間に合わない系最強TSロリ女騎士 (『?』)
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序章『自己矛盾』
前・手掌にて抗う


 最初に気が付いたのは商人の少女であった。

 

 もっとも正確なところそれは、“気が付いた”と表現するよりも、当然の事実として“知っていた”などと表現したほうが正しいだろう。

 彼女が得た感覚を例えるならば、絨毯の下に隠されている金貨を見つけるとして。

 痕跡や推理などによって位置を察したのではなく、そもそも金貨が隠される瞬間を目撃していて、それを思い出したというものが近い。

 

 問題は商人の少女が想起したことの内容にある。

 それは本来知り得るはずではなかったこと、あるいは必ず起こる未来の出来事。

 はたから見れば、唐突にはつらつな呼び込みを止めたように見える彼女は、その悍ましい光景によって青醒めてしまったのだ。

 

……しかしここ、ピレアットは行商と賑わいで知られる城郭都市である。そのため道行く人も数多く、様子がおかしければ声をかけるような親切者も少なくはない。

 無論今が例外という訳もないので、気遣う声も幾つか掛けられたのだが、しかしそれに返事が返ってくることはなかった。

 どうやら視野狭窄に陥っているようで、あるいは余裕がないだけなのか…とにかく挙動不審に辺りを見回すばかりになっているのだ。

 そして次の瞬間、情けない嗚咽めいた悲鳴を上げると、頭を抱えて俯いてしまった。

 彼女はまるで凍えたように、わなわなと全身を震わせている。…しかしある瞬間、横の方。隣に店を構えていた同業者を見据え、怯えた小さな声で呼びかけた。

 青と紫が混じったマーブル模様の輝く瞳に映るのは、訝しげに見つめる老齢の男である。

 像は最初こそ胡乱気に眉を顰めていたが、しかしやがて何かに気が付いたようだ。

 

「精霊の末裔か。一体何を見た…?」

 

 老爺は表情に神妙な色を張り付けるとそう、熟々(つらつら)と問いかけた。

 

 

―――医療の魔がくる、逃げないと…―――

 

 

 返事を聞いた彼は、大きく目を見開いた。

 なにせそれは、冗談にするにも陳腐すぎる眉唾の類。掠れる音で紡がれたのは、神話の怪物の名であったのだ。

 当然そんな言葉を信ずるなど、できるはずもないだろう。彼は揶揄うなと文句を言おうとして逡巡、ややあって少女の様子を見て止める。

 彼女は控え目に言ってもまともではない、到底口が利けるような様子ではなくなっていたのだ。

 例えば仄暗く、人に言い触らせないような仕事を生業とするものならば「魔法で頭を弄られたようだ」と表現したかもしれない。

 

 医療の魔と呼ばれる魔王の伝承、それが架空の物語ではなかったのならば。…哀れだが、きっと彼女が見たものは、到底正気ではいられないような惨劇なのだろう。

 もうくすくすという混濁した独り笑いと、支離滅裂なうわ言を漏らすだけになった少女を見兼ね、老爺は彼女に昏睡のスクロールを使用した。

 そして、およそ現実味のない情報を処理すべく、緩やかに瞼を閉じる。

 続けられるのは大きなため息、そして思慮の呻き声。

 どれほど現実離れした情報であっても一度飲み込み、理屈と勘を使った天秤に掛けるのは彼の慎重な気質故だろう。

 

……彼女の言葉を信じるべきだろうか?

 

 過去や未来を見ることに長けた精霊が、“今”を見失って発狂したという逸話がある。

 彼女は自分の生きる時間を把握しているのだろうか。…あるいは、一体いつの話をしているのだろうか。

 医療の魔というと最も古い悪魔であり、天使に滅ぼされた最初の魔王と言い伝えられている。どこにでも現れては災禍を撒き散らした、神出鬼没の厄災とも。

 きっと古くは、この場所に現れたこともあるだろう。

 つまりかの精霊のように、彼女自身が発狂していたならば、欺瞞こそなかったとしても考慮には値しない訳だ。

 こう小難しく考えずとも、単純に手の込んだ悪戯である可能性も、大いに有り得るだろう。

 

 それに彼女の言葉通り、本当に医療の魔が来るとして。この街は孔雀の騎士たちに守護されているのだから、下手に逃げるよりここで待っていたほうが安全ではないかとも思えるのだ。

 なにせこの町を守護する騎士長ムリールは、世界で最も強い存在の一角なのだから。

 決して長いとは言えない時間の中で、速く深く思考を巡らせて、そして最後に彼は「考えるだけ無駄かもな」と呟いた。

 

 諦め交じりのため息と共に吐き出された言葉を以って、老爺は自分と少女の商品を急いて纏め、雑に仕舞い込む作業を始める。

 別に彼は、盗人の心に目覚めたというわけではない。

 彼女の言葉を信じるべきかどうかはともかくとして、ひとまずはこの場を離れることに決めたのだ。

 得てして、旅商人のフットワークとは軽いもの。幸いにも食糧の貯蓄は、まだまだ残っている。

 それにピレアットは客も多いが商売敵も多く、余程大口の客が来ない限りは稼ぎが悪いのだ。

 野暮用があってきただけなので、元より長居する気はなかった。

 

 その挙動を見て「まだ見てたのに」などと文句を言った冒険者たちは「すまんがここでは店仕舞いだ、諦めろ」などという言葉を伴い、粗末な干し肉が一塊ほど投げ渡されると、訝しみながらも黙りこんだ。

 老爺は荷物と共に魘される少女を、まるで亀のように背負って、城壁の門へと歩き出す。

 

……問題が発生したのは、それより少しあと。

 一見祖父に背負われた孫娘のようにも見える商人の二人組がピレアットより抜け、数刻ほど経ってからのことであった。

 

 

◇  ◇

 

 

 それは波紋の広がるように、一瞬の出来事であった。

 

 気づけば澄んだ浅葱の空も、羊毛のような雲も呑み込まれ、空の一面は蠕動する肉々しい蓋に埋め尽くされていたのだ。

 それと同時に何処からか漂い始めた魔力は、不自然なほどに濃厚かつ悪意の満ち溢れた性格を持っており、空間をまるで陽炎のように揺らめかせる。

 これは日頃から高度な魔力操作を行っているものでなければ、耐え難い“酔い”を。強靭不屈の精神を持つものでなければ、心魂の衰弱を引き起こすものだろう。

 実際市民たちは大半が苦痛のあまり悶絶し、狂気に呑まれたり、息絶えているものさえ少なくないほどであった。

 

アフィエロメノ・スト・ヴァスィーリオ(防御の宣誓)ッ!!』

 

……しかし若く凛々しい男の声が音を介さない方法によって都市中に響き渡ると、人々はこの災害めいた異常な魔力による不調から解放された。

 ただ、漂う魔力が正常に戻ったという訳ではないらしい。

 計測器の類を持つものは完全に振り切れたそれを見るだろうし、空間の揺らめきも変わらずそこにある。

 これこそが孔雀の騎士が(おさ)たちの一人、“月光の盾”と名高いムリール=ビアントの奇跡による加護。…もっともそれが不調の治療や防護の結界などとは程遠い、非常に粗末なからくりによる守護であると知っているものは、この奇跡の大規模な行使に正気を疑っていたようだ。

 

 一方で街の中央付近、やや南寄り。

 城郭の四方にある門扉からまっすぐ伸びる街道。それに沿うようにして並んでいる建物群の内、目立って大きな三階建ての付近は、都市を支配する惑いや恐れのそれとは違った慌ただしさに包まれていた。

 そこはポン・ペルシュと呼ばれている、孔雀の騎士のギルドハウスである。

 中では、統一感のない防具を着込んだ男女が忙しなく動き回って、緊張した面持ちで装備を整えている様子があった。

 悪魔との戦闘を想定した、破魔の道具。そのような相手に有効な素材で作られた、あるいは有効な付呪が施された武器。…貴重品であるそれらを倉庫から引っ張り出しては分け合って、あるいは装備が回らない騎士には、即席で付呪を施して拵えているのである。

 そうして装備を整えたものからポン・ペルシュを駆け出て、すぐ先の街道に集合…何人かで分隊を組んでは街中に散らばっていく。

 

 ただし慌ただしいギルドハウスも、最上階の一番奥にある部屋。騎士長室と銘打たれた扉の奥だけは静かなものであった。

 

 この空間にあったのは、二人の騎士であった。

 一方は、金髪の男。どう見ても致命的な量を超えた血溜りの上、片膝立ちで青褪めている。

 もう一方は、真面目そうな眼鏡の男。その金髪の男を冷ややかに見下ろしている。

 そして前者こそが、都市中の人間を対象にした奇跡を維持している、ムリール=ビアントその人であった。

……しかし彼は、見るからに満身創痍といった具合である。

 今もまた、プレートアーマーの隙間から血を吹き出して、ぜえぜえという洗い呼吸を繰り返していた。

 

「そろそろ立ってください」

 

 眼鏡の男が手を差し出すと、ムリールはそれを握りしめた。

 引っ張られて、よろめきながらも立ち上がる。

 

「すまんな、リュネット…」

「私は前にも『長が私を気遣う必要などない』といいましたが」

 

 憔悴した表情のムリールを相手に、きっぱりとした口調で返答をする。

 リュネットと呼ばれた彼は「そうはいってもな」と苦笑を漏らす騎士長に、咎めるような視線を送りながら「それでは状況を説明します」と切り出した。

 

「まず結論から言いますが、今回の件…完全な解決というのは不可能でしょう」

 

 淡々とした報告にムリールは、しかし特にショックを受けた様子もなく「そうか」と返した。

 彼は、自分の展開した奇跡を通して伝わってくるダメージによって、この街に起こっている問題の重大さを理解していた。

 全て、悟ってしまっていたのだ。

 

 そんな騎士長の様子を横目に、懐から杖を取り出したリュネットは、それを部屋の奥に設置されている執務机に向かって振るう。

 そうすると机の引き出しがひとりでに開いて、そこから一本の巻物が飛び出し、二人の目前へと運ばれてきた。続けざまそれが開かれると、中にはピレアットの地図が記されているようだ。

 彼は持ったままの杖で、地図の一画を示して言う。

 

「最初に異常を示したのはここでした。発動の直前にかろうじて感知できた程度ですが、非常に大規模な魔法の詠唱が行われているような反応があったのです。…魔力の動きは召喚の魔法に似ていましたが、それとは比べ物にならない複雑さでして…おそらく全くの別物でしょう」

「魔法陣は書かれていたのか?」

「未確認です。不審な物や絵はもちろん人影さえ欠片も、あそこまで強大な魔法のトリガーになるようなものは無いはずでした。あまりに膨大かつ広範囲な魔力の動きがあったもので不明瞭にしか捉えられなかったのですが、おそらく地下で発動されたものだと。…ただ今となってはこの地区自体、未知の魔法により消失してしまったため、もう確認を取ることはできません」

「敵に忍び込まれていた、ということか…」

 

 ムリールの言葉に「そういうことでしょうね」と肯定の言を返すと、続けるように「次は現状の事ですが、大規模な悪魔の襲撃が行われています」と言った。そして巻物の軸を杖によって、不規則なリズムで打ち鳴らす。*1*2

 この瞬間、紙面に写されていたはずの地図が掻き消された。

 代わりに映し出されたのは、鳥にでもなって高いところから一望しているかのような視点で見下ろす、建物の群れ。

 これは動く絵画の魔法…遠見の魔法によって得られた視点を、別の平らな面に転写するものである。

 現れた光景は二人が(ムリールにとっては見慣れない視点であったものの)よく知っている…いや、知っていたはずの街並みであった。

 

 そこは宿屋やら飯屋が立ち並んでいて、露天商が集まる大通りとはまた違った賑わいを見せる…そんな盛んな地区であった。

 しかし今となっては敵対的な人の上位者。恐ろしい不死の悪魔に蹂躙されてしまって、阿鼻叫喚の地獄と化している。

 

「悪魔の数は今確認できるだけでも五十を上回って、今もなお増え続けています。…幸いなことにまだ蝕みの苗床と化した悪魔はいないようですが、出現する悪魔に規則性がないことから今後も現れないとは言い切れないでしょうね」

 

 まるで『我こそはこの街の主人である』とでも思っているかのようにしゃあしゃあと徘徊する悪魔は、あるものは人々を歪に引き延ばされたような細長い手で振り回し、あるものはコウモリのような翼を使って高いところまで持ち上げては落としてを繰り返し、あるものは溶けた不定形の身体に埋めて弄んでいる。

 そんな悪魔の軍勢は、不定期に…しかし恐ろしいまでの速度で増殖してゆく。まるで元からそこにいたかのように、何の前触れもなくその場に発生するのだ。

 何よりも脅威であったのは、それらが孔雀の騎士が組織的に遺してきた記録にはないような、未確認の悪魔ばかりであるということであった。

 

「また退散の術が効かない、撃退した悪魔が直ちに再出現した…という報告も多数上がっているようです」

「退散の魔法が効かない…悪魔崇拝者のゴーレムではないのか?」

「可能性は薄いかと。渦中ですので即席の調査でしたが、ポン・ペルシュ直上に出現した二体を捕縛して解剖したところ、いずれも紛れもない本物の悪魔でした」

 

 ムリールはその光景を苦々しげに見詰め、正体不明の状況にぼそりと「いつまで保つか分からんな」と呟いた。

 市民たちは奇跡の加護によって、まだ辛うじて無傷だが、この状況も無限に維持できるものではない。

 それに加え、その奇跡では精神的な問題…恐怖や不快感は庇えなかった。直接的に傷つけられることはなかったとしても、下手に長引けば市民には消えない傷が残ることになるだろう。

 

「悪魔がどこから現れているのか分かるか?」

「場所どころか何の魔法を使っているのかも皆目見当もつきません。孔や揺らぎが確認できないところから見るに、召喚や転移の魔法である可能性は薄そうですが…難しいですね。ただ、いずれにせよ言えることは…――

 

 そこでいったん言葉を区切ると、彼は一度息継ぎを挟んでから続けた。

 

――奴らを撃退できるなどという考えは、些か非現実的すぎるということだけでしょう」

 

 あくまでもリュネットは淡々とした調子を崩さずに、騎士長の側近として。また高名な魔法使いとして意見を告げる。“もうこれはどうにもならないぞ”と。

……しかし絶望的な状況の中にあって感情を潜め続けているのか、それとも本当に冷静なままでいるのか。彼の言葉の節々には、まったく恐怖や絶望の介在する様子はない。

 

「ひとまずは街中の騎士たちに分隊を組ませて、市民たちの護衛に当たらせていますが…これは問題の先延ばしでしかないでしょうね」

 

 最後に「現状で報告できることは以上です」と言うと、静かに眼鏡を、指を使って押し上げた。…後はもう判断は任せたと言わんばかりにムリールを見詰めるばかりである。

 そんな視線の先。ただ彼は、しばし考え込むと「最後に1ついいか?」と質問をした。

 

「なんでしょう」

「これが精神干渉の魔法で見せられている夢幻という可能性は?」

 

 リュネットの冷静な視線が怪訝としたものに変わり、平然を保ったような受け答えが停止する。

 下階からのドタバタとした音も、今やほとんどの騎士が出払ったのか聞こえなくなっていて。外はきっと騒がしいだろうが、防音性に優れた部屋であるためか、この部屋については静かなものである。

 窓から差し込む、赤みを帯びた暗い光だけが照らす騎士長室は、一瞬で奇妙な静寂。得も言われぬ雰囲気によって満たされたのだ。

 

 それは一種の慣用句、冗談の類であった。

 

 信じられない事態があった時に『精神干渉の魔法でも使われているんだろう?』と問いかける…定番の流れである。

 もっとも仮にそうであったとしてもどうしようもない上、今はそんな悠長な問いかけをしているような暇もない状況。

 それに対するリュネットの返答は、今までのそれとは違った「違うんじゃないですか?知りませんけど」という至極投げやりなものであり、若干の呆れが含まれていた。

 

「まぁ、そう思いたくなる気持ちも分かりますがね。こんな状況では女神様だって途方に暮れるでしょう」

 

 ムリールはその言葉に小さな、噛み殺すような笑いを漏らした。

 それも咽せるような吐血によって遮られるが、口元を拭うと「女神さまか」と呟く。

 

「彼女にとってはこの程度、薬草摘みより簡単な仕事だろうさ」

 

 自らの側近。あるいは友人を見据える彼は「そうでしょうかね」という、これで最後になるかも知れない粗末な返事を。あるいは慣れ親しんだ日常とも呼べるものを噛み締めると深く息を吐き出した。

……もう既にやる事は決まっているのだ。きっとリュネットも分かっているだろう。

 なぜならこれ以外に、市民を守れる方法など無いのだから。

 

 ムリールは決心したように口を開く。

 

―――今を以って商業都市ピレアット護衛の任を放棄し、全ての市民を城郭より外へ脱出させる。

 

「孔雀の騎士の全てのギルドハウスへ援軍を、騎士長の権限を以って要請した。…全身全霊で市民の命を救うのだ!!」

*1
・・-・・l・-・・・l・・-・-l

*2
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Tips 奇跡

 この世界に存在する超常のひとつ。
 それは神秘と呼ばれるエネルギーを消費することで発動され、効果は使い手の信仰心。あるいは救いを求める想いの丈に比例して向上する。

 ある偉大な魔法使いは、数少ない友人へと語った。
「奇跡とは、感情ある生命のみが操れる業。救われぬものが救いを求め、見出した灯の欠片を、現実のものとすることである」と。
…つまるところ奇跡とは、全て使い手自身の力である。

 それは真摯な信仰に対する、最も残酷な裏切りであろう。


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壱・滅びの報せ

 ここは平原に突き抜ける何の変哲もない街道の半ば。

 平均的中世ファンタジーの世界観にありがちな科学技術の未発達故、当然といえば当然なのだが舗装等の整備はされておらず、ただ踏み固められただけの土道が何処までも続いている。

 今は、この世界ではトップクラスに商業が盛んな地域、城郭都市ピレアットへと向かっており、経験から推測すると「あと四、五日ほどでそこへ到着するであろう」といった頃合いであった。

 もっとも実際は、それよりも早く着くことになるだろう。

 特に急ぐ理由もないが、不吉な予感があるのだ。得も言われない焦りが行く足を急がせている。

 旅路のペースは僕自身が思っているよりも、かなり速まっているだろう。

 

 そんな折、じわじわと感じていたのは、空腹感であった。

 僕は種族柄、今生ではあまり食事をしない。食べる頻度は、いつも週に二度ほどなのだが、此度は特に長い間食事を取っていなかった。

 しばらく前に買い溜めた…いや、買い溜めてしまった得体の知れない魔物肉のジャーキーを思えば、ひどく憂鬱な気分になるのである。

 そうは言っても、食べないわけにもいかなかった。

 腰に引っ掛けた荷物袋の1つ、とりわけ食糧を入れているそれの辺りに寄っていた手を、胡乱に彷徨わせる。…しかし結局のところ、今食べなかったとしても、最終的には食べることになるのだ。

 それに、買ったものは責任を持って食わねばならぬと。未だに残った日本人の感性が、強く主張している。

……故に、思い切って中から一つ。毒々しい色のジャーキーを掴み取って、無造作に齧った。

 

 海水めいて雑味に満ちた、過剰な塩辛さ。最初はキャラメルのように固く、しかし噛めば噛むほど海産物めいたヌメリが出てくる不快な食感。眩暈を覚えるような、生臭い風味。

 「顧客にはサービスを」とかなんとか言って、格安でこれを売ってくれた顔馴染みの、胡散臭い顔が脳裏に過ぎる。もう随分と前のことだ。きっとあれはサービスなどではなく、売れ残りの処分に付き合わされただけなのだろう。

 咀嚼するたびに、ねっとりと蔓延する不快感に顔を顰めながら、何度食べても慣れることなどないであろう毒物めいた味を、なんとか喉の奥へと押し込んだ。

 

 ピレアットに着いたら、真っ先にそいつの店に行こう。

 そうしてあの、人を小馬鹿にしたようなニヤケ面に、文句の一つでも言ってやるのだ。

 

 そんな思考に耽っていると、ふと地平線の上に人影が見えた。

 道の向こうに小さく…距離故に、米粒にも満たない大きさながら、それは確かに年端も行かない少女の姿である。

 

 この世界は、お世辞にも治安が良いとは言えない。

 ひとたび街や集落の外へと足を踏み出せば、魔物や野盗に襲われるなど日常茶飯事。特に前者は、避けることができないアクシデントとして、あらゆる旅人の前に横たわっている問題である。

……ならば、従者や用心棒、駄載獣の類も付けず。おまけに何の荷物も持たずに街道を走る彼女は、一体どういう事情があるのだろうか?

 人間離れした僕の目は、凝らせば遠眼鏡以上に良く見える。遥か離れた距離であっても明瞭に映る少女の様子は…

 

 疲労と恐怖に強張って、深い隈が染み付いてしまった表情。

 何枚か重ねて着込んだ上着は、草木にでも引っ掻けたのか破れ、ほつれ、汚れている。…脇腹のあたりに至っては、きっと魔物の仕業であろう、痛々しい傷が露出しているようだ。

 それでも彼女は、足を止める気など欠片もないようで、跛行しながらも必死に走り続けている。

 

 その全ての要素が、彼女を『哀れな被害者である』のだと、理解させるに足るものであった。

 

 そして理解するなり、地面を足で捉え、軽く押す。

 瞬間、広漠とした緑の景色が、瞬く間に後ろへと押し流された。

 およそ常軌を逸した脚力は、一秒足らずで遥かな距離を跳んでゆく。地平線の果てに微かに見えた人影も、すぐに爪ほどの大きさとなり、指より大きく見えるようになり、もはや普通の人であっても、容易に観察できるほど明瞭となっていた。

 どうやら向こうもこちらに気が付いたようで、ハッとしたような表情を見せると、懸命に僕の名を呼ぶ。

 

「ミラ、ステラ…ッ!さまぁーっ!!」

 

 咳き込み、ほとんど餌付くような喘鳴の中。確かに僕…否、『私』を叫ぶその声は、血生臭く広がった覆水の前で、幾度となく聞いてきたものだった。

 それは、どうしようもなく匂い立つもの。幾多もの経験と、外れることのない直感が囁くのは、救いようのない絶望の気配だ。…しかしまだ、確証はないだろう。

 強烈に主張する嫌な予感を、努めて思考から遠ざけた。

 

「何があったのですか…?」

 

 ひとまず傍まで行くと、そう問いかけた。

 何が起こっていようと、状況の理解が必要である。

 そんな僕の言葉を聞いてか、彼女は憔悴した顔に安堵を滲ませた。おそらくはそれで、気が抜けてしまったのだろう。

 不意に蹴躓いて、よろめく。

 咄嗟に抱きとめれば、まるで発作でも起こしたような荒い呼吸のまま、絶え絶えに呟くのであった。

 

「あぁ…!よかった、ミラステラさま!本当に、会えたんだ…!」

 

 この少女の切実な様子に、確かな既視感を得ていた。

 前にもこのような…いや、詳細こそ違うけれど、とても似た状況に置かれたことがある。しかも一度や二度ではない。

 腕の中にいる少女を見下ろす。

 僕の脳裏にじわじわと滲み出していたのは、納得にも近い感情であった。

 しばらく前から感じていた、不吉の正体が“これ”であるのだという、理解である。

 

「そうだ…っ!伝え…ッ、ごほっ」

 

 少女は突如として表情を一変させると、バッと身体を持ち上げた。

 僕を見上げる顔に、もはや安堵はない。ただ焦燥が張り付いているばかりである。

 矢庭に放たれた台詞は、一度は咳き込み中断されたものの、それでも強引に続けられた。

 

「げほっ……ら、すてら、さま…ッ!ピレアットが、悪魔に!!」

 

 自己犠牲か、大義か。

 それは尊く強い心を持ち、しかし力だけが足りなかった人の訴え。幾度となく聞いたことのある悲痛だった。

 

「悪魔、ですか…」

 

「嘘じゃないんです!実際には、会ったわけじゃないけれど…っ!でも見たんです!もうみんな捕まった!クジャクもみんなダメだった!多すぎたんです…悪魔が溢れている!!生きているんです!生きてるのに…死ねないから!生きてしまっている!もう三日もずっと弄ばれて…ッ!!」

 

 僕の反芻を疑問形だと思ったらしい彼女は、食い気味に言葉を発する。それは錯乱したように支離滅裂な内容であったけれど、しかし十分な情報が含まれているものだ。

 悪魔が人間を生け捕りにするだとか、徒党を組んでいるだとか…そのあたりは特に、不自然極まりない。

 彼らはそんな思慮的な行動なんてしないだろうし、集団行動を取れるほどの理性があるとも思えないのだ。

 何かもっと厄介な存在が絡んでいる可能性が高いだろう。

 

「ミラステラ様!だからどうか、お助けください!」

 

 思考を打ち切るように叫ばれた、彼女の言葉を聞いた。

 あぁ…そうだろう。いつだって、そうだったじゃないか。

 僕が考えたところで仕方がないのだ。

 思考の速度は並外れていても、機転が利かないことには、何も得られない。

 実の結ばない推理をしては、ただ否定することを繰り返すだけの、まるで進展がない堂々巡り。その膨大な連続に、きっと意味は無いだろう。

 無意味だと知っているなら、それなのに、どうして考える必要などあろうか。

 結局どうあれ、やる事は変わらないのだ。

 

「えぇ、もちろんです」

 

 故にただ一言、返事をした。

 もっとも彼女をここに置いていくという訳にも行かないので、先に何処か安全な集落。あるいは街へと連れてゆくことになるだろうけれど。

 

「あ、あの…私!一回分だけしかないけど、転移のスクロール…持ってます、から……」

 

 傷つき汚れた上着の中を覗き込んで、確かここに入れてたはず…なんて呟く少女。しばらく漁った後、服の内側から巻物を引っ張り出した。

 それは素晴らしい僥倖であろう。

 彼女は自分だけでも十分、安全な場所に帰る手段を持っている訳だ。

 いずれにせよ大した時間は掛からなかっただろうけれど、手順は少ないに越したことはない。

 

 ただその吉報を伝える最中、彼女の言葉は途中から、まるで力無く窄まっていった。

 最後の方に至っては、完全に掻き消えてしまっている。

 確かに安堵を映していたはずの表情は、いつのまにか堪え兼ねるといった、今にも泣きそうな形に変わっているようだ。

 

「どうしたのですか?…私にできることなら何で―――」

 

 「違うのです!」

 

 心配になって声を掛けてみれば、彼女は半ば叫ぶように、食い気味に言葉を発した。

 

「ミラ…あぁ、ミラステラ様…私はなんでも、ないのです。ただ、ただあなたを見てしまっただけ。…だって本当にこんな!…こんなにも幼いだなんて、誰が信じるというのですか?」

 

 それは果てしない無力感であった。

 もしくは無責任の自覚、とも呼べるかもしれない。

 そう打ちひしがれる彼女は、確かに幼い子供の姿をしているというのに、とても大人びているように感じられたのだ。

 それに違和感を覚え、少女の姿をもっと細かく観察してみれば、そう感じた理由はすぐに分かった。

 どうやら彼女は、亜人の一種であったらしい。

 最もわかりやすい特徴である髪色。目深に巻かれたターバンによって隠されているが、走り続けたためか、崩れてしまっているそれの端から、確かに深翠の煌めく束が覗いている。

 瞳を見れば一層、はっきりと分かるものだ。

 美しく輝く睫毛に飾られた、まるでアメジストのように深い色彩を放つ瞳。

 それは洗練された魔力を帯びており、強い力を持った魔眼であることは明白であった。

 寿命という概念が存在しない種族。…精霊の寵愛を受けたものたちにある、典型的な特徴だ。

 気付けなかったのは、ひとえに意識不足のせいだろう。

 あるいは幼い外見のまま、数百…いや、数千の時を生きている可能性だってあり得る。

 

「ごめんなさい…!あぁ…私達が、弱かったから…あなたにこんな、こんな重い枷を……」

 

 きっと…彼女は、良い人なのだろう。

 良い人だからこそ、『私』に全てを託すこと。そのことに、深い罪悪感を抱いてくれる。…だがその感情に、意味などありはしない。

 僕は少女の善性を否定するように、手甲を外し、彼女へと手を伸ばした。

 やわらかく火照り、またじっとりとした湿り気を帯びた頬。…そして何よりも、沢山の傷がついている。

 久方振りに触れる人肌は、確かに少女のものであったが、同時に過酷な道乗りを走った勇者のものであったのだ。

 

 僕は、困惑したように見詰めてくる少女の目を見詰め返した。

 彼女を責め立てるものに代わって、許しを与えることができればいい。…あるいは彼女が自分を認められるよう、女神を演じ、ゆっくりと言い聞かせるのだ。

 

「よいのです、あなたが苛まれる必要など無いのですから。なぜならあなたは、私に全てを託してくれた。このようなところにまでずっと、伝えに来てくれたのでしょう?」

 

 亜人とはいえ、幼い身体だ。いったいどれほどの時間を走り続けたのだろうか。彼らは長命種だが、僕とは違って、身体能力は見た目相応のはずである。

 また、悪魔という到底敵い得ない脅威を知った彼女は、どれほど必死に『私』を求めたのだろうか。

 きっと僕などでは、何度転生しても決して理解するなどできないことである。

 彼女の苦痛は計り知れない。…どれほど長く生きたとて、痛みが変わることなど、ある訳もないのに。

 そんな彼女が、他ならぬ自分の心を虐げようとするなんて、そんなことを許していい道理はないのだ。

 

「よく、がんばりましたね」

 

 微笑んで告げれば、少女は表情の悲壮をより強めてしまった。

 閉口する彼女を見て、察してしまう。きっと僕は、何か大きな間違いを犯したのだと。

 彼女を慰めるつもりでいて、むしろ傷つけてしまったのだ。

……しかしそうなることは、知っていたはずだろう?

 いつだって、そうだったのだ。

 今回は大丈夫だとか、きっと救えるはずだとか…余りにも愚かしい考えである。

 『私』は数多の悪者を殺してきたが、大切なものを失った人の心を助けられたことなど、一度もありはしなかったのだ。

 誰でも倒せる無敵の剣は、しかし万能にはなり得ない。

 

「少しだけ屈んで、そのまま目を閉じていただけますか?」

 

 それでも傷を癒すことくらいはできるだろう。

 突然のことに「何を…?」と呟く彼女に「お願いします」とだけ伝える。そして僕は、幾つかの奇跡を発動する準備を始めた。

 一つ目は治癒の奇跡、二つ目は疲労回復の奇跡、三つ目は浄化の奇跡。

 それらは苦手な分野であることも相まって、文字に例えると“ミミズがのたくったような”と表現することさえ烏滸がましい拙さであったが、幸いにも力はあった。

 僕が自らの体内に蓄えている莫大な神秘は、天人という種族であることを考慮してもなお異常なほどのものである。これを無駄に高性能な脳の働きによって、強引に制御下に置き、確かな効果を引き出すのだ。

 この試みはあまりに低い奇跡行使への適正も相まって、結構難儀したものだが、それでもなんとか纏めることはできた。

 これならば、おそらく一人の少女を全快させる程度なら、まったく問題は無いだろう。

 

 困惑しつつも指示に従ってくれて、屈んだことで丁度良い位置に降りてきた少女の顔。もっとも肝心な部分については、念入りに巻かれたターバンが隠してしまって見えないため、布地を少しだけ上に捲る。

 そして露わになった滑らかな額に、祈りを込めて口付けを落とした。

……瞬間、少女の身体が暖かい黄金に覆われる。

 それは徐々に光度を増して、やがて鮮烈な輝きとなって包み込んだ。…しかし不思議と、眩しさは感じられない。

 ただ重要なことは、光などではなかった。少女の身体に訪れた変化である。

 

 その小さな身体に生々しく残された傷が、まるで時間を巻き戻しているかのように失われてゆくのだ。

 同様に目元の隈や、疲労によるむくみもまた消え去り、先程までの様子など見る影も無いほどに健康的になっている。

 加えて汗や血液など様々なものの混じった、野生的ですえた臭いも感じられなくなって、微かな残り香も吹く風に煽られて消えつつあった。

 衣服にあった傷やほつれもまた、時間が巻き戻るようにして消えてゆく。

 ただ容態は、僕の想像より深刻であったらしい。

 身体の治癒が想定より遅いようだ。完治するまでは、もう少し時間が必要そうである。

 

「その転移のスクロールは、貴女自身が使ってください」

 

 彼女は効能に対して過剰が過ぎる光彩の中で、まだ何をされたのか理解できていないようで、呆然と固まっている。

 そうしているうちに、畳み掛けるようにして続けた。

 

「私のことなら心配は無用です。なぜなら、転移のスクロールを使うより…」

 

 彼女が自らをどうにかする手段を持っているというのなら、ひとまずここでの『私』の役目はおしまいだ。…行かねばならない。

 僕は彼女が命懸けで伝えてくれたピレアットの惨劇、それを救う使命があるのだから。

 

「走ったほうが、速く着くでしょうからね」

「どういう…」

 

 ようやく冷静さを取り戻したようで、僕の言葉に応じてなにやら問いかけようとしていたようだが、その声は途中で遮断されてしまった。

 半透明な金色の箱に隔たれてしまって、向こう側で発されているであろう音は、こちら側まで届かない。

 彼女を結界の奇跡に閉じ込めたのだ。

 

 それは先の奇跡によろしく、他の使い手と比べれば尋常ではなく効率の悪いものだけど、やはりこれもゴリ押し。

 執拗なまでに神秘の力を送り込み、また出来上がったものを幾重にも重ね合わせ、そうして無理矢理に強度を上げている。

 結果完成した結界は、見てくれこそ美しいものだが、組成を見れば粗さの酷く目立つもの。…しかし単純な衝撃だけでは、何者であっても破壊することは困難だろう。

 

 些か強引が過ぎるだろうが、必要なこと故、致し方ないのだ。

 外していた手甲を再度付け直すと、軽く腰を落として…そこでふと横目に少女の方を見れば、どうやら声が届かないことに気付いたようで、結界に触れながら何やら呟いていた。

 きっともう今生、会うことはないだろう。

 別れの意を込めて、軽く手を振る。

 

 そして今度は先程の疾走より、幾分か強力に地面を踏みしめ、蹴り飛ばした。

 土道が“ずっ”と沈み込む。…地面の爆発に際する音は、一瞬で途切れて聞こえなくなった。

 同時に十数分前のそれとは比べものにならない勢いで景色が流れ、その間はただ風が渦巻く音だけで満たされている。

 

 一足遅れて、猛烈な破裂音を聞いた。

 それは爆発的な加速により、音の壁が破られて発生した音。…しかし音速を超えてなお加速は止まらない。

 

 きっとピレアットには、数秒足らずで到着するだろう。

 

 残してきた少女については、後数分ほどで結界が解除され、自由の身となる。

 後は転移のスクロールを使えば、すぐにでも適当な街に行けるはずだ。…もっとも彼女の種族であれば、そのまま街道を進んだとしても問題は無いだろうけれど、個人的にはスクロールを使ってほしいと思った。

 いくら奇跡で回復したとしても、精神的な疲れはどうしようもないから。

 

 この選択に心残りが全くないとは言えないし、その判断が正しいかどうかも分からない。

 どこか後ろ髪を引かれる思いを残しつつ、けれども振り返ることはしなかった。

 

 

◇  ◇

 

 

 ミラステラの直感は、超常的な範疇にまで及んでいる。

 

 もっともそれは、ただ不吉のみを伝えるもの。これまでに吉兆を伝えたことは一度もない、出来損ないの超能力だ。

……しかし、たとえ不幸の手紙めいて、必ず来る絶望を伝えるものだったとしても、予感があれば思案して、心構えをする程度のことはできるだろう。

 

 それでも『ピレアットが悪魔に襲撃された』と。

 

 移動の最中、脳内で幾度も繰り返される言葉。

 それは素性故に数少ない、友人と呼べる存在たちの末路を彷彿させる。

 あの本人曰く、嘘はついていないらしい詐欺めいた話で、意味もなく人を騙しては愉快そうに笑う貧乏商人。あるいはかつて旅の合間に師事をしたことのある、今は偉大な自己犠牲の騎士。その悍ましく歪んだ死相を。

 悪魔の手に掛かった人間の死を、ミラステラは知っていたのだ。それこそ数え切れないほど見てきたものだから。

 そのどれもが見るに堪えず、まるで幼児が無邪気な悪意で解体した虫のように、あるいはそれよりもっと手酷く冒涜されていただろう。

 生かされている。…それが希望であるようには、どうにも思えない。

 

 きっと変わり果てているであろう彼らの姿を見て、僕は、なおも冷静でいられるだろうか。

 それでも『私』。まるで神の如き救済者を装うことができるだろうか。

 

 既に出し尽くしたと、失われたと…

 そう思っていた恐怖が心中にて、鮮やかなまでに存在を主張している。

 結局のところ覚悟など、それが事実として現れることになれば意味を為さないのだと。そしてそのような偽物の覚悟を以前も抱いて、砕かれたことを知っていながら繰り返す自分の、悍ましいまでの愚かさに失望さえ抱いてしまうのだ。

 

 彼女は自らの瞳が金に輝いていることを自覚した。

 そして思わず込み上がってくる感情を沈めるべく、ゆっくりと胸に手を当てる。

 

 感じられるのは胴鎧の、硬い質感であった。

 

 もっともミラステラの場合は、鎧より身体の方が頑丈だろうけれど…彼女は文字通りの防具として、その役割を期待して着込んでいるわけでは無い。

 気高く崇高な意志を教える道導として共にあり、あるべき『私』を強く自覚させる理想の具現。虐げられるものに手を差し伸べる偉大な騎士を、己に課した誓約の何たるかを何度でも刻み付けてくれる。

 

——————「いつか全て、きっと救ってみせるのだ」と。

 

 それはとっくにひび割れた精神を、壊れる寸前に留める楔だった。

 ミラステラの、女神と敬われ、また信仰されている姿そのものなのだ。

 未だ救済者で有り続けるために、まだ疲れ果ててしまうには早すぎるから。

 

 そもそも僕には、絶望をする必要なんてないだろう。

 

 きっとムリールは無事だ。

 僕は知っている。彼の半ば人外の域に踏み込んだ生命力を、僕など足元にも及ばぬほどの技巧を、挫けることのない強靭な精神を。

 そして彼が無事なら、彼が率いる孔雀の騎士たちもまた、無事であるに違いない。

 あの少女はダメだったと言っていたが、彼の戦い方を考えれば、そう思うのも仕方がないだろう。…しかし彼らは、皆が優秀である。

……いや、能力については玉石混合だが、皆が守護者たらんとする確固たる意志を持っているのだ。

 多くの仲間が命を失い、恐ろしい目にあって、きっと助からないという状況でも、それでも己を鼓舞して敵の前に立ちはだかる姿。勇気を振り絞って、怯える人々を背に庇う姿。

 

 そうだ、何度も見てきただろう。

 僕には不可能な、その在り方を。溢れんばかりの高潔さに、鮮烈な憧れすら抱いたのだ。

 僕は知っている。孔雀の騎士とは、民草の守り手だ。

 ただ殺すことしかできない愚か者とは、比べ物にならぬ英傑なのだ。

 そう、だから…だから、滅ぶわけがない。

 彼らの守護するピレアットが、滅ぼされて良い道理などない。

 彼らはすごいのだ。僕などよりもずっと、ずっと凄くて、かっこいい。

 

 それなのに報われないなんて、ありえないだろう?

 

 心中で幾度となく自問する。対する答えが出ることはなかった。

 彼女の身体に備わった直感が、希望への逃避を邪魔していたのだ。

 どれだけ目を逸らしても、捨て去ることができない感情。…確かにそこにあって、ひどく蝕むような絶望だった。

 

 そうして走り続けてすぐ。

 道程は焦りのせいか妙に長く感じたけれど、僅かな時間であったことは間違いないだろう。

 ミラステラは、少女が走り続けた数日を一瞬で遡り、ピレアット到着まで目前といった所までやってきていた。…しかし見えてきた城郭の有様は、想定よりずっと綺麗なものである。

 ただ非常事態であることは間違いないようだ。

 本来であれば、まだ開門されている時間であるはずなのに、閉鎖されている門扉の不自然さはあまりにも大きい。

 そしてピレアットの中ではなく、正門前に野営を敷いたまま、動きのない孔雀の騎士たち。どうやら彼らは、ピレアットに駐屯する部隊ではないようだ。

 

 何よりも奇妙だったのは、彼らが街に侵入しようとして、しかしそれができなかったという様子であることだった。

 彼らの中には石製の門など、どれほど厚かろうが壊すも変えるも自在であろう程の実力者も居るはずである。…しかしそういうものは、軒並み疲労困憊であるらしい。

 

……いったい何が起こっているんだ?

 

 彼女は、観察によって感じられた異常事態に困惑を隠せないまま、しかしひとまずピレアットを取り囲む壁のそばまで行こうと腹を決めた。




Tips 城郭都市ピレアット

 昼夜を問わず多くの人々が行き交い、商いが行われる商業の地である。
 今は歴史ある商人の血族たちが営む商業ギルド『Crows Bundle』を統治者としているようだ。
 もっとも彼らは名目上の統治者に過ぎないようで、良くも悪くもピレアットをどうこうできるような権力は持ち得ないらしい。

 警備ならば冒険者たちがいるから間に合っているし、無法を許すほど我々は軟弱者ではないとは、ある商人の言。…実際それは正しく、警備隊のいない都市ではあるが、ピレアットの治安は悪くはない。

 ここを行くものは、皆知っているのだ。
 商人が商いを拒むことの意味を。そしてなにより、彼らが強かであることを。


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弐・終わりゆく

 僕は、城壁の近く…少し手を伸ばせば、それに触れられるような場所までやってきていた。

 もっとも人の目に付くと厄介なことになるため、正門からは多少距離を置いている。あそこには、遠征してきたらしい孔雀の騎士や、立ち往生している行商人など、多くの人がいるように見えたのだ。

 

 さて、まず壁を見やれば、気が付くことが一つあった。

 切り出した岩のような質感の中に、確かな魔力の奔流を感ぜられたのだ。

 幾何学的なラインを描くそれは、紛うことなく魔法陣。そしてどうやら、孔雀の騎士が動けずにいたのは、これが原因であるらしい。

 

 魔法陣は、非常に複雑かつ高度な組成をしていた。…しかし、決して縺れている訳では無い。

 魔力の導線。そのひとつひとつが何かしらの意味を持って、しかも絶えることなく自己改造を続けているのだ。

 僅かにでも魔法に触れたことのあるものなら、その詳細こそ分からずとも、完成度の高さを察することはできるだろう。

 僕の扱うそれとは正反対で、一種の芸術といっても過言ではない域にまで至っていたのである。

 

 詳しい効果は分からないが、それでも凄まじい大魔法だ。

 孔雀の騎士たちがどうしようもなかったことにも納得がいってしまう。

 飛び越えようにも、城壁の上からも都市への侵入を防ぐように、結界の魔法が展開されていた。

 さながらドームのようにピレアット全体を覆っており、またこれも城壁に対する強化の魔法のように、とても高度な魔法である。

 

 ただ、奇妙なことがひとつ。

 魔法陣を構成する膨大な三次元構造に、致命的な違和感があるのだ。まるで根本的な認識が間違っているような…あるいは、これが魔法ではないと言われても、信じてしまうかもしれない。

 ただその理由については、説明できなかった。

 

 根本的なところだが、僕は魔法を扱えないのだ。

 

 もっとも知り合い…あの胡散臭い商人が魔術に詳しいということもあって、知識だけは豊富に蓄えることができている。それこそ古い時代に廃れてしまったという医療の魔法から、比較的新しいという失せ物探しの魔法まで幅広く。

……しかし記憶しているだけで、それ以上のことはない。これは数式に例えると、ある式と対になる答えを記憶したところで、それを解したとは言えないことに似ているだろう。

 要するに僕は、魔法を理解していないのだ。

 そのために、未知の魔法を解析することについては、全くの無力と言って相違無い。

 

 もっとも、魔法の掛かり方や大枠の印象から察することくらいはできる。おそらくこれは、強化の魔法なのだろう。

 それ自体、途方もない魔力が込められているようだが、しかしそれだけではないように見える。強度を上げる以外の、何か別の効果を持っていることは明白だ。…しかし、それ以上のことはわからなかった。

 

 何と言うこともなく、衝動的に腕を伸ばす。

 壁に触れた瞬間、身体の奥がざわざわとするような嫌な感覚に襲われた。

 魔力を吸われている。

 それは元々の総量が多い僕から見れば、ごく僅かな量であったけれど、それでも人によっては、十分致命傷に成り得たほどの量であっただろう。

 それだけでも十分に危険であるのに、吸収量は更に増えているように感じられる。

 どうやら触れている時間に比例して、その勢いは加速度的に増してゆくものらしい。

 

……しかし本当に、これら悪魔が行使したものなのだろうか?

 

 悪魔がこんな精密極まったような魔法を描けるとは思えない。

 彼らの行使する魔法とは、古代の魔法の歪んだものだ。

 元となったものが確かにあって、それが喪失や変形を繰り返した成れの果てであると、教えてもらったことがある。

 それ故、相応に崩れた形をしているはずなのだが…

 

 これは到底、そんな風には見えなかった。

 

 手を離す。

 見ると城壁の魔法はついさっきより、幾分か強力なものへと変貌していた。

 これは単純に、魔力の総量が増えたというのもありそうだが、実際はもっと複雑そうだ。

 魔法自体が、自らの保有する魔力量に応じて、自己改造をした結果だろう。最も効率の良い形になったのだ。

 

「魔法が考えているみたい…」

 

 この世界の一般的な魔法のレベルを考えれば、これはある種の異物であろう。

 まるで中世の時代に高層ビルを建築するような、それほどのレベルの差を感じられる。

 

 ただ、どれほど効率の良い魔法であろうと、これほどの規模で展開できるものだろうか?

 

 おそらく悪魔でも、これを展開できるだけの魔力を持つものはいないはずだ。それに、仮にそのような悪魔が居たとしても、維持できるはずがない。

 いくら魔法そのものに、自ら魔力を賄える機能があるとはいえ、消費する魔力量と比べたら雀の涙ほどでしかないだろう。

 

『生きているんです!生きてるのに…死ねないから!』

 

 そこでふと、あの少女の言葉を思い出し…納得した。

 

 あらゆる生命は、生きている限り魔力を吸収する。

 この世界で一般的に魔力と呼ばれているものは、そうして吸収されたものが、精製された後の状態を指すのだ。

 ただそこに漂う力を、いわゆる熱量のような状態へと変換し、生きる糧とするのである。

 その効率というのがまた曲者で、これはより『普通ではない存在』ほど、高くなるという性質であった。

 つまり元が人間ならば、より人間らしくない存在であるほどに、魔力の精製効率が高い。

……では、死なない人間とは、果たして人間らしいと言えるだろうか?

 きっとそのような存在がいたならば、とても高い効率で魔力を生成するだろう。

 

 つまり悪魔でも賄いきれない魔力は、人々から簒奪することで補っている…そういうことなのだ。

 僕はそれが、外法を躊躇わない魔法使いの中では、ありふれて用いられる手法であることを、よく知っている。

 死ねないとまでは行かずとも、無理な延命を可能にする魔法や奇跡は、たくさんあった。

 不意に蘇った他愛ない記憶。…膨大に存在する助けられなかった人の、苦痛に歪んだ死に顔を、ひとつ。ふたつと思い出す。

 魔力を吸い殺されるというのは、得てして酷く苦しいものらしい。

 

「…」

 

 悪夢を飲み込むようにして、小さく呼吸をした。

 腰に差した片手剣の柄を撫で…それから静かに、緩慢に、魔物の皮で包まれたグリップを握る。

 

 次の瞬間、壁に穴が開いた。

 

 厚みは2メートルほどだろうか。

 外観の幼子たるミラステラが、ちょうど屈むことなく通り抜けられる程度の、小さな穴。

 元々その穴があった部分を満たしていた石は、あたかも最初から存在していなかったかのように、どこへともなく消失している。

 それが夢や幻の類ではないことを証明するように、穴の奥。壁の内側からは、ピレアット内部に充満する悍ましい魔力が噴出していた。

 

 それは若干薄れてこそいるが、確かに覚えのある魔力だった。

 浴びているだけで鳥肌の立つような、如何ともしがたい不快な感じ。

 ただ、この場にそぐわない魔力について訝しむだけの間もなく、強化の魔法が反応を示し始める。

 付呪の対象が壊れたときの対策もしていたようだ。

 石の滑らかな断面に魔力が集まってきたので、ひとまずは何かが起こる前に中に侵入することにした。

 

 

 僕が抜け穴を通り抜けると、それはすぐに塞がれてしまった。

 どうやら魔力の集中は、壁の損傷を修復するためのものであったらしい。

 破壊されたときの反応速度といい、一体どんな技術を使えばここまで洗練された魔法を組めるのだろう。

……いや、そんなことはどうでもいいか。

 ひとまずここ。今、自分が居るところを見渡す。

 怪しげな雰囲気の店が多く並んだ通り。…しかし今では、そのほとんどが見る影もなく、荒れ果てているようだ。

 

 ここはよく知っている場所だった。

 おそらくピレアットの中では、最も訪れた回数の多い場所であろう。

 元は城壁の陰により、昼でも薄暗く、どこか湿った空気が漂っていた。それでも長旅に必要なものが多くあって、存外にも賑わっていたのである。

 元々は魔法のスクロールや、魔法で作られた道具などを売っていた地区…

 そして件の不味いジャーキーを売りつけた友人の店があったところだ。

 

 もっとも今は、彼女の気配を感じ取ることはできなかった。

 微かにそれらしい名残はあるが、もう数日は前のものである。

 渦中には既に居なかったということなのか、早々に自力で脱出したということなのか…いずれにせよ、ここに彼女はいない。

 少しだけ、救われた。少しだけ、裏切られた。 

 そんな気がして、息を吐く。

 

 ふと、立ち並んでいる店たちに目をやった。

 見覚えのあるそれらは、大半は扉が開け放たれたままのがらんどうになっているようだ。

 あるいはそれ以外となると、激しい戦闘の名残があるだけである。

 物理的な方法では、きっと有り得ないような痕跡。…例えば壁や地面が熱でガラス化していたり、スポンジのようにスカスカの構造になっているような場所も多くあり、ここから鑑みるに激しい魔法の打ち合いがあったのだと思われた。

 それでもきっと、どうにもならなかったのだろう。

 ところどころに敷設されたバリケードらしきものは、粉微塵に破壊されるか、建物を貫く風穴によって、その役割を果たせないようになっている。

 夥しい量の血痕と引き摺られた跡。…あるいは嫌に生々しい、肉の質感をしたオブジェの存在が、惨劇の証左として残されていた。

 

 それは確かに、印象を大きく狂わせる要因のひとつだろう。

 ただ、決定的にピレアットという場所を冒していたのは、変わり果てた風土であったのだ。

 

 まずは空。切り開かれた腸のような質感をしていて、このじっとりと肌に纏わりつくような、極度に高い湿度と温度の源は、そこであるように思われた。

 次に音。どこからともなく響く、秩序を忘れたかのような不規則な心音は、他の要素も相まって、まるでここが巨大な生物の体内であるかのように彷彿させた。

……これと同じ特徴を示す世界を、僕は知っている。

 間違えるはずもない、そしてここにあるはずもない。

 

 それは悪魔の故郷、狂った地底世界。

 すなわち、『魔界』だった。

 

 もっともそれ自体は、特別動揺するようなことではないだろう。

 僕の知らない魔法も、僕の知らない奇跡も、星の数ほどあるのだから。…どちらも誰かが思い描けば、それだけ新しいものが生み出されるような概念である。

 その中の一つに、魔界そのものを召喚するものがあったとしても、おかしくはないだろう。

 

……しかし、ここは魔界である以前に、地獄であるのだ。

 絶え間なく合唱する呻き声と、血と肉の腐った悍ましい悪臭。この鋭敏な嗅覚と聴覚は、僕の意志に関わらず、全てを捉えてしまう。

 嫌なことばかりに気が付いてしまって…この都市に点在しているあれ(・・)も、ただの肉のオブジェなどではない。

 ひとつだけ死んでいるものもあったが、それ以外は全て生きた人間であるのだと、認めたくないというのに理解してしまうのだ。

 

「…ムリール、」

 

 君はこの惨劇の中、それでも正しく騎士であったのだろう。

 この街の誰よりも滅茶苦茶になっているのに、それでもなお、こんなにも清廉な神秘を迸らせているのだから。

 

「おぉ、お嬢さん!こんばんは!…それともこんにちはかな?」

 

 不意に、声を掛けられた。

 全く気が付くことができなかったけれど、もう随分と近くまで来ていたらしい。

 一つのことを意識していると、別のことに意識を回せなくなってしまうという癖。せっかく生まれ変わることができて、こんなにも凄くなれたというのに、治ってほしいものに限っては前世から変わらない。

 

 あぁ…僕が僕である限りは、きっと変われないのだろう。

 

……諦観もそこそこに、声のした方へと目を向ける。

 そこには不自然なほどに細長いことを除けば、おおよそ人型の悪魔が、こちらに向かって歩いてきている様子があった。

 塗りつぶされたような白色の身体と、身体中に飛び散った赤黒い模様のコントラストが、薄暗い中で異様に目立っている。

 

「こんなところに居たんだね!…一体どこに隠れていたんだい?」

 

 それは僕を、隠れ潜んでいた生存者であると、勘違いしているらしい。

 絵に描いたような、優しい笑い声が通りに響いていた。悪魔の裸足がペタペタと、湿った音で地面を鳴らす。

 それは血生臭く、彼の足跡は赤黒い。

 情緒豊かな柔らかい声色が、また静かに語った。

 

「悪魔避けのお守りでも、持っていたのかな?それもこんなに上等な鎧なんて纏ってしまって…あぁ、お嬢さんは、とても愛されていたんだね。だったら君を愛してくれた人と、一緒にしてあげよう!」

 

 その悪魔の顔面には、顔を顔たらしめる部品が一つも無かった。

 ただ大きな暗い穴がひとち、ぽっかりと空いているだけで…しかし穴の奥からは、鳥肌の立つような無遠慮な視線を感じる。

 そこには紛れもない、強烈な害意が渦巻いていたのだ。

 

……そもそも、隠す気なんて更々ないのだろう。

 

 一見優しい声も、笑い声も、ただそう聞こえるだけに過ぎない。

 悪魔というものは、遍くそういう生き物だ。

 抱く感情や謳う言葉。それが如何なるものであろうと、例外無く害意で満ち溢れている。

 

「もっと痛くて、苦しい方法を思いついたんだ。まずは君と、君の家族をつなげてから、いっぱい披露してあげるからね」

 

 無遠慮に伸ばされた右腕が、僕の身体を捉えた。

 人間を捕獲するにしては、過剰すぎる速度。相手が普通の子供であれば、およそ致死的な威力を持っていたであろうそれは…しかし僕の身体に届くことはない。

 彼は不思議そうに首をひねって、塵となって消え去った、腕の先を見る。

 

「私こそが終幕装置(デウス・エクス・マキナ)

 

 目の見える場所にいれば光から逃れられない様に、地面の上で生きるならば重力から逃れられない様に、是非もなく揺らがない事実として。

 『私』は全てを、終わらせることができる。

 誰かが立てた綿密な計画も、誰かが抱いた大きな野望も、あるいは何か切実な事情があったとしても、全て関係の無い事。

 既に銃口から離れた弾丸は、相手を選ぶことなどできないが、それでも必ず、穿つだろう。

 

「…故に、ただ終わらせるだけ」

 

 抜剣の動きは、緩やかであった。

 さながら食事の前に箸を取るようで、まるで当たり前のことであるかのような、そんな認識を孕んでいる。

 悪魔は、目の前で取られる反抗の仕草。この幼子の動きに、気が付くことすらないまま、ただ見過ごしていた。

 

 それは武ではなかった。

 

 ミラステラによる一連の所作は、実際精度に欠いている。

 自然体といっても、相手の意識をすり抜けるような、武の極地としての形ではない。欠片の技術も無く、それは本質を知らぬものが、見よう見まねで作った構えのようだ。

 型も無ければ技もなく、ただ両手で持って、上段に構えられる(つるぎ)

 一見すると彼女の行動は、まるで冒険に憧れる子供のようで…しかし、あまりにも速かった。

 

 ミラステラという存在は真実、理不尽なものである。

 

 彼女はただひたすらに強く、伝わる寓話においても、物語の流れを汲むことがない。

 唐突にして現れて、狂った魔法使いも、邪悪な精霊も、悪魔も、堕天使も、その尽くに逃れ得ぬ滅びを齎すのだ。

 この無茶のある展開全てが実話として伝えられ、また信じられることになったが為に、彼女は…

 

 

―――『女神』と、そう謳われたのだ。―――

 

 

 彼女を襲わんとした悪魔は、刹那の後、塵が如く粉々に刻まれた。

 振るわれた鉄剣が、不死たる上位者に道理無い死を与え、完全に消滅させたのだ。

 避けられぬ消滅に追いやられ、もはや取り返しの付かない死の間際。…なぜだろうか。ミラステラには、その悪魔が笑っていたように見えた。

 微かにだが、まるで酷い裏切りを受けて全てを諦めてしまったかのような、ひどく諦観的な表情が、彼の存在しない人相に垣間見えたのである。

 

 それはあまり望ましくないことであった。

 沢山の人間を苦しめた悪魔もまた、きっと苦しんでいたのだと、深く認識させられるのだ。

 きっと救われるべき誰かであったのだろうと、そう思ってしまう。……でも、どうにもならない。

 全て僕が愚かであったが故に、救う方法がわからないのだ。

 『私』の与えられる救いとは、何かを滅ぼすことでしか有り得ないものである。

 全てを救いたいという僕の感情、僕の理想。どれも切り捨てなければ、『私』で居られなくなってしまうものだ。

 

 そんな苦悩の中、ふと目に入った空の様子。

 そこにあるはずのない景色が一面に広がっている。

 

「ここは…魔界じゃない」

 

 正面の建物、その屋根に飛び乗る。

 視界の通る場所に登ってみて、広がっているのはやはり地獄。死ねないだけの亡者が数多にあって、それらは悪魔による凌辱を受けている。

 こんなのは、間違っているだろう。

 

 再度の剣撃。

 

 振るったそれの描いた鈍色の軌跡は、空を蓋する悍ましいものを二つに裂いた。

 一秒にも満たない静寂。その後、世界を打ち破るような大きな破裂音と、絶叫めいた奇妙な音を伴って、衝撃が爆発する。

 切り裂かれた隙間から、濁流のように噴き出す血を空目した。…しかし実際、切り口の向こうに見えたのは、黒い天井だけである。

 ただそれも、破れて消えてゆく。

 どうやら魔界の召喚。その起点は、ピレアットを覆う結界であったらしい。

 これが僕の攻撃によって崩壊すると、魔界も共々に消滅してゆくようだ。

 また空の内臓の消えゆくに従って、変わり果てたピレアットの底へと、眩い光芒が突き刺さる。

 吹き荒ぶ風、清々しい空気、吹き抜けるのは青く、どこまでも透き通った空。光柱が徐々に大きく、しかし確かに広がってゆく。

 空間を満たす淀みもまた、結界の崩壊に際して攪拌されていた。

 どうやら強烈な勢いで、結界外の空気が流入しているようだ。…と同時に、結界外に漏れ出してゆく魔力は著しい。下手をすれば、世界に大きな悪影響をもたらすこととなるだろう。

 

「まずいな」

 

 どうにかする手段は知っている。

 無論、やらないという手はない。…が、少々の覚悟も必要であった。

 目を閉じる。小さく息を吐き出した。

 これらの動作に掛った時間は、一秒に足らないだろう。多少恥ずかしいだけのことに、あまり時間をかけてはいられなかったのだ。

 

 その後、空気を吸い込むことをトリガーとし、魔力の吸収を開始した。

 憂慮すべき生命は無く、それ故に一帯の魔力を取り込む勢いは渋らない。吸い込んだ魔力は、即座に吐き出すことで還元した。

 僕に取り込まれた魔力は、元の性質や僕自身の状態に関わらず、非常に清廉な状態となる。

 穢れ切った魔界の気配は急速に消え行き、代わりに満ち溢れた聖性は圧倒的だ。

 これは僕特有の能力という訳ではなく、属する種族の特性であった。

 

 

 瞬間、歓声が爆発する。

 

 

 空間が軋むように震えだし、音が圧力さえ持ち始めるほどの大喝采。絶叫にも似た歓喜が、壁の中を満たしてゆく。

 無論、それらの主が人間であるはずもない。ここにあるべき人は皆、成り果ててしまっているのだから。

 この心底楽しそうな狂乱の元は、間違いなく悪魔である。

 そのリアクションは、攻撃されている側にしては、些か緊張感に欠ける振舞いだろう。…しかし悪魔とは、得てしてそういうものであった。

 享楽的で理性を持たず、また無秩序な存在である。

 まるで自らの滅びを喜ぶように向かい来るのだ。

 

 歓声の最中、十数メートル先の空中に魔力の動きが発生した。

 その不自然な収束に視線を向ければ、どうやら転移の魔法であったらしい。

 直後、空中に暗い穴が開く。

 中から覗いていたのは、複数の…微かに生物のように見える何かが、混じり合っているように見える、奇妙な外観の悪魔であった。

 ただそれは、混じり合うといってもキメラめいて『上半身はライオンで下半身はヤギ、尾は蛇で…』といった具合で、複数の生物の特徴を併せ持っているものではない。

 

 おそらく4匹。どれも形が崩れすぎていて、元がどんな生物であったのかは分からないが、とにかく別の何かが、同じ座標に重なって存在しているかのように見える。

 そのどれもが半透明であり、蕩けて歪み、不規則に振れ動いていた。

 羽毛のような何かが散って、空気に溶けてゆく。獣毛めいた何かも、吹き込む風になびいているようだ。

 

「女神様だ!おかしいね!」(「神を担うなんてイカれてる…」)

「みいつけた!」(「いなくなってしまえ」)

「頭が高いぞ!」(「その顔をやめろ」)

「悪魔を見下してるの?」(「お前も俺も変わらない」)

「裏切り者!」(「憧れを汚すだけになる」)      

「なんてかわいいんだ!」(「認められるわけがない」)

「何も助けられないくせに!」(「お前も、失意に終わるんだろう?」)

「素敵だ!」(「悍ましい」)

「神様は最初から、間違ってたんだ!」(「神の『器』は、完成しない」)

 

 “それ”…あるいは“それら”は、奇妙な声で囁いた。

 聞こえたものは、まるで唸っているようにも、吠えているようにも、あるいは老人や子供の声のようにも思える。ひとつだけでも頭が痛くなりそうなその声は、しかし同時に大量の声が入り混じっているようだった。

 ただ、魔法だろうか?

 それは間違いなく公用語ではない。ひょっとすると、意味のない呻きでしかないのかもしれない。

 その不協和音でしかないものを、どうしてか僕は、言語として理解できてしまった。

 

「…ごめんなさい、切ります」

 

 たったひとつ、確かなものが、返事をした。…子供の聡明な声で、静かに「おねがい」と。

 

「燃え盛る絶ぼ――(「恐怖より出づる――)

「忘れるものか、原初のや――(「照らせば無知を知るだ――)

「放たれる愛の矢――(「絶叫する悲嘆の――)

「疫病鼠は蔓延す――(「希望は先んじ、やがて連な――)

「髑髏は笑えず――(「浅ましく縋るは朽ちゆ――)

「囁くのは姿無き怪ぶ――(「凝視するのは血走る虚無――)

「餓えたる獣の奔流――(「其は傀儡、破れたる希ぼ――)

 

 間もなく、穴の内から飛び出した悪魔は、それと同時に魔法の詠唱を始める。

 件の重なる音で紡がれたそれは、同時に10個を超える魔法陣を操り、二次元的な幾何学形質を生み出しているようだ。

 典型的な魔法陣であるそれは、非常に歪んだ悪魔らしいものであったが、それ以上に複雑かつ高度なものであり、知性を感じさせる。

 たとえ狂ったとしても、僕などよりずっと賢いのだろう。

 

 それは不可解な変形を繰り返し、時折模様を変化させながら廻っていた。

 メリーゴーランドのように回転していて…しかし突如、解けるようにして分裂する。

 十数個は数十個へ、また同じ動きとともに、さらに倍に…そして三度の分裂の果て、やがては百にも及ぶ数と増殖した魔法陣。

……悪魔は、どうやら飛べるわけではなかったらしい。

 飛び出した勢いも落ち着いてきた彼が、落下の最中、発射のトリガーと思しき言葉を口にする。

 

 それは先程と得体の知れない音ではなく、明瞭な公用語でもって発された。

 

「我らは子、希望も絶望も遍く与えられ、ただ呑むことしかできない。」

 

 回転を止めた魔法陣が、余すことなく僕を睨みつける。

 渦巻いて荒れる魔力の奔流が、大気にプラズマを走らせていた。

 それは、ともすれば街どころか国。下手をすれば大陸そのものすら吹き飛ばし、滅ぼすことすらできたであろう⋯それほどの力を持った魔法のように見えたのだ。

 

「無駄です」

 

 もっとも発動すればの話である。

 ひとつの陸地に終末のホルンを響かせんとした間際。魔法陣は、発射口としての完成を待たず、すべてが切り裂かれて破綻したのだ。

 『私』が切り裂いて、破綻させたのである。

 その威力による余波が、辺りに暴風を巻き起こす。

 魔防の不発により為すすべもなく、ただ真っ逆さまに落ちてきた“それら”。僕は彼らのことも、先の悪魔のように刻み殺した。

 

 悪魔たちの歓声が、一層強まってゆく。

 ピレアット中央に向かう方角を見れば、もはや抜け殻と化した都市を破壊しながら、数多の悪魔がこちらへと迫ってきている様子があった。

 他の悪魔を踏みつけ、自分自身を踏みつけ、『私』を惨たらしく殺さんとしている。

 それらは同じ種族であるようには思われない多様さであって、しかしどれも一様に不自然に変形されたような…

 何が正しいというわけではないが、しかし決定的に間違っているような異様な姿であった。

 

「逾槭↑縺ゥ…!縺セ縺滄℃縺。繧貞「励d縺吶□縺代□繧阪≧!!」

 

 不意に、不明瞭な叫びと共に殴りかかってきたのは、不自然に延長された影のような外観の悪魔であった。

 その人型を認めると同時、斬るべく剣を動かす。…しかし、振るったそれが当たった瞬間は、全くと言っていいほど手応えを感じられなかった。

 

「無意味なことです」

 

 そんな彼らに対して無心、剣を振るった。

 2度目の剣戟。それによって相手は、有無を言わさず死んでゆく。

 記憶に新たに染み付く彼らの間際を、祈ることはせず、謝ることもせず、ただ慣れない罪悪感とともに見送った。

 

 その先遣の微かに後ろには、悪魔の大群。まるでうず高く積まれたように、こちらへ雪崩込んでくる。

 ただそれだけを認めると、僕はまた無造作に切り裂いた。

 切り裂かれた悪魔は、それが当然であるかのように死んでゆく。

 ただ悪魔だけでなく、魔法や奇跡も飛んできているようだ。…しかしそれもまた、幾度ばかりか剣を通せば、瞬く間に掻き消される。

 呪いの類も感じるが、微かな苦痛さえ抱かなかった。

 悪魔の攻撃は、押し並べて無意味である。

 

 きっとここまでくれば、聡い悪魔も、そうでない悪魔も、己が末路を察していることだろう。

 それでも、狂気的なまでの歓びを全身で表現しながら、笑声を一層強める彼らには、後退るような様子など欠片もない。

 

 むしろ、戦闘によって生まれる衝撃や魔力の流れにより、一層勢いづいている。

 時には翼などを使って飛翔して、時には四肢などを使って跳ね上がり、時には身体部位を伸長させて、時には魔法で転移をして。…そうして誰もが、『私』に向かい、塵と化して死んでいくのだ。

 

 その死に様は壮絶である。

 一回斬られても、微かな変化もない。

 まるで何事もなかったかのように振舞っていて、やがて斬られた回数が千になり、万に及んでも…それでも彼らは気付かない。

 一見すれば、外観については、数秒前と変わらなかった。

 いつか彼らが斬られていることに気が付いたとき、彼らは既に死んでいて…微かな残滓が声のような音を届けると、すべてが失われるのだ。

 

 それでも悪魔たちは、きっと蛮勇などではなかっただろう。ましてや策を弄せるほどの協調性を持っている訳でもない。

 悪魔は死ねば、やがて魔界にて蘇るが、彼らは知っているはずだ。

 これが魔界で復活できるようなものではない、本当の死であることを。

 あるいはきっと、全てを察して、その上で楽しんでいるのだ。…むしろ察しているからこそ、これほどまでに嬉しそうなのだと思う。

……あの悪魔たちが、殺意を抱いていたのだ。

 それは本来、人間との争いが娯楽以上のものに成り得ない彼らにとって、あり得るはずのない情緒である。

 きっと彼らにとって、『私』は喜ぶべきものであり、そして許しがたい何かなのだろう。

 

 そうこうしているうちに悪魔は数を減らしていき、もはや片手で数えられる程にまでなっていた。

 まだ在るものは、地面に根を張って動けなくなっている悪魔や、物理的な手段によって拘束されている悪魔。つまるところ、なにもできないものばかり。

 あぁ…もう、終わらせようか。

 生存者はもう、人ではない。ここにあるべき全ては、もはや取り返しの付かない遺物ばかりだ。

 それが悲劇の名残にしか為り得ないというのなら、すべて消してしまったほうがいいだろう。

 ただ心を痛めるだけの瓦礫には…

 

 

 

 

――――――価値など、ないのだから。

 

 

 

 

 




Tips 天人

 世にも珍しい天使と人間のハーフ。
 その中でも人間の形質が、より強く表れた種を天人と呼ぶ。

 この世に生を受けた天人は、緩慢な成長により生きる時間のほとんどを赤子の姿で過ごし、やがては身体の弱きを理由に死んでゆく。
 彼らの自我が薄弱なことは、きっと幸運であろう。
 己が境遇の不運を理解せず、死の恐怖を持たないままに逝くのだから。

 愛おしい子よ、母をおいて何処へ往くのか。
 嘆く天使の疑問は、今は亡き神だけが知っている。


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参・何も救えない

 街が、無くなっていた。

 ずっと前からピレアットと呼ばれていた場所は、今はもう荒れ地に積もった瓦礫の山でしかなくて、かつての喧騒など僅かな痕跡すら残さずに消えている。

 悪魔も、人間だったものも、誰も残されてはいなかった。

 

 荒れ地の中央に、ぽつんと置かれた蠢く肉塊。

……かつてムリール・ビアントと呼ばれていたものと、それを呆然と眺める少女を除いて。

 

「あなただったら、僕を怒ってくれるかな…」

 

 人も悪魔も皆、『()』が殺した。

 この町のすべてを、『()』が壊した。

 すべてとは言わずとも、元通りにする手段があったかもしれない。たとえ『()』には出来ずとも、出来る誰かがいたかもしれないのに、探そうともせずに終わらせてしまったのだ。

 そしてそれらは、全て僕のエゴだった。

 

「…いや、許してしまうかもしれないな」

 

 彼に口汚く否定される様子を想像したけれど、あまりにも見当違いな想像であるように感じた。

 そういえば僕は、ムリールの怒った瞬間や、嫌いな人への対応というものを見たことがない。

 二人で旅をしたのは、きっと2、3年程度のものだろう。

 それは決して長いとは言えない時間だったけれど、寝食を共にするならば、相手の人柄を知るには十分過ぎる期間であった。

 彼は、誰を相手にしていても変わらなかったのだ。

 嫌って拒絶するような様子は見せず、ひたすらに善性を通し続けていた。

 

……頭蓋の内側をぐるぐると巡っている記憶。

 

 最初は、今より少しだけ幼げな彼が、自分より圧倒的に小さい僕に対して、目を輝かせながら訴えかけている様子があった。

 

「師匠、新しい魔法を覚えたのです!」

 

 ムリールは、僕には到底真似できないような様々なものを、すぐに覚えることができた。

 沢山のことを学んで、自分のものとしていたのだ。

 そのたび褒めてほしいという様子を満面に浮かべながら、僕の元へと駆け寄ってくる様は、まるで大きな弟ができたようであって、仄かに心が温まるのを感じたものである。

 そうして気が付けば、彼は誰もが認めるような、すごい人間になっていた。

 

「見てください、ある方に譲ってもらったのです。聖剣セレーネと言うそうですよ!」

 

 その自信に溢れた表情や、僕を見る目に浮かんだ憧れは、まるで透き通るように純粋であって、とても眩しかったのだ。

 これについて僕は、最初は彼がまだ世間を知らぬが故のものだと思っていたが、どうやらそれが性分らしいという事には、間もなく気が付くことができた。

 きっと僕は、彼が僕を想ってくれたものと同じような感情を、また彼に抱いていたのだろう。…僕では、どれほど願ったとしても、なれない形だったから。

 

「師匠が間に合わないというのなら…私が皆の盾となり、時間稼ぎをしましょう。そうすればきっと問題ありませんから!」

 

 やがて彼は何かを見つけたようで、僕についてくることを止めた。

 彼が孔雀の騎士に加入したことを知ったのは、それからしばらく後のことである。…以来は顔を合わせる機会も大分少なくなってしまったから、最近のムリールの様子は前ほどはわからない。

 彼についての情報は、たまに噂に聞く活躍が主たるものになる。

 それでも全くの他人になる訳じゃないし、出会(でくわ)すことがあれば、顔を合わせて話すこともあった。

 彼は会うたびに沢山の経験を積んでゆくもので、三日会わざればという話もあるけれど、彼の場合はまさしくそうであったのだ。

 気が付けば途方もない大人物になっていた。…しかし会話を重ねれば、芯の部分は何も変わっていないことも分かる。

 

 とても…素敵な子であったのだ。

 どれも、懐かしい記憶である。

 

「僕にとって、あなたは憧れだったんだよ」

 

 彼…ムリールに、心底から憧れていた。

 彼は、僕に感謝しているという話をしていたけれど、実際あそこまで上り詰めたのは、彼の自力がすべてである。

 あなたが言うほど僕は素敵な人ではないし、むしろあなたのほうがよっぽど『騎士』らしい、勇敢で素敵な人に思えたのだ。

 

 そうやって下らない後悔に苛まれていると、突如彼が痙攣を始めた。

 

 まるで自分の体をどう動かすか分かっていないように、めちゃくちゃに収縮を繰り返す肉塊は、やがて血を吹き出しながら自壊してゆく。

 何を原因とするものなのかは分からないけれど、これがポジティブなリアクションであるようには到底思えなかった。

 

 もしかすると彼は、本当に生きることを望んでいるかもしれない。

 自分にはなにもできないというのなら、肉塊になったままの彼は放っておくことが、正しいことなのかもしれない。

 あぁ、でも…たとえそうだったとして、誰がそんなことをできるっていうんだ?

 地獄に甘んじる彼を見過ごして、立ち去るだなんて。

 

 

 そうだ、躊躇うな。

 また大切な人を殺してしまう。

 

 殺さなければならない。

 もう何度目になる?…でもきっと、前よりは容易いだろう。今までがそうだったように。

 

 大事な人であればこそ、躊躇しているところではないだろう。

 そうだ。僕はずっと変わらない。前世からずっと、変われない。

 

 あとはもう、ムリールだけなんだ。

 "あなたを殺せる人は他にもいるけれど、今あなたを殺せるのは、僕しかいないから"

 

「…っ」

 

 感謝など厚かましくて、彼にだけ謝罪することもできなくて、ただ無言で歯を噛み締める。

 

 そして腹を括って、血塗れの剣を両手で以って空に掲げた。

 刀身を伝って柄に垂れ、悪魔の持たない生暖かい液体が、握ったままの手に触れる。

 それは僕の奪った、数多の命そのものだろう。あるいはこれから奪う、まだ死んではいない彼の命でもあるのだと、痺れる思考の中で悟っていた。

……ただ感情を押し殺して、剣を振り下ろす。

 

 

『いったいどうなってんだよ!』

 

 

 切った感触はなかった。

 振り下ろした先にあったのは、驚くほどの虚無。続けて切ろうと思っても、もうそこにはなにもいない。

 ただ、瓦礫の砕けた塵が舞い上がっていた。

 ムリールの姿が、どこにもなかったのだ。

 ただ微かに感じる魔力の反応だけが、ここで僕の知らない魔法が行使されたのだと、確かに教えてくれている。

 誰かが彼を召喚したのだろうか?

 それともまた別の…?

 

『ちょっと目を離しただけだっつーのに、全部なくなってるじゃねぇか!まっさらだ!ヤバすぎるぜ!本当にお前がやったのか!?』

 

 ただ残った唯一の証拠さえも、もうほとんどが自然に漂う魔力に紛れ込んでいる。

 きっと何も知らなければ、それが直前に行使された魔法の痕跡であることに、気が付くことすらできなかったであろう。

 それは恐ろしいほどに洗練された、高度な魔法そのものであった。

 あるいは例の、壁に掛けられた強化の魔法。それを施した張本人の仕業かもしれない。

 もっとも、『私』の振った剣に反応できた訳では無いだろう。きっと、ひたすらに間が悪かったのだ。

 

『無視かよ…?おいおい、さびしいじゃねぇか』

 

「……して、ください」

 

『まぁ、聞かずとも、お前以外にやるやつなんていねぇだろうな。ここにいるの、マジでお前だけだし。それにしても、なぁ?…おい、俺だってやれるこた、全部やった上でのこれだったんだぜ?失敗だったのかよ…それもどうしてこうなったのか、まるで見当がつかねぇ。理論は完璧のはずだ。力も手に入ってる。アイツらに好き勝手させても、少なくとも俺が見てる前では死ななかった。完璧だったのに…おい、なんでだ?お前何やった?俺の何がダメだったか教えてくれよ!』

 

 軽い語り口が、ひたすらに繰り返される。

 誰かの声が脳に直接届くことで、それが公用語を話していることまでは分かっていたけれど、何を言っているのかを理解するほどの余裕はなかった。

 ムリールがいない。…おそらく連れ去ったのは、この男だ。

 

「かえして、ください」

 

 懇願に意味がないことなんてわかっていた。

 それでも、奪われたことに、堪えかねたのだ。

 

『なんだ、話せるじゃねぇか。しかしだな、あー…すまん!そいつは受け入れられない相談だぜ。サンプルはあって困るもんじゃないしな。あいつにはかなり期待できる』

 

 知っている返事だ。

 こんな頼みが受け入れられるなんて、ありえないことはわかっていただろう。

 ただしそれは、すべて察していてなお、受け入れるには無理がある内容だった。

 あぁ…でも、そもそも僕に、奪われたものを取り戻せたことなんて、これまでに一度でもあっただろうか?

……否。いつだって、取り戻せなかった。

 願っても、奪い返しても、結果は変わらなかった。

 たとえ再びこの手に抱くことができても、すでに手遅れになっていて…

 そういう試みは大半、僕自身の無能さを、分かりやすく示す以上の効果はなかっただろう。

 

『まぁ、そうだな。…とはいえ俺も、手段は選んじゃいられねぇよなぁ?今からそっち行くぜ。もう何年も、あぁ…違う!いつからだ?百?いや、わかんねぇ…何千年?クソクソ…!わかんねぇよ…!でもな、マジで気が狂いそうなほど、こうして研究してきたことだけは、間違いないんだよ。何が何だかわかんねぇが、これだけは成し遂げないといけないんだ。だから、お前がやったこと全部教えてくれるっていうんなら、全部返してやるからさ…

 

「違う。そうじゃない」

 

…おい?』

 

 僕は…『私』は、違うはず。

 苛まれている場合ではないだろう。

 他ならない『私』が、喪失の絶望に犯されてしまってはだめだ。それを振り払えなくなったとき、僕はもう、二度と騎士にはなれなくなってしまう。

 

 騎士は強い。

 騎士はみんなを守れる。

 騎士はやるべき事が何かわかっている。

……だから僕は騎士じゃない。そのような事実に気づいていても、ただ盲目的に信じ続ける。

 

 そう、あえて接触する必要があったのかについては分かりかねるが、彼がこちらに来てくれるというのなら好都合だ。

 悲劇は元凶を絶たねば繰り返すと、ずっと前に学んでいるだろう?

 特にその行動が、善意に帰属するならなおのこと。…彼のようなものは、必ず殺さねばならない。

 

『あー、お前。もしかして気狂いか?』

 

 抜いた力を入れなおし、再び柄を握り締める。

 少し力を入れ過ぎているようで、握ったところがミシミシという嫌な音を立てている。…しかしこれについては、努めて無視をした。

 僕は転移が使えないのだ。

 熟達した魔法使いに逃げられたら、きっと厄介なことになる。…故に、相手にその思考が生まれる前にやりきれるよう、構える必要があった。

 

『…いや、気狂いなんかじゃねぇな。そうか、そうか…お前、俺を殺す気なのか!たまたま壊れてただけの、…とっくの昔に終わっちまったアイツらを殺せたからって、俺も同じ程度だと思ってんのかよ!なぁ!!』

 

 

―――凄まじい熱。

 

 

 どうやらそれは、僕の立っている場所の真下。崩れた瓦礫の残骸を由来とするようだ。

 石製のそれが、高まる温度によって赤熱して変形していることから、きっと温度は相当のものだろう。

 魔力も神秘も感じられない。…いや、秘匿の術か。

 

「…小細工」

 

 呟き、抜刀をした瞬間。

 刀身を抜き切る直前に、地面が爆ぜた。

 理解できたことは、微かな…ほとんど完全に隠されていて、かろうじて感知できる程度ではあったが、莫大な神秘の力。そして、魔力が迸っていたことである。

 

『ブッ飛んじまえよ!!』

 

 そして不意に襲った衝撃は、やがては大気を蒼く煌めかせ、周辺の地形を蒸発させながら爆裂する。

 ダメージこそ受けていない。…ただ身体の頑丈さと体重は比例しないようで、身体が激しく吹っ飛ばされてゆく。

……かなり、厄介だ。

 急速に流れていく景色を見送る中で、その戦闘スタイルに思わず眉を顰める。

 彼の魔法は、まったく悪魔らしくない。

 それ自体が異常に高度なことや、火力の高いことはそうだが、小手先の技術で撹乱してきている。

 僕の苦手とする戦いだ。

 

「あー…大分遠くに行っちまったみてぇだが、どうせ見えてるし、聞こえてるんだろ?」

 

 そんな台詞を伴って、爆心地より差昇る黒い煙の中から現れたものは、意外なほどに人間らしい姿をしていた。

 端的に言うと、不養生そうな無精髭の男。…かなりの猫背であり、口に加えた煙草から、爆発による煙とは対象的な白い煙を吐いる。

 窪んだ目でこちらを見据え、彼は吐き出すように語った。

 

「そうだな、確かにあいつらも俺も、お前にとっちゃ同じだろう。…騎士の女神。噂には聞いていたが、甚だ信じがたい。混ざりものとはいえ、その性能は有り得ないだろう…お前一体何者だ?」

 

 吹き飛ばされる中、身体を捻って幾許か回転させる。

 向きと角度がちょうど良くなるように調整すると、続けて進行方向に奇跡を発動させた。

 自分の飛んでゆく角度に対して、概ね垂直な板としての結界を⋯そしてこのまま、ほとんど減速することなく着地する

 響き渡るのは、独特の音。

 甲高く、余韻を残して消えてゆく。

 この形容しがたい音色は、例えるなら金属製の体鳴楽器による和音に近いだろう。

 そのまま結界の端を掴み、ぶらさがった。

 

「私は、ミラステラ。種族は天人です。」

「そんなの…っ」

 

 僕の声を聴いた男は、微かに青筋を浮かべる。

 持った煙草を投げ捨てながら少々しゃがみ込むと…

 

「…見りゃわかるだろうが!」

 

 捨てた煙草が落ちると同時に、激しく地面を蹴った。

 外見こそ人間でも、中身が悪魔であるのは間違いないらしい。蹴った衝撃により、それを受け止めた大地が捲れ上がり、地鳴りのような音を伴って、世界が大きく揺れる。

 半ば物理法則を無視した勢いでこちらへ飛び込んできた彼は、勢いのままに僕の鳩尾に向かって、足を突き立てんとした。

 

 もっともそんなこと、できなかったけれど。

 

「無駄です」

 

 衝撃波を伴って、独特の音…分厚い鉄塊を殴ったような鈍い音が響く。

 防御の姿勢など全くしなかったことにより、僕の鎧は彼の足撃を直に受け止めることになったが…まったくと言っていいほどに衝突の影響はなかった。

 彼もまた無傷ではあったが、先の速度を考えれば不自然にも見える勢いで急停止する。

 

「おいおい、マジかよ!」

 

 驚いたように目を見開く男を、肩から腰に掛けて斜めに切り降ろす。

 斬ることに両手を使ったため、僕の身体は落下を始めるが、すぐさま真下に結界を作った。

 そこに着地するまでの数瞬、彼の体に幾千万と剣を通す。

 実際以上に長く感じられる時間。…ようやく足が付くと、同時に不要になった方の結界を消した。

 

「…斬れない」

 

「当たり前だ!」

 

 一方彼は、どうやら斬られたことを認識していたらしい。

 これで死なないことからしても、やはり他の悪魔とは何かが違うのだろう。塵のように細かく刻まれた身体は、しかしすぐに再生してゆく。

 最中に右手の人差し指で以て、上空を示した。

 

「来いッ!」

 

 叫びと同時に立てた人差し指を、手前にクイと曲げるようなジェスチャーをする。

 直後、僕の背後で発生したのは、尋常ではない魔力の収束であった。

 

 間違いなく、魔法による攻撃だろう。

 

 この悪魔の性格からして、これも相当に高度な秘匿…魔法による魔力の動きを隠すような効果が施されているに違いない。

 先に受けた爆発の規模と、そこでは直前になっても、魔力や神秘の反応をほとんど感じられなかったことを考えると、今回の攻撃はアレ以上に凄まじいものになるはずだ。

 

 脊髄反射的に、魔力の収束を結界で覆うが…

 

「ははは、お粗末な奇跡だ!」

 

 すぐに解除されてしまった。

 まぁ、問題はない。そもそも技量の差からしても、こうなることは察せていたのだ。

 彼の術を見ていれば、魔法であろうと奇跡であろうと、僕の技術が彼の足元にも及ばないことなど、自ずと理解できていた。

 足場の結界を解除しないのは、きっと直撃させるにおいて、落ちないほうが都合がいいからだろう。

 こうなると、取れる選択肢は『避ける』か『斬る』のいずれか。

 

……否、どちらの必要もない。

 もうここには、何もないのだから。

 

 僕から距離を取ろうとする悪魔の腕を握る。

 

「はは!そう来ると思ったぜ!!」

「いえ、無意―――

 

 発しようとした言葉は、爆発により掻き消された。

 想定していたより圧倒的に低い威力。衝撃に至っては、微かにも感じられない。…しかしそれ以上に特徴的なのは、爆発に伴う煙に感じる強烈な刺激臭と、体内を浸食する暴力的な魔力の反応である。

 察するに、相当に強力な毒と呪いだろう。

 ただそんなもの……

 

―――無意味なだけです」

 

「おまッ…嘘だろ!?」

 

 捕まえた腕を握りしめたまま切り裂く。

 握っているところ以外を粉微塵にするように、幾度となく斬撃を繰り返したのだ。

 

「ははは!俺は、死なねぇよ!!」

 

 剣圧により煙が晴れると、そこには殆ど無傷の男がいた。

 

「…無意味です」

 

 叫んだ彼をまた、粉微塵に切り刻む。

 今度は確かに斬り殺した。…そのような感覚を得たはずなのだが、どうしてだろうか。

 まだあの悪魔の気配が死なない。

 

「あぁ!?お前ほんとに殺せるんだな!?」

 

 確かに魂、その根源たるを切り裂いたはずだ。

 不自然なほどの回復力で治癒してしまうまでは、ピレアットの犠牲者たちと変わりなかったが、完全に消し飛ばしても復活するというのは知らない。

 ただどうにも、違和感を覚える。

 

「そうか、そうか…これで殺したんだな!!悪魔も、俺の『死なず』も!!」

 

 また斬った。

 当然の如く復活したが、回復すればその刹那に剣を通し、粉微塵にする。

 彼は蘇る度に何かをしようと魔力や神秘を迸らせていたが、身体が刻まれると、それも意味を失って霧散するようだ。

 この様子を見たところ、意識は途切れているのだろう。死んでいるということで、間違いは無いように思える。

 ただ、殺した瞬間に蘇っているようだ。…故に僕は、彼が元の形に戻るたびに、幾度でも切り裂く。

 それでは本当の意味で殺すことはできないと分かっていても、彼に逃げられるわけにもいかなかったから、この行為をやめることができなかったのだ。

 

 数秒、あるいは数分。

 意識の拡張された時間の中で、上手に働かない頭を回し、ひたすらに殺し続ける。

 彼を殺しきる名案が浮かぶか、僕の知らない理由によって彼が死ぬまで…おそらくは、繰り返されることになるだろう。

 そう、考えていた。

 

……しかし不意に、彼の身体から何かが溢れ出したのだ。

 

 それは、力であった。

 ただ、魔法ではないだろう。そして奇跡でもないように見える。

 堕天使の持つ能力…あれもまた、魔法や奇跡に属さない特別な力だが、それとも根本的に似つかなかった。

 ただ何が起こっていようと、斬ることを止めるわけにもいかなかった。

 そして次に刻んだ瞬間、彼の身体の破片が消失する。

 どうやら、復活の兆しはないようだ。

 溢れ出た赤黒い力。ただそれだけが、揺らめくように残留しているだけである。

 消えたが…殺したとは、到底思えない。

 

「逃がした、のでしょうか…」

 

 呟き、剣を柄に収めた直後であった。

 狂気に満ち溢れる歪んだ声調が、僕の背後で吠えたのは。

 

巾ナ巾ナ山幺与尺山与尺ナ幺尺セ(求めた訳すら忘れたけれど)与尺セ巾ナ巾与エカ几与ナ(それでも魂は「為せ」と)乙幺凵与尺幺ナ山(絶叫することを)ナ巾ナカ幺尺几幺ナ(止めてはくれなかった)!!!」

 

 放たれた台詞は、僕にも意味が理解できるようにしてあったけれど、どうにも意図してのことではないように思えた。…あるいは怒りのようであり、絶望のようであり、しかし何よりも救いを求めているように聞こえる叫び。

 

「どうやって、…」

 

 疑問の言葉は、途中で止めた。

 ただ愚直に振り返り、握りしめた鉄で斬り結ぶ。

 彼は右手で手刀を形作り、振りかぶった姿勢のまま、再びの死を迎えた。…しかし蘇ることはなく、また消失する。

 次に彼が復活したのは、直前に死んだ場所よりはるかに離れた場所だった。

 

「おいお前…死ってなんだ?」

 

 荒い息遣い。

 胸を押さえ、髪を乱暴に握る彼が、憔悴した顔で僕を見上げる。

 

「どうして俺たち以外のヤツらは死ぬ?どうして俺たちは死ねねぇんだ?…なぁ。どうしてお前は、俺たちを殺せた?あぁ…神様、どうして俺たちを不死にしたんだ。どうして、人は死ぬようにしたんだ?」

 

 よたよたと地面を歩いて、近づいてくる。

 もはや死人の如く、覚束ない足取りで、ゆっくりと。

 

「なあ、なあなあ…!教えてくれよ!!どうしてそう、中途半端に希望をチラつかせるんだ!!どうしてあいつらは、苦しまなきゃならねぇんだ!!…あぁ、ヨクラトル。何も言わないで消えちまったら分かんねぇよ、俺は一体どうすれば良いんだ…」

 

 激しく咳込み、彼は膝から崩れ落ちた。

 隈の染みついた眼が大きく見開かれて、頭を抱えたまま空を仰ぐように反り返る。

 それは理不尽に喘ぐような仕草であり、耐え切れなくて、どうしようもなく狂ってしまったように見えるもの。…漏らした絶叫に至っては、僕には人そのものであるように見えてしまったのだ。

 

「俺は、なんだ!?どこにいる!どうしてここにいる!?誰だ!!ちがう!わかってる!!!お前は、どうして今頃になって表れたんだ!!お、っ…俺がみんな殺した!?おい!た、っ…頼むから……!!後生です!!」

 

 

―――いなくなってください。

 

 

 直後、彼の身体が爆発した。

 それによって広がった煙は赤黒く、まるで血のようで…しかし物質的なものではないようだ。

 それは空気と混ざり合いながら、徐々に消失してゆくように見えた。

 

「与ソ凡幺モナ与凵」

 

 不意に聞こえた声。

 彼の言葉に呼応して、首筋に酷い違和感のようなものが走る。

 溢れ出すのは、強烈な死の気配。首にまとわりつく力は、おらくは回避の不可能なものだ。

 そして思わず悟る。

 これは二度目の生の中では初めて目撃した、僕の…いや、『私』の命に届くものであるのだと。

 

「死ねよ」

 

 囁く声が耳の内側で鳴った。

 周りを見渡すが、あの悪魔の姿はどこにもない。…いや、違う。

 意識をすれば、薄っすらとだが見えてくる。

……すぐ眼の前だ。

 姿を隠す魔法か、奇跡か、あるいはまた別の力か。

 どうやら姿を消して、睨めつけていたらしい。

 足場代わりに作った結界の上。そんなに広くない故に、50センチも離れていない直ぐ側で立っている。

 僕のことを見下ろしている悪魔の姿が確かにあった。

 

「見えるのか」

 

 つぶやきが聞こえた直後、離れようとする気配を感じて手を出した。

 意識を逸らすと見失ってしまいそうだから、彼の身体を鷲掴み、空いたもう片方の手で剣を握る。

 次いで、即座の抜刀。

 彼の身体、その中央。魂の根源たる部分まで剣を斬り入れた。

 

「…まだ、だめです」

 

 意志が揺らぐ。

 迷わず殺すと決めたはずなのに、可能性に目が眩んで身体が止まってしまった。

 これ以上斬れば、死に至るだろう。…しかしこのままであれば、まだ死なない。

 そのギリギリのラインで、僕は踏み抜くのをやめてしまった。

……でも、仕様がないじゃないか。

 今殺してしまったら、ムリールの居場所がわからないままになってしまうのだから。

 もしかしたら、まだ無事かもしれない。死んでいるなら、それでもいい。

 ただそれでも、死んでいる姿を見なければ、納得できないのだ。

 死ぬことも出来ず、永遠に放置されることになる。

 そんなのは、あまりにも酷いだろう。

 

「ムリールの居場所を、教えてください。…もう次は無いということは知っています」

 

 後退るような姿勢のまま硬直した彼は、無理矢理作ったような引き攣った笑顔で発する。

 

「どうして、分かったんだ?」

 

 唾を呑むことに掛かる間ほどの僅かな逡巡。

 僕は一瞬だけ答えることに躊躇って、しかし教えてしまっても問題ないだろうと自己完結する。

 

「勘です」

 

 僕の答えによって、彼は乾いた笑い声で喉を揺らした。

 

「神様ってやつは、これだから…マジで理不尽極まりないな」

 

 つまらなそうに溜息を吐いた彼は、続けざま「煙草を吸いたい。いったん、これを取ってくれよ」と言って、僕の剣を指先で突く。

 もはや死んでいるも同然の状態なのに、彼の様相には微かな恐怖も浮かんでいなかった。

 

「…あるんですか?」

 

 何度も斬り刻まれているから、たとえ煙草を持っていたとしても、無くなっている気がする。

……いや、今の彼が全裸でないことを考えると、蘇る際に所持品も復活しているのかもしれない。

 そんなことを考えていると、直後に答えが提示された。

 

「今の俺ぁ、服を着てるだろ?…この衣装と煙草は俺の魂に結び付けてるんだよ。」

「そう、ですか…」

 

 逃げられたらおしまいだから、出来る限りそんなことをしたくはなかった。

 物理的な距離ならどうにかなるが、別の世界に逃げられたら、僕にはもうどうしようもない。

 彼の魔法が余りにも高度であって、感知することが難しいということを考慮すれば、慈悲を与えるのは間違いなのだろう。

 

「…分かりました。ただ、逃げられるとは思わないでください」

 

 今まで以上に神経を張ればいいだけだ。

 逃げようとする動きを感知すれば、すぐさま斬る。何も魔法の前兆は、魔力の動きだけではないのだ。

 たかが数十センチの距離なんて、あってないようなものだろう。

 僕は彼から手を放し、突き刺さった剣は彼の身体から抜き取った。

 

「はは、助かるぜ」

 

 懐から煙草を取り出した彼は、それを口に咥えた。

 それから指先を立てて…

 

「あぁ、火ィ付けるだけだぜ?…殺してくれるなよ」

 

 そこから放った火で、煙草を炙る。

 指先から放たれる火が消えると、すぐに燻り始める煙。

 彼が目を閉じて、あたかも胸いっぱいに取り込むようにして吸い込めば、先端から徐々に赤く燃焼してゆくようだ。

……やがて漂ってきた香りは、知っている煙草とは、少し違った独特のものであった。

 砂糖菓子のようにどこか甘ったるく、少し薬品的なものも含まれた、奇妙な匂い。⋯いったん煙草を口から離した彼が、溜息めいて煙を吐き出すと、それは一層強まって咽かえるようである。

 その匂いは、僕の身体に染みついた臭いより強烈で、まるで血を掻き消すようにも思えた。

 

「それで、ムリールの場所は…」

 

 僕の言葉を遮るように、言葉が置かれた。

 

「教えてほしいか。そんなに?」

 

 彼は神経を逆なでするような、厭らしい笑みで僕を見上げている。

 もう一度煙草を吸って、煙を吐き出すと…ゆっくりと口を開いた。

 

「教えてやん

 

 彼は、言い切らぬうちに粉々になって死んだ。

 本当はどんな結末になるか悟っていて、それでも一縷の望みに縋っただけなのだ。

 教える気なんてない…そんな様子を分かっていて、それでも話を聞いた。…しかしもう、悟った通りになると分かってしまえば、彼を生かしておく意味なんて無かったのである。

 

 足場にしていた結界を解いた。

 地面に着地すると、瓦礫の崩れた粉塵が少し舞う。

 

 あたりを見渡せば、そこには壁に囲われただけの何もない荒野が広がっていた。

 強いて言うなら、赤いシミ。そして瓦礫の山が積まれているだけだろう。

 もう本当に、悪魔も人間も、何も残されていない。

 

「私は…救えましたか?」

「…そばにいられなくて、ごめんなさい」

 

 空を見上げて呟く。

 その言葉に意味など無いというのは、あまりにも明白なことであっただろう。

 

「おねえちゃん、僕は…」

「ミラステラ、いつかあなたが傷付かなくても(救わなくても)いいように、ここから連れ出してあげるから」

 

 ただそんなことは承知の上であった。

 これはなんてことはないエゴの自覚であり、正気の維持に過ぎない。

 

「きっと、いつか、全て救いますから」

「…だからそれまで、待っててね」

 

……しかしそれは、自傷を伴うものだ。

 なぜなら苦痛。それこそが堪え難い絶望の中で、僕の刻んできた轍の全てであったから。

 あるいは、自己認識とは過去を振り返ることである。

 そうして酷い頭痛に苛まれる中、いつも通りの疑問が脳裏によぎったのだ。

 

 果たして、本当に『私』は、神の名にふさわしいのだろうか?

 

 前は知っていたはずの答えが、いつまで経ってもでてこない。

 否定も肯定もできなくなってしまった僕には、もう何も分からなかった。







狂いゆく奉仕者

     医療の魔     
それでも理想は遥か遠く、
 積み重ねた過ちの無意味を悟った。



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後・取り憑き

 ここは平原に突き抜ける、何の変哲もない街道の半ば。

 平均的中世ファンタジーの世界観にありがちな科学技術の未発達故、当然といえば当然なのだが舗装等の整備はされておらず、ただ踏み固められただけの土道が何処までも続いている。

……しかし、歩きこそすれど、行き先なんてどこにもなかった。

 壊れ切ってしまったピレアットから目を逸らすように、ひたすらに遠ざかる方向へ進むだけ。

 思考を止めて、ただ漠然と歩いてゆく。

 少し前も似たような景色を歩いていたはずだろう。…しかしもう、完全に別物であるように感じられたのだ。

 

『本当に辛気臭ぇな、お前は!せっかく元凶ブッ殺したんだし、もっと陽気に歩いたらどうだよ、なァ?』

 

 不意に脳内を掛けたのは、あの時確かに殺したはずの男。とてつもなく高度な技術を持った、あの悪魔の声であった。

 ただどうにも、魔法や奇跡を使って語り掛けているような調子ではない。

 彼の気配は、僕の内側……

 

「…私の中に、入っていたのですね」

 

 どうやったのかは知らないが、どうやら僕の魂の中に、彼の魂が混じっているようだ。

 もっとも完全に同化しているわけではないらしい。例えるなら水が入った容器に油を注入されたようなものである。

 混じり合わないものが、1つの容器に同時に存在するような…とても奇妙な感覚であった。

 

『あァ、殺された瞬間からな!ずっとお邪魔させてもらってたんだぜ?ついでに記憶も覗かせてもらったよ、もちろんお前が男娼やってた頃からだ。…それにしても生まれ変わりとは興味深いな。どうやったんだ?』

 

「私にも、分かりません」

 

『だろうなぁ…知ってた。全部見たからな!』

 

 あえて言い触らすようなことでもないが、秘しておかねばならないようなことでもないだろう。

 恥ではないとは言わないけれど、考えたところで不毛なことである。

 そもそも、僕が前世でどのような生活をしていたかなんて、知ってどうにかなるようなものでもあるまい。

 そんなことより、また彼と会うことができたのならば、こちらからも聞きたいことが…

 

『ムリールの居場所を教えてください、か?』

 

「えぇ、まぁ…はい」

 

 考えようとしていたことを先読みされたことで、思わず歩みを止めてしまった。

 思考の腰を折られると、自分が何を考えようとしていたのか考えてしまって、何も考えられなくなってしまう。

 我ながら支離滅裂な表現だけど、僕の語彙力ではこの感じを、これ以上に正しく表現することができないのだ。…どうにも、如何ともしがたい気分であった。

 持ち直すことに時間が必要な訳ではないが、そう何度もこれをやられると、とても困る。

 

『お前…その思考、マジで言ってんのか?…まぁ、いいぜ。どうせ教えなくたって諦めるだけなんだろ?教えてやる。アイツはなァ…死んでるぜ。今は魔界の、俺の拠点に転がってるはずだ。俺の魂のストックにしてたからなァ…つまり俺を殺したお前が、アイツを殺したってことだよ!』

 

 そうか。…そっか。

 ピレアットの住人を死ねないようにしたらしい悪魔が言うのだから、この発言が間違いである可能性は低いだろう。雰囲気を考えても、嘘があるような様子はない。

 きっと彼の発言は、事実なのだ。

 

 ムリール、本当に…死んでしまったんだな。

 どこかで皆に称えられて、僕などより長生きして、幸せに生きて欲しいと、そう…思っていたんだけどな。…いや、これでいいのだ。

 あの状態から何の問題も無く生き残って、しかも正気のままに再開できるだなんて、そんな高望みをすることはできない。

 彼が今も苦しみ続けているなら別だが、そうでないなら未練はなかった。

 

『お前…お前があいつに向けてた感情は、そんな軽いもんじゃねぇだろ。どうしてこの話を聞いて安心できるんだ?どうせて俺を信用する?…思考と感情が一致してない。あんなことがあって俺とまともに会話できんのもまったく解せねぇよ』

 

「…怒ってほしいのですか?」

 

 沈黙。

 うっすらとだが、魂を通して彼の感情が流れてきた。

 これは…同情だろうか?

 

『同情…あぁ、そうかもしれねぇな。お前を見て哀れに思わねぇヤツはいないだろうよ。誰もが当たり前に持ってるものを、お前は持っていない。そのことを知っていて、それでもまったく欲しいと思っちゃいねぇ…まるで虫でも見てるような気分になるぜ。こんなに持ってない生き物が居たのかってな』

 

「…虫、ですか」

 

『怒ってほしいかって言ったよな。そうじゃねえよ。お前は怒るべきなんだ。その方が人間相手にしてる気分になるぜ』

 

「…」

 

 進んで会話したい相手、とは口が裂けても言えないけれど、あえて怒るほどの相手でもなかった。

 たしかに彼が踏み躙ったものは取り返しがつかないもので、(いたずら)に弄ばれた余りにも沢山の命は、もう二度とは戻らない。…彼の行いはきっと、どのような罰や奉仕を経ても、償い切れないほどのものだ。

……しかし、彼の犯した罪がとてつもなく大きいものであったとして、それは僕が無垢を気取れる理由になるのだろうか。

 そんな道理は在り得ないはずだ。

 

 彼の所業を嫌って唾棄できるほど、僕は自分の殺戮に無責任ではいられないから。

 それに彼は、僕の魂と一体化しているのだ。僕から離れられないし、何もできない存在を相手に、これ以上思うことは何もない。

 僕は彼に怒りを抱くことができない。

 

『お前嘘だろ?マジでこれが本心なのか?…マジかよ。だとしたら本当にきっしょいな。俺だったら好きなだけ罵詈雑言浴びせてるぜ。殺せるなら殺しただろうな。お前はどうしてそこまで自分の感情を…いや、やっぱいいや』

 

 諦めたような、息を吐き出す音があった。

 魂だけなのに、溜息はするものらしい。…いずれにせよ彼は、僕に自分をどうにかしろと訴えかけることをやめるようである。

 それから一息置いて、『良いこと思いついた』と呟いた彼は、またもや語り始めたのであった。

 

『なぁ、きっとお前とは長ぇ付合いになるだろうからな。少しは俺のこと知っといてくれよ。…本当は俺もお前も、自己紹介なんて必要無いはずなんだが、どうやらお前は気付いてねぇようだからな』

 

「気付いてない…」

 

 正直なところ、気付こうともしていないというのが正しいだろう。

 それに悪魔の呼称なんて、それ自体気にしたことすらなかった。

 根本的な所として、人間が言うところの悪魔の名前は、あくまで仮称に過ぎないのだ。姿形ですら、本来のものとは違うという。

 つまり憶えたからといって、追悼にはならないのである。

……であるというのに、どうして知る必要などあろうか。

 

 ただそうは言っても、聞いたことのあるものはいくつかあった。

 昔話や物語に登場するような特別な悪魔。あれらは例外である。

 もっとも誇張や比喩がふんだんに用いられていたし、出会ったところで分からないだろうなとも思っていた。

 つまり僕の既知の範疇にある悪魔の名前など、存在しないといっても過言ではない訳だ。

 

『ははは、興味なさそうだな?いいぜ、期待に応えてやるよ』

 

 なにが『いいぜ』なのだろうか⋯

 僕は特にこれといった期待なんて、していなかったはずなのだけど。

 

『別になんだっていいだろ?お前の考えてることなんて、死ぬほどどうでもいいぜ。もう死んでるけどな。…とにかくだ、俺は医療の魔ってんだ。お前が俺を知ってることを俺は知ってるぜ。もっとも、他の名前もあった気がするんだがな。そっちは生憎と忘れちまった』

 

 あぁ⋯そういうことか。

 確かにそれには気づけなかった。

 分からずに殺したけれど、彼がそうだったのか。

 

 確か“顕現せば、紅き死の大地が広がるのみ。打ち見れば心変わり、語るを聞くにも憚るる所業にて命を冒す”だったか。

 まぁ…行動についてはおおむね伝承通りだった気がするけれど、容姿に関しては少し意外であった。

 もっと怪物という名前にふさわしいような、とんでもない姿をしているものだと思っていたから。…とはいえ悪魔としては見るなら、異物感のある姿ではあったかもしれない。

 

『随分と他人事なんだな。…まぁ、なんだ。いい反応を期待していたって訳じゃないけどよ』

 

 彼は…僕を一体どうしたいのだろうか?

 

『俺はよ、不死を研究してたんだ。人間を死なない存在にする方法をずっと探してた。…今は魂を操る業がお前に破られちまったせいで、完全に行き詰まっちまったがな。『斬ったら斬れるだろう』なんてふざけた考えが、マジで通用しちまうんだから異常だぜ』

 

 彼が戦闘の半ばで叫んでいたことからも、この願いについてはある程度察しがつくものだけれど、こうして聞けば改めて思うものだ。どうしてあのようなアプローチになってしまったのだろうか、と。

 願い自体は素敵なものであるというのに。

 

『お?褒めてんのか…俺を?』

「えぇ、まぁ…はい」

 

 実際、彼は凄い悪魔だろう。

 願い自体も、きっと真摯に追及していたならば、僕だって応援していたはずだ。

 守ろうと思った人たちが、手のひらから零れ落ちる。…目と鼻の先で死んでしまうことほど、恐ろしくて虚しいことはないから。

 

『ははは、不死への到達なんて、まともにやって達せるものではないってことさ。それにどうせ俺のことだ。死なないおもちゃが欲しいとでも思ってやってたから、あんな風になっちまったんだろうな』

 

 なんだか…違う気が、するのだけれど。 

 それでも彼自身が言うのなら、そうなのだろう。

 僕は彼のように、彼の考えていることを見通す方法がわからない。たまに感情の流入とも表現できるような、奇妙な感覚はあるけれど、発言から真否を見抜くほどのことは叶わないのだ。

 

『とにかく俺は、お前からインスピレーションを得ようと思ってな。どうせ死ぬだけだったし、お前の魂に俺をねじ込んだって訳だ。今のところ興味深い記憶がいくつか、あとお前が度し難い馬鹿ってことくらいしか分かってねぇがな。おまけに魂すら無駄に強いせいで弾かれちまって、薄汚ぇ腫物みたいになっちまってる』

 

 彼が発言を終えてから一拍。…特に続くものもないようだと確信した僕は、自分から返すのも礼儀だろうと思って、自己紹介をしようとした。

 

「…わたしはミラ」

 

 ただこれは、出鼻を挫くようにして遮られてしまう。

 半ば叫ぶようにして『いらねぇよ!』と発した彼の口調は、少し慌てているようにも感じられた。

 

『お前のはいらねぇ。あの…孔雀の騎士とか言ってたか?人間どもが壁ン中に入ってくるまで、ずっとボソボソ呟いてただろ。あれずっと聞かされてたからな。もう十分だぜ、マジで』

 

 そうだったのか。

……いや、確かに殺された瞬間からというのなら、聞かれていてもおかしくはないか。

 つまり彼は、自分を殺した相手が虚空に向かって、延々と意思表明する様子をただ眺めていたという訳か。

 悪魔にこういうのも何だけど、随分と悪趣…

 

『おいおい、勘違いすんなよ。俺だってあんなの、聞きたくて聞いてた訳じゃねぇ。お前の魂に掻き消されそうだったんで、抵抗しててそれどころじゃなかったんだよ』

 

「そうですか…」

 

『ははは、まぁ分かってくれたんならそれでいいんだ。なぁ…しかしお前にも、ちゃんとそういう感覚はあるんだな。女神であれかしと自己暗示してる割には、存外にマトモだ』

 

「そうでしょうか」

 

 不意に話の趣旨が変わった。

 これによって、特に考えることもないまま生返事を返してしまうが、それを理解しているであろう彼は、僕の思考。…というよりは、思考していないことと表現したほうが正しいだろう。

 完全に置いていかれていることに、全く触れることなく語りを続けている。

 あるいはそれは、言葉を意思疎通の手段として利用しているわけではないように思えるものだ。

 彼は考えていることを、そのまま垂れ流しているのかもしれない。

 

『もっとも嫌悪感や不快感を覚えてねぇ…客観的な視点で認識しているあたり、結構キテると思うぜ?直に扱ってみて分かったんだが、お前の魂は異常なんだよ。悪魔とは質が違ぇが、相当に歪んでる。性分の歪みも、きっとその所為かもしれねぇな。しかもこれは、お前の素性や来歴より、もっと根本的な―――

 

 

……以降、彼の話は陽が落ちてもなお続いた。

 

 内容についても、大半が『私』…あるいは僕への考察がほとんどである。

 未だに引きずっている後悔の記憶も多々交え、ひと時も絶えることなく語られるそれは、ひどくやり場のない感情を募らせるものであった。

 地平の果てまで続く平原を目的地も無く歩いてゆく中、延々と脳内で続けられる独り言。…時折質問が投げ掛けられることもあったが、返答する間も無く自己完結してしまって、それがまた変に注意を持っていかれる。

 例えばそれが今でなければ。あるいは彼でなければ、きっと問題無く流すことができただろう。

……しかしこの状況で十何時間と継続されるそれは、率直に言って聞くに堪えなかった。

 

―――と器としての人間は、まったく異なる存在なのかもな。その肉体と魂魄に宿す絶対性を鑑みるに、そうでもなければ説明が付かねぇ…っておい!もう夜じゃねぇかよ!』

 

「…そう、ですね」

 

 ここまで明確に疲労というものを自覚したのは、未だかつて無いことだ。

 精神的な疲労には、絶望以外の形もあるのだと知ってしまった。

 

『なぁ、お前疲れてるんだろ?上位者と、その血族は眠る必要がねぇ…だが、それが眠らない理由にはならないはずだ。お前、もう何年も寝ずに生活してるじゃねぇか。心もいい感じに仕上がってきてるしよぉ、いい機会だと思わねぇか?』

 

「…」

 

 この感情を、どのように表現していいのか、分からなかった。

 確かに彼の発言は一理あるだろう。

 ただ、今の精神状態に陥ることになった理由が、この悪魔にあることを考えれば、異論や反論の類もいろいろと思いついてしまうものだ。

 この荒んだ感情は、余裕がない中で飲み下すには、あまりにも苦すぎるものである。

 

『そりゃお前、怒りっていうヤツだ。ちょっと腹が立つってレベルじゃない、マジモンの憤怒だぜ。未知を知ったな。喜べよ、初めて抱く感情だぜ?』

 

 あぁ…そうか、これが怒り。

 今までは理解できないものであったが、これは不快だ。人を殴りたくなる気持ちも分かる。

 

「あなたの話は、つまらないです。…明日からは少々、口数を減らしてください」

 

 そうでもなければ僕は、抵抗できない相手を殺してしまうことになる。…そんな予感を、ひしひしと感じていた。

 慣れた感情ならば制御できるが、これはあまりにも耐え難いと思ったのだ。

 

『ははは、脅しか?怒りでひとつ、これでまたひとつ…どんどん人間らしくなっていくな!』

 

「…」

 

 意図せず、剣を握ってしまった。

 それを抜こうとする感情を落ち着けると、ゆっくりと手を離す。

 深く息を吸った。そして感情ごと、すこし大袈裟に吐き出す。

 自分の行動を制御できなくなるほど感情的になるというのは、酷く精神を蝕むものだと思った。

 

『あー、これは…洒落にならないやつだな?せっかく取り留めた命を無駄にするのももったいねぇし、流石に自重するか。今日はもう黙るぜ』

 

「分かってくれたのならいいのです。…そうしてください」

 

 文句がないと言えば嘘になるが、何か言ったところで気が晴れるようなことでもないというのは、分かり切っていた。…これ以上問題を長引かせる必要もないだろう。

 ひとまず彼の台詞に安堵して、先へと進もうと足を動かす。

 

 一歩、二歩、三歩…歩みを進めるたびに、それを数えてゆく。

 足を動かす感覚が浮ついていて、どうしても意識してしまうのだ。

 

 確かに歩いているはずなのに、全く歩いている感覚がないというのも心地が悪い。

 あの声が聞こえなくなると、冷静な感情が表に出るようになって、ずっと同じ場所で足踏みをしているような、行き詰ったような感覚ばかりが目立ってしまう。

 それでもピレアットの城壁が、地平線の向こうにすっかり隠れてしまうほどの距離は、進んでいるはずであった。…もっとも喪失感によって、来るときのそれよりずっとペースは遅かったかもしれないけれど。

……しかしあそこから逃げて以降、まったく先に進めている気がしない。

 

 それから足を動かすこと、都度十数回。

 余りにも歩くことが億劫になってしまって、その場で動きを止める。

 衝動的に空を見上げれば、目に入ったのは大きな満月。黄色くて丸い、大きなひとつであった。

 その周囲を取り囲むように煌めいている星は、夜空を眩く飾っている。

 

 親しい人との記憶は、夜空を見れば思い出されるものだ。

 

 誰かと共に歩くときは、夜は自ずと足を止めることになる。彼らは僕とは違って、ずっと寝ずにいられる訳では無いから。

 相手の目覚めを待って、空を見上げているだけの時間を過ごすことになるのだ。

 寝られないこともないけれど、別に寝なくてもいいから、そうやって呆けていた。

 僕はあの時間が、嫌いじゃなかった。

 誰かの寝息。誰かの気配。…その『誰か』が、好き好んで僕に付いてきてくれた人だと知っていたから。

 こんな僕を知って、それでも慕ってくれた人たち……

 

「…疲れちゃったな」

 

 思い出は星より遠くて、手が届かないものであるように思える。

 そうして空を見上げたまま、何とはなしに手を伸ばしてみるが、結局何にも触れることは出来なかった。

 あまりの距離感に眩暈すら覚えた時、ふとあの悪魔が言っていたことを思い出す。

 

「いい機会、なのかもなぁ…」

 

 道から外れた方向に行く先を変えて、もう少しだけ歩く。

 草の絨毯が夜風に吹かれて揺れており、それが鎧と触れるたびに、しょりしょりという心地の良い音が鳴っていた。

 このような形であれば、先ほどよりは少しだけ、歩くことに消費する苦労も少ないような気もしてくるもの。

 もっとも碌に気力も残っていない中でのことである。

 最低限、街道から直接見られることはないであろう場所まで来るなり、僕はその場に倒れ込んだ。

 

 短草を背に、夜空を見上げて、仰向けに寝る。

 こうして横になること自体、随分と久しぶりの事であっただろう。

 果たして、本当に眠ることができるのかなんて分からなかったが…それでも少なくとも、夜が明けるまでは目を瞑っていようと思う。

 

「おやすみ」

「おやすみなさい、ミラステラ…」

 

……返事はない。

 それでもぼんやりと、これでいいと思っていた。




Tips 医療の魔

 最古の魔王として知られる神話の怪物。
 これについて記された資料は、あらゆる国で秘匿されており、それが一体何なのかを正しく認知するものはいない。
 そうでありながら『医療の魔』という存在自体は、ずっと昔から民衆の間で語り継がれている。

 それは恐怖の象徴であり、しばしば子供のしつけにも用いられるのだと。


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第一章『あなたよりも、あなたを愛する』
前・魔界でのこと


各章のプロローグとエピローグは、結構な頻度で別キャラ視点になっちゃうかも。
次回からはちゃんと主人公ちゃん視点に戻りますので許してつかあさい。


 意識を持ち直すなり、最初に感じたものは、とてつもない体調不良であった。

 最も目立っていたのは、眼球の裏側を金づちで打たれているかのような圧倒的な頭痛である。

 異様に喧しく聞こえる心臓の鼓動に合わせて、幾度となくズキズキと脈動しているそれは、とてもじゃないけれど思考の平静を保っていられないほどのもの。…ともすれば、四肢の欠損にも劣らないであろうその痛みは、平衡感覚を完全に喪失させて、それを原因とする吐き気をも伴ったのだ。

 

「…ッ!」

 

 苦痛による呻きは、音を伴わなかった。

 半ば反射的に目を開ければ、広がった世界はまったく判然としない。全体が歪んでいて、ずっと揺れていて、ひどくぼやけていることしか認識できないのだ。

 また、頭痛に続くようにして襲い来る関節痛。または内臓の痛み、呼吸の不自由等についても、今までにないほどの悍ましい苦痛として襲い掛かってきている。

⋯⋯しかしこんなものは、全く問題にならない。

 それらは全て、押し殺すことができるもの。

 生まれつき痛みには鈍かった。それに、慣れてもいる。

 この身を焼き尽さんとする多くの苦しみ、あらゆる痛み。…そんなものは所詮、形無き知覚に過ぎないのだと知っている。

 むしろ感覚があるということは、つまりまだ私の身体はどこかにあって、生きているということだ。

 これは喜ぶべきことだろう。

 

 覚醒と気絶の間を行き来する意識の中で、動き出すための準備を整えて、息を吸おうとした所…

 

「…!?」

 

 その試みは、失敗に終わった。

 唯一、呻きにも例えられない奇妙な声と、咳込むような反応だけが許されて、口から何かが大量に溢れる。

 生暖かい感覚が身体を伝って零れ落ちて、それが滴る音を知覚した。

 気管の中に大量の異物が入り込んでいる…というよりは、詰め込まれている。それは察するところ、血液であろう。

 

……なんだ?私は一体どうなっている?

 

 一体何をされれば…どのような状態に陥れば、こうなるのだろうか。

 胸部を押し潰されたのか、身体を溶かすような毒か呪いでも受けたのか。いずれにせよ、このような酷い状態になった所以に、興味すら湧いてしまうほどの有様である。

 そもそもここまで行っていると、死なずに再生できたということそのものが、不自然にすら思えるほどだ。

 

 そんな困惑交じりの何とも言えない感情を、今はひとまず飲み込んだ。

 何がどうなっていようと、身体を健全な状態に戻さねば、やるべきことを認識することすらままならない。

 ただ問題となるのは、どうやって治療するかということだ。

 おそらくこれは、放っておいてもどうにもならない類のもの。口から吐き出せるのなら、それ以上のことはないけれど、それに期待して何もしないというのは自殺行為に他ならないだろう。

 僅かな逡巡を経て、何も思いつくことができずに余裕がないことだけを悟ると、荒治療の決行を決意した。

 こうなれば、直接出すしかないだろうと。

 

 私は今出せる力の全てを振り絞って、自身の胸元。左側の肺を狙って手刀を突き刺す。

 

「…ッ!」

 

 確かな、貫通した手応えがあった。

 手から伝わった感覚からして、やはり胸の中には重くドロッとした液体が詰まっているらしい。

 少し捻じって穴を広げると、続けざまにもう一発。今度は右側の肺を狙う。

 これもまた問題なく突き刺さったので、穴を広げた。

 

 ただし、穴を開けただけでは、詰まったものは流れ出ないものだ。

 私は這う這うながらも、その液体が排出されるように、姿勢を横向きにしようと身体を捩る。

 

 この行動の直後、一瞬浮いた感覚がして、自らが落下したことを理解した。

 濡れた床と身体がぶつかって、べちゃりという音が響く。受け身なんて取れる余裕もなかったので、胸をしたたかに打ち付けてしまって、その衝撃によってまた血を吐き出した。

 

「…!……ッ?」

 

 私は、どうなっている?

 酷く冷たくて、あたたかい。やわらかい。

 

 待て、まずい。

 

 思考が鈍りすぎている。

 身体も痙攣しているし、死に掛けている気がした。…息絶える前に再生できるだろうか?

 いや、違う…私は生き残らねばならない。

 

……歯を食いしばる。

 

 仰向けに倒れた身体を横に向けると、途轍もない痛みの中、なんとか意識を留め続けた。

 胸の穴からどぽどぽと、液体が流れ出てゆくのを知覚している。時折、固形物が押し出されている感覚があった。

 それは、非常に不快であった。自らの人間性が薄れていくような、正気をくすぐるような嫌な感じがして、鳥肌が立つのだ。

 背筋を伝って上がってくる寒気が、この感覚のせいなのか、死の予感によるものなのか分からなかった。

 

「…ぜひゅ、ひゅっ、ひゅー」

 

 そうして待っていると、ようやく全部流れ出たのだろう。液体の溢れる感覚が収まった。

 もっとも穴が開いているせいで、依然として呼吸自体は厳しいままであったが、これについてはすぐに治るだろう。ただ今度は、自らの身体が再生するまで待つ必要がある。

 体力を失いすぎたせいか、どうにも治りが遅いのだ。

 本当だったらなんてこともない、数分足らずで完治する掠り傷であっても、今は致命傷になり得るだろう。

 ひとまず適当なところに寄りかかった私は、そのまま目を瞑って、ぼやける視界を閉ざした。

 

 

 

 ふと、意識を取り戻す。

 

 どれくらいの間、こうしていたのだろうか。…分からないが、短い時間であれば好ましいだろう。

 ひとまず、ゆっくりと目を開いた私は、自分の身体を確認することにした。

 

 どうやら視界は良好らしい。

 眩暈やぼやけ等は、今は特に感じられない。

 自分の身体を見下ろせば、血塗れなこと以外はおおむね普段通りに見える。胸部の穴も完全にふさがっているらしい。

 体調については、到底良いとは言い難いが、活動に支障が出るほどではなかった。

 

 上々である。

 

 

 さて、まずは現状の理解だ。

 悪魔の襲撃を察知して、ピレアットの放棄を決定した私は…一体どうなったのだろうか?

 あやふやな記憶に不調が相まって、思い出すことにも手間がかかるものだ。

 

 確か城門が封鎖されているせいで脱出ができないこと、魔法による妨害があって破壊も不可能であることが報告されて、その後は防衛戦の指揮をしていたはず。

 街の各所に集合させて築かせた陣営も、数時間は崩されることなく耐えていただろう。

 他の騎士長のひとりから、城門前に到着したという旨を伝える通話の魔法が届いたのは、その直後のことだった。…しかし返答しようとした瞬間、ポン・ペルシュそのものが吹き飛ばされたのだ。

 

―――はやく、早く遠くへ逃げてください!!ここは私が時間を稼ぎます…ッ!

 

 以降はずっと真暗で、今に至るまで視覚的な記憶はなかった。

 おそらく目玉が潰れたか、焼けてしまったのだろう。眼球からの出血量を考えると、あるいは呪いの類であったのかもしれない。

 その間響いていたのは、異様に動揺したリュネットの声。…それも離せという連呼を最後に、どこか遠くへと離れていってしまい、聞こえなくなってしまう。

 

 後に残ったものは、単騎での戦闘であった。⋯いや、戦闘というよりは無様な抵抗か。

 

 自ずから動き出せる状況ではなかったが、敵性の存在が近づく気配に気が付けば斬ったし、攻撃の気配があれば避け続けていたのだ。

 あの状況で『防御の宣誓』が解除されれば、膨大な死者が出ることなど分かり切っていたから、それだけは許せないと全力であった。

⋯⋯時折、指揮を求むものや、陣営の壊滅を知らせる通話の魔法も届いていたが、その時に与えられた策なんて、すぐに破綻するような一時凌ぎだけ。⋯きっともう、どうしようもなくなっていたのだと思う。

 ただ、途中…身体の自由が利かなくなった辺りから、どうにも記憶が混濁している。

 まともに奇跡を発動できていたのかもわからない。

 

―――僕にとって、あなたは憧れだったんだよ。

 

……しかし一番新しい記憶。

 きっと意識が途絶える直前であったのだろう、その時に微かながら聞こえた声は、確かに師匠のものであった。

 いつも通り罪悪感に打ち震えていそうな声だったもので、何とか慰めようとしたのだが、あの時はどうにも身体が上手く動かせなかったのだ。

 あぁ、いや…そういうことか。

 守り切れなかったのか。そしてまた、師匠がすべてを終わらせたのだ。

 私が孔雀の騎士となって研鑽していた理由は、ひとえに彼女の手を煩わせないためであったというのに…結局最後はこうなってしまうらしい。

 

 本当に情けないことだ。

 

 ただひとつだけ、間違いないこともある。

 私に残された記憶には、この場所に辿り着くまでの道程や、手がかりになる情報は一切無かったということだ。

 つまり過去を振り返っても、何も分からないということである。

 

「今更悔やんでも仕方がないしな」

 

 ナイーブな気持ちを吐き出すように、ため息交じりに呟いた。

 このような感情は、すぐに切り替えるに限るのだ。

 必要なのは、反省して次に活かすこと。傷付いて、それ故に行動に支障が出るなど、決してあってはならないことである。

 

 

 

 さて、立ち上がったら今度は、自らが寄りかかっていた台を見下ろす。

 血に塗れて真っ赤に染まっているそれ。…質感については、床や壁と全く変わらないように見えるが、おそらくはベッドなのだろう。

 もっとも寝る目的というよりは、生贄を置いておく祭壇と表現したほうが、しっくりくるような印象である。実際に生贄や何かの材料にする目的があったのかは分からないが、いずれにせよ真っ当な目的で使われるものではないだろう。

 それは一般的な人よりも体格の良い私が寝転がって、なおも結構な余裕を有することを鑑みるに、これに寝かされる対象には、小型の巨人や大型の獣人が含まれている可能性も考えられた。

 

 次に全体を見渡せば、無機質で滑らかな、しかし光沢はない白い壁に囲まれていることを認める。

 件の寝台…その周りを歩けるだけの、最低限のスペースが確保された縦長の空間であった。

 そして寝かされていた姿勢を考えると、足元の方というべきだろう方向には、金属製の扉も敷設されているらしい。もっとも消去法的にそうであると判断しただけで、取手も無ければ開けるための仕掛けも見当たらない故、本当に扉なのかも怪しいものだが。

 

……しかしここは、死体置き場なのだろうか?

 

 以前、アンデッドと化して出歩いていた王族の遺体を埋葬するために入った、あの墓所にも近い雰囲気を覚える場所だ。

 あるいは独房のようにも思われたが、この空間は生きた人間を収容すると考えるには、些か不自然であるように思える。

 食料品を投入できるような穴はどこにも無いし、トイレの類も見当たらなかったのだ。

 換気口も無いようだし、きっと長く居れば窒息してしまうだろう。

 

 また、この部屋は非常に明るく保たれていたが、ランタンや松明の類は設置されていないようだ。

 天井に張り付くようにして展開されている魔法陣は、どうやら照明の魔法であるらしく、それがこの明るさを維持しているらしい。

 

 それは、およそ工芸品のように、非常に美しく纏められた魔法陣であった。

 その非常に高度な組成は、複雑でありながら、高い可読性を両立している。

 それは部屋の大きさを探知して、その全体を埋めるような弱い光源を置く魔法。…要するに、部屋と全く同じ大きさの程よく明るい光源を生み出すということである。

 

 それにしたって過剰なまでに高度た。

 例えば部屋と見做す空間の制限であったり、光源の配置を避ける場所の指定であったり、独りでに永続するような仕組みであったり⋯

 要素のひとつを取り上げても、革命的と言わざるを得ない手法が取られている。

 照明の魔法といえば、一か所に強い光源を置くのがメジャーである中、これは…正直なところ、部屋を明るくするための魔法にしては、手間暇を掛け過ぎているというのが所感である。

 技術的な面でもそうなのだが、精神的な面でも真似できそうにない。

 

 ただ、どうやら見たところ、ここに衣服はないらしい。

 現状、生まれたままの姿。端的に言って全裸なのだが、それをある程度見られるように飾ることはできそうになかった。

 これで出歩くのは、紳士としては少々憚られるところ⋯

 

「まぁ⋯いいか!」

 

⋯⋯だったのだが、考えるのをやめた。

 

 とにかく今は、ここから出よう。

 紳士だなんだと言っている場合ではないのだから、この振る舞いもまた、状況故に仕方がないと諦めるべきである。

 

 ひとまず扉のように思われた部分に近づいた私は、手を出して触れてみることにした。

 

 冷たく、金属質な物質だ。おそらく魔法的な加工はされていない。

……しかしそれと同時にひとつ、開き方が分からないということも分かった。

 それは押戸でもなければ引戸でもないようで、かといって左右、あるいは上下にスライドするような様子もない。

 観察すれば、扉の中心を通る横向きの亀裂もあって、まるで両開き戸を九十度回転させたようだとも思ったけれど、だからといって何か進展があったかと言われればそんなこともなく…しばらく四苦八苦して、いろいろと検証してみたが、結局開け方は分からなかった。

 おそらくこの裂け目からどうにかするのだろうが…

 

 この扉…壊してしまっても、問題ないだろうか…?

 

 状況からしてこの設備は、多分悪魔のものだろう。…悪魔がこんな高度な物を作れるとは思えないけれど、何事にも例外はあるものだ。

 もしこの推測が当たっているならば、敵のものだし壊してもよいはず。

 仮に味方の設備だったとしても、誠心誠意謝れば許してくれるだろう。きっと、多分。

 最も避けるべきことは「何かが起こっていて、私ならなんとかできる状況であるというのに何も知らず、それゆえに何もできない」ということ。

 特に直前の状況からしても、ただ待つことに甘んじている場合ではない。

 

 ひとまず一歩、後ろへ下がった。

 寝台と扉の間にある空間は狭く、取れる助走も多くない。…しかしこの程度ならば、十分に壊せる威力は出るはずだ。

 仮に一度では無理だったとしても、押し曲げることさえできれば、繰り返すことでどうにかなるだろう。

 

 続けて全身を使って速度を出すと、そのまま扉へと突っ込む。

 

 衝突と同時に響いた鈍い音は、長い余韻を残して消えていった。

 返ってきた感覚は、何かを破壊したときのソレではなく、身体を打ち付けた時の衝撃だけである。

 想定通りならば、扉は致命的にひしゃげて、役割を果たせないほどに壊れていたはずなのだが⋯そこには先程と全く変わらない姿があるだけだ。

 試しに扉に触れてみるも、微かな凹みすらありはしない。

……しかし肩に伝わった衝撃から察するに、相当な威力が出ていたはずである。つまりこれは、ただの金属ではないということなのだろう。

 また、何度も体当たりを繰り返したとしてもびくともしないことは、様子を見れば容易に理解できた。⋯こうなると、少し面倒だ。

 

 また一歩、後ろへと下がった。

 今度はより勢いが付くように、先ほどより幾分深く腰を落とす。

 

アスフィーレ・ルーナ(身体強化)…!」

 

 小さく詠唱を呟けば、私と位置的に重なる様に、黄金色に輝く人型が現れる。

 これは、想像に応じて身体の動きに先んずるもの。理想的な動作を可能とする、描くべき未来の轍であるのだ。

 つまるところ奇跡による動きの補助、そして疑似的な未来観測を行うものである。

 

 次の瞬間、その人型が消失する。…否、扉を突き抜けたのだ。

 直後に私の身体も、輝きの描いたであろう挙動をなぞる様に、凄まじい勢いで動き始める。

 かつて見出した救いを元に、そこに追い縋らんと、肉体にもたらされる導き。いつか憧れに至らんとする想いは、肉体の限界を遥かに超越した力すら生み出すものだ。

 

 その凄まじい能力を持て余した結果、私の身体は弾けるようにしてぶっ飛ばされた。

 プチプチという筋繊維の弾ける音が聞こえる。自分自身の身体の動きに意識が追い付かず、何をしようとしているのかは分かるはずなのに、どうなっているのかが全く理解できない。

 

 自らの奇跡であるが故、見なくとも薄らと理解できる輝きの様子。ふとそれを観測してみれば、どうやらあれは扉の向こうに転がっているらしい。

 もっとも全身の骨という骨が砕け散っていそうな、凄惨な有様と化しているようだが。

 憂うべきは、あれはもう確定した私の未来であるということだ。

 既に賽は投げられている。

 そうして扉に衝突したのだろう、物凄い衝撃を体感すると同時に、私という存在は当然のように砕け散った。

 きっとそれは体当たりなどではなく、事故や自爆と表現するべき有様であっただろう。

 

……しかし肝心のものについては、問題無く破壊できたらしい。

 ひしゃげた扉の隙間から押し出された私の身体は、その先でべちゃりと潰れている輝きに、重なる様にして倒れていた。

 奇跡の発動を取り消せば、輝く人型は自ずと消失する。

 またもや満身創痍といった具合だが、こうしてあの密室から出られたという訳だ。

 

 さて、ここは…廊下だろうか?

 

 痙攣させるのが精いっぱいの身体を、それでも必死に稼働させて辺りを見渡す。

 どうやらこの通路には照明の魔法がないようであり、あの部屋から差し込む光が、唯一の明かりとなっているようだ。

 かろうじて視界の通る所には、私の良く知るドア…通り抜けるために身体を破壊する必要のない、一般的なものがいくつか見受けられた。

 もっとも今は手や足…あるいは首などありとあらゆる部分が、本来は曲がらない方向に曲がっており、満足に動くことができないために探索することも不可能な状態にある。

 

 つまるところ⋯身体が再生するまで、ある程度待つ必要がありそうであった。

 

 

 それからしばらく経って、無事に身体を回復させた私は、この施設の探索を行っていた。

 どうやらここは、回復についての魔法や奇跡。あるいは不死についての研究を行っていた場所であるらしい。

 廊下を進んだ先には、それらしい資料や設備が見受けられ、多くの情報を得ることができたのだ。

 ちなみに発見できた部屋について、そこに入るための扉は内開き。しかも木製のドアが大半であった。もっともひとつだけ、例の開け方が分からない扉もあったが…開けることに掛かる苦労を考えて、入るのは最後にしようかと思っている。

 

 さて、肝心の情報なのだが…

 

「どうしようもない、か…」

 

 思わず漏れた声は、自分でも驚くほどに力が抜けたものであった。

 この資料が大量に保管された図書室めいた部屋には、なんと私が探していたものも置かれていたのだが…そこから理解できた内容にこそ、問題があったのである。

 見つかった有用な情報は、主に2つ。

 1つは、現在地について。もう1つが、帰還するための手段。

 

 まず前者については、資料に書かれていることが正しければ、ここはおそらく魔界。その辺境であるらしい。

 どうやらこの論文の筆者は、人間を攫っては自ら開発した奇跡や魔法の実験体にしていたようで、その記録が詳細に記載されていたのだ。

 拐った人間をどのようにして、どこに運び入れたのか…その数千年単位にも及ぶ記録の中でも、特に直近のいくつかについては、私の今いる施設に連れ込んだであろうことを示している。

 気になったのは、孔雀の騎士において行方不明扱いされていた民草の情報も、かなりの数が残されていたということだ。

 もっとも彼らは、もう手遅れらしいが⋯それでもきっと、何も分からないままよりはマシだろう。

 吉報とは言えないけれど、これもまた持ち帰るべき収穫であった。

 

 次に帰還の方法についてなのだが…端的に言うと、無いわけではなかった。

 次元の移動を行う魔法。つまり魔界から元の世界に戻る魔法について、扱うにおいて十分な情報が書かれた論文を発見することはできたのだ。

……しかしここにあることが正しければ、どうしょうもないほどに魔力不足である。

 この魔法に使われる魔力の量は、対象となる存在の質量と大きさに比例するらしく、簡単に計算してみたところ、私が扱い得る魔力で次元を移動させられるのは、師匠と同じくらいのサイズ感が限界であるそうなのだ。

 

 私が師匠と同じ重さ、大きさになるためには、手足を切り落としてもなお足りない。

 そもそも手足を切り落とした時点で、魔法を扱うには厳しい状態になってしまうだろう。

 加えて言うなら、これは次元の移動を行う門を作成する魔法なのだ。…つまり魔法を発動できたとしても、門を潜り抜ける程度の移動ができる状態でないと意味がない。

 限界を超えて魔力を溜める手段も無いわけではないのだが、こちらはあまりにもリスキーな選択であった。

 心身に異常をきたすだけならまだしも、うっかり魔力を暴走させでもしたら、正気を無くした魔物と化してしまう。それでは意味がないだろう。

 

 これらの情報が何を意味するかと言うと……

 つまり私は、今のところ元の世界に帰る手段がない、ということである。

 

「…さて、どうするか」

 

 詰みか?

 思いつく解決策の全てが机上の空論。

 理論上可能と可能は同義ではないことを、これでもかというほどに理解させてくる内容ばかりだ。正直言って、うんざりしてしまう。

 参考に読ませてもらっている資料も、分かりやすいことには違いないのだが、その内容は甚だ絶望的であり、滲み出る狂気にあてられそうになる。

 

……というのも、序盤は非常に奇麗な文字ばかりで、構想や理論について丁寧に纏められている内容が、進むにつれて書き殴るようなものに変わってゆき、最後は目標が達成できなかったという旨の記述で括られているのだ。

 その『失敗』という結論に至るまでの試行錯誤や、精神の荒れ具合を如実に感じられる様子が、またなんとも酷いもので…とにかく見ていられないとしか言えない。

 

 今こうして手に持っている資料も、不死身の生物を作ろうとして、最終的には失敗するという流れが事細かに書かれている。

 魔法使い、あるいは奇跡の担い手としては、非常に興味深い資料ではあるのだが、いかんせん倫理観が不足しているものであった。

 

 こうなったら、例の扉を開けに行くというのも、アリなのかもしれないな。

 探索の途中で発見した、私の閉じ込められていたものと全く同じ設計の扉を思い出す。

 放置を決定してから経過した時間は、体感にして2時間ほどだ。

 脳裏に過った回数は、これで都合5回目にもなるだろう。

 結局この図書室には、あの扉の開き方について書かれている資料は無いようであった。

 向こうに生存者がいる可能性を考えると、余り手荒な方法で開けたくはないのだが、どうしようもないというのなら仕方がない。

 

 あの中には一体、何が入っているのだろうか?

 私と同じような再生能力を持った人間か、あるいは私とは違って再生できなかった故に死んでしまった人間か、あるいは想像だにしないものか…

 もしかすると、この論文に書かれているもの。不死身の生命とやらの、完成品であるという線もあるだろう。

 荒唐無稽ではあるが、これほどまでに高度な技術を持った存在だ。私の常識で測ることは不可能だろうし、案外あっさりやってのけているかもしれない。

 いずれにせよ次元の移動が行えて、友好的で、大量の魔力を持った相手がいれば嬉しいのだが⋯

 

 手に持った資料を軽く見遣ると、その場に置いて立ち上がる。

 

 元より私は考えることが得意な方ではなかったのだ。

 本当は止めたほうがいいと分かっていながら、それを止めることができないのである。

 そのような知的なことはリュネットに任せておけばいいと、短くはない孔雀の騎士としての活動で学んでいた。

 

「よし、行こう」

 

 そうだ。

 私は私、ムリール・ビアントなのだ。

 此度は魔界であるということも相まって、珍しいことに頭を使った行動が出来ていたけれど、もうどうにも我慢ならんのである。

 もし扉の向こうに何もなかったら…そうだな、少し前に見つけた出口から、外の探索へと出ることにしよう。その方が収穫があるかもしれないし、何も無いようなら戻って来ればいいだけ。

 

 どれだけ慎重になろうとしても、私は結局のところ師匠に似ている。

 思慮深そうな顔をして語っておいて、実際考えることはまったくもって苦手なのだ。




Tips ムリール・ビアント

 広義における人の味方、孔雀の騎士と呼ばれる組織の長。そのひとりとして名を連ね、『月光の盾』として知られる人物である。

 決して砕けることなく、幾度傷付こうとも、瞬く間に元ある姿へと戻る様⋯あるいは、それは化け物にも例えられる、強靭な生命であるという。
⋯⋯故に最初、心無き軽蔑の対象であったという彼は、しかし数多の戦いを重ね、同じ戦場に立ったものが増えるにつれて、畏敬の対象へと変わっていった。

 そうして我らに代わり、数多の傷に塗れた彼が、天を見据えて力強く吠える様を見、誰が邪悪と呼べようか。

 それは紛れもなく、偉大な英雄。
 正しく高潔な騎士なのだ。

「師よ、我を見ていたか!あなたに代わって、全てを守り通そうぞ!」


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