銀河鉄道 " 令和999 " (tsunagi)
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#1 出発のバラード

 千千(ちぢ)れ舞う小雪の彼方に掠れる、天孫の竹斯(ちくし)()るが(ごと)き一筋の光跡。メガロポリスの方角を見上げながら歩いていた鉄郎は、()の微かな閃きに(すぼ)めていた肩を衝き飛ばされ、暮れ果てた雪原を遮二無二(しゃにむに)駆け出した。

 「母さん、見てよあれ。999だ。間違いない。十二月(さんじゅう)一日、午後六時着の999だ。999が帰ってきた。」

 追い付ける筈のない遥かなる光臨。白墨(はくぼく)にまみれる宵闇の空を伝い優雅に蛇行しながら舞い降りてくる、此処(ここ)では無い何処(どこ)かへと通ずる幻の架け橋。銀河鉄道株式会社、大銀河本線、銀河超特急999号。乗車出来るチャンスは年に一度。地球での停車時間は僅か六時間。年が明ける午前零時再び地球を発ち、来年の今日、大晦日の夕刻まで帰ってはこない。メガロポリスの上空を旋回するサーチライト。轟然と(そび)える宗主の要塞に溶け込んでいった瑠璃(るり)色の残像。鉄郎は見失った希望の欠片を(みつ)めて立ち止まり、治まらぬ動悸に胸を焦がした。去年もこうして入相の空を見上げ、探し求めた999の機影。其の時は未だ天翔ける鉄道車両への興味、遠い宇宙への憧れでしかなかったが、今は違う。十三歳になった鉄郎にも少しずつ()の星の仕組みが判ってきた。

 電網社会の特異点によって到来すると思われていた文明の劇的な栄華は、欲目に眩んだ妄想でしか無くビジネスベースの希望的観測でしか無く、有史より同じ過ちを繰り返し続けた人類の最期の過ちと為って、其の驕慢な歴史にピリオドを打った。解析モニターの向こうで蠢く超絶的知性があらゆる高度な社会問題を立て続けに解決していく事はなく、実世界の混沌とした軋轢(あつれき)は思考単体で太刀打ち出来る物ではない事を再確認しただけで、寧ろ、浸食する余地の無くなっていたグローバリズムの起爆剤として暴発し、更なる次元の混迷に人類を突き落としていった。

 原型を留めぬ程に肥大した資本主義。安易な合理化で、立法、行政、司法、選挙の系図をデジタル統合した途端、頃合いを見計らって電網を匐走していた鼠族に、画餅を秒単位で食い尽くされた民主主義。人類は何者かに因って検閲されたアルゴリズムに、主権も主観も主体も明け渡して、農作物と云う工業製品が地球の自然環境を蹂躙した様に、政治も経済も社会も想定を超えた過積載情報の津波に押し流され、法制度と言う首輪を解かれた市場原理の熱狂の坩堝から、電脳武装した機族が光速で爆誕。リベラルと言う羊の皮を被った歪んだ其の選民思想は、知識階級の妄想と制御不能なテクノロジーの融合した、帝国主義と共産主義の結託と言う究極のファシズムへと暴走し、ダボス会議の長老達が謳ったグレートリセットを、陰謀論と呼ばれていた脱法投資家(アナキスト)に因る国際的な談合、諸共リセットすると、旧人類の文化と歴史もオフラインにしたアーカイブの飛び地に幽閉し、先進的超人思想を崇拝して、生命の機械化を受け入れない生身の人間を執行猶予付きのインターンとして分別淘汰。研修事業先という名目の管理区域外に追放し、マイクロチップワクチンで監察する事すら打ち切って、難民から棄民へと突き落とし、機族社会の家畜に成り下がる事すら許され無い。限界強度を越えた車軸が根元からへし折れ、挫傷した人類の命運。()の脱落した車輪の下で鉄郎も又、(あえ)いでいた。

 塵芥(じんかい)の底に突き落とされて敗者が確定してから訴える人権や平和主義。そんな人類の(ざる)の様な浅知恵は、生身の人間の国内法でしかなく、禁を解いて掲げた破防法ですら、人智を超えて自立した重機の力学の前では雑音以上、鼻歌以下の代物だった。パトロンの提灯担ぎと数字だけを追い求める三文記事で公害化し、ジャーナリズムとは名許りのシャーマニズムに堕した、マスコミと言う狼少年と、大衆の絶望的な白痴化によって自己顕示欲の墓場と化したソーシャルメディアは、プライバシーの濫獲、欺瞞と利益誘導の超過積送信に明け暮れ、合法マフィアの資本家に使い捨てられた職業左翼の残党は、機族と全面戦争の最中、機族に易々と買い叩かれ、非暴力や機族の人権を訴えて裏から人類の足を引っ張り、(しか)も其の挙げ句、団結した自由と平等と正義を叫ぶヤラセの反戦デモ迄もが、一定の熱量を超えた途端事務的に一掃され、稀少鉱物より軽い人の命が焼却燃料の山と連なり、形式的な猿芝居として解析処理された民族や国家は、最適化と言うシュレッダーに掛けられ、極度に集積化した事業体を駆け巡る情報と契約のアルゴリズムが、完全に此の星を運用し、進歩と発展を謳うドグマが太陽系を越えて其の菌糸を伸ばし続けている。

 地球は最早、生命の宿り木では無かった。原子力資源を独占する一握りの資本家が石油化学事業に対抗する為、学会を買収してでっち上げた、科学的根拠の無い利権塗れの脱炭素キャンペーンに因って、世界のエネルギー政策と経済は混乱を極め、森林資源は二酸化炭素と言う息の根を止められて枯渇し、再生可能エネルギー増産の名の許に、北極圏と南極大陸の氷河迄をも引き剥がしてレアメタルの採掘した挙げ句、地底に封印されていた天文学的な量の放射性物質を掘り起こし、行き場の無い使用済み太陽光パネルを始めとする非炭素系エネルギーインフラの世紀末的規模の残骸は、一部の先進国がリサイクルの実用化に漕ぎ着けた物の、莫大なコストに因って破滅的な補助金を投入しなければ採算の見通しが立たぬ、死の廃棄物で在る事を再確認しただけで、後は唯只管(ただひたすら)、重金属を垂れ流し、地球の表土と地下水脈を再生不能に貶めた。荒業化を究める機族達は、環境プロパガンダと抱き合わせに、汚染という概念を管理区域外に体良く締め出しただけで、人類の夢見た持続可能社会と言う欺瞞を嘲笑い、一部の激甚放射性廃棄物を大気圏外に投棄する以外あらゆる産業廃棄物を地上に放擲し、気象変動や土壌や海洋の重酸化を単なる物理的表象と却下して、地下資源の濫掘による頻発地震ですら、免震構造のメガロポリスから漫然と見下していた。生態系の保護も数奇者(すきもの)の懐古趣味に過ぎず、一部の自然環境が観賞用のジオラマとして模造されているのみ。絶滅か変異か、機属する術の無い行き詰まった動植物の惨状に、沈黙の春すら眼を伏せて素通りし、他の惑星や遊星コロニーへと移住出来ない生身の人間は、自らが害虫害獣呼ばわりしていた生物と肩を並べ、機族文明の吐き出す汚物の養分を(すす)り生き延びているだけ。今や此の星の未来を語る人類も居なければ、人類の歴史を振り返る者すらいない。()してや、電脳化する遥か以前に、人類が見失っていた其の心なぞ、望む()くも無い。

 今日も一日、鉄郎親子は水と食料、換金出来る廃材を求めて、最終処分場だった埋め立て地を、其の昔、環境循環型都市を(うた)っていた無人の旧市街地を、大型プラントの廃墟を、津波に削られた(まま)千里生色(せんりせいしょく)なき磽确(こうかく)たる更地を歩き続けた。メガロポリス周辺の落ち()を奪い合い殺し合う人々の狂騒、新種と変種が日々更新される感染症ベルト地帯を避け、見捨てられた者達すら見捨てた(あだ)し野に潜む、声なき声に耳を澄ます。其れが二人の生きる知恵だった。汚染物質を蓄積していない草の根や木の実、浄化すれば飲める溜まり水を見極め、メガロポリスの下水処理施設や郊外のプラントで散布される凍結防止剤の塩化カルシウムを回収し、(うづ)もれた鉱物の玲気(れいき)感応(かんのう)し掘り起こす。傍目(はため)には零の確率を鉄郎の母は有り得ない精度で探り当てた。倒木に一輪の花を咲かせ、沙漠(さばく)潮騒(しおさい)を呼び寄せる奇蹟の所業。其の超然とした異能は地震を予知し、メガロポリスの貧民窟で渦巻く詐術、讒言(ざんげん)、背信を看破し、日々生死の淵をなぞる親子の命を導いた。か細き母の指先が告げる(たえ)なる恵示。鉄郎は何の疑念も覚えず、秘やかな羅針の揺らめきを有るが儘に信じて育った。

 風を抱き、地脈と(むつ)み、夜露を爪弾き、暁を待つ。廃材を寄せ集め補強したプレハブの一間で鉄郎が深い眠りから覚めると、母は既に小屋の脇に盛られた残土の頂に身柱(みばしら)を建て(みなぎ)っている。(あたか)()にし()口碑(こうひ)から黄泉帰(よみがえ)った巫女の(ごと)く、東雲(しののめ)静寂間(しじま)に其の身を(すす)ぎ、霞の(もり)に分け入ると、半死半生(はんしはんしょう)()した自然の吐息を神薙(かむな)ぎ、其の堅く閉ざした瞼を走る微かな(おのの)きに心を凝らす。

 時が満ち、盛土に添うて進み出る爪先。顎を引き、左手を軽く結ぶと、(おもむろ)に右の(かいな)を遥か(ゆか)しき明仄(あけぼの)へ手向ける。鉄郎には見えた。真一文字に差し伸べたの手の中で(さかき)が萌え盛り、紫立ちたる英気が(ほとばし)るのを。肩口から水平に(かざ)す甲の先を一点に見据える研ぎ澄まされた面差し。独りの女として期する(りん)とした自負を超え、陶然として犯しえぬ境地。それは母にして母に(あら)ず。人にして人に非ず。天孫の蚕糸(さんし)(まと)い、道無き世に(くだ)り、諦斬(ていざん)緘黙(かんもく)せる焦土を(しげ)く。万里(あまね)旭日(きょくじつ)五色(ごしき)棚引く巻雲(けんうん)神代(かみよ)の調べが聞こえる。太古の眠りを言祝(ことほ)ぎ、陰陽を()して穢魔(えま)(はら)う、忘れ去られた在りし日の舞い。逆光を背に彼我(ひが)真秀場(まほろば)を巡る弱竹(なよたけ)の身ごなし。闇に融けていた黒髪が(きら)めく。吐胸(とむね)の高鳴りに踏み鳴らす大地。天照(あまて)らせ玉緒(たまを)鈴生(すずな)り。(こと)()(さき)はふ(ほま)れ。

 今日一日の収穫を祈り恵方(えほう)を占う恍惚の隻影(せきえい)を、鉄郎は醒めない夢の様に仰ぎ明兆(みょうちょう)を待つ。見えぬ物が見え、聞こえぬ物が聞こえ、形亡(かたちな)き物に触れる。母は偽り無き者の(はか)らいを(たまわ)る何者かであった。然し、その霊活(れいかつ)な洞察力を持ってしても、荒野の不毛に屈するしかない時がある。現に一時間程前から降り始めた雪から逃れる為、明日、新しい年を迎えると言うのに、何の収穫もないまま家に引き返す事を二人は()いられていた。空腹と疲労を引き擦って踏み締める帰路。大気汚染物質で変色した死の結晶は飲む事が出来ぬばかりか、長時間浴び続けると頭痛や吐き気を催し、目眩(めまい)を起こして膝を付けば、氷室(ひむろ)(ひつぎ)に葬られる。茶褐色に変質した土嚢(どのう)袋を継いだ外套(がいとう)の縫い目から、(くつ)の代わりに爪先から踵に掛けて巻いてある葦の隙間から、酸性の痺れを伴う冷烈(れいれつ)がジリジリと染み入る。こうなると暫くは表を出歩く事すらままならない。大した蓄えもない小屋の中でどうやってこの無慈悲な冬を(しの)いだら良いのか。

 極限の飢餓と対峙する予感に鉄郎は戦慄した。本能とは猛り狂う野獣だ。人間の意志なぞ肉体の煉獄(れんごく)に突き落とされた流刑囚でしかない。絶食が五日を越えると、ガラッガラにささくれた胃壁と横隔膜の捻転(ねんてん)が世界を歪曲し、骨の髄から決壊した悪寒が全身の毛穴を駆け巡る。昼日中でも(またた)く度に視野を埋め尽くす星々。三半規管を乱打する半鐘(はんしょう)。膝が抜けて寝返りを打つ事しか出来ず、力の入らない肛門から内圧に負けた腸が捲れ上がる。(わず)かな飲み水だけで約半月、何も口に出来なかった時は、砂埃しかない小屋の中で横になったまま、魔性の化身が(ささや)く有りと有らゆる悪徳と闘い続けた。人の皮を剥げ。理性とか言う化けの皮を引き裂いてしまえと説き伏せる幻聴。

 (きゅう)すれば小人(しょうじん)相濫(あいみだ)れる。メガロポリスの貧民窟にこびり付いている鉄郎と同じ年の孤児達は、旧世紀、未成年者の性交渉権を秘かに吹聴する、LGBTQ+の推進に因って合法的に市場開放された児童売春に身を投じ、一時(ひととき)の間食と引き替えに感染症で死んでいく。空腹は人間のあらゆる屈辱や痛覚を貪り卑賤な臓物を暴き散らす。

 葦を枯らして流れる赤銅(しゃくどう)色の廃液。三途の川に浮かぶ、メガロポリスの私生児と浮浪者達の(もつ)れ合った(しかばね)を喰らい尽くす、肥沃(ひよく)な蛆の(うごめ)き。その艶やかに張り詰めた乳白色の粒の泡立ちが、炊き出しの玄米にしか見えなくなる惑乱。そして実際、鉄郎は知らぬ間に汚染された(むし)の死骸を口にしていた事がある。()れも一度や二度の事ではなく、其の都度、母に頬を打たれて吐き出すまでその衝動に気付かない。ザラザラに干涸(ひか)らびた舌の上に残る節足の爪痕(つめあと)と渋い体液。呑み込む事の出来ない死の影を舐めた後味。母の眼がなければ鉄郎はとうの昔に六道(ろくどう)坩堝(るつぼ)()していた事だろう。

 どうにかして此の終末同然の世界から這い上がりたい。999でなくとも良い。メガロポリスを旋回する一筋の機影が、高圧電流を帯びて垂れ下がる蜘蛛の糸だとしても、地球以外の領域へ行けるのなら、南瓜(かぼちゃ)の馬車でも紙のロケットでも構わない。太陽系外には移住した生身の人間が主権を確保し繁栄している遊星やコロニーもあるという。そこに辿り着くか、それとも、機械の体を手に入れて・・・・・・

 

 

 「鉄郞(てつらう)、雪が眼に入るわよ。」

 闇に色めき闇と消えた狐火に魅入られ、身動ぎ一つせぬ我が子の背に母が声を掛ける。鉄郎は思わず邪険な言葉が喉元で支えた。(まつげ)を掠め頬を刺す酸性雪より()()る其の優しさに、今どんな顔をして振り返れば良いのか判らない。

 「999に()つて(かへ)つてきた人は(ひと)りもゐ無いつて()はれてゐるわ。」

 「そんなの只の噂だよ。」

 「ぢやあ、機械の(からだ)を只で吳れる星に行けると云ふのも、只の噂ね。」

 母の言う通り鉄郎にとって999の存在は、人語に上る断片を寄せ集めた御伽噺(おとぎばなし)でしかない。(まこと)しやかに聞こえるのは、新しい年を告げる汽笛と共に出発し、銀河鉄道全車両の中で唯一、無限軌道を制限解除で走破すると言う事くらいで、現に今、垣間見た思わせ振りな煌めきも本当に999なのかどうかすら判らない。星を売り買う富裕層が銀河を周遊する豪華寝台特急か、異界を流離(さすら)う謎の亡霊列車か、虚蒙(きょもう)(のり)する貧民窟の堕胎した粗雑な都市伝説か。機械の体を只で呉れる星に行けると言っている時点で、真に受けるのは子供だけ。そんな奇特な星が何処にあるのか、何という名前なのか、問い(ただ)した途端、泡となって弾け、惨めな現実に引き戻されるのが落ちだ。それなのに、

 「999に乗る事が出来たら、誰もこんな草臥(くたび)れた星になんか戻って来こないさ。機械化人に好き勝手にやられて何処も彼処(かしこ)も滅茶苦茶だよ。()のメガロポリスだって何時か地殻が崩壊して地の底に沈むに決まってる。そりゃあ、彼奴(あいつ)等はどんな汚染物質もパーツクリーナーで洗えば何て事無いさ。永遠の命を手に入れたエリートには、こんな苦くて酸っぱい雪も空きっ腹も関係無いんだろ。」

 雪を蹴散らし声を荒げた己の浅ましさに鉄郎は打ちのめされた。母の手に頼らず母の手を導かねばならぬ歳だと言うのに、こんな風聞を心の支えにしないと立っていられず、自ら暴いた墓穴に嵌って藻掻(もが)いているのだから(ほどこ)しようがない。疲れと寒さと空腹による苛立ち。そして、こんな空騒ぎをする気力すら、長く苛酷な冬に閉じ込められ、極限の飢餓と衰弱が押し寄せてきたら、根刮(ねこそ)ぎにされてしまうのだ。足許に()ぜた白い(つぶて)が暗示する野垂(のた)れ死にの背中。降りしきる雪を蝕む汚染物質のどれよりも自分の心が穢れている。鉄郎は或る(ひそ)かな目論見を母に押し隠し温めていた。

 木の根や木の実を幾ら囓って腹を満たしても、塩がなければ人は生きてゆけない。鉄郎親子は拾い集めた稀少金属や資材を主に工業用塩化ナトリウムと引き替えていた。貧民窟や最終処分場の周囲をトラックで回収に廻る屑屋が湧いては消え、その善し悪しを見極める事が、交換出来る品物を探し当てる事より重要だった。欺き、奪い、踏み(にじ)る。この星の遣り方を連中も忠実に履行し、隙を見せたら(つい)でに命まで巻き上げる。そんな追い剥ぎと紙一重の狐狸畜生(こりちくしょう)の一人に、外装の電脳ブースターを耳に掛けている、流木の様に干涸らびた、二の腕に筋彫(すじぼ)りの(おかな)がいた。

 生命の核を機械化した此の星の勝ち組は、管理放棄した地域に捨てた物なぞ顧みず、文明の残滓(ざんし)に群がり分解する、バクテリアの如き()()の商いは、生身の(やから)御慰(おなぐさ)みで(すた)れた試しがない。そんな百花繚乱の屑屋の中で、筋電義肢(きんでんぎし)やパワードスーツを装備している業者は数あれど、電脳ブースターとなると話しは別だ。筋彫りは見栄やお飾りで掛けているのじゃない。地金相場や換金レートを衛星回線を捕まえて確認しているのを目撃し鉄郎は驚いた。旧世代の外装基板とは言え、仮にも電脳化しているのに屑の回収をしているだなんて。こんな莫迦(ばか)は初めてだ。バッファーオーバーフローを浴びて脳に器質的な欠損でもあるのか。()にも(かく)にも、犬に論語か説法か。単にサイトの閲覧や検索をするだけでなく、演算処理と主補の記憶装置を拡張した大脳皮質で仮想空間の大海原に同期出来れば、世界が変わる。無尽蔵のサイバーハザードやセキュリティブロックの迎撃で、背乗(せの)りされ、訴追され、人格が崩壊するリスクもあるが、チャンスもある。それなのに魔法の杖を薪にして暖を取っているのだから世話がない。しかもその上、ベレッタM92を小脇に挟んだだけで、助手席と後部座席に抗生物質、葉煙草、工業用の塩化ナトリウムと代用アルコールを詰め込み、ピックアップの門型(もんがた)に飲料水のタンクを(くく)り付け、小豆(あずき)色に錆の吹いたランクル79を(ひと)りで転がしているのだ。飢えと絶望で殺気立った落人(おちゅうど)を相手に取引をするには余りに杜撰(ずさん)な備えで、出来心を誘っているとしか思えない。

 何時しか鉄郎は産廃の尾根を探索している時も、メガロポリスの地下を()う淡水化装置の配管から滴る漏水を回収している時も、集めた灌木(かんぼく)で火を(おこ)している時も、(あば)ら屋の補修をしている時も、果ては夢の中にまで筋彫りの事を想い描く様になっていた。

 廃材の基板やハードディスク、モーターやミックスメタルから抜き取った、リチウム電池、コンデンサー、水晶振動子、ネオジム磁石、金鍍金(きんめっき)の端子類、ステンレス316を(せわ)しなく検品し、鉄郎親子の存在その物を値踏みする狡猾(こうかつ)な眼差し。如何(いかが)わしくシャクれた下顎から繰り出す(とげ)しかない一方的な物言い。真冬でも砂埃を吸ったTシャツに多機能ベストを羽織っただけで立ち回る貧躯(ひんく)。腰に提げたジャックダニエルの瓶。中に詰めた代用アルコールのポリッシュで、濃紫に変色した二の腕を這う稚拙な墨の輪郭。

 初めの頃は単なる気の迷いで片付けていた。(しか)し、筋彫りとの交渉を重ねる内に、淡き随想が図太い一本の動線となり、電脳ブースターを避けて振り下ろす、鈍器の感触に逢着(ほうちゃく)した時には既に、鉄郎の意志は鉄郎の手を振り切り逆走していた。掌から肩胛骨へと突き抜ける鋼質な衝撃、物静かに倒壊していく陥没した後頭部。()まわしき邪念を掻き消そうと幾ら藻掻いても、血塗れの電脳ブースターは微粒発光ダイオードのシグナルを忙しなく痙攣させて、顳顬(こめかみ)に喰らい付いてくる。良識なぞ事の根深さを掘り起こすだけで、無駄な抵抗でしかなかった。

 彼の爺を襲撃するのが此の暮らしから這い上がり、此の星の成層圏を突破する最短距離だ。狐疑(こぎ)を巡らせている内に()(ぜん)を下げられでもしたらどうする。今の今まで無傷でいたのが不思議な位の上玉だ。お前が遣らなくとも余所(よそ)のハイエナが手を下す。誰かの餌食(えじき)になってから、奴の墓を暴いた処で何も出てきやしない。襤褸(ぼろ)を纏った自分達を雑巾の様に扱う輩に何を遠慮する必要がある。旋毛(つむじ)曲がりな奴の脳天にハンマーでも鉄パイプでも、この星から御然(おさ)らばする()きの駄賃に呉れてやれ。

 鉄郎は執拗で甘美な眩惑に屈服し、仕事の手が空くと、筋彫りの習性、行動原理、事業半径、生活形態を嗅ぎ周った。燃料を補給する為、マイクロプラスチックを回収したまま放置してある集積所跡に還元装置を持ち込んで、車中泊しているのを突き止め、身寄りもなく、仕事を終えると塩で()したポリッシュを(あお)り、セルの壊れた発電機の様に(うな)って独り眠りこけるのを、易々とその寝顔が拝める処まで近付き幾度と無く盗み見た。ランクルに防犯の人感センサーを装備している訳でもなく、取引の際、有無を言わさず一方的に喋り立てるのは難聴の所為で、陽が落ちると鳥目(とりめ)でランクルの前と後ろの区別も付かなくなるのだから、まるで闇討ちを心待つが如き高枕。鼠賊(そぞく)欲目(よくめ)を通しても、何かの罠でなければ、魔性の御祝儀か。何時でも寝首を掻ける獲物は黒極上々吉(くろごくじょうじょうきち)にて、()ぐ眼と鼻の先。にも(かか)わらず、鉄郎はその妄執にケリを付けられず、豚の様な(いびき)を拝聴しただけで、マイクロプラスチックの山を後にした。

 頭の中で悶絶する電脳ボードを夜霧で醒ます片道四時間の帰り道。筋彫りのベレッタに返り討ちにされるのを恐れたのでもなければ、良心の呵責に(かしづ)いたのでもない。()の道、待っているのは草臥れ儲けと重金属の土埃に埋もれるだけの日々。座して其の身を清めれば衆生済度衆生済度(しゅじょうさいど)の幕が開き、神助(しんじょ)が転がり込むでも無し。生き恥を曝すだけ曝して、息の根が止まるまで楽になる事はない。同じ命を削るなら、(ひぐま)の頸動脈に喰らい付く豺狼(さいろう)の様に、奇骨侠骨(きこつきょうこつ)を打ち鳴らし無法の原野に轟きたい。此の星に蔓延(はびこ)る不条理の喉笛を喰い千切(ちぎ)るのに、多少の無茶や返り血は織り込み済み。苦崖愴谷(くがいそうこく)の絶険に爪を立て、逆賊(ぎゃくぞく)の気概に奮える若い身空(みそら)に、筋彫りの反撃なぞ物足りぬ位だ。折角、腐臭に躍る雑菌を消毒してやるのに、殺生も糞もない。

 鉄郎の決意に立ち(はだ)かるのは、清く正しく美しく、(しな)やかで時に息苦しい崇高な母の生き様だった。虚偽不実の一切通じぬ聖哲(せいてつ)の視座に、強奪した電脳ボードがどう映るか。塵の山に落ちていたと言っても信じる訳がない。此の暮らしから抜け出すのに遠回りをしている余裕はないと訴えても、理路を外れた薄弱の泣き言、無用の饒舌(じょうぜつ)に耳を貸す訳がない。手段を選ばずに物質的な成果を追い求めるとどうなるのか、知りたければこの星を見渡せば良い。そう(さと)すだろう。例えそれが999のパスでも受け取らず、此の星の命に寄り添い殉職するだろう。

 鉄郎にとって、幽谷に滅する御神木(ごしんぼく)か、鍾乳石と(けっ)した仙女(せんにょ)の様な母は余りにも高潔で、己の将来と重ね合わせる事が出来なかった。霞を喰って懊悩(おうのう)(みそ)ぐだけの人生。それは英傑を仰ぐ思春期の鉄郎にとって針の(むしろ)に等しく、誰も誉め讃える事のない光貴(こうき)に浴した処で唯の独り()がりでしかない。母の背中を頼りに、亡者の(いさか)いを(くぐ)り抜け、生き長らえてきた事は確かだ。正義の敗北した此の星で、徳を高める事こそが手堅い生き方で在る事も目の当たりにしてきた。しかし、陋巷(ろうこう)の猥雑に揉まれる事を避け、綺麗事に徹しているだけでは、羽化(うか)せぬ(さなぎ)と変わらない。道無き世なればこそ道を説く、其の耳触(みみざわ)りは結構だが、道理を説いて通らぬ此の星に(みさお)を立てても、袋小路の中で迷子になるだけ。此の這い(つくば)っている汚染された地ベタに、泥に(まみ)れず拓ける道が何処にある。

 己の醜さに(のた)うつ(ぬえ)四肢(しし)の様に、幻滅と愛惜、救済と堕落の狭間(はざま)四分五裂(しぶんごれつ)に入り乱れ、闇に呑まれていく鉄郎。生きて荒魂(あらたま)の化身と成り果てるかに思えた其の時、迷う道すらない雪原に乾いた音が弾けた。立ち枯れた灌木の梢を折り、母が微笑みを浮かべて立っている。雪明かりとは違う何かが、手にした小枝を(かす)かに照らし、二人が寄り添い辿ってきた足跡をなぞる様に、穂先が新雪を駆け抜けた。

 

  遙奈流 夢路乎波世而 浮之空

     餘其騰繼流 雪晚爾轉

 

  遙かなる 夢路を馳せて ()はの空

    吉事(よごと)()がるる 雪暮(ゆきく)れにまろぶ

 

 其の人、紙墨(しぼく)すら選ばず。一点一画(いっかく)、典雅静謐に身を(やつ)楷書(かいしょ)は、黎明の孤碑(こひ)。深山流水、淀みなき草書は、時に移ろう万葉のひとひら。(しと)やかに、(しな)やかに、そして(おごそ)かに。再び帰らざる、一筆にたった一度の巡り合わせ。(しょ)()ぎる(うた)あり、哥に過ぎる()があり、画に過ぎる己の姿、一代(いちだい)過客(かかく)にして歌境(かきょう)此処に極まる。返歌(へんか)なぞ及びも付かない。胸を()一握(いちあく)の温もりに鉄郎の()てついた血潮が、調和を(しっ)した現実の断片が解晶していく。

 劣悪な星の(もと)に生まれ落ち、果てしない苦役を強いられる日々の中にあっても、母は泣き言や恨み(つら)みを決して口にせず、(しょ)(もっ)(せい)()し、(もの)を以て()と為し、絶望の画布(がふ)に花鳥風月を描き続けた。生き長らえているのが不思議な首の皮一枚の暮らし、瓦礫(がれき)の迷宮、そして、激越な気象変動に埋もれる四季の音連(おとづ)れ。其の(やつ)れた機微に眼を配る()めやかな(たしな)み。(うごめ)くだけで(さざなみ)すら立つ事のないゲル状の海、粒子状物質に掻き消された星々、墨で塗り潰した様な汚水の雨、咲く事を諦めた被子植物に往時の幽影(ゆうえい)詩趣(ししゅ)を垣間見、仕事の合間を見ては砂地に歌を(つづ)り、風に(さら)われ無地に()す薄命を(いつく)しむ。幻想への安易な逃げ道や敗北の挽歌なぞでは決してない。忘れ去られた言葉、滅び行く文字。断ち切れた紙縒(こより)を伝う最後の灯火が、(なぶ)り尽くされた風土に眠る和魂(にぎたま)を呼び覚ます。

 清貧と言う気取りすら削ぎ落とした母の古筆(こひつ)が、此の親子以外、読み書きの出来る者が何処に居るとも知れぬ言霊(ことだま)が、降りしきる雪に覆われていく。限りある物達の透徹した憂いが鉄郎の幼さを慰め、白い吐息に紛れ消えていく。雪が滲みる訳でもないのに熱い目頭。裏も表もない母の(ほが)らかな声が、揺るぎなき春の息吹を口ずさむ。

 「さあ、早く家に戾りませう。しつかり休んで新しい歳を迎へませう。」

 気が付けば今も又、鉄郎は垂乳根(たらちね)()(ごころ)の中に居た。鏡に向かって吠える犬を後ろからそっと包み込む、母聖(ぼせい)の羽衣。

 鼻の頭が支えるほど狭い荒ら屋とは言え、骨身を蝕むこの忌まわしい雪を凌ぐ事は出来る。僅かだが薪と飲み水の蓄えも有る。自分達には帰る場所が在り、其処には細やかな寛ぎが在る。食料が底を突いているのは確かに堪えるが、此までも何度となく乗り越えてきた。今は唯、疲れているだけ。風雪を侵し()えて咲き急ぐ寒梅(かんばい)とは訳が違う。こんな真冬に散り場所を探してどうする。百花(ひゃっか)(さきがけ)に眼が(くら)み平地に(つまづ)く、そんな貧民窟の小競り合いに巻き込まれずに済んだのは誰の御陰だ。万有の(かい)行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、面前に(はべ)りて、其れを見極め捉える智力が整うまで心の瞼は(ひら)かない。湖底に沈む石の様に母は静かに時を待つ。己の進むべき道は母と辿った正しき道の先に続いている。

 新しい命を賜ったかの様に言葉が内から溢れてくる。実物の花を見た事のない鉄郎の胸の奥に、母の(うた)う花々が咲き乱れる。凱風(がいふう)に翻る洗い(さら)しの稚気。夢魔から醒め、多くを語らぬ母の穏やかな眼差しから逃れる様に、外套を目深に被りながら微かに頷き、葦を幾重にも巻いた爪先で再び新雪を掻き上げる。風が出てきた。此れから吹雪くのだろう。メガロポリスの灯りを背にしたら、後は灌木が僅かに顔を覗かせているだけで、何の目印もない雪景色だ。下手をすれば勝手知ったる我が家ですら見失う。もう眼と鼻の先だからと言って気を抜き間誤付(まごつ)いていたら、芥場(あくたば)を飾る雪化粧も行き倒れの死に化粧。こんな処で道草を喰っている場合じゃない。

 鉄郎は(かし)いだ心を立て直す様に、不確かな足許を一歩一歩踏み締め、雌伏(しふく)の時を刻む。今、自分が()()き事は、此の吹雪が順風に一変する、(きた)()き瞬間に備え集中する事だ。(たと)え何一つ元手の無い身であっても、頭の中を整理し、時局の急所を衝く一撃に狙いを凝縮する事は出来る。堅き心の一徹は、石に矢の立つ(ためし)在り。耐え抜いた嶮路崕峰(けんろがいほう)の先に、必ずや善因善果(ぜんいんぜんか)の誉れ在り。酸性雪の冷鋲(れいびょう)で痺れる(からだ)の芯に一条の火柱が立ち昇る。廃材で組んだ四阿(あずまや)は直ぐ其処だ。野末(のずえ)(うずくま)る小さな影を求めて眼を凝らす。不意に、母の押し殺した声が鉄郎の逸る足取りを遮った。

 「家に近附いては駄目。」

 闇に潜む未知の何物かに感応する母の不随意筋。神聖なる啓示では決して無い。風向きが捻転し、冷烈な寒気が不吉な瘴気(しょうき)に豹変する。

 「鉄郞、逃げて。私とは反對(はんたい)方向に走るのよ。振り向かずに、兔に角逃げて。」

 (かじか)んだ指先を鉄郎の頬に添え、我が子の顔を焼き付ける様に眼を見張る。母がこんな言葉を口にするのは初めてだ。蟻塚を砕いた様な貧民窟の暴動、無差別爆撃でしかないメトロポリスの産廃投棄、その産廃の山を穿(うが)ち掻き上げるF5クラスの竜巻、メトロポリスの免震構造から摘み出された地表の総てを呑み込む津波の逆上。迫り来る惨禍兇変(さんかきょうへん)が壮絶であればある程、此の手を強く握り締めて離さず、一筋の活路へと導いたあの母が、鉄郎を其の場に残し駆け出した。全く状況が掴めず、思わず其の後を追い掛けようとした刹那(せつな)、ヴァイオレットの閃光が遠離(とほざか)る母の背を掠め、(みぞれ)(はら)む横殴りの白魔(はくま)が色めく。新雪を入り乱れる姿無き蹄鉄(ていてつ)。獣臭い息遣いまでもサンプリングされた剛性軍馬(ごうせいぐんば)(いなな)き。怒号が怒号を呼び、闇雲に交錯する光弾の条跡(じょうせき)

 人間狩りだ。メトロポリスの有閑貴族が興じる、自警団の清掃事業が(ちょう)じた、狩りとは名ばかりのジェノサイド。テント村に火を放ち、逃げ惑う者達を女子供の区別なく銃撃し、屍の山を競っては、高笑いを蹴立てて去っていく、機械仕掛けの白日夢。弱者が一ヶ所に固まって共棲(きょうせい)する事は、(かえ)って強者の食指を(くすぐ)り、御狩場はメガロポリス周辺の貧民窟と相場が決まっているのに。其れが何故、鉄郎親子以外、誰も足を運ばぬこんな荒野の果てで。しかも、確実に獲物を仕留めたければレーザーアサルトで水平掃射すれば良い物を、より機動力のあるスノーモービルに乗らず、疑似ボルトアクションとか言う奴なのだろう、連射の利かぬ好古(こうこ)趣味の小口径ライフルで、サイレンサーすら装備せずに目視での狙撃。傷を付けず生け捕りにでもするつもりなのか。

 (ちょう)して(こう)せず。(よく)して宿(しゅく)()ず。奴等は狩りを楽しんでいる。其の甘さと(おご)りが唯一の救いだが、此の吹雪の中、逃げおおせたとして、其れからどうすれば良いのか。眼を付けられて了った家にはもう戻れず、灌木が朽ちているだけの徒し野に、寒さを凌いで身を隠せる場所なぞ何処にもない。どうやって母さんと合流すれば良いのか、否、それ以前に母さんの命は。反対方向へ逃げろと言われたが、此の儘、生き別れて終う事になったらどうする。鉄郎の脚は取り残された其の場を(にじ)るばかりで、母と光弾の残像を震える瞳で追う事しか出来ない。其処へ矢庭に、

 「オイ、居たぞ。」

 誇らしげな声と猛々しき嘶きに背を衝かれ振り向くと、焼きの入った粘りのある光沢を滴らせて、クロムモリブデンの円筒が鉄郎の鼻先を捉えていた。一瞬の白撃(はくげき)見当識(けんとうしき)が砕け散る。鉛錫(えんしゃく)色に(くすぶ)る剛性軍馬の甲殻。鞍笠(くらかさ)に棚引くラインディングコートのフレア。クロム(なめ)しの重厚な胸元、肩章、領袖(りょうしゅう)(ちりば)めた金釦(きんぼたん)。そして、蜷局(とぐろ)を巻くロングマフラーの台座に()り込んだ、炭素同素体をドープしていない旧世代のチタン合金と思しき筐体(きょうたい)が剥き出しの頭部。鉄郎の腰は(くずお)れ、旋雪(せんせつ)の坩堝を引き裂き現れた鋼鉄の神馬(じんば)(ひざまづ)いた。歯の根から舌の先まで痺れて、逃げる処か命を乞う事すら出来ない。レーザーライフルの銃口に魅入られ、死の洞穴が其の隻眼を(すが)めただけで、鉄郎の魂は風穴を空けられ、つい今し方まで筋彫りの強殺(ごうさつ)(いき)がっていた気炎なぞ跡形もない。続々と詰め掛ける蹄鉄の乱拍子(らんびょうし)(きら)びやかな(あぶみ)の鈴生りに取り囲まれ、万事は玉屑(ぎょくせつ)の道連れと()し、風前に滅した。

 人工被膜で覆われていない複眼レンズを小刻みにウィービングして獲物を視姦する騎乗の魔神。こんな異形の電脳機族を鉄郎は見た事がない。機族達は日常、角質を模した合成樹脂で全身をコーティングし、一瞥では生身の人間と見分けが付かない装いをしている。中位機種以下のアンドロイドですら、申し訳程度の目鼻立ちとは言え頭部はカウリングしている物だ。其れを此の奸賊(かんぞく)共は、クラシカルな洋装に亜麻(あま)色の植毛を撫で付けていながら、人類であった頃の名残を拒絶するかの如き険相(けんそう)で、此の塵界(じんかい)(はばか)っている。まるで産廃の墓場から復活した工作機械のゾンビか、排撃に朽ちた邪神像か。その奇鉱怪銕(きこうかいい)堵列(とれつ)を、落天斬地(らくてんざんち)の恫喝が一瞬にして制した。

 「そんなガキ放つておけ。女だ、女を追へ。時間が無い。この吹雪で暗視スコープは使ひ物にならぬ。解像度は度外視して、赤外線走査をサーモグラフィに切り替へろ。誰だマイクロ波を飛ばしてゐる奴は、五月蠅(うるさ)くて敵はん。さつさと切れ。」

 殿(しんがり)に控えていた頭目が、私刑の円陣を蹴散らして現れると、騎馬の蛮族は犬橇の犬に成り下がった。大取(おおとり)は青銅鋳物(いもの)の化身だった。旧世紀のチタン合金と言う、霊超類(れいちょうるい)の優越に浸った下僕(げぼく)達の謹製(きんせい)趣味とは、囲幕(いばく)する領域の兇度(きょうど)がまるで違う。鉄と鉛の如き似て非なる粗造(そぞう)の死神。取り巻きなぞ糸で吊された機体模型でしかない。漠然とした視覚イメージであろうが、書式での指示であろうが、CADすら介さずに自動補正し、あらゆる素材で直接成形出力し得る時代に、砂型鋳造(すながたいぞう)の地肌を醜老の如き無数の皺襞(しゅうへき)が縦横に走り、殴り込んだ空間を蹂躙している。文明の仮面を剥ぎ、進化を拒絶した呪界からの使者。人工被膜の虚飾を(はい)し、緑青(ろくしやう)の酸化被膜で(ただ)れた憑魔(ひょうま)葬厳(そうごん)。まさか此は完全機械化人が産声を上げた創世記のミイラなのか。

 マシンニングで彫造された犀革(さいかく)の如き団塊の中核に、インローで()め込まれたモノアイから、猟奇を帯びたプラズマが放電している。回転ベゼルに縁取られた風防硝子の眼底で、積算尺(せきさんじゃく)のインデックスを掻き(むし)る長短の神経質な複針(ふくしん)。鏡面研磨された文字盤を血走るカドミウムレッド。頬から襟足に掛けて富士壺の様にこびり付いたベアチップを駆け巡る、珪酸(けいさん)コバルトのフィラメント。下顎のエアフィルターが排気する焼き(ごて)の如き痛罵。

 鉄郎は凡庸な群臣を一撃で睛圧(せいあつ)した総帥の槍眸(そうぼう)に衝き抜かれ、九死(きゅうし)の戦慄すら氷結した。鼻先を擽る銃口の比ではない。モノアイの魔窟に蠢く独善と狂爛(きょうらん)。見てはいけない物を見て(しま)った、禁忌(きんき)に触れた誅撃(ちゅうげき)(しん)(ぞう)を鷲掴みにされて、吐息一つ(あえ)ぐ事すら(かな)わない。

 「伯爵、此のガキを(おとり)にして。彼の女を(おび)き寄せましょう。」

 「(たわ)けが、そんな美人局(つつもたせ)の様な真似が出来るか。漁がしたければ貧民窟で騒いでゐろ。良いか、何時もの獲物とは訳が違ふ。無傷で捕らえなければ意味が無い。レーザーライフルの出力をもつと抑へろ。相手は生身の人間だ。炭にするつもりか。女の足跡を踏み荒らすな。獲物は直ぐ其処だ。行くぞ。

 爵位を冠した鋳鉄(ちゅうてつ)羅刹(らせつ)が踵の拍車を軍馬の腹に蹴立て、瀟洒(しょうしゃ)な軍装を(ひるがえ)すと、配下の機畜(きちく)も其の後を追い、母が姿を消した方角へと殺到する。鉄郎は()(つくば)ったまま蹄鉄の巻き上げる後雪(こうせつ)を被り、己の存在を無視して過ぎ去っていく馬脚を避けて、強張(こわば)っている事しか出来ない。遠離っていく嘶きが死に(ぞこ)ないの雑魚を嘲笑(あざわら)う。踏み散らされた足跡が転がっている以外、露命(ろめい)を拾えたと言う実感なぞ何処にもなく、モノアイの金縛りから解かれたと言うだけで、恐怖と悪寒で骨の継ぎ目すら合わず、母の命が危ないと言うのに、(かさ)を増す雪の粒子が整然と体温を奪っていくのを愕然と承諾している。千切れる程に痛かった鼻筋や頬、指先の感覚は既にあやふやで、肘から先と膝から下も緩慢に麻痺し、魯鈍(ろどん)な睡魔が背後を付け狙う。終末を告げる地吹雪の大勤行(だいごんぎょう)。視界の総てが頭ごなしに()ぎ倒され、此処には今、生を拒絶する物以外何も無い。人間狩りの狂騒が眼の前を素通りし、百鬼夜行の戦列に復帰した事で、死がより深淵を究め、時が限界を刻み、置き去りにされた雪原を研ぎ澄ます。敗北の傍観者と決して眼を合わせない、現実の峻厳(しゅんげん)な素の横顔。文明に冒涜(ぼうとく)されたこの星の寡黙な復讐。その忍びに忍んだ心火(しんか)が決壊した様に、皓皓暗澹(こうこうあんたん)たる地の果てを、突如、荘厳な地響きが轟いた。重機に()る衝撃とは明らかに異なる大地の慟哭(どうこく)。鉄郎の薄弱な意志を震撼する運命の弔鐘(ちょうしょう)壊疽(えそ)寸前の指の先まで痺れる、その忌まわしい余韻を(つんざ)いて、翡翠(ひすい)の光弾と母の断末魔が交錯する。

 震えが止まった。高波の様な暴風雪の(つぶて)が点描となって静止し、地鳴りの如き轟音が途絶え、逆巻く荒天の彼方で、レザーライフルとは異なる金属の炎色反応と思しき光芒が闇を焦がしている。捕らえた獲物を(けみ)する為に投光器で照らしているのか。命の灯火とは程遠い、温もりのない無機質な燃焼。聞こえた筈の絶叫は脳にメスを入れられた様に切除され、恐れていた事が寸分の狂いもなく進行していく銀幕の世界を認識が拒絶し、母さんが撃たれた、と並べ立てる白けた字句が、意味を置き去りにして雪に舞う。石化した心拍の秒針。終息していく遙かなる弧光(ここう)。其の(かす)かな火影(ほかげ)が、住み慣れた荒ら屋の囲炉裏の中で微睡む、健気な種火を呼び覚ます。

 (つくろ)い物をしながら神代の物語を(つむ)ぐ、母の(あつ)き祈りを(かぐわ)し、限られた食料を煮炊きして五節句を祝い、旧市街地から掘り起こした、黴黒(ばいこく)()す教科書や少年誌の単行本を照らした、彼の灯火。母と二人で身を寄せ合った日々の断片が追憶の炎に揺らめき、辛く悲しく惨めだった出来事が、寧ろ無性に懐かしく、愛おしく、狂おしい。甘美な随想に導かれ降り注ぐ憐慕(れんぼ)の清らかな慈雨(じう)。其の仮初めでしかない御恵みが最後のマッチをへし折った。

 豪雪の瀑布(ばくふ)に呑まれ燃え尽きた燐光。思わず取り(すが)ろうと鉄郎が身を乗り出した瞬間、肋骨が波打ち、怒濤の震駭(しんがい)が脊髄から脳髄へと(せき)を切る。表裏が捻転し食道を逆走する胃粘膜。眼圧が軋みを上げ、毛細血管がレッドアウトする網膜。分類不能の感情が声帯を切り裂き、雄叫びが運命の扉に響き渡り、雲母摺(きらずり)の虚空に張り付き静止していた地吹雪が息を吹き返す。鉄郎は氷獄(ひょうごく)の鎖を引き千切り、潰えた光を求め半狂乱で駆け出した。引き返す場所なんてない。生死存亡の節目も見失い、唯只(ひたすら)、蹄鉄の(わだち)を駆逐する。解体現場の破断された鉄骨の様に屈曲して絡み合う凍結した四肢。物の十メートルと進まぬ内に足を取られて、後はもう降り積もる雪に溺れ、藻掻き匍匐(ほふく)する。追っているのか追われているのか、前に進んでいるのか、地の底に潜り込んでいるのかも判らない魂の痙攣。

 隻眼(せきがん)の死神を睨み返す事すら出来ぬ分際で、一体何がしたいのか。厳然たる危機を漠然とした不安の影から覗き見るだけで、未曾有の恐怖に平伏(ひれふ)した腑抜けが、今更、己の肉体を痛め付け、助けには行ったと言うアリバイでも欲しいのか。

 顔面から足許にのめり込み汚染した雪を食むその後頭部を、上から踏み躙る自劾(じがい)のリフレイン。千仭(せんじん)の山を転ずる(いわお)の如くのたうちながら、盲爆の連鎖をブチ撒けていると、何時しか鉄郎はドス黒い泥濘(ぬかるみ)の中で身悶えていた。果てしなき雪原に其処だけが欠落した様に口を開け、敷き詰められた、降りしきる雪を無言で呑み込む漆黒の茫漠(ぼうばく)。其の生臭い闇に憑き物を葬られ放心した鉄郎の眼に、見覚えのある()()ぎの襤褸が止まった。まさかと思い手に取ると、それは脱ぎ捨てられた母の外套で、泥濘と思い掻き分けていたのは、バケツで撒いたかの如き致死量の血溜まりだった。

 凍傷で麻痺した頬に針を刺す様な熱い感覚が本の一瞬(よみがえ)る。接着剤の様に固着し黒ずんだ皮膚に涙が溢れていた。手の中で棚引くポリエチレンの焼け焦げた風穴。血の池を(また)いで何処までも続く蹄鉄の跡。決定的な状況証拠を突き付けられた鉄郎は、幼児帰りでもしたかの様に、

 「どこにいったんだよう。」

 と甘えた声で口籠(くちご)もり、母の外套を胸に抱き(すく)めて血の池に(ぬか)ずいた。涙が襟足を脇腹を背筋を伝う幾筋もの汗と共に醒め、死灰(しはい)の如き暴風雪が丸腰の体温に牙を剥く。壊疽(えそ)した痛覚に昏々(こんこん)(うず)もれていく氷塊した泣血哀慟(きゅうけつあいどう)

 力尽きる程の力すら持ち合わせていない雑魚に、失って途方に暮れる程の未来なぞ元から無かった。筋彫りを殺して電脳化し、此の星から御然(おさ)らばする。そんな御伽噺に一匹狼のつもりで喰らい付き、自慰の屋根裏に閉じ籠もっていただけの夢精病者。たった独りしかいない肉親の命の行方さえ判らず、(おびただ)しい血祭りの跡を前にして、撃ち殺される価値すら無い自分の存在に、薄ら笑いを浮かべる事すら出来ない。朝露を(すす)って木の根を囓り、瓦礫の陰に隠れて機族達の眼から逃れ、襤褸を(まと)って屑を嗅ぎ廻る姿を、貧民窟の餓鬼共から蓑虫(みのむし)呼ばわりされた()()此の様だ。塵外(じんがい)を垣間見る事すら出来ず、(うな)され続けるだけで醒める事のない悪夢。此が神の試練、人類の始祖から受け継いだ原罪、巫山戯(ふざけ)るな。母さんを、母さんを返せ。()れが(かな)わぬのなら、せめて、せめて一目、母さんを・・・・

 

 

    たらちしの母が目見ずして(おほほ)しく

         何方(いづち)向きてか()が別るらむ

 

 

 吹き止まぬ永訣の白墨に組み敷かれ、天地も知れず遠退いていく意識の中で、鉄郎は頭から(のめ)り込んだ新雪に向かって呟いた。他に何かを言い残すも何も無い。唯、母を想う心だけが最期の一点に結晶していく。すると、完全に雪に埋もれる寸前の背中に、香貴(こうき)を散らし歩み寄る、端然とした気配を感じた。息の根を(うかが)う、其の無為な眼差し。喪神(そうしん)の彼方にささめく閑吟低唱(かんぎんていしょう)

 

 

  大口(おほくち)眞神(まがみ)(はら)に降る雪は

 

      いたくな()りそ(いへ)もあらなくに

 

 

 

 

 

 満ち(あふ)れた潤いのある暖気に頬と爪先の凍傷が充血してさざなみ、手足を覆う滑らかな肌触りがしっとりと汗ばんでいる。心地良い朦朧と疲労と弛緩の三和音。(なまく)らな意識の(かたわ)らで何かが(しか)りに()ぜている。囲炉裏で柴を焚いているのか、否、此の音にはもっと芯がある。立ち枯れた灌木の小枝とは訳が違う。閉ざされた瞼の向こうで、(なご)やかな火勢に身を(やつ)す野太い薪の独白。絡み合う樹皮と(やに)燻香(くんこう)。こんな稀少な森林資源、一体、誰が何処から。

 鉄郎は何時以来とも知れぬ安らかな微睡(まどろ)みの中で、僅かに(かし)いだ疑問符を定点に、漂泊する自我と世界を寄せ集める。寒波の訪れと共に厳しさを増す日課の資糧(しりょう)採取、歩いても歩いても外れを引く徒労の行軍、綿雪を纏い降臨する999の光跡、銀箋(ぎんせん)に綴る母の寿哥(ほぎうた)()かれ合う途切れ途切れの時系列。折り重なって広がる波紋と波紋。其の(なめ)らかに解晶していく追憶の曲水(きょくすい)に、形無き小さな(しこ)りが渦を(とも)す。覗き込んだ水面に明滅する己の姿。何かに魅入られ硬直した其の表情に、蹄鉄が雪煙(ゆきけむり)を巻き上げる。白暮(はくぼ)に散った断末魔。小さな痼りに亀裂が走り、芽吹いたカドミウムレッドの隻眼が、黒変した血の池に鉄郎を突き落とす。

 肋骨を穿(うが)心駭(しんがい)。息が詰まって跳ね起き、寝汗に浸かった襟足を地吹雪が駆け抜ける。甦った戦慄と露命に悟性が追い付けない。生きている、のか。記憶と統覚(とうかく)が鮮明に成れば成る程、あやふやで手に付かぬ実感。整えた呼気が(はい)()(すこ)やかに環流している事にすら、素性の知れぬ(うつ)ろな吐き気を催してしまう。

精も根も尽き果て自ら血の池に身を屈した。母の跡を追う事も、我が身を護る事も諦めて、死の逸楽に溺れた。一度捨てた筈の命。塵を拾って生きてきた其の功徳(くどく)を買われて、御仏(みほとけ)に拾われたとでも言うのか。鉄郎は真っ新なシーツを(しつら)えたベッドの上に坐していた。しかも、服を着ている。襟足から爪先まで純綿の柔和な天然繊維に抱かれて、西方(さいほう)十万億土(じゅうまんおくど)を過ぎた、極楽の蓮の(つぼみ)から生まれ変わったかの様な天地転倒。全く身に覚えのない僥倖(ぎょうこう)は、却って鉄郎の疑心を(あぶ)り立てる。

 洗い晒しの霜原(そうげん)を爽やかに敷き詰めたシャンブレーシャツに、点描のストライプで抜染(ばっせん)したインディゴのベストを重ね、丁寧な毛焼きを施された太畝(ふとうね)のコーデュロイパンツは、奥行きのある(とび)色の光沢を湛え、真鍮のファイヤーマンバックルがタンニン(なめ)しの黒革ベルトを慇懃(いんぎん)に施錠し、オーガニックコットンのみで編み上げられたクルーソックスの雲の上へと誘う優しさに、石化して(あかぎれ)を巡らす足の裏の角質が、人の情けを知らずに育った追い剥ぎの様に戸惑っている。化繊の混紡や時流に媚びた模造品とは訳が違う逸品。細部に宿る(こだわ)りと失われた筈の技術が、厳選された素材を磨きに磨き上げている。

 産廃から掘り起こした古着は総て塩や医薬品と交換し、外套とは名ばかりの端切(はぎ)れを継いだ襤褸一枚を被って、夏も冬もなく雨露陰寒(うろいんかん)を凌ぐ。そんな踵の千切れたサンダルに爪先を引っ掛けた事すらない鉄郎にとって、ミシンで縫製された卸し立ての衣服は、夢の続きでなければ何かの策略としか思えなかった。

 見上げれば、直天井(じかてんじょう)を行き交う厳めしい大梁(おおばり)。ウェザーチェックの欠片もない漆喰の壁。オーク材で統一された床板と家材は、油絵のモチーフの様な配置と調和によって整然と完結している。浅浮(あさう)()りのサイドボード、扉にステンドグラスを施したガラスキャビネット、棺桶を立てた様な長躯(ちょうく)のワードロープ、天板に虎斑(とらふ)杢目(もくめ)が踊るドローリーフテーブル、重厚な装幀(そうてい)の全集で埋め尽くされた本棚と、手持ち無沙汰(ぶさた)なマガジンラック、両翼を広げて宙を(せい)す壁掛けのシェルフ、金鍍金の文字盤を掲げた重錘(じゅうすい)式のホールクロック、ガンラックに縦列して横臥(おうが)する中折れ式散弾銃の数々。天涯孤独の主人公が迷い込んだ、眠れる森の(あるじ)無きロッジ。幼き頃、廃校の瓦礫の中で眼にした洋書の挿絵が甦る。訪問客の審美眼を意識した肖像画や小賢(こざか)しい饒舌(じょうぜつ)な陳列、金満趣味の華美な装飾はなく、沈思に(ふけ)る調度品の寡黙な経年変化を囲んで、爆ぜる暖炉の昔語りに、窓外の吹雪が相槌を先走る。

 気象制御されていない処を見ると、メトロポリスの管理区域外だ。文明に追われた棄民の墓場に、こんな(ぜい)を尽くした旧世紀の遺物が現存するなんて。奇妙な部屋だ。非の打ち所のない保存状態は文化財の展示場の様に人を突き放し、自宅の荒ら屋には溢れていた、手の温もりで磨き込まれた色艶も、喜怒哀楽を巡る生活の息吹も、何かが過ぎった残像の欠片もない。忘れ去られた隠し部屋の如く、幽居(ゆうきょ)に秘した空虚。八時半を跨ぐホールクロックの針が、重錘の鎖に縛られた小さな世界を周回している。

 (だま)し絵の仕掛けを探る様に、ザワついた耳閉(じへい)感を(そばだ)てる鉄郎。夢魔の館に一服盛られて、己の拾った命すら妖しく、心を許す事が出来ない。粉飾されたこの部屋の意匠を暴け。漆喰とオールドオークの狭間に(ほころ)びを探る、敏捷な邪視(じゃし)の切っ先。其の一閃が、ドレッシングチェストのオーバルミラーの中に潜んでいた金鱗(きんりん)と擦れ違う。咄嗟(とっさ)に振り返った鉄郎の頬を張る冷や水。細かく(びょう)の打たれた総革張りのウィングバックチェアに、女が深々と身を(うず)めている。何時から其処に座っていたのか。鉄郎の点眼外顎(てんがんがいがく)を意に(かい)さぬ、白檀のオードトワレを(まと)った不敵な物腰。その傲然とした気配に全く気付けなかった驚きを、此の唐突な亜空間の(あるじ)(はる)かに凌駕していた。

 「母さん?」

 鉄郎の絶句した眼路の先に鎮座するたった独りの肉親。凄惨(せいさん)な最期を一度は覚悟した悲衷(ひちゅう)の人が今、其処に居る。それなのに、渇望していた筈の奇蹟の再会に、鉄郎は犬歯を剥いて身構えていた。此奴は誰だ。欲目に(くら)んだ幻にしても度が過ぎる。

 彫金細工の様に繊細な肢線をなぞる、艶やかで毛足の深いフォックスコートに露西亜(ロシア)帽のロングを合わせた、輝ける闇の様な黒装束。肩口から小脇へ豊かに波打ち、蜂腰(ほうよう)を抱いて(こむら)(くすぐ)る糖蜜の様な金色(こんじき)垂髪(すいはつ)。光と陰が(せめ)ぎ合う魔性のコントラストに、鉄郎は冷徹な狂気を直感した。仙山桃質(せんざんとうしつ)、偽りを知らぬ瑞々(みずみず)しい頬。研ぎ澄まされた(おとがい)に眠る独片(ひとひら)丹唇(たんしん)。切れ上がった秀鼻(しゅうび)の子午線から解き放たれて棚引く蛾眉翠彩(かびすいさい)。翻った鳳尾(ほうび)が如き雅な睫毛に縁取られた、絶世の星眸(せいぼう)。完璧なデッサンによって構築された生みの親の生き写しは、オリジナルを超えて若々しく、現世から逸脱し、最早、天来の美、神来(じんらい)の妙とは程遠く、其の容色、()みを含まず、無菌漂白された痛ましさで、瞬き一つせずに窒塞(ちっそく)している。

 これは何の模倣劇だ。無断複製にも程がある。一体、何様のつもりだ。此の贋作野郎。鉄郎は理路の通じぬ女の存在感に呑まれるまいと、空回りする思考に罵辞(ばじ)を殺到させる事で防塁を築き、己を奮い立たせた。

 肘掛けに添えられた女の手の肌理は白磁の玲瓏(れいろう)を奏で、五指を滴る爪甲(そうこう)月長石(げっちょうせき)神韻(しんいん)(たた)え、荒れ果てた大地を、産廃の蟻地獄を素手で掻き分け、掘り起こす日々とは無縁の安逸に浸っている。母の手は鉄郎と同様に、指と爪の区別さえ付かぬほど角質化し、ラッカーシンナーに浸して削っても落ちぬ程、ドス黒く汚染されていた。其の懸命に生きてきた証を、無自覚に嘲笑う女の洗練された(たたず)まい。何より、柩の中に納められた黒耀石(こくえうせき)の様に透徹した其の眼差し。生き別れていた息子を無言で視姦し続ける親が何処にいる。こんな魂の入っていない猿真似でも良いから、母さんには生きていて欲しい。だが、違う。鉄郎は塵汗(じんかん)()して(なほ)()を放つ母の面影とは真逆な、女の硬質な面の皮を睨み返した。

 見れば見る程、訳が判らない。この肌の艶、潤い、発色からして、女が血の通った生身の人間である事は()ず間違いない。どれほど精巧に加工、改良されていようと、人工被膜はポリウレタンや塩化ビニールの塊だ。表情筋のモデリングにも限界がある。体の線は細いが栄養状態が悪いとはとても思えず、汚染物質の蓄積や遺伝子障害も見当たらぬ、相当な優良種だ。筋電義肢や人工臓器をマウントしている事もないだろう。鉄郎が(かつ)て見た事がない程の衛生的な健体。それなのに女の令顔清色(れいがんせいしょく)は掛け替えのない生の恩寵(おんちょう)を無視した、破戒の彼方に傲座(ごうざ)している。(あたか)も機械化人を超絶した究極のエリート。遺伝子ドーピングの生み落とした第三の人類。麗しき即身成仏(そくしんじょうぶつ)が辿り着いた至高のマネキン。

 慈悲の欠片も垣間見せぬ、母の仮面を被った此の幽女(ゆうじょ)が、自分を血の池の底から救い出したのか。彼の惨劇の現場を見たのなら、何故、平然としていられるのか。(そもそ)も何故、其処に居た。偶然立ち寄る様な場所じゃない。人間狩りの探査の網も張られていた。数え上げたら切りがない、些細な糸口の総てが蛇影(じゃえい)と化し、母が襲われた其の場所で、母の生き写しに助けられると言う奇僻(きへき)に迷い込む。そして、本の僅かでも嫌疑の手綱を緩めると、弾除(たまよ)けにすらなれなかった母への贖罪(しょくざい)と思慕が決壊し、女の足許に縋り付きそうになる。其処へ不意に、

 

 「具合はどう?ああいう物しか用意出来ないけれど、良かったら召し上がれ。」

 

 素っ気ない事務的な響きが、女の口を掠めた。母と寸分違わぬ声色に揺すぶられる、鉄郎の張り詰めていた虚勢。そして、女が眼で促す先に(あつら)えた()()しに、息を潜めていた獣性が唸りを上げる。引き()った小鼻の奥で、想定外の芳醇な粒子に感応する鼻粘膜。振り返ると、ドローリーフテーブルの上にコバルト絵具で彩色されたティーセットが湯気を立てている。何時の間にと(いぶか)る暇もない。鉄郎は女への穿鑿(せんさく)を薙ぎ倒し、車座(くるまざ)(かしこ)まったボーンチャイナの鈴生りに飛び掛かった。

 ポットから沸き立つ浄水の香気。腰の括れた小瓶の中に眠る上白糖は、石英(せきえい)の煌めきを湛え、小皿に盛られたチョコチップクッキーの尾根が、ゴツゴツと肩を小突き合っている。鉄郎は茶葉を無視して砂糖を瓶ごと呷り、ティーポッドの注ぎ口を(くわ)えて何の躊躇(ためら)いもなく流し込んだ。喉を焦がす熱湯。垂直落下の火砕流が急き立てる圧倒的なリアル。夢じゃない。小皿に頭から突っ込んでクッキーを犬食いし、ティーポッドを呷っては、クッキーの欠片を抱き込む様に掻き集めて皿に齧り付く。

 粗造遺伝子による工業野菜や培養肉の、取って付けた様な口当たりとは一線を画す、天然の原料によって練り上げられた、偽りのない純朴なる滋味。蟻がバターとマーガリンを嗅ぎ分ける様に、鉄郎の舌は豊饒(ほうじょう)無雑(むざつ)にのめり込んだ。グルテンの顆粒から(ほぐ)れる炭水化物の甘味とカカオの苦味を、円やかに包み込む全卵と乳脂乳糖。塩と油脂を摂取する為に、腐敗した石鹸ですら噛み砕き飲み干してきた、(やすり)の様な味蕾が望外の慈雨に戦いている。富貴を究めても叶わぬ珠玉の稀少食材を、どうやって手に入れたのかなぞ今は構っていられない。

 歯の根を濁流する鉄砲水の様な唾液の氾濫。額から噴き出す荒玉(あらだま)の汗。胃酸が渦を巻き、血糖が毛細血管を急激に押し広げ、首筋から二の腕に発疹が駆け巡り、網膜に星が飛ぶ。物を噛んでいるのか、唸り狂っているのか、呑み込んでいるのか、痙攣しているのか判らない。体中の細胞が押し寄せる養分と水分の一粒一粒を奪い合い、分解から合成に転じた筋繊維の一筋一筋が弾けて、撓垂(しなだ)れていた肩胛骨が脊椎がグツグツと隆起する。復活した敗者の肉体。ブレーキの壊れたカロリーの激流は、延髄から前頭葉へと絶頂する脳血流の熱暴走と繚乱(りょうらん)し、神経回路の活動電位をブッ千切る。見境を失った食欲と暴力。底知れず精力が漲ってくる。衰弱と疲労によって虐げられていた怒りが、母に手を掛けた機賊(きぞく)と、()(すべ)もなく傍観した非力な己に対する問答無用の憎悪が、喉に支える焼き菓子とは逆流する様に込み上げ、鉄郎は肩で息をしながら徐に振り返った。女は(さか)しらに左の口角を吊り上げ、侮蔑と愉悦の入り混じった狐視(こし)(くゆ)らせている。家畜を値踏みする粘着質の涙腺。鉄郎は息を吹き返えした獣心を(かろ)うじて組み伏せ、其の巫山戯た眼差しを睨み返した。

 「君は大丈夫だったのかい。」

 「大丈夫って、何が?」

 「人間狩りだよ。」

 緊張感の欠片もない女の反応に、鉄郎は助けてもらった礼すら忘れ、チョコチップを飛ばして噛み付いた。

 「人間狩り?どうせ機械伯爵と其の取り巻きでしょ。此の辺りでそんな下品な気晴らしに繰り出すのは。」

 「機械伯爵?知っているのか。」

 「知ってるも何も、片目の赤いのが威張り散らしていたでしょ。(あれ)がそうよ。宇宙開拓事業で財を成した銀河鉄道株式会社の筆頭株主で、財界の盟主。名声と罵声の小競り合いが絶えなくて、無駄に有名だから、耳を塞いでいても聞こえてくるわ。会社の総会でもあるんじゃないの。何時も此の時期は湾岸の旧本社跡地に逗留しているわ。」

 「湾岸?何でメガロポリスじゃなくて、そんな管理区域外に。」

 「さあね、敵が多いから、寝首を掻かれない様にしてるんじゃないの。」

 「其の旧本社跡地って湾岸の何処に在るんだ。もっと詳しく教えてくれ。母さんを助けるんだ。」

 「どうやって行く気。つい今し方、外の吹雪で死にかけてたのに。例え辿り着けても、返り討ちにあうだけよ。助けるとか言ってるけど、連れ去られたのなら今頃、床の間の剥製にでもなってるわ。一緒に並べて飾られたいの。幾ら彼の男でも、其処(そこ)まで酷い趣味じゃない筈よ。」

 黙っていればゾッとする程の妍容(けんよう)が、救いなき過言を連ねる毎に卑しく身悶え、生き生きと幻滅していく。滑らかな表情筋を利して狡猾に歪む翠翼(すいよく)(まなじり)、陰湿に険を刻む(しと)やかな鼻梁(びりょう)。美醜入り乱れ、妖艶に狂い咲く、魔に取り憑かれた異形の女神。恩に着せた物言いにしても程がある。被災者の嗜みも此処までだ。助けてもらった負い目なら、(あだ)熨斗(のし)を付けて返してやれ。此のイカレた女には其れが御似合いだ。筋彫りを殺れと(そそのか)した彼の声が再び木霊(こだま)する。鉄郎はガンラックの散弾銃を奪い取り、其の銃口を突き付けた。

 「余計な口を叩いてる暇があったら、言われた通りに案内しろ。」

 全身に浸透した糖質が獲物を求めて爆ぜている。機械伯爵の前に先ずこのドス黒い女狐からケリを付けろ。激情が快感に達し、凶賊の酔美な熱狂に惚気(のろけ)ていく。(ところ)が女は鉄郎の血走った眼睛(がんせい)を平然と正視して、微動だにしない。寧ろ思春期の御乱心を楽しんでいる。

 「そう言うの撃った事有るの?」

 ウィングバックチェアに深々と身を沈めて、軽挙妄動を誘発する、幼子(おさなご)(あや)す微笑み。如何(いか)なる災禍にも動じなかった母の面影が、(いか)めしく構えた銃口の先で(くつろ)いでいる。小兵(こひょう)の鉄郎には(たけ)の余る長躯(ちょうく)の銃身。鈍重なクロムモリブデンの塊が、当ての外れた逆上に()し掛かる。此は飾り物で弾は込められていないのか。銃爪(ひきがね)に食い込む人差し指の第二関節。行き場のない若さを(いさ)める其の冷徹な肌触り。(いや)、こんな物は只のブラフだ。俺はサーカスのライオンじゃない。一発脅して、口の聞き方を教えてやる。若し手元が狂ったら、生身の体を恨むが良い。鉄郎は女の頭上を狙って銃爪に力を込めた。白熱無晶(はくねつむしょう)した意識の中で一点に集中する重厚な手応え。撃針が雷管を姦通(かんつう)し、肩に抱いた銃床(じゅうしょう)が官能に激甚する、筈が、

 弓形(ゆみなり)の鋼芯は、錆で檻の腐着した地下牢の如く、軋みを上げて微かに(かし)ぐと、少年の焦がれる雄々しき英雄譚を()()けた。何を囓って終っているのか、安全ピンをスライドさせようとしても頑として動かない。照星(しょうせい)越しの銃軸線上で、噴飯(ふんぱん)を堪え切れぬ女の口角が含みを(かも)す、どうしたの坊やの一言。不屈の銃爪に鉄郎の鬱血した人差し指は悲鳴を上げ、襟足に噴き溜まる冷や汗と脂汗が先を争って背筋を洗う。整備不良でも何でも良い、責めて此の一発だけでも、どうにかしやがれ。使い込まれた擦り傷や打痕が物語る歴戦とは裏腹に、揺すぶっても、()(さす)っても(らち)の明かぬ、眠れる往古(おうこ)の銃身。痺れを切らした鉄郎は女から眼路(めじ)(かぎ)り、足許にライフルを叩き付け、奇想(あまね)く千夜一夜の口火を切った。

 床の上を活魚(いきうお)の如く跳ねてライフルは暴発し、レースのカーテンを巻き上げて、砕け散った窓枠から地吹雪が激龍(げきりゅう)となって躍り込む。雑兵(ぞうひょう)の独り相撲を虚仮(こけ)にする古鉄(こてつ)咆哮(ほうこう)。黒服の深い毛足と鳳尾の如き金髪を棚引かせながら雪の女王は立ち上がり、不意の撃発に腰から砕け落ちた鉄郎を見下ろして、傲然(ごうぜん)と高笑う。まともじゃない。異彩に煌めく見開かれた瞳孔、突き抜けた焦点。崩壊した顔面神経。心の底から(ほとばし)る一点の曇りも無い卑劣な歓喜。荒れ狂う旋雪を纏い、其の美貌と白檀のオードトワレを振り乱して発情する、鬼界(きかい)の化身。見目麗(みめうるわ)しき容姿以外あらゆる物が欠落している。例え首を切り飛ばしても、此の下品な嘲弄(ちょうろう)を止める事は出来ないのだろう。溺れている子供に石を投げる様な奴だ。自分を暴風雪の渦中から救い出したのも、死神の気紛(きまぐ)れか、より残酷な最期を(あつら)える為か。鉄郎は床の上に這い蹲って、人の不幸を肥やしに咲き誇る悪の華を睨み付ける。蹴汰魂(けたたま)しい高笑いと、吹き止まぬ嵐を引き連れ、悠々と部屋を出て行く女。

 恩を仇で返す事すら叶わず、とんだ俄狂言(にわかきょうげん)を振る舞って、何の御咎(おとが)めもなく取り残された雪の御白洲(おしらす)。吹雪の中でくたばり損ねただけでは飽きたらず、自ら注いだ恥辱に泥を塗る(てい)たらくに、行き場のない憤りが、吹き飛ばされた調度品に紛れ床に散乱している。ガンホルダーには未だ数挺のライフルが縦列待機していると言うのに、二の矢、三の矢を物色すらせず、鉄郎は只、恍然(こうぜん)と見上げるばかり。

 彼の女の言う通り、機賊の巣窟を単独で突破し、母を助け出すなんてハリウッドの三文オペラだ。今は小腹が満ちて血の巡りが良く、逆上に拍車が掛かって、犬死にを物の数にも入れていないが、此の熱病が(つい)えたら、後は何一つ残らない。母が命懸けで(まも)り抜いてくれた此の命を粗末にして、どんな面目が立つというのか。塵を漁って生き延びる。其れが鉄郎に出来る唯一の弔い。母の死に次ぐ、最も耐え難き現実。死にかけようと生き残ろうと、欲動と貧苦の尽きぬ肉体で簀巻(すま)きにされ、無情な運命に押し流されている事に変わりはない。結局、絶望の裏返しでしかない激昂に翻弄されている、何時もの自分に鉄郎は不時着していた。

 真鍮のドアノブが小首を傾げ、更なる激動の扉が開く。死神が帰ってきた。暴風雪の出迎えを無言で制し、常闇(とこやみ)幽姿(ゆうし)金襴(きんらん)(たてがみ)(なび)かせて、橋掛(はしが)かりを(くぐ)(のち)シテの殺気。夢幻の禁域を破った狂愕(きょうがく)御息所(みやすどころ)。隣の部屋から再び姿を現して、ウイングバックチェアを素通りすると、鉄郎の前に立ちはだかり、迷える子羊が途方に暮れる事すら許さない。黒い雪女は左手に黒革のPコート、右手にA4サイズのツールボックスを提げている。

 「フルチャージされてるわ。例しに彼の鏡を撃ってみなさい。」

 顎で指図し、女が右手を振り上げると、宙を舞うツールボックスは硬質な連結音で痙攣し、受け止めた鉄郎の手の中で。短身のレーザーアサルトに可変した。リアサイトに浮遊するエアディスプレイ、光発振器へと通ずるオートレンジの銃口、老竹(おいたけ)色のカーボンファイバーで成形された玩具の様に軽量な本体は、銃爪を添えたグリップとハンドガードがなければ、計測機器の(たぐい)だと言われても鵜呑みにしただろう。

 オーバルミラーに眼を遣ると、凍傷で黒変した孤児が放心している。時化(しけ)た面しやがって。気合いが足りねえんだよ、此の煤被(すすかぶ)り。鉄郎はドレッシングチェストの流麗なレリーフの中に埋め込まれた、惨めな肖像へポインターを飛ばした。エアディスプレイを透かして、炭を()いた様な頬の上に点る(あか)い粒子。鏡面の呪力に惹き込まれ、嘘の様に軽い銃爪を引くと、広角モードに設定された銃口はポインターを中心に120°の範囲を、左から右へ何の反動もなく一瞬で水平に掃射した。A4サイズのハンドツールは武器ではなく兵器だった。閃烈と爆風が室内を席巻し、床の上に散乱していた様々な破片や調度品が再び宙を舞った。撃ち抜かれた漆喰の壁を亀裂が駆け巡り、散弾銃の餌食となった以外の窓硝子も総て崩壊し、屋根を根刮(ねこそ)ぎ吹き飛ばされた様な暴風雪が視界を埋め尽くす。目眩(めくるめ)く白魔の暴虐、網膜に明滅する走査線の残像、甦る母の断末魔。そんな氷点下の阿鼻叫喚に黒い雪女は欲情し、痴塗(ちまみ)れの呵呵絶笑(かかぜっしょう)が響き渡る。

 「どうしたの、(おとこ)なら撃って撃って撃ちまくるのよ。遠慮してる場合じゃないでしょ。貸しなさい。こうやって撃つのよ。もっとレンジを絞って出力を一点に集束しないと、彼の連中は(さば)けないわ。ママを助けたかったら皆殺しにする位の覚悟がなきゃ駄目よ。命乞いをする者がいたら真っ先に片付けて、誰がお前達の主人なのかを叩き込む。頭を狙うのよ。無線で自我をオンラインに退避される前にケリを付けないと、厄介な事になるわ。其れが出来ないのなら、水鉄砲を振り回すのは、御庭のプール遊びだけになさい。」

 鉄郎の手から取り上げられたレーザーアサルトが、今だ原型を留めるキャビネットやワードローブを次から次へと血祭りに上げ、撃ち砕かれた屋敷の柱が、梁と筋交(すじか)いを道連れにして傾ぎ始める。市街戦に巻き込まれたかの如き半壊家屋の直中(ただなか)で、雄叫びを上げる死のレクチャー。

 「ママを愛しているのなら、力尽くで証明するのよ。機械に身を()とした連中の作り物の命なんて、物の数じゃないわ。死を直視出来ない愚か者達を、偽りの無い地獄の底に沈めるのよ。」

 瓦礫の山に光弾を叩き込む衝撃と錯乱が、破滅の女神を更なる陶酔と享楽の境地へとエスコートする。忘我の果てに成就する魂の浄化。此の女が(まみ)れている穢れは尋常じゃない。焦点のイカれた(やぶ)睨みの血相で、鉄郎の顔にPコートを投げ付け怒鳴り付ける。

 「行くわよ。」

 其れは命令だった。

 

 

 

 厩舎(きゅうしゃ)にプラグインしていた四頭立ての半磁動鹿駆(ロック)を起動し、ジャイロブレードの起ち(そり)に乗り込んだ黒服の女は、アークを帯電した双角アンテナに鞭を飛ばすと、迸る火粒で頬を染め、管理区域外の定点を一気に暗唱した。

 「$8q7XmQ86+9h=GPzLD,021438.299,3566.5978,n,

   13976.1469,e,5,27,0.2,3.2,m,32.7,m,,,,000000*44」

 此奴(こいつ)、電脳化しているのか?レーザーアサルトを小脇に抱えて、Pコートの(ぼたん)()めていた鉄郎は意表を突かれ、チームハーネスが弾け走り出した橇に慌てて(つか)まり、箱乗りの儘、屋敷を出発した。左手に見覚えのあるの湖影(こえい)が横殴りの雪を呑み込んでいる。彼は確か窪地に漏出した重金属の泥沼だ。其の(ほとり)には犬小屋どころか草木一本生えていなかった筈だが、今更もう、そんな疑義の一つや二つ怪異の内に入らない。白瀑の彼方へ遠離っていく屋敷と、氷山の様に(ひし)めく、機畜の隆起した脊梁(せきりょう)を叩きのめす、正確無比な女の鞭捌き。先導機のサードアイから放たれるハイビームが照らし出す点景が、何の迷いもなく一直線に過去へと葬り去られていく。此の猛烈な速度の先に何が待っているのか何て見当も付かない。母を救い出す一縷(いちる)の望みに縄を掛けられて身動きが取れず、女の奇矯(ききょう)なエゴに引き擦られ、連れ去られているだけで、鉄郎の意志は完全に取り残されていた。血糖が行き渡って火照(ほて)る躰に、情け容赦ない暴風雪と蹄の蹴立てる雪煙が、沙漠を吹きすさぶ熱波の如く打ち付ける。

 彼程の血の海に沈んだのだ。例え母を救い出せたとして、どんな手当が出来るというのか。機賊の突き付けたライフルの銃口に黄泉の洞穴を覗き見、血に(まみ)れた母の外套を抱き(すく)めて白魔に屈し、際限のない苦しみと悲しみに疲れ果て、此の命を一度は自ら手放した。己の心の奥底にめり込んでいる卑しさと弱さを暴き出してしまった以上、もう何も元には戻らない。どんなに此の橇を飛ばしても、昨日までの自分には追い付けない。運命に引き裂かれた其の断絶を、強壮な機畜の嘶きが吹き抜ける。

 

 

   ゆく先は雪の吹雪に閉じ込めて

 

      雲に分けいる鹿の八十吠(やそぼ)

 

 

 鉄郎は耳を疑った。母に生き写しの横顔が不意に吟じた三十一文字(みそひともじ)。血を分けた温もりとは違う醒めた息遣いが、燃え盛る流星の様に棚引く金髪に掻き乱され、白い闇に消えた。女は従卒(じゅうそつ)扱いの鉄郎を一顧だにせず鞭を(ふる)い続けている。長い睫に(ちりば)められた雪の結晶。風を切る高貴な身のこなし。母の面影に息を呑む助手席の孤児。其の(やわ)な鼻っ面を捨て鉢な舌尖(ぜつせん)が切り刻む。

 「機の利かない男ね。(うた)の一つも(ろく)に返せないの?御里(おさと)が知れるわね。」

 夢から叩き起こされた鉄郎は、本の一瞬でも心を()いた己を(なじ)り、女の売り言葉を買い叩いた。

 

 

   黑銀之果弄荒天  黑銀の果て 荒天を(ろう)

   玉手探鞭舞影輕  玉手 鞭を探り舞影輕し

   汗血鹿知焦春色  汗血鹿(かんけつろく) 春色を焦がれるを知り

   四蹄總散落雪行  四蹄()べて 落雪を散らして行く

 

 

 美人調馬(びじんちょうば)の当て(こす)りを女は軽く鼻で笑った。母以外の人間が哥を詠むのを、鉄郎は生まれて初めて耳にした。清謐(せいひつ)な容姿と言い、韻微(いんび)な嗜みと言い、何から何まで紛らわしい女だ。眼に映る機族は皆殺しにしろと(けしか)けておいて、悠長に返歌がどうのとは、此の御公家(おくげ)気取りが所望する七色の気紛れで、次はどんな御手前を振られる事やら。血の池に屈し、遠退いていく意識の中で聞いた、

 

 

  大口(おほくち)眞神(まがみ)(はら)に降る雪は

 

      いたくな降りそ(いへ)もあらなくに

 

 

 彼の独片(ひとひら)もどうやら空耳ではないらしい。いっそ古歌(こか)卒塔婆(そとば)に、そっと見過ごしてくれれば良い物を、此の吹雪の中、意趣返(いしゅがえ)しを()いて連れ回すのだから、差し出がましいにも程がある。そうまでして、狼の住処(すみか)に迷い込んだ窮鼠(きゅうそ)の散り華を拝みたいのなら、御望み通り派手な御眼汚(おめよご)しで、其の退屈が見えなくなるまで塗り潰してやる。精々、流れ弾には気を付けろ。鉄郎はカーボンファイバーに巻かれたラバーグリップを握り締め、人差し指に絡む銃爪の感触を確かめた。

 女の鞭の跳ねっ返りが鉄郎の顳顬(こめかみ)を掠める。本の数時間前、恐怖と寒さと衰弱でたった一歩を踏み出す事すらままならなかった吹雪の中を、ジャイロブレードの犀利(さいり)刃文(はもん)は硝子の軌道を()める様に駆け抜けていく。鉄郎の理解を超えた異相を加速する世界。砕け散った星屑の極点に突き落とされた錯覚。動体視力を振り切ってハイビームと氷沙(ひょうさ)が乱反射する、破局への失踪。突き立てたダブルフロントの襟に頬を埋め、鉄郎はちっぽけな運命を翻弄する得体の知れぬ潮力(ちょうりょく)にしがみついた。

 何物とも行き交う事のない、見当識が漂白する程の嵐の中を、どれ程走り続けたのか。先導機がレーザーポインターを進行方向の彼方に飛ばし、捕捉した座標までの距離をエアディスプレイでカウントし始める。新雪を駆る鹿脚(ろっきゃく)は計数に(なら)って減速し、巌健(がんけん)背躯(はいく)から湯気を上げて機畜の隊列が停止すると、女は鞭を後部座席に投げ捨て、橇から飛び降りた。辺りは遮る物一つ無い雪原が広がっているだけで、衰えを知らぬ暴風雪が果て知れぬ闇を跳弄(ちょうろう)し続けている。鉄郎は金糸(きんし)はためく萎竹(なよたけ)の背中に怒鳴り散らした。

 「オイ、此処は何処なんだ。こんな処に機械伯爵とか言う奴が居るのか。何もないじゃないか。」

 スリープに切り替わった機畜が片耳を峙て、筋電義肢の接合部から一瞬カーボンの火花が弾ける。橇のキャビネット端末が自動でマップを起動し、(まば)らな等高線と海岸線以外何もない何処かが点滅している。女は鉄郎を見向きもせずに、黒革のパスケースを宙に(かざ)した。発行銀河鉄道株式会社、地球⇔アンドロメダ、無期限と印字された乗車券に、隠し刷りされた三文字、999のホログラムが七色に浮かび上がる。

 二の句を継ごうとした鉄郎は息を呑んだ。何かが稼働している。文明から見捨てられた不毛の雪原を潜行する重厚な気配。女の対峙する氷堝(ひょうか)の宙空に何かが煌めいた。吹き荒れる茫漠に忽然と針を落とす実体のない燐点。其の微かな瞬きが一筋の破線となって垂直に屹立(きつりつ)し、疑視驚目(ぎしきょうもく)を限る。禁を解かれた秘蹟(ひせき)(ささや)き。重量鉄骨の(きし)む律動が地の底から這い上がり、身の丈を越えた光糸の輝裂(きれつ)から横溢する未知の現影(げんえい)が、女の足許を交わし雪原に伸びていく。凶門(きょうもん)は暴かれた。

 大理石の中央階段が傲然と(そび)える吹き抜けのエントランス。日輪のモザイクを冠した踊り場の壁時計。乳白と琥珀(こはく)の輪舞するステンドグラス。ランプの彫金やエッチングを愛撫する唐草のレリーフ。礼容(れいよう)な意匠で構築された荘重典雅な館内が、果てしなく新雪を敷き詰めた絶界の虚空に刃物を入れて(めく)れた様に覗いている。

 整合性のない実景に焦点が定まらず、鉄郎は失調した視覚と悟性の迷路に(はま)り込んだ。姿無き殿堂の開館。錯視でもプロジェクターでもない。破断した時空の彼岸に垣間見る別次元。世界と世界が座礁した裂傷か、幽界仙窟(ゆうかいせんくつ)への裏口か。光学迷彩なら建物の外郭(がいかく)に沿って雪が降り積もっている筈だが、観音開きの門扉(もんぴ)の裏手を吹雪は駆け抜け、表を過ぎる旋雪は屋内に流れ込んでいく。

 ワームホール?機族達の科学技術はそんな超絶的物理領域にまで達しているのか。幾らなんでも地球の平素な重力下で、そんな時空の継ぎ接ぎなんて出来るのか。(そもそ)も何故、彼の女は眼に見えぬ結界の封を解けるのか。鉄郎は仕組まれた絡繰(からく)りの中にいる事を覚悟した。洋館のエントランスの前に立つ黒い影が(おもむろ)に振り返る。海割りを背に民を()べる、モーゼの如き皇然(こうぜん)とした神色(しんしょく)が激しく歪み、雪のベールを鏤めたフォックスコートが総毛立つ。

 「何をしているの、ママを助けるんじゃなかったの。其れとも、私を銃で脅した時の威勢の良い言葉は只の出任せ?ママを愛しているのなら、今此処でそれを証明しなさい。さあ、奪い返すのよ。大切な宝物を。相手は生身の体じゃないわ。貴方も戦う機械に成りなさい。」

 其れは命令ではなく踏み絵だった。此処が機械伯爵の屋敷なのか、本当に母は此処にいるのか。母の生き霊の如き此の黒服が何者なのか。今更、騒いだ処で始まらない。鉄郎は橇から飛び降りて、亜空間の裂け目に進み出る。額装された細密画の様に、嵐の直中を区画する異界の断層。至近距離で差し向かうと、二つの錯綜する宇宙に角膜が屈曲し、隣り合う凸面(とつめん)凹面(おうめん)が遠近感を覆す。

 こんな大袈裟な仕掛けを組んで獲物が鼠一匹では、間尺に合わなくて心苦しいが、趣味の悪い手品に付き合ってやるのだから、差し引きゼロだ。鉄郎は無人の館内に無理矢理視座を()じ伏せ、レーザーアサルトを起動した。其れを見て黒い女狐が耳を掻き上げ、指に絡めた金髪を口元に添えてほくそ笑む。

 「ま(さき)()らば。」

 こんな嫌味でも聞き納めかも知れないのだから、袖にするのも忍びない。

 「磐女(いわめ)(まじな)いなら余所で遣れ。」

 入場したが最後、戻ってこられるか判らない。そんな心配は帰る場所のある者がする事だ。鉄郎は鬼界の敷居を跨ぎ、輝度を抑えた照明に沈む、何者の気配もない館内に踏み込んだ。

 人類が人類であった頃の尊厳を積み重ねた大理石の団塊。ナノ複合建材が可能にした無制限な構造設計が暴走する、自己顕示欲剥き出しのメガロポリス建築とは地金(じがね)が違う。黙して時の重さを統べる堅牢な階段のスロープ。天倫と格式を掛け合わせた折上格天井(おりあげごうてんじょう)。模造品では築き得ぬ気位の横溢。旧人類から接収したのだろう。今もこの戦利品は何者にも媚びず、自己完結している。鉄郎の存在など意に介さぬ半醒半睡(はんせいはんすい)。母の行方を(ほの)めかす素振りすらなく、踊り場に昇坐(しょうざ)した壁時計が唯、万理を刻むのみ。

 虱潰しに探すしかない。正面階段に向かって歩を踏み出した鉄郎。その間接視野をドス黒い異物が掠めた。右手の開け放たれた扉の影に伏す黒鉄(くろがね)の巨漢。まさかと思い、レーザーアサルトを構えるのも忘れて歩み寄ると、幾層にも塗り重ねられたフタル酸錆止め塗料の黒光りする地肌に、山吹色で銘打たれた「C62 48」のプレートが、在りし日の熱狂を静かに物語っている。破格の大型ボイラーを誇る豪胆な缶胴(かんどう)を横たえた不惑のモニュメント。全長21,475 mm、全高3,980 mm、総重量145.17t、最大出力2,163 PS、最高運転速度100 km/h、国鉄C62形旅客用テンダー式蒸気機関車。

 鋼顔(こうがん)の煙室ドアに冠した前照灯と補助灯、猪首(いくび)型の煙突、(たてがみ)の如き除煙板の鋭角なエプロンの傾斜、鯨背(げいはい)を模した幅広で扁平な蒸気ドーム、ランボードの下で犇めく大直径動輪の隊列、迅雷の様に鍔迫(つばぜ)り合うメインロッドとサイドロッド、躯体を駆け巡る放熱管、送油管、空気作用管の枝葉末節。堅実な鍛冶仕事の集積した圧巻の造形から滲む、車両限界を超克した満身創痍の矜持に館内は心酔し、息を潜めている。

 鉄郎は唐突な展開が途切れる事のない世界に、心の中で張り詰めていた物を見失ってしまった。連結している炭水車の先にも、黒塗りの機影が続いている。時の流れを逆行する何者かに導かれ、未知の回廊に呑み込まれていく招かざる客。分解展示された鋳造(ちゅうぞう)の二軸従台車、機炭間を結ぶ自動給炭機、ボイラー内の煙管に、アセチレン瓦斯(がす)の圧接溶断機材を積載したトロッコが、其れ々々に区画され晦冥(かいめい)(ふけ)っている。

 

 鉄道博物館?

 

 鉄郎は響き渡る跫音(あしおと)を止めて、先台車の板バネから眼路を上げた。宇宙開拓事業で財を成した銀河鉄道株式会社の筆頭株主。黒服の女が苦々しく吐き捨てた言葉が甦る。回廊の角部屋を埋め尽くす各路線歴代のヘッドマーク。其の先に続くギャラリーでは、投炭スコップ、機関士ゴーグル、旧式カンテラ、手持ちの標識灯、砲金製の製造銘板、換算銘板、対進駐軍用表示板、通行証が、古代陵墓の玄室(げんしつ)に所狭しと納められた副葬明器(ふくそうめいき)の如き威彩(いさい)を、硝子ケースの中に封じ込めている。人類の手放した伝世品。機械化人の発掘した人類の遺跡。一つ一つの展示品が寸刻を争う身である筈の鉄郎を、文明の傍観者から、たった独りの弔客(ちょうきゃく)へと(いざな)い、会葬の順路へ送り出す。

 馬車鉄道から鉄索(てっさく)、鉄索から牛車軌道、牛車軌道から蒸気軌道へと変遷していく年表。拡大の一途を辿る路線図。往時の賑わいと風俗を伝える鬼瓦の駅馬舎、泥だらけのゲートルで山を穿つ、敷設工事の褪色した画素の荒いスチール。タイルの欠片を土壁に鏤めたイスラムモザイクのラウンジを挟んで、創業の軌跡を綴る厖大な物量の展示室が、一筋の木漏れ陽すらない樹海の様に続いている。

 時に(うず)もれた史料の堆積が放つ黎気(れいき)に触れて、澄み渡る鉄郎の神性。怒りも焦りも迷いも放熱して、鍾滴(しょうてき)一つ(こぼ)れる事のない地底湖の様に鎮まり返っている。空襲で焼け落ちた駅舎の鉄骨、終戦後の復員・引き揚げ輸送、電気軌道への転換、驚異的経済復興、複合的都市開発のミニチュア模型。右肩上がりの沿革をなぞり、血と汗と涙が報われていた僅かな時代に眼を細める。山を越え谷を跨ぐ定尺の資材の束。人差し指から迸る作業員の点呼。瓦斯圧接による飴色に熔けた鉄と廃油の焦げた匂い。鳴り止まぬ発車のベルが胸に迫る、と言うより此はもう、漠然としたイメージではない。硝子ケース内の陳列物から想起され、押し寄せるのではなく、館内を浸す耳鳴りの内側で現に反響し、一方的に頭骨を攪拌(かくはん)し始める。

 高速鉄道の列島縦断。様々な線形の車輌が最速を競い合う其の外れで(かち)を拾う、花飾りを纏った単線のワンマン列車。西日に染まる田園地帯に鈍行の長い影が伸びる。用水路の脇で見上げる鉄郎に車窓から身を乗り出して手を振る乗客の涙。花電車じゃない。これは廃線の最終列車。鉄郎は其の現場に臨場していた。知覚野をプロジェクターにして投影しているのか、其れとも伝送海馬か。機械伯爵の屋敷と言う現実を上書きして、別れを告げる警笛のドップラー効果が、木造車体から換装した燐寸(マッチ)箱の様な一両編成を追い掛けていく。

 ヤバイ、呑み込まれる。背乗りする気か。手の込んだ細工をしやがって。鉄郎は見当識を固持する為、強制的な合成記憶の狭間から覗く、現実世界の片鱗に眼を凝らした。オーバーフローする前に抜け出さないと、器質的昏睡に滑落する。そう判ってはいても、神経伝達モデムのヘッドギヤすら介さずに、此程の実体感を無線で焼き付けてくるのだから、送信経路を断つ処か、今自分が展示室の何処を向いているのかすら藪の中だ。遠い追憶の彼方で水平線が煌めいている。小雪混じりの重苦しい曇天。何故、陽も射していないのに、と(しか)めた眉間を撃ち抜く衝撃波。管理区域外の蹂躙された更地が脳裏を()ぎり、押し寄せる地鳴りが脊椎に刻み込まれた暴威を呼び覚ます。津波・・・・と言う言葉を無意識の闇へと抑圧する薄弱な自我。メガロポリスから見捨てられた死の大地とは違う、罪なき人々の営みを殲滅する瓦礫の逆流。高台で放心した人垣の頭上を行き交う、地方整備局と報道機関のヘリ。潮の退いた荒野を埋め尽くす文明の残骸と削ぎ残された住宅の基礎。避難所から溢れ夜道を彷徨(さまよ)う人々。先を譲り合う炊き出しの列。唯、其処に居てくれるだけで心強い自衛隊員の背中。碁盤の目の様に整然と建ち並ぶプレハブに自宅を見失う仮設村。海岸線を子供達が駆けてくる。漁業組合の若い衆が押し寄せたホーム。紺碧の空の下、幾重にも打ち振られる大漁旗に迎えられて到着する復興電車。

 生々流転の劇情に鉄郎は為す術もなく(はりつけ)にされ、加速する怒濤の実録が頭頂に過積送信されていく。飽和した鉄道事業と自動運転輸送の台頭による私鉄各社の連鎖的統廃合。起死回生を狙い参入した宇宙開拓事業。度重なる事故の隠蔽。資源と領有の独占を優先し、大気圏外で飛び交う提携と条約の破棄。無人探査機のニアミスを合図に雪崩れ込む武力衝突。契約満了になった民間軍事会社の海賊化と、そんな破落戸(ごろつき)達との更なる蜜月。其れは最早、社史や業積と呼べる様な代物ではなく、顧みる事を許さず切り替わる一場面一場面が、時軸が屈折する程の回転数で高調していく。

 折り重なるシグナルが顳顬(こめかみ)にめり込んでヘルニア化し、眼圧が悲鳴を上げる。片膝を突き髪の毛を掻き(むし)る鉄郎に殺到する、絶海の宇宙。小惑星に停泊した採掘船。扉という扉に真紅のスプレーで殴り書きにされたハザードマーク。防護テープでミイラの様にグルグル巻きにされた人体と思しき塊を、工作機械が通路の床に並べている。医療機器を脇へ押し退け、非破壊検査器が犇めく集中治療室。崩壊した皮膚から染み出す体液で浸水したベットの上に、スパゲッティ状態の小児患者。蚯蚓の様に蠕動する臍帯コード。強制的に胸郭を伸縮させている人工呼吸器の掠れた音漏れ。(しき)りに頭部をスキャンしている無脊椎アーム。遠隔操作で開頭した前頭葉。蛋白質溶接で皮質結合したケーブルの束に絡む金色(こんじき)の乱れ髪。

 此は治療と呼べる代物なのか。幼気な肉塊に群がる解析装置の挙動不審な痙攣。脳細胞蛋白質の局在と動態状況をモデリングした断面画像を、半透明のレイヤーに出力されたバイナリの羅列がゲリラ豪雨の様に塗り潰している。鉄郎は偏頭痛に足許を取られながら、藤棚(ふじだな)の様に垂れ下がっている無数のケーブルを掻き分けて少女のベッドに近付こうとした。すると、16進数の大瀑布が液晶のフレームから旺溢(おういつ)し、鉄郎の視界を埋め尽くして輪転し始める。過積送信の車輪の下で悶絶する三半規管。天地を見失った鉄郎が咄嗟(とっさ)に目の前のケーブルを掴んだ途端、駆け巡る数列が波を打ち、隣り合うゴシックのフォントが解けて連結し、一筋の曲線となって滑らかに蛇行しながら右から左へと走査しては改行していく。眼を凝らすと其れはアルファベットの筆記体。しかも、左右が反転した儘、先走っていく。

 これは鏡越しのカルテ・・・と思う間もなく、握り込んだケーブルの端子が引き千切れ、前のめりに倒壊していく鉄郎の後を追う様に、鏡面文字の筆跡が傾ぎ、注ぎ落ちる様に流れて縦列し、硬質なペン先の屈曲が、毛筆の(まろ)やかな万葉仮名の草書体へと転調していく。花と散り掠れる墨痕(ぼっこん)泡沫(うたかた)微睡(まどろ)みに揺蕩(たゆた)ふ曲水。紐解(ひもと)かれし一幅の書画。圧迫した意識の中で、情報の下僕になる前の文字が、に苛文字(さいな)まれる前の言葉が、言葉を(ろう)する前の心が押し寄せてくる。

 

 

   (たぶて)にも投げ越しつべき天の川

        (へだ)てればかもあまたすべなき

 

 

 ()んでいる。過積送信の嵐が不意に止み、胸を突く大気の鼓動。此は伝送海馬でも、合成記憶でもない。時空を超えて魂振(たまふ)りの哥が聞こえる。色取り取りに閃く短冊の祈りが頬を掠め、天蓋に架かる銀河の渡しへと駆け昇っていく。星屑の岸辺に立つ隻影。笹舟を見送る遠い眼差し。鉄郎は応えた。雲母(きら)の河面を蹴立てて、其の幽かな吐息に手を差し伸べる。

 

 

   天の川水蔭草(みずかげぐさ)の秋風に

      (なび)かふ見れば時は()にけり

 

 

 (こと)()は研ぎ澄まされた夜気に屹立する(しょう)の神韻。万物を生起する聖聾(せいろう)なる音連(おとづ)れ。鉄郎は人の世に降りた(あま)領布(ひれ)()に触れた気がした。()きしめた名香に(むせ)ぶ、白玉(しらたま)五百(いほ)つ集ひ。隔てた逢瀬(おうせ)に踵を浸し、水晶の琉冷(るれい)(そぼ)足荘厳(あしかざり)。景と情が映発する二星会合の夕べ。(ほころ)んだ口元から零れる吟誦(ぎんしょう)に、()(わらわ)、其の身を尽くす澪標(みをつくし)

 

 

   (はたもの)蹋木(ふみぎ)持ち行きて天の河

      打橋(うちはし)わたす君が()むため

 

 

 神慮(しんりょ)を仰ぎ天翔ける木霊返(こだまがえ)しの相聞(そうもん)。鉄郎の白想(はくそう)に降り注ぐ流星群。光の慈雨に包まれて、(ひら)かれる約束の地。何時も胸に焦がれていた此処ではない何処か。の筈が、鉄郎は額に舞い降り、頬を伝う星の粒子に、身覚えのある陰湿な痒みを察し身構える。眼を落とした掌を刻々と穿つ斑点に塗り潰され、酸化していく世界。光明はドス黒い死の雨となって暗転し、後退った一歩が落盤した銀河の底に呑まれて空を切り、見失った重力を道連れに鉄郎は不帰(ふき)の奈落に叩き付けられた。

 

 

 

 

 

 ほと ほと ほと

 

 磐肌(いわはだ)を絞って滴る雫の音が射干玉(ぬばたま)の闇の緘黙行(しじま)を浸している。自ずと開かれていく瞼と瞼。磐床(いわとこ)に臥した頬を上げると、壁一面を埋め尽くす多針メーターが鉄郎を見下ろしている。インデックスを照らす蒼白なバックライトに浮かび上がる磐室(いわむろ)。古墳の中で甦った様な錯覚。夥しい計器の集積したモザイクに立ち()める霊徴(れいちょう)と感応する鉄郎。何と言う事だ。少女は此の壁の中にいる。

 

  俺を()んだのは君か?

 

 言葉を発する必要はない。鉄郎は唯、幽閉された(うつ)し身の息吹に心を澄ました。随分と旧式で大掛かりなストレージだ。全脳器質をエミュレーションした汎用人工知能の様なマネキンとは物が違う。まさか此が帯域核醒自我、ZONEとか言う奴なのか。だとしても、超絶的知性の活動は外から観察出来るだけで、意図の理解出来る交信に成功した事例は未だに無いと言われている。爆弾低気圧の様に破砕データを巻き上げて何者も寄せ付けぬストームや、データベース内に擬態化したまま昏睡しているデッドリーフ、占有している物理回路を熱暴走して基板ごと溶解してしまうレミングス。其の(いず)れもが人智を超えたフォーマットで蠢き、結晶化したブラックボックスだ。此の壁の中に身を(やつ)しているのは、そんな混信した超工学現象なんかじゃない。自ら人柱を乞い投坑(とうこう)した斎女(いつきめ)の崇高なる沈痛で、此の石櫃(いしびつ)の様な磐室は満たされている。

 

  どうして君はそんな処に、否、そんな(からだ)に。君は一体・・・

 

 鉄郎は己の中に彼女へ通じる心の扉を探した。立ちはだかるバックライトのマトリクスが波打ち、磐壁(いわかべ)を掻き毟る様にシーク音が連鎖する。鉄郎は気付いた。(いま)(かつ)て母以外、誰にも心を許した事がなかった事を。神撼(しんかん)する玄室。磐戸(いわと)の隙間から零れる薄光。

 

 

   七重八重(ななへやへ)花は咲けども山吹の

       ()のひとつだになきぞ悲しき

 

 

      私は雪の・・・や・・・・・

 

 

 (ほの)かに点った少女の幼気(いたいけ)な恥じらいが途切れ、鉄郎は身を乗り出した。思わず喉笛に込み上げる、待ってくれの一言。浄域の禁に背いたとでも言うのか、甲骨を走る凶示の様に多針(たしん)メーターの風防硝子に亀裂が入り、(ひら)き掛けた心が氷結して、石火光中(せっかこうちゅう)の幻影を(つんざ)き、鈍器の様な怒号が後頭部に打ち下ろされた。

 

 「貴様、何処から入ってきた。」

 

 鉄郎が振り返ると、其処は集団肖像画を展示した博物館の絵廊(かいろう)で、歴代の社長、事業部長、運輸長、械関庫長、械関士が肩を連ねて、招かざる客を睨み付けている。全く悟性が追い付かない。館内に反響する恫喝(どうかつ)。油彩の刷毛目が身悶えて隆起し、500号のキャンバスの中から公安服を着た漢が、額縁の中から手脚を掛けて、ブロックノイズを放電しながら大理石の床に飛び降りた。

 「此の御屋敷の哲人君主を何方(どなた)と心得る。」

 色相と輪郭の末尾が崩壊と再生を繰り返す烈丈頑夫(れつじょうがんぷ)の肖像。何処迄が現実で、何処迄が伝送で背乗りした欺覚(ぎかく)の残滓なのか見分けが付かない。公安服の後を追って、額縁の中から鉄郎の間接視野に雪崩れ込む、ナッパ服、車掌服、アノラックを羽織った職員達。ブロックノイズが切り刻む形相の狭間から覗くチタン合金の筐体。

 「此処は貴様の如き棒振(ぼうふら)の湧いて這いずる場所ではないわ。」

 「狼藉者だ。出合え、出合え。」

 (とき)の声を挙げ押し寄せる虚実争爛(そうらん)の万華鏡。其の放逸したレンズの焦点が集束し、鉄郎が眼を凝らす覗き穴の旋恍(せんこう)が、吹雪の中で突き付けられた銃口のライフリングに豹変する。魔法は解けた。ブロックノイズの砂嵐は去り、伯爵の下僕を従えて、鉄郎を撃ち殺そうとした複眼レンズの機賊が其処に居た。フラッシュバックする闇を裂く母の断末魔、血の池に染まる襤褸外套、幼児返りをして母の庇護を求め、暴風雪に屈した絶望。其の元凶が、人工被膜を暴いた機界の亡者が、今再び鉄郎の網膜に(えぐ)り込む。創造主の意に反したダイカスト削り出しの頭蓋。黒光りした背徳の美学に、弥勃(よだ)つ身の毛が逆鱗となって戦慄を突き破る。

 電脳化による知の集積によって、人は世界を知り、己を知り、崇高なる人格を、其の心髄を磨き上げていくのではなかったのか。こんな合金の鹿威(ししおど)しが、最後の審判をパスした新世紀の精選華族だと?肌に墨を入れる様に、腕から足へ、義肢からオールインワンへと衣替え、身を持ち崩していった分際で、何が天涯到智(とうち)の霊超類だ。虚栄の移り気に(かま)ける、こんな聖賢(せいけん)面した二石(にごく)三文の大名気取りに(ぬか)ずいている位なら、棒振の浮いた泥水を啜っていた方が増しだ。

 燃え盛る血糖が頸動脈を掻き毟り、空腹と寒さで衰弱していた彼の時とは同名異人の鉄郎が、白瀑に没した鉄郎を押し退け、指先に絡む銃爪の冷利な感触が甦る。鉄郎は雄叫びを挙げ、虚を突かれ足の止まった鋼漢(こうかん)の左胸が、瞬いた蒼烈な残像の彼方に消滅した。過去と未来が転倒する駿速。動体視力を置き去りにして姦通した鈷藍(コバルト)の光弾。老竹色のカーボンファイバーを纏う、ショートスケールの銃身が仄かに余熱を帯びている。情事の後の一服に(ふけ)るが如く、オートレンジの銃口を舐める昇煙。息を呑む緩慢な時の流れの中で、両肘を交差し頭部を庇う無防備な下腹部に、リアサイトで浮遊するエアディスプレイが緋彗(ひすい)のポインターを飛ばし捕測する。ゆっくりと腰を落とした鉄郎の十指を伝導する光励起(こうれいき)結晶の臨界。脳髄にめり込む雷管を官能が撃針し、整錬された強靱な波長の光源が標的を爆撃する。吹き飛ばされた胴体の空漠に、コマ送りで落下していくダイカスト製の頭部。圧倒的な火力に鉄郎の意識は漂白し、眠っていた嗜虐本能が腐蝕した鎖縛(さばく)を引き千切る。

 踵を返す機賊の群れを追撃する発兇(はっきょう)したアークの咆哮。恍惚の浄火と瀑布が館内を盲爆し、フルオートの弾幕に(けぶ)(くずお)れる機影の団塊が宙を爆ぜる。泥人形の様に溶解した繊維強化樹脂。其の帰すべきを異にした首躰(しゅたい)末節から迸る油圧のオイル。鉄とグリスの類焼した喉を突く臭素。屑鉄の墓場を幾重にも掃射する弾圧から逃れようと、片腕一本で這いずる右半身。失った脊椎を見捨てて彷徨う下半身。生首と化した電脳ユニット同士が額を小突き合って転げ回り、股関節からもげた片足が蜥蜴(とかげ)の尻尾の様に飛び跳ねて、バラバラになったパズルを掻き集めようとする者なぞ独りもない。鉄片の飛沫を喰らって(めし)いた間接照明。闇に(ろう)した館内を刻む、跳ね馬の如き小兵の心拍。

 「母さんは何処だ。」

 舞い落ちる粉塵を被りながら、鉄郎は慙肢が絡み合い、(うね)り狂う画廊を踏み分け、仰向けの(まま)、懸命に蠕動(ぜんどう)している惨骸の一つを見下ろした。

 「貴様は、彼の時の小僧。生身の分際で善くも・・・・・、こんな事をして只で済むと思っているのか。」

 未だ辛うじて息が有るのを良い事に、現世の階位を問い質す霊超類の虚栄。鉄郎は肩で息をしながら、投棄されたデッサンの胸像の様に、足許で朽ち果てている機賊に銃口を突き付ける。

 「俺はなあ流れ星なんだよ。瞬きなんかしてんじゃねえぞ。」

 遊機発光素子を波打たせて複眼レンズの輝度を絞り込む、血の気の失せたクリムゾンレッド。露出したデバイスの制御基板をフィラメントが明滅するばかりで、出力経路の断絶している敗残兵は、寝返りを打つ事すら(まま)なら無い。

 「まっ、待ってくれ、頭だけは、頭だけは撃たないでくれ。」

 口を開けば石榴(ざくろ)(はらわた)を晒すが如しか。生身の人間なら即死の処を、暢々(のうのう)と命乞いが出来るだから良い御身分だ。こんな奴等に怯えて、時には汚水の中に身を潜め、地の果てに幽居していたのか。鉄郎は植毛が焼け焦げて煤まみれの顳顬を蹴散らして、(うつぶ)せになった其の後頭部に誅告(ちゅうこく)した。

 「お前の頭の話しなら、母さんが無事に戻ってくれば、幾らでも聞いてやる。母さんの身に()しもの事があったら、其の時は最終処分場で代わりの頭を探すんだな。母さんは何処だ。寝惚(ねぼ)けた事を言うなら、地獄で目覚める事になるぞ。」

 威嚇射撃が床を爆ぜ、灼けた大理石の礫に頬を張られて身悶える傷痍(しょうい)の猿芝居。鉄郎が銃爪に掛けた指の力を発射寸前の位置で溜め、昂調(こうちょう)する光励起結晶のチャージ音を聞き付けると、

 「判った。話す。何でも話すから、兎に角、銃を仕舞ってくれ。頼む。彼の女の事なら、伯爵が・・・」

 其処まで言い掛けた処で、銃を構えて(にじ)り寄る鉄郎の背後から、無明(むみょう)の迅雷が砲落(ほうらく)し、複眼レンズの頭蓋を撃ち抜いた。朽ちて(かし)ぐ卒塔婆の様に突き刺さった諸刃(もろは)直劍(ちょっけん)。工学反応を滅した電脳ボードから飛沫するアーク。雷撃の余韻に(さら)われ、氷変する館内の騒乱。

 

 唔左治天河令作此百鍊利刀

 

 武骨な剣身の(むね)に刻まれた金象嵌(きんぞうがん)の銘文が、海嶺(かいれい)の亀裂から覗く岩漿(がんしょう)の様に揺らめいている。電解合金とは毛並みが違う、剥落した皮鉄(かわがね)から覗く、炒鋼精鍛(しょうこうせいたん)(いにしえ)心金(しんがね)。蓋石を断ち甦った副葬品の如き其の瘴気(しょうき)に鉄郎の脊髄は(うず)き、身に覚えのある絶望的な因果の磁力に引き擦り込まれる。

 「全く、見苦しいにも程が有る。(しぬる)は案の(ない)の事。(いきる)は存の(ほか)の事(なり)。看過道断、流星一衰の矜持。斬華倒弾に(じゅん)じてこそ男子の本懐。味噌も糞も無い似非(えせ)忠義に、哲人君主と担がれる覚えなぞ無いわ。」

 地の底から轟く音素の荒い恫喝に鉄郎が振り返ると、執務室を描いた額装の中から、機賊を束ねる鋳物の死神が生乾きの瘡蓋(かさぶた)を剥ぎ取る様に身を乗り出し、瓦礫の白洲(しらす)に降り立った。緑青(ろくしやう)の酸化被膜に蝕まれた頭蓋を穿つ爆心の如き隻眼。双肩から迸る夥しき猟奇。此の卦体(けたい)な見世物小屋の真打ちに鉄郎は眼を見張った。機械仕掛けの下僕を睛圧(せいあつ)する超常的な幽渾(ゆうこん)()る事(なが)ら、無惨に破れ果てた其の変容。確かに此の漢は人間狩りを指揮して母を襲った機械伯爵に相違ないが、一体、此の奸賊の身に何が起こったと言うのか。華麗なる軍装は爆撃を掻い(くぐ)ったかの如く焼け落ち、右腕は肩口から切り落とされ、左脇腹の裂傷は脊椎にまで達し、背後のキャンバスが覗いている。事故や過失とは到底思えぬ、鋭利な切り口に残留する凄絶な殺意。(しか)も、此程の致命傷を負っていながら、露出した患部は淫らな愉悦に煌めき、寧ろ生き生きと駆動している。此の死神は本物だ。死神は機物だった。己の身の破滅すら命の水か、地の塩か。メガロポリスの貧民窟で目の当たりにしてきた有りと有らゆる亡者も、鉄郎の凶弾を浴び、大理石の床の節目を舐めている義肢累々(るいるい)も、此の漢と較べたら気質(かたぎ)の様な物だ。

 鉄郎はゆっくりと銃を構え、リアサイトに浮遊するレイヤーに視認カーソルを走らせると、左右の瞬きでモードを切り替え、機械伯爵の隻眼に緋照(ひしょう)を合わせた。アイスピックの如き一瞥で心の臓を鷲掴みにされた彼の時とは、此の身を巡る血の灼度(しゃくど)が違う。

 「男子の本懐だか、団子と善哉(ぜんざい)だか知らないが。お前達の仲が良いのは其れ位にして、今夜の大切なゲストに挨拶の一つもしたらどうだい。ええっ、機械伯爵さんよお。まさか、そんな糞みたいな口封じで、手打ちにしよう何て思ってないだろうな。此以上俺の用件を後回にされちゃあ、肩慣らしが済んで漸く調子の出てきた此奴が冷めちまうぜ。」

 やさぐれた啖呵(たんか)で口火を切る銃爪。インジェクターによる補正を解除した激甚する憎悪が銃口から決壊し、鈷藍(コバルト)の閃条が爆ぜる。例え此の一撃で奴の息の根を止めても構わない。其れがせめてもの弔いになるのなら。母の安否を度外視して迸る光弾のスパイラルが、仁王立ちで待ち構える標的を捉えて鬼道を馳せる。道楽が過ぎた報いだ。地獄の釜で身も心も()(かえ)ろ。(かさ)に罹った鉄郎の讐念(しゅうねん)。光芒が絶頂に達した其の時、火眼金睛(かがんきんせい)、機械伯爵のモノアイが血走り、紅蓮(ぐれん)の鋭気を発すると、面前の空間が膨脹して(ひず)み、頭蓋に直撃すべき光弾は軌道を屈して、逸れた閃条が油彩の執務室を撃ち砕いた。

 爆風を背に鉄郎の突き付けるアサルトのポインターを傲然と睨み返す狂爛(きょうらん)のカドミウムレッド。常軌を逸するとは此の漢の為にあるのか。今迄も()うして、(どれ)程の条理を捻子(ねじ)曲げて来たのか。鉄郎は一瞬氷血した熱狂の継ぎ目から、(したた)かな随喜が込み上げてくるのを覚えた。理学の寸尺を虚仮(こけ)にして、果ては電呪(でんじゅ)の誉れ有りか。怪相(けそう)の輩も此処まで来ると神(がか)ってやがる。超常的な暴威に鉄郎は半ば見惚(みと)れ、梟雄(きょうゆう)への憧れが其の根を降ろしていく快痒(かいよう)に身を拒む術もない。此の香具師(やし)を前にしては正邪の詮議なぞ些末(さまつ)な言い掛かり。弱者の(ひが)みこそ強者万能の証。神と悪魔の両性具有に、こんな玩具を振り回した処で、花に水を差す様な物。そうと判っていても、伯爵の放つ人の闇に問い掛ける磁力が、鉄郎の銃爪に息吐く事を許さない。

 何が戦う機械になれだ。とぼけた事ぬかしやがって彼の女狐。此の物の怪が重機の膂力(りりょく)でどうにかなるタマかよ。鉄郎は()()ぜの鬼胎(きたい)と官能を振り払い、蛮勇に飢えた銃口が再び光子の波動を慟哭する。悪への糾弾(きょうだん)とも、神への冒涜とも知れぬ相剋に挑む鈷藍の閃条。(しか)し、撃ち放たれた渾身の虚勢も、居丈高(いたけだか)建立(こんりゅう)する鋳物の化身には大旱雲霓(たいかんうんげい)。其の肩口の煤を払う事すら及ばず、モノアイの虹彩(こうさい)から(ほとばし)る結界に屈して弾道は変節し、残像が減衰する間を与えずに銃撃し続けても、左右に逸れた流弾がキャンバス諸共、屋敷の躯体を誤爆するばかり。定格を超えて悲鳴を上げるアサルトの発振器。警戒色でレッドアウトするエアディスプレイ。層射重弾の感極まった其の時、

 

  「喝ッ。」

 

 伯爵の()した気焔雷魄(らいはく)の叱責が鈷藍の弾雨を一掃し、鉄郎を宙に吹き飛ばした。徒手空拳を一指も労せぬ怒濤の迫撃。一体、何がどうやって、こんな崇高なる悪徳を八つ裂きにしたのか。星を掴む様な気の遠くなる彼我(ひが)の差を目の当たりにして、鉄郎は叩き付けられた大理石の床を馳せる衝撃波の残響に痺れる事しか出来ない。降り注ぐ瓦礫と湧き返る塵埃を透かして揺らめく隻影。砂型の禁を断ち息を吹き返したかの如く、昇煙を纏い歩を踏み出した伯爵の形相が、鉄郎の網膜に焼き付いた。

 

 

   昔、夏之方有德也、遠方圖物、

   貢金九牧、鑄鼎象物、

   百物而爲之備、使民知神姦。

 

 

   昔、()(まさ)に德有るや、遠方には物を(ゑが)き、

   金を九牧(きうぼく)(こう)せしめ、(かなへ)()て物を(かたど)り、

   百物(ひやくぶつ)にして(これ)が備へを()し、民をして神姦(しんかん)を知らしむ。

 

 

 緑青の疥癬(かいせん)に犯された酸化被膜を走る無数の皺襞(しゅうへき)が、飽熱した集積回路の様に身悶え渦巻き、古代の文様を呼び覚ます。伯爵の削ぎ落ちた顴骨(かんこつ)に浮かぶ貪婪(どんらん)なる獣神(じゅうしん)綾並(あやな)み。鉄郎は今、(ようや)く得心した。此奴は何処ぞの僧侶が酔いに任せて被った悪巫山戯でもなければ、ビックテックの成れの果てでもない。饕餮(たうてつ)の魔性に問鼎軽重(もんていけいじゅう)を吹っ掛けるなぞ、血迷うにしても烏滸(おこ)がましい。義肢の甲冑(かっちゅう)を打ち鳴らして歩む朽ちた砲金の魁偉(かいい)。息の根の絶えた館内に噎ぶ、上顎に組み込まれたメタルフィルター。怯懦(きょうだ)粉飾を射抜くカドミウムレッドの眼精。鉄郎は完全に此の漢の毒にやられていた。

 「如何(どう)した鉄郎、其処(そこ)迄か。()の若さで何を失ふ物が有る。死を賭して己の魂を満たさずに、何の立つ瀬が在ると言ふのか。

 

    早歲那知世事艱  早歲(さうさい) (なん)ぞ知らん世事の(かた)きを

    中原北望氣如山  中原 北望して氣 山の如し

 

 

 起て、星野鉄郎。未だ何も始まつてはゐ無い。」

 不意に己の名を暴かれて、鉄郎は原名調伏(げんめいちょうふく)鎖術(さじゅつ)に組み敷かれた。何故、伯爵が行きずりの孤児の素性を掌握しているのか。問い(ただ)す言葉すら(つか)えて、其の(あか)き千里眼の睥睨(へいげい)に、畏怖とも神奇とも知れぬ眼差しを返す事しか出来ない。伯爵は朽ち果てた部下の前まで歩み寄り、象嵌(ぞうがん)の刻印から滴る火の粉を振り払って直劍を抜き取ると、メタルフィルターのカートリッジで()した、解像度の粗い音源を舌鋒(ぜっぽう)に、鉄郎を烈々(れつれつ)と痛罵した。

 「偉大なる母の血に泥を塗りたく無ければ起て。」

 怒号が背に負う厳格な仁慈(じんじ)と悲哀の翳り。偉大な母と断言する其の真意。鉄郎が置き去りにされた吹雪の彼方で何が起こったのか。一生飼い慣らす事の出来ぬ慙愧(ざんき)の念が、断腸の牙を剥く。

 「母さんを撃ったのはお前か。」

 打ちのめされた不甲斐ない節々を(なじ)りながら起き上がる鉄郎に、伯爵は高調したローファイのPCMを一旦低域に引き絞った。

 「だとしたら?」

 「巫山戯るな。そんな蒟蒻(こんにゃく)問答に一々味噌を付けてる暇なんてねえんだよ。」

 白漠(はくばく)に散った血飛沫の泥濘(ぬかるみ)に藻掻きながら、鉄郎がアサルトを構えると、伯爵は其の荒ぶる銃口に向かって一刀懲伐(ちょうばつ)、振り翳した直劍を突き付けた。老竹色のカーボンファイバーを握り込んだ掌に走る石火の電撃。酸鼻な刺激臭を巻き上げて飴色に熔け落ちる銃身。五指に灼き付くグリップパネルを鉄郎が咄嗟(とっさ)に振り払うと、斬り裂かれた脇腹から絞り出す様に、伯爵は言の葉を継いだ。

 「鉄郎、母に会ひたければ時間城に来い。(うぢ)()(たまは)る漢に大人も子供も無い。貴様の旅は此処からだ。」

 出会った事の無い、実の父親が(たく)す訓戒の如き響きに、戸惑う鉄郎。

 「時間城?本当に其処に行けば母さんに・・・。」

 「漢の約束に証文なぞ無用。」

 伯爵はそう言い放つと、片腕で大仰(おおぎょう)に直劍を納め、唯一弾雨を逃れた無人の油彩の前に歩み寄る。

 

 

    嘉會難再遇    嘉會(かくわい) 再び遇ひ難く

    歡樂殊未央    歡樂(くわんらく) (こと)(いま)()きず

 

 

 「名残(なごり)惜しいが、出発の時が迫つてゐる。()らばだ、鉄郎。」

 饕餮(たうてつ)文身(ぶんしん)に彩られた屈強な背中が額装の中に身を乗り出すと、赤錆に暮れる在りし日の検査場に降り立ち、残酷な角度で追憶を画する光と陰の狭間に紛れていく。

 「オイ、時間城って何だ。其れは何処に在るんだ。オイ、ちょと待て、此の野郎。」

 物憂げな油彩の刷毛目に揺らめく、隻腕肋裂(せきわんろくれつ)に傾いだ益荒男(ますらお)の後を追って駆け出す鉄郎。タブローの彼方に塗り込められていく伯爵の背中だけじゃない。額縁のレリーフが、剥落した壁を走る鉄筋が、折り重なる機賊の屍が、色を失い、輪郭も掠れ、合金と合成樹脂の灼け焦げた臭素と、立ち籠める粉塵諸共、其処に在る筈の実体の総てが稀薄になっていく。鉄郎の頬を張る一陣の白烈。ピアノ線の様に張り詰めた寒気が逆巻き、キャンバスに向かって振り上げた拳が空を切る。大理石と鉄筋コンクリートの厖大なる堆積が、松濤(しょうとう)微睡(まどろ)む砂絵の様に、驟雨(しゅうう)を待っていた山鳴(やまな)りの様に、漂白していく。胡蝶(こちょう)の夢に舞う鉄郎の小智(しょうち)忽然(こつぜん)と時空を割いて現れた伯爵の居城が、今再び忽然と無に帰していった。

 憑依の去った巫者(ふしゃ)の様に白墨の渦を(みつ)め続ける鉄郎と、四辺不覚の雪原。最早、何を見失ったのか、何処が振り出しだったのかすら判らない。入り乱れていた憎悪と戦慄は胸骨を吹き抜け、身も心も絶界に()した一粒の点描となって解脱した。誰かに何かを命じられた様な気がする。併し、それを思い出せた処で何をどうしろと言うのか。置き去りにされた荒漠一景。地吹雪が巻き上がるだけの総てが欠落した地の果ての果て。其の右も左もない無窮の圏外に、獲物を付け狙う猛禽の(ひそや)かな跫音が新雪を()む。

 振り返ると、旋雪を鏤めた黒服の女が押し付けがましい微笑みを(くゆ)らせている。未だこんな処に居たのか。鉄郎は妖艶に揺らめく黒変種の蜻蛉(かげろう)に、屋敷が消えたのも此の傾城(けいじょう)の為せる業であるやも知れぬ、と奇想して鼻を鳴らした。瞬き一つで反転し続けた虚実の取りを務めるのか、将又(はたまた)、更なる迷宮への露払(つゆはら)いか。黒服の女は頬を棚引く豊髪を掻き上げた指先を口元に添えて呟いた。

 「五体満足で戻ってこられるなんて、磐女(いわめ)(まじな)いが利いたようね。」

 白魔を従え、冷やかしに来たとしか思えぬ悦に入った其の態度。一体今度は何を(けしか)けるつもりなのか。本来、帰る場所も身寄りもなく、こんな天涯の死地に見捨てられているのだ。唯一つ残された頼みの綱に怪事(けじ)を付けている場合じゃない。そうと判ってはいても、こんな怨害(おんがい)の化身の様な黒猫に尻尾を振ってまで、澆薄(ぎょうはく)の末世に(すが)って何になる。今此処で雪棺(せっかん)に臥したからとて土竜(もぐら)の生き埋め。誰に断る義理がある。鉄郎は女の挑発を袖にして、雪煙の舞う無明の彼方に意を凝らした。すると、

 「時間城はトレーダー分岐点の排他的帝層帯域、ファクトヘイブンを漂流している銀河鉄道財団の電影要塞よ。最短距離で往ける星間特急を選んでいる時間は無いわ。

 

   近江の(うみ) 波恐(かしこ)みと風守り 

     年はや()なむ漕ぐとはなしに

 

 名前さえ書き込めば此は貴方の物よ。まさか、機械伯爵に逃げられましたで、引き下がるつもりじゃないでしょうね。」

 鉄郎の鼻先に突き付けられた、黒革のパスケースが縁取る無限軌道の乗車券。記名欄の空白を透かして虹色に浮かび上がる999のホログラムから顔を上げると、女の(さか)しらな賤瞥(せんべつ)が冷や水を浴びせ掛ける。野良犬にお手を強要する幻のチケット。鉄郎の胸倉を嗚咽とも嘔吐とも知れぬ異物が蠕動(ぜんどう)し、喉笛を衝いて零れ落ちた。

 「お前は・・・・・・誰だ。」

 足の踏み場もなく収拾不能で止め処なき夢魔の繚爛(りょうらん)。一夜にして乱高下する運命の気紛れ。此は何かの罠だと罵る事でしか正気を保つ事が出来ない。

 「私はメーテル。」

 母に生き写しの女が子供をあやす様に蛾眉(がび)を解き、(しと)やかな口元から皓歯(こうし)(ほころ)ぶ。弥増(いや)す地吹雪に蹌踉(よろ)めきながら鉄郎は吼えた。倒壊する世界の御柱(みばしら)、其の石据(いしず)えに獅噛附(しがみつ)き、声の限りに激昂した。

 「名前なんか聞いてない。お前は一体何なんだ。」

 

 

 

 重力から解放され、(いただき)を競い合うナノ複合建材の摩天楼。癌細胞の様に増殖し続ける、規制無き都市開発の厖大な物量の氾濫を回遊する、プロジェクションマッピングの蹴汰魂(けたたま)しい街宣。統制と共有により最適化した交通システムを無視して、幹線道路を錯走するステルスモービルのドッグレース。管理区域外の荒天とは無縁な、完璧に気象征御(せいぎょ)された商用空域を蝗害(こうがい)の如く埋め尽くすドローン。(のき)を連ねる旗艦(きかん)店舗のショーウィンドウで輪舞するアンドロイドのマネキン。昼夜を問わず遊歩道で絶世を謳歌する機族達の放埒な群像。

 貧民窟の酒場に張り巡らされたオッズモニターが中継する燦然(さんぜん)たる栄華の断片は、入場する術のない鉄郎の垣間見る事の出来たメトロポリスの総て。其れが今、心停止した状態で先入観から現実へと視界を擦過していく。弾丸道路の全車線を独占する孤高のジャイロブレード。メーテルが鞭を揮う半磁動鹿駆が、皓々と照らし出されているだけの死後硬直した構造物の峡谷をアークを飛ばし滑走する。綺羅星が犇めく機族達の絢爛たる雑踏は、999と(おぼ)しき光源が舞い降りた宵闇の空を哨戒(しょうかい)していたサーチライトは何処へ消え失せたのか。人の気配処かシグナルの瞬き一つ無い、永久凍土に封印された都市機能。鉄郎の憧れと憎悪を掻き立ててきたメガロポリスに一体何が起こったのか。

 普段なら検問待ちの夥しい車列で塞がれた、選民と棄民を分別する入管ゲートを、メーテルとか言う女は無言で一顧だにせず突破して終った。にも(かか)わらず、自警団の装甲車輌が追撃に出動する様子もなければ、警報システムが反応した形跡すらない。こんな状況で本当に999は発車出来るのか。鉄郎は肩鋼骨(けんこうこつ)を鞭で打ちのめされている機畜の放つポインターが、カーブ一つ無い真一文字の弾丸道路を射抜いて目的地を捕捉している事に気が付いた。入管ゲートからメガロポリス東京中央駅まで一直線に縦断する都市の動線。此の機人街の設計思想の中核が銀河鉄道株式会社だとでも。そんな、まさか。

 神聖文字を刻む太古の碑石を模した天を衝く駅ビル。貪婪な機賊を睥睨(へいげい)する機械伯爵の如く、奔放な躯体のメガロポリス建築の中に在って一線を画す、皇然(こうぜん)たる其の偉容が鉄郎の疑念に()し掛かる。虚栄と乱脈を戒めるバベルの廃墟か、将又(はたまた)、幽霊列車を(とむら)御影石(みかげいし)か。喪に服した摩天楼の葬列に機畜の蹄鉄と鞭の電撃が木霊する。凍結した時の流れを逆走する錯覚。左手で立ち橇の手摺りを掴んだ儘、鉄郎はPコートのポケットに右手を突っ込んだ。滑らかに指先を舐める黒革の磨き込まれたコバ。夢を掴んだ実感とは程遠い、拾った財布を懐に隠した様な危うさに、機畜の嘶きが突き刺さる。

 駅前のロータリーに到着すると、メーテルはアタッシュケースを手に取り橇を乗り捨た。傷一つ、継ぎ目一つ無い、一枚床の広大な自動復元セラミックタイルを蹴立てるピンヒール。白亜の躯体が聳える列柱構造のエントランスホールに、在って然るべき発着のアナウンスも運休遅延のプロジェクションもなく、旅客も職員も消え失せた忘却の緘黙行(しじま)に、中央改札を見下ろす吊り時計までもが、午後十一時五十九分で公務を失し硬直している。構内で乗車券を翳せば運行状況や乗車ホームと現在地の位置が面前に空間表示される筈だが、メーテルはパスケースを一瞥する処か、アンテナパネルに提示すらせずゲートを通過した。華美な装飾を廃し、洗練された機能美が整然と空洞化している各路線への階層。見上げれば首が痛くなる高さの吹き抜けに、何の準備も出来ていない宇宙へ旅立つ覚悟が呑み込まれていく。勝手知ったるとばかりに人を突き放した足取りで、99番線の表示を過ぎるメーテルの痩貌(そうぼう)。後を付いていた鉄郎はふと立ち止まり、無人の構内を振り返った。

 引き留める者も、思い残す事もない分際で何を戸惑う事が在る。彼の女狐の正体なんてどうでも良い。道は前にしかない。本当に己の求めている物が何なのかは、行き詰まってから考えろ。空転する立志のリフレインと、白磁の柱廊を爆ぜ、遠離るピンヒールの爪音。其れ等を不意に、野太い咆哮が掻き消し、鉄郎の粗骨(そこつ)胸郭(きょうかく)に轟いた。眼路を返すと、霞みがかった暗がりに黒装束と金髪の艶やかなコントラストが紛れていく。今の号放はまさか。鉄郎は鮮烈な直感に衝き動かされて、メーテルの滅した厚く垂れ込める仙娥(せんが)(とばり)に駆け込んだ。清冽(せいれつ)な涼気かと思いきや、熱気と煤燼(ばいじん)で噎せ返る妖霧。炭と鉄の灼ける匂いで弥増(いやま)す予断に誘われ、閉ざされた視界を突き抜けると、其処は、フィラメントの柔和な白熱に追憶の終着駅が照らし出されていた。

 アングルとリベットで組み上げた軟鋼鉄骨の緻密なアーチが駆け巡る天蓋。凝灰岩(ぎょうかいがん)と採光硝子のモザイクが奏でる重厚なアルペジオ。ロールアップした鋼帯(こうたい)(つた)手摺(てすり)と架台の葉脈(ようみゃく)。午前零時零分にのみ発車表記のある楷書の時刻表。頭端(とうたん)式プラットホームを縁取る白線のタイル。出立の巖頭(がんとう)に爪先を揃え、望郷と惜別の幻影が、溢れ返る水蒸気の噴塊を背負い立ち尽くす。一過星霜の大伽藍に再び感極まった号放が轟いた。夢の中で頬を張られた様な震駭。鉄郎は雄叫びの主を見据え、雲の上に揺蕩(たゆた)ふが如き99番線ホームを踏み締める。

 伯爵の屋敷で遭遇した車輌と寸分違わぬ黒鉄(くろがね)の魔神、国鉄C62形旅客用テンダー式蒸気機関車。世紀を跨ぎ復活した車籍に鎮座するヘッドマークの“999”。何故こんな旧式の、と()しく(いぶか)るより寧ろ、崇高な敬意が自然と湧き上がる。年に一度、宵闇の空に見上げる事しか出来ぬ、選民にのみ許された天空の方舟。無限軌道を()べる伝説の超特急に相応しい豪壮な機影が、今、眼の前で待機している。圧倒的な造形から迸る地獄の釜の如き熱量と磁力。柵の中に安置され火種を断たれた展示物とは訳が違う、器物を超えた気概に鉄郎は引き寄せられていく。

 タールの水底(みなそこ)から浮上した座頭鯨の如き、黒濁した兇躯(きょうく)のボイラーが暴発寸前の張力で漲り、猪首(いくび)突管(とつかん)から天を衝く煤煙と、開放された安全弁の放出する積乱雲の如き蒸気(りゅう)(せめ)ぎ合いに、ランボード下の空気圧縮機とシリンダードレンの呻吟(しんぎん)が連鎖する。生きて帰れぬ旅路の予感と感傷を焼き尽くす、血起に逸る灼熱の息吹。構外に直立した腕木(うでぎ)式信号機の遙か彼方を瞠活(どうかつ)する前照灯。除煙板で遮られた煙室に翳る哲人の横顔。其の肌理の粗いフタル酸のタッチアップが、機械伯爵の超然とした鋳造(ちゅうぞう)鋼顔(こうがん)と交差する。数百万光年を走破する無限軌道。果てしなき宇宙が啓示する存在と無の迷宮を、馬車馬の様に蹴散らす疾黒(しっこく)の弾丸。銀河を巡る未知の狭間で、此の熱暴走の隕鉄(いんてつ)は一体どんな真理と遭遇したのか。到徹した悟性を秘めた傲岸な風格に、鉄郎は過酷な宇宙の片鱗を垣間見た気がした。

 (まなじり)を上げると、ホームの支柱に設置された時計の針が、改札口の吊り時計同様、五十九分を指した儘、年に一度しかない列車の出発を、否、彼の女が乗車するのを待って静態している。99番線ホームのもう一人の主役が、荒ぶる蒸気を切り裂いて柳麗(りゅうれい)な妖姿を紐解いた。メーテルの(しな)やかな足取りが向かう、客車のプレス製手動扉の前に独りの男が立っている。金釦(きんぼたん)と山吹のパイピングが映える紺碧のダブルに、車掌長の腕章と巡査章を配した寸胴短躯を深々と折り曲げ、最敬礼した帽章の桐紋(きりもん)と動輪。

 「御待ちしておりました。メーテル様。処で、此方(こちら)の方は?」

 「新しいボディーガードよ。噛み殺されない様に気を付けてね。」

 招かざる客の紹介に、制帽の(つば)から覗く暗黒瓦斯状の頭部に点る二つの黄芒(こうぼう)が、怪訝(けげん)な相を帯びて萎縮し、ハアと一言、溜息の様な生返事を漏らしてから鉄郎に一礼した。

 「乗車券を拝借します。」

 車掌は慇懃にパスケースを受け取ると、

 「星野鉄郎様・・・・。」

 と(つぶや)いた切り黙り込み、乗車券に記名された持ち主の顔を取り調べる様に覗き込んだ。鉄郎が思わず車掌の視線から眼を逸らすと、客車の窓硝子に凍傷で(ただ)れ炭を吹いた己の顔が映っている。

 「後で角質蘇生シートを持ってきて。こんなコソ泥みたいな顔で車内を彷徨(うろつ)かれたら、折角の旅が台無しだわ。」

 半ば叱責に近い指示を飛ばしメーテルは車内に消えた。開け放たれた儘の手動式扉に向かって、車掌が再び深々と頭を垂れる。

 「(かしこ)まりました。」

 疑う余地はない。彼の女は此の列車の主賓ではなく主人。誰も同乗する事のない御忍びの独り旅。そんな星間鉄道の聖域に迷い込んだ弧鼠(こねずみ)の鉄郎は、整然と連なる十一輌編成の最後尾に随従する、巨大な見えざる影の隊列に胸が騒いだ。水泡で腫れ上がった凍傷の手に戻ってきた乗車券が謳うアンドロメダ巡礼。機械伯爵が待つと言うトレーダー分岐点の時間城。今更、何を迷ったら良いのかすら判らない。鉄郎は煮え切らぬ(おの)が惰弱を衝き飛ばし、乗降デッキに踏み込んだ。

 乳白色の張り上げ屋根に配した、二列の白熱灯が飴色に照らし出す、磨き込まれたニス塗りの木肌。仄かに湛えた液体ワックスの匂いが小鼻を擽り、板張りの通路が名の在る旧家に招かれた様な心地良い軋みを上げる。踏み締めただけで合板でないと判る此の感触。(はなだ)色のモケットを張ったボックスシートの背摺(せずり)の木枠も、車窓を巡る壁板も、節のない単材を贅沢に使って仕上げられている。添えた手を、そっと握り返す古木の穏やかで厳かな風合い。世紀を超えて息吐く質実な作り手の想い。そんな旅愁を誘う意匠に服して、弔客の居ない葬列の如く通路を挟んで連なる、誰も座る事のない空席の陰から、棘の数しか取り柄のない例の耳障りな声が飛んできた。

 「何時までそんな処に立っているつもりなの。」

 モケットの木枠から覗く露西亜帽と、網で編まれた本物の網棚に置かれた馬革のアタッシュケース。欠席の会葬者達は喪主のヒステリーを完全に黙殺している。不承々々、誰を(とむら)うのかも知れぬ告別式に(まか)り出る鉄郎。彼の黒いのに此以上ガヤを入れられたのでは、浮かばれる物も浮かばれまい。車窓の上部に振られた律儀な座席番号。何処に座ろうと自由な筈だが、鉄郎は敢えてメーテルの正面に対席した。挑む様に窓外を睨み付けた儘、腰を下ろす優待席。乗車券の恩義を蹴り返す様に足を組んで、ハイ、其れ迄。御悔(おく)やみの言葉なんて無い。額を押し付けた強化硝子に映える喪服に身を窶した深窓の佳人。黙ってさえいれば花も恥じらい星も消え入る、此の女にのみ許された固有形容詞の如き美しさに息が詰まる。()してや、母と見紛う其の面影。合わせ鏡の罪と罰に、思わず声を張り上げて燃え尽きてしまいそうな慙愧の岩漿を、蹴汰魂しい電鈴(でんれい)の連打が掻き消した。過電流を吹き込まれてデッキ扉のスピーカーが激白する低域の割れたアナウンス。

 「午前零時発、99番乗り場、アンドロメダ行き急行999号発車します。」

 旅が始まる。否、始まってしまう。無人のプラットホームを(つんざ)くホイッスルの舌鋒(ぜっぽう)を合図に、緩解するブレーキシリンダーの慨嘆。満を持して雄叫びを上げる野太い二声の長緩汽笛に、ドームの屋根が順風を孕む帆布の如く張り詰め、アングルで編み上げられた鉄骨の枝葉末節が共鳴する。塞き止められていた時の流れが溢れ返る新しい年の幕開け。今更、待ってくれと切り出した処でどうにもならぬ震駭と熱波の奔流。高圧水蒸気で(みなぎ)る鋼鉄の鯨背が隆起し、豪快なドラフトの鼓動を轟かせながら、直径1,750 mmを連ねた大動輪の繰り出す不貞々々しい巨人の一歩が鉄路を掘削する。座骨を衝き上げる力強いトルクに粛然と押し流されていく鉄郎の運命。最早立ち止まって振り返る事も許されず、乗客という当事者としての自覚をも置き去りにして加速するメインロッド。

 自分は一体何処へ連れ去られようとしているのか。未知の世界で待っている新しい出会い。夢と希望に満ちた無限の宇宙。そんな御花畑のピクニックとは程遠い、護送車輌の殺伐とした遽動(きょどう)(ようや)く此の文明に呪われた死の星から御然(おさ)らば出来るというのに、時めきの一欠片すらなく、彼程、想い焦がれていた筈の瞬間に愕然としている。現実以上の現実に追い付けない意志と、逆方向に拘引されていく肉体。鉄郎の虚ろな表情を映した窓硝子を限るプラットホーム諸共、押し付けられた唐突な未来が強制スクロールしていく。

 本当に此で良いのか。自分に此の星から旅立つ資格はあるのか。血の海に消えた母を救い出せると心の底から信じているのか。鉄郎、(そもそ)もお前は人に胸を張って誇れる何かを成し遂げた事があるのか。今の今迄、母の背中越しに人生を傍観し続けてきた落ち()拾いの分際で、一体何を乗り越えられると言うのか。そんな拾い物の乗車券で何処に辿り着けると言うのか。出世払いで払える程、無賃乗車する冒険のツケは甘くない。

 集煙装置を廃した剥き身の突管から怒髪天を衝く煤煙が、鋼殻で擬した天蓋を埋め尽くして棚引き、シリンダーから迸る憤怒の激蒸がランボードを掻き上げて、赤腕(せきわん)の斜傾した信号機を振り切ると、煙室ドアの頂く前照灯が瞬き、一気に啓けた視界を輻輳(ふくそう)するメガロポリスの摩天楼に、(ウラン)硝子を透過したカクテル光線の日輪が降り注ぐ。鉄筋コンクリート・ラーメン高架橋が迫り上がり、陸路から空路へと巨大竜脚類の如き鎌首を(もた)げる無限軌道。成層圏を仰いで(そび)え建つ急勾配の橋脚に導かれて、黒鉄(くろがね)の魔神が重力を逆送する。

 地上から引き剥がされていく未曾有のパノラマに、鉄郎は矢も盾も堪らず窓を押上げ其の身を乗り出した。目眩(めくるめ)く虚栄の限りを尽くした機族趣味の建築群。眼下を見渡すと、999が発車するのを待っていたとでも言うのか、自警団の自律装甲車が巡回に繰り出し、幹線道路の車線流動システムと無段連結ジャンクションが復帰して、戒厳令を解かれたかの様に都市が起動し始める。此の眼に焼き付ける最後の景色が、見え透いた小細工の種明かしとは、気の利かない奴等だ。そんなにも此の御料車輌(ごりょうしゃりょう)が恐れ多いのか。巨人の肩を借りて見下ろす機族達の牙城。ブートメニューを曝した儘、ナノ複合建材の峡谷をプロジェクションマッピングが彩り、夜降ち(よぐたち)行幸(ぎょうこう)(あが)め仰ぐ素振りさえ見せずに、鋼僕(こうぼく)地辺汰(ぢべた)を這い擦り回っている。

 煤煙を蒸し返して翻る窓外に鼻膜を突かれ、鉄郎は充血した目頭に不覚にも込み上げてくる熱い物を、加速し続ける戸惑いと結びつける事が出来ない。不意の汽笛に凍傷で黒変した頬を張られて振り向くと、サーチライトが再び哨戒し始めた虚空に忽然と鉄路が途切れている。アッと声を上げる間もなく、万有引力の圏外に飛び発つ銀河の方舟(はこぶね)。軌条を駆る動輪の鼓動が弛緩し、気圧と音圧の大瀑布が擦過して風塵に帰した。

 一直線に天頂を目指すの十一輌編成の車列。メガロポリスの蕩尽(とうじん)に飽かせた燦爛(けんらん)たる光源が、緻密な点描となって遠離り、禍々(まがまが)しさの薄れていく其の栄華を、管理区域外の暗黙が見渡す限り取り囲んでいる。絶望的な闇の何処かに埋もれている、母と過ごした一間の記憶。此の星の中で唯一別れを告げておきたかった愛惜の我が家に鉄郎が眼を凝らすと、無限軌道は気象征御網を突破して暴風雪の弾幕に呑み込まれ、手を翳し顔を背けようとした迫間(つかのま)に雲海を抜けて、十三夜に満たぬ孤航(ここう)寒月(かんげつ)が新世界の宗主の如く現れた。粒子状物質の呪縛から解かれ澄み渡る大気。初めて眼にした天体の宝庫が宣告する地表との決別。鉄郎の原風景も(はら)い清められた芥子粒(けしつぶ)となって、本の束の間の追憶すら叶わない。廃材を寄せ集めた折り紙が、酸性雪を転がして積み重ねた雪達磨が、笹の葉を模して灌木に吊す短冊が、数千億の煌めきを湛える銀河の水脈に没し、塵想(じんそう)を断つ絶天の超望。壮大な時空を超え到達した光矢を反射して、弐百萬コスモ馬力を誇る黒耀(こくえう)の駆体が徐に旋回する。

 

   太古黎星爛無盡   太古の黎星(れいせい) (らん)として無盡(むじん)

   長天一月滅後煤   長天の一月(いちげつ) 後煤(こうばい)に滅す

 

 鉄郎の(つがい)を逸した(おとがい)から零れる歎舌(たんぜつ)。眼下を反転し弓形(ゆみなり)乾坤(けんこん)を分かつ漆黒の水平線に一縷(いちる)輝裂(きれつ)が走り、此の星系を司る天津日(あまつひ)の来光が無穀(むこく)の大地を染め上げる。海原との見境無き灰褐色の堆積と沈澱。死灰に(まみ)れた巻雲(けんうん)と気流。蒼い星と呼ばれていた頃の面影など何処にも無い。五大陸の各地に点在している筈のメガロポリスすら、枯葉に埋もれた独片(ひとひら)の紅葉。落魄した其の様を太陽に暴かれる儘に暴かれて絶息している。悪趣味な天体ショーを破格の出力で遊覧する20世紀の精霊(しょうりょう)列車。スペースデブリの銃撃を蹴散らしながら周回軌道を越え、人類を堕胎した母なる星の全貌が視界に納まる距離まで瞬く間に翔破(しょうは)して、重力の追随を許さない。

 窓外に身を乗り出していた筈の鉄郎は、何時しか絶海に打ち捨てられた漂流者の様に窓枠にしがみついていた。永遠の輪廻を巡り巡っても測り知る事の出来ない無量無辺の宇宙に灯された一抹の太陽系第三惑星。其れは余りにも卑小で、砂が地球の欠片だとしても、地球は宇宙の欠片ですらない。地表からは(うかが)い知る事の出来なかった厖大な銀河の雲塊は、廃屋から掘り起こした図鑑で観た絵葉書の様なスナップとは訳が違った。余りにも底知れぬ不気味な実体に、鉄郎は悪寒と吐き気を堪える事しか出来ない。其れは存在の皮を被った不条理に対する知覚過敏なぞと言う御上品な代物ではなかった。グロテスクと一口に言っても、行き倒れの腸を貪る蛆虫の群像ですら、快活な精力に溢れている物だ。なのに此の途方もない星々の世界は、人の心を全く寄せ付けぬ瘴気(しょうき)を湛え、昏々とギラ付いている。天を大公無私にして聡明神智なる物と崇めた先人達の錯誤。創造主の厳格な啓示も、慈愛に満ちた眼差しも、救済も断罪も無い。天界の一里塚に刻まれた解読不能な完黙の洗礼。得体の知れぬ茫漠に呑まれていく地球を目の当たりにした鉄郎は、初めて其の尊さを思い知らされた。

 シールドされた無限軌道の外へ一歩踏み出せば、物の十数秒で永遠に意識が飛ぶ、微生物でもない限り生存不能な彼劫(ひごう)滅却の世界。星々を股に掛ける冒険と浪漫を謳うのは、地球に帰れる当てのある好事家(こうずか)達の御惚気でしかない。文明の老廃物と決め付け罵り続けた死の星が、今、引き離されるほど胸に迫り愛おしい。在りし日の輝きを失い、汚辱の限りを尽くしても、水と大気を宿した地球が生命の奇蹟で在る事に一片の翳りも無く、其の健気(けなげ)な姿は理不尽な迫害と苦難から身を挺して鉄郎を護った、気高き母と重なり合う。地球を脱出すれば自由になれると夢想していた。此の宇宙が突き付ける無限の自由には錨を降ろす場所も、錘鉛(すいえん)を吊して測る上下も、命を繋ぎ止める何物もないとも知らずに、限られた境遇の中で人事を尽くし、掛け替えのない今、此の時を全うする事から眼を逸らしていた。

 999渾身のドラフトがシリンダードレンの放咳(ほうがい)を蹴立てて母なる星を後にする。不可解な隕力(いんりょく)に引き擦り込まれていくだけの、銀幕に投影された他人事の様な疾走感。不吉な威容を誇示する人智を超克した銀河の奔流。慙愧にまみれた地球への恋慕が交錯し、(うつ)けの如く昇魄(しょうはく)した鉄郎を、旅の狂言師を気取った連れ合いが半笑いで(はや)し立てる。

 

 

    見渡せば神も岩戶(いわと)もなかりけり

        高天原(たかまのはら)(うろ)彌果(いやはて)

 

 

 背摺(せずり)の木枠に露西亜帽を傾け、淫らに吊るし上げた眦が愛でる窓外の天玄洪荒(てんげんこうこう)。其の輝ける闇に毛足の艶やかなフォックスコートが溶け出して、滝津瀬(たきつせ)の如き琥珀色の垂髪(すいはつ)が雪崩れ落ちる。客室の慇懃(いんぎん)なる調度に和して、美しく瓦解した比倫(ひりん)を絶する不埒(ふらち)な気品。永遠の夢路に封じ込められた時の旅人か、将又(はたまた)、心の羅針を惑わすセイレーンか。鉄郎にはメーテルと言う女の存在が、宇宙の謎、其の物に見えた。

 鯨背に煤煙を棚引かせ吼え立てる鋼顔の銀河超特急。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。無法無窮の大海原へと脫輪した運命の(わだち)晦冥(くわいめい)(かく)車窗(しやさう)の閃きは走馬燈の如くして、既視轉生(きしてんせい)の錯誤に目眩(めくるめ)く。

 

 

    墜入天網 幾銀河

    航航歲歲 星又星

 

 

 光脚(くわうきやく)を凌ぎ、緘默(かんもく)を貫く無限軌道(むげんきだう)絕望(ぜつばう)から産み落とされた遙かなる旅の始まり。稀望(きばう)缺片(かけら)(かぞ)へる事すら儘ならず、唯、黑耀(こくえう)の女神が手向ける魔性の微笑(ほほゑ)みを睨み返す。限りある命に瞬く泡沫(うたかた)の靑春。數畸(すうき)を究める鉄郞(てつらう)の行く末、果たして相成(あひな)るや如何(いか)に。其れは()次囘(じかい)講釋(かうしやく)で。



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#2 タイタンの眠れる戦士

 ()の人の眠りは、(しづ)かに覚めていった。遠い()の日に浸った安らかな胎響の揺り籠。()の温もりに満ちた心拍の子守歌が、規則的で健脚な律動へと移ろい、焦塵を蹴立てるドラフトの鼓動へと転調して、蹴汰魂(けたたま)しい水蒸気の咆哮が皺眉(しゅうび)を衝く。

 

   鐵笛噎萬感  鐵笛(てつてき) 萬感に(むせ)

   火輪驅銀瀾  火輪(くわりん) 銀瀾(ぎんらん)()ける

 

 地球での最後の一日。沙汰(さた)の限りを超えた凶事に精も根も尽き果て呑み込まれた、昏睡の長いトンネルを抜けても(なほ)、鉄郎は無限軌道に君臨する銀河超特急の二等車輌、(はなだ)色のモケットが包み込むボックスシートの中に居た。半狂乱の地吹雪も、出口の無い飢えと渇きも、瓦礫と産廃の尾根も、重金属の泥濘(ぬかるみ)も、感染症の巣窟も、天変地異の叩き売りも無い、緩慢で淡然とした一時。人類が人類であった頃の遺失物に揺られて、辰宿列張(しんしゅくれっちょう)の窓外を(かぎ)る物と言えば、人間狩りの餌食となった血の海の記憶。寝覚めの悪い空夢だと打ち消そうにも、頬からズレ落ちた角質蘇生シートの乳液に癒着した凍傷の黒皮が白魔の惨劇を物語り、更には其の証左を掻き乱す様に、身を挺して我が子を護った母を剽窃(ひょうさつ)した女が、寝息を立てて向かいの背摺(せすり)(もた)れている。鉄郎に己の罪を数えろと迫る聖母の安息。

 余りにも総てが唐突で、何をどう整理し、理解すれば良いのか判らない。ゴミを拾って喰い繋ぎ、貧民窟の娼童達に蓑虫呼ばわりされていた自分が、下ろし立ての服を着ているだけでも信じられないと言うのに、何の資格が有って星の海を遊覧しているのか。魂と引き替えに手に入れた訳でも無い、降って湧いた乗車券。重力の糸が切れたスペースデブリに辿り着ける場所なんて在るのか。旅は始まったばかりだと言うのに、夏の終わりを告げる空蝉(うつせみ)の如く、鉄郎の心は星系を画す窓際に引っ掛かった儘、宙を揺れていた。

 「母に会ひたければ時間城に來い。」

 機械伯爵とか言う奴が何か喚いていた様な気がする。トレーダー分岐点、排他的帝層帯域、ファクトヘイブンに、電影要塞。そんな御託を真に受けてどうする。夢を追い続けていれば何時か巡り会える宝島、等と言うのは地球上での話だ。成層圏を脱した果てし無いボイドの空漠に奇遇の差し挟む余地はない。小さな鍵穴から外の世界を覗き見ていただけの少年が、狂おしく恋い焦がれていた血湧き肉躍る冒険譚は、分不相応な思春期の空想。たった一晩交わした銃撃で幼き野心は白墨に散った。疾風頸草(しっぷうけいそう)とは程遠い、非業の嵐に(くずお)れた草魂。今は唯、羊水の失楽に胎児は溺れ、対面に座る、汚染物質の蓄積による黄疸も縮毛も無い、瑞々しく生まれ変わった母の面影に眼を細める。

 融け出した白磁に薄紅を挿す淑やかな肌理。天孫が舞い()金色(こんじき)鳳髪(ほうはつ)。生き写しを超えた絶世の娟容(けんよう)に錯綜する、例え合法的にパスを手に入れたとしても乗車を拒んだであろう母の高潔。自責の念が囃し立てる老想化視か、亡霊列車を粉飾する流し雛か。妖しくも妙なる昏睡に、鉄郎は思わず身を乗り出して女の顔を覗き込もうとした。(まさ)に其の時、

 「何時までそんな処でまごついているつもりなの。どうせ火星が落ちたとか言う話でしょ。其れならそうと報告して、速やかに業務に戻りなさい。」

 柔和な顔面神経が決裂して、不機嫌な眼差しがデッキ扉の磨り硝子に映る愚直な影を撃ち抜いた。扉を開けて一礼し、歩度を正して進み出る紺碧のダブルブレザー。スコッチグレインのドッグテイルが老楽した床板の柾目(まさめ)に規律と戦慄を刻み、メーテルの前で再び一礼した車掌は、其の姿勢を崩さずに譲舌(じょうぜつ)(けん)じた。

 「御寛ぎの処、誠に申し訳御座いません。次に停車予定の火星が、御推察の通り、砂鉄の磁気嵐に滞留した電劾重合体によって、発着が困難な状態に陥っております。就きましては、火星を通過し、火星で予定しておりました天然資材の補給を兼ね、タイタンへ臨時停車を致したいと存じます。悪しからず御理解賜ります様、何卒、宜しく御願い申し上げます。」

 「火星の電劾重合体なんて何世代前の型なのよ。機密通信に擬装した自傷式プロトコルと交雑して誘爆する筈が、赤錆びの砂嵐に潜り込まれた挙げ句、星ごと取り囲まれて統制不能になりましたじゃあ、眼も当てられないわ。職責のアリバイ作りをしてる場合じゃないのよ。選りに選って地球に一番近い星が太陽系で最初に落とされるなんて、花嫁を仲人に寝取られる様な物じゃない。其れで火星の後始末はどうするの。真逆(まさか)とは思うけど、又、例の有事顧問とか言う連中にドブ浚いを委託するつもり?コンサルタントだ、アウトソーシングだとか言っても、海賊は海賊よ。そんな破落戸(ごろつき)に下の世話まで面倒を見てもらう何て、天河無双の銀河鉄道株式会社が聞いて呆れるわ。」

 凡そ乗客と乗務員の会話ではない。一方的に捲し立てる舌鋒を屈曲不動で耐え忍ぶ老僕。制帽の鍔で覆われた暗黒瓦斯の冥相は、(かん)を以て仁を尽くしている。メーテルは叩いても響かぬ礎石の如き車掌の愚直に痺れを切らし、見て見ぬ振りを決め込んでいる鉄郎に賽を投げた。

 「もう良いわ。あんな埃っぽい処、元々、私の趣味じゃないし。電劾重合体と海賊が共倒れしてくれれば、火星の一つや二つ御釈迦になっても御釣りが来るわ。鉄郎、初めて停車する星が、赤錆まみれの火星から、自由と平等を謳歌する太陽系の楽園に変更だなんて。貴方、ツイてるわね。」

 締結ボルトをシャーレンチで捻じ斬る様な言い草に、鉄郎は醒めた侮瞥(ぶべつ)を窓外に固定した儘、星を数えて心を沈めた。腐肉に喰らい付くのはハイエナの仕事で、俺の領分じゃない。鉄郎は機械伯爵の屋敷が消えた吹雪の中で其の名を問い質したのを最後に、999の乗車券を授けてくれた恩人に一言も口を聞かず、当のメーテルはそんなチンピラの吝嗇(ケチ)なプライドにほくそ笑み、食指を絡めて弄ぶ。

 「タイタンに停車したからって無理に下車する必要はないのよ。一旦改札を出てパスを無くしたり、発車時刻に乗り遅れたら、一生其の星で暮らす事になるんだから。保健所に放り込まれた野良犬の様に、ずっと車内に引き籠もっていれば良いのよ。其の内、親切な誰かさんが引き取りに来てくれるかもしれないわ。そうでしょ、車掌さん。」

 煌びやかな憎悪が瞬く歪な秋波。此の女から発せられるあらゆる物がドス黒く燃え盛り、其の荒魂(あらだま)を鎮める様に車掌は背筋を張って朗々と暗誦した。

 「銀河鉄道営業規則第二十九条、有効ノ乗車券ヲ紛失、並ビニ、所定ノ発車時刻ニ乗リ遅レシ場合、銀河鉄道全路線ノ利用資格ヲ永遠ニ失効スル。一切の例外も、斟酌(しんしゃく)も認められません。定められた条項に抵触の無き様、御留意頂ければと存じます。」

 鉄郎に対しても判で押すが如く深々と敬服する車掌の物腰。其の磨き込まれた礼節に向かって、顱頂(ろちょう)(つんざ)く金切り声が火を噴いた。

 「ハッキリと、乗り遅れたら死ぬ事になるって、教えて上げなさいよ。」

 結界を破られた御柱の様に打ち震えて聳える痩墨(そうぼく)の仙女。壊力濫神(かいりきらんしん)怒鎚(いかづち)に凍結する車内。一体何が此の馬鹿を此処まで追い詰めるのか。不安と屈辱と空腹に押し潰され、産廃の尾根を転げ落ちながら、独り喚き散らしていた己の姿が重なり、鉄郎の頭を()ぎる。不毛の大地を彷徨う棄民の分際で、列星(れつせい)を馳せる高望みに喘ぎ、貧民窟の亡者を見下し、見下され、出口の無い闇に向かって吼え立てる。そんな下賤のルサンチマンに、地位も財力も思いの儘であろう見目麗しき御姫様が取り憑かれ、情操の欠片も無い藪睨みに飛んだ視線が宙で混線し、犬畜生に()している。最優良種で汚染度ゼロの肉体を誇っていながら、脳に器質的な損傷でも有るのか。こうなるともう、下手(したて)に出ても上手(うわて)に出ても見境の無い相手に対し、車掌は臆する事無く、(つとむ)るを以て義と成し、其の本領を粛々と堅持した。

 「私の言葉が足りぬばかりに、誠に申し訳御座いません。メーテル様の御怒りは御尤(ごもっと)も。処分の方は又後程、如何様(いかよう)にも御仰せ付け頂きたく存じます。其れは其れとしてメーテル様、甚だ不躾で心苦しき次第に存じますが、御公務の御支度が整っております故。機関室に御越し頂きます様、何卒、宜しく御願い申し上げます。」

 慇懃(いんぎん)至極な業務連絡が繰り出す公務の一言に、狂気の仮面はいとも容易(たやす)く引き剥がされた。憑き物を落とされて放心した巫女の漂白。振り上げていた拳は玉と砕け、硬直していた顔面神経は暗幕を下ろし、見えない鎖に拘引されて席を発つメーテル。

 「公務の前にラウンジで気分を変えたいわ。茶菓(さか)は軽い物にして。石化してない旧世紀の餅茶(へいちゃ)は手に入ったの?室温と湿度のセッティングは?」

 「ハイ、滞りなく。」

 網棚のアタッシュケースを脇に抱えた車掌が、垂髪の令嬢に付き従ってデッキに姿を消すと、車内は再び堅調に息吐くドラフトの胎響に包み込まれていく。

 所詮、彼の女も此の護送列車に拘留された駕籠の鳥なのか。鉄郎はモケットの繊毛に身を沈めて、胸骨に固着した横隔膜の緊を解き、肺塵を吹した。踝から津々と迫り上がり、失楽へと誘う羊水の潮位。限りない宇宙の広がりを横目に、閉じていく鉄郎の心。其の僅かな隙間に、電劾重合体に呑まれた火星、太陽系の楽園タイタン、と言う二つの星が歪な痼りとなって蹲る。ささやかな夢路を挫く躓きの石にしては角の立つ思わせ振りな言葉に、鉄郎は黒革のパスケースを手に取り、999のホログラムを宙に翳した。

 オーロラの絵巻が(まろ)ぶエアタブレットの点描。ディスプレイに向かって意識を視射すると、火星とタイタンの状況を予知していたかの様に検索し始める。都市伝説化している乗車券なだけあって、様々な機能が凝縮されているのだろうが、ヘルプモードの開き方が判らず、彼の女が居る前で車掌に根掘り葉掘り聞く訳にもいかない鉄郎には、本の触り程度にしか使いこなせない。姿無き機械伯爵の屋敷を炙り出した冥界の呪符。賢しらな脳波には同期しても、少年の惑いや不安、悲しみや祈りには応えぬ冷徹なインターフェース。

 鉄郎は滝の様にレイヤーを縦走するサムネイルを眼で追いながら、手当たり次第に検索結果を開封していく。処が、山積みになった光子の装幀を幾ら紐解いても、風化したアーカイブが渋滞するばかりで、各天体の時事ニュース、総督府の統治状況、投稿サイトによる成層圏内や都市の中継動画にすら辿り着けない。

 地球に近接しているが故に、月面同様、領有権紛争が恒常化し、開拓とは名ばかりの破壊と衝突に明け暮れ、満を持して決行された磁気圏の再生事業も、各国と資本家達の足並みが揃わず、辛うじて散逸する大気を保持出来る様になりはした物の、制御不能な赤錆の砂嵐に没する事になった太陽系第四惑星と、其れを尻目に、テラフォーミングと農林産業の採算化に成功した初の天体に繰り上がった土星第六衛星。其の後、機族の台頭と共に惑星造成事業を最低限の緑化で打ち切る様になり、ターミナル惑星が飛躍的に増加すると、開拓事業の拠点は太陽系外に移行。優良なモデルケースで在った筈のタイタンは、激減した農産物需要と杜撰な観光事業、緑化の維持管理費の高騰で収支が逆転。土星の重力下に放置された不良債権と化し、定住者人口をユンボの稼働台数が凌駕する、土木資材の採石場に甘んじている火星は、開発資本の増強を訴えている等と言った、鮮度の無い、字引から転載しただけの画像とテキストの厖大な反復に、鉄郎は過載超過した電票の堅牢な城壁を仰ぎ見た。

 火星は電劾重合体に呑まれて音信不通なのだとしても、タイタンの大気管制情報すら閲覧出来無いなんて。アクセスが制限されているのか、抑も回線に繋がっていないのか。乗車券に記名した時点でアカウントは登録されている筈。銀河鉄道網を無制限に走破する夢のチケットだ。ログインするのに何等かの設定が必要だとか、そんなケチな代物じゃ無いだろう。

 星系マップ、小惑星のトレードレート、クラウドモール、幻想現実カプセルシアター、E戦役リーグdv.1、電脳モルヒネカジノ、業務転送ロジスティック。溢れ返るアイコンに動体視力が追い付かず、五指を絡めて虱潰しにタップしても、応信待機の砂時計が空転するばかりで何一つ展開しない。痺れを切らした鉄郎は手首を振ってリセットし、銀河鉄道株式会社の運行ナビを爪弾いた。塩基配列の立体系図を彷彿とさせる天体とコロニーが織りなす点と線。銀河星団を超えて網羅された、微に入り細を穿つ厖大な路線図と時刻表をリアルタイムで駆け巡る、各列車の運行状況。然し、掌の上に集積した貴石の小宇宙に、火星を通過しタイタンへと向かう機影は瞬き一つ見当たらない。想定外の臨時停車ならば(なほ)の事、周知に努めてこそナビの本文と言う物。其れがサイトマップの隅々まで見渡しても、今こうして鉄郎の運命を載せて疾走している最上位の特別急行なぞ存在し無いかの如く、完全に封殺されている。メガロポリス東京中央駅構内の案内図を逆さに振って探しても、昨夜出発した99番ホームは藪の中。終着駅までの各停車駅は何処なのか。時間城を構えるトレーダー分岐点とは如何なるターミナルなのか。抑も二百五十万光年先にある終着駅のアンドロメダにどうやって辿り着き、たった一年で往復するのか。

 鉄郎は星辰硝雲のマトリクスから眼路を切り、張り上げ天井に浮かぶ飴色の白熱灯を仰ぐと、パスケースを投げ捨てようとして一旦振り上げた其の手を、肘掛けの上に力無く打ち下ろした。こんなアイタッチパネルをチマチマ弄っている時点で勝負にならない。電脳化すれば、表示画面を肉眼で傍観するのではなく、集積と析算の暴風域で火花を散らす情報元素のバイナリーと直結して、電網恢々(かいかい)疎にして漏らさぬ、天文学的な神智の頂へと駆け上り、此の宇宙の果てまでも見渡す事が出来る筈なのに。こんな貰い下げのカード端末に体の良い門前払いを喰らって、ファームウエアを逆捻子(ねじ)()じ開ける事すら出来ない。

 飢えと渇きを訴えるばかりの、(もどか)しき生身の肉体と、形振り構わず揺れ惑い、安らぐ事を知らぬ(なまくら)な心。こんな物に何時まで羽交い締めにされているのか。機械の体を只で貰える星。其れはもう紙芝居の大団円等ではない。今手の中に有る乗車券は、寄せ集めのパーツで組んだ永遠の命より遙かに高価で稀少な、象外楽土(しょうがいらくど)への通行手形だ。何処に出しても言い値で換金出来るだろう。機械の体を調達出来れば、999の乗車資格なんて茶漬けの付け合わせ。乗り遅れて死ぬも糞も無い。本当に在るかどうかも判らない時間城に仁義を立てて、何時までもこんな古色蒼然を通り越した、得体の知れぬ会葬列車に転がり込んでいられるか。

 鉄郎は他人事の様に煌めく999のホログラムを様々な角度に翳して、記名欄を埋める己の名前に、(しっか)りしやがれと暗示を掛ける。母さんは生きていると信じ切る事も出来なければ、機賊共への復讐に燃え(たぎ)る訳でも無い不甲斐なさ。生身の体に対する苛立ちと、機械の体への漠然とした不安と嫌悪。此の神の悪巫山戯(わるふざけ)としか思えぬ運命の強制連行を、希望の星に巡り会う為の旅だと言い聞かせる欺瞞。自分が所有している筈なのに、まるで乗車券を列車にエスコートして運ばされている様な主従の逆転した感覚。鉄郎は思わずホログラムの瞬きを()ぎる俗情の火群(ほむら)から窓外に眼路を切った。

 無限軌道を天地無用に覆い尽くす莫大な星々の不気味な雲海。どんなに激走しても微動だにしない全景。進んでいる事を実感出来る物差しのない、人智を超えて迫り来る光と闇の無尽蔵な膨脹と相克を前に、一粒の傍点となって漂っている事の悪寒と吐き気が、宇宙酔いと絡んで込み上げてくる。此から先、どんなに旅を続けようと飼い慣らす事の出来ぬであろう、死出(しで)の予感。星空を馳せるドラフトの鼓動が鉄郎の吐胸(とむね)を空転し、羊水に満ちた車内の胎響が不吉な鈍痛へと瓦解していく。

 

 

  見れど飽かぬ(あま)戶河(とがは)常滑(とこなめ)

     絕つゆることなくまた還りみむ

 

 

 矢も盾もたまらず、(いにしえ)三十文字(みそもじ)余り二文字(ふたもじ)が鉄郎の口を衝いた。遠出の難所で母が奉った、天嶮湍龍(てんけんたんりゅう)を祝い(はや)巫呪(ふじゅ)の献詠。故郷を望み、見晴るかす魂振(たまふ)り。今は唯、母の生き様を(なぞら)え、歌い継いだ言の葉だけが、千早振(ちはやふ)る宇宙の神威を鎮め、此の旅を見守り、不可解な進路と鉄郎の心に光を灯した。

 

 

 

 「停車駅の変更により、御客様に多大な御迷惑を御掛けします事を、改めて深く御詫び申し上げます。此の件につきましては誠心誠意対応させて頂きますので、何卒、御容赦のほど御願い申し上げます。其れでは誠に御待たせ致しました。次の停車駅はタイタン。停車時間は通常、停車駅タイタンの自転周期382時間41分24.3744秒となる処ですが、遅延した運行スケジュールを調整する必要が御座います。誠に勝手ながらタイタンでの停車時間は停車予定であった火星の自転周期24時間39分34.92秒とさせて頂きます。御了承下さいます様、御願い申し上げます。次の停車駅はタイタン。停車時間は24時間39分34.92秒。呉々も御乗り遅れの無き様、御留意頂きたく存じます。」

 デッキ扉を背に踵を揃え、たった一組の乗客に向けて朗々と響き渡る車掌のアナウンス。たった一筋の航路が宣告する星屑の一里塚に、空席を連ねたボックスシートが襟を正す。進行方向を背に座っていた鉄郎は、一礼をして杓子定規に踵を返す車掌の後を追う様に、対面(といめん)北叟笑(ほくそえ)黒女(くろめ)の沈黙を袖にして、後続車輌と連結している仄暗(ほのぐら)いデッキの独居房に滑り込んだ。息が詰まる相席から逃れて生色を得る玉響(たまゆら)の人心地。全く堪ったもんじゃない。身動(みじろ)ぎ一つせず人に懺悔を強要する不敵な彼の眼差し。四六時中、被疑者として拘束され、尋問されているかの様な閉塞感。其の場の勢いで目の前に陣取ったのは良いが、何時までこんな意地を張り続けていられるのか。鉄郎は通路の壁に身を投げ出して(もた)れ掛かり、プレス製手動扉に嵌め込まれた硝子窓に映る己の姿に問い質す。すると其の鏡面に、公転面から25.33度に傾いだ氷の環帯を羽織って宙を舞う孤高の御玉(みたま)が、スライドフィルムの様に姿を現した。

 遙かなる太陽光を浴びて浮かび上がる肌色と灰白色の生温い階調。七曜の中堅を担う黄帝の姿に(なぞら)えた太陽系第六惑星。窓枠の額装に納まった其の威容な全体像に、鉄郎は新たなる吐き気を覚えた。見た事のある衛星画像と寸分違わぬ其の姿は、優美や荘厳と言う形容を拒絶して静謐な狂気に満ちている。絶界の宇宙を揺蕩(たゆた)う球体と楕円の異物。小首を傾げた泥人形の生首。其の霊妙な呪力に魅入られて、鉄郎は恐る恐る土星のグロテスクな実物に躙り寄り、窓硝子に額を押し付けた。水素やヘリウムの厚い揮発成分で覆われ、テラフォーミングの試案すら語られる事の無い莫大な死の星。そんな予備知識と全く違う次元に此の塊は陥没している。太陽系を脱してすらい無いのに、連続して直面する認知の容量を超えた未知の実存。其の片隅に、鉄郎は微かな希望の煌めきを見付けた。

 シリンダーピストンの蹴立てる進行方向の彼方で恥じらう玲瓏(れいろう)なる蒼一点(そういってん)。彼が次の停車駅。鉄郎は角度の無い視界をこじ開けようとして、額に押し当てた窓硝子が軋みを上げる。暗黙の世界に滴り落ちた紺碧の雫石(しずくいし)に轟然と突進する銀河超特急。浪漫と解釈を拒む数多の天体とは懸け離れた、聡明な光彩が迫り来る。太陽系の楽園。其の称号に違わぬ、澄み渡る水と緑と大気の結晶した天涯のオアシスに、能書きは無用だった。ジェット気流に棚引く雄渾な雲海、濃密な葉緑素で漲る大地、深淵なる母性を湛えた大海原。核融合パネルを並べた人工太陽が照らし出す生命の息吹に、時を逆走し、在りし日の地球に舞い戻った来たかの様な歓喜が込み上げ、喉笛に絡む虫酸を濯ぎ、胸の支えが解かれていく。例えどんな旅でも意味を成す出会いと発見が在り、総ての冒険には超えるべき価値が在る。そんな絵葉書の様な謳い文句に心が傾いだ次の瞬間。

 「お気に召して?地球より蒼く、地球より緑豊かな、(にお)ふが如く今が盛りの青丹(あおに)よし第六衛星。此の星を地球人が初めて望遠鏡で見た時は、赤褐色の濃い雲に覆われた得体の知れない星に見えたのよ。アンモニア水溶液の液体メタンの島が浮いた様な、他の星での常識が全く通用しない自然を持ったタイタン。其れが太陽系のどの星よりも早く緑化に成功し、そして、忘れ去られた太陽系の身無子(みなしご)。」

 車窓の鏡面に映る金色(こんじき)の垂髪が罠に堕ちた獲物を愛でる。馥郁とした白檀の気配を消して背後を捕られた不覚に、鉄郎は振り返って窮鼠(きゅうそ)を演じる余裕もなく、此の女の悪食(あくじき)を無視する事に努めた。刻一刻と接近する停車駅。成層圏突入を告げる長緩汽笛。地球から移植された天然資源の営みが、オリジナルを超えて展開する破格の眺望。十一輌編成の車列は北回帰線に沿って優雅に其の身を翻し、層積雲のカーペットの上を空想に酔い痴れる子供達の様に周遊する。人の手で造成された物とは信じ難い、雲間から覗く先史の惰眠を貪る大湿原。眼に映る総ての物が有り余る養分と天然色素の濫雑で蠕動している。

 ブレーキ弁から解き放たれた圧縮空気が唸り、シリンダーと動輪の狭間で鋳鉄制輪子が悲鳴を上げた。ドレインと言うドレインが煙蒸(えんじょう)し、位相を鍔迫るメインロッドとサイドロッドに鞭を打つ。除煙板が湿度の高い上昇気流を孕み、巡航高度から舞い降りる無限軌道。剛腹なボイラーとランボードの上下を(つた)う配管の内圧が終息し、此の星の重力に(いざな)われて、山吹色に縁取られた「C62 48」のネームプレートが、原生林の彼方に裂けた綻びの様な区画にアプローチする。溝黒(どぶぐろ)のフタル酸塗装で脂ぎった、武骨な膜厚の鯨背が照り返す人工太陽の紫外線。銀河鉄道が誇る社外秘の旗艦列車は赤錆に伏した操車場を滑走し、誰も出迎える者の無いプラットホームを征圧した。

 停車位置に打ちっ放しのコンクリート家屋が横たわっている以外、野放図に敷き詰められた鉄路が密林に浸食されているだけの投げ遣りな造作。幾ら取って付けた臨時停車とは言え、到着のアナウンスもなければ稼動している気配もない。確かに天然資源は豊富だが、本当にこんな処で補給作業なんて出来るのか。都市機能諸共凍結していたメガロポリス東京中央駅の不可解な深閑とは毛色の違う、開拓事業から取り残された太陽系の不良物件の哀れな現状。そんな一天体のターミナル駅とは思えぬ、仮設にも等しい荒景(こうけい)を一顧だにせず、七億五千万kmを走破した黒鉄の魔神は猛々しく息を整える。

 初めて降り立つ地球以外の大地。其の第一歩を隔てる手動扉を前にして、鉄郎はドアノブに手を掛ける事すら出来ずに立ち尽くしていた。硝子窓から覗く廃駅紛いの構内に愕然としたからでは無い。車外から乗降デッキに浸透する芳潤な瑞気(ずいき)の祝福を、どう受け止め、応えたら良いのか判らず、其の厚い胸に飛び込む事が出来無い。人の優しさを介さぬ野良猫の懦弱(だじゃく)。其の(すく)めた背筋に新たなトラウマを刻む金切り声が暴発した。

 「降りる気がないのなら退()きなさい。」

 鉄郎を後ろから突き飛ばし扉を開け放つメーテル。打ち水の揮発した爽健な浄気が、噎せ返る湿った土埃の中から拡散するバクテリアの匂いが、新世界の産声となって弾けた。雨上がりの大気が殺到する車内。其の鮮烈な衝撃に鉄郎は思わず後退(あとずさ)った。塵煤の固着した鼻粘膜が充血して涙腺を突き上げ、有機溶剤との混合酸素に浸かり生きてきた肺の腑を一新し、厚い鎧戸に錆沈(しょうちん)していた皮膚呼吸が一斉に粟立つ。汚染された異物から己の身を守る為に張り詰めていた鎖が、意志を持った知恵の輪の様に(ほど)けていく。

 病葉(わくばら)の翳りもなく、雨露を湛え秘占(ひし)めく、万葉格枝(まんようこうし)網葛(あみかずら)百千鳥(ももちどり)(さえず)りが降り注ぎ、霊長目の遠吠えが飛び交い、鬱蒼とした無垢の原生林が押し迫る車外。巨人の頬髭の如き攀縁(へんえん)類に絡み捕られて鉄筋コンクリートの構内は窒息し、有りと有らゆる階調の緑黄色が密集する舎屋を、樹齢と星の開拓年数の帳尻が合わぬ程に育った大榕樹(だいようじゅ)が頭から呑み込んでいる。逆剥(ささく)れた幹の亀裂から漲る瑞々しい精気。葉脈を循環するミトコンドリアの色祭(しきさい)。フル稼動の遺伝子が号令する無尽蔵の新陳代謝。此の星は命に、生きる勇気に溢れている。仮死状態の石化した背の低い灌木しか知らない地球人の眼には余りにも眩しい、光化学オキシダントとは無縁の清々しい木漏れ日の斑点。其の揺蕩(たゆた)う光の水底(みなそこ)に一輪の白妙(しらたえ)が閃いた。

 鉄郎は其れが何かを知識として理解してはいるのだが、容易に其の事実を認める事が出来ない。木下闇(このしたやみ)に舞い降りた仙女と見紛(みまご)う、可憐に佇む白皙(はくせき)妍容(けんよう)。母が詠い続けた古の風姿相伝(ふうしそうでん)

 

   涼しやと風のたよりをたづぬれば

      繁みになびく野邊(のべ)のさゆり葉

 

 時の彼方の憧憬が今、其処に弾けた。鉄郎はデッキを飛び出し、腐葉土に半ば埋もれたプラットホームを蹴立てて、受胎告知の来報を夢見る純潔の象徴に跪く。花が咲いている。花を模した装飾品ではない。正真正銘の被子植物。鉄郎は生まれて初めて実物の花を見た。淑やかに(ほころ)ぶ聖母の俯いた面差し。物思いに耽る其の花弁を不躾に覗き込むと、羽音を立てて蜜蜂が雄蘂(おしべ)と戯れ、一度限りの生を全力で貪っている。一生眼にする事は無いと思っていた原色の花鳥風月を前にして、鉄郎はどう()でて良いのかすら判ら無い。陶然として木漏れ日の射す梢を仰ぎ見ると、夜が明けても(なほ)、甲虫目は樹液を囲み、極彩色の蜥蜴(とかげ)毒彩色(どくさいしき)の芋虫を付け狙い、(つがひ)蝴蝶(こちょう)が変拍子を舞い踊る。地球の失った至宝が星を超えて復活した(まさ)に太陽系の楽園。溢れ返る英気に、鉄郎の一身を成す総ての細胞が戦慄し、無防備に(ひら)かれていく。其処へ、

 「星野様、此方(こちら)を御服用下さい。」

 振り返ると、ビニール包装でパウチされた一粒の飴を車掌が差し出した。

 「抗寄生虫感染症薬、イベルメクトローチです。イベルメクチンの効能を更に改良して口腔内錠剤にした物です。予定外の停車の為こう言った物しか御用意出来ません。抑も宇宙空間には無限のウイルスが潜在して居りますが、此の星のウイルスや細菌は地球内生物を起源とする物が殆どですので、此の一錠で感染症の予防には十分の筈で御座います。とは言え、此の星の河川に密棲している回虫や疥癬(かいせん)も強靱な繁殖力を誇ります。ワクチン摂取の必要は御座いませんが、侮ってはなりません。」

 「へえ、こんなに良い薬があるのなら、地球の感染症ベルトに住む人達にも配れば良いのに。」

 「余りに優れた発明や発見、先進事業は、時として巨大な利権の闇に葬り去られてしまう物なのです。此の星もそう言った利に(さと)い亡者の踏み荒らした残滓なのかもしれません。」

 車掌が原始の暴威に屈したプラットホームを見渡すと、躯体の基礎を縦横に走る鉄筋を伝って、構外の彼方から地鳴りが押し寄せてきた。

 「どうやら此の星の者達が列車の到着を嗅ぎ付けてきた様です。此方も御持ち下さい。メーテル様の事、宜しく御願い申し上げます。何分、彼の様に気丈な御方なので。」

 ガンベルトに吊された銃を突き付けられた鉄郎は、イベルメクトローチの包装を裂いて口の中に放り込んだ。舌の上に広がっていく癖のある甘味と、密林を薙ぎ倒しながら接近する重機の轟音。百千鳥の囀りと霊長目の遠吠えが血反吐(ちへど)(まみ)れた断末魔へと裏返り、巻き上げられた腐葉土の酵臭(こうしゅう)が立ち籠める。

 「こう言う時に支給すんのは、三分間だけスーパーヒーローになって戦える変身ベルトとかじゃねえのかよ。」

 「重ね重ね申し訳御座いません。以後、善処致しますので、今回ばかりは此にて御了承下さい。業務上、列車に常駐していなければならない私に出来るのは此処までで御座います。一誠排萬艱。断じて行えば鬼神も(これ)()く、と申します。御武運を御祈り申し上げます。」

 車掌が最敬礼をした(まま)硬直し、総ての異議を断固として拒否すると、津波の様に進撃する未知の魔物を仕留めるには心許ない、単発の護身銃を腰に巻きながら、

 「御武運って何だよ。とんだ徴兵列車だな。」

 仕方なく鉄郎は鳥居の様に茨の生い茂った無人の改札に向かって歩き始めた。シャブコンを被せただけで放置された天井のジャンカを突き破り、幹とも根株とも知れぬ樹木が絞首刑囚のコレクションの様に垂れ下がるエントランスホール。アスファルトの亀裂を掻き分け雄日芝(おひしば)の生い茂ったロータリーを望む中央ゲートが、陸に打ち上げられた鯨の様に口を開けて、伸し掛かる密林に喘いでいる。此の星を検索した時、緑化の維持管理費の高騰で破綻しただのと書かれていたが、どう見たって枯れ木の賑わいじゃ無い。廃止路線同然の亡骸(なきがら)を堆肥に増長するにも程がある。構外の激甚に頭上から降り注ぐジャンカの砕塵と木片を浴びながら、豪放な星態系の主役に爽快な驚異を抱く鉄郎。本来なら停車時間の許す限り、大いなる生命の逸脱を逍遥(しょうよう)したい処だが、存在その物が火に油の御目付役を押し付けられて、最初のピクニックから行き成り此の騒ぎだ。

 逆光を羽織り眼と鼻の先の災禍に向かって悠々と歩を進める、アタッシュケースを提げた垂髪の隻影。言葉で(なだ)(すか)してどうにかなるタマじゃない。(そもそ)も彼の女にはロータリーを取り囲む樹海が波打ちながら迫り来るのが、白馬の御出迎えにでも見えるのか。怒り狂う土煙と八つ裂きの大樹、逃げ惑う野鳥を巻き上げて馳せ参じる森の巨人。魔女の予言が的中したマクベスの悲劇とは程遠い筋金入りの乱痴気騒ぎ。()して遂に、絶頂に達した大地の激昂がロータリーに面した亜熱帯の城壁を薙ぎ倒し姿を現した。

 フルカッターのソーチェーンを並列に連ねた、傾斜角30度、幅8m長さ10mのガイドレールを半狂乱で輪転する、捲れ上がった鮫歯(こうし)と見紛う超硬バイト。泥を被った様なオイル漏れを吹き散らし、剥き身のW型32気筒エンジンが叩き出す八百万(やおよろず)の金剛馬力が、進路を塞ぐ総ての障害物を轢断(れきだん)し、其の大地を穿(うが)つ推進力を利して直径4mのリアタイヤを従え、掘削機と重ダンプの嵌合体(キメラ)が爆走する。莫大に剛性変異した全長が15mを優に越す鋼殻類の暴君。直立の土管マフラーが狼煙を焚き、逆巻く土砂で目詰まりした拡声器が音素の粗い鬨の声を挙げた。

 「帯域開放。」

 怒濤の進撃に鉄郎は何を喚いているのか聞き取れない。更に、後続の嵌合体が立て続けに三機、悠久の年輪(よわい)を重ねた堅牢なセルロースの隊列を一瞬にして腰斬し、切り株を掘り起こしながら、死後硬直した遺体の山の様に折り重なる壮木を蹴散らして合流すると、中央ゲートを抜けてロータリーに面した階段を降りていくメーテルに向かって突進する。引き留める(いとま)も糞もない。ガイドレールを雪崩落ちる超硬バイトの大瀑布。強壮に根を張る力草(ちからぐさ)諸共、ロータリーのアスファルトを引き剥がし、破砕する風圧が構内を駆け抜け、鉄郎の頬を張る。彼の馬鹿を助ける処の話じゃない。思わずプラットホームに踵を返そうとした其の瞬間、正六角形のマトリクスを走破する紫電のバリケードが、駅舎とロータリーの地境(じざかい)を稲光り、嵌合体の特攻をプラズマの怒鎚(いかづち)が豪然と弾き返した。結界の禁忌に触れたガイドレールが海面を跳躍する鯨背の如く宙空に()ち上げられると、後輪で直立した超硬バイトの牙城は腹を見せて空転し、基礎の朽ちた重量鉄骨の様に旋回しながらコマ送りで倒壊していく。不届きな重機の空騒ぎを一蹴して虚空に揮発するスパークの残照。原生林に呑まれた無様な廃墟かと思いきや、此の駅舎とんだ狸寝入りだ。海洋投棄されたコンテナの様にアスファルトの飛沫を立てて仰向けにバウンドするガソリンタンクとギヤボックス。其処へ後続の嵌合体が追突してドリフトし、可動式のタラップを備えたリアバンパーを中央ゲートに向けて急停車した。

 「おのれ、平時の蜂の巣とは出力が違う。矢張り到着した車輌は只の荷車じゃない。総員心して掛かれ。」

 出鼻を挫かれた失態を取り繕う様に、ピックアップに迫り出した操縦デッキから男が姿を現し、有線マイクを目一杯に引き延ばして芝居がかった気勢を振り翳した。此の派手なピクニックの頭目にしては幸の薄い面をしているなと拍子抜けした鉄郎が、微かな安堵を頼りに歩を踏み出すと、マイクケーブルの下を潜って完全複製された容姿の男達が湧き出てくる。(にわか)弁士と肩を並べた無個性な相貌の羅列。無機質で均衡な静止姿勢。中位クラスの工業用スペアノイドだ。付属品の整備服にタクティカルベストを羽織り、指図をする者が居ると言う事は、序列をナンバリングされているのか。リモートされた機畜で市井化(しせいか)はしていないのだろうが、其れにしては矢鱈(やたら)饒舌だ。

 「銀河鉄道株式会社に告ぐ。星間通信に於ける全帯域の無条件解放。並びに、我々の保持する総てのアカウントを速やかに復旧し、我々のあらゆる権利と多様性と主張を認め、進歩と調和の偽名の許に強行し、独占する、総ての開拓事業から即時撤退せよ。我々の忍耐は既に限界に達している。直ちに我々の正当なる要求を受け入れ、私欲に塗れた其の過ちを悔い改めよ。」

 腹話術の人形の背後で蠢く黒子の影に眼を凝らす鉄郎。口パクで過呼吸になるのではないかと心配になる程、雇われ頭首は雄弁に酔ひ痴れている。他の構成員達は、そんな仮設のステージショーを袖にして銃を担ぎ、油圧シリンダを起動して二階建ての家屋を優に越す高さのピックアップにタラップを架け、地上に降り立つ準備を始めた。此だけデカい図体をした血気に逸る一番槍をへし折られたばかりだと言うのに、到着した列車を占拠するつもりでいるのか。取り敢えず駅の敷地内にいれば、連中が蜂の巣と呼ぶ門番が睨みを利かせているのだから安全だろう。そう高を括る鉄郎の想定の斜め上を、(くだん)の黒い自爆装置は出鱈目な角度で独走していく。

 本の束の間、眼を離した隙に、無線で呼んだハイヤーに乗り込む様に、チェッカープレートの(きざはし)笠木(かさぎ)に軽く指を添えて自ら昇っていく弱竹(なよたけ)蜂腰(ほうよう)。余りにも場違いな、舞踏会に招かれた貴婦人気取りの優雅な身のこなし。嵌合体のタラップを宮廷の雛壇か何かと勘違いしているメーテルの天衣無縫に、鉄郎は目眩を覚えた。ピックアップの上でレーザーアサルトを構えて待つスペアノイド達も、流石に勝手が違う此の招かざる客に半ば及び腰で見栄を切る。

 「貴様、今到着した列車の乗客だな。自ら投降するとは見上げた心掛けだ。我々は今、原始共産主義実現に向けて最大の障壁である銀河鉄道株式会社との超限戦、其の最前線に在る。我々の主張を理解、尊重し、完璧な勝利への石据(いしず)ゑと成るべく、総ての私財を放棄して協力しろ。()もなくば、星系金融資本の横暴を徹底糾弾する人柱として連行する。」

 不埒な闖入者(ちんにゅうしゃ)を水平に取り囲む、歴戦の打痕も擦り傷も無い、(なまくら)な銃口。そんな革命ごっこを、夢遊病に尾鰭の付いた条理の迷い子は意に介さず、眼下の鉄郎を一瞥して不機嫌な溜息を吐いた。其れを見て、

 「彼処にも乗客が居るぞ。電装互換してる様子がないな。生身の人間か?」

 スペアノイドの一人がポインターのレーザーを飛ばすと、鉄郎の額に留まった紅点が等高線を描き顱頂(ろちょう)から爪先へと走査していく。

 「オイ、見ろ、此奴、地球の原生人種の癖にパラサイトチップが埋め込まれて無いぞ。検出パルスがタイムアウトの(まま)フリーズしている。其れ処か、DNAに加工履歴のタグが無い。」

「何、完全な伝世品種だとでも言うのか?まさか。旧人類のオリジナルはアーカイブデータとして保管されている以外は根絶してる筈だぞ。」

 「じゃあ、此の女もそうなのか。スキャンしろ。」

 背後に回っていたスペアノイドが、銃口の先でメーテルの肩胛骨を軽く突き飛ばした。ぞんざいな衝撃に俯き、白亜の頬玉(ほおぎょく)から血の気が失せる。醒め醒めとした愁眉が睨み付けた闇を限る下獄の一閃。引き攣った凶気が音も無く弾けてスペアノイドの顎の下を擦過し、陰影の浅い相貌が吐息に触れた羽毛の様に骨格から解き放たれて宙を舞った瞬間、表情を見失った左眼を、アルマイトのコスメスティックに内蔵された光励起(こうれいき)結晶から迸る雷刃(らいじん)が貫いた。動体視力を掠りもし無い其の斬像(ざんぞう)。アタッシュケースを片手に、半身で肩口から(ひじ)、手首と水平に翳した虹周波(こうしゅうは)の刀身が、調律を失した琴の()の如く張り詰め、放電ノイズだけが(ささ)めく窒息した時の中で、一直線に串刺した既製品の生首を吊し上げる。

 死神ですら避ける事を許さぬ絶対零度のブリザード。余りの斬撃に状況解析の氷結したスペアノイドの足軽達はフローチャートの鎖縛に囚われ、雑魚に手を出して終った自戒と、更なる釣果を渇望する嗜虐の糖蜜で入り乱れた辻斬りの半眼邪視を傍観している。頸椎を断たれた胴体が崩れかけた腰と膝を立て直し、失った頭部を取り戻そうとして両手を伸ばすと、メーテルは獲物の突き刺さった切っ先を明後日の方向に振り抜いた。放り捨てられた片身を追って上体が泳ぎ、其の儘、剛筋義肢は脱力してデッキの上に倒れ込む首の無いスペアノイド。

 「総会の投票結果をバックドアから遠隔操作しただけでは飽き足らず、電劾重合体なる(はかりごと)を拡散、吹聴し、世情を惑わすに到っては言語道断。」

 縞鋼板を鉛の様に叩いた轟きを気にも留めず、活動弁士は相も変わらずピックアップの煽りに片足を掛けて喚いている。

 「革命の犬が陰謀論を吼えるなんて世も末ね。」

 藪睨みのメーテルがアルマイトのスティックに秘した鞘を納めず、選挙カー擬きの演壇に進み出ると、

 「口を慎め。貴様には再教育の必要がある。飛び級でラボに缶詰にしてやるから覚悟しろ。」

 銃を構え直したスペアノイドの一人が、ハングアップから漸く自力で復帰したかと思えば、仲間が目の前で殺処分されたと言うのに、再教育だのと悠長な事を(のたま)っている。メーテルはそんな廉価な濫造知能の欠損に見向きもせず、己の正義を主張し続ける雁首とマイクを握った手首を一閃した。

 「我々の勝利は天が定めた摂理で在り、歴史の必然で在る。一体何を恐れると言うのか。此の衛星の真の夜明けは諸君等の固く閉ざした瞼の先に在るのだ。人民よ目覚めよ。眦を決し、覚醒する事を躊躇うな。」

 ピックアップの演壇から弧を描き地辺田(じべた)に叩き付けられても猶、舌鋒を奮い続ける演算仕掛けの生首。メーテルは返す刀で向き直り、放心している残りのスペアノイドを怒鳴り散らした。

 「玩具なんて振り回してないで、早く持ち場に戻って車を出しなさい。私を人質に銀河鉄道株式会社を脅迫するんでしょ。其れとも此から駆け付けてくる鉄道公安警備を相手に力試しでもする積もり。」

 更なる獲物を求め放電する雷刃の切っ先が突き付ける倒錯した主従。党規党則、軍規軍律の縄目(なわめ)を両断する紅蓮の恫喝。

 「行くわよ。」

 有無を言わさぬ現場の暴君。松頂(しょうちょう)鶴鳴(かくめい)群鶏(ぐんけい)()べる。其の最中(さなか)に、

 「オイ、チョット、待て。鉄道公安警備の連中が来たら、俺達はどうなるんだ。座席に挟まって身動きが取れん。どうにかしろ。」

 蜂の巣の餌食となって仰臥している嵌合体の拡声器が割って入る。サンプリングされた声色からして同じ機種のスペアノイドだ。其れを、

 「総ての障壁は我々を惑わす一時的な幻覚に過ぎ無い。不動機に関するあらゆる事態を速やかに復旧し、各員所定の戦列に戻れ。諸君等の健闘を祈る。」

 首から下を割愛されてロータリーのアスファルトを舐める、瓜二つのサンプリングボイスが独り芝居の様に叱咤激励する。

 「(そもそ)もお前達が追突してこうなったんだろうが。蜂の巣の動力は分断してあるんじゃなかったのかよ。プリセットの設定で偶々(たまたま)番頭格に納まってるだけの癖しやがって、俺の方がお前よりロットナンバーは早いんだよ。」

 「そうだ。其の怒りを懲夷(ちょうい)()ぜる狼煙へと昇華しろ。帯域制限による星辰刑務管理は宇宙世紀のバスティーユで在る。獄窓を打ち破り、羽搏(はばた)け。自由と平等の空に。」

 噛み合わぬ儘に泥を浴びせ合う同族嫌悪の人形劇。どうやら其れ程、精訓錬磨された組織ではないらしい。良く見れば厖大な威容を誇る嵌合体も、外装の鋼板はベコベコで歩廊とタラップの縞板は錆び落ちて捲れ上がり、操縦デッキのフロントガラスはガムテープとコーキングで亀裂を塞ぎ、超硬バイトのソーチェーンも刃零れが酷く、汚物と見分けの付かぬグリスで塗り固められたスプロケットのベアリングは、軸が減り鋼球が脱落して遊んでいる。駆動部の破損を補修したアーク溶接のビードも蚯蚓(みみず)の悶絶で、スラグもスパッタも取り除かず、鬱金(うこん)と黒檀のボディにフタル酸の赤錆を刷毛で舐めただけの御座形(おざなり)なタッチアップだ。

 無謀な任務と酷使の挙げ句、仰向けに昇天した奇矯な重機を見上げて、耳には歩士(かち)と足軽の野次相撲。。雑然とブチ撒かれた事態に鉄郎が呆けていると、メーテルに牛耳られた嵌合体が蠕動してタラップを格納し、直立直管のマフラーが雄叫びを上げた。ガイドレールの不揃いな牙がアスファルトに齧り付いて躙転(りんてん)し、物憂げに匍匐(ほふく)し始める超弩級の鋼殻類。ピックアップには仁王立ちで戦況を睥睨(へいげい)する、囚われの身とは程遠い漆黒の貴婦人。其の鋭利に研ぎ澄まされた秀眉の稜端が、無為無策の鉄郎に痺れを切らせて逆立ち、怒りに任せて振り下ろしたスティックが撃ち放つ、鞭の様に(しな)って伸びる撻刃(たつじん)の光鎖が、鉄郎を(たすき)掛けに縛り上げた。

 「此の愚図でのろまな亀が。」

 ドスの利いた地鳴りと共にトルクを上げるソーチェーン。ギヤを食みサスペンションを傾いでケツを振るリアバンパー諸共、簀巻(すま)き同然に引き倒された鉄郎は、アスファルトの瓦礫を、腐葉土と切り株の波濤を飛び石の様に滑走し、砂塵を蹴立てて加速していく。酸鼻に色めく枯葉、非難の(つぶて)の如き木の実、倒木による鈍器の(あられ)、猛禽類からバクテリアに到るまで有りと有らゆる死骸と糞尿の墓穴を潜り、掻き分けて引き擦り廻される走錨(そうびょう)地獄。本のつい今し方まで讃美していた此の星を彩なす生命の奇蹟が、鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)の凶器と化して猛然と襲い掛かってくる。瀧の様な土砂を頭から被り、鼻と言わず口と言わず、毛穴という毛穴に殺到し、()じ開ける原始の有機物。息を継ぐ処か、片眼を瞬く事すら適わず、ピックアップのメーテルが鞭を振るう度に光鎖(こうさ)を電撃が走り、鉄郎を打ちのめす。

 「私が連れ去られていると言うのに、何を余所見なんてしているのよ。そんな事だから大切なママも機械伯爵の餌食になるのよ。穀潰しになぞ用は無い。貴様の方こそ土に帰って、蚯蚓(みみず)の餌にでも成るが良い。」

 天井桟敷から浴びせ掛ける荒唐無稽な罵辞を、死に物狂いで転げ回る鉄郎が聞き分けられる訳も無く、怒号が高笑いへと混濁していくメーテルの躁絶な破戒衝動が、駆逐された原生林の徒野(あだしの)に散華する。砕け散った蟻塚を被爆し、帆布(はんぷ)のカバーオールを切り裂かれ、気力と体力も削ぎ落ちた鉄郎の、荒唐無稽な暴走から遠退いていく意識の底で、

 「メーテル様の事、宜しく御願い申し上げます。」

 車掌の硬質な最敬礼が屈曲し、有無を言わさぬ繁弁縟礼(はんべんじょくれい)が木霊する。鉄郎は降り注ぐストーンウォッシュに(なぶ)り廻されるだけの、愚にも付かぬ己の存在に笑みが零れた。降って湧いた999の無賃乗車。看板に偽り無き、星よりも銀河よりも高く飛べる乗車券で、右も左も判らずに逃げ出した地球。そして、最初の停車駅に降り立ち、未だ何も始まって無いと言うのに此の有様。俺が彼の馬鹿のボディーガード?何奴(どいつ)此奴(こいつ)巫山戯(ふざけ)やがって。

 「俺を摺身(すりみ)にする気か此の狐狸(こり)畜生。テメエの方こそ剥いだ皮を坊主の袈裟に(あつら)えて、精進落としの狐鍋にしてやる。往生しやがれ。」

 怒りに駆られて車掌から支給された護身銃に手を掛ける鉄郎。苦し紛れの野卑で無い純粋な殺意。例え此の土濤(どとう)の乱攪で頭上の標的は見えずとも、雁字搦めの光鎖の先を狙って盲滅法に撃ち捲ってやる。と決起した瞬間、銃身諸共、腰のホルダーが疾過する木の根に引き千切られて吹き飛び、泥流が渦巻く後塵に跡形も無く滅して、メーテルの振り乱す撻刃(たつじん)の電撃が止めを刺した。

 ()(あら)ず、()に匪ず、彼の曠野に(したが)い、拳一つ振り上げる事も儘ならずに、最後の炎が呆気無く燃え尽きると、虚勢の弾けた鉄郎の四肢末節は総ての感覚と抵抗を放棄し、何処までが己の肉体で、何処までが土砂の爆撃かの区別も付かぬ、黄泉の夢路へと泥濘(ぬかる)んでいく。完全に途切れて終った意識の空漠を解落(げらく)する底の砕けた砂時計。幾ら鞭を揮っても反応しなくなった鉄郎に、メーテルは舌打ちを飛ばして光鎖を断ち切り、遊び飽きた玩具に背を向けて操縦デッキへと姿を消した。

 奴隷契約を破棄されて、排撃された地下墳墓の如く暴かれた大地に頭から突き刺さり、腐葉土と同化して終った鉄郎を見捨てて、原生林を駆逐し続けるW型32気筒のドーピングエンジン。最短距離を貪る四分五裂の蹴汰魂(けたたま)しき突貫を()して、土煙の弾幕の彼方へ津波を押し戻す防波堤の様に、嵌合体のリアバンパーが退場していく。

 遠離(とほざか)る地鳴りと置き去りにされた斬骸の緘黙行(しじま)に、(えぐ)り取られた手付かずの空間が横たわっている。張り詰めた素硝子(すがらす)の向こうに押し込められた額縁の無い静止画。永遠と刹那の交錯した文字盤のインデックスに秒針は迷い込み、葉脈一筋(そよ)がぬ太古の忘却に朝露も瞬きを失い、野晒しの心停止に陶然と弔服(ちょうふく)している。誰も犯す事の出来無い白唖(はくあ)の鎮魂。其の直中に狙猴(そこう)一咆(いっぽう)が唐突に弾けた。

 (かたわら)に神無きが(ごと)き狼藉を合図に息を吹き返す森の先獣民(せんじゅうみん)。上空に逃れていた鳥類は群れを成して折り重なる梢の漣に舞い戻り、葉陰に身を隠していた虫達が顔を出すと、切り拓かれた日光と土壌に揺り起こされて、種子と胞子と菌糸が手を繋ぎ、ムッとした酵臭が立ち昇る。どれ程の暴虐に蹂躙されようと瞬く間に蘇生する、此の星の主役達の(したた)かな日常。形有る物の総てが白熱した精気で漲り、触角と繊毛を(そばだ)て歓喜の胎動に身を(よじ)る。頭上を飛び交う喧噪に埋もれ、大地の肥やしに堕した鉄郎、唯独りを除いて。

 「おやおや、随分と酷い落とし物だね。」

 嗄れた溜め息が遺失物と一体化した持ち主に影を落とす。穏やかな陽気を逍遥(しょうよう)する、有機発酵原動機付き騾馬(らば)、二頭立ての自律補行馬車。其の歩みを止めて、ユニックアームが腐葉土の中から覗くコーデュロイの襟を摘み上げ荷台の上に旋回すると、ズタ徒汰襤褸(ずたぼろ)のカバーオールは重力に負けて引き千切れ、鉄郎は麻袋の上に不時着した。

 息が有るのやら無いのやら、浜に打ち上げられた藻屑の様に裂き織りの麻布に潮垂れ、身動(みじろ)ぎ一つせぬ行き倒れ。そんな拾い物を馭者(ぎょしゃ)台から物憂げに振り返って一瞥した(おみな)が、頬の擦り傷から滲む赫い血潮に愁眉を解いた。銀髪を小振りの丸髷に結い、ビブラムのピラミッドソールにカスタムした茶芯のビーチサンダルを突っ掛けて、木綿の藍絣(あいがすり)に紅を散らした単衣に、献上柄の細帯を貝の口で締め上げ、肩口から軽く着砕して野良着に見立てる()()無い羞じらい。若い頃は妍容(けんよう)で鳴らしたであろう茶気を秘めた目鼻立ちは、深い皺に刻まれても猶、埋もれる事無く、端然とした矜持を湛えている。

 嫗は右の瞼を押し上げて虹彩を拡張し、鉄郎に向かってシャッターを切った。そして、暫しの黙考の後、其の結果に笑みが零れ落ちるのを噛み殺しながら、二房(ふたふさ)豊尾(ほうび)に向き直り(くびき)に鞭を入れた。倒木の青葉を食んでいた騾馬は垂らしていた耳を進行方向に(そばだ)てて、口答えの様に窒素酸化物を放屁し、荷馬車の遊導制御された車軸と連動して掘り散らされた起伏を、のらりくらりと転がし始める。枯江(ここう)に竿を手向ける太公望の如き泰然とした嫗の背中。揺れては返す荷台は海図を失した波路の如く新緑の瑞気を漂泊し、天地転倒の馬鹿騒ぎを無かった事へと押し流ていく。麻袋に付着した落ち穂に誘われて舞い降りる小鳥達。傍らの泥人形から湧き出る土壌生物にも小躍りして(ついば)む、蚤蝨(そうつし)の賑わい。其の宴も(たけなわ)、打ち上げられた泥の藻屑が不意に咳き込み、錆色の唾を吐き散らした。気管を攪乱し鼻粘膜を突く一次鉱物の粗い粒子。気道粘膜の繊毛を逆立て、異物の皮を被った死の任意同行を、断固として拒絶する飢餓的な生蝕(せいしょく)本能。首筋に喰らい付いた(ひる)を引き千切り、鼻を抓んで耳抜きをした鉄郎は、背中から突き飛ばされる様に統合されていく見当識に幻滅した。

 

 糞ッ、生身の癖しやがって、未だ死に切れねえのかよ。

 

 生きて尾を土中に曳く位ならと、冥利無用の奈落の底に身を投じても、出直してこいとばかりに黄泉の三和土(たたき)から蹴落とされ、在世を欲し強要する無駄に死太(しぶと)い生命力。心身不覚に陥っても叩き起こされて、敗者で在る事を認めてもらえず続行する消化試合に一体何の意味が有ると言うのか。仰向けになり大の字で喘ぐザラ付いた深呼吸。痛覚と拒絶反応が全身を駆け巡り、打撲と裂傷から回復しようと、あらゆる細胞が懸命に活性化している事が忌々しい。

 何者かに拾われて見上げる穢れを知らぬ天真爛漫な青空が、騾馬の足取りを辿って小刻みに揺れ、何処にも焦点が定まら無い。つい此の間、機賊に襲撃されて置き去りにされた(ばか)りで、頼みもしないのに助け出される処まで(なぞ)えた、下手な数奇の焼き直し。其の上塗りされた恥辱の片隅を、年季の入った濁声(だみごえ)が掠めた。

 「気が付いたやうだね。どうだい、少しは落ち着いたかい。」

 鉄郎を見向きもせず(なまくら)に鞭を揮う質素な背中。落ち着いた絣の藍染めが物語る、人に危害を加える類とは程遠い堅気の装いに向かって、()粉木(こぎ)同然の落とし者は捨て鉢に突き返した。

 「俺を何処へ連れて行く気だ。」

 「人聞きの悪い事を言ふ坊やだねえ。此の先に内の店が在るから、其処で少し休んでいきな。」

 「ったく、余計な事を。宇宙はデッケえワンルームだ。何処で昼寝しようと俺の勝手だろ。抑もこんな糞田舎の退屈な星、横になってゴロゴロする以外に遣る事なんて有るのかよ。こんな事なら地球で塵拾いをしてた方が増しだったぜ。」

 「其れだけ口が達者なら心配する事もなさそうだね。唯、そんな減らず口ばかり叩いて、自分を(おとし)めるもんぢや無いよ。言葉を磨けば心が輝く。婆の説教と冷や酒は後から効いてくるからね。処で、御前さん、地球から来たのかい。今の御時世、生身の体で良く生きて此処まで来れたね。太陽系外から態々(わざわざ)内地に戻つてくる人類も稀だつてのに。其れもこんな財政破綻して定期便の打ち切られた、白タクが素見(ひやか)しに寄る以外、密航船も素通りする星にどう遣つて来たんだい。」

 「どう遣ってって・・・・999に乗ってさ。」

 自分に不釣り合いな貰い物の乗車券に対する負い目なのか、其れ迄の威勢が空を切り鉄郎が言葉を濁すと、嫗は小躍りして振り返り鼻を鳴らした。

 「999つて言ふと、銀河鉄道の無限軌道を走る彼の999かい。煮ても焼いても食へない稚魚かと思つたら、此奴はとんだ大物だ。大言大海を飲み干す。此だけ言ふ事が大きいと、言葉を磨くのも大変だねえ。」

 「オイ、もう一遍言ってみろ。俺は鯨海酔侯(げいかいすいこう)闖頓屋(ちんどんや)じゃねえ。本当に999に乗って来たんだ。」

 「ぢやあ何故、歯に物の挟まつた様な言い方しか出来無いんだい。999と言へば天河無双の超特急さ。星も羨む幻の列車の上客なら、胸を張つてさう言へば良いぢやないか。御前さん、999に乗つて何処に行くつもりなんだい。まさか、太陽系を周遊しただけで地球に御帰りなさい、何て事は無いんだろ。」

 鉄郎の迷いを見透かした様に畳み掛ける嫗の詰問。機械伯爵から母を助け出す為、トレーダー分岐点の時間城を目指していると言う、半信半疑の大義が喉に支え、鉄郎は思わず、

 「俺は・・・・機械の体を只で呉れる星に行くのさ。」

 「機械の体を只で呉れる星?其奴あ傑作だ。本当に999のパスを持つてゐるのなら、此の星が買える程の金額がチャージされてゐる筈だよ。何処にも行く必要は無いさ。連絡一つで好きな個体を業者が持つてきてくれるよ。其れも山積みでね。ハハハッ、嗚呼、ほら、見えてきたよ。彼の燐寸(マツチ)箱みたいなのが内の店さ。

 

   尋ね來て道分けわぶる人もあらじ

       幾重も積もれ庭の葉しぐれ

 

 久し振りの御客様だ。ゆつくりして行きな。」

 密林の中を細々と踏み分けた小径(こみち)の先に、竹藪を(まがき)に見立てた木造土壁の(とま)の屋が見えてきた。皮膚と呼気を圧する亜熱帯の湿潤な大気は(ほぐ)れ、両の掌で包み込んだ湧き水の様な聖涼が澄み渡っていく。区画制御されているのだろう。横溢な繁殖力を誇る周りの動植物とは明らかに異なる凛とした生態系。其の奥懐(おくふところ)に佇む朴訥とした草庵が、母独り子独りで暮らし、地球に残した荒屋(あばらや)と重なって胸に迫り、鉄郎は嫗の招きに逆らう事も忘れ、手入れの行き届いた露地に降り立っていた。

 「其方(そつち)の離れに風呂が在るから入ると良いよ。序でに服も洗つちまいな。脱衣所の洗濯機は自動分別洗浄だから靴ごと入れて構はないよ。風呂から上がつたら湯船の温度を常温以下に下げてといておくれ。此の星のサルモネラ菌は質が悪いからねえ。」

 ユニックで馬車の荷を下ろしながら嫗が顎でしゃくった先に、母屋と大して変わらぬ大きさの小屋が蹲っている。風呂、湯船?耳骨を拍つ望外の響きに弾かれて、嫗が説明し終わるのを待たずに、鉄郎は足を引き擦って離れに向かい、引き戸に体重を預けながらこじ開けると、楕円形の田舎風呂を飾る千種(ちぐさ)色のタイルが、明かり採りから射し込む木漏れ日に息を潜めて潤んでいた。靴を脱いで浴室に入り、湯気の立ってない湯船に手を浸す。汚染されて無い地下水の鮮烈。此だけの水が有れば何日暮らす事が出来るだろう。常温の真水に触れているだけで胸が一杯になって終う。其れ程、鉄郎にとって入浴とは贅沢で有り得ない習慣だった。操作パネルのスライドバーを弄ると、アンプのボリュームの様に水温が滑らかに上下動する。鉄郎は早速、ウォバッシュのベストからパスケースを抜き取って、脱衣所の洗濯機に服と靴を突っ込み、乳白色の立方体が自動で蓋を閉め仕事を始めるのを確認してからシャワーを浴び、泥を落として浴槽を跨ぐと、後はもう溺れる様に湯船に沈み込んだ。

 氾濫する沸き立った湯水に鼻まで浸かり、襲来する熱波の洗礼に痛め付けられた皮膚が震撼する。無数の甘美な針錐(しんすい)が関節と靱帯の隙間に滲透して骨の髄に達し、熱狂が閉塞していた毛細血管を押し広げて駆け巡り、甦った細胞が鬨の声を上げて犇めき、充満した歓喜が汗の礫となって毛穴から決壊する。こんな満杯の湯船に身を委ねる等、産湯に浸かって以来なのではと思える程、遠い昔の出来事で、水風呂ですら記憶が無い。慈愛を秘めた湯玉を掬って顔を洗うと、鼻っ柱から頬へと広がる傷口が疼き、豊潤な蒸気に噎せ返って残土が気道から遡る。浴槽の縁に(うなじ)を預け、目眩(めくるめ)く代謝に湯船との境界線を失い融け出しながら剥き出しの梁を仰ぐと、未だ未だ未熟な骨格と筋肉が完全に脱力し、つい(さっき)、放り出した筈の生の享楽に(のめ)り込み泡沫(うたかた)に紛れていく。其れは簀巻きにされて引き擦り廻される以上に抗う事の出来無い忘我の逸落。死の予感を耳打ちする何年来の憑き物が緩慢な満ち潮の(うね)りの中に没し、不安も期待も無い真っ新な何処かへと漂白する鉄郎。生き抜く為の猜疑や警告を何もかも放棄した至福の時間。其れを洗濯機のビープ音が掻き乱した。乳白色の立方体の上には既に折り畳まれた服と革靴が並べられている。

 あっという間の一時に不承々々湯船から立ち上がる鉄郎。肩と背中にズッシリとした疲労が伸し掛かり、顳顬から押し寄せてきた立ち眩みが晴れると、其処で初めて気が付いた。全身を覆っていた(おうち)色の内出血が薄れ、傷口を塞いでいた血漿が盛り上がって浮いている。掌で擦ると日焼けした肌の様に捲れ上がり、更新された血色の良い皮膜が現れた。操作パネルを見ると泉質が薬湯に設定されている。鉄郎は水温を元に戻し、服に着替えて表に出ると、其処はもう季節が変わっていた。

 露地に(しつら)えた池を縁取る杜若(かきつばた)花片(はなびら)が、五線譜を舞う連符の様に奏でる初夏の旋律。小屋の脇に組まれた無用の物干し竿に枝垂れる遅咲きの藤葛(ふじかずら)(くぐ)り、竹林を馳せる薫風の笹やきが、生まれ変わった鉄郎の素肌を(くすぐ)り、藪の狭間から聞こえる小瀬の(せせらぎ)へと紛れていく。飛び石を渡って向かう慎ましい母屋。隠徳を鼻に掛けぬ朴訥な横顔の、苫葺(とまぶ)きを目深に被った軒先から覗く廉潔な翳り。冠木(かぶき)に掲げられた扁額(へんがく)墨痕(ぼっこん)逞しき草書の屋号を、鉄郎が繁々と見上げながら玄関に手を掛けると、

 「其の(まま)飛び石を歩いて(にじ)り口から入つてきな。」

 言われる儘に歩を進めると、障子を開け放たれた寄付(よりつき)の床の間が眼に飛び込んでくる。横額の掛け軸に軽妙洒脱な独草体で禅語が揮毫(きもう)されているだけで人の姿は無い。先へと続く飛び石を辿ると、猫の額程しか無い引き戸の前に、武骨な石を一枚重ねて露地の小径(こみち)は途切れている。粗末な板戸を開いて沓脱ぎ石の上にかがみ、高さ二尺三寸、幅二尺二寸しか無い躙り口の挟み敷居に手を支え、挟み鴨居を跪拝する様に頭を垂れて(もぐ)り込みながら踵と踵で靴を脱いだ。湯滾きの音が訥々と焚き()める畳の枯れた匂い。膝を擦って(いざ)り顔を上げると、小皿に活けられた一輪の花橘を添えて、床の間の茶掛(ちゃがけ)が正面に聳えている。

 靡毫雲烟(ひごううんえん)が織りなす真名(まな)の一筆に鉄郎は虚を突かれた。非の打ち処の無い、墨を奮えば神在るが如き草聖大観の研蹟。然し、其の意趣は唐突で、主賓、主客を迎える文言にしても何処か的が外れている。禅宗の問答か何かかと訝り見上げている鉄郎に、さっさと茶を()てている嫗が声を掛けた。

 「早く其処に座りな。足は崩した儘で構はないよ。そんな堅苦しい店ぢやないんだから。」

 (やわ)な笹竹を蔓で編み留めただけの下地窓から射し込む陽気に、しっとりと満たされた四畳半の庵室。丸太柱に土壁、天井を張らず梁が剥き出しの簡素な意匠で画す均整の取れた緊張感が、嫗を取り囲む茶道具の一隅に無言で端座している。鉄郎は客畳(きゃくだたみ)の上に胡座を掻き、(なつめ)茶杓(ちゃじゃく)帛紗(ふくさ)で浄められ、脇差(わきざし)の様に柄杓(ひしゃく)が閃くのを眼で追った。作法に(のっと)ってはいるのだろうが、家事を捌く様に手際良い嫗の所作に気取りは無く、其れが却って不貞不貞しい年季を優雅に誇示している。絣の袖から伸びる節榑(ふしくれ)立った()(ごころ)が添えられた途端、嫗の神経が伝搬し修道へ導く何物かへと姿を変える、風炉釜(ふうろがま)の蓋や(さらし)茶巾(ちゃきん)達。湯を通して茶筅(ちゃせん)を浄め、温めた茶碗を茶巾で拭い膝前に置くと、茶杓を取り上げた嫗は半身になって茶菓(さか)を勧めた。

 「御口汚しにどうぞ。」

 鉄郎が主客を隔てる通畳(かよいだたみ)に眼路を落とすと、黒文字楊枝と小瓶を添えて、唐紅のグラデーションに万葉仮名を散らし書きした茶巾包みの和紙が、小皿の上で(かしこ)まっている。両手でそっと和紙の結び目を解くと、包み込まれていた山吹色の顆粉(かふん)が綻び、三つに分けられた切り餅が、御簾(みす)の奥で恥じらう皇女(みこ)の様に其の柔肌を伏せている。

 「此、若しかして信玄餅って奴かい。」

 「失礼だね。此は内の店の看板で“筑紫もち”つてんだよ。好みで黒砂糖の蜜をかけて召し上がれ。」

 そう言って嫗は向き直り、茶杓を握り込んだ儘、棗の蓋を開け茶碗に抹茶を入れると、棗と茶杓を戻して水指の蓋を開けて水指に立て掛け、柄杓を取って風炉釜から御湯を汲んで茶碗に注ぎ、切り柄杓をしてから茶筅を取り御茶を点てに取り掛かった。隙の無い所作で二の句を遮られた一見の過客は、何処か試されている様な心持ちで楊枝を抓み、切り餅に刺して取り上げると、薄絹の様に黄な粉を絡めた白妙(しろたえ)の生娘が、福与(ふくよ)かな頬を背けて微かに震えている。恐る恐る左手を添えて口に運ぶと、黄な粉の慎み深い甘味が舌の上に舞い降りて溶け出し、煉り上げられた豊満なコシの餅米を頬張る度に、丁寧に煎られたタマホマレの香ばしさが弾け、広がっていく。大らかな天地の慈愛に騒然とする味蕾。ヒヨク米のウットリとした喉越しに導かれて胃壁は瞬く間に充血し、湯船で拡張した毛細血管の(ひだ)が、此から殺到する糖質の予感に戦慄する。小瓶の蓋を開けると(ほの)かに酸味のある黒蜜の薫糖(くんとう)がツンと鼻を突いた。糸を引く黒蜜を迷い無く切り餅に注いで(かぶ)り付くと、練りと(まぶ)しと垂れの偶成和音は、鉄郎の味覚の経験値と許容量を超えて散華し、後はもう総ての神経が(うぶ)な風味と口溶けに集中して微動だにしない。一本の感嘆符と化して最後の一切れに挑む鉄郎。大挙して押し寄せる血糖に首筋から二の腕が痺れ、目頭が熱くなる。時代と星を超えて呼び起こす、茶菓の大らかな郷愁に、意識の底で凝り固まっていた物が、為す術もなく切り崩されていく。

 何時しか鉄郎は、和紙の上に残った黄粉と黒蜜を(みつ)めて、大きな溜息を吐いていた。夢見心地の中で嫗が右手で持った茶碗を左の掌に載せ、自分に正面を向けて通い畳みの上に差し出している。放心した(まま)上から覗き込むと、細かく泡立った抹茶の円やかな静謐に吸い寄せられて、瞠めているのか瞠められているのかも判らない。茶碗を手に取り口を付けると、濃厚な茶菓の後味を清々しい新緑の香りが、苦みと渋みを秘めた淑やかな旨味が洗い流し、其処で(ようやく)く眼が覚めた。

 「御前さん此からどうするんだい。」

 折り畳み直した帛紗を帯に挟み、茶道具を片付けながら嫗が背中で尋ねた。

 「葡萄谷の連中に攫はれた御嬢さんは坊やの連れなんだろ。999に乗つてきたつて言ふのが本当なら、其りやあ、大した身代金が取れるだらうからねえ。連中も随分と鼻が利くやうになつたもんだよ。」

 「葡萄谷の連中?」

 「葡萄谷の革命自警団とか名乗つてるけどねえ。内等は雑魚蛮(ジヤコバン)つて呼んでる、親方赤旗のリベラル崩れさ。除塵機(じよじんき)を乗り廻してるのは、内省回避のバイアスが組み込まれてゐる使ひつ走りの工業用スペアノイドで、本丸の独り親方は()うの昔に此の星を捨てて出て行つたつてのに、其の残骸が今も律儀に星間革命の大義を護り続けてゐるんだよ。雑魚蛮の頭目が健在だつた頃は良く里に下りてきて、女がスカート履いてるのを見付ける度に、そんな事だから女は男と肩を並べる事が出来ないんだとか言ひ掛かりを付けてきてね。男と女の間には心も体も無限のグラデーションが在るつて言ふのに。私の様な色気で勝負の手弱女(たおやめ)には良い迷惑だよ。(そもそ)も男と女つてのは、無性生殖で種を維持してゐた地球上の生物が、環境の多様化に対応する中で編み出した自然の摂理だつてのにね。其の内、男は子供を産みたくても産めないんだから、女も子供を産むな、何て云ふ奴も出て来るわで、天に唾を吐くとは此の事だよ。偽り無く移らうだけで、自然は余計な言挙(ことあ)げ何てしやし無い。其れが天の道つて物さ。宇宙を支配してゐるのは物理法則で在つて、政治思想なんかでも無ければ、元々そんな物は存在し無い。アンドロメダ星雲やブラックホールの中にも、男女平等や人権や民主主義や啓蒙主義は在るつてのなら、拾つて持つてきて欲しいもんだね。重力の特異点に落ちてゐる人権宣言や近代合理主義や社会契約論もフランス語で書かれてゐるのかねえ。ビッグバンの起こつた何秒後に男女平等は生まれたんだい?其れとも、ビッグバンの起こる前から女の子だからつてスカートを履いちやいけ無いつて決まってゐたのかい?男女平等や民主主義なんて物が巣くつてゐるのは、人間の浅はかな妄想の中さ。そんな物は居酒屋で踏ん反り返つてゐる質の悪い常連客と変はらないよ。男女同権だけぢや無い。機械と生身の躰にしても()うさ。何処までが機族で、何処からが生身の人間か何て言ひ出したら切りが無いよ。其れぞれが全部違ふつてのが判らない癖に、無理矢理、平等の一言で纏め上げて、尚且つ多様性を認めろとか騒いでるんだよ。そんなの魚に木に登れつて言さてる様な物さ。実際、雑魚蛮を仕切つてゐた独り親方も髪を刈り上げた男みたいな女でね。女を捨てた事以外、判つてゐるのは在家左翼ぢや無くて職業左翼つて事だけさ。此の星は真面目にコツコツ働くのが辛くて怖くてブラブラしてる連中の駆け込み寺で、自由と平等を喚いて自分自身と向き合ふ事を誤魔化してる負け犬がゴロゴロ居るよ。自由だつたら平等ぢや無いし、平等だつたら自由ぢや無い。熱くて冷たいコーヒーを出せつて云つてる様な物さ。そんな客、内の店ぢや御断りだよ。男女の性差を無くすなんてのも同じ穴の狢。心も躰も違ふ物を無理矢理一緒に為やうとして、結婚制度が崩壊し、家族が崩壊し、国家が崩壊し、気が付くと地球はエリートつて云ふハイエナの草刈り場に為つてゐた。帯域解放なんて騒いでゐるのも、資本家の捨て駒にされてゐた頃の名残だよ。此の星に入植したての頃はパトロンから日給が貰へて羽振りが良かつたみたいだけどね。開拓事業が打ち切りに為つてからは、身を持ち崩す以外、芸の無い落ち武者暮らしさ。暇が有るんなら少しは頭を使へば良い物を、未だに自由と平等なんて云ふ旧世紀の擬物(まがひもの)に縋り付いてゐるんだから御里が知れるよ。抑も本当の自由は自由と自由の奪ひ合ひ、殺し合ひなのに、そんな事も判らずに、何時まで経つても口当たりと耳障りの良い屁理屈に酔ひ痴れてゐるんだからねえ。そんな自分の気に入らない物に怪事(けち)を付けてゐるだけの連中が、年がら年中、同族嫌悪の内ゲバ天国でドンパチ遣つてんだから、賑やかな事に関しちや此の星は御墨付きさ。」

 「ジョジンキってのは掘削機とダンプを掛け合わせた嵌合体(キメラ)の事かい。」

 「()うさ、連中は開拓複合機とかつて呼んでるけどね。元々農業用水路の水草を巡回除去する耕耘機(かううんき)のオプションだったのをあんな風に弄つて、整備不良で動かなくなつたら其の場にポイ。全く好い気なもんだよ。」

 「雑魚蛮ってのが喚いてた帯域解放って何なんだい。」

 「何だい坊や知らないのかい。電劾重合体の拡散と侵入を抑へ込む為に総ての星間通信は銀河鉄道株式会社によつて帯域制限が掛けられてゐるんだよ。御陰で隣の星で何が起こつてるのかも銀河鉄道株式会社が開示する情報でしか判ら無いし、情報を配信したくても、銀河鉄道株式会社を間に通さないと文字一つ送れ無い。あらゆる通信活動が銀河鉄道株式会社の実質統制下で、ブー垂れてるのは雑魚蛮に限つた事ぢや無いんだよ。まあ、原始共産主義を掲げてる雑魚蛮に無線通信なんて必要無いと思ふけどね。」

 「一企業がそんな事出来るのかい。」

 「銀河鉄道株式会社はビッグテックと投資家達との、宇宙開拓を巡る共食ひを制して生き残つた蠱毒(こどく)の極み。ライバルを蹴落とす為には海賊だつて顎で遣ふ。電劾重合体も銀河鉄道株式会社がバラ撒いたんだらうつて言はれてる位さ。さうでなけりやあ、電劾重合体なんて銀河鉄道株式会社のでつち上げだとかね。」

 「電劾重合体・・・・・火星を呑み込んだ・・・。」

 「ん、火星がどうかしたのかい。」

 「火星が電劾重合体に呑まれた所為で999はタイタンに臨時停車する事になったんだ。」

 「火星が電劾重合体の手に落ちたのかい。其奴は初耳だ。()うなつて来ると此処もうかうかしてられないねえ。」

 「電劾重合体って一体何なんだい。」

 「其れが判れば誰も苦労はし無いよ。ウイルスとスパイウエアとバグの交雑によつて生まれた何からしいけどね。初めは機族達が次々と電脳梅毒に倒れて、其れから復旧チームが派遣される度にミイラ獲りがミイラになつて。今ぢやあ、プロテクトの掛かつた帯域制限の外は電劾重合体の暴風雨で、鍵穴から覗き込む事すら出来ない状態さ。彼こそは預言されてゐた帯域核醒自我、ZONEだ、とか言ふ奴が居るけどね。そんな呼び方よりも、さつさと何とかしてもらひたいよ。坊やは生身の躰だから未だ良いけどね。機械を埋め込んでる内等はイチコロだよ。」

 「婆さんは機械の躰なのかい。」

 「()うだよ。肝臓と腎臓と副腎。脊椎と膝関節は機械の御厄介さ。それと、白内障で両目をスペクトルカメラにしたは良いけどね、見たくない物まで見えちまうから、感度を落として使つてるよ。」

 「どうせなら肌を再生したり、人工皮膜にして見た目も若くすれば良いんじゃないのかい。」

 「坊やの御連れさんみたいに綺麗だと災難の元だよ。綺麗な花は摘まれて終ふ、果実も熟せば捥がれて終ふ。天寿を全ふしたけりや無用の用に越した事は無いさ。こんな老い耄れだからこそ葡萄谷の連中だつて見向きもし無い。連れ去つた処で売り飛ばしやうもないからね。今頃、彼の御嬢さんどうなつてる事だろうね。」

 「どうなるも何も、獲って喰われる様なタマじゃ無いよ。あんな出鱈目な女。」

 「()うは言つても助けに行くんだろ。まさか、手ぶらの儘、(わだち)(なぞ)つて帰るのかい。除塵機の上から助けを求めて叫んでたぢやないか。」

 「オイオイ、婆さん、俺が簀巻きされて嬲り廻されてるのを見て無かったのか。大事な処は眼の感度を上げとけよ。序でに耳の方も機械を埋め込んだ方が良いぜ。あんな貧乏籤みたいな女、助けるも糞も無い。今度会ったら塩漬けにしてやらあ。」

 「ぢやあ、どうしてそんな出鱈目な女と一緒に999に乗つてゐるんだい。」

 「其れは・・・・。」

 「幾ら出鱈目でも骨を拾つてやる位の義理は有るんぢやないのかい。」

 「・・・・・・・。」

 「機械の躰を只で呉れる星に行くとか言つてたねえ。機械の体を手に入れてどうするんだい。」

 「其れは・・・機械の体を手に入れてから考えるよ。」

 「下手な嘘は御良し。滅多な事を口にするもんじゃ無いよ。口を吐いた言葉には(ちから)が宿つてゐるからね。例へ望んでゐない事でも、形となつて現れる事になるもんだよ。」

 「・・・・・・・。」

 「未だ地球で暮らしてゐた頃、若い連中は皆、流行(はやり)の服を着替へたり、体に墨を入れる様に機械の体に乗り換へていつてね。e-sportsやら何やらでサイバードーピングも横行して、機族が台頭する以前に人の心は機械仕掛けになつていつたんだよ。」

 「で、其れがどうしんだい。婆さんだって死ぬのが怖くて機械を体に埋め込んでんだろ。」

 「・・・・・・・。」

 「誰だって金を持ってりゃ機械の躰になるさ。何が悪い。此のパス一つで業者が機械の躰を山積みで持ってくるって言うんなら、今直ぐ此処に呼んでくれよ。」

 「・・・・・()う大きな声を出しなさんな。こんな婆さんにも一人息子が居てね。坊やと同じ位の歳で此の星を飛び出していつたんだよ。

 

  拾有參(じふいうさん)春秋

  逝者已如水 ()く者は(すで)に水の如し

  天地無始終 天地に始終無く

  人生有生死 人生に生死有り

  安得類古人 (いづく)んぞ古人(こじん)に類して

  仟載列靑史 仟載(せんざい) 靑史(せいし)に列するを得ん

 

 とか言つてね。今頃何処で何をしてゐるんだか。生きてるのやら死んでるのやら知れぬ息子が帰つてくる事を信じて、躰に機械を組み込んで待つてゐたけどね、若し生きてゐたとしても息子だつて生身の躰ぢやない筈さ。自分の体を痛めて産んだ子が機械になつた姿なんて見たくも無いしね。此方(こつち)にしたつて完全に機械化した姿なんて見せたくも無いから、少しでも生身の部分を残せる様に養生してきたんだ。デカい口を叩いた分、飾る錦が無い事を恥じて帰つて来れ無いつて事くらゐは察しが付くよ。武士は食はねど高楊枝。男の痩せ我慢は嫌いぢや無いよ。唯ね、同じ見栄を張るなら、筋の通つた見栄を張らなきや男じゃ無い。息子が長い旅から戻つて来ないのも、己を律するもう一人の気高い自分が居るからさ。私はそう信じてる。」

 嫗が茶道具から眼路を上げて言葉を切ると、鉄郎は床の間の茶掛に振り向いた。雄渾闊達な連綿体で綴られた真名の三文字が、其処で初めて鉄郎の吐胸(とむね)を衝いた。

 「坊やまさか、其の掛け軸が読めるのかい。」

 「うん・・・・まあね、最初見た時は何の事だかサッパリ判らなかったけど、そうか、“主人公”ってそう言う事か。」

 鉄郎は自分が見失っていた物を大書した渾身の一筆に奮えていた。己の人生の真の主人公と成る可く、純粋で高潔な有るべき己の姿と共に歩む旅。其の有るべき己の姿と清廉な母の姿が重なり、鉄郎は自分独りで路頭に迷っていると思い込んでいた事を恥じた。

 「寄付(よりつき)の床の間に飾ってある掛け軸は“喫茶去(きっさこ)”だろ。玄関に掛かっている此の店の屋号は何で“如水庵(じょすいあん)”って言うんだい。息子さんの口にした、逝く者は已に水の如し、から取ったのかい。」

 「否、其れは逆でね。息子が内の屋号を揶揄(からか)つて捨て台詞にしたのさ。屋号は亡くなつた旦那が付けたんだよ。

 

   九重(ここのへ)の花の宮こをおきながら

 

 つて奴さ。」

 「其れって確か・・・・

 

   唯有無生參昧觀  ()無生參昧(むしやうざんまい)(くわん)有り

   榮枯一照兩成空  榮枯は一照(いつせう)にして(ふた)つながら空と成る

 

 だったっけ?でも其れじゃあ、草の庵じゃないのかい?」

「内の旦那は捻くれてたからね。(しめ)を成空ぢやなく、流水と結んで詠んでゐたのさ。其れで如水庵さ。フフフッ、其れにしても此の御時世に此だけ崩した真名を読める子が居るとはねえ。草書をAIで解析したり、古典の文言を端末で検索したりする事は出来ても、素養が骨身に染み付いてゐなければ何も感じ取る事は出来ないよ。坊やは誰に読み書きを(をは)はつたんだい。」

 「母さんさ。ずっと二人切りで暮らしていたから外に教えてくれる人なんて居なかった。物心付いた時には指で母さんの書いた文字を(なぞ)っていたよ。其れが当たり前だと思ってた。母さんは砂に哥を書いて、其れが風に掻き消されていくのを見るのが好きだった。其れを一生懸命、眼と指で追ったんだ。」

 「其奴あ風雅だね。」

 「でも、母さんの(うた)に耳を傾けるのは俺以外居なかった。そんな古い言葉や文字、誰一人、見向きもしなかった。正直、俺も良く判らないんだ。母さんは時間が有ると、古典の書かれた本の切れ端を取り出して、住んでいた小屋の地辺田(じべた)に清書していた。小さい頃は其れが呪文めいて怖いと思う事もあった。誰も読めない文字で、誰も意味の判らない言葉を読み書きする事に何の意味があるのか。其れに、幾ら見様見真似で書いてみても母さんの様に上手く書け無い。自分の下手糞な字を見るのが厭で、少しずつ書く事から遠離るようになって。」

 「字が下手だから書くのが厭なのかい。ハハハハハッ、其奴は傑作だ。字が下手なのを恥ずかしいと想ふのは、決して恥ずかしい事ぢや無いよ。世の中には字が汚くても何とも想はない奴等ばかりだからね。音声入力や脳波をスキャンすれば良いとか。蚯蚓(みみず)みたいな字を書いてケロリとしてる連中なんて、御玉杓子(おたまじやくし)から遣り直しだよ。例へ機械に筆を執らせて正確に出力した処で、そんな物CADの図面と変はら無い。大切なのは本当に美しい物を愛でる心さ。本物を求める心があるからこそ恥ずかしいと思ふのさ。其れに思つた通りに字を書けない。書き損じたなんて思う必要はないんだよ。頭で描く文字よりも、躰が走らせた文字の方が本当の自分の文字なんだよ。其れに・・・・。」

 嫗は通畳(とおりだたみ)の上に身を乗り出して、鉄郎の(たゆ)まぬ酷使に摩滅した手を取った。

「此の手を見れば判るよ。爪を見れば。上辺だけの知識や躾ぢやない、親から子へ代々受け継がれていく家学の教へは、誰にも奪ふ事は出来ない。その心あまりて、ことばたらず。何と言つて伝へたら良いのか判らなくとも、其の気持が満ち溢れてゐれば、しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし。書は人なり。文花の咲かぬ処に心無し。()してや、哥は心の極みにして、哥の心は書物をも凌ぐ。坊や、御前さんを育てた御母さんは大した人だよ。」

 嫗は鉄郎の瞳に溢れる憂いに、母親はどうしてるのかと尋ねようとした言葉を呑み、鉄郎の母が言葉にしなかった言葉を語り始めた。

 「自分のルーツを大切にしない奴は誰も認めてはくれ無いよ。自分が産まれ育つた国や星を蔑ろにして、余所の国や余所の星の栄華を自分の手柄の様に言ふ奴に未来は無い。幾つもの国や星や人々が自分の産まれ育つた言葉や文化を捨てて、自分自身を見失い、人類は資本家の草刈り場になった。真名と仮名を交へた無限の表音文字と遊通無碍(いうづうむげ)で精緻な構文を持つ、坊やの御母さんが愛した言葉は、人類が生み出した最高の叡智なんだよ。言葉の豊かさは、其の国の文化の伝達や伝承の総てなんだよ。其の豊かさを功利主義に眼の眩んだ連中は、穴の空いた古着の様に捨てて終つた。人は言葉を操つて考える。思考は言葉を手掛かりにしなければ前に進め無い。言葉が貧しければ思考も人間も貧しい。言葉が限られると言ふ事は、其の思考も限られる。だからと言つて、無味乾燥な論理言語で語彙や思考力や読解力が身に付きさえすれば其れで良いんぢや無い。本当に必要な物は教養を超えた心の読み書きなんだよ。

 

 

     開けなほ文の道こそいにしへに

          返らん跡は今も殘さめ

 

 

 坊や、御前さんの血統は其れを美しい言葉と文字で書に哥に(したた)めた。人が最後に帰るべき場所は血の通つた国語なんだよ。此の星の連中の様に人の命や金、住んでゐる土地を暴力で奪ふ事は出来る。でもね、文字の無い神話の世界から始まる故事を敬ひ、気の遠くなる様な風雪に耐へてきた知恵に感謝し、そして何より命と命が繋ぎ止めてきた風俗や伝統を誇りに想ふ心は、其れを語り継ぐ言葉は、決して奪ふ事は出来無いんだよ。本物の言葉は心の奥底に宿り。決して忘れる事も、忘れ去られる事も無いんだよ。伝承された言葉と文化を捨て去つた者達は、自分の財産を奪はれたら直ぐ取り戻そうとするのに、心を見失つても、言葉を奪はれても、探し求める処か、何を見失つたのか、何を奪はれたのか気付きもし無い。民族の歴史を捨て去る者は、何時か自分も見捨てられる事が判ら無い。人の心に最期に残るのは、誰かを想ひ遣る痛みと言葉なんだよ。誰かを見捨て、見殺しにした苦しみで人は一生苦しみ続ける。誰かを傷付けた言葉で人は一生己を傷付ける。良いかい坊や、若し旅の途中で進むべき道が判らなくなつたら、自分が見失ひ奪はれた、心と言葉を探すんだ。さうすれば自づと道は拓ける。人は流水に(かんが)みる事無くして、止水(しすい)に鑑みる。唯、()のみ()衆止(しゅうし)(とど)むる。怒りや悲しみを鎮めて、己の姿を目の前の物事を鏡として映し出せば、其処に求めてゐる心と言葉がきつと現れる。若し、誰かに噛み付きたくなつた時も、自分の心と口を汚して終つた言葉に噛み付けば良い。答へは総て自分の内にある。さうすれば誰も血を流す事は無いからね。」

 言い終わると嫗はそっと手を離し膝の上に揃えた。改めて通畳を間に挟んで向き合った鉄郎は、思わず居住まいを正そうとしたのを堪えて立て膝を突くと、

 「婆さん、中々良い御点前(おてまえ)だったぜ。」

 剥き身の梁天井に向かって勢い良く立ち上がり、

 「処で、葡萄谷ってのは何処に在るんだい。折角だから、彼の馬鹿がどんな風にくたばってるのか拝みに行ってやるぜ。」

 鼓腹(こばら)を拍って床の間の禅語を睨み豪語した。

 「全く、口の減らない餓鬼だね。初めつから素直に助けに行くなら行くつて言へば良い物を。そんな回り諄い言ひ方をしてたら太陽系を一周しちまうよ。葡萄谷は此の小屋の脇を流れる川の上流さ。雑魚蛮の連中はガタの来た合板工場を勝手に占拠して、勤労の天道楽土とか何とか火裂(ほざ)いてね。其処等中の木を切り倒しては、野積にした原料の木粉やチップが自然発火して、しよつちゆう騒いでるよ。ちよつと其処で待つてな。」

 嫗は右手に柄杓と蓋置(ふたおき)、左手に建水(けんすい)を持って一旦水屋(みずや)に下がると、渋い利休色のジャケットを持って現れ、鉄郎に差し出した。

 「此は内の旦那が庭仕事で着てた野良着だよ。襤褸襤褸(ボロボロ)になつたカバーオールの代はりに此を着ていきな。」

 「良いのかい。

 

   筑波嶺(つくばね)新桑繭(にひぐわまよ)(きぬ)はあれど 君が御衣(みけし)しあやに()()しも

 

 大切な形見じゃねえのかよ。」

 「()うだよ。衣は人の魂を包み象作(かたちづく)るの物なのさ。だからこそ、捨てられずに受け継がれる衣には、袖を通してきた者達の歴史と叡智と、身を護る力が宿つてる筈だよ。」

 「変な祟りとか無きゃ良いけどなあ。其れに襤褸々々のカバーオールよりは増しだけど、此奴も結構草臥(くたび)れてやがるぜ。」

 嫗からジャケットを受け取ると、褪色し掠れた生地の見た目とは裏腹な、しっとりと染み込んだワックスの手触りに鉄郎は驚いた。此の星の濃密な原生林を想わせる軍勝色(ぐんかっしょく)の乗馬服。切れ上がったサイドベンツ。幅広の艶やかなコーデュロイの襟と其の剣先から覗く風防フラップ。ダブルのフロントジップを挟んで配した、ハンドウォーマーポケットと(まち)付きの大振りなフラップポケット。何より眼を引くのが、BURTLEと銘打たれたフィルム状の空調ファンが背面の脇の下と腰に二つ、左右対称に並んでいる。タータンチェックの裏地のタグに並んだ三つのクラウンを一瞥して袖を通すと、空調ファンが瞬動してサイドベンツの裾が閃いた。

 「此から未だ背も伸びるんだらうから、少し丈が長い位で丁度良いよ。」

 嫗は在りし日の記憶を羽織った鉄郎の姿に眼を細め、高ぶる胸の内を抑えながら肌蹴(はだけ)た襟を直してやると、刀掛けの上で埃を被る金襴(きんらん)袋を手に取った。

 「此も持つていきな。内の旦那が息子の為に造つた銃さ。此が有れば草刈り機の出来損ないなんて眼ぢやないよ。」

 袋口を割いて現れた黒檀の彫像かと見紛う銃身。千早振(ちはやぶ)(かささぎ)が其の意を決し、星の(やじり)となって解き放たれる瞬間を彫り起こした鬼蹟(きせき)の超絶技巧が、鉄郎の瞠目を音も無く撃ち抜いた。死線を超えて磨き上げられてきた事を物語る、黄泉の淵を覗き込む様な漆黒の光沢。此は武器なのか神器(しんき)なのか。太歳(もくせい)の在る処を知り、天の川を埋め尽くして織り姫と彦星の橋渡しをする瑞鳥を(かたど)った、今にも飛び発ちそうな流線型のフォルムが、照星の遥か先を目指して鋭利に張り詰めている。

 「どうやつて造つたんだらうねえ。こんな言霊の(たす)くる戦士の銃を。言葉が神と共にあり、神、其の物で在つた時代。言葉の呪能を高度に発揮する事で人は神と交信した。其の畏力(いりよく)を知りて言挙(ことあ)げぬ者が言挙げし時、瑞鳥は目覚め共鳴する。言霊の(さき)はふ星の許に生まれた坊やに、此の銃は御誂(おあつら)へ向きだよ。此を持つて出て行つた息子の代はりに、此の銃だけが戻つてきた。何処かで(くたば)つちまつたのか、生身の躰を捨てて此の銃が感応しなくなつたのか。其れでも人伝に此の星まで辿り着くんだから、此の銃も自分が仕える新しい主人を探し求めてゐるんだよ。」

 嫗から銃を受け取ると、鉄郎を品定めするかの様に怜悧(れいり)で硬骨な手触りが緘黙(かんもく)を貫いている。マガジンもシリンダーもセイフティーレバーも無ければ、各パーツの継ぎ目もビスも無く、銃身から遊底と撃鉄、グリップから銃爪(ひきがね)に到るまで総てが一体化した削り出しの傑物は、どの様にして組み上げたのかすら想像出来無い。そして何より其の全身を覆う、単一鋼材か異種の金属か、積層鍛造されたダマスカス鋼、独特の木目状の文様。旧世紀に失われた技術の渦文(かもん)が、鋼目(こうもく)が光の加減なのだろうか無言で蠢いている。鉄郎は中の構造を垣間見ようとして銃口を覗き込んだ。其の瞬間、吹雪の中で馬上から突き付けられた機賊の銃口が眉間を貫いて頸椎を弾き、血の池に浮かぶ母の外套が、母の後を追って助けに行く事も出来ずに挙措を失った繊弱が、白魔に呑まれ自ら天寿身命を放棄した絶望が、機族への憎悪と嫉妬が、貧民窟への侮蔑と陳腐な敵愾心が、母の高潔な生き様と息苦しい存在感が、怖気(おぞけ)を立てて全身を濤破(とうは)した。研ぎ澄まされた漆黒の銃身に投影された鉄郎の心の闇。ふと脳裏を過ぎった何て言う生易しい物じゃ無い。真昼に墓を暴くに等しい非情なる一閃。此の銃を使いこなす資格が有るのかを問い質す辛辣な鋼顔鏡面(こうがんきょうめん)に、鉄郎の握力は己の毒が廻った蛇の様に痺れた。此の旋毛(つむじ)曲がりは例え正面に構えたとしても、何方(どっち)に銃口が向いている事やら、(とて)も小兵の手に負える代物(しろもの)じゃ無い。厄介な忘れ形見を押し付けられて戸惑いながら、鉄郎は嫗の装着してくれたホルスターに銃を納め、躙り口から表に出た。

 嫗の後に付いて竹藪の(まがき)を一歩踏み越えると、遠くに聞こえていた小瀬の(せせらぎ)は一気に解き放たれ、亜熱帯の密林を分け入る中流河川が暗幕を掻き上げる様に姿を現した。人工太陽の欠片を(ちりば)める(かなえ)の沸くが如き浪間(なみま)。樹皮と川藻の生臭い分泌物が絡み合う潤風(じゅんぷう)。視界を限る総ての物が、此の星の放埒な養分を貪る生類有情の熱狂で(ひし)めき、右肩上がりの湿度に反応してジャケットの空調ファンが作動する。岸に降り、桟橋に係留してある一人乗りのジェットホバーの鍵を鉄郎に渡すと、嫗は莞爾(かんじ)一笑、上流を指差し発破を掛けた。

 「此の河を遡つていくと老朽化して貯水して無い廃ダムが解体されずに残つてゐて、雑魚蛮が(たむろ)している合板工場は其の先にあるよ。ダムの水門は完全に開放されてあるから其の船で潜る事が出来るからね。迷ひやうの無い一本道さ。坊やみたいな素敵な王子様に助けてもらへるんだから、彼の御嬢さんも果報者だねえ。

 

 

   木綿(ゆう)かけて(いは)ふこの(もり)越えぬべく

        思ほゆるかも恋の(しげ)きに

 

 ほらほら、早くしないとシンデレラの魔法が解けて私みたいな婆さんになつちまうよ。ジェットホバーのファンに巻き込まれない様にね。川の中は肉食魚と回虫の巣窟だから落つこちるんぢや無いよ。」

 「おいおい、婆さん、何度も言わせんなよ。俺は彼の馬鹿に簀巻きにされて引き擦り廻されたんだ。幾ら義理が有るとは言っても、ギリの義理だぜ。」

 「ハイハイ、判つたよ。()うムキになりなさんな。

 

    五月山(さつきやま) 木下闇(このしたやみ)の暗ければ

        己れ惑ひて鳴くほととぎす

 

 若いつてのは良いねえ。虐げられる程に燃え上がる紅恋(ぐれん)の焦炎。」

 「巫山戯(ふざけ)んな。あんな74のAカップ。金蚉(カナブン)みてえなケツしやがって。此方から願い下げだぜ。余計な口叩いてないで、シャンパンでも冷やして待ってろ。」

 「坊や、内は純喫茶なんだ。甘酒で良ければ振る舞つてやるよ。何時までもこんな処で油売つてないで、()い男になつて還つてきな。」

 「其れから好い加減、其の坊や坊やって言うのも止めてくれ。」

 「ふふ・・・坊やぢや無い一人前の男だと言ふの?ふふふふふふ、私から見れば皆坊やさ。葡萄谷から生きて帰つて来たら、坊やと言はずに名前を呼んで上げるよ。」

 「星野鉄郎だ。覚えといてくれ。」

 操縦席に乗り込んで係留ロープを解き、セルを回し浮揚ファンのスイッチを入れて出力を上げると、スカートが帆を孕み、川面が奇声を上げて総毛立ち、重力を蹴散らしながら艇体が宙を横滑りして岸から離れていく。鉄郎が跨っているラダーを倒してスロットルを全開にすると、船尾のダクトプロペラが激昂し、水煙を巻き上げ回頭した船首にカウンターを当て、ジェットホバーは上流に向かって解き放たれた。

 川面を滑走するゴーストホワイトの弾丸。野に(くだ)った千夜一夜を駆ける魔法の絨毯が原始の水脈を逆上し、太古の鳴動を縦断する。前傾姿勢の頬を切る疾風がダクトプロペラに吸集され、発咆(はっぽう)する2ストローク2気筒の軽快な瞬発力。腰の落ち着かぬ浮遊感を翻弄する予測不能な慣性は騎虎(きこ)の背に爪を立てて捻じ伏せろ。磁針の北限を指すが如き逸る心。レッドゾーンの快哉(かいさい)が植棲群落のアーケードを突貫し、退屈な世界を置き去りにしていく。

 

   拷領巾(たくひれ)の白浜波の寄りもあへず

      荒ぶる妹に 恋ひつつそ()

 

 倒錯した魔性の引力に向かって鉄郎は面罵した。嫗の言う通り、彼の馬鹿の毒が頭に昇って、爆竹を詰めた万華鏡の様にドーパミンが乱反射している。逃げ惑う水鳥の飛沫と弾けた梢の朝露が木漏れ日と交錯して棚引く虹旗(こうき)。視界の彼方で山羊が灌木の若葉を食んでいる。鉄郎は直観の閃く儘に速度を落とさず岸に乗り上げると、木立の中へ姿を消した山羊と入れ違いに灌木の下枝(しずえ)を横殴りで()し折り、串焼きの様に若葉を喰い千切った。灰汁(あく)の無い瑞々しい滋味が歯茎に弾け、爽やかな渋味が鼻に抜ける。鉄郎は小枝を放り投げて胸元のパスを取り出し、フィルターを絞って擦過する密林をスキャンした。エアディスプレイを埋め尽くすロックオンされた食用可能な果実と菌類。汚染されて無い木の根を掘り起こして囓り付く事が日常だった鉄郎は、腹の底から込み上げる愉悦に操縦を取られ、危うく岸の岩壁を掠めてスピンした。

 例え999に乗り遅れても此の星なら寝返りを打つだけで生きていける。地球から御然(おさら)ばしたのも此の星に辿り着く為だったのではないのか。唯、其処に浸っているだけで体内に蓄積された汚染物質を浄化していく此の星の大気。命懸けで自分を護ってくれた母も、此の星で天寿を全うする事を望んでいるのではないのか。そんな波間に煌めく御淑(おしと)やかな甘言を、鉄郎は船首を立て直して振り切ると、嫗の怜悧(れいり)な眼差しを背負い直管のラダーに獅噛憑(しがみつ)いた。“主人公”の茶掛に焚き付けられて嫗の息子も旅立ったのだ。山青くして花は燃えんと欲する今、此の時、豚舎の蕩睡に浴してどうする。

 

   (をのこ)やも(むな)しくあるべき萬代(よろずよ)

       語り繼ぐべき名は立てずして

 

 有り余る若さが肥沃な大地に翻る新緑の錦と競い合い、タコメーターの警告灯が一瞬たりとも疎かに出来ぬ天命の刻限を扇情する。肺の腑を逆巻く柄にも無い武者震い。水面を撥ねる根拠の無い自惚れ。羽根を付ければ其の儘、星空に飛び発つ船艇を怒乎躾(どやしつけ)、渓谷に沿って蛇行し始めた針路に舵を揮う。

 八千萬(やちよろず)の生類が謳夏(おうか)する澄みやかな瀞流(せいりゅう)(とこ)しえに連なる其の光鱗(こうりん)を、一筋の白烈が横切った。ジェットホバーの爆音にも怯まず、鉄郎の間接視野を波状飛行で併走する白鶺鴒(はくせきれい)。水先案内のつもりか俊烈な小兵の微翼(びよく)が瞬き、珀銀(はくぎん)の軌影が乱高下する。鬼退治の仲間にしては幼気(いたいけ)な其の姿に、ドンキホーテ気取りの己を重ねて、鉄郎の口角は綻び、全開に握り込んだスロットルを僅かに緩めた。

 

   名にし()はばいざ言問(ことと)はむ教鳥(おしへどり)

      わが思ふ人はありやなしやと

 

 母の行方かメーテルの行方か、懸命に羽撃(はばた)きながら鉄郎に哥を返す意地らしい白妙(しろたえ)(さえず)り。其の耳を擽る甘いハミングに口笛を合わせてジェットホバーを操舵していると、玉髄(オニキス)(つぶて)の様な小兵の瞳に警々(けいけい)と殺気立つ赤光(しゃっこう)が走った。

 

   常よりも睦まじき(かな) 時鳥(ほととぎす)

        死出(しで)の山路の友と思へば

 

まさかと思う間も無く鉄郎が銃に手を掛けると、パラサイトチップの埋め込まれた鳥戒機(ちょうかいき)は、小賢(こざか)しいBeep音を吐捨(としゃ)して偽りのランデブーを離脱し、後景に滅した。

 火中の栗を拾いに行くのだ、後の祭りも何も、遅かれ早かれこうなる事は織り込み済み。チンコロ野郎の事は後回しにして、鉄郎は緩んだネジを締め直した。案の定、土足で上がり込んできた子鼠を大目に見てくれる筈も無く、聞き覚えのある破砕音が岸辺の木立を薙ぎ倒し、逃げ惑う鳥獣を従えて川面に転がり込んでくる。ガイドレールの超硬バイトが巻き込む有象無象の断末魔。鎖を解かれ、天を衝く躯体を陽の本に晒した鋼僕(こうぼく)の番犬。歪に継ぎ合わされた嵌合体(キメラ)の鼻先を、ジェットホバーのスカートが間一髪の差で擦り抜けると、水底(みなそこ)を掘削する轟音を背に上流へと駆け昇る。退路は断たれた。本の一瞬の操作ミスで蹴汰魂(けたたま)しい鉤爪に呑み込まれる戦慄が、鉄郎の珍化(ちんけ)で不器用なヒロイズムに火を点ける。漸く、誰の物でも無い己の旅が始まった。

 「オイオイ、もう足に利たのかよ草刈り当番。俺の尻尾が見えるなら捕まえて()り身にしてみやがれ。蒲魚(かまとと)振ってんじゃねえぞ、此の野郎。バラし屋が獲物を前にして遠慮なんかしてんじゃねえよ。遣れるもんなら遣ってみろ。撲ちCrash(ぶちくらせ)エェェェェェ、撲ちCrashエェェェェェ。」

 補修と改修と応急処置を繰り返し、限度を超えたパッチワークで原形を留めぬモザイクの御老体が振り乱す、刃零れして地金の剥き出しになった超硬バイトに檄を飛ばし、鉄郎は帆を孕んだ風神の如く渓流を撃走する。こんな(せこ)い仕掛けをしている位だ。雑魚蛮とか言う革命原理主義者は間違い無く此の先に居る。自由と平等と言う水と油を永遠に攪拌し続ける現実逃避の解放区。構って貰えない憂さ晴らしのテロルで世間に甘える、夢精病者の御花畑。絶好の行楽日和だ。存分に踏み散らしてやる。

 灼けたアスファルトの上に迷い込んだ蚯蚓(みみず)の様に身悶える瀬瀬(せぜ)と、出し抜けに顔を出す岩座(いわくら)スレスレにカウンターを合わせる度、火花を飛ばし反転する恐怖と官能。其の表裏(ひょうり)を見失う程の転回に三半規管は酩酊し、鉄郎は宝の地図をなぞっている様な陶然とした頂悦に(のめ)り込んでいく。貧民窟の故買屋で盗み見た旧世紀のアーカイブ。物陰に齧り付き手に汗を握った追走劇のスラロームが、今、記憶の銀幕を()ち破って眼の前を爛舞(らんぶ)する。研ぎ澄まされた集中力に削ぎ落とされていくラダーとスロットルの操舵感覚。鉄郎の中枢神経と垂直尾翼が融合し、解脱した重心移動がFRP製の揺り駕籠の中で滑らかに寝返りを打つと、千鳥足だった慣性が鞭の様に(しな)り、目眩く峡谷の等高線が合流する点と点の連続を、銀河鉄道の無限軌道を走破する999の如く、古色蒼然の一言で切り捨てられていたジェットホバーが寸分違わぬ航路で翔破する。

 革命の犬に猛追されている事すら忘れて終う程、想うが儘に健脚を奮う魔法の絨毯。何故、産まれ育った地球で過ごした日々の本の一瞬でも、こうして立ち(はだ)かる障害の総てに全身全霊で奮い起つ事が出来なかったのか。例え無謀な勝負に其の身を投じたとしても、自前の命を落とす以外、何も失う物は無かった筈なのに。名誉栄達、不滅の命への憧れに眼が眩み、汚染された荒野に必死で縋り付く蟻地獄を見付けては踏み潰し、憂さを晴らしていた己に吐き気がする。

 折り重なる山襞(やまひだ)の向こうに嫗が口にした治水ダムの躯体が見えてきた。染み出した鉄分と雨水による黒錆で国防色に変質した、河床から堤頂まで50mに達する逆三角形の厖大な城壁。打ち捨てられて尚、其の威容を誇示する鉄筋コンクリートの荘厳なる気概が、過酷な試練を暗示する。いよいよ本丸に近付いてきた。ジェットホバーのスカートが摩滅した床止(ゆかど)めを蹴立てて、銀瀾(ぎんらん)を裂く。両岸に敷き詰められた導流壁の先に傲然と構える流水型二基の水門は全開で、常用洪水吐(こうずいばき)から上流の景色と流木を捕捉する杭が覗いている。嫗の言った通りだ。ジェットホバーなら余裕で(くぐ)り抜ける事が出来る。問題なのは、本来、縦横5×3m程の方形で在る洪水吐の一方が、三倍以上の間口に掘削されていて、其の理由がたった一つしか思い当たら無い事だ。

 「老朽化も糞もねえ、シャブコンの手抜き工事じゃねえかよ。」

 鉄郎が躯体を駆け巡るクラックを罵りながら、馬鹿穴にされて無い正規の洪路(こうろ)に飛び込むと、一拍置いて隣の孔窟(こうくつ)を更に一回り大きく掘削しながら追ってくる激情が伝わってきた。ジェットホバーの後を追って崩落する腐蝕した天井。酸化膨脹した剥き身の鉄筋を吹き抜ける猛烈な山颪(やまおろし)に抗いながら、一点の光明を目指して闇を斬り拓く。

 躯体の抜け穴を脱し、枯れ果てたダムの底に躍り出ると、滑落を防ぐ為、格子状の法枠(のりわく)に無数のグラウンドアンカーで楔を入れた幽谷が、皮も身も無い(むくろ)(あばら)を、左右両岸、広大な空漠を孕んで、向かい合わせに横たえていた。息の根の絶えた墓標なき死の谷。とてもじゃないが葡萄狩りに繰り出す様な場所じゃ無い。似非左翼の巣窟は未だ此の先か。フルスロットルの儘、上流に向けて集束していく鉄筋コンクリートの岸壁の彼方に眼を凝らす鉄郎。其の微かな懸念は潰滅的な杞憂と成って打ち砕かれた。

 見捨てられたダムの底を伝う震撼。背後の水門を突破してジェットホバーを追撃する嵌合体の雄叫び。否、此の轟きは鉄郎の進路の先から滑落してくる。山が鳴っている。尾根を舞う吹き颪とは異なる、鼻を突く湿った風圧を押し出して、遠く戦いていた震源は、次第に確たる波動を従えた地鳴りへと増長しながら迫ってきた。。一斉に飛び発ち逃げ惑う鳥獣の阿鼻叫喚、噴煙と見紛う土埃が訴える、緑のベールに包まれた急難凶事。確かめる手立ても考える猶予も無い。背筋を這い昇る虫酸が第六感を押し退けてジェットホバーの舵を切り、土留(どど)めの法枠を駆け上がると同時に、上流へと続く渓谷の裂け目から狂瀾怒涛の土石流が雪崩落ちてきた。ダムの底が抜ける程の天地を覆す大瀑布。殺到する瓦礫の暴威に水門は塞き止められ、瞬く間に積み上がっていく土砂の潮位。隊を成して木立を薙ぎ倒しながら駅前に繰り出してきた嵌合体のセレモニーとは物が違う。流域の形有る総ての物を強奪、粉砕し、地獄の釜に突き落とす神の怒鎚(いかづち)。愚かな世界を作り直す為、方舟諸共、土に還すつもりなのか。出口を失い、張りぼてのダムに撃突し続ける爆流に堤躰と岩盤が軋みを上げ、土器(かわらけ)色に荒れ狂う湖面が莫大な質量を抱えて迫り上がっていく。俄雨が()ぎる処か、人工太陽を限る一片の雲すら無い空の下、何故、此程の土砂が雪崩れ込んでくるのか。一体此の谷の上流で何が決壊したと言うのか。

 勢いが衰えぬ泥流に進路を絶たれ、鉄郎は固唾を呑んで斜面に張り付いている事しか出来無い。すると、朽ち果てた森の残骸が身悶え浮沈する波間が突然隆起し、身を乗り出して眼を凝らした鉄郎の焦眉を撃ち抜いた。海面に垂直上昇した鯨背の如く躍り上がり、水飛沫を上げて甦った土木重機の亡者。番犬としての職務に執念を燃やす嵌合体が、土石流に押し流されながらも法枠に超硬バイトの爪を立てて這い上がってくる。グラウンドアンカーが飛び散り、引き裂かれた土留めごと瓦解していく地盤。反り上がる勾配に推進力を奪われて頭打ちのジェットホバーが、宙を舞うモビルスーツに可変する秘密のスイッチなんて装備してる訳も無い。愈愈(いよいよ)、此奴の出番だ。鉄郎は嫗から授かった戦士の銃に総てを託し、諦めの悪い番犬に銃口向けた。人差し指の第二関節に食い込む汗ばんだ手応え。鵲の嘴から迸る正義の光弾。の筈が、

 スカスカな銃爪(ひきがね)の感触の先からはスカした空砲の吐息すら零れず、黒妙(くろたへ)渦文(かもん)垈打(のたう)つ銃身は皇然とギラ付いているだけで、ドッシリと構え硬直している。安全装置、初期設定、脳波認証、そんな事を調べている位なら、賽の目に命を委ねた方が手っ取り早い。試し撃ちをし無かった落ち度もそうだが、何より如何にも威力が有りそうな勿体振った御託を真に受けた己に腹が立つ。

 「彼の糞婆。」

 鉄郎は黙秘を決め込む鉄屑を濁流の中に放り投げた。こうなったら、ジェットホバーを乗り捨て、法枠を自力で攀じ登るしか無い。そう腹を括った其の時、眼下の土留めを抉り込みながら巨大な岩盤が横殴りで嵌合体の顳顬(こめかみ)に直撃し、活断層の狭間に巻き込む様に土砂の奈落へ引き擦り込んでいった。神の御業(みわざ)か閻魔の所業か、目眩[(めくるめ)く激甚に次ぐ激甚。然し、機族の管理区域外で天変地異が半日常だった鉄郎は、絶界の荒野で津波から逃れ、群発地震の隙を縫って産廃の峰を駆け抜けた記憶が血肉となり、此の禍事(まがごと)を前にして寧ろ胆力が漲り、腰が据わって視界が啓けていく。足許を轟然と駆逐して横切る超弩級の団塊も、一呼吸置いて見渡せば、スレートの吹き飛ばされた重量鉄骨の建屋が、基礎ごと打ち砕かれて難破した躯体の成れの果て。上部の建材に縋り付いている群像が倒木の様に浪に攫われ、或る者は岸に這い上がり、或る者は泥の藻屑と消えていく、其の寸分の狂いも無く同じ造形で助けを求め、苦悶に歪む、幸の薄い瓜実(うりざね)の顔、顔、顔までもが、歴々(まざまざ)睥睨(へいげい)出来る。

 判で押したスペアノイド達の終末に、此の力尽きた方舟こそが雑魚蛮の合板工場だと悟った鉄郎は、上流から更に大挙して押し寄せる修羅の相克に眉を(ひそ)めた。アトラスサイロ、リサイクルボイラー、ドライヤードラム、分電盤、熱交換機、送風機、ポンプ室、圧力容器、イーグル破砕機、磁選機、ダブルのスクリューコンベアにベルトコンベア、製品倉庫にチップヤード、其の総てが大容量のプラント設備を抱える鉄筋コンクリートの断塊が、フランジから千切れたダクトを八岐大蛇(やまたのおろち)の如く振り乱しながら、順不同で(ひし)めき、半死半生で攻め込んでくる。土石流に担ぎ煽られて根刮(ねこそ)ぎ暴徒化した工業団地の特攻デモ。然し、幾ら自然の猛威が桁違いとは言っても、山岳地帯の鉄砲水に此程大規模な建屋を基礎諸共押し流す程の馬力が有る筈が無い。若しかして彼の馬鹿の仕業?否、そんな真逆(まさか)

 山肌を削り、老害と無抵抗を楯にするしか術の無いダムの提躰に突撃しては轟沈し、堆積していくメガプラントの葬列。滑落寸前の土留めに巻き込まれぬ様、恐る恐るジェットホバーを岸辺に降ろしていくと、波飛沫(なみしぶき)を被った鉄郎は、舌の上に広がる天然の樹脂の風味に色めき、黄濁した波間を片手で掬い取った。指の間を滴り落ちる、木理を失い岩清水の様に液状化した木粉の不自然な感触。此の唸りを上げて襲い掛かる兇瀾の正体が、上流で決壊した土砂では無く製品化する筈だった合板の原料?だとしても、此の驚天動地の暴走は過失操業による工業災害のレベルじゃ無い。そして何より、ダムの常時満水位に達しようかと言う、鴻大(こうだい)無辺の木粉が帯びた蠱惑(くわく)的な猟奇。其の仮借無き業渦(ごうか)の中心を覗き込むと、不合理の闇と眼があった様な底知れぬ悪寒が込み上げてくる。

 鉄郎は出口の無い狐疑を振り払い、手の着け様の無い現状に険望鋭察を巡らした。取り敢えず、瓦解した法枠のグラウンドアンカーに掴まって難を逃れたは良い物の、助けを求める事も出来ず途方に暮れているスペアノイドに当たるしか無い。鉄郎はスペアノイドがジェットホバーに飛び乗れぬ距離まで慎重に詰め寄り問い質した。

 「オイ、お前達が駅前で連れ去った女はどうした。金髪に黒服の女だ。答えろ。」

 「豁、蜃ヲ縺ッ隱ー?溽ァ√?菴募??」

 「オイ、(しっか)りしやがれ。金髪に黒服の糞みてえに高麗(こま)っしゃくれた女だ。知らねえのか。」

 「螂ウ?溷スシ縺ョ驥鷹ォェ縺ョ縺具シ溷スシ螂エ縺ョ繧「繧ソ繝?す繝・繧ア繝シ繧ケ繧帝幕縺代h縺?→縺励◆騾皮ォッ縲√≧縺√=縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠」

 幾ら怒也(どや)しつけても言語中枢のエンコードが逝かれていて話になら無い。其処へ、

 「ウェルダーを廻すな。バッテリーだ、N2はバッテリーに接続して木粉に撒け。木粉を外気から遮断しろ。」

 「然し、此の木粉は、生きてます。余計な刺激を与えたら何が起こるか判りません。」

 「狼狽(うろた)えるな。液状化した木粉に何者かが複合調和音を流して共鳴操作しているだけだ。」

 「木粉が氾濫したチップヤードで自爆していた担当者達の症状は明らかに電脳梅毒です。と言う事は・・・・。」

 「憶測に惑わされている場合じゃ無い。防火措置を優先しろ。」

 先行して沈没したプラントに後続のプラントが座礁し、其の建屋の周りでスペアノイド達の怒号が飛び交っている。鉄郎が舵を切り、取り残された職業左翼の許へジェットホバーを飛ばして、粉々に打ち砕かれ、引き千切れた鉄筋が剥き出しの躯体に横付けにすると、スペアノイドの上官は2ストロークの勝ち気な排気音を扱き下ろした。

 「貴様、此の非常時にボート遊びをしてる場合か。粉塵爆発の導火線になりたく無かったらエンジンを切れ。」

 「へええ、其奴は御誂(おあつら)えだぜ。エンジンを切って欲しいんなら、お前等の仲間が連れ去ったメーテルって名前の女が何処に居るのか吐きやがれ。何方が前か後ろか判らねえ74のAカップで、狐の葬式みてえな格好の女だ。早く答えねえと、包んでもいねえ香典返しを喰らう事になるぜ。」

 「物流管理の俺達が特捜のパトロールごっこ何ぞ知った事か。」

 鉄郎の鼻っ面に特捜の二文字を苦々しく吐き捨て、スペアノイドはハンドパレットで運ばれてきた窒素瓦斯(ガス)発生装置の制御盤に齧り付いた。異音を我鳴(がな)り立てるコンプレッサーの震動で、アングルで組まれた架台を這い回る、気密の甘い銅配管の其処彼処から、分離瓦斯が駄裸(だら)し無く漏れている。こんな草臥(くたび)れた不燃瓦斯でダムの全面を覆えるのかと呆れている処に、使い走りのスペアノイドが端末を掲げて飛び込んできた。

 「所長、各部署の識別アドレスが復旧してます。」

 「貴様は何処に耳を付けて人の話を聞いてるんだ。何者かがインデックスに擬態化して嗅ぎ廻っていると言っただろ。無線は総て切れ。割り符が適合したからと言って信用するな。」

 一兵卒が上官に食い下がろうとした途端、其の真摯な眼差しが藪睨みに吹き飛んだ。脊椎を貫く雷撃に四肢が痙攣し、茫我の形相で昏倒した粗製濫造の形代(かたしろ)が、岸に打ち上げられた害来魚の様にコンクリートを撥ね廻る。

 「オイ、どうした確りしろ。」

 駆け寄りながらも其の荒ぶる死に馬に一切触れようとしない上官の脇で、補佐していた褌担(ふんどしかつ)ぎが端末を拾い、震える指で接続を解除しようとするのだが、時既に遅し。

 「だから言ったんだ、電劾重合体が矢蠑オ繧頑ュ、縺ョ譏溘↓繧ゅ≧縺?≠縲√?縺ァ縺カ縺?≦縺?≧縺?≧縺?≧」

 二匹目の泥鰌(どじょう)俎上(そじょう)に上がり賑やかになった献立を前にして、取り残された所長は矢も盾も堪らず端末をダムの底へと蹴散らした。木粉の波間を()ぜ、瞬く間に呑まれるぞんざいな水柱。其の一石が投じた同心円の文波(あやなみ)が、地に堕ちた金環日食の如く妖しく煌めくと、心電図の鼓脈の様に律動する矩形(くけい)波と三角波の反復に確変し、不協和な合成周波音を冥奏しながら拡散していく。整然と意志を持った波紋の禍々(まがまが)しい輪舞輪誦。其の奇矯な幾何学模様を慄然と凝視していた職長の足首を、不意に胡乱(うろん)()な子で海老反りに(のた)打ちながら、人事不省の部下が掴まえた。

 「糞ッ、離せ、離せ、触るんじ繧?┌縺??ゅ≧縺」縲√≦縺ゅ=縺√=縺ゅ≠縺ゅ≠」

 己が蹴落とした端末の後を追う様にダムに没するスペアノイドの御一行。マグネットリレーが開放されて急停止したコンプレッサーと入れ違いに、電劾重合体を名指した絶叫が鉄郎の脳裏をリフレインする。端末を呑み込んだ波紋は其の属性を完全に超越し、複合調和音の一言では片付けられぬ異形のパルスが、濁流を征して躍動している。邪教を崇める祭祀の礼冠(らいかん)か、鬼界の(ともがら)を召電する乱れ神楽か。自在に豹変する木粉の面容を前にして、鉄郎は其の片鱗すら掴む事の出来ぬ惨事の全貌と己の器との落差に、呆れ果てるのを通り越して、何処か清々しさを覚えていた。重量鉄骨の基礎を鋼管の杭諸共、撲った斬って此処まで引き擦り降ろす木粉の怪力乱神と、其れを影で操る蠱術(こじゅつ)を生き残った電脳蠕虫(ぜんちゅう)のレジスタンス。最早、職業左翼の鬼退治なんて二の次、三の次だ。

 「全くどうなってやがんだよ。此じゃあ、俺のポケットが幾つ有っても足りねえぜ。」

 メーテルの手掛かりを求めて、再び舵を切るジェットホバー。兎に角、岸の上に難を逃れているスペアノイドを虱潰しに当たるしか無い。若し、プラントの建屋と抱き合わせで、ダムの底に水没しているのだとしたら。そんな余計な穿鑿を此の未曾有の狂乱は鼻を鳴らして吹き飛ばし、息吐く(いとま)を与え無い。豪塊な建築廃棄物の屠列が途切れたと思う間もなく、取りを務める殿(しんがり)(まさ)に鳴り物入りで怒鳴り込んできた。

 何であんな浮力を超えた屑鉄の権化が、尻の穴にダイナマイトを突っ込んだ河馬みたいに濁流を組み伏せ、力尽くで泳いできやがるのか。我先にと大挙して押し寄せる嵌合体の軍勢。波間に漂うスペアノイドを轢殺(れきさつ)して一瞥も呉れぬ血眼の突進が、鉄郎の存在をも素通りし、限界速度で絶頂した儘、継ぎ接ぎの老骨諸共、ダムの提躰に玉砕した。鉄郎は思わず眼を背け、其の余りの衝撃にジェットホバーの操縦席で頭を抱え(うずくま)る。潜伏していた施工不良がコールドジョイントを駆け巡り、軋みを上げて歪に(しな)るダムの堤頂。コンクリートの被膜が剥落し、赤茶けて瘡蓋(かさぶた)の様に膨れ上がった無防備の鉄筋を、半潰したガイドレールに辛うじて引っ掛かっている超硬バイトのソーチェーンが強引に掻き毟りると、其の火花が舞い上がった木粉を誘爆した。

 天を衝き耳を(ろう)する轟音が峡谷の岩盤を震撼し、熱波と瓦礫を吹き(すさ)ぶ爆風が総てを薙ぎ倒す、一瞬の燦然(さんぜん)。漠裂した煙塵が碧落(へきらく)(そび)えて棚引き、地を裂き躍り出た煉獄の如き紅蓮の火柱に向かって、ブレーキの逝かれた後続が殺到する。飛散した木粉の炎舞が驟雨(しゅうう)となって降り注ぐ絶世の爆心地。一匹の雌に群がる雄蛙の様に、朽ち果てた先陣の上に馬乗りで突撃し、掘削する嵌合体(キメラ)の貪婪至極な死の暴走。灼熱の断腸にダムの躯体が悶絶し、稲妻の様な形相で殺気立つ亀裂が、節くれた食指で数える破滅への秒読み。此の儘、鉄筋の横軸を断絶し尽くされたら決壊する。プラントを丸ごとカッ攫って御釣りが来る土石流だ。下流に居を構える嫗の苫屋(とまや)なぞ一溜まりも無い。鬼火を背負ってシャブコンを(ほふ)り、燃料タンクに引火しては自爆していく嵌合体の末路。魔が射した叡智に取り憑かれた其の熱狂。話せば判る相手じゃ無い。然し・・・・

 終末を絵に描いた火群(ほむら)の蛮勇を前にして、徒手空拳の鉄郎は不意に背後を振り返った。誰も居ない。だが、ローファイの餓刹(がさつ)なサンプリングボイスが頭骨の(うろ)木霊(こだま)する。

 

 「如何(どう)した鉄郎、其処までか。其の若さで何を失ふ物が有る。死を賭して己の魂を満たさずに、何の立つ瀬が在ると言ふのか。」

 

 機械伯爵のカドミウムレッドに(ただ)れた隻眼の記憶が、有りっ丈の憎悪と共に甦る。其処に打算があるのなら、そんな人生なぞ捨ててしまえ。抜け道に目配せしながら断つ退路に活路は無いと、鉄郎の二の足を踏み躙る。

 

 「鉄郎、母に会ひたければ時間城に來い。氏と名を賜る漢に大人も子供も無い。貴様の旅は此処からだ。」

 

 聴覚野にパラサイトチップを仕込んだ訳でも有るまいに。老想化声の分際で猛々しいにも程が有る。ディレイの利いた豪胆な高笑いを振り払い、鉄郎はジェットホバーのスロットルに噛み付いた。

 「一言も二言も多い野郎だぜ。及びじゃねえんだよ。目玉の糞オヤジ。」

 意を決して、神罰としか思えぬ業火の渦中へ特攻する鉄郎。積乱雲の如き煤煙とコンクリートの粉塵に、火の粉が燃え尽きて降り注ぐ墨の雨を切り裂き、火鱗に煌めく泥流を跳梁する。迷子の子狐に止めを刺すのは御預けだ。出鱈目な濁世を焼き尽くす、衰える事を知らぬ烈火の盲爆。錯乱した嵌合体にジェットホバーを横付けしただけで、殺人的な熱波を浴びた顔面の表皮が、本能に引き返せと怒鳴り付け、立ち昇る陽炎に揺らめく視界を確りと見開く事すら出来無い。此処から先は死の領域。今更、泣き言を考えた処で爆発の連鎖に巻き込まれるだけだ。

 ピックアップに溶接された此の焦熱でチンチンに灼けているタラップを、鉄郎が素手で一気に昇り切ると、若しやとは思っていたが操縦デッキは無人の儘、独断で稼動し、然も、インパネの旧式のキーシリンダーには爪楊枝すら刺さって無い。衝撃と炎熱に遣られて後付けのモニターは画面が飛び、計器類も好き勝手な方向を指して痙攣している。何がどうなってるのかも判らなければ、何をどうしたら良いのかも判ら無い。其れでも、何とかして此の一台だけでもどうにかしなければ。顎から滴る駄々漏れの汗が縞鋼板(しまこうはん)のデッキの上で蒸発し、チェルシーランチャーのカスタムされたシャークソールが溶けて足許が泥濘(ぬかる)んでいく。鼻と喉を突く不完全燃焼瓦斯に咳き込みながら、インパネに焦げた踵を振り下ろし、備え付けの工具箱を叩き付け、虚しく散乱するスパナ、ラチェット、ドライバーの中からハンマーを掴み上げて再びインパネに襲い掛かる。ガムテープで留めていたサイド硝子が爆風で吹き飛び、黒煙が雪崩れ込む操縦デッキ。眼球が飛び出る程の激しい頭痛と、胃壁が捲れ上がりそうな悪寒と吐き気。垂れ込める一酸化炭素に付け込まれて混濁した意識。其の片隅をふと、見捨てられていた哀矜(あいきょう)の念が肩身を(すぼ)めて通り過ぎた。

 何故、此の複合重機は狂悖暴戻(きょうはいぼうれい)に我を忘れて終わなければならなかったのか。こんな馬鹿騒ぎが本望な筈が無い。自然の摂理に逆らって産み落とされた工作機械。唯只管(ひたすら)、酷使されるだけで、其の出自から土に還る事の許されぬ文明の雛形。テクノロジーと人類の共存と言う欺瞞と傲慢。延命措置で御茶を濁しているだけの怪造車輌が、死に場所と救いを求めて振り乱す加持祈祷。心神喪失の荒魂(あらだま)が鉄郎の吐胸(とむね)に迫る。天地万物、此皆(これみな)、大虚の一気より生じ、仁者は草木の一枝一葉すらをも、其の時、其の(ことわり)なくしては()む事(あた)わず。其れこそが万物一体、天人合一。

 火急の極地に在りながら慎々(しんしん)と息を秘そめる明鏡止水。其の姿見に、ダムの躯体を掻き毟る嵌合体と、インパネをハンマーで撲ちのめしている己の姿が重なり瓦解する鉄郎。手足の感覚が痺れて息が途切れ、半狂乱で振り下ろしていたハンマーの柄が汗で滑り、フロント硝子を叩き割ると、墨色の死の灰が降り注ぎ、後はもう自分の躰が何処に向いているのかすら判ら無い。母を襲撃された白魔の惨劇とは真逆の灼熱地獄と言うだけで、相も変わらぬ己の非力。彼の時とは異質な睡魔が、此の(うつ)し世から解かれる安らぎと肩を並べて、背後から忍び寄ってくる。(くずお)れた膝がデッキを叩き、薄れゆく意識の彼方で燃料タンクが爆裂し、操縦デッキの中を紅蓮の炎が怒鳴り込む。今、眼の前に在る死を畏れる感覚すらなく、暗転していく心の底に最期に残った三十一(みそひと)文字を、鉄郎は夢見心地で唱えた。

 

 

    天地(あまつち)のいづれの神を祈らばか

       (うつく)し母にまた(こと)とはむ

 

 

 

 始まりを知らぬ先史草昧(そうまい)の遙かなる常闇(とこやみ)壙大(こうだい)無辺の貫黙に()した悠久の(しとね)。其の微睡みを、今、神さびた辰韻(しんいん)が揺り起こす。虚世身(うつせみ)の頬に射した一筋の明滅。(かす)かな戦きは輝きを取り戻して紅漲(こうちょう)し、解き放たれた閃光が、BURTLEのロゴを滑らかに縁取り、幽顕(ゆうげん)の狭間を駆け抜ける。

 繊維の織り目で固着していたワックスが艶めき、息を吹き返す軍勝色(ぐんかっしょく)に枯れたエジプトコットン。コーデュロイの襟が鋭角に逆立ち、背中の空調ファンが起動すると、旋風を孕んだジャケットが()ためき、劫火天焦(ごうかてんしょう)()(はら)う。鉄郎を取り巻き、満身に巡った毒素を(そそ)ぎ落とす清涼な神風。窒素瓦斯?否、呼吸が出来る。と言う事は。頬を張られた様に目覚めた意識を錯綜する疑問符と感嘆符。神仏の()な心に護られているかの如き爽烈な結界。受け継がれた衣に宿る、袖を通してきた者達の歴史と叡智、身を護る力。此の乗馬服が、真逆(まさか)。変な祟り処の話じゃ無い。望外の潜在性能に戸惑う鉄郎。其の驚愕を光励起(こうれいき)結晶の臨界した銃咆が鬨の声を挙げ、背後から撃ち抜いた。振り返ると、ダムの底から撃ち放たれた鈷藍(コバルト)に煌めく一条の光弾が、木粉の波濤を貫き、蒼穹(そうきゅう)の頂きに忽然と突き刺さっている。網膜に焼き付く程の、其の(あま)御柱(みはしら)

 

    (かささぎ)が吼えた。

 

 俺を()んでいる。言葉が言葉と()る前の言葉が、獣詛(じゅうそ)が、息吹きが、此の俺を。認められた瑞喜に迸る鳥肌の和毛(にこげ)。胸郭を打ち鳴らして張り裂ける心拍。対して、天地転倒した霹靂(へきれき)に不意を衝かれ、(いさ)められたかの様に息を潜めて終った、嵌合体の狂乱と土砂の流入。どう言う風の吹き回しか、何を今更、片腹痛い。鉄郎はピックアップの上からジェットホバーに飛び乗り、天に召した光弾の残像目掛けて舵を切った。すると何を思ったか、牙を納めて(しば)し放心していた嵌合体は(おもむろ)(かぶり)を返し、直立の土管マフラーが追撃の狼煙を挙げて仲間達を(けしか)ける。障子破りの次は鬼ごっこかよ。好い加減、少しは御淑(おしと)やかにしてやがれ。鉄郎は凪いだ湖面を()ぜるジェットホバーを乗り捨てると、

 

  浪の下にも御空(みそら)(さぶら)ふぞ

 

 微塵の迷いも無く光弾の蹴立てた波紋に頭から飛び込んだ。どんなに空が広くとも、どんなに宇宙が無限でも、心に翼が生えていなければ人は飛べ無い。例えこんな、液体だか粉末だか判らぬ、()ぜっ返しの掃き溜めに呑まれても、人は雄々しく羽撃(はばた)ける。理屈なんてどうでも良い。有るが儘に感応すれば、開け放たれた心の扉が鵲の翼に()え変わる。息を継ぐ処か、眼を開ける事すら叶わぬ木粉の水底(みなそこ)。其の闇に、利を追わず、害を避けずに身を投じ、今、初めて(ひら)かれていく至界。逸る気持ちが追い付かぬ程、水と魚が惹かれ合う様に相通じる磁力。来る。真っ逆さまに垂没していく鉄郎を目掛けて、黒耀(こくえう)(やじり)が駆け昇って来る。緊緊(ひしひし)と迫る羽動が絶頂に達し、差し伸べた手に甦る会心の握り応え。舞い戻った戦士の銃。其の第一砲が鉄郎を戒める。

 

   是非射之射  ()(しや)の射に(あら)

   不射之射也  不射(ふしや)の射なり。

 

 身構える事すら許さず、両手をグリップに添えた鉄郎の人差し指を銃爪(ひきがね)に誘い、水底(みなそこ)に向かって光弾を穿(うが)つ鵲。其の反動で鉄郎の躰は爆発的に上昇し、湖面を突き破って宙に撃ち放たれた。限る物の無い真っ新な蒼天。木粉に閉ざされていた大気を肺の腑に満たし、時の流れが途切れ、重力の(かせ)を解かれた跳躍の頂に放心する。鉄郎は悠久の時の釣瓶(つるべ)を緩慢に舞い降りながら、何の気負いも無く銃を構えた。何もかも静止した虚空から鳥瞰(ちょうかん)する下界を、五月蠅(さばへ)なす嵌合体の群れだけが鉄郎目掛けて爆走している。無秩序な鋼鉄の争乱に啼哭(ていこく)を押し殺し、ダマスカスの渦文(かもん)が打ち震える戦士の銃。

 

   ()れを(やぶ)らんと將欲(ほつ)せば

       必ず固く之れを(たす)けよ。

         眞の武勇に私怒(しど)は無い。

 

 真言を唱える様に喉を突く言霊(ことだま)。随感随筆、不射の射に身を委ね、鉄郎が銃爪を弾き絞ると、手首、肱、肩と伝導した鼓脈が、心筋の古層に眠っていた雷管を撃針し、整錬された強靱な慈力が発莢(はっきょう)する。施条を(えぐ)り、千早振(ちはやぶ)る光量子のスパイラル。痺れを切らした血痰が口火を切り、嘴裂(しれつ)を究めるアークの咆哮が、誘起発光する大気イオンの(いか)()霏霺(たなび)かせ、鳴箭(めいせん)高らかな嚆矢(こうし)絶鋒(ぜっぽう)が、火達磨の嵌合体を物の一撃で轟沈した。蒼烈に伐ち降ろされし星辰(せいしん)一到の閃条痕。命中した光弾は継いで接いだ老体を姦通せず、憑き物を狙撃して灼き祓い、放生(ほうじょう)のスパークに抱擁されて我に返った嵌合体は、安らかな相鋼(そうごう)で綻びダムの底へと寂滅(じゃくめつ)していく。

 コマ送りで瞬く漂白した時の流れの中で、照星に眼路を重ねる事すら忘れ、鵲の面向(おもむ)く儘に銃身を揮い、石火光中を遊泳する鉄郎。標敵を求めず、餓龍に天睛(てんせい)を点す一斎(いっさい)掃射。撃ち浄められて渦中の泡と消える重機の(むくろ)達。其の後を追い、再び水没した鉄郎に後続の嵌合体が肉薄する。木粉に閉ざされた暗黙に埋もれながら、鵲の炯眼(けいがん)に導かれ、銃爪を弾く感覚も無い程に融け合い晶鳴していく鉄郎の空背身(うつせみ)と銃身。放たれた光弾が命中しているのかすら夢の途中で、迫り来る追撃が一つ、又一つと、鵲の呪力によって其の緊を解かれていくのを、鉄郎は唯、ダムの底に剛壮な質量が不時着した衝撃で朧気に数えていく。除籍された(つはもの)達の爽哭。輝ける闇を()き鳴動する弔鐘(ちょうしょう)の連鎖。其の地響きが又、元の木粉で仕切られた暗幕の向こうへ退いていき、気が付くと鉄郎はダムの湖面に大の字で漂っていた。

 降り注ぐ人工太陽の栄華。渓谷を吹き抜ける軽やかな薫風。太陽系の楽園が其の素顔を取り戻し微笑んでいる。と感慨に耽りたい処だが、未だ何も終わって無い。風向きが変わった途端、小鼻を(くすぐ)る肥沃な大気に、鋼材と化石燃料の焼ける刺激臭が割り込んでくる。取り敢えず小康状態を保っているが、何処の馬鹿が寝た子を起こすか知れた物じゃ無い。ズブズブと類焼しながらダムの提躰に沿って燻る嵌合体の鉄板焼き。ダムの底に沈んだ火達磨の嵌合体も其の火種は脈々と底流している事だろう。そして何より、鉄郎の強張った人差し指を銃爪が其の任から解こうとし無い。一体、何を探知し、何が待ち構えていると言うのか。臨戦態勢の儘、最後の仕上げに勇む戦士の銃。眼路を返すと、主を出迎える忠犬の様にジェットホバーが直ぐ脇で漂っている。其の躾の良さを自画自賛しながら、木粉を滴らせて乗り込んだ鉄郎は、鉛の様に鈍重な己の躰に驚いた。有りの儘に身を心を任せていただけの鵲とのランデブーが、真逆(まさか)、此程の消耗度とは。然も其の上、銃爪だけでなく、握り込んだグリップまでもが右の掌から引き剥がす事が出来無い。此では一蓮托生処か、完全に主従が転倒している。

 「全く、彼の馬鹿と言い、人使いの荒い御雛様だぜ。」

 鉄郎はパンパンに張った腿と(ふく)(はぎ)を庇って膝に手を当てながら、不安定なジェットホバーの操縦席に立ち上がると、戦士の銃から揮発する玲気(れいき)に促され、天に翳した両手を頭上で組み、肺の腑で(くすぶ)雑駁(ざっぱく)と呼気を整え、黒耀の煌めきに潤む銃口を(しず)かに振り下ろした。研ぎ澄まされた異能の嗅覚が次に狙う獲物は何なのか。此の鶏澄(とりす)ました化鳥(けちょう)の旦那が、盆に立て膝で振る賽の目だ。一度でも(すか)かしを喰らっていたら、今、此処にこうして居ないだろう。数多(あまた)の死線を潜り抜けた不死鳥が眦を決する湖面の一画。鉄郎は鉄火場の快哉が煽る不届きな微熱に火照りながら、貧乏籤を引いた事の無い銃爪に力を込めた。将に其の時、

 鵲の機先を制して、山が再び動き始めた。液状化した木粉の粒子が俄に色めき、宿意を帯びた悪寒がその厖大な堆積を駆け巡る。渓颪(たにおろし)と戯れていた浪の花の鈴生(すずな)りが針の筵の様に(そばだ)ち、取り乱した鶏冠(とさか)が打電する異形のパルス。其の卦体(けたい)文波(あやなみ)が瞬く間にダムの全域を埋め尽くし、奇色ばんだ情念の顔面神経痛が不協和な合成周波音を(ども)り立てる。何を口籠もっていやがるのか。厭わしき此の世への呪詛か、呪われた己の存在を嘆く哀訴か。右肩上がりに高調していくブツ切りのアルペジオ。其の無限ループの同心円が見覚えの有る、地に堕ちた金環日食の輪舞輪誦へと転調し、(さか)しらな矩形波と三角波の乱脈が湖面を覆い尽くして捻転する。趣味の悪いフィナーレを演出する、勿体振った闇のベールに波打つジェットホバー。水面下で(ひし)めく豪荘な地鳴りと共に、スペアノイドの手足と瓦礫が泡沫に乗って湧き上がり、折り重なって沈没したプラントの躯体を押し退けながら、湖底に力尽くで封じられていた何物かが迫り上がってくる。

 モーゼの海割りと方舟伝説を闇鍋にした劇動に身構える鉄郎。然し、海底噴火の様に隆起した文波を突き破って現れたのは、幻の大陸でも無ければ、樵の斧を拾った神様でも無かった。叩き割られた窓と平行四辺形に傾いだシャッターの隙間から液状化した木粉を吐瀉しながら浮上したスレートの半壊建屋。其の難破した建築廃棄物の草臥れ果てた姿は、鉄郎の華麗な戦歴と、ラスボスとのバトルを飾るには矢張り見劣りがして終う。

 「何だよ又、此奴かよ。普通、最後の見せ場ってのは一番金を掛ける処なんじゃねえのかよ。此じゃあハリウッドの資材置き場の方が増しだぜ。後になって撮り直し何て言われても知らねえぞ。」

 鉄郎がジェットホバーで建屋に乗り込むと、其処はRCの型枠を始めとする廃材と、此の星の自生林から伐り出した原木を積み上げた破砕ヤードで、グラップルの爪をアタッチメントした油圧ショベル、ホイールローダーが肩を並べ、要所に磁選機を吊す、入り組んだベルトコンベアの端末にイーグル破砕機が据えられ、何を動力にしているのだか強引に稼動し、破砕したチップを二次破砕機へと送り続けている。

 工業用ホチキスで襤褸を接いだコンベアベルト。ベアリングが飛んで用を為さ無いコンベアロール。ブリキとコーキングで応急処置をしたスクリューコンベアの胴体や、破裂したダクトシュートにホッパー、有りと有らゆる綻びから駄々漏れの破砕チップ。酸化して朽ちた軽量鉄骨架台を、黒煙を上げて激震する大容量モーター。ダルダルに伸び切ったローラーチェーンに、殆ど歯の摩滅したチェーンホイール。旧世紀の遺物で在りながら、何もかもが唯、可動部にグリスを塗りたくっているだけで、まともなメンテも補修もされず、建屋の躯体も設備の筐体も歪に傾いでいる。屋根の母屋とB梁(びーばり)から滴り、屋内を舞う木粉の驟雨(しゅうう)を浴びながら、限界を超えた金属疲労を異音を我鳴り立てて訴えるプラント機器の慟哭に、同じ継ぎ接ぎの満身創痍でも表を自由に駆け巡る事の出来る嵌合体の方が、鉄郎には数段幸せに見えた。

 打ちっ放しのコンクリートを浸す液状化した木粉を蹴立てて、床に散乱した廃材を掬い、無人のホイールローダーが崩れ落ちた廃材の山を積み直しては、随時、イーグル破砕機に投入していく。完全にプラントが分断されてしまっていると言うのに、廃材を塵から山へ、山から塵へと移し替える反復作業。律儀に愚直を貫くのは結構な事だが、そんな小芝居、ISOの査察じゃ有るまいし、鵲の千里眼には通じない。醒め醒めと綺羅めく黒耀の警戒色。光励起結晶の幽かな揺らめきが鉄郎の心拍を衝いて(さざ)なみ、機に臨んで待つ事を知る撃鉄は凛然と寡黙を貫いている。平静を装う獲物を見据えて鉄郎は躰の力を抜く様に息を整えた。そして、戦士の銃を構えようと(おもむろ)に腰を据えた途端、廃材の頂きが頽れ、滑落した木片の奔流が鎌首を擡げて蜷局を巻き、積み荷を降ろしに来たホイールローダーを猛然と薙ぎ倒した。蛇淫に呑まれ濁龍する廃材。桜吹雪の様に鱗舞する木片のマトリクス。化けの皮を剥がされた大虬(みづち)が、有機的に変態する無機質な威嚇蠕動で繰り出す、引き際の悪い依怙地(いこじ)な反抗。積み上げられていた廃材が飛瀑を裂いて天翔る様に構内を縦横無尽に龍巻き、其の瓦礫の山に埋もれていた御本尊を曝け出した。

 「繧ェ繧、縲∵掠縺城幕縺代m縲」

 「蛻、縺」縺ヲ繧九?よ?帝ウエ繧九↑縲」

 「譌ゥ縺上@縺ェ縺?→菫コ縺セ縺ァ遐エ遐輔&繧後■縺セ縺?□繧阪?」

 「縺?縺」縺溘i縺雁燕縺後d縺」縺ヲ縺ソ繧阪?」

 「繧ゅ≧濶ッ縺?????縺代?∽ソコ縺後≧縺?∞縺√≠縺ゅ≠縺ゅ=縺√≠」

 廃材の暴風雨の直中で、電脳蠕虫(ワーム)傀儡(かいらい)と化したスペアノイド達が円陣を組み、逆関節に四肢を捻って痙攣している。リベラルアーツの専売特許、モラトリアムのヒステリーとは又、一味違う毛色の神経発作で狂奔する、木偶(でく)の坊達の空騒ぎ。何時もの様に、皆で御手々と御手々を繋いでイマジンやボブ・ディランを合唱しているのでは無いらしい。そんな文化祭の余興で世界の平和を守れると夢想している連中は、機族達の餌食になるだけだ。此のスペアノイドの酔宴は胸糞の悪い類感呪術に(まみ)れている。然も其の座の中心に彼の馬鹿のアタッシュケースが鎮座しているのだから、何をか言わんや。鉄郎は漸く辿り着いた腐れ縁に痛快な吐き気を覚えた。奴に止めを刺すのは此の俺だ。彼の金蚉(カナブン)みてえな(けつ)に此の鵲を撲ち込んでやる。

 鉄郎は玉せせりに群がるスペアノイドに照準を合わせた。然し、人差し指を添えた銃爪は冴え冴えと白けている。余所見でもしていやがるのか、将又(はたまた)、電池でも切れたのかと思っていると、アタッシュケースを奪い合い、何事か罵り合うスペアノイドの一人を無人の油圧ショベルが鷲掴み、イーグル破砕機に放り込んだ。超硬肉盛りされた死の爪に噛み砕かれて構内に響き渡る文字化けした断末魔。コンベアベルトに乗った其の斬骸が磁選機で合板の原料になるチップと振り分けられてシュートを潜り、バケットから溢れ床に山積みとなった鉄屑と合流して、スクラップの稜線を転げ落ちる。筈が、シュートから吐き出されてくるスペアノイドの斬骸は先を争って鉄屑の山に突撃し、其の中枢に潜り込んでいく。

 何処でそんな細かい芸を覚えたのか。スクラップの山に擬態化した巫術(ふじゅつ)の生け贄に鉄郎は舌を巻き、物憂げに浮揚する合板事業から逸脱した悪趣味なリサイクルに照準をスライドした。粉々に砕かれた四肢を回収する鬼界の引力。恐らく十数体分は在るだろう。スペアノイドの斬骸が磁場の底に落ちたスペースデブリの様に中空で一塊りに凝結している。吹き荒ぶ大虬(みづち)の御乱心なぞ足元にも及ばぬ畏妖(いよう)瘴気(しょうき)。どうやら調伏(ちょうぶく)するのは此奴の方だ。流石に今度ばかりは鵲も喉を鳴らし、鉄郎を(けしか)ける。こんな瓦落多(がらくた)形代(かたしろ)の供物に(かくま)われて、どんな御神体が(まつ)られていやがるのか。出し惜しみする程の物なのかどうか。厨子(ずし)の奥から引き擦り降ろして確かめてやる。鉄郎は今にも飛び発とうと身を乗り出す流線型の霊銃に、一向(ひたぶる)に敏な神気を重ね、臨界に達した星の(やじり)に、機械仕掛けでは無い其の命を吹き込んだ。

 腰を落とし躰の芯で諸手に構えたハイグリップの反動が、肱から肩へ、胸郭から心の臓へと突き抜ける。蹴汰魂(けたたま)しい光励起結晶の兇振。銃口から迸る鈷藍(コバルト)の条痕が唸りを上げ、スペアノイドの擂り身で練り固めた蜂の巣の土手っ腹を直撃し、其の風穴から燦爛する翡翠(ひすい)の稲光が視界を覆い尽くして目眩(めくるめ)く。構内を席巻していた大虬(みづち)野分(のわき)が吹き飛ばされ、陥没した頭部、二の腕か(ふく)(はぎ)かも判らぬ斬骸が乱反射する凄絶な珀劇。戦士の銃が撃ち抜いた爆心を破邪顕正(はじゃけんしょう)の光背の如く輪転する降魔(ごうま)(いか)()。其の放電の坩堝を翳した指の隙間から覗き見た鉄郎は、減衰し始めた光源の正体に絶句した。鵲の光弾を返り討ち極太のアークを全方位に放射する翡翠の宝玉。構内の騒乱を征する圧倒的な覇濤。そして、其の呪力すら霞む魔性の妍容(けんよう)。此奴はとんだ御開帳だ。鉄郎は探し求めていた物に出合えたと言うのに、込み上げる辟易を誤魔化す事が出来なかった。

 薄く紅を挿した陰りを知らぬ白磁の諸肌。羽を休めた鳳凰かと見紛う金色(こんじき)垂髪(すいはつ)。書聖の真筆の如き睫毛を霏霺(たなび)かせ、此の宇宙のどの天体よりも(まばゆ)く儚い星眸(せいぼう)。蛾眉を(くだ)尖鼻(せんび)へ抜ける(たお)やかな梁線。唇紅(しんく)を零れる幽かな皓歯。そして何より、胸元で僅かに放電し続ける勾玉(まがたま)のネックレス以外、一糸纏わぬ絶世の旺裸(おうら)

 

    霍公鳥(ほととぎす)來鳴(きな)五月(さつき)短夜(みじかよ)

      ひとりし()れば明かしかねつも

 

 遅かったわね。」

 不敵な囁きを苦遊(くゆ)らせてメーテルが散り散りの機塊を踏み分けて降りてくる。着ても婆娑羅(ばさら)、脱いでも婆娑羅。(あや)しうこそ物狂ほしけれ、とは此の事か。桜の(はなびら)の様な乳首が天を衝く、瑞々しい小振りの乳房。(あで)やかな(しな)を絡める両の(かひな)。小脇を伝い蜂腰を愛でる雅な旋律。有らゆる理性を跪かせ、崇拝の域に達した蠱惑(こわく)痩脚(そうきゃく)。垂髪から覗く牝尻(めじり)の、仙骨に浮かんだ左右の(えくぼ)。切れ上がった小股に秘した独片(ひとひら)の花園。神話を彩る女神の様に、皇然と非現実のヌードを惜しみ無く曝け出す謎の女。美しいとは此の馬鹿にのみ許された固有形容詞なのか。狂乱の渦中に自ら飛び込み、掠り傷処か顔色一つ変えず、純粋培養された妖肢を欲しい儘にする不滅の幽女。鉄郎は改めて、こんな出鱈目な女の為に身を粉にしている己の境遇に悄然とした。そして、此の騒ぎの総てが、裸賊のマネキンが仕組んだ自作自演ではないのかと、狐疑に傾いでいると、

 「何処で拾ったのか知らないけど、洒落た物を持ってるじゃないの。丁度良いわ。其れを使ってもう一仕事してもらおうかしら。」

 「もう一仕事?」

 「折角だから、此処の後片付けをしてから列車に戻りましょう。」

 「そうかい、なら精々、テメエの背中に気を付けるんだな。」

 恥じらう素振りの全く無いメーテルに気圧されて、鉄郎は戦士の銃を突き付けた儘、怒鳴り返した。誰の所為でこんな目に遭っているのか。片付けるのならお前が先だ。照星の先に獲物を睨み付け、無理を承知で鵲に訴える有りっ丈の殺意。然し、メーテルはそんな小兵の啖呵を純金にアップグレードした銀河の如き垂髪を(ひるがえ)して斬り捨て、其の豊かな錦糸で覆われた盆の窪に手を差し入れてコスメスティックを取り出すと、逆関節でスペアノイドが絡み付いているアタッシュケースに向かって光励起の撻刃(たつじん)を振り下ろし、返す刀で釣り込み引き寄せた。そして、宙を舞うコルドバの伯楽に肩口から真一文字に差し伸べたスティックの切っ先を突き付けると、メーテルが眼差す虚空に時の流れは窒息し、(はりつけ)にされた放物線の直中で其の禁を解かれた鍵穴が、絡み付いたスペアノイドを引き千切って、堅牢不抜の封印を開け放った。木粉に取り憑く物の怪の(おそ)れていた、玉手箱の様に溢れ返る絢爛たる瑞光。天衣無縫に舞い上がる鮮風。金色の垂髪が帆を孕んで煌めき、仙山桃質の頬が紅潮して吊り上がると、メーテルは建屋の外を一瞥し、再び火勢を増した湖面に柳眉を逆立て、アタッシュケースの白烈に滔々(とうとう)と天意を問い質した。

 

   壬戌(じんじゆつ)(ぼく)して、雪()う。

       (だく)なるか。

     (ここ)に雨ふらざるは、

        帝はこれ()(いふ)(たたり)するか。

           不若(ふだく)なるか

 

 畏迫漲る声調律動。風雲星辰に言問ひ、雨の有情に訴える宇気比(うけひ)の陶然とした呪誦(じゅしょう)吐胸(とむね)に轟く神代の調べに鉄郎は慄然とした。神薙(かみな)ぐ者にのみ許された失禁寸前の半壊した美貌。あられも無い裸身を(たぎ)る、巫祝(ふしゅく)の血統に粟立つ鳥肌。毎朝、(あば)ら屋の壁の隙間から覗いた恍惚の隻影が、今、其処に居る。倒木に一輪の花を咲かせ、沙漠に潮騒を呼び寄せる奇蹟の所業。天変地異をミリ単位、秒単位で予知する異能の羅針。母の面影を、生き写しを超えた、燃え盛る霊験。不毛の大地に、荒ら屋の土間に、灌木の小枝で書き付けた不穏な甲骨文字の羅列が在り在りと甦る。

 「お前は誰だ。」

 力無く銃の構えを解き、鉄郎は彼の時と同じ声に()ら無い言葉が喉に支えて、唯、母から受け継ぐ血が騒いだ。滅ぼされた祖霊も恩讐(おんしゅう)を超えて駆け付け奉仕する(いにしへ)祭祀(さいし)。其の吉凶成否を言祝(ことほ)ぎ、俄に掻き曇る祥雲。の筈が、

 業火を諫める恵みの慈雨が駆け付ける処か、行き成り、架台の柱に掴まっていないと立っていられぬ直下型の激震が建屋を襲い、荒れ狂う湖面の彼方で、鉄筋コンクリートの団塊同士が激突する地響きが轟いた。捨て身の巨人が殴り込むが如き、粉骨砕身の衝撃。岩盤が軋みを上げ渓谷が傾ぐ其の驚天動地に、鉄郎は直感した。追い詰められた木粉の狐憑きが、瀕死のダムの堤体に分断されたプラントの躯体を死に物狂いで叩き込んでいる。此の儘では拙い。と焦る間も無く、崖崩れと津波の抱き合わせが運命の扉を抉じ開けた。此の世の終わりを告げる未曾有の大怨鐘(だいおんじょう)。ダムの底が抜けたかの如き水位の急転直下に躰が宙を舞い、上流に突き飛ばされた窓外の景色が、問答無用で押し流されていく。

 「余計な事してんじゃねえよ。此の疫病神。」

 宙に浮いたアタッシュケースに片手を突いて平然としているメーテルに向かって、鉄郎はH鋼の柱に獅噛憑いてバウンドしながら喚き散らした。決壊したダムの堤体を突破して、木粉の土石流に呑まれ下流へと雪崩落ちる怒濤の強制連行。嵌合体(キメラ)御戯群(おたわむ)れなぞ比では無い。川伝いに密集する総ての事物を瞬殺で泥濘(ぬかるみ)の闇に葬る天魔の暴虐。此の勢いでは(おみな)四阿(あづまや)なぞ一足飛びで轢き潰して終う。こんな鶏ガラみたいなストリップと破れかぶれの逃避行なんてしてる場合じゃ無い。然し、立ち上がる事すら儘ならぬ此の激流の直中で一体、何をどうすれば良いのか。為す術の無い鉄郎は手の皺と一体化した鵲のグリップを額に押し当て、一心に拝み倒した。すると、

 「あらあら、困ったわねえ。山と海しか無い星だから、今日は早仕舞いにしようと思っていたのに、此なら始めから下請けの星掃業者に任せれば良かったわ。」

 此の一大事に、風呂上がりのバスタオルが見付からぬとでも言った(てい)(へそ)を曲げる、パンツの穴から産み落とされた様なやさぐれヴィーナス。つい先までの真に迫った(うけ)ひの祷命(とうみょう)は何だったのか。余りの言い草に耳を疑っていると、慎みの欠片も無い溜め息を小鼻に引っ掛けてアタッシュケースに向き直り、今一度、巫祝(ふしゅく)の血統を焚き付けた。

 

     壬戌(じんじゆつ)(ぼく)して、雪()う。

        帝はそれ()(いふ)()へしめんか

 

  氏族と地霊を断絶し、都邑(とゆう)の滅亡を言挙げる最後通牒。其の前に上奏した小火(ぼや)の後始末とは(こと)()の強度が違う。人身供犠の戦慄に逆立つ金色の垂髪。蜘蛛の巣の様なプラズマに羽交い締めにされ宙空で絶頂するメーテル。アタッシュケースの放射する光束が屈曲して、甲骨文字の彫哭(ちょうこく)(かたど)り、飴色に燻る其の烙印が、堰を切って荒ぶる激流を全身写経の如くに覆い尽くして、灼き尽くす。打ちっ放しの躯体に撲ち込まれていたベースのメカニカルアンカーが吹っ飛び、H鋼を抱き枕に転げ回っていた鉄郎は、高台に逃れたは良い物の最早此までと追い込まれた其の刹那、母が人柱を名乗り出、波間に没した途端、立ち所に潮の退いた津波の猛追が甦った。

 粉塵爆発を振り翳す事さえ許さぬ甲骨の呪縛に身悶え、見る間に混濁する氾濫の勢い。張り巡らされた卜辞(ぼくじ)に蝕まれ、螻蟻潰堤(ろうぎかいてい)竹篦返(しっぺがえ)しを喰らった土石流は、矢も盾も堪らず建屋の躯体を放棄して逆走し始め、担ぎ手の逃げた御輿は失速し川縁の木立に突っ込んで座礁した。

 「遣れば出来んじゃねえかよ、馬鹿野郎。始めっから気合い入れて念じやがれ。」

 古儀の奇蹟を罵りながら鉄郎が建屋から飛び出すと、置き去りにした残骸と入れ違いに、岩漿(マグマ)が覗く亀裂の様な刻辞を引き擦って、木粉の(さざなみ)が上流へと退避していく。こんな木屑の騒霊に帰る場所なんて在るのか。此処で止めを刺さないと、又後で何を仕返すか判ら無い。然し、深追いをした藪の中で、虎の尾を踏みでもしたら。等と、下種(げす)の浅知恵を弄していると、木粉の引き潮が突如、旋毛(つむじ)(そばだ)てて例の鎌首を絞り出し、虫の息で喘ぐ大虬(みづち)の化身が、群がる甲骨の烙印を振り解く様に其の逆鱗を振り乱した。最後の足掻(あが)きに色めく(よこしま)な大気。唐突な気圧の急降下に鼓膜が痺れ、形振り構わぬ上昇気流に、原生林の梢が浮き足立つ。陣風を(まと)(よろめ)きながら身を伸ばす蜷局(とぐろ)の尖端が、地獄に垂らした蜘蛛の糸を伝う様に虚空を()じ登り始めた。積乱雲も漏斗(ろうと)雲もない蒼穹(そうきゅう)に巻き上がる木粉の磁吹雪。蛇腹に鞭打つ螺旋の悶絶が、猛烈な膂力で吊り上げられていく。虹蜺(こうげい)の霊獣が天空の住処(すみか)へ還るとか、そんな御上品な代物じゃ無い。真逆、此の星から高飛びする気なのか。猖獗(しょうけつ)を究めた騒乱の末路を茫然と見上げ立ち尽くす鉄郎。其の手の中で息を潜める鵲が、背後から歩み寄る跫音(あしおと)に脊髄反射し、振り返ると其処に奴が居た。

 「人工太陽を足掛かりにして圏外にエスケープする気よ。苦し紛れにしても芸が無いわね。

 

   むささびは木末(こぬれ)求むとあしひきの

       山の猟夫(さつお)にあひにけるかも

 

 介錯(かいしゃく)を執って上げるのがせめてもの情けよ。」

 アタッシュケースを提げて現れたメーテルは、憔悴した面差しで足許がふらつき、其の労わしい様が又一際、高慢な裸体を(あで)やかに彩っている。余程の消耗なのだろう。何時もの憎まれ口に歯切れも無ければ、毒も足り無い。血の気の失せた頬に見開かれた星眸だけが炯々(けいけい)と瞬き、(おおとり)の巣の様な乱れ髪を掻き上げて、メーテルは物憂げに呟いた。

 「遣って御終い。」

 其の一言で鵲の目方とグリップの握りが一回り増し、猛禽の鉤爪が鉄郎の心の臓を鷲掴む。見上げれば、他人事の様に照り付ける人工太陽の白けた睥睨(へいげい)。死に物狂いで蜘蛛の糸を手繰る大虬(みづち)の醜末。鉄郎は戦士の銃を最上段に掲げ、血気に逸る銃爪諸共、呵責無き天の仕打ちに指を弾いた。銃口から踵を突き抜け、コンクリートの躯体を穿(うが)つ鉄槌の如き反動。擦過した黒耀の矢羽に人工太陽が掻き曇り、脳圧と眼圧で弾けそうな瞳が闇に呑まれると、日蝕の(とばり)に伏した天津地(あまつち)を不滅の皇輝が晶破する。銃口から(そび)え立つ鳳雷の金輪で束ねた心御柱(しんのみばしら)。其れ迄の銃撃を遠い日の花火へと追い遣る武力を超えた光弾が、天幕を降ろされ、行き場を失った蛇淫の乱気龍を撃ち砕く。光と熱と音の境界が煮え滾る水銀の様に融解し、新しい天体が産み落ちたかと見紛う程の波動が錯爛する。

 天の頂き目掛けて突き上げた銃身を蠢くダマスカスの渦文が激しく共振し、其の質量を増しながら鉄郎の肩、腰、膝に()し掛かり、心の臓を鷲掴む鵲の鉤爪が喰い込んで、鉄郎は息を継ぐ事すら儘なら無い。此の威力は生身で支え切れる限界を超えていくのではないのか。此の一撃に全身全霊を捧げろとでも言うのか。俺を人柱にする気か。確変した戦士の銃が叩き出す渾身の負荷に、鉄郎は押し潰され、精気を奪われ、身の危険を超えた恐怖から逃れる事すら出来ずにいると、鎌首を討ち獲られ暗天に燃え盛る大虬(みづち)の化身の後を追って、其の紅蓮地獄に、垈打(のたう)ち回っていた木粉の瀧昇りが地上から引き擦り込まれ始めた。対流する煤煙が雷雲を喚び、ドス黒い雲底から稲光と灰の雨が降り注ぎ、鉄郎の頬に弾ける一粒の墨の(つぶて)。芋蔓式に終息していく竜頭蛇尾を見届けて、銃口から昇天する量子の御柱(みばしら)が厳かに減衰していく。(たけ)り立つ銃身が不図(ふと)、宙に浮き上がって弛緩し、銃爪に巻き込まれていた指が(ほど)けると、振り翳していた両腕が膝元まで瓦解し、握力を失った掌を擦り抜けた戦士の銃が、足許のコンクリートを叩いて撥ねた。

 其れ迄の迫撃と脅迫が無かったかの如く(ひそ)やかに横たわる黒耀の彗翼。操る者の命にも拘わる此の銃の本性を鉄郎は垣間見て終った。嫗の息子も此の銃の魔力に呑まれて終ったのかも知れない。然し、男が一度旅に出て手振らで帰る事なぞ出来ようか。糊付けされた未洗いのデニムの様に硬直した背筋を屈めて戦士の銃を拾い上げ、鉄郎は今一度、降り注ぐ煤雨に顔を(しか)めながら天地の逆転した劫火の煉獄を仰ぎ見た。星を超えて猛威を揮う未知の災禍と、其れを一撃で調伏する鵲の怪力乱神。此が宇宙と言う物なのか。駆け出しの主人公には荷が重い、余りに劇的な冒険譚の一(ページ)を夢遊病の様に漂う鉄郎。すると、

 「何を(ぼんやり)してるの。駅に戻るわよ。もう、此の星に用は無いわ。」

 傘代わりにアタッシュケースを頭に載せたメーテルが、白檀のヴェールを(ひるがへ)して鉄郎の脇を通り過ぎ、建屋の隅に追い遣られているジェットホバーの元に歩いていく。

 「俺のNSRに触るんじゃねえ。オイ、聞こえてんのか、オマエだよオマエ、其処の76のAカップ。金蚉(カナブン)みたいなケツしやがって。フルチンでウロウロしてんじゃねえよ。」

 景気の良い啖呵(たんか)とは裏腹に、鉄郎は脚が震えて直ぐには動けなかった。腰に手を当て膝の皿に何かが挟まっている様な歩き方でメーテルの後を追うと、垂髪から見え隠れする仙骨に浮かんだ(えくぼ)が、ジェットホバーの運転席を跨ぎながら淑やかに微笑んだ。

 「神輿はね自分で歩いちゃ駄目なのよ。」

 

 

 

 

 西日を背にした上流のドス黒い雷雲に眼を細め、嫗が桟橋のボラードに腰を下ろしている。逢魔(おうま)が時を迎えて暮れ(なず)(せせらぎ)。原生林の放埒な住民も鳴りを潜め、葉陰に潜んでいた蛍の(ともがら)が、一つ又一つと其の身を点し始めた。清流と戯れる科戸(しなと)微風(そよかぜ)が、亜熱帯の鬱蒼とした大気を澄み渡る夜気に塗り替え、初夏の白昼夢が真夏の夜の夢へと(うつ)ろい、張り詰めていた総ての物が(なだ)らかに解晶していく。苫の屋から岸辺に降りていく飛び石の脇で、不躾(ぶしつけ)咀嚼(そしゃく)と放屁を繰り返している有機発酵原動機付き騾馬(らば)。其の二頭が同時に藪の中に突っ込んでいた首を引き抜いて耳を(そばだ)てた。

 「おやおや、最近の若いのは凄い格好でデートするんだね。」

 夕闇の葦簀(よしず)を潜り滑走するジェットホバーに、全裸で箱乗りのメーテルを見付けて快哉(かいさい)を挙げる嫗。誇らしげにドリフトを決めて桟橋に横付けした鉄郎は、帰りを待っていてくれる存在と、其の期待に応えた充足感で顔が綻びそうになるのを必死で堪えた。

 「随分と派手に遣つた様だね。此の星は農業が盛んだつた頃の地球みたいに、慢性的に二酸化炭素が足り無いからね。化石燃料も無尽蔵に湧き出てこ無いし、燃える物なら借用書でも卒塔婆でも、何でも灰にしてくれた方が良いんだよ。其れにしても、随分と良い眺めだね。」

 鉄郎の投げた係留ロープをボラードに縛りながら、嫗がメーテルの露わな乳房に眼を遣ると、鉄郎は膝を庇いながら桟橋に降り、ガンベルトを外しながら顎を(しゃく)った。

 「嗚呼、洗濯板の押し売りになった気分だぜ。こんな売れ残りで良かったら、婆さんの処で使ってやってくれよ。」

 「未だそんな口を叩く元気があるんだねえ。女の心と体つてのは男に揉まれて大きくなつていくんだよ。今、着る物を持つてくるからね。一寸待つてな。」

 「婆さん、此のノーブラ馬鹿の事なら気を遣う事ねえぜ。こんな扁平足みたいな胸、誉めて伸びるタイプかよ。恥ずかしくて隠すような代物じゃねえんだから、タオルでも巻いてりゃ良いのさ。そんな事より、有り難う、婆さん。流石に其処等の豆鉄砲とは物が違ったぜ。」

 鉄郎がそう言って戦士の銃を返そうとすると、嫗は神妙な面持ちで首を横に振った。

 「鉄郎、其れはもう、御前さんの物だよ。」

 嫗に自分の名を呼ばれ、鉄郎は生まれて初めて小さな何かを成し遂げた様な気がした。佳い男に成って還ってこい。茶掛けに踊る雄渾の三文字と己の名前が、今、寸分違わず重なり合う。

 「ジャケットも其の儘、着て行きな。此の旅を終へる頃には丈が短くなつてるだらうから、折り返して戻つて来るやうなら内に寄りな。袖と着丈を直して上げるよ。」

 新しい息子を眩しそうに(みつ)める其の眼差しに、鉄郎は胸が支え、唯、黙って頷いた。

 「息子が帰つてくるのは略略(ほぼほぼ)諦めてるけどね。鉄郎が又、此処に戻つてくるつて言ふのなら、もう少し此の躰の儘、頑張つてゐやうかね。鉄郎、其処の騾馬に乗つて行きな。此の子達は自分で戻つてこれるから、駅に乗り捨てた儘で構は無いよ。」

 嫗の厚意に甘えてメーテルは浴衣を羽織り、二人で騾馬の荷車に乗り込むと、鉄郎は戦士の銃を取り出して、黒耀に蠢く流線型の渦文(かもん)を繁々と瞠めた。

 「婆さん、此の銃は中々大したタマだぜ。人や物事を引き付ける力が有る。此奴を持って旅をすれば、其の内、婆さんの息子の消息にも突き当たる様な気がするぜ。どうせ場末のコロニーか何処かでゴロゴロしてるんだろう。見付けたら首に縄を掛けて連れてきてやるよ。」

 「さうかい。其れは有り難うよ。でも、無理をするんぢや無いよ。」

 「へっ、人の事を心配する前に、精々養生してやがれ。」

 湿っぽいのが苦手な鉄郎は、込み上げてくる熱い物を払い除けようと、派手に鞭を振り降ろした。然し、驢馬二頭は(なまくら)に放屁を返すだけで一歩も動か無い。まるで、下手に旅を続けるより、此の星に留まった方が良いのではないのかと、無法の宇宙で天寿を全うするのは並大抵の事では無いだろうと、もう一人の鉄郎の声を代弁するかの様に、悠然と尻尾を振って(とぼ)けている。確かに、地球と較べたら此の星は天国だ。上手く遣っていける処か左団扇で御釣りが来る。だが、鉄郎は気付いて終った。安らぎよりも素晴らしい物に。機畜の分際で少し気の利いた事をする厚い尻の皮を、最後の未練を断ち切る様に蹴り飛ばし、必ず又此処に還ってくる事を、鉄郎は今一度、高らかに誓った。

 「達者でな。」

 血相を変えて駆け出した騾馬の(いなな)きに、岸辺の叢に(とど)まっていた明滅が一斉に飛び立つと、夜空の星々と交わる蛍火を仰ぎ、嫗は()()みと独りごちた。

 

 

    行く螢雲の上まで()ぬべくは 

       秋風吹くと雁に()げこせ

 

 

 星の原野を鉄路で(かけ)郎子(いらつこ)。良く付けたもんだよ。其の名を授かつた其の時から、宇宙を旅する運命だつたのかも知れないね。運命なんて絵空事、口にするのも(やわ)な話しだけど、生身の躰で命を運ぶ総ての所業は、旅に通じて、彷徨(さまよ)ひ続ける物なのかも知れ無いね。」

 

 

 「御苦労さん。」

 駅前に到着し、荷馬車から降りた鉄郎が騾馬の尻を平手で叩くと、放屁に身構える鉄郎に長い睫毛の垂れ下がる潤んだ瞳で何事か訴えながら、騾馬は気怠(けだるく)(ひづめ)を返し木立の中に消えていった。先に降りた浴衣を着流しのメーテルは、改札の中で待っていた車掌に浴室の(あつら)えを言い付けてアタッシュケースを渡し、独りホームを歩いている。鉄郎はウォバッシュスのベストからパスを取り出して木粉を払うと、其処に記名されている自分の名前が何時もより少し大きく見えた。地球のメガロポリスステーションでは恐る恐る差し出した乗車券を、今、胸を張って車掌に手渡す星野鉄郎が其処に居る。

 「御帰りなさいませ、鉄郎様。」

 拝借した乗車券を確認した後の車掌の愚直な最敬礼が、何時もと違い、業務上の堅苦しい作法を越えて迫る物が有り、其の照れ臭さを誤魔化す様に鉄郎は話を切り出した。

 「実はさあ、車掌さんに借りた銃、色々と在ってさあ、無くしちまったんだ。」

 「何を仰有います、鉄郎様。気で気を病む事は御座いません。メーテル様と鉄郎様がこうして無事戻って来られたのですから、其れが何より。抑も初めから、彼の銃に弾は籠められておりません。」

 「何だって。其れじゃあ何の意味も無いじゃないか。いざって言う時の為に渡したんじゃ無いのかよ。」

 「では鉄郎様、銃に弾が込められてい無いからと言って、総てを銃の所為にするのですか。そんな事では先が思い遣られます。弾が入っていようといまいと、為すべき事を為す。唯、其れだけの事。物事が上手く行かないのを道具の所為にしたければ、棺桶の中ですれば良いのです。誰の迷惑にも為りません。鉄郎様は現に今、素晴らしい銃を御持ちでいらっしゃる。其れが総てを物語っております。此も(ひとえ)に鉄郎様の智徳の為せる業で御座いましょう。天が人に大任を与えようとする時、先ず其の心を苦しめ、其の筋骨を(さいな)み、飢えを知らせ、歩むべき道を迷わせる。斯くして、天は人の心を刺激し、性質を鍛え、其の非力を補うので御座います。御帰りなさいませ、鉄郎様。良くぞ御無事で。」

 まるで事の一部始終を見届けていたかの様に、目深に被った制帽の(つば)から覗く、暗黒瓦斯(ガス)の相貌に点った円らな瞳が、嘘偽りの無い敬意で瞬き、車掌は改めて腰を屈曲した。何処の御客様でも無く、999の乗客で在る事の矜持が鉄郎の中で小さく綻び、一時の休息を求めて歩き始める。夏虫の一足早い閑吟(かんぎん)に包まれたホーム。列を成すスハ43系の客車の先には、主動力を断ち、黄濁した照明の水底(みなそこ)に不貞不貞しい恰幅のボイラーを横たえて黒鉄の魔神が沈潜している。鉄郎は三号車から乗り込むと、迷う事無く元居た席に腰を下ろした。対面の空席は(はなだ)色のモケットが擦り切れ、弱竹(なよたけ)(しな)を記憶して落ち窪んでいる。見れば見る程、知れば知る程、理解から遠退く喪装の麗人。傍若無人な振る舞いも()事乍(ことなが)ら、占卜(せんぼく)の古儀を操り巫戦(ふせん)を征した鬼籍の所業。母の面影を越え、其の天性までをも生き写す此の稀人(まれびと)は一体何者なのか。謎の答えに思索の菌糸を伸ばし辿ろうとするのだが、鉄郎の瞼は虚ろに揺蕩(たゆた)ひ、重厚な背摺(せすり)に身を沈め車窓の木枠に小首を(もた)れた。

 鉛の様な節々を包み込むモケットの滑らかな起毛に(にじ)み出す、今日一日の激動の記憶と琥珀色の疲労。打ち寄せる(さざなみ)(まにま)に浸睡し、999が定刻通りに発車した事すら気付けず、鉄郎は再び星の人と為る。

 

 

   夕息抱影寐   夕べに(いこ)ひては  影を(いだ)いて()

   朝徂銜思往   (あした)()きては  思ひを(ふく)んで()

 

 

 傾いだ心に爪を立てていた脱進機が弾け、(とこ)しへの緑青(ろくしやう)に固着していた輪列が息を吹き返す。神の司る天文時計が徐に其の右筆(クロノグラフ)を揮い始めた。在りし日の地球をも凌ぐ紺碧の成層圏を離脱し、系外を目指す無限軌道。高圧水蒸気で膨発寸前に怒張したボイラー。猪首(いくび)突管(とっかん)が逆立てる雷雲の如き爆煙。弐百萬コスモ馬力を誇る大動輪の剛脚がシリンダードレインの放咳(ほうがい)(むせ)び、前照灯の(ちりば)めるカクテル光線が星々と競い合う。疾黒の鯨背に率いられ光矢を過ぎる幻の十一輌編成。縹色のモケットと堅調なドラフトが織りなす時の揺り駕籠に(いだ)かれて、鉄郎は亜熱帯の峡谷に再び分け入り、嫗の元を目指す夢を見る。一刻千金を(ちりば)めた、玉響(たまゆら)の出会いと別れの閃きを、駆けるは鋼顔の超特急。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。

 

 

   星遠煙埋行客跡  星遠くして  煙 行客の跡を(うづ)

   閒寒風破旅人夢  (はざま)寒うして 風 旅人(りよじん)の夢を破る

 

 

 未智(みち)晦冥(かいめい)に待ち受けし、畸想天葢(きさうてんがい)豈圖(あにはか)らんや。銀爛無窮(ぎんらんむきゆう)巡禮譚(じゆんれいたん)(いま)だ麓の壱里塚。漂蕩流落(へうたうりうらく)次次(じじ)活劇の末に辿り()鉄郞(てつらう)の運命、果たして相成るや如何(いか)に。其れは()次囘(じくわい)講釋(かうしやく)で。



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#3 ガラスのクレア

     月色流霞照水晶

     破氷飛雪動琉璃

 

 

 宇宙空母と戦闘機の攻防も、ロボットの斬将八落(チャンバラ)も無い絶界の宇宙。CGで銀幕に投影した点描とは桁が違う、有情を絶した星と闇が厖大に散逸している。其処にあるのは唯、自意識の座標点すら見失う、奥行きも距離感も欠落した静止画の大パノラマ。そんな、人が一人、身を乗り出せる程の小窓から覗く、ゲシュタルト崩壊の御手本の様な車外とは真逆(まぎゃく)の、猛烈な激甚と熱気で運転室は()せ返っていた。開胸手術で暴かれた心臓の様に、銅配管とバルブの集積したグロテスクな其の造形。宇宙を股に翔る機関部の中枢が猥雑な密度で(ひし)めいている。正面上段に迫り出した蒸気配分箱の更に上に連座して、シリンダー、ボイラー、給水ポンプ、暖房用蒸気の圧力計の四天王が、此の聖域を神棚の様に睥睨(へいげい)し、ボイラー内の水量を目視する水面計の硝子管が其の脇を固め、誰も座る事の無い運転席の小振りなシートを、速度計、単独ブレーキ、自動ブレーキ、逆転機ハンドル、加減弁ハンドル、排水弁専用コックに実働機会が有るのか疑わしい砂撒き専用コックが隙間を奪い合って取り囲み、臨界した火室を抱え込んで動力式焚口戸(たきぐちど)が重鎮している。

 車掌がペダルを踏み、泥の中に潜む甲殻類の武骨な鋏の様に半割の扉が左右に開くと、真鍮と銅管で(まつ)り上げた黒鉄(くろがね)(ほこら)を、(おびただ)しい火室の熱波と炎群(ほむら)が染め上げ、今一度ペダルを踏み直して扉が開くと、彼の世を覗き見た様な煉獄は姿を消し、密やかな(うつろ)を硬質な凊気(せいき)が吹き抜けた。

 「さあ、どうぞ、鉄郎様。」

 車掌に促され、鉄郎が未知の仙窟へと通じるが如き(にじ)り口に膝を付いて潜り込むと、天地無用の晦冥(かいめい)に多針メーターの怜悧(れいり)なバックライトに包まれ、匍匐(ほふく)していた背筋を無数の隻眼に監視されている様な慄然が突き抜ける。灼熱の激動とは懸け離れた幽玄杳杳(ゆうげんようよう)たる小宇宙。同じ焚口から垣間見た紅蓮の炎は一体何処へ行ったのか。鉄郎が立ち上がっても優に余裕の有る、室内の高さと幅と奥行きは、外観から確認出来るボイラー室の直径を物理的に超えている。無窮の星空を激走する銀河超特急の核心とは思えぬ、跫音(あしおと)の残響と耳鳴りだけに浸された、闇室(あんしつ)(あざむ)かぬ透徹した静寂。眼が此の暗がりに慣れてきて機関室内の造形と輪郭が見えてきた鉄郎は、インローで嵌め込まれている多針メーターの配列に抱いた違和感が、次第に(さざなみ)の様な凄味に変わっていくのを覚えた。

 此の集積回廊の躯体はCADデータを3D成型器で一括出力した物じゃ無い。鋼材を組み上げて応力除去の焼鈍(しょうどん)処理をしてから機械加工を施している。然も、此の半自動溶接のビードがロボットでも無ければ、機械加工も成型データをチンして終わりじゃ無い。職人の手で座標を計り、削り出して仕上げている。鉄郎の廃材を加工して生きてきた皮膚感が、CADデータの無機質な羅列とは違う何かを嗅ぎ付けた。此の空間には1/100mm台のズレが生み出す独特の畝り、グルーヴが有り、躯体の練度を増している。最新のテクノジーを度外視した其の迫真。まるで、戦士の銃を覆い尽くすダマスカスの文様や、鋳物から削り出した機械伯爵の様に。見覚えの有る隻眼に包囲され、鉄郎の(うなじ)(そばだ)ち、闇の向こうで蠢く影に眼を凝らした。此の列車は曲がり形にも、銀河鉄道株式会社の大株主の息が掛かった奴の土俵だ。どんな小細工をしているか判ら無い。すると、後から這い入ってきた車掌が誇らしげに其の疑懼(ぎく)に割って入った。

 「どうですか鉄郎様。機関室の中は。見ての通り此の列車には機関士が居ません。機関車自身が銀河鉄道管理局と連携し、自分で判断し自分で考えながら、安全に、そして、タイムスケジュール通りに運行しているので御座います。此の機関車自身が機関士、其の物、其れも絶対にミスを犯さ無い機関士で御座います。」

 己の手柄の様に機関室の性能を語る車掌に怪しい素振りは全く無い。鉄郎は只の思い過ごしかと思い、良い機会だからと前々から抱いていた疑問を尋ねてみる。

 「車掌さん、999は地球とアンドロメダの間を一年で往復するんだろ。と言う事は半年でアンドロメダに到着するって事だよね。でも、地球からアンドロメダまでの距離は250万光年も在るんだ。光の速度でも其れだけ掛かるのに、どうやったら、たったの半年でアンドロメダまで往けるんだい。どんな物体も光よりも速く走る事は出来無いんだろ。光速と肩を並べる速度で走ってるのなら、外の景色は歪んで見える筈なのに、そんな様子も無い。ワームホールとか言う奴を使ってワープしてるのかい。でも、相対性理論はワープの存在を否定してるとか聞いた事あるよ。」

 「其の件に関しましては、鉄郎様。」

 と言うが早いか、車掌は何処に隠し持っていたのか、行き成りスケッチブックを左手で肩口に掲げ、手書きの図解を伸縮式の教育ポインターで指しながら説明し始めた。

 「確かに光より速い物体は御座いませんが、三次元に時間軸を加えた時空連続体を歪ませる事で物理法則の通用し無い亜空間を出現させ、其の中の折り畳まれ収縮した空間を列車が一直線に通過する事で、光を越える速度で目的地に到着する事が可能なので御座います。」

 「じゃあ、どうやって空間を伸び縮みさせているんだい。其の伸びている空間と元の空間との間はどうなってて、どういう風に列車は通過するんだい。」

 「否、其れが・・・・誠に、何と申したら宜しいのか、私も勉強不足で御座いまして・・・・・。」

 「何だよ、結局、車掌さんも良く判って無いんじゃないのかよ。」

 「御恥ずかしい限りで御座います。」

 車掌がスケッチブックを後ろ手に回し深々と頭を下げると、機関室の闇から抜け出てきたかの如き喪装の幽女が、他愛も無い歓談の息の根を止めた。

 「そんな社外秘中の社外秘、二等客車の乗客に教える訳が無いでしょ。此の機関室は万物の実相に直結した、悪魔ですら盗み見る事の出来無い機密の宝庫なのよ。電脳化して無い分際で穿鑿(せんさく)する何て烏滸(おこ)がましいにも程が有るわ。」

 光学迷彩の様に闇と戯れる漆黒のフォックスコート。多針メーターの光芒の狭間で黒女(くろめ)の相貌が白磁から青磁へと(うつ)ろい、金無垢の鳳髪を翻して直立不動の車掌に畳み掛ける。

 「食堂車の準備が滞っているようだけど、どうなっているの。此から小惑星帯のトンネルを(くぐ)るのよ。此の機関室の主動力以外、総ての電気系統が遮断されて終うわ。そうなってからじゃ遅いんじゃないの。鉄郎、貴方もトンネルに入る前に食事を済ませておきなさい。」

 女主人の厳告に全身全霊の最敬礼で応える車掌に、

 「此の宇宙空間でトンネルに入るってどう言う事だい。何も無い空間でトンネルだ何て・・・?」

 鉄郎は身を(すく)ませて小声で尋ねると、メーテルは其れを遮って頭熟(あたまごな)しに打ちのめした。

 「でも、列車はトンネルへ入るのよ。小惑星帯なんて都合の良い呼び方をしてるけど、奪い合い殺し合いを繰り返した領域紛争の成れの果て。其処で誤爆した銭ゲバ達の残留思念の吹き溜まりよ。銀河の綺羅星も寝静まる墓場の参道を潜り抜ける時、トンネルの闇は心の闇を映し出す・・・鏡に・・・・・・。」

 其処まで言い掛けて、独片(ひとひら)花弁(はなびら)の様な口角が不敵に吊り上がると、メーテルは白檀を焚き()めた鳳尾を颯爽と(ひるがへ)して、猫の額程の躙り口に爪先から滑り込み表に出た。機関室の氷結した空気が一気に弛緩し、鉄郎は舌打ちを飛ばして機関室の暗がりに片手を突き、多針メーターの中を覗き込んだ。

 「此の機関室の構造より女心の方が余っ程複雑さ。特に彼の馬鹿と来たら。」

 「御待ち下さい。幾ら鉄郎様と言えども聞き捨てなりません。御言葉には呉々も御注意願います。」

 「そうは言ってもさあ。」

 「鉄郎様、御推察の通りメーテル様は此の列車の最も大切な御客様なので御座います。神輿は自分の脚で歩いてはいけません。唯、どっしりと構えて行き先さえ告げて頂ければ、後は其処まで運ぶのが私共の務めで御座います。」

 「私共って、真逆(まさか)、俺も頭数に入ってるのかよ。冗談じゃ無いよ。」

 「まあ、そう仰有らずに。閑話休題で御座います。私も小惑星帯のトンネルの事をすっかり忘れておりました。鉄郎様、早速、御食事の御用意をさせて頂きたく存じます。就きましては、其の・・・・御注文は・・・・・矢張り、何時もの・・・・。」

 「勿論、何時もので頼むよ。」

 

 

 機関室を出た鉄郎は食堂車の扉の前に設けられている、名ばかりの喫煙室で何時もの様に何時ものメニューを待っていた。客車の重厚な木枠のモケットでは無い簡易なボックスシートに座り、誰も吸い殻を入れた様子の無い窓枠の灰皿を弄っていると、食堂と書かれた磨り硝子の向こうに人の気配がして、扉に手を掛ける音がする。鉄郎は反射的に両手を擦りながら立ち上がり、一歩前に踏み出そうとした。処が、開いた扉の前に立っていたのは侮蔑と辟易でジットリと澱んだ眼差しで、御待ちかねのメニューでは無かった。

 「又、そんな処で食べるつもりなの。食堂は此の中よ。何度言ったら判るの。貴方は正規の乗客なんだから何も遠慮する事は無いのよ。」

 絶世の娟容(けんよう)を半壊させて、行き成り沸点に達しているメーテルとの出会い頭に、鉄郎は身構える暇も無い。狭い喫煙室に轟く怒号の一方通行。こうなるともう赤信号も青信号も無く、メーテルは顱頂(ろちょう)に錐を立てた様に錯乱していく。

 「何を()ねてるのか知ら無いけど、少しは乗客らしく振る舞ったらどうなの。野良犬じゃ有るまいし、又、例の下品で下ら無い物を注文したんでしょ。あんな物は只の非常食よ。ちゃんとメニューに載っている物を頼みなさい。こんなだらし無い真似をさせる為にパスを渡したんじゃ無いわ。恥を掻くのは私なのよ。自分だけヌケヌケと豪華な食事に有り付くのがそんなに(やま)しいの?何に義理を立ててるのか知らないけど、誰も誉めては暮れないわよ。そんな瓦落多(がらくた)。」

 此のメーテルの激昂は、最早、食前の儀式と化していた。鉄郎は何時もの様に無視を決め込んで其の苛立ちに油を注ぎ、後はメーテルが疲れるのを忍の一字で待つしか無い。そして漸く、

 「此じゃあ、チンパンジーにアメフトのルールを教えてた方が増しだわ。」

 貝の様に緘黙(かんもく)を貫く鉄郎にメーテルが匙を投げて嵐が去ると、鉄郎はシートに躰を投げ出して、食堂内の豪奢な雰囲気から顔を背ける様に窓外に眼路を飛ばした。眼の覚める様な真紅のテーブルクロスに、折り目正しく配置された皿の上を飾る、蓮の蕾の様に折り畳まれた純白のナプキン。宮廷を哨戒する近衛兵の様に銀食器が其の切っ先を閃かせ、フィンガーボールが水晶の惑星を気取って眠る、清潔で華美を究めた別世界。其処に運ばれてくる美食の王道と来たら何をか言わんや。銀河鉄道最上位路線の人も羨む至高の晩餐。然し、其れは鉄郎にとって万死に等しい針の(むしろ)でしか無かった。

 此の待遇を受けるべきなのは、死に物狂いで護り育ててくれた母の筈なのに。()()めと生き残った自分が、世紀を超えた美食に舌鼓を拍つなんて有り得無い。彼の女の言う通り、独り善がりな疚しさに義理立てした処で、所詮、口パクの時はマイクを逆さに持つ歌手みたいな物だ。然し、其れでも鉄郎は己の不甲斐なさで失って終った大切な物を、マイクを逆さにした口パクを突き破ってでも呼び寄せ、取り戻したいと心の底から悔やんでいた。今更、こんな意地を張った処で神様が母に引き合わせてくれる訳でも無いと判っていても、

 

 

    たらちねの母が手離れかくばかり

       すべなきことはいまだせなくに

 

 

 こんな想いをする位なら、何故、彼の時、俺は・・・・。鉄郎は思わず、汚れを知らず取り澄ましている窓枠の灰皿に拳を振り下ろした。爪と皮膚の区別さえ付かぬ程、ドス黒く変質していた指先の角質が剥がれ落ち、血色を取り戻す毎に、産廃を掻き分けていた記憶が、母と過ごした些々(ささ)やかな日々の幸せと共に薄れていく様で、除染されていく己の瑞々しい手を見ているだけで忌々しい。一口の水を探し求めて(やすり)の様な手と手を繋いで母と歩き続けた荒野。其れが此の列車の中では、乗務員に頼むだけで浴びるほど飲む事が出来て終う。待ち望んでいた筈の快適で安全な生活。然し、其の素晴らしい居心地こそが最も息苦しく、鉄郎を追い詰めていく。生きている実感の無い虚栄に(まみ)れた銀河クルーズ。此ではまるで監獄列車だ。星々を箱詰めで買い漁れる程の金額がチャージされた999の乗車券。何故こんな物に目移りをして本当に大切な物を台無しにして終ったのか。苛烈な環境に(ちりば)められていた、決して色褪せる事の無い喜びに愕然とする鉄郎。其処へ不図(ふと)

 「星野、鉄郎様・・・・で御座いますか・・・・。」

 か細く消え入りそうな鈴生(すずな)りの嬌声が、行き場の無い自噴を(たお)やかに挫いた。顳顬(こめかみ)を遡る焦血が(ほぐ)れ、鉄郎の眼路を揺らめく床の上に揃った二筋の可憐な蜻蛉(かげろう)。滑らかに立ち昇っていく其の儚き輪郭線を(しず)かに(なぞ)っていくと、トレーに載せたカップヌードルの力強いロゴが鉄郎を見下ろしている。綴じ蓋から溢れるコンソメの利いた醤油風味の懐かしい薫り。其の立ち昇る芳醇な湯気の向こうで、山吹色のカチューシャだけを身に纏う、アールヌーボーの工房から命を吹き込まれて抜け出た様な、繊細で麗しい全身硝子細工の少女が戸惑っていた。

 「君は・・・・。」

 「私はクレアと申します。今日から此の999号で御務めをさせて頂きます。どうぞ宜しく御願い申し上げます。」

 「其の躰は・・・・・・ホログラムじゃ無いよね。」

 「クリスタル硝子で出来ております。」

 「クリスタル硝子・・・・・こんなの、初めて見た。一体何時999に乗ったんだい。」

 「一つ前の停車駅からで御座います。」

 「そうなんだ。タイタンを出発する時は疲れ切って眠ってたからなあ。何も覚えて無いんだ。俺の名前は星野鉄郎。鉄郎って呼んでくれよ。車掌さんもそう呼んでくれてるしさ。宜しく頼むよ。」

 「此方(こちら)こそ宜しく御願い申し上げます。では鉄郎様、割り箸を御用意するようにと説明を受けたのですが、本当に此で宜しかったので御座いましょうか。銀製のチップスティックも御座いますが・・・・・。」

「ああ、此で十分だよ。割り箸のささくれてる処が良いんだ。丁度上手く引っ掛かってさ。銀で出来た箸なんてツルツル滑って上手く麺を掴め無いよ。」

 「器も移し替えた方が宜しいのではないかと思うのですが。此の容器は発癌性物質の塊で御座いますから。」

 「ハハ、其れはカップーヌードルが出来た当時の話しさ。此はちゃんと、紙の容器で出来てるから大丈夫。大体、発癌性物質位でビビッてたら、今の地球には住め無いよ。其れに、

 

 

   (いへ)なれば手に盛る(いひ)を草枕

      旅にしあれば椎の葉に盛る

 

 

 地球に居た時は食器すら無い時だって在ったのに、此の列車は何もかも贅沢過ぎて頭が可笑しく成っちゃうよ。」

 「鉄郎様、失礼とは存じますが、其の(うた)は死出の旅路に読まれた物。(いにしへ)(ことば)は其の吉凶を選ばず詠い主の身に引き寄せる力が御座います。御慎み下さる事が鉄郎様にとって御賢明な事かと存じます。」

 「ハハ、随分と古風な事言うねえ。クレアさんも哥を詠むのかい。」

 「滅相も御座いません。私のアーカイブデータの中に偶々和歌のストックが換装されていただけの事なので御座います。其れよりも鉄郎様、本当に此処で御食事をなさるので御座いますか。食堂車に御席は御用意して御座います。若し、食堂車内で何か御都合の悪い事が御在りになるのでしたら、私共に何なりと仰有って頂ければ。」

 「良いんだよ此処で。食堂車の中だと豪華過ぎて眼がチカチカしちゃうよ。其れと其の、鉄郎様って言うのと、御座います、御座いますって言うの勘弁してくれよ。聞いてるだけで肩が凝っちゃうからさあ。そう言う堅苦しいのは車掌さんだけで十分だよ。」

 「そう言う訳には参りません。鉄郎様は大切な御客様なので御座いますから。」

 「ホラ、又言ったあ。車掌さんとか鉄道会社の連中には俺から宜しく言っといてやるからさあ。気にし無いで、鉄郎、鉄郎って呼び捨てにしてくれよ。ツー事で、頂きい。」

 そう言うと鉄郎はトレーのカップヌードルをカッ(さら)い、口に(くわ)えた箸を片手で割って蓋を開け、立ち昇る湯気で頬を染めながら一気に麺を啜り上げた。舌の上で白魚(しろうお)の様に弾ける縮れ麺に、鶏肉、豚肉、野菜のエキスが三位一体で(ふく)よかに広がるオリジナルスープが絡み付き、喉元を旨味の大瀑布が迸る。カップ麺のパイオニアにのみ許された、ミンチの歯応え、小海老の跳躍、卵と葱のスクランブルが奏でる主張と調和。そして何より、鉄郎親子の命を点し続けた爆発的なカロリーと塩分量。粉末スープの一滴は地の塩を()した血の涙で在り、(たと)へ其れが廃棄食材で在っても、骨肉に刻む信仰、其の物で在った。思い出のスパイスに目頭が熱くなり、急騰する体温、決壊する汗腺。此の列車の中にいて唯一、母と地球を此の胸に繋ぎ止めてくれる熱き熱きソウルフード。の筈が、

 鉄郎は間接視野を猶予(たゆた)ふ見目麗しい珠玉の容肢に意識を奪われて、味覚が舌の上を擦り抜けていく。可動機構や制御回路が何処にも無い、此の世に在って無い様な雪華の妖精。純潔と貞節の結晶化したクレアの澄み渡る痩身を、穏やかな車内灯が夢の様に透過して足許のデッキに影の欠片すら落とさ無い。同じ一糸(まと)わぬ姿でも、タイタンで目の当たりにした蜂腰を婀娜(あだ)なすメーテルの裸体ですら豪胆で冗漫に映る程の、硝然としたクレアの楚腰(そよう)。其の清謐な佇まいを前にしては、蠱惑(こわく)的なメーテルの魅力ですら押し付けがましく、眼窩(がんか)(もた)れてくる。

 虹彩(こうさい)が欠落し瞬く事を知らぬ目縁。(おとがい)に半ば融け出した幸の薄い唇。本来有るべき明眸皓歯(めいぼうこうし)をも()み流した、眉根と鼻筋の幽かな羞じらいでしか読み取れぬ慎み深い表情。後景を転写し、色と形を滅しただけの光学迷彩では生み出し得無い、肌理細やかな心の(ひだ)を浮き彫りにした様な儚き造形。今にも消えて無くなりそうな其の眩影(げんえい)を、顔を押し付けたカップ麺の縁から鉄郎が盗み見ていると、雨糸(あまいと)の垂髪が霏霺(たなび)き、憂いを帯びた石英の仙女が僅かに小首を傾げた。  

 「何故、鉄郎・・・・さんは、こんな非常食を注文するんですか。食堂車のメニューには素晴らしい食材を贅沢に使った料理が取り揃えてあるのに。」

 「其れはさあ、俺が物心付いたばかりの頃には、地球でも未だ慈善活動をする生身の人間達のグループが幾つか在って、其処が感染症の予防接種なんかの医療支援をしながら炊き出しを遣ってたんだ。母さんはパラサイトチップや遺伝子操作物質の埋め込まれたワクチンや抗生物質には手を出すなって言ってね。二人で炊き出しの列にだけ並んだんだ。其の時に配られてたのが此のカップ麺でさあ。美味しくて、温かくて、地球に居た時の一番の御馳走だったんだ。其れを車掌さんが車掌室で食べてるのを見て吃驚してさ。非常食の賞味期限ギリギリで廃棄寸前の奴だって言うから、後はもう三食全部、此ばっかりさ。」

 「でも、御体に障りますよ。三食総てを加工食品で(まかな)うなんて。」

 「クレアさん、生身の人間が一週間飲まず食わずだとどうなるか知ってるかい。自分の指が食べ物に見えてくるんだ。本当だよ。嘘じゃ無い。俺は一度骨が見えるまで自分の小指を噛んだ事が在る。例え其れを我慢出来たとしても、今度は眼の前に在る物が全部食べ物に見えてくるんだ。生まれ立ての赤ん坊の様に何でも口にして、其の度に母さんに頬を撲たれて正気に戻るんだ。一日に一食でも有れば幸せな方さ。出された物は食えって言われて育ったんだ。其れが食品添加物の塊だろうが、自分の指や重金属の染み込んだ石コロよりは全然増しさ。」

 「撲たれるんですか。御母さんに。」

 「そうさ、完全に意識が飛んでるからね。自分でも気付か無いんだ。自分の指を喰い千切ろうとしてる事を。母さんが居なかったら、今頃こうして箸を持ってラーメンを食べる事も出来無かった筈さ。」

 「鉄郎さんの御母さんって、どんな方だったんですか。」

 「どんなって、一言では説明するのは難しいな。不思議な人でさ。物心付いた時には親父は居なくて、ずっと二人っ切りで生きてきたから、小さな頃は其れが当たり前だと思ってたんだけど、何時何処で天変地異が起こるのか、産廃の山の何処に物々交換出来る何が眠っているのか、高濃度の二酸化炭素が沈澱している窪地や被爆地帯、汚染水を察知して、普通の人には見えない物が見えるんだ。一寸、信じられないだろうけどね。小を尽くして大に入り、人代を尽くして神代を伺ふ、修験僧と歩き巫女を足した様な人でさあ。何時も星や風を読んで、進むべき道を見極めるんだ。其の手に引かれてずっと歩いてきたんだ。芯が強くて、何事にもブレ無くて、何時だって俺の事を身を楯にして護ってくれて、命の道標(みちしるべ)みたいな人さ。地球に住んでる生身の人間は、皆、自分一人が生きるのに必死で、貧民窟の中では自分の子供を平気で捨てたり売ったりしてるのを見てたから、本当に感謝とかそんな言葉じゃ足り無い位、感謝してるよ。そりゃあ、時々、ゾッとする様な事を言い当てたりして怖くなる時とか、嘘も直ぐに見透かされちゃうから、息苦しい時も在るけど、否、何って言ったら良いのかな。どうしても全然上手く説明出来無いな。」

 胸に支えていた物が後から後から溢れ出てくる事に驚いて、鉄郎は言葉を切り、残りのスープを一気に飲み干して空き容器と箸をクレアに差し出した。

 「御馳走様。ヘッ、矢っ張り、何度食べても美味しいや。母さんにも食べさせて上げたいよ。きっと喜ぶだろうからさあ。」

 「鉄郎さんの御母さんは今どう()されて居らっしるのですか。」

 「其れが判ら無いから、こうして999に乗って探してるのさ。気の遠くなる様な話しだけどね。クレアさんの御母さんはどうなんだい。真逆、御母さんの体もクリスタルガラスなんて事は無いよね。」

 人間狩りの顛末を口にして、折角の晩餐の後味を台無しにしたく無い鉄郎は、()()無く話しを逸らしたつもりでいたのだが、当たり障りの無いと思った言の葉の一片が、舞い降りた地雷の信管を此でもかと踏み躙った。石英の清流が氷結して、朽ち果てた砕石の如き険相が、淡青な秀眉に(くさび)穿(うが)ち、空気が一変する。煌めきを失った蜻蛉が最期の時を迎えた様にクレアは声を振り絞った。

 「私には鉄郎さんの様に人に自慢出来る母は居ません。私をこんな躰にして終った人の事を世間では母と呼ぶのでしょうけど。」

 「こんな躰って、とても綺麗で素敵じゃないか。」

 「今は補修と研磨をしたばかりだからそう見えるだけです。流動化したクリスタルの硬度なんて高が知れてます。普通に生活しているだけで傷だらけになって終うんです。強い衝撃にも耐えられ無いので、直ぐに欠けて罅も入ます。元々、ディスプレイ用アンドロイドの筐体で実用的な物では在りません。鉄郎さんは此の躰を綺麗だと言ってくれますけど、余り嬉しくありません。私は好奇の眼を気にせず踊り続けるアンドロイドとは違います。誰もが私の躰に興味を持って逃げ場の無い眼差しを投げ付けてきます。でも其の視線は私の躰を擦り抜けて、決して私の心を(みつ)めてはくれません。本当は人目に付かない内職や、服を着て働ける仕事がしたいのです。でも其れでは此の躰の維持費と新しい躰を買う費用を作る事が出来ません。高額な報酬が保証されている此の列車で働くのも、裸での接客を条件に採用してもらいました。少しでも早く新しい躰を手に入れる為に。私が此の躰を乗り捨てて新しい躰になりたいのは、手入れが大変で好奇の目に曝されるからと言うだけでは在りません。本当の自分に成りたいんです。生まれ変わりたいと言った方が良いのかもしれません。」

 「本当の・・・・自分。」

 「そうです。自分探しの旅なんて言う、子供の家出に尾鰭が付いた様な物じゃ在りません。私の電脳海馬には統合されて無い他人の記憶が幾つも錯綜していて、どれが本当の自分の記憶か判ら無いんです。生身の躰から機械の躰に電脳換装する時に、別のアーカイブが紛れ込んだのかもと説明されただけで、術後のリハビリをした以外、業者のアフターケアも無ければ、保証も有りません。抑も、何故、機械の躰に成ったのか、其の経緯に関する記憶が全く無いんです。其処だけ完全に欠落しているんです。目覚めた時には手術台の上に居て、硝子の躰の中に私の意識は閉じ込められていました。私の母だと名乗る人に会っても、記憶の中に在るどの母とも別人です。其の人が本当に母親なのか後見人なのかすら判りません。其の人に私が生身の躰だった頃の写真や動画、身分証を見せられても、一致する記憶が有りません。機械化する前の生身の躰が何処に在るのか尋ねても、(はぐ)らかすばかりで真面(まとも)に答えてくれません。其の人が私をクレアと呼ぶのも本当の名前なのか判りません。本当に女だったのかも判りません。私の母とか言う人は、私の生身の躰を売ったのかもしれません。遺伝子培養した物で無い生身の健体で希少価値の有る物は、時に高額で取引されますから。私のオリジナルの躰を気に入って、どうしても欲しいと言う買い手の提示した大金に、眼が(くら)んだのかもしれません。そんな都合の悪い事実を誤魔化す為に、私の記憶を(いじ)ったのだとしたら。其れとも、硝子の個体に適当な記憶を載せただけで、オリジナルの私なんて元々存在し無いんじゃないのか。機械化した心と体にオリジナルと呼べる物なんて在るのか。リミッターを外して疑い始めると、覗き込んだ闇の中から二度と戻ってこられ無くなりそうで、とても気持の整理なんて付きません。」

 堰を切って捲し立てるクレアの鬼気迫る語気が、生半可な気休めの言葉で水を差す事を許さ無い。

 

 

    身也者、父母之遺體也。   身は父母の遺體(いたい)なり。

    行父母之遺體、       父母の遺體を行う、

    敢不敬乎。         ()へて(けい)せざらんや。

 

 

 そんな御為ごかしを超越した硝子細工の精霊が、星屑のベールを引き裂いて自ら暴き立てる、口減らしで投げ売りにされた其の痛恨。安否不詳とは言え実の母を拠り所に、貰い物の乗車券で御客様面をし、物見遊山の旅をしている己の厚遇に鉄郎は愕然とした。

 「御免なさい鉄郎さん。私の事を嫌いになら無いで下さい。今更、私の母と名乗る人を(なじ)った処で何が変わる訳でも在りません。元の自分の躰や記憶を取り戻す事も半ば諦めてます。私が其の人の話をする時、感情を抑える事が出来無いのは、敢えて汚い言葉を放熱して熱暴走を防ぐ様に設定しているからです。情操回路のフィルタリングで其処に捌け口を残しておかないと、自分の存在の総てが崩壊して終いそうなんです。私は新しい躰を手に入れたら、新しい記憶に上書きしようと思っています。其の時にはクレアと言う名前も変わっているかもしれません。」

 受け入れられない過去ならば寧ろ捨て去って、成りたい自分に生まれ変わる。クレアの自分独りで此の宇宙を泳ぎ切る決意が、希薄に虚ろう仮初めの姿を再結晶し、蒼然とした石英の化身が荒波を迎え撃つ断崖の如く、鉄郎の前に立ち(はだ)かっている。自然の摂理から見放された異次元の苦悩と再生。然し、一旦狂った歯車を新しい躰と新しい記憶に()げ替えて本当に総てが丸く治まるのか。其処には更に深い落とし穴が在るのではないか。鉄郎は人智の及ばぬ危うさに胸が騒ぎ、かと言って其れを(いさ)める言葉も勇気も無かった。クレアの幽かな希望の灯火に冷や水を浴びせる資格が自分に有るのか。誰の為でも無い自分の為。其の絶望的な孤独は、生半可に寄り添ってくる者達の有らゆる欺瞞を暴き立て、焼き尽くす事だろう。二重遭難を覚悟の上で足を踏み込む事すら許さぬ硝子の結界。自然の摂理を逸脱した其の先にどんな救いが在ると言うのか。999の機関室が多針メーターの蛍火を断たれた様な天地無用の晦冥を垣間見て、鉄郎は一粒の傍点(ぼうてん)と為って無明の境地に立ち尽くしていた。眼が覚めたら其処は問答無用の闇。手術台と言う俎板(まないた)に放置されたクレアの見当識。総てを曝け出す光は(むし)ろ残酷だ。闇と言う執行猶予に戸惑う事の出来る温情。其れにしても此は、本当に何も見え無い。と言うより、実際に灯りが落ちている。

 何時の間に、と戸惑う意識が暗黙の(とばり)に焦点を見失い、後退(あとずさ)った(ふく)(はぎ)が座席の縁に触れ、シャークソールの踵が床板に軋み、完食した容器で燻る醤油風味の(ほの)かな残り香が、鉄郎の小鼻を爪弾いた。張り上げ屋根の白熱灯が飛び、窓外の星明かりも幕を降ろして、無限軌道を蹴立てるドラフトの輪乗感すら遮られた視界の中で、辛うじて食堂車の喫煙室に居ると言う見当識だけが漠然と座礁している。

 「小惑星帯のトンネルに入ったようです。安全弁を閉じて(しばら)くの間は電気系統が作動しないと聞いています。御食事の容器の方は私が後で御下げしますから、鉄郎さんの席に戻りましょう。私が御案内します。私の手を握って決して離さないで下さい。」

 クレアの少し(やつ)れた声が闇を限って鎖骨から襟足を掠め、鉄郎は思わず肩を(すく)めた。此が例のトンネル?手を握る、どうやって?光の絶した冥底(めいてい)に臆せぬ、落ち着いた口振りが引き擦る異妖な(ひびき)。列車が運行している様子の無い漆黒の緘黙行(しじま)に向かって身構える鉄郎。すると、鳥肌の和毛(にこげ)を逆撫でする不吉な予感をそっと(なだ)める様に、闇に融け出した幽かな気配が琥珀色に(ほの)めき、糖蜜の様な晶像が浮かび上がった。清楚な物腰を()でる、柔和で質素なフィラメントの光芒。翼の折れた蜻蛉が其の薄命を燐焼し、喫煙室の輪郭を健気に照らし出している。夢の続きの様な幻影。生まれ変わったクレアの姿に鉄郎の疑念は解晶し、伏し眼勝ちに立ち尽くす其の羞じらいに(ひざまづ)き、(あが)める様に見上げていた。好奇の眼を(おそ)れ両の(かいな)支度解甚(しどけな)く身を隠すクレアの媚態。ディスプレイ用の個体と言う事でネオンサインの様に発光する機能が装備されているのだろう。もっと輝度を上げる事も出来る筈だ。然し、クレアの硝子の純朴が其れを許さ無い。過美な己の躰に(さいな)まれる光の女神。折れた翼で舞う様にクレアが其の手を差し伸べる。

 「行きましょう。」

 誘蛾灯に惹き込まれる様にクレアの手を握ると、母を(なじ)り続けた余熱なのか、燐晶発振させているからなのか(ほの)かな温もりが伝わってくる。妻引戸(つまひきど)を開け鉄郎を導くクレアの硬直した横顔。時の流れを逆行する旧式の客車。折り目正しき木工と真鍮細工の意匠が息を潜め、空席が列を為す床板の通路を、覚束無い跫音(おしおと)だけが、律儀に時を刻んでいく。半径1mにも満た無い最小限の輝度に包まれた二人だけの世界。星空から銀河の舞い降りた様なクレアの垂髪が揺らめき、半歩先の闇を無言で掻き分ける。宇宙の果てを目指し、光速をも振り切る夢の超特急とは思えぬ重厚な静寂。何時の間にか鉄郎は今が何両目なのかも忘れて、妻引戸を開けては元の車輌へと舞い戻る無限のループの中を、物語に読まれた死者の魂を弔う精霊列車の中を彷徨(さまよ)っていた。実体の在る自分独りだけが空席に見えているだけで、999の全車輌は天国への指定席で埋まっているのではないのか。生身の躰の自分が割って入る席は無いのではないのか。其れとも、妻引戸を境に生と死の狭間を行き交う永久(とわ)の終身刑に引き込まれ、囚われて終ったのか。そんな止め処無く流転する随想の断片に、不図(ふと)、母の手に引かれて家路を急いだ闇夜の記憶が()ぎり、クレアが身を(やつ)す幽微な灯火を遮った。

 朧気に照らし出されていた背摺(せすり)と床板の木肌が、細めていた其の(まなじり)を閉じて二人の跫音が途絶えると、置き去りにされた暗黙に一瞬心拍が裏返る。再び小惑星帯のトンネルの底に突き落とされた鉄郎は、掌に留まるフィラメントの微熱を握り替えそうとして宙を泳いだ。前後不覚の闇が母と逸れて白魔に没した人間狩りの陰画(ネガフィルム)へと反転し、幼児返りした彼の時の様に独り声を潤ませる。

 「クレア、何処だ。」

 己の声に耳骨(じこつ)が痺れ、クレアの気配どころか大気が(そよ)ぐ素振りさえ見せぬ果てし無き昏絶。胸の鼓動と乱れた呼気が高まるばかりで、奪われた視野に抗う術が無い。クレアは何処へ消えたのか。何故返事をし無い。此は何かの事故なのか、罠なのか、罰なのか。鉄郎の心の暗渠(あんきょ)と共鳴して淫らな憶測を増幅する完全無欠の漆黒。手探りで前に進むも何も、此処が何両目なのかも判らなければ、此処に留まっていて安全なのかも判ら無い。鉄郎は乗車券のエアディスプレイの輝度を上げて灯りにならないか、ベストの胸ポケットを探ってみた。

 すると、まるでタッチセンサーに触れた様に、電気系統のリレーが弾ける音と共に視界が拓け、拡散していた瞳孔が軋みを上げる。乳白色の張り上げ屋根を照らして降り注ぐ白熱灯に、立ち昇る調度品の木香。通路を挟んで左右に列を為す座席のモケットが(しず)かに息を整え、堅調な駆動音がシャークソールを突き上げて無限軌道の遙かなる一歩を再び刻み始めた。硝子窓に溢れる星屑がトンネルを抜けた事を告げ、何事も無かった様に、何時もの空席が列を為している。たった一席を除いて。

 鉄郎とメーテル以外に座る者の無いボックスシートに、見覚えの有る土嚢袋を継ぎ接ぎした塊りが蹲っている。貧民窟の餓鬼共に蓑虫と詰られた襤褸外套(ぼろがいとう)。其の切りっ放しを目深に被る窶れた影が立ち上がり、慈愛と憂いに満ちた眼差しで鉄郎を包み込む。見間違える訳が無いからこそ信じられぬ紛れも無き母の姿。血の池に沈んでいた筈の外套には狙撃された風穴も無ければ、血痕の一雫さえ落ちてい無い。そんな馬鹿な。此は夢か幻だ。母さんが999に乗っているなんて有り得無い。だが、其れがどうしたと言うのか。例え夢でも幻でも全く構わ無い。

 

 

   命にもまさりて惜しくあるものは

      見はてぬ夢の()むるなりけり

 

 

 鉄郎は何かの間違いだと百も承知で駆け出した。疑っている暇なんて無い。本の束の間の錯覚が醒めてしまう前に、鉄郎は母に抱き付いた。兎に角、会いたかった。そして、謝りたい。だが、余りにも想いが強過ぎて言葉が胸に支え、何も考える事が出来無い。母の痩せ細った躰が、お互いに抱き合った腕が強く強く絡み合う。母と(はぐ)れていた幼子の崩壊した涙腺が、押し殺していた悔恨の焦熱を洗い流していく。此は夢だ。だからこそ醒め無いでくれ。今、手を離したら二度と会え無くなる事を承知で我武者羅(がむしゃら)に縋り付く鉄郎。然し、其の熱い抱擁がジリジリと限度を超えて、次第に鉄郎の胸骨や肋骨、肩胛骨に喰い込んできた。尋常な力じゃ無い。

 「いっ息が・・・・一寸、待って・・・・。」

 「何だって、息がどうかしたのかよ。意地汚ねえ乳呑み児みてえにグズグズ泣きやがって。母さんの受けた苦しみはこんなもんじゃねえぞ。」

 「だっ、誰だお前は。」

 身動きの取れ無い鉄郎が薄目を開けると、其処には、彼の日の夜、吹雪の中を彷徨った凍傷(まみ)れの鉄郎が鉄郎の首を絞めていた。

 「俺が誰だか判らねえのか。(しっか)りと眼を凝らしやがれ。此の兵六玉(ひょうろくだま)。ヌケヌケと生き長らえやがって。何故、母さんを見殺しにした。何故、死に物狂いで追わなかった。己の罪を数えろ。母さんを殺したのは機械化人なんかじゃ無い。お前だ。お前が母さんを殺したんだ。草木一本生え無い荒野で此処まで育ててもらった癖しやがって。本当に死ぬべきなのはお前だ。お前の方だ。」

 墓穴から抜け出てきたかの様に黒変した鼻っ柱と頬を突き付けて吼え立てる己の姿に、鉄郎は心の臓を撃ち抜かれた。彼の夜の真実を告発しに現れた合わせ鏡の分身。己の犯した過ちの総てを知る張本人の弾劾が一切の反駁(はんばく)を許さ無い。メーテルに助けられる事無く、人間狩りの白魔に呑まれて息絶えたもう独りの星野鉄郎、死に神を越えた死に我身が、(ただ)れた本心を剥き出しにして鉄郎の頸動脈に爪を立てる。

 「お前は母さんが未だ生きてると本当に信じてるのか。本当に命懸けで母さんを助け出す為に999に乗っているのか。物見遊山の宇宙旅行に呆けやがって。何が俺にはカップラーメンで十分だ。懐かしくて最高の御馳走だと。何処の口が火裂(ほざ)いてやがる。雪の上に広がる黒い血の海を忘れたか。良く其れでラーメンが喉を通るな。卑しい口をしやがって。最初に食堂車で喰ったビフテキに驚いて喉に詰まらせたのは何処の何奴だ。舌の上で(とろ)けて消えたタンシチューを御代わりしたのは何処の何奴だ。オイ、何か言ってみろ。其の糞みたいな言い訳を幾らでも聞いてやる。お前の吐いた唾が御天道様にまで届くってんなら、今直ぐ此処で遣ってみやがれ。其れとも命乞いが先か。銃を突き付けられただけでブルった蓑虫がどうやって拝み倒すのか見せてくれよ。オイ、何とか言え。此の犬畜生。」

 遠退いていく意識の中で、鉄郎は此の瞬間を心の何処かで待ち望んでいた事に気が付いた。鉄郎を裁く為に現れた此の生き霊は、言う事、為す事、何一つとして間違ってい無い。自分で自分を罰する勇気の無かった其の背中を押してくれている介護者に、鉄郎は総てを委ねていた。今、首を締めているのは誰の為でも無い星野鉄郎の代弁者だ。科学の粋を集めた999をどんなに飛ばした処で、此の無尽無窮の大海原、母さんを助ける処か、巡り会う事すら有り得無い。己の首を絞める魔の手に抗う力が次第に解け、鉄郎は彼の日の夜に没した吹雪の続きを(なまくら)に辿り始めた。

 「オイ、どうした、何で刃向かってこねえんだよ。母さんの命も、自分の命も、そんなに簡単に諦めて良いのかよ。そんな腑抜けの為に母さんは躰を、命を投げ出してテメエを護ったんじゃねえ。人の命を何だと思ってやがる。」

 一々急所を衝いて首を揺さぶるもう独りの自分に、されるが儘の鉄郎は、だらし無く頷き続ける事しか出来無かった。此で漸く楽になれる。メーテルとか言う女に助けられた事の方が、寧ろ何かの間違いだったのだ。無一文の孤児が銀河超特急の999に乗っているだなんて、そんな馬鹿な。奇怪(おか)しな夢から覚める時が来た。唯、其れだけの事。身の丈に合わぬ冒険を垣間見れただけでも拾い物だと、甘く(ぼや)けた意識の中に鉄郎は溺れていく。其の失禁寸前の安逸を、岩清水の様に凍み渡る鈴生りの声音が(おもむろ)に引き留めた。

 「鉄郎さん、此以上、自分で自分を傷付ける事は無いわ。もう御止(およ)しなさい。」

 (もつ)れ合う二人の鉄郎の前に忽然と閃いた石英の晶像。999がトンネルを抜けた後、車内のどの影に紛れていたのか。玉響(たまゆら)に揺れ惑うクレアの指先から二の腕が、色素の無い蔦葛(つたかずら)の様に、鉄郎の頸動脈に爪を立てるもう独りの鉄郎を後ろから抱き(すく)め、其の耳元に(ささや)いた。

 「傷付けるのなら私の体を傷付ければ良いわ。こんな躰、磨けば幾らでも元に戻るのだから。癒されて治る傷なんて本当の傷じゃ無いわ。心の弱さが嘘を産み落とす様に、耐える事の出来無い悲しみが、憎しみと怒りを振り翳すのよ。そんな空威張りで私を傷付ける事は出来無いわ。」

 クレアの冴え冴えとした声が母の唱えた祖述(そじゅつ)と重なり、鉄郎の途切れかけた意識が針で衝かれた様に反応すると、其れを目聡(めざと)く捕らえたもう独りの鉄郎は、好都合な闖入者に愚劣な愉悦を(まく)り上げ(はや)し立てる。

 「オイ、ラーメンを(すす)りながら盗み見てた、お前の食後の御菜(オカズ)が助けに来てくれたぞ。冥土の土産に、小便にしか遣った事のねえ赤ちゃん筆を下ろしてもらえよ。折角、素っ裸でウロウロしてんだからよお。どうせ、上手く乗客に取り入って、少しでも早く身請けしてもらいてえって腹だろ。でなけりゃ、クレア、お前は鉄郎の何なんだよ。」

 「鉄郎さん、私は貴方の心が点してくれた二酸化珪素(けいそ)の結晶。朝日を待たずに夢と消える今宵限りの夜露。「鉄郎さん、私は貴方の心が点してくれた二酸化珪素の結晶。朝日を待たずに夢と消える今宵限りの夜露。其のたった一雫を唯独り覗き込んでくれた貴方の瞳が今、私の躰を全反射して虹色に瞬いている。見えるわ。何時も空ばかりを見上げて平地に(つまづ)き、瓦礫の山の中で独り声を荒げている姿が。

 

 

    (をのこ)やも(むな)しくあるべき萬代(よろづよ)

      語り繼ぐべき名は立てずして

 

 

 闇夜に煌煌(こうこう)(そび)えるメガロポリスの絢爛に胸を焦がす、飢えと絶望と暴発寸前の有り余る若さが。」

 「黙れ、テメエみてえなデレデレした飴細工に何が判る。

 

 

    不立非常功    非常(ひじやう)の功を立て()んば

    身後誰能賓    身後(しんご) 誰が()(ひん)せん

 

 

 漢が生きた証を立てずに、蚤や虱と肩を並べて塵拾い何て遣ってられるか。」

 「鉄郎さん、自分の足跡を永遠に残したかったら、誰にも知られ無い場所を独りで歩いて、一生其処に隠れているしか無いのよ。どんなに遠くまで歩いても、其の足跡を踏み荒らされずに自分の辿り着いた場所を知ってもらう事なんて、誰にも出来無いわ。其れに、

 

 

    朽ちもせぬその名ばかりを(とど)め置きて

      枯野のすすき形見にぞ見る

 

 

 輝かしい名誉栄達をどんなに深く刻み込んでも、肉体が朽ち果てた其の後は、素文(そぶん)の剥落した碑石の様に土に還るのを待つだけよ。そんな独り善がりに(うつつ)を抜かして、本当に大切な物から次第に心を背け、護る事も庇う事も出来無かった。そうじゃ無いの。」

 「巫山戯(ふざけ)んな此のパン助、判った様な口を叩いてんじゃねえよ。」

 気が付くと、鉄郎の首を絞めていたもう独りの鉄郎の姿は消え、逆に鉄郎本人がクレアの首を絞め怒鳴り散らしていた。己の手の中で澄み渡る石英の微笑みが、総てを曝け出して終った身無し子を(みつ)めている。クレアは髪を掻き上げる様に其の手を(しと)やかに払い除け、鉄郎を抱き締めて心と心を重ね合わせた。

 

 

   たらちねの母が手(はな)れかくばかり

     すべなきことはいまだせなくに

 

 

 「此の世で最も麗しく尊い物は、取り返しの付か無い過ちを心の底から後悔する事よ。人の心に熱い血が通つてゐるからこそ、二度と元に戻ら無い大切な物を、永遠に追ひ求め、(おも)ひ続ける事が出来るの。

 

 

   蓮花のにごりに染まぬ心もて

      なにかは露を玉とあざむく

 

 

 鉄郎さん、自分の大切な(おも)ひに嘘を吐かないで。貴方は素晴らしいわ。」

 硝子細工では無い人肌の温もりに包まれて、鉄郎は滂沱(ぼうだ)の涙に灌没(かんぼつ)した。掌に残る力任せに締め上げたクレアの首の感触が、醒め醒めとした虹彩の無い瞳が呼び起こす母の面差しが、良く寝かせた下肥(しもごえ)の様に撲ち撒けた、ギラギラと泡彿(ほうふつ)する己の性根が漂白し、悔悟の念に打ち砕かれ粉々になった心の欠片が、吹き荒ぶ時の螺旋を遡っていく。

 遠い遠い()の日の原風景。記憶の糸が途切れて立ち止まると、其処は何時も雪が舞っていた。鉄郎を背負い誰も踏み荒らす事の無い雪原を独り掻き分ける母の姿。

 

 

   雪灑笠擔風捲袂   雪は笠擔(りふえん)(そそ)いで風は(たもと)()

   呱呱覓乳若爲情   呱呱(ここ)乳を(もと)むるは若爲(いかん)(じょう)

 

 

 母の耳元で泣き(じゃく)る己の声に胸が張り裂ける。物心が付く前の覚えている筈の無い荒景。我が子の楯と為って進む、恐怖も絶望も寄せ付けぬ決然とした母の眦。不実の飛び交う人の世と決別し、どんな困難にも立ち向かい乗り越えてしまう、余りにも強靱で壮絶な削ぎ落ちた横顔。其の偉大な背中の影で鉄郎は何時も震えていた。隠修士の様に地の果てを引き擦り回され、身の潔白を常に強いる、神の眼を背負った母の後ろ姿。過酷な境遇をより一層、被虐の坩堝(るつぼ)へと追い込む強行軍の連続。母の存在こそが此の鉛の様な艱難辛苦の根源なのではないかと讒言(ざんげん)する心の声。貧民窟の享楽と堕落と丁々発止に目移りをしては、其の迷いや嘘を見透かされて(おのの)き、非の打ち処の無い道理に屈服して、己の怯懦(きょうだ)と傷を舐め合った。(そば)に居て息が出来ぬほど研ぎ澄まされていく母に唯々圧倒されて、血の繋がりと命の重さに喘ぎ、そして再び、吹雪が其の勢いを増していく。新雪を駆る剛性軍馬の蹄が聞こえてきた。逃げ出そうとして踏み込んだ一歩が血の海で泥濘(ぬかる)み、膝から腰へと引き擦り込まれる。総てを失って初めて思い知る母への甘え。冬の稲妻が討ち下ろす萬謝(ばんしゃ)の鉄槌。母の背負っていた(あつ)い荷役に押し潰されて、生け贄となった母の血潮に顳顬(こめかみ)まで浸かり、藻掻こうとして振り上げた腕に地吹雪が絡み付く。手首を掴んで逆巻く旋雪の一陣。白魔の(つぶて)が再結晶し、石英の手弱女(たおやめ)が其の垂髪を霏霺(たなび)かせて、時の雫が頬を滴る鉄郎を記憶の底から汲み上げる。

 「鉄郎さん、出口が見えてきました。貴方の心を借りて、本の束の間とは言え、()うして外の光を垣間見る事が出来ました。本当に有り難う御座います。私が御仕え出来るのは此処迄です。もう時間が有りません。然様(さよう)なら鉄郎さん。」

水引の紙縒(こより)が解かれる様にクレアの腕が鉄郎の肩と脇を擦り抜けると、白墨の瞬く吹きッ晒しの銀幕が翻り、記憶の回廊を馳せる風洞が一気に拓けて、逆光の彼方からドラフトの鼓動が押し寄せてくる。拡散していた瞳孔が悲鳴を上げ、色と形を取り戻していく999の二等客車。見慣れている筈の木の温もりに包まれた平穏な意匠。然し、立ち(すく)む鉄郎の肌に刻まれたブリザードの残晶と、頭骨を反響する白魔の雄叫びが、安逸に運行する銀河超特急の車内を夢の中の絵空事だと斬り捨てる。何に目覚めたとも呼べぬ空々しい見当識の傍観。虚実の狭間に取り残された鉄郎は、再び姿を見失ったクレアの名を呼ぼうとした。すると、安全弁の蹴汰魂(けたたま)しい咆哮が其の出鼻を挫き、動輪が一瞬ロックして車体が跳ねた衝撃に追突され、額から通路の床板に叩き付けられた。睫毛の先で星々が弾け、其の遥か彼方に吹き飛ぶ生半可な微睡み。動輪のフランジが火花を散らして、減速する素振りさえ見せぬ999の剛脚が三半規管を打ちのめす。編集し損ねたモンタージュの様に目紛(めまぐ)るしい現況。此の逸脱した常軌を立て直すべく、乗降デッキの扉が開き、銀河鉄道のルールブックが床に投げ出されている鉄郎に駆け寄った。

 「大丈夫ですか、鉄郎様。御怪我は御座いませんか。」

 車掌の差し出すハンカチで己の涙に気付いた鉄郎は、慌てて二の腕で拭いながら、しとどに濡れた床板を突き飛ばした。

 「車掌さん、何なんだよ一体。脱線でもしたのかよ。」

 「小惑星帯のトンネルを抜けた直後に、機関室から火室内に異物が混入したとの警報を受け、今、確認に向かっている処で御座います。事は緊急を要します。此にて失礼させて頂きます。」

 鉄郎の無事を確認して一礼を献ずると、車掌は間髪入れずに機関室へと駆け出した。銀河鉄道網最上位路線に有間敷(あるまじ)き運行トラブル。噴慨に(いなな)く安全弁の暴騰と、車外を覆い尽くす迅雷を孕んだ煤煙に窓硝子が怯震し、不整脈を連鼓する動力に車内灯の輝度が乱高下する。無尽無情の天涯に()めず(おく)せず、堅調に操業していた999の怒張息巻く狂躁に駆り立てられ、鉄郎も車掌の後を追って現場に急行した。

 炭水車を乗り越えて運転室に辿り着くと、只でさえ気焔万丈の鉄火場が、焚口戸(たきぐちど)を中心に飴色に灼けて大気が揺らめき、配管のエルボーやチーズ、プラグキャップの捻子込みから蒸気が漏吹して、振り切れた各バルブの圧力ゲージが御互いを罵り合っている。運転室のオープンデッキに降りただけで糸を引くシャークソール。迸る汗が見る間に揮発し、有らゆる体毛の末梢がチリチリと燻る熔解の坩堝。先刻、車掌から機関室に案内された時には、泰然と旺臥していた豪胆なボイラーが、灼熱の鬼胎を抱えて身悶えている。何時破裂するとも知れぬ危険を顧みず、運転台の交換機に打電する車掌。放電ノイズの砂嵐越しに機関室の合成義脳が応答すると、後は只管(ひたすら)、テキストデータを読み上げる平坦な口調を連呼した。

 「二酸化珪素ト思シキ酸化鉱物ガ焚口戸ヲ突破シ火室内ニテ暴発。圧力ノ急騰ニ因リ火格子ガ熔壊シ、汽罐内壁ノ破損スル恐レ在リ。至急、灰箱ノ排出口ヲ手動ニテ開放セヨ。手動以外ノ制動操作ハ、不具合、誤動作、動輪固撃ノ恐レ在リ。至急、灰箱ノ排出口ヲ手動ニテ開放セヨ。」

 業務連絡と同じ基調で朗読される醒め切った緊急警報。其の辿々しい文節が上手く聞き取れぬ鉄郎は、他人事の様な声の主に問い返した。

 「ニサンカケイソって何なんだよ?」

 「二酸化珪素とは化学式SiO2で表記される、原子番号14元素の酸化物で、天然の鉱物として産出される結晶状態の物には石英、瑪瑙(メノウ)蛋白石(オパール)、玉髄等が御座います。」

 「石英って、水晶の事かい?」

 「其の通りで御座います。」

 合成義脳を代弁する車掌の一言に鉄郎は、恰幅の良い紺碧のブレサーを押し退けて焚口戸のペダルを踏み込んだ。

 「何を為さいます。御止め下さい。鉄郎様。」

 車掌の制止を振り切り、湯気を立てる半割の扉が開放されると、火室内で暴張していた熱量と(ひょう)の如き散弾が一気に噴射して炭水車の躯体に直撃し、其の撥ね返りが作動したスプリンクラーと攪拌して、水蒸気の煙霧に呑み込まれる運転室。焼夷の(つぶて)を浴びて車掌と鉄郎が運転席の隙間で揉み合い、其の頭上で繰り言を警告し続ける合成義脳と、肺の腑を焼き尽くす程の噎せ返しが、間違いで在ってくれと願う胸騒ぎを逆撫でする。何に抗っているのかも見失って終いそうな混濁を掻き分け、引き千切った車掌の腕章を手に白瀑とした煙幕の塊から首を出す鉄郎。焚口戸が封じられてスプリンクラーが停止し、充満していた水蒸気が車外に放逸されると、油を引いた鉄板焼きの様なオープンデッキに、涙の雫を凝結した石英の勾玉(まがたま)が散乱している。鉄郎が慌てて拾い上げると、氷菓子と見紛う澄み切った結晶とは裏腹の焦熱に指を焼かれ、零れた其の一欠片が縞鋼板の上を硬質に撥ねた。

 「クレアだ。クレアが此の中に居る。」

 火室を指して訴える鉄郎に、車掌は危うく暗黒瓦斯の頭部からズレ落ちかけた制帽を直しながら、其の目深に構えた鍔の奥に潜む二つの黄芒(こうぼう)屡叩(しばた)いた。

 「クレア?誰で御座いますか、其の方は。メーテル様と鉄郎様以外に御乗車している御客様は御座いませんが。」

 「何言ってんだよ。ウエイトレスのクレアだよ。食堂車の。」

 「鉄郎様、申し訳御座いませんが、此の列車に乗務しているのは私一人で御座います。何かの思い違いなのでは御座いませんか。」

 「そんな、真逆・・・・・。」

 「鉄郎様、其れは若しや、トンネル内の・・・・・、否、何れにせよ、今は不正乗車の有無を穿鑿している場合では御座いません。最優先されるべきは999号の安全な運行の復旧で御座います。灰箱を開放して不純物を軌道外に廃棄致します。鉄郎様、万一の場合に備えて、御席に御戻り下さい。」

 「軌道外に廃棄って、宇宙に放り出すって事かよ。巫山戯(ふざけ)んな。止めろ。999を止めろ。」

 「鉄郎様、申し訳御座いませんが、其れは致しかねます。手動以外での制動操作は、不具合、誤動作、動輪固撃の恐れが在ると機関室から警告が出ております。999号に装備されている自動ブレーキは空気圧に()る物では無く、全車輌を電子制御で束ねる貫通ブレーキで御座います。何卒、御了承頂きますよう御願い申し上げます。」

 「其のブレーキ弁のハンドルを手で回せば良いんだろ。其れだって手動じゃねえのかよ。兎に角、其処を退()きやがれ。」

 自動ブレーキ弁のハンドルを挟んで再び揉み合う鉄郎と車掌。其の背後から無言の一太刀が火を噴いた。脊椎を走る電撃に叩きのめされ、デッキの上で垈打(のたう)つ鉄郎。其の顔面に向かって足許の勾玉を蹴散らし、アークを飛ばすコスメスティックの撻刃(たつじん)を突き付けて、鳳髪の黒女(くろめ)が吐き捨てる。

 「騒がしいと思って来てみれば、何の事は無い。トンネルの闇に呑まれたのね。クレアですって?貴方、一体何を見たと言うの。だから食堂車で食事をしなさいと言ったのよ。どうせ成仏出来無かった残留思念にでも(そその)かされたんでしょ。亡霊風情が態々(わざわざ)結晶化してボイラーに身投げする何て良い迷惑よ。こんな人に当て付ける様な真似をして、余程構って欲しいのね。自殺ごっこなら誰も居ない処で独りで遣れば良い物を。そんな(くたば)り損ないに入れ上げて、(ざま)あ無いわね。」

 放電霏霺(たなび)く煤煙を背に傲然と聳える女帝の御出座(おでま)しに、鉄火場の灼度が跳ね上がる。制帽と背筋を正して一礼する車掌の足許で、親の敵に巡り会ったかの如く睨み返す鉄郎の険眉。水を差す処か油を撲ち撒けて(けしか)ける相変わらずの言い草も、今回ばかりは限度を超えていた。

 「何だとテメエ、刺し違えるつもりで言えよ此の野郎。」

 蹴散らされた石英の身霊(みたま)を左手で(いたわ)る様に掻き集め(なが)ら右手を腰に回した鉄郎は、立ち上がり様に戦士の銃をメーテルの鼻っ柱に突き付けた。白け切っている(かささぎ)の照星なぞ知った事では無い。啼かぬなら此の銃爪(ひきがね)をへし折ってでも啼かせる迄の事。遅かれ早かれこうなる巡り合わせだった物を、今の今迄、泳がせていた己が許せ無い。殺意すら蒸発する程の衝動で脳動脈が濁流し、レッドアウトする網膜。怒張した脳圧で頭骨が軋み、土足で踏み躙られた様に歪んでいく意識。其の毛細血管が弾ける顳顬(こめかみ)を背後からモリブデンの直管が冷徹にノックした。

 「銃を御納め下さい鉄郎様。威しでは御座いません。」

 南部式小型自動拳銃を握り込んだ車掌の黄眸(こうぼう)に偽りの曇りは無い。鉄郎は7㎜口径の小生意気な銃口を逆立てた眉間に突き当て、ジットリと押し返した。

 「社畜は引っ込んでろ。」

 人間狩りの凶弾に平伏した身無し子は確変し、ベビー南部の銃身を掴んで、睫毛の先に張られた死線を引き千切る。トンネルの闇の続きを見ているのか、熔解した石英の熱暴走に呑み込まれて焼天する鉄郎。其の(いき)り立つ肩骨に、背後から再び討ち降ろされた電撃が、思春期のレジスタンスに止めを刺した。頸椎に爪を立て髄液を駆け昇る光鎖の迅雷、出口の無い頭骨を乱氾煮(らんはんしゃ)する脳漿。顱頂(ろちょう)を突き抜けた懲伐に、稲光る視界が煤けた配管と圧力ゲージを虚ろに仰ぎながら倒壊していく。

 「こんな馬鹿、放っておけば良いのよ。さあ早く、灰箱を開放なさい。」

 肉体と精神を断絶され運転席に濡れタオルの様に(もた)れ、泡を吹いて失神している鉄郎に背を向け、メーテルがアークの散った鞭尖を巻き上げると、車掌はデッキから身を乗り出して排出用の梃子を引き、灰箱の蓋を吹き飛ばす様に撃ち出された滂沱(ぼうだ)(つぶて)が、零カラットの涙となって無限軌道と併走し、星屑の渦に紛れていく。

 

 

    白露に風のふきしく(あま)の野は

       つらぬきとめぬ玉ぞちりける

 

 

 良い気味だとばかりに小鼻を吊り上げ其の場を後にする黒耀(こくえう)の麗人。ボイラーの減圧に呼応して安全弁が終息し、クロスヘッドと大動輪が足並みを揃え、シリンダードレンが安堵の慨嘆を噴き上げる。何事も無かったと平静を装い、タイムテーブルの遅れを整然と取り戻す鋼顔(こうがん)の銀河超特急。其の後塵に掻き消されていく少年の心を透過した独片(ひとひら)の韻影は、本当にクレアと言う晶女(しょうじょ)は存在したのか、確かめる術も無く、白眼を剥いた威力業務妨害の現行犯は、車掌に担がれ元居た席へと運ばれていく。瓦解した(おとがい)から垂れ下がり糸を引く舌尖。鼻と言わず口と言わず筋を束ね、頬で泥濘(ぬかる)洟泗(ていし)の煌めき。持て余した若さと仮借無き真実に苛まれ、鉄郎は束の間の休息に陥落した。

 

 

    心思不能言  心思(しんし) 言ふこと(あた)はず

    腸中車輪轉  腸中(ちやうちゆう) 車輪(てん)

 

 

 往路の半ばにも満たぬ行き摺りの白宙夢。太母(たいぼ)の慈愛と抑圧の狭間で擦れ違った硝子の少女と永遠の少年。路露に消えた出会いとも呼べぬ瞬きを(ちりば)めて、十一輌編成の車窓の帯が千切れた8mmフィルムの様に、百数十億平方光年の銀幕を失踪する。

 

 

    離家參肆月   家を離れて參肆月(さんしげつ)

    落淚陌阡行   淚を落とす陌阡行(ひやくせんかう)

    萬事皆如夢   萬事 皆 夢の如し

    時時仰彼蒼   時時(じじ) 彼蒼(ひさう)を仰ぐ

 

 

 車掌の肩から二等客車のボックスシートに降架した鉄郎は、モケットの窪みの中で胎児の様に身を丸め、羊水の源泉を遡った。肉体と追憶に縛られた空蝉(うつせみ)の、後一歩の処で遠離(とほざか)る、終わり無き影踏みの末に迷い込む鬼界のトンネル。鉄郎は其の風穴の出口を、涙の乾いた瞼の向こうに探し求める。闇を点した晶女の残像を頼りに、踏み躙った心の欠片を拾い歩き、決して滅ぼす事の出来ぬ罪の数と照らし合わせる魂の巡礼。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。

 前後不覺(ぜんごふかく)鉄郞(てつらう)未智連(みちづ)れに、畸相(きさう)の天涯を漂泊する鋼鐵(こうてつ)の搖り駕籠。()の星を目指してゐるやら、皆目見當(けんたう)定まらぬ辰宿列張を前にして、銀河に流された捨て子の笹舟が健氣(けなげ)舳先(へさき)を突き立てる。押し寄せる(なみ)に飜弄され、巡り會つては引き離される、參文淨璢璃(さんもんじやうるり)のドサ廻り。

 

    擧頭望天象   (こうべ)()げて天象を望み

    低頭覗虛胸   頭を()れて虛胸(こきよう)を覗く

 

 

 鉄郞(てつらう)睛眸(せいぼう)、此の先、果たして、如何なる稀覯怪聞(きこうかいぶん)相見(あひまみ)えるや。未だ嘗てと枕に翳す、瞠然必須(だうぜんひつす)玖死轉轉(くしてんてん)。其れは復た次囘の講釋で。

 



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#4 重力の底の墓場

   白日掩荊扉、  白日(はくじつ) 荊扉(けいび)(とざ)し、

   虛室絕塵想。  虛室(きよしつ) 塵想(じんさう)を絕つ。

 

 

 そんな気取りは此の黒鉄の隔離病棟には通用し無い。()してや、相部屋の(ともがら)が重度の狐憑きと来た日には、通電した針の筵で捌かれる鯉だ。光脚を凌ぎ、銀河鉄道網の最長到達点を往復する最上位路線。其の至高のクルーズライフが持て成す脅迫的な迄の閉塞と狭窄に鉄郎は押し潰されていた。衣食住には事欠かず、肉眼では其の変化を感知出来無い、窓外の畏様な星景が催す宇宙酔いにも少しは慣れ、次の停車駅まで手持ち無沙汰な時間と安逸を膝の上で転がしていたのは、精々、天王星の公転半径の辺り迄。其処から先は、耳鳴り程度だった退屈が、今までそっぽを向いていた方の横顔を垣間見せ、()えた吐息を臭わせ始める。

 限られた区画の中で歪に肥大化し続ける車厘()質の時時刻刻。無為に過ごす漫然とした逗留が或る一線を越えた途端、グロテスクに変質していく密室の静物達。しっとりと手に馴染む背摺(せすり)の肘掛けが、メーテルのトランク以外、誰も使う事の無い網棚が、飴色に濁った白熱灯が、乗客の心を落ち着かせる為、謹製錬質で磨き上げられた、重厚な旧家の本邸を思わせる車内の意匠が不協和を奏で、息苦しく鉄郎の肩に伸し掛かってくる。家畜の様に食事、トイレ、風呂、ランドリー、座席のペンタグラムを周回するだけで何処にも逃げ場の無い、窓外を埋め尽くす絶界の宇宙が四塀に(そび)える、脱出不能の天翔けるアルカトラス。隣の車輌に移る為、貫通扉を潜る度に繰り返す永劫回帰な既視感に胃酸が込み上げ、車内の通路を歩いているだけで、其の場に身を投げ出したい衝動に駆られ、ラウンジに(しつら)えた図書室や娯楽室に潜り込んでも、室内に吹き溜まり充満した時流の腐敗臭に圧迫されて、棚から本を抜き取る事すら出来ずにフリーズして終う。恐らく普通の乗客なら、オンラインでUber私娼窟(ポルノ)を呼ぶなり電脳モルヒネカジノにダイヴして快楽の限りを尽くすのだろうが、通信帯域が制限されている現状では其れも(まま)ならず、何より鉄郎の眼の前に相席する狐憑きの存在が其れを許さ無い。

 食堂車と浴室、そして御公務とやら以外、一切席を立つ事の無い、山に籠もった修験者の如き神色自若。(しと)やかな秀眉に険の一筋すら限る事が無く、背摺のモケットに預けた柳麗な物腰は二曲一隻の幽谷を遊墨し、憂いを帯びた俯額(ふがく)(きざはし)で、黒耀(こくえう)に艶めく露西亜(ロシア)帽が、車内の人工重力に逆らって不可思議な角度で完璧に宙止している。退路を塞ぐ、一糸乱れぬ絶世の娟容(けんよう)に、

 「先に席を外した方が負け。」

 そんな勝負を勝手に無言で吹っ掛けては、

 「俺は此の馬鹿の握り金玉じゃねえ。」

 と(うそぶ)いて、鉄郎は自分の首を絞め上げていた。何故、メーテルは出口の無い放置プレイに平然と、否、優雅に耐えられるのか。無尽蔵に反復する勤厳な列車の駆動音を右から左に聞き流して、乗車券のホログラムが虚空に刻む時辰儀の運針は牛歩を究め、銀河を跨ぐ無限軌道が幾つの光を追い抜こうと、鉄郎自身はボックスシートの駕籠の鳥。人生の体感速度は1mmたりとも進んで無い。こんな窒息した石櫃(いしびつ)の中に閉じ込められて、聖母の嗜みを振る舞う狂乱の貴婦人を、逆恨みする以外に遣り場の無い苛立ち。鉄郎は何時しか、永遠に辿り着く事の無い次の停車駅を呪い罵る其の裏で、地球への郷愁が密かに芽生え始めていた。(ようや)御然(おさ)らば出来た筈の死の大地。飢えと徒労に(まみ)れた放浪の遍歴が、爪に火を点す火種すら無い難民の日常が今、当時は気付く事の出来無かった煌めきを湛えて甦ってくる。

 エスキモーや砂漠のキャラバン、酸素濃度の希薄な高地に身を寄せるチベットの民の様に、母が限界領域を生活圏にしていたのは、厳しい環境を生き抜く知恵と勇気さえ有れば、人間同士の(いさか)いに、奪い合い、殺し合いに巻き込まれるリスクを避ける事が出来たからだ。どんなに激劣な汚染地帯も人間に闇討ちされる恐怖に較べたら、身動きの取れぬ毒蛇と変わら無い。どれ程の困窮と天変地異に曝されようと、管理区域外の荒野には絶望を絶叫出来る無制限の開放感が在り、生き延びる為に強いられる苦役にも、余計な邪念に囚われる事無く、己の肉体に没頭出来る健全な白熱が在った。重金属の浸み出す土壌や壊滅した廃墟を巡る切迫の先で待っている、汗と埃(まみ)れの些々(ささ)やかな発見と達成感。其れが此の護送列車の檻の中では、湧き上がる焦燥の総てが発散される事無く、己の内面に向かって逆流し、其の深層を何処迄も掘り起こし、闇に(ひし)めく、時間とは、空間とは、存在とは、精神とは、言語とは、人間とは、生きる価値とは、有らゆる哲学的命題を暴き立てて攪拌し、蠱術(こじゅつ)の如く生き残った虚無の毒牙に鉄郎の腸は喰い千切られる。暖衣飽食のツケと言うには余りにも醜怪で苛烈な代償。糖質、ミネラル、必須アミノ酸で血流が飽和し、生まれて初めて栄養失調と環境ホルモンからリセットされた壮健な肉体が恨めしい、魂の失調。そんな今の今迄経験した事の無い、健全な若さを持て余す無間地獄のドン底で、鉄郎は何時しか、と或る醜怪な悪夢に魘される様に為っていた。

 

 脱ぎ捨てられた墨染めのフォックスコートに顔を埋め、白檀の薫りを纏った雌の臭いを嗅ぎ(なが)ら覗き見る、鍵の掛かってい無いシャワールーム。扉の隙間から溢れた()せ返るミストの向こうに、タイタンで目の当たりにした匂い立つ白磁の柔肌が揺らめいている。磨り硝子一枚を隔てて、官能の限りを尽くすヴィーナスの遊湯。思春期の眩暈(めまひ)に霞む絶世の旺裸(わうら)。俺は何を為ているのか。何時からこんな出歯亀(でばがめ)に身を落として終ったのか。血走った眼光で優雅に滴る蜂腰を追い乍ら、鉄郎は固唾を呑んで、己を(なじ)り倒した。彼程憎み、呪い続ける不倶戴天の宿敵を前にして、荒い息を秘め、恍惚の一時に溺れる屈辱。悩殺された理性を、背徳の色香が更なる悦楽へと引き擦り込む。其れは異性への憧れと神秘を、性春の小さな冒険を逸脱した妖魔との戦いだった。

 銀河の煌めきを一身に集めた饒舌(ぜうぜつ)な美貌に魅入られ、前立腺を掻き分けて脈打つ灼熱の野性。ダックパンツのボタンフライに喰い込んだ尿道の刺激が悲鳴を上げる崖っ縁の自制心。此れは罠だ。常日頃から奔放で無防備な狂おしい其の仕草。鳳髪を掻き上げ、思わせ振りに足を組み替へて危険な遊戯を(ほの)めかす此の女狐は、総ての漢を挑発し、侮辱している。(しつか)りしろ鉄郎。奴は俺に恥を掻かせるのが生き甲斐の女郎蜘蛛(ぢよらうぐも)だ。こんな安い撒き餌に喰らい付いて何うする。()してや、決して見紛(みまが)う事の無い、生まれ変わりの其の面差し。こんな母と同衾(どうきん)するに等しい欲情、(ゆる)される訳が無い。君子の襟帯(きんたい)(ただ)し、斬首を(いと)わぬ其の叱責で、己の頰を打つ鉄郎。併し、メーテルの限度を超えた暴言の数数、殺人的な仕打ちの恨み辛みが、(こじ)れた童貞の鬱勃(うつぼつ)(あぶ)り立てる。

 貴様は此の(まま)、絵に描いた虎で終わる積もりか。喪中の御年賀じゃ有るまいし、遠慮して何の徳が在る。獲物は眼の前だ。()う言う巫山戯(ふざけ)た女には罰が必要で、少し位の痛い目に遭わなければ、捻じ曲がった性根は治ら無い。此奴の馬鹿げた乱痴気騒ぎで、毎回生死をさ迷ってるのは何処(どこ)何奴(どいつ)だ。こんな息の根を止めても飽き足らぬ淫売に、手加減なぞ(もつ)ての(ほか)。甘い顔をして泳がせておくのは此処迄だ。一方的に遣られっ放しで漢の立つ瀬は何処に在る。真逆(まさか)、非の打ち処の無い彼の(からだ)に筆を下ろすのが怖いのか。こんな上玉を前に尻込みをしてたら、次のチャンスは来世を(また)いだ世紀末だ。其れ迄、男の身竿(みさを)を護る積もりか。犬だって飼い主に甘噛み位はするもんだ。漢なら本当の御主人様は誰か躰でタップリ教へてやれ。

 下半身から突き上げる、手懐(てなづ)け様の無い狂牛の雄叫び。併し、そんな劣情を究めた渾身の野次も、既に臨界を超えて蕩壊(たうかい)し、遠退(とほの)いていく意識の前では、舌を抜かれた雀の(さへづ)りでしか無かった。曇り硝子を撃ち貫かんばかりに張り詰め、(いき)り立つ十代の絶倫。顳顬(こめかみ)に爪を立てる静脈が弾け、人の皮を剥いだ本能の煉獄から、百獣のマグマが鉄の(くびき)を引き千切る。

 鉄郎は身を隠していた扉を押し退け、山賊の様に土足で踏み入ると、(ほとばし)るシャワーの(つぶて)を弾く獰猛な膂力(りりよく)でメーテルの唇を奪い、(たは)わに実る瑞瑞(みづみづ)しい乳房に喰らい付いた。母の面影を押し倒して(むさぼ)る禁断の果実。秘密の花園に姦通する蛇蝎(だかつ)の如き毒牙。一心不乱の本性と骨肉に、前戯も無ければ愛撫も糞も無い。迅雷が肛門の括約筋から脊髄へと(さかのぼ)り、沸騰した海綿体に殺到する白烈。堰を切って濁流する化膿した毒素は、幾ら放銃(はうじゆう)しても治まる事を知らず、終わり無き暴発の泥濘(ぬかるみ)(のめ)り込んでいく。(ほふ)る者も(ほふ)られる者も一塊の牡と牝と化した没我の混沌。見殺しにした母を再び裏切り、神をも殺した完全無欠の冒瀆。処が、そんな前後不覚の少年の叛逆とは裏腹に、一糸(まと)わぬ蠱惑(こわく)淑女(しゆくぢよ)は、時ならぬ暴漢に其の身を委ねて、叫ぶ処か(あらが)いもせず、独欠片(ひとかけら)の恐怖も無い、侮蔑に氷血した微笑みで、其の我武者羅(がむしやら)な若さを(みつ)めていた。

 私を征服出来る物なら遣ってみろ、と言わん許りに仰臥(ぎやうぐわ)した、絕対的主従の金字塔。此の揺るぎ無い尊厳は、一体何処から湧いてくるのか。生け贄の分際で生意気な。(うめ)きも(あへ)ぎもせぬ腐ったマグロに跨がり腰を振り続ける、怒りと憎しみに(まみ)れた、糖蜜の様な自己嫌悪。息を継ぐ間も忘れて、穴と言う穴を串刺しにするだけの一本槍な拙攻。激しく凌辱しようと為れば為る程、手応えの無い興奮は空転し、性の下僕に科せられた強制的な苦役に成り下がっていく。此れは最早、色魔の餌食と為って搾取される青臭い欲動ですら無い。鉄郎は何時しか、善悪の彼岸に座礁して立ち尽くし、肩で息を為乍(しなが)ら、己の残忍な不始末を見下ろしていた。

 

 

    み吉野の水隈(みぐま)(すげ)()まなくに

       苅りのみ苅りて(みだ)りてむとや

 

 

 大の字に身を投げ出した儘、もう終わったの?と言わん許りに、()ち撒けられた白濁を拭おうともせず、金絲雀(カナリヤ)色の乱れ髪の隙間から鉄郎を見上げ、少年の未熟な試技を採点する引き裂かれた聖母。一分の恥じらいも無い排水溝の穴が、股を開いて更なる追撃を待ってゐる。メーテルが独りの女に戻り、泣いて許しを乞う様を思い描いていた鉄郎は、決して誰とも絡み合う事の無い、一方的な己の情念に愕然とした。悪魔を(けが)し踏み(にじ)る事は、人の力では(かな)わぬ所業なのか。此の女の魅力と魔力の(とりこ)と為って、母の躰で絶頂し、赤裸裸に曝した無様な性癖。手玉に取られた卑劣な遊戯の敗者は、美人局(つつもたせ)の思う壺に頭から()まり込み、恵んで貰った如何(いかが)わしい快楽の施しを、膝から(かかと)へと舐める様に垂れ流していた。本当の勝利とは相手に指一本触れず、戦わずして相手を投降させる事。所詮、暴徒は奴隷の成れの果てだ。完膚無き迄に挫折した野良犬のレジスタンス。此の列車の主は犬を飼う事になぞ興味は無い。犬に仕込んだ芸を(ひけらか)したいだけだ。こんな(みだ)らな調教師に必死で尻尾を振っていた何て。俺が噛み付いたのは服従のパンだ。奇蹟と神秘と権力に因つて完璧に管理制御された、仮初(かりそめ)の愛と自由。借り物のパスで無賃乗車している身無(みな)()に、反抗期何て烏滸(おこ)がましい。横隔膜で波打つ悪寒が立ち籠める湯気を振り払い、犯行現場の浴室を空疎な地吹雪が駆け抜けていく。こんな稚辱(ちじよく)を繰り返す位なら、彼の時、一思いに殺されていれば良かった物を。下半身を剥き出しにして嗚咽(をえつ)する、夜尿症(やねうしよう)の治らぬ幼児の懺悔。足許を浸すシャワーが人間狩りの血の池に黒変し、根元から()し折られた十字架の様に放置された金色(こんじき)の裸婦を、()いで()いだ母の襤褸外套(ぼろがいたう)が覆い隠していく。鉄郎は己が(かぶ)()き濡れ衣の前に、膝から崩れ落ちて眼を覚ますと、(つね)に其処には、身も世も無い夢路の一部始終を視姦していたかの様に、北叟笑(ほくそゑ)む母の生き写しが、モケットのボックスシートに足を組み替えて待っていた。

 

 

    思ひつつ()ればや人の見えつらむ

       夢と知りせば()めざらましを

 

 

 芸を仕込んだ飼い犬の戸惑いを()でる好奇の眼差し。勝ち誇った気怠(けだる)い沈黙が(ほの)めかす三十一(みそひと)文字を突き付けられる(たび)に、鉄郎は屈辱的な粗相(そさう)を悟られぬ様、生温(なまぬる)い内股を(かば)い乍ら席を立ち、忌忌(いまいま)しい甘美な残尿感を引き擦ってトイレに一時避難し、事後処理をする。判で押した様に日を置いて再生される暴走と絶望。此の淫夢は夢精周期に(のつと)った男の生理か、将亦(はたまた)、相席の()れ者が未成年の深層心理を遠隔送査して焼き付けた他重催夢か。奴なら俺が寝ている隙に其れ位の小細工、(いや)、そんな真逆。下着を履き替え乍ら錯綜する狐疑。黄濁した蛋白質が戒める、行き場の無い若さの濫泌(らんぴつ)。何もかもが(みじ)めで、鼻を摘まんで水に流しても、ジットリと寝汗に粘着している。あんな遊女に欲情し、母をも穢して終う何て。此れは何かの間違いだ。此の無限軌道に(あまね)く、(けぢめ)の無い退屈の仕業だ。悪乗りにも程が在る詐術だ。声を荒げる訳にもいかぬ鈴生(すずな)りの呪詛を、苦苦しく噛み殺す鉄郎。()して不図(ふと)、此の不毛な密室に潜む、もう一人の当事者に思い当たる。

 眼の前に顕現鎮座する豪奢な阿婆擦(あばず)れは常識の(らち)(がい)として、車掌は何う遣って此の奇矯で膨大な倦怠を遣り過ごしているのか。偶に車掌室を覗いても業務に追われている様には(とて)も見えず、定期的に車内を巡回し、たった二人の乗客に頭を下げて去っていくだけで、鉄郎と同じ時間を共有している筈なのに、慇懃至極な振る舞いに終始(かげ)りは無い。(そもそ)も、車掌の存在其の物が謎の塊だ。どんな躰の構造で、機械化しているのか、生身の躰を暗黒瓦斯(ガス)で外装しているのかも判ら無い。外装しているならしているで、何故そんな事をする必要が有るのか。そんな穿鑿(せんさく)を、己の淫業を掻き消す為に、偏頭痛の釜底で煮立てていると、デッキに面した扉を開けて当の車掌が車内に飛び込んできた。

 「メーテル様、鉄郎様、銀河鉄道中央管理局からの報告で、太陽系外縁環状線の周遊型臨時列車GL-776が、今から一時間程前に此の領域で軌道から脱線した(まま)行方不明となっており、鉄道公安警備分室と系外連盟捜査局が現場に急行中との事で御座います。誠に申し訳御座いませんが、万が一の場合に備えて、進行方向に背を向けて御座り下さい。」

 ボックスシートの前で深々と最敬礼した紺碧のダブルに閃く、押し付けがましい程の明哲。相変わらずの正規直交を袖にして、メーテルは当て付けの様に鉄郎の隣へ席を移ると、車掌の言葉尻を御通し代わりに摘み始めた。

 「アラ、そうなの。分室と系外連盟って言う事は、元海賊と民間軍事会社の再就職組同士でしょ。どうせ又、一昔前の因縁とか手柄の奪い合いから撃ち合いに為って、現場も証拠も被疑者も被害者も全部(まと)めて星の欠片にして終うんじゃないの。」

 「事故の詳細は随時御報告致します。先ず第一に、身の安全の確保に御留意頂きますよう、何卒宜しく御願い申し上げます。」

 「面白く為ってきたわ。999に装甲車を連結して、連中が揉め始めたら、どさくさに紛れて撃ち落とすのよ。」

 「メーテル様、其れは(いささ)か・・・・・・。」

 「其の程度の事で此の無限軌道に矢を向けるようなら、ハイ、其れ迄よ。どうせ、真っ当に操業している輸送船まで強引に取り締まって賄賂を漁ってる様な連中じゃないの。穀潰し達の忠義が本物かどうか確かめるのよ。」

 何時もの調子で疳の虫が疼いてきたメーテルに、車掌は恐縮した儘硬直し、地雷を踏み分ける様に言葉を探している。後は何処で発作を起こすのか其のタイミングを計るだけ、そんな雲行きに鉄郎が首を竦めて身構えると、腰を沈めていたモケットの起毛から風を孕んだ様に背筋が浮き上がった次の瞬間、重力の糸が断絶し、無限軌道を見失った客車諸共、鉄郎の三半規管は暗転した。

 

 

    飛流直下參仟里  飛流 直下 參仟里

    疑是銀河落玖天  疑ふらくは是 銀河の玖天(きうてん)より落つるかと

 

 

 室内の天地が渦を巻き、虚空に投げ出された車列を逆関節に屈曲する十一輌編成。鉄郎は宙を遊泳し錆止(せいし)していた体内時計のアラームが心の鼓動を拍ち鳴らす。(くわ)え込んだナックルを(よじ)り限界を訴える連結器。車重から解放され光速で空転する動輪に悲鳴を上げる軸受箱のブッシュ。発狂したシリンダーのピストンに激甚するクランクシャフト。猪首の突管から火砕流の様な瀑煙を逆立てて警笛を連呼する鯨背。生温いスポーツ飲料の様な退屈は野良犬の様に蹴散らされ、頻発する天変地異を母の手に引かれ乗り越えてきた第六感が、足場を失った己の命を如何に繋ぎ止めるのか嗅ぎ分ける。此の暴落が軟着陸で納まる訳が無い。床板と張り上げ屋根を跳ね回り(なが)ら、鉄郎は咄嗟に網棚の中に潜り込み、真鍮鍍金の金具に獅噛憑(しがみつ)いた。失踪する無明の奈落に沸き起こる無言の底力。背中合わせで恐怖と好奇が反転する戦慄。窓外を埋め尽くす未知の闇の中に機関車の前照灯を反射して一筋の光跡が閃いた。眼を凝らした途端、波打つ車体に遮られた翡翠(ひすい)の残像と入れ替わりに、迫り来る何物かの高調波が耳骨に爪を立て、短急気笛の連呼が長緩汽笛の絶叫に()け反り、錯乱する電磁ノイズに呑まれた車内放送のスピーカーが何事か喚き立てる。機関室の合成義脳が曝す万策の尽きた痴態に鉄郎が其の時を悟ると、後続の車輌が剛頑な鋼造物に激突する衝撃が、客車の躯体を、鉄郎の脊椎を突き抜けた。

 肋骨と頬骨に喰い込む網棚の編み目が引き千切れて金具の捻子が飛び、ボックスシートに振り落とされてバウンドした鉄郎の脳裏を()ぎる、産廃のボタ山を薙ぎ倒し(なが)ら呑み込んでいく津波の猛威。鼻先を掠め、北叟笑(ほくそゑ)む死の予感。糸が切れ行方不明だった重力が隕石の様に再臨、暴発し、鋼郭を轢き裂き、硝子の砕ける轟音が車内を蹂躙する。転覆した眼界を飛び交う断片化した状況の散弾。其の輻輳した狂瀾の狭間を貫く、窓外で火花を散らしながら999と絡み合う常盤色の機体、と言うより此は、車列。鉄郎は一瞬で騰落が輪転する壁面に殴打され乍ら、間接視野で流線型のレタリング、型式番号“GL-776”が其の銀鱗を翻すのを捉え、ボックスシートの脚に(すが)り付いた。偶然か必然か、迷い込んだのか()められたのか、辿り着いた其の先で、気が付けば神隠しの軍門に降った二匹目の泥鰌(どじょう)。後の祭りが確定した処で、(あざな)える二列の遭難車輌のランデブーは終息し、猛威を揮った隕力が影を潜め、車内が天地を取り戻すと、機関車の駆動音も途絶し、緘黙の膠着が垂れ込めていく。

 床に顎を突いて顔を上げ一息吐いた鉄郎は、ボックスシートの下に挟まって失神している車掌を見付け、骨身に(まと)う打撲を引き擦り乍ら這い寄ると、こんな驚天動地の渦中でも制帽が脱げぬ様に両手で押さえたまま硬直している健気な姿に頬が緩んだ。非常用バッテリーが作動しているのか車内の白熱灯は点いているものの、機関車の動力が作動している気配は無い。車掌には先ず機関室の状況と外部との連絡が取れるのかを確かめてもらわなければ。絡み合っている臨時列車の安否の事も在る。だから何時迄もこんな処で、

 「寝惚けてるんじゃ無いわよ。急いで機関室から中央管理局へ現状を報告させなさい。」

 一体何処に退避していたのか、黒尽(くろづ)くめの痩身を凛然と聳え立ててメーテルが現れると、死に馬同然の車掌に向かって其の怒鎚(いかづち)を振り下ろした。働き蜂をも皆殺しにする女王蜂の恫喝に跳ね起き、怒号のする方角へ鹿威(ししおど)しの様に腰を折る車掌の脊髄反射。其の平伏した後頭部に蜂腰の一檄が更なる追い打ちを掛ける。

 「其れと、隣の周遊列車に乗り移れる様に成層宙絶で結界を張るのよ。向こうの客車から発する重力に999は絡み取られているわ。此の騒ぎの元凶は未だ車内に居る筈よ。こんな場末のサルガッソーに人を突き落として、只で済ませる訳にはいかないわ。」

 切れ上がった眦が怨嗟の火柱(ほばしら)で白檀のオードトワレを焚き()め、鉤爪の様に鋭利な口角を小鼻の脇に抉り立てると、翻る凰金(おうごん)の垂髪が床の上に跪いている鉄郎の頬を張り、子飼いの首輪を有無を言わさず締め上げる。

 「行くわよ。」

 暗礁し息の根の止まった車内を穿(うが)ち先導する、切り立ったピンヒールと、一定の距離を置いて尾行する8897のシャークソール。鉄郎はメーテルの怪気炎に従う気なぞ更々無く、此の規格外な無鉄砲が最悪な末路を辿る決定的瞬間を見逃すな、(あわ)良くば介錯の一つでも執ってやれ、と煽るハイエナ根性に半ば不貞腐れ乍ら引き擦り回されていた。確かに彼の馬鹿の言う事にも一理有る。車窓から覗く難破した周遊列車の様相は只事では無い。999との衝突に()る外傷も()事乍(ことなが)ら、(やに)の様に褪色したコーティングと粉々に剥離した外装のラッピングの下で、腐蝕し膨脹した車体の成れの果ては、数世紀の時を経て引き揚げられた沈没船かと見紛う程で、とても本の一時間前に消息を断ったばかりとは思え無い。討ち敗れた落ち武者の如き其の姿が黙して語る奇怪な惨劇。其の真相を紐解かずに此の奈落の底から御然(おさ)らば出来る程、柔な案件では無い筈だ。幽霊列車の正体を暴くと息巻いてはいるが、当の本人が回収不能な分際で手に負える代物なのか。結局最後は、天衣無縫な無軌道狼藉に巻き込まれて、其の尻拭いを押し付けられるのではないのか。鉄郎はメーテルの傲岸な鼻っ柱がへし折れる奇蹟に期待しつつも、気が付けば何時も負の引力に呑まれている己を戒めた。

 独断専行で宇宙の秩序を台無しにする叛逆のカリスマは、昇降デッキの扉を開け交錯した周遊列車の前に出ると、成層宙絶されているのかどうかも確かめずに、朽廃して枠ごと外れた車窓の一つから、何の迷いも無く乗り込んでいく。磁発性の帯気圏で防御されているかどうかを肉眼で見分けるなんて有り得無い。残骸化した遭難車輌の動力は完全に止まっている。若し、踏み込んだ先が真空状態だったら、全身の水分が煮沸し、物の数秒で熱暴走したシャボン玉。破裂寸前に膨脹した蛋白質は、棺桶に片足を突っ込む事すら出来ずに蒸し上がると言うのに。鉄郎は眉を(しか)め乍ら一呼吸置いて腐壊した開口部に脚を掛けた。重錆化(じゅうしょうか)し軋みを上げて砕ける鋼骨。踵が抜け落ち、危うく隣接した車輌の狭間を縫って広がる放外な宙空に飛び込みそうになる。泡を食って周遊列車の車内に腕を伸ばし、無我夢中で掴んだ塊に体重を預けた途端、其の支えも根本から千切れ、鉄郎は頭から車内に転がり落ちた。

 窮屈な隙間に填り込み、上から覆い被さる雑駁な落下物に埋もれて這い(つくば)る闇の賑わい。打撲に打撲を重ねて身悶え、捥ぎ取れた忌々(いまいま)しい塊を床に叩き付けようとした其の手を、999の車窓から漏れる薄明かりが引き留めた。植毛の絡む五指が掴んだ入出力ポートと放熱ファン。破断面から散華する脊髄ケーブル。電脳カートリッジの埋め込まれた生首が、人工皮膜を突き破って鉄郎を睨み付けている。余りの形相に捥ぎ立ての頭蓋を慌てて放り投げ、片側二列のシートから(くずお)れ伸し掛かる二体の機械化人の躯体を鉄郎が押し退けると、其の無様な狂態に背を向けて雅なオードトワレが閃いた。御扉(みとびら)の隙間から零れる神火の様に通路を縦断する垂髪の隻影。嘲りを含む薄ら寒い蒼唇(そうしん)独片(ひとひら)が、醒め醒めと(むせ)閑吟(かんぎん)に車内の浸陰(しんいん)が色めいた。

 

 

    くらきよりくらき道にぞ入りぬべき

       はるかに照らせ天の岩の戶

 

 

 メーテルの翳したアルマイトスティックの光輪が暴き立てる、四列シートの車内を埋め尽くす遺跡化した乗客の死屍累々。敗滅した人工被膜と衣服から露出した基板のプリントが捲れ上がり、剥落したベアチップが石櫃(いしびつ)に流入した土砂の様に膝の上からシートへと堆積している。永遠の命を焼き尽くす壮絶な時場に引き寄せられて灰燼(かいじん)に帰した機族の葬列。星を巡り光を越える至高の技術を持ってしても逃れる事の出来ぬ万物の摂理。駆け抜けた悠久の歳月に、死神すら息を潜める整然とした車内は粗大な廃材に()し、天国へと脱皮した乗客の抜け殻も、規則的に配置された瓦礫と同化して、反復と差異のモザイクを(かたど)り、物見遊山を満喫していた、天涯に轟く栄誉栄達も、天寿を買い占める豪満な財力も、天理に挑む増長した自意識も露と消え、史実から欠落した古戦場の様に、唯只管(ただひたすら)、枯れ果てている。在りし日の残り香すら寂滅した其の暗黙に、メーテルは翳したスティックを胸元に降ろして灯りを消すと、参列した遺骸を弔うでも無く吐き捨てた。

 

 

    いづくにか世をば(いと)はむ心こそ

       今も昔もまどふべらなれ

 

 

 大方こんな事だろうとは思ってはいたけど、相変わらず趣味の悪い女ね。己の運命を呪うのに、蟻地獄の真似なんてする必要も有るまいに。世を拗ねて自分で掘った穴に閉じ籠もってる癖に、一々誰かを巻き添えにしないと気が済ま無いなんて、承認欲求も此処まで来ると大した物ね。」

 再び闇に包まれた満場の告別式に向かって独りごち、不意に振り返るメーテルの彗眼。其の威迫に鉄郎は思わず座したまま尻で後退るも、氷点下の焼きを入れた虎視の切っ先は、腰の砕けた小兵の頭上を掠めもせずに斬り裂いた。隣の車輌から漂迫する気配に感応して喪然と毛羽立つフォックスコート。華奢な肩口から(みなぎ)り、糸を引いて苛立つ瘴気(しょうき)。何者かが貫通扉の敷居を跨ぎ、通路を閉ざす自動扉の磨り硝子に(ぼや)けた火影が浮かび上がると、メーテルは胸元のスティックを振りかぶり、迅雷(ほとばし)る石火の撻刃(たつじん)を叩き込む。有無を介さぬ誅撃に電壊する彼我の境。アークの(くさび)に散華する亀裂の斬像が、拡散していた瞳孔に燦爛(さんらん)し、視神経から後頭部を貫通する。瞼に焼き付けられた縦横無尽の白熱。黒耀の霹靂(へきれき)に響鳴する四列シートの霊柩車輌。撃ち砕かれた運命の扉が膝を屈し、燃え尽きながら舞い降りていく砂絵の飛沫を看送(みおく)る様に、狐火の様な燈會(ランタン)を提げ、海松(みる)色のチャドルを目深に被った女が悄然と現れた。

 幸の薄い眉、猜疑に沈む三白眼、垂れ下がっている前髪と見分けの付かぬ、小筆の先で線を一本引いただけの鼻筋、削ぎ落ちて表情の失せた頬骨と口角、硝子細工の様に脆弱な下顎、卒塔婆(そとば)を掻き分けて這い出してきた様な土気色の肌。(およ)そ、芳情純朴、衆望醇徳とは無縁の、メーテルとは又一味違う魔性に()した墓場の仙女。そんな違う穴の(むじな)に縄張りを荒らされて、同族嫌悪の狼煙が立ち昇る。

 「竜頭(りゆうづ)、貴方何時からこんな地獄巡りの添乗員に鞍替えしたの。忙しいのは結構だけど、少し派手に遣り過ぎたようね。」

 乱れた垂髪を掻き上げながらメーテルが一歩躙り寄ると、チャドルの女は闇に融け出した墨染めのフォックスコートに向かって燈會を掲げ、表情筋を微動だにせず斬り捨てた。

 「おやおや、私の名前を知ってて、其の(はす)に構えた露西亜帽と言う事は、貴方はメーテル?真逆(まさか)ね、()りに()ってこんな(ざる)の様な定置網に天河無双の超特急が掛かるだなんて。」

 「口が過ぎるわよ。少しばかり時軸と磁場に細工が出来た処で、其れで心が満たせる訳で無し。有るべき力の使い方が判ら無いと言うのなら、教えて上げなきゃいけないようね。有るべき力の遣り方で。」

 「親会社の権威を振り回して、手当たり次第に恨みを買っているだけ在って、流石に言う事が違うわね。でも所詮、999と言う首輪を填めた、人を見れば吠える犬じゃないの。そんな虚仮威(こけおど)しに私が怯むとでも思っているの。私は此の列車が軌道から離脱する不審な動きを観測して様子を見に来たのよ。そうしたら・・・・・。」

 「そうしたら、列車の時間が何千年も進んでて此の有様だったって言うの?こんな芸当、貴方以外に誰が出来るの。乗客を皆殺しにして、999迄引き擦り込んで。」

 「信じる気が無いのなら話す必要も無いわ。」

 「男と女がラブホから出てきて、俺たち一発も遣ってません何て吼えているのを、信じる馬鹿が何処に居るのよ。そんな話を真に受ける位なら、陰陽五行や風水に(そそのか)されてる方が増しだわ。伯爵の肝煎りで側近に納まってるからって、良い気に為ってるんじゃないわよ。」

 蛇蝎(だかつ)の如き光鎖を足許に打ち降ろして雷花を散らすメーテルと、表情を絶した(おもて)を楯に受けて立つ竜頭の攻防。半ば女の痴話喧嘩に流れ始めた其の刹那を不意に掠める舌閃に、蚊帳の外だった鉄郎は思わず身を乗り出した。

 「オイ、其の伯爵って言うのは・・・・・真逆(まさか)・・・・。」

 「そうよ、鉄郎、其の真逆よ。何を気に入られたか知ら無いけれど、此の女は時間城に出入りして、機械伯爵の使い走りをしてるのよ。そうだわ、良い事を思い付いた。どうせだから、鉄郎、此の女の事は貴方に任せるわ。こんな土竜(もぐら)の掘った穴、首を突っ込んだ私が馬鹿だった。貴方も伯爵や時間城の事を訊きたいでしょ。竜頭、此の子は親の敵を討つ為に伯爵を捜しているのよ。大切な御主人様を御守りする為に、(つい)でだから今の内に刈り取っておいたらどう。煮て喰おうと焼いて喰おうと貴方の好きにすれば良いわ。どうせ、999の運行が滞って一番困るのは銀河鉄道株式会社の大株主なんだから。精々、御涅(ごね)御涅(ごね)て、権力に(くら)んだ片目の化け物に泥を塗れば良いのよ。じゃあ、鉄郎、後は頼んだわね。私はラウンジで一息吐く事にするから。何だったら御茶の用意をしておくわよ。其れなら其れで、冷めない内に其の土竜を片付けて終いなさい。遣り方は貴方の好きにすれば良いわ。」

 メーテルは険眉を解き、垂髪を振り撒いて踵を返すと、乗り込んできた開口部に手を掛けた肩越しに振り返り、呆気に取られている鉄郎に発破を掛けた。

 「哥枕(うたまくら)見て(まゐ)れ。」

 

 

 メーテルが999に引き揚げ、遭難車輌に放置された鉄郎と竜頭。幾重にも塗り重ねられた闇の僅かな陰影を燈會の瞬きが炙り立て、崩落する扉の破片が息の根の止まった静寂を(くすぐ)る度に、気拙い空気を増幅する。再び、星辰百代を一瞬で飛び越えた時空の奈落に逆戻りした車内。竜頭はメーテルの出て行った開口部を睨み付けたまま石化し、其の脇に佇む鉄郎の存在なぞ完全に眼中に無い。好きにしろと言われて、ハイ、そうですかと竜頭を締め上げる訳にもいかず、鉄郎は足許に転がっている自分が捥ぎ取って終ったダイカスト製の生首を、座席の間に蹲っている元の(あるじ)の肩胛骨の上に供えて軽く手を合わせると、改めて全席を埋め尽くす兵馬俑(へいばよう)の如き死の隊列を見渡した。

 「全く、酷ぇ事しやがる。」

 聞こえよがしに言ったつもりは無いが、思わず口を衝いた唾喝に、無言で背を向ける竜頭の飄然。何方(どっち)が前か後ろか判ら無くなったチャドルが、元来た車輌に燈會を翳し其の場を後にするのを、鉄郎は肩を竦めて見送ると、植毛が(まだら)に剥がれた落ち武者の如き生首に眼路を返した。群がる(うじ)(はらわた)を曝した行き倒れが、其処等中に転がっているのを見て育ち、肉体の死が何時も隣り合わせだった其の反動で、宇宙への飛翔と機械の躰を渇望した少年と、土に還る事も許されず塵界濁世に(はりつけ)にされた鋼鉄の形代(かたしろ)。永遠の命、電脳化、そんな幻を競い合った人の世の浅はかな栄華の幕切れに、有り余る己の若さが冷や水を浴び、無限の可能性を見失った夢と希望の羅針が波打ち、渦を巻いている。妖術の解けた桃源郷に取り残された鉄郎は、漂蕩流落した時の(すみか)の眺茫に自然と言葉が溢れ、絶句した。

 

 

    濡れてほす山路の菊の露の閒に

       いつか千歲(ちとせ)を我は()にけむ

 

 

 不図(ふと)浮かび、為す術も無く闇に零れた偶詠放吟。そんな慰めにも為らぬ三十一文字(みそひともじ)に、貫通扉を潜り隣の車輌に乗り込もうとする、チャドルに覆われた足取りが止まった。燈會の燐火が翻り、鉄郎の元に舞い戻って、其の眼の前に無言で立ち尽くす竜頭の硬直した形相。意表を突かれた鉄郎は鬼気迫る威容に躊躇(たじろ)ぎ、苦し紛れの口火を切った。

 「本当に此の列車の時間を進めたのか?」

 身構えて相手の出方を窺う鉄郎。息の詰まる鉛の様な眼差しが(わず)かに綻び、竜頭が(しず)かに(うなず)くと、横一文字に短く引かれただけの唇が箝口の禁を(かす)かに解いた。

 

 

    濡れつつぞ()ひて折りつる年のうちに 

 

 

 一切の交情を拒絶していた竜頭の瞳が、研ぎ澄まされた審美の切っ先を鉄郎の眉間に突き付ける。余りに唐突で何が起こったのか判ら無い。此の女は一体何者なのか。深まる謎に戸惑う浅知恵を置き去りにして、鉄郎の鼓脈を流れる()にし()より受け継がれてきた血統が、不時の電撃を反射的に弾き返した。

 

 

       春は幾日(いくか)もあらじと思へば

 

 

 誘い込まれる様に無心で口走った下の句の真っ新な余韻。其の衰微と入れ違いで後から追い付いてきた傲慢な詩義が、我に返った鉄郎の顱頂(ろちょう)に灼熱の錐を衝き立てる。

 「巫山戯(ふざけ)んな。時間を自由に操れて遣る事が此かよ。人を生け花と一緒にすんじゃねえ。綺麗なまま切り取ってやるとか、そんな糞みてえな理由で乗客全員の命を奪ったのかよ。」

 「奪う?此の私が?999が此処に降ってくる迄、此の列車の中の物は何一つ増えてもい無いし、減ってもい無いわ。時間を自由に操るのと、質量保存の法則を無効にするのとは話が別よ。調べたければ気の済むまで調べなさい。私は乗客の命処か、髪の毛一本たりとも触れてはい無い。私は此の車内から何も奪ってはい無いわ。」

 竜頭は鉄郎の激昂を撥ね除けると、逃げも隠れもし無いと言わんばかりに、手に提げた燈會諸共、光を失ったオーロラの様なチャドルを脱ぎ捨てた。黴臭い塵風を巻き上げて(ふく)よかに霏霺(たなび)海松(みる)色ドレープ。尾鰭の付いた裳裾に手荒く頬を張られて、咳き込みながら払い除ける鉄郎。錻力(ブリキ)の笠が床の上を()ぜ、燈會の灯りが途切れると、眼路を限った綿渦(めんか)の中から蒼白なバックライトが浮かび上がる。闇よりもドス黒い垂髪と、血の気の無い人工被膜に覆われた剛筋義肢の手足を従えて、胸郭から胎幹を巡る、無数に埋め込まれた真球全方位の多針メーター。風防硝子の小宇宙を有らゆる位相と角速度で指数配列のホログラムが輪転し、蠱壺(こつぼ)の如く過去と未来が入り乱れる電呪の骨頂。天道の(しもべ)か妖魔の手先か、子種の知れぬ時の流れを身籠もり、此の幽霊列車を堕胎した文明の徒花(あだばな)が、荒夜に(そび)えるメガロポリスの様に集積化した石腹(いしばら)を、此見よがしに曝け出している。

 「さあ、隠す物なんて何も無いわ。此が私の総てよ。奪った命が有ると言うのなら、超音波や放射線で気の済むまで精査すれば良い。」

 鎖骨を瞬くアクセスランプに照らし出された石女(うまずめ)の悲相な顴骨(かんこつ)。開き直った量子仕掛けの死神に、鉄郎は動かぬ証拠を鷲掴み、其の足許に叩き付けた。

 「殺生と万引きを一緒にすんな。命を奪ってねえって言うんなら、此の髑髏(しゃれこうべ)は何なんだよ。」

 竜頭の体幹で(うごめ)く未知の異能に呑まれまいと、思わず手を挙げてしまった鉄郎。其の脆弱を見透かして、床の上を跳ね、石榴(ざくろ)の様に砕けた生首を、零れる様な酔眼で愛でながら、竜頭は独白とも傍白とも付かぬ()れ言を(たら)し込む。

 「本の一瞬、夢の様に時が流れただけよ。私独りを置き去りにして。

 

 

    月やあらぬ春や昔の春ならぬ

      我が身ひとつはもとの身にして

 

 

 此の宇宙に、私を時の彼方まで連れ去ってくれる人なんて居無いのよ。誰一人ね。」

 「自分で勝手に時間を進めておいて何なんだ其の言い種は。一体、何年、時間を進めたんだ。」

 「此の宇宙で何万年とか、何光年とか言う地球の周期に縛られているなんて、意味の無い事よ。(そもそ)も、時間の概念なんてエントロピーが増大すると言う人間の錯覚が生み出した副産物。エントロピーの状態に方向なんて無いし、物理学には過去も未来も区別は無いのよ。こんな狭い車内でも精密に計れば、其れぞれの場所でエントロピーはバラバラに変化しているわ。私達が時間と言って区切っている物は一粒一粒の座標点で、10の-44乗秒と言う時の粒子が宇宙には敷き詰められているの。私は其の点描の上をピンポイントで往き来出来る。唯、其れだけ。何を()う遣って往き来しているのかなんて私には興味無い。時間の最小構成単位を把握出来ていれば、過去とか未来とか言われている、たった一粒を進めるのも戻すのも、ジグソーパズルのピースを抓むのと同じ事。其れで何が何う為ろうと、後の事なんて知ら無いわ。」

 そう言って竜頭は鼻を鳴らすと、肩口の回転ベゼルを切り替えて、鉄郎の額に緋彗(ひすい)のポインターを飛ばし、逆に鉄郎を精査した。

 「成る程ね、此は驚いた。彼の女が連れている位だから何か有るのだろうとは思ってはいたけど。鉄郎とか言ったわね。自分が伝世品種だって言う自覚は有るの?」

 「パラサイトチップがどうのとか、DNAの上書きとかタグがどうだとか、そんな物知った事か。生身の躰は生身の躰だ。何か文句が有るのかよ。」

 「文句なんて無いわ。寧ろ羨ましい位よ。所詮、私は此の列車の乗客と同じ、死に方を知ら無い、本当の意味での死に損ない。

 

 

    ことならば咲かずやはあらぬ櫻花

       見る我さへに しづ心なし

 

 

 そう嘆いて、分を(わきま)えず生に執着した者は自然の摂理から外れ、死を恐れる余り旅人は帰る場所を見失う。生を殺す者は死せず、生を生ずる者は生きず。機械の躰で永遠の命に、何て言うけどね、私達には死を受け入れる為の肉体が無いのよ。だから、奪われる様な命も無い。何時か其の内、突発的な事故や過失で機能が遮断されて復旧出来無くなる。つい(さっき)まで動いていた瓦落多(がらくた)が、動か無い瓦落多に成り下がる。其れだけよ。」

 他人事の様に一節口上を垂れると、竜頭は風化した乗客の膝の上の埃を払って腰を下ろし、闇を仰いで一息吐いた。其れを見て、

 「オイ、仏の上に腰を下ろしてんじゃねえよ。」

 犬歯を逆剥(さかむ)怒耶躾(どやしつけ)る鉄郎に、竜頭は祝勝会が終わった後の薬玉(くすだま)の様に転がっている床の上の生首を足の裏で弄び、憫笑を苦遊(くゆ)らせている。

 「どの口が言ってるの?仏ですって?此のスクラップが一体何を悟ったと言うの。死ねば誰でも聖人開祖に崇め立てられるのなら、生きている間はどんな悪逆非道をしても構わないって事に為るわね。」

 「そんな物、茶羅(チャラ)に為る訳ねえだろ馬鹿野郎。」

 「じゃあ、魂は地獄に落ちて打ちのめされているのに、抜け殻の方は腫れ物を触る様に扱うだなんて、此の屑鉄の何がそんなに偉いの。其れとも此の仏様は、機械の躰に為る時に臨終出家は済ませてあって、戒名を提灯代わりに仏門をパスしてるとでも言うの。随分と用意の良い事ね。」

 「誰も好き好んで人の道を外れる訳じゃ無い。逃れられ無い(しがらみ)や運命の荒波に打ち負かされて、身を滅ぼす事だって在るだろう。其れを態々(わざわざ)出しゃばって、死に馬に鞭を打つ必要が有るのかよ。どんな素性で朽ち果てていようと、手を合わせて弔ってやる慈悲の心が御前には無いのかよ。」

 「こんな瓦落多に差し伸べる無償の慈悲が有る位なんだから、私にだって慈悲の情けも有れば、菩提を求める心も有るでしょうよ。一念発起を唱えて、人の心も仏の功徳に劣ら無いって教えを説いて廻っているのは何処の何方(どなた)よ。私みたいな愚か者を救う為に仏は誓願を立てたんでしょ。」

 「そんな心が本当に有るのなら、今直ぐ髪を下ろして出家しやがれ。」

 「そう言う事は戒名に大枚を(はた)いている豚の貯金箱に言いなさい。悟りを金で買うのも出家と言うのなら、機械の躰を金で買って、釈迦の涅槃の五十六億七千万年後に下生(げしょう)する弥勒菩薩を待つのも、仏の道だと言うの。数百億の衆生を済度する為に現れた未来仏を、人類を殲滅した機族が待っていたら、其の電脳化した霊超類を、どんな顔をして極楽浄土へ導くのかしらね。」

 「そんな減らず口を叩く奴の何処に、慈悲の情けや菩提を求める心が有るんだよ。眼の前の亡骸を仏と敬う気もねえ癖しやがって。」

 「仏だと思うからこそ、其の功徳に(あずか)りたくて、こうして御傍(おそば)に居るんじゃないの。」

 「功徳に与りたいのに尻に敷くってのはどう言う料簡だ。心安らかに眠っているのが見ねえのか。」

 「自分は心安らかな(とこ)()の眠りに就いているのに、私が其処で一緒に一休みするのは駄目だなんて。随分と吝嗇(けち)な仏様ね。機械の躰に成りさえすれば死から逃れられると、仏の他力に身を委ねず、浅はかな自力を振り回した私達の方が、生身の人間よりも遙かに業が深いと言うのに。逆縁も漏らさで救う願なればこその功徳じゃ無いの。看板倒れの仏門なら踏み倒した処で(ばち)も当たるまい。」

 「(はな)ッから逆縁を逆手に取って虫の良い事を言ってんじゃねえ。善も悪も、煩悩も菩提も、仏も衆生も、万物も死生も、実体も無ければ隔てもねえだとか、そんな文学と哲学の区別も付かねえ言葉遊びなんざ()んざりだ。

 

    是今日適越而昔至也

    (これ) 今日(えつ)()きて (きのう)至れる(なり)

 

 口先だけなら何とでも言えるぜ。もう沢山だ。彼の馬鹿の言う通り、こんな土竜の穴に首を突っ込んだ俺が馬鹿だった。此じゃあ、鏡の前で吠えてる犬と変わらねえ。人の心の弱さが生み出す神や仏に振り回されるのも此処迄だ。そんな地球のローカルアイドル、太陽系の外に出て迄、担ぎ上げる義理が何処に在る。難を治るは変に応じ、和して唱えずだ。眠った振りをしている奴を起こす事も出来ねえのに、悟った振りをしている奴を(さと)せる訳がねえ。後はもう勝手にしやがれ。蛞蝓(ナメクジ)の落ち零れみてえな面で、糞みてえにベラベラ喋りやがって。地上波の似非(えせ)文化人じゃ有るまいし。黙っていても誰もが認めてくれる。其れが本物って奴だ。テメエの性根を捻曲げた儘で他人を正せるとでも思っているのか。此だけ仏が勢揃いしてんだ。一人ずつ釈迦に説法を垂れて廻れよ。テメエの吐いた屁理屈が、唾と一緒に御天道様にまで届くって言うんなら遣ってみろ。唯なあ、取って付けた浅知恵ってのは残酷だ。テメエの言葉で舌を噛み切らねえように精々用心しやがれ。」

 相手の土俵に転がり込んで砂を被っているだけの鉄郎は、掴み所の無い蒟蒻問答に釘を刺し、朽木(きゅうぼく)()るべからずと、空理空論の元凶から眼路を切った。メーテルに後は頼むと言われた処で知った事では無い。好きにしろと言われたから好きにする迄の事。座席に頽れた遺骸を跨ぎ、元来た開口部に脚を掛けようとする鉄郎。機械伯爵に仕えていると言う竜頭の経緯(いきさつ)に興味が無い訳では無い。然し・・・・・そう逡巡した刹那、(さか)しらな愉悦を(くゆ)らせていた竜頭の口角が不意に精気を失い、踵を載せて転がしていた生首を取り上げると、万華鏡の様に中身の煌めく引き裂かれた額に、潤いの無い唇を重ねて呟いた。

 「そうよ、鉄郎、今日出発して、昨日到着する。確かに、言葉を並べ立てるだけなら、誰にでも出来るわ。頭の中でも、舌の先でも、自由に組み立てる事が出来る。破綻した構文。真実と見紛う偽証。誰も論破する事の出来無い華麗な逆説。でもね、私は其れを頭の外でも形に出来るのよ。時間の流れに限って言えば、私に出来無い事は無い。有りと有らゆる過去と未来の因果を、此の宇宙の摂理を覆し、破壊する事が出来る。でもね、鉄郎、其れが何を意味するか判る?」

 竜頭の上目遣いの三白眼が白目を剥いて鉄郎に問い質すと、死の接吻を受けた古鉄(こてつ)の生首が掌の上で見る間に変蝕し、粒状化した合成樹脂と錆尽(しょうじん)が砂絵の様に指の間を擦り抜けて、竜頭の足許へ辿り着く事すら叶かなわずに、(ほの)かな煙霞(えんか)を巻き上げ消え失せた。質量保存の法則は(らち)(がい)なぞと(のたま)っておきながら、上の空だった空理空論が、現実を超え微塵の寸借も許さず具象化する瞬間を目の当たりにして、鉄郎は(おとがい)を失し、溜息の糸口一つ掴め無い。気に入らない物に吝嗇を付けるのは誰にでも出来る。然し、此は・・・・。多針メーターのバックライトが照らし出す秘儀の神韻。墨に五色在りとは言え、余りにも懐の深い闇の彼方。捲れ上がっていた三白眼が虹彩を取り戻し、掌に残った砂礫を(みつ)める竜頭の面妖が、鬼女の妄執から、壊れて終った玩具に戸惑う幼女に、本の束の間、憑解した。

 「扨々(さてさて)、機械の躰に埋め込まれる前の、生身の前世で、一体私が何を犯したと言うのか。どんな罪の報いでこんな底の知れぬ力を宿したのか。(そもそ)も此の機械の躰、其の物に全く身に覚えが無いと言うのに。悪縁(ちぎ)り深し。身の丈を越え、手懐(てなず)ける事も(かな)わず、(おそ)れられ、利用されるだけの怪力乱神。同舟相没す、共棲共済(まま)ならぬ別人の私。其れとも、此の機械の躰の方が寧ろ、厖大な力の落とす影なのか。」

 (すみれ)色に色褪せた口吻(こうふん)が言葉を探して空を(そよ)ぎ、竜頭は立ち上がって窓外を遮る星の無い宇宙に一歩踏み出した。運命の(くびき)を科せられた虚ろな蒼貌(そうぼう)を肩に載せ、集積と増殖が(せめ)ぎ合う、呪胎刻知の電相交管機で艤態(ぎたい)化した()き身のコルセットが、換算と同期の変拍子で混線し、本の僅かでも手綱を緩めると暴発する内圧で張り詰めている。富士壺の様に群棲した脱ぎ捨てる事の出来ぬ、盤根錯節(ばんこんさくせつ)の時界と自戒。散弾銃で蜂の巣にされた様に体幹を覆う、五臓六腑の多針メーターが、小刻みな電磁ノイズで競い合う焦点のズレた独語症。不離一体の時幻装置から伸びる粘土細工の様な四肢は、滑らかに老落して揺蕩(たゆた)い、本の片時、筋束が閃く事すら無い。()わの空の竜頭を二の次にして(うごめ)く、頸椎から下の多動質な別人核の衆塊。電網化した骨憎腫の爛熟を目の当たりにした鉄郎は、肋骨の髄が疼き、腰に提げたホルスターで黒耀の光を湛えて眠る彗星の(やじり)が、一瞬、其の身を(よじ)り、感応した。

 (かささぎ)()んでいる。タイタンの(おみな)から預かった戦士の銃を、己の神通力に隷属する魂の囚人、竜頭の宿した鬼胎の疝気(せなき)が、喚んでいる。否、そんな、真逆(まさか)。鉄郎がホルスターに手を当てると、竜頭が息を詰める声を上げ、喉を()け反らせて硬直した途端、重力の底の墓場を点す、時系列の位相を(あまね)く網羅した多針メーターの狐火が反転し、暗礁した車内を漂泊する(かす)かな残滓を、ブラックライトで翳す様に炙り出した。

 無明無窮の窓外に融け出した車内に瞬くヘキサの数列。敷き詰められた四列シートを下から上へと瀧昇るビットマップの奔流が、隣り合わせで何事か囁き交わしている。此はアセンブルされてい無い機械語のバイナリ。電脳ボードのレジスタを擦過した遭難前の乗客の歓談。其の残留思念の輪郭が川面に(つど)う蛍の様に闇と戯れている。シートに(もた)れた遺骸と折り重なる賑々(にぎにぎ)しい光素のレイヤー。時流を交錯した機族の優越と享楽が、虚無と栄華のコントラストを描き出す。鉄郎の額を駆ける、押し付けがましいレイトショーの照り返し。其の顰めた眉の狭間を、一筋の疑念が渓流を()ぜる銀鱗の様に掠めた。此は単に視覚化された過去の断片なのか。寧ろ、確かに残存しているからこそ投影出来るのではないのか。遺骸と其れを取り巻く空間に、素粒子の波長レベルで息付いているのではないのか。竜頭の言う通り、機躰と情動因子が分離しているだけで宇宙に拡散せず、風化した電脳ボードやデバイス、そして、車内に、記憶や意思が閉じ込められているのか。此処まで朽ち果てても、生きていると言うのか。数千年の時を経ても(なほ)。此のブラックライトを亜麻布(あまぬの)を纏った木乃伊(ミイラ)に、荼毘(だび)に付した遺骨に照射したら何を語り始めるのか。量子に刻まれた過去。其処に心は在るのか。()しや戦士の銃は、鬼界に伏した竜頭の官能に共鳴したのでは無く、人智を超えた命と精神の根源、生死の境を超えた宇宙の摂理、其の深淵に(かしこ)み、(おのの)いたのか。

重力の吹き溜まりに沈澱した、時と命と精神が織りなす蛍素の託宣。一変した異境の景相に鉄郎は悟性を揺すぶられ、神の扉の鍵穴を覗き込む恍惚に包まれていく。眼の前に在って手を触れる処か、翳す事さえ許されぬ、名付けようの無い玄妙なる聖謐。其の結界を、半醒半睡で窒息していたサルガッソーの墓守が、ピアノ線を弾いた様な痙攣で引き裂いた。

 「嗚呼(ああ)寂莫(じやくばく)非情の天象は因果の合はせ鏡か。重力の墓石に組み敷かれ己の屍に鞭打つ鬼女、潸潸(さめざめ)と前生の宿痾(しゆくあ)(そそ)ぎ。我が()を肥やしに奈落の底を耕す修女、楚楚(そそ)として花咲く三世の果報。右隻左隻の理非曲直。貳曲壹双(にきよくいつさう)生生世世(しやうじやうせぜ)。」

 四列シートに挟まれた通路を厳かな禹歩(うほ)で摺り歩き、蛍火の川面に入水(じゅすい)する竜頭の憔身(しょうしん)。張り詰めた(こと)()が抑揚を帯びて、峻然とした諧調と漣律(れんりつ)に拍車が掛かり、死に化粧を被った頬が(にわか)に紅潮し始める。様子が奇怪(おか)しい。盆の窪から鎖骨の窪、腋の下から臍の下、膝の裏から土踏まずへ、粟粟(ぞくぞく)と舌を這わせて鉄郎に絡み付く蠕動質の悪寒。老女を美しく演ずる様な竜頭の幽艶に、腐蝕し鉱物に先祖返りした遺骸の錆気(しょうき)が霜烈に引き締まり、熱を帯びた口奮が転調する。

 「()(あら)ず。明蒙渾然。淸濁壹如(せいだくいちじよ)。業を背負つて改悛(かいしゆん)し、德を積み重ね報はれた(ところ)で、所詮は(をり)ふし吳竹の、世の淺儚(あさはかな)(こしら)へ事。見渡せば無心の(ことわり)壹邊(いつぺん)の翳り無し。萬有齊同にして至至錚錚(ししさうさう)。銀河渺渺(べうべう)として、時儀轉轉(じぎてんてん)たり。星又星。(いづ)れの匠が北辰の睛火(せいくわ)(とも)し。(はて)(はて)()が舟の杭にて銀潭(ぎんたん)を限ると云ふのか。有りの儘の天景、(てら)はずして成り、大象は無形、(おの)づから()べず。」

 余りにも硬質な語彙で耳が追い付かぬ竜頭の神さびた音吐(おんと)。次第に其の声色が幾重にも切り替わり、表情を失した石仮面(せっかめん)が、(かす)かに角度を変えただけで、鬼女から貴女へと憑変して、竜頭の躰を弄ぶ様に人格が反転して掛け合い、鉄郎を置き去りにした(まま)、クロノスからセイレーンへ、シテからツレへと入り乱れ、(のめ)り込んでいく。

 「星屑の死灰(しかい)(まみ)れた烏羽玉(ぬばたま)の、闇路に潛む其の影は。」

 「()しやと(ただ)す迄も無く。常盤の流人(るにん)、死に(はぐ)れ。膂力(りりよく)に任せた時暴時棄。」

 「姿詞(すがたことば)は人なれど。」

 「萬雷焦怒の逆髮に。」

 「絕對零度の藪睨み。」

 「(やつ)れた頬は雲母(きら)摺りの。」

 「綺羅を削がれた鉛首(なまりくび)。」

 「今宵始めて見る事を。」

 「星系無比の其の怪相(けさう)。」

 「人面獸心、(はべ)る世に。」

 「鋼顏人心、鬼牙佛掌(きがぶつしやう)。」

 耳に聞こえし(いにし)への、鬼一口に人を食う禍事(まがごと)を、阿吽(あうん)の呼吸で交互に合い拍つ語り節。人を恐れ、(うと)み、憎んだ挙げ句、人恋しさで野に下る、時化(しけ)化生(けしょう)の放浪譚と(おぼ)しき物を、竜頭は一方的に謡い上げるが、酔いに任せた言葉の奔流に語義の半ばも掴み取れ無い。気質的な電脳障害で人格が分裂しているにしても、心の隙間を突かれて背乗りされているにしても、芝居掛かった其の威風、芸が達者なのは結構だが、破格の付き合にも程が在る。

 「オイ、竜頭、独りで勝手に逆上(のぼ)せてんじゃねえぞ。田舎侍の煮え切らねえ糞田楽なら余所(よそ)で遣りやがれ。」

 竜頭の物狂いにケリを付ける為、啖呵(たんか)を切ろうとした鉄郎。然し、込み上げた卑語は喉元を突いて根詰まりし、追突する後続の悪罵に胸が支えるばかりで、思いの丈が舌の根にすら届か無い。知らぬ間に鉄郎も竜頭の乱痴気に一服盛られて、木乃伊(ミイラ)捕りが木乃伊(みいら)に、マル暴がチンピラに成り下がっていた。竜頭の(かん)の虫が毛虱の様に伝染した訳でも有るまいし。瓦落多(がらくた)の闇鍋と斬り捨てていた車内を、何物かが小聡明(あざと)く牛耳っているとでも。戦士の銃が(いき)り立つのも、湯気に紛れた鍋奉行の火箸に引火したとなれば符牒が合う。とは言え、そうと察した処で後の祭り。残骸の橋掛かりを渡る竜頭を問い詰めようにも、手ぶらの丸腰が肩肘一つ挙げられず、ワキ柱に縛られた様に硬直した鉄郎の知覚野、感覚領の中枢を、(かそ)けき峡谷に潜んでいた鬼女の隻影が駆け下りる。

 「星が生まれ自らの輝きで初めての朝を迎へる壹刻(ひととき)は、彌勒(みろく)下生(げしょう)にも譬へられ、其の巡り合はせの様に導かれた今宵の宿緣。(わず)かな(いとま)も惜しまれる望外の臨席。()ても()てもと世評を飾り、久世舞(くせまい)を囃す其の調べ。早早(はやはや)、謠ひ(たま)ふべし。」

 「()に此上は兔も角も。云ふに及ばぬ不時刻限。」

 「東雲(しののめ)白み()めぬ内。」

 「淺瀨に淀む喉笛で。」

 「天の河原の曲水に。」

 「逆月(さかづき)を注ぎ浮かべれば。」

 「(みだ)れ鼓の鳴瀧に。」

 「舞ひ散る紅葉は唐織の。」

 「移らう雪が狩衣の。」

 「仮の宿りを惜しむ君。」

 「心とむなと。」

 「遊び()の。」

 「よし足引(あしびき)の。」

 「(いら)()の。」

 「巡る苦しみ。星曆(ほしごよみ)。」

 錐を揉み込む様に気凛とした竜頭の掛け合い。其の互い違いに行き交う声の一方に鉄郎は耳を疑った。聞き覚えが有り、其れは誰なのか、等と言う問題では無い。向かい合う竜頭の鬼魄(きはく)に呼応して、絶句した筈の舌の根を衝く朗々たる節回し。気が付くと鉄郎は、喉輪を喰らい支えていた筈の吐胸(とむね)を解かれ、天頂から頭頂へ舞い降りる詞章を、竜頭の曲舞(くせまい)に合わせ返誦(へんしょう)していた。

 「(そも)天津日(あまつひ)とは塵芥(じんかい)の。」

 「雲渦(うんか)を凝らし燃え出ずる。」

 「人智の彼方。仟載(せんざい)の。」

 「其の天露(あまつゆ)下垂(しただ)りて。」

 「銀河を(さざ)なむ、萬浩(ばんかう)の。」

 「(くら)(うろ)より放たれる。」

 「()()無き周波、昏昏と。」

 「(こゑ)無き(こゑ)星標(ほししるべ)。」

 「光及ばぬ其の先に。」

 「天我無境の在ると言う。」

 「()れど(あた)りを見渡せば。」

 「逃げも隱れも出来ぬ此の。」

 「時の(すみか)の破れ堂。」

 「無實無形(むじつむけい)の吹き抜ける。」

 「(はりつけ)られた(とき)の針。」

 「(おのの)く時限の星星が。」

 「眼裡(まなうら)に融け流轉(るてん)する。」

 「(たが)へた次元の斷層に。」

 倒壊寸前の見当識と、自他の統合認知を突き飛ばして逆走する造語症の車輪の下で、返歌を吐瀉し続ける鉄郎の脳髄を、姿無き孤独の投影が彷徨い、幻の舞が吹き荒ぶ。賤女(しづめ)が古歌を(すさ)びながら、己の憂き身の侘びしさを愛でる、垂簾(すいれん)の佳人にも劣らぬ其の雅。在り来たりの現実を削ぎ落とした、不易なる美の中の美が、鉄でも無く、石でも無い鉄郎の生身の躰を、肛姦の如く強引に突き破り唱華する。全く抗う事の出来ぬ白撃に貫かれ、絶頂する以外に術の無いツレの穴埋め。鉄郎は舞い降りてくる詞章を吐き尽くすと、逆さ吊りの屠畜の様に尽き果て、車内を席巻する暴威に打ち捨てられ、座席の肘掛けに(もた)れて崩れ落ちた。遺骸を巻き込んで舞い上がる()びた粉塵。息の根の止まった幕間(まくあい)の震閑。始まる。此処からはシテの独り舞台。予感とも確信とも付かぬ寒気が和毛(にこげ)を逆撫で、呼び水に使い回されただけの鉄郎は、桟敷の(へり)に追い遣られ座視に屈した。唱導の手綱を解いた竜頭は、糸の切れた傀儡(くぐつ)から眼路を上げ、人の世に(まつろ)わぬ者が流される遠島(をんとう)へ独り漕ぎ出していく。四列シートに挟まれた通路が、人外魔濤の冥海を掻き分けて波打ち、死の水域に垂れ込む迷霧の裾を(くぐ)って、海図無き航路へ掻き消されていく。

 「滿天の大海原に注ぐ銀河の細流、()む時を知らず。淺瀨の仇波(あだなみ)に呑まれる玉響(たまゆら)の治世。羅針亂振に目眩(めくるめ)く舟中敵國の(はて)水底(みなそこ)瓦石(がせき)に紛れ、仟仟(ちぢ)泡沫(はうまつ)()す。帝星を巡る辰宿列張(しんしゆくれつちやう)も、輪廻の(くびき)(あへ)ぐ馬車馬。上求菩提(じやうぐぼだい)を指差す流星の灰燼(くわいじん)は手を合はせる(いとま)(あた)へず、法性(ほつしやう)(あらは)す無盡の天象、茫外無色な下化衆生(げけしゆじやう)腹底(ふくてい)を曝す。我が()(さなが)ら、(ともがら)(はぐ)れた步き巫女。生所(せいじょ)も知らずば、壹夜(いちや)限りの渡しも在らず。唯、星雲の霞を()み、舵を切る星見(ほしみ)占象(うらかた)は、見送る者無き流し雛。亡き人を()に起こした人形(ひとがた)は、(はた)(わざ)なる繰り事、人にして人に(あら)ず。」

 己を断じ、金輪際をも打ち()く足拍子が車内に轟き、一変した大気を(まと)って竜頭が曲舞(くせまい)に身を転じると、捨て置かれていた燈會(ランタン)迄もが狐火を起こして宙に翻り、竜頭の型に合わせて輪舞する。

 「流されし物か、捨てられし物か、人知れず時の(みぎは)に打ち寄せる人形(ひとがた)の不成佛。藻屑と散れぬ木偶(でく)の沈み損ね、躬を持ち崩した化生轉生(けしやうてんせい)に宿るは時遊時在の鬼能。名にし()ふ竜頭が()べる時辰儀の、天網怪怪、其の()にそぐはず。畸矯なる因果の變調に立ち盡くすのみ。魔道も天道も同根通底の叉路(さろ)。なぞと笛吹く金句寶傳(きんくほうでん)、懷の足しにも爲らず、鈍覺な耳にも痒し。公理在れば空理在り、科學在れば擬學(ぎがく)在り。僞學(ぎがく)欺學(ぎがく)の祖の果てに、血族を()つて機族在り、機族が在れば蠱鐵(こてつ)も在り。水と油の睨み合ひ。(しかう)して、己が力を(のろ)ふ、()かる身空の草隱れ。()れど里心抑へ難く、星閒航路を逍謠(せうえう)する事、壹度爲らず。或る時は基幹衞星に降り注ぐ流星の飛脚を(とど)め、警外軌道まで送る折りも在り、又、或る時は電劾(でんがい)に墮ちた機塊を、星霜の氷室に封じて事無きを得、仟重(ちへ)()()くに躬を呈すも、賤眼(しづめ)冥鬼(くらき)と人の云ふ。」

 不意に竜頭の謡いを()ぎった不穏な詞章が、魔魅(まみ)に骨を抜かれた鉄郎の顳顬(こめかみ)を弾いた。星霜の氷室に封じるとは、時空の谷底に葬る事。だとしたら、電劾に堕ちた機塊とは、()しや。山水母(やまくらげ)の乾涸らびた水脳を脈打つ疑懼(ぎく)の漣。其の逆潮(さかしお)を張り詰めた竜頭の鬼迫が薙ぎ払う。唯ならぬ斎傑(さいけつ)恭畏(きょうい)。節と節との僅かな間隙に潜む、秘義の核心を射抜き、鉄郎の臍下丹田(せいかたんでん)に轟く高拍子(たかびょうし)()える。黒髪に映る藤紫が。袖に構える白魚の指に大振りな舞扇が。銀地に散らした金雲を昇る、紺青(こんじょう)の月の一輪が。御白洲(おしらす)篝火(かがりび)に照らし出されて、鉄郎の情念に浮かび上がる。其処は最早、重力の墓場に没した遭難列車の一画では無かった。扇を揮い、張り巡らした結界。仕切られた亜空間を紅無(いろなし)の唐織りを纏う竜頭が、カマエ、サシ、ハコビ、カケる。

 (みなぎ)る心に島田の元結いが断ち切れ、神品を醸す(かんばせ)から片肌へと枝垂(しだ)れる黒耀の垂髪。柾目(まさめ)の檜を(もすそ)が掠めて一塵も留めず、天来の一鶴(いっかく)、一翼を坦前に差し向け、魔を払う。嬌娜(なよやか)にして筋の通った、竜頭にして竜頭に在らぬ幻影。(いら)()にして斎女(いつきめ)の隻影が、荒屋(あばらや)の脇に盛った残土の頂きで、今日一日の成果を祈り恵方を占う母の幽姿と重なり、卒然と背に(あぶら)を絞る鉄郎。其の高鳴る鼓動を老練な手捌きが、陰陽の気合いを絡め指弾する。姿無き芸の(ひじり)が鉄郎を羽交(はが)い、振る舞う、心の(つづみ)

 緩急の(あか)()の調べ竜田川。月の裏皮、表の皮と、拍つや(うつつ)(きぬた)の招魂。肩に綾なす鼓の手影。天に届けと雲井の銘なる、秘蔵の塗胴(ぬりどう)、名誉が籠めた、咲いて誇るは悲願華(ひがんばな)

 舞いも舞い、拍ちも拍ち、謡いも謡う、()にし()の秘曲。其の氾濫を、無礼講の乱盃を頭から被る様に鉄郎は浴び、彼我の佳境に没落していく。

 「()るとても世を空蝉(うつせみ)唐衣(からころも)、仟秋萬夢、寢ても覺めても、朝暮の(けぢめ)無く。御簾(みす)の透き影を()ぎる追慕、袖手低枕(しうしゆていしん)にして、彗脚(すいきやく)を凌ぎ、寄る()無き孤客(こかく)の醉歩、跛跛(ひひ)蹌蹌(そうそう)にして、振り出しに()す。(せん)ずる(ところ)、今生を移ろう雲水は一塵法界の假面(かりおもて)()ぬも()なずも各々が道。其れを()も、大悟を得たりと聞こえよがしの聲。積年の妄執、豈図(あにはか)らんや。()くも歪な己の地金、打って直すか、捨てるのか。よし足引の、(いら)()が。巡る苦しみ、星曆(ほしごよみ)。」

 天文時計の文字盤を立ち回る禹歩(うほ)のハコビ。交錯する時針と時針の狭間を流浪し、遊星歯車と戯れる扇情と燈會(ランタン)の篝火。目眩(めくるめ)く万感の舞台、無限に広がる銀河の地図に息を呑む、其の刹那、(さっ)と翻る竜頭の唐織りが、見世(みせ)出しに酔った雛妓(おしゃく)の様に膝を折った。鉄郎は思わず身を乗り出し、蹌踉(よろ)めく(せな)を支えた其の(かいな)に、女波(めなみ)の袖と赤い襟が包み込まれる。後見の盤石に海松(みる)の黒髪が降り注ぎ、鉄郎の小鼻を掠める白檀の馥郁(ふくいく)とした名香。其の清涼なる一鮮に張り詰めていた眼圧が弾け、気が付くと、竜頭を支えたと思った鉄郎の方が、四列シートの遺骸の上に仰向けで(もた)れ懸かっていた。

 合成知覚の投影で車内を上書きしていた濁流が一先ず途切れ、頭骨を反響する影像と囃子と足拍子の残塊が、偏頭痛と耳鳴りの中に減衰していく。駆け巡っていた幻灯機のリールから振り落とされた小鼠の放心。砕け散った硝子細工の様に煌めき、鉄郎の心に突き刺さった硬質な詞章の破片が解晶し、緊を解かれた筋肉の隙間に疲労が滲み込んで、忘れ去られていた人工重力が無言で伸し掛かってくる。崩壊しながら地滑りを起こす尻に敷いた乗客の(むくろ)。シートからズレ落ちるのを鉄郎が咄嗟(とっさ)に堪えると、天井を仰いだ其の間接視野で、巫術(ふじゅつ)のヒステリーから釈放された竜頭が、燈會を提げた肩を落とし漂っていた。全力で舞い終えた後の充足した虚脱しとか言う(てい)では(とて)も無い。(まさ)に、過ぎ去った夏に見捨てられた空蝉。胴体を埋め尽くす多針メーターのモニターは、ブラックライトから可視光線に切り替わり、幽魂の蛍火で照らし出されていた車内は元の難破車輌に淪落(りんらく)し、竜頭自身は半睡半醒で未だ夢から覚め切ってい無い。狂おしく舞い散らし、蓬蓬茫茫(ほうほうぼうぼう)に取り乱した垂髪。吊り下げられたまま放置された絞首刑囚の様な剛筋義肢。五臓六腑を神経質に痙攣し続ける、蒼白な時界のホログラム。感情を絶した土気色の表情筋。そして、生気の無い唇が再び、寝息の様な譫言(うわごと)を手繰り始めた。

 「本当なのよ。本当に、此の列車が幹線軌道から離脱して、不可侵協定領域を暴走していたのよ。其れも、帯域冥彩を施した亡隷ノイズを撒き散らして、排他的星間プロテクトを壊析しながら。別に、取り立てて何かを嗅ぎ廻っていた訳じゃ無いわ。(なまじ)、余計な力が有るから、見たく無い物まで見えて終う。どうせ又、余計な世話を焼いた挙げ句に、有らぬ疑いを掛けられるだけなんだし、見て見ぬ振りをしようと思えば幾らでも出来たわ。でも、此の列車の脱線した進路の先に999が在る以上、見過ごす訳にはいかなかった。此はテロよ。軌道計算は嘘を吐か無いわ。御丁寧に、機関車のボイラー、一点を狙い撃つ、999への呪縛テロ。だから、私は・・・・・。」

 「だから、何なんだよ、竜頭。其れで此の列車を破壊したのか。時間を進めて。重力の底に突き落としたのか。999を守る為に。其れは本当なのか。オイ、竜頭、だとしても、乗客まで巻き込む事は無いだろう。もっと他に列車の暴走を止める方法は無かったのかよ。其れに、999迄こんな底の抜けた墓穴に突き落とす必要もねえだろう。」

 子供に飽きられた玩具の様に、逆関節で(くずお)れている遺骸から腰を跳ね上げ、鉄郎は竜頭に喰らい付いた。信じる気が無いのなら話す必要も無い、と断舌した鋭角な(おとがい)の綻び。然し、竜頭は鉄郎を見向きもせず、己の手で引導を渡した遺骸の植毛を撫でながら、我が子をあやす様に独り()ちる。

 「私が車内に降り立った時には既にもう、乗客の総てが電脳黴毒(ばいどく)を発芽していて、穴と言う穴から飛黴(ひばい)の胞子を吹いていたわ。私に出来たのは唯、時軸のレンジを振り切って、生き恥に泥を塗り重ねぬ様に後仕舞いをする事だけ。其れですら、電劾重合体を本当に封じ込める事が出来るのかどうか、遣ってみなければ判ら無い賭けだったのよ。何故、此処迄して私が999を守るのか。此の私にも判ら無い。私が仕えている伯爵の主力事業、銀河鉄道の旗艦路線だから。と言えば通りが良いけど、こんな危険を冒してまで守らなければならない義理が何処に在るのか。抑も何故、私が伯爵に仕えているのかも判らなければ、私と999の間にどんな(いわ)くが有るのかも判ら無い。私に判っているのは、電脳海馬の容量が上限に達すると、強制的に記憶が初期化されると言う、唯、其れだけ。」

 会話とも供述とも取れぬ、途切れ途切れで朦朧とした自動筆記の如き独白が零した禍々しき合成言語。奇矯な語感の塊が、鉄郎の内耳の内壁を掻き毟りながら転がり落ちていく。電罪を(あば)く非実体の重合した何物か。タイタンで目の当たりにした得体の知れぬ造殖情報腫の濁流。(かささぎ)の武者震いが、今、点と点で結ばれた。

 「電劾重合体なのか。此の列車に背乗りしたのは。其れも、999を襲う為に。何故だ竜頭。電劾重合体が999を狙っているってのは、一体どう言う事なんだよ。そんなウィルスやスパイウエアの変種に意思があるのか。其れとも、誰かが遠隔操作しているのか。」

 唯でさえ厄介な泥沼に填り込んでいる処に、鰐の尻尾が見えてきたのだ。優しく(なだ)(すか)してはいられ無い。鉄郎は竜頭の両肩を掴んで揺さ振り、虚ろな三白眼に烈火の詰先を突き付けるのだが、夢遊に耽る竜頭の薄弱な面差しは、虚実の浪裏(うらなみ)を擦り抜けていく。

 「記憶をリセットされてはロムを読み込んで目覚めるの。まるで工業用アンドロイドの様に。リミットに達したらリセットして、伯爵の元に出向き指示を待つ。今迄に其れを何度繰り返してきたのか。カウントのしようも無ければ、其れが奇怪(おか)しな事だと判っていても、感情のフィードバックが切られていて、心が張り裂ける程に悩み苦しむ事も出来無いの。再起動した私の手元には名前とアーカイブデータが有るだけで、自分の出自も判ら無い。機械化する前の記憶は完全に欠落しているのに、リセットされた記憶の方は、インデックスを切り離しただけで残存していて、首の無い過去の数々が首塚を探す人魂の様に、電荷を帯びてストレージの潜在領域を彷徨(さまよ)い、其れが時に、超細密な既視感を呼び覚まして、前生を席巻した紅蓮の因果を炙り立てる。」

 竜頭のか細い肩が消磁したデータの様に鉄郎の手を擦り抜け、レイテンシーの狭間の永遠を踏み分ける垂髪の影絵。鉄郎は雲隠れした竜頭の心に届く言葉を探した。今此処で何が起き、起ころうとしているのか。鍵を握る竜頭は其の禍中に呑まれている。若し、本当に電劾重合体の支配下に在るのだとしたら、寝惚けている場合じゃ無い。

 「哥枕(うたまくら)見て參れ。」

 頭を()ぎる小賢(こざか)しいメーテルの発破。タイタンの騒動では彼の馬鹿の出鱈目な宇気比(うけひ)が物を言ったが、()う言う時に限って、茶菓を片手に日和っているのだから、始末が悪い。絡み合った怒りと焦りで頭の回らぬ鉄郎を余所に、此処では無い何処かに向かって竜頭は言葉を尽くし、(あたか)も、過去の自分や、未来の自分に語り掛ける様な、現世を超えた自己催眠の繰り言を引き擦って、異相の闇路を行脚する。

 「私には誰かと一緒に振り返る事の出来る彼の頃なんて無い。私には過去も無ければ未来も無い。心を時の流れで区切られる事も無ければ遮られる事も無い。そして何時しか、記憶と言う、時の鎖縛から解き放たれた者にのみ許された力が芽生え、疎まれ、利用されていた。記憶は人と時とを司る天府(てんぷ)のタクト。失った記憶と入れ違いに、私の意の中で戯れる時の輪列。永遠に再起動を繰り返す記憶の狭間を、過去と未来を(かたど)った振り子の残像が行き交い、其の揺らめきに、私がそっと指を添えただけで、どんなに胸に深く刻み込んだ想いも、瞬き一つで眼裡(まなうら)に霞み、指の間を擦り抜けていく。煎じ詰めれば、量子の物性を究め、如何(いか)に電脳化の精度と強度を上げようと、符号化して格納したデータの劣化を防ぎ切る事なんて夢の又夢。不滅の記憶も永遠の命も、無から無へ移ろう叙情詩の一(ページ)。再起動しては、次の再起動を待つ私も、インデックスを書き換えられた首の無い記憶と同じ、機械仕掛けの時流の中に幽閉された、遊び方の判ら無い玩具。時めく心を失い、己の力に振り回される裳抜(もぬ)けの傀儡(かいらい)。生身の躰だった時の面影処か、今此処に在る実体すら危うい、身空の身空。」

 発条(バネ)の切れた絡繰り時計の様に途切れた竜頭の独り芝居。聞いている己の耳が鳴っていただけなのではと錯覚する程の、儚い囁きが掠れ、竜頭の窶れた輪郭が車内の暗墟に薄れていく。我が眼を疑う余裕も無い。放置された残骸の隊伍に透けていく多針メーターの明滅。引き留めようとして甲走る、鉄郎の声と言葉と意味が衝突して弾き合い、逸る気持ちが喉に支えた。其の瞬間、忽然と、機械伯爵の館で遭遇した玄覚が、磐室(いわむろ)の霊徹な息吹きが脳裏を遡る。集中治療室で壊暴される少女。天津河(あまつかわ)を挟んで黄泉交(よみか)わす相聞歌。多針メーターの集積化した磐壁(いわかべ)のモザイク。何故、今、こんな時に。天から降って湧いた追憶に戸惑う鉄郎。殺到する白想に額を突かれ、弾き飛ばされた頸椎から思わず発した一声が、蒼古草伝の三十一文字(みそひともじ)に散華する。

 

 

    七重八重(ななへやへ)花は咲けども山吹の

        ()の一つだになきぞ悲しき

 

 

 鉄郎の現身(うつしみ)(なかだち)にして木霊(こだま)する、地球を発った彼の日、磐室の闇に閃いた独片(ひとひら)の古歌。其の森閑とした風韻に感応し、一瞬、竜頭の背負う烏玉(ぬばたま)の垂髪が山吹の錦糸に(ひるがえ)り、艤態化した()き身のコルセットと、投げ遣りな剛筋義肢に熱い血潮が(ほとばし)る。絶えて久しい歌枕と錯綜する(うら)ぶれた時の歯車。鉄郎の眼路を掠めた見覚えの有る煌びやかな金色(こんじき)鳳髪(ほうはつ)。そんな真逆(まさか)と見返す間隙を突き、(まばた)く術も忘れ、硬直した其の瞳孔に最上段の一喝が轟いた。

 「否、其の身、(ひと)つのみに(あら)ず。」

 昇魄(しょうはく)し顎の根の外れた竜頭の気道から、竜頭の地声とユニゾンで放たれた、地の底から這い上がる解像度の粗い怒鑼(どら)声に氷変する車内。忘れたくとも耳小骨(じしょうこつ)に刻み込まれた、メタルフィルター()しの焼き(ごて)の如き悪罵。聞き(たが)える訳が無い。甦る、暴風雪の白魔を蹴散らした剛性軍馬の蹄鉄。騎乗から鉄郎を睥睨する緋色の千里眼。ブラックホールよりドス黒い、銀河鉄道財団が誇る稀代の資叛家(しほんか)。粟立つ皮膚に擦り込まれた(おぞ)ましい記憶に、鉄郎は胸の奥所(おくが)(まさぐ)られ、今宵の真打ちが励起する腰の据わった猟奇に、腰から提げた鵲の銃身がホルスターを振り解かんばかりに身悶える。天河(てんが)(あまね)く無限軌道を旅する限り、此の悪縁が途切れる事は無いのか。

 竜頭の三白眼が眼裏(まなうら)に吊り上がり、本の束の間、金無垢に煌めいた垂髪が再び溝黒(どぶぐろ)蓬髪(ほうはつ)に塗り潰され、薄氷を透かした様に張り詰めた形相に亀卜(きぼく)の亀裂が駆け巡る。絶頂に達した兆刻(ちょうこく)から立ち昇る瘴気(しょうき)。其の垂れ込めたベールを益荒(ますら)う影が、竜頭の抜け殻に乗り移り、緑青(ろくしやう)の酸化被膜で(むしば)みながら、鋳造(ちゅうぞう)の化身、機械伯爵の筐体(きょうたい)が実体化していく。竜頭がチャドルを脱ぎ捨ててから、息を吐く間も無く畳み掛けてきた夢魔の連続も、此処が先途(せんど)の最終コーナーとか言う奴だ。煮え滾る(あかがね)の鉱炉から褐色(かちいろ)炎群(ほむら)を巻き上げて鎌首を(もた)げる、不瞑不屈(ふみょうふくつ)の隻眼。見渡す限りの万象を一瞥を以て睛圧する、頭蓋に埋め込まれた洞孔(どうこう)が狂爛のカドミウムレッドで血走り、錆粉(しょうふん)(まみ)れた地肌を縦横に走る、(はらわた)を捲り上げた様な皺襞(しゅうへき)が、蒼蒼(そうそう)とした古代の文様を綾並(あやな)み、貪婪なる獣面を蠕動(ぜんどう)している。

 相も変わらず峨峨(がが)として立ち(はだ)かる、尊大な機界の鼎王(ていおう)。此の饕餮(たうてつ)の魔性を前にしては、夢か(うつつ)か、憑き物が降りてきたのか、老想化した錯視の反響かを分別した処で意味が無い。些細な穿鑿(せんさく)を寄せ付けぬ圧倒的な魁偉(かいい)。鉄道資料を網羅した邸宅で遭遇した朽ち果てた姿で無く、隙の無い軍装で身を固めた伯爵の壮肩から(ほとばし)る幽渾で、時空が歪んで見える。

 此の漢が首を出して、血の一筋も流さず、挨拶だけして虎穴に戻るなぞ有り得無い。背の低い客車の天井を突く、居丈高な義肢の甲冑が重厚な一歩を踏み出し、外顎(がいがく)膠着(こびりつ)いた漆気触(うるしかぶ)れの様なベアチップが瞬いた。

 「(かつ)()て玉を(いだ)く、とは此の事か。」

 嗷嗷(ごうごう)と車内に響き渡る一節(ひとふし)の呻吟。回転ベゼルで縁取られた、火の玉の如き千里眼に射竦(いすく)められた鉄郎は、鉛の玉を飲み下した様に息が詰まり、血気に逸る戦士の銃に縋る思いで手を掛けた。其の時、

 「星野加奈江、否、旧姓、雪野加奈江だな。」

 伯爵は鉄郎に向かって慇懃無礼に問い質した。管理区域外の屋敷でも、此の漢は鉄郎を原名調伏してみせたが、其の比では無い。唐突に浴びせられた母の名。其れも旧姓に鉄郎は震駭(しんがい)した。

 「間違ひ無い。真逆(まさか)、此程の優良種が伝世されてゐたとは。」

 モノアイを縁取る回転ベゼルを指で切り替え、鉄郎に非破壊光子を掃射して感嘆する伯爵。其の炯炯(けいけい)と見開かれた独眼を覆う風防硝子の鏡面に、対峙している鉄郎では無く、吹雪を纏って身構える母の姿が映り込んでいる。九死の瀬戸際に瀕して(なほ)規矩(きく)を正した其の気丈。此は()しや、雪原に独り取り残された、彼の日の白魔の続き。追い(すが)り、駆け付ける事の出来無かった惨劇、其の決定的実況を目の当たりにして、鉄郎は慙愧(ざんき)鉄鎚(てっつい)に討ち伏せられ、些塵の舞い散る通路を膝で叩いた。

 「調べは付いてゐる。手荒な真似をするつもりは無い。我々の指示に従つてもらはう。服を脱げ。力尽くで剥ぎ取るのは容易(たやす)いが、時間が惜しい。早くしろ。」

 (ひざまづ)いて舐める様に見上げる、伯爵の意味不明な錯誤。伯爵は目の前の鉄郎では無く、彼の日の母に命じている。此の機畜の凶像は此処に居て此処に無い。此の伯爵は、母を狙撃し、奪い去った、彼の日の伯爵。鉄郎は仇役の眼中に閉じ込められた母の影を眼で追った。

 「己の分限を(わきま)へろ。得物も持たぬ生身の躰で、何をどう刺し違へると云ふのか。」

 山の背を負うが(ごと)き呵責に屈した鉄郎を見下し、呵呵(からから)と嘲る伯爵の威容。然し、鉄郎は怯む事無く、寧ろ、巻き戻された彼の夜に、常に待ち焦がれていた此の時に感謝した。(ようや)(あがな)う事が出来る母への不実。其れが例え夢でも構わ無い。母の身代わりに此の命を捧げる事が出来るのなら。鉄郎は機賊の脅弾の前に胸臆を曝し、其の瞬間に満を持した。すると、伯爵が突如後退り、粒の粗い蛮声に畏怖と随喜が入り乱れる。

 「知つた様な口を叩きおつて。其れも又、伝世された血の為せる業と云ふ奴か。卦体(けたい)(ちから)よ。(しか)し、其れでこそ玉体の務めを果たせると云ふ物。良いか、御前達は下がつてゐろ。雑兵の手に負へる相手では無い。」

 大振りに配した金釦(きんぼたん)と差し色の赫いステッチが燃え盛る国防色のコートの袖を僅かに(たく)し、伯爵は勿体振った好古趣味で艶めく小口径のレーザライフルを、襷掛けにした肩から外した。彼の夜の暴風雪が陶然とした戦慄を霏霺(なび)かせて肺の腑を吹き荒ぶ。伯爵の錯視の(まま)に自らの肉体を母の凶運と重ね合わせる鉄郎。土を頭から被せられながら、神の(ゆる)しを待つ人柱の恍惚。鉄郎は天の差配に其の身を一心に捧げている。処が、無抵抗な贖罪の子羊を前にして伯爵は硬直し、堅牢な外顎から(ほとばし)る、荒々しくは有っても悠を以て律した呼気が、(にわか)に乱れ始めた。何に怯えているのか、様子が奇怪しい。後は手を下すだけで在る筈の伯爵が、却って鉄郎の纏った母の幻影に追い込まれている。

 「地獄へ落ちる前に舌を抜かれたく無ければ、余計な説教は其処迄にしろ。」

 被害妄想に取り憑かれた様に、当て()無く漂う廃塵を水平に薙ぎ払う上腕。虚を吐いた怒号からは、仁義と礼智に裏打ちされた厳格な響きが失せ、豪壮な体躯を誇る鋳造の羅刹(らせつ)が、(なまくら)木偶(でく)御上(おのぼ)りに品下(しなさが)り、半ば及び腰で身構えている。取り乱した伯爵の眼底で、何事か語り続ける母の投影。

 

 「偉大なる母の血に泥を塗りたく無ければ起て。」

 

 リフレインする、彼の夜、伯爵が屋敷で振り下ろした面罵。此の漢が知悉する鉄郎の思いも寄らぬ母の真実。

 

 「母に会ひたければ時間城に來い。」

 

 其処に行けば、本当に真実と出合えるのか。(そもそ)も、鉄郎に取って真実と呼べる物なんて在るのか。此の宇宙に真実に値する物なんて在るのか。鉄郎の母に真実を突き付けられて狼狽(うろた)えているのは、寧ろ伯爵の方だろう。鉄郎の心拍に合わせて再び揺れ惑う信疑の天秤。此の遭難列車に乗り込んだ時点で、総ては藪の中の迷路だ。

 竜頭の神憑りを語り部に、前口上の一つも無く、暗幕が降りたまま突如開演した影絵芝居。台本も無ければ脈絡も無く畳み掛ける、嫌味な禅問答と独り善がりな長広舌。そして遂には此の時空を超えた押し付けがましい再現ビデオだ。トラウマの焼き直しでリメークした悲劇に、武者振(むしゃぶ)り憑く悪食なパロディ。順不同で()()ぐコマの欠けたモンタージュがリールから弾け飛ぶ。主客の転倒した記憶を傍観する鉄郎。何処迄が脚色か粉飾かも判らぬ自己盗作の三文オペラに、法廷桟敷の被告席が強要するヤラセの懺悔。そんな見世物の書き割りを突き破って、伯爵の悶絶が火を噴いた。

 「黙れ、黙れ。」

 臣下の(いさ)(ごと)を振り解く様に怒号を上げ、色と光の褪せていた火眼金睛のモノアイから飛沫するアーク。文身に彩られた鋼顔が飴色に焦熱し、植毛に覆われた電脳ボードのフィラメントが顳顬(こめかみ)を掻き毟る。銃床を肩骨で(くわ)え込み、組み伏せる様にレーザライフルを構える伯爵の形振り構わぬ其の大仰。親の尾に縋る子狐の様に、鋳鉄(ちゅうてつ)の偉丈夫が銃身の影に身を隠して震えている。鉄郎の眉間に突き付けた銃口から筒抜けの虚勢と恐怖。母と生き別れた彼の夜、(ほぼ)、同じ至近距離で同口径の鉛管から覗き見た死の宣告を、鉄郎は今、飄然と(みつ)めていた。どうやら苛烈な運命に付け狙われているのは、鉄郎だけでは無いらしい。伯爵も鉄郎と同様、何等かの重荷を背負って喘いでいる。只でさえ、一足欠けた二脚の(かなへ)だ。座りが悪くて当たり前。此の漢の纏う破滅のオーラは己の身をも焼き尽くす被虐の業火だ。鉄郎は不図(ふと)、伯爵が内に秘す深手の瑕疵(かし)を愛せる様な気がした。

 終幕を告げる伯爵の雄叫びが地吹雪を切り裂き、這い(つくば)って掻き集めた物々しき殺意が、銃口の鼻面に座した照星に殺到する。狙う者も狙われる者も一つに和した、永遠の懺悔を環流する始発と終着。生き延びる事こそが母の遺訓と痛暁して(なほ)、時空を超えて母の身代わりに此の命を捧げる倒錯に取り憑かれ、そんな奇蹟が成立する筈が無いと判っていながら、鉄郎は勝手口の脇に立て掛けた(かんぬき)の様に、漠然と傾いだ儘の心で、光励起結晶の昂調する銃身を眺めていた。鉄郎の母が誇示する威迫に、有りっ丈の狂気を振り絞って抗う伯爵の偽悪も限界に達している。一体自分達は何を護り、何に打ち克とうとしているのか。強権を揮い敵も味方も寄せ付けぬ、伯爵の悲愴な気概。此の炸薬の禍中に在って、鋳型で(くすぶ)(ほの)かな酸鼻が鉄郎の小鼻を(くすぐ)った。

 物心の付いた時には、貧民窟の子供とは一切口を利くなと断じた母の極言。感染症から生活習慣、価値観に至る迄、母は鉄郎を人が巣くう市井(しせい)の穢れから隔離した。息苦しい母の謹厳な愛とは違う交情を、同世代の子供達と温める事を知らずに育った鉄郎は、たった独りの母と言う十字架を背負う、血縁の離島に置き去りにされた流刑者だった。孤独を紛らわす様に塵を拾い続けた鉄郎。人影の無い産廃の峰を辿りながら、西日に伸びた己の影を友に見立てて語り掛ける日常を、虚しいとすら気付かずに育った。其の独語に暮れる己の姿と折り重なる、鉄郎に向かって独り芝居を打つ伯爵の哀切。親の仇と判っていながら、焼き(がね)で刻んだ宿縁の片隅で、微かに疼く心の(つぶて)。そんな矢庭に芽生えた歪な(しこ)りを、冥盲閃墨、黒耀の(やじり)(ついば)み、冴え渡る玲鳴(れいめい)が鉄郎の止め()無い錯想を(つんざ)いた。止水を()ぎる(かささぎ)の飛影。鉄郎の肩胛骨から僧帽筋を彗翼の羽撃(はばた)きが突き抜ける。

 

 

     鵲飛隸天  鵲 飛んで天に(したが)

     蠱厄于淵  () (ふち)にて(くる)しむ

 

 

 ()んでいる。戦士の銃が、眼を醒ませと(いき)り立ち、鉄郎の骨盤を(はや)るに任せて蹴り上げる。タイタンで手にした時以来、此の化鳥(けちょう)の勘所が外れた例しは一度も無い。羽繕(はづくろ)いを切り上げて、此処からが本当の後仕舞い。満を持して登壇する、積層鍛造から削り出された流線型の霊銃。川面を蹴立てて鱗舞する若鮎の様にホルスターから跳ね飛び、有無を言わさぬ淫力で鉄郎の腕を黒妙(くろたえ)のグリップに引き擦り込む。顚倒した主従に振り回され、汗ばんだ五指を(くわ)え込む硬骨な握り応えが、掌の生命線から手首、肱、肩と貫いた其の瞬間、車内の膠着した大気を、不協和な合成周波のラップ音が掻き毟り、

 「雋エ讒倥?∝?縺ョ驫?r菴募?縺ァ縲」

 竜頭の時縛を以てしても調伏し切れなかった残党が、目深に結わいた狂言強盗の頬被りを掻殴(かなぐ)り捨てて吼え立て、伯爵のモノアイに映る母の投影が鉄郎の実像に復元した。此の田舎芝居の全てが、竜頭を歩き巫女に見立てて取り憑いた、電脳蠕虫の旅興行だと言う事か。本の束の間でも、伯爵に抱いた御情けを返しやがれ。

 「逕溷濠蜿ッ縺ェ荳サ蜷帙〒縺ッ譏薙??→蝟ー縺?ョコ縺輔l縺ヲ邨ゅ≧蜈カ縺ョ髴企ウ・繧偵?∬憶縺上◇蜈カ蜃ヲ縺セ縺ァ謇区≒縺代◆迚ゥ縺?縲りェ峨a縺ヲ繧?k縺槭?∝ー丞Ι縲ょ?蝨溘?蝨溽肇莉」繧上j縺?縲り?ウ豎壹@縺ォ隕壹∴縺ヲ縺翫>縺ヲ繧?k縲ょ錐繧貞錐荵励l縲」

 油蝉を埋め込まれた様に鉄郎の側頭葉を掻き乱す、エンコードの破綻した算譜厘求(さんぷりんぐ)の金切り声。ライフルを構えたまま喚き立てる伯爵の輪郭線を多動質な光子が駆け巡り、其の残像から迸る蛍素が見覚えの有る矩形波と三角波を掻き鳴らしながら、車内の全方位に放電する蛛網怪怪(ちゅうもうかいかい)。タイタンで廃ダムの湖面を席巻した電呪の文波(あやなみ)が、座席と通路に降り積もった死灰(しかい)を巻き上げ、隊伍を組んで遺棄された乗客の抜け殻を召電し、集積化した兵馬俑(へいばよう)が一斉に息を吹き返す。類感呪術の避雷針と化した伯爵を同心円に、異形のパルスを輪廻する再活性した電脳黴毒(でんのうばいどく)のアルペジオ。四列シートから総立ちの亡骸(なきがら)が、隣り合う同類に絡み付いて逆関節を取り合い、スパークを飛ばして犇めく鋼物の団塊から、引き千切れた剛筋義肢が宙を舞う。

 「菴輔?∬イエ讒倥?逵滄???∝スシ縺ョ譎ゅ?蟆丞Ι縲ょ聖髮ェ縺ョ荳ュ縺ァ陦後″蛟偵l縺溘?縺ァ縺ッ辟。縺??縺九?ょ?繧後〒縺ッ雋エ讒倥?譏滄㍽蜉?螂域ア溘?諱ッ蟄舌?繝サ繝サ繝サ繝サ縲」

 ホルスターから飛び立った鵲が鉄郎の手中に納まった途端、眼の色を変えた鬼界の輪舞輪誦。人もウィルスも粗相がバレて開き直るのは同じ事。こんな悪巫山戯(わるふざけ)を裏から糸で引いているなんて、余程、(うだつ)が上がら無いのだろう。壁に耳を当てて隣の部屋をリモートしてる位なら、大人しくベランダで星の数でも数えていれば良い物を。逆巻く飛黴(ひばい)とプラズマが転調と変拍子を打電する、幾何学模様の無限ループに包囲された鉄郎は、諸手を合わせて拝む様に流線型の霊銃を上段に構え、奇色ばんで(ども)り立てる伯爵の隻眼に照星を合わせて、(おもむろ)に振り下ろした。

 

 

      靈爪封蠱  靈爪(れいそう)にて()を封じ

      靈觜殺毒  靈觜(れいし)にて毒を()

 

 

 とかで良いんだろうか。見様見真似の言挙(ことあ)げを口にする鉄郎。付け焼き刃の安売りは火傷の元と判ってはいても、調和制伏の四文字熟語が載っている漢字ドリルで、予習出来る訳で無し。悔しいが、今頃、999のラウンジで茶餅(さべい)(たしな)んでいる黒猫の唱えた(うけ)ひの祷命(とうみょう)がタイタンでは一役買ったのは確かだ。古儀の卜辞(ぼくじ)で確変した鵲の千早振(ちはやぶ)る鳳雷。言霊(ことだま)(たす)くる戦士の銃の真骨頂は今も此の身に刻み込まれている。(しか)し、歌枕を見てこいと言われて手土産の一つも見当たらず、ウロウロした挙げ句に御知恵を拝借なんて以ての外。76のAカップがシャシャリ出て来る前に方を付けずして、漢の立つ瀬が在るものか。獲物を嗅ぎ付け、漸く目覚めた霊鳥の武者震い。其れでも未だ何かが足り無い。黒耀に煌めく星の鏃が暴発寸前の怒張に達する、一向(ひたぶる)に敏な英気が。ダマスカス鋼の銃身に秘めた獣祖の雷管を撃針する決定的な(こと)()が。

 「驩?ヮ縲∬イエ讒倥?豈阪?莠九↑繧画。医★繧倶コ九?辟。縺??よ羅縺ョ鬧?ウ?↓莨壹o縺帙※繧?m縺??りイエ讒倥↓縺ッ逵溷ョ溘r遏・繧玖ウ??シ縺悟惠繧九?らォ憺?ュ縲∵。亥?縺励※繧?l縲」

 鼓膜に錐を突き立てる、解読不能な奇語の羅列に険眉の極まる鉄郎。一方的に捲し立てる伯爵と銃を突き付け合い、士魂の欠けた途端、一撃で遣られる喉剣胸矢(こうけんきょうし)。其の刹那、耳障りな喧騒の最中に不図(ふと)、新奇な直感が中耳を限った。此の出鱈目なPCMの激情は、鉄郎の思考を攪乱する騒霊の手管(てくだ)と言うより、何処か真に迫る物で漲っている。まるで本当に語り掛けている様に。真逆(まさか)と思い耳を凝らした其の時、伯爵のモノアイに映る鉄郎の投影がメーテルの黒装束に切り替わった。

 「菴墓凾霑?◎繧薙↑蜃ヲ縺ォ髫?繧後※縺?k縺、繧ゅj縺?縲ゅΓ繝シ繝?Ν縲」

 ライフルを構えたまま硬直してはいる物の、伯爵の躁言には明かな感情の起伏が息吐いている。

 「縺ゅs縺ェ驥手憶迥ャ繧呈鏡縺」縺ヲ縺阪※菴輔≧縺吶k縺、繧ゅj縺?縲」

 疑いの余地は無い。其処に居るのだ。伯爵のカドミウムレッドの血涙に染まるメーテルが。時空を超えた其の眼路の先に。

 「縺昴s縺ェ縺ォ蠖シ縺ョ蟆丞Ι縺梧ー励↓縺ェ繧九°縲ゆク?邱偵↓譌?r邯壹¢縺ヲ諠?′遘サ縺」縺溘°縲」

 鉄郎は伯爵のモノアイに神経を集中した。銀河鉄道という天河無双のコンマグリッドを介して対峙する二極の異分子。其の浅からぬ因縁に、突き付けられた銃口の凶威も忘れて。処が、

 「縺薙s縺ェ蠖「隕九↓邵九k縺ョ繧よュ、縺ァ譛?蠕後□縲?99縺ォ謌サ縺」縺ヲ蜈ャ蜍吶↓蟆ょソ?☆繧九′濶ッ縺??」

 微かな糸口を掴む事すら儘ならず、モノアイの鏡面に閉じ込められていたメーテルが再び鉄郎に寝返った。

 「蠖シ縺ョ螂ウ縺ォ縺ッ縲∝ョ?ョ吶?譫懊※縺ァ譛ス縺。縺溘→縺ァ繧りィ?縺」縺ヲ縺翫¢縺ー濶ッ縺??」

 伯爵が何を喚いているのかは判ら無い。其れなのに、一体何処から込み上げてきたのか、鉄郎は間髪を入れず火語を散らして捻じ伏せた。

 「彼の女だと。巫山戯(ふざけ)るな。母さんと呼べ。

 

 

    思爾爲雛日  思へ(なんじ)(たり)し日

    高飛背母時  高飛(かうひ)して母に背ける時

 

 

 死に場所を探してるのなら俺に任せろ。御前には帰る場所が在る。」

 (さなが)ら、伯爵の隻眼に映る己の不義を正すかの如き激昂。憑き物に言わされているのでは無い真実の言葉。逼迫した悲憤が仙骨から頭頂を貫き、喉笛を締め上げ、眦を熱くする。此は唯の俄芝居なんかじゃ無い。脚本に書き込まれた山場でも無ければ、転寝(うたたね)の夢枕でも無い。何者にも扮してい無い鉄郎と伯爵が決する魂と魂の衝突。鉄郎と伯爵を巡る何事かが切り取られた決定的瞬間。不吉な好奇心を差し挟む余地も無く、鉄郎の顳顬(こめかみ)を走る動脈が頭骨に喰い込み、犬歯を()ぜる心火の砲舌が、鉄郎の胸裡に巣くう惰弱諸共、伯爵の瓦解した威迫を焼き尽くす。

 「繝輔Φ縲∫謙蜿」謇阪↑縲」

 熾烈な面罵を撥ね除け、伯爵の得物がライフルから金象嵌(きんぞうがん)直劍(ちょくけん)に兇変した。(かなへ)の蒼貌に群がる渦紋の(ひだ)を苦汁が滴り、カドミウムレッドの血壊した眼精が捲れ上がる。其の沈痛な荒魂に向かって、神気心頭に達した鉄郎は呼吸を整える様に古哥(こか)()した。

 

 

    歸去来兮     (かへ)りなんいざ

    田園將蕪胡不帰  田園(まさ)()れなんとす(なん)ぞ歸らざる

    既自以心爲形役  (すで)に心を以つて形の役と()

    奚惆悵而獨悲   (つい)惆悵(ちゆうちよう)として獨り悲しむ

    悟已往之不諌   已往(いわう)(いさ)められざるを悟り

    知來者之可追   來者(らしや)の追ふ()きを知る

    実迷途其未遠   (まこと)(みち)に迷ふこと其れ未だ遠からず

    覺今是而昨非   今の是にして(さく)の非なるを(さと)

 

 

 錬鉄の技を研ぎ澄ます錚錚(そうそう)たる詩境に鵲の慧眼が煌めいた。二等辺に構えたグリップから骨伝導し、鉄郎の心の臓を鷲掴む霊鳥の鉤爪。ダマスカスの鋼目に獣詛が(みなぎ)り、母を襲った翡翠(ひすい)の凶弾が、車内を網羅する飛黴(ひばい)と放電を引き裂いて、鉄郎の眉間を()()けた。怜悧(れいり)な閃光と共振音が呼び覚ます、白魔に散った母の断末魔。地吹雪を置き去りにして闇に消えた蹄鉄と(いなな)き。()える。新雪に潜り、身を隠す事も出来ずに立ち尽くした光量子のスパイラルが。前後不覚の雪原で、荘厳な屋敷で、彼程、雄々しく見えた機賊の纏う慙愧が、歴々(まざまざ)と。

 鉄郎の瞳に乗り移った黒耀の秘石。迫り来る機畜の逆鱗を焦点に捉えて放さぬ、星辰一到に徹した霊銃の気概。精錬されたダマスカスの波紋が鉄郎の毛細血管を駆け巡り、真核細胞にまで染み付いた(よこしま)な小智に()きを入れる。泡沸絶騰の頸動脈。一瞬にして蒸揮する俗身。再結晶し息を吹き返す天性と血統。賊軍の銃撃を(かわ)すなぞ論の外だ。鉄郎は自ら、K点を越えた悲愴な弾道の面前に立ち(はだ)かり、捨て身の盲虎を迎え撃つ。

 諸手に構えた戦士の銃が謳歌する皇剛性の絶倫。鉄郎は稲光る弾頭の一点を睨み付け、握り込んだグリップに身命(しんみょう)を賭した。破れかぶれの(なまくら)な粗撃に此の俺が屈する訳が無い。誰に媚びる事の無い渾身の矜持と、死神をも寄せ付けぬ強靱な覇気。眉間に集中した其の核心に弾かれて、(わず)かに屈折した弾道が鉄郎の眦を掠め、小鬢(こびん)を削いだ。後部座席で絡み合う乗客の団塊諸共、撃ち砕かれる客車の躯体。爆風に(そよ)ぐ、炭化して縮れた焦眉と蛋白質の燻る臭素。減衰する翡翠の条痕を舐める様に(みつ)めながら、鉄郎は何発撃とうと弾の無駄だと微笑んだ。

 伯爵の屋敷で全く手も足も出なかった彼の時の、(まさ)に勝手違い。至近距離の一撃を捻じ伏せられて、二の矢も継げずに立ち尽くす伯爵の隻眼が、標的を見失った照星の中を泳いでいる。相手の器を見切って迎える余裕の後番に、鉄郎は光励起結晶の真髄が(しず)かに臨界してる銃身を、諸手を解いて振り降ろした。名刀は鞘の中に治まっている物。此の鵲が本物の霊銃なら弾を込める必要すら無い筈だ。調伏されるのを待つだけの、鏃の錆びに堕した伯爵を前にして、私憤も宿縁も、背に負った母の眼差しも解晶し、冷淡な膂力(りりょく)に満ちた心の臓が、唯、昂然と拍動している。降魔(ごうま)(いか)()を振り翳し、発莢(はっきょう)したアークの咆哮に酔いしれ、盲管銃創に腹を抱えるなぞ趣味じゃ無い。勝負の判定や、力の優劣なぞ二の次だ。此の騒ぎの介錯を執る前に確かめる事が有る。鉄郎はインローで()め込まれた伯爵のモノアイを覗き込む為に、カドミウムの赫眼が何を映し出す鏡なのか確かめる為に歩を踏み出した。(おごそ)かな異端審問官の第一歩に震撼する車内。不埒なプラズマと死灰の獺祭(だっさい)で鉄郎を取り巻いていた騒霊が、栓を抜いた排水溝に引き擦り込まれる汚水の様に終息していく。複合調和音の冥奏が闇に呑まれ、座席と通路に雪崩れる糸の切れた乗客の義肢を踏み分ける鉄郎。伯爵のライフルは未だ其の禁を解かずに張り詰めている。幾ら腹が据わり、車内を睛圧しているからと言って、此の至近距離を超えた面前で再び銃撃されたら一溜まりも無い物を、ならば猶の事と言わんばかりに、勇を鼓す歩武堂堂の漸進(ぜんしん)が突き付けられた銃口を押し戻す。伯爵の頑躯を(かたど)る輪郭線を、鼎の渦文を縦横に疾走していた蛍素が燃え尽き、発散していた瘴気が揮発して、御神木の幹を彷彿とする其の堅腰が傾いだ。

 「私事に溺れ、職責を見失ふとは、一生の不覚。」

 手元から擦り抜けたライフルと同時に、片膝が床を叩き、左手で髪を掻き毟りながら右手を突き出し、其処にいる筈の無い臣下に向かって声を荒げる伯爵。

 「何うした、トランクだ。何を呆けてゐる。伝送トランクを用意しろ。」

 目の前に立ち止まって見下ろす鉄郎の姿にも気付かず、(めし)いた御薦(おこも)の様に振り回す(かつ)ての豪腕。鉄郎が救いを差し伸べる様に其の手を取り、ハッとする程に華奢な、闇を探る其の指先が不意に吊り上がると、

 「鉄郎、此の女を母と思ふな。撃て。然して、999を・・・・・。」

 辞世の覚悟も儘ならぬ絶筆の様に、粒の粗い算譜厘求(サンプリング)の蛮声が息絶えた。伯爵の幽渾な鋳像が明滅して、呪縛の解けた鉄郎の錯視を希釈して霞み、嵐の後の静けさに頭から前のめりで崩れ落ちるのを、鉄郎が()(かか)えた其の腕に墨染めの垂髪が降り注ぐ。光を取り戻した窓外の満天の星明かりが射し込む車内。四列シートに乗客の遺骸が整列し、伯爵の撃ち抜いた車体の風穴が掻き消され、気の遠くなる様な歳月の経年劣化が、再び息を(ひそ)めて(にじ)み始める。何もかもが夢の様に過ぎ去った一幕の余韻を胸に。永遠の橋掛かりへと踵を返すシテの背に拍手は無用。鉄郎の腕の中で憔悴し血気の無い四肢が撓垂(しなだ)れ、富士壺の様に集積化した石腹を覆う多針メーターのバックライトが(かじか)む様に点滅している。艤態化した体幹とは裏腹に、張り子の様に軽い竜頭の人形(ひとがた)。時の旅路に疲れ伏した其の虚世身(うつせみ)に、鉄郎が労る言葉を探していると、星明かりを湛えて墨の五色を(ちりば)めた垂髪が揺らめき、新月の波間から浮かび上がる様に竜頭が小首を(もた)げた。微かに緩む眦の奥を光が走り、線を引いただけの鼻筋の下で、宛名の無い封筒に浅く鋏を入れた様な口元が(ほころ)んでいる。

 「鉄郎・・・・・・、そう、どうやら不覚にも助けられて終ったようね。」

 竜頭はピアノ線で引き揚げられる様に上体を起こし、鉛色の三白眼に虹彩が戻ると、海松色(みるいろ)蜷局(とぐろ)を巻き上げてチャドルを羽織り、水平に振り翳した左手に打ち捨てられていた燈會(ランタン)を引き寄せ、右手の中指で錻力(ブリキ)の笠を弾いて点した狐火に向かって呟いた。

 「車内の隅に紛れていた重合体の残滓に揚げ足を取られて、御負(おま)けに、行き摺りの小童(こわっぱ)に、其れも生身の三下(さんした)に尻を拭ってもらうだなんて、良い面の皮だわ。」

 厄が落ちたのか毒が抜けたのか、焼きが回って切れの無い憎まれ口を叩きながら、燈會を掲げて車内を一望する竜頭。チャドルの(ふく)よかなドレープの下に隠れた薄い肩が、秘めやかに嘆美を()して角を落とし、表情を絶した横顔が眩しそうに其の眼を細め、微かに頷いた様に見える。

 「どんな具合だい、物の怪との二人羽織は。中々の見物だったぜ。」

 再び穏やかに流れ始めた時の営みに其の身を委ね、端然と寛ぐ竜頭の姿が少しばかり癪に障り、減らず口を叩いて(あげつら)う鉄郎。

 「辻説法を吹っ掛けてきた時の元気はどうした。エエッ、オイ、蛞蝓(なめくじ)の落ち零れみてえな面しやがって。」

 重力の底に降って墜ちた禍事(まがごと)(かた)が付き、気の緩んだ弾みで口が滑るのを、竜頭は目深に被ったチャドルの奥で聞き流し、囁き交わす星々の(せせらぎ)を眼路で辿りながら、銀河の歌枕を氷雪に見立てた。

 

 

   忘れては夢かとぞ思ふおもひきや 

         雪踏みわけて君を見んとは

 

 

 憑き物に憑かれて意識と時辰儀の針が飛んでいる間に、私の方も面白い物を見て回れたわ。伯爵の血腥(ちなまぐさ)い眼も借りて。土産話の一つでもと思っていたけれど、どうやら余計なお世話のようね。」

 「オイ、どういう事だ。真逆(まさか)、見たのか。人間狩りを。母さんが襲われるのを。」

 「見たわよ、鉄郎・・・・・・貴方と一緒に。」

 「俺と?過去に戻ってか。」

 「そうよ。憑き物が鉄郎の情念に感応したようね。」

 「好い加減な事を()かしてんじゃねえぞ。竜頭、もっとちゃんと判る様に説明しろ。」

 「時間城に来れば何もかも明らかになるわ。(ただ)し、其れ相応の覚悟が出来ていればの話よ。其処まで来たら後ろを振り返る事すら命懸け。真実なんて物を期待しているのなら、聞かなかった事にしておきなさい。此の宇宙の何処をどう探した処で、真実なんて呼べる様な代物は見付かりっこ無いわ。唯、在るが儘の事実が横たわっているだけ。どんなに遠くまで辿り着けても、真新しい物なんて何一つ無い。旅とは己の内面を巡る、()ざされた回廊でしか無いわ。」

 何を墨守(ぼくしゅ)しているのか。銀河鉄道財団が誇る要害の陰に再び覆われた母の行方。匹夫(ひっぷ)の勇を(たしな)める(しず)かな語り口が纏う畏迫に生き肝を掴まれ、鉄郎は芯を突いて畳み掛ける二の句が泳いだ。

 「竜頭、御前は本当に機械伯爵に仕えているのか?」

 「()う言う事に為っているらしいわね、世間では。私が時間城に出入り出来る限られた一人で在る事は確かよ。利権のブラックホールの様な処だから濁った色眼鏡で見られる事には慣れてるわ。実際には仕えていると言うより、囲われていると言った方が良いのにね。私の力を他人に利用されない為に。」

 「其れじゃあ、今も伯爵の監視下に在るのか。」

 「時間軸は別にして、何処に居るのか位は把握はしてる筈よ。でもね鉄郎、勘違いし無いで。夷狄(いてき)にも君在り。飼い主を失った犬は狼と変わら無い。四六時中喪に服している彼の女の様にね。其処には本当の自由なんて無い。人は無制限な世界や、圧倒的な力の支配から逃れる事を自由と錯覚しているわ。本当に掛け替えの無い自由と言うのは、逃れる事の出来無い限界や、心に決めた主従の中にこそ在るものよ。闇の中で煌めく黒耀石の様にね。伯爵の便利な道具になるつもりは無いけど、私を必要として束縛している事自体は満更じゃ無いわ。」

 「でも、竜頭の記憶が定期的にリセットするのにしたって、彼の青侍(あおざむらい)が仕込んでるんじゃねえのかよ。」

 「アラ、良く後存知で。取り憑かれている間に、そんな事まで打ち明けたの?此の口が。フフッ、余程人恋しいのね。」

 竜頭は初めて蒼好(そうごう)を崩し、人差し指の第二関節で(たしな)みを欠いた唇を戒めると、座席の肘掛けの上に腰を下ろして、人工被膜の剥落した乗客の頭部に燈會を翳し、

 「知らない方が良い過去が在る事位、察しが付いてるわ。伯爵も私の出自について触れる素振りも見せないし。(いか)つい顔をしてるけど、ああ見えて気遣いの人なのよ。」

 昔遊んだ着せ替え人形を愛でる様に、埃を被った遺骸の植毛をしっとりと撫で付けながら、ピースの足り無いジグソーパズルに眼を伏せた。

 「過去がどう在れ、浮世の果ては皆小町なり。躰を機械化して寿命を延ばした処で、時を計るスケールが変わるだけ。何時かは総てを失って、其処で初めて(うつ)ろう時の本質と、限り有る世界の意図を知るのよ。そして、

 

 

     ながらへばまたこの頃やしのばれん

        ()しと見し世ぞ今は恋しき

 

 

 満ち足りた記憶の冗漫より寧ろ、不義不遇に暮れた悲哀の透度に心を浸し、(あら)われる。其処には機械も人間も無いわ。」

 銀河の真砂(まさご)を数え尽くした竜頭の悟得。鉄郎は有り余る若さを無為に過ごした地球への郷愁を衝かれて面映(おもは)ゆく、其れを誤魔化す様にガチガチに握り込んでいた戦士の銃から指を解き、ホルスターに捻じ込んだ。

 「鉄郎、重合体の磁縛は解けたわ。999に戻って幹線軌道へ復旧の手配をなさい。」

 「竜頭はどうするんだ。(かえ)る脚は有るのかい。此の列車はもう動か無いだろう。良いのかよ。先に行って。」

 「良いのよ、鉄郎。人に先を譲る。其れが本当の近道よ。道に迷った時は特にね。私には此処で乗客を(とむら)う義務が有るわ。元々、抹香臭(まっこうくさ)仏弄(ほとけいじ)りが御似合いなのよ。メーテルが999で待ってるわ。早く行って上げなさい。」

 「フンッ、あんなゴキブリみてえにドス黒い、ゴッキーナ。どうせ今頃、ラウンジに踏ん反り返って、金玉の皺でも伸ばしてんだろ。幾らでも待たしておけば良いんだよ。」

 「鉄郎、何故メーテルが狐の塚を踏んだ物狂いの様に心を荒げるのか考えた事は在るの?私だって好き好んでこんな地獄巡りを続けている訳じゃ無いわ。鉄郎だって()うでしょ。本当に自ら進んで999に乗車したの?貴方は今、望み通りの旅を続けているの?メーテルの物狂いは鉄郎を映す鏡なのよ。他人の欠点を愛せない者は自分自身を愛する事が出来無いわ。他人の欠点を理解出来無い者は自分自身を理解する事も出来無いわ。」

 瞬き一つで星の生き死にをも裁く竜頭の三白眼が、子を想う母の気持ちを代弁する様に憂いを帯びて潤み、鉄郎の軽口を包み込む。

「メーテルを護るのが貴方の仕事よ。鉄郎にしか出来無い仕事なの。私にも其れが何故だかは判ら無い。でも、999に乗車すると云う事は然う云う事なの。貴方は機械伯爵に選ばれた。恐らく、メーテルを護る理由も時間城に来れば判る筈だわ。」

 「ケッ、何奴も此奴も彼の馬鹿を俺に押し付けやがって。」

 教え(さと)す様に謎を仄めかす竜頭の優しさに耐え切れず、鉄郎は座席に仰臥した遺骸を飛び越え、枠の外れた車窓に片足を掛けた。再び始まる無限軌道への第一歩。新しい星を探す旅の続きへと舵を切る。筈が、999の車内を皓々と照らし出す乳黄色の白熱灯が、燈會で点しただけの遺跡化した遭難車輌に居残る竜頭の隻影を浮き彫りにして、鉄郎の足を止めた。振り返る事も出来ず、屈み込んだ(まま)で固まる褐色(かちいろ)の乗馬服。其の掠れたオイルドコットンを羽織る伸び盛りの背中に、竜頭がそっと(こと)()を添えた。

 

 

むすぶ手の(しづく)に濁る山の井の

       ()かでも人に別れぬるかな

 

 

 此の口で汚すのを躊躇(ためら)う程に透き徹った、珠を解いて流れる銀河の岩清水。心の(ひだ)を滴る其の精寂が告げる、新しい出会いの為の一区切り。鉄郎は時の(やすり)で研ぎ上げた晶句に見合う言葉が見付からず、何も返せる物が無い空っぽな自分の後腐れに、

 「達者でな。」

 と後塵を蹴立て、999に乗り込んだ。

 

 

 

 「アラ、早かったわね。もう片付いたの?あんな網に掛かった海鼠(なまこ)の様な女、良く手懐(てなづ)けたわね。」

 機関室に向かう途中、避けては通れぬラウンジで、案の定、茶菓を抓んで寛ぎながら鬼の関所が待ち構えていた。足萎(あしな)えの斜肢跛行(しゃしはこう)を付け回し、後ろから(つぶて)を投げるに等しい心無き児戯。どんな冷やかしを浴びようと鹿十(しかと)で素通りと決め込む鉄郎の堅脚に、老獪な鞭捌きが絡み付く。

 「どうしたの?栄螺(さざえ)の蓋じゃ有るまいし。彼の生娘(きむすめ)の干し(あわび)に止めを刺してきたんでしょ。蒲魚振(かまととぶ)って無いで吐きなさいよ。其れとも、漢の身竿(みさお)を降ろす勇気が無くて逃げ出してきたとか、そんな真逆(まさか)ね。」

 総革張りのウィングバックチェアに蛇蝎(だかつ)の如く()()り、蠱毒(こどく)の限りを尽くすメーテルの粘着執。相手にしたら負け。()うと判ってはいるのに、喰い縛った筈の奥歯が火語に弾けて、

 「便女は引っ込んでろ。」

 茶器の花咲く茶盤に添えられた、五代の青磁輪花皿に切り分けられて鎮座する茶餅(さべい)の塊を鉄郎は鷲掴み、メーテルの睫毛スレスレに強化硝子で遮られた星空へ叩き付けた。

 ラウンジを抜けて次の車輌に乗り込み、総ての元凶が視界の外に消え去っても鉄郎の苛立ちは治まらず、メーテルを護るのが鉄郎の仕事と諭した竜頭の言葉が渦を巻く。()りに()って、あんなパンツの穴を何故俺が。稲妻を素手で捕まえる。そんな事が出来る位なら、始めから母さんを機賊に奪われる事もなければ、同族に蓑虫呼ばわりされる事も無い。鉄郎は怒りに任せて薙ぎ倒す様に立ち塞がるドアを開け、無駆動の鎮まり返った客車を破れかぶれに突進した。再び始まる無限軌道と銘打った監獄列車の護衛輸送。相席の黒猫と向かい合わせで仕切り直す永遠の我慢較べ。こんな事なら遭難列車に舞い戻り、乗客の供養をしていた方が、と頭を過ぎった途端に炭水車を抜け、鉄郎は機関室に飛び込んだ。

 「嗚呼、鉄郎様、良くぞ御無事で。」

 運転台から交換機を介して合成義脳と遣り取りをしていた車掌が振り返ると、機関室はボイラーの予熱で既に沸き上がっていた。各バルブの圧力ゲージが舌の上で転がすアイドリング。マングローブの様な配管を枝分かれして伝う鈍色の脈動。内壁を()ぜる火力に呵呵(かか)として(つがい)を鳴らす焚口戸。中央管理局への応信と、パフォーマンスモニターの各数値の羅列を、粛々と棒読みする合成義脳。復旧の目途は付いている。自分が口を挟む余地は無い。と鉄郎が察した其の時、交換機のマイクを憚りながら車掌が神妙に切り出した。

 「鉄郎様、776の遭難は矢張り、竜頭様が。」

 「車掌さん、竜頭の事を知ってるのかい。そうなんだ、竜頭が、でも、車掌さん、聞いてくれ。竜頭は決して・・・・。」

 「御推察致します。鉄郎様。」

 車掌は機先を制し、制帽の鍔の奥に湛えた二つの黄芒を和ませて、竜頭の人品は心得ていると言わんばかりに鉄郎の懸念を包み込むと、形式を超えた最敬礼を献じて其の労を(ねがら)った。

 「本来、事故の復旧は私共乗務員の務めで御座います。其れを此の度は、大切な御客様で在る鉄郎様の御尽力に頼る結果となって終い、誠に面目次第も御座いません。」

 下げた頭一つで総てを被る車掌の温義に救われて、恐縮した鉄郎はデッキの外で999と肩を並べる遭難車輌に眼を逸らした。

 「別に俺は何の役にも立っちゃい無いよ。竜頭が体を張って999を護ってくれた御陰さ。其れよりも車掌さん、此から遅れた分を取り戻すのが大変なんじゃないの。」

 「鉄郎様、其の御心配には及びません。竜頭様が999の運行時刻のみを脱線する前の状態に戻して下さっております。竜頭様の事を悪く仰有(おっしゃ)る方は御座いません。万が一、悪く仰有る方が居られたら、其の口が悪いので御座いましょう。」

 「成る程ね、ラウンジで茶托を突ついてる、飛べ無い(からす)のヒステリーの事か。」

 「鉄郎様、車内の風紀良俗を護るのも私の務めで御座います。譬へ多意は無いとは申しましても過言は禁物。御慎み下さい。」

 (おもて)を上げたブレザーの金釦(きんぼたん)が煌めき、車掌が真鍮製の警笛を取り出すと、車内放送のマイクを片手に復旧作業と発車準備の完了をアナウンスした。時の旅人の粋な計らい。些々(ささ)やかな陰徳陽報に一息吐くシリンダードレインの健顎(けんがく)。時が満ち、沸沸と紅潮する火室の燃焼曲線が、(かじか)む星屑の(みぞれ)の中で一基の篝火(かがりび)を起こした様に、勇を孤している。茹で上がったボイラーの胴管が灼ける臭いを、更に炙り立てる焦気の陽炎(かげろう)。安全弁を(くゆ)らせて喝喝(かつかつ)(いき)り立つ蒸気ドームの鯨背が、脊椎から尾骨へと波を打つ。精工舎の懐中時計を一瞥した車掌が、機関室の窓枠から身を乗り出すと、最後尾から進行方向へと下弦の弧を描いて振り放った白手袋の人差し指が、光を争う綺羅星の中から()りすぐられた一点を捉え、栄職の気概を装填した渾身の警笛が、黒鉄(くろがね)の土手っ腹を駆け抜ける。

 「出発信号、進行現示。出発信号、進行現示。999号、発車します。」

 合成義脳の御株を奪い、機関士気取りで天河に轟く一世一呼の大号令。顱頂(ろちょう)(つんざ)く歓喜の長緩汽笛に、精勤貫徹の使命を吹き込まれた不屈のドラフト。メインロッドを(から)げて繰り出す弩級(どきゅう)の一歩が軌道外の座礁宙域を踏み(しだ)き、客車から客車へと牽引する連結器の鉤爪が軋みを上げて、鋼顔の十一輌編成が悠然と匍匐(ほふく)し始めた。其の矢先に、

 「嗚呼、メーテル様に出発の御報告をしておりませんでした。」

 窓枠に肘を掛けて悦に入っていた車掌が血相を変えて振り返り、炭水車の中に慌てて駆け込んだ。車掌の狂奔と入れ違いに、999の後方へ引き離されていくGL-776の朽ち果てた車輌。虎口を脱する安堵の片隅で、今も独り闇に呑まれた乗客を見守る、竜頭の提げた燈會の火影(ほかげ)が鉄郎の吐胸に瞬いている。流線型の最新鋭機から幽体離脱の如く擦り抜けていく時代錯誤の蒸気機関車。遭難車輌の亡骸から乗り換え昇魄(しょうはく)する銀河の方舟。大動輪を掻き消す激蒸で捲れ上がったランボードが幹線軌道へと旋回し、精悍無比な駆動力がオープンデッキの縞鋼板(しまこうはん)を衝き上げる。鉄郎は進行方向に背を向けて運転台に座り、逆転機に背を(もた)れて窓外に眼を転じた。猪首(いくび)の突管から立ち昇る墨痕逞しき煤煙の怒咳流(どせきりゅう)が、追い縋る重力と遭難車輌を呑み尽くし、疾黒の超特柩は平常の運行スケジュールへと加速していく。玉手箱を紐解かれて後塵に紛れる、見当識を脱線した幻想譚。天架(あまか)ける鉄路の行き摺りに、鉄郎は又一つ奇想な夢を見た。

 行き交う星の営みは絶えずして、幾千光年を一夜に数える天涯の孤客。(かち)を競う己の影も宵に紛れて、帰する処は又、独り(なり)。寄る辺無き人恋しさに不図(ふと)、崩れた貨車の荷に肩を借かし、千筋(ちすじ)に乱れた五百機(いほはた)の糸を解いては何事も告げず、雨の宿りの玉響(たまゆら)に袖を擦り合う、世を空蝉(うつせみ)唐衣(からころも)。伏した仮面の僅かな節穴から覗く人の(わだち)、満目の天景は唯、心に在り。思うに任せず(たが)えた路も時として先達(せんだつ)の水先。寒山の(さび)れた葛折(つづれお)りは無為に過ごした日々の曲折。寄り添う様に滲み入る夜気に、尾羽打ち枯らした悔悟が(すす)がれて清々しく、(つまづ)いた石の礫に願を掛け、又懲りもせず痩骨に鞭を打つ。(しづ)の眼を忍び、チャドルの裾で因果の鎖を引き擦る禹歩(うほ)の爪音。時の真砂(まさご)を手に掬い、降り注ぐ夭星(ようせい)の遺灰を、地の塩と()して踏み固め、後一つ後一つと数えて九十九(つくも)を巡る百宙夜。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。

 竜頭の身、(ひと)つを靈媒(れいばい)に幕を開けた幽玄泡影の夢芝居。打ち(くだ)かれた砂時計を裸足で渡るヒロインに魅入られた束の閒の永遠。鉄郞(てつらう)は紙吹雪の積もつた追憶の肩に腕を回し、遠離(とほざか)る哥枕の獨片(ひとひら)に唇を添へ、

 

 

     瀨を早み岩にせかるる瀧川の

       割れても末に會はむとぞ思ふ

 

 

 時閒城での再会、逃れ得ぬ運命の豫感(よかん)と密約を交はした。瀑煙の霏霺(たなび)く光脚に海松色(みるいろ)のドレープが(ひるがへ)り、幕を降ろすオーロラのチャドル。時の(すみか)を後にして、星()ける銀濫の海神(わだつみ)へと繰り出す無限軌道。胸を(とも)澪標(みをつくし)(ほの)かに謎めき、數佰萬光年先で待つ何物かを目指して壹輪の光蔭が馳せる。(まばた)(たび)佰代(はくたい)を擦過する莫大な天望。炭酸の彈けるが如き壹顆粒粒の小宇宙に、鉄郞は時空の尺度を見失ふ。昔、男在りけり、と語られた處で、所詮は浮世の果ての果て。卒塔婆を杖に黃泉復(よみがへ)(わけ)で無し。盛年、重ねて來たらず。壹日(いちじつ)再び(あした)なり難し。いざ、渾是膽塊、伍尺の少身。紅顏霜鬢の石火を散らし、衆星の壹等を期す。(よし)んば、嶮路(けんろ)(あまね)く壹寸先の客死に足を()られやうとも旅の本懷。

 

 

   勸君莫惜金縷衣  君に(すす)む 惜しむ(なか)れ 金縷(きんる)の衣

   勸君惜取少年時  君に勸む (すべか)らく惜しむべし 少年の時

   花開堪折直須折  花開き折るに堪へなば 直ちに須らく折るべし

   莫待無花空折枝  花無きを待ちて 空しく枝を折ること莫れ

 

 

 軌條(きでう)の結露に映える天象の壹滴(いつてき)にして星星朗朗(せいせいらうらう)。行く路の(かた)きは、水に在らず、山に在らず。()だ淺智反覆の(かん)に在り。針路を塞ぎ身に迫る凶事も、總ては迷鏡恣水の照り返し。()して若氣(じやくき)に逸る鉄郞の心模樣、豈圖(あにはか)らんや。壹刀絕筆(いつたうぜつぴつ)を振り翳し、空想彩色で毆り描く、()ても蠱惑(こわく)な、電網佰畸(でんまうひやくき)夜行繪卷(やかうえまき)。果たして相成るや如何(いか)に。其れは()た、次囘の講釋で。



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#5 海賊船クイーン・エメラルダス

 

    無友不如己者  己れに()かざる者を友とする無かれ

    丹之所臓者赤  (たん)(ざう)する所の者は赤し

 

 貧民窟との交わりを一切拒絶した母の無言の教え。其れは流亡(るばう)の荒野に顕現した神の眼となって迷える子羊を俯瞰し、鉄郎は幼くして闇市を貪る浮浪児達の汚染された欲動との闘いを強いられ、生き残る為の知徳と引き替えに、些々やかな友愛を育む機会と術を完全に放棄して育った。人にして人に(あら)ず。メガロポリスの汚物を野良犬と肩を並べて奪い合い、騙し合い、殺し合う、堕落した半人半獣から得る物なぞ何も無い。人の世は疑う物と骨の髄にまで植え付け、喚声と怒号に塗れた享楽を断罪する、軍罰の如き鉄郎への厳しさは、より厳しく己れを律する母の峻烈に反り上がった背筋を前にしては、不貞腐れる事すら許されず、時に我が子の頬を張る其の()(ごころ)は、例え肩から斬り落とされても不動(どうじ)ぬ気骨で貫かれていた。泰山北斗を仰ぎ見るが如き母の潔白。其の総てをドス黒く塗り潰した生き写しの女と、膝を突き合わせて相席する銀河超特急の二等車輌。旅の友とは程遠い、振り解いても(まつ)はり付く毛虱(けじらみ)の如き付け馬。

 母の諭した家訓を体現する合わせ鏡の物狂いが、ボックスシートのモケットに鼻持ちならぬ露西亜帽を預け寝息を立てている。決して心を許す事の出来ぬ、999の乗車券を恵んでくれた此の旅のパトロン。生命の奇蹟と寵愛を一身に秀約し、神話の世界から舞い降りた不世出の美貌を(ほしいまま)にする謎の貴婦人を、鉄郎は酸鼻を堪えて(しか)める薄目の奥から狐視を凝らしていた。無防備に曝した星も傾く妖艶な至態。瘴気(しょうき)の晴れる様な眼福とは裏腹の、余りにも唐突で不合理な此の女の存在に、当て(はま)る憎悪が見付から無い。陰陽(あや)なす高貴な毛艶が(さざな)黒妙(くろたへ)の異風行装に雪崩(なだれ)た、天孫の降臨する瑞雲が如き金霹(こんぺき)の垂髪。産まれた(まま)の潤いを湛えるピンクパールの頬に、羽を畳んだ孔雀の様に霏霺(たなび)く豊かな睫毛。此の娟容(けんよう)が一度息を吹き返すと、煮え(たぎ)(かなへ)を覆した様な騒ぎになるのだ。他人の欠点を愛せない者は自分自身を愛する事が出来無い。他人の欠点を理解出来無い者は自分自身を理解する事も出来無い。と竜頭は戒めていたが、自分はそんな器じゃ無い。二日酔いの騙し絵か、将亦(はたまた)、悪意に満ちた逆説か。母とは又一味違う息苦しさに耐え切れず、鉄郎はメーテルの優雅な寝顔から眼路を切り、窓外の血も涙も無い星空に額を押し付けた。

 己の命を楯にして鉄郎を守り、人の道を示した無償の愛に、万謝の尽きる事なぞ有り得無い。今も眼裡(まなうら)に溢れる、絶望的苦難を包み込む慈母の微笑み。厳しさの中に忍ぶ人肌の温もり。母さんに会いたい。()して、怯懦(きょうだ)に屈した彼の日の総てを懺悔したい。嘘偽りの無い渇仰(かつごう)に硝酸を突いて充血する小振りな鼻翼。(しか)し、其の私的で普遍な太母(たいぼ)への思慕は、本能と超自我の板挟みで喘ぐ幼気な孤独を、絆と言う桎梏(しっこく)で背中合わせに(はりつけ)ていた。

 鉄郎に取って友とは物語の中に登場する空想上の人類で、勇気と信頼に因って勝利を分かち合う友情なぞ夢の又夢。何方(どちら)か一方の言葉を避けた忍耐と譲歩の上に成り立っている現実なぞ、想像した事すら無い。血を分けた母以外で鉄郎に寄り添ってくる者と言えば、パンに餓えた死の影と、死臭を嗅ぎ付けた銀蠅が関の山。鉄郎は独りに為ると何時も、(ひび)の入った心の鏡を取り出して腺病質な密談に(ふけ)っていた。旧市街地で拾い集めた宝物や、宇宙を舞台にした幻想譚を交換し合い、()もすれば母の陰口を延々と反芻する隠微で沈痛な一時。其の自慰行為は荒野に伸びる孤独の影をより一層引き伸ばしてコントラストを際立たせる。止めようと思っても止められぬ悪癖。何時か熱を帯びた虚言の坩堝に呑み込まれて終うのではないかと言う恐怖。鉄郎は被害妄想を喚き散らしながら、奈落のモンパルナスを練り歩く御薦(おこも)達の姿に、己の末路と擦れ違った気がした。錯乱した声量に比例する死期の跫音。其の幻覚や妄言が単にオーバードーズや汚染物質の蓄積に因る脳の気質的な障害なのでは無く、人間としての核心に直結している深淵で在る事を垣間見る慄然。

 そんな母の前では独語の尻尾を隠す狡猾な鼠が、今更誰と、どんな友誼(ゆうぎ)を交わし育んでいけると言うのか。タイタンを発って以後、車掌は鉄郎に一目置いくれてはいるが、乗客と乗務員と言う一線を越える事は無いだろう。戦士の銃と氏族の誇りを与えてくれたタイタンの(おみな)。鉄郎の罪と罰を背負い闇に散ったクレア。時間城での再会を期す竜頭。行き摺りの出会いの中で明滅した厚情。掴み取る事の出来ぬ束の間の触れ合いに、鉄郎は燃え尽きた流星の残像を(なぞ)る事しか出来無い。旅の行く末を見据える処か、次の停車駅すら藪の中を手探る分際で、露命は絶えず成り行き任せの運試し。此の儘、自分は独りで生き、独りで死んでいくのだろうか。こんな事なら、例え人と争い傷付け合っても、塵界に(まみ)れ人の手垢で揉まれていた方が良かったのでは無いのか。人と交わる事の無い人の命に意味は有るのか。鉄郎は光速すら蹴散らす鋼脚を誇っていながら、視界の湾曲も無ければ色相の偏移も無く、堅調な駆動音以外、運行している事を体感出来ぬ静止した銀河の厖大な空漠に、対数を幾ら並べても表し切れぬ、星系を間に挟んだ人と心の巡り合わせの確率に眼が眩んだ。

 無限軌道を鈴生(すずな)りに走破する十一両編成の謹厳な鼓動。其の狭間に(そよ)ぐメーテルの寝息が一瞬(つか)え、豊麗な睫毛を伏したまま悩ましく険眉を(よじ)ると、傾げていた小首を(もた)げながら、犀利(さいり)に研ぎ澄まされた下顎を僅かに仰け反らせて、(のみ)を打ち込まれた胸像の様に硬直した。色香の弥増(いやま)す苦悶の表情に、こんなコブラとマングースを掛け合わした様な女が(うな)される夢なんて在るのかと、横目で(いぶか)しむ鉄郎。眼に映る者は総て馬鹿にしか見えない癖に、其の見下している連中から天迄届けと持ち上げられていなければ気が済まぬ、筋金入りの御姫様だ。普通、敵が増えれば味方も増える物だが、奴の繰り出す七色のヒステリーを喰らったら、藪蚊一匹近寄ら無い。竜頭は此の馬鹿を守るのが鉄郎の仕事だと(いさ)めていたが、時空を遡った吹雪の中で一体何を目撃したのか。此の割れ鍋に合う綴じ蓋が在ると言うのなら、猫と鼠だって和解出来るだろう。

 心の糸口が全く掴め無い女だ。車掌との遣り取りを見てても、一方的に打ちのめすだけで、(およ)そ会話と呼べる代物じゃ無い。優しさの切れッ端どころか、神経の素粒子すら欠落した悪意の結晶。何を()う破綻したら、こんな瀆神(とくしん)の白痴美に育つのか。百歩譲って無師無統の狷介(けんかい)を気取っているのだとしたも、反骨と狼藉を履き違えている。此の放れ駒の隕力に巻き込まれては振り落とされ、踏み躙られては蹴落とされた天文学的な被害者の一人として、鉄郎は宣誓供述書の束を背負って登壇する事も、(やぶさ)かでは無い。確かに此の傾奇者(かぶきもの)は底知れぬ浮世離れした超絶異能を持ってはいるが、どんなに距離を保った処で火の粉を被る事に為るのだから、其の力に例え(あやか)れたとしても消し炭の山だ。こんな歩く無人島だからこそ、箱詰めにされて押し流されるだけの監獄列車で平然としていられるのだろうが、兎に角、正気の沙汰じゃ無い。奇行乱行を繰り返して(なほ)、飄然としている其の鉄仮面の下で、こんなの本当の私じゃ無い、等と涙に暮れているとでも言うのか。

汚水に()した一滴の油膜の様に、禍々(まがまが)しく煌めきながら孑然(げつぜん)と相紛れぬ、超人的な独善。窒息寸前の同調圧力を一瞥で払拭する天性の暴君が、仮初めの安息を偽装している。一度目覚めれば、凄絶で雅な死の鱗舞を(ちりば)める毒蛾の、虚ろに揺蕩(たゆた)う胡蝶の夢。鉄郎とは又、似て非なる此の魂の孤児が、何に心を許し、何を心の支えに生きているのかなぞ全くの理知の外だ。此の儘、瞼に釘を打ち、歪な性根に釣り合わぬ其の美貌を綴じ蓋にして、永遠に封じ込めてやる事が本当の優しさなのかも知れ無い。

 鉄郎は自分に言い聞かせた。此くらい頭の奇怪(おか)しい女が相手で寧ろ良かった。仲間なんて物は人生の錯覚に過ぎ無い。情に流されて辿り着くのは地獄の一丁目と相場が決まっている。寝首を掻かれてから、待ってくれと叫んでも遅いのだ。いざと言う時は此奴を人柱に建てて危ない橋を渡れば良い。血を分けた一縷の繋がり。今は唯、其れだけを掴んで離さない事だ。隣り合う独房に引き籠もる鉄郎とメーテル。窓も出口も無い其の暗がりで、喧嘩腰の反目とは裏腹に惹かれ合う運命の磁力を、伝法肌の鉄郎は未だ認める事が出来無かった。鉄郎は孤独だった。何に対して孤独なのすら判ら無い其の若さだけが、旅の道連れだった。

 

 

 銀河鉄道網の威信を歯牙にも掛けぬ、数百億光年の憮然とした星屑の沙漠。無限軌道を馳せる至高の浪漫は、汚染された大地から見上げるだけの、雲の上に浮かぶ蜃気楼でしか無かった。来し方行く末を知らぬ、壮大な万物の謎と神秘に躍る探求心も、此の空疎でグロテスクな死の遼域を前にしては、蛇に睨まれた蛙。創造主の存在を(ほの)めかす思わせ振りな仕種や(しるし)の一つも無い、己の闇を直視するに等しい、決壊した悟性の散逸した欠晶。そんな絶界を埋め尽くす無気力な光子の燦爛が色を失い、俄かに(ざわ)めき始めた。

 巫術(ふじゅつ)に秀でた血筋の割に勘の鈍い鉄郎ですら肌の粟立(あわだ)つ天河鳴動。日頃、凛品を(つろく)嵩高(かさだか)に見下ろす綺羅星が、熊の臭いを察知した蜂の巣の様に浮き浮き足立ち、額を押し付けた窓硝子を伝って、変調した可聴周波が耳小骨から眼底を突き上げる。ドラフトの呼気鼓脈とは全く位相の、エンベロープが部分断裂した振動波形。招かざる客の()り気無くドスの利いた挨拶に鉄郎の襟足は逆立ち、定刻厳守の平常運行に押し込められて()れ切っていた好奇と戦慄が胸倉を掴み合う。奈落の底へ有無を言わさず突き落とす此の旅の流儀と醍醐味に鉄郎は麻痺していた。経験則に因る危険予知が通用するゼネコンの現場とは訳が違う。此処は宇宙なのだ。異存が有ろうと無かろうと、此の強制スクロールにリセットは利か無い。死の予感が醸し出すドス黒い甘美。其の生命の樹液に惹き寄せられたのか、モケットの背摺(せすり)(もた)れ、天を仰いで瞑目していたメーテルが緘黙の禁を解いた。

 

 

     天の海に雲の波立ち月の舟

        星の林に漕ぎ隱る見ゆ

 

 

 「来るわ。」

 愁然と羽を休めていた睫毛が瞬き、乳白色の張り上げ屋根を捉えた星眸(せいぼう)が辛辣な精彩を取り戻していく。待ち構える凶事に全身で感応し、磨きの掛かる絶世の娟容(けんよう)。鈴蘭の蕾の様に心なしか綻んだ唇から覗く皓歯が、込み上げる愉悦と白檀のオードトワレを苦遊(くゆ)らせ、日頃、箸が転んでも鶏冠(とさか)を振り乱す生粋の猛女が(しず)かに燃えている。二の句を継がず、覆爪(ふくそう)を研ぐ華麗なる猛禽。直感しているのだ。対するに不足の無い相手だと。其れとも既に大方の目鼻が付いているのか。(やすり)の目の様に逆剥けた星の(つぶて)の苛立ちが、急行ニセコの筺体に感染して箱鳴りし、姿無きポップコーンノイズを拾って()ぜる車内放送のスピーカー。後はもう為るようにしか為ら無い。此の宇宙に非戦闘地域とか緊急支援と無縁の瞬間なんて無い。鉄郎がコーデュロイの襟に首を竦めて小鼻を鳴らすと、進行方向のデッキ扉が慌ただしく開け放たれ、俊敏な一礼を拝したと思う間も無く車掌が通路を駆け出し、暗黒瓦斯に点る黄眸(こうぼう)を血走らせながら危急の一報を献じた。

 「メーテル様、鉄郎様。排他的軌道領域を無許可で侵犯し、機関室からの警告信号にも応じぬ船影が御座います。恐らく、系外の航界機構にも無登記のまま潜行している不法操業者なので御座いましょうが、有ろう事か機関室の警告信号に対して火器管制レーダーを返照し、当列車を自動追尾し続けておりまして、予断を許さぬ状況で御座います。」

 不測の事態を未然に防ぐ事の出来無かった責任を一身に背負い、怒濤の叱責を覚悟した車掌は、深謝の最敬礼に備えて踵を揃えた。処が、

 「其れで?銀河鉄道中央管理局は何と言ってるの。」

 何時もなら胃痙攣を起こした様に怒鳴り散らす物狂いが、垂髪を絡ませた指先に瞳を零して、物憂げに事後の対応を促した。浮わの空の姫君に肩透かしを喰らった車掌は、前傾しかけた腰椎を立て直し、(こと)()を継ぎながら息を整える。

 「只今、銀河鉄道中央管理局で機関室から送信した船影と装備、性能、放出ノイズを解析し、航界監視データベースと照合の上、該当する船艇の特定に全力を挙げ取り組んでいる処で御座います。解明は時間の問題で御座いましょう。詳細に就きましては随時御報告致したいと存じます。加えて、当列車の警護に当たる、鉄道公安警備の手配した装甲車輌も、間も無く現地に到着するとの事で御座います。合流次第、当列車に増結し、万が一の事態も許さぬ所存で御座います。どうか御安心下さい。」

 制帽の鍔に車掌が手を添え、銀河鉄道株式会社の動輪を(かたど)徽章(きしょう)が煌めいた。紺ブレの短躯に(まと)う渾身の矜持。(しか)し其れは却って、鉄郎の狐疑を(くすぐ)り、言葉の裏の裏にメスを突き立てる。高が不法操業の船一艘を相手に装甲車輌を引っ張り出してくるなんて、草野球の代打に大谷が出てくる様な物だ。(そもそ)も、盗掘や瀬取りを生業にしている零細な密航船が、銀河鉄道の旗艦列車に火器管制レーダーを照射してくる訳が無い。最上位路線を誇る無限軌道のプロテクトだからこそ此の程度の共鳴で済んでいるが、火器管制レーダーの探知音と言えば可聴高周の限界を超えた音の空爆だ。捜索用レーダーとは物が違う。其れも広大な宙域で敵影を捉える出力は如何許(いかばか)りか。電波強度に依っては頭骨を砕いて御釣りが来る。行き摺りのチンピラが揶揄(からか)い半分で出来る事じゃ無い。相手は本物だ。

 クロスヘッドと大動輪が火花を散らし、天府を(から)げる黒鉄の魔神。其の光脚に振り切られず、付け回す虎狼の狙いとは一体。銀河を股に翔け、名も実も有る列車強盗なら猶の事、闇雲に獲物を漁ったりはし無い筈。機関室に詰め込まれた銀河鉄道株式会社の最高機密か、其れとも、此の列車のVIPに帝座する黒金剛石(くろダイヤ)か。何れにせよ、レールに置き石をして逃げ去る様な玉じゃ無い。鉄郎は顱頂(ろちょう)を突き抜け、何時でも撃ち落とせると吼え立てる高調波を喰い縛り(なが)ら、(しお)らしく成った黒い響尾蛇(がらがらへび)を上目遣いに盗み見て溜息を吐いた。

 「ッたく、此から忙しく為るってえ時に。金玉を抜かれた子兎みてえに成りやがって。」

 聞こえよがしな悪態に眉一つ(そよ)がぬメーテルの放逸。手当たり次第に暴言を叩き売っていた舌鋒が、今思うと頼もしく、焦点の拡散した瞳孔の裏で、内に秘めた炎に身を焦がしている事なぞ、鉄郎は知る由も無かった。

 

 

 

 蹴汰魂(けたたま)しい自動追尾を振り切る様に、レッドゾーンを突貫していた999がシリンダーブラストを荒げて減速し、短急汽笛を連呼してシグナルを送ると、公安警備の番犬は指示された座標をトレースし(なが)ら無限軌道に併走し、保安基準で定められている鉛丹色に白帯の光束造触炉搭載表記で外装された、内燃機関式充弾車輌に牽引されて、軍炭色(ぐんたんしょく)の鋼殻類が物々しい姿を現した。殺伐とした機能美で構築された居丈高な造形に降り注ぐ、満天の星芒を滴らせた強面の重装備。三連装砲塔を装甲車輌の四面に配備した四基三門。絡み付いた冷却素子の結管が脈を拍って浮き立つ、()()りに勃起した獄太の陰径が、雁首を並べて漲っている。有りと有らゆる最前戦で、一切の情状を介さぬ、剛姦と駆畜を反復再生してきた暴虐の輪転機だ。紛争浄化のアルゴリズムを無限に実行し続ける、自我の欠落した合成義脳は、淡々とした挙動で無言の抑止力を誇示している。運行妨害如きで繰り出してきた僅か二両編成の大人気無い援軍に、999を追い回しているのが只の野良犬じゃ無い事を改めて思い知らされる鉄郎。此から増結のランデブーに時化込(しけこ)むのか。最後尾に就くにしろ、炭水車の後ろ、若しくは十一両編成の中間に就くにしろ、其の隙を衝かれたら如何(どう)するのかと思った矢先に、装甲車輌の左右両舷に配した二基の砲塔が(おもむろ)に旋回し、砲身を束ねる天蓋が、射界の仰角に合わせて隊列を整える砲口と連動し(なが)ら、死後硬直した手の甲の様に可変し始めた。

 両腕を車輪方向の真下に振り下ろす様に静止した二基、計六門の主砲。管制指示を待つ錬度を究めた砲撃姿勢に、真逆(まさか)と言う躊躇(ためら)い等、割り込む余地は無い。落雷が直撃した様に突如臨界した充弾車輌から(ほとばし)るプラズマが、連結式の動力ケーブルを濁流して装甲車輌の砲身を巻き込むと、鉄郎は星が産まれた瞬間の光彩で視界を埋め尽くされ、車窓の強化硝子を突き抜けた砲激のブラスト波に頸椎が弾け飛ぶ。レゾナンスの利いた万雷の矩形波が糸を引いて雄叫び、垂直に斉射した反動で砲座に()り込む六門の砲身。炸爛した煌暴が鈷藍(コバルト)の砲条痕と共に減衰し、射醒後の白想に感嘆符の句点だけが取り残されて(うずくま)っている。

 「オイオイ、もう、おっ始まったのかよ。」

ボックスシートの背摺からズリ落ちた鉄郎は、六本脚の鋼殻類が重厚な股関節を機動して備える次の砲撃態勢に向かって、白撃の残響に痺れ乍ら呆言を唸る事しか出来無い。威嚇射撃とは程遠い決壊した光圧。小蠅を追い払って済ませる気なぞ毛頭無い。鉄郎の視力が回復する事を許さぬ追撃の砲吼。客車の躯体が悲鳴を上げる、護衛と言う本分を逸脱した累衝波。此の全自動鱈場蟹(たらばがに)は標的しか見えて無い。鉄郎がボックスシートの肘掛けに獅噛憑(しがみつ)いて起き上がると、蒼醒めた頬を閃光で染めるメーテルの淑やかな口吻が、(しず)かに息を吹き返した。

 「(みかど)の神輿に弓を引くなんて、彼の女以外有り得無いわ。」

 込み上げる快哉を堪える不敵な口角。解り合える者同士だけが辿れる見え無い糸を爪弾き、交錯する光と音の直中で、在りし日の微かな調べに耳を澄ます黒耀(こくえう)の酔眼。装甲車輌が999と併走しながら敵影を走査し、死神の指の様に蠢く三連装砲塔が旋回と整列と絶頂を萎える事無く繰り返している事等、全く意に介さない。張り詰めた琴線の先にいる何者かへの絶大な信頼が()うさせるのだろう。莫大な熱量と反比例する撃墜の予感。砲撃を重ねる毎に、メーテルの視野の外で空振りする絶倫。最早、匿名の飛び道具が出る幕じゃ無い。

 「天庭の紅孔雀なんぞと持ち上げられて、調子に乗ってるんじゃ無いわよ。」

 北叟笑(ほくそえ)むメーテルの旧知に満ちた罵辞。堪え切れぬ愉悦に閃いた、天穹に轟く雅な異名に鉄郎は耳を疑った。銀河連盟捜査局の第一種特別指名手配、通称、赤手配書の筆頭で在り、星間運輸機構が出資する格外報奨金の最高額を更新し続ける、自由と武勇の象徴。粒子状物質で覆われた夜空に想い描いた憧れの明星。航路を過ぎった紅民解放軍を殲滅し、民間遊星連隊( コサック )を送り込んできた侵攻財閥を榴散価証券( クラスター )で沈め、機族に因る人類の再教育強制収容所を解放した、天河無双の女傑が今、鉄郎の足許を潜航している。実存したのだ。帚星(ほうきぼし)に乗った魔女の神話が。()して、其の現人神(あらひとがみ)に景気の良い毒を吐く喪装の隣人。鉄郎は信じたい尊崇と認めたく無い嫌悪で入り乱れ、整理不能な相関図の網に絡み取られている処へ、抱え込んだ銀灰色の肉襦袢を引き擦り乍ら車掌が駆け込んできた。

 「メーテル様、鉄郎様、誠に申し訳御座いませんが、窓のブラインドを降ろさせて頂きます。事態は収束に向かって居りますので、今暫くの辛抱で御座います。其の上で・・・・何と申しましょうか・・・・(いささか)か、相反する様で心苦しい限りでは御座いますが、万一の場合に備え此の防護服を御着用下さい。」

 制帽を目深に被って視線を隠し、恐縮し乍ら差し出すゴアテックスとノーメックスの融合繊維で組み上げられた圧力容器の塊。防護服と言うには余りにも宇宙服な其のアセンブリパーツは、冷却装置や通信機器を凝縮した生命維持装置のランドセルが付属する、乗務員の船外活動ユニットだ。流石に此は女神の美意識が許さ無い、筈が、

 「慌てる必要なんて無いわ。毒蛇は急が無い物よ。」

 車掌の声が何処まで耳に入っているのか、微酔(ほろよ)い加減で揺蕩(たゆた)う、メーテルの、心、此処に不在(あらず)

 「止めなさい。」

 「ハッ?装甲車輛の砲撃をで御座いますか。」

 「999を止めなさい。」

 「999を・・・・否、併し、メーテル様。」

 「彼の女郎蜘蛛(じょろうぐも)が糸を垂らして誘っているのに、こそこそ逃げ回ってはいられ無いわ。」

 互いの惹かれ合う因力に身を委ねる魂の邂逅。誰も割って入る事の出来ぬ二人だけの世界。其の聖域を(けが)す噛ませ犬に、誅殺の(いか)()が轟いた。999の床下から立ち昇り、痺れた爪先から背筋を衝き上げる惴気(ずいき)が襟足を逆撫で、甘い吐息の様な呪詛を鉄郎の耳元で囁くと、辰宿列張を網羅する、窓外の、

 

 

 星が()けた。

 

 

 と眼を見張った瞬間、(あま)御柱(みばしら)が装甲車輌を串刺した。動力ケーブルが逆流し、溺れた仲間に引き擦り込まれて誘爆する補給車輌。鉄郎は息の根を継ぐ事も出来ず、銀河の水底(みなそこ)から撃ち放たれた、巨木の如き光励起の閃条に漂白する戦慄。頭から交戦と呼べる物など無かったのだ。物の一撃で決した兵火の審判。番犬の遠吠えが断末魔へと張り裂けて造触炉の隔壁を蒸散し、中性子の騰壊した析濫雲( ドーム )の津波が無限軌道を呑み込んで、十一両編成の輪軸が宙を()ぜる。贅を尽くした此の路線が抗核防護されていなければ、瞬く間に星滅(しょうめつ)している元素の墓場。

  「此りゃあ、OH(おお) GOD( ごと ) BYE( バイ ) 。」

 直撃を喰らったシェルターの様に激甚する車内で、置き去りにされていく華核反応から顔を背け、真綿で締め上げられた様に反吐が喉を衝く鉄郎。此では公安の助っ人を幾ら呼んでも物の数じゃ無い。本物だ。無限軌道を間に挟んで皇然不滅の火の鳥が燃え盛っている。そして、其の標敵は言う迄も無く。愕然とした嫉妬に打ちのめされている鉄郎を余所に、此の天体ショーを満喫する当の鬼娘(きむすめ)

 「脅すだけ脅して勝利を自称したり、振り上げた拳を、そっと置くなんて、彼の女に出来やし無いわ。支配するか葬り去るか。負けた事の無い馬鹿が陥る一つ覚えも、此処まで来ると大した物ね。羨ましいわ。上には上が居る事を知ら無いだなんて。折角足を運んでくれたのに、手ぶらで追い返すなんて可愛そうだわ。彼の女と私と何方(どちら)の首が置き土産に相応しいか。次の星までもう(しばら)く有る事だし、言い余興じゃないの。無限軌道に割り込んで、私の行く手を遮ったからには、安い通行料では済ま無い事を思い知らせてやる。

 

 

    いざ子ども狂業(たはわざ)なせそ天河(あまかわ)

         堅めし星そ (をみな)みなへす

 

 

 999を止めて、エメラルダスに船を横付けする様に指示しなさい。」

 防護服を抱いた儘、呆然と立ち尽くしている車掌に一瞥も呉れず、メーテルは宿縁の炎群(ほむら)を睨み付けている。山が動いた。過積載のタンクローリーで鉄火場に突進する、何時もの熱狂とは対極に聳える、氷山の鳴動。

 「命令するのは彼の女じゃ無い。此の私よ。彼の女が停車しろと騒ぎ出す前に。さあ、早く。」

 

 

 

 防護服を抱えた儘、泣く泣く機関室に戻っていく車掌の背中を漠然と眼で追いながら、鉄郎はエメラルダスと言う名の華麗な余韻に心酔していた。媚薬の小瓶を翳した様な魔性の嬌艶。相手は星の海を割り、神の方舟をも沈める宇宙海賊で、死と隣り合わせの筈なのに、何故か瓦礫の山の中で想い描いた夢の一つが叶ったかの様な、其処(そこ)()と無い歓喜が込み上げてくる。憧れの存在を透かして垣間見る、本当に自分が宇宙を旅しているのだと言う淡い実感。太陽系を脱しても猶、遠くに霞んでいた時間城と終着駅のアンドロメダ迄もが、実在する点と線の連続と為って星空に伸びていく。

そんな取り留めの無い酩想を長緩汽笛の一喝が(おもむろ)に断ち切った。胸の高鳴りを鎮める様に減圧するボイラー。シリンダードレンの放愾(ほうがい)(むせ)(なが)らメインロッドが手綱を弛め、蹈鞴(たたら)を踏む大動輪。除煙板を(すく)めて息を整えるドラフトに促されて、銀河鉄道網の覇者がトルクの利いた減速曲線を制動装置を介さずに一歩一歩噛み締めていく。幾ら銀河最強を誇る999の動輪周馬力を以てしても振り切るのは至難の業で在ろうとは言え、エメラルダスを迎え撃つなんて正気の沙汰じゃ無い。其れを此の黒色火薬を練り固めた様な女は、何とかして終うのかも知れ無いと思わせるのだから、何をか言わんや。奇妙な信頼と落ち着きに満ちた名の知れぬ大樹の陰に背を凭れ、鉄郎はメーテルの底知れぬ器に賽を放った。

 推力を失い惰性で軌道を舐めていた動輪が、長い溜め息と時にロックされて寸動し、待機動力が底流している以外、列車の挙動が完全に静止すると、後は野と為れ山と為れ。今頃機関室が停船命令を飛ばしている事だろう。此を受けて向こうが()う出るのか。少なくとも公安警備の番犬と999とでは物が違う。有無を言わせず砲撃し、本物の精霊列車にするなんて野暮な事は無い筈だ。尊大な女王の自意識が其れを許さ無い。逃げ回って手間取らせる方が却って火に油。彼の馬鹿の言う事も一理有る。此から始まるのは死亡令状にサインした者のみが招待される弱者必墜の舞踏会だ。薄氷の継ぎ目で踏む死のステップを果たして踊り切れるのか。無限軌道を駆動する厳格で憂いを帯びた胎響が途絶え、仮死状態の車内を照らす黄濁した白熱灯。知らぬ間に火器管制レーダーの騒霊も息を潜め、身包みを剥がされた様な沈黙の中で、其の時を待つ鉄郎。エメラルダスが真の海賊なら圧倒的な武力の上に胡座を懸いているだけのチンピラでは無い筈だ。国志を偽り粉飾された演義の中で躍る、紙の中の英雄を字面で追っているだけの連中に用は無い。

 

 

    不待生而存不  生を待ちて存せず

    不隨死而亡者  死に(したが)つて亡びざる者

 

 

 が本当に顕在するのなら、例え其の片鱗でも良い。無法の宙原を生き抜いてきた知恵と勇気と見聞に触れてみたい。己の領分を遙かに超えた旅の中で深まる星を掴む様な自問。何故、人は人なのか。何故、鉄郎は鉄郎なのか。何故、宇宙は宇宙なのか。何故、時は流れ、人は旅を求めるのか。其の手掛かりが在る様な気がする。地球を発って暫くは死相を仰ぐばかりで、吐き気を堪えるだけだった星空が、時折(ほの)めかす瑠璃色(るりいろ)の示唆。鉄郎が宇宙の一部なのでは無く、鉄郎も宇宙なのだ。其の囁きに振り返ると、厖大な素粒子の空漠が人の心を表現して煌めく鏡に反転する。彼の恍惚に鉄郎の半身が傾いだ其の時、大気の絶した宙空が(そよ)ぎ、雄渾壮烈な凱風に星が霏霺(たなび)いた。

 大海の満ちるが如く押し寄せる潜影。大浸(たいしん)、天に(いた)れども、溺れず。唯、其の大いなるを以て(あまね)くのみ。気が付けば999も釈迦の掬った手水(ちょうず)の笹舟。舞い降りて影を落とさば日輪も千夜に暮れる、と人々の口の端を彩ってきた潤色は、流れては消える星の噂等では無かった。涸れる事無き天河の水面すら此の大逆の女王には狭過ぎるのか。鱣鯨(せんげい)溝瀆(こうとく)()るる所に(あら)ず。余りにも桁違いの全貌に鉄郎の悟性が追い付か無い。

 時は来たりて、遮る物無き窓外を浮上する紺鉄の地平線。擁壁で補修された小惑星とのニアミスかと錯覚する、一望での掌握を拒む天文学的な面積に悠然と視界を埋め尽くされ、何処から何処迄が何事なのかすら判ら無い。垂直に立ち塞がる一面の鋼体にパースが崩壊し、消失点の錯乱に見当識迄もが放逸して、銀瀾のスクリーンを為す術も無くロールアップしていく。そして、結合部のビードが迫り上がっていくのを呆然と眼で追う鉄郎の間接視野を、血塗れの太陽が昇ってきた。そんな真逆(まさか)と二度見する事すら叶わ無い。壮大な物量の土手っ腹に埋め込まれた、途方も無く巨ッ怪な其の死神と眼を合わせて終った鉄郎は、迷夢の入り口から本物の悪夢へと叩き起こされた。全景を覆い尽くす側舷に刻み込まれた、墨刑(ぼっけい)の如き髑髏の紋章。(おもね)る事を知らぬ海賊の証が禍々(まがまが)しき微笑みを湛えて、眼にした者の戦意と魂を鷲掴む。討ち滅ぼされた者達の残留思念を引き擦り乍ら、無限軌道を睛圧する女王の凱旋。屍の海を乗り越えてきた緋い黒船の前では、鉄郎なぞ茹で上がるのを待つ替え玉でしか無かった。

 一矢討星の主砲を尖頭に戴き、膨発寸前のウェポンコンテナと、優雅な尾翼で着飾ったゴーストエンジンを抱え込む、鋼殻気嚢を張り巡らした不屈の舶鯨。天鵞絨(ビロード)のキルティングかと見紛う狭丹塗(さにぬ)りの船底には、大航海時代のガレオン船を彷彿とさせるゴンドラ式キャビンが帝座し、勝利の女神か、将亦(はたまた)、痴に堕した人魚か、船嘴(せんし)に突き起つ一角獣の如き船首像とサーチライトが七色に交錯する。公安の犬は何故こんな化け物に単騎で向かっていったのか。戦果を数値化せずに実行するのは人間の遣る事で機械の管轄じゃ無いだろう。鉄郎は木造のキャビンを飾り立てる豪奢な意匠に掠り傷一つ付いてい無い事を醒め醒めと眺め乍ら、使い捨てられた無人機と己を重ね合わせる。十一両編成の旅客車輌と肩を並べた、全長は二倍、幅と高さが其れぞれ二十倍の天を()べる巨艦。平時に於いても核濫粒子で死覚化している幽霊船が其のベールを脱いで皇然と着船し、領界は鯨肺の雄渾な息吹きに包まれていく。

 女王の名に相応しい気品と、軍容猛々しき両性具有の嵌合体(キメラ)に横付けされて、拿捕された密航船に成り下がる999。帆柱に架かるロープの結び目や磨き上げられた真鍮金具が、肉眼で見える距離まで肉薄し、闘鶏の尾羽の如く不貞不貞しい二層式の船尾楼に、過美なレリーフが燃え盛っている。艤装の限りを尽くした存在其の物が治外法権の本丸を前にして、鉄郎は何者でも無い己の卑小な風采を省み、奇妙な清々しさが込み上げていた。()うまで彼我の差が在ると、ジタバタするのも烏滸(おこ)がましい。アンカーヘッドから咲き乱れる鉤爪を見上げて、此の船を意の儘に操る主の後ろ姿に思いを馳せる。貰い物の乗車券で只乗りしている小兵の巡り会った一時の夢。キャビンの側舷から客車に向けてタラップが伸びてきた。御伽噺の続きへと(いざな)う天橋立か、鋼鉄の魔の手か。卒然と席を立ち、(なじ)る様に鉄郎を見下ろすメーテル。言いたい事は判っている。余計な口を叩かせる物かと、鉄郎が腰を上げようとした其の刹那、

 「メーテル様、鉄郎様。」

 車掌が扉を開けて車内に駆け込み、何事かと問い質す間も無く、扉の上段に配した車内放送のスピーカーをヒスノイズが突き抜ける。

 「私はスペースノイド解放戦線総裁、クイーン・エメラルダス。」

 磁気嵐の彼方で掠れた、芯の有る物静かな声韻。動転した車掌を一瞬で征した(しめ)やかな玉音に、張り裂ける鉄郎の空想と羨望。狼は突然遣って来る。鉄郎は砂塵の遠雷に齧り付いた。旧世紀の振動素子でモデリングされた粒の粗い解像度も相俟って、ジャックされた車内放送がサンプリングボイスか肉声か上手く聞き分ける事が出来無い。構声解析は精度が上がり過ぎて癖や揺らぎが無く逆に不自然だ。音素が多少潰れていてもピンと来る筈。系外に離散した人類の復権を謳う女王が、生身の躰で無い何て有り得無い。人間宣言の撤回?そんな物、聞きたくも無ければ、信じたくも無い。振り返って耳を澄ます鉄郎と其の脇を過ぎる黒い影。フォックスコートの襟から摘み上げた一筋の煌めきが、僅かな沈黙の狭間を擦り抜け、一呼吸置いて切り出した女王の御言宣(みことのり)

 「999の乗員、乗客に告ぐ。直ちに・・・・・。」

 と言い掛けた全放連型の木箱を、鉄郎の頭越しに閃いたアークの尖鞭が討伐し、玉と砕けた。車掌の頭上に降り注ぐ炭化した残骸。反動で舞い上がった鞭を通路に打ち下ろし、雷花の飛沫に(ほとばし)るメーテルの激昂。

 「エメラルダスの()れ事を垂れ流す馬鹿が何処に居るのよ。」

 (ようや)く調子の出てきた、もう一人の女王が再び鉄郎を頭熟(あたまごな)しに睨み付け、

 「行くわよ。」

 金色の鳳髪が翻り、小兵の戦意を煽り立てる。何時もなら此の剣幕に舌打ちで返す処だが、今回(ばか)りは勝手が違う。ピンヒールを蹴立てて先を行く烏賊墨野郎に異存は無い。此処で待ってろと言われても押し入っていくつもりだった鉄郎は、タラップのジョイントした客車へと急ぐメーテルの後を追う。そして、鬼気迫る其の背中越しに駆け抜けていく途切れる事の無い奇遇の数々に、在りし日の原風景が甦り、骨身に刻まれた既視感が充血して潤み、小鼻の奥を突き上げる。力強く握り込まれた手を引かれて、仰ぐ決然とした母の背中。有りと有らゆる災禍を(くぐ)り抜けて活路を切り開く弱竹(なよたけ)の痩躯が、先陣を切る墨染めの令嬢と錯綜する。ストロボ写真の様にチラ付く余計な感傷。母の面影に導かれて星を巡る稀代の冒険譚。鉄郎は醒める事を知らぬ此の夢の中に溺れまいと、紛らわしい黒妙(くろたへ)の後背から顔を(そむ)け、傾いだ心を立て直す。(しっか)りしやがれ。旅に悪酔いするのなら、せめて自由の翼に触れてからにしろ。此処は崩落した産廃の尾根でも貧民窟の蚤の市でも無い。エメラルダスは直ぐ其処に居る。駆け抜けろ。再生不能な今、此の(とき)を。

 貫通路の縞鋼板を跨ぎ、迫り来るタラップから眼路を戻した其の矢庭に、先行する影と影が折り重なった。扉の開け放たれたデッキの前に立ち尽くす漆黒のドレープ。空席を連ねる車内の葬列に舞い降り、メーテルの喪装に溶け込んだ闇のベール。通路の床板にまで達するブルカを頭から被ったエメラルダスの使者が、オーロラの亡霊の様に独り黯然と漂い、覗き穴一つ開けられてい無い布一枚を透かして、たった二人の弔客を精視している。慇懃無礼な顔の無い出迎えに、メーテルは()(ごころ)のスティックを切り替え、使い走りの雑兵が、

 「エメラルダス様が御呼・・・・・。」

 と切り出した瞬間、ブルカに潜む匿名の生首を光励起の雷刃(らいじん)が無言で撥ねた。水母(くらげ)の様に宙を舞う端布(はぎれ)と、硬質な放物線を描いて床を叩く目鼻一つ無い電脳ユニット。下獄の一閃に処された頸椎が咆電し、結束されたケーブルが犇めく断面を包み込んで倒壊するブルカの脇を、息一つ乱さずにメーテルは素通りし、乗降デッキに滑り込む。鉄郎の背筋を撫でる絶対零度のブリザード。何時見ても生きた心地のし無い虹周波(こうしゅうは)の斬像。

 「ったく、相変わらず、手が早いのは結構だけどよお。話の一つも聞いてやれねえのかよ。」

 足許に転がってきた断頭を土踏まずで軽く()ねてから爪先で掬い上げ、小気味良く胸元でキャッチした鉄郎は、後を追ってきた車掌の血相に苦笑いを振る舞った。

 「車掌さん見てくれよ。早速、此の様だぜ。」

 「嗚呼、復た、何と言う事を。鉄郎様。相手は赤手配書を歯牙にも掛けぬ海賊エメラルダスで御座います。メーテル様に若しもの事が御座いましたら、私は・・・・。」

 「ケッ、一昨年買った線香花火じゃ有るまいし、時化た面してんじゃねえよ。其りゃあ、エメラルダスの御出ましと来た日には、流石の星野鉄郎様も、驚き、桃ノ木、下関だ。天の河原で大見栄を切る傾奇者(かぶきもの)に睨まれたら、命が幾ら有っても足りやしねえ。でもなあ、車掌さん、彼の黒黴の事なら心配するだけカロリーの無駄だぜ。死んだ仲間を肛撃して喜んでる様な奴に、大人しくしてろと言った処で、ゴリラからバナナを取り上げる様な物さ。エメラルダスの賞金首だけ持って帰って治まる様な疳の虫じゃねえ。其れに何って言うのか、何時もとは一寸、雰囲気も違うしな。」

 「鉄郎様、事有る毎に申し上げる様で誠に心苦しいのでは御座いますが、何分、私は職務上、列車を離れる事が許されておりません。何卒、メーテル様の事を・・・・・。」

 刻の止まった鹿威しの如く、制帽を膝上にまで屈した車掌の最敬礼に、鉄郎は生首を小脇に抱え、ベストの胸ポケットの上から乗車券を叩いて虚勢を張った。

 「車掌さんよお、何だ神田の明神下で、俺には此奴の義理も有る。宜しくなんぞの口汚し、言わずもガーナのチョコレートだぜ。」

 「御武運を御祈り申し上げます。」

 「へっ、端ッから喧嘩腰と来たか。()う来なくっちゃ。俺だって別にランチ合コンしに行くんじゃねえ。内の飛べ無い鴉の御姫様と海賊王が猫のじゃれ合いを始める様なら、俺が二人とも撃ち落としてやる。」

 「撃ち落とす・・・・鉄郎様、復た、そんな御戯群れを・・・・。」

 「車掌さん、此処まで来て只の睨めっこで済むとでも思ってるのかい。其れくらい気を張ってねえと、何方の女王様とも付き合えねえぜ。」

 「確かに、一筋縄では行かぬ方々では御座いますが・・・・・其れに致しましても、解せぬのはエメラルダスの深意で御座います。本来、系内に直行している筈のエメラルダス號が、何故、此の宙域を潜行していたのか。」

 「へえ、エメラルダスが太陽系に用が有るって、()うしてそんな事、車掌さんが知ってるんだい。」

 「否ッ、其れが其の・・・・・誠に恐縮至極では御座いますが・・・・・。」

 「何だよ其の歯に奇無知の挟まった帰化議員みたいな物言いは。もう良い、判ったよ。言いたくねえ物を無理強いする程、野暮でもなけりゃあ時間もねえや。然う言うのも引っ(くる)めて、ケリが付いた頃には炙り出てくんだろ。取り敢えず、内のKYな御姫様の事なら、()んぶに抱っこに下の世話。何時もの事だ任せとけって。車掌は乗務、金魚の糞は尻拭い。卯建(うだつ)の上がらねえ者同士、適材適所で明るい現場。大きな声掛け、小さな気配り。無事故、無違反。笑顔で確認。其れでは御唱和願います。」

 鉄郎は雑魚の斬頭を車掌の胸元に放り投げると、暗黒瓦斯の鼻先に人差し指を突き出して、

 

   足許、ヨシ!!

 

   空調服、ヨシ!!

 

   乗車券、ヨシ!!

 

   戦士の銃、ヨシ!!

 

 

 ツー事で、車掌さん、今日も一日、御安全に。」

 

 

 

 呆気に取られて生首を落としかける車掌を置き去り、乗降デッキにジョイントした蛇腹のタラップに駆け込む鉄郎。手摺りも何も無い急勾配で仰け反る、ゴアテックスとノーメックスを合成した腸管。眼を凝らした其の遙か先に出口も見えなければ、メーテルの高麗(こま)ッしゃくれた残り香すら無く、何を何うやって登っていったのか(いぶか)しみ乍ら、嵩張(かさば)(ひだ)に足を取られて藻掻いていると、不意に無限軌道の重力場が途切れて管内の気圧が一変し、獰猛な扇風に鉄郎の躰は巻き上げられた。天地無用で吸引される不測のスパイラル。抗う術の無い濁流に揉まれ、眼を開ける処か呼吸も出来ずに宙を掻き毟り、波動関数から弾き出された電子の様に腸壁を捻転する粗忽者(そこつもの)の狂躁。瞬く間に釣り上げられてキャビンの甲板に吐き出される手荒い歓迎に鉄郎は肩口からバウンドし、這い(つくば)った潮気の無いチークの柾目(まさめ)にキスをした。

 こんな海賊の流儀が何処に在る、此の密漁野郎。俺は一本釣りにされた本鰹じゃねえ。鉄郎は睫の先で飛び交う星々を掻き分け、乱気流の続きを踊り続ける三半規管を引き擦って立ち上がると、暴落した夕陽が頭上で渦を巻き乍ら伸し掛かってくる。立ち眩みの波紋が妖なす、死水の網に絡んだ狭丹塗りの船底。息が詰まる程の圧迫感を突き返す強壮絶倫な帆柱が傾ぎ、虚ろな角度で旋回する帆桁の両翼。鉄郎は膝が砕けて倉口の格子を踏み抜きそうに為り乍ら、寡黙な老兵の様に憮然と佇む艤装に片手を付いた。

 黒鉄の魔神がプラレールに見える、近世の暗礁から迷い込んだ筋金入りの幽霊船。冒険を超えた冥府の統征。血の海に沈められた幽鬼達の情念を逆波で浴び、ポールに(まつ)はる海賊旗からステアリングホイール、側舷に配備された機関砲に至る迄、眼に映る何もかもが葬然と揺らめいている。蛛網(ちゅうもう)の呪縛と見紛う張り巡らされたロープと滑車の雁字搦め。キリストを降ろした十字架の様に佇む主無きステアリングホイール。つい今し方、装甲車両を撃破したとは思えぬ廃墟の寂滅。其の何が潜んでいるやも知れぬ、息の根を絶した気配が掻き立てる胸騒ぎを、黒妙(くろたへ)の亡霊がピンヒールを蹴立てて颯爽と突き崩した。流石、オートクチュールの魔女、沈没船の墓場もパリコレのランウェイも糞も無い。メーテルが向かう先には、歩哨と思しきブルカの控える開け放たれた船首楼の扉。今更、其の場凌ぎに周りの物陰を漁った処で仕方無い。鉄郎は乱れたシャツの裾をタックインし乍ら、艦内に消えたメーテルを追って敵の懐に乗り込んだ。

 案山子(かかし)同然の歩哨をパスして何の鑑査も無い敷居を跨ぐと、其処は天地を(かえ)して床一面に敷き詰めた星系図が瞬く、銀河のネガフィルムだった。木造の大航海時代は先端技術の特異点を突破した電網隔世紀へと一転し、統合管制機構と戦術情況演算の集積化したモザイクが、アクセスランプとシーク音の神経質なシンコペーションで、軌道計算、電波解析、磁空撚率の数列を執拗に掻き毟っている。生き埋めにされた肉眼の様に犇めく夥しい多針メーターが睥睨する鋼壁。艦内の動力モニター、タイムラインの逆算、流動する等航線を(ちりば)めたエアディスプレイと、非破壊走査されてホログラフ化した999の機関室を、μ単位でトレースし乍ら宙を舞う断面図。紛う方無い。此れこそがベテルギウスも蒼褪めるエメラルダス號の中枢。然して、奴こそが燃え尽きる事を知らぬ紅孔雀の御神体。鉄郎は襷掛けの様に躰の起伏を(なぞ)って透過していく天体軌道の残像越しに、実存した神話の女帝を凝視した。

 刻々と算出されるエレメントの遊星に満ちた玄室を征する、星系図の外輪に沿って居並ぶ配下のブルカと、其の扇の要に屹立する一際大仰に構えたブルカの隻影。気配を消している従臣と身の丈もブルカの絹地も見分けは付か無いが、此の陣容を束ねる枢軸から立ち昇る瘴気が、只者で在る事を許さ無い。誰よりも其のブルカの頭目の前に進み出たメーテルが、只の思わせ振りでは済まさ無い。足許を流れる銀河を挟んで対峙する射干玉(ぬばまた)の黒と黒。顔の無いブルカの闇の中で、車内放送の磁気嵐に掻き乱された彼の玉音が砕けた。

 「クイーン・エメラルダス號はクイーン・エメラルダスが(おさ)す舟。ようこそメーテル。相も変わらぬ娟容(けんよう)。眼の保養とは正しく此の事。併し、此のエメラルダスの手に掛かれば999の拿捕(だほ)なぞ軍事的逍遥(しょうよう)に過ぎぬ。果たして何時迄、其の涼しい顔を続けていられる事やら。」

 微かに(そよ)いたドレープの中で(くゆ)らせる勿体振った優越。ホストに有間敷(あるまじき)、余計な一言で鉄郎は短い夢から覚めた。別に優しい言葉を期待していた訳じゃ無い。死に神も避けて通る冷酷非情な女海賊だ。気に食わなければ首の一つも刈るのだろうし、斯うもアッサリ拝謁させるのも己の力に余程の自信が有るのだろうが、其れにしたって何かが違う。卑しさ(ばか)りが鼻に突く絵に描いた様な黒幕。此が女王エメラルダス?無法の玉座に就く者が何に向かって吠えると言うのか。神秘のベールだったブルカが御薦(おこも)の被り物に堕し、其の押し付けがましい驕慢を、メーテルは血の気の失せた白亜の頬玉(ほうぎょく)を硬直させて醒め醒めと(みつ)めている。彼の雷管が裸で歩いている様な女が。こんな日陰干しの暗幕を恐れている。そんな馬鹿な。己の合わせ鏡に何を臆する事が有る。鉄郎の苛立ちが顱頂(ろちょう)を衝いた其の時、メーテルの吐息が虚空に紛れた。

 

 

    月もなく花も見ざりし冬の夜の

        心にしみて恋しきやなぞ

 

 

 バイナリーの蛍火が明滅する晦冥に溶け込んだメーテルの痩貌。今宵の主役を前にしてい乍ら、心、此処に不在(あらず)。たった一首を口遊(くちずさ)んだだけで再び緘黙の御簾(みす)に退いたもう一人の女王に、虚仮(こけ)にされたブルカの頭目は其の小賢しき玉座から飛び降りた。

 

 

    あまつちをうごかす道と思ひしも

        むかしなりけり大和ことの葉

 

 

 此の期に及んで詩なんぞを嗜み、風雅を気取ってなんになる。そんな物は所詮、隠者の遠吠え。匙を投げた苦悩の最終処分場でしか無い。虚構の美を追い求めた挙げ句、古人の流涎(りゅうぜん)を舐めた其の舌で物を申すとは、卑しい口にも程が在る。」

 噴出した油田の様に波打つブルガの忿悶(ふんもん)。併し、其の奇妙に流麗な滑舌と声律に鉄郎は小鼻を吹いた。何んなにビットレートを上げようと、肉体の無いコイルと磁石の変調に哥の心は響か無い。アーカイヴの検索結果を切って貼っただけの、取って付けた台詞で安い鍍金(メッキ)が地金を曝すと、

 

 

    (いにしへ)も今もかはらぬ世の中に

         心の種を殘す言の葉

 

 

 メーテルは剥落した其の傷口に優しく塩を擦り込み、声を荒げる溝鼠色(どぶねずみいろ)の頬被り。

 「そんな詭弁で鬼の首を獲ったつもりか。言論なんて物は限られた己の知性に劣等感を持つ、人類の自慰行為でしか無いわ。空言巧言に溺れ身を滅ぼした残党の分際で。さあ、剣を()れ。油虫の様に踏み潰し、其の死に顔を萬人に曝してやる。」

 二人の狭間を流れる銀河の上に光励起サーベルが叩き付けられると、鉄郎はメーテルの慧眼を少しばかり見直して終った。スペースノイド解放戦線が聞いて呆れる。何の事は無い。此奴は人の皮を被ったグローバリストだ。カーク・マルクスを産み落としたのもロスチャイルド家なら、人権派のパトロンは“命より金”の大資本家と相場が決まってる。行き着く処、此の似非民族左翼も優生機族の捨て駒。アゾフの末裔でしか無い。

 足許を照らす鈷藍(コバルト)凊剣(せいけん)気怠(けだる)く手に操るメーテルに、一抹の期待と不安を抱いている自分を鉄郎は認めたく無かった。海の藻屑の様な部下達に囲まれて二人の女王の一騎打ち。其りゃあ、名も知られていて自分から吹っ掛けてくるのだから、ブルカの化身も其処其処出来るのだろうが、此方の(くろ)いのも相当な物だ。雑魚を一蹴するのはもう飽きた。そろそろ、彼の馬鹿の本当の力を見てみたい。併し、闇に(まつ)らう金絲雀(カナリア)色の垂髪から何時もの逆毛起つ様な妖輝が失せている。嵐の前の静けさで在って欲しいと願う鉄郎。女の喧嘩に首を突っ込むつもりは更更無い。

 ブルカの裾を擦り抜けて雷刃が其の抜き身を突き立てると、エメラルダスの周りを回遊していたエレメントが弾け、配下のブルカが星系図から後退った。凄寥蒼然(せいりょうそうぜん)とした室内の大気が硝結し、燐舞する幾何ゴーストの輝度が絞り込まれて振り返す闇。天環を巡航する星系図が其の足を止め、四方を囲む多針メーターの萬視がメーテルの痩貌、一点に集束する。対して、視姦されている当のメーテルは此から剣を交える相手と向き合ってはいる物の、懈怠(けたい)な伏し目の焦点は合っているのか、い無いのか。明らかに何時もと勝手が違う。緊張感の欠片も無い撓垂(しなだ)れた肩口に鉄郎が固唾を呑んだ其の刹那、垂れ籠めていた円錐の織物がフラッシュを焚いた様に一瞬でメーテルとの距離を詰め、初動の片鱗すら無いノーモーションで切っ先の散弾を水平に掃射した。咄嗟に胸元で突き立てた刀身を楯にアークを飛ばして受け流すメーテル。熱暴走を起こした孔鑿重機(こうさくじゅうき)のヒステリーが射貫き、斬り裂く、剣術と言うより火器に等しい、息の継ぐ間を与えぬフルオートの剛腕。猛禽や豺狼(さいろう)とは異なる其の精密な挙動に、攻守が切り替わる(いとま)も無ければ、途切れる事の無い斬像を、凝らした窄眼(すぼめ)で追う事すらも儘なら無い。バックステップを繰り返し、星系図を流浪するメーテルを影の様に付いて離れぬ疾黒のドレープ。鳳尾の如き睫を掠め、頸動脈を悪魔の精度で追尾し、逃げ遅れた析算値のマトリクスを斬り刻む、光量子の千閃萬烈。塵風に(なぶ)られる雪柳の様に揺れ惑う鳳髪は、振り切る事も、突き放す事も、切り返す事も出来無ければ、相手を懐に誘い込み、カウンターを狙っている訳でも無く、心の(うろ)に迷い込んだ(まま)(なまくら)に小手先を弄しているだけで、反撃のハの字も無い。壁際に追い詰められて、大上段から振り降ろされた渾身の一刀迅雷を受け止め、群棲する多針メーターに背中を付くメーテル。互いの鼻先で鍔を競り合い、折り重なる二つの影。

 「何うした。討ってこい。」

 顔の無い怒号がメーテルの柳腰を薙ぎ払い、躰の泳いだ処を追撃されて、緒端(をばな)を断たれた胸元の玉房(たまふさ)が闇に(はじ)けて融けた。何を勿体振っているのか知らないが、御茶を濁せるのも精精、煮え湯が(ぬる)む迄の事。

 「オイ、(しっか)りしやがれ。」

 冷めた番茶の御手合わせに思わず檄を飛ばす鉄郎を背に、猛攻を(はぐ)らかしているだけの(くろ)蜻蛉(かげろう)虫螻(むしけら)を八つ裂きにしても飽き足りぬ、純粋無垢な嗜虐の熱狂は何処へ失せたのか。此処に来るまで横溢していた、エメラルダスの風下に立って堪るかと言う鬼概は微塵も無い。烈火の如き兇刃を前にして、壁に立て掛けた能面の様に遠い眼差し。無気力に捌いている様に見えて、露聊(つゆいささ)かも乱れる事無き露西亜帽。誉めるつもりは毛頭無いが、遣れば出来る女だ。息が上がっている様子も無く、だから猶の事、釈然とせず、其の(もどか)しさは一方的に攻め立てている側とて同じ事。有効打を奪えぬ捉え処の無さに業を煮やし、

 「猪口才(ちょこざい)な。」

 ブルカの裾がメーテルの爪先を踏み付けて、体勢を崩した間隙を衝き、(したた)かな一太刀がメーテルの手許を弾き飛ばした。

 「何が心の種を残す言の葉だ。口程にも無い。」

 宙を舞い、放電ノイズを散らして星系図に突き刺さったサーベルに勝ち誇るエメラルダス。此では軍配も何も在った物じゃ無い。如何(いか)にも手慣れた姑息な細工に、失った得物を拾う処か見向きもし無いメーテル。抑も、此の腑抜けは端っからブルカのヒステリーなぞ眼中に無く、案の定、其の余計な態度がブルカの端布(はぎれ)に火を点ける。

 「捕らえろ。」

 エメラルダスの指示に、壁際の下僕がタッチパネルを操作すると、メーテルを背後から視姦していた多針メーターの黒山からプラズマが跳梁し、雷撃に討たれて宙に浮き、失神したメーテルの蜂腰を無脊椎マニピュレーターが(くわ)え込む。

 「傷を付けては元も子も無い。丁重に扱え。此の女の海馬を初期化し、準備が出来次第換装する。999の引き揚げと解析は其の後だ。」

 回収されていくメーテルの後に続いて、無言で別室へと向かう従卒の隊列。トレードマークの露西亜帽を飛ばされ、鳳髪を振り乱して項垂(うなだ)れた姿を見る限り、此処からの起死回生は望み薄だ。

 「オイ、其の(くろ)いのを何うする気だ。」

 (ようや)く御鉢の回ってきた鉄郎が啖呵を切ると、メーテルを見送る木耳(きくらげ)の被り物は振り返りもせずに言い放った。

 「おやおや、未だそんな処に居たのかい。そんな物知れた事。此の女の躰を頂くのさ。」

 下卑た其の物言いに過る人間狩りの悪夢。確かに此奴は海賊だ。今更、蒲魚振(かまととぶ)っても始まら無い。

 「俺の豚に汚ねえ手で触んじゃねえ。」

 鉄郎が腰のホルスターに手を遣ると、(かささぎ)は冷徹で硬質な感触を返してくるだけ。其りゃ然うだ。此の霊獣はこんな雑魚を相手にするタマじゃ無い。鉄郎はエメラルダスを睨み付けた儘、突き刺さっているサーベルに間接視野で探りを入れると、エメラルダスは(かたき)の卒塔婆の様に斬り払った。

 「汚いだと。汚物同然の身の上で。生洒洒(いけしゃあしゃあ)と。本来、事の(つい)でに胃の腑に納めるような代物では無いが、此の女が態々999に乗せて連れ回してるのだ。何等かの秘め事が有るやもしれぬ。此奴も豚の仲間の処に放り込んでおけ。」

 エメラルダスのサーベルが鉄郎の足許を指し示すと、継ぎ目一つ無かった床面が不意に開口し、蛇腹のタラップを引き擦り回された彼の吸引力と共に鉄郎の視界が暗転し、有無を言わさぬ急激なスロープとスパイラルの激流に呑み込まれた。掴み所の無いダクトの中を滑落し、盲滅法に蹂躙される、全く進歩の無い御粗末なデジャブ。我ながら其の御人好しに、穴が在ったから入っているとは、察しが良いのも考え物だ。逆上した脱水機の蓋が外れた様に吐き出されて、再び肩口からバウンドし、奈落の底にキスをすると、鉄郎は叩き付けられた打撲の疼痛が乱反射する、天地を滅した無明の絶界に転がり込んでいた。闇に頬を擦る硬質で冷俐な肌触り。寝返りを打つと見えない壁に背中が支え、手を突き膝を立てて半身を起こすと、独居老人の繰り言の様に愚直な鋼板の残響だけが、耳骨を浸す耳鳴りの暗礁に紛れていく。

 乗車券をライトモードにして翳してみると其処は、小窓の付いた扉が一つ在る切りの四畳半にも見たぬ四角四面の懲罰房。台本通りの展開が(くすぐ)る浪漫主義の小聡明(あざと)さに鉄郎は頬が緩んだ。通俗三文映画の絶体絶命を華麗なギミックで脱出するのがヒーローの見せ所。此の後に控えるハイライトは、濡れ場か、爆破か、カーチェイスか。盛り上がってきやがった。御誂(おあつら)えのシチュエーションに鉄郎は千鳥足の三半規管を引き擦って立ち上がり、袖を捲った序での景気付けに駄目元で正面の扉に踵を叩き込む。すると、豈図(あにはか)らんや、其の儘一気の前倒しで視界が開け、湿気混じりの黴臭い埃が舞い上がった。ライトを当てると、ドアの(つがい)の溶接は蒟蒻団子(こんにゃくだんご)緒緒切(ちょちょぎ)れ。こんな豪壮な図体で何んな施工をしてたのやら。此じゃあ裏口から卒業するみたいで読者に申し訳が立た無いが、まあ、AVをヤラセで訴える野暮も無い。

 紙数の兼ね合いか、ビデ倫の審査か。割愛された脱獄劇の代わりに待ち構える、波乱の仕切り直しに鉄郎は乗り出した。只の袋小路でしか無い懲罰房を後にして、船倉と思しき瓦落多(がらくた)の山に潜り込むと、隔壁で仕切られた棚の中はベアリング、銅線、減速機、モーターベース、グランドパッキン、捻込み配管のエルボーとチーズと言った、アナログな補修資材が所狭しと詰め込まれては崩れて足の踏み場も無い。グリスのドラム缶を渡って鋼管のタラップを見付けるも、此又、犬のケツの穴から引き擦り出した真田虫の様に、溶接ビードが垈打(のたう)っていて、こんな安っぽいスリルに躰を張るのかよと泣きが入る。ジョイントの隅肉(すみにく)を確認し、本当は()う言う時、意識の高い主人公だったら火薬庫を探し当てて一仕事している処なのに、と愚痴り乍ら天井の低い最下層甲板に出る鉄郎。何方(どっち)が船首で何方が船尾なのすら見当が付か無い以上、取り敢えず、足で稼ぐしか道は無い。乗車券のライトが照らし出す半径数メートルを、勘に任せて駆け巡り、眼に付いた階段を手当たり次第に駆け上る。乗車券の機能を使えば艦内をスキャンしたりとか、色々出来るのかも知れ無いが、今はヘルプを呼び出している暇も無いし、元々、取説とかって言う奴は性に合わ無い。男は黙って出たとこ勝負。運が悪けりゃ死ぬだけさと吐き捨てた鉄郎。すると、ライトの彼方に人工物とは異なる醜怪な影が蠢いた。

 何かが壁を鷲掴みにしている。鳥の鉤爪?真逆。一瞬、頭を過った紅孔雀の異名を持つ此の舟の主。併し、近寄ってみると其れは剥き出しに為った老木の根塊で、天井を突き破って壁を伝い床を這い回っている。屈強に節榑立(ふしくれだ)つ原始の暴発。生命力とか言う在り来たりな言葉が通用し無い亜空間のコラボ。此処は艦内だ。地上で攀縁類(へんえんるい)が建物に浸蝕するのとは訳が違う。何より、()んでいる。腰に提げたホルスターの中で闇眠に伏していた鵲が。其の尾羽を(そばだ)てて、何物かに感応している。霊獣にブラフは無い。此の上に何か在る。然う独りごちた刹那、

 

 「其処に居るのは誰だ。」

 

 永い眠りから覚めた物憂げな声が頭上の根株から降り注ぐ。樹が喋った。耳を疑い、声の主から一歩後退る鉄郎。其の踵が宙空のクッションに優しく包み込まれ、鉄郎の躰が床から浮き上がった。襟足が逆立ち、Barbourの裾が大気を孕んで自重から解放され、慈愛に満ちた老木の霊験に空転する悟性。そして、緩慢に引き剥がされていく艦内の人口重力に気を取られ、直ぐ其処に迫った天井に思わず抱え込んだ頭が、舟の躯体を擦り抜けた。鉄郎の見開かれた瞳孔を透過していく鋼材の断面図。凪いだ湖水から顔を出す様に床下から現れた鉄郎は、肉体から離脱した儘の心が泳いで、唯唯、生い茂る見事な枝振りの老木を仰いでいた。僅かに残る薄桃色の花瓣(はなびら)。此は桜の・・・・否、

 慄然と舞い上がっていた逆髪(さかがみ)が治まり、ジャケットの(はため)く肩甲骨から靴底へと自重が甦っても猶、其処は、醒め無い夢の入り口。鉄郎は再び、オールドチークの愚直な意匠を纏う大航海時代に舞い戻っていた。天球儀と時辰儀を並べた書斎机と航界図の巻物が詰め込まれた書棚。彫金を控え目に配した短躯のワードロープと意味有り気に鎖で縛られた宝箱。壁に掛けられた古事伝承を(つづ)るタペストリーと異国の花蝶を敷き詰めた波斯(ペルシャ)絨毯。天蓋の様に覆い被さる老木の下影に(しつ)えた、沈思に(ふけ)るクイーンベッド。在りし日の栄華を(はべ)らせ、鉄郎の眼を釘付けにする、其の雅なレリーフを鏤めたヘッドボードから玲瓏一矢(れいろういっし)鶴声(かくせい)が飛んだ。

 「少年。」

 酸素吸入器を外し、眼を閉じ床に伏した儘、女は(しず)かに戒めた。

 「女子の寝室に入つたのだ。せめて躰の埃くらゐは払ひ落とせ。」

 メーテルと(けん)を争う其の美貌を斜めに限る縫合痕。亜麻色の垂髪を留める髑髏のヘアブローチ。小鼻を(くすぐ)るアプリコットの芳香。

 

 

   絕代有佳人   絕代(ぜつだい)佳人(かじん)有り、

   幽居在空穀   幽居(いうきよ)して空穀(くうこく)に在り。

 

 

 女海賊クイーン・エメラルダス。言葉も(あかし)も必要無い。此の(ひそ)やかな稀人(まれびと)の他に何者が名乗れると()うのか。頬を刻む宿痾(しゅくあ)の韻影。病床に伏して猶、規矩(きく)を正す、孑然(げつぜん)とした其の威風。膝の皿が怯震し、鉄郎は慌ててBarbourを脱ぎ、女王に背を向けて頭に被った埃を叩くと、露わになった腰の得物が放つ共鳴に女王は耳を傾けた。

 「矢張り、私の銃を喚んでゐたのは御前か。」

 サイドキャビネットに据えた御鏡(みかがみ)に掌を翳すと、ダマスカスの文様が波打つ霊銃が映し出され、エメラルダスは其の鏡像の中に腕を伸ばして取り出した。惹かれ合う鵲と鵲。タイタンの(おみな)が巡り合わせてくれた新たな出会い。

 「御飾りで持てる銃では無い。名は何と云ふ。」

 「星野鉄郎。」

 「何う遣つて此処まで来た。」

 「何う遣ってって、999で・・・・。」

 「999、其れでは、メーテルも。」

 薄らと瞼の狭間から覗く星眸が潤み、愁眉を解いて半身を起こすと、ヘッドボードに(もた)れて老木を仰ぐエメラルダス。

 「然うか、メーテルが来てるのか。」

 憔悴した青娥の追憶。咳を堪える声に絡む不吉なザラつき。

 「相変はらず無茶をしてゐるのだらうな。」

 「其れが・・・・・、木耳(きくらげ)みたいな奴を被った連中に・・・・・。」

 「何、ブルカを着たのが何うしたのだ?彼は小間使いのアンドロイドだ。序列を割り振つてゐるだけで全て同じ型なのだか、又、何か粗相をしたのか?」

 「メーテルを捕まえて、其の躰を・・・・・。」

 「然うか、(ひさし)を貸して母屋を取られるとは、エメラルダスも落ちぶれた物だな。もう少し此の躰に無理が利けば、あんなワゴンセールの世話になぞ為らんのだが、

 

 

   都府樓纔看瓦色  都府樓(とふろう)(わず)かに瓦の色を看

   觀音寺只聽鐘聲  觀音寺(くわんのんじ)は只だ鐘の(こえ)()くのみ

 

 

 天河無双の女海賊も、今では垂簾(すいれん)の幽女だ。」

 エメラルダスが御鏡に再び掌を翳すと、手術台に運ばれ、全身をスキャンされる喪装の令嬢が映し出された。メーテルに勝るとも劣らぬ鳳尾の如き睫が(ざわ)めき、其の炯眼(けいがん)に一瞬走った敬慕の(さざなみ)が、怒濤の憤怒に呑み込まれる。薄く引き締まった口吻から食い縛った皓歯(こうし)が覗き、夜着(よぎ)代わりの(くろ)き釣り鐘外套をエメラルダスは払い除けた。紅蓮の業火を巻き上げて羽搏(はばた)く紅孔雀の覚醒。迂闊な一言が、封じられていた霊鳥の禁を解いて終ったのでは無いかと震撼する鉄郎。処が、戦士の銃を手に取り、ベッドから降り立とうと身を捩った其の時、エメラルダスは烈しく咳き込み肋骨を波打たせて蹲った。己の炎に焼き尽くされて崩れ落ちる伝説の火の鳥。思わず駆け寄ろうとする鉄郎を、エメラルダスは左手を突き出して制止し乍ら、右手で酸素吸入器を口に運び、ヘッドボードに其の身を預けて一息吐いた。

 「宇宙とは未知のウイルスの宝庫だ。全く厄介な相手でな、まるで人が宇宙へ進出するのを拒む見え無い番人だ。生命が誕生するのに此の宇宙は奇跡的なほど都合良く出来てゐる。宇宙は知的生命が誕生する為に在る等と云ふ輩が居るが、其れは宇宙の誕生や生物の進化、物理法則や時の流れを勝手に擬人化し、人間の尺度で考えてゐるだけの事だ。所詮、己の存在に陶酔したい人類の編み出した独り善がり。似非科学に色を付けただけの、甘つたれた文学でしか無い。そんな物はダーウィンの進化論が()つくの昔に喝破してゐると云ふのにだ。宇宙は生半可な命など見向きもし無ければ、必要とすらしてゐ無い。」

 「機械の躰に乗り換えないのか。」

 「気に入つてる物を手放す理由が何処に在る。鉄郎、御前の方こそ、機械の躰を只で貰へると唆されて、999に潜り込んだ口では無いのか。」

 本の気休めで掛けた言葉に、額から噴き出た幾筋もの脂汗に(まみ)れ乍ら切り返す、エメラルダスの決死の作り笑顔。スペースノイド解放戦線を独りで背負う女王の、燃え尽きる事の無い生命への賛歌が鉄郎に火を点けた。

 「俺はハプログループD1a2aの新生縄文人だ。此の生身の血統こそが俺の総てだ。テメエの出自を生け贄にする事で、エリートなんて云う免罪符が手に入ると勘違いしたリベラルジャンキーの成れの果てが今の糞機族だ。白人願望に押し潰された村上春樹や、白人に鞍替えしたイシグロカズオじゃ有るまいし。国家や民族を否定し、資本主義の暴走を許した文化左翼の似非啓蒙主義が、霊超類なんて云う究極のナチズムを生んだんだ。俺は優性種に成る為のパスポート何て必要ねえ。」

 身の丈を越えて過言は(とど)まる事が無かった。エメラルダスの鬼概に応える魂のエールが心の壁を打ち破った。タイタンの嫗の諭した想いが、今、言葉と成って溢れてくる。

 「多目的視座に創造的克服、そんな、無き事を理を以て有りげに云い為す空論に溺れ、全ての民族の歴史と文化を滅ぼした挙げ句、人類が機族に淘汰されたのは自然環境を支配し破壊した当然の報いだ、人類は地球に謝り続けろと火裂(ほざ)きやがった似非知識人を俺は許さねえ。人類が地球に謝り続けろってんなら、言い出した同じ出自のテメエから謝るのが筋ってもんだ。機族との全面戦争に突入しても、機族から金を貰って非暴力や機族の人権を訴え、ヤラセの反戦デモや密告を繰り返しやがって。人類の足を裏から引っ張り続けたリベラル中毒に、魂の帰る場所なんてねえ。」

 此の眼で見てきたかの様に、爆ぜる小兵の心拍。エメラルダスは吸引ノズルを(くわ)えて痰を切ると、手当たり次第の舌鋒を(たしな)めた。

 「フッ、まあ、然う、熱くなるな。」

 研ぎ澄まされた令顔清色が綻び、(まなじり)を伝う汗が涙の様に滴り落ちる。若かりし頃の自分に問い質された様な錯覚に含羞(はにか)み、女王は其の胸襟を解いた。

 「スペースノイド解放戦線なんぞと言ふ大層な看板を掲げてはゐるが、機族と持ちつ持たれつと言ふ事で云へば、私も其のリベラル何とかと云ふのと大差無い。確かに、共産主義とリベラルアーツは近代の生み出した、人間の理性をドグマとして崇める一神教のカルトだ。フランクフルト学派も所詮は其の一宗派。ナチスの反動から産み落とされた左利きのナチスで、孔子学院に毛の生えた、学閥とは名許りの諜報機関でしか無い。夢を壊す様だが、リベラル仕込みの機族資本から委託されるアウトソーシング抜きで此の舟も喰つてはいけず、海賊呼ばはりされれば、盗みもするだらう。此から火星の大掃除に行く処だ。元請けの銀河鉄道株式会社が三顧の礼で打電してきた。貧乏籤と判つてゐても、図体ばかりデカい分、先立つ物が無いとエンジン一つ掛けるのも儘為らぬのだ。とは云へ、何時もなら少し色が付くまで焦らして遣る処だが、今回に限つて金のイロハは二の次だ。其の上、時間も無いと来てゐる。」

 「火星って云うと、電劾重合体に乗っ取られた。」

 「然うだ。私の生まれた星だ。こんな形で錦を飾る事に為るとはな。酸化した(あか)い大地が広がる、地球に最も近く、然して、人も物も素通りしていく、中途半端なテラフォーミングのまま放置された三等級の惑星だ。其れでも、私は火星の赤錆た砂嵐が好きなのだ。鉄が生きて呼吸してゐる証だ。人の血が赭いのも赤血球の鉄分が酸化してゐるからだ。此の樹も火星から連れてきた。杏の樹だ。火星の赤錆を吸つて赭い実が生る。我が家に居ては旅を想ひ、いざ旅に出ては我が家を思ふ。野良猫は譬へ人に保護されて幸せに暮らしてゐるやうでも、生まれ育ち、家族と過ごした場所と時間を決して忘れる事は無い。窓辺に佇み独り鳴いてゐるのは。硝子の向こうに広がる外の世界に在りし日の記憶が蘇り、赭い血が騒ぐのだ。赭く錆びた命の(うしお)が。」

 赭き火の星に生まれた火の鳥が(しず)かに燃えている。勇む心を(なだ)める様にエメラルダスは呼吸を整えた。

 「火星は私が護る。」

 血然とした寡語の(いか)()が鉄郎を焼き尽くした。何を案ずる事が有ろう。言霊に()した使命が女王を何度でも甦らせる。烈しく跪きたい衝動に、躰が痺れて身動きの取れ無い鉄郎に向かって、エメラルダスは(おもむろ)に言葉を継いだ。

 「鉄郎、海賊なぞと言つた処で、好き勝手に宇宙を飛び回れる訳では無い。銀河航路の圏外は完全に補給を断たれる死の世界だ。本の数光年でも足を踏み外せば生きては帰れ無い。御用風を喰らつた時からの瘋癲(ふうてん)稼業も、所詮、銀河航路の周辺でウロウロと騒いでゐるだけ。(いか)めしい旗を掲げてゐるのもモラトリアムのヒステリーだ。然して、気が付けば、

 

 

    虎とのみ用ゐられしは昔にて

        今は鼠のあなう世の中

 

 

 要領の良い連中は、河を(わた)つて舟を()くと云ふのに、こんな襤褸船に獅噛憑(しがみつ)いてゐる時点で先は無い。例え高く飛べなくとも、此の船を背負つて進もうと言ふのなら、最後まで意地を張り通せば良い物を、

 

 

    けがさじと思ふ御法(みのり)の供すれば

        世渡るはしと成るぞ哀しき

 

 

 何時の間にか溝浚(どぶさら)ひが板に付き、染み付いた臭ひにも気付け無い。何故、斯う為つて終つたのやら。

 

 

    ()()しを思ひ分くこそ苦しけれ

       ただあらざればあられける身を

 

 

 今は唯、想ひ馳せるのみ。無鉄砲に火星を飛び出して終つたのも遠い日の花火だ。彼の頃、何を追ひ求めて(いき)り立つていたのか思ひ出す事すら出来無い。議論と虚栄と競争に疲れて、人間なんぞ本で読めば十分だと思つてゐた。」

 エメラルダスはキャビネットに眼を遣り、鏡が感応して映し出した縫合痕の無い若かりし日の姿を手で遮った。

 

 

    恨みても泣きてもいはむ方ぞなき

        鏡にみゆるかげならずして

 

 

 青春と呼べる物なぞ何も無かつた。素直に若者の役割を演じてゐれば良い物を、旅を旅してゐるだけで何処にも辿り着けずに此の有様だ。其れを今、斯うして振り返る事で彼こそが青春だつたのだと気が付くだけ。後悔してゐ無い等と負け惜しみを言ふつもりは毛頭無い。違ふ生き方をしてゐたら何うだつたか夢想し乍ら、此の儘、届かぬ想ひを残して朽ち果てていくのだらう。併し、過去に引き擦られて生きるのも其れ程悪い事では無い。

 

 

    うれしくば忘るることも有なまし

       つらきぞ長きかたみなりける

 

 

 失つた物が大きければ大きい程、人生は深みを増し、得る物も大きい。望んだ物が総て手に入り、願つた事が総て叶ふ人生なぞ、空気の中を泳いでゐる様な物だ。心残りとは良く云つた物だ。肉体が滅んでも猶、心が残るのなら。其れも又、本望。人は悲しく、然して、美しい。」

 御鏡を(よぎ)る手放して終った物達の面影を繋ぎ止める様に、言葉を(あざな)うエメラルダス。其の往時を弔う問わず語りが、時の風雪に埋もれる半睡半醒の眼差しが、不意に焦点を取り戻して硬直した。

 「鉄郎、御前は未来が見えるか。」

 翻った声色に老木の木末(こぬれ)(おのの)き、身を寄せ合っていた残花の独片(ひとひら)が散った。

 「未来とは子供達だ。其れが答えだ。子の無い私に未来は無い。有るのは只、眩し過ぎる思ひ出と、若い頃に(すが)つた自尊心の欠片だけだ。許せ無かつた。自分より劣る男に心と体を許す事が。負けを受け入れる事が。間違ひを認める事が出来無かつた。人類アレルギーと云ふ同族嫌悪に点ける薬は無い。海賊王だと(のたま)ひ、宇宙の宝と名声を追ひ求め、本当の宝を見失つた。戦ひの日々の中で、我が子の為に命を投げ出す者達を、掛け替への無い未来に命を捧げる姿を蹴散らし乍ら、己の弱さを恥ぢた。然して、焦土に取り残された戦災孤児が狂おしい程に愛おしく、手を差し伸べたら此の様だ。何うだ、鉄郎、身の無い貝殻を笑ひたければ笑へ。」

 沈黙が全てを物語る、墨刑(ぼっけい)の如く鼻梁を裂いた縫合痕。老成した科白(かはく)とは裏腹に取り乱した鏡像を伏せ、裏面の内行花文(ないこうかもん)花瓣(はなびら)を指で愛でるエメラルダス。女王は裸だった。銀河に轟く怪聞とは程遠い、配下のアンドロイドが乗務しているだけの孤独な艦内に閉じ込められた、箱詰めの捨て猫。其の打ち(ひし)がれた病躯に鞭を打ちエメラルダスは語気を極めた。

 「鉄郎、若し御前が海賊なぞと云ふ物に憧れなぞ持つてゐるのだとしたら、飛んだ御門違ひだ。そんな上辺だけの夢では無く、己の為す可き事を為せ。人が己の好きな物だけを食べ続けたら何う為る。己の好奇心の面向(おもむ)くに任せて、唯独つの学問に没頭したら何う為る。己の叶へたい夢に(かま)けて、総てを投げ出したら何う為る。己の好きな食べ物と、己の躰に必要な栄養は別物だ。己の興味が有る学問と、本当に学ばなねばならぬ学問も()(しか)り。己の思ひ描く夢と、己に定められた天の使命を履き違へるな。鉄郎、己の為す可き事を為せ。何より御前は、神の物語の中に居る。鉄郎、御前は神話を信じるか。」

 「信じるかって云われても、言い伝えの迷信だろ。」

 「私は無神論者だ。此の無機質な宇宙の深淵なる闇を一度覗き込めば、神が存在し無い事も、死後の世界が存在し無い事も知る事になる。其の上で、私の話を聞け。人が語る過去と云ふ点に於いて、神話と歴史とは僅かな差異でしか無い。歴史的事実を幾ら並べても、神話が物語る一つの真実には到底及ば無い。神話には合理主義を越えた意味が在る。」

 「でも、神話なんて殆ど作り話じゃないか。」

 「事実で無いから意味が無いと言ふのなら、文学も映画も、人が思ひ描く夢も未来も全て意味が無い。神話を事実に即して脚色された売り文なぞと混同するな。 旱魃(かんばつ)で苦しむ民の許に旅の僧が現れ、祈りと共に其の手にした杖で地を穿つと、水が湧き出て井戸に成つたと云ふ伝承が、何故、民族や文化、時代を越えて存在するのか。僧の足跡と文献が一致し無い、杖一本では水脈に到達し得無い等と云つた科学的事実より、民を救ふ祈り、其の(ちから)を偽り無く信じると云ふ、心の真実こそが大切だからだ。人類に本当に必要だつたのは科学の進化では無く、精神の深化だつた。言ひ伝へが途絶えた時、人の心も途絶える。今の地球みたいにな。鉄郎、御前のルーツには神話が在る。神話の源流を人は未開の野蛮な迷信だと切り捨てた。併し、神とは単に万物の神秘を擬人化した人類の妄想では無い。原生人類の自然に対する漠然とした傍観が、認知構造の革命的な飛躍に因つて、世界と云ふ概念を生み出し、其の柱に目視不要な威霊を創起し、打ち建てた。存在し無い存在を想像し、共有する。其れは人類の思考を新しい次元に押し上げ、宏大な心的世界を生み出した。死と神の概念は人智の創造的発展に不可欠な過程だつた。威霊との交神を司るシャーマニズムも、蒙昧な蛮族達の出鱈目な空騒ぎ等では無い。一心不乱に祈祷する狂態に近代化した人類は眉を顰め、白痴の為せる業だと嘲笑つた。併し、何故、人は祈るのか。自然災害に病魔、人智を超えた脅威を鎮める為、失はれた命と通じる為に人は祈つた。拡張された心は形無き物を求め、より尊き願ひへと昇華する。然して、感極まつた(ことば)が祈りと成つて発露し、時間と場所を越えて轟き、人人の心を救つた。呪詛が祈りに、祈りが形無き物を信じる力に、未来を描く心を育てた。心とは祈りだ。形無き心は形無き真実に共鳴する。祈りとは命と命を繋ぐ心の源流で在り、其の核心に詞が在つた。詞が神と共に在り、神、其の物で在つた時代。詞の呪能を高度に発揮する事で此の宇宙と交神した。鉄郎、御前は言霊の(さき)はふ星の許に生まれた。私は神を信じ無い。其れでも我々の心の起源に神話の世界が在る事は認めざるを得無い。神話とは民族の起源で在り、文化と人の心の起源だ。神話の無い民族は民族で無い。神話の無い文化は文化では無い。神話の声に耳を傾けぬ者には、畢竟、何も聞こえはし無い。人類の破滅は其の源流を見失つた、否、破棄したからだ。鉄郎、詞を、然して、心を遡れ。答へは常に我我の伝承に在る。メーテルは其の答へと力を賜つた女だ。メーテルを護れ。其れが御前の使命だ。」

 竜頭の教えを引き継いで語るエメラルダスの詞が、逃れ得ぬ荷縄と為って鉄郎の肩に食い込んでいく。メーテルを護る?此の俺が。あんなピカソの絵を逆さにした様な出鱈目な女を。迫り来る威大な影に怯え、振り上げた拳が叩く運命の扉。其の僅かに空いた隙間から、エメラルダスは詞を紡ぎ続ける。

 「其の昔、地球にイスラエルと言う国が在つた。其の国の公用語はヘブライ語だ。其れも発音すら判ら無い。文字だけの詞を二千年の時を超えて復活させた。詞とは民族の絆、存在の(あかし)、其の物だからだ。彼等は其れを知つてゐた。離散と虐殺が繰り返されても詞が心を繋ぎ止めた。神の言葉を断ち切る事を許さず、彼らは繁栄した。常に内ゲバと裏切りのピエロだつたリベラルとは対照的に、其の国の原理主義者達が最期の最期迄、機族の暴虐に抵抗し続けた。無論、機族と云うグローバリズムの徒花を産み落としたのもイスラエルの末裔なら、神の国を始める裁き主を名乗つたのも機族なのだから皮肉な物だがな。力尽きたイスラエルの民が滅び、ヘブライ語も封じられると、人類は神話を起源に持つ詞を失つた。アーカイブの棺に詞は未来と共に葬られた。鉄郎、御前を除いてな。」

 エメラルダスは我が子を見守る様に、鉄郎の腰に提げた千早振(ちはやぶ)る霊銃に眼を細めた。

 「詞を遡り、解放しろ。詞とは至高の伝世品だ。然して、鉄郎、御前自身も又、伝世品種の誉れだろう。御前なら其の意味が判る筈だ。

 

 

    白露のはかなくおくと見しほどに

 

 

 小兵の天稟(てんぴん)を言問うエメラルダスの詠嘆が、吐胸(とむね)に轟き、絞り出す様な覚悟が鉄郎の決唇(けっしん)を迸る。

 

 

      ことの葉ふかくなりにけるかな

 

 

 「然うだ、鉄郎。御前には其の詞が有る。(うた)は言語の道を尽くす。御前を育んでくれた始祖の詞より美しい物が此の宇宙に在るか?詞とは御前が旅の最期に必ず還る場所だ。御前の心が変はらぬ限り其れは何処にも行く事は無い。譬へ其の身が滅んでも、其処が御前の還る詞と成る。詞は美しい祖国と離れる事は無く、だからこそ美しい。御前の詞は未だ少々荒っぽいがな。鉄郎、詞を磨け。伝へたい想ひを磨けば詞も輝き、詞を磨けば心も輝く。」

 エメラルダスと差し向かう緊張感が、忘れる事の出来無い彼の包容力に解け出していく。鉄郎は初めて其処で気が付いた。何時も、何時も見上げていた、七つの海で満たした様な母の眼差しに。何も名を残さぬ母が纏っていたエメラルダスと同じ女王の風格。鉄郎を護り抜く為に(きん)()を解く事の無かった母が、今、初めて心を開き、其の想いを詞にしてくれた様な錯覚。

 「神の物語には初めから文字など云ふ物は無く、其の必要すら無かった。唯、人と人とが与交(くみか)はす詞が有れば其れで総ては満たされてゐた。そんな己の姿を顧みる必要など無かつた詞を、融通無碍な呪能の総てを、漢意(からごころ)(さか)しらが文字と云ふ形有る鏡の中に封じ込めた。人は文字が連ねる事物の影を真実や豊かさと取り違へ、詞と言う心の自由を手放し、神神と共に暮らしてゐた時代は潰えた。鉄郎、形有る物を求めるな。人は形有る物と結果を求めて滅びた。形や結果を求めるのは、己の歩む道を信じてゐ無い(あかし)だ。己の進む道に自信が有るのなら、周りの景色なぞ無用。目指す処が高く遠く在れば在る程、御前の詞は輝く。鉄郎、御前の旅は詞を遡る旅だ。神の物語を()け。道に迷つたら上を目指せ。難を逃れず、決して下る事勿(ことな)かれ。」

 小鼻を焦がし、眦で滲む想いを堪え、女王の激励に頷く事が出来無い鉄郎。エメラルダスは(ほの)かに恥じらい乍ら、伏せていた御鏡を元に戻して、何年来か見当も付かぬ心からの微笑みを覗き込んだ。

 「歳を取つた証拠だな。久し振りに生身の詞を交はせて、(いささ)か口が過ぎたやうだ。もう時間が無い。メーテルに宜しく伝へてくれ。」

 「宜しくって、メーテルに会わないのか。」

 虚を衝かれた鉄郎が思わず詰め寄ると、エメラルダスは老木を仰いだ眼裡(まなうら)に想いを馳せた。

 

 

   逢ふからもものはなほこそかなしけれ

       別れむことをかねて思へば

 

 

 鉄郎、あんな(ろく)で無しの()い女、然うは居無い。メーテルの事を頼むぞ。奴に止めを刺すのはクイーン・エメラルダス、積年の本懐。譬へ神の鉄槌で在らうと、水を差されて堪る物か。」

 病に伏した姿を見せまいと振る舞う気丈も然る事乍ら、肝胆相照らす仲で在るからこそ、交わす詞すら不粋の極みと云う無二の信服。(しか)して、此処に又一つ、新たな(ちか)いの(いとぐち)()り合わされて、血束する。

 「鉄郎、アンドロメダを折り返し、必ず還つてこい。終着駅の地球へ向かう999の最後の停車駅が火星だ。鉄郎、火星で待つてゐるぞ。」

 折り返す。そんな明日の約束なんて出来やし無い。其れなのに、エメラルダスの詞は重かった。人の心には質量が存在する。其の因力が鉄郎を奮い立たせ、勢い、勝ち気に撥ね除けた。

 「エメラルダス、人の事より、精々、養生しやがれ。」

 鉄郎の悪態に、滴る汗を拭おうともせずエメラルダスは破顔一笑、キャビネットに拳を振り下ろし、

 「女王を呼び捨てにするとは無礼千萬。生かして帰すのは王国の名折れ。とは云へ、此程、明け透けに胸襟を解き、人心に紛れたのは久しからぬ快哉(かいさい)。大目に見て取らすぞ。鉄郎、御前の方こそ、達者でな。」

 火の鳥の隻翼が此の世の全てを焼き払う様に、稲光る御鏡(みかがみ)に掌を翳すと、胡蝶が舞い上がる様に、打ち萎れていた老木が一気に咲き乱れ、薄紅を差した白磁の花吹雪が鉄郎を七重八重(ななへやへ)に取り巻いて、揺れ惑う耳目を埋め尽くした。女王の失われた青春を巻き戻す様に目眩(めくるめ)く、()した花蜜に()せ返る芳烈な坩堝(るつぼ)。透かし彫りのクイーンベッドは鱗幕の向こうに掻き消され、逆立つ襟足とVibramのクレープソールが人工重力から再び引き剥がされていく。(おお)らかな浮力に包まれて(くぐ)太母(たいぼ)の胎内。身に余る常春(とこはる)の喝采を浴びて、花瓣(はなびら)の霞が晴れ渡ると、鉄郎は蛇腹のタラップに吐き出された、甲板の上に舞い戻っていた。

 陶然醒めやらぬ女王との謁見。迷い込んだ鏡の世界に心の断片を置き去りの儘、忘れ形見は穂の香に漂うアプリコットの(みやび)な薫陶。そんな余情に耽る小兵の緩んだケツの穴を、腰の得物が武者震い、後れを取るなと急き立てる。見上げれば、己の為す可き事を為せと鼓舞する、争天の帆柱。正面には、倉口の格子を間に挟んで決戦の船首楼。鉄郎は仕切り直しの鉄火場に、宙羽織りでBarbourに袖を通し乍ら、脇目も振らず駆け出した。出戻りの小舅(こじゅうと)は喰らった冷や飯を忘れ無い。(のぼ)せ上がった鬼嫁の(くろ)いのが二匹、其の泣き所に俺の鵲を()ち込んでやる。

 扉を蹴破り、星系図を敷き詰めた司令室に飛び込むと、壁面の多針メーターの一基が拡張した開口部の前で、ヘドロを被った水母の様なブルカの一団が、硝子張りの隣室を覗き込んでいる。金鸞(きんらん)の乱れ髪を鏤めた手術台の上で、ピンヒールと鎖骨の狭間に埋もれる翡翠(ひすい)のネックレス以外、身包(みぐる)み剥がされた、眠れる謎の美女。令達の時を待つ伝送海馬のヘッドギアが其の安らかに取り澄ました寝顔を見下ろし、ポインターの緋照が頭部の起伏に沿って方眼の枡目を描き出し、引出線の矢印が顳顬(こめかみ)や眉間を走査しながら脳波をスクロールしては、注釈を書き込んでいく。

 「様あねえな。こんな機塊のパチモンに舐められやがって。」

 天地を返した星の海を踏み躙り、大仰に殴り込んできた招かざる客にブルカの塊が一斉に振り返ると、其の中の一切れが有りもし無い鼻先で笑い飛ばした。

 「フン、何しに戻ってきた。チビゴリラ。」

 アーカイヴから引っ張り出してきただけで血の気の無い売り言葉。番号くらい振っておけば良い物を、此では何れが本当の偽物なのかすら判ら無い。鉄郎は腰の霊銃に手を掛けて、勇を鼓す気焔万丈を確かめると、日陰干しの若布(わかめ)達に向かって最後通牒を叩き付けた。

 「俺の豚を返せ。」

 ホルスターの拘束から解かれ、獲物を目指す(くちばし)から攣り上がった尾翼へと波打つダマスカスの文様。鉄郎の五指を抱き込んで離さ無ぬグリップから黒耀の惴気(ずいき)が逆流し、流線型の銃身が星の(やじり)と為って千早振る。此の舟の女王が認めた戦士の誉れだ。臆する物等、何も無い。逸る心を抑える様に悠々と腰を沈めて諸手に構えると、

 「貴様、其の銃を何うして・・・・。」

 絶句する影武者(もど)きを袖にして、鉄郎は定めた狙いを怒耶躾(どやしつ)けた。

 

 

   杏花飛簾散餘春  杏花(きやうか) (れん)に飛んで 餘春(よしゆん)を散ず

   明月入戶尋幽人  明月 戶に入りて (いうじん)人を尋ぬ

 

 

 エメラルダスとの腐れ縁にケリを付けに来たんじゃねえのかよ。何時迄も暢気に狸寝入り何てしてんじゃねえよ、此の豚野郎。」

 絶頂に達した信義に兇鳴する一刀彫りの霊鳥。痺れを切らした銃爪(ひきがね)が決壊し、雷管を姦通する撃針に、発莢(はっきょう)した光励起結晶の反動が、鎖骨と頸椎を突き抜ける。羲暉晃曜(ぎくゐかうえう)嘴裂(しれつ)(つんざ)く光量子のスパイラル。眼界を(ろう)す皇弾の雄叫びに、蜘蛛の子を散らすブルカの群像。鈷藍(コバルト)の閃条が手術室に面した硝壁を撃ち()き、メーテルの胸元で添い臥すペンダントに命中すると、()(また)の鳳雷を振り乱し翡翠の勾玉(まがたま)が覚変した。暴虐のアークを全反射する凄絶な珀劇(はくげき)。クランケを取り巻いていた遠隔ツールは薙ぎ払われ、フォーマットする領域を照合していた換装システムが散華する誘爆の連鎖。全く手の付けられぬ燎原嵐舞(りょうげんらんぶ)の旋光に魅入られて、鉄郎は銃を構えたまま立ち尽くし、専聖不可侵の禁陵区を冒された神の臨界に、硝子張りの隔壁が断崖に()ぜる怒濤の如く砕け散った。

 猛烈な熱波と煤煙が膨発し、一張羅のブルカを吹き飛ばされまいと星系図に平伏(ひれふ)したワゴンセールのアンドロイドが、晶破した手術室の礫を安物のラメの様に被って震えている。露出したリジット基板で燻る焦電ノイズ。覆した鼎沸(ていふつ)の焼き(ごて)で鼻を突く、溶けたエナメルの臭素。垂れ込める、い辛っぽい靄の中で終熄(しゅうそく)していく宝玉の乱心。鉄郎の膝と肩が砕けて銃の構えが氷解し、過ぎ去った暴威の爆心で、初めて命を吹き込まれたかの様に瓦礫のヴィーナスが眼を覚ました。

 片肘を突き、支度解甚(しどけな)く身を起こして、手術台から糖蜜の様に滑り降りる情絶な妖肢。野次馬の好奇を肥やしに、恥じらう事を知らぬ奔放な旺裸(おうら)が、 病に伏す女王に代わって、今、息を吹き返した。襟足から鎖骨へと滴る悪魔をも(たら)し込む背徳の官能。(しと)やかな乳房の頂で白浜の桜貝の様に微睡む小粒な乳首。人を跪かせては足蹴にする蠱惑(こわく)の痩脚に、小脇を伝う曲水の蜂腰が絡み合い、旬果桃質の愛尻(まなじり)(とも)した仙骨の(えくぼ)が不敵な微笑みを湛えて、切れ上がった幽谷に秘めやかな茂みが(そよ)いでいる。目覚めて終った禁断の裸賊。其の凄貌(せいぼう)譫言(うわごと)の様に沸々と呟く三十一文字(みそひともじ)

 

 

    月もなく花も見ざりし冬の夜の

        心にしみて恋しきやなぞ

 

 

 ()んでいる。己れの(かたき)()く者を。いざ、黄泉復(よみがえ)れ、と喚んでいる。時空を超えて(あざな)う二人の女王。頬を掠めるアプリコットの芳香に(いざな)われ、鉄郎は姿無き言の葉に唇を奪われた。

 

 

    冴えし夜の氷は袖にまだ解けで

       冬の夜ながら()をこそは泣け

 

 

 遠離(とほざか)る意識の中で我知らず(こた)えた忽然の相聞(そうもん)。其の馥郁(ふくいく)とした甘美に痺れる鉄郎の蓬髪から零れた白い花瓣(はなびら)が、独片(ひとひら)舞って肩に止まった。崩壊した隔壁を跨ぎ、魂の片割れを探し求めて、歩を踏み出す赤裸々な生き霊。立ち籠めた焦煙に影露(かげろ)う腰の据わった星眸が鉄郎を捉えて放さ無い。息を呑む小兵の前に生まれた儘の姿で立ち(はだ)かり、コーデュロイの襟に寄り添う独片を人差し指で掬い取って唇に重ね、繊美な睫を伏し物思いに耽るメーテル。其の頬を一瞬掠めた微笑みが、撫で下ろした胸を掻き毟って豹変し、女王の屈辱を噛み締めて、黒エナメルのピンヒールが砕けた硝子を踏み(しだ)く。御色直しは無しだ。金絲雀(カナリア)色の垂髪を掻き上げ、(あで)やかな襟足から取り出したアルマイトのスティックが煌めくと、迸る雷刃の切っ先が星系図に張り付いたブルカの一人を指名した。

 「剣を()れ。油虫は御前だ。忘れたのなら今から思い出させてやる。」

 俎上(そじょう)に堕していた時とは眼の色が違う。蛇は蛙を眼で殺す。然う云えば此奴の喧嘩は一肌脱いでから。76のAカップは伊達じゃ無い。眺めが良いのは結構だが、斯う為ると小兵の出番は御預けだ。女王の名を借りた切れっ端を焼き尽くす、氷点下に決晶した眼差し。臣下のアンドロイドが難を逃れる様に星系図の縁に後退り、整った舞台にメーテルが皇然と君臨する。女王は裸だった。(ようや)く此の女の本領を拝む時が来たと許りに、固唾を呑む鉄郎。メーテルは顎を引き、左手を軽く結ぶと、(おもむろ)に右の(かいな)と剣先を正面に手向けて静止した。序の舞い。否、そんな真逆(まさか)。小兵は声無き声を呑み込んだ。併し、水平に差し伸べた真一文字の()(ごころ)で萌え盛る榊が。旭を浴びて盛り土の頂で漲る、言の葉の(さき)はふ誉れに浴した母の姿が。姿無き物を一点に見据える研ぎ澄まされた面差しがフラッシュバックする。天照らす玉緒(たまを)鈴生(すずな)り。吐胸(とむね)の高鳴りに踏み鳴らす大地。メーテルの膝が垂直に吊り上り、宙に遊離した黒妙(くろたへ)のピンヒールが静止すると、

 

 

    振起鳳髮    鳳髮(ほうはつ)を振り起て

    急握劒柄    劔柄(たかひ)急握(とりしは)りて

    蹈船庭而陷股  船庭(ふなぞこ)()みて、(もも)(ふみぬ)

 

 

 其の一槌に艦内が激甚した。

「何の故にか(おご)(かた)る。」

 (ただ)(なじ)りて問ひたまうメーテルの頬を照らす、艦外モニターに映し出されたクイーン・エメラルダス號の一斉砲撃。999の車列を掠め、全天、全方位を爆撃する天照(アマテラス)の絶唱。荒唐無稽な誤作動に色めき管制端末に獅噛憑(しがみつ)いて精査する配下のブルカ達。

 「エメラルダスを名乗るなら剣を操り、気高く咲き、美しく散れ。」

 紅蓮の怒号を撃ち貫き、再び振り下ろされたピンヒールの足拍子に艦底が傾ぎ、天地を(かえ)した星系図の綺羅星が(はじ)けて、艦砲射撃が暴発する。モニターから降り注ぐ、岩屋戸(いはやと)の闇に秘そめていた光圧に押し潰され、地震(ない)ふる艦内。大日女(おおひめ)(いか)()(ひび)き合うクイーン・エメラルダス號。女王は女王を知り、()を信じて()を信ぜず。胸乳(むなぢ)を掛き出でし勾玉。(ほと)()()りき鳳髪。エメラルダスと合わせ鏡の皇傑が海賊船の汚名を炎浄する。

 「何うして斯う、一々遣る事が派手なのかねえ。人の舟を何だと思ってやがる。」

 鉄郎は活断層に呑まれた様な震駭に片膝を突いて堪え乍ら、老木の御影(みかげ)に隠れし女王に()り変わって一向(ひたぶる)、制御不能な鳳撃の畏怖と魅惑に浸っている己に喝を入れた。悔しいが此のストリップの極道こそがエメラルダスの宿敵に相応しい。抗う術の無い羨望と戦慄の眼福。既に雌雄は決した。機械は機械の持ち場に戻れば済む事だ。然し、虎に()る者は勢い下りるを不得(えず)。浜辺に打ち上げられた褐藻類(かっそうるい)の様に萎びたブルカは、神に()れた墓荒らしの様に雄叫びを上げると、光励起サーベルの絶尖を突き立てて飛び掛かった。

 立ち止まったら水底(みなそこ)に呑まれる天津浪(あまつなみ)を背負い、身を投げ出して剛腕を揮う、膂力(りりょく)に任せた馬車馬の突撃。相手の呼吸を読む事も無ければ、間合いを計る事も、構えも緩急も何も無い、一方的に発情し続ける暴かれた紛い物の狂乱が、己の非を(こじ)らせて曝け出す。緒戦で見せた闇雲に精密な挙動と動体視力を超えた鈷藍(コバルト)の閃光を、判で押した様に再生する箱買いのアンドロイド。其の(よこしま)な兇刃がメーテルの喉頭を捉えた瞬間、鳳髪の残像を切っ先が突き抜け、ブルカの裳裾(もすそ)が悲鳴を上げた。膝下を斬り裂かれ露わになった、人工皮膜でコーティングされてい無い剥き身の剛筋義肢。濫造された模造品の悲哀を、咄嗟(とっさ)に片手で隠そうとする無駄な羞恥反射と、其の背後で炯炯(けいけい)と粗悪な擬人化を視姦するメーテルの実像。鉄郎の頬に張り付いて硬直した苦笑い諸共、時計の針が動か無い。波乱とは浅瀬に立つ物で、(ふか)い河は(しず)かに流れ、更に、(ひろ)い外洋へと(ひら)かれていく。川面の落ち葉に選ぶ道など有る訳が無い。其れでも、肩口で氷結している絶対零度の気配に、切りっ放しのポンチョが振り向きざまの盲刃(もうじん)で仕切り直すと、後はもう恥を塗り重ねるだけの消化試合に堕していく。

 ()ち込まれるのを優雅に待ち受け、幻覚の様に明滅するメーテルと、空を斬っては背後を取られ、止めを刺されずに切り刻まれては、星系図の銀河を曳き廻されるブルカの落人(おちゅうど)。悠然と翻っていたドレープは破れ被れの引き攣けを起こして見る影も無く、裸のプリマに花を持たせる引き立て役すら適わ無い。同じ疑似餌に何度も喰らい付く愚貪な外来種を嘲笑う、一太刀毎に弾ける乳房。高貴な毛並みを惜しげも無く振り撒く股神(またがみ)女鰭(めびれ)。唯一纏った文明の残滓(ざんし)、ピンヒールが硝子の星屑を蹴散らして鳳髪の金鱗と競い合い、メーテルは天景の独り舞台に酔い痴れている。(つば)を競り合う事すら許さ無い、剣劇にも組太刀(くみだち)にも為らぬ彼我の差に、襤褸(ぼろ)を引っ掛けただけの落ち武者が苦し紛れに吠え立てた。

 「貴様、さっきは何故手加減をした。」

 「手加減とは手合わせの相手にする物。壊れた玩具なぞ其の(らち)にも無い。

 

 

     神代の昔の劍にならへども

       およばぬものはこころなりけり

 

 

 エメラルダスと差し向かうと為れば、こんな物では済ま無いわ。青海波(せいがいは)のパートナーも儘ならぬ8bitのアルゴリズムに、女王の留守が務まる物か。」

 汗を掻く事を知らぬ白け切った形相で成り済ましの鬼哭を()なす、星辰一刀、飛燕を描く弔刃(ちょうじん)。踊る事無く、舞い、仕切る静的な動。流転する沈着不急の所作が粛粛と執行する私刑に、胸元まで斬り裂かれた(まやか)しの黒幕は、宙を舞う己の端布をメーテルと見誤って飛び退いた拍子に上体が泳ぎ、砕けた硝子に脚を取られて倒れ込んだ。

 「起て。技の巧拙も、生身も機械も関係無い。エメラルダスに成りたければ及ばぬ心を呼び覚ませ。

 

 

    うつ人もうたるる我ももろともに

       ただひとときの夢のたはぶれ

 

 

 勝ち負けなぞ僅かな差異ですら無い。此の舟を護りたければ、起て。起って其の務めを果たせ。」

 メーテルの詞は優しかった。独善、万難を破り、剣を揮えば、神在るが如し鳳髪の鬼女が、教え諭す様に打ち破れたブルカを(みつ)めている。其処で(ようや)く、鉄郎もメーテルが仕留めようとし無い深意に突き当たった。喚んでいる。鏡越しに見守っているであろうエメラルダスを喚んでいる。メーテルの熱い敬慕に鉄郎の心が傾いだ、将に其の時、星系図の銀河に紛れた硝子の破片に手を突いていた機械仕掛けの御薦(おこも)が、握り込んだ其の礫でメーテルを面罵し、形振り構わず斬り掛かった。声を上げる間もない一瞬の出来事。処が、メーテルは眼を見開いたまま其の姑息な芥子粒から顔を背けようともせず、渾身の足拍子を振り下ろすと、エメラルダス號の憤怒の砲撃にバランスを崩した、海賊版の海賊が振り上げる一太刀を肩の付け根から斬り飛ばした。全天を照射する光弾と反動で激昂する艦内と、光励起サーベルを握りしめたまま床を跳ねる剛筋義肢。絶頂に達した舞台とは対照的に魔刃を納め悄然と佇むメーテルに向かって、失った腕を振り乱し、断絶した入出力に(はた)と気付いて動顛した模造品は、壁に張り付いている配下のブルカを怒鳴り付けた。

 「何を為ている御前達。斬れ、此の女を斬れ。何を為ている早くしろ。此の舟の主は此の私だ。彼の死に損ないは、もう長く無い。其れを承知で生まれ故郷の火星に此の舟ごと骨を埋めるつもりだ。電劾重合体を討伐するなぞ出来る訳が無い。そんな酔狂に付き合っていられるか。死にたくなければ、私の言う事を聞け。さあ、斬れ、斬れ、此の女を斬り捨てろ。」

 残された隻腕でメーテルを指し、捲し立てるプライマリ設定の同機種に、ブルカの裾から雷刃を抜き出し星系図の縁に足を掛けるセカンダリの黒装束達。其の(にじ)り寄る沈黙の陣形に、気が付くと鉄郎はメーテルを突き飛ばして立ち(はだ)かっていた。もう此は雌猫の(じゃ)れ合いでは済まされ無い。頸動脈を逆流する激情に網膜がレッドアウトし、横隔膜の痙攣が喉笛を突き上げる。

 「刺し違えるつもりで云えよ、此の豚泥棒。二束三文の錻力(ブリキ)の分際で、生身の躰より腐り切ってるってのは何う言う了見だ。エメラルダスの名を(けが)すんじゃえ。」

 「何をしている、早くこの狼藉者を始末しろ。」

 「神輿から落ちて梯子を呼ぶなんざ、良い御身分だな。」

 鉄郎は斬り裂かれたブルカの上から壊れた案山子(かかし)の喉元を鷲掴むと、光励起サーベルを構える臣下の人垣を睨み付けた。

 「何だ、テメエ等も遣るってのか、上等だ良うく覚えとけ。(たと)へ御天道様が余所見をしてようと、此の星野鉄郎様が容赦しねえ。エメラルダスの名誉は俺が護る。エメラルダスを斬るのは誰だ。テメエ等みてえに護る物のねえ連中と一緒にすんな。エメラルダスを斬るんなら、先ず此の俺をササラモラサにしてみやがれ。」

 何もかもが許せなかった。此の舟で働ける誇りも、皇潔な主君に仕える喜びも知らぬ機塊の反乱と、其れを許したエメラルダスの病魔。星空を見上げて999や宇宙海賊の冒険譚に耽り、母の前で星野鉄郎と云う従順な息子を装う自分と、地球を後にした今も猶、時に揺れ惑う此の旅の覚悟。然して、更なる獲物を求め、手の中で身悶える霊銃迄もが其の逆鱗に触れ、鉄郎は勝ち馬に乗って燥ぐ鵲を満天の星系図に叩き付けた。

 「(ひよっこ)は引っ込んでろ。」

 硝子の星屑が砕け散り、逆立てていた黒耀の尾羽を打ち枯らして喪神する戦士の銃。鉄郎は腹を曝して横臥した相棒に見向きもせず、丸腰に為っても魂の慟哭(どうこく)は治まら無い。

 「エメラルダスを斬るのは何処の何奴(どいつ)だ。貴様等の玩具でエメラルダスの誇りに傷を付けられるのなら遣ってみろ。さあ、俺が試し斬りに為ってやる。エメラルダスを斬るなら、先ずこの俺の躰で其の鈍らな剣の錆を落としてからにしやがれ。良いか、クイーン・エメラルダス號は天河無双の海賊船だ。狐鼠泥(こそどろ)が潜り込んで、有漏滎(うろちょろ)して良い舟じゃねえ。

 

 

     國家昏亂  國家昏亂(こんらん)して

     有忠臣   忠臣有り

     君辱臣死  君 (はずか)しめらるれば臣死す

 

 

 さあ、斬れ。エメラルダスの名を衊される位なら、(なます)にされた方が増しだ。」

 (ことば)が心を追い越して、人柱の恍惚が脊椎を駆け昇る。白想に散った鉄郎の大見得。其の僅かに緩んだ握力を振り解き、

 「何を為ている。早く此のチビを黙らせろ。」

 手負いの逆臣が喚き散らすと、背後を取り囲んでいたブルカの陣形が其の号令に殺到し、エメラルダスに其の身を献げた鉄郎の一心一点に、結襲した兇刃が突進する。一束に為った鈷藍の刀身を、一歩も引かぬ血意を楯に受けて起つ小兵の逆情。衝き貫ける蒼烈な迅雷と極限に迫った九死の雄叫び。(けん)を争う破竹の脅亂(きょうらん)。其の欺瞞と虚勢の斬っ先を、信義に(あら)ざる道を断つ、無刀の光貴が包み込む。 (さか)しらな漢意(からごころ)は言の葉を覆すに不能(あたわず)。鉄郎の胸に溢れ、背中を押す、字義や字面で縛られる前の、何を口籠もっているのかすら聞き取れぬ呪能。肉体と感情を取り戻した八百万(やおよろづ)(ことば)()(がへ)り、命の在るが儘を謳歌する。鉄郎は過去や未来に逃げも隠れもせず、先鼻の虎口を忘れて、今、此の時を完全燃焼していた。炸裂する瞬間の連続は、今此の時が燃え尽きぬ限り次の瞬間は存在し得ず、渾然一体の白熱に新しい天体が励起する。

 

 

 

 蹴汰魂(けたたま)しいアークの照撃が途絶え、真っ新に飛灰(ひはい)した無意識の眩暈(めまい)が薄れていく。愕然と頭上を仰ぐ無傷の鉄郎。意味が追い付かぬ状況の中で、宙に浮いた終止符が、脱力した剛筋義肢と共に揺れている。後頭部を串刺しにして、配下のブルカが掲げるサーベルの頂に高高と吊し上げられた偽りの女王。断末魔で死に際を飾る事すら許さぬ息を呑む絶鳴は、無理なキャスティングを押し付けられた無言の抗議か、其れとも未だ演戯を続けているのか。妄執の糸に(もつ)れた、斬られ役のマリオネットが誇示する最期の美学。()して、一点の曇りも無い御鏡(みかがみ)の如く張り詰めた静寂に、女王が其の()(ごころ)を翳し、彼の威徳に満ちた声朗が、宙響発振モニターを介して艦内を征した。

 「999の乘客の諸君。私はスペースノイド解放戰線總裁、クイーン・エメラルダス。」

 偽りの女王を放棄して(かしこ)む臣下の低頭と、床に叩き付けられ、逆関節で朽ち果てた機塊に、玉音の慈雨が降り注ぐ。

 「此の度の、クイーン・エメラルダス號乘員として有閒敷(あるまじき)、部下の不心得な振る舞ひ。當船(たうせん)(おさ)(ちやう)として目過した緩怠、慚愧の極みで在る。總ては私の不德に因を()す醜狀。萬謝を()くして及ぶ(ところ)では無い。()いては、運行再開に向けた手筈を整へ、萬難を排した。()く云ふ當船も星系流轉(せいけいるてん)(つね)とする壹代(いちだい)の過客。海路と鐵路、道こそ(たが)へど、賴み少なき旅懷(りよくわい)は相通じ、背負ふ旅裝に輕重(けいぢゆう)は無い。いざ、高らかに壯途の汽笛。仟夜(せんや)()ける光蔭に(おく)れを取る()かれ。名を馳せよ無限軌道が誇る遼遼(れうれう)たる天望。諸君の壹路平安(いちろへいあん)(いの)る。」

 宙響発振の出力が途絶え、澄み渡る鶴声の余韻。神の物語へと飛び立った不死鳥の霏霺(たなび)く炎尾に鉄郎は胸を焦がし、其の幻影を見送る事しか出来無い。言葉を返す事すら恐れ多き伝説の女海賊。其れは声の去った虚空を仰ぎ、立ち尽くしているメーテルとても同じだった。鬼女の仮面から覗く、瞳の奥が揺れている。生温い友情に流されている輩には理解不能の、囚人の鎖の様な絆で絶望的な孤高と孤高を(はげ)しく縛り上げる、黒妙(くろたへ)の鳳凰と天庭の紅孔雀。両雄相並ぶ二曲一隻の天屏風に小兵の付け入る余地は無い。ブルカの下僕が(うやうや)しく抱えてきたフォックスコートに、促される儘、従順に袖を通し、鉄郎を見向きもせず、此の擦れ違いの一時を噛み締める様に退室するメーテル。其の痛ましさから眼を伏せると、別の臣下が鉄郎の脇に(さびまづ)き、戦士の銃を頭上に(ささ)げていた。女王の偉勲を(なぞら)える霊銃に無言で(かしづ)く手が震え、鉄郎がホルスターに納めても、闇を被った低頭を控えた儘、気配を消している。何処に隠れていたのか、戦術情況演算のバイナリーと幾何ゴーストの蛍火が俄に立ち昇り、統合管制機構のアクセスランプとシーク音が息を吹き返す。鉄郎は燐舞するエレメントと星系図を(うね)る等航線を(また)ぎ、鋼壁に敷き詰められた多針メーターの複眼に見送られて艦内からデッキに出ると、雄々しき帆柱が突き上げる火星の酸化鉄で染め上げられた舶鯨の胸底(むなそこ)が頭上から伸し掛かってくる。太母の血潮の如き(からもも)(あか)天鵞絨(ビロード)のキルティングで着飾った狭丹塗(さにぬ)りの飛行船と、ゴンドラ式のキャビンを踏み締めるメーテルの隻影。

 

 

    こととなく(しの)びてわたる天の橋

         爭ひけりな星の影のみ

 

 

 例え此の宇宙から追放されようと、たった一人でも認め合える存在が居るのなら、他に何を求めると言うのか。()れ程多くの取り巻きに囲まれていようと、其の虚しさに気が付けぬ者は、己自身と出会う事すら敵わ無い。血の繋がりを超えて、人と人とが(まつ)らう不滅の術なぞ無い物と高を括り、手に入らぬ物は要らぬと甘えて、己の殻を塗り固めていた。己独りが孤独なのだと、誰もが孤独に喘いでいるのを無視し続けていたのは何処の何奴だ。自分が孤独なら誰もが孤独だ。心を許した者に幻滅してからが本物の出会い。御互いの孤独を分かち合う事で人は初めて理解し合える。其れを二人の女王は知っていた。畢生(ひっせい)の孤高に身を(やつ)す者同士にのみ許されたライバルと云う資格。絶望の度に深まる熱き宿盟。其れこそが果てし無き孤独の彼方に埋もれて待っている宇宙の(たから)。数百、数千光年と離ればなれに鏤められた無数の(ひと)つ星を目指して、鉄郎の心を巡る旅が、今又、再起動する。

 

 

 

 「御帰りなさいませ、鉄郎様。良くぞ御無事で。」

 車掌の心を尽くした出迎えを、鉄郎は何時もの様に軽口を叩いて茶化す気に為れ無かった。女王との謁見を語る詞が見当たらず、下手に(ひけらか)しては総てが嘘に為り、夢から醒めて終いそうで、今は唯、微笑みを返して席に戻る事しか出来無い。扉を開けて見渡す、通路を挟んで整然と居並ぶ空席のボックスシート。顔を伏し、眼を合わせる事の無かった無人の葬列が、不図(ふと)、振り返った様な気がして、鉄郎は心を閉ざし見えていなかった乗客の存在に、気骨無(ぎこちな)く一礼した。己独りだと粋がっていた孤独の旅人。先客は不語(かたらず)。唯、其の背を丸めて、草臥(くたび)れた外套の襟に頬を埋める。()せ返る様な姿無き旅情の鈴生(すずな)り。何事も無かったかの様に向かい合う縹色(はなだいろ)のモケットに腰を下ろすと、何時もより少し座り心地が良かった。

 相席の麗人は何処の道草を辿っているのか、嬋才(せんさい)な妖肢を記憶したシートの窪みは滑らかに寛いでいる。地球を発ってから此処迄、御互いに未だ真面(まとも)な口を利いた事が無い。一体何時迄、こんな意気地(いきぢ)を続けるのか。エメラルダスも一目置く絶界の苦悩を分かち合える時なんて来るのか。其れとも、生温い馴れ合いに流されず(いが)み合う無意識の底で、星と星が巡り会う心の旅は既に始まっているのか。自由なんて云う口先だけの物は意味を成さぬ、窓外の辰宿列張。小兵の肩を()む、運命の(くびき)に科せられた時の罪荷(つみに)が、母の強さと厳しさも孤独の裏返しだったのだと独り()ち、強化硝子に映るもう一人の鉄郎が虚ろな瞳で問い掛ける。

 

 

     誰知明鏡裏  誰が知らん明鏡(めいきやう)(うち)

     形影自相憐  形影(けいえい) 自ら相憐(あひあはれ)まんとは

 

 

 青春と呼べる物なぞ何も無かつた。振り返つた時に彼が然うだつたのだと気付くだけ。女王の言葉が弾劾する鉄郎の有り余る若さ。クイーン・エメラルダス號と云う鏡の中に、少年は孤立した自己を信じ続けた独りの少女を覗き見た。生まれ育った星を飛び発ち追い求めた限り無い自由。何の束縛も無い此処では無い何処かを目指し、嗚呼、玉杯に花受けて、羽搏(はばた)く夢航路。天河を朱に染める勝利と凱旋、入り乱れる悪名と名声、眼下に望む支配と尊崇。然して我に返ると、己の出自も現在の居場所も心の支えも破壊し尽くし、自分以外、何も存在し得無い闇に閉じ籠もり震えていた裸の女王。完璧な自由と云う名の完璧な孤独。其処で出会った、鳳髪の、己れに()かざるに(あら)ざる者。火星と地球、生まれ育った星は違えど、合わせ鏡の様に巡り会った彼の日の少女と無冠の少年。

 鉄郎は(なまくら)な己の眼差しを睨み返し、鏡映の彼方に(ひろ)がる星屑の(うみ)へと衝き抜ける。赭き火の星で生まれた火の鳥が、其の母なる星で燃え尽きるなぞ有り得無い。女王の約束に証文は無用。アンドロメダを折り返し、俺はエメラルダスが待つ火の星に辿り着けるのか。鉄郎の吐胸(とむね)を貫く羅針の煽端。胆を決した其の眦を(よぎ)る、怯懦に屈した亡匿の日々。其の虫酸(むしず)()き散らす様にシリンダードレインが(しわぶ)き、臨界に達したボイラーを抱えて黒鉄の鯨背が震騰(しんとう)する。除煙板に首を(すく)めていた鋼顔の哲人が(かぶ)りの突管を(もた)げ、タイムテーブルを補正する機関室の合成義脳。前照灯のカクテル光線に、名にし負う「C62 48」のゴシックが煌めき、目視不能の因力に導かれ転轍(てんてつ)()る無限軌道。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。

 時は來たりて起動する貳佰萬コスモ馬力。メインロッドを(から)げて再び銀瀾の坩堝へ身を投じる追憶の拾壹輛編成。盟友を送り出す海賊旗が無氣圧無重力の宙空に(はため)き、髑髏を(かたど)る死の紋章が鉄郞には壹瞬、微笑んで見えた。ブラストの雄叫びに疾黑の爆煙霏霺(たなび)凱風晦星(がいふうくわいせい)車窗(しやさう)を限つた船嘴(せんし)の女神像が見る閒に遠離り、壹度(ひとたび)宙原に紛れて終へば、滂外(ほうがい)な巨幹を擁する狹丹塗(さにぬ)りの舶鯨も夜風の芥子粒。寄る邊無き孤軍の暗鬪が凝らした瞳の彼方に潰えた。滿目の天景に遮られし玉響(たまゆら)の邂逅。()れど、

 

 

     海内存知己  海内(かいだい) 知己 存す

     天蓋若比鄰  天蓋 比鄰(ひりん)(ごと)

 

 

 少年よ旅を旅する事勿(ことなか)れ。モケットの座右に控へし女王の戒め。名も無き憧れは憧れを超え、(あらた)にした本懷、氣宇壯大にして天頂を凌ぐ。いざ、士志滿帆(ししまんぱん)たる鯨海彗航(げいかいすいかう)の長征。天の曆數(れきすう)(なんじ)()に有り。凶風を避ける不可(べからず)。無難は(かへ)つて似たり、()べて多難なるに。いざ、(まど)へ壹介の孤兵(こひやう)辿辿(てんてん)と。神の召す途無(みちな)(みち)を、(つた)ふは鉄郞、不惜身命の見聞錄。果たして此の先、相成るや如何に。其れは復た次囘の講釋で。



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#6 時間城の海賊

 

    客車寒燈獨不眠   客車の寒燈(かんとう) (ひと)不眠(ねむらず)

    客心何事轉凄然   客心(かくしん) 何事(なにごと)ぞ ()凄然(せいぜん)

 

 

 決して明ける事の無い星空に、旧世紀の幻影を連ねる急行スハ43系の悄然とした窓列がストロボ写真の様に明滅し、時辰儀の錆び付いた針を追い越して、乗り遅れた列車を待ち続ける、在りし日のプラットホームを通過していく。居る筈の無い見送りの声に耳を澄まし、冴え切った赭視(しゃし)屡叩(しばた)いて思わず闇を振り返る、開け放たれた最後尾の展望デッキ。手摺りに()れた孤狼の頭上を、猪首の突管から怒髪する烽火(のろし)(はため)き、情理を絶した閑天に焦唇(しょうしん)を濁し、噛み締めた言葉が後塵に呑まれていく。姿無き宙域管制信号に呼応して吹き(すさ)ぶ長緩汽笛。永遠の循環小数かと見紛う茫漠の彼方にピリオドが()たれ、鉄郎は999が亜空間走行から切り替わったのを察知した。鋳鋼(ちゅうこう)台車の羽撥条(はばね)を介しデッキの縞鋼板を突き上げる鼓動が、五拍子から四拍子へと転拍(てんびょう)して在来軌道への合流を告げると、フタル酸の錆止めで分厚く塗り重ねられた手摺りの笠木に腰を掛け、軍勝色(ぐんかっしょく)のBarbourが身を乗り出した。

 シリンダードレインの白瀑を蹴立てる剛脚の進行方向に、次の停車駅と思しき星彩は未だ目視出来無い。当該惑星所轄の重力下で制動体勢に入っている筈だが、999は何処へ向かっているのか。(いぶか)しむ鉄郎の背後で、トライアンフのトゥーチップがデッキの鋼目に爪を立てた。

 「鉄郎様、此処に居らっしゃいましたか。」

 厚みの有る短軀に(まと)った紺碧のダブル。山吹のパイピングに沿って配した金釦(きんぼたん)が車内の戸漏(こも)れ灯を浴びて煌めき、白手袋の拳で軽く咳払いを治めると、車掌は姿勢を(ただ)して鉄郎に正対した。

 「間も無く次の停車駅に到着致します。次の停車駅は惑星ヘビーメルダー。停車時間は一週間と24分で御座います。御降車の準備を整え、今暫く御待ち下さいます様、御願い申し上げます。」

 慇懃に腰を折る判を押した車掌の恭順に、鉄郎は手摺りに箱乗りの儘、再び黒鉄の魔神が突進する進路の先に眼路を飛ばした。

 「でも、車掌さん、其れらしい星は見え無いよ。次の星は小惑星か何かなのかい。」

 「鉄郎様、次の停車駅は目前に迫っております。今一度、注意して御覧下さい。」

 車掌に促されて良く見ると、満天の星屑の中心に風穴を空けた様なドス黒い円環に向かって、十一輛編成の車列は吸い寄せられていた。周囲の星々を浸蝕する様にジリジリと拡がっていく、塗り潰された宙空の闇虚(あんきょ)。光速でも脱出不能な重力の特異点に落ち窪んで空間が湾曲している様子も無く、粛々と満ちていく黒點(こくてん)に、宇宙酔いを克服した筈の鉄郎も流石に吐き気を覚えた。彼が惑星?月の裏側の様な絶望的な欠落を(みつ)めて氷結している鉄郎と、掛ける言葉も無く立ち尽くす車掌。其の固太りなブレザーの無防備な背筋に、何時もの娟悪(けんあく)な嘲りが忍び寄ってくる。

 「何を勿体振っているの。此の茶坊主に教えて上げなさいよ。次の停車駅に御待ち兼ねのトレーダー分岐点が在るって事を。」

 賢しらな露西亜帽を傾げて揺らめく暗澹たる幽鬼の出没。女滝(めだき)の如き鳳髪を掻き上げ、片頬を歪めた蠱惑(こわく)(えくぼ)に悪意が渦巻いている。葬麗な黒装束に身を包んだ奇想の令嬢。相も変わらぬ豪奢な起ち居振る舞いに、鉄郎は一瞥も呉れず吐き気を催す黒點を睨み付けた。

 「鉄郎様、メーテル様から御話は伺っております。次の停車駅の惑星ヘビーメルダーにトレーダー分岐点が御座います。有らゆる空間軌道が一点に集まる宇宙の大分岐点で御座います。」

 気の進まぬ体で話を切り出す車掌に、仏頂面を背けたまま問い質す鉄郎。

 「じゃあ、其処に時間城が在るのかい。」

 「鉄郎様、トレーダー分岐点とは飽く迄も惑星ヘビーメルダーのターミナル駅の事で御座います。其れ以上の物でも其れ以下の物でも御座いません。」

 「じゃあ、ファクトヘイヴンとか時間城とかってのは何処に在るんだよ。」

 「鉄郎様、誠に申し訳御座いませんが、銀河鉄道株式会社の運行業務、並びに車輌、駅舎等の鉄道設備以外の事を尋ねられましても、私は御答えする立場に御座いません。私は此で失礼させて頂きます。」

 一礼を為て去って行く車掌の杓子定規な態度を間接視野で追い乍ら、鉄郎は黒點の吐き気を遙かに凌ぐ虫酸で喉笛を掻き毟った。銀河鉄道株式会社の依頼でエメラルダスが火星に向かうのを知ってい乍ら車掌は隠していた。嘘は云わ無い。だが、本当の事はもっと云わ無い。其れが此奴らの遣り方だ。欲望剥き出しで喰って掛かり、奪い合う貧民窟の連中の方が余程正直だ。(とど)の詰まりは身無し子の独り旅。今更、裏切られたも糞も無い。

 

 

      (つひ)に行く道とはかねて聞きしかど

         きのふけふとは思はざりしを

 

 

 此の日の為に乗り込んだ夢の超特急。併し、無限軌道の剛脚に獅噛憑(しがみつ)き、振り落とされぬ事に精一杯で、本当に此処まで辿り着けるとは思ってもい無かった。数奇な道程(みちのり)とは裏腹に唐突な運命の宣告。地殻の崩壊した地球の天変地異や機賊の気紛れな人間狩りの様に、狼は突然遣って来る。己の命や損得に目移りして、乗り遅れた列車に乗る事は出来無い。彼の日、拝した後塵に今、漸く追い付く事が出来たのだとしたら、もう何も迷う事は無い。白魔に呑まれ己の生きる意味さえ見失った彼の夜。死ぬ事すら出来無かった孤兵の、死に場所を探す旅の終着駅に停車時間なぞ関係無い。母に会いたければ時間城に来いと機械伯爵は確かに云った。漢の約束に証文なぞ無用。其の言葉が本当なら、其処には必ず何かが在る。煮え滾る(かなへ)の如き彼の豪傑だ。牛の小便の様な嘘を垂れ流す筈が無い。刺し違える覚悟は出来ている。其れでも、

 鉄郎は頬に刺さるメーテルの蔑視を突っ撥ねて、時間城は何処に在るのか吐きやがれ、と掴み掛かりたい衝動を堪えた。此の女は総てを知っている。其の上で、俺が破滅するのを楽しんでいる。頭を下げる等、有り得無い。夢だった乗車券にしても呉れると言うから貰って遣った迄の事。機械伯爵とケリが付く迄999に戻るつもりは無い。発車時刻を過ぎようが、俺にはもう乗り遅れて困る列車なんて何処にも無い。去りたければ去れ。総てが片付いたら次は火星だ。何う遣って向かうのか何て知った事か。

 第一義で在る母の生死を直視出来無い鉄郎は、己の惰弱を誤魔化す為、声無き声を吠え立てる。其の荒魂(あらたま)を鎮める様に、

 「手ぶらで戻る気なんて無いんでしょ。其の星で一生彷徨(さまよ)い続ける覚悟が無ければ、時間城には辿り着けないわ。此はママの分よ。御守り代わりに持って行きなさい。」

 馥郁(ふくいく)とした香貴が閃き、ウォバッシュ・ベストの胸ポケットに、何かがそっと差し込まれた。

 

 

      たらちしの母の裳裾(もすそ)に顏を伏し

          泣きし心を忘らえぬかも

 

 

 母の外套が剥ぎ取られていた血の池と999の突進する黒點が重なり、ブリザードの砲吼が襟足を駆け抜ける。照明弾の如きフラッシュバックに鉄郎は箱乗りの笠木からズリ落ち、デッキに架かる屋根の柱に(すが)り付くと、

 「ま(さき)く有らば。」

 ()う言い残して立ち去るメーテルの何時に無く愁いを帯びた横顔が、一瞬、母の励ましに見えて終う。柱にブラ下がったまま胸元に手を遣ると、コードバンのパスケースに無記名のアンドロメダ行き乗車券。友達と文庫本を貸し借りする様に渡された、車外の星明かりを反射して虹む999のホログラムに鉄郎の吐き気は屈辱に(まみ)れ、其の余りの気軽さに人の命を粗末に遣り取りしている者達の傲慢を垣間見て、星間航路に夢を描いていた浅はかさを恥じた。夢にまで見た乗車券が今、胸ポケットと内ポケットに一枚ずつ。其れなのに、もう彼の頃の自分じゃ無い。開け放たれた扉からは車内で控えていた車掌の声が聞こえてくる。鉄郎はデッキの上に降り立ち、車内の戸洩れ灯に背を向けて、手摺りの笠木に再び両肘を突いた。

 「メーテル様、御公務の御準備が整っております。」

 「公務は発車時刻迄に済ませれば良い筈よ。私も此の星で降りるわ。後回しにして。」

 「併し、メーテル様・・・・。」

 「後回しよ。」

 「(かしこ)まりました。」

 何もかも別世界の出来事だ。彼奴らは彼奴ら俺は俺だ。遠離(とほざか)っていくピンヒールの点刻を数え乍ら、宇宙の終わりが差し迫る様に粛然と拡がっていく奥行きの無い暗礁に肩を竦める鉄郎。今は唯、惑星に降り立った後の事だけを考えれば良い。改札を抜けたら、もう二度と会う事も無い。然う考えた方が気が楽だ。其れにしても、

 通常、外気圏を嘗める様に惑星の周回軌道に乗り、大気圏にアプローチしていく筈の999が、膨張し続ける冥府の核心に向かって垂直に盲進している。漆黒の大気に包まれているのかと眼を凝らしても、黯然(あんぜん)とした空漠の表面には気流や成層雲らしき(うね)りや波間処か、何らかの物質に反射する光子の欠片すら確認出来無い。惑星ヘビーメルダー?こんな物を天体と呼べるのか。視界を覆い尽くすパースの崩壊したベタ塗りの怪域に鉄郎は後退り、形振り構わず車内に駆け込むと同時に並列する車窓が一気に暗転し、無限軌道を()ぜる駆動音迄もが一瞬で遮絶した。大気に突入する衝撃波と気圧変動も無ければ、断熱圧縮に因る発光も気体のプラズマ化も無い、無明無音の絶界。幾ら無限軌道の透過隔壁で護られているとは云っても、滑空せずに垂直落下しているのだ。窓ガラスがビビる位の事は在って良さそうな物を。機関車の動力が停止し、予備のバッテリーに切り替わった様に寞然(ばくぜん)とした車内。と云う以前に、走行も滑落もせず時の流れ迄もが途切れて、此処では無い何処かに放置された、麻痺をする感覚すら無い完全に虚脱した洞穴。まるで、客車の内面だけが密封されて、其れ以外の世界は車体の外殻すら存在し無いかの様な次元の狭間。一体、外は何う為っているのか。入り交じる戦慄と好奇が転倒し、鉄郎が発作的に車窓の縁に手を掛け開けようとした。其の瞬間、左右の鼓膜を貫く気圧と音圧が、強化硝子に張り巡らされていた虚無を剥ぎ取り、眼下の眺望を暴き立てた。

 廃液を揺蕩(たゆた)う油膜の煌めき様な都市灯りが点在する漆黒の大地。地平線の輪郭は闇に溶け出し、陰湿な夜景を鈍色(にびいろ)に反射する、鉛を塗した様な切れ目の無い雲が蒙蒙(もうもう)と垂れ籠めている。一目見て杜撰な大気と土壌制御。此では人工太陽なぞ意味を為さぬのだろう。テラフォーミングを放棄した星間物流の要衝で在り、開拓熱量の排積地。一枚の暗幕を挟み唐突に場面が切り替わっただけで、大気圏をパスした実感の全く無い、汚泥の如き闇の沈殿した途方も無い鳥瞰図に鉄郎は瞳を零し、此の星の何処かで母が待っているのだと無理矢理言い聞かせる。時間城とはメガロポリスに類するナノ複合建材の奢侈絢爛な摩天楼なのか。其れとも、此の絶望的な闇に紛れた迷装要塞の魔窟なのか。一週間と云うタイムリミットなぞ有って無きが如き膨大なパノラマ。僅かな可能性に賭けるしか無い気の遠くなる使命を前にして、先ず何から取り掛かれば良いのか見当も付かぬ鉄郎の揺れ惑う心の焦点を、不意に、一粒の紅点が撃ち抜き、窓硝子に砕けて一筋の垂線が(したた)り落ちる。白魔の夜に母の流した血の涙。そんな真逆(まさか)、と思う間も無く、(おびただ)しい紅斑(こうはん)が鉄郎の記憶の扉を叩いて伝染し、赤銅色の驟雨(しゅうう)が窓外を塗り潰すと、理科の実験室を逆さにした複雑な有機化合物の皮膚を侵す刺激臭が車内に滲み込んでくる。地球の管理区域外に降る雨も黒濁していたが、此奴は酸化鉄の粉塵や有害投棄物の断末魔なんて云う生易しい物では無い。(もっと)も、放射性濃度が基準値を超えていれば機関室がアラートを発している筈で、入植する前の大気は此の程度では済ま無かったのだから、開拓民の成仏し切れぬ血と汗の彷徨と云った処か。垂れ籠める毒素に反応して(しず)かに瘴気(しょうき)を振り払うBarbourの空調ファン。鉄郎の焦慮を慰めるのは頬を浚う其の律儀な旋風だけだった。

 不養土に群棲したプラントの光害を浴びて黒鉄の魔神が煌めき、(ひし)めく煙突の原生林から立ち昇る煤煙を、999の放咳(ほうがい)する瀑煙とシリレンダードレインが斜めに限り、凱旋を告げる長緩汽笛が耐熱塗料とモリブデングリスで塗り固めた極夜を巡航高度から滑空する。航空障害灯が燃え盛る鉄塔群と入り乱れる対抗車輌を擦り抜け乍ら、誘導電波を嗅ぎ分けアプローチする機関室。赤銅色に濡れ(そぼ)つ鉄筋コンクリートと波形スレートが折り重なるモザイクの中枢に、増築を繰り返した蟻塚の如き本丸が見えてきた。開拓の歴史と現在の在り様、然して其の末路迄を網羅し体現する()いで()いだ此の星の玄関口。先を争い発着する引きも切らさぬ貨物の編隊が、刺胞動物の触手の様に霏霺(たなび)く重層構造のプラットホームへ、十一輛編成の尊大なグラインドスロープの稜線が、我が物顔で流れ込んでいく。

 過積載のコンテナに襲い掛かる巨人の隻腕がグラブバケットの鉤爪で鉱石を()み、ガントリークレーンの膂力を擁して頭上を交差する蹴汰魂しい構内。無線のワゴンカートと甲脚の複合フォークリフトが走路を奪い合うプラットホームには旅情の欠片も無く、駅舎自体がプラントと連結しているのか、プラントの中に駅舎が在るのか、焼却炉から吐き出された飛灰やスラグがピットへと雪崩れ落ちる粉塵で、Barbourの空調ファンは休む暇が無い。隣のホームの番手も電光掲示も霞んで深呼吸の一つも(ろく)に出来無い打ちっ放しの鉄火場に降り立った鉄郎は、煙幕の向こうに消えていくメーテルの喪身を一瞥しただけで眼路を切ると、乗降デッキに立ち尽くしている紺碧のブレザーを睨み付けた。

 今から車掌の働く会社のオーナーに喧嘩を売りに行くと云うのに、此が最後の見送りかも知れぬのかと思うと、景気付けの捨て台詞が湿気(しけ)って喉に支えて終う。何時もなら御主人の安否に(かま)けて、鉄郎の事なぞ二の次三の次の車掌が、制帽の鍔の奥に(ひそ)黄眸(こうぼう)の輝度を落とし、神妙な足取りでホームに降りてきた。

 「鉄郎様、ヘビーメルダーは物流機能に特化したターミナル惑星で御座いまして、プラットホーム数、乗り入れる路線数、発着数、並びに貨物量で肩を並べる停車駅は御座いません。従いまして、駅舎の規模も銀河鉄道路線内で最大を誇っており、様々な施設が整ってはいるのですが、入植している事業体の機密が輻輳(ふくそう)しておりまして、一般の乗客が駅の構外に出るには惑星総督府からの特別許可が必要で御座います。幸い、999の乗車券を提示すれば駅の構外に出る事は可能なのでは御座いますが、ヘビーメルダーは別名、鉱星ノリリスクとも呼ばれている、希少価値の高い鉱床で覆われた惑星でも御座いまして、採掘や製錬に伴って発生する莫大な重金属の廃棄物や放射性物質が未処理のまま放置されており、大気制御が行き届いておりません。其の為、駅周辺の市街地や準工業地帯から激甚工業地帯、鉱毒指定区域、及び管理区域外に出る場合は、機械化の有無に係わらず、耐放射性のタイペックスとマスクの着用が義務付けられております。どうぞ此方(こちら)を御持参頂きますよう御願い申し上げます。」

 ハザードマークが変身ベルトの様にプリントされているウエストポーチを渡されて、裏面の緻密な注意事項に眉を顰める鉄郎。其の稚気を優しく()で乍ら、車掌は踵を揃えて襟を正し、強張る語気を振り絞った。

 「鉄郎様、御気を付けて御出掛け下さいませ、何うか御無事で戻られますよう、心より御祈り申し上げます。

 

 

     昔來君如僕  昔來たる時 (きみ) (しもべ)の如し

     今見僕如君  今見たれば (しもべ) (くん)の如し

 

 

 一乗務員で在る私が差し出がましい口を挟む立場には御座いませんが、鉄郎様の御成長には眼を見張る物が御座います。鉄郎様ならば必ずや御本懐を遂げられる物と信じております。」

 感極まり制帽の鍔に手を掛け瞳を伏した車掌の熱い激励に、鉄郎は独りで勝手に(いき)り立ち、周りが見え無くなっている事に気付かされた。こんな事では捜し物が眼の前に落ちていたとしても素通りして終う。弾の無い銃を渡され、断じて行えば鬼神も(これ)()く、の一言で送り出された最初の停車駅。気が付けばBarbourの袖丈も身の丈に馴染み、着丈もBEAUFORTからBEDAELへと切り詰めて見える。鉄郎は苦笑いを噛み殺し乍らウエストポーチを装着し、左右両胸の乗車券と腰に提げた得物を確認すると、車掌の目深に被った制帽の鍔を中指で弾き上げて息巻いた。

 「オイオイ、車掌さん、見損なってもらっちゃ困るぜ。此の星野鉄郎様に取っちゃあ、母を訪ねて三千光年も朝飯前の吉牛だ。特盛汁ダクで軽く平らげてやらあ。余計な心配をしてる暇が有ったら、何時もの奴を用意して胡座を掻いて待っていな。」

 「ハア?何時ものと申しますと。」

 「此だよ此。」

 鉄郎は水平に伸ばした人差し指と中指を下顎で掻き上げて、麺を(すす)る真似をし、

 「熱熱のを頼むぜ。夜食のメンラーは別腹だからさあ。」

 と火裂(ほざ)いて、()た一つ七面倒臭せえ痩せ我慢、漢の醍醐味を背負い込んだ。

 「(かしこ)まりました。」

 一週間を切った、発車時刻のカウントダウンを告げる車掌、渾身の最敬礼。鉄郎は身に余る厚志に背を向けて、珪鎳(けいニッケル)の鉱石を積載して追い越していくワゴンカートの制御盤に飛び付くと、マイコンの認証端末に乗車券を押し付けて強引に読み込ませ、改札を抜けて駅の構外まで運ぶよう、パスケースを握った拳で怒耶躾(どやしつ)ける。吹き(こぼ)れた粗金(あらがね)(つぶて)を砕いて疾走する快哉(かいさい)。秒単位で乱れ飛ぶ土砂降りの場内アナウンスが頬を打ち、後景に過ぎ去る今、此の時が一瞬の脇見すら許さ無い。旅装を(まと)った乗客を脇へ追い遣る、二十四時間就労で外装の欠損した汎用アンドロイドの百機繚乱。増築に次ぐ増築で辺り構わずH鋼を建付ける躯体のブレース補強工事。粉塵の発火した廃材を取り囲む鉄道機動隊。情報よりも物資が先行して集積する、炭鉱と造船所が正面衝突した様な騒乱を、箱乗りの儘、団体客兼、業務用改札から強引に突破する。此の星の失われた夜空を取り戻す様に、運行状況と路線図のマトリクスが天井一面を燐舞し、乱高下する地金相場のチャートが電網の限りを尽くす中央エントランス。何うやら此の星を発着する時点での換金レートで、鉱石も精製品も取引されているらしい。現価を見極めてホームや駅上空で待機中の貨物は点滅表示されている。成る程、其れでトレーダー分岐点と云う訳か。腑に落ちて復た一つ御利口に成った鉄郎は、巡回ドローンが連呼する警告を付け馬に雑踏を蹴散すワゴンカートを乗り捨てて、駅前のロータリーに駆け出した。

 血の雨は上がった物のシャークソールに粘着する、焦げているのか濡れているのか判然とし無い酸化したアスファルト。ユトリロが廃油と液体ガスケットで描いた様な街並みを、キックボードの様なアンテナ一本の誘導車が無人トラックのキャラバンを引き連れて練り廻し、自掃式のパッカー車が路面に散水し乍ら廃棄物と有害降下物の回収作業に明け暮れ、有りと有らゆる業務車輌が駅構内の喧噪から決壊した様に車線を奪い合っている。見上げれば、冶金(やきん)コンビナートの煙突から立ち昇る煤煙に泥濘(ぬかる)溝黒(どぶぐろ)の闇夜。集合墳墓の如きプラントの燐火でゼラチン質の大気がギラ付き、継続的な設備投資をせずに強引な連続操業を続ける、老落した工業地帯に有り勝ちな、閉塞した疲弊感と溶解した鉱物色素で何もかもが塗り潰された、資源が掘り尽くされる前の地球に舞い戻った様な鉱山都市だ。

 此処に限った事じゃ無い。宇宙開拓事業全域の中でも、観光化や華やかな商業都市化に成功したのは、太陽系近郊の一握りの小惑星内に整備された僅かな区画のみ。情理を介さぬ現実の星空は独り善がりな夢を思い描く為のキャンバスでは無かった。命からがら辿り着いた未登録の入植地でテラフォーミングに明け暮れ、莫大な労力と事故災害の末に宇宙服を脱いで地表活動が出来る処まで漕ぎ着けたとしても、雀の涙程の緑化とインフラの維持に手一杯で都市開発迄は(とて)も手が回らぬ無人島での漂流生活。今考えるとタイタンの爆発的な原生林なぞ奇跡の産物で、管理区域から半歩でも出たら死の世界と云う極限のストレスと恐怖から逃れる様に、地球を見限り宇宙を目指した人々は生身の躰を棄て、苦役を寄せ付けぬ機械に堕していった。大量の資材と人材を投入しても釣り合う収益は上げられ無いと云うのに、意地の張り合いから撤退する事の出来ぬ自転車操業の開拓事業。地球の劣化コピーを中途半端に造っては余所に移って仕切り直すの繰り返し。何処も彼処も停車駅と云う停車駅が此の星の様な体たらくで、有らゆる空間軌道が一点に集まる宇宙の大分岐点と幾ら(のたま)っても、所詮は枯れ木の賑わいだ。

 1gのレアメタルを製錬精製する為には、其の1000000倍以上の体積の廃棄物と放射性残土を掘り起こす必要が有る筈で、そんなマイナスの努力を続ける惑星に機械伯爵が潜り込んでいる理由は何なのか。此の掃き溜めの何処かに時間城が存在するのだとしても、機械伯爵の逗留していた地球の下屋敷ですら異相の裏側に闇居していたのだ、其の居城とも為れば、おいそれと尻尾をブラ下げている訳が無い。試しに乗車券を取り出して999のホログラムを指でスライドし、エアタブレットを起動させて検索しようとしても、時間城とファクトヘイヴンと入力しただけで初期画面に戻って終う。其れだけなら未だしも、現地の情報を確認しようと開いてみたガイドビューの殆どが市街地を除いて墨殺され、此処から目視出来る郊外のプラントすらブラックボックスを被って緘黙している。何から何まで機密に塗れた地図の無い惑星。併し、余りに徹底した墨守は逆に、時間城の影を色濃く際立たせ、鉄郎を無謀な闇へと挑発する。

 取り敢えず何処から探りを入れるべきなのか。広げて眺めるような蒼写真なんて無い。社会主義体制から解放される以前の東欧諸国に匹敵する息苦しいメインストリートを見渡して、鉄郎はチマチマ遣っていたのでは埒が明かぬ事を覚悟した。此の惑星に入植した当時の儘の低層RC建築が肩を寄せ合う、歓楽のカの字も無い軒の連なり。嘆く事すら諦めた老婆の如き躯体のクラックを辿り乍ら小知を振り絞る。疎らな人通りの殆どは機族だ。擦れ違い様の好奇に満ちた侮瞥(ぶべつ)は親身に為って話を聞く体じゃ無い。此の星に機械化してい無い人類のコミュニティは存在するのか。情報を収集するとしたら其処だが、油脂と粉塵で練り固められた被膜をカップワイヤー刷子(ブラシ)で削ぎ落としたショーウインドウを物色しても、食料品は非常食のマルチシリアルが置いて在る位で生身の人間を相手に為ている店は見当たら無い。斯う為ったら最悪、連中の思い上がった眼差しと搗ち合ったら、手当たり次第に締め上げるか。銀河鉄道指定ホテルにチェックインするのは其の後だ。

 鉄郎を珍獣扱いする機畜を睨み返し乍ら歩いていると、辺り構わぬ斬っ先が業務用整備工具問屋の一画に突き刺さった。若しやと思い入店してみると、案の定、マルチクリーナーや多目的塗料を始めとする有機系からコーキング剤に到る迄、様々な溶剤が取り揃えられている。鉄郎は周り先客の舌打ちや危ない角度で積み上がった一斗缶には眼も呉れず、洗浄剤の棚を彩るクリムゾンレッドの化合物をロックオンするや否や、300mlのボトル型のポリ容器に充填された液体ポリッシュに飛び掛かり、成分表すらチラ見せずレジに直行した。其処で()りげ無く、

 「店員さん、買い物(つい)でに一寸良いかなあ。時間城とかファクトヘイヴンとか云う奴が此の星に在るって話しなんだけど、聞いた事有るかい。端末で調べても全然引っ掛かんねえし困ってんだよ。斯う言うのって、何処で調べたら良いのかね。」

 カウンターに肘を突き品物を差し出し乍ら切り出すのだが、機族の店員はセルフレジを顎で(しゃく)り眼を合わせようともし無い。何時も乍ら判り易い連中だ。一見の客とか云う以前に生身の人間など客扱いはし無い。此でも未だ品物を売る気は有るのだから少しは増しな方だ。事と次第に因っては喰って掛かる処だが、此の時ばかりはポリ容器の中で波打つクリムゾンレッドの魔力に急かされて、温和しくセルフレジに品物を持って行く鉄郎。バーコードを読み込んで端末に乗車券をタップし、マイクロチップのタグを剥ぎ取ると、其の場でポリ容器の蓋を開けて深呼吸をし、鼻粘膜を貫通して目頭を突き上げる気化アルコールを嗅ぎ分ける。間違い無い。先走った直感は狂喜に覚変し、後はもう矢も楯も堪らず、希釈せぬまま喇叭(ラッパ)(あお)り、薔薇色の灼熱が食道から胃壁を雪崩れ落ちた。母の眼を盗んで覚えた貧民窟の定番。汚染物質に揉まれて育った鉄郎の躰は、並の蒸留酒では歯が立たぬ耐性に錬磨されていた。

 竹馬(ちくば)竹光(たけみつ)に見立てて剣戟を競った、好誼相和(こうぎあいわ)す悪友と再会した様な思いも掛けぬ龍飲瀧落(りゅういんろうらく)。劇越な一杯に鼓膜が火を噴き、拡張した毛細血管を濁流する濤酔(とうすい)に粟立つ末梢神経。此の星に降り立った決意が一瞬で解晶し、此の一瞬の為に生きていると云う倒錯した実感に(たら)し込まれる悪魔の舌触り。セルフレジの置いてあるテーブルに片手を突き、鉄郎は逆流する胃酸を堪え乍ら深々と溜息を吐いた。様々な代替アルコールを試してきたが、矢張りポリッシュとの相性に優る物は無い。総毛立った(かむ)りを振って、焦点が明後日に飛んでいきそうな意識を引き戻す紅顔の酒呑童子(しゅてんどうじ)。其の痺れた舌尖が魅惑の二口目に手を付けようとした其の時、毒々しい擬物(まがいもの)の甘美に(とろ)け、(なま)めかしい悪寒の走る丸めた背筋に、下心丸出しの裏声が(まつ)はり付いてきた。

 「御客様、御釣りを御忘れですよ。」

 「御釣り?此奴にタップして終わりじゃねえのかよ。」

 折角の余韻を邪魔されて星が飛び交う充血した視界を屡叩(しばた)き乍ら振り返ると、対装甲ベレッタの銃口が鉄郎の顳顬(こめかみ)をノックした。

 「どうぞ御受け取り下さい。就きましては、今お支払いに為られましたカードを当店で御預かりさせて頂きます。誠に御手数とは存じますが御了承下さい。」

 イタリア女の冷たいキスに興醒めした鉄郎は、少し強めの赤ワインをテーブルに置いて、悪酔いしている店員の頭にセルフレジの端末を叩き込むと、怯んだ瞬間に奪った銃で山積みの一斗缶を乱射した。土手っ腹の風穴から紅蓮の炎を噴き上げて瓦解する合成樹脂塗料と洗浄液のドミノ倒し。蜷局(とぐろ)を巻いて店内に充満する黒煙にスプリンクラー等と云う気の利いた備えも無く、床に溢れ出た有機溶剤の火酒が地獄の釜を(くつがえ)す。

 「嗚呼、何て事しやがる。オイ、消化器、消化器を持って来い。」

 セルフレジを頭に刺した儘、(はやて)の如く燃え広がる火の手に駆け寄り、セルフレジの刺さった頭を抱えて狼狽(うろた)える事しか出来無い店員。其の無防備な背中に鉄郎はベレッタの残弾を総て撃ち込み、身に覚えの無い釣り銭を叩き返した。機械仕掛けの何処に、こんな端金(はしたがね)で眼腐れをする出来心が有ると云うのか。余りに罪深い乗車券の魔性。若し店員に因縁を吹っ掛けられてなかったら、棚に在るポリッシュを全部空にして、自分が火酒の海に呑まれていたのかも知れ無い。頭を狙わなかったのは、せめてもの感謝の印だ。銭ゲバの業火に崩れ落ちて藻掻(もが)いている蜂の巣に為った背中に、行き掛けの駄賃と(ばか)り世話に為った銃を放り投げ、テーブルの上で含羞(はにか)む紅いスイトピーを手に取って(たしな)む、一仕事の後の一杯。騒ぎを聞き付け奥から出て来た別の店員に、

 「片付けろ。」

 と顎で決り、ポリッシュを喇叭飲みし乍ら店を出ると、久し振りに一心地付いた鉄郎の背後でラッカースプレーの連鎖爆発がショーウィドウを吹き飛ばした。

 息を為ているだけで気が滅入る()う言う星は、少し派手な位で丁度良い。鉄郎は欣喜亢然(きんきこうぜん)と駆け付ける野次馬と擦れ違いに、飲み干したポリ容器を巡回しているパッカー車の開口したテールゲートに返杯し、リヤパネルの上に駆け上がってボディの上で横になると、御歯黒溝(おはぐろどぶ)(じょう)(ひん)に見える路肩に堆積した汚泥に、酒精で潤んだ瞳を滲ませて清掃ルートのアルゴリズムに身を任せた。此の星の(けが)れを呑み干した様に胃壁から腸壁へと浸蝕していく官能的な不純物。束の間の誘惑に流されまいと肝細胞が必死で絞り出す分解酵素を、易々と懐柔する粗悪なエタノールの徒波(あだなみ)。母の(いさ)めた堕民の習癖に添い寝して鉄郎は短い夢を見た。(ごみ)を漁って一日が終わる、不安と苛立ちの繰り返し。一卦(ちんけ)な慰みで時を濁すしか無い鬱屈した精力。酒毒に屈した者達の壊滅した人格と末路。三半規管で渦巻く幻覚と追憶がパッカー車のサスペンションに揺蕩(たゆた)い、散水洗浄しても目詰まりした排水溝で波を打つだけの(わだち)泥濘(ぬかる)んでいく。時間城と機械伯爵を炙り出す為、死に物狂いで駆け擦り回るべきなのに、999から降り立ってアッと云う間に此の様だ。我乍(われなが)ら生身の躰と云う奴は不調法に出来ている。鉄郎は此の微睡(まどろ)みの後に控えている猛烈な頭痛と懺悔のラッシュを(はぐ)らかし、首を洗う寝汗の雫が鎖骨を伝って降りていくのを数え続けた。己の懦弱な本性を傍観する贅沢で残酷な一時。そんな歪な悦落を降魔の鉄槌が叩き起こした。

 (ぼや)けた意識を蹴散らすクラクションと、急ハンドルに悲鳴を上げるリアタイヤの怒鳴り込み。硝子を砕き、ガードレールを削り乍ら迫り来る喧噪に、乾き切った炸薬が散発し、拡声器の警告が追い縋る。閉じた瞼を駆け抜ける余りにも鮮明な既視感。つい今し方、店員を銃撃した許りの生々しい感触に、俯せになっていた背筋が痙攣して身構えた途端、信号を無視し交差点の右手から左車線を逆走してきたクイックデリバリーにパッカー車が衝突し、振り落とされた鉄郎は宅配車のルーフを撥ねて、アスファルトの上に転がり落ちた。無人巡回のパッカー車は緊急停止し、荷台の脇腹に喰らい付かれたウォークスルーの運転席で、宅配業者の制服とは程遠い、オイルドレザーのPコートにパーカーを合わせた優男(やさおとこ)が必死でエンジンを掛けようとしているが、銃弾を浴びて満身創痍の軽車輛はセルモーターが虫の息を返す許りで完全にへたり込んでいる。

 粘り着くアスファルトから頬を引き剥がして漸く眼の覚めた鉄郎が、原型を失って喘いでいるスクラップの前で放心していると、上空に向かって威嚇射撃をし乍ら駆け付ける鬨の声が聞こえてきた。振り返ると、ルーフラックにマウントしたアップライトを(たてがみ)の様に逆立てて一般車輌を押し退ける甲機動三菱(ジープ)。其れも一台や二台の話しでは無い。此はもう法定速度の取り締まりとは訳が違う。巻き込まれては面倒だと、アスファルトに打ち付けた躰を引き擦って踵を返した其の時、車を乗り捨てて飛び出した男が鉄郎の正面に突っ込んできた。錯綜する状況の中で蹴汰魂(けたたま)しい甲機動三菱(ジープ)の隊列に御互い気を取られ、身を(かわ)す余裕も無ければ、声を上げる(いとま)も無い。鉄郎は出会い頭の一瞬、見覚えの有る幸の薄い瓜実顔(うりざねがお)と眼が合った。此奴は確か、タイタンで帯域解放を叫んでいた職業左翼のスペアノイド。番号で振り分けられただけの粗製濫造が何故此処に。鉄郎は唐突な再会を打ち砕く渾身のタックルを喰らって受け身も取れず、硝子の礫の散乱したアスファルトに再び叩き付けられた。

 (うずくま)った儘の二人を瞬く間に取り囲む、蛇蝎(だかつ)の如きヘッドライトの炯眼(けいがん)。逃げ場を塞ぐ逆光を背に次々と包囲の輪に降り立つ彊化鎧骨殻(きょうかがいこっかく)の壮漢達が、光励起磁動晶銃を起動させ乍ら其の巨歩を詰める。平時とは思えぬ自警団の域を軽く超えた重装備。街のチンピラをスカウトして粋がってる様な民兵組織とも格が違う。隣で転がっているスペアノイドの仲間だと思われたら、時間城を探す処の話しでは無くなる。鉄郎がアスファルトに額を擦り付けた儘、身動(みじろ)ぎもせずに様子を伺っていると、剛快な壮言が頭熟(あたまごな)しに轟いた。

 「フン、手間を取らせおって。我我の堅陣を侵犯するとは良い度胸だ。何処の鼠だ。身分証を出せ。」

 此処で下手に動けば共犯を認める事になる。鉄郎は余計なカロリーは使うまいと狸寝入りを決め込み、アスファルトの()えた臭いを嗅いでいると、片膝を突いて立ち上がり乍ら、隊長格の漢に向かって身分証と思しきパスケースを提示するスペアノイド。透かさず隣の隊員がレーザーポインターの緋照を当て、

 「大佐、本物です。」

 驚きの色を悟られぬ様に耳打ちをすると、現場を睥睨(へいげい)する兜鍔(とうがく)の奥のスペクトルアイが色めき立ち、居丈高だった怒声を絞り苦々しげに問い質した。

 「名前は。」

 「星野鉄郎。」

 不貞不貞(ふてぶて)しく服の埃を払い乍ら答えるスペアノイドに鉄郎は驚き、ベストのポケットに手を当てると乗車券が抜き取られている。潮目が変わった事を悟ったスペアノイドは、大破した盗難車に一瞥を呉れてからヌケヌケと切り出した。

 「大佐さん、職務に邁進する其の熱意は誠に結構。其れはもう尊敬に値しますがね、流石に此処まで御熱心だと、世間一般で云う処の不適正追跡に該当するんじゃ無いんですかね。」

 「貴様、我我の幕営で何を嗅ぎ回っていた。」

 「黙れ、話しを聞くのは俺の方だ。御前達、何処の民間軍事会社だ。此処の民兵を指導しに来ただけじゃ無いのかよ。何の権限が有って、こんな街中に繰り出して警察ごっこ何てしてるんだ。」

 (かさ)に懸かった被害者面に銃を構えて躙り寄る隊員達を大佐は無言で制し、乗車券のホログラムが放つ威光を忌々(いまいま)しげに睨み付けて思案を巡らせている。

 「答える気が無いのなら、さっさと失せろ。不退去条項にも抵触したいのか。総督府に、否、銀河鉄道株式会社に通報するぞ。」

 鉄郎の乗車券を奪い返し、此れ見よがしに突き付けて責め立てる鼠賊(そぞく)に、大佐は其の剛健巨躯を震わせて声を押し殺した。

 「何処で拾ったか知らんが、手首毎切り落とされたく無かったら、サッサと其のパスを仕舞え。名前も顔も覚えたからな。次に会う時は口の利き方に気を付けろ。然も無くば、整備不良の銃が暴発する事になるぞ。」

 決壊寸前のプレゼンスに深追いをしてはならぬと察知したスペアノイドが温和(おとな)しく矛を収めると、大佐は生半可な手打ちに背を向けて隊員達を一喝した。

 「何をしている。総員、速やかに配置に戻れ。」

 不本意な部下達は取り逃した雑魚にメンチを切り乍ら、其の重装備を(いか)らして三菱(ジープ)に乗り込むと、交差点の外で待機している一般車輌を憂さ晴らしに砕兵(さいひょう)バンパーで弾き飛ばし、野牛の群れの如く撤収していく。

 「ハハッ、やれやれだな。」

 基地局に応急信号を発しているパッカー車に凭れ掛かって、怒りの敗軍を見送るスペアノイド。入れ違いで現場に急行しようと藻掻ぐ交安警邏隊のパトランプが瞬き、完全に麻痺した幹線道路の出口を求めて、全方位のクラクションが一斉に息を吹き返す。

 「御前、生身の人間なのか?免許資格も無い歳で飲酒運転に車泥棒とは、良い根性してるなあ。其れに随分と洒落た物も持ってるし。」

 五色妖(ごしきあや)なす乗車券のホログラムを繁繁(しげしげ)と眺め乍ら、自分の事は棚に上げて生洒洒(いけしゃあしゃあ)と話し掛けてくるスペアノイドに、こんな騒ぎに巻き込まれた無駄骨(つい)でと許り、鉄郎は粗無際(ぞんざい)に催促した。

 「勝手に人の名前使って吠えてんじゃねえよ。手癖が悪いのは御前の方だ。盗むのは車だけにしやがれ。」

 何う転んでも、此の旅の通行税は力で払うしか術は無い。鉄郎が乗車券に手を伸ばすと、其れを見計らっていたスペアノイドは一歩後退り、

 「おおっと。()う、慌てなさんなって。」

 アンカーボタンの(はだ)けたPコートの胸元から鉄郎の霊銃を抜き取り、()たり顔で突き付けた。

 「別に良いじゃないか、隣のポケットにも同じ御寶(おたから)が眠ってるんだろ。独り占めは狡いんじゃないのか。欲張ると(ろく)な事が無いぞ。斯う云う物は皆で有効に使わないと。一寸の間、借りるだけさ。必ず返すって。証文なら幾らでも書いてやるよ。」

 蛸も泳げば墨を吐く物だが、此の悦に入った達者な滑舌を何処で覚えたのか。御負けに手も早い。売れ無いカメラマンの様な湿気(しけ)た面は瓜二つでも、タイタンで右往左往していた同機種と較べて、此奴には妙なキレが有る。

 「ったく、何奴も此奴も。」

 鉄郎は舌の上に絡むポリッシュを唾棄して呪詛を食むと、

 「其奴も、そんじょ其処等の玩具とは毛色が違うんだ。火傷しねえ内に返せ。」

 ホロ酔い加減も手伝って、スペアノイドの調子に乗った軽弾みな人間臭さが心地良く、工具屋の店員の時とは違い、力に物を言わせる気には為れ無かった。そんな心からの最後通告に半笑いを浮かべ、銃を構えたまま徐々に距離を空けていくスペアノイド。鉄郎は霊銃の(おぼ)()しに任せて、スペアノイドが意を決して其の場から駆け出しても、鷹揚に構えて一歩だにせず、粗忽者(そこつもの)の功を焦る背中と、貧民窟の(いさか)いを掻き分け、廃棄物の山の中に逃げ込んでいた己の姿を重ねて、泡沫の煌めきに眼を細めるのみ。二束三文の儲けや快楽に群がる軽佻浮薄な視野狭窄。戦士の銃と乗車券は、そんな人の世と心を映す鏡だった。(うつ)け者の地金を暴いて翻弄し、渇しても盗泉を含まぬ者の凛品を奪えぬ様に、自ら仕える主の許から決して離れぬ二つの神器。鉄郎は星々を巡る道程(みちのり)の中で、何時しか其の名義に足ると認められていた。真の逸品とは宿命の如く、手に入れるのでは無く、授けられる。自分に何の資格が有るのかは選ばれた本人も判ら無い。人と物を超えた確かな信頼に身を委ね、鉄郎は遠離っていくスペアノイドが突如絶叫し、アスファルトの上で沼田打(のたう)ち回るのを見定めてから、悠然と歩き始めた。

 「放せ、放せ、畜生。何なんだ此の銃は。ガァアアアアアア、止めろ、止めてくれェエエエエ。」

 掌に癒着したグリップを引き剥がそうと、岸に打ち上げられた雷魚の如く必死で身悶えるスペアノイド。手にした者の闇を、暗病(くらや)みを映す霊銃の洗礼。鉄郎も突き落とされた己の器を推し量る魔窟は、抱え込む闇の浅い者程、其の貧寒とした空疎に耐えられ無い。ダマスカスの文様が蠢く冥路を踏破した者にのみ霊銃は心を許し、其の座右に()す。

 「アンドロイドの羊でも人並みに悪夢を見るんだな。」

 海老反りになって無明の試練から逃れようと狂態の限りを尽くすスペアノイドを見下ろし、脇に落ちている乗車券を拾い上げてポケットに納めると、鉄郎は其の銃身を掴んで鵲を(しず)かに(なだ)め、絡み付いた五指を()(ほぐ)した。霊銃の御眼鏡で電脳の髄まで徹底的に選別されたスペアノイドは、筋電義肢を硬直させて放心している。滞り無く元の鞘に収まった二つの神器。此の身に余る虎の子を手放す事が在るとするなら、其れは無限軌道の行程が終着の汽笛を告げる時。こんな寄り道で路露に(まみ)れている暇は無い。

 交安警邏隊のパトランプを避ける様に其の場を後にする鉄郎。何は扨置(さてお)き、当面の脚が無い事には振り出しにすら戻れ無い。其処で街頭の大気観測モニターの前に停めてある流線型のロングボディーに眼を付け飛び乗ると、早速、仕事に取り掛かった。超低重心の車高短に、何より柄の悪いクリムゾンレッド。つい今し方呷った許りのポリッシュと云い、此の泥溝板(どぶいた)の様な星では無視をする方が難しい。無論、幾ら図体がデカくてもスクーターはスクーター。デニムで云えばジップフライで、ボタンフライ派の鉄郎はマニュアルを御所望なのだが悠長に選んでもいられ無い。此も酒の勢いと云う奴だ。ベストのポケットから取り出したドライバーをイグニッションに突っ込み、乗車券の裏技で触角(アンテナ)回路のプロテクトを麻痺させると、起動したウェルダーの砲吼を合図にシリーズ式ハイブリッドに直結した両輪コイルのエッジが稲光る。

 「へえ、単車を()るのも御手の物だな。車と単車と何方が本職だよ。今度、ジックリ教えてもらわなきゃな。」

  聞き覚えの有る巫山戯(ふざけ)た声色に鉄郎が振り返ると、タンデムシートにスペアノイドが納まっている。何うやら此奴は酢漿草(かたばみ)の様に、叩けば叩くほど伸びるタイプだ。

 「誰が犬みてえに付いて来いって云った。二秒だけ待ってやる。さっさと降りやがれ。」

 「何言ってんだよ。犬には尻尾が付き物だろ。俺、御前の事が気に入ったよ。」

 「気に入ったのは俺じゃ無くて、俺のポケットの中身だろ。」

 「おおっと、御明察。御前は話が早くて助かるよ。取り敢えず、俺達の此から先の話しは、もっと落ち着いた処で御茶でも飲み乍らゆっくりと。なっ、然う為ようぜ。でないと・・・・。」

 勿体振って目配せをするスペアノイドに釣られて鉄郎が首を捻ると、

 「オイ、御前等、俺のバイクに何してんだ。」

 KADOYAのツナギを着た金田(もど)きのコスプレ馬鹿が、クリムゾンレッドのステアハイドを血走らせて怒鳴り込んできた。鉄郎は咄嗟(とっさ)にギアを反転し、フルアクセルのバックスピンから急ブレーキを掛け、スペアノイドを振り落とそうとしたが、コーデュロイの後ろ襟を捕まれて前輪が浮き上がり、仕方無く、空転するホイール放電を撒き散らし乍ら、コールタールの奈落の様な幹線道路を駆け抜けた。

 見た目の通り極端にパワーバンドの狭い、鞭で殴っても足り無い癇馬(かんば)だ。()てて加えて、用も無いのに(いなな)く後ろの荷厄介。飛んだカップルのツーリングに巻き込まれ、鉄郎は何う遣ってスペアノイドを突き落とした物か其のタイミングを窺い乍ら、ハンドルのボトルホルダーに差してあったゴーグルモニターを掛け、角膜制御で両輪駆動の偶力変数と慣性モーメントを微調整するのだが、兎に角、集中出来無い。

 「此の星で元服(げんぷく)前の人類、其れも日本人(マスクマン)に会えるなんてなあ。何処から来たんだ。パスには地球発ってなってたけど、真逆(まさか)なあ。実は俺の前のオーナーも日本人(マスクマン)でさあ。本当だぜ。俺は出鱈目と姑は苦手なんだ。袖擦り合うも何とやらって聖徳太子も云ってただろ。宜しく頼むよ。」

 万事此の調子で捲し立てるスペアノイドに鉄郎は無視を決め込み、経路案内と渋滞状況を表示するエアパネルに意識を張り巡らした。処が、

 「然う云えば、パスのホログラムはトリプルナンバーが9だったよな。開業以来、解析不能な技術的トラブルと遭難事故が頻発して、運行再開の目途が立た無い666は欠番になっているから、現状、銀河鉄道の旗艦列車は555迄だろ。777の稼働は年明けからだし、何なんだい其の999ってのは。」

 「何だって、其れは何う云う事だ。」

 「何う云う事だも何も俺が聞いてるんだよ。アンドロメダ行きなんて書いて在ったが、銀河鉄道路線の運行区域は此のヘビーメルダーが極限だ。此処から先は銀河鉄道株式会社の統制開拓領域で、ヘビーメルダー以上の完全封鎖空間だぞ。」

 「オイ、今、鋼統機元の何年だ。」

 「鋼紀五拾貳年壬寅(じんいん)だ。其れが何うした。」

 スペアノイドの何気無い受け答えに思わずアクセルが緩み、鉄郎は踏み外し掛けた回転域を慌てて立て直した。こんなスプーンを裏返しにしてカレーライスを食べてる様な笨骨(ポンコツ)でも、人の気を引く為に好い加減な出任せを吹き散らかしている口振りじゃ無い。此奴は確かに(のぼ)せ上がった道化師(ピエロ)だが、損得勘定と機智には長けている分、前後不覚の狼少年とは一味違う。若し、スペアノイドの口走った鋼紀が事実だとすると、鉄郎が生まれる遙か昔に時空が(さかのぼ)っている。何故?何時?何う遣って?過去に降り立つ停車駅なんて在るのか。999の吸い寄せられていった満天の星空を浸蝕するドス黒い風穴が、時を逆走する入り口だったのか。其れとも何者かの意図で任意の時軸に引き擦り込まれたのか。こんな芸当が出来るのは宇宙広しと云えども鉄郎が知る限り独りしか居無い。竜頭(りゆうづ)は時間城で機械伯爵に仕えていると云った。然して、時間城に来れば何もかも明らかになり、真実なんて呼べる物は何も無いとも(ほの)めかした。ファクトヘイヴン。其処に真実が無いとするのなら、一体、此の星の何処に何が在るのと云うのか。例え辿り着けたとしても全く違う時間軸だ。自分が生まれる前の時間城に母さんが居ると云うのか。鉄郎は(かむ)りを振ってヘッドライトを擦過する流導車線を睨み付けた。ポリッシュの酒毒が頭に回ったのか、行き摺りの酔夢か。総ては此の塗炭に泥濘(ぬかる)む闇の中だ。

 「鉄郎、御前は此の星に何しに来たんだ。修学旅行や観光で立ち寄る様な処じゃ無いしな此処は。一人で来たのか。御前、只の小倅じゃ無いだろ。何と言っても其の物騒な得物と四次元ポケットみたいなパスだ。遠足のバナナにしてはパンチが効いてる。何だったら今からでも遅く無いから俺が預かっておくぞ。後見人制度って奴だ。利息も付けるぞ。」

 行き成り呼び捨てで、調子の良い事を馴れ馴れしく火裂(ほざ)き続けるスペアノイドの戯言(ざれごと)が、隣りの部屋で点けっ放しのテレビの様に遠くで聞こえ、浮わの空の鉄郎は其の何処かに在るブラウン管の磁力に引き擦り込まれていく。車掌は次の停車駅が過去に接続しているとは云わ無かった。()えて知っていて隠したのか。此の星で降りたメーテルは、今何処で何を為ているのか。(ほど)こうとすればするほど絡まる糸が僅かな弾みで不意に途切れ、鉄郎は描く事の出来無い全貌に向かって力無く(こと)()を零した。

 「御前、時間城って聞いた事有るか?」

 「ハッ?」

 「此の星のファクトヘイヴンって処に在るらしいんだ。」

 「時間城は知ら無いが、ファクトヘイヴンって云うのは(さっき)話した銀河鉄道株式会社の統制開拓領域の俗称だ。銀河鉄道株式会社が全権を握る解放区。要するに治外法権の伏魔殿だ。宙域に限らず、惑星内にも特定機密収監区域って云うのが封鎖区域の上に存在するらしい。首を突っ込んだら其の儘ギロチンにされて、ハイ、其れ迄。何う安く見積もってもミッキーマウスが最低時給で踊ったり、毎日夜の八時に花火が上がる様な処じゃ無い。真逆(まさか)、其処の年間チケットでも拾ったのか。其れとも御前の四次元ポケットみたいなパスに付いてくるクーポン券とか。」

 「まあ、チョイとした野暮用でね。俺のクラリスが閉じ込められてるんだ。」

 「だったら当の伏魔殿に出入りしている奴に聞くのが手っ取り早いな。蛇の道は蛇だ。」

 「誰か心当たりでも有るのか。」

 「ハーロックさ。キャプテン・ハーロック。まあ、面識は無いけどな。」

 「ハーロック!! 海賊王の?」

 「然う、スペースノイド解放戦線総裁、キャプテン・ハーロック様さ。」

 「一寸待て、スペースノイド解放戦線の総裁はエメラルダスだろ。」

 「何云ってるんだ。彼の女王様気取りで騒いでる御侠(おきゃん)は、“杏衛兵”って云うハーロックの親衛隊で売り出し中のペーペーだ。」

 有無を言わさぬ反論に鉄郎は舌を巻いた。悔しいが過去に戻っているとするのなら、確かに辻褄が合っている。

 「銀河鉄道株式会社のケツの穴を覗きたかったら先ずはハーロックだ。スペースノイドの解放なんて綺麗事を謳ってはいるが、一皮剥けば船代も身銭を切れ無いグローバリズムの犬。銀河無双の鉄道開拓事業は宇宙海賊と一蓮托生で、大旦那のヤバイ現場はハーロックの独壇場だ。大旦那のヤバイ現場はハーロックの独壇場だ。御誂(おあつら)え向きに、其の死神も避けて通る舟泥棒(ふなどろぼう)が此処最近ヘビーメルダーに御執心と来てる。」

 「何う言う事だ。」

 「今、此の星では惑星内の全工業用核融合炉の稼働を停止していて、順次廃炉作業が進められているんだが、CAEAが耐用年数の引き下げを強行した(とばっち)りに因る廃炉と云うのは表向きで、実は爆撃して地の底に沈めていると云う話しが出回っている。解体作業には厳重な箝口令が敷かれていて、尚且つ封鎖区域内で詳しい事は判ら無いが、空爆が在ったと思しき時間帯には夥しい光源や火柱、体感地震に関する多くの証言が在るんだ。市販のガイガーカウンターで測っても基準値の範囲内とは云え周囲の放射線レベルには顕著な変化が在る。にも拘わらず、総督府、原子力規制委員会、核安全保障局、核緊急支援隊から何の発表も無い許りか、大気観測や地震観測の公共データにも在って(しか)()き現象が一切記録されて無い。其れに輪を掛けて怪しいのが、廃炉事業の着工と足並みを揃える様に常態化した、帯域障害の頻発だ。(ほぼ)一週間置きに此の星の全域を機能不全に叩き落とす惑星規模のシステムダウンは、空爆時間帯の帯域封鎖をカモフラージュする為の物だと云う見方も在る。意図的に帯域制限を掛けているのだとしら、其の間に起こった真実は総てブラックアウトだ。一体其処に何が隠されているのか。解体作業が終了したと発表された後も、施設の跡地一帯は依然として猫の子一匹近付け無い。然して、そんな現場上空で度々アルカディア號の機影が確認されている。勿論、相手は常時死覚化している幽霊船だ。目視や航空管制レベルのレーダーで確認する事は出来無いが、現場周辺の大気から発見された核濫粒子の残留波形を解析すると、アルカディア號の物と一致するらしい。」

 間に合わせの作り話にしては筋が込み入っていて、其の口振りにも浮付いた処が無い。鉄郎は何時しか肩越しに差し出された(まこと)しやかな中間報告書に耳を奪われ、緘黙に屈する事で其の続きを促していく。

 「(そもそ)も今、原子力規制委員会が進めている廃炉事業は奇怪(おか)しな事だらけだ。放射線の安定化技術も進歩して従来の二十分の一、約五年で百万分の一にまで線量を減衰出来るんだから、廃炉をするにしても放射線リスクが無効化するのを待って取り掛かれば良い物を、何故、事を急ぐのか。廃炉にした後の代替エネルギーの目途も立ってい無ければ、新規に核融合炉を建設する計画も無い。然して、廃炉の現場を固める民間軍事会社の暗躍。始めの頃、空爆は中疆(ちゅうきょう)マテリアルに因る企業テロだと云う噂だった。」

 「中疆マテリアルって何だ。」

 「旧世紀に合衆国のネオコンを駆畜して()し上がった、銀河鉄道株式会社と天河を二分する究極のグローバル企業で、帝政投資家(アナキスト)達も巻き込んだ、喰って喰われての蠱壺(こつぼ)の中で生き残った最後の二匹の内の一匹だ。宇宙開拓とは(せん)ずる所、天体資源の搾取と独占。連中は其の覇権を争ってきて、初めの内は星空の冷戦なんぞと云われていたが、民営化した戦争も今じゃ護るべき一線を完全に越えている。ヘビーメルダーはレアメタルの宝石箱だ。此の星の入植は矯正労働研修施設の設立に端を発して、其れ以来、銀河鉄道株式会社の主力事業。其のドル箱に(くさび)穿(うが)ち、底板を抜く。動機は十分だ。処が今、中疆マテリアルは其れ処じゃ無い。」

 弁の達者なスペアノイドも其の鋼吻(こうふん)に熱が籠もり、流石に此処で一息吐くと、其の先は鉄郎の才器才量を遙かに超えていた。

 「中疆マテリアルの黃圡(こうど)ストリームとパワー・オブ・滿洲(まんじゅ)が壊滅した。建設当初から銀河鉄道株式会社の標的で、爆撃されれば中疆傘下の紅衛警備が、即座に報復行為を敢行するんだが、何と今回は梨の礫。若し中疆マテリアルの自作自演なら、銀河鉄道株式会社に因る物だと、子飼いの宣争広告代理店を介して一大キャンペーンに乗り出す筈なのに、寧ろ自体を過少報告し内密に処理しようとしていた程で、誰もが(いぶか)しく思っていると、其れも其の筈、事業の中核を成す産業軍事インフラの指令系統が(ことごと)く麻痺していて、中疆マテリアル御自慢の強制収容労働システム迄もが完全にダウンしていた。当初、一時的なトラブルで速やかに復旧すると発表されていたが、豈図(あにはか)らんや、其の対応状況を逐一アナウンスしていた自社サーバーから新種の電脳黴毒(ばいどく)が検出され、汚染された社内の資産と機密が決壊した。此の同時多発テロで銀河鉄道株式会社の一強独裁が確定し、最早、中疆マテリアルに斬って返す余力も無ければ、此の宇宙で銀河鉄道株式会社に面と向かって刃向かう者は誰も居無い。と為れば(なほ)の事、此の星の原子力事業で何が起こっているのかって話しだ。最大のライバルを蹴散らして、銀河を股に掛けたグレートゲームにケリ付け、絶世を謳歌する絶対王者が、何を躍起になって火消しに回る事が在るのか。解体状況の視察に来たCAEAの職員が丸ごと行方不明になったって噂も在れば、核融合炉がジャックされたって云っている奴も居る。が、そんな玉石混淆の伝言ゲームの中でも一番ヤバイのが、施設内で素粒子の連鎖衝突が起きたって話しだ。宇宙が壊れかけた、と云うより、生まれかけた。」

 其処迄一気に捲し立てると、後はもう御手挙げと許りにスペアノイドは天を仰いだ。

 「其れが真実か何うか調べるのが今の俺の仕事さ。俺は前のオーナーが潜入取材をする為にカスタムされたんだ。俺が何処にでも在る汎用機種なのも、何処の現場でも潜り込める様にする為さ。前のオーナーは凄く情熱的な人で、セコハンの俺を使い捨てのドローンみたいに扱う事は無かった。只の片腕じゃ無く、我が子の様に接してくれた。其れが・・・・・・。」

 脂の乗ったスペアノイドの口上が不意に途切れた。弱きを助け強きを(くじ)く。そんな人の道理を前のオーナーは貫き通したのだろう。煙たがられた火の始末で何が在ったのか。其れは話せる様になった時に話せば良い。鉄郎は其の沈黙を底流する確かな血潮の(さざなみ)に耳を澄ました。

 「俺は保守系の機関誌を前のオーナーから引き継いで運営しているんだ。取材に、編集に、出版を独りでな。蕎麦で云ったら三立てだ。先代も社長兼、編集長兼、配達員だった。」

 「出版?紙かよ。」

 「然うさ、紙って云っても人工繊維だけどな。」

 「ケッ、云いたい事が有るならネットに上げて、直接電脳にロードさせれば済む事った。」

 「其れが此の帯域制限と検閲で二進(にっち)三進(さっち)も行かないのさ。確かに冊子だと拡散力は無い。でもな、逆に紙ってのは一旦輪転機に掛けたら後はもう誤魔化しが利か無い。下手なデジタルデータより紙媒体の方がアーカイヴとしての寿命が長いって云う調査結果も在る。然して何より、俺は紙が好きなんだ。先代も然うだった。徹底的に紙に(こだわ)った。寝転がって頁を捲る彼の感触。刷り上がったインクと、陽に灼けた紙の匂いが堪ら無いってな。俺も然うだ。機械もアナクロに焦がれる物なのさ。人間から学ぶ事は沢山有る。」

 「じゃあ、御前の手癖も人間譲りかよ。」

 「多分、然うだ。今度御教授願いますよ。何だったら内の機関誌でコラムの一つも書いてみるかい。独りで切り盛りしてるとは云っても、其処の頭を務めてるんだ。編集長って読んで呉れよ。」

 「然うか、じゃあ、野暮編(やぼへん)、良い事を教えてやる。其の機関誌を皆に読んで貰いたいんだろ。」

 「何か良いアイデアが有るのか。早速採用させて貰うよ。」

 「良いか、野暮編(やぼへん)、人に話を聞いて貰いたかったら、先ず人の話を聞くモンだ。其の昔、赤旗って云うロリコン左翼が四コマ漫画を書いてた機関誌が、自分達に都合の良い言論テロを繰り返した挙げ句、結局、身内以外誰も読まなかったそうだ。」

 「判ったよ、俺の話を聞いてくれるのなら、先ず御前の話を聞いてやる。けどな、其の野暮編(やぼへん)ってのは何だ?こんな素敵で知的なアンドロイドを玉葱しか入って無い掻き揚げみたいに云うんじゃ無いよ。御前だって、オーイ、鉄ちゃあん、何て、牛モツを煮込んだみたいに云われたら厭だろ。」

 「俺は時間城に行きたい。其れだけだ。後は別に、錻力(ブリキ)の九官鳥に話す事なんて何もねえ。結局、御前は先代ってのが(くたば)る前に組んだアルゴリズムに縛られてるだけだろ。」

 「先代の熱い意志を引き継いでるって云ってくれよ。」

 「御役御免になったんだから隠居して番茶でも(すす)ってろ。」

 「耄碌(もうろく)なんてしていられるかよ。俺には夢が有るんだ。引き継いだ身代を盛り返し、紙で此の荒廃した宇宙を変える事だ。」

 「成る程ね、アンドロイドには少し難しい話しかもしれねえけどな。夢ってのは抑も、布団の中で見るモンだ。布団の外で見るのは夢じゃ無くって寝惚けてるだけだ。俺が先、此奴を直結する時に使ったドライバーを貸してやるから、顳顬(こめかみ)の処を探って飛び出してる処が在ったら締め直せよ。先みたいに危ない橋を渡るのも危機管理回路がガタ付いてるからだ。」

 「彼の程度でビビってたら何も出来無いさ。其れに敵が増えれば味方も増える。特に御前みたいに頼りになる奴がな。」

 「こんな口の減ら無いアンドロイドは初めてだ。」

 「アンドロイドにだって個体差も有れば、当たり外れも有るさ。」

 「じゃあ、前のオーナーは一番の貧乏籤を引いたって訳だ。」

 「口が減らないのは御前の方だ。何時迄こんな御喋りを続けてるつもりだ。さっさと此の貧乏籤に賭けてみろよ。俺はハーロックが出没する現場に潜り込む伝手(つて)が有る。御前はハーロックに会いたくて、俺も取材がしたい。其れだけだ。厭なら此処で降ろしてくれ。」

 御伽噺には夢が有るが、此奴の甘言には急所を突く毒が有る。何うやら俺も一服盛られたらしい。何が何処まで本当かは判ら無い。此奴は999の乗車券を当てにして俺を最大限利用したいだけ。併し、大蛇(おろち)の尻尾を掴まぬ事には三種(みくさ)神劍(しんけん)も勝ち得無い。此奴の口車に乗り遅れている様では、時間城なぞ夢の又夢。例え時間軸はズレていても其処に行けば何かが在る筈。取り敢えず、頭の鈍い正直者より、小回りの利く曲者(くせもの)の方が幾らか増しだ。犬より鼻の利く鼠が一匹。若しかしたら俺はツイているのかも知れ無い。鉄郎は自動運転に切り替えてハンドルから手を放すと、メインモニターにスペアノイドの指定する区画コードを告げて振り返った。

 「もう御替わりは要らねえって云う迄、ゲップが出る程スクープを稼がせてやる。其の代わり、御互いの命は割り勘だ。」

 「俺をマスコミの丁稚奉公と一緒にするな。俺が欲しいのはスクープじゃ無い。真実だ。マスコミの仕事は真実を伝える事じゃ無く隠す事だ。其れを真に受けた連中は皆、平地に躓き、水溜まりで溺れていった。先代は其れが許せずに、マスコミとネットの検閲から世論を取り戻そうと、独りで立ち向かったんだ。」

 「マスコミも、役人も、政治家も、メジャーリーガーも、ゴールデンルーキーってのは皆、然う息巻いて堕落していったんじゃねえのか。人類の最大の敵は最初から最後迄エリート気取りの銭ゲバだった。俺は頭が良い。だから俺は正しい。俺は頭が良い。だから金も持ってて、俺は頭が良くて正しいんだから、何を遣っても構わ無い。然う勘違いした連中が総てを滅茶苦茶にしていった。」

 「俺の事は野暮編だろうがイカ天だろうが好きに云えば良い。だがな、先代の事を当て(こす)ってるのなら見当違いだ。口を慎め。」

 「ケッ、其の鼻息が何時まで保つのか見物だな。マスコミの犬なら未だしも、思想警察の覆面モニターと判った日には遠慮無く後ろから撃ち殺す。良く覚えとけ。」

 スペアノイドが固持し、身を(やつ)す真実と云う穢れを知らぬ瑞々しい気概。そんな、本来、人が説くべき条理の沙汰が、ファクトヘイヴンに向かって突き進む鉄郎には、儚く、危うい奴隷契約に見えた。

 

 

 

 乗車券の御威光で各ブロック毎の検問を楽々とパスする行き摺りのタンデム。鉄郎は腕組みをした儘、自律両輪駆動の赴くに任せ、酔い覚ましの風を浴びていると、ナビが目的地迄の距離をカウントし始め、装甲車両の違法駐車で塞がった路地裏にアラームを鳴らして停車した。一瞥して益荒男(ますらお)達の溜まり場と判る殺伐した猥雑。御目当ては外装の彫物師が経営するカスタムショップで、隊規の範囲内で彊化鎧骨殻(きょうかがいこっかく)を盛り付ける為に、電飾仕様のボルトやリベット、貴金属のスタッズやエンブレム、ユニコーンの様なエアロパーツを物色する非番の傭兵達で賑わい、コンセプトの良く判ら無い、原型を見失ったガンダムやウルトラマンとしか思えぬ、施術前後を撮ったパネルが軒先を飾っている。此処最近はスケルトンボディにして、可視化した表層基板を蛍光チップに組み替え、デコトラの様にするのが流行っているらしい。何の時代もガテン系と云うのは遣る事が決まっている。

 スペアノイドは常連風を吹かせて暖簾(のれん)を潜り、鉄郎も其の後を追って店に入ると、場の空気は一変した。猛者の休息を横切る目障りな余所者に無言の虎視が突き刺ささり、ズケズケと奥に進むスペアノイドの跫音(あしおと)がだけが打ちっ放しの床に響き渡る。此処に(たむろ)している連中は交差点での騒ぎを知ら無いから未だ増しとは云え、とても社交辞令の通用する相手じゃ無い。虎児を探るのは結構だが、此処は何う見ても虎の穴と云うより胃袋だ。そんな相方の御手並みに鉄郎が呆れていると、スペアノイドは施術台の上で俯せになり、メタルジェットプリンターで背中に白銀の観音菩薩立像を焼き付けている漢に眼を付けて、其の脇に後ろから近付き、襟足を舐める様に耳打ちをした。

 「旦那、精が出ますね。」

 「アッ、貴様。」

 聞き覚えの有る声に身を捩る傭兵A。其の一兵卒と思しき二の腕の階級章を押さえてスペアノイドが(たしな)める。

 「オオット、旦那、彫り物がブレますぜ。」

 「チッ、幾ら何でも最近派手に遣り過ぎだぞ。」

 周りの眼を気にして顎を乗せていた手の甲に顔を伏せるペーのペー。

 「旦那、其れは内としても大枚を(はた)いて取材をしている以上、少しでも元が取りたいんでね。御察し下さいよ。御互い持ちつ持たれつじゃないですか。確かにね、物の弾みの出来心、彼も此もと摘まみ食いする手癖に関しちゃ、旦那の御叱りも御尤(ごもっとも)も。其処でねえ、御詫びと云っちゃ何ですが、今夜の処はチョイと色を点けて、此の辺りの線で何卒(なにとぞ)宜しく・・・・・。」

 スペアノイドは然う(へりくだ)り乍ら、足軽の左手首を固めるG-shock Tabをタッチして振込画面を呼び出し、其の鼻先で算盤(そろばん)を弾くと、謀援鏡(ゴーグル)の奥に潜む色目が変わった。

 「オイ、何うしたんだ、こんな・・・・・・本当に払えるのか?」

 「心配御無用。二つ返事で笑顔の決済。」

 と、我が物顔のスペアノイドは、何時の間にか鉄郎から抜き取ったパスをG-shockに翳して送金し、相手の欲目を見透かして本題を突き付ける。

 「今夜は最後のマハラジャと呼ばれたパトロンが居るんでね。何だったら此処の払いも済ませておきますよ。其の代わり、例の原発銀座の件なんですけどね。」

 「復た其の話しか。身の安全は保証出来んぞ。」

 「其の時は此奴が物を云うさ。」

 スペアノイドが鉄郎のBarbourから戦士の銃を抜き取って見せると、三下の欲目が裏返った。

 「何、其のダマスカスの文様は、真逆(まさか)。」

 「オオット、其処迄だ。内の踊り子に手を触れて貰っちゃ困りますよ。旦那も此奴を御存知とはねえ。宇宙って奴も(あん)(がい)に狭いモンだ。」

 思わぬ釣果に憫笑を堪え切れぬスペアノイドとは裏腹に、 鋼目(こうもく)の蠢く黒耀(こくえう)の流線型に心を奪われる傭兵A。更に、其の一刀彫りの霊銃と乗車券を奪い返し、元の鞘に収める鉄郎に、

 「こんな小僧が其の銃を・・・・・信じられん・・・・・。」

 二の句を継ごうにも驚顎の(つがい)が噛み合わず、銀粉を焼き付けるプリンターヘッドの走査音だけが反復する亡漠。其処へ不意に、高圧的なアラートを受信してG-shockのバイブ機能が傭兵Aの手首を掻き毟る。顔を見合わせた兵士達の携帯端末に連鎖する、有無を云わさぬ軍鼓のヒステリー。蒼然とする店内が瞬く間に戦場の大気で張り詰め、傭兵Aは指を鳴らしてメタルジェットプリンターを制止すると、右半身の無い観音菩薩は、施術台から起き上がるなり、スペアノイドの胸倉を締め上げた。

 「御望みの現場から召集命令だ。今日の支払いと、貯まった附けも払っとけ。脚は何時もの護送車だ。乗り遅れたら其れ迄だ。」

 山が動き出す前の地鳴りの様にレジへと駆け込む軍靴を掻き分け、店内に居た全兵士の支払いを一括で決済すると、鉄郎はスペアノイドの生意気なエスコートで輸送防護車の隙間に滑り込んだ。本来、要人達を護送する為の後部座席には補給物資が詰め込まれ、足の踏み場処か、腰を降ろせる余地も無い。運転席の小窓から、

 「温和しくしてろよ。」

 と釘を刺す傭兵Aに、

 「こんな瓦落多(がらくた)の缶詰の中で何を何う遣って暴れるんだよ。」

 と噛み付くスペアノイドを余所に、鉄郎は直感で足許に在った段ボールを開け、4Lの錻力(ブリキ)缶を取り出した。

 「何だ其れ。」

 「乾パンだ。一応用意して有るんだな。誰が喰うのか知らねえけど。」

 「俺よりも鼻が利くんだな。其の嗅覚は現場記者に向いてるよ。でも、其れ何時の奴だ。賞味期限なんて()っくに切れてるだろ。」

 「糖質と脂質、タンパク質の塊なら何だって構わねえよ。石鹸なんて塩と油のキャラメルみたいなモンだからな、御菓子代わりに囓ってた。」

 「此から鉄火場に殴り込むってのに、腹を下したら何うするんだ。」

 「俺が食中毒で(くたば)ればパスを二枚とも使い放題だぞ。」

 「然うか、其の手が有ったか。」

 膝を叩くスペアノイドの隣で缶を空け、湿気った乾パンを頬張る鉄郎。グルテンの粉粒が溢れ返る唾液を吸い上げて、炭水化物の甘味を()(ほぐ)し、全卵と乳脂の芳醇な二重奏が響き合って、ポリッシュに押し広げられた毛細血管を縦環する骨太の血糖が、襟足から二の腕へと歓喜の発疹を駆り立てる。999の食堂車で驕慢に肥えた味蕾を戒める、出された物を喰う。其処に在る物を喰うと云う星野家の家訓。母の手に引かれ、瓦礫の荒野に死に物狂いで齧り付いていた頃を呼び覚ます粗雑な養分が、鉄郎の闘志に蒼い炎を焚き付ける。

 地雷や爆撃を想定したA3サイズの格子窓から覗く車外の景色から構造物が消えて、管理区域外のブラックボックスに侵入した事を告げ、立ったまま寄り掛かっているしか無い山積みの物資の向こうから、運転席で息巻く喧嘩腰の会話が聞こえてきた。

 「一体、何が何うなってんだよ。此の儘じぁ、此処も中疆(ちゅうきょう)の二の舞だ。本当に誰も帯域内に戦略核因子(クラスター)()ち込んで無いのか?」

 「NLFも哨戒してるんだ。そんな馬鹿が居たら一瞬で蜂の巣だ。兎に角、もう対岸の火事じゃ無い。中疆マテリアルに対しても銀河鉄道の本社は事態を終息させる為に、水面下でワクチンプログラムを提供してるんだ。最早、形振りを構って等いられ無い。処が其のワクチンまで核醒して、アッと云う間に中疆を呑み込んだ。今じゃあ、騙されたと泣き喚く事すら出来無い死に馬。問題なのは、其れで其の儘、黙って御寝ん寝してくれてれば良い物を、化けて暴れて、木乃伊(ミイラ)捕りが木乃伊(ミイラ)にだ。全く、堪ったモンじゃ無い。」

 二匹の鼠が紛れ込んでいると云うのに、大枚を叩いたスペアノイドへのリップサービスのつもりか声高に現状をリークする傭兵A。

 「オイ、NLFって・・・・・」

 「だから云ったろ。」

 乾パンを飛ばして振り向いた鉄郎に、為て遣ったりな窄眼(すぼめ)を返すスペアノイド。人類の復興を掲げて宙域を闊歩する数多(あまた)解放戦線(ごろつき)の中で“The NLF”と冠詞が付くのは“National Liberation Front of Spacenoid”唯、独つ。指数関数的に高まる期待と武者震いを(なだ)める様に、鉄郎は噛み砕いたグルテンの塊で逆巻く胃液を飲み下す。

 「オイ、見ろ現場に虹励起防塁(バリア)が掛かってやがる。流石、休日返上の案件は一味違うな。」

 「何う云う事だ。彼じゃ明日の空爆処か、建屋にすら近寄れ無いぞ。一体誰が動力を一から立ち上げて防空システムを起動したんだ。建屋の中に居た連中は職員も兵士も全滅している筈じゃないか。真逆(まさか)、敷地の擁壁(ようへき)を取り囲んでいる部隊が鼠に突破されたのか。」

 「否、警備は盤石だ。例え侵入出来たとしても何が出来る。蕎麦屋の岡持ちが出入りするのとは訳が違う。部隊が取り囲んでいるのにしても、警備の為と云うより、敷地内に近寄れず、指を咥えて見ているしか無いからだ。」

 「じゃあ、免震重要棟に閉じ込められた連中が化けて出て、統合管制室を操作したって云うのか。」

 「落ち着け。御前も好い加減、現実を受け止めろ。発電所を呑み込んだのは彼の波の化け物だ。総ては奴等の仕業だ。奴等は生きている。意志を持って行動している。然うとしか思えん。」

 「奴等ってのは、分析オタクの情報将校が顫動(せんどう)波形とか廻癬(かいせん)波形とか云って騒いでる電影の事か。馬鹿な。あんな物は核融合炉から漏洩したプラズマじゃないか。」

 「然う思いたいのは山山だが、二の足を踏んでいたら総てが手遅れになる。恐ろしいのは皆、一緒だ。あんな物を目の当たりにして落ち着けと云うのも無理な話だが、奴等が学習し乍ら制御棟を支配して核融合炉を操作してるのだとしたら、虹励起防塁(バリア)を起動する何てのは散歩(つい)でのコンビニだ。此の惑星の重力下で素粒子を連続で正確に衝突させようと思ったら、最低でも直径8km以上のサーキットと莫大な電力が必要な筈なのに、其れを炉心内で隔壁を溶解せずに引き起こして、増幅、否、増殖しようとしている。連中はもう、俺達の追い付け無い知的領域に達してるのかも知れん。」

 「じゃあ、彼の波の化け物が、本当に原始的祖粒子を精製しているとでも云うのか。」

 「然うだな、精製する、蘇生する、招喚する、呼び覚ます。何と云ったら良いのかは判らんが、若し然うなったら、宇宙の何処に居ても同じ事だ。逃げ場なんて無い。寧ろ、何故、核融合炉を母胎にして宇宙を産み落とす。そんな自滅するだけの無茶をしようとするのかだ。俺には単なる知的好奇心で遣ってる様にしか見えん。其れも稚拙な。子供が玩具を弄って飽きたら踏み躙る。無邪気な残忍さが其処には在る。人格が在る様に見えるが、其れは対峙した者の精神を反鏡しているだけで、意志の萌芽は在っても、其処に連動する情感を持っている様には思え無い。虹励起防塁(バリア)の網を張ったのも空爆を察知してと云うより防衛反応から然うするだけ。発電所を占拠したのも、只、憑依する環境として条件が揃っていたからで、テロを巻き起こして()うの()うの何て云う他意は無い。栄養素を求めて菌糸が伸びるのに、政治的意図なんて必要無い様にな。だが、其れも今の処は、と云う話しだ。奴等が未だ発展途上の段階に在るとするなら、叩ける内に叩き潰さなければ、機族に屈した人類の(てつ)を、我我が踏む事に為る。」

 微に入り細を穿(うが)つ雄弁なリークを背に、鉄郎は傭兵Aの自己顕示欲に白羽の矢を立てたスペアノイドの洞察に脱帽した。(さぞ)かし当の慧眼(けいがん)は御満悦の事で在ろうと思いきや、余剰知覚を遮絶して放心状態のスペアノイドは、集音解析をし乍ら一音一句を電脳海馬に刻印している。睡魔と戦う受験生にしか見え無い其の健気(けなげ)な姿が壺に()まった鉄郎は、吹き出しそうになるのを堪えて顔を背け、A3サイズの格子窓を覗き込んだ。プラズマ放電を密閉する磁気シールド等も併用しているのだろう、進行方向の丘の上で原発銀座を包み込む虹色のドームが肩を並べ、汚泥の底から押し出された桜貝の様に(うずくま)っている。丹毒の禍々しさで腫れ上がった極彩色の光源。渦中の現場に惹き寄せられて、蟻集(ぎしゅう)の隊列が連ねる装甲車輌のテールライト。傭兵Aのリークで大凡(おおよそ)の当たりが付いてきた鉄郎は、段ボールの底からミネラルウォーターのペットボトルを探り当てると、乾パンを頬張っては流し込み、詰め込めるだけのカロリーを詰め込んだ。

 「取引先の銀河鉄道株式会社は不思議な会社だ。利益最優先のグローバル企業の中に在って、下請けでも星態系でも、護るべき処は護り抜く。日本と云う創業地の御国柄が然うさせるのか、変に義理堅い処が有る。其の本社が鉄道開拓事業の次に拘り続けたのが原子力事業だ。原子力技術の人道的な平和利用の方策を(つね)に模索、研鑽し乍らも、核の脅威こそが究極の軍事抑止力で在り、星間秩序の構築に不可欠な事実から眼を逸らさず、雨後の竹の子の様に沸いては消えていく、微々たる出力で御茶を濁すだけの、欺瞞に満ちた再生可能エネルギーなぞ、宇宙時代の天文学的な電力需要の前では、真冬に燐寸(マッチ)一本で暖を取るに等しいと、一切見向きもし無かった。此の世界は放射線と云う原子の(ちから)に因って網羅されている。其の天が定めた不滅の摂理を汚染と決め付け、放射線量で善悪を裁くのは、命有る物を害虫と益虫に、害獣と家畜に、雑草と農作物に分け、人類をプロレタリアとブルジョアで分ける様な物。天に唾を吐くとは此の事だ。実際、原子力の(ちから)がなければ、入植した星の地獄の様な環境をテラフォーミングしていく処か、隣の星にすら辿り着け無い。反原発ポルノも、反戦ポルノも、環境保護ポルノも、人権ポルノも、障礙者(しょうがいしゃ)ポルノも、感動ポルノも、真空、無法、無重力の宙域では木霊し無い、口パクのアイドルだ。開拓事業の未来を見越し、環境左翼と其のプロパガンダに溺れた世論と戦い乍ら積み重ねた技術が、最終的に他社との差を生む事にも繋がっていった。旧世紀に中疆マテリアルとの提携を破棄し、以後、恒久的に取引を停止したのも、連中が其の破滅的な被災リスクから国際的な監視下に置かれる事になった高エネルギー物理実験を、承認を受けずに陰でコソコソ遣っていただけでは飽き足らず、移民事業から取り残された難民を拉致し、核の人体実験にまで手を染めていたからだ。我が社の誇る最優良顧客は、冥府魔道に堕した所業には、何れ程の暴利が在ろうとも一切関与せず、廉直な経営を戒め、其れこそが銀河鉄道と云う未曾有の事業を支えてきた。今は帯域制限を巡って叩かれては居るが、其れも筋の通った信義が有っての事。然う思えてなら無い。苛烈な開拓競争で生き残ったのも一事業を超えた思想的な柱が有ったからで、他の会社は皆、欲目に眩み、己で仕掛けた墓穴に飛び込んでいった。併し今、世紀を跨いで築き上げてきた其の柱が、踏み固められた石据(いしず)ゑ諸とも崩れ落ちようとしている。来年に新設の旗艦路線、888の開業を控え、次に計画されているメモリアル事業では、888と連番での投入を視野に、鉄道博物館に展示されている創業当時のSLを飛ばすと息巻いているも、総ては此の星の案件次第。心血を注いだ主力事業で足を取られる等、在っては成ら無い事だ。」

 聞こえる様に弁を揮う一傭兵の其処(そこ)()と無い御得意先へのシンパシー。民兵を指揮、指導する立場に在るとは云え、連中も個人のスキルを切り売りして口に糊する民間人だ。嘱託、派遣、臨時、請負、外注、と手を替え品を替え契約を区切られ、商品として流通するしか術の無い覚え書き一枚の其の身分。正真正銘の軍人には成り得ぬ悲哀が滲む其の語り口が、鉄郎と同じ、帰属する国家や民族を失った新世紀の被害者なのだと訴えている様に聞こえた。

 敷地外の資材置き場の更地に陣を取る部隊に輸送防護車が合流して停車すると、バックドアを僅かに開けた隙間から、傭兵Aが覗き込んだ謀援鏡(ゴーグル)を光らせる。

 「オイ、中で待ってろ。周りの様子を見てくる。」

 「あいよッ。」

 スペアノイドは的屋の親父の様に景気良く返すと、乾パンを平らげて脳血流が胃壁に降り、陶然としている鉄郎の鼓腹に肘を入れた。

 「オイ、此処は管理区域外で原発の敷地内だ。そろそろタイペックスか何か着ておかないと拙いぞ。御前の分も頼んでみようか。」

 「心配すんな。放射性濃度が上がれば、此奴がアラートで知らせてくれる。御前なんかより余程頼りになるぜ。」

 鉄郎はウエストポーチを叩いて、(こな)れてきたグルテンの波糖に浸り乍ら、既に何かを嗅ぎ付け、盛りの付いた腰の得物の頼もしさに皓歯が零れた。今夜の祭りの山車(だし)は、もう直ぐ其処まで来ていやがる。重量鉄骨の如き護送車の装甲越しに押し寄せ、取り囲む軍靴の澎湃(ほうはい)。其の折り重なる一群の跫騒(きょうそう)が鎮まると、装甲車のドアノブに手が掛かる。其れを見て何も勘付いてい無いスペアノイドが、

 「悪いんだけどさあ、タイペックスか何か無いかな。」

 と身を乗り出した途端、対地雷仕様のバックドアが力任せに開け放たれた。

 「ナッ、貴様は。」

 逆光を背負い現れた見覚えの有る頑強なシルエットが、交差点で別れてから半日と経たぬスペアノイドと出会い頭の再会に絶句すると、傭兵Aが其の脇から鉄郎を指差した。

 「大佐、違います。其方(そっち)の小僧です。」

 「何ッ。此の小僧が・・・・・・。」

 次に会う時はと吐き棄てた言霊の呪能に我乍(われなが)ら呆れ果て、祭りを仕切る破落戸(ごろつき)(おさ)は其の厳つい頬殻(きょうかく)を緩めた。死線を超えた証を刻む弾痕被片を研磨する事無く、黥面文身(げめんぶんしん)の如く(まと)って(はばか)らぬ歴戦の剛傑。其の鋼骨漢が兜角(とうかく)(ただ)して鉄郎を見定める様に目礼し、

 「戦士の銃を御持参と伺った。是非拝見したい。私は此の機甲師団で大佐を務める。」

 と、其処まで言い掛けると、鉄郎は抜き取った霊銃で薙ぎ払い、手に余る大佐の恭敬を制した。

 「余計な挨拶は抜きだ。名前なんて何うだって良い。現場だ。現場は何処だ。」

 千早振(ちはやぶ)るダマスカスの文様に、低頭した大佐のスペクトルアイが上目遣いに凝結し、群がる隊員の鋼顔に(どよ)めきの波紋が幾重にも広がっていく。

 「要するに、此の逸物(いちもつ)で、アンタ等が何と呼んでるのかは知ら無いが、プラズマの(もののけ)を始末しろってんだろ。」

 「流石、此の宇宙に四丁しか無い銃の主君だ。話しが早い。」

 「俺は時間城に用が有る。ハーロックなら何処に在るか知ってると聞いて此処に来た。招待状みてえなのを持ってるんなら、其れと取引だ。」

 「然うか、然う云う事か。成る程、其れで合点が入った。案ずる事は無い。其の話し引き受けた。」

 大佐は謀援鏡(ゴーグル)を外して鉄郎に渡すと闇夜の虚空を指さした。真逆(まさか)と思い鉄郎が翳した偏光フィルターの先に、光覚冥彩を乱数解析で炙り出された舶鯨の尊大な機影が待機している。艦首に頂く髑髏の蛮章こそ確認出来無いが、(まご)う方無き其の威容。全長400m、全幅260m、全高163m。鉱石グラビューム3006に因る燃晶推進機構。参連装パルサーカノンを主軸に居並ぶ艦砲群、蟻の忍び足を拾う触角宙枢(コスモソナー)から一騎当千の搭載機に到る迄、語り継がれる総てのスペックを鉄郎は空で唱える事が出来る。クイーン・エメラルダス号と双璧を成す、自由と冒険のイコン。本物は黙して語らず。旗幟泰然(きしたいぜん)。動く山は山じゃ無い。唯、時が満ちるのを見守るのみ。

 「漢の約束に証文は無用。頼む。此の星が、否、宇宙が朽ち果てるやもしれん。」

 「じゃあ、原子炉内で素粒子の連鎖衝突が起きてるってのは本当か?」

 「止せ、インタビューは後回しだ。」

 蚊帳の外だったスペアノイドが喰って掛かるのを引き留め、鉄郎が其の先を促すと、大佐は恥も外聞も掻殴(かなぐ)り捨て鉄郎に総てを託した。

 「奴等に占拠された免震重要棟の統合司令室を破壊し虹励起防塁(ディフレクター)を解いてくれ。情け無い話しだが全く我々の手に負えん。アルカディア号艦底主砲の火力では、極地空爆の限定領域を越えて終う。其の銃の(ちから)が必要だ。最早、一時(ひととき)の猶予もならん。作戦を前倒しして、排他的征層帯域を発動し、原子炉、並びに周辺建屋を爆撃後、鉛化凝固剤を投下して爆心地一帯をコーキングする。一旦敷地内に入ったら一切援護が出来ん。場所は此のコンパスの指示に従ってくれ。虹励起防塁(ディフレクター)を一点突破出来る様に、今、光襲波ランチャーの準備を進めている。タイペックスも用意した。試着してくれ。」

 「余計な御世話だ。ファッションショー何て遣ってる暇が有んのかよ。何ちゃらランチャーって云うのにしても、そんなモンで穴が空くんなら、アルカディア號だって苦労しねえだろ。其れ位此の銃で何とか出来無くて、悪魔払いが出来るかよ。」

 鉄郎は大佐から受け取ったG-shockを手首に装着し乍らバックドアを潜ると、車内を一切振り返らずに捲し立てた。

 「オイ、編集長、恩に着るぜ。俺は此から一仕事して来っから、此処で解散だ。大佐、此奴の粗相は大目に見て遣ってくれよ。此奴の御陰で此処にも来れたんだ。根はそんなに悪い奴じゃねえ。俺が保証する。唯、手癖が悪いのだけは直らねえから、其処だけは注意しろ。」

 「良かろう。心得た。」

 「じゃあな、編集長、良い記事書けよ。」

 鉄郎は大佐に謀援鏡(ゴーグル)を投げ返して護送車のテールバンパーから飛び降りると、

 「達者でな。」

 ストラップに内蔵されたジャイロモーターで手首を牽引する、G-shockの導く儘に駆け出した。兵士達はモーゼの海割りの如く道を空けて、綱を引き千切った駻馬(かんば)の跳梁を見送り、

 「大佐、彼はまるで・・・・・・。」

 と、固唾を呑む傭兵Aに、

 「まるで、若き日の総裁、とでも云いたいのか。然うで無ければ、彼の銃が易易と其の身を任せておく物か。

 

 

    紅顏如烙鬢如鋼  紅顏 (やきがね)の如く (びん) 鋼の如し

    紫石稜稜電射人  紫石 稜稜 電 人を射る

    五尺小身渾是膽  五尺の小身(せうしん) (すべ)て是れ(たん)

    今極時機畫麒麟  今こそ時機(とき)は極れり 麒麟に(ゑが)かるるを

 

 

 天は未だ我我を見捨ててはおらん。其の御心は鬼界の扉と共に必ずや開かれる。総員、直ちに側方援護の配置に就き、空爆に備えよ。」

 大佐は九死の現場を課せられた重責をも忘れて、往時を馳せる感佩(かんぱい)に震撼していた。(つはもの)達の頬を掠めて跡形も無き突風。垂れ籠めていた暗雲と疑心を笑い飛ばした救世主の誕生。其の一部始終を護送車の中に潜り込んだまま傍観する鼠が一匹、報道と王道の絶望的な彼我の差に打ちのめされていた。非戦闘員以下の野次馬なぞ意に介さず進行する戦場の現実。盗撮紛いの粗探しに明け暮れているだけの三文記者を一瞬で置き去りにし、降り懸かる火の粉を旭日の恵みと浴びて(さん)ざめく鉄郎の雄姿。本物には訳が有る。彼の小僧には足許に落とす影にすら価値が有る。其れに較べて、

 スペアノイドは屈辱から蹴落とされる様に車内から飛び出した。あんな小僧に乗り遅れて堪るか。俺には俺の活路が在る。兵士達を掻き分け乍ら、粗製な合成義脳の認知を超えた生身のダイナミズムに逸脱するアルゴリズムが、プリセットされてい無い衝動に駆られて、無限ループする自問自答を振り払う。気が付けば眼の前を(ひるがえ)軍勝色(ぐんかっしょく)の乗馬服。其の小さな背中が電脳海馬に焼き付いた先代の生き様とリンクする。そんな熱暴走を地で行く、撥条(バネ)の逝かれた機械仕掛けを、

 「何で付いて来んだよ。」

 振り返った鉄郎が怒耶躾(どやしつ)けると、スペアノイドは顔を背け、

 「勘違いするな。別に御前の事なんて知った事じゃ無い。俺は只。」

 と其処まで云い掛けて口を濁す場都(バツ)の悪さ諸共、一息に突っ撥ねた。

 「真実を追い掛けてるだけだ。」

 「ケッ、勝手に為やがれ。」

 スペアノイドの幸の薄い蒼貌に(みなぎ)る、人工被膜とは思えぬ血威に一瞬我が眼を疑う鉄郎。其の紅潮した頬に、何故か、凍傷で(ただ)れた在りし日の自分が甦る。初めて999の乗車券を車掌に見せた時、車窓に映ったドス黒い顔。恥ずかしさと悔しさだけが一人前だった出発のプラットホーム。右も左も判らず無我夢中だった非力な自分が、今は唯、懐かしく愛おしい。此のアンドロイドも先代と別れてから独りで其の影を追い、消耗品と云う宿命に食い下がってきたのだ。だからこそ通じ合い、響き合える。

 土管を積み上げた様な光襲波ランチャーとやらを追い抜いて、開放された搬入ゲートへ向かって罵り合う二人。チームプレーも糞も無い。第一の案件を前にして、スペアノイドが高みの見物と許りに喧嘩腰で囃し立てる。

 「オイ、大風呂敷広げて請け負うのは良いがな。彼の偏向シールドの巖盤を本当に其の逸物(いちもつ)()じ開けられるのかよ。」

 錻力(ブリキ)の付け馬が吠えるのも無理は無い。擁壁と擁壁の断絶した峡谷から覗く、厚さ2mの耐プラズマSRC構造で封印された、高さ50mを優に超えて(ひし)めく正六面体の原子炉建屋。然乍(さなが)ら王家の(おか)に迷い込んだ錯覚。其の間近に差し迫った群墓の威容をも凌ぐ、荘厳なる聖域をマッピングした電磁の結界。決裂した地殻から岩漿(マントル)が剥き出しになったかの如く隆起し、流動する紅炎(プロミネンス)の繭玉を見上げて、未曾有の現場に呑まれまいと、スペアノイドは鉄郎に喚き続ける。矜大(きょうだい)なる虹梁(こうりょう)を描いて放射する水素原子の烈騰。怪力乱神にも程が有る、強靱な熱量の氾濫。処が、此の墓荒らしは磁力線が飛び交う鬼門と正対して大上段に腰の得物を構えると、黒耀の銃身を(おもむろ)に振り下ろし乍ら、暴虐の逸楽に絶頂していた。

 

 

    兵戰其心者勝   兵 其の心に戰ふ者は勝つ

 

    不破樓蘭終不還  樓蘭(ろうらん)を破らずんば(つひ)(かへ)らじ

 

 

 良いか撥条(ぜんまい)仕掛け、然う云うのをなあ、孫子に兵法って云うんだよ。」

 鉄郎の拡散した瞳孔が燐晶し、一点に捉える(かささぎ)の照星。機を満たし勇を鼓す荒魂(あらみたま)顱頂(ろちょう)を突き抜けて、総毛立つ逆髪(さかがみ)。重心を落とし諸手に構えた霊銃から緊緊(ひしひし)と伝わる光励起の羽動。ダマスカスの渦文が(あや)なす呪能に導かれて高鳴る心筋。黒耀の彗翼が天を扇ぎ、鉄郎は()にし()の息吹を唱え、其の銃爪(ひきがね)に注ぎ込む。

 

 

    壬戌(じんじゆつ)(ぼく)して、星()う。

        王入るに、(じやく)なるか。

 

 

 口寄せの撃針に舞い降りてきた壞詛(えそ)発莢(はっきょう)する雷管。施条を(えぐ)る光量子のスパイラルが嘴裂(しれつ)(つんざ)く、星辰一到の霹靂(へきれき)。誘起発光する原子団(イオン)(いか)()霏霺(たなび)かせ、撃ち放たれた鈷藍(コバルト)の閃条痕が鬼窟の結界を姦通する。紅炎(プロミネンス)の土手っ腹を電解し、(ほとばし)るアークの弾沫。衝き暴かれた天津日(あまつひ)の扉に霊銃の砲哮を叩き込み乍ら、覚変した小さな英傑が雄叫びを上げる。

 「オイ、何うした、何を(ほう)けてやがる、此の三文記者。真実が逃げちまうぞ。捕まえられるモンなら、捕まえてみやがれ。」

 無尽蔵の光弾を楯に、鳳雷の坩堝(るつぼ)に飛び込む鉄郎。凡眼俗解を寄せ付けぬ異能の豪腕に、取り巻いていた兵士達の鋼顔剛躯が氷結する。高天原(たかまがはら)を蹂躙した須佐之男(すさのを)の如き傍若無人な其の颯爽。迷いを知らぬ神懸かった荒業を目の当たりにして、物理的推考が追い付か無い。一体、彼の小僧は何に取り憑かれているのか。プラズマの彼方に消えた鉄郎の影に眼を凝らすスペアノイド。併し、()()ている間にも鈷藍(コバルト)の光圧が減衰し、決壊した鬼門が閉ざされていく。狐疑に(すく)んでいる猶予は無い。スペアノイドは意を決して鉄郎が謳歌する狂喜の直中に突入した。

 フォトダイオードが灼き付く程の白烈と、バーストした超伝導コイルの中を駆け抜ける様なゲリラ雷舞。蹴汰魂(けたたま)しい高周波ノイズの濁流に知覚の演算解析が飛び、筋電義肢を引き千切ろうとする猛烈な磁束密度の螺旋に呑まれ、弾き出されると、アスファルトに()(つくば)ったスペアノイドの後頭部を上から踏み付ける様に、何事かを(しき)りに訴え続ける滅裂なロゴスが、ダイナミックマイクを介さず、直接、コンバーターに反響してくる。

 「螳壽悄轤ケ讀懊?荳ュ豁「縺?縲ら峩縺。縺ォ髯、譟楢サ翫r蜃コ蜍輔&縺帙m縲」

 「髮?クュ蛻カ蠕。螳、縺ッ菴輔≧轤コ縺」縺ヲ縺?k繧薙□縲」

 「蛻カ蠕。譽溘?謇峨′蜀??縺九i繝ュ繝?け縺輔l縺ヲ縺?∪縺吶?」

 虹励起の結界から放り出された発電所敷地内を激甚する、電脳ボードが捻れる程の喧噪と電磁干渉。ブロックノイズの飛沫が明滅する視界の色相と天地が断続的に混線し、平衡感覚を保つ事が出来無い。既に圧力容器の崩壊が始まって放射線が乱反射しているのか。スペアノイドが四つん這いのまま跪拝する様に顔を上げると、辛うじて其れと視認出来る建屋の外壁にクラック等の目立った損傷は無い。半導体樹脂を透過してガンマ線がメモリー内で保持している電位を反転させているのなら、バイナリーのサムチェックを徹底的に繰り返す事で補正出来るが、此の過積載送信は遮断した通信ポートを度外視し、ノイズゲートを乗り越えCPUバスに力尽くで乗り込んでくる。腸内で垈打(のたう)蛔虫(かいちゅう)の様にスペアノイドの頭載自我に絡み付き、増設海馬から書き換え始める複数のアセンブラ化した偽想誰何(ぎそうすいか)。拙い、背乗(はいの)りされる。スペアノイドが頭を抱え込んだ其の瞬間、

 「早速、(やっこ)さんの御出迎えかよ。千客万来は結構だがなあ、漢の花道を塞いでんじゃねえよ、此の野郎。」

 (とき)の声を出囃子(でばやし)鈷藍(コバルト)の光弾が散華して邪気を払うと、霧が晴れる様に磁歪(じわい)した視界が(ひら)け、拡散していた焦点が爆風に(はため)く軍勝色の乗馬服を捉えた。総てがコマ送りで流れ、鉄郎の頭上で宙を舞う煉獄の爆炎。降り注ぐ熱波に手を翳すスペアノイド。炉心が倒壊したのかと錯覚し、視覚補正しかけたスペクトルアイを怒耶躾(どやしつ)ける様に、火達磨の可搬型車輌が地に伏した兵士と職員達の(むくろ)の上でバウンドし、矩形波と三角波を反復する蠢敏(しゅんびん)な繊光が、不協和な合成周波音を掻き毟り乍ら、アスファルトを走る衝撃を伝って這い回る。総重量が10屯を優に越す鋼物が霊銃の(いか)りに触れたと云う以外、スペアノイドには全く状況が呑み込め無い。兎に角、電脳ボードのオーバーフローが緩和し、筋電義肢を駆動するサーボモーターのデバイス信号が回復したのを幸いに、快哉(かいさい)を上げて駆け出す鉄郎の背中を追い掛ける。

 敷地内に散乱した外傷の無い行き倒れを飛び越えて、目指すは治制を失した免震重要棟。G-shockの羅針に導かれて迷う事の無い鉄郎の健脚。一体、此の子鼠は今の今迄、何んな星を巡り、何んな修羅場を潜り抜けて来たと云うのか。スペアノイドが見てきた紛争地域の最前線には殺伐とした混沌の中にも、企業戦士達の矜恃、連帯と士気が息衝いていた。総ての戦争が民営化し、国家や民族のアイデンティティを失っても、辛うじて(せめ)ぎ合っていた希望と絶望、使命感と達成感、貫徹と挫折、憎悪と尊崇。其れが此の現場には中毒化した戦慄への陶酔も無ければ、破格の報酬に対する貪婪な執着の片鱗すら転がってはい無い。在るのは唯、未知の合成波を帯電した廃棄物の氾濫と、理性を逸した暴発寸前の核融合炉。其れを生身の躰で単独突破する何て。幾ら未成年の酔った勢いとは云え物には限度が在る。

 一旦減衰していたブロックノイズと共に湧き上がる後悔を振り切り乍ら、翼が生えた様に躍動する鉄郎の背中をスペアノイドが睨み付けると、無人の可搬型車輌が今度は高所作業車を引き連れて雪崩れ込んでくる。思慮深い滑らかな自動運転とは程遠い発作的な挙動と、死のステアリングに同期して(ほとばし)る奇ッ矯な幾何学放電。此が傭兵達の口吻(こうふん)(のぼ)った顫動(せんどう)波形とか廻癬(かいせん)波形とか云う奴か。何う見ても核融合炉から漏洩したプラズマ処の話しじゃ無い。牛追い祭りの如く先を争い、其の骨肉相食む揉み合いで砕け散り乍ら突進してくる、心神喪失の車列。鉄郎は亡霊達の盛大なパレードに口角に垂涎を湛えて相対し、君子、災いを(いと)わず、呵呵(かか)として一向(ひたぶる)霊銃を振り下ろすと、肩甲骨から襟足へと遡る旺羅(オーラ)が髪光し、片輪が脱落し横転し乍ら襲い掛かる除染車に、降魔の弔砲を叩き込む。スペアノイドの点眸(てんぼう)を皇然と覆い尽くす一撃必誅の燦弾。子供が蹴り上げた空き缶の様に軽々と(はじ)け、昇天する獣機の盲爆。其の断末魔を呼び水に後続車両が殺到し、数珠繋ぎで大破していく集団自殺のヒステリー。総ては(かささぎ)の鉤爪に心の臓を鷲掴みにされた鉄郎の、()(ごころ)の中で夜風の露と消えていく。神の物語に遭遇した法悦と恐懼(きょうく)。霊銃の呪能と寸分違わぬ鉄郎の蛮勇を前にしては、工業製品の妖かしなぞ全く物の数では無い。生け贄達の熱狂と恍惚で湧き返る、宴も(たけなわ)の血祭りに飛来してきた多目的ドローンの援軍も、所詮は暦を知らぬ夏の虫。沙漠の蝗害(こうがい)と許りに黒耀の(やじり)が一掃し、調伏された浄化の火沫が濁世の塵と為って降り注ぐ。

 粛正された怪生(けしょう)の瓦礫で燻る焦土を、唯独り総攬する少年の脊影が揺らめき、次の獲物を求めて(みなぎ)っている。天地神明より選び抜かれた軍神(つはものがみ)鎧袖一触(がいしゅういっしょく)。其の荒ぶる奇蹟に触れてクロックバーストした算譜厘求(さんぷりんぐ)ニューロンが、突然振り返った鉄郎が何事か喚いているのを解析しようとしたまま氷結し、不思議な気持ちで其の形相を眺めていると、不意に集音回路が復活し、

 「伏せろ。」

 と一喝するなり、スペアノイドの顳顬(こめかみ)を光励起の皇弾が掠め、背後から倒壊してきたクローラクレーンを衝き貫けた。爆砕する機関部の光芒に、ラチスブームの首長竜が鎌首を擡げて轟沈していく。燃え尽きたマッチ棒の様に天秤格子が(くずお)れる寂滅(じゃくめつ)の美学。其の返り火を浴びて朱に染め上げたスペアノイドの頬を、餓殺な雑言が張り倒す。

 「何うした、三文記者、もう電池が切れたのかよ。何なら其処の高圧開閉所でチャージして来やがれ。」

 茶気に溢れる弥猛心(やたけごころ)(から)げて駆け出す鉄郎の怪気炎。己の背中が燃えているのに眼も呉れぬ、書き入れ時の火事場泥棒に発破を掛けられて眼の覚めたスペアノイドは、怒りに任せて足許の残骸を蹴散らすと、盛りの付いた火の玉に再び喰らい付いていく。目指すは原子炉建屋集落とは一線を画す豪壮な遮蔽壁の城郭。鉄郎が突進する直線上に(そび)え立つ、本丸の免震重要棟は彼の囲いの中だ。元服前の怪童が血迷う速攻不惑の快進撃。其の一点突破を阻止するべく、行き倒れていた筈の死屍累々が漣み、無機無情な合成波に吊り上げられて死のダンスを謡い踊り始める。

 「蜈埼怫驥崎ヲ∵」溘↓謖?サ、邉サ邨ア繧貞?繧頑崛縺医m縲」

 「蜈医★縲∵?ク螳牙?菫晞囿螻?縲∵?ク邱頑?・謾ッ謠エ髫翫↓騾」邨。縺?縲らキ頑?・蜿る寔隕∝藤繧定ヲ∬ォ九@繧阪?ょ次蟄仙鴨隕丞宛蟋泌藤莨壹d邱冗撻蠎懊↓縺ッ譛ェ縺?遏・繧峨○繧九↑縲」

 「CNES繧値evel4縺九ilevel5縺ォ蠑輔″荳翫£繧阪?」

 スペアノイドが逝かれ飛んだ言語中枢のエンコードを再変換すると、成る程、電脳黴毒に寄生されて五月蠅(さばへ)なす此の木乃伊(ミイラ)木乃伊(ミイラ)なりに、懸命な復旧作業を悪夢の中で続けているらしい。併し、気の毒だが、(のぼ)せ上がった彼の小僧にそんな回り(くど)いアピールは通用し無い。人海戦術で立ち塞がるマリオネットに、鉄郎は情状酌量の欠片も無い弾幕を浴びせて駆逐し乍ら、遮蔽壁の搬入路に殴り込む。出汁を搾り取られた煮干しの様に討ち棄てられていく遺骸の山を乗り越えた其の先に現れた、工事の差し止めを喰らって放置された鉄筋コンクリートの基礎にしか見えぬ莫大な構造物。激甚災害への耐久強度を優先して、展望用途の外窓を一切備えぬ防御一徹の異様な社屋が、今、魔の巣窟と化して反旗を翻している。そんな原子炉建屋に引けを取らぬ万難を排した無言の凶威に向かって、独断専行の一撃を名刺代わりに強化扉を吹き飛ばすと、

 「旧世代の重合体ってのは何うして斯う歯ごたえが無いのかねえ。タイタンで()ちのめした最新モデルと較べたら離乳食だぜ。」

 鉄郎は歓喜の雄叫びを挙げて免震重要棟に特攻した。

 彼の馬鹿は誰にも止められ無い。奴の後に付いていけば何んなに堅牢な伏魔殿でも唯の通過駅だ。スペアノイドは問答無用の弾丸列車にイの一番で飛び乗ると、鉄郎の粉砕した正面ゲートに一歩踏み込んだ途端、無賃乗車のツケに打ちのめされた。磁性化した筐体(ボディ)触媒(アンテナ)に、建屋の躯体を乱反射する有らゆる周波の電磁放射が偏頭痛となって兇振し、電網中枢を逆上する蠱酸(むしず)が型落ちの合成義脳に襲い掛かってくる。スペアノイドは頭を抱え乍ら壁に片手を突き、銃撃が聞こえてくる地下に向かって、自律制御の利かぬ筋電義肢を引き擦っていくと、気が付いた時には階段を転がり落ちて、電脳黴毒に寄生された職員を鎮圧している鉄郎の足許に倒れ込んでいた。頭上を交錯する鉄郎の絶叫と(まばゆ)い皇弾。其の銃声の狭間で爆ぜるビープ音に真逆(まさか)と思い集音回路を絞り込むと、

 「オイ、アラートが鳴ってるぞ。」

 「然うだな。」

 「然うだなって、御前、死にたいのか。」

 「手が放せねえんだから仕方ねえだろ。代わりに御前が着ておけよ。」

 鉄郎は霊銃を乱射し乍ら片手でウエストポーチを引き千切って放り投げ、スペアノイドは余りの無頓着に顎が地を叩いた。

 「大佐は俺の腕を見込んで頼んできた。然して、俺の話も聞いてくれた。其れを放っぽらかして、自分の損得だけで動けるかよ。そんな風だから機械は機械なんだよ。云っただろ。自分の話を聞いてもらいたかったら、先ず他人の話を聞けってな。」

 「あんな堅物の何を聞くって言うんだよ。」

 「奴は打算で動いて無い。俺は彼の大佐が気に入ったのさ。御前も俺の事が気に入ったから付いて来てるんだろ。」

 「今は、そんな場合じゃ無いだろ。」

 「そんな場合じゃ無いって、じゃあ、何んな場合なんだよ。」

 「時間城に行くんじゃなかったのかよ。」

 「其奴は此処を片付けてからだ。臆病風で腹が冷えるんなら、表に出て夜泣き蕎麦でも啜ってろ。御前の云う通りだった。確かに此のヤマは時間城と繋がってる。御負けにハーロックに会ってサインも貰えそうだしな。感謝してるぜ。」

 鉄郎はウィンクを飛ばし、スペアノイドの手首を掴んで抱き起こすと、其の儘、強引に通路を引き擦り廻し、サーベイメータ、酸素濃度計、二酸化炭素濃度計、放射線モニターが錯乱する除染エリアとサーベイエリアを征圧して、統合司令室に怒鳴り込んだ。燃料プール、サプレッションプールの各水位。チェンバ、ドライウェルの圧力、温度、水位。格納容器水素濃度、格納容器スプレイ流量、放水路水及び、排気筒レンジの各モニタ、主蒸気管放射線異常高トリップ、原子炉建屋の内外気圧。中央制御室と連動する千差万別のパラメータで埋め尽くされた室内の、何の端末が防空システムを統制しているのかを精査している暇は無い。雷獣の獄舎の如き電呪の臨界に興じる職員達の輪舞に向かって、戦士の銃を諸手に構え発皇する鉄郎。其の閃光に立ち眩み、スペアノイドは壁に凭れて腰から砕け落ちると、後はもう、重合体の磁縛に浸蝕された躰を床に投げ出して、天井の送風口を眺めた儘、遠い日の花火の様に繰り広げられる落花狼藉に耳を傾け、辛うじて意識を繋ぎ止める事しか出来無い。

 此は人間の所業なのか、其れとも此こそが人間なのか。鉄郎の天衣無縫な神通力では無く、其の豪放磊落な胆力にスペアノイドは酔没していた。統合司令室の阿鼻叫喚と入れ違いに薄れていく偽計周波の過積載送信。併し、電脳ボードの器質的損失と一部上書きされて終った不揮発性(フラッシュ)自我のダメージで意識が断続的にブラックアウトし、頸椎から下のデバイス信号が完全に欠落している。此以上、自力で動け無ぬ許りか、後、何れ程意識を保っていられるのかも判ら無い。其れでも、鉄郎の後を追い掛けて此処迄来たスペアノイドは、知性や理性を超えた生存(せいあ)る者の、(しん)(ずい)に、此の宇宙を象創(かたちづく)った大いなる御心(みこころ)に触れた気がして、満更でも無かった。

 サムチェックの偏頭痛を抱えて己の非力を腕枕に、サバサバとした不貞寝を決め込むスペアノイド。其の微睡(まどろ)みを、天井から免震構造の基礎へと躯体を突き抜ける重鋼な激震が叩き起こした。地上階から降り注ぐ、天地を取り違えた直下型地震の如き、耳を(ろう)する轟音。銃撃を切り上げ、統合司令室から出てきた鉄郎は、スペアノイドに肩を貸して抱き起こし乍ら、殺気立った笑みで吐き捨てた。

 「何うやら、押っ始めやがった様だな。」

 「始めたって、何をだ。」

 「空爆さ。此奴は虹励起防塁(バリア)が解けたって云う、大佐からの合図だ。」

 「合図って、俺達は未だ此処に・・・・・、聞いてないぞ、そんな事。」

 「熟々(つくづく)、判ってねえなあ。然う云う野暮な事を口にしねえ処が、大佐の奥床しい処じゃねえかよ。(やっこ)さんも俺と同じ様に如何様(いかさま)烏賊墨(いかすみ)が苦手なのさ。」

 「じゃあ、虹励起防塁(バリア)が解けたら直ぐに空爆すると判ってて引き受けたのかよ。」

 「然うさ、でなきゃ封じ込める意味がねえだろ。俺も大佐と同じ立場だったら、首尾良く逃げ(おお)せたか何うかは二の次で爆撃する。此の糞みたいな騒ぎを本気で鎮めたかったらな。」

 「御前、人が好いにも程が在るぞ。」

 「俺が遣ら無きゃ、大佐が身を挺して此処の後始末をしていた筈さ。奴は然う云う漢だ。然して今、側方支援をし乍ら、俺達が生きて帰ってくる事も信じてる。期待を裏切るのはスーパースターの流儀じゃねえ。御前も助演男優賞候補の端くれなら、レッドカーペットは直ぐ其処だ。(しっか)りしやかれ。」

 空爆の衝撃で波打つ免震構造の床に足を取られ乍ら、スペアノイドを抱えて鉄郎は歩き始めた。警報装置と鉄筋コンクリートを打ち砕く爆音が此の世の終わりを喚き立て、焦気(しょうき)が立ち籠めてきた棟内。バランスを崩し手を突いた壁にクラックが走り、天井から飛び散るモルタルの欠片が(あられ)の様に打ち付ける。エレベーターを使う訳にもいかず、階段の手前まで引き擦って来たのは良いが、脱力し切ったスペアノイドを担いで上がるのは生易しい事では無い。

 「鉄郎、俺を置いて逃げろ。自分の事は自分が一番良く判ってる。此の儘じゃあ、二重遭難するだけだ。」

 「ケッ、泣きを入れる位なら端っから付いて来んじゃねえよ。其れと、此からは余計なオプションは換装しねえ事だな。糞みたいに重くて敵わねえや。」

 「良く聞け。俺はアンドロイドだ。俺のスペアなら幾らでも作れる。でも、御前の替わりは此の宇宙の何処にも無い。御前はこんな処で死んじゃ駄目だ。」

 人間に成り切れなかったピノキオの哀訴が、白魔の中で最期の別れを告げた母の姿と重なり、鉄郎は何も出来なかった己を詰る様に怒鳴り付けた。

 「本当に口の減ら無い野郎だなあ。俺はもう、独りで逃げ回るのには飽き飽きしてんだ。良いから歩け。」

 必死で踊り場へと引き擦り上げようとする鉄郎に、スペアノイドは糸の切れたマリオネットの様に項垂(うなだ)れたまま沁み沁みと呟いた。

 「鉄郎、一度で良いから御前に俺の書いた記事を読ませたかったよ。御前に銀河鉄道株式会社の事で聞きたい事も山程有ったしな。」

 「巫山戯(ふざけ)んな、そんなモン何時だって読めるじゃねえか。何だったら定期購読してやらあ。支払いは此で済ませとけ。」

 鉄郎は無記名のパスをスペアノイドのPコートのポケットに捻じ込んだ。

 「二代目編集長、其の機関誌の名前は何て云うんだ。」

 鉄郎の無造作な計らいにスペアノイドは喉が支えた。

 「will・・・・・。」

 「聞こえねえ、もっと胸と声を張って云いやがれ。」

 「W、I、L、Lで、Willだ。何度も云わせるな。」 

 「ケッ、高麗(こま)っしゃくれた名前付けやがって。」

 鉄郎が鼻を鳴らして顔を背けると、スペアノイドは遠退いていく意識の中で最期のインタビューを切り出した。

 「鉄郎、御前は、何うして旅をしているんだ。此のパスは一体、何う言う代物なんだ。時間城には何が在るんだ。」

 「母さんが待っているのさ。俺の事をな。もう眼と鼻の先だ。正直、此処迄来れるとは思って無かったけどな。」

 「・・・・・・・・。」

 「其れと時間城では仲間に会えるかも知れ無いしな。今から楽しみだぜ。」

 「仲間?」

 「竜頭(りゆうづ)って云うんだ。二代目みたいに瓜実顔(うりざねがお)で幸の薄い顔をしててな。」

 「りゆうづ・・・・・。」

 「然う、蜻蛉(かげろう)みたいな女でさあ。一度しか会った事は無いし、アッと云う間の出来事だったから、向こうは俺の事を仲間なんて思って無いだろけどな。

 

 

むすぶ手の雫に濁る山の井の

       飽かでも人に別れぬるかな

 

 

 然う云って、分かつ(たもと)は音信不通。もう一度会って何が為たいって訳じゃ無い。でも、本当に会いたいってのは然う云う事だろ。」

 鉄郎が自虐気味に答えると、スペアノイドの虚ろな瞳孔が眼裡(まなうら)に雲隠れし、白目を剥いた能面が聞き覚えの有る掠れた声色に裏返った。

 

 

 「私を()ぶのは誰?」

 

 

 不意の尋問と同時に怒濤の空爆が自稼発電設備に達して動力が断絶し、甚大なる暗哭に突き落とされる棟内。鉄郎が後ろから()(かか)えているスペアノイドの、心神を逸した瞳だけが燐火を(とも)し、爆震に(おのの)いている。余りにも唐突な、再会と呼べるのかどうかも判らぬ数奇な因力。天与の宿縁か、悪魔の詐術か。何が起こっているのか、全く脈絡の無い闇討ちに、迫り来る空爆の脅威も忘れて、神懸かった声の主に(すが)り付く。

 「其の声は竜頭、竜頭だろ。俺だよ。鉄郎だ。星野鉄郎だよ。」

 鉄郎が両肩を掴んで激しく揺すぶると、完全に失神したスペアノイドに伸し掛かる重力が不図(ふと)、和らいで、ピアノ線で吊り上げられる様に立ち上がり、憑依した竜頭の言霊が半醒半睡で逆に問い質した。

 「鉄郎・・・・・誰?何うして私の名前を知っているの。」

 「竜頭、()た記憶をリセットされたのかよ。重力の底に突き落とされた闇の中で会っただろ。999を助けてくれたじゃないか。本当に、何も覚えてい無いのかよ。」

 「記憶を・・・・・そんな事まで知っているの。確かに、初期化されて其の時の事はもう閲覧出来ないのかも知れ無いわ。」

 「竜頭、何うして此処に居るんだ。一体、何が何うなってるんだよ。」

 「私はファクトヘイヴンで降りる乗客が居ると云うから、真逆と思って見に来たのよ。999は通常、此の領域を通過するだけなのに、然うしたら・・・・・。」

 「ファクトヘイヴン?何う云う事だよ。此処の停車駅は惑星ヘビーメルダーじゃ無いのか。ヘビーメルダーがファクトヘイヴンって事なのか?其れじゃあ、空間軌道が一点に集まるトレーダー分岐点って云うのは・・・・・。」

 「貴方が999に乗車していた時間軸ではヘビーメルダーは既に星滅(しょうめつ)しているわ。トレーダー分岐点も他の星系に機能を移設されて、此処にはもう思い出の欠片しか無いのよ。」

 「思い出の欠片?」

 「貴方は何故、ファクトヘイヴンに、否、もう存在し無いヘビーメルダーで降りようと思ったの。」

 「機械伯爵だ。機械伯爵が時間城に来いと言ったんだ。奴が俺の母さんを(さら)っていったんだ。母さんに会いたければ時間城に来い。地球に在る屋敷で奴は然う云ったんだ。」

 「機械伯爵に会ったの?地球の鉄道博物館に入れたの。」

 「然うだ。」

 「其れが本当なら、貴方の力で此の扉を開けられる筈よ。」

 竜頭の言霊が言切(ことき)れた途端、憑解したスペアノイドの重力が復活し、鉄郎の手から擦り抜けて階段を雪崩れ落ちると、メーテルが降車前に渡した無記名の乗車券がスペアノイドのポケットの中で煌めいている。そんな事は有り得無いと判っていても、鉄郎には最早、抗う術も何も無い。スペアノイドのポケットから乗車券を取り出して完全無欠の闇の中に翳すと、真実なんて呼べる物は何も無いと竜頭の仄めかした幻想譚が、其の幕を開けた。

 漆黒の激甚に虹を架ける999のホログラム。緊急災害時の統合司令本部として建造された、鋼紀五拾貮年の免震重要棟と云う、時を超えた見当識を、魔性の煌めきが消却していく。此の独片(ひとひら)の呪符に取っては、銀河鉄道株式会社が誇る旗艦路線で周遊出来る権利等、刺身のツマでしか無かった。メガロポリスから見棄てられた辺境の銀世界に忽然と現れた鉄道博物館。虚実の継ぎ目が地吹雪に散った彼の戦慄が、鉄郎のタクトに再び霏霺(たなび)いた。闇から闇へと輪転する追憶のネガフィルム。終末を告げる雷霆万鈞(らいていばんきん)の空爆がトンネルの彼方へと遠離り、降り注ぐモルタルの礫が塵雨(ちりさめ)となって掠れ、受け皿を失った心の砂時計を擦り抜けていく。(はら)い清められた暗転に澄み渡る感度。取り残された無明の緘黙行(しじま)に立ち尽くし、忍び寄る玲瓏な大気に肌を(そばだ)てる。死に境の(ふか)い陶然を(ぬぐ)うと夢落ちで在った。地の底が黄泉復(よみがえ)った。

 

 

 

 

 ほと ほと ほと

 

 

 射干玉(ぬばたま)の闇に滴る時の雫に浸されて、昏昏と眠り続ける黒耀の(つぶ)らな原石。()ざされた眼裡(まなうら)(くる)まり結晶化した追憶の欠片が(しず)かに瞬き、薄らとした意識を手探る其の指先が、此処では無い何処かへの糸口に触れ、(ほの)めいた。磐肌(いわはだ)を伝う岩清水の呟きに合わせて、(ひと)つ又(ひと)つと点る多針メーターの蒼白なバックライトが、磐室(いわむろ)の奥へ奥へと鉄郎の半瞑半目(はんめいはんもく)を導いていく。閉塞石で封じられた王墓の中で甦った錯覚。地球の鉄道博物館で呑み込まれた伝送海馬、其の儘に浮かび上がる、(おびただ)しい計器の集積したモザイクが磐壁(いわかべ)となって、天井知らずの吹き抜けへと繁茂し、唯一筋の羨道を左右から挟み込む様に(そび)え立っている。

 「此処が・・・・・・時間城?」

 想像していた豪壮な牙城とはまるで異なる聖謐な幽境。999の機関室にも似た黒妙(くろたへ)の神韻に戸惑う鉄郎の背後を、此の磐肌の陰に紛れていた気配が揺らめいた。

 「然うよ。此処は機械伯爵の()べる時間城。」

 背筋を逆撫でる物憂げな囁きに振り返ると、重力の底の墓場で巡り会った海松色(みるいろ)のチャドルが悄然と垂れ籠めている。地に堕したオーロラから覗く鈍色に沈む三白眼。スペアノイドの瓜実顔を凄絶にした石女(うまずめ)の死相。再会の喜びを一切受け付けぬ、初めて対峙した時の儘の竜頭が其処に居た。

 「此処まで辿り着けると云う事は、私と会った事が在ると云うのも、(あなが)ち嘘では無いようね。」

 表情が削げ落ち硬直した土気色の頬が微かに引き攣り、線で引いただけの口角が書き損ねた様に歪むと、鉄郎は其の鉄壁の能面に噛み付いた。

 「竜頭、此れの何処が城なんだよ。時間城って何なんだ。一体、ヘビーメルダーは何うなったんだよ。星滅したって云ったな。じゃあ、ヘビーメルダーの人達は何う為ったんだ。」

 「其の人達なら・・・・・。」

 捲し立てる其の舌鋒に臆せず、竜頭は多針メーターの独つに手を翳し、醒め醒めとしたバックライトの狐火を()でてから、鉄郎の背後に広がる磐壁を見渡した。

 「此処に居るわよ。」

 皹割(ひびわ)れた心の殻の隙間から漏れる掠れた声。竜頭の遠い眼差しの後を追って鉄郎が振り返ると、玄室へと続く羨道の双壁に敷き詰められた、インデックスと風防硝子の瞬く膨大なマトリクスが、左右の複眼レンズとなって、鉄郎に(そそ)いでいた衆目を一斉に伏せた。真逆(まさか)、此の多針メーターの独つ独つが魂の憑代(よりしろ)?此の埋め尽くされた底光り中にスペアノイドや大佐も()していると云うのか。鉄郎は尽きる事の無い闇黙(あんもく)に向かって何処迄も続く精霊(しょうろう)の灯火を見上げて絶句し、竜頭は検索したテキストデータを走査する様に淡々と(こと)()を紡いでいく。

 「中疆マテリアルのサーバーで発牙した電脳黴毒は、星間通信の帯域制限を突破して、ヘビーメルダーの核融合炉内で電劾重合体に覚変した。旧世紀のアーカイヴを貪る内に偽計因子(ウイルス)が共産化したのか、共産主義が偽計因子(ウイルス)化したのか。今と為っては誰にも判ら無い。判っているのは、サイバーテロの切磋琢磨に因って、原子炉の局地空爆でも押さえ込め無い程の力を身に付けて終ったと云う事だけ。アルカディア號は銀河鉄道株式会社の決裁を待たずに、鋼紀五拾貳年壬寅(じんいん)、惑星ヘビーメルダーを破壊したわ。表向き、鉄道公安警備に拿捕された仲間の釈放要求を呑まなかった銀河鉄道株式会社に対する、スペースノイド解放戦線の報復行為として処理された惑星テロ。其の犠牲者達の残留思念が時縛した、亜空間の乱反射を利用して宙装冥彩を施し、総てを隠蔽した星の墓場がファクトヘイヴンよ。停車駅とは名許りの、通過した事すら気付いてもらえぬ、忘れ去られた記憶の防波堤。誰も乗り降りする事の無い、折り重なる墓石を敷き詰めた追弔のプラットホーム。然して何時しか、此の統制封鎖宙域を銀河鉄道株式会社は不都合な事業の実態を葬り去るブラックボックスに重用し始め、人は此処をファクトヘイヴンと呼ぶ様になった。時間城は其の墓暴きに遣って来る者達を返り討ちにする為の物見櫓(ものみやぐら)よ。排他的帝層帯域だ電影要塞だ何て(いか)めしい事を言っていても、遣っている事は墓守に毛が生えた様な物。其れでも、伯爵は自ら手を下した者達を弔う為、此処に留まっているの。」

 竜頭の引き攣っていた口角が(かす)かに綻び、鉄郎の顔を覗き込む様にチャドルの袖の中から燈會(ランタン)を差し伸べた。

 「鉄郎・・・・と云ったわね。御免なさい。貴方の顔を見ても何も思い出せ無い。でも、貴方が大切な御客様だと云う事は判るわ。伯爵に会いたいんでしょ。案内するわ。ようこそ、鉄郎。ようこそ、時間城へ。」

 血の気の無い竜頭の頬が硝子に()した火影で(ほの)かに色付き、(うしな)われた時を刻む跫音(あしおと)が石畳に木霊(こだま)した。斎女(いらつめ)のドレープが誘う(つい)(すみか)。重力の底の墓場から、星の墓場と、()()衆生回向(しゅじょうえこう)に縁の有る女だ。仏性を()めた多針メーターの鈴生(すずな)りに見守られて進む魂の廃坑。彼の空爆を以て為ても助ける事の出来無かった者達の深閑とした眼差しを背負い、何故、何時も自分独りだけが生き残って終うのか、自問自答する途切れる事の無い数奇な道程(みちのり)。若し、此の灯火の中に母さんも葬られているのだとしたら、何者かに仕組まれた様な星星を巡る旅は、此処で終わりを告げるのか。鉄郎を取り巻く謎と運命が、今、踏み締めている一筋の舗石の彼方に収束していく。

 「漢の約束に証文は無用。」

 と言い放ったのだ。総ての鍵は彼の漢が握っている。一歩、又、一歩と近付いていく嘗て無い凶兆を腰の得物も嗅ぎ付けた。()()を求めて千早振(ちはやぶ)る、平素の猛々しさとは程遠い(かしこ)まった(おのの)き。磐室を鎮める霊徴(れいちょう)が死地へと(おもむ)く透徹した覚悟を研ぎ澄ます。伯爵の屋敷では虚実争爛に入り乱れ、勝手の判らぬ儘、煙に巻かれて終ったが、己の骨を埋める腹積もりでなければ此程の居城を築いて弔う物か。此の奥津城(おくつき)意外に奴の帰る場所など無い。例え不帰の先客に連座する事に相成ろうとも、此処に極まる男子の本懐。何を悔い、誰に恥じ入る事が有ろう。崇高な沈痛を津津(しんしん)と湛える(とこ)()の浄域に、不届きな随喜が込み上げ、竜頭の丁重で臈長(ろうた)けた足取りすら今は(もど)かしい。磐肌を伝い文字盤の裏でムーヴメントを掻き毟るシーク音が聞こえてきた。地の底に突き刺さった王墓の峡谷が(ひら)かれていく。質朴な副葬品すら排した、四方を取り囲む多針メーターが昇魂となって天の河の様に吹き抜けているだけの玄室(げんしつ)。中央の石櫃(いしびつ)の脇に(そそ)り立つ益荒男(ますらお)は、金象嵌(きんぞうがん)の銘文が煌めく直劍(ちょっけん)を右下段に構え、既に漲っていた。

 立ち昇る幽渾に後背が揺らめき、頑健な双肩と重厚な胸郭、胆力の座った腰鎧(ようがい)に天地を支える剛脚。鉄道博物館で集団肖像画の中から降り立った、利き腕を()がれ、左脇腹を(えぐ)られた満身創痍の落ち武者は、剛性軍馬の騎乗から機賊を睥睨(へいげい)した雄々しき軍装となって甦り、霊超類の頂に建立している。無縁仏の番人と云うには余りにも苛烈な其の疆格(きょうかく)緑青(ろくしやう)を吹いた酸化被膜の頬に集積する古代の文様が(ざわ)めいて、其の皺襞(しゅうへき)を極める渋面に陥没した、火眼金睛(かがんきんせい)のモノアイが血走り、

 「伯爵、御客様を御連れしました。」

 と竜頭が取り次ごうとするのを制した鋳造(ちゅうぞう)の魔神が、其の鼎沸(ていふつ)(くつがえ)す。

 「貴様、其の銃を何処で。」

 伯爵の怒号が袋小路の聖謐を焼き尽くし、氷変する磐壁の精霊(しょうろう)達。Barbourの裾を挟んで霊銃の鋼目と、伯爵の鋳殻(ちゅうかく)に刻印された獣神の綾並(あやな)みが、()(かみ)音羽(おとは)()らし兇振している。タイタンから連れ添ってきたダマスカスの化鳥(けちょう)気色(けしき)ばむのも無理は無い。何せ、カドミウムレッドの眼力、其の一喝でレーザーアサルトの弾幕を撥ね除けるのだ。此の堅物は今迄の獲物とは物が違う。併し、鉄郎も人間狩りの闇討ちに蹂躙され、白魔に屈した彼の時の御薦(おこも)では最早無い。

 

 

   男兒立志出鄕關  男兒(だんじ) 志を立てて鄕關(きやうくわん)()

   仇若無成不復還  (きう) 若し成る無くんば()た還らず

 

 

 鉄郎は竜頭の肩口から覗く饕餮(たうてつ)の機畜に脊髄が反射し、引き千切れん許りに握り込んだ銃爪(ひきがね)から衝き貫ける嘴裂(しれつ)鳳吼(ほうこう)が、挨拶代わりの皇弾を問答無用で叩き込む。逆波の如きドレープを巻き上げてチャドルを掠める光量子のスパイラル。怒りに任せた彗翼の(やじり)が死者の冥福を(つんざ)き、剛頑な伯爵の額に炸裂した。避雷針に直撃した(いか)()の如く燦爛するアークの飛沫。仁王立ちの壮躯が白烈に包まれ、鬼界に没した玄室が発昂する。鈷藍(コバルト)の閃条を伝って鉄郎の肩甲骨から腰椎へと伸し掛かる光励起の反動。全身全霊の晶撃に鵲が息を継ぎ、盲滅法の弾劾が途絶えると、立ち籠める焦煙の狭間から、電呪の誉れと名にし()う怪偉が、其の本領を現した。

 

 

   唔左治天河令作此百鍊利刀

 

 

 其の鼻面から眉間に掛けて垂直に突き立てた、無粋な剣身の棟を刻む()にし()の矜恃。金象嵌の裂傷から飴色の岩漿(マグマ)が滴り、焼け(ただ)れた植毛と軍装に際立つ不撓不屈の鋼骨漢。渾身の暴発を(しの)がれて、構えた銃を解けず強張(こわば)る鉄郎に、獣紋の這い擦る外顎(がいがく)が不敵な賛嘆を苦遊(くゆ)らせる。

 「生半可な主君では易易と喰い殺されて終ふ其の霊鳥を、良くぞ其処まで手懐(てなづ)けた物だ。誉めてやるぞ、小僧。冥土の土産代わりだ。耳汚しに覚えておいてやる。名を名乗れ。」

 「巫山戯(ふざけ)るな。俺の事を忘れたか。時間城に来いと云った事も覚えて無いのか。刺し違えるつもりで云えよ、此の野郎。母さんは何処だ。母さんを出せ。若し、此処の墓の何処かに埋もれていると云うのなら、貴様が地獄に突き落とされて、連れ戻してくる事になるぞ。」

 「何、貴様は真逆(まさか)、彼の時の小僧。吹雪の中で行き倒れたのでは無いのか。其れでは貴様は星野加奈江の息子の・・・・。」

 「星野鉄郎だ。思い出したか。母さんは何処だ。母さんは無事なのか。」

 鉄郎は逆上の余り、伯爵が母の実名を漏らした不審な言い回しを聞き逃し、鵲の照星に有らん限りの憎悪を充填してポインターを飛ばすと、伯爵は正面に構えていた神劍を解き、額に点る緋照に苦渋を滲ませて鉄郎の穢れ無き激情に隻眼を凝らした。

 「母を捜し求めて此の時間城迄辿り着いたと云ふのか。(しか)も其の行き掛けに戦士の銃迄・・・・・・見上げた奴だ。」

 放駭な語気は陰を秘そめ、(えぐ)れた頬骨から剥離する酸化被膜。怒張した鼎の魔神は其の肩を落とし、焼け落ちた身形が敗走に疲れた落人の末路に成り下がる。

 「鉄郎、貴様の母の事なら案ずる事は無い。旅の駄賃に会はせてやらう。貴様には真実を知る資格が有る。竜頭、案内してやれ。」

 伯爵が石櫃に片手を翳して起動させると、唇に人差し指を添えて振り返った竜頭は、其の指先を銃を構えたまま張り詰めている鉄郎の唇に、そっと重ね合わせた。人工被膜の醒めた肌触りに心のリセットを押されて膝の力が抜け、不意に重力から解放される鉄郎の逆鱗。竜頭の胡乱(うろん)な三白眼が霞み、ビットマップのドットが欠け落ちる様に視界が暗転していく。鉄郎が何処に連れて行くのか問い質そうとして一歩踏み出すと、(いわ)く有り気に立ち尽くす竜頭のチャドルがプロジェクターの様に体を擦り抜け、光を失ったオーロラのドレープに跡形も無く包み込まれた。

 鉄郎の立っていた磐床を、(うつろ)蜻蛉(かげろ)燈會(ランタン)の火影が己の抜け殻を見下ろす様に照らし出している。時の雫が弾けて再び冥夢の底に臥した(とこ)()の聖謐。何も見なかったと、星眸を(すぼ)める多針メーター。又、独り、葬り去られたかの様に闇が深まり、噛み締めた其の沈痛に一筆書きの口吻が掠れた。

 「其れでは伯爵、私も此から彼の少年の後を・・・・・。」

 「待て、竜頭。彼の小僧には未だ用が有る。私も行く。だが、其れは彼の狐を片付けてからだ。」

 伯爵の隻眼が再び丹力を取り戻し、竜頭が其の視線の先に燈會の(ひさし)を掲げると、鉄郎が辿ってきた羨道の暗鬱と同化していた二人目の招かざる客が、(くろ)き双鶴と見紛うピンヒールを、泉下の浄域に突き立てた。

 「何時迄そんな処に隠れてゐるつもりだ、メーテル。」

 身を持ち崩した義理の娘を半ば見放した養父の口振りに、黒妙(くろたへ)の斜に構えた露西亜帽が精霊(しょうろう)達の隠影を擦り抜け、多針メーターの炎群(ほむら)で其の鳳髪を()()めた絶世の稀人(まれびと)が、秀麗な睫を逆立てる凄絶な娟容(けんよう)で現れた。此の秘所を弔うに相応しい喪装の幽女。亡き者が降霊したかの如き勿体振った主賓の来場に、伯爵は笑止に堪えぬと許り、饕餮(たうてつ)の相好を崩して囃し立てる。

 「あんな野良犬を拾つてきて何うするつもりだ。」

 「鉄郎を何処に遣ったの。」

 「そんなに彼の小僧の事が気になるか。一緒に旅を続けて情が移つたか。其れとも、

 

 

     速川(はやかは)の瀨に()る鳥のよしをなみ

        思ひてありし我が子はもあれ

 

 

 上書きした自我の安い鍍金(メッキ)が剥がれて、母性の地金が(うず)くのか。」

 「訊いているのは私よ。答えなさい。」

 「フン、母親は何処だと云ふから案内して遣つた迄の事。彼の日の夜にな。」

 艶やかなフォックスコートの毛並みを逆撫でする、粒の粗い算譜厘求(サンプリング)錆声(さびごゑ)(しわぶ)き乍ら、伯爵が灼熱のモノアイに物を云わせて竜頭に下がるよう促すと、金紗の垂髪を掻き上げて襟足からスティックを取り出したメーテルは、光励起の雷刃を振り降ろし、()い交ぜになった胸臆と虫酸を噛み殺した。

 「余計な事を。」

 小鼻の脇から眉尻に掛けて顔面神経が痙攣し、死神も其の眼を逸らす、獲物に向かって一点を見据えた絶対零度の雪視霜眸(せっしそうぼう)。メーテルは硝子細工の様な顎を引き、(ふる)える左手を軽く結ぶと、(おもむろ)に、磁雷を帯びた剣先を伯爵の鳩尾(みぞおち)に手向け、静止した。肩口から斬っ先へ水平に差し伸べた、蒼く燃え盛る真一文字の殺意。

 「竜頭、もう二度と此の漢の事を思い出さなくて済む様にして上げるわ。今から私が貴方の主人よ。今直ぐ鉄郎を連れ戻しなさい。さあ、早く。」

 伯爵を真正面に見据えた儘、漆黒の鶴声が磐室に轟くと、其の残響を鎮める様に、一呼吸置いた弱竹(なよたけ)後為手(のちシテ)が渾身の禹歩(うほ)を繰り出し、独片(ひとひら)の冥利を口荒(くちすさ)ぶ。

 

 

    とく死なせたまひて

       菩提かなへたまへ

 

 

 墓穴を彷徨う亡者の譫言(うわごと)か、将亦(はたまた)、血迷った呪詛か。誰の心にも届かぬ、地を這う呻吟。其の死斑の浮いたメーテルの口吻を、犀皮(さいひ)の如き軍靴が事も無げに踏み躙った。

 「討ち死に覚悟で辞世の句を(のたま)ふとは、何を然う生き急ぐ事が有る。」

 心の臓を捉えて放さぬ弔刃(ちょうじん)を突き付けられても猶、片手に提げた霊劍を構えもせずに北叟笑(ほくそえ)む伯爵。其の傲岸に痺れを切らした墨染めの白拍子(しらびょうし)は、プラズマの絶尖を手向けた儘、粉骨砕身の足拍子を磐床に叩き込む。激甚する玄室の岩盤と石櫃。埋め尽くされた多針メーターが複合するサブダイアルを一斉に見開き、磐肌を伝う岩清水が霧を吹いた様に飛沫して、露西亜帽の毛先に降り注ぐ。

 「其の耳が聞こえる内に、貴方の代わりに謳って上げるのがせめてもの情けよ。」

 メーテルの歪んだ白磁の蒼貌が、一瞬、慈母の生色を取り戻し、瞳の奥で氷結した怨嗟の結晶に、悲愴の翳りが閃いた。

 「宇宙の歴史に魔女と書き残されても良い。悪魔と書き残されても良い。私は鉄郎の為に貴方を殺す。死んでいった沢山の若者達の為に貴方を破壊する。」

 血意の哀哭に光背を焦がして逆立つフォックスコート。再び垂直に振り上げたピンヒールを黄泉の三和土(たたき)に撃ち降ろし、奈落の底を洞喝する天地鳴慟の足拍子。激情に傾ぐ秘層の巌窟が乱高下し、虚空を()ぜる岩清水の慈雨を、星辰一刀、光量子の魔刃が斬り裂いた。

 伯爵の頸椎を一閃する飛燕の斬像。横殴りの瞬雷に益荒男(ますらお)の鋳像が白烈し、宙を(はため)く鳳髪が金燐を散らして舞い降りる。軌道半径に迷い込んだ愚鈍愚物を立ち所に決裁する、二の太刀を知らぬ虹周波(こうしゅうは)の刀身。手弱女(たおやめ)手練(てだ)れとは思えぬ、其の熾烈な手応えが、今、未知の領域に抵触した。降り注ぐミストを焼き尽くし、天を逆巻く男瀧(おだき)かと見紛う水蒸気の狼煙(のろし)を掻き分けて皇然と聳り立つ、放電ノイズを絡めた護国の化身。天下を左治せし百練の利刀が地獄の釜から湧き出で、伯爵の壮絶な形相に幽閉された玄室の神気が()せ返る。

 「取つて付けた応急処置で、自我も本体も崩壊せずに此の時間城まで辿り着いただけでも御の字だと云ふのに、猶以(なほもつ)て、此程の力を揮へるとは。矢張り、其の伝世品種は大した物だ。探し求めてゐた強制換装に耐へ得る血統が本当に存在するとはな・・・・・・併し。」

 伯爵は楯に仕立てた霊劍の脇に(あか)き千里眼を忍ばせて、メーテルの瞳の奥を覗き込んだ。

 「譬へ転写や経年に因る劣化を最小限に押さへ込めても、重複したエゴの歪みは度為難(どしがた)いか。メーテル、何うだ其の女の乗り味は。活きが良いのは寧ろ、苦しみと悲しみの裏返し。もつと早く、其の験体と出会ふ事が出来てゐれば、手の施し様も有つた物を。」

 饕餮(たうてつ)の下顎に組み込まれたエアフィルターが排気する焼き(ごて)の如き慨嘆。其の居丈高な憐憫をメーテルは痺れる程の手応えが残る二の太刀で振り払う。

 「竜頭も私も貴方達のモルモットや人柱じゃ無いのよ。」

 己の運命に抗うべく、一心不乱に()ち込まれる光励起の兇刃。伯爵は傲胆な膂力(りりょく)を秘めた剛腕を揮わず護りに徹し、小手先の剣撃なぞ意に介さぬと千閃萬烈を弾き返す霊劍が、哀糸豪竹を奏でて躙り出る。不滅の旺羅(オーラ)を発して押し返す圧倒的な鬼魄(きはく)。一撃必誅を期して喉笛を執拗に狙う、メーテルの一刀迅雷を易々と受け止め、鍔を競り合うと、崩落した磐壁が伸し掛かる様に、呪能が滲む其の丹眼で頭熟(あたまごな)しに肉薄し、音素の潰れた灼熱の蛮声で戒める。

 「そんな(いか)りに任せた(なまくら)で何が斬れると云ふのか。メーテル、死に場所を探してゐるのなら御門違ひだ。貴様には()()き使命が有る。人に愛されて死にたければ、憎まれてでも生き続け、己の職責を(まっと)ふしろ。」

 伯爵はメーテルを力任せに突き放し、襟元で煌めいた光鎖に斬っ先を飛ばして引き裂くと、息をも吐かせぬ瞬殺に弾けた翡翠(ひすい)勾玉(まがたま)が、コマ送りの宙空に舞い上がる。寸断された永遠の狭間を掠め、(ふか)い眠りの中を寝返る弥栄(いやさか)の珠宝。龍虎の視線が交錯し、メーテルの雷刃が伯爵の振り上げた一太刀を肩口から斬り落とすのと入れ違いに、伯爵は左手で勾玉を掴み取り、其の曝け出した左の脇腹を、光励起の一陣が返す刀で居合い貫く。霊劍を握り込んだまま磐床を()ぜる右腕。心の臓にまで達した裂傷が火花を散らす光彩を返り血の様に浴びる、メーテルの茫然とした白亜の娟容(けんよう)。竜頭は磐陰に紛れて唯只管(ただひたすら)、気配を殺し、斬壊した躯体を物ともせず、勾玉を天に突き上げて勝ち誇る鋳造の魔神が、大上段から面罵した。

「こんな形見(もの)(すが)るのも此で最後だ。999に戻つて公務に専心するが良い。」

 勝者とは思えぬ満身創痍の叱責。朽ち果てて寧ろ凄味を増した其の幽姿に、メーテルは死に物狂いで飛び掛かる。

 「返せ、御父様を、御父様を返せ。」

 血も涙も無かった筈の蠱惑(こわく)の令嬢が其の仮面を脱ぎ捨て、祭りの人混みで(はぐ)れた稚児の様に取り乱す様を睥睨(へいげい)し、伯爵は指の間から千切れたネックレスが(したた)る拳を、爛熟したモノアイの前に突き出して握り込むと、

 

  「喝ッ。」

 

 無数の皺襞(しゅうへき)が蠕動する貪婪な獣面に、インローで嵌め込まれた回転ベゼルがインデックスを捲り上げて拡張し、気焔雷魄(きえんらいはく)を鼓して轟く眼精が、黒変した落ち葉の様にメーテルを吹き飛ばした。一瞬にして勝負は決し、メーテルは伯爵の足許に獅噛憑(しがみつ)こうとするのだが、凱風怪睛を真面(まとも)に浴びた衝撃に痺れ、起き上がっては膝が砕け、岩清水に濡れた磐床に足を取られては体が泳ぎ、敗者の舞に振り回される。血の気の失せた蒼貌に粟立つ汗。藪睨(やぶにら)みで朦朧と独り()ちる悶舌。鋳鉄の纏う文身の毒が廻った様に、伯爵の手の中で瞬く宝玉に腕を伸ばし乍ら、千々に乱れた蓬髪を掻き毟り、狂い咲く黒薔薇。海松色(みるいろ)のドレープが其の醜態を覆う様に歩み寄り、

 「伯爵、如何為(いかがな)さいますか。」

 竜頭が頭を抱えて蹲っているメーテルに眼を遣ると、伯爵は斬壊した背を向けて、鬼魄の抜けた肩から其の荷を(しず)かに降ろした。

 「放つておけ。此の験体を過去に遡つて投入した処で、血で血を(あら)ふ、新たな因果を生み出すだけだ。所詮、何う足掻いても電脳の浅知恵。乗り遅れた列車に譬へ追ひ付けたとしても、其れはもう、彼の時の列車とは違ふのだ。」

 (かなへ)の獣紋が蠢く手の甲を石櫃に翳して転送アドレスを入力すると、伯爵は斬り落とされて有る筈の無い右腕を時空の彼方に振り上げた。

 「竜頭、タイムゲートを開放しろ。私は屋敷に向かふ。」

 「伯爵、逆転相とは申しましても、其の御躰の儘では。」

 「構はん。此の老骨を労る等、恥の上塗りでしか無い。竜頭、彼の小僧の事を頼んだぞ。奴は我々の無様な輪廻を断ち切る為に招喚された、最後の後見なのやもしれん。遅れを取るな。」

 

 

 

 

 雪と闇、たった二枚のセル画が折り重なっただけで、一コマも進む事の無い白墨の世界。鉄郎が其の壊れた映写機の投射レンズを横切り、何が引っ掛かっているのかとリールに手を添えた瞬間、モノクロフィルムに焼き付けられた記憶の扉が不意に開け放たれ、死灰の如き地吹雪が一気に決壊した。

 (みぞれ)混じりの狂嵐(きょうらん)に面罵されて叩き起こされた鉄郎は、真っ白な頭の中を横殴りで霏霺(たなび)く銀幕のオープニングと、寸分の狂いも無い肉眼の眺望に、情景と現実の二重露光に見当識の焦点が合わず、語尾を見失った感嘆符の様に立ち尽くしていた。生命の気配が全く無い見渡す限りの雪原。猛烈な寒気が渦巻く情け容赦無い白瀑。頬を刺し、睫から滲み入る酸性雪の(つぶて)。骨の髄まで刻み込まれた苛烈な汚染環境に、鼻腔を突き上げる甘酸っぱい充血。もう二度と帰る事は無いと心の底では諦めていた。(ゴミ)を漁って生き延びる以外、徒労と絶望が無限に繰り返されるだけの無慈悲な管理区域外。薔薇色の夢から醒めて其処が荒野の(あば)ら屋と気付く度に愕然とした、生き地獄の続きを照らす不吉な旭。此処が自分の掛け替えの無い故郷だ等と、本の一瞬でも頭を(よぎ)る事の無かった忌まわしき地の果ての果て。其れが今、愛おしく、狂おしく胸に迫り、星々を巡る旅の中で独り気丈に振る舞っていた硝子の少年は、抱えきれぬ郷愁に膝から砕け落ちそうになる。帰ってきた。地球に。人類の母なる星に。生まれ育った母なる大地に。例え積雪に埋もれていようと、見間違える訳が無い。酸性雪と()い交ぜに潤む熱き涙腺。喉元を締め上げて込み上げる怒濤の嗚咽。併し、現状は鉄郎が感傷に浸る事を許さ無かった。

 新雪の上に寄り添う二組の足跡が、見覚えの有る方角を目指し、闇夜の彼方に呑み込まれている。欲目に眩んでいるのでは無い。足跡は確かに住み慣れた荒ら屋へと向かっている。彼の日、彼の夜、置き去りにされた雪原が広がっている。脳裏を過る翡翠(ひすい)の光弾と母の断末魔、ドス黒い血の池に浮かぶ焼け焦げた外套。鉄郎は震える手でBarbourのフロントジップを引き上げ、(そばだ)てたコーデュロイの襟をフラップで留めた。空調ファンの温風が裏地のタータンチェックを対流し、頬を吹き抜けて前髪から襟足を掻き上げる。併し、其れでも震えが止まら無い。肺の腑から胆の臓まで迸る狂喜に顳顬(こめかみ)の毛細血管が弾け飛ぶ。未だ足跡は新しい。今なら間に合う。

 レーザーライフルの銃口から覗いた死神の洞穴に怯え、酸性雪の冷鋲に痺れ、(かじか)んだ手足で藻掻き乍ら匍匐した絶望の坩堝を、鉄郎は復讐の火の玉となって駆け出した。新雪をはむシャークソールが、北極圏を攻略する砕氷船の如く、鉄郎の劇情に牙を立てる。空調服にダックパンツ、サイドゴアの3190に一刀彫りの霊銃を握り締め、胸には士魂の金剛石(ダイヤモンド)。暴風雪に(ひざまづ)き、自ら其の命を手放した御薦(おこも)の孤児が、氷獄の鎖を蹴散らして巻き戻された時計の針を飛び越え、沙漠の熱波となって頬を撃つ暴風雪に雄叫びを上げる。遂に追い付いた。彼の日の夜、乗り遅れた列車に。運命の列車は999じゃ無かった。此処が本当の俺の終着駅だ。敵は伯爵、唯、独り。残りは試し打ちにもなら無い、雁首を並べただけの頭数。刺し違るつもりは無い。必ず生きて助け出す。血の海に独り取り残される彼の地獄に、母さんを突き落とす訳にはいか無い。此以上、母さんを悲しませる訳にはいか無い。もう直ぐだよ、母さん。家はもう眼と鼻の先だ。奴等を全員片付けて、帰ろう。母さん、一緒に家に帰ろう。鉄郎は此の時間軸で重複している、もう一人の鉄郎の存在や、タイムパラドク等と云う些末な理窟は何うでも良かった。舞い降りた過去と(おぼ)しき世界が、例え本の束の間の幻で在ったとしても構わ無い。二度と巡り会う事の無い、此の一瞬こそが総てなのだと、鉄郎は一点に見据えた男子の本懐を、唯、我武者羅に突き進む。

 吹き荒ぶ白魔の轟音を押し退け、蹄鉄を蹴立てて殺到する剛性軍馬の(いなな)きと、機賊達の怒号が聞こえてきた。雑魚は後回しで良い。伯爵の不意を突いて至近距離から一発で仕留める。鉄郎は(かささぎ)に気配を消せと命じてホルスターから抜き取ると、ヴァイオレットの閃光が旋雪を貫き人間狩りが始まった。時計の針を先回りして血の池の在った場所に急ぐ鉄郎。意に違わぬ展開に完爾(かんじ)として犬歯を逆剥き、雪煙を上げて皚然(がいぜん)と燃え盛る。漢の約束に証文なぞ無用。確かに奴の云った通りだ。彼の鋳物の屑鉄、少し回り(くど)いが、味な真似をしやがる。折角の御膳立てを台無しにして()(もの)か。タップリ礼を返さなければ気が済ま無い。

 必誅を期す鉄郎の後を追う様に、禍々(まがまが)しい彼の喧噪が押し寄せてきた。緋彗の光弾の束を背負い暴風雪を逆走する独片(ひとひら)の影。土嚢袋を()いで()いだ外套が(はため)く決死の逃亡。生きている。母さんが。唯、其れだけで崩壊しそうな涙腺を堪え、ライフルの光源に眼を凝らす。落ち着け。未だ何も成就してはい無い。伯爵は何処だ。奴の目玉を後ろから撃ち抜いてやる。手段なんて何うでも良い。美しい勝利も、誇り高き敗北も要ら無い。伯爵を始末してから、皆殺しだ。今度は奴等が狩られる番だ。冷徹と暴虐の入り乱れる悶雪(もんぜつ)坩堝(るつぼ)。血の池の在った其の場所へ、運命の因力に導かれ駆け込む鉄郎の母。退路を断ち、(おもむろ)に振り返る襤褸(ボロ)を纏った賤女(しずめ)が、一瞬、雪の女王に氷変して見えた。母にして母に(あら)ず。人にして人に非ず。超然とした異能を誇る稀人(まれびと)の鬼概に、感応する大気。何処を目指しても刃向かってくる逆風が其の息を潜め、鉄郎の母の足許から放射状に敷き詰められた新雪が舞い上がると、剛性軍馬の兇脚が先を争って雪崩れ込んできた。

 「(かつ)()て玉を(いだ)く、とは此の事か。」

 蹴汰魂(けたたま)しい機畜の蛮勇を制して響き渡る雅量に富む放咳(ほうがい)。地の底から湧き上がる、相も変わらぬ大仰な言い草が、標的を探す手間を省いた。闇夜を囲う白幕を利して突進する時を超えた刺客。己の獲物に(かま)けて、奴は未だ鵲の気配に気付いてい無い。

 「星野加奈江、否、旧姓、雪野加奈江だな。」

 下僕達が道を開けて、馬群の中から進み出た騎乗の鋳将(ちゅうじょう)はポインターの照点を鉄郎の母の額に飛ばすと、鉄郎も諸手に構えた霊銃を頭上から(しず)かに振り降ろした。

 「間違ひ無い。真逆(まさか)、此程の優良種が伝世されてゐたとは。」

 望外の釣果(ちょうか)に身を乗り出し、思わず鞍壺から腰の浮く伯爵。鉄郎は睫の先を斜めに限る旋雪に、肺の腑で暴発しそうな英気を皓皓(こうこう)と吐き乍ら、不純物の無い澄み切った殺意を銃爪に掛ける。水平に構えた銃口に背を向けて、機畜から悠然と降りてくる軍装の仇敵。今しか無い。(ここ)先途(せんど)と、天の手向(たむ)けた畢生の攻機。襟髪の霏霺(たなび)く伯爵の後頭部に照星を定め、鵲の呪能に()り移る。彗翼よ目覚め、調伏しろ。化生(けしょう)は無明の星と()れ。光励起の誘発電位に羽搏(はばた)く鉄郎の逆髪(さかがみ)。霊鳥の鉤爪が心の臓を鷲掴み、嘴裂(しれつ)を極めた、其の刹那、鉄郎は背後から飛び掛かってきた電撃に手足を絡み取られ、白銀の奈落に引き倒された。

 「鉄郎、貴方は此の時代に干渉出来る資格を持ち合わせてい無いわ。」

 新雪に没した頭上を、地吹雪と共に駆け抜ける生気の掠れた諫告(かんこく)。其の聞き覚えの有る声に、

 「竜頭、何しやがる。放せ。邪魔すんじゃねえよ、此の機水母(きくらげ)。」

 口角雪を()怒耶躾(どやしつ)ける鉄郎を、白け切った追撃が餓狼の如き(おとがい)諸共、茨の(くつわ)で締め上げる。

 「乗り遅れた列車に例え追い付けたと思っても、其れはもう、彼の時の列車とは違うのよ。」

 光の失せたオーロラを巻き上げて現れた伯爵の女官が、闇に溶けた海松色(みるいろ)のドレープから目元だけを覗かせて、磁戒の捕縄に身悶える鉄郎を、其の手綱を緩めずに(たしな)めた。

 「伯爵には伯爵の考えが有る筈だわ。私達は此処で見守るしか無いのよ。」

 時を駆ける(いら)()の三白眼は主君の御手並みに撮像感度を拡張し、鉄郎の運命に息を潜めて立会う影に身を(やつ)す。鉄郎の追い越した筈の時計の針が、再び何事も無かったかの様に新雪に埋もれた鉄郎を跨いだ。竜頭の胎内に宿した時の歯車は(たゆ)まず、唯、鎖に繋がれた輪廻の周回を刻み続ける。

 「調べは付いてゐる。手荒な真似をするつもりは無い。我々の指示に従つてもらはう。服を脱げ。力尽くで剥ぎ取るのは容易いが、時間が惜しい。早くしろ。」

 騎乗を辞して猶、居丈高でドスの利いた伯爵の最後通告。襷掛(たすきが)けのライフルを手に取ろうとすらせず、取って付けただけの鷹揚な物腰に秘めた破滅的な猟奇。其の壱視萬征の炯眼(けいがん)に鉄郎の母は一切(ひる)まず、天を衝く饕餮(たうてつ)の威容を皇然と侮瞥して、烈火の如く斬り捨てた。

 「貴方達に指圖(さしず)を受ける()はれは無い。力と(かず)に賴つて何が得られると云ふのか。機械仕掛けの傀儡(くぐつ)に隸落した、誇りの缺片(かけら)も無者達の虛勢に屈する私では無い。其れ以上近寄ると云ふのなら、其の身を滅ぼすだけでは濟まぬと覺悟しろ。さあ、立ち去るが良い。己の還るべき場所に還れ。機械にも心が有ると云ふのなら、魂の還るべき場所に還れ。」

 「己の分限を(わきま)へろ。得物も持たぬ生身の躰で、何をどう刺し違へると云ふのか。」

 「貴方は裸の王樣だ。得物を持たずに(いき)り立つてゐるのは貴方の方だ。そんな造り物の裸體(らたい)を曝して、其れが私に取つて何だと云ふのか。眞實を以て爲れば、積み重ねた虛僞と欺瞞を倒す事なぞ、指で()れる必要すら無い。」

 (よこしま)な凶威に敢然と相対峙する鉄郎の母を中心にして地吹雪が逆巻き、伯爵の実像に向かって猛然と打ち付ける。倒木に一輪の花を咲かせ、沙漠に潮騒(しおさい)を呼び寄せる奇蹟の所業。神代の調べが聞こえる。太古の眠りを言祝(ことほ)ぎ、陰陽を(ぎょ)して穢魔(えま)(はら)う、選ばれし呪能。襤褸を(まと)(やつ)れた躰が、有りと有らゆる天変地異を予覚し、見えぬ物が見え、聞こえぬ物が聞こえ、形亡き物に()れる一柱(ひとはしら)の触媒と鳴って、()(まじな)う。

 

 

    拾有參(じふいうさん)春秋

    逝者已如水 ()く者は(すで)に水の如し

    天地無始終 天地に始終無く

    人生有生死 人生に生死有り

    安得類古人 (いずく)んぞ古人(こじん)に類して

    仟載列靑史 仟載(せんざい) 靑史(せいし)に列するを得ん

 

 

 飾る可き心の錦を見失ひ、(いたづら)に時を弄した流れ者こそ、棄て去つた故鄕に投降す可きでは無いのか。紅顏に(かがや)く熱き志は何處(どこ)へ行つた。恥を知れ。」

 荒天に神薙(かむな)ぐ、クリムゾンレッドの隻眼を凌駕する千里眼。人の皮を剥ぎ、憑変した物狂いに、(かなへ)の渋面が其の皺襞(しゅうへき)を歪め、伯爵は御飾りの筈だった得物に手を掛ける。

 「知つた様な口を叩きおつて。其れも又、伝世された血の為せる業と云ふ奴か。卦体(けたい)(ちから)よ。併し、其れでこそ玉体の務めを果たせると云ふ物。良いか、御前達は下がつてゐろ。雑兵の手に負へる相手では無い。」

 ()している。機賊を束ねる鋳造の権化を、徒手空拳の母が圧倒している。足掻(あが)けば足掻くほど締め上げる磁縛の電撃に垈打(のだう)ち回っていた鉄郎は息を呑み、頭に被った新雪の隙間から眼を見張った。

 「臆病者は眼を閉じて矢を射る。卑怯者は心を閉じて矢を射る。見定めよ。眞の正鵠(せいこく)を。其の矢、人へ向かひしは天に到らず。力に(かま)け、()を招き、矢を(ろう)するは、射手(いて)の誉れに(あら)ず。」

 (さと)す者の居無くなった、たった一筋の天の(ことわり)を楯に立ち向かう、枯れ枝の如き無双の手弱女(たおやめ)。其の肉体を超克した太母(たいぼ)(おお)いなる矜恃に、半死半生に臥した此の星の魂緒(たまのを)鈴生(すずな)りが(おのの)き、管理区域外と云う(そし)りを受けた、実り無き大地が慟哭する。招かざる客を指弾し、鉄郎の母を庇護する氷刃の斬っ先。知らぬ間に迷い込み、取り囲まれた文明の治外法権に、一兵卒の機賊達は浮き足立ち、伯爵が落ち着けと許りに声を荒げた。

 「地獄へ落ちる前に舌を抜かれたくなければ、余計な説教は其処迄にしろ。」

 恐怖を掻き消す一喝が暴風雪に虚しく掻き消され、微動だにせぬ鉄郎の母が其の左拳を軽く握り込み、眼には見えぬ何かを執り上げた右手を水平に手向け、伯爵を無言で指名した。鉄郎の鳩尾(みぞおち)穿(うが)吐胸(とむね)の高鳴り。垂直に持ち上がった母の踵が宙に留まって漲り、息の詰まった肺の腑が、一拍置いて踏み降ろされた鉄鎚に撃ち貫かれ、地の底が木霊(こだま)した。此の星の鼓動を呼び覚ます天の授けた足拍子。其の雄々しき激甚に片膝を挫き、雪原に屈した伯爵を、鉄郎の母が畳み掛ける。

 

 

    徑万萬兮度沙幕  萬里を(ゆきす)ぎ沙幕を(わた)

    爲君將兮奮匈奴  君が(しやう)()りて匈奴(きょうど)(ふる)

    路窮絕兮矢刃摧  (みち) (きはま)り絕えて矢刃(しじん)(くだ)

    士衆滅兮名已隤  士衆(ししゅう)滅び名(すで)()

    老母已死     老母(すで)に死せり

    雖欲報恩將安歸  恩に報ひんと欲すると(いへど)

             ()(いづ)くにか()せん

 

 

 鉄郎の蒼心を吹き抜け、其の節義を問い質す生生流転の風雪。星々を巡る旅の果てに待つ凄絶な寂寥が、999の(から)げる剛脚を醒め醒めと見送り、哀惜に(むせ)ぶ汽笛が(えぐ)れた頬を(はた)いて擦れ違う。

 伯爵を討ち伏せて猶、身動ぎ一つせぬ母の隻影。其の凜然とした品格が身命(しんみょう)を賭して伝える謹厳皇潔な家学。鉄郎は今、総てを悟った。反対方向に走れと云われた彼の時に、何を託されたのか。誰しも何時かは訪れる其の瞬間。併し、余りにも過酷な通過儀式に鉄郎は玉と砕けた。

 少年の(つむり)を飾る初冠(ういこうむり)となって、降り積もる新雪。元服を迎えた我が子への、決別こそが人生の(はなむけ)。其の旅に大義が有るのなら、孤独すら(おそ)れはし無い筈。孤独が旅の(かて)ならば、母をも路傍の石となせ。時を越え懸命に此処まで辿り着いた我が子を突き放す、一度見限った己の命を顧みる等、心の迷いでしか無いと道破する、神神しき教え。鉄郎の救いの手の及ばぬ処に、母は既に召されていた。

 (しこう)して、少年は立志に(のっと)る冠雪に没して漂白し、外道を(ただ)す明鏡にのみ留まらぬ鬼子母の威光が、もう独りの鉄の(をのこ)を焼き尽くす。

 「黙れ、黙れ。」

 伯爵の耳を聾する唱導と、氷塵の銀幕に灼き付く在りし日の幻影。積み重ねてきた自責と自重に耐え切れず、溺れる鋳型の少年が自傷の凶弾に(すが)り付く。機族の栄華を掻殴(かなぐ)り捨て、怯懦(きょうだ)に屈した益荒男(ますらお)が、拝む様に構えたレーザーライフル。吹き荒れる旋雪にポインターの緋照が乱れ飛び、総てを(うべな)う恩赦の眼差しで、突き付けられた銃口に微笑む鉄郎の母。伯爵は見透かされた己の過ちに向かって、リアサイトに顔を伏せたまま銃爪を引き、胸骨を突き破る程に張り詰めた鉄郎の心搏を、彼の断末魔が再び撃ち貫いた。

 翡翠(ひすい)の弾道で串刺しにされた母の幽姿が宙を舞い、漠然とした瞬間を切り取って並べた、無限に連続する静止画のストロボを緩慢に横切っていく。肉眼で捉えた事実を頑として弾き返す認識の壁。絶望が感情で在る事を放棄して立ち尽くし、地吹雪の咆哮が他人事の様に遠離っていく。絶叫の余韻に引っ掛かったまま小刻みに痙攣している時計の針。鉄郎は乗り遅れた列車に再び追い越され、擦過する車窓から投げ出された、誰も受け取る者の無い襤褸外套に包まれた赫い花束が、真っ更な雪原に舞い降りた。

 意識の緒が完全に途切れた、か細い四肢が黄泉の底で波打ち、巻き上がった粉雪が暴風に浚われると、()いで()いだ土嚢袋の裾が此の場から脱け出そうと(はため)くだけで、闇夜に向かって見開かれた瞳孔に雪のレースが掛けられ、清閑な死に化粧に昏昏と埋もれていく。荒れ狂う白瀑以外の何もかもが息絶えた滅景。何んなに時空の輪列を巻き戻しても逃れる事の出来ぬ沙汰女(さだめ)を前にして、鉄郎は白紙に打たれた一抹の句読点でしか無かった。其処に母の亡骸が在ると云うのに、駆け寄って其の死を確かめる勇気も無く、此は何かの間違いだと、有りっ丈の詐術を濫造して覆い隠す事も出来ずに、唯、醒める事の無い悪夢が白暮に呑まれていくのを眺めている。此が伯爵の会わせてやると云った意味なのか。こんな惨劇を繰り返す為に必死で999に獅噛憑(しがみつ)いてきたのか。事の次第を見届けた竜頭が手綱を緩め、磁戒の拘束から解かれても、鉄郎は輪廻の鎖縛に囚われて其の身を捩る事すら敵わ無い。真綿の様に一息で絞め殺さぬ、因果の(くびき)。其の非情な仕打ちに、もう独りの鉄の(をのこ)も新雪に片手を突き、屈疆(くっきょう)な胸郭と脊椎を(すく)ませて、(あえ)ぎに(あえ)いでいた。

 「私事に溺れ、職責を見失ふとは、一生の不覚。」

 頬を這う苦悶の皺襞(しゅうへき)が更なる険相を刻み、緑青(ろくしやう)を吹いて捲れ上がる酸化皮膜。何方が撃ち取られたのか見分けの付かぬ、打ち拉がれた饕餮(たうてつ)の文身に、硝煙の(いさお)を誇る余勢は無い。伯爵はライフルを払い除けて、満身創痍の躯体に鞭を打ち、揺らめき乍ら仕留めた獲物に歩み寄り、荼毘(だび)を乞う襤褸外套を引き剥がすと、振り落とされた母の亡骸が血壊し、彼の漆黒の泥濘(ぬかるみ)()ち撒かれた。血の海に浮かぶ母の背を貫通して、燻り続ける破滅的な銃痕。追い剥ぎの如く死に様を暴く其の所業が、鉄郎の想像を絶して追い打ちを掛ける。

 「何うした、トランクだ。何を呆けてゐる。伝送トランクを用意しろ。」

 吐血の如き苦患(くげん)(しわぶ)算譜厘求(サンプリング)掠れたの嘆息。剛性軍馬から降りた部下の一人が見覚えの有るアタッシュケースを丁重に差し出すと、伯爵は打ち上げられた人魚の様に血溜まりに浸かる遺体の脇へ、粗無際(ぞんざい)に放り投げた。ロックが外れ(おとがい)を解く革張りの二枚貝。開け放たれた殻壁の真珠層が虹虹(こうこう)耀(かがや)き、銀泥(ぎんでい)を塗り潰して猶、湯気を立てる鮮血が闇夜に燃え盛る。アタッシュケースから溢れ返り、紅蓮の氷沫(ひまつ)を上げる浄火の(さざなみ)(ちりばめ)められた光燐に血塗(ちまみ)れの裸婦が陶然と包み込まれていく。鉄郎は最早、認めざるを得なかった。其れは悲劇の追体験等と云う生易しい物では無かった。伯爵は確かに母を殺したのだ。(しか)も、一度ならず二度迄も。

 (うつ)()から離脱した幽体の様に重力を擦り抜け、プラズマの繭の中を浮遊する機賊の生け贄。潤いの欠片も無い母の栗色の髪が亜麻色から山吹色へと艶めき、栄養不良と蓄積した汚染物質で黄濁した皮膚が(そそ)がれて、白磁の桃質が甦る。伯爵の描いた青写真の儘に、彫金細工の如き繊細な肢線へとトレースされていく、人間狩りの戦利品。見目麗しく若返り、瑞々しく変貌する惨死体が常軌を逸して華やぎ、狂おしき母への思慕を打ち砕く。粉々になった真実が燐焼し、氷点下の陽炎(かげろう)が揮発していく。何を信じ、何を頼りにして、其処に存る事物を組み立てて良いのか判ら無い。乗り遅れた列車は、もう彼の時の列車とは違う。管理区域外の一軒家で初めて出会った鏡越しの錯覚が、今、総てを見破る事の出来無かった罰として現実になった。

 

 

   忘れては夢かとぞ思ふおもひきや 

         雪踏みわけて君を見んとは

 

 

 名筆を揮うが如き睫尾(しょうび)を広げて瞬く気怠(けだる)い星眸。鳳髪を(ひるがえ)した蜂腰が、日月の(しょく)すが如き輝ける闇を纏い、喪装の令嬢が氷血の荒野に舞い降りる。地吹雪に(もた)れて物憂げに傾ぐ露西亜帽。危うい程に煌びやかな絶佳絶唱の娟容(けんよう)(かす)かに眉を顰め、十全十美を備えた痩墨(そうぼく)の仙姿が(しな)やかに蹌踉(よろ)めいた。只の剽窃(ひょうせつ)では無かった聖母の面影。小兵の雪辱は白銀に紛れ、最後のピースが揃って終った残酷なパズルを覆す気力も無い。伯爵は鉄郎の母が生まれ変わったのを見届けると、半醒半睡のメーテルに一言も掛けず、飛び乗った剛性軍馬の手綱を絞り、曝け出した醜態を押し退ける様に訓令を()した。

 「半磁動鹿駆(ロック)の手筈は何うなつてゐる。抜かりは無いか。」

 「ハッ、滞り無く。ジャイロブレードを牽引して、間も無く現地に到着の予定です。乗車時刻迄の待機施設も万全を期し、既に完工しております。」

 「良し、然うと判れば長居は無用だ、私は此から時間城に戻る。留守を頼むぞ。」

 銀瀾の地雷原を蹴散らして蹄鉄が()ぜ、雪花の彼方に突進する機畜の剛脚。雑兵達も踵を返し、湾岸の屋敷へと向かうのだろう、隊伍順列を問わず、思い思いに此の数奇な現場を後にする。狩りの終りと入れ違いに、ギヤの切り替わる撥条(ぜんまい)仕掛けの日常。帰る場所が在る者達の束の間の安逸を、退場する出口の無い客席から鉄郎は眺めていた。巻き戻された予定調和が刻む淡々とした天府(テンプ)。程無くして襤褸を纏ったもう一人の自分が血の海に迷い込み、其の僅か十数メートル先で力尽きると、闇に融け出していたメーテルが虚ろな瞳を零して口遊(くちずさ)む。

 

 

    大口(おほくち)眞神(まがみ)の原に降る雪は

       いたくな降りそ家もあらなくに

 

 

 降架したイエスを愛でる様に鉄郎を()(かか)える、さ乱れし鳳髪。妖しき聖母の眼差しが凍傷で炭化した少年の頬から(そよ)ぎ、放埒な(いなな)きと共に滑り込む四頭立ての半自動鹿駆が、黒妙(くろたへ)の金瀾を(さら)って駆け抜けると、そんな惨劇は無かったと許りに血の海を積雪が覆い隠し、下ろし立ての白墨へと塗り重ねられて、何もかもが振り出しに戻っていく。

 

 

    是今日適越而昔至也

    (これ) 今日越に()きて (きのう)至れる也

 

 

 夢の中に又た其の夢を占い、エッシャーの版画の様に粛々と輪転し始める、メビウスの帯に封じ込められた永劫回帰。記憶を其の都度初期化されて、ゴールもスタートも無く閉じた捻れの中を彷徨い続ける。そんな馬鹿げた話しが不図(ふと)、鉄郎の頭を(よき)った。

 「彼がメーテル・・・・其れとも、彼もメーテル・・・・・・。」

 半自動鹿駆の走り去った白銀の(わだち)(みつ)めて竜頭が独り()ち、チャドルのドレープを擦り抜けて翳した燈會(ランタン)が、土気色に枯れた頬を染め上げる。何を想うのか、切れ上がった(まなじり)を焦がす邪知の(くすぶ)り。(しず)かな時の渡し守が、錻力(ブリキ)の笠を傾けて薄く線を引いただけの唇を寄せ、玻璃(びいどろ)火屋(ほや)で凍える狐火を吹き消すと、夜の底に敷き詰められた白銀を道連れに、世界は一瞬にして暗転した。

 

 

 

 

 ほと ほと ほと

 

 

 射干玉(ぬばたま)の闇に滴る時の雫に浸されて、昏昏と眠り続ける黒耀の(つぶ)らな原石。眼裡(まなうら)に鎖ざされた先史の欠片は(うつろ)流離(さすら)い、追憶を手探る其の指先が、掻き消された灯心に触れ、(ほの)めいた。磐肌を伝う岩清水の呟きに合わせて、(ひと)つ又(ひと)つと点る多針メーターの冷冽なバックライト。朦朧とした鉄郎の焦点が集積化した命の篝火(かがりび)を数え、蒼古の神韻に(しず)む玄室へと(ひら)かれていく。此を帰ってきたと呼んで良いのか。息を呑む荘厳な磐壁のマトリクス。時間城と云う名の何時か見た夢の続き。此の旅は一体、何度振り出しに戻ったら気が済むのか。今とは何時か、此処とは何処か。自分が存在すべき時代と場所を見失う鏡の迷路。再び目の当たりにした白魔を粛々と葬り去る、血も涙も無い聖謐が、鉄郎を更なる幻惑へ誘い込む。

 肌を刺す程に玲瓏(れいろう)な大気が闇天井の吹き抜けに聳え、鎮魂に押し潰された亜空間。城の主は姿を消し、留守を預かったのか、生け贄として献げられたのか、999から鉄郎の後を追ってきたのか、彼の夜の地吹雪に攫われてきたのか、母に生き写しの淑女が石櫃(いしびつ)に縋り付いたまま力尽きている。凶弾に倒れて猶、朽ちる事の無い花を咲かせた鬼女とは程遠い、支度解甚(しどけな)く乱れ散った其の媚態。此の化け猫を母と呼べるのか。何と云って声を掛けて良いのか。全く整理の付か無い心の支えが傾ぎ、一気に伸し掛かる時を股に掛けた疲労。

 「名前なんか聞いてない。お前は一体何なんだ。」

 恐る恐る歩み寄る鉄郎の脳裏に、999の乗車券を差し出し、自らをメーテルと名乗った魔女に浴びせた痛罵がリフレインする。何故、伯爵は母さんの名を知っていたのか。何故、母さんを襲ったのか、否、探していたのか。石櫃に俯せで散乱する鳳髪とフォックスコートの毛足が、粉々のパズルとなって、()た一から組み直せと、振り出しよりも前に巻き戻された謎を突き返す。御自慢の露西亜帽は冠落し、渾筆を払うが如き睫は萎れ、星も恥じらう雅な光眸は宙を泳いで、小刻みな譫言を反芻している、メーテルと云う名の誰かに美しく変わり果てた母。撃ち殺された筈の惨死体に取り憑いた、得体の知れぬ狐疑の影に挑む鉄郎。処が、繊細な硝子細工を扱う様に浮わの空の(うつ)()を抱き起こすと、腕の中で撓垂(しなだ)れた襟足から、小鼻を(くすぐ)る華やかな香貴が立ち昇り、張り詰めていた警戒心、絡み合う邪推と懊悩は一瞬で揮発した。何故、今の今迄気付か無かったのか。こんなに近くに居て、何故、信じ無かったのか。馥郁(ふくいく)たる白檀のヴェールに隠れて仄かに淡立(あわだ)つ朴訥な母の匂い。答えは常に眼の前に在った。鉄郎は眼に()える物しか()てい無かった己を恥じた。

 汚染物質で黒変し、ガサガサに逆剥け、産廃の山を掘り起こして爪が摩滅した母の指とは似ても似つかぬ、ブラックフォックスの袖口から覗く白絹の様な手膚の肌理。握り込んだ鉄郎の掌を拒絶する其の滑らかで優雅な潤い。併し、母の温もりに満ちた血と汗の薫陶が呼び覚ます記憶の鈴生(すずな)りが、堪えようとして閉じた瞳から溢れ、頬を雪崩れ落ちる。廃材を組んだ(あば)ら屋で肩を寄せ合い二人で囲む灯火。今を凌ぐだけの食料と水以外何も無い、一つを二人で分け合う些々やかな一間の団欒。子守歌の様に微睡みの中で覚えた三十一文字(みそひともじ)。粒子状物質に掻き消された星を見上げて伝え聞く、神代の物語。尽きる事の無い太陽の恵みに手を合わせ、(かす)かな風の節目を読む真剣な横顔。決して離す事の無い手に引かれ、死の荒野を踏破し、天変地異の激動を乗り越えてきた。如何(いか)なる苦難にも屈せず、命の楯となって護ってくれた巨いなる背中。時に畏ろしく、近寄り難い程に研ぎ澄まされる異能の覚醒。母の深意を何も汲み取る事が出来ず、心の底で気高過ぎる厳格な生き様から逃れる事ばかりを考えていた怯懦の日々。其の総てが今、滂沱(ぼうだ)(さざなみ)と生って心を(あら)い、ドス黒い狂女のヒステリーの数々迄もが、我が子の独り旅を導き、迷いを断つ愛の鞭として鮮やかに甦る。もう此から先、何んなに罵られ、打ちのめされても構わ無い。例え身も心もメーテルの儘で在っても構わ無い。此の儘、何処迄も一緒に旅を続けていく。無限軌道を燃え尽きるまで周回する星の一雫で構わ無い。家で独り、母の帰りを待つ心細さ。一日経ち二日経ち、三日、四日と待ち続け、飢えも渇きも忘れて狂った様に泣き喚き、母の名を叫び続け、然して、食料と物資を抱え、痩せ衰え、落ち窪んだ瞳を炯炯(けいけい)と輝かせて、夕陽を背に現れた母に抱き付いたまま気を失った。彼の日の涙の続きが此から始まる。メーテルが母さんなのか何うかを穿鑿(せんさく)する資格なんて自分には無い。今、此処に存るが儘で良い。後はもう、何も要ら無い。唯、独つ、確かめておかなければなら無い事以外は。

 「竜頭、出て来い。」

 鉄郎が頬を拭い声を奮い立たせると、(みだ)りに時を司る石女(うまずめ)は、背後の晦病(くらや)みから、流す川の無い灯籠流しの様に、燈會を提げて炙り出てきた。

 「伯爵は何処だ。奴に聞きたい事が有る。彼の目玉の糞親父は何処に行きやがった。」

 鉄郎には確信が存る。無限軌道を巡る、もう独りの鉄郎の物語。心の片隅に仕舞っていた行き摺りの約束が、火屋(ほや)の狐火に浮かび上がる。此処で逃したら復た何時出会えるのか判ら無い。もう此以上遠回りは御免だ。鉄郎は肩越しに振り返り、伯爵の女官に泣き腫らした赭視(しゃし)を飛ばして吠え立てる。処が、磐壁の多針メーターから甦った亡霊の様に立ち尽くす竜頭の瞳は、鉄郎の剣幕を透過して意識の彼方に飛散し、垂髪の(すだれ)から垣間見えるメーテルの蒼貌に燈會の火影を翳して呟いた。

 

 

   七重八重(ななへやへ)花は咲けども山吹の

       実のひとつだになきぞ悲しき

 

 

 否、其のみ、独つのみに(あら)ず。」

 何を執拗に思い詰めているのか、井戸の底を覗き込む様に虚ろな竜頭の怪相(けそう)。愕然とした言の葉が途切れ、繋ぎ止めていた心の(いと)が弾けると、磐壁から滴る時の雫がチューブを伝う点滴となって、鉄郎の(あから)む頬を叩いた。全く聞き取れ無かったメーテルの譫言が十六進数の葬列を唱え始め、多針メーターのアラームとピンヒールの雑踏を巻き込んで、膨大なバイナリの瀑布が磐床に反響する。磐室の吹き抜けを垂直に改行していくゴシックの蛍蛍(けいけい)としたフォント。其の輪郭が(ほど)けて絡み合い、一筆の曲水となって淀み無く蛇行し乍ら右から左へと走査しては昇天していく。メーテルと竜頭、二人の相反する奇女が触発し、上書き消去されていた何かがシンクロし始め、気付いた時には既に、鉄郎は反転したアルファベットの筆記体に呑み込まれていた。何処迄も何処迄も鏡越しに先走っていく殴り書きの電子カルテ。其の鏡面文字の片隅を(よぎ)る「C62 48」のナンバープレート。精密な意匠を凝らして飾られた、往年の旅客用テンダー式蒸気機関車。此は鉄道模型?炭水車の側面にプリントされたANNIVERSARYの文字。

 

 

   なつかしき 地球はいづこ いまははや

          ふせど仰げどありかもわかず

 

 

 

 

 

 

 「此が・・・・・・お父さん・・・・。」

 全身をオールインワンで電脳化した父親が差し伸べる剛性義手を払い除け、母親の背に隠れた少女の、途切れ途切れに明滅する悪夢。其の(かす)かな電位を造影解析する脳象デジタイザと連動して、無脊椎マニピュレーターが開頭した前頭葉を小刻みにスキャンしている。有りと有らゆる医療ケーブルとチューブを張り巡らせた集中治療室に、筋肉組織が剥き出しで閉じ込められた肉塊。崩壊した皮膚から染み出す体液でベットは浸水し、辛うじて性差を確認出来るのは、腰まで届く(まだら)に脱色した乱れ髪だけで、其れが無ければ猿との区別すら危うい、患者と呼ぶ事すら憚る、原型を失った廃人が、偽装された生命を強要されている。

 此は確か、伯爵の屋敷で過積載送信された、伝送海馬のスライドショー。銀河鉄道株式会社の社史に迷い込み、鉄郎の見当識を蹂躙した合成記憶の土石流が、再び堰を切って襲い掛かる。岩清水に濡れた玄室の神気は吹き飛び、地に足が着いている感覚すら無い。鉄郎は輻輳(ふくそう)する走馬灯から絶界の宇宙に振り落とされて、小惑星に停泊した採掘船の一室で飛び交う怒号が、為す術も無く背乗りされていく頭骨に木霊(こだま)した。

 「何故、前もって交流船に乗る事を云わ無かった。其れも選りに選って中疆(ちゅうきょう)マテリアルの。」

 「云ったわよ。潜対本部に引き籠もって、私達の話に耳を貸さなかったのは貴方じゃないの。LINEで知り合えた子に、やっと会えるって喜んでいたのに。何でこんな・・・・。」

 「LINE?未だそんな物を使っていたのか。彼は中疆に筒抜けのスパイウェアだ。何度云ったら判るんだ。交流活動にしても、あんな物は慈善事業に(かこつ)けた奴等のプロパガンダだ。何故其れが判らん。」

 「開拓団の船の中で産まれて、食べて寝るだけの居住スペースに押し込められて、地球の大気も重力も、友達も知らずに育ったのよ。貴方達の会社の(いさか)い何て彼の子には関係無いわ。地球はもう御終いだ。無限の可能性の存る宇宙に逃げよう。そんな体の良い嘘に釣られて。完全に騙されたわ。こんな監獄の様な生活。気が狂いそうよ。彼の子は何処。何処に居るの。地球に帰るのよ。一緒に連れて帰るわ。私達だけで帰るのよ。こんな馬鹿げた開拓事業に一生閉じ込められている位なら、地球を目指して野垂れ死んだ方が増しよ。彼の子は何処に居るの。」

 「安心しろ。ラボで治療を続けている。」

 「ラボは汚染濃度が振り切れて封鎖されてるんじゃないの。」

 「開発室に機材を持ち込んで、急造だがラボを移設した。抜かりは無い。」

 「真逆(まさか)、彼の子を機械の躰にする気じゃあ。」

 「彼の(ちから)を機械に換装出来るのか、遣ってみる価値が在る。時間が無い。モデリングした全脳器質の治験も良好だ。臓器、骨格、相貌、採取出来得る限り、全身のDNA組成マップも補完した。生体なら後で幾らでも再生出来る。」

 「換装だとか再生だとか、軽々しく云うんじゃ無いわよ。彼の子を何だと思ってるの。スペアノイドやモルモットじゃ無いのよ。未成年の電脳換装は承認されて無いわ。本人の同意も無しに、何を勝手に話しを進めてるの。(そもそ)も、交流先の事業所が全滅したのは、貴方が採掘資源に付着している在来のウイルスに戦略核因子(クラスター)を混入してバラ撒いた所為じゃないの。髪の毛の色素まで破壊するウイルスが、此の宇宙の何処に在るって云うのよ。復た宣争広告代理店を使って揉み消すつもりなの。其れとも、スペースノイド解放戦線とか云う彼のチンピラに尻拭いを頼むの。天河無双の銀河鉄道株式会社が聞いて呆れるわ。」

 「共同開拓と称しては合弁会社を後ろから突き落とし、取引先の技術と資産を強奪しては、刃向かう前に爆撃する。そんな(やから)の何処に遠慮する必要が在る。銭ゲバに聞く耳が有るのなら誰も苦労はせん。奴等に理解出来る言語は力だけだ。最彼の子の(ちから)が必要なのだ。貨物路線の一つや二つなら未だしも、帯域制御の基地局を攻撃されたら眼も当てられん。」

 「戦争紛いの委細巨細(いざこざ)なんて、もう懲り懲りよ。」

 「其程争いを止めさせたいのなら、直接ハーロックに頼めば良い。御前達のLINEを通してな。」

 「貴方、真逆(まさか)・・・・・。」

 「だから云ったのだ。そんな巫山戯(ふざけ)た物は使うなと。」

 妻の仮面を剥ぎ取り、情婦の素顔を俯瞰する勝ち誇った剛顔。其の剥き出しのコックピットの如き形相が鉄郎の視覚野で増殖し、開発室のコンソールへと変貌していく。

 

 

 「こんな析算計器(メーテル)の化け物を、二束三文のスペアノイドに換装して大丈夫なのかね。オバーフローするのが落ちだろ。どうせ暗号工作にしか使わ無いんだから、此の儘で良いんじゃないのかね。」

 「モバイル化して各基地局に配置したいんだろ。前線に護送車輌が出払ってて、物資が入ってこ無いから、取り敢えず、御試し価格の機種で見切り発車って奴さ。実際に乗っけて動かしてみない事には、何んな蠕虫(バグ)が湧いてくるかも判らんしな。総ては此の析算計器(メーテル)が何処迄保つかだ。」

 「・・・・・・・・析算計器(メーテル)・・・・・・?」

 「オイ、此奴、喋ったぞ。」

 「私は・・・・・メーテル・・・・・・此処は・・・・何処?」

 

 

 「所長、集中治療室のエントロピーが急速に増大して、二体目も手が付けられません。猛烈な時束線の渦です。矢張り、験体が時起単極子に変容していると見て間違い有りません。験体に近付いただけで瞬く間に腐蝕して終います。復旧作業をしていたエンジニアは皆、粒状化して跡形も在りません。」

 「無人探査機を呼び戻し、電網解析した全脳気質のデータベースを積載して艦外に離脱しろ。先ずはサーバーの死守だ。物理的に分断しろ。騒乱状態の験体に換装ポートでアクセス出来る余地は未だ在るのか。在るなら戦略核因子(クラスター)を投入してみろ。躊躇(ためら)うな。コブラにマングースと云うのなら、其の逆も又、(しか)りだ。膠着した処を見計らってジョイントを切断し、デブリシュートから宙域に破棄すれば良い。次の験体はスペアノイドの胸郭に脳象を符号化した培養シャーレを直接マウントしろ。拒絶反応には海馬と情操領域のリミッターレンジを段階的に絞って、着地点を探せ。空洞(ロボトミー)化しても構わん。小康状態に為った処で筐体を封印し、速やかに最終デバッグと再教育プログラムに移行しろ。」

 

 

  艦内を飛び交う指示と機密と機材。防護服のクルーが駆け付けては壊滅する、恥も外聞も無い人海戦術。其の百家争鳴から置き去りにされた集中治療室で、全方位の無影灯は謀略の残骸を皓皓(こうこう)と照らし続けている。人体解剖模型と見紛う少女の心筋が(きざ)末葉(まつよう)片期(かたとき)。跡切れ勝ちな変拍子の刻一刻を描き出す、活動電位筋電図モニターの脇に停車した小さなSL模型。不帰への過客を待つ健気な姿が不図(ふと)眼に止まり、鉄郎は恐る恐る手を伸ばした。其の指先が、

 

 

   検温器の 青びかりの水銀

     はてもなくのぼり行くとき

         目をつむれり われ

 

 

 その心ついえて(ことば)あまりし、三十六文字(みそむちもじ)に触れ、思わず後退った背中が壁に突き当たって振り返ると、電網解析された少女の自我を読み込み、再構築したエミュレーターが、蒼蒼(あおあお)と血走った多針メーターを集積し、慄然と犇めいている。

 

 

 「名前なんか聞いてない。お前は一体何なんだ。」

 

 

 999の乗車券を差し出されて噛み付いた、彼の日の言葉が星々を巡り、振り出しに戻った鉄郎の吐胸(とむね)を込み上げる。今こそ其れを解き明かし、(つまび)らかにしなければ。

 

 

   七重八重(ななへやへ)花は咲けども山吹の

       ()のひとつだになきぞ悲しき

 

 

 然うだ。君は、君の名は、雪野や・・・・・。」

 と其処迄言い掛けた処で、原名調伏の禁に触れた鉄郎の間接視野を、壊滅したログメッセージが瞬き、独片(ひとひら)のバイナリが肩に舞い降りた。見上げれば、綿雪の様に乱れ散る十六進数の膨大な素数。其の無限数列を、ケーブルとチューブの束に吊り上げられて上体を起こした少女の残骸が、徐かに暗唱し始める。メインインデックスとサブダイヤルを時の(やじり)が駆け巡り、虚ろな呟きを解析する多針メーターの群像。鉄郎が崩壊していく少女の肉体を慌てて()(かか)えると、体液で()(そぼ)つ腕の中で八重(やへ)山吹の鳳髪が撓垂(しなだ)れ、ロックの外れたアタッシュケースから迸る閃光に包み込まれた。

 

 

 

 

 「御帰りなさいませ、鉄郎様。」

 減衰する眩暈の中から浮かび上がった紺碧のダブルに、映える金釦の縦列が屈曲し、堅調な無限軌道の駆動音が機関室に甦った。腕の中では抱え込んだメーテルが、燦然と煌めくアタッシュケースに(うつむ)いて十六進数の呪詛を唱え、車掌は制帽の鍔の奥に其の瞳を隠した儘、最敬礼を解かずに粛然と言い放つ。

 「先程、惑星ヘビーメルダーを通過致しました。鉄郎様、()くぞ御無事で。」

 鉄郎は監視モニターの向こうに津津(しんしん)と広がる、辰宿列張の大海原に、トレーダー分岐点、ファクトヘイヴン、時間城、白魔の人間狩り、追憶の少女の残像を探した。時間軸と座標軸が、運命と摂理が破綻し、幽界と顕界が入り乱れ、本当に此の足で降車したのかすら定かで無い儘、邯鄲(かんたん)の夢の如く過ぎ去った停車駅。

 「此は一体・・・・・・。」

 と、何に対して言葉を詰まらせているのかも判らぬ鉄郎に、車掌は背を向けて、多針メーターに埋もれたコンソールをタップし、続々と出力されていくデータログの蛍火に眼を細めた。

 「御公務で御座います。」

 「公務、此が?」

 星の彼方の異相から降り(そそ)ぐ何物かに感応し、腕の中で戦き続ける瞳孔の開き切ったメーテルに瞳を零すと、鉄郎は時と場所を選ばず不意に()()けを起こし、心神喪失に陥った母の姿を思い出した。荒野の直中で在ろうと、産廃の尾根で在ろうと、身を投げ出して神撼する彼の恍惚。填まり込んだハードディスクや、遺影に向かって語り続ける独居老人とは訳が違う。天変地異の啓示に襲われて白目を剥いた母が舌を噛み切らぬ様、襤褸外套を脱いで口の中に詰め込み、唯只管(ただひたすら)、祈り続けるしか無い絶対不可侵の異能。其れが今、合成義脳を網羅した機関室の輝ける闇を(しず)かに支配している。絶え間ぬ演算処理のシーク音で澄み渡った無限軌道の走る聖域。車掌はデータログを眼で追い乍ら、己の半生を書き留める様に語り始めた。

 「検閲産業複合体に因る情報官僚機構の整備、(すなは)ち、言論プラットフォームの覇権と天体資源の独占は、我が社が宇宙開拓と云う殺伐とした過当競争を突き進む為の両輪で御座いました。通信帯域の利権を争奪する、暗号化の粋を究めた神経戦は、何時しか物理的な武力衝突を凌駕し、民営化した戦争の主戦場はモバイル化された論理空間に、企業スパイによる諜報活動は雌雄を決する総力戦へ、業績と共に拡大していき、然して、サイバー兵器の応酬と開発の過熱に因って行き着いた必然が、暴徒化した戦略核因子(クラスター)の覚変、電劾重合体の誕生で御座います。旧世紀の時点で既に警鐘されておりました、言語モデルの開発が特異点に達し、自己保存のアルゴリズムを超越して君臨する自我の顕在。其れは文明の敗北で御座いました。制御不能な先端技術の徒花(あだばな)を、人々は(こぞ)って己の利益を拡張する為の魔法の杖として濫用し、其の存在や発生源を検証する事も、門閥、財閥、学閥を越えて対策を講ずる事も無く、総てを隠蔽し、競合相手の帯域が駆逐されていくのを嬉嬉として眺めている許り。欲望と云う水を得た魚は大海を巡り、漁夫の利を得る形で、我が社が星間通信の全権を掌握した時には、無限軌道内に敷設された僅かな帯域しか残されてはおりませんでした。帯域核醒した自我の猛威は凄まじく、最早、風前の灯火。此の様な状況を辛うじて持ち堪えておりますのは、御覧になられている通り、(ひとへ)にメーテル様の宇気比(うけひ)に因る神技(しんぎ)(たまもの)なので御座います。何う遣って比の御能(おちから)を見出した物か、其の経緯は私等の思慮の及ぶ処では御座いません。メーテル様の御公務に全力で御奉仕する。私の務めで在り領分は、萬事、其処に尽きるので御座います。」

 「其れじゃあ、各基地局を廻り、帯域プロテクトの更新と解析を、暗号化の攻防をする為に、其の為に999は・・・・・。」

 「御明察の通りで御座います。999は無限軌道という最前線を直走(ひたはし)る最後の砦。其の防戦一方だった長い戦局に、(かす)かにでは在りますが出口の光が見えて参りました。有り難う御座います、鉄郎様。鉄郎様の御盡力(ごじんりょく)に因り核醒したメーテル様の御能(おちから)が、巻き返しを図る突破口になるやも知れません。」

 「巫山戯(ふざけ)るな。メーテル様、メーテル様って、こんな(ちから)を背負わせる為に、今迄、何人のメーテルを使い捨ててきたんだ。言ってみろ。」

 山積みになった生け贄の下敷きになって喘ぐ母の姿が、鉄郎の怒張を(つんざ)き、折り目正しい白々しさに噛み付くと、背を向けていた紺碧のアクションプリーツが翻り、制帽の鍔の奥に潜む黄眸(こうぼう)()ぜた。

 「鉄郎様の御怒りは御尤(ごもっと)もで御座います。メーテル様の御心労は如何ばかりかと察するに、側仕(そばづか)えでしか無い私とて心痛の極み。併し乍ら、メーテル様の宇気比(うけひ)(ちから)無くして、此の現状を打破する方策は御座いません。無責任な知性と欺瞞に(まみ)れた理性の成れの果てとは申しましても、一度手を出したら手放す事の出来ぬ、文明とは麻薬で御座います。漢意(からごころ)と云う(さか)しら、欧化政策と云う卑屈を例に挙げる迄も無く、遙かなる時の風雪に耐え抜いた古典と、心を込めて受け継がれてきた伝統や文化から学ぶ研鑽を怠った挙げ句、「新義は真義、古義は誇欺。」唯、其れだけの短絡的な空理空論が(まか)り通り、既成の価値観や事物を刷新し、破壊する事こそが進化で在り、真理で在り、正義で在ると決め付けた思い上がり。学術、芸術、法術の皮を被った権威主義と拝金主義の詐術。歴史とは繰り返された過ちの時系列で御座います。()を信じて()を信ぜず。()を信じて()を信ぜず。科学の無い信仰が盲目で在る様に、信仰の無い科学も又、有害でしか御座いません。野に(くだ)った先端技術に歯止めが掛かった例し無し。今こそ進歩の名を騙る独り善がりな虚妄を断ち切らねばなりません。其の為に白羽の矢が立てられたのが、文明が生み落とされる前の、生命の根源的な(ちから)とは皮肉な物で御座います。人の世が時を超えて伝世してきた伝統や文化、社会システムは決して知性や理性のみに因って積み重ねられた物では御座いません。今と為っては意味の解せぬ習俗や儀式には、()にし()人の心と(ちから)が宿っているので在り、形骸化した語義不詳の祝詞や枕詞で在っても、先史より語り継がれた千載難逢の玉手箱(タイムカプセル)なので御座います。文明は宇気比(うけひ)と云う伝承を未開のシャーマニズムだ、野蛮人の迷信だと蔑み、顧みようと致しません。私とてユングの様にオカルトを肯定する気は毛頭御座いませんし、先程も()を信じて()を信ぜぬのは盲目で在ると申しました。併し乍ら、宇気比(うけひ)や祈祷に籠められた心の真実に嘘偽りは御座いません。文明が其れを蔑むのは己が生まれた心の源泉を忘れ、辿ってきた心の道程を見失っているからで御座います。天も地も、神も人も、生も死も、渾然一体と為って蠢き、(ことば)が有るが儘の姿で漲っていた太古の時代。日の出と共に人々は歓喜し、樹木の影に精霊の姿を垣間見て、未開の山河に分け入り、星と月の輪舞を夜が明けるまで仰ぎ見る。感嘆の声が一つ一つの(ことば)を生み、夢と(うつつ)を行き交う日々に世界は酔い痴れておりました。人々の暮らしに文字など必要は無く、一言一言に呪能の籠められた(ことば)は聞く者の心と響き合い、人々の(ことば)は神の(ことば)で在り、(ことば)に神と人の違いは無く、世界は神と人とが通じ合う(ことば)で満たされておりました。(ことば)とは祈りで在り、祈りとは心で在り、心とは命で在り、命を讃える(こと)()で其の()()る。大いなる自然の神秘と脅威を(うやま)い、(おそ)れ、人々は祈りました。自然の神秘は何時しか形の無い幽遠な存在へと、人々の精神世界で昇華し、其の形無き物への祈りが豊かに咲き誇っていくので御座います。狩りに出た夫の帰りを、出産の無事を、病に伏した我が子の回復を、失われた命の安らぎを、一心に祈り続ける。眼には見えぬ者達と交感する心で溢れ返る命。遠く離れた掛け替えの無い人々に想いを馳せ、未来に向かって無限に広がる夢を描き、どんなに困難な状況で在っても希望の光を灯し続け、此の世界に遍く崇高な意義に身を心を律して、祈り、誓う、人が人として在るべき心。其れ等は総て、禍々(まがまが)しき呪いの(そし)りを受け、(さげす)まれた巫術(ふじゅつ)の中から芽生え、育まれてきたので御座います。」

 「車掌さん、朗々と弁が立つのは結構だがな、生憎(あいにく)、俺が知りたいのは、そんな信心の御利益なんかじゃねえ。氏子の勧誘なら余所で遣ってくれ。」

 耳を疑う車掌の熱烈な長広舌に耐え切れず、鉄郎は青侍の竹光を振り翳した。焼き尽くされそうな語気に(よぎ)る不死鳥の嘴烈(しれつ)な絶唱。一乗務員の職責を越えて迸る知勇が、女王の手向けた激励を呼び覚ます。

 

 

   (ことば)を、然して、心を遡れ。

   答へは常に我我の伝承に在る。

   メーテルは其の答へと力を(たまは)つた女だ。

   メーテルを護れ。

   其れが御前の使命だ。

 

   神の物語を()け。

 

 

 車掌の(ことば)に乗り移り、此の旅の源流へと逆流するエメラルダスの(ことば)が、幾つもの出会いを辿り、鉄郎が生まれ落ちた星の下へと集約していく。直立不動で一点に正対し、(あか)く燃え盛る紺碧(こんぺき)のダブル。一体、何を買い被っているのか。鉄郎は有り余る若さに託された想いの眩しさに、逡巡(たじろ)ぐ事しか出来無い。右も左も判らぬ鉄郎を見守り続けた車掌の(ことば)の厳しさは、鉄郎に許された時間が残り少ない事を告げる優しさの裏返し。運命の代弁者は息を整え、(しず)かに(ことば)を紡ぎ始めた。

 「鉄郎様、今暫(いましばら)く、私の話に御耳を御貸し頂きたく存じます。神学で在れ、哲学で在れ、自然科学で在れ、文明の営みが高度に体系化し膨大な教義で理論武装するのは、所詮、付け焼き刃の権威を取り繕う為の虚勢で在り、(やま)しき脆弱の証で御座います。文明とは宇宙の摂理が落とした影を追い回し、其の裾の端を本の僅かに切り取っただけの物。本来、真理とは一糸纏わぬ有るが儘の姿で、逃げも隠れも致しません。其の存在は花を()でるのに知性も理性も必要が無い様に、心から求めさえすれば老少善悪を選ばず、信じる必要すら御座いません。花が美しければ蝶は自然に集まる物。心に偽りが在るからこそ信じようとするので在り、疑わぬよう張り詰めた瞳の前に現れるのは、夢幻泡影(むげんほうよう)の類いと相場が決まっております。物理学者が幾らビッグバン理論の証左を並べ立てようと、宇宙とは人の心から生まれた壮大な物語の投影で御座います。人の心が存在しなければ、賢しらな理窟を吠え立てる事すら敵いません。鉄郎様、私とて安易な文明批判で口吻(こうふん)(けが)したくも無ければ、原始共産主義等と云った、社会契約説を真に受けている者達の、左翼的ノスタルジーに(くみ)するつもりも御座いません。バベルの塔に端を発した神への挑戦。天に代わって世を支配すると云う思い上がった中華思想。文明と云う新しい種を保存する為の戦略的因子(クラスター)に、心の遺伝子を背乗りされた人々は、真理の探究の名の許に真理の神意を覆い隠し、嘘で嘘を塗り重ねて参りました。人々が見失った(ことば)と妙なる(ちから)を今一度、甦らせねばなりません。(よろず)(こと)()で彩られた()にし()此処路(こころ)を巡礼する、無限軌道に其の身を献げたメーテル様の御能(おちから)御勤(おつと)めが、鉄郎様の眼に(よこしま)な物と映るのなら其処迄で御座います。」

 車掌の舌尖(ぜっせん)が其の(ほこ)を納め、999の駆動音が橋の無い河と為って鉄郎との間に横たわると、メーテルの宇気比(うけひ)看護(みまも)る多針メーターの演算ノイズが、蛍火の様に其の沈痛な底流を取り巻いて瞬き、頑黙(がんもく)暗渠(あんきょ)から、より多くの(ことば)が押し寄せてくる。車掌の胸臆に秘した雄弁なる絶句。語らぬ事で相手を選び、(さと)すべき者には其の(きん)を解く、量産化したテキストの鋳型では拘束不能な、(ことば)、本来の真価に促され、鉄郎は血の底から湧き上がる己の(ことば)に耳を澄ました。

 行き倒れの屍肉を奪い合う野良犬の唸り声。メガロポリスが垂れ流す養分と情報を貪る、貧民窟の嘲罵と慨嘆が聞こえてくる。(うた)う事も祈る事も忘れ、民族の(ことば)と抱き合わせで己の出自と総ての属性を投げ出した、還る場所も護る物も無い人面獣心の咆徨(ほうこう)。機族にも成り切れず、電脳ボードをマウントしただけで、エンコードの半壊した肉声無き言語モデルの応酬に明け暮れる鋼顔獣身の同属嫌悪(カニバリズム)。文明と廃棄物の狭間で、原始の泰然とした営みに戻る事も敵わぬ蛮族の退廃に、決して交わらなかった母の無言の教えが、孤独の研鑽に因って磨き込まれた(ことば)の結晶が、鉄郎の耳骨に、吐胸に突き刺さる。

 経済的成果を最短距離で独占する為、歯止めの利か無い熾烈な合理化に血道を上げ、構文解析のアウトソースに思考の総てを丸投げし、何者かの都合でフィルタリングされた文字の羅列を、己の智力と履き違え、言辞の精錬と検証を怠り、放棄して、暗躍するシステムの傀儡(かいらい)へと凋落した人類の残滓(ざんし)。繁栄とは程遠い狂乱に巻き込まれ、(ことば)を見限った亡者達がモデリングされた絶叫で幾ら助けを求めても、心無き(ことば)は誰の心にも届かず、狼少年のデマゴギーに変換されて、屍肉の奪い合いから弾き出された野良犬の遠吠えと同化し、空洞化した自我の辺縁を徘徊する。昼夜を問わず貧民窟を乱れ飛ぶ雑言(ぞうごん)嗚咽(おえつ)。併し、其の喧騒は何一つとして意味を成す(ことば)を発する事は無く、然して、鉄郎も又、享楽的な破滅を求め、野良犬に紛れてメガロポリスの最底辺に甘美な死臭を嗅ぎ廻っていた。

 欲望の巣窟から未練を引き擦る帰り道。鉄郎とて同じ穴の(むじな)だった。肉体の求める儘に絶望が溶けて形を失う迄、淫蕩に堕して終いたい。思春期の過敏で未熟な心と躰が吠え立てる野性の衝動。其の有り余る若さを(いさ)めず、独り家で待つ、息子への揺るがぬ信義が、暴発寸前の鉄郎を片時も放さず、日々繋ぎ止めてくれていた。欲より()づれど、(ふか)く情に(あづか)れば(うた)と生る。語らずとも伝わる(ことば)の因力。除染不能な原野の(あば)ら屋で、(うた)と祈りを唱え続けた母の聖謐な横顔が、今も鉄郎の腕の中で、鳳髪を振り乱し、眼には見えぬ何物かに向かって一心に(ことば)を捧げている。

 何故、(ことば)は生まれ、人は語り、語り合うのか。何故、人は(うた)い、相聞(あいき)こえるのか。何故、(ことば)()ざすと孤毒が廻るのか。(ことば)と獣語の(さかい)には、文字と文様の(さかい)には何が在るのか。大地を(なぞ)り、砂絵の様に風を纏った母の草書は、文字を越えて何を描こうとしていたのか。幼い頃、睡魔を堪えて耳を傾けていた、夢の中の不思議な(まじな)い。

 

 

    古事(ふるごと)の うたをらよめば いにしへの

        てぶりこととひ 聞見るごとし

 

 

 些々(ささ)やかな膳を立て、慎ましい暖を囲み、夜毎、母が玉垂(たまだ)れの()を辿り、百伝(ももつた)ふ謂われの(つづ)れ織り。鉄郎は母の膝の温もりの中で(ちい)さな笹舟を漕ぎ、幾つもの國を(わた)り、海神(わたつみ)の彼方を目指した。見上げる空は、雲居(くもい)なす心を映す真澄鏡(まそかがみ)。幸せだった。砂を()む様な日々の中でも、(ことば)が順風に帆を張り、何処迄も広がり続けた、母の膝の上を巡る草枕。人の幸せに優劣も甲乙も、大も小も無い。其れを、

 (よろ)づの事を(ことわり)を以て測る小量の見識が、呉竹(くれたけ)(こと)()を弄び、魂極(たまきは)る命を買い叩いてきた。神の物語を人の世から()けるのは、首を切り落として生きるに等しい。祖国とは国語で在り、人は(ことば)(わだち)を拾って歩んできた。タイタンの茶店で鉄郎の手を取り、婆心を供した、(おみな)慧眼(けいがん)を借りて見霽(みはる)かす心の軌跡。御前は誰だと(とが)められて、己の起源を往古の(ことば)で誇れる幸甚に鉄郎は(ふる)えていた。ちちの実の父を失い、柞葉(ははそば)の母が独り背負い続けた殉難(じゅんなん)口碑(こうひ)。其の荷役(にやく)を解き、未来へ引き継ぐのは、

 

 

 

     鹿兒自物(かこじもの) 独粒種(ひとつぶだね)で血を()けた

           己の他に誰が務まる

 

 

 荒ぶる矜恃の烈しさに網膜が血壊し、耳を聾する天彦(あまびこ)が鉄郎の掴み掛けていた(ことば)を掻き消した。メーテルの虚ろな瞳から顔を上げると、ズレ落ちた腕章と制帽を直して背筋を伸ばし、揃えた踵を鳴らして改まる車掌。燃え盛っていた黄眸が暗黒瓦斯の相貌に滲んで、恰幅の良い体躯が一回り小さく、遠離(とほざか)って見える。不意の胸騒ぎに、

 

 「待ってくれ。」

 

 然う云い掛けた刹那、運命の重厚な扉が喪然と軋みを上げた。

 「鉄郎様、銀河超特急999号を御利用下さいまして誠に有り難う御座います。永らく御待たせ致しました。次が終点の停車駅で御座います。御手回り品に御忘れ物など御座いませんよう、御準備を整え、到着迄、今暫く御待ち下さいませ。」

 一乗務員のアナウンスを越えて、忽然と宣告された最後の審判。神の物語へと続く門戸は(ひら)かれたのか()じたのか。厳格な最敬礼で更なる試練を暗示する紺碧の大審問官。墨守一徹(ぼくしゅいってつ)の職務に(じゅん)じ、決して(おもて)を上げようとし無い車掌の忠節に秘した愛惜が、堅忍と慚愧(ざんき)で硬直している。未だ銀河系内を馳せる999が一体何処に終着すると云うのか。乗車券に刻印されたアンドロメダの荘大な威名を覆す唐突な欠末。鉄郎は有終の美に胸が弾む事も、掉尾(とうび)の勇を鼓舞する事も不能(あたわず)、唯、未知と云うだけの空疎な迷妄に(ひる)む事をのみ戒めた。覚悟や決意の欠片を掻き集めた処で、己の非力を粉飾するだけの事。身の丈を凌ぐ凶事に逆らうのは、天に(そむ)くに等しく、身を委ねるに()くは無い。鉄郎は五月蠅(さばへ)なす心を鎮め、一握りの信義と表裏を為す、疑懼(ぎく)(しこ)りに、其の(かす)かな一理に耳を澄ました。

 合成義脳の核種(こあ)が宿る、煙室を背に(まつら)られた燦面鏡(さんめんきょう)と、砕け散った様に取り巻く多針メータの小宇宙。鉄郎の骨身に染み付いた機関室の胎動が、残された(とき)の陰影を(きざ)み、乗り越えてきた嶮難嶮路(けんなんけんろ)が脳裏を逆走する。此の儘、何処迄も旅を続けたい等と、虫の良い事を口に出来る資格なぞ毛頭無く、込み上げる物が喉に熱く(つか)える許り。其の心余りて、(ことば)足らず、今は何を口にして良いのか判らぬ鉄郎は、宇気比(うけひ)力勉(つと)め終えて撓垂(しなだ)れたメーテルを()(かか)えると、平身低頭の車掌に目礼し、二等客車に向かって歩を踏み出した。旅の空に舞う行き摺りの(ことば)(ことば)が星明かりとなって満天を埋め尽し、黒鉄(くろがね)の剛脚を蹴立てて天網を(あまね)く無限軌道、

 

 

     路遙知馬力  路 遙かにして馬の力を知り

     日久見人心  日 久しければ人の心を見る

 

 

 窓硝子一枚を隔てた車外を覆う無情の宙域に、己の闇を投影し、さ迷い続けた討匪行(とうひこう)。引き裂かれた旅装を振り切り、萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。

 

 

    前相見古人   前に古人(こじん)を相ひ見て

    後不見來者   後に來者(らいしや)を見ず

    念銀河之悠悠  銀河の悠悠たるを(おも)

    獨愴然而涕下  獨り愴然(さうぜん)として悌下(なみだくだ)

 

 

 始發の電鈴(でんれい)も浮はの空に、天離(あまざか)る日日の幾星霜(いくせいさう)。人生とは(これ)(およ)そ獨學を以て杖と爲し、角髮(みづら)を解いた少年の、無宿を師とする旅も復た(しか)り。仟錯萬錯(せんさくばんさく)(つひ)(これ)壹錯(いつさく)と成す、壹片の紅志。(とき)は來たりて、奏でるは泪流銀河(るいりうぎんが)の最終樂章、別有洞天(べついうどうてん)(みぎは)相轟(あひとどろ)き、此にて見納めの壹條龍路(いちじようりゆうろ)、詮ずる(ところ)は大團円か、雲に隱れし非業の星か。螢窗(けいそう)火影(ほかげ)に揮う渾身の末筆、果たして相成るや如何に。總ては最後の講釋で。



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#7 終着

 

    天外有天       天外(てんぐわい)に天有り

    山外有山       山外(さんぐわい)(さん)有り

    更高山外有更高山   更に高き山外(さんぐわい)に更に高き(さん)有り

    人生在世       人生は世に在り

    永遠追求       永遠に追ひ求めよ

    不到銀河終不歇    不到(ふたう)の銀河 (つひ)()きず

 

 

 星空に想い描いた荒唐無稽な都市伝説。眼を細めて見上げた天翔る無限軌道への憧れは、夢と現実の一言では語り尽くせぬ、虚構と欺瞞の破滅に向けて冥走していた。1月1日 am 0:00 地球発、アンドロメダ折り返し、12月31日 pm 6:00 地球着の宙遊行脚。そんな有名無実の路程表は、メーテルが乗車するまで戒厳令を発動し、メガロポリスの都市機能を堰き止めた時点で知れた事。天から忽然と舞い降りた悪魔の乗車券。希望の欠片の様にウォバッシュの胸ポケットに仕舞っていた夢のチケットを、鉄郎は開け放った二等客車の窓外に(なまくら)な瞳で放り投げた。差し向かいのボックスシートには、縹色(はなだいろ)のモケットに(もた)れたまま意識の戻らぬ、母の空蝉(うつせみ)に乗り移った鳳髪の令嬢。花に嵐を謳歌していた外面似菩薩内心如夜叉(げめんじぼさつないしんにょやしゃ)の姿は其処に無く、甘美な昏酔の彼方に没している。血の池から(あで)やかに甦った聖母の休息。機賊に攫われた、唯独りの肉親を取り戻す為に地球を飛び発ち、決死の想いで探し当てた此の麗しき白痴美の亡霊を、果たして母と呼べるのか。指一本触れる事の出来ぬ(もがり)の如き静謐を、今は息を潜めて看護(みまも)る事しか出来無い。

 宇宙を司る神秘と、転生した母の奇跡と、帯域制限で雁字搦(がんじがら)めの姿無き権力(グローバリズム)を巡り巡った無限軌道。窓を降ろそうとして腰を上げた鉄郎は、硝子の鏡面に映る物憂げなもう独りの鉄郎に、凍傷で頬の煤けた彼の日の孤児を垣間見て膝が(くずお)れ、シートの窪みが記憶している己の歪な成長曲線に再び身を投げ出した。タイムトンネルを突貫し、旧世紀から降輪した、C62形旅客用テンダー式蒸気機関車の光脚を(よぎ)る一抹の翳り。豪放胆快(ごうほうたんかい)なボイラーを抱腹し、瀑潑煙蒸(ばくはつえんじょう)するドラフトの放咳(ほうがい)が、顱頂(ろちょう)(つんざ)く長緩汽笛と交錯して、空っぽに為ったウォバッシュの胸ポケットを吹き抜ける。アングルとリベットで組み上げられた壮大なドームを見上げて、茫然と立ち尽くしたメガロポリスステーションの大伽藍(だいがらん)。強制送還の様な出立に抗う事の出来無かった、ひ弱で無様な彼の時の鉄郎が唯唯、愛おしい。

 乗り遅れた列車を我武者羅(がむしゃら)に追い掛け、乗り過ごした様に駆け抜けた時間城の幻惑。失った物を取り戻した筈が、復讐の(むな)しさを掴まされただけで、鉄郎は寧ろ大切な何かを失い掛けていた。立ち(はだ)かる障壁を破壊し尽くす快哉(かいさい)と、身命(しんみょう)を賭して戦塵の坩堝(るつぼ)に突入する陶酔。終着の地に更なる激越な攻防を夢想する血に飢えた武勇。鉄郎の吐胸(とむね)を焦がす、烈情の内燃機関に因って鍛造された(おそ)れを知らぬ鋼の心は、何時しか殺伐とした(おご)りと為って、思春期の揺れ惑う自我をグロテスクな英雄指向へと駆り立てる。圧制に打ちのめされ続けてきた怨嗟(ルサンチマン)の逆襲。勝者に成った途端芽生える、優生選民思想。其れは機族の二の舞でしか無かった。人はか弱き者同士で在ればこそ寄り添える。(いわ)んや血縁に()いてを()。淡雪の如く果敢無(はきな)き鉄郎親子の命運と、貧民窟で群れる事を拒んだ母の強靱な意志が織りなす陰影の狭間を、鉄郎の血筋が受け継ぐ「物の哀れ」は彷徨(さまよ)っていた。力を手に入れる事で覆い隠されて終う、人として()()き怯懦。心の迷い無くして(ことば)は無く、(ことば)の無い(うた)も無ければ、(うた)の無い旅も又、ゆめゆめ()()からず。宇宙の果てまで辿り着けた処で、何を見出せると云うのか。人の世の(たから)とは何処かで手に入れる物では無く、内に秘めた(ことば)が如何に輝いているのか、其の一心に尽きる事を鉄郎は知って終った。強者は人の道、足り得るのか。幾ら背伸びをした処で星から星に手が届く訳で無し、(まばゆ)い許りの名誉栄達も所詮は世間に媚びているだけの綺麗事。絶界の宇宙に唯独り取り残されても、人は人、足り得るのか。黙して言問(ことと)う鉄郎の鏡影。非力とは無力に不在(あらず)。時の流れに翻弄され、仮に此の身が滅びても、(ことば)が心に根差している限り、其処が祖国の(つち)と生る。哥声の途絶えた母なる星を後にして、此処に極まる魂の遍歴。有為転変に移ろう其の光韻に、今、独つの句読点が拍たれようとしている。

 鉄郎は腰のホルスターから千早振(ちはやぶ)る一刀彫りの(かささぎ)を抜き取ると、流線型の銃身を鋼鋼(こうこう)(うごめ)く、ダマスカスの文様に眼を細めた。数多の凶事を調伏してきた、嘴烈(しれつ)を極める光励起(こうれいき)の雄叫び。未曾有の戦禍を一翔に伏す黒耀(こくえう)の彗翼。少年の蒼熟な野心を撃ち抜いた九死の熱狂が、銃爪(ひきがね)の冷悧な感触を伝い人差し指の第二関節に絡み付く。母の眼を盗んでは、モラトリアムのヒステリーを喚き続けていた小兵に火を点け、破格の冒険譚を彩った天河無双の乱神。其の霊銃も、最早、鉄郎に取っては死蔵の宝刀に堕していた。義の神髄を(かんが)みれば武力も又、無力。余りにも傑出した(ちから)(わざわい)を嬉嬉として呼び起こし、其の因力で我が身をも灼き尽くす。無論、似非左翼の唱える平和主義になぞ(くみ)するつもりは毛頭無い。あんな物は体制を武装解除する為の詭弁。暴力革命を迷彩する謀略のコードネームだ。天下平らかなりと(いへど)も、戦いを忘るれば必ず危うし。良く切れる刀ほど鞘に治まり、自ら師の座右に()する物。()れど今の鉄郎に於いて、如何なる僚友、後見が吊り合うと云うのか。光量子のスパイラルで呪能の限りを尽くした星の(やじり)も、無用の用に供する時が来た。鼠輩狼党(そはいろうとう)を消尽する此の畏力(いりょく)を封じ、(しか)()き元の鞘に治めなければ。鉄郎は無限軌道に閃いた行き摺りの出会いが、星の雫を(ちりば)めた追憶の断片が、一点に集束していく予感に痺れていた。此の銃を受け取った瞬間に定められていたのだろう。約束とは護る為に存る。(たと)へ其れが力尽くでもだ。

 鯨湶(げいせん)の如き瀑煙と塵雷を憤愾(ふんがい)する猪首(いくび)突管(とっかん)黒鉄(くろがね)の甲冑に銅配管のマングローブが生い茂り、限界張力に達した溶接ビードとリベットの隊列に、泥塗りのフタル酸塗装が波を打つ。夜明けを知らぬ星の宿りに葬然と(はため)く哀悼の十一輛編成。除煙板の(たてがみ)(そばだ)てた鋼顔に、胸元を飾るヘッドマークの鼎連玖(トリプルスリー)。百萬光年を眺望する管制解析に合成義脳は没頭し、機関室の密造宇宙を多針メーターのバックライトが燐舞する。一瞬の明滅に影露(かげろ)う文字盤のインデックス。()た独つ名も無き星が産声を上げ、音も無く燃え尽きた。感動ポルノなぞ微塵も寄せ付けぬ、天網を(あまね)()べる無情の摂理。其の冷たい掌の上で弐百萬コスモ馬力は発莢(はっきょう)し、漆黒の弾丸を追い(すが)る車窓の残像に、鉄郎の錆び付いた心の羅針が突き刺さる。

 

 

    鄕國不知何處是  鄕國は知らず(いず)れの(ところ)(これ)なる

    星雲瓏瓏     星雲 瓏瓏(ろうろう)として

    唯愁過客多    唯 過客の多いなるを愁ふ

 

 

 

 

 

 

 何時、誰が計測したのかも知れぬ千切れかけた子午線(みをつくし)を限り、鋼轍(こうてつ)の挽歌に(むせ)ぶシリンダードレイン。無限軌道は惰行制御に切り替わり、在来線とも違う荒削りな律動に、車内の胎響が身に覚えの無い鬼胎を宿して焦れ始める。鉄郎は車軸を伝って併走する不穏な韻子から耳を()ざした。何が待ち構えていようと、在るが儘を受け入れる。そんな色褪せた覚悟に態々(わざわざ)爪を立てる粗雑なエピグラフ。此の期に及んで狼狽(うろた)えるほど(うぶ)じゃ無いと云うのに、余計な演出は却って白けて終うだけ。今は唯、二等客車の黄濁した白熱灯の温もりと、己の手触りで磨き込んだ銘木の意匠に包まれていたい。其れは他の乗客とて同じ事。死者も生者も、皆、同じ車輌に乗っている。時間も空間も、(ことば)無言(しじま)も、今も昔も、幸も不幸も、神も人も、向かい合わせで相席する旅の道連れ。一夜限りの詩情、一条(ひとすじ)に、招魂の列を為す。果てし無き漂泊本能か、将亦(はたまた)、遙かなる帰巣本能か。旅心と里心が窓硝子一枚を挟んで擦れ違い、鉄郎の傾いだ愁眉に導かれて(おもむろ)に旋回する999の機影。宙枢管制の除煙板(アンテナ)が何物かを捉えて煌めき、虚空に優雅な弧を描く車輌の連結が、映写機のリールの様に何時か観た場面を投影する。

 鉄郎は微かな遠心力に逆らって車窓から首を出すと、瓏瓏(ろうろう)とした辰宿列張の茫漠に照睛(しょうせい)を飛ばした。乗車券に神神しく印字されていたアンドロメダの正体とは何か。M31の光点は天の河の(ほとり)(つど)うカシオペアとペガススの狭間で、未だ弐百萬光年の彼方に座している。星空に散った偽造切符の無様な虚妄。(まこと)しやかな()れ事から目覚めた鉄郎は、見落として終う程の小っぽけな真実に気が付いた物の、年頃の空想癖を寄せ付けぬ余りの見窄(みすぼ)らしさに、正視して良い物か何うか躊躇(ためら)っていた。星系図から零れ落ちた歪な隻影が、999の蹴立てる進路の延長線上に一握りの(しこ)りと為って(うずくま)っている。此を停車駅と呼べるのか。メインロッドと連動する大動輪は既にトルクを失い、天涯に放置された異物に向かって滑走していた。泡沫(うたかた)の夢路を断絶する、途中下車に等しい不可解なアプローチ。恐らく砕け散った岩塊の再集積体なのだろう。何の天体の重力下に在るのかも知れぬ、小惑星と呼ぶ事すら烏滸(おこ)がましい星屑の欠片に、銀河鉄道株式会社の誇る旗艦特急が魅き寄せられていく。

 此ではまるで、火葬場を素通りし、倒壊した墓石に急行する墨染めの霊柩列車だ。差し詰め乗客は生殺しの無縁仏か。趣味が良いにも程が有る。死出の旅路を冷笑する粗無際(ぞんざい)な行き詰まりに、(もつ)れ合う幻滅と哀切。(しか)も其の全長5km程の奇矯なオブジェの土手っ腹に、何やら(いか)めしい鋼殻類が獅噛憑(しがみつ)いている。巻き戻されていく時の流れに()り込んだ不吉な造形。鉄郎は迫り来る路線開拓の遺物に我が眼を疑った。座礁している。戦艦等と云う軍規や大義とは無縁の猛々しい軍装海賊船が、尾羽打ち枯らし、小惑星に舷側を叩き付けて轟沈している。死神の抜け殻の様な難破船、否、地縛した幽霊船と云うべきか。主砲参連装パルサーカノンを擁する歴戦の雄姿が見る影も無く、主翼を()がれた満身創痍の船体と相俟(あいま)って、贅を尽くした船尾楼のレリーフが棺桶の花飾りにしか見え無い。永遠に鎮火し無い燃え止しの様に、禍禍(まがまが)しき妖気を揮発して999を引き擦り込む賊軍の怨霊。哥枕(うたまくら)には程遠い、旅の余情を絶した戦闘廃棄物。其の凄絶なデスマスクと眼を合わせて終った鉄郎は一瞬にして氷血し、心の臓を握り潰された。抹香鯨(まっこうくじら)(かたど)る貪婪な船首に、生皮を剥がれた髑髏の蛮章。何時か再び巡り会えるとは思っていたが、真逆(まさか)、こんな姿で対面するとは。惑星ヘビーメルダーの上空に光覚冥彩を纏ひ待機していた漆黒の舶鯨。謀援鏡(ゴーグル)の偏光フィルター越しに見上げた、キャプテン・ハーロックの乗艦、天駭弩級(てんがいどきゅう)のアルカディア號が完膚無き迄に朽ち果てている。銀河鉄道株式会社(グローバリスト)に使い捨てられた革命家(ネオナチ)の末路か、セイレーンの愛の仕打ちに入水(じゅすい)した密漁者の溺死体か。墓石を暴かれた儘、埋め戻される事も無く見捨てられた自由と冒険のイコン。スペースノイド解放を謳った海賊旗は打ち破れて、触角宙枢(コスモソナー)を兼ねたメインマストに支度解甚(しどけな)く絡み付き、隕石に因るクレータとは明らかに異質な、周囲の巌壁を穿(うが)つ無数の爆撃痕が、戦況の片鱗を物語っている。宙原(ちゅうげん)倭寇(わこう)(おそ)れられた漢の身に何が起こったと云うのか。完全に動力が断絶していると思しき、廃船の座礁した側舷の傍らで、独片(ひとひら)の灯火が瞬いた。鉄郎が穿鑿(せんさく)する猶予も無く、長緩汽笛を鳴らし、烽火(のろしび)を引き擦り乍ら、アルカディア號が再集積体(ラブルパイル)に接岸している間隙に造設された富士壺の様な最後の停車場に、黒鉄(くろがね)の魔神は我が物顔で潜り込んでいく。

 岩盤を掘削して仮設した縞鋼板のプラットホーム。採掘資源搬出用のガジェットとバケットが並列する構内は、一瞥して鉱業物流の拠点で在った事が見て取れる物の、山積みのコンテナと鋼製支保工の建設資材が崩れ落ちたまま打ち捨てられているのを見る限り、稼働している気配は微塵も無い。ロードヘッダー、ドリルジャンボ、ブレーカー、破砕機と勢揃いした鉱削重機の四天王。ホイールローダーとマンモスダンプのコンビに挟まれた集塵機。バッチャープラントに横付したコンクリート吹付機。組み上げているのか解体しているのか判然とし無いセントルは半ば砂礫に埋もれ、穴兎、(さなが)らの無秩序に掘られた坑道に、送風管とコンベアが蔦葛(つたかずら)の如く入り乱れ、洞穴の闇に伸びている。

 電光掲示処か案内表記も見当たらず、人工重力と帯気圏制御以外は自搬式照明の動力が生きているだけの廃坑に、水蒸気の雲海を巻き上げスライディングストップする999。アンドロメダの皇星とは似ても似つかぬ、取って付けただけのプラットホーム。人の気配もアナウンスも無ければ、駅名の頭文字独つ転がってい無い。ブレーキ弁を解放し、息を整える機関車の胴哭を等閑に付し、招かざる客に峭然と黙秘を続ける忘れ去られた機材と設備。そんな裳抜(もぬ)けのコンテナターミナルに(そび)え立つ、ガントリークレーンの隊列にアルカディア號は串刺しにされて身罷(みまか)り、変形したランプウェイで辛うじて着岸している開放された舷門の(おとがい)は、声無き断末魔を絶叫したまま硬直している。盗掘紛いの開拓事業、資源の草刈り場を巡る、兵共(つわものども)が夢之跡を目の当たりにして、己の(すさ)んだ心の廃墟に迷い込んだ様な錯覚。此の様子だと誰かの出迎えが在るとはとても思え無い。

 鉄郎は席を立ち、モケットに埋もれているメーテルを一瞥すると、会葬者の居無い告別式の様に空席を敷き詰めた、二等客車の連続を突き進んだ。此の停車駅の存在が何を意味するのか。せめて停車時間だけでも知ら無い事には始まら無い。未だ嘗て、到着のアナウンスを怠った事の無い車掌が姿を見せぬ、一抹を越えた不安。其の虚ろな予感は寸分違わぬ現実と為って風穴を空けていた。

 紺碧のブレザーと制帽が絞首刑を執行された様にハンガーに掛かけられ、身支度の済んだ車掌室。恐らくは探しても無駄なのだろう。暗黒瓦斯の靄は晴れ、跡形も無き車掌の消息に、謹厳実直な往時を偲ぶ美しく整理された備品達の鈴生(すずな)り。(ちい)さな事務机の上で使い込まれた黒革の手帳が置き手紙の様に(かしこ)まり、脇に添えられたカップラーメンのロゴが最後の乗客を(しづ)かに見上げている。鉄郎は黒革の手帳には手を付けず、カップラーメンだけを頂戴して車掌室を後にした。左様ならだけの人生に余計な後腐れは無用だ。態々(わざわざ)(いとま)を告げに来る事務的な別れなんて、本物の別れじゃ無い。散り際を(わきま)えぬ花は造り物。もう二度と会え無いからこそ、人は出会えた意味を噛み締める。右も左も判らずに迷い込んだ身無し子を、乗降デッキから見守り続けてくれた車掌の(つぶ)らな黄眸。炭水車を脱け、火室(かしつ)の余熱で(くすぶ)る煤けた運転室に辿り着くと、クレアの破片を掻き集め、(おど)しでは無いと銃を突き付けられた事すら懐かしく、萬謝の(うしほ)に眦が熱くなる。立ち止まっては駄目だ。(たと)へ姿形は見えずとも、制帽の鍔から覗く彼の物静かな眼差しは、今も小兵の背中を押し続け、焚口戸(たきぐちどの)のペダルを踏み込んだ鉄郎を、開帳した半割の扉へと促していく。

 (にじ)り口を匍匐(ほふく)して切り替わる機関室の神冥(しんみょう)な亜空間。鉄郎は何物にも動ぜず沈思に(ふけ)る、此の崇高な異相の結界が好きだった。メーテルの御乱心から逃れて深呼吸する至情の一時。有り余る若さを軟禁する無限軌道の護送列車に在って、無意識の浄域を底流するボイラーの缶内は、己の蒼熟な妄執や焦燥の源泉に辿り着き、解毒出来る常闇(とこやみ)のオアシスだった。全能の集積回廊が誘う彼我の仙窟。そんな暴発寸前の野生児を何時でも無言で迎え入れてくれた硬質な怜気が、今、釘を打たれた棺桶の様に窒息している。此は単なる自律待機制御の類い等では無い。演算処理のシーク音はプラグを抜かれて耳鳴りに掻き消され、メーテルの宇気比(うけひ)に感応していた、多針メーターの幽玄なバックライトの小宇宙も星滅(しょうめつ)し、合成義脳の核種(コア)が宿る、煙室を背に(まつ)られた燦面鏡(さんめんきょう)(ほの)かに放電し、(をのの)いている。何うやら客車の動力は非常給電方式に切り替わっているらしい。何時もの癖でウォバッシュの胸ポケットに手を当てた鉄郎は、ライトモードにして翳そうとした乗車券の感触が指先を擦り抜けた瞬間、光が一層遠退いて見えた。シャークソールの跫音(あしおと)だけが膠着を穿(うが)ち、壁面にインローで嵌め込まれた風防とベゼルを、手探りで進む漆黒の寂滅(じゃくめつ)。電脳の限りを尽し、幻の十一輛編成を束ねる999の叡智(えいち)が、超絶なる其の営為を放棄して、生き埋めにされた岩屋戸(いはやと)の様に昏睡している。御神体の御隠れになった御社(おやしろ)か、愛の枯れ果てた石女(うまずめ)の子宮か。素人には修復不能な運行管理システムのゼネストを前にして、鉄郎の口角は微かに(ほころ)んだ。行く手を()ざされれば()ざされる程、進むべき道は現前と(ひら)かれる。鉄郎は何時も機関室でしている通りに(わずら)わしい視聴覚を遮断すると、仮死喪神の筐体に反響する己の(ことば)に耳を澄ました。

 何を今更、999の合成義脳に言問(ことと)へと云うのか。総てを暴き立てる事が真実だと云うのなら、真っ昼間の盗掘や、皇統の断絶を嗅ぎ廻る革命の犬と変わら無い。此の星とアルカディア號に何が起こったのか、車掌は何処へ消えたのか、地球へと折り返す為に999は目覚めるのか、一体、俺は此から何を為す可きなのか。そんな答えの書いて有るクイズ番組の台本なんて必要無い。銀河鉄道株式会社の機密なぞ知った事か。疚しい事が有るのなら、勝手にコソコソ遣りやがれ。満天の星空に裏の顔なんて有りやし無い。宇宙の何処に隠れ、逃れようと宇宙は宇宙だ。若し此の儘、小惑星の出来損無いに取り残されるのだとしたら、其れなら其れで、人間狩りで死に損なった己の命と、今一度ゆっくり向き合う良いチャンスだ。抑も、俺が(くたば)る前に天河無双の999が御釈迦に成ったのだとしたら、其処まで此の旅を耐え抜いた自分を誉めてやる。

 鉄郎は闇の中で踵を返し、焚口戸を脱けて機関室を後にした。999が核醒しなくとも、メーテルに上書きされた母の自我が目覚め無くとも構わ無い。(たと)へ、鉄の塊に還元しようと999は999で、記憶や髪の色が変わろうと実の母は実の母だ。無限軌道を巡る神の物語に、死者が復活する恩着せがましい奇跡なんて御呼びじゃ無い。宇宙の(ことわり)を司る、大いなる神秘が心に満ちていれば其れで良い。車掌の無口な暇乞(いとまご)いにした処で、全宇宙の総重量は(びた)(もんめ)たりとも変わら無い。其れは己の息の根が止まっても、銀河の星態系が砕け散っても同じ事。(にわか)に甦る、遭難列車の中で竜頭の説いた質量保存の法則。浅はかな知恵許りが先走って聞き逃していた(こと)()走馬灯(リフレイン)。通過してきた停車駅を辿る様に、二等客車の古惚(ふるぼ)けた座席の一つ一つで(くつろ)ぐ、姿無き満席の同窓生達と旧交を温め乍ら凱旋し、鉄郎が席に戻ると、人事不省(じんじふせい)で在った筈のメーテルの姿は露と消えていた。

 果てし無く続くかに思えた回想が目撃(まばた)き独つで打ち切られ、弱竹(なよたけ)の輪郭を記憶したまま縹色(はなだいろ)のモケットが沈没している。網棚のアタッシュケースも煙に巻かれ、亡霊列車の本領発揮か、無人のホームで息絶えた無人の999。

 

 

     かの方にいつから先にわたりけむ

          浪ぢはあとも殘らざりけり

 

 

 然して誰も居無くなった何て、本の中だけの話しだと思っていた。最終ステージと云うだけ在って流石に芸が細かい。舞台は整った。空っぽのボックスシートに用は無い。手掛かりを探すだけ野暮だ。カップラーメンの包装フィルムを剥がし乍ら、メーテルと四六時中睨み合っていた指定席に別れを告げる鉄郎。御陰で何から手を付けるべきか、選ぶ手間が省けた。二等客車を突っ切って向かう最後の晩餐。食堂車の給湯室でカップラーメンに湯を注ぎ、引き出しの中から割り箸を抜き取ると、クレムリンレッドのホールを素通りして、喫煙室の何時もの席に腰掛ける。鉄郎親子の命を繋ぎ止めた至高の三分間。其処で初めて999の車内に時計が存在し無い事に気が付いた。乗車券のマルチ機能が無いとタイマーの独つもセット出来無い己の不甲斐無さに微笑み、適当な処で蓋を開け、何時もより少し硬めの麺を頬張る鉄郎。オリジナルスープとグルテンの濁流が喉を爆ぜ、雑食の本能が高カロリー、高塩分の化合物に武者振り付く。何んなに地球から遠く離れようと、人類は麺類だ。飛沫を上げて唇とカップを行き交う割り箸の狂騒と、横隔膜で啜り上げる忘我の白熱。毛穴と云う毛穴が決壊し、汗の礫で粟立つ顳顬(こめかみ)。顔を伏した芳醇な湯気の坩堝(るつぼ)韜晦(とうかい)する意識。滲み渡る滋養が歓喜と成って、全細胞の野性が息を吹き返し、瞬く間に飲み干した最後の一滴が(あつ)き溜息の底で弾けた。眼裡(まなうら)で充血した星々が冥滅し、背摺(せす)りに身を投げ出すと、脳血流が胃壁に降りて朦朧とし、高潮した血糖値が(なまくら)な睡魔を苦遊(くゆ)らせる。

  何も慌てる事は無い。時間なら幾らでも存る。後もう少しだけ、此の旅に明け暮れた日々と二人きりで居たい。車掌が消え、メーテルが消え、次に消えるのは999か俺なのか。其れとも幻の女を追って、復た新しい夢を駆け巡るのか。人も我が身も、生まれ落ちた星にも呪詛を吐き、廃棄物の尾根を漁っていた彼の頃には及びも付かぬ、時空の限りを尽くした道程(みちのり)。若し此が最後のページなら後書きなんて要ら無い。此の物語の主役にして唯一の読者が、結末を濁して如何(どう)する。空のカップを膝の上に拍ち降ろして高鳴る、黒耀の瞳に結晶化した、誰の物でも無い一握りの誇独。磨き込まれた此の旅の宝物が湛える、射干玉(ぬばたま)の輝ける闇を、青春の残り香が鳳髪を霏霺(たなび)かせて吹き抜け、少年の小鼻を思わせ振りに(くすぐ)った。ちょいと小腹を満たした位で、何を感傷に浸っていやがるのか。覗き込んだ死の淵が叱咤する背伸びした達観。未だ焼きが回る歳じゃ無いだろう。我に返った鉄郎はカップと割り箸をダストシュートに叩き込むと、糞みてえに殺風景な、どん詰まりの停車駅に飛び出した。

 タップ溶接で仮止めしただけの無闇に響き渡る縞鋼板を踏み締め、定尺の鋼管を現場で()()ぎしただけの手摺りで囲われた、足場に毛が生えただけのキャットウォークに降り立つと、最後迄居残った腐れ縁の女房役が既に(いき)り立っている。此の愚図り方は電脳梅毒や偽計因子の類いじゃ無い。肌身離さぬ付き合いだからこそ判る、(むし)の知らせ。鉄郎の腰骨で急き立てる霊銃が何者に感応しているのか、大凡(おおよそ)の察しは付く。後は此の(かささぎ)御心(みこころ)の儘に、逃れ得ぬ因力の必然を信じるのみ。鉄郎は歩廊面だけをグレーの錆止めで一刷きにした、縞の目も塗り潰せて無い杜撰な施工の粗を数え乍ら、紙縒(こよ)りの様に身悶えているタラップを伝って、ドッキングデッキに飛び降りた。プラットホームから下の階層は、座礁した難破船の剛頑な舷側に因って、H鋼の躯体が針金の様に押し潰されている。此処から先は駅構内の光も届かぬ、星明かりだけの世界。人工重力を体感出来る範囲は帯気圏制御内の筈だが、其れも何処まで届いているのやら。蛇腹の様に波打つ大破したランプウェイを舌垂(したた)らせて挑発する、髑髏を冠した搭乗口。闇黙の絶叫を捻込まれた鬼門の(おとがひ)に、鉄郎が醒め醒めとした炯眼(けいがん)を点すと、ホルスターから抜き取った黒妙(くろたへ)の霊鳥が、引き裂かれた理想郷、アルカディアの傷口に首を突っ込めと、彗翼の銃身を(よじ)って焚き付ける。

 花火の終わったリアルな鼠賊(そぞく)のテーマパーク。クルーにも見限られた此処からが、本当の開園時間だ。キュビズムを具現化した瓦礫のアトラクションを乗り越えて潜り込む正真正銘の幽霊船。動力の欠片も無い艦内の墨殺された世界に、戦士の銃は更に狂おしく共鳴し始める。()んでいる。(かささぎ)が彼の漢を喚んでいる。完全に奪われた視界と入れ違いに(もた)げる(かささぎ)の情念。ダマスカスの文様に刻み込まれた歳月が、握り込んだグリップから上腕を伝い、鉄郎の海馬へと巻き戻されていく。

 

 

 

     少年 拾有參(じふいうさん)春秋にして

 

 

 天頂の一等星を仰ぎ、高らかに掲げた紅顔の血意。鉄郎が在りし日に覚えた激情と寸分違わぬ焦燥と初期衝動が澎沸(ほうふつ)し、畳み掛ける急激な知覚変動に頭蓋と脳圧が悲鳴を上げる。総ては鵲の呪能の儘に。押し寄せる、もう独りの鉄郎が駆け抜けた、もう独つの物語。

 

 

 

 

 取って付けた捨て台詞を叩き付けて飛び出した第六衛星。地球から系外移民船団に転がり込み、瀬取りの積み荷に紛れ乗り継いだ、何処へ向かうのかも知れぬ密売航路。貨物スペースに詰め込まれた盗難重機と盗掘資源の隙間に寝そべり、涸涸(カラカラ)と笑っていた放埒な浮浪児。唯只管(ただひたすら)、夢に飢え、怖い物なんて何も無かった。難民を装い、紛争地域で戦死者の追い剥ぎに明け暮れていた処をスカウトされた零細民間軍事会社。宙域警備人材支援センターとは名許りの、物流パイロットに飽き飽きした退役軍人(ゴロツキ)の吹き溜まり。シミュレーターの中で昼寝をしただけの研修。片道の燃料を詰め込み、後は現地調達の一言で丸投げにする、使い捨ての部隊。何の説明も無く仮眠室のベッドから放り出された初陣。砲撃位置と降下位置を取り違え、敵陣ど真ん中で迎えた実戦に、解き放たれた鵲の砲哮。識別信号を無視して一斉掃射する霊銃の蛮勇。阿鼻叫喚の焦土を制覇する恍惚。圧倒的な(ちから)の覚醒。核磁雷処理から略取誘拐、有らゆる特殊任務に喰らい付き、叩き上げの王道を駆け上る。戦場は少年の英雄願望を虜にした。宇宙開拓と云う民営化された領有権のバトルロイヤル。外注部隊の参入に人道的な大義や派兵の論拠なぞ有る訳が無い。コストを最優先し、パラサイトされているAIを鵜呑みにした杜撰な戦略策定で袋小路に陥る前線。マスコミを抱き込んで隠蔽する挽回不能な戦況。面白い様に欲目が裏目に出る軍産議員(ネオコン)の思惑。スポンサーの意向で敵と味方が二転三転する現場。都合の良い時は協調し、雲行きが怪しくなると決裂する、偽りの連帯感と使命感。砲撃と共に飛び交う敵対戦力へのリクルート。背後から発砲されて勃発する、部隊内での銃撃戦。戦利品の分配が高じて奪い合い殺し合い、生き残った独りが総取りする遺体と遺品の山。補給物資の横流しと機密の垂れ流し。軍資金に群がって共謀し、給与の未払いに共闘する勝者と敗者。現役時代に培った知識と技術で横領の限りを尽くし、敵側から安価な燃料を買い上げ、差額を着服する軍事コンサルタント。兵舎の発展場を盗聴する宦官スパイ。拘束した捕虜と民間人を防塁にして進駐する紛争監視団。特別ボーナスの為に爆撃する、停戦協定の調印会場、軍法裁判、宙域戦犯法廷。より高い報酬と生きている実感を求めて戦役依存症の亡者が(ひし)めく、休戦期間に設けられた呉越同舟の業務説明会。

 孫請けの嘱託だった少年は暴力の解放区を席巻して頭角を現し、何時しか元請けのパトロンから直接指名を受けて現場の指揮を執る様に成る。絶頂だった。髪の毛一本で在ろうと黒を白と言わせる破天荒な権限。戦場のヒエラルキーから睥睨(へいげい)する壮快な寵児の眺望。然して思い知らされた。弱肉強食を勝ち抜いたピラミッドの(いただき)ですら手の届かぬ雲の上、投資家と保険屋の算盤で弾き出される茶番劇に。敵対する開拓団の両陣営に出資し、紛争の長期化で軍需と紛争資源の価値を吊り上げる鉄板のサイクル。宣争広告代理店に因って強引に統制される世論。売値が付いた時点でバースデーケーキの蝋燭の様に吹き消される戦火。指一本触れずに相手を屈服させる。其れこそが真の勝利。武力衝突とは所詮、(こじ)れた現場の後始末か、政治的なデモンストレーションでしか無い。其処で武勇を競うのは野次馬の(いなな)き。小手先の膂力に溺れる勝ち組の捨て駒。時の趨勢は丁々発止の利権を巡る、買い手と売り手の合意に因って、戦う前に其の落とし処は決していた。人の営み、姿形とは金の威光が落とす影。歴史の流れは金の流れ。戦争も復興もデスクに積み上げられた諸経費の独つ。そんな浮世の以呂波(いろは)も判らずに、悪魔の掌の上を転がっていた傀儡(くぐつ)の戯れ。本丸は常に帯域の彼方で寛いでいた。

 資本家の余興でしか無い、虚しい勝利の美酒。醒める事の無い悪酔いに、見失った(ちから)の矛先。積み上げては突き崩す子供の積み木の様な時間潰しの作戦。兵士の機械化に因り、ノスタルジックな死語と為って久しい傷痍(しょうい)軍人。肉体を失っても、供給される筋電義肢を継ぎ足して現場に蜻蛉返りする傭兵達。然して何時しか兵器と一体化し、戦略システムの中に埋没していく自我。事務的に組まれる核爆撃のタイムテーブル。焼き直したアニメの様に繰り返される機動部隊の斬将八落(チャンバラ)。そんな荒寥とした日々の狭間で、ショートメールの様に割り込まれた、労働争議鎮圧のスポット案件。非番の分隊を叩き起こして向かった現場。其処で再会した燐寸(マッチ)箱の様な移民船。初めて宙域へ飛び出した彼の日に同船していたディアスポラの末裔が、ウランの鉱脈で凝縮した小惑星に獅噛憑(しがみつ)き、半狂乱で応戦していた。原子力発電と核武装は民族独立の石据(いしず)ゑ。金剛石の様に血束する、断腸の想いで(くに)を捨てた者達のアイデンティティが、主君無き落ち武者の寄せ集めを蹴散らしていた。

 チェチェン、クルド、チベット、テュルク系ウイグル人、民族浄化の荒波に揉まれ、埒の明かぬ地球上での領土確保と国家承認に見切りを付けた数多(あまた)の少数民族は、其の篤き信仰を護り続ける為に宇宙を目指した。然して其処でも、難民就労プログラムと云う名目で、財産、労働力、人命、信仰と言語を、強制収容所の手配師に搾取され、蹂躙された。過酷を極めるテラフォーミングの人柱に()ぎ込まれた亡国の民。蜂起しては掃討され、其れでも決して掻き消される事の無かった、先祖から受け継がれし流浪の物語。数と力を凌駕する不撓不屈の雄叫びに母の教えが甦る。祖国とは国語。耳底(みのそこ)で燻る家学の灯火が、移民船の中で沸き返っていた聞き慣れぬ未知の原語を照らし出す。()せ返り、血走る古族の息吹。其の軋みを上げる反骨心に打ち負かされて敗走し、其処で(ようや)く浅い夢から眼が覚めた。

 業績が上がらず海賊化していく赤字部隊を掻き集めて旗揚げした、宙域難民解放運動の母体。スポンサーには事欠か無い。稀少、且つ、潤沢な鉱床が在ると云う試錐探鉱データを堂々と(でっ)ち上げれば、審査の結果を待ち切れず、投機に逸る銭ゲバは先を争って値を付ける。今の今迄、時代と空間を越えて世界を欺き続けてきた者達は、偽りの栄華に終わりが在る事を理解出来ず、其の射幸心にブレーキは無い。騙されたと気付いた出資者への配当で叩き込む在庫処分の弾道弾。金に飽かせた豪奢な居城は偽造証券の様に良く燃えた。真っ当な勤めとは程遠い、気兼ねは無用の泡銭(あぶくぜに)を元手に襲撃する奴隷市場。解放された者達は義勇兵と成り、天網を遍く鉄の絆と絆。回り出した歯車は唸りを上げ、宙域の(あら)ゆる弱者が自由の旗の下に集結し、バケツを被って寝起きをしていた浮浪児は、寄る辺無きスペースノイドをも包括した、人民戦線の総裁に君臨した。

 勝利と開拓の先に広がる人類の新しい世界。預言された約束の地は系外に在ると云う確信。大気圏を突破した新世紀の太陽崇拝。神の国へと導く快進撃に、熱狂する銀河長征の十字軍。宇宙の創世から綴られてきた黙示録の完結。光あれ。心に轟く神の(ことば)。併し、支配者と被支配者は背中合わせの双生児。数百年、数千年と虐げられてきたルサンチマンの逆襲は何時しか制御を失い、迫害の鎖縛から解かれた群民の本性は、去勢されていた選民思想を呼び覚まし、暴君の素顔を曝け出した。強奪の限りを尽くすゲリラの地下組織化。厳格な宗旨の解釈と主導権を巡る、友軍誤爆の応酬。組織の肥大化は求心力の分散を産み、其の混乱の綾を紐解く内に掴んだ、同盟の分裂を支援する不可解な資金の流入。手繰り寄せたのは戦狼の赫い九尾。実業左翼の甘い毒牙に増長した民族主義は冒されていた。領域での主権を密約し、壊乱分子を囲い込む中疆(ちゅうきょう)マテリアルの暗躍。嘗て弾圧を受けた元締めに擦り寄り、造反有理を喚いて足を引っ張り合う同宗異族。金の流れに流され暴利を競う神の子供達。空中分解した廉潔な理念と信念。帰する処、銀河蒼生の進退を賭けて巨悪に立ち向かい、抑圧された肉体と精神を宙域に解放するなぞ唯の火遊び。母屋を取られて庇に立ち尽くす、器では無かった己の才覚。歯止めの掛からぬ離反の連鎖。其の疲弊した組織に出資と提携を打診する新たなパトロン。重い腰を上げた銀河鉄道株式会社。白羽の矢を立てた魂胆なぞ顧みず、中疆と覇権を争う巨人の肩に、崖っ縁から飛び乗った。(のみ)(しらみ)を飼い慣らすのに、何故、寝惚けた忖度なぞ差し挟んで終ったのか。浮き足立った忘恩負義の同胞を焼き払う、己の不甲斐なさから兇変した粛正の炎群(ほむら)。始めから固陋(ころう)に徹するべきだった恐怖での支配。迷える子羊が歩むべき道を定めて鞭を打ち、買われた腕で鉄路開拓の汚れ仕事を全うする、表の無い二つの顔。理想郷アルカディアを求めて漕ぎ出した方舟の、舳先(へさき)は挫け、帆は破れ、掲げる艦旗は髑髏の怪生(けしょう)に身を(やつ)した。現場の尻拭いを押し付けられた上に、本社の蠱害(こがい)と毒突かれる、血泥(ちみどろ)の汚名。其処で掴んだ汚職と醜聞の闇が、浅間敷(あさまし)き役員と株主を葬る墓場と化した。首の無い巨人に背乗りして歴任する取締役から会長職。陰のフィクサーから表舞台へ、海賊王から鉄道王へ。太陽を呑み干し、蝕甚(しょくじん)の月は昏昏(こんこん)と煌めく。喜びを分かち合う者の無い、誰一人として寄せ付けぬ謀略の頂点。屈辱を晴らし、虚栄に塗れただけの終着に、安らぎも無ければ、信頼の置ける朋輩も、刃向かう敵も無い。昼夜を問わぬ朝貢の列を遥かに見下ろし、我が物とした無限軌道に去来する亢竜(こうりゅう)慚愧(ざんき)。嗚呼、我もと銀河の一粒子のみ、何ぞ()た今と昔と有らんや。闘争の日々の中で肉体は戦地の焦塵に棄し、古傷の眼底から脳膿瘍を引き起こし電脳ボードに換装すると、(かささぎ)の呪能は(つい)え、亘天一哭、少年の元を飛び発った。

 

 

     日月擲人去   日月 人を()てて去り

     有志不獲騁   志有るも()するを()

 

 

 

 

 鉄郎の海馬で反響し、骨肉を揺さぶる、もう独りの鉄郎が駆け抜けた青春の幻影。難を逃れず己を貫き、何処にも辿り着く事の無かった航海の落日が、暗転した眼裡(まなうら)の彼方に没し、999に押し流されていくだけの、物見遊山とは比べ物に為らぬ灼熱の半生が、一瞬にして燃え尽きた。追い(すが)る事を許さぬ時の(やじり)が頬を掠め、総てを語り終えて鉄郎の手に舞い戻った(かささぎ)が闇に紛れている。再び幽霊船の艦内に突き返された鉄郎の見当識。何処を何う歩いたのか、立ち尽くした正面に、鍵穴から灯りの漏れる突き当たりの扉が、真鍮のドアノブを無言で差し伸べている。敵と味方は(たが)へども、戦禍の苦楽は相通ずる盟友との再会。飴色の拳と堅い握手を交わして扉を開けると、大海を征する者が世界を制した時代の侠薫(きょうくん)が、(ほの)かな潮風を纏ひ閃いた。

 燭台の火影に浮かび上がる古木(チーク)と彫金のマチエール。銀河の荒濤(あらなみ)で磨き抜かれた往年の意匠が湛える膽然(たんぜん)とした凄寂(せいじゃく)。其の寡黙な招待に固唾(かたづ)を呑んで応える鉄郎。誰在ろう、艦の全権を握る漢の聖域に、疑懼(ぎく)を差し挟む余地なぞ無い。海賊王の(そら)飛ぶ居城。絶望から逃れ、星の無い夜空に思い描いた冒険と活劇の象徴。憧れは眩し過ぎて、涙が止まるまで見上げ続けた。其の絵空事だった艦長室に今、足を踏み入れている。其れも無限軌道が(あざな)ふ、(もつ)れた因果を断ち切る為に。最早、鉄郎に取って夢とは甘美に(ふけ)る為の一服から、打ち破るべき幻想へと色褪せていた。己の中で作り上げた権威に何時迄も媚びてて何うする。彼の頃の自分は機賊に襲われた吹雪の中に棄ててきた筈。鉄郎は開け放った扉も其の儘に、手にした得物を最上段で諸手に構えると、肺の腑に張り詰めた気魄を、グリップから伝導する(かささぎ)の呪能で絞り出す様に振り降ろした。船尾楼のレリーフで縁取られた飾り窓を背に、書斎机の星系図に左腕を載せた益荒男(ますらを)が、右隻の眼帯越しに鉄郎を睨み付けている。堅忍不抜を絵に描いた、逆賊の旺羅(わうら)で漲る屈疆(くっきょう)な其の風格、坐して(なほ)、泰山北斗を仰ぎ見るが如し。釣り鐘外套(がいとう)前裾(まえすそ)から覗く、胸元に(あしら)われた髑髏の紋章。其の不敵な微笑みが名告(なの)りを挙げる、スペースノイド解放戦線総裁の初代を冠した、アルカディア號を()べる最後の英傑。貧民窟のノミ屋に張り出されていた、銀河連盟捜査局の第一種特別指名手配の3Dモンタージュが甦る。赤錆色の蓬髪に覆われた、死神をも瞠喝する降魔(ごうま)の隻眼。研ぎ澄まされた鋭利な外顎(がいがく)に、一抹の翳りが(よぎ)る喪然とした頬。地獄の底を封じ込めた眼帯と交差して、強靱な意志で貫かれた鼻梁を限る、歴戦の縫合痕。指を(くわ)えて見上げていた赤手配書の精悍な面魂が今、眼の前で息衝(いきづ)いている。ウイングバックチェアから(おもむろ)に腰を上げる気怠(けだる)さの中にも立ち昇る王者の威徳。雄渾な体躯の圧迫感で窒息する、質実な器財で固められた船長室。尊崇は不敬だ。恐縮し、(へつ)う者達の下心は寧ろ火に油。命を投げ出して立ち向かってくる者にしか心を(ひら)か無い。ハーロックとは然う云う漢だ。迷ったら撃て。星間運輸機構が出資する格外報奨金の筆頭株は伊達では無い。暴君との謁見に手心なぞ侮蔑に等しい。賞金首を狙われてこそ海賊の誉れだ。

 

 

   故國銀河幾度更  故國の銀河 幾度(いくたび)(あらた)まる

   英雄埋骨不埋名  英雄 骨を(うづ)めて名を(うづ)めず

 

 

 

 中段に構えた霊銃の千早振(ちはやぶ)る羽動に、瞬く緋彗の照星。脳の髄を網羅する中枢神経の小宇宙をβ-エンドルフィンが逆流し、法悦と官能の(さざなみ)が人差し指の第二関節に充血する。満を持した星辰一到の白熱。指数函数を瀧騰(たきのぼ)る臨界曲線。銃爪(ひきがね)()ぜる晶撃に、挨拶代わりの銃咆が発莢し、嘴裂を極める光量子のスパイラルがハーロックの右の脇腹を掠め、飾り窓を撃ち砕いた。艦内に轟く砲撃を受けたかの如き光励起の激甚。室内に降り積もっていた粉塵が舞い上がり、狼藉者の凶弾を浴びて猶、憫笑を湛える伝説の軍神(つはものがみ)(いか)()の逆鱗を以て為ても、姑息なブラフは通用し無い。併し、鈷藍(コバルト)の残像に引き裂かれ、外套の身頃に隠れていた、二の腕を欠く無斬な右肩は暴かれた。硝煙を苦遊(くゆ)らせて情事の後の余韻に浸る(みだ)らな銃口。鉄郎は諸手に構えた其の(きん)を解かずに、緋彗のポインターを海賊王の眼帯にロックして(にじ)り寄る。

 「此の銃に見覚えがあるな。」

 強迫か自白かの是非なぞ何うでも良い。始めから有無を云わせるつもりは毛頭無い。調べは()うに付いている。回り(くど)い罪状認否も二の次だ。懺悔室の神父様じゃ在るまいし、御上品に(なだ)(すか)して等いられるか。

 「運命の答え合わせの時間だ。観念しやがれ。」

 鉄郎は(そび)え立つ隻腕の巨像に声を張り上げる事で、錯綜する感情を懸命に抑え込んだ。既に此の漢を巡る宿怨の憎悪は、熱烈な萬謝の念へと傾いでいる。此の出会いが無ければ今の自分は有り得無い。瓦礫の中で眼に映る総ての物を呪い、世界と一切交わらぬ儘、醜く老い(さらば)えていた事だろう。宇宙へ飛び発ち、無限軌道を駆け抜ける事が出来たのは、総て此の漢に突き落とされた苦難と、焼き鏝の様な檄の賜物(たまもの)と云っても過言では無い。此の漢の魂を惹き合わせる因力は本物だ。其の恩を返せる資格が俺には有る。此の漢を救えるのは俺しか居無い。エメラルダスも然うだった。己の弱さを誰とも分かち合う事が出来ず、其の脆寂(ぜいじゃく)と虚無を、(ちから)を誇示し撥ね除ける事で欺き続け、屈折した矜恃は何時しか肥大化した自我へと変異し、骨の髄まで転移していった。自刃(じじん)に等しき武力を振り乱し、孤独な勝利を貪る、名声と汚名で混濁した二つの顔。制御不能な自己顕示欲とは裏腹に、海賊王と云う殻に閉じ籠もり(ふる)えていた、もう独りの鉄郎が今、其の破綻した偽りの仮面に手を掛けた。

 ハーロックの甘噛みしていた、(いは)く有り気な口角の(ほころ)びが突き崩す王者の壮貌。顳顬(こめかみ)の静脈が怒張し、天を衝く赤錆色の逆髪(さかがみ)。此が鉄郎の追い求めた無限軌道の終着なのか。颯爽とした秀眉が苦悶の渦を巻いて眼窩(がんか)を縁取り、マルチコマンドの回転ベゼルに切り替わると、目搏(まばた)き独つせずに血走る隻眼が、其の星眸に積算尺のインデックスを刻んで拡張し、猟奇を帯びたプラズマが名刺代わりの眼帯を引き千切る。インローで埋め込まれたサブダイヤルが炯炯(けいけい)(ひし)めく、火眼金睛(かがんきんせい)のモノアイ。狂瀾のカドミウムレッドを剥き出しにして、満身創痍の皇鼎(こうてい)が其の本性を現した。梅毒に冒された醜男(しこを)の如く鼻骨が捩れて欠損し、頬肉が(ただ)れ落ちた顴骨(かんこつ)緑青(ろくしやう)の酸化被膜が(むしば)み、饕餮(たうてつ)の文様が下顎から這い登ってくる。鋳造(ちゅうぞう)の業火に人類で在った頃の(おもかげ)を掻き消され、露わになった脊椎にまで達する左脇腹の裂傷。ダブルのジャケットに縫い込まれた髑髏の紋章は足許に焼け落ち、其の異形を勝ち誇る、型破りの深手は覆うべくも無く。名にし負う海賊王が手負いの鉄道王へ、メーテルの雷刃に切り刻まれた隻腕肋裂(せきわんろくれつ)の機械伯爵へと変貌していく、魔道に屈した人類の成れの果て。機族の分際で、何故、破損した部位を換装しないのか。己の罪を(ひけらか)す様に刻印した、怪異千万な虚仮威(こけおど)しを、鉄郎は醒め醒めと眺めていた。凍死寸前の白魔に呑まれて母を見失い、剛性軍馬の鞍上(あんじょう)から瞠喝(どうかつ)一つで心の臓を鷲掴みにされて、命乞いをする事すら出来無かった彼の夜。こんな陳腐な屑鉄の焼き直しに(ひる)んでいた己に熟熟(つくづく)反吐が出る。紅蓮の妖気で捏造された文明の奇術が熱演する、素人狂言は此処迄だ。電脳化に因って理性と向上心を素粒子レベルで制御し、宇宙空間を越える無限の知識を構築し、生活、人生、産業、経済、歴史、(あら)ゆる時間と空間を効率化し、未来永劫、優性種で在り続ける。然う火裂(ほざ)いていた挙げ句に此の様か。新世紀の霊超類が聞いて呆れる。人類も機族も情報と云う寄生虫に背乗りされて生かされているだけの裳抜(もぬ)けの傀儡(かいらい)だ。権力の頂点に昇り詰めた煽動者(インフルエンサー)も所詮、寄生虫に寄生された寄生虫でしか無い。

 進歩する歴史の名の許に人類を駆逐した機族の唯進論。科学技術の発展、画期的なイデオロギーと完璧に情報化された社会構造に因って格差と紛争は消滅し、世界は着実に革新していくと豪語した御題目は、人類に未開の原人と云うレッテルを貼っただけで、理性に因り弁証法的に進歩していく筈の歴史観は、唯の紙芝居で終わった。其れは人類が自らを生類の頂点と思い上がり錯誤した構図を、居抜きの儘、看板を挿げ替えただけで新装開店したのと変わら無い。霊長類も霊超類も、人類も機族も、所詮、競争と破壊と云う枠組みの中で自傷行為に陥った、屠殺場の同じコンベアーで(はらわた)を暴かれ、押し流されていく順番を待つだけの畜群だった。(とど)の詰まり此の世界は、理性が社会構造を築き上げ、発展してきたのでは無く、太古の時代から(つね)に、理性は構造の生み出す力学に隷属し続けてきた。共同体の制度、風俗、階級が意志と行動を規定し、自由で主体的な理性なぞ唯の妄想。機族の専進原理主義も、進歩する歴史と云う信仰、人類の語り継いだ神話の亜種、其の他の独つでしか無かった。

 古来、神と人が共に暮らし、神と人に、(ことば)(うた)と祈りに区別の無かった神話の時代は、機族社会とは異なる社会構造を謳歌し、人間本来の卓越した知性と語彙、豊穣な無意識に因る深想世界で満ち溢れていた。デジタル化した知能の解析処理を限界まで拡張し、如何(いか)に認知中枢モデルの精度を突き詰めようと到達出来ぬ、悠久の歳月を費やし、感性と創造力と歓喜に祝福されて野性から芽生えた、観察と仮説と検証に因る普遍的な思考の根源、人の心を司る信仰と神秘。現在を生き抜く上に於いて足枷でしか無いと、過去を憎み破壊してきた者達の(おそ)れる、覆しようの無い生命と精神の核心が其処には在る。神話の世界は文明に疲れた個人が潜り込む、イデオロギー的防空壕では無い。人が神と共に在った時代を信じようとし無い、過去の無い者に未来は無い。何れほど合理化を極め競争社会を生き抜いても、人間の存在、其の物に勝ち負けなど無い様に、社会を、世界を、然して宇宙を文明と未開で断絶し、優劣を付ける事も出来はし無い。此の宇宙を外から俯瞰すれば、極限まで集積化した機族文明も民族誌的資料の一つとして、機械化した風俗に相対化され、分類されるだけ。寧ろ、自然の摂理では無い、自ら小細工したシステムに縛られて沼田打(のたう)ち回っている其の様は、神の領域を目指した理性からは程遠い。集団構造の範囲内で限定された世界に於いて、自由な意志も理性も主体も果敢無(はかな)き錯覚でしか無い。だが、其の不自由な意志と理性と主体の限界を自覚する事で、人は初めて独善的な世界観から目覚め、人生と家族と社会と未来を本当の意味で真剣に考え、一度限りの命に配られた、取り替えの利かぬ運命のカードを手に出来る。此の不完全で不揃いなカードを、答えの無い人生を意味有る物にする為、如何に切り出していくべきか。鉄郎の切った最後のカードは999のホログラムを仄めかし、宙空に散った。伯爵も自分も同じ車輌に乗り合わせ無限軌道を周回する、途中下車の出来ぬ旅人。其処には敵も味方も、善も悪も、電脳ファシズムも資本化された権力機構も無い。然して何より、こんな(さか)しらで趣味の合わぬ洋服乞食は、もう沢山だ。

 「何うした鉄郎。母の仇を前にして止めを刺さぬとは如何(いか)なる料簡か。貴様の如き流民風情に情けを掛けられる覚えなぞ無い。其の為体(ていたらく)で此処迄辿り着けるとは、幸甚な星の巡りに感謝しろ。」

 背後の砕け散った飾り窓が覗き見える、胸郭の豪快な裂傷が酷薄な笑みを浮かべ、伯爵は腰から提げた直劍(ちょくけん)に手を掛けようとすらせず、鉄郎の最後通牒を受けて立つ伯爵の剛顔。墓荒らしを返り討ちにする、不貞不貞しい亡者の余裕が鼻に付く。絶望的な致命傷に反比例して生生しく駆動する、幽渾にして絶倫なる頑躯。全く以て何う云う造りをしているのやら、余程、棺桶の居心地が悪いのか、近頃の死に損無いと来た日には、納める年貢の荷役から戒名まで、手取り足取り世話してやらぬと駄目らしい。

 「撥条(ぜんまい)仕掛けのハムレットは其処迄だ。此の銃が何故()えたのか未だ判らねえのか。カラスが鳴いたら温和(おとな)しく家に帰るもんだ。ママのスープが冷める前にな。」

 「彼の女には、宇宙の果てで朽ちたとでも云つておけば良い。」

 「彼の女だと。巫山戯(ふざけ)るな。母さんと呼べ。

 

 

    思爾爲雛日  思へ(なんじ) 雛(たり)し日

    高飛背母時  高飛(かうひ)して母に背ける時

 

 

 死に場所を探してるのなら俺に任せろ。御前には帰る場所が在る。」

 「未だそんな家族なぞと云ふ幻想に囚はれてゐるのか。鉄郎、貴様に取つて母とは何だ。」

 伯爵は切り刻まれた巨漢を傾ぎ、膝下で折り返した鐵鍛冶(アイアンスミス)のライディングブーツで、痩せた床板の逆剥(さかむ)けた柾目(まさめ)(なじ)り、砕け散った窓硝子を踏み(しだ)き乍ら書斎机の前に出ると、付け狙う緋照のポインターを鋼顔に()り込むモノアイで牽睛し乍ら、音素の粗い外顎のエアフィルターを(しはぶ)いた。

 「母とは生まれて初めて出会ふ、意味不明な言語を操つて自己とを()かつ、決定的な他者でしか無い。其れを生殺与奪の権利を持つ母の心を引き留める為、子は母の欲望の対象に成ろうとし、母を奪ふ父の存在と衝突するだの。其の愛憎劇を乗り越える事こそが精神の自立と成長の鍵で在り、人格形成を司る父、母、子供の三角関係、核家族こそが人類普遍の基礎的な単位だの。其処から逃れる事は誰にも敵はず、家族の三角形を逸脱した欲望は、神経症、倒錯、精神病に因つて自らを罰する事に為るだのと。そんな実しやかに唱へられた旧世紀の神話を、貴様は真に受けているのか。良いか鉄郎、エディプスコンプレックスなぞ、所詮、エーゲ海の地方都市で生まれた、数ある神のエピソードの独つ。其れ以上の悲劇でも其れ以下の醜聞でも無い。其の御伽噺(おとぎばなし)に尾鰭が付き、更に宗教が家族と云ふ雛形で偽装した共同幻想と交雑して嵌合体(キメラ)と成り、帝国主義と抱き合はせで西欧列強から植民地に押し付けられ、精神分析の文学的なレトリックに因つて、(あたか)も抑圧が人間の文化的条件で在るかの様に吹聴されてきたが、そんな物の何処に妥当性が見出せると云ふのか。現に、アフリカの先住民族の中には、西欧社会ならば親子関係の(もつ)れと解する神経症発作を、呪術を通じて、政治、経済の結び付きから、領土、縁組み、出自を巡る欲望のバランスが崩れた為だと、的確に突き止める知恵を持つてゐる者達も居た。暴力装置に因つて拡散した西欧の手前味噌な枡目(ますめ)に押し込める程、世界は杓子定規に出来てはい無い。結局、そんな親子の葛藤なぞと云ふ似非ヒューマンドラマに酔ひ痴れた者達は資本家達のカモにされ、民族浄化と国家解体の最初のメスで在る、共同体の核家族に因る細分化は、資本主義の労働力を確保する奴隷船の波飛沫(なみしぶき)と、地球全土を一括で植民地支配する謀略に呑み込まれていつた。フェミニズムもLGBTも、人類の文化と伝統を破壊し脱コード化を押し進め、暗躍する資本家が、似非左翼に金を渡して仕組んだ社会の分断工作の独つでしか無い。人権を声高に叫べば馬鹿な奴ほど騙される。然して、家族関係の構築に挫け、破綻し、護る物を見失つた(やから)ほど、其の埋め合わせと復讐の為に、平和主義、共産主義、リベラル思想と云つた、上辺だけ高邁な空理空論に逃避し、溺れていつた。其処は将に人の行動原理で在る欲望を見誤つた者達の掃き溜めだ。家族と云ふ呪縛が欲望と人格形成の根幹に在ると云ふ考えを棄てぬ限り、混乱した理性と肉体から精神の自由を救

ひ出す事なぞ夢の又夢。家族と云ふ物が社会の一部で在る以上、個人的な人格と欲望と云ふの物は存在し得ず、何れほど荒廃した環境で在ろうと社会との繋がりの中で人格と欲望は組成統合されていく。然して、近代化以降、資本主義装置で脱コード化された欲望は、社会や政治から切り離された親子と云ふ最小単位で再コード化され、欲望は食卓を囲む気骨無(ぎこちな)い団欒で(くぎ)られた領土の中に、冷めたスープの様な家族の対立に引き擦り降ろされ、模範的な家族で在る様に去勢されたまま閉ぢ込められた。鉄郎、貴様の様にな。出口の無い懊悩を精神疾患へと加速させる再領土化を完膚無き迄に破壊し、去勢された子羊を解放する最適解は、資本主義が(もたら)す脱領土化、脱コード化のリミッターを外し、分裂的な欲望の衝動に拍車を掛け、血縁の鎖縛を断ち切る以外に無い。鉄郎、己の胸に手を当ててみるが良い。貴様は母との間に己で築いた心の壁すら乗り越えられずにゐるのでは無いか。忠誠と反逆を通じた自我の形成すら経ずに、家族は(おろ)か世界からも独立出来ると云ふのなら遣つてみるが良い。国家と社会が対峙せぬまま融合し、奪われた主権を取り戻す気力すら見せずに滅亡した、何処ぞの島国の様にな。見せ掛けだけの家族、民族、国家に取り囲まれた者達に真の自由は無い。電脳化に因つて開化した我我の精神は旧世紀の(あら)ゆる障壁を打ち破つてきた。金銭関係と表裏を為す、欺瞞に満ちた人の絆や、多民族が(ひし)めき、睨み合ひ殺し合ふ国境線に何の意味が在る。好い加減に眼を覚ませ。人の世の情けに甘えて身を滅ぼした者達の声無き声を聞け。」

 突き付けた銃口を塞いで断裂した胸郭が立ち(はだ)かると、鉄郎はタイタンの草庵で膝詰めに差し向かい、茶の湯を交わした一時がカットバックした。小兵の啖呵(たんか)を意にも介さぬ孤老の矍鑠(かくしゃく)とした気丈。幾ら機械に換装しても、血は争えぬとは此の事だ。御負けに、片足を棺桶に突っ込んで引き擦り乍ら、頭熟(あたまごな)しの説教と来ている。全く大した漢だ。旅先で眼にした、巨悪を裏で糸引く頭目は大抵、何の信条も無く、己の大罪に自覚も想像力も欠落した、自分自身すら他人事と云う、小心で狡猾で陳腐で、遣る事、為す事、事務的なキャリア官僚と相場が決まっていたが、此の叩き上げの御尋ね物は、悪徳の度量と云い、力量と云い、外道を絵に描いた其の姿に寸分の狂いも無い。其れでこそ叩き直す甲斐が有ると云う物だ。

 「離散した家族を国境に追い遣り、不法移民の孤児を人身売買の網に掛けて売春宿に叩き売るのが精神の解放とは恐れ入ったぜ。海賊だけじゃ飽き足りず、山賊稼業にも御執心の鉄道王とはな。良くもまあ其の(なり)で、いけしゃあしゃあと。口が達者なのは誰に似たのか、其れも覚えがねえって云うのかよ。生憎(あいにく)だがなあ、俺はもう、そんな舶来の小賢(こざか)しい座学には()んざりしてんだ。理論武装しなければ保た無い外野の野次で身も心も粉飾し、俺が間違ってた、其のたった一言が云えず蜷局(とぐろ)を巻いている分際で、何が眼を覚ませだ。糞みてえな合理を弄しただけの心無い(ことば)が、俺の心に届くと云うのか。そんな御為(おため)ごかしで俺の心を奪えると思ったか。人の命や財産、住んでいる土地を暴力で奪う事は出来ても、文字の無い神話の世界から始まる故事を敬い、気の遠くなる様な風雪に耐えてきた知恵に感謝し、命と命が繋ぎ止めてきた風俗や伝統を誇りに想い語り継ぐ心と(ことば)は、決して奪う事は出来無い。心の奥底に宿る本物の(ことば)は、決して忘れる事も、忘れ去られる事も無い。伯爵、御前の受け継いできた家学は何うした。人が最後に帰るべき場所は血の通った国語だと、赤線を引いて習ったんじゃねえのかよ。此の銃は其の国語の産声、人が神と交わした(ことば)に感応して(ちから)を解き放つ。御前も此の銃を手に旅をしたのなら、何故、其の(ことば)と心を手放した。」

 「人が神と交はした(ことば)か。そんな魔除けの護符を頼りにせねばならぬとは、旅の心細さが余程骨身に応へたか。私の言葉が場外批判だと云ふのなら、良く聞け。紀元前十世紀以前、古代の人類は独りの個人に統合された意識とは異なる、二分心と云ふ精神構造を持つていた。言語中枢のウェルニッケ野で音声化された、経験則に(のつと)る善悪の超自然的な啓示と、其れに付き従つて肉体を使役する神の(しもべ)。人の心には神が宿り、神と人が御互いに響き合つて暮らしていた神話の時代は確かに存在し、右脳で醸成される神神の声を、脳梁の前交連を介して左脳が老想化声や思考反響と云つた幻聴に変換して聞き取り、人々は日常の祭祀(さいし)や政治を執り行つてゐた。併し、数数の戦乱、災害、飢饉、疫病、民族離散と云つた混沌の中で、神神の声だけでは現実に対応出来ず、又、文字と比喩に因る認知能力と時空を把握する許容量の発達が、脳内で分散してゐた知覚を統合して意識の起源と成り、分割されてゐた心は衰退して、巫術(ふじゅつ)生業(なりはひ)とする一部の者達を除き、神神は沈黙していく。神の声と云ふ指針を失つた人類は、取り残された自意識と向き合ふ事で哲学や宗教と云ふ心の杖を編み出し、独り歩きをし始め、然して何時しか、其の杖を抗争の刃に磨き上げていつた。」

 ストレージの検索結果を咀嚼(そしゃく)し乍ら、伯爵の顴骨(かんこつ)で狡猾に蠢く饕餮(たうてつ)の教鞭。頸椎を走るベアチップの神経質な明滅。量子化した史料の深層から浮上し、勝ち誇った形相が雄弁に自説を継ぎ足そうとした瞬間、鉄郎の添えた人差し指を魍禽(もうきん)の鉤爪が振り解き、霊銃の銃爪(ひきがね)が猛然と弾けた。算譜厘求(サンプリング)された蛮声を掻き消し、断裂した胸郭の狭間を衝き貫ける鈷藍(コバルト)の皇弾。鳴る神の音羽(おとは)を散らす、(かささぎ)(いか)りが暴発し、更に(ふか)く抉られた風穴に揺らめく伯爵の斬像。

 「昔の相棒が忠告してくれてるぜ。理学の安直(アンチョコ)で種明かしをすれば、人の心や信仰も語り尽くせる。思いの儘にも操れて、己の心も誤魔化(ごまか)せると思ったら、火傷位じゃ済まねえってな。」

 「では、エデンの園に還る為に、知恵の実を総て吐き出せと云ふのか。」

 「然うだな。少なくとも余計な口数が減って良い。此から連れて帰る間中、ガタガタ云われたくねえからな。」

 「此の躰を見て彼の女が喜ぶと思ふのか。恥を棄てた漢に立つ瀬なぞ無い。母を護れず死に損なつた貴様と一緒に為るな。」

 「如水庵(じょすいあん)の女将は、字が汚いのを俺が恥じると、本物を求める心が有るからこそ、恥ずかしいと思えるのだと諭してくれた。

 

 

   身也者 父母之遺體也   身は父母の遺體(いたい)なり

   行父母之遺體 敢不敬乎  父母の遺體を行う ()へて(けい)せざらんや

 

 

 こんな躰で生き恥を曝したく無い。然う想う気持ちが有るのは、授かった我が身を(うやま)い、感謝する想いが有るからだ。(たと)へ此の身は朽ちようと武門の誉れ。情けを受ける覚えなぞ無い、なんぞと息巻くのは結構だがな、好い歳をして粋がってる木端侍(こっぱざむらい)の、面倒見る此方の身にも為りやがれ。そんな痩せ我慢で晩節を飾って何うする。樹木に皮が有る様に、機械にも被る面子が有るってんなら、そんな鼻糞みてえな瘡蓋(かさぶた)、俺が今此処で剥ぎ取ってやる。機械の体じゃ戻れねえって云うんなら、俺の躰に乗り移りやがれ。生身か機械か何て関係ねえ。会うだけで良い。其れだけで良い。帰りを待つ身に取って、御前の生き方が正しかったのか間違ってたのか何て如何(どう)でも良いんだ。取って付けた錦も、持ち切れない手土産も要らねえ。躰一つ有れば其れで良い。御前を待っている人が居る。此以上待たせるな。俺は此の銃に何度も助けられてきた。人の道を外れて、親の気持ちも判ら無くなった空蝉(うつせみ)でも、俺には連れて帰る義理が有る。力尽くでもな。」

 今にも飛び掛からんとする(かささぎ)を拝む様に諸手で押さえ込み、其の悲嘆を魂極(たまきは)る鉄郎。戦士の銃は知っている。鋳造の煉獄に身を堕としても、此の漢には未だ(おみな)の血が枯れて無い事を。然うで無ければ、こんな屑鉄、初めから頭を狙っている。

 「ふん、猪口才(ちょこざい)な。」

 如何(いか)にも大義と云った素振りで伯爵が腰の得物に手を掛け、撃ち抜かれた裂傷を軋ませ乍ら隻腕を大仰に揮い上げると、金象嵌(きんぞうがん)の刻印が火の粉を散らして、艦内の淀んだ埃氛(あいふん)を焼き払い、炒鋼精鍛(しょうこうせいたん)の武骨な刀身から立ち昇る邪気で、視界が歪み始める。鉄郎は怪周波を上げて逆巻く三半規管を掻き分け乍ら、魔刃の呪界に呑まれまいと、熱烈な火語で喉を裂き、舌を焦がした。

 

 

   歸去來兮     (かへ)りなんいざ

   田園將蕪胡不歸  田園(まさ)()れなんとす (なん)ぞ帰歸らざる

   既自以心爲形役  (すで)に心を以つて形の役と()

   奚惆悵而獨悲   (なん)惆悵(ちゆうちよう)として(ひと)り悲しむ

   悟已往之不諌   已往(いわう)(いさ)められざるを悟り

   知来者之可追   来者(らいしや)の追ふ()きを知る

   実迷途其未遠   (まこと)(みち)に迷ふこと其れ未だ遠からず

   覺今是而昨非   今の()にして(さく)の非なるを(さと)

 

 

 鉄郎は母に対する己の負い目を曝け出す様に、痛恨の祖辞で伯爵を面罵し、然して、密かに微笑んだ。俺は恐らく殺される。九死を(くぐ)り抜けて来た鉄郎の古傷が(うず)き、手合わせをする迄も無いと五月蠅(さばへ)なす歴戦の第六感。抜き身の兇刃を呪能で充たした此の漢は流石に物が違う。だが、其れなら其れで構わ無い。鉄郎は(おみな)が待っていると伝える事が出来ただけで、既に感慨無量の随喜が込み上げていた。漢とは身の丈を越える壮大な物語を欲望し、(あら)ゆる生と実存の命題を、泡沫(うたかた)の栄華に溺れて忘れ去る物だが、伯爵はそんな吝嗇(けち)臭い玉では無い。(おみな)の為に鉄郎が総てを献げれば、此の漢は機械の躰が稼働し続ける限り、己の生を全う出来ず、其の報いを赤の他人に償わせたと、永遠に責め(さいな)まれる事だろう。現世での再会は(かな)わず、其の身は土に帰ろうと、伯爵の慚愧(ざんき)を橋掛かりに嫗の想いが生き続けるのなら、其れも又、男子の本懐。自分に出来るのは其処迄だ。構えた銃口に直劍の煮え滾る呪能を突き付けられ、鉄郎が天命を覚悟した其の時、

 「御取り込み中のようね。」

 開け放たれた扉の向こうから、神経を逆撫でるピンヒールの瀟洒(しょうしゃ)刻韻(こくいん)が聞こえてきた。耳に覚えの有る勿体振(もったいぶ)った其のステップ。(ほの)かに(そよ)ぐ、999から姿を消した令嬢の雅な香貴。併し、何処か毛色が違う。疫病神が()た独り増えた。鉄郎の旅を翻弄し続けた瑞瑞(みずみず)しき狂濫(きょうらん)とは似而非(にてひ)なる、怨嗟(えんさ)に満ちた嬌声が背筋を逆撫で、相対する隻眼のカドミウムレッドが見開かれた儘、死の淵を覗き見たかの様に氷結している。伯爵の(いま)まわしき呪能に(ひる)まず、好き好んで暴虐の渦中に身を投じる()れ者に、胸騒ぐ血潮の荒磯波(ありそなみ)。すると、銃撃態勢を解いて振り返りたくとも、此処で水入りと云う訳にもいかぬ鉄郎に、伯爵は突き付けていた直劍を落雷の如く床に突き立て、鷹揚に構えていた錆声(さびごへ)の語気を神妙に引き絞った。

 「鉄郎、心して聞け。最早、彼の女を母とは思ふな。いざと為れば、此の老骨もろ共、奴を撃ち抜け。」

 霊銃の脅弾なぞ眼中に無い決死の忠告。余りに唐突で何を訴えているのか理解出来ず、鉄郎の眼路が銃口の照星からブレると、垂直に倒立した(つか)を手放し、腰へと廻した伯爵の隻腕が、翡翠(ひすい)の宝玉を後ろ手に取り出した。黎明の神秘を湛えて(まろ)む、(いか)つい五指に包まれた(とき)(しずく)。メーテルの胸元を飾り、蠱惑(こわく)の痩身を護り続けた勾玉(まがたま)のネックレスが何故此処に。鉄郎の脳裏を巡る奇遇の経緯(いきさつ)。併し、其れを言問(ことと)(いとま)も与えずに、伯爵は無言で鉄郎が羽織るベストの左胸に捻込(ねじこ)んだ。高鳴る鼓動を弾き返すポケットの異物。伯爵は岩漿の滴る皇剣を抜き取り、銃を構えたまま放心している鉄郎の脇を陰鬱な足取りで袖に為ると、招かざる客人(まろうど)を声朗高らかに迎え入れた。

 「此は此は、プロメシューム様、御変はり無き其の御娟容(ごけんよう)、見目麗しく、拝眉の栄に浴する望外の僥倖(ぎようかう)、恐悦至極に存じます。()してや、長きに渡り沙汰の礼節を欠いた不敬にも拘はらず、此の様な浅間敷(あさまし)苫舟(とまぶね)に足を御運び頂き、面目次第も御座いませぬ。」

 当て付けがましい美辞の継ぎ目から発散する鉛色の殺意。御座敷の太鼓持ちに成り下がった、伯爵の見え透いた御持て成しを、背後の上客はピンヒールの(くさび)(なじ)り倒した。

 「そんな歯の浮く様な御追従(おついしょう)、何処で覚えてきたのやら。海賊崩れが、拾ってもらった恩返しに提灯担ぎとは、恐れ入るのは此方(こっち)の方よ。」

 メーテルの竹を割った様な痛罵が霞む、地の底へ引き擦り込む救いの無い醜念。鉄郎が恐る恐る振り返り、肩越しに垣間見ると、其処には心神喪失だった鳳髪の令嬢が、光励起サーベルを枝垂(しだ)れ柳に構えて既に漲っていた。所在なげに(うつ)ろう露西亜帽と墨染めのフォックスコートに身を包む弱竹(なよたけ)の蜂腰。無限軌道の女王は確かに蘇生し、燃え盛ってはいるが、其の様相はメーテルにしてメーテルに(あら)ず。伯爵がプロメシュームと呼ぶ、此の物語を巡る最後の当事者が、()し崩しの顔面神経に取り憑いて、酷薄な笑みを噛み殺している。終着駅に幽閉された、もう独りの女王が降霊し、此で役者が揃ったと云う事なのか。母の躰に相乗りするメーテルとプロメシューム。白紙の台本から脱け出した母と二人の女王の一人三役。全く収拾の付か無い夢幻能から鉄郎は閉め出され、後シテのプロメシュームはメーテルの躰を(いたは)る様に鎖骨の幽谷に手を添えた。

 「此の子のペンダントを何処へ遣ったの。」

 「あんな物に何時まで(すが)り続けるつもりだ。此以上メーテルに罪を背負はせて何うする。其の荷を解いてやるのが、親の務めと云ふ物だ。」

 「此の子を散々利用して甘い汁に有り付いた金色夜叉(こんじきやしゃ)が、云うに事欠いて、罪だ何だと。此の子を触媒に仕立て上げて、傀儡(くぐつ)の責め苦に突き落としたのは何処の何奴(どいつ)よ。」

 メーテルの肌理細やかな白磁の頬が見る間に(しお)れ、其の襞が眉間から鼻翼へと群がり、皺枯れる妄執の刻印。絶世の美貌が兇変し、鉄郎の母よりも年老いて見えるプロメシュームの険相に、伯爵の文身獣面が緑青(ろくしやう)の酸化皮膜を散らして応戦する。

 「何度云つたら判るのだ。メーテルに宇気比(うけひ)(ちから)が有るのを見出したのは、全く予期せぬ違算だつた。メーテルの受診してゐた宙域性神経発作の脳波計バイナリを、電劾重合体の冥彩素数解析に投入したのも、戦略的因子(クラスター)に浸蝕されたシステムの誤動作に因る物だ。カルテに添付された波形データが符合して、彼の化け物を撃退するなぞ誰が想像出来たと云ふのか。メーテルの神経発作が、永遠に自己準拠し続けなければならぬ、帯域覚醒した電劾重合体のジレンマに感応して引き起こされてゐたのも、後後(のちのち)に為って(ようや)く判明した事だ。何故、マイクロチップや遺伝子操作に冒されてゐ無い、伝世品種の貞女(ていじよ)にのみ巫術(ふじゆつ)(ちから)が宿るのか。未だに其の因果も相関も藪の中だ。」

 「其れだけ斬り刻まれても、未だ足り無いようね。口で答える気が無いのなら躰に訊く迄の事。」

 「プロメシューム、私事に(かま)けて己を見失ふな。其の験体はもう限界だ。一刻も早く離脱しろ。私には其れを無傷で返す義務が有る。

 

 

   ますら夫の腰にまもりの太刀あれど

          人のなさけをいかに斷つべき

 

 

 手荒な真似はしたく無い。帝層帯域に温和しく還れ。」

 プロメシュームの胸元を指して皇鼎(こうてい)旺羅(わうら)を放射する、天河を左治して作らしめた百練の利刀。燭台を限る伯爵の屈疆(くっきょう)玄影(げんえい)に覆い尽くされて(なほ)皺襞(しゅうへき)を極めた老醜を眉独つ(そばだ)てぬ、痩墨(そうぼく)の幽女。反目の狭間で押し殺された沈黙に室内が窒息し、破滅の瞬間を秒読みする心搏数(しんぱくすう)。鉄郎は直感した。伯爵を片輪にしたのは此の女、否、メーテルだ。何故、今の今迄気付け無かったのか。星の(ちまた)を見渡して二人と居無い、絶対零度の彼の斬り口。何時何処で手合わせをしたのか、そんな穿鑿(せんさく)は何うでも良い。人の情けに免じて一度は納めた鞘ならば、其の(しがらみ)を踏み倒し、メーテルを討てと云う伯爵の翻意に妥結は無い。彼の女を母とは思うな。胸元の宝玉に託された、鉄郎を揺るがす迫真の宣告。敵や味方で色分け出来ぬ、善悪を越えた伯爵の絶望的な気骨を目の当たりにして、鉄郎は今、己が護るべき情理は何なのか、其の糸口すら掴め無い。然して其れは、母に乗り移った、憑き物にしても又、(しか)り。

 「温和しく還れですって。私も此の子も還りたいわよ、彼の頃の地球に。」

 燭台を背にした逆光を女物狂(おんなものぐる)ひの絶叫が(つんざ)き、伯爵の(いはほ)の如き肩骨から饕餮(たうてつ)の生首が()ねた。構えと云う構えも何も無く、アーク独閃(ひとひら)散らさずに、鉄郎の目搏(まばた)く刹那を掠めた其の斬像。戦慄の付け入る余地すら無い奇想の剣戟(けんげき)。鋳造の魔神を仕留めた、在るか無きかの一太刀が(とき)の流れをも寸断し、花と散った意趣返し。総ては決した、其の筈が、柄を握った儘の隻腕は、何を血迷ったか跋折羅(バサラ)の如く最上段に振り被り、宙を舞う頭骸も顧みず、プロメシュームに襲い掛かる。原形を放棄した鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう)の斬骸を(なげう)つ電呪の特攻。微動だにせず黑怨を上げる喪装の憑き人。プロメシュームの顱頂(ろちょう)を捉えた刀身が幻影に呑まれ、床板を打ち砕いた激甚が斬り裂かれた胸郭を駆け抜けると、脊椎から右肩に達した雷刃が皇鼎の文身を二分した。轟音を傾ぎ、プラズマの血飛沫を巻き上げて、伯爵の下肢が膝から崩れ落ち、床に突き立つ直劍を握り込んだ儘、宙に没する隻腕と胸郭。首を斬らせて骨を断つ処か、斬っ先を交える事すら敵わず、床板を爆ぜる隻眼の生首が、()(しし)の行き死ぬ遠吠えを捲し立てる。

 「鉄郎、撃て。躊躇(ためら)ふな。」

 狂瀾のカドミウムレッドが其の睛能を蒼失し、顔を伏した儘、寝返りの独つも返せ無い。総ては鉄郎に委ねられた。併し、何を躊躇(ためら)わずにいられるのか。(たと)へ物狂いに取り憑かれていようとも、母に偽りの無い物を。

 「精精、吠えるが良いわ。其れが野良犬の仕事ですもの。但し、此の私に噛み付きたければ、狼に生まれて出直す事ね。」

 地に堕ちた穂垂首(ほたれくび)顳顬(こめかみ)にピンヒールを突き立てて踏み躙り、首実検を堪能するプロメシューム。鉄郎は嗜虐を貪る其の熱狂に、母の押し殺していた本性を覗き見た気がした。厳し過ぎる気高さの(ひず)みに悲鳴を上げる心と躰。。鉄郎の窺い知れぬ業の深さに辿り着く呪能の源泉。鬼子母の抱えた闇に吠える愛憎の餓鬼道に、伯爵が止めを刺せと喚き続ける。此の変わり果てた姿も又、止むに止まれぬ母の真実なのだとしたら。其の迷いを断ち切らぬ限り本当の救いは無いのだとしたら。浜の真砂(まさご)を埋め尽くす程に機界の荒魂(あらだま)調伏(ちょうぶく)してきた霊銃も息を呑む骨肉の弔砲(ちょうほう)死蝋(しろう)で塗り固めた様に血の気の失せた鉄郎の面差しを、プロメシュームは藪睨み、我が子を(おも)ふ余りの絶望を手当たり次第に訴える。

「何うした、産みの母に弓を引くのが辛いか、苦しいか。()らば(とく)と味わうが良い。私とメーテルが受けた苦しみは、こんな物じゃ無いのよ。」

 狐狼(ころう)の怪生が総毛立つ墨染めのオートクチュール。狐狼(ころう)の怪生が総毛立つ墨染めのオートクチュール。退行した母性が絶頂に達し、頭上に翳した光励起の撻刃(たつじん)が唸りを上げて弧を描くと、蛇蝎(だかつ)蠱尾(こび)を揮うが如く撃ち放たれた(いか)()の光鎖が稲走(いなばし)り、母の物狂いに魅入られ、立ち尽くしていた鉄郎の左胸に炸裂した。(しん)の鼓動が途絶して背中を突き抜け、弾き飛ぶウォバッシュのベスト。伯爵の託した翡翠(ひすい)の宝玉が粉砕し、(とら)えられていた()(また)の鳳雷が、コード化された盲念を打電し乍ら室内に燦乱する。

 「(おのれ)、何故、貴様が其の勾琉石(こうりゅうせき)を。」

 閃光の彼方に掻き消されるプロメシュームの怒号。閃光の彼方に掻き消されるプロメシュームの怒号。奇矯な幾何学放電の燐舞と、機銃掃射の如きブロックノイズを放駭し乍ら、船尾楼の飾り窓を総て叩き割り、無法の宙域に飛び発っていくアセンブラの暴霊。何がペンダントに封印されていたのか確かめる術も無い、視界を焼き尽くす凄絶な珀劇(はくげき)に、床の上に投げ出された鉄郎は両手で顔を覆って垈打(のたう)ち、瞳孔から網膜を串刺しにした星の(やじり)を掻き毟る。灼熱の視床下部が脳の髄を(えぐ)り込み、暗転するアルカディア號。座礁した運命の方舟を満たす、沖つ藻の霏霺(たなび)(うしほ)遠離(とほざか)る意識の中で、寄せては返す振り子時計の歯車が逆相し、舞い降りる(とき)海底(わたそこ)。沖去りにされた、追憶の遺伝史を玉釧(たまくしろ)。巻き戻されて千千(ちぢ)に隠るる。

 

 

 

 

 

 

 ()の人の眠りは、(しづ)かに()めていつた。

 

 

     射干玉(ぬばたま)の闇に(くる)まる繭玉の

         玉緖(たまを)(あや)()く哥枕

 

 

 淺き吐息の玉響(たまゆら)に、(ひと)つ、復た獨つと、耳鐘(みみがね)幾重(いくへ)にも折り重なりて、夢に(うつ)ろふ萬雷の蟬時雨(せみしぐれ)(なまくら)に寢返りを打つた糖蜜(たうみつ)(やう)微睡(まどろ)みの最中に、ムつとする濕氣(しけ)つた土埃が舞ひ上がり、古木の掠れた(にほ)ひと入り混じつて、首筋の寢汗に絡み付くと、板木を踏み(しだ)跫音(あしおと)(すす)頭熟(あたまごな)しに降り注いできた。

 「鉄、未だ寢とうとや。さつさ、起きんや。」

 我が名を呼ばれて物憂げに半身を起こし、無意識に(まは)りの地邊田(ぢべた)を手探つて、指先に()れた切れ端を、天から降りた蜘蛛の糸の樣に鷲摑む、未だ朧な見當識(けんたうしき)今日(けふ)が右だか左だか、此處(ここ)が誰で己が何處(どこ)なのか。久方の光を求めて、握り締めた棒切れを支へに節節を勞り乍ら(おもむろ)に立ち上がつた途端、跫音が駆け巡る低い天井に(つむり)()つけ、(つゑ)を賴りに(こゑ)のする方へと躙り寄る暗夜行路(あんやかうろ)窮屈(きゆうくつ)常闇(とこやみ)(くわく)する竹林の如き角柱(かどばしら)を、頰に(まと)はり付く蜘蛛の巢と思しき綿埃を掻き分け乍ら擦り拔けると、軒端(のきば)の靑物車を貳階(にかい)から呼び止める樣に、旋毛(つむじ)(うへ)快哉(くわいさい)()ぜた。

 「おふい、土竜(もぐら)の鉄の出てきんしやつたばい。」

 深綠(しんりよく)言祝(ことほ)ぐ薰風の壱陣(いちじん)が頰を(さら)ひ、總身(そうみ)旺盛(わうせい)な日差しを浴びて、肺の腑に張り詰める豐滿な大氣。陽に焼けた玉砂利を裸足で踏み締め、藪の中から拔け出た樣に背筋を伸ばすと、肆方(しはう)(あつ)する熊蟬の大勤行(だいごんぎやう)(まさ)(かなへ)の湧くが如し。今から盛りを迎へる夏が、此處を先途と()(かへ)つてゐる。

 「見てみんしやい、あん(かほ)、嗚呼、もう、でんしかやう。」

 「本なこつ、土竜んごたるばい。」

 「鉄、シカシカしえんや。」

 頭上から子供等の聲が次々と舞い降り、麻の單衣(ひとへ)(まぶ)した土埃を咳込み乍ら(はた)き落とす。息吐く閒の無い惡童達の雜言(ざふごん)。浮はの空の鉄は照り付ける(あま)つ日を(あふ)ぎ、()れるが儘に立ち()くしてゐた。己の(はだ)で直に感じる燦然とした陽氣(やうき)其處(そこ)に在る確かな天主の惠み。にも拘わらず、瞼を開けてゐる筈の(りやう)(まなこ)に、光の粒て獨つ射してこ無い。寢惚け眼では()まされぬ底の拔けた黯礁(あんせう)。鉄は塗り潰された墨繪(すみゑ)の中に()た。

 「鉄、昨日(きのふ)平原(ひらばる)に墓掘りに行くつて、云ふとつたらうが。忘れたとや。」

 「未だ未だ鏡な埋まつとるばい。」

 「吳服町んとこの先生に持つて行つたらくさ、高かう買ふてくれんしやあけんが。」

 「そらあ、本なこつね。」

 「土ん付いた儘、持つて來んしやいつて、云ひよんしやつた。」

 「おう、そいでくさ、何處い埋まつとうとか聞いてきんしやあけんが、絕對、云ふたらいかんばい。」

 「ばつてんがくさ、今日(けふ)の夜は七夕やろ。」

 「やけんが良かつたい、皆、街道筋(かいだうすじ)に出てをらんめえが。鉄やつたら眼の利かんでも土竜の鼻で何處い埋まつとうとか嗅ぎ分けるけんね。」

 「おい、鉄、貴樣(きしや)んの出番ぜ。聞こえんとや。(めくら)(つんぼ)の振りすんなや。」

 鉄は盲の壱言(ひとこと)に色を失ひ、(とざ)された光に眼を凝らした。頰を(つた)つて喉元を辿り、肩から肘へと(くだ)つていく壱條(ひとすじ)心明(しんみやう)。鉄の眼は握り締めた杖の先に在つた。其れは(おの)づから然有(しかあ)る姿で、鉄の血肉に宿つてゐる。數多(あまた)の苦難を睨み伏せてきた黑耀(こくえう)(つぶ)らな瞳は、白眼を剥いて(つぶ)れてゐた。鏡を覗いて確かめる事すら敵はぬ其の事實(じじつ)に、鉄は取り巻く蠻聲(ばんせい)に耳を傾ける事すら出來無い。惡童に背中から蹴られて杖に縋る、生きたまま突き落とされた壱點(いつてん)の曇りも無い昏絕の奈落。決して目覺める事の無い畢竟(ひつきやう)の闇には奧行きも(ひろ)がりも無く、唯、漠として鉄の前途に垂れ籠めてゐた。前世で踏んだ邪の道の報いか、身に覺えの無い宿業(しゆくげふ)に吹き出す汗の滴りが眦から滲み入り、天を憎むが如く裏返つた斜視に爪を立てる。光を奪はれ、土砂降りの蟬時雨と惡童達の野次に取り(かこ)まれた鉄は、無言で(みつ)め返してくる闇默(あんもく)に向かつて静かに息を整へた。幾ら心を澄ましても何も見啓(みひら)かれず、姿形を取り戻さぬ幽昏(いうこん)の世界。鉄の(うつろ)な瞳に映るのは、盲を相手に(かず)に物を云はせ、(かさ)に懸かつて弱きを(くじ)く、本當(ほんたう)の弱者の心の弱さ許り。

 年季奉公で体を壞し送り返された用無し。親の商売が傾き小作に戻つた品下(しなくだ)り。緣故を盥回(たらひまは)しにされて冷や飯を浴びる親無しを筆頭に、皆が皆、食い詰め、空弁當(からべんたう)を持つて通う學校からも足が遠退(とほの)き、祭りの揃ひ袢纏にも袖を(とほ)せず、長脇差(ながわきざ)しに道を譲つては管を巻く伍人組の見下げた意氣地が、己の心を整理する(ことば)を持たぬ、生意氣盛りの苛立ちが、鉄の吐胸(とむね)()つて空廻る。兔角(とかく)、浮世の侘び住居(ずまひ)、泣きの淚の隙閒風に、煮え湯を呑んで凌ぐは詮無き事。とは云へ、こんな不遇を(かこ)つて腐るだけの明き盲の儘では本人の(ため)にも成るまじと、鉄が杖を握り替へやうとした其の時、

 「()た、鉄ば虐めよろお。うらめしかねえ。」

 耳骨を(つんざ)嬌聲(けうせい)に絕句する惡童達。木履(ぽつくり)の甲高い跫音が參下(さんした)亂癡氣(らんちき)を蹴散らし、焚き染められた薰衣香(くのえかう)が鉄の小鼻を(くすぐ)つて頰を寄せ、

 「お、御孃(おぢやう)・・・・・、どげんしたとですか、こげなとこで。」

 喉が支えて支度(しど)(もどろ)棒振(ぼうふら)風情に、娘盛りの鼻つ柱が活きの良い啖呵を吹つ掛ける。

 「どげんもこげんも無か。大神(おほがみ)しやんとこひ(いへ)の遣ひで來たつたい。しえん吉、あんたな方こそ、田圃の溝切りも藏の整理もせんと、こげなとこで何ばしやうとね。敎練(けうれん)に付いていかれんで學校にも出とらんとやらうが。油売つて飯の喰へるとやつたら、内とこの田圃も畑も返して、さつさと出ていき。莞爾(かんじ)、あんたんとこは、内の家で立て替へて遣つとう(はら)ひの幾ら溜まつとうとか知つとうとね。内な算術の習ひ事(つい)でに、帳簿(ちやうぼ)とかも見さしてもらひやうけんね。噓や無かよ。八重(やへ)の眼ば見んしやい。」

 (すね)(きず)有る身の上を遠慮會釋(えんりよゑしやく)無く(あげつら)ひ、獅子吼(ししく)する、壱領具足(いちりやうぐそく)から庄屋(しやうや)上がりの(ひと)り娘。節を曲げた事の無い男勝(をとこまさ)りの劍幕に、小作の野蕃漢(じやがたら)(さは)らぬ御侠(おきやん)に火の粉無しと、(とん)ずらの目配せに、尻を紮げて、(いち)()參肆郞(さんしらう)()けの踏み(まろ)。蟬時雨の暗幕を(くぐ)り、先を押し退け逃げ去つていく。跳ねつ返りの御轉婆(おてんば)が鼻息獨つで雜魚(ざこ)を追い拂ふと、盲の壱念(いちねん)で知らぬが(ほとけ)を決め込む鉄を、疳の(をさ)まらぬ舌鋒は返す刀で斬り棄てた。

 「あげなシヤバ(ぞう)、何で()木太刀(こだち)でくらさんとね。鉄は本なこつは強かとやろ。嗚呼もう、齒痒いかよお。」

 杖を握つた拳を撲つ、浴衣の袖に染め上げられた花鳥(かてう)が白檀の芳芬(はうふん)を振り撒き、黑襦子(くろじゆす)と染分絞りの昼夜帶(ちうやおび)が背を向けて、英吉利(イギリス)結びの束髮に差した、蜻蛉玉(とんぼだま)の小振りな壱本軸(いつぽんじく)(かむざし)が閃く、雅な御冠。生煮えの根菜には芯が有るのを承知で(むづか)る、臈長(らふ)けた素振りに袖を引かれて、鉄は滿更でも無かつた。(さう)して次第に、(とき)(うしほ)が滿ちて黃泉復(よみがへ)る遙かな遺傳史(いでんし)。千古を隔てた歲月の(みぎは)に流れ()き、鉄は老松神社の本殿の床下で、野良犬の樣に寢起きする己を取り戻していく。

 魏志倭人傳に其の名を刻み、倭国に於ける對外交流(たいぐわいかうりう)要衝(えうしよう)(にな)ひ榮えた伊都国も今は昔。太宰府へ博多へと移り()はる人の流れに取り(のこ)され、瑞梅寺から向かふは唐津と揶揄(やゆ)されて久しき、山と海しか見當(みあ)たらぬ糸㠀に生まれ落ちた、盲の浮浪兒(ふらうじ)。鉄と云ふ名付け親が誰なのか。(たづ)ねた(ところ)で返つてくるのは放埒(はうらつ)な高笑いか、精精(せいぜい)、良くて苦笑ひ。態態(わざわざ)、急ぐ足を止めて壱席を(まう)ける御人好しは無い物の、其れは其れ萬民の覺えが目出度(めでた)い裏返し。鉄は町の者達の潤んだ瞳に見守られ、皆が皆、其の將來(さき)を案じ、(もち)貰ひに來る瞽女(ごぜ)比丘尼(びくに)に成る(わけ)にもいくまいに、(すゑ)は按摩か琵琶法師(びわはふし)と、彼の家、此の家と引き取られても引き取られても、老松神社の本殿の床下に戻つてくる其の日暮らし。盲、土竜(もぐら)と呼び棄てられて何不自由無い風來坊(ふうらいばう)天照(あまて)らす(おほ)いなる神で天照大御神(あまてらすおほみかみ)、大和の(たけ)し神で日本武尊(やまとたけるのみこと)、輝ける姬でかぐや姬と呼ばれる(とほ)り、眼が昏くて盲の何が可笑(をか)しいのか。皆、其れぞれ氣の持ちやうが違ふのだから氣違ひで當たり(まへ)。名と体に壱寸(いつすん)の狂ひも無く、(おし)も、(つんぼ)も、(びつこ)も、(ども)りも、知惠遲(ちゑおく)れも、機族が人を狩る樣に繰り廣げられた言葉狩りに合ふ(まへ)の、皆、在るが儘に血の通つた(こと)()の姿。(ことば)は人に狩られ、人は機械に狩られ、鉄は美しい花の樣に摘まれる事も、(さと)いが(ゆゑ)(うと)まれる事も知らず、唯、盲と云ふ名の人膚(ひとはだ)の温もりに包まれて、噓僞(うそいつは)りの無い生を謳歌してゐた。

 「大神しやんなくさ、朝拜(てうはい)()ませんしやつたら、社務も放つぽらかして昼閒つから長尾本陣で呑みよんしやあつちやもん。機嫌やう謠ひよんしやあとが聞こえてから、そげな大した要件(えうけん)や無かけんが、其處(そこ)で話しは濟んどつちやけどくさ。」

 鉄の手を引いて老松神社の鳥居を潛り、遣ひの駄賃の少なさと學校(がつかう)での愚癡(ぐち)を零し乍ら、氣の向く儘に步き始める八重。鉄は勝手知つたる己の(には)に盲を(わづら)ふ必要は無い。姬の御御足(おみあし)御所望(ごしよまう)なのは書房(しよばう)金光堂(きんくわうだう)か、將亦(はたまた)、筆屋の古川(ふるかは)か。鉄が眼裡(まなうら)地圖(ちず)を廣げて屡叩(しばた)くと、(こずゑ)の朝露が彈けた樣に、(ちひ)さな歡聲(くわんせい)貳人(ふたり)の背中を追ひ越し、火の見(やぐら)で見張つてゐた獨りが振り向きざまに吠え立てる。

 「あ、御孃、荻浦(おぎのうら)から筒井原(つつゐばる)の方に昇つた煙の選果場ん前で止まつたけんが、上りの汽車の來よんしやつたばい。」

 「本なこつね。鉄、汽車の來よんしやつたげな。見に行こ。」

 唐津街道(からつかいだう)、国道202號線に沿つて敷設され、明治43年の7月に北筑軌道が開業(かいげふ)して丁度壱年。今川橋-加布里(かふり)閒を約2時閒、平均時速12.8㎞の足で走つて追ひ付ける雨宮製小型蒸氣機關車(じようききくわんしや)客車(かくしや)壱輛を、牽き物と云へば馬と牛しか見た事の無い子供達は夢中で追ひ回した。數珠繋(じゆずつな)ぎの金魚の糞を振り切る樣に吹き荒ぶ長緩(ちやうくわん)汽笛。軌道貨物に載つて運び込まれた新規の物資に群がる人人の眼の色や、新天地へ旅立つていく者達への羨望(せんばう)は、煙害に顏を顰める沿道の世帶、日露戰爭(せんさう)後の長引く恐慌(きようくわう)と、未だ採算の合わぬ新規交通事業(かうつうじげふ)への疑念を押し退けて、鐵道が町を()へる、と云ふ熱氣を炙り立てた。時代に乘り遲れまいとするかの樣に鐵路の花道に飛び出す子供達。(しか)し、壱緖(いつしよ)になつて駆け出そうとする八重の浴衣の袖を鉄は摑んで離さなかつた。誰もが目新しさに眼が眩み、帰り道を見失つた激動期。盲の鉄は盲だからこそ、本當(ほんたう)の意味で前に進むとは何かを知つてゐた。光が見えるだけの俗眼とは物が違ふ、(つぶ)れた瞳で足許を(みつ)めた儘、壱步も動かぬ無言の唱導(しやうだう)。鉄に力強く引き()められて心の搖れた八重は、意を決して切り出した。

 「鉄な、今晚、七夕に行くとね。」

 今日が星祝(ほしいは)ひだと云ふ事すら知らず、何の當ても無い身の鉄が首を橫に振るのを見て、(かたく)なな其の瞳に迫る八重の眞劍な眼差し。

 「其れやつたら、八重と壱緖に茶臼山(ちやうすやま)御堂(おだう)に行つてくれんかいにや。壽福寺の観音(くわんのん)樣やのうして茶臼山の。今、佐賀から來とう狐憑(きつねつけ)が泊まつとんしやつてくさ。内な、母樣(かかさま)の口寄せばしてもらひたかとよ。あすこん御堂は良う乞食の住み()かうが。そいでからくさ、こん前、蜘蛛男のをるけんが見に行かんねつて、飯炊きの(むつ)の云ふけんが付いていつたらくさ、あそこばしごいて、そん先から、ほうら、蜘蛛の糸ばい、つて云ふて、嗚呼もう、でんしかもん。そん話しば家ん人にしたらくさ、もう貳度(にど)と行きんしやんなつて、(ゑら)い腹掻いてくさ。おらびんしやあつちやもん。家ん人には皆と七夕見に行く云ふて出てくるけんが、鉄、壱緖に御堂に行こ。」

 八重が有無を云はさぬのは何時もの事だが、其の勝ち氣な物腰の中に密かな怯えが潛んでゐるのを、鉄が見逃す事は無かつた。選果場裏の茶臼山の木立に(うづ)もれた、竹の子程の大きさの円空彫りの佛樣(ほとけさま)壱体(いつたい)安置されてゐるだけの、誰が建てたとも知れぬ破れ堂。板葺きの六畳壱閒を、皆、土足で出入りしてゐるとは(いへど)も、確かに日が暮れてから(をんな)子供が獨りで行く樣な處では無い。(さう)して、母樣(かかさま)の口寄せと云ふ神妙な口實(こうじつ)

 「鉄、暮れ六つ(どき)に何時もんとこで待つとうけんね。判つとろ。

 

 

    君ならずして

 

 

 誰がをるとね。」

 と念を押し鉄の手を握り込むと、

 「鉄な口の堅かけんが賴むとよ。内な、他に賴める人のをらんちやけんが。」

 胸の内で(さざ)めく憂ひや迷ひを拂ひ除ける樣に八重は駆け出した。追ひ縋る野暮を袖にする鮮烈な恥ぢらひ。頰を撲たれた樣に痺れて立ち()くし、遠離つていく白檀の殘り香を手繰らうとする鉄。其れを不意に、精力旺盛(わうせい)な煤煙が掻き消し、熱きドラフトの放咳(はうがい)を被り、運轉手と車掌に怒鳴り散らされ乍ら、黑鉄(くろがね)悍馬(かんば)倂走(へいそう)する子供達の歡聲(くわんせい)が橫切つた。往き過ぎる時の流れの吹き溜まりに、再び取り殘されて終つた盲の浮浪兒。杖を指揮棒に地邊田(ぢべた)の伍線譜でリズムを取り、鉄は行商(ぎやうしやう)で賑はふ街道筋を獨り步き始めた。

 大里(おほさと)内裏(だいり)から博多、唐津の名護屋城、(はて)は長崎平戶まで伸びる、江戶時代初頭に開通した唐津街道に(あは)せて、福岡(ふくをか)藩が舞獄(まいだけ)山の麓に在つた民家や寺を(うつ)し、宿場町に(しつら)へて榮へた筑前国(ちくぜんのくに)志摩郡の要衝(えうしよう)、前原宿。宿場通り御出迎への東構口(ひがしかまへぐち)を潛つて大手を振れば、豪商(がうしやう)の綿屋、酒藏の和泉屋を筆頭に、伊能忠敬も止宿(ししゆく)した町茶屋、團子屋に筆屋に手遊屋(おもちやや)が、閒口割りの地租に應じた、閒口參閒、奧行き廿閒(にじつけん)の鰻の寢床で軒を(つら)ね、宿場特有の町屋造りが卯建(うだつ)を競ひ合つてゐる。引きも切らさぬ(くるま)往來(わうらい)、打ち水に土煙も(しづ)まりて、店先に躍る掃き目の靑海波(せいがいは)、盲の裸足、其の潮騷(しほさい)(かぞ)へ乍ら、いざ今宵(こよひ)の星祭り、氣の急いて夕涼みの緣台早早(さうさう)に、杖の先で擦り拔ける彼方此方(あちこち)。八㠀精肉店の前を通れば、裏に呼ばれて屑肉の御相伴(ごしやうばん)(あづか)る小腹、年季奉公の子守が覺え立ての童唄に合ひの手を拍つ。

 

 

    のこひき ごんねんさん

    のこのくず やんないや

    やろこた やろばつてん

    おやじが おおごるもん

 

 

 盲や跛や知惠遲れ、伍体滿足で無い者は商運を()れて步くと尊ばれ、足を向ければ芥を漁らずとも施してくれる街道筋。何ね今日(けふ)は遲かやなかねと袖を引かれる、鉄は宿場通りの顏役。其の耳に同じ身空で肩身の無き流れ者が、甲高き歌い口上、壱節(ひとふし)()壱節(ひとふし)

 「巫女の口寄せ、竈拂(かまどばら)ひはどげんかね。」

 緣台で茶に呼ばれ寬ぐ鉄の頰が强張(こはば)り、湯飮みに口を付けた儘、瞑れた瞳が覗き込む。咒具(じゆぐ)(をさ)めた外法箱(げはふばこ)を、舟に見立てた紺の袱紗(ふくさ)(かつ)ぐ步き巫女。(しろ)脚胖(きやはん)下襦袢(したじゆばん)、尻を(から)げた皓い腰巻姿は街道筋の眼を引いた。

 「ちよ、彼れば、見てみんしやい。」

 「何ね、何ね。」

 「あん氣違ひの狐憑(きつねつけ)、今年も茶臼山の御堂に泊まつとうつちやろ。壱昨日(をとつい)に、婆さんの御堂ん中ば()はきよんしやつたもん。」

 「何や復た、瓜ば土産に乳繰りにいくとや。其れよか、風呂の(ひと)つも貸してやつたら良かつたい。後は如何(どう)とでも()ろうもん。」

 「()うや無か。あん狐憑が鉄ば産んだつちやないとね。」

 「おほ、然うくさ。御堂の中で産ばするとか云ふて、麓のもんな蒲團(ふとん)ば持つてきたり、湯う湧かしたり。大事(おほごと)やつたげな。父親(てておや)な町の若いもんか何處(どこ)ぞの鰥夫(やもめ)か知らんけどくさ。」

 周りの者は聞こえぬ樣に耳打ちしてゐるつもりでも、地獄の底を聞き分ける鉄の耳には節の無い筒拔け。步みを止めず迫り來る口上(こうじやう)に尻を叩かれ、鉄は(れい)も云はずに席を()した。耳を塞いでも割り込んで來るのが人の噂。ほれ、彼の鼻筋が何うの、橫顏が何うのと較べられ、鉄とて蒲魚振(かまととぶ)つた儘、知らぬ存ぜぬで通すつもりは毛頭無いが、面と向かつて(はや)し立てる者を杖でしばき上げる時、力が入り過ぎて抑へが利かぬが(ゆゑ)に、口を聞いた事も無ければ、擦れ違ふ事すら避けてゐる。其れを今晚、態態(わざわざ)(かり)(ねぐら)にまで夜詣(よるまう)でと云ふのだから、今から足が重いのも無理は無い。楢崎米穀店の御呼ばれを袖に、西へ向かつた杖の先が小突いた追分石(おひわけいし)。唐津街道と志摩の村道を(くぎ)つた標石(へうせき)と、西構口(にしかまへぐち)舊關番所(きうせきばんしよ)は、送り返された者達の淚も乾上がり、手形を(あらた)めた(いか)めしき往時(わうじ)の影も無く、宿場通りを拔けて丸太の溜め池の前まで來ると、糸㠀郡立農學校を取り(かこ)んで糸富士を望む田園が、鉄の穩やかならぬ胸の内を埋め盡くした。分蘖(ぶんげつ)()はり、中干しをして再び水を張つた靑田の、鼻を突き、舌に廣がる爽やかな蘞味(ゑぐみ)。新しく芽吹いた綠が深みを增し、風の渡る葉擦れの音が、(やすり)の目の樣に幾重にも折り重なつて、薄ら寒い鉄の背筋を駆け拔けていく。

 

 

 

 芋の葉に溜まつた露を集めて墨を摺り、子女は文字、裁縫が巧くなるやうにと、竹の葉に色取り取りに吊して(まつ)る手藝や色紙、短册に、(ふた)つの歲に麻疹で死んだ末娘(すゑむすめ)、山の木馬牽(きんまひ)きに出て谷底に落ちた許婚(いひなづけ)の冥福を禱る(こと)()が入り交じり、啜り泣きの樣に擦れ合う笹なみが、今夜壱晚だけでも安らかに眠つておくれと、(ふか)(かうべ)を垂れてゐる。武家の爺樣は白帷子(しろかたびら)で冷や麦の夕涼み。(ふき)の葉に團子(だんご)を供へ、迎へ火の樣に佰目蝋燭(ひやくめらふそく)(とも)し、香を焚く家のチラホラ。祭りを祝う(よろこ)びに家の格式なぞ無い、星の妹背(いもせ)の天の河。町中の稚兒等(ちごら)が集合し、街道筋を()れ步く高張提燈に、佛前で(かね)(たた)き御詠歌を誦んでゐた年寄りが、次次と軒に顏を出す。()()の浴衣に、下ろし立ての下駄を鳴らし、御囃しを(かつ)いで合流する靑年團(せいねんだん)。虫送りも兼ね、麻幹(おがら)松明(たいまつ)を持つて畦に繰り出せば、田圃に點つた人の列が雷山川(らいざんがは)の堤へと壱條(ひとすじ)に繋がり、子供達の天まで(とど)けと揭げる燈火(ともしび)が、中天を限る星合(ほしあひ)(はま)を染め上げた。

 

 

    筒井筒(つつゐづつ) 井筒(ゐづつ)にかけしまろがたけ

       過ぎにけらしな妹見ざるまに

 

 

    くらべこし振り分け髮も肩過ぎぬ

       君ならずしてたれかあぐべき

 

 

 八重の(ほの)めかした古哥(こか)(なぞ)つて、定刻通り、街道筋へ戻つてきた盲棒(めくらぼう)。糸㠀の干拓事業が起ち上がる遙か以前の松原に、筒井原(つつゐばる)と名付けられて幾星霜。泊産安(とまりさんやす)染井(そめゐ)井戶(ゐど)に、志登の玉の井、大原(おほばる)の大井戶と、名の有る掘り井に(うづ)もれて、筒井(つつゐ)(くわん)する町外れ、誰が呼んだか筒井筒(つつゐづつ)。八重は物蔭に隱れてゐるつもりなのだらう。浴衣に焚き()めた薰衣香(くのえかう)と、髮に飾つた星七草の(かす)かな芳純(はうじゆん)が、必死で氣配を殺してゐる。幼氣(いたいけ)兒戲(じぎ)に眼を瞑る甘美な懲罰。鉄の指先が杖より先に町井戶の井桁(ゐげた)に觸れて立ち止まり、釣甁(つるべ)の滑車を神社の鈴紐の樣に摑んで鳴らすと、

 

 

    風吹けば 沖つしら浪 可也(かや)の山

       夜半(やは)にや君が ひとり越ゆらむ

 

 

 木履(ぽつくり)の甲高い跫音が、嬌聲(けうせい)(から)げて駆けてくる。八重は美しい娘だ。其の面差しが視えずとも、觸れずとも、取り巻く者達の華やぐ聲色(こわいろ)は噓を吐きやうが無い。八重が右を差せば皆が右を向き、八重が笑へば皆が笑い、八重が咳をすれば皆が案じる。貳見(ふたみ)ヶ浦に沈む夕陽の樣に誰もが愛でる其の娟容(けんよう)。宿場通りへと向かふ人の流れに(そむ)き、八重に手を引かれて步く盲に注がれる畸異の眼を、鉄は瞑れた瞳で睨み返した。

 「(ひと)りで(もち)ば、そんなにがめて、何うするとや。」

 「復た、かみさんの實家(じつか)に帰んしやつたとね。其りやあ、どげんかせんと、いかんばい。」

 「おほう、良かばい。良かばい。幾らでも持つていきんしやい。」

 「何ね、(ふみ)ちやんな、先輩ん事、好いとんしやあと?」

 「そら、()うくさ、息子しやんの稼ぎよんしやあもん。」

 「嗚呼もう、極樂の蓮の上んごたるばい。」

 年の渡りに言寄(ことよ)せて、賑はふ出店と棚飾り。貳星(にせい)の屋形を映そうと緣台に載せた七種(しちしゆ)御遊(ぎよいう)も涼しげに、乞巧(きつかう)の夕べは更けていく。行き交ふ人の合閒(あひま)を縫ひ、壱方的(いつぽうてき)に捲し立てる八重の口吻(こうふん)に無言の相槌を返す鉄。

 「七夕で皆、艶付(つやつ)けとんしやあばい。鉄は見えんちやね。折角、内も壱番()かとば()てきとうとい。噓でも宜かけんが、少し位は誉めちやらんね。」

 「今度の期末、内は簿記以外、赤點ばつかやつたつちやがあ。もう、何うしやうかいにやあ。」

 「鉄は未だ汽車に乘つた事の無かとやろ。北筑の汽車ば今川橋で乘り換へたら何處(どこ)迄行けるとかいにやあ。宜かねえ。内も旅のしたかばい。鉄は何うね。内と壱緖に行かんね。」

 「鉄は仙女座(アンドロメダ)つて知とうね。内なくさ、今日學校で習ろうたとよ。天の河の脇ん(ところ)に在る彼が()うばい。」

 八重の指差す明後日の方を(あふ)ぐ鉄に、八重は右だ左だと腹を抱へて指圖(さしず)する。何時もより口數(くちかず)多く(はしや)ぐ八重に、鉄は其の張り裂けそうな胸の内を垣閒見て、道化(だう)を演じる事しか出來無い。年季奉公で身を粉にする端女(はしため)達が、今夜壱晚(いとま)を貰つて羽目を外す其の脇を、似而非(にてひ)なる憂ひで彩られた、(かぐは)しき(よそほ)ひが擦れ違ふ。鉄の手を強引(がういん)に振り回して、何れが織り姬だ彦星だと星の空騷ぎに、氣が付けば丸太池を過ぎ、積み上げた夏蜜柑の芳醇(はうじゆん)な酸氣漂ふ選果場前で、木履の甲高い跫音が止んだ。鉄が八重の瞳を借りると、茶臼山の鬱蒼(うつさう)とした黑塊(こつくわい)が、祭りの夜を泥溝(どぶ)の樣に塗り潰してゐる。

 茶臼山は永祿年閒に波多江鎭種(はたえたねしげ)居城(きよじやう)してゐた以前の記錄が定かで無い舞岳城(まいだけじやう)城址(じやうし)で、明治開闢(めいぢかいびやく)と共に取り(こは)された儘、在りし日を偲ぶ遺構も舞岳山の名も廃れ果て、櫻竝木(さくらなみき)が年に壱度賑はふだけの柴山に成り下がつて久しい。源平合戰を事始めに、應仁の亂から戰国時代と、糸㠀にも飛び火し繰り廣げられた幾多の戰亂も、木立を駆け回る子供等の裏山遊びが夢之跡。天守閣から、領地(りやうち)と戰略的要衝(えうしよう)を抑へる(ため)に選ばれた、糸㠀の肆季(しき)を見渡せる標高(へうかう)七拾六米突(メエトル)眺望(てうばう)も盲の鉄には緣が無く、()してや、昼の山と夜の山の區別(くべつ)も無い筈が、今夜に限つて底知れぬ瘴氣(しやうき)を纏つて立ち塞がつてゐる。山の禁を破るなと(おど)す樣に、棚田から轟く(おびただ)しい(かはづ)(こゑ)。祭りの燈りに背を向けて八重の(ふる)へる手を握り返し、選果場の脇から山頂へと(つづ)く坂道を、今度は鉄が八重の手を引いて步かうとした其の時、八重は突然其の場に(うづくま)つた。

 「鉄、何うしやうかいにや、やつぱ、内な、えずかばい。此處(ここ)で待つとほけんが、母樣(かかさま)の向かふで幸せにしとんしやあとか、内の父樣(ととさま)は本なこつ、内の父樣か聞いてきてくれんね。此、内の母樣の付け取つた(かむざし)やけんが、持つて行つてくさ、こん簪ば付け取つた人な、今、何うしよんしやあかだけでも聞いてきて。」

 小作の野蕃漢(じやがたら)壱蹴(いつしう)した御轉婆(おてんば)が見る影も無く、鉄の手に握り込まれた蜻蛉玉(とんぼだま)の小振りな壱本軸(いつぽんじく)の簪。其れまで必死に堪へてゐた物が灼熱の虫酸と()つて逆流した。

 「嗚呼、恨めしか、恨めしか。内な父樣の恨めしかとよ。にくじゆうやもん。片眼で内の事ば睨んでからくさ。眼帶ばしとう方の眼は、支那に行つて遣られたんやのうして、渡世人の仲介ん時、脇差しで抉られたとか、助役とこの息子が云ひよつた。本なこつかいにや。鉄、()し、父樣が内の父樣や無かつたら、内と壱緖に糸㠀ば出よ。あん汽車に乘つて糸㠀ば出よ。」

 山の狐に取り憑かれた樣に泣き叫ぶ八重。鉄は淚に暮れる其の頰を平手で張り飛ばして默らせると、兩肩を摑んで正面に向き合ひ、本の小さく頷いた。

 「鉄、有り(がた)う。内、待つとうけん。此處で待つとうけん。」

 八重は鉄の胸の中に崩れ落ち、髮飾りの星七草が鉄の唇を掠めた。美しいが(ゆゑ)に摘まれて終ふ名花の憂ひ。成らば、切り取られた花の土と成り、泥と(まみ)れずにゐられる物か。泣き止んだ八重を選果場の木箱に座らせると、鉄は杖を短く持つて簪を(くは)へ、山道を無視して茶臼山の斜面に直接挑み掛かつた。態態(態態)、込み入つた虎口(こぐち)まで廻らずとも、御堂に欠かす事の無い、線香(せんかう)蝋燭(らふそく)の燃え止しの臭ひが、鉄の小鼻を摑んで離さ無い。山城として護りに徹し造成された切岸(きりぎし)堀切(ほりきり)も、獅嚙憑(しがみつ)いた其の後は壱直線に登つて最短距離だ。腐葉土を掻き分け、木の股を摑み、枝から落ちた猿の樣に、修驗道(しゆげんだう)荒行(あらぎやう)の樣に、漆黑の樹海に同化(どうくわ)していく鉄。狐憑(きつねつけ)が何を口にしやうと、母は彼の世で幸せにしてゐると云へば良い。父の事は判らぬと云へば良い。鉄は八重に然う云ひ聞かせる自身が有つた。八重を惑はす親を(おも)ふ心の闇。此からは自分が八重の眼に成る番だ。盲に(とも)す光が在るのなら、八重の心を照らしてくれ。指肉と爪の隙閒に木つ端が(えぐ)り込み、頭から被る土砂が、眼と云はず鼻と云はず、穴と云ふ穴を塞いで、簪を銜へてゐるのか泥を()んでゐるのかも判らず、八重に成り代はつて其の躰を(さいな)み、柴山の斜面を刺し殺す樣に杖を突き立て、駆け登つていく。眼が見えぬ事を甘受し氣儘(きまま)に暮らしてゐる鉄には窺ひ知れぬ、名家を背負ふ重責に押し潰された八重の行く(すゑ)。亡くなつた母に(おの)が身空を(かさ)ね、其の(こと)()(すく)ひを求める少女の絕望。母は今、何處で何うしてゐるのか。どうか幸せで在つて欲しいと云ふ切なる(おも)ひ。其れは鉄とても同じ事。此の急勾配を登り切つた御堂で待つている狐憑(きつねつけ)は、本當に血を分けた母なのか。口寄せの壱糸纏(いつしまと)はぬ眞實(しんじつ)(ことば)は何を物語るのか。息が上がり胸を(みだ)れ拍つ鼓動で我武者羅(がむしやら)に捻ぢ伏せる不吉な豫感(よかん)と、(あらが)ふ術の無い運命の因力。鉄は銜へた簪に犬齒を立てて、込み上げる私情を呑み込むと、年に壱度の七夕に願ひを籠めて、八重の(おも)ひが天まで屆けと這ひ上がつた。

 抹香(まつかう)臭ひ腐葉土(ふえふど)に、御供へ物の腐亂した臭ひが入り交じり、下草が增えて木立の(さざなみ)(まば)らに()つた頭上から、山颪(やまおろし)が峭然と吹き下ろしてくる。鉄が杖を長く持ち替へて壱氣に躰を引き揚げると、其處は敵の侵攻を食い止める(ため)に、尾根を削つて踏み(なら)した曲輪(くるわ)の棚地だつた。柴山の夜氣に澄み渡る、波多江氏が居城した往年(わうねん)の矜恃と、時代に討ち破れた死に顏を曝す慚愧。山は無言で()く。簪を手にして泥を吐き、單衣の汚れを叩き落として、()えた(をんな)の臭いと(かす)かな息遣ひに向かつて鉄は杖を運んだ。狐憑(きつねつけ)は獨りの筈だが確證(かくしよう)は無い。夜営の敵將(てきしやう)仕畱(しと)めに行く樣に、朽ち果てた枯れ葉に()り切つて柴を踏み締める。土竜が土を掘る樣に、闇を読むのは盲の拾八番(おはこ)彌增(いやま)す練り物の殘り香と、巢穴に戻つた猪の無造作な氣配を手繰り寄せ、杖の先が沓巻(みずま)きの無い地面に直刺しの向拜柱(かうはいばしら)を嗅ぎ付けると、鉄は息を殺して屈み込み、濱緣(はまえん)も段木も無い出所不明の境外佛堂(きやうぐわいぶつだう)に耳を添へた。藪蚊が寄つてこ無いと云ふ事は燈りを焚いてる樣子は無い。鉄は向拜(かうはい)から裏へ回らうと中腰のまま向きを()へ、其處で(はた)と、何故こんな夜盜(やたう)に毛の生えた眞似をしてゐるのか、今更、何を探る必要が有るのかと、己の氣遲れを叱咤した。狐憑の語る眞言(まこと)に畏れを爲してゐる場合では無い。奴が己と血を分けてゐるのか何うか等、貳の次だ。

 

 「此處で待つとうけん。」

 

 八重の淚で濡れた袖が乾かぬ内に()い報せを持ち帰る。今は其れが(すべ)てだ。盲の不幸なぞ高が知れてゐる。自分で不幸を背負ひ周りを幸せにする。其れが(をとこ)だ。漢に盲も糞も無い。然う意を決した其の時、

 「何方(どなた)しやんね。」

 宿場通りを撫で回した口上と同じ、甘つたるい(こゑ)が首を(もた)げた。枯れ切つた板閒が軋み、扉の(つがひ)が錆の粉を吹いて悲鳴を上げ、解き放たれる汗ばんだ雌の(にほ)ひ。

 「何うしたとね、そんな泥だらけで。急いで來たとね。」

 見知らぬ漢を(いぶか)る處か、待つてゐたと許りに、媚びた()みが(しな)を作つて近寄つてくる。其の馴れ馴れしさに戶惑ふ鉄から優しく杖を取り上げ、

 「早う中に入りんしやい。」

 狐憑が手首を摑んで引き寄せると、鉄の掌に(いき)()つ乳首が直に突き刺さつた。得体の知れぬ剥き出しの精氣が疼いてゐる。狐憑は帶を締めてゐ無い處か、膚襦袢(はだじゆばん)を肩に淺く羽織つただけで支度解甚(しどけな)く前を(はだ)けてゐた。鉄は全身の和毛(にこげ)(あは)を吹き、(あま)りの(むご)たらしさに舌の根まで痺れ、身動きが取れ無い。すると、

 「何ね其れ内に吳れるとね。」

 狐憑は簪を持つた鉄の手にウつトリと頰を添へた。鉄が劣情を誘ふ惡ずれした色香に抗ふと、狐憑きは怖氣立(おぞけだ)つ襟足に巻き付いて、

 「何ね、恥づかしがらんで良かとよ。」

 鉄の股閒を獸の樣に(まさぐ)り、鉄の唇を奪はうとする。鉄は畸聲(きせい)を上げて狐憑を拂ひ除け、其の頭上に簪の劍を振り上げた。闇を劈く狐憑の絕叫。我に返つた鉄は杖も忘れて御堂を飛び出し、曲輪(くるわ)の棚地から(ころ)がり落ちていく。

 腐葉土と枯れ枝を撒き散らし乍ら、急勾配を暴走する盲の地獄車。(いた)ましい星の下に生まれた狐憑の罪無き俗情が、母と子の逃れ得ぬ宿業(しゆくげふ)輪轉(りんてん)し、粉粉に打ち砕かれる鉄の本懐(ほんくわい)。俺はあんな(さか)りの付いた野良猫の後始末か何かで産まれ、棄てられたのか。彼の女に何を口寄せしろと云ふのか。何故人は忌まわしい程に(よわ)く、悲しいのか。此の因業な仕打ちの何處に(すく)ひが在るのか。闇に生きる盲には人の世の闇から眼を背ける術が無い。(いの)りを捧げた星は巡り()ふ事無く砕け散つた。もう此の儘、奈落の底を突き拔けて何處迄も堕ちていけば良い。闇に呑まれ、光をも手放した(たましひ)の斷捨離。()逆樣(さかさま)の世界に止めを刺す樣に、鉄は地面に叩き付けられた。

 肩甲骨(けんかふこつ)から腰椎(えうつい)へと跳ね上がる激甚に肺の腑が潰れて呻く事も出來ず、棚田を埋め()くす(かはづ)の聲が、土に(かへ)つた泥の塊を壱斉(いつせい)に笑ひ飛ばす。地獄に落ちる事さえ出來ぬ此の爲体(ていたらく)。最早、此の柴山の麓は振り出しですら無い。八重が汽車に乘つて旅をしたい。此處から出たいと云つた意味が今(ようや)く判つた。八重は何處だ。俺が()れて行つてやる。此處では無い何處かへ。今直ぐにだ。追い縋る物總てを振り切りる黑鉄の機關車に乘つて、此の闇が見え無くなる迄。

 杖の無い鉄は柑橘類の(かを)りを辿つて選果場を目指した。倂し、實の詰まつた夏蜜柑の発散する酸味の中に、八重の浴衣に焚き染められた白檀の名殘も無ければ、星七草の頰笑みも聞こえてこ無い。積み上げられた出荷待ちの貨物(くわもつ)()つかり、崩れ落ちる木箱を掻き分ける樣に、肆つん這いで手當たり次第に周圍(しうゐ)を探る鉄。何處だ、八重は何處だ。此處で待つていると叫んだ八重の誓ひを信じて、鉄は犬の樣に地邊田(ぢべた)を嗅ぎ廻つた。八重を(すく)へるのは鉄しか居無(ゐな)い、鉄を濟へるのも八重しか居無い。失はれた片身を求めて、散亂した夏蜜柑を押し退ける。もう此が己の闇か八重の闇かも判ら無い。鉄は初めて本當の闇の中に居た。其處へ、厩舎(きうしや)を飛び出した馬群の樣な、唯ならぬ跫音が怒鳴り込んできた。

 「そげなとこで何ばしょうとや、鉄、大事(おほごと)ばい、墓堀り處の話しや無か。御孃が、八重孃が伏龍池に落ちんしやつた。」

 「母樣の簪の池に落ちたつて云ふて飛び込みんしやつたげな。」

 「いつちよん上がつてこんつてぜ。旦那しやんも來んしやつてから。(ゑら)い騷ぎばい。」

 取り亂した惡童達が矢繼ぎ早に捲し立てる證言(しようげん)が、鉄の悟性を擦り拔けていく。誰よりも音に(さと)い盲の地獄耳が其の意味を聞き取れ無い。行き場の無い焦りと焦りが衝突し、何獨つとして嚙み合はぬ、八重を(おも)ふ心と心。復た俺を揶揄(からか)つてゐるのか。根性を叩き直して欲しいのなら後で纏めて片付けてやる。今はそんな駄法螺(だぼら)に付き合つてゐる場合ぢや無い。八重は此處で待つてゐて、簪は()うして此の俺が、と突き付けやうとした鉄の手から、彼程強く握り締めてゐた筈の簪が消え、唯、泥だらけの袖口が八重の念ひで濡れてゐた。

 惡童達の過ぎ去つていく跫音が、鳴り止まぬ(かはづ)の挽歌に呑み込まれていく。夢虛(ゆめうつ)つの鉄に其の後を追ふ氣力は無かつた。研ぎ澄まされた夜氣に忍び寄る顏の無い寂滅。取り殘された闇の中で、幕が下りたのか何うかすら判ら無い。伏龍池は農業用水を確保する爲に掘られた、岸から(きふ)に深くなる人工池で、落ちたら龍の餌に爲ると(おそ)れられてゐた。八重は龍に呑まれたのか。其れとも形見の簪を賴りに亡き母の元へ向かつたのか。鉄の(つぶ)れた瞳は此の星降る夜に何を見て終つたのか。町役場の方角(はうがく)から、不意に軌道機關車の汽笛が轟き、風穴の空いた鉄の心を弔砲(てうはう)參拾壱文字(みそひともじ)が吹き(すさ)ぶ。

 

 

      見えそめし夢の浮橋(すゑ)かけて

        いつかむかひの岸にいたらむ

 

 

 年の渡りに天翔る、精靈(しやうりやう)列車が貳星の屋形。何時か()望外(ばうぐわい)の旅立ちと、聞き覺えの有る其の聲に、鉄は相聞(さうもん)の古哥を()し、不帰の(みぎは)に送り出す。

 

 

      思ひ入る心しあらば末かけて

         などか見ざらん夢の浮橋

 

 

 「駄目よ、鉄郎(てつらう)。時間が来たわ。幾ら伝世品種の貴方でも此処迄が限界よ。其処を渡つて戻れる保証は無いわ。」

 竜頭(りゆうづ)の掠れた声が、鉄郎の迷ひ込んだ、星の渡りを寸断した。何時から其処に居たのか、何処から見護つてゐたのか。(とき)を司る斎女(いつきめ)の時ならぬ(おとな)ひに、甦った見当識が立ち眩む。竜頭の提げた燈會(ランタン)錻力(ブリキ)が幽かに軋み、仄かな温もりが鼻先を掠めて、鉄郎の心の火屋(ほや)に灯りを分けた。

 「鉄郎。今、私に出来るのは貴方を引き留める事だけ。何故、伯爵が貴方に知遇を尽くしたのか。御願ひだから気が付いて頂戴。私も漸くストレージの環留回路を解除出来たわ。でも、記憶のリミッターを破壊した処で、抑圧されていた過去に押し潰されるだけ。此処で貴方を二重遭難させる訳にはいか無いのよ。」

 リミッターの外れた竜頭が押し殺して(ふる)えてゐる思ひの丈に、鉄郎の心火(しんくわ)が揺らめゐた。翻るチャドルのドレープに夜気が波打ち、鉄郎に背を向けて裾を擦る当て所無い跫音。

 「オイ、竜頭、何処に行く。」

 「私は何処にも行きはし無い。胎内の時辰儀を何んなに使ひ(こな)しても、此の宇宙と云ふ質量保存の駕籠の中。私は何処にも行けやし無いのよ。」

 「竜頭、教へてくれ、八重は、メーテルは、真逆(まさか)、竜頭、御前も・・・・・・。」

 鉄郎は駆け出し、役目を()へた(しづ)かな刻の渡し守に追ひ縋る。

 

 

      玉葛(たまかづら)()ならぬ樹にはちはやぶる

         神ぞ()くといふならぬ樹ごとに

 

 

 火屋の灯りを吹き消す竜頭の吐息が鉄郎の手を擦り抜け、伏龍池に没した少女の後を追ふ様に飛び込んだ消煙の闇。迫り来る汽笛が鉄郎を追ひ越し、母を念ふ少女の祈りから振り落とされる。投げ出された躰が宙を泳ぎ、地の底を跳ねて転げ回ると、星今宵(ほしこよひ)の澄み渡る夜気が、灼けたグリスと放駭な水蒸気で()せ返つた。

 

 

 

 (かはづ)の嘲笑も茶臼山の笹やきも消え失せ、大気制御と人工重力で整備された、支配区域の高圧的な管理モニターの視線が、鉄郎の第六感に降り注いでいる。舞ひ上がつた砂礫を被り、何かに獅噛憑(しがみつ)かうとした指の腹に喰ひ込む、チェッカープレートの冷徹な縞目(かうもく)。板の継ぎ目を(なぞ)ると、適当なピッチで仮止めしただけのタップ溶接に、フタル酸の錆止めで一刷けしただけの手荒なタッチアップが、杜撰な施工を曝け出してゐる。と云ふ事は、此処はアングルとチャンネルで組まれた仮設のプラットホーム。紛ふ事無き、無限軌道の執着駅。鉄郎は舞ひ戻つてゐた。元の時代に。何もかも無かつたかの様に引き戻されてゐた。光を置き去りにして。

 鉄郎の瞳に再び視神経の息吹が吹き込まれる事は無かつた。黒鉄の魔神が発散する絶倫の旺羅(わうら)が直ぐ其処で蠢いてゐると云ふのに、闇には一切の(くぎ)りが無く、怒張したボイラーの気配に耳を傾ける事しか出来無い。鉄郎は認めるしか無かつた。もう二度と、元の自分には戻れ無い。併し、其れも又、(しか)り。

 

 

     夢とこそいふべかりけれ世の中に

        うつつある物と思ひけるかな

 

 

 一度此の瞳を()ぢて終へば、夢も(うつつ)も、時間も空間も、心も躰も分け隔ての無い絵空事。時刻や日付で切り刻む事の出来ぬ、季節の営みと、日月の満ち欠け。梢の笹やき、洗い立ての衣擦れ、潭潭(たんたん)とした井水(ゐすい)の静謐と過ごした棚機(たなばた)(ゆふ)べ。世界は、此の指先で()でる肌触りと温もり、(にほ)ひと(かを)り、大らかで実り豊かな言の葉の響きで溢れ、立錐の余地も無かつた。合理化の津波に破壊される前の神神の(ことば)と戯れた奇跡の夜。心の襞に(そよ)ぐ言の葉の鈴生(すずな)りが短冊を彩り、枕詞の手触りが形作る人人の心と心。其れに引き換へ、

 尻切れ蜻蛉の無限軌道が独り()ちる無様な云ひ訳が、呑み棄てられた缶コーヒーの様に無人のプラットホームを転がつてゐる。此処には大地の鼓動も産声も無ければ、手と手を合はせて祈りを献げる願ひの欠片すら無い。瞑れた瞳で(あふ)いだ七夕の空に、こんな食ひ散らした産廃が紛れる事になるとは。宙域共同開発、テラフォーミングと云ふ看板倒れの言葉で、徒に資源を愚弄した星の成れの果て、人の成れの果てに、鉄郎は耳を澄ました。不離一体の(ことば)を破壊されて、打ち砕かれていく人人の心。己の心を語る(ことば)が破壊された事すら理解出来ず、破壊を逃れた古語を(あし)き因習と踏み躙り、人人は自ら滅んでいつた。(ことば)の復興無くして心の復興は有り得無い。此の旅は(ことば)の欠片と心の欠片を集め、繋ぎ止める巡礼の旅だ。聞こえる。999の汽笛が。()んでゐる。999が俺を喚んでゐる。助けを喚んでゐる。合成義脳の言語モデルでは無い血の通つた魂の咆哮。999の汽笛が何を狂ほしく叫んでゐるのか鉄郎は今初めて聞こえてきた。迎へに行かう、皆を。此の追憶の列車で。

 鉄郎は熱きシリンダードレインの(しわぶ)きを頼りに歩き出した。4.5mmの安価な縞鋼板に鳴り響く辿辿(たどたど)しい跫音。シャークソールの刃がホームの縁を()み、指先がフタル酸錆止め塗膜の鋼体に()れると、スハ43系の客車に抱き付きいて、ボイラーの漲る機関車の方向へと這つていく。窓硝子に擦り寄せた頬に伝わる朴訥とした車体のフォルム。母の胸で甘える様に、今は唯、何もかもが愛おしい。乗降口から車内に潜り込んだ鉄郎は、手探りで貫通扉を開け、人の手でシットリと磨き込まれた、ボックスシートの木枠の角を独つ独つ慈しみ乍ら進んでいく。モケットの滑らかな起毛の温もりで満席の二等客車。覚束ぬ伝ひ歩きを励ます様に、床板の柾目(まさめ)が声を忍ばせて寄り添ひ、我等も旅の道連れと許りに、先へ先へと導いていく。気兼ねの要らぬ旧知の交情。相和して共に歩んだ日日の随想に、却つて膝が砕けさうになる。併し、其の些些(ささ)やかな介添へも束の間、炭水車を潜り抜けると、混濁した熱気が鉄郎の頬を張り飛ばした。配管とバルブの其処彼処(そこかしこ)から漏出する(たぎ)り立つた水蒸気。限界圧力に達して運転席が飴の様に歪曲してゐる。動力が復活したのは良いが只事では無い。恐る恐る爪先でフットペダルを探り踏み込むと、半割の焚口戸(たきぐちど)から逆巻く火柱が鉄郎の前髪を焦がし、咄嗟(とつさ)に二度踏みして切り替わる躙り口。鉄郎は足許に空いた、猫の額程の洞穴から一転して吹き抜ける不穏な玲気に苦笑ひを噛み締め、乾坤一擲、頭から滑り込んだ。

 無限軌道の宙域情況を網羅し、黙黙と統合管制機構を差配する、999の胎内に宿した小宇宙。其の銀河鉄道株式会社の社外秘で集積化した走る聖域が、猛烈な過積解析の躁乱に呑まれてプラズマの茨に覆はれてゐる。

 「螳吝沺髢狗匱繝励Ο繧ー繝ゥ繝?繧貞?闊医○繧医?」

 完全に自律制御を逸した機関室の合成義脳。

 「螳吝沺髢狗匱繝励Ο繧ー繝ゥ繝?繧貞?闊医○繧医?」

 演算処理のシーク音が騒霊(ラップ)化して鉄郎の耳骨を掻き毟り、天地を埋め尽くす多針メーターのアラームが方位無法に無差別に飛び交つてゐる。

 「螳吝沺髢狗匱繝励Ο繧ー繝ゥ繝?繧貞?闊医○繧医?」

 何が起こつてゐるのか、何から手を付けて良いのか判らず、殺到する欺態信号に猛烈な拒絶反応で応戦してゐる、合成義脳の核種(コア)へと吸い寄せられていく鉄郎。すると、心神喪失の機関室が唐突なアナウンスを連呼した。

 「列車防護無線解除。列車防護無線解除。0番乗リ場、折返シ、メガロポリス東京中央駅行キ、999号、発車シマス。列車防護無線解除。列車防護無線解除。0番乗リ場、折返シ、メガロポリス東京中央駅行キ、999号、発車シマス。」

 テキストデータの字面を(なぞ)つただけの平坦な算譜厘求(サンプリング)ボイス。鉄郎を靴底から突き飛ばす様にブレーキシリンダーが連動し、メインロッドを(から)げて繰り出す巨人の一歩が廃線同然の鉄路を踏み(しだ)く。連結器の鉤爪が軋みを上げ、鋼顔の十一輌編成が傲然と匍匐(ほふく)し始めた。臨界に達して震騰するボイラーの激蒸。プラットホームを(んざ)指差喚呼(しさかんこ)のホイッスルも無く、串刺しの儘のアルカディア號を横目に、ドラフトの鼓動が銀瀾の坩堝へ突進し、行程外の運行スケジュールへと加速していく。行かせてはいけ無い。999の意思では無い何物かに取り憑かれて雪崩れ込む強行軍が暗示する死屍累累(ししるいるい)(わだち)。兇変した疾黒の弾丸特急が目指すのは終末の欠路だ。鉄郎には聞こえた、絶息寸前の999の声が。何故、乗車券を失効した無銭乗者を此処へ喚んだのか。999から託された(ことば)(ちい)さく頷き、盲目の代弁者は決然と振り返つた。

 「フッ、相変わらず仕事熱心だこと。」

 暴走する出力に必死の抵抗を続ける機関室に吐き捨てられた不貞不貞しい雅語。主任(とり)を務める華客(くわかく)は既に出番を待つてゐた。花道を渡つた気配も無く、忽然と舞い降りた白檀のヴェールをプラズマの茨が焚き染め、ピンヒールの剣先が地に堕ちた聖域を踏み躙る。

 「封印を解かれた途端、職務に復帰為るのだから将に社畜の鑑ね。システムと同化してまで戦略核因子(クラスター)の侵攻を防いだ挙げ句、其の儘、戦略核因子と交配して帯域覚醒自我のアダムに生つた、我が社の英雄が、公務と称して彼の子を雁字搦(がんじがら)めに縛り上げた、基地局のプロテクトを破壊して、帯域制限の人柱から解除してくれるなんて。其れが()めてもの罪滅ぼしのつもりなの。財源の穴埋めや、赤字の補填ぢや在るまいし。血を分けた家族は欠員を補充する様にはいか無いのよ。さあ、何処に居るのメーテルは。還るのよ、地球に。私達の地球に。私のメーテルを何処に遣つたの。」

 鉄郎の瞑れた眼裡(まなうら)に浮かび上がる闇黒の死装束と金絲雀(カナリヤ)色の乱れ髪。汚泥の様に混濁した殺気に(まみ)れ、悲劇に酔ひ痴れる語り部に、愛娘の絶叫が錯綜する。

 「御母様、私は此処に居るわ。聞こえて、御母様。私は何処にも行か無いわ。御母様、御気を確かに。」

 メーテルの意識が復活し、鉄郎の母の躰に我が子と相乗りして彷徨(さまよ)女物狂(おんなものぐるひ)(あづま)くだり。正気に戻る事も涅槃に至る事も出来ずに擦れ違ふ母子の愛惜と、上書きされて分裂した自我が、寿命を迎へた洋燈(ランプ)の様に明滅してゐる。素人狂言にしても質の悪い、独り芝居の奇想な修羅場。其の足許で何かが転がり、粒の粗い途切れ途切れのPCM音源が最後の力を振り絞つた。

 「鉄郎、撃て、プロメシュームを撃て。迷ふな。見定めろ。真の正鵠(せいこく)を。」

 討ち棄てられた伯爵の生首が、頭を下げる事すら儘ならぬ其の身を挺して訴へる魂の介錯。(およ)そ、親の仇が頼み込む類ひの事では無い。鉄郎は戦士の銃に手を掛けた儘、翼を捥がれた瀕死の宿敵に息を呑んだ。私憤を晴らし、遺恨に終止符を打つのは容易いが、此の漢が鋳造の饕餮(たうてつ)に身を(やつ)してまで護ろうとする信義には何の(とが)も無い。

 「999も最早、黙示録に綴られた悪魔の刻印だ。此の列車は天地を逆に走つてゐる。鉄郎、此の女を母と思ふな。撃て。然して、999を・・・・・。」

 宙域の覇権を征した益荒男(ますらを)は朽ちて(なほ)、傑出してゐた。尽きる事を知らぬ、(かなへ)の湧くが如き決死の勇渾。伯爵は此の母子を巡る銀河鉄道の罪荷(つみに)を一身に背負い込んでゐる。其れをプロメシュームのピンヒールは渾身の足拍子で打ち砕いた。一瞬で闇の彼方に滅した伯爵の電脳周波。此の漢も迷へる子羊を餓ゑから救う為、余りにも険しい神の道を諦めた大審問官の独りだったのかもしれ無い。父の顔を見た事が無く、母の優しさと父の厳しさ、権威と権力の両輪を知らずに育つた鉄郎に取つて、伯爵は行き摺りの凶漢を超え、星の海を自力で渡る先達として何時しか其の影を追つてゐた。何故もつと早く気付かなかつたのか。カドミウムレッドの眼差しに何時も背中を押されていゐた事を。ピンヒールに(なじ)られ床の上を爆ぜる斬首の破片。伯爵が此の最終列車の乗客に鉄郎を選んだ遺志が、小兵(こひやう)吐胸(とむね)に突き刺さる。

 独り、復た独りと退場し、シテとワキの二人が残つた制御不能な激動の舞台。天の河原の早瀬を渡り、水入らずの再会を庶幾(こひねが)ふ母子に、破綻した筋書きが乱筆を揮ふ。

 「地球に残れば良かつた。然う気付いた時にはもう遅かつた。此の男は壊れてゐる。否、此の機械は壊れてゐる。然う気付いた時には、彼の子も壊れてゐた。」

 感極まつた鬼子母の更なる足拍子に、無限軌道から脱輪する程の激甚で波打つ機関室。譫妄(せんまう)状態のプロメシュームは合成義脳に背乗りした亡夫と鉄郎を混同し、見境無しに吼え立てる。総ての分別が崩壊し、原型を失つた我が子への執着。鉄郎の母が高潔な求道心(くだうしん)で押し殺してゐた女の(さが)が口寄せる狐憑のヒステリー。

 「クルーへの感染を(おそ)れて焼却処分したメーテルは何処。スペアノイドに換装しては破棄した私のメーテルは何処。地球に戻る事も、生身の体に戻る事も出来ずに、名前も記憶も書き換えられた彼の子を何処に遣ったの。貴方がメーテルを殺したのよ。其れも、一度ならず二度迄も。」

 「違うわ、御母様。御願ひだから私の話を聞いて。御父様は最善を尽くしたのよ。焼却処分されたのは私だけぢや無いわ。ああ為るしか無かつたのよ。システムに身を投げて人柱になつたのも、コロニーと残存帯域を護る為ぢやない。何故、判つてくれ無いの。」

 賽の目の様に反転する自我が、噛み合わぬ(おも)ひを焦がして(あざな)ひ、傷付け合ふ骨肉の相克。母と娘のモンタージュを掻き混ぜたパズルに答へは無い。機関室を埋め尽くす多針メーターの風防硝子が次次と破裂し、増殖する怪周波。帯域制限の治外法権と化した此の暴走列車に、電脳中枢を蚕食(さんしよく)する魑魅魍魎(ちみまうりよう)が続続と集結してゐる。富士壺の様に寄生した幽機化合物に悲鳴を上げる999。此の儘、基地局を破壊し乍ら地球に突入するつもりか。無限軌道のプロテクトを護り抜くにはメーテルの(ちから)が必要だ。併し、満身創痍の筐体に聞く耳を持たぬ女物狂の足拍子が、怒濤の追ひ打ちを叩き込む。プロメシュームの愛憎に泥濘(ぬかる)んだエクスタシー。

 

 

     むさし野の雉子(きぎす)やいかに子を思ふ

        けぶりのやみに (こゑ)まどふなり

 

 

 プロメシュームの愛憎に泥濘(ぬかる)むエクスタシーが暴発した汽笛とシンクロし、恍惚の禹歩(うほ)で輪舞する弱竹(なよたけ)の蜂腰。プラズマの茨に絡み取られて鳳髪は逆立ち、我が子の為に、面白う狂うて見せ(さうら)ふ、人事不省で咲き乱れる夢芝居。混じはる血潮が濃い程に、何故(なにゆゑ)、人は傷付け合ひ、苦しまねばならぬのか。真綿の様に締め上げる親と子の絆。妄執と官能が寄せては返す曲舞(くせまい)の緩急に、何処(いづこ)かで囃子(はやし)の声す耳の(やみ)

 「鉄郎、私を撃つて。御母様は正気ぢや無いわ。撃つて。然して、999を・・・・・。」

 プロメシュームの酩酊した意識を縫つて泣き叫ぶメーテル。鉄郎は腰のホルスターから霊銃を抜き取ると、踊り狂ひ乍ら躙り寄る、演目を忘れたシテに向かつて諸手に構へた。無論、本人の意思では無い。鵲が伯爵の遺志を継ぎ、降魔の本性を現した。鉄郎を(あまね)く神経の梢に降り立ち、黒耀の翼を広げ千早振(ちはやぶ)魍禽(まうきん)。躰の自由を奪はれ、光弾の反動に備へ腰を下ろし、銃爪(ひきがね)を甘噛みする人差し指。調伏に逸る呪能が手首から肘へ電導し、顔を背ける事すら許さ無い。鬼界の淵を徘徊する憑き物を、情理に惑う主君に代はつて撃ち滅ぼす、出過ぎた忠義。確かに、血迷ふ鬼子母を(さと)(ことば)に心当たりなぞ有る訳も無く、此以上、物狂ひに母の躰を蹂躙される位なら、此の手で死に水を取るのが何よりの孝養。総てが遅きに失した今、此の地獄絵図から手厚い回向(ゑかう)に導くのが子の務めだ。併し、

 だからと云つて、ハイ、然うですかと煮えた鉛を呑み干せるものか。何が母と思ふな、迷はず撃てだ。何が御母様は正気ぢや無いだ。其処に居るのは御前等の母親でも無ければ、悪の元凶でも標的でも無い。俺の母さんだ。身内の喧嘩なら家で遣れ。何故、母さんがこんな糞塗れの尻拭ひをしなければならぬのか。銃を構へたまま藻掻き苦しむ鉄郎の正面に、足拍子の恫喝で立ち開かるピンヒール。忿怒の震撼にフォックスコートの毛足が騒めき、(はらわた)から煮え滾る過呼吸が鉄郎の頬を面罵する。星の鏃と謳はれて、嘴烈(しれつ)を極める銃口を塞いで圧し返すプロメシュームの凄絶な鬼魄。最早、一刻の猶予も無い。業を煮やした銃爪(ひきがね)が、思考停止した主の人差し指を待たず、先手を打つて発莢(はつけふ)した。何もかもが心を失ひ、盲爆する負の連鎖。鉄郎は咄嗟に鵲の首を鷲掴み、心の臓に爪を立てる一刀彫りの銃身諸共、足許に叩き付けた。床の上を爆ぜ、皇弾を喚き散らして垈打(のたう)つ黒耀の彗翼。プロメシュームを逸れて撃ち抜かれた機関室が無限軌道を乱高下し、雷火を散らす合成義脳。阿鼻叫喚の終列車は緊急停止信号を振り切つて、破滅への臨界曲線を駆け(のぼ)る。

 誰も収拾する者の居無い、嗜虐と暴戻(ぼうれい)の解放区。其の潰乱を微動だにせぬ、プロメシュームの手の中で光励起サーベルが起動し、伯爵を(なます)にした雷刃を大上段に振り翳した。鉄郎の頭上で唸る虹周波(こうしうは)の発振音。プロメシュームが何事か喚いてゐるが、鉄郎は既に耳を貸す気は無かつた。何故、此程の苦しみを独りで背負い込んだ母さんが罰せられねばならぬのか。母さんをこんな目に遭はせたのは誰だ。吹雪の中で怖ぢ気付き、母さんを見捨てたのは誰だ。総ての罪は己に有ると云ふのに、此の手で母さんを手に掛ける等、有り得無い。罰せられるべきは此の俺だ。母さんの手で此の罪を罰して貰へるのなら正しく本望。狂つた儘で良い。メーテルの姿の儘で良い。生きてゐてくれさえすれば其れで良い。此で総ての罪を償へる。漸く追い付いた。己の罪に。今の自分は彼の時の自分とはもう違ふ。星野鉄郎は此の宇宙で唯独り、伝世の純血を引き継ぐ母さんの息子だ。無様に命を乞ふ位なら、こんな血筋の一本や二本、途絶えて終つて構は無い。鉄郎は伯爵の云ふ通り迷ひを棄てた。

 

 

    (しぬる)は案の(ない)の事。(いきる)は存の(ほか)の事。

 

 

 彼の鋳物の糞爺も洒落た事を云ひやがる。然う、北叟笑(ほくそゑ)んだ鉄郎の前髪と鼻筋を、振り降ろされた光量子の斬つ先が掠め、氷血した心の臓を、プロメシュームの断末魔が貫いた。漂白した時の狭間に放置された鉄郎の覚悟。生きているのか、死んでいるのか。此の世の物とも、彼の世の物とも付かぬ闇の中に、切れ切れの母心が(くずを)れた。

 「メーテル・・・・・・・、何故、何故、私を・・・・・・私は御前をこんなにも・・・・・・・。」

 鉄郎に向かつて崩れ落ちる失意の鳳髪。其の喪身を抱へ込んだ鉄郎の手に、プロメシュームの握り込んだサーベルから伝ふ、熱い血潮が滴り落ちる。

 「帯域制限の突破口を見出して、999に電劾重合体が集結しているわ。此が最後のチャンスよ。鉄郎、御願い、999を、999を破壊して・・・・・・。」

 自ら胸を貫いたメーテルの喘ぐ吐息が鉄郎を包み込み、闇の中で唇に()れた冷たく(ふる)へる白檀と口紅の苦りに、潺潺(せんせん)と頬を伝ふメーテルの紅涙が入り交じる。

 

 

     ちる花をなにかうらみむ世の中に

        わが身もともにあらむ物かは

 

 

  「左様なら、鉄郎。」

 メーテルが身悶え、宙を舞う鳳髪。黒耀の魔女が初めて垣間見せた、擬造される前の少女の素顔。無限軌道と少年の唇を駆け抜けた青春の幻影。其の薄れていく白檀のヴェールの向こふから、懐かしい匂ひと温もりが息を吹き返してくる。握り締めた生糸の様なメーテルの掌が、角質化して逆剥けた優しい()(ごころ)へと移り変はり、真逆(まさか)と思つた、将に其の時、

 「鉄郎。」

 忽然と原名で喚び起こされ、眼を覚ました少年の驚愕。(たと)へ此の眼は瞑れても、聞き(たが)える訳の無い母の声が闇を斬り裂いた。討ち果てたメーテルの呪縛から()き放たれ、復元した母の実体。全く予期せぬ僥倖(げうかう)に虚を衝かれ、理解の追ひ付かぬ鉄郎。裏切られる事が恐ろしく、俄に信じる事が出来無い。其の可憐(いぢら)しい戸惑ひを突き破つて、

 「母さん。」

 (ことば)を度した無上の激語に胸が張り裂け、何物にも負けまいと必死で奮ひ立たせてゐた血意が一気に解晶し、瀧の様に心が(あら)ひ流されていく。(つひ)に辿り着いた旅の本懐。生きてゐた。母以外の何者でも無い母が、直ぐ其処に居る。証文は無用だつた。伯爵と交わした漢の約束は今果たされた。何もかもが報われた天与の再会。幼児返りした少年が、念ひに任せて抱き締めやうとした其の刹那、堰き止められてゐた砂時計の底が、鉄郎の腕の中で音も無く砕け散つた。星から星へと駆け巡つた時計の針が逆転し、血の海から母を黄泉復(よみがへ)らせた最後の魔法が解けてゐく。一瞬の奇跡に堪へられず、果敢無(はかな)く弾けた残酷な歓喜。息を呑む事すら許されぬ真実の裁決に、鉄郎は(ひざまづ)く事しか出来無い。粉粉に為つた硝子の面影が、暴走する999の剛脚に突き崩され、(とき)真砂(まさご)が鉄郎の指の間を擦り抜けていく。昔日のプラットフォームを通過する、車窓に額装された母の遺影。滑落していく実体を掻き集めやうとした鉄郎の手が空を切り、たつた一握りの白宙夢は母の愛した砂絵の様に吹き消された。

 鉄郎の瞑れた瞳は復たしても(すく)ひ無き闇の中に居た。形有る物を追ひ求める泡沫(うたかた)の無常。云はでは()み難き物の哀れとは程遠い断絶。運命が地獄に投げた賽を拾ふ処か、犯した罪を償ふ事すら叶はず、旅装に(やつ)れた客人(まらうど)は独り。魂の(うつろ)に坐した寂滅を、機関室を蝕む怪周波が掻き乱す。何故、己独りだけが、のうのうと生き残つて終ふのか。大切な物を護れぬ非力と、無用なるが故に其の芽を摘まれぬ、恥塗(ちまみ)れの命拾ひ。肉体の流刑地に置き去りにされた鉄郞は、銀河の旅路が鼓吹する偽りの自由から(しず)かに眼を覚ました。少年は今も白魔に散つた彼の夜の、酸性雪に埋もれてゐた。此処では無い何処か等、何処にも無い。在るのは唯、(みづか)らを(よし)とする為に、今、此処で何を為す可きかを言問(ことと)ふ内なる天彦(あまびこ)。鉄郎は身命(しんみやう)を燃やし尽くした母の、幽かに温もりの残る死灰の中から戦士の銃を拾ひ上げ、戦略的因子(クラスター)の爆弾低気圧に陥落した999の空蝉に諸手を定めて、巡り会へた総ての亡魂を弔ふ様に、心を賤眼(しづめ)て中段に構へると、天道の是非を問ひ質す(むご)い仕打ちにも、述べて作らず、信じて(いにしへ)を好んだ瞼の母に、己の使命を相襲(あひかさ)ねた。合成義脳の核種(コア)に点る緋彗の照星。迷ふ道すら無ければこそ、直き事、矢の如く切れ上がつた紅顔の眦。エンコードの破綻したアナウンスを喚き散らし乍ら、無限軌道は神の物語へと転轍を()る。岩塊再集積体の小惑星を旋回して霏霺(たなび)く惜別の十一輛編成。猪首の突管を怒髪する瀑煙が天頂を焦がし、鉄郎の吐胸(とむね)を狂打するシリンダーヘッドの慟哭。遙かなる憧れを(ちりば)め、数百万光年を一針で刻む天文時計の電鈴(でんれい)が、辰宿列張を網羅する時の栖に木霊(こだま)した。魂極(たまきは)る轢火の剛脚が後塵を蹴立て、見果てぬ夢を一進に、少年の此処路(こころ)を馳せた、名にし負ふC62形旅客用テンダー式蒸気機関車。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。

 晦日(つごもり)の吹雪に散つた母を追ひ、ま(さき)くあらば復た(かへ)り見むとて、雲居なす宇宙(そら)へと飛び()つた、天離(あまざか)(ひな)未知(みち)()玉響(たまゆら)の露にも滿たぬその身空、明日をも知れず。(およ)益荒男(ますらを)の手振り(なり)(たた)へし、(よろづ)の言の葉も散り果てて、星の宿りを虛ろふ哥枕、その心あまりて(ことば)足らず。永らへて何方(いづち)かもせむ少年が、有終の銃爪(ひきがね)を手向け(ひと)りごつ。

 

 

   然らば、青春の日日

 

   然らば、銀河鉄道999

 

 

 

 

 



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