん含め、チームの皆のサポートしてもらって屈腱炎は一応は鳴りを潜めたんだ。……ああ、でも今振り返ったら、この時の屈腱炎なんてまだまだ()()()()()()んだなあ」

 

 彼女の口調は軽い。でも言葉の奥にある重みはひしひしと感じられた。

 

「マシになってきたらトレーニング再開するんだけど、やっぱ全力では走れなかったしトレーナーに禁止された。そもそも思いっきりスピード出して走るのが怖くて怖くて。負荷をかけないようなメニューをトレーナーが考えてくれてた」

「……トレーニングでも、大変だったんですね」

「そうだねえ。結局トレーニングじゃ全力で走れたことなんて数えられるほどだったよ。……話を進めると、私は5ヶ月後の12月にディセンバーステークスで復帰できた。年が明けてシニア級1年になった私は1月の中山金杯、2月のバレンタインステークスに出走できた。バレンタインの方は1着になれた。……良かったんだ、()()()()()

 

 彼女の経歴は少し頭に入れていたから知っている。バレンタインステークスの後に何が起こったのか。

 

「バレンタインステークスのあとに次は右脚の屈腱炎悪化と左脚の屈腱炎。両脚に来た二度目のトラップ。これがさあ~、もうホントに酷くて酷くて。一度目の屈腱炎なんて可愛いもんだったよ。氷とかレーザーとか言ってる場合じゃなくてさ、空気が触れるだけで痛いって言うの? 何もしなくてズキズキ痛いのに、ちょんと指で触れられただけで電撃が走るような激痛でのたうち回るぐらいでさ。寝ても覚めても脚がずっと痛くて、走れるようになるのか分かんないのに何やってんだろって考えて。あの頃は毎日泣いてたな~。ちょっと良くなってトレーニング再開しても、すぐに腫れが強くなって元に戻って。そもそもトレーニングだって足の負担考えると坂路でしかできなくて。出口のない迷宮に入り込むってこういうことなんだなって」

「……その時に」

「ん?」

「レースを辞めようと思われなかったんでしょうか?」

「そりゃあ思ったよ。めっちゃ痛いし。走れるようになるかさえ分かんないし」

 

 彼女はあっけらかんとそう言い切った。

 ……なぜ彼女はそう、深刻さの欠片もないように話せるのだろう。

 

「でも貴女はそこで諦めなかった。なぜ走り続けたんですか?」

 

 

 これこそ私が彼女に訊きたいことだった。

 そんな酷い屈腱炎に苦しめられても走り続けた理由とは一体何なのか。

 

 

「走り続けた理由? う~ん。……ごめんね。分かんない」

「……え?」

 

 その答えを聞いて思わず足が止まった。私に合わせて彼女も足を止めた。

 気づけば地下バ道を入ったところまでやって来ていた。

 

 

 理由が分からないのに、走ることを選んだの? 

 

 

「……キングヘイローさんって分かりやすいね。仕方ないでしょ~。これって理由は思い浮かばないんだから」

 

 彼女は地下バ道の壁に背を預け口を開いた。

 

「勝ちたいって気持ちはもちろんあったよ。高望みなのは分かってるけど、重賞勝てたらいいなあって思ってた。でも体を見下ろすと、痛いばかりの脚が目に入るんだ。こんな痛みとはおさらばできるって考えたら、レース辞めるのもいいなあって思ったよ。レースやトレーニングのことなんて考えないで、祈りながら氷やレーザー当てるだけの日々とはサヨナラして、自由にショッピングしたりファミレスで友達と駄弁ったり、そっちの方が絶対楽しいでしょ。そう思わない?」

「……」

 

 それを否定することはできなかった。

 

「でもさあ……」

「……でも?」

「ふふっ……トレーナーやアイネスさんがめっちゃ必死だったんだよねえ」

 

 そう言った彼女は懐かしんでいるようでもあった。

 

「2人とも屈腱炎と戦ってきた人達だからさ。アイネスさん、今はDTLで故障しない程度に走ってるけど、トゥインクルシリーズは屈腱炎で引退しちゃったから。だからか2人ともグイグイ来てさ。どこぞの温泉がいいとか、珍しい成分の湿布を取り寄せたりとか、果てには生肉を脚に貼るとか迷信っぽいことも持ち出して来て……あの時は部屋が臭くなって大変だったなあ。試せることは何でも試したよ」

 

 彼女はその時のことを思い出したかのように苦笑していた。

 

「だからかな。わたしはとりあえず走れそうなら走ってみようと思ったんだ。屈腱炎が原因で大怪我しても、最終的に日常生活に戻れるレベルならいいやって。私もチームのみんなもこんな苦労して頑張ってんだからさー、ちょっとは良い夢見てもいいでしょっ! ってそんな感じ」

「…………」

 

 少しずつだが、私は分かってきた。

 走る理由は思い浮かばないと彼女は言った。本人が言うのだから確かにそうかもしれない。

 でも彼女にとって重要なのは()()じゃない気がする。

 

「その10ヶ月後ぐらいかな。屈腱炎治ってはないけど、ちょっと軽くなって安定してきたからディセンバーステークスに出走したんだ。二度目の復帰戦は3着だった。でもまたレース後屈腱炎悪化しちゃって長期休養。また氷とレーザーとお付き合いの日々。そして11ヶ月後……えーっと、シニア級2年11月の富士ステークスで三度目の復帰戦。この頃になると頑張った甲斐あってか大分症状も落ち着いてね。トレーニングで思い切り走れないのは変わらないけど順調だった。大体1ヶ月間隔でレース出て重賞にも挑戦した。勝てはしなかったけど、2着を何度も取ったのもあって手ごたえはあった。このまま行けばいつかは重賞勝てるって思ってた。でもシニア級3年5月末のエプソムカップのあと、三度目の屈腱炎再発(トラップ)。……もう、どん詰まりだった」

 

 彼女は自身の脚を慈しむように撫でた。

 

「こんなに順調に走れてたのクラシック級の時以来だったから、三度目のこれも堪えたよ。山を登ってたら急に真っ暗な谷底へ叩き落とされた感じ。シニア級3年……潮時だし、レース引退しようかって本気で考えた。でもトレーナーやアイネスさん、両親とも色々あって、あと1年だけやってみようって話になったんだ。それで10ヶ月後、シニア級4年……今年の3月だね。東風ステークスで四度目の復帰。症状も落ち着いてくれてて、去年と同じように1ヶ月ごとに出走できた。勝てはしなかったけどね。でも、7月の福島レース場──」

「……七夕賞」

「うん。デビューしてから4年半経って、七夕賞で私は初めて重賞を勝った。いや~あの時は嬉しかったなあ。脚のケアしながらトレーナー室でみんなと朝まで騒いで後から学園に怒られたっけな~」

 

 その時の喜びを再び噛みしめるように、彼女は笑っていた。

 

「しかも8月の新潟記念も勝っちゃって重賞連勝! もう自分が一番びっくりしてた。こんな良いことが続いていいのかって。それで軽い休養挟んで11月、4年ぶりのGⅠ天皇賞秋。もうここまで来たら詳しい説明はいらない?」

「……もし良ければ、レースのことと、勝った時のことを教えてもらえませんか?」

「いいけど……大変なレースだったからねえ。サイレンススズカさんが故障発生した時、後ろのわたしには何が起こったか分かんなくてさ。2番手の娘が外に持ち出したの見て『なにかあったんだ』って思って。その後は……必死だった。故障したなら外に行くはずだから、一か八かラチ沿いを進んでいった。2番手のサイレントハンターさんや外を通ってきた娘はサイレンススズカさんを避けるために大回りになってたけど、私は影響を受けることなく走れた。最後の直線は……とりあえず先頭に立ってからは『早くゴール来てっ!』って無我夢中で……で、なんとか凌いで1着!」

 

 彼女は自身の手のひらを見つめながら、それを軽く握った。

 

「スタンド前に帰ってくるとお客さんの多くがサイレンススズカさんを心配している様子だったけど、それでもわたしに拍手したり声をかけてくれる人がいたから嬉しかったなあ。トレーナーさんやアイネスさんたちが来たとき、誰か泣いちゃうかなって思ったけど、みんな笑顔で祝福してくれた。わたしも嬉しくて、いっぱい笑った。……辛くて泣いて励ましてもらってばかりの日々だったから、笑顔で返せて本当に良かった。それで今日こうやってグランプリにも出られてさ。引退レースが有馬だなんて……幸せだなって思うよ」

 

 はにかむように笑うオフサイドトラップを見て、私はやっと気づいた。

 彼女は数多の苦難を乗り越えてきたからこそ、こうして笑顔で話せるのだと。

 

「……お話、ありがとうございました。そして、今更ですが天皇賞秋優勝おめでとうございます」

「ありがとっ! う~ん、なんで走れるとか、走り続けられるとか、自分でもよく分かんないけど……参考になった?」

「とても……とても良い話でした。ありがとうございました」

「なら良かったんだけど。……よしっ、ライブあるし、わたしたちも行こっか」

「はい」

「あっ、キングヘイローさん」

 

 先に歩き始めた私を、彼女は私の肩を叩いて呼び止めた。

 

「なん────」

 

 ふにっ。

 

「──んえぇ?」

 

 肩を叩かれた方から振り向くと、彼女の指が私の頬に柔らかく突き刺さった。

 

「へへ~引っかかった~。いたずら(トラップ)成功~!」

「な、なにを……」

 

 お茶目にウィンクした彼女は私を追いこしてこちらを向いた。

 

「わたしの恥ずかしい話聞かせてあげたんだから、これぐらいの役得はないとね~ふふっ」

「……もうっ」

「……キングヘイローさん」

「何でしょう?」

「わたし、なんかあなたと他人の気がしないんだよねえ……?」

「え?」

 

 似たような話を少し前に聞いた。ダイアナヘイローとのことで。

 でも私はオフサイドトラップに対しては()()()()()あまり……? 

 

「……いや、やっぱ何でもない。気のせいかも」

「そうですか」

「ごめんね変なこと言って。いい加減わたしたちも──」

 

 

 地下バ道の先から複数の声が聞こえてきて、彼女の声を遮った。

 前方から聞こえてきたそれは聞き覚えの無い声で、どうやらオフサイドトラップのトレーナーやチームのウマ娘だった。

 

 引退レースなのに何道草食ってんだ心配させんなよ~って優しい声色の声が聞こえてくれば、チームのウマ娘のきゃいきゃいとした声も複数聞こえてきた。

 どの声も悲壮感なんてなく、ただ彼女を暖かく迎えていた。

 

「あ~ごめんごめん! もう、みんなわざわざ来ちゃってさ……じゃあね、キングヘイローさん。あなたもたぶん、いっぱい悩んでるんだろうけどさ。……これだけ、あなたに伝えておくよ」

 

 

 彼女は前を向いた。

 

 

 

「私、走って良かったよ。走り続けて良かった」

 

 

 

 彼女は踏み出した。チームの皆がいる所へ。

 

 

 

「うん…………わたし、頑張ったよね。走り切れたよね────」

 

 

 

 駆け寄っていく彼女の笑顔から光るものが一雫、散っていったのを見た。

 

 

 

 

 彼女がゴールにたどり着いた瞬間を、確かに見た。

 

 

 

 

 

 ◇ 

 

 

 

 

 

 

 

 オフサイドトラップはレースを走った。走り続けた。幾度となく怪我に苦しめられようとも。

 

 

 おそらくだけれど、彼女はずっと自分自身と戦ってたんだ。だからこそ──

 

 

 ──“走ること”

 

 ──“走り続けること”

 

 

 レースに出て走ること、それ自体に理由や意味があったんじゃないか……そんな風に私は思った。

 



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第56話 中山記念

 キングヘイローが久々に勝利の美酒を味わった東京新聞杯から約1ヶ月後、メインレースを待つ中山レース場のスタンドに俺たちはいた。

 今日のメインは中山記念(GⅡ)。出走するのはもちろんキングヘイローだ。少し前に控え室でパドックに向かうキングヘイローを見送ってスタンドに戻って来ていた……地下バ道まで見送りに行ったダイアナヘイロー以外は。

 

 ちらほらと本バ場入場するウマ娘が現れてきたところで、ダイアナヘイローもスタンドにいる俺たちに合流した。

 

「はあっ……間に合ったみたいね」

「キングはどうだった?」

「一流らしい余裕に満ちていたわ。レース前の凛々しい顔も素敵だったわよ」

 

 手を合わせて目を瞑りその時のキングヘイローの姿を思い出しているようだった。

 

 キングヘイローの控え室での様子は変に気負ってる感じもなく良い感じに集中できていた。地下バ道でもその調子だったのならそこまで心配はいらないだろう。

 

「ダイアナ、中山記念はどんなレースか知ってるか?」

「どんなって?」

「距離やコース特性とか、知っていることはあるか?」

「ないわよ。私ほとんどレース見ないもの」

 

 彼女を担当してから分かったことだが、彼女はレース自体の知識に乏しい。クラシックや有名なGⅠ程度ならまだ知っているようだが、GⅡやGⅢレベルになるとまず知らない。

 元々レースやトゥインクルシリーズには興味が無かったようで、どうもトレセン学園に入学したのもレースとは別に理由があるらしい。

 

「自分が出ないレースまで知っとけとは言わねえが、せっかく尊敬する先輩のキングヘイローが出るんだ。どんなレースか知っておいても罰は当たらねえだろ。てなわけで──」

 

 俺は車椅子に座っているウマ娘を親指で指さした。

 

 何を隠そう、去年の中山記念を勝ったウマ娘が今まさにここにいるのだ。

 

「去年勝ったサイレンススズカ先輩が中山記念について教えてくれるそうだ。……スズカ、ダイアナヘイローにレースの概要を軽く説明してやってくれ」

「へっ!? 私が……ですか?」

「ああ。ちゃんと予習してきたんだろ? コース形態とか基本的なことでいいから」

「…………はい、分かりました」

「スズカが教えてくれるなら是非聞きたいわ!」

 

 ダイアナヘイローはキングヘイローだけでなくサイレンススズカにも懐いている。『キングとは種類が違うけど、スズカとも運命的な何かを感じる』かららしい。

 

「ちょ、ちょっと待ってね……えーっと……」

 

 サイレンススズカは膝の上に乗せたトートバッグからノートを取り出した。

 

「『中山記念。格付けはGⅡ。中山レース場コーナー4つの1800mで行われる。上半期のGⅠに向けての始動戦として選ぶウマ娘が多い。中山1800mはスタートしてから第1コーナーまでの距離が200mと近い。枠は内枠が有利。逃げと先行勢が有利で──』」

「そんなもんでいいぞスズカ。ありがとうな。どうだダイアナ、分かったか?」

「ええ。ありがとうスズカ!」

 

 ダイアナヘイローはサイレンススズカの手を握ってそう言った。

 

「あ、ありがとう。ダイアナさん……そう言ってもらえると嬉しいわ」

 

 サイレンススズカは手を握られて多少驚くような仕草を見せたものの、まんざらでもない様子で柔らかい笑みを浮かべていた。

 

「スズカの言った通り前目で運ぶウマ娘が有利だ。もちろんキングもそれは頭に入ってる。それを踏まえてレースを見てみたらいい。キング以外のウマ娘もな。勝ったウマ娘、負けたウマ娘、それぞれがどこにいたのか。どこを通ったのか。ペースは……これは今はいいか」

 

 厳密に言えばペースによって位置取りの有利不利は変わってくる。他にも開催何日目だとか、AコースやBコースかなどコース替わりも頭に入れておく必要がある。何より直前のレースを見てバ場傾向を掴むことが必須だ。

 ちなみに昨日と今日の芝レースでは第4コーナー回った時点で中団のウマ娘が勝ったレースもいくつかあり、絶対的に前が有利というわけでもない。

 だが一遍に色々なことを見ようとしても大抵は上手くいかない。ひとつひとつ積み重ねていくことが重要だ。

 

 

 中山記念を選んだ理由は、端的に言ってしまえば東京新聞杯と異なる性質のレースだからだ。

 右回り、コーナー4つの2ターン、短い直線などのコース形態の話に加え、逃げが有利気味なのは共通しているものの、差しが届きやすい東京新聞杯と差しが厳しい中山記念。

 レース場が違えば距離も違う。求められる要素が異なってくるのだ。

 

 キングヘイローにはワンターンが合うからといって得意条件以外を捨てているわけではない。合わない舞台でも好走できる可能性はあるし、将来彼女がまた中長距離を走りたいと言うかもしれない。

 少しでも彼女の未来の選択肢を残しておくためにも、今はまだ条件を絞りすぎるべきではない。まだ彼女はシニア級になったばかりなのだ。

 

 キングヘイローには将来のことも考えて……と相談し話し合った上で中山記念への出走を決めた。

 

「ダイアナも、それにスズカも、しっかりとレース見て勉強な」

「キングの応援が最優先だけど、覚えておくわ」

「……はいっ」

 

 2人の返事を聞き届けてターフに目を向けると、すでにキングヘイローもバ場に姿を現してホームストレッチのゲート前で待機していた。

 スタンド最前列にいる俺のチームの声援が聞こえたのか、彼女は一度こちらを見て余裕たっぷりに手を振った。

 落ち着きもあるし、前走勝ったことで自信を取り戻しているように見えた。

 

 

 

 スターターが旗を振ってからファンファーレの演奏が流れ観客の歓声が沸き起こった。

 

『いよいよ中山記念発走となります! 今年は重賞ウマ娘6人が揃った非常にハイレベルなレースが展開されそうです。抜けた1番人気は前走東京新聞杯を勝って復活の狼煙を上げたキングヘイロー、2番人気は今年の中山金杯を勝って今年3戦掲示板を外していない実力者サイレントハンターが続きます────』

 

 枠入りが始まった。

 キングヘイローはいつものように落ち着いてゲートに入って待機していた。

 

 枠入りが進み、少しちゃかついていた11番ゲートのウマ娘が最後の枠入りとなった。

 

『プロモーションがゆっくりと入りました。さあ、係員が離れて…………スタートしましたっ!』

 

 

 ◇

 

 

 ゲートが開いて5枠5番から私は飛び出していった。

 

 私以外も全員大きな出遅れなく揃ったスタートで、普通にスタートを決められた私はポジションを取るために前へ進出していく。

 中山レース場は最後の直線が短いので先団に位置取るのは最重要なことだ。だからスタートから隊列が決まる第1コーナーまでの200mではミスが許されない。

 

 行き脚がついて第1コーナーまで100mの当たりでバ群から抜け出して先頭に立とうとしていた。しかしそれは束の間で──

 

(前へ行くのは……やっぱり、そうよね)

 

 外から来た勢いの良いウマ娘が先頭を奪っていった。2番人気のサイレントハンターだ。事前のレース予想の通り、このウマ娘がやはり逃げるようだ。

 サイレントハンターに続いてもう1人、プロモーションも私を追い抜いていく。プロモーションと私は2人で併走しながら第1コーナーに入っていき、彼女に2番手を譲った。理想を言えば単独2番手だったが、ここで主張して消耗したら元も子もない。

 先行が有利な中山記念。坂川との作戦では5番手以内でレースを運ぶことを決めていた。ちなみに全体がハイペースに感じた時のみ6番手以下でも可という指示だった。

 

 私は3番手でレースを進めることにした。ここまでは計画通りだ。

 

 第1コーナーから第2コーナーへ差し掛かる。先頭は飛ばしていくサイレントハンター、5バ身離れて2番手プロモーション、その後3バ身ほど離れて私が単独3番手。私の1バ身後方にはバ群が密集していて、真後ろには3人が並んでいた。

 

 向こう正面を駆けていく。私は1番人気だから誰かプレッシャーをかけてくるかと警戒していたが、どうやらそんな気配は後方から感じない。迫るウマ娘や3番手を奪おうとするウマ娘はいなかった。寄られたりしたら走りのバランスを崩す可能性のある私にとっては好都合だった。

 だけれど後ろから見られている感覚はある。私がいつ動くか見られている……そんな感じだろう。

 

 良い感じだった。走りも安定しているし、頭も冴えていて冷静に状況把握ができている。

 

 

 そのポジションのまま向こう正面を走り、段々と第3コーナーが近づいてくる。先頭の遠くにいるサイレントハンターは10バ身以上差を広げて第3コーナーへ入っていった。

 

(──ここよっ!)

 

 躊躇わずアクセルを踏んで速度を上げていく。最後の直線に向いたときにはサイレントハンターを射程圏内に入れる必要がある。

 

『飛ばしますサイレントハンター、その差がもう10バ身以上差がある! 淡々と2番手プロモーション。その後ろ単独3番手キングヘイローがプロモーションとの差を2バ身、1バ身と詰めてきたところで600mを切りましたっ!』

 

 第4コーナーで垂れてきた2番手のプロモーションを捉えて外から抜かして2番手へと躍り出た。

 

 私の後続にいるウマ娘たちも私のスパートに合わせてぴっちりと付いてきた。前には依然として大逃げするサイレントハンターがいて、私との差は10バ身を切った程度。

 そのサイレントハンターがまずは最後の直線へと入っていった。

 

 

 サイレントハンターを捉えて、尚且つ後ろから抜かせなければ勝ちだ。

 

 

『さあ直線に入りましたところで、リードはまだ7バ身ある先頭サイレントハンター! 逃げ込むことができるかどうか!? 徐々に差を詰めてきたのはキングヘイロー! 集団から抜け出しましたっ!』

 

 逃げるサイレントハンターの背中が大きくなってきた。詳しいタイムまでは分からないが、このウマ娘は序盤から飛ばしていた。確実に勢いは削がれており、2番手だったプロモーションと同じように垂れてきていた。

 

 一方、私は完全にトップスピードに乗っていた。

 

『徐々に差を詰めてきたキングヘイロー、5バ身4バ身3バ身! 200を切って坂を上がって来るっ! サイレントハンターいっぱいになったか!?』

 

 

 スピードは完全に私が(まさ)っている! 

 

 勢いそのままに、サイレントハンターの外を並ぶ間もなく抜き去って先頭に立った。

 

 

『あっという間に変わったキングヘイロー!』

 

 

 1バ身、2バ身と2番手のサイレントハンターとのリードを築いていく。追い込んでくるウマ娘の気配は遠く、私に迫ってこない。

 

 

『大外からダイワテキサスも突っ込んでくるが2番手争いまで!』

 

 

 私だけが完全に抜け出して、ゴールラインを突き抜けた。

 

 

『2番手接戦! 先頭はキングヘイロー快勝ゴールインッ! 約2バ身差つけましたキングヘイロー、完勝で重賞2連勝です!』

 

 

「──ふっ、はあっ、はあ」

 

 ゴール後、脚を緩めながら呼吸を整える。四肢も肺も心臓も、そして頭もレース用のものから切り替えていくと、勝った実感が沸々と湧いてきた。

 ジョグしながら振る手に力を入れて、拳を小さく握った。

 

 派手なガッツポーズはしない、大きな声を上げたりもしない。ここで……負けた11人がいるここで、そんなことをする必要はない。

 

「……よしっ」

 

 ただそう小さく呟きながら、こみ上げる勝利を噛みしめた。

 

 スタンドから起こる歓声とターフから見えるチームの皆に向かって軽く手を振って、ウィナーズサークルへ向かった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 地下バ道で帰ってきたキングヘイローを手荒く迎えた。

 東京新聞杯の時と同じように平静を保っているように見えるものの、チームのウマ娘たちに祝福されるキングヘイローはその喜びを隠し切れず、緩む口元や声色からは嬉しさがにじみ出ているように見えた。

 

 今日のレースは文句の付け所が無いと言って彼女を褒めた。「そう、ありがとう」と口ではそっけなく返されたが、内心では「一流だものトォーゼンッでしょっ!」とおそらく思っていることだろう。じきに控え室に入ればその喜びを爆発させる姿を見られる。

 

 

 地下バ道から関係者用の通路へと進み、キングヘイローの控え室を目指しているときだった。

 前方から来た誰かが、俺たちを見て声を上げた。

 

「えっ!」

 

 小柄な体、ふんわりと揺れる亜麻色の髪、その明るい声……俺の良く知っている人物だった。

 なんでここにいるんだと考える間もなく、彼女は俺たちに駆け寄ってきた。

 

 チームシリウスのトレーナー、天崎ひよりだった。

 

「坂川くんのチームのみんなだ! おーい坂川くん! あっ!? スズカちゃんもいる!」

「あ……トレーナーさん」

「久しぶりスズカちゃん!」

 

 車椅子に乗ったサイレンススズカの元まで天崎がやってきた。

 いきなりリーディングを争うトップトレーナーが現れて、キングヘイローはじめチームのウマ娘たちはどうしたらいいのか分からないといった様子だった。

 

「……お前らは先に控え室戻ってろ」

「分かったわ」

 

 キングヘイローはライブの準備もあるので、サイレンススズカ以外の連中を先に行かせた。

 

「スズカちゃん、脚の様子はどう?」

「少しずつ体重をかけれるようになりました。順調に治ってるって、お医者さんが」

「そうなんだ! 良かった~」

 

 くしゃっとした笑顔を見せる天崎に対し、サイレンススズカも安心したような笑みを見せた。彼女の天崎に対する信頼感が感じられた。

 天崎がウマ娘の前では()()()()()()()()というのをまざまざと見せつけられていた。

 

「……ん? スズカちゃん、これなに?」

「あ、これですか?」

 

 天崎はサイレンススズカの膝上に乗せてあったトートバックの中身に興味を示した。

 サイレンススズカはその中からノートを取り出した。ダイアナヘイローに説明していた、中山記念のことについて調べていたことが記されていたあのノートだ。

 

「トレーナーさん……あ、坂川トレーナーさんにレースとか戦術とか、色々な勉強をするように言われていて……調べたこととか、教えてもらったことを書くノートです」

「……へえ~、そうなんだ! すごいねスズカちゃん! 坂川くんは頭いいから、いっぱい教えてもらってね」

 

 俺のことを口にしたときに、一瞬だけ天崎と目が合った。その顔は笑顔だったが目は笑っていなかった。

 

「……なんでお前がここにいるんだ。今日の中山にシリウスのウマ娘は出てねえだろ」

「テレビ局主催のメディア向けの仕事でね。ここ中山で対談番組の収録があるの。坂川くんもそんな言い方ひどいな~。ほんとは私に会えて嬉しいくせに~。このこの」

 

 天崎は肘で俺を小突いてきた。寒気がした。お前は俺に会えて嬉しいのか訊いてやりたかった。

 

「ふふ……2人とも本当に仲がいいんですね」

「そうだよ~。なんたって同期だし! スズカちゃんを坂川くんに任せたのも、坂川くんが信頼できる人だって私が一番よく知ってるからだし……あっ」

 

 天崎は思い出したように腕時計に目をやった。

 

「うわ! もう時間になるから行くね! じゃあねスズカちゃん、坂川くん。またねっ」

「はい、また」

 

 俺たちに手を振ってから小走りで急いでいく天崎の背中を、サイレンススズカは苦笑しながら手を振って見送った。

 

「……なあスズカ」

「何でしょう?」

「天崎はいいトレーナーだったか?」

「はいっ。トレーナーさんだからこそ、私は走る楽しさを知ることができて、“景色”を見ることができました。私の恩人で……大切な方です」

「……そうか」

 

 サイレンススズカから嘘や偽りを感じない。心から天崎を敬愛し信頼しているのが伝わってきた。天崎は彼女にそう思われるだけのことをやってきたのだろう。

 

 

 ──ゴミはゴミ箱に捨てないとね──

 

 

 ……天崎が心の中でどう思っているか俺は知っているが、サイレンススズカの思いは紛れもない本物だ。そこに何かを挟み込む必要性は感じない。

 

「俺たちも行くぞスズカ。今日のレースの分析もしてもらうからな」

「はい。頑張ります」

 

 

 彼女は車椅子を漕いで、俺の後を付き従った。

 

 

 控え室へ戻る道すがら、サイレンススズカと病院で会って初めて話したときのことを思い返していた。

 彼女が俺のチームへ移籍するきっかけとなった出来事のことだ。

 



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第57話 墜ちた最速

時系列はキングヘイローの菊花賞と有馬の間です。


 あれは11月下旬、カレンモエの京阪杯が終わった翌日のことだった。

 前日の京阪杯で強いレースをしながらも2着に敗れたカレンモエを連れて、精密検査のために彼女が何度も世話になっている郊外の病院に来ていた。スポーツ整形外科にはそれなりに強くて規模も大きく、信頼のおける大学付属の病院だった。

 故障したわけではないが、彼女には昔から脚や体質の不安があったので、万が一に備えてレース前から精密検査を予約していたのだ。

 

「トレーナーさん。行ってくるね」

「おう。そこらで時間潰してるから終わったら電話かメッセージでもくれ」

 

 医師の検査前の診察が終わり、様々な精密検査へ向かったカレンモエとそう言葉を交わして別れた。MRIの撮影をはじめ検査には時間がいくらかかかるので、その間病院内で時間を潰すのはいつものことだった。

 

 

 病院内にあるチェーンの喫茶店にでも……と考えながら連絡通路を歩いていると、窓の外から日差しの降りそそぐ中庭が目に入ってきた。

 中庭は広々とした通路に手入れの行き届いた植え込みや花壇があり、ベンチも多く設置されていた。中央には小さいながらも噴水もあった。

 

「今日は暖かいもんな……」

 

 今日は比較的温暖な気候だったからか、いくつか人やウマ娘の姿があった。と言っても今が冬には変わりないので、盛況とはほど遠い状況だったが。

 

「……よし」

 

 騒がしくもなさそうだし、スマホに入れた論文でも読みながらカレンモエを待つことに決めた俺は、自販機で暖かい缶コーヒーを買って中庭へと向かった。

 

 

 

 

 初めて中庭に出ると、外から見るより広い印象を受けた。冬なので植え込みや花壇は盛りの時ほど色鮮やかではないが、それでも椿が赤い花弁を見せていたりと、花は点在して咲き中庭に彩りを添えていた。

 缶コーヒーを片手に歩きまわり、空いているベンチを見つけたときだった。

 

「あそこでいいか…………は!?」

 

 空いているそのベンチの横に、車椅子に座った明るい栗毛のロングヘアーのウマ娘がいた。上半身はダウンコートを着て、下半身には厚手のひざ掛けをかけていた。そのひざ掛けの下に覗く左脚には、細身な彼女には似合いそうもない白くて武骨なギブスが見えていた。

 トゥインクルシリーズを見る者なら彼女が誰か分からない方がおかしい。現に、何人か遠巻きに彼女へ視線を送っていた。

 

 

 

 11月初めの天皇賞秋で故障し、大怪我を負ったサイレンススズカだった。

 

 彼女は何をするわけでもなく、ぼんやりと中庭の景色を見ているようだった。

 

 

 

「……なんで日本にいるんだ?」

 

 確かあのレース後に緊急手術を終えて、状態が安定した彼女はチームシリウス御用達の海外の大病院へ転院したと報道されていた。それを覚えていたので見間違いかと思ったが、どこをどう見たってサイレンススズカだった。皐月賞後の地下バ道にてすれ違ったときに目にしたあのウマ娘だった。

 

「…………」

 

 何を考えるわけでもなく、気がつけば俺は彼女の隣にある空いたベンチに足を向けていた。

 

「よう。調子はどうだ?」

「……? あなたは……えーっと…………」

 

 俺が誰か思い出そうとしているのか、はたまた覚えておらず警戒しているのか、そんな彼女を尻目に俺はベンチに腰かけた。缶コーヒーのタブを開けて一口それを煽った。

 

「……あっ、確かスぺちゃんの…………キングヘイローさんのトレーナーさん……?」

「そうだ。覚えててくれたのか。坂川だ」

「……どうしてここに? 私に何か御用ですか?」

「別に用はない。チームのウマ娘をこの病院で診てもらっててな。検査が終わるまでフラフラしてたらお前を見つけたんだ」

「そうですか……」

 

 直接こうしてサイレンススズカと話すのは初めてだった。落ち着いた口調でゆっくりと話す奴だとインタビューを見て知ってはいたが、やはり心なしか元気がないように思えた。もっとも、この状態で元気がある方がどうかしているとは思うが……

 

「脚の具合はどうなんだ?」

「その…………怪我の状態のことはシリウスや病院スタッフの方以外には話してはいけないって、トレーナーさんに言われているので……ごめんなさい」

 

 その口止めの話を聞いて、流石の対応だなと感心してしまった。チームシリウスを預かる天崎ひよりの顔が頭に浮かんできてげんなりした。

 

「いや、訊いてすまねえな。……天崎とは会ってるのか?」

「……? はい。毎日、シリウスのトレーニングが終わったあとに会いに来てくれます。スぺちゃん……あっ、チームの娘も連れてきてくれて」

 

 天崎の心境を俺は知らないが、どちらにしても毎日トレーニング後に会いに来るのは大変だろう。シリウスのチーフともなるとトレーニングを見るだけでなく、学園やURAから依頼される仕事やメディア関係の取材も多々あるはずである。

 

「毎日か。あいつもマメな奴だな」

「あいつ? ……トレーナーさんと、えっと、坂川トレーナーさんはお知り合いなんですか?」

「天崎とは同期なんだよ。トレーナーのな。だから新人の頃からあいつのことは知ってる。新人寮でも2年近く一緒だったしな」

 

 そうなんですか、とサイレンスズカは目を丸くしていた。

 

「あいつはお前の怪我についてなんて言って…………答えられないんだったな。すまん」

「…………」

 

 彼女は黙り込んで俯いてしまった。肩にかかった栗毛の髪がはらりと前へ滑り落ちていった。冬の陽気に当てられた栗毛は輝いて見えたが、対照的にその表情は暗かった。

 

 出ている記事やニュースでも彼女の現役復帰は絶望的という見方が大半だった。この様子からすると、天崎の見立ても芳しくないのだろう。

 

 元々何か意図があって話しかけたわけではないが、落ち込んだ彼女を見て興味本位で訊くことではなかったと内心で反省した。怪我で失意の中にあるウマ娘にそのことをほじくり返すなんて、そこらの記者と同じじゃないか。

 

 俺は缶コーヒーを飲み干して腰を上げた。

 

「邪魔したな。天崎に会ったらよろしく言っといてくれ」

「…………あのっ」

「なんだ?」

 

 呼び止められて俺は足を止めた。

 

「あ……いえ……その……」

「…………」

 

 彼女の翡翠色をした瞳が逡巡していた。

 

 俺はもう一度ベンチに腰掛けて彼女と目線の高さを合わせ、ただ彼女の言葉を待った。

 

「トレーナーさんの言うこと……正しいと思います。これまでだってトレーナーさんは私を導いてくれました。だから私はあの“景色”を見ることができたんです」

 

 トレーナーさん……天崎のことを彼女は言ってるようだった。

 

「だからトレーナーさんの判断も……私のためだって分かっています…………分かっているのに…………」

 

 彼女は膝の上に置いてある両手をぐっと握りしめた。

 

 

 

「それでも、私は走りたいんです…………また“景色”を見たいんです。おかしい、でしょうか……」

 

 

 

「……」

 

 それで話は終わりのようだった。

 

 俺は交わった視線を外し、再び立ち上がって彼女に背を向けた。

 

「じゃあなサイレンススズカ。……言いたいことがあるなら、天崎にちゃんと言えよ。俺じゃなくてな」

「…………」

 

 今度こそ背中から声はかからなかった。

 

 

 病院のエントランスで俺はカレンモエを待った。論文を読んでいたが、先程のサイレンススズカのことがどこか頭から離れなかった。

 故障して引退に追い込まれるウマ娘なんて珍しいものでもない。毎週開催されるレースの中で、致命的な怪我をして競争中止する姿をこれまでに何度も見てきた。一方、俺の担当してきた中では軽度の故障こそあれど幸い重傷になるウマ娘はいなかった。

 

 そんなことを考えながら論文を読んでいるうちにカレンモエから連絡が来たので、一緒に診察室まで検査結果を聞きに行った。結果は異常なしで、ひとまず安心した。

 

 

 

 

 帰りの車を運転していても、ふと思い出すようにサイレンススズカのことを考える自分がいた。車椅子に座ってただ宙を眺めている彼女の姿が目に焼きついていた。

 

 

 

 そんな俺を知ってか知らずか、気づけば助手席に座るカレンモエが俺のことをじーっと見ていた。

 

「……なんだ?」

「トレーナーさん、ぼーっとしてるように見えたから」

「そうか?」

「…………なに、考えてるの?」

「ああ、いや…………そうだ、昨日のレースだが……」

 

 咄嗟のことで、俺は話題をそらしてしまった。

 

「昨日の京阪杯、クビ差の2着に負けたがいい走りだったぞ。中団より後ろのウマ娘が掲示板を占める中、逃げ先行勢でお前だけが残ったんだ。慰めにしかならないかもしれねえが、勝ちに等しいレースだった」

「…………ありがとう。だけど、勝ちたかった……」

 

 初めての重賞でクビ差の2着。非常に強いレース内容だったが、勝利という結果だけが付いてこなかった。残り200mを切ったあたりで先頭に抜け出た時は勝てると確信させるほどだったが、最後の最後に1着のフィアーノロマーノに交わされてしまった。

 カレンモエのスタイルである先行は、得てして他のウマ娘の目標にされやすい。スタートが抜群に上手いのでスプリントでも好位の位置を安定して取れるうえ、1番人気を背負っていた彼女はおそらく他のウマ娘の恰好の標的にされていただろう。

 

 ほぼ勝っているようなレースだったのも手伝って、悔しいと思う気持ちを俺も一層感じていた。

 

「……でもね」

「ん?」

「また次があるから。トレーナーさんが一緒にいてくれるなら……モエはまた頑張るよ」

「…………そうか」

 

 彼女は今年高等部3年だが、卒業せず来年もトゥインクルシリーズを走り続けると正式に決めていた。面談をして親の同意も得ている。

 俺の担当ウマ娘は皆高等部3年で卒業を選んでいたので、そうなるとこれまで担当してきたウマ娘の中でカレンモエとは一番長い付き合いになる。

 よくメシを食いに(ついでに店に寄ったりもしているが)外出しているのもあって、気づけばプライベートでも共に長い時間を過ごしている。過去を振り返ってもカレンモエ以外にそんな付き合いのウマ娘はいない。キタサンとは時々出かけたりしていたが、キングヘイローやペティとはプライベートでの関りはあまりない。

 最初は休日に遅くまでトレーナー室に残っていたから、ついでだと思って何となくメシに誘っていたのだが、今は2人で一緒に行くのが当たり前になっていた。1人でメシを食いに行っているときは何も気にならなかったが、2人で行くことを覚えてしまうと、やはり1人はどこか淋しいし話し相手が欲しいと思ってしまう自分がいた。

 

 信号が赤になり、手持ち無沙汰に見回した車内には、彼女が選んだ芳香剤が置かれていたり、彼女が持ち込んだクッションが助手席にあったり、スマホを充電するケーブルも俺と彼女の2人分が常時繋がれていた。……今更ながら、大分浸食されていた。

 

 カレンモエとはそんな仲だからだろうか。それは思わず口をついて出た。

 

「……なあモエ」

「なに?」

「もしお前が故障とかして…………俺がお前に走るのは辞めて引退しろって言ったら、お前はどうする?」

「…………」

 

 信号待ちが解かれて、アクセルを踏みながらそんなことを訊いた。彼女にチラッと横目に視線をやると、相変わらずフラットな表情の中にある澄んだ青色の瞳と目が合った。彼女はこちらに身を乗り出していた。

 

「……なにかあったの? もしかしてさっきの検査、本当は異常が──」

「違うんだ。今日の検査は本当に何もない。…………すまんな変なこと訊いて。忘れてくれ」

「…………」

 

 訝しまれるような雰囲気が感じ取れたが、彼女は乗り出していた身を引き、背もたれに背を預けてから口を開いた。

 

「分からない。その時じゃないと分からないよ」

「……そうだよな」

「でも、トレーナーさんがもし引退しろって言うなら、その時は本気でモエのこと心配してくれてる。そうでしょ?」

 

 そう言われて、俺も“もし”の話を考える。

 ……その通りだった。故障が原因で走るのを辞めろと俺が言うなら、おそらく彼女に深刻なダメージが残ることを考慮してのことだろう。彼女の言う通り心配して憂いている自分が容易に想像できた。

 

「モエが走ってる理由はひとつじゃない。モエ自身のこともあるし、トレーナーさんとのこともあるんだよ。それにモエの気持ちだって、怪我をした直後と時間が経った後や、トレーナーさんに辞めろって言われる前と後で変わると思う」

「……なるほどな」

「うん。だから分からないんだよ。嫌って言うかもしれないし、トレーナーさんの言う通りにするかもしれない。モエが満足するまで走れたか、そうじゃないかによっても答えは違うと思う」

 

 同じ人物であっても立場や状況によって感情や考え方が変わるということ。

 改めて思えば、それは当然のことかもしれない。

 

「でもね、トレーナーさん」

「……なんだ?」

 

 

 カレンモエはまた身を乗り出して──

 

 

 

「トレーナーさんと一緒にいたいって、一緒にいて嬉しいってモエの気持ちは、何があっても変わらないよ。……ね?」

 

 

 

 ──俺の耳元で囁いた。

 

 

 耳に彼女の吐息がかかってくすぐったかった。

 

「…………そうかい」

 

 そうとしか俺は言えなかった。

 

「もし大きな怪我しても、モエがまだ走りたい、頑張りたいって言ったらトレーナーさんはどうするの? 強制的に引退させる?」

「それは……」

 

 答えはすぐに出た。

 

「強制的には絶対にさせない。お前が望むならどこまでも付き合ってやるよ。……もし本当に怪我が深刻なら、どうするかはお互いが納得いくまで話し合う。まあ、走りたいって言っても、10年20年経ってもレース続けたいとかは流石に困るが……」

「ふふっ。ありがとう」

「……なんで礼を言うんだよ」

「で、トレーナーさん。何があったか教えて」

「……は?」

「何かあったんでしょ。悩んでるの、モエ分かるよ」

「……参ったな…………誰にも言うなよ──」

 

 俺はカレンモエの待ち時間にサイレンススズカと会ったことを話した。怪我をして車椅子に乗っていた彼女が頭から離れなかったと。それだけを話した。

 

「トレーナーさん、もしかして()()()焼こうとしてる?」

「…………否定は出来ん」

「……そっか。なんか、トレーナーさんらしいね」

「俺らしい?」

「うん。お節介さんじゃなかったら、モエとは出会ってなかったって思うし。そんなトレーナーさんだからモエは…………ふふっ」

 

 彼女はそれ以上言葉を紡がず、悪戯っぽく笑っていた。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 後日、ある女に向けて俺はメッセージを送った。

 

『酒でも飲みに行かねえか。今回は俺の行きつけの店でどうだ。場所と時間は──』

 

 



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第58話 密会2

「ちょっと暗くない? 足元見えないんだけど。それになんか変な匂いするし……」

「近くで吐いた奴でもいるんだろ。ゲロ踏まないように気をつけろよ」

「げっ……!? はあ、もう最悪。ヒール汚れたら弁償してよ」

「誰がするか。自分で洗ってまた履け」

「……店選び、坂川くんに任せたのが間違いだったよ……」

 

 メールを送ってから数日後、お互い都合のついた今日の深夜に俺と天崎は2人で夜のドヤ街を歩いていた。今は話をするために飲み屋へ2人して向かっている途中である。

 明るく煌びやかな繁華街とは違い、街灯も最低限で道幅も狭く、一見して民家なのか店なのか判別の付かない古びた街並みが並んでいた。天崎が訴えた通り、あたりは()えた匂いが立ち込めており、お世辞にも良い匂いとは言い難い。俺はゲロとは言ったが、それだけではなく人間の生活臭やアルコール臭、どこからか漂ってくるお香やすれ違う水商売の女の香水の匂いなんかも混じっている。人間模様の清濁を併せ呑んだ坩堝のような匂いだった。なんのことはない、いつものドヤ街の匂いだ。

 

 通りから横道に逸れて、人間2人がギリギリ並んで歩けるぐらいの道を進んでいくと目的の店にたどり着いた。年季の入った木造の日本家屋に“居酒屋”、“営業中”と書かれた赤ちょうちんが二つが吊るされ、小さな暖簾が玄関にかかっていた。俺の行きつけの飲み屋だ。

 ここを選んだのはドヤ街なら顔見知りや記者もあまりうろついてないだろうとか、単に天崎をドヤ街に連れてきて嫌な顔をさせたかったとか、そんな理由があった。

 以前飲みに行ったときの彼女みたいに高いアクセサリーをつけていてはドヤ街では絶対に浮いて目立つので、ピアスや指輪は外して質素な普通の服装で来させていた。

 

「着いたぞ」

「……まあ予想はついてたけどさ。こんなみすぼらしい店、入ろうって気によくなるね」

 

 ぶつくさ言っている天崎を放っておいて先に暖簾をくぐった。狭い店内のL字カウンターには既に何人か客がいて、壁には手書きで書かれたメニュー表の紙が貼ってある。俺が通い始めた何年も前から全く変わらない光景だった。

 店内に足を踏み入れると、カウンターの奥で調理をしている顔なじみの初老の店主と目が合った。

 

「どうも。奥、大丈夫です?」

「おう。空けてある」

 

 そう返事をされたので、勝手知ったる俺は店の奥の方へ足を進めた。ちなみに予約はしてあった。

 この店には奥まった所にテーブル席がひとつだけある。なんとか4人座れるぐらいの小さなものだが、2人なら十分な大きさだった。

 

 2人して脚がガタつく木製の椅子に腰を下ろした。

 

「こんなとこのカクテルは何使ってるか分かんないし……生があるなら生でいいや」

「俺はホッピーでいいか……」

 

 一人で切り盛りをしている店主を手を上げて呼び、食べ物も併せて適当に注文した。

 俺が注文した焼き鳥盛り合わせ10本の値段が300円を切っていることに天崎は面食らったようで、本当に鳥を使っているのか不安そうに訊いてきた。味は鳥だと言っておいた。

 

「でさ。今日はなに? 何か用があるんでしょ?」

「別に。強いて言うなら、サイレンススズカのことだな」

「……へえ」

 

 運ばれてきたホッピーをグラスに注ぎ焼酎と混ぜると、グラスの中の氷が慎ましく音を奏でた。

 

 天崎は乾杯を要求することなく、生のジョッキに軽く口をつけた。

 俺も彼女に遅れて酒を飲んだ。

 

「……ここ、大丈夫? 誰か聴いてるのは──」

「この感じなら大丈夫だと思うが……」

 

 店内を見渡しやすくカウンターとは少し距離があり、隅にあるテレビが爆音で番組を流しているので、盗聴器でもないと盗み聞きは難しいだろう。客も数人しかいないし、テーブルに近いカウンターにも人はいない。

 

 酒に遅れて注文した品を店主が持ってきた。

 

「心配なら、近くのカウンターに誰か座ったら場所を変えるのはどうだ?」

「ん~……すぐ店変えるのも面倒だし、それでいいよ。で、スズカちゃんがどうしたの? 病院で会ったんでしょ? スズカちゃんから聞いたよ」

「ああ。この前あいつと会った。日本に戻って来てたんだな」

「正式にリリースはしていないけどね。あの病院で見た人がチラホラSNSで報告してるから、嗅ぎつけたメディアが取材に来たら発表しようかなって」

「なんで海外から戻って来たんだ?」

「怪我が治る見込みが無いって言われたからね。治らないのに金のかかる海外の病院に置いとく理由ある?」

 

 天崎は盛り合わせの焼き鳥を串から外しながらサイレンススズカの怪我の詳細について説明してくれた。

 天崎のウマ娘に対するスタンスについて今更言及する気はないので話を進めた。

 

「怪我の状態は?」

「日常生活には戻れるけど、元の走りに戻る可能性は0%。奇跡が起こってレースに復帰できるかどうか。復帰できたとしても未勝利戦でさえ勝つのは100%無理だろうってさ。良い医者何人も呼んで診てもらったけど、みんな一緒の意見だった」

 

 彼女が良い医者と言うのだ、世界的に高名な医師たちに違いない。その見立ては正しいのだと思う。

 

「あいつをどうするつもりなんだ?」

「引退させる予定だったよ。勝てない……稼げないウマ娘をチームで飼う必要ないでしょ?」

 

 ゴミはゴミ箱に捨てないとね──と彼女は言いながら、焼き鳥を外し終わった串をテーブル上の串入れに放った。

 

「ブライアンちゃんはまだいいけど、奇跡的に回復して現役続けさせたライスちゃんはDTLでもさっぱりで賞金全く稼げてない。そのくせ身体のケアで莫大な金を食い潰して赤字を生むだけ……元の競走能力に戻るかもって私の甘い算段が裏目に出た。チームの資金繰り考えたら金食い虫はいらないよね。ライスちゃんは年末のWDT終わったら引退させるから、スズカちゃんと一緒に引退式する方向で調整してたんだけど…………」

「……けど、なんだ」

「スズカちゃんがやっぱり現役続けたいって言い出したんだよ。坂川くんと会ってから」

 

 じろっと天崎の視線が俺に突き刺さる。

 

「あの娘になに吹き込んだの。坂川くんと会う前まで引退受け入れてくれてたんだよ」

「なにもしてねえよ。言いたいことがあるなら天崎に言えって、そう話しただけだ」

「……余計なこと吹き込んでるじゃん。ゴネるスズカちゃんを説得するの本当に面倒だったのに……私の努力が水の泡だよ。シリウスの皆もスズカちゃんの現役復帰を応援する、手伝うってうるさいし。それで現役続行の決意も前より強くなったみたいで。“景色”がまた見たいとか、ほんとどうでもいいし意味分かんないし。はあ~、責任取ってよ坂川くん」

 

 天崎は気だるげに頬杖をついた。

 

「私、ただでさえジャパンカップのことで機嫌悪いのに。スズカちゃんのことまでってなると…………坂川くんのあることないことメディアの前で口滑らしちゃうかもねえ……?」

「…………」

 

 この前のジャパンカップでスペシャルウィークは3着に敗れていた。1着は天崎の目の敵、清島のチームアルファーグに所属するエルコンドルパサーだった。

 

 揶揄うことだけが目的の脅迫を無視して話を続ける。

 

「……それでも引退させるつもりなのか?」

「うん。現役を続けさせる理由ある? ……でも、“天崎ひより”としては、シリウスの皆がああ言ってるから無下にできなくて困ってる。説得がほんと面倒。次は泣き落としでも試してみるかなあって思ってた。『スズカちゃんの身にまた何かあったら……私、耐えられないよ……』って感じで」

「お前にしちゃ苦しいな」

「うるさい。……使えるものなら何でも使うしかないからね。でもスズカちゃんより重症だったライスちゃんが現役続けてた経緯があるから、そのこともシリウスの皆が持ち出してさあ…………スぺちゃんなんて付きっきりでお世話するとか言うし。ジャパンカップで無様に負けたくせに、他人の面倒見る余裕なんてないのにね。まあ、私としては結構弱ってるのが正直なところ。でさ、坂川くん」

「……なんだ?」

「もう一度聞くけど、何か用があるんでしょ?」

 

 その挑発めいた笑みから、俺が何のために呼び出したのか彼女は察しているようだ。

 

「……お前がサイレンススズカを見捨てるなら、拾ってやろうかと思った」

「へえ~……やっぱりね。坂川くんがゴミ箱になってくれるんだ?」

 

 見透かされていたことにばつの悪さを感じた。

 

「スズカちゃんが可哀想になって同情しちゃった? それとも坂川くんのタイプだったとか? ああいう娘が好みだったんだ~。彼氏はいないから手籠めにするならチャンスだよ?」

「走りたいってあいつが言ったのが気になっただけだ」

「ふ~ん。一応訊くけど、スズカちゃんを引き受けてどうしたいの? あの娘は走りたいって言ってるけど、レースに復帰することさえ夢みたいなことなんだよ?」

「ああ。確かにお前の話が本当なら復帰も難しいだろうな」

「言っとくけど怪我について嘘はついてないよ。一般的な視点で言うけどさあ、走れない娘に夢を持たせるのも残酷だと思うけど?」

「別に夢を持たせようなんて思ってねえよ」

「……ならなんで」

 

 俺ならサイレンススズカを復帰させられる……なんて思い上がったことを考えてはいない。

 

「あいつにチャンスと時間を与えたいんだ」

「チャンス? 努力したって走れなかったら意味ないでしょ。無駄な努力して、余計に悲しむだけじゃない?」

「……そうかもしれないな。だが走りを辞めるにしても、今お前に辞めさせられるのと、向き合ってから辞めるのとではおそらく違うんだ」

「よく分かんないなあ。後悔するだけじゃん。無駄になる時間と努力に何の意味があるの?」

「お前の言ってることは分かる。俺の見当違いで、サイレンススズカに恨まれるかもな」

 

 叶わないのに努力するのは無駄だと、天崎の言うことは間違ってはいないのかもしれない。

 ……いや、間違ってるとか正しいとかの話ではないのだ。天崎の考えと俺の考えが異なっているだけのことじゃないかと思う。

 

「だが向き合うことで得られるものは必ずあると思う。もし後悔しても、それが必ずしも悪いことだと俺は思わない。後悔は糧にできると思うんだ」

「それは坂川くんの勝手な考えでしょ。無責任だね。後悔しないようにって、普通は言わない?」

「かもな。……で、どうだ。もしお前がサイレンスズカを手放したいなら、俺のチームに移籍させるのはどうだ? お前は復帰させるために面倒見る気ないんだろう」

「そうなんだけど……ん~……」

 

 天崎は食事する手を止めて小さく唸ってから口を開いた。

 

「引退させてシリウスをさっさと辞めさせたかったから、正直移籍についてはオッケー。()()()()()使()()()()し。元々シリウスにも移籍してきた娘だからね。でも問題がある」

「問題?」

「表向きに移籍する理由を考えないといけない。走れないから捨てたって多少なりとも思われるのは仕方ないけど、私とシリウスへのダメージは最小限に抑えたい」

「保身ってことか」

「そうだよ。シリウスの娘たちへの説得と、メディアに対しても体裁のいい理由を用意しないと。ウマ娘から私への信頼が揺らぎかねないし、これからのスカウト活動に直接影響するだろうから。あれだけ注目されてたウマ娘だから余計にね」

「理由、か……」

 

 サイレンススズカのことなんて1ミリも思ってもいない天崎は置いておいて、天崎が納得する理由を考えつかないと移籍は実現しないだろう。

 俺も一緒になって天崎やシリウスへのダメージを最小限に抑える移籍理由を考え、少し時間を置いたあとにそれを提案した。

 

「俺が故障や怪我に詳しいトレーナーってことで移籍させた──ってのはどうだ。お前と俺は同期なんだ、それも付け加えたらいい」

「それは私も真っ先に考えたけど…………実際、坂川くんなら故障についても詳しいんだろうけど、証明のしようが──」

「故障や怪我に強いって証明……印象付けたらいいんだな。……年末に発表会あるだろ」

 

 トレセン学園では頻繁にトレーナー間での事例検討や発表会などを行っているが、年に数回は大きい規模のものを催している。年末に開催されるのもそれだった。その内容は後から外部にも公開される。

 

「そのときに故障や怪我に関する総説……Reviewっぽいのを出して発表する。学術雑誌にアクセプトされるレベルまで仕上げたら問題ねえだろ」

 

 論文におけるReview……日本語なら総説論文やレビュー論文とも言うが、関連する世界中の論文を基に、先行研究の知見をまとめ上げたものになる。

 実際には投稿していないのでアクセプトどうこうの話ではないが(そもそも一回でアクセプトされる論文なんてハゲタカジャーナルでもない限りほぼあり得ない)、それに準ずるクオリティのものだと思わせればいい。

 

「……出来るの? て言うか演題登録の締め切りって先週じゃなかったっけ?」

「ここ最近発表してなかったから適当に演題考えて登録だけしといたんだ。あんま発表してねえと学園の方から突っつかれるし」

 

 あくまで学園内……身内での発表なので、演題の差し替えなどはあらかじめ申請すれば可能など、その辺は結構緩く自由が利く。

 

「論文なら365日読み漁ってる。自分で言うのもなんだが、そういう知識量は俺はトレセン学園でトップだと思う。纏めてちょいちょい指摘入れりゃいいだけだ」

 

 ……かつての先輩も同じようなことを言っていたことを、不意に思い出した。

 

「え~……1ヶ月で出来るとかドン引きなんだけど。本当に出来るの?」

「やるしかねえだろ」

 

 トレーニング関連については手を抜けないので、その空き時間を使うことになる。睡眠時間を削って、最後の数日は完徹すれば完成すると見込んでいた。

 

「どうだ、もしそうならお前の問題はクリアか?」

「確かにそれなら移籍についてある程度の納得は得られそうだね。内にも外にも。シリウスの皆にも、怪我の治療のために私より詳しいトレーナーに任せるって話なら受け入れやすいだろうし。落とし所としてはまあまあかな。タイミングが良すぎて疑われはするけど……許容範囲かな」

 

 どうやら彼女の同意は得られたようだ。

 

「坂川くんのところにもメディア来るけど大丈夫? 誹謗中傷とまでは言わないけど、なんか言われたりするかもね。あと治らなかったらもっと叩かれるかも?」

「好きにさせときゃいい。俺んとこのウマ娘と、キタサンに何かない限りはな。……なあ」

「なに?」

「俺とキタサンのこと、知ってる奴はどれくらいいるか分かるか?」

 

 シリウスにいて他のトレーナーたちとの交流も多く、URAとも密接に関わってる天崎ならその辺の状況を把握してるのではないかと思い訊いてみた。当事者では中々把握しづらいのだ。

 

()()に関しては知ってる人は少ないと思うよ。あの時のシリウスの他のサブの人達も知らないみたいだったし、私も幸ちゃんから聞いたからだし。ただ坂川くんとキタサンが何かしら揉めたってことを覚えてる人はいるかもね。でもトレーナーとウマ娘が揉めるなんてトレセンじゃ日常茶飯事だし、URAの隠蔽が上手かったのか客観的に見て坂川くんのが際立って目立ったわけじゃない。救急車だって、トレーニング中の大怪我で学園内まで入ってくることはそこまで珍しくもないし」

「……そうか」

「キングヘイローが活躍して表に出てきてる今も大丈夫なんでしょ? なら今更キタサンのこと蒸し返されることはないでしょ。サブからチーフへ担当が移るのも普通だし。自意識過剰とは言わないけどさ、他人やメディアは坂川くん程度にそこまで興味ないんじゃないかなー。最近のことならまだしも10年前のことだからね」

「ならいいんだが……」

「ま、私の主観でしかないけどね。それより話進めよっか」

 

 

 その後、具体的なスケジュールについて打ち合わせをした。チーム移籍の書類手続きやリリースの時期、メディア対応での話の合わせ方など、今決められるものはほとんど決めた。

 話しているときからカウンターには常に目を光らせていたが、テーブル近くに座る客はいなかった。

 

 

 話が一段落すると、天崎は大きく伸びをした。

 

「ん~~。ふう、こんなもんかな。あとはまたメールとかで打ち合わせで」

「ああ。そろそろ出るか。……なあ」

「なに?」

 

 最後に、天崎の言葉の中で気になったことについて訊いた。病院で会った時のサイレンススズカが口にしていたことだ。

 

「サイレンススズカの、“景色”を見たいっていうのはなんだ?」

「さあ? なんかそれが走る目的らしいよ。自分の好きなように走ったらその景色ってのが見えるんだって。それで走ってくれるならって適当に話合わせてただけだから、何かは知らない。移籍するなら本人に訊いてみれば?」

「……」

 

 サイレンススズカへのあまりの無関心さに言葉を失った。

 だがそれで別のトレーナーの元では苦戦していたサイレンススズカを逃げに徹させることで能力を引き出し、宝塚記念やあの毎日王冠を勝たせたりと、トレーナーとして結果は残しているのも事実だ。そもそもウマ娘へのスタンスだってトレーナー一人一人によって違うのだから、一方的にそれを非難することはできない。

 

 次に会った際に、彼女本人に“景色”については訊いてみることにしよう。

 

 

 2人で店を出ると、更けた夜が辺りに広がっていた。

 

「あ、そう言えば」

「どうした」

 

 タクシーを探して歩いていると、天崎が思い出したかのように口を開いた。

 

「坂川くんはスズカちゃんになんて言うの?」

「は?」

「坂川くんは必ずしも復帰させることを考えてないんでしょ?」

「…………」

「スズカちゃんは元のように走れることを望んでる。そんな娘に走れないなんて、言えるわけ──」

「言うぞ。嘘はつかねえ」

 

 隣にいた天崎の足が止まった。

 

 俺は気にせず歩みを進めていると、コツコツと速いテンポのヒール音が近づいてきた。

 

「今のお前の言葉を少し訂正するが、そもそも俺は絶対に走れないなんて思ってねえぞ。お前んとこのライスシャワーみたいに、治療がうまくいって走れるようになる可能性は決して0%じゃない。だが可能性は限りなく低いってことはちゃんと伝えるつもりだ」

 

 ドラマや小説のような奇跡なんてそう起こるものじゃない。現実はどこまでも残酷であることを俺は身をもって経験している。

 

「……スズカちゃんが受け入れられないって言ったら?」

「さあな。その辺は上手くやるさ。シリウスに戻られてお前に辞めさせるのだけは避けないとな。それでも俺は嘘はつかねえよ。無責任な甘い言葉なんて、相手と……自分も、傷つけるだけだからな」

「……」

「言葉にするなら責任を……ちゃんと背負わねえと」

 

 少し広い通りまで来ると、空のタクシーが通ったのでそれを呼び止めた。

 

「ほら、お前はこれ乗って帰れよ。別々で帰った方が変な噂立たなくて済むだろ」

「……ありがと。じゃあね、坂川くん」

 

 天崎は無言でタクシーに乗り込んだ。タクシーはドヤ街から逃げるように去っていった。

 

「俺も帰るか」

 

 しばらくしてからタクシーを捕まえた。

 

 学園に戻ったその日からReviewの作成に取りかかった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 あるタクシーの中、呟かれる言葉がひとつ。

 

 

「……んとに、ムカつくなあ……はあ。仕方ないか……今回のは渡りに船だし……」

 

 



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第59話 景色とは

 サイレンススズカと再び会ったのは12月中旬、彼女の病院での個室だった。ベッドで体を起こしている彼女の左脚にはあの日と同じ形のギブスが巻かれていた。

 

「よう。あの時ぶり以来だな。天崎から話は聞いてるな?」

「……はい。坂川さんのチームへの移籍を……と」

 

 天崎からサイレンススズカへの移籍話については概ねうまくいったと連絡があった。

 しかし移籍についてまだ最終的な決断には至っていない状況らしい。仲の良い仲間がいて結果も残したシリウスから離れるのは簡単な決断ではないだろう。

 そういう背景もあって、一度彼女と話をすることになったのだった。天崎も一緒に病院には来たが、別の場所で待機してもらっている。

 

「あの……」

「どうした?」

「坂川さんなら、この脚を……」

 

 彼女は左脚のギブスをそっと撫でた。

 

 

「……治せますか? 私は、また走れるようになりますか?」

 

 

 単刀直入。真正面から俺へとその言葉は放たれた。

 

 ここで彼女に移籍を断られたらそれで終わりだ。おそらく天崎は強制的にでも引退させるだろう。それだけは避けなければいけない。

 しかし天崎に宣言した通り、絶対に治るなんて無責任なことは口が裂けても言えない。それはサイレンススズカに対しての裏切りだ。

 

 ベッド横にある椅子に座り、縋るような彼女の視線を受け止めた。

 

「正直に言うぞ。脚が治って走れるかどうかは分からん」

「っ!? そ、そんな……」

 

 不安そうな彼女の顔に更に陰が落ちた。

 

 こんな顔をウマ娘にさせたくないし見たくもない。

 だがここで彼女に腹を割って向き合わなければならない。逃げたら移籍した後にすれ違いが起こるだけだ。

 

「少し話を聞いてくれ。もちろんお前の脚が治るように様々な治療やケアの提案はする。復帰に向けても最大限サポートに努める。でも治って元通りに走られるかどうかは分からない……。俺は神でもなけりゃ魔法使いでもないんだ」

「……なら…………」

「……なら、なんだ」

「なぜ、私をあなたのチームに──」

 

 

 ──移籍させようと思ったのですか? と続いた。

 

 

 研究の発表はまだだが、天崎からは俺が怪我や故障に詳しいと聞いているだろう。脚が治って走れると、その希望を託そうした相手にこんなことを言われたのだ。当然の反応だろう。

 移籍させるのは彼女のためを思ってと言えば聞こえはいいが、当人にとって良いことかどうかは分からない。

 

 地獄を見るだけかもしれない

 俺を恨むかもしれない。

 シリウスに残った方が良かったと、そう思われるかもしれない。

 

 どこまで行っても、これは俺の自分勝手な行為なんだろう。

 

 だがあの日に会った時に彼女は走りたいと、景色を見たいと言っていた。その気持ちが僅かでも残っているのなら、走ることやレースへの復帰に向き合うべきだと思ったのだ。

 ここで天崎に辞めさせられたら、その機会は永遠に失われてしまう。

 

 彼女も今は自身にとっての“底”にいるのだと思う。

 

 

 ──それでも、私は走りたいんです…………また“景色”を見たいんです。おかしい、でしょうか……──

 

 

 病院の中庭で虚空を見つめるあの表情を今でも鮮明に覚えている。

 

 そこで足掻くことは意味があるのだと、俺はそう思いたい……

 

 

 

 ……いや、意味はあるんだ。

 

 

 

「ただ、病院で会ったお前の顔が忘れられなかった」

「私の……顔?」

「お前は俺に走りたいと……“景色”を見たいと言っていたな。覚えているか?」

「……はい」

「あれが耳に残ってた。俺にできることがあるなら手を貸してやりたいと思った。理由ならそれが全てだ」

「……」

 

 黙るサイレンススズカ。俺の言葉が届いたかどうかは分からない。

 

「それとな」

「……何でしょう?」

「その“景色”ってのは何か、教えてくれるか?」

「……“景色”は──」

 

 彼女はたどたどしくではあるが、“景色”について説明してくれた。“景色”を追い求めてこれまでレースをしてきたと。

 それはレースなどで走っていると見えてくる……至るものらしい。あらゆるものが綺麗で、何にも邪魔されず、気持ちの良い瞬間に出会える。具体的には、彼女自身だけの蹄鉄の音、先頭で受ける風、ターフの先に広がる水平線など、そのどれもが心地よく、何よりも楽しいのだと。

 その“景色”をたくさん見るために、彼女が走ることで周りの人やウマ娘にも“景色”を見せるために、彼女は走りたかったのだと言った。

 そして最後に、走ることは何よりも楽しいと。まだまだもっと見たことのない“景色”を見てみたかった、見られるはずだったと。

 

 

 自身の中にある抽象的なものを、彼女は懸命に言語化して伝えてくれた。

 

「それがお前の言う“景色”か」

「……うまく説明できていないのは分かっています……」

「いいや、ちゃんと伝わったよ」

 

 全てを掴み切れたとは言わないが、“景色”とは満たされた瞬間のことなんだろうと、そんなことを思った。彼女を外部から見ていた俺としては、『逃げて差す』と言われたあの夢のような走りも……もしかしたら“景色”のひとつなのかもしれない。

 

 

「確かにお前の走りは凄かった。走ってるお前も“景色”を見て気持ちよかったのかもしれないが、見ている俺も────」

 

 

 

 

 ──そこでふと思う。サイレンススズカは他人に“景色”見せたいと言った。つまり彼女を見る立場でも“景色”を見られる可能性がある。

 

 ならば“景色”とは、走ることだけに縛られたものなのだろうか。

 

 

 

 

 

「……今は“景色”は見えそうにないか?」

「……はい。今はもう……見えません。すぐ目の前には大きな暗闇が広がるだけで……」

 

 虚空を眺める視線の先には、ただ暗闇があるばかりと想像するといたたまれない気持ちになる。

 “景色”のために天皇賞秋で彼女が支払った代償はあまりにも大きいものになってしまった。

 

 サイレンススズカについて少し整理すると、走ることもそうだが、より“景色”に執着しているように思えた。

 “景色”を見ることが存在意義であるような彼女にとって、現状は絶望的な状況だろう。

 

 

 そんな彼女に俺は何をしてやれるだろうか……なんて、バカみたいに間抜けなことを一瞬でも考えてしまった。

 

 

 何かしてやるために、この移籍話を持ち掛けたんじゃないのか!? 

 腑抜けたこと抜かしてんじゃねえぞ! 

 

 

 自分自身にそう叱咤してから口を開いた。

 

 

「お前は“景色”を見たいんだな。またあの“景色”を……これからも見たことのない“景色”を見たい。そうだな?」

「え、ええ……はい……?」

「さっきも言ったようにお前の脚が治るとか、また走れるようになるとかは俺は約束できない。分からない。でもな──」

 

 

 俺は自分の意思で彼女の人生を捻じ曲げて背負おうとしてる。

 夢を語ること。約束をすること。どちらも誰にだってできることだ。若い頃の俺だって何のためらいもなくできていた。

 しかし今は違う。それは真に重いものだと、今の俺なら理解できている。

 

 

 だから言い切るんだ。覚悟を決めろ。

 

 

 これだけは約束してやらないといけないんだ。

 

 

 キングヘイローにGⅠを勝たせてやると言った、あの日のように。

 

 

「──“景色”を……絶対に見せるって約束する」

 

 

「え──」

 

 

 サイレンススズカの目が少しだけ見開かれた。

 

「元の“景色”を見られるかどうかは……すまないが、俺には分からない。でも、“景色”だけは必ず見せてやる」

「……坂川さんが見せてくれる“景色”…………」

「走ることもそうだが……走りに向き合うことで、新しく見えてくるものは必ずある。それは“景色”にも繋がっているって、俺は思うんだ」

「走ることだけじゃなくて、走りと向き合うことでも……」

「ああ。お前は走りで俺たちに“景色”を見せることができるんだ。だから“景色”ってのは決まった形のものじゃない、色んな形があるんだと思う」

 

 彼女は視線を落として考え込んでいた。

 

「お前にとっての新しい“景色”……それを一緒に探しに行こう。お前が行くならどこまででも付き合ってやる」

「……」

 

 言葉は尽くした。

 

 俺は彼女の返答を待った。

 言えることは言った。嘘偽りのない俺の思いを伝えた。これで駄目なら──

 

「私は“景色”を見られるんでしょうか?」

「……ああ。お前は“景色”をまた見れるよう、俺も精一杯やる。それに……」

「……?」

「俺にも、お前の“景色”を見せてほしい。いや、俺もお前と一緒に“景色”を見たいんだ」

「……!」

 

 彼女の陰った表情が晴れていく。

 

「……あの」

「なんだ?」

「私も、また“景色”も見たいです。坂川さん……ううん、()()()()()()()にも私の“景色”を見せてあげられるように、頑張ります」

 

 彼女は俺を目を見て『トレーナーさん』と言ってくれた。そういうこと、なのだろうと思う。

 

「改めまして。サイレンススズカです。これからよろしくお願いします」

「坂川健幸だ。これから頼むぞ。なら早速」

 

 俺はメモ帳を取り出してペンを走らせた。

 そして書き終えたメモをちぎって何枚か彼女へ渡した。

 

「? これは……?」

「病室でもできる筋トレだ。リハビリの内容を天崎から聞いた。患部まわりのリハビリは十分行っているが、右脚と体幹のトレーニングは不十分だ。足りない。リハビリできる時間が決まってるから仕方ねえが…………そのメモにさっき言った筋トレメニューを書いてる。毎日欠かさずそれをやれ。また走れるようになるためだ。いいな?」

「えっ? あ、はい……分かりましたっ」

「連絡先教えとくから、物足りなかったり逆にキツかったらすぐに言え。あとくれぐれも左脚を鍛えようとは思うなよ。左脚については担当の医者と理学療法士に任せとけ」

 

 メモに携帯の連絡先を書いて渡した。

 

「よし。俺はこれで今日は帰る。また明日にでも顔を出す。お前の両親とも話さないといけないから、また打ち合わせをしよう」

「……はい。また、よろしくお願いします」

「ああ。それと後から天崎が来る。あいつに……ちゃんと礼を言っとけよ」

「はいっ。あの人がいなければ、今の私はありませんから。感謝の気持ちを伝えます」

「……そうか。じゃあな」

 

 そうして俺は軽く手を振って病室を去った。

 

 

 落ち合う場所となっていた病院内の喫茶店にて天崎と会った。平日の午前中、しかも中途半端な時間帯なだけあって客は全くいなかった。

 

「終わったぞ。移籍してくれるようだ」

「うん。知ってるよ。()()()()

「は……!? お前……!」

 

 彼女はわざとらしく髪をかき上げて左耳を見せてきた。そこにはワイヤレスイヤホンがついていた。

 

「盗聴してやがったのか……!」

「当たり前じゃん。移籍のために私の本性がとか引き合いに出されたら困るし。保険だよ」

「チッ……」

 

 元からそんなことは言う気が無かったが、だからと言って盗聴されていい気分のはずがない。

 どこかに盗聴器が仕掛けてあったのだろうが、全く気がつかなかった。もっとも、気づかれるような場所に彼女が設置するはずもないが。

 

「坂川くんはああいう風に言うんだね」

「何をだ?」

「私はあの娘に“景色”を見たいなんて言ったことなかったからね。前も言ったけど、“景色”とか意味不明だったからさ」

「……俺だって全てを理解したわけじゃない。でもあいつの気持ちみたいなものは伝わったからな」

「ふ~ん。ま、もう私には関係ないからいいけど」

 

 天崎は最後にカップに一口つけ、イヤホンを外してカバンにしまって立ち上がった。

 

「じゃ、私もスズカちゃんのとこ行ってくるよ」

「……ああ」

「明日からよろしくね」

 

 いつもと変わらない様子の彼女の背中を見送って、ため息をひとつついてから気づいた。

 伝票がテーブルに置いたままだった。

 

「チッ……あいつ……」

 

 天崎の分だけ払うのも癪なので、俺も自分の分のコーヒーを注文した。

 

 

 いつもは入れないミルクと砂糖を入れて飲んだコーヒーの味は、思ったよりも甘かった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 有馬記念の数日前に催された学園の研究発表会にて、俺はウマ娘の怪我や故障についての口演発表を行った。同時に発表の元になったReviewも発表会の資料の付録として配布した。あくまで雑誌に投稿させる予定のものではなく、配布資料としての形をとったが、内容的にはアクセプトできるレベルまで論文として仕上げたつもりだ。……実は、清島に一度メールで送って見てもらい、いくつか口出ししてもらって修正していた。

 質疑応答も問題なく答えることができて、反応を見るに概ね好評だったように思えた。印象付けとしては十分だったようで、天崎には再び『ドン引き』とお褒めの言葉を頂いた。最後の数日は完徹した甲斐があった。

 

 

 それからしばらくして、有馬記念が終わった次の日のトレーニング前に、サイレンススズカを学園に連れてきてチームの面々と顔合わせさせた。

 事前に聞かされていたとはいえ、キングヘイローとペティの2人は面食らった顔をしていた。逆にダイアナヘイローが感激したように話しかけていた。それを見て若干の緊張は解けたのか、ダイアナヘイローが離れた後に2人ともサイレンススズカと言葉を交わしていた。

 彼女が移籍してきた経緯をキングやペティには話していなかった。同じチームで過ごすのだから追々分かって来るだろうし、仲が深まってきたらサイレンススズカ本人から話してくれるだろうと思ったので余計なことは言わなかった。

 事の顛末を全て伝えている(天崎とのことを除いて)カレンモエはいつもの態度を崩さなかった。サイレンススズカと一言二言最低限の自己紹介をしているの見るに、同学年であったが面識はなかったらしい。

 

 その日はトレーニングが終わるまで学園にいてもらい、キングヘイローの有馬の振り返りを一緒に行った。

 

 

 

 ホープフルステークスの翌日、正式にシリウスから俺のチームへサイレンススズカが移籍するとリリースされた。

 流石に大ニュースだったようで、発表当日からSNSなどのネット媒体は勿論、テレビのニュースでも俺が取り上げられていた。表向きにピックアップされていたのは天崎と同期であることや、俺が怪我や故障について学園で発表したことだった。

 大手メディアは概ね応援すると好意的な報道してくれる一方、ゴシップに近いネットニュースやSNSではまあ好きなことや否定的なことを書かれているようだった。

 全部に目を通したわけではないが、『シリウスのトレーナーは怪我したから捨てたんでしょ』なんて声も多くあり、それに『ライスシャワーやナリタブライアン、メジロマックイーンは重い故障してもシリウスで面倒見てるだから別の理由だろ。シリウスのトレーナーがそんなことするわけない』と少数ながら反論されていたり。

 曰く『シリウスの天崎と坂川はデキてんじゃね? 同期なんだろ』、『シリウスのトレーナーさんは優しいから坂川に脅されたんじゃない?』、『絶対シリウスにいた方がいい』、『治せるわけないじゃん。坂川はサイレンススズカを移籍させて売名したいだけ』など。

 

 中にはごく少数アルファーグやキタサンブラックのことについて述べているものあったが、そういう経歴だったという以上のことは無く、胸を撫でおろした。

 

 キングヘイローのトレーナーとして名前を売っていたので、多少は知名度があったのも助けになったみたいだった。キングヘイロー担当以前だったら更にバッシングを食らってただろう。

 

 

 騒ぎは予想される範囲に収まった……というのが俺の見当違いだったと分かるのは、年を越してからのことだった。

 ホープフル後は報道機関も年末年始ということで活動を縮小していたようで、正月休みが明けてから俺へのインタビューや取材のアポが殺到した。予想以上のことだったので流石に辟易した。改めてサイレンススズカというウマ娘の存在の大きさや影響力には驚かれた。

 全てに応じていてはキリがないので、月刊トゥインクルをはじめとした大手の出版社やテレビ局に限って取材を受けた。

 どのメディアも移籍の経緯と治る見込みはあるのかと訊いてきた。移籍については天崎、サイレンススズカと話し合った上で決めたと答えた。治る見込みについては、全力を尽くすと、当たり障りない返答に終始した。復帰に向けて取り組む予定のトレーニングや治療についても一部公開した。

 案の定メディアの反応は微妙なものが多かったが、月刊トゥインクルの女記者など好意的に受け止めてくれる者もいた。

 

 学園内に目を向けると、キタサンブラックとのことについて蒸し返されたり噂が流れたりしている雰囲気は無かった。天崎と清島にも訊いて確かめたが、少なくとも2人の周りではそういう声は聞こえてこないとのことだった。忘れられているのか、覚えているが口にされていないだけなのかは分からないが……

 ただサイレンススズカについてはトレーナー間でも色々好き勝手言われているようだ。天崎に怪我人を押しつけられて可哀想な奴だと同情的な声や、逆に目立ちたいだけと批判的な声など……まあ、気にせずやっていくしかない。

 

 サイレンススズカは入院しているだけあって、公にメディアが突入していくなんてことは無かったらしい。それでも見舞いに扮して接触してくる奴はいたようだったが、一切何も答えるな、トレーナーに口止めされていると言えばいいという俺の指示通りに動いてくれていたようで、大きな騒ぎにはならなかった。こんな状況を見ると、不幸中の幸いと言ったら不謹慎かもしれないが、入院してくれていて良かったのかもしれない。

 

 

 

 そんなサイレンススズカも2月には退院して、学園生活に戻ることができた。まだ移動は車椅子のことが多いが、寮内なら松葉杖で歩ける程度には回復していた。

 病院と連携して復帰に向けたトレーニングを行うと同時に、俺は空いた時間でサイレンススズカにレースの傾向や作戦、そしてスポーツ医学やトレーニング理論などの座学を行っていた。加えて土日の中央のレースを全て見た上で勝ちウマ娘の短評を書く……というのも課していた。

 現時点で想像できる範囲だが、走れるように戻ってもかつてのスピードを取り戻せない可能性が高い。もしそうだったら、故障前のように圧倒的なスピードに任せた逃げはできない。逃げをするにしても()()()()や、そもそも作戦を変える必要があるかもしれない。彼女は“景色”のこともあり、逃げに拘りを持っているのは知っている。しかし、それで勝てないとき…………その時の選択肢の幅を少しでも広げておくためだった。

 この座学や課題が生かされる日が来るかどうか……正直、確信はない。邪魔になるだけの可能性もある。だがそれでも俺はこの座学やレース分析が意味を成す時が来ると信じている。レースでも、()()()()でも。

 

 

 サイレンススズカとの歩みはまだ始まったばかりだ。

 彼女に対する俺のスタンスも、これまでのウマ娘と何も変わらない。

 

 彼女が再び“景色”を見られるように、俺も一緒に見られるように、全力で彼女に応えるだけだ。

 

 

 

 



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幕間2
第60話 閃光乙女との三者面談


 カレンモエがシニア級1年の秋、3勝クラスの長篠ステークスを勝った一週間後の土曜日。

 休日のトレーニングを午前で終えた昼下がりのトレーナー室に、俺を合わせて2人の姿があった。

 

 俺はいつもの作業服からフォーマルな服装に着替えて、壁掛けの時計に視線をやりながらその時を待っていた。もう10分足らずで予定の時刻になる。

 

 お茶の湯は沸かした。お茶請けは既にテーブルに用意した。掃除もした。話すことだって決めている。

 準備は万端……なのだが、自分の城ともいえるトレーナー室なのに気分は落ち着かず、そわそわしているように我ながら感じる。

 

「…………」

 

 遊びではない。大事な話をしなければならないのは確かだ。

 だがまあ、そもそもの話──

 

「……トレーナーさん」

「なんだ?」

 

 俺に声をかけたのは、休日なのに制服を着ているカレンモエ。

 ここトレーナー室で俺たち2人はあるウマ娘が来るのを待っていた。

 

「緊張してるの?」

「……作業服以外は落ち着かねえと思ってただけだ」

「そう……? あ、ママ学園についたってメッセージ来たよ」

 

 ママ──カレンモエの母親、カレンチャン。俺たちは彼女が来るのを待っていた。

 

 

 今日は何を隠そう、三者面談の日なのだ。

 

 

 ◇

 

 

 そもそも、俺はカレンチャンのことが少し苦手だった。基本的には好意的に接してくれて助かるのだが、時々予想もしないような……返答に困ることを訊いてくることがある。これまで何度か行った面談の中で、彼女の手のひらで踊っているとは言わないまでも、会話の主導権はほぼ彼女に握られていた。

 

 

 カレンモエにメッセージが届いてから数分後、そのカレンチャンが遂にトレーナー室までやって来た。

 

「失礼します。こんにちは、トレーナーさん!」

 

 彼女の一切曇りない笑顔とキラキラ輝くオーラにたじろぎそうになったが、平静に振る舞うよう努めた。

 

「こんにちは。本日はよろしくお願いします」

「ママ……!」

「モエちゃんも! 会うの久しぶりだね」

「うんっ」

 

 暗い色のタックブラウスに膝丈の赤いフレアスカートを身に着けたカレンチャンをカレンモエが迎え、2人は近況を話し合っていた。母娘の仲は相変わらず良好なようだ。

 年末年始でも帰省しないカレンモエにとって、面談は親と会える貴重な機会だ。表情を柔らかくしてカレンチャンと話している光景はとても微笑ましかった。

 2人は本当によく似ていた。カレンチャンも実年齢である30代になんて見えず、傍目からは双子の姉妹にしか見えない。2人の関係を知らない者が100人いたら、その内100人が双子だと答えるだろうと思うほどには瓜二つだった。

 一方で、カレンモエをよく知っている俺は一瞬で見分けがつく。カレンモエの方が濃い芦毛であることや、目鼻立ちのパーツが似ていても明るい表情の母とフラットな表情の娘など、外見的な差もあるが、そもそも醸し出す雰囲気が母娘で全く違うからだ。

 

 

 俺は茶を淹れてテーブルに着き、並んで座る母娘2人と向かい合う形になった。

 

「トレーナーさん、今日もカッコいいですねっ」

 

 ──来た。見え透いたお世辞だ。キャバクラの女の常套句じゃあるまいし……これには──

 

「……ありがとうございます」

 

 ──こう答えておけばいい。否定は付け入る隙を与えるだけだ。

 

「あっ、トレーナーさん冗談だと思ってます? ウソじゃないですよー。本当にカッコいいって、思ってるんですから!」

 

 ありがとうございますと返した意味が無かった。

 

 その声色に一切の嘘を感じさせないのが恐ろしい。若い頃の俺ならコロッと騙されていたかもしれない。

 

「外見だけじゃなくて、モエちゃんからトレーナーさんのカッコいいところやカワイイところもたくさん聞いて知ってますし」

「!? ちょっと、ママ……!」

 

 カレンモエは困ったようにカレンチャンの服の裾をくいくいと引っぱっていた。

 ……俺にカッコいいところなんてあるのだろうか? カレンモエの前では酒で酔いつぶれたりや泣いたりなど、大人にあるまじき情けない姿しか見せてない気がするが……

 アラサーのおっさんがカワイイ? 意味が分からなかった。

 

「それにですけどー。実は私、トレーナーさんのこと、すごくタイプなんですよ?」

「は? タイプ?」

「はいっ。もちろん男性として。……私には夫がいますけど…………ねえ、トレーナーさん……」

「なんでしょう……?」

 

 

 先程までの爛漫さは何処かへ行き、代わりに大人の女の熱っぽい視線に見つめられていた。綺麗な彼女の瞳に吸い込まれそうだ。

 

 

 その時だった。テーブルの上に乗せていた手に妙な感触を感じて視線を落とした。

 

 

「……!?」

 

 

 テーブルに乗せた俺の手の上に、いつの間にかカレンチャンのしなやかで柔らかい手が重ねられていた。

 

 

 

「私のこと……カレンのこと、カワイイって言って?」

「……は?」

 

 

 

 小首をかしげ、艷やかな唇から甘く言葉が紡がれる。

 

 

 理由は分からないが、彼女から目が離せなくなる。

 

 

 

「トレーナーさんがカワイイって言ってくれるなら。カレンを求めてくれるなら──」

 

 

 

 何百万人といるSNSのフォロワーが憧れる、カワイイの化身の美貌がすぐ目の前にあった。吐息を交わせそうなほど近くに。

 

 

 いつの間にか彼女の指が俺の小指に絡みつき、弄んでいた。俺の小指は優しく嬲られ、擦り合わされる手から彼女の熱っぽい体温が伝う。

 

 

 

 漂ってくるのは香水のうっとりするような甘い香り。

 

 

 

 薄紅に染まった頬と、潤む瞳。

 

 

 

 

 

「──カレンのこと、好きにしていいよ?」

 

 

 

 

 

 甘美で、魅惑的で、とろけそうな何かが、脳へと直接入り込んでくる。

 カレンチャンの姿と声と匂いが、頭の芯を甘く痺れさせる。

 

 

 

 

 

「ねえ……カワイイって、言って?」

 

 

 

 

 

 カワイイと、それを口にするだけでカレンチャンを俺のものにできる。

 あのCurrenを俺の好きにできる。

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 

 鼓動が高鳴り、ごくりと生唾を飲み込む──

 

 

 

 

「……はあ……」

 

 

 

 

 ──なんてことはなかった。

 俺から出たのは深いため息がひとつ。

 

 

 

「……もういいでしょうか?」

「……あっ」

 

 

 

 あまり力が込められていなかったカレンチャンの手から自分の手を逃して、彼女から距離をとった。

 

 

「前にもお伝えしましたが、こういう悪ふざけはやめてください」

 

 

 最初から彼女の悪ふざけだというのは分かっていた。内容は違えどこれまでに何度もからかわれていたからだ。

 これは彼女流の俺への挨拶みたいなものなんだろう。今までこんな親はいなかったので、初対面の時は流石に辟易して対応に困っていたが、今ではもう慣れてしまった。……一瞬だけ持っていかれそうになってはいたが。

 

「つれないなあ〜トレーナーさん。今日もダメだったか~。今日のカレン、カワイくなかったですか? 頑張ったんだけどな~」

「お綺麗だとは思いますが……」

 

 年齢の陰りなど微塵もない彼女にそう思ったことは確かだが、それぐらいでは我を失わない。

 

「……ママ、トレーナーさんに冗談でも変なこと言うのはやめて」

 

 カレンモエは呆れてそう言っていた。

 

「パパだってそんなこと言ってるの知ったら、落ち込んじゃうよ」

「大丈夫。ママがパパを愛してるってこと、パパはちゃーんと分かってるから」

 

 カレンモエから以前ちらっと話を聞いたが、カレンチャン夫婦は今でも仲睦まじいらしい。俗に言うとラブラブとのこと。

 

「でも~、嫉妬するパパも見てみたいかも。あ、思い出した。まだLANEで送ってなかったね。この前パパと一緒に行ってきて──」

「あ……ここ綺麗──」

 

 カレンチャンはスマホを取り出して娘に何か写真や動画を見せているようだった。

 カレンチャンは頻繁にSNSに映えスポットの自撮り写真を上げているが、そのほとんどは夫と一緒に行っているものだとか。

 

 スマホを眺めて楽しそうにしている母娘を邪魔するのは気が引けるが、こっちとしても本題に入らないといけない。

 俺は小さく咳払いをした。

 

「……そろそろよろしいでしょうか」

 

 はーい、との返事とともにスマホをしまった母と娘と向き合った。

 

「今日はモエさんのこれまでと、これからのお話をしようと思います。ではこの前の長篠ステークスまでについて──」

 

 そうして面談が始まった。

 まずはカレンモエのレースや戦績などこれまでの道のりを振り返っていく。途中途中で身体の状態も挟みながら。

 元々カレンチャンに1ヶ月に一度の報告はしていたり、前回の面談が半年前の2月の紫川特別が終わった後と間隔が短いこともあり、話自体はスムーズに進んでいった。

 8月の3勝クラス佐世保ステークス2着だったが、1週間前の3勝クラス長篠ステークスで1着。カレンモエは無事に条件レースを勝ち上がりオープンクラスのウマ娘になった。

 

 カレンチャンは相槌を打って話を聞いてくれていた。

 

「……以上がこれまでの話となります。そして──」

「モエちゃんのこれから、ですね?」

 

 カレンモエのこれから──これが今日の本題だ。

 

 改めて整理すると、カレンモエは高等部3年のシニア級1年だ。彼女は来年度もトレセンに残って現役を続ける気でいる。それをカレンチャンに正式に伝える日なのだ。

 

 中央で勝ち上がりトレセンに残っているウマ娘の大多数が高等部3年の年度末に学園の卒業を選ぶ。高等部3年で一般的な高校のカリキュラムが終わるので、進学や就職するならこの時期の卒業がタイミング的には一番良いからだ。

 高等部3年……シニア級2年の4月以降も走り続けるのは、それこそGⅠや重賞戦線で戦えるウマ娘が中心で、他には怪我で今まで満足に走れていなかったり、現状より上を目指せる見込みがあるウマ娘だ。あとは選手生命の長いダート路線のウマ娘は芝に比べれば残る数は多い。

 しかしレースを続けて成績を残せるなら良いが、もしそうでないなら現役続行はデメリットがほとんどだ。客観的に見れば貴重な20歳前後の時間を成果なく費やしてしまい、社会へ放り出される時期が遅くなるだけなのだ。ある程度結果を残せているなら評価されるが、世間でも重賞戦線のウマ娘以外は高等部3年で学園を卒業するのが半ば一般的な見方になっているせいか、勝てないのにトレセンに残っていると逆に対外的な評価は低くなる傾向にある。

 

 

 卒業か現役続行か……カレンモエの人生における重要な岐路だ。

 俺とカレンモエは話し合って現役続行を決めている。あとは親……ここにいるカレンチャンの理解を得ないといけない。一応、俺が毎月送るメールの中で現役続行を娘が考えているとは伝えてあった。カレンモエも電話やメッセージで似たようなことは言っているらしいが、こうやって実際に対面して伝えるのは今日が初めてなのだ。

 

「……トレーナーさん。ママにはモエが直接話すよ」

 

 カレンモエは口を開きかけた俺を制し、隣にいる母親に向き合った。

 カレンチャンは表情を崩すことなく、ただ娘の顔を見ていた。

 

「ママ。モエは走りたい。レース続けたい」

「……どうして?」

「もっと走れると思うから。先週やっとオープンウマ娘になって、これから重賞にも……GⅠにも挑戦したい。勝ちたい」

「…………」

 

 走るというウマ娘としての本能を訴えるカレンモエ。

 対して押し黙り品定めするように娘を見るカレンチャン。

 

「モエちゃん。カワイくない」

「……え?」

「今のモエちゃん。全然カワイくなーい。そんなんじゃママ、現役続けるの許可できませーん」

 

 カレンチャンは両の人差し指でバツ印を作った。

 

「っ!? ……ママ……」

 

 カレンモエはあからさまに怯んでいた。ここまで動揺する彼女も珍しい。

 まさか現役続行を拒否されるとは思ってなかっただろう。かく言う俺もそうだった。彼女からの返信で卒業か現役続行かについて言及は無かったものの、今までの彼女の人となりからこうも取りつく島もなく簡単に拒否されるとは──

 

 

 

 ……ん? カワイくない? どういう意味だ? 

 

 

 

「ねえモエちゃん。ちゃんと、言お?」

「……ちゃんと?」

「もっと走りたいって、重賞やGⅠ勝ちたいのも本当だってママ分かってる。でも~」

 

 カレンチャンが意味ありげに俺の方を見た。

 

「それだけじゃないでしょ?」

「! …………」

 

 

 カレンモエも親につられて俺の方へ視線をやった。数秒間、静寂の中で彼女の澄んだ青色の瞳と俺の視線が交錯した。

 

 

 ……俺? 

 

 

「…………うん」

「言ってみて。モエちゃんは、どうして現役続けたいの?」

「モエは……」

 

 再びカレンチャンと向き合ったカレンモエは、俯きながらそれを口にした。

 

 

 

「……トレーナーさんともっと走りたい。トレーナーさんと……もっと一緒にいたい」

 

 

「…………」

 

 カレンモエは俯いたまま。

 俺は何も言葉が出なくて、母娘の顔に視線を行ったり来たりさせえるだけ。

 

 そんな俺たちを見たカレンチャンは顔をほころばせて笑った。

 

 

「うんうん! 今のモエちゃん、すっごくカワイイよっ!」

「……ママ」

「モエちゃんはおっけーだね。あとはトレーナーさん!」

「は? 私ですか?」

「はいっ。モエちゃんみたいなカワイイ女の子にここまで言ってもらえるんですから~、トレーナーさんも言うこと、ありますよね? カワイイところ、カレンに見せて?」

 

 カワイイの意味は不明だが、文脈から俺が何か答えないと“おっけー”をもらえないことだけは分かった。

 

 ……答えるべきことはある。あの夏合宿で俺の過去のことを話した後、カレンモエに言ったことがある。

 それを改めて言ったらいいとは思うのだが…………些か親であるカレンチャンの前で言うのは──

 

「もうっ。トレーナーさん、早く言わないとカワイくないですよ」

「は、はあ……」

「……トレーナーさん」

 

 顔を上げたモエはまだダメージが残っているかのように、恥ずかしそうに頬を薄く染めていた。訴えかけるような彼女の視線が俺に刺さる。

 

 この母娘からは逃げられそうになかった。同時に逃げたくもなかった。こうも言ってくれたカレンモエを裏切ることだけはしたくなかった。

 

「……モエさんが走り続けるなら私も一緒にいます。私も…………」

「私も……なんですか?」

「……モエさんと、一緒にいたい……です……」

「…………あははっ! トレーナーさんカワイイですよっ」

 

 満足がいったとでも言いたげなカレンチャンの笑顔だった。

 

「うんっ。モエちゃんもトレーナーさんもっ、カワイイからおっけー!」

「ママ、それじゃあ……」

「現役続けてもいいよ。モエちゃんが納得いくまでね。パパからもおっけーは貰ってるから大丈夫。……これから大変なことが多いよ。上だけじゃなくて、下からも強いウマ娘がやってくるからね。頑張って!」

「! ありがとう、ママ……!」

 

 母娘はそう言って抱き合っていた。

 

 なんとか言質を取れた俺は内心ほっとしていた。

 娘との触れ合いが終わったカレンチャンに改めて向き合った。

 

「ありがとうございます。トレーナーとして、責任を持って努めてまいります」

「はい。モエちゃんのこと、しっかり“責任”取ってくださいね。トレーナーさん♪」

 

 

 

 その後は堅苦しい話は無しにして雑談に興じた。

 母娘が仲良くしているのを、俺はたまに合いの手を入れながら眺めていた。

 

 

 

 あっという間に時間も経過しそろそろお開きとなったところで、カレンチャンは思い出したように話し始めた。

 

「……あっ、そうだ」

「どうかされましたか?」

「最初に言っていた、トレーナーさんがタイプっていうの、本当に嘘じゃないですよっ」

「はあ……?」

 

 今更改まって言うことだろうか。そんな訝しむような態度を取っていたかと逆に心配になった。

 

「それにー、私とモエちゃんは好みがよく似てるんです。服もそうだし、アクセとか。それに男の人の好みも……ねっ? モエちゃん?」

「ママ……もうっ」

「あははっ。じゃあこれで失礼しますねー。またね、モエちゃん」

 

 カレンチャンは嵐のようにやって来て、そして去っていった。

 

「…………」

 

 彼女には敵わない。改めてそう思わざるを得なかった。

 

 

 ◇

 

 

 カレンチャンが帰ってから片付けなどが一段落した俺は、ネクタイを緩めてソファに身を落とし、カレンモエが淹れてくれたコーヒーを啜った。

 

「はあ~。やっぱお前の母ちゃんは凄いわ……」

「そうかな?」

 

 マグカップを手にしていたカレンモエは俺の左隣に座った。

 

「レース、続けられそうで良かったな」

「うん。……ママは最初から許可するつもりだったと思うよ」

「そうかねえ……」

 

 カレンチャンがいた時とは違い、ゆっくりとした時間が戻ってきた。ようやく一息つけた。

 

「ママの言ったこと、あまり気にしないでね」

「分かってる。からかわれているだけだろ? 何も気にしてねえよ」

「…………」

 

 彼女の雰囲気が少し変わった。少し不満そうな……

 

 

「……っと」

「は? お、おい!?」

 

 

 カレンモエは俺の肩に頭を預けるようにもたれかかってきた。まるであの夏合宿の日のように。

 

 

「……でも、ママに手を触られて見つめられてたとき、危なかったでしょ?」

「は? ああ、あれか。いや別に…………っ?」

 

 

 カレンモエの手が俺の左手に重なった。先程、カレンチャンが俺にそうしてきたように。

 

 さらに彼女は俺の小指に自身の小指を絡めてきた。

 カレンチャンより温かい彼女の体温が、重なる手と絡む指から伝わってくる。

 

 

 

「……ほんとう?」

「当たり前だろ。何回もやられてるんだから……モエ、触るのはもう止め……!?」

「んー……?」

 

 

 

 カレンモエの次なる標的は俺の左手の薬指だった。

 俺の薬指が優しく弄られ愛撫されている。

 

 

 次第に俺と彼女の肌の境界線が曖昧になってくる。

 

 

 

 手を引き抜こうとするが、図ったように顔を上げたカレンモエと目が合った。

 

 

 

 いつの間にかカレンモエから発せられる蠱惑的な空気に俺は包まれていた。

 俺の身体が動かない。ただ手を重ねられて、指を触られて、見つめられているだけなのに。

 

 

 

「きもちいい?」

 

 

 

「──っ」

 

 

 

 

 その気持ち良さに浸りそうになって──

 

 

 

 ──ガタンと音がして、勢いよく扉が開いた。

 

 

 

「トレーナー! 面談は終わったのでしょう!? 京都新聞杯について────!!!???」

「さっきカレンチャンが校舎出ていくの見えましたよ。京都新聞杯に出走を考えてるってウマ娘の情報を集めました! やっぱりスペシャルウィークは出るみ────!!!???」

 

 

 扉の先にはよく見知った2人のウマ娘がいた。今更名前を言うまでもない。

 

 

 

「「…………」」

 

 

 

 2人は呆然として立っていた。

 

 

 

 この状況は不味い、と思った。夏合宿でマコに見られたときと比べものにならないぐらい。

 

 

 

「いや……これは……おいモエ離れろ!

「……ふふっ」

「はっ──?」

 

 

 

 カレンモエは薄く笑うと、さらに深く俺にもたれかかって密着してきた。肩ではなく俺の胸に頭を預けてきた。

 彼女の髪からは甘い匂いがふんわりと漂ってきた。

 

 

 どこからどう見たって、男女が手を繋いで身を寄せ合っているようにしか見えない。

 そんな姿を2人に見せつけるような格好になった。

 

 

 

「お、おいっ!」

 

 

 

 押し返してもびくともしなかった。ヒトがウマ娘の力に勝てるはずもないと、こんなところで実感してしまった。

 

 

 

「な、な、な…………」

「…………ええ……」

 

 

 

 顔を真っ赤にして形の良い眉が吊り上がってきたキングヘイロー。

 口をへの字にしてドン引きしているペティ。

 

 

 

 

「なにしてるのよーっ!!!???」

 

 

 

 

 キングヘイローの大声が上がってやっと、カレンモエは離れてくれた。

 

 

 

 

 

 その後、カレンモエの悪戯だと弁明しても2人は納得してくれなかった。俺だけ2人に詰められることになった。

 

 おそらく、何も弁明せずいつもの表情をして黙っているカレンモエのせいだった。

 

 



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第61話 予行演習

 これはある母娘の通話記録の一部である。

 

 

「ママ……言ってた通りで…………」

『うん。トレーナーさんからママに連絡来たら、誤魔化しと……ううん、先手打っておくね』

「……分かった。ありがとう」

『頑張ってねモエちゃん! 写真、もらえたらママにも見せてねっ』

 

 

 ◇

 

 

 カレンモエがシニア級1年の12月。つまりカレンチャンを交えた三者面談から約3ヶ月後のある日。

 当時の俺はサイレンススズカ移籍のカギとなる発表会の準備に勤しんでいた。今しがた本日のトレーニングのデータ整理が終わったので、論文作成に取り掛かろうとしていた。

 

「じゃあ先に失礼しますねー。学期末のレポート仕上げないと……」

「キング、このあと課題見てもらえない? 数学で分からないところがあって」

「いいわよ」

「ほんとう!? なら着替えたらキングの部屋にお邪魔するわ!」

 

 ペティ、ダイアナヘイロー、キングヘイローがトレーナー室を後にした。

 

 扉が閉まり3人の足音が遠ざかるトレーナー室に残ったのは俺とカレンモエ。なんてことはない、このトレーナー室のいつもの光景だった。

 

「悪いが今日もメシに行くのは無しだ。少し忙しくてな」

「……サイレンススズカのやつ?」

「そうだ。発表まで時間がねえんだ。今年いっぱいメシ食いに行くのは無理だろうな」

 

 カレンモエにはサイレンススズカとのことを話してある。サイレンススズカ移籍のためには年末の発表会が重要だと伝えてあった。もちろんと言ったらいいのか、天崎の中身について話してはいない。

 

「……そう」

 

 ぽつりとカレンモエがそうこぼした後のトレーナー室には俺がキーボードを叩く音のみ。

 

「ねえ、トレーナーさん」

「なんだー?」

 

 目の前の画面や手元にある資料へと集中していた意識が彼女によって刹那だけ引き戻された。

 

「ママがまたトレーナーさんと話したいんだって」

「……ああ…………は?」

 

 それを聞いて完全に意識が彼女の方へ向かった。今何を考えて文章を打ち込んでいたか忘れてしまうほどには、その言葉の威力は大きかった。

 

「また面談したいってことか?」

「うん。トレーナーさんと“お話”したいことがあるって、ママが」

「……なんで面談をしたいか、理由は聞いてるか?」

 

 カレンチャンより白い芦毛が左右に揺れた。

 

「でも、“お話”は来月……1月に絶対にするって」

「…………お話、ねえ…………」

 

 前回の面談は9月、つまり3ヶ月前だ。こんな短期間のスパンで面談を行うなんて、未勝利戦を巡る話でもない限り普通はない。

 この前の面談だって一応は円満に終わったからこそ、カレンチャンの面談要請の理由が分からなかった。

 

 まさか、この前の京阪杯でカレンモエは2着だったから、やはり現役続行に反対とかいう話だろうか。どちらにせよ、差し迫った話だろう──

 

「……来月?」

 

 ──そこで、唐突に違和感を感じた。

 

「来月なのか? カレンチャンが言ってるのは」

「うん。来月の──」

 

 カレンモエの口から具体的な日にちが出てきた。

 

「……んん?」

 

 差し迫った話なら、今すぐにでも俺に予定を空けさせてその“お話”をするのではないか。

 なぜ来月まで待つ必要があるのか。

 

 ……いや、カレンチャンはカレンチャンで多忙の身なのかもしれない。SNSやメディアの仕事などで時間が取れず、来月のその日時だけ都合が良いとか、そういうことだろうか。

 

 時間が取れないなら、一度メール等でカレンチャンに話を訊いてみようかと思ったところで、タイミングが良いと言うべきか、PCの画面上にメール受信とのポップアップが表示された。メールの差出人は案の定カレンチャンだった。

 

「ちょうどお前の母ちゃんからメール来た」

 

 クリックしてメールを開く。

 内容は今カレンモエが言ったこととほぼ同じだった。“お話”したいことがあるから1月某日に予定を空けてくれと。面談の内容は秘密だと。

 文面から察するに重い話とは思えない。軽くお喋りでもしましょうって調子なのだが、相手はあのカレンチャンだ。心の奥底では何を考えているか分からない。

 

 ……結局、考えても仕方ないとの結論に至った。

 今はサイレンススズカの件で俺の方が差し迫っている。発表会が終わるまではそっちに注力すべきだろう。

 

「分かった。その日は予定開けとく」

「! ……うん」

 

 カレンチャンに承知した旨を返信して、この話題は終わった。

 俺は再び論文作成に取り掛かった。

 

 

 

 ──カレンモエの尻尾がくるんと楽しげに振られたことに、モニターへと視線を移した坂川は気が付いていなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 坂川のトレーナー室を出て寮へ向かっていた3人はちょうどエントランスにある掲示板の前を通りがかった。掲示板には学園の教師からの呼び出しや、行事のお知らせなど様々なビラやポスターが貼られていた。

 

「へえ~こんなのあったのね。素敵じゃない」

 

 ダイアナヘイローがA3サイズぐらいの一枚のポスターに興味を示して足を止めた。キングヘイローとペティも立ち止まり、ダイアナヘイローが指さすポスターを覗き込んだ。

 

「どうしたの? ……“ブライダルモデル募集”……?」

 

 キングヘイローが口にした通り、ポスターには“ブライダルモデル募集”とポスターに目立つ書体で描かれていた。

 

「あれとは違うんですか? なんでしたっけ……あ、ビューティードリームカップでした。ウエディングドレスっぽい勝負服のやつ」

「それとは違うみたいだけれど……えっと……」

 

 キングヘイローはポスターに書かれている詳細に目を通した。

 その内容はと言うと、ブライダル業界の企業で構成される協会とトレセン学園がコラボして、広告に使用するウマ娘のモデルを現役の学園生から募集するというものだった。

 来月……つまり1月に学園の空き部屋を借りて、応募してくれたウマ娘にウエディングドレスを着せて写真撮影を行い、その中から一枚ないし一人を選ぶらしい。選ばれた写真はブライダル業界のサイトに載せられたりフライヤーなどにも使用されるとのことだ。

 

 応募要項がポスター下部に書かれていた。真っ先に目を引いたのは太字で書かれている応募期限だった。

 

「……あ、応募の期限過ぎてるわね」

 

 一週間ほど前に応募期限を迎えているようだった。まだ残っているということは、事務が剥がすのを忘れていたのだろう。

 

「そうなの? キングにウエディングドレス来て欲しかったのに。残念ね」

「私!?」

「もちろん。まだ応募できるなら私がキングの名前で応募してあげてたわ!」

 

 呼び出し欄に自分らの名前がないことを確認した3人は、そんな他愛もない会話をしながら掲示板から離れていった。

 

 

 

 ──3人は応募要項のある記述を見逃していた。

 

 その記述には、“新郎役とのポージングや構図で撮影を行います。新郎役については男性モデルをこちらが用意しますが、応募していただく方がお連れされる男性でも構いません。なお、新郎役の方は顔を除く身体の一部分の出演となります”

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「ママは来ないよ」

「……は?」

 

 1月某日の午後。カレンチャンとの面談がこの後控えているのだが、トレーナー室に入ってきたカレンモエに開口一番そう言われた。

 

「どうしたんだ? 何かあったのか?」

「ううん。……ママがお話したいっていうの、嘘なの」

「…………嘘だと?」

 

 話が全く飲み込めない。何がどうなっているのか見当もつかない俺に、カレンモエはスマホの画面を見せてきた。

 

「……これ見て。ママからのメッセージ」

 

 カレンモエはスマホの画面に映っている動画を再生し始めた。おそらくLANEに送られてきたビデオメッセージなのだろう。

 再生が始まった画面にはカレンチャンが映っており、愛くるしいほどの笑顔でこちらに向かって手を振っていた。

 

『トレーナーさん見てますか~? ……実はお話したいっていうのは嘘です。ごめんなさい』

 

 笑顔は一転、神妙な顔になったカレンチャンは頭を深く下げた。

 顔を上げたカレンチャンは何か訴えかけるような目でこちらを見ていた。

 

『今日はトレーナーさんの予定を空けてもらうために、私が嘘をつきました。改めてごめんなさい。私が考えついたことですから、モエちゃんを怒らないでくださいね』

 

 スマホ越しにカレンモエへ目をやると、彼女はバツが悪そうに視線をそらした。

 

『でも、にぶ〜いフリしてるトレーナーさんもちょっとは悪いんじゃないかな〜って。それじゃあねトレーナーさんっ。モエちゃんのお願い、聞いてあげてくださいね☆』

 

 動画が始まったときと同じように手を振ったカレンチャンの動きが静止した。

 あっという間にカレンチャンのビデオメッセージは終わった。

 

 カレンモエは再生が終わったスマホを引っ込めた。相変わらず申し訳無さそうにしていて、気まずい空気がお互いの間を流れている。

 

「まあ、大体の話は分かった。別に怒ってねえからそんな顔すんなよ」

「……ごめんなさい」

 

 元々感情表現が豊かな方ではないにしても、ここまでしおらしいカレンモエも珍しい。何故かこっちが罪悪感を感じてしまう。

 

「で、カレンチャンが言ってたお前のお願いってなんだ?」

「……実は──」

 

 

 撮影会に付き添いで来て欲しいと、彼女はそう言った。

 

 

 ◇

 

 

 ブライダル業界が主催している撮影会とのことだった。昨今の婚姻率低下や結婚式実施率低下への対策として、人気のあるトゥインクルシリーズのウマ娘をモデルを使って注目を集めたいのだろう。ブライダル業界のマーケットの厳しさが伺い知れる。

 

 目立つのを好まないカレンモエがモデルを受けるなんて正直意外だった。

 

 撮影会場である校舎の一角へ向かう際、俺は彼女にこんなことを言った。

 

「付き添いぐらい普通に言えばいいだろうが。言ってくれりゃ予定空けとくぞ」

 

 その時は本心だった。彼女との付き合いは長いだけに、そこまで甲斐性の無い人間だと思われていたことに少しショックを受けていた。

 しかし、会場に着いたことによってその考えは払拭された。直前まで撮影会について彼女が明かさなかった理由が分かった。

 ウエディングドレスを着てのものだと知ったところまではまだ良かった。問題はその次だった。

 

 会場の受付にいたスタッフの女がこう言ったのだ。

 

「新郎役の方でいらっしゃいますね。衣装の着替えやヘアセットをいたしますので、あちらのお部屋へおいでください」

「は? どういうことですか?」

 

 真顔でそう訊き返した。

 

「新郎役の方ではありませんでしたか。失礼いたし──」

「この人が、新郎役……です……」

 

 カレンモエが女スタッフの声を遮った。

 俺とスタッフの頭上にはクエスチョンマークが浮かんでいた。

 

「すいません。話が見えなくて……おいモエ、どういうことだ? 説明してくれ」

「…………えーっと……」

「えー、撮影についてですが──」

 

 言い淀んだカレンモエを見かねてか、その女スタッフが新郎役との構図で撮影を行っていると簡潔に説明してくれた。さらにウマ娘側から新郎役を連れてきて良いと。

 

 ……話は見えてきた。カレンモエは俺を新郎役として連れてきたのだ。あらかじめ知らされていたらおそらく俺は付き添わなかっただろう。前言撤回、彼女は俺のことをよく分かっていたようだ。隠していたのも納得だ。

 

「こちらでも男性モデルを数人用意していますので、好みのモデルをお選びくださいね」

 

 アラサーの一般人である俺と、協会が用意したというモデルとは容姿もスタイルも何もかも比べ物にならないことは明白だ。男という生物として俺がモデルに敵う余地がない。

 男性モデルでいいだろ──と、カレンモエに言おうとしたのだが……

 

「…………」

 

 カレンモエの澄んだ青い瞳には、縋るような色が浮かんでいた。

 

 

 

「モエは……知らない男の人より……トレーナーさんが、いい……」

「…………んん……」

 

 

 

 返答に悩む。

 そんな俺たちを見ている女スタッフは口元のにやけをかみ殺そうとしていた。余計なお世話だ。

 

 

 ……ここまで言われたら、断れるわけがない。

 

 

「……分かった」

「! ほんとう?」

「ああ。……あっちの部屋に行けばいいんですね?」

「はい。新郎役の方はあちらのお部屋へ。カレンモエさんはこちらへどうぞ」

 

 

 ◇

 

 

 支度が終わり待つことしばらく、撮影現場へと呼び出された。

 

 新郎側の支度は意外と簡単なものだった。顔は映らないらしいので、白のタキシードを着せられ、髪型をセットさせられただけで終わった。

 支度をする部屋では俺以外にも何人もの男がいた。中には知っている顔……つまりトレーナーも何人かいた。他にはウマ娘の彼氏と思われる若い男に加え、聞こえてくる話から察するにどうやら父兄の人間もいるようだった。

 

 

 俺が現場入りして程なくして、カレンモエも部屋に入ってきた。

 

 

 ──漆黒のウエディングドレスを着て。

 

 

 

「どう……?」

 

 

 

 照れたような表情の花嫁が目の前までやってきた。

 

 

 俺だけじゃなく、スタッフたちの息を呑むような雰囲気が伝わってくる。

 

 

 

「あ、ああ……」

 

 

 

 言葉が出なかった。そう言うので精一杯だった。

 

 

 

 所々にレースがあしらわれた漆黒のドレスが胸元から足元までを包んでいる。ドレスがそんな色だからか、対照的に首から胸元にかけて露出している肌が輝くように白くて眩しい。

 芦毛の髪も編み込まれていて、いつもは見えない首筋のラインにドキッとさせられる。

 顔はナチュラルメイクっぽいが、普段よりも目鼻立ちがはっきりしている気がする。ローズリップの艶やかな口元にどうしようもなく目を惹かれる。メンコやリボンも外され、生の耳が露出していた。

 

 

 

 ──綺麗だ、と思った。

 

 

 ずっとそばにいて見慣れたウマ娘のはずなのに、どこか変な気持ちになった。

 

 

 

(一回りも歳が違うガキに何考えてんだ俺は……)

 

 

 

 何も答えない俺を見つめるカレンモエと目を合わせながら、そんなことを考えていた。

 

 

 

 だが、こういうことはちゃんと伝えないといけない。

 

 

 

「……綺麗だな、モエ」

「! …………ありがとうっ」

 

 

 

 恥じらうようにはにかむカレンモエ。

 

 ……見ているこっちが照れてしまう。

 

 

「黒いウエディングドレスなんてあるんだな」

 

 撮影会にいる他のウマ娘は白や青のウエディングドレスを着ていたので、ドレスにもいくらか種類があるのだろう。

 

「うん。……“あなた色以外には染まりません”って意味なんだって」

 

 

 上目遣いでじいっと俺を見つめてくるカレンモエ。

 

 

「じゃあ始めましょうかー!」

 

 

 

 ディレクターのその声により、撮影会がスタートした。

 

 

 カメラマンの指示などにより様々なポーズをさせられた。これがかなり大変だった。腕を組んだり、手を繋いだり、身を寄せ合ったり、肩を抱いたり。腕を組むにしても、腕の角度や身体の接触具合まで細かく指示された。素人の学生相手の撮影会とは思えないほど、結構な力の入れようだった。

 カレンモエはそれに加えて表情の指示をこなすのに四苦八苦していた。他人の前だと特に表情の変わらない奴なので、本当に大変そうだった。何度も撮り直しをした。

 

 カメラマンが「素材は最高級なんだけどねえ……」とぼやいていたので、表情の如何に関しては芳しくなかったのだろう。こればっかりは仕方ない。

 

 それでも撮影は進んでいった。

 

「次、最後にしましょうか。……どうしましょう?」

 

 ディレクターとカメラマンが相談が終わると、彼らの指示を受けたスタッフから俺はあるものを渡された。

 

 銀色に輝く指輪だった。

 

「それをカレンモエさんの薬指にはめてあげてくださーい。そのシーン撮りますねー」

「……」

 

 流石にそれはどうなんだろうと思う。撮影とはいえ、ここまでする必要はあるのだろうか。

 カレンモエが無理なら断ろうかと思った矢先だった。

 

 

「……はい。……して?」

 

 

 向かい合ったカレンモエが左手を差し出してきた。

 

 

「お願いしまーす!」

 

 

 スタッフの元気な声がそう急かす。

 

 

「…………」

 

 

 女の薬指に指輪をはめる行為を、俺が特別に感じすぎているだけなのだろうか。

 俺は女とそういう経験がないから、意識しすぎているだけなのだろうか。

 

 

「……いいのか?」

 

 

 カレンモエは優しく微笑んで頷いた。

 その笑顔にひどく胸が揺さぶられる。ガキのくせになんて顔をするのだろうか。

 

 

 誰にも気づかれないよう小さく息を吐いてから、カメラのフラッシュが焚かれ続ける中、彼女の薬指に指輪を通した。余計な力が入ったり、手が震えないように苦労しながら。

 

「オッケーです! 楽にしてくださーい」

 

 カメラマンたちが撮った写真を確認する間、カレンモエははめられた指輪を掲げて、見惚れるようにうっとりと見ていた。

 

「はい! 以上で撮影は終わります。本日はご協力ありがとうございました! ウマ娘さんと新郎役さんは部屋に戻って着替えてくださーい。…………次の方どうぞー」

 

 すぐさまスタッフに促され、俺たちはそれぞれの支度の部屋へと戻された。

 

 

 

 こうして20分にも満たなかった撮影会は終了した。

 

 

 

 ◇

 

 

 撮影会を終えて、元の見慣れたカレンモエと肩を並べてトレーナー室への帰り道を歩いていく。

 

「思ったより大変だったな」

「うん。ママの凄さ、分かったかも」

 

 確かにカレンチャンなら、ポージングをキメたり表情を作るのなんてお手のものだろう。

 

「でも良かった。素敵なウエディングドレスも着れたし、トレーナーさんの色んなところ、見られたから」

「……」

 

 聞き返したら負けだと思ったので、無言でいた。

 

 

「それとね……ふふっ」

 

 

 カレンモエは俺より一歩前に出た。

 

 

 

 

 

「トレーナーさん、良い予行演習になったでしょ?」

 

 

 

 

 

 

 こっちを振り返った彼女の頬は少しだけ朱に染まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

「本番は、いつにする?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 照れた彼女の顔はズルいと、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 撮影会から1ヶ月後。

 結局のところ、自分の写真は選ばれなかった。

 

 選ばれたのはたまたま日本へ留学していたアイルランドのウマ娘らしかった。ストロベリーブロンドの髪が印象的なウマ娘で、とても綺麗な水色のウエディングドレス姿だった。

 自分は知らなかったけど、坂川はそのウマ娘を知っていたようで、アイルランドやイギリスでGⅠを13勝した凄いウマ娘だと言っていた。日本でもあまり有名じゃないらしく、同室のレッドルゼルも知らないと言っていた。

 

 自分の写真が選ばれなかったことには何とも思ってない。むしろ選ばれて注目される方が困る。

 今回、モデルをやった理由は単純。

 

「……」

 

 スマホの新しくなった待ち受けを眺める。モデル参加者が希望すれば貰える自分の撮影写真を待ち受けに使っていた。

 そこには腕を組んだ一組の男女が写っていた。男の方は白いタキシード、女であるウマ娘は黒いウエディングドレスを着ている。

 

「……ふふっ」

 

 緊張して強張っている表情の彼がとってもカワイイ。

 

 それと──

 

「……ほんと嬉しそうだなあ、モエ……」

 

 

 ──待ち受けの自分は、心の底から幸せそうだった。

 

 

「……あっ、忘れてた……」

 

 

 LANEで母を選び、約束した通り撮影された画像を送った。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 おおよそ同時期。

 

 キングヘイローとペティは2人で掲示板の前を通りかかった。

 ペティの方が先にそのポスターを見つけた。

 

「あ、このブライダルのやつ。前ありましたねえ」

「ダイアナさんが見てたやつよね?」

 

 ポスターには“ご参加ありがとうございました”との見出しとともに、撮影に参加したウマ娘たちの写真が載せられていた。

 その中に2人がよく見知ったウマ娘の姿があった。

 

「……これ、モエさんじゃ!?」

「へ? ……あ、本当だ。意外ですねえ……」

 

 その中にあったカレンモエの写真を2人で眺めていた。写真の中の彼女は黒いウエディングドレスを着ていて、差し出した左薬指に指輪をはめてもらっていた。

 

「こういうの興味あったんですねえモエさん」

「綺麗ね……」

「いやーほんと綺麗ですね。黒いドレスすっごい似合ってますし」

「そうね…………ん?」

「どうしたんですか?」

 

 キングヘイローは食い入るようにポスターを見ていた。何かに気づいたようだった。

 

「ペティさん、これ見て」

「これ? 指輪ですか?」

「違うわ。指輪をはめてる男の指を見て」

「はあ………………え? もしかして……マジですか?」

「間違いないわ」

 

 その男の指はキングヘイローにとって非常に馴染み深いものだった。なぜならトレーニング後の身体の状態確認やマッサージ等で日常的によく目にしているからだ。

 ペティも遅れてだがキングヘイローと同じように気づいた。彼がキングヘイローやカレンモエの身体を触るのを傍で見ている機会は多いからである。

 

 指の太さや爪の形……気づくのは必然であった。

 

「「…………」」

 

 無言な2人はただお互い顔を見合わせていた。

 

 



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第62話 育成最終目標:メイクデビューまたは未勝利戦で1着

例によって未実装ウマ娘の話なので苦手な方はご注意を。

彼女の話はキングを含め周りに影響を与えることになるので、少しの間お付き合いお願いいたします。

以前いただいた感想の返信で書いたのですけど、馬名の由来は同名のラブソングだそうですよ。


 時は遡り11月の中旬。キングヘイローが5着に終わった菊花賞から数日後のこと。

 当時はキングヘイローの次走について頭を悩ませ、また11月末の京阪杯に向けてカレンモエのトレーニングが佳境を迎えていた……そんな時だった。

 

 放課後いつものようにトレーナー室でチームのウマ娘たちが来るのを待っていると、怪訝な表情をしたキングヘイローがやってきた。

 

「どうした? 調子でも悪いのか?」

「それが……これを見て」

 

 キングヘイローは手に持っていた書類が入ったクリアファイルを俺に差し出した。確認するとそれはウマ娘がトレーナーと契約するための書類だった。すでに記入してあるようで──

 

「……“ダイアナヘイロー”って誰だ? お前の知り合いか? もしかして妹とかか?」

「いいえ。昨日会ったばかり、赤の他人ね。……その様子だとやっぱりあなたも会ったことはないのね」

「はあ?」

 

 改めてその書類に目を通す。このダイアナヘイローとは現在ジュニア級のウマ娘らしい。書類自体はあとトレーナーが記入して印鑑を押すだけで完成するようになっていた。

 つまりこのダイアナヘイローというウマ娘はトレーナーの誰かと担当の契約を結びたいということだ。

 

 そのウマ娘の書類をキングヘイローが持っていて、あまつさえ俺に見せているこの状況は一体何なのか。

 

「で、これはどういうことなんだ。全く話が見えねえんだが」

「ウチのチームに入りたいらしいわ。それを渡されて、あなたに渡しておいてって」

「……」

 

 意味が分からない。

 

 確かにキングヘイローが言う通り、ダイアナヘイローは俺と契約したいということだろう。この書類をトレーナーである俺に渡すとはそういうことだ。

 ただそれに至る経緯が全く見えてこない。俺はダイアナヘイローなんてウマ娘とは話すどころか見たことも聞いたこともない。繋がりなんて全くないのだ。

 

「昨日初めて会ったんだったな。何かあったのか?」

「……ええ。昨日──」

 

 キングヘイローはダイアナヘイローと出会ったときのことを話し始めた。

 

 ◇

 

 昨日、休み時間に廊下を歩いているといきなり見知らぬウマ娘……つまりダイアナヘイローに話しかけられた。

 

「あなた、キングヘイローよね!?」

「へっ? ええ、そうだけど……」

 

 あまりに突然の出来事すぎて余裕がない状況でそう返した。

 

 その黒鹿毛のウマ娘は初めて見る顔だった。

 彼女は抱き着くかのようにグイグイと私に身を寄せてきた。

 

「ちょっと近……ええっと、あなたは?」

「あらごめんない。私はダイアナヘイローよ。……どうぞお見知りおきを」

 

 彼女はそう言うと一歩距離を取って膝を折ったお辞儀……カーテシーをした。

 自然で流麗、そして隙のない完璧な所作から付け焼刃ではないと一目で分かった。幼い頃から繰り返し体に染みついた動きだ。おそらくこの娘はそれなりの身分の生まれなのだろう。

 醸し出す雰囲気はどこか高貴なものを感じるのだが、先程までの立ち振る舞いは庶民らしい俗っぽさがある。ちぐはぐとまではいかないが不思議な印象を持った

 

「ダイアナヘイローさん。キングを知っているなんて殊勝な方ね。ふふっ、まあ当然だけれど。お礼にあなたの顔と名前を覚えておいてあげるわ」

 

 気分を良くした私は彼女に合わせて軽くお辞儀をしてからそう言った。

 

「それで何かキングに用かしら? 今ならサインでも握手でも、何でもしてあげるわよ」

「ほんとうっ!? じゃあとりあえず握手! それと写真撮りましょう!」

 

 彼女は私の手をギューッと握った後、スマホを取り出して私とツーショットを取り始めた。要望されるまでもなくキメ顔でスマホのカメラを見る。

 いろんな角度から何枚も撮ったそれをスマホで確認する彼女はとても嬉しそうだった。

 

 それはそれはとても良い気分になった。

 

「ありがとうキングヘイロー……いや、キングって呼んでいいかしら?」

「好きに呼びなさい! キングは寛大なのだから! おーっほっほっほ!」

「ありがとう。その笑い方素敵ね! 私も……おーっほっほっほ!」

 

 通り過ぎるウマ娘たちの視線を感じるが、そんなことお構いなしに2人してシンクロしてひとしきり笑い合った。

 

「おーっほっほっほ…………はあっ。ねえキング!」

「おーっほっほっほ! 何かしら?」

「やっぱり私、あなたに運命レベルの何かを感じるわ! グラスワンダーを以前見た時も感じたけど、それとは比べ物にならないぐらい強いの!」

「運命的なもの?」

「ええ! 私、レースとかほとんど見ないのだけど、偶然この前の菊花賞を走るあなたを見てびびっと来たの。私はあなたに会うべきだって直感で思ったわ。私たちは初対面だけれど、私は他人の気がしない。キングもそうじゃない?」

 

 そう言われると、こちらも表現しにくい不思議な感情が湧いてくる。初対面なのに浅からぬ繋がりを感じるというか……妙なほど親近感が湧いてくるのだ。

 これが彼女の言う運命レベルの何かなのだろうか? 

 

「ダイアナヘイローさん……あなたは」

「ダイアナでいいわよキング。あなたとあたしの仲でしょう──」

 

 そこで次の授業開始を告げるチャイムが廊下に響いた。気づけば廊下には私たち以外誰もいない。思ったよりも時間が過ぎていたようだ。

 

「あっ!? じゃあねダイアナさん! あなたも授業に遅れるわよ!」

「そうねっ。また会いましょうキング!」

 

 私はダイアナヘイローと別れた。教師がまだ教室に来ていないことを願って私は教室まで駆けていった。

 

 

 ……結局間に合わず、遅刻扱いにはならなかったが教師の御小言を食らうことになった。

 

 

 

 

 

 

 

 次の日。友人の勉強を教えていたのと御手洗いに行っていたせいで授業の開始時間が迫る中、移動教室のために急ぐ廊下にてまたしてもダイアナヘイローに出会った。

 

「あらキング。ごきげんよう。待っていたのよ」

「ダイアナさんごめんなさい! 少し急いでるから今は──」

「あらそうなの。……じゃあこれ! キングのトレーナーに渡しておいて!」

 

 彼女は書類の入ったクリアファイルを取り出して私に渡した。

 

「私、キングと同じチームに入るから!」

「──へ?」

 

 あまりに唐突なその発言に耳を疑う。

 

「もう決めたの! よろしくねキング!」

「え、ちょっと……」

 

 思わず足を止めそうになったが、すぐに遅刻の二文字が頭をよぎったので元のペースで駆けていく。

 

「全然知らないけど、キングのトレーナーってどんな人なのかしら? 爽やかで優しい王子様? それとも頼りがいのある渋い大人のおじ様? どっちにしても、キングに相応しいトレーナーなのだから期待しちゃうわ! ……あ、私こっちだからまたねキング!」

 

 彼女はそう言って私とは逆の道へ曲がっていった。

 

 

 そして放課後。そう言えば連絡先を聞いておけば良かったと思いながらトレーナー室に顔を出した。

 

 ◇

 

「悪かったなうだつの上がらない作業着姿の冴えないアラサー男でよ」

 

 手にしていた契約の書類をデスクに放った。

 

「しっかしウチに入るったって直接話さねえとどうにもならねえぞ。連絡先は知らないんだな?」

「次会ったら訊いておくわ。それでここに一度来るように話を──」

 

 

「ここがキングのチームの部屋かしら!?」

 

 

 キングヘイローの声を遮るようにトレーナー室の扉が勢いよく開かれた。そこには初めて見る黒鹿毛のウマ娘がいた。サイドと前髪をふんわりと流してセットしたショートボブの黒鹿毛に、黒地に黄色のラインが一本入ったメンコを左耳にだけ着けていた。

 

 

「あっ、キング! ……ごきげんよう」

「ダイアナさん? ええ、ごきげんよう」

 

 挨拶を返したキングヘイローに目配せをすると彼女は軽く頷いた。どうやらこのウマ娘が件のダイアナヘイローのようだ。

 

「あなたのインタビュー記事見つけて、坂川って名前のトレーナーが担当だって分かって探してここに来たのよ。書類を渡すだけでは失礼だと思い直したの。せめて今日中に挨拶しようと思って。それで──」

 

 キングヘイローにばかり向いていた彼女の視線が初めてデスクの椅子に座る俺に向けられた。彼女は俺と視線を合わせるなりに目を丸くした。

 

「…………あなたは? お召し物から察するに学園の清掃員の方かしら?」

「は?」

 

 彼女は俺の作業服に目を移しながら言った。

 

「清掃のために来られていたの? でもいくら清掃のためだとしても坂川トレーナーの椅子に座るなんて感心しないわ。身分を弁えろとは言わないけれど、立場というものがあるでしょう?」

「俺が坂川だ。自分の椅子に座って何が悪いんだ。意味分からんことばっか言ってんじゃねえぞ」

「え?」

 

 トレーナーバッジをデスクの上に置いて椅子にふんぞり返った俺に対し、彼女の目は訝し気に細められた。

 

「……あなたが坂川健幸トレーナー? キングのトレーナーなの?」

「そう言ってるだろうが。爽やかで優しい王子様で、頼りがいのある渋い大人のおじ様だ」

「なっ!? あなたそれ、私がキングに今日……」

 

 彼女の視線がキングヘイローに向いた。

 

「本当なのキング。この男性が坂川……あなたのトレーナーなの?」

「ええ。彼がキングのトレーナーよ」

「…………ちょっとキング。いいかしら?」

「どうしたの?」

 

 ダイアナヘイローはキングヘイローを呼びつけて、部屋の隅で何か話し始めた。

 

「これドッキリじゃないわよね? 本当に()()が坂川トレーナーなの?」

「そうよ。嘘はつかないわ」

「……もしかしてキング、あの男に何か弱みを握られてるとか?」

「何言ってるの……そんなことないわ。流石に彼に失礼よ」

「う……だって想像つかないじゃない。キングのトレーナーがあんな清掃員か何か分からないような、いい加減で適当そうで、不遜な…………ねえ?」

「正真正銘、彼が私のトレーナーよ」

「……むう……」

「まあ、最初は私も彼のこと気に入らなかったわ。このチームに入りたいとあなたは言っていたけれど、気に入らないなら考え直すべきね。彼のことは……一緒に過ごして時間をかけないとどんな人間か理解できないでしょうし。それに他にもトレーナーは沢山いるのだから」

 

「全部聞こえてるぞ。……ったく、ほらこれ」

 

 近づいて声を掛けると2人ともこちらを向いた。

 俺はダイアナヘイローに書類が入ったクリアファイルを突き出した。

 

「キングの言った通り、俺が気に入らなねえなら違うトレーナーを選ぶんだな。つうか一度も話してねえのによくこんな真似できたもんだ」

「…………」

 

 しかし、彼女はそれを受け取らない。じーっとそのクリアファイルを見つめて何かを考え込んでいるようだ。

 

「どうした?」

「……いいえ、返さなくていいわ。あなたが受け取って頂戴」

「はあ? 俺は嫌だったんじゃねえのか」

「嫌と言うか……でもっ、私はキングと同じチームに入りたいのっ!」

 

 キングヘイローの話だと運命だとかどうとか話していたが……確かにウマ娘の間でそういう話はたまに聞く話だ。だから納得できないこともないのだが、気に入らないトレーナーを担当にしてまでキングヘイローと一緒にいたいのだろうか。

 

「……うんっ」

 

 ダイアナヘイローは意を決したようにそのクリアファイルを俺に押し返した。

 

「改めて……私はダイアナヘイロー。坂川トレーナー、これからよろしくお願いいたします」

「あ、ああ……」

 

 

 このように急な展開で俺の担当ウマ娘になったダイアナヘイロー。

 

 

 このときには彼女の気性……いや素行に難があると分かるはずもなかった。

 

 情報収集として例によってマコに話を聞くと、彼女はトレーニングには取り組んでいるものの、今まで選抜レースどころか模擬レースにも未出走とのことだった。

 何となく嫌な予感がした。

 

 

 ◇

 

 

 

 年が明けて、ダイアナヘイローには京都のマイルでメイクデビューを迎えさせた。

 時期は違えど、京都のマイルはキングヘイローと同じ条件だ。キングヘイローと同じとかいい加減な理由ではなく、トレーニングでの走りを見て俺が判断した。彼女の母親は中央では芝やダートを走り未勝利、叔母は地方のダートで勝利経験があった。

 ダートでも良かったのだが、ダイアナヘイローのフォーム解析や筋力測定から適性は芝だと判断した。芝向けの軽快な走りと、ダートを走るには如何せんパワー不足であったのだ。

 京都を選んだのは、最後の直線に坂がなくパワーをそれほど必要としないからだ。

 

「指示はただ一つ。前から言ってたが逃げだけはするな。必ず2番手以下でレースをしろ」

「…………」

 

 デビューで逃げさせないのは我慢を覚えさせることがまず一つ。逃げができるのと逃げしかできないのとでは雲泥の差だからだ。

 また、キングヘイローのメイクデビュー時にペティたちに説明した通り、ジュニア級とクラシック級の違いはあるにせよ、逃げが影響を及ぼして次走以降の成績を落とす可能性があるのが一つ。

 まだ1月……早く勝てることに越したことは無いが、焦ってしまっては意味がない。

 

 レース前の控室で、以前からの打ち合わせ通り俺はそう伝えたのだが──

 

 

『先頭ダイアナヘイロー逃げ切ってゴールインッ!!!』

 

 

 出たなりで先頭に立ったダイアナヘイローは2バ身半差で快勝した。6番人気を覆す見事な勝利だった。

 指示は無視されたが、スタートを上手く決めた結果先頭に立ってしまったようだったし、何よりも勝ってくれた。これで退学を免れたと思うと指示の無視などはあまり気にならなかった。

 

 だがレース後に逃げのことについて彼女に訊くと──

 

「……私は自由な精神でいたいの。私が従うのは私の心だけよ」

 

 とボソッと言った。

 

 それが妙に気になった。

 

 

 

 ◇

 

 

 メイクデビュー後、身体のダメージを確認して全く問題がないと判断し、中1週の間隔でクラシック級限定のエルフィンステークスを目指すことにした。もちろんダイアナヘイローと相談した上でだ。彼女はどちらかと言うとティアラ路線に興味があるようだったので、桜花賞を大目標にしてレース選択をした。

 

 そしてエルフィンステークスから1週間前の金曜日……レース前の重要な調整時期でそれは起こった。

 トレーニング前、トレーナー室に来た彼女は俺に対してこう言い放った。

 

「トレーナー、私明日と明後日のトレーニングは休むから」

「……は?」

 

 突如トレーニングを休むと言い出したのだ。

 

「身体の調子が悪いのか?」

「いいえ」

「なら──」

「土日は彼氏とデートなの。だから休むわ。最近会えていなかったから」

 

 どうやら彼女には男がいたらしい。俺は初耳だった。

 

 トレーニングの休みは自分で取るというのがウチのチームのやり方だ。普段なら何の問題もないが、今はレース前の大事な時期だ。エルフィンステークスの結果次第で春の重賞やティアラ路線のレース選択に大きな影響を及ぼしてしまう。

 

「分かった。休みにしておく。だが休むならもっと早く言ってくれ。トレーニングや調整のスケジュールがあるからな」

「善処するわ」

「……もし調整がうまくいかなかったらエルフィンステークスは回避(スクラッチ)だ」

「手は煩わせないわよ。来週はちゃんとレースに出るわ」

 

 

 

 

 そうして彼女はしっかりと土日のトレーニングを休み、そしてエルフィンステークスに出走した。

 

 メイクデビューと同レース場で同距離のエルフィンステークスだが、前者は内回り、後者は外回りで、京都のマイルと言ってもコースが異なる。

 

 

 

 

 そして当日。ダイアナヘイローは7番人気でレースを迎えた。

 スタート直後、引っかかるような素振りを見せながらも2番手で運んだ彼女は1着と1.1/4バ身差の2着に入線した。

 

 あの調整過程とレース間隔、そしてレースの内容から2着……彼女のウマ娘としての高い能力を確認できたレースだった。

 

 

 ◇

 

 

 次走をフィリーズレビューに定めてトレーニングに取り組んでいた2月中旬のある日のトレーニング前、チーム全員が集まっているトレーナー室で彼女はまたしてもこう告げた。

 

「来週と再来週の土日、どちらとも彼氏とお泊りデートするから休みにするわ。いい?」

「……分かった。平日は大丈夫なんだな?」

「ええ。……ねえキング、スズカ! 部室行きましょう!」

「あっ、ちょっとダイアナさん……もうっ」

「……デジタルブラは持っていけよ」

「あ、今日も忘れてたわ。あれ煩わしくて嫌なのよね」

 

 デジタルブラのセンサーを手に取ったダイアナヘイローに引っ張られる形でキングヘイローは連れていかれた。共に呼ばれたサイレンススズカも遅れて2人のあとを車椅子で追っていった。

 

「いいんですかトレーナーさん」

「何がだ」

 

 残ってトレーニング機器の準備をしているペティは眉根に皺を寄せていた。

 

「さすがにあの娘サボり過ぎじゃないですかね」

「好きに休み取っていいって言ってんのは俺だからな。ああやって事前に言ってんだから、まあいいだろ」

 

 これまで担当したウマ娘の中には連絡せずにトレーニングをサボる奴もいた。それに比べたらまだちゃんと報告するだけマシだろう。

 思うところが無いわけでもないが、トレーニングに出たら真面目に取り組んでいるのでそれはそれとして良しとしている。チームの空気が悪くなっているわけでもない。キングヘイローとカレンモエは相変わらずストイックにトレーニングをこなしている。

 

「ペティ、そこまで気にしなくていいぞ。メニューやトレーニングはその都度調整するから。……ありがとうな」

「トレーナーさんがそう言うなら……先に行きますね」

 

 ペティはタブレットなどの機器を抱えてトレーナー室を出ていった。

 

 残されたのは俺とカレンモエのみ。

 

「……」

「? モエ、どうかしたか?」

 

 彼女はペティが去った扉から視線を俺に戻した。

 

「……これはモエの勘なんだけど」

「勘?」

「ダイアナ、彼氏いないと思うよ」

「そうなのか?」

「確証はないけど……たぶん」

「なら何で嘘をついてるんだ?」

「……さあ?」

 

 ウマ娘……それか女の直感というものなのだろうか。

 

 あまりカレンモエとダイアナヘイローが話している場面は見たことがない。年上のペティやキングヘイローには呼び捨てのダイアナヘイローも、カレンモエにはさん付けで呼んでいる。ビビっているまでとは言わないが、あまり喋らない2つ上の先輩ウマ娘としての怖さみたいなものを感じているように見受けられた。

 

「……トレーナーさんも」

「ん?」

「彼女さん、いないでしょ?」

「何言ってんだ? 俺は結婚してるし、子どもも一人いるぞ。まあ確かに彼女はいねえな。嫁はいるが」

「…………」

 

 カレンモエはフラットな表情を変えずに俺を見つめていた。

 ……このジョークは受けなかったらしい。

 

「つまんねえ冗談で悪かったな。結婚どころか彼女もいねえよ。……よし、準備完了っと。トレーニング行くぞモエ」

「……うん、今行く」

 

 カレンモエの視線になぜか今までにない怖さを感じたので、強引に話を切り上げた。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 3月の中旬、阪神レース場1400mのGⅡフィリーズレビューを迎えた。

 3着までに桜花賞の優先出走権が与えられるこのレース。4番人気で迎えたダイアナヘイローは2枠3番からの出走となった。

 

『さあ桜舞台へ最後の切符をかけてフィリーズレビュー……スタートしましたっ! ちょっとばらついたスタートになりました!』

 

 ダイアナヘイローはゲートの出こそ悪くなかったものの、行き脚がつかず後ろにズルズルと下がってしまう。逃げと2番手で運んだ前走とは逆のレース展開になってしまったようだ。

 

 18人がほぼ一塊となった中で、ダイアナヘイローは後ろから5、6番手の内で他のウマ娘に包まれるようにして向こう正面を進んでいった。その中で──

 

「っ! 掛かってんな……」

 

 バ群に閉じ込められるようにしている彼女は明らかに掛かっていた。

 さらにエルフィンステークスと同じように他のウマ娘に寄られると上体を起こしたりして体勢を崩してしまっていた。

 

 他のウマ娘に寄られるとバランスを崩す……こんなとこまで運命を感じる奴(キングヘイロー)に似なくていいのに……チラッと横目で応援するキングヘイローを見てからターフに視線を戻すと、レースは第3コーナーへと入っていた。

 結局スタートからコーナーに入るまでの向こう正面はずっと掛かり通しだった。

 

『4コーナーから直線! 先頭はキャンディバローズ! このまま押し切るか! 外からソルヴェイグ! 1番人気のアットザシーサイドはまだ中団だ苦しい!』

 

 先頭に立つウマ娘たちとは裏腹に、前壁していたダイアナヘイローがやっと大外に持ち出して進路が開けたのが残り300mを切った地点。後ろに数人のウマ娘はいるものの、ほぼ最後方という位置取りだった。

 

「厳しいか…………?」

 

『ソルヴェイグ! ソルヴェイグが抜け出した! 内でキャンディバローズ粘る! アットザシーサイドもようやく上がってきたが──』

 

 実況される前のウマ娘たちの一方で、ダイアナヘイローは猛烈な脚で後から追い込んできていた。

 後ろからならこんな脚を使えるのかと俺は驚きとともに感心していた。

 

 彼女は先頭へとぐんぐんと迫っていく。

 

 だが時すでに遅し。

 

『ソルヴェイグ先頭でゴールインッ! なんと1勝ウマ娘ソルヴェイグです! 1バ身ほど遅れてアットザシーサイドとキャンディバローズ! この3人が桜花賞への切符を手にしました!』

 

 ダイアナヘイローは3着のキャンディバローズから1バ身ほど後ろでゴールした。

 

 惜しくも3着は逃し、桜花賞への優先出走権は得られなかった。

 

 

 

 

 

 チームのウマ娘に先に控室に向かわせ、地下バ道にて俺は1人でダイアナヘイローを迎えた。

 

「お疲れさん。前半は課題があったが、後半は良い脚だったな」

「そう? ありがとう」

 

 特に悔しがる素振りもなく、普段のトレーニングが終わったときのような様子で彼女はそう答えた。別段感情を露わにすることなく淡々としていた。

 思い返せば、勝っても負けても似たような反応だった。

 

 レース後の様子もウマ娘によって十人十色だからそこまで気にはしていなかった。

 

 

 ◇

 

 

 翌日、俺とダイアナヘイローでレースの振り返りをした後、これからの出走予定について相談していた。

 

「抽選や他のウマ娘の動向によっちゃ桜花賞出られるかもな。だから一応桜花賞に向けて調整していくぞ。出られなかったら当日か前日の1勝クラスを狙う。それでいいか?」

「いいわよ。トレーナーに任せるわ」

「……」

 

 全く関係のない他人事のように彼女はそう言った。

 この“任せる”が俺を信用してのことじゃないのは彼女の態度や声色が物語っていた。

 

「何か気に食わないことがあるのか? 希望とか、他のレースに出たいならそう言ってくれ」

「別に。どうでもいいわよ」

「……どうでもいい、だと?」

 

 その気はなかったが棘のある言い方になってしまった。しかし、“どうでもいい”の意味がどういうことか気になったことは確かだ。

 

「レースに対して拘りはないってことか?」

「…………はあ。いい機会ね。この際だからはっきり言っておくけど──」

 

 彼女は椅子から立ち上がってカバンを手にした。

 

「私はGⅠとか重賞とか……強いて言うならレース自体に興味はないの。メイクデビューで勝ててこの学園に残れると決まった時点で、私のレース目標は全て達成されてる。だから次走もあなたが適当に選んで頂戴。あ、そうだ。今日も彼氏とお出かけだからこの後のトレーニング休むわね」

 

 彼女は背を向けて出口へと向かっていく。

 

「……なあ」

「まだ何かあるの?」

「ま、一言だけ聞いてくれ」

 

 こういう手合いに対して、真面目にしろとかちゃんと走れとか言うのは的が外れている。対応としては下の下だ。

 メイクデビューを勝って彼女の目的が達成されたのが事実ならもう走る理由はないからだ。極端に言うならもう走らずレースを引退したっていいのだ。

 

 しかし彼女は走ってもいいと意思表示はしてくれた。だから俺がここで話しておくべきは──

 

「お前は走りたいときに走ってくれたらいい。走りたくなったら、ちゃんと言え」

「走りたいときに?」

「ああ」

「……? 終わりかしら? なら失礼するわね」

 

 ダイアナヘイローは身を翻して足早に去っていった。

 

「…………はあ。あいつにも色々あんのかねえ……」

 

 溜息とともに俺はある日のことを思い出す。

 

 実は、トレセン学園外で彼女を目にしたことがあるのだ。

 

 

 

 ◇

 

 

 フィリーズレビューから遡ったある日の夕方に買い出しで街中を車で走っていたときのこと。その日のトレーニングもダイアナヘイローは彼氏とデートだとかで休んでいた。

 信号待ちのため停車をしていると、ふいに反対車線側の歩道が目に入った。

 

「ん? あれは……」

 

 そこには私服のダイアナヘイローの姿があった。

 

 周りに何人もの小さい影を引き連れて。

 

「随分と可愛い彼氏だな……彼女もいるな。……モエの勘は外れたみたいだな」

 

 ダイアナヘイローは自身の身長の半分もない子どもやウマ娘たちと一緒に、食料品と思われる買い物袋を持って、彼らと笑い合いながら歩いていた。

 

 



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第63話 自由な精神

当作品はイクイノックス号(父キタサンブラック母父キングヘイロー)を全力で応援しています(9話ぶり6回目)


 ずっと実家が煩わしかった。

 だから家から離れられるトレセン学園へ入学した。

 そして今は自由にやっている。

 

 私……ダイアナヘイローというウマ娘の現状を最大限簡潔に説明するならそんなところ。

 

 

 私はそれはそれは良いところの生まれだ。名家と言ってもいい。芸能関係に幅を利かせる父親は遠いながらも皇族に連なる人間らしい。

 母親も良い家柄の御令嬢。ここで言う良い家柄とは、名ウマ娘を多く輩出しているとかではなく、ただ単にお金や土地をたくさん持っている上流階級の家のこと。ちなみに母もトレセン学園に通っていたのだが、未勝利を勝てずに退学している。

 

 そんな()()家に生まれた私は幼い頃から様々なことを叩きこまれた。学校から帰ってきた屋敷には毎日毎日代わる代わる異なった分野の講師が来て、勉学は元より普段の所作やマナー、語学、音楽、ダンスを叩き込まれ、ポニースクールではレース活動を。加えて華道や茶道などの習い事や、社交界での立ち回りなど、説明するのも面倒な数々を学ばされた。

 自身の生まれに、家柄に、身分に相応しい者に成るためだ──と、親や憎たらしいデブの執事から何度も何度もウマ耳にタコができるほど言い聞かされていた。

 

 

 

 

 はっきり言おう。それらの全てが煩わしかった。

 

 

 私が従うのは私の心だけ。私は自由な精神でいたい。

 

 

 やりたいことをやりたい。やりたくないことはやりたくない。

 

 

 勉強とかマナーとか習い事とか社交ダンスとか、全てに興味がない。普通の女の子みたいに放課後は友達と遊びたい。ハンバーガーショップで駄弁りたい。夜ふかしして好きな恋愛小説を読みふけりたい。意味もなくスマホをいじりながらベッドでゴロゴロしたい。

 

 

 両親や執事は私が年齢を重ねると上流階級としての自覚が芽生えてくると踏んでいたようだが、それは全くの見当違い。表立って反抗はしてないものの、逆に鬱屈した気持ちは段々と膨らんでいった。

 

 

 

 そして私にある転機が訪れた。

 

 あれは中学生になった頃、社会勉強の一環として私の家が多大な寄付をしている病院や施設へ訪問した。それが転機だ。

 病院や施設にて、たくさんの高齢者から幼い子どもと接した。

 高齢者の方々はただ世間話するだけで喜んでくれた。歌を歌ったり、親の影響で見様見真似で覚えた落語なんかを披露すると、手を叩いて喜んでくれた。

 子ども相手には一緒に遊ぶだけで皆が楽しそうだった。少しお世話の手伝いをするだけで、施設の人も喜んでくれた。

 

 

 喜んで笑ってくれている人々を見て、生まれてきて初めて満たされたような気分になった。

 

 

 そこで分かった。私のやりたいことはこれだって。

 

 

 

 お嬢様学校に通わされ、放課後はほぼ屋敷に缶詰の私にとっては新鮮なことばかりだったのだ。

 マナーがどうとか作法はこうとか、そんなものは一切ない。あるがままに振る舞って、施して、そうしたら相手が喜んでくれる。それだけのことが堪らなく自分を充実させてくれるのだ。

 

 それから私は理由をつけては頻繁に施設や幼稚園へ通うようになった。医療団体主催のレク大会の手伝いなどもした。社会奉仕のためと訴えれば認められることが多かった……最初だけは。

 頭の固い執事に止められるようになったのだ。『お嬢様、無駄な社会奉仕は結構です』と。

 何が無駄よ。お前の腹についている醜い脂肪の方が遥かに無駄でしょうに。

 

 何度か屋敷を脱走して足を運んだりした。でも根本的な解決にはならず、執事たちの目が厳しくなって脱走も難しくなってしまった。

 

 

 

 しかし、天啓はすぐに訪れた。

 

 

 

 打開策を探っていたある日……近隣のポニースクールやクラブの対抗レース大会でのことだ。

 特に走ることに興味も情熱も無く、私にとってレースはただ単に屋敷から課される習い事のひとつでしかなかった。だがトレーニングにはそれなりに真面目に取り組んでいたし、結果もそこそこ出ていた。

 その日の対抗レースにて、私は5バ身か6バ身ほど差をつけて逃げ切って勝利した。ゴール後、2着だった相手スクールのウマ娘が私にこう話しかけてきたのだ──

 

 

 ──『あなた速いね! あなたもトレセン学園目指してるんだよね?』──

 

 

 トレセン学園。

 

 その単語が妙に耳に残った。

 存在自体は知っていたが、レースに興味のない私にとっては関りの無いものだと思っていた。

 だから今まで頭が回っていなかったのだ。トレセン学園が全寮制だということを。

 

 後の思考プロセスはいたってシンプル。

 全寮制のトレセン学園に入れば実家に縛られない。なら施設に行こうが幼稚園に行こうが文句を言う者はいない。この状況を抜け出すにはトレセン学園に入るしかない。

 以上が私の至った結論だった。

 

 

 トレセン学園に入学するというのはウマ娘にとって大きな社会的ステータスだ。私の家は代々ウマ娘を輩出してきた家系ではないが、走りが認められて合格できるなら屋敷も許可してくれると思っていて、事実その通りになった。父はゴーサインを出してくれた。

 

 ──『いいだろう。ただし──』──

 

 だが条件付きだったのだ。勉学や習い事に真剣に取り組まなければ認めないと。

 私が不真面目であったことに加え、トレセン学園に入れば習い事などできないため、本来ならば高校時に取り組む予定だった習い事などを前倒しにして学ばせるとのことだった。

 それらを修めれば入学を認めると。常識的に考えればトレセン合格のためのトレーニングだけでハードなのに、加えて前倒しの勉強や習い事なんて想像するだけで嫌になった。

 

 

 しかし私はどちらもこなして見せた。ポニースクールのコーチである丸眼鏡の“鉄の女”の厳しい指導に耐え、勉強や習い事は気合で乗り切った。言葉で言うのは簡単だが、この間は身体も頭も休まる暇がなく正直言ってかなり辛かった。それでも時々脱走してハンバーガーショップに行ったりはしていたけれど。

 

 

 

 晴れて合格し実家から解放された私はトレセン学園の門をくぐった。

 入学してからはそれはもう好きにやっていた。毎週どこかしらに訪問したり、街に出て遊んだりと充実した日々を過ごしていた。たまに土日に屋敷に戻るよう連絡が来たが、トレーニングを理由にして断った。あの家でさえもトレセン学園には手を出せないのだ。良い気味だった。

 もちろんトゥインクルシリーズで1回は勝たないと退学になってしまうことは知っていたので、予定の無い日はトレーニングには取り組んでいた。周りのウマ娘や5月から始まったジュニア級のレースの走りを見ていると、自分はおそらく簡単に勝ち上がれるだろうと分かっていたので、トレーナー探しやデビューについては焦っていなかった。クラシック級に上がってからの8ヶ月で勝つ自信はあった。

 

 ◇

 

 チーム選びは最初から年が明けての自動振り分けに任せる予定だった。トレーナーにもチームにも拘りなんて無かったから。

 けれど、あるレースとウマ娘を見てその考えは変わった。

 

 11月8日の日曜の午後三時半頃、西東京にひっそりと佇んでいる児童養護施設でお手伝いをしていた私に、テレビを見ていた5歳になるウマ娘が声をかけてきた。手作りのクッキーを施設の皆に振る舞って、その片付けをしているところだった。

 

「おねえちゃん、いまからスペシャルウィークがはしるよ! いっしょにみよっ!」

「うんっ、見よっか!」

 

 誘われた私はその娘の隣に並んで座った。

 

 あまりレースに興味のない私でも流石にダービーウマ娘の名前は知っていた。もっとも彼女が走っている姿を見るのは初めてだった。

 

「ねえなにやるのー?」「あっ、うまむすめばっかりじゃん。れーすだ!」「あたししってるよ、とぅいんくうしいーずだよ!」「トゥインクルシリーズ、ね」「そっか。今日は菊花賞か」

 

 わらわらと私たちの周りに子どもたちが集まってきた。ここの施設にいるのは保育園から中学生ぐらいの年齢の子どもたちで、そのほとんどがヒトだ。ウマ娘はその5歳になる娘しかいない。

 職員の話によると、今まで施設の子たちはトゥインクルシリーズを見る習慣は無かったけれど、この5歳のウマ娘が最近興味を持ち始めて段々レースを見るようになったそうだ。

 

「スペシャルウィークがんばれー!」

 

 テレビに映っているレースを皆と一緒に観戦していると、妙な感覚が胸に去来した。

 

 

 

(…………? あのウマ娘…………? なんでこんな…………)

 

 

 

 逃げる芦毛のウマ娘セイウンスカイを追うバ群にいる、翠の勝負服を着たウマ娘に強烈に惹きつけられていた。

 言葉では説明できない……あえて言うなら運命的な何かを感じると言った方がいいだろうか。先月偶然目にした毎日王冠でのサイレンススズカやグラスワンダーに対して似たようなものを感じたことはあるが、それとは比べ物にならないぐらい強い何かを感じていた。

 

 スペシャルウィークとセイウンスカイには目もくれず、私はその翠の勝負服を着たウマ娘──キングヘイローだけを目で追っていた。

 

 

『セイウンスカイ逃げ切った! まさに今日の京都レース場の上空と同じ、青空!』

 

 

 5歳の娘はスペシャルウィークを一生懸命に応援していたが、そのスペシャルウィークは2着に敗れてしまった。勝ったのはセイウンスカイだった。

 

「スペシャルウィークまけちゃった……うう……」

「もうちょっとだったね……でも次は勝てるよ」

「……うんっ! スペシャルウィークはつよいから、つぎはぜったいかつよねっ!」

 

 残念そうに悔しがるその娘を宥めながら、頭の中ではキングヘイローのことばかり考えていた。

 

 ◇

 

 栗東寮に帰った私はすぐにキングヘイローのことについて調べた。菊花賞までの10戦、全てのレースを見た。

 勝ったときの誇らしげな振る舞いと負けたときの悔しそうな表情はもちろん、どのレースも歯を食いしばりながら走っている一生懸命さが何よりも印象に残った。

 しかし、それだけなら他のウマ娘たちと変わらない。勝って全身で喜びを表現したり、負けて人目もはばからず泣いているウマ娘なんて珍しくもない。歯を食いしばって懸命に走っているウマ娘は他にもたくさんいる。

 

 

 だから分からない。なぜこれほどまでに彼女に惹かれるのか。

 

 

 理由を考えながらベッドに寝転がり、何の気なしに枕元にあった恋愛小説の文庫本に手を伸ばす。つい先日買ったばかりで、まだ導入部分までしか読んでいなかった。

 どこかモヤモヤする気持ちを抱えつつ、気分転換に小説を読み進めた。場面は、主人公である女の子が学校の廊下で男の子とぶつかったシーンからだった。あまりにもテンプレ的だなーと思いつつ、おそらくこの男の子との恋愛話に発展するんだろうなと予想しながらページをめくっていった。

 

 話が進むと、女の子はその男の子を好きになっていった。この女の子は初恋もまだで、初めて人を好きになる自分に戸惑って葛藤している内面描写が続いた。何てことはない、これもありきたりな内容だったが……

 

 “顔も性格もタイプじゃないのに、こんなに気になるのはなんで? ムカつくやつなのに、一緒にいたらこの時間が続けばいいなって思うし、他の女の子と話したらもっとムカつくし…………。もうっ! なんなのこれ。気づけばアイツのこと考えてるし────”

 

「あ……」

 

 その内面描写を読んでいて、今の私と重なる部分があることに気づいた。

 理由は分からないが何故か惹きつけられる……もしかしてこれが私の初恋──

 

「私もキングに……いや、女の子……ウマ娘同士だし……」

 

 ──と暴走しそうになる思考にブレーキをかけた。私も初恋はまだだけど、普通に男の方が好きだからだ。女の子同士っていうのは個人的には守備範囲外だ。

 でも、恋愛的に誰かを好きになったことなんてないけれど、今の感情はもしかしたらそれと近いのかも。思い返せばいくつもの恋愛小説における初恋の描写に、今の私の胸中は似ている気がする。

 

「……実際に会ったら、どうなんだろう……」

 

 読み疲れた頭を襲ってくる微睡みに任せて意識を落とした。

 薄れゆく意識の中、キングヘイローに会ってみたいと思いながら。

 

 

 ◇

 

 

 週が明けると、私はキングヘイローに接触して彼女と同じチームに入ろうとしていた。実際に会ってみると、それ以外の選択肢が無かった。

 生のキングヘイローと会った瞬間、画面越しに見るよりも運命的な何かを強烈に感じた。気づけばトレーナーとの契約用紙を用意していた。

 

 その後はトレーナー……坂川のトレーナー室を訪ねて、色々あった末に結局契約し、晴れて私はキングヘイローと同じチームになった。

 まさかキングヘイローのトレーナーがあんな男だとは思わなかった。作業服をはじめとしただらしない見た目と、その不遜な態度も彼女の標榜する一流には全く合っているように見えなかったから。

 彼女からは彼を信頼している空気のようなものは伝わってくる。でもその理由は分からない。性格から何からして、キングヘイローと坂川健幸の相性が良いとはどうにも思えない。

 

 チームにはキングヘイローの同期にペティというスタッフ研修のウマ娘がいる。トレーニングではデータを取ったりそのデータの意味を分かりやすく説明をしてくれるので助かっている。変人の多いスタッフ研修と聞いたから頭が良くて気難しいんじゃないかって先入観があったが、接してみるとフレンドリーで付き合いやすい、普通のウマ娘だった。

 

 二つ上にはカレンモエというウマ娘がいるが、どうにも苦手だ。無口で表情も変わらないので何を考えているのかさっぱりなのだ。ぶっちゃけ怖いから彼女にだけは“さん”付けをしないといられない。ほとんど会話もしないので、その人となりも分からない。一緒にトレーニングをした時にアドバイスをしてくれるから嫌われてはないと思うのだけれど……。キングヘイローと違って坂川との関係性も見えてこない。カレンモエのようなきちんとした感じのウマ娘といい加減そうな坂川との相性はきっと良くないだろう。嫌ってるとは思わないが、ドライな関係なのかも? 

 

 そして私に遅れて年末にサイレンススズカが移籍してきた。トゥインクルシリーズを詳しく知らない人でも知っている超有名ウマ娘だ。

 毎日王冠を見た際に何か感じたのは気のせいではなく、実際に会ったらやはり特別な何かを感じた。もっともキングヘイローに感じたほど強いものではなかったけれど。

 

 

 そしてチームに所属したからにはトレーニングが始まる。初めはキングヘイローとずっと一緒にトレーニングできると胸が高鳴っていたが、フタを開けてみればそれは叶わなかった。このチームは基本的に個別でのトレーニングを行うからだ。

 トレーニングはキツかった。でも、キングヘイローとカレンモエはさらにハードなトレーニングをこなしていて素直に凄いと思った。

 でも併せをすることもあったので、その時は一緒にトレーニングできて気分は上がり、不思議と体調は絶好調になった。

 坂川のトレーニングはGPSが入った下着のウェアを着けて行われた。私としても初めての経験で、いい加減そうな彼の印象とは裏腹にデータ重視の人間なのには驚いた。そのデータ自体には毛ほども興味は無かったが。だいたい、慣れていないせいかウェアが煩わしく感じる。

 

 そんなトレーニングの日々を過ごして2ヶ月後、1月に私は京都1600mでデビューを果たした。キングヘイローのメイクデビューと同じレース場で同距離、これでテンションが上がらないわけがなかった。

 坂川から逃げるなとか意味不明な指示が出たが無視して逃げ勝った。何となく言われる通りにしたくなかったからだ。1着という結果を出したからか、坂川からは何も言われなかった。

 

 こうして私は退学せずに最低でも3年間学園に居られることが確定した。これで私のトゥインクルシリーズでの目標は全て達成された。

 だからチームに所属してからは控えていた施設や幼稚園への訪問を再開することにした。ちょうど同時期に例の児童養護施設の職員の人が産休に入ったり、病気で入院するなどで2人ほど欠員が出ていたので、その手伝いのため積極的に通うようになった。

 

 トレーニングをよく休むようになったら、流石に坂川も良い顔はしなかったが、どうにも思わなかった。直接的に非難もしてこないし、そのへんは物分りの良い大人だなと思った。

 キングヘイローと一緒にいられないのは淋しいが、今は児童養護施設の方が優先順位は上だった。

 

 フィリーズレビュー後に、坂川にはトゥインクルシリーズやレースへのモチベーションはもうないと伝えた。この時の坂川は意外なことにすんなりと納得してくれた。少しは反発されると思っていた。

 ただその時に、走りたいときに走ってくれればいいとか言っていた。意味不明だった。

 

 その日の放課後に児童養護施設へ訪れた時のことだった。

 キッチンで夕飯の用意の手伝いをしていた私のスカートの裾をクイッと引っ張る手があった。

 

「おねえちゃん! テレビきて! はやくっ!」

 

 スカートを引っ張っていたのは5歳のウマ娘だった。

 テレビを見に来いってこと? 

 

「うんうん。分かったからスカート引っ張らないで」

「はやくはやくっ!」

「どうしたの? なにかあったの?」

「きのうね、ようちえんのともだちとあそんでて、レースみれなかったから、きょうのテレビみてるの!」

 

 彼女はスカートから私の手に持ち替えてテレビのある部屋まで引っ張っていった。

 

 テレビのあるリビングにたどり着くと、他の子どもたちの視線も画面の方へ向いていて、私が来たのを見るとにわかにその子たちも騒ぎ始めた。

 

「これ、やっぱりおねえちゃんだよね!?」

「へっ……あっ!」

 

 ウマ娘の子が指差した画面に流れる映像を見て、全ての合点がいった。

 その番組はトゥインクルシリーズ専門の番組で、レースのハイライトをちょうど流していたのだ。今流れているのは昨日行われたフィリーズレビューだった。

 つまり走る私が映っていたのだ。

 

「おねえちゃんトゥインクルシリーズのウマむすめさんだったのっ!?」

「あはは……うん」

「ほんと? すごいすごいっ! がんばれーっ、おねえちゃん!」

 

 ウマ娘の子の耳がピコピコと忙しなく動き、尻尾は荒ぶっていた。

 

 この子には自分がトレセン学園に通っていると伝えていなかった。

 年齢が上の他の子たちは私が着ている制服がトレセンのものだと大体は知っている。案の定、今そのことを知った5歳の娘に対して「オレは知ってたけどな!」と小学校中学年の子が胸を張っていた。

 

 メイクデビューや条件戦は地上波のテレビでは放映されないし、よっぽどの期待されたウマ娘じゃないとこのような番組でも特集もされない。

 一方で重賞は絶対に地上波で流れるし、トゥインクルシリーズを扱う番組なら100%特集される。だから今こうやって目の前のテレビで流ているのだろう。

 

 そんなやりとりをしている内にフィリーズレビューはゴール前を映していた。私は後方にいたのでカメラにはほとんど捉えられていなかった。

 

「おねえちゃんどこ……? あっ! ……ああ……」

 

 外から突っ込んできたのが私だと気づいた頃にはもうソルヴェイグがゴールしていた。私が負けたことに気づいた彼女の耳と尻尾は垂れ下がってしまった。

 

「まけちゃった……おねえちゃん、まけちゃったの……?」

「そ、そうなの。ごめんね応援してくれたのに……」

 

 実際にはハイライトなので彼女が応援するとかしないとかの話ではないが、しょんぼりとして目に見えて肩を落とす彼女を見て罪悪感が湧いてきた。

 

「…………つぎ」

「え?」

「つぎ! おねえちゃん、つぎはかてるよねっ!」

「へっ、次? えーっと……」

 

 

 爛々と目を輝かせて私の顔を見上げてくる。全身全霊での期待が私にぶつけられていた。

 

 

 年下の子に弱い私に対してそんな顔をされたら断れないって、この子は知っててやってるのだろうか。

 実はレースにもう興味はないとか、そんなことを言えるわけもなかった。

 

 

 考える前に口が動いていた。

 

 

「……うん! お姉ちゃん、次は勝つよ!」

「ほんとっ!? やったやったー! がんばって、おねえちゃんっ! つぎのレースのひおしえて!」

「あ、いや〜……実はまだ決まってないから、決まったらすぐに教えるね」

「わかった!」

 

 溢れんばかりの笑顔を見れて嬉しい反面、とんでもない約束をしてしまったことを認識する冷めた自分もいた。

 

 ◇

 

 翌日、あることを決めた私はトレーニングの休憩中にウェイトトレーニング室へ向かっていた。

 

 あることとは、次走のレースに向けて様々なアドバイスをしてもらうことだ。

 坂川にはあんなことを言った手前、昨日の今日でお願いするなんてプライドが許さなかった。

 本当はキングヘイローに頼みたいけれど、彼女のレースの邪魔をしたくない。

 あまり仲を深めていないカレンモエには単純に頼みにくい。

 ペティは学期末なのもあってレポートやテストで物凄く忙しそうで最近はトレーニングも休んでいるほどだ。単純に頼みにくい。

 

 残るは……

 

「……スズカ、お願いがあるの!」

「ダイアナさん?」

 

 

 ウェイトトレーニング室。ベンチに座って汗を拭っているサイレンススズカがそこにいた。




ダイアナヘイローの設定やキャラ付けに関しては、由来となったであろう曲の中の登場人物であったりその曲の日本語版を歌った歌手であったり名前が一緒の某元妃であったりとそのあたりの要素を拝借いたしました。


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第64話 教え育てる

当作品はイクイノックス号(父キタサンブラック母父キングヘイロー)を全力で応援しています(1話ぶり7回目)

……あまりの走りにまだ呆然としています。


 ダイアナヘイローは桜花賞の前日である4月9日に行われたクラシック級1勝クラス(阪神芝1600m)に出走し、4着に敗れた。

 

 

 

 その数日後のトレーナー室には、私と部屋の主の2人の影があった。

 

 

「ダイアナから走りのアドバイスやレースの立ち回りについて相談されてただあ?」

 

 トレーナー室のデスクにて、私の話を聞いてスポーツ新聞から顔を上げたのは私の現在の担当トレーナーである坂川健幸だった。新聞の一面には桜花賞の写真判定時の縦線が入った画像が大きく載っていた。

 最初は抵抗があった彼のぶっきらぼうな態度や言葉遣いも気にならなくなった。すっかり慣れてしまったようだ。

 

「いつからだ?」

「えっと……フィリーズレビューが終わってすぐでしたから、3月の中旬ごろです」

「は? ……あの話してすぐじゃねえか……

 

 彼は椅子の背に身体を預け、小さく唸りながら何かを考え込んでいるようだった。

 

「……まあいい。何があったか聞かせてくれ」

「はい……」

 

 ダイアナヘイローに相談された日から今日までのことを思い返し、詳細を彼に話した。

 

 

 ◇

 

 

 坂川に課されたメニュー消化のために室内のウェイトトレーニング室でマシントレーニングを行っていたある日のことだった。

 まだ左足に全体重をかけられないため、それを考慮しての筋トレに励んでいた。

 

 一区切りついて備え付けのベンチで休憩していたところに、トレーニング中のダイアナヘイローがやって来たのだ。最初は彼女もウェイトのために来たのかと思ったがそうではなく、どうやら休憩時間に抜け出してきたようだった。

 私の横に腰かけた彼女は軽く挨拶を交わした後にこんなことを言ってきた。

 

「次のレース絶対に勝ちたいの! 協力してくれないかしら!?」

「……え?」

 

 唐突過ぎて全く話が飲み込めなかった。

 次のレースと言うからにはトゥインクルシリーズでの次走のことだろう。彼女は先日のフィリーズレビューにて4着に敗れていた。

 

「協力……ええ、いいけれど……私にできることなら」

「本当!?」

 

 たくさんの疑問があったが、そもそもの話をぶつけてみた。

 

「でも、なぜ私に? トレーナーさんとはどういう話を……?」

「うっ……トレーナーとはちょっと……あの男は関係ないわ。私がスズカにお願いしてるの」

 

 彼女は気まずそうに目を逸らした。

 坂川から指示されて来たのではないらしい。関係ないとまで彼女は言い切った。

 

(レースのことならトレーナーさんに話をするのが普通じゃないのかしら……?)

 

 そう思ったけれど、奥歯に物が挟まったような言い方から、彼との間に何かがあったことは察せられた。

 誰にだってデリケートな問題はある。あまり触れない方が良いかもしれない。

 

「次のレース、絶対に勝ちたいの。だからスズカに走りのアドバイスとか、こうしたら速くなって勝てるとか、そういうのを聞きたいの。それにスズカは逃げウマ娘でしょう? やっぱり私も逃げた方が強いと思うの! 思い返せばメイクデビューもそうだったし、ポニースクールの時も逃げで勝ってたわ」

「逃げ……」

「このチームって逃げウマ娘はスズカしかいないでしょう? キングは先行から差し、モエさんは先行だし。あと、スズカは私にレースのこと教えてくれたじゃない? そういうレースのあれこれとか、詳しいのよね? 同じ逃げウマ娘として協力してほしいの! お願いっ!」

「そんな、私は……」

 

 彼女の言葉を額面通りに受け取るなら、同じ逃げウマ娘だから私に頼りたいということ。それ自体には筋が通っているように思える。

 ……坂川に話を通していないのは気になるけれど。

 

 私自身、ダイアナヘイローが言うように走りやレースについて詳しいとは正直思えない。まだまだ知らない事ばかりで、坂川に教えてもらっている立場だ。

 

 でも、後輩がこうやって助けを求めているのに無下にはできない。

 後輩……ダイアナヘイローとは見た目も性格も異なるが、シリウスで一緒だったある後輩のウマ娘のことが自然と思い出された。

 

「……分かった。私で良ければ力になるわ」

「やった! ありがとうスズカ!」

 

 ダイアナヘイローは頭を下げながら、耳や尻尾を滑らかに動かして喜びを表現していた。

 

「ちなみに次走ってどのレースか決まっているの?」

「トレーナーは桜花賞か、出られなかったら1勝クラスだって言ってたわ。……あっ!」

 

 彼女はおもむろに部屋の壁掛け時計に目をやると、驚いた声を上げた。

 

「時間過ぎてる!? ごめんねスズカ、私行くわ。この後キングと併走なの。……これから色々教えてね!」

 

 あっという間に彼女は姿を消した。

 

 これがあの日の顛末だった。

 

 

 

 

 

 

 

 ダイアナヘイローは空いた時間に度々私の元へ訪れるようになった。決して毎日ではなく、週に何度かといった頻度で。

 具体的なアドバイスとしては、おすすめの練習メニューを教えたり、フォームを見てあげたりしていた。そうすると彼女は喜んで実践に移していた。

 的確かどうかは分からないけれど、的を外れたものではないと思う。ここに移籍してからもそうだし、シリウスの前のチームの時は図書室で色々勉強していたから、その知識を生かせた。

 

 でも、彼女が求めてくるアドバイスの中でひとつ引っかかるものがあった。

 

 

『逃げって、どういう風に走ればいいの?』

『え……』

 

 

 思わず返答に詰まったことを覚えている。

 

『スズカの逃げって凄いじゃない? いつもどういうことを考えながら走っているの?』

『それは……』

 

 私が逃げしかしなくなったのはシリウスに移籍してからのこと。前のトレーナーさん……天崎に、思うままに、自分の走りたいように走ってみてと言われたからだ。

 そうすれば気持ちが良くて……そして追いかけていたものが見えたから。見たかった“景色”が見られるようになったから。レースでもそれは変わらない。

 

 

 ──思うままに走る。走りたいように走る。

 

 

 でも、それはあくまでもサイレンススズカ()の逃げで。

 それを彼女にアドバイスとして伝えるのは正しいの? そもそもアドバイスにならない気がする。

 

 

『えーっと……』

『……あっ、ううん。スズカと同じように考えて走れるなんて……私にはまだ難しいわよね!』

 

 

 言い淀んでいる私のことを察してくれたのか誤解されたのかは分からないけど、ダイアナヘイローは気遣ってそう言ってくれた。

 

 それ以降、彼女は逃げについて尋ねてこなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 それからも時々アドバイスする日々は続き、そんなこんなでダイアナヘイローは4月9日のクラシック級1勝クラスのレースを迎えた。

 阪神レース場1600m、10日に行われる桜花賞と全く同じ舞台設定。結局、レース実績から桜花賞の抽選対象には入らなかったらしい。

 

 そこで──

 

『先頭はハクサンルドルフ、ゴールインッ!』

 

 ──ダイアナヘイローは逃げて4着に敗れた。

 

 

『ダイアナさん……』

『……スズカ。ごめんなさい、負けちゃったわ。アドバイスたくさんもらったのに…………はあ……』

 

 負けた彼女はこれまでのレース後とは比にならないぐらい悔しそうだった。

 どうしても勝ちたいと言っていた彼女が頭をよぎった。

 

『……負けたんだものね。仕方ないわよ。次は勝ちたいわ。……出来るだけ早く』

『え……』

『だからスズカ。また走りとかトレーニング教えてね』

 

 そんなやりとりがあって、今日に至っていた。

 

 独りになって私は呟く。

 

『私は……』

 

 もっと彼女の力になれたんじゃないだろうか。

 

 でも、これ以上私に何ができるのだろう。

 

 

 ◇

 

 

 

「それで俺に打ち明けた、か」

「……ダイアナさんはトレーナーさんには知られたくないみたいだったのですけど、やっぱり……」

 

 彼女に秘密で坂川に相談するのは彼女を裏切る行為のように思えてかなり悩んだ。

 しかし、レースで結果を出すためなら彼の指導を仰ぐのが一番だと思って、こうして打ち明けた。

 

「トレーナーさんとダイアナさんの間に何があったのか私は知りません。でも、ダイアナさんの力になってあげてほしいんです」

「…………」

「お願いします……!」

 

 彼に向かって頭を下げた。

 彼ならば聞き入れてくれると思っていた。私に手を差し伸べてくれた彼なら。

 

 だから──

 

「ごめんだな。なんで俺が助けてやらねえといけないんだ?」

「……え?」

「フィリーズレビューの後、アイツは俺に走る気はないって言ってきたんだ。俺だって人間だ。んなこと言われたら腹ぐらい立つ。勝手にやってくれたらいい」

「っ!?」

 

 ──拒絶されるなんて思ってもなかった。

 

 あまりの突き放した言いように絶句してしまった。言葉が継げずにいた。

 

 トレーナーならウマ娘の力になるのが当たり前だと思っていた。これまで担当してきてくれた2人のトレーナー達なら、絶対にこんな無責任なことは言わない。

 

「ちょうどいい。そういうことなら次走のレース選択、お前に任せるわ」

「ど、どういうことでしょうか?」

「ダイアナが次走るレース、お前が考えて決めろ。クラシック級1勝クラスのレースだ。相談されてるのはお前なんだろ? 安心しろ、トレーナーとして一応手続きぐらいはしてやるからな」

「トレーナーさん……? な、なにを言って……」

「明日の放課後また話を聞くから、それまでに決めとけ。スマホに今月と来月のレーシングプログラムのPDF送っとく。ダイアナが勝てそうなレースを選べ……俺はこれから用事で外に出るから、さあ帰った帰った」

「えっ? あ……」

 

 坂川にトレーナー室から追い出され、遅れて出てきた彼はそそくさとどこかへ行ってしまった。

 

「勝てそうなレース…………」

 

 ただただこの筆舌しがたい状況に立ち尽くすしかなかった。

 

「どういう、こと……?」

 

 

 

 

 ◇

 

 あまり追求されるとボロが出そうだったので、かなり無理矢理だったが話を切り上げた。

 サイレンススズカと別れて1時間ほどしてからトレーナー室に戻った。

 

「ちょっと無責任に言いすぎたか? ……はあ、もっと良い言い方あったかもなあ。でもやるからには本気で考えてほしいしな……」

 

 何事もインプットだけでは限界がある。自分のものにするにはアウトプット……実践が必要だ。勉強と同じだ。教科書を読んでノートをとるだけではなく、問題を解く必要がある。

 予想しない形になったが、今まで学んできたことを身に付けるには打って付けだ。

 

 ……だが思惑としてはそれだけではない。

 

「“走り”と向き合ういい機会になると思うんだが……“景色”のためにも。吉と出てほしいもんだが、アイツなら大丈夫…………いや、違うな」

 

 病院で虚空を眺めていたサイレンススズカの姿が脳裏によぎる。

 

 

「何が待っていたって、アイツを信じて付き合ってやるんだろうが」

 

 

 目を瞑って、ひとつ息をついた。

 

 頭をダイアナヘイローに切り替えて、レーシングプログラムのPDFを開いた。

 レース条件を確認しながら思案を巡らす。

 

「このへんか……んな簡単な話じゃないが、やるしかねえか」

 

 レースについては大体のあたりはつけた。あとはサイレンススズカの考えを取り入れながら決めていくことにしよう。

 考えついたことをつらつらホワイトボードに書き込みながら、トレーニング内容を組み立てていく。

 

 次走までの間隔は短い。基礎的な能力の底上げに限界はあるのは分かっている。レース当日に絶好調に持って行くための調整も必要だ。加えて故障だけは避けなければならない。

 その辺のノウハウを俺は持っているはずだ。

 

「何があったのか知らねえが、意外に早かったな。……夜食のカップ麺まだ残ってたっけか」

 

 今日の夜は長くなりそうだ。

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 晴れない気持ちで翌日を迎えた。

 

 各々がトレーニングに出払ったあと、昨日とほぼ同じようなシチュエーションで坂川と向き合っていた。異なるのはお互いが机を挟んで座っていることぐらいだ。

 

「で、出走するレースは決まったか?」

「…………いいえ」

 

 昨日坂川と別れてから、彼に思うところがありながらもレーシングプログラムや図書館の本、URAのサイトなどを参考に色々考えた。

 ……しかし、結論は出ないままだった。

 

「候補となるレースはいくつか調べました。でも……どのレースが良いのか決まらなくて……」

 

 ──決まらない。

 

 5月に行われる東京、京都、新潟の1勝クラスのレースをいくつかリストアップしたまでは良かったけれど、そこからが問題だった。ひとつに絞るに絞れない。その中でどれを選ぶべきなのか判断が下せないことに気づいたのだ。

 何よりも選択肢が多い。私含め以前所属していたシリウスのみんなは基本的に重賞しか走らないから、多くて二つか三つの候補から選ぶことになる。

 逆に条件戦はレース場、距離、時期など候補が多すぎるのだ。

 私の事なら私が納得すればいいが、レースを走るのは私ではない。レース場、距離、時期……それらを決めるだけの知識も自信もなかった。

 

 どのレースに出ればダイアナヘイローは勝てる可能性が高いのか? 

 

 ……答えは出なかった。答えを出すだけの見識を私は持ち合わせていなかった。

 

「やはり私では──」

「その調べたレースっての、教えてくれ」

「えっ!? はい……」

 

 彼にルーズリーフを渡した。そこには5月に行われる東京や京都レース場で開催される1400m~1800mのクラシック級1勝クラスを中心に記載していた。

 

「ダイアナさんは全4走のうちマイルが3走、1400が1走でした。なので、同じような距離のレースをいくつか見繕ったのですけど……」

 

 無言で目を通す彼に耐えかねて自身の思惑を伝えた。言い訳がましく聞こえるのは自分のせいだろうか。

 

「確かにレース選択で距離は大事だ。ま、調べられてはいるな」

「……どのレースが彼女に合っているのか分からないんです。この中から選んでも大丈夫でしょうか……?」

「そうだな~……よっと」

 

 彼はルーズリーフを私に返してから立ち上がり、ホワイトボードを机の前まで移動させてきた。

 

「ダイアナは逃げで勝ちたいって言ってんだな?」

「は、はい」

「じゃあ逃げを前提として考える。が、その前に、次走のレース選択にあたって考慮すべきことがいくつかある。ひとつはお前が調べたみたいに、前走までの結果を評価することだ」

 

 まっさらにしたホワイトボードに書き記しながら彼は話し始めた。

 

「その前走、アイツは4着に敗れた。……なんで敗れたんだろうな?」

 

 急に訊かれて言葉に詰まる。フォームとかレース展開とか、そういうことだろうか。

 

「……分かりません」

「そうだよな。俺だって分からん」

「ええ?」

「当たり前だろ? レースなんてのは水物だからな。負けた理由なんて全て分かるもんじゃない。だが可能性を考えることはできる」

 

 私が言った“分からない”と、彼が言った“分からない”の意味は大きく異なっている。彼がそれに気づいているのかは不明だけれど。

 

「ダイアナは1番手、つまり逃げて最後の直線で粘ったが外から来たウマ娘に差された。まずはレース場やバ場について整理するか」

 

 坂川はホワイトボードに前走のレース条件を何も見ずに書き始めた。

 

「阪神レース場1600m。天候は晴れだがバ場は稍重。クッション値や含水率は今回は置いといて、1時間半後のレースでは良に回復してるから良寄りの稍重って認識でいい。阪神レース場開催は2月末から始まり当週は7週目で、AコースからBコース替わり2週目。AコースとかBコースってのは分かるか?」

「はい。芝の痛み具合で、内ラチをずらしてコースを変えること……です」

「そうだ。阪神はAとBの2種類。ちなみに東京とか京都はAからDの4種類。AからBなら内から外に3mから4mラチを移動させたことになる。ここでひとつ質問だ。この阪神マイルのBコース2週目って条件、逃げたダイアナヘイローには有利か不利か、どう思う?」

「……ええっと、それは……」

 

 情報を頭の中で整理してから口を開いた。

 逃げウマ娘は基本的に内ラチ沿いを走るのだから──

 

「やや有利だったのではないかと思います。コースが替わってるわけですから、内のバ場状態は良いのでは」

「そういう考えもあるな。だが、そもそもBコースの内側ってのはAコース開催で外側に位置していた場所だ。7週連続開催してんだから、それなりに痛んでるだろう。逆にBコースの外側は今までほとんど使われてこなかった場所だ。更に阪神の外回りってのは直線が長くて差しが決まりやすい。そう考えるとどうだろうな?」

「……ダイアナさんには不利だった、ということでしょうか?」

「かもしれない、ってとこだな。開催日程進んだバ場ってのは難しくてな。前の週は圧倒的外有利だったのに今週は急に内が有利なんてことはザラにある。次は……そうだな、そもそもの阪神レース場についてだ。()()()()()()()()()()()()()()()()に訊くが、阪神レース場の特徴ってのはなんだ? 小難しいことはいい、最後の直線に何がある?」

「最後の直線……坂、ですか?」

「そうだな。高低差1.8メートル、勾配1.5%。なかなかキツい坂が待ち構えている。逆にダイアナが勝った京都なんかは平坦だな」

 

 コース替わりによるバ場の不利、加えてダイアナヘイローは坂を苦手にしているかもしれない。ということは──

 

「あの日の阪神レース場はダイアナさんに合っていなかった……?」

「その可能性は高いな。翌日の同条件の桜花賞、勝ったジュエラー含め上位陣は外を通ったウマ娘が多かった。逆に内にいたウマ娘は沈んでた。あの週の阪神マイルは逃げウマ娘にとってかなり厳しい条件だったんだろう。フィリーズレビューは差しで走ってたし、桜花賞を目指す予定でメニューも組んでいたから阪神マイルを選んだんだが、上手くいかなかったみたいだ」

 

 マーカーの蓋が締まる音が部屋に響いた。

 

「さあ、こっからが本題だ。以上のことを踏まえて改めて考えていこう。勝つためのレース選びだ。あいつにとって有利な条件は何か。まずはレース場から選ぶか。5月の出走を考えるなら東京、京都、新潟だが……」

 

 坂川は各レース場のコース開催をまとめたものをタブレットに表示して差し出してきた。

 再来週の4月の四週目から第2回東京と第3回京都が、次の週から第1回新潟がスタート。

 東京はAコース、京都はCコース、新潟はBコースで、どこも前回開催からコース替わりとなっていた。

 

「これも見て考えてくれたらいい。考えたついたことがあったら何でも口にしてみてくれ」

 

 坂川から言われたことを頭の中で整理しながら、自身の考えを組み立てていく。

 必死になって、言葉という形にしていく。

 

「どのレース場もコース替わりとなっているので3つに大きな差はない……と思います。あとは、内側のバ場状態を意識するなら開催が進む前のレースを選んだ方が良いのかな、と」

「ほう。……どんどん言ってけ」

「はい。えーっと……強いて言うなら、DからAに替わっている東京が有利だと思います……けれど」

「けれど?」

「東京は直線に坂もありますし、何よりダイアナさんは未経験で……彼女は右回りばかりを走ってきているので、左回りの東京は…………新潟も左回りですけれど……右回りか左回りかって、大事だと思うんです。私が()()なので……」

 

 これは私自身の経験に照らし合わせたものだ。右回りが嫌いなわけではないけれど、私は左回りの方が気持ちよく走れるし、パフォーマンスも上がる。金鯱賞や毎日王冠、そして……怪我をする直前の天皇賞秋。

 個人的には右回りか左回りかというのはとても大事な気がする。これはウマ娘としての……サイレンススズカとしての勘だ。

 

「なので、バ場がやや有利ですけど坂のある左回りの東京や、平坦だけれどこれも左回りの新潟よりは、勝った経験もある京都レース場の方が良いんじゃないかと思います」

「…………」

 

 顔を上げると、黙って腕組みをしている坂川と目が合った。その表情は不機嫌そうにも見えるし、何か考え込んでいるようにも見えた。

 そんな彼の表情がふっと緩んだ。

 

「いいじゃねえか」

「……え?」

「それで行こう。ダイアナの次走は京都にしよう」

「い、いいんですか?」

 

 あっさりと話が通ったことに驚きを隠せなかった。

 

「筋の通った話だと俺は思ったぞ。……なんだ? 実は東京か新潟の方が良いのか?」

「あ、いいえ……京都が良いと思います」

「そうか。……なあスズカ」

「はい……?」

 

 一転彼は真面目な表情をした。

 

「そうやって、自分の場合で考えて、それを形にしていくってのはお前にとってすごく大切なことだ。それが正しいのか正しくないのかは別にしてな。忘れるなよ」

「は、はい……」

「よし。話を詰めるぞ。……距離については俺に提案がある。おそらくだが距離短縮した方が良いと思うんだ。アイツの資質ももちろんだが、スタミナ強化を気にせず実践的なトレーニングに集中できるから短期間でも調整しやすい。詳しい理由は──」

 

 

 

 

 坂川の話は続いていき、彼と話し合った上で、ダイアナヘイローの次走は5月1日の京都1200mのクラシック1勝クラスに決まった。

 

 

 

 

 ……勝手にやってくれたらいい、とは何だったんだろう?

 

 



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第65話 憂い

今更ですけど、オリ設定の影響もあり拙作において寮の同室は原作通りではありません。
元ネタ馬の同厩舎とか、関連があるウマ娘と同室になっています。


 阪神レース場での1勝クラスでの敗北から数日後、中2週で5月1日京都1200mの1勝クラスが次走だと坂川から伝えられてから、コース上でのトレーニング内容に変化が生じていた。

 併せやインターバル走、短距離のダッシュなど、これまではレース前でも“普通に走る”トレーニングが多く、その中での心肺強化や走りのフォームの修正などが主だった。

 しかし今はレースに沿ったトレーニングになっていた。例えばスタートやコーナリング、ペース感覚を養うメニュー、他チームのウマ娘との併せや模擬レース、そんなものがほとんどだった。

 トレーニング時間は日に日に短くなっており、まさに短期集中の様相を呈していた。

 

 距離が1200に短縮となったのは個人的にも長いよりは良いと思った。それに京都は勝っている舞台だから勝つイメージがしやすいし。

 

 

 次走までちょうど2週間と迫った週末、今日はゲートの練習から始まった。

 はっきり言ってスタートには自信があった。ゲートを出た後のダッシュだって同世代のウマ娘と比べて速くて、ハナを切ろうと思えば大体は切れたから。

 

 ……()()スタート練習が始まるまでは。

 

「いくぞー…………よっと」

 

 坂川の掛け声の後、金属が擦れる音と共に簡易ゲートが開かれた。

 開いた瞬間を見計らって、地面を捉える足の力を解き放ってゲートを飛び出る。腿を身体に引きつけるようにして、脚の回転を意識しながら加速していった。

 

 

(よしっ! 最高のスタートだわ! さっきよりは絶対に良い感じ──)

 

 

 完璧。これ以上ない手ごたえを感じながら走り出したのだけれど──

 

 

(──うそっ!? これでもダメなのっ!?)

 

 

 ──私の1バ身ほど先に、芦毛の髪が翻っていた。

 

 

「っ……!」

 

 結局差を詰めることは叶わず、芦毛のウマ娘──カレンモエが私より1バ身半ほど先で指定された100m地点を通り過ぎた。

 

「ああっ! もうっ!!」

 

 これで今日も全戦全敗。

 カレンモエとのゲート練習が始まってから今日まで、ただの一度も勝てたことがない。はっきり言って屈辱的だった。自分はスタートが上手いなんて自惚れは粉々に砕け散っていた。

 

 ゴールして先にゲートへ戻っていく彼女の背中を見る視線が意図せず恨めしくなる。私のトレーニングに付き合ってくれて感謝はしているし彼女は何も悪くない。けれど、こうも負け続けては気分が良いわけがない。

 

「はあ、はあ……くっ……!」

 

 息を整えてから、カレンモエに遅れてゲート横にいる坂川の元へ戻った。

 タブレットが彼の手に1台と、スタンドに設置されたものが1台あった。手に持っているそれはペティが並走して撮影していたもので、スタンドにあるのはデジタルブラのデータ用のものだ。

 坂川はそれらを交互に見比べてから口を開いた。

 

「反応は悪くない。脚の引きつけも良い。さっき指摘したことは修正できている……が」

 

 坂川はタブレットをこちらに向け、映像を再生し始めた。

 

「スタートダッシュから通常の走りに移行するのが遅い。ほらここ見てみろ。お前はまだ上体を大きく前傾させてるが、モエの上体は既にほぼ起きかかっている。ここのコンマ何秒かの判断の遅さがゴール地点での1バ身半差に繋がってくる。……テンの速さを意識しすぎだな」

「ぐく……」

 

 私とカレンモエが走っている映像を坂川がご丁寧にも解説してくれていた。彼の解説通り、カレンモエから僅かに遅れて通常のフォームに移行する私が映っていた。

 

「次はこれも頭に入れて走れ」

「……分かったわ。やってやるわよ、今度こそ……!」

「…………」

「なに?」

「いや、何でもねえ。1年前にも似たようなのを見た気がしてな」

「……?」

「この話は終わりだ。ほれ次だ次」

 

 促されるまま再びゲートへ足を向け、今日何度目か分からないスタート練習へと向かう。

 

 

 

 ──結局、今日もカレンモエに一度も勝てなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「で! 今日もゲート練は全然ダメだったわっ! ……スズカぁ、あの男ひどいのよ……一回一回走るたびに小姑みたいに細かいことをグチグチと……コーナリングの時の骨盤とか上体の傾きの角度はこうとかあ……足の着地位置が1センチずれてるとか知らないわよ……ビデオと意味不明なグラフだけで何故分かるのよ……」

「ま、まあダイアナさん……落ち込まないで」

 

 坂川の指示により早めにトレーニングを切り上げさせられ制服に着替えた私は、ウェイトルームにいた休憩中のサイレンススズカの元でくだを巻いていた。彼女は何を言っても受け止めてくれるので、こうやって甘えたくなる。

 キングヘイローにも甘えたいが、残念ながらまだトレーニングを続けていたので無理な話だった。6月の安田記念へ向けて、月並みな言葉だが鬼気迫るぐらいに彼女は自分を追い込んでいた。

 

「でも、成果は上がっているってトレーナーさんから聞いたわ。努力した結果はちゃんとついてきてるわよ」

「ありがとうっスズカ! ……ん? トレーナーさんと私の話してるの?」

「えっ!? えっーと……ええ。この間、たまたまだけれど……」

「ふーん……? まあいいわ。それよりスズカ、今日もこれ見て」

 

 私はスマホを取り出して、坂川からもらった今日の模擬レースの映像をサイレンススズカに見せた。

 最近は毎日空いた時間にこうやって色々相談していた。

 

「今日もトレーナーの指示通りで逃げ。序盤はそこそこ飛ばして、コーナーで一度緩めてから最後の直線で再加速したの。一応勝ったのだけれど……どうかしら?」

 

 フォーム修正などについては坂川の言うことを聞くように彼女から言われている。

 だからこうやって彼女に訊くのは“逃げ”について。硬い言い方なら戦術、砕けた言い方なら気の持ちようとか心得みたいなもの。

 

「なぜ一度緩めたの?」

「後ろの娘たちがあまり詰めてこなかったから、直線でのスタミナを残しておくためよ」

 

 タブレットにはハナ差で1着となった私が映っていた。

 サイレンススズカは少し黙り込んでから口を開いた。真剣に考えてくれているんだと思うと嬉しくなる。

 

「……後ろのウマ娘たち……」

「え?」

「彼女たちを詳しく知っている訳じゃないけど……序盤、ダイアナさん以外のウマ娘の多くは追走に苦労しているように見えるわ」

 

 彼女は映像を巻き戻し、私の逃げについてくるウマ娘たちを指さした。

 

「そうなのかしら? ……確かにそう言われたらそんな気がするわね」

「ダイアナさんのスピードについてこられてないなら、コーナーで緩めるよりそのままスピードに任せて走った方が良かったかもしれないわね。そっちの方が、もっと余裕で勝てていたかも。……あくまで、この模擬レースに関してはだけれど……」

「なるほど! 分かったわ。後ろのウマ娘たちがどんな状態で走ってるかチェックすることが大事ってことね」

「ええ……そうね」

「よしっ! 明日はそれを意識して模擬レースに臨むわ! ありがとうねっスズカ!」

 

 話もいい感じにまとまったので、今日はここまでにしておこう。サイレンスズカもまだトレーニングの途中なのだ。

 

「筋トレ頑張ってねっ」

「ありがとう。また明日」

 

 手を小さく振る彼女に笑顔で返して、私はウェイトルームを出ていった。

 

 

 

 

 

「……次のレースは勝たないと」

 

 栗東寮へ向かう道すがらそう独り言ちる。

 

 ──『おねえちゃん、このまえもまけちゃったんだ……つぎはぜったいかってねっ!』──

 

「…………」

 

 阪神1600の1勝クラスのあとに訪れた児童養護施設にて、悲しそうにしながらもそう健気にエールをくれた5歳のウマ娘が頭をよぎる。

 

「……あんな顔は見たくないわ」

 

 絶対に応えてみせる。

 だから最近は施設にもほとんど行かずトレーニングに励んでいるのだ。

 

 

 サイレンススズカだって、以前私が逃げについて尋ねたのを覚えているから、今こうやって色々教えてくれてるのだろう。

 彼女にだって応えたい。

 

 もちろん、キングヘイローに格好いい姿を見せたいし。

 

 そのためにも今日もしっかりと休んで明日に備えよう。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 その日の夜。栗東寮の自室にて。

 

 

『的確だな。良いアドバイスだと思うぞ』

「そうでしょうか……なら、良かったのですけど」

 

 同室の娘が夜のランニングに行っている間に、私は最近の日課となっている坂川との通話を行っていた。彼女愛用の布団乾燥機の音で少し彼の声が聞き取り辛い。

 

『お前の言う通り後続は追走でひーひー言ってたな。アイツの一番の強みはあのスピードを生かした走りだから、あのペースで走って後続の脚を削った方が良かったかもな。現段階なら、スローよりはミドルからハイでペースを刻ませて気持ち良く走らせた方が良い結果になる可能性が高いんじゃねえかな。京都1200は内回りで平坦、短い直線、そして痛みの少ない内のバ場……多少オーバースピードでも前で残れる可能性は高い』

 

 毎日の通話内容はダイアナヘイローに関しての情報共有。私が話したことと、彼によるトレーニングの評価をお互い把握することが目的だった。

 彼女が練習終わりに私の元へ来ると知った坂川から、その話した内容を教えてくれとお願いされたのだ。

 

『ゲート練習は順調だ。モエには勝ててねえが安定して迫れてる。ゲート出てからのダッシュも速いから、問題なく本番でも逃げられそうだ』

 

 彼女はスタートが全然うまくいかないと今日も言っていたが、どうやら坂川の見立てでは違うらしい。それを聞いて安堵した。

 カレンモエのスタートはびっくりするぐらい速くて安定している。ダイアナヘイローが勝てないのも仕方ないとは思う。

 

 カレンモエには、私の脚が治ったら一緒に練習してスタートのコツを教えてもらいたい。そうしたら私の走りももっと──

 

 

「……あ……」

 

 

 ──ふと、無意識に左足を撫でていたことに気づいた。

 

 

 

 まだ自分の体重さえ満足に支えられないそれを。

 

 

 

『コーナリングを意識した足の運びと体幹のコントロールを叩き込んでいるがまだ不十分だ。どれも甘いし四肢と体幹が理想的な動きと連動をしていない。だが、グラフの波形見てたら良化しそうな兆候はある。必要なのは反復練だ。安心しろ、本番までには仕上げてやる──』

 

 

 この機会を通じて知った、データを駆使した彼の指導を私が受けたら、私はもっと──

 

 

『──。今日のトレーニングはそんなもんだ。今までは練習をいつ休むか分からん奴だったから、技術をモノにするための実践的なメニューに集中的に取り組めずにいたが、今は練習休まねえしうまくいってる』

 

 

 いつの間にか彼からの情報提供は大体終わっていて、あとは坂川が電話を切ると言い出す頃合いになった……いつもなら。

 

『今日はこれで…………あーいや、スズカ。ちょっといいか?』

「何でしょう?」

『ダイアナの逃げに関するアドバイス……今日みたいに立ち回りについて教えるのは良いことだ。それはそれで続けて欲しいんだが……』

「ええ……?」

『……戦術だけじゃなく、もっと他に伝えることはないか? なあ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「私……?」

『ああ。…………ま、急ぐもんでもないか。それじゃあな、しっかり寝ろよ』

「えっ!?」

 

 私が声を上げた時には既に通話は切れていた。

 通話画面からホーム画面に戻ったスマホを見つめながら、耳に残る坂川の言葉を感じていた。

 

「……どういう意味なのかしら?」

 

 サイレンススズカがダイアナヘイローに伝えること……? 

 

「…………」

 

 大逃げでレースを制してきた(サイレンススズカ)が、逃げでレースに挑もうとしている後輩に伝えるべきこと。

 

「分からないわ……どういう意味なの……トレーナーさんは……」

 

 ベッドに身を沈め目を瞑る。そうすると自然とダイアナヘイローの姿が瞼の裏に浮かんできた。

 今日見せられた、彼女が模擬レースを走る姿が。

 

 スタートからゴールまで先頭の景色を譲ることなく駆け抜けていったダイアナヘイローが、なぜか瞼の裏から離れてくれない。

 

 

 さっきの電話のこともあり、考えることが多くて、頭が重い。 

 

 

「………………ん……」

 

 

 

 ──微睡みに身を任せ薄れゆく意識の中、無意識下で零れた言葉に、サイレンススズカは気づかない。

 

 

 

「……私も…………あんな風に…………また…………」

 

 

 

 まだこの身体が覚えている。先頭の鮮やかな景色を。ターフから空高くまで吹き渡る涼やかな風を。

 

 

 ──その言葉は誰にも掬われることなく、ただそれは揺蕩った。なにも残らないはずの声は、しかし形を成した。

 

 

 

「…………きっと………………きもち、いい…………」

 

 

 

 ──ひとすじだけ、目尻から流れたものによって。

 

 

 

 

 

 



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第66話 羨望の先

当作品はイクイノックス号(父キタサンブラック母父キングヘイロー)を全力で応援しています(2話ぶり8回目)

……何も言葉が出てきません



 週末に本番を迎えた木曜日。明日は京都へ移動となるのでレース前最後のトレーニング日だ。

 トレーニングは調整の色合いが濃くなっている。一週間前と比べて負荷をかけるメニューはほとんどなく、加えて練習時間も更に短くなっている。

 疲労が抜けて軽くなってきた身体は、順調に調整できていることを教えてくれていた。

 現在進行系で行っているゲート練習が本日最後のメニューだ。これを終えたらあとはレース本番までトレーニングらしいトレーニングはもうない。

 

 今日はサイレンススズカもコースにいて私のトレーニングを見てくれている。

 持ち運び用のアウトドアチェアに座った彼女から視線を感じる。最後に良いところを見せたいし、カレンモエにも勝ちたい。

 

「頑張って、ダイアナさん」

「ええ! やってやるわっ」

「これで最後だ。泣きの一回はねえぞ」

「……ふぅ……」

 

 ゲートに入り、ちらっと見やった横のゲートにはいつもの通りカレンモエがいた。

 不本意なことに全戦全敗は継続している。まさか一回も勝てずにレースを迎えそうになるとは思わなかった。

 

(……最後ぐらい勝ってみせるわ! 情けないったら!)

 

 速くスタートを切ることだけに集中しろと心中で言い聞かせる。

 そしてカレンモエを強烈に意識する。今度こそお前には負けないと、念じるように思っていると──

 

「……ダイアナ」

「っ!? ぁ、はいっ!?」

 

 いつの間にかカレンモエがこちらを向いていた。

 青く鮮やかな瞳がこちらを覗く。

 

「……目を瞑って」

「えっ……」

 

 突然のことだが、彼女の言われた通りにする。

 

「大きく深呼吸」

「……分かりました」

 

 大きく息を吸って、そして吐く。

 

「身体のおへそに意識を持っていって。それで深呼吸2回。目は瞑ったままで、吐くときに肩の力を抜いて」

 

 彼女の意図などは深く考えないようにして、これも言われるとおりにした。

 ……そうしたことで、身体全体に余計な力が入って緊張していたことに気づく。先程よりも体が楽になった。

 

「今、お腹あたりに意識があると思うから、そのままスタートしてみて。……ゲートを速く出ようって考えすぎたらダメだよ」

「えっ? 分かり、ました……はい」

 

 これはアドバイスなのだと今更になって気づく。時々一言二言軽くアドバイスは貰っていたが、こんなに具体的で多くのことは言われたことが無かった。

 言われたことを必死に頭につなぎ止めながら実践する。

 

 上体にある意識はそのままに……それと、速く出るとか考えない…………

 

「……モエ、話は終わったか?」

「うん」

「分かった。行くぞ──」

 

 坂川の声の後、ゲートが開いた。

 彼女に言われた通り、もっと速くゲートを出るとかは考えないようにした。その結果──

 

(あっ!? やっぱりダメじゃないっ!)

 

 ──カレンモエが1バ身ほど先にいた。

 最後の最後のゲート練も失敗したのかと思ってしまったが──

 

(……あれ? 脚の動きが軽い……!)

 

 行き脚がこの一瞬でも体感できるほど軽い。

 その感覚が嘘ではないと、カレンモエに離されず追い縋っている自分自身のスピードが証明していた。

 

 上体を起こすタイミングを前を走るカレンモエを参考にして、彼女に合わせるように体を起こしその背中を追う。

 

(行けるわっ! 絶対に抜かすっ!)

 

 カレンモエの背中に迫り肩を並べる。

 設定されたゴールまであと20m。

 

「っっ! はああっ!」

 

 調整とかは頭から飛んでいた。思いっきり全力で脚を回した。

 

 その結果、私がクビ差ぐらいで抜け出したところがゴールだった。

 駆け抜けてから、じわじわと実感が湧いてくる。

 

「やった!」

 

 ゲート練で初めてカレンモエに勝つことができた……! 

 

「モエさんっ! ありがとうございますっ!」

 

 すぐに彼女の元に駆け寄った。

 彼女に感謝を述べるためだ。勝てたのは、彼女のアドバイスのおかげだと思ったから。

 

「先程のアドバイスのおかげです!」

「……そう……さっきの」

「はい?」

「さっきしたこと、本番でもしたらいいかもね」

「はいっ。そうしますっ!」

 

 カレンモエは表情や仕草をいつもと変えることなく、先に坂川の元へ歩き出した。その後を私もついていく。

 

 ……本音を言えば、キングにやるように感謝の証として抱き着きたいのだが、彼女にそれをする勇気は無かった。

 

「よくモエに勝てたな。やるじゃねえか」

「あったりまえでしょっ! ……と言いたいところだけれど、モエさんのおかげね」

「…………」

「なにかしら?」

 

 訝しむような眼で私を見る坂川。

 

「おまえ本当はキングと姉妹とかじゃねえのか?」

「意味の分からないこと言わないで。キングが姉ならどれだけ良かったか…………あっ、スズカっ! やったわよ!」

「やったわね、ダイアナさん」

 

 サイレンススズカは柔らかい笑みを返してくれた。彼女は笑うと目尻が下がって本当に可愛い。

 

「ありがとうっ! これで本番も最高のスタートを切って見せるわ!」

「ええ、頑張ってね」

「これでトレーニングは終わりだ。コーナリングもなんとか形になったし、上々だな。残すはストレッチングだ。俺が手伝ってやるから、さっさと来い」

「はいはい。行きましょうスズカ」

「……私、少し寄り道してから行くから、先に行ってて」

「そう? 分かったわ」

 

 どこに寄るのか疑問に感じながらも、椅子に座るサイレンスズカを置いて、坂川のあとを追っていった。

 

 

 ◇

 

 

 ダイアナヘイローを先に行かした理由は、自身のトレーニングのために残っているカレンモエだった。

 

「……モエさん、トレーニングの邪魔をして申し訳ないのだけれど……少しいい?」

「なに?」

「ありがとう。あの……」

 

 彼女に訊きたいことがあったから。

 

 ……近頃の私は、どこか心の中が晴れないような、もやもやとした気持ちを抱えていた。

 

 

 ──『戦術だけじゃなく、もっと他に伝えることはないか? なあ、先頭の景色を見続けたサイレンススズカ』──

 

 

 以前の電話口での坂川の言葉が頭から離れないのだ。

 電話の翌日に彼に直接その言葉の意味を尋ねたけれど、彼には『分からないなら無理に考える必要はない。分かったらでいい』と交わされて、その話題は終わった。

 

 でも彼が言うことだから意味があるはずと思い、私だから伝えられることを探したものの、何も見つからないままだった。……それが心の中のもやもやの正体。

 

 

 ダイアナヘイローのために、サイレンススズカが伝えられることを見つけ出したかった。彼女の勝ちたいって気持ちの手助けになってあげたかった。

 

 

 彼は私に何を求めていたのだろう──そんな心持ちで迎えた今日、目の前でカレンモエがダイアナヘイローにアドバイスしている姿を見た。

 カレンモエがしたアドバイスと、私が伝えられること……関係ないかもしれないけれど、藁にも縋る思いで訊いてみたくなった。

 

「……どうしたの?」

「あ……えっと」

 

 同じチームになってから4ヶ月ほど経つけれど、こうやって誰もいないところで一対一で直接話すのは初めてだ。同学年ではあるけれど、これまで関りなんて一切なかったし、お互い積極的に話しかけるタイプではないのもある。

 

「実はこの前──」

 

 

 少し緊張しながら、坂川との間にあったことを話した。

 

 

「……そう」

「トレーナーさんは私に何をして欲しかったのか分からなくて……。さっき、ダイアナさんに何か助言をしてたでしょう? どういうことを話してたの?」

「……ん…………さっきのなら」

 

 カレンモエは次のトレーニングのために身体を軽く動かしながら答えてくれた。

 

「感覚的なこと。体に力が入りすぎてて、モエに勝ちたいって気持ちが強くて掛かってたから、リラックスできるような深呼吸や意識の向け方を教えた」

「……確かに最後のダイアナさんは速かったわ」

「トレーナーさんが技術的な指導はしてるから、モエは余計なことは言わないでおこうって思ってたんだけど……去年、キングにスタートを教えた時のことを思い出して」

「キングヘイローさんとのこと?」

「うん。意識の向け方とか感覚的なことを教えた」

 

 意識や感覚……坂川が私に求めてたのはそれなの? 

 

「感覚的な話ってウマ娘にしかできないでしょ? でも教えられるのってモエ自身が知ってることだけ。あのアドバイスが正しいのか分からなかった。もしスタートが遅くなったら、それはモエの責任になる。……ほんとは、言う前にトレーナーさんに相談した方が良かったかもね」

「……怖いとは思わなかったの?」

「思うよ。でもあの時トレーナーさんはモエの話を止めなかった。いくらウマ娘の感覚が分からないからって、間違ってることやマイナスなことはトレーナーさんは絶対に止める。だから怖かったけど安心してたよ」

「……信頼してるのね、トレーナーさんのこと」

「うん」

 

 即答するカレンモエ。初めて目にした饒舌に喋る彼女よりも、その肯定の返事が彼と過ごした日々を表している気がした。

 

「今考えたら、ずっと毎日モエと一緒にスタート練してたから、最初からトレーナーさんはモエにこうして欲しかったのかも。相手を見て、モエ自身に自発的に何かを考えさせたかったんじゃないかって。トレーナーさんって、そういうとこあるから」

「……」

「それでね、スズカがトレーナーさんに言われたことだけど……」

「……え?」

「ダイアナへのアドバイス……それはダイアナのためにもなるけど、たぶんそれだけじゃないと思う」

 

 初めてカレンモエが私を見た。

 

 彼女の表情には疑いの色なんて欠片も浮かんでいなかった。

 

 

「それはスズカのためでもあるよ。きっと」

 

 

「……私の……ため」

 

 

 彼女へのアドバイスを考えることが、私のためになる……? 

 

 

「うん。トレーナーさんが『分かったらでいい』って言ってるなら、急がないでいいよ。そうやって悩んで考えることに、意味はあるんだと思う」

「…………」

 

「モエさーん、コース空きましたよー。お願いしまーす!」

 

 ペティが遠くからカレンモエに手を大きく振っていた。

 

「モエ行くね」

「あっ……ありがとう。モエさん」

 

 ペティの元へ走っていくカレンモエの背中を目で追う。

 彼女はペティとタブレットを見て言葉を交わしてから走り始めた。

 

 

「悩んで考えることに、意味がある……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 5月1日京都レース場。芝2000mで行われた第4レースが終わり、第5レースに出る他のウマ娘たちと一緒にパドックから地下バ道を通ってコースへ向かっていた。頭の中ではカレンモエが教えてくれたスタート前のルーティンを忘れないように反芻していた。

 地下バ道の道中には、2人のウマ娘が私を待ってくれていた。

 

「キング! スズカ! 来てくれたのねっ!」

 

 彼女らの姿を視界に捉えると、駆け寄る足が思わず早足になってしまった。

 

「ダイアナさん、自分のやってきたことを出し切るのよ。そうしたら絶対に大丈夫」

「もちろんよっ! キングの前だもの、今日こそは勝ってみせるわっ!」

「その調子よ! キングの後輩らしく、一流の走りを期待しているわ」

「ええっ! キングいつものあれやりましょう!」

「ふふっ、仕方ないわね。せーのっ」

「「おーっほっほっほ!」」

 

 私たちの声は地下バ道によく響いた。ひとしきりこうやって笑うと、力が改めて湧いてきた。

 キングたちのためにも……そして施設のあの娘のためにも、絶対に勝つ姿を見せてあげたい。

 

「キングはこれで失礼するわね。……ダイアナさん、良いレースを」

「ありがとう!」

 

 キングは踵を返して地下バ道を戻っていった。

 

 地下バ道に残されたのは私とサイレンススズカ。私以外のウマ娘はもう出口に差し掛かっていた。

 

「……? スズカ、どうしたの?」

「あ……ええっと……」

 

 溌剌としていたキングヘイローと違い、サイレンスズカは私を見てどこか迷いのあるような顔をして俯いていた。

 

「どうしたのスズカ? ……あ! 服どこかおかしい? 着崩れてるかしら?」

「いえ、そんなことはないわ……」

「そう?」

 

 彼女は俯いていた顔を上げた。

 

「…………あのっ、ダイアナさん……!」

「へっ? ええ、なに?」

 

 覚悟を決めたような表情に少しびっくりした。

 

「……風を」

「風?」

「身体に当たる気持ちいい風を……誰も前にいないターフを……見渡す限りのレース場を──」

 

 彼女の言葉に次第に力が入ってくる。

 胸の前で手を組んだ彼女は、私に対して強く願うようにこう言った。

 

 

 

「──先頭の景色を、楽しんできて」

 

 

 

「先頭の、景色……?」

 

 思わずオウム返しをしてしまった。

 

 正直言って、何のことか分からない。でも──

 

「あ……あの……えっと……」

「……ふふっ。えいっ!」

 

 そう言った後に狼狽える彼女がどうにも可笑しかったから、私は彼女に抱き着いた。彼女の持っていた松葉杖は倒さないように気をつけて、全身を包み込むように抱く。

 

「ちょっと……ダイアナさん?」

「もうスズカったら……なんであなたがそんななのよ。……ありがとう。分かったわ、先頭の景色を楽しんでくるわね」

 

 言葉の意味は分からない。でも、さっきのキングヘイローと同じぐらい物凄く力を貰えた気がする。

 

「やっぱり私、あなたと他人の気がしないわ。スズカもそう思うでしょ?」

「……ええ」

「よねっ! ……私、行ってくるわねっ!」

 

 彼女を離した私は地下バ道の出口へと向かっていった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 スタンドに戻り、チームの皆と並んでターフに目をやる。

 枠入りが完了し、後はスタートを待つだけだった。

 

『スタートしましたっ! ダッシュよくダイアナヘイローが出ていきました。ダイアナヘイロー先頭、2番手ウメマツサクラ』

 

 スタートダッシュを決めてたダイアナヘイローが2バ身ほど差をつけて()()()()()()()()。2番手以下は集団となって彼女の跡を追走していた。

 コーナーまでは約300mと短いこともあって、あっという間に彼女は内回りの第3コーナーへと差し掛かった。

 

 ──スピードに身を任せ軽快に走るダイアナヘイローを見ていると、さっき私から彼女にかけた言葉が自然と蘇ってきた。

 

 

 

 “先頭の景色を、楽しんできて”

 

 

 

『ダイアナヘイロー先頭で3コーナー通過。あとには──』

 

 後ろのウマ娘を従えて、先頭のダイアナヘイローが手ごたえ良くコーナーを回ってくる。体軸のぶれも少なく、スムーズにコーナリングできていた。

 スピードを緩めることなく、後続の脚を削っていた。

 

「……」

 

 ──結局、あれから彼女にかける言葉を探しても何も見つからなかった。地下バ道で彼女を迎えても、何も思い浮かばななかった。

 それでも何か声をかけようと思って、浮かんできたのは自分のことだけだった。

 

 ──私が……サイレンススズカが走っていたときのこと。

 

 

『先頭はダイアナヘイロー! 400mを通過して、さあ直線コース!』

 

 

 第4コーナーを回り、後続との差を保ったまま最後の直線にダイアナヘイローが入ってくる。

 

 

『ダイアナヘイロー先頭だ! ダイアナヘイロー先頭だ! まだ2バ身3バ身リードがあるっ!』

 

 

 

 ──あの言葉に意味があったのかは分からない。けれど──

 

 

『残り200mを切った! 2番手ウメマツサクラ、そしてバ群の間を縫うようにサイタスリーレッドが3番手を伺ってくるっ! しかしダイアナヘイロー先頭! リードを広げにかかるっ!』

 

 

 残り100mを切って、ダイアナヘイローは後続との差を3バ身から4バ身と広げていく。

 後ろから追い込んでくるウマ娘もいるが、差は縮まらない。

 

 

 まさに快速。

 

 

 彼女の逃げに誰も追いつけない。

 

 

 

 ──けれど、彼女が先頭で逃げている姿を見せられて、ひとつ分かったことがある。

 

 

『さあ2、3番手は接戦になりそうだが──』

 

 

 

 他のウマ娘を置き去りにして、先頭を駆けるダイアナヘイローがゴールへと向かう。

 

 

 

『先頭はダイアナヘイローだ! ダイアナヘイローゴールインッ!!!』

 

 

 

 私の周りで、チームの皆が喜んでいた。

 

 

 ダイアナヘイローが走りながら手を上げて零れるような笑顔でこっちを見ていた。

 

 

 

 私も嬉しい。でも、その中で──

 

 

 

「……ああ……気持ちよさそう──」

 

 

 

 ──逃げ切った彼女を見て……自由に走れる彼女を見て……先頭の“景色”を見ているだろう彼女を見て、私は──

 

 

 

「私もまた、あんなふうに────」

 

 

 

 

 ──ただただ、彼女が羨ましかったのだ。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 ダイアナヘイローと携わり、あのレースを終えて、私自身のことが整理……いや、理解できた気がする。それと“景色”についても。

 

 

 “景色”を再び見るために、私は坂川の元へ移籍してきた。彼が“景色”を見せてくれるって約束してくれた。そして新しい“景色”を探しに行こうとも。

 自分が荒唐無稽な話をしているのは分かっている。それでも彼が私の“景色”が見たいって言ってくれて嬉しかった。その言葉には心を動かされたし、一生懸命に語りかけてくる彼を見て、熱い思いが伝わってきた。

 

『走ることもそうだが……走りに向き合うことで、新しく見えてくるものは必ずある。それは“景色”にも繋がっているって、俺は思うんだ』

 

 今になって彼がそう言っていたことを思い出す。一連のダイアナヘイローとの経験が彼の言っていたことと同じなのかは分からないけれど、関係ないとは思えなかった。

 私はダイアナヘイローを通じて走りに向き合ったんだと思う。

 

『──先頭の景色を、楽しんできて』

 

 そう振り返ったうえで、あの地下バ道での私自身の言葉を思い返すと、私はダイアナヘイローを通して“景色”を見ようとしていたんだと思う。“景色”を託すとも言っていい。

 それがおそらく、新しい“景色”の形のひとつなのだ。誰かに“景色”を託す……私を他のウマ娘に投影する。それは間違いなく“景色”の形のひとつだと思う。

 

 

 

 

 私自身は走らず、携わったウマ娘というレンズを通して、私が“景色”を見る。見せてもらう。

 

 

 

 

 ……実は、そういう形での将来を考えなかったわけではない。私の脚が治る可能性が低いのは知っている。怪我をしてすぐ、過去に同じ怪我をしたウマ娘たちの末路を調べたことがあるのだ。

 絶対に治るって根拠のない夢を見られるほど子供じゃない。それでも諦めきれなくて、私は坂川を頼ったのだ。

 

 景色は見せてもらうことができる。そのことは今回のことで理解できた。

 

 けれど……

 

 

『先頭はダイアナヘイローだ! ダイアナヘイローゴールインッ!!!』

 

 

 ダイアナヘイローが目の前で逃げ切る姿を見て、湧き上がってくる想いを抑えられなかった。

 

 

 “私もまた、あんなふうに────”

 

 

 未だに体重のかけられない脚でも、治る見込みが低くても……もし、もう走れないという結果が待っていたとしても。

 

 

 私は走ることに……自分自身がターフの上で見る“景色”に、どうしようもなく惹かれていて、身が焼かれるほど焦がれている。

 

 

 この(サイレンススズカ)の気持ちに嘘はつけない。誤魔化すなんて何があってもできない。

 

 

 

 

 走ることは何事にも代えられない。

 

 

 

 

 “景色”に出会うなら、そのときの私はターフで走っているサイレンススズカがいい。

 

 

 

 

 それが正真正銘偽りのない、私の気持ちだ。

 

 

 

 

 

 

 レースの翌日、他のウマ娘が部室へ向かったあと、トレーナー室にいた坂川に私はこう伝えた。

 

「やっぱり私……走りたいです。厳しい道になるのは承知しています。けれど、“景色”を見るのは、先頭で走るサイレンススズカが良いんです」

 

 デスクに座る彼にそう言うと、彼は少しだけ間を置いてからこっちを見やった。

 彼の口元には笑みが浮かんでいた。

 

「何も変わらねえってことだな。分かった。……今日からメニューを変更だ。医者とも情報交換して、次のステップに移行することになった。厳しいし辛いぞ。覚悟はいいな?」

「はい」

「と、その前に土日のレース回顧のノート提出な。今までやってた座学だって続けていくぞ。それと……ダイアナヘイローのこと、ありがとうな。お前が色々考えて手伝ってくれたおかげで勝つことができた。よし、じゃあ一緒にウェイトルームに行って、新しいメニューについて教える。近々コースにも出てもらうぞ」

「! コースに、ですか!?」

「ああ。まだ歩くとか走るとかは無理だし荷重に制限はあるが、出来ることはある」

「はいっ! 頑張りますっ」

 

 先にトレーナー室を出て、ゆっくり歩く彼の後を私は追っていった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 1勝クラスに勝利して、その数日後に児童養護施設を訪ねると、これまでに見たことないぐらい子どもたちが喜んでくれた。

 こっちが申し訳なくなるぐらいの喜びようだった。あのウマ娘の子は「おねえちゃんすごいすごいっ!」ってずっと言ってくれて、その日はずっとじゃれていた。

 

 レース後はキングヘイロー含めてチームの皆も自分の事のように喜んでくれていた。

 

 頑張って走って勝つのも悪くないって、そう思った。自分のためにとは思わないけれど、他人のためになら私は頑張れるんだって理解させられた。

 

 

 そんな満たされた気持ちになった翌日の放課後、トレーナー室に顔を出すと坂川だけがいた。彼は私を一瞥した後、パソコンと睨み合ってキーボードを叩いていた。

 

「ごきげんよう。誰も来てないの?」

「お前が一番最初だ」

「……」

 

 相変わらず気に食わない男だ……とは思うけれど、キングヘイローとカレンモエが来月にレースを控えている中、レース前は私に付きっきりで色々なことを教えてくれた。

 さすがの私でも、彼の指導が無かったらおそらく勝ててはいなかったことぐらいは分かる。

 

 パソコンでの作業が一段落終えたのか、彼はイスの背もたれにもたれかかった。

 

「ふぅ。……なあ、ダイアナ」

「なにかしら」

「……いや、やっぱ何でもねえ。お前はお前の走りたいときに走ればいい」

「……またそれ?」

 

 彼はそう言ったきりまたパソコンに向き直った。話はそれで終わりということだろう。

 

 ……まあでも、今の私たちはこんな距離感でいてくれた方がいいのかもしれない。

 

「……ま、分かったわよ」

「は?」

「あなたが言ったことよ。それじゃ、部室に行くわ」

 

 部室でキングヘイローたちを待つことにした私は、自分のデジタルブラのセンサーを持ってトレーナー室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 ダイアナヘイローがトレーナー室から出ていった。

 

 

「……まあ、良い方向に出たか」

 

 

 ダイアナヘイローのレース終わり、彼女については一段落した。

 結果も出たのは何より喜ばしいことだ。彼女自身の持てる力を発揮してくれた結果、4バ身差の勝利となった。

 今回のレースへの意欲が、あの小さい子どもたちと繋がっている可能性もあるが……俺が首を突っ込むことでもないだろう。悩んでそうな様子が見られたらまた別だが。

 

 サイレンススズカも自分のことについて向き合ってくれたようだった。狙い通りと言えば言い方は悪いが、偶然にも機会を作れたようで良かった。

 それでも走ることを選んだのだから、多くの苦難が待ち受けているだろうが、最大限サポートしてやるだけだ。

 

 答えを提示して教えるのは楽だし簡単だ。だがそれだけでは成長したり前に進まない。自ら前に一歩踏み出すことこそ大切だと思うから、今回はサイレンスズカに色々考えてもらったのだ。

 “教育”とはよく言ったものだと思う。“教”えるだけでなく“育”てないといけないのだ。

 

 

「こっちは一段落で、次は……もう来月だな」

 

 

 

 来月……6月にはキングヘイローが安田記念、カレンモエは函館スプリントが待っている。

 

 

 やるべきことは変わらず山積している。だが、やることは何も変わらない。結局はいつもの通りだ。

 

 

「……アイツらも、まだまだここからだ」

 

 俺は改めてパソコンに向かい合い、走りの分析やメニューの作成に取り組んだ。

 

 




ダイアナヘイロー編……実質サイレンススズカ編でもありましたが、これにて完結です。


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第67話 惜日

当作品はイクイノックス号(父キタサンブラック母父キングヘイロー)を全力で応援していました!
ジャパンカップの最後の直線は忘れられそうにないです。個人的にはラジオ日本の実況が最高でした。「現役にして既に伝説」ってキャッチーなフレーズがとても良いです。


本話はあるウマ娘視点の話となります。


 

 

 

 いつからだろうか。

 

 

 走るたびに褪せてゆく自分に気づいたのは。

 

 

 

 

 ……ああ、そうだ。それは最初からではなかった。

 

 

 

 

『“──────”! ケンタッキーオークスを制しましたっ! ティアラ路線、世代の頂点に立ったのは“──────”!』

 

 

 

 

 

 間違いなくそこにあった、輝いていた瞬間。

 

 

 

 

 

『“──────”がラカナダステークス優勝! これでGⅠ7勝目です!』

 

 

 

 

 

 疑わなかった。

 

 

 

 これからの私は、今よりもっと輝くのだと。

 

 いつか頂点にたどり着くのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 ……()()が来るまでは。

 

 

 

 

 

 

 

『バヤコアが“──────”を破ってサンタマルガリータ招待ステークスを勝利! アメリカでのGⅠ初制覇となりましたっ!』

 

 

 

 

 あまりにも眩い輝きが、私の輝きを飲み込んでいく。

 

 

 

 

 

 

 色褪せていく、私。

 

 

 

 

 

 

 それでも、次こそは勝つと決意して、両手を強く握りしめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ふと思う。

 

 

 

 私の輝きは誇れるものであったのか? 

 

 私は自らの残した足跡に胸を張れるだろうか? 

 

 

 

 

 

 

 ……答えは否。

 

 

 

 

 

 

 なぜなら──

 

 

 

 

 

『レコードタイムだっ!!! BCディスタフをレコードで制しましたバヤコア、これでGⅠ8勝目です!』

 

 

 

 

 

 ──手の届かない燦爛たる輝きに灼かれた瞬間を、グッバイヘイローは覚えているから。

 

 

 

 

 ずっと握りしめていた手が緩んだ。

 

 

 

 もう力は入らなかった。

 

 

 

 

 

 

『BCディスタフ連覇達成、バヤコア!!! GⅠ13勝目!!!』

 

 

 

 

 

 手を伸ばしても届かない。

 

 

 

 

 

 永遠に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 宝物を授かった。

 

 

 何にも代えがたく、大切で、そして何より愛おしい。そんな私の宝物。

 

 レースの世界しか知らなかった自分には不慣れなことばかりで、いつも傍らには積み上がった育児本と厚くなった使用人やベビーシッターのメモ。

 

 

 

 

 

 あなたが幸せでありますように。

 

 

 

 あなたのおかげで私が幸せだから、あなたにも幸せになってほしい。

 

 

 

 

 一日一日が色濃く、そして光のように一瞬で過ぎ去っていった。 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 走りたい、とあなたは言った。

 

 

 

 笑顔のあなたが指さす画面の中には、在りし日の私が映っていた。

 

 

 あなたが生まれてからも私は走ってはいたけれど、今ではもう勝負服のデザイナーの道を選び、レースからは離れていた。

 あなたが私の走る姿を実際に見ていたのはもう何年も前……物心がつくかつかない頃のこと。

 

 

 

 私みたいに走りたいと、無邪気に笑うあなた。

 その笑顔を見せられては、断ることなんてできなかった。

 

 

 そもそもウマ娘が走り出すのを止めるなんて、最初から無理な話だったのだ。

 

 

 嗚呼、今思い返すと、あの時の私の奥底ではあなたに期待していたのかも。

 

 

 ……自分に反吐が出そうになる。

 

 

 救いようもないほど愚かで醜く、下劣な自分に。

 

 

 

 ──私が届かなかった燦爛たる輝きを、あなたは持っているかもしれない──

 

 

 

 そんな卑しい期待を抱いていた自分に。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

『わたし、ぜったいにおかあさまみたいなうまむすめになるわっ!』

 

 

 口癖のようにそう言うあなた。

 

 

 

 走り始めたあなたをずっと見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 言葉にせずとも分かる。あなたは走ることを心の底から楽しんでいる。

 

 

 

 

 

 身体も心も成長して、あなたという個人が徐々に形成されていっても、何も変わらなかった。

 楽しそうにあなたは走っていた。

 

 

 

 親として、私はそんなあなたをただ応援したかった。だってあまりにも幸せそうに走るから。

 

 

 

 

 ──しかし、競技者としての私はそれを許してくれなかった。

 

 

 

 

 あなたの走りからは輝きを感じる。あなたには才能があるのだ。贔屓してるわけではなく、事実として。

 

 けれど、あなたの輝きは()()()()からは遠すぎた。届きそうになかった。届かなかった私だからこそ、分かってしまう。

 

 

 あなたには、全てを蹂躙するような才能は無かった。

 

 ある程度までは上に行けるだろう。でもそれだけ。あなた以上の輝きを持つウマ娘は必ず現れ、いずれ飲み込まれる。

 

 

 待ち受けるのは、手に力の入らなくなった私のような未来。

 

 

 ……あなたにあんな思いをさせるわけにはいかない。あんな残酷な世界、あなたは知らなくていい。

 

 

 

 もうひとつ問題があった。

 

 

 あなたは優しすぎた。

 相手を倒した喜びより、負かした相手のことを心配してしまう。

 あなたの生来の気質……他人を思いやる優しさはレースに向いていない。

 

 

 レースの頂点を目指すうえで、致命的な気質だった。

 

 

 その気質を問題にしないほどの圧倒的な才能を持っていれば別だが、あなたはそうではない。

 

 

 

 

 

 

 競技者としての私が、親としての私に語りかけてくる。

 

 

 

 

 あなたをこのまま走らせてはいけないと。

 

 

 

 

 母親と同じ、惨めな結末が待っているだけだと。

 

 

 

 

 だから私はあなたに言うのだ。

 

 

 

 

 

『あなたに走りの才能はない』と。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 口酸っぱくあなたに言った。

 

 

『レース以外にも道はあるのよ』

 

 

 それでもあなたは走ることを選んだ。

 家を飛び出して、トレセン学園に入ってしまった。私の手から離れてしまった。

 

 

 止めようと思えば止められた。でも止めなかった。

 あなたは誰かに似て頑固だから、言うだけでは理解できないのだ。

 

 

 ……こんなところまで、似なくていいのに。

 

 

 

 

 

 

 

 伝手を頼って、学園内のレースの情報を得ていた。

 

 同世代で最上位グループに位置するあなた。

 しかし、最上位ではなかった。

 

 

 幸か不幸か、あなたの世代は豊作すぎた。

 前髪に特徴的な流星を持つ娘、栗毛のロングヘアの娘、覆面を被っている娘……この3人は明確にあなたよりも上だった。違い過ぎた。芦毛の逃げウマ娘も、総合的に見ればあなたと同等以上の力があった。

 

 ……芦毛の逃げウマ娘が同期にいるなんて、運命を感じずにはいられなかった。母娘の宿命なのだろうか。

 

 

 

 あなたに待ち受ける未来が透けて見える。

 

 

 尚のこと、あなたをこのまま学園に置いておくわけにはいかなかった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 ある模擬レースの後の電話で、近くにいたというトレーナーと電話をした。

 彼は慇懃無礼を体現したような口調で話し始めた後、豹変して私のトラウマを抉ってきた。

 (はらわた)が煮えくり返った。似たような内容で陰口を叩かれてはいたが、面と向かってそう言われたのは初めてだった。

 

 そして彼が最後に放った言葉に、私は絶句させられることになる。

 

 

『グッバイヘイロー、お前はあそこで才能ってのを知ったのか?』

 

 

 混乱した。

 

 彼とは初対面で全く知らない相手なのに、なぜここまで正鵠を射ることができるのか。

 

 

 ……あとから考えると、別におかしくは無かったのかもしれない。ウマ娘と接しているトレーナーなら分かっていても何もおかしくない。

 

 

 どう足掻いても敵わない。そう思い至って絶望する。

 そんなこと、レースを走るウマ娘には珍しくともなんともない。彼女に会うまでは、私がそちらの立場であって、知らなかっただけ。

 

 

 そのとき混乱していた私はあなたにあのトレーナーだけは駄目だと伝えた。理由は気に食わなかったから。あの他人を小ばかにするような話し方も気に障った。

 

 あなたに相応しいトレーナーだとは思えなかった。性格的な相性は悪いだろう。

 

 しかし、結局は彼が……坂川があなたのトレーナーになってしまった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 ある日のこと。

 仕事場に着くと私宛に謎の問い合わせが来ていると社員から報告があり、一応目を通した。

 

 そこには匿名のウマ娘の育成方針やトレーニングメニューなどが具体的に記されていた。全て根拠づけがされており、文末にはおびただしいほどの参考文献。

 改めて考えるまでもなかった。彼が送ってきたものだとすぐに分かった。

 あの実績の割に力はあるようだった。あの話し方から粗暴でいい加減な人物像を描いていたが、トレーナーとしての中身はそうではなかったみたいだ。

 

 

 

 それは1ヶ月に一度、定期的に送られてきた。返信はしないが、内容だけは毎回目を通していた。

 そうするうちに、ある思いが湧き上がってきた。

 

 

 ──このトレーナーは駄目だ。

 

 

 彼は優秀だった。それが駄目だった。

 

 こんなトレーナーじゃ、あなたは言い訳をさせてもらえない。トレーナーのせいで……なんて、言えない。

 

 あなたは負けた理由を正しくあなた自身に求められる。逃げ道はない。

 

 

 

 

 ……もっとも、あなたが他人のせいにするような娘ではないことはよく知っているけれど。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 ホープフルステークスでの初敗北、そして弥生賞での連敗。あなたは敗北を味わうことになった。

 

 特に弥生賞は先頭の2人に離されての完敗。一瞬で差をつけられて、必死で走っても追いつけないあなた。

 ……思わず目を逸らしそうになった。それでも見ていた。あなたが負ける瞬間を。

 

 

 この先に何が待ち構えているか、火を見るより明らかだった。

 だから私は今回もあなたに電話をかけた。

 

『まだ遅くはないわ。これ以上醜態を晒す前に帰ってきなさい、キング。何度も言っているけど、レース以外の道もあるのよ』

 

 あなたはいつものように反発した。

 

『帰らないわ。トゥインクルシリーズで私は、キングヘイローは一流のウマ娘であると証明するのよ!』

 

 いつの間にかあなたが言うようになった“一流のウマ娘”。

 

 “お母さまみたいなウマ娘”ではなくて、“一流のウマ娘”。

 

 ………………一流。

 

 だから私はあなたに訊いた。“一流のウマ娘”と何かと。

 

『クラシック三冠? 天皇賞? ジャパンカップ? 有馬記念? KGVI&QES(キングジョージ)? チャンピオンステークス? ブリーダーズカップ? 凱旋門賞? この中の1つでも? 複数勝ったら? 全て勝ったら? GⅠ勝つにしてもいくつ勝てばあなたの言う一流に届くのかしら? 1勝? 2勝? 3勝……それとも、私のGⅠ7勝を超えれば、かしら?』

 

 

 あなたは黙るだけ。

 小さい頃から一緒。あなたは都合が悪くなると黙ってしまう。

 

 我ながら意地が悪い。……そういう風にしか言えない自身に少し嫌悪感を感じた。

 けれど、あなた自身が走る意味を持たず、ただ漠然と走っていても何も成せない。ただ苦しむだけで終わってしまう。

 ……成そうと思って走った私でさえ、何も成せず褪せていったのだから。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 皐月賞。あなたは負けた。

 

『……』

 

 僅かな差。しかしあまりにも大きい差であることを私は知っている。

 

『……っ』

 

 負けたあなた(キングヘイロー)の姿に、(グッバイヘイロー)の姿が重なった。

 

 

 褪せて終わった自身のことを、今でも色褪せずに思い出せる。

 

 私は未だに囚われたまま。あなたにだけは囚われてほしくないのに。

 

 

 

 その日は電話をかけられなかった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 日本ダービー。

 

 

 何を考えたのか逃げて惨敗。見ていられなかった。

 

 

 あなたは現実を知ってしまった。レースの残酷な現実を。

 ……泣き虫なあなたは泣いているかしら。

 

 あなたにだけは、こんな思いをさせたくなかった。

 

 

 あなたも潮時だと理解してくれることを期待して電話した。

 

 

 しかし──

 

 

『今は電話する気分じゃないの! ごきげんようさようならお母さまっ!』

 

 

 ──と言われて電話を切られた。

 

 

 理解できなかった。

 

 

 あなたの声色からは、悲壮感を微塵も感じなかったから。

 

 

 

 それどころか逆に──

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 菊花賞5着。あなたはクラシック無冠で終わった。

 危惧していた未来が現実のものとなった。

 

 そしてあなたがトレセン学園に入ってから初めて、あなたから私へと電話がかかってきた。

 私は動揺した。あなたが何を考えているのか分からなかったから。

 

 通話ボタンをタップする指が震えていた。

 

 怖かった。あなたの声を聴くのが。

 

 

 あなたは語り始めた。今までの自分のことを。

 2人に追いつけないばかりか、他のウマ娘に追い越されたことを。

 

 

『お母さまは嘲笑(わら)うかしら? ……っ……言った通りでしょうって……無様ねって……醜態を晒して情けないわねって……っ……』

『お母さま…………私は、ね……っ…………悔しいわ。どうしようなく、悔しいの……っ……』

『分からないの。私が勝って一流のウマ娘だって証明したかった…………っ、でもっ、できなかった。満足に勝つことさえできない……こんなっ…………くっ…………こんな結果にたどり着いてしまった』

 

 涙声で綴られるあなたの気持ち。

 

 私の目の前には泣いてるあなたがいる。

 

 これまでと同じように、あなた(キングヘイロー)の姿に(グッバイヘイロー)の姿が重なる。

 

『お母さまに言われた、一流のウマ娘の意味…………それも結局、分からないまま…………走って負けて、自分が目指す一流のウマ娘の正体も分からないままで…………私は──』

 

 聞いていられなかった。

 話を遮って、帰ってくるように言った。

 

 今のあなたなら、聞き入れてくれると思った。

 

 

 

『嫌よ。私は走るわ』

 

 

 

 ──それでもなお、あなたは走り続けると言った。

 

 あなたは“一流のウマ娘”について話し始めた。

 内容は支離滅裂。結局それが何かは分からないから、走ってそれを探すと。

 

 

 

『私は走り続けることで一流のウマ娘が何かを探して、そして証明する。ただ見つかるのを待ってるんじゃない、走ることで見つけていくの。私が、私だけの一流のウマ娘を見つけていくのよ!』

『私のレースを、私の走る姿を見てなさい。……それだけよ』

 

 

 

 いつの間にか涙声ではなくなっていて、あなたの声には力強さだけがあった。

 

 

 

 気づくと、あなた(キングヘイロー)の姿に重なっていた(グッバイヘイロー)の姿が無くなっていた。

 

 

 

『……はあ。ほんとうに、バカな娘』

 

 ──ほんとうに、ばかな()()娘。

 

 ──けれど、あなたは、私ではないのだものね。

 

 

 

 通話を切った。

 

 

 

「…………」

 

 

 言っていることは滅茶苦茶。

 

 でも、あなたは前を向いた。

 

 

 私が危惧していたことを経験してもなお挑もうとする。

 

 あなたはまだクラシック級。これから先、これまで以上の苦難が待ち構えているかもしれない。

 

 そこで、私のようにならないとは限らない。折れてしまうかもしれない。

 

 

 

 それでもあなたはまだ固く両手を握りしめている。

 

 

 

 

 私の願いが叶うなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──どうか、あなたに幸せな結末が待っていますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




以上をもって幕間2は終了となり、本編へと戻ります。


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シニア級
第68話 安田記念


 半年前から目指していた舞台をようやく迎えた。有馬を走り終えてから、この日を最大目標に準備をしてきた。

 

 チームの皆に支えられてここまでやってこれた。カレンモエやダイアナヘイローとは一緒にトレーニングをし、ペティやサイレンススズカにはトレーニングを手伝ってもらったりアドバイスをもらった。

 そして今更言うまでもなく、彼……坂川にも。

 

 グラスワンダーは強い。有馬で共に走ったからこそ知っている。

 セイウンスカイを並ぶ間もなく交わし、メジロブライトの追撃を凌いだ彼女の背中が私の目に焼き付いている。

 

 

 でも負けられない。

 

 今度こそ勝ちたい。

 

 

 ずっと抱いてきた決意を胸に、東京の長い地下バ道を抜けてレーストラックへと向かった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 去年の夏に少しだけ関わったアドマイヤベガがダービーを制したその翌週……つまり今日、ここ東京レース場で上半期のマイル王決定戦安田記念(GⅠ)が行われる。

 

 キングヘイローは中山記念から3ヶ月間休養を挟んで安田記念へ臨んだ。使い詰めだったクラシック級とやり方を変え、休養と調整十分にてレースへと彼女を送り出した。

 安田記念と同舞台である東京マイルの東京新聞杯を含め重賞2連勝を引っ提げた彼女は2番人気に推された。対する圧倒的な1番人気は去年の有馬記念覇者、そして安田記念の前哨戦である1400mの京王杯スプリングカップでも勝利したグラスワンダーだった。

 

 キングヘイローとグラスワンダーは去年の有馬記念以来、2度目の対決となる。友人でありライバルであるグラスワンダーにこの東京マイルで負けるわけにはいかないと、今度こそGⅠを取ると、強い決意で彼女は日々のトレーニングに取り組み、そして安田記念を迎えた。

 俺個人としてもグラスワンダーの担当トレーナーは俺の師匠である清島のウマ娘だ。恩返しと言うとくすぐったいが、勝ちたい気持ちに嘘はない。

 

 グラスワンダーが強いウマ娘であるのは分かっている。だがキングヘイローの実力を発揮できれば勝機は少なからずある。

 

 

 

 ──現実は甘くないと叩きつけられるのは、安田記念が発走してから1分35.1秒後のことだった。

 

 

 

『さあ残り400を通過! 先頭はエガオヲミセテだが、グラスワンダーやって来た! グラスワンダーやって来た!』

 

 道中を2~3番手で運んでいたキングヘイローだが、最後の直線に入ると後ろから来ていたグラスワンダーに易々と外から抜き去られ、ズルズルとポジションを落としていった。第4コーナーで外から被せられた影響で直線ではバ場の良い外に出せず、さらにバ群に包まれた影響で走りのバランスを崩したせいなのか、明らかに失速してしまっていた。

 後退していくキングヘイローとは対照的に、残り200mで先頭に立ったグラスワンダーは後続を引き離し、加速して抜け出していく。

 

 

『先頭はグラスワンダー! 200を通過! 体半分のリード!』

 

 

 しかし、そのグラスワンダーを狙うウマ娘がいた。金髪を靡かせて外からグラスワンダーに追い縋るウマ娘は──

 

 

『2番手外からエアジハードが迫って来たッ!!!』

 

 

 エアジハード……前走京王杯スプリングカップでグラスワンダーの2着だったウマ娘が、逆襲せんとグラスワンダーに襲い掛かっていた。

 

 

 

『グラスワンダーかッ!? エアジハードかッ!?  グラスワンダーかッ!? エアジハードかッ!?』

 

 

 

 抜け出た2人のマッチレースとなった。必死にリードを保とうとするグラスワンダーと、それに食らいつくエアジハード。

 2人はバ体を合わせてゴールへと突っ込んでいく。栗色と金色の尾が彗星のように流れて重なっていく。

 

 グラスワンダーとエアジハードの決着はゴール板までもつれた。

 

 ハナ差前へ出たのはエアジハード。ゴールする瞬間にグラスワンダーを遂に捉えたのだった。

 

 

『エアジハードですっ! 京王杯のリベンジ成った! 圧倒的1番人気のグラスワンダーを倒し春のマイル王へ!』

 

 

 エアジハードは大本命のグラスワンダーを退けてGⅠ初勝利を飾った。

 彼女もシニア級1年のウマ娘だ。最強世代と称されるウマ娘の一員にエアジハードの名前が加え入れられた。

 

 

 2着のグラスワンダーや11着に敗れたキングヘイローはじめ、足取り重くターフを去っていくウマ娘たちの一方で、エアジハードは観客席の前を通りウィナーズサークルへと向かっていた。彼女はその道中で所属しているチームの連中……つまりチームシリウスの連中がいる所で足を止めて言葉を交わしていた。もちろんその中には笑顔の天崎の姿も見て取れた。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 惨敗して地下バ道に向かうと、その先でチームの皆が揃って私を待っていた。心配そうに見つめるみんなの視線が痛いように感じられ、思わず目を逸らした。

 

「……ごめんなさい。期待に応えられなかったわ」

 

 そう絞り出すのがやっとだった。

 心の中は自分への落胆と情けなさ、湧き上がってくる怒りに満たされていた。

 

 6か月ぶりに味わった敗北は相変わらず許容できない味だった。

 

「身体はどうだ。故障じゃないんだな?」

「……お生憎さま、どこも問題ないわ」

「念のためだ。そっちの空いてるとこで身体見せろ。……お前らは先に戻っとけ」

 

 振り返って歩き出した坂川の後をついていく。チームメイトたちは彼に言われた通り控え室へ入っていった。

 

 いつものように坂川に身体の確認をされる。どこにも痛みはないし違和感はない。身体は正常そのものだった。

 ……そんな自分の身体を恨めしく思うのは何故だろうか。

 

 確認が終わった坂川は私から離れた。

 

「今んとこ異状はねえな、良かった。だが状態には気を配っとけよ」

「……なぜ私は負けたの」

「敗因か……今、聞きたいのか?」

「ええ。お願い」

「…………簡単なことだけだが──」

 

 坂川はメモ帳を取り出して、それを捲りながら口を開いた。

 

「全体的なレースの流れを見ると、コーナーの流れが東京新聞杯より速かった分、ラスト4ハロンの時計も東京新聞杯より1秒は速い。加えて、ラスト1ハロンの時計の落ち込みも合わせて考えると、スタミナや持久力、何よりスピードの持続性……単なるキレや瞬発力だけじゃなく、より総合力が問われたレースだった。ただバ場や時期が違うから全体時計含めタイムは一概には比較できねえ。お前の走りを見るなら、第4コーナーで被せられて予定通り外に出せなかったのと、包まれて走りを崩したのは痛かったな。オークス、ダービー、今日の安田とBコース開催が続いたバ場だから、お前含め内の方にいたウマ娘は伸びてなかったように見えたし──」

 

 坂川の説明が続いていく。それを頭に入れながら反芻して理解していく。

 

「──今のとこ分かるのはこんぐらいだな。あとは帰って……明日でいい」

「…………」

 

 

 同時に、どれだけトレーニングを積んでも上手く走れない自分への憤りが再び熱を帯びてくる。

 

 

 ──また、だ。

 

 

「こんな……無様な負け方……っ」

 

 口をついて出たのはただの悔恨だった。

 これに何の意味もないのは分かってるのに。

 

 上手にレースを運べなかったからと言って、これほどまでに惨敗する自分に落胆が抑えられない。

 完璧に準備はした。休養十分。調整も万全。故障もない。なのに待っていたのはダービー以来の二桁着順11着。

 

 

 ジュニア級からクラシック級まで、私は間違いなく世代の先頭を走るウマ娘の一人だった。三強だなんて呼ばれていて、スペシャルウィークやセイウンスカイと同じ列かその近くにいた。そこから数歩後退しているのが今の私の立ち位置だと思っていた。

 しかし今はどうか。彼女らから数歩どころかもっと大きく後退しているのではないか。同世代のスペシャルウィークは天皇賞春制覇。セイウンスカイも天皇賞春3着。今日の安田記念だって勝ったのは同世代のエアジハード、2着はグラスワンダー。外国から来ていたウマ娘を除けば私より上位に5人もの同世代のウマ娘がいる。

 

 

 並んでいたウマ娘たちには追いつけず、違う道を選んだ先では別の誰かに後ろから追い抜かれる。

 近くにあった背中は遠くなり、新しく見る背中が増えていく。

 

 

 分かっていたことではある。覚悟だってしていた。

 でも現実として突きつけられると……

 

 

「おい、キング」

「……なに──」

 

 振り返る前に、背中に大きな衝撃と肌が弾ける音がした。

 

「痛っ!? な、なにするのよ!?」

 

 素肌が出ている肩甲骨の間に手ではたかれた。まだちょっとヒリヒリする背中を感じながら、突然の暴挙にでた彼を睨みつけてやる。

 

「背筋が曲がってたからな。情けねえ。もっとしゃんと歩け」

「なっ!? あなたねえ……手の痕が残ったらどうしてくれるのよ! 負けたとはいえ、ライブだってこの後あるのよ!」

「知らん。肌色の湿布でも貼って踊っとけ」

「くうっ……あなたは本当に口が減らないわね……! 担当ウマ娘が負けて落ちこんでるっていうのに……何するのよっ!」

「なんだ、やっぱ落ち込んでたのか」

「あっ……ふんっ……」

 

 売り言葉に買い言葉でまた余計なことを口走ってしまった。

 

「余計なことばっか考えるな。……キング、お前は走ることで、一流のウマ娘を探して証明するんだろ」

「……!」

 

 それは菊花賞の後、グッバイヘイローに向かって私が言ってのけたことだった。

 

「たかがG1をひとつ負けた()()だ。勝とうが負けようが、俺たちはまた勝つためにトレーニングして次のレースに出る()()だ。今は沢山落ち込んで、悔しがって、後悔したらいい。だが切り替えて、それを糧にしろ。……今更言うまでもねえな、お前ならできるだろ」

「……トレーナー……」

 

 彼は励ましてくれている。彼の心遣いのようなものを感じる。

 ……言い方ややることに文句はあるけれど、さっきより気分は軽くなった。

 

「……あなた、もっと気の利いた感じにエスコートできないの? こう……笑顔で、キングを褒めて称える感じで」

「はあ? んなことしてほしいのか? 俺がやったら気持ち悪いだろ」

 

 

 確かにこうやって言い合う方が私たちには合っている気がする。

 

 

「……それもそうね」

 

 

 背筋を伸ばして胸を張り、一歩先を歩く坂川に並びかけていった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 その日の夜、やっぱり敗北の悔しさが襲ってきていた私は、気を紛らわすため外で軽くジョギングをしていた。

 坂川には連絡し、距離や時間の制限付きで許可が出ていた。

 

 私は走り終えて、栗東寮の近くまで戻ってきていた。

 

「ふっ……はあっ……」

 

 身体は本当に問題なかった。門限まで時間はあるし、本音を言うならもっと走りたかったけれど、坂川が決めた制限を破るわけにはいかない。

 

 部屋に戻ってシャワーでも浴びようと思いながら栗東寮の敷地に入った。

 すると、寮の近くに設置してあるベンチによく見知ったウマ娘が座っているのが見えた。彼女は独りで空を見上げていた。

 

「スズカさん?」

「……あ、キングさん……」

 

 サイレンススズカがベンチに座っていた。ベンチの傍らには銀色に鈍く光る松葉杖が置いてあった。



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第69話 星よりも近くに

 星空の下のベンチにジャージを身に纏ったサイレンススズカがいた。

 

「走りに行ってたの?」

「はい。軽めのジョグですけれど。少し、気を紛らわせたくて。スズカさんは?」

「……私も、同じ……」

「?」

「……座る?」

 

 サイレンススズカは松葉杖を自身の元に引き寄せ、空いた座面に手を触れた。

 こうやって立ったまま彼女を見下ろすような格好で話をするのもどうかと思っていたので、私は彼女の隣に腰を下ろした。まだ門限までは時間があるし、寮は目と鼻の先だし。

 彼女は再び夜空へ目を向けた。私もつられるように空を見ると、そこには青い鋼のような暗い空に幾千もの星が広がっていた。

 

「昔は毎日のように夜も走ってたけど今は…………走れないから。外に出て、空気に触れると気が紛れるの」

「……スズカさん…………」

 

 鈍く光っている松葉杖が目に入った。

 

 かつて彼女のチームメイトであったスペシャルウィークから『スズカさんは何よりも走るのが一番好き』と聞いたことを思い出した。そんな彼女にとって今の状況は言葉では表せられないくらい苦しくて辛いのだと思う。

 

「今日みたいに、GⅠの日は特に……」

 

 話から察するに、今日だけのことではないのだろう。私は朝のロードワークはするけれど、夜は宿題や予習をするため外には出ないから会わなかっただけ。

 同室のウマ娘に影響されて天体観測をするようになったと言う彼女は、空に輝く星を指さしていくつか星の名を──スピカやアルクトゥールスという星の名を──教えてくれた。その同室のウマ娘は過去に私とも関りがあって、更には先週のダービーで名を馳せていただけあって、その名前を聞いたときには驚かされた。

 

 2人でただ星空を眺めていた。会話らしい会話はないけれど、不思議と居心地は悪くなかった。星の流れに合わせるように時間が緩やかに流れ、むしろ心地良ささえ感じられた。

 

 そんな静寂に響いたのは、サイレンススズカからの問いかけだった。

 

「キングさんは……走るのは好き?」

「走る……」

 

 サイレンススズカは夜空を眺めたままそう言った。

 

 彼女がどう思って訊いたのかなんて、私には分かりようがない。ただ私は問いに対しての答えだけを考えた。

 

「昔は……幼い頃は好きだったと思います」

「今は嫌い?」

「……嫌いではありません。ただ……“走る”という行為に対して、何度も考えさせられることがあって」

 

 レースで走り勝利する。勝利することで一流のウマ娘だと証明する。走るというのは、一流を証明する手段でしかなかった。

 それがキングヘイローというウマ娘……()()()

 

 

 クラシックをひとつも勝てなかった現実を経た。

 多くのウマ娘と関わって話をした。

 坂川健幸というトレーナーの過去と今を知った。

 グッバイヘイロー(お母さま)と私の関係が変わった……いや違う。私の向き合い方が変わったのだ。

 

 

 様々な経験が積み重なった上に、キングヘイロー()というウマ娘がここにいる。

 

 

 “走る”ことでキングヘイローは“一流のウマ娘”とは何かを探している。だから走ることが好きと嫌いとか……そういうことが今の自分には分からない。彼女に訊かれてそのことに気づいたぐらい。

 

 

 前に進んでいる手ごたえはある。しかし、まだ見つかっていない。まだ私は走らなきゃいけないし、手がかりだってもっと──

 

「ごめんなさい。嫌なことを訊いたかしら……?」

「いいえ! ……スズカさんは何も悪くありません」

「難しい顔をしていたわ。……考えこませたみたい」

 

 サイレンススズカは心底申し訳なさそうに表情を曇らせていた。こちらを向いた彼女の髪が肩からはらりと落ちて、星明りを微かに反射させた。

 

「……スズカさん。私からも訊いていいですか?」

「なに?」

「スズカさんはなぜ走っているのですか?」

「……走る理由ということ?」

「はい。その…………大きな怪我をされてまで、あなたは再び走ろうと頑張られています。シリウスからウチに移籍してまで。なぜですか?」

「…………」

 

 再び彼女は星空を見上げる。揺れる栗毛がまるで空に浮いたようにそこにあった。

 もうすぐ訪れる夏の気配を孕んだ夜の空気が私たちを包んでいた。

 

「“景色”を見たいから……って、思ってたの」

「景色……思ってた……?」

「でも、それだけじゃないって()()分かって。私にとって、走ることは何事にも代えられないって気づいたの」

 

 空に浮かんでる星を掴むのと同じのように、彼女の話の全容を私は掴めそうになかった。おそらく彼女の内にあるものだからだ。

 けれど、全てが分からないわけじゃない。

 

 

「走っている私で“景色”を見たい。そして何よりも、私は走ることが好きだから。走りたい……それこそが私の走る理由」

 

 

 穏やかで静かな口調だが、最後の言葉の中にある確かな意志を感じた。遠くて掴めない星でも、その光は見えるように。

 

 サイレンススズカにとって、走ることは景色を見るための手段ではあったんだろう。

 でもそれだけじゃなくて、手段であるはずの走ること自体に──

 

 

 

 ──『わたしはとりあえず走れそうなら走ってみようと思ったんだ』──

 

 ──『私、走って良かったよ。走り続けて良かった』──

 

 

 ──レースに出て走ること、それ自体に理由や意味があったんじゃないか……そんな風に私は思った──

 

 

 そんな時に過ぎったのは、あるウマ娘の言葉と、彼女と話して私が考えたこと。

 

 

 ……同じだ。

 

 

 あの天皇賞秋で、故障してゴールできなかったサイレンススズカと、1着で勝利を掴んだオフサイドトラップ。

 対照的な結末を辿った2人のウマ娘は同じことを言っていることに気づいた。

 2人は走ること自体に理由や意味を見出していた。

 

 

 キングヘイローは……私は、どうだろう。

 

 

 キングヘイローは走って一流のウマ娘を探している。

 サイレンススズカとオフサイドトラップは、走ること自体が意味を持つと言った。

 別物であるかのようなそれは、しかし別物には思えない。その間には一体何が──

 

「えっと……変な話をしてごめんなさい? 参考にはならなかったわよね」

「あっ? いいえ、こちらこそ訊いておいて申し訳ありませんっ! とても参考になりました」

「そうなの?」

「はい!」

 

 本心だった。彼女の話は手がかりになって──

 

 

 ──何かの音を耳が拾った。

 

 

「……?」

 

 

 暗闇の先からだった。

 

 遠くから足音が聞こえてきた。地面を踏みしめる音が段々近づいてきた。

 今の私たちのように外出していたウマ娘が寮に戻ってきたのだろうと、私は特に気にも留めなかったけれど、サイレンススズカは違っていた。

 彼女は足音のする方を真っすぐに見据えていた。

 

「……今日は早いのね」

 

 意味深にサイレンススズカがそう呟いた直後、大粒の汗をかいたウマ娘が電灯の下に姿を現した。息遣いは静かだが頻回で、酸素を取り込もうとジャージ姿の彼女の肩が上下に動いていた。

 

「! あなたは……」

 

 そこに立っていたのは、去年の夏に私と模擬レースをし、サイレンススズカに天体観測のことを教えた相部屋のウマ娘だった。

 

 

 今年の日本ダービーを勝ったダービーウマ娘、アドマイヤベガがそこにいた。

 

 

「良かった。今日は早く切上げてきたのね」

「……靴ひもが切れたから新しいのを取りに戻ってきただけ」

「…………また、走りに行くの?」

「あなたには関係ない。……門限まで時間はある」

 

 ……言いようのない空気か流れている。仲が悪いというわけではなさそうだけれど……この突っぱねるような物言いは少し気になる。

 

 アドマイヤベガが顔を上げた際に、サイレンススズカの隣にいた私と目が合った。僅かに目を丸くしたところから察するに、どうやら私の存在に気づいていなかったようだ。

 

「…………あなたは」

「こんばんは、アドマイヤベガさん」

「……ええ」

 

 彼女は足を止めることなく、そのまま栗東寮の中へと消えていった。

 

「……喧嘩ですか?」

「いいえ。喧嘩ではないの。ここ最近……ダービーが終わった後から以前にも増して夜のロードワークが激しくなっていて……」

 

 心配なの、と言ったサイレンススズカは自身の左脚を撫でていた。

 

「普段からオーバーワークだった娘だから…………やっぱり止めないと。私、行くわね」

 

 サイレンススズカは松葉杖を携えて立ち上がった。ウチのチームに来た当初は右脚だけで立ち上がっていたけれど、今は左脚にも体重はいくらか乗っているようだった。

 

 彼女は入り口前の階段に差しかかる前に立ち止まった。

 

「キングさん、今言うことじゃないかもしれないけれど……今しか言えないような気がするから、ひとつだけ良い?」

 

 彼女は昇降口の方を向いたままで、私には彼女の背中が見えるだけ。

 松葉杖をついたその細い背中は傾くことなく真っ直ぐに伸びていた。

 

「今日の安田記念…………実は羨ましかったの」

「羨ましい……?」

「ええ。キングさんにはとても悔しい結果だったでしょうけど…………今日の安田記念、私の同期たちがいて」

 

 確かに今日の安田記念には彼女の同期であるシニア級2年のシーキングザパールとキョウエイマーチがいた。

 

「復帰してもおそらく私は同期とは……あの2人や、ブライトやフクキタルとももう走れないから…………あなたにもグラスワンダーさんやジハードちゃんやスペちゃんがいて、負けたときは悔しいとは思うけど、すごく幸せだとも思う。悔しさも喜びも、走らないと手に入らないから」

「……」

「だから同期やライバルと走って競えることを……走れることを大切にしてほしい。……おやすみなさい」

 

 サイレンススズカは一段一段丁寧に階段を上っていき、アドマイヤベガのあとを追っていった。

 

「同期やライバル……」

 

 何人も頭に浮かんでくるウマ娘があった。三冠レースを一緒に走ったウマ娘や、シニア級になってから初めて走った同期のウマ娘たち。

 

「……」

 

 サイレンススズカの言葉がまだ耳に残っている。

 負けてばかりで悔しくても、同期やライバルと走ることを大切に……それには意味があると、サイレンススズカは感じているいうこと。

 

 

「私にとっての……走ること……」

 

 

 空を見上げる。

 

 更けてきた夜の空から煌めく星光が降り注いでいた。

 

 星に手は届かないけれど、さっきよりも近くにあるように感じた。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 スペシャルウィークやグラスワンダーが出走すると聞いて、私は坂川に宝塚記念に出走したいと話した。

 年明けからマイルを中心にレース選択をしていたから、もしかしたら坂川に却下されるかと思っていたが、話した数日後に彼からオーケーの返事が出た。中山記念で私が結果を残していることから却下する理由もないと判断したらしい。

 

 人気投票では7位……正直驚いた。GⅢやGⅡでは今年勝ったとはいえ、GⅠでは結果を残せていないから、こんなに応援してくれる人がいるなんて思わなかった。

 そんな思いを坂川につい漏らしてしまうと、彼は「見ている奴はいるってことだな」と言っていた。あまり意味は分からなかった。

 

 

 安田記念から一ヶ月。迎えた宝塚記念。

 スペシャルウィークとグラスワンダーの一騎打ちのムードが世間に漂っていた。

 

 

 道中、3番手辺りにつけた私のすぐ後ろにスペシャルウィークが追走していた。

 しかし、これまでのレースで感じてきたスペシャルウィークのプレッシャーが今日は全く無かった。彼女の足音はずっと耳に入ってきているのに、あの喰い殺さんばかりの殺気が今日は鳴りを潜めていた。

 不思議だった。調子が悪いのかも……なんて考えは、すぐに否定されることになる──

 

 

『キングヘイローの後ろ、ご注目くださいスペシャルウィーク……おおっ、両左右を確かめている。グラスワンダーを探しているのか? 左右を見たスペシャルウィーク。グラスワンダーは後ろにいるぞ』

 

 ──スペシャルウィークは私のことなんてハナから眼中に無かっただけ。彼女の意識は全てグラスワンダーの方に向けられていると分かった。だって、彼女はコーナーから捲っていくとき私に一瞥さえ寄こさなかったから。

 キングヘイロー()はもう、スペシャルウィークにとって自身を脅かす敵とさえ認識されなくなっていた。それはグラスワンダーもおそらく一緒で。

 

 それでも、必死になって捲っていくスペシャルウィークの背中に追い縋る。第4コーナーで先頭に立った彼女に離されまいと、スパートをかけて追っていく。

 

『さあスペシャルウィーク先頭! 外からグラスワンダーが上がってきたっ! グラスワンダーが上がってきたっ!』

 

 しかし追えたのもそこまでだった。

 

(脚が……! 動きなさいよっ! 動いてよ……)

 

 脚が鈍る。

 息が上がる。

 上体が起きる。

 周りの景色が遅くなる。

 

(ああっ…………っ)

 

 

 私は失速していた。

 

 

 最後の直線に入った時には2人から大きく離されて、後続からは追い上げられていた。

 

『第4コーナーを曲がって直線に入った! 先頭はスペシャルウィーク! 追って並びかけるグラスワンダー! もう言葉はいらないのか!? 2人の一騎打ちか!?

 

 2人の背中が小さくなり、目に入る背中が多くなる。

 3番手以下を大きく引き離す2人。

 

 脚がついていかない。

 

 私はもう、追い上げるような余力は残っていなかった。

 

グラスワンダーが交わしたっ! スペシャルウィーク負けるのかっ!? グラスワンダー先頭だ! 2人が差を離した離した離した!

 

 キックバックがここまで飛んできそうなほど地面を叩きつけるように走るグラスワンダーが抜け出して、スペシャルウィークに3バ身差つけて勝利した。

 

やっぱり怖かったグラスワンダー! グラスワンダーが勝ったあっ!!!

 

 スペシャルウィークも3着のステイゴールドには大きく差をつけていて、8着に入った私には軽く10バ身以上の大差がついていた。

 

「はあ……っ……はあっ……」

 

 

 走り終え荒い息を整える。視線の先には、遠くでスペシャルウィークとグラスワンダーが何か言葉を交わしているのが見て取れる。

 今のこの物理的な状況のように、キングヘイローはもうあの領域からは遠く離れて置いていかれてしまっている。

 

「…………っ……ううっ……」

 

 目の端からまた何かが滲んできた。

 

 分かってはいた。でも、負けた時の()()にはいつまで経っても慣れない。

 

 

 ──それがどうしたの? 

 

 

「……っ……はあっ……くっ!」

 

 

 天を仰いで、滲み出てきそうだったものを無理やり引っ込めた。

 

 

 ──覚悟は決めていたでしょう? 

 

 

 負けて悔しいのなんて当たり前。それでも私はレースに挑むと決めたのだ。一流のウマ娘を探して証明するために。

 

 この結果と悔しさがレースを走る意味になる。負けたからって、唇を噛み千切りそうなほど悔しいからって、次の挑戦を拒む理由にはならない。

 

 ここに意味はあるんだって今なら──

 

 

 ──ああ……

 

 

 そう考えながら晴れた空を見ていると、ふと胸に落ちるものがあった。

 

 空から視線を観客席にやり、坂川の姿を視界にとらえる。表情は分からないけれど、彼は真っすぐに私を見ているような気がした。

 

 

 ──サイレンススズカとオフサイドトラップが言っていたこと。

 

 ──私のトレーナーである、坂川健幸のこと。

 

 

 

 はっきりとした形ではないけれど、掴めたものがあるって、そんな確信を持った。

 

 

 



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追想3 トレーナーさん

 しばらく時間を置いてからトレーナー室へ戻った。

 

 部屋には誰もいなかった。あの紙袋もどこにも見当たらなかった。

 

「持っていったか……」

 

 先程紙袋を置いたテーブルに視線が引き寄せられると、中身の見当なんてついていない様子のキタサンブラックが自然と思い出された。

 ここで彼女はあのノートを読んだのだろうか。

 

「……俺も焼きが回ったな…………」

 

 自らの行動に対しそう思わずにはいられなかった。

 これは愚行以外の何物でもない。彼女に言った通り、本来ならばトゥインクルシリーズを終えて引退するときに見せようと考えていた。

 

 なら何故あの事件から3ヶ月も経っていない今、ノートを見せたのか。

 

「…………」

 

 人への想いなんてものは時が過ぎれば動かなくなり固着する。2人が別たれてしまった今、キタサンブラックから坂川へ向けられていたものも時が過ぎればそうなるだろう。自分の事であっても固着された感情には揺れ動く余地がない。

 彼女から彼への感情や想いは限りなく負のものだ。憎しみ、怒り、恨み、悲しみ……当然だ、彼は一番大切なことを伝えず、ドーピングに加えてあんなことを言ってしまったのだから。

 

 

 だが──

 

 

「それだけじゃねえだろ……」

 

 

 ──決して、負のものだけではない。

 

 

 

 何の確証もない。キタサンブラックは坂川のことをあれから一度も口にしていないからだ。

 

 

 自分はキタサンブラックというウマ娘を知っていて、彼女が坂川と接しているのを見守ってきた。

 その経験だけが、自分にそう思わせていた。

 

 

 

 理解している。キタサンブラックに見せず処分する。または走るのを辞めてから見せる。おそらくそれが正解だ。

 そうせずこのタイミングで見せることを選択したのは、キタサンブラックに対する坂川の想いが何の意味も持たず消えていくことに自分が我慢できなかったからだ。

 

 何年も経過して、全てが終わって、想いというものが風化したその後にあれを彼女に見せたとして、果たして意味があるのか。

 

 

 

 せめて、その想いを向けられていた当人(キタサン)だけには知ってほしかった。

 

 

 

 まだ、坂川への感情が揺れ動く余地があるうちに。

 

 

 

 

 これは後先を考えない愚行だ。間違っても、多くのウマ娘とトレーナーを抱えるチームを率いるトレーナーのやることではない。更にはキタサンブラックの父親を裏切る行為でもある。

 それでも自分は結局坂川の肩を持ってしまった。あのどうしようもないバカの肩を。

 

 全て理解した上でやった。だからこその愚行なのだ。

 

 あのノートを見てキタサンブラックがどう思うか、どんな行動に出るか全く読めない。怒り狂うかもしれない。これがきっかけでドーピングが公になることだって有り得る。坂川とキタサンブラックだけの問題でなく、あの糸目の男が言っていたような大騒動に発展する可能性もある。

 

 しかし賽は投げられた。投げたのは自分だ。もう後戻りはできない。最悪の目が出るかもしれない。だが──

 

 

「キタサン……お前は、どう思うんだろうな……」

 

 

 ──キタサンブラックという心の優しいウマ娘は、ノートに目を通したうえで持って行った。

 

 

 今の清島義郎にとってはそれだけで十分だった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 暗い自室で膝を抱えて座っていた。

 同室の娘は年末で実家に帰省していて、部屋にはあたし一人だけがいた。

 

 あたしのそばには、先生からもらった紙袋があって、その紙袋から出したノートが散らばっていた。

 

「…………」

 

 トレーナー室でノートをすべて読んだあたしは、気づいたら胸に紙袋を抱えて栗東寮の自室へ向かって走っていた。

 あのままトレーナー室にいたら動けなくなりそうだったから。

 

 

 

 必死に何かをこらえながら自室に戻った。

 

 

 

 そしてまたノートを見返した。

 

 

 何度も。

 

 

 何度も。

 

 

 何度も。

 

 

「……」

 

 

 

 あたしの家の前のことを今でも鮮明に思い出せる。

 あそこでトレーナーさんに言われたことを一字一句思い出せる。

 

 一番耳に残っているのは、最後のあの言葉。

 

『俺はお前のことを大切になんて思ってなかったんだよ。だからお前をぶって、ドーピングさせたんだ』

 

 トレーナーさんがそう考えていたんだって知って、あたしは……傷ついた。ずっと立ち直れずにいた。

 ……今だって、そうだ。

 

 裏切られたと思った。トレーナーさんは嘘をついていたんだって。

 あたしのことを想ってくれてた言葉は真っ赤な嘘で、あたしのことなんて大切に思ってくれてなくて、どうでもいい存在だったんだって。

 

 それこそ、ドーピングをするぐらいに。

 

 

 

 病院で目が覚めて、ドーピングのことを聞かされたときは、頭が何も考えられず真っ白になった。最初はドッキリでもしてるんじゃないかって思った。

 でも、周りの大人たち……両親やURAの偉い人……糸目の男の人がそろって怖い顔で言うのだ。それでも信じられなかった。

 トレーナーさん本人に聞いて彼の口から聞かないといけないと思った。そんなことをする人なんて信じられなかったから。

 

 

 

 何かの間違いだって思っていた。

 

 

 

 でも、そんなのはあたしの都合の良い思い込みでしかなかった。

 

 

 

 

『分からないならもう一度言ってやる。俺は俺の意思で、禁止薬物だと知っていて、お前を騙して、ドーピングさせた』

 

 

 

 

 トレーナーさんから本音をぶつけられた。

 

 

 

 

 

 隠してたであろう本心を。

 

 

 

『あの日にタイムを出せたのはドーピングのおかげなんだよ。……こんなヘマしなければ、お前にも、URAにもバレることは無かった』

『そんな理由でレースを選んでGⅠを勝てるなら、誰がこんなに苦労するか。約束なんて、くだらない』

 

 

 

 そして再びあの言葉が蘇ってくる。

 

 

 

 

『俺はお前のことを大切になんて思ってなかったんだよ。だからお前をぶって、ドーピングさせたんだ』

 

 

 

 

「……っ……」

 

 

 いつからそう思っていたんだろう。

 

 

 あたしはトレーナーさんのことを信じてたのに。トレーナーさんはそうじゃなかった。

 

 

 すごく悲しかった。

 信じてた人に裏切られるって、胸が張り裂けそうな気持ちになるんだって思った。

 

 

 今までのことがいっぱい蘇ってきて、それが嘘で、騙されてたんだって思うと、涙が止まらなかった。

 ダイヤちゃんにもたくさん話を聞いてもらって、慰めてもらった。

 

 

 

 最後にはここまで言うトレーナーさんのことを、あたしは怒って………………憎んだんだと思う。

 

 

 

 この人はあたしのことなんてどうでもよくて。だから黙ってドーピングさせたんだ。

 

 

 あたしのトレーナーだった人は、最低な人間だったんだ。

 

 

 そう思うしかなかった。

 

 

「…………」

 

 

 

 あの騒動の後、まだ傷ついているあたしに周りの人が慰めてくれた。その人たちもトレーナーさんは悪い人間だったんだって言ってくれた。

 周りの人も言うんだから、自分もそう納得した。

 

 

 

 あれからトレーナー室に行くたび、ターフに出るたび、トレーナーさんのことを数えきれないぐらい思い出しそうになっていたけど、必死に思い出さないように頑張った。

 夢にも見るし、何度も思い出しそうになった出来事に遭遇したけれど、前よりも頭の中の彼は薄れていった気がしていた。

 

 

 

 

 そして今、あたしはノートと向き合っていた。

 

 

 

 部屋の床に散らばった何冊ものノート。

 

 

 トレーナーさんが、あたしがプレゼントした万年筆でずっと書いていたノート。

 

 

「…………」

 

 

 いつからかは分からないけれど、騙されていた。嘘をつかれていた。

 そう思っていた。

 

 だって、トレーナーさんがそう言ったのだから。

 

 

 

 

 でも、目の前にあるノートがそれを否定してきた。

 

 

 そこにあったのは、あたしのことをずっと想ってくれてた一人のトレーナー。

 

 

 あたしのトレーナーさん。

 

 

 折に触れて、何度も何度も書かれていた。

 

 

 あたしを笑顔にって。

 GⅠを勝たせてあげたいって。

 主役にさせてあげたいって。

 

 

 “キタサンの夢を叶えさせたい。何より、キタサンに喜んでほしい。心の底から笑ってほしい。自分がトゥインクルシリーズの主役なんだって、自分は凄いウマ娘なんだって、そう自分を認めさせてやりたい”

 

 

 ドーピングさせられた前日……ノートの最後に、彼はそう書いていた。

 

 

「トレーナー……さん…………」

 

 

 ノートを読み終わって、いろんな感情や想いが溢れてきた。それを未だにあたしは整理できないでいた。

 だからこうやって、ノートを持って寮の部屋までやってきたんだ。誰にも邪魔されないところで、一人で考えたかった。

 

 

 最初にやって来たのは戸惑い。あたしのことを大切に思ってない人間はそこにはいなかった。

 

 遅れてやって来たのは嬉しさ。トレーナーさんはあたしのことを大切に思ってくれていた。

 あたしも彼のことが大切で、彼もあたしのことを大切に思ってくれていると、あたしはずっとそう感じていた。このノートには、()()()()()()()()()()()()()()()()()()がいて────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────本当に、そうだった? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──あたしは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 

 

 

 

 

「あたし……は…………え…………?」

 

 

 

 ノートに目をやる。

 

 その中の大半は、あたしのトレーニングに関することだ。あたし自身が知らないようなことや、難しいことがたくさん、たくさん、たくさん書かれている。

 

 でもそれだけじゃない。

 途中から綴られるになった彼の気持ちと────

 

 

「……知って、た……?」

 

 

 

 

 ──苦悩。

 

 

 

 

 同じように綴られる、彼の苦悩。

 

 

 

 

 皐月賞で負けてから、ぽつぽつとそれは増えてきた。

 ダービーで負けてからは、もっと増えていた。

 

 

 

 

 あたしにGⅠを取ってほしくて、夢を叶えさせてあげたくて……何とかしたいという、彼の思いと悩み。

 

 

 

 

 そして書き込まれる、ものすごくたくさんの考察や分析。

 ノートの端に書かれる“どうしたらいいんだろう”、“正解を見つけ出すしかない……”

 

 

 

 

 “キタサンの夢を叶えるために”と。

 

 

 

 

 

 繰り返されるそれは、まるで呪いのようで。

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 

 トレーナーさんは、ずっと悩んでいた。苦しんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 あたしを勝たせたいから。

 

 

 

 

 

 

 

 あたしに夢を叶えてほしいから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それを、あたしは知っていた? 

 

 

 

 

 

 

 

「……ほんとうに…………知ってたの…………分かってたの…………?」

 

 

 

 

 

 

 あたしのために頑張ってくれている……それは分かっていたと思う。

 

 

 

 

 

 でもトレーナーさんが、あたしのためにこんなに悩んでるって、苦しんでるって、あたしは知っていた? 

 

 

 

 

 

 

「ぁ…………あぁ……」

 

 

 

 

 

 思わず天を仰いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄く滲んだ天井に向かって、声を漏らした。

 

 

 

 

 

 

 

「……あたし……知らなかった……? ……分かってなかった…………?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼が悩み苦しんでいることを、あたしは知らなかった。分かってなかった。

 

 

 

 

 

 

 ダービー後のノートの中で考察されている距離適性のこと。

 言うまでもなく、ダービーでのあたしの惨敗がきっかけだ。軽い気持ちで試そうとしてるんじゃない。絶対に勝たせるために、トレーナーさんが何か月もずっと悩んでいた。

 長距離は合っていなくて、あたしの適性は中距離だと、そう彼は考えていた。

 

 ノートの最後に考察されていて、とくに文章量が多く、乱れた文字で書かれている“成長の停滞。早熟の可能性”、“才能(ポテンシャル)の限界。能力(パフォーマンス)の限界”の項目。

 あたしのピークは今年の秋で、GⅠを取れる最後のチャンスがこの秋かもしれない。そう彼は考えていた。

 

 

 そのふたつを合わせて考えると…………天皇賞にかけるトレーナーさんの強い思いが伝わってくる。

 

 

 

 

 

 ……ああ、そうだ。トレーナーさんはあの日こんなことも言っていた。

 

 

 

 

 

 

『ドーピングさせたのは、トレーニングで結果が出なかったからだ。あのクスリ、トレーニングで使うためのクスリでな。天皇賞秋を勝つには必要なタイムに届いていなかったから使った』

 

 

 

 

 

 

 ドーピングの方ばかりに気が向いていたけど、よく考えてみればこうも言っているのだ。

 

 

 

 

『勝つには──』って、言ってた。

 

 

 

 

 

 あたしを天皇賞秋で勝たせるため、って言ってたんだ。

 

 

 

 

 

 

 最後のチャンスかもしれない天皇賞秋で、あたしに絶対にGⅠを取らせる。

 

 ……結果を見れば、天皇賞秋を選ぶのが正しかったのか間違っていたのかは分からない。今のあたしは長距離の菊花賞でGⅠを取ったし、有馬記念でだってもう一歩のところまで好走した。……この先、どうなるかは分からないけれど。

 

 

 けれどそれは、あたしが知らなかった彼の強い思い。

 

 

 

「だから……あのとき──」

 

 

 

 思い出されるのは、あの日のトレーナー室でのこと。

 

 

 

 天皇賞秋ではなく菊花賞に出たいと伝えると、トレーナーさんが迫ってきてあたしに手を上げたこと。

 

 

 

 ……思い出したくない。頬をぶたれたのは生まれて初めてで、その初めてがそんなことをするはずないと思っていたトレーナーさんだったから。

 

 

 

 でも、思い出さないといけない。だって、あの時トレーナーさんは何を言ってた──? 

 

 

 

 

 

『なんで、分かってくれないんだ……!!!』

 

 

 

 

 

「……分かって、くれない…………」

 

 

 そうだ。トレーナーさんはそう言っていた。

 

 あの時のあたしはぶたれたことのショックで頭がいっぱいで、その言葉を意味を考えられなかった。ただトレーナーさんが怒っているのだけは分かったから、謝ったら、更にトレーナーさんは怒ってもう一度手を振り上げた。

 

 

 この直前で天皇賞秋から翻意して菊花賞を選んだあたしに対して。

 

 

 

 トレーナーさんは、一体何を分かってほしかったのか? 

 

 

 

 

 今なら心当たりがある。

 

 

 

 

 それは目に映る──

 

 

 

 

 

 

「……これ、じゃないの……?」

 

 

 

 

 

 

 ──床に散らばったノート。

 

 

 

 

 頑張って苦しんで悩んでたくさん考えたのを、あたしに分かってほしかったんじゃ……? 

 

 

 

 

 

 トレーナーさんがたくさん考えて天皇賞秋を選んだことは分かっていた。でも、そこに至る彼の苦悩や想い……その過程をあたしは知っていた? 知ろうとしていた? 

 

 

 

 答えはいいえだ。あたしはトレーナーさんが頑張っているのを知ってはいても、苦しんだり悩んだりしているのを知らなかった。

 

 

 

 ……でも、難しい話だと思う。確かにもし知っていたら天皇賞秋を選んでいただろうか? 

 

 

 

 

 

 あたしが菊花賞に拘ったきっかけは、6月も終わりに差し掛かった時に偶然ドゥラメンテと出会ったことだ。その頃のあたしはまだダービーの惨敗を受け入れられずにいた。

 ドゥラメンテはクラシック二冠を取り、名実ともにあたしたちの世代の頂点に立ったウマ娘。そして6月に故障をして、クラシック三冠も、日本の悲願である凱旋門にも挑戦すら許されなくなった彼女。初めて接した彼女は寡黙で、必要なこと以外は口にしない娘だった。表情も硬かった。

 当たり障りのない話をしていたけれど、そこに偶然来たリアルスティールが混ざってきて話の流れが変わった。あたしはリアルスティールとはレースで一緒になった際に一言二言喋ったことがある程度の仲だった。彼女は明るくてフレンドリーな娘だった。

 そのリアルスティールがドゥラメンテに対して菊花賞を絶対に勝つと高らかに宣言したのだ。ドゥラメンテに最後に勝ったウマ娘として、菊花賞でその力を証明してやるって。だからドゥラメンテが復帰したら、強くなった自分を倒しに来いって。皐月とダービーを走ったウマ娘として、別路線組が多く来る菊花賞では絶対に負けないって。だからドゥラメンテの強さもついでに証明してやるって。たぶん、リアルスティールはドゥラメンテを励ましたかったんだと思う。

 あたしも勢いでそこで彼女に乗ってしまった。ダービーでは惨敗したけど菊花賞では絶対に負けないって言った。リアルスティールには1回勝って2回負けてるから、菊花賞で勝ってタイに戻してあげるって。ドゥラメンテには、復帰したらまた一緒に走って、次は絶対に勝つって言い放って約束した。

 ドゥラメンテは関係ないとは言っていたが、その表情が少し変わったのをあたしは見逃さなかった。

 

 その日はそこで別れたけど、夏合宿の場所が3人とも同じだったので、空いたプライベートの時間は一緒に過ごしたり遊んだりすることもあった。そうして過ごして少しずつ彼女たちの人となりが分かってくると、よりレースに対する情熱が強く湧き上がってきた。特にドゥラメンテは何でもないように振る舞っているものの、態度や言葉の端々から故障に対する悔しさみたいなものが感じられたから。

 彼女のために走るんじゃないけど、次に走るときに不足と思われないように、ライバルと思われるように頑張って菊花賞を勝とうって思った。

 

 

 

 だからあたしはずっと菊花賞に出走したかったのだ。何を言うまでもなく、普通に菊花賞に出るものだと思っていた。

 

 

 セントライト記念を勝ったあと、トレーナーさんから距離適性じゃないから菊花賞を回避すると伝えられた。あの時は驚いたのと、トレーナーさんが凄い勢いで色んなことを言って、頭も下げてきて、思わず分かったと言ってしまった。

 それからもずっと、菊花賞に出たい気持ちは抑えられなくて。でも、今更菊花賞に行きたいとも言いにくくて。

 

 そしてあの日、トレーニングで良い結果が出た。これはクスリのおかげだったんだろうけど……ドーピングなんて知らないあたしはトレーナーさんに菊花賞に出たいと打ち明けたのだ。

 トレーナーさんなら分かってくれるって思っていた。

 

 

 そんな経緯があって、そしてトレーナーさんの苦悩を知ってなお、あたしはどっちを選ぶだろうか。

 

 

 

 ……難しい。トレーナーさんも大切だし、あの約束も大切だ。

 

 

 

「……選べないよ…………」

 

 

 

 

 どっちもすごく大切なもの。どっちがとか、選ぶことはできない。

 

 

 

 もう終わってしまったから、選ぶ必要がないから、こう言って逃げてるのかもしれない。

 ……あたしは卑怯だ。

 

 そもそも、天皇賞秋に行くと一度言ってしまったあたしが悪いんだと思う。あそこでちゃんと話していれば、こんなことにはならなかった……? 

 

 

 あのとき悩んでいたトレーナーさんは、菊花賞に行きたいってあたしに言われて、でもピークとかの話はあたしに言えなくて。

 それで、どうしようもなくなってあたしに手を──

 

 

 

 

 

 

突如、風の音がした。

 

 

 

 

 

 

窓枠が音を立てて揺れた。

 

 

 

 

 

 

「っ!?」

 

 

 

 窓へ目に向けると、窓ガラスが小刻みに震えていた。風が強くなって窓に当たっているみたいだった。

 今日は特に風の強い日でもなかったから驚いたけれど、窓の揺れが治まったあとも外では風の吹き荒ぶ音が聴こえていた。

 

 

 ……いつから風がこんなに強くなっていたんだろう。静かな部屋で独りでいるのに、全く気づかなかった。

 

 

「…………」

 

 

 帰って来た時より暗くなった部屋を見回す。

 坂川のノートがある以外は、何も変わりのない部屋を。

 

 

 

 

洗面台の方から水滴が落ちた音がした。

 

 

 

 

 熱に浮かされたような頭が徐々に冷えてきた。

 沈んでいた沼から引き揚げられたような感じだった。

 

 

 

 自分のことを客観的に見ることができる気がした。

 

 

 

 

 冷静になった頭で、再びキタサンブラック(あたし)坂川健幸(トレーナーさん)について考える。

 

 

 

 

 トレーナーさんはあたしのことをずっと想ってくれていた。あたしにGⅠを勝ってほしくて、ずっと悩んでいた。

 

 ()()()()()()

 

 

 

 あの日とはドーピングした日のこと。このノートには書かれていない日以降のトレーナーさんは…………? 

 

 

 

 ノートに書かれていたトレーナーさんは本当で、あたしの実家であんなことを言ったトレーナーさんも本当のことだ。

 

 

 

 

 このノートに書かれている彼は確かにあたしのことを大切に思ってくれていたのかもしれない。

 

 でも、このノートはドーピングさせる前日の途中までしか書かれてないんだ。前日の夜……つまりドーピングのクスリを渡されてからの彼の想いは書かれていない。

 

 

 

 トレーナーさんは既にあたしを騙してドーピングさせ、非道いことを言った人間だ。

 

 家の前であたしに大切じゃないって言ったことや、約束なんてくだらないって言ったことは本当の事なんだ。

 

 

 

 

 

 このノートが担当してからドーピングする前日までの彼の想いを証明していたとしても、それ以降も同じだったとは限らない。

 

 

 

 

 

 あの時のトレーナーさんが本当は何を考えていたかなんて、

 

 

 

 トレーナーさんの想いが変わったかどうかなんて、

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────あたしは、分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 傍であたしをずっと支えてくれていた人なのに。

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 

 

 

 あたしはトレーナーさんのことを分からなかったウマ娘だ。だから──

 

 

 

 

 

 

 

 ──あたしが分かるのは、このノートに書かれているトレーナーさんだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──あんなに一緒にいたのに、あたしが分かるのは、このノートに書かれていることだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 たどり着いたのは、そんなどうしようもない答え。

 

 

 

 

 

 

 あたしは、トレーナーさんのことを分かってあげられてなかったキタサンブラックというウマ娘。

 

 

 

 

 

 

「……ああ…………あたしは…………」

 

 

 

 ふと蘇るあのときの記憶。

 

『トレーナーさんがそんなことする人じゃないって、あたしが一番知ってますから!』

 

 よくそんなこと言えたね、と思う。

 

 

 

 

 

 ──なんにも知らなかったくせに。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 ノートによってあの時までの本当のトレーナーさんを知って、今やっと理解できたことがある。

 

 

 

 トレーナーさんがあたしの前から姿を消したあの日から、あたしに起こった出来事。

 

 

 ひとつはトレーニング。

 

 

『直すところは無い。それでいいぞ』

『……キタサン、もう一度言うぞ。無えんだ。フォームもタイムも何も問題ねえ。無えものをどうやって直したらいいんだ?』

 

 

 あたしの走りを見て先生はこう言っていた。

 

 

『私はキタちゃんと併せすんの初めてだけど、話に聞いてた通りだったよ。全く走りを崩さなくなったって』

『うんうん。キタちゃんも成長してるんだねえ……というか、いつの間にそんなキレる脚使えるようになったの? 最後の末脚ビックリしたよっ!』

 

 

 あたしと併せた先輩ウマ娘はこう言っていた。

 

 

 先生と先輩は手放しであたしの走りを褒めてくれた。

 

 

 

 

 ──この走りを作ってくれたのは誰? 

 

 

 

 抱える足に目を落とした。

 

 

 

 もうひとつは運動器専門の施設にて。

 

 

『素晴らしい! あなた、本当にいい身体してるわ!』

『最低限、毎日欠かさずあなたの身体のことを考えてないと作れないもの。ウェイトの時も、実践的なトレーニングの時も、ずっと常に気を配らないとこんな身体にはならない。担当したトレーナーの熱意の塊みたいな身体よ』

『知識よりも何よりも、全ての時間をあなたに割くぐらいじゃないと、この身体は作れない』

 

 

 あたしの身体を検査した医師の女の人はこう言っていた。

 

 

 

 ──この身体を作ってくれたのは誰? 

 

 

 

 自分自身の身体を抱いた。

 

 

 

 あの医師はこうも言っていた。

 

 

『あなた、トレーナーに大切に思われてるんだなあ、って感じちゃうわ』

『あなたのトレーナーはね、四六時中あなたのことを考えてるわ。で、絶対大切に思われてる』

 

 

 

 ──大切に思ってくれていたトレーナーとは、誰? 

 

 

 

『私、誰かに勇気や元気をあげられるウマ娘になりたいんです!!』

『ああ、それを叶える手伝いを俺にさせてくれ。改めて……俺は────』

 

 

 

 ──その走りと身体で、あたしが手にしたものは何? 

 

 

 

『皆さん、応援ありがとうございます!!!!! ありがとうございます!!!!!』

 

 

 

 ──GⅠのタイトルとたくさんの声援。そして多くの人やウマ娘に勇気や元気、そして笑顔をあげることができた。

 

 

 

 やっと…………やっと、分かったんだ。

 

 

 

 ──“キタサンを勝たせてやりたい”──

 ──“勇気や笑顔をあげられるって夢を叶えさせてあげたい”──

 

 

 

 

 ノートの書かれていた、あたしのことを大切に思ってくれていたトレーナーさん。

 

 

 あたしにたくさんのものをくれたトレーナーさん。

 

 

 

 

 それはおそらく真実で。

 

 

 

 

 今までの経験と、あたしの身体と走りが、それを何よりも証明していた。

 

 

 

 

 

 そんな当たり前のことに今更気づいた。

 

 

 

 

 

 ドーピングに至ってからあたしの家の前で別れた日。今現在どこか地方のレース場にいるトレーナーさん。

 

 

 

 今の彼がこのノートに書かれていたように、あたしのことを今でも大切に思ってくれているかどうかなんて分からない。

 

 

 

 あたしにドーピングしたこと。

 あの日、トレーナーさんがあたしに言った非道いこと。

 

 

 

 

 家の前で別れた日に言われたように、今は大切になんて思われていないかもしれない。

 

 

 

 

 あたしはこのノートを読んだ今でさえトレーナーさんのことが分からないウマ娘なんだ。

 

 

 

 

 

 

 ……それでも。

 

 

 

 

 

「……あたし、菊花賞勝ちました…………トレーナーさん──」

 

 

 

 

 

 ──あたしが勝った菊花賞、見てくれていましたか? 

 

 

 

 

 ──あたしの走りなんて、もう見たくもないですか? 

 

 

 

 

 

 

「トレーナーさん…………あなたは──」

 

 

 

 

 

 

 ──今、あたしのことをどう思っていますか? 

 

 

 

 

 ──このノートのように、本当は今でも大切に思ってくれていますか? 

 

 

 

 

 ──それともあの日に言ったように、今ではあたしのことなんて大切に思ってないんでしょうか? 

 

 

 

 

 

 

「…………トレーナーさん……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伝わるわけがない。届くわけがない。

 

 

 

 

 

 声にさえなっていないのだから。

 

 

 

 

 

 

 あたしは、今のあなたは分からなくて。

 

 

 

 

 

 

 分かるのは、ドーピングする前のあなただけで。

 

 

 

 

 

 

 

 ──でも、そのあなたは本当だって、それだけは分かるから。

 

 

 

 

 

 ──あの日まではあたしを大切に思ってくれていたんだって、そしてたくさんのものをくれたんだって、それだけは本当のことだって分かるから。

 

 

 

 

 

 

 これが、これだけが、あたしの分かること。

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

 

 

 

 

風の吹き荒ぶ音と、水滴の落ちる音は一晩中続いていた。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 1週間後。年明け。

 

 

 あたしは連絡を取って、ある男の人のもとを訪れていた。

 ノックして、返事の後部屋へ入った。

 

「失礼します」

 

 ここはURAの本部棟の一室。

 デスクに座っている部屋の主と目が合った。

 

「おはようございます、キタサンブラックさん。それで──」

 

 あたしはそのデスクの前に立った。

 

「──ご用とは一体何ですか?」

 

 

 あたしの目の前には糸目の男が座っていた。

 

 

 

 



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追想4 交渉

 

 

 この話をするなら、この人しかいないと思った。

 

 

 

 

「地方にいるトレ……坂川さんを、中央に戻してください!」

 

 

「……は?」

 

 糸目の男の目が少しだけ見開かれた。

 

 あたしは誠心誠意、気持ちを込めて頭を下げた。

 

「お願いします!」

「……頭を上げてそこにお掛けください。話はそれから」

「……はい」

 

 彼に促される通り、応接用と思われる黒い革張りのソファに腰を下ろした。

 彼は出入り口の扉の鍵をかけてから、机を挟んであたしの真正面へと座った。

 

「さて……」

 

 彼の瞼の奥から覗く鋭い眼光に射抜かれた。心の奥まで見透かされるように感じた。

 

「いくつか伺っても? 坂川健幸を中央に戻せとは、一体どのような意味でおっしゃっているのですか?」

「……今、坂川さんは地方に行っているんですよね。その……URAの命令で」

「命令……ええ。表向きの理由は違いますが、内実はそうですね」

「その命令を無かったことにしてほしいんです! あの人を中央に戻ってこられるようにしてください! お願いします!」

「……なるほど。そういう意味でしたか」

 

 彼はあたしから視線を外し、何かを考えているようだった。

 

「少し話を整理しましょうか」

「整理、ですか……?」

「ええ。あなたはこの件について()()()()()()()()()()()()()があると思いますので。……何か飲まれますか? コーヒーか紅茶なら出せますが」

「……いいえ、結構です」

「そうですか。なら私は失礼して」

 

 彼は立ち上がりデスクからソーサーに乗ったティーカップを持ってきて、再び座ると白く細い湯気が立ち上るそれに口をつけた。

 ティーカップを置いてから彼は口を開いた。

 

「坂川くんへの処分……あなたの言う命令ですが、どのような内容かご存じですか? 知っていることを話してください」

「はい……えっと、坂川さんを地方へ長い間行かせることです」

「なるほど。…………話してもいいか。あなたは紛れもない当事者ですしね」

「え?」

「いいでしょう。まずはそのあたりについて詳しいことをお教えします」

「……あたしの言ったこと、間違ってたんですか?」

「間違ってはいませんが……さて、坂川くんを地方で研修する期間ですが、短ければ1年ほど、最長でもあなたがトゥインクルシリーズを卒業するまでです。現段階で具体的な期間は決めていません。これを長い間と思うのかどうかはあなた次第ですけれどね。ご存じなかったでしょう?」

「は、はい……」

 

 初耳だった。父からは具体的な期間について聞いたことは無かった。長い間とは聞いていたから、10年20年……ひょっとすればトレーナーを定年になるまで地方にいるんじゃないかと思っていた。

 

「以上を踏まえてもう一度訊きますが、それは一体どのような意味ですか?」

「どのような意味……」

「『中央に戻してください』とおっしゃいましたが、期間はどうであれ彼は地方から中央に戻ってきます。あなたにお願いされるまでもなく。そういう捉え方をするなら何も問題ないように思いますが」

 

 確かに期間についてのことは今知ったけど、あたしの言いたかったことはそうじゃない。

 あたしは今すぐにでもトレーナーさんに中央へ戻って来てほしいんだ。

 

 あたしは首を振って彼の言葉を否定した。

 

「あたしは、坂川さんができるだけ早く中央に戻ってきて、トレーナーを続けてほしいんです」

「……少しお待ちいただきたい」

 

 終始余裕を感じさせていた彼の声のトーンが低くなった。

 

「同じことを何度も繰り返して申し訳ありませんが、それはどのような意味でしょうか。その言い方だと再びあなたのトレーナーになってほしいとしか聞こえませんが」

「違います。……そうじゃないんです」

「ならばどういう意味でしょう? はっきりとお答えいただきたい」

「…………」

 

 清島からあのノートを渡され目を通し、あたしは色んなことを考えた。

 彼にまたあたしのトレーナーになってほしいとか、そんなことは考えていない。

 

「またあたしのトレーナーになってほしいとは思っていません」

 

 

 

 だって怖いから。

 

 

 

 今の彼があたしに対してどう思っていてどんな人なのか、あたしには分からないから。

 

 

 

 

 感謝の気持ちもあるし後悔の気持ちもある。それだけじゃなくて、ドーピングと暴力を振るったことへの恐怖や怒りとか、色んな感情が残っていて処理できていないから。

 

 

 

 

 何よりまた会って、あの日みたいに非道いことを言われたら今度こそあたしたちは──

 

 

 

 

 

「あたしに関係なく、あの人には中央でトレーナーを続けてほしいんです……」

 

 

 

 菊花賞を勝って、あたしを支えてくれたみんなや応援してくれる観客の皆さんに笑顔や元気をあげることができた……でも、トレーナーさんには? 

 菊花賞を勝てたのは誰のおかげ? もちろん清島の存在は大きいし、支えてくれたみんなや応援してくれた観客のおかげでもある。

 でも、あたしをずっと見てくれていて、トレーニングメニューをたくさん考えてくれて、それで菊花賞を勝てるまでキタサンブラックを育ててくれたのは他の誰でもないトレーナーさんだ。

 

 あたしは、彼に何かあげることはできただろうか? 何かを返すことはできただろうか? 

 

 ……何もあげられていないことに気づいたんだ。

 

 ドーピングや暴力があったとしても、今のあたしを一から作り上げてくれたのはトレーナーさん。トレーナーさんがいたから、あたしはここまで来られたんだ。

 

 

 今はもう、あたしの知っているトレーナーさんじゃないかもしれないけれど……それでも少しでも何かをあげられた、返せたらって思った。

 

 

 

 

 ……あたしのレースやライブを見てくれていないとしたら、あたしは一体何をしたら返せるんだろう。

 

 

 

 

 いくら走っても、いくら勝っても、いくらライブで歌と踊りを頑張っても、トレーナーさんには何も返せないんだ。

 

 

 

 

 だからノートを読んでから1週間あたしは考えた。

 

 思いついたのはこれぐらいだった。これしかなかった。

 

 

「……頑張って勉強して中央のトレーナーになられた人ですから、地方にいるのは不本意だと思うんです」

「…………」

 

 黙り込んだ糸目の男の目つきが更に鋭くなった。

 

「これから質問することには正直に答えてください。嘘はつかないように。良いですか?」

「質問……はい」

 

 強い物言いに対して体が身構えるのが分かる。

 嘘をつく気なんてないけれど、この人の前じゃ嘘なんて通用しないって直感で分かった。

 

「あなたの家の前で別れて以降、坂川健幸と接触しましたか?」

「いいえ。トレーナーさんとは会ってません」

「電子機器や手紙、第三者を介しての接触もありませんか?」

「ありません」

「……今日、こうやって私の元を訪れているのを知っている人物は?」

「誰もいません。あたしは誰にも相談していません」

「……坂川健幸に誑かされたわけでもない。誰かに唆されたわけでもない。全てあなたの独断で動いているということですか?」

「はい」

 

 確かに清島からノートを貰ったことがきっかけではあるけど、清島から直接何かを言われたわけではない。

 この糸目の男にお願いしに行ったのはあたしの判断だ。

 

「ですが、あの事件から何か月も過ぎたこのタイミングでやって来たからには何かきっかけがあったはずでしょう。それは何ですか?」

「……それは」

「隠さず答えていただきたい」

「……………………」

 

 本当のことを話すか迷った。はぐらかそうかと思ったけれど、この人は誤魔化しとかは通用しない人だ。うやむやにはしてくれないと思う。

 ノートのことを話すことにした。

 

「……あの人が残したノートがあって」

「ノート? 坂川くんが書いたノートですか?」

「はい。あたしのトレーニングの評価や考察が書いてあります。あたしを担当してから記録されていたノートで、20冊近くあります。それを読む機会があって。昔からノートを書いているのを知ってましたけど、中身は見せてくれなかったので」

「そのノートを読んだことと今回のことに何の関係が?」

「……トレーナーさんが、あたしのことでたくさん頑張ってくれていたことを知ったんです。だから少しでも何かをあげられたら、返せたらって思ったんです」

「……それが今回の行動の理由の全てですか?」

「はい」

「あんなことをした彼も昔は自分のために頑張ってくれていた。それを知って、そんな彼の地方送りをなかったことにして少しでも彼に報いたい。そんなところですか」

 

 彼はティーカップを口に運んだ。

 

「全く、理解に苦しみますね」

 

 ソーサーに置いたカップから湯気はもう出ていなかった。

 

「トレーナーが担当ウマ娘のために努力するのは当然のこと。彼はただ仕事をしていただけで、特別に感じることなどありません。何よりあなたは彼に騙されてドーピングされたり暴力を振るわれている。詳細は存じ上げませんが、あなたの自宅前では言葉の暴力も振るわれたと聞いています。あなたはひどく傷ついたはずだ。坂川くんを憎むことはあれど、報いようなどと……お人好しが過ぎるという表現では到底足りそうにない。歪んでいますよ。それとも、哀れに思えたのですか?」

「……正直、あの人についての思いは整理できていません。確かにあたしは怒ったり……憎んで、いたと思います。その感情が残っていないと言えば嘘になります。それでも、あの人があたしのために頑張ってくれたことは変わりません。あたしはあの人……トレーナーさんからたくさんのものを貰ったんです。それをひとつも返せていないことに気づいたんです。何かできることはないかと思って──」

「もう一度申し上げますが、彼はあなたにドーピングして暴力を振るった人間です。あなたが彼に報いたいと思っていても、逆に彼はあなたを疎ましく思っているかもしれませんよ」

「……あたしがお願いしたって伝えてもらうつもりはありません。伝えないでほしいです」

「……第一、彼は真っ当なトレーニングを放棄してドーピングに手を染めた人間です。そんな人間が中央に戻って真面目にトレーナー業に勤しむとでも?」

「っ! トレーナーさんは、あたしの……ウマ娘のために一生懸命に頑張ってくれる人です!」

「そんな確証はどこにも無いし証明できないのですよ。誰にも、もちろんあなたにも。特に今現在の坂川くんについてはね」

「…………っ……」

 

 トレーナーさんが今どんな人間かは分からないだろうと糸目の男は言った。

 ……痛いところを突かれた。否定できない。あたしは分からないんだから。

 

「そもそも、なぜこんな辞令を出しているのか理解しているでしょう?」

「……それは」

「あなたに会わせないためですよ。先程、彼が地方にいる期間を1年からあなたがトゥインクルシリーズを終えるまでと言いましたが、事情がない限り後者の予定でした」

「事情……ですか?」

「はい。いくつか想定される物事がありましてね。また、彼があなたに接触を図った場合、お父上の希望があればすぐにでも彼のトレーナーライセンスを取り消しにすると約束しています。……お父上が彼に物凄く怒っておられるのはご存知でしょう」

「……はい」

 

 あの日、トレーナーさんに対して凄んだ父を目の当たりにしている。その後今でも、誰であっても父の前で“坂川健幸”の名前を出せるような雰囲気ではない。

 

「あなたに接触を図ったらその時点で彼は終わりです。もしそうなったら、あなたの望みは叶うどころか真逆の結果を招くことになる。メリットなどなく、リスクしかないのです」

 

 ……確かにその通りだと思う。

 

「よろしいですか? ……今のあなたは混乱しているだけです。彼のことは忘れて、今はレースに集中してください。菊花賞1着、有馬記念3着。あなたはドゥラメンテと並んで間違いなく世代の主役の一人なのですから」

「…………」

 

 あたしの考えてることは、やっぱりダメなの……? 

 こうやったって、何もトレーナーさんのためにならないの……? 

 

 この糸目の男の人が凄い人だってことは知っている。言ってることも全て正しいように聞こえる

 どうにもできないのかと、焦ってしまう。

 

 でも何もできなかったら、それこそあたしはトレーナーさんに──

 

「坂川くんが中央に戻ってきて騒ぎを起こせばあなたのドーピングがバレてしまう可能性だってあります。それだけはあなたも嫌でしょうに」 

 

 ──“ドーピングがバレてしまう”……

 

 ──本当にあたしのためだけ……? 

 

「…………」

「……黙り込んで、どうされましたか?」

 

 考えてはいけないことが心の中で鎌首をもたげた。

 これは絶対に正しくないこと。頭の良くないあたしでも、それだけは分かる。

 

 だってこれは脅迫だ。最低な行為だ。でも、なりふり構っていられない。

 

「今回のこと、URAはドーピングがバレないように、あたしに気を遣ってくれたんですよね」

「ええ」

「……でも、それだけじゃない」

「……は?」

「あたしの言うことを聞いてくれないなら、ドーピングのことを世間に公表します」

「……今、なんと?」

 

 こうは言っているけど、あたしはそんなことする気はない。だってそんなことをしたら、トレーナーさんに何も返せないばかりかトレーナー人生を終わらせてしまうんだから。他の人達やウマ娘にだって迷惑がかかる。

 でも、あたしは本気でそうするんだって、この人に思わせなきゃ。

 

「あたしのためってことも本当なんだと思います。でもURAもドーピングを秘密にしたいんですよね。あたしのお願い、聞き入れてくれないならドーピングを公表します。あたしはドーピング被害にあったって。……それを、URAも隠そうとしてたって」

「脅しのつもりですか? しかし、残念ながら交渉の余地などありません。なぜならあなたがそんなことをするわけがないからです」

「あたしは本気で──」

「ドーピングを明らかにすることで、あなたが報いたい坂川くんはトレーナーとして完全に終了する。加えてアルファーグに限らず、他のチームのトレーナーやウマ娘へもドーピングの疑いがかけられたり、誹謗中傷の的になるでしょう。それが分からないあなたではないはずだ。助かるのはあなただけ……あなたはお助け大将と呼ばれているのでしたか。そんなあなたが他人の害にしかならないことをするわけがない」

「……っ」

 

 まるで心の中を読まれたように、全て彼の言う通りだった。言い返せなかった。

 

「結局のところあなたは彼を助けたいのではなく、自分が楽になりたいだけだ」

「そんな……あたしはっ……」

 

 ……違う……あたしはただ、トレーナーさんに……

 

「それと忠告しておきますが、どんな事情があろうが他人を脅すのはやめた方がいい。脅迫なんて二度としないことです」

「……はい……」

「話は以上ですか? ではお引き取りを」

 

 思わず下を向いて、膝に置いた両手を握り締めた。

 全て見透かされたうえで、あたし自身の最低な行為を咎められた。

 

「…………」

 

 やっぱり、あたしがURAの偉い人と交渉しようなんて、最初から無理なことだったんだ。

 

「ごめんなさい……失礼します……」

 

 無力感に打ちひしがれながら、席を立とうとした時だった。

 

「……キタサンブラックさん」

「……え?」

「申し訳ございません。そのまま少しお待ちを」

「は……はい……?」

 

 糸目の男は腕を組んで目を瞑った。時折指をトントンと動かしながら黙ったままでいた。なにか考えごと……? 

 

 静寂の中、5分ほど経った頃、彼はやっと組んでいた腕を解いて目を開けた。

 

「……良いでしょう。あなたのその話、承知いたしました。坂川くんが早く中央に戻れるようにしてあげましょう」

「えっ!? どうして、ですか!?」

 

 突然のことで頭がついていかない。さっきまで絶対に聞き入れてくれない様子だったのに、なんで……? 

 

「理由は説明しません。坂川くんを中央に……そうですね、4月頃には中央に戻って来られるようにしてあげます。()()()()は約束しましょう」

「いいんですか……?」

「ええ。ただ、この件についてあなたは以後関与しないことを条件にですが。……また何か要求されてもこっちは困りますからね。いかがですか?」

 

 彼が何を考えているのか分からない。こんないきなり考えを変えるなんて……怪しいとは思う。でも、だからってその理由が分かるはずもなかった。

 ……とにかく、理由はどうであっても、あたしの願いは叶ったんだ。

 

「お願いしますっ! ……ありがとうございますっ!」

「よろしいのですね。分かりました。彼が中央に戻って来られるよう手配しておきましょう」

 

 

 

 

 ──後から振り返ると、あたしの要求は通ったように見えた。

 

 

 ──けれど、彼が約束したのは彼を中央に戻してくれることだけだったんだ。

 

 

 ──彼がこの後苦しむことを、この時のあたしは思ってもいなかった。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「……まさか彼にではなく、キタサンブラックに強請(ゆす)られるとはな……まったく、予想外のこともあるものだ」

 

 キタサンブラックが去った後、彼女の要求を呑んだ糸目の男はそう独り言ちる。

 

 坂川がしたドーピングや身体的、精神的な暴力は彼女を十二分に傷つけたはずだ。

 いくら過去の彼が違うからといって、なぜあそこまでするのか、話を聞いたうえでも全く理解できなかった。

 

 ……そう。理解できなかったことが重要なのだ。

 

 キタサンブラックというウマ娘の性格は把握している。あの件で、彼女個人の調査を徹底的にした過去があるからだ。

 それを踏まえてあの脅迫の内容……あのような性質を持つウマ娘がするわけがない。

 

 しかし、絶対にそうしないと言い切れないのだ……自身には彼女のことが理解できていないから。

 

「……あの年代の女なぞ、何をしでかすか分かったものではないからな……」

 

 この年代の少年少女は多感な時期だ。何にでも影響され、自身の考えなんて軽い一本の羽毛のようで、瞬く間に翻る。悪い意味で極めて不安定な状態で、それが普通のことなのだ。

 

 キタサンブラックはドーピングを公表したりしないだろう……それは、自身の勝手な思い込みでしかないのだ。

 

 あの年代は利益と損失の天秤のつり合いなんて何かのきっかけで簡単に破綻する。合理的に動く者ばかりではないのだ。

 この仕事をしていると、相手は利益しか頭にない一癖も二癖もあるビジネスの猛者たちだ。久しぶりにあのような年代を相手にした自身は、出ていくよう言った直後の思いつめたようなキタサンブラックを見るまで、そのことを忘れていたのだ。

 

 また今日接して彼女の性質に少し違和感を感じた。彼女は困ってる他人や果てには商店街の人々にも手を貸す利他的な性質だと思っていたがおそらくそうではない。彼女の他人を助けるというのは他人のためだけではなく自分のためでもあるのだ。だからこんな話を持ってきたんだろう。

 天秤が他人より自分に振り切れたとき、一体どんな行動に出るのか予測がつかないのだ。こういう手合いは得てして予測通りに動かない。

 

 ここで突っぱねて極端な行動に出られるよりは、少しでも要求を呑んでやって留飲を下げる方がリスクは低いと判断したのだ。坂川相手に取った対応と似たようなものであった。

 もし何かあれば根回しした全てが無駄になってしまう。ドーピングを隠蔽したという事実が明るみに出ることが最悪のシナリオだ。

 

 ──あの程度の要求ならなんとでもなる。

 

 坂川は地方でも献身的に働いているようだ。大人しくしているだけかもしれないが、今のところ悪い話は耳に入らない。中央に戻す時期が違っても……元々の素行は良いトレーナーだったが、それが爆発したのがあの件の結果と考えるのなら、逆に長々と地方に留まらせて鬱屈させるのもリスクがある。

 どちらにせよ、彼が中央でどうするかのリスクは何をしても残るのだ。

 

 キタサンブラックの父親の対応にはそこまで苦労しないはずだ。

 地方で坂川健幸を怪しむ声や、あの件について深入りしてくるジャーナリストがいるとでもでっち上げればいい。警備が緩い地方ではなく、警備が厳しく関係者以外が出入りしにくい中央に戻したいなどと説明し、娘のドーピングがバレる可能性があると伝えれば、首を縦に振るだろう。あの父親にとって最優先事項は娘で、ドーピングが漏れないことだからだ。念には念を入れ、彼の周辺をウロウロするだけのジャーナリスト()()()を金で作って事実にしても良い。最悪、説得には仲の良い清島に協力してもらう。もし上手くいかないならその時また別の策を考えることにしよう。

 

 

 そして約束したのは中央に戻すことだけだ。スカウトの禁止や、落ちこぼれの最底辺ウマ娘だけを振り分けることに関しては、話に出す義務さえこちらにはない。

 

 彼はドーピングを疑われることなく最底辺を這いずり回るだろう。

 

 彼女にとって、それが分かるのは早くとも数年先のこと。多少なりとも今よりは分別がついていることだろう。

 最も強いと称される菊花賞ウマ娘として、もっと強くなってほしいところだ。そうすれば彼女の肩には背負うものが増え、今回のような短絡的で刹那的な行動は取れなくなる。

 

 それにしても、そこまでしなければならない人物だったのだろうか、坂川健幸という男は。

 

「全く、仕事が増えたな。……時間か」

 

 

 確認した腕時計は次の会議がそう遠くないことを示していた。

 

 



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追想5 背負うということ

 糸目の男の元を訪れてから3ヶ月後の4月、トレーナーさんが中央へ戻ってきたことを知った。糸目の男はあたしのお願いを本当に聞き入れてくれたようだった。

 

 会うことはできないし、関わることもできないけれど、彼のトレーナー室に灯りがついているのを見るとほっとした気持ちになった。

 ……これで全て返せたとは思えない。本当ならあたしの走りやライブであなたに笑顔や元気、そして感謝を伝えたい。……もっとも、あたしの走りを見ているかどうかなんて分からないし、逆にあたしの走りなんて見たくもないかもしれないけれど。

 

 彼に対して直接できることはもうない。

 

 だから、あたしはあたしのできることを──レースやライブを頑張ろう。

 

 ……それしかないんだ。

 

 

 ◇

 

 

 その年のシニア級1年での天皇賞春であたしは勝った。

 去年の有馬記念であたしに勝ったゴールドアクターやサウンズオブアースが沈み、阪神大賞典を好走した同世代のシュヴァルグランやタンタアレグリアが迫ってきて、最後はシニア級5年のカレンミロティックに交わされそうになったけど、ギリギリで差し返した。

 

 春の盾を手にしてこれでGⅠ2勝目。

 海外遠征したライバルの2人……ドバイターフで初のGⅠを取ったリアルスティール、ドバイシーマクラシックで落鉄しながらも世界の強豪相手に2着に入ったドゥラメンテに対して胸を張れる結果だった。

 

 

 そして6月の宝塚記念。あたしはダービー以来のドゥラメンテとの再戦となった。リアルスティールは安田記念に出走して宝塚にはいなかった。

 人気投票はあたしが1位になったけれど、実際のレースでの人気は圧倒的1番人気がドゥラメンテ、少し離されて2番人気キタサンブラック(あたし)。応援してくれる人がこんなにも増えてものすごく嬉しい半面、まだ実力は伴っていないとの思いもあった。

 

 結果は──

 

『一番外からドゥラメンテ上がってきた! しかし先頭キタサンブラックか!?』

 

 ──内で抵抗するあたしと、大外からやって来るドゥラメンテ。そんなあたしたちの間から抜け出していくウマ娘がいた。

 

『マリアライトだ! マリアライトだ! マリアライトだ!

 

 僅かに抜け出して勝ったのはシニア級2年のマリアライトだった。

 

キタサンブラックを、ドゥラメンテを破った! 祭り(キタサンブラック)でも、怪物(ドゥラメンテ)でもない! 女王マリアライト!

 

 彼女は去年のエリザベス女王杯を勝ったGⅠウマ娘で、あたしが3着になった有馬記念でも僅差の4着だった。有馬では何とか抑えられたけど、追い縋ってくる彼女のスピードはずっと記憶に残っていた。

 

 稍重のバ場をものともせず、マリアライトが1着。2着はドゥラメンテ、3着はあたしだった。

 あたしはドゥラメンテにまたも負けてしまった。

 

「はあっ……はあっ…………え?」

 

 レースが終わった直後、感情が訪れるその前に目の当たりにしたのは、左脚を抱えて蹲っているドゥラメンテだった。苦悶の表情を浮かべて、歯を食いしばっていた。

 疲労なんてどこかに行ってしまって、すぐに彼女に駆け寄った。

 

「どうしたのっ!? 大丈夫っ!?」

「ぐっ……問題は──」

 

「下がって下がって!」

 

 ドゥラメンテの様子を見てか、URAの職員がすぐに何人もやって来てあたしは引き離された。

 彼女は職員に肩を貸され、ターフにまで入ってきた救急車両に乗せられた。左脚にほとんど体重をかけられないようだった。

 

 

 

 ──数日後、ドゥラメンテのトゥインクルシリーズ引退が発表された。複数の靭帯や腱の損傷により、競争能力喪失の診断が下されたと報道された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 セミの鳴き声が賑やかな、夏合宿の真っただ中。

 

 その日のトレーニングが全て終わり夕日が傾いてきたころ、夕食までの空き時間を使ってあたしは自主的にロードワークに出ていた。クラシック級の時よりもスタミナがついてきていて、ハードなトレーニングをしていても余裕ができて、こうやって自主トレにも取り組めるようになった。

 

 ……実はロードワークに出る理由はもうひとつある。それは清島の娘であるペティが夏休みを利用してこの合宿所まで今遊びに来ているのだ。

 彼女はトレーナーさんはどこにいるのとか、なんであたしと一緒にいないのとか訊いてくる。答えるのが難しく、苦笑いで誤魔化すしかできないので、ちょっと居心地が悪い。

 

 まさかあのときのオープンキャンパスのウマ娘が清島の娘だとは思わなかった。それを知ったのは夏休み前に両親と一緒に彼の家へ挨拶に行ったときだった。

 

「はっ、はっ、はっ」

 

 脚はそこまで重くない。まだまだスタミナも大丈夫そうだ。

 

 今のようなスタミナがあったら、トレーナーさんのトレーニングに応えられたのかな……

 菊花賞の前、あの時にタイムが落ちたのは多分あたしのスタミナが無くて、疲労が積み重なってたからだと今になって思う。あたしは自分の疲労が溜まっていることにさえ気づけなかったんだ。

 ちゃんとあたし自身が気づいて、トレーナーさんに言うべきだった。トレーナーさんだってあの時はまだ2年目で、あたししか担当したことが──

 

「はっ、はあっ…………」

 

 ──ちくりと、胸が痛くなって足を止めた。

 

 これは身体的な不調じゃなくて、あたしの心の問題だ。

 

「……トレーナーさん、今どうしてるかな……」

 

 彼が中央に戻って来てから今まで、当然のことだけれど一度だって会ったことは無かった。彼が気をつけているのかは分からないけれど、彼の姿を目にしたことだって無かった。

 少し前に調べたけれど、まだ担当はいないらしい。でも1月になったらウマ娘が振り分けられるはずだから、彼はそこであたし以外のウマ娘を担当することになる。

 

「…………」

 

 もやもやした気持ちを紛らわすために再び走り始めた。

 少し温度の下がってきたアスファルトの上を駆けていく。

 

 彼は新しく担当したウマ娘から勝利をプレゼントされるだろう。だってあんなに優秀で、ウマ娘のために頑張ってくれる人だから。ウマ娘だって彼に応えてくれるはずだ。

 ……あたしはもう何もあげられなくて…………GⅠを勝ったって、トレーナーさんには…………

 

 

「え……?」

 

 

 驚いて思わず足を止めた。向こうからこちらに松葉杖をついて歩いてきているウマ娘の姿が見えたから。

 ここにはいないはずのウマ娘がいた。彼女はもう走れなくなって引退したウマ娘だから、こんな夏合宿の場所にいるはずがない。

 見間違いかと思ったけれど、段々と近づいてくるその姿は見間違いを否定していた。

 

 こちらに歩いてきたのは──

 

「ドゥラ……ちゃん」

「……キタサンブラックか」

 

 ──故障で引退したドゥラメンテだった。

 

 彼女と会うのは、宝塚記念以来のことだった。

 

 ◇

 

 道の真ん中で立ち止まるわけにもいかないので、近くにあった小さい公園に2人で寄った。

 ドゥラメンテに話を聞くと、合宿所に来たのはここ数日のことらしい。この夏は病院の診察やリハビリのために学園に残っていたらしいが、トレーナーに現状の報告や脚の状態を見せるために合宿所へやってきたとのことだった。

 今はウォーキングでトレーニングしているらしい。松葉杖をついた状態でトレーニングって……?

 

「脚は大丈夫なの?」

「……問題はない」

 

 それが本当か問い詰める意味でじぃっと彼女を見つめていると、彼女は観念したように小さく溜息をついた。

 

「……いや、君に隠しごとはするべきではないな」

「……本当はどうなの?」

「歩く分には支障はない。こうして体重を殆どかけなければ杖をついてのウォーキングも許可されている。……ただ、走れはしない」

「殆どって……足をつけて歩いても痛くないの?」

「痛みなど些細なことだ」

「っ!? 駄目だよっ! 痛いの我慢しちゃ駄目!」

「この程度の痛みに屈しているようでは、復帰なんてできない」

「復帰!? ……とりあえず座ろっ、ほらあそこ行こう!」

「っ、おい?」

 

 ドゥラメンテをお姫様抱っこで抱きかかえて、公園内の古い木製のベンチに無理やり座らせた。

 

「復帰ってどういうこと? だってあの宝塚の後すぐに……」

 

 競争能力喪失で引退したと発表された。あれだけ早く決断が出るということは、本当に酷いケガだったんだろうと思う。

 

「……引退って、聞いたよ」

「ああ、引退はした。……トゥインクルシリーズはな」

「……え? どういう──」

「私はDTLでの復帰を目指している」

 

 ドゥラメンテは一縷の迷いもなくそう言い切った。

 

「DTLって……トゥインクルシリーズを引退して、招待があったウマ娘が行けるんだよね?」

 

 ドリームトロフィーリーグ……通称DTLはトゥインクルシリーズで活躍し、URAから招待を受けたウマ娘が移籍できるリーグのことだ。トゥインクルシリーズ引退後だから全盛期を過ぎたウマ娘が圧倒的に多いけれど、それでも本気で走るウマ娘もいるって聞いたことがある。

 

「ああ。……URAからは、私が望むなら招待すると返答があった」

「そ、そうなんだ……でも、脚は……」

「医師は長い時間をかければ治る可能性はあると。URAは完治するまで何年かかってもいいと言っていた」

 

 彼女は本当ならトゥインクルシリーズに復帰しようと考えていたらしいが、トレーナーや家族、そして医師にこれ以上走ると致命的な故障を招きかねないと言われ、半ば強制的に引退させられたと続けた。

 

「だがDTLで走れる可能性が今の私にはある……これ以上のことは無い」

「そこまで……」

「DTLで私は走る。競争能力消失だと言われようとも、必ずこの脚を治しトゥインクルシリーズで証明できなかったものを……この“血”が流れるドゥラメンテが“最強”のウマ娘だと今度こそ証明する」

 

 ドゥラメンテは変わってなかった。力強い言葉と、強い意志を宿す瞳は出会ってから何も変わっていない。

 トゥインクルシリーズを引退させられるケガを負っても、彼女は走ることを決めた。それでこそあたしたちの世代の最優秀クラシック級ウマ娘だと、誇らしくもあって、逆に羨ましくも思えた。……あたしは、そこまで真っすぐに前を見られていないから。

 

「……なあ、キタサンブラック」

「なに?」

「…………」

「?」

 

 ドゥラメンテはこれまでとは打って変わって逡巡するような様子を見せた。逆に、こんな感じになる彼女はあまり見たことがない。

 

「私は……君に謝らないといけない」

「謝るって……ええっ!?」

「……すまない……」

 

 彼女はあたしが謝る理由を理解する前に頭を下げた。

 

「どうしたの? 謝るって……あたし、全然謝られることなんて──」

「いいや、私は謝る必要がある。私はトゥインクルシリーズで走れない。……つまり、もう君とは走れない」

「……!」

 

 “トゥインクルシリーズで走れない”

 

 “もう君とは走れない”

 

 頭にゆっくりとその言葉の意味が入り広がっていった。

 

「去年、怪我をしていた私に君とリアルスティールはまた走ろうと言ってくれた。あの時の私は自身の感情がどういったものか理解できなかったが……やっと理解した。おそらく、嬉しかったんだ」

「……ドゥラちゃん」

「レースの世界でも、私に流れる血が“最強”だと示すために走る。それは今でも変わらない。だが、あの時までは相手にまで意識が向かなかった。……私はずっと自分と戦っていたからだ。そんな私に初めて相手というものを、ライバルというものを、共に走るということを認識させてくれたのは君たち2人だ。……感謝している」

 

 彼女の顔には優しい笑みが浮かんでいた。

 

「2人の菊花賞を見て心が動いた。キタサンブラックとリアルスティール、君たちには負けない、君たちに勝ちたいという思いが胸の奥から湧き出てきた。初めてだった……誰かに勝ちたいという気持ちになったのは」

 

 でも、あたしにはその笑みが泣いているように見えるのは何故だろう。

 

「君とは宝塚記念で、リアルスティールとは中山記念で共に走ることができた。だが、私のトゥインクルシリーズはあの宝塚で終わりなんだ。……また共に走ろうと、待っていると言ってくれたのに、私だけ先に引退してしまう。だから、謝らないといけないんだ。君にも、リアルスティールにも」

「そんなことないっ……ドゥラちゃんが謝ることなんて……!」

 

 だってこの表情が全てを物語っている。

 

 

 いちばん辛いのは、他の誰でもない引退してしまうドゥラメンテなんだ。

 

 

 勝手な約束を取り付けたのはこっちなのに。

 

「キタサンブラック、すま──」

「ダメッ! 謝らせないっ!」

 

 頭を下げようとする彼女の肩を押しとどめた。

 

「ドゥラちゃんはあたしの……目標だった。皐月もダービーもすごく強くて、キラキラしていて。最初はただ悔しいだけだったけど、あの夏からドゥラちゃんの視界に入れてもらおうと必死だった。……たぶんリアちゃんも」

「…………」

「ドゥラちゃんが引っ張ってくれたおかげで、あたしたちは強くなれた。これは絶対に、本当のことだから!」

 

 間違いなくあたしたちの世代の中心にドゥラメンテはいた。それこそ彼女に勝たないとタイトルは取れないと思わせるほどに。

 

「謝ることなんてない。逆に、あたしがお礼を言わないといけない」

 

 彼女の手を取り両手で柔らかく包み込んだ。少し汗ばんだ彼女の手の温もりが掌から伝わってきた。

 

「ありがとう。ドゥラちゃん…………一緒に走ってくれて、ありがとう」

「……キタサンブラック…………」

 

 この思いが伝わるようにと、言葉に精一杯思いを込めた。

 

「それに、これで終わりじゃないよ」

「……何?」

「あたしもトゥインクルシリーズを引退したらDTLに行く」

「なっ!?」

「絶対にURAから招待されてみせる。誰にも文句は言わせないぐらい強くなるから。だからDTLでまた走ろうっ!」

「……君は……」

 

 苦笑いする彼女の顔は、さっきまでのような泣きそうな表情ではなくなっていた。

 

「あたし、結局ドゥラちゃんとは3回走って1回も勝てなかったし、DTLでは絶対にリベンジするからっ!」

「……フフッ…………させないさ」

 

 そうやって2人で笑みを交わしたあと、あたしはベンチから立ち上がり、一歩二歩と前に出た。

 

「ドゥラちゃん、見てて」

 

 振り返って彼女の正面に立つ。

 

「トゥインクルシリーズでのあたしの走りを。絶対に強くなるから。ドゥラちゃんが現役を続けていても、あたしには勝てなかったんだってドゥラちゃんに思わせるような走りをしてみせる」

「大きく出たな。君がそんなことを言うやつだったとは」

 

 ……流石に自分でも口にしてどうかと思った。生意気過ぎない? 

 でも、これぐらいの決意を口にしないと。

 

「……分かった。見ていよう、君の走りを」

「!」

「DTLで私が倒すに足るウマ娘だと証明してくれ。つまり、君が最強のウマ娘になるんだ」

「あたしが……最強に?」

「ああ。そして最強になった君を私が倒し、改めて私が最強だと証明する。簡単な話だろう?」

 

 それはつまり現役最強ウマ娘になるということで、トゥインクルシリーズの頂点に立つということ。

 

 

「私が君に挑むまで“最強”は君に託す」

 

 

 ドゥラメンテが最も拘っている最強の称号。

 

 それを託されてようとしている。

 

 

 託されるということは、ドゥラメンテの思いと願いを背負うということ。

 

 

 あたしとドゥラメンテの道は一旦別たれてしまうけど、未来で必ず交差する時が来る。

 

 

 

 

 

「うん。あたしが“最強”になってみせるよ」

 

 

 

 

 

 あたしは確かに受け取って、そして背負った。

 

 

 

 ドゥラメンテというウマ娘を。

 

 




ドゥラメンテ実装に即して彼女の台詞を微修正しました。


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追想6 現役最強

本話には“追憶14 底の景色”と対応している場面があります。


 あたしのトゥインクルシリーズは続いていった。

 

 

 

 

 

 ──シニア級1年、ジャパンカップ(東京2400m)……1着。

 

 

『キタサンブラック、ゴールインッ! 東京2400を見事に逃げきりました!』

 

 

 菊花賞以来となるリアルスティールとの再戦となったジャパンカップ。あたしは逃げきって勝利した。

 

 これでGⅠ3勝目。

 

 

 

 

 

 

 ──シニア級1年、宝塚に続いてファン投票1位で迎えた有馬記念(中山2500m)……2着。

 

 

『キタサンブラックかっ!? サトノダイヤモンドかっ!? 並んでゴールインッ!!! サトノダイヤモンド捉えたかっ!? それともキタサンブラック残したか!? 最後は捉えたかサトノダイヤモンド!?』

 

 

 親友であったサトノダイヤモンドとの初対決は、クビ差で負けて2着だった。

 ……サトノ家の組織的なレース内容のこともあり、この有馬記念あたりからしばらく、サトノダイヤモンドとの間にわだかまりができた。あたしは何も気にしていなかったけれど、彼女の方からあたしに距離を置くようになったのだ。数ヶ月は会話らしい会話はなかった。

 わだかまりが解けたのは二度目の天皇賞春が終わった後になる。

 

 

 有は負けたけど、シニア級1年では天皇賞春とジャパンカップを勝った。

 レースに出る度にあたしへの歓声が大きくなっているのを感じていた。宝塚有馬と連続でファン投票1位になり数字にも表れた。メディアからの取材も大量に来ていて、スポーツ紙やテレビでの扱いも格段に大きくなった。グッズの展開やCMにだって起用され、レース以外でも日に日に忙しさが増していった。

 

 ──キタサンが強くなって良い走りをしたら、絶対に見てくれる人は増えてくる──

 

 ……皐月賞の前、トレーナーさんが言ったとおりだった。

 

 

 

 そしてシニア級1年を終えたあたしに与えられたのは、現役最強の証明である年度代表ウマ娘の称号だった。

 

 

 

 あたしは単なる世代代表のウマ娘じゃなくなった。実力でも人気でも、あたしがトゥインクルシリーズの主役で中心だと確信していた。

 自信は矜持と自負心へと変わった。

 

 それらを認識する度に、背負うものがひとつ、またひとつと増えていった。

 

 

 全部背負ってやる覚悟は疾うにできていた。

 

 

 ◇

 

 

 

 年が明けてしばらくしたある日、あたしは寮の自室にいた。

 スマホでURAのサイトにアクセスし“坂川健幸”のプロフィールページを開くと、彼の担当ウマ娘5人の名前が追加されていた。無事にトレーナーとしてウマ娘を担当することができたようだ。

 

「良かった……」

 

 おそらく振り分けられたウマ娘なんだろうけど、どんな形でも彼が中央でトレーナーとして復帰できたことに安堵していた。

 

「……もう1年も経ったんだ……」

 

 ノートを読んでから1年が経過していた。早かった気もするし、あっという間の気もした。一日一日は濃いはずなのに、日にちは一瞬で過ぎ去ってしまう。

 あれから1年経って、変わらなかったこともあれば変わったこともある。

 

 トレーナーさんがあたしに対してどう思っているのかは分からないままだった。……これはあたしじゃどうしようもない問題で、時間は解決してくれない。彼に直接気持ちを確かめるしか解決する方法はないんだと思う。

 ドーピングに対する怒りとか憎しみ……そういった感情は完全には消え去ってはいないけれど、ノートを読んだ直後と比べても限りなく薄れていった。

 それよりも、どうしてにあんなことになってしまったんだろうって思う気持ちが強くなった。

 

 

 ──もっと他にできることがあったはずだから。

 ──トレーナーさんのことをちゃんと理解していたなら。

 ──違う選択肢を選んでいたら。

 ──皐月やダービーで勝っていたなら。

 ──もっと強かったなら。

 

 

 ……トレーナーさんはドーピングなんてしなかったんじゃないかって考えるようになった。

 

 

 

 あたしとトレーナーさんが一緒に歩んだ未来だって、どこかにあったはずなのに。

 

 

 

「…………」

 

 机の引き出しに目をやる。その奥にはあのノートが大事に保管してある。

 あれからも何度も何度も見返していた。最初に貰って来た時よりノートの端がボロっとしていた。

 

 今でもトレーナーさんに会う気にはなれなかった。会って、彼のあたしに対する気持ちがもし最悪のものだったら、立ち直れないと思うから。

 それに父のこともある。少なくともあたしが大人になって独立するまでは……トゥインクルシリーズにいるうちはトレーナーさんと接触したら何が起こるか分からない。

 

 

 

 

 首を振って余計な思考を散らした。

 

 

 ……考えてもどうしようもないのはもう知っている。

 

 

 

「あたしは……あたしのできることを…………」

 

 

 

 それしかない。

 

 

 

 ◇

 

 

 ──シニア級2年、大阪杯(阪神2000m)……1着。

 

『しかし寄せ付けない! キタサン祭りだ! キタサンブラックですっ!』

 

 同期のサトノクラウンや一つ下のダービーウマ娘マカヒキもいたレースだったが、3番手からレースを進め最後は押し切った。

 

 GⅠ4勝目。

 

 

 

 

 

 ──シニア級2年、天皇賞春(京都3200m)……1着。レコードタイムにて連覇達成。

 

 

 

 レース直前のゲート前。

 

「キタちゃん……その……」

 

 レース開始直前だというのに、サトノダイヤモンドはおどおどとして闘争心の欠片もない様子だった。彼女はばつが悪そうあたしに話しかけてきた。

 有でのサトノ家の行為に今でも引け目を感じ引きずっているんだと直感で分かった。

 これでは()()だ。今の彼女はくすんで濁ってしまっている。こんな気持ちとモチベーションのまま走らせても彼女のためにならないし、良い走りはできない。

 あたしは幼い頃からの親友と全力でぶつかり合いたい。そして全力の彼女を倒して現役“最強”で在り続けるために。

 

 何よりも、ダイヤちゃんには輝いていて欲しいから。

 

「……今でも……怒ってる……よね……」

「…………」

「そう、だよね……っ…………」

 

 サトノダイヤモンドは唇を噛み俯いた。勝負服の装飾がかすかに揺れ、肩にかかった亜麻色の髪の毛が幾房か滑り落ちた。

 

 分かってる。有馬記念のサトノ家のチームプレーは彼女が望んだものじゃないってこと。親友のあたしが彼女がそんなことをする娘じゃないって一番知っている。だからあたしは何にも思わなかったのだ。

 サトノ家の偉い人かトレーナーか、仕組んだ首謀者は誰かは知らないし、知りたくもない。

 

「……言い訳はしない。事実だから。キタちゃんが怒ってるのも──」

「ダイヤちゃん。あたしは怒ってないよ。本当に何も怒ってない」

「──え?」

 

 現役最強である去年の年度代表ウマ娘キタサンブラックとして。何よりサトノダイヤモンドの親友キタサンブラックとして。

 いつものあたしの元気を込めて、彼女に真正面から高らかに言い放つ。

 

「今日は邪魔は入らない。ちゃんと決着つけよう。勝負しようっ、ダイヤちゃん!」

「……キタちゃん…………」

 

 ありがとう、と確かに聞こえた。消え入りそうで泣きそうな声だったけれど、芯の通った声だった。

 その瞳には煌めく輝きが戻っていた。いつものダイヤちゃんだった。

 

「絶対に負けないっ! キタちゃんを倒して、私がサトノ家に眩い栄光を!」

「……ダイヤちゃんの強い気持ち、伝わってくるよ」

 

 過去から現在に渡るサトノ家の全てを背負っているウマ娘がサトノダイヤモンドだ。彼女の背負っているものの大きさと重さはあたしには計り知れない。

 

「でもっ! あたしだって負けられないっ!」

 

 応援してくれる人々や、こんなあたしを支えてくれたみんなに笑顔と元気をあげたい。応えたい。

 そして“最強”を証明するために。

 

 あたしはあたしのために走る。そして勝つ。

 

 

 

 

『キタサンブラック先頭、2バ身のリード! 外からサトノダイヤモンド、間からシュヴァルグラン! しかしっ──』

 

 

 大逃げするヤマカツライデンから離れ、実質的に逃げとなる形の2番手でレースを運びゴール前。

 先頭で後続を突き放すあたしに追いつける者はいなかった。

 

 

 

『連覇だ! 連覇だっ! キタサンブラック連覇達成ッ!!! “最強”ウマ娘はキタサンブラック!!! ──っ!? 勝ちタイムがなんと3分12秒5! レコードタイムッ!!!』

 

 

 

 電光掲示板に赤く点灯した“レコード”の文字を目にした。

 

 

 これでGⅠ5勝目。

 

 

 勝って、サトノダイヤモンドと仲直りの抱擁をしてから観客席を見た。あたしを応援してくれるたくさんの観客がいる。あたしの両親や父のお弟子さん、アルファーグの清島やチームメイト、友達、トレセン学園のウマ娘……もちろん、その中にドゥラメンテもいた。

 

「ありがとうございますっ! 温かいご声援、ありがとうございますっ!!! 皆さんの応援、ほんっとうに力になりましたっ!!!」

 

 この瞬間は元気と笑顔をあげられたって実感が爆発するように湧いてくる。近くに行き、声を掛けて手を振って感謝の気持ちを精一杯伝えた。表彰式のときには職員にお願いして一曲だけ歌わせてもらった。

 レースとこれだけじゃ足りなくて、足りない分はライブで一生懸命歌って踊って感謝の気持ちと笑顔や元気をもっとあげたいって思った。

 

 歌い終わり、そして訪れたいつもの感覚──

 

「お聴きくださってありがとうございますっ! ははっ、ありがとーっ!」

 

 

 ──あたしが欲しかったものが今、目の前にある。

 

 

 

 でも、いない。

 

 

 

「ありがとうございますっ! 次のレースも頑張りますっ! また温かいご声援、よろしくお願いしますっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこを探してもトレーナーさんはいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナーさんだけがどこにもいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 ──シニア級2年、宝塚記念(阪神2200m)……9着。

 

 

 今回も人気投票1位に支持された。現役最強ウマ娘として、そして何より人気投票で投票してくれた多くの人々のために勝ちたいレースだった。去年負けてしまった雪辱を果たしたかった。しかし──

 

 

『苦しい、キタサンブラック! 伸びないっ! 伸びないっ! いつもの力強さがないっ! サトノクラウンが突き抜ける!』

 

 ──待っていのは久方ぶりの大敗だった。

 

『サトノクラウンだ! サトノクラウン1着! キタサンブラック敗れる!』

 

 

 原因は分からなかった。調子も悪くなかったし、その後の精密検査でも怪我は見つからなかった。

 ダービーからこの宝塚記念まで3着を外したことが無かったので、ここまで大負けするのはそのダービー以来だった。凱旋門に行くプランもあったけれど、リスクを考え清島や周りの人と相談して国内に専念することに決めた。

 

 敗北と期待に応えられなかったことへの悔しさはもちろんあったが、すぐに切り替えて秋からのレースのためにトレーニングに集中した。現役最強であることを再び証明するためには、くよくよしている時間なんて必要ないから。

 

 

 ◇

 

 

 そして8月の終わり。夏合宿の最終タームのことだった。

 その日のトレーニングを終え自室に戻ったあたしは、スマホを使って今日開催されたあるレースの結果をチェックした。

 

 あるレースとは、トレーナーさんのウマ娘が出た未勝利戦。()()()()()()だった。

 

「……そんな…………」

 

 結果は最下位惨敗だった。これで彼が担当したウマ娘5人全員が8月の未勝利戦を敗北で終えたことになる。

 既に他の4人の名前はURAの彼の現役担当ウマ娘の欄から削除され、過去に担当したウマ娘の欄に移っている。未勝利戦で勝てなかったから、退学したということなんだろう。

 担当ウマ娘の欄にあった最後のウマ娘が負けてしまった。5人全員が掲示板にすら一度も入れていなかった。

 

 彼の担当するウマ娘はいなくなった。

 

「……どうして……?」

 

 これまでのレース結果を追っている中でもそうだったが、今でも全く理解ができなかった。

 今まで彼の担当ウマ娘のレース映像は見ないでいた。見たら色んなことを考えてしまいそうだったから。

 けれどそうとも言っていられない。取りあえず、5人全員の最後の未勝利戦のレース映像を見てみた。

 

「…………なにこれ……」

 

 どのウマ娘も追走すらできていなかったのだ。レース途中でバ群に離されて脱落する娘がほとんどで、勝負にすらなっていない。

 

 こんなこと思うのは嫌だけど、この娘たちは足が遅すぎる。

 フォーム自体は皆整っているように見える。……中にはあたしに似たフォームの娘もいた。でも、フォームに問題ないからこそ足の遅さが強調される。

 振り分けられたウマ娘が遅すぎたってこと? 

 

「……」

 

 でも、それを知ったからってあたしにできることは何もない。あたしはただトレーナーさんの行く末をこうやって離れたところで見ているしかできない。

 

 担当ウマ娘が全員一回も勝てずに退学……トレーナーさんはどんな心境でいるだろうか。あたしを担当してくれてた時みたいに、ウマ娘のことを大切に思ってくれているなら想像もできないほど苦しんでいると思う。

 

 ……あたしなら、トレーナーさんに勝利を──

 

「あたしにできることは……」

 

 

 結局、あたしにできるのはレースに出ることだけ。

 

 もしかしたらレースやライブをトレーナーさんが見てくれてて、あたしのこともまだ大切に思ってくれてて、それで元気や笑顔をあげられる可能性がほんの僅かでもあるなら──

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 ──シニア級2年、天皇賞秋(東京2000m)……1着。

 

 

 

 

『さあ、18人未体験ゾーンの不良バ場。これから天皇賞秋のスタートです』

 

 台風の影響で、大雨により不良バ場となった天皇賞秋。……後になってから振り返れば、絶対に勝ってみせると気負いすぎていたのだと思う。

 

 だからか、スタートでは出遅れてしまった。ほとんど最後方からのレースになってしまった。

 

『キタサンブラックあまりいいスタートではありません──』

 

(……大丈夫)

 

 あたしは全く焦っていなかった。むしろ、出遅れてしまったことで逆に頭が冷えた気がした。

 他のウマ娘の位置取りやバ場状態をひとつひとつ冷静に頭に入れながらレースを進めた。リアルスティールは先団前目で、サトノクラウンは中団、その後ろであたしの前にレインボーライン。バ場は荒れているなんて言葉では言い表せないほど柔くぬかるんでいて、地面を捉えるたびに大量の水と泥が跳ねていた。脚を引き抜くのにも相当のパワーが要る。

 

 だけど問題はない。出遅れもバ場も、あたしがこれまでに培ってきた身体と経験で対応できる。展開やバ場で能力を著しく落とすようじゃ現役最強ウマ娘なんて名乗れない。

 どんな条件だろうが勝つ。どんな距離やどんなバ場でもこなしてこそ“最強”のウマ娘なんだ。

 

 10のハロン棒が見えてきたところで、少しずつペースを上げて前へとポジションを上げていく。バ場状態を考慮して、あまりに後ろ過ぎると末脚が届かない可能性があるからだ。良バ場想定の位置では遠すぎる。

 

 他のウマ娘が避けているバ場の最も緩い最内から前へと出ていった。

 

『ここにいましたキタサンブラック。後方から徐々に前へと進出。今日は祭りのテーマをこの府中に轟かせるか?』

 

 10のハロン棒が過ぎ残り1000mを切った。途中リアルスティールを交わして、あたしは先頭集団からすぐ後ろの2番手集団につけた。

 そのままコーナーに入り曲がっていく。

 

(いい位置……あとは末脚…………あ──)

 

 末脚のことを考えて、瞬間的に頭を過ぎったものがあった。

 

(……あのノート……)

 

 天皇賞秋と末脚……クラシック級で天皇賞秋を目指していたトレーナーさんがノートに書いていたこと。

 天皇賞秋に勝つには上がり最速級の末脚が必要だとトレーナーさんは考えていた。だからあの時期のトレーニングは瞬発力を鍛えるメニューを多くこなしていた。

 そのトレーニングが実ってあたしは菊花賞を上がり3F最速の脚で勝利した。けれど、それから逃げか番手でレースをすることが多かったから、今年の天皇賞春で3位に入った以外は全て上がり3Fで上位3位から外れていた。

 

 でもだからって、今のあたしが上がり最速の脚を繰り出せない理由にはならない。

 

 あのトレーナーさんのトレーニングや身体作りが土台にあって、引き継いでくれた清島の指導があって、あたしの努力や頑張りによって、今のキタサンブラックというウマ娘は出来ている。

 

 

 ──逃げで他のウマ娘を擦り潰せないのなら、上がり最速の脚で圧倒すればいいんだ。

 

 

 

 バ群が第4コーナーから直線の入り口に向いた。他のウマ娘たちは外を回して膨らみながらコーナリングしていった。

 前方の景色が開けた。

 

『さあ4コーナーカーブから直線コース!』

 

 

 ここが勝負所。あたしは迷わず最内を狙い、一番荒れているバ場の悪い内側を回した。

 

 

『最内をすくって、さあ! キタサンブラックは最内選択! キタサンブラック勝負に出たっ!』

 

 

 距離のロスがある他のウマ娘を差し置いて、最短距離でのコーナリングで最後の直線へと躍り出る。

 直線に入って100mを過ぎる前には既に先頭に立っていた。

 

 

『キタサンブラックが追い込んできた! 内を突いてキタサン先頭! キタサン先頭に変わる! 400mを通過した!』

 

 

 残り400m地点で抜け出した。横にウマ娘がいなくなったのであたしはバ場の良いところを求めて進路を外側へ取った。もう内側を走る必要はない。

 後ろからあたしを追ってくる気配を感じる。ちらっと見やると、宝塚を1着で駆け抜けたウマ娘の姿があった。泥にまみれた彼女は必死の形相であたしを交わそうと追い上げてきた。

 

『2番手サトノクラウン! 3番手レインボーライン、その後ろにリアルスティール!』

 

 サトノクラウンが近づいてすぐ後ろに来た。

 彼女は外へ進路を取るあたしの内側に潜り込んでくる。

 

 

『キタサンブラック堂々と先頭だ! しかし追ってくる、進路を内に取ったサトノクラウン!』

 

 

 彼女の勢いは衰えていない。むしろ距離を詰めてくる。脚色は彼女の方が良い。

 

 

『キタサン先頭! しかしクラウンも来る! その差が縮まる!』

 

 

 残り100m。

 

(…………なら)

 

 考えを変えた。

 

 半バ身差に詰められたあたりで外へ行くのをやめて、サトノクラウンとバ体を合わすようにしてゴールへと向かっていく。

 バ体を合わせた競り合いと粘りならあたしは誰にも負けないから。

 

 

『キタサンブラック! 差を詰めるサトノクラウン! しかし──』

 

 

 バ体をサトノクラウンに近づけていくと、ほんの一瞬だけ彼女が怯んだのが分かった。

 

 

 勝負はそこで決した。

 

 

 

『──サトノクラウン2番手! キタサンだキタサンだっ! 仁川の悲鳴は杞憂に終わったっ!!!』

 

 

 

 最後はクビ差まで詰め寄られるも、サトノクラウンの追撃を凌いで勝利した。

 

 

『キタサンブラック見事! 心配無用! これが現役最強です!』

 

 

 これでGⅠ6勝目。

 

 

 後から知ったけど、上がり3Fのタイムは最速だった。

 

 

 

 ゴール後に立ち止まって後ろを振り返ると、2着以下に敗れたウマ娘たちが目に入った。みんな泥まみれで、雨で髪も勝負服もぐちゃぐちゃだった。

 仰向けで倒れて胸を上下させている娘、化け物でも見るかのようにあたしを呆然と見ている娘、気力を振り絞りあたしの目を見返す娘、そんな気力もなくただ俯いている娘。

 

 倒した相手に羨望と諦観を刻み付ける……みんながみんな、あたしのことを好いてくれているわけじゃない。あたしが勝つ分だけ負けるウマ娘がいて、そんな彼女らを応援して支えている人たちがいる。

 それらを踏みにじって上に立つ。現役最強ウマ娘になるとはそういうことだ。

 

 

 

 この天皇賞秋で現役最強はキタサンブラックだって、あたしなんだって証明できた。

 

 

 

 

 だから思ったんだ。

 

 

 

 このタイミングなんだって。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 天皇賞秋を終えてからしばらくして、あたしはジャパンカップ、有馬記念で引退することを発表した。理由のひとつ目はトゥインクルシリーズで現役最強を証明できたと思ったから。ふたつ目はドリームトロフィーリーグ(DTL)で改めて“最強”を証明するため。

 DTLでは全盛期から能力の落ちたウマ娘が多いけれど、未だにトゥインクルシリーズと遜色ないかむしろ上のレベルで走っているウマ娘もいる。そのウマ娘たち相手に、全盛期のあたしが勝って真の最強を証明するためにトゥインクルシリーズを引退するのだ。

 ……もちろん、ドゥラメンテの目標として在り続ける意味もある。

 加えて海外のこともある。勝って華々しく引退するのが主流の海外のウマ娘たちも各国の日本のDTL相当のリーグに所属している。年に1回は国をまたいだ交流戦があり、そこで海外の名ウマ娘たちと勝負するためでもあった。世界で“最強”を証明できればこれ以上のことはない。

 

 引退を決める前にURAに照会するとDTLからの招待はすぐに届いた。

 それを受けてあたしの考えをみんなに相談したけれど、清島や両親はじめみんな納得して送り出してくれて発表に至った。

 

 会見ではドゥラメンテのこと以外は包み隠さず話した。

 

 世間の反応としては、ありがたいことにあたしの引退を惜しんでくれる声が多かった。

 具体的には『もっとトゥインクルシリーズで走る姿が見たかった……』、『引退は悲しいけどDTLでキタサンの走りが見れるなら嬉しい! 日本、いや世界相手に頑張ってほしい!』、『キタサンを応援していると、自分も頑張ろうって気になるので、DTLでも応援します』など。

 メディアも取り上げてくれて、様々な媒体であたしの引退がトップニュースになった。舞い込んでくる取材やあたしの記事を目にすると、あたしはトゥインクルシリーズの中心で、現役最強のウマ娘で、みんなに勇気や元気、笑顔を与えられる存在になったんだと改めて実感できた。

 

 

 

 

 あたしの夢は叶った。あたしは夢を叶えることができたんだ。

 

 

 

『私、誰かに勇気や元気をあげられるウマ娘になりたいんです!!』

 

 

 

 あたしを支えてくれたみんな、応援してくれたみんなにあたしは勇気や元気、笑顔をあげることができた。

 

 

 

『ああ、それを叶える手伝いを俺にさせてくれ──』

 

 

 

 

 

 

 ──あなたをのぞいて。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ──シニア級2年、ジャパンカップ(東京2400m)……3着。

 

 

『シュヴァルグラン! シュヴァルグランが先頭だっ! シュヴァルグラン、ゴールインッ!!!』

 

 いい走りは出来たけど、シュヴァルグランとレイデオロに負けてしまった。

 ミスらしいミスは無かった。強いて言えば左脚の落鉄があったが、落鉄程度は言い訳にならない。落鉄で負けるなら、その程度の実力だったってだけ。

 

 あたしは素直に勝った相手を称えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──シニア級2年、有馬記念(中山2500m)。あたしのトゥインクルシリーズラストラン。

 

 人気投票は1位。多くの人達の期待を背に、あたしは最後のレースへと向かう。

 走り始めた時には考えられなかったぐらい大きいものをあたしは背負っていた。決して軽くはないけれど、今のあたしは全て背負って立つことができる。

 

 

 1枠2番のゲートに入り、スタートを待つ。

 心は完全に凪いでいて、身体も必要最低限しか力が入っていない。これ以上ないほど集中できていた。

 

「……っ!」

 

 ゲートが開いた瞬間、最後のレースへと飛び込んでいった。

 

 上手くスタートを切れて、逃げる形となった。

 道中であたしに競りかけてくるウマ娘はいなかった。これまでのレースで、あたしに競りかけたらどうなるか知っているから(擦り潰されて力尽きるだけ)だろう。

 

 あたしはペースを微調整しながら走っていった。1周目のスタンド前から向こう正面へ。そして第3コーナーへと。

 コンディションは最高で、気持ちいいぐらいだった。

 

 あたしが先頭のまま、最後の直線に入っていく。

 

 

『第4コーナーカーブから直線へ! 先頭はキタサンブラック! 逃げる逃げる、リードは2バ身ある!』

 

 

 後ろから追い込んでくる気配がある。みんながみんな本気を出して、あたしを追い抜こうとしている。

 

 

『キタサンブラック、離す! 離す! 離すっ!』

 

 

 でも、誰もあたしには追いつけない。差は縮まらない。縮めさせない。後ろを突き放す。

 

 

『キタサンブラック──』

 

 

 目の前に迫るゴールを駆け抜けていった。

 

 

 

『──ゴールインッ! これが! 現役最強ウマ娘の引き際だぁ!!!』

 

 

 

 ラストラン勝利。引退レースでシンボリルドルフに並ぶGⅠ7勝目。

 

 

「……っ……はあっ……」

 

 

 

『中山レース場、物凄い拍手と歓声です! この拍手、この大歓声をお聞きください!』

 

 

 あたしの背中に拍手と歓声が合わさった轟音が浴びせられていた。

 

 

 

 思い残すことはない。もう十分。これ以上ないくらい、あたしは果報者だ。

 

 

 

「あたし、やりましたあっ!!!! ありがとうございますっ!!!」

 

 

 

 あたしは観客席を向いて、最大限の感謝を込めて、ウイニングランへと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────♪!!!  ……ありがとうございました──っ!!!」

 

 

 トゥインクルシリーズ最後のウイニングライブが今終わった。最初の曲からアンコールに応えた最後の曲まで、あたしの思いを全て込めた歌と踊りができた。

 歓声は鳴りやまず、サイリウムの光が観客席一杯に輝いている。観客席は多くの一般のファンの人が占めているけど、中にはあちこちに見知った顔があった。清島、アルファーグのサブトレやチームメイト、両親、父の弟子、トレセン学園のウマ娘たち。もちろんドゥラメンテ、サトノダイヤモンド、リアルスティールもいた。

 

 もちろん、今こうしてここに立つことができているのは、清島はじめアルファーグの皆や友人が支えてくれたから。目の前にいるたくさんの応援してくれる人がいたから。

 でも……トレーナーさんがいなかったら今のあたしはない。あの人があたしのために頑張ってくれたおかげで今のあたしがあるんだ。

 

 既に分かっている。菊花賞のライブの時から感じている強烈な違和感、気持ちの悪さ、欠けているジグソーパズルを見る感覚……その正体。

 あたしは今日もその姿を探していた。いないって分かってるのに。

 

 

 

「みなさんっ! 今日はこんなハレの日にお集まりいただき、ありがとうございますっ!!!」

 

 

 

 

 今日もトレーナーさんはいない。中山レース場にも、このライブ会場にも。

 

 どこにもあなたはいない。

 

 

 

 

 

 

「ご存知とは思いますが、あたしは今日でトゥインクルシリーズを引退して、ドリームトロフィーリーグへ移籍します! だからっ、トゥインクルシリーズのウマ娘キタサンブラックとしてはっ、今日が最期の走りと歌になります! だから、みなさんにお聞きしたいんですっ!」

 

 

 

 変な気分だった。目の前の人達に全力で応えているあたしと、どこか離れたところで違うことを考えているあたしがいた。

 

 

 

 少しだけ静まる観客席。その奥の方に、あたしを捉えているカメラを偶然見つけた。

 

 

 ──トレーナーさん……もしかしたら…………このカメラの向こうで……

 

 

 

 

「あたしの走りで、あなたに笑顔と元気を届けられましたか?」

 

 

 

 

 ──あたしの走り、見てくれていましたか? あなたに笑顔と元気を届けられましたか? 

 

 

 

 

「あたしの歌で、あなたに感謝の気持ちを伝えられましたか?」

 

 

 

 

 ──あたしの歌、聴いてくれていましたか? あなたにも感謝を……ありがとうの気持ちを込めて歌っていました。ちゃんと伝わってたら、いいな……

 

 

 

 

「あたしは、あなたの夢になれましたか?」

 

 

 

 “キタサンの夢を叶えさせたい。何より、キタサンに喜んでほしい。心の底から笑ってほしい。自分がトゥインクルシリーズの主役なんだって、自分は凄いウマ娘なんだって、そう自分を認めさせてやりたい”

 

 

 

 ──あたしの夢は叶いました。あなたがあたしのことを想って……おこがましいかもしれないけど、それはあなたの夢でもあったと、そう信じています。

 あなたがあたしにくれたたくさんのものが、今でもあたしの中に残っています。

 

 

 

 

 

 

 

 ──あたしはあなたの苦悩と努力、その想いに応えられましたか? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──トレーナーさん…………

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──ああ……

 

 

 

 

 

 

 観客席のサイリウムが揺れる。大歓声がライブ会場を包んでいる。

 

 

 

 

 ここにもあなたの笑顔だけがない。

 

 

 

 

 

 おそらく、もう永遠に見られない。

 

 

 

 

 

 

「……っ…………」

 

 

 

 

 

 視界が滲む。零れないように上を向いた。

 

 

 

 

 

 離れたところにいるあたしを消して、目の前の人々のために応える。

 

 

 

 

「……ありがとうございますっ!!!!! こんなに応援してくれるみなさんがいて、あたしは果報者ですっ!!! ドリームトロフィーリーグでも、笑顔と元気を届けられるよう頑張りますっ!!! これからもどうか、応援よろしくお願いしますっ!!!!!」

 

 

 

 

 

 爆発するような歓声が上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あたしのトゥインクルシリーズはこうして幕を下ろした。

 

 

 

 

 後日、2年連続で年度代表ウマ娘に選出された。

 

 

 

 

 

 キタサンブラック。20戦12勝。GⅠ7勝。重賞10勝。年度代表ウマ娘2回。

 

 シニア級に上がってからの2年、現役最強のウマ娘であったと胸を張れる。

 

 

 

 

 

 

 

 でも、これで終わりじゃない。

 

 

 

 

 まだあたしのレースは続いていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、この葛藤も。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




追想はまだまだ続きますが、次回より一旦本編に戻ります。


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第70話 マイルチャンピオンシップ

 俺は息抜きがてらトレーナー室のソファに深く身を沈め、先程買ってきて机に放ってあった雑誌を手にした。

 

 雑誌には今週末に控えているマイルチャンピオンシップの特集が組まれていた。レースの勝ちウマ娘予想のページを開くと評論家や予想家といった連中が人気上位と思われるウマ娘たちについて座談会形式で各々意見を述べていた。

 エアジハード、ブラックホーク、キョウエイマーチと来てキングヘイローの番になった。

 

『想定3番人気か4番人気ですが、安定感もないし人気ほどの信頼はありません』

『安田記念11着、宝塚記念8着、毎日王冠5着、天皇賞秋7着と凡走続き。掲示板確保が精一杯でしょ』

『個人的には本命ですけどね。このウマ娘京都は合ってると思うんです』

『母親が早熟のグッバイヘイローですよ? このウマ娘も大概ピークアウトしてると思いますけどねえ』

『GⅡやGⅢを勝つ力はあるが、GⅠレベルではないのは明らかでは。身の丈に合わないGⅠに出るよりローカルの重賞を狙うべきだ』

『中距離に戻ったかと思えばまたマイル。トレーナー含めて一貫性が見えないです』

『安田は大敗したが、2強を崩す一発があるとすればこのウマ娘』

 

 

「相変わらず好き勝手言われてんな~……よっと」

 

 雑誌を閉じて立ち上がり、窓際で日の光を浴びて体をひと伸びさせた。

 少しリフレッシュできた。

 

「よし」

 

 デスクに戻りモニターを眺める。そこにはキングヘイローの現在の状態や調整メニューについて作成した文章ファイルやデータが表示されていた。

 

 キングヘイローの状態はこの秋に入ってから一番良い。臨戦過程も問題なく、良い具合にレースを叩いてマイルチャンピオンシップを迎えることができそうだ。

 あとはレースのシミュレーションや作戦の大詰めだ。枠のことも考えておく必要がある。内枠だけは避けて欲しいので、ここだけは神頼みしかない。

 

「……キング、勝たせてやりてえな……」

 

 ずっと悔しい思いばかりしている彼女に何とかGⅠを勝たせてやりたい。トレーニングに手を抜いたことなんて本当に一度も無くて、俺の提示するトレーニングメニューを必死にこなしてくれている。

 彼女は敗北の後いつも泣きそうになっている。努力が報われなかったことと敗北の悔しさを真っすぐに受け止めて、傷つきながらもここまで歩んできたのを傍で見てきた。

 

 そんな彼女を勝たせて……いや。

 

 

 ──『私とトレーナーでGⅠを取るのよ!』──

 

 

「……忘れてねえよ。2人で取るんだったな」

 

 

 ◇ 

 

 

 

 夏を越え、秋を迎えた。

 

 秋もマイル路線を中心にレース選択をする予定だったが、マイルチャンピオンシップは11月なので、9月と10月にそれぞれ1レースずつ走ることに私たちは決めた。休養十分で挑んだ安田記念の失敗から、間隔を開けずに何走か叩く方が良いとの判断だった。

 

 

 秋の始動戦は毎日王冠を選んだ。結果は圧倒的一番人気のグラスワンダーが勝利。私は二番人気に推されるも結果5着だった。

 スタートは成功し前の方に出られたので、坂川の指示通り外枠を生かして誰にも邪魔されない外を走っていたが、どうにも休み明けの影響か追走に脚がついていかず、向こう正面では最後方からレースを運んでいた。

 コーナーから進出し前方にいるグラスワンダーを標的に捲っていった。しかし最後の直線では末脚が不発に終わり勝利には至らなかった。

 

 

 次走は私のライバルが多く出走した天皇賞秋。

 外枠からスタートを決め先行し、好位から内につけて最後の直線を迎えた。しかし、今回も末脚は発揮できず思うように伸びなかった。スペシャルウィークが外から圧倒的な末脚で駆けていき、京都大賞典の不調からの華麗に復活するのを内ラチから眺めることしかできなかった。

 私は7着。同世代のウマ娘は、スペシャルウィークが1着で天皇賞春秋制覇、春のマイル王エアジハードが3着、まさかの中団からレースを運んだセイウンスカイが5着、他にはツルマルツヨシが8着だった。

 

 毎日王冠も、天皇賞秋も、負けた悔しさはこれまでと変わらない。負けた後はいつも涙が滲んでしまうけれど、両手を固く握りしめることはできていた。

 

 

 次はこの秋大目標のマイルチャンピオンシップ。京都レース場外回り1600mで行われる下半期のマイル王決定戦。

 

 ここ数走、不甲斐ない走りばかり続いている。そんな悔しさを全てトレーニングへとぶつけた。

 

 

 今度こそ……GⅠを。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 11月21日、マイルチャンピオンシップを迎えた。

 安田記念を勝ったエアジハードと、前哨戦スワンステークスを勝ってきたブラックホークの一騎打ちの様相を呈していた。宝塚のスペシャルウィークとグラスワンダーと似たような感じだった。

 キョウエイマーチが3番人気、続いて私が4番人気となっていた。

 

 本バ場入場を迎え、ターフに出た私たちに対し実況の紹介文が朗々と読み上げられていた。

 

 

『3枠6番。新たなるマイル王へ。エアジハード』

 

『5枠9番。最強世代の意地、なんとかGⅠを。キングヘイロー』

 

『5枠10番。同期のライバル、メジロドーベルに負けじと今日も逃げる。キョウエイマーチ』

 

『7枠15番。二度の挫折を克服してこの舞台へ。ブラックホーク』

 

 

 ゲート前で枠入りの声がかかるのを待つ。集中し、尚且つ視野が狭くなり過ぎないように意識して時々辺りを見回す。エアジハードとブラックホークは調子が良さそうだ。

 そんな風に他の出走ウマ娘も見ていると、ふと気づいたことがあった。

 

(そういえば、一人もいないわね……)

 

 今日出走する私以外の17人の中に、私と一緒にクラシック三冠を走ったウマ娘が一人もいないのだ。

 確かに今日の距離は1600mで、対するクラシック三冠を構成する3つは中長距離だ。だからそれは不思議じゃないのかもしれない。クラシック三冠を走るようなウマ娘は普通その後も中長距離のレースを選ぶだろう。

 

 逆に菊花賞にも出た私がマイルに行く方が……いいや、違う。

 

 

 私は選んだんだ。この道を。私だけの道を。

 

 

「……ふぅ」

 

 ファンファーレが鳴り終わり、ゲート入りが進んでいく。これでトゥインクルシリーズ18戦目。ここ京都でメイクデビューしてから2年以上の月日が経過していた。

 

 ゲートに入り、その時を待つ。

 

 

『さあ間もなくゲートインは終わろうとしています。タイキシャトルがターフを去って1年経ちました。新たなるマイル王へ名乗りを上げるのはエアジハードか、ブラックホークか、あるいは…………態勢完了です』

 

 

 全員枠入りが完了し──

 

 

 ──ゲートが開くと同時に飛び出す。

 

 

『スタート! 綺麗なスタートです! 18人見事なスタートを決めました! 内からはやはりキョウエイマーチが行きます! 一昨年の桜の女王キョウエイマーチが逃げます!』

 

 私と同枠のキョウエイマーチがぐんぐんと前へと進出して先頭へと立つ。彼女の走りで空いたスペースを生かして私も前目へとポジションを取りに行く。

 

 先頭にキョウエイマーチ、それから2バ身ほど後ろに4人のウマ娘がいて、さらにそこから2バ身ほど後ろに私が位置していた。

 好位につけることができた。スタートからポジション取りまでほぼシミュレーション通りで完璧だった。

 

 向こう正面を走り坂と第3コーナーを目指す中で、後ろのマークすべきウマ娘に気を配る。姿勢は崩さないよう首を最小限に振って、2人のウマ娘の位置を把握した。

 

『キングヘイローの1バ身後ろにブラックホーク、そしてすぐ後ろ外にエアジハードであります』

 

 私の左側半バ身から1バ身後方にブラックホーク、その後ろ1バ身差でエアジハード。3人が縦に並ぶように近い位置取りになっていた。

 

 坂を上がり第3コーナーへと向かう。ブラックホークが進出してきて、その後にエアジハードも続いてきた。私のすぐ左横を通り、2人はポジションを上げていく。

 

 

 ──「コーナーの坂で釣られて絶対に掛かるなよ。抜かされたり捲られても焦らなくていい。相手を見てマークすることは重要だが、あくまでもマイペース、お前のペースで行くんだ。それがお前の力を一番発揮する最善策だ」──

 

 

 坂川の言っていたことが耳に残っていた。

 

 大丈夫。落ち着いている。冷静でいられている。

 

(ここはっ……我慢よ……っ!)

 

 第3コーナーへと入り、坂を下りながら第4コーナーへと進入する。ブラックホークとエアジハードの2人が坂の下りを利用しながら前へ前へと進み先団グループに並びかけようとしていた。

 キョウエイマーチが作るペースはそんなに速くないと思う。この2人がここで前へ行くのもペースの遅さを考えれば納得がいく。ここは──

 

 

 ──「迷うなよ。行く時に行け。失速した毎日王冠や天皇賞秋とは違ってマイル戦だ。最後まで持つかとか余計なことは考えるな」──

 

 

 ──迷わないっ! 行くっ! 

 

 

 ギアを一段階上げて加速。離されないように2人を追う。

 私は2人の後ろにつけた。今度は逆に私が2人をマークするような形。

 

 エアジハードがブラックホークの外から進出し2人が横一線に並んだ。2人は下り坂を十二分に生かしたスピードで第4コーナーから直線の手前へと入っていく。

 

 

 私は2人のすぐ後ろ。

 

 

『キョウエイマーチ、まだ3バ身のリードがあります! 先頭キョウエイマーチ! 第4コーナーを回ったっ!』

 

 

 逃げているキョウエイマーチが最後の直線へと向いた。

 

 

『今日ライバルのメジロドーベルはターフを去っていますっ! キョウエイマーチ逃げる逃げる!』

 

 

 第4コーナーから直線に入る。遠心力で外に持っていかれる身体を死に物狂いで抑える。

 

(……くっ!? ……よしっ!)

 

 大きく膨らむことなく第4コーナーのカーブをやり過ごす。エアジハードとブラックホークも直線へ入っていった。

 離されないよう必死に追う。

 

 

 私の位置はバ場の真ん中から外目。2人から2バ身後ろの外側。

 

 

 最後の直線を残すのみ。

 

 

 残りのエネルギーを全てこの末脚に捧げる。

 

 ギアを最高まで上げて、最高速で脚を回す。

 

 私の瞳に映る2人の背中は小さくなっていない。

 

 

『キョウエイマーチまだリードがある! 外から来たぞエアジハード! バ体を合わせて内の方にブラックホーク! エアジハードとブラックホーク! キョウエイマーチ粘っている!』

 

 

 キョウエイマーチが残り200mに差し掛かる。

 

 エアジハードとブラックホークは内ラチ沿いで抵抗するキョウエイマーチに並びかけた。

 

 

『エアジハードとブラックホークが捉える!!! っ!? そして外から──』

 

 

 回す。ただ脚を回す。1着になるために。

 

 2人の背中が視界に入っている、大きくなってくる。

 ぐんぐんと差が縮まる。

 

 

 確実に近づいている──! 

 

 

 

『キングヘイロー突っ込んできたっ!!! 外からキングヘイロー!!!』

 

 

 

 残り100m

 

 

(交わすっ! 絶対に交わすっ!)

 

 

 2人は私の射程に入った。

 

 

 キョウエイマーチを追い抜いた2人。そのなかでもエアジハードがブラックホークより1バ身先に抜け出す。

 

 ──狙うのはエアジハード。

 

 彼女を交わせば勝てる。

 

 私が欲しかったものをその手に掴める……!

 

 

『先頭エアジハード! エアジハードが先頭! 内にブラックホーク!』

 

 残り50m。

 

 

 ブラックホークを交わした。

 

 

 

『外からキングヘイロー!!! キングヘイローが上がってきて2番手!』

 

 

 

 エアジハードとの差は2バ身未満。その背中がくっきりと見えている。

 

 

 ここまで来ている! すぐ手を伸ばせば届くところまで来ている!

 

 

『先頭はエアジハード!!! 追うキングヘイロー!!!』

 

 

 すぐ近くにある! 本当にすぐ近くにある!

 

 

 

 ここまで来られたのは皐月賞以来。絶対に掴む。今度こそ掴んでみせるっ!

 

 

 

『キングヘイロー猛追!!! しかし──』

 

 

 見えている。目の前にある。悔しい思いを幾度となく経験し、迷って、乗り越え、手を伸ばせば届くところまでやっと来られたのだ。なのに──

 

 

 

『──先頭はエアジハード!!!!! キングヘイローは2番手!!!』

 

 

 

 ──それ以上縮まらない。千切れそうになるぐらい足を回しているのに、どうしても届かない。

 

 

 私の脚色は鈍っていない。

 

 

 でも、エアジハードも私と同じ脚色をしている。

 

 

 

(ああ──────)

 

 

 

 

 

 差は縮まらない。

 

 

 

 

 

 私はエアジハードの1バ身半後ろでゴールを迎えた。

 

 

 

 

『エアジハード1着でゴールインッ!!!!! キングヘイロー2着!!!!!』

 

 

 

 

 また、指は滑り落ちて掛からなかった。

 

 

 

 

『エアジハードです!!! エアジハードです!!! 春の安田記念に続いて、マイルGⅠを連覇しましたっ!!!』

 

 

 ◇

 

 

 

 直線に入ってきたキングヘイローはブラックホークを交わし、抜け出した先頭のエアジハードへ迫っていた。

 

 

「行けっ!!! キング行けっ!!!」

 

 

 腹から声を出して叫んでいた。無意識的にいつも以上に声に力が入る。

 

 

 キングヘイローのこれまでの悔しさや努力が報われる瞬間が訪れようとしている。彼女が探している一流だって見つかるかもしれない。

 

 

 キングヘイローはエアジハードに迫っていた。この速度のまま行けば捉えられる。

 

 

「行けるっ!!!!! 突き抜けろっ!!!!! ──くっ!?」

 

 

 だが、エアジハードが最後の力を解き放たんとばかりに再び加速。

 結果、キングヘイローと同速度まで回復する。

 

 1バ身半から差が詰まらない。

 

 

 そのままゴールを迎えた。

 

 

「……~~~~っ!!! クソッ!」

 

 

 実況が高らかにエアジハードのことを謳いあげた。

 

 

『そして無念2着! キングヘイローであります!』

 

 

 キングヘイローについてはそう言って触れていた。

 

 

「ああんっ! もうっ! なんでキングが勝てないのよっ!」

「なんであそこから伸びるんですかっ!? 完全にキングの勝ちパターンだったのに……強すぎですよ……」

「…………」

「キングさん……」

 

 チームの4人も思い思いのことを口にしていたが、大体はみんな同じ気持ちのようだった。

 このあと地下バ道か控室でキングヘイローを迎えることになるので、俺は4人に声を掛けた。

 

「……負けたがGⅠ2着だ。本人が一番悔しいだろうが、あいつはよくやった。……暖かく迎えてやってくれ」

 

 チームのウマ娘たちを連れて、俺は観客席をあとにした。

 

 ◇

 

 地下バ道で迎え、控え室に入ったキングヘイローは…………言うだけ野暮になるだろう。

 

 レースを通してキングヘイローはほぼ文句の付け所の無いレースをしていた。フォームの僅かな崩れや動き出すタイミングなど、結果を踏まえた上での粗探しならいくらでもできるが、正直これ以上ないぐらい理想的なレース運びだった。彼女は自分の今持っている能力の最大値を発揮した。

 

 それでも負けた。敗因はエアジハードが強かったからだ。

 

 どれだけ最善を尽くしても相手が強いという理由で負ける。クラシック級の時の京都新聞杯も、今回のマイルチャンピオンシップだってそうだ。

 これが勝負の世界なのだ。俺だってキングヘイローだって、トレセンにいる奴なら誰だって分かっている。分かった上で、このトゥインクルシリーズへ挑んでいるんだ。

 それでも走らないと、挑まないと勝利は掴めない。

 

 

 

 

 次走は12月19日、中山レース場で行われるスプリンターズステークス(GⅠ)。

 

 更なる距離短縮。キングヘイローが初の1200m……スプリントへ挑戦する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 マイルチャンピオンシップから数日後。

 

「お疲れさまでー……あれ、誰もいないや」

 

 トレーナー室は空で誰もいなかった。自身のトレーナーである横水も、チームメイトであるブラックホークもいなかった。鍵は開いており電気もついているので、直に戻ってくるだろうけど。

 

「……はあ~……今日はどうしよっかな…………ん?」

 

 何の気なしに横水の机に広がっている資料に目をやると、そこに“スプリンターズステークス”という文字が見えた。

 興味が湧いたのでその資料を手にとった。ブラックホークがスプリンターズステークスに出走予定なのでその関係だろうか。

 

「えっと、なになに……」

 

 彼女らしい几帳面な字が並んでいた。そこにはスプリンターズステークスに出走が予想されるウマ娘をリストアップしているものだった。

 自分にとっては見慣れたものだ。彼女はこういう風に脅威と考えられるウマ娘のついて詳細に分析し、それを担当ウマ娘に渡してくる。危険度が高いウマ娘は目立つようにしてあり、分析量も多い。

 そしてその資料を基にレースのシミュレーションをこれでもかと行う。何十通りものパターンを想定し、どんなレースにも対応できるように。

 

 目で名前を追う。アベイドロンシャン賞というフランスのGⅠを勝ったシリウスのアグネスワールド、今年の高松宮記念を勝ったマサラッキ、そして──

 

「……キング」

 

 ──キングヘイローの文字があった。

 

 

 以前は……と言うか、自分のレースではこれまでほとんどその名前を出さなかったのに。

 結局キングヘイローのトレーナーである坂川と横水の間に何があったのかは分からずじまいだった。まあ、特に探る努力もしていなかったけれど。それよりも自分のことにフォーカスしレースへと挑んでいたから。

 

 あの横水が坂川の担当ウマ娘であるキングヘイローをこんな上位でリストアップしている。それは即ち、キングヘイローの実力が相当なものだと彼女が評価したということ。

 

「そっか……なんか──」

 

 資料を元に戻して踵を返す。

 

 

 

「──つまんないや」

 

 

 

 誰かが戻ってくる前にトレーナー室を出よう。今日もトレーニングはサボることにした。

 

 ……どっちにしろ、今の自分はトレーニングなんてできないけれど。できたとしても室内で筋トレかプールぐらいだ。

 

 

「お疲れ様でーす」

 

 

 無人のトレーナー室を去った。

 

 

 屈腱炎の痛みが今日も脚を侵していた。

 

 

 

 

 



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第71話 各人各様

「さてやるか。お前らさっき言った指示を頭に入れて走れよ」

 

 寒さで引き締まった空気の漂う12月初めのトレーニングコース。

 俺の前方に3人分の簡易ゲートが左向けに設置してあり、そのゲート裏に3人のウマ娘が控えていた。

 

「じゃあゲート入ってください」

 

 ペティがゲート横で3人に声を掛けると、カレンモエ、キングヘイロー、ダイアナヘイローの順でそれぞれゲートに入っていった。

 俺はゲートを操作するペティにアイコンタクトで合図を送った。

 

「準備はいいですか」

 

 スタート前の一瞬の静寂が訪れる。

 俺は動画撮影用のタブレットを構えて録画をスタートさせた。

 

 今から始まるのは俺のチームのウマ娘3人で行うレース形式のトレーニングだ。

 距離設定は1200mの右回り。今使っているコースが狭いのでコーナーは4つだが、最後の直線に上り坂が来るように設定している。

 つまり、スプリンターズステークスの中山1200mを想定したレースだ。

 

「行きますよー……」

 

 数秒後、金属の擦れる音と共にゲートが開いた。

 

「「「っ!」」」

 

 3人が一斉に飛び出していく。

 

 スタートを決めたカレンモエに僅かに遅れてダイアナヘイローが続く。ダイアナヘイローはカレンモエを第1コーナーで追い抜き先頭に立った。

 ダイアナヘイローから1バ身半後ろにカレンモエ、そのあと4バ身ほど空けてキングヘイローが最後尾で追っていく。

 

「ふう」

「ペティありがとうな。これ頼む」

 

 ゲートを押してコースから除けて、俺の傍までやって来たペティに動画撮影用のタブレットを渡す。

 

「はーい。走り、どうですか?」

 

 俺の目の前にはスタンドに設置されたタブレットが3つ並んでおり、それぞれ3人のGPSトラッカーの波形が画面に映し出されていた。

 その画面と実際に走っている姿を交互にリアルタイムで確認し、適切なタイミングで耳にイヤホンを着けている彼女らに指示を送るのだ。小型のピンマイクと機器を3つ用意し、各個人に独立して声を届けられるようにしている。

 キングヘイローが出走するスプリンターズステークスを想定したレースではあるが、3人ともに個別の課題を持って取り組んでもらっている。

 

「そろそろこの辺からだ。……さて」

 

 3番のマイクのスイッチを入れた。

 

「ダイアナ、ペースを上げろ。予定通り向こう正面で2ハロン11秒未満でラップ刻めよ」

 

 ダイアナヘイローがペースを上げ、カレンモエとの差を3バ身まで広げた。

 

「ピッチ上げるのは良いがストライドが狭くなってる。無駄な上下動が多いから修正しろ」

 

 ダイアナヘイローのストライドが元に戻った。上下動も少し改善したがそのしわ寄せが他に来ているのが波形を見ていると分かる。これ以上は口頭指示による修正は難しい。

 いつまでも彼女だけに構っているわけには行かない。1200mしかないからすぐにレースは終わってしまう。

 

 3番マイクのスイッチを切り、1番マイクのスイッチを入れる。

 

「モエ、ダイアナのペースを読んで差を調整しろ。前と後ろのトータルで交わすタイミングを意識。抜け出しが早すぎたらキングに差されるぞ」

 

 カレンモエはダイアナヘイローに少し差を詰めて2バ身半ほど後ろにつける。波形は特に乱れていない。

 問題無し。1番マイクのスイッチを切り2番マイクのスイッチを入れる。

 

「キング、さっき言った通りコーナーまでは2人のペースと差を無視しろ。釣られず自分のペースを貫け。動くのは早くても第3コーナー手前から。動き出す瞬間に注力」

 

 2番マイクのスイッチを切りレースを見守る。

 

 3人は向こう正面から第3コーナーに入っていった。

 先頭ダイアナヘイロー。2バ身半後方にぴったりとカレンモエ。そこからさらに7バ身ほど後ろにキングヘイロー。

 

 タブレットに映る3人の波形を見る。ダイアナヘイローは乱れっぱなし。カレンモエは全く問題なし。キングヘイローは少しぎくしゃくしているが許容範囲内。

 

 先頭のダイアナヘイローがコーナーへと差し掛かった。

 また順にマイクのスイッチをオンオフし、それぞれに指示を出す。

 

「ダイアナ、コーナーでペース落として息をつけ。後ろ2人は気にせず自分のやることに集中。直線の坂の上りに備えろ」

 

 ダイアナヘイローにはレース終盤の坂の走りを今回の課題としていた。平坦な直線は得意なのだが上り坂が苦手なのだ。筋力自体の強化が重要なのは言うまでないが、中山や阪神に対応するためにもスタミナギリギリの状態で坂を上らせるという実践を意識した練習を行っていた。

 向こう正面でペースを上げさせたのは去年のスプリンターズステークスのラップタイムを参考にしてのことで、ダイアナヘイローのためと言うよりはキングヘイローのためであった。無論ダイアナヘイロー本人にそう話して了承を得ている。

 途中で緩めるよりはスピードで押し切る方が彼女のウマ娘としての性質的に合っているのだが、今からそれだけに拘り選択肢や可能性を狭める必要もない。今日はコーナーで緩めてからの坂の上りを試している。まだまだ色んなことに挑戦する時期だ。

 

 ダイアナヘイローは下半期に入って2勝クラスに出走してきたが、勝ちきれないレースが続いていた。10月京都1200m壬生特別で3着、11月同じく京都1200m醍醐特別で2着、つい先日12月の頭に条件を変えた中京1400m鳥羽特別4着……いずれも作戦は逃げの予定だったが、他に主張してくるウマ娘に競り負けたり、出だしのスピードで付いていけなかったりでハナを奪えず控えたレースになってしまっていた。

 このレベルになると勝ち上がってきた優秀で強いウマ娘ばかりで、理想通りのレースなんて中々難しい。……今更だが、メイクデビューで逃げた影響により逃げでしか勝てなくなっているのもしれない。逃げた方がフォームが安定するのは確かなのだ。

 それでも控えた展開の練習もしているが、やはり能力を最大限発揮するなら逃げ、最低でも番手だ。今回のこれも色々な走りの経験を積ませる一環になれば良いと思ってやっている。

 

 次走は年明け京都1200mシニア級以上2勝クラスに出走予定だ。今の彼女にとって京都1200mがやはりベストな条件だと判断していた。

 週に1回か2回は必ず休むものの、トレーニングに顔を出す頻度は以前より高くなっているので仕上げてやりたいところだ。トレーニング前後は文句を垂れているが、トレーニング自体は真面目に懸命にこなしている。彼女は真剣に取り組んでいるとデータも物語っていた。

 

「モエ、交わすタイミングな。ペースと前後の2人の距離を強く意識しろ」

 

 去年11月の京阪杯から重賞挑戦が始まり9月のセントウルステークスまでの重賞4レースで2着3回、5着1回と好走しながらもあと一歩届かないカレンモエ。

 展開不利の中2着に粘ったレースもあり、彼女が重賞を勝つレベルのウマ娘であるのは間違いない。2着だった重賞3つとも勝っていてもおかしくない走りだった。2人になったとき、心の底から悔しいと心情を俺にだけ吐露していた。

 

 そんな彼女だが、番手から抜け出してリードするも最後の最後に交わされる展開がよくある。つまり先頭に立つのが早いのだ。

 先頭に抜け出すのが早すぎると目標にされやすいし、加えて彼女は先頭に立つと追うときよりほんの少し脚が鈍る。レース界隈ではソラを使うとも言うが、ソラを使うほどではないにしても、ラップを見れば抜け出した後にラップが少し落ち込む傾向にある。

 だからと言って仕掛けが遅いと交わせないし、実力を十分に発揮できずに終わってしまう。この辺は実践的な経験を積んでいくしかない。彼女は来月にはシニア級3年になるが、体質の影響もありまだキャリア12戦しかしていない。本番のレースで経験できない分、これまでもこうやって模擬レースに積極的に取り組んできた。

 仕掛けるタイミングや交わすタイミングはレースの世界において紙一重、コンマ1秒の話だ。レース展開、バ場、ペース、相手関係を考慮すると複雑で即座に答えを出すなんて難しい。可能な限りこうやってトレーニングを継続していくしかない。

 

 実績的にもGⅠであるスプリンターズステークスは見送り、来月のシルクロードステークスに出走を予定している。無理に狙って除外されるよりは、体質的なことも考えて確実に出走できるレースに狙いを絞って調整させてやりたい。

 

「キング、動き出すタイミングはお前に任せる。早すぎたら坂で止まるし、遅すぎたらエンジン掛かる前に終わるぞ」

 

 そして有馬記念とスプリンターズステークスの両睨みから後者を選んだキングヘイロー。

 有にはジャパンカップで海外のウマ娘たち相手に劇的な勝利を挙げたスペシャルウィークやグランプリ2連覇中のグラスワンダーがいたが、来年も短い距離のレースを選ぶと決意した彼女はスプリンターズステークスに出走すると決めた。

 初のスプリント1200m……正直、本番のレースを走ってみないと適性があるかどうか分からない。だがマイルと同じワンターン、距離が短いから考えや駆け引きも中距離よりは要しない。もっとも、中距離“より”と言うだけで、道中ほぼ全速力で走りながら考えや駆け引きをしなければならないことは事実だ。

 レースまで時間はないので全てのことをこなせるわけではない。集中して取り組んでいるのは、道中はリラックスして運ぶことと、末脚の使い所を間違えないこと。ポジション取りは今回は捨て、マイペースに運ぶことを最優先とした。初体験のスプリントの激流のペース、しかもGⅠレベルとなればポジション取りだけで彼女の走りが滅茶苦茶になるだろうことは容易く想像できる。

 キングヘイローのレースにおいて重要なのは彼女の能力を最大限発揮できるようにしてあげること。あとは彼女にほんの少しの運が向けば。

 

 

 3人は第3コーナーから第4コーナーに入ってくる。キングヘイローが進出を開始した。

 

 スプリントを選んだキングヘイローにとって2人……特に重賞レベルのウマ娘であるカレンモエが同じチームにいるのは非常に大きい。こうして良い練習相手にもなるのはもちろん、スプリントのコツや心得などの話もカレンモエが教えてくれているのだ。

 こうやって後輩ができて分かったことだが、カレンモエは後輩の面倒見が良い。あまり口数の多い奴ではないが、必要な時はちゃんと口に出して伝えてくれる。チーム最年長として、トレーニングの態度や走りにおいてもチームを率いてくれている。こういうウマ娘がいるのはトレーナーとして本当にありがたいのだ。

 

 

「しっかし、ウチの3人みんなともスプリントのウマ娘になっちゃいましたね」

 

 タブレットを構えて動画を撮影しているペティがしみじみとした口調でそう言った。

 

「トレーナーさんもスプリント専門のチームって感じで宣伝したらいいんじゃないですか? 来年入学してくる、スプリント路線を目指している有望なジュニア級のウマ娘が入って来てくれるかもしれませんよ?」

「今のこの状況は偶然だしなあ。距離適性探してたらたまたま3人とも1200mを走るようになったってだけだしな。キングなんかはまだスプリント適性があるかレースを走ってみねえと分かんねえし」

「でもモエさんは重賞上位常連ですし、キングもスプリント路線で良い結果残せそうならそんな感じで見られるかもしれませんよ」

「確かにそうしれんが、あんまり気は乗らないな。スプリント走りたいって入って来ても適性外って判断したら色んな距離走らせるし……と、来たな」

 

 

 コーナーを回って3人が直線に入ってきた。

 ダイアナヘイローから1バ身離れてカレンモエ。カレンモエの5バ身後ろにコーナーで差を詰めてきたキングヘイロー。

 

 急坂に入ったところでダイアナヘイローの勢いが鈍り、彼女にカレンモエが並びかける。

 ダイアナヘイローも抵抗するものの、残り100mあたりの急坂が終わるところでカレンモエが交わして1バ身前に出た。

 そしてその後ろから追い込んでくるキングヘイローがダイアナヘイローをあっという間に交わしてカレンモエに迫る。

 

 残り50m、猛追するキングヘイローと先頭を走るカレンモエの差は3バ身。その差が2バ身、1バ身とぐんぐん縮まる。勢いは完全にキングヘイローが圧倒している。

 ……が、カレンモエが何とか半バ身リードを保ち1着でゴール。2着に入ったキングヘイローはゴール後すぐにカレンモエを交わしていた。3着にヘロヘロになったダイアナヘイロー。

 

「おーし皆よくやった。お疲れさん」

 

 レースを終えて、息も絶え絶えの3人が戻ってきた。

 キングヘイローは水分を補給しながら自身のデジタルブラのデータを記録していたタブレットの方に向かう。

 

「フォームは?」

「許容範囲内だ。だが崩れている部分はある」

「そう」

 

 彼女はタブレットを操作し、ペティの持つタブレットの動画を再生しながら波形のグラフと見比べる。そのペティと一緒に動画と波形を確認し始めた

 

「コーナーで加速する時の……あっ、ここです。ここ」

「この波形なら左右のブレかしら? いや……右?」

「動画は……多分そうですね。加速する一瞬、体流れるの押さえつけすぎた感じですかね」

「そうね。あとライン取りと脚の運びも──」

 

 そうして2人で何回も動画を再生し波形を照らし合わせながら修正点をあぶり出していく。聞き耳を立てていたが、内容は間違っていない。見つけられていない箇所があるので、後から指摘してやろう。こうやって能動的に自分達で考えることは大切だ。

 

 2人がウチに来て2年以上の月日が経つ。少しずつ波形の見方や意味を教え、その結果こうやってある程度は分析することができている。波形を見ても全く理解出来ていなかったジュニア級のときを思い出し、少し感慨深くなった。

 

 カレンモエはカレンモエでタブレットで波形を確認している。彼女も今では1人で大まかに分析できている。

 彼女はじぃーっとタブレットを見つめていた。

 

「……ペティ、そっち終わったら動画のタブレットお願い」

「はい。もうちょっとだけ待ってください。もうキングの終わるので」

「急がないでいいよ」

 

 キングヘイローと同じように、後から話して気づいていない点があれば教えてやればいい。

 仕掛けが少し遅かったのも自分で分かっているだろう。

 

 

 残るはあと1人。タブレットを確認する気が一切ないお嬢様の世話が今の俺の仕事だ。

 

「はぁ〜っ。もう、疲れたわ〜……」

 

 地べたに座り込んでいるダイアナヘイローの元へタブレットを持っていく。

 

「おう。お前もお疲れさん。ペースの調整ありがとうな」

「キングのためなら何だってやるわよ。あなたのためにやったのではないから誤解しないでね」

「んなこと思ってもねえよ。それより走り方がボロボロでクソほど修正点があるんだがな。興味はねえだろうが話だけ聞け」

「……分かったわよ」

 

 ダイアナヘイローは自ら波形の意味を知ろうとはしていないが、別にそれは悪いことではない。第一、波形などのグラフの意味を理解するのに時間がかかるし、答えを導き出すのに知識が要り単純に難しいからだ。俺が今まで担当してきたウマ娘の中でも、波形の意味まで知ろうとするウマ娘は少なかった。

 キングヘイローやカレンモエのように自分から理解しようとするのは良いことだが、それを担当ウマ娘全員に求めているわけではないし、必ずしも必要ではない。そもそもの話、修正点を見つけるのはトレーナーである俺の領分だからだ。

 だからこうやって話を聞いてくれるだけでも十分なのだ。

 

「まずペース上げた時のピッチとストライドだが──」

 

 片膝をついて彼女の目線にタブレットを合わせ、波形を提示して説明していく。

 時々返事や頷きながら聞いてはくれている。頭の中にどれだけインプットできているのかは知らないが。

 ダイアナヘイローは気分屋のウマ娘だ。走りたいときに走ってくれればいいと過去に俺が言った通り、彼女が求めてきたらその時に応えてやればいい。

 

「──こんなもんだ。今言ったことを纏めたやつを後から渡すから目を通しとけよ。動画も見とけ」

「はいはい」

「よし。ならさっさと立て。集合だ」

 

 他の3人にも声を掛けて集合をかけた。

 

「後のトレーニングはペティに伝えてあるから、3人とも指示に従うように。俺は今からスズカんとこ行ってくるからな。終わったら戻って来るが、何かあったら連絡してくれ。ペティ、後は頼むぞ」

「任せてください!」

 

 ペティは今では立派に俺の右腕として働いてくれている。分析や解析もそうだが、こうやって少しの間トレーニングを任せることもできるようになった。

 彼女は今年度でスタッフ研修課程を卒業予定だが、そのスタッフ研修課程には大学相当の教育機関も用意してあり、そこに進学予定だ。そこから更に大学における博士前期課程、博士後期課程も用意してある。そこに進むかは未だ不明だが、もしかすると思ったより長い付き合いになるかもしれない。

 卒業研究については俺の使っているGPSトラッカーのデータを基にした姿勢制御やフィードバック、フィードフォワードに関する研究を行っていて、近々行われる卒論発表に臨む予定だ。担当トレーナーとして解析や考察、そしてスライド作りを見てやった。もう既に発表資料は完成していて、あとは口演の完成度を高めるのと質疑応答を予想して対策を立てるぐらいだ。

 

 

 ペティにトレーニングを任せた俺はサイレンススズカがいるトレーナー室へと足を運んだ。

 

 ◇

 

 ()()()()()()()()()()()自身のトレーナー室に入ると、中ではジャージを着て()()()()()()()()()()()()サイレンススズカがいた。

 彼女は俺に気づくとこちらを向いた。さっきまで筋トレをしていたはずだからか、首筋などは少し汗ばんでいた。

 

「待たせたな」

「はい……お疲れ様です…………えっと……」

 

 彼女はジャージの裾を握って目線を逸らし、怯えるような仕草を見せた。

 

「分かってんだろ。ほら早く──」

 

 俺はトレーナー室の扉の内鍵をかける。カチャッとした音が部屋の中に響いた。

 

「──脱いでくれ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジャージの長ズボンを脱いで0分丈のスパッツ姿になった彼女の脚を前にして、俺は薬品を付けたガーゼで彼女の肌を擦ろうとしていた。

 

「ちょっと冷たいぞー」

「はい……ひゃっ?」

「……いい加減慣れろよ」

「す、すいません」

「電極貼るぞ。……よし、次」

 

 俺が今行っているのは表面筋電図を計測するためにの電極を貼ることだ。電極とはエ〇キバンのようなもので、それを計測したい筋肉に2つ貼り付け、その2つからケーブルで繋がっている超小型のセンサーも一緒に貼り付ける。このセンサーから無線でPCまで情報がリアルタイムで届き記録されるのだ。

 それを皮膚に貼り付ける際に皮膚処理をする必要があり、汗や油分、角質を落とさなければならない。簡単に言えば汚れを専用のクリームで落として綺麗にするのだ。これをしないと正確な電位が導出できない。

 サイレンススズカは肌が敏感なのか、毎回こうやって声を出す。これをやり始めてもう1ヶ月は経つので慣れてほしいところだ。何故か俺がいけないことをやっている気になってしまう。

 

 彼女の両下肢の大腿部、下腿部、足部の計測予定の筋に要領よく貼り付けていく。上着も捲ってもらって、背中下部にも電極を貼る。

 ……問題は次だ。

 

「最後のとこだ」

「……はい。分かっています…………お願いします」

「すまねえな……」

 

 スパッツの片端を捲り上げてもらい、トモ……人間で言うなら臀部、俗に言うと尻を出してもらう。スパッツの下から脚よりほんのり白い肌色をしたサイレンススズカのトモが露出する。ほんの僅かにスパッツとトモの間から別の色の何かが見えるが極力目を細めて見ないように心がける。

 ……同性ならまだしも、異性でしかもアラサーのおっさんである俺にトモを見られて良い気分のはずがない。拒否されないのは本当にありがたい。

 同性であるチームのウマ娘たちに頼もうかとも考えたが、やはり正確に計測したいので俺がやることにした。上手い下手もあるが、データを比較する上で個人差というのを考慮すると同じ人物がやる方が絶対に良いのだ。

 

「やるぞ。我慢してくれ」

「はい……っ……」

 

 手早く皮膚処理をして電極を貼り付けた。

 続けて同じ工程をもう片方のトモにも行った。

 

「終わったぞ」

 

 そう俺が言うと彼女はそそくさとスパッツを直しズボンを履く。

 俺は入って来た誰かに勘違いされないようにとかけていた内鍵を開けてから、筋電図のセンサーと繋がっている専用のPCでちゃんと電極が貼れているか確認した。

 

「オッケーだ。トレーニングに移ろう」

「……お願いします」

 

 彼女はトレーナー室に設置したトレッドミルに乗り歩き始める。俺は筋電図用のPCとトレッドミル用のPCを前にして分析を始めた。

 

 サイレンススズカは淡々とトレッドミルでの歩行を続けている。

 決してこれは楽なことではない。一歩一歩に集中し神経を擦り減らしながら歩いている。

 俺はPC2台と歩いている彼女を交互に見やる。

 

「……」

 

 改めてサイレンススズカに整理してみる。それとこの新しい機器のことも。

 

 未だに普段は松葉杖を使わないといけない状況ではあるが、杖無しでの歩行が許可されたのが秋に入った頃だ。怪我は予定通りに回復してきており、途中で頓挫もなくここまで来ていた。

 

 ならば、まずは歩くことから。長い間歩行をしていなかったサイレンススズカに対し、走ることまでを想定した故障に繋がらない正しい歩行の獲得を目指す。

 更には歩行に対応した筋の状態や使い方などの分析や修正を図っていこうというのが俺の考えだった。

 

 そこで用意したのがこの特別製のトレッドミルと表面筋電計だ。

 まずはこのトレッドミル。普通のものではなく、足圧分布を計測するための特別なトレッドミルだ。足圧分布の計測とは、足のどの部分にどれだけの荷重がどれだけの時間かかったかをデータ化することだ。

 しかもこのトレッドミルはウマ娘に対応し耐久性が極めて高い。静止時にも使えるが、歩行に加えなんと走る時の足圧分布も計測することができる。

 これには大量のセンサーが設置されており様々な項目の計測が可能だ。例えば前後の最大振幅などの足圧中心動揺パラメーターや、ストライドの長さや時間を計測する歩行間隔パラメーターなどがある。身体の重心位置だって計測できる。今挙げたのはほんの一例で、他にも大量のデータ計測項目があり、それぞれ解析ができるのだ。

 

 次に表面筋電計。トレッドミルでの歩行のときの筋活動を見るためだ。筋電図を計測し、量的因子、周波数因子、時間因子について解析する。これも最新のもので、激しい運動にも対応しており耐水性もある。なんと水中でも計測できるらしい。

 歩行において見た目にそれほど変化がなくても実際の筋肉の働きは分からない。無意識的にかばっていたり、必要な筋活動が足りなかったりするのだ。そもそも故障して手術をしているので、最低でもその周辺の筋肉には影響が出ているだろう。

 故障の再発に繋がる可能性も考えられるので、それを防ぐ手立てとしても筋電図の計測を取り入れた。

 

 実はこの2つの機器は同じ医療機器メーカーのもので、トレッドミルと筋電図、そして撮影した動画のデータを同期することができる。購入はしていないが、同じ医療機器メーカーには三次元動作分析装置もあり、これも同期できるらしい。

 

 これらの得られたデータを毎日解析して考察し、日毎の変化を比較していくのだ。今は正直この分析だけでかなりの時間がかかる。データの解析自体もそうだし、解釈を導き出すのに時間を要する。もし瞬時にデータや波形の解釈を導き出せたら、今使っているGPSトラッカーのように即座に何でも指導できるかもしれないがそれは未だはるか遠い。

 

 ここまでやったって、レースで走れるようになるかは分からない。怪我の再発を抑えられる効果があるかだって分からないのだ。

 だが俺は天才的な閃きがあるような人間ではない。完治不可能の怪我を魔法のように治せるわけでもない。

 こうやって機器に頼り地道にやっていくしか俺にはない。根気だけなら俺でも何とかなる。

 

 

 ……ちなみにと言ったらいいのか、これらを用意するために恐ろしい金額がかかっている。このトレッドミルだけで地方都市で立派な一軒家を建てられるぐらいだ。

 毎年支給される予算で足りるはずもなく自腹を切った。こんな時が来るかもしれないと、キングヘイローやカレンモエが良い成績を残して給与に上乗せされたインセンティブを全て貯金に回していたのだが、その金が頭金だけで跡形もなく消えてしまった。しかも足りない分はローンを組んでいる。三次元動作分析装置も欲しかったが、ローンで借金をしている現状そんな金は俺には無かった。

 俺には縁のない話だろうが、通帳から金が消え失せローンの手続きをしていたときには結婚してマイホームを買った世の父親の気持ちが分かった気がした。なお、傍にいるのは嫁と子どもではなくトレッドミルと表面筋電計だが。

 そんな俺は相変わらずインスタントラーメンとインスタントコーヒーを啜っている。

 

 しかしながら購入した意義はある。この分析方法を俺なりに確立させたら怪我をしているウマ娘以外にもフォーム解析や修正に繋げられる可能性が高い。走るうえでウマ娘個々に合った必要な筋の部位だってもっと詳細に知ることだって出来るだろう。

 まあ数年で出来ることではないが。それでもトレーナーとして何十年も続けていくならと、こうして大枚をはたいて購入したのだ。

 全く後悔はしていない……と言えたら格好いいのだが、すっからかんになった通帳を見るとやっぱり寂しくなる。心なしか通帳も物理的に軽くなった気がする。俺はどこまでも俗な人間らしい。

 

「この前のデータの分析をしたんだが、左足が床に着く瞬間の足関節の角度を意識してくれ」

「足関節ですか?」

「ああ、左の足首だ。踵が接地した時の足関節をもっと背屈……上の方に曲げるようにしろ。それで踵が接地した一瞬だけその位置を保って体が前方へ移動するのと合わせて足底接地へ移行するんだ。故障した方の脚だから怖いと思うだろうがやってくれ。その足関節を修正できれば下肢の他の筋肉やトモの働きに繋がってくる」

「分かりました。やってみます」

「膝関節の屈伸運動にも注意な」

 

 こうやって毎日毎日ひとつひとつ地道な歩行の修正が続いていく。

 

 これを始めた当初のサイレンススズカの歩行は大きく崩れていたことを思い出す。左脚を庇うため体重心は右方へ偏っておりブレが大きく、さらに足の着地位置や肝心の足圧分布もバラバラで非常にアンバランスだった。……当然だ、1年近く普通の歩行をやって来なかったのだから。

 それを大雑把にここまで修正してきた。予測より早く歩行は上達しており、今は筋電図にも注意を払い更なる修正を図っている。

 

 

 10分ほど歩行を続けさせ、あることに気づいた俺は彼女の歩行を止めた。計測しているデータに乱れがあるのもそうだが、問題は別にある。

 

「降りろ」

「……はい」

「そこ座って脚を見せてくれ」

 

 椅子に座らせ彼女の左足を見る。すると故障して手術した箇所が少し腫れていた。熱も僅かに出てきていた。

 

「今日は終わりだな」

「分かりました……今日もありがとうございました」

 

 サイレンススズカは杖なしで歩くことはできる。しかし、今のように脚が腫れたり熱をもってしまうことが多々あるのだ。翌日以降も腫れや熱感が続くことがあり、症状が残っているときは歩行訓練は行わない。症状が治まる日を待つことになる。

 現状は最大15分間を設定して歩行訓練に取り組んでいる。調子の良い日は15分歩いても症状が出ないこともあるが、今日のように10分で症状が出ることもある。

 数日に一回、この短時間の中で集中して取り組んでいくしかないのだ。……彼女本人が一番もどかしいだろう。

 

「今氷嚢を用意してやるから。ほら、電極外していいぞ」

 

 そう言うと彼女は脚や背中についている電極とセンサーを剥がし始めた。

 

「スズカ、焦るなよ。今はこのペースでいいから。このまま行くぞ」

「分かっています。……そんなに焦っているように見えましたか?」

「ああ? いや……もどかしいんじゃないかと思ってな」

「確かにもどかしさはありますけど……焦ってはいません。私はこうして少しの間でも歩けるだけで嬉しいんです。それに復帰に向けて取り組んでいることも。1年前、病院でトレーナーさんに会ったときには想像もできませんでしたから」

 

 電極とセンサーを片付けて、こちらを向いた彼女は優しく微笑みかけてきた。

 

「本当にありがとうございます」

「まだ普通に歩くことすらできてねえんだ。俺は何にもできてない。お礼を言うならちゃんと治った後にしとけ」

「ふふっ…………トレーナーさん、ありがとうございますっ」

「…………分かったよ」

 

 サイレンススズカが俺の何に感謝の気持ちを伝えてくれているか、今の俺なら理解できていると思う。

 

 病院で虚空を見つめていたサイレンススズカが、今ではこうやって柔らかく笑ってくれている。

 それだけでもここまで頑張ってきた甲斐があったと、そう感じたのだった。

 

 

 ◇

 

 

 

 

 GⅠスプリンターズステークス。

 

 このレースには天崎の担当ウマ娘であるアグネスワールドと──

 

「こんにちはっ、トレーナーさんっ!」

「学園の授業お疲れさまスぺちゃん。有馬に向けて今日も頑張ろっか!」

「はいっ!」

 

 

 

 

 

 ──横水の担当ウマ娘であるブラックホークが出走する。

 

「どうも」

「珍しいものだな、セイウンスカイ。お前から私に話があるとは」

「いいじゃないですかたまには~」

 

 

 




メインストーリー第2部PVでキングの姿が見えた時、思わず声が出ちゃいました……

それはそれとしてジェンティルドンナちゃんの見た目声性格全てがドストライクすぎて困ってます


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第72話 覆水不返

「ワールドちゃん、勝てるんでしょうか……?」

 

 数日後にスプリンターズステークスを控えたある日。

 チームシリウスのトレーナー室にてチーフトレーナーである天崎ひよりは枠順が確定した出走表を眺めていた。

 

 そんな彼女に声を掛けたのは先月のジャパンカップにてモンジューはじめ海外のウマ娘相手に勝利を収め、年末の有馬記念を控えているスペシャルウィークだった。ホームルームが終わって直行したシリウスのトレーナー室には他のウマ娘は誰もまだ来ていなかった。

 

「ワールドちゃんなら大丈夫。世界のウマ娘相手に勝ったすごいウマ娘なんだから! 力を発揮できれば絶対に勝てるよ。私はワールドちゃんを信じてる」

 

 アグネスワールドは今年10月のフランス、不良のロンシャンレース場1000mで行われたGⅠアベイドロンシャン賞を勝利した。更には1200mのレコードタイムホルダーでもある。その絶対的なスピード能力は世界レベルのウマ娘だ。

 スペシャルウィークに言ったことは嘘ではない。実力さえ発揮できれば勝てると踏んでいた。

 ただコーナリングが不得手であることと、逃げ先行で1番人気を背負うだろうから他のウマ娘の標的になることが予想される。坂も少し苦手にしている。以上3点が懸念材料だ。

 コーナリングは中々修正できない。けれど、あまり修正に力を入れ過ぎて他に影響を及ぼしては面白くないので、あまり修正に拘り過ぎないようにしている。

 

 天賦の才を持つウマ娘ばかりを集めているチームシリウス。ここにいるウマ娘たちには短所を消すより、長所を伸ばした方が良い成績が残ることをこれまでの経験で理解していた。

 気分良く日々を送らせ、モチベーションは常に高く。体調管理は怠らない。変に矯正しないで伸び伸び育て、ウマ娘の本能や野生を引き出してあげる。そうすれば勝手に育ってくれるし、レースでも最高のパフォーマンスを出せる。

 その結果が目の前にいるスペシャルウィーク。ジャパンカップでモンジュー含め世界の強豪たちをねじ伏せたことが何よりの証明だ。

 

「そうですよねっ! ワールドちゃんもお姉さんのヒシアケボノさんに続くんだーって、トレーニングすっごい頑張ってますし!」

「うんうん。姉妹で同じGⅠ勝てたら……なんて、本当に映画やドラマの話みたいだよね」

 

 姉妹でのGⅠ制覇など心底からどうでもいい。それがアグネスワールドのモチベーションのひとつではあるので、話を合わせてやってはいるが。

 

「でも、他にも強いウマ娘がいるんですよね……えっと、ブラックホークさん、マサラッキさん、それに……キングちゃん」

「強敵揃いだね」

「あのっ、トレーナーさん……キングちゃんはどうですか……?」

「……キングヘイローちゃんか……」

 

 あの翠の勝負服を着たウマ娘と坂川の姿が自然と思い浮かんできた。

 

「初めての1200mだけど、油断はできないね。マイルチャンピオンシップ、ジハードちゃんがあそこまで迫られたんだから、あの力は本物だよ。長距離の菊花賞でも5着に入れるのに、マイルのGⅠでも2着だなんてすごいウマ娘だね。……スぺちゃんの友達なんだよね?」

「はいっ。……本当に努力家で、勉強だってできるし、しっかりしてるし……授業ではキングちゃんに助けてもらってばかりでした」

「いい娘なんだね。う~ん、難しいなあ……スぺちゃんの友達も応援したいけど……でも、私はシリウスのトレーナーだからね、私はやっぱりワールドちゃんを一番に応援するよ。その次にキングヘイローちゃん!」

 

 天崎ひよりが坂川健幸のウマ娘を応援? 何があってもあり得ない。口に出した自分の白々しさに内心で失笑していた。

 だが、腹立たしいことにキングヘイローの実力自体は認めている。あのマイルチャンピオンシップの走りには肝を冷やされた。エアジハードが並のGⅠウマ娘ならやられていただろう。安田記念のように大崩れすることもあるピーキーなウマ娘ではあるが、前走のように歯車が合致した時の爆発力は無視できない。

 距離短縮で結果を残しているのを見るにスプリント適性はあるのだろう。去年みたいに有馬に出走してくれていれば全く問題にならなかったのだが……あの男は実に厄介なことをしてくれる。

 

 ……まあ、有望なウマ娘が彼の元についたらこのような結果になるのはどこかで分かっていたことだ。

 

 さらに横水のブラックホークも初めての1200m挑戦だ。彼女が考えなしに初距離をGⅠで試すわけがない。どうもきな臭さを感じる。嫌な感じだ。

 

 

「……私も、できれば2人ともに勝って欲しいんですけど……勝つのは1人ですもんね」

「そうだね。厳しい世界だよ。……スぺちゃんも、有馬記念でグラスワンダーちゃんにリベンジしないとねっ」

 

 そう言うとスペシャルウィークの雰囲気が変わった。頼りない雰囲気が立ち消え、引き締まった雰囲気を纏う。

 普段の様子はチームに入ってきたときと変わらないが、以前よりもこうやってオンオフがはっきりするようになった。日本総大将と呼ばれていることもあり、自覚というか責任みたいなものを感じているらしい。良い傾向だった。

 

「…………はい。絶対に勝ちます。宝塚みたいな、悔しい思いはもうしたくないですっ」

 

 

 そうしていると他のシリウスのウマ娘たちがトレーナー室にやって来た。スペシャルウィークはその娘たちと一緒に部室に向かい、部屋には自分だけが残される。

 

 

 スプリンターズステークスに挑戦するアグネスワールド……彼女がシリウスで果たした役割は大きい。

 

 アグネスワールドは海外GⅠ勝利という成績をシリウスにもたらしてくれた。これでシリウスの名は日本だけでなく世界にも轟いた。こうやって名声を博することで、海外生まれの有望なウマ娘をシリウスに入れてもらえる良い切っ掛けとなる。加えて、この海外勝利によって海外志向のあるウマ娘を引っ張ってきやすくなる効果も期待できる。

 アグネスワールドも元々はアメリカ生まれのウマ娘で、姉のヒシアケボノと同じチームに入る予定だったところに横槍を入れて引っ張ってきたのだ。

 才能のあるウマ娘を集めなければならない以上、こういう名声こそが大きな役割を果たす。海外のジュニアクラブやポニースクールとの繋がりを持つためにアグネスワールドに海外遠征を持ち掛け、そして勝利して()()()()()()()()

 あの天皇賞秋後にアメリカ遠征を予定したサイレンススズカの代わりにもなった。スペシャルウィークのジャパンカップも世界へ向けて大きなアピールとなっただろう。

 

 このように繋がりを新規開拓するのはシリウスにとって重要なことだ。海外はもちろん、国内の有力なクラブやスクールとも積極的に関りを持ちパイプを作るようにしている。

 ……エルコンドルパサーとグラスワンダーなど海外から来た強力なウマ娘がいる清島のアルファーグに対抗するためにも重要なことだ。

 掴んだ情報によると清島はアメリカにいるシンボリクリスエスとかいう名前のウマ娘や、アイルランドの王族のファインモーションというウマ娘に唾を付けているらしい。国内なら今年のダービーウマ娘アドマイヤベガの妹アドマイヤドンもアルファーグに入る予定だと聞いている。

 3人とも超がつくほどの有望株で、どうにかして横取りできないか画策中だ。……正直なところ、かなり危機感を抱いている。

 

 繋がりと言えば、近い将来メジロ家とは縁を切る予定でいることを思い出す。

 DTLを引退しチームを離れたメジロマックイーンの出身であるメジロ家だが、今は没落に向かっている。と言うのも中学生から小学生のメジロ家が所属しているクラブやスクールに有望なウマ娘がほとんどいないのだ。現役のメジロブライトや先日引退したメジロドーベルより下の世代が全く育っていない。

 その原因など興味もないし調べる気すら起きないが、この前メジロ家のクラブの模擬レースに招待され見に行ったときにはあまりのレベルの低さに愕然とした。……何より、そこで育成しているメジロ家の関係者たちがそのことに気づいているだろう。

 メジロラモーヌ、メジロマックイーン……GⅠウマ娘を多数輩出し中央を席巻した名門メジロ家の姿はもうそこにはなかった。盛者必衰とはよく言ったものだと思う。

 

 重賞レベルならまだしも、GⅠを確実に取れるほどの逸材は皆無だ。シリウスが必要としているのはGⅠを最低でも複数勝てるウマ娘であって、GⅡGⅢレベルのウマ娘など必要ない。あれだけレベルが落ちると、今までメジロのウマ娘を受け入れてきた有力チームも嫌がるだろう。

 そんなウマ娘を押しつけられる前に疎遠にしようという算段だった。こちらからいきなり切ったら信用問題になるので、徐々にフェードアウトする予定だ。自分がシリウスのチーフになってからはメジロマックイーンしかメジロ家のウマ娘は所属しておらず、昔のシリウスほど繋がりが深いわけでもない今なら手を切るのはそこまで大変ではないはずだ。

 ……まあ、最悪1人か2人は受け入れる必要はあるかもしれない。受け入れて対外的なイメージアップにでも繋げられたらそれでいい。

 

「……今はそんなこと考えている場合じゃないね」

 

 頭を切り替えて立ち上がってトレーニングの準備をする。アグネスワールドとスペシャルウィークに勝ってもらうために、今日もやるべきことが沢山ある。このメニューだって、シリウスの優秀なサブトレや学園外の多くの専門家の意見を聞きながら時間をかけて仕上げたものだ。

 ……私1人じゃ、あの2人には届かないから。

 

「……さて、坂川くんと……幸ちゃんか」

 

 坂川健幸のキングヘイロー、横水幸緒のブラックホーク。

 スペシャルウィーク、キングヘイロー、セイウンスカイのクラシック路線に続いて、こんなところまで来て再び争うとはなんて因果なものなのだろう。

 

「ロマンチックに言えば、運命の巡り合わせかな?」

 

 私はファイルや道具を持ってトレーナー室を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──時は遡り、在りし日のこと。

 

 

 

「幸ちゃん、私気づいたんだ。トレーナーの価値、意義ってやつに」

「……久しぶりに会ったと思えば、いきなりなんだ」

「結局、トレーナーとして優劣を決めるのはどれだけ勝てたか、どれだけ賞金を稼げたかなんだよ」

「…………」

「トレーナーがいくらウマ娘のために頑張ったって意味はない。勝利すれば全てが肯定され、敗北すれば全てが否定される。勝利こそ正しくて、敗北に価値はない」

「……勝利至上主義か。ありきたりで陳腐な考え方だな」

「え~、でもさ、負けるトレーナーに価値なんてないでしょ。ウマ娘と固い絆を結んで、一緒に戦って、懸命に努力して……それで勝てなかったら? そんなのただの笑い話じゃん。勝利が伴うからこそ、その絆や努力とか全てに意味が生まれるんだよ。勝利が伴わなかったら、無能な間抜けの与太話にしかならない」

「……ひより……? どうしたんだ一体……」

「社会において求められるのは成果。はっきり言うと金稼ぎ。金を稼ぐ奴が勝つ。一番金を稼ぐ奴が一番偉い。トレーナーも一緒だよ。だからさ、トレーナーとしたらウマ娘なんてただの手段、つまり道具なわけじゃん。トレーナーの価値を高めるためのさ。そう考えたら道具(ウマ娘)に愛着を持つ必要は無いけど、道具(ウマ娘)自体は良いものにしないと駄目でしょ?」

「何の話を……支離滅れ──」

「私さ、シリウスのチーフになるんだ」

「なっ!? 確かにあの人はもう定年で……だが、シリウスじゃお前は一番経験が浅いだろう? ベテランのサブトレーナーたちは──」

「私の下についてもらう。()()使()()()()()()()()使()()()。結構……いや、かなり大変だったけどね。……わざとじゃないのは知ってるけど、シリウスの期待されてない余りものばっか担当させられるのはもうこりごりだったんだ。……()()()()()()()()()()()。……ようやくこれで上手く行くよ」

「……チーフになるために、一体何をした?」

「えー、聞きたいの? 色々やったけど、お嬢さんの幸ちゃんは聞くのやめた方がいいと思うなー。それでもいいなら教えてあげるけど、幸ちゃん顔真っ赤になっちゃいそう」

「ひより、お前まさか……! ……もういい。お前が下らない下種な考え方に支配され、汚いやり方に手を染めたのは分かった」

「ひどいなー。真理だと思うんだけど。……て言うか、そもそもこんなことに気づいちゃったのは坂川くんのせいなんだよね」

「坂川が!? 何かされたのか?」

「何もされてないよ」

「……は?」

「坂川くん、()()()()()()()()()()()()でしょ? 私たちの3人の中で常にトップを走って、すぐにキタサンブラックに重賞を勝たせて……そんな坂川健幸がウマ娘1人として勝たせられない。あれを見せられたせいだよ。坂川くんがいなければ、こんなこと気づかなかったのにね」

「……何が言いたいのか分からないな。理解できない」

「きっかけは坂川くんだってことだよ。ま、私のことを幸ちゃんに理解してもらおうなんて思ってないけどね。幸ちゃんみたいな恵まれてる人には分かりっこないよ」

「……ひとつ忠告しておく。皆が皆、勝ち負けや優劣だけを追い求めているわけではない」

「戯言だね。逃げる弱者の言い訳でしょそれ。勝てないから下らないことに価値を見出してるだけだよね」

「……もう、戻れないのか」

「うん。戻るつもりもないよ」

「…………そうか。残念だ。変わってしまったんだな」

「人なんて変わるのが普通でしょ。幸ちゃんだってさあ、だいぶウマ娘に厳しいみたいじゃん。結構噂になってるよ、『あの父親より厳しい』ってさ」

「…………もう話すことは無い。じゃあな、()()

「……………………ばいばい、()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

「で、話とは何だ?」

「……えーっと、そのですねえ……」

「さっさと言え。怪我人の愚痴に付き合うほど暇ではない」

 

 セイウンスカイはトレーナー室でデスクにいるチームアルバリのトレーナー、横水幸緒と向き合っていた。もっとも、横水の言う通り話がしたいと連絡したのはセイウンスカイ自身なのだが。

 

 横水からしたら数日後に控えたスプリンターズステークスのために一刻も早くブラックホークの元へ行きたいはずだ。たぶん滅茶苦茶イライラしてる。それぐらいは私も理解していた。

 

 一応、ここに来るまでに決心してはいた。でもいざ口にするとなるとやっぱり少しもにょってしまう。

 

「当ててやろうか? 引退を考えているんだろう」

「っ…………はあ~」

 

 言い当てられて一瞬息が詰まったけれど、その直後は肩の力が抜けた。……彼女にはバレてたか。

 

 屈腱炎の痛みは今日も私を侵していた。

 

「はい。トゥインクルシリーズを引退しようと思います」

「一応だが、理由を聞こうか」

「何もかもつまらなくなりました。モチベーションがマイナスになりました。……そんなとこですね~」

「お前らしいな。辞めた後はどうするんだ? DTLは? お前ならおそらく招待は来るだろう」

「レースをする気はありません。そうですね……昔、トレーナーさんに言われたみたいに、セイちゃん、ゴシップ雑誌の記者にでもなりましょうかねー? ずばり、敏腕トレーナー横水幸緒の過去を大スクープ! ……なんて☆」

 

 ばちっとウィンクをしたけれど、横水は厳しい表情を崩さない。いつもの私のトレーナーだった。

 

 

 ──けれど、その瞬間彼女は表情を和らげた。気の抜けた表情と言っても良かった。初めて見た表情をしていた。

 

 

「……はあ、そうか。……脚は今も痛いか?」

「えっ? ……あ……はい。痛い……ですけど……」

「……まあ、そうだろうな。本当に酷い怪我だった。走るのも嫌になって当然だ」

 

 訊かれた言葉より、今の横水に対して困惑している自分がいる。

 本当に意味が分からない。この人はいつも刺々しくて、常に険のある空気を身に纏い、高圧的な態度をとる人だ。そんな人が今は憑き物が落ちたような雰囲気を醸し出していた。

 

 横水はスマホを操作して誰かに電話をかけた。

 

「ローレル、周りに誰か……いないんだな。すまないが今日はトレーニングに行けるか分からない。先に始めておいてくれ。……セイウンスカイと少し話をな。メニューは予定通りで……ああ、トロットサンダーと一緒に頼む。……すまないな。ありがとう」

 

 電話の相手は元チームアルバリのサクラローレルのようだ。同じく元アルバリのトロットサンダーのことも口にしている。彼女らは今は外部コーチとしてトレーニングを見てくれるウマ娘たちだ。以前は2人ともDTLで走っていた。

 彼女はサクラローレルに対しても突き放すような口調で話しかけている。こんな優しい口調で話している姿なんて──

 

 

 ──まるで別人だ。

 

 

「……なにかの演技ですか?」

「これが素だが?」

「……なんですか。今の今まで皮を……狼の皮を被ってたってことですか……!?」

「お前にしては詩的な表現だな。そうだな……羊の皮を被った狼ならぬ、狼の皮を被った羊だったというわけさ。ははっ、人をよく観察しているお前をこうやって騙し通せる程度には私の被っていた皮も厚かったようだ。ローレルやトロットサンダーもうまくやってくれてたし、こちらが一枚上手だったな」

 

 目の前の光景がまだ信じられない。

 

 これが横水の本性……!?

 

「敵を欺くにはまず味方からってことですか……? 私の観察眼もまだまだですね……!」

「まだ二十歳にもなっていない小娘なんてそんなものさ。何でも分かってる気がして、何も分かってない。私も昔はそうだった」

「っ!」

 

 物凄く腹が立っていた。自分自身に。

 彼女の言う通り、人を見る目は優れてると思っていた。だが、まさか一番身近にいる人間やウマ娘たちにずっと騙されているとは思わなかった。

 

 横水はいつも真っすぐに伸ばしている背筋を丸め、椅子へ沈み込むようにたれかかっていた。

 

「なんで、こんなことをしてるんですか?」

 

 こんなことをしている理由が分からなかった。わざわざ本性を隠すような真似をして、横水は何がしたかったんだろう。

 

「言うことを聞いてくれないウマ娘が怖いんだ。だからこうやって上から押さえつけて言うことを聞かせる。……裏切られるのが怖いから指示に従わない傾向のあるウマ娘は辞めさせるか、そもそも担当にしない。昔、模擬レースでお前が私の指示に従うかが最も重要だと言っていただろう?」

「……ありましたね、そんなこと」

「生徒のお前は分からないかもしれないが、女性トレーナーだと舐めてかかってくるウマ娘は実は少なくない。女とは、同性同士と言うのは嫌なものだな」

「……」

「非情で弱くて、臆病な女なんだよ、私は。……昔、痛い目に会ってな。それからはこんな感じでやっている」

 

 ……その痛い目、実は心当たりがある。彼女の経歴を分かる範囲で調べたことがあるのだ。

 先代のアルバリのチーフトレーナー……彼女の父が病に伏したとき、サクラローレルとトロットサンダーだけを残して他のウマ娘とサブトレーナー全員がアルバリをやめて新チームを結成したと記憶している。

 裏切られる……それのことではないか? 

 サクラローレルに一度当時のことについて尋ねたことがある。詳細は何も教えてくれなかったが、大変だったとは言っていた。

 

「ま、それだけが全てじゃないけれどな。私のやり方は、かつてトレーナーであった父のやり方を踏襲している。今の私みたいに極端なやり方ではないにしろ、自他共に厳しく、厳格な父のやり方を……横水家のこのトレーナー像こそ理想の姿だと私は信じてやってきている。私は元々……甘ったれな人間なんだよ。昔はよく名家の箱入りお嬢とか言われてバカにされていた」

「……なら尚のこと、何故今打ち明けたんですか?」

「特に理由はない。気まぐれだ」

「……は?」

「明確な基準があるわけじゃない。私が明かしてもいいかなと思ったウマ娘にはこうやって話すことにしている。と言っても、あの2人は私がこうなる前からの付き合いだし、お前以外じゃホクトベガぐらいだが……まあ、私がお前を信じたんだろう。気を許してしまったんだろうな」

 

 以前の彼女からは想像もできないような言葉が並べられる。

 一方の私は呆気に取られて言葉も出ない。これももしかしたら演技かと思ってはいるが、そう判断するには今の横水は自然体すぎた。

 

「お前は感情の機微に聡いからこちらもやり易かったよ。たまに踏み込んでくる以外は一定の距離を保ってくれるしな」

「……訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」

「なんだ?」

「例えばあの時……キングのトレーナーである坂川健幸について訊いたとき、明らかに怒っていましたよね。余計なことを詮索するなって。それにレースの事前検討でもキングはずっと外していた。あれも演技の一環なんですか」

「ああ、あれか。……あれは本心だ」

「……え?」

「言っておくが私は根が短気なんだ。頭に血が上りやすい。あれは頭がカーッとして怒ったんだよ。坂川のことに関して知りたいお前と、その坂川のことも思い出してな。あの時みたいに特別に怒っているような様子の私は大体本気で怒っている」

「……よくそんな調子でバレませんでしたね……」

「普段から不機嫌そうにしていたおかげだな。それと実は……あれは皐月賞前だったな。キングヘイローの取り扱いについてお前に詰められたとき、後から反省したんだ。確かに私は私情に囚われていた」

「ええっ?」

「驚くことか? 皐月賞ではあと一歩のところまで詰められていたじゃないか。内心ヒヤヒヤしていたぞ」

 

 ……何だろうこの人は。あまりにもギャップがありすぎてついていけない。そこら辺の気のいいお姉さんにしか見えない。

 

「だが、皐月賞後のレースでお前にキングヘイローの話を出さなかったのは意地を張っていたわけじゃない。お前の敵にならないから外していただけのことだ。お前とキングヘイローの直接対決の成績、言ってみろ」

「……6戦6勝です。全て先着しています」

「そうだ。弥生賞、皐月賞の後も4戦4勝。特に対策を立てることなくお前はキングヘイローに全て勝ってみせた。お前に彼女への対策は必要なかった。そうだろう?」

「……確かに、そうですけど」

 

 でもなんか腑に落ちない。

 

「マイルチャンピオンシップでも、安田の惨敗があったからそこまでキングヘイローを脅威とは見ていなかったんだが……ブラックホークが負けた。坂川のウマ娘であろうともう無視できない。あのウマ娘には力がある」

「……そこまで言わせるキングのトレーナーって、一体何をしたんですか?」

「それだけは言うつもりは無い。私は頭の固い人間だからな、ルールを破ったり、裏切る奴が嫌いなんだ。……お前をはじめ担当ウマ娘たちにこんな接し方をしてきた奴の言い分ではないかもしれないがな」

「……」

「頼むから、坂川については詮索しないでくれ。私にも、他の誰かにもな」

「……トレーナーさんから“頼む”なんて言葉、初めて聞いたなー。分かりました。興味本位で訊いてすみませんでした」

「いや、いい。こっちも悪かった。…………さて、話が大きく逸れたが本題に戻ろうか。トゥインクルシリーズを辞めたいんだったな」

 

 少し緩んでいた空気が引き締まるのを感じた。

 

「はい。もうレースに対する熱が無くなっちゃいました」

「そうか……」

 

 横水は腕を組んで少し考え込んでから口を開いた。

 

「辞めるのはいつでもできる。もう少し考えてみてくれ」

「……引き留めるんですか」

「そうだ。お前はまだやれると思う。トゥインクルシリーズでもDTLでもな。屈腱炎は辛いだろうが、治らないと決まったわけじゃない」

「……治ったところで、私はもう──」

「私はお前の能力が落ちたとは思っていない」

「……それは」

「天皇賞秋も苦手な東京で少し負けただけだ。……一番人気ばかり支持されて辛かった面もあるだろう。お前は一回も掲示板を外していない。胸を張って誇っていい結果だ」

「…………」

 

 この人がこんなに素直に褒めてくれることなんて初めてだった。

 

「まあ、もし辞めるなら進学先や就職先をサポートしよう。なあに、これでも私は名門横水家の人間だ、かなり融通は利くぞ。どこでもコネでねじ込んでやる。はっはっは」

 

 横水はからからと笑っていた。これまで声を出さずに口角を上げる程度でしか笑わなかったのに。

 

「辞めた後のことは心配しなくていい。だからもう少し考えてみてくれ。つまらない、モチベーションの低下……今はそうなんだろう。だが、時を置くと考えが変わることもある」

「…………」

「これを気に少し色々なものを見るといい。レース関係でも、レース以外のこともな。しばらくトレーニングは自由参加で良い。トレーナーとしたら、怪我のない箇所は鍛えてほしいが……お前に任せるよ」

 

 ……私はやっぱり甘いウマ娘なんだなって思う。

 

「……少しの間モラトリアムでも楽しむことにします。とりあえず保留ってことで」

「それでいい。ありがとう」

「……すいません、時間とらせて。先輩のトレーニング行ってください。私はこれで失礼します」

 

 踵を返して扉に手をかける。

 そこで、どうしても言っておきたいことが一つだけあった。

 

「トレーナーさん」

「まだ何かあるのか?」

「眉間にずっと皺が寄っているトレーナーさんより、ぜっっっったい今のトレーナーさんの方が良いです」

「……ローレルたちにも言われるよ。だがこれを崩す気はない。私は臆病だからな。これからまた前のように接するぞ。今の私のことは他言無用だ。こんな感じでお前に接するのは、今みたいに2人きりか、他にいるのがローレルたちだけの時だ」

 

 私はその言葉に仕方なく頷いて、トレーナー室を後にした。

 

 ……サクラローレルとトロットサンダーがDTLも横水の元で走り続けて、今でも外部コーチとして来てくれるように、横水の傍にいるのがずっと不思議でならなかったが、今日やっとその理由が分かった気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……行ったか……はあっ……」

 

 吐いた溜息が()()()()()に震えていた。

 

 セイウンスカイがトレーナー室を去ったので、急いでトレーニングの準備に取り掛かった。

 

 彼女に言ったことは本当のことだ。嘘は一つもついていない。こっちこそ私の本性だ。

 

 

 私は……少なくとも中身は年を重ねて丸くなった。

 幼い頃から大人になるまでは、横水家の人間として相応しく在るために肩肘を張って歩んできた。昔の自分は融通が利かず、堅物で、高潔さなんてものを内に秘めていた。

 

 その人生の途中で様々な人に出会った。

 

 3人の内で一番優秀で、その上ウマ娘のためにひたむきに努力していたのに、過ちを犯した同期がいた。

 心の優しい女の子だったのに、壊れてしまった同期がいた。

 私や父に良い顔をしてくれていたのに、ずっと信じていたのに、掌を返すように裏切ったサブトレーナーやウマ娘がいた。

 

 皆、そんなことをする人たちだとは思ってもいなかった。自分がどれだけお人好しで、甘い人間なのか知ることとなった。

 

 残ってくれたウマ娘たちはいたが、その2人以外は何も信じられなくなった。

 あの2人には感謝してもしきれない。2人がいなかったら私は……考えたくもない。今でも十分歪んでいるが、この中身までも歪んでいただろう。

 

 

 何も信じられなくなった私は高圧的な姿勢で他者と接するようになった。

 

 

 裏切られないようにするために。裏切りそうならこっちから先に切り捨てるために。

 

 

 なんと弱い人間なんだろうか。しかし、こうせずにはいられない。新しいウマ娘を担当するときは怖くて堪らない。裏切られるんじゃないかといつも怯えている。どれだけ良い顔をしてくれていても、人は簡単に裏切れることを知ってしまったから。

 ……騙されることや裏切られることを恐れるトレーナーが、こうして演技してウマ娘たちを騙している。結局は私も同じ穴の狢なのだ。呆れるほど愚かで笑えない。

 

 セイウンスカイに自分のことを話したときも……内心では怖がっていた。恐ろしかった。だからさっき吐いた溜息が震えていたのだ。

 真実を聞かされた彼女が豹変して、今までの態度について逆上して怒る可能性だってあった。だが彼女は受け入れてくれた……ありがたいことだ。話しても良いと思った判断は間違っていなかった。

 こうしてホクトベガやセイウンスカイに自分のことを話してしまうあたり、つまるところ自分は誰かを信じたいんだろう。人に裏切られても懲りない……本当に甘っちょろい。

 ……いつかは、狼の皮を脱いでずっと羊でいられる日がくるのだろうか。

 

 

 坂川のことは……今でも許せない。彼のことだから何か事情……まあ、たぶんキタサンブラックを勝たせたいあまりの凶行だったんだろうが、それでもドーピングだけは許してはならない。ドーピングはトレーナーにとって、一般社会における犯罪と同じだと思っている。どんな理由があろうと許してはならない。URAの思惑があったにせよ、大した罰も受けずに中央でトレーナーを続けているのが許せなかった。

 あの当時もそうだったし、弥生賞の取材の時に天崎に連れられて私の前に来たのだが、私の正義感と言うものは何年経っても黙っていなかった。あの怒りは間違いなく私の本心だ。

 

 今の坂川が変わったかどうかは知らない。

 ただ、コースに出ている彼の姿はたまに目にする。作業服を着て、スタンドに設置したタブレットを何台も並べて、更にはウマ娘のイヤホンと繋がっているであろうマイクに何か喋っている姿は中々にコースで目立つ。おそらく何か特殊な機器を使っている。走行距離を記録するためにGPS関連の機器を使っているトレーナーは他にもいるが、あのタブレットの数からするに他にも何かデータを記録しているのだろう。……何でも知識を吸収する彼らしいと思ってしまった。その点は昔と変わってないのかもしれない。

 去年の年末の口演発表の資料もよく出来たものだった。あの質のレビュー論文は中々お目にかかれない。癪だが、セイウンスカイの屈腱炎の治療に参考になりそうな研究もいくつか見繕うことができた。

 

 それでもドーピングだけは許せない。

 そこだけはどうしても譲れない。許せると思えば楽になれることは分かっているが、無理な相談だった。これは私の本質的なことだ。私は一生彼を許すことは無いのだろう。

 

 

 だが、ああやってウマ娘のために努力している姿勢を否定する気はない。彼は新人寮の時と同じように、あのキングヘイローたちのために努力しているのだろう。

 キタサンブラックのために懸命に努力していた姿を私は近くで見ていたのだ。1人のウマ娘のためにひたむきに頑張る彼を尊敬していた。

 

 

 ……色々なことを考えすぎて思考がまとまらなくなってきた。

 

 

「……難儀なものだな」

 

 

 準備を終え、トレーナー室を出てコースへと向かう。

 

 

 アルバリのトレーナーとして、横水家の栄誉を重ねるために。

 

 ブラックホークをスプリンターズステークスで勝たせるために。

 

 こんな臆病な羊の後をついてきてくれるウマ娘のために。

 

 

 ……弱い自分を守るために。

 

 

 

 私はまた狼の皮を被りなおした。

 

 



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第73話 スプリンターズステークス/前

 12月19日の中山レース場の観客席に俺たちはいた。

 ターフビジョンにはゲート前にあたる2コーナー出口付近で待機するウマ娘たちが映し出されていた。もちろんその中に翠の勝負服に身を包んだウマ娘の姿もあった。

 キングヘイローは余計な動きをせず、精神を統一するようにじっとしていた。いつものレース前の彼女の姿だ。

 

『儚くもあり、切なくもあり、美しくもある。70秒足らずに全てをかけて全てが決まる、日本一濃密なGⅠスプリンターズステークスです──』

 

 男性実況の口上を皮切りに、ファンファーレが鳴るのを今か今かと待ち侘びる観客たちのざわめきが俄かに大きくなってきた。

 スターターがスタンドカーの向かう様子が映し出される中、俺はキングヘイローとスプリンターズステークスへの出走を決めた当時について思い返していた。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 マイルチャンピオンシップから一週間後の土曜日。スペシャルウィーク対モンジューが実現したジャパンカップが明日に迫り、世間が色めき立っていた頃のこと。

 

 俺はキングヘイローと次走について話していた。

 

「最終確認だ。有馬記念はパスで、スプリンターズステークスでいいんだな?」

「問題ないわ」

「ほぼ確実にグラスワンダーとスペシャルウィークは出てくる。……本当にいいのか? 宝塚や天皇賞秋のリベンジは?」

「何度も言ったでしょう? キングはマイルとスプリント路線へ歩むことに決めたの。ジャパンカップではなく、マイルチャンピオンシップを選んだように。……もちろん、リベンジしたくないと言えば嘘にはなるわ。けれどこれが今の私、キングヘイローの歩むべき覇道なのよっ! おーっほっほっほ!」

 

 高笑いが2人きりのトレーナー室に響く。

 

「あなたも有馬よりスプリンターズステークスの方が良いって散々言ってるじゃない」

「それはそうだがな。ま、お前が納得して選んでるんならそれでいいんだ」

「ええ。私は()()()の。来年も短距離に集中するつもりよ」

 

 マイルチャンピオンシップの前から年内の最終目標については話し合っており、その頃から俺はスプリントへの挑戦を勧めてきた。その理由もいくつかある。

 

 シニア級1年を終えようとしている彼女の身体の成長についてだが、クラシック級の時から予期していた通り筋肉質な身体へと変貌を遂げていた。つまり、より短距離向きの身体になっていたのだ。

 見た目的にはそこまで変わったわけでもない。しかし、しなやかさよりも力強さが目立つようになった走り、筋腹の大きくなったトモと下肢の筋肉、以前よりもがっちりとした胴回り、増量した肩甲帯から上肢の筋肉……まさしくマイルやスプリント向きの身体だ。

 

 加えて彼女のメンタル……特性のこともある。

 様々なトレーニングをこなして多くの課題を克服し、レースに出走して豊富な経験を積んできたキングヘイローではあるが、やはり最も高いパフォーマンスが出るのは自分のペースで邪魔されずに走ることだ。

 ……と言うと、当たり前のように聞こえる。それはそうだ、どんなウマ娘でも自分のペースで走って邪魔されないのが一番だろう。

 しかしながらキングヘイローはそのパフォーマンスにムラがありすぎるのだ。この前のマイルチャンピオンシップのようにハマれば良いのだが、11着に敗れた安田記念のようにハマらないときはとことんパフォーマンスが下がってしまう。崩されても()()()()()走ることが難しい。レース中に臨機応変に立て直すような器用さには欠けるのだ。

 菊花賞前の話のように、中長距離だと走りを崩される機会が絶対的に増加してしまう。

 

 彼女のパフォーマンスを最大限引き出すにはやはりマイルかスプリントなのだ。だが──

 

「レース適性ってのはレース本番を走らないと分からねえからな。スプリントがお前に本当に合うかは分からねえぞ」

「その時はまた別の道を選ぶだけよ」

「……そうだな。もしスプリントが合いそうなら来年はあのレースを目指すか」

「あのレース?」

「3月の宮記念……高松宮記念だよ。中京レース場1200m。中央に2レースしかないスプリントGⅠの片割れだ。マイルのGⅠは半年先だし狙うにはちょうど良い」

「高松宮記念……」

 

 キングヘイローはその名を噛みしめるように呟いていた。

 

「今はまだ先の話だ。明日からすぐにでもスプリント用のトレーニングを行いたいところだが、その前に座学を挟むぞ」

「座学? ……ミーティングのこと?」

「ああ。お前は中山の外回りを走ったことないだろ? 幸いウチにはスプリンターズステークスと同条件の中山外回り1200mのレースに出たことのあるウマ娘がいる。あいつの実体験の話も聞きながら中山1200mについて勉強していくぞ。……せっかくだ、チーム全員でやるのもいいかもな」

 

 ◇

 

 その翌日の午後。午前のトレーニングを終え、昼休憩を挟んでチームのウマ娘をトレーナー室に集めた。

 俺は中山レース場のコース見取り図が貼られたホワイトボードの前に立っており、目の前にあるくっつけられた長机には4人のウマ娘が席についていた。

 ノートを広げペンを手に持ちやる気満々のキングヘイロー、背筋を伸ばして静かに佇んでいるカレンモエ、椅子の背に持たれ椅子の前脚を浮かせてぷらぷらしているペティ、ハンドミラーを見て髪の毛を触っているダイアナヘイローがいた。サイレンススズカは今日ジャパンカップに出るスペシャルウィークの応援のため東京レース場に行っている。なのでこの場にはいなかった。

 

「さて、中山1200mについて整理するぞー。スプリンターズステークスに出るキングの話だけじゃねえからな。他のみんなもしっかり聞いとけー」

 

 各々の返事や頷く様子を見て、4人の視線が俺に集まってから話し始めた。ダイアナヘイローもハンドミラーをしまって俺の方を向いていた。

 

「言うまでもなく中山1200mがスプリンターズステークスの舞台になる。当日は中山レース場第5回開催の6日目、つまり3週目だ。例年の傾向からすると1週目からAコースを使用しスプリンターズステークスもAコースになるはずだ。……おいダイアナ、Aコースとかって何のことか分かるか?」

「芝の生育状況によってラチの位置をずらしたコースのことでしょ」

「正解だ」

 

 それぐらい覚えているわよ、あなたが教えたんじゃない……とダイアナヘイローは続けた。彼女にもレースを走り続ける上で色々な知識を叩き込んでいる。

 

「なら内より外が有利かって話になりそうなもんだが、その前に前回の第4回開催のことを話そう。第4回開催は9月の中旬から4週に渡って開催された。前半2週がAコース、後半2週がCコースだ。以上のことを踏まえて……ダイアナ、考えられることを言え」

「また私!? ……えーっと、そうね……」

 

 流したボブヘアーの毛先をいじりながら彼女は口を開いた。

 

「4回目でAコースも使ってるのだから内は荒れてそうだけれど、でも9月の話よね? Cコースも2週だけ使ってるのだから外の芝も痛んで……でもそれは10月ぐらいの話なのよね。それで今回はAコース3週目だったかしら? そもそもCからAに替わって……ぅん~~、ややこしいわねっ! ふんっ、存じ上げませんわ」

「いい線行ってるじゃねえか」

「へっ? ……そう?」

「芝の状態なんて年によって違うんだから、1週目、2週目、そして前日や直前の実際のレースを見ないと分からないし判断できない。中山は元々がトリッキーなレース場だし、分からないってのはまあまあ正しい。レース開催とコース替わりから最内が有利とは言えないが、外が絶対的に有利でもない。外の方がやや有利かもってイメージでいい。そこまで極端な内外の有利不利は無いだろうってとこだ」

「……なんかふわふわしてないかしら?」

「そんなもんなんだよ。なんでも“絶対にこうだ”って決めつけるのは柔軟な発想を削ぐだけだ。……ま、今のはあくまでコース替わりだけに限定した話だけどな」

 

 ホワイトボードに貼ってある中山レース場の見取り図に目をやる。上から見た1200mのコースと、横から見たその起伏のイラストも一緒に張り付けてある。

 

「そんなコース替わりだけで有利不利がはっきりするなら苦労はしない。中山自体が基本的に前有利だったり、他にも考えねえといけないってことだ。次の話に移るが、その前にこのレースを見るぞ」

 

 俺はPCを繋いだモニターの電源を入れた。

 

「今から見せるのはモエが今年の3月に走ったオーシャンステークス。スプリンターズステークスと同じ中山1200mのレースだ。てな訳で、実際に走ったモエにレースやコースのことを解説してもらいながらこの映像を見ていこう。モエ、頼んだぞ」

「うん」

 

 レース解説については事前にカレンモエに話を通していた。特に解説の内容について打ち合わせはしておらず、大雑把にアウトラインを伝えただけだった。

 元々頭が良くクレバーだし、俺の担当ウマ娘として多くのことを学び知っている。内容について詳しく確認しておく必要もない。

 

 モニターには枠入りの完了したゲートが映っていた。

 

「スタートは2コーナーの出口付近にある。モエ、発走前どんなことを意識していた?」

「中山1200はスタートが坂の頂上から下りに入ったとこで、第3コーナーの中間ぐらいまでずっと下り坂だからスタートから道中の流れが速い。ゲートで出遅れたらポジション取りが難しい。……重賞レベルになるとみんなゲートも上手いしテンも速いから、スタートを決めるより絶対に出遅れないよう意識した。でも、内枠だったし精神的に余裕は持ててたよ。外枠だったらスタート決めないといけなかったから」

 

 キングヘイローがノートにさらさらとペンを走らせていた。

 

 カレンモエが喋り終わり、キングヘイローのペンが止まってから再生ボタンを押すと、2枠3番ゲートからカレンモエがスタートした。芦毛はこのレース彼女1人だけなのでよく目立っており位置が分かりやすい。

 言葉通りスタートは彼女にしたらまずまずで、それでもスタートしてすぐに先頭を形成する横一線のウマ娘と並んでいた。

 

『さあ先行争いはカレンモエ、それを制してビアンフェやはり行きました』

 

「モエさんどのレースでもほんとスタート速いですねえ」

 

 椅子の背にもたれていたペティがしみじみとそう言った。

 

 ここでもカレンモエのテンの速さは際立っており、スタートから100mあたりでは早くもビアンフェと共に先頭に立とうとしていた。

 

 彼女はビアンフェに先頭を譲り、その2バ身後ろ追走する2番手でレースを運んでいた。向こう正面をウマ娘たちが進んでいく。

 

 カレンモエは簡単にやっているように見えるが、重賞のそれもスプリントで安定してポジションを取れることがどれだけレベルの高い話か……中長距離のポジション取りとは訳が違う。

 全くミスのないスタートと、加速性能を生かしたテンの速さ、レース中の冷静な思考、優れた位置取りの判断力……それらを生かすことで安定感抜群のレース運びを実現させている。元からレースセンスが高いウマ娘であったが、レース運びにおいては以前よりも更に大きく成長し、ほぼ文句のつけようのない域にまで彼女は達していた。

 

「バ場が稍重だったからペースが速いか遅いか判断するのは難しかったかな。でも、あの日は前残りのレースが多かったから、先頭の娘との間隔を維持したまま2番手で直線に入ろうって思ってた。詰めたら後ろの娘たちもついてきて差を縮めちゃうし。先頭の娘はいつでも交わせたけど、動くのも最後まで遅らせた。あと、すぐ後ろにいる娘の走りに合わせてライン取り工夫してたよ」

「補足するなら2ハロン目10.7秒、3ハロン目11.1秒だ。普段の良馬場ならオーシャンステークスもスプリンターズステークスも余裕で11秒を切るペースになる。中山1200はコース形態上基本的に前傾ラップになることが多いし、前半3ハロン32秒台は珍しくない。3コーナーも内回りとは違ってカーブは緩いしな」

 

 レースは進み第3コーナーから第4コーナーへと入っていく。カレンモエは先頭のビアンフェに対し少しだけ距離を詰めながらコーナリングしていった。

 

「道中のスピードは中距離と比べるまでもなく速い。必然的にコーナーを回る速度も相当なもんだ。モエ、4コーナー曲がるときは?」

「下り坂で勢いがつき過ぎて、きつい4コーナーで外に振られるウマ娘がいるってトレーナーさんから聞いてたから、内側にいる娘に対して1人分から2人分くらいスペースを取るようにしてた」

 

 カレンモエの言う通り、映像には内ラチ沿いを走るウマ娘からスペースを取ってコーナーを曲がり直線に向くカレンモエがいた。そのカレンモエも膨れることなくコーナーを曲がれている。結果的に内にいるウマ娘は膨れてこなかったが、不利を受けないためにも必要な戦略なので指示したのだ。

 

 

 ここでは口に出さないが、このオーシャンステークスでは惚れ惚れするほどの走りをカレンモエはしていた。最高のレース運びだった。俺の指示もほぼ完璧に遂行していた。

 ……だからこそゴール前でハナ差交わされて負けたのが非常に悔しいのだが。

 

 残り150mを過ぎて、単独先頭へ抜けたカレンモエにコントラチェックが迫っていた。

 

『カレンモエが先頭に立った! コントラチェックが差を詰める! 前は2人並んだゴールインッ! コントラチェックとカレンモエ、2人が並びました!』

 

 逃げたビアンフェを交わす時に見せた瞬発力とスピードは良かったが、坂で少し脚が鈍ってしまったのだ。本当に惜しかった。

 

「スタートから延々と下って最後の最後に急坂を上る……これが中山1200だ。モエ、ありがとうな」

 

 カレンモエはこくっと小さく頷いてくれた。

 表情には出ないが自分の負けたレースを他の奴と見るのはしんどいだろう。それでも彼女はこうやって解説することを二つ返事で快諾してくれた。本当にありがたい。

 後からまた2人になった時にでも礼を言っておこう。

 

 レースの映像を閉じて再び4人と向き合った。

 

「ま、大まかなイメージは掴めただろ。中山1200mはスタートからのペースが速い。速いから4コーナー曲がるときは注意。あとは中山そのものの性質だな。直線は短いし急坂があるってことだ」

 

 ホワイトボードに書き込みながら説明を続ける。

 

「そんなスプリンターズステークスとさっきの有利不利の話につなげるが、バ場だけじゃなくレース展開によって大きく左右される。コースの特徴からハイペースになりやすいから、展開によっては差し追い込みは決まりやすい。先頭争いとかでハイペースになりゃ後ろのウマ娘が有利だ。過去のレースで言うなら前で残ったのはフラワーパーク、後ろから来たのはダイイチルビーとかだな。それに加えて──」

 

 

 それ以降もスプリンターズステークスの分析について説明を続ける。

 

 

 そしていよいよ結論……これまでの分析などを踏まえて具体的なレースプランを提示し、それに沿ったトレーニングプランを伝える段階になった。

 

 器用ではないキングヘイローにしたら初のスプリントに対応するだけでも簡単ではないのに、更にペースを読んだりポジションを取りに行ったりするのは負担が大きすぎる。それをGⅠに出走してくる猛者たち相手にしろと言うのは骨が折れるどころの騒ぎではない。

 

 レースプランを指示しようとすればいくらでも細かい指示は出せる。展開のシミュレーションだって無数に行える。

 しかしそれはスプリント初挑戦のキングヘイローにとって悪手だ。求め過ぎたら走りを崩す可能性は極めて高いだろう。

 

 

 だから今回授ける作戦はこうだ。

 

 一通り説明を終えた俺はキングヘイローにそれを伝えた。

 

 

 

「今回の課題は“マイペースにレースを運ぶこと”だ。これから本番までのトレーニングで、その中で最大限出来ることを探っていこう」

 

 

 

 数々の分析や考察から出てきた答えは、新人トレーナーでも出せそうなものだった。

 

 

 だが、間違いなくこれが最善の策だ。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 スプリンターズステークスの枠入りを待つ中で、このレースを選択した時のことや坂川たちと行ったミーティングについて思い返していた。

 ……少し思うところがあったのだ

 

 彼にはあのミーティングで『マイペースにレースを運ぶこと』と言われた。その後トレーニングを重ねて、具体的に私に出された彼の指示は主に2つ……道中はリラックスして運ぶことと、末脚の使い所を間違えないことだ。ポジション取りは捨てていいと言われた。マークするにしても人気所のアグネスワールドとブラックホークを見ておくように言われたぐらいだった。

 

 今までの坂川が立ててきた作戦と比較すると、今回のこれははっきり言って作戦と呼べるようなものではなかった。アクションを起こせる時間がほとんどない短距離戦とはいえ簡単なのだ。ものすごく。

 だからこのレースプランを聞いたとき一瞬だけ戸惑った。もしかしたら冗談かもと思ったぐらいだ。

 

 しかし、ちゃんと考えたらこんなレースプランになった理由はすぐに分かった。

 私がスプリントに初めて挑むから、坂川はこのような指示を出したのだ。直接的に言うなら、私では坂川の作戦を遂行できないから。課題が多すぎると私はうまく走れないと彼は考えたのだろう。

 

 彼はそう考えていると思い至ったとき、率直に言って悔しかった。

 

 ……以前、坂川から“お前は器用なウマ娘じゃない”などと度々言われた。例えばクラシック級の夏合宿や、京都新聞杯後に菊花賞を選ぶかどうか話したときだ。

 その時は単純に悔しくて、そして腹が立った。私の力が足りないって言われたのと同じことだからだ。キングヘイローのプライドも傷つけられたと感じた。

 

 

 けれど、今回の悔しさはこれまでとは違う悔しさが私の胸中の多くを占めていた。

 

 

 坂川に応えられない自分に対して悔しく感じていたのだ。

 こんな簡単な指示でさえ、確実に遂行できるとは言い難いキングヘイローというウマ娘に。

 

 この感情や悔しさは以前からも私の中にあったのだと思う。でも、はっきりと言語化して理解したのは今回が恐らく初めてのことだった。

 

 

 

 

 ことレースに関して私は坂川のことを信頼している。だから彼のこの判断は正しいのだと思っている。

 

 でも私がもっと器用なウマ娘だったらどうだろうか? 

 

 坂川が膨大な知見を持っていることに今更疑いはない。彼は多くのことを分析し考察して、最適な作戦やレースプランを組み立てられる。

 もし私が器用で……あのミーティングのときのカレンモエの話から察せられるように、彼の言ったことをなんでもこなせるようなウマ娘だったら、きっと彼はこんな作戦にしたりはしないのだ。

 そのことが堪らなく悔しい。彼には無数の引き出しがあるのに、それを生かすことのできない担当ウマ娘である自分が悔しい。彼だって、本当は私に対してああしろ、こうしろって沢山言いたいはずなのだ。

 でも、悔しいと思ったからといって出来るようになるわけじゃないと、成長した私には分かってしまう。そのことが一層悔しさに拍車をかける。

 

 昔は違っていた。ダービーではあの逃げのために大量のシミュレーションをして、多くの作戦パターンを提示されて頭に叩き込んだ。その作戦もそれぞれ細部の細部まで詰められた。

 でも私は結果を残せなかった。ダービーは大崩れして惨敗した。それを経験したのが今の私だ。

 

 私が彼の担当ウマ娘になり2年以上の歳月が流れた。その中で下した結論だ。尊重はするし、ありがたいとも思う。でも悔しさは拭えない。

 だからせめて結果を出したい。そうすれば彼にも応えらえるし、私の一流も──

 

 

 

 ──その考えを押し留める。()()()()()()

 

 

 

『さあ、フランスGⅠウマ娘アグネスワールドが日本のGⅠでも答えを出すのか。マサラッキが高松宮記念に続き今年のスプリントGⅠを独占するのか。マイネルラヴが連覇を果たすのか。それともスプリント初挑戦のブラックホークとキングヘイローが初の栄冠に輝くのか。スプリンターズステークス、GⅠのファンファーレです!』

 

 ファンファーレと手拍子、そして歓声が聞こえてくる。

 

 

「……」

 

 周りのウマ娘たちを見ていると、マイルチャンピオンシップの時と同じことに気づいた。

 

(……ここにもいないわね)

 

 私と一緒にクラシック三冠を走ったウマ娘はここにも1人としていなかった。

 

(スプリントだものね……これが私の選んだ道……)

 

 

 

 13番ゲートに向かいながら思考を戻す。

 

 

 ──結果で坂川に応えたいというのは間違っていない。でもその後は()()()()()()

 

 

 ──結果を出す。GⅠを勝つ。それも間違っていない。でも、()()()()()()()()()()()のだ。

 

 

「……ふぅ……」

 

 

 早めにゲートに入って深呼吸をした。

 

 

 

 ──宝塚記念のときに掴んだもの。

 

 ──それは一流についてのこと。

 

 ──まだそれはぼんやりとしているけれど、確実に手の中にある。

 

 ──多くの経験をして、色んな人と関わった。それらが一流のウマ娘について教えてくれた。

 

 ──そして何より、坂川健幸という存在が一流のウマ娘を教えてくれた。

 

 

『16人立て。GⅠウマ娘が5人。枠入り完了です。……電撃決戦スプリンターズステークス!』

 

 

 余計な思考を散らした。

 

 

 レースの頭へと切り替えていく。

 

 

 ゲートが揺れ、けたたましい音と共に鉄扉が開いた。

 

 

『スタートッ!』

 

 

 

 

 



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第74話 スプリンターズステークス/後

 私は少し遅めのスタートになった。

 

 坂川の指示が頭にあった私は無理に先行しようとせず、自分のペース、リズムで運ぶことを優先した。

 そうすると自然とポジションが後ろへと下がり、他のウマ娘たちが我先にと前ヘ進出していった。後ろからバ群を眺めていると、まるで今が最終直線で競り合いながら末脚を使っている場面のようだった。

 昨日今日のバ場は内が少し荒れ気味で外の芝が綺麗な状態。内よりは外有利のバ場になっていた。以前坂川が予測した通りだった。

 

『バラついたスタートです! マイネルラヴ好スタート、そして内から上がってきたトキオパーフェクトが先頭1バ身のリード。2番手アグネスワールド、その後にメジロダーリング、ブラックホークと続きます。キョウエイマーチは控えました』

 

 坂を下りながらスピードを上げる。このスタートした数秒だけでもスプリントの激流をその身に感じる。中距離とはもちろんマイルとだって違う……この速さは他のどの距離のレースとも違う。異質という言葉がぴったりと合う。

 

 スタートして10秒ほど。距離的には1ハロンほどの位置だが、私は単独最後方の殿というポジションになった。前のウマ娘と1バ身半ほど間が空いて、その先にバ群が固まっている。こんな位置でレースを運ぶなんて、デビュー2戦目の黄菊賞以来だった。

 私だけ置いて行かれるように感じ、焦燥感が芽生えてくる。

 

(私は私のペースを……! でも……)

 

 マイペースに運んでいるものの、必要以上に走りを緩めているわけではない。むしろ自分のリズムの中では速いペースのつもりだ。

 なのに前のバ群には追いつけない。緩めれば一瞬で突き放されるだろう。

 

 最前線の方にはちらりと有力ウマ娘たちの姿が見える。外の方にいるマイネルラヴ、その前にポジションを取るブラックホーク、逃げウマ娘に差を詰めていくアグネスワールド……私からは遠く離れたところに力のあるウマ娘たちがひしめき合ってしのぎを削っている。

 

(……! あれは……)

 

『去年のチャンピオン、マイネルラヴが前と並びかけようとしています!』

 

 去年のスプリンターズステークス覇者マイネルラヴが外から進出し、ブラックホークを交わし前方へとポジションを上げていった。あの娘は去年も同じように道中で捲り気味にポジションを上げて勝利した。彼女はその戦法でタイキシャトルとシーキングザパールを競り落としたのだ。

 スプリントのG1で道中捲って勝ちへ繋げる。しかも相手がタイキシャトルとシーキングザパール。それがどれだけ凄いことなのか、今の私なら身を持って理解できる。

 

 彼女は私と同期で、ジュニア級の時は東スポ杯で私が彼女をマークして交わして勝利したことを不意に思い出した。

 

 あまり猶予は残されていない。私も動きださないといけないと思うのだけれど──

 

(くっ……これ以上……!)

 

 ──体が前に進んでいかない。

 

 故障ではない。必死に追い上げようとはしており、前との距離も詰めて後ろから2番手の娘と並ぶまでは進んでいるのだが、スパッと加速してイメージ通りに進出できない。

 ……おそらくスプリントのペースに私は翻弄されているのだ。これまでマイルでも追走に苦労したことがない私にとって、道中で置いていかれるようなこの感覚は初めてのことだった。

 

 気づけば600mのハロン棒を通過していた。もうレースの半分が過ぎたということ。

 

『中団後方に高松宮記念を制したマサラッキ、最後方はキングヘイローです! すでに600の標識は通過、第4コーナーのカーブに入っています!』

 

(もう第4コーナー!? 早すぎよっ! これがスプリント……!)

 

 何もしていないのにもう第4コーナーに入っていた。

 

 先頭ではトキオパーフェクトにアグネスワールドが並びかけ、更にその外にマイネルラブが迫り3人が横一線に並んでいた。

 そして、その3人の2バ身後ろにブラックホークが差を詰めていた。

 

 肝心の私は未だに遥か最後方。

 

 昨日今日と差しが決まる傾向のバ場とはいえ、直線の短い中山でこの位置はまずい。いくらマイペースで運ぶ予定でも、この位置じゃ届くとか届かないとかの話にすらならない……!

 

『さあトキオパーフェクト、アグネスワールド、マイネルラヴ、3人が横に広がっている! 1バ身半差ブラックホークは4番手で400を通過! 4コーナーのカーブから直線へ!』

 

 先頭のウマ娘たちが直線へ向こうとしていた。

 

(こうなったら……直線一気に賭けるしか……!)

 

 私も直線へと向かう。

 腹をくくって私は外を回して直線の入り口へ入っていくが──

 

(ああっ!?)

 

 

 ──身体が遠心力で外に持っていかれた。

 

 

 身体がよれる。外に膨らむ。

 

 

 やはりと言うべきか、スプリントのスピードでコーナーリングした影響で外に膨らんで距離をロスしてしまったのだ。

 

 ……あれだけ練習したのにっ!

 

(何してるのよキング! ……このへっぽこっ!) 

 

 さらに──

 

(なっ!?)

 

 ──前にいるウマ娘たちが横に広がり壁ができた。前が完全にふさがれる格好になった。

 

 彼女たちを見ていると、私と同じように直線に賭けるために外へ持ち出した娘や、速度を落とし切れずに膨らんだ娘などがいた。

 

 最後の直線へと完全に入った。残り310mしかない。

 

 瞬時に決断を迫られる。バ群の間を縫っていくか、更に外へと持ち出すか──

 

 

 

(──私にバ群を縫っていくような器用さはない……なら、これしかっ!)

 

 

 

 眼前に広がるバ群の壁の更に外へと持ち出した。

 

 

 私が選択したのは大外直線一気だった。

 

 

『先頭はアグネスワールドとマイネルラヴ! この2人の一騎打ちとなるかっ!? その外からブラックホーク! 真ん中レッドチリペッパー!』

 

 バ群の隙間から見える先頭の方ではアグネスワールドとマイネルラヴが競り合いながら先頭へ躍り出ており、2人の後ろ外側にブラックホークの姿があった。

 

 先頭のウマ娘たちが残り200mの標識に差し掛かろうとしていた。

 

 キングヘイロー()はここでも未だに最後方。

 バ群の外に持ち出して目の前にウマ娘は誰もいない。けれどまだ加速が不十分でトップスピードには乗れていない状態だった。

 

『残り200を通過! 先頭アグネスワールドが抜け出したか──』

 

 このままじゃ──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──ふと、脚が軽くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──脚に羽が生えたようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

(……え?)

 

 

 

 

 

 脚の回転がレッドゾーンまで一気に吹き上がる。

 

 

 一瞬遅れて、ターフを蹴る脚にこれまで感じたことのない力強さも感じる。

 

 

 

(これで──)

 

 

 

 

 

 

 流れる風景が速くなり、周りのウマ娘が止まったかのようにスローモーションに見えた。

 

 

 

 

 

 

 

(──これならっ!!!!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──初めての感覚だった。

 

 

 

 

 羽が生えたように脚は軽いのに、溢れんばかりに力が湧き上がって来る──! 

 

 

 

 

 

 私は既に残り200mのハロン棒を過ぎている。まだ私は最後尾の大外。

 

 

 

 しかし、周りのウマ娘……いや、ターフにいる16人の中でキングヘイロー()が一番速い──! 

 

 

 

 加速し続ける。

 

 

 ただ前へと進んでいく。

 

 

 

「はああああああっ!」

 

 

 

 ──1人交わした。……2人目。

 

 

 

 ──残り13人。

 

 

 

 

『さあ、前の争いはアグネスワールド! アグネスワールドが抜け出す! 外からブラックホーク!』

 

 

 

 

 中山の急坂を喰らう。

 

 

 

 

 私の脚は止まらない。

 

 

 

 

 無尽蔵に脚のパワーが湧いてくる。

 

 

 

「はああああああああああっ!」

 

 

 

 ──3人目。4人目。

 

 

 

 ──残り11人。

 

 

 

 

 先頭では内にいるアグネスワールドがマイネルラヴを突き放す。

 その2人の後方にいるブラックホークがマイネルラヴに外から並びかけている。

 

 

 

 

 残り100mを切る。

 

 

 

 

 キングヘイロー()はただ、大外から前へ前へと加速しながら駆ける。

 

 

『先頭はアグネスワールド1バ身のリード!!! 外からブラックホーク来ているっ!』

 

 

 

 

「ぐっ!!! はっ、ああああああっ!」

 

 

 

 ──6人目。

 

 

 

 ──残り9人。

 

 

 

 

 ゴールまで50m。

 

 

 

 

 ブラックホークが脚の鈍ったマイネルラヴを捉え、先頭のアグネスワールドへと迫っていくのが見える。

 

 

 

 私は内にいるウマ娘5人をまとめて交わす。

 

 

 

「あああああああああああ!」

 

 

 

 ──11人目。

 

 

 

 

 ──あと4人。

 

 

 

 

 

 先頭にいるアグネスワールド。

 

 迫る2番手ブラックホーク。

 

 2人から1バ身半後ろに下がった3番手マイネルラヴ。

 

 食い下がる4番手芦毛のレッドチリペッパー。

 

 

 

 

 いつの間にか4人の姿がはっきりと近くに見えるところまでキングヘイロー()は来ていた。

 

 

 

 

 残り30m。

 

 

 

「ああああああっ!」

 

 

 

 レッドチリペッパーとマイネルラヴに迫る。

 

 

 

 

 ほんの目と鼻の先、3バ身先に並んでいるアグネスワールドとブラックホークの背中が見える。

 

 

 

 

 

『アグネスワールド、ブラックホークッ! 2人が並ぶっ!』

 

 

 

 残り10m。

 

 

 

 脚は変わらずレッドゾーンで回り最高速を維持できている。それどころかもっと加速できるように感じる。

 

 

 

 しかし──

 

 

 

 

 

(──ここ、まで……なの…………)

 

 

 

 

 

 ゴール前。

 

 

 

 

 レッドチリペッパーとマイネルラヴを捉える。

 

 

 

 

「はあああああああっ──」

 

 

 

 

 

 ──レッドチリペッパーとマイネルラヴ……12人目、13人目を交わした。

 

 

 

 

 ──残ったのは2人。

 

 

 

 

 

 ──そこまでだった。

 

 

 

 

 

 

『外からブラックホークッ!!!!!』

 

 

 

 

 

 

 ブラックホークがアグネスワールドを捉える姿を、1バ身半後ろで見届けた。

 

 

 

 

 

 

『ブラックホークの手が上がりました!!!!! GⅠ初制覇ッ!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 俺はストップウオッチを片手にレースを見ていた。

 

 キングヘイローはゲートを出てから位置を下げて最後方へと下げていた。マイペースで運ぶことに徹した結果だろうが、追走に苦労しているような様子だった。

 

 ハロンごとのラップに目を落とし、万年筆でタイムだけ素早くメモしながらレースを見やった。

 

 あっという間に前半3ハロンが過ぎ、そのタイムを確認すると思わず声が出た。

 

「33秒2だと!?」

「何よっ!? そのタイム、キングに良いの悪いの!?」

 

 このタイムの意味が分からないダイアナヘイローが俺に食い気味に突っかかってきた。

 他の3人はタイムを聞いて不安そうな表情をした。3人は俺の言いたいことが分かっているのだろう。

 

「悪い」

「ええっ!?」

「遅いんだ。最初の1ハロン目が遅かったのもあるがここ5年のうち4年は前半は32秒台。33秒台だったのは1番手と2番手が1着2着だった……フラワーパークとエイシンワシントンのときだ」

「つまり何?」

「このペースじゃ前の方にいないと話にならない。最低でも中団だ」

 

 スプリンターズステークスにしては遅いペースになっていた。さらに中山のコース形態も加味すると、前の方が絶対に有利な状況なのだ。キングヘイローが今いる最後方は考えうる限り最悪のポジションだ。

 

「ならもうキング駄目じゃない!」

「いやまだ分からねえ」

「へ?」

「すまんが説明してる暇はない。気になるならレース終わった後に教えてやる」

 

 まだ後半3ハロンの速さで展開が変わる可能性はある。先団のウマ娘たちがペースを上げ前の方が消耗すれば、中団より後ろのウマ娘……キングヘイローにもチャンスは生まれるかもしれない。幸い今の中山のバ場が外が有利だ。差し追い込みが決まっても不思議じゃない。

 

 

 第4コーナーに入ってきたキングヘイローは前との差を詰めようとしているが、未だにポジションを上げるには至っていない。

 ポジション取りは意識しないのが今回のプランだ。走りを見ているとフォームは崩れてはおらず、確かに指示通りマイペースに走れているかもしれない。

 

 だが実際問題あの位置はよろしくない。本人もそれは分かっているし、だから今ああやって前へ出ようとしているのだろう。

 それでも捲ってはいけていない。ペースが遅いと言えど、初めての1200mに脚がついていかないのだろうか。やはり適性は──

 

 ──などと考えてレースを見ていると、キングヘイローはコーナーリングで大きく膨らみながら最後の直線に入ってきた。

 

 スタートから始まる下り坂の勢いを殺せず外に振られてしまっていたのだ。しかも前にはちょうどウマ娘のバ群が立ち塞がっていた。

 どう見たって最悪の出来事が連続していた。

 

 

「キングっ!? 何やってんですかあっ!? それじゃあ駄目ですよっ!」

 

 これまで黙っていたペティが頭を抱えながら声を上げていた。

 

「大丈夫よキング、あなたなら勝てるわ……」

 

 ダイアナヘイローは両手を組んで祈るようにレースを見ていた。

 

「「…………」」

 

 カレンモエとサイレンススズカは固唾を飲んでレースの様子を見守っていた。

 

 

 残り200mにキングヘイローが差し掛かろうとしていた。

 

 大外に出せてはいたものの、未だに最後方にいた。

 

 ラップのメモと今記録した5ハロン目のストップウオッチに目を落とす。4ハロン目11.5秒、5ハロン目11.3秒で計22.8秒。過去のスプリンターズステークスと比較しても速い。アグネスワールドやマイネルラヴが進出していった影響で速くなっていたようだ。

 これでチャンスはゼロではないが、ゼロではないだけだ。走りは崩れておらず、前への進路は開けているが、残り200mを切ってこの位置ではもう──

 

 

 ──“惨敗”の二文字が頭によぎった瞬間だった。

 

 

 

 

 中山の急坂で鈍るウマ娘たちの中で、キングヘイロー1人だけが加速していった。

 

「……は?」

 

 他のウマ娘たちと全く勢いが違う。先頭にいるアグネスワールドやブラックホークと比べても比較にならないほど速い。

 まるで別のレースを走っているようだ。

 

 

「えっ!? ……キングッ! 行けます行けます! 絶対差せますっ!」

「きゃー! キング、凄いわーっ!」

「……キングっ…………!」

「キングさん……頑張ってっ……!」

 

 

 残り100mを切っている。

 

 

 キングヘイローの脚は衰えない。

 

 

 むしろ加速していた。

 

 

 周りのウマ娘たちが止まって見えるような末脚だった。

 

 

 1人、また1人と交わしていくキングヘイロー。

 

 

 キングヘイローに向かって、俺のチームのウマ娘たちが思い思いの声を出して熱くエールを送っていた。

 

 

 

「……」

 

 

 その一方で、俺の頭はひどく冷静だった。

 

 

 この速度と距離から、おそらく先頭のアグネスワールドとブラックホークには届かないだろうことは分かっていた。

 

 

 しかし、勝てなさそうだから冷静になっているのではないのだ。

 

 

 この瞬間、キングヘイローの走りがどれだけ凄まじいものか理解したからだ。

 

 

 

 ──勝てる。

 

 

 

 前半スローペースで前有利な展開のスプリント。

 加えてコーナーでのロスや前壁。

 

 そんなレースで最後尾から直線1ハロンの末脚だけでここまで迫ってくる? 

 

 

 

 普通ならあり得ない。

 

 

 

 俺は身震いした。

 

 

 

 

 ──キングなら勝てる。

 

 

 

 GⅠで展開不利を覆し得るほどの力を、彼女は今発揮していた。

 

 

 

 彼女が元々持っているものは確かにある。

 しかし、今のこのパワーとスピードは血の滲むような努力で彼女が押し上げたものだ。

 

 

 

 

 

 ──キングなら、スプリントでGⅠを勝てる。

 

 

 

 

 

 

 そんな確信が全身を駆け巡っていた。

 

 

 

 

 

 

 

『外からブラックホークッ!!!!! ブラックホークの手が上がりました!!!!! GⅠ初制覇ッ!!!』

 

 

 

 

 キングヘイローはブラックホークとアグネスワールドを差せなかったものの、去年の覇者マイネルラヴを差し切って3着に入った。

 

 

 

 

「ああっ!? くぅ~~~~っ……惜しすぎますっ……あと100m……いや50mあれば差せてますようっ……」

「ああんもうっ! もうちょっとだったじゃないっ!」

「…………」

「本当に惜しい……でも、凄い走りだったわ……」

 

 

 

 ゴール後、背筋をまっすぐにして立ち尽くし肩を上下させながら、勝ったブラックホークの方を見るキングヘイローがいた。

 

 

「宮記念だ」

 

 

 俺がそう呟くと、4人が俺の方を向いた。

 

 

「高松宮記念だ」

 

 

 彼女たちの視線を受けながらも、俺は遠く離れたキングヘイローの方を向いていた。

 

 

 

「取るぞ……!」

 

 

 

 両手を固く握りしめている彼女の背中に向けて、そう小さく声を掛けた。

 

 

 



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追想7 嘘

 

 今日も歓声が浴びせられている。

 

『ありがとうございますっ! みなさんの応援のおかげです! ……あっ!』

 

 いつの間にか、あたしを支えてくれた人たちが周りにいる。

 

『清島先生、ありがとうございました!』

 

 清島はにかっと笑っていた。

 

『父さん、母さん! あたし、やったよっ!』

 

 両親が涙を流して喜んでくれていた。

 

『ダイヤちゃん、ドゥラちゃん、あたしの走り、見ててくれた!?』

 

 2人がいて、その他にもたくさんの友人たちがあたしを褒めてくれて、労ってくれた。

 

 

 そして最後に残った1人。

 

 

「トレーナーさ──────────────」

 

 

 

 全てが掻き消えて黒へと塗りつぶされる。

 

 

 

 

 あなたに何も言えず、今日も夢から覚める。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

「──っ! …………はあっ……」

 

 横たえていた体を起こすと見慣れない寝室が目に入ってきた。と言っても、ここの主は紛れもないあたしなのだけれど。

 ここはあたしが借りているマンションの一室。トゥインクルシリーズを引退して学園の外で一人暮らしを始めてから半年以上経過していた。

 なのに、この寝室含め部屋の景色にはまだ慣れないでいる。

 

「またこの夢……」

 

 あの家の前の夢を見なくなった代わりに、今日見たような夢を見るようになった。

 

「……」

 

 夢の記憶を頭の片隅に追いやっていると、寝ぼけて霞がかった思考が段々と晴れてきた。

 時計を見ると、起きる予定の時間から10分ほど前だった。

 

「……顔洗お……」

 

 寝室を出て洗面所へと向かうと、栗東寮のそれとは比べ物にならないぐらい大きくて豪華な洗面台があたしを迎えた。

 日本で知らない人はいないぐらいのウマ娘になったのだからと周りの人たちに勧められ、あたしは一等地にあるこのマンションに入った。芸能界の人とか会社の社長とかが住んでいるらしく、セキュリティはすごくしっかりしていた。

 和室があるので選んだけれど一人で住むには5LDKは広すぎる。せっかくだからとこの部屋を不動産の人にも勧められたけれど持て余しているのが現状だ。トロフィーを飾る部屋や、マシンをいくつも搬入して筋トレ専用ルームを作るなど部屋はそこそこ有効活用できているけど、リビングもものすごく広くてがらんとしていて逆に寂しさを感じる。契約更新のタイミングで違う部屋を探そうかな……

 

 そんなことを考えながら顔を洗った後、洗面台の鏡を見て髪を梳かし始める。

 

「…………」

 

 鏡に映る自分の顔は、あの頃よりも少し大人びている気がした。

 

「……よしっ」

 

 髪と尻尾を梳かし終え、自室に向かい寝間着からランニングパーカーに着替える。このあとは日課である朝のロードワークだ。ブラッシングは寝癖を始末する程度に抑えた。顔を隠すためにフードを深く被るので、どうせ頭髪は他の人に見えないし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 まだ薄暗い中、早朝の空気を感じながら走っていく。今は8月と夏真っ盛りだけれど、この時間帯はまだ空気に爽やかさを感じられ、走っていても気持ち良かった。

 

「はっ、はっ、はっ」

 

 いつものアスファルト、並木道、そして徐々に赤みを帯びてくる空。

 明るくなって照らされる大きなビルボードの広告が見え、そこには勝負服を着たあたしがこっちを見て笑ってた。

 

「はっ、はっ……ふっ!」

 

 ペースを上げて、いつもの道を駆けていった。

 

 

 

 

 ロードワークの最終盤、今走っているこの河川敷沿いを抜ければマンションに着くといった時に、杖をついて歩いている老婦人が前方に見えた。それだけなら気にならないのだが、その歩いている様子がおかしいことに気づいた。

 

「……ん?」

 

 不自然な歩みが目につき、ぎこちない歩き方だった。脚だけの動きになって上半身を使えていない感じだった。

 

 考えるまでもなく、あたしはその老婦人に話しかけた。

 

「どうかされましたか?」

「えっ……痛たたっ」

「っ!」

 

 バランスを崩しそうになった彼女の身体をとっさに支え、彼女の話を聞いた。

 

「ごめんなさいねえ。ちょっと腰が痛くなって──」

 

 話を聞くところによると、彼女は元々の持病の影響で腰痛があるらしい。今日はすこぶる調子が良いから散歩に出てきたのだが、いつもより長い距離を歩いていると腰痛が酷くなってきて今に至るとのことだった。

 

「やはり年を食うと無理は出来ないわね」

「でも、その心意気はご立派だと思いますっ! お家はどこですか? あたしがおぶって送ります!」

「そこまでご迷惑をおかけするわけには……」

「大丈夫です! 力と体力には自信があるので! あたしに、お助け大将にお任せください!」

「……お助け大将?」

「……あ」

 

 つい口走ってしまった。

 

 背の低い彼女がフードの下のあたしの顔をまじまじと見つめていた。

 

 ……もしかして、()()()()? 

 

「お嬢さんもしかして……キタサンブラックさんかい?」

「えっ……いやー……あはは。はい、そうです」

 

 あたしに関する色々なことをメディアで特集される中で、あたしの“お助け大将”という愛称も取り上げられている。それが世間一般的に浸透しているのだと、目の前の老婦人を見て改めて実感させられた。

 

「まあまあ! まさか本物だなんて……私、トゥインクルシリーズが昔から好きでずっと見ているんです。キタサンブラックさんのことも、ずっと応援してましたよ。孫もあなたの大ファンなの」

「ありがとうございます! ……って、それよりも! やっぱり私、おぶって送ります!」

「……すまないねえ。携帯を家に置いてきたものだから、主人に連絡も取れなくて弱っていたの……。お願い、出来るかしら?」

「お任せください!」

 

 お願いされたあたしは彼女をおぶって駆けていった。

 彼女の誘導によりたどり着いたのは昔ながらの日本家屋の平屋だった。

 

「ここで大丈夫よ。本当にありがとう。助かったわ」

 

 玄関前で彼女を下ろした。玄関へ向かって何歩か歩く姿を見たけれど、やはりまだ腰は痛そうだった。

 

「いえいえ! お役に立てたなら嬉しいですっ。それではこれで」

「あ、キタサンブラックさん、ちょっと待っていただけるかしら」

「はい?」

 

 老婦人が玄関の戸を開けると、彼女の夫を呼んで何かを話していた。目が合った時に夫に会釈すると、彼も驚いたような表情を見せた後、何度も頭を下げて感謝の言葉をくれた。物腰が柔らかくて優しそうな老人だった。

 夫婦の話が終わると夫だけ家の中へ消えていき、老婦人だけこの場に残っていた。

 

「もう少し待っていただける?」

 

 その様子を見て、たぶんお礼かなにかだと思った。

 

「お礼とかはいらないですよ!」

「そんなわけにもいかないわ」

「いえ、本当に大丈夫ですから──」

 

 と、応酬を続けるうちに夫がまた玄関に戻ってきた。彼の腕には何かを新聞紙で包んだものがあった。

 

「これ。もらってちょうだい」

 

 夫から手渡されたのは新聞紙にくるまれた色とりどりの花束だった。沢山の種類の花があり、鮮やかな花弁が踊っていた。「これは向日葵、こっちはダリア、こっちは睡蓮……」と言う風に、花をひとつひとつ説明してくれた。

 

「家の裏庭で育てている花なの。貰ってくれるかしら」

 

 貰うかどうか少しだけ逡巡したけれど、せっかく自宅で育てている花を採って渡してくれたのだから無下には出来なかった。

 断った方が悲しませてしまうし、何より素直に嬉しかった。

 

「……ありがとうございます! 家に飾らせていただきます!」

「そう言ってくれると嬉しいわ。裏庭で私と主人だけに見られるより、花も喜ぶと思うの。それと、これはお礼じゃなくてお願いなのだけれど……あなた」

 

 夫は家の中から何かを持ってきた。

 

「あ、これ……」

「そう! あなたの有馬記念よ」

 

 それはトゥインクルシリーズを取り扱っている雑誌で、彼が開いたページにはラストランの有馬記念のゴール前の写真が載っていた。

 

「厚かましいとは思うのだけれど、ここにサインをお願いできないかしら? まだ小学生になったばかりの孫が遠くにいるのだけれど、あの子にあげたくて。あの子あなたの大ファンで、将来はトレーナーになるんだって言っていて」

 

 答えは決まっていた。厚かましいなんて全く思わなかった。

 このご夫婦も、お孫さんも喜んでもらえるなら。

 

「はいっ! あたしのサインで良ければ!」

 

 

 ◇

 

 

 マンションに戻ったあたしは貰った花を花瓶に生けた。それをリビングに飾ると、部屋が一気に華やいだ雰囲気になった。

 人助けをしたという達成感と、あの老婦人の嬉しそうな顔を思い出してこちらまで嬉しくなった。

 

 それからはシャワーを浴びて汗を流し、髪を乾かしながらリビングの椅子に座ったあたしは何の気なしにテレビをつけた。

 

『──今日は先日のSDTのエクステンデッド部門……長距離戦で見事優勝を飾ったウマ娘、キタサンブラックさんにお話を伺います!』

 

 テレビにはトレセン学園で記者の質問に答えるあたしが映っていた。数日前に受けたテレビ取材のやつだった。

 SDTのレースのことを話題の中心にしたインタビューだった。画面の中のあたしは元気よくはきはきと喋っていた。

 

『次の目標をお聞かせください』

『WDT優勝です!』

『WDTもエクステンデッド部門で挑戦を?』

『はい! WDTで結果を残せたら、来年からはロングやインターミディエイトにも挑戦する予定です!』

 

 そんなやりとりをして、あたしへのインタビューは終わった。

 

 花瓶に飾った花やこうやって自分が口にしている姿を見ると、もっと頑張ろうって気持ちになる。

 

 

 

 そうしてまた今日が始まる。

 

 

 

 次のレースへ向けて、あたしは走っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 それから半月後の8月末のこと。

 

 トレーナーさんのウマ娘6人全員が最後の未勝利戦に敗北した。

 あたしはトレーニングの休憩中に、スマホでそのレースをリアルタイムで見ていた。

 

 最後に残ったウマ娘のレース結果は5着だった。

 

「……うそ」

 

 トレーナーさんは去年5人、今年6人の計11人を担当して、誰一人として勝たせることができなかった。

 

 今年の6人については全てのレースを映像でチェックしていた。この6人も去年の5人と同じく、メイクデビューでは全員が最下位かブービーだった。

 しかし、レースを重ねるごとに順位は上がり、今のレースのように掲示板に入れているウマ娘が何人もいた。最下位やタイムオーバーばかりだった去年とは違い、確実に成績は向上している。去年よりも色んな距離や条件で出走させていて、ウマ娘のフォームも洗練されていっているように見えた。おそらくこれはトレーナーさんの手腕だ。

 

 けれど、結局未勝利戦に勝てなかったのは同じだった。

 

「今年も……? 振り分けられるウマ娘って言っても…………でも、これは……」

 

 11人も担当してトレーナーさんが勝たせられないなんて流石におかしい気がする。トレーナーさんと清島の指導を経験して結果を残した今のあたしなら、当時のトレーナーさんのトレーニングがいかに良くできていたかも理解できる。実際に今年の6人もフォームは修正できて最初と比べたら雲泥の差だし、メイクデビュー最下位周辺から最後は掲示板に乗ったウマ娘が何人もいることを考えれば大きく進歩している。

 

 でもそもそもの話、残っているウマ娘だからってみんながみんなこんなに遅いわけじゃない。2年連続でこれは……

 

「……もしかして……?」

 

 ──意図的……? 

 

 そう考えればこれだけ遅いウマ娘ばかりなのがしっくりくる。

 もしそうなら、ほぼ100%あの糸目の男が絡んでいるのだと思うけど……

 

 

 ……駄目だ。あたしじゃ考えても理由は分からない。

 

 このことをあの糸目の男に話だけでも……それで…………いいや、そんなことをしたら振り分けに対して運営側でないあたしが関わるようなものだ。無理な話だと思うし、現実的じゃない。

 それにトレーナーさんを早く中央に戻してもらうのと引き換えに、彼のことには口を出さないと約束してしまった。もうあたしの言うことなんて糸目の男は聞いてくれないだろう。

 

 

「…………」

 

 いつもの結論……あたしにできることは何もない。

 

「……あたしは……」

 

 こうやって自分の無力さを感じた時に思うことがある。

 

 GⅠをいくつも勝った。DTLで名ウマ娘に勝った。

 そんなあたしはあの頃から何か変わったのだろうか? 何かできることが増えたのだろうか? 

 

 テレビやSNSではあたしを賞賛する言葉や美辞麗句ばかりが並んでる。まるで偉大なことを成した偉人のように、20歳に満たないあたしが持ち上げられる。

 GⅠ7勝という結果は確かに誇れるものだ。多くの周りの人の支えがあって、あたしの努力と……才能があって、それが実を結んだ。ライブやメディアの出演も頑張って、みんなに喜んでもらった。

 

 

 でも、それだけ。

 

 

 それだけなんだ。

 

 

 あたしという中身はあの頃からの何も変わってない。何もできることは増えていない。

 

 

 

 今も昔も、あたしは走ることしかできない。

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 それから1年後の8月。初めてトレーナーさんのウマ娘が勝った。青鹿毛のロングヘアーのウマ娘だった。

 

「やったっ……よかった……」

 

 まるで自分のことのように嬉しかった。

 

 スマホには大逃げするウマ娘を放っておいて2番手から押しきってゴールしたそのウマ娘が映っていた。……まるであたしの走りを見ているようだった。

 

「…………」

 

 嬉しさと一緒にもやもやっとしたものが胸に去来する。

 

「……?」

 

 なんだろうこれ……? 

 

 でも、何はともあれトレーナーさんは勝利を手にした。担当ウマ娘に勝利をプレゼントしてもらえたんだ。

 

 映像では、ゴールした青鹿毛のウマ娘が一目散に観客席の方へ走っていくのが映っていた。それをカメラが追って行って、その先には──

 

「──っ」

 

 ──その先には男性の姿があった。あたしはその男性の姿がはっきりと映る前に映像を閉じた。無意識的な行動だった。

 

「……なんで、あたし…………」

 

 なぜそんなことしたのか自分で自分のことが理解できなかった。

 

「……でも、これで……」

 

 トレーナーさんは一歩を踏み出せたはずだ。これから先、彼はあの青鹿毛のウマ娘と共に歩んでいくのだろう。

 そしてまた、新たなウマ娘たちと出会っていく。

 

 

 

 

 

 これで……これで、良かったんだって、そう思った。

 

 

 そう思うことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてまた、あたしはレースへと向かっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──それからさらに数年の月日が流れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「待たせた」

「うん。ターフで会うのはあの宝塚以来だね」

「……ありがとう、キタサンブラック。君は本当にずっと“最強”でいてくれた。おかげで私は何も見失わずに済んだ。……今こそ“最強”に挑戦させてもらう……!」

「……始めようか、ドゥラちゃん。あたしは強いよ……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『さあ! 世界の最強ウマ娘たちが最後の直線に入ってきた! 今年はこのドバイで、このメイダンレース場で世界一となるのは誰だっ!?』

 

『キタサンブラックが先頭で逃げるっ! 追ってくるのは────』

 

『しかしっ、キタサンブラックだっ!!!!! 見事な逃げ切りーっ!!!!!』

 

『キタサンブラック、初めて世界の頂点に立ちました!!!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がつけば、トゥインクルシリーズよりDTLに在籍している期間の方が長くなっていた。

 

 

 

 DTLで勝ち続けた。

 

 復帰したドゥラメンテと決着をつけた。

 

 世界のウマ娘相手に勝利した。

 

 

 

 時々、学園内で彼が歩いているのを遠目に偶然見かけることがあった。

 隣にいるのは真面目そうな青鹿毛のウマ娘であったり、騒がしいウマ娘と落ち着いたウマ娘の2人であったり、最近では芦毛のウマ娘であったりした。

 

 

 

 月日が流れ様々なことを経験した。考え方も少しずつ変わり、昔の自分も振り返れるようになった。

 

 

 昔の……トゥインクルシリーズを走っているときのあたしは、トレーナーさんにあたしのことを見てほしかったんだ。

 あなたのおかげで今のあたしがあるんだって感謝の気持ちを伝えたかった。夢を叶えたあたしの姿を見てほしかった。その上で、あたしの走りや歌で彼に喜んでほしかった。

 その気持ちはDTLでも続いていた。あたしがレースを走る限り、彼があたしを見ている可能性はゼロじゃないから。

 

 でも今になって思う。結局、それらはあたしの願望で、それ以上でもそれ以下でもなかったんだって。

 

 トレーナーさんに見てほしいのはあたし。感謝を伝えたいのもあたし。あたしの走りであなたに笑顔や元気をあげたいのもあたし。あなたに喜んでほしい。嬉しい気持ちになってほしい。

 全てあたしの願望。全てあたしがしたいこと。

 

 こう考えてしまうと、あたしが自分のことしか考えていないじゃないかと悩んだこともある。でも、年を重ねて多く出来事を経て、多くの人と接したことで答えが出つつあった。

 どんな人のどんな願いや願望であれ、結局はその人自身のためでもあるんだ。別におかしいことじゃなくて、それが普通のことだということ。

 それらを踏まえた上で、トレーナーさんに感謝を伝えたい、元気や笑顔をあげたい、喜んでほしいって思いはやっぱり変わらなかった。

 

 

 

 

 でも、それを届けるのはあたしじゃなくていい。

 

 

 

 彼に走ってる姿を見せるのは、歌を届けるのは、勝利を届けるのはあたしじゃなくてもいいんだ。

 感謝を伝えるのは、元気や笑顔をあげるのは、喜ばせてくれるのは、キタサンブラック(あたし)じゃなくていい。

 トレーナーさんが担当するウマ娘がしてくれたらそれでいいんだ。

 

 

 トレーナーさんのことは今でも分からない。おそらく分かる日は来ない。拒絶される可能性を考えると、彼と言葉を交わすなんてできない。

 あたしのことなんて大切に思っていなくて、あたしの存在を忌避していても何らおかしくない。他の誰でもない彼があの日にそう言ったのだから。

 

 

 けれど、あの青鹿毛のウマ娘のように新しく担当しているウマ娘のことはきっと大切に思っているだろう。

 

 

 結論として、あたしから彼にできることはないし、それをあたしは望まない。

 

 前からと一緒だ。あたしはあたしの道を。彼は彼の道を。その中で、あたしは離れた場所で彼の幸せや喜びを願っている。これでいいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──なんて、理屈だけで自分の気持ちを騙せたならどれだけ良かったか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 考えが変わったなんて嘘。

 

 望まないなんて嘘。

 

 これでいいなんて嘘。

 

 

 

 あたしじゃなくていいなんて……嘘。

 

 

 

 

 なぜなら、あたしは今でも走り続けているから。レースをやめる気なんて一切無いから。

 今のあたしの在り方が何よりそれを証明している。

 

 大人になったあたしが表面的な理由を考えただけのこと。思考が気持ちや想いと一緒だとは限らない。

 

 

 

 あたしは成長して大人になった。競技者としても圧倒的に成熟した。

 キタサンブラックという存在と、それを取り巻く環境は大きく変わっていった。

 

 

 

 でも、中身はどうだろうか? 

 

 

 

 確かに大人になった。年を重ねるに従い考え方や物の見方は変化していった。

 

 

 しかしこの中身は……あたしの根本的なものは何も変わっていない。

 

 

 あのノートを読んで、引退レースの有馬記念でライブをした時のあたしが今もここにいる。

 

 

 一方で、あたしの心以外の何もかもが変わってしまっている。環境も、周りの人達も……トレーナーさんだって、新しい担当ウマ娘たちと一緒に歩んでいる。

 みんながみんな、前へ向かって進んでいる。

 

 

 

 

 あたしの心だけがあの場所から歩き出せていない。一歩も前に進んでいない。

 

 あたしの心だけがあの時から進んでいない。時計の針はずっと止まったまま。

 

 

 

『あたしの走りで、あなたに笑顔と元気を届けられましたか?』

 

『あたしの歌で、あなたに感謝の気持ちを伝えられましたか?』

 

『あたしは、あなたの夢になれましたか?』

 

 

 

 あなたの答えは返ってこない。

 

 

 

 

 

 

 

 あそこに、あたし独りだけが取り残されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 だから、あたしは今でもレースを走っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナーさんとあたしが2人で走る未来なんて、世界が終わったって訪れないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 この日はサトノダイヤモンドに誘われて、サトノ家の屋敷のテラスにて2人でお茶をしていた。

 

「どうして、そこまでして走るの……?」

「……え?」

 

 先程までは和やかにお互いの近況を話し合っていたのに、彼女は唐突にそんなことを口にした。

 

「身体、限界なんでしょ? ……もうレースはやめよう?」

「……身体のこと、どうして知ってるの」

「…………」

 

 彼女はばつが悪そうに目を逸らした。どこからか情報を掴んでいるらしい。

 

「心配してくれてありがとう。あたしは全然大丈夫だよ。ダイヤちゃんが心配するような──」

「嘘っ!!」

「……ダイヤちゃん」

「身体中の関節がボロボロで、これ以上酷くなったら手術しても後遺症が残るかもしれないこととか、脊椎の問題で足の痺れや痛みが酷くて日常的に痺れ止めや痛み止め使ってることとか…………知ってるよ」

 

 彼女の言ったことは事実だった。サトノ家の情報網を駆使すればあたしの情報なんてすぐに手に入るだろう。

 

「そこまでして走るキタちゃん見てられないよ……」

「……ウマ娘に限らず、アスリートにしたら悪くなってる部位を手術するのも多少後遺症が残るのも珍しくない。痺れも痛みも休養取れば無くなるから本当に大丈夫だよ。薬飲むのはどうしてもトレーニングしなきゃいけないときだけだから」

「……今すぐ引退してなんて言わないから、せめてレースもトレーニングも強度を落として──」

「それはできない」

「どうしてっ? DTLはショーでもあるんだから、命を懸けて走らなくてもファンは喜んでくれるよっ。トゥインクルシリーズから今日までずっとトップにいたキタちゃんなんだから、誰も文句は言わないよ……」

 

 彼女が心の底から心配してくれているのが伝わってくる。でもあたしの答えは決まっている。

 

「……あたしにはそれしかないから」

「ドゥラメンテさんとは一緒に走れたよね? 世界でもベルデス家の至宝(Golden Horn)を倒して最強を証明したよね? それ以外に何かあるの?」

「…………ごめん、ダイヤちゃん」

「……教えてくれないの……?」

 

 もちろん、あたしが走ることでファンや応援してくれる人に喜んでもらうためでもある。

 

 でも、いくら彼女が親友であってもトレーナーさんについては話せるわけがなかった。

 

「……ごめんね。あたしは走りたいんだ」

 

 

 現状を打破する方法なんてない。遠くない未来、あたしは引退して、トレーナーさんはトレーナーを続けていくだろう。あたしたちは交わることなく終わる。

 

 

 でもDTLを引退したらもう走りや歌をトレーナーさんに届けられなくなってしまう。その機会を永遠に失うことになる。ゼロではなかったものがゼロになる。

 

 

 レースをやめたら、あたしとトレーナーさんの間で繋がっているかさえ分からないか細い糸が永遠に切れてしまうような気がして。

 

 

「でも、流石にもう限界なのは分かってる。本当に身体が耐えられなくなったら引退するよ。今も清島先生にちゃんと管理してもらってるし、医師の人にも診てもらってるから心配しないで」

「…………」

「今日はありがとう。ダイヤちゃん、お仕事頑張って」

「……うん。またね、キタちゃん」

 

 あたしは席を立ち、そして屋敷を去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……キタちゃんのうそつき」

 

 キタサンブラックが去ったあと、サトノダイヤモンドはそう呟いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 あたしの身体についてはトゥインクルシリーズの頃からずっと清島に管理してもらっている。特にDTLに入って何年も経った今はフォームチェックなどを頻回に行ったり、最先端の身体ケアも多く取り入れてもらっている。彼はその最先端のケア方法の導入や、故障について多くの知見を学ぶために、多忙なスケジュールの合間を縫ってアメリカやヨーロッパ、オセアニアにいる外国の有名トレーナーや研究機関へ赴いて話を聞きに行ってくれている。あたしも一緒に海外へ付いていったことも数え切れないほどある。

 

 余談だけれど、アルファーグの名は海外でも知れ渡っているので、その際に現地の関係者から日本に興味のあるウマ娘を紹介されることが多々ある。だから最近は海外生まれのウマ娘がアルファーグに多く所属している。今年入ってきたグラスワンダーやエルコンドルパサーも、彼がアメリカへ訪れた際に現地の育成クラブの関係者から紹介されてウチに来たのだ。

 

 あたしが走りたい限り、最後まで力になってくれると彼は言ってくれている。

 でも、あたしの身体が限界に達したと彼が判断した時には、あたしはDTLを引退することになっている。これは納得のいくまで話し合って決めたことで、あたしも納得している。

 現状、あたしの身体に相当なガタが来ているのは事実だ。“限界一歩手前まで来ている”とは清島の見解で、あとひとつでも大きめの故障や古傷の悪化があればその時点で引退だと言われている。

 

 ……今更ながら、清島には本当に感謝している。あたしを成長させてくれたことはもちろん、並の一流トレーナーならあたしの身体は10年も持たなかったし、ここまであたしが走るのを許可してくれなかっただろう。

 客観的な事実として、キタサンブラックは不世出のウマ娘だ。そんなウマ娘が常識では考えられないぐらい長い期間走って大怪我を負ったとなれば、そのトレーナーへの厳しい非難は免れないだろう。そのリスクを清島は負ってくれている。数年前からあたしを走らせる清島にバッシングの声があるのも事実で、そんな非難の声を受け止めながらも、あたしを走らせることに全力を注いでくれている。

 

 ドゥラメンテと決着をつけ、一度は世界の頂点に立ったあたしが未だに走る理由について、清島はただの一回も訊いてこなかった。

 ……ここまであたしのために頑張ってくれてるのだから、彼にはトレーナーさんのことを打ち明けようかと一瞬思ったけれど、結局あたしは言葉を飲み込んでしまった。

 

 あのドーピングのことがあってから、清島は“坂川”の名前を出したことが無かった。ノートをあたしに渡してからもそうだった。

 彼はあたしがノートを持って帰ったのを知っている。確信はないだろうけど、あたしがトレーナーさんについて何か思っているぐらいは清島も勘づいていると思う。

 

 

 ちなみに診てもらっている医師とは菊花賞前に初めてお世話になった女医師だ。彼女とももう長い付き合いになる。何年も前に彼女に子供が生まれてからは、世間話はもっぱらその子供のことか夫の愚痴かどっちかだ。

 身体のことについては彼女にも管理してもらっていて、精密検査なども彼女の元で受ける。医師として看過できない身体にあたしがなったらドクターストップをかけてもらうことになっている。

 

 清島と女医師、2人のどちらかが現役続行不可能と判断した瞬間にあたしのレース人生に幕が下りる。

 

 

 

 あたし自身、限界が近いのは分かっている。

 

 

 

 でも、もうここまで来てしまった。

 

 

 

 

 おそらく、このままあたしは終わっていくんだろう。

 

 

 

 

 その瞬間が訪れるまで、ただあたしは走り続けるだけ。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 サトノダイヤモンドとのお茶会からまたしばらく経ち、トレーナーさんのURAのサイトをチェックするとあるウマ娘の名前が追加されていた。

 

 

 “キングヘイロー”というウマ娘が、カレンモエの下に追加されていた。

 

 

 



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