ガールズバンドたちのBirthday (敷き布団)
しおりを挟む

【白鷺 千聖】彼が書いた脚本で

 微笑みの鉄仮面。それは人が私を喩えた言葉。言い得て妙だと思う。自分自身とてそのような自覚は持っているし、その仮面は、私がこの芸能界というどうしようもなく底が深い沼のような世界で生きていくためには、必需品なのであるから。本音を言えばそんな煩わしいものは取っ払ってしまいたい。そうは言ったって、私は仮面を被ることを甘んじて受け入れていたし、この仮面がある限り、私が所謂'普通の女子高生'として生きていくのは無理であることも理解していた。俗世で生きていくことなんて、私には許されていないと思い込むことで日々を無心で生きることに成功していたのである。

 成功することが私の芸能人としてブレてはいけない軸なのであれば、私が今していることはどれもが明白な矛盾だらけだ。矛盾に生きていると言っても過言ではないと、自分自身を罵ることだって出来る。それはある意味では私に残された最後の自分への慰めなのだ。予定通りの人生を幸か不幸か描くことが出来なかった自分への。

 

「千聖ちゃーーーん!」

 

「……彩ちゃん?」

 

 この子だって、私にとっては大いなる矛盾の一つだった。どこまでも汚れない純粋な心を、この芸能界に生きながらにして持ち続けている。一昔前からの私に言わせれば、『あぁ、すぐに消えるのだろうな』なんて嘲笑の対象であった。

 でも、この子はそんな私の嘲笑を覆すほどの躍進を今なお続けている。勿論それを支えているのは彼女1人の力というわけではないのだけれど、それでもPastel✽Palettesは彼女抜きには必ず存在し得ない。私の居場所の一つでもあるそれの中心に彼女は居続けているのである。今日だって、彼女は私以上に嬉しそうな表情で1日を送っていたのだった。

 

「今から帰り? それなら一緒に帰ろ!」

 

「え? いや……ちょっと!」

 

 芸能界で自分の心を壊し続ける私。彩ちゃんはその対極にいて、それでもなお私のことを何ら馬鹿にもしないし蔑みもしない。きっと世間の人に聞けば、100人に100人が彩ちゃんの方がよきアイドルと答える。でも、彩ちゃんも私もアイドルであることには違いなくて、私たちの挙措はアイドルそのものだった。少なくとも表向きは。

 

「えっ、帰らないの?」

 

「そういうわけじゃないけれど……」

 

「じゃあ帰ろっ」

 

「え、えぇ」

 

 かつては黒く汚れてしまっていた私の手。今でもあちらこちらにタコが出来て、決して綺麗な手ではないのかもしれない。そんな私の不満足な手が彩ちゃんの手と重なる。私と違って、本当に綺麗な手をしている。そこにはまさにアイドルがいた。私には描くことのできない道を歩み続ける、アイドルになるべくしてなったアイドルが。

 

「そういえばね、この間のライブのMC、事務所の人から上手だねって褒められちゃった!」

 

「……そう。彩ちゃんの場の回し方も以前に比べたらずっと上手くなったものね」

 

「たのバラとかライブとかでいっぱい経験したんだもん、当然だよ!」

 

 大きく胸を張る彩ちゃんに、以前のような気弱な部分は見受けられない。いや、前も気丈に振る舞うことはあったか、その内実は本当に泣き虫な彩ちゃんだったけれど。……今となっては、私の方がよっぽど弱い人間になってしまったかもしれない。

 

「やっぱり経験がモノを言うからねっ」

 

「彩ちゃんからそんな言葉を聞けるようになったなんてね」

 

「えへへ。すごいでしょ?」

 

「えぇ。一年前の彩ちゃんはアイドル初心者だったけど、今は半人前ぐらいかしら?」

 

「そ、そうかな? って、褒めてないよねそれ?!」

 

「ふふっ」

 

 だから私は、彩ちゃんの前ですら『微笑みの鉄仮面』を被っている。自分の弱さを見せないように。彩ちゃんにさえ見せることのできない私の素顔って、どんなモノなのだろうか。きっと薫や家族の前で見せる顔も、もしかしたら私の素顔ではないのかもしれない。自分でも、どれが素顔なのかすらわからない。どの人格が、1番本来の私に近いのか。

 

「……千聖ちゃん、どうかしたの?」

 

「え?」

 

 どうやら私の深刻な思惟は彩ちゃんの中に渦巻いた不安を掻き立てるには十分すぎたらしい。私の顔を覗き込もうとしてくる彩ちゃんが視界に写り、私は慌てて手を振っていた。それは私の中の醜い素顔を見られないためか。いや、これは素顔なのか。仮に素顔じゃないとしても、どうにも気恥ずかしかったから。

 

「何でもないのよ? ちょっと疲れていただけ」

 

「本当に? ……確かに千聖ちゃん、お芝居もまた新しく決まってたよね? 無理しちゃだめだよ?」

 

「えぇ。心配してくれるのは嬉しいけれど……。先週ぐらいからもう撮影の打ち合わせには行ってるわよ?」

 

「そうだったの?! 知らなかった……!」

 

 鈍感な彩ちゃんは茶目っ気があるから、それだけで私としてありがたかった。確かにこの子も時々私の中の素顔に踏み込もうとしてくることがあるし、もしかすれば私以上に私のことを見抜こうとしているのかもしれない。けど、彩ちゃんはまだまだ幼く可愛いもので、ポンコツさんだから本当の深層の私には触れてこないし、それが分かった上でどんな私でも白鷺千聖として認識しているのかもしれない。そう言う点でありがたかったのだ。

 

「……さて、ここら辺で私は失礼するわね」

 

 私はとある交差点の隅っこで彩ちゃんとお別れしようと立ち止まる。私が急に立ち止まってそんなことを言うものだからか、彩ちゃんはぴょんと飛び跳ねてて勢いよくこちらに振り返った。

 

「え? 千聖ちゃんのお家もうちょっとこっちだよね? いつも学校から帰る時一緒の道のりなのに」

 

 彩ちゃんが疑問に思うのも無理はない。私は敢えていつも自分の帰宅コースから逸れて帰ろうとしているし、何だったら今ここで疑問符を浮かべる彩ちゃんの目を掻い潜って逃げようとすらしている。彩ちゃんならきっと適当に醸成された文句を並べてたら騙されてしまうだよう、なんて舐めきっているから。

 私は確認のような意味合いを込めて、私の逃げようとする道の先を振り返る。間違いなく、普段の帰宅の道から考えればおかしい方角なのだが、果たして彩ちゃんは気がつくのか。

 

「えぇ。ちょっと寄るところがあるから、今日はそっちに寄ってから帰ろうとしていたから」

 

「そっか……。……私も付いていっちゃダメ?」

 

「ダメ」

 

「そんなぁ……」

 

 餌をお預けされた犬よりも犬っぽい可愛らしさでしょげる彩ちゃん。目に見えて落ち込むものだから、そんなに私の寄り道先が気になるのか、なんて不思議に思いつつも、私の手はどういうわけか彩ちゃんの頭を撫で回していた。

 彩ちゃんの髪はしっかりと手入れされていて、日頃口煩く言っているお手入れにはちゃんと励んでいるらしい。麻弥ちゃんもこれぐらい身嗜みに気を遣ってほしいなんて思ったけれど、身の振り方が不適切な私にこれ以上厳しく言う資格もないかと自嘲した。

 

「また今度一緒に寄り道しましょう? ね?」

 

「……ほんとっ?! うんっ」

 

 私の言葉に太陽のような明るさを取り戻した彩ちゃんは大きく手を振って、いつもの帰り道への帰っていく。私はそんな彩ちゃんに小さく手を振り返して、歩き始めた。

 彩ちゃんはもしかしたら()()()に憧れているだけなのかもしれない。こんなこと紗夜ちゃんが聞いたら頭ごなしに怒られてしまいそうだが、私が今からしようとしていることはもっと怒られるかもしれない、なんて。()()()という、規律に縛られすぎた人間には甘美に感じる響きに、正体不明の憧れを抱いている、それが彩ちゃんの実のところかもしれない。

 私はそんな()()()をしようとしている立場だが、その立場から言うと、()()()なんてするものではない。ならば何故するのか? それは分からない。何故か、ついしたくなってしまう、不思議な魅力があるのだ。

 既に歩いて揺れる影は不規則になっている。街並みも静かに1日を終える準備に入っていて、それは街を行き交う人々の顔にも現れている。私は何度も非行に走りたがる彩ちゃんに尾けられていないかなどと言う杞憂に駆られながら、とあるマンションの一部屋に辿り着く。

 勿論だけど、知り合いの家だ。けれど、白鷺千聖の友人であるということは殆ど知られていない陰の人の家である。私が呼び出し鈴を鳴らすと、少ししてドアがサッと開いた。

 

「いらっしゃい。入って」

 

 私は言葉や挨拶を交わすことなくすぐさま隠れるように扉の中に飛び込む。仮にも私は白鷺千聖の建前を背負って生きている。自らの能力を振り翳す権力者たちに無用な邪推を働かせられるのは不愉快だ。

 

「……ふぅ。暑いわね」

 

「これまたご丁寧に帽子にマフラーって……。逆に目立たない?」

 

「目立ったとしても、それが私だと悟られなければただの不審者で済むから」

 

 我ながら暴論だと思う。誤解して欲しくはないが、不審者になりたいわけではない。この時間になっても10℃を越えているこの時期に、そんな格好をして歩き回る人が不審者に見えるかどうかは疑問だけれど、万が一不審者に見えたらそれが白鷺千聖だと悟られなければいい。そういうことだ。

 私は重たくて仕方がない外套と身につけていたものを粗方壁際に鞄と一緒に投げ捨てる。とにかく体が軽かった。

 

「はぁ。毎度申し訳程度の変装なんて嫌になるわね」

 

「まぁ……表に生きる人間の運命だと思って諦めるしかないんじゃない?」

 

 表に顔が出ない人間は楽で良いな、なんて心の中で悪態をつこうとしたけど、私はそれを極めて遠回しである物理的な力に昇華しながら彼の胸に飛び込んだ。別に包み隠さず愚痴を吐き捨てても良かったのだが、そうするよりはこうした方がマシなのかもしれないと思って。

 

「……千聖、痛い」

 

「えぇ。痛くしているから、当然ね」

 

「文句を挟む余地もないんだね……」

 

 仮面を被り続けるツケはこんなところにまで回ってくる。彼の柔らかい体を押し潰しそうになるんじゃないかというぐらい力を込めて腕を回していた。しかし、彼が潰れるよりも先に私の腕の力の方が先に限界を迎えて、力の抜けた腕がぷらんと垂れ下がった。私は我儘にも体を彼に委ねながら、彼の顔を見たくて少しだけ顔の向きを上にあげた。

 

「満足した?」

 

「まだ」

 

「僕も原稿仕上げなきゃいけないんだけど」

 

「いつまでが納期なの?」

 

「納期は来週までだけど、先方のタレントさんがとっとと見せろって煩くて」

 

 彼の言うタレントが誰のことかは知らないが、そのタレントも齢18かそこらの物書きに自筆エッセイと偽って詞藻を書かせているとあってか、ふんぞり返っているのだろう。酷く気分が悪くて鬱々しくなる。

 

「そんな依頼断っちゃえば良いのに」

 

「そう言うわけにも行かないよ……。業界で生きていこうと思ったら、信用が大事だからね。その辺りは千聖もわかるでしょ?」

 

「そうだけれど……」

 

 でも、そのタレントはあくまでも彼のことをクライアントなどではなく、安い金で都合よく働くガキ、程度にしか思っていないのだろう。そんな低脳と見下す相手に書かせた文章でテレビの前で大きな面をするのもいただけないが、仮にも彼の傍にいる私としては彼がそんな労働を強いられていることの方がよっぽど重要であった。

 

「そんなタレントのエッセイに時間をとられるぐらいなら、私が将来出す本にでも寄稿してくれないかしら」

 

「出す予定もないのにそんなこと考えたって仕方ないじゃん……。というか、千聖はちゃんと自分で書いてね」

 

 そこは知己の特権だ、なんて言おうかと思ったが、それを言ってしまえば、私が散々軽蔑してきたそのタレントとやらと同列に堕ちてしまいそうで、私は仮面を逆さにつけた。

 

「なら、私が主演を取れそうな演劇の台本だとか」

 

「流石にそんなテレビドラマとか公演の題材にされるような脚本を書くのはまだ無理だよ……」

 

 手元に持っていた紙の束をペラペラとめくる彼。謙遜こそしているが、既にある舞台の脚本を共同で執筆していると言うのだからその潜在能力は計り知れない。私はあくまで舞台の上で踊るだけだから詳しくはわからないけれど、私もいつか彼の書く物語を演じきってみたいと願っているから、まだ訪れないいつかに期待した。

 私の無茶振りを呆れながらいなした彼は神妙な面持ちのままカーテンの奥の街並みを見ていた。既に真っ黒なガラス面には外を映すこともなく、部屋の中の殺風景な模様を反射していた。そこには必要最低限なもの以外は何もなく、部屋の中に突っ立っている私と彼だけが登場人物かの如く存在感を放っている。

 

「というか、僕も、薫が演劇部で何かやりたい劇があるって言われて、この間書いたばっかりだから、暫く演劇の脚本はいいかな」

 

「……薫の」

 

 それは私にとってどこか負けたみたいで、さっきのタレントが意気揚々と本を語るよりも腹立たしかった。薫に書くぐらいなら、私のために書きなさいなどという理不尽で我儘な、不器用な私の精一杯の甘えである。

 

「どんな話を書いたの?」

 

「なんだったかな……。確か亡国の姫が敵国の王子と駆け落ちしながら王家滅亡の復讐をするみたいな、そんな話だったかな」

 

「へぇ……」

 

「儚い話だったよ」

 

「……はぁ」

 

 脳のどこかで幼馴染が気取ったキザな表情と甘い声で観客を魅了しようとする光景が浮かんだ。あぁ本当に腹立たしい。ああいう風にならなかったら私は決して薫のことを冷たい目線で見ないのに、と本人にはどうあがいても伝わらない思いを一人で吐き捨てた。

 全く、あんな変な薫に黄色い声援を送り続けるファンの子達の考えがまるで分からない。それは女子校特有の男への憧れのようなものからくるものなのか、それとも薫自身の魅力に酔っているだけなのか、どちらなのか分からない。でも、少なくとも私からすればあれは仮面を被っている自分に酷似しているからこそ、嫌悪感が湧く以外の何物でもなかった。謂わばそれは同族嫌悪で、情けないと言われればそこまでのものだった。

 

「ごめんてば、薫のモノマネして」

 

「やっぱりモノマネだったのね」

 

「揶揄ったつもりだよ」

 

「もう帰るわ」

 

「どうぞ、ご勝手に」

 

「……止めなさいよ」

 

「自分で帰るって言ったんじゃん」

 

 そこは空気を読んでどれほど無様に慌ててでも帰ろうとする私を止めるところだろう。こいつはあんなに劇の脚本も、純文学も書いておきながら、こんなにも簡単な女子の気持ちすらわからないのか。別に私は仮面をつけているわけでも何でもないのに。今の私の気持ちはきっと一般的な女の子のそれとそこまで変わらないはずだろう。

 

「帰らないの?」

 

「帰って欲しいの?」

 

「帰らないで欲しいけど」

 

「じゃあ止めなさいよ」

 

「それはヤダ」

 

「天邪鬼ね」

 

 こんな三文芝居より安っぽい文章なんて書いてたら、仕事がなくなるわよなんて揶揄い返したら、彼は余計なお世話だと拗ねたまんまベッドの方へ仰向けに倒れ込んでしまった。大きなベッドのバウンドする音と一緒に、その衝撃に巻き込まれた彼の右手に掴まれていた紙束が音を立てて折れる。きっと彼の仕事道具のようなものだろうに、なんて心配するけど、彼は気にする様子もない。これじゃあ私の方がお熱で馬鹿みたいではないか。

 

「はあー。こんなこと書いたフリしてテレビに出て、何が楽しいんだろうね」

 

「そう思うのなら尚の事仕事を断れば良いのよ。仕事なんて最悪私があげるわよ?」

 

「出版社とかにもっとコネクション持ってから、そういうのは言って欲しいかな。……で、なんで乗っかってんの?」

 

 彼曰く、私程度の芸歴ではまだまだ本を書くには浅いと言う事らしい。それを言うなら彼だって本を執筆するにはまだまだ若いと言い返したいが、生憎彼は実力でそんなバイアスに負けた反論を捻じ伏せてしまうものだから何も言い返せずにいた。それがどうにも悔しくて、私は今彼を揶揄ってやろうと馬乗りになっているのである。

 

「なんでって、ベッドに寝転がったってことはそういうことじゃないのかしら?」

 

「違うよ? そういう……卑猥な話は今してないから」

 

「何も私は卑猥な話をしていたわけじゃないけれど?」

 

「……僕をハメたな」

 

 えぇ、とっても満足したわ、なんて口元に手を当てて微笑み返すと、彼の機嫌はあからさまに悪くなる。似たもの同士なのかもしれないが、その辺りは小さい頃から関わりがあり、似た境遇に生きているせいで性格そのものが凝り固まってしまったものらしい。

 本当に難儀な性格をしている。競争の世界に生きるからこそ周囲よりも自分が優れていると思い込むことと目標にひた走ることが同一視されてしまうから。これから私たちが旅立とうとする大人の世界は少なからずこういう陋習が蔓延っているだろうから、それを年端も行かないうちから経験し続けてきたのは人生におけるマシだったポイントの一つかもしれない。

 

「……ねぇ、重い」

 

「あのね……仮にもアイドル以前に女の子よ? そんな残酷な言葉軽々しく使わないでくれるかしら?」

 

「はしたないやつに女を語られたくない」

 

「それは女が淑やかじゃなきゃいけないという固定観念じゃないかしら?」

 

「煩い。僕の流儀だ」

 

「しょうもない流儀ね」

 

「文句を言われる筋合いはないよ?」

 

「文句じゃないわ。要らない流儀だと言っているだけよ?」

 

 彼は朴念仁というか、悟りを開いた聖人君子に等しいからか、どこまでもバカである。こんな奴が今日世の中に遍く隠れ住んでいる文章たちの産みの親だとは、神様もエラーを起こすことがあるらしい。

 

「貴方の女は淑女だから。仮面を外せば、はしたなくなるだけで、表向きは貞淑よ?」

 

「……今は?」

 

「私の顔のどこに仮面がついているのかしら?」

 

「性格がひん曲がってるのが丸見えってことは、取り繕ってないらしいね」

 

「一言余計よ。性格がひん曲がっているのはどっちかしら?」

 

 性格がひん曲がっている、なんて、こいつと薫にだけは死んでも言われたくない。ひん曲がっている自覚など十分すぎるほど持ち合わせているので、敢えて指摘されたくはない。指摘もされたくないし、それを再三注意されるようなのであれば、私の素顔がそんなひん曲がった人間であるということを認めざるを得なくなる。そんな気持ちにも気がつかずに、或いは気がついた上で指摘してくるこいつはよっぽどのバカかよっぽどのクズだ。

 

「貴方は生粋のバカかしら? それとも掛け値なしのクズ?」

 

「バカ」

 

「バカに文章は書けないわ」

 

「僕をクズと言いたいの?」

 

「いえ?」

 

「クズだよ」

 

「ど畜生ね」

 

 嘘だ。多分だけれどこんな誰が見てもバカだと感じるやり取りを彼の腹にのしかかりながら延々と続ける私の方がよっぽどど畜生だろう。

 

「……まぁ、バカかクズかで聞かれたら。……憶病者かな」

 

「2択にその他で答える貴方はバカだから安心しなさい」

 

 大体こんな喜劇のようなシュールな場面で、本当に辛辣な表情を突然に浮かべながら吐露をされてもこちらが困る。まるで散々罵っていたのが本当に彼の心を打ち砕いたみたいで、おふざけが完全に度を過ぎたみたいじゃないか。しかも、それを裏付けるように彼は私の冷静なツッコミにも何の反応も返すことなく屍が如く表情一つ動かさずに考え込んでいる。このやり取りにそんなに真剣に悩み抜くことがあるだろうか。

 

「……ねぇねぇ」

 

「どうしたの?」

 

「もうちょっとだけ、こっち」

 

 彼が広げた腕に、私は吸い寄せられるように前へとにじりよる。さっきこそ股上ぐらいにのしかかっていたわけだが、臍のあたりにまで前に出る。何が目的かと聞こうとした瞬間、彼の力強い腕が私の背中にまで回されて、私の上体は彼の方へと倒れ込んだ。急に私の視界は彼の顔で一杯になる。

 

「……もう。腰を痛めたらどうするつもりかしら」

 

「……体調管理のできない女優は女優失格だよ」

 

「貴方に女優を語られるとはね」

 

「紛いなりにも舞台には関わってるからね。白鷺千聖とも関わってるんだよ」

 

「でも今の私は、白鷺千聖じゃないとしたら?」

 

「腰を痛めたいの?」

 

「それだと私がマゾヒストみたいじゃない」

 

「違ったの?」

 

「……さぁ。どうかしら?」

 

 挑発の文句を彼の耳元で浴びせかける。出来る限り妖艶に。それこそ彼が発情して仕舞えばいいとまで思っている。そもそもそれまでに散々私は耳に彼からの口撃を痛いほどに食らっているわけだから多少の横暴は許されるだろう。この状況になった原因については私のせいだということもまぁ少しは認めるが、大半が彼のせいだから。いや、ここに()()()をしにきたのは私のせいか。

 

「痛いのが好きなの?」

 

「いいえ、嫌いよ?」

 

「痛みや苦しみは物語を面白くするスパイスだよ」

 

「じゃあ貴方はそんな面白みのために私を苦しめるのかしら?」

 

「……それは、本意じゃないな」

 

 私が白鷺千聖という物語を描くためのスパイスはもう散々降りかかっているだろう。そもそも芸能界に入った時点で私の苦しみは始まっているし、パスパレのライブで失敗した時なんかは瓶を丸ごと注ぎ込んだ程度には苦しかった。既に本来の味が消されてしまう程度には私は香辛料まみれなのである。

 

「今千聖は苦しいの?」

 

「……さぁ。どうなのかしら」

 

「僕は苦しい」

 

「息が?」

 

「ううん、気持ちが」

 

 私は一心不乱にその麗しい唇に吸い付いた。女の私よりもその花脣は魅力的なのは一体全体どういうことか。その疑問をぶつけるかの如く荒々しく私は息を奪い続ける。狂おしいほどの黒と白の入り混じる奔流をさらにかき混ぜる。

 

「……はぁ。大変ね、今度は私が苦しくなったわ」

 

「そりゃ大変だ」

 

「思っていないでしょう」

 

「何が苦しいか分からないもん」

 

「……今は苦しくないけれど、この家に来るまでは苦しかったわ」

 

「じゃあこの家に居ればいい」

 

「そういうわけにもいかないの」

 

 私は名残惜しく唇を押し当てる。雪が直ぐには溶けないように、私の唇はそう簡単には捕えた獲物を離さない。でも、都心は雪がとうに溶けてしまった。私の()()()もいい加減締めなければいけない。でもやっぱり未練がましいものだから、最後に甘い蜜を吸い込んだ。辛さと甘さが混じって、また本来の味が分からなくなっていく。

 

「……そろそろ帰るわね」

 

「うん。あ、待って」

 

「え?」

 

 さっきまで放心状態だった彼は、私の声にサッと起き上がると、うちよりも遥かに小さい冷蔵庫を開けて、何かの箱を取り出した。掌から相当はみ出してしまうほどのサイズの白地の箱には何も絵柄だとかが書かれていない。彼はその箱を袋に入れ、申し訳程度の保冷剤を詰め込んで私に手渡した。私はそんな彼の温かい手に思わずクラッとさせられながらも、顔を上げた。

 

「誕生日でしょ? おめでとう、千聖」

 

「……えぇ。ありがとう」

 

 つけなければいけない仮面が増えるからと、どうにも喜びづらかった誕生日。私はやっぱり仮面をつけねばならなかった。彼の瞳の奥の温もりに触れると、それは熱すぎて鉄をも溶かす高温になりそうだった。

 

「お店で買ってきたやつだけど、なるべく早く食べてね」

 

「えぇ。帰ったら直ぐ食べるわね」

 

 本当ならば今ここで食べて帰ってしまいたいぐらいだが、そんなことをすれば私は多分朝をここで迎えることになる。それは()()()をしたいお年頃の私には酷く魅力的であるし、なんの柵もなければ喜んでそうするのだろうが、如何せん私は仮面を被らねばならない。さっきまで散々外して気楽に過ごしていたのだから、今度はまた仮面を被るべき時なのだ。

 

「じゃあね。帰り道気をつけて」

 

「ええ、心配しなくても大丈夫よ」

 

「……送って行こうか?」

 

「貴方が家まで着いてきたら、今度は貴方が1人で帰るでしょう? だからダメ」

 

「……優しいんだね」

 

 いいや、優しくなんてないって否定しようとしたら、口元に人差し指を当てられる。まだ熱を持っていたその指に驚いた私は彼の目を真っ直ぐには見れなくなった。これなら折角外すまいと早々とここを出ようとした私の努力も水の泡ではないか。そんな恨言、彼にはぶつけたくはなかった。

 

「……えぇ。特別なのよ」

 

「はは、そうだと嬉しいな。……おやすみ」

 

「えぇ、おやすみなさい」

 

 扉がバタンと閉じて、私は駆け足で建物を出る。帽子を深くかぶりながら。勿論この()()()のケーキは傾けることなく。

 私のその日の()()()は満足いくものだった。だってきっと、彼ならば、私の予定通りに行かない人生を私の代わりに書いてくれそうだから。私は彼の書いてくれた脚本の通りに舞台の上で振る舞うだけで、私は大喝采の拍手を彼に返して、その作品を華々しくするだけだから。

 脚本は彼でヒロインは私。そうだ、ヒロインがいるならその相手がいるだろう。ヒロインが私なのであれば、私の王子様は彼以外考えられない。え、薫? それだけはちょっと……ね。薫は亡国の姫の王子様辺りが丁度いい。亡国って辺りが儚いから。

 兎に角、そんな人生が送りたいと思う私は、まだまだうら若き恋する乙女なのかもしれない。

 今日も私は仮面をつける。いつか外すシーンを待ち侘びて。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【美竹 蘭】いつも通りから連れ出して

 あたしにとってのいつも通り。それはモカがいて、ひまりがいて、巴がいて、つぐみがいる。それがあたしにとってずっと欲しかったいつも通りで、それが得られないからこそあたしはいつも通りじゃないことに反発を繰り返していた。

 

「蘭。バンドもいいが、もう少し華道のことも……、今日だって」

 

「ライブ近いから」

 

 そんなあたしのいつも通りの中には、華道はそれほど含まれていなかった。全くなかったわけではない。バンドの曲を書くときに花をモチーフにすることは大いにあるし、花を生けることをやめたわけでもない。父さんとの関係だって、ある程度は改善したはずだ。ライブの度に差し入れしに来るのは恥ずかしいしやめて欲しいけど。

 それでも、華道はあたしのいつも通りの多くを占めるには至らない。それはあたしの足掻きのようなものかもしれない。Afterglowの助けになることもあれば、柵にもなる華道は、そういう意味でふわふわとしていた。

 家に帰ってきたばかりで、あたしのことを嗜める父さんをそこそこに流して、あたしは自室に飛び込む。別に心の底から嫌悪しているとかそういうのではなく、ただ煩わしいだけなのだと言い聞かせながら、あたしは迫るライブのことに想いを馳せようとした。

 

「……作品のテーマも、決めなきゃ」

 

 だが、あたしがどれほどいつも通りからそれらを排除しようとも、あたしの意思とは無関係に作品展の時期はやってくるし、華道の周囲の人間はあたしをAfterglowの美竹蘭ではなく、美竹流の正統な継承者たる美竹蘭として見てくるものだから、溜まったものではない。

 本当に煩わしい。夏場に無限に湧いて出る蚊よりも煩わしいかもしれない。同時に2つも複雑なことを考えるのがこんなにも大変だとは。バンドのことを考えて悩むのはAfterglowのみんなのことを考えることと同義だから苦ではないけど、作品展に出す生花の構想を考えるのは伝統に雁字搦めにされた頭をフル回転させなくてはいけなくて、只管にストレスなのだ。

 こうして部屋の中で1人で山積したタスクと改めて向き合うと、自分の生まれを少しだけ呪ってしまいたくなる。決して悪い文化とは言わないし、これを悪い文化と呼称したいとは微塵も思っていない。そんなことをすれば幼き頃からのあたしを否定することに繋がりかねない。ただ、美竹流という看板を外すだけでどれほど楽か。

 

「ちょっと良いか、蘭」

 

 あたしが目の前に降りかかった尽くを見つめてため息をついていると、突然自分の部屋にノックの音と父さんの声が聞こえてきた。普段父さんがあたしの部屋にまでわざわざ来ることなんてのはないものだから、相当に驚いたあたしは途端に現実に引き戻された。

 

「……何、父さん」

 

「今日は寄合と稽古があると言っていただろう。さっきは適当に流していたが……、忘れてないな?」

 

「……あ」

 

「やっぱり忘れていたのか……。今日の寄合は大事なものだから出席してもらうからな。6時半からだから、準備をしておけよ」

 

 どうやらあたしは近い未来の大きな出来事が気になりすぎて、目の前の予定すら意識の外に置いていたらしい。父さんに言われるまで本気で頭になかった。もしも今日巴とひまりがバイトじゃなかったら確実にみんなでどこかに行ってすっぽかしているところだった。ヒヤヒヤとしながら部屋の扉を閉める父さんを見送る。

 華道の集まり自体も、物凄く嫌いというわけではない。憂鬱にこそなるが、それは美竹流の名前を背負わざるを得ないことを嫌でも自覚するからであって、極論、自由に華道を極めることが出来るのならば、あたしは華道の道に進むというのも選択肢の一つとして認められるだろう。現実にはそうはいかないのだが。

 

「……着付けしてこなきゃ」

 

 あたしは迫った集まりに向けて、自室を後にした。

 

 

 

 あたしの家は、伝統的かつ典型的な日本家屋だ。それをどうにかこうにか悪く言えば、無駄に広い家、そう言えるだろう。家で父さんの弟子の人たちが稽古に励むこともあるし、今日みたいな集まりを家ですることだってある。あたしはそんな時、華道への厭悪感を覚えざるを得なかった。

 どこの誰とも知らぬ、高名な高齢男性。新進気鋭の華道家。多分この中にいる人はみな、それなりに名の通った人ばかりだから、父さんも物凄く真剣だし、そんな場に居合わせることができるあたしはある意味では幸せかもしれない。

 挨拶だけを済ませたあたしは最早その場に参加する意味合いも薄まって、早々と退席する。多分あとで父さんから多少なりとも嫌味を言われるかもしれないが、あたしには関係ないだろう。どうせこの後も稽古だなんだで駆り出されるならちょっとぐらい休息の時間を、と思って、集まりの部屋を抜け出して、離れの廊下へと逃げ出した。

 

「……あれ?」

 

 時刻は6時半を過ぎたばかりで、稽古場にお弟子さんたちが来る時間ではない。けれど、どういうわけか稽古場の襖が空いていて、中からは光が漏れている。気になったあたしはどうせ前の廊下を通るからと、少しだけ中を覗き込んだ。

 

「……あ、美竹さん」

 

「……早いですね」

 

 うちの流派に属する人たちは殆どが30代かそれ以上の年齢を重ねた人が多い。それがどういう経緯かは知らないが、どうも若い人は入りにくいらしく、それこそあたしが小さい頃稽古をしている時なんてのは、自分よりも一回りも二回りも歳上の人しかいなかったものだ。それこそ『蘭ちゃん』『蘭ちゃん』なんて可愛がられた覚えがある。

 だが、今部屋で粛々と剣山に刺された花茎と向き合う彼は、唯一と言って良い、あたしと年齢の近い会員であった。歳こそあたしの一つ上の彼は物腰も柔らかく、乱暴な言葉遣いはしない。それでいてどうやらあたしと似たような境遇を家長より押し付けられそうらしい。あたしとはある意味で似ていて、正反対だった。

 

「……どうも。稽古って、7時半からですよね」

 

「まぁ。……でも、ちょっと、早く着いてしまったものだから、ね」

 

 この時間にはいたということは下手をすればあたしが着付けをしている時にはとうに生け始めていたのかもしれない。彼はトレーに乗った花々を様々な角度から見つめながら、優柔不断を体現するように慎重に花を選ぼうとしている。このペースで生けようとしているということは、多分だけれど、相当の時間が経っているだろう。

 

「……あっ、邪魔したら悪いから、失礼しますね」

 

「え? 気にならないから良いんだよ。何だったらむしろ居てくれた方が」

 

 どうせ稽古の時間は変わらないからと立ち去ろうとしたのだが、引き止められてしまった。あたしがこの部屋に居たところで、別に人様に教えられるほど自分が優れているとはとても思わないし、本当に言葉の通り邪魔をするだけなのだが。

 

「あたしがいて、良いんですか?」

 

「話し相手が欲しくて」

 

「話してたら進まないじゃん……」

 

 話してなくてもこのスピードなのに。この人は何を間抜けなことを言っているんだ、なんて仮にも歳上相手だけれど、心の中で少し呆れていた。

 

「話していると、作品に邪念が混じるからね」

 

「……余計にダメなんじゃ」

 

「いやいや。むしろ……1人でしていても、先生の真似にしかならない」

 

「父さんの……ね……」

 

 流派が決まっているということは、ある程度前例や流派の大事にしている概念を踏襲すれば良いから、真似ができる点では楽とも言える。だが、ただ前例を模倣し続けるだけではいけない。完全に模倣をし続けるだけでは他者の盗作に過ぎず、そこにさらに自分自身の感性を植え付けていかないといけない。盗作と模倣は全くの別物だ。

 流派に縛られると、模倣から独創性を加え続け、自らの作品を作り上げるところに難しさがある。あたしとて過去にも何度も我を作品に加えることで悩んだ。作品が独りよがりになってもいけないのだから、非常に難儀な世界だ。

 それを理解しているからこそ彼の言う言葉の意味はさっぱりである。邪念が混じり過ぎては、それはまるで意味をなさないから。

 

「自分の想いとか、考えとかを華で表現しようなどというのが、僕にはよくわからないものだから、雑念混じりの作品ぐらいの方が丁度いいんじゃないかって」

 

「……なんで華道の道に来たんですかそれ」

 

 そんな気持ちでこの道に来るのであれば、小さい頃から半ば無理やりにやらされているあたしとこのポジションを代わってほしいぐらいである。だが現実的にはそれは不可能だから、尚のことこういう適当な考えで来られるところに腹が立つ。

 

「……まぁ、強制された嗜み、というやつだね。僕はあくまで俳人なんだけど、ね」

 

 今までは、歳こそ近けれど、それほど込み入った話なんてのはしたことがなかったものだから、てっきりあたしは彼の親も華道関連の何かなのだろうと思っていた。でも、そういうわけではなくてあくまでも彼にとって華道は趣味の範疇とかでしかなくて、そういうことならば余計に立場を逆にしたいと思った。

 

「俳句、ですか」

 

「うん。楽しいよ」

 

 文字を扱うのであれば、あたしがAfterglowの歌詞か何かを書くのにも通じるような気がする。5・7・5なんて縛りがあるけど、文字数の縛りなんてのはあたしだって歌う時に問題になるから気にしたりはするし。

 

「生けるの休暇しようかな」

 

「やっぱりあたし邪魔してます?」

 

「いやいや、元から稽古の時間ではなかったから」

 

 本当に家に早く着いてしまっただけらしく、優柔不断で悩んでいた彼は意外にも早く今まさに刺そうとしていた花をトレーに戻した。

 

「生花漬けなのもね。俳句詠んでみる?」

 

「でもあたし、俳句とかやったことないんですけど」

 

「誰だって最初はそうだから。分からなかったら単に七五調に季節の風物詩を乗っけるだけでもいい。それこそ、お花とか、ね」

 

「……桜とか? あ、でも旧暦だと今は夏か」

 

 あたしは土壁の間に抜けた格子窓の奥に見える、葉桜になろうとしている桜の木の幹を見ながらそう呟いた。4月も半ばに差し掛かり始めて、都内の桜はほとんどが吹雪となって地に落ちてしまった。庭を彩っていたピンクはほとんどが色を落とした。

 

「んー。俳句でいう春は立春から立夏の前の日までだから、4月の桜は春の季語だよ。もう庭の桜はほとんど散っちゃったみたいだけどね」

 

「……じゃあ桜で1つ、詠んでみてくださいよ」

 

「えー。美竹さんが僕の代わりに生けてくれるなら」

 

「それならいいです」

 

 そこまでして彼の俳句を聞きたいわけではない。そもそも俳句を即興でポンと作るのと、あたしがここから一つの作品を生けるまでじゃ、時間の手間と暇が違いすぎるだろう。それはちょっと不公平だと思った。

 

「俳句ってのは、詠みたくなった時に詠めばいいからね。美竹さんだって、歌いたい時に歌うでしょ?」

 

「確かに……。って、え?」

 

「ん? どうかした?」

 

「……もしかして、あたしがバンドやってるの、知ってるんですか?」

 

「うん。ライブも行ったことあるよ? カッコよかった」

 

「え、ええぇぇっ?!」

 

 しまったと思った時にはもう遅い。あまりに衝撃を受けて思わず大きな声を出してしまう。ちょっと行ったところで父さんたちはまだ集まりで難しい顔をしているだろうから、予定を無視して集まりから抜け出しておいて、これは怒られると思ってあたしは焦った。

 

「ちょっ、あたし行くんで」

 

「僕を巻き込んどいて逃げるつもりなのか……。というか廊下から行ってもすぐ見つかるんじゃない?」

 

 廊下に逃げようとしたあたしの手を取ったのは、彼だった。

 

「え?」

 

「折角だし、このまま庭の方行こうか」

 

「わわっ」

 

 和装で歩くのは慣れてないわけではないけど、流石にあたしは足袋だから履物なしに外に出て行くなんて無謀なことはしたくなかった。けれど、彼は見かけによらず強引にあたしを庭先の方に連れ出す。

 

「ど、どこ行くんですか?」

 

「まぁ、とりあえずその場凌ぎでも隠れておけば、他の出席者もいる手前先生も無闇に探したり、口煩く言ったりしないだろうし、一旦隠れようか。歩ける?」

 

「は、はい」

 

 この部屋からすぐ出たところじゃ、部屋に入られた瞬間に見つかるし、とにかく暗くなり始めた庭の方に行こうか、なんて彼はあたしの手を未だに握りながら歩き始めた。

 

「……いたっ」

 

「そっか、足袋だもんね。……ちょっとだけ、ごめんね」

 

「え、わっ」

 

 暗くなって足元の見えていなかったあたしは気がつかずに尖った石を踏んだ。その声を聞いた彼はどういう了見だか知らないけど、あたしをまるで姫のようにそっと担ぎ上げてしまった。線の細いと思っていた彼にいきなり持ち上げられたことと、突然そんな現実離れした何かが起こった衝撃で、あたしの頭からは言葉が飛んだ。

 

「少しだけ我慢してね」

 

 そう言ったまま彼は庭の低木の近くまであたしを運ぶと、彼の羽織を脱いで草地に敷いた。

 

「気にせず座って良いよ」

 

 正直これを敷いたとて着物が汚れそうな感は否めないが、立っているわけにもいかなかったあたしは彼の不器用な好意に甘える。稽古場からは少し離れて、時間帯的に外も暗さを増してきたから、余程探しに来ない限りは見つからないだろう。

 

「……そこまでして逃げることなかったのに」

 

「ごめんね。目の前でそんな無謀な逃走するのを無視するのもって思ったら。流石に嫌だったよね」

 

「……別に。嫌なんて言ってない」

 

 確かに抱えて逃げる過程であたしの体に触れられたのは少し気恥ずかしいが、そんなに嫌だったわけではない。そもそも面倒ごとになるのを避けて逃げようとしたのはあたしだし。ここまで逆に逃げることになるとは思ってはいなかったが。

 わざわざ庭にまで逃げてきてしまったものだから、低木の影の草地の上に、着物姿で腰掛けているなんて、普段なら考えられない絵面ができている。しかも、足の裏は石を踏んだりしたせいで痛いし。こんなことなら諦めて集まりから逃げ出さずにずっとみんなの前で静座しておけばよかったかもしれない。

 

「……というかお花そのままにしてきちゃったや」

 

「……あ」

 

「ま、その時は先生に怒られよう」

 

「開き直ってるし……」

 

「逃げ出した時点で今更だよ」

 

「……そうだ。え、なんでAfterglowのこと知ってるんですか?」

 

 逃げ出した原因を辿っていけば、あたしがバンドをやっているなんてことを不意打ち的に言われて思わず叫んでしまったことにあった。あたしにとって華道の世界とバンドは完全に別れているから。作品のためのモチベーションになることはあっても、人付き合いや人間関係では決して交わらない。だからこそ驚いたのである。

 

「先生に美竹さんと仲良くなりたいって相談されてね。ならもう差し入れだけじゃなくてライブに兎に角通い詰めたらいいんじゃないですかってアドバイスしたんだけど、そうしたら僕もって誘われてね」

 

「……父さん」

 

 そうか、あの親バカ気味の父さんの差金か。バンドを続けることに理解を示してくれるのは有難いけど、毎度毎度ライブに来るのは恥ずかしいからそれはそれで辞めて欲しいとは思っていた。というか父さんがライブに通い詰めるようになった原因の一端にはこいつも絡んでいるのか。さっきまでは最低限の歳上への敬意のようなものを持っていたが、そう考えた瞬間、そんなものを持っていた自分がアホらしくなった。

 

「僕はいいと思うよ。自由で」

 

「……まぁ、父さんに何か言われることは減りましたけど」

 

「ちょっとだけ羨ましいな」

 

「え?」

 

「いいや、独り言みたいなものだよ」

 

 暗がりでもその顔の向きはどこか遠くを見つめて物思いに耽っていることはよく分かった。そういえば彼だって、ある意味ではあたしと同じ被害者のようなもので。プライベートにはこれまでそんな踏み入ることなんてなかったから親近感を抱くことなんてなかったけど、なんだか彼の気持ちのほんの一部が分かるような気がした。

 

「……親が俳人とか?」

 

「まぁ、そんなところだね。俳句は華道みたいに流派って概念はないけど、それでも親がその道を志してると親は無意識のうちに自分の子どもにもその道を歩ませようとしてくるんだよ」

 

 そう言われると改めて自分の境遇のありがたみがとてもよく分かった。父さんは美竹流という代々受け継がれてきた華道の一つの系譜をあたしに継がせることも考えているはずだ。その中でバンドを続けることに少なからず理解を示し、応援までしてくれる父さんは、彼の家に比べればずっとマシかもしれない。上には上がいるし、下には下がいるとは分かっていても、どうしても自分が可愛く見えるから、悲観的に酔い、無意識に反発しようとしているのだ、多分。

 

「Afterglowとして活動する美竹さんのことは、先生から聞いたことしか知らないけど、そんな華道だけじゃない美竹さんがあるというのは、僕はとても良いことだと思うよ」

 

「華道だけじゃない……、Afterglowとしてのあたし?」

 

「なんて言っても、僕は欣羨の文句を吐き続けてるだけだから、何も格好つかないけど、ね」

 

 そう呟いた彼は、障子の和紙越しに光が透過している離れを見つめていた。そこはあたしにとって美竹流の継承者たらしめるあたしを形作ってきた場所で、謂わばあたしはそこでこの看板を背負い続けているのだ。今こうやって、自分が看板を背負わざるを得ない部屋から抜け出して、それでいてその華道の源泉たる自然に逃げ込んで、あたしにはいつも通りが分からなくなってしまった。

 

「……俳句は、やめたいんですか?」

 

「いいや? そんなことをしたら僕からは何もなくなっちゃうよ」

 

 乾いた笑いはあたしにも通じるところがあって、僅かに身震いした。あたしがその看板を投げ捨てれば、いや、あたしから華道を完全に取り去れば、Afterglowに生きるあたしはあたし本来の、いつも通りのあたしになれるのだろうか。

 

「僕だって、惰性で俳句を続けてるわけじゃないからね」

 

「あ、そうだったんですか?」

 

 話を聞いている限りじゃ、あたしみたいに押しつけられた風流を究めることに反感を持っているものだとばかり思っていたから、その一言はあたしの心に深く突き刺さった。あたしの華道のいつも通りは惰性になっていやしないか。そう聞かれて仕舞えば、あたしはまず間違いなく言葉を濁す。

 

「でも自由になりたいんじゃ」

 

「自由にはなりたいよ。でも、その代償に俳句を捨てるぐらいなら、自由は要らない」

 

「……意味がわかんないです」

 

 さっきから話がチグハグすぎる。強制された嗜みに嫌気を差している、みたいなことを言い出すかと思えば、今度は自由になれない嗜みは不可欠だと言うのだ。もしかすると彼はその場その場で適当なことを言っているだけなのかもしれない、そんな風にすら思えた。

 

「僕は俳句で自由が阻害されるとは思っていないからね。美竹さんは、華道があるから自由を感じないのかい?」

 

「……わかんないです」

 

「花を生けることは嫌いかい?」

 

「……別に」

 

「なんで、美竹さんは華道が嫌なんだい?」

 

「……嫌なんて、一言も」

 

 耳元で浮遊する虫たちよりも煩わしかった。彼に何がわかるというのか。例え似たような境遇とはいえ、あたしはバンドもやってるし、華道だって真剣にやっている。それをどうして部外者に散々に言われたりできようか。

 

「まぁ美竹さんの口からは聞いてなくとも、先生からは色々と聞いているからね」

 

「父さんのせい、か……」

 

「華道に向き合うって言うけど、反発してばかりだ、なんてのはよく聞くね」

 

「……あたしは、その」

 

 上手く言葉が纏まらない。どうして華道を嫌に感じてしまう時があるのか。それはAfterglowのみんなといつも通りが送れないからなのか? いや、華道があったとしてもいつも通りは送れているし、Afterglowにだってあたしの花は生きている。だとすれば、華道の何が嫌なのか。それは。

 

「あたしが……美竹、蘭だから」

 

 突き詰めて言ってしまえば、そこに帰着する。あたしが邪魔に感じてしまうのも、あたしにはその看板を背負う自信も、勇気もないから。いつも通りという言葉で日々を覆いながら、華道をあたしの日常生活の一部に昇華させたいと思いながらも、あたしの未来にある、その看板を背負わない可能性を捨てないようにしていた。父さんがどうしても継いでくれと言うようなら、あたしはその名前を受け継ぐ選択を取るかもしれない。けれど、そこでその選択を取らない可能性を残しておきたいのだ。

 今まではそれをずっと心のうちに留めて、誰の目にも触れないようにしていた。だからこんな風に誰かに打ち明けることなんて、考えてはいなかった。思わず口に出してしまったことを後悔したけれど、時既に遅し、抑圧していたからこそ、我慢が出来なかった。

 

「あたしは、……父さんの娘、いや。美竹先生の継承者って見られるのが、ずっと、辛かった……。小さい時はAfterglowのみんなと一緒に居る時間が減るってだけで華道を毛嫌いもしてたけど、今は、美竹の名前を背負うのが、怖い……」

 

 あたしは定まってしまうかもしれない未来が怖かったのだ。いつも通りを大切にしながらも、いつも通りでは居られないということをAfterglowで知ったからこそ、逃げ場がなくなることが怖かった。華道はあたしのそれ以外の部分を縛るから嫌いなのではなくて、あたしの中の華道の部分そのものを縛ってしまうから、嫌気が差してしまっているのだ。

 

「美竹流……ね」

 

 あたしは華道が嫌いではなかった。じゃあ今はなぜ華道と向き合えないのか。それはAfterglowのみんなとのいつも通りに囚われているからではなくて、華道の内実と向き合えていないのだ。

 

「美竹さんにとって、花って何かな?」

 

「……え?」

 

「花。なんでもいい、それこそ君の名前である、蘭の花でもいい」

 

「あたしにとって花は……。生花で使ったりとか、歌のテーマにしたりとか」

 

「うんうん。僕も花を詠むこともあるし、そんなところかな」

 

「……それが何か?」

 

「花と言われて思い浮かべた花は色んなものがあったんじゃないかな」

 

「それは、まぁ」

 

 ただ漠然と、花、としか言われていないのだから。当たり前だと言ってやりたい。勿論彼があたしの名前を持ち出したからこそ、胡蝶蘭なんかの蘭を思い浮かべはしたけど。

 

「僕は先生が、……美竹さんのお父さんやお母さんが何を考えて、美竹さんの名前をつけたかは聞いたことがないし、推測でしかないけどね。ランというのはものすごい種類がある。どれくらいか知ってる?」

 

「まぁ、……知らないですけど」

 

「僕も詳しくは知らないんだけどね」

 

 揶揄っているのかと睨みつけようとしたけど、あたしの奥に広がっているどこか遠い空を仰ぎながら言葉を紡ぐ彼の表情を見たら、言葉を発することはできなかった。

 

「世界中にランは自生してる。だから種類なんて数えてられない」

 

「……何が言いたいんですか?」

 

「一口にランと言っても、一つには定まらないんだよ」

 

「……うん」

 

「華道でも、作品によって使う花の種類も、刺す場所も向きも違う。一つには縛られない」

 

 生ける花が一本違えば見た目からして一変する。向きも然り、位置も然り。

 

「そんな傾向の一つを美竹流って呼ぶだけで、他だって素晴らしい作品だ。そうでしょ?」

 

「そう、かも」

 

「先生の指し示す道に縛られすぎないで良いんだよ。それこそ君はバンドという道にだって踏み出そうとしたじゃないか。……なんて、僕が言っても説得力はないけどね」

 

 振り放け見る彼の瞳には何が映っているのか、それは分からない。けれど、彼の飄々とした優しさがあたしに微笑んでいた。誰かにそっと手を引いて欲しかったんだ。

 

「……ううん。ありがとう」

 

「どうしても美竹流を継がなきゃならないなら、僕が継いであげよっか?」

 

「……ぷっ。まだまだあたしの足元にも及ばないのに?」

 

「これは一本取られた」

 

 あたしの胸にのしかかっていた重りを急に外されたように、あたしの肺は新鮮な空気を吸い込んだ。

 何かから解き放たれた感覚がした。それまでずっと、華道の世界にいるあたしは美竹蘭であって美竹蘭ではなかった。散々反発しておきながらも、あたしの全てをまるで否定してしまいそうで怖くて反発出来なかったのだ。けれど、どんなあたしだって、あたしだ。自分の好きなように、花を生けるのだ。

 

「さて、帰って先生に怒られようかな」

 

「あたしも怒られに行きますけど」

 

「娘さんを傷物にしてごめんなさいって」

 

「やっぱり1人で怒られてきてください」

 

 ずっと心の端で流れ出さぬように溜まっていた涙の筋は、暗くなり終えた春の空の下で乾いていった。表情には自然と笑顔が綻んでいた。移り変わらぬものなどない。いつも通りはいつも通りとは限らない。一瞬だけ心の隅に湧いた仄かな香りも移り変わるものだと思っておこう。

 あたしは光の揺蕩う花園へ、一歩足を踏み出した。一つ大人になった気がした。

 蘭が咲くのが待ち遠しい。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【宇田川 巴】頼りたい『今』

 またやってしまった、という何度となく繰り返した後悔の念が込み上げる。Afterglowという、幼馴染で結成した5人組ロックバンド。そこだけ聞けば、その仲はとても良いものだと多くの人が想像するだろう。その予測は大枠で捉えれば当たっているし、一面的に見ると実は外れている。

 例えばアタシと蘭。アタシと蘭はある意味では似ている。似ているからこそアタシと蘭はしょっちゅう喧嘩をする。それは幼馴染としての暦が相当長くなった今でも変わらない。そんなわけだから今日も変わらずに喧嘩をして、その後悔を一人帰り道、延々と考え続けているのだ。

 

『蘭! 一人で考え込まずにもっと周りを見ろよ! アタシたち幼馴染なんだろ?』

 

『……巴に言われたくない。巴こそちゃんとあたしたちのこと考えてよね』

 

『なんだと……?』

 

 今日のそれだって、きっと取り立てて論うものではなかったかもしれない。蘭が曲作りで一人で悩んでいるところが居た堪れず、声をかけたのが始まりだった。自分でもどこから棘のある言い方をしてしまったのかが分からない。気がつけばヒートアップして、日頃思っている不満やちょっと気になったことを全て口に出そうとしてしまう。

 蘭もアタシも自重したりしないから、周りが止める暇もなくこうやって衝突を繰り返すのだ。それは分かっているのだ。つぐみやひまりが口論を止めに入ろうとしてくれるのは分かるのだが、それで不完全燃焼になるのがお互いもっと嫌で、こうして後悔と反省を後に繰り返す程度には気持ちをぶつけてしまう。

 

「はぁー。明日、会うよなぁ」

 

 幼馴染で同じ学校に通う以上は平日会うということはどうあがいても逃げられない。あこの手前、姉貴であるアタシが学校をサボるなんてもってのほかだ。とすれば、明日学校で会って、素直になって謝って、それで改善すればいいだけの話。だが、それが出来るようなら最初からそんな口論にはなっていない。元々思うところがあったが故に蘭に口酸っぱく言ってしまったわけだから。

 では蘭に思うところがあったとすれば、それはどこの部分かと問われると、詰まるところ蘭が何でも一人で抱え込もうとするところなのだ。それ自体は改善こそ促すべきであれど、執拗に叩くべき部分とまではいかないとは思っている。だが、困ってるいるところを頼られないというのは、Afterglowの一人であるアタシにとって耐え難い事実だった。

 春を迎えて、日が暮れるのがだんだん遅くなってきたとはいえ、練習が終わったこの時間と同じくらいともなれば辺りはかなり暗さを増していた。早く帰って落ち着いた場所で考えたいアタシは足早に近所の公園の前を通り過ぎようとした。その時だった。

 

「あれ、巴?」

 

「え?」

 

 公園の方からアタシをピンポイントで呼ぶ声が聞こえて、キョトンとしたアタシは徐に声のした方を振り返った。そこに居たのはAfterglowとは別のもう一人の幼馴染、とは言いつつも性別はアタシとは真反対で、関わりこそ薄くなっていたのだが。そんな見知った顔に声をかけられたアタシはどうもフワフワした感じを拭いきれずに足を止めた。

 

「今から帰りか?」

 

「あ? あー。……まぁそんなところだよ」

 

「なんか訳ありって顔だな」

 

 そう言うと、アタシの許可を得るでもなく隣に並び立つ。普段会う人はアタシより身長が低い人ばかりなせいか、隣に立った幼馴染がやけに高く見えた。

 

「一緒に帰ろうぜ。久しぶりに、な」

 

 男勝りなアタシが思わず自分を見失うほどにカッコいい幼馴染がそこに居た。放心状態と現実の狭間をゆらゆらと漂っていたアタシの意識は、置いていかれそうになった足音で目覚める。慌ててその足音に追いつこうと、自分の足に発破をかけた。

 

「困っているとしたら、Afterglowのことか?」

 

「おっ……。よく分かったな……」

 

「こういうのは相場が決まってるんだよ。あと、経験則、顔を見りゃ分かる」

 

「……そんなにアタシ分かりやすい顔してたか?」

 

「蘭か誰かと喧嘩して落ち込んでんだ、って顔してるぞ」

 

 幼馴染の四人といる時も等身大のアタシでいると思っていたのだが、今この瞬間にいるアタシも、等身大のアタシだった。喧嘩した相手のことまでお見通しみたいで、ここまで正確だと、コイツが言うみたく、アタシがどこまでも馬鹿正直な反応をしているのか、生でこの喧嘩の瞬間を目撃したかの2択にすら絞れそうである。でも、後者だとしたらこいつはそんな待ち伏せみたいなことをするような回りくどい方法は取らないはずで、とするとやっぱりアタシの反応が分かりやすいらしい。

 

「喧嘩の相手が蘭っていうのは……そう」

 

「だろうな。いつも通りじゃん」

 

 アタシたちの求めているいつも通りってのはそんな殺伐としたいつも通りではないのだが、それが日常風景の中のワンシーンとして定着してしまっていることに危機感を覚える。これ以上それでイメージが固定化されてしまったら、立て直せる未来が見えない。アタシたちが生きたい未来はそんなんじゃない。

 

「喧嘩したいわけじゃないんだよ」

 

「ふーん。で、何について喧嘩したんだ?」

 

 一見興味のなさそうな反応をする割には、こうして話にも付き合ってくれるし、内容にまで踏み込んでくれる。関係のないことでも親身になって相談に乗ってくれる幼馴染がいるだけでアタシは恵まれているんだなと肌身で感じた。

 

「喧嘩の内容は……。今度作る曲のことで蘭は悩んでたからさ。その話を聞いて、アタシは励まそうとしただけなんだよ」

 

「ふんふん。励まそうとした、ねぇ。で、何て言ったんだよ?」

 

「えーと、確か」

 

 アタシは春風に揺れる赤に邪魔をされながら、学校で起きた、たった数時間前の悔いるべき過去を思い返した。

 

 

 

 その日の授業も全て終わったチャイムの音が鳴っていた。大して重要なことは話さないHRがものの数分で終わり、放課後をどう過ごそうかと考えあぐねていたアタシ。今日はつぐが生徒会の仕事で居ない……、もといHRが終わった瞬間日菜先輩が教室に突入してきて誘拐していったのだが、そのせいでAfterglowも練習はない。バイトだってないということは、思えば予定という予定はないに等しかった。

 教室をぐるりと見渡したアタシは机の周りで駄弁るひまりと日向で昼寝を続けるモカの姿こそ見たが、蘭が居ないことに気がついた。そして、蘭なら帰り道誘うなりしてくれそうだから、恐らく蘭はまだ学校から帰ったわけじゃないんだ、なんて推論を立てたのだ。

 

『ひまりー。帰りどうするんだ?』

 

『え? あれぇ、蘭は?』

 

『居ないんだよなぁ』

 

 一通り談笑を終えたらしいひまりも蘭と会話を交わしたわけではないらしく、当然すやすやと眠りについていたモカも見ていないだろうから、まぁいいか、なんてその時のアタシは軽く考えていた。

 

『そっかぁ。とりあえず帰る?』

 

『だな。モカは……お、起きてきた』

 

『おはよー』

 

 寝ぼけ眼を擦るモカ。アタシの席からじゃモカの姿は見えていなかったが、多分この分じゃHRも惰眠を貪っていたに違いない。それはそれでモカの平常運転だが、流石のモカも寝ていては蘭の動向を知るよしもなかった。

 

『モカちゃんはねー。蘭を探そうかなー』

 

『おっ、そうか? ならアタシたちも探しに行くか』

 

『うーん蘭ならどこにいるかな……って待ってよー! とーもーえー!』

 

 なんだかんだ言って伊達に幼馴染を続けているわけではないアタシたちにとって、蘭の行き先なんて大体見当がつくのであるが、今日も今日とて屋上のドアを開けた先に、蘭はいた。けど、蘭ならあの日と同じ夕焼けを見ていると思っていたのに、蘭は既に青が混じりつつある空の方、殆どが校舎の影になって暗がりになった中庭を見下ろす位置に座っていた。

 

『らーんー。珍しいねー』

 

『……モカ。巴、ひまり。……どうしたの?』

 

『どうしたのも何も、蘭が何も言わずに教室を出て行くから探しに来たんだろ?』

 

『……あぁ。ごめん』

 

 そんなに謝るようなことでもないだろうに、部活動に動き始める生徒たちを見下ろしながら、蘭はその表情に影を落とした。蘭は確かに口数が多い方ではないのだが、それでも全くの無口というわけではない。そのことを考えると、蘭の表情や仕草は何かを隠しているような、後ろめたいものがあるような態度に感じられたのだ。中庭の桜が殆どその華やかな姿を消していた。

 

『何かあったのか?』

 

『別に……。歌詞考えようとしてただけだから』

 

『おー。蘭が音楽にお熱でモカちゃんは嬉しいよー』

 

『うるさい……。茶化さないでってば』

 

 モカの脱力の軽口にも少々蘭の当たりが強いように見える。歌詞を考えるということならば、まぁそれなりに行き詰まっていたりだとか、そんな感じなのかと思って、アタシはもっと詳しく話を聞こうとした。

 

『何か悩んでるのか、蘭』

 

『そういうわけじゃない』

 

『ほんと? 蘭ってば、顔ちょっと暗いよ?』

 

『……夕焼けの陰になってるからじゃない』

 

 蘭の言う通り、蘭の視線の先にはアタシたちの縦に長い影が伸びて、角っこで折れているのだが、ひまりの言うような暗さはそんな物理的な暗さではないように見える。

 

『モカちゃんは放っておいた方がいい感じかなー?』

 

 モカが間延びした声で蘭の方を僅かに覗き込むと、蘭はその顔を見返すこともなく小さく首を縦に振った。

 

『あー。山吹ベーカリーのタイムセールが始まっちゃうー』

 

『え、モカ?』

 

『スタンプカードの期限が今日までなんだよ〜。急げぇー』

 

 太陽の光を横から強烈に浴びているのにまだ眠たそうなモカは踵を返して、屋上のドアの鈍い音を残して帰って行ってしまった。あまりに突然、モカがすんなりと身を引いたことに困惑をしつつも、残されたアタシとひまりは何を言うでもなく突っ立っているだけだった。

 

『巴とひまりは。どうするの?』

 

『どうするのって……。アタシたちが居たら邪魔なのか?』

 

 蘭は持っていた紙とペンを膝の間の床面に置いた。紙には何やら黒で塗りつぶされた何かが何列も積み重なっていて、蘭の苦悩や、不調が垣間見えていた。

 

『……邪魔じゃないけど』

 

『アタシたちが手伝えることとかないか?』

 

『そ、そうだよ! 蘭だけじゃ無理でも私と巴で考えることとか!』

 

 アタシやひまりの言うことにもあまり肯定的な反応を見せない蘭は黙りこくったまんま何も言わない。恐らく本人としてもそこまで乗り気ではないのだろうが、かと言ってこのまま考え込む蘭を見放すという対応がアタシには出来なかった。

 

『そっか……。一人で考えたい時もあるよね』

 

『は、はぁ? ひまりもか?』

 

 ひまりは何かを口に出そうとしてそのたびに躊躇ったように口をつぐむ。アタシからすれば蘭が一人で悩んでいる時なんてのは知らんぷりできないような、そんな状態だった。

 

『その紙、相当悩んでそれだったんだろ? 考えたって答えが出ない時なんてあるんだし、ならアタシたちを頼れよ!』

 

『と、巴もその辺りで……』

 

 アタシとしては別に蘭を咎めるとか、そんな意図はなかったのに、隣でひまりはアタシを嗜めている。蘭は相変わらず俯いたまんまだし、そんな鬱々とした屋上の空気がアタシには耐えられなかった。

 

『蘭! 一人で考え込まずにもっと周りを見ろよ! アタシたち幼馴染なんだろ?』

 

『……巴に言われたくない。巴こそちゃんとあたしたちのこと考えてよね』

 

『なんだと……?』

 

 今まで口数少なめで、特に反論することもなかった蘭が漸く口を開いた。……そうかと思えば、途端に蘭の言葉尻は厳しいものだった。

 

『構わないでって言ってんの。考えたいから』

 

『はぁっ?!』

 

『ちょ! 巴っ!』

 

 吠えそうになったアタシの腕を無理やりひまりが思い切り引いてくる。本気の力を出せばその腕は振り払えそうなものだったが、流石にそこまで抵抗するのも気が進まず、アタシは蘭にぶつけようとしていた想いのほんの一欠片をひまりにぶつけた。

 

『何すんだよひまり!』

 

『いーいーかーらー! ごめんねっ蘭!』

 

 アタシはいつになく大きな声のひまりの勢いに押されるままに屋上を後にした。その後アタシはひまりと、どうしてあの状態の蘭を放っておこうとなんてするのかと文句の応酬を繰り広げたのだが、不完全燃焼なまんまアタシは家路につく他なかったのである。

 

 

 

「はぁー。なるほどな、そんなことが」

 

 隣を歩く二人のなす影が体の真下に小さく縮こまっていた。アタシはそんなところで足を止めるこいつの動きに困惑しながら立ち止まった。

 

「ま、そんな日々の1ページを聞いてたら家まで着いちゃったわけだけど」

 

「ほんとだ……早いな」

 

 アタシはどうやら相当長くことの次第とやらを語り尽くそうとしていたらしい。いつのまにか幼馴染のそいつの家に着いていて、玄関横の小窓から黄色い灯が透けていた。

 

「話聞いてくれてありがとうな。アタシは帰るよ」

 

「まぁ待てよ」

 

「え?」

 

 付き合ってくれたことに感謝しつつもこれ以上関係ないことに巻き込むのは忍びないと思ったアタシは踵を返そうとしたが、それを呼び止めたのは他でもない被害者の方だった。

 

「今のまま帰っても、気分悪いだろ? 上がれよ」

 

「え、あ、あぁ」

 

 どんな風の吹き回しだと思いつつもアタシは案内されるがままに上がる。幼馴染とはいえ、関わる頻度も相当に少なくなっていたアタシがこの家に来るのは実に年単位のことだった。それでも小さい頃からたまに遊びに来ていたこの家の外観も内装もそれほど変わってはいなかった。玄関を入ってすぐ、左手に階段があって2階に上がろうとして、数年前によく来ていたことをふと思い出した。

 

「誘っといて聞くの遅れたけど、時間遅いのとかは大丈夫か?」

 

「あー。あこはRoseliaの練習があるって言ってたし、帰り遅くなるだろうから、ちょっとならいいぞ」

 

 優しい色味の木のドアを開いて足を踏み入れる。ベージュの壁材の表面には、アタシたちのポスターがその存在を強く主張していた。Afterglowを始めてからは余計に関わりが薄くなっていたものだから、ちょっとだけ不思議な感覚になった。

 

「これ、アタシたちの……」

 

「ん? まぁ、幼馴染のバンドって言ったら、応援したりして当然だろ?」

 

 照れ臭くなるような言葉を吐きながら、そんな羞恥心を知らない幼馴染は豪快にベッドに座り込んだ。

 

「にしても、まーた喧嘩してんのか」

 

「だから喧嘩したくてしてるんじゃないんだよ」

 

「分かってるって」

 

 分かっているとは言われても、そんなにも呆れたような口調で言われて仕舞えば、アタシからするととてもじゃないが、何も分かってないなんて考えてしまうというものだ。アタシだって、蘭と言い合いになるのは、意見の衝突であって、蘭が嫌いでただ強い言葉をぶつけているわけではない。それだけは分かってほしかった。

 

「ひまりやモカは放っておいたのに、巴は蘭のこと放っておかなかったんだな」

 

「当たり前だろ? 悩んでる幼馴染をそのままにしておけるわけが」

 

 アタシに言わせれば、蘭があれほど作曲にも、作詞にも苦労しているのであれば、何かしら手助けをしようとしないのは薄情なのだ。アタシたちの音楽は、アタシたちの経験から形作られる。それこそ、究極的にはアタシたちが喧嘩したことですら歌にはなるのだから、そういった意味でもAfterglowにとって、悩んでいる幼馴染を放っておく意味なんてものはない。

 

「……へぇ。流石()()()ってところだな」

 

「お、おぉ。それ、褒めてるのか?」

 

『流石』なんて枕詞をつけているぐらいなのだから、褒めるつもりなのだろうが、その表現は褒められているのかそれともレッテル貼りされているだけなのか絶妙にわかりづらい。だが、仮にも褒められているだろうなんていうアタシの期待は意外な形で裏切られた。

 

「いや、褒めてない」

 

「褒めてないのかよ……」

 

「だって蘭は構うなって言ってたのに、無理に構いに行って一触即発の空気になったんだろ?」

 

「それは……そうだけど」

 

 第三者から見て、この状況を極めてアタシの責任として見るのならば、その言い方は正しかった。喩えアタシが善意で蘭の悩みに寄り添おうが、蘭が要らないと言っているのならば言葉の表面上はモカやひまりのように放っておくことが正しいように思えるから。けど、蘭はいつだって自分の中で悩みを抱える。誰かに鬱憤として、八つ当たりするんじゃなくて。華道の時もそうだった。そんな蘭を見てきて、アタシは蘭が腐心しているところを放っておけないと思っていたのだ。

 

「でも……。蘭がそう言ってたとしても、本当は誰かに助けて欲しいとか、そんなこと思ってるかもしれないだろ?」

 

「否定はできないけどなぁ」

 

 蘭が素直になりきれずに、ってそんな考えだって正しいはずだから、アタシは自信を持ってその信念を貫こうとしたのである。

 

「困ってる蘭を助けたいんだよ」

 

「本当にそれは、助けたい、なのか?」

 

「……へ?」

 

 だから、そんな質問をされたアタシはすっかり頭がこんがらがった。

 

「幼馴染同士だから助けたい。それはきっとモカやひまりもそうだったと思う」

 

「だろ?! なら……!」

 

「でも巴のそれは、助けたいじゃなくて、頼られたい、じゃないか?」

 

「……え?」

 

「どれだけ善意でも、突っ込みすぎちゃお節介にしかならないからな」

 

 お節介……。アタシが? 途端に視界が真っ暗になったような気がした。それまで蘭を放っておけないと言っていた自分の発言が、全てそんな独り善がりのお節介だとしたら?

 頼られたいという気持ちは、ある。蘭に限らずモカも、つぐみも、ひまりも、困っていたならアタシがそれを助けたい。その気持ちは、言い換えれば頼られたいという表現も出来て、アタシのそれはお節介だとでも言うのか。

 

「アタシは、お節介なのか?」

 

「モカがタイムセール云々で先に帰っても蘭は特に何も言わなかったんだろ? なら、もしかしたら蘭は本当に、言葉の通り一人で悩みたかったんじゃないか?」

 

「で、でも。蘭の持ってた紙の歌詞は何回も書いたり消したりで、くしゃくしゃになって……!」

 

 アタシが目撃した蘭の努力は確かなものだった。それほど自分で努力して、先の見えない努力を無限に続けるぐらいなら、頼れるものは頼った方が良い。もしも何かを頼るのであれば、幼馴染のアタシたちを頼ってほしい。アタシは必死にそんな思いだったことを何度も頭でも口でもなぞった。

 

「何も言わずに蘭が屋上で、ずっと歌詞で悩んでたんなら、蘭は一人でやり切りたかったのかもな。全部俺の推測でしかないけど、な」

 

「……そんな」

 

「……まぁ、そうだとしたら、感情が複雑に入り混じる部分だろうから、理解は難しいだろうけどな」

 

 蘭がどういう意図で手助けを頑なに拒んだかなんて確認のしようがないからな、とまるで全て分かったような口を叩く幼馴染を見て、アタシの視界はどういうわけだか滲んでいた。それは悔しさからなのか、将又悲しさからくるものなのか釈然としないが、アタシからすれば久方ぶりに流した涙だった。

 

「なんで……なんでお前に分かるんだよ」

 

「あ? いやいや、分かるなんて言ってないぞ。推測だからな?」

 

「そんなこと分かってるよ!!」

 

 蘭との口論で出したぐらいの大声。あの時は屋上の直上に広がる赤い空に吸い込まれるように声が消えていったけど、今この部屋では、壁で何度も何度もアタシの叫びが反響して、反響が耳に届くたびにアタシの心は揺れ続けた。

 

「なんでお前にわかって……アタシには分からないんだよ……!」

 

 アタシの方がこんな少し疎遠気味の幼馴染に比べれば、よっぽど蘭と長い時間を過ごしている。なのに、アタシは蘭と衝突してばかりで、アタシより関わりの薄いこいつは蘭の考えること一つ一つを、さもインタビューでもしたかのように解説してくる。それが堪らなく悔しくて、自分が情けなくて、アタシの目からは滝のように想いの結晶が流れ出ていた。

 

「……ずっと一緒にいれば、却って分かんないことだとか、気づかないこととかもあるんだよ」

 

 それを宥めすかすような柔らかい口調で、アタシの肩を2回、そっと叩いていた。

 

「長い時間を一緒に過ごせば過ごすほど、変化なんてものは気付きにくいもんだ」

 

 そんな言葉を聞いた時、ふと頭に思い浮かんだのはあこだった。これまでずっと『おねーちゃん』と、アタシを慕って背中を追いかけてきていたあこは、Roseliaに入り、ほんとに突然、ものすごく大きな背中を見せるまでになっていた。勿論今だってアタシのことを慕ってくれるのだが、あこも気づかぬうちに変わろうとしてるんだと感じざるを得ない時があった。とすると蘭だってそうだと言うのか。

 

「……蘭も、変わろうとしているって言うのか?」

 

「さぁな。かもしれないけど、それを確かめる術は、本人に聞くしかねーだろ?」

 

 蘭は、アタシの知らないところで少しずつ前を向うとしていた。思えば、お父さんとも向き合おうとして、バンドも、華道も、全力でやろうとしている蘭はアタシなんかより遥かに成長しようとしていた。いや、アタシの知らないところで、なんて発想がまず、アタシが成長せずこのままで居ようとしている願望を反映しているのかもしれない。だからさっき()()()なんて、言われ方したんだ。励ましではなく、皮肉、叱咤の言葉だったのだ。

 

「モカもひまりも、それを分かって。アタシは……踏み込みすぎたのか?」

 

「でも、面倒見の良さは巴の良いところでもあるから、気にしすぎんな」

 

「それじゃ、蘭が成長しようとしてるのを……」

 

 アタシは、ひょっとして寂しいのだろうか。陳腐に喩えるなら、親離れをする子供を見るような。そんな一抹の寂しさと、情けなさと、不安がアタシを支配しているように思えた。さっきからずっと止まりそうにない涙は、アタシの心の脆さを物語っていた。

 

「アタシは……アタシは……!」

 

「……巴」

 

 さっきまで座り込んでいたこいつは、ゆっくりと立ち上がった。そして。

 

「……蘭が成長しているなら、お前も、成長しなきゃ、な。巴」

 

「……へっ?」

 

 その時、アタシの髪をクシャクシャと力強く太い腕で、それでいて優しく撫で回された。アタシが他の誰かにすることはあっても、アタシがそんなことをされることはあまりなかったものだから、アタシは急に悲しさと恥ずかしさで感情がわからなくなって、咄嗟に変な声を上げてしまった。

 

「心配しなくても、巴が優しくて、人を大切に出来て、誠実なことは、俺が知ってるからな」

 

 さっきまで止まる未来の見えなかったアタシの涙は、ピタリと止まっていた。柄にもなく泣いていたものだから、可笑しいとか思われていないだろうか。そんなことに不安になりながらも、アタシは威勢を張るような強い言葉で文句を垂れる。

 

「やめろよ……」

 

「これされるの嫌いか?」

 

「……慣れないんだよ」

 

 いつものように声が出そうになくて、か細くて聞き取れないぐらい、掠れた声で呟いていた。

 

「アタシは……そんな優しくない。……放っておけないなんて言いながら、善意を無理やり押し付ける、お節介だ」

 

「そこまで言ってないけどな……。言っただろ? 幼馴染を助けたいっていう巴の気持ちは分かるって」

 

「確かに、言ってたけど」

 

 次の瞬間、アタシの体は安定を失って、抱き締められていた。久しく、感じたことのない体感に、涙腺が少しだけ緩んだ。

 

「俺だって、幼馴染を助けたいからな」

 

「あ……」

 

「俺の我儘だ。頼られたいっていう、お節介だよ」

 

 アタシは何も言い返すことなく、その抱擁に全体重を委ねていた。

 

「誰しも頼られたら嬉しい。頼りたい時もある。蘭にだってな。でも今じゃない。今はそっと遠くから見守っておくのも、優しさだ」

 

 優しさの形なんてものは、どうやら一つじゃないらしい。AfterglowがAfterglowであり続けるには、いつも通りで居続けるためには、ずっと傍に居なきゃいけないって、そうだとアタシは思い込んでいた。喧嘩こそすれど、また一緒にいなきゃって。

 それは正しいようで正しくない。Afterglowがこれから先もAfterglowでいるためには、いつも通りを大切にしながら、いつも通りじゃなくなることだって必要なのだ。アタシは今、いつも通りを捨てて、いつも通りを探しているのだ。

 

「本当に辛い時が誰にでもいつだって来る。その時は反吐が出るぐらい頼らせてやればいい。今みたいに……な」

 

「……うん」

 

 しおらしい姿なんてアタシの性に合わないかもしれないが、その姿を誤魔化すことは出来なかった。誰かに頼りたいとここまで強烈に思ったのは、初めてだった。アタシはずっと、頼られる立場だったから。商店街の人にも、あこにも、Afterglowのみんなにも。姉御肌なんて呼び名は、アタシを的確に表現しているが、それがもしも破られた時、アタシは何者になるのか、分からなかった。

 姉御肌でいたい。もっともっと頼れる姉御肌に。だからアタシはそのために、少しだけ()()()を休むのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【松原 花音】君の好きなクラゲになるから

 仄かに薄暗い館内。天井の開けた水槽から漏れる光と、非常口を示す緑のランプだけが私たちと周りを取り囲んでいる。周りが暗いことで、本来であれば海の中を悠々自適に流されているクラゲたちは姿を現したり、とも思えば消えたりを繰り返していた。時折、光の差し込む位置に入り込んだクラゲたちが水流に負けて、頼りなく揺れる姿に釘付けになる。けれど、そこまでクラゲに入れ込んでいるのは私だけで、親友である千聖ちゃんや、美咲ちゃんにも伝わらない。その鬱憤というか、切なさのようなものをぶつけるために、私は、何度もこの水槽の前に足を運んでいた。

 

「花音? そろそろ次のところ行かないのか?」

 

「……え?」

 

 クラゲを見たい、ただそれだけのために迷い癖のある私をここまで連れてきてくれた君だって、本当はクラゲは見飽きたなんて考えているのだろうか。少しだけ呆れの色が見え隠れする君の声にちくりと心が痛んで、少しだけ意地悪をして返すことにした。

 

「だから、次のところ行かないのか?」

 

「……うん。もうすこし」

 

 私の我儘でしかないそんなつまらない意地を張るのは、心底意地悪だということを知っている。きっと私がここに留まり続ける限り、君がどれほど潮に揺蕩うクラゲに見飽きようが、足が疲れようが、呆れながらでもそこにいてくれるから。それは獲物を捕らえたクラゲのような執着ですらあった。きっと君にはもうこの毒が全身にまわっていて、私を放っておくことなんて出来やしないだろう。

 ああ情けない。私のそんな姑息な毒でしかクラゲに気を引かせることは出来ない。結局は君の優しさに、君の見せるスキに漬け込んでいるだけで。だから、これは正真正銘の、私のいじっぱりだった。分かって貰えなくても構わない、そんな強情で、自暴自棄な考え方すら含んだ反抗の、つまらぬ意地であった。

 

「花音は本当にクラゲ大好きだなぁ……」

 

「えへへ……。それほどでも」

 

 褒めてないんだろうなぁ、なんて。誕生日のお祝いだからと言って無理を言って遠出をして、小一時間クラゲの水槽前から動かないのだから。君もきっと分かったのだろう。私がどれだけクラゲの揺らぎに惚れ込んでいるかを。

 さっきから熟年の夫婦らしき人たちや、若い大学生ぐらいのカップル、家族連れ。色んな人たちが私の横でその光の柱に気を取られては、ものの数分で私の背中を通り過ぎていき、この辺りはずっと静かだった。聞こえているのは私と君の息遣い。館内の放送も何も聞こえない、暗い暗い海の底のような静けさだけが、私の心を穏やかにさせていた。大好きなクラゲを眺めていると、心は落ち着かないという、普段のそれとは真逆の現象に私は困惑していた。

 

「……そろそろ飽きちゃった?」

 

「クラゲ?」

 

「うん」

 

「……うーん」

 

 私がその優しさに漬け込むぐらいだ。君は絶対に肯定しない。それが分かった上で敢えて悩ませようとしている。水槽の前に佇みながらも、時折足を前後に組み替えたり、チラチラと背中の方を気にしたり、展示の手前にある長々と解説されたプレートを穴が開くほど見つめていたり、君の集中力はそろそろ限界だろうか。

 

「見飽きたってほどじゃないけど」

 

「……ふふ。気を遣ってくれてありがとう。次行こう?」

 

 私は困った顔で目を逸らしたところを見逃さない。これ以上虐めすぎて嫌われちゃったらもっと困る。折角のお誕生日のご褒美が台無しだ。

 私の背中に広がっていた真っ暗な海の一部分を気にしていた君が可哀想だったから、私は彼の前に手を差し出した。それはエスコートの合図のようなもの。日頃オドオドとした私がそんな強いメッセージを送るのは似合わないだろうが、私はその気持ちを暗い暗い海の底に沈めて見えないようにしてから、精一杯取り繕って甘えるのである。

 

「行こうか」

 

「うんっ」

 

 暗い海の中に随分と長いこと居たはずなのに、どうして君の指の一本一本はそんなにも温かく私の体を捕まえるのだろうか。クラゲでさえ、触手は刺すだけなのに、君の触手は私を巻き込んで捕まえるようなほどだ。それは私の束縛のそれよりも物理的に強かった。

 私が抗議しようかなんて斜め上を見上げたけれど、私とは対照的で全くもって意識の欠片すら持っていないらしい。仕方がないかと思って、連れられるがままに次の展示のスペースへと向かう。

 水族館としては珍しく、順路なんかが設定されているわけではないらしくて、ショー用の水槽を中心として、建物は同心円状に広がっている。さっきのクラゲのコーナーは海の生き物のコーナーの終わりがけ、これから水族館の中央へと向かうってところの最後の最後にあったらしい。そんなわけで気持ちのはやる人たちが足早に通り過ぎていったのだ。仕方がないこととはいえ、クラゲがひどく可哀想だった。

 

「イルカショーは……。興味なさそうだな」

 

「……え? そんなことないよ?」

 

 私がキョロキョロと四方に広がる通路を見渡していると、案内板にどでかく描かれたイルカの跳ねる絵柄を指さしながら、君はそんなつれないことを言ってくる。きっと君からすれば私はクラゲだけの女の子なのかな。それは当たらずも遠からず、私が意地悪になるには十分すぎるぐらいの偏見だった。

 

「あと5分で開場だけど、観に行く?」

 

「……ふふっ。観に行きたいんでしょ?」

 

「え?」

 

「違ったの?」

 

「……いや」

 

「正直に言っていいよ?」

 

「……観たい」

 

 私より心の年齢はずっと上なのかな、なんて思っていたから、そんな反応をされると安心して、嬉しくなってしまう。そっかそっか、観たいよね。それにずっと立ち続けていたものだから、多分ショーを眺めながら小休止としたいのだろう。後者については私とて賛成だった。

 

「私がさっきまでずっと我儘言ってたもんね、もっと我儘言ってもいいんだよ?」

 

「花音の誕生日でしょ? 我儘を言ってもいいのは花音だよ」

 

 何も分かってない。私一人だけが我儘を貫き通すなんて、まるで私の方が子どもみたいではないか。歳を一つ重ねて、一つ大人になった儀式のようなものなのに、それじゃあ本末転倒だ。

 

「じゃあ、私もイルカショー観たいって、そう言ったら?」

 

「……イルカショー、一択だね」

 

「えへへ……」

 

 お互いに尊厳を傷つけないようにしながら、私たちは二人で顔を見合わせて笑った。丁度その時、開場の合図のアナウンスがなる。それまで鳴りを潜めていた周囲の沢山の来場者がざわめいた。途端に音を掻き消す足音の嵐。高い波。

 

「うぉっ、行こうって、ちょ、花音?!」

 

「ふぇ? ふぇぇぇ?! 押さないでぇぇ……!」

 

 この水族館の構造の致命的な欠点かもしれない。この通路は中央のステージに向かう通路なものだから、人気のあるショーならばこうやって嵐が来たように高い波に襲われる。こんな通路で避難もせずに突っ立っていた私も悪いのだが、なんとか流されないようにと逃げようとした私は押し出され、しかも彼は人の波に押し流されていってしまったではないか。

 声がかき消すぐらいの歓声で、波は繰り返して押し寄せていく。実質的な一方通行。私はなんとかその波の直線上から外れて、柱の影に寄った。アナウンスも聞こえないぐらいの人がまだまだ押し寄せてくる。自分たちが思った以上に規模の大きい水族館だったのか。そんな風に思うぐらいには人に溢れていた。きっとイルカショーなんてものだから、それを目当てに来た人も相当数いるはずで、私がさっきからずっと止まっていたクラゲなんかとは、その人気は比べ物にならないのだろう。

 

「……え、これって、私、迷子?」

 

 ふと周りが真っ暗になった気がして。まだ人の波があるけど、急に自分の心がざわついた気がした。今から追いかけても、そんな大量の人の中から、見つけ出す自信も、見つけ出してもらう自信もない。途方に暮れた私は、どうにか水族館に入る前の、懐かしい君の声を思い出す。

 そういえば、迷子になったら迷子センターか、インフォメーションセンターのようなところに行くって言ってたっけ。私専用のオペレーション。案内板の表示を見れば、矢印と共にインフォメーションセンターと、そのままのものが書いてあった。その矢印に従えば、迷子はなんとかなる、か。

 

「……え、でも」

 

 私がこれまでの人生で幾度となく迷子になるのを繰り返してきて、何を学んだのだろうか。あの案内板の表示は実は勘違いで、獲物を誘い込むために撒かれたエサではないか。そういえばああいうものを信じて、これまで私は迷子を積み重ねてきた。その場に留まるにしても、君が一旦ショーを抜け出して、私を迎えに来てくれるまでは随分と遠回りをしないといけないだろうし、時間もかかるだろう。

 

「とにかく、歩いてみよう、かな」

 

 妙なところで疑り深い私はポケットに入ったスマートフォンの振動にすら気がつかないまま、何故か心の惹かれた方角に歩き出していた。壁に描かれた矢印がずっと逆向きに書かれている。多分逆走がどうとか、そういうことをこの矢印は言いたいのかもしれないが、私の通りたい道だ。そんな指図はされたくない。一つ大人になったんだから、ちょっとぐらい我が道を突き進んでみてもいいだろう。

 私の我が道ってなんなんだろう。ふと、暗い館内を歩きながら考えた。私にとってのそれまでの日常は、学校とバンドと、あとはバイト先だとか、少しだけ離れた位置に君がいる。今は私の隣には居ないけど。さっきまで塞がっていた右手の指先が寂しかった。

 

「……あ」

 

 そうして私は、まるで伝書鳩の帰巣のようにここに帰ってきた。通路を横切る白い光の束の先には無機質な壁材が映っていて、その光を邪魔するものなどなにも居なかった。

 

「……ふふ。クラゲかぁ」

 

 思えば、こうやって館内を人の波に攫われながら流されて、フラフラと歩き回っている私はクラゲそのものかもしれない。クラゲの一部の種類は、実は泳いですらいないらしい。完全に潮の流れに流されるまま、抵抗もできないままに流されていく。二度と同じ場所には帰ってこれないぐらいかもしれない。微弱な水の動きでさえも敏感に、肌で感じることができた。

 

「クラゲかぁ。癒されるよね……」

 

 今はいない誰かに語りかけるように、いや、説得、無理矢理わからせるという意味では脅迫のように呟いた。私は別にフワフワと流される姿を見て癒されるなんて、そんな短絡回路みたいな話をしているわけではない。強いて言うならクラゲの生き方だとか、動き方だとか、そんな高尚な思考のプロセスを経て、結果として弾き出された答えが『癒し』なのである。だからこそ、『癒し』という言葉を聞くたびに自分をクラゲに重ね合わせていたし、『癒し』なんてない今でさえも、こうやって惨めな自分をクラゲに重ね合わせている。

 クラゲは水槽の中をクルクルと回る水の流れに身を任せたまんま、そこで生を受けている。時折、水槽を屈折する前の光の束に触れて、明るいところに顔を出すけど、その存在はこちら側の世界には何も像を残さない。光を透過してしまうから。それは、薫さんの言を借りれば、儚いもの、そのものであった。

 私だって、今は水の世界に溶け込んでいるから、そして況してや、人っ子一人と居ないのだから、なんだって曝け出せる。クラゲみたいに内臓を曝け出すのは無理だけど、ふと感じた一抹の寂しさを曝け出すぐらいは出来る。だだっ広い海の中を浮遊するクラゲのように、一人で不条理を嘆くことぐらいは出来る。

 クラゲは、私が自分を重ね合わせる対象であり、この世の不条理そのものだった。

 

「……クラゲになれたら。……ううん。クラゲみたいに生きられたら、私は幸せなのかな」

 

 それは、クラゲが何も考えずに流されるまま生きているだとか、そういう否定的な意味ではない。さっきから散々、クラゲが水流の中で生きる面を指摘しながらも、私はクラゲが極めて強かに生きていると思っている。フワフワと遊泳するように海中を漂うクラゲは、近づく外敵にはしっかりと触手で攻撃をしようとする。原始的な器官だけを有しながら生存のために多種多様な生存戦略を取る。自然に生きる生物は皆そうとは言ったものの、こんなにフワフワと癒されるクラゲが実は……というギャップこそが魅力なのである。

 ならば私はもっと強かにこの世界を生きていくべきか? 生きていけるのか? その疑問には、私は即答することは出来なかった。敢えて言えば、即答どころか、思考を放棄すらしてしまいたかった。強かになんてなれっこないって、そんな風に思っているから。

 暗い海の中でも、光差し込む海の中でも、どんなところにいても消えてしまうほどに陰の薄い存在となって、消えてしまいたくなった、そんな時だった。

 

「花音」

 

「……え?」

 

 誰も通らない、誰の足跡も聞こえない水の中に響いたのは、君の声だった。それまで食い入るように、水槽の分厚いガラスに掌をついて、海藻が奥の方で揺れているのを見つめているだけだったから、突然の外からの刺激に私の触手は震えていた。

 

「……ごめんっ、探してくれた……よね……」

 

「ん? いや、まぁ、言うほどだけど。メッセージ送ったの、気づいてなかった?」

 

「え?」

 

 私はそんな風に言われて、漸くポケットに入れていたスマートフォンの存在を思い出した。画面が指に反応して明るくなると、そこにはポップアップで君の頼れるメッセージが残されていた。

 

「……ごめん、気づかないで、クラゲのところ、きちゃった」

 

「……うん。おいで、花音」

 

 私は飛び込むように、その逞しい胸元に飛び込んだ。別段、寂しかったとか悲しかっただとか、怖かっただとか、そんな負の感情があったわけでもないのに、その瞬間私はそれまで自分が泣いていたことに気がついた。なんの躊躇もなく私は君の服にその雫の一つ一つを染み込ませていた。服が皺になるぐらい握りしめて、擦り付けるように涙を注ぎ込んだ。

 

「言われなくとも、花音がここに来るかなってのは、分かってたよ」

 

「……そうなの?」

 

 それなら何故入館前には迷子センターらしきところに行けだなんて、ややこしいことを言ったのだろうか。聞こうとしたけど、ここに居ればもうなんでもいっか、なんてそんな投げやりな気持ちになってしまった。

 

「返信が来ない時点で、きっと花音ならどこか行こうとするかなって」

 

「……そっかぁ」

 

「どこかに行こうとするなら、ここだろ?」

 

「うん」

 

 悔しいが、自分から迷子になろうとしておきながら、実は掌の上で踊っていただけらしい。それはまるで、人間の作る水流で無理やり流れるままに踊らされる水槽の中のクラゲのようで。畢竟、私は意図しないながらに、クラゲになっていた。決して強かには生きていないのだけど、それはクラゲだった。

 

「……あ、ごめんね。イルカショー、観たかったよね……」

 

「え? ……ううん。イルカショーは、良いんだよ」

 

「そんなの」

 

 自分も観たいなんて取り繕いながら結果として私はその思いを自分から無碍にした。散々君に優しさの雨を振りまいてもらっている身でありながら、なんと我儘なことだろうか。

 

「イルカショーを観てる間は、花音も足を休められるかなって思っただけだし。今日一日、いっぱい歩いて疲れてそうだったから」

 

「そっか。私は大丈夫だよ?」

 

「うん。それに、水が飛んできて風邪ひいても困るもんね」

 

 どうやらショーの会場の通路まで流された結果、最前列から少し奥の列まで、跳ねた水をモロに観客が食らったところを目撃したらしい。変なところでアクティブな君と私なら、間違いなく少しでも前の列って行こうとしてたから、きっと行かないで正解だった。

 

「……イルカも良いけど、花音と二人でクラゲを見てる方が……楽しい」

 

「……えへへ。今ならいっぱい、二人で独り占めできるよ?」

 

 背中を預けながら後ろを振り向くと、ちょうど上昇する水の流れに乗って、クラゲが天井付近の採光窓の方へと昇っていくところが見えた。こうしてみると、さっきまではただ流されてグルグルと回されるだけだったクラゲが、自発的に光の方へと昇っていっているようで、どこか奇妙だった。

 暫くそんな神秘的な光景にうっとりとしていたものだから、時間の流れを忘れてしまっていた。またもクラゲが下降水流に流されて、中央に鎮座していた岩のオブジェクトの裏に隠れて、漸く私は我に帰ったみたいに、君の方に振り向いていた。

 

「花音?」

 

「……今なら、二人きりだよ?」

 

「……花音」

 

 少しだけ身長差のある私たちは、接吻で小さな毒を伝えるときには、背伸びしたりしないといけない。疲れた脚と体で思い切り背伸びをして、刺しに行こうとするのは少しだけ苦痛なのに、私は淀まずに君の唇を奪いに行っていた。いや、私の唇が奪われたという方が適切なのかもしれないが、お互いがお互いに自らの毒を盛りに行っているのである。

 

「あんまり公共の場所じゃ、ね?」

 

「でも、暗くて見えないよ?」

 

 いや、きっと明るくたって見えていない。そんな暴論とも取れるような我儘をぶつけて、私は結局その毒を吸い出そうとしている。明るくても暗くても、それを見ようとするものがいないなら、そんなものは何ら関係がない。クラゲ同士の戯れなんてものは人間がちょっとやそっと見たところで分からないし、そんなに熱心に観察するような人間なんてのはもっと少数だ。

 

「……そろそろストップ」

 

「うん。もっと欲しくなるもんね」

 

 自ら毒を欲して生きていくような生物がこの地球上に居るのかと問われれば、いるのである。それは間違いなく断言できる。例え自らを蝕んで、おかしくなっていってしまう毒だとしても望んで受け入れようとする愚かな刺胞動物はいるのである。

 そもそも毒なんてものは相対的なものだ。人間が無茶苦茶に食べてもそんな問題のない玉ねぎだって、犬が食べたらそれは毒になる。あらゆる動物が摂取する水だって、飲み過ぎれば中毒症状が起きてしまう。その時の水はその動物にとって毒だ。

 周りの人間にとってみれば毒だとしても、それは私と、君と、この二人の間の中で止まれば、毒とはいえない。毒だけど、毒じゃない。私が君に刺してるこの触手も、私に巻きつく君の触手も、それは一つの戯れだから。

 

「じゃあ、もっとクラゲをみよう? 手は握ったままでも良いから」

 

「うん。私ぐらい水槽に近づいてみても良いんだよ?」

 

「花音はもう顔が水槽のガラスにくっついてるじゃん」

 

 呆れの籠った笑い方だが、嫌じゃなかった。それどころか、自分のことをそこまでちゃんと見ていてくれるのは、純粋に嬉しいのである。自分の身の振り方だとか、イメージの乖離だとかに悩んでいる私でも、ごくごく一般的というか、極めてありきたりな感性は持ち合わせている。

 手持ち無沙汰な君の左手が今度は私の真っ黒な髪を撫でていた。もっと明るい海に浮上できたら、綺麗なマリンブルーになるんだよって言っても、君はダークブルーでも良いんだよ、なんて私の求めている答えとは少しずれた言葉を返してくる。君はいつも、今だってそうだ。けど、今はその言葉の意味がよく分かるし、その冗長性が安心できた。

 

「クラゲって癒されるよね。そう思うでしょお?」

 

「うん……」

 

 君が『クラゲをみよう』って、『癒される』んだって、その言葉は本心からのものだろうか。知る由もないし、その真実を知ったって幸せかは分からない。けれど、千聖ちゃんたちが優しさで、私にクラゲとの触れ合いを恵んでくれるのだとか、そういった優しさを、私は君から貰いたいわけじゃない。

 君からのそんな優しさは求めていないから。それならばいっそ、分からないなら分からないで良い。それこそずっと、私の毒で君が生涯意識混濁としてしまえば、君はクラゲの魅力を勘違いしたままで居られるから。そうすれば、君が私のことを全て知っているということに出来るから。

 諦観にも似た私の独占欲は酷く歪んでいる。自然発生的ではありながら、凡そ親しい人に向けるべきではないようなそんな感情を、私はクラゲの可愛らしい姿に擬態させている。『癒し』という言葉は、あくまでも自分にとって都合が良いかどうかだけだった。

 

「花音は」

 

「……え?」

 

 私が視線を水の中に移して、傘を開いたり閉じたりを繰り返すクラゲたちに向けていた折、君の声が聞こえた。びっくりした私は振り返ると、私の肩にはいつの間にやら君の手が熱を伝えてくれていた。

 

「花音は、クラゲのどういうところが好きなの?」

 

「……え? 癒されるところ……とか?」

 

「具体的に」

 

 そんな風に深掘りされてしまっては、『癒し』という言葉に凝縮させて理解している私にはその問いを答えられない。その場の空気や雰囲気、自分のごくごく単純な感情に、色んなものに流されてしまいがちな自分の感情を、ただ単に私は波間に揺蕩うクラゲたちに重ねていただけだから。

 クラゲが立派なものだと考えて、クラゲの良いところを探して、クラゲの『癒し』を見出して、自分とクラゲの重なる部分を掻き出して。私の考えはそれだけだ。巷では『迷宮のジェリーフィッシュ』なんて言われて、迷子の姿をクラゲの惑う姿に重ねられているが、それは私のほんの一面でしかない。私がクラゲに重ねたいのはそんなところじゃない。むしろ自分の心の醜い部分を含めた、全てなんだ。

 

「どこが好きかと具体的に言われると……。あはは、あんまり考えたことなかったな……」

 

「俺は、花音と似ているところが好きだな」

 

「……私と?」

 

 その言葉はもしかすると、いや、間違いなくその日聞いた何よりも嬉しかったかもしれない。嬉しかったけど、その内実は途轍もなく表面的なものだったらどうしようか。そんなことを言われた暁には、話を適当に合わせられているだけだと君に失望しちゃうかもしれない。だから言わないでって言おうとした瞬間、君の口は言葉を紡ぎ始めた。

 

「クラゲって側から見れば考えなしに一体のクラゲがゆっくり泳いでいるだけだけど、実はみんな同じ流れに乗ろうとしてるんじゃないかなって」

 

「同じ……流れ?」

 

「群れをなすのは、自分から同じ流れに乗って移動しようとするから、周りのクラゲたちと一緒になってるんじゃないかって思ったんだよ」

 

 クラゲが集団を作るのは、ごく自然なことだと理解されているし、近年なら大量発生なんてのも話に聞く。詳しいメカニズムなんてのは知らないが、その群れをなすのが私と似ているなんてことらしい。

 

「花音は優しいから。きっと、こころちゃんだとか、周りの人たちに振り回されながらも、ついていこうって頑張ってるんだ」

 

「そんな……優しいわけじゃ」

 

 優しいどころか、今の私は醜いほどにその対極にいる。ついていこうとしているんじゃなくて、それこそその流れに身を任せて、謂わば周りの何かに流されているだけなのだ。

 

「ただ流れに乗るだけじゃなくて、花音は自分からその輪の中へと入っていこうとしてるところが、なんだか必死に生きるクラゲみたいに見えたんだよ」

 

「必死に生きるクラゲと、私なんかじゃ全然釣り合いは……」

 

 流されて生きるのと、必死に生きるのとでは雲泥の差だって言おうとしたけど、そんな私の弱々しい反論の前に、君の触手は私を貫いていた。

 

「ううん。花音は、あの輪の中で、とっても輝いて、透き通るぐらい綺麗に輝いているよ」

 

 そこに流されているだけの花音はいないから、と。君の優しい毒が私の全身に回った。

 私には自信なんてものがない。だから頑張っているつもりでもその自分を認められるわけではない。だから、癒されるクラゲといつのまにか自分を重ねて、『癒し』という価値を自分の頑張りに類するものとして認めていた。現に千聖ちゃんはずっとそんな私を肯定してくれている。だから、出来ることならクラゲの魅力に気がついて欲しかった。

 自分をクラゲと重ねて見ることを変える必要はないのだろう。そもそも変えられるかも分からない。これまでは、自分自身をクラゲと重ね、躊躇いを無視しつつ、余計な葛藤にいた。

 けど、君の言葉を聞いていると、なんだか自分をすっとクラゲとして受け止められる気がしたから。海の中で姿を消してばかりのクラゲである私を、しっかりと見てくれる人がそばにいるから。それなら私はクラゲでも構わないと、何の葛藤もなしに断言できた。

 願わくは、君も一緒にこの海で、私と一緒に泳いでくれないかな、なんて。散々刺胞で刺しておきながら、なんと都合が良い望みだろうか。

 

「ねぇ、花音」

 

「え? どうかした?」

 

「俺も、クラゲの魅力、分かった気がする」

 

「本当?」

 

「うん……」

 

 太陽光の差し込む光の束と暗い海。光と闇の入り混じる水の中で、私は君と抱き合っていた。クラゲに番なんてものがあるのか分からないけど、あるとすればそれは私たちだ。

 

「クラゲって泳げるらしいぞ」

 

「そっかぁ。……どこまで行けるのかな」

 

 流れに身を任せるでも良いじゃないか。ふと感じた。君と一緒にあの流れに乗れたなら、辿り着く先に君がいるから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【マスキング】あてのない旅

 まだ空は赤かった。一日の終わりを知るこの時間は妙なほどに気持ちが沈みがちで、それは時節柄、五月病なんて言われたりもする類のものらしい。環境の変化の心労だとか、この四月から感じたことがあったわけないのに、どうも自覚している以上に私は繊細な心を持ち合わせていた。豪放磊落な性格だと自負していただけに、変なところでセンチメンタルになる自分が奇妙だった。

 環境が変わったことの辛さだとかはそう感じない。RASに入り、簡単に扱えない狂犬と揶揄された私がバンドをするようになって、それは大きな変化だがそれにももう慣れたつもりだった。不満を持っているだとか、そういうわけではない。恙なく学校にも通っているし、ドラマーとしての活動もやっているし、だからこそ自分が抱えているモヤモヤとした感覚が何なのか、それだけが判然としなかった。

 赤らんだ空に見下されながら、私がうちの家のマンションの下、それこそ青果店の真ん前に着いたとき、後ろの方からエンジンを吹かせる音が聞こえてきたものだから、私は何事かと振り返った。

 

「よっ、ますき」

 

「……はぁ、びっくりさせんなよ」

 

 フルフェイスのヘルメットだったから、車体を見るまでそのライダーが誰とも分からず、こんなところで無駄な騒音を立てる馬鹿の所業かと思っていた。どうやらこいつのお目当ては私らしく、態々家に赴いてまで声をかけてきたぐらいなんだから、それなりに用があって来たということらしい。

 

「何の用だ?」

 

「いんや、天気がいいもんだからデートにでも誘おうかと思ったけど、ご機嫌斜めか?」

 

 機嫌は良いか悪いかの二択で問われればまず後者であるが、仮にも関係性を当てはめると『恋人』が一番しっくりくるような、況してや家まで来てくれた『親友』を邪険に扱うわけにもいかず、私はどっちつかずの返答をする。向こうとてそんな曖昧な返答に困ったような表情を見せたが、来た以上は何の用も済ませずに帰るのも不満らしい。

 

「……誘いにしても、こんな家の前で誘うなよな」

 

「まぁまぁ。電話かけたのに繋がらなかったもんだから」

 

「あれ……? ほんとだ、悪かったよ」

 

 カバンの中に放り込まれていた携帯電話にはしっかりと着信履歴まで残っている。あんまり文句をタラタラと並べるだけなのも可哀想だ、そんな風に思ったものだから、私はその()()()とやらの話に乗ることにした。

 

「で、どこか行くのか? この時間から」

 

 お世辞にも早いわけではない放課後の時間。既に世間一般では夕方から夜に差し掛かろうとしているような時間だ。

 

「ツーリングでもってな、だからバイクで来たんだけど」

 

「帰りはそんなに遅くできねーぞ? 明日も学校あるんだし」

 

「俺だって学校あるんだから早く帰れるようにするって」

 

 そういうことなら少しだけ待っていろと、邪魔な荷物を一度家に置いて、ライダージャケットを羽織り、また路地の方へと戻ってきた。私が帰ってくると、こいつはクルクルと人差し指で回していたキーをパシッと掴んだ。そして意味ありげな目線をこちらに向けたのだ。

 

「……なんだ?」

 

「おいおい、ますきは運転したいのか?」

 

「は、はぁ?」

 

 発言の意図が全くもって汲み取れず聞き返す。ツーリングと言い出したのはこいつだろうに、バイクを運転しないツーリングなんてものは一体全体どこにあるのか。

 

「ほらっ」

 

「わっ、ちょ」

 

 いきなりこちらに投げられたのは赤いラインが光を反射させるヘルメット。さっきこいつがバイクに乗ってここまで来た時に被っていたヘルメットとほぼ同じようなデザインだった。

 

「ほら、後ろ。乗れよ」

 

「……じゃあ、運転は任せるよ」

 

 ガレージの方に行こうとしていた私を止めたのは元から二人乗りするつもりだったかららしい。二人乗りなんてしたのはいつぶりか。殊に自分が後ろに乗ることなんて、これまででもそうそうなかったはずだ。

 バイクという乗り物自体、万が一事故を起こした場合には大怪我に繋がるし、命を落とすことすらある。それに加えて二人乗りなんてすれば、体重と重心の左右も変わり、バランスを取るのが難しくなる上に、ブレーキの効きだとかも悪くなる。だから二人乗りなんてのはそれなりに運転に慣れてからじゃないとできない。

 これまで、こいつとはツーリングを何回もしているが、それはあくまでも私も別のバイクを運転して、だった。いつものそれとは違う形のツーリングとやらは気がかりではあるが、普段の運転を見ている限りではこいつの運転技術は十分にあるだろう。ならば、まぁ任せてしまってもいいかと思い、ヘルメットを被り、顎紐を締めた。

 

「ちなみに、どこ行くんだ?」

 

「内緒だ内緒。隠された方が興奮するだろ?」

 

「興奮ってなんだよ……」

 

 謎理論を展開しながらも、こっちに来いと指をくいくいと動かして私を跨らせる。両太腿でしっかりとこいつの体を挟み込んで、腕もこいつの腰、腹へと回した。

 ジャケットを着込んでいるし、グローブも着けているから分かりづらいけど、それでもガッチリとした体つきなのが、腕を回せば容易に分かった。自分の体がそう華奢ではないと思っていた私だったが、改めて生まれながらの性別を自覚するような比較をすれば、そんな考えは願望混じりのものだったと気付かされた。

 

「じゃ、しっかり捕まっとけよ」

 

「分かってるって」

 

 そうして二人を乗せたバイクが私の家の前を後にする。当然のことだが、走り始めは住み慣れた街を走っているから、学校の帰りなんかに通り過ぎるコンビニや、何度も往来を重ねた交差点を通り過ぎていた。

 謂わばそんな変わり映えの景色を見ていたのだが、今日、今、ここから見る景色はなんだかいつもとは少し違って見えた。具体的にどう違うかと言えば言葉にするのは難しいし、どうしてもパッとわかる違う部分と言われれば、恋人兼親友の肩越しに見る標識や、スピードの割に風を感じないことだとか、そんな表面的、物理的な違いしか指摘することは出来なかった。

 

「あ、行く予定の場所は決まってるけど、何か要望とかあれば聞くぞ」

 

 信号待ちで他の車の横に停まった時、ふと前からそんな呟きが聞こえてきた。こちらを振り向いているわけではないが、話の内容からして私に向けられたものに違いない。そもそもこいつはどういうつもりで私をこのツーリングに連れ出しているかも私は知らない。デートなんてのはただの口実だろうから。

 

「要望も何も、私からバイク乗ろうって持ちかけたわけじゃないだろ」

 

「それでもノープランってことはないだろ? 行きたいところとかないのか? 遠くのラーメン屋とかでもいいぞ」

 

「……今はラーメンの気分じゃないな」

 

「珍しい。絶対ラーメン食いたいって言うと思ってたわ」

 

 ラーメン店で働いているからといって、万人が万人、ラーメンを常に食していたいわけではないだろう。現に私とてそういうわけではない。その辺りにまで思案が及ばない残念な思考回路じゃ、多分私のこのモヤモヤ感を払拭するには至らないだろうと嘆息をもらす。何かの切欠程度にしか考えていなかったから、元々期待はそれほどだったのだが。

 

「別に……ラーメン食べたいなら、ラーメンでも良いけどさ。晩飯まだなのか?」

 

「そりゃあ高貴なレディーをこんな時間から食事に誘おうってんだから、食べてないに決まってるだろ。それこそ高級ホテルのディナーとかでも良いと思ってた」

 

「さっきラーメン屋って言ってたやつがよく言うよ」

 

 ラーメン屋と高級ホテルのディナーは相容れない存在ではないのか。少なくとも私のバイト先なんかと高級ホテルという存在は無縁と言っても過言ではないし。

 チグハグな発言の節々からこいつの考えの浅はかさというか、飄々として私を翻弄するような無遠慮さへのイラつきをほんの僅かに振りかけて、駆動音の静かな前の軽自動車に向かって吐き出した。

 

「ならバイト先行くか?」

 

「絶対やだからな。というかお腹空いてないからな」

 

「そうか。じゃあもう寄り道なしでいっか」

 

 そうしてくれた方がありがたいよ、と。ぶっきらぼうな返事をして数秒、私はそれなりにこいつなりの優しさが入り混じった適当さを粗雑に扱ったことに後悔した。素直になりたかったわけではないが、適当さの中に隠れていた思いやりを無碍にしてしまったのは、心残りだった。

 

「あ、そうだ。あそこ、行きたいな」

 

「無理して捻り出さなくていいぞ」

 

「そういうのじゃなくて……」

 

「え? なんだって?」

 

「わっ。ちょ……」

 

 私たちの乗っていたバイクはトロトロと走っていた前の車を悠々と追い越した。急に加速したものだから、突然の浮遊感に吃驚して、五パーセントぐらいの抗議をこめながら思い切り腕に力を込めた。自分には足りない体格の良さだとかをまたも再認識させられた。

 

「……あっぶねぇ」

 

「で、別にいいからな」

 

「……いや。無理してるわけじゃないから」

 

「普通に走ってるから、行きたいところの前通り過ぎそうになったら言ってくれ」

 

「……あ、あぁ」

 

 お互いヘルメットだってしているし、そこそこのスピードで公道をバイクで走っているわけだから、表情だとかそんなものを確認することは出来ない。けれども、私は粗悪な歯車のような心の噛み合わなさをはっきりと感じて、ただただドライだった先程の自分の反応を悔いた。

 後悔をしたからといってツーリングが突然終わりを告げるなんてことはなく、それからは長い時間、僅かにジャケットの裾を揺らす風を感じるのみだった。別段話す話題もなければ、こいつも当然の如く運転に集中するだろうし、後悔を晴らすには私が何かしらの話題を持ちかける他なかった。

 けれどもそんな都合の良い話題もなく、風を切る音とバイクのエンジン音に耳を傾ける他なかった。これからの目的地を聞いてもはぐらかされるし、他の話題は何も思いつかない。いつもなら頭に浮かぶ下らない文句や軽口すらも今この時だけは臆病にも引っ込んでいた。

 

「なぁ、いつ着くんだよ?」

 

 辺りを見渡せば、家を出る前の赤い空はとうにどこかへと消えて、街並みもガラリと変わって、高い建物はほとんどが姿を消していた。辺りにある人工物で一番空に近く見えるのはシルエットすら潰れかけた送電塔という始末だった。

 まるで見たことのない街並み。さらには自然がすぐそこに隣接していて、強調するほど建造物が多いわけでもない。見当もつかない目的地にぽつりぽつりと不安が湧き始めてきた私は、幾度となく聞きそうになった質問をポンと投げかけた。

 

「そろそろ着くと思うぞ、俺も分かってないけど」

 

「大丈夫かよ……」

 

 目的地を知っているのはお前だけだろうとついつい文句を言いたくもなるが、きゅっと口を結ぶ。口は災いの元、後悔の元、二の舞にはなるまいと、そんな弱々しい決意を込めながら。

 

「ま、目的地決まってるだなんて、嘘だからな」

 

「……は?!」

 

 いやいやまさか。正直最初はこいつの心底下らなくて聞く価値もないようなジョークかなにかだと思った。だが、ヘルメット越しでも容易に聞き取れるような、分かりやすい笑い声。勿論派手なリアクションは事故を起こすから、そんな大きなものではない。けど、わざとらしいような不自然な笑い方は、適当な物言いの真実性をより高めていた。

 

「え、どこか行きたいところがあって私を連れてきたんじゃないのかよ?」

 

「何言ってんだ。俺は何も考えずにただ行きたい方向にバイクを走らせてただけだぞ」

 

「……はぁ?!」

 

 どれだけ信じがたくても、あまりに無謀なツーリングはどうやら暴走の域に達していたらしい。念のため、というか一縷の望みをかけて、今いるこの町の名前を尋ねたが、分かるわけがない、皆目見当もつかない、などと俄には信じ難い返答をされる。

 

「どうやって帰るんだよ、なぁ!」

 

「反対方向に走り続けたらいつか見知った街に着くって」

 

 そんな無茶苦茶な旅があってたまるか、なんていう反論は最早意味をなさない。だってこのツーリングの旅は未開の大海へと既に出航してしまっているものだから。そりゃあ国道に出て、太い幹線道路をずっと走り続けていればなんとか帰れるかもしれないが、どうしてこんな平日の夜にそんな冒険に出かけないといけなかったのか。

 

「まぁ帰れなかった時は帰れなかった時だし」

 

「あ、あのなぁ……」

 

 呆れて声も出ないが、こいつが唯一の足となっている以上は私に逆らう余地もない。こんなところで降ろされでもしたら私は愈々帰宅難民と化する。

 片方は山が迫り出し、道路のすぐ側は真っ暗だけれど、たまに光があたればはっきりと分かる。紛れもなく海である。空気を切って走る間に鼻腔をついたこの潮の匂いは、この道路が海沿いを走っていることを入念に教え込んでくれた。

 

「あてのない旅なんてのも良いものだろ」

 

「せめてそうならそうと出発前に言えよ……」

 

 そうしたら心の準備だとか、もっとちゃんと交通標識を見たりだとか、計画を持ってツーリングを進められた。サプライズだと思ってツーリングを楽しんでいたら、面倒ごとに突っ込むタイプのサプライズだったわけだ。

 

「……言っちゃったら、多分断ってただろ?」

 

「え?」

 

 前半はエンジン音で隠されて上手く聞こえなかったが、誘いを断る云々の話は聞こえてきたものだから改めて考える。私はあてのない旅に今から行こうと言われて、果たして着いていっていたのか。いや、きっと行っているはずだ。根拠はないが、多少無茶な計画だと思っても、流石に断るまでのことはないだろう、そんな風に思った。けど、私がいくら否定しようと、こいつは頑なに考えを曲げようとはしなかった。

 

「だから別に断りは……」

 

「いや、ますきは断ってたよ」

 

「……まぁ良いけども。それならそれで、あてのない旅に出た動機ぐらいは、そろそろ教えてくれても良いだろ?」

 

 サプライズのツーリングは、私の誕生日を祝うためだとか、そんな感じのサプライズを心の隅で期待していたわけだが、それでもなお、断ると想定していたはずなら私をこのあてのない旅に連れてきた理由がよく分からない。多少なりとも嫌がられる可能性を考慮に入れているなら、そもそも別の計画を立ててくれても良かったろう。

 卑しい態度も憚られるのでこれきりにするが、サプライズで祝ってもらえることならなんだって嬉しい。ツーリングに限らずだ。それは私の意見でしかないから、言わなきゃ伝わらないと言えばそうなのだが、それでも他の案の余地はあったはずだ。

 

「あてのない旅に連れてきたら、まぁ色々変わるかな、なんてだな」

 

「は、はぁ?」

 

「色々だよ、色々」

 

 核心的なことを何度聞いてもその度にはぐらかしてくる態度にはそろそろ限界を迎えそうだった。でも、別にこいつに怒りをぶつけたいわけでもないし、グッと堪えて、その真意を探る。

 

「お、ここら辺いいな。よし、降りるか」

 

「へ?」

 

 と、その瞬間にバイクは減速する。車も通りがかりこそすれど、都心の幹線道路ほどではない。この辺りで駐車できそうなスペースをざっと探した私たちはバイクを止め、久方ぶりの地上に足を伸ばした。長いこと座りっぱなしだったもんだからお尻も痛い。自分一人でバイクに乗っている時とは勝手が違い、自由に体勢を変えたり出来なかった分、却っていつもより体には負荷がかかっている気がする。

 

「よいしょと……。で、どこなんだここ……」

 

「さあなぁ。ナビアプリで大体の位置ぐらいは分かるだろ」

 

 海を望む道路をナビアプリで辿ってみる。どうやら無計画に運転を続けていたのは本当らしく、この辺りは別に景勝地だとか、観光の名所だとか、道の駅が近くにあるとかそういうことですらない。しかも明るい時間の航空写真を見れば現在地の状況は一目瞭然。本当に道路が山の緑と海の水色に挟まれて、道路自体の存在が希薄になっていた。屋根はポツンと疎らな点のようにしか見えないし、航空写真からですら人の気配がまるでなかった。

 

「さて、海岸にでも降りるか」

 

「こんな暗いのにか?」

 

「暗かろうと海は海だろ。折角海に来たっていうのに海岸まで行かずして帰るつもりなのか?」

 

 言っていることはその通りなのに、どうにもこうにも腹が立った。さっきまでも散々適当なことをペラペラと話していたのに、一段と腹が立ったのだ。

 

「じゃ、手を貸そう」

 

「良いって……」

 

 適当な割には実に紳士的な言い草で、そのギャップは最早私を煽り散らかしているようにしか思えない。けれど、五月の半ばなのに少しだけ肌寒さを感じさせる潮風の中では、その熱は私の狂犬としての心を宥めすかしていた。

 

「階段あるから気をつけろよ」

 

「言われなくても分かるって」

 

「てか暗すぎて海見えないな、笑うわ」

 

「だから言っただろ……」

 

 道路の上、風の中で聞いた笑い声に比べれば、その笑い声は愉快さがそのままなのに、暖かみのある笑い声へと変貌を遂げていた。それはまるで目新しいものを見つけて感心に浸るガキのように。

 

「砂浜まで来たんだからやることは一つだよな」

 

「あ? なんだ?」

 

「砂で城を作る」

 

「本当にガキなのか?」

 

「冗談だ、そんな目で見ないでくれ」

 

 暗闇の中でも白く映える笑顔を振り撒くそいつは、心から穢れのない純粋なガキに見えた。いつからか私がどこかに落としてきたような純朴さを波打ち際に残していた。

 結局握ったまんまの私の手を一切離さないまま、波が寄せてくるギリギリの、湿っていない砂の上までやってくる。しゃがむと随分と細かい砂粒だと分かる。これは座れないな、なんて思った瞬間、こいつは何の躊躇いもなく自らの着ていたジャケットを脱いで、砂が舞うんじゃないかってぐらいに潔く浜の上に敷いた。

 

「さ、座れよ」

 

「汚れるぞ?」

 

「ケツが汚れるよりマシだ」

 

「寒くないのか」

 

「俺は心が冷たいから体はあったかいんだ」

 

「なんだそれ……。って本当にあったかいな」

 

 私の方が数枚着込んでいるのだから、普通に考えればこいつよりも温かい環境にいるはずなのに、少し触れた肩は服の生地越しでも熱が伝わってくる。ただただ、熱かった。

 

「……で、何もしないのか?」

 

 私が離れ難い熱に魘されていると、惚けから揺り戻すような声が届いた。どうやらここまで連れてきておいて、私に何かをしようと持ちかけるでもないらしい。

 

「お前はしたいことないのかよ」

 

「ん、なんでだよ」

 

「お前が私をここまで連れてきたんだろ……」

 

「ツーリングに決まった目的がいるのか?」

 

「……は?」

 

 何を言うか。海岸まで降りずに帰るのか、なんてついさっき疑問を投げかけてきたのはお前だろうがという思いを込めて見つめ返す。けれど私の脳神経を焼き切るような不思議な熱さの視線が私を突き刺していた。どこかで、私が置き忘れてしまっていた熱い視線だった。

 

「……言い方が変だな。計画通りのツーリング、それだけで楽しいか?」

 

「楽しい……けど」

 

 私は計画通りの旅を肯定しようとしているはずなのに、その歯切れは悪かった。それは、自分の中で見ないフリをしていた何かに気がついたからだった。

 

「そりゃあ何処に行くか、何時に帰るか、それを決めるのも大事だな。けど、それだけじゃあつまんないだろ?」

 

「だから……あてのない旅をしようってか?」

 

 私の手はいつの間にか震えていた。それは夜の波打ち際の寒さのせいだろうか。

 互いに触れ合っていた、細かく震え続けていた華奢な肩が突然震えを止めた。それは、真っ暗な海の向こうをただただ真っ直ぐ、静かに見つめ続ける燃えるような瞳に釘付けになったからだった。

 

「いつも計画通り行くわけじゃねえし、気持ちの向くままに、行きたいところを目指す。偶にはそんな旅もしなきゃな。……それにさ」

 

 ゆっくりと腰を上げて立ち上がったそいつは、私よりももっとずっと先にいた。明かりが少なく、その表情は見えなかったが、あどけなさの残った、清々しい顔だということだけは、よく分かった。

 私はただ、その口の紡ぐ魂の震えに恋をしていた。

 

「自分のやりたいように出来るって、最高だろ?」

 

 私がその手を掴んでいなければ、こいつは目の前の真っ暗な海へと突っ込んでいきそうだった。駆け出そうとしていただとか、そういうことでもないし、私はその猛進を止めたいわけでもなかった。

 むしろ、私は一緒に駆け出したかったのだ。後先考えずに、例え周りが止めようとも、風邪を引くだとか、遭難をするだとか、何が起きたとしても、ただ自分がやりたいようにあてのない旅に出たくなったのだ。

 

「……良い顔してるな」

 

「こんなに暗いのに、私の顔が見えてるわけないだろ」

 

「バレたか」

 

 意識をせずとも、私は一緒に立ち上がっていて、少し前に立って、変に格好つけたこいつの背中へと飛び込んでいた。柄でもないかもしれないが、これだって私がやりたいようにやっているだけなのだ。誰にも咎められたくはないし、文句を言われる筋合いもない。張本人であるこいつにすら。

 

「……海、真っ暗だな」

 

「あぁ。何も見えねぇな。こんなに近くにあるのに」

 

 こいつはそんなことを言いながら、海水が波として押し寄せているであろう砂浜の限界の限界まで歩き始める。偶に波が強い時には、靴だって濡れてるだろうに、そんなこともお構いなく。私はその後を追うように、湿った砂と溢れ出る真っ黒な海水を踏み抜いていた。

 やがて、足首の辺りまで濡れそうなそんなところまで来て、漸く無謀な突進は止まった。未だに前に広がっているであろう海面は見えないし、音と冷たさでしか海の存在を知ることはできない。

 まだそれほど暖かくもない海水に体を冷やされてなお、燃え上がる私の心は熱い体を求めていた。すると、さっきまで波を押しのける音やらで煩かったはずの周囲が急に静かになった。何も聞こえないこの真っ暗な世界で確かに存在していたのは、何があっても離したくないと思えるような熱い魂と、私の心をゼロ距離で燃やし続ける、幼く逞しい道標であった。だってそうだろう、私はここに至るまでその澪標に導かれてきたのだから。

 

「砂浜と海の境すら見えねぇな」

 

「……あぁ。何も見えないなら、見えるようになるまで、歩くしかないな」

 

 見えるようになるまで歩くなんて言いながら、私たちはより暗い方へと進んでいた。

 

「ははっ。歩くどころか、泳ぐになりそうだけどな」

 

 笑い声が静寂の海に届いた時、僅かに雲の隙間から月が出た。心細い月明かりは海面を照らすまではいかなかった。

 けれど、無邪気で奔放な、悪く言えばじゃじゃ馬な私たちを。あてのない旅をする私たちの一つの道標を、ただただ無言で、真っ白に照らしていた。

 

 

 

 

 

 こいつは奔放そのものだった。私がいつしか見失っていた、封じ込めなきゃいけないって思い込んでいた奔放さを持っていた。

 思えばこいつは、私らしくなれなかった私を助けようとしてくれたのかもしれない。狂犬であることと、RASのドラマーであることとの間で揺れる私に、一筋の光を注ごうとしてくれたのだろう。

 

「へっ……へっ、ヘックシッ!! さっむ!」

 

「お前があんな海の方まで行くからだろ? というか、心が冷たいから体があったかいんだよな? なら私のこともしっかりあっためろよ」

 

「体が冷たくなる時だってあるんだよ……!」

 

 長い間、足先を海に浸しながら、月明かりに照らされたその表情の虜になっていた私は、やっとのことで我に返り、こうやってなんとか砂浜の方へと戻ろうとしている。偶に吹く風が皮膚を摩り、全身まで冷えてしまいそうだ。

 

「って、ジャケットどっか行ったぞ?」

 

「さっき砂浜に敷いてたからな……。飛んでいったんじゃないか?」

 

「マジかぁ」

 

 靴が犠牲になってしまったのはこの際どうでもいい。だが、これからバイクに乗って帰らないといけないだろうに、二人して冷たい空気に晒されるというのは、さっきまでの暴走気味の自分達を恨まざるを得ない。

 

「……ったく、ジャケットは私が着てた奴貸してやるからよ」

 

「……は? それだとますきが」

 

「良いんだよ。いくら無謀のツキが回って来てても、思いやりを捨てちゃあ、ただのクズだからな」

 

 あてのない旅なんだ。それぐらいのトラブルがあったって良い。それが楽しいのだから。ぽかんという反応をされたが、それもすぐに笑顔に戻っていた。私はざわめく心を鎮めながら、バイクに跨ろうとした。

 

「……帰り道どっちの方角だっけ」

 

「あ? 帰りは私が連れて帰ってやるよ。安心しな」

 

「それならジャケットはますきが……、って……はぁ」

 

 ふと背中が暖かくなる。それは私のジェスチャーに乗せた想いが届いたから。こんなに背中が熱いなら、どれほど逆風に吹かれても、むしろ涼しいぐらいだろうなって、こいつにだけは見えないようにニヤリと笑った。

 

「さーて、どこまで連れていってやろうかな」

 

「おい、あてのない旅は終わったんだぞ? 帰るんだよな?」

 

 いや、まだまだ旅はこれからだ。出来ることならもっとずっと、いつまでも、どこまでも走り続けてやる。だって、喩え先が真っ暗だろうとも、私の背中はこんなにも暖かいから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【山吹 沙綾】ワガママを言いたくて

「はぁ、疲れたぁぁぁ。一旦休憩しよー!」

 

「あはは。パン持ってきたから、食べながら休憩しよっか」

 

「わぁ、コロネだぁ」

 

 蔵に広がっているのは、私のいつもの何気ない日常を形作る優しい光景だった。古めかしい蔵の中には異質とも言えそうな楽器がズラリと並ぶ。一般のバンドからすれば、ライブハウスなんかやスタジオを使わずに練習をするなんてのは物珍しいのかもしれない。けど、ポピパにとっては、私にとってはこれはなんてことのない日常の姿そのものだった。

 

「はい、有咲は何食べる?」

 

「私は……うーん」

 

「有咲決められないの? なら一緒に食べよう!」

 

「だぁー! 今考えてるから話しかけるな!!」

 

 素直になれない有咲や、それを知ってか知らずか振りまわし続ける香澄。それを見て優しく笑うりみりんに、ぼんやりとどこかを見つめるおたえ。そこには、私の居場所があった。私の持ってきたパンにみんなが笑ってくれて、それが私にとって幸せな一小節だった。

 

「おたえ? 食べないの?」

 

「食べるよ? でも、お腹がぐーって鳴らないから」

 

「そんなの待ってたらいつまで掛かるか分かんないだろ?! ライブも近いんだから早く食べろよ!!」

 

「あっ、鳴った」

 

「……なんなんだよ!」

 

 ライブが近くても、みんなが一つの同じところを向いて、夢の先を掴もうとしている。それだけで、私は何でもできるような気がしていた。

 だからこそ、私はその知らせを聞いて、呆然とした。

 

 

 母さんが、倒れた。

 

 

 ポピパの活動も軌道に乗っていて、何もかもが上手くいくって、盲目的に信じ込んでいた私の足元が大きく揺れた。どうやって蔵から病院にまで行ったかとか、何も覚えてはいない。ただ、薄暗い病室の中で静かに眠っている母さんを見て、安堵で足が震えて、床の冷たさを感じていたことだけが記憶に残っている。

 母さんの無事を知って、けれど眠った母さんの顔を見ていると全身が震えて、フラフラになりながら病室を出た。リノリウムの床が私の靴裏と擦れて変な音がして、それにすらひどく怯えた。空調から流れ出る無駄な冷房が、私の皮膚を舐め回すようだった。何もかもが得体の知れない恐怖にへと成り代わって、私は病院を飛び出した。

 外に出れば、そこには普段から目にする街並みがあった。ありふれた舗装材の上を歩いて、早く家に帰ろうと足を必死に動かした。

 

 そういえばライブが近いからってお店の手伝い、少しだけ疎かにしてたのかなって帰り道にふと考えた。帰り道は真っ暗だったものだから、思考は悪い方へと悪い方へと向かう。

 

「あーだめだだめだ」

 

 こんなことを考えたって気分が悪くなるだけなのに。母さんが取り敢えずは無事だったことを喜べばそれで良いはずなのに、後悔だけが募るのである。懺悔の念を振り払おうとしても、今日はお店大丈夫だったのかな、なんて方向に思惟が向かえば、結局は母さんのところへと帰ってきてしまう。

 恐らく母さんが店先に立っていて、そこで倒れて病院に運ばれているということは、店は閉めているのだろう。本当なら今日は、私が店番のはずだったし、この時間だったらまだギリギリ店先で、どのパンが売れ残りそうかなんて考えていたはずだ。けれど、ライブが近いからって母さんに送り出してもらったのだ。悔いの残らないように練習してきなさいって、強い口調で。

 別段母さんのせいにするなんてつもりはない。それでも練習に行くのを決めたのは私だし、行きたいと思っていたのも私だったから。けれど、誰かに迷惑をかけてしまっているという自覚を一度持って仕舞えば、それを完全に見ないフリをして自分のしたいことだけをするなんてのは、私の性分から考えても不可能であった。ならば、私は自らの置かれた環境の不幸を何かに転嫁して、自分の心を慰める他なかったのだ。

 

「着い……あれ?」

 

「……あっ、沙綾」

 

 私が解決することのない無限の問答と戦いながら家に帰ってきた時、お店のシャッターの前で立ち尽くす人がいた。よく見知った顔なのは、共にこの商店街で生まれ育った仲であるから。

 

「今日、やまぶきベーカリー休みだったんだな」

 

「あ……。ちょっと……ね」

 

「……そっか、悪い」

 

 白い街灯に照らされた顔を隠すように俯いた彼の表情は見えなかったけど、その声色からは私の事情を察したであろうことがすぐ伝わってくる。謝られるほどのことではないのだけど、仮にも古い付き合いである彼なりに、そこまで配慮が行き届かなかったことを申し訳なく思っていたりするんだろう。

 

「そうだ、純と紗南は、元気か?」

 

「え? うん、毎日はしゃいで大変なぐらい」

 

「なら良かった。最近顔を見てなかったから」

 

 小さい頃からの知り合いということもあって、私の弟や妹とも仲の良い彼は、無邪気さの薄れた微笑みで、寂しそうに呟いた。部活だ何だで忙しいらしく、帰ってくる時間もこの時間になるぐらいなのだから、純たちと会う機会もめっきり減っているのだ。中学三年生ぐらいの頃は今よりももう少し小さい純と遊んでくれてたりもしたし、その記憶もあるから、余計にこちらまで寂しかった。

 

「あはは、純たちも言ってたよ? 会ってないーって」

 

「あちゃあ。顔だけでも、ちょっと出そうかな。それとも日を改めた方がいいかな?」

 

 そうやって問うてきた顔には躊躇いも見える。事情を詳しくは知らないなりに、慮った部分も大きいのだろう。

 

「……ううん。母さん、今日は帰って来れないし、父さんも店の掃除とか明日の仕込みとかで忙しいだろうから、おいでよ」

 

「ならちょっとだけ、上がろうかな」

 

「うん。じゃないと、いつまで経っても来ないでしょ?」

 

「……いやぁ、耳が痛い」

 

 ここに来たくないだとか、そういうことではないだろうけど、中々来る機会というのがないのだろう。それを態々指摘するのは少し性格が悪いかもしれないが、弟たちの相手をしてくれるとなれば、それはそれでありがたい。晩御飯を作る間ぐらいだけでも面倒を見てもらおうなんて、都合の良い考えを隠しながら私は彼を家に招いた。

 

「純、紗南! ただいまー」

 

 私が家の奥へと声をかけると、木の板の僅かに軋む音がして、続け様に大きな声が上がる。それは久しく見るお兄ちゃんの登場に騒ぎ立てるものであった。本当の姉は私だけなのだが、この子達から見れば近所に住んでいる優しいお兄ちゃんという、ある意味では特別な存在なのだろう。

 小さな興奮に翻弄されているのを尻目に、私は早く晩御飯の軽い支度だけでもと思い、その場を完全に任せてキッチンへと駆ける。この時間からそんな大層なものを用意するのも難しいだろうから軽食を作ろうか。

 お店で余ったパンを出したら足りるだろうかなんて考えながらキッチンで慌ただしく料理をしていると、後ろから控え目な足音が聞こえてきた。

 

「あれ? 純と紗南、どうしたの?」

 

「それが……。久しぶりに遊んで燥ぎすぎたのか、寝ちゃって」

 

「えぇ。私、もうそれなりにご飯作っちゃったのに」

 

「ごめんごめん……。一応タオルケットは掛けてあげて、起こそうと思えば起こせると思うけど」

 

 言葉のあちこちに彼の優しさは散りばめられているのだが、優しさでご飯は減らないし。この時間に寝ちゃったのなら、多分純と紗南は起きないかもしれないし。父さんと私じゃ、と思った時どこからか、昼間にも聞いた腹の虫が鳴った。

 

「……あはは」

 

「そうだ。食べていく? 晩御飯」

 

「え、いいのか?」

 

「うん、父さんと私だけじゃ食べ切れないし」

 

 無理に起こすのは忍びないからね、と付け加えて私は仕上げにかかる。その間に父さんを店の方から呼んできてと使いに出し、私は慣れた手つきで盛り付けにかかる。

 数分も経てばリビングの方から二人分の話し声が聞こえてきたものだから、完成した野菜のスープだとかのお皿をリビングへと運んだ。

 

 

 

 三十分もしないうちに、中々に珍しい晩餐が終わった。三人もいればどうにか作った晩御飯は大方消費し終わって、もう洗い物にも取り掛かれそうなほどになっていた。

 

「そういえば、純や紗南の面倒を見てくれて、ありがとうね」

 

「本当に、沙綾の面倒も見てくれたら助かるよ」

 

「またまた亘史さん。僕が面倒見てもらってるぐらいですから」

 

「二人とも恥ずかしいからやめて」

 

 私を巻き込んで夫婦漫才を始めようとする奇妙な父さんと幼馴染に辟易した私は無視をしてキッチンに逃げようとする。だが、父さんがそれを許さなかったらしい。

 

「あぁ、洗い物はやっておくから。積もる話もあるだろう?」

 

「何から何まで、上り込んで、すみません」

 

「良いんだよ。純と紗南と、沙綾の面倒まで見てもらって」

 

「だからもうやめてって……」

 

 父さんに無理やり追い出された私はリビングで彼と二人、困り果ててしまった。あそこまで散々弄られている上で、晩御飯は食べ終わったんだからさようなら、というのは余りに非情というか、自分が人でなしであるような気がして気が進まなかった。

 

「その、帰った方が良いかな?」

 

 だから、そんな質問にはどうにもこうにも答えようがなかった。けれど、流石に自分の部屋に招くというのは少し恥ずかしいし、他の部屋で話をしていては、純や紗南たちを起こしかねない。どうやら背に腹はかえられないらしい、そういう風に自分を納得させて、私は彼を伴って階段を昇った。

 

「部屋、入っても良いのか?」

 

「小さい頃とかは遊びに来たこととかもあったでしょ? 気にしないで良いよ」

 

 見られて恥ずかしいようなものなんてのもないし、なんてお決まりのような台詞を残して私はドアを開ける。洋室の子供部屋なものだから、取り敢えずのクッションをポンと渡して、座ってもらう。改めて部屋に二人きりという事実を自覚すると、どことなく不思議な感覚に包まれたものの、意外と心は落ち着いていた。同世代の異性と自室に二人きりだなんてここ最近じゃまともに経験した覚えもないのに動揺一つしないというのは、それだけ幼い頃からの関係性が深いことを意味しているのかもしれない。

 

「ちゃんと整頓してあるよな」

 

「まぁね。……気にしないで良いよとは言ったけど、そんなにジロジロ見られるのは恥ずかしいかな」

 

「あぁ悪い」

 

 幼い頃からの仲があるとは言っても、一度会話が途切れてしまうとなかなかその糸口を見つけだすのは難しい。下手に話の流れを途切れさせてしまった自分に呆れながら、私は必死にここ最近にあった話題になりそうなことを思い出す。けれど、私がそれを見つけだすよりも前に、彼の方が先に話すことを思いついたらしかった。

 

「CDとかも結構置いてあるけど、バンドの方は順調?」

 

「え? うーん。まぁライブしたりとかは、……うん」

 

「そっか。聴きに行けてなくて、ごめんな」

 

 なぜそれぐらいで謝るんだろうなんて不思議に思いつつ、暗い顔をしていた幼馴染の気持ちをそっと探った。

 

「気にしないで。バンドなんて、私が好きでやってることだし」

 

「Poppin'Party、だっけ。最近名前結構聞くよな」

 

「そう、だったら嬉しいな」

 

 お陰様でそこそこの知名度は得ているのだと、少しだけ誇らしくなった。ガールズバンドなんてものに一欠片も興味のなさそうな彼が名前を知っているぐらいなのだから、Roseliaだとかには知名度で勝てなかったとしても、ちょっぴり嬉しかった。身近な人に応援されていると言うのは、やはり快いものだから。

 

「ガールズバンド、そんなに流行ってるんだなぁ」

 

「うん。最近は色んなバンドが出来てるからね。Roseliaとか、聞いたことない?」

 

「……なにそれ?」

 

「えっ、知らないの?」

 

「……うん」

 

 絶対に知っているだろうと思っていたところを知らないと突き返されたわけで、拍子抜けした私は次々とガールズバンドの名前を挙げていく。しかし、彼の答えは一様で、さっきまでガールズバンドの流行に感嘆の声を上げている者の発言とは思えなかった。それだけに、何故ポピパだけは知っているのかとどうしても気になってしまう。

 

「でも、ポピパは知ってるんでしょ?」

 

「そりゃあ……沙綾がいるから、な」

 

「そ、そっか……。あはは……」

 

「……すまん、なんか追っかけかストーカーみたいだな、今の」

 

「えっ、ええっ?!」

 

 それは幾らなんでも飛躍しすぎだろうとツッコミを入れたくもなるが、幼馴染と雖もそれほど目をかけてもらっている謂れも分からない。それは恐らく、私が逆に彼のしていることだとかを詳しく知らないからであろう。逆の立場になった時、何故そんなにも意識して見てくれているのかということが分からないからだ。

 

「私が、かぁ」

 

「ま、心配だからな」

 

「心配?」

 

「沙綾のことが」

 

「私そんなに、危なっかしいかな?」

 

「そういう意味じゃないけど」

 

 彼曰く、私はなんとなくでも無理をしていそうだとか、そんな風に思われているらしい。多分私から見た、香澄とかの暴走具合に対する危なっかしさとか、そういうものとは性質が違うのだろう。それは話を軽く聞いているだけでも伝わってきた。

 

「家のことやりながら、バンドもやるって、そこだけでも大変なのに、な」

 

「それは……」

 

「沙綾のことだから、バンド内でもメンバーの面倒を見るのに奔走してそうだし」

 

「そんなこと……ちょっとあるかも」

 

「だろ?」

 

 予想が当たったのがそれなりに嬉しいのか、心底楽しそうに笑う彼の顔は、小さい子どもの持つ無邪気な一面が浮かび上がっていた。けれど、そんな一面を隠そうともせずに、冷静に人の考えだとかを見抜いていく、その乖離が酷くおかしくて、私はずっと穿った見方をしようとしていた。

 彼の洞察は私のことをそこそこに理解したもので、単にパン屋が云々の域を超えて、困ったポピパのみんなを見守ったりだとか、自分のことだと思って聞くと恥ずかしくなるような言葉ばかりだった。だからこそ、今の私がそれを聞いていると、自分の中のもう一人の自分がそんな大層なことではないと戒めてくるのである。

 

「……だから、沙綾はポピパの中の、母親みたいなポジションになってるんじゃないかって」

 

「……ううん。逆に私が振り回してばっかりだったりするから、ね」

 

「そうなのか?」

 

 こんなことをこの場で口に出してしまっても良いのだろうか。自問自答するも答えが分からないうちに私は静かに口を開いていた。愚痴や相談の皮を被った私の自虐を聞かせるのなんてとんでもないと思っていたけど、逆を言えばここぐらいでしか私がその負の感情を吐き出す場面はなかったのかもしれない。自分の独白をこうして正当化しつつ、私が重ねたのは自己嫌悪だった。

 

「文化祭の時も、結局ギリギリまで香澄たちに迷惑かけちゃったし。今だってポピパを続けられるなら、CHiSPAを抜けちゃった意味も、よく分かんないし、なんて」

 

「CHiSPA……。沙綾が中学の時にやってた」

 

「……うん。って、その時は練習の後に会ったりもしてたもんね」

 

「あぁ、なんとなく覚えてるよ」

 

「その時から考えても、私がバンドのみんな、振り回しちゃってたから」

 

 結局私はCHiSPAのみんなとはライブ出来なかったし、夏希たちとの蟠りは溶けたとは思っているけど、私の都合で振り回した事実は消えるものではなかった。それが分かっているからこそ、今もこうやってずっと悩みの種を抱えているのだろう。

 

「いつも結局は私が振り回しちゃって。だから、私は全然ポピパの母親になんて、なれてないよ」

 

「今日だってそう、ってか?」

 

「……え。……うん、まぁ」

 

 さっきまではあんまり踏み込まないようにしていたのかと思っていたら、急に痛いところを突かれて困惑した。私がこれまで話の中でどうにか触れないようにって持っていったつもりだったけど、どうやら中途半端に優しい幼馴染は逃げることを許してくれないらしい。

 

「今日も練習してたら、お母さんが倒れてお見舞いに行った、そんなところか」

 

「凄いね、もしかして私の後ずっと尾けてた?」

 

「そこまで暇じゃない」

 

「そっか。でも正解だよ、百点満点」

 

「それで、またバンドを続けるのに悩んでるって、な」

 

 褒めたのだからさっきみたいに得意げな顔の一つでもしてくれたらこっちだって気が楽になるのに。そんな恨言を心の中で吐いてみると、いきなり核心を突かれた。

 別に私だって前みたいにポピパを抜けようだとか、バンドを辞めたいみたいなそういうことで悩んでいるわけではない。母さんから背中を押されていることも分かっているし、ならば迷いなくポピパの活動に集中するべきなのだろう。

 けど、また改めて自分がバンドをして、負担をかけたことでまた母さんが倒れて、それでもなお自分がバンドを続けられるほど図太い性格にはなれなかった。今日は練習中に倒れたと聞いたものだから練習を抜けて病院に駆けつけたが、明日からはどうするのだ。

 ライブだって近い。みんなが同じ方を向いて頑張っていたところに水を差すことになる。なら店を無視するのか。今母さんはいない。いつまでも店を閉めるわけにはいかない。

 どっちを選んだって、私にとっては中途半端な選択肢になるだけだった。

 

「……どうせ分かんないよね。私が悩んでるとか言ったって」

 

 言ってしまえば自暴自棄。思考の放棄。私がいくら言葉を並べてぶつけようが、部外者である彼にとっては瑣末なことで、悩んでいる私を幾ら可哀想と思ったところで解決するような問題じゃないから。私は閉塞感への鬱憤をぶつけることで、心の平穏を保とうとしていた。最悪な人間だった。

 

「……まぁ。そりゃあ俺がバンドを肩代わりすることも昼間から店に立ってやることも出来ないから、何を言っても絵空事にしかなんないけど」

 

 話を聞いてやることぐらいしか俺には出来ないからって、そう言い切るなり、本当に何も言わなくなってしまった。そこは何か助言の一つや二つでもくれるのではないかと期待してしまっていただけに、私はなんだか心の奥底に沸々と沸き立っていた思いを吐き出してしまいたくなった。

 

「母さんは、バンド頑張ってねなんて言うけど無理しちゃうし、ポピパのみんなも、私が店番するってなったら手伝おうとしてくれるんだよ」

 

 最初こそ私の心の中にあった漠然とした感情が、時間の経過と共に少しずつ言葉になる。運命の不幸さへの呪いも、次第に言語へと変わっていった。

 

「私が無理を通そうとしたら、それに合わせて周りの人がみんな、私のせいで無理をするから。それなら私は何もワガママ言わない方がいいじゃんって」

 

 周囲の人間を責めるつもりだなんて毛頭ないのだ。

 

「でも、自分の気持ち押し殺しちゃったら、なんでこのタイミングで倒れちゃうんだろって、なんで今、ライブの予定組んじゃったんだろって。最低だよね、愚痴ばっかりで」

 

 けれど、運命を呪うためには、そんな間の悪さをボロクソに言うしかなかった。そしてそんな最悪な自分を盛大に嫌悪することで、自分の中の人間性の正当さを自分に理解させようとしている。極めて醜悪で、最低な行いだった。これを誰かに批判されることで、私はさらに悲劇のヒロインへと成り下がろうとまでしてしまっているのである。

 私のワガママに従順になる周囲への反抗でもあった。せめて誰かが私に叱ってくれたら、私は何の迷いもなくバンドというものを諦められるから。結局は他人の言葉で、誰かに許されてこの狭間から抜け出そうとしているだけだった。

 

「話を聞いて思ったでしょっ? 私、最低なんだよ、ワガママばっか言って、自分が悩んでること他人のせいにして、楽な方に逃げようとしてるっ。クズ、だからっ」

 

 クズだと言われることで、クズだと認められることで、私は漸くこの葛藤に終止符を打つことが出来るんだって、そう思いながら心に沈澱した真っ暗な気持ちを叫んでいた。

 そんな思考を辿っていたから、私は無意識のうちに、罵られたいと思いながらも、それを偉大な愛で包んでほしいという、矛盾した感情を抱え込んでいた。罵られることで自分を悲劇的に描いて慰めたいと思いつつ、誰かに優しく声をかけてもらうことで純粋に一時的にでも楽になりたいという、矛盾した想いを。

 

「え……」

 

 だから、次の瞬間、私の頬を襲った突発的な痛みに、私は呆然とするしかなかった。

 

「クズって、そんなに連呼してんじゃねぇよ」

 

 右手で自分の頬を確認する。少し熱を持っていた。女の子を叩いたがどうとか、普段だったら言うのかもしれないが、私は何故そんな風に言われたのかが分からなかった。

 

「……なんで」

 

「沙綾がクズなら、そのクズを応援して倒れた沙綾の母さんは、そのクズを信じてライブへの準備を怠らないポピパの仲間は、とんでもない馬鹿か間抜けだな」

 

「……そんなこと、……そんなこと言わないでよっ!!」

 

「お前が山吹沙綾を否定するっていうのは、そういうことなんだよ」

 

「……そんな、つもりじゃ」

 

「沙綾は自分がクズって言われて、自分が可哀想だとか思いたいのかもしれねぇけど、沙綾が沙綾をクズって認めたら、そのクズを慕って、信じた人間は誰も報われねぇよ」

 

 これまで自分が考えてきたことが全てひっくり返されたようだった。私はどうせならいっそ、徹底的に人間としてのクズになりたかったのに、それは私の身の回りの人間全てを馬鹿にするようなものだったということらしい。今はそんな他人に気を回せるほどの余裕がなかったけど、自分のせいで誰かがバカを見る、それは許せなかった。

 

「卑下したって何も解決しないし、誰かを悪戯に傷つけるだけだから。それが分かったら、クズなんて言うな」

 

「……でも、私はみんなを振り回して」

 

「沙綾の母さんが倒れたのは沙綾のせいじゃないし、ポピパやCHiSPAのみんなが沙綾に気を遣ってるのは沙綾のせいじゃない」

 

 そんなこと分かっていると反論しようとして気がついた。私のせいでみんなを振り回しているというのは私から見たらそう見えるだけなんだって。自分のせいにすることで、結局はカタルシスじみた慰めをしたいだけで、捉え方次第なのだと。

 

「沙綾の母さんが沙綾を応援するのもワガママだし、ポピパが沙綾を助けようとするのもワガママだ。沙綾が母さんやポピパのことを想うみたいに、みんな沙綾のこと心配してるんだよ」

 

「……クズだって、思ってたのに」

 

 それでも私は最後の抵抗のように、何か、何か自分を守れる最後の襤褸布を探していた。これまで自己嫌悪に浸ってきた過去の自分の意地を守ることができる、ボロボロの盾を。自分は最低な人間なんだと唱えることのできる証を探していた私の愚行は、遂に止められた。

 

「……どうして」

 

「俺の知ってる沙綾は、俺の大好きな沙綾は、クズじゃない」

 

「……なんで、全部知ってるのさ……」

 

 自分が無意識のうちに求めていた、自分への批判も優しさの塊も、全部が全部、一瞬のうちに全て注がれたのだ。動揺しないはずがない。けれど、先の痛撃もその抱擁も、私を落ち着かせるには十分すぎた。

 詰まるところ、私はどこか誰かを頼ることが出来ていなかっただけなのかもしれない。誰かを私のワガママで振り回して迷惑をかけるぐらいならって思いが邪魔をして、誰にも頼らないようにしていた限界がやってきたのかもしれなかった。

 

「……なんで泣いてるの。泣きたいのは、私の方だよ」

 

 私の精一杯の抱擁への抵抗にも何も答えない。けれど、それで良かった。変に心を見透かされてしまっては、私の方がさらに泣いてお話にならなくなるから。既に二人とも泣いてしまって、そのまま抱き合ってるなんて奇妙な絵面になっているのに。私が今まで出したくても出せなかった顔を、出さざるを得なくなっているのに。もうこれ以上泣いて仕舞えば、戻れなくなってしまう。

 だから私は、静かに、顔を見ることもなく泣いていた。

 

 泣き止んだのは十分も経った頃だろうか。流石に我に返って恥ずかしくなったのか、今は同じ部屋にいるのに微妙な距離感を保っている。ついさっきまでの暗い空気はなくて、そこに漂っていたのは甘いパンのような、発酵を繰り返した香りだった。

 

「ごめん沙綾。痛かった、よな」

 

「……え?」

 

「ほっぺた」

 

「……あぁ。ううん、気にしてないよ、大丈夫」

 

 そういえば私は一連の嘆きの中でビンタされたんだっけ。まさか家に招いて自己嫌悪に浸ったぐらいで叩かれるなんて思ってなかったけど、裏を返せば、だからこそ私はある意味で吹っ切れたのかもしれない。

 

「まぁでも、女の子をキズモノにしちゃったんだから、責任は取ってもらわなきゃ」

 

「……えっ?」

 

「責任、だよ?」

 

 その時の私は愉快にも笑っていただろうか。さっきとは違い、困惑した表情を浮かべる幼馴染を翻弄して、してやったりという顔をしていたに違いない。

 勿論あのビンタが本当に痛かったわけではないし、傷がついたなんて寸分も思っていないけど、乙女を泣かせた罪は重い。まずはライブに来てもらおう。そこで自分が犯した罪の重さをじっくり理解してもらって、その時にまた打ち明ければいい。今度はワガママを言うと決めたから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【広町 七深】幼い天才を重ねて

 私は所謂、『天才』だった。初めて体験することであっても一通りできるし、しかもその出来は周囲と比べると格段に良かったことは自分の自覚するところでも、周囲の称賛するところでもあった。

 だが、何をするにしても私がその才能、謂わば天賦の才と言えるそれに感謝したことはない。私にとってそれは、平穏な私の周囲を取り壊していく悪魔の囁きだった。

 

『広町さんは何でも出来ていいよね。私も出来たら良いのに』

 

 私にとって『何でも出来ること』というのは、他者から羨望の恨言を被るだけの貧乏籤のようなものであった。私は両親から与えられた才能の遺伝子を恨んだ。周りの人間から嫉みを買う力を恨んだのだ。

 私がとりわけその力を発揮したのは特に絵画の部分だったか。中等部の時に書いた私の絵は快挙を成し遂げた。周囲からは称賛され、絵が描くのを楽しいと、そう錯覚した。

 でも、私は知ってしまったのだ。

 

『私たちの絵と全然違うね……』

 

『すごいね。普通こんなこと出来ないよ』

 

 多少の羨望混じりであることは最初から分かっていたつもりだったが、私に降り注いだ言葉の数々は称賛の面を被った拒絶であった。

 独創的と表現され、高い評価を受けた絵のコンセプトも、魅力的と言われ、高い表現力を買われた絵の細部も、それらは全て私を周囲から遠ざけるための、性質の悪い神様のくれた呪いであった。周囲の絵と比較して優れているからこそ評価されるであろうに、比較した結果他のものと違っているからこそ、周りの人間は私と距離を取るようになった。幼いながらに感じた、消えていった人間関係の悲しみが私の才能を狂わせていったのである。

 それから、私にとって『周りと違うこと』は悪であった。『普通であること』が高い価値を持つようになった。

 だからだった。私が突然現れた()()()のことを目で追うようになったのは。かつての私と同じように、『周りと違うこと』で拒絶された異端児が目の前で、黙々と自分の好きなものに打ち込む姿を見て、目を離すことが出来なくなってしまったのだった。

 

『すごいんだね、その絵』

 

『……はい?』

 

 私の口をついて出た言葉は、かつて私自身を苦しめた下卑た、心の底から憎むべき称賛の文句で、私は思わず口をつぐんだ。何故私は、過去の自分が苦しみを背負ったその言葉を、何の躊躇いもなく吐き出せたのだろうか。突然湧いて出た疑問に頭を抱える間も無く、私は彼と目が合った。

 

『……あ、いや……その……』

 

 何の前触れもなく話しかけて来た私を、まるでおかしな人のように見つめてくる目線は純粋さを保ちながらも、どこか冷徹であった。その目線が私を串刺しにしている限り、私は何も話すことが思い浮かばなかった。

 

『まだ何か?』

 

『……ごめんなさい』

 

 その場で私は一言謝罪の言葉を残して逃げた。今から考えれば不誠実極まりなかったかもしれない。だが、その場に立ち尽くすほどの勇気もなく、また、かつての嫌な記憶が喚び起されそうで、その現実から目を背けたのだ。

 

 それからだろうか。私が決して自ら進んで近寄ろうとすらしなかった、アトリエという空間に赴くようになったのは。勿論その異端児以外の人がいたこともあったが、多くは私と二人きりの空間が続いた。

 二人きりと雖も、私たちの間に会話は殆どと言って良いほどなかった。彼はずっとキャンバスに向かって、よくわからない絵を描き続けているし、それに話しかける勇気はなかった。偶に休憩らしき時間が訪れても、会話はあまり弾まなかった。

 でも、逆に彼が私以外の誰かと喋っているところを見ることもなかった。顔を合わせこそするが、会釈もせずに、況してや会話をしようともしない。話しかけられても最低限の返事しかしていなかった。それが余計に訳が分からなくて、私は目を離せなくなっていったのである。私とは()()()、周囲と違うことを平然とやってのける彼のことが気になって仕方がなかったのだ。

 

 

 

 

 

 外の空気はジメジメとしている。人の目線が雨粒に反射して全方位から自分が見られているように感じる。それは私を均そうとするような悪意に満ちた目線で吐き気を催した。

 私は梅雨の悪意に苛まれながらアトリエに入った。そこには先日私と共にコンクールに作品を出品し、賞を総なめした天才たる異端児がいた。学校というコミュニティに縛られないものだったため、私は周囲を余り意識することなく絵というものに向き合うことができた。けれど、思い思いのままに描いて出された私の絵は、その異端児とやらの絵に一歩及ばなかった。別に負けたことに恨みを述べたりするつもりはないが、私も普通の子どもであるから、評価が文字として定性的かつ端的に表される賞という、簡潔で明瞭な表現には囚われていたのだ。

 

「ごきげんよう。最優秀作品賞に、特別審査員賞、すごいね」

 

 相手の受けた評価を丁寧に並べる私は性格が悪いのかもしれない。それは私の羨望を隠さずに表現した言い回しだったから。謂わば私がかつて受けてきた、周囲と異なることを良く聞こえるように言い換えられた、嫌味のようなものであった。

 

「ごきげんよう広町さん。ありがとうございます。でも広町さんだって、優秀作品賞を獲ってましたよね」

 

 受賞したとしても、彼の下位互換なんだ、と場の空気を乱すようなつまらない返しはしない。多分彼からすると嫌味の部分はないだろうし、その言葉は全て善意からくるものなのだろう。ふと、そんな気がしたのである。

 彼は腰掛けていた木製チェアから腰を上げると、強張っていた筋肉を解すように伸びをした。その時、絵と向き合う時には全く見たこともなかった幼さを残した表情と、弛んだ口角が目に入った。伸びを終えて視界がはっきりとしたであろう彼と目線が合う。すると見られていたことに気が付いたのか、普段からは想像もつかないほどに焦り始めて、頬を赤らめたかと思うと腰をチェアに下ろした。テーブルの足に膝をぶつけて大きな音が出るも、何事もなかったかのように澄ました表情に戻していた。

 私はこれまで見ることのできなかった、天才の新しい一面を目撃してほくそ笑んだ。弱みを握っただとか、そういうのとは少し違うが、何故だか心がほんの少し暖かくなったのだ。けれど、私が目撃した不意の一面はあっという間に取り繕われてしまった。

 

「優秀作品賞なんて、そんなに凄くないよ〜」

 

「左様ですか」

 

「うんうん。一番というわけでもないから」

 

 今回のコンクールとて、私は敢えて最優秀作品賞とやらを狙っていたとか、そういうわけではない。無意識のうちに良いところを目指す、なんていう感覚はあったのかもしれないが、それだけを目標に絵を描いたわけではなかった。むしろ自分としてはただ楽しく、周囲と比べて可笑しかったとしてもそれを周囲の親しい人たちに知られることのない、そんなステージで絵を描くことが出来ることだけを考えていたつもりだった。

 それだけに、自分がそんな言い訳じみた返しをした理由がよく分からなかった。そんな理由に困惑するうちに私の口から吐き出されていた言葉は、意味のない弁明の言葉だった。

 

「別に一番を獲りたかったわけじゃないんだけどね〜。好きな絵を描こうとしただけで、変な絵になっちゃったかもって、思ったぐらいだったから」

 

「……まぁ、僕も敢えてトップを狙ったとか、そういうわけではないですが」

 

 妙に含みのある言い方に、逸らしていた目線を彼の方へと戻した。哀愁すら漂わせたその表情の醸し出す意味がまるで読み取れず、私は何か失言をしたのかと只管自分の過去の発言を振り返る。そこには確かに、過去の自分が聞けば羨望と他者との隔絶を意識するような言葉があった。

 けれど、例え私が彼の立場で、広町七深という人間に嫉妬混じりの妄言を吐き捨てられたところで、彼からすればそんな隔絶がどうなどということを意識するとは思えなかった。

 

「えっと。何か嫌なこと言ってたら、ごめんね?」

 

「……え? いえ。お気になさらず」

 

 そう言い切るなり、彼は黙りこくって、キャンバスの前のチェアに腰掛けたまんま固まってしまった。どうやら私はやはり失言をしたらしく、それがどこなのかということが分からないあたり、私は普通ではないらしい。

 居た堪れないから足早にここを立ち去るという考えもあったが、私がこの部屋の空気を最悪なものにしてしまった自覚があったので、そんなことは私には出来なかった。それでいてこの失言を帳消しに出来るほどの挽回も出来ず、結局のところ私はその場に立ち竦むことしかできない。そんな私の独り善がりの葛藤に気づいたのか、彼はいつもより小さな声——普段は落ち着いてこそいるが、発音は明瞭であったのに——で、蚊が鳴くよりもボソボソとした声色で私に問いかけた。

 

「僕の絵は、変な絵でしょうか?」

 

「……え?」

 

「……言い方が変でした。変な絵であることは、独特な世界に生きる絵は、悪いことでしょうか?」

 

「それは……その……」

 

『変な絵』と言われて思い出した。さっき私は自分の絵をそのように表現したのだと。それを踏まえてきっと彼はその定義に自身の絵が含まれるのかどうかを聞こうとしたのだ。私自身もその定義を表現することは難しいが、一つ言えることがあるとすれば、彼は私などでは足元にも及ばない『本物の天才』なのであろう。世間一般的には『天才』などと揶揄される私も、彼の絵が凄いことは分かるが、その凄さを説明することはできない。だからこそ『変な絵』かと問われて思考が止まったのである。

 けれど、何のためだろうか。私にはその質問の意図も見当がつかない。そして答えを返しあぐねていると、答えに窮するところを見た彼はまたいつもの明瞭な発音で呟いた。

 

「変なことを聞きました。忘れてください」

 

 私は何も聞くことが出来なかった。私がぼうっとしている間に彼は蜃気楼のように部屋から姿を消していた。木枠の隙間から部屋に吹き込む外の湿気混じりの空気がカーテンを揺らして、これから絵が描かれるのであろうキャンバスを台無しにしていた。

 

 

 

 

 

 次の日、私はMorfonicaの練習でライブハウスを訪れていた。別段特筆すべきこともなくその日の練習は終わりを告げたのだけれど、私の頭の中には昨日のアトリエで起こった、絵を介した呪いの押し売りのことがあった。押し売りというと、私が彼にその呪いを与えてしまったような言い方かもしれないが、それでも間違いなく、あの時の彼はかつての私であった。

 

「ななみー? どうしたんだ?」

 

「……え?」

 

 私が川の向こうに広がる真っ赤で、紫の混じりかけた夕焼けに見惚れていると、後ろの方からとーこちゃんの声がした。しろちゃんやつーちゃん、るいるいはいなかったから、もしかしたらとーこちゃんが一人で私を追いかけてきたのかもしれない。

 

「とーこちゃんこそどうしたの?」

 

 少しだけ息の上がったとーこちゃんの姿の方が、よっぽど何かあったのかと尋ねてみたい部分である。けれど、まず間違いなく私に用があるのだろうし、不毛で無駄な問答はよそうと思った。

 

「あたし? いや、今日の練習中のななみ、ずっと心ここに在らず! って感じしてたじゃん?」

 

「……え?」

 

 私の中ではそんなことはなかった。少なくともベースの出来は文句をつけられるほど酷いものではないと思うし、謂わば中庸を貫いた、文句なしに、普通の演奏の出来だったと思っている。

 

「私の演奏、なんか普通じゃないところとかあった?」

 

「いいや? 演奏はいつも通りで、変なところとかは無かったと思うけど、たまーに考え事してんのかなって時とかあったよなーって」

 

 どうやら、私の頭の中をずっと漂っていた昨日の後悔が、他人からも読み取れるほどに私の表情に表れていたらしい。一応隠してはいるつもりだったが、意外にもこれほどあっさり考え事なんてものはバレるものなのだろうか。

 私のちっぽけな後悔を話そうかどうか悩んだが、とーこちゃんをはじめ、Morfonicaのみんなは私の絵を、それこそ私が普通であることに意味を見出す理由すら知っている。ならば話したって問題ないかもしれない、そんな風に思い立った私は、昨日のアトリエで起きた不穏な時間をとーこちゃんに語り始めた。

 

「ふーん……。変な絵であることが悪いことかどうか、かぁ」

 

「……うん。何か気を悪くしちゃったのかな、って」

 

「まぁそうなんじゃねーの? ななみだって、『自分の絵を見た誰かが自分を見る目が変わっていく』のが嫌だったんだろ? ならそいつだって、変な絵って言われるのは嫌なんじゃないの?」

 

 Morfonicaのみんなに私の描いた絵のことを知られたあの日。私はみんなが私を見る目が変わることを恐れていた。中等部の時に描いた、あの時の絵のように。けれどみんなは私の描く絵を至極当たり前のように受け入れてくれたのだ。

 その時の嬉しさは今でも胸に残っているのだが、だからこそ自分の描いた絵を『変な絵』、即ち人と違う絵であると形容されることの辛さは理解しているつもりだった。自分の描いた絵が原因で周りから身近な人が消えていくだなんて、そんな辛いことはそうないから。

 

「それは……いい気はしないだろうけど」

 

「まぁななみがその絵を『変な絵』って言ったわけじゃないんだろ? なら気にしすぎても仕方ないっしょ!」

 

「そうなの、かなぁ」

 

 確かに私がその独特とも取れる絵を罵倒したりだとか、小馬鹿にしたつもりはないし、そのような誤解をされるような言動も取っていないはずだ。獲得した賞を並べていくのは意地が悪かったかもしれないが、それでもそれはあくまでもその絵を否定したものではない。むしろ中途半端な自信に自惚れていた哀れな自分を隠して許す、免罪符である。

 私の心の中のモヤモヤ感はあまり解消されることはなかった。とーこちゃんと話をして、少しだけ過去のことを鮮明に思い出したから、その時の自分に投影して考えてみても、異端児たる彼の機嫌を狂わせる程度のダメージを与えたとは思えなかった。梅雨時の肌に優しくない空気を撫で回しながら、帰宅の途に着く他なかった。

 

 

 

 

 

 あれからまた数日が経った。それ以来異端児の登場を見ることはなく、私はずっと複雑な思いをうまく消化できずにいた。もちろん自業自得のところもあるから愚痴ばかり言っていても仕方がないとも思うのだが、それでも早く会って、胸に巣食った得体の知れないざわめきをどうにかしたかったのである。

 とはいえ簡単に会えるのであればそのざわめきはここまで肥大化していないし、私は自分がこれまでこっそり描いていた絵を見返したりしながら、無益な時間を過ごさざるを得なかった。

 空虚に過ぎていく時間を数えることを忘れた頃だった。ガラガラと木製の引き戸が渋い音を立てながら開いて、音の発生源を辿った。そしてその先には数日前に私が堂々と傷つけてしまった男が居た。

 

「……ごきげんよう。早いんですね」

 

 そういうと彼は定位置ではなく、いつも座っている席の向かい側、私の腰掛ける場所からいつもより距離が近い席へと移動した。こうしていつもより近くでじっと横顔を見ていると、思った以上に端正な顔立ちをしていて、なんだか神秘的、いや、畏怖を感じてしまうほどの幻惑を感じさせる空気が立ち込めている。

 

「……何か、ありましたか?」

 

 私がその畏敬すべき厳かさに釘付けになっていると、その陶酔を悟ったのか彼の方から声をかけてきた。ここに足繁く通うようになってしまった目的は、心がキュッと苦しくなるような感覚、それでいて浮遊感もあるこのざわつきを確かめたかったからなのだ。だから私は、元凶とも形容できる、謂わば私を根本から狂わせていた絵を、彼の絵を求めたのである。

 

「……もう一度、絵、見たいな」

 

「絵を、僕のですか?」

 

 私のそんなお願いに対して、彼はかなり渋っているようだった。そりゃそうか。『変な絵』と言われてしまうのかもしれない、そんな風に思いながら自分の絵を見せられる勇気がある人間が、この世にどれほどいるだろうか。そう考えていた矢先だった。

 

「いいですよ、はい」

 

「……え?」

 

 意外にもあっさりと、拍子抜けであった。絶対に見せてもらえないだろうな、なんて半ば諦めながらのお願いであった。けれど彼は私に堂々と、誇るような態度ではなく、毅然とした雰囲気のままに、作品を仕舞っていた棚から引っ張り出してきたその絵を見せた。仮にもコンクールで頂点を獲った絵をそのようにある意味では粗雑に扱っているのは、彼なりの葛藤の結果なのかもしれない、そんな答えのない妄想を広げながら、私はざわつきの震源たる絵を見つめた。

 

「……どうですか。僕の絵は、変ですか?」

 

「……ううん。変じゃ、ないと思う」

 

「変だと思ったなら、気遣いなんてせずとも、変だと言ってください」

 

「え?」

 

 私には『変であること』、即ち『普通でないこと』がよく分からなくて答えを濁してしまった。それは一瞬で見抜かれてしまったようで、彼の純真で、それでいてどこまでも深い闇を背負った瞳から放たれる視線が交錯した。

 その瞳に宿っていた、『普通でないこと』への恐れのような感情は、もしかすると私がかつてとーこちゃんたちに絵のことを知られるまで、いや……それからもずっと、今でさえ抱いている絵に対する評価への根源的な恐怖を凌駕しているのかもしれない。他人の感情と自分の感情を比べるなんて出来ないけど、それでも私のちっぽけな、受け入れてくれる人が少なくとも近くにいる安心感で軽減された私の恐怖よりも、大きいもののように思えた。

 

「変な絵だと思うのであれば、それでも構いませんから」

 

 いや、私が分からないのは彼の絵が変であるかどうかではなかった。正確に言えば、彼の絵が変であると評価されることに対して彼がどう思うのか、それが分からなかったのだ。

 何故私がそんな絵の評価に対する他人の感情なんてものに目を向けようとしているのか、自分でもよく分からないのだが、強いて一つ理由を挙げるとすれば、かつての私とどこか似ているから、とかになるのであろうか。

 

「……私がこの絵を、変な絵だと言ったら、どうするの?」

 

「そう……ですね。自覚は、ありますから。自分の感性が普通の人とはかなり……いえ、全く違うということも。だからきっと、そんな僕の作る絵が変だと言われるのは、仕方ないんだと思います」

 

 中等部の頃、『広町さんって私達と住んでる世界が違う気がする』と言われた時のことをふと思い出した。あの時の私は変な話だが、自分の絵の才能を恨んだ。周囲と比べてズレていることを自覚していて、周囲の普通の人たちに溶け込もうとしたのだ。だから変な絵を封印して、みんなの目に触れないようにした。

 

「私がその絵を変だと言ったら、悲しい? 寂しい?」

 

「悲しい、とは?」

 

「みんなの描く絵とは違うから、周りの人から変な目で見られるから、辛い?」

 

 私の問いかけに、彼はすぐさま答えるわけでもなく、徐に腰を上げた。木の床が体重の移動とともに唸り声を上げて、段々と私の元から離れていった。彼がどうにも形容し難い空模様を映し出した窓の方へと歩み寄ると、か細い声が聞こえてきた。

 

「広町さんは、周りと違う絵を、変な絵を描くと、周りの人から白い目で見られて辛いんでしょうか?」

 

「え? ……私は、辛かった……かな」

 

「今はそうじゃない、と?」

 

「……うん。今はもう、私の絵を上手いと褒めてくれて……、ただ褒めるだけじゃなくて、私の絵を見ても私に対する態度が変わらない人が居てくれる、から」

 

「なるほど」

 

 私にとってMorfonicaのみんなは、私がどれほど変な絵を描こうがそれを受け入れてくれる存在だ。だから、そういう意味では今はそれほど辛くはなかった。勿論それ以外の友達に絵のことを隠し通すのは辛い部分もあるけど、私が普通でいることで変わらない仲で居てくれるなら構わなかった。絵以外の部分だって、真ん中を、中庸を貫き通せば、誰も私の変な部分に気がつかないでいてくれるから。

 私がどうにか心の奥底に澱みとして溜まった膿を言葉にして伝えると、窓を向いて話していた異端児が振り返り、目と目が合った。その瞳は揺れていた。

 

「でも、他の人は、ただ褒めるだけの人は、態度をころっと変えて離れていく人に対しては、どうするんでしょうか」

 

「それは……、私は、基本他の人に絵は見せないようにしてるから」

 

「バレない、と」

 

「……うん」

 

 そうだ。私は言ってしまえば、Morfonica以外のみんなには偽りの私を、普通である私を見せようとして逃げたのだ。私の答えを聞いた彼は、ゆっくりと元いた椅子を通り過ぎて、私の隣のチェアに腰掛けると、白い線の入った天井を見上げた。

 

「僕とは、違うんですね」

 

「え?」

 

「僕は、自分の絵が変だと言われても仕方ないと思っていますし、それで人が離れていくなら、それでも良いと思っています」

 

「……離れていっても、いい?」

 

 彼が言うには、感性のおかしな自分の描く絵を否定されようが、それで気味悪がられて態度を変える人がいてもいい、そういうことらしい。私とはある意味で真逆だった。芸術がわからないやつには好きに言わせておけば良いと言えば少し乱暴だが、そんなニュアンスにすら聞こえた。

 

『変な絵であることは、独特な世界に生きる絵は、悪いことでしょうか?』

 

 数日前のこの質問はどうやらそういう意味だったらしい。数日前の私は、正直『本物の天才』の無意識の驕傲だと思っていた。でもそれは私が僅かにでも嫉妬をしていたからかもしれない。謂わば卑屈と目の前の『天才』への苦し紛れの嫌味である。

 

「広町さんが、羨ましいんです。自分の絵を見せても、いつも通りで居てくれる心優しいご学友がいる広町さんが」

 

 けれど、私はそんな風に甘く考えていた過去の自分が恥ずかしくなった。結局、目の前の『本物の天才』、いや、哀れな業を背負わされた天才は過去の自分と一緒なのだ。孤独に打ち震え、怯える自分を奮い立たせて、自分の好きなものと向き合い続けようとするための強がりを言って見せただけで、あの時の私と何一つ変わらないじゃないか。

 でも、かといって私がそれを慰めるだけの言葉を持ち合わせているわけではなかった。私はただ、そんな去っていく人たちを作らないために普通を演じて、繋ぎ止めて、偶然私を受け入れてくれる人と出会っただけだから。アドバイスなんて高尚なことは出来ないし、きっと普通を演じることすら彼にとっては苦しみなのだ。だから割り切ったように振る舞って、受け入れ難い孤独を受け入れようと格闘しているのだ。

 

「僕は変なところで頑固ですから、普通の絵を描こうとしても、出来ないんです。だから、羨ましいんです」

 

 僅か1m足らずの距離で、同い年とは思えないほどに悲哀を知った瞳を遠くに向ける彼の話を聞いて、私の心のざわめきはいつの間にか鳴りを潜めていた。まだ彼のことを知って一年も経っていないのだが、彼の胸の奥底に仕舞い込まれた傷跡は手にとるように分かった。

 私はどれほどの時間か分からないが彼の透き通るような鋭い黒瞳を見つめていた。何度も揺らいだその瞳を見つめているうちに、かつての私よりも八方塞がりの彼の心に、私はいつの間にか触れていた。何故か赤くなった手で、私は彼の頭頂部を隠すような膨らみを上から押さえつけていた。私の突然の行動に物思いに耽っていた彼は驚いてこちらに振り返る。

 

「……ふふっ」

 

 私は何か言葉をかけるでもなく、自分よりも小さく見えた悲しき天才の頭を撫でていた。立った時は私よりも身長が高かったはずなのに、その背中は小さく見えた。まるでノイズに隠した幼い背中のようだった。だから私は手を止めたりなんてしない。顔に吹き上がる恥ずかしさを隠すために、ご利益がありそうだな、なんて考えながら。

 

「広町さんは、僕から、離れていかないんですか?」

 

「……んーん。離れていったら、寂しいでしょー?」

 

 私は誰よりも、身近な人たちが離れていく辛さを知っている。それでいて、近くにいる親しい誰かが傍にいてくれる安心感も知っている。それが同情という、上から目線の驕りであるか、信頼という、対等な癒しであるかはまだ分からないが、少なくとも今この瞬間は、無駄に大人びてしまった、幼い天才の傍に居たいと思った。

 

「寂しい……ですか」

 

「……あれ、あんまり?」

 

「……いいえ。寂しい、です」

 

「そうでしょー?」

 

 私たちは二人とも不器用であった。『天才』だからなんでも出来るのかと問われればそうではないのだ。似たもの同士だからこそ、今の彼の気持ちも想像がつく。

 

「……でもちょっと、その、恥ずかしいです」

 

「……うん。私も」

 

 恐ろしく不器用であるからこそ、私たちはこうして素直になれたのかもしれない。気持ちを、いや、それこそ絵だって明かすことはとても怖い。だけど、今だけは不思議と伝えたいと思ったのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【若宮 イヴ】アナタに捧げるブシドーは

「時代劇……! まさにブシドーですね!」

 

「あはは、イヴ、ずっと楽しみにしてたもんな」

 

 ソファに二人で腰掛けて、その始まりを今か今かと待ち侘びていた。私の興奮する姿に、隣に佇む彼は大人びながらも温かい眼差しを向けていた。私はそんな温かな目線を浴びながら、これから始まる時代劇に輝くブシドーに想いを馳せていたのである。

 武士道には七つの教えがある。義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義である。その中でも、私が特に共感したのは、礼、即ち他者を思いやり、礼儀を尽くすことと、誠、即ち一度決めたことを貫き通す心である。その二つの教えがあるからこそ、私は理想のブシドーを追い求めるようになったのである。

 その日も、私はブシドーを探すために、武士道の魂が宿った映像を観ていたのだ。隣に腰掛けた私の恋人——ある意味では私が忠義を誓った、ブシドーを尽くした人——と共に。彼は私ほど武士に興味を持っているわけではないだろう。しかし、一緒に武士の世界を知ろうとしている優しさは、私が見習うべき仁の心の表れであった。

 

『殿……。お命、頂戴致す!』

 

『この……謀りおって! 返り討ちにしてくれる!』

 

 けれども、私の意識がその仁からすっかり奪われてしまう程度には、目の前の物語は佳境を迎えていた。

 ブシドーを学ぼうとする者であれば、かつて武士道に生きた人々を学ぶことは当然であると、元はその思いで見始めた時代劇であった。そして、暗い部屋に青白く光るテレビの画面では、今まさに命の奪い合いが始まろうとしていた。それも、謀反である。歴史上起こった、とある武士による主君への裏切りであった。

 

『裏切り者が……。貴様が、天下を、獲る日など……』

 

『家臣にすら信を得られぬ者の天下も、万に一つもなかろうな』

 

 かつて主君に忠誠を誓った家臣が、瞬く間にその主君を裏切り、謀反を演じて見せたのを見て、私は呆気にとられたのだ。その瞬間、私の中のブシドーが、音を立てて崩れ去った。テレビに映る、裏切りを重ねた似非武士の騙るブシドーに、私のブシドーはすっかり黙り込んでしまったのである。

 

「これが武士道かぁ……」

 

「え?」

 

 私は能天気で中身の乏しい感嘆に、驚きと呆れの声が混じった反応を返した。武士道のかけらもない、忠義を尽くし、自分の身を差し出してでも守ると誓った主君を、あろうこと自らの手で葬り去る愚か者の所業を、彼は武士道と呼んでいるのである。

 

「何故武士道なんでしょう? これは裏切りの場面では?」

 

「え? 謀反はそうだけど、己が主君に代わって天下を獲ると誓った、武士道のシーンじゃないの?」

 

「こんなの、ブシドーじゃありません!!」

 

 未だに残党の粛清の続く場面を迎えていたテレビの音量が聞こえなくなるほど、私の叫びは部屋に響めいていた。私の声ですっかり勢いを失った紛い物のブシドーに、私は必死になって反駁していた。

 

「ブシドーは本来、自らの意思を貫き、仲間を想う心であるはずです! 盃を交わして主君を守ると誓った言葉を台無しにして、主君を殺めたどこにブシドーがあるのですか!!」

 

 それはブシドーからはあまりにかけ離れていた。私の生きる芯、何よりも尊いブシドーを冒涜するような武士道の出現が許せなかった。今になって思えば、これは私と彼がした、ほぼ唯一と言っていいほどの喧嘩かもしれない。普段は、喧嘩なんてしない上、互いを思い遣ればすれ違いなんて起きないから。

 けれど、今この瞬間だけは違った。いとも容易く自らの言葉——自らの主君を絶対に天下に導く——を覆したそれをブシドーと呼ぶことが許せなかったのだ。

 

「武士と言ったって……」

 

「武士に二言はないんです! 主君を守ると決めたのであれば、それをやり遂げるべきです!」

 

「でもその主君を守るつもりが」

 

「でももキュウリをありません! 私はこんなものをブシドーだとは認めません!!」

 

「それを言うならヘチマ……って、イヴ……」

 

 私は嘘言だらけの似非武士が目指す武士道にも、言い訳塗れの似非武士道を語る彼にも嫌気がさして、部屋を飛び出してしまった。自分が全く見たことも聞いたこともない、謂わばこれまでブシドーであると思ったこともない考えをブシドーであると言い張るような不誠実なブシドーが、私には考えられなかったのだ。

 どの道そろそろPastel✽Palettesの活動で事務所に向かうことになるのだ。予定でもあの時代錯誤の時代劇を見てから家を出ることにしていた。精々少し早く事務所に着くぐらいだろう、だなんて考えながら、私は家を後にした。

 

「……話を聞いてくれたって、いいのにな」

 

 義を願っていた哀しい声を私が聞き届けることはなかった。

 

 

 

 

 

 予定よりも何本も早い電車に乗って、私は事務所に辿り着いていた。普段から早めに目的地に到着することを心掛けているが、ここまで早くに着いたのは初めてかもしれない。遅刻をしてしまっては、誰かを待たせてしまうかもしれない。そんな配慮から現れた私の行動、それはまさに仁の表出そのものであった。

 それに、早く着けば練習も出来るし、そんな姿を褒めてもらえるかも知れない。少し小賢しい考えを抱きながら、私は扉を開いた。

 

「たのもー! なんて……誰も居ませんよね」

 

「……え? イヴちゃん?」

 

「え、アヤさん?」

 

 誰よりも早くレッスン室に着いたと思って、消えかけていた声は僅かな羞恥心と一緒になって溶けていった。控室に人のいた形跡が全く見えなかったものだから、一番乗りであろうと勘違いしていたのだ。

 けれども実際には、私が意気揚々と扉を開けると、アヤさんが鏡の前でプルプルと凄い体勢のままこちらに振り向き、私の来訪に驚いていた。その姿は幾分か滑稽で、それでいて愛らしさに溢れていて、私は少しの間その光景に見惚れていた。

 

「イヴちゃんいつもより早いよね? いつも早いけど、こんなに早く来てるの?」

 

「いえっ。その今日はたまたま……」

 

「そっかぁ。あっ! じゃあ折角だからイヴちゃんも一緒に練習しよっ?」

 

「練習、ですか?」

 

 私はアヤさんに手招きされたが、持ってきていた鞄が邪魔だったので、取り敢えず手持ちの荷物を壁際に下ろす。その時、アヤさんから声がかかった。

 

「なんだか今日のイヴちゃん、あんまり元気ないね」

 

「えっ?」

 

先程から自分にとって予想外の出来事が続いていたせいか、私の頭では処理しきれないような情報量にパニックになる。アヤさんが何故そんなことを聞いたのか、私にはあまりよくわからなかった。

 

「そんなことないです! 元気、元気ですよ!」

 

 私は空元気でアヤさんの疑問に答えつつ、アヤさんに元気だと思って貰えるように両腕で頼り甲斐のある力瘤を見せた。アヤさんの私を見つめる瞳はどこか訝しげであったが、それでも私の心に巣食う葛藤を見抜くことはできなかったようで、分かりやすい溜息が漏れていた。

 

「その、私にはイヴちゃんが何で悩んでいるか分からないけど、辛いことがあったらなんでも言ってね?」

 

「辛いことなんてありませんから! でも何かがあったらすぐに言います! お気遣い感謝です!」

 

 いつも以上にアヤさんの語気が強く、その威圧感にたじろぎながらも私は精一杯の元気を装って見せた。それを見るなり、アヤさんは再度壁一面のガラスに向き直して、新しく練習中の楽曲のフリを確認し始めたようだった。

 なるほど、それでこんないつもよりも早い時間にレッスンに来たのに先客がいたのか。アヤさんは私たちが次にステージで披露する曲に向けて、早めに着いて練習に励んでいたのだ。しかもその額から零れ落ちている汗を見ると、その練習にかけている時間は相当だろう。梅雨でジメジメとした季節であるからこそ、部屋の中は空調が効いて涼しくなっているはずなのに、アヤさんの周囲には熱気が漂っていた。

 

「——」

 

 アヤさんは辿々しく、小声で歌いながらフリを確かめながら、自分のなすべきことに励んでいた。その努力の姿勢に頭が上がらないのは今に始まった事ではないが、必死に練習するためにスタジオに早く入ったアヤさんと、喧嘩擬きが要因で何の目的もなく、つまらない事を思案しながらスタジオ入りした私。自分の愚かな考えが酷く恥ずかしくなっていた。

 

「……ってわっ!」

 

「え?」

 

 私が数分前の自分の浅はかさを恥じていた折、レッスン室に響いたアヤさんの声。私がその声の発生源を知ろうと顔を上げると、アヤさんが体勢を崩して後ろ向きに倒れそうになっている瞬間だった。

 

「アヤさんッ!!」

 

 私はダッシュで駆け寄ったが、気が付いたのがあまりに遅く、アヤさんは後ろ向けに倒れてしまった。受け身は取っていたようで、後頭部を打ちつけたとか、そういうことではなかったようだが、尻餅をついて痛そうに手で抑えるアヤさんの下に屈んだ。

 

「いっててて……」

 

「アヤさん! 大丈夫ですか?!」

 

「イヴちゃんありがとぉ……。う、うぅ……」

 

 最悪の事態が避けられた事に安堵の息を吐きつつも、アヤさんが怪我をしていないか、私はアヤさんに入念に痛いところがないかを聞く。アヤさんは心配させないためか、頻りに大丈夫であると強調するが、私はアヤさんが右足首を押さえている事に気がついた。

 

「アヤさん! 足首を見せてください!」

 

「大丈夫だからイヴちゃん……」

 

「ダメです! 怪我をしていたら大変です!!」

 

 私は半ば強引にアヤさんの手を払いのけて、アヤさんの白く綺麗な肌を凝視した。本来ならそんな白肌が見えるはずが、足首の外側の部分がやたらと赤くなっている。捻挫など、その類いであろうが、アヤさんが今ので怪我をしてしまったことは明らかだった。

 

「アヤさん? 痛いんですよね?」

 

「そ、そんなことは……」

 

「誤魔化しても分かりますよ? えいっ」

 

「いたっ……うぅ。……痛いです」

 

「素直が一番です! 今冷やすものを……!」

 

 普段から救急箱のようなポーチを持ち歩いているから、持ってきていた鞄を漁り湿布なんかをアヤさんに手渡す。アヤさんはバツの悪そうな顔をしながらも、それを受け取ってじっと見つめているようだった。

 

「直ぐに氷貰ってきますから! 待っててください!」

 

 私はアヤさんの返事を聞くこともなくダッシュでフロアの階段を駆け下り、氷を袋に入れてまたスタジオの方に戻ってきた。そして手持ちのハンカチに包み、それをアヤさんの足首に押し当てる。

 

「アヤさん、冷たすぎたりはしてないですか?」

 

「ううん、大丈夫だよ。ありがとうイヴちゃん」

 

「はいっ、なんでも言ってください!」

 

 アヤさんはヘタリとスタジオの床に座り込んだまま、捻った足を放り出し、悔しそうに唇を噛んでいた。私には何故アヤさんがそんな風にしているのかが分からず、ついつい口に出していた。

 

「アヤさんは、どうしてそんなに不満そうな顔をしているのですか?」

 

「え?」

 

「なんだか悔しそうな、そんな表情に見えました」

 

「……新曲の発売も近いし、絶対にみんなをアッと驚かせるぞ! って息巻いてたのに、イヴちゃんに見つかっちゃったり、こんな風にこけちゃったり、私ってドジだなぁ……なんて思っちゃって」

 

「そんな! アヤさんはドジなんかじゃありません!」

 

 少なくとも、私の知っているアヤさんは頑張り屋で、どんな困難なことにでも努力を続けて、実現を諦めない、勇を体現するがごとき人間だった。だからアヤさんが卑下をすることなんてない、そう励まそうとしていたら、先にアヤさんの方が口を開いていた。

 

「ドジだよ? 努力すればなんとかなるなんて思ってるけど、大抵のことは空回りしちゃうし、上手くいくことの方が少ないもん」

 

「それは……。……でも、アヤさんが居るからこそパスパレのみんなは頑張れるんです! 私もそうですから!」

 

 私は思いの丈をアヤさんにぶつけた。何一つ嘘はない。みんながアヤさんの頑張る姿を見ていることで、私たちはパスパレのためにもっと頑張ろうと思える。それはきっとファンのみんなだってそうだ。頑張るアヤさんをみて、勇気を貰っているはずだ。

 

「アヤさんはドジなんかじゃありません、最高のアイドルです!」

 

「……ううん。Pastel✽Palettesをもっと引っ張っていけるようにって、そんなアイドルになるって心に決めたのに、私は全然立派なアイドルになれてなんかないんだなって。私、このままパスパレのボーカルでいても大丈夫なのかなって、今でも偶にそう思ったりするんだ」

 

 鏡に映る自分の姿を悲しい目で見つめながら、アヤさんは私から目を逸らそうとした。だから、自然と私の体は動いていて、両手でアヤさんの顔を包み込んで、強引にこちらを向かせてしまった。アヤさんは大層驚いたように目を丸く、大きく見開いていた。

 

「違います! アヤさんは、アヤさんは私が一番尊敬する、最高のアイドルです! アヤさんが居るだけで私は頑張れます! パスパレを好きで居ることが出来ます! アヤさんのために、私はパスパレを頑張れるんです!!」

 

「イヴちゃん……」

 

 剣道で鍛えられた私の大きすぎるほどの声が部屋中に響き渡った。アヤさんがこちらを見上げる目線と、私の眼差しが重なったような気がした。それまでずっと強張って、影を落としていたアヤさんの表情が一気に柔らかくなって、明るさを取り戻していた。

 

「イヴちゃんありがとう。でも私だって頑張れるのはパスパレが、イヴちゃんたちが居るパスパレが大好きだからなんだよ? ……こんなに信頼してもらえてるって分かって、本当に嬉しいな」

 

「アヤさん……!」

 

「私、これからもパスパレで、イヴちゃんの信頼に応えられるように頑張るね!」

 

「アヤさん! ハグハグっ!!」

 

「わわわっ……」

 

 アヤさんを大切にしたい、アヤさんのためにこれからも頑張りたいという気持ちが胸に溢れて、私は気がつけばアヤさんに思い切りハグをしていた。私の勢いを受け止めきれなかったアヤさんは若干後ろに倒れそうになりながら私を抱き止める。

 不安な心に打ち震えていたアヤさんに全幅の信頼を置いて、励ましの声を掛けている私はきっと、アヤさんに礼の心を向けようとしているのだろう。相手を思いやり、礼儀を尽くそうとする心を向けて、アヤさんへの忠義を示そうとしているのだろう。

 

「えへへ……。こんな私だけど、これからもよろしくね? イヴちゃん」

 

「はいっ、一生お供します!!」

 

 私がそんな宣言をした時、私の頭の中にふっと湧いて出たのは、つい1時間ほど前に見たばかりの時代劇であった。何故今私はアヤさんにお供をするだなんて発言をしたのか、それを考えると腑に落ちたような気がしたのだ。

 

「どうかしたの? イヴちゃん?」

 

「え? いえっ、何でもないです!」

 

 丁度その時、背後の方からガチャリと重たいドアの音が響いた。振り返ってみると、ヒナさんやチサトさん、マヤさんがはにかみながら部屋に入ってきたのだ。

 

「一応話はついたところですかね?」

 

「そーみたいだね。イヴちゃんの叫び、良かったよー?」

 

「……へ?! 聞いていたんですか?!」

 

 どうやらこの三人は私たちが取り込み中と見るや、ずっとドアの影からその様子を伺っていたということらしい。しかもアヤさんもその存在を全く悟ることなく、私と話し続けていたらしい。

 

「そんなぁ。見てたなら入ってきてくれても良かったのに!」

 

「水を差すのも憚られたもの。それにしても……、イヴちゃんが一番尊敬するアイドルは彩ちゃんだったのね……」

 

「そっかー、あたしたちじゃ勝てないもんねー」

 

「残念です」

 

「……えっ?! そういうわけでは!」

 

「私が一番って言ってくれたのは嘘だったの……?」

 

「それは……!」

 

「ふふっ、分かってるわよイヴちゃん。私も、彩ちゃんは凄いアイドルだと思うから」

 

「むぅ、それならそんなに揶揄わないでくださいっ!」

 

 アヤさんやヒナさん、チサトさんにマヤさんがいて、私がいて、今のパスパレがある。その中でもアヤさんの存在は一つ大きいところがあり、絶対的な支柱としてのアヤさんを私は信頼していた。そういった思いやりの心を持つからこそ、ずっとアヤさんの側に居たいと思うのであろうし、それを相手に言葉にして伝えているのだ。

 そんなわけで、また一つ、レッスン室に笑い声が満ちているのだが、私は早く家に帰って、ブシドーのすれ違いを埋めたいという想いに駆られるのだった。

 

 

 

 

 

 レッスンが終わった帰り。私の足取りは朝のそれよりも遥かに軽かった。むしろ、何よりも早く彼に会って、先程の何も見えていなかった自分のことを謝りたいと、そう思っていたからであった。

 

「ただいま帰りました!!」

 

「イヴ、お帰り」

 

 何の連絡もしていなかったけれども、私が大声で帰宅を知らせると、待ち構えていたように彼が出てきた。彼の顔を見た瞬間、頭ごなしに言葉を、考えを否定してしまった苦々しい経験がフラッシュバックする。けれど、その黒い記憶を掻き消すように彼に駆け寄った。

 

「わっ……。危ないよ?」

 

「……さっきは、ごめんなさい! 私は……」

 

「……良いんだよ。お腹空いたでしょ? ご飯食べよう?」

 

「え?」

 

 手を引かれるがままに私がリビングに辿り着くと、ダイニングテーブルには私の食欲をそそるようなご馳走の数々が並んでいた。

 

「なんで……」

 

 もしかしたら、私がパスパレでご飯に行くという可能性も十分考えられたはずが、喧嘩して連絡もよこさない私のためにご飯を作ってくれていたのである。

 

「もしイヴが来てくれた時に、お腹が空いてたら早くご飯食べたいでしょ?」

 

 その時私は心の奥底が温かくなった。私がいつのまにか見失いかけていた思いやりと礼節を尽くす、礼の心の表れを見たのだ。それがこの上なく嬉しかったと同時に、どこまでも幼稚だった自分が辛く、情けなくて私の目からは思わず。

 

「わっ、ちょ、イヴ? どうしたの? 何か嫌いなものあった?」

 

「ちがっ……違うんです……!」

 

 ブシドー。私にとっては確かに一つの大事な精神ではあったが、それを理由にここまで周囲を振り回してしまうなど、それでこそ礼が欠けていたのだ。

 生涯をかけて尽くすと誓った主君を裏切る家臣を見て、私は誠に欠ける、武士として失格であると口酸っぱく主張していたのだが、そんなことが言える立場ではなかったのだ。

 

「私は……武士失格です……! 自分を棚に上げて、主君への忠誠の言葉を反故にする裏切り者の武士道の精神に文句を付けていたのですから……!」

 

「イヴ……?」

 

「私がアヤさんとの誓いに触れ合った時、薄らと分かりました。私はアヤさんのことを信じているから、アヤさんに礼を尽くしたいと思っているからこそ、その誠を貫こうとしているんです!」

 

「……そっか」

 

 口数の少ない彼の目は、とても優しい目をしていた。先程はこちらから酷く理不尽な拒絶をしてしまったというのに、それすらも包み込むような温かい目をしていて、私の気持ちはさらに熱い気持ちで溢れそうになっていた。もはや、ただのハグだけでは抑え切れないほどに。

 

「イ……ヴ?! ……っ」

 

「んっ……」

 

 私にハグされたまま立ち尽くしていた彼の体を逃さないようにしてから、口付けを残した。一昔前までの自分なら、はしたないと思ってしなかったであろう。ゆっくりと、心を通わせながらのキスだった。

 

「……ただの一時の恋愛感情ではなく、信頼を形にしたかったんです。私が貴方に想いを伝えた時、恋人としての忠義を誓ったあの時を思い出すように、燃え盛るような気持ちを形に残したかったんです」

 

 私が思い出していたのは、私の辿々しい告白に優しく応じてくれる彼の姿だった。特殊な立場にあった私という存在を恋人として受け入れてくれたその優しさを、丸ごと享受できていた頃の胸の温かさだった。

 

「あの時、抱いていた貴方を愛おしく想う気持ちを、また伝えたいと思ったんです。あの時の自分の意思を貫きたいと、時代劇の裏切りの家臣のようではなく、死ぬまで貫き通したいと思ったんです!!」

 

 まるで私が今なしていることは、プロポーズのようなものであった。結婚なるものには漠然とした憧れのようなものを抱いてはいるが、それは絵空事のような感覚もあった。だが、今の私の気持ちは、まさに初志貫徹、あの時の素直な愛をずっと貫き通したいと、誠の心を持ち続けたいと思ったのである。

 

「だから、……えへへ、キス、しちゃいました」

 

 いざその気持ちを伝えるとなると、ものすごく恥ずかしく感じてしまったが、それでもこの気持ちをスッと伝えられたことに後悔はなかった。礼から生まれた忠義の誠を、目の前で私を見守り続けてくれる恋人に注ぎ続けたいと思ったのだから。タブーだとか、不純だとか、そのようなまどろっこしい柵を全て無視してまで、信頼を続ける思いを貫きたいと、そう思ったのだから。

 

「……ダメ、でしたか?」

 

「ダメじゃないよ」

 

「はいっ、ブシドーです!」

 

 私の心を惑わせ続けたブシドーは、いつしか口癖のように私の側に居続けていた。感情の昂りをその言葉に乗せてぶつけるのだ。

 

「……イヴにとっての、ブシドーって?」

 

 その問いは今まで頂いたどの質問よりも難解で、むしろ私が気持ちの整理を付けた時の考え方よりも形にするのが難しかったかもしれない。武士道の精神に含まれる考え方の中でも、特に礼と誠を大切にする。それに留まらない、忠義を尽くすこと、諸々を含めてそれはブシドーと言えるのだと思った。

 

「私が貴方に真っ直ぐな気持ちで向き合い続けられること、それが私にとっての、ブシドーです!」

 

 すっと抱き寄せられた私の体は温かな腕に包まれていた。先程までの自分の昂りの返事のような熱さに脳が溶けてしまいそうなほどだった。

 私の顔はきっと、凛々しくも笑顔で満ちていたに違いなかった。

 

 

 

 

 

 私はまた、録画されていたあの時代劇を二人で隣に座って鑑賞している。シーンとしては、忠臣とされていた家臣が葛藤の末、主君を裏切ったあの謀反のシーンである。

 あの時はよく分からなかったが、今ならばこの裏切りのシーンもブシドーだったのであると、よく分かるのだ。

 

「この家臣、確かに主君を裏切って首を討ち取るけど、武士道に生きてるんだよな」

 

 一見すればその意見は、武士道とは程遠いと感じる人が大半かもしれない。それはまるで初めてその光景を見た時の私の考えと同じように。謀反だなんて、天下を獲るまで仕え続ける忠臣としてあるまじき、謂わばずるいと言えるような行為だと。

 

「主君に代わって天下を獲る。それは確かに過去の自分の忠誠心を覆すことになるって思うかもしれないけど、そうじゃないんだよね」

 

 主君の首を討ち取る、かつての忠臣の表情はまるで、苦しんでいるように見えた。そこには、ただ自分こそが天下人になるのだという欲望だけがあるわけではない。

 

「その主君に仕えたいと、謂わば思いやりと礼節を尽くす心が消え失せてしまったんだから、最早過去の自分の言葉、イヴの言うような誠を貫くことすら出来なくなってしまったんだよ」

 

 自分の意思を貫く強さがなくなってしまったのは、その人自身が弱くなってしまったり、目先の欲に目が眩んだのではなく、その意思の根幹となる忠義が、相手に尽くそうとする礼がまるで消えてしまったからであった。だからこそ、かつての忠臣が主君の首を討ち取る時の表情は、決別の感情を浮かべているのである。

 

「そこまで見抜いていたなんて……私もまだまだ修行が足りません……!」

 

「イヴだって、自分なりのブシドーを持っているなんて、素晴らしいと思うよ」

 

 彼の優しい言葉を聞いていると、己のブシドーの源泉が見つかるように感じるのだ。

 

「……私は、信頼から生まれる誠を知りましたから!」

 

「……うん」

 

「ずっと、ずぅーーっと、この貴方を思いやりたいという気持ちを大切にして、ブシドーを磨きながら、自分の意思を貫きます!」

 

「……嬉しいよ。イヴ」

 

「はいっ! 私はずっと、貴方の傍で思いやりを、礼を尽くすことを誓いますから!!」

 

 パスパレを通して知った誠の源泉。その本質はただ自分の意思を貫くことだけではないと知った。ブシドーのそれは、ただ一つで存在しているものではなく、それらの総体がブシドーである。一つ一つの教えを大切にするのは良くても、固執すれば良いのではない。

 今私は目の前で笑みを浮かべる彼に心を尽くしたいと思っているからこそ、誠の精神を貫こうとしているのである。

 

「わっ……。どうしたの?」

 

「……いえ、こうしたいと思っただけです!」

 

 テレビでは謀反を企てた首謀者が討ち取られていた。各々の抱えた武士道の衝突がその結果に至ったのである。思惑が行き違えば刺し違えるのがその世界。

 もしもあのすれ違いの歪みが大きくなっていたら、そう考えると僅かな不安を覚えた。勿論今の世界と劇の世界は違う。けれど、もしもすれ違いの結果、彼と決別することになれば、それは私にとって途轍もなく哀しいことである。

 だから、そうはならぬように、私の心の中で穏やかに育んでいた思いやりの愛を、静かに彼に伝えているのだ。ブシドーの言葉に隠された愛の意味を確かめながら。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【宇田川 あこ】ゲームの外のカッコよさ

 あこがいつも求めているもの。それはカッコよさ。

 あこを聖堕天使あこ姫として認めてくれるゲームの世界は、何の否定の余地もなくあこにとっての桃源郷だ。何も取り繕わなくても、あこの思い描くカッコよさをそのまま表してくれる。あこのなりたいと思うカッコいい存在になれる、それがゲームの世界だった。

 

『やったぁ! レイドボス撃破!! 我が漆黒の力が彼の地を守る地獄の門番を打ち破ったり!!』

 

 あこの頭の中に思い浮かんだ雰囲気を醸し出すような字面がチャットで流れて、パーティーメンバーのみんなもそれにノリ良く返してくれる。確かに所謂オフ会でリアルな顔を何度も見た仲、つまり現実の世界での関係もあるわけだが、ここにいる皆が、この夢の世界に入り浸って関わっている。謂わば、あこが理想とするような摩訶不思議な力を自由自在に操れる世界のもとで、仲間とその世界で闘い続けることができる。それだけであこの心は満たされた。

 

「ふぅ」

 

 その瞬間、世界は色を変えた。

 レイドボスを倒してちょっとだけ息を吐いて、画面から一瞬目を離す。すると、生まれてからずっとそこに居たと錯覚しそうな作り込まれた世界もそこにはなく、黒く縁取られた派手な色のフィールドに動くアバターの群れの中で楽しんでいたことを嫌でも自覚する。

 もちろん、ネカフェでゲームをプレイしているに過ぎない以上、あこが聖堕天使あこ姫であるという事実はこの世界において全く存在し得ない。それは理解しているつもりでも、ふと現実に引き戻されるこの瞬間は、自分がまるでカッコよくなれていないようで途轍もなく嫌だった。

 

『あこちゃん? どうかした? (´・_・`)』

 

『なんでもない!』

 

 パーティーみんながレイドボスを倒して、フィールドの物色に励んでいる中、リアルの嫌悪感に引き摺られて何も動かないアバターを心配したりんりんからチャットが飛んでくる。

 今日はRoseliaのみんなとプレイしているわけではない。そもそもりんりんや紗夜さんはまだしも、リサ姉や友希那さんが参加してくれる機会は滅多にないし、紗夜さんもその気にならないと中々プレイしてくれない。

 そんなわけで必然的にりんりんや、いつもNFOを一緒にプレイするネット上の友人と、その理想の世界を遊ぶことが多かった。あこがカッコいいあこで居られる世界に生きられる時間は、Roseliaのみんなとプレイするよりもそれの方が長かったのだ。

 

『二人とも、宝箱とかいいの?』

 

『レアドロップしてますね! 今行きますね (`・ω・´)』

 

 パーティーメンバーに声を掛けられてりんりんのキャラがレイドボスが最後に朽ち果てた方へと駆け出していく。黒い枠のギリギリにまでりんりんが消えていくのをみて漸くゲームの世界のことを思い出したあこは、急いでキーボードとマウスに意識を戻す。

 

『これあこちゃんがずっと欲しがってた装備! いつもこの装備の話してたもんね、良かったねあこちゃん (o^^o)』

 

 その枠の縁の方に出てきたポップアップにあこはハッとさせられて、NFOの世界——聖堕天使あこ姫が生きる世界——と、現実の世界——あこが宇田川あこである世界——の境目がドロドロと混じり合っていく。そんな不思議な世界の融合が頭の片隅をよぎるだけで、あこがカッコよくないと後ろ指を指すような人間の囁きが聞こえてきた。

 何度も頻繁に動きを止める聖堕天使あこ姫を心配してなのか、現実世界とリンクするトリガーが何度もあこの目を奪い、思考を奪う。いつもなら気にかけてくれるりんりんの音のない声が、今日だけは煩わしく聞こえた。それでも延々とその声を無視し続けるわけにもいかず、心配はかけないようにしなきゃと頭の中でグルグルと思い浮かんだ適当な文句を並べてタイプした。

 

『家族がちょっと部屋に乱入してきちゃった! 一旦落ちます!!』

 

『えっ? あこちゃんドロップアイテム何も回収してないよ ∑(゚Д゚)』

 

『また後で!』

 

 物凄く短いメッセージを送り、ダンジョンの中なのにあこはログアウトを押していた。それまで茶色ベースのダンジョンの背景を見続けてきた瞳は、画面暗転の僅かな闇に吸い込まれて、そこに映るあこが宇田川あこであることに気がついてしまう。

 これだ。これこそが嫌なのだ。嫌だとわかっていながらも、自らが聖堕天使あこ姫であると認識をするためには、後々これをいつか経験しなければならない。一時の自己陶酔の尻拭いとして、この罰は甘んじて受け入れなければならない。あこが聖堕天使あこ姫であると思い続ければ思い続けるほど、あこは宇田川あこであると認めなければならないのだ。

 カッコ良さを求めるためにNFOの世界に浸かり込んでいるというのに、浸かり込んだ結果は聖堕天使の織り成すカッコいい世界には遠く及ばない現実世界へのリンクだった。

 

 こんこんこん。

 

 そのノックの音で自分自身がネカフェの世界に居たことを思い出す。視界の端に映ったタイトル画面から目を背けながら、あこは振り返って扉がゆっくり開いていくのを見つめる。

 そこに立っていたのはりんりん。そうか、今日はいつもと気分を変えようと、家でプレイするのではなく態々ネカフェに来てNFOの世界に入ろうとしていたのだった。りんりんの登場であこの頭の中は急に冷えていくように、思考がクリアになっていた。

 

「あこちゃん……何かあった?」

 

「え、何かって?」

 

「その……、あこちゃんが……ずっと欲しいって言ってた、『古を屠りし悪魔の杖』がドロップしたのに……、ログアウトしちゃったから……」

 

 なんだ。ゲームをプレイするために訪れたネカフェの扉が開いてりんりんが訪れたのだから何事かと思えばその程度か。何か頼んだ料理が届いたりだとか、利用時間を尋常じゃないほどオーバーした客を注意するだとか、そんなことが無い限りネカフェの扉が開くことなんてないのだ。だから、そこに現れたりんりんが何かおぞましいほどの何かに気がついたからだとか、そんなことかと思ったら。

 

「ネカフェでプレイしてるって……言ってたのに、家族が来たってあこちゃん言ったから……、みんな凄く心配してて……」

 

 そういえばさっきそんな嘘を吐いたっけ。その嘘だけ聞けば、ノックの後扉を開けて入ってきたのはおねーちゃんみたいだ。あこがカッコいいと憧れを抱き続けるおねーちゃんが、あこのことを心配して色々と気にかけてくれる瞬間の時のように。あこがある意味目指すべき理想の姿の一つを体現しているおねーちゃんの来訪と勘違いした。

 

「あこちゃん……? さっきから、……大丈夫?」

 

「え?」

 

 あこが聞き流していただけで、どうやらりんりんはあこに色々と話しかけていたらしいが、まるで聴こえていなかったあこはりんりんの方に視線を向けた。それまでぼんやりと、朧げながら茶色い壁の隙間から浮かび上がっていたおねーちゃんの像がどんどんと薄くなっていく。それまで目が冴えるほどの煌々と燃える紅を放つ髪色は、暗い店内の照明に染め変えられるように黒へと変わった。もう一度目をパチクリと瞬きすると、そこにいたのはおねーちゃんじゃなくて、ずっとあこのことを心配してくれていたりんりんだった。

 

「あっ、りんりん! えっと……何か言ってたっけ?」

 

「その……、『古を屠し悪魔の杖』が折角ドロップしたけど……、あこちゃんがログアウトしちゃったから……、その、拾ってないよね……?」

 

「……え? ……あぁっ?!」

 

 あこの脳内で、手強かったレイドボスが膝から崩れ落ちていく姿がもう一度再生され、その体から飛び出した宝箱が光り輝いていた様を思い出した。そっか、チャット欄があまりに騒がしかったのは。

 

「あこの欲しかった杖が?!」

 

「あ、あこちゃん……ここ……お店……!」

 

「あっ!」

 

 りんりんに言われてふと現実を思い出した。そういえば今あこは、宇田川あことしてこのネカフェの利用客になっているのだ。だからこのように騒ぎ立てるのは宜しくないのだと。

 それと同時に、もう一つ嫌なことを思い出してしまった。嫌なことと言えば語弊もあるのだが、あこの親友であるりんりん、ということだ。これだけだとりんりんが親友であることが嫌だと、そう聞こえるかもしれないがそうではない。聖堕天使あこ姫とパーティーを組むRinRinではなく、今目の前にいる私の大親友であるりんりん。その現実に辟易としてしまい、嫌な気分に浸っているのだ。

 公共の場で騒いでしまうあこを優しい言葉で嗜めてくれるりんりんは、現実世界にいるりんりんなのである。

 

「……ごめんなさい」

 

「分かれば……大丈夫だよ」

 

 いつものあこなら、超低確率でしかドロップしないレア装備を取り逃したショックで、内なる邪悪な欲望を喰らう悪魔に唆されて発狂してしまいそうなほどなのに。どういうわけだろうか、今のあこには、そんな超ショックな出来事すらも些細で、唾棄すべき過去の幸せの残滓に思われた。

 

「あこちゃん……」

 

 あこを心配するような、憐れむようなりんりんの声は、回線に隔絶されたあこ姫に届いてはいなかった。

 

 

 

 

 

 それから少し経ったからだろうか。以前から親交のあるパーティーメンバーとのオフ会の日だった。オフ会とはいえ、仮にも学生の身分であるあこや、りんりんは自衛も考えて、休日の昼間の時間に街に繰り出して、ちょっとご飯を食べるぐらいだ。

 りんりんは人見知りだから、あこが守らなきゃいけない。それはまるでお姫様を守る騎士のような気概だった。まぁ、守ると大層な物言いをしたところで、所詮は幾度となく同じパーティーで動き続け、リアルでも何度も会ったことがあるメンバーばかりだ。少しばかり年齢の違うパーティーメンバーでもチャットで話すような雰囲気でこれまでも話してきたものだから、それほど身構える必要はなかった。

 

「あ……あ……」

 

「大丈夫? りんりん?」

 

「うん……大丈夫……」

 

 とはいえ、りんりんのそれは極度なものだからあこがどう言おうとこうなるのは避けられないだろう。みんなもそれが分かっている上で関わりを持ってくれるものだから、他所のコミュニティに飛び込むよりはよほどマシかもしれない。

 それはそれとして、ネットの友人と現実で会うオフ会は、実を言うとあこにとって楽しみでしかなかった。

 今までのあこの考えを表面的に見ればそれは意外かもしれない。だって、自らの理想をそのままにした仮想に生存できる世界が現実とリンクした瞬間であると意味つけすることが出来るから。きっと、ネットの友人とリアルが交錯するオフ会をそのように捉える人は多いだろう。

 しかし、あこの考えは少し違う。このオフ会は、りんりんがネカフェの部屋を訪れたその瞬間とも似ても似つかないものだ。

 

「あこ姫久しぶり! RinRinも!」

 

「我との久方ぶりの邂逅を存分に……えーと、悦に入るがいい!」

 

「……あこちゃんも……、久しぶりに会えて……嬉しいんだね……!」

 

 現実世界に生きる人間たちと相見えているというのに、みんなはあこを聖堕天使あこ姫として見ているのだ。ネットの世界で交わしていた言語のやり取りの枠を超えた交流だというのに、そこではあこが宇田川あこになるのではなく、聖堕天使あこ姫としてこの世界に生きているのだ。

 りんりんと一緒にいる時も、もちろん楽しい。二人でNFOの話をする時も、Roseliaの話をする時も、楽しい時間であることは否定しない。けれど、りんりんと二人でいる空間においては、あこは聖堕天使あこ姫にはなれない。親友として居ることが出来るが故に、自らをカッコよく見せるアバターを失ってしまっている。みんなに余り理解してもらえない言葉の数々は、ただカッコよく聞こえるから言いたいだけでなく、自らのカッコよさを保つ努力の結晶だった。

 

「RinRinは相変わらず、あこ姫の付き人みたいだなっ!」

 

「あはは、ほんとほんと! 見てて面白いんだけどね!」

 

「そう……ですかね……」

 

「私もそう思うよ〜? 良いコンビネーションって感じ〜」

 

 一応現実の性別が女性であるメンバーが多いパーティーなもので、集合場所に集ったメンバーはほぼ女性ばかりだった。みなとは言ってもあことりんりん含めて五人だけで、うち男性メンバーは一人。そうは言いつつも、アバターの容姿が現実とリンクしない以上、普段は性別がどうだとかを気にすることもゲームでも、それを基にしたオフ会でも余りないので、もはや頭の中からそんな情報整理も消えそうになっていた。

 

「あれ、まだ……五人……?」

 

「あっ、そういや休みって連絡がさっき来てたっけな」

 

「おっ、ハーレム到来かなー? このこのー!」

 

「ま〜、そんなの気にしないけどね〜」

 

「俺だってそんなこと気にしないっての」

 

 元から六人集まる予定が、五人しか集まらず、女四、男一のパーティーになったらしい。けれども、普段からアバターに包まれ、そのキャラとして絡んでいるのにハーレムがどうということもないので、みんなそれを茶化すだけで特に問題にもしていなかった。

 そんな五人パーティーを組んで、訪れたファミレスの座席につく。そこから始まったのは和気藹々とした、ごく一般的なオフ会だった。

 

「いやー、イベランお疲れ様でした!」

 

「近距離範囲攻撃と同時に遠距離射撃してくるの超うざかったね〜」

 

「ほんとに! あこも詠唱めちゃくちゃ中断させられた!」

 

 話が盛り上がるのは、つい先日のレイドボスを只管狩り続けるイベントの話題。NFOで集まっているのだから、盛り上がりを見せるのは当然その話題の時だ。

 

「だから俺がちゃんとボスの攻撃モーション何度も叩き潰しただろ?」

 

「それでも前衛ならちゃんと攻撃全部受け止めてもらわないと〜」

 

「範囲攻撃と同時の遠距離をどうやって受け止めろって言うんだよ!」

 

「……ふふ」

 

 普段なら人見知りを発揮してしまうであろうりんりんも、この場ではチャットほど活発でないとは言え、相槌を打ったりと会話に参加出来ている。オフ会という名目ではありつつも、やはりここはNFOの世界を現実に移したところだった。

 

「いやー! でも前衛の役目果たし切ってからふんぞり返って欲しいかなってあたしは思うけどな!」

 

「その通りだよ〜。もっとちゃんと働いて貰わなきゃ〜」

 

「だよね! あこもそうしてくれたらもっと魔法の撃ち合い出来たのにな!」

 

「無茶言わないでくれよ……」

 

「戦士が紗夜さんみたいだったらなぁ」

 

「紗夜さん?」

 

「あっ、あこちゃん……」

 

「え?」

 

 あこは何も意識しないままにRoseliaのみんなで遊んでいた時のことを思い出しながら喋っていた。どうやら、タンクへの軽々しい不満を面白おかしく言う過程の中で、紗夜さんの名前まで出してしまったらしい。当然ここはRoseliaのみんなで集まっているわけではないし、NFOを普段プレイするパーティーのオフ会だ。

 やばっ、と直感的に思ったあこは口をつぐんだ。全く違うコミュニティのネタを出したところで、場が白けるだけなのに、なんて思いながらどう取り繕うかと考えを巡らせていたあこ。けど、みんなの反応は意外なものだった。

 

「あ〜、Roseliaの紗夜さんだよね〜? あの人も戦士でやってるんだ」

 

「……え? ……知って、るんですか……?」

 

「あこ姫とRinRinがRoseliaでバンドやってるなんて、あたしでも分かるよ!」

 

 今の今まで、オフ会やゲーム内チャットでの会話の中で、ゲーム、それも専らNFOの話でしか盛り上がったことがなかったせいか気づいていなかった。しかし、一緒にパーティーを組んでたみんなはあこたちがRoseliaだということを知っていたらしかった。

 

「え、なんで知ってるの?」

 

「そりゃああこ姫とRinRinも、オフ会で何度も話してるし分かるよ〜」

 

「むしろこれだけ話してて気がつかない方が違和感あるだろ?」

 

「た、確かに……!」

 

 でも、そんな答えを聞いて安心するのではなく、あこはより一段と身構えた。しかし、それも杞憂だった。

 

「……Roseliaって分かって、……どうしてパーティーを組んでくれるんですか……?」

 

「え? だってあこ姫とRinRinとゲームしてるわけだし?」

 

 その答えを聞いて安堵した。もしあこの発言が原因でりんりんのゲームする友達まで奪うことになってしまったら、そう思ったからだ。

 そして、安心するだけじゃなくて嬉しかった。Roseliaのあこだと知られてもなお、まだあこは聖堕天使あこ姫で居ることが出来たから。それを理解した時嬉しかったのだ。

 でも。

 ……嬉しかったからこそ、あこは次の言葉に落胆した。

 

「あこ姫、Roseliaの中じゃ、妹ちゃんって感じで可愛いよね!」

 

「……えっ?」

 

「RinRinが世話を見てそうだね〜」

 

「あこちゃん……、実はRoseliaでもわたしのことをよく……助けてくれるんですよ……!」

 

 その瞬間、あこは現実を直視した。カッコよくなりきれない、中途半端なあこが、ゲームの中の人格から滲み出てきてしまった。そして、不幸なことにりんりんも、嬉々としてあこがRoseliaのドラマー、宇田川あことして生きている瞬間を語っている。きっとりんりんに悪気はない。あこはむしろ、積極的に話しかけられているりんりんの勇気を褒め称えるべきなのに。

 

「でも……、確かに、Roseliaのみんなから……あこちゃんは可愛い妹分みたいに……思われてるかもしれません……!」

 

「……そうなんだよ! あこだけ二つも下だから、ね!」

 

 偽りの笑顔に身を隠す。闇があこを包んで、周囲の人々が見るあこが、本当のあこと見間違えるように。こうすればりんりんの勇気を尊重しつつ、今のギリギリのあこの自己肯定を維持できるから。一瞬だけ、一瞬だけカッコよくいられる聖堕天使あこ姫から、妹のように可愛がられる、カッコよさのかけらもない宇田川あこになってるだけだから。

 

「だよね〜、私がRoseliaのメンバーでも、あこ姫可愛がる自信あるなぁ〜」

 

「あこ姫可愛いもんね!」

 

 やめて、その名前のあこを、可愛いだなんて言わないで。それは自分の理想のカッコよさを全て併せ持った、世界で一番カッコよくいられるあこだから。

 あこは何も聞きたくなくて、知りたくなくて、耳を塞ぐこともできずに目に力を込めて、下を向くしかなかった。

 

「そうか? 俺からすればカッコいいんだけどな」

 

「……え?」

 

 でも、唐突に聞こえてきたあこをあこのままにカッコいいと評する声に、あこの意識は吸い取られた。今、いや、これまでずっと欲しかったその言葉をいとも容易く投げかけられたのだから。

 

「あれだけハードな曲調で、ドラムを叩き続ける姿は、強敵相手に呪文連発するあこ姫みたいで、カッコよくないか?」

 

「言われてみれば……。風格あふれるRoseliaのリズムを刻んでるんだもんね!」

 

「あこ姫は可愛さを兼ね備えた超カッコいいドラマーなんだね〜」

 

「あこが……カッコいい……」

 

 自分がそう思い込むだけでは決して得られなかった自信が、回復魔法を浴びたように一瞬にして取り戻されていったのである。それも、目の前で演奏に圧倒されたファンからの声じゃなくて、黒魔術のカッコよさに塗れたあこ姫に見慣れたみんなの声で。

 

「ただ聖堕天使あこ姫がカッコいいだけじゃなくて、Roseliaのドラマー、宇田川あこだって、カッコいいってことだな」

 

「……っ、うん!!」

 

 あこはもしかすると単純なのかもしれない。こんなに簡単に自分の中に渦巻いていたカッコよさの劣等感が消えていくのだから。

 これまで黒い縁より内側の、電子上にいるあこが、聖堕天使あこ姫のカッコよさだけが、あこが持っているカッコよさだと思っていた。だからその世界が途切れて現実に戻る瞬間、これ以上ないほどの虚無感に襲われるのだ。

 けど、あこがおねーちゃんの姿をカッコいいと思うのときっと同じで、そのカッコ良さはおねーちゃんに勝てずとも、あこの中にしっかりと生きている。それが分かっただけで、あこは幸せだった。

 

「……あこちゃんがいるだけで、すごく……心強いよ……!」

 

「RinRinにとっても、ヒーローみたいなんだな」

 

 あこにとってのヒーロー、謂わば憧れの対象がおねーちゃんなら、りんりんにとってのヒーローはあこなのだろうか。……もしそうなのならば、あこはとても嬉しい。親友という関係に積み重なろうとする憧憬の感情は、あこのカッコよさと気品をさらに漆黒に染め上げようとしていく。

 

「えへへ……それほどでも」

 

「……よかったね……、あこちゃん」

 

「……うんっ、りんりんもありがとう!」

 

「でも、こうしてみると、ね」

 

「うん。あこ姫はやっぱり妹かな〜」

 

「な、なんでぇ?!」

 

 まるでおねーちゃんがあこを撫でる時のように可愛がろうとする手つきに、思い切り反抗も出来ないでいる。りんりんも、その場の雰囲気に慣れてきたからか笑顔が増えたのは良かったが、あこの方をにこやかに微笑んでるだけで助けてくれない。

 

「ほらほら、みんなで撫でよ!」

 

「気高き聖堕天使あこ姫様を撫でるだなんて、俺には畏れ多いや」

 

「そ、そうであろう?! 誇り高きあこ姫様に、仕え奉れ!」

 

「あこ姫様のドラムには、我では足元にも及びませぬ!」

 

「へっへー! そうであろーそうであろー!」

 

 あこ達の大好きな、その世界の住民に、憧れの存在になりきることの楽しさが、今この瞬間にも溢れてくる。しかも、ただカッコいいのは聖堕天使あこ姫だけでなく、あこが自信を失っていた宇田川あことしても、カッコよいと理解されているのだ。

 

「俺も、こんな人間になれたらな、なんてな」

 

「えっ?」

 

 ファミレスでの会計。小さく呟かれた、あこのカッコよさの恩人の声にあこは気を取られた。みんな、たらふく食べたことの満腹感に浸っていたものだから、話しかけるのも憚られた。だからこそ、あこはその小さな呟きの真相を探りに話しかけにいっていた。周りの人達は聞いていないという安心感と一緒に、素直な気持ちを聞いてみたくなったのだ。

 

「えっと、どうかしたの?」

 

 ゲームのアバターでは決して見ることのできない、神妙な面持ちにあこの視線が吸い込まれていた。

 

「NFOでも、現実でもカッコいい。それがちょっと、羨ましくなっただけだよ」

 

「え……?」

 

 さっきまでNFOの世界のあこ姫にばかりなろうとしていたあこにとって、現実のあのがカッコいいと言われることが気恥ずかしいのと同時に、あこを立てるような思慮深さを持ちながらのその発言に、あこはキョトンと惚けた。むしろ、あこなんかよりよっぽど大人だろうに。けど、疑問を直接ぶつけるのもなんだか気が進まなくて、あこは深く考えずに、照れという表現で葛藤を隠した。

 

「あこ、NFO以外でもそんなカッコいいかな……」

 

「……俺からすれば、ね」

 

 NFOの世界にいる時はいつも、例えばレイドボスや、例えばダンジョンのボスに果敢に接近戦を挑む姿しか見てこなかったから、それほど弱々しそうな姿は想像もつかなくて、いざ目の前にしたあこは困惑していた。けど、そのあこがそんな目線を送っていることに気がついたのか、ずっと俯き加減だった顔が上を向いた。店の照明を斜め前から浴びたその顔は、どこかゲームの世界の神秘性と、現実の哀しさの両方を映し出しているようだった。

 

「Roseliaのライブ、今度俺も見に行くか」

 

「えっ、ほんとっ?」

 

 突然聞こえてきたRoseliaの名前に、あこは興奮気味に反応をしてしまう。あこの反応に釣られたのか、その場の空気はどこか急に明るくなった。さっきまでのよく言えば厳か、悪く言えばどんよりと重たい空気の僅かな距離が、一瞬で切り裂かれたような気がした。

 

「まぁ、ちょっと、気になるから」

 

「是非見に来てよ! ね、りんりん! って、あれ?」

 

 気がつけば、他の三人は店を出ようとしているところで、あこは慌ててその後を追いかけた。

 視界が途切れる僅かな瞬間。ついさっき明るさを取り戻したと思っていた表情に、またもや陰が差し込んでいた。あこは一瞬だけ振り返って、その陰の正体を探ろうとしたけど、それはまたも束の間の笑顔で隠されてしまった。

 あこはゲームの中の表情と、その笑顔と葛藤の顔に狭間で揺れる神聖な表情がずっと気になっていた。りんりんの背中に追いつくというその瞬間でさえ、その表情のことが何故だか頭から離れなかった。あこの求めるカッコよさとはかけ離れた、カッコよさに羨望の眼差しを向ける、その違和がずっと気がかりだったのだ。

 その時はそれ以上の追求も出来なかった。理屈だとかは分からないけど、なんだか無粋だと感じたのだ。ただ、現実のあこの持つカッコよさを成長として讃えることに無理矢理にでも目を向けた。得体の知れないその感情を、落ち着いて遠くから眺めていくために。

 あこは新しく見つけたカッコよさを胸の中で大事に育みながら、あこの心の微細な変化の一つ一つを、どこかゲームの中の自分を操作するかのように眺め続けているのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【戸山 香澄】キラキラドキドキはここに

 いつものように有咲の家の蔵での練習の帰り。それは本当に何気ない、日常の中のワンシーンだった。

 小さい頃に聞いた、空から届いた星の鼓動。それらに導かれるように、奇跡と言っても差し支えないような、キラキラドキドキとの出逢い。その感動的かつ幻想的な邂逅を思い起こさせるような、空に瞬いた星々。そこかしこにありふれた住宅街の小径が街灯の下でも霞んでしまうほどに、今この瞬間に眺めていた星の数々は私の心をすっかりと奪っていた。

 この星々を眺めていると、いや、この星々を眺める度に私は幼い頃の戸山香澄に戻ってしまう。あの時感じていたキラキラドキドキにもう一度めぐりあうために、その想いが胸の奥底を温めるのだ。

 けれど、そんな星たちも西からやってきた分厚い雲に覆い隠されて、そこにいたのが嘘であるかのように消えてしまった。その瞬間私はふと、現実にまで引き戻されたかのように、目の前で待ち構えていた自宅の存在に気がついた。私の物思いは即座に中止されて、私の目線は窓から漏れ出る明かりに囚われる。私は靴すら揃えない勢いで玄関を駆け上り、リビングで待っているであろうあっちゃんに飛びかかった。

 

「あっちゃ〜ん! ただいまーー!!」

 

「わっ?! ……お帰り、お姉ちゃん」

 

 私の帰りを出迎えてくれるあっちゃんの態度は少々余所余所しいところがあったが、私はいつものごとくそんなことを気にするでもなく抱きついていた。

 

「ねぇ、暑いんだけど……」

 

「えー? でもクーラーも効いてて涼しいよね?」

 

「そういうことじゃなくて、はぁ」

 

 さっきまで外の風に吹かれて帰ってきた私にとっては、この部屋の空気はさらに私の身を冷やすほどの寒さすら感じられた。先程までの夏の夜の風も、昼間に浴び続けた陽光のそれに比べれば、肌に幾分か優しい。それどころか肌を擽る空気の流れは心地よさすら感じられた。その風の向こうには、懐かしい星の輝きすら見えていたのだから。

 でも、私の全身全霊を込めたハグに、どこか苛立ちの表情を隠せていないあっちゃん。そんな姿を見て、私は何やら不思議な感覚を覚えていた。それは言葉で表したら少し悲しくなってしまうような、けれど、それとは釣り合わないような安心感もあるような。一つだけ言えることがあるとすれば、さっきまで見ていた、鼓動の音が響くような星の脈動が雲によって隠れてしまった時の、それによく似ている。

 私を懐かしい気持ちにさせる星の鼓動を思い出した私は、あっちゃんのそれまでの暗い表情を吹き飛ばせるぐらいの話題だと思って、そのままの体勢でもう一度あっちゃんの顔を見返した。

 

「そうだ! 今日の星がね、見てるとすっごくキラキラドキドキしたんだ! あっちゃんも見に行こうよ!」

 

「今日の星? でも今日の夜は、ほら」

 

 あっちゃんの指さした先にあったテレビ。丁度家族が団欒するような時間帯に流れるようなニュース番組の、お天気コーナーが流れていた。関東地方の天気図を見れば、どうやら今日の夜、それどころか明日の昼までずっと曇り空、それも時折雨が降るような状況らしい。モニターの横に立って高説を垂れるキャスターにモヤモヤとした思いを持ったが、それで天気が変わってくれるわけでもなく、画面が切り替わった時にあっちゃんから呆れたような視線が飛んできた。

 

「雨ってことだから、私はパスで」

 

「えぇっ?! なんでぇ?!」

 

「濡れたくないし、空見えないじゃん……」

 

 いつものあっちゃんならもう少しノリが良く、呆れながらも『いいね』だなんて言ってくれそうなのにな、なんて内心拗ねてみながらも、目の前のあっちゃんの様子を見る限りどうやら妥協はなさそうだ。まぁそれもそうか、星を見ようと言っているのに星が見えないんじゃ本末転倒か。

 

「でも雨、雨はまだ降ってないよ?」

 

「じきに降るんでしょ? なら別に、見えないものを今日見ようとしなくてもいいんじゃない?」

 

「うっ。そ、そうだ、雲の切れ間から見えるかも! 鼓動を感じたぐらいだもん!」

 

 必死にあっちゃんを説得するものの、梃子でも動かないあっちゃんに遂に私は諦めざるを得なくなった。雲の切れ間だなんてあるかすら分からないし、雨はきっと降る、全てその通りだった。

 

「今日は部屋で大人しくしておけばいいんじゃない?」

 

「うぅ……でもぉ」

 

 渋々あっちゃんから離れて廊下へ出る。リビングの扉を閉める間際に、ボソリと聞こえてきたあっちゃんの声を、私は聞き逃すことが出来なかった。

 

「はぁ……お姉ちゃんも、いい加減諦めなよ……」

 

 きっと私に面と向かって言おうとしたことではなく、あっちゃんなりの溜息のそれなのだろうが、なんだか心が一瞬ちくりと痛んだ。あっちゃんのところに戻ってそれを問いただすほどの勇気だとかもなくて、部屋に帰るにも帰れず、悩んだ私は結局また外に出ることを選んでいた。一応傘を持とうかと悩んだが、ドアを開けても夏特有の熱気がしただけで、雨の臭いはない。それならあっちゃんだって来てくれてもよかったんじゃないか、なんて思いながら外に出る。さっきまでの涼しさを、快く感じさせる風はない。空にはさらに雲が広がっていて、さっきの天気予報が嘘を言っていないことを理解する他なかった。

 

「あっちゃんも、忙しいよね」

 

 小さくつぶやいた私の声を聞く人は誰もいなくって、背後から前方に投げかけられていた光も徐々に細くなって消える。まだ物凄く夜が遅いわけでもないのに、辺りに人気はない。暫く町を歩いてみたけど、住宅街が広がるこの辺りでは、帰宅途中のサラリーマンに何人かあったぐらいだった。流石の私とて、全く無関係な、名前を知らないサラリーマンに話しかけにいったり、変な誘いをしたりだなんてしない。あっちゃんにもきつく言われているし。

 そんな見知った人との遭遇もないままに町を漂って、私の気持ちは星の消失とともにさらに沈む、そんな風に思われた。

 

「香澄?」

 

 けれど、私の名前を呼ぶ声がして私は振り返る。その声は今日の夕方にずっと聞いていたポピパのみんなの声でもなくて、むしろそんなよりももっと低い男の人の声。私の名前を呼ぶ男の人、それも多分同年代のそれだ。候補は殆どいなくて、明かりに照らされて顔が見える前に私にはそれが誰かわかった。幼馴染だった。

 

「何してんだ? こんな時間に」

 

「こんな時間に……?」

 

 そう言われて私はふっと上空を見上げた。僅かな雲の切れ間、それはナイフで裂いたと言っても疑わないぐらい本当に細い隙間。その隙間から僅かに漏れた星の脈動に私は興奮を覚えたのだ。

 

「星だよ! キラキラドキドキするでしょっ?」

 

「星……?」

 

 私が指さした先を怪訝そうに見つめる彼。付き合いも長いのだから、私が星をこれほどまでに、側から見て狂信的に求めていたとしてもおそらく変な反応をされることはない。それこそ、あっちゃんと同じような『またか……』というような反応が関の山である。けど、あっちゃんのそれがどこか私にとって恐ろしくて、同じような反応が返ってくることが不安で仕方がなかった。

 

「あっ、たしかに見えるな。ギリギリだけど」

 

「……っ、でしょっ?」

 

「でも何も態々こんな日に見なくても」

 

「……やっぱり?」

 

「うん」

 

 どうやらその辺りの反応はあっちゃんと然程変わらないようだった。どう考えてもこの空の状況で微かに見える星の残滓を眺めて騒ぐ私は変なやつで、それは妹のみならず幼馴染も同じ認識だった。小さい頃からの私を知る二人の反応がそれならば、きっと世間の大半の認識がそうなのだろう。

 

「でも、あの星が見えるのは今日が最後かも知れないんだよ?」

 

「そもそも見えてない星もあるのに言われてもなぁ」

 

「だって雲の向こうにはあるもん!」

 

 駄々をこねる幼児のように正論に真っ向から楯突く私。おそらく滑稽も滑稽だろうが、目の前の幼馴染はそれを笑うような人ではなかった。かといって正論を易々と引き下がらせるほど出来た人でもなく、その点では二人とも等しく子どもだった。

 

「けどあの星が今もあるかは分からないし、見えてるって思ってるだけかもしれないし」

 

「見えてるって思ってるだけ?」

 

 訳がわからず聞き返した私にキョトンとした目を向けながらも、黒くふさふさとした髪を少し弄って、ゆっくりと語り始めた。得意げになって語るとかそういうわけではなく、少し目線を逸らしながら、住宅街の壁をすっと這った視線はやがて空に向いた。

 

「星って宇宙のすごく遠いところにあるから、その光がこっちに届く頃にはその星は消えてなくなってるかもって、そういう話だよ」

 

「……消えちゃってるの?!」

 

「星にだって寿命があるからな。物凄く長い距離を駆け抜けてきた星の光が地球に降り注ぐ頃には、その元々の光を放っていた天体が寿命を迎えてるかも知れないんだよ、って聞いたことないのか?」

 

「うーん、……あるようなないような?」

 

 曖昧な私の記憶には、そんな話がどこかで聞いたことがあるようにも思われれば、逆に荒唐無稽な陰謀論の域を出ない全くの嘘っぱち、たった今吐き出されたばかり、口から出まかせにも聞こえる。星が寿命を迎える。それなら地球だっていつか死んでしまうのだろうか、地球は生き物なのか、私の理解の範疇を超えたテーマに私の頭は見事にパンクした。

 混乱を極めた私を見かねたのか、乾いた笑いを重ねた彼は再度空を仰いで、覗き見るような星の線に指をなぞらせていた。

 

「……難しく考えなくても、その星が本当に今も生きているかは分からない、それだけで十分だと思うぞ?」

 

「地球も死んじゃうのかなぁ……」

 

「……地球? まぁ地球もそうなるかもしれないけど、そもそも恒星じゃないし、な」

 

 その語り口曰くこの地球とあそこら辺に浮かぶ星とでは種類が違うのだ。だから地球は光ってないし、光ってるものなんて電気ぐらいだ、そんなことを言われて私はあっさりと納得した。

 地球が死ぬとは言っても、きっとその日が来る頃には私はとっくに土の中だ。だからそれ自体に悲しみだとかは覚えても、不安、謂わば杞憂のそれに含まれる類いのものは感じられなかった。

 それよりも私にとっては星が寿命を迎えることの方が遥かに重要で、私の聞いたあの日の星の鼓動、それが何の星だったかまでは未だ釈然としないが、その星の命が尽きている可能性を考えると、なんだか私がこれまで馬鹿みたいに何度も爆発させてきたキラキラドキドキへの憧れのようなものが無に帰していくようだった。過去の私の原動力が何の価値も持たない星への漠然とした憧れに成り下がってしまった。

 

「あの星、死んじゃったのかな」

 

「どの星? ま、星の寿命なんて俺たちの寿命から考えたら遥かに長いだろうから、多分生きてると思うけど」

 

 星の寿命が長いのなんてのは想像がつくし、出なければ過去から星座として崇められてきた星々の繋がりが今まで変化せずに残っているわけが分からない。だからそれらの正論は理解こそ出来たものの、納得がいかないし、不安を拭い切れるわけではなかった。

 いや、もっと正確に言えば、私が抱いているのは星の鼓動を感じたその星の生き死にが分からないことに対する不安ではなかった。

 

「ねぇ。やっぱり星、見に行こうよ!」

 

 私自身の過去に対する恐れを払拭するためか、将又これまでと変わらずにいるためか、私は彼を誘う。さっきあっちゃんには断られたし、何なら先ほども少し渋られたのにも関わらずだ。けど、なんだか誰かと一緒に星を見たいという想いが心には湧き出ていた。

 

「……まぁ良いけど」

 

「ほんとぉ?! 早速いこっ!」

 

 だから肯定の返事は計り知れないほど嬉しくて、咄嗟に彼の手を握っていきなり走り出した。全く心の準備すらしていなかったその手は抵抗を見せるでもなく、私の思うがままに引っ張られて、その手を追うように足音が駆け抜けていく。

 住宅街の空は必ずしも綺麗とは言えない。綺麗ではある。それこそ本当に街のど真ん中。空が殆ど隠されてしまうような人の往来に溢れたビル間と比べれば、文句の付け所もないほどに綺麗だ。

 でも、それでも一番ではない。一番の綺麗さを求めるのであれば、その星々に限りなく近づいていくのが正解であろうが、生憎それはできない。きっと私の生きてる間にあの星に辿り着く手段が現れることはないだろうし、そういうのを求めているわけではなかった。より綺麗な星が見られれば、より近くでそれを見られるなら、何でもよかった。

 住宅街を走り抜けて、息が上がってきた頃にようやく後ろからどこに向かうんだなんだと文句の声が聞こえてきた。私はそれに秘匿を貫くだけで、何も返事はしない。なんたって星を見にいくということは決まっているのだ。なら敢えてさらなる説明が求められる訳がない。星が綺麗な世界にいく、ただそれだけである。

 

「はぁっ……はぁっ……そろそろ、疲れたんだけど」

 

 段々と文句の声は大きくなってきて、その文句に関しては私も同様であった。流石にずっと走りっぱなしでいくというわけにもいかず、少しずつペースが落ちてくる。目的地の入り口に着く頃にはほぼ歩きと変わらない速度で走っていた。

 やってきたのは、町の中心部から少し離れた木々に囲まれた公園のような、いや、それほど整備はされていないか。小さな林のようなところだ。人の生きる音はまるで聞こえてこないし、環境音の他には走り続けて疲弊しきった二人の男女の息遣いぐらいであった。

 

「ここなら、綺麗なっ、お星様見えるよねっ」

 

「ここ、なら?」

 

 途切れ途切れの燥いだ声を上空へ投げかけると呼応したように雲の切れ間が広がっていた。全く雲がないとは言わない。けど、天気予報のキャスターが言っていた様相を覆してしまう程度には晴れの空が広がっている。星が沢山見えている。物凄く遠くにある星とは言え、その長旅を終えた光の束は家の周りに居る時よりもその艶を増していた。

 

「……ほんとだ」

 

 それを証明するように、さっきまで星の哀愁に身も蓋もない正論をぶつけ続けたつまらないやつだって、私の隣でその星々が織りなす光の祭典に釘付けになっている。私が幼い頃に聞いた星の鼓動のような、私の全身を震わせるような何かがあるとまでは言わなくても、ここで見る星の群れへの憧憬は完全に人の心を奪ってしまう。

 

「こんなに、綺麗に星って見えるんだな」

 

「いっぱいあるでしょ?」

 

「星の鼓動……なんてな、ふふ」

 

 さっきまでずっと目線を空に奪われていたはずの彼は下を向いて、口元を腕で押さえて笑いを堪えているようだった。しかも口ぶりからして私の幼い夢の、幻聴や幻覚にも近しいのかも知れない感覚がツボに入ったらしい。私がそんな不愉快な笑いを止めようとムッてした表情を向けようとした瞬間、その呟きがいやに耳に残った。

 

「すごく、分かる気がするな、香澄の言ってたこと」

 

「えっ?」

 

 少なくとも空や地、私とは関係のない自然の産物たるそれらに目線を目まぐるしく変えながら感情の発露を堪えようとしている彼に困惑していたのだが、その表情が一瞬だけ、こちらからもはっきりと分かるぐらいに正面から映った時、私の中の時間が止まったような錯覚に陥った。

 

「星の鼓動? 星かは分からないけど、こんな風に、魂みたいなの、震えるんだな」

 

 私の方をチラリとだけ見てから、その顔は哀愁を一瞬で覆い隠したっきり、僅かな笑みだけを残してまたも空の方へと向いてしまった。身長の関係で横からしかその表情は見れない。何を考えているかなんてのは私には分かるわけもなくて、私はただその横顔をじっと見つめることしかできなかった。それまで星に向いていたはずの私の瞳は、くっきりと、今たしかにそこにある彼のことを映し出したまま動かなくなってしまったのである。

 それは星の鼓動を感じた、その時と近いかも知れない。例え目を離そうと思っても、何故か目を離すことが出来ない。全身がそれを視界の外に追い出すことを拒むのである。最早言葉では説明できそうにない、物理的にも説明ができない、ただただ私の本心がそう叫ぶからとしか表現が出来なかった。きっと他の誰もが、私のこの感情を説明はできないはずだった。

 

「星が脈打つのと一緒に、俺の脈も動いてるのかも知れない、そう考えたらちょっとだけ香澄の言ってることも伝わって……香澄?」

 

「……へ」

 

 目を閉じていた横顔に吸い込まれた私の意識は、名前を呼ばれたことでようやく息を吹き返した。彼の詩的な何かは一瞬しか私の耳には残らなくて記憶の隅にも残らなかったが、ただこちらを向いた表情の煌めきだけが目に映っていた。

 右手に残っていたほんのりとした温もりだとかも最早気にする余裕すらなくて、むしろその蠱惑的な表情に恍惚とした笑みを返すことの方が私の意識の全てを占めていた。そこに純粋や純朴と言うような、かつての私が抱いていた憧憬に似た感情は無いと言っても過言ではなかった。私の全ての意識が彼の宇宙よりも広く、数多の星よりも透き通った光線を持つ瞳に注がれていた。

 

「……香澄?」

 

 口が僅かに震えて紡ぎ出された声の結晶も、私にとっては瑣末な問題でしかなくて、取るに足らない出来事だった。星の鼓動とリンクした目線によって、私の心の臓が脈を早めた。興奮に似た感情だが、星の鼓動のそれと私の心臓の鼓動のそれは違う。

 彼の不安そうな表情がどうにも気に入らなくて、それを指摘しようとしたのにどうにも上手く考えがまとまらない。それを伝えようにも声が上手く出ない。まるで声帯を完全に喪失してしまったかのように口をパクパクとするだけで、掠れた息すらもそこから漏れることはなかった。多分私は相当変な様子なのだろうか、不安から心配に変わった彼の表情はさらに私を溺惑する。

 彼の瞳が色を変えた。太陽のような心まで晴れやかになる光線から、それを反射したような月の光に変わった。いや、違う。その光を放っていたのは私だった。本人が意図していないだろう誘惑に溺れた私が返すことの出来る、唯一のことだった。

 時間が止まる。彼の表情が一瞬にして見えなくなる。雲で見えなくなるのでは無い。それは日食の如き重なりだった。

 

「……んっ」

 

 一瞬だけ、いや、もう少し長かったかも知れない。欲の漏れた結果で。何が起きたか分からない彼はずっと緊張した表情を崩していないようだったが、私を当惑させる耽美な瞳は変わらなくて、星を最早映すつもりのない色を私から受け取っている。

 すっかり私が照り返した色に染まった彼の瞳が、私をさらに混乱させて、自分の背中に隠していたはずの両手で彼の頬を包んでいた。温もりを全て忘れ去りそうなほどに熱い唇が私を呼んでいた。その抵抗を許さない私の乱反射が彼の全てを支配する。力が抜けて倒れそうになる私を支えながら、ただただ長い時間重なり続けていた。

 空が全て消えてしまったような夜の林の中は寒かった。唇から伝わってくる陽光のような迸りだけが私を温めて、頬に添えていた掌がやがて背中へと回される。絡み合うような視線はすれ違うことなく互いの間を反射し続けていた。

 

「……香澄」

 

 ようやく互いの呼吸の共有を停止した私の頭は完全にフリーズした。星の鼓動を見失い、最早身近なその鼓動だけに囚われた私の心が煩く騒ぎ立てていた。名前を呼ばれる度に、彼から注がれる視線と絡まった興奮が、異常なほどに私の思考を掻き乱しながら、無意識の私の体を動かしていた。

 

「……うん」

 

「どうか、したのか?」

 

「……ううん。キラキラドキドキって、こういうことだったんだ……」

 

 幼い頃の星の鼓動の反芻。それは当たっているようで外れている。実は星の鼓動なんてのはそういうものではない。私の欲しかったキラキラドキドキ、それは意外にも、身近なところに転がっていた。

 納得が言って心が徐々に穏やかになった私とは裏腹に、不意打ちを喰らった彼は完全に何が起きたのか分からないという表情でキョロキョロとしている。その頬は暗闇の中でもほんのり赤みがかっているのだろうと容易に想像がついた。さっきまでは私を狂わせるほどの光を放っていたというのに、今はこうしてしどろもどろになっている姿。そのギャップに私は笑うしかなかった。

 

「何で笑ってんだよ」

 

 私はそれに答えるでもなく、もう一度空に瞬いている星の数々を見上げた。それに釣られるように二人ともの視線が空を向く。さっきと同じような光景なのに、私は正直空に溢れかえった星だなんてどうでもよくなっていた。あれほどずっと星を見たいと外に出ようとして、あろうことか人まで巻き込んで、としていたのに、たったのあれだけで急に星に対する熱量が下がってしまった。いや、他のところに熱を奪われたというのが正しい表現か。

 それが共有されているのかを確かめようと横を見る。横目では平然としているように見えた彼も、しっかりと私が振り向いた瞬間あからさまに目を逸らした。それはまさに、先程交わした熱い口付けの交換に意識が持っていかれていることの証左だった。

 

「なんでもないよ!」

 

 私がそう答えた瞬間、さっきとは比べ物にもならないぐらい大きなため息を吐き、そのまま踵を返す彼。私はその背中をただただ、光を追い求めるように追いかけた。

 

 住宅街の途中で彼とは別れ、本日二度目の帰宅の途につく。空を見上げたが、もう既に雲の切れ間は完全になくなってしまったようで、晴れの空どころか雨雲のようなものが近づいているようにすら感じられる。このまま歩いて帰っていては雨に降られるかも知れない。そう思った私は少しだけ早歩きだった。

 きっと雨が降る前に家には帰ることが出来るだろうから、本当はもう少しゆっくり歩いて帰っても良かった。空に雲がなければ、私は空一面に広がっていたであろう星空を眺めながら帰っていたのだろうか。星の一つ一つを指差して、脈打つ星を探そうとするのだろうか。

 多分、もしも空が晴れていれば、私は何も空を見ずに急いで帰っていたに違いない。断言しても良い。例えばあの東の空。ほんの少しだけ雲が切れて、奥にある星が見える。きっといつかの私なら、そんな貴重な星を見て一喜一憂したり、興奮を隠さずに騒ぎ立てているだろう。

 けれど、今はそんなことにならない気がするのだ。根拠はないが、あの星が、いや、あの星よりももっと綺麗な星が何の汚れもなく見えたとしても、私は足を止めてまでその星を見ることはしないに違いない。感受性がどうとかの問題ではなく、星からキラキラドキドキを見つけられる自信もない。

 あの端っこに小さく輝く星を見ても、私の息は詰まらない。何の言葉も思いつかないだとか、そういう状況には到底陥らない。私の言葉を奪うには至らない。

 違うのだ。キラキラドキドキと。きっと違う種類のキラキラドキドキなのだろう。

 

「あっ、着いたぁ!」

 

 その証拠に、今の私は大きな声が出ている。静かになりつつある住宅街に響く私の声は大きすぎたのかも知れない。門扉を超えた瞬間にガチャリとドアが開く。光が漏れ出た中から現れたのはあっちゃんで、その表情にはどこか心配そうな感情が現れている。

 いつか見たような光景に私の心は深く安堵を覚え、なんだか視界が僅かに霞んだような気がした。

 

「お姉ちゃんおかえり。まさか本当に行くとはね……」

 

 半ば諦めに似た感情もあったのか、言葉の節々からあっちゃんの想いが伝わってくる。そんな時、ふとあっちゃんの右手にタオルが握られているのが見えた。何の変哲もない普通のタオル。多分それはもしかしたら濡れて帰ってきたかもしれない姉への優しさみたいなものなんだろう。

 

「星もそんなに見れなかったでしょ?」

 

 星と言われて、頭に思い浮かんだのは、雑木林の木々に映っていた揺らめきだった。まるで恒星のような明るさを持った影であった。なんだかあの時感じたフリーズに陥る感覚にもう一度浸かって、私の頭の中は空っぽになって、何も言葉が出てこなくなった。何かを言おうとはしているのだが、うまく言葉が浮かんでこない。困りきった私は訝しむあっちゃんを手招きして、こちらに寄せた。そしてそのピンク色の頬に。

 

「……って、うわぁっ?! お姉ちゃん?!」

 

 途端に焦りだすあっちゃん。静かな住宅街に響くような大声で、それに釣られてか私の頭も目覚め始めた。あっちゃんが困惑して大騒ぎしたり、それを何とか取り繕おうとして、早く上がれだのと頻りに私の腕を引っ張っていく。部屋の空気は林の中のように澄み切っていて、それでいてほんのり冷たかった。私の腕に触れるあっちゃんは熱いし、横から見える表情も赤らんで見えた。それを見つめるだけで自然と笑みが溢れた。

 その日は結局雨が降り始めたのだが、あの林で見た星の光は霞んでいる。代わりに夜の太陽の光を私は一身に受け止めていた。きっと私は側から見たらとても輝いているに違いない。それこそ林全てを照らすかのような。炎のような明るさを持つに至るぐらいの熱い熱い、キスをしたのだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【ロック】『私』を隠す霧

美濃弁が難しい……。というか多分おかしいところもあるかと思いますが、温かい目で見て頂けると幸いです。







 カポン、という小気味良い音が風呂場のタイルに反響して、私の耳にまで届いている。湯気の曇りにも負けじと響き渡るその音に、私はすっかり聴き入っていた。いや、聴き入っていなければ、私はきっと多少の羞恥と極度の興奮で気絶してしまうのだろう。

 

「……六花? どうかしたか?」

 

「な、なんでもない!」

 

 隣から掛けられた声に挙動不審になる私。この状況を招いたのは自分自身だというのに、それをこうも取り乱すなんて、情けないと言われればそれまでだった。裸の付き合い、なんて言ってしまえば物凄く身も蓋もない言い方になってしまうのだが、今の状況はそれ以外の何物でもなかった。上気した肌のことを考えないように、必死に頭の隅の方へと追いやりながら、私はつい数十分前のことを思い返した。

 

 

 

 岐阜から上京して以来、私はずっとここ、旭湯に住み込みで働いている。働くといっても親戚の営業するこの銭湯で掃除の手伝いをする程度だが、それでも単身、東京に乗り込んできた身としては、自分の家同然であった。

 今日も、言ってしまえばこの銭湯の番をしていたわけである。番台なんて立派な名称を名乗るほどの自信だとかは持ち合わせていないが、それでも一人で店を見るというだけあって、慣れ親しんだ仕事ながら緊張とともに過ごしていた。

 だが、どれほど待っても客が来ない。別に普段から閑古鳥が鳴いているだとかそういうことではない。先日から梅雨を知らずに降り続けるこの長雨のせいか、きっと家から出る人もそれほどいないのだろうし、況してやこの雨に降られて銭湯に入りに来ようとする物好きはいないのだ。そのことを薄々と勘づいてはいたものの、独断で店を閉めるというのも憚られ、私は朝から一ミリメートルも開いていないドアを眺めていた。

 

『……暇やなぁ』

 

 力の抜けたような私の声も、誰かに聞かれることなくだだっ広い店の中に響いて消える。反響すらしないところが、余計に私の中の虚しさを募らせていた。

 だが、ため息に似た息を吐き出した瞬間、私が立てたのではない音が途端に響いた。驚いて私が前を見ると、ドアがいつのまにか開いていて、外で地面を叩きつけるような雨を隠すように人影が立っていた。

 

『六花。お疲れ』

 

 私の名前を呼んだ声は、この雨では見ることもないだろうと思っていた恋人の声だった。思わぬ知人の来訪に心臓が飛び跳ねるような思いをしながら、私は自分の吐息で僅かに靄がかっていたメガネを外した。

 

『え、え?』

 

『なんで来たんだって顔だな』

 

 愉快そうに笑う声に戸惑いながら、私の目は少しどころではなく慣れてしまっている肩口の方を向いていた。

 

『近くまで来たから寄っただけだよ。六花は店番か?』

 

『う、うん! それより肩』

 

『これか? 雨で濡れちゃっただけだよ』

 

 右手に持っていた傘からは多量の雫という言葉でも収まらないほどの雨の跡が床に染み出ていた。傘がそんな状態なら、肩がそれほど濡れてしまっていたって仕方がなかった。陽気な笑い声も私と話すことの楽しさ云々よりむしろ雨で濡れた照れ隠しだとか、心配させまいとする現れのように私には見えた。

 

『濡れたままじゃ風邪ひいてまう……あぁ、どうしよどうしよ』

 

 側から見たらビショビショなのに、そんなことも意に介さない彼とは裏腹に、私は一人で慌てていた。びしょ濡れの本人以上に風邪の心配をするというのもおかしな話かもしれないが、それでも不思議と私がどうにかしなきゃという気持ちが湧いて出て、私はキョロキョロと意味もなく見渡すのだった。

 

『どうした? 六花』

 

『そ、そうや! お風呂入ろう!』

 

 幸いにも店には誰もお客さんはいなかった。どうせ誰もお客さんが来ないなら自分の知り合いを風呂に入れてあげるぐらいどうってことはないだろう。そんなぐらいにしか考えず提案した私だったが、意外な答えが返ってきた。

 

『え、いいよいいよ。帰ってお風呂入ったらいいし』

 

『まだ雨やのに?』

 

 私が言ってもそれほど旭湯を使うことには乗り気でないらしく、お金も何も要らないと言っても何も変わらずだった。頑なに風呂に浸かろうとしない、私の提案を拒み続ける彼に、遂に私は言い放ってしまったのだった。

 

『なら私と一緒に入る! 私もお風呂入る時間やし!』

 

『は、はぁ?!』

 

 目に見えて困惑する彼の腕を強制的に取り、店の奥へと引き摺り込む。脱衣所に行こうとしている時にもそれなりに抗議の声は聞こえてくるが、なんでもその内容は一緒に入るのかどうかということらしい。……その抗議の声を聞いて、私は一瞬頭が真っ白になる。さっき自分が言った言葉の意味が明確になって、相当に破廉恥なことを言ってしまったと僅かに後悔したのだが、ここで引き下がれるほどでもなく、私は隣に振り返り叫んだ。

 

『でら濡れとるんやから! 一緒に入ろう!』

 

 真っ直ぐに彼と向き合って、私の顔はきっと羞恥に染まっていたのであろうが、私の声を聞いた彼は静かに一度頷いた。

 

 

 

 そこからは早いものだった。言葉を取り消せるわけでもなく同じ脱衣所で互いに反対を向いて服を脱ぎ、衣摺れの音が静かな部屋内で聞こえていた。斜め前に洗面台とその鏡があったせいで、反対を向いているのに彼の体が、肌の色が背中側だけ見えてしまっていて、私の興奮は頂点に達しそうだった。

 決して疚しいことをするわけでも、いや、上辺だけ見て仕舞えば同じ風呂に入るという大人の、破廉恥極まりない行いをするという意味では人には言えないが、そういう不健全な意図が無かったとしても私の吐息は荒さを増していた。

 服を全て脱いだという彼の声を後ろから聞き、ゆっくりと振り向いた。キチンとタオルで前が隠されていることに安心して、二人で風呂場のドアを開いた。互いの肌はタオルで隠されていない部分だけが見えているが、それでも普段は見えない肌の色が見えてしまうだけで滝のように鼻血が出るのではないかと思った。

 そうして、互いに微妙な距離感のままシャワーを浴びて、今まさに大浴場の浴槽に浸かろうとしている最中というわけである。

 

「……入らないのか?」

 

「入る! 入るけど……、タオルどうしよ……」

 

 まるで互いに牽制し合うように、それでいてかつ目線は合わせず、相手の体に変態的な興味を持ち合わせていないことをアピールしながら、浴槽に片足をつける手前で言葉を交わしているのだ。

 シャワーを浴びる時なんかは距離を取っていれば互いな体は見えないし良かったのだ。けど、浴槽に浸かろうと思えば、タオルは取らないといけない。流石に彼の目の前で生まれたままの姿を見せるほどの勇気もない。ゆくゆくは私の全てを受け入れてもらいたいと思ってはいても、今日いきなりその時がやってきたなんてのは恥ずかしいが過ぎるのである。

 

「タオルって、お湯に浸けちゃダメだよね?」

 

「……ううん。大丈夫、大丈夫!」

 

 結局私は後で掃除が大変になるだとか、もしかしたらお湯の循環の装置が故障するかもしれないだとか、後先の面倒ごとは全てどっかへ追いやって、今目の前の恥ずかしさを超えた羞恥心をどうにかすることに決めた。その声を聞いて安心したのか、私に続くように彼もタオルをお湯に浸けながらも湯船に浸った。

 いつもならお湯の熱さがどうだとか、そういうのを多少なりとも気にはするのだが、今この状況においてはそんなこと一切気になりもしない。一メートル程度、微妙に離れたこの距離の先にいる彼とどう接そうか。……可能であれば、この短くて長い距離をどのように詰めようか、彼の雨に濡れていた肩と私の肩を、いかにしてぴたりと合わせようか。それだけが悩みだった。近いようで遠かった。

 

「今日は、その、お客さん全然来ないのか?」

 

「うん。朝から開けとるけど、誰も」

 

 彼は広々とした風呂場一面を見渡して、どこか遠くを見るような目で呟いた。彼が顔をキョロキョロとしていたが、それは意図的に私の方を見ないようにしていたようにも思われた。それはどこか安堵したくなる一方で、本音を言えば少しだけ、ほんの少しだけ寂しい。

 寂しいからと言ってその気持ちを素直に口に出せるほどの根性はなかった。今のこの状況を作ったのだって意図的ではなく、突発的な意図しない発言でこうなったし、もう一度同じ場面が訪れたとしたら、私はそんな誘いを口走りったりはしなかったはずだ。持ち前の引っ込み思案な性格は私を奥手にしているのだから。

 そんな奥手を後悔こそしているのだが、普段ならあり得ない状況に困惑しつつ、胸の高鳴りを自覚せずにはいられなかった。お湯に隠れて見えないお尻を、少しだけもぞもぞと動かした。

 

「今日も休みなのに大変だな。ずっと店番って」

 

「でもそれでここに住ませてもらってるから、朝と夜の掃除だけやし」

 

 何気ない会話の一つ一つも、どこかおかしなことを喋ったりはしていないか。そんな要らぬ心配が沸々と生じていた。まるでそれは付き合う前のお互いの気持ちの探り合いのように。隣にいるのが恋人だとはいいながらも、それほど恋愛なるものの経験がない私にとっての一大事だった過去のように。

 この話題を続ける私は変ではないか。もっと彼を楽しませるような話があるんじゃないかと。尽きぬことのない悩みだった。

 そんなことを考えるものだから、余計に会話は弾まない。彼との会話は楽しいはずなのに、緊張で、いや、羞恥心と恐怖との混濁で思考がまとまらないのだ。彼からの会話に頼るほかない私だったが、彼とて会話のネタを拵えているわけではないだろうし、私の住み込みを労うような言葉を言ったきり、無言の空間が始まってしまった。

 何度か深呼吸を挟んで、お湯から立ち上る湯気に喉の奥が焼かれそうになりながら、チラリと横目で彼の方を見る。薄白い風呂場の中でも、彼の黒の髪の毛が艶を持って存在を主張していた。偶然を装って触らせてもらう以外に触れることのない髪。どうせ一緒にお風呂に入れるのであれば触ってみたいだなんていう、不埒な考えも一瞬だけ思い浮かぶ。けど、腕を伸ばすのだなんて怖すぎて、私は結局自分の両肘を反対の掌で包み込むしかなかった。

 これではいけない。このままでは、そんな考えが頭をよぎってどうにかこうにか頭を振り絞る。何か名案と言えるような考えが浮かぶわけではないけど、何かを言おうとして私はパクパクと口を動かして。

 

「あっ、あの」

 

「あの、……えっ?」

 

 どうやらこの空気に耐えかねて、何かしらの音声をこのお風呂で共有しようとしていたのは私だけではなかったらしい。それまで緊張で頭が一杯で、そんな想定をしていなかった私の頭は思考停止に陥り、声の発生源たる彼の顔をぼんやりと見つめるに至った。そしてそれは彼も同じだったらしい。お互いに服を脱ぎ捨てて、素肌が露呈した姿になってからはまともに見ることができなかった彼の正面からの顔を、そしてタオルで隠されていない胸板が目に入る。

 湯気が私の視界をカーテンのように遮っても、私ははっきりとそこから伝わってくる彼の存在を見ていた。気恥ずかしさのようなものがなくなったわけではないが、それでも私の瞳は完全に、いつか彼に恋に落ちた時のような若々しさを取り戻して、燃え上がるような彼という存在を求める心に支配されていた。

 アニメや漫画などでは、互いを意識する二人がともに声をかけようとして、その呼びかけが被った時は二人が譲り合う、相手に先に用件を言わせようとすることが多い気がする。今はきっとまさにそんな状況だった。もしかしたらそれに倣って彼に用件を言わせるのが吉なのかもしれない。けど、頭が暴走を始めてしまった私は、彼が口を開く前に、すらすらと頭の中を流れた誘い文句を譫言のように呟いていた。

 

「……ねぇ、そっち寄ったら、あかん?」

 

「え?」

 

 私は斜め上にある彼の顔から少し目線を逸らして、そう呟いていた。けど、その小さすぎる声はどうやら彼まで届かなかったみたいで、私はもう一度彼の方をはっきりと見て、右手で右耳に僅かにかかった髪を一度撫でてから口を開く。

 

「そっち、寄っていい?」

 

「あ、あぁ」

 

 さっきまで無限ぐらいの距離があるのではないかと思われた二人の距離を、私は一瞬で縮める。十センチ近寄るたびに彼の匂いが強くなっていく。彼の体がより大きく見えて、心臓が脈打つスピードが速くなっていく。

 いつもの私ならもうここら辺で一度退いて、笑って誤魔化したりだとかしているのかもしれない。けれど、何故か今、この時の私は何故か勇気に満ち溢れていた。それは蛮勇と呼んでも間違っていないのかもしれない。いつもなら身を引く時に背中を押されるようなそれは無謀にも近いのかもしれない。

 でも、不思議と、自分の意思とは全く無関係に私の体は彼に近づいていく。彼は返事をしたきり何も言わなくなってしまった。私が近寄っても何か文句を言って騒いだりとか、優しい言葉をかけて諭してくれるだとかそうではなかった。きっと彼も、普段と様子の違う私のそれを見て困惑して、心臓が口から飛び出そうになっているに違いない。

 彼は何も言わない。私はそれを許容だと認識した。私の口から漏れ出る吐息はいよいよ彼の素肌を撫でるようになる。私が震える吐息を漏らしたら、彼の体、特に肩の辺りがピクリと大きく震えた。なんだかそれが小動物を愛でるようなそれに思われて、私の体が熱くなった。

 

「……ろ、六花」

 

「……何やろ」

 

「え?」

 

 私が本当に彼の真横に密着しそうになった時、彼は口から小さく言葉を漏らして、少しだけ身動ぎをした。多分それは、何かを抑えるような、それでいて自分自身を慰めるような何かだったのだと思う。彼は私に落ち着くように言っているけど、私の耳はそれを大人しく聞き入れるほどには大人ではなく、私の体は何にも縛られない、大人になりつつあった。

 

「……よいしょ」

 

 遂に、遂に私の肩と彼の肩が重なり合う。そして私はゆっくりと、自分の体重を彼の肩に預ける。多分水の中にあるからそれほど重さなんてものもないだろうけど、なんだか背中をもたれるのとか、そういうのではなく、彼に体を預けたくなったのだ。

 触れ合った肩の感触は不思議だった。自分の肩でありながら、自分のものではないような感覚。お湯だって熱いし、これぐらいずっとお湯に浸かっていれば、夏なのも相まって相当体としては温まっているはずだ。それこそ暑すぎて逆上せてしまってもおかしくはない。事実私の頭は思考がはっきりと働いていないような気がするし、それは彼も同じなはずだ。

 でも、彼の肩の温度はまるで分からなかった。多分熱いのかもしれないけど、それ以上に私の肩がすでに熱く、燃えるようで、何も分からなかった。ただ一つ言えることがあるとすれば、肩と肩の触れ合った断面が、なんだか脈を打っているようなその感覚があるということだけだった。

 

「六花……?」

 

 私の真意を汲み取れないであろう彼は目線を私とは反対方向に逸らしながら私の様子を伺っている。きっと彼は彼なりに『近い』だとかそういうのを伝えたいのだろう。けれど私とて彼からすれば彼女だ。彼の元に寄りたいと言う発言を真っ向から否定したりだとかそういうのは、性格からしても出来ないだろう。それが分かって発言している私はずるいのかもしれない。

 そんなずるい私は肩同士を触れさせるだけでは飽き足らず、それまで自分の腕を握るだけだって両腕で彼の左腕を絡め取った。軽く触れた瞬間、彼はさらに困惑の声をあげるが、そんなことは私の耳には届いても頭の中では処理をされずに流れていく。

 

「……近いのは、嫌なん?」

 

 甘えるような私の声。自分でも猫撫で声のように聞こえるのだから、きっと彼からしても私の意図のようなものはそれ相応には伝わるだろう。兎に角、私は可能な限りの全力で、彼に想いを伝えようとしていた。

 

「嫌じゃ……ないけど」

 

「けど?」

 

「……ううん。なんでもないよ」

 

 彼が含みを持たせた部分の真意というものはよく分からない。分からないからこそ、あの時の、謂わば駆け引きをしていた時のようなそれを思い出す。彼がその時のことを思い出しているかは分からないから、私は露骨にもその話を持ち出すことにした。

 

「心臓、すごい動いとる」

 

「……そりゃあね」

 

 私は彼の厚そうな胸板に左手を置いた。掌をそこに置くと、その皮膚のさらに奥から脈動が伝わってくる。脈を打つ頻度が速すぎて、回数は数えられそうになかった。さらに手をもう少し上に持ってくる時には、彼がなんとか気持ちを抑えようとして深い呼吸をしているのが伝わってきた。きっと、私と同じ気持ちなのだ。

 

「ドキドキする……」

 

「……六花のせいじゃない? 俺もだよ」

 

「……うん。自業自得かもしれんけど、嫌やった?」

 

「そんなことない。その……嬉しい」

 

 妙なほどに素直になった物言いに私は一瞬だけ思考がフリーズしたが、それでもやはり嬉しかった。この雨の中、わざわざ銭湯という場所を選んで赴いてもらって、それを混乱の末とはいえ混浴をして、それでいつのまにか過去の初心だった時のことを思い起こして、嬉しかったのだ。今も初心だと言われれば、それは否定することはできないのだが。

 胸の中にゆっくりと育まれていったかつての懐かしさ。それを思い返しているうちに、この風呂場にやってきた時からずっとバクバクと止まりそうになかった心臓の拍動がようやく落ち着いてきた。私の呼吸もゆっくりとしたものになった。懐かしさを感じたことで、昂り続けていた気持ちが落ち着いてきたのである。もちろんそれは、彼への想いが冷めただとか、そういうことではない。むしろ、心が穏やかになればなるほど彼の存在の大きさを自覚するのだ。

 左手を水の中から掬い上げて、掌のシワに僅かに残ったお湯を見つめる。私のその所作に彼の視線もそちらに集まっていた。では、私の意識はそっちに向いていたのかと問われればそうではなかった。

 

「……ふふ」

 

 彼にも気づかれないぐらいに小さく微笑んだ。多分その声も、くっついているとはいえお湯と私の掌が作る水の音で掻き消されたのだろう。十センチも離れていない彼の顔は、横目で見るだけでも手遊びをする私の左手にすっかり見惚れているようだった。

 そんな無防備な彼のことを私が見逃すはずはなく、彼が何の反応もする間も無く、私の唇が彼の瑞々しいリップに触れていた。先程まで微妙な距離感に悩みを抱えていた女とは思えないほどの勢いの良さだったろう。

 

「ん……? んっ?!」

 

 まるで水底に沈み、溺れてしまったかのように唇の隙間から淡く激しい吐息を漏らす彼に、私の興奮はさらに高まる。それは劣情という意味の興奮ではなく、どうしようもなく彼に募る愛おしさを体現したような興奮であった。違いを問われれば難しいが、所詮は初心な私にとって、それ以外の愛の伝え方は未知数だった。通常であれば心に仕舞い込もうとする臆病な心を全て取っ払って、ただ付き合い始める前の時のように燃え上がった心をそのままにぶつけたのだった。

 彼が何度目かの激しい呼吸を漏らした後、私はゆっくりと唇を彼から離した。動転したとまでは言わなくとも、混乱の最中にあったろう彼のキョトンとした表情と、しおらしくなった姿はひどく新鮮だった。

 

「……ふふ、でらかわええ」

 

「……うるさいな」

 

 ちょっと拗ね気味の彼の顔を見るだけで、私は幸せだった。嬉しそうな私の顔を見たのか、彼も呆れたように乾いた笑みをこぼしていた。私は彼の左腕にしがみつく力を一段と強くして、彼を見上げた。

 

「付き合う前のこと、覚えとる?」

 

 覚えているかなんて確認を取らなくともきっと覚えているだろう。何があったかなんて細かいことは覚えてなくたっていい。ただその時の気持ちを、今私が必死に掴もうとしているあの時の想いを覚えてくれていたらそれで充分なのだ。

 

「そりゃあね、忘れることはないよ」

 

 彼はしっかりとこちらの目を見て、はっきりとした口調で告げた。この言い方なら、もしかしたら私よりも彼の方が鮮明に覚えているのかもしれない。私だってそれなりに詳しくあの時の状況を覚えているつもりではあるのだが。

 

「あの時の六花、今よりも挙動不審だったよね」

 

「挙動不審?」

 

「うん。俺の言葉一つ一つで物凄く喜んだり、リアクションも大きかったり、何か言おうとしてるようだったけど、何も言葉が出てこないであわあわしてる時もあったっけな」

 

「そんなの……当たり前やし」

 

 少し前までの私はそれほどに未熟だったのか。今の私が決して慣れているだとかそんなことはないが、それでもかつての自分の話を聞くと恥ずかしさを覚えるほどには初心すぎたらしい。私の言い分からすればそれは彼もなのだが、多分彼がそれを認めてくれることはないだろう。何だったら、今のこの攻撃はついさっきの私の必死の攻勢への反撃の可能性すらあるから。

 

「でも、そんな六花も、今みたいに本当はいっぱいいっぱいなのに余裕ぶってる六花も、どっちも六花らしくて好きだよ」

 

「なっ、……お、おおきに」

 

 やはり仕返し、勿論そんな否定的な意味があるわけじゃないが、私の誘惑じみた告白へのやり返しらしい。だってそうだろう。いざそんな風に直接的な言葉で表現されて仕舞えば、いつまで経っても耐性のつかない私の心臓がさらに高鳴るのだなんて分かりきっている。少なくとも彼に分からないはずがない。私が喜びで打ち震えるのが分かっててやっているのだ。たちが悪い。たちが悪いけど、癖になる。

 

「そんなの、わた、私だって……ん……」

 

 私が何か反論の言葉を見つけようと、必死に頭を働かせている時に、今度は私の唇が塞がれた。ずっとお湯に浸かっていたであろう彼の手はお湯よりも熱く、私の頬と顎を撫でている。彼の唇は湯気に当てられたのか、瑞々しさをさらに増して私に吐息を漏らしていた。

 素肌と素肌がまるで糊か何かで引っ付いたように離れなくなって、彼の力強い腕が私の全身に回されて、私はそれに応えるように両腕を彼の背中へと回した。湯船の中だと言うのに、私と彼の体の間にはお湯は一滴たりとも入ってこなかった。むしろ、その二人の間がゼロ距離になることで押し出されたお湯で、水面には同心円が出来ている。

 さっきの私が交わした口付けよりも遥かに長いキスに私の吐息は逃げ場を失って、彼の吐息と混ざり合う。全身が震えて、背中が反って、力が抜ける。声も漏れ始めた。けど、それでも彼の純朴なキスは終わることがない。

 最初は閉じていた目を徐に、微かに開けてみる。彼の瞼はしっかりと閉じて、ずるい私の瞳は見えていないようだった。私の視界はさらに霞んで、ぐったりと力が抜け切った。

 

「はぁ……あぁ……」

 

「……ごめんな、六花」

 

「……でら長い。頭のぼせてまう」

 

 まるで不満を訴えかけるような私の口調も、完全に彼に甘えるものだった。二人とも初心故に、純粋な手段以外のことを考えるという選択肢がなかった。だからこそ、これほどある意味では狂ったような愛情表現をしていたのである。

 でも、私はそれを悪いとは思っていないし、何ならこれの引き金を引いたのは、引っ込み思案なはずの私の心だった。いつのまにか、立ち上る湯気によって臆病な自分が隠されてしまったかのように、獰猛な部分が現れてしまっていたのである。

 

「長いけど、もっとしたい」

 

「六花……?」

 

 きっと世間一般で見れば褒められたわけではないだろう。それに、殆ど半裸のような状態で一組の男女が狂ったように相手の吐息を求めているのは、普通であれば男女のまぐわいの開始の合図であるのかもしれない。

 でも、私たちにとっては、そうではなかった。むしろこれまでの子どもじみた過去を精算し、それでいて純朴な最初の頃に戻ろうとする逆説的な儀式だった。臆病な心を消し去った私は素直に彼を求めていた。だからとても短いキスをして、全体重をもう一度彼に預けた。

 

「そろそろ本当に逆上せちゃうよ。上がろう? 六花」

 

「……うん」

 

 自分が何故ここまで素直になれたのかよく分からないが、私はそのの答えを考えることもなく、言われるがままに彼の手を掴んだ。その熱に導かれるように顔を上げると彼がにこやかに微笑んでいたものだから、私も幼稚な笑みを返していた。

 

「……また、また、一緒にお風呂入ろう?」

 

「一緒に?」

 

「……うん」

 

 それは、まるで自分が素直に愛を伝えるための魔法のようだった。私の今の表情はもしかしたら必死だったのかもしれない。

 彼の返事は、とても優しい笑みと、照れたように上擦った声だった。

 

「また、雨降るといいね」

 

「……そうやなぁ」

 

 外の雨はもう止んだだろうか。今度彼が来る時は雨が降っていて欲しいし、今も出来ることならもう少し雨が降っていて欲しい。風呂場からは外がどうなっているかは見えない。けど、私は外で自分たちを覆い隠してくれるであろう雨霧に願いを込めて彼の手を握っていた。彼の手は靄がかかることもなく、くっきりと見えていたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【北沢 はぐみ】涙の後に輝く笑顔

 太陽の照り返しが目を眩ませる。燃え盛るように真っ赤で、ふわふわと揺蕩う雲よりも真っ白い太陽がその熱を地上に伝えていた。はぐみはその色が伝えるようなその熱さを全身で受け、特に頭は帽子を被っていても頭皮に伝わってくるほどだったからか、その夏から目を背けることは出来なかった。

 ここはグラウンド。夏の暑さが凝縮したような空間。ふと向かい側に目をやると、『0』が並べられたスコアボードがある。それはまさにはぐみの努力の結晶であった。

 最終回の攻撃。はぐみ自身が得点に絡んだわけではないけど、リードをしているうちのチームの攻撃は少しだけ散漫としていた。キャプテンとしての役割は果たせているかは分からないけど、エースとしての役割は果たせているような自覚があった。ここまで綺麗に向こうのボードに『0』が並んでいるあたり、はぐみは完璧に抑えていることを表していたから。だからこそこの暑さにただ目を向けるようなことをしていたのかもしれない。

 

「はぐみちゃん、疲れてそうだけど、大丈夫……?」

 

「……うん! ありがとう、あかり!」

 

 名前を呼ばれることで、ようやく自分たちの攻撃が終わったことを知る。こんなところで体力尽きて、倒れるわけにはいかない。はぐみが最後まできっちり抑えて、試合を締めなければいけない。そこまでして、本当のエースと言えるというものだろう。

 もう一度深呼吸して、炎天下のマウンドに向かう。土の盛り上がりの傾斜すら煩わしかったけど、少し高いこの位置から見るホームベースの白さが目を覆うと、感覚が、精神が研ぎ澄まされたような気がした。

 向かいの地面からは湯気が立ち上っているような錯覚すらするけど、そんな暑さもなんとか意識の外に追いやろうとする。

 

「……よしっ」

 

 変に力むな。ボールを握る手が汗で滑る。上手く投げられない。でも逃げるわけにはいかない。グラウンドに響めくみんなの声が遠くに聞こえる。煩いからと思わず聞き流そうとした声が頭で突っかかる。

 四球で溜めてしまったランナーが還るのは、ほんの一瞬の出来事だった。すっぽ抜けて、まるで力のこもっていないボールが丁度ど真ん中に放り込まれたのだ。

 快音が響いた。それはバッドだけから聞こえてきた音ではない。暑さで脳の神経を駆け巡る危険なシグナルの警告音が脳裏を突き抜けて、現実とリンクした音だった。自分の頭上の空気を切り裂きながら飛んでいくボールを視界の端で追っていた。どういうわけだか、そのボールはとてもゆっくりに見えた。

 

「はぐみちゃん……? 気にしないでね……?」

 

 ホームでサヨナラ打を放ったバッターを讃えあう相手選手の声がやたらと大きく聞こえた。まるではぐみが悪者にでもなったかのような気がして、太陽の下なのに真っ暗になるような気がした。

 はぐみを励まそうとしたあかりの声も、自分を詰るつもりの声なのではないかと疑りそうになって、咄嗟にその反駁を堪えた。とぼとぼと挨拶のために向かう足取りは重かった。

 

「はぐみちゃん?」

 

「……あかり、ごめんね?」

 

 心配してくれたような声かけにもまともに返すことが出来ないまま、スコアボードには×印が刻まれた。その白い文字すらもはぐみを嘲笑うようで、そんな気がした。

 挨拶の声がして、何が何だかよくわからないままグラウンドを後にする。はぐみの顔を覗き込もうとするみんなの顔も暗くてよく見えなかった。気がつけばはぐみは河川敷に一人になっていて、まだ暑さが真っ盛りの昼過ぎを過ごしていることに気がついた。

 

「負けちゃった……」

 

 グラウンドから少し離れた川沿いの小道を歩きながら、はぐみは言葉にできない感情を独りごちる。負けてしまったことへの喪失感とか、そういうものではなかった。なかったわけではない、ただそれが全てというわけではなかった。

 負けたら終わりだとか、そういうこともこの世界にはあるが、はぐみがしているのはその類ではない。ただ一抹の物寂しさを覚えていた。

 二、三メートル横を流れる川の流れは一定である。ふと、足の疲労感を覚えてそこに座り込んだ。足の先を川の方へ伸ばして、水面に映る自分の顔をぼんやりと見ていた。哀しい顔をしている。ただそれだけだった。

 

「……はは、……はは」

 

 きっといつもなら笑顔で掻き消しているようなこの気持ちも、一人でいれば乾いた笑いしか出てこない。でも、今はそんな自分に浸っていたい気分だった。

 今日だって、試合が終わったなら午後からはハロハピのみんなとCiRCLEに行こうって話だったから、帰って準備をしないといけないのに。はぐみの腰は重くって、そこから動く気には到底なれなかった。同心円で歪む自分の顔を眺めて、猛省を促すことが心地よかったのだ。

 自分の表情は曇っていた。水面には映らない。

 自分の気持ちが曇っているから。きっと顔色は悪い。

 でも、暗い気持ちに浸るのが気持ちよかった。

 

 負けたのは自分のせいだと、自分で自分を責める。

 辛い。きっとダメだ。けど、今はこうしてたい。

 

 こんな顔してちゃ、ダメ、なのに。

 

「はぐみ」

 

「……え?」

 

 頭をグルグルと渦巻く悪い考えが一気に掻き消される。下を向いていた顔。パッと見上げた。後ろに立っていたのは一人の青年。はぐみもよく見知った人。恋人というには背伸びをしすぎだけど、大事な人と言えばピッタリと当てはまる彼。いるだけではぐみに安心感をくれるような男の子がキョトンとした表情で立っていた。

 はぐみはあまりに突然のことすぎて、視線を右往左往させるだけだった。それが変に思われたのか、川の流れの音に掻き消されそうな小さな笑い声と共に、はぐみの隣、十センチほど空けて彼は腰を下ろした。隣に座ったぐらいだから何かを話すのかと思えば、何を口にするでもなく彼の目線は対岸の人影の方に向いている。ぼんやりとした目線で、何かを追ってるわけでもないことは明らか。

 

「えっと、あの……学校は?」

 

 予想だにしなかった登場に声が上擦りながら問いかける。更におかしく思われたかもしれないけど気にする余裕もなかった。

 

「学校? 今日休日なんだから、学校ないでしょ?」

 

「あっ、そっか……」

 

 さっきまで自分がソフトボールをやっていたことを思い出す。真昼間に河岸のグラウンドにいるなんて、学校のある日にはあり得ない。なら、彼も同じことだろう。同い年なのだから高校生。当然他の学校も大体は休みで、たまたまふらっとここを訪れただけだろうから。

 

「その格好、ソフトボールの帰り?」

 

「え、うん! さっきまで……試合あったから!」

 

 茹だるような暑さに気が緩み、無様にも打ち込まれた自分の姿が脳裏を過った。負けたこと自体が情けないだとか、そういう気持ちももちろんあったけど、それ以上に周囲の目線だとか、周りが気になって仕方がなかった。試合が終わって小一時間ほど経った今でさえも。今はぐみの目の前にはその姿を知るものは誰もいないのに。

 

「こんな暑い日にか……頑張るな」

 

 俺は中学校までで限界に達したからなぁ、なんて自嘲気味の笑い声。野球とソフトボール。数あるスポーツの中では似たようなスポーツではあるけど、少しだけ違う道を進んで、そして怪我をして、その道を辞めてしまった彼の言葉は切なそうだった。

 こんな暑い夏の日にも野球部なんてのはいつも練習していた。彼もそんな過去の自分の栄光めいたものの懐かしさに浸っているのだろうか。額の汗を零しながら目を閉じる彼の締まった表情を見れば、遠い過去に想いを馳せているのはなんとなく分かった。その景色は見えなくとも、きっとはぐみが思い描いているものと似たようなものなのだろう。

 どれぐらいの時間目を瞑っていたかはわからなかったが、彼はやがて目を開くと、今度はこちらに振り向く。

 

「って、はぐみも凄い汗だな。ハンカチは……と」

 

「え?」

 

 彼の懐から取り出された薄水色のハンカチに目を瞑る。するとこめかみの辺りを繊維が撫でる感触。なんだかとてもひんやりとしていた。

 顔の一部分に冷たい感触がすると、逆に今度は全身がやたらと熱っているような気がして身動ぎをする。試合の時から何も着替えていないものだから、少々泥もついたユニフォーム姿。はぐみにはそれが自分に似合っているのかよく分からないけど、その時は少しだけ恥ずかしくて、ハンカチで額の汗を拭ってもらう時も押し黙ってしまっていた。

 気の利いた会話の一つも出来れば楽しいのかもしれないが、今のはぐみにそんなのは思いつかない。ただ夏の暑さだけでなく、奇妙なこの状況でより一層脳が沸騰しているようだった。

 

「というより泥まみれのユニフォームだし、帰んないのか?」

 

 その疑問も尤もで、どう考えたって試合が終わってかなり経つというのにこの姿のまま佇んでいるのは変だった。

 彼の目は、すっかりはぐみを心配する瞳をしていた。センチメンタルな気分に沈んでいた自分でなくとも、泥まみれのユニフォーム姿で座り込んでいれば、きっと何かあったと思うのが普通だろう。況してや、声をかけられる前だなんて顔に影を落として、水面に揺れる自分の顔を脱力しながら見つめていたわけである。そんな姿までもが見られていたなら、気にかけられるのも無理はなかった。

 

「……うん。ちょっとだけ、ゆっくりしようと思ったんだ!」

 

 しかし、それは嫌だった。完全無欠のエースから悪者に転落したはぐみ。彼の目がさっきまで痛烈に感じていたもどかしさと情けなさ、責められるような雰囲気に染まってしまいそうだったから。それを隠すように、はぐみは叫ぶぐらいの気持ちで返事をする。自分の中では叫んだつもりの声も、すっかり覇気をなくした体では少し声が大きい程度だったらしい。つくづく自分の情けなさに悲しみが募る。

 

「ゆっくりって、そんな格好じゃ汗で体冷えて、風邪引くぞ」

 

「引かないよ? だってはぐみは元気だもん!」

 

 はぐみがどれぐらい元気だと言い張っても彼も引きそうにない。こうやって声高に主張するのは自分への慰めでもあるんだけど、それ以上の意味をなすことはなかった。

 

「でも汗、かいたままじゃ気持ち悪いだろ? 着替えないと」

 

「じゃあ着替えだけここで」

 

「おい待て待て」

 

 リュックに着替えを詰めていたかなんて確認しようとすると、それを静止するような手が伸びてくる。着替えろと来た次は、着替えるなということらしい。あの試合の時のやたらと照りつける太陽光だとかよりも、段々と煩わしさが増してきたような気がした。

 

「今ここで着替えるなんてやめろよ? 仮にもここ河川敷だからな」

 

「……あっ」

 

 どれほど自分の頭には血が上っていたのだろうか。血が上っていたというよりは、暑さでまともに考えが働いていないだけか。もしここに着替えがあったとして、ユニフォームを脱ぎ捨てられるかと言われればそれは無理だ。彼の前であっても、いや、彼の前だからこそ余計に顔が赤く染まりそうで。

 ユニフォームを脱いだからといってインナーは着込んでいるが、汗をかいているならそれこそ着替えるべきである。けど、インナーを脱げばそれこそ下着だ。小さい時はそんなこと気にも留めなかったとしても、はぐみだってもう高校生でそれぐらいの恥ずかしさは持ち合わせている。

 

「脱ぎ始めたら……その、流石に俺も叫ぶぞ。って、この場合俺が立場悪くなるのか……」

 

「う、うんっ。ごめん……ね?」

 

 なんだかとても近い距離にいるのにその顔を見るのが極度に恥ずかしくなって、その羞恥で顔から火が吹き出そうになる。はぐみが意図的に目線を合わせようとしないのと一緒で、横目で見れば彼もわざとらしく視線を外している。

 さっきまではそこそこ会話が続いていたその場の空気も、もはや発言が憚られるほどに静けさを取り戻し、一音発することも出来そうになかった。

 確認のために、一度彼の方をチラリと見たが、はぐみが首を横に向けるのに合わせて、クルリと連動して彼の顔も横を向く。かといって話しかけるほどの勇気もない。どうしてこの形容し難い緊張感漂う場を打開しようか、なんて悩んでいると、その鬱蒼とした空気を打ち破ったのは彼の方だった。

 

「とにかく、着替えなんて今じゃなくていいからさ、一旦帰らないか? 帰ったら着替えもできるしさ、な?」

 

「あっ……」

 

 その一言で、さっきの着替え云々で生じていた周知の感情やらは吹き飛んだ。いやまぁ、この空気を吹き飛ばすことには成功しているのだけど、その代わりはぐみが思い出したくもない出来事を思い出さざるを得なくなったのだ。

 家には、帰りたくなかった。みんなから試合の結果だとか、そういうのを聞かれるのかもしれないし、それも嫌だったけど、それだけじゃなかった。家に帰ったら、ハロハピのみんなとの練習の準備をして家を出ることになる。ハロハピのみんなとの練習が辛いだとか、そんなことではない。むしろ一刻も早く、試合のことも考えずにハロハピのことに没頭したかったのだ。

 

「何か帰りたくない理由でもあるんだな?」

 

 はぐみが何も答えずに川の方に視線をやっていると、何かを察したような声色で、目線と同じ方に声が響いていく。空気が振動するたびに、川に何かが飛び込むたびに波で水面が揺れる。そこに映るはぐみの顔も当然のように歪み、そして激しく振動して有耶無耶になっていく。笑顔はどこにもなかった。

 

「……うん」

 

 やっとのことで紡ぎ出した声は、わずかな肯定の声。もはや声になったかすら分からないけど、一緒に頷きもしたから、きっとその意味は彼にも伝わっている。これで分からなきゃとんだ頓珍漢だ。

 幸いにも致命的に察しが悪いなんてことはなかった。きっとはぐみの帰りたくない理由なんてのは分かりもしないだろうけど、少しこの哀しみを慮ってそっとしてくれるだけで構わなかった。

 でも、はぐみがそっと閉じようとした扉を、彼は詳らかにしようとしていた。彼の言葉がその扉をこじ開けた。鍵など掛けられるはずもなかった。

 

「試合、どうだったんだ?」

 

「……っ」

 

 優しいはずの声色なのに、それが試合直後のチームメイトのみんなのそれと重なって、思わず耳を塞ぎたくなる。出来ることならそんな話はしたくない。中途半端に試合の結果を慰められるのも、エースの仕事を果たさなかったことを叩かれるのも、どちらも嫌だった。いい意味で無関心でいて欲しかった。出来ることなら、身近な大事な人には、絶対に。間違ってもそれを論評されたりとか、知ったような口をきかれるのもいやだった。

 そう思ったから、はぐみは何も言わなかった。上部しか見れないものに彼が成り下がってしまうのはいやだったから。でも、彼はさらにはぐみを詰めるんじゃなくて、少し戯けて見せた。

 

「なんて、ごめんな。実は試合観てたんだよ」

 

「……えっ?!」

 

「最初っから、ってわけじゃないけど。二回の裏ぐらいからかな。マウンドにはぐみが居たからさ」

 

「そっか、観てたんだ」

 

「うん。意地悪しちゃったな」

 

 どうして敢えて彼がそんな態度を取ったのか、はぐみには分からなかった。けど、観られていた、試合の内容を知られていた、そう考えるだけでなんだか肩から力が抜けてしまうような気がした。必死に隠そうとしていた、見せずにいようとしていたのが馬鹿らしくなるような、そんな感じが。

 

「最後の最後に……、負けちゃった」

 

「……うん」

 

 でも、負けたことが哀しいから気持ちが沈んでいるのではなかった。哀しいけど、そうじゃなかった。はぐみがそんなことを宣うと、流石の彼も訳がわからない、という風に疑問符を浮かべていた。はぐみでさえはっきりと分かっていないこと気持ち、他の誰かに分かろうはずもない。

 

「家帰ったら、ハロハピのみんなが待ってるから、CiRCLE行かないと」

 

「バンドだよな? ライブハウスに?」

 

「……うん」

 

 はぐみがバンドをしているということは知っているらしかった。それならば話は早かった。ゆっくりと腰をあげる。ずっと座っていたものだから、足腰は痛かった。

 

「どこ行くんだ?」

 

 はぐみは逃げようとしていた。何かをこれ以上悟られたりするのが怖くって、逃げようとしたのだ。多分彼もそれに気がついたんだろう、はぐみが踵を返そうとするよりも早く立ち上がろうとした。優しさが表れていた。

 

「話聞いてくれてありがとう! はぐみ、また頑張るね!」

 

「ちょ、待てって!」

 

 リュックを引っ掴んで帰ろうとした。けど、それは許されなかった。はぐみは努めて明るい声色で、口角を精一杯上げて振り向いて、その場から去ることを告げようとした。けど、はぐみが何を言ってもその手がはぐみを離すことはない。多少の身動ぎにも動じないその腕は力強かった。

 

「頑張るも何も、まだ話終わってないだろ?」

 

「……大丈夫だよ! はぐみ、元気になったもん!」

 

「大丈夫な訳あるか」

 

 腕がはぐみのことを離さないまま、さっき汗を拭ったばかりのハンカチがはぐみの目元を拭いていた。多分これは汗なんかじゃなくて、ひんやりと冷たい涙だった。濡れてない繊維の毛羽立ちがはぐみのことを撫で回すようだった。

 

「本当に大丈夫なやつ、そんなに泣いたりしねぇよ」

 

「……違うもん」

 

 何が違うのか、反論の言葉の意味は自分でも分からない。ただただ、その弱い自分を否定したい一心で、自分の弱さを必死に隠しながら、否定するのだ。けど、その言葉は正直弱々しくて、自分で聞いていても呆れるほどに震えていた。

 

「はぐみは、笑顔じゃなきゃいけないから」

 

 多分、涙は止まることを知らずに頬を流れ続けている。はぐみの頬にいくつもの筋を作りながら、流れ続けている。彼に拭いてもらった一粒の涙の比じゃないほどに溢れ出ている。自分に課せられた使命か何かを、譫言のように呟いた。

 

「……練習、あるから、行かなきゃ」

 

 ゆっくり話し込みすぎただろうか。実際にハロハピの練習の時間は、もっと後かもしれないし、家に帰る余裕もあった。でも、なんだかここに居続けることは居た堪れなくて、はぐみはただただここから逃げ出したかったのだ。

 

「今、行けるような状態じゃないだろ。もう少しだけ、な?」

 

「……うん」

 

 でも、そんな優しい言葉に否定出来るほどでもなかった。ここに居ても大丈夫、そう思えた瞬間、足からも力が抜けてしまって、膝から崩れ落ちそうになるのを彼がすんでのところで支えてくれる。体重を全て預けながら、はぐみは静かに溢れでる涙を止めようとしていた。

 

「世界を、笑顔にするんだもんな」

 

「……うん」

 

「……はぐみは、笑顔じゃなきゃ、みんなを笑顔に出来ないから?」

 

「……うん」

 

 全て言い当てられたはぐみは、観念するしかなかった。必死に空元気を続けていたつもりだったけど、ついに限界が来た。それだけのことかもしれない。本当ならもう少しぐらいこの元気な姿を、それこそ薫くんの演技みたいに続けられたのかもしれない。でも、はぐみの心は弱すぎて、そんなことは叶わなかった。

 

「ハロハピのみんなに、迷惑っ、掛けちゃうから……」

 

「そっか」

 

「試合に負けて、はぐみのせいで負けたのにっ、……笑顔でいるなんて、出来ないよっ……!」

 

 はぐみの心の内を、全てぶちまけてしまった。本当は一人静かに、川の流れをぼんやりと見つめながら、試合のことをなるべく忘れてしまってCiRCLEに行こうとしていた。夏の暑さも全て吸い込んでくれそうな涼しげな川の中に、暗い気持ちを全て沈めてしまいたかった。

 けど、何かの手違いか、偶然か、はたまた神様のいたずらか。出来ることなら観られたくなかった姿をばっちりと観られてしまって、暗く沈んだ姿でさえも見つかってしまった。

 複雑な気持ちが心の中でさらに入り混じって、吐き出す他なかった。もう我慢しようとしても、辛くて誰にも言い出そうと出来なかったものでさえも、勢いのままに吐き出せてしまっていた。

 

「みんなのこと、笑顔になんて……出来ないよぉっ」

 

 多分、はぐみはそんなに強い人間じゃないから。こころんみたいに自分の身を顧みずに誰かを笑顔にすることに捧げたり、薫くんみたいに弱みを見せないように演じ切ったり、みーくんみたいに勢いで暴れ回るはぐみたちをじっくり見てくれたり、かのちゃん先輩みたいに優しさで誰かを包んだり、ミッシェルみたいにその場にいる人たちみんなを楽しませることは出来ない。

 みんなを笑顔にする余裕がないのだ。きっと。

 それに気がついてしまった瞬間、はぐみの目から溢れる涙はさらに増えて、全身が震えて、いつのまにかはぐみは親にぐずる子供のように彼に抱きつきながら泣いていた。彼は何を言うでもなく、はぐみの頭の後ろをポンポンと叩くだけで。

 

「……うぅっ、ひぐっ……」

 

 はぐみが泣き止むのを待っているかのように、ただ一定のリズムが刻まれていた。それまでは暑さだとかなんだに鬱々としていたはずが、そんなことにも気を向けることなく、ただ、その居心地の良いところで一頻り泣いてしまっていた。

 

「自分が笑顔に、なれないのに……」

 

「……はぐみ」

 

「誰かのことを、笑顔になんて、出来ないよ……」

 

 そこまで言い切ると、きっとはぐみの中で考えていた辛さを全て吐き出してしまったのか、頭が真っ白になる。さっきまではぐみを囲んでいた、試合終わりの落胆だとか、失望だとか、笑顔からは程遠い顔がうっすらと消えていくような気がした。涙が乾き切った地面に落ちていくのと一緒に、はぐみが求めていない苦しそうな表情も消えていくような気がした。

 

「ずっと、元気でいる必要なんて無いんだよ」

 

「……そうだけど」

 

「ずっと笑顔でいるなんて、無理だろ?」

 

「……うん」

 

 現に、今のはぐみは笑顔じゃなかった。きっと今無理に笑顔を作れても、CiRCLEに着いたはぐみが笑顔になれるとは限らない。というより、きっと無理だった。笑顔にはなれなかった。

 

「辛い時は、笑顔じゃなくたっていいよ。泣いてる時だって、誰でもあるだろ? 小さい時から、今でも、ずっと」

 

 はぐみを諭すような言葉は、はぐみの荒んだ心をなだらかにしていく。染み入るように耳に届いた。今だってはぐみは泣いていた。泣いてることが良いことか悪いことかなんてのは分からないけど、泣くのを我慢はできなかった。でも、段々と落ち着いてきて、顔を埋めながらも、額に流れる涙の温度は感じなくなっていた。

 

「ずっと、笑顔じゃなきゃいけないのか?」

 

「ううん」

 

「……泣いた後の笑顔の方が、輝いてるだろ?」

 

「……うん」

 

 少しだけ掠れた声。それが気になって少しだけ上を向く。焼けた黒い肌の一部が透き通るように、涙の筋があった。

 

「……いっけね、貰い泣きしちゃった……ははっ」

 

 貰い泣きという彼の瞳から溢れた一粒に反射して自分の顔が映った。ほんの一瞬しか見えなかったけど、そこにいた自分は確かに涙の筋があったのに、なんだか笑っているように見えた。輝いて見えるかまでは分からなくとも、笑顔なのは確かだった。微笑み程度かもしれないけど、笑顔だった。

 

「……うん、そっかぁ」

 

 彼にも聞こえただろうか。はぐみの呟き。気づいたことをものすごく小さく、か細い声で呟いた。

 

「泣いた後の方が、もっと楽しく笑えるもんね……!」

 

 無理に力まなくてもはぐみは笑っていた。無理やり作ろうとしていた笑いとは全く違う。はぐみの笑顔。

 貰い泣きだと言っていた彼も、口角が上がっている。自然に、きっと無理に作ろうとなんて一回もしていないのだろうけど、とにかく笑っていた。

 

「……あはは、今日は、……いっぱい泣いちゃった!」

 

 でも、泣いたって良いじゃないか。少しぐらい泣いていた方が、もっと弾けるように笑いたくなるから。さっきが、その泣くべき時だった。多分それだけだ。

 

「……帰るか?」

 

「うんっ。CiRCLEに行くのにお風呂入らなきゃ!」

 

 今すぐにでも駆け出したい気分だった。逃げたいとかそんなことではない。なんなら家に帰るまでに何個かグラウンドを見ることになるけど、見ながら帰りたいぐらいだ。だって、暗く沈んだ気持ちになるのなんて当たり前だから。きっとハロハピのみんなにこの話をする時、ちょっとぐらい暗い顔をしてしまうかもしれないけど、その後一杯笑えば、それでいい。

 

「早く、こころんたちに会いたいから!」

 

 涙はもはや流れていなかった。額を流れる、暑さ極まる夏の汗が太陽の光を反射して煌めいていた。

 早く家に帰ってシャワーで流してしまおう。さっぱりして、そしてCiRCLEで好きなだけベースを弾いて、一杯お話しして。そう考えたら、試合を思い出したとしても楽しみだった。むしろあの試合があったからこそ、楽しそうですらあった。

 走り始めようとした時、慌てて思い出したようにはぐみは振り返る。はぐみの回復具合に驚いた彼は苦笑いだった。そんな姿を見るだけで、なんだか自然と笑顔になれた。はぐみはさっき叫ぼうとした時よりももっと大きな声で叫ぼうと、大きく息を吸い込んだ。

 

「ありがとうー!」

 

 夏の清々しさを全て吸い込んだ、そんな気がした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【弦巻 こころ】あたしの求める笑顔のために

 周囲は一面の青。深い深い青だけど、潮風がさらりと水面を掻き撫でていくおかげで、太陽の光が乱反射して白銀に輝き続けている。その光はステージライトのように、あたしたちの姿を様々な角度から捉えている。

 陸があんなにも遠くに見える。そんな海の真ん中と錯覚するような水上に出来た、あたしたち5人が踊り歌うだけで狭さすら感じるステージ。体が思わず持っていかれそうになるほどステージ上を強く吹き付ける潮風が耳を襲って、薫のギターも、はぐみのベースも、花音のドラムも、ミッシェルのターンテーブルも、聞こえてくる音は雑音混じりになっている。

 それでも微かに聞こえるミュージックを拾いながら、ただ思い思いにあたしは歌うだけ。聴衆は目の前には居ないけど、それでもこの音が世界中に流れてるってそう考えると、あたしの歌で少しでも多くの人が笑顔になってくれているんだって思えるから。あたしはそんな見えない人たちに向かって笑顔の歌を歌っている。

 

「こ、こころちゃーん……!」

 

「あら? どうしたの?」

 

 つい先程まで、数m後ろで必死にドラムを叩いていたはずの花音があたしを呼ぶ声がして振り返る。ずっと正面から吹き続けていた風が、振り向くことで後ろから吹くようになって、あたしの髪の毛が視界をぐっと隠す。その髪の隙間から顔を覗かせる花音はすっかり疲弊した顔で何か困ったような表情を浮かべていた。

 

「花音さん、大丈夫ですか?」

 

「ふえぇ……もう腕が疲れちゃった……」

 

 丁度曲が終わったタイミングで飛び出た言葉に、みんなの顔色を伺う。ミッシェルはいつも通りの元気ハツラツなピンクで楽しそう。はぐみも少し疲れたような表情。薫はなんとか澄ましたような、そんな顔を浮かべている。

 

「かのちゃん先輩も? こころん、休憩しよう!」

 

「疲れたのなら休みましょう! ライブもさいっこうに盛り上がったもの! いいわよね、薫っ」

 

「あぁ、子猫ちゃんたちと一緒に私も束の間の休息を……。……少し、いや、かなり疲れてしまったようだ……」

 

 どうやら疲れたのは花音だけではなかったようで、ジリジリと上空から差し続ける陽の光ですっかり暑さにもやられたらしい。かくいうあたしも既に汗は全身にかいているような気がする。真夏という言葉だけでこの暑さを表現するのは難しいほどの暑さとそれを嘲笑うような日差し。周囲が海だから少しはこの熱気も抑えられるか、などということもなく、むしろ照り返しで額はさらに熱を帯びた。

 あたしたちの声が届いたからか、撮影用に長いアームが伸ばされたライブ中継用のカメラもその腕を下ろす。それを見届けたミッシェルがキョロキョロとした後、着ぐるみの状態のまま倒れ込んだ。

 

「あっつー……。これじゃ温室とかじゃなくてサウナだよもう……」

 

「ミッシェルは一番元気そうな顔をしているのに、疲れたの?」

 

「そんなの熱が籠るし当たりま……。あー、うーんと、ミッシェルは顔色変わんないからねー……」

 

 この狭いステージ上でも大きな面積を取るミッシェルが寝転がったのを見て、みんなも次々に腰を下ろす。そんなところを見ると、あたしもなんだかライブをやり切ったという実感がして、浅い息を吐いた。

 

「無事に海の上のゲリラライブも成功したわね!」

 

「凄かったね、弾いても全然音聞こえなかったもん!」

 

 いつもとは毛色の違う、派手なライブがしたいというあたしの要望で意見として飛び出たのがこの真夏の海上ライブだった。普段は海水浴場なんかで使うようなところから船で島の方に繰り出し、その近くの海域にふわふわと浮かんでいたこのステージには、既に楽器が設置されていた。後はここで演奏したものが中継で全世界に流れる、そんなライブだった。

 

「まさか海の上で本当にライブするなんて思ってもみなかったよ……」

 

「でもいいじゃないか。波間に揺れる乙女の舞う姿が世界に羽ばたくことになるなんて、儚い……」

 

「そっか、これ全部が電波に乗って流れてるんだ……」

 

 今まではこの凄まじいコンディションの中で演奏することに必死で、みんなこの音楽を聴く人たちのところまで考えが及んでいなかったのかもしれない。あたしとて、この暴風とも言えるような潮風と波によって船のように僅かに揺れるステージの上で歌うのは最初は少しだけびっくりした。徐々に慣れて、むしろこの揺られながらのパフォーマンスがだんだんと楽しくなったけど。

 

「ちゃんと音楽って世界中に届いたかな?」

 

「このスマートフォンを使って、子猫ちゃんたちの声を確認すればいい」

 

 薫の手に握られていたスマートフォンは圏外の文字を表示することもなく、中継されたあたしたちのライブ映像を流し出していた。そこには試聴してくれたみんなのコメントが上から下へと怒涛の勢いで流れている。

 

「どうかな? みんな驚きに満ちていたようだ。今回のライブは大成功みたいだ」

 

 薫の喜びの感情が隠しきれずに混じった声を聞いてか、それともスクロールして画面に表示されるコメントの肯定的なそれを読み取ってか、みんなの表情は緩む。多くのコメントが賞賛だとか、良い印象のものばかりだと分かって、安堵の息も聞こえた。そして、みんなの関心は全体の印象ではなく個々のコメントへと移る。

 

「ふふっ、ミッシェル、いつもよりパフォーマンスが大人しいって言われてるね。もっといつものライブみたいな演出の方が良かったかなぁ?」

 

「いやいや花音さん。こんな狭いところに一人で暴れ回ってたらそのうち海に落ちますって」

 

「あら? ミッシェルが踊りたいなら、あたしともっと一緒に踊れば良かったじゃない!」

 

「むしろあれだけ派手にバク転して落水しないこころはどうかしてるって……」

 

 つい十分だとかそれぐらいに終わったばっかりのあたしたちのパフォーマンスの流れる画面を見ながら、ライブの終わりを労うような談笑が続く。ライブが終わった直後こそ、みんなの顔には目に見えて疲れが浮かんでいたけど、今はそんな慣れないライブで成功のままに幕を閉じた喜びが笑顔となって現れている。

 あたしたちのバンド、ハロー、ハッピーワールド! は、世界中に笑顔を届けたいという想いから始まったバンドだ。というより、笑顔が大好きだからというあたしが世界中を笑顔でいっぱいにしたい気持ちで出来上がったもの。だからその活動の一環で今日のライブもしたわけだ。いや、今日のライブは本当に思いつきに思いつきが重なったようなものだけど。

 

「バク転? ミッシェルも練習したら出来るようになるわ!」

 

「いやいや流石に無理……」

 

「せっかくだから海に向かってクルリンって練習してみる?」

 

「花音さんまでそんなこと言います?!」

 

「はぐみもミッシェルが空で一回転するところ見たい!」

 

「うんうん、決まりだね」

 

「本人の意思が完全に無視されてる……!」

 

 世界中を笑顔でいっぱいにする、それが難しいことはなんとなくでもわかっている。けど、毎日を笑顔で生きる方が最高に楽しいはずだから、それをするってだけだ。

 そんな目標とか、目的があるから、まずはこの身近な、ハロー、ハッピーワールド! のみんなの笑顔があたしは見たい。残念だけど、美咲はいつのまにかどこかに行っちゃったから、とにかく今はそれ以外の五人みんなが笑顔になって、それで美咲に楽しい話をお土産にして、出来ることならこのライブ映像を美咲、それだけじゃなくてみんなに見てもらって、いつも傍にいる人を何よりも笑顔にしたい。

 画面の向こうにいる数多の視聴者の表情は見えないけど、きっと笑顔があるはずだ、だって楽しいライブだったんだから、そう考えるだけで、あたしの胸はさらにドキドキとして、あったかくなる。

 

「でもミッシェル、海に飛び込んだら濡れてしまうんじゃないかい?」

 

「そうですよ! だからやらないんですって!」

 

「あっ、ここにミッシェル用の水着があるよ! 水着があるってことは濡れても大丈夫なんじゃないかな?」

 

「絶対に一回飛び込んだら帰ってこれないって!!」

 

「怖いの? それならあたしと一緒にバク転しましょうっ」

 

 海に飛び込むのが怖いのかブンブンと首を振っているミッシェルのおっきな手をちょっと握ってみる。あたしが握るというよりも、ミッシェルに握られているようだったけど、こうするともっとあったかさが直に伝わってくる。そのあったかさは夏の苦しさを纏った暑さとは違う、もっと触れたいと感じるあったかさ。

 

「さぁっ、一緒にいきましょう! ミッシェルっ!」

 

「本当にダメ〜?!」

 

 笑顔が波のように伝わったあたたかさを胸に抱いて、あたしは静かに、それでいて急速に響き渡る水音に耳を傾けた。海の水は冷たくはなかった。

 

 

 

 

 

 その海上でのライブから帰ってきたその日のうちに、あたしはいつになく大きなスキップである所に向かっていた。時刻はすでに夕方の五時を回って、西の空は赤く染まり始めている。体はライブを終えた疲労感だとか、そういうのが少しだけ残っていたけど、そんな疲れを吹き飛ばしてしまうほどに明るい気分があたしを突き動かしたのだ。

 送迎を出すと言われ、車の用意も案内されたけど、あたしはそれを断って家を飛び出した。なんだか今は自分の足で歩いて、その目的地に行きたいと思ったからだ。花音や薫、はぐみや美咲は帰り道も座席でうとうとしながらだったし、それぞれの家に帰される時もなんだか眠そうにしていた。けど、どういうわけかあたしは疲れから来る眠気だとかそういうのが感じなかった。

 その目的地とやらはそう遠くない。家から走って十分ちょっとだろうか、時間を測ったりしたことはないから、正確な時間こそ分からないけど、喩え距離が遠かろうとあたしがその距離を億劫に思うことはないのだろう。

 目的地に着いたら、あたしはただ何も考えずに、彼の名前を叫んだ。普通の一軒家に住む彼の名前を。いざ叫んでから、ブロック塀だとか色んなものに反響した自分の声にちょっと驚いたけど、それから数秒経って玄関のドアがガチャリと開いた。

 

「ちょっ、こころ? いきなりどうしたの?」

 

「遊びに来たわ!」

 

 本当なら用件だとか諸々を話してから上がるべきかもしれないが、あたしは深く気にすることなく開け放たれたドアに飛び込む。招かれているのかそうでないかは定かではないけど、あたしの傍若無人とも言える振る舞いにも彼が顔を顰めたり、声を荒げることはなかった。

 

「もう、取り敢えず上に上がって?」

 

 玄関に入ってすぐ、靴を脱ぐと左手に見える階段を駆け上る。家主である彼よりも先に彼の自室に飛び込んだあたしは、ベッドに向かって減速もせずに飛び込む。その勢いのままに飛び込んだシングルベッドはスプリングでボフンとあたしの体を跳ね上げた。あたしはその力に逆らうことなく飛び跳ねた後、くるりと体を反転させてベッドの縁に腰掛けた。

 

「大丈夫? 怪我はしてない?」

 

「えぇ? 元気よ?」

 

 どうやら彼からすればその動きは奇想天外というか、時思わず心配してしまうような動きみたいで、あたしはしきりに今の半回転で怪我をしていないかと尋ねられる。その度に何度も大丈夫だと返事すると、ようやく彼も納得したようであたしに問いかけるのをやめる。そして、ベッドサイドに置かれたデスクとセットになった、背もたれ付きのチェアにどしんっと音を立てて座る。そして手持ち無沙汰のように何度か左右にその椅子を直角に回転させ、ようやくベストポジションが決まったのか顔を上げてこちらを向いた。

 

「それで、今日はどうしたの?」

 

「ライブをしたから、それを見て欲しかったのよ?」

 

「ライブ?」

 

 あたしがなんとかってライブの中継映像のことを伝えると、彼はポケットからスマートフォンを取り出して、怪訝そうな顔で弄り出す。すると一分も経たないうちに小さく声を上げた。そして、あたしの方に画面を突き出す。

 

「これ? この動画のこと?」

 

「そう! それよ!」

 

「ふーん……?」

 

 彼はデスクの方に一瞬クルリと向きを変える。そして画面をぽんぽんと妙な顔をしながらタップしていた。それがあたしにはなんだか不思議で、ついつい声を掛けてしまった。

 

「ねぇ、こっちに来ないのかしら?」

 

「へ?」

 

「こっちよ!」

 

 同じ部屋にいるはずなのに、どこか遠くにいるような気がして、あたしは振り向いた彼の目を見て、ベッドの隣のスペースを叩いて音を出す。ぽふんぽふんと、ちょっと情けない音が部屋に響いて、彼は何かを気にするように、部屋のあちこちに目線を右往左往させた。そしてふぅ、と聞こえるか聞こえないかぐらいの息を吐くと、ノロノロと立ち上がる。ゆらゆらと立ち上がった彼は、ベッドに腰掛けるあたしから見上げるととても身長が高く見えた。

 

「よいしょ、じゃあ隣座るね」

 

「もちろんいいわよ!」

 

 でもいざ隣に、隣と言いながら肩と肩の間はこぶしひとつ分ぐらい空いてはいるけど、そこに座った彼の目線はあたしとそう変わらない。霧のように消えた圧迫感に安心したあたしは、彼が持っていたスマホの画面をひょいと覗き見る。

 ハロハピのみんなと海の上で確認した通り、あたしたちの愉快で楽しげな映像がそこには流れている。自分でした演奏ながら、その様子は本当に楽しそう、という表現がぴったりだ。もちろん歌っている時もすっごく楽しかったわけだし、その時の感情が振り返って見た時に影響していない可能性はあるかもしれないけど。

 

「へぇ……海、行ったんだ」

 

「ええ! とーっても綺麗だったのよ! 太陽の光が海面でキラキラしていたの!」

 

 ライブの映像を見せつつも、あたしとしては伝えたいのは今日あった小旅行めいたこのライブの思い出全てだった。故にあたしが彼に話したいことはこの映像に映ってる世界だけじゃなくて、映像外のことこそ本題でもあった。

 映像はどれも、あたしたちが歌って、弾いているものが淡々と流れているだけだ。要するに普通のライブ映像で、最初に歌った曲の前奏からしか映っていない。それも周囲の状況だとか、海の真ん中でライブをしているという状況が分かるようにしかカメラも動いていないから、メインはあくまでもあたしたちなのだ。

 

「海、かぁ。今年はまだ行ってないなぁ。これってどこまで行ったの?」

 

「うーん。場所は聞いていないけど、うーんと遠くまで行ったのよ?」

 

「遠く?」

 

「えぇ、飛行機に乗ったもの!」

 

「ひ、飛行機……」

 

 あたしたちがどうやってこのステージまで辿り着いたのかを簡単に教えると、彼は乾いた笑いを含んだ声で、感嘆の言葉を呟いていた。あたしからすれば、飛行機に乗って、船で海上を駆け抜けて、そしてライブをするなんてのは初めての経験でこそあれど、普段とちょっと違う程度なのだけど、彼にとってはそうじゃないのかもしれない。

 

「今度一緒に飛行機に乗って、ここに行きましょう!」

 

「あはは、遠慮しておくよ。高い所苦手だから」

 

「あら、そうなの?」

 

 あたしが顔を覗き込むと、彼は分かりやすくうんうんと二度首を上下に振って返して見せた。前に一緒に旅行に行った時はさほど怖がらずに飛行機に乗っていたような覚えが微かにあったから、少しだけぽかんとしてしまう。

 そんな風に反応薄くあたしが待っていると、部屋の空調の音に掻き消されるぐらいの笑いの声が聞こえてくる。それでハッとしたあたしが彼の方の顔を見ると、彼は優しく微笑みを返していた。

 

「それにしてもこのステージもすごいね。浮島みたいになってる」

 

「え? えぇ! 歌ってるとそれだけで揺れて、船に乗ってるみたいだったわ!」

 

「……これも特設なのかな?」

 

「特設?」

 

「いや、ううん。なんでもない、こっちの話。……って、うわっ。この上でこんなに踊ったりしてるんだ」

 

 彼が何かを誤魔化すような咳払いを入れたけど、彼の瞳が驚きで大きく見開かれるのがあたしはなんだか嬉しくて、その目線の先を食い入るように見つめる。そこは丁度歌の間奏で、正面の方を右から左へと動いているカメラを追いかけるようにバク転とステップをしたシーンだった。よくよく見ると、あたしの足は半分ぐらいステージの縁の部分から飛び出していたけど、画面の中のあたしは何事もなかったように歌い続けている。

 

「これとかも危ないな……。海に落ちそうだよ」

 

「海に飛び込みながら歌うのも楽しそうね!」

 

「そうは……うーん、まぁ……」

 

 歯切れの悪い彼の返事に、内心むっとしたけど、自分の顔がしかめっ面になってしまったのを気にしたあたしは彼とは反対の方向を一瞬だけ向いて、自分のほっぺたを軽く引っ張って、離す。ほんの僅かな痛みと引き換えに、心を切り替えた。

 

「それでもスカイダイビングしながらの時よりもマシ……なのかな?」

 

「スカイダイビングね! あの時もすっごく楽しかったわ!」

 

「話聞いてた限りだと、あれもライブって言えるぐらい演奏できてたわけじゃなかったような……」

 

 彼に指摘されて、遠い記憶を少し思い起こしてみる。確かバッと空に飛び降りて、ミッシェルの鞄に詰めてた楽器をみんなで取り出して。確かに歌えてはいても、演奏とは言えなかったかもしれない。けど、楽しかったことには違いなかったから、あたしは少しだけ複雑な気持ちになった。

 そんな複雑な気持ちをなんとかリセットするために、何より気になるのは、今日、あたしたちがした海上ライブのことだった。

 

「スカイダイビングのライブはすっごく前の話だもの。それで、今回のライブはどうかしら?」

 

「どう……か。楽しげで、良いんじゃないかな」

 

「……そう」

 

「……ん? こころは楽しくなかったの?」

 

 残念なことに、予想していた通りの少し淡々とした反応が返ってきて、あたしは自分でも分かるほどに分かりやすく落胆していた。今日、こんなにも明るい気持ちでこの家を訪れた一番の理由があっという間に崩れ去ってしまったのだから、それも無理がないのかもしれない。

 楽しくなかったのかと聞かれたけど、楽しくなかったわけではない。むしろ非日常を感じながら歌って、それをみんなに聞いてもらえる。これほど楽しいことは他にないと言っても良かった。でも、彼が心から笑ってくれるのを楽しみにしていたあたしにとっては、今回のこのライブはどちらかと言えば失敗と考えてしまうほどなのだ。

 

「あたしは、楽しかったけど」

 

 多分柄にもなく、神妙な表情をあたしはしているのだろう。彼はあたしの気持ちを知らずにこちらを心配そうに覗き込んでいる。でも、そんな顔を見るだけでさらにあたしの気持ちは沈む。ライブが終わって、ハロハピのみんなとライブの映像を見ている時は感じていたあたたかさは夜の訪れと共に完全に薄く消えてしまっていた。あたしが今、一番見たい笑顔は、多分彼の笑顔なんだろう。

 

「でも、あたしは貴方の楽しそうな笑顔が、見たいわ」

 

 そう考えたら、思っていたことがすっと言葉になった。あたしの言葉を聞いて、彼は黙りこくったまま、目を大きく見開いた。あたしは彼の次の言葉を待つしかなかった。

 部屋の空気は空調が効いているはずなのに蒸し暑かった。感じたことのないような居心地の悪さを覚える。目線も彼の方にずっと向けるのは何故か出来なくて、あたしはなるべく彼から目線を外して、けどたまに様子が気になるから横目で確認して、というのを繰り返していた。

 

「楽しそうな、笑顔……かぁ」

 

「ええ。笑顔が好きだから、貴方の。見たいの」

 

 そう呟いた彼の瞳を一度しっかりと見つめてみる。すると、彼は言葉を選ぶようにしながら、ゆっくりと話し始めてくれた。

 

「ハロハピは、世界を笑顔に、だもんね」

 

「えぇ。そのためには一番身近な……」

 

「僕の笑顔は、これじゃダメなのかな?」

 

 そこまで言い切るとゆっくりと面を上げた彼。その表情には、あのなんとも言えない遠回しの笑顔が張り付いている。なんと形容すれば良いのだろう。笑顔は笑顔でも、あたしの求めているような、心の底から楽しさを味わう笑顔ではない。ポジディブだけどポジディブじゃない笑顔。彼なりの優しさを含んだ笑顔なのだろう。いつもあたしが見ている笑顔と一緒だから。それでも、あたしの心はどういうわけか満たされなかった。

 

「これでも、笑ってるつもりなんだけどなぁ、ははっ」

 

「……うん。あたしが好きな笑顔じゃないわ」

 

「そっかぁ」

 

 取り繕ったような様子が節々に現れていた。だからあたしは、いつもは吐いたことのないような諦めに似たため息を吐いてしまった。あたしが全力で楽しんでいる姿を見ても、彼は笑顔になってくれないだなんて、あたしにはどうすればいいか、まるで分からなかったのだ。

 

「どうすれば笑顔になってくれるの?」

 

「どうすれば笑顔に……。うん、うん。そうだなぁ」

 

 何かを喋ろうとしてくれる彼の姿に、あたしは期待を込めて顔を上げた。決して目線は合わないけど、その唇の揺れる一つ一つがあたしにとっては救いの手だった。

 

「なんだか、心が落ち着かない、のかな。見てるとハラハラしちゃう」

 

「ハラハラ?」

 

 聴衆が予想もしていないことで驚かせる、そんな意味のハラハラではないのだろう。彼がそんな感覚を持っているなら、きっととうにあたしは満足しきっているはずだから。だからあたしは彼のヒントに耳を傾け続けた。

 

「うん。……こころ」

 

「……え? どうしたの?」

 

 それまで触れることのなかった肩同士がとんとぶつかり合った。それだけじゃなくてぽっとあたたかな感覚が全身を包む。そのあたたかさは嫌になるようなあたたかさとかではなくて、それこそミッシェルに抱きかかえられている時のような。不意に訪れた安心のするあたたかさにあたしはうっとりとしていた。

 

「なんだかこころが遠くに行っちゃうような。なんて、幼稚な言い方かもしれないけどね……」

 

 あたしは何か特別な言葉を返すわけでもなく、すっと目を閉じてみた。今日のライブの光景が目に浮かぶ。なんで彼はあたしから遠ざかってしまうと思ったのだろうか。ふと考えた時に彼の眉を顰めた顔が浮かんだ。その表情が瞼の裏に写ったとき、なんだかあたしは悲しかった。それは笑顔じゃなかったからだとか、そういう理由ではなく、そんな瞼の裏の彼が見つめるあたしの姿が原因だった。

 ゆっくりと目を見開くと、彼はやっぱり瞼の裏にいた時と同じ顔をしていた。そしてあたしを包んでいる両腕は震えてもいた。

 そこまで考えが巡った上で、あたしはその震える腕を何度か撫でながら、彼の方を振り向いた。とびっきりの笑顔と一緒に。

 

「……いいえ! あたしはどこにも行かないわ」

 

「って、そうは言っても」

 

「それなら一緒に着いてくれば良いのよ!……ううん、あたしに着いてきてちょうだい!」

 

「……えっ?」

 

 あたしの提案に、彼はキョトンとした顔を浮かべる。きっとあたしの返事を微塵も想定していなかったのだろう。けど、彼の思っていることを素直に考えてみれば、あたしが導き出せる答えはこれ以外なかったし、これ以上のものも存在しないと思われた。

 

「あたしがどこへ行っても、それなら一緒よ! あたしも貴方の笑顔、もっといっぱい見たいもの! 最高の笑顔を!」

 

「どこへ行っても、か……あっははっ」

 

「えっ?」

 

 あたしはつい惚けてしまった。その時彼が見せた笑顔は、優しさだけの笑顔じゃなかったから。完全ではなかったとしても、あたしが欲しかった笑顔だった。

 

「うんうん。そうだよな、こころだもん……うん」

 

「どういうこと?」

 

「良いんだ、気にしないで!」

 

 彼は自分一人で納得した様子のまま、それを詳しく教えてくれるわけじゃないらしい。けど、あたしはなんだかそれでもよかった。何より、彼の右目からほんの僅かに漏れ出た粒を見つけて、とても安心したし、嬉しくなったのだ。

 それと同時に、胸もだんだんとあったかくなってきた。そうだ、このあったかさは今日のライブが終わった後に、ハロハピのみんなの笑顔を見つけた時と同じものだ。それよりももっとあったかな、ずっと抱きしめていたいようなあたたかさだった。

 

「うん、こころ。着いていくよ。それで、僕の笑顔が、もっと弾けた笑顔になるなら、ね!」

 

 何かを吹っ切れたのか、彼の繊細すぎる機微は分からなかったけど、そう言い切った彼の笑顔にあたしはさらにドキドキとした。それは丁度あたしが見たい笑顔だった。世界中のみんながこれぐらいの笑顔をもし出来たなら、それは最高なことだ。けど、この笑顔は彼にしか出来ないかもしれない。少なくともあたしの知る中では、彼の笑顔にしかその意味を見出すことはできなかった。

 

「……えぇ! 一緒にどこまでも行きましょうっ。あたしにもっと笑顔を見せてちょうだい!」

 

 曇りのない、まるで今日の真っ昼間の海の上みたいな笑顔。彼の瞳をじーっと見つめればそこには反射したあたしが映っている。

 あたしが見つめていたことに気がついたのか、彼はもう一度はみかんだ。それは優しさが増したような笑顔で、さっきまであたしが不満を持っていた笑顔に近づいたはずなのに、あたしは嬉しくて堪らないのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【今井 リサ】アタシだけの愛の泉

 外からの熱気が微妙に入り混じった廊下を抜けて、クーラーの効いているであろうスタジオのドアを開ける。その瞬間にアタシはお腹にグッと力を込めた。

 つい数秒前まで過ごしていた、Roseliaの練習の中の、ほんの僅かな一人の時間。決してRoseliaのみんなと一緒にいることが苦な訳ではないし、独りでいるよりはみんなといる方がいい。ただ、スタジオに居る時こそアタシが今ここに居る意味を心に刻まなければならないから、アタシにとってはRoseliaのみんなと一緒じゃない時間も大切だったのだ。

 

「みんなお待たせ〜☆ って……どーした?」

 

 アタシが居ない間スタジオに残されていた四人を取り巻く鬱蒼とした空気。アタシが無意識に出した声も慄いた震えが混じっていた。

 

「……いえ、特には」

 

「……そうね、練習を再開しましょう」

 

 なんか隠してるな、そう思った。普段以上に余所余所しい態度に、あこの不満そうな表情。

 

「友希那、誤魔化してても分かるよ? なにかあこに言ったんでしょ?」

 

「なっ……」

 

 名前を出しただけで分かりやすい反応を見せる幼馴染に呆れながら、アタシの目線はもう一人の渦中の人物に向く。その人物は下を向いたままで、アタシと目線は合わなかった。

 

「あーこ。なにかあったんでしょ?」

 

「あこちゃんは……! きっと場の空気を……良くするために!」

 

 あこが俯いて何も言わないでいると、何故かあこよりも先に答えたのは燐子だった。

 

「格好つけた言い回しも……、みんなのためで……!」

 

「あぁ……」

 

 言葉数が少なくても大体何が起きたかは分かった。大方、あこが厨二病めいた表現で友希那に何かものを言い、友希那も汲み取ろうとせずにバッサリ斬り捨てたとかそんなところだろう。アタシが抜けたからとはいえ休憩中だったはずなのに、何があったのかと、気づかれないようにため息をついた。

 でも、その切れかけの息が止まって、しょうもないことだと斬り捨てそうになった自分がいたことに気がついた。くだらない事で喧嘩をしたことを嗜めようとすらしていた。そこまで辿り着いて、アタシの発言でみんながどう思うかを考え直したのだ。

 

「燐子、ありがとうね。友希那はもうちょっとみんなの考えに寄り添う努力もしようね?」

 

「……えぇ、ごめんなさい」

 

「あこも、拗ねてるだけじゃ何も解決しないんだし、もっと素直に分かりやすく言う時もたまには必要だよ?」

 

「リサ姉……。ごめんね……」

 

 一先ずは友希那にもあこにも、どうすれば良かったかって伝えられたし良かった。前に比べたら遥かにみんなが上手く噛み合うようになったけど、ちょっとした綻びが偶に起きるのだ。一見くだらないと思えても、何も改善しようという努力をしなければ、多分この歪みは大きくなっちゃう。なんだか変な言い方だけど、お世話をしてるみたいなそんな感覚だ。

 

「紗夜も、傍観してるだけじゃダメだよー?」

 

「それは。……その、通りですね。反省します」

 

「って、アハハ。アタシが説教みたいなことしちゃった。ごめんね? 切り替えて練習しよっか?」

 

 結局自分はみんなに嫌なことを言っちゃった。どの立場でアタシは説教してるんだろ、なんて。もっとみんなが傷付かずに、頑張ろうって思えるような伝え方しなきゃいけないのにという反省が、ベースの方に歩いてる間も脳裏をよぎった。でも、その思考を中断したのは、他でもないあこだった。

 

「あの、リサ姉」

 

「ん? どーしたの、あこ?」

 

「リサ姉のおかげで、友希那さんのこと考えられてなかったことも分かったから、ありがとうって言いたくて……」

 

「もー……」

 

 ちょっとだけ元気なさげのあこの頭をそっと撫でる。

 

「気づけたなら良かった。頑張ろうね、あこ?」

 

「……うん!」

 

 あこは踵を返すと、先ほどの暗い空気を全て吹き飛ばすような明るい笑顔で燐子に話しかけている。あの分だと心配はなさそうだ。アタシはやがて始まるだろう練習へと気持ちを切り替えたのだった。

 

 

 

 帰り道。西から照りつける夕陽が川沿いを歩くアタシたちの影を作っていた。斜め後ろに大きく伸びる二つの影が揺れていた。

 

「うーん、今日も疲れた〜、ね、友希那?」

 

「えぇ、そうね」

 

 いつになく素っ気ない返答の幼馴染にほんの少しだけモヤモヤとした。友希那の淡々とした受け答えには慣れているつもりだったけど、今日の友希那はより一層心ここに在らずという状態のような気がする。少なくともアタシの振る話に考えを巡らせる余裕はないように見えた。

 

「友希那、どうかしたの?」

 

「えぇ」

 

 その返答は淡々とした、という表現で止まるものでは無い気がする。多分友希那はアタシの声を言葉として認識してない、そんな感じで。だからちょっとアタシはわざとらしく名前を呼んでみた。

 

「ゆーきなっ!」

 

「……わっ。どうかしたの?」

 

「こっちのセリフだよ」

 

 声を大きく、そして変に伸ばして呼んだ名前で、ようやく友希那はこっちの世界に帰ってきてくれた。その反応を見るに、アタシが道すがら必死になって話していたことはやっぱり友希那の頭に何一つ入っていないらしかった。

 

「ずっと考え事してるっぽかったから。どうかした?」

 

「……はぁ」

 

 友希那のため息に首を傾げていると友希那が足を止める。アタシもそれに釣られて立ち止まる。少し後ろを振り返って、友希那の口の震えを見た。

 

「今日のこと、リサに謝れていないと思って」

 

「今日のこと?」

 

「スタジオで私があこと揉めたことよ」

 

「え、あぁ〜……」

 

 言われてみて思い出した友希那の姿。何か友希那から深刻に謝られなければいけないことなどなかったはずなのだが。

 

「リサの言う通り、目の前のやるべきことに目を向けすぎて、みんなを見ることが疎かになっていたわ。リサに言われるまでその余裕がなかったの」

 

「……うん。でもそれはアタシに謝らなくてもいいと思うよ?」

 

「えぇ。だから、それと一緒にありがとうって言いたかったの」

 

「……アハハ、なんか友希那も妙に素直になったね」

 

「変かしら?」

 

「んーん」

 

 しおらしい、というか恥ずかしげもなく素直な気持ちを言える友希那をみて目を見張る。アタシの知らない友希那を見たみたいで。でも、それでもなんだか手のかかる我が子の成長を見守る気分だった。

 

「さ、遅くなっちゃうし早く帰ろっか」

 

 そろそろ沈みかけた夕陽をチラリとみて歩き始める。なんだか気恥ずかしくて友希那と顔を合わせられない。

 

「えぇ、そうね」

 

 小さく微笑んだ友希那を尻目にまた歩き始める。とはいえものの数分で家には着くから、少々無言の時間があっても問題はなかった。それに元から口数の少ない友希那なんだから。一言二言交わしているうちに、瞬く間に自宅に着く。友希那と横並びの家。当然のごとく二階に電気はついていない。

 

「じゃあ友希那、またね」

 

「えぇ、おやすみなさい」

 

 友希那が家に入る。そしてガチャリと音を立ててドアが閉まった。

 対してアタシは、友希那と一緒に帰っておきながら、自宅に飛び込むのではなくまた別の目的地に向かって歩き始めた。その足取りは、自己評価を多分に含んでもよいのなら恐らく軽い。ステップして歩いているんじゃないかと勘違いするほどには。

 

「友希那も、見てないよね」

 

 家の前の住宅街の道路。友希那の家の入り口が臨める曲がり角のギリギリから、隠れるようにして友希那の動向を探る。家に帰ったまま、あの分では今日は外に出てくることはない。だからアタシは安心してその目的地に向かった。

 

 

 

 幾度となく角を曲がってたどり着いたその家。表札がどこにあるかも分からない家に辛うじて使える状態で設置されたインターホンを押すと、中の方から枯れかけた声の返事が聞こえてきた。

 

「やっほ〜。お疲れ〜」

 

「あぁ、リサ。お疲れ」

 

 ドアから現れた彼。アタシの恋人。アタシはここが外だとか、周りから見えるとか何も気にせず、アタシよりも背が高くて、安定感のありそうな胸板に飛び込んでいた。勢いよく飛び込んだつもりだったけど、全く倒れそうになることもなく彼はアタシを支えた。

 

「今日のリサはお疲れかな?」

 

「……うん、充電したいかも」

 

 時間にすれば数秒ぐらいしかなかった。それが少し不満だったから、アタシは自分の不機嫌さとかを隠すことなく彼の後をついていく。限界状況のアタシとは違って、余裕たっぷりの彼は周囲にも気を配ってか足早に家に戻ろうとする。その手を握ったアタシの足音が外の空気に溶けて消えた。

 見慣れた設計の家の中はアタシに安心感をくれた。友希那の家ほど行ってないにしろ、そこそこの頻度では通っているものだから、どこにトイレがあるか、どこにお風呂があるか、どこにリビングがあるか、どこに彼の自室があるか、手にとるように分かる。階段を昇るルートから察するに、これから彼の部屋に行くことになるだろうということも予測がついた。内装は新しめの家屋に似つかわしくない、木目の重厚感が漂う柱にも幾度となく顔を合わせていた。

 

「練習帰りなんだ」

 

「ん? そうだよー」

 

「やっぱり」

 

 後ろを振り返って、彼がアタシの背中を指さす。アタシが背負っているのはベースケースで、それを見たからすぐわかった、なんて自慢げに語る彼の表情はどこか幼い。アタシよりも遥かに小さい中学生みたいな笑顔をしている。

 

「荷物気づいたんなら持ってくれてもいいんだよ?」

 

「あー、忘れてた」

 

「モテないだろうなー、そういう気遣いできないと。って、もう遅いから良いよ」

 

 部屋に入る直前で、代わりに持つと言われても、部屋で落ち着いたらどうせ降ろすのだ。絶望的に細やかな気遣いが出来ないあたり、やっぱり不器用で、まるで一つのことを見出したら他のことには目もくれない幼馴染のようだ。アタシが無碍に断って落ち込んだような仕草を見せるけど、多分それは構ってほしい時のそれみたいなものなんだろう。

 

「と、どこでも座って良いよ」

 

「んー、じゃあ……えいっ」

 

 ドアの横の壁に重たい荷物を立てかけて、アタシは思い切りベッドに飛び込む。さっきまでの重荷を全て取っ払ったものだから体が軽くて仕方がない。

 アタシが飛び込んだベッドは音を立てて軋み、同時に何故か懐かしい匂いが立ち上った。懐かしいとは言っても古臭いとか、そういうのとは少し違う。甘酸っぱいものを連想させる匂い。

 

「ん……はぁ……」

 

 ベッドに力なく横たわったアタシはため息と同時に、この家に来るまで抱えていた今日の練習風景なんかをふと思い起こした。思い出したくなかったのにな、なんていう後悔と共に。

 そこにあるのは満足感——練習をすればするほど、Roseliaの今井リサとしての経験が積み重ねられていくことへの充足感だろう——と、虚無感——Roseliaのみんなと過ごせば過ごすほど、満ち足りずに重苦しくなる、得体が知れない感覚——だった。それらが全てごちゃ混ぜになったものがため息となって部屋の中に漏れ出ていた。

 アタシはその愚かさに気がついて、すぐに口を手で押さえた。幸い彼は、アタシの憂鬱とかに気がついてなさそうで、暢気に鼻歌を垂れ流しながら、勉強机に向かって、その机の奥にある窓から外を眺めているようだった。

 

 ベッドに寝転んでいるアタシから見ると、それは端正な横顔だった。鼻先は外を向いて、目線はきっと殆ど赤が消えて黒ずんだだけの空を向いている。何よりも純粋に見えた。彼はアタシに触れてくれるわけでもなく、自分の世界の中に篭っているだけだった。

 その姿にアタシの興奮は高まる。ドMだとかそうではない。満たされないものを彼で埋めようとして、都合良く行かない彼の飄々さにドキドキしているのだ。それは例えるなら、誰かに片想いする時の切なさともどかしさを足し合わせたものに似ている。

 

「……ふふっ」

 

 側から見れば上手くいっていないように見えるのに、柔らかな笑みが止まらないアタシはどこかおかしいのかも知れない。充電したい、なんて言っておきながら充電できていないわけだし。それでもアタシは何の脈絡もなしに訪れたこの家に住む彼が、前と変わらぬ彼であったことに安心感を覚えていた。

 アタシがこの家に来る時は、大体いつも連絡をして、会う約束をしてからだ。そこからどっかに出かけたり、逆に家の中でのんびり過ごすだけだったり、日によって違うけどそれがルーティン。

 でも、今日は突然の訪問だった。会いたかったから、それだけ。もしかしたら家に居ないかもしれないとか、彼の家族しか在宅じゃないって可能性もあったけど、それならそれでいい。どうせ顔はバレてるし、丸一日家を空けることなんてないだろうし。

 彼はちゃんといた。そして、いつもと変わらぬ様子でアタシを迎えてくれた。アタシを気遣う姿勢が少ししかないのは減点ポイントだが、それは大目に見よう。多分素直に言い出せないアタシも悪い。なんだかんだ彼に対しても気を遣っているのかもしれない。

 

「リサ?」

 

「えっ?」

 

 もの思いに耽っていたから、アタシは反応が遅れた。というか彼の様子を見るに多分呼びかけは初めてではなかった。アタシが気づかないから、揺すって、それで漸くアタシが反応したんだ。

 

「えっと、どうしたの?」

 

「充電しないの?」

 

「へ?」

 

 キョトンとしていたアタシは懐からスマートフォンを取り出す。何も通知は来てない。そんな確認をしたアタシを見て吹き出したのは彼だった。

 

「え? 本当に充電ってそっち?」

 

「え? あっ」

 

 そこまで言われて初めて、自分がどれだけ頓珍漢な振る舞いをしているか気付いた。充電したいって言ってたのは自分じゃないか。その意味だって、そんなストレートな意味の発言じゃないし、彼だって分かってたのにアタシは何を考えていたのか。

 取り乱したアタシを他所に彼は微笑みながら両手を広げていた。いつのまにか彼はアタシが寝転がるベッドの縁に腰を下ろしている。

 

「おいで」

 

「うん」

 

 言葉数少なめに、のそのそと体を起こしたアタシは彼の方に倒れ込む。抱きつきに行くとかってよりは彼の腰めがけて倒れ込んだって言う方が近いかもしれない。

 

「今日のリサ、いつもより体温高いね」

 

「ん……」

 

 アタシは顔を彼の太もも辺りに埋めているから、何も喋れない。喋ってもいいんだけど、喋りたくない。今はただこの温もりを全身に浴びて、その温もりだけに集中していたかった。言葉にするのは難しいけど、ただここから動きたくない。離れたくない。

 

「……そっか。よしよし……」

 

「んー……」

 

 彼の手つきは柔らかく、アタシの髪の毛を撫で回している。それは物凄いスロースピード。おまけにストロークも長いから、ずっと同じところを撫でられているんじゃないかと思うぐらい。

 もし知っていてやっているのだとしたら彼は意地悪だろう。焦らすのが上手いから。本心で言えばもっともっと撫でられたいのに、その気持ちはとてもゆっくりとしか満たされない。

 でも、多分彼はそこまで意地悪ではなかった。焦らそうなんて気持ちは万にひとつもないだろう。不器用だから、そんなことは恐らくできない。どちらかと言うと、アタシが素直になれていないだけ。

 アタシも不器用か。そう思った瞬間、アタシの手は見えないながらに彼の手を掴んでいた。そしてアタシの右耳の後ろあたりを撫でていた手首を握りしめて、もっと慰めろと要求する。

 

「こう?」

 

「んー……ん」

 

 満足いったから、アタシはまたもや体を起こす。さっきまで暗闇だったところに、突然部屋の明かりが目に入って、クラクラとする。それでも彼の肩にアタシは手をついた。

 肩幅は広い。男の人だとそれだけで認識できるぐらい。アタシが多少体重をかけてもビクともしない。それだけでまた安心できた。

 けど、満たされない気持ちが爆発しそうだった。どれだけ彼から優しさを貰っても、それだけじゃ中々満たされない気持ち。

 

「ね、電気消していい?」

 

「何も見えなくならない?」

 

「月が出てるから大丈夫だって」

 

 デスクの上に乗っていたリモコン。消灯と書かれたボタンは細く小さい。乱暴にそのボタンを押して、部屋は一気に暗くなる。窓枠から青鈍の光が漏れ出ているだけ。その暗さはアタシが緊張の衣を脱ぎ捨てるには十分だった。

 

「アタシのこと見えてる?」

 

「シルエットは」

 

「じゃあいいかな」

 

 アタシがベッドに腰を下ろすと、妙に凹む。二人並んで座っているからだろうか。肩の触れ合いがその証人だった。

 

「ねぇ、キスしたいって言ったら?」

 

「ムードとかへったくれもないんだね」

 

「……そうかも」

 

 流れるようなダメ出し。アタシは彼の肩を強く押し込んだ。さっきはまるで動かなかった彼の体が嘘みたいに軽い。

 部屋に入ってくる薄白い光だけが彼の輪郭を映し出していたのに、アタシが覆い被さってそれも消えてしまった。けど、触れ合った熱と吐息が伝わってくる。ほんの僅かな光を反射した瞳が揺れた。

 

「んっ……はぁ、んぅ……」

 

 倒れ込んだまま、アタシは彼の唇を捉えた。瑞々しさが伝わってくる。凄まじい熱気を含んだ吐息がアタシの両頬を撫でた。

 激しいアタシの接吻にも彼は暴れたりしない。急に体勢を崩されて困惑の一つぐらいはしているだろうけど、初めは手持ち無沙汰のように見えた両腕は知らぬ間にアタシの背中へと回されている。密着で生まれる熱がもっと欲しくなって、アタシは上体の力を抜いて、彼の首の後ろへと腕を回した。

 

「今日のリサ、いつにもなく積極的だな」

 

「……ダメだった?」

 

「そんなことないよ」

 

「よかった」

 

 倒れた彼に折り重なったままのアタシは、遂に全身の力を抜いた。彼がアタシの背中に回していた腕が、肩を撫で、首筋を掠めて、頭頂部へ。アタシの髪を掻き分けるような手つきで、アタシは包まれていた。

 

「アタシだって」

 

「甘えたい時もあるって?」

 

「……お見通しじゃん」

 

「うん。分かってた」

 

 不器用で気遣いのできない彼にも分かるぐらい、アタシの様子は分かりやすかったらしい。連絡もよこさずにふらりとここに赴いた時点で、大体の事情はバレていたのかもしれない。

 

「慈愛の女神なんて言われてるけどね」

 

「リサがそう呼ばれてるってのは聞いたことあるな」

 

「……ちょっとだけ疲れちゃった」

 

「……うん」

 

「ねぇ、だからアタシが頑張れるように元気が欲しいな」

 

 ほんの少しだけでいいから、アタシが頑張らなくても良い瞬間が欲しい。でもいつかは頑張らなきゃいかないから、その時頑張れるだけの元気が欲しい。

 

「アタシの恋人だもんね?」

 

「こんなこと、リサにしか出来ないよ」

 

 恋人。愛おしい人。ライブハウスの外に出られる瞬間をくれる人。

 

「当たり前でしょ? アタシ以外の娘にこんなことしてたら……」

 

「浮気だもんね。怒る?」

 

「……泣く」

 

「リサだけの特権だよ」

 

 彼はアタシにだけ愛を注いでくれている。もしこの愛が他の人に漏れていたらアタシは泣くだろう。……なんて言っているのに、既にアタシは泣いている。泣いて、震えながら、彼の体を思い切り抱き締めている。多分彼は身動ぎ一つできない。

 これもアタシだけの特権なのだ。恋人という、甘美な響きを持つ存在だけの特権。彼の恋人はアタシだけだから。だからアタシはRoseliaの外の自分を彼に委ねることが出来ている。弱くなるアタシを見せられるのは彼だけだから。彼から元気をねだるのだ。

 

「Roseliaはリサがいないと、ダメなんだろうな。単に一つのパートとかの意味じゃなくて」

 

「うーん。まぁ、ね」

 

 自意識過剰とか、そう思われるかもしれないけど実際そうなんだろう。それは今日のお昼に証明されている。ずっと前から分かりきっていたことだ。青薔薇の名前に、布団に隠されたアタシの表情は歪んだ。

 

「俺も、リサがいないとダメかも」

 

 普段の飄々とした姿から、そんなことは読み取れなかった。でも、今の申し訳なさも漂う言い方からはそれが嘘だとは思えなかった。

 少なくとも普段は、まるで依存みたいなそんな望ましくない様子はない。……それに比べて、アタシは。

 

「アタシだって、そうだよ」

 

 逆だ。多分アタシは彼に物凄く依存してしまっている。彼の優しさが持つ毒みたいな甘さにしがみついている。タチの悪いことにその毒は弱毒である。

 

「此処がなきゃ、頑張れないもん」

 

 アタシは腕にさらに力を込めた。アタシにとってのオアシスを決して離さないように。

 Roseliaが華々しくなればなるほど、そのオアシスは遠くなっていく。アタシにとってRoseliaがかけがえのないものになればなるほど、アタシはこの甘い世界に浸りたくなる。そこはアタシが注ぎ続ける慈愛の源泉だった。

 

「ねぇ、もっと優しくして」

 

 暗闇の中で、アタシの声を彼の耳元に吹きかける。ちょっとだけ彼の髪の毛がくすぐったかったけど、それは彼も同じことだろう。アタシの髪の方が断然長い。

 

「もっと甘やかして」

 

 藍色に光る彼の首筋に吸い付いた。蕩けて、ほっぺが落ちそうになる味で、これ以上ないほどに甘かった。

 

「もっといっぱいアタシのこと愛して」

 

 アタシは全ての重みを彼に委ねて、唇を重ねる。何度も、何度も。彼が息苦しそうに喘ぎ混じりの声を漏らしてるのに、アタシは止めることなく彼からの愛を貪り続ける。

 愛に飢えているだとか、そういう訳ではなかった。普段の彼からの愛情表現が足りなかったとか、そういう訳でもなかった。

 ただ、今はとにかく甘えたかったのだ。アタシだけが貰える愛の形をいっぱい刻んで欲しかった。いつもは誰かに愛を注いでもらいたいって気持ちを抑えているんだから、今この瞬間ぐらいはワガママを言ったって良いじゃないか。そんな屁理屈でアタシは彼を求め続ける。

 

「ぶはっ、はぁ……はぁっ、リサ……」

 

 名前が呼ばれて、正気に戻った。恋人という存在の甘い誘惑に大敗北を喫したことを認識したアタシは即座に謝ろうとしたけど、それは叶わない。

 

「んっ……はぁ……」

 

 それまでのアタシの暴走を真似するような反撃にアタシは溺れる。絶対に逃げられないようにアタシの体は抱き締められている。そんなに強くしなくてもアタシは逃げないのに。

 ……そっか。でもアタシもそうだったもんね。そう考えると、なんだか納得がいった。全く根拠もない自信というか、アタシが求めていた元気が湧いてきたような気がした。

 

「……アハハ、すっごい幸せって感じする」

 

 アタシの微笑みはきっと陰になって見えていないだろう。その陰を作っているのは紛れもなくアタシ自身で、アタシは好んでそれを作っているわけで。アタシの笑みは彼に知ってほしいのに、アタシはそれがこの陰に隠され続けることを願っていた。まぁ、彼ならきっとアタシの気持ちも、今の表情も知っているのだろうけど。

 

「でもまだ甘え足りないな」

 

「いいよ? どれだけ甘えたって」

 

 アタシの心は砕けてしまう。頑張れないから優しくされたいのに、優しくされたら頑張れなくなってしまう。でもそれでも良かった。良いって思えた。弱くなってしまったアタシを肯定してくれるここから離れるのだけはイヤだから。

 

「ねぇ、……アタシ」

 

 朧がかっていた月の光明が部屋を照らした。街が暗くなればなるほど明るさを増した月明かりは、白というよりは紅く映っていた。静寂に沈んでいたような街にも人の営みの騒音が響き渡っていた。

 

「……なぁ、リサ」

 

 アタシの身に刻まれた、愛の刻印。アタシが刻んだ静かな誓いは、どこまでも紅かった。

 

 

 

 目が覚める。いつものアタシが眺めていた部屋の景色。太陽の光がカーテンの隙間から細い筋となって差し込んでいる。朝の訪れだった。

 体を起こそうとするけど、どうにも怠くて重たい。多分疲労だとかそういうのが溜まっているからなんだろう。それでも起きないという選択肢を取るわけにもいかず、けたたましく騒ぎ続ける目覚ましを止めた。

 思い切り伸びをして、光が斜めに差し込む窓の側へ。隣の幼馴染の家と接するカーテンを勢いよく開けた。

 

「友希那はまだ寝てそうだね」

 

 アタシは最低限の支度をして階段を駆け降りる。どうせもう一回家に帰ってくるだろうから、荷物は何も持たないで。

 朝に弱い幼馴染に可愛らしい呆れの籠ったため息をついて、アタシは友希那の部屋に入っていた。いつもと変わらず、仰向けで静かな寝息を立てる幼馴染の姿に、アタシは意識をせずとも柔らかな笑みを浮かべていた、多分。

 

「ほら、起きてー、友希那」

 

「んぅ……」

 

 目覚めを拒否する幼馴染を必死に揺すって、強引に目覚めさせる。薄らと目を開けた友希那は体こそ起こしたものの、まだ寝惚けているらしくポカンとしている。

 

「……リサ」

 

「うん、アタシだよ。起きた?」

 

 アタシの問いかけにも反応は薄い。まだ眠りと覚醒の狭間にいるらしい。

 

「もー! 友希那、起きて! 今日はライブも近いしみっちり練習するんでしょ!」

 

 アタシは今日も、Roseliaの今井リサとして輝いている。放っておけない幼馴染や、バンドのみんなに慈愛を注ぎながら。大切な仲間と音楽を続けるのだ。

 アタシは今、優しく居続けるために、紅の月の下で弱い自分を選んだのだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【青葉 モカ】その手を引いて

 その日の授業が終わるチャイム。微睡の中に消えてしまいそうだったその音を拾い上げて、あたしは目を覚ます。タイミングは完璧で、まるで帰宅する時間を見越して夢の世界に旅立っていたような時だった。

 あたしは眠気で少しだけ怠さの残る体を起こして、荷物を纏めているらしい蘭の下へ。一緒に帰ろうか、なんて蘭を誘おうとした折、蘭は徐ろに鞄を背負おうとしていた。

 

「らーんー。一緒に帰ろ〜」

 

「ごめんモカ。あたし、今日はこれから行かなきゃ行けないところがあって」

 

「……そっか〜」

 

 急ぎ足になりたそうな幼馴染。その反応を見る限り何やら外せない用事があるようで、あたしが喩えどれほど引き止めても無駄だろう。これだけ幼馴染をやっていれば分かる。

 

「蘭は最近特に忙しそうだもんね」

 

「まぁね。今度華道の作品展があって。出さなきゃいけないからそれの都合で」

 

「そっか〜。そういうことならモカちゃんも諦めてしんぜよ〜」

 

「うん、ごめん。またね、モカ」

 

「うん、また明日〜」

 

 ドアを潜るとすぐに蘭の姿が消える。その瞬間、やけに教室に蔓延る雑音が大きくなったように感じられた。前の席や、教卓付近で屯しているクラスメイトたちの声が煩わしくて仕方がなくなる。それまではせいぜい子守唄程度にしか思っていなかった音の数々が耳障りになった。

 まるでノイズと化してしまった教室の声。そんな雑音混じりの中でも、あたしの頭の中ではつい先程の蘭の声と、その時の表情がぐるぐると回っている。考えないようにすればするほど、脳にこびりつくようになる。きっとそれはあたしの心に巣食った醜い感情のせいなのだろう。

 

「……帰ろっと」

 

 ひーちゃんたちと帰るって選択肢もあるにはあった。だが、楽しそうな雰囲気のところに入りにいって、会話の流れを切ってまでみんなのところへ行こうとは思わなかった。Afterglowのみんなならあたしを拒むことなんて無いはずでも、あたしが納得いかなかったのだ。

 この後この三人があたしのことを探して回るだなんて可能性に気づくこともなく、あたしは教室を飛び出した。やたらと重たくて仕方がない荷物を持って。ただ今のありのままの姿を直視したくなくて、あたしは走り始めたのである。

 校門を出て少ししたところで、段々と心が落ち着き始めてきて、足取りもゆっくりになった。それまでは大きな歩幅だったものが、まるでのんびり歩く時のようにスローペースになる。それを自覚した瞬間、より一層心は落ち着いた。無理をしていた大きな歩幅をやめて、慣れ親しんだ歩き方をしたからだろうか。

 

「この時間でも……大丈夫でしょ〜」

 

 本当は真っ直ぐ帰っても良かったかもしれない。けれど、なんだかそれは納得がいかなかった。頭の片隅にいつもいる存在。それを無意識のうちに欲していて、あたしは急遽帰路の方角を自宅から変える。住宅街を歩いていくことには変わりないが、それでもいつもの帰り道ではあまり通らない帰宅の道にドキドキしていた。

 

「この時間はもー帰って……あれ〜?」

 

 目的たる家にはすぐに着いた。家に着いたものだから呼び鈴を鳴らす。けれども、誰一人として出てきそうにない。何の音沙汰もないし、部屋の窓から見えるカーテンが開けられるわけでもない。お手洗いにいるか、もしくはこの家にいないか。

 

「お邪魔します〜」

 

 誰の許可を得るでもなく家に上がる。誰もいないのはすぐにわかる。それぐらい静かで、生活音は何もしない。

 向かった部屋は大切な関係を育みつつある彼の部屋。関係性を形容するのは難しいが、少なくともこうして簡単に家には上がれる関係性だった。とはいえ常識はずれなことは理解しているし、あたしと彼だから許されるものだということも分かってはいる。

 

「やっぱりいない……」

 

 あたしは無意識のうちに彼がいることを期待していたのかもしれない。彼の部屋の角っこに置かれた姿見に映ったあたしは酷く落胆した表情を浮かべていた。

 もぬけの殻であった部屋の寝具に力なく倒れ込む。この部屋までたどり着いた時の気力などはとうに消え失せていた。ふらふらと、まるでアルコールが回りすぎた酔っ払いが意識を失う時のように、ピクリとも動かない程度に倒れる。

 あたしは四肢を一つも動かさずに、漂った匂いを鼻いっぱいに吸い込む。変態的な表現ではあるけど、心ゆくまで彼の残り香を吸っていた。恍惚に浸るあたしの表情は誰にも見えないだろうけど、きっと誰も見たくないのだろう。

 

 その時、ガチャリという音がした。最初こそあたしは反応できなかったが、数秒ぐらい静かな空間にいて、それがドアノブの回る音だと気づく。

 あたしは一瞬で頭が真っ白になった。素のあたしじゃ絶対に考えられないぐらいの機敏さで起き上がり、求めていた人と対面した。

 

「……よかった、モカかよ」

 

「や、やっほ〜……」

 

 心の準備が一切できていなかったあたしの声は多分震えている。なにせ自分の世界、悦に浸るだけの時間を過ごしていたところに水を差されたのだ。勝手に人の家に来ておきながら何をしているのかと問い質されれば反論できないが、これぐらい挙動不審になるのは許して欲しい。

 

「帰ってきたら玄関に見慣れない靴もあるし、鍵開けっ放しだったから泥棒にでも入られたのかと」

 

「モカちゃんの靴が分からないなんて〜。それより鍵開けっ放しの方がダメなんじゃない〜?」

 

「ちょっとコンビニまで飲み物買いに行ってただけだからな。まさかその十分の間にモカが来るなんて」

 

 なるほど、机の上に物が出っ放しのそれは、ふらっと出かけたからというだけなのか。そんな彼の行動に納得のいったあたしはのそのそとベッドから起き上がり、縁に座り直した。

 

「で、モカに聞きたいんだけど」

 

 そんな言い回しに、大袈裟かもしれないけどあたしの体は跳ね上がった。少し崩れた髪の毛を掻きながら、彼は言いづらそうに一息置いて。

 

「俺のベッドで何してた?」

 

「えー……」

 

 予想通りの質問が飛んできた。そりゃあそうだ。何の前触れもなく家を訪れて、無人の部屋で異性のベッドの上でゴロゴロ転がるだけならまだしも、枕の上に顔を埋めているのを見れば変態という評価以外は難しいだろう。現にあたしは彼が帰ってくるまでご満悦だったわけで。いくらあたしが彼の家に入り浸るようなやつだとしても、以ての外だった。

 

「それはその……」

 

「その?」

 

 この状況を切り抜けるような抜群のアイディアは浮かばない。ここで好きな人の匂いを堪能してただなんて、馬鹿正直に全部を吐き出せるようなキャラをしていれば何の苦労もないのに。生憎、そこまで素直になれるほどの自分ではない。遠回しに好意を伝えて、なあなあで切り抜けるという器用な真似も、臆病なあたしにできるわけがない。

 

「その、眠たかったからね〜」

 

「眠たかったのに、あんなにくねくねしてたのか……」

 

「む……」

 

 あたしは彼が部屋に入ってきた時、暫くドアが開くのに気がつかなかった。そんなもので、自分の姿は見られていないと思い込むことで平静を保とうとしていたのに、あたしの情けない姿は全て見られてしまっていたらしい。

 

「み、見られちゃったのか〜。モカちゃん、もうお嫁にいけない……。よよよ〜……」

 

 いつもならこんな感じに揶揄って、手玉に取るのを楽しんでいたはずなのに、今のあたしの言葉を聞いても、苦し紛れの言い訳にしか聞こえない。案の定彼からの反応は薄いし、どうにかこうにか誤魔化すなんてのは無茶だったらしい。

 

「……その、ちょっと布団に埋まりたかっただけだよー」

 

 結局、あたしの中の想いを封印して、少しでも違和感がない程度に愚かな欲望を伝えるほかなかった。俯きながらも彼の顔を確認する。ただ、不幸中の幸いだったのが、ものすごく軽蔑されているという様子はなかった。

 語気を荒げるとか、そういうのがなくて安心したあたしはゆっくりと顔を上げた。意外にも、そこにいた彼も、なんだか気恥ずかしそうに、一向に目を合わせなかった。

 

「どーしたのー?」

 

「いや、そこまでストレートに言われると……」

 

「もしかしてー、恥ずかしい〜?」

 

「……当たり前だろ」

 

 あたしがいつもの調子で揶揄い始めると、彼の顔は一気に赤らみを増した。あたしとて恥ずかしさはさらに増したが、彼に嫌われなかったという事実だけがあたしを一層興奮させている。

 

「嗅いでるだけでクラクラするぐらい良い匂いだったよ〜」

 

 多分今のあたしはすっかり普段の調子を取り戻した表情をしている。ニヤニヤとしながら、あたしの発言に様々な反応を見せる彼の姿を堪能しているのだから。ここまでくれば、あたしは最強だった。喩えどれだけ恥ずかしいことだろうが、好意が丸出しの発言であろうが、揶揄いという皮をかぶって、怪しまれないままに彼にアピールを出来るから。

 

「感想とか良いから……!」

 

「えー、でも嫌な匂いって思われるよりいいでしょー?」

 

「そりゃそうだけどさ!」

 

 さっきまでの困惑だけの表情じゃなくて、彼の歳相応の多感な精神がモロに出たこの顔が見たかった。あたしが築いてきたいつも通りの二人の空気が一瞬で出来上がるから。あたしが翻弄して、彼がただ慌てふためく。それがどうしてかわからないけど、何よりも心地よかった。

 

「モカちゃんは良い匂いがたくさん堪能できて満足だよー」

 

「もういいから!」

 

「ちょっと汗っぽいのも混じってたけどねー」

 

「あぁ。……はぁ」

 

「ふっふっふっー」

 

 少し拗ねたように声が大きくなるのも、可愛いと思えるぐらいの余裕が出てきた。呆れたような彼の息さえも、あたしをさらに調子に乗せるスパイスでしかない。

 この分なら、あたしが粗相を見せたことも、追い込まれた末のセンシティブな発言も、全てチャラにできそうだ。慌てたような表情と、諦めの混じった表情を交互に繰り返す彼の姿を見て、あたしは内心ほくそ笑んでいた。

 

「はぁ……。全く……急に来たかと思えば、何なんだよ……」

 

 でも、あまりにいじり倒しすぎたのか、許容量を超えてしまったのか、急に彼は静かになってしまった。それに、ただ静まり返っただけじゃなくて、その表情もなんだか重苦しいものに変わってしまっていた。部屋に入った時に電気をつけていなかったから、部屋の中は薄暗く、それも相まってその表情を見るのはどこか怖かった。

 

「……怒っちゃった?」

 

「別に。怒るほどのことでもねぇし」

 

 さっきまで彼のことを意気揚々と煽っていたのが嘘のようにあたしの心の穏やかさは吹き飛んだ。怒ってないと口には出していても、明らかに機嫌があまり良くないということは見てとれた。かといって、あたしからすればこんな状況はこれまでそうなかったもので、この状況から逆転するような会話の糸口は一切持ち合わせていなかった。

 

 以前から、こうだったから。あたしが彼の痛いところを突くように煽り、彼は最初こそ適当に流すが、最終的にはあたしの挑発に簡単に乗り、あたしの掌の上にいたことを悔しがる。そんなやり取りが楽しかったし、その過程でさりげなく彼の体に触れたりだとか、普段は口に出さないような気持ちを吐き出して、あたしはそんな関係性に満足して甘えていた。

 だからこそ、あたしは今まで、彼がここまで近寄り難い空気を発するところに触れたことがなかった。いつもはもっと、謂わばフランクに、難しいこと何一つなしに関わって、そのついでにあたしが良い思いをするなんていう、そんな空気だったのに。

 

 彼はあたしをスルーして、椅子に座ったまんま、カーテンの開いた外を見るばかりだった。カーテンを開けてくれたおかげで西日が多少差し込んで、部屋が明るくなったのは良かった。けど、その夕日に照らされた彼の顔は今まで見たどの表情よりも怖かった。

 部屋は静かだ。あたしも何も喋らないし、当然彼は言うまでもない。喋らないだけと言うわけでもなく、熟年の夫婦だとか、これでもかというほど価値観が一致するカップルのように、話し合わなくとも想いが通じ合うだとか、そんなご都合主義のような世界に生きているわけでもない。そもそも、恋人同士ですらない、曖昧な関係性。その関係に甘えてきたあたしは、ただ小さく震えるほかなかった。

 

「なぁ、モカ。ちょっといいか」

 

 どれぐらいの時間、緊迫した空間で過ごしただろうか。部屋に入り込んでいた太陽の角度はさらに下がり、ほぼ真っ正面から太陽の光を受けているにも関わらず、彼は大っぴらには眩しがらずに目を細めている。そんな彼が、ようやく口を開いた。

 あたしは戦慄した。もしも、ここで彼の怒りに触れて、二度と敷居を跨ぐななんて言われたら。家に来れないだけならまだいい。二度と会いたくないなんて言われたら。

 あたしはきっと、何の恥もプライドもなく、無様にも泣くのだろう。あたしにはその涙を語る資格すらないのかもしれないが、きっと、これまで感じたこともない絶望に触れて泣き続けるのだろう。

 

「……なに?」

 

 事実、やっとの力を振り絞って返した彼への返事の言葉も、酷く震えて、既に目の奥が熱い。顔が引き攣ったように力が変に入って、全身が強張る。もうまともに彼の方は向けないし、部屋に差し込んでいる光の束でさえ目障りで、あたしを詰ろうとしているのではないかと疑念を抱く。

 彼はなかなか話し出そうとしなかった。あたしが返事をしても、何か言うでもない。ただ真っ直ぐ、外をぼんやりと見つめてるだけで、こちらを一瞥するというわけでもない。

 普段通りの軽いノリなら、ここで、『何してるの?』だなんて言って、後ろから彼に乗り掛かって、暑いから離れろだとか、色々と言われながらベタベタとくっついたりだとか。今、改めて考えてみればものすごく下賤というか、やり口が果てしなく狡いと思われる。

 今だってそんなふうに彼に気軽に話しかけられたらどれだけ良かっただろうか。静かな空気に居続けるだけでさらにその気持ちが募る。

 

「……ねぇ」

 

「モカ、外行こう、外」

 

「え?」

 

 なかなか反応がない彼に痺れを切らしたあたしがもう一度催促の声をあげると、突然彼が椅子から立ち上がる。あたしは何をするのか全く想像もつかなくてその場でフリーズしていると、どういうわけか目の前に彼の右手が差し出された。

 

「ほら、早く」

 

「え、うん」

 

 反射的にその手を取って、あたしはベッドから立ち上がる。そして部屋を出て、本当に外に行こうとしているらしい彼の後ろをついて歩く。玄関から出たあたりで、もう一度呼び止めたけど、彼は変わらずあたしの手を握ったまま歩くだけだった。

 手を繋いで歩く。好きな人とそれが出来ればそれだけでどれほど幸せだろうか。きっとこの世界にいるほとんどの人がきっと、そんな小さな幸せでも好きな人と共有したいと願うのだろう。

 でもあたしはとにかく怖かった。何も言わない彼が怖いというのではない。手を握るのが怖かったのだ。もっと正確に言えば、こうやって手を繋ぐのが、最後になってしまうのではないか、これは餞のようなもので、最後に残された思い出なのではないか。そんな理由がない、切実な不安があたしに襲い掛かっていたのだ。

 

「ねぇ、……怒ってない?」

 

 その不安を解消しようにも、彼に話しかけても彼は怪訝そうな顔を浮かべて、何も言わない。しつこく言い続けるのも嫌われそうだけど、どうしても不安なあたしが何度目かの同じ質問を投げかけて、ようやく彼は小さく答えた。

 

「……怒ってはないって、言ってんだろ」

 

 どこか乱暴で、投げやりな言い方。いつもこんな感じな気がするのに、いつもの何倍も心に刺さった。まるで決別をこの場で告げられたような絶望感を与えるのに十分だった。

 

「怒ってないから、黙ってついてこい」

 

「……うん」

 

 家屋の長い影が伸びる街中を、彼と二人手を繋いで歩く。その光景だけ見れば、幸せな男女の恋愛のワンシーンのはずなのに。今すぐこの場から逃げ出したいぐらい苦しかった。彼のいる場所から逃げ出したいなんて、絶対に思うことはないと思ってたのに。

 人の感情なんて、こんなにすぐに変わるんだってその時痛いほど分かった。いつもの彼なら、何を言ったって笑いながら、時には拗ねながらも、最後にはちゃんと仲直りして、笑顔でいてくれるのに。彼も、いつものまんまじゃないんだ。

 

「もうちょっとだから」

 

「分かったよ……」

 

 あたしの今の気持ちは処刑台に向かう大罪人のそれに近いかもしれない。今から首を斬られて、この世に居られなくなってしまう大罪人。自分が犯してしまった過ちを、大衆の前で晒されて、見せしめのように苦しんで生の終わりを過ごす。

 あたしだってそうだ。ずっと変わらずにこのままと願った彼と別れを告げるのだろう。あたしのこれまでの業の深さは、もしかしたらあたしが自覚していないだけでとんでもないものになっているのかもしれない。

 ただただ、あたしの頭の中が贖罪の想いだけで一杯になった頃、ようやく彼の足が止まった。そこは少しだけ見晴らしのいい児童公園。既に遊具は哀愁を伴って静まり返り、人気はない。今にも沈んでしまいそうな太陽が少し遠くのビルの隙間から見えていた。

 

「……公園?」

 

「あぁ。ベンチとか、行こうか」

 

「うん」

 

 あたしは逆らうこともせず、土の地面を踏みしめる。本当のことを言えばその一歩一歩がとてつもなく重いし、できることならここから一瞬でも時が止まって、彼との関係がある時間を一秒でも長く実感していたい。そのベンチには行きたくない。

 彼が指差したベンチは公園の端、向かい側を向いている。どこにでもあるような木のベンチ。表面で赤い陽光を反射している。一度、そこに座ってしまったら、彼と会えなくなってしまいそうで、それだけが嫌で、座りたくなかった。

 けど、申し訳程度に握られた手を振り解くことなんてのは出来ず、少しでも彼の温もりを感じていたかった。多少汗ばんでしまっているその手に引かれるがままにあたしはベンチを腰を下ろすしかなかった。

 

「……ふぅ」

 

 一息ついた彼の纏う空気、外を歩き回ったせいか少しだけ和らいでいるようには思えた。それでも核心のついた話にするのは怖くって、あたしから話を振るだなんてのは出来ない。だから、ひたすら彼が口を開くのを待った。

 

「ごめんな、モカ。怖がらせちゃって」

 

「……え?」

 

 彼がようやく重い口を開いたのは、太陽がもうあと少しで消えかける、そんな時だった。そして、何より意外だったのは、これほど身構えて入ったのに、彼から飛び出た最初の言葉は謝罪の言葉だったことだ。

 

「怒って、ないの……?」

 

「だから、怒ってないとは言ってるだろ。その、俺も緊張して口数少なかったりはしてたけどさ。でも、怖がらせちゃったみたいだから、ごめん」

 

 拍子抜けした気持ちではあったが、それでも先ほどまでずっと感じていた恐怖を拭うなんてことはできなかった。

 

「……そっ、か」

 

「緊張してるっていうのはその、もしかしたらずるいとか、なんでって思われるかもしれないから、その」

 

「えっと……」

 

 感情の起伏が激しすぎて、混乱しているということを抜きにしても、彼の言うことはあまりピンと来なかった。何を言いたいのかも釈然としない。多分それは、彼が言いたいことを遠回しにして言おうとしているからだと、なんとなく分かった。

 

「……何が言いたいのか、わかんない」

 

「その、さ。はぁ……ふぅ……」

 

「えっ?」

 

 ベッドの上にいるのを見つかってから、既に泣きそうなのをギリギリで堪え続けてきたあたしの目からすぅっと涙が引いたような気がした。変に呼吸を整える仕草が、いつかのあたしみたいだったからだった。

 

「モカに、言いたいことがあって」

 

 空気がピンと張り詰める。本題に踏み込むのだと分かった。とてつもなく怖かった。あたしが今日、必死に必死に避けようとし続けてきたから。全身が震えそうになるのをどうにか、彼の手を握って堪えた。

 その時だった。彼の手はあたしの手の震えを包み込むように握り直された。そして、空いていた彼の左手が、あたしの左手に重ねられた。

 妙なくらいに周りが静かに聞こえた。隣の彼の息遣いが聴こえるぐらいに。それまでは全部ノイズに聞こえていた音が全て消え去った。

 

「最近、モカとの関係が曖昧になってた気がしたから話がしたかったんだよ」

 

「……え?」

 

「モカが今日ベッドの上で何かやってたりとか、どうすればいいのか俺も分からなくて。モカは、どうしたいんだよ」

 

 彼の瞳は、左右に揺れ続けていたあたしの目を見つめていた。とても静かに。

 

「あたしは……ずっといつも通りが、いい。変わるのは、怖いから」

 

 ここまで素直に気持ちを吐き出したのなんていつぶりだろう。できることならずっとこのまま、もうそれ以上は望まなかった。変わるのなんて怖いから。彼との関係だけでなく、あたしの周りの全部が全部。それを変わらないように、必死に以前の形跡を集めて集めて、それで満足しようとしていたから。

 

「いつも通りって、あんな微妙な空気の、いつも通りが?」

 

「あれは……、あたしも嫌だけどー……」

 

「俺も、モカといつも通りが良いけど、いつも通りは嫌だ」

 

「……どういうこと?」

 

「このまま微妙な関係で終わるより、もっと傍ではっきりと、モカのこと感じたい」

 

 あたしはもう、あたしだけを瞳に捉えて話し続ける彼の雰囲気に呑まれていた。それでいて、拒むわけでもなかった。

 いつも通りがよかったけど、いつまでもいつも通りでいるのも嫌だった。けど、今のいつも通りが無くなるのが嫌だから、あたしはしがみついていただけだから。

 

「モカ、この場ではっきりと答えを教えてほしい」

 

 彼はあたしに、いつも通りでいないでくれと言っている。普段のあたしを捨てて、もっともっと傍に居てほしいと言っている。

 

「俺のこと、好きだと言ってくれ」

 

「……モカちゃんは、そんなに軽々しく、その言葉、使ったりしないよー?」

 

 なら、あたしの答えは一つだった。どれほど、普通の恋愛なるものからかけ離れていても、どれほど、奇妙な形であっても。

 

「好きに決まってるでしょ〜?」

 

 握っていた手を離して、真っ正面から彼に飛び込む。いや、飛び込むなんてのは大袈裟で、本当は倒れ込んだと言った方が正しいかもしれない。

 ずっと揺さぶられ続けた心が限界を迎えたように決壊する。ただただ不安で押し潰されそうだったあたしはその不満も一緒に勢いに込めた。

 

「これ以上……、モカちゃんのこと、こんなに不安にさせないでね〜……?」

 

 彼の答えは抱擁に含まれていた。ここにいるだけで、それでいいと思えるようなあたたかさを持っている。

 いつも通りのあたしなら、同じような言葉ももっと軽かった。多分彼もそれを分かって適当に受け流していたのだろう。でも、その言葉の想いは本当だから、今この瞬間は何物にも代え難いぐらい幸せだった。

 

「約束する。もうモカのこと泣かせないって」

 

「……もー、卑怯だな〜」

 

 揶揄いの言葉も気持ちいいけど、それはこの胸を包むあたたかさのお陰だった。これがあるからあたしのいつも通りは尊かった。ずっとここにいて、生を終えたって構わないと思えるぐらい、居心地のいい場所だった。

 あたしはただ、感謝した。あたしの中のいつも通りが壊れていくことを。彼が壊してくれたことを。

 

「あーーー! モカいた!」

 

「えっ」

 

 その時、感傷に浸るあたしの耳を貫くぐらいの大きな声が聞こえてきた。多分これは公園の入り口の方。瞬間的に、彼の抱擁が解かれる。そして同時に駆け寄ってきたひーちゃん。

 

「って、あれ」

 

「……ひーちゃんは空気が読めないなー」

 

「えっ、えー?! ごめんモカ!」

 

 突然のひーちゃんの乱入に彼は苦笑いをするだけだった。よくこの二人だけのムード溢れる空間に斬り込めたなと、ちょっとだけひーちゃんを恨みたくもなった。でも、彼の態度にあたしはどこか安心したのだ。

 

「えっと、その、ごめんなさーい!」

 

「もういいよー、ひーちゃん。モカちゃんを探してたのかなー?」

 

「そうだけどぉ。えっとえっと」

 

 あたしは慌てふためくひーちゃんを一瞥した後、少し振り返って微笑んでいる彼を見た。その顔を見るだけで笑みが溢れてしまいそうで、我慢しながら、あたしはいつも揶揄う時のようにニヤリと笑った。人差し指を立てて、そっと口元に添える。

 

「ひーちゃんに呼び出されちゃったみたいだから、物凄く優しいモカちゃんは仕方なく着いていってあげよう〜」

 

「えっ、えっ?! いやいや、私用事思い出して」

 

「ほらほら、行くよひーちゃん」

 

 あたしはひーちゃんの手を取って、公園の入り口の方へと歩き出した。一度も振り返りはしない。それでも心には彼への感謝の気持ちを持ち続けていた。それは、いつも通りを壊してくれた彼のおかげで、一緒になって壊れていくみんなに、追いつけそうだから。

 いつも確かにそこに居てくれる。微妙ないつも通りを終わらせたとて、彼はずっと傍にいるから。いつも通りは終わるようで続くから。

 夕焼けは沈んでも、まだ空は赤かった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【二葉 つくし】欠けた月でもいい

 私の今日の帰り道。学校を終えて、Morfonicaの練習も終えて、疲労感と共に私の身に重くのしかかっていたのは、途方もない自分への呆れのような感情だった。空は曇天で、分厚そうな黒い雲がこのまま落っこちてくるのではないかと錯覚してしまうほど、私の今の気分は塞いでいる。この後、楽しみな時間があるはずなのに、その楽しい気持ちをぶち壊してしまうぐらいに。

 

「ふーすけ? 落ち込んでも埒があかないと思うけど?」

 

「そうは言ったって……。って、一番騒い……いや、なんでもない」

 

 恐らく鬱々しい雰囲気を隠そうともせずに歩く私の隣で、透子ちゃんはどうにか励まそうとして声をかけてくれているのだ。でも、私は素直にその気遣いの声に感謝をするとかではなく、それどころか反論の言葉を探そうとしてしまっている。それに気がついて、さらに自分が嫌になって、口を噤む、なんてのをずっと繰り返していた。

 透子ちゃんは私が言い淀む度に難しい顔をしているし、きっと私も何かを言葉にすれば良いとは思うのだが、ここで励まそうとしてくれている透子ちゃんに文句を言いそうになるのが嫌で仕方がなかった。だからこうして返事の度に閉口しているのだ。

 

「あー、えー、ふーすけは結構頑張ってると思うんだけどなー」

 

「頑張ってるって、何を?」

 

「え? その、な?」

 

「何も思い付いてないんでしょ!」

 

 私が少し大きな声を出したからか、透子ちゃんは渋そうに私から目を逸らした。その反応を見るに図星で、多分私を励ますという目的だけの適当な声掛けだったのだと察した。透子ちゃんの適当さは偶に役に立つこともあるけど、今の私にとってはそういう中途半端な励ましは煽りにしか聞こえなかった。

 

「そんなことないって! え〜、ふーすけが頑張ってる姿はあたしもよく見てるし?」

 

「見てるって、じゃあどういう時に見てるの?」

 

「……あっ、ほら!」

 

「もうその反応の時点で、今パッと思いついただけでしょ!!」

 

 隠すにしてももう少し隠せはしないのだろうか。思わず私もツッコミを入れざるを得ない。

 

「Morfonicaの練習でも、やっぱりふーすけがみんなをまとめてくれてるし? そこはリーダーとしての貫禄みたいなのって言うか、るいるいとかも練習に参加してくれてるじゃん?」

 

「だーかーらー!」

 

 るいさんの名前が出てきて、改めて私はリーダーとしての自分の無力さに打ち拉がれる。自分の理想となるようなリーダー像からかけ離れた自分の姿に絶望以外、何も感じなかった。でも、悲しいかな、私がその理想像に近づくことは当面の間なさそうで、私は半ば自暴自棄みたいになる。

 

「そのるいさんに今日、『騒がしくてまるで練習にならないわ。効率も悪いだけだから、帰るわね』って言われたから私はここまで悩んでるんだよ?!」

 

「あっ、あっー! そ、そうだったなー?」

 

「もう! 透子ちゃんが騒ぎ続けたから、るいさんは怒って帰っちゃったんだからね?!」

 

「あ、あはは……」

 

「るいさんが怒ってるの透子ちゃんのせいって分かってる?!」

 

 そこまで声を荒げて言い放ってから、私ははっと気がつく。今私がしていることはリーダーとしての注意だとかの度を超えてしまった、ただの八つ当たりのようなものだった。冷静になってみれば、私も透子ちゃんと話に興じていた時間だってあるし、るいさんが深い溜息のようなものと一緒に不機嫌になった気がしたのもその時間だった。あまり強くは言えなかった。

 

「……熱くなりすぎちゃった。ごめんね透子ちゃん」

 

「いやっ……」

 

 その言葉を最後に、透子ちゃんは何も話さなくなってしまった。私の頭の中に残るのはひたすらに後悔の文句だった。透子ちゃんが何も喋らなくなったのはきっと、カッとなって捲し立ててしまった私のせいだから。

 二人が並んで歩く道。多少冷静になった頭でも、その場の雰囲気を一転させるような気の利いた言葉は出てこないし、足音を除いてはただただ静かな空間が広がっているだけだった。そのせいもあってか、さらに自分の落ち度が頭の中でグルグルと回る。

 Morfonicaの練習だけではなかった。そういえば今日は先生から渡された、みんなの授業ノートも階段で落っことしちゃったっけな。雪崩みたいにして下のフロアまで落ちていったし、挟んであったプリントも一緒にばら撒かれて、回収するのが大変だった。そのせいか終礼にも遅れるし散々だった。学級委員長が不在でも何の障害もなく回ってしまうクラスも嫌だった。

 そういえば朝も大変だったっけ。妹たちの忘れ物にすぐ気がついて、それを手渡したところまでは良かった。それで満足しちゃったから、結局今日の授業で必要だった体操服を自分が忘れちゃって。手のかかる妹の世話が出来たことに浸りすぎたのかだろうか。空回りしてばかりだ。

 

「おーい、ふーすけっ!」

 

「……わっ?! 何? どうしたの透子ちゃん?」

 

 何をやっても上手くいきそうにない自分の行いに恨み言を垂れているうちに、透子ちゃんが私を呼ぶ声がした。それでキョロキョロと辺りを見渡してから、私は立ち止まった。

 

「どうしたも何も、あたしがついていけるのはここまでだし、また明日っ」

 

 そこでようやく自分が家の近くまで歩いて帰ってきたんだということを自覚した。気がつけば透子ちゃんの家との別れ道だった。透子ちゃんの家はこっちの方角じゃないし、ここから先は一人で帰るのか、なんて。

 

「ふーすけ、あたしが声かけてもうんともすんとも言わないからびっくりした」

 

「え、ずっと呼んでくれてたの?」

 

「呼んでたけど、何も返事してくれないから肩揺すって、それでようやく反応したんじゃん」

 

「それはごめんね……? 全然気が付かなかった……」

 

 私が巡らせていた考えはやはり内容としては相当重い。現に私は悩んでいた結果、透子ちゃんの声がまるで聞こえていなかった。その口ぶりから察するにかなり大きな声で呼んでいたのかもしれないが、それでも何も聞こえていなかったのだから。

 

「あたしが言えることなのか分かんないけど……。悩みすぎても良いことないと思う!」

 

「そう……かなぁ」

 

「そーそー! ミクロンミクロン!」

 

 透子ちゃんの明るい声。いつもならその声が醸し出す雰囲気で安心出来そうなのに、私の心はなかなか晴れてくれない。けれど、これ以上透子ちゃんを引き留め続けるわけにもいかず、私は努めて笑顔で、段々と小さくなっていく透子ちゃんに手を振る。向こうからも手を振り返してくれたけど、その背景の少し赤らんだ空によって、透子ちゃんの姿は暗く塗り潰されてしまっていた。

 私は透子ちゃんの姿が完全に小さくなって見えなくなるまでその場で手を振り続ける。そして、長く振り続けていた手を下ろして、大きなため息をついた。いつもはこんなに大きなため息をつくこともなかったかもしれない。それほどまでに今日の自分のダメダメっぷりが堪えたのだ。そうして私は肩を落としながら、目前に迫った自宅へと歩き始める。

 十分程度だろうか。予想よりも早く、すぐにたどり着いた家。家の廊下まで上がるとホッと一息つきたくもなるけど、余計な荷物をあらかた下ろして、私は再度家を出る。それは元々予定していた、楽しみだったはずの時間を楽しみに行くため。

 朝の想定だと私の心は今頃弾んでいたはずなのに、実際には私の心はすっかりどんよりと落ち込んでしまっている。素直にこれからの時間を喜ばない程度には。自分が思っている以上に今日の自分への失望っぷりとダメージは大きかった。

 

 重い足取りだった。少なくとも自分ではそう思ってるし、辺りはすっかり暗くなっていて、どうやら私はいつもよりも長い時間かけてここに辿り着いたらしい。私がたどり着いた門扉の隙間からは、石畳の脇で何か作業をしている女性の姿が見える。私が唸りながらここに着いたせいか、その声で私の存在に気が付いたらしく、ひょっこりと茂みの上に顔が出てきた。

 

「あら、二葉さん。いらっしゃい」

 

「おばさん、ご無沙汰しております!」

 

「いえいえ。愚息なら部屋にいるから上がって?」

 

 そうして通された家。今日は家に来た段階で目的の人物の親御さんに遭遇したからか、いやに私の心臓がうるさく騒ぎ立てている。いつも以上に脈打つスピードは速いし、目を閉じて仕舞えば血管に大量の血液を送り出していそうな心臓の音が聞こえるぐらいだ。

 私は興奮し続ける心臓を黙らせるように静かに唱えながら廊下を歩く。たまに訪れたことがあった部屋の扉の前までついた頃には、極度の緊張と興奮のせいで私の視界は数度光り、まるで立ちくらみが如く卒倒してしまいそうだった。

 ノックをすると、部屋の中からちょっとだけ気の抜けた、『はぁい』なんていう声が聞こえてくる。私はその声を聞いて、理由もなく少し安心してドアを開ける。机にずっと向き合っていたらしい彼はクルクルと椅子で回りながら、最終的には部屋に入ってきた私の方を向いて、首をあざとくも傾げている。

 

「いらっしゃい、つくし。まぁ何もないけどゆっくりしていってよ」

 

「うん、そのつもり」

 

 彼の言葉は謙遜だとかそういうのは一切含まれていない気がする。実際に彼の部屋はミニマリストと呼称しても差し支えがないくらい、机や椅子、ベッドを除いてはあまりにも殆ど何もない、殺風景な部屋だった。棚こそあるが、殆どが背板を見せている段ばかり。ローテーブルやクッションすらない。

 自他ともに認める無趣味の彼の性格であったり、彼独特の雰囲気は確かに如実に現れている部屋なのだが、だからとは言え少し物寂しい。

 そんな物寂しさや侘しさを感じる部屋の中で落ち着く場所といえば、単純な話彼の傍か、もしくは彼の部屋に一応、申し訳程度に設置されているベッドの上。申し訳程度だなんて、あまりに小馬鹿にした言い方のように聞こえるかもしれない。ベッドなんて自室には必要不可欠だろうと思っている人もいるかもしれない。

 だが、彼についてはそのような批評は当てはまらない。長年の付き合いのせいか私にとっての理解はそんなものだ。けれど、独特なミステリアスさに似た何かを感じると私は落ち着くようになっていた。そんな仮初の感覚にありつくため、私はベッドに腰掛けながら、空回りで失い続けた心の平穏を取り戻そうとしていた。

 

「そういえばね、聞いてよ! 今日も『ふーすけはリーダー頑張ってて偉いな? 頑張ってるよな?』なんて適当な褒め方されたんだよ!」

 

「ふーすけ? あー、透子ちゃんか。良かったじゃん、褒められてて」

 

「全然褒められてない! わざわざ確認までしてくるなんて、本当失礼しちゃう! 絶対わざとだよ!」

 

「どーどー」

 

 少し嗜められるような仕草をされて、そこで一旦矛を収めようと口を閉じる。かといって、それで私の中のモヤモヤ感というか、漠然と感じ続けている自分への落胆の感情は払拭されるわけではなかった。

 

「ま、褒めたくて褒めたって感じじゃなくて、どうにか褒め言葉探そうとした感じは否めないな」

 

「でしょ?!」

 

 私の反応にいちいち笑いながら返してくる彼にも少し思うところはあったわけだが、そこには目を瞑って表面の透子ちゃんへの評だけを論う。そのように他人からも認めてもらえると、どこか自分が少しでも正しいことができたように錯覚できる。だからこそ私は満足感のままに両腕を目一杯高く伸ばして、伸びの体勢のまま思い切りベッドに寝転んだ。ボフンという音ともに掛け布団が私の形に凹む。

 

「……なんだか荒れてるねぇ」

 

「そう?」

 

 ゴロゴロと向きを変えて、うつ伏せのまま返した返事は寝具の柔らかさに吸収されてくぐもってしまう。短すぎる返事だったが、彼には意図だとかは伝わったらしく、キュルル、と椅子が回転する時の摩擦音のようなものが聞こえた。

 

「心が荒んでるから慰めてくださいって言ってるように聞こえたけど」

 

「そこまでは言ってないでしょ!」

 

 聞き捨てならない言葉を聞いて私は瞬時に体を起こして反論する。布団と自分の体が覆い隠していた光を一気に眼光に浴びて目が眩む。それにも負けじと私は上体を起こしきった。

 すっかり広くなった視界に、心配そうに私を見つめている彼がいる。それはそれで、私にとって満足なんだけど、逆に考えていることをぴたりと言い当ててくることにもムカついてしまう。主にこんな単純で、わかりやすい自分に対して。きっと自分の性分だと言い切って仕舞えばそれまでだけど、なんだか子どもっぽく感じられてしまう自分が嫌なのだ。

 

「じゃあどこまで言いたかったの?」

 

「……それは」

 

 そんな風に問い詰められてしまったら、所詮は心が弱りきった身なので、吐露せざるを得ない。彼は純粋な疑問のような表情のまま、私の心の中に足を踏み入れてくるのだけど、それは少々ありがたいようで、悔しかった。

 私が何も返すことができずに押し黙っていると、彼もずっと待ち続けるだけなのは飽きてきたのか、目のやり場に困って部屋をキョロキョロとしている。かといって私も考えをまとめるのには時間がかかるし、何も言えずにいる。

 すると、徐に椅子から立ち上がった彼は何かを考えるように顎に手を当てて、部屋を出る。ちょっとだけ待ってて、なんて言葉を残して。彼が出ていった部屋のドアがバタンと閉まって、無情な響きだけが部屋に残る。

 

「……いくらでも待つけど」

 

 絶対に聞こえはしない呟きも、静かな部屋には意外と大きく響いた。彼が何をしに部屋から出ていったのかは分からないけど、私はそれを追ったりだとか、引き止めるとかいう考えもなくて、大人しく待つほかない。待ちたいとすら考えている。

 部屋が静寂に包まれてから数分が経ったろうか。私も独り言をぶつぶつと呟くほどではないので、私一人放置された部屋は何の物音もしない。そんな静かな空間から一瞬にしてひんやりとした空気が流れ出ていく。彼が帰ってきた。

 

「ただいま。よし、バルコニー行くか」

 

「えっ、バルコニー?」

 

 そう言われて私は部屋の東向きの窓を見た。カーテンは開かれ、明るい部屋の内側がぼんやりと映った窓。そのさらに奥には電線の細い影が脇に映り、近くの住宅の屋根とアンテナ、その背景の暗い空が広がるばかり。右上の辺りはほんのりと街灯のような明るさにも染まっている。

 

「こんな時間に外に出るつもり?」

 

「それを、こんな時間に男の家に来たつくしが言うの?」

 

「ちょっと! 変な言い方しないでよ! そもそも今日は会うって約束したでしょ!」

 

 数日前ぐらいに彼からメッセージで会おうという約束が届いたのは記憶に新しい。元を辿れば私を誘ったのは彼である。そんな彼にやたらといやらしさが増すような言い方はされたくない。

 

「ごめんごめん。まぁ、外に出るって言ったって、バルコニーだからさ。今日は風も吹いてて涼しいし」

 

「う、うん」

 

 半ば強引に彼に連れ出されて廊下を奥まで進む。外につながるドアを開けると、さらに広い夜空が広がるバルコニーに繋がっていた。彼の家を訪れたのは数え切れないぐらいあるけど、敢えてバルコニーまで来たというのはあまりなかったかもしれない。

 そんな新鮮さに彩られた空間はさっきの部屋とは違って、曲線の美しいチェアやテーブル、プランターと、色んなものが置いてあって窮屈なぐらいだ。だが、窮屈さもマイナスなものではなく、むしろ落ち込んだ心は活気付く程度には賑やかさを感じる。

 

「ちょっと待ってな。明かりは……まぁいっか。チェアがいい? ベンチがいい?」

 

「それは何をしようとしてるかによらない?」

 

 私は敢えて触れていなかった、彼の右手に抱えられたお盆の方を見ながら答える。お盆に載っけられたのは丸いお餅のように見える。暗いからハッキリとは見えないけど、多分色は白だった。

 

「それって、月見団子で合ってる?」

 

「そうだよ、正解正解」

 

「……じゃあ、ベンチかなぁ」

 

 都合がいいことに、丁度今の時間に月が昇り始めた方角に向いたベンチ。まるでそれはここで空を見上げろと言わんばかりだった。視線を少し上に上げれば、そこに黄色というよりは金色に近い月が少し欠けた状態で空に浮かんでいる。

 彼の後ろに続いて、盆と皿を挟んで隣に腰掛ける。残暑の暑苦しさのようなものは感じられず、むしろベンチの素材として使われている木の質感がやけにヒンヤリしているようにすら感じられた。

 

「今日って、お月見のために呼んだの?」

 

「そうそう。折角こんなに眺めがいいなら、一緒にここで見るのも乙なものかな、なんてな」

 

 なんでも聞いたところによると、これを先日の中秋の名月、所謂十五夜で一足先に体験したとのことらしい。どうせならその望月の鑑賞に呼んで欲しかったとも思ったが、今眼前に見えている月も言葉にするのが憚られるほど綺麗なものだったから、私は何も言わずに、月見団子と一緒に喉の奥まで飲み込んだ。

 その月見団子はほんのり甘かった。噛んだ瞬間にじんわりとした甘さが口に広がったけど、それは餡子のような口に残る甘さではない。むしろこどもの日に食べる粽のような、あまりに早く消えるので切なくなってしまうような甘さだった。私は無意識のうちに二つ目の団子に手を伸ばしていた。

 

「月より団子か」

 

「なっ……」

 

 彼の煽りを込めた笑いに思わず手を戻す。けれど、彼がいつのまにか指で摘んでいた団子が私の口に運ばれてくる。拒む理由もないままに私は団子を口に放り込んだ。

 

「我慢せずに食べていいよ」

 

「……ん」

 

 団子一つでこうやって黙らせられてしまう私はいかにちょろいのだろうか。そんな悩みを忘れるぐらい、今は口の中で小分けになっていく団子に考えを向けた。

 私が団子に舌鼓を打っている間も、彼はもう一個団子を摘んでは、空に少し高めに翳して団子を覗き見ていた。角度からして、多分月とかその辺りに重ねているのだろう。丸の団子を月に重ねているのを見る辺り、彼の目には数日前の満月が浮かんでいるのかもしれない。隣に私がいるのにそんな風に見ているのがどことなく悔しくて、私はどうにか彼の気を惹こうと考え始めた。

 

「あっ。ねぇ知ってる? 今日の月は寝待月って言うんだって!」

 

「おお、流石つくしはよく知ってるな」

 

「へへん、でしょう?」

 

 そういえば学校の古典の授業で、月の名前の話なんてのをしたことを思い出して、得意げに私は語り出す。狙い通り、彼は望月に思いを馳せるのをやめて口に放り込むと、団子は見て楽しむことをせずに食すようになった。

 

「それで、明日ぐらいの月は……えっと」

 

「更待月だな」

 

「あっそうそう! って、なんで先に言っちゃうのー!」

 

「ちゃんと物知りなつくしの話についていけるように予習してたからな」

 

「もう! 失礼しちゃう!」

 

 いつのまにか私が握っていたはずの主導権は彼に移り、私は拗ねたようにするのだが、それはそれでさっきよりも数段楽しくて、私の気持ちは少しだけ晴れたような気がした。

 

「って、団子も最後だな。つくし、お口開けて」

 

「あー」

 

 皿に残っていた最後の団子を彼は摘むと、またも餌付けされる。私は大人しくそれを食べると彼は盆と一緒に皿を片付け、ベンチの脇に寄せた。彼はどうやら知っての通りかなりずるい人間らしく、私の考えていることを何手先も読んだ上で私のことを弄んでいるらしい。私は彼の期待通りに、何故か少し冷えた体を温めに、彼に身を寄せた。

 

「やっぱり今日は甘えたかったんだ」

 

「……いいでしょ。それぐらい」

 

「まぁ、そんなに珍しいことでもないもんね」

 

「そんなこと! ……ない」

 

 こっちがびっくりするぐらいに正確に言い当てられてばかりで、私は何も言い返せない。やり返すのがどうとかの考えも浮かばなくて、いじらしくも彼の袖をギュッと強めに握りしめるぐらいしか出来なかった。

 

「ほら、何があったか言ってみな。まず透子ちゃんだろ? 後はなんだ、学校か? 家か?」

 

「うーん。全部かな」

 

「なるほど。前途多難だな」

 

 多分詳細までは伝えなくても、彼なら私が何でこんなに鬱蒼とした気分で塞ぎ込んでいるのかも察しているのだろう。たまに私も愚痴をぶつけることもあるし、今日だってその延長線上みたいなことは理解しているのだ。だからこそ、私は敢えて何が合ったのかなんてのは言わない。

 

「……私って、リーダーとか向いてないのかなぁ」

 

「リーダー? Morfonicaの?」

 

「……ううん、全部」

 

 そう、全部が全部。Morfonicaのリーダーで悩む時もあるが、それ以外の時もだ。学級委員長だったり、お姉ちゃんとしての顔だったり。複数の顔を持ち合わせてはいるけど、誰かの前に立ってっていうのは向いていないんじゃないだろうか。常々そんな風に怯える時はあるし、今日なんてのはまさにそうだった。

 

「なんで向いてないって思った?」

 

「空回りしてばっかりだし。仕切るのとかもきっと下手だから。薄々分かっちゃうんだよ」

 

 きっと今の私の目は諦めの色をしている。それはなりたい姿になれない自分への失望とか、望む姿からかけ離れていくような自分への諦めだった。自分の表情は見えないけど、暗い外でもよく分かるぐらい暗い顔をしているのだろう。

 

「だから、リーダーって向いてないのかな、なんて」

 

 私がそこまで言い切ると、ふと自分の力が抜けた。さっきまでは後ろ手に支えていた腕になんだか力が入らなくなって、彼の方に倒れ込んだ。多分知らないうちに積み重ねられていたものがオーバーフローしたのだろう。

 側からみればカップルが甘え、甘やかしているだけの光景に見えるかもしれないけど、当の本人としてはそんな幸せそうな姿が霞むぐらい自分に対するネガティブな感情が大きすぎた。

 

「リーダーに向いてるねぇ。まぁ、つくしはつくしの思うようなリーダーは向いてないのかもな」

 

「……っ、そっかぁ」

 

 その言葉を聞いて、私は落胆した。心の中で彼ならどこか無条件で肯定してくれるだろうという期待を持っていたからだ。自分の勝手な期待に踊らされた私の表情はさらに曇る。

 

「けど」

 

 でも、語調を変えた彼が数秒の間を作って、私は追い縋るように彼の顔を見上げた。本当に手を伸ばせば触れられるどころか、包み込めそうな距離にある彼の顔は優しい笑みを湛えていた。

 

「リーダーって、無理に仕切ろうとしなくても良いと思うから、俺の思うようなリーダーにはなれるかもな」

 

「え? ……俺の思うリーダーって?」

 

「例えば誰かを引っ張るんじゃなくて、誰かを支えようとすることに徹するとか。牽引するだけがリーダーじゃないと思うからさ」

 

 そう言われて、どこか腑に落ちたような気がした。言われた通り、私のなりたいリーダー像に私が近づけるかは分からないけど、それだけがリーダーではなかった。私の納得のいったような表情を見て、彼が続けた。

 

「完璧なリーダーっていないと思うんだよ。なのにずっと完璧を目指し続けるのって辛くなるだけじゃない?」

 

「それは……そうだけど」

 

「あそこに浮かんでる月だって、綺麗だとは思うけど数日前は満月だったんだ。今、綺麗な金色でもあれだけ欠けてる」

 

「言われてみれば、そうかも」

 

 彼が伸ばした指の先に浮かんでいるように見えた月は確かに三分の一程度が暗くて見えていない。数日前に見えていたであろう月は、人々が中秋の名月と褒めそやし、愛でつづけてきた、謂わば完璧な月だったろう。今日の月は中秋の名月と同じ月なのに、完璧な月ではない。けれど、その月を見るとなんだか明るくなれるような気がした。決して完璧な月ではないのかもしれないけど、それでも思わず見惚れてしまうぐらい綺麗な月だったから。

 

「……なんだか、ものすごく楽になった気がする」

 

「なら、良かったよ」

 

 そう言って微笑んだ彼の細くなった目を見つめた。見つめ合うだけで彼が何を考えているのか分かった気がしたし、きっと私の今の気持ちだって伝わっているような気がした。なんだか段々と恥ずかしくなってきて目を逸らした私と、それを見て笑う彼の声。そのどれもが尊く感じられた。

 そのうち、ぼんやりとした眠気が私を襲った。

 

「眠くなってきちゃった」

 

「おっと。家まで送っていくよ」

 

「……泊まりたいな」

 

「ダメ。明日も学校でしょ」

 

「うん」

 

 きっと今感じている眠気は、肩の荷が降りて安心しきってしまったから感じるのだろう。きっと少しぐらい抜けている私でもいいと認めてもらえたようなこの感触がとてつもなく心地よかったから、きっとその安心感で眠くなったのだ。

 彼の家に泊まれないというのは少しだけ寂しかったけれど、急にここでお泊まりなんてのはいけない。間違いなく普段の私でも同じことを言うはずだから。

 彼の言葉に頷いた私は彼の家を後にする。夜も遅いと彼がついてきてくれたものだから、遠慮など全くなしに甘えきっていた。

 

「ねぇ、ありがとう」

 

「ん。どういたしまして。俺も、つくしのこと今日誘ってて良かったよ」

 

 街灯のない暗い住宅街のアスファルトを、完璧じゃない月の光が照らしていた。想いを重ね合う、二人の影が揺れていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【奥沢 美咲】二人でステージ裏へ

 店と店の間を前から吹き抜けてきた風に煽られるように空を見上げた。高い空に棚引いている雲は思いの外速く動いている。

 そういえばもう秋が近づいてきたらしい。そんな風にあたしが感じたのは本当につい最近の出来事だった。外を歩いていれば、頬を涼しげな風が撫でていくし、少し前までは歩いているだけで額から流れ出ていた汗だって、まるで嘘だったかのようにかかなくなった。

 だけど、今この瞬間のあたしはそんな秋の訪れを実感することなんてまるでなかった。閉じ込められた空気があたしの全身を蝕み、あたしの手足は鉛のように重い。この季節でも灼熱を感じるこの場所が、あたしの居場所そのものだった。あたしだけに許された居場所でありながら、苦悶を感じるなどという理不尽な場所である。

 

「みんなー、ミッシェルだ、っておおぉ?!」

 

 あたしの分身と言っても差し支えないほどに見慣れてしまったピンクの熊。ミッシェルというその熊の外見をしたあたしは、とあるバンドの一人として活動することになった。もうそれも随分前の話だけど。元は商店街の着ぐるみに過ぎなかった熊はバンドを始め、そして以前と変わらないように、興奮した地域の子どもたちのサンドバッグになっている。今もである。

 

「ミッシェル大丈夫ー?」

 

「だ、大丈夫だよー」

 

 あどけない子どもたちの声に、あたしは着ぐるみの存在としてあるべき姿をすぐさまイメージし直して、ゆっくりと答えた。子どもたちの飛び込んできた勢いは良かったが、もふもふとしたお腹周りのクッションと強靭な足でなんとか体を支える。

 分身といえども、中身はあたしであることは変わらないから、あたしが変な動きをすればきっとこの子達はみな疑問を持つだろう。そうなってしまえば着ぐるみの役目は失われたのも同然。

 そんな見せかけのプロ意識に突き動かされたあたしもやがて体力の限界が来た。そして半ば子どもたちから逃げ出すようにイベント会場の裏の方へと捌ける。すっかり疲れ切ったあたしはご丁寧に用意されていた長椅子に座ることも出来ず、機材がどけられもたれ掛かれるようになった壁際に腰を下ろした。そして周りに誰も子どもたちが居ないのを確認して、頭部を脱ぎ捨てた。閉じ込められていた空気が一斉に逃げ出した。

 放心状態だった。水を欲していた喉で咄嗟に花音さんを呼びそうになった。けど、今日は花音さんやこころたち、ハロハピのメンバーは誰もいない。純粋な商店街のマスコットとしてのミッシェルになっていたわけだが、いつもの感覚でついつい探してしまうのだ。

 

「暑い……はぁ」

 

 辛さに耐えかねてついつい愚痴の一つも吐き出したくはなるが、それを考えるだけでも頭をブンブン振って、周りに誰かがいないかを確認した。もしも聞かれていたら大変だ。それが商店街の大人とかならまだしも、子どもたちにこんな光景見られたら最悪だ。

 こんな考えばかり巡らせているあたり、今のあたしはすっかりこのピンクの熊に思考回路を奪われているのかもしれない。最初はなんの気もなしに始めたバイトで出会ったミッシェルという存在。なんだったらミッシェルではない自分を見ると不安を感じる程度だ。

 

「ミッシェル、……いや、美咲か。お疲れ」

 

「え?」

 

 ステージ裏だというのにあたしの名前が聞こえてきた。ミッシェルとしての姿を歩み始めた頃の記憶をゆっくりと辿り続けていたものだから、少しだけぼうっとしていたあたしは突然現実に引き戻される。

 キョロキョロと辺りを見回す前にあたしの方に近づく足音。それとさっきの声で方向は察しがついていたから、顔を上げてそっちの方へ。今のあたしが座り込んでいたからか、余計にそこで伸びている影が高く見えた。

 

「あぁ、びっくりしたぁ」

 

「ごめんな、驚かせるつもりはなかったから許してくれ」

 

 見知った声と一致する見知った顔。最初こそ、完全にオフモードだったミッシェルの姿を見られてしまって焦りを隠せなかったあたしだけど、こういうことなら全然問題ないや。

 

「というわけで、驚かせたお詫びに飲み物。買ってきたぞ」

 

「あたしが驚くの想定してたんだ? だとしたらもうちょっとタイミングあったでしょ」

 

 あたしのほんの少しだけ意地悪な指摘にも、悪びれる様子もない彼を見て安心した。安堵の息を吐くとともに、このステージ裏の空間に改めて他の人が誰もいないことを確認する。

 ここには商店街の備品らしき屋外用のテーブルやら、パイプ椅子が粗雑に置かれていたりするだけ。ただ、周囲の店舗兼住宅から伸びる庇だとか、そもそも少し高い壁面だとかのせいで少々薄暗い。座り込んでいることで、さらに空は狭く見えていた。

 商店街の大人たちも自分のお店の切り盛りで忙しいから、こんな裏の方になんて誰も来やしない。況してや子どもも。人気のない空間に二人の、いや、一匹の熊と一人の人間がいて、殺風景と形容するに相応しい光景が広がっているだけだ。

 誰も見ていない。誰も知らない。ここにいる人間にしか分からない空間が裏の方には広がっているのだ。

 

「着いた時にはもう生身の美咲がいたんだよ」

 

「そういうことね。ん、お水ありがと」

 

 彼がずっと体に隠すように持っていたのは自販機で見かけるような、何の変哲もないペットボトル。ただ、天然水と書かれたそれは今のあたしが一番求めているものかもしれない。目の前でその中身が揺れているのを見ると、まだ口にすら含んでいないのに喉が潤うような気がした。

 

「良いんだよ。頑張ってる恋人を見に行くのに、差し入れの一つもないのはダメだろ」

 

「そんな現金な理由なんだ」

 

 疲れからくる乾いた笑いなのか、はたまたその場しのぎの笑いなのか、自分でもよくわからないまま軽口を叩く自分と彼を笑う。彼の放り投げた、潰れやすそうな水のペットボトルを体の脇に置いて、全身の力をもう一度抜いた。ありがたく差し入れは頂いたわけだが、生憎このミッシェルの手じゃなかなか上手くは開けられないだろう。気持ちだけ今は受け取っとこう。

 あたしがそこそこの重さのミッシェルの頭をのけると、そこに外を走ってきたのであろうってぐらい汗をかいた彼がそのポジションを奪うように腰を下ろした。腰を下ろすだけじゃなく、あたしが飲むのを諦めたペットボトルのキャップを代わりに開けてくれるらしい。

 

「何から何までお世話になります」

 

「いやいや、ミッシェルのサポートとあらばなんでも」

 

 低姿勢なままペットボトルを開栓した彼があたしの口に水を流し込む。無駄に暑いだけの着ぐるみの中にいたあたしからすれば天の恵みだ。それこそ乾燥した大地に降り注ぐ恵みの雨と同じぐらいありがたい。自分一人じゃありつけなかった幸せをありがたく享受して、あたしは力なく向かいの壁を見つめる。

 

「今日はやけに元気がなさそうなミッシェルだな」

 

「いやいやー、ミッシェルにだって限界はあるんだよ。いくら夏の時期じゃないっても、流石に数時間立ちっぱなしはねぇ」

 

 あたしがそんな話をしている間にも、秋を告げる風が一陣戦ぐ。着ぐるみの中には吹き付けなかった風のありがたみに心の中で拝みながら、夏の時期の地獄をふと思い出した。

 単純に太陽に照り付けられて中の温度があがるのが苦しいのは間違いない。それだけじゃなくて中にこもってしまう湿気や、暑さに耐えかねたあたしの発する汗がベタつく感触。全てが全て、あのシーズンにおいてはあたしを、そしてあたしのような全てのキグルミの人を苦しめることになる。

 そんな地獄を今年も乗り越えたあたしでも、降りかかった疲労感に余裕綽々で勝てるわけではない。純粋な疲れに加えて、心労に押し潰されそうになりながら、あたしは徐に狭っ苦しい天を仰いだ。背中を壁に預けて体自体は安定していたはずだった。けど、既に力が抜け切りそうなあたしの頭はクラクラとしている。熱中症で休もうとしている時のあの感覚にも近いかもしれない。

 

「今日も朝九時からこんな感じだから、もう四時間とかだよ。クタクタ」

 

「本当にお疲れ様だな。そりゃあ休憩中にも疲れがどっと噴き出すか」

 

「そうそう。あー、疲れた……もう帰りたい……」

 

 話の中で労働時間の話が出るだけで憂鬱になる。まだお昼の時間帯を少し過ぎたぐらいだというのに。

 肉体労働が過酷なのはいうまでもない。でも、商店街の人の計らいで休憩時間が普通よりも多めに取られている。それでもまだまだミッシェルになる必要はあるし、少しの間だけでもミッシェルを投げ捨てていたいあたしは地面に転がったキラキラの目を見ながら大きなため息をついた。

 

「イベントの時間終わるまでだっけ」

 

「うん。だから……うへぇ、休憩時間過ぎてもまだあと二時間半もあるんだ」

 

 自分で自分の将来の姿を言葉にする度に自分の絶望的な状況に気がついた。疲労困憊のこの体にまだまだ鞭を打って、休み休みとはいえ五時過ぎぐらいまで働かなきゃなんない。普通の女子高校生のあたしにこんな仕事、させちゃダメだって。そんな文句も言ってみたくもなるが、このバイトをすると決めたのもあたし本人だし、多くの人の期待も意図しないうちに背負っている。

 

「休憩時間って二時半までかな?」

 

「……うん。そうそう」

 

 あぁ、やばい。何もしてないし、強いて言うなら子どもと少々強度高めに戯れて、少しパフォーマンスをして、それぐらいの疲れを覚えた体で水を飲んだだけでものすごく眠たくなってきた。子どもと戯れているということ自体が相当体力を消費していることは否定できないが、あたしの体も随分と鈍ってしまったらしい。

 

「って、美咲?」

 

「……んぅ?」

 

 それまであたしの体と心を支えていたものが急に弱々しくなって、真っ直ぐにもたれていたはずの体は傾き、目の前に並べられていた長椅子の類は斜めに立っていた。実に不思議に見える。さっきまで地面に垂直に立っていたように見えた家や壁も歪んで見える。

 

「寝るか? それなら起こすけど」

 

「ん……」

 

 仮にも恋人という存在から心配をされているはずなのに、何かを返事するのも面倒くさい。どうせならこのままうっすらと消えかかっている視界に引きずられていくように感覚を全て遮ってしまいたい。何も難しいことを考えずに、辛いこともしなくてもいいようにこのまま夢の世界に飛び立ってしまいたいぐらいだ。

 ふと気を抜くだけで、倒れそうになったあたしの体は支えを失ってしまいそうだ。いや、もう自分で自分の体は支えていないか。肝心のあたしの意識はほとんど飛びかけているし。頭の中はぐちゃぐちゃである。

 

「まぁ、美咲がまた出る時間になる前に起こすよ」

 

 彼の声もどこか小さく、遠いところに消えていく。ハキハキとしていた彼の声が何故かふにゃふにゃと、聞き取れない声になっていた。あたしはその声を子守唄のように聞き流しながら倒れていた。

 

 

 

 

 

 なんだか懐かしい頃の記憶を見た。これは、あたしがミッシェルになる直前の頃の思い出だろうか。多分、内側と外側の境界線などというものすら知らなかった頃。孤独とやり切れなさを感じてすらなかった頃だ。

 あたしは多分、何の変哲もない、普通の少女だった。少なくともその時の自分はまさか着ぐるみの中に入ることになるだなんて考えていなかったし、着ぐるみのDJになる予想図なんて、微塵も頭の中になかった。

 遠い空から、自分の過去の姿を俯瞰していた。あたしは精一杯あの時の自分に声をかけようとしていたけど、街を気の向くままに歩くあたしにはその声が届かなかった。

 ただ意味もなく、『いいな』と思ってしまった。あまり考えないようにしていた感情が夢の中でふと溢れ出してしまった。この思い出の頃に戻れるなら、ミッシェルに身を包むことなく商店街をぶらつきたい。切実に。

 

 

 

 

 

「美咲ー」

 

 どこか離れた場所から、駆け寄ってくるような感じであたしの耳にあたしの名前を呼ぶ声が届いた。でも、視界はなんだか真っ暗だし、よくわからないままあたしは唸り声のように小さく声を上げた。

 

「おーい美咲。そろそろ再開の時間近づいてるけど、起きないのか?」

 

「……えっ?」

 

 あたしは揺すられる体の元凶に物申したくなるのを必死に堪えて、ゆっくりと目を開けた。太陽の光が眩しかったから薄目にして、目の前にある斜めの景色を見て、自分が今目覚めたのだと理解した。間違いなくさっきまでの光景は夢で、彼の声が聞こえていたあそこまでがあたしが覚醒していた時の意識だったんだろう。

 

「……あっ、今何時」

 

「まだ二時過ぎたところ。大丈夫だよな?」

 

「……あー、うん。大丈夫」

 

 まだ寝ぼけている頭を必死に叩き起こした。それと同時にもう二度と返ってこないような絵空事がリフレインした。何度も、何度も。大層なことでもない、何も特別なことを望んでいるわけでもなかった。

 

「……美咲」

 

「あ……」

 

 あたしの頬をいつのまにか伝っていた生温かい感触は、涙の這う跡だった。止めどない感情が結露して、すぐさま流れていった残滓だった。それを掬っていたのはふわふわで子どもたちを受け止めていたあたしの擬似の腕ではなくて、他でもない人の指だった。

 あたしは何かを考える暇もなく、肩と頬に軽く挟まれていた掌に、自分の頬を押し付けた。体を捻り、首は横を向いて、自分の顔の全てを温もりあふれる空間へと捩じ込み、埋めた。

 このステージ裏は残酷なほどに静かだった。幸運なことに静かな空間が続いていた。あたしは人目も憚らず、気にするような人の視線は一筋だけだったが、服で涙を拭った。

 

「なんでだろ、何で泣いてんのかわかんない、あたし」

 

 そこに明確な答えもないし、彼に聞いているわけですらもない問いをぶつけて、答えるような圧を物理的に加える。あたしが露出している首から上。彼はあたしの頭の後ろまで腕を回して、泣き崩れるあたしを抱き抱えている。

 

「ま、泣けば良いんじゃない」

 

「……泣けば良いじゃんなんて、適当すぎ、でしょ」

 

 あたしの心の慰めにもなっていない言葉に恨みを持てる道理はない。だってあたしとて理不尽な問いをぶつけているから。もう少し気の利いた言葉なら良かったのかと問われれば、そういうわけですらないからだ。もしもこれが恋愛ドラマなら、イケメンな俳優がヒロインのトラウマを打ち砕くような活躍をして、視聴者の胸を打つようなセリフを言い放ち、ハッピーエンドを迎えるのだろう。

 

「なんで、泣いてんのあたし」

 

 自分のことですら何もわからない。そんな八方塞がりを無理やり具現化したような奇妙で、切実で、強烈な叫び。彼の答えは変わらなかった。

 

「泣けば良いじゃん。誰も見てないんだから」

 

 あたしと彼。二人っきりのステージの裏で、ひたすら泣いた。

 

 

 

「あーあ。もう休憩時間終わりじゃん」

 

「本当だ、二時半じゃん。休めたのか?」

 

 あたしがふと気がついた時、焦ったあたしの考えを読んだように彼がスマートフォンを取り出した。あと二分か三分で、また表に戻らなきゃ行けない時間になっていた。休憩の時間だというのに、夢を見る程度には寝て、かといって疲れが取れたのかと言われればそういうわけでもなく、さめざめと泣いていたのである。

 

「……逆に休めたと思う?」

 

「泣いてたな」

 

「言わなくて良いから!」

 

 誰のせいだ、なんて言おうかと思ったけど、冷静に考えたら最初に泣き出したのはあたしだった。ただ彼はあたしをさらに泣かせようとした、シンプルな意地悪みたいなものである。多分小学校とかでよくある、好きな子にちょっかいをかけて泣かせたいとかいう、あの類のやつなんだろう。絶対に違うけど、悔しいからそういう解釈にしといてやった。

 

「休めてようが、疲れてようが、あと一分でまたミッシェルに戻らないとな」

 

 ミッシェル。その単語を耳にして、ふっと我に帰る。とりあえず現状を考えよう。さっきまで、疲れ切ってしまった自分の体の限界からくるヘルプコールに応じるようにあたしは仮眠を取ったんだ。それで、気がついたらあのざまと。今の整理しなければいけないことといえばそれぐらいで十分だ。

 あたしは無理やり自分を納得させると、手を伸ばせば届く位置に転がっていたミッシェルの頭を引き寄せる。なんだか久しぶりに触ったような気がした。触ってみると、どういうわけだか目が覚めたような感覚にも陥る。

 

「……頑張るしかない、か」

 

「急にやる気出たんだな。何かあったのか?」

 

「……ん。でもよく寝れたから、かな」

 

「なら俺の肩枕が良かったんだな」

 

「……うーん。それは自惚れ過ぎかな」

 

「そっかぁ」

 

 喜んだばかりかと思えば、すぐさま悲しそうな顔を見せる彼は、ミッシェルを無敵と思ってタックルを仕掛けてくる小学生とかとそれほど成熟度合いは変わらないのかもしれない。それでもなんだか温かな気持ちが胸に込み上げてくるあたり、それもそれで良い、なんてことをあたしも薄々考えている。

 彼は小学生と変わらないような無邪気さを持ってるなんてあたしに思わせておいて、それでいて実はあたしと変わらないぐらい大人だ。自分のことを大人って言うのも恥ずかしいけど。

 

「さて、そんな無駄口を叩いてる間にそろそろ時間だぞ」

 

「はいはい、言われなくてもわかってますよ……っと」

 

 あたしは踏ん張るように立ち上がる。彼の助けを借りるでもなく。首から上もピンク色になって、すっかり子どもたちの前に姿を現わせるようになった。あたしは意気揚々と商店街の表と裏を遮る垂れ幕に駆け寄る。

 

「美咲、これが終わった後、ちょっとデートしようか」

 

「えっ?」

 

「じゃあな、頑張れよミッシェル」

 

「は、ちょ、デートって、え?」

 

 普段は恥ずかしくなるから口にもしない単語を突如不意打ち的に言われて、柄にもなく着ぐるみの中で焦る。だが、焦ったあたしのことなんか知らない彼は、垂れ幕に向かってあたしの背中を、そっと押した。

 

「おわっ、あっ」

 

「あっ、ミッシェルだーー!」

 

 その瞬間に伝播していく子どもたちの歓声。こちらに駆け寄ってくる幼い影。あたしはそれを受け止めようと身構える。一方で、あたしは一瞬だけ振り返って、垂れ幕を少し捲ってこちらを覗き込む彼を一瞥した。こちらとしては抗議の気持ちを前面に押し出したつもりだが、まぁこの姿じゃ分からないか。あたしは突然受けたお誘いとやらに胸を躍らせながら、外に駆け出した。

 

 

 

 

 

 かなり前に時刻は五時を回った。既に外は夜に近づいていることを予感させるような空の色と街の姿で彩られる。あたしは与えられていた着ぐるみを脱ぎ捨てて、商店街の倉庫に返しに行った後、指定されていた場所で待っていた。

 そこはさっきまであたしが子どもたちの前で風船でパフォーマンスをしたり、戯れていたりしたスペース。ついさっきまでは親子連れがたくさん闊歩していたはずの街路は少しずつ静けさを取り戻している。いや、取り戻しているどころか人影は疎らだ。普段なら夕飯の買い物をする人たちが集うはずの商店街も、祭りの後のように静かだった。

 

「おっ、美咲。片付け終わった?」

 

「うわっ、びっくりした」

 

 今日の昼をまたなぞるように、あたしの意識の外から声がかかる。あたしが気がつかない間に店の脇の柱にもたれかかっていたのだ。

 

「うん、まぁ見ての通り」

 

「じゃ、約束通りデート行こうか」

 

「約束通りって……、あたしは約束した覚えないけどね」

 

「まぁ、決定事項だったな」

 

 彼の差し出してきた右手。今度はしっかりと温もりを感じながら握ることが出来た。商店街という地でそんなあからさまなことをするのは酷く恥ずかしかったが、人気が少ないというその場の雰囲気が、あたしを積極的にさせていたのかもしれない。あたしはその手を強く握り返した。

 

「それで、どこ行くの? まぁまぁ夜遅いよ?」

 

「遅いって言ったって、まだ夕飯の時間でもないだろ?」

 

「いやいや、人によってはもう晩御飯だよ」

 

 なんだったらあたしとて今晩外食をするとか何も言っていないものだから、家では晩御飯の用意が進んでいるかもしれない。けど、デートと言うからには多分それなりに外を歩くのだろう。

 

「え、どこまで行こうとしてる?」

 

「ショッピングモールだな、ひとまず」

 

「ひとまずって」

 

「そんな長くはならないから安心しろって」

 

 そう言ってあたしの手を握ったまんま足早になる彼。あたしは別に言い返すわけでもなく、引かれるがままに歩いた。

 商店街からそんなに距離が離れているわけでもないショッピングモール。そうは言っても着いた頃にはもう陽はとうに落ち、あたしたちのような高校生が出歩いているのもなんだかドキドキするような時間帯になっていた。

 

「なんだ、落ち着きないな」

 

「いやいや、ほら、知り合いとか会うかもしれないし」

 

「その時はその時だな」

 

 もしもあたしが彼ほど割り切れる人間だったら、生きるのは幾分か楽だったかもしれない。きっとハロハピの活動をやるのも、もう少し早く踏ん切りがついたはずだ。ミッシェルとなって駆け回るのだって喜んでやっていそうだ。嫌々やっているわけではないけど、何のモヤモヤもなく駆け回っていそうだ。

 あたしが彼との手を少し控えめに握り始めた頃、開けた広場のようなところに面したエスカレーターに乗っていた時だった。あたしがぼんやりと広場を見ている隣で、あたしの一つ下の段で彼は広場中央を指さしていた。あたしがそれに気を取られて目を凝らすと、そこにいたのは多分販促とかのマスコットキャラクターのような、着ぐるみだった。

 

「あれ、ミッシェルじゃないよ?」

 

「分かってるよ流石に。色もモチーフも全然違うからな」

 

 馬鹿げたやりとりに含み笑いが漏れた。丁度その時、あたしは突然足元がグラリとして、覚束なくなった。エスカレーターの丁度降り口に来たからだったけど、気がつかなかったのだ。でも、やばい、と思ったその時には彼があたしを支えていた。

 

「あ……ありがと」

 

「おお、怖い怖い」

 

 そんな風に茶化しながら、彼はあたしの手を強く握り直した。それを振り解こうなんて微塵も思わなくて、むしろもっと強く握りたくなって、エスカレーターを降りたあたしはフロアを歩き出すのにも関わらず、今までやったこともないのに彼と腕を組んだ。

 

「……どうした、美咲」

 

「見ないで、恥ずかしいから」

 

 本当に、今見られたらあたしはどうにかなってしまうかもしれない。知り合いに見られたりなんてのはもっと嫌だけど、この腕を離してしまうのはもっともっと嫌だった。彼は、そんなわがまましか言うことのできないあたしを拒絶するわけでもなく、むしろ何も言わずに腕を組んだままにして歩いていた。

 円形に縁取られた吹き抜けを回るように歩きながら、あたしの方を見ることを禁じられた彼は、吹き抜けの一番下のフロアを見ていた。

 

「そんなに着ぐるみが気になる?」

 

「まぁな」

 

「……そのー、彼女が、着ぐるみやってるからとか?」

 

 恥じらいだとか、全てを投げ打ってそう問いかけてみる。絶対に普段のあたしなら自分のことを彼女だとか、そんな震え上がるほど恥ずかしいワードで自分のことを表現できるわけもない。今日はどうやらおかしい。そんな風に思いながら、あたしは彼の顔色を窺った。

 

「ま、そういうことだな」

 

 もしかしたら他の着ぐるみばかりを見る彼氏に、ミッシェルは嫉妬とかの感情を向けるべきかもしれない。それは冗談としても、なんだか少し複雑な気持ちもある。

 

「着ぐるみ、入ってみたいんだよな」

 

「……え?」

 

「いやだから、着ぐるみ」

 

 予想外の反応にあたしは間抜けな返事をするしかなかった。じゃあ、ミッシェル一緒にやってみる? なんて気の利いたというか、ウィットに富んだ返事も出来なかった。

 

「えっと、なんで?」

 

「……んー。秘密」

 

「……えぇ」

 

 なぜ教えてくれないんだ、なんて拗ねたような表情を作りながら、あたしは横目で彼を見た。でも、その瞬間に彼はその着ぐるみからは目を離して、突然こちらに振り返った。思わずドキリとしたあたしはギュッと手を強く握った。それこそ彼の皮膚に爪が食い込んでしまうんじゃないかってぐらい。

 

「……痛い」

 

「わ、ごめん」

 

「ミッシェルのもふもふの手なら怪我しないだろうに」

 

「……あっちの方が好き?」

 

 どうしたものか、今日はあたしの口の暴走が止まらない。思考とは別に喋り出している。

 

「いや?」

 

「……そっか」

 

 そして、ショッピングモール全体が水を打ったように静かになった。いや、あたしがそう思っただけ。だからあたしは彼を誘った。

 

「また二人でさ」

 

「うん」

 

「ステージ裏、行こうよ」

 

「奇遇だな。俺も同じこと、言おうと思ってたんだ」

 

 ずるいなぁ、なんて思いながら、嘘偽りない本心だと確信した。だからこそ、恥ずかしさが募ってばかりで、とうとうあたしの心の余裕は無くなってしまった。

 あたしは咄嗟に目を逸らした。彼よりもさらに奥、吹き抜けのさらに上、天井、吹き抜けの直上を見つめた。そこには空が広がっていた。星の瞬く夜空が。あたしはまたも潤んだ目を擦りながら、隣を歩く彼の手を握り締めるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【白金 燐子】恋人の前だけの姿

 モノクロの部屋。わたしが長い時間を過ごしていた自分の部屋は、そう形容することがぴったりかもしれない。壁や床に使われている白い建材。部屋の一角で佇むピアノの反射する黒。普段異世界に没頭するのに使っているモニターも今日は音も出さずに黒いままだ。

 そんな彩度の少ない世界で、わたしは一人ベッドの縁に腰掛けて一冊の本を読み進めている。ブックカバーに包まれていて表紙は見えなくなっているその本はわたしの持ち物ではなく、借り物であった。

 

「……ふぅ」

 

 長時間細かな文字を見続けていたからだろうか。なんとなく目が疲れているような感覚がして、わたしは視線を本から外して部屋に向ける。

 本の世界から飛び出すと、自分が集中しすぎた結果肩の凝りにも気がつかなくなっていたことを察した。わたしが少し肩甲骨を動かそうとしただけで音がしそうなほどに。生徒会室なんかで堅苦しい文章の書かれた数多の書類を見ている時でさえ、そうなることなんてのは滅多にないのに。

 どうやら今日のわたしはその本が織りなす世界に吸い込まれるように時間を潰してしまったらしい。代わり映えのない部屋に飽き飽きとしながら窓を見れば、昼過ぎで青かったはずの空が既に茜色に染まっていた。秋も深まって日が落ちるのが早くなってきたとはいえ、わたしが数時間に及んでこの本に囚われていたのは明白だった。

 

 わたしがこの本を読むことに相当集中していたのは、そんな変な理由ではない。別段この本が呪いの本だとか、RPGに出てくる魔導書だとか、そういうことではない。目玉が飛び出るほどの稀覯本とかでもなく、単に今井さんから借りた恋愛小説だ。たしか、この頃流行りになっているとかで、本屋さんの店頭でも並んでいるのを横目で見た記憶もある。ただ、自分からは手を取らずにこうして今井さんに借りるまで読んでみようとはあまりならなかった。

 それなのに、ここまで読んでいて引き込まれるのは、この本が特別素晴らしいシナリオを備えているだとか、レトリックの癖に取り憑かれるだとか、そういう大衆に迎合する理由じゃなくて、極めてわたしの個人的な問題だったのだろう。薦めてきた今井さんすらも知らない、わたしだけの悩みだとか、そういうものだ。

 

 本と自分の重なりに気を遣っていると、完全に気が抜けてしまっていたらしい。ベッドの傍に置いていた自分のスマートフォンの振動音に、これでもかと言うほどにびくりと心臓が、そして文字通り体が跳ね上がった。読んでいる最中はスマートフォンのいかなる通知すらも気にならなかったのに、ふと現実に帰ってきた瞬間こうだ。

 びっくりとした心を休ませながら、黒かったはずの画面をタップすると、メッセージが届いているという通知だった。今まさにメッセージが届いたのは、わたしの悩みの元凶と言っても過言ではない、わたしの恋人だった。

 元凶が云々と言っても、決して彼が何か悪さをしているだとか、そういうことは一切ない。むしろわたしがお付き合いをしているのが申し訳ないほどに彼は良い人間であるが、ただ、そこに萎縮してしまっている自分もいる。

 

『燐子って明後日暇?』

 

 届いたメッセージをみて、カレンダーを思い浮かべる。平日だから多分夕方とか放課後のことなのだろう。それならあまり遅くならなければ時間を作ることなど造作もない。その日は生徒会の集まりもRoseliaの練習もないし、予定らしい予定と言えば夜になったらあこちゃんとNFOをプレイすることぐらいだ。

 さっきまで散々彼のことで悩みがあるなんて言っておきながら、わたしは何一つ淀みのない手つきで返信を打つ。多分面と向かって喋っていたらもっと途切れ途切れの言葉しか伝えられないけど、これならわたしは気持ちもすぐに伝えることが出来た。

 

『暇だよ。会えるかな?(o^^o)』

 

 送信されたメッセージを見てため息をつく。そして、もう一度目を見開いてそれを目撃した瞬間、急に鬱々しい気分になる。彼からの返事は断りでなくて、快諾の返事だったのに。

 曖昧な立ち位置で揺れる二人の()()()がそこにはいて、わたしはふと怖くなったのだ。このメッセージを見た彼は今頃何かを思っているのだろう。

 自分がこの恋愛小説を読んでからずっとモヤモヤとしていた部分が頭によぎって、ちくりと心が痛んだ。緑の吹き出しの上の暢気な顔文字を見て、わたしの中の不安は一気に増大した。これは謂わばわたしの恐れの象徴であり、()()()()()()の違う部分を最も端的に表していたからだ。

 わたしは何もかもが嫌になって、スマートフォンの電源を切って柄にもなくベッドの端の方へと放り投げた。こんな乱雑なこと普段なら絶対にしないはずなのに。そんな自嘲の気持ちを込めて、わたしはふわふわの枕に倒れ込んで顔を埋める。特に匂いとかはしなかったけど、その無機質さによって不安は少したりとも和らがなかった。

 部屋の電気を暗く落として、枕元の小さなシェードランプだけをつける。元々白黒だった部屋にオレンジが足されて、少し心が落ち着いた気がした。外はいつのまにか赤を失っている。

 

「これ、最後まで……読まないと……」

 

 いつもまにか床の下へと落としていた本を拾い上げたわたしは寝転びながら本を読むだとか、行儀の悪い真似をしながらこの夜を過ごすことに決めた。褒められた行動ではないのはわかっているが、どうせわたしを咎める人なんてのはいやしない。晩御飯を食べないわたしを心配した親が部屋に来るかもしれないけど、そんなことどうとでもなる。

 そんな瑣末なことよりも、わたしの中では何よりもこの本の続きを読むことが大事だった。白い紙に印刷された文字もランプの黄色を吸い込んで、なんだか優しい感じがした。

 さっきまでこの本を読んでいる間は何も気が散らずに、ただ黙々と読み進められたのに。今こうして読んでいると、このお話には出てこない、登場人物と同じ土台にすら上がることのできない自分が脳裏をよぎって邪魔をしてくる。台詞もないわたしの視線の先には、ぼんやりと霞みがかった彼が立っている。しかも、わたしがそれを追いかけようとしても、一向に近づかないままで。

 わたしは何度も本を放り投げた。さっきまでどこを読んでいたのかすら朧気なまま、何度も枕に顔を伏せては、閉じてしまった本のページをめくり続ける。結局その日の晩は、この本を読み終わるまで眠ることはできなかった。

 

 

 

 次の日。わたしはRoseliaの練習でCiRCLEに来ていた。心があの本によって乱されたからといって、わたしのキーボードが狂ってしまうだとか、そういった心配は杞憂となった。近づいている次のライブに向けて練習は厳しいものであったが、それでも特に苦を感じることもない。

 

「一旦ここで休憩を挟みましょう」

 

 友希那さんがそう声をかけると緊張の糸が一気に切れた。あこちゃんは急いでスタジオから出て行ったし、わたしもどこか疲れた体を解そうと伸びをした。スタジオの向こうのテーブルでは、ある意味でRoseliaの名物と化している今井さんの絶品のクッキーを嗜む会が行われている。

 友希那さんに微笑んでいる今井さんを見て、わたしは昨日のわたしを惑わし続けたあの小説を返すために持ってきていたことを思い出した。わたしは小さく今井さんの名前を呼ぶと、カバンからブックカバーに包まれた小説を取り出して手渡した。

 

「あの……ありがとう、ございました。すごく……面白かったです」

 

「えっ、燐子もう読めたの?」

 

「はい、昨日……時間があったので」

 

 今井さんが驚くのも無理はない。この間の練習の時に借りた訳だから、そうか、一昨日借りたばっかりではないか。決して本を読むのが遅いとかそういうわけではないけど、忙しさに負けそうになっているぐらいには時間に追われている自覚はある。

 わたしが返した小説を、今井さんはパラパラと開いてうんうんと頷いているようだった。多分だけど、読んでいた本に想いを馳せているだとかそんな感じだろう。

 

「うんうん、本当に良いよねぇ……。すれ違ってもいつも通りに接しようとする女の子も、気まずさを理由に逃げてた男の子が帰ってくるシーンも全部最高なんだよ〜!」

 

「その、すごく……感動しました」

 

「だよねぇ。クールだった女の子が男の子の前だけであんな甘々な態度取ってるところのも見ると……、あぁ、恋愛したいなぁって思っちゃうよねぇ」

 

 その言葉に少しだけ反応してしまったわたしは、その動揺を表に出さないようにしながらふと考え込んだ。今井さんの表情はどこか遠いところを見るように、まだ見ぬ恋愛の甘酸っぱさを妄想して楽しんでいるような、そんな感じで。

 けど、この本を読み通して改めて自分の曖昧さに揺れていたわたしはどうしても悩まざるを得なかった。わたしはこの世界の女の子のようになれるのか。違う世界にいるかのように、絵空事のようにしか思えなかった。

 

「リサにそういう相手はいないの?」

 

「あっはっは、アタシ? アタシは友希那一筋だよ〜」

 

「……そう」

 

 冗談めいた文句で友希那さんに顔を寄せる今井さんは心の底から楽しんでいるように見える。揶揄われた友希那さんは少し恥ずかしくなっているのか、僅かに赤らんだ頬を丸出しにしながら顔を逸らした。

 

「でも彼氏が出来たらもうそっちに夢中で友希那に構ってあげられなくなるかも〜」

 

「なっ」

 

「いっぱいキスとかして、その先も……。彼氏だけにしか見せないアタシの顔もあったり?」

 

「……そ、そう。きっと、リサにもいつかそういう人が見つかるんじゃないかしら」

 

「そうかな? 探しちゃおっかな〜?」

 

 素直になれそうにはない友希那さんをすっかり手玉にとった今井さんは人差し指で友希那さんの頬をぐりぐりと押している。目の前でそんな光景を見せられてしまって少々複雑ではあるけど、今井さんにとって彼氏だけにしか見せない素顔とはこんな感じなのかもしれない。

 そこまで考えが及んだところで、またもや心がちくりと痛んだ。原因はもう明白だった。

 

「どーしたの? 燐子」

 

「えっ、あ、いや」

 

 心の中の澱みに気を取られていたわたしは自分の表情に気を向ける余裕なんてなかった。否定も肯定も出来ずにオドオドとするわたしを見た今井さんはまるで獲物を見つけた猫のように目を大きく見開いた。

 

「そろそろ練習戻ろっか? あ、燐子? もっと燐子に読んでほしい小説いっぱいあるから今日アタシの家までちょっとだけ来てよ☆」

 

「えっ、わ……わかりました」

 

 わたしにその提案を断ることなんて出来ず、何が起こるのかドキドキとしながらキーボードの元へと戻る。すっかりと動揺しきっていたわたしは前半に殆ど起こさなかったミスを連発するのだった。

 

 

 

 練習の帰り際。いつもは今井さんと友希那さんが二人で帰っているところにお邪魔した。幼馴染ということもあって相当な仲の良さを見せている二人に割り込むのはどうにも憚られる。だけど、今井さん直々に呼び出されたということもあって、わたしは逃げることもできないまま、二人の家に着いてしまった。友希那さんは早々に帰り、残されたのはわたしと今井さんの二人だけ。

 

「それで……今井さん?」

 

 確かわたしに読んでほしい小説がもっとあるということだった。それなら家に入るのかと思ったのだけど、今井さんは一向に玄関に向かう様子もない。既に暗くなった外で、友希那さんを見送ってから、なんとも言えない時間が過ぎるだけだった。

 

「燐子、ちょっと聞いても良い?」

 

「えっ、ど……どうぞ」

 

 いつになく真剣な表情で話しかけてきた今井さんの様子に困惑したけど、わたしはさらなる衝撃に晒されることになった。

 

「好きな人とかできた?」

 

「……?!」

 

 突然の今井さんの質問に、わたしの思考はフリーズした。多分その反応を見た今井さんはわたしの心のうちだとかを全て見抜いてしまったのだろう。あの時、CiRCLEのスタジオの中で見せたニヤニヤとした表情を今も浮かべている。それを見た瞬間にきっとバレているのだと思った。

 まさかバレることはないとたかを括っていた。友希那さんはそういうのには疎そうだし、氷川さんも破廉恥なことだってめくじらを立てていそう。あこちゃんはもしかしたらそういう感情を持つにはちょっと早いかも。けど、今井さんは流石に誤魔化せなかった。

 

「ビンゴか〜。そっかそっかぁ……燐子にも春が……」

 

「……あ、あの! 今井さん!」

 

 何か感じ入ったような反応の今井さんの思考を遮るように、わたしは大きな声で今井さんの名前を呼んだ。もしかしたら今井さんは揶揄うつもり満々でここまでわたしを連れてきたのかもしれないけど、この際だ。わたしの心の憂鬱を消してくれる光明を求めていたのだ、多分。

 

「どーしたの?」

 

「……その、相談が……あって」

 

 わたしの様子を窺うなり、にっこりと笑った今井さんに手招きされて、わたしは家にあげてもらった。多分話が長くなりそうなことも察されていたのだろう。部屋に通されたわたしは、リビングの方から上がってきた今井さんからホットミルクを受け取る。

 

「相談って?」

 

「その……好きな人……というか、その、恋人の、こと、なんですけど」

 

「……えっ? 恋人ってまさか、もう付き合ってるの?!」

 

「は、はい」

 

 相当に驚いた様子の今井さん。それもそうか、自分が冷静に自分を客観的に見たら、今井さんの方が恋人とかが居そうにも思えた。

 

「でもアタシ恋人なんて出来たことないからなぁ。あんまりちゃんとしたアドバイスとか出来ないかもだけど」

 

「そんなこと……ないです。きっと、参考になると、思います」

 

 わたしの反応を見るとふぅ、と大きく息をついた今井さんはニコニコとわたしの次の言葉を待っている。わたしはポツリポツリと悩んでいることを言葉にしようとした。

 

「その、……今井さんは、やっぱり恋人ができたら、恋人の前と、普段の、姿って変わりますか?」

 

「えっ? うーん、出来たことないから分かんないけど……」

 

「その、想像で、いいので」

 

「……多分変わるんだろうなぁ。きっといっぱい甘えるだろうし、わがままだって言うだろうし、それこそRoseliaとか友希那の前での姿とそれは違うと思う」

 

 今井さんはかなり悩んで、悩んで、苦笑いのままでそう答えた。今井さんがわがままを言う姿なんてものはあまり想像つかないけど、それはそれこそ普段の姿と違う顔を持つ故だろう。

 それでも、ただの想像の話とはいえ、まるでわたしの恋愛の態度をやんわりと否定されているようで悲しくなった。自分が思う自分のダメなところを認められてしまったようで。

 

「燐子は、いっつも彼氏さんと過ごす時どんな風に過ごしてるの?」

 

「どんな風にって、その……例えば、一緒に本を読んだり……」

 

「うんうん」

 

「……勉強とか」

 

「なるほどなるほど?」

 

「……ご、ごめんなさい!」

 

「え、え?! なんで謝るの?!」

 

 その時、わたしは今井さんに向かって勢いよく頭を下げていた。きっと今井さんの求めるような話は何も出来ていないし、わたしがしている恋愛擬きは今井さんが聞きたがっている恋愛からはかけ離れているだろうから。そんな気持ちを込めて下げた頭は、わたしがいつまでも上げずにいると、いつのまにか今井さんの手が添えられていた。

 

「え……?」

 

 わたしがそれにびっくりして顔を上げると、今井さんの表情はさっきよりもっと緩んでいて、今井さんは微笑みを浮かべたままわたしの頭を撫でていた。それでいて何かを言うというわけでもなく、ただぽかんとしているわたしが話すのを待っているようだった。

 

「……わたし、恋人と一緒にいる時でも……、いつも、こんな感じ、なんです」

 

「うん、それで?」

 

「だから、……その……。お借りした小説みたいに……、恋人同士の空気とか、分からなくって……」

 

「恋人同士の空気、ねぇ」

 

「……彼は何も、言わないけど、……でも、チャットとかするときは、わたし……饒舌だから……」

 

 だから、きっと彼は不満を言わないだけでいつまでも緊張してオドオドとしっぱなしのわたしを見て呆れているに違いないと。わたしは理想の自分との乖離に悩む自分を打ち明けた。

 それは最後の頼みの綱を頼るような気分だった。今井さんなら延々と人見知りを続けるわたしを変えてくれるようなアドバイスをくれるという期待。わたしだって、今井さんみたいに、そしてあの小説の恋人たちのように、気兼ねなく、そしてスイーツのような甘さの空気を吸うことが出来るはずだから。

 

「うーん。そんな、小説通りになるのを目指さなくても良いんじゃないかな?」

 

「えっ?」

 

 でも、そんなに天から伸びる蜘蛛の糸は甘くなかった。わたしの期待を百八十度裏切るような答えにわたしは目を丸くした。けど、今井さんは先ほどと変わらない微笑みのまま続けた。

 

「無理に変わろうとしなくてもいいと思うけどな、アタシは」

 

「でも」

 

「だって彼氏くんは何も言ってないんでしょ?」

 

「それはその……はい」

 

「じゃあ、聞いてみようよ! 今度いつ会うの?」

 

「えっ、えっ、あ、明日……です」

 

 そこまで聞き届けて今井さんは今日見た中でも一番の優しい笑顔に変わった。まるでお母さんのような暖かさで、明るい声で。

 何度もわたしの頭を撫でてくれた手がようやく離れた。そのままわたしは今井さんと二人で玄関まで降りて、そして家から送り出される。

 

「大丈夫だよ燐子! きっと大丈夫! 何か文句言ってきたら今度はアタシが怒りにいくから! 『うちの燐子を虐めるなー!』ってね!」

 

「……はい。でも……それは、ダメです」

 

「アハハ、冗談だよ? でも燐子を虐めるやつがいたら許さないのは本当だよー?」

 

「だ、ダメです! 今井さん……可愛いので……盗られたく……ないです」

 

 玄関の前で今井さんからエールを貰った。それ気持ちは嬉しかったけど、もしも今井さんと彼が出会って、彼が今井さんに一目惚れでもしてしまったら、わたしはもっともっと困ってしまう。そんな光景を思わず想像してしまって、声が小さくなりながらも口に出す。

 恥ずかしくなって下を向いていたけど、ふと顔を上げると今井さんはちょっと驚いているようだった。けど、わたしと目が合うと、またいつもの微笑みに戻って。

 

「だーいじょうぶ。今の燐子の方が、ずっとずっーと、可愛いよ?」

 

 冗談めかして、『彼氏くんから燐子のこと奪っちゃおうかな』なんて言う今井さんと話していると、なんだか不安だとかは全て消えていくような気がした。

 

 

 

 そんなエールに送り出されるように、次の日の放課後になった。わたしは学校の帰り道で彼と待ち合わせをしていた。今井さんに励ましてもらったときこそ不安は何も感じなかったけど、いざこうして二人で会うとなると、いつにも増して緊張した。

 

「ごめん、お待たせ。燐子」

 

「あ……、いえ……その、待って、ないです。そんなに」

 

「なら良かった。行こうか」

 

 世の中に数え切れないほど流通している恋愛物であれば、ここで彼の手をお淑やかに握ったりするのかもしれない。けど、わたしはそんなこと恥ずかしすぎてできないし、彼の方からわたしの手を握ってくることもない。それは至極当然な話で、前には彼から手を繋ごうとしてくれたこともあったけど、わたしが恥ずかしいからと断ってしまったのだった。

 そういうわけもあって、結局待ち合わせをしただけで、特に長い世間話をしたりすることもなく目的地の図書館に向かって歩き始める。道中ちょっとした会話こそ挟むけど、わたしは相槌を何度か打つだけで、どう話を広げたらいいのかもよく分からないまま時間だけが無情に過ぎていった。

 昨日、今井さんと約束したように、いつまで経っても恥ずかしさを理由に人見知りを彼の前でも続けるわたしに対して、不満の一つも持っていないのか、と何度も聞こうと思った。けど、いざ聞こうとすると勇気が出ないまま、わたしは押し黙ってしまっていた。むしろそれが彼にとって変に写っていないかが心配でたまらなかった。

 

「あ……あの」

 

「ん、どうした? 燐子」

 

「いえ……なんでも」

 

 こんな具合に、何度も話しかけては何もない、なんて返すだけ。絶対に疑われるだろうし、下手したら揶揄っているのだと怒りを買うかもしれない。

 そして、案の定、こんなやりとりを数回繰り返しているうちに、彼は足を止めてわたしの顔を覗き込んだ。こんな近くで直接彼と目を合わせるなんてとてもできなくて、びっくりしたわたしは頑張って目を逸らそうとする。けど、二人とも足を止めているのだから限界があった。

 

「……やっぱり、燐子何かあったんだよな?」

 

「……その……はい」

 

 疑われたわたしは観念する他なかった。どう考えたって、この状態で何もないはずがなくて、もしわたしが彼であったとしても疑っていたはずだし、何もないと言われて信じるわけがない。

 だからわたしは諦めて認めてしまったのだが、彼はそれを追及するでもなく、前を向いて歩き出してしまった。そんな予想外の彼の行動に驚いたわたしは慌てて彼の歩調に合わせる。

 

「そ、その。……聞か、ないんですか?」

 

「ん? 聞かれたいのか?」

 

「いえ……」

 

「ん、じゃあ深くは聞かないよ?」

 

 そういって彼は笑ったのだ。そして切り替えるようにまた歩き出そうとしたから、焦ったわたしは。

 いつのまにかわたしは歩き出そうとしていた彼の腕を掴んでいた。驚いた彼は驚きを隠そうともせずにわたしの方を見ていた。

 

「……こんな、わたしでも、いいんですか?」

 

「えっ? えっ? どういうこと?」

 

「……わたし、ずっと引っ込み思案で……、チャットだとあんなに饒舌、なのに、リアルだと……。恋人の前でもわたしは……よそよそしくしかできないのに、それでも……いいんですか?」

 

 わたしはそこまで言い切ると、何を言われるかわからないのが怖くて怖くてたまらなくなった。聞いておきながら、その疑問に対する答えを聞きたくなかった。だって、それで、別れようかなんて言われてしまったら。呆れられてしまって、つまらない人間だなんて言われてしまったら、わたしはきっと耐えられないから。

 今井さんに励まされて、この話をするって決めた時点で覚悟はしていたはずなのに。それでも怖くて仕方がないのだ。

 もしも本当はもっと彼氏に遠慮なく甘える子の方が彼の好みだなんてことだったら。わたしはそんな女の子になれるのだろうか。今だってなれそうにないのに、わたしは彼から捨てられてしまうんじゃ、そんな思考が脳内を支配するのだ。

 

「あぁ。たしかに、燐子ってチャットとリアルじゃ全然違うよね」

 

「……! そう、ですよね」

 

 正直に言えば、彼がその違いにすら気が付かない鈍感だったら、なんて淡い希望を持っていた。けど、そんな甘いことはなく、彼はしっかりと二人のわたしの乖離にも気がついていた。

 わたしは悩んだ。ここで、やっぱり今の質問は忘れるように強く言うべきなのか。迷いに迷って、わたしは彼の方に視線を向けるなんてできなくて、ただただ無機質な地面を見つめることしか出来なかった。

 でも、わたしの迷いを斬り捨てるように彼の声が先に届いていた。

 

「俺はそういうギャップもあって良いと思うけどな」

 

「えっ……。……嫌じゃ、ないんですか?」

 

「別に嫌ではないかな」

 

 ぽかんとするわたし。それを見てなのか、彼はニッコリと笑った。

 

「どうしたの? まだ悩んでる?」

 

「その……」

 

「俺が嫌じゃないなら、それで良いじゃん?」

 

 ただ笑うだけじゃなくて、彼の声は優しかった。今井さんの……いや、比べるのは無粋かもしれない。そして、優しい声だけじゃなくて、彼はいつのまにかわたしの目の前に手を差し出していた。わたしの手は導かれるようにそれを握っていた。

 

「よし、じゃあ図書館行こっか」

 

「……はい!」

 

「……ま、折角だから一緒に手を繋いで歩くぐらいはしたいな〜」

 

「そ、それは……人に見られたら……恥ずかしい、です」

 

「じゃあ家とかなら?」

 

「……大丈夫、です」

 

 そしてわたしたちは歩き始めた。勉強という名目で図書館に向かうために。外を歩いているというのに手を繋いで。

 二人で勉強をしていたって、至って真面目な会話しかそこにはない。恋人同士が二人だけの時間を濃密に過ごすようなやり取りはない。けれど、それでも何もおかしくないじゃないか、そんなふうに思えたのは今井さんと、彼のおかげだった。

 

 結局、二人で二時間程静かに勉強をして、その日は帰路に着いた。手を繋いで歩くこと以上に進展らしい進展はない。けど、待ち合わせに行くまでとは違って、帰り道に憂鬱な感情は何もなかった。

 家に着いたわたしは、部屋に戻るなり、今日の自分の言動を振り返って枕に突っ伏した。

 

『好きです、こんなわたしで良ければこれからもずっと一緒に居てください』

 

 そして、顔文字に身を隠すこともなく、何十分も悩んだこの文章を彼に送るのだった。いつかこんな言葉を気兼ねなく伝えられる日が来ることを淡く願いながら。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【上原 ひまり】心の支えになってほしい君

 近頃の空気というものはやけに冷たい。風が頬を撫でるたびに体は僅かに震えを覚えるほどだ。

 十月も半分はとうに過ぎた。そんな秋の深まってきたこの頃、私の心はざわめいていた。それは間違いなく、今この瞬間も、私の心を芯から揺さぶる冷たい秋の風が吹き抜けていったからだった。

 奥に弱々しく聳える公園の木々も徐々に葉を落とし始めそうな中。道路のど真ん中に立った私は、出したこともない大声で。

 

「待って!!」

 

 視界が屈折して揺れることも気にせずに彼を呼び止めたのである。

 

 

 

 

 

 秋といえば何を思い浮かべるだろうか。確か、モカは大好きなやまぶきベーカリーのパンを頬張りながら食欲の秋と言っていた。それ以外にだってスポーツの秋だとか、読書の秋だとか、巴はお祭りの秋だなんだとか言ってたっけ。

 人によって多種多様な秋があるけど、私にとって、この秋最も熱い象徴は芸術の秋、演劇の舞台で人々を魅了し続ける薫先輩である。演劇部の秋公演を予定している薫先輩は大忙しで、最近は滅多に会って話すような機会もないけど、それは却って手の届かないところにいるアイドルのような興奮を私にもたらしている。勿論惜別感のようなもの寂しさは否定できないけど。

 

「それでね、薫先輩も今年で卒業しちゃうからってことでね」

 

「そういや三年生だもんな、薫さん」

 

 私はそんな興奮に突き動かされるように、自分の感じる薫先輩の魅力を熱弁しているというわけである。普段から私は薫先輩の良さを伝導している自負はあるけど、それが自分の近しい人となれば尚のことであった。

 喫茶店でコーヒーを挟んで向かいにいる彼も、私とは長い付き合いな訳で、この話をしたのは一度や二度ではなかった。同じようなシチュエーションでこの話をしたような記憶すらある。

 

「私って来年、何を心の支えに生きていけば良いんだろう……」

 

「大袈裟だな。勉強でそれどころじゃないんじゃない?」

 

「もー! そんなこと言わないでよっ!」

 

 多分、私の薫先輩トークは彼との間で日常と化している、と思う。私は普段から薫先輩の話をするし、昨日も薫先輩と階段ですれ違った時に目が合って話しかけられた話だとかをした覚えがある。

 それでも、彼は別に薫先輩の話をされても嫌な顔もせずに聞いてくれる。私の薫先輩の布教はまだまだ功を奏していないみたいだけど、それでもそこは彼の優しさというか、慈悲というか、そんな感じの感情に感謝する他ない。

 そんな感謝の気持ちを胸にしまいつつ、私は今日も今日とて薫先輩の話を彼としていた。話題は今度開催される薫先輩が主演の舞台の話である。薫先輩の追っかけをしている私にとって、薫先輩が主演の舞台なんてもの、全日程を観に行きたい程のものであるわけで。そんな私の趣味に彼を、恋人の彼を巻き込んでやろうという魂胆でひたすらに勧誘をしているというわけである。

 だが、彼の反応はいつも通りかなり冷静。冷ややかというわけでは決してないけれど、簡単には釣られてくれない。だけど、それでこそこちら側に引き込もうと燃えてくるというもので、それほど乗り気ではない彼をどう巻き込むかということに躍起になっていた。

 

「どうせひまりに限らず、大学に進学しようって人は来年にそんな余裕はないだろうからな」

 

「そんなの薫先輩ロスの私に追い討ちをかけてるも同然だよ……」

 

 ただでさえ三年生の薫先輩にとってこの秋の公演というのは、羽丘で行われる公演で実質的には最後の公演であるということに等しい。卒業公演などがある可能性もあるが、そもそも薫先輩がそこまで三年生の最後に熟せる時間があるのかと問われれば、頷くことは難しい。

 だからこそ折角の機会に、私は彼と薫先輩の舞台を観ようというわけなのだ。当の彼はノリノリというわけではないけれども。

 以前、二人で薫先輩の舞台を観に行ったことがあったっけ。その時も彼はなんだかんだ渋そうな反応を見せながらも、当日は私と同じぐらい興奮を隠さずにいた。ならば、もう少し乗り気になってくれてもいいとは思うのだけど。

 

「だから、丁度この最後かもしれない舞台を一緒に観よう? って誘ってるんじゃん!」

 

「そんなこと言ったって……テスト前だし」

 

「そんなの薫先輩は受験前だよ?!」

 

 学校の定期テストと大学受験を同列で語るのはナンセンスかもしれない。けど、これぐらいゴネたら、多分彼も私の誘いに乗ってくれるだろう、なんていう期待を私は持っていた。

 

「んー……そうだなぁ」

 

「私と一緒に薫先輩ロスになろ? ね?」

 

「どんな誘い方だよ……。分かった分かった」

 

「え?!」

 

 彼からようやく芳しい反応が得られて、思わず興奮した私は立ち上がる。その瞬間に私の服の袖や手の甲に飛んだのはテーブルの上でなみなみと注がれたまま減ってすらないコーヒーだった。テーブルをドンと叩きながら立ち上がるなんていう、あまり良くない立ち振る舞いを若干後悔しながら、彼が差し出してくれた淡い色のハンカチで濡れたところを拭く。

 

「ひまりもそれだけ行きたいんだよな? なら俺も参戦するよ」

 

「本当っ?!」

 

「本当、本当だから騒ぐなって、一応ここ喫茶店だぞ?」

 

「あっ」

 

 遂に彼からの快諾を得た。一緒に薫先輩の舞台を観るという約束を取り付けることを成し遂げた私は喜びのあまり大はしゃぎしそうになる。

 だが、彼の諌めるような声を聞いて、慌てて辺りを見渡した。そう、ここは喫茶店。一応、つぐみの家のお店だけれども、粗相を重ねるわけにはいかない。私が店内を見渡すと、カウンターの向こうで手伝い中のつぐみが苦笑いしているのが見えて、その上つぐみと目が合ってしまう。今までの会話だとかを見られていたことを自覚すると少し恥ずかしくなって目線を逸らした。そして勢いよく座り込んで高い背もたれに隠れるように縮こまる。

 

「……まぁ、とにかく今度の薫先輩の舞台、一緒に観に行くってことで良いんだな?」

 

「え? う、うんっ! 来てくれの?!」

 

「良いよ、それだけひまりが熱心に誘ってくれてるしな」

 

「やったぁぁー!!!!」

 

「だからここ喫茶店だって」

 

 彼を誘う前は本当に来てくれるのだろうかということが不安すぎたから、その反動みたいなものなのだろう。彼から言質をとって興奮に包まれた私は何度も彼に注意されてようやく落ち着きを取り戻したのだった。

 

 

 

 それから数週間経っただろうか。遂に薫先輩の舞台の本番がやってきた。校門の外で彼と待ち合わせを済ませた私は会場が醸し出す雰囲気にも当てられ浮き足立っている。彼は開演まで時間があるということで手持ち無沙汰そうにしているが、私が何度も今の興奮を伝えてもちゃんと反応を返してくれる辺り優しさを改めて実感した。

 十月も後半を迎えて行われる舞台ということで、自分の心の中では勝手に自分への誕生日プレゼントだなんて気持ちで今日はここに赴いていた。きっと彼もそれを祝うデートぐらいで考えてくれているのかな、なんてのを心の隅で考えると心が躍る。きっと、所謂ツンデレ気味の彼はこのデートの最後までそういうのは伏せているつもりだろうけど、私は勝手に妄想して喜んでいるのである。

 

「開演って何時からだっけ?」

 

「もぉー、パンフレット渡したでしょ? 十七時に入場開始だよ!」

 

「じゃああと三十分はあるのか……」

 

 まだ彼のテンションはそれほど高くないし、時間を持て余していることを彼は腕時計を見ながら考えているらしい。太陽がもう殆ど沈みかけているせいで辺りは熱気を保ちつつ暗くなっているけど、僅かに校舎の隙間から差し込んだ陽光が彼の腕時計に反射していた。

 

「じゃ、ちょっとだけお手洗い探してくるわ」

 

「あ、それなら一緒に着いていってあげようか?」

 

「良いって、列に並んでな」

 

「はーい」

 

 彼に言われてついて行くまでもないかと思い、大人しく彼を見送った。一応列が整理されてはいるが、腐っても高校の演劇。ドームなどでのライブやコンサートとは違って縛りが厳しいわけでもない。どのみち座席も私の隣に座ってくれるはずなのだから、後から合流すれば良いと思い、スマートフォンをポケットにしまった。

 彼を見送って改めて、自分の周囲に並んでいるお客さんの群衆を見た。私と同じような羽丘の制服を着た女の子もいれば、おそらく外部の人だろうという格好の人もいる。それぐらい多くの関係者がこの劇には関わっている。

 さっきはたかだか一高校の演劇だなんて考えてはいたが、むしろそれでこの客の入り様なわけで、薫先輩の話題性の高さを再確認することになった。そんな薫先輩と同じ空間に居合わせられるという、普通ではよく分からなさそうな多幸感に包まれて彼の帰りを待った。

 

「あれ、ひまりちゃん」

 

 彼の帰りをまだかまだかと待って気の抜けていた私を呼ぶ声がした。それでふっと現実に引き戻されたように感じた。私が顔を上にあげると、そこにはりみがいた。いつも私と一緒に薫先輩の舞台を追いかける、謂わば同志、それがりみだった。りみは不思議そうに首を傾げながらも、その手には薫先輩の名前の入ったうちわを持っていて、ここにわざわざ来た目的は語るまでもなかった。

 

「あれ、りみ。りみも薫先輩の舞台観に来たの?」

 

「うん、だってあと何回薫さんの舞台が観られるか分からないんだよ?」

 

 りみもやはり私と同じ考えだったようで、貴重な薫先輩の出る舞台を見逃すわけにはいかない、というまさに薫先輩愛の塊のような考えだ。りみが見せてくれたチケットを見れば確かに今日の日付が記されたもので、私たちの持っているものと同じものらしい。

 

「ひまりちゃんは今日は一人?」

 

「え?」

 

 私の視線が麗しき薫先輩の御顔が描かれたチケットに奪われていた時、りみの問いかけに反応できずに聞き返してしまった。私とりみは大概一緒に薫先輩の舞台を観に行くわけだが、彼と一緒に観る時は、りみと彼との間の面識もないわけで、まず私と彼の二人きりで座るのがお決まりになっていた。

 

「もしも一人なら、一緒に観よう?」

 

「え、あー」

 

 まさかりみと当日遭遇して、その結果一緒に観ようと誘われるだなんて思ってもみなかったものだから私は困惑した。確かにいつもは一緒に薫先輩の応援しているのだからここで断るのも変な話かもしれない。けれど、彼と二人きりの観劇なのに、そんな気持ちも少しばかり残っていた。

 

「ただいまひまり。って、その子は?」

 

 そんな折だった。急に長い陰が伸びてきたなと思えば、先程お手洗いで離脱していた彼が帰ってきたのだ。当然りみと彼は顔を合わせたこともないし、敢えて私がりみの話をずっとするというわけでもないから、彼も私と親しげに話すりみの姿を見て首を傾げているようだった。

 

「えっとね、この子はりみっていって、いつも私と一緒に薫先輩の応援をしてる子だよ!」

 

「え、えっと、初めまして。牛込りみっていいます。えっと、ひまりちゃん、その人って」

 

「あーえっと、そのー、薫先輩のお美しい姿をどうしても見たいっていうから!」

 

「いやいや、俺がそんなことを言った覚えは……」

 

 結局、私の彼氏だということは意図的に隠して無理やりに話を進めることにした。お陰でりみは同じような薫先輩仲間ができたと目をキラキラと光らせているし、彼はりみの態度の変わりように困惑しているしで、色々と混乱を招くことになってしまった。

 りみは仲間を見つけたと意気揚々と薫先輩の魅力を語り尽くそうとしている。多分いつも彼と二人で話す時の私もこんな感じなのだろう。

 そして私はりみを止めるというわけにもいかずに、その勢いに怖気付いたままの彼を助け出したりとかもせずに私はダンマリを決め込むことにした。りみはそのまま私の意見だとかを気にせずとも彼を観劇に誘うような勢いだった。

 

「そうだ、折角なら私も一緒に観ても良いですか? 三人で薫さんの晴れ姿を応援しませんか?!」

 

 そして、そんな私のつまらない予測は現実のものになった。彼は私の方を何度もチラチラと確認しながら考え込んでいるようだった。

 

「えっと……。まぁ、ひまりが良いなら、良いのか?」

 

「え、う、うん! もちろん!」

 

 私は流石にはっきりと断るなんてこともできず、勢いに押されるがままに承諾する。そしてそれとほぼ同じタイミングで開場のアナウンスがスピーカーから聞こえてくる。多分この問答がどうなったとしても一緒に隣の席に座って観ることになったろう。

 

「それじゃあ行こう!」

 

 いつにも増して興奮気味のりみの後を追うように私も講堂へと入って行く。何度も後ろから着いてきているはずの彼の顔色を確認しよう、顔色を窺いたいと思ったけれど、いざそれを直視する勇気が湧かなかった私は声をかけることもなく進むのだった。

 入場の時間から十五分ぐらい経っても、まだ会場内はざわついている。私やりみみたく薫先輩を求めてやってきた人たちの熱気が騒がしさのようなものを生んでいるのだろう。

 私の左隣に座ったりみも入場前から一切テンションが変わらないまま、開演を今か今かと待っているようだった。かくいう私も薫先輩の舞台が楽しみなのはその通りなので、どこかソワソワとしたような気分を隠さずにいる。なんだったら隣で薫先輩の名前を叫ばんばかりのりみと同じぐらい薫先輩への愛を今ここで叫んでしまいたいぐらいだけど、心の中のひっかかりがそんな私にストップをかけていた。

 

「楽しみだね、ひまりちゃん!」

 

「……うん!」

 

「私もね、この間のひまりちゃんを見倣って、薫さんうちわを作ってきたんだ」

 

 そういってりみはさっきも隠そうとしていなかったうちわを見せてくれる。その表面には薫先輩が口癖のように使い続けている、『儚い』という文字が遠目からでもわかるぐらい明るい色と派手な装飾と一緒に書かれていた。

 今から観るのは劇だというのに、この盛り上がりようはどちらかといえばアイドルのコンサートに近いのかもしれない。ただ、私も以前りみと一緒に薫先輩の舞台を観に行った時はそんなものを作っていたものだからそれをどうこう言うつもりは一切なかった。

 

「薫さん、このうちわに気づいてくれるかなぁ」

 

「多分気がついてくれるって! だって薫先輩だよ!」

 

 私がそう励ますと、りみは大きくうなづいて、まだ幕も上がっていない正面のステージに向かってそのうちわを振ることに必死になっていたようだった。開演まではまだ少しだけ時間があるし、あの幕の裏では最終確認が行われているのかもしれないから、りみのこの声援も薫先輩の耳に届いているかもしれない。

 りみの応援を片耳で聴きながら、私はどういうわけだか大きなため息と共に背もたれの方に倒れかかった。周囲は薫先輩を呼ぶ声援ばかりだからため息は聞こえないだろうが、その様子を彼は見逃さなかったらしい。

 

「ひまり? なんだかあんまり楽しめてなさそうだな」

 

「え? いや、その」

 

「ま、折角来たんだから楽しめよ」

 

 私が色々と振り回してしまうことになった後ろめたさが私の心を包んでいたのだけど、その言葉を聞いて少しだけ安心した。丁度その時徐々に照明が落とされたせいで彼の顔は見えなくなっていったのだけど、今この瞬間ぐらいは薫先輩に酔いしれてもいいだろう。

 

「よーし、薫先輩ー! 頑張ってくださーーい!」

 

 周囲のざわめきにも負けないぐらいの声を上げる。照明が暗くなったせいでみんなの興奮は最高潮に達していたから、その熱気と声に掻き消されるかもしれないけれど、まぁいい。

 私はすっかりその場の空気に飲み込まれるようにステージの上に吸い込まれていた。右の肘掛けに控えめに添えられた手の甲に気がつかないほどに。

 

 

 

 時間はあっという間に過ぎていった。それこそ、私の感覚では言葉の通り一瞬だった。薫先輩の美しさだけでなく完成された構成のストーリーに、私はまるでその世界の住人であるかのように錯覚するぐらいにはのめり込んでいた。今目の前に薫先輩が本当に居てくれたらどれほど嬉しいだろうか、そんな感情に襲われるほどに。

 

「良かった……薫さんの演劇めっちゃよかった……」

 

「薫先輩本当カッコ良すぎて、もう意識飛んじゃいそうだよ……!」

 

 会場を出て、空が真っ暗なことに気を取られることもなく、私はりみと二人で感傷に浸るばかりだった。余韻すらも想像以上だ。今もまだあの世界にいるのではないかと思うぐらいに昂っているのだ。

 

「すごかった、本当にすごかった! ね!」

 

 私はこの感情を共有したいと思って、隣を歩く彼の方へと振り返って同意を求めた。けれど、彼から返ってきたのは期待通りのものではなかった。

 

「え、ん、まあ、薫さん、やっぱりすごいな」

 

 語彙力を喪失しているような私たちと違って、彼はまだ感心程度の反応だったことに少しだけ私はびっくりした。それと同時にどうしてこの薫先輩の舞台への感動が冷めてしまうような反応を取るのだろうという、憤慨にも似た醜悪な感情が現れた。私は一瞬でハッとして、一気に頭からそんな醜い気持ちを掻き消した。

 

「ま、りみちゃんとひまりで積もる話もあるだろうし、俺は先にお暇しようかな」

 

 気がつくともう校門に着いていて、今から帰る人たちの姿を眺めながら校門前の左右に伸びる道を別々に帰ろうとしていた。

 

「……うん! じゃあまたね!」

 

 私はそれを止められることもできず、そもそも止めたいのかどうかも分からずに彼を見送る。少しばかり心の中にモヤモヤ感に似た何かが残ったけど、気にしても仕方がないと思い直して、りみと薫先輩のステージの話を語ろうと思いりみの方に向き直った。

 

「って、りみ?」

 

 けれど、そこにはどこか暗い表情を浮かべているりみがいて私は動揺した。

 

「えっと、もしかして今日私が居たらいけなかったかな」

 

「……え?! そんなことないよ! りみが来てくれて、いつも以上に盛り上がったし!」

 

「え、でも、ひまりちゃんってもしかして今日はデー」

 

 そこまでりみが言おうとして、慌てて私はそれを遮った。多分その声は周囲の人たちにも聞こえていたかもしれない。

 

「そんなんじゃないから! 大丈夫だから!」

 

「そ、そうかな?」

 

 居心地の悪い沈黙が私たち二人の間を支配した。

 

「その、私気がつかなくて。私が言えることか分からないけど、多分話をした方が良いんじゃないかなって」

 

 控えめながら、りみ曰くどうやら私は彼ともう少し話をしたほうがいいということだった。正直何を話せばいいのか分からないけど、ただ、何を考えているのか分からないからこそ話さなければいけなかった。

 悩んだ。悩んだけど、私はりみに背中を押されていた。

 

「ひまりちゃん」

 

「……ありがとうりみ!」

 

 私はりみに何も言われずとも駆け出した。そう時間も経っていないしここから彼の家への帰宅ルートも頭に入っていたから、多分この道を通っているだろうという確証もあった。

 学校から離れるにつれて徐々に人は少なくなって、住宅街の様相を呈するようになる。片側はブロック塀、片側は児童公園、そんな道路に差し掛かった時、私は彼の背中を捉えた。

 

「待って!!」

 

 私の声は、やけに大きく響いた。もう少し抑えることもできたかもしれないけど、いつのまにか大きくなっていた不安に押し潰されそうになった私の涙や、走ったことで息が荒くなってそんな調節はできなかった。

 

「……ひまり?」

 

 彼は心底驚いたような反応を見せた後、振り返って私を見つけて再度目を大きく見開いていた。電柱についた街灯でよく見えていた。

 どういうわけだか、自分でもよく分からないけど、感情に突き動かされた私の行動は大胆だった。彼を呼び止めて、息を整えるために立ち止まって、肩で大きく息をしていたはずだった。けど、数瞬後には私は彼の胸に飛び込んでいた。

 

「……ごめんね」

 

「え、え、何でひまりが謝ってるんだよ」

 

 彼は困惑しているようだった。当たり前だった。けれど、私の頭もそこまで理路整然と喋れるほどではなかった。

 

「ごめんね、今日、嫌だったよね、嫌なこと、あったよね」

 

「嫌なことなんて、そんな」

 

「……いつも私が話してばっかりだよね? それじゃ、分かんないよ」

 

 私は顔を上げる。彼は最初こそ渋っている様子だったが、観念したのか重い口を割るつもりになったらしい。

 

「別に、薫さんの舞台が嫌だったなんてことは」

 

「ほんと? でも、きっと私が無理やり今日も連れていったよね、どうだった?」

 

 そこまで言うと、彼は押し黙ってしまった。私も何も言葉を返さないまま、フラフラな私の体を彼が支え続けて、彼はようやく小さく息をついた。

 

「幼稚だから、大したことじゃないから」

 

「……いいよ。大したことじゃなくても、教えて」

 

 多分、彼のその態度は完全に自嘲を含むものだった。多分、彼も私と一緒で臆病だから伝えられないでいるらしかった。私が薫先輩の舞台が嫌だったかと問うても首を振るばかりで、彼は私の手をぎゅっと握っていた。

 ここまで女々しい姿を見たのは初めてだったかもしれなかった。でも、だからこそ敢えて言葉に出さなくても、なんとなく彼の考えていることは分かった。

 

「……ね、今度二人だけでどこか出かけよっか」

 

 私の誘いに彼は身動ぎ、けれども、静かに首を縦に振った。私はきっと彼の抱えた不満に似た蟠りはそれだけだと思っていた。けど、それは私の単なる希望的観測に過ぎないということを知ることになった。

 

「でも、それだけじゃないから」

 

「……それだけじゃないって?」

 

「……いや、いいや。本当に、俺がガキ臭すぎるだけだし」

 

「ちょっと……」

 

 なんだか、その反応を見て、私はそれまでと少し違う怒りの感情が湧いてきたのだった。感情が忙しいなんて思われるかもしれないけど、悔しさとか怒りとか、そんなものに近い気持ち。

 

「そこまで言って言わないは無しだよ」

 

「……別に、薫さんが、羨ましいって思っただけだから」

 

 私の制服の袖を力なく掴む彼の言った言葉の意味が分かった瞬間、私の中で猛烈な後悔と、ようやく全てが解決したかのような感情がごちゃ混ぜになった。

 私は泣いているのか、安心しているのかよく分からないまま、力の抜けていた彼の体をもう一度強く抱きしめていた。

 

「……本当に、言わなきゃ伝わんないんだなぁ、何もかも」

 

「ごめん」

 

「謝らなくても良いよ? そのかわりこれからは私に対する隠し事は全部無し!」

 

 私はまだ止まらない涙を隠そうともせず、彼の服でこっそり拭ったまま顔を上げた。すれ違いがこんな些細な、強いて可愛く言うならば薫先輩へのヤキモチなんかから始まるだなんて、その時までの私は考えてもいなかった。

 

「……心配しなくても、私にとって一番カッコいいのは君なんだよ?」

 

「そういうことじゃ……ないけどさ」

 

「……ふふん、知ってるよ!」

 

 一旦しっかりと話してみれば、今の私は彼の考えていることが何でもわかるような気がした。逆にこれまでの自分は彼のことを分かっていたような気でいただけで、実はそんなことはないのだとも感じた。

 普段は私から話すことが多いから、だからこそ彼のことを知らないのだとも言えるけど、私だって本当に大事な部分は言っていなかった。そんな自責の気持ちも込めて、私はもう一度彼の体を強く抱きしめた。彼は何かを言うでもなく、気恥ずかしそうに私から目を逸らすだけである。

 

「どうして目を逸らすの?」

 

「……なんでも」

 

「逸さないでこっち向いてって言ったら?」

 

「え?」

 

「んっ……」

 

 ほぼゼロ距離にいたわけで。私は彼の腰に回していた腕をさらに上に持っていった。そして、恥ずかしがりで臆病な彼の唇を奪ったのだ。とても震えていたような気がしたけど、それはきっと夜が深まって寒かったからということにしておこう。どちらが震えていたのかすらも分からないのだから。

 やがてゆっくりとリップが離れると、彼はさらに顔を赤くさせて、何ももの言わぬようになってしまっていた。

 

「ね、……私から、目を離さないでね?」

 

 私の甘えたような口調の示す意味は彼に伝わっているだろうか。本当なら言葉で伝えたほうがいいなんてことは分かってはいるが、それが急にできるようになるならばここまで今日も苦労していなかった。だから、いつかできるようになればいい、そんな気持ちで言葉に託したのだ。

 

「いつまでもだよ? 来年も、もちろんそれから先もずっと」

 

 先のことなんて分からないけど、少なくともそこに彼が居てくれるのは確かであるように。そんな願い事じみた約束を彼としようとしていた。

 そして、彼の返事は私が期待した通りで。

 

「……当たり前だろ。ひまり」

 

「ふふっ、うん!」

 

 期待通りの答えを得た私の瞳からはいつしか涙が引いていた。

 

「あっ、今、目逸らした!」

 

「これはその」

 

「言い訳無用!」

 

 多分彼は気恥ずかしさで目を逸らしたのだろうけど、やはりそれで私は確信したのだ。彼のことをこれまで自分はちゃんと知ろうとできていなくて、だからこれからは彼のことをちゃんと見て生きようって。

 少なくとも今度は、心の底から彼が心の支えだって冗談めかすことなく、本心から誰にでも言えるように。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【湊 友希那】猫のように気まぐれな君と

 思えば、これまで私が音楽に類するもの以外にここまでの興味を示したのは初めてだったのかもしれない。

 幼い頃から父の音楽に憧れを抱き、己の持てる力の全てを音楽に注ぎ込んできた。Roseliaが誕生してからも、音楽という道に転がっているものしか見た覚えはなかった。学校の勉強はてんで興味がなく、にゃーんちゃ……猫との戯れこそインスピレーションを与えるための手段として有効活用はしているものの、やはり私のほぼ全てを構成しているのは音楽だった。端的に言えば、音楽以外のものの尽くに疎かったわけである。

 だからこそ、これから先も自分は音楽というものにおいてのみ生き続けるのだと考えていたし、だからこそ、今の私はまるでハンマーで頭を殴られてしまったような衝撃に恐れ慄いている。

 あれから私の中の歯車は大きく狂い出した。恋愛などという不確実極まりない無秩序な歯車のせいで、私はこうして静かに涙を流すこととなっているのだ。

 

 

 

 

 

 私の初めてでかつ唯一の恋人と交際が始まったのは、実に今年の初め、いや去年の暮れ頃だったろうか。正確なことは覚えていないが、そんな頃だった。幼馴染というほどには付き合いも長くないが、そこそこの仲の良さを保っていたし、交際というものに発展するのは当然だったのかもしれない。そこにはリサが大きく絡んでいるのはいつもの通りかもしれないけれど。

 とはいえ、お付き合いしていようが特段変わったことがあるわけではない。強いて言うなら、今のように互いの家を行き来する機会がやたらと増えたことぐらいか。それでも各々好きなことをして時間を過ごすことが殆どだし、戯れの類は数えるほどしかないかもしれない。

 恋人同士の関係でそれがおかしいのかと問われると分からない。少なくとも私はこんなものでもいいだろうと思っていた。猫が甘えたがる時のように、そういう気持ちが湧いて出た時に戯れをすればよい。彼もそんなスタンスだし、それなら自分もそれでいいだろう。

 以前リサに問われてこう答えた時はたいそう驚かれたものだ。リサの中では恋人なら、二人だけの時は常にベタベタとしているとか、そんな甘酸っぱいものらしい。少なくとも彼と私の間でそれは考えられそうもなかったのだった。

 

「……くしゅん!」

 

 彼の部屋で考え込みながら寝転んでいた私は、唐突に感じた肌寒さにびっくりしてくしゃみをした。ベッドの上で大胆にも寝転んでいたものだから、くしゃみの勢いで上体を起こしてしまって、すぐに柔らかな敷き布団へと倒れ込んだ。

 

「友希那寒いの?」

 

「大丈夫よ」

 

「そっか」

 

 私のくしゃみを聞いて一応は心配したらしい彼は、手元の本から目を離したが、私の無事を確認して短い返事だけを返すと、すぐに視線を本に戻した。いつもならこんなものか、という雰囲気で終わらせていたはずだった。

 だけど、なんだか私はそれが無性に気に入らなかった。理由が明確にあるわけではないけれど、ただ無性に。そして、ゆらゆらとベッドから立ち上がったのだ。

 幸いなことに、彼は私が立ち上がったことにすら気がついていない。音もなく体を起こしたからかもしれない。けれど、気配の一つも感じ取れないほど自らの気配を消したつもりもなかったし、できることならば気がついてもらいたかった。そんな自分に都合の良い我が儘を垂れながら、彼の背後を取った。残念なことに、彼は未だに短編小説集に見えるその本に夢中であった。

 

「……ねぇ」

 

「うわ、びっくりした」

 

 声をかけるよりも先に体が動いていて、私は背後から彼の首筋に指を這わせ、間髪入れずに体の前の方へと腕を回した。彼が椅子に座っているのを良いことに、遠慮なく私は体重をかけ続けた。思いの外勢いが強かったのか、私の視界を銀の毛髪がたがい違いに舞って、彼の頭を何度も隠した。

 いくらなんでも、流石にそこまで私に好きなようにされたら彼も気がつかないわけもない。ただ、いつものごとく反応はどこか淡白で、驚いているというのも口先だけのような気がしてきた。

 

「友希那、どうかした?」

 

「いいえ、別に」

 

「そう」

 

 多分、いや間違いなく私は今、彼に悪戯を仕掛けようと思っていたのだろう。悪戯とは名前を借りただけの恋人なら普通に行われるはずの戯れである。私にはあまりに愛らしい表現は似合わないだろうから、なんだったら恋人なんて関係性もそぐわないだろうから、自分でも意識をしないためにもこうして変な表現で納得させているのだ。

 だが、彼は知ってか知らずか、私の行動の意味を全く知らないらしい。現にここまで私が大胆にもスキンシップをしているというのに、私が淡々と返事をすれば、何事もなかったかのようについ先刻をもう一度なぞり始めるのだ。

 それが悔しいのか、腹が立つのか、どういう感情なのかはあまりに疎い私では皆目見当もつかない。だが、私は徐々に腕に込める力を強くしていく。それで彼が流石に反応を示すだろうと。

 それでも彼はさして反応もしてくれない。私が非力すぎただけかもしれない。決して彼が窒息で昏倒しているわけでもないし、そうだとすればここまで力を込めているつもりなのに無反応なのは、彼からすれば蚊に刺された以下の外的刺激でしかないということだ。

 

「ん……はぁ」

 

 やがて先に疲れが来てしまった私は、諦めて彼の首から腕を解く。それで彼の方もチラリとだけ後ろを、私の方を確認した。けれど、疲れ切って、飽きてしまった私は彼の浮かべる不思議そうな表情を一瞥して、彼の空のベッドの方へとすたすたと帰ってしまった。

 どうしてこんなにも無反応なのか、という気持ちは当然あった。リサが言うには、女性がここまで激しく体の接触を交わせば、それは恋人たちにとっては始まりの合図らしい。何が始まるのかは詳しく教えてもらえなかったけれど、愛情を酌み交わす時間が始まることと同義だとかどうとか。

 果たしてそんな一般論じみた論理は私と彼の間に成り立つのだろうか。リサも私たちな過ごす時間を異端だとか言っていた気がする。ならば、きっと私たちの関係性はこれとは程遠いものであるのだろう。現に彼が私を求めて私の手を握ってくれる時も、私が眠たい時はそのまま寝たりすることもあるし、むしろ握り返したりする方が稀である。

 

「んぅ……」

 

 でも今の私はどこか不満だった。それでいいと、なあなあにしていた頃の自分ではないらしい。その不満をぶつけるかのように、彼の髪の毛が二本ぐらい落ちた枕に顔面を埋めた。先程まで私が乗っかっていたはずなのに、その表面はどこか冷たかった。

 どうして私は今、彼ともっと戯れたいと思ってしまったのだろうか。それは今の私にはまるで分かりそうにはなかった。

 

 

 

 翌朝。自室のベッドで仰向けに寝ていた私の目はごく自然に目覚めた。いつもだったら朝の目覚めなんてのは少々憂鬱を感じる程度には朝が苦手なのだが。一瞬夢の世界かと疑いを持ったけれど、どれほど左右を見回しても家具や雑貨は私の部屋だということを証明していた。

 窓の外の街はまだ眠っていた。東の空が僅かに赤くなりそうな予感を孕んでいるだけで、その下々はどこかしこも灯りのない姿をしていた。それは私の部屋とて例外ではなくて、私のお隣も右に同じらしい。いや、リサならもしかしてこんなに早い時間であったとしても起きているのかもしれない。普段からこういう時間に起きて、朝にご飯を作ったりだとか、そんなことをしている偏見もあった。

 私は寝巻きのまま一階に降りる。当然この時間に起きているのはこの家でも私だけで。若干の肌寒さを感じながらも私は家を出た。向かう先は一件隣の幼馴染のもとで、貰い受けた合鍵を堂々と使っていた。この時間に人様の家に上がり込むのは少々後ろめたくなるけど、リサだからと言い訳をして私は家に上がった。

 

「リサ」

 

 一応ノックをしてリサの部屋に入る。返事はなかった。静かにドアを開けると、その部屋はまだ暗いまま。外の明かりがまるでないのと同じように、この部屋も未だに真っ暗なのだった。

 ただ、奥の方から人の気配はしていて、それは紛れもなくこの部屋の主人だった。まだ夢の世界を彷徨っている幼馴染を起こすのは忍びないと思いつつも、私は枕元にまで忍び寄った。

 左を向いて静かな寝息を立てているリサの姿を見てひどく安心した。起きていたとすれば、それこそお化けが出たと思われたがごとく大騒ぎされるに違いない。

 そして私は、何の遠慮もなく、何の許可も得ずに、リサの布団に入り込んだ。当然リサの部屋のベッドは一人用だから、少し狭くはあるけど、小柄な私にとっては大した問題ではなかった。冷たい外気を布団の中に持ち込むのは大いに反省しつつ、私は図々しくもリサの横に添い寝する形でベッドインするのだった。

 

 それからリサの動きがあったのは数十分ぐらいした頃だったろうか。隣でもぞもぞと動き出したリサに気づいた私は一足先に覚醒した。どうやら眠りが浅かったらしい。

 

「んんぅ……?」

 

 リサは寝返りを打とうにも打てない違和感を覚えたらしく、寝ぼけ眼を擦ろうとしているのが横目で見えた。リサと私の今の距離は実に十数センチ。自分のパーソナルスペースを満たす空虚さに朝方から気分が落ち込みながらも、もうすぐ目覚めるであろうリサの反応を待った。

 

「んぇ……?」

 

 視界が明るくなってきたのだろうか、多分隣で添い寝をしているという、端的に言えば意味の分からない状況にあるリサも、目の前の状況を少しずつ咀嚼しているのだろう。リサは何度も何度も目を擦って、そこでようやく私がいることにはっきりと気がついた。お化けが出たとか、それこそ金縛りに遭っただとか、大騒ぎされるかもしれないとも思っていたけれど、意外とリサは冷静だった。

 

「ゆきなぁ……?」

 

「おはよう、リサ」

 

「……なんでいるの?」

 

 きっと今頃、リサは自分が夢でも見ているのではないかと錯覚しているのだろう。現に、自分のほっぺたを何度も引っ張ってみたりしているようだけど、その度に目をパチクリとさせていた。

 やがてこれが本当なのだと悟ったリサはのそのそと起き上がり、伸びをしていた。私もどうしてここにいるか、なんていうリサの質問に答えない意地悪をしていたものだから、多分リサは余計に手持ち無沙汰になっていたのだろう。

 

「って、まだ七時前じゃん。友希那今日は朝早いんだね」

 

「えぇ、太陽が昇る前には起きていたかしら」

 

「明日はこれは雪でも降るのかな……」

 

 物珍しそうに朝から活動的な私を見て呟くリサ。失礼なことを言われてはいるような気がするけど、事実として私がこの時間に起きているのは珍しい。基本的には朝はいつも私が起こしてもらう立場なのだ。なんだったらリサにお世話をされていると言っても過言ではないのかもしれない。

 そんな私が早朝からベッドに入り込んでいたものだから余計にリサとしては何かがあったと思ったのだろう。物凄く深刻そうな顔色のまま、こちらの表情を覗き込んできた。朝、寝起きの状態のリサの深刻そうな表情というのはかなりレアで、本当に調子が悪いのはリサの方なのではないかと疑ってしまうほどでもある。

 

「何かしら」

 

「……ううん、何かあったんだなって」

 

「流石ね」

 

 まだまだ寝惚けていてもおかしくはない時間帯と状況。それなのにリサは私の今の心理状況を細かく理解してくれているらしい。これぞ幼馴染、十数年の付き合いの賜物なのだろうか。

 言葉数少なめの私を見て、リサは大きくため息をついた。そして、私に部屋で待つように伝えると、急いでリビングの方に降りて行ってしまった。

 一人部屋に残されて何もすることが思い浮かばなかった私は、先程まで二人で眠っていたベッドに再度もぞもぞと潜り込む。足先は冷えてもおかしくないこの時期、布団の中の空気は形容し難いほどにあったかい。先程まで二人分の睡眠を保守していたのだからその布団が暖かいのは当然として、自分が欲しいものを仮初でも手に入れたようで、心まで満たされていたのだ。それでいて、なお空虚だった。

 数分もしないうちにリサが戻ってきた。その手には薄水色のお盆と、その上にマグカップが二つ見える。リサはマグカップをローテーブルに置くと、布団の中で縮こまる私の隣に座っていた。

 

「飲んでもいいのかしら」

 

「うん、友希那のために淹れてきたんだから、飲んでくれないと困るよ?」

 

「そう、頂くわ」

 

 マグカップからは湯気が上がり、部屋の景色を歪ませている。中に入っていたのはホットミルクで、マグカップ自体もどこかほんのりと熱を持っていた。

 

「落ち着くわね」

 

「でしょ? ゆっくり飲んでね、火傷しちゃうから」

 

 リサに諭される通り、私はゆっくりと時間をかけて喉にミルクを流し込む。先程までカラッカラだった喉が急に潤うような気がした。そういえば今日は自分の部屋で目覚めてから一滴も水分を摂っていなかった。ならば当たり前か。

 私はほとんど休みなしに飲み続けて、リサが手に持っていたものを飲み終えるよりも先にミルクをありがたく飲み干した。マグカップはお盆の上に戻し、再度布団の中に、巣篭もりのように帰る。そこでリサは自分が飲んでいた途中のマグカップをローテーブルに戻して、話をしようとしているのかこちらを覗き込んでいた。

 

「それで、友希那。何があったの?」

 

「いえ、別に」

 

「嘘でしょ? そうでもなかったら友希那がこんなに朝早くに起きることも、私の布団に潜り込むなんてこともないでしょ?」

 

 どうやら私のしょうもない自己満足は全てお見通しらしい。反射的に答えてしまったことを少し後悔しつつ、これ以上無駄に引き延ばしたとしても仕方がないかという諦めがついた。

 

「彼のことなんだけど」

 

「えっ? あぁ……。そっか、友希那には恋愛はやっぱりまだ……」

 

 私はまだ何の話をするかだなんて一言しか言っていないのに、リサは既に頭を抱えていた。その口ぶりから察するに、私に音楽以外のところに興味を持つのはまだ早かったとかそんなことを言いたいのだろう。それがどうにもこうにも複雑で、私は少々機嫌が悪くなったような気がした。

 

「それで、友希那」

 

「え?」

 

「別れるなんてのはきっと尚早だから、一回考え直した方が……」

 

「別れる? 何の話?」

 

「えっ?」

 

 布団の中に寝転がりながらこんな話をするというのも変な話かもしれないが、私は変な話をし始めたリサに向かい直る。リサは私の言っていることをどうやらひどく勘違いしているらしく、毛頭もなかった別れるなんて話に持って行こうとしていた。

 

「えっと、じゃあ、何かがあったのって」

 

「別に、彼と別れる予定はないわよ」

 

「よ、よかったぁ……」

 

 私がリサの勘違いを訂正すれば、リサは力なく後ろに手をついて天を仰いでいた。とは言っても見えるのは天井だけで、強いて言うなら部屋の側面につけられた窓の外では朝の到来が騒がしくなってきていた。

 

「リサは早とちりしすぎよ」

 

「ごめんごめん……。えっと、それだったら一体何が?」

 

「えぇ、私は彼ともっと戯れたいのだけれど、何かいい手段はないかしら」

 

「え? 戯れ?」

 

「だから、恋人同士でするような戯れをしたいだけれど、私が迫っても彼からの反応は冷たいのだけど、何か良い案はないかしら」

 

「えっ、えっ、えぇっ?!」

 

 私が胸に突っかかっていたモヤモヤ感を全て吐き出した時、リサは鼓膜を突き破るぐらいの大声と一緒にこちらに振り返って、ずいっと迫ってきた。まだ眠っている人もいるかもしれないような朝の時間にここまでの騒ぎは近所迷惑なのは百も承知だが、それほどまでにリサの予想をはるかに上回ることだったのだろう。

 横向きに寝転がったままの私の肩を握りしめたリサが私を何度も何度も大きく揺さぶった。どこからどう見ても、リサの困惑っぷりは単なる動揺だとか、そんなレベルで収まっているものではなかった。

 

「ゆゆゆ友希那?! どういうこと?! 大人の階段昇っちゃったの?!」

 

「大人の階段? どこの階段よそれ」

 

「そういうことじゃなくて! ……え、えっと……その、しちゃった……?」

 

 しちゃったのかどうか、そこだけ聞かれても何の話かは分からないが、多分文脈的に戯れを既にしているのかどうかということを聞きたいのだろうか。やたらとリサは噛み噛みの口調で、表情もどこか赤く染めながらで話しているのだが、どこでそんな緊張をするようなことがあったのか。

 

「しようとはしたけれど、二人で一緒のタイミングでしようとはならないから困っているのよ」

 

「そっか……そうだよね……。友希那も……女の子だもんね……。そういうのに興味が出てきたら変っていうお年頃ってわけじゃないんだよね……」

 

「何の話よ」

 

 リサはどこか遠いところを見つめるかのように力ない瞳で焦点も合わずに外の景色を眺めていた。何かリサにも思うところがあるのだろうか、私にはよく分からないけれど。

 

「ううん、こっちの話。友希那はアタシが思ってる以上に大人になってたんだなって……」

 

「当たり前じゃない。それで、どうやったら彼の読書をやめさせられるかしら」

 

「……へ? 読書? 読書って本を読むで読書?」

 

「そうよ。私が後ろから抱きついたとしても本を読む手をやめないから。リサなら私が何かすればすぐに反応を返してくれるというのに」

 

「……え?」

 

 その瞬間、リサの反応が今度はフリーズした。まるで何も受け付けなくなってしまった機械のように、思考が停止したリサはやはり焦点が合っていなかった。

 

「……友希那。友希那の言ってる戯れって何のこと?」

 

「戯れは戯れよ。恋人同士なら色々なことをするんでしょう? 手を繋いだり、ハグしあってみたり、……その、キスをしてみたり」

 

「……あぁ、良かった」

 

「えぇ? どういうことよ」

 

 リサは徐に納得したように深く首を縦に振るだけだった。キスという単語を言うのでさえ少し恥ずかしさを感じたのだが、リサの考えている戯れと私の思う戯れは違ったらしい。

 

「じゃあもう、当たって砕けるしかないよね!」

 

「当たって砕ける? つまりどうすればいいのよ?」

 

 先程まですっかり意気消沈していたはずのリサ。急に息を吹き返したかと思えば、リサは何もかも理解したように余裕の笑みを浮かべていた。

 

「今まで友希那がどんなアクション起こしてきたのかはよく分かんないけど、もう後は想いをしっかり伝えるだけだから!」

 

 リサのウィンクは寝起きであるということを忘れさせるほどの明るさを持って、私の背中を押していた。細かな小手先のアドバイスなんかを貰うよりも、私はもっと根本のところに立ち返った方が良かったのかもしれない。そんな風に思わせるリサはやっぱり私の空虚さを埋める仮初であり、暖かさを蓄えた幼馴染なのであった。リサの表情は、まるでリサに以前借りた恋愛小説で描かれた女の子のような表情へと切り替わっていた。

 

 

 

 幼馴染から保証をもらって数日、私はまた彼の家を訪れていた。いつもであれば、このドアを、この敷居を跨ぐことに対して、特段躊躇することなんてのはなかったのに、今日はどういうわけか、私の胸騒ぎに呼応するように、なかなか自分の足が踏み出せなかった。

 とはいいつつも時間は刻一刻と迫っているし、玄関の前でずっと立ち竦み、挙動不審という言葉がお似合いのやつがずっと佇んでいるなんて状況は良くない。これで警察に通報されでもしたら、出鼻を挫かれるだとかのものではない。

 彼と約束した時間は既に差し迫っていたもので、私は覚悟を決めて玄関を踏み越えた。いつもは軽かった足取りがやけに重かった。

 

「ん、いらっしゃい」

 

「えぇ」

 

 まるで儀式のように慣れたやりとり。これが普通であるかのように幾度となく交わされ、疑問も持たずに続けていた淡白なやりとり。それは自分たちの気まぐれさの象徴で、今の私からすればある種憎むべきものなのに、私は今日もそれがあったことをひどく喜んでもいた。

 

「どこでも座ってもいいよ」

 

 部屋に入って彼は開口一番、ベッドの方を指し示していた。それは多分、私の定位置のようになっているからなのだろう。私はいつも彼のベッドの上に寝転がって、静かな時間を過ごすことを楽しんでいて、その間彼は自分の椅子に腰掛けたまま本を読んだり、はたまた真面目なことに勉強に勤しんでいたり、思えば私たちは二人で何か同じことをしたというのはなかったのかもしれない。

 それが予定調和であるかのように、彼はベッドを指し示して、私の反応を見るよりも先にいつもの椅子に腰掛けていた。机の上には栞の挟まった、この間よりもさらに分厚い本が真ん中に鎮座していて、彼はそれを読むのに夢中になっていたのかもしれない。

 

「ねぇ」

 

「……ん? 座らないの?」

 

「えぇ、座るわ」

 

 いつまで経っても部屋の入り口に立ちっぱなしの私にようやく気がついたらしい。彼は多分私が言った言葉をベッドの上に座るものなのだと解釈したのだろう。けれど違う。私が言ったのはそう言う意味ではなかった。

 

「……え?」

 

「いい感じね」

 

 彼が驚くのも無理はなかった。だって、私は椅子に座る彼の膝の上に座ったのだから。これまで一度もしたことがないような座り方をされて、それはもう驚いているのだろう。焦ったように口をパクパクとさせている様もなんだか面白おかしく見えてきていた。

 

「えっと、友希那? なんで僕の上に」

 

「良い椅子じゃない」

 

「椅子って」

 

「あったかくて良い椅子よ」

 

 彼が何かを言いたげにはしているが、私は何も気にせずに彼の体の前に座り続ける。もしかすると、彼はこの机の上にある分厚くて、小難しい本を飲みたいのかもしれないが、私とてそれなりの覚悟を持って来ているのだ。そんな粗雑なことはさせたくなかった。

 

「重くないかしら?」

 

「まさか、友希那は軽いぐらいだよ」

 

「そう、良かったわ」

 

 最初、私は彼とは目を合わせずに、彼の体の向きと合わせて、同じ壁の方を向いて話していた。けれど、こうして暖かい膝の上にいるだけで自然とそれなりに考えてきた覚悟を伝える勇気が湧いて出てきたのだ。

 

「今日はあなたに話したいことがあるの、聞いてくれるかしら」

 

「話したいこと? 大切なことなんだね」

 

 私は小さく頷くと、腰を捻って、どうにか彼と正対できるように体の向きを変えた。その距離はとてつもなく近い。それこそこの間添い寝をしたリサとの距離感と同じか、それよりも近いぐらいかもしれない。思えば彼の姿をここまで近くで、それでいて正面から見たのは初めてかもしれない。

 

「えぇ、とても大切なことよ」

 

「友希那がここまで真剣そうな顔してるの、そんなに見たことなかったもんね」

 

 どうやら彼の目から見れば、私はかなり真剣な表情をしているらしい。私としては心穏やかに、リラックスしているつもりだし、普段ももっとキリリとしているつもりだから心外なのだけど。

 

「それで、聞いてくれるかしら」

 

「勿論。なんでも」

 

「二人でもっと、恋人らしいことをしないかしら」

 

「……え?」

 

 彼は大きく目を見開いている。そんなにも今の私はおかしなことを言ってしまっているのかもしれない。恋人らしいことなんてのは確かに自分でも言い出すのはおかしく感じられる。

 

「例えば……」

 

 私はすっかり大人しくなってしまった彼の両腕を取って、自分の背中の方へと回した。思えば、こうされることもそれほどなかった気がする。いや、私自身が自覚してなさすぎただけかもしれない。

 力の抜け切った彼の腕は軽く、簡単に私の背中へと回された。椅子に座り、その上から私がのしかかり、彼の逃げ場は完全に絶ったのだ。こうすれば猫は逃げられなかった。

 

「こちらを向きなさい」

 

「……友希那」

 

 辿々しい動きかもしれないが、私は半ば倒れ込むように彼に唇を差し出した。猫の戯れにこんな色めかしいことがあるのかは不明だけど、私の求めていた答えの一つがここにあった。

 彼は何も抵抗するでもなく、背中に回した腕で強く私を抱き寄せていた。私は倒れないように彼の腰を抱き抱えながら、初めての蜜の味を堪能することに全ての意識を注いでいた。

 

「……友希那って、大胆なんだね」

 

「んっ……。そうなのかしら。分からないわ」

 

 唇はやがて離れて、気恥ずかしさからか互いの視線がすれ違っている。ただ、私の頭は麻酔を打たれたようにぼうっとしていて、浮遊感に襲われていた。

 

「……特別だから」

 

 私はいつのまにか彼の膝の上で涙を流していることに気がついた。多分それは、自分の心の中に巣食っていたものをようやく解放できたことの達成感とかなのだろう。プライドの高い私は、自分の顔を彼の服に包み込んだ。

 それは、とても温かい。言葉だけでは言い表せないような満足感が私の空虚だった心の中を満たしていた。彼の手は未だに私の背中を離れずに摩っている。いつもならここには冷たい空気か冷たい布地だけだったものが、今日はとにかく温もりに満ちていた。

 私は今日も気まぐれだった。彼も気まぐれなのは同じだった。

 遠くの方で、猫が甘えて鳴いていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【市ヶ谷 有咲】引きこもることの特権を

 世間一般では、引きこもりと言われるとマイナスなイメージを持たれるかもしれない。家から出ない奴、誰ともコミュニケーションを取りたがらない奴。散々な言いようかもしれないけど、多分これは一定数過去の私には当てはまっている事実だった。

 かつての私は狡猾にも、いや、利己的にも、自分の都合の良いように適度に引きこもって、自宅でのびのびと生活をしていたものだった。

 盆栽と戯れ、ネットに蔓延る数多の情報群を流し読み、そうしているだけで時間というものはかなりのスピードで過ぎていく。敢えて学校まで赴いて、勉強をしたりしなくても、勉強なんてものは学校外でも出来るし、私は家の外に出る理由をあまり見出せないでいたのだ。私が家の中に居続けたのはそんなネガティブな理由であることに違いなかった。

 

『有咲ー! 会いにきたよー!』

 

 私が部屋に引きこもって、少々センチメンタルな気分に浸っていると、玄関の方から私の名前を呼ぶ大声が聞こえてきた。多分どうせあいつだろう。今日はばあちゃんが出掛けてるから、インターホンを鳴らしても誰も出なかったのだろうか。

 それはそうとあまりに大きな声で外から呼ばれるというのは近所迷惑云々の前に恥ずかしいからやめて欲しいのだが。それをあいつ、香澄に言えるわけもなく、私は大きなため息を漏らしながらのそのそと部屋を出た。

 

「あっ、有咲いた!」

 

「家なんだから当たり前だろ……、で、なんだ? ポピパの練習なら今日は休みだぞー?」

 

「遊びに来たよ!」

 

「ちょ、待てっておい!」

 

 私を振り回して止まない香澄は、私の制止を聞くわけもなく私の横を素通りして家に上がってしまう。香澄が私が止めるのをそんなすぐ止めるわけではないということは分かり切っていても、一応でも声をかけてしまうのはやめられない。それをまるで様式美のように楽しんでしまう自分がどこかにいるのも考えものだが。

 香澄は私を振り切る勢いで家に上がり込み、慣れたような動きで私の部屋まで一直線で駆け抜けていった。今日の家にばあちゃんが居なくて本当に良かった。居たら騒々しいことに巻き込んでしまっていたかもしれない。そういう不幸中の幸い的な事情に少しだけ安堵しながら、飲み物を冷蔵庫から取り出して、部屋にいるであろう香澄を追いかけた。

 

「香澄、もう少し慎み……って、本当すっごい寛いでんな……」

 

 部屋に入るなり形ばかりの説教をしようとしていた私の口が止まる。というのも、既に香澄は私の部屋のクッションを複数積み上げて、そこに頭や体を無造作にのっけてベッドの縁にもたれかかっていた。その光景はどこからどう見ても自分の部屋レベルの寛ぎようである。仮にも不躾を怒ろうとしていた人間のそんな気持ちを削いでしまうほどなんてのは、相当な態度であるということは簡単に想像がつくだろう。

 

「有咲の部屋のクッション、本当に柔らかいよね」

 

「クッションだから硬かったらあんま意味ねーだろ? というか私にも一つぐらいクッション寄越せ」

 

 持ってきた麦茶とコップをローテーブルに置くと、私は半分寝転がりそうな香澄の真正面に仁王立ちをする。だが、それでも香澄は臆することがないというのは当然のこと、どういうわけか一つのクッションを僅か数十センチずらしただけで、こちらを見上げながらニコニコしているのみである。それなりに怒りを見せている人にこれだけの笑顔を返すというのは相当な胆力がないと出来なさそうだが、それが出来てしまうのが香澄というわけか。

 

「……どーいうつもりだよ?」

 

「有咲もこっちおいでよ!」

 

「は、はぁっ?! そんなの……近すぎだろ?」

 

「えぇー、だってクッション二つある方が柔らかいもん!」

 

 その香澄の口調は、まるでおもちゃを買ってもらえずにごねる小さな子どもを彷彿とさせる。それを良しとしてしまいそうなのは私の悪いところなのだろうか。いや、多分この香澄に何を言ったとて、いつも通りのスルー能力で流されてしまうに違いない。それで私が丸め込まれると言うのがいつものお決まりのパターンか。

 いつもの自分の不甲斐なさを自覚した私は諦めてまたもため息を吐きながら、ゆっくりと腰をベッド際に下ろして、香澄がスペースを作ってくれたところに頭を乗っけて寝転がる。こうして横に並んでいるのを見ると、仲の良い姉妹か恋人みたく見えてしまう自分がどこか悲しい。横から見ても香澄のご機嫌な顔というのはよく分かる。

 まぁ仕方もないだろう。これまで引きこもりをベースとして生きてきた私の人生を大きく変えたのはこの香澄たち、ポピパのメンバーと、もう一人の似たようなあいつが。

 

『有咲ー、来たぞー!』

 

「……はぁ」

 

 噂をすればなんとやら。どうして私は私の日々を騒がしくしてしまった人、その張本人を同時に二人も思い浮かべてしまったのだろうか。多分この家に集ってしまったのは私がそうやって噂をしてしまったからか。どうやら今日の平穏な私の日常は消えてしまうことが確定したらしい。

 

「有咲、出ないの?」

 

「……別に。どうせ勝手に入ってくるだろ」

 

 鍵もばあちゃんに許可取って渡してあるし、なんて香澄に聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声で悪態をつく。鍵を渡すということはそれなりの信頼の証であることには違いないのだが、それを言うと調子つくのは嫌というほど分かっているので絶対に言わないようにしている。謂わば私の心の中に仕舞い込んだ秘密だ。

 まぁ、男であるあいつに鍵を渡しているということで関係性はお察しの通りだし、普通に考えたらそれがどういう親密さの証かなんてものは考えるまでもないわけだが、それに気がつかないところはあいつらしかった。

 

『有咲ー! 居ないのかー?!』

 

「ほら、出てあげないと」

 

 香澄から心配されてしまうほどにうるさく騒ぎ立てる恋人(仮)に、思わず頭を抱えたくなってしまう。もう近所迷惑がどうこうとかそういうのを本当に抜きにしてただただ恥ずかしい、そんなレベルじゃない。頼むから止めてくれというものである。それで止めてもらった試しなんてのはそうないのだが。

 

「出たら出たで面倒くせーだろ」

 

「えー、でも有咲の顔緩みっぱなしだよ?」

 

「なっ?!」

 

 香澄にそう指摘されて、思わず私は自分のほっぺたをぺたぺたと触っていた。そのままバンと飛び起きると、部屋に置いてある鏡を見て、自分の顔を再確認する。

 自戒を込めて言おうか。本当に自分でも驚くべきことに、予想以上に私はニヤニヤが抑えられないでいた。これは他人が見たとしてもすぐにわかる。あっ、こいつ今めちゃくちゃ気分が良いんだなって、そう思ってしまうほどに。

 そこでハッとして思わず背中の方を振り返った。こちらを見上げている香澄はニコニコと、何か生温かい目線のまま私を眺めている。それがどうしようもない大失敗だなんてことに気がつくのが遅過ぎた。

 

「あぁー!! 行けば良いんだろ! 行けば!!」

 

 それはもう自暴自棄と形容するのが、悲しいけれど一番妥当。香澄の目線に急かされるように、外から聞こえてくるあいつの声に導かれるように、そしてこの恥ずかしさに突き動かされるように私は部屋を飛び出した。

 私を何か意味深な目線で見送ってくる香澄から逃げたかったというのが大きな理由ではあるけど、決してあいつにすぐに会いたいとかそういうのではない。だってそれなら私は声が聞こえてきた時点ですぐさま部屋を飛び出しているはずだから。だから私は決してあいつの顔を見たいから走っているわけではないのだ。この心臓の鼓動は羞恥の焦りとか多分そういう系の何かのせいなのだ。

 廊下をドタドタと大きな音を立てながら走った私の息は上がっている。荒い息を隠すこともなく、私は走った勢いのまま玄関の戸を開ける。そこには期待通りの。

 

「有咲遅いぞ、もっと早く出ろよな」

 

「はぁ?! 急に来といて文句言うのか?!」

 

「じゃ、お邪魔しまーす」

 

「あぁっ! もうたくっ……お前らは揃いも揃って……」

 

 私の心ばかりの抗議もまるで意味をなさないらしい。迷惑だとかいう言葉を辞書に持たない馬鹿二人の行動は大体同じらしく、私の横をまたも素通りして勝手に上がっていく。というよりも、玄関で応対したとはいえ、上がって良いなんて一言も言っていないのに上がり込むのは如何なものだろうか。

 そんな文句を言ったところで聞く耳を持たないのはどこかの誰かと一緒みたいで呆れ返るしかなかった。私は鬱憤を晴らすように大きく息を漏らしながらピシャリと戸を閉める。そして流しに立ち寄って、コップをもう一個引っ掴んで板張りの廊下を力無く歩いた。

 

「有咲の家、本当に落ち着くよね」

 

「あぁ、天国だよな、もうここ」

 

「だぁ!! やっぱりかよ!」

 

 部屋に戻った私を待ったいたのはさっきも見たような光景。香澄は香澄でさらに寛いで、頭と腰の下に置いていたクッションの数がなんだか増えている。

 さらに問題児なのは、言うまでもないだろう。人の部屋に上がり込むなり勝手に人のベッドの上に寝っ転がり、スプリングの反動をつけてボンボン跳ねているあいつである。常識というものを一体全体どこに捨て置いてきてしまったのかと小一時間問い質したいぐらいである。あれをされると埃が舞ったり、良いことが何一つない。本人は楽しいのかもしれないけども。

 

「マジでお前らもうちょい慎みを覚えろよな!」

 

「えぇ……、有咲だったらこれぐらい許してくれるかもって……」

 

「ま、まぁ……クッション使って寛ぐぐらいなら別に」

 

 香澄はもしかしたら私の扱い方みたいなものを覚えてきているのだろうか。いや、これはもはや無意識なのだろうか。そんなにシュンと目に見えて落ち込まれると私とて強くは言えないのだ。

 それにまぁ、友達の家だと考えたら多少クッションの上に座ったりぐらいは許容範囲なのかもしれない。それがクッションの役目だと言われればその通りだし。

 ところがどっこい、それとは段違いの問題行動というのも存在するのである。

 

「まぁ寛ぐぐらい許されるよなぁ」

 

「お前は本当に慎めって!! だぁぁ!」

 

「……有咲なら、許してくれるんじゃないかなって思ったんだけどな」

 

「うっ……」

 

 ダメだ、おそらくこいつは確信を持ってわざとこの態度を取っている。もはや反省の色もない。こうすれば多分私は何も言ってこないだろう、みたいな悪意にも満ちた意図が見え透いている。

 いくらなんでも私とて、そんなあからさまな態度で騙されるほどのお人好しではない。目の前で迷惑行為なんてのが繰り広げられてたら注意はするし、それが自分のプライベートな空間を荒らされているとくれば当然である。

 

「……有咲も、嫌だったよな、ごめん」

 

「ちょ……そんなに謝ることねぇって……。確かに嫌なのは嫌だけどお前だったら仕方ないというか、そういうとこも……」

 

 急に反省に満ち満ちた態度を取るのはやめてほしい。そんな態度を取られたら私だって申し訳なくなってしまうじゃないか、そんな文句の一つでも言いたくはなったが、それをグッと喉の奥に飲み込んだ。

 ただ、これ以上先のことをつらつらと述べるのはなんだか気恥ずかしさがどんどんと増して、思わず叫んでしまいそうだから口を噤むことにした。

 すると、さっきまで煩かった二人は何も物言わず静かになり、何だったら二人で顔を見回しながら私の方をチラチラと見てきている。その態度はまるで私の顔に何かがついているかのような反応だ。それまで騒いでいたせいでこの空間が静かだということにも耐え難くて、私は思わず口を開いた。

 

「……な、なんだよ」

 

「有咲って、チョロいよね?」

 

「あぁ、俺も今おんなじこと思ってたところだ」

 

「はぁぁっ?! お前ら良い加減にしろよなぁ?!」

 

 静かにしていたのはどうやら私をおちょくるための布石でしかなかったらしい。香澄は完全に乗せられてやっているし、あいつはもう言わずもがなだ。すっかり良いように面白がられている私はフラストレーションも少々溜まっているのだが、その反応もどうやらこの二人にとっては余興にしかならないらしい。諦めて私は頭を抱えながら部屋の隅に腰を下ろした。疲れたという言葉が今の心境を表すのにぴったりだった。

 

「そうだ、有咲! 遊びに行こうよ!」

 

「そうそう、折角三人揃ってるんだしどっか遊びに行こうぜ」

 

「無理、却下。パス。私は嫌だ」

 

 流れるように私はこの二人の馬鹿な提案を退けた。この二人に付き合っていたら体力がいくらあっても足りない。その自信はある。私が引きこもっていたからとかどうこうではなくて、そもそものバイタリティのレベルがまるで違うのだ、多分。

 

「えぇ、なんでぇ?!」

 

「なんでもクソもねー! 私は疲れてんだよ!」

 

「有咲……何かあったのか……?!」

 

「誰のせいだと思ってんだー!」

 

 まるで三文芝居を打つかのような反応に思わず私は叫んだ。今日はやたらと叫んだり、ため息を吐く回数が多いような気がするのだ。まず間違いなくこいつらのせいである。それでいて私が疲れている原因、それもまず間違いなくこいつらのせいである。

 その当の元凶たちにこんな態度を取られることによって私の疲労度はさらに加速度的にオーバーフローしそうになるのだ。叫び終わった私ははぁはぁ、と肩で大きく息をしていた。こんなの授業で無理やり長距離を走らなければいけなかった時ぐらいな気がする。

 

「えぇー、有咲と一緒に外に遊びに行けないのかぁ」

 

「疲れてるからな、主にお前らのせいで」

 

 しょんぼりと肩を落とす香澄だが、ここで情けをかけられるほど今の私に余裕はない。心というよりは主に体力的な意味で。

 そもそもこの二人はこの家に来た時点で、うちで時間を過ごすつもりだと勝手に思い込んでいたが、ここに来たのはそもそも私を外に連れ出すためだったのか。そういえば机の上に置いた、私の分を含めた麦茶を淹れたコップは何一つ減っていない。私が飲んでいないのは当然として香澄も殆ど飲んでいないらしい。

 

「そんな釣れないこというなよ有咲ー」

 

「まず自分の行いを振り返ってから言ってくれ……」

 

 疲れ切った私は壁にへなへなともたれかかった。これ以上は叫んだりする元気も出てきそうにない。引きこもり体質の私がそんなに無理をしたら多分容易に倒れるだろう。

 

「そっかぁ……」

 

「ん、どうした香澄ー?」

 

 申し訳程度の休息で麦茶を半分ぐらい飲み干したところで、それまでクッションに寝転んでいた香澄がいきなり立ち上がった。私がどうかしたのかと目を向けたが、香澄はベッドに寝転がる別の問題児に手招きをして、何やら耳打ちをしているらしかった。

 

「何してんだよ香澄」

 

「こっちの話だよ有咲!」

 

 私が問い詰めようとしても軽くいなされてしまい、そこから少しして話が終わったらしく香澄はくるりと私の方へ振り返った。

 

「それじゃ私は先に帰るね!」

 

「は? まだ来て一時間も経ってねーぞ?」

 

 時計の方を見てもまだ夕方から夜に差し掛かる少し前というところで、外の景色もちょうどその頃合いだということを示している。だが、香澄はすぐさま持ってきていた僅かな荷物をまとめてしまう。

 

「もう帰るのかよ?」

 

「うんっ、ダメだった?」

 

「ダメじゃねーけど……」

 

「有咲が元気なところ見られただけで十分だよ!」

 

「そ、そーか?」

 

 無理やり元気な風を装わさせたのは香澄たちだろうとも言いたくなったが、やけに素直に帰ろうとする香澄の行動が意外で、私はそれ以上に何も言えなかった。色々詰め込んでいそうな小さなポーチを持った香澄は颯爽と部屋を出て行こうとする。

 

「それじゃあ有咲、またね!」

 

「お、おー、またな」

 

 慌ただしく香澄は部屋から去ってしまった。当然部屋に残されたのは私とさっきからベッドの上で暴れたりとやりたい放題のあいつ。別に二人きりになったから気まずいなんてことはないが、それでも突然この状況になると未だに私はどうも落ち着きがないような気がする。

 

「なぁ、その」

 

「ん?」

 

 突然与えられた沈黙が私にとっては嫌過ぎたもので、特に話す内容なんてのも思い付いていないのについ声をかけてしまう。それまでベッドの上で跳ねて暴れていたこいつも流石に二人きりになったからかテンションは少し下げ気味だったらしい。

 

「その、な、何する?」

 

「何するって、家でか? そもそも有咲は一人家でいつも何やってんだ?」

 

「わ、私?! 別に、そんな変わってねーよ、盆栽いじったり、調べ物したりとか」

 

「じゃあそれをやればいいじゃん」

 

「それだと私一人だけが楽しむことになるだろ? じゃなくて、二人で出来ることをな」

 

 私がしたいことの意図は半分も伝わっていなかったらしい。私とて一応恋人と二人の空間に居るのに自分一人の趣味に興じるなんて無粋なことはしないし、こういう時は多分恋人同士でイチャイチャしたりとかするのが普通なんだろう。だが、それを私の口から言うなんてのは確実におかしい。私の中のプライドが許さないし、第一絶対に今後百年間ネタにされてしまう。

 そういう葛藤の末のトークテーマがさっきの有様なわけで。私の隠れ過ぎた意図は何も伝わっていなかった。

 

「んー、んじゃこっち来い」

 

「は? あぁ。……こっちって?」

 

「膝。座って良いぞ」

 

「……はぁっ?! そんな、は、破廉恥なことするわけねーだろ?!」

 

 私の反応が初心過ぎるのか、それともこいつが恥ずかしげもなく言い過ぎるだけなのか。私は少々ベタな反応であることを理解しつつも、無意識のうちに反論しようとしていた。だが、こいつは何も動じずにただ手をこまねいているだけで、私は自分に仕方がないのだと言い聞かせて腰を下ろした。

 本当はこういうことをしたかったというのはその通りだが、それを絶対に口にしないように今一度戒める。すると、お腹の方に腕が回ってきて、私は一層背中の方へと体重をかけた。

 

「急に大人しくなるんだな」

 

「……うるせー。良いだろ別に」

 

「元気そうなら全然外に連れ出したのにな」

 

「さっきも言っただろ? 却下だ却下」

 

 悪態をつきながらも、私はこっそりと体の前にあるがっしりとした腕を堪能することに意識を向けていた。これは謂わば自分の特権なのだと、そういう気持ちはずっとあるから。

 

「引きこもりだぞ? そうやって毎日外に出るほどの元気はねぇっての」

 

「引きこもりねぇ。生徒会でバンドもやってる女子高校生がアクティブじゃないとはな」

 

「良いだろ別に。家が好きなんだから」

 

「こうやってイチャつけるからか?」

 

 私は一瞬で頬の温度上昇を自覚して、馬鹿なこいつに後頭部で頭突きを食らわした。背後から鈍い音が聞こえてきたが、それは私の預かり知らぬところなので、絶妙にスルーする。自分のせいなのだからこいつも諦めがつくだろう。

 

「いったた……。随分凶暴なお嬢様だな……」

 

「お前が恥ずかしいこと言うからだろ……」

 

「でも有咲何も抵抗しないじゃん」

 

「別に、抵抗したらお前が悲しむかなって心配してんだよ」

 

「優しいんだな」

 

「うるせー」

 

 言葉の刺々しさとは裏腹に、私の声が弱く小さくなっていることの自覚はあった。そもそもこの状況になってまで悪態をつき続けられるほどの根性もない。

 

「……それに、香澄の気遣いを無駄にする程、バカになったつもりはないからな」

 

「なんだ、気がついてたのか」

 

 多分香澄とこいつが示し合わせていたような談合はそれなんだろうと、鎌をかけただけではあったが、やっぱりそういうことらしい。その時は少しだけモヤモヤとした気持ちで覆われて深く考えられなかったが、今になって考えたらあれは香澄なりの気遣いだとかそういうものなんだろう。

 

「……まぁな」

 

 でも、そう考えると今こうしているのがどこか気恥ずかしくなって思わず身じろぎをした。けれども、私は現に捕まっているような体勢なので、それもこいつの腕によって封じられてしまう。それがどこか嬉しくもある自分のこの複雑な感情がもどかしかった。

 

「それじゃ、今日はこのまま過ごすか? ツンデレ引きこもりさん」

 

「……あぁ。って、ツンデレでも引きこもりでもねぇ!」

 

 心の中を読み取られたかのような言い当てぶりに思わず驚いた。多分ここを読み取ってしまう辺りもこいつは香澄と似ているのだろう。

 

「まぁツンデレではないのかもな、引きこもりだけど」

 

「引きこもりってわけじゃ……。まぁ、そういう気質なだけで……」

 

「だな、しかもデレデレだし」

 

「デレデレじゃっ、……ねーよ」

 

 そこまで言いかけて改めて今の自分の状況を考えた。丁度正面のあたりにある鏡には女の子の気持ちをなんだかんだ読み取ってくれる彼氏に抱きかかえられる女の子がいた。その表情はすっかり緩み切っている。

 私は正直に認めるのが癪なのだが、この際これは認めてしまおう。言葉として外に出さない限りはそれをどうこう思い悩む必要があるわけでもないし。そりゃあ私だって好きな人にこうして抱きつかれて、耳の近くで軽口を叩きながら、二人きりの時間を過ごしているのだ。心の内ぐらい乙女になったって問題ないだろう。

 

「よしよし、分かった分かった」

 

「何も分かってねーだろ……」

 

 多分この反応だって私をとりあえず諌めようとするだけの口ぶりで、少しだけ意地悪なこいつの掌の上なのは、私にとって大問題だった。

 

「有咲が引きこもりでデレデレだってことぐらいだな」

 

「やっぱり……。引きこもり……は認めるけどさ」

 

「ほら」

 

 どっちがマシなのかと吟味して、もう諦めて私は引きこもりの部分は認めた。だって意図的に引きこもっているわけだから、それはこいつも薄々勘づいていたのだろう。

 

「前から思ってたけど、有咲ってなんでそんなにずっと引きこもってんだ?」

 

「あ? 別に授業とか出なくても単位取れたら卒業できるからな」

 

「違うって、そんな表向きの理由なんか要らないから」

 

「なっ」

 

 当然不意に確信をついてくるこいつの勘の良さに、私は思わず振り返った。当然ほぼゼロ距離にいるわけで、すぐそばに顔があって、尚のこと恥ずかしくなった私は俯いた。絶対に顔もいつもの数倍増しで赤いはずだ。

 

「もちろんだけど、家にいるのが好きとかそういうのは知ってるから、それ以外な」

 

「なっ……」

 

 どうやら私は完全に追い込まれていたようで、逃げ場すらもないらしい。こいつの調子づいた顔を見る限り、私の考えていることも多分九割方バレてしまっていそうだった。

 もうどうしようもない。だから私は諦めて、堂々と言い切ってしまうことでせめてもの、一矢報いようとしてみた。

 

「……引きこもってたら、香澄とかお前が、私に会いにきてくれるだろ」

 

「やっぱり」

 

「やっぱりってなんだよ!! 私がちゃんと本音を吐き出したんだからせめてもう少しちゃんとした反応をくれよ!」

 

 翻弄されまくった私のメンタルは既にブレイクしているし、恥ずかしさがオーバーフローした私はもはや泣き出しそうなレベルだったのかもしれない。近くに二人でくっついていると言うのにお構いなしで私は大声を出しているし、こいつも妙なぐらい冷静だった。いや、私の回答を聞けて安心したと言うか、えらく満足げにも見えた。

 

「あぁ、毎日でも会いに来てやっから」

 

「な……な……あ……もう、本当に……」

 

 私のことをツンデレだとか表すのは、もしかしたらその通りなのかもしれない。だが、ここまで言われて仕舞えば、正直相手にツンツンと接するのがどうとかなんて頭の中には微塵も残っていなかった。

 そりゃあそうだ、恥ずかしさなんてもの全て投げ捨てて吐露するのであれば、私だって毎日でも会いに来て欲しいし、私が引きこもることでこいつや香澄が来てくれるのなら、それが善意を利用していると言われようが嬉しいものは嬉しいのである。謂わば、ポジティブな理由なのだ。

 

「本当に?」

 

「……なんでもねーよ。言わなくても分かるだろ」

 

 これ以上は粋ではないだろう。だって、私は既に言葉以上に行動でこいつへの感謝を伝えているつもりなのだ。これ以上は無理というものだろう。だから私は、向き直って、向こうからの一方的な抱擁をやり直した。

 

「あぁ、……有咲、お前本当に香澄と俺のこと大好きだな」

 

「……はぁっ?! す、好きなんかじゃねー!!」

 

 どうやら私がこいつに翻弄されるというのはこれからもそうらしい。多分香澄だって無意識のうちに私の心を掻き乱し続けるだろう。ただ、こいつはそれと同じぐらいで私の心を香澄とは違うベクトルで掻き乱してくるし、私もそれを既に楽しんでしまっていた。

 だから私は今日も言葉とは正反対の行動で示し続ける。私の口にしている言葉は、あべこべとなっている時ばかりなのかもしれない。

 いつかは私もこいつのように、恥ずかしげもなく思っていることを素直に口にできる日が来るのだろうか。私が心の弱さを感じずに、人と接するようなことができるのだろうか。

 そんなまだ見ぬこれからに想いを馳せながらも、今は私はこのぬるま湯のような甘さを堪能することにした。これはツンデレで、引きこもりで、素直になれない私の、私だけの特権なのだから。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【大和 麻弥】そこにいる誰かのために

 ジブンは果たしてアイドルでも良いのだろうか。アイドルバンド、Pastel✽Palettesの一人でも良いのだろうか。そんな悩みはジブンがその一員となってから今まで、心のどこかに存在していた。自問自答のように、脳内を幾度となく反芻していたものの、必ずその答えを見つけられないまま、ジブンはこのアイドルバンドで活動を続けている。

 アイドルとはどんなものだろうか。それはジブンにとって最大の問いだった。

 ただ、アイドルから一番かけ離れた存在、それがジブンなのだと断言することができた。美容がなんだとかはからっきし興味もなく、機材のことで徹夜するのは当たり前。笑い方なんてアイドルになるまで気にしたこともなく、未だに治らず、一種のアイデンティティのようにすらなっている。きっと千聖さんはジブンの扱いに手を焼いたことだろう。

 ジブンがアイドルと言われて真っ先に想像したのは、彩さんの姿だ。大勢の観客の前で丸山彩を貫き、多くの人に愛され、ファンに笑顔と勇気を届ける。まさに理想のアイドルと呼んでも良いと思う。

 

「あれ? どうかした? 麻弥ちゃん」

 

「へ? なんでもないっす!」

 

 収録終わりの楽屋は少しばかり寒い。暖房も申し訳程度についているが、めっきり冷え込んだ外気が部屋に流れ込んでいるのではないかと疑いたくなるほどに寒い。

 そんな冷たい空気の中で、アイドルに相応しい姿などという重苦しいテーマを悩み抜いていたジブンは、気が付かないうちに彩さんのことをじっと見つめていた。そこはステージでもない、ただの楽屋で、部屋の隅には観葉植物が鎮座しているほどだというのに、彩さんの周囲はなんだか輝いているように見えた。ジブンの座るこの椅子はきっと舞台袖で。ステージを華やかに彩るための機材でいっぱいの裏方の方がジブンの居場所として正しいのではないか、そんな気持ちになってしまうほどだった。

 どうしても目が離せなくて、そんなジブンを不思議そうに見つめる彩さん。首をこてんと傾けて、目をまんまると見開くその仕草は悔しくなるほどに可愛らしかった。愛想がどうだとか、そういう次元ではない。言葉で語るのが口惜しく感じられるほどである。

 

「見惚れてただけっす!」

 

「みと、て、照れるよぉ〜」

 

 苦し紛れの言い訳じみた褒め言葉に、クネクネと身を捩らせる彩さんの姿に、ジブンはいつのまにか笑顔になっていた。一緒にいることの楽しさだとか、そういうものだけではない空気のせいだった。

 でも、自分でも不思議なのだけど、これは多分嫉妬とかではない気がするのだ。嫉妬という言葉に片付けるのは単純で楽だが、それは半分正解で半分ハズレだった。

 もっと正確に言えば、これは自分自身に対する失望の意義の方が大きかった。憧れはあったとしても、そうは絶対になれないということへの失望だ。

 

「彩さんのキョトンとした表情が可愛かったと言いますか……、とにかく今の彩さんがすごかったっす!」

 

 だからこれは、存在しないジブンを彩さんに重ね合わせて、慰めているだけだった。

 

「褒めすぎだよぉ」

 

「アハハ、麻弥ちゃんの焦り方も彩ちゃんのチョロい反応もおもしろーい!」

 

「えっ、えっ、日菜ちゃんどういうこと?!」

 

 己の心を慰めて、てんやわんやとしつつも穏やかな日々を送れることに一定の満足感を覚えて、その幸せが壊れないようにする。それが今のジブンに出来る精一杯だった。多分、ジブンが彩さんを目指すのは間違っている。だって、ジブンじゃ彩さんになるなんて、絶対に無理だから。だからジブンはアイドルにはなれっこないんだ。心の中ではそんな諦めを促す優しい悪魔が声をあげていた。

 むしろこの諦めの言葉は楽だったから、ありがたかった。腹を抱えて笑う日菜さんに振り回される彩さんのようにはなれないって、頭では理解しているから。そういう現実を直視した時に、変わらない現実を自分で認めてしまえるから。むしろパスパレの一人だという、ジブンがアイドルの一人だというレッテルがむず痒く感じてしまうほどだった。

 

「も、もうっ! この間のハロウィンからずっと日菜ちゃんのイタズラが止まらないよ〜」

 

「えー、あたし何かしたっけ?」

 

「あれで惚けるんですねぇ……。ジブンも絡んでいるので強く言えないですけど」

 

 そういえば数日前のハロウィンイベントは大変だった。主に日菜さんのテンションというか、彩さんを翻弄している時が。最初はパスパレの全員にイタズラしようとしていた日菜さんも、千聖さんにすぐさま見つかり、対象を彩さんに絞ることで許可を貰っていた気がする。ちなみにその時はちゃっかりジブンや千聖さん、イヴさんもノリノリでイタズラの準備をしていた。

 彩さんの持ち物の悉くにびっくり箱のような機構を据え付けて、部屋の影に隠れ、毎度のように後ろに倒れそうになっている彩さんの姿に全員で笑いを堪えたりしていたのだ。

 その時はイベント終わりの時間だったからアイドル衣装のまま、彩さんの様子を見守っていただろうか。きっといつものジブンなら周囲と比較した時のジブンの姿に落胆しているような時間だったはずなのに。その時のジブンは堪え切れずに大笑いしていたはずだ。それが原因で彩さんにもバレてしまったのだが。本当にそのイタズラを心の底から楽しんでいた覚えがある。——そう、まるで今のように。

 

 急にハッとして、そこに苦笑いをしているジブンがいることに気がついた。けれど、今は不思議と心が安らいでいることにも同時に気がついた。心が安らぐとは大袈裟かもしれないが、それは多分アイドルとして振る舞っているのを忘れられそうだったからに違いない。

 

「そもそも麻弥ちゃんだって、部屋の隅っこから隠れて私の驚くところこっそり見てたじゃん!」

 

「うっ、それは麻弥さんに唆されて……」

 

「人のせいにするなんていけないわよ? 麻弥ちゃん」

 

「千聖ちゃんだって麻弥ちゃんの隣でビデオカメラ回してたよね?!」

 

 彩さんの必死すぎる形相は、イタズラされた時の涙目にもどこか通ずるものがある。今日の収録でも、その時に千聖さんが捉えた彩さんの小動物のような姿が、お宝映像としてものの見事に放映されていた。

 きっと放送でそれを観たファンの人たちはパスパレの仲の良さだとかを認識するのだろう。そう考えるだけでジブンの心も慰められているような気がした。

 

「彩ちゃんの姿をお茶の間のファンの方々に届けるのが私たちの使命なのよ?」

 

「そうです! これがパスパレ流のブシドーです!」

 

「イヴちゃんの考えるブシドーって、寄ってたかって私にイタズラすることなの?!」

 

 あぁ、本当に彩さんたちと一緒にいる時は楽しい。こうして表舞台に立つ時間じゃない時に、かけがえのない友人、仲間として接している間は特に。ジブンが一人の女の子に戻れたような気がして、嬉しくて、寂しい。

 

 結局その日は、夕方過ぎに収録が終わった後、みんなで解散して帰ることになった。彩さんへのお詫びにご飯に行こうともしていたのだが、日菜さんがどうやら紗夜さんと出かけるだなんだとか、どうにもこうにも五人で揃うことが出来なさそうだったので断念することになった。

 太陽が既に建物の奥の方に沈んでしまっているからか、空は黒に近しい青が殆どを占めていて、それに対抗するように駅前のネオンや街灯がチカチカとする色の光を放ち続けている。こういった人口の光が多いせいか、今の時間のこの場所は夕方に至る少し前よりも、嫌になるほどに明るくなっている。

 四方八方から差し込んでくる光の絶え間ない照射で、ジブンの影は完全に消えてしまっている。足元に規則的に広がる長方形の石のタイルのどこを探しても、ジブンの存在を示す影は見えなかった。

 

「嫌になりますね、なんだか」

 

 自分でも意識をしていないうちに吐き出していた愚痴。それが他の誰かに届いているのではないかと思い当たってハッとした。雑踏の中、いきなり立ち止まって周囲をキョロキョロと見回すジブンは恐らく挙動不審と形容するのが正しかった。

 そういえば早くに皆さんと別れていたものだから、帰り道が一緒というわけではなかったのを思い出して、胸を撫で下ろした。だってこんなネガティブな言葉、パスパレの他の誰かにもし聞かれていたら、すぐさま心配されるに違いない。それは少し嬉しくありつつも、ジブンが迷惑をかけてしまうことへの抵抗感や虚しさもあって、ジブンにとっては悪手でしかなかった。

 どうやらジブンは気がつかないうちに心に溜まった澱みを吐き出してしまわなければならないほどに、不安に押しつぶされそうになっているらしい。劣等感だとか、嫉妬に似た羨望だとか、自己否定だとか、自分自身を貶める悪魔の慰めに負けそうになっているらしかった。

 そんなジブンがいることが更に嫌で、立ち止まっていたジブンを奮い立たせて、数歩先の地面にあった、周囲とは色の違うタイルを思い切り踏み締めた。飛び石を渡ったり、縁石の上をバランスを取って歩くみたいに、小学生の頃の無邪気な遊びを彷彿とさせる。出来ることなら、そんな頃に戻りたかったのかもしれない。

 

「おっ、麻弥じゃん」

 

「へっ?!」

 

 幾つかのカラフルな飛び石を渡っていた丁度その時だった。人の話し声を掻き消してしまうほどの雑踏の中から突如として聞こえてきたジブンの名前を呼ぶ声がして、驚いて視線を上に戻した。もしかしたら『マヤ』という同じ響きの誰かを呼んだ声かもしれなかったけど、反応せずにはいられなかった。

 周囲を見渡すと思った以上に駅前を歩く人が少なかったんだということに気がついた。いや、それよりもこんな奇妙な、もっと正確に言うならば子どもじみた遊びをしているジブンの周りを歩こうとする奇怪な人がいなかっただけかもしれない。兎に角、そんな人混みの中でやることではなかろうことをしている怪しいジブンを呼び止める人がいたわけで、急に立ち止まって振り返ったジブンの目の前に、急に影が現れていた。

 ジブンよりも体格の大きな影は、表情や貌を確認するまでもなく多分男の人なのだろうと予測はついた。しかも、ジブンのことを下の名前で親しげに呼ぶような男性の存在はジブンにとってはそう候補がいなかったものだから。

 

「……びっくりしたじゃないですか」

 

 秋が深まって肌寒くなってきたために、そのシルエットは少々本来よりも膨らんでいる。そんな体のラインをなぞるように顔をゆっくりと上げると、よく見知った顔が現れたものだから、人混みの中で暴れそうになっていた心臓の動悸も急に治まった。

 ある意味ではついこの間までジブンの同僚だった存在。もしもジブンがあの時、千聖さんと出会っていなければ、きっと今も一緒にスタジオミュージシャンをしていたのであろう同僚。

 とはいえ縁が切れたかと言われればそうでもなく、あいも変わらず機材に飢えたジブンはスタジオで頻繁に顔を合わせていたから、別段久方ぶりというわけでもない。ただ、パスパレの仕事、個人での仕事が重なっていたためにスタジオに顔を出す機会もめっきり減っていた。レッスンで使用することもなく、そんなわけでなんだか久しぶりに会うような気持ちになっていた。

 

「そんなの俺だってびっくりしたよ、こんな街中で出会すなんてな」

 

 そう言われて改めて辺りを見回せば、毎日のような帰宅ルートというわけでもない、人混みの駅前で彼と出会すとは、驚くのも当然の状況だとわかった。仮に同じ場所に、同じ時間にいたとしても、そこに相手がいるなんて気がつくのは約束でもしていない限り不可能に近しい。

 これも一種の運命かもしれない、そう考えるだけでかつての淡い恋心に似た何かは再燃しそうであった。

 

「偶然って言葉で片付けられないぐらいですよ」

 

「だな。ま、相当目立ってはいたけどな」

 

「へ?」

 

 彼は意味ありげな目線のまま視線をジブンから外した。その意味はなかなか良くわからなかったが、ピンと来ていないのを見抜かれたのか、彼は苦笑いのまま続けた。

 

「こんな群衆の中でぴょんぴょんやたらと大股で歩く変なやつがいるんだもんな。かなり浮いてたぞ」

 

「なっ、えっ、あっ」

 

 そこまで指摘されて、ようやくジブンの数分前の姿を脳裏に思い浮かべた。そうだ、自分でも分かっていたではないか、まるで子どもの頃にタイムスリップしたかのように、足元の石のタイルを飛び移っていたなんて。あんなもの、そこそこ大人に背伸びし始めそうな様相の人間がやってるところを側からみれば怪しいの一言以外あるだろうか。

 そんなことにも気がつかなかった愚かしさみたいなところや、恥ずべき光景を過去とはいえ少なからぬ好意を寄せていた異性に見られたという羞恥で、すっかりジブンの思考回路は止まってしまった。頬に両の掌を添えてみたが、驚いてすぐさま離れた握り拳の中には熱が篭っていた。

 

「まぁまぁ、麻弥がそんなことやってたなんて、ちょっと変な人が居るぐらいで見られるだけだから安心しろって」

 

「全然、『だけ』じゃないっすよ〜?!」

 

 懐かしさを感じさせるやり取りも、多くの人の行き交っていた街路では民衆の日常の中に溶けていく。その安心感のおかげで普段の大和麻弥を出すことには何の障壁もなかった。

 一方でそんな自分がいることもどこか辛かった。もしも今ここにいるジブンを誰か別の人、それこそ千聖さんなんかに入れ替えてみたら。そんなたられば話を考えていても仕方がないし、それで毎度毎度落ち込んでいてはキリがないのだけど、考えずにはいられないのである。

 

「あっはは、まぁいいじゃん。それで、麻弥は帰り道?」

 

「え、はい。実はさっき収録が終わったばかりでして」

 

「なーるほど」

 

 彼は袖丈の長さを気にするように目線を落とした。左腕を軽く突き上げて肩の方に袖口が寄り、その手首だけから光の反射が見えた。ジブンの胸騒ぎはすぐに落ち着いて、それでいて期待も大きくなっていた。

 文字盤はこちらからは見えないが、大体今の時間が六時前なのだろうことは想像がつく。考えた末に彼が飛び出た言葉は、ジブンが待ち望んでいたお誘いだった。

 

「よし、久しぶりに飯行くか」

 

「い、いいんですか?!」

 

「旧交を温めるってのも大事だろ? あ、それとも」

 

「それとも?」

 

「アイドルとディナーデートなんてしたら週刊誌にすっぱ抜かれちゃうか……?」

 

「で、でで、デート?!」

 

「まぁ、大丈夫か! 麻弥だし!」

 

「どういう意味っすかそれぇ?!」

 

 本当なら週刊誌にすっぱ抜かれるだとか、そこに反応しなければいけないのかもしれない。数時間前までのジブンならもっと落ち込む要素すらあったはずなのに、不思議なぐらい、今は心臓の鼓動音がジブンの脳味噌を支配していた。何も考えられないというのはまさにこのことだろうか。

 

「ディナーなんて大層なこと言ってるけど、この格好で格式高いレストランなんてのもな」

 

 彼は背中に背負ったギターケースを気にしながら言っているみたいだが、ジブンはそんなことどうでも良かった。どうでも良いというのは語弊だし、今からそんなマナーに厳しそうなお店に入る元気も勇気もなかったのだが、だとしても心の余裕がなかったのだ。あまりの温度差に風邪をひきそうなぐらいだった。

 

「そういやここら辺にディナーメニュー豊富なカフェがあるから、そっちにするか。それで大丈夫か? 麻弥」

 

「は、はいっ!! どこでも!」

 

 ジブンの意見を言う余裕すらないままに予定は決まった。今だけは、美貌だとかに無頓着で、手鏡すら持ち合わせていない自分を恨みたいぐらいだった。

 けれど、現実は非情で、ジブンのことを気にするための猶予期間すらない間にも、彼はスマホの地図アプリで店の場所を調べているらしかった。ほんの僅かな勇気で、ジブンはそのスマホを覗き込むという口実を言い訳にして懐かしい思い出を手繰り寄せていた。

 

「こんなお店知ってるんですね……」

 

 地図を見る限りでは、ここから精々徒歩五分ちょっとの建物の中層階にあるらしい。店名の下に出てくる写真をスライドしていると、カフェと名乗りながらも、夜景を見下ろすことのできるお店だと分かる。何も言われずに写真だけ見せられていたら、多分レストランか何かだと勘違いするだろう。

 

「はっはっはっ。金が無いからな、安い価格帯なのに高級感が出せるってのはな、見栄を張るのに必要不可欠なんだよ」

 

 彼の歳はジブンよりも幾つか上で、確か都内の大学に通いながらスタジオミュージシャンをしているということだった。苦学生だと自分を紹介していたぐらいだから、多分金に困っているのは本当なのだろう。

 でも、ジブンが会計の時にお金を出せるように財布を確認しようとすると、すぐさま手で静止された。どうやら奢らせろ、ということらしい。申し訳なさと甘えたい欲求の勝負では、後者が辛うじて勝っていた。

 

「デートって言ってんだろ? これぐらいは流石に払うって」

 

「……それじゃあ、ご馳走になりますね」

 

 その思いやりを汲み取るというのが恩返しみたくなるのだろうか。どうしたらその気持ちに報いることが出来るのか分からない、知識の乏しいジブンを恨めしくなる。だが、それでも無い知識を振り絞って、いつぞやのパスパレ内での話を思い出して、ほぼ消えかけていた勇気の灯に従ってみた。

 

「……麻弥の手、あったかいな」

 

「そうなんですかね? 自分じゃなんとも」

 

 ジブンの声は震えているんじゃなかろうか。そんな心配が杞憂であることを祈りながら、左手をほんの少しだけ彼の右手に触れさせてみた。ジブンよりも余裕綽々な彼に期待を伝えようとしたら、それをしっかりと汲み取ってくれた。

 手の甲だけじゃ飽き足りないジブンの手は、いつのまにか包み込まれていた。それだけでジブンとしては過去の不満足が満たされていくようだった。

 でも、生憎お付き合いだとかは遠い世界の話だと漠然と考えていたジブンにとって、それ以上のことは望むのも怖かった。望もうとしていても、何をすれば良いのかも分からない。なんだったら、話す内容すらも思い浮かばない。

 

「取り敢えず行こうか」

 

 ただ、そこにいたジブンは紛れもないただの女の子で、それがジブンの心に絶大な安心感を抱かせたのは言うまでもない。

 きっとスキャンダルだとかを気にしなくても良いという気持ちもあったのだろうか。彼との距離は手を繋いでいることもあって、肩と肩が歩くたびに触れ合うのでないかと期待してしまうぐらいだった。

 ただ、そんな期待はなかなか叶うこともないままに、建物の入り口に着いてしまった。確かさっきのスマホの画面には、ここの建物の八階だかに入居しているだとかだったはずだ。

 弾まない会話に焦りを持ちながらも、吹き抜けで天井を見上げるのも憚られるような階層に圧倒されていた。幸運なことに、いや、不幸かもしれないが、目的階まではエレベーターだけじゃなくてエスカレーターでもいけるらしい。

 人が疎らなエスカレーターの下について、いの一番に飛び乗ったジブンは、後ろに乗ろうとしている彼の方に危うく倒れそうになったがどうにか持ち堪える。だけど、脳に囁かれた誘惑に、ジブンはゆっくりと、一段下に乗った彼の体に身を寄せていた。

 

「……と、麻弥が急に大胆になったな」

 

「た、倒れるのが怖いので」

 

 意味もない言い訳でも、彼は全てを理解しているように優しく微笑み返していた。デートなら、男女が仲睦まじく体を寄せ合うのも普通なのかもしれない。それも言い訳にしたけれど、彼は苦笑いするだけだった。

 

「麻弥にデートしてもらえるなんて、光栄な限りだな」

 

「そ、そうですかね?」

 

「お前なぁ……。仮にもアイドルって自覚の欠片もないのか……?」

 

「え? いやぁ……そのぉ」

 

 ふと聞こえてきたアイドルという単語に、ジブンは彼にバレないように顔を顰めた。不意に襲ってきたレッテルに、急に現実に引き戻されたような感覚になったのだ。現実に帰ってきたとは言っても、ジブンが彼に身を寄せていることには変わりなかったのだけど、ただ今まで目を背けてきた事実からは逃れることは出来ないみたいだった。

 不意に、およそ人生初だろうか、頬の下に添えられた手で、ジブンは顔を上げていた。顎クイだとかいうやつだろうか。思いもよらぬ行動に心が騒ぎながらも、極めて平静を装った。でも、彼の瞳は一心にジブンを見つめていて、目を背けるのはジブンの方が早かった。

 

「ごめん、何か気に障ること言ったよな」

 

「……えっ?!」

 

 どうして分かったんだ、そんな気持ちも隠せていなかったのだろう。彼は曇った表情のまま、続けた。

 

「麻弥が俯く一瞬、苦しそうなのが見えたからさ」

 

「あはは……気のせいっすよ」

 

「あのな、エスカレーターで俺が下に乗ってるのに、見えないわけないだろ」

 

「あっ……」

 

 いつもの身長差ならやり過ごせたかもしれない。だが、エスカレーターで喜んでいたジブンが裏目に出た。

 

「……なんだか、アイドルで居る時間を忘れられるような気がしたんです」

 

 この状況で隠していたって仕方がない。三階から五階ぐらいまでの高さに伸びているエスカレーターの中腹で、諦めることにした。どうせ逃げ場はないし、逃げるのも心残りができそうだったからだった。

 

「アイドルの理想像って言うんですかね? 答えが見つからない問いだと思うんですけど、それが苦しくて」

 

 今は、まるで魔法がかかったかのようにアイドルの大和麻弥ではなかった。いつ魔法にかかったのかは分からない。商業施設の照明が煩わしくないと思ったのも久しぶりだったのかもしれない。

 

「ごめんな。麻弥だってアイドルが嫌になったりするよな」

 

「い、いえ! 違うんです。アイドルが、パスパレが嫌になったわけじゃ」

 

 目線が合わせづらくなって、チラリと、吹き抜けの建物を見下ろしてみた。その遠くに偶然掲げられていたパスパレの協賛広告を見つけてしまって、思わずジブンはダメージを負っていた。中央で弾けるような笑顔で飛び跳ねている彩さんが、アイドルとして輝いて見えたからだった。

 ジブンの目線に気がついたのか、彼も目線はその広告に注がれていた。推測だけど、間違いなかった。

 

「アイドル、アイドルか……なーるほど」

 

「……えっ、なんですか?」

 

 丁度エスカレーターの終点に着いて、慌てて降りたジブンの体を支えながら、彼は次のエスカレーターの乗り場へと歩き始める。声をかけることは出来ず、やはり彼よりも先に乗せられたのだけど、ジブンが身を寄せたりする前に、彼の方からジブンの方へと、体を寄せられていた。殆ど密着と言ってよかった。

 

「麻弥、どうせ彩ちゃんがアイドルなのに、自分なんか、みたいに思ってんだろ」

 

「……へぇっ?!」

 

 ジブンが悩んでいるところを全て見られていたかのようにピタリと言い当ててくるものだから、ひどく狼狽した。けれど、身じろぎをしても彼の傍から逃れることなんて叶わず、逃れようとも思わないまま、ジブンは彼の方に体重を預けていた。エスカレーターなのだから、危ないなんて思いながらも、落ちてしまっても良いやなんて、大層無責任なことを考えながら。

 

「なんで……」

 

「勘、と言いたいところだけど。そもそも千聖ちゃんに名指しされた時も似たようなこと言ってたじゃねぇか」

 

「そんなこと……あ、あったような……」

 

「だろ?」

 

 思った以上にジブンのことを見ている人がジブンの側にいて驚いていた。ジブンでも強烈な記憶の影に隠れていた思い出を掘り起こされたのだから。

 

「彩さんみたいにはなれないですけど」

 

「まぁな、麻弥は麻弥だからな」

 

「ジブンは……、アイドルになれるんでしょうか」

 

「なってるよ、とっくのとうにな」

 

「今も?」

 

「裏の世界から、光の差し込んだ世界に飛び出してった麻弥は、アイドルだよ。俺にとってな」

 

 きっと心の中では、理想のアイドルなんてのは最早どうでも良くなっていた。ただのレッテルじゃない、アイドルだと認められるだけで良かったのだ。自分じゃ認められないから、他人から、近くて遠い人からアイドルだと認められたかったのかもしれない。不安定なジブンを真っ正面から見てほしい、それだけだった。それは、パスパレの誰かからの承認では、満たし切れなかった。

 

「ま、辛くなったら、スタジオに帰ってきたらいいさ」

 

「……それもそうですね」

 

 みんなにとってのアイドルになるには、まだ道は遠いかもしれない。でも、ジブンはアイドルだった。それだけで十分だった。

 エスカレーターが終点にきた。ここまで高いところにも、時間をかけて登った意味があったのかもしれない。

 

「……フヘヘ、ありがとうございます」

 

 降り口に着き、店に向かっても良いはずなのに、人気のない二人きりの降り場でジブンは彼に体を預けていた。帰る場所を見つけたジブンの心は安らかだった。

 

「ま、その笑い方は直した方がいいぞ」

 

「……えぇっ?! 台無しですよぉ!」

 

 夜は深まったが、道は程々に明るかった。ジブンは誰かに導かれて、誰かを導いていたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【八潮 瑠唯】貴方との時間は

「まだ着かないのかしら」

 

 幾度となく確認したのは、文字盤が白銀に光る腕時計。たしか、十数秒前にも、殆ど同じような短針と長針の角度を見たはずだった。そんなにも待ち遠しい気持ちになっている自分に気がついて、私は驚きを隠せなかった。

 けれど、ただ彼を待つ少しの時間も、もったいなく感じられる。決して彼が悪いわけじゃないのに、むしろ常日頃から無駄を徹底して嫌う自分の愚かしさに気がつかせてくれたのは彼なのに。

 私は酷く乱れた心を落ち着かせるように、天を仰いだ。すると、少しだけ、彼のかつての言葉が脳裏をよぎって、今この瞬間も愉快に感じられるような気がした。でも、数秒後には、辺りを見回していた。どうやら私は変わってしまったらしい。

 静かな木漏れ日は、気がつけば遥か遠くの木の葉の影が作るようになっていた。視線を上げた先に伸びる木の幹がなす影も、その背丈以上に背伸びをしているようだった。

 

「ふぅ……」

 

 肌寒さを象徴するような風が落ち葉を巻き上げながら吹き抜けていく。私は首筋を覆う紅葉のように照り映えるマフラーに顔を埋めて、もう少しで会えそうな彼との思い出を振り返ることにした。

 

 

 

 関係性で言うならば、同志、とかいうところだろうか。私が幼い頃から嗜んでいる——一時期、見捨てたことのある自分が言うのは烏滸がましいかもしれないが——バイオリンに魂を捧げる、それが彼だった。

 私はMorfonicaというバンドの中でバイオリンを弾いているわけだが、彼はバンドだとか、そういう場で活躍しているわけではない。むしろステージの上で、一人で聴衆を沸かせたり、そういう方向の活動が主だ。というわけだから、彼との絡みもそれほど多かったわけではない。

 だというのに、何の機会だったかで話さざるを得なかった後、彼の方からこれでもかというほどに話しかけられるようになった。事あるごとに、それはもう鬱陶しさを感じてしまうほどに。

 

『八潮さん。帰りにご飯でも』

 

『結構です。会食に時間を費やすのは惜しいので』

 

 何度これと同様のやりとりをしたのか、数え上げたらキリがない。演奏会だとか、バイオリン絡みの外部との接触のその殆どで、こんな一方的な会話のキャッチボールをしたはずだ。

 一度、そういう懇ろな関係になってから聞いてみたこともあるのだが、どうやら彼は私を『底なしに面白い人間である』と思っていたらしい。淡白に接することが多い、彼も例外ではないどころか際立って冷たくあしらったはずなのに、彼がどういうわけで私にそんな判断を下したのかは一生掛かっても理解し得ない気がした。

 そうは言っても、人間の心というのはどうにも複雑なもので、最初は面倒くさくて仕方がなかったその誘いも、回数を重ねるごとに様式美を超えて、誘われることが当たり前となってしまい、ある日、遂に私は肯定の返事をしてしまったのだ。

 どういう風の吹き回しだろうか、彼もそう思ったに違いない。誘ってきた彼の、素っ頓狂な表情は今でもよく覚えている。きっと忘れることもない。言ってしまえば、梃子でも動かなかった私が気が狂ったのか、あれほど断り続けた食事に来ると言ったのだからその反応も当然か。

 

『え、え、え、本当ですか?』

 

『……えぇ。一度、うんと言ってしまったことを覆すのも面倒ですから』

 

『えっ、あっ、夢?』

 

 こんな具合に。

 どんな心情で私もそんな返事をしたのかは覚えていない。もしかしたら本当に一瞬の気の迷いかもしれないし、一度行っておけば今度からはどうとでも言い訳が出来るだとか、彼も私と一緒にいることの心地悪さを実感して面倒な誘いをしてこなくなるだろうとか。そんな戦略的で、浅はかな考えをしていたのかもしれない。

 間違っても、この人となら楽しい時間を送ることが出来る、だなんてのは微塵も思わなかった。絶対に、何があっても、天と地がひっくり返ったとしてもありえない。面白いと思う要素だなんて一つもなかったのだから。

 

『夢じゃないわ。早く行きましょう。時間が勿体無いです』

 

『そ、そうですね! えっと店の場所店の場所……』

 

 私が絶対に断ると思っていたのだろう。気が動転でもしていたのだろうか。慌ててスマートフォンの地図検索を使い出す彼を見て、少し呆れたのは懐かしい。丁度、寒空の下、今もこんなに寂しくも賑やかに立ち並んだ木々の真下に恋人を待たせているのだから、彼はあの時からなにも変わっていないのかもしれない。

 

『決まっていないなら、私も探しましょうか』

 

『い、いや! エスコートするのが男の使命だから!』

 

『男だとか女だとか、食事をする店の場所を決めるのにそんなものは関係ないと思いますが』

 

『正論……』

 

 あまりにも店を探すのに手間取っていた彼を見て、私は安心と呆れの両方を感じた。呆れはさっきの通りだが、安心というのは、自分が身構えたほどに避けられなかったという点のせいだろうか。これは今になってちゃんと分かったことなのだけれど。

 

『えっと、あ、あ、こことか、こことかどうでしょう!』

 

『ラーメン。味の濃いものは嫌いなのですが』

 

『ぐっ……。えっと、あっ、じゃあ八潮さんの好きな食べ物で!』

 

『それなら白た……、いえ、なんでも。さっぱりとしたものなら何でも食べるわ』

 

 危うく私は白玉ぜんざいと言いかけて、口を噤んだ。食事というラインナップの中では、白玉ぜんざいなんてのは候補に上がってくるのも変だろう。確かに自分が白玉ぜんざいに目がないことは理解しているけど、初めて食事を共にする異性の前で白玉ぜんざいというのも、少し気が引けたのだ。

 

『白た……? 白たってなんだ……?』

 

『気にしないでください。さっぱりしたものなら他にありますよね』

 

『白……白た……。あっ、白玉ぜんざい?!』

 

『なっ』

 

 その時の私の顔は、彼曰く見たこともないぐらい面白い表情をしていただとか。きっと瑠唯さんがステージの上でとんでもないヘマをしたとしても、あんな表情になることはない、というお墨付きだ。

 でも、そんな表情になったとしてもおかしくないだろう。まさか『白た』という音だけで『白玉ぜんざい』をピンポイントで当ててくるとは。

 私のその表情を見た彼は、それまでの焦った表情から一転、子どものように目をキラキラとさせていた。これは完全にやらかしてしまったと頭を抱えた私だったけど、手遅れであった。

 

『僕も白玉ぜんざい好きなんです!! 近くに良いお店があるので、じゃあそこで!!』

 

『ちょっと、行くとは』

 

『えっ……』

 

 途端に悲壮感のあふれる表情に変わり、私は大きくため息をついた。最初は私が誘いに乗ったというのに、ちっぽけなプライドめいた何かだけで彼の機嫌を損ねるのも悪いと思ったのだ。

 諦めて私は彼と一緒にその良い店とやらに行ってみることにした。行く、と返事した時、焦った彼に手を握られて駆け出されそうになった時はこれまで以上に私の気も動転しそうだった。指摘をして、彼の手はすぐに離されたけど、掌に残った淡い熱は、すっかり秋めいた外を歩いていても未だに残っているように思える。

 

 彼がお勧めしたお店は確かにすぐ近くにあって、彼の私の機嫌取りのためと思われた言葉尻も、私の考えすぎだったのだと猛省することとなった。その日はいつもとは少し離れた会場だったもので、土地勘もなく、なのに彼がそんなお店を知っていたということは、多分私とは気が合うのだろう、なんてほんの僅かに肚の底で思ったぐらいだ。

 地元の商店街らしき道を抜けて、石畳に舗装された道を歩く。ちょっとした観光名所らしい所の街並みの中にそのお店はあるらしかった。商店街だとかは、性分なのか分からないけど、それほど訪れることもなかったもので、白玉ぜんざいなんて和の塊のようなものを食べに行く前なのに、少しエキゾチックな思いもした。

 

『もう少しで着きますからね! 歩き疲れてはいないですか?』

 

『えぇ。特に不健康だとか、そういうわけではないので』

 

 両サイドの板張りの壁が日本風の家屋であることを必死に主張する道で、そんな過度な心配を受けていたら、どうやらもうそのすぐに店があったらしく、道路に出されたボードが見えた。

 彼が言った通り、白玉ぜんざいをピックアップして集客しているあたり、このお店はセンスが抜群らしい。

 暖簾をくぐると、そこには座敷のように、店内が広がっていた。カウンターの他はほぼ全てが履き物を脱いで上がるようなお店で、客の入りは殆どなかった。時間が時間だっただけに、もっとお菓子を楽しむ人間が居ても良いはずなのに、なんて考えたりもした。

 

『二人で、行けますか』

 

『はいはい。お好きなお席にどうぞ』

 

 店に客が来たことを察したらしいカウンターの奥から、おばあさんが現れる。カウンターの席に座るのも変だと思ったので、彼に連れられるまま奥の座敷の方に上がることにした。

 

『手、どうぞ』

 

『大丈夫です。履物を脱いだりなんて一人でできるので』

 

 彼の過度な心遣いは奇妙ですらあったが、それはどうやらこの時の私が無自覚すぎただけだったらしい。確かに一瞬、先程の会場から連れ出される時のことを思い起こしたのだが、意味がわからないと、自分の中で一気に記憶から掻き消した。そして、そんな彼にマイナスの印象を持ちながらも、彼と相対して座敷に腰を下ろす。

 ある意味では白玉ぜんざいに釣られた私にとっては、なんでもない時間だったのだが、彼からすればそれは緊張の連続だったらしい。後から言われて納得したのだけど、そういえばこの時の彼の話ぶりはなんだかちぐはぐであった。彼は必死に話題を探そうとしていたのであろうが、私の目線はメニューに描かれていた小豆の海に浮かぶ白玉に吸い寄せられていたのだ。

 

『白玉ぜんざい、そんなに好きなんですか?』

 

 注文を終えて、店主らしいおばあさんが去ってから、彼に問われる。もしかするとこのお店を知らなかった彼よりは好きなわけではないのかもしれないけど、それでも自分の好きなものはこれだという自覚があったから、私は静かに首を縦に振った。

 

『いやぁ……でも、八潮さんが白玉ぜんざいが好きって、なんだか意外でした』

 

『意外? 別に、私が何を好きでも良いでしょう』

 

 私の冷たい返しが、彼には怒りを買ったと思わせたらしく、彼は慌てて自分の言葉を取り繕った。人は見かけによらないだとか、見かけだけで判断するな、と暗に伝えていたと思われたらしい。

 

『逆に私は何が好きに見えるのですか?』

 

『え、うーん……。今の話だけ聞いていると白玉ぜんざいに』

 

『バイアスが掛かっていますね』

 

『いやぁ。本当に八潮さんの言う通りで』

 

 彼はどうにか話題を広げようと苦心していたのだろう。彼の口からは、『そういえば』とか、『話は変わるんですけど』、なんて枕詞がそれから何度も飛び出していた。

 彼が苦労したのはある意味では当たり前で。私が今、ここで時間を割いているのは殆ど白玉ぜんざいのためである。決して彼と過ごす時間を楽しもうとしてここに来たわけではない。かといって、どう足掻いても変えることのできないこの状況で、敢えて空気を悪くするというのも考えものだとは思った。ただ、楽しいと思われて、今後もあのしつこいぐらいの誘いを受けるというのはもっと面倒だった。

 そんな葛藤に揺れ続けた私の出した結論は、一旦は彼から出てきた話題に関しては、それなりに相槌を打つなり、適当な返事をすれば良いというものだった。こうすれば注文した白玉ぜんざいが届くまでの時間の退屈を潰すこともできるし、彼もきっと私に興味を失ってくれるだろうという、そういう期待も入っていた。

 私の予想した通り、次第に彼は目に見えて焦っていた。話題をどうにか探そうと店中をキョロキョロとしたりと、挙動不審な行動が目立ってきた。終いには、このお店のテーブルの木目、綺麗ですね、だなんて。凡そ、これから死ぬまでの時間、二度と聞くことのないような話題に、少し笑ってしまいそうになったぐらいだ。

 

『お待たせしました。白玉ぜんざい一つと、特大白玉ぜんざい一つです。ごゆっくりどうぞ』

 

 彼と私の間をはっきりと沈黙が支配するようになって数分も経たないうちに、ようやく運ばれてきた白玉ぜんざいは、その器からして相当なものだった。僅かに湯気が立ち上っているその中を覗き込むと、大粒のほぐれた小豆が一面を埋め尽くして、そこに島のようにいくつもの白玉が積み重なっている。何よりすごいのはボリュームに見た目。彼の頼んだ普通のものとは明らかに迫力からして違う。

 この時ばかりは、私も今日彼と食事に来てよかった、なんて思ったぐらいだ。彼が誘ってくれなかったら、こんな豪勢の限りを尽くした白玉ぜんざいを知ることもなく、そこそこの演奏に満足感を得ただけで帰ることになってしまっていただろう。

 

『特大すご……』

 

 彼が大きく目を見張るほどのインパクトの白玉ぜんざい。私はまるで見せつけるようにして食べ始めることにした。中身自体は普通のものと、特大とで変わるわけではないのだけど、私にとっては特別感と、高揚感を掻き立てるだけの何かがあった。

 

『どうしたんですか? 食べないのですか?』

 

 私が眼前に届いた特大の白玉ぜんざいに舌鼓を打って暫く、彼はどういうわけだか、微動だにせずに私の方を見つめるばかりだった。美味しいものを食べているから気にする時ではないとは思いつつも、見られながら食べるというのも少々居所が悪く、声をかけることにしたのだ。

 彼はぜんざいに手をつけることもなく、ニコニコとこちらをぼんやりと眺めるばかりで、さっきのような焦った姿もなくなっていて、不思議に感じた。

 

『食べますよ。けど、折角から、と思って』

 

 何が折角なのか分からないけど、彼はそう言ったっきり、また私の姿を眺めるばかりだった。

 ただただ不思議だった。彼は私と一緒にこの白玉ぜんざいを食べに来たわけではないのだろうか。ならば、この美味しいぜんざいを堪能することに集中するべきだろう。

 彼が食べない間にも、気がつけば私の目の前の器のぜんざいは既に半分ぐらいが私のお腹の中へと消えている。だというのに、彼には一向に食べ始めようとするそぶりが見られない。この際見られているのはどうでも良くなっていて、ただ私の頭の中には彼への疑問などがひっきりなしに頭の中に浮かんでは消えていった。

 

『そういえば、どうして私をこんなにもずっと誘ったの?』

 

 その時、この日初めて、私から彼に話題を持ち出したかもしれない。ただ単に純粋な疑問。きっと彼は何度も何度も私に断られ続けて、普通の人間なら、いつまでもつれない私に痺れを切らして、離れていってもおかしくはない。私はそれまで、数え切れないほどに彼の誘いを無碍に断ってきたのだから。

 だというのに、彼はどうしてそんなにも私を誘うのだろうか。

 

『誘ったって、ご飯に?』

 

『はい』

 

『八潮さんをご飯に誘うのが、そんなに変でしたか?』

 

 はっきり言ってしまえば、異常だってぐらい突き放してしまっても良かったかもしれない。ただ、どこか心に引っかかったからか私はそんな強い言葉は飲み込んで、静かに頷くのに留めた。

 

『今日も話題が尽きて困っていたでしょう? 冷たくあしらっていた私が言うのもなんですが』

 

『いやまぁ。八潮さんを楽しませられてなかったらって思うと』

 

『……よく分からないけど。つまらないでしょう? 今日も』

 

『そんなっ、それだけはないですよ』

 

 敢えて否定的な言葉にしたのに、彼は思った以上に食い気味だった。それまでどこか私と目線が合えば逸らしていたはずの彼の瞳は、真っ直ぐにこちらを向いていた。

 

『私も話もしないし、つまらない時間は無駄ではないですか?』

 

『無駄ではないです、絶対に』

 

 本当に訳がわからなかった。彼にとって、一体この時間に何の意味があるというのだろうか。良い店だと紹介した、その店の絶品のぜんざいを食べるでもなく、こんな淡々と突き放そうとする私との会話の時間を無駄ではないと言い放つ、彼の考えが少しもわからなかった。

 

『八潮さんと過ごす時間に、無駄な時間なんてないです』

 

『……ぜんざい、冷めるわよ』

 

 暫く押し黙っていた私に言われて、彼はすぐにぜんざいを食べ始めた。私もそれに歩調を合わせるように、ほぼ同時にぜんざいを完食することになった。

 会計も終わり、店を出て歩き始めた私。隣を歩いていた彼は、あの、と言って私を呼び止めた。

 

『これからも誘い続けますよ、僕は』

 

『……そう』

 

 

 

 彼は、その言葉の通り、本当に変わらずに私を誘い続けた。しかも巧妙なことに、彼は行く先々の会場の近くの甘味処を調べてくるので、私も断り辛くなっていた。申し訳なさと、目先の甘味に眩む心と、彼の私にはない何かで、考えが混沌とし始めていた。

 そして私は、断ろうと思っていたはずが、大体、ほぼ毎回彼と一緒にどこかの店に繰り出していた。自分でもどういう気持ちの変わりようなのかは分からない。

 そして、毎回違うお店へと導かれて、そこでぜんざいに限らず甘味の類を食して、実に十数回になったある時、遂に聞いてみることにしたのだ。直接。

 その日は確か、ショッピングモールの中にテナントとして入っていたお店とかだっただろうか。彼は一方的に様々な話を続けながらも、テーブルに届いたものを少しずつつまみながら、私の様子を窺っているようだった。

 

『あの』

 

『え、どうしたんですか?』

 

 彼の話を聞いて、私が適当に返事をしたりとするのがいつもの光景となっていたからだろうか。私が彼の話を遮って話し始めようとした瞬間、彼は眉をピクリとさせていた。

 

『いつも、私を誘ってくれるのは嬉しいのですが、何のために来ているんですか?』

 

『何のため?』

 

『このお菓子を食べるためなら、一人でも良いと思うのですが』

 

 すると、彼はなるほど、と言わんばかりに何度か頷きながら口を開く。

 

『八潮さんと一緒に食べることに意味があるんですよ』

 

 彼のその意見を、ただ無駄な時間ではないかと斬り捨てるほどのことは、いつのまにか出来なくなっていた。ただ、そうだとはしても、いくら回数を重ねても態度の変わらない私に執着して、時間を浪費する彼の行動の意味は分からなかった。

 

『分からないんです』

 

 私の判断基準は、いかに効率的であるか、即ち意味があるかどうかだった。彼がそこまで必死になって、私に時間を割いて、足掻く意味は全くもって分からないのだ。それだけじゃなかった。自分がわざわざそんな彼の得体の知れない努力に付き合っている意味も分からなくなっていたのだ。

 

『私と一緒に、お菓子をこうして食べている時間で、バイオリンを練習するなり、もっと色々できることがあると思うのですが』

 

 私は思っていたことを全てぶちまけた。この時間の意味を、考えても答えの出ない問いに終止符を打つために。

 彼は数秒ぐらい俯いて、そして答えが出たらしく、清々しい表情のまま語り始めた。

 

『時間って無駄にすることにも、意味があると思うんです』

 

『無駄にすることに意味があるとは、矛盾しているのでは』

 

『ははっ、そうかもしれないですね。でも、この時間は無駄じゃないんですよ。僕が、八潮さんと過ごしたいと思った時間ですから』

 

 彼は、お菓子を食べるというのも目的の一つではあるけど、口実みたいなものです、なんて戯けて笑っていた。その純粋で卑怯な瞳に僅かであっても心を奪われてしまったのは、酷く非合理的で、それでいて合理的だった。

 

『僕は、八潮さんといる時間を過ごすために、労力をかけているだけですから。だからこの時間は、無駄であって、無駄じゃないんですよ』

 

 丁度食べ終わっていた彼は私も皿が空なのを一瞥すると立ち上がって、行きましょうか、なんて声をかけた。彼が差し出した手を自然と取った私は彼と目があった。いつもはそう意識をすることもなかったが、彼は私より少し目線が高いらしい。訳も分からないまま、私は彼から目を逸らした。

 会計を終えて、店を出た私たちを支配していたのは、何度目か分からない沈黙だった。今回ばかりは、私もまるで考えがまとまらず、何も話題という話題が出てこなかった。今思えば、さっき食べたものに対する感想を言い合ったり、どうとでもなるはずなのに、その時は本当に何も頭に思い浮かばなかったのだ。きっと、初めて私と出かけた時の彼は、ずっとこんな気持ちだったのだろうと、申し訳なさすら感じられる。

 

『八潮さん』

 

『はい、何でしょう』

 

『手、繋ぎませんか』

 

『手?』

 

 頭が真っ白だった私は名前を呼ばれて、数瞬遅れて反応した。彼はとてもゆっくりと手を差し出してきた。いつもの私なら多分、歩みを止めないまま彼と会話を続けるだろうに、どうすれば良いか分からずに困惑した私は足を止めて、彼の顔と手を交互に見比べていた。

 

『肌寒いなら、少し手を繋ぐのも良いかもなと思って』

 

『肌寒いなら……なるほど』

 

『一緒に歩くだけなら、時間もそう変わらないですよね? だから、どうですか』

 

『……分かりました』

 

 彼の言う通り、手を繋いで歩くだけなら、繋がずに歩くのと時間は何も変わらない。だから深い意味だってない、そう甘い考えで彼と手を繋ぐ。

 そして、二人で足並みを揃えて歩き始めた訳なのだが、私の予想は甘かった。深い意味はないなんてのは嘘で、手を繋いで、そこから感じ取れる熱以上に、私の体を正体不明の興奮と動揺が襲ったのだ。

 

『……どうして、手を繋ぎたいだとか、私を食事に誘ったり、したんですか?』

 

 歩き始めて少しして、さっきの彼が沈黙を掻き消した時のように、私は口を開いた。柄にもなく、その時の自分の声は震えていたことを覚えている。

 

『八潮さんのことが、好きだからです』

 

 冷たく済んだ空気の中を、そんな彼の芯の通った声が震えて伝わっていた。私のこれまで人生で得た知識では、それに対する答えというのはさほど効果的なものはなかった。いや、違う。知識としては持っていても、当事者になることは想定されていなかったのだ。その答えはもはやアドリブといっても差し支えなかったろう。

 

『そう、ですか』

 

『返事は?』

 

『……考えておきます』

 

 逃げと言われても仕方がない。それまでの自分ではまるで対応が出来なかったのだ。彼を好きなのかどうかと問われても、そんなこと、私には分かり得ないのだから、答えようがないのだ。

 彼は少しの間、静かに何ももの言わなくなっていたが、チラチラとこちらの顔を覗き込んで、クスリとだけ笑った。

 

『ゆっくりで、大丈夫ですよ』

 

 

 

 それからも、私と彼のお出かけは続いた。それまでは甘味を求めて探し歩いたりばかりだったのに、他にも一緒に買い物に出かけたりと、より親密な関係になっていた。今考えれば、それはおそらく当然だった。

 出かけるたびに、毎回のように手を繋いだりはしたし、おそらく、一般的に言われる恋人という関係でするようなことは、一通り経験したようにも思える。改めて告白された時の様子は……。……これは敢えて思い出すような必要もないだろう。ただ、一つ言えることがあるとすれば、私にとって彼と過ごす時間は貴重で、かけがえのないものになっていったということぐらいである。

 木枯らしがふぅと吹き抜けていった。私はその風にハッとするように、辺りを見回そうとした。だけど、見回すよりも先に、目的の彼はそこにいた。

 銀杏並木に隠されていたかのように急に現れた彼は、私に時間を無駄にすることの意味を教えてくれた彼だった。

 

「お待たせしました、瑠唯さん」

 

「遅いわ。五分遅刻ね」

 

 私は改めて銀色に光を反射していた時計の文字盤を見つめる。とても長い時間、彼との出逢いの思い出を振り返っていたようにも感じられたけど、実際に経っている時間は十分もないぐらいだったらしい。

 あれほど長い私と彼との邂逅を十分間で楽しめたと考えたら、それは皮肉なことに恨めしいぐらい効率的らしい。

 

「五分、誤差みたいなものじゃないですか」

 

「一秒でも遅れた時点で誤差ではないわ」

 

「そんなぁ……」

 

 待ち合わせの時間との差の五分は、私にとってとても大きな無駄であったけれど、彼の言い分によれば全然無駄だというわけではないらしい。子供騙しの論理に危うく引っかかりそうになった自分は熟甘くなったなと考えずにはいられない。

 彼を待つ時間は無駄ではない、彼に教えてもらったことによればそうなのかもしれない。けれど、今の私にとっては、無駄とまでは言わずとも、勿体ないこと極まりない時間となっていた。私は変わってしまったらしい。

 

「だって、貴方と会う時間がそれだけ減ってしまうのは、勿体無いでしょう?」

 

 きっと、今の私の表情は、かつてでは考えられないほどに柔らかな笑顔を浮かべているだろう。私は彼の凍えた手を取る。そして、その減ってしまった時間を惜しむように早歩きで歩き始めた。

 彼に教えられて、私は変わったのだ。無駄を楽しむ。ただ、彼と過ごす時間は、喩え一瞬たりとも無駄ではないのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【花園 たえ】不思議なキミのアンコールを

 都心では木枯らし一号が吹いたなどというニュースがいつか聞こえていた。それもそうだと思わざるを得ないような外の凛とした空気。そんな季節に街中を歩いていると、無性に口から漏れ出る白い吐息が物寂しく見えることがある。

 特にこういったことに哀愁であったり、寂寥を感じるような性分ではないだけに、まるで宙を浮いているかのような不思議な気分だった。

 

「一番線、電車が参ります」

 

 ノイズのかかった声は、そんな物寂しさを体現する街を少しでも華やかにしようとしているのか、返事もないのにこだましている。スピーカーから流れる音声や音楽、改札を出た外の店なんかから流れてくる、明るそうで楽しげな音楽。この街にはこんなにもたくさんの音が溢れているのに、その音に包まれて生きる私の心はとても静かで、つまらなかった。

 

 改札を抜けて駅前の広場に出た私は、手すりを背にして背負ってきたギターケースを下ろした。灰色の無機質なコンクリートと、冷たい金属製の手すりを背景に下された、真っ黒なギターケース。そこに広がる世界はとてもつまらないように見えそうだけど、私にとってはその真っ黒な被写体が輝いて見えていた。

 一度広場の方を振り返り、周囲を歩く人の姿を眺める。広場とはいっても、イベントなんかを開くには少し狭い。今この瞬間にこの広場を賑やかにしている人たちも、恐らくはこの小さな都会の駅を日常的に使う近所の人たちだ。当然その人たちにはその人たちの日常があって、広場の端っこで背負っていた荷物を下ろして、これから何かをしようとする私に気を向ける人など一人もいない。

 私が黒いギターケースから、目が覚めるような青のギターを取り出してみても、私に気を留める人なんてのはやはりいなかった。いや、正確に言えばほとんど、だろうか。足を止めて、こちらを不思議そうに見つめる同じぐらいの歳の人が一人。

 なるほど、この人が今日の最初の聴衆なのか。そう考えた私は取り出したストラップを肩にかけて、目を閉じる。心を落ち着けて数秒。

 

 世界が変わった。私の指がたった今、この瞬間に奏でる音がこの黒ずみかけた落陽の街に響いている。演奏の合間にわずかに視線を上げると、さっきまで私に見向きもしなかった人たちが、一斉に足を止めてこちらを見ている。ここでこうやって弾き語りをすることなんて数え切れないぐらいしてきたから、この中には多分今までに何度か私の姿を、私の音を目撃した人だっていそうなものだ。

 でも、足を止めてくれたからと言って、全員が全員、一曲の終わりまで聞いてくれるわけじゃない。こんな寒々しい風が吹き荒ぶ駅前で人の魂を揺さぶらせるためには私の力じゃまだ足りない。

 また一人、また一人と立ち止まった人たちが立ち去ってゆく。電車が来たことを示す踏切の音が私の音楽の邪魔をした。その瞬間、まるで蜘蛛の子を散らすように一斉に人の集団が駅の方に駆けていった。仕方ない。その人たちにも生活がある。

 でも、少し前までは人の壁があったように見えた私の視界に映るのはほんの何人かの聴衆だけ。ほんの少し悲しさを覚えながら、最後の一音が昏い空に飛んでいき、一曲が終わった。

 さっきまでの人の群れが嘘みたいに消えていた。私の目の前に残っていたのはたった一人だけだった。最後に残っていた人たちも拍手もすることなく立ち去っていたのだけど、その人だけはどういうわけか立ち竦んで、小さな破裂音を手で奏でながらぼんやりと私を眺めていた。

 

「どうして最後まで聴いてくれたの?」

 

「えっ」

 

 気がついたら私は、数メートル離れて立っていたその人に話しかけていた。そりゃあ彼もビックリするだろう。駅前で一人で弾き語りをしているギタリストに形ばかりの拍手を送っていただけだろうに、それで声をかけられるだなんて。

 私は彼のそんな驚きだとかに気にかけるようなことはしないので、フリーズしてしまった彼のことなど構わずまだまだ話しかけ続ける。

 

「最初からいたよね。ずっと立ち止まって聴いてくれてたから」

 

「あっ、いや」

 

「周りの人はみんな寒くて帰っちゃったのに」

 

「そんな深い理由は」

 

 彼のことがどうにも不思議に思った私は、彼が困り果てていることなどつゆ知らず、ただただ問いを投げかけつづける。内心彼が私の疑問に対する答えを持ち合わせていないことにも気がついてはいるけど、そんなの私にとってもどうでも良かったわけで。

 結局のところ私は彼がなんで聴いていてくれたのかという理由を知りたいのではなくて、単に暇だからだとか、みんなすぐに行ってしまって寂しかったからだとか、そういう気持ちを慰めたいだけだったのかもしれない。

 

「ただ。たまたま通りがかって、こんなところで何をするのかなって気になっただけで」

 

「そうなんだ」

 

 これだけ気にしてくれた、というのがなんとなく嬉しくなって、私はまたピックを握りしめる。それまで、この街の鬱々しさに心が屈服しそうになっていたはずなのに、いつの間にやらそんな昏い空は晴れていた。そのせいだろうか、さっきよりも、今の方が体だとか、腕だとか、全てが軽く感じる。そのまま空を飛べてしまうかのようなぐらい。

 まるで淀みなく、どの音も私の心を震わせるには十分すぎるほど。こんなのに、ポピパのみんなと一緒に弾く時以外で、そうそう感じたこともない。

 気持ちいい。ただただ気持ちよくて。そんな快感に包まれながら、夢中になっていたら、気がつけば曲は最後の一小節を迎えていた。

 曲の終わりと共に目を開く。気分だけで言うなら、大きなライブでアンコールまで終わって、会場全体が地響きを起こしてしまうほどの喝采に包まれて、退場する時のような。そんな計り知れない満足感と一緒に顔を上げた。

 

 そこに、さっきまでの彼はいなかった。私はキョトンとして、暫く放心状態だった。

 いや、単に人混みに隠れているだけかもしれない。一曲目の時とは違って、他の人たちが多く、曲の終わりにも関わらず、私の周りには群衆ができていた。疎らな拍手の音も次第に一つの大きな、黒い波になって、気がつけば大きな拍手の音になっている。

 そういうわけだから、こうやって集まってくれた人の影に隠れてしまっているだけかもしれない。そう考えてキョロキョロと辺りを見回した。やがて拍手の音も収束していき、満足したであろう聴衆たちは一人、また一人と自分の帰路に着いていった。そうやって現れる人混みの隙間を食い入るように探したいはいるのだけど、やはり彼の姿はなかった。

 遂に私の目の前から誰一人いなくなって、元の静かな駅前広場に戻って、ようやく私は冷静になった。寝起きに水をかけられたようにハッとして、そそくさと帰り支度を始める。ケースにしまわれて、ジッパーに飲み込まれていくような青が悲しげに見えた。少し高く、空虚にも聞こえるその音はより一層悲しさを引き立てている。

 

「ありがとうございました」

 

 人がたまに通り過ぎるだけになった駅前の小広場に向かって、私は誰にも聞き取れないぐらいの声量でお礼を告げる。ギターケースを背負って、私は周りの人たちと同じように帰路に着くことにした。

 

 

 

 翌日。学校が終わって、ポピパのみんなと会う予定も特になかった私は、昨日の自分をなぞるかのように、同じ駅前にいた。昨日よりは少し明るく、人通りも多いように見える。このタイミングで弾き語りをするのであれば、より多くの人に聞いてもらえそうだ。

 そもそも私がどうしてここで路上ライブのようなことをしているかといえば、元は自分を知らない人たちからの反応が見られるからだ。それはPoppin'Partyの花園たえ、ではなく、たまたま駅前で見かけたミュージシャンとして見られるわけで。物凄くフラットな目線で自分のことを見てもらえるからだ。

 自分の実力を測りたい、そんな心持ちでこうやって路上ライブをしてきたというわけだったのだが、今日の私の目的はどうやらそこになかったみたいである。

 ここに来るまでの電車の中で、座りながらもぼんやりと頭にあったのは昨日の陽の落ちた広場で、私の演奏をただ一人聞き通した彼の立ち姿だった。あの十分程度という、寒空の下で立ち止まっているだけにしてはそこそこ長い時間を私にかけてくれたわけだ。なのに、物凄く私の演奏を楽しんでくれただとか、そういうわけでもなく、私の演奏を立ち聴きする彼のことがなんだか心に引っかかったのである。

 

 これから弾き始めようと、改めて周囲を確認すると、どういうわけだか彼はやはりいた。もしかしたら私が今日も来ることを楽しみにしてくれていたのだろうか、そんな少しの期待を胸に抱いた。彼以外も今日はギター弾く前からなんだか人集りのようになっていた。彼と私の間に空いた微妙なスペースを、他の人たちと共有していた。

 私はふぅと一息ついて心を落ち着けて、またいつものように弾き始める。

 普段は、観客の方を一切見ずに、ただ自分の手元に集中するなんてこともあったけど、今日ばかりは流石に、その人集りの方を気にせずにはいられなかった。

 でも、他のことに意識が向いていた割には目立ったミスをすることもなく、私は一曲を奏で終える。昨日のような拍手に満足感を覚えつつも、今度ばっかりは、私も彼が帰ることのないようにそちらをずっと気にしていた。彼を最初に見つけた時から、彼がいたポジションには常に気を払っていた。

 彼は帰ろうという素振りひとつ見せずに、直立で、乾いた拍手の音を立てていた。私の演奏に満足した一般の人たちが次々に去っていく。私が次の曲を演奏しない様子を見て、興奮冷めやらぬ様子の聴衆も立ち去っていた。けれど、やはり彼はその場で突っ立っていたものだから、私は淡々とギターをケースにしまって、クルリと振り返った。

 

「今日も来てくれたんだ」

 

「えぇ、その。昨日はごめんなさい」

 

「昨日?」

 

 そう言われて、ようやく昨日の二曲目を弾き終わった後のことを思い出した。彼はそういえば何も言わずに姿を消していたっけ。なんだか悲しいことを思い出してしまった。私は胸の中にどーんと響いた鬱々しさを見せないようにしないように努めた。

 

「途中で帰ってしまって」

 

「いいよ」

 

 彼は目のやり場に困ったように私から視線を逸らして、ソワソワしているような様子だった。彼の態度の意味もよく分からないまま、私は広場の周りをぼんやりと眺めていた。さっきまで私の演奏についてきてくれていたような人々が形作るこの会場も、演奏の数分後にはいつも通りの景色に戻ってしまっている。

 

「それなのに、どうして今日は来てくれたの? まさか、謝りにきただけ?」

 

「いやいや、とんでもないです。なんだか、もう一度このギターを聴きたいなと思ってしまって」

 

「へぇ」

 

 なんだか、変な感じがする。もちろんポピパのライブに通ってくれるお客さんの中には、私のギターを聴きに来てくれた人も一定数いるし、こういうことは言われ慣れているはずなのに。いや、今のは少しだけ驕りが混じっていたかも。

 ただ、一つだけ重要なことは、とにかくなぜか心臓で脈を打つスピードが上がっていることだろうか。人前でギターを奏でる時であってもこんなにも緊張するようなことはない。いや、これはそもそも緊張の類なのだろうか。よく分からない。けど、言われ慣れているような言葉なのに、彼からその言葉が聞けたのが嬉しいような気がした。

 

「私のファンなんだ」

 

「ファン……? いや。……たしかに、そんなところ……ですかね。名前も知らないのに、少しだけ偉そうかもしれないですけど」

 

「名前? 花園たえだよ」

 

「花園、たえ?」

 

「私の名前。Poppin'Partyってバンド、聞いたことない?」

 

「……ごめんなさい。そういうの、疎かって」

 

「ありゃりゃ」

 

 名前を出したら、聞いたことぐらいはあるんじゃないかという期待もあったけど、あっけなくそれは立ち消えた。いやまぁ、あの有名人が?! という態度に彼が急に変わってしまえば、それはそれで私は落胆することになるのだけど。

 

「バンドに疎いのに、ただの路上アーティストの私のギターには立ち止まってくれたんだ」

 

 なんだかんだ言っても、一番気になるのはここなのだ。そりゃあ心が寂しい時に話し相手をしてくれる人が居てくれることのありがたさもあるけど、彼の不思議さが気になって仕方がないのだ。

 

「なんだか、聴きたくなっちゃって」

 

「聴きたくなった?」

 

「理由なんてのは、ないんですけど」

 

「聴きたいなら、じゃあ」

 

「えっ?」

 

 困惑した様子の彼を他所に、私は再度、背負っていたギターケースを下ろした。それを見た彼はどうやら私の意図にも気がついたらしい。彼が私のギターを聴きたいと言っている。それなら私がギターを弾くのが筋だろうか。そんな単純な考え。少しだけ、あれ、と思った。

 

「いやいや、花園さん」

 

「たえでいいよ」

 

「たえさん」

 

「たえでいいよ」

 

「たえ、ここでまた弾くんですか?」

 

 彼から呼び捨てにされながら、敬語を使われるというのはなんだかこそばゆく感じる。それはそれとして、彼はどうやら私のギターを聴きたいなんて言っておきながら、ここで弾かれるのは嫌ということらしい。

 

「それじゃダメなの?」

 

「ダメというわけでは……。でも、さっき終わったばっかりでもう一回というのも」

 

「でもアンコールを求められたら応えるのがミュージシャンだもん」

 

「と言っても流石に」

 

「あっ、そうだ」

 

「はい?」

 

「じゃあ、うちに行こう」

 

「……へ?」

 

 私がそんな提案をした瞬間、彼はいつぞやの時のようなキョトンとした表情で私の方を見つめている。目線の高さが殆ど同じぐらいだから、その気の抜けた表情はものすごくよく見えるのだけど、だからこそ思わず吹き出してしまいそうなぐらいの面白さがある。

 

「おうち」

 

「いやいや、えっと。昨日会って話したばっかりですよね?」

 

「ダメなの?」

 

「ダメでしょう」

 

「そっかぁ」

 

「危ないですよ、何されるか分からないのに」

 

 彼は慌てた様子で、女の子の家に出会ったばかりの男が上がり込むことの危険性だとかを説こうとしているらしい。一般論で考えたら、彼の言うことにも一理ある。確か小学校とか、そんな感じのことを習った覚えがある。知らない人に着いて行ってはいけないだとか、物をもらっちゃダメだとか、知らない人の車に乗ってはいけないとか。

 でも。

 

「私に何かするの?」

 

「え?」

 

「キミは私の家で私に何かするの?」

 

「いや、しないですけど」

 

「じゃあ大丈夫」

 

「えっ? ちょっと」

 

 彼は私の行動を静止しようとしているのだろうか。駆け出そうとする私の手を掴む。だから私はそんな彼の手を取って、つまり掴み返して、引っ張って走り始めた。

 

「うわっ!」

 

 側から見れば、荷物の多い二人が手を繋いで走るなんていう変な絵面に見えているのかな。でも周囲の目線なんて気にしても特に意味はないので、私は彼の手を離すでもなく、彼の声に耳を貸すでもなく、帰路に向かって、駅の方へと駆け出した。

 

「えっと! なんでっ」

 

「私のお家行くんでしょ?」

 

「まだ行くとはっ。というか僕が上がるのはまずいって」

 

「大丈夫だよ」

 

 彼は声でこそ私を引き止めようとしているようだけど、力はなんだか弱々しくて、私の力でも軽々しく引きずることができていた。でも、力を抜いているだとかそういうわけじゃなさそうで、どうやら本気で私の方が力が強いらしい。これじゃ、さっき彼が説いてくれたみたいな危険はなくて、私の方がよっぽど誘拐犯みたいだ。面白いや。

 物理的に説得したら、彼も諦めがついたのか、徐々に静かになっていった。人前で騒いだりすることにも抵抗だとか、そういうのが多分あるのだろう。電車に乗るためにホームまで来たら、不安そうな表情を浮かべながらも何も言わなくなった。

 

「そんなに私の家行くの、嫌だった?」

 

 乗り込んだ電車は、帰宅時間とバッティングしそうなのに、所々座席が空いているらしい。そんなわけで空いた座席に腰を下ろしたのだが、ここまで来てもなお浮かない顔をする彼に問いかけた。

 

「そうではないですけど。なんで、出会ってすぐなのに」

 

「ダメなのかな」

 

「普通は、ダメかと。というか、たえは嫌じゃないんですか?」

 

「特に」

 

「もっと、その、気をつけないとダメですよ」

 

「なるほど。そういうものなんだ」

 

 彼に言われて改めて考えては見るけど、じゃあ彼を家に上げないでおこう、とはならなかった。他の人だったらどうなのだろうか。そんなことになったことがないから分かんないや。

 最初の方は不安そうな顔色ばかりだった彼も、時間が経てば現実を受け入れるようになったのか、すっかり元通りになった。時々息を吐いている辺り、緊張しているのだろうか。

 ほどほどに電車に揺られて、気がつけば最寄駅にまで着いていて、動きがやたらとぎこちなさそうな彼を呼びかけて電車を降りる。駅から少し家までは歩くけど、彼はその道すがらでもソワソワしている気分を落ち着けることが出来ていないらしい。

 

「そんなに緊張しなくてもいいのに」

 

「これは緊張というか。まだ現実を受け入れきれてないというか、どうしてこうなってるのか分からないというか」

 

「こうなってる?」

 

「たえの家に上がらせてもらうとか。友達ですらないのに」

 

「友達じゃないの?」

 

「えっと、ファン?」

 

「友達だよ? ファンだけど」

 

 彼がどう思っているかは別として、私にとってみればそれは友達みたいなものだった。少なくとも彼を家に上げない理由はないし、会ったのが二回目だとか、そういうのはどうでもいいことだ。

 私の家のすぐ近くまで来ている以上、今更何かを言ったとしても何の意味もないということは大体わかるとは思うのだが、何の意味もなくとも、彼は私に遠慮をしてしまうらしい。

 

「むしろいきなり家に上げてもらうっていうことが」

 

「あっ、着いた」

 

「えっ」

 

 尤もらしい言い分をつらつらと並べようとしていた彼だったが、私が足を止めた瞬間ぴくっとして、言葉に詰まっていた。でも、私は彼の手を力強く握りしめたまま家へと上がる。靴を脱いで向かった先は自分の部屋だった。

 

「まぁ……いっか」

 

「あれ、どうかした?」

 

「いえ、何もないです」

 

 自分の部屋に来ると、なんだか路上でギターを弾いていた時よりも心が落ち着くような気がした。多分今の私の顔にもそんなのは現れているのだろう。そして彼の方を見ても、どうやらそれなりに落ち着いたというか、吹っ切れているらしい。

 

「どこに座ってもいいよ」

 

「じゃあここに失礼します」

 

 ローテーブルの隣にちょこんと、小さく座った彼を見下ろしながら、私はベッドの縁に腰を下ろした。そしてギターケースから愛用の青いギターを取り出す。

 

「本当に良いんですか?」

 

「家? 大丈夫だよ」

 

「そうじゃなくて。いや、それもそうなんですけど、ギターを聴かせてもらうなんて」

 

「うん、だって聴きたいんだよね?」

 

「それは、はい」

 

 彼の返答は思いの外はっきりとしていて、それを聞き届けた私は構えようとする。そこでなんだかハッとさせられた。さっき駅前で覚えた違和感の正体がなんとなくわかったからだった。言葉にするのはとても難しいのだが、敢えて言うなら、弾きたいから弾く、そうじゃなくて、聴かせたいから弾こうとしている自分がいること、だろうか。

 

「うーん、そっか」

 

「えっと、どうかしたんですか?」

 

「ううん、不思議だね、キミって」

 

「えっ」

 

 多分彼からすれば無自覚なんだろうか。私からすれば、彼は不思議で堪らないのだけど。私のギターを聴きたいとか言っている割には、私がギターを聴かせようとすれば断ろうとする。ファンといわれればそういうわけでもなく、彼は私のギターが好きだから聴こうとしてくれているわけではない気がする。確かめたわけじゃないけど、多分そうだ。まるで捉えようのない、そういうのが一番ばっちり当てはまる。だからこうして無理矢理にでも聴かせたくなるのかもしれない。

 

「聴きたい曲は、ある?」

 

「特には。たえの持ち歌なんかがあれば、なんでも」

 

「じゃあ全部」

 

「ちょっと待って。多すぎることはない?」

 

「さぁ」

 

 私はギターを構えた。その瞬間、部屋の彩りがより一層輝きを増した。ギターの青だけじゃなくて、床のカーペットの色も、壁紙の色も、全部がさらに色濃く浮き出てきたのだ。

 

「今度は逃げないよね?」

 

「はい、もちろん」

 

「うんうん。キミに出口はないよ」

 

 多分彼が逃げようにも、私の家まで来た以上逃げられないはずだ。出口がない、詰まるところ、私が実質的に出口を塞いでいるわけだし。というか彼が私のギターを聴きたいと言ってここまできたのだ。まさか逃げるわけあるまい。

 そう確信した私は手に取ったピックを弦にかける。いつも以上に震える心臓に興奮をさらに昂らせながら、部屋の空気が振動した。

 再度彼の方を確認すると、街角で私のギターに耳を傾けていた時と違って座ってはいるものの、目を閉じて、ちゃんとこの私の指の一本一本が弾き出す音を拾おうとしているらしかった。

 

「ありがとう」

 

 多分彼には聞こえないぐらい小さく、ボソリとだけ呟いた。その呟きも続け様に部屋を揺らして止まない、光る音楽の波に呑まれていく。

 その演奏は楽しいという言葉だけでは最早表現できなかった。ただ強いていうならば、とても近い距離にいる彼がここまで聴き入ってくれているだけで私の心は物凄く満たされていた。

 本当に、あっという間だった。一曲がここまで短いと思ったことはなかった。まさか、間違ってどこかのフレーズをまるっきりすっ飛ばしたりしているのではないかと疑ってしまうほどにだ。

 彼の反応を待つまでもなく、私は次の曲へ。ただ、彼はずっと私の音を静かに聴いているらしい。そんな彼に聴かせるために、私はただ弾き続けていた。

 

 どれぐらいの時間が経ったろうか。何曲弾いたのかということすらまともに覚えていない。絶対に十は優に超えている。疲労感が如実にその事実を訴えている。

 彼は彼で、私の震える音を一つも聴き逃していないようだった。そして、それなのに、まだまだというような余裕のある表情すらしていた。

 

「疲れた、休憩しよう」

 

「……お疲れ様です。ありがとうございます」

 

 大きく呼吸するタイミングを完全に見失っていたからか、私は、そして彼も、二人揃って大きく深呼吸をしていた。ある意味、ライブ直前の緊張感を上回るぐらい息が詰まっていた。でも、彼はどうやら同時に深呼吸したのが、どうしてか気になってしまったらしい。

 

「ふっ」

 

 その時、彼の笑顔を初めてはっきりと見た。いや、少しだけ言葉が足りないか。それまで、曲の後に彼が見せる笑顔は少し作られたような、ぎこちなさも混じった笑顔だった。それが、一瞬で崩れてしまったみたいな笑顔。ギターを弾きながら横目で彼を見た時、恐らく彼が浮かべているであろう表情と同じだった。

 私はそんな顔を穴が開くように見つめてしまう。彼もそれで気がついてしまったのか、慌ててさっきみたいな変にすましたような表情に戻してしまった。

 

「……何か」

 

「ううん。本当に不思議だなって」

 

「それは、良かったです」

 

「アンコール、いる?」

 

「……いいえ、今日はこの辺で」

 

「そっか」

 

 私が見つめすぎたせいで不機嫌になってしまったのか、彼は起伏のない声色で返事をした。彼は脇に置いていた鞄を持つと立ち上がろうとしていた。

 

「ねぇ」

 

 私は彼を引き止めていた。どう引き止めようか考えついていなかったけど、ただ呼び止めた。部屋を立ち去ろうとしていた彼は止まって、こちらの返事を窺っているらしかった。

 

「明日もライブするから、来てよ」

 

「……駅前なら」

 

「うん、それでいいよ」

 

 階下に降りていく彼の後を追って、玄関のドアが閉まるのを見送った。鍵を閉めて、自室に戻って、かつてないほどに色づいた部屋を見回した。

 

 

 

 それからだ。私は毎日のようにあの駅の前の広場で路上ライブをしている。あの日のように冷たい風が吹いてはいるけど、そんな冷たい空の空気に当てられたように、山々の方はかなり紅葉が進んでいるらしい。

 そんな紅とは対極にあるような青いギターを構えて、私はまたも街角に立っている。段々とここで路上ライブをしている奴がいるらしい、なんて噂も立ってきているらしいが、私はここで変わらずギターを弾き続けている。

 大体は、何曲か弾いたら私が頭を下げて、そうなったら集まっていた人たちはまたいつもの日常に戻るっていうのを繰り返していた。そして、人が粗方散った後、まだ残っている彼に向かって私が声をかける、なんてのがルーティンになっていた。

 

「今日はどうだった?」

 

「良いと思います」

 

「アンコールは?」

 

「今日は、ちょっと」

 

「残念」

 

 彼は不思議だ。あれほど私のギターを聴きたがるのに、アンコールを求めたがらない。でも、私の音をもっと聴いていたいらしい。本当に不思議で堪らない。

 駅前の広場は、私が初めて降り立った時よりも、鮮やかになっていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【チュチュ】プロデューサーに小休止を

 コツコツとワタシの足が鳴らす音だけが無音の廊下に響いている。まるでそこにはワタシ以外の人間が誰もいないのではないかと錯覚するほどの静けさであった。周囲の建物とは比べ物にならない高さを持った高層マンション。そこがワタシの住処であり、ワタシのRAISE A SUILENの居場所でもあった。

 高層マンションの防音性というのは大層なもので、この廊下にいても部屋の中から誰かがいるような、騒ぐような声は何も聞こえない。そんなものとは関係なしに、人気のまるでない廊下というのは単調なものだった。

 

「今日はパレオは……あぁ」

 

 玄関のドアを開けたら、すぐにでもパレオを呼びつけようかとも思ったのだけど、なんだったか今日は急用とやらでいないと昨日言われたことを思い出した。パレオがワタシの世話を放棄して向かうだなんて相当な用なのだろうけど、文句をつけても居ないものは仕方がない。去り際にこれ以上ないほど笑顔だったのは少々気にかかるけど、どうせPastel✽Palettesのイベントがどうとかそんなところだろう。

 どことなく暗くなった心を慰めるように、マンションの廊下の方をチラリと見やった。でも、マンションの廊下もワタシの心を慰めるには少々つまらない。外の景色はそれはそれは眺めも素晴らしいものだろうけど、廊下から外を見下ろすことは出来ない。暗く沈んだ気持ちを落ち着けるような晴れやかな外を見るには、自分の家の部屋の窓が一番らしい。

 

「嘆いても仕方ないわね」

 

 いつのまにか溜まっていたらしいストレスを赤い髪にぶつけて、ドアを開ける。ガチャリという解錠の音に合わせてため息を吐きながら部屋に上がる。

 先程とは違い、温かみのあるフローリングの廊下。ただ、季節柄なのか、どことなく廊下の足元の空気は冷えている気がする。さっきまではもっと冷たい空気で溢れた外にいたはずなのに、今の方が寒く感じてすらいる。

 リビングでは、外からの灯りもなく、暗い部屋が広がっていた。帰り道では徐々に陽が落ちて、既に夜と言えるような時間帯になっていたせいで部屋が暗いのは想像通りなのだけど、まるで綺麗に見えるのは遠くの外の夜景だけだったらしい。

 

「ライトは……どこ?」

 

「ここだぞ」

 

「Eek?!?!」

 

 ワタシが暗い部屋の照明のスイッチを探していると、突如として部屋が明るくなり、背後から声が聞こえた。あまりに突然な周囲の変化にワタシは思い切り叫び、腰が抜けそうになるのを必死に堪えて、振り返る。そこにいたのは。

 

「ビックリしたじゃない!! どーしているのよ!!」

 

「どーしてもなにも、世話を頼まれたからな」

 

「そういうことじゃないわ! いきなり驚かすようなことをしないでっていってるのよ!!」

 

 お化けとか幽霊とか、そういう非現実的な類の存在ではなかったからまぁ良かった。まるで見たこともないような見知らぬ人間とかでもない。知り合いどころか、もう少し深い関係値の人間であったのだけど、今日、この場にいるだなんてのは何も想像すらしていなかった。そういう意味ではお化けと遭遇したのと大差はない。

 とにもかくにも、ワタシからすれば嬉しくも恐ろしい経験だったわけだけど、あまりに驚かされて、敵意剥き出しになっても仕方がない状況だ。どんな事情があれど、噛みつかれてかも文句は言えない。

 

「まぁまぁ、驚かせたのは悪かったけど。部屋の電気探してたんだろ? つけただけじゃんか」

 

「だから! ……って、はぁ。もういいわ。怒るのも疲れたわ」

 

 ワタシがライトを探していたとか尤もらしい理由をつけた彼は何も悪びれる様子もなく笑いながら、ワタシの横を通り抜けてソファへ。ワタシより歳こそ数個上だからと言って、こんな態度を取られちゃ積もるものもあるというもので、言葉を何度も飲み込んで一息ついた。

 

「それで、世話を頼まれたって?」

 

「そりゃ、パレオちゃんから」

 

「あー……そう」

 

 パレオが昨日の去り際に笑顔だったのはどうやらPastel✽Palettesではなくこういうことだったらしい。こうなることを見越していたかまでは知らないけど、敢えて言わなかったということは面白がっていたに違いない。今度グチグチと不満をぶつけまくってもいいだろう。

 彼がこの場にいるのは、パレオが今日は世話ができないからというより、彼に世話をさせるためということらしい。そもそもワタシが一人ではまともな生活が送れないのが問題だとか言われそうだけど、そんな話はナンセンス。

 

「昨日のお昼にお願いします〜、って連絡が来たからな。あとちゆには秘密でって」

 

「パーレーオ……」

 

「嫌だったのか?」

 

「嫌とは言ってないわよ、嫌とは」

 

 嫌というよりは癪なのである。パレオの掌の上で転がされてるような感覚がするのも嫌だし、もっと言うと、彼の前で感情のままに変な態度を取ってしまったことへの後悔なんかもあるだろう。

 彼が今日家に来てくれたことが嬉しいか嫌かと問われればむしろ前者である。ただ、わざわざワタシを驚かせてその反応を楽しむみたいな性格のひん曲がったコイツに素直に嬉しいというのはそれはそれでもっと嫌である。

 

 行き場のない感情をどこにぶつけることも出来ないまま、ワタシはとっとと洗面所の方へとそそくさと逃げることにした。彼から離れて、冷たい水道水に触れて心を落ち着かせる。数分もしないうちに、さっきバクバクと暴れ出しそうだった心臓はその脈拍も落ち着いてきた。

 洗面台の前に鎮座している鏡にチラリと目をやった。さっきまで寒い空間を歩いて帰ってきたワタシの頬は少し赤らんでいる。そう、これは寒さのせいなのだと自分に何度も言い聞かせている。現に、この洗面所だって、他の部屋だって外気よりはマシだとはいえ少々冷たい空気だ。

 鏡の上に取り付けられた電灯がワタシの顔をより鮮明に照らす。自分の顔をマジマジと見れば見るほどワタシの顔は赤さがます。見つめてはいけないと分かっているのに見てしまうのは何故だろうか。ワタシはこの数分の思考を全てリセットするために、首が千切れるのではないかと思うぐらい全力で首を横に大きく振った。

 

 部屋に戻ってきたワタシは部屋がいつのまにかさっきよりほんのり暖かくなっていることに気がついた。低く響く音からするに暖房をつけてくれていたのだろう。さっきと変わらずにソファの上に優雅に座り続ける彼のさりげない優しさに胸の中では感謝して、一方で素直になるのも憚られたもので、無言のまま、広々としたソファの彼の横に座った。

 

「おかえりちゆ」

 

「挨拶が遅いわ。その言葉はワタシが帰ってきてすぐに言うのよ」

 

「帰ってきてすぐに話しかけたらちゆが怒ったんじゃないか」

 

 怒られるようなことをしたのはお前だ、なんて反論しようとも思った。けど、言い争いをするような体力もなかったワタシは呆れたようなため息で暗に反論するだけにしておく。

 彼はワタシの反論を気にかけることもなく、テーブルの上に置いてあった、湯気の立ち上るコーヒーを口につけて、部屋の向かいのテレビを見ていた。テレビはついていないから、当然音も出さず、光も出さない。

 彼の手元を目で追っていると、ワタシの目の前のテーブルにもマグカップが置いてあるのを見つけた。湯気でその奥のテーブルの向かいが少しだけ歪んで見えた。多分彼が淹れてくれたのだろう。ホットミルクだった。

 

「晩御飯は食べたの?」

 

「えぇ。今日はパレオはいないって知っていたから。マスキングに連れて行ってもらったわ」

 

「そっか、じゃあ俺の仕事はほとんど終わりか」

 

 少しばかり悲しそうな声色で彼がつぶやく。その言葉にワタシは少しだけ外でご飯を食べてしまったことを後悔する。パレオだって、マスキングたちに彼が来ることを伝えてくれたっていいのに、なんていう恨み節も同時に思わず浮かんでしまう。

 彼が来ると知っていたら、ワタシはきっと一目散に撤収して、待ち遠しい遠足を控えて眠れない子どものように彼を待っていたのだろう。それはそれで情けない話だけど、自分の欲望に嘘をつくことはできない。

 哀愁漂う彼の声に、少しだけ寂しさを覚えたワタシは彼が今日、この晩をどうするのかだけが気になった。

 

「今日はもう帰るの?」

 

「それはつまり帰って欲しくないってこと?」

 

「なっ。違うわ、一応、一応聞いただけよ」

 

 真っ直ぐ言い当てられるとは想定もしていなかったもので、それを隠すように彼を睨みつける。余裕綽々な彼の笑顔には少し腹が立つ。でも、ワタシの考えていることが少なからず伝わっていることの嬉しさもあって、両方の感情がワタシの心の中で騒いでうるさくなっていた。

 でも、彼はワタシの方を見つめて何かを言うでもない。多分これは、暗に素直になれという命令じみたものらしかった。

 

「そういうことでいいわ。そうよ」

 

「うーん。まぁそれで許そうか」

 

 根気比べはワタシの負け。彼の方は心底楽しそうであるが、勝ち誇るとかそういうことでもないらしい。それはそれでワタシからすれば勝者の余裕のようなものを感じるけど、どうやら敵わないということで諦めるほかない。

 

「さて、ちゆがご飯いらないなら、俺はやることでもやろうかな」

 

「やること? アナタのdinnerは?」

 

「省エネだから、一食ぐらい食べなくても問題ないんだよ」

 

 笑いながら自信満々で胸を張る彼の体は確かに細かった。一応成長期であるはずなのに、筋肉がつき始めているだとか、徐々に男性らしい体つきになっているだとかそういうことはなく、むしろ心配になるような線の細さだ。

 言われてみれば、彼に生活の世話をされて、その中で共にテーブルを囲むようなことは幾度となくあったけど、彼は相当な少食だった。そんな食事量で一体全体どうやって活動しているのかと疑いたくなるほどに。彼もアクティブではないし、むしろインドアな性格だから運動量は少ないのだと誤魔化されることが多かったけど、改めて考えたら心配になるのは当然なぐらいだ。ジャーキーを主食として生活しているワタシが健康のことだとかを言えたものではないかもしれないことはさておき。

 

「ま、今から晩飯を作るのも時間がかかるし、折角作ってもちゆが食べないなら要らないからな。明日の朝食べたら済む話だし」

 

 彼もワタシが帰ってくるのを見越してご飯を作っておいたわけじゃなかったらしい。多分彼の中ではワタシと一緒に食べるのとか、そういうつもりだったのか。尚のこと何も考えずに外食に走ったことが悔やまれる。

 でも、彼は言葉とは裏腹に落ち込んだりだとか、そういう態度は見せずに意気揚々と立ち上がって、やることとやらを済ませにリビングを後にしようとしていた。どうせやることとやらはワタシが普段していることとそんな変わりはない。だから黙ってワタシは彼についていくことにした。

 二人で来たのはスタジオ。いつもならRASのみんなと過ごすことが多いけど、彼と二人の時は当然ワタシと彼の二人で使っていることも多い。ワタシがRASという、最強のガールズバンドのプロデューサーであるのと似たように、彼も謂わばワタシと同じく、音楽というクリエイティブなものを生業にしている。ただ、彼の場合は自分がその音楽を作り、自分で奏でようとしているわけだけど。

 

「よいしょ、っと」

 

 持ち込んでいたらしいギターを彼は取り出すと、そこら辺の椅子に座って早速とばかりに弄り始めた。近くのカバンの中からは、紙が何枚も入っているファイルがチラリと顔を覗かせている。

 

「ここでいいの? 中使っていいわよ?」

 

 ワタシがガラスの中の方を指さすけど、彼は首を横に振るだけだった。スタジオの奥では、楽器のスタンドがいくつも並んで、奏者が来るのを待ち構えている。

 

「いいや、今日はそんなしっかりと音を出すわけじゃないから」

 

 要は曲を作るからここまで来た、ということらしい。残念ながらその役目を果たすことのなかったスタジオ内への扉を閉めて、ワタシはテーブルを挟んで彼の向かい側に座る。

 彼は体の横をテーブルに預けながら座っているから、こちらからでは彼の横顔しか見ることはできない。ただ、その表情は真剣だった。

 やがて彼は件のファイルを重そうに取り出した。そして、それを四角いテーブルの上に出す。出した瞬間の、ドン、という音はそのファイルに挟まった紙の重さを端的に伝えていた。どうやら見た目通りの重さをしているらしく、そんな大量の紙を抱えたファイルは既に接合部分が限界のようにすら思える。

 

「少し見ていい?」

 

「んー。どうぞ」

 

 彼は今日使おうとしている紙の束だけを乱雑に引っこ抜くとファイルをこちらへと渡す。彼が三分の一ほど引き抜いたわけだけど、それでもこのファイルに入っている紙の量は膨大だ。そんな膨大な紙の束の上から数枚を引き抜いて目を通す。

 それは五線譜の書かれた楽譜だった。シンガーソングライターである彼からすれば、まさに命と同等のもの。プリントなどではなく、彼が直接書き込んだものであることはすぐ分かった、努力の結晶であった。

 何度も細かい部分が修正されて、鉛筆か何かで書き込んでは消され、書き込んでは消されを繰り返したらしい。紙のあちこちが黒ずんでいて、その部分を持ったら黒鉛の部分が手につきそうなほどの場所もある。

 

「見ても面白いか? いつも聴いてるだろ」

 

「ワタシが面白いと思って見ているのよ」

 

「ふーん」

 

 さっきまでと比べれば彼の反応が少々淡白になってしまうのは仕方がない。好きなものに夢中になっていれば、それ以外に対して反応が薄くなるのは人間の性というものだろう。きっと本気でRASの音楽を作っている時のワタシもあんな感じだからだ。

 ただ、ワタシの家にいるのに少しばかり冷たいのはなんだか寂しさもあって、それを埋めるようなつもりでこの部屋に来ているということもあった。そんな自分は恐らく心が弱くなってしまっているのだろうけど、少しでも気を引こうと彼の生み出した息吹を手に焼き付けているのである。

 

「これで何曲目?」

 

「うーんとね」

 

 ワタシが何度目かの質問を彼に投げかけると、ようやくひと段落ついたのか、彼が紙の束の一番下の紙を取り出した。それは一応彼が目次のようにして使っているものらしく、このファイルに何が入っているかを記しているらしい。

 

「今月に入ってだと、十?」

 

「……本当、よくやるわね」

 

 このファイル、驚くべきことにどれもが十二月が始まってから彼が生み出したものらしい。単純に考えても、これを参考に今年の分全てを紙として残していたら、大きな本棚の一段分、いや、二段分はくだらない。相当なスピードで音楽を生み出していなければそんなことはできないだろう。もちろんどれもが最高の出来だとか、そういうことはないのだろうが。ただ、その根気はワタシももう少し見習った方がいい部分なのかもしれない。

 

「まぁ……流石にそろそろね。今日はこれが出来たら終わりにしようかな」

 

「何分ぐらいかかるの?」

 

「多分、一時間はかからないかな」

 

「分かったわ」

 

 ワタシは諦めて、彼の対面の椅子から立ち上がる。彼がここまで来て、こんなオーラを出しながらいるということは相当集中するということだろう。ワタシがここにいたところで、彼のために何かができるわけでもないし、構ってもらえるわけでもない。それなら他のことをした方がまだマシというものだ。

 彼のいるテーブルとは少し離れた機材の前の椅子にまで移り、ワタシはワタシでRASのことを考えることにした。

 家に帰ってきてから一度もつけていなかったヘッドホンをつけ、気合を入れ直す。さぁ、後は集中するだけだ。

 

 そんな風に考えていたのだけど、今ひとつ頭は冴えなかった。別に頭の片隅に、少し離れたところにいる彼のことを思い浮かべて気が散っただとか、そういうことではない。RASのプロデューサーの名にかけてそんなことはないと言える。ただ、どうにも考えがまとまらないし、出てこないのだ。有り体に言えば、インスピレーションが湧かないだとかそういう類いだろうか。

 少しだけ頭をリセットしようと顔を上げて部屋を見回す。彼は変わらずテーブル横で云々と唸っている。他に誰の人影もなく、広いようで狭い部屋の中は二人だけの空間が続いていた。この壁の向こうには刺激的で煌びやかにも見える街が広がっているのだろうけど、そんなところに発想を飛ばせるほどワタシの頭はクリアにはなっていなかった。

 

「あぁぁ……。なんなのよ……」

 

 無意識のうちに呟いていたマイナスな言葉と一緒に、ワタシは後頭部の赤髪も何度も掻きむしっていた。なかなかいいアイディアの思い浮かばないワタシのストレスの発散のようなものだった。

 こんな風に八つ当たりをしたところで何も解決しないとは分かっていても、何も出来ない自分に腹が立ったり、焦ったりしてこうなってしまうのは仕方がないだろう。そんな風に自分を宥めるのが精一杯で、もはや何も自分に期待できそうになかった。

 

「落ち着いて、ちゆ」

 

「What?! 何?!」

 

 そんなワタシの思考を遮った声は、またも彼だった。完全に思考世界に入り浸って四苦八苦していたワタシからすれば、現実に一気に引き戻されるも同然だった。集中していたかと問われれば自信はないけど、一応集中はしていたのだから邪魔はされたくなかったもので、彼に文句の一つでも言おうとした。でも、それよりも早く。

 

「ちょ……っと……」

 

 彼の抱擁がワタシを包み、ワタシは完全に沈黙するほかなかった。いつのまにかこの部屋はこんなに寒かったのだろうか。そう疑ってしまうほどには彼の抱擁の温かさは語り尽くさないようなものだった。

 

「……なんで」

 

「ちゆがなんだか苦戦してそうだったから」

 

「ワタシはいいのよ。自分のことは終わったの?」

 

 正直に言えばワタシが気になったのはそっちかもしれない。ワタシが悪戦苦闘しているのはよくよく考えたら彼に構ってもらえないと分かったからなわけで。改めて考えると自分の幼稚さというか、子どもっぽさを実感して頭を抱えたくなるけど、不満があるのは嘘ではなかった。

 

「うん、終わったよ。さっきね」

 

「っ、早いのね」

 

 壁の端っこの方に目立たないようにつけられた時計の文字盤は、この答えのない懊悩が一時間以上も続いていたことを示していた。そりゃあワタシもここまで疲れているわけだ。

 

「……遅いのよ」

 

 そんなワタシの導き出した答えは彼への悪態である。子どもっぽいだろうか、なんとでも言えばいい、ワタシは機嫌が悪いのだ。でも、そんなワタシの八つ当たりにも彼は飄々としているようだった。もっと正確に言えば、目を細めて、温かく見守るようだった。

 

「ごめんごめん」

 

「いいわ、もう」

 

 言葉尻だけ見れば、ワタシは完全に拗ねた子どもなのだけど、心はそれほど子どもというわけではなかった。体が少しばかり熱っているのが自分でもわかる。別に発情しているだとか、彼に欲情しているだとかそんな汚らしいことではなく、もっと初心な何かだった。

 そこまで思考が整理されてしまうと、なんだか気恥ずかしくなってしまって彼とは目も合わせられなくなる。それを誤魔化すために、ワタシは彼から逃れようと身動いだ。彼もワタシの考えが分かっているのか、ゆっくりと名残惜しそうに腕を解き、ワタシのすぐ隣に丸椅子を引いてきて腰掛けた。

 

「それで、ちゆはチュチュになってたわけだ」

 

「Huh? どういうこと?」

 

「RASの音楽、作ってたんだろ」

 

「えぇ。そうよ。アナタが真剣そうだったのに邪魔しちゃあ悪いでしょう?」

 

 敢えて彼に責任をなすりつけるような意地悪な言い方をする。でも、それすらも呆れ半分ぐらいの表情で彼は乾いた笑いを残す。

 

「そりゃあ優しいことで。で、上手くいかなくてあんなに唸ってたわけだ」

 

「……そんなに唸ってた?」

 

「そりゃあもう、猛獣みたいな」

 

 ワタシを笑わせたいのか、怒らせたいのか知らないけど、彼は戯けて両手を軽く拳にして、顔の横に突き出し、肉食獣のような真似をする。ワタシは何も触れずに立ち上がり、彼の残してきたギターや楽譜の置かれたテーブルに逃げた。

 落胆の声みたいなものが彼の方から聞こえてくるが無視して、その上に置かれた紙を手に取る。鉛筆も転がっているから多分これが彼が今日必死になって作っていた曲なんだろう。その下の紙も曲の続きらしいから、続けて手に取った。でも何枚かめくっていくと、途中で明らかに不自然に小節の途中で譜面が切れている。

 

「ちょっと、出来上がってるの?」

 

「あはは、ごめんなちゆ。嘘なんだ」

 

「……はぁ。呆れたわ」

 

 その時、多分ワタシは心の底から落胆していたのだろう。彼が構ってくれたのは完成したからとかではないということらしい。さっきから一喜一憂ばかりしている自分がアホらしくなってきた。

 しかもこんな中途半端な部分で止まっているということは何かで行き詰まっているとかそういうことでもなさそうだ。完全にワタシの予想だが、彼の作業の手を止めてしまうぐらいにワタシの様子は酷いものだったのだろう。

 

「ワタシは戻るから、完成させておくのよ」

 

「まぁまぁ待ってって」

 

「何よ……って」

 

 呆れ果てたワタシは肩を落としたまま曲作りに戻ろうとしたのだけど、それを呼び止めたのは他でもない彼だった。そして、立ち尽くしたワタシの背中から、彼は上から包み込むようにワタシを抱き締めていた。

 

「……これじゃ作業が進まないわ」

 

「どうせ進まないのに無理してもしんどいだけだろ?」

 

「誰のせいだと……」

 

「ごめんな、俺も中々に苦戦してて、続きが思い浮かばないんだ」

 

 彼の言い訳は空虚に聞こえそうなものだけど、彼の様子から察するに実際に彼もそろそろ限界ということらしい。それはまぁ、彼の普段のパフォーマンスと今とその成果物を掛け合わせてみればすぐに理解できることではあった。

 

「それで、どうしたいの?」

 

「ちゆも良いアイディア思いつかないんだろ? 違うか?」

 

「……そういうところだけは聡いのね」

 

 彼の方が幾分か精神年齢が高いというのは事実らしい。ワタシはため息をついたのだけど、彼はワタシを離すことはない。

 

「思いつかないから、もう少し悩む時間が要るわ」

 

「悩んでも答えが出ないのに?」

 

「じゃあどうしろって」

 

「インスピレーションが湧かないなら、他のことで気晴らしも大事ってことだよ」

 

 彼の腕の力はより一層力を増した。ワタシは抵抗を諦めるように彼に体を預けた。実際、彼の言うことも一理あって、何も言い返せることはなかったのだ。

 

「……生憎ね、ワタシは恋愛の歌を作るつもりはないけど」

 

「俺は作るよ」

 

「ワタシの話よ。RASの曲で」

 

「何も俺は恋愛の曲を作れなんて言ってないよ」

 

「……はぁ。そう」

 

 彼の言いたいことがなんとなくでも分かるような気がした。さっきまで、機材の前にいた時にははやるばかりで仕方がなかった脈拍が、今はただ段々とゆっくりになっていることが実感できた。

 

「なんでちゆは恋愛」

 

「うるさいわね。黙ってワタシのことを抱き締めなさい」

 

「了解しました」

 

 途端に静かになる彼。ワタシはそれに安心したように抱き着いた。焦ったところで仕方がないのだから、こういう寄り道も必要なんだろう。彼の右の掌が少し長く伸びたワタシの髪を撫でている。こうしているだけで、なんだかさっきまで早く過ぎていくような時間が、穏やかに流れているような気がした。

 

「ふぁ……ぁ」

 

「ちゆ、眠い?」

 

「まだ……いえ、ちょっとだけね」

 

「そっか。もうこんな時間なのか」

 

 帰ってきた時はまだ空の色も青に染り切ってはいなかったけど、多分彼の口ぶりからして、外の色はすっかり濃紺になっているのだろう。ワタシの思考がゆっくりとしていくのも、そう考えたら当たり前だろうか。

 

「お風呂入って寝ようか。寒いからお湯を沸かしてくるよ」

 

 彼はもう一度強くワタシの頭をクシャクシャと撫でると部屋を出ようとする。でも。

 

「……ワタシも連れて行って」

 

「お風呂まだ入らないぞ?」

 

「いいのよ」

 

 子どもが親に甘えているように見えてしまうのだろうか。それとも恋人に甘えているように見えるのだろうか。そんなことを気にするほどの余裕はワタシにはない。ただ、今彼に置いていかれるのは少し怖くて、それを隠すように強がっていたフリをして、彼の手を握りしめた。

 彼はワタシの様子を見て、どんなことを考えているのかまたもや大まかに理解したのだろう。あの優しそうな笑いを浮かべながらワタシの小さな手を引いている。

 

「置いていかないで」

 

「ん、チュチュこそな」

 

「ちゆと呼びなさい」

 

「はいはい、ちゆこそね」

 

 彼と一緒にワタシは部屋を飛び出す。そういえばこの家には明日の朝ぐらいまで彼と二人きりなのだ。そう考えたら今日ぐらい彼を独占してしまっても良いだろうか。先程まではなかった余裕が次々と新しい夢の世界を産んでいる。

 ワタシの隣を歩く彼の腕に寄り掛かりながら、ワタシは静かに目を閉じるのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【桐ヶ谷 透子】鮮やかな雪に溶けぬ思い出

 寒空の下校の道すがら。あたしはまるで日課のように駅前の店が立ち並ぶ通りを一人で歩いていた。それらの店はどれも、クリスマスを控えた年末商戦の装いをしている。流行り物を街行く人々に見せびらかして存在をアピールし続けるそのどれもがあたしにとっては薄らと滑稽に見えていた。

 そんな店の先々に並ぶ品物を目的にやってきたというのに滑稽であると吐き捨ててしまうあたしはなんてシュールなのか。頭にそんな考えが僅かに過っただけで、可笑しくなってあたしは鼻で笑い飛ばした。霧散した考えを踏み分けるように、あたしは目新しいものを求めて、パッと目についた雑貨屋に入る。

 棚には赤や緑の装飾がなされて、明るい橙にも映る木の台に可愛らしい小物が所狭しと並んでいる。勉強机の上に置いたら勉強中でもテンションが爆上がりしそうな小さい置き時計。数本しか入らなさそうだけど配色に当てられて気分が明るくなりそうなペン立て。少しばかり気分の低い今のあたしが見たら、そのどれもが色褪せて、つまらないもののように見えてしまう。なのに、それに釘付けになってしまったかのようにあたしはそれらから目を離さないでいた。

 

「何かお探しですか?」

 

「えっ?」

 

 すっかりあたしの意識は無機質に思われた小物に奪われていて、その意識の外から自分に掛けられた声に遅れて反応した。反応した瞬間、小物に取り憑いていた黒い光は徐々に消えていって、あたしが視界を変える頃にはそれらは正常な発色を取り戻していた。

 声のした方向を振り返るとこの店の店員さんらしきエプロンを着た女性が不思議そうな顔をあたしに向けていた。下の方に置いてある商品を眺めていたあたしに合わせるように、膝に手をつきながら少し屈んで。

 

「クリスマス仕様の小物を随分と長いこと見つめていらっしゃったので。プレゼントですか?」

 

「えっ、ああ」

 

 あたしが意識をしていない間にもすごい早さで時間は流れていたらしい。店員さんに半ば促されるような形で腕時計の文字盤を見れば、あたしがこの店に入ってから実に二十分はくだらないほどだった。一つの棚の前で二十分も屈んでいるお客がいたらそりゃあ店員さんも気になるか。しかもそこまで大きい店ではないためにお客さんの入りが多いわけではない。悪目立ちしている。

 

「いや、特に何か探してるわけじゃないですよー!」

 

「そうなんですね! また何かあればお声がけください! ごゆっくりどうぞ」

 

 お客に不快な思いをさせまいと明るい声を残して去っていく店員さん。背中を向けて去っていくその姿を眺めながら安堵のため息をついたあたしは、視線を再度棚の上の商品に戻した。

 プレゼントを探しに来たりだとか、店に訪れている目的はそういうわけではなかった。確かに、近々プレゼントを渡す予定というのはあるだろう、なんていう事情もありながらも、その目的で来店したわけではない。個別でプレゼントを用意しなきゃいけない相手なんてのはたくさんいるが、今はその時じゃない。

 特定の誰かに渡すプレゼントがどうというよりは、今日のあたしは一つ、話題を探しに来たというような言い回しが一番正しいのだろう。あたしが生きる、バンドの他のもう一つの世界である、SNSの世界の準備みたいなものである。インフルエンサーとして何かをバズらせようだとか、そういう大きな野望とまでは言えなくても考えはある。要はネットの世界に発信するための材料を探しにきたのだ。

 でも、改めて棚の上の商品に目を通してみても心が惹かれるようなものはなかった。むしろ、どう足掻いてもクリスマス一色や、時節に染まり切ってしまった陳腐さが鼻につく。決して店を貶すつもりはなくても、あたしにとっては初めに抱いた滑稽という感情を抱かずにはいられないのだ。

 結局あたしはこれだけ長い時間お店にいたというのに、何も買わずに外に出てしまった。店に長時間滞在したという後ろめたさやバツの悪さもあってか、店員さんには目も合わせることなく、店の自動ドアが開く音が虚しく響いた。

 

「さっむ……、今日とかマジ寒すぎでしょ……」

 

 店を出た瞬間に吹き抜けた風の冷たさは言うまでもなかった。暖房の効いた空間から一歩外を出ればこれだ。街の人たちが寒く苦しい冬から目を逸らそうとクリスマスだ、年末だなんとかと盛り上がろうとするのもよく分かる。皮膚に突き刺すような風から隠れるように、あたしは赤いマフラーを首元に巻いた。

 

 それから同じような書き入れ時の数店舗を回り、あたしは取り敢えず目についたものを幾つか買ってみた。街を歩いていると、雪がほんの僅かにちらついているような時間もあったが、そんな寒さから逃げ込むように店に飛び込み、そこで目に止まったものを買っては手提げに入れ、となんてしていた。時間はものの見事に夜に突っ込んでおり、あたしは手提げ一杯の戦利品と一緒に帰宅の途についた。

 外を歩く合間も震えは止まらない。底から立ち上ってくる冷気から逃げ出そうと急ぎ足で帰った。呉服屋の実家の玄関も、廊下も駆け抜けて、家に帰った声かけもそこそこにしてあたしは自室に飛び込んだ。

 

「はぁー、疲れたぁぁぁ」

 

 手提げと一緒にあたしの体はピンクの暖かそうな毛布に向かってダイブする。しかし、部屋までもが外の冷気に当てられて寒い空気を纏っていたわけで。そんな空気の中、主人の帰り待っていたこの布団の表面とて、冷感を充分に伝えるのだった。

 それにびっくりしたあたしは体を思い切り跳ねさせて、握りしめていた手提げかばんの持ち手を放り投げた。力なく布団の上に崩れ落ちた手提げ袋を見送るように、あたしは少し起こしていた上体を力なく布団に横たえた。

 少しずつあたしの背中と布団の設置面が熱を帯びてきたころ、ようやくあたしはよいしょと声に出しながら起き上がる。そして、袋から飛び出そうになっていた、そこにあるだけで目を引きそうな小物を取り出した。これは確か三店舗目か四店舗目で回った店で買ったものだったか。そんなことを考えながら何度もマジマジと、色んな角度からその小物を見つめた。

 雪兎をデフォルメにした小さいぬいぐるみがついたキーホルダーだった。特に何かを考えて選んだわけではないけれど、どこか心が惹かれた。そんなとても単純で感情的な理由であたしに買われた雪兎は少し寒そうだった。雪で出来ているのに寒いなんて感じるわけはないだろうけど。

 

「んー、可愛い。鞄の横につけてるところとか良いかなぁ」

 

 ただそのキーホルダーがふわふわと揺れているのを見るだけは飽きた。どの角度から見たらこの雪兎の愛らしさだとかが伝わるのか悩んでも答えが出るわけじゃなく。単に手に乗せてあちこちから見るだけじゃ満足できないあたしは、さっき帰宅と同時にどこかへやってしまいそうになった学校のカバンを引っ張ってくる。

 既に元からついていたキーホルダーだとかは一旦外して、その雪兎のキーホルダーに付け替える。サイズ感としてはあたしの掌に乗せて、少し小さいかなと感じるぐらいだったから目立たないかと心配したけど、白の色合いが映えることと、キーホルダーとしてつけると意外と目立っているようだった。

 そんな雪兎が群れている鞄をいつも登校の時のように背負う。あたしの体の横から白い体をした雪兎がフラフラと揺れている。雪兎でもウサギであることには違いないからおたえさんは喜ぶだろうなぁ、とか。この兎は純朴で翳りが一つもないしシロって名付けたらうちのMorfonicaの方のシロと同じだな、なんてくだらないことを考えて、自分自身を小馬鹿にするように笑ってしまった。

 

「おっ、なかなか良いじゃん」

 

 鞄を体の斜め前に持ってきて、部屋を忠実に映し出した姿見の前で斜めに構えて立つ。あたしの体を横切っていくように跳ねた雪兎が数度往復して、金色の金具を支点に規則的に揺れていた。

 懐からスマートフォンを取り出して、あたしは鏡の方へとカメラを向ける。雪兎が落ちついて、暴れるのをやめてからあたしはシャッターを切った。画面に映った写真の中心には可愛らしくも、真っ白という単調すぎる色に毒されてしまった雪兎が堂々と鎮座していた。光の加減もぴったりで、斜め前から入ってきた明かりが月明かりのように雪兎の体の横を照らして神秘的な雰囲気を纏っている。ただ、白がさらに白を足してしまって、幻想的という表現を通り過ぎた雪兎がひどく空虚なものに見えて仕方がなかった。

 それでも無理やりに納得した写真をみて開いたSNS。投稿を促すプラスの画面をタップして、さっき撮れたばかりの雪兎の激写を画面上に並べてみた。確かにその兎は可愛いのだけど、それなのにやはり、さっきにも増して、華々しいクリスマス仕様の小物店に並んでいた時のそれに比べてもなお、味気なくてなんだかつまらないものに見えてしまって仕方がないのだった。素直に受け取れない理由も自分ではわからないし、少なくとも少し前までの自分であればそれは圧倒的に可愛いものだとして、嬉々としてすぐさまSNS上のあたしのフォロワーに紹介していただろうに。

 

「んー。……まぁ、アップしよ」

 

 自分で納得がいっているかと問われればそんなことは全くない。むしろ、自分が流行るともあまり思わないし、可愛いとは思っても、大きく心が揺さぶられるようなほどでもないのにネットにあげるのも少し違うような気がする。

 そんな葛藤からは目を瞑るようにあたしは写真に映された雪兎をネットの海に流した。数分も経たないうちに通知の音が少しうるさくなり始めて、それにどことなく安心感を覚えたあたしは通知を切って、今日はもう休むことにした。

 

 

 

 数日後、あたしはいつも以上に気合を入れて、いわばおめかしのようにメイクにも時間をかけて家を飛び出していた。その日は特別だった。一人で街へ出かけて店を巡っていたその日も、Morfonicaの練習がなかったという意味で特別だったけど、今日の特別はそれとは少し毛色が違う。

 待ち合わせの時間に遅れるか遅れないかのギリギリで、あたしは目的の場所に辿り着いた。分かりやすい何かの銅像みたいなのの前に、彼は立っていた。あたしが駆け寄るのを認めた彼は、顔を上げて、こちらを向いてにこりと笑っていた。

 

「ごめーん! 遅くなった!」

 

「そんな、時間通りだよ」

 

 彼から目を逸らしながら腕時計で時間を見れば、そこに書かれている時刻はやはり約束の時間からは二、三分遅れている。きっとルイが待ち合わせの相手だったとすれば、ぐうの音も出ない正論をかまされて敗北していただろうから良かったなんて胸を撫で下ろした。幸いにも彼、あたしの恋人はあたしがその辺りにルーズなことも十分に知っているし、とやかく言ってくるわけでもない。もちろん申し訳なさはあるけど。

 仮にも今日はデートなんていうやつだ。出かける用事の中でも最上級に特別なイベントである。だから遅刻したこと、しそうだったなんてことも全てエッセンスとして無意識のうちに吸収されてしまいそうだった。

 

「それじゃあ行こうか。周りたいお店があるんだっけ?」

 

「そーそー! 駅前にあるカフェなんだけど一人で入るのも気がひけるなってね〜」

 

 あたしは自然と流れるように差し出された手に自分の手を重ねて歩き始める。手を繋いだ瞬間から彼の顔を直視できないようになっているところとか、変なところであたしはこういうのには慣れていないのだなと嫌でも実感する。

 彼から目を逸らすようにしていると、やたらと歩道に降り積もり始めた薄い雪だけが目についた。先日から急激に冷え込み、天気予報では本格的な冬到来が云々と言っていた。気温も零度を下回り、その証拠として歩道表面に重なりつつあった雪の層が存在を主張していた。徐に後ろを振り返ってみると、雪の層には幾多の足跡がつけられているし、今しがたあたしたちが通った道には当然、ほとんど同じ歩幅で歩く足跡が二つ並んで付けられている。ただ、その足跡のサイズはかなり違いがあるようだった。

 

「ん、透子。どうかした?」

 

「なんでもないー! ささ、お店が混む前に早く行くぞー!」

 

 あまりに露骨に変なところが気になりだしてしまったせいか、彼もあたしの挙動不審に察したらしい。そんな彼を無理やり手で引っ張りながら、あたしは白く色づいてしまった、元はカラフルだった石のタイルの道を急ぐことにした。

 

 そのお店は集合場所から大体歩いて五分もかからない程度のところにあった。表通りに面しているわけではなく、そこから一本入った道の奥の方にこじんまりと佇んでいる。店の前に置かれた焦茶色に変色した樽は少しばかり年季が入っているように見えて、お店全体の渋い雰囲気を暗示しているようだった。

 渋いなんて評価を自ら下してはしまったけど、最近のSNSではここのお店はかなり評判だ。それもこの古めかしい雰囲気が良いとかではなく、若い女の子たちの間で人気を博しているのである。そんな話題沸騰中の店にまだ自分が行ったことのないという引け目もあってか、彼にはここに行こうと声を大にしていたわけなのだ。

 

「なんというか、透子がこういうお店に行きたいっていうの、なんだか意外だね」

 

「そう? 結構今人気なんだよねここ。雰囲気も良いみたいだし」

 

 とはいえ、あまりSNSのことを大っぴらにするのは、彼をネットのあたしのファッションの一部としてしまっているようで嫌だった。それに加えて、あくまで今日は彼とのデートであって、あたしの話題探しのためとかではない。だから、恋人とのデートという口実で、この少しアダルティックで渋い雰囲気を楽しもうという方向に持っていこうとしているわけである。

 幸運にも、彼の反応を見る限り芳しくないというわけではないらしい。彼の好みを全て把握しきれているわけではないけど彼が楽しみにしてくれているようでよかった。彼は店の前に置かれた樽だとか、ビンテージ調の壁に掛けられた看板なんかを目にして、顎に手を当てながら唸っているようだった。

 そんな店の醸し出す雰囲気を存分に出している彼を連れて店に入る。まだお昼前ということもあって、人気の割には人の入りはそこまで多くはないようだった。店員さんに案内されて座った座席は店の奥の方の二人掛けの座席だった。

 

「カフェ……というよりバーみたいな雰囲気だね」

 

「えっ、バーとか行ったことあるの?」

 

「まさか、俺まだお酒飲めないよ」

 

 彼は席に座るなり、興味津々といった様子で店内の壁の装飾や、棚に飾られた年代物のワインの瓶なんかをマジマジと見つめているようだった。どうやら店の入り口でお客さんに伝わっていた雰囲気は店の中でも同じようで、店内はより甘ったるくて重っ苦しい匂いが漂い、このお店の積み重なった歴史すら漂っているようだ。

 アダルティック、なんて言っていたのも強ちハズレではないようで、彼がテーブルの横に据え付けられていたメニュー表を適当に開くと、開幕一番飛び込んできたのは赤ワインのボトルの写真だった。あたしと同じような女子高生が多く来る店のメニューだということには驚きを隠せないが、もちろんお酒だけが提供されている訳ではなく、料理はもちろんソフトドリンクもあるらしい。

 

「ボルドー産……やっぱりフランスのワインが多いんだ」

 

「だね。まぁまぁ、絶対にワインを飲むことはないから他のところ見ようか」

 

 彼は急かすようにメニューのページを捲る。次のページもワイングラスなんてのが描かれていたからかなりそういうところにも力を入れているのだろう。ただ、彼が何かをペラペラと喋っているところよりも、あたしは段々と目の前にいる彼の手にワイングラスが握られていた時のことを想像してしまっていた。

 

「少なくともあたしよりは似合いそうだよね」

 

「え?」

 

「何でもない!」

 

 うん、確かに似合っている。彼がダンディーだとか、そういう表現は少し違う。けど、彼が風味漂う赤ワインの注がれたワイングラスを持っているところを想像すると、絵になると言えば良いのか、物凄く似合っているような気がするのである。

 得体の知れない感動を覚えたあたしは、スマートフォンを取り出して、メニューを食い入るように見つめている彼にピントを合わせて、撮った。シャッター音にびっくりしたのか彼が急に顔を上げたからあたしまでビックリしたけど、彼はあたしの様子を一瞥して、安心したようにまた視線をメニューに戻し、あたしの名前を呼んでいた。

 

「俺はメニュー決めたけど、透子は?」

 

「うん、あたしも決めたよ」

 

 あたしはほとんど即興で目についた何かのパスタを選んだ。料理自体に拘りがなかったわけではないが、なんとなく悩む時間をかけることが気が引けたのだった。

 彼が呼んだ店員さんに注文を伝えて十分弱、二人分の皿が運ばれてくる。あたしに提供されたパスタはミートソースが絡まって赤く照り輝いていた。テーブルの上に並んだ二皿は色映えにしてもよく、あたしは自然とスマートフォンを取り出していた。

 

「あれ、食べないの?」

 

「ううん、写真撮ろっと思って」

 

 彼はお腹も空いていたのか、運ばれてくるなら手を合わせ、写真を撮る余裕もないぐらいに食べ始めていた。まぁ、飲食店に来ている以上それが普通なのかも知れないけど、やはりあたしとしては写真を撮ってアップするまでがセットだから、デートでもそこの決まりきってしまった所作を崩すのも悩ましかった。

 ただ、いつもよりはほとんど加工に時間をかけることなくあたしはミートソーススパゲッティに手をつけた。あまりの美味しさに声が漏れたのは言うまでもなかったけど、そんなあたしを見た彼は微笑んでいるらしかった。

 

 実に一時間弱、店が混み始めたぐらいに食べ終わって落ち着いたあたしたちは店を出た。満腹感もあるけど、彼が手を差し出してきて歩き始めたのであたしも釣られて歩き始めた。

 

「それで、透子が次に行きたいって言ってたお店ってどこだっけ? ここの近く?」

 

「あれ、あたしばっかでいいの?」

 

「うん。折角ならね」

 

 彼のありがたい言葉を聞いて、あたしはこの近くの地図を頭に思い浮かべた。彼はこう言ってくれてはいるものの、一応前々から行きたいと言っていたお店は、丁度数日前に一人で下見をしてしまったのである。特にめぼしいものがあった訳ではなく、どうしようかと考えあぐねていたものだから彼から心配される始末だった。

 結局一人で行ったということを彼に伝えられないままお店の場所を伝えて歩き始める。まぁ、ウィンドウショッピングとすれば全然構わないだろう。そう納得させたあたしは歩いて数分のお店に向かった。

 あたしが言い訳だとかを考えている時間だけですぐにお店には着いてしまう。やはり数日前と変わらず、どのお店もすっかりジングルベルを流し、浮かれる人々を誘い込んでいるらしかった。そして辿り着いたのは何か買うでもなく、店員さんに話しかけられて挙動不審のままに出てきたお店だった。

 

「ここ……かな」

 

「うん、じゃあ入ろっか」

 

 彼に促されて、数日前と同じような光景を目にしたあたしは自然と店員さんの方から目を逸らして、店内中に広がる商品棚に目を向けた。そこらにはあたしが見るだけ見て、冷やかすことになってしまった小物がたくさん置かれている。隣の彼はすっかり楽しげな雰囲気のそれに当てられているようだったけど、あたしはどうにもそこら中が毒されたように面白みのない色合いになっているように見えてしまった。

 あたしはなんだか、この前のように同じ小物をじっくりと見るのも憚られるような気がして、手持ち無沙汰にスマートフォンを取り出していた。そのまま流れるようにSNSを開き、自分の投稿への反応を無心で眺める。単にお気に入りのアイコンだけを残す人たちや、コメントを残してくれる人たち、ネットの世界に潜む有象無象に辟易としながらあたしは画面をスクロールしていた。

 

「透子」

 

「えっ?」

 

 そんなネットの世界に沈みかけていたあたしの名前を呼ぶ声がして、驚いたあたしは顔を上げる。そこには彼がいた。

 

「えっと……何?」

 

「今はSNS、見ないでおこうよ」

 

「えっ、あっ、うん。ごめんね、デート中なのに」

 

 そこまで注意されて、あたしはすっかり自分がSNSの方に引き摺り込まれそうになっていたのを自覚して、慌ててスマートフォンを鞄に仕舞い込む。けど、彼は少し不満げというか、そんな表情をしていた。でも彼を不快にさせたのは間違いなくあたしだから、何も文句は言えなかった。

 

「デート中だから……というより」

 

「え?」

 

「透子が楽しくなさそうだから、逆に楽しめないようなデートにしてたら、俺の方こそごめんね」

 

「楽しくなさそう……?」

 

 その瞬間、SNSに踊らされるようにどう着飾るかを悩み続け、何軒ものお店を回った数日前の記憶が喚起される。あたしが本当に滑稽で仕方なかったのは、少し気疲れしてしまった自分の方かも知れない。それと同時に、彼が頭を下げる意味がもっと分からなくて、あたしは慌てて取り繕った。

 

「楽しくないなんてことないよ?」

 

「……うん、それなら良かった」

 

 どうにか誤魔化せたと安心したのも束の間、視線を彼から外した矢先に彼の掌が、あたしの両頬に触れていた。冬の手先なんて冷たそうなものなのに、どういうわけか体温の高い彼の手は、冷たさなんて混じってすらいなかった。

 

「だから今日は、SNSのことは全部忘れて楽しもうよ。透子」

 

「あ……」

 

 頭に何度もちらつき続けるネットの中のあたしの存在。彼との楽しいはずのデートすらも邪魔しているのは、紛れもない自分自身だった。彼は聡いことに、あたしが変に拗らせてしまっていたことまで見抜いてしまっていたらしい。

 何かに追い立てられるような焦燥感に、あたしの心はいつのまにか疲れてしまったらしく、彼に差し出された掌は依存してしまいそうなほどに温かい。その温かさを知覚して、もう十センチとない彼の顔をみて、あたしは静かに目を閉じた。そして、自然と軽くなった瞼を上げると、それまでどこか白く、つまらない色味だった店の中が一気に色づいたようだった。

 クリスマスだとかいうイベントの雰囲気はここまで愉快で、心が躍り、赤と緑のカラーリングとはここまで鮮やかだったのか。まるで世界が変わったように見えて、そんなあたしの反応がおかしかったのか、彼は満足そうに笑っていた。

 

「そっか、あたし」

 

 自分でも気がつかないうちに、あたしは目先の楽しさすらも忘れてしまっていたのかも知れない。あたしの日常の一つとして完全に溶け込んでいたと思っていたはずのSNSも、どうやらそういうわけではないらしいのだ。

 

「お、こんな机の上に置けるのもあるんだ」

 

「あっ、これこの間ななみとかと話してたやつだ」

 

「Morfonica?」

 

「そうそう!」

 

 それまではこれをどう写真に撮ったらいいか、だとかそんな考えに縛られていたのかも知れない。そんな固定観念が取っ払われてからは、なんだか自分の心がすっかり軽くなったような気がした。

 気が軽くなって、ほんの少しだけ息を吐いた。彼はクリスマスのプレゼントを楽しみにして待つ子どものように並んだ小物を一つ一つ手に取って、輝くような目を凝らしている。

 それからはずっと、あたしは彼を見守ることにすっかり心を奪われていた。彼の挙措のどれもが、あたしを惹きつけて離さなくなったのだ。やがて彼も一通り見終えたのか、盛り上がりが落ち着いてきたのか、屈んでいた腰をゆっくりと上げて立ち上がった。

 

「あぁ、楽しかった。ごめんね、勝手に楽しんじゃって」

 

「んー、あたしも楽しんでたからそんな心配ミクロンミクロン!」

 

 あたしは彼を店から出るように促してからこっそり会計を済ませた。多分彼なら何でも喜んでくれそうだけど、あれだけ熱心に見ていたのだからきっと喜ぶという確信を持って。

 

「お待たせ、はい!」

 

「えっ? くれるの?」

 

「もちろん! これからもよろしくって気持ち篭ってるから!」

 

 そう。これは彼への感謝と、もっとずっと一緒に居たいという気持ちの塊。ただ一シーズン過ぎれば溶けてしまう雪じゃなくて、形としてはっきりと残る何かを彼にあげたかったのだ。

 

「ありがとう、透子。……そうだ、写真撮ろうか」

 

「あ……、うん」

 

 即興のプレゼントを受け取った彼は、あたしを呼び寄せて少ししゃがませる。彼は前に思い切り腕を伸ばし、あたしも定められた何かを待つように自分に向けられたカメラを見つめた。

 シャッターの音が小さく響く。画面にあたしと彼の二人が、真ん中に彼へのプレゼントが。その瞬間、あたしはこれで良いんだとゆっくり目を閉じた。

 変に着飾らなくても良いのだ。これをみんなに見てもらう必要だってないのだ。ただ、あたしと彼の二人だけで、あたしだけが見られる彼の姿を、あたしの心にそっと仕舞い込めば良いのだから。

 昼下がりの冬の空気は、どこか暖かいのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【丸山 彩】もっと、今ここにいる私を

 早くも黄昏を迎え始めた街は賑やかだった。賑やかな街を構成する人々の中には私と、そして私と同じグループで活動する四人も含まれている。アイドルバンドのPastel✽Palettes、そこは私の芸能活動の居場所だった。メインボーカルである私の大切な居場所。

 アイドルバンドなんて言ってはいるけど、アイドルであっても、私も、そして他のみんなだってまだ一人の女子高校生に過ぎない。流行りに敏感で、SNSのチェックを欠かさない、アオハルを楽しむ一人の女の子だった。今だっていつもと変わらぬ姿で与えられた僅かなアオハルを楽しんでいる。ほんの少しだけ、雪が灰のように降っている目の前の光景にそぐわない自らの表現にクスリと笑った。

 

「何を笑っているの? 彩ちゃん」

 

「……えっ?! 何もないよ?!」

 

 まるで今の自分の思考が全て見え透いていたと勘違いするかのようなタイミングで、私の心臓は飛び跳ねた。隣を歩く千聖ちゃんの訝しげな表情に肝が冷えた私は気持ちを引き締めて、平然を装って答えた。

 それでも千聖ちゃんの表情は何も変化がなくて、視線に耐えられなくなった私は救いを求めて振り返った。でも、もう片方に並んで歩いていた日菜ちゃんの視線もどうやら私に突き刺さっているらしかった。

 後ろを振り返る。並んで歩く麻弥ちゃんは苦笑いで、イヴちゃんだけは不思議そうにこてんと首を傾げている。背後を歩いていた天使に心を和ませていると、隣を歩いていた邪気が大きくなって、私の心臓はもう一度跳ねた。

 

「あーあ、彩ちゃんまたお説教だね」

 

「日菜ちゃん?」

 

「えっ、お説教って何?!」

 

 得体の知れない恐ろしさで振り返らない私を煽る日菜ちゃんもそそくさと後退していく。私はカクカクとした動きでゆっくりと、未だ隣で歩きながら、般若の面をしているであろう千聖ちゃんの方を振り向いた。でも、そこに怒れる千聖ちゃんはいなくて、むしろ呆れたような気の抜けた顔色で、大きな嘆息まで漏らしていた。

 

「って、どうしたの? 疲れてるの千聖ちゃん?」

 

「違うわ」

 

「彩さんは自分で一切気づいてないんですね……」

 

「どういうことですか? マヤさん」

 

「イヴちゃん、耳貸してよ」

 

 どうやらイヴちゃん以外のみんなは共通認識が取れているらしく、イヴちゃんも日菜ちゃんからの告げ口で合点がいったように、パッと顔を上げた。気がついていないのは本当に私だけらしい。困惑を隠さずに、私はキョロキョロと四人の顔を見渡した。

 

「今日のアヤさんはいつになく笑顔がステキです!」

 

「えっ、そうかなぁ。えへへ」

 

「イヴちゃんはすごく優しい言い方するよねぇ」

 

「彩ちゃん。いくらなんでも今日の彩ちゃんはニヤニヤし過ぎよ」

 

「……ええっ?!」

 

 てっきり褒められたと思って照れていたのに、日菜ちゃんの言葉尻に気を取られた私。間髪入れずに千聖ちゃんからのボディーブロー。慌てて私は手鏡を取り出して、自分の顔を眺めてみる。そんなにいつもと違うのだろうか。自分では普段と同じ顔がそこにいるようにしか見えない。

 

「アヤさんが『これから幸せになります』という風にニコニコし続けてますね」

 

「うんうん。分かりやすすぎだよ」

 

 そこまで言われてみんなの言わんとすることが漸く思い当たる。点と点が線で結ばれて、冷や汗が額に吹き出す。千聖ちゃんからの視線がさらに痛いものになった。

 

「彩ちゃん。分かっているの? 私たちはアイドルなのだから、万が一そういった色恋沙汰が露呈することは致命的、タブーなんだって」

 

「うっ」

 

 完全に千聖ちゃんには私の行動パターンも思考回路も読まれ切っているらしかった。この際だから認めるが、私の恋人の存在は千聖ちゃんにもバッチリバレている。千聖ちゃん以外も然りだけど。

 それはまぁ、千聖ちゃんの初めの怒りは凄まじいものだった。私の言い分を聞き入れるわけでもなく、全て感情論だとバッサリ切り捨て、泣きついた私を見下ろす千聖ちゃん。最終的には呆れ果てたまんま、『泣いても仕方ないわよ』って頭を抱えていた光景を思い出した。

 今日だってこれから会う……謂わば密会になってしまうけど、その予定だった。私がニヤニヤを抑えきれてなかったのはそれで弾む心の問題だろう。そりゃ無理な話なのだ。この感情をこれまで一緒にいたみんなの前で隠し通すなどということは。

 

「大丈夫だよ……きっと」

 

「彩ちゃん汗すごいよー?」

 

「アヤさん、ハンカチをどうぞ!」

 

「うぅ、ありがとうイヴちゃん」

 

 純粋なイヴちゃんの心遣いが心に刺さる。千聖ちゃんに散々恋人の存在を詰られ、後ろめたいことをしている自分に気がついたからそれはもう余計だ。心配そうにこちらを見つめるイヴちゃんの穢れなき瞳に、穴があったら入って土に埋まってしまいたいぐらいの気分だった。

 イヴちゃんから受け取った可愛らしい白のハンカチで額に浮かんだ汗を拭う。柔軟剤の香りが鼻腔をついて、すぐさま目の前の現実から逃避ができてしまうような夢見心地であった。けど、ゆっくり目を開くとまだまだお怒りモードの千聖ちゃんがそこにいて、僅かに目を逸らした。

 

「別にね、私も彩ちゃんが嫌いで言っているわけじゃないのよ? もしも公になったら一番困るのは彩ちゃん、貴方だから言っているの」

 

「わ、分かってるけどぉ……」

 

 千聖ちゃんが私のことを思って言ってくれていることなんて百も承知だ。嫌がらせのようにくどくどと言うのではなく、少しでも気を緩めたらボロが出そうな私のために、千聖ちゃんは気をつけるように注意してくれている。

 でも、ずっと言われっぱなしだったこともあり、目の前に置かれた甘いスイーツを邪魔することへのイラつきから、私は少々不機嫌だった。多分、宿題をやれと親から口酸っぱく言われる子どもの気持ちは、今の私がこの地球上で誰よりも共感できるだろう。

 

「あっ、もうこんなところまで来ちゃった。それじゃあまたね!」

 

「ちょっと!」

 

 感情がほぼこもっていない棒読みと、振り切るように言い切った私は、振り返って大きく手を振る。千聖ちゃんは『しまった』という表情を浮かべてこちらに手を伸ばしているけど、駆け出しそうになっていた私を捕らえるには至らない。千聖ちゃんの掌が空を切った。

 まるでステージから去るアイドルのように笑顔に満ちた私は四人を一瞥した。麻弥ちゃんの苦笑い、イヴちゃんのキョトンとした顔、日菜ちゃんが千聖ちゃんを横目に爆笑する姿。半ば日常に溶け込んでしまいそうな光景に少しだけ安心感を覚えて目を瞑り、そのまま駆け出した。

 千聖ちゃんが追ってくるようなことは流石になく、こっそり後ろを振り向くと頭が痛そうに片手でおでこを抑える姿が見えた。千聖ちゃんに悪いことをしたなとほんの少しだけ反省した私は、待ち合わせ場所となっている駅前に急いだ。

 

 気がつけばすっかり外は暗くなって、周りを歩く人の顔色も街灯やネオンでようやく視認できる程度になっていた。薄暗い路地を歩いてなんかいれば、最早通りすがりの雑踏が誰かなんてのはそう分からない。行きたがった人ですら顔の輪郭は朧気だった。

 それでも、事前にここだと待ち合わせをしている場所に着くと、私の待ち人はすぐに分かった。私よりちょっとだけ高い背丈、心配そうに見つめている携帯電話の画面の青白い光で目元がハッキリと見えていた。赤と白のマフラーは一週間ほど前にデートした時にも見かけたものだ。

 

「お待たせっ」

 

「うわっ」

 

 本人の意識が完全に手元に持っていかれていた。私はその懐に急に飛び込むような勢いで現れる。予想通りの驚いた反応に満足した私は無防備でフラついた胴体を支えるようにしながらこちらへと抱き寄せた。

 

「彩かぁ。びっくりしたよ……。連絡もなかったし」

 

「あとちょっとで着きそうだったもん。ごめんね?」

 

「ううん、気にしてないよ。さっ、行こうか」

 

「うんっ」

 

 差し出された手を握る。恋人繋ぎという、いかにもな名前がつけられた握り方で彼の手を捕まえた。手の皮膚の隅から隅まで彼の体温を感じている。私と同じで外を出歩いていたせいだろうか、表面はひんやりとして冷たい。少しでも暖を取ろうとして、いや、彼の近くにいたかったから、彼の厚手のコートの袖口に身を寄せた。少しだけ歩きにくそうにしているけど、今日のデートは少しぐらいワガママをぶつけてやろう、なんて思って離さなかった。

 

「最初はここ、だよね?」

 

「だね。でも本当に良かったの?」

 

「うん、ステージとは全然違うもん!」

 

 待ち合わせ場所からも見える商業用ビルの入り口に立つ。ここの二階に入居しているところが今日の目的地だ。どこかのテレビのCMなんかで幾度となく目にしたチェーンのカラオケ店。勿論個室。

 入ってすぐにあったエレベーターに乗り込み、わずか一階層だけを昇る。この時間にこのビルを使う人はそう多くないようで、すぐにやってきたエレベーターの中には誰もいなかった。ドアを閉めるボタンを連打して、零次会とばかりに彼のさらに近くに身を寄せた。それでも彼からの反応は鈍いみたいで、十秒も立たずに開いたドアに恨めしい思いを抱きながら店に入ることにした。

 

「よいしょっと」

 

「思ったより狭いねこの部屋。上着もらうよ」

 

「ありがとー!」

 

 狙ったかのような小さめの部屋で彼に上着を手渡した。対面のソファが小さなテーブルを挟み、私は部屋の奥側のソファにカバンを置いて、その反対側のソファに座る。壁のハンガーに上着をかけた彼を私は手招いた。私の隣に座って、という気持ちを込めて。彼の方も私の意図を汲み取ったらしくて、コートを脱いでセーター姿になった彼が頬を掻きながら私の隣に腰を下ろした。

 一気に私の心は満たされる。外でも同じような体勢でいたはずだけど、周囲からの目が完全に断ち切られているせいか、すっかり私の心は落ち着きを取り戻し、それでいて心臓が高鳴っていた。監視カメラがあるだとか、ドアの磨りガラスから少し部屋の中が見えてしまうだとか、そういうのは野暮な話だ。ただこうして狭い部屋で同じ空気を吸っているのが彼と二人だけだという事実に酔いしれているわけだから。

 

「……彩? 歌わないの?」

 

「えっ?」

 

「カラオケに来たいって言ってたから、てっきり歌いたいんだとばかり」

 

「あ、なるほど」

 

 ここは個室カラオケ。部屋の中には家のテレビなんかより遥かに大きな画面を備えた液晶が最新のアーティストの楽曲を垂れ流している。その下の台には音響装置のつまみが大量に置いてあるし、部屋の隅っこにはマイクだってご丁寧に二本並んでいる。ここまで来て歌わないやつがいるのか、ということなのだろう。

 でも、正直に言えば私からすると歌を歌うかどうかはそこまで大切ではなかった。ステージでも、スタジオでも、歌を生業として生きる私にとっても、カラオケはみんなで騒いだり、そういう場所として使うことも当たり前に受け入れている。今日は専らそういうものとは違うつもりなわけだが。

 

「また二時間ぐらいあるよね?」

 

「入ったばっかりだからね」

 

「……じゃあいっかな、なんて」

 

 二時間まるまる歌い続ける、なんてのもいいけど、それはまた別の機会でいい。彼は少し落ち着きがないようにソワソワしているけど、自分としては今のこれが目的なわけだ。

 私が彼の手を少し強めに握ると、彼の体はさっき私に驚かされた時のようにピクリと跳ね上がった。付き合い始めてそこそこになると言うのに、ここまで初心だというのは変な感じもする。

 最初こそ、恋愛経験なんてものはなかった私の方がよっぽど恋愛には初心になるとばかり思っていたけど、気がつけばその立場はまるっきり逆転した。私は何も気にせずに彼とスキンシップを取るけど、彼は意外と硬派というか、そういうのにあまり積極的になることはない。勿論私からのアプローチには応じてくれるけど、彼からの反応は今みたいだったり、逆に薄かったりもする。

 

「寒くない? 大丈夫?」

 

 彼の手を握りしめると、外で握っていた時よりほんの少しだけあったまっているようだった。けど、私の手と比べるとかなり体温は低そうに見える。私の斜め上の暖房から生ぬるい風も噴き出てはいるし、部屋も外に比べてはるかにあったかいのだから、そろそろ熱を帯びても良さそうなものなのに。

 

「彩が温かいから、こんなのなんでもないよ」

 

「指先こんなに冷たいのに?」

 

 掌は誤差とはいえ、熱を持っている一方で、指の先の方はまだ凍りついているように冷たい。自発的にも動かなさそうな具合だ。彼の哀れな指先を何度も擦り、下から彼の顔を覗き込む。どういうわけか恥ずかしがっているらしく、彼は私から目を逸らして、知りもしないグループの歌う液晶の方を向いていた。それがなんだか癪に触った私は、彼の手首の皮膚をつねった。

 

「どうして反応してくれないの?」

 

「どうしても」

 

「むぅ」

 

 視線を私の方へと変えることなく、彼は少々ぶっきらぼうに答えた。どうせ彼なりの照れ隠しなんだろうなんて思っても、私からすれば受け入れ難い粗雑な扱いだった。あんな散々な決別で彼に会いに来ているのに、そんな態度はないだろうという八つ当たりだ。

 少し爪を突き立ててみても、彼の顔色は微動だにせず、私は諦めて最終手段に出た。

 彼は少し屈み気味の私の方に何の視線もやっていない。だからこっそりと彼の右手の人差し指を曝け出す。他の指と離れ、寒くて仕方なさそうな指。私は好物をほうばる時のように、口を大きく開けて。その指を咥え込んだ。

 

「えっ?!」

 

 明らかにこれまでと違う感覚が来たものだから彼も驚いたのだろう。素っ頓狂な声をあげて、きっと彼の指を咥える私の姿を見たに違いない。それでもお構いなしに、私は水音を立てながら彼の指をねぶり続ける。

 

「んっ……ちゅる……」

 

「待って待って、彩何してるの?!」

 

 私の名前を大声で、慌てながら呼ぶのを聞いてようやく満足した私が口を離す。口を離した瞬間、私の口の中で濡れに濡れた人差し指と、私の唇が糸を引いた。彼の着込んだ茶色のセーターをバックに、白くて半透明の糸が名残惜しそうに繋がり続けている。彼も、私が膝の上に乗っているような体勢になっているのを気にしてなのか、声こそ荒げても、のけぞったり指を素早く離したりはしなかった。そのせいで糸は長々と、切れることもなく妖しげな光を反射し続けている。

 

「何してるも何も、指を咥えてただけだよ?」

 

「それは分かるよ。なんで急に咥えたの?」

 

「私のことを散々放置したのはどこの誰?」

 

「それはまぁ……僕だけど」

 

 頬を膨らませながら少し強めの口調と、鋭い視線を浴びせる。すると、彼は観念したらしく、縮こまったまま、やっとのことで私と目を合わせてくれた。

 

「指めっちゃベタベタしてるね」

 

「彩が舐めたんだよね?」

 

「うんっ」

 

 彼の頬もようやく緩み、彼が私の名前を呼ぶ声も優しげになった。彼はベタベタになった指先を気にしているようだったが、やがて気にしても仕方がないといったように、テーブルから乗り出して、向こうの台の上に置いてあるカラオケの端末とマイクを手に取った。

 

「ほら、歌おう? カラオケに来たんだし」

 

「……まぁ良いけど」

 

 本音を言えばもっと彼とこういう他愛もないスキンシップをしたかったけど、若干呆れ気味の彼の口調に、渋々受け入れることにした。彼がその端末を手渡してきたものだから、何の淀みもなく、『歌手名』のところに自らのグループ名を入れる。

 曲が転送され、大音量が部屋の中に響き始めた。私はせめてもの抵抗で彼の体に背中を預けて歌い始める。彼は何か私にちょっかいをかけてくれるわけでもなく、ただ静かに私の歌を聴いているようだった。間奏で首を捻って、彼の顔を見たけど、彼は目を瞑って曲を聴いているらしい。少しの嬉しさと少しのつまらなさに挟まれたけど、歌い出しが重なって慌てて画面に視線を戻した。

 本来なら、ステージの上で歌っている時はこんな振りで歌ってるな、なんてのが頭を一瞬過ったりもしたけど、彼が求めてくれてるのはそういうのではないから、ただ彼の様子を伺うように静かに歌うことにした。

 曲がゆっくりとフェードアウトする。彼が満足したように目をゆっくり開く。私は彼が口を開くのを静かに待つことにした。

 

「やっぱり彩の声、好きだな」

 

「うん。でしょ?」

 

「自信満々に答えるんだ」

 

「だって知ってるもん」

 

 上機嫌な私は持っていたマイクを彼に渡す。次は彼の声を聞きたいという意思表示だ。彼はテーブルの上に置いた端末で曲を検索し始める。彼の少し低い声ではパスパレの曲とかは歌いづらいだろう。案の定、彼は男性ボーカルの曲を入れる。彼の視線はすっかり向かいの液晶の方に移っていた。

 彼の歌う声はどことなく優しい。低くて甘い声だとか、そういう単純な感じではなく、ずっと聴いていたいけど、ただ少し物足りなくも感じる、そんなもどかしい声だ。地声とそれほど変わりがあるわけじゃないけど。物足りなさを感じるのは、単に歌声の問題ではないのかもしれない。

 少しずつ降り積もった不満の種を潰すように、私は歌っている彼の脇腹を人差し指で突きはじめた。そんなに力を込めているわけでもないし、気にもならない程度なのかもしれない。彼の薄い反応を見て、私は徐々に指を上へ上へとなぞる。胸元でも反応の無いのを見て、痺れを切らした私はついに歌っている彼の右頬を突いた。その時、流石に反応をしてしまった彼の姿にえも言われぬ満足感を覚えて、私は何度も突く。彼も私に気にかけざるを得ないようで、横目の彼と私の目が合った。思わず私も笑顔が溢れたけど、彼は少し困ったように歌いながらチラチラとこちらを見ている。

 あっという間に彼の歌は終わる。彼は何か思うところがあるように何かを言おうとしていたけど、恐らく悪戯っ子みたいであろう私の幼い顔を見て、はぁと一つ息を吐いているだけだった。

 

「さ、次は彩の番だよ」

 

「えぇっ! もっとほっぺたツンツンされたいでしょ?」

 

「彩がツンツンしたいだけでしょ? ほら、僕が曲入れちゃうよ?」

 

「違うよぉ。って、本当に選ぶんだ」

 

「うん。そうだ! 彩が歌ってるMV付きの曲入れようか」

 

「えっ?!」

 

「折角彩が歌ってくれるんだし」

 

 彼は頭の中で曲名が浮かんでいたのかと思うほどに手早く、端末に私の曲を、しかも私が、さらに言うならパスパレが歌っている動画を背景にして曲を入れた。途端にライブさながらの音量で部屋に聴き慣れた曲が響く。彼は悪戯をやり返したとばかりに笑ったが、すぐに視線を液晶の方に向けた。私が何かを言うより先に歌い出しになって、慌てて曲の入りに合わせる。

 彼の目は画面で踊りながら歌う私の姿を追っているようだった。それに合わせて私は歌詞をなぞるように歌い続ける。でも、折角歌っているのに彼はこっちを振り向いてはくれなくて、私の中の蟠りははちきれてしまった。

 一番が終わる。間奏は数秒ぐらいしかない。彼は一度もこちらを見てはくれなかった。

 マイクをテーブルの上に置く。彼は気づかない。彼の斜め前にいた私はくるりと振り返る。彼の視線が釣られて僅かに動いた瞬間、私は彼の華奢そうな肩を握りしめてソファの上に押し倒した。

 

「わっ」

 

 ボフンと跳ねた彼の体を上から押さえつけるように私は彼の体の上に倒れ込む。何事かと焦る彼が不注意にも口をぽっかりと開けていた。無防備な彼の頭を抱きかかえる。そして、開いた口めがけて、自らの舌をねじ込む勢いでその口を塞いだ。

 彼は抵抗をする暇もなく私に蹂躙され続ける。背景では曲が爆音で流れているのに、私と彼と、密着した二人の作る衣擦れと水音が頭の奥にまで響いている。

 二番がそのまま終わりそうな頃、私は仕方がないから唇をゆっくりと離した。彼は放心状態というか、酸欠になっていそうな息遣いで私を見つめている。彼の黒い瞳は見たこともないほど大きくなって、そこに反射しているのは桃色の髪を下ろした私の姿だった。

 

「ぶはっ、はぁっ……はぁっ……」

 

「まだ足りないよね?」

 

「……へ?」

 

「もっと欲しいよね」

 

「彩……?」

 

 求めているのは否定や、決めつけられた答えではなかった。心ここに在らずな彼が譫言のように呼ぶ私の名前だった。私が上から乗り掛かっているから、どう暴れたところで彼は私からは逃れられない。観念するしかない。

 そんな圧倒的に有利な状況で、私は彼にもっと顔を近づける。お互いの荒くなって色のついた吐息が混じり合うような距離。

 

「欲しいって、何を」

 

「私は欲しいよ? 足りないもん」

 

 何かを呟こうとする彼を塗りつぶすように倒れ込む。受け止めるしかない彼は私の背中に腕を回しながら、私からの愛を受け入れている。でも、受け入れてもらうだけじゃ段々と足りなくなってきて、私は少し攻撃の手を緩めた。彼はそれを合図に反撃とばかりに私を強く、強く抱きしめた。絡み合う体が熱を帯びはじめた。

 

「……えへへ。足りないよね?」

 

「彩のせいで」

 

 背後では、無機質で感情豊かな私の声がメロディラインに沿って小さく反響している。ガイドボーカルとかいうやつだろうか。でも、彼が涎を垂らしてまで欲しがっているのはそんなものではない。糸を引いて途切れることもなさそうな、熱情に満ちた私の漏らす声で、彼はさらに呼吸を荒げていた。

 私は体の全ての力を抜いて、彼に全身を預けた。それまで、何をしても私に遠慮がちな態度しか取らなかった彼が、今はまさに目の前で乱れる私に夢中になっている。それが堪らなく幸せで、身を委ねた。

 

「曲終わっちゃったよ?」

 

「曲なんてどうでもいいよ」

 

「じゃあ最初っからそう言ってよ」

 

「それは……そうする」

 

 液晶の中の私なんてどうでもよい。ステージの上の私なんてどうでもよい。彼に見ていて欲しいのは、彼に虜になってもらいたいのは、今ここにいる私だった。ほぼゼロ距離にいる私の呼吸を浴びた彼は、ただ私を見つめるだけだった。

 

「あとまだ一時間ちょっとあるよ」

 

「カラオケの時間?」

 

「うん」

 

 それはもはや、脅迫と言っても差し支えなかった。私は暗に、全てを私に捧げろなんていう脅しをかけている。そして、彼は絶対にその誘いを断らない。それを知っていてなお脅しをかけている。

 

「歌わないよね?」

 

「歌えないよ?」

 

「うん」

 

 私の手は最初こそ、寝転がる彼の首の裏に這わせていたはずなのに、気がつけばもう首の横数センチのところまで移っている。でも彼が抱く感情はきっと恐怖ではない。むしろもっと多幸感に満ちた、満足感なはずだ。息が詰まるような熱い呼吸のやり取りが出来なくなりそうな恐怖の中では、彼の顔はすっかり緩んでいる。外では決して見せない、彼の表情。

 

「彩の歌は聴きたいな」

 

「それは分かって言ってるの? というより冗談で言ってるの?」

 

「本心だよ。でも、彩の話を聞く方が先かな」

 

「やったぁ」

 

 私はもう一度彼の唇を静かに奪う。流石にお腹を圧迫しすぎて彼は苦しそうだったから体を起こす。ゆっくりと起き上がった彼は壁際に寄り掛かるようにしながら座った。開いた股の間に滑り込むように、私が背中を彼の体に預けると、彼の腕が私のお腹の方へと回された。

 ここからだとこの二人きりの天国と日常の狭間がよく見える。私をよく知らない人たちが蔓延る向かい側を歩く人の顔はまるで見えない。あの大画面の偶像は相も変わらずに新着の曲紹介を繰り返しているけど、先程とは違い静かに、邪魔をしないようにしているようだった。

 

「あったかいね」

 

「彩とあれだけくっついてたからかな」

 

「私のファインプレーだね」

 

 力なくこちらを向いて、半開きだった彼の唇。私は少し腰を捻って、吸い付くようにキスをした。何度も繰り返されたキスで、お互いの唇の表面はすっかり唾液で濡れていた。

 背中が密着しているから、彼の心音が聞こえたような気がした。さっきはあれだけバクバクと、必死になって全身に血液を送っていた心臓は静かになっていた。それは私も同じことだった。

 

「そういえば今日ね、また千聖ちゃんに怒られたんだ」

 

「食べすぎ?」

 

「違うよ! もぉ!」

 

 彼は優しく微笑みながら、お腹に回した掌で私のお腹の脂肪を確かめていた。掴めるところはない。少し怒ったような私を見て悪いと思ったのか、すぐに彼の手は私の頬に添えられる。間髪入れずに襲ってきた彼のキスに私は力が抜けてしまった。

 

「怒られて落ち込んでるんだよ?」

 

「だから?」

 

「もっともっと、甘えてもいいよね?」

 

「おいで」

 

 体勢を変えて、真正面から逞しい彼の体に倒れ込む。すっかり緩んだ私の頬を見せるのは恥ずかしくて、私は彼の体に顔を埋めた。彼は何も言わずに、私の背中をポンポンと叩いている。

 穏やかに流れる時間は無限のようだった。それは、私と彼の二人だけがいる世界にいるから。ここに浸っていたいという哀れな私の細やかな願望ですらあったのだ。彼が私の瞳を見つめて、こうやって微笑んでいる。それだけで良かったのだ。だから私は、彼に甘え続ける。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【羽沢 つぐみ】今日ぐらいはツグらずに

 曇天の空は暗い。この外気はややもすれば重たい雪が降っていてもおかしくはない。現にガラス越しに見える路上は色が変わっているように見えるし、さらに目を凝らせば、雨粒か小雪か分からないような何かが降っているらしい。

 私が今いる家、もとい珈琲店の店内は外の寒さを忘れそうになるほど温かい。暖房が効いているから当たり前なのだけど、住み慣れた場所の安心感なんかが私を包んでいるようだった。おまけにこんな天気でお客さんが来ることもないし、実質的に貸し切りと言っても過言ではない。目の前のテーブルに積み上がった、小難しい表や整った文章で一杯のプリントの山を除けば、概ねいつも通りの景色だった。

 

「にしても……。本当にお客さん来ないんだな」

 

 後はそう、テーブルを挟んで向かい側に、プリントの麓の隙に勉強用具を並べ、難しそうな紙と睨めっこをする恋人の存在ぐらいだろうか。二人でこうして過ごすことはたまに見る光景ではあっても、こうもうちの店内で完全に二人きりというのはまず初めてことだろう。そして私たちの間を埋め尽くす紙の束が更なる異様を醸し出しているから、余計だろうか。

 

「天気も悪いし、時間も時間だもん」

 

「ま、そろそろ閉店時間になるからな」

 

 丸一日、分厚い雲が陽光を完全に遮っていたせいで分かりにくいけど、外はもうじき夜闇に包まれる頃だった。

 結局ほとんどお客さんも来ないで、今も店内に残っているのは家の手伝い中であるはずの私と、勉強ついでに賑やかしに来た彼だけ。お父さんとかも裏の方で休んでるから、店内には小さくなったBGMが流れるぐらいで、私たちの談笑の声が響くばかりだった。

 その上、私は生徒会関連の大量のプリントにすっかり気を取られている。彼は彼で学生に与えられた休暇中の責務に追われているから大した余裕もないらしい。結果として、黙々と作業に励むカップルだけがそう狭くはない店内にいるなんていう空間が生まれていた。

 今の時間を考えても、一時間ぐらいは少なくともこうしてるはずだ。最初の方こそいたお客さんも少しお茶をして帰ってしまって、接客ですることもなくなった私はずっとこの紙束と格闘している。それで集中力が切れたから、たまに外に目を向けてぼんやりと眺める。それを見た彼も、小休止にとシャーペンを持つ手を止めるなんていうわけだ。

 

「うーん。もうお父さんにお店閉めてもいいか聞いてこようかなぁ」

 

「そんなに緩くてもいいんだ」

 

「チェーン店っていうわけでもないしね。ラストオーダーまでも後二、三分だから、もう閉めちゃおうかな」

 

 席についた時からまるで変わらない机上の景色に少し大きめのため息を溢しながら立ち上がる。立ってみると、改めて店内にはまるで人の姿がないことがすぐに分かった。

 そして、ほんの少しだけ入り口のドアを開けて、『Open』の札を掛け替える。ドアを開けた瞬間に外気が一気に部屋に吹き込んできたみたいで、思わずくしゃみが出そうだった。寒暖差はすごいらしい。このまま外に出たら寒暖差だけで風邪をひきそうだった。

 

「外もうかなり寒いね」

 

「年も明けて、って考えたらすっかり冬本番だよな。本当嫌になる」

 

「冬は嫌いだっけ?」

 

「寒すぎ。朝なんて布団から出たくないぐらいだし」

 

「それは、そうかも」

 

 朝が特別弱いというわけではないけど、この季節は確かに布団から出るのが億劫だ。布団の中の空気は自分の体温もあってすっかり温められてて、なのに部屋の空気は外なのかと間違うぐらいの寒さだ。それは冬を嫌いになっても仕方がないのかもしれない。

 

「あーあ。休みが終わったらまたクソ寒いのに布団から這い出る生活が始まるのかぁ。休み終わって欲しくないなぁ」

 

「休みが終わって欲しくないのはそれだけじゃないでしょ?」

 

「ん? あぁ……。もちろんこの大量の宿題もやらなくちゃいけないからってのもあるよ」

 

「もう……やらなきゃ、めっ、だよ?」

 

「つぐに怒られるなら……。それもまた一興」

 

「へ、変なこと言ってないで! ちゃんとやるよね?」

 

 訳の分からない彼の言い草に形容しがたい恥ずかしさを覚えて、怒りを露わにしてみた。生憎、彼にそこまで響いているわけではないらしく、軽くあしらわれるし、おまけに宿題に集中するというわけでもないらしい。こんな様子で提出日までに本当に彼の宿題は終わるのだろうか。

 彼が宿題をやらずにいたって困るのは私ではないけど、彼が困ることになるのなら、きっと無理にでもやってもらったほうが彼のためだ。どうやら私がその宿題を彼が終わらせるかどうかも見なければいけないようだ。

 

「ま、つぐの抱えてるやつよりは宿題の方が絶対に楽だろうし。言われなくてもちゃんと期限までにはやるよ」

 

「本当かなぁ……」

 

「なんか。つぐ、まるで俺の母さんみたいだな」

 

「……へ? お母さん?」

 

「あ、いや。なんでもない」

 

 そんなに私、歳取ってるのかなぁ、なんて不安になるけどあんまり気にしたって仕方がないような気もする。多分そういう意図で言ったわけでもないだろうし、たまにあるデリカシーに欠けた発言だとかそういう類いだと思って見ないフリをするのが吉だ。

 また一段と大きなため息を生温かい店内に追い出して、右手で摘んだプリントに目を通す。プリントでまとめられた、直近の生徒会が関わる学校行事の羅列を見ると昨年も感じた、瞬く間に時間が過ぎていく感覚を思い出した。

 

「それ、生徒会のやつだよな?」

 

「うん。三月の卒業式だとか、引き継ぎ資料だとか」

 

 このペーパーレスの時代でもお構いなしに紙で渡された書類には、生徒会として知っておくべき事項が山のように書かれている。年度末が近づいてきた頃というのは、えてして忙しくなるものだけど、それにしても相当な量だ。普段学校で何かをする時は学校に据え付けてあるパソコンで作業をすることも多いから、紙媒体が多く見えるのも余計かもしれない。

 

「しかもそれ、この冬休みっていう期間中につぐが持ってるってところがまた」

 

「え? どういうこと?」

 

「いまつぐが持ってる紙の束って、つまり持ち帰りってことだよな? 年明け前に」

 

「うん。最後の授業の日に生徒会室に先生から呼ばれて手渡されたから」

 

「いやぁ。巷で噂のブラックだよ、その生徒会。ブラック生徒会」

 

「ブラック……。そうかなぁ」

 

 やらなきゃいけないことではあるから、手間なのは間違いない。学校での作業時間で終わらせられなかった自分の落ち度ではあるからブラックの一言で片付けるのも違うとは思うのだけど。ただまぁ、量が多いと言われればその通りすぎて、言い返す気力すら湧かない。

 

「冬休みの期間に書類持って帰らせて、淡々と処理させるのは十分ブラックだって」

 

「まぁ、時間はしっかり取られちゃってるもんね」

 

「本当に宿題とかやる時間なさそう」

 

「私はもう全部終わってるよ?」

 

「え……?」

 

 彼の中では私は未だに宿題が終わっていない状態だったらしい。でも、ここまで余裕を見せていることから分かるようにとっくのとうに冬休みの課題は終わっている。彼は落胆の表情を浮かべながら力なく机の上に突っ伏した。机の上の書類の山と彼の宿題の一部が音を立てて潰された。

 

「ってことは、つぐは冬休みは……もう生徒会の他は何もすることないってこと?」

 

「そうだなぁ。あっ、でもAfterglowの練習とか。あっ、商店街の新年のイベントでやることも確か……」

 

「……ん。ま、それもそうだよな」

 

 宿題を終わらせるスピードの格差に絶望していた彼がゆらゆらと体を起こす。でも、その表情を見るとなんだか思うところが色々とあるようで、まじまじと私の方を見つめたかと思えば、眼下に広がる乱雑な紙の散らかりを眺めていたりしている。何を言うでもなく単に押し黙っているようだけど、間違いなく私に何かしら言いたいことがあるというのは違いなさそうだった。

 丁度その時、カウンターの奥の方からお父さんの声が聞こえてきた。今日のところは店を閉めるということらしく、閉店とすぐに分かるように店のドアのプレートを付け替えてこいというお達しだった。さっき替えたからもう関係ないといえば関係ないのだけど、なんだか無言の空間を静かに切り裂いてくれたみたいで、心の中でありがとうとだけ呟いておいた。

 

「今日はどうする? もう少しだけ勉強する?」

 

「店閉めるんだろ? だったら帰ろうと思うけど」

 

 彼は座席の脇に置いていた鞄を持ち上げて、膝の上に置いた。出した筆記用具なんかを筆箱にしまって帰り支度を始めようとしていたものだから慌てて口を挟む。

 

「気にしなくてもいいよ? あとは少しだけお店の中を掃除したりするだけだから」

 

「そう? ならまぁ」

 

 それはもう少しここにいても大丈夫、あるいはもう少しゆっくりしていって欲しいという意思表示じみたものだけど、彼はそれを推し量ったらしい。手早く筆記具を回収しようとしていた手を止めて、机に肘をついた。それを見て安心した私は静かに立ち上がり、キッチンの方に一旦戻ることにした。

 店閉めとは言っても、大変な作業がそれほどあるというわけではない。キッチンの方の片付けはお父さんがやってくれているし、精々テーブルや床の清掃だとか、私が担当するのはそれぐらいだ。億劫なのは、この時期だと水道水が凍っているかのように冷たくて、それにびくびくしながら触ることぐらい。

 除菌スプレーと布巾を手に持ち、店の中に帰ってきた私は、勉強に勤しむ彼を横目に、片っ端からテーブルを拭き始める。中にはお客さんが一度も座っていない座席もあるから、パンくずの一つや水滴の一つすらついてないテーブルまであった。今日なんかは早々に接客を終えて、彼と二人で作業に励んでいたことを考えたらそれもそうかと納得できるけど。

 時々チラチラと彼のいる座席の方を振り返ってみたけど、何か集中しているらしく、雑談とかをするわけでもなく淡々と清掃するだけだった。まぁ本気になって宿題に取り組んでいると考えたらそれを邪魔をするというのは忍びないし、何よりいけないと思う。そうやって気を遣っていたせいか、いつもよりも早く粗方の掃除を終えて、残すは彼が未だ座っている座席だけとなった。

 

「お待たせ。ちょっとだけここの机の上も拭くね?」

 

「ん、りょーかい。ちょっとだけ待ってな」

 

「って、私の生徒会のプリント?」

 

 テーブルの下に帰ってきた私が目撃したのは、私がぼんやりと睨めっこを続けていた生徒会のプリントを彼が穴が空きそうなぐらいじっくり読んでいる姿だった。てっきり彼は自分の宿題に追われて手一杯だとばかり思っていたのだけど、私が掃除している間にあれだけ集中していたのはこれを読むことだったらしい。

 

「だな。勝手に読んで大丈夫なのかとか、全然分からなかったけど」

 

「個人情報とかはないから大丈夫だと思うよ? でも、そんなの読んでも何も面白くないよね?」

 

「いーや。つぐが普段こんな面倒そうなことやってるのかって考えたら、俺にとっては面白いよ」

 

 面倒そうだという割には、これを読むのは面白いというのはちょっと変な感じはする。一応言っておくと、大半の人は生徒会の仕事は面倒くさそうなんて思うかもしれないけど、私にとってはやり甲斐もあるし楽しい。作業量が増えるし、拘束時間が増えてしまうのは確かに厄介ではあるけど、それにも増して楽しいから続けられている側面もある。

 彼は若干名残惜しそうに、まだ読んでいる途中だとばかりにプリントを持ちながらゆっくりと立ち上がり、空いた左手で自分の勉強に使っていた冊子を閉じて、小脇に抱えた。

 

「じゃあちょっとだけ失礼して、と」

 

 多分ここら辺のプリントはしっかり整理してから片付けないと、次に見るときに大変になるだろうけど、わざわざ立ってくれた彼を待たせ続けるわけにもいかず、手当たり次第重ねたプリントをどけて、サッとだけ拭いた。私の手の動きに合わせて水滴の残滓が残っているから、乾いた布でもう一度拭く。

 この机自体は私たちしか使っていないから、この後も使うのならあまり綺麗に拭き過ぎても二度手間かと思ったので粗方拭き終えると、掃除道具の類は片付けることにした。彼がまた座ったのだけ確認して、キッチンの裏の方にしまう。

 

「お待たせ。続きしよっか」

 

「本当にこの場所借りていいのか? 片付け終わっちゃったのに居座るのもあれだし、帰るタイミングも見失っちゃいそうだけど」

 

「うーん。それもそうだよね……」

 

 仮にも恋人同士が二人でいる、所謂デートみたいな状況で、こんな淡々とした時間を過ごすだけなのは味気ない。だから出来ることならもう少し二人で何かするなんてことがあれば良いのだけど、別段することが思いつくというわけではない。この暗くなってしまう時間から外に遊びに行くというのも考えものだ。

 

「えっと。それだったら私の部屋……来る?」

 

 出した結論は私の部屋に呼ぶという、自分の中では少し攻めた提案だった。二人の恋人が片方の部屋で過ごすというのは少々破廉恥な展開も連想してしまうから、自覚している通りの奥手である私の口からこの提案が出たのは、ある意味では奇跡的かもしれない。自分から言い出しておきながら、恥ずかしさもあるという複雑な感情を抑え込みながら、彼の顔をチラリと窺うことにした。

 

「あれ、いいの?」

 

「うん……。その、ちょっと恥ずかしいけど」

 

 それだけじゃなくて、単に部屋を見られるというのも少し恥ずかしい。いつ人に見られても大丈夫な程度には部屋は綺麗にしているつもりだけど、彼からすればもしかしたら私の部屋が汚いっていう風に思われてしまうかもしれない。何より自分の部屋なのだから生活感だとかがモロに出てしまうし。

 そんなネックな部分を考え出すと、ますます数秒前の自分の発言を呪いたくなってしまう。どうしてそんな恥ずかしい発言してしまったのか、出来ることなら取り消したいぐらい。でも、取り消したら取り消したで彼からなんて思われるかも不安だ。

 

「つぐが良いなら。俺は全然」

 

「えっ、ほ、ほんと? 部屋あんまり片付いてないかもしれないけど」

 

「よし、じゃあいっそのこと、一緒に掃除しようか」

 

「そ、それはダメ! 本当に恥ずかしいから!」

 

 見られたら困るようなものがあるわけではないけど、何かしら恥ずかしいものが転がっている可能性はある。それだけは阻止しなければ。

 兎にも角にも、彼は意外にも私の部屋に来るのは乗り気らしく、意気揚々と机の上のものを片付け始めた。それを見た私も自分の出したプリントの束を、とりあえずすぐに持ち運べるぐらいには片付けた。

 彼が荷物を全部鞄にしまい込んだのを確認して、私は奥の家の方へと案内する。廊下を抜けて、自分の部屋のドアの前に着いた私は大きく深呼吸をした。

 

「どうかした?」

 

「……すぅ。一応ちょっとだけここで待ってて? 部屋の中が大丈夫かだけ見たいから」

 

「オッケー。まぁ、つぐの部屋が汚かったりしても一緒に掃除するだけだし全然」

 

「汚くはないよ! ……多分」

 

 彼には見えないようにして、そっとドアを開ける。よし、床の上にプリントがばら撒かれてたり、ゴミがそのまま放置されているなんて愚かしい真似は一切なかった。過去の自分はものすごく優秀みたいだ。胸を撫で下ろした私は彼を手でこまねいて、部屋に入れる。

 

「……どうぞ?」

 

「お邪魔します。おお……」

 

「ちょ、ちょっと恥ずかしいからそんなにじっくりは見ないで欲しいかな?」

 

 部屋に入ってすぐに部屋中を見渡す彼。流石にそんなことをされたら恥ずかしいこと極まりないので、無理やり彼の背中を押して奥の方へと追いやる。クッションを一個持ってきて、ここに座るように言うと、彼の悪ノリも珍しく発動することなく、そっとその場に腰を下ろしていた。

 

「宿題しないと冬休み明けたら大変でしょ? 頑張ってやろう?」

 

 ローテーブルの上に休み中に片付けなければいけないプリントだけをぱっと抜き出して広げる。もちろん彼の前にはスペースを作って、暗に早く勉強道具を広げて、勉強を始めようというメッセージも伝えながら。

 

「それはまぁ、そうなんだけど。やらなきゃいけない分は結構終わったんだよな」

 

「えっ?」

 

 彼がさっきまで開いていたテキストらしいものを見せてくれたものだから、私はその見開きのページを見ることにした。パラパラとまくっていくと、本当に彼が言うみたいに、粗方のページが既に問題を解き終わった後らしい。今日、彼がうちの店に来たばかりの時のページ数から考えると、終わっていてもおかしくはない範疇だけれど、それにしても想像以上だった。

 

「えっと……いつのまに」

 

「ま、店の方で進めてる間に結構進捗を生めたのもあったからな。まだ全部終わった訳じゃないけど、この分だと連休の間にどうせ終わるから」

 

 彼は私の手元からテキストをさっと回収すると、すぐに閉じて脇に置く。それで私が机の上に広げていた紙をこれ見よがしに一枚拾い上げると。

 

「手伝うよ。つぐのやること」

 

「えっ、ええっ?!」

 

 私が驚くのを意にも介さず、それまで向かい側に座っていた彼が私のすぐ隣に座って、私のファイルから順番が乱れ切ったプリント類を取り出した。正直、ここまで来ると私の驚きは宿題がすぐに終わったことだとか、そういうのはどうでも良くなっていて、すぐにでも触れられるような距離に彼がいることの方にばかり意識が向いていた。

 まぁ無理もない。恋人だ云々と言いながら、カップルらしい経験をいくつも踏んできたかと問われればそうではない。彼の体に触れることでさえ、控えめに手を繋いで歩く時だとか、それぐらいだ。キスは愚か、ハグすらちゃんとしたことがない。だからこそ、彼とこんなにも至近距離で、況してや私の部屋という完全にプライベートな空間でそんな状況に陥ったことというのは、私にとってはキャパオーバーしてもおかしくない事態だったのだ。

 

「えっ、いやっ、私のすることって」

 

「ま、力になれるか分かんないけど。取り敢えずプリント類の整理はしなきゃだよな。さっきぐちゃぐちゃになっちゃったし」

 

「う、うんっ」

 

 どうしよう。変に声が上擦ったりはしていないだろうか。あまりに挙動不審だったら、変に意識をしていることを疑われたりしてしまうかもしれない。必死に緊張、もとい興奮する体と心を鎮めて、平常心を保つように心がけた。

 自分のメンタルを保つのに必死な私とは裏腹に、彼は黙々とプリントの隅や表題を見て、机一杯に広げて順番を整理してくれている。順番もぐちゃぐちゃになってしまったプリント群の中には、卒業式のことやら、生徒会や各部活の予算案に関する資料やら、生徒会業務の引き継ぎに関するプリントやら、多種多様なものが紛れ込んでしまっている。それはまさに混沌と表現するのが正しい。

 

「こんなにあって、一人でどうにかできるものじゃないよな」

 

「そ、それは、そうかも?」

 

「多すぎて何があったか覚え切れないなこれ」

 

 そう言って、事柄ごとにプリントを分けてくれている彼の手に思わず目がいってしまった。ふと気を抜いてしまえば、すっとそこに手を伸ばして、思わず重ねてしまいたくなるような手。そういえば、寒い日に外に出たりする時ぐらいはこうやって手を重ねて、手を繋いで歩くことも多い。

 そこでハッとして、自分のやることをすっかり彼に任せきりになっているのに気がついた。私は彼からファイルを譲り受けようと手を伸ばすけど、すぐさま気付いた彼が手で私を静止させる。

 

「疲れてるでしょ? つぐはちょっとだけでも休憩してて」

 

「う、うん」

 

 彼は多分独り言なのか、種類がやたら多いだの、これとこれは殆どおんなじ内容だの、愚痴に似た何かをこぼしながらプリントの整理をしてくれていた。

 彼の言葉に誘導されるかのように、机の上に広がったプリントを見ると、本当にこんな量の作業を自分で捌いていたのかとビックリする。当然、既に終わった分と、まだこれから手をつけなければいけない部分も混在しているから、余計に多くは見えてしまうのだけど、総じてこれを全て受け持っていたと考えると、少しゾッとする。

 数分もしないうちに分別が終わったらしく、私の名前を呼ぶ。少し気が抜けて、ぼーっとしていた私は途端に現実に引き戻されたかのように、視界がはっきりとする錯覚に陥った。

 

「にしても、この量は本当にヤバいな。後、商店街の……なんだっけ? 新年の何かって言ってたやつ」

 

「あっ、うん。企画書とかがあったから持ってくるね?」

 

「待って」

 

 そして、立ち上がろうと脚に力を込めて中腰になった瞬間、バランスを取ろうとしていた私の手首が掴まれた。間違いなく彼の手なのだが、まさか掴まれるとは思っていなかった私はバランスを崩して、前のめりに、つまり彼が掴んだ手にまるで引かれるように体勢を崩した。

 

「えっ、わっ、あ……」

 

「あっごめっ、ちょ」

 

 よろけるようにして私は倒れそうになって目を瞑った。なんだか急に自分の体があったかくなったような気がして、恐る恐る私は目を開いた。

 部屋の明かりは私の視界の端から消えたように、僅かに暗い。

 立ち上がろうと前屈み気味だった私の体は今やすっかり床と平行になっている。

 バランスを取るために前に出していた手は僅かな温もりとともに、私の視界の両サイドで、床に掌を突き立てていた。

 でも体重を腕で支えているわけでもなく、私の体は少し柔らかく、少し大きな、何かに乗っかるように支えられている。

 何よりも強烈なのは、想いを寄せる彼の顔は、私が僅かにでも動けば、すぐに触れてしまうようなほど、すぐ近くにあったこと。

 最初こそあまり状況が掴めなかった私も、周りの様子が明らかになるにつれて、自分がどんな体勢でいるのかということに気がついた。

 

「あ……」

 

「ごめんつぐ。まさか倒れるとは。痛くなかった?」

 

「うん……。大、丈夫」

 

 私はそのまま、頽れるように彼に体重を預ける。意図せず抱きつくような姿勢にはなっているのに、どういうわけか体は動かず、むしろ動かすのを体が拒んでいるかのようで、なんとも言えない不思議な感覚だった。

 何分経ったか分からないけど、何も喋らない彼の姿を見て、私も少しずつ冷静な思考を取り戻した。やがてかなり破廉恥な体勢だと自覚して、ゆっくり体を起こす。

 

「ごめんね? 重くなかった?」

 

「まさか。全然。軽すぎて心配になるぐらい」

 

 私は横に体をどかして、起きあがろうとしたのだけど、やっぱり彼は私の手首を掴んだまま立たせないつもりらしい。

 

「えっと、商店街の紙のやつ……取りに行けないよ?」

 

「取りに行かなくてもいいよ」

 

「でも」

 

「いいから。ちょっとだけゆっくりしよう」

 

 ゆっくりしようと言われて、流されるままに頷いたのは良いものの、どうすればいいのかよく分からなかった。体を起こした彼が壁を背にもたれかかると、こっちにおいでと言わんばかりに、彼の横の床をぽんぽんと叩いていた。

 誘導されたみたいに私は彼の横に腰を下ろす。距離はさっき倒れた時と同じくらい、いや、少しマシなぐらいには近いけど、いつもなら緊張して硬直してしまいそうな距離だ。まるで二人きりの自分の部屋が私の背中を押しているように、不思議と何も緊張はしていなかった。

 

「ごめんね、つぐを転ばしちゃって」

 

「ううん。私もその、変に力を抜いちゃったから」

 

 こうして肩を隣同士に並べていると、彼の方が身長が高い分、肩の位置も少し高いのがよく分かった。私がもしも頭を横に向けたら、丁度彼の肩にピッタリ乗るぐらいの高さの違いだった。そんな考えが頭の中に思い浮かんだ瞬間、ビックリするぐらい自然な流れで、私は彼の肩に頭を乗せた。ここまで至近距離で体を寄せ合ったことが今まで殆どなかったのが自分でも訳がわからないぐらいに、自然とそうなっていた。

 

「別につぐを転ばせようとしたわけじゃなくて」

 

「もちろん、知ってるよ? でも、どうして手を掴んだの?」

 

「……ちょっとぐらい、ツグってない時も必要かなって思ってさ」

 

「ツグってる?」

 

 よく、私がてんやわんや彼方此方を駆け巡っている時なんかに使われる、『ツグってる』。その意味は多分、頑張ってるだとか、有り体に言えばそういう感じだと理解している。

 

「生徒会の仕事とか、それ以外にも色々、ね。つぐが抱え込みすぎなんじゃないかと思って」

 

「……そっか」

 

 自分ではあまり意識したことはない。辛いと思ったことはあまりないし、体調を崩すことはたまにあっても、今は別にそう体調が悪い訳でもない。でもどうやら、そういうことではないらしい。

 

「心配してくれたんだよね。ありがとう」

 

「それは、その」

 

「ふふっ」

 

 どうやら彼なりの優しさだとかそういうことらしい。きっと私は自分の頑張りという綺麗な部分で覆い隠して、誰かに心配をかけているということに見ないフリをしていたらしい。

 もう一度、私は力を抜いた。彼の肩は何か重荷が降りたみたいで、枕のように私を受け止めていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【レイヤ】君の歌が聴きたくて

「一緒に歌おうよ。私と、ね」

 

 かつて、自分自身が歌を嫌いになっていた頃の幼い自分。それまで音楽と触れる世界のどれもが色鮮やかだったはずのスクールが、苦痛に満ちた監獄に様変わりしてしまった、囚人の頃の自分の姿が、頭の片隅にいた。

 誰もいない児童公園で、周りからの心ない言葉に傷つき、塞ぎ込んで、私は殻に籠るように三角座りをしていただろうか。明かりのない世界に閉じこもって、目の前の全てから目を背けようとしていただろうか。

 やがて、一筋の光が差した。その光の中にいたのは、不思議な言葉と、優しい声色で、私に声をかけてくれた大切な幼馴染となる人の姿だった。

 今、私は丁度、あの時の花ちゃんがいた地面に立っている。そして、いつかの自分と同じような、全てから目を背けて逃げ出そうとしている大切な人に、手を差し伸べているのだ。

 

「大丈夫。私しか聴いてないよ」

 

 眼下に座り込んだ彼が被る、灰色のニットに咲いた不香の花は、どこまでも白い色をしていた。あまりに儚くも、数える間もなく散ってしまうその花は、たとえ散ってしまっても、またすぐに咲き揃う。それは、まるで。

 

 

 

 

 

 

 とある都電の駅前。人が疎らに生活を営む街角。地面なんか、冬の寒さを際立たせるような、人工的な舗装路のせいで、足元から身体中に冷えが伝わってくるほどだ。

 けれど、私は幼馴染に誘われて、そんな寒空の下で暢気なことに路上ライブを開いている。青いギターを携えた花ちゃんの隣で、ベースを弾きながら歌う私。幼い頃に夢を見た、いいや、大きくなって花ちゃんと再開してからも、何度も何度も夢を見ていた、花ちゃんとの擬似ライブに胸が躍る。どこか興奮を隠せない自分がいたけど、花ちゃんには特に伝わっている様子もなさそうだった。

 曲が終わり、安堵の息をついた私は顔を上げた。思いの外その息は大きかったのか、視界が一瞬、白い息で覆われてしまう。けれど、そんな息の曇りも晴れると、私たちのパフォーマンスを楽しんでくれた聴衆の温かな拍手が待っていた。

 ライブなんかと比べると圧倒的に少ない聴衆の数。僅かな人集りしか出来ていないのは才能がどうとかじゃなくて、そもそもの人通りの人数のせいだろう。そんな少ないお客さんでも、大きな声でお礼を言う花ちゃんの姿に突き動かされるように、私は頭を深く下げた。

 演奏が終わったことを悟った見物人は散り散りに各々の生活に戻っていく。その背中を見送って、私は花ちゃんの方に視線を戻す。さっきまでファンサービス精神旺盛だった花ちゃんのことだから、最後まで手を振っているのかと思いきや、花ちゃんは少し気が抜けた表情のまま遠くの方を眺めているらしかった。

 

「花ちゃん、お疲れ様。どうかしたの?」

 

「あっ、レイ。見て、あそこ」

 

「あそこ?」

 

 花ちゃんが指を指したのは駅前の商店街のアーケードの入り口。その中でも、車が走れるような公道に面した角っこのお店の店頭の方だった。赤い看板に濃紺の文字で店名が書かれた、なんともいえないセンスの商店の軒先には、遠く離れたここからでもよく見えるほどの大きさのウサギのモニュメントが飾られていた。

 

「あのウサギが気になって全然集中出来なかったよ」

 

「あ……それで」

 

 花ちゃんが演奏に気を取られすぎていると思っていたのは私の勘違いらしい。ギターを弾いている間でさえウサギを自然と探してしまう花ちゃんらしさにほんの少しだけ面食らったけど、すぐにいつも通りだと思い直してしまう。慣れというのは怖いものだ。

 

「卯年だもんね、今年って。街のあちこちにウサギが飾ってあるよね」

 

「そういえばそうだった」

 

 いつもと全然変わりない花ちゃんの姿にどこか安心しながら、背後の柵に立て掛けておいたケースに歩み寄る。多分ここで弾き続けるのは全然出来るのだけど、きっと楽しすぎて本当に終わりが見えなさそうだ。名残惜しい気持ちを抑え込みながら、鼻歌を口ずさむ花ちゃんの顔色を窺った。

 

「この後、花ちゃんって用事とかあるかな?」

 

「夜はポピパのみんなとパーティーするんだ、有咲の家で。蔵を貸し切って新年会」

 

 蔵を貸し切り、というのも最早聴き慣れたもので、なんならポピパのみんなはライブ会場や練習場所として有咲ちゃんの蔵を使っているし、貸し切り状態というより所有して独占していると言っても良いだろう。というより有咲ちゃんに至っては自分の家の一部なわけだし。

 それはそうと花ちゃんをご飯にでも誘おうかと思ったけれど、花ちゃんはポピパのみんなとの約束があるらしい。内心ではいいな、なんて羨んではしまうけど、花ちゃんにだって私以外の友達がいて当然だし、むしろ同じバンドメンバーとしての絆だとか、私が知らない部分だっていっぱいあるはずだ。そこに踏み入れてしまってはいけないと思って、引いておくことにした。

 

「レイも来る? みんなきっと喜ぶよ」

 

「誘ってもらえるのは嬉しいけど、ポピパのみんなの集まりに私一人だけ参加するのも気が引けちゃうから、今日のところはやめておくね」

 

「そっかぁ。あ、それならRASのみんなも呼んじゃおう。もしかしてレイはRASのみんなと新年会?」

 

「あはは……。流石に新年会の予定が入ってたりはしないかなぁ」

 

 有咲ちゃんの家の蔵なら、ポピパとRASの十人が入ってもまだまだ余裕はありそうだけど、そういう問題ではないから潔く断っておこう。それにみんなも忙しいだろうし、急に呼ばれても行けるはずがないだろう。

 

「それじゃあ、帰るね。今日はありがとう、レイ」

 

「こちらこそ、花ちゃんとライブ出来て良かった。バイバイ」

 

 花ちゃんの背中は小さくなっていく。もっと早めにこちらから誘っておけば良かったかな、なんて少しだけ気を落としながら帰り支度をすることにした。地面に置いていた荷物を持ち上げて、くるりと反転して、花ちゃんとは反対方向に帰ろうと歩き始めようとした。丁度その時だった。

 

「良いライブだったな、レイヤ」

 

「うわっ」

 

 急に声をかけられて、思わずのけぞりそうになる。けれど、私の名前を呼ばれて声をかけられた時点で知り合いであることは確定しているし、何よりその声には聞き覚えがあった。聞き覚えがあるどころか、むしろ親しく接する仲であるから、聞き慣れていて当然なのだけど。

 

「急に話しかけられたからビックリしたよ」

 

「ごめんごめん。驚かすつもりはなかったんだよ」

 

 私と同じように音楽で生きていることを象徴するように、背中にはギターが入っているであろう、黒いケースを背負っている。冬の季節を象徴するような薄灰色のニット帽を目深に被って、季節柄つけざるを得ないマスクで顔を覆い隠して、目元辺りしか顔が見えない姿も、いつも通り。けれど、目尻にひっそりと佇む黒子で、誰かということはすぐわかる。

 

「今日も花ちゃんとライブしてたんだ」

 

「うん。今日も、って言ってもそんなに頻繁にしてるわけじゃないけどね」

 

 彼は持つよ、と小さく声を発しながら、私のバッグを指さした。そこまで重いというわけじゃないけど、ここは彼の好意に甘えておくことにした。どちらかと言えばベースの方が重量感もあるのだけど、そこは音楽を嗜む彼のリスペクトとして受け取っておくべきだろう。

 

「もしかして私たちのライブ観てた?」

 

「途中からね、バッチリと。バレちゃったらあれだろうから少し離れて観てはいたけど」

 

「そっか」

 

 駅の方とは反対側、緑の庇に書かれた薬局の文字。彼はどうやらそっちの方からずっと私たちのライブを見ていたらしい。私たちが思い思いにライブしていたところからは少し距離があるけど、この時間帯は比較的静かなこともあって、難なく聴き入ってくれていたらしい。

 

「どうだった? 同じミュージシャン目線で」

 

「こんな売れてないど素人の目線で物申しても大丈夫なのか?」

 

「売れてるか売れてないかとか、ど素人かベテランかなんて気にしてないよ。それに売れてないなんて言ってたけど、ちゃんとこの間のライブのチケット、すぐ売り切ってたよね?」

 

「……その節はどうもお世話になりました」

 

 こうも卑下をする割には、彼はいつも自信満々で振る舞っている。多分彼がこんなに萎縮してしまっているのは、この間の彼のライブで私がチケットを一枚買ったからだろうか。それ以外にもRAISE A SUILENのボーカリストと比べたらちっぽけだ、なんてのは彼の口癖と化してしまっているけど、過剰なぐらいに謙遜する時の口実として使っているらしい。

 でも、私にとって重要なのは他でもない彼がどう思ったかという部分であって、彼がどういう人間であるかなんてのはさして重要ではない。そもそも彼がどんな人柄で、どんな立場で、なんてのは付き合いがそこそこにもなれば知っていて当然なのだから。

 

「それで、率直にどう感じた? もちろん私だけじゃなくて花ちゃんに対して思ったことでも良いけど」

 

「花ちゃんのギターに関して俺から言うことは何もないけどな」

 

「最高だったってこと?」

 

「というより面識も大してないのに、評論家みたいにクソ辛口にも、ベタ褒めにも、する気は起きないってこと」

 

「面識って言っても、前に話してなかったっけ?」

 

「レイヤがいた時に一、二回だけ、な。とにかく不思議な子すぎて掴みどころがなかったけど」

 

 彼と花ちゃんを何度か引き合わせたこともあった。けど、彼からすれば花ちゃんというのはよく分からない人、という感じだったらしい。花ちゃんの方も男の人、としか認識していなかったからそもそもの相性の問題かもしれないけど。

 もしかしたら、彼が今日私たちのライブ中に囲いに来なかったのも、そういう花ちゃんの存在を多少なりとも気にしてしまっていたからだとかかもしれない。堂々とした振る舞いを人前では見せてはいても、彼の本当の姿はかなりの人見知りだし、今だって花ちゃんとの会話になったら困る、なんてのを考えていそうな顔をしている。

 

「それで、花ちゃんのギターに関して、ってことは、私はどうだったの?」

 

「俺からレイヤにコメントするのも、それはそれで畏れ多いけど」

 

「そんなの気にするような仲でもないでしょ? 本当に思ったこと言ってくれたら良いだけだよ。テクニック的な話をしてくれても良いけど」

 

「そんな話出来るぐらいなら畏れ多いなんて言ってないって。それで、レイヤかぁ」

 

 彼は顎に手を当てうんうんと唸り出す。あまりに私に対するコメントを捻り出すことに四苦八苦していたのか、注意が散漫になったらしく、偶然足元のタイルが凸凹していたところに躓きかけた彼が大層驚いた表情で声を上げた。その光景があまりに滑稽でこっそりと笑っていると、拗ね気味の彼はプイと顔を背けた。

 

「ごめんてば、笑っちゃって」

 

「別に、怒ってないよ。ドジだし俺」

 

 三文芝居にも似た流れが、どことなく懐かしさを感じさせるように楽しくて、笑いが止まりそうにない。これ以上笑い続けたら彼が本当に拗ねてしまうかもしれないから、どうにかお腹に力を込めて笑わないようにする。

 

「……で、レイヤに対してのコメントか。そうだな」

 

「ん、ん。どうだった?」

 

 隠しきれない引き攣りを手で覆い隠し、彼の顔を覗き込む。隣を歩く彼と急に目線が合った。僅かに下に目を向けた彼は至って真剣な表情をしている。

 

「……優しいよね。レイヤの声って」

 

「……びっくりした。RASのこと引き摺ってるのかと思って」

 

「そりゃ、どのバンドで歌うかとかで変わるかもしれないけど」

 

 突然立ち止まった彼は一度空を見上げて、商店街のアーケードに吊るされた垂れ幕をぼんやりと見上げているらしかった。彼なりに考えをまとめているらしく、言葉を待つために私も立ち止まろうとした瞬間。

 

「ん、でも俺はやっぱり好きだな。ごめんな、浅い感想で」

 

「え、ちょっと」

 

 何の前兆もない、待望の言葉に心臓が飛び跳ねる。何の気無しにこういう言葉を口にするのだから、罪作りと言えばその通りだろう。でも、これだけの付き合いがあれば分かるけど、彼は間違いなく本心でそう言っているし、そこに打算的な何かが隠れているわけでも、無用すぎる気遣いに塗れているわけでもない。だからこそ私はそういう言葉を待っていたのだ。

 ふと、そんな良くも悪くも正直すぎる彼の顔を覗き込んでいたことへの恥ずかしさが増して、慌てて直立姿勢に戻した。彼は構わず帰路を歩み始めようとしたから、それに遅れないように追いかける。

 

「本当ならもっと、ここはこうした方が良い、みたいな具体的な感想というか、提案というか、アドバイスが出来たら良かったんだけど」

 

「いやいや、それだけで十分。というより」

 

「まぁ。率直に好きだなぁって、感じ?」

 

 それ以上褒めちぎるのは顔が熱くなってしまうから辞めて、なんて言おうとした瞬間にこれなものだから、柄にもなく私は彼を肘で小突く。彼は彼でそんなことされるとは思いもよらなかったのか、心配そうに、そして変なものでも見たように、目を大きく見開いて困惑している。

 

「えっと、あ。どこが好きかって言うと」

 

「ほんとそれ以上はダメだって」

 

「ええ?」

 

 何も分かっていない頓珍漢が話を続けようとするものだから慌てて切り上げさせた。

 

「でも感想ってレイヤから言い出して」

 

「十分すぎるぐらい貰ったから。そんなに歌の話したいなら、次は私が歌を聴いて感想をあげるから」

 

「俺の?」

 

「うん。だからストップ」

 

「うーん、そっか」

 

 納得がいかないという顔をしているけど、物申したいのはこっちなぐらいだ。人の気持ちを慮ろうとしている割にはこういうところには超が何個もつくほどに疎い。なんならまだ何個か文句を言ってもいいぐらいかと思ったけど、彼は途端に静かになってしまったものだから、そこで矛は収めることにした。

 でも、私の必死の懇願が相当効いたのか、それから数分ぐらい彼は一言も発さない。あまりに鈍い反応に、私がもう一度チラリと彼の様子を窺うと、彼はどうにもこうにも渋い表情をしている。ここまで真剣に、かつ渋い表情をしているのはあまり見たことがなかった。

 

「えっと、どうかした?」

 

「……いや、何でもないよ」

 

「何かあったでしょ?」

 

「うん」

 

 随分と潔い返答だった。正直なことはありがたいけど、どうやらそれが彼の顔が曇ってしまった原因らしくて、私はパンドラの箱を開けることに成功してしまったらしかった。

 

「俺の歌……。いつまで歌ってられるのかなって」

 

「え?」

 

 いつまで歌っていられるか。そんなのもっと歳を取って、声帯が役割を終えてしまうその時まで、それこそ、歌い続けられるならいつまでも、そんな風な答えがすぐに浮かんだから、私は安易にもそんな言葉を口にしようとした。けど、私が頭の中を整理している僅かな間に彼が残した言葉は、もっと重いものだった。

 

「出来ることならずっと歌いたいけど、いつか、そう遠くない頃にこのギターとも、別れなきゃいけない時が来るよなって」

 

「えっ……」

 

「親からも言われてるからな。早く音楽なんて辞めて、帰ってこい。なんて」

 

 彼の頭の中にあるもの、それはもっと重く、苦しい問題だった。人生そのものを決定づけてしまうもの。ギターとのお別れ、なんていうのも、単にギターが壊れてしまうだとか、そんなんじゃなくて、音楽の道を諦めざるを得ない、その岐路に立たされている。そういうことだった。

 

「ま、だから俺の言うことなんて、そんなに当てにしちゃダメだから、意見ならもっとまともな人に貰った方が良いぞ……ってことで、ここら辺で」

 

 話を勝手にまとめて終わってしまうようにして、彼は私の鞄を手渡してきた。そして、捨て台詞を言い残してこちらに背中を向ける。こちらに見せた縁の赤い手の甲は、サヨナラの合図だった。バイバイ、なんていう軽々しい手の振り方ではなく、何か固い決意をしているかのように動かない手の甲。まるで見たくもない現実を私に突きつけているみたいに。

 

「待ってよ」

 

「え?」

 

 私は考える間も無く、気がつけば彼の腕を掴んでいる。なんだか、今この機会を逃すと、彼が遠いどこかへ行ってしまうような、そんな気がしたから。何の根拠もないけど、そんな気がしたのだ。

 

「えっと、何かあったのか? レイヤ」

 

「ちょっと、話をしよう」

 

 私たちが立ち止まっていたのは、生活道路の重なる交差点。中央には十字の白い模様が印され、そんなど真ん中で話を続けるわけにもいかない。

 帰ろうとしていた彼を了承も取らずに引きずるようにして、近くの公園にまで連れていくことにした。彼の言葉の真意を、彼がどうするかを聞きたかったから。そして、もしも可能ならば。

 

「いきなりこんなところまで連れてきて、そんなにしたい話でもあったのか? はっ、まさか愛の告白」

 

「ちょっと、もっと真剣な話」

 

 彼はおちゃらけているようで、私の反応を見て、少し真剣な顔つきに戻った。彼のおふざけに付き合うのも楽しいし、なんだったら選択肢の一つとしては大いにアリなのだけど、今はそれどころではない。

 

「そういえば、上京して来たんだっけ」

 

「まぁね。そこはレイヤと一緒だよ」

 

「うん。それで、その、親御さんからはなんて?」

 

「ま、都会で無駄金ばら撒いて、時間を浪費するぐらいなら帰って家のこと手伝うか、定職に就け、ってね。まぁ至極真っ当なアレだよ」

 

 そういうと彼は懐からライターと煙草を取り出して、火をつける。公園内は多分禁煙なんだろうし、そもそも二十歳になってたっけ、なんて色んな疑問が噴き上がるけど、今はそんなことにも気を留める余裕はなかった。彼がため息のように吐き出した煙草の煙は、冬の白い吐息の何倍も重そうだった。

 

「売れてない自覚もあるし、厳しい時には仕送りもしてもらってる分、それに何も文句が言えるような立場じゃないけどな」

 

 彼が背中に背負っていたケースを下ろす動作は些か乱暴に見えた。外で溜まった鬱憤だとかの八つ当たりをするかのようにすら見えてしまう。普段は大事には扱っているだろうに、中のギターだって突然の衝撃に驚いたに違いない。

 

「でも、それって結構前から言われてたんだよね」

 

「まぁね。元は親の反対を振り切ってここまで出て来たわけだし。父親にはビンタもされたし、けどさ、最近思うことは増えたんだよ」

 

「増えた……?」

 

 彼の目はどこか遠い空を見つめている。それは煙が立ち上って消えていく空気の方だろうか、それとももっと遠い、遠い空のことを見上げているのだろうか。夕暮れ時を少し過ぎた空には星が所々出始めている。

 

「自分には才能も、努力し続けられる気概もない。そんな俺がこの先大成することなんてないってな」

 

「そんなこと、やってみなきゃ」

 

「分かんないよな。でもな、分かることは確かにあるんだよ。それこそレイヤの歌を聴いてても、自分とはここが違う、ここがレベチだ。逆立ちしても敵わない、なんて」

 

「私の歌で……?」

 

「……素直に褒められるような器のデカい男だったら良かったのに、ごめんな。レイヤが悪いわけじゃない。ただ、歌い続けるうちに、違う世界を見ちゃった俺が悪いんだから」

 

 別に、彼に嫌味のように言われたって私がどうか思うかなんてことはない。もちろん素直に褒め言葉として与えられた方が嬉しいけど、彼の心の中に私の歌が生きているならそれだけで私は満足できるほどだ。

 でも、まるで嫌いな食べ物を必死に拒む子どものように、歌そのものに恨み節をぶつけようとしている彼がそこにはいて、それは酷く悲しかった。

 

「違う世界って、どんな世界? これまで、音楽に夢を見て来た世界と、何が違うの?」

 

「……上京するまでは、本当に歌で頂点を取るなんて、恥ずかしげもなく大きなこと考えてたよ。自分が好きな歌で、何か出来たらいい、そんな簡単に考えてた」

 

 多くのミュージシャンがチャンスを求めて東京に集うように、きっと彼もそのうちの一人だった。でも、夢破れて、死んだような目をするには、あまりにも若すぎるような気がした。

 

「蓋を開けば、自分一人じゃ生活すら出来ないし、歌は生きるための手段に過ぎなかった。知り合い作って、必死に集めて、どうにかライブ開いて、少しだけネットでバズって、それでもギリギリ。親の言う通りだ。何で歌ってんだろうなって、歌うことすら嫌いになりそうなんだよ」

 

「そんな……」

 

 否定したかった。でもきっと、彼がそう考えるのも無理はなかった。前に家に押しかけた時には、まるで殺風景な部屋の様子。聞けば余裕もないのに家の中を充実させられる訳がないって言われて、ひどく納得した覚えがある。

 彼にとっては、夢を叶える術だとか、音楽の楽しさはとうに消えて、その日その日を生きるためとほぼ同じになってしまったらしかった。

 

「……だから。いつまで歌えるんだろうな。俺」

 

 そう呟いたまま、ベンチに深く腰掛けて、前屈みになった彼の背中は寂しかった。もう二度と歌わない、そう誓うかのように、口は横一文字に結ばれている。彼の手から離れたギターケースは力なく横たえられていた。

 私は彼にどんな言葉をかけるべきなのだろうか。歌を嫌いになってしまった彼の背中を押して、次のあるかもしれない未来に送り出すべきなのだろうか。あの交差点で、彼の背中を見送ったまま、どこか知らない世界で別々に生きていくべきだったのだろうか。否、それが嫌だったからこうして、彼の手を引っ張ってでもここまで来たはずだった。でも、答えは出なかった。

 

「ネットでエゴサなんてして、批判を見るのも慣れて来たぐらいだもんな」

 

 彼は無理やり笑い飛ばして、沈み込んだ空気を吹き飛ばそうとしていた。きっと私が塞ぎ込んだ表情をしているのを見てしまったからだろう。慌てて取り繕おうとしたけど、私を止めたのは彼自身だった。

 

「ま、俺にとっては歌は聴くぐらいが丁度良かったってこと」

 

「私は、聴きたいよ。君の歌」

 

「え?」

 

 いつのまにか私は彼の手を握っていた。寒空の下で握った彼の手はひどく震えている。それを証明するかのように、視界に白くて小さな雪がチラつきだした。

 

「好きなんだもん。聴きたいよ」

 

「……レイヤ?」

 

「一緒に歌おうよ。私と、ね」

 

 私は立ち上がっていて、彼の手を取っていた。灰色のニット帽を被った彼は、キョトンとしながら私の方をぼんやりと見つめていた。

 そこには、かつての幼い自分がいた。音楽が嫌いになってしまいそうなぐらい、全部から逃げ出そうとしていた臆病者の自分がいた。音楽すら嫌いになってしまいそうなぐらい弱い、自分がいた。

 あの時、私に声を掛けてくれた花ちゃんに小さくお礼を呟きながら、私は彼の手を強く握りしめていた。私が少し引き上げると、彼は釣られたように立ち上がる。力が抜けていたらしい彼の体が私と折り重なる。私が放っておけば倒れてしまいそうな彼の体を支える。細い彼の体を抱き止めながら、静かに呟いた。

 

「大丈夫。私しか聴いてないよ」

 

 二人だけのライブ。出演するのは君と私。観客は君と私の二人だけ。

 

「だから、私に聴かせて? 君の歌」

 

 そのステージにはギターも、ベースもない。ただ音楽を通じて出会った二人が口ずさむ幼い歌だけ。

 まるでそれがツアーライブの千秋楽のように、舞い散る花吹雪が銀花となって咲いていた。

 

 歌って楽しいんだよ。

 

 幼い頃から、今の今まで私は歌と一緒に生きてきた。きっと彼も、彼の小さい頃は知らないけど、私と同じで、歌が大好きだったんだろう。

 歌うことというのはもちろん楽しいことだけじゃない。苦しいことだって振り返れば何度もあった気がする。でも、楽しいんだ。

 駅前で私と花ちゃんのライブを見ていた彼は何を思っていたのだろうか。そして今、凍るような空気の中、身を寄せ合って口ずさむ彼は何を思っているだろうか。二人で繋ぐ手の甲の上には、すぐに溶けてしまいそうなほど小さな雪がしんしんと積もり始めた。冷たいね、冷たいな、なんて童心に帰ったように、二人で笑い合っていた。

 

 

 

「って、もうこんな時間じゃん」

 

 笑い疲れた私たちはベンチの上で静かな時を過ごしていた。ここぞとばかりに私は彼に思いっきり身を寄せていたのだけど、彼は何を言うでもない。この辺りはいつも通りらしいのだけど、そんな並大抵のことでは靡かない彼が時計を見て驚きの声を上げた。

 

「もう真っ暗だね」

 

「帰んないと。送ってくよ」

 

「私の家遠いよ? もしかしたら泊めてくれた方が風邪ひかなくて済むかも」

 

「確かに。レイヤって天才だな」

 

 鈍さで世界一を取れそうな彼の良心を悪用して、私はそんな提案をする。何も疑わない彼は、この先大丈夫だろうか。

 

「レイヤ」

 

「え?」

 

「……ありがとう」

 

「お互い様、だよ」

 

 不意に呟いた彼の声にドキリとした。さっきまで笑い声ばかりが脳に反芻していたのに、急に低くなったから余計だ。

 こんな冷たい空気の日には彼の声がよく通る。彼の歌が聴きたい。そんな気持ちを、私はずっと持ち続けるのだろう。何度も咲き続ける花に、無限の白い吐息に、想いを託して、同じ帰り道を歩いたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【倉田 ましろ】私を励ます一人の魔法

 モフモフのお布団。夜も朝も、太陽がなかなか姿を見せないこの頃には、部屋の中まですっかり冷え込んでいるものだから、その布団の中の生温かい空気に、私はどっぷり浸かり込んでいた。

 既に明かりを落として、部屋は暗い。一日の終わりを示している時計もその姿は見えず、体に朧気に残る疲労感と憂鬱さだけがこの世の終わりのような夜を教えてくれていた。

 身体中に残った疲労感は、今日のライブで頑張った証だろうか。Morfonicaというバンドでボーカルを務める私は、近場のライブハウスでの一仕事を終えて、振り返りという名のディナーを嗜み、ガッチガチに強張った筋肉を休ませるようにベッドに倒れ込んだのだ。

 

「はぁー……。もう嫌だ……」

 

 先に言っておきたいのだが、私は自己肯定感というものがとてつもなく低い。それは周囲の環境、通っている月ノ森女子学園の生徒の優秀さだとかに影響されているのもあるけど、やはり一番は生来の性格だ。損な性格だとは思っている。生まれ持ったものなのに、簡単に変えることは出来ないし、月ノ森に入り、バンドを始めて少し変わったかと思えば、今もこうして大きすぎるほどのため息をついている。人前では到底つくことのできないため息を、一人だけの空間でここぞとばかりに毛布に吹き付けている。

 そんな恐ろしく低い自己肯定感の権化たるため息をついて、脳裏をよぎるのはライブでの自分の姿だった。別撮りをしていた自分の映像を見れば、まあ及第点と言わずとも思い切りのよい歌い方ができている、ような気がする。だけど、ライブが終わり、一緒に同じ曲を作った仲間とああだこうだと話し合いうちに、自分のダメなところがこれでもかというほどにぽんぽんと出てくる。恐らく周囲が私を一方的に詰ったりだとか、罵倒したりだとかそういうことをしようとしているわけではないことは理解している。なのに、そんな評価の難しいスレスレの言葉を聞くだけで、どんどんと自分の自信というのは欠けていくものなのだ。

 メッセージアプリの方では、夜遅い時間に差し掛かっているというのに、通知がチラホラと音を立てている。いつも同じバンドを成すメンバーのやりとりが煩わしいと感じてしまう私はもしかするとクズなのかもしれない。私の名前がもしかしたら出ているのかもしれない、そう思っただけで心が痛む。文明的なブルーライトが酷く目に突き刺さっていた。

 部屋は静かになった。外の街灯から漏れて、窓を透き通る光だけがシェードランプのように部屋を照らす。私もそんな長いこと、辛い現実を見たくはなくて寝返りを打って目を閉じる。明日は学校もない、久しぶりの休日だ。課題だとか、やらなければいけないことはあるけど、何にも追われることのない静かな休日だ。現実逃避にはもってこいの時間か。

 

「寝よ……」

 

 うっすらと瞼を閉じる。周囲の僅かな明かりの照らす部屋の景色が見えなくなったことで、私はまたも、瞼の裏にステージライトを見ていた。力強く目を瞑れば瞑るほどにその光景はありありと思い出される。ベッドサイドに置いてあった、ふわふわのぬいぐるみを引っ掴んで、胸元で抱きしめた。行き場のない力がぬいぐるみに伝わっていくけれど、それで幾分か解れた気持ちのせいか、私は暫くして夢の世界に旅立っていた。

 

 

 

 目が覚めると、いつのまにか部屋には太陽の光が差し込んでいた。瞼の裏まで焼き尽くしてしまうような、冬には珍しい熱を持った陽光から身を隠すように寝返りを打って、部屋の中の方へと体の向きを変える。太陽光を浴び続けていたせいか、瞼の裏は何か人的な力を超えた何かによって血管が大きく拡張したのかと錯覚してしまうほどに赤い。絵の具の橙と黒と赤を全て同じ比率で混ぜて、パレットの上でぐちゃぐちゃにしたような色に、私はうめき声を上げた。

 私の苦悶の声に呼応するように、いつのまにか枕元に放り出していたぬいぐるみが床に転がり落ちる音が聞こえる。ぽすっ、という休日の昼を象徴するかのような気の抜けた音は私の目を覚醒させるにまでは至らない。むしろ、今日は何もしなければいけないこともないという、妙に表現の難しい謎の安心感を抱いて、私の心はもう一度心地よい快眠に向かおうとすらしていた。そこには眩しすぎるほどの光は一切なかったものだから、力の抜けた瞼が落ちれば、すぐにでも再度の眠りに就いてしまうことができた、はずだった。

 

「たく、起きたのかと思えば二度寝か。起きろましろ」

 

「ふぇ……」

 

 それまで穏やかに流れていた時を遮るかのようなシャッキリとした声がうっすらと聞こえる。特に何もなければ、朝を告げる小鳥の囀りか何かだと、気にも止めないままに意識を手放してしまいそうなものだったのに、そうは問屋がおろさないらしかった。

 それまで私の体を覆っていた、緩やかな眠気を誘っていた温い空気が、一瞬で入れ替わってしまった。体の上に覆い被さっていた布団やタオルケットの重みも一瞬で取り去られて、少しばかり軽くなってしまった体が、マットレスの反発によって浮き上がってしまうような錯覚すら感じる。

 何事かと慌てるより先に伸ばした手は、当初掴もうとしていた私から逃げようとする毛布を一寸も掠ることなく、空を切ったばかりか、不意に私の右手首に緩やかな拘束感が伝わってきた。どことなく柔くて心地よい感覚に負けてしまいそうになるが、感触だけでは一体全体、皆目見当もつかない存在の正体を知るためにも、私はぼんやりと重みで閉じていたはずの瞼を開いた。

 

「ほれ起きろ。朝だぞ、いや、なんならもうすぐ昼だぞ、昼」

 

「んん、え……?」

 

「だから、昼だって言ってるんだよ」

 

 まだ寝ぼけているに違いない私の耳はまともに機能せず、何らの言語も聞き取れそうにはなかった。聞いたとしても、それが何を表すかを理解するより先に頭から抜け落ちてしまうような脆弱な寝起きの記憶力と聴力には頼れそうにない。その代わり、それまで哀れな瞼の裏の景色を覗いていた瞳は、太陽の光に右半身が照らされて、影を半分に作った人型の何かを捉えた。

 

「え、うわ、え」

 

「人をそんなお化けか何かみたいに言うのはやめろ。口を慎め」

 

「え、え」

 

 私を襲ったのは困惑の感情だった。私が瞼をきっちりと閉じ切る前に予想していた光景とは百八十度違う周囲の様子に呆然とする。私は確か、数分前までは何の柵も、何のレンズも、誰の目もない空間で惰眠を貪りながら世の中の安泰に感謝して現実からかけ離れた空間にいるはずだったのに。惰眠を貪る暇も、世の中の動きに想いを馳せることもなく、限りなく現実に近い非現実への困惑で満ち満ちていたのだ。

 やがてまともに働いてくれるようになった私の思考回路が、直ちに体を起こすように全身に命令する。けれども、部屋に訪れた突然の冷ややかな空気に体は硬直してしまって、口をパカパカと開けながら状況を整理する以外に私が出来ることはなかった。

 そう、目の前に佇む彼が口にしたように、お化けにあったか、金縛りに遭遇してしまったか、狐に化かされたと考えるのは一番合点がいきそうなものなのだ。見たくもない現実は別の見たくない現実に、私はすっかり言葉を失ってしまっていた。

 

「なんで、なんでいるの?!」

 

 ステージでも滅多に出さない、いや、出したことすらないかもしれないシャウトに近い、寝起きの耳を痛めつけて劈くような声。奇しくも腹式呼吸をマスターしていなければ出てこないような厚い声は、私の寝起きの姿を見て愉しむ、えらく性格の悪い彼の耳も破壊しようとしていた。

 ほんの数センチぐらい浮いた頭は力が抜けて、叫び声と一緒になって枕に落ちた。本当は今すぐにでも起き上がってなんとか取り繕うべきなのかもしれないけど、判断能力の乏しい早朝に私の選んだ選択肢は諦観だった。

 

「なんでって、約束してたから来たのに、ましろがずっとすやすや寝息立てて寝てるものだから」

 

 キョトンとした顔で私のその場しのぎの、咄嗟に出た反応にバカ真面目に回答したその人は、密かに交際を続ける私の恋人であった。同い年でありながら、私よりほんの少しだけ精神年齢の高い彼は、文句を言うような口調にも関わらず淡々と、親が子を諭すような声色で、寝転がって天井のシミを数えざるを得ない私を見下ろしていた。

 彼曰く私は彼と約束をしていた云々と聞くが、矮小な記憶の回路を辿ってもそんな約束をした記憶は一欠片もない。可能性としてあり得るのは不意打ちか、それとも完全な私の忘却か。前者は彼の誠実さに照らして、また彼の立場を考慮して、まず百パーセントあり得ない。となると後者になってしまう。

 また、彼によれば、彼がここに訪れてしまったのはどうやらかなり前のことらしい。そういえばベッドから落ちたぬいぐるみの行方や音の在り処の記憶はあるのに、彼がこの部屋に来るまでに通るであろうドアの軋む音などは聞いた覚えがない。要は私が覚醒するよりも前に彼はやってきて、私の眠気との格闘も全て目撃されているわけで。

 

「……全部、見てた?」

 

 特段やましいようなことをしたわけではないのだが、寝起きの姿を見られる以前に、睡魔に襲われて無様な声を上げたり、必死の抵抗の方を見られたというのは、私のメンタル的にはかなりのダメージだ。

 私の一縷の望みをかけた疑問も、彼は少し目を逸らしながら小さく首を縦に振った。彼が追加で何かを付け足したりはしなかったけど、それはあまりに雄弁すぎた。

 

「……もうヤダ」

 

「おお、よしよし」

 

 朝目覚めたばかりだというのに、私の心は嬉しい憂鬱感に塗り替えられてしまった。先程まで感じていた眠気とかいうのは完全に吹き飛んでしまって、寝坊した時よりもひどい焦りを感じて冷や汗をかき始めている。

 最初こそ恥ずかしいだとか、みっともない姿を見せてしまったことへの恥じらいだとかが心を襲って、軽々しく否定的な言葉を吐き捨てた。けれども、現実を直視すれば直視するほどそれがどんな意味を持つかをひたすらに言い換え続けて、答えに辿り着いた私は絶望する。

 彼はもう起きてからそこそこ時間が経つのだろうか。パッチリと開いた瞳は盛んに動いているし、受け答えも口調もしっかりしている。傷ついた私の気持ちを察して最低限の励ましの声をかけてくれるけど、私がして欲しいのはそうじゃなくて、でも、それを求めていたりもする。

 

「約束って、なんだっけ……」

 

「今日出掛けるって」

 

「……一緒に?」

 

「じゃなきゃここに来ないって」

 

「……最悪だ」

 

 どうやら多忙だとか、そういうので私の大事な予定はすっぽかされてしまったらしかった。でも仕方がないのだ。そういうのを考える余裕すらない状況で、私がこれ以上頑張ってもきっとこれは回避できようがなかった。そう考えるほかない。

 

「家に着いたらましろのお母さんが出てきて、『ましろならまだ部屋から出てこないからきっと服装選びに四苦八苦してる』なんて言われたから部屋まで来たんだけどな。まさか寝てるとは」

 

「だって、だってぇ……。そ、そもそも、女の子の部屋だよ? 勝手に入るのはどうかなって」

 

「何回もノックしたからな。叩きすぎて拳が痛いぐらいだ」

 

「……嘘だよね」

 

「本当に」

 

 私が言い訳だとかをできる余地はまるでない。彼に恐らく非はなくて、話の限りでは何回も私が中にいるかを確認してドアを開けたらこの有り様らしかった。眠りに就く際に抱きかかえたままだったぬいぐるみが布団の外にほっぽり出される経緯も、私が何度も何度も寝返りを打っては太陽光から避け続けたところも、彼はベッドサイドに腰掛けてずっと眺めていたらしかった。悪趣味だなんて怒りたい気持ちもある。でも、彼は時間通りに私を迎えに来てこんなことになっただけで、せめて起こして欲しいなんてことも言えないぐらいに私が悪いみたいだった。

 とはいえ約束の時間に準備が間に合わなかった私を目の前にして、起こしたりだとかもせずにただ眺めて時間を潰すなんてのはいかがなものだろうか。私が言えるわけではないというのは分かっていても言いたくはなる。

 

「ちなみにちゃんと起こそうとしたからな」

 

「……えっ?!」

 

「何回も肩は揺すったし、声もかけたし、名前も呼んだし、キスもしたけど、ましろ何故か何しても起きないから、逆に何したら起きるのか試したいぐらいだったよ」

 

「うそうそ、そんなにされたら私絶対起きるもん」

 

 彼の仕草だとかを見れば相当強く私の体も頭も揺すられたようなのだけど、生憎私の朝の記憶にそんなものは何もない。彼が本当のことを言っているかは分からないけど、本当だとしたら私は相当深い眠りに就いていたのではないだろうか。

 

「それが起きなかったんだよ、普通のだけじゃなくて、激しいキスもしたのに」

 

「そんなぁ……。……え、え? キスなんてしたの? しかも激しいの?」

 

 彼は何も答えるでなく、ただ真っ直ぐに私の方を見ている。純真無垢に映る彼の瞳は揺れることもなく私と目線が合いっぱなしだ。たった一メートルすらも離れていない、私と彼の顔の間の距離。私は思わず詰め寄りそうになったけど、気恥ずかしさからか目を合わせられなくなって目を逸らす。

 普通に起こすならまだしも、どうしてキスなんて斬新かつ大人な方法で起こしているのだろうか。いや、毒の入った果物を齧ったプリンセスが恋人として結ばれる王子様のキスで目が覚めるならメルヘンチックで理想像ではあるけど。でも私はそれで起きてはいないし、なんなら御伽噺で済まないようなアダルティックなストーリーがすぎる。

 もしかして私の口元に付いてしまっているような気がする、口の開きの悪い原因である口元の涎の固まった後は、彼との愛の交わりの名残り、証明として残されているものだろうか。だとしたらそれはそれで彼のものになった気がして嬉しいのと、僅かばかりの反感と、それを覆って潰してしまうほどの期待の気持ちが入り混じって複雑だった。

 

「……したんだ。全部、大人の階段昇って……」

 

「まぁキスは何もしてないけど」

 

「えっ?」

 

「冗談だよ、冗談」

 

「……なんだぁ、良かったぁ」

 

 筆舌に尽くし難い安堵感に、腰まで起こしていた私の体は力なく彼の方へと倒れ込む。すっかり妄想の世界に耽る直前まで沈み込んでいた私は慌ててこちらの世界に戻ってこようと踏ん張ることにした。

 毛布の上でもそもそと彼ににじり寄った私は、彼が外に放り出した膝の上に着陸する。着陸した先で息を吐くと、彼の柔い掌がゆっくりと降りてきて、私の頭を撫で始めた。

 

「ふぁ……」

 

 その姿を外から見た人はきっと、聖母が我が子をあやす姿にでも見えるのだろう。私はこの居心地の良い空間が好きだ。自分が一番真ん中に、先頭に立ってしっかりと二本の足で立たなければいけない時よりもはるかに。下手をすればどんなところよりもこの場所が好きかもしれない。私のことを良く知る人だけが居る空間で温もりを感じる枕に顔を埋められるこの場所が。

 

「ましろは寝癖がすごいなぁ」

 

「ううん……。寝癖?」

 

「うん、今抑えてるところ」

 

「……えっ?!」

 

 慌てて起き上がりそうになったのを力尽くで寝かされる。確かにこのまま起き上がっていれば危うく彼の頭をぶつけるところだったかもしれないけど。彼がパッと手を離した瞬間に寝癖とやらではねた髪は抑える前の状態に戻ってしまったらしい。やはり私は彼にだらしのない姿を見せてしまっていたらしい。

 

「って、こんなことしてる場合じゃないよね。いい加減起き上がらせてくれないの? 出掛けるんだよね」

 

 私は慌てて部屋を見渡して、時計を探す。時計は自分の想像した時よりもはるかに天辺に近づいているようだった。驚きの声を上げた私を冷静に抑えつけた彼に必死の抵抗として力を入れるけど、上から抑えられたものだからまるで起き上がれない。

 

「出かけようと思ってたけど映画、もう上映時間過ぎちゃってるからなぁ」

 

「えっ、あっ……」

 

 そこまで言われて、ようやく合点がいった。データの詳細とやらはそれだ。この間街に赴いた時にボソリと呟いたのに彼が反応してくれてなし崩し的に決まったものをすっかり失念してしまっていたのだ。

 

「……そっか、私のせいだ」

 

 もう何から何まで悪いのは私ばかりで本当に救いようがない。今日の出掛けるきっかけも、その肝心な時にすっぽかしてしまったのも私ばかりで、今日はどうやら最悪な日らしい。何もかもがついていないらしかった。

 

「そうだな。ましろのせいだから、大人しく今日はましろの家で過ごすか」

 

「え?」

 

 自己嫌悪が最高潮に達したところで、彼はよそ行きで着てきたであろう上着も、帽子も、いそいそと脱ぎ始める。彼が身動ぎする度に私の顔の本当に目の前で芳しい彼の匂いが立ち込める。それは恐ろしいほどに中毒性を孕んだ毒花であるけれど、既に私は囚われの身であった。

 彼は脱いだ衣服を目の前のローテーブルの脇に固めて置いていた。それはまるで、今日はもう着ないと片付けながや言っているようなものだった。私は彼の心変わりへの焦燥感に揺らぎながらも、胸を撫で下ろした。

 彼は少しばかり軽装になると、また居直ったもので、残香は部屋に拡散し始めた。私はそれにうっとりとして味わいながらも、バレないように口を結んでおくことにした。彼は私の心を探るように顔を覗き込んでいる。

 

「それで、二度寝する? まだましろも眠たいなら」

 

「ううん。もう色んな意味で眠くはないかも」

 

 朝からこれだけのことがあれば眠気なんてのはとうになくなっている。彼の膝枕は眠気を誘うのに十分かもしれないが、今日ばかりはそんな悠長というか、呑気なことを垂らすわけにはいかない。私は彼の真似をするように、彼の表情の細かな変化を凝視していた。だけども、何かをそこから読み取るというのは私にはできない。

 

「……だな。まあそうだろうとは思ったけど」

 

「眠くはないけど、もっとここに居たいな」

 

 だからこそ、私は彼に揺さぶりをかける。彼の心がこれ以上怠惰な私に幻滅したりしないように、又はしたとしてもかすり傷で済むように。我ながら姑息で子供騙しの手だとは思うのだけど、私の乏しい人生経験じゃこれ以上上手いやり方を思いついたり、聞いたりしたことはない。

 所謂猫撫で声、なんてやつだろうか。もしかしたら声のトーンが僅かに上がっているだけかもしれない。普段との比較はできないけど、なるべく彼の気を引くような声色を作る。そして、頬を彼の逞しい膝の頭に擦り付けた。さながら動物のマーキングだった。

 

「私のせいでこうなっちゃったから」

 

 何が私のせいなんだなんてツッコミを自分に入れながら、もっと体を彼に寄せる。最初こそ布団の奥の方に入り込んでいたはずの足首も今や向きを変えて枕を見ている。部屋の空気は布団と比べれば寒いものの、幾分か暖かいので、そんなひんやりとした空気はあまり気にならなかった。

 先程までは頭を枕にのせるだけだった私は満足もできずに、体を起こすと体ごと彼の体にもたれかかった。触れ合った肌は互いの衣服越しでも二人の熱を伝え合っている気がした。

 

「そういってましろはくっつきたいだけだもんな」

 

「うん。ダメかな」

 

「俺はいいけど。ましろは寝巻きなの気にしないんだな」

 

「着替えて欲しかった?」

 

「俺はどっちでも」

 

 どっちでもいい、なんていう答えは嫌いだったけど、何か文句の一つでも言えるわけでもない私は顔を彼の腕に埋める。これ以上ないぐらいに馥郁な彼の匂いに私は体ごと埋めることにした。

 それはモフモフの布団に疲れた体を倒れ込ませるのとはまた違って、こう癖になるような、魔力のような人を容易に魅了する何かを秘めた魅力を持っている。魔力といっても邪悪だとか、不快なものではなく、人を心地よくさせるものだ。

 ただ、他者から見れば諸刃の剣のような毒なのかもしれない。こう考えを巡らせられる私はまだまだまともな方なのだろう。そんな根拠のない尊大な自信によって、私は優越感に浸っていた。この部屋には彼しかいないのにそんな比較の感情に依存してしまうあたり、この気持ちが過去の、そして将来的に向き合わざるを得ない嫌いな自分に向けられた感情であることは明白だった。

 

「どうせ出掛けないんだろ。もしそうなら今日はそのままでもいいんじゃないか」

 

 今日は家からも出ないし着替えずにそのままでいるのか。それはそれで楽だしアリかもしれない。早朝、だと思っていた寝ぼけていた頃の自分じゃ至ることのできなかった考えに内心呆れはある。もうあれほどの姿を見せたら何も変わらないだろうし、変に取り繕わずにありのままで生きようとかいうアレなのだろう。

 これは即ち彼の優しさに甘え続けることを意味するのだけど、これまでも甘え続けて生きてきた私からすればそれは逆張りして粘るつもりも毛頭なかった。私が今、昼前の時間を彼とこんな風に過ごしているのは、それを受容していることの証左でもある。

 

「うん。そうしようかな。着替える時間の分だけ、会える時間減っちゃうから」

 

 こうすれば彼は喜んでくれるだろうか。私を好きでいてくれるだろうか。そんな淡い期待は、自分一人ではまるでアプローチできない、恐ろしいほど低い自分への愛を貰うためである。重いと捉えられるかもしれないけど、自分で自分への愛を与えられない以上は、こうやって彼から承認をもらうしかないのだ。それは依存と表現ができるけど。

 

「言っても今日は予定他にないけどな」

 

「本当? それなら夜までずっと一緒?」

 

 私の心は躍る。跳ねる。輝き始める。今日は全ての現実から自らを遮断して、ただ時間の過ぎるのみをぼんやりと感じて過ごそうとしていたところが、あっという間に危うさを抱えた彩りの日常になっていたのだから。

 彼もデートということなら彼はきっと今日は一日中、私のために空けてくれているだろう。仮にそうだとするとすっぽかしていた申し訳なさも少しある一方で、私の心は喜びと満足感に満ちている。

 

「家に一日中居ないと、結局着替えないとだもんな。俺はいいよ、夜まで出掛けるって親には言ってあるし」

 

「……はは」

 

 こうも上手くいくとは。眠りに就くばかり、目覚めたばかりの自分では考えられないほどの幸運が舞い込んで、私は例のごとく沼に沈み込んでしまった。やはり、彼は私の期待通りに考えていたのだ。多分朝までの不幸はこの幸せをより噛み締めるための予兆かなんかだったのだろう。

 

「ましろのお母さんになんて言うかだけど」

 

「入ってきた時はなんて言ったの?」

 

「夜までエスコートしますって」

 

「わぁ」

 

 聞いておきながら言うのもなんだけど顔が熱くなるほどの中毒性。気を抜くだけで失神してしまいそうなぐらいの感情の起伏で、もはや風邪をひいてしまうまである。

 私がきちんと朝起きて、彼と一緒に街を歩いて、美味しいものを食べたりする世界もあったかもしれないけど、そうではない未来も私にとっては相当価値のあるものだ。これで喜ばない人がどこにいると言うのだろうか。

 

「えへへ……へへ」

 

「隠そうともしないのか」

 

「うん。ギュッてしたいな」

 

 感情を隠す余裕もないし必要もない。だってこの部屋には私の他には彼しかいない。全てを受け入れてくれるであろう彼への隠し事なんてのは不要だろう。だから私は僅かに体を起こすと両腕を広げる。受け止めた彼は私が少しばかり体重をかけたって何一つ文句も言う様子がない。そこに私は別の種類の優越感を覚えていた。彼から返しの抱き締めが来る度に、その気持ちは強くなって、私の傲慢さを加速させるようだった。

 彼の背中に回された私の両の掌はガッチリと繋がれている。私の華奢な肩幅では彼を締め付けるようになっているかもしれないけど、私にとっては些細な問題だった。彼は苦しいだとか、なんとも言わないものだから。彼の適当さはこういう時ですら私を救っているのだ。

 

「ふわ……ぁぁ」

 

「おっと、眠くなってきた?」

 

 彼はそう言うと、脱力して彼の腰ぐらいまで下がってきた腕を解いて、私の掌を握った。先程よりも柔くなっていた彼の掌は幾分か冷たくなっているようだった。部屋の冷たい空気にでも当てられてしまったのだろうか。

 気怠さに負けてしまいそうな私は小さく首を縦に振る。きっと声を出すことすら面倒臭がっていたに違いない。腕だけでなく、全身に力が入らなくなって、元より彼に寄りかかっていた体はベッドのマットレスに吸い込まれているようだった。いつのまにか私の体の上から消失していた毛布が私に乗っかっていた。

 

「それじゃあ二度寝しようか。俺も入って良い?」

 

「来てくれないとやだ……」

 

 私は最後の力を振り絞って呟く。既に半分ぐらいまで閉じかけた目が最後に見た景色は、数センチ先の彼の瞳が薄らと閉じられるところだった。

 布団の中は温かい。昨晩の外の寒さを吹き飛ばすほどに温かい空気が私を呑み込んでいた。私は決して離さないように柔い彼の手を握った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【瀬田 薫】彼と二人で儚い恋を

 喧騒が冷めやらない放課後の教室の前の廊下。私にとってそこは、多くの観衆が固唾を飲んで作中の人々の運命を見守る舞台と、なんら変わりはなかった。私の生み出す瀬田薫を求める子猫ちゃん達が集う場所であるならば、そこは私にとってどこであっても舞台であり、ステージである。こんなに懸ける想いが強くなったのは、一体いつからなのだろうか。そんな独りよがりの思案に耽る時間さえも、背後から、そして両脇からも、私の名前を呼ぶ黄色い声援が飛び交っていた。

 

「……儚い」

 

 群衆から追われて、蜂が標的を見つけて集ったような一団が、遂に校門の前にまで辿り着いた。羽丘女子学園の敷地全てを練り歩いてきたのではないかと疑うほどの疲労感はひた隠し、最後の最後まで追っかけてきてくれた子猫ちゃん達の方を一瞥する。

 春先を予感させるような風が一陣、門扉をすり抜けて私を通り過ぎて、校庭の方へと駆け抜けてゆく。走る風にせき立てられるように、私の紫の髪は靡き、一瞬だけ私の視界を覆い隠すと、力を失ったように重力に従い垂れ下がった。私の一挙手一投足を求めて止まない子猫ちゃん達の期待の目に応えようとして開いた口から飛び出したのは、私がおそらく、いつ何時も使い続けるお気に入りの台詞であった。

 あまりに表現の難しい、常世に遍く存在する言の葉を散りばめて語ってしまえば、すぐに味わい深さを散らしてしまうようなこの気持ちを、逃げるように外を向きながら私は呟いた。それまで長い紫の枠が切り抜いたファンの姿のない、外の世界に踏み出すのである。

 直後に背後から、その日一番の歓声が上がったことは言うまでもなかった。

 

 私は足早にアスファルトの道を急ぐ。学校の敷地に沿って植わった名もなき木々があっという間に視界の端に消えて、みるみるうちに学校の活気というものは消えていった。

 ここは果たして舞台なのだろうか。正確な答えを語れば分からないというのが私の与えられる答えだろうか。外とはいえども、まだ学校の敷地を出て数百メートルも歩いていない。ここを通る、羽丘の女子生徒は多い。だから、舞台である蓋然性があるというのがより実感に近いだろうか。全くもって、どこもかしこもステージであるのと変わりがない身に対しては頭が上がらないのだが、こんな不安を吐露するというのはそれこそ、瀬田薫としての自覚がまだまだ足りないと言うべきだろうか。

 それでも、私が向かっている先は、むしろ舞台からどんどんとフェードアウトする方向を向いている。歩けば歩くほど、私を瀬田薫であると知っている人間の数は減っていき、この世界に数多く存在する女子高生の一人になっていく。車の行き交う大通りを抜けて、乱立するマンションを何棟も通り過ぎる。他の棟とほとんど変わり映えしない建物の真下に来ると、さらに私は急ぎ足になった。

 インターホンを鳴らす。けれども、特に返事が返ってくることすらなく、諦めた私が手を掛けた扉はドアノブを捻ると簡単に開いた。生活感の溢れた玄関が現れて、私は見慣れた間取りであることに安堵して、一番奥の扉を開く。

 

「やぁ、……君はまた本を読んでいるんだね。実に勉強熱心だ。私の来訪に気づかないぐらいとはね」

 

「……英雄の凱旋気取りかな。冷やかしならお断りだよ」

 

「実に味わい深くて詩的な表現だ。……儚い」

 

 私が部屋に入り声をかけると、分かりやすく目の前の男子が溜息をついた。私の紫色を遠目に見るような薄緑のインナーカラーは、窓から入り込む肌寒い風に靡いている。

 彼は実に分かりやすい反応をくれたけれども、私としては冷やかしの気持ちなど寸分たりともない。彼の貴重な読書の時間を邪魔してしまったならばともかく、私が来ることを見越してか、いつもの体勢ではなく、背もたれがこちらからは見えない向きに回転しているところを見ると、彼の集中力も限界というところに私の来訪があったに違いない。それを簡潔に示すように、あまりに長い時間、細かい文字を見続けて疲労を重ねた彼の両目は、暫しの休憩を求めるように瞬いている。

 

「私が訪れたのも良い機会だから、少しばかり休息を挟むというのはどうだろうか? その本だって、心に余裕がある者に読まれたいはずだ」

 

「生憎読みたい本が溜まってるものでね。一冊一冊の本に掛けられる時間があまりないんだよ」

 

 彼は小さく吐き捨てた後に、部屋の一面の殆どを占める本棚に目を向けた。彼が読みたい本とやらが何かは分からないけれども、目の前の光景が全てを物語っているらしい。

 本棚にぎゅうぎゅうになるまで詰め込まれた本や、その真ん前に不恰好にも積み上げられた途中まで読まれた形跡のある本を除けば本当に物が少ない部屋である。私は遠慮することもなく、スクールバッグをドア横の壁際の床に置く。彼はいよいよ意図を察したのか、背後の机の縁で、風に煽られて床に落ちそうになっていた栞を引っ掴んで、それを差し込んだ本をわざと音を立てながら閉じた。とはいえ、私は何ら態度を変えるつもりもなかった。

 

「さて、まずはその窓を閉じよう。虚弱な君が風邪を引くのは忍びないんだ」

 

「換気だよ。僕だって外の空気を吸いたい時ぐらいあるんだよ。単に薫が寒いだけでしょ」

 

 机の横の壁から日光を取り込む窓。彼の髪の毛を揺らす程度には風が吹き込んでいるその窓ガラスを、彼の了承を得るでもなく閉じる。彼の言うように換気というのは嘘ではないのだろう。窓を閉じるほんの一瞬だけ、部屋から外に解き放たれる空気の中に、古臭い本の強い紙の匂いの中に彼の香りがした。この窓の近くで、部屋の空気が外とかなり入れ替わっているらしい。

 それでも、私が窓を閉じると、外から安寧を壊すように入り込んできた風の冷たさは霧散した。突然消えた肌寒さに私は強い安堵を覚えながら、二度とこの窓が容易には開かないように、二枚の番となった窓ガラスを固く閉ざした。

 

「鍵まで閉めなくてもいいのに。別に、薫が閉めたいんだったら無理して開けたりしないよ」

 

「私が施錠をしたかっただけさ。気にしてないで欲しい」

 

「……で、何のよう?」

 

 私はてっきり彼が文句をぶつくさと垂れ続けるのかと思ったけど、今日の彼はそういう気分ではないらしい。彼の機嫌の良さに心の底から感謝しながら、私は本題を話すためにくるりと翻り、カバンの中からそっと紙の束を取り出した。

 卒業公演は少し前に終わってしまったものの、私とて演じたい役柄はまだまだある。願わくはこの世にある全ての物語に私の命を吹き込むことすら。彼のように哲学者の遺した深い思惟の書物を読むのもまた一興だけれども、今日はそういう気分ではない。

 

「なんてことはない。ただ私も書き物を読みにきただけだよ」

 

「そうかそうか。空いてる部屋なら好きなだけ貸すけど」

 

「私が迷いなくこの部屋に来た意味が分からない君ではないだろう?」

 

 私のことに関して、長い付き合いで聡い彼はそれ以上反論することもなく、先程閉じたばかりの本に視線を落とした。彼の了承と見た私はきっと笑みを浮かべている。様式美として成り立ってしまいそうなほどに使い古されたやり取りの締めくくりに、彼が毎日睡眠に使うベッドをありがたく拝借する。勿論寝転がりながら台本を読むなんてことはせず、その柔らかいマットレスの端っこに深く腰掛けて。

 私の方は完全に準備が整ったのだけど、彼は気が散っているように複雑そうな表情を浮かべながら、栞の紙に括られた赤い紐を引っ張っている。

 

「相席はダメなのかい?」

 

 静寂な部屋で小さく音を立てるマットレス。その音と私の声に釣られるように彼は顔を上げる。

 

「集中できないから」

 

「フィアンセの我儘だよ」

 

「結婚の約束をしたような覚えは誰ともないんだけどね」

 

 彼は今日一番大きい溜息をついた。けれども、これはきっと呆れだとかそういうものを通り越した溜息であった。ゆらゆらと力なく立ち上がった彼は、まだ目的のページを開けてすらない本を落とさないように握ったまま、私のすぐ隣に腰を下ろした。

 途端に私の鼻腔を襲う彼の、春の花をも想起させるフローラルな香り。私はそれに言葉にならない悶絶を上げながら、平静を装って彼に身を寄せた。

 

「我儘には素直に応じてくれるんだね。素直が一番みたいだ」

 

「ここで応じなかったら、きっと要求がだんだんとエスカレートしていくんだろ? それぐらいならここで妥協しておいた方が、幾分かマシかなと思って」

 

「際限なくエスカレートする訳じゃないさ。ただ君が私を甘やかすその限界を突き詰めようとしているだけだから」

 

「もういい、僕の負けだ」

 

 彼は肩をすくめて、身を縮こめた。きっと何を言っても今日の私はそれを聞き入れるような広い心を持ち合わせてはいないということに気がついてしまったのだろう。

 私の手に握られるでもなく、私から遠く離れた壁際に置かれたカバン。数分か前までは外界の空気を吸い出そうとし続けていた窓の隙間。私が握りしめる紙の束の分厚さ。いつもはもう少し聞き分けのいい私の頑なな態度。

 きっと彼が見ている世界のそのどれもが彼を諦めさせるには十分だったのだろう。事実、どれもが私の極端に恣意的な算段であり、決意表明でもあり、強い自己主張なのだから。

 

「負けを認めるだなんて君らしくないじゃないか」

 

「薫にだけは言われたくないよ」

 

「私が負けず嫌いとでも言いたいのかい?」

 

「そうじゃないよ。ただ癪なだけさ」

 

「……儚い」

 

「……はぁ」

 

 まるで私の決め台詞と呼応するような彼の小さな溜息。それは慣れ親しんだ光景ではありながらも、少し物寂しさも孕んでいる。それでいて、彼を彼たらしめる唯一性の証左でもあった。

 

「千聖の他には、君だけだよ。そこまで不服そうな表情で私を扱うのは」

 

「そう思うんだったら態度を少しぐらい改めようっていう気持ちにはならないんだ? 僕はともかくとして、千聖への態度は本当に改めた方が良いと思うよ」

 

「確かに、幼馴染という関係性、それはとても儚いことだからね」

 

「何も分かってないでしょ? あ、いや……分かってるのか……?」

 

「全てわかっているさ。瀬田薫、だからね」

 

「あぁ、やっぱりダメそうだ」

 

 彼は頭を抱えるけど、どうして頭を抱えているのかはよく分からない。私だってちーちゃんとの関係が大切なものだなんてこと、よく分かっているのだから、ここまで言われることなのかと問われればよく分からない。

 

「今の僕の気持ち、きっと千聖なら首を勢いよく縦に振りながら理解してくれるんだろうなぁ」

 

「まさか。君の気持ちを私以上に理解する人なんて、たとえ千聖でもあり得ないよ」

 

「……これだから」

 

 より一層おでこに力を込めて頭を悩ませる彼。でも、私は何の嘘偽りも言っているつもりはないし、全てが全て、本気で口から溢れた言葉である。ところが、どうやら大きな乖離が生じているらしく、彼は本気で訳がわからないと頭を思い切り横に振っていた。その挙措のおよそ全てが穏やかな彼にしては珍しい姿であった。

 

「薫のことに関しての気持ちだとか、呆れだとかなら、きっと千聖との方が共有できると思うよ」

 

「なら試してみよう。千聖よりも私の方が君のことを理解していると」

 

「千聖がいないのにどうやって……」

 

「現代の科学が産んだ素晴らしい道具がそこにあるじゃないか。実に儚い発明品だ……」

 

 私が指さした先には、机の上に埋もれるような状態で放置されたスマートフォン。本の虫と化した彼にとっては、現代では必要不可欠な機器となったそれすらも自らの読書に耽る時間を邪魔するもの、だなんて考えていそうだ。

 彼は何か居心地が悪そうに首の後ろを掻きむしると、立ち上がって乱雑に手を伸ばす。物凄く気怠げな振る舞いも彼の不可思議さをかもしだすことに大いに寄与しているのだけど、彼がそこに気がつく様子はない。

 やがて数回のコール音が鳴り、スピーカーモードで部屋に響く声が、私の耳にまで届くこととなった。

 

『何かしら。お仕事の移動中で忙しいのだけれど』

 

「やぁ千聖」

 

「ちょっと、薫は黙ってて」

 

 電話口に聞こえてきた幼馴染の声に反応しようとした瞬間に釘を刺される。その瞬間、今日何度か耳にした嘆息と似たものが電子音となって響いた。

 

『何? お惚気のことなら私はもう懲り懲りだからまた今度にしてくれるかしら?』

 

 電話の向こうにいる千聖は明らかに不機嫌な声色だった。仕事の合間だという話をしていたか。この時期になっても盛んに芸能界の仕事に引っ張りだこの幼馴染がいるというのは鼻が高いものの、ハードワークに体を壊さないか心配になる。多分仕事続きで大層疲れているのだろう。また今度近場のカフェ、それでこそ羽沢珈琲店なんかに誘ってみるのが吉だろうか。

 私が遠いところで仕事に励む幼馴染に想いを馳せていると、彼は慌てたように取り繕うと弁明している。これだけ困った様相の彼を冷静にあしらう千聖を見ていると、やはり私の方が彼のことを理解しているように思えてならない。これは驕りだとか、驕傲ではなく、紛れもない事実なのだろう。

 

「待って、違うんだよ千聖。どちらが僕を理解してるかって薫が確かめたがってて」

 

『見せつけかしら? 幸せそうでいいことだと思うわよ。それじゃあ、忙しいから切るわね』

 

「ああ違う、僕の伝え方が悪かった……って、切られた」

 

 千聖の声は妙なほどに明るく、外行きの声色に変わった。そして、分かりやすく話を強制的に終わらせて、少しばかり無常感の漂う無機質な音声だけが部屋に響く。彼は哀れなことに千聖に見放されてしまったみたいで、暫くぽかんとしていたが、私が声をかけるより先に何の反応も見せないスマートフォンを放り出してしまった。

 

「やっぱり私の方が君のことをわかっているみたいだ」

 

「……もういいやそれで」

 

 勝ち誇ったような私の笑みをスルーして、彼は少しばかり咳き込む。それをすぐに取り繕うと、電話をする前のように白いシーツのかかったベッドに座り込む。どこか彼が疲れたような表情を浮かべているような気がするのは、私の気のせいだろうか。

 何度も深い呼吸を繰り返す彼に私からこれ以上何かを言うことが出来るわけでもなく、諦めて私は手元の紙束を捲り始める。部屋には人の声すらなくて、私が大量の文字が書かれた台本をペラペラと一ページずつ捲る音だけが、定期的に響いていた。そう、音を立てるのは私の指先だけ。

 

「おや、もう本は読まないのかい?」

 

 彼の興味は、先程までの椅子の上での彼と違って、私が何の気無しに彼の隣で読み進め始めた舞台の脚本らしい。静かになってしまった彼の様子を窺おうと視線を少し横に逸らすと、彼の目線の動きはものの見事に上下を一定間隔で往復している。

 

「……ん。疲れちゃったから。薫のそれは、もしかして僕が見てはいけないやつかな?」

 

「まさか。そんな超極秘の物があったらこんなすぐ隣で読むわけないだろう? さぁ、好きなだけ見てくれ」

 

「そこまで言われちゃうと……」

 

 遠慮がちに彼がそっぽを向いたのは、私が彼に見やすいように台本の向きを少し斜めにしたからだろうか。私としては彼が私の読んでいるものに興味を持ってくれたならば万々歳なのだが。

 ならば、それならばと、私はそこまで読み進めた台本の一部を頭の中でなぞり始めた。記憶の中に溶け込んでしまっていたこの物語を想起した。この本の中に生み出された世界を、そこに生きる人々の営みを、そこで彼は、彼女は、どんな思いで何を呟いていただろうか。物語の歯車が回り始めたように、突然脳内で動き出したストーリーが私を立ち上がらせていた。

 

『ああ姫……。どうして貴方はそれほどまでに美しいのか。生まれ落ちた所から今この瞬間まで、悉く違う人生を辿っていたはずの一人の男さえも狂わせてしまうほどに』

 

「わ、ちょっと。急に始まるのか……」

 

 それまで数えることすら億劫になるほどの本で埋め尽くされていたはずの部屋はあっという間に綺麗で物一つない板張りにへと変わる。部屋の中央でただ静かに薄暗い白の明かりを垂れ流しているだけだった照明は消え去り、遥か遠くまで照らせるような強いライトが私の足元を照らしていた。

 あの台本に書かれていた世界。文字通り儚さを感じさせる、人々の醜さにより滅び行く国の恋物語が始まっていた。一人二役、役者は一人で良い。今にも倒れてしまいそうな顔色の彼をこの辛く切ない舞台に立たせるのはあまりに可哀想であるから。

 

『私の貌がこの国を傾かせてしまったと言うのならば、私はこのような姿で生まれたくはなかった! 其方と同じような、俏すこともなく生きていく民衆になりたかった!』

 

 私は輪郭が歪んでしまうのではないかと勘違いしそうなほどに強い力で頬骨を抑えつける。醜く顔の造形が歪んでいく姿が脳裏を過った。流れるようにあのト書きに並んだ字面が口から飛び出していく。淀みなく吐き捨てられた台詞が部屋に何度も反響した。

 私が演じていたのは、身分の違いすらも恨まざるを得ないほどに一生を狂わせた姫と、ただ細々と暮らして、本来ならば何も世の憂き目の殆どを知ることもなく果てる民衆の男だった。あの台本に吹き込まれていた二人の命が完全に出来上がった。

 そう思っていた途端、私の視界が少し歪んだ。瞬く間に舞台は崩れ去ってしまい、それまで格式の高さを強く主張していた高貴な紅の幕が姿を消してしまった。残されたのは、少し前まで穏やかな時間を過ごしていた彼の部屋。立ち尽くす私と、あまりに冷静で読書をする時と同じ眼差しでこちらを見つめる彼。

 唐突に訪れた劇中の世界の終わりに、私は大きく肩で息をするしかなかった。二つの視線が交錯して、それに導かれるように、私は部屋の端のベッドに歩み寄る。いつのまにか物語に入り込むうちに部屋の中央に私は立っていたのだ。

 

「終わった? 薫」

 

 もはや見飽きたと言わんばかりに小さく呟いただけの彼の声。それは黄色い歓声の中でただ一つ存在した罵倒の言葉のように強調されて、私の心を掻き乱した。下手をすれば私よりも華奢かもしれない彼の体は、ベッドに腰掛けていることもあって、より小さく、虚弱に思われた。

 私は彼の前まで辿り着いて立ち竦む。衣服が擦れ合うほどの距離に立つ私にどこか恐怖感に似た感情を抱いたのか、彼は少しだけ顔を険しくして、眉をパクりとひくつかせた。

 

「ああ。なんて綺麗で、儚いんだ」

 

「え? 薫?」

 

 片足を後ろに引いて跪く。目線の高さが揃うどころか彼の方が高くなってしまった。けれども、近くで見上げるような姿勢になったことによって、彼の体が微妙に左右に震えているような気がした。これほどまでに線の細い彼の体を見る度に心配になってしまう。

 だが、心配になると同時に心を支配した感情は、それとは真逆の感情だった。

 人間が知恵を得た時、台本とは比にならないほど分厚い聖書の世界では、悪魔の如き蛇に唆されて禁断の果実を口にしてしまった時だと言う。その意味合いこそ違えど、私はその果実を貪り食おうとしているのだ。それも、悪しき知恵を持ち合わせた状態で。

 私を唆すのは私自身である。目の前にたわわに実る果実は、病的な儚さを持ち合わせて、青白く光を反射している。それでいて、花唇はこれからの繁栄を予感させるような赤で満ちていた。彼の薄緑のインナーカラーが揺れた。

 

「薫? えっ……」

 

 可能な限り彼が苦しまないように、それでいて私の中で渦巻く欲望が出来る限り満たされるように、結果として少し荒々しく彼は背中からベッドに倒れた。彼の頭の下に私の右の掌を滑り込ませてしまう。もはや逃げる事は叶わない。

 彼という支えが倒れてしまったことによって、私の体勢も限界を迎えた。跪いたところから無理やり立ち上がりながら彼という支えを失ったのだから。なるべく彼に負担を加えないように残された左腕で自分の体を支えようとするが、支えきれずに私の体は彼の上にのしかかった。

 彼の体は不思議なほどに冷たい。きっと換気だなんだと外の空気に浴びすぎて風邪を引く寸前とかなのだろう。

 

「私よりも、君の方がよっぽど傾国の姫が似合うみたいだね」

 

「何を言って……。そんな」

 

 彼が言いたいのはきっと、これが演技の延長線なのかどうなのかというところだろう。彼とて全ての台本を読んだわけではなく、ほんの一部しか見ていないはずだ。だから彼には判別できないだろうから、私は敢えて突きつけるように彼に告げる。

 

「アドリブさ。台本通りにはいかないみたいだ」

 

「アドリブって、ん……」

 

 病的なまでの儚さを抱えた存在の吐息。流行り病のように、近づくだけでその熱が伝播してしまう。既に私の頭は何も考えられないほどに熱を帯びている。触れ合う赤い花唇はすっかり潤ってしまって、濁りながらも半透明な糸を紡ぎ出している。

 彼が身動ぎするものだからようやく私は体を起こすことにする。シーツが乱れて幾層もの皺をなす。彼の身動ぎに巻き込まれそうだった紙束を、私は無造作に床に放り捨てた。彼は既に力を宿さない虚になってしまった瞳でその台本を追っていた。

 

「今、この部屋で頼りになる台本なんてないから。これは要らないだろう?」

 

「そんな、大切なものなんじゃ」

 

「あぁ、大切かもしれないけど。今目の前にいる君ほど、私にとって大切なものはないんだよ。だからどうか、私の愛を受け入れておくれ」

 

 愛なんていう都合のいい言葉がこんな咄嗟に見つかるだなんて。フィアンセだなんだのと言いながら、半ば私が強引に彼を持ち込もうとしているのに、それを正当化する儚い言葉があったのだ。そのフレーズは甘美が過ぎて禁断である領域に踏み入れようとする私をさらに駆り立てる。もはや私のブレーキがどうやっても効かないようになるほどに私をどんどんと追い立てる。

 愛だの恋だのなんて、普段はそう使うこともないのに、これほどまでに無防備で蠱惑的に私を魅了する君が目の前にいるだけで、それがたとえ見せかけのものであったとしても、語りたくなってしまうのだ。

 

「……いいよ」

 

 途端に部屋が静かになる。それまで彼が身悶えて起こる衣擦れの音が絶えず聞こえていたのに、まるでそこに何もなかったかのようなほどに静寂が訪れて、その静寂を切り裂くようなか細い声が聞こえた。その声は紛れもなく彼のものであった。か細いけれども、芯の通った声だった。

 

「ん?」

 

「……いいよ。薫」

 

 私は自らの耳を疑った。けれども、その言葉は疑いようもない。目の前で、手を伸ばさずとも触れられるほどの距離で、彼の瞳は揺れている。決して涙に濡れることもなく、全く微細に震えることもなく、視線が重なった。私の長い髪は重力に従って私と彼を切り取る。私が反応するできない間に弱々しく伸びた腕が私の背中を包み込み、脱力した私の腕は彼を迎えていた。

 

「いいよ。薫の好きにして?」

 

「……いいのかい?」

 

 先程までは冷たかったはずの皮膚はいつのまにか熱を帯びている。ややもすれば私よりも熱く、熱くなっている。彼はニコリと微笑んだ。今日一度も見なかった彼の笑みを、私はこの目で、間近で目撃したのだ。

 私の体は震える。衝撃と、歓喜と、後悔の狭間で。私は下敷きになっていた右手をもう一度深く彼の体の下に入れ込むと、彼を抱き抱えるように包む。もちろん持ち上がるわけはないのだけど、彼の体の熱が直接心臓に伝わってくるようだった。

 そして、粗方満足した私はゆっくりとその抱擁を解き、ゆらゆらと立ち上がった。彼は名残惜しさを楽しむように、はたまた私を誘惑するように私の後を追うように立ち上がった。

 

「あぁ。儚い……」

 

 ふと気を抜いてしまえば倒れてしまいそうな彼の体を辛うじて支えた。彼の唇はまたも誘惑するように濡れて、照り輝いているのだが、私は昂る熱情をどうにか鎮める。

 

「薫……」

 

 この恋は荒唐無稽ではないだろうか。否、そんな出鱈目な恋ではない。

 この恋は一人芝居ではないだろうか。否、そんな惨めな恋ではない。

 自分が恐れていたような独りよがりではなかったのだと、目の前にいる他でもない彼が証明していた。彼はすっかり私を求めていて、その様は数分前までの自らと同じであった。私と同じく禁断の味を知ってしまった、一人であった。

 ここは舞台ですらない。ここに舞台はない。彼のことを不思議そうな目で見る人がいないのと同じように、私を期待に満ちた目で見る人がいないのだから。だからこの恋は紛れもなく純真無垢な恋であって、芝居じみた見せかけの恋などではないのだ。

 少しばかり孤独を感じる、この本塗れの空間は、ただ二人だけの居場所である。私をよく知る幼馴染ですら、この空間には容易には踏み入れることが出来ない。私だけがここで、彼との何気ない時間を過ごすことが出来るのだろう。まるでここで過ごす時間が悠久のものであると勘違いするほどに穏やかな時間を。

 

「儚い……」

 

 そんな楽園とも理想郷ともとれるこの空間を表すこれ以外の美しい表現を、私はまだ知らない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【氷川 紗夜】星月夜の明ける頃に

「星見るの、好きなんだね」

 

 ひんやりとした風の吹き抜ける丘の上でかけられた甘い言葉。ここが異世界だったか、怪奇現象かと疑うような、懐かしい奇妙さを覚えながら、私は笑顔で振り返った。

 

「えぇ。この時間が、一番」

 

 寄せた肩は温かい。

 

 

 

 

 

 事の発端はたった数日前の何気ない電話のやりとり。彼の言葉からだった。甘ったるさを思い出すのはとてつもない羞恥に襲われるから端的に言えば、彼の誘いなのだ。もう少しだけ詳しく言うと、私の誕生日を祝うというこの上なくありがたい申し出にどう答えようかと悩んでいた私の思考を遮った、妹の存在が大きかったのかもしれない。

 

『紗夜が行きたいところ、食べたいもの、何でもいいよ』

 

『何でもいい……と言われてしまうと、逆に難しいですね』

 

 電話口の彼の声色は柔らかい。普段はもう少し口早だったはずだから、私を焦らさないようにとゆっくり喋っているのだろう。幸いなことに今日はもうしなければいけないこともないから、遅くなりすぎなければ何も焦るような要因はなかった。

 ただ、特段これがしたいだとか、何が食べたいなんてものがあるわけでもなかった。好物、それこそフライドポテトを食べるなんていう考えは言われて一秒で思い至ったものの、生誕という記念日に食すには少々安直すぎる。私の誕生日を祝いたいと言ってくれる彼ももう少し特別感だとかを考えたいはずだ。本音を言えばそういうように扱って欲しいという妄想の産物、もとい僅かながらに滲み出た私の我儘が紛れ込んでいるというのが事実ではあるが。

 

『うーん。まぁ紗夜の希望がなかったら、俺の考えるプランに任せてもらうというのでも大丈夫だけど』

 

『そんな。それは嬉しいですが、任せっぱなしというのは気も引けるので』

 

 理想的というか、嬉しい提案もあったものだが、ほんの少し罪悪感なりが残ってしまうもので却下した、その瞬間だった。それまでスマートフォンの向こう側から聞こえてくる電子音声だけが聞こえていた部屋に響く雑音。これまで幾度となく聞いてきた音の煩さの正体は妹の日菜であった。

 

『おねーちゃん、今日ってこの後暇?』

 

『日菜! 人の部屋に入る時はノックをしなさいと何度言えば』

 

『空いてたら少しだけ外に出ようよ! 流れ星が見えそうで、るんってするよ!』

 

『急に言われても空いてなんか』

 

 そこまで言いかけてハッとした私は右手で握りしめていたスマートフォンを見る。完全に通話中であることを忘れたままで声を荒げてしまったことに気がついた私は日菜そっちのけで彼との通話に戻る。日菜には目配せと手で静止させようとしたが、意図が分かっていないのかとぼけているのか、日菜はわざとらしく首を傾げているばかりだった。

 

『すみません、その日菜が部屋に来たので』

 

『いやいや、気にしてないよ。それじゃ、プランは決まったから俺はここで失礼するよ』

 

『え? いやもう少し話したいことが、ちょっと』

 

 急いで並べた弁明の言葉に返ってきたのは少しばかり淡々と、まるで急いでいるかのような声。なんだか話を終わらせようとしているような雰囲気があったから少し強めに引き留めようとしたものの、役立たずの機械から聞こえてきたのは無情な音の繰り返し。慌てて画面を見れば完全に電話が切れて、正確には切られてしまったことが丸わかりだった。

 

『ごめんね? もしかして電話中だった?』

 

 日菜はバツが悪そうに目線を極力合わせないようにしながらこちらの様子を窺っていた。

 

『ええ、そのもしかして、よ。……だからあれほどノックをしなさいと』

 

 呆れていた私は直後に震えたスマートフォンに驚き、目線を下げた。目に悪そうなブルーライトの真ん中にぼんやりと浮かんだ通知には、『妹さんと綺麗な星見てきてね』、なんていう文章だけがぽつんと並んでいる。少しの間彼から追加のメッセージだとか、些細な反応だけでも返ってこないかと手を震わせながら期待して待ったものの、スマートフォンが音を立てることはなかった。

 文面からだけでは彼がどう思っているかなんてはっきりとは言えないし、釈然としない。これまでの彼との交際から鑑みると、本当にそう思っているのか、それとも若干の嫉妬、有り体に言えばヤキモチが混じった言い方になっているのか、はたまた失望というか、そういう負の感情が現れたのかさっぱりであった。

 そういう事実に気づいた時点で、私は彼のことを分かっているつもりで本当は何も分かっていないんだと気づかされて、思わず閉口するぐらいには悲しくなっていたのだった。私は繊細で、臆病だったのだ。

 

『おねーちゃん……?』

 

 全てのきっかけを作った肝心の妹は、まるで通じ合えない一組の番の片割れが怯えるのと同じように、心配そうにこちらを見つめていた。そんな瞳をされてしまえば、今の私が日菜をぞんざいに扱うことなんて出来ようはずもなく、日菜に気づかれないように息を吐いた。

 右手に握りしめていたスマートフォンを、自分の迷いや怯えから断ち切るがごとくベッドの後ろに放り投げて、私は立ち上がった。日菜の目は突然立ち上がった私をしっかりと追いかけていた。

 

『それで、星を見るの?』

 

 私が努めて明るくさせた声調のおかげか、日菜の顔は晴々しいものに変わった。幼い子供が聖夜の早朝に歓喜するように、日菜は飛び跳ねんばかりだった。

 

『うん! 行こうっ!』

 

 私の手を取るなり駆け出した日菜に引っ張られて家の前の道路に出た。日菜曰く、その日は幸運にも流れ星が多く見えるかもしれないとのことで、それであの興奮した様子だったとかそういうことらしい。

 首が痛くなるほど高い空を見上げる。周りに立ち並ぶ家々の屋根が視界の端から次々と消えていく。真っ暗闇に切り取られた円形の視界に瞬く星を眺めながら、その流れ星とやらを必死に探す。

 視界にも入らない後ろの方で私を外に連れ出した張本人が騒いでいる。星が見えた、流れ星だ、と。私を揶揄っているかのように何度も何度も、数分おきぐらいに興奮の声をあげていた。間が悪いことに、私がその時に意識を向けていないところで何度も流れ星が見えたらしい。どうやらその日の私はとんでもなくツキが悪いらしく、皮肉なことに流れ星がそれを証明していたのだった。

 

 

 

 そこから数日。出かけると言っていた日が近づいても、彼はそんなにプランがどうやらということを何も話してくれなかった。細かく尋ねてものらりくらりと話題を変えて躱され、それどころか日課にしようとしていた彼との電話の時でさえも彼はどこか早く話を終わらせようとしているように見受けられた。そりゃあいつもと違って少し電話の頻度が高くなっていたかもしれないが、それでももう少しこちらと話をしようとしてくれたって良いだろうと思うほどであった。

 そんなわけだから、準備も要らないから、寒くない格好だけをして今から出かけようと言われた時は心底焦った。確か今日の六時前ぐらいだったか。今日の夜出掛けるということだけは教えてもらっていたものだから、いつでも出掛けられるような心算はしていたが、持ち物も何も要らないと言われて、結局は彼のプラン、彼の掌の上だということに気がついたのだ。

 急いで外套を羽織り、玄関から飛び出た私を、彼は待っていた。

 

「紗夜。それじゃあ行こうか」

 

「え? えぇ」

 

 まさか待ち合わせも何もなしだとは思っていなくて気が抜けた声を出した私に差し出された手。とにかく欲しかった彼の確かな温もりに触れて安心したのか、私は力が抜けそうになっていた。

 ただ、彼が強く握りしめたことで意識がハッとして、私は彼の表情を見た。やはり彼の考えは読めない。これから何をするのかというのも想像がつかないし、この前の自己分析の通り、私は想像以上に彼のことを知らないらしかった。

 私と同い年。好きな食べ物はオムライス。好きな私の仕草は耳元にかかる髪を耳の上にかきあげる仕草。得意なことは勉強と私のギターを聴き続けること、それから私を喜ばせること。そして、私の大切な恋人。

 彼について知っていることをつらつらと頭の中で並べていく。それは間違いなく、臆病な私が彼との確かな関係のために、自己暗示を重ねているだけであった。今まで過ごしてきたことが嘘ではなかったと自分に言い聞かせるための慰めである。

 

「紗夜? 心ここに在らず、って感じしてるけど、どうかした?」

 

「いいえ。気にしないでください、少し考え事をしていただけなので」

 

「そっか。歩くの早かったら言ってね」

 

 そういうと彼は突然手の握り方を変えたものだから、二人の指がより絡まり合う。日が落ちた時間ということもあり少しずつ寒くなった外気を忘れてしまう程度のぬるさに思わず頬が緩みそうになった。けれども、どこか心に引っかかるものがあったせいか、私は手放しに喜べるわけではなかった。

 先日の電話口で見た、非常識で慎みのない私に淡々と接する彼。今私の目の前にいる、腰の引けた私に優しく接してくれる彼。どちらの彼が本物なのか、それとも虚像なのか、私は知らない。知らないけれど、後者が本物であって欲しいし、そうだという気がしている。

 こういう正反対の事象が眼前で起きた時、人間という生き物は自分にとって都合が良い方をあたかもそれが全てで、真実なのだと思い込む性質があると、どこかで聞いたことがある。そんな何の責任も取ってくれない無遠慮な言説に振り回されるなと叫ぶ私もいて、開始早々から私の心はぐちゃぐちゃであった。ただ、その複雑な感情を自ら進んで解消できるほど私は強くないし、恋愛に長けているわけでもない。彼以外とそういった関係になったことすらない私には、未知の領域に等しい。

 

「ちょっと冷えますね」

 

「だね。今週は一段と冷え込むらしい、もうすぐ春のはずなのにね」

 

「逆に、寒くはないですか?」

 

「寒いなら、温かいものでも飲みながら行こうか」

 

 そんな私の心の混沌を、彼はかけらも察している様子はなかった。家を出て少ししたところにある途中のカフェで温かいコーヒーをテイクアウトで買う。デートのほんの小休止となりうるその時でさえも、たまに彼は小難しそうな顔をしていた。

 かと思えば、こちらと目が合うと、私を宥めすかして、それに止まらず勢い余って私の心を砕いてしまうほどに強烈な甘ったるさを含んだ笑みをこぼす。

 店員さんに注文を聞かれている時でさえもチラチラと何度もこちらの顔色を窺っている。その光景はもしかすると滑稽だったかもしれない。肚の読み合い。奇妙な無言の探り合い。カウンターに置かれたコーヒーを手渡された時も、珍しく見つめ合ったままの時間があるようだった。

 

「……行こうか、紗夜」

 

 左手に蓋のついた熱いカップを握った彼は空いた手を差し出す。お姫様をダンスに誘うプリンスのように指先まで綺麗に揃えられた右の掌は、私と同じく少しばかり震えているようだった。どこか可愛らしさもあり、それでいて、私をまだ撹乱させているようで、心臓の鼓動は激しいままであった。

 

「行き先を聞いていませんから、私は貴方に連れられるままですよ?」

 

 少し戯けて見せた揺さぶりの一言。彼と目を合わせたい一心で、私はわざとらしく語尾を明るくする。彼が私と目を合わせてくれてもいいように限りなく作った笑顔のまま。

 結果、彼は無言で歩き出したかと思えば、無念なことに私の方を見ることもなく小さく、最寄りの駅の名前を口にする。確証を持てなかった私が聞き返したら、彼は誤魔化すようにコーヒーを啜っているようだった。どうやらビンゴらしい。それまで彼主導で歩いていたのに、その日初めて私が彼を連れ出して歩き出す。どことなく安心感が勝るようだった。

 

「どこか、電車に乗って出掛けるんですか?」

 

「まぁ、ね。じきにわかるよ」

 

 どうやらまだ行き先を私に教えるつもりもないらしい。彼が明かさない分を無理やり口を割らせるというのも不本意で、望むところでもなかった。私は彼の歩くスピードなんてのを気にすることもなく駅に向かうことにした。

 意図的に早く歩いているせいか、それとも沈黙が支配することが多かったせいか、駅までは本当にすぐに着きそうだと感じられる。二人の間の空間は静かなはずなのに、帰宅途中の大勢の人たちで溢れた街中は煩わしいほどに煩い。いや、私の気を害する程度には騒音である。

 そんな騒音に負けているのか、私の呟きが彼に届くこともなければ、彼が吐き出したかもしれない愚痴なんかが私に届くこともないまま改札を抜けていた。待ち構えていたかのような電車を指さした彼の案内で電車に飛び込む。満員電車とは言わずとも、座席を狙うサラリーマンたちの水面下の争いが勃発していそうなほどには車内は混んでいるようだった。私も彼も、その不毛な争いに巻き込まれようとするつもりもなく、そこの考えは少なくとも一致していたらしい。降り口の反対側のドア横の手すりに二人して身を寄せた。

 電車に揺られること数十分、一時間弱は掛かったかもしれない。降りた駅は少々、いや、かなり都会の喧騒からは距離のある町の駅だった。花咲川の近くでは都心の高層ビルなんかが屋根の隙間から煙突のように突き出しているのが容易に見えるのに、ここからではそんな文明の結晶のような明かりを拝めはしなかった。むしろ街灯は少なく、ネオンの光もないに等しいぐらいである。

 

「ここが目的地、ですか?」

 

「まだ到着はしてないけどね。少しだけ高台に登るけど、歩けそう?」

 

「え? えぇ」

 

 降り立った町の辺鄙さに見回していたが、彼の言葉に私は自分の足元を確認した。運がいいのか、ヒールやパンプスとかではなく、歩きやすそうなスニーカーを履いていた。少しぐらいは運の巡りとやらがあったのかもしれない、そんな考えても仕方がないようなことに小さく感謝の言葉だけ残した。

 

「そんな登山だとかは難しいかもしれませんが、少しぐらいなら」

 

「まぁ、無理だったら俺がお姫様抱っこで連れて行ってあげるから」

 

「なっ、は、恥ずかしいですから……人前でそういう話は……」

 

 彼の不意打ちに周囲を確認してしまった。だが、またまた運がいいことに人の数も少ないみたいで変な話も聞かれていないらしい。強いていうならロータリーに申し訳程度に停まっているバスぐらいしか、人気のあるところはなかった。

 

「とりあえず、一旦バスに乗って行こう」

 

 丁度私が目を向けていたバスが今回の移動手段らしい。ほぼ終バスなのではないかと疑ってしまうような辺りの暗さ。彼の後を追うようにして見かけた時刻表によれば、まだこれが最終便というわけでもないらしい。自分が想像したよりは住宅地が広がっているみたいだ。

 そして、バスの行き先表示を見て私は彼がここに来た理由をぼんやりと察することとなった。

 

「天文台行き……。空……ですか?」

 

「バレちゃったか。うん、そうだよ」

 

 悪戯のバレた子のように彼は戯けて見せる。私はそれを咎めるなんてわけもなく、バスに乗り込むことにする。チラホラと前の方には地元の客層らしき姿が見えて、彼に押されるがままに後部座席へ。

 走り出したバスは意気揚々と、緑になったロータリー出口の交差点の信号を潜り抜けた。駅前に僅かに残っていた二十四時間営業の店舗を通り抜けて、やがてバスは住宅街を走る。町は新しく出来たばかりという雰囲気を街全体に残しながら発展していた。並んだ住宅の、外見上の間取りがほとんど変わり映えもしないところなんかは、まさにそうだった。

 何度目かの、バスが停留所で停まったことを知らせるアナウンス。私たち以外でいたお客さんの最後の一人が前方のドアから車外に降りていく。加速するバスの窓からその背中を見送りながら、バスはさらに山の奥の方、上の方へと向かっていた。彼は何も焦る素振りもないから、予定通りということらしい。私は自分の手の甲に乗せられた彼の掌の温かさにすっかり酔っているみたいだった。

 

「紗夜、もうすぐ終点だよ」

 

「……え、もうそんな時間ですか?」

 

 しばらく記憶がないのは、バスに揺られるうちにうとうとしていたということだろうか。彼の声の音量が少しずつ大きくなっていったことでそれを悟った。窓の外に見える景色はそう変わっていないような気がするが、彼に連れられて終点で下された外の空気を吸えば、かなり上ってきたということは容易に想像がついた。

 

「さ、長かった旅も後少しだから、足が辛かったら言ってね、紗夜」

 

「……ええ。お姫様抱っこは結構ですが、お気遣いありがとうございます」

 

 彼なりの優しさを少しばかり揶揄いながら、折り返して山を下って行こうとするバスを見送る。

 正直に言えば足の疲れが云々だとかなんてことはなく、それよりも顔の皮膚を突き刺すような肌寒さの方が気になるところだった。山の上ということもあってか気温は町の方よりも数度下がっていそうだし、吹き抜ける風でより寒さが増している。その分空気は凛と澄んで、普段の身に付き纏う一切の煩わしさがないような気もする。当然のように街灯もなく、少し離れた公衆トイレの入り口にある光源が唯一と言っても差し支えはなかった。

 

「あの階段を登るんですか?」

 

 私が指さしたのはそのトイレのもう少し奥にある階段。左右を木に囲まれて怪しい感じはあるが、上に続いているようで、山の上に行こうとするならばあそこがルートに思われた。

 

「うん。後は道なりに行くだけだよ」

 

 そうして階段の下までくると、せいぜい一分も登れば開けたところに出そうだった。彼の握る手の強さは一段と強くなって、私は言い知れない緊張感と一緒に階段を登る。

 細い丸太を滑り止めのように配置した階段は足元も悪い。ゴロゴロとした石も障害物のようになっていた。だからだろうか、彼は何度もこちらの様子を窺っているし、一段ごとに気遣ってくれていた。それが何段も続いた頃には、それまで隠れていた月の明かりが足元に差し込んでいた。

 視界が開ける。広い空から吹き込んだ風はより冷たくなったが、視界の端に映る建物が遮っているせいか、あまり風は強くなかった。

 

「着いたよ。紗夜」

 

「ここが」

 

 彼は空いた右腕を天高く突き上げる。その指先を、私は自然と追っていた。

 都会はどうやら明るいらしい。明るすぎて夜空の星は満足に見えないし、その中で肉眼でしっかりと見えるのは本当に輝きの強いごくごく一部の星だけ。

 あの都会で見る星とは比べ物にならないぐらいの数の星が夜空に浮かんでいた。どこもかしこも星だらけと表現するのが稚拙であり、正しいのかもしれない。複雑に考えることも億劫になるような光景に暫し固まっていた。

 それはここに連れてきた彼自身も同じようで、サプライズを喰らっていたはずの私よりも興奮冷めやらぬ状態らしかった。子どものように燥ぐ彼を見れば、私が考えていたことはどれも杞憂だったと思うほかなかった。

 

「あの」

 

 謝ろう、なんて思って声をかける。けれども、彼は目の前の自然の壮大さに完全に心を奪われているらしくて、少し名前を読んだ程度じゃ反応すらしなかった。それはもはや、杞憂を通り越して私に悔しさや複雑さを味合わせていた。そうでもないと、自分の今の行動に、説明がつかなかった。

 

「え、紗夜」

 

「こっちを、向いてください」

 

 彼の狼狽の静止を聞くよりも先に、私は我慢しきれずに彼の口を塞いだ。未だかつて、自分がこんなに情熱的だったことはないかもしれない。創作の世界で欲望のままに自らが望むものを貪る獣と同じような自分がいた。

 彼が必死に酸素を求めて喘ぐ姿に気がついた私は、ようやく口を離す。小さく謝罪の言葉を呟く。途端に、数日前から頭をぐるぐると渦巻いていた気持ちがありありと思い起こされた。

 

「この間から、少し私に冷たかった……ですよね?」

 

「……え? 冷たかった?」

 

「軽くあしらったり、話を逸らしたり」

 

 言わなければ良かった、なんてことを思いながら、私は続ける。

 

「日菜に気を取られた私が悪かったということは間違いないのですが」

 

「いやいや、何の話? 冷たかったって?」

 

 そこまで惚ける彼がいて、急に血の気が引いたような気がした。これが彼の素だったから、謂わば私のこれは言いがかりに過ぎない。

 

「……ごめんなさい。私は、面倒くさい女だったかもしれません」

 

 思い込みで彼が淡々と接している、そんな人間だと想定して萎縮していたのが馬鹿らしくなったと同時に、後悔したのだ。それを素直に打ち明けると、彼は何となく察したようで、それを笑い飛ばしていた。

 

「面倒くさいなんて、俺も緊張してぶっきらぼうだったところもあるし、サプライズなのにバレちゃいけないからさ」

 

 詰まるところ、私も彼も不器用だったということらしい。彼は私を喜ばせようと可能な限り情報を秘匿しようとしたし、それを私が誤って彼が怒っていたり、呆れていたりと怯えていただけなのだ。安堵の感情に加えて、拍子抜けだという思いが出てくる。でも、彼はやっぱり優しいらしい。

 

「えっ」

 

 何よりも情熱的で、慈愛に満ちたハグだった。

 

「ちょっとでも、紗夜に辛い思いさせてたら、ごめん」

 

「……私が、一方的に思い込んでいた、だけですから」

 

 思い込んで、怯えて。それらは結局。

 

「……嫌われたく、ないんです。貴方のことが、誰よりも好きですから」

 

 すっと口をついて出た言葉は、私の抱える全てだった。恋愛のれの文字も知ったばかりのひよっこかもしれないが、私が彼を想う気持ちは本物だと私は思っている。だからこそ、彼から冷たい態度を取られたりするのは、怖くて、耐えられないのだ。それが幼稚すぎる考えだと分かっていてもなお。

 

「だから、その」

 

 彼は私の目を一心に見つめている。

 

「ずっとそばにいてください。私をもっと甘やかして、貴方なしでは、生きていけないようにしてください」

 

 それは想いを告げる言葉としては些か変だったかもしれないし、重すぎる言葉だったかもしれない。それでいて奇妙で、滑稽だ。今でさえ彼の態度をこんな気にしているというのに、もっと彼に依存させてくれ、なんて言っているようなものである。ただ、どういうわけか私はそれを求めていた。

 

「それはこちらこそ。紗夜に、ずっと隣にいて欲しい。他の誰でもない、紗夜じゃなきゃダメだから」

 

 彼の反応を恐れて俯いていた私は顔をあげる。ゆっくりと彼の瞳が迫っていた。私は弱々しい両腕を彼の首に回した。吹き抜ける風も温かいものへと変わっていた。

 以前に聞いた初めて想いを告げた時とは、まるで覚悟だとか、重みだとかざ違っていた。それほどまでに彼との日々は濃密で、沼と同じようなものになっていた。私も彼も、それを求める程度にはすっかりどハマりしてしまっていたらしい。

 吐息の白さをようやく感じるようになっていた。彼の開かれた目はすっかり蕩けていて、黒い瞳に反射した私の姿は、完全に箍の外れた獣であった。愛おしい彼しか映っていない瞳を宿した私は、どうやら彼に堕ちたらしかった。

 

「私じゃなきゃ、ダメなんですか?」

 

「うん。紗夜じゃなきゃ、ダメ」

 

 その高揚感は毒ですらあった。この夜を二度と忘れられないぐらいには中毒性に塗れている。神経まで回った毒に導かれるままに彼の唇を求めて、酸欠になった私は彼と二人、大きく息をついた。私ははしたなくも彼に寄りかかる。彼自身も息が苦しいだろうに、私を受け止めて、頽れた。

 地面は少しひんやりとするが、ぼうぼうに茂った背の低い草が芝生のようになっている。彼と同時に倒れ伏した私は彼に体を委ねた。彼も後ろに手をついて、余った片手と胴で私を支える。彼の撫でる掌は慈愛に満ちている。

 

「……はぁ、はぁ。ここにこれて、よかった」

 

 呼吸が落ち着くまでに何分ぐらい経っていたのだろうか。ほぼ同時に、そんなことを考えて、声に出していた。背中を預けた彼の方を振り返って、私は満足げに笑った。違うタイプに見えて、本当は同じような人間である私と彼、それはつまり、私の分身のようなものだった。それの奇妙さと既視感に私は、思わず笑った。

 ふと、空を見上げる。脳裏によぎったいつかの記憶を辿りながら、空に瞬く無数の星を見上げた。彼は何かを思い出したように体を強張らせた。けれども、私がそれを許さずに、振り向きざまに口づけを残した。

 力の抜けた彼は放心状態で、私と同じく空を見上げた。

 

「星見るの、好きなんだね」

 

 心地よい感覚の残る、彼の甘い言葉。彼がここに誘ってくれた真意も、あの夜の態度も、そしてこれからの彼の優しさと。全てが手にとるように分かった。そして何より、それを共有できる彼がどうしようもなく愛おしくなった。言葉や態度だけ表現するのがもどかしいぐらいに、彼が愛おしかった。

 

「えぇ。この時間が、一番。貴方と過ごすこの時間が」

 

 力強い抱擁に、私は心を奪われた。暗がりもなくなった、何処よりも離れがたいこの場所は、もはや呪縛と呼ぶ方が相応しいのかもしれない。愛という呪縛に今、私はすっかり酔いしれている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【氷川 日菜】陽鴉の隠れる頃に

 部屋に蔓延した静寂は、あまり見慣れないものだった。窓から差し込む陽光で部屋はこんなにも暑くて明るいのに、神妙な雰囲気に包まれた部屋に、あたしたちは二人きりだった。ただ目の前、隣にいる存在が、何よりも存在感を放っている。

 あたしがここまで強く興味を持つものなんてのは、産まれてから今までを考えてみてもそうそうない。おねーちゃん、彩ちゃん達、他に思い当たるものは何かあるだろうか。突発的にるんってするものが見つかったとしても、ずっと気が惹かれるものというのは、本当に稀だった。単に不思議なものというだけじゃ、あたしの興味はそう長く続かない。それだけじゃない、特別な何かが彼にはあったのかもしれない。それこそ、おねーちゃんすらもいとも容易く超えてしまうほどの何かが。

 

「あたし、約束を守らないのだけは許さないから」

 

 あたしのすぐ隣で、あたしが望めば、キスだろうが、ハグだろうが、それどころかもっと先の恋人同士の交わりだって、不意打ちで出来てしまいそうな距離にいる彼は、あたしを惑わせ続ける目線を注いでいる。あたしはその目線に踊らされて、今もこうして彼に愛を示そうとしている。

 

「だから、あたしとの約束、全部守ってね?」

 

 

 

 

 

 彼、というのは正真正銘あたしの恋人だ。恋人だ、なんて言いつつも、あたしがPastel✽Palettesというアイドルバンドに所属しているもので、大っぴらには交際を宣言したりなんてできないし、そんなことしようものなら千聖ちゃんから大目玉を喰らうので、誰にも教えていない秘密の恋人、それが彼。

 おねーちゃんですらきっと存在を知らないはずだ。万が一おねーちゃん経由でこのことがバレたら、それこそ大目玉なんて表現じゃ済まないぐらいにお叱りを受けることになるかもしれないから、おねーちゃんにも言っていない。

 言うまでもなく、外を一緒に出歩くというのも制約がある。週刊誌などにデートの激写なんてされてしまった日にはいよいよ終わりだし、それを避けるためにも外を出歩くことは難しい。

 そういうわけで、最終的にあたしたちに残されたのは、おねーちゃんの目を掻い潜りながらこっそりうちでデートをするというのがお決まりのコースになっていた。これはこれでお忍びというか、まるでスパイのようなことをしている気分になって大層楽しい。絶対にバレてはいけないというドキドキ感と、自らの懐に居着いた安心感と、背徳感の狭間にある快感に溺れそうなのだ。

 

「今日も来たよ、日菜」

 

「わぁ、待ってたよ〜、待ちくたびれた!」

 

 一人で過ごしていたつまらない家に響いたインターホン。外のカメラを確認するまでもなく飛び出したあたしは予想通りの来訪で、何の迷いもなくドアノブに手を掛けた。突然開いたドアに、彼は驚いていたようだが、そんなものはあたしには関係のない話だった。

 例に漏れず、この日もあたしは彼を家に招いていた。姉が出払った時を見計らって玄関に訪れた彼を、あたしはものすごい勢いのまま突っ込んで抱きつく。流石に助走の勢いのままだから彼は少しばかりのけぞったが、両腕であたしを抱きとめていた。

 これがあたしにとっての彼とのコミュニケーションなのだが、これを受け止めてくれる彼は体が相当丈夫なのか、それともあたしの突進が避けられないほどに鈍いのか、一体どういうことなのだろうか。些細な疑問が頭に湧いては消えていった。

 

「待ちくたびれたって言っても、日菜がずっとストップをかけてたんでしょ?」

 

「うぅ、だって〜」

 

「お陰様で今日も商店街で小一時間ぶらつくことになってたからね」

 

「でも、おねーちゃんだけじゃなかったもん」

 

 そう、彼を家に招くためにはおねーちゃんのみならず、そもそもあたし以外家族が誰も居ない状態でしか家に招くことはできない、だからものすごく雑な言い方をすると仕方ないものは仕方ないのだ。

 どうしようもないことを敢えて口に出す、彼がそんな意地の悪いことをする意図は見え透いていて、あたしが困るところを見たい、というよりあたしが言い訳しているところを見たいとか、そういうことらしい。あたし自身、変な子と言われることには慣れているが、あたしに言わせてみれば彼の方がよっぽど変わり者だと思う。しかも、あたしの前限定で。

 

「とにかく! 家に来たんだから早く上がって!」

 

「わ、ちょっと、まだ靴が」

 

 ともあれ、あたしはもう我慢の限界だったのかもしれない。証拠隠滅のための靴隠しもさせないぐらいの勢いであたしは彼の手を掴む。引っ張って強制的に彼を家に上がらせると、自分の部屋へと連れ込むことにした。

 廊下を駆け抜けて、木製のドアをバタンと閉める。本当なら鍵をかけて、密室で彼を好き放題にしたいぐらいだけど、流石に彼に悪いと思って連れ込むだけにしておいた。

 

「それでそれで、今日は何する? この間は人生ゲームだったよね、確か」

 

「あぁ……。信じられないぐらい僕がボコボコにされたやつね。もう二度とやりたくないし、なんなら人生ゲームっていうもの自体暫くは見たくないけど」

 

「あははっ、何それおもしろーい!」

 

 彼の一挙手一投足、全てがあたしの心をくすぐってくる。興味を引き出してくれるだけじゃなくて、あたし自身の心の中の何かを満たしてくれるのだ。だからこうして、たとえ用事が一切合切なかろうが、仕事続きでちょっと忙しい時期だろうと、あたしは彼を求め続けてこうして呼び出し続けているわけだ。俗に言うデートというのはそういうものなのだろうか。

 果たして今日呼び出した分まで入れて、一体合計でどれくらい呼んだのだろうか。どれくらいの時間、あたしと過ごすためにこの家で共にしてくれたか、彼に関して気になることは尽きないし、彼と過ごす時間のどれもが刺激的だった。

 

「特別したいことがあるわけじゃないけど……。競ったりするゲーム以外のことがいいな、真面目なことでも」

 

「うーん……。勉強とか?」

 

「却下、それはそれで日菜との実力差というか、才能の差を感じちゃうから」

 

「えー。うーん、何があるかなー」

 

 彼は才能の差やらもすごく気にしているらしい。あたしからすれば何も気に病むような必要がないし、気にすらならない。それでも、彼は何度言ってもその気持ちを持たなければ気が済まないらしい。

 彼が嫌と言う分には無理強いも出来ないので、家の中で出来そうなものをいくつも思い浮かべる。

 単に二人で恋人のようなことをしてダラダラと過ごす。これは却下か。ついこの間彼が来た時も似たようなことをしてたし、あたしはそれでも構わないというか乗り気だけど、彼が渋りそう。

 ギターを弾く。これも却下だろうか。どうせなら今ここで、彼がいるからこそ一緒に出来ることをしたい。そもそも弾き語りじみたことも何回かしたような覚えがある。

 

「あ、そうだ。今度お芝居があって、それの練習がしたいから付き合って欲しいな!」

 

「え? お芝居の練習? まぁそれぐらいなら」

 

 完全に突発な思いつき。正直な話練習なんてしなくてもよい……と言ってしまうと、千聖ちゃんに頭を抱えられてしまうが、やりたいことは練習というより、彼と二人での遊戯に近い。

 彼も特に抵抗もなさそうだから机の端っこの方で眠らせていた台本を引っ張り出す。薄くだけ積もっていた埃が舞って、咳き込みそうになったあたしは窓を開け放って埃を払って、それを彼に投げつけた。

 

「うわっ。……って、これ僕が見ても大丈夫なの?」

 

「大丈夫だよ! バレないし!」

 

 あたしの返事を聞くよりも前にパラパラと彼はページをめくる。無防備になった彼の腕に擦りつくように、彼が腰掛けるベッドサイドへとダイブした。彼の方から漂う柑橘系にも似た強い匂いに頭がクラクラして、ふと気を抜くだけで彼を襲いそうになってしまうが、真剣な面持ちで台本を読み漁る彼の姿に、必死に欲望は抑えることにした。

 

「日菜、読みづらいから抱きつかないの」

 

「えー。……邪魔しちゃダメ?」

 

「ダメ。邪魔って自分で言っちゃってるじゃん」

 

 ここまで冷たくあしらわれると流石のあたしも肩を落とす他ない。思えばおねーちゃんの部屋に電撃突入した時とかもこんな態度を取られることが大半だっけ。何の前触れもなしに部屋に飛び込んで、最後にはこっぴどく怒られるというところまでがセット。彼は声を荒げてあたしを叱るなんてことはないと思うけど、少々、いやちょっと、かなり、寂しいというのが正直なところだった。

 

「……はぁ」

 

 あたしが押し黙って少ししたら、彼が何かに呆れたようにため息をつく。このため息はまず間違いなく本当に呆れたというよりは、仕方ないな、という妥協に近い時のものだろう。あたしは彼の言葉を待って、徐に顔を上げた。期待に満ちた目は演技で包んで隠しながら。

 

「キスまでならいいよ」

 

「えへへー! 大好き!!」

 

 待て、を解かれたペットの犬のように、あたしは彼に飛びついて愛を伝えるのだった。

 そんなスキンシップも適度に彼から抑えられつつでいると、彼も大方のところは読み通したらしい。練習がしたいというのも余興的な意味であり、せいぜい展開さえ分かれば特に問題はないし、何だったら単に雰囲気を楽しみたいだけだった。そんなわけで彼は立ち上がろうとするから、あたしもぴたりとくっついたまま一緒に立ち上がる。

 

「こんな感じの作品も日菜がやったりするんだね……」

 

「え? うんー、まぁオファーが来たからって感じかなー?」

 

 彼が何やら大事なことに気が付いてはいないらしいが、彼は立ち上がってからも何度も台本のページを熱心に確認している。台詞を覚えたりなんてところまで求めていないのに、それを熟そうとするのは完璧主義的なところなのか、それとも生真面目なのだろうか。

 

「やりたいのはそこのクライマックスのキスシーンだけど、もういけるよね?」

 

「……んー。まぁ、別に」

 

「あれ、ベッドシーンとかの方が良かった?」

 

「ダメ。絶対」

 

「えー」

 

 思った以上に低いトーンで返ってきた却下に、あたしの中で嗜虐心が大きくなっていく。あたしは彼と演じるベッドシーンなら嫌じゃない、どころかむしろ進んでやろうとすらしているけど、彼にとってはそうでもないらしい。変なところで真面目なのも彼らしかった。

 

「いいから、やるよ」

 

「はーい。じゃあね、このページの最初から! よーい、アクション!」

 

 映画監督と言われてイメージされるような、ありきたりな声をかけて彼を動かす。少し離れた位置に彼を立たせる。台本を左片手に持ったままで、彼は百面相みたいな顔つきで、口を動かしていた。少しばかり棒読みになるところもあるのは、彼がそうそうこういうことには慣れていないのだろうということが容易に想像がつく。それはそれで彼らしいし、あたしはニヤニヤが抑えられそうになかった。

 彼は棒読みながらも長い台詞を最後まで言い切って、こちらを見下ろす。彼の台詞が終わってしまえば後はキスを交わすだけ。そんな台本だから余計に彼は困惑したのかもしれない。彼の表情には困惑だけじゃなくて、不安だとかそんな感情も宿っていそうだった。

 

「もっと、下を向いて?」

 

 台本に台詞が載っていようが載っていなかろうが関係なく、あたしは若干放心になりかけている彼に腕を回した。出来る限り妖艶に、快活なあたしにどこまでそんな演技が出来るかなんて未知数だったが、わざとらしく吐息を漏らしてみる。

 いつもとは違う感覚に襲われて、あたしはちょっとだけ彼のすぐ近くまで顔を寄せて押し黙った。彼の頬もなんだかいつもに比べると少し紅潮している。もっと変になれ、なんていうささやかな気持ちを込めて、さっきまでは外に逃した吐息を彼の鼻頭に吹きかけてみた。くすぐったさとは違う何かに揺さぶられた彼があたしを抱く腕に異常な力を込める。あたしが抑えても止まりそうにない距離の接近にあたしは屈する。

 彼はもう演技だとか、台本のことなんてどうでもいいぐらいにあたしに揶揄われ、手玉に取られて、欲望に負けるかどうかのせめぎ合いにまで追い込まれている。喘いでも止まらない、荒い息がその証左であった。

 

「す、ストップ! ストーップ!」

 

 どうにか呼吸を確保したあたしは持てる力の全てを使って彼を止める。このまま呼吸困難なぐらいに求められるというのも悪くはないけど、それだけじゃあ少しばかり癪だし、キリがない。そこまでして彼もようやく正気に戻ったように目の焦点が合うようになってきていた。

 

「もう……。日菜ちゃんが可愛すぎるからって暴走しちゃダメだよ?」

 

 戯けたような口調で言えば、彼は急に猛省したように押し黙った。あたしとは目も合わさないようにしているのか、顔を背けてまで。

 言うまでもなく、怒ったような、注意をしたような体にはなっているけど、あたしが本気で怒っているかと言えばそうではない。今でさえ、彼に腰を抱かれてロマンチックな恋人たちのワンシーンを重ねているというのに、彼を本気で拒絶するなんてことがあるだろうか。

 それどころかこういう結果になることを望んだ上でお芝居の練習などという口実で彼を誘惑して、襲われようとすらしている。こうすれば彼はもっともっと面白くなるし、あたしの予想できない何かをしてくるに違いないと睨んで。こう聞くと論外と言っても差し支えないほどに無責任かもしれないが、彼が獣になると見込んでのことなのだ。

 彼があたしを抑えつける力強い腕。それでいて倒れないように腰を抱き寄せる優しい掌。あたしへの愛を囁いて、欲望を露わにする唇。そこから発されるあたしの脳をピンポイントで刺激して、愉悦を快感に変える甘い声。そのどれもが獣になった彼の姿で、あたしを惹きつけて離さないのである。

 普段の氷川日菜と彼との交わりだけでは得られない多幸感。いや、確かにそこには存在するのだけど、感じ取ることが難しくなった興奮をもう一度喚起するようなシチュエーションに彼を巻き込もうとしている。案の定、彼は欲望のままにあたしを求めようとして、あたしは過去にないほど心臓の鼓動が速くなっている。思えば、呼吸もできずに喘ぐぐらいになってようやく彼を止めようとしたのは、行くところまで行き着いたことが恐ろしくなった、一種の俗に言う蛙化現象に近いものなのかもしれない。

 

「ごめん、なんだか、我慢出来なくて」

 

「そっか……。えへへ……」

 

 本人は謝っているのに、それに照れ笑いで返すあたしの態度がよほどおかしかったらしい。彼は物珍しそうにあたしを見つめて、ひょうきんな顔をしている。

 きっと全てが全てあたしの思い通りなんていうことに気がついていないのだろう。そのまま気づかなくて構わないし、出来ることなら一生気づかないでいて欲しいぐらい。

 彼は少し考えてもあたしの考えが何も分からないようで、怪訝そうな、それでいて不安そうに瞳を揺らしている。あたしは満足げに、棒立ちの彼に抱きついた。

 勢いよく飛びついたあたしを受け止めて支えてからも、彼は静かなままだった。僅か数分前まで彼に宿っていた獣はすっかり冬眠に入ってしまい、そこには心優しいあたしの恋人が怯弱にあたしの反応を待つばかりだった。こういうところが面白くて、あたしの全てを満たしてくれて、堪らないのだろう。

 

「もうあたしを襲おうとしてくれないの?」

 

「……僕、そんなに荒々しかった?」

 

「そうだねー。あたしが少しでも気を抜いたら、すぐにでも床に押し倒されて、身体の隅から隅までキミのモノにされちゃいそうなぐらいには怖かったかな?」

 

 彼の描写は、あたしが望む妄想をまさに具現化した通りで、どちらかと言えば真実からの方がかけ離れている。ただ、あたしの思惑が予想以上に上手くいっただけで、彼は現に獣になったのだ。だから何も嘘は言っていない。

 

「でもどうしたの? いつもあたしのことを傷物にしちゃう時よりも手荒だったよね。台本にそんな風に書いてたっけ?」

 

「え、いや。台本には台詞以外何も書いてなかったけど」

 

 そうだったけな、なんて彼の言葉を聞いてあの台本の中身を思い返す。といっても一度通して読んだぐらいでしかないから細部まではっきりと確証を持って覚えているわけではない。ただ、彼の言う通り、どういう風に演じろなんて書いてなかった覚えがある。なんだったらあの時のあたしの立ち居振る舞いだってあたしの気紛れと言ってもいい。

 となると、彼の獣性の発現はまんま彼の欲望であり、あたしの思い通りだった。そう考えるだけで余計に嬉しくなってしまう。ただ、それとは打って変わって、彼の方はと言えば表情が暗いままだった。

 

「……日菜の隣にいるのは、僕じゃないのかなと思ったから」

 

「どういうことー?」

 

「お芝居の時、それを演じるのはその俳優さんであって、僕じゃないよね。それがやり切れないって思った、それだけだよ」

 

 そう言うと彼は戯言を残したと言わんばかりに嘲笑的な咳払いをして、ぼんやりと部屋を彷徨い、太陽の差し込む窓際に近寄っていた。徐に離れた彼の手に、あたしは一抹の寂しさを覚える。何の変貌も変わり映えもしない自宅の窓からの景色。本当の意味ではありえない諸行無常を愛でる彼の手があたしに触れていないことが我慢がならなかったからだろうか。あたしはそういう意味の限りでどうしようもなく幼稚だった。

 

「演技でも、日菜の隣にいるのは僕じゃなきゃ嫌だ、なんてね」

 

 ただ、それを遥かに上回るほどに彼は幼く、拙い考えをしていた。普段の様子を知る限りじゃ、精神年齢なんて圧倒的に彼の方が上。周りのどんな人間に聞いたとしてもあたしの方がガキだなんて言われそうなものなのに、あたしの前にいる彼はあたしなんか比にならないぐらいに我儘であった。

 でも、それは何も悪いことじゃなくて、むしろあたしにとっては好都合どころか、あたしを心底楽しませてくれる要素でしかない。真正面からそれを伝えられるほどの勇気を今は持ち合わせていないから、寂しそうな背中を見せる彼の、大きなシルエットに背後から忍び寄って、こっそりと抱き寄せるのだ。

 

「うん。演技でもダメなんだ?」

 

「そんな姿を見なきゃいけないのなんて、我慢出来ないから」

 

「うーん、そっか」

 

 あたしが興味を持つ人なんていうのは大概の場合あたしとかけ離れた人の方が多い気がする。例えばおねーちゃんだとか、彩ちゃんだとか、正反対のタイプ。だってそっちの方が面白いから。

 彼の面白いところは、全くあたしと違うのに、あたしと全く同じになれるのだ。彼が自分からなっているかと問われると違うかもしれないけど。何だったら、あたしがあたしと同じになるように誘導しているということすらあるのかもしれない。だからこそ、普段人の気持ちを察するのはあまり上手くないあたしでも、彼の持っている気持ちは痛いほど分かった。

 

「……驚いた、キミもそんなに妬いたりするんだね」

 

 そう、彼も、なのだ。違うようで同じ、彼なのだ。彼があたしへの異常……というほどまでは達しなくとも、つまらない程度の独占欲を見せるのと同じ程度には、あたしも嫉妬だとか、嫉みの感情の塊であるし、彼の程度じゃ生ぬるいほどに独占欲の塊だった。

 

「だって、日菜は僕だけの日菜でいて欲しい」

 

 あぁそうだ。彼はあたしだけの彼でいて欲しい。例えおねーちゃんであっても彼のあたししか知らない一面を知るのは許せないし、もしも垣間見でもされてしまえば、あたしは怒り狂ってしまうかもしれない。

 極端な話、外に外出しているところを知られるのだとか、しょうもないゴシップ記事を売り撒く週刊誌のスキャンダルに載ろうが、そんなことはあたしにとって本当にどうでもいいのだ。千聖ちゃんに怒られようが、おねーちゃんがあたしを叱ろうがどうでもよい。

 もっともっと大事なのは、こんなに愁いに潰れそうになっている彼の姿をあたし以外の誰もが知らないというのが大事で、彼がこういう状況——おねーちゃんを含めて、あたし以外の家族が誰も居ないところ、あたしの部屋——でしかあたしと過ごさないのはそういうわけなのだ。極端な話あたしの行き過ぎた我儘であり、あたしの醜い独占欲を、体のいい社会的な言説で覆い隠しているに過ぎない。それに易々と騙されてくれる、もしかしたら本当は全てを察してしまっているかもしれないが、そういう彼の優しさの上に成り立っている。

 

「……るんってきた!」

 

 そう考えるだけで、あたしの心はひどく高揚するし、より彼に引き寄せられるようなそんな気がするのだ。あたしが彼の背中を抱く力はさっきにも増して強くなる。彼がもしかしたら痛がっているのかもしれない、そんな心配はとっくのとうに捨ててしまった。

 

「約束しよ? キミだけのあたしにするって」

 

 それは言うなれば、彼をより強くこの空間に、あたしと二人きりの空間に縛り付けるために唱えた呪いのようなものだった。彼はきっとここまで覚悟が出来ていないだろうに、それを強要するのは少々残酷で手荒い真似かもしれないが、これ以外にあたしは彼があたしを傍に置いてくれる手段を知らないのだから仕方がない。

 窓に当てられたままの彼の手の甲に自分の掌を重ねた。まだお昼過ぎだから、春がまだやってこないこの時期でもどことなくガラスが暖かく、熱を持っている。

 彼はガラスに右の掌を残したままこちらを振り返る。途端に目が合ったけど、今度は彼も目を一切逸らす様子もなく、僅かな高低差だけが残っているのみだった。

 あたしのこの卑怯な瞳は彼にはどんな風に映っているだろうか。それだけが不安であったが、これまで数え切れないほどの根回しを彼にしてきて、彼があたしを悲しませることなんてしないという絶対的な自信があたしを包んでいる。ただ、どことなく払拭し切れない不安が、あたしの眼前で翡翠色の前髪となって揺れていた。

 

「僕だけの、日菜?」

 

「うん」

 

「僕だけの日菜……」

 

 何という甘美な響きだろうか。未だかつて経験したことのないような満足感。彼は彼で、何度も口に馴染ませるかのように繰り返してそのフレーズを呟いている。あたしの幼稚な独占欲を満たすための愛の言葉を何度も繰り返している。それはもはや、恋愛云々を通り越して、人生そのものを彼に委ねようとする、プロポーズじみた覚悟すら含んで、ほぼゼロ距離に立ち竦んだあたしたちを縛りつけようとしている。それに興奮すら覚えるあたしの姿だって、彼以外は誰も知らないのだ。

 興奮に打ち震えたのか、それとも完全に未知の感覚に怯えてしまっているのか分からないけど、あたしは自分の体を襲う震えや悪寒を、彼を抱きしめて払い除けようとしている。それを助長するかのような彼の答えは、熱い抱擁だった。

 

「あたしはもう、キミから離れられないよ?」

 

 揺さぶって、揺さぶって、どんどん彼を追い込んでいく。執拗すぎて、自らの性格の悪さが鼻についてしまいそうだけど、そんなこともお構いなく。こうすれば、彼はあたしの予想通り、力も、考えることすら放棄して、あたしの元へ倒れ込むだろうから。

 部屋を支配したのはたった数瞬の静寂。窓だけでなく、ドアも完全に締め切られた密室で、一向に落ち着きを見せないあたしの呼吸だけが重く響いていた。

 

「日菜」

 

「えっ?」

 

 でも、あたしのそんな予想通りを上回ってくるのが彼だった。そうだ、ここがあたしがいつの間にやら彼の沼にハマっていたところで。

 

「僕も、もう日菜から離れるつもりはさらさらないよ」

 

 それまで唯一の外界を見渡せる窓から離れようとすらしなかった彼が、何の前兆もなく体ごとこちらを向けて、真正面からあたしは抱きしめられた。思い返せばこんなことは初めてかもしれない。あたしから彼に飛び込んでいくことは何度も数え切れないほど見たけど、彼がこうしてあたしに強い独占欲を晒しながら、自らあたしを捕まえたのは。

 あたしの視界は急に真っ暗になった。それまで太陽の明かりが部屋を遍く照らしていたのに、それらも全て夜が訪れたかのように真っ暗闇になったのだ。

 なのに、それはあたしをさらに喜ばせる。あたしは彼からは見えないところでほくそ笑んでいた。どうにかこうにか顔のニヤケを封じ込んで、彼の胸に埋めていた顔を上げた。

 

「だから、二度と離さないよ」

 

「……うん。あたし、約束を守らないのだけは許さないから」

 

 脅しと言われても文句が言えない契りを結んで、彼の瞳は潤いに満ちたまま揺れている。どんな夜闇よりも深い黒闇があたしを惑わせる。嫉妬心に塗れた双眸があたしを捕らえて離さなかった。それは契りを体現していて、彼の言葉のどこにも嘘が隠れていないことを証明しているようだった。勿論、あたしの言葉にだって嘘偽りが隠れていないし、そのような不義理は束縛を好むこの目線が許さず、彼とのゼロ距離こそが誓いの証だった。

 

「だから、あたしとの約束、全部守ってね?」

 

 あたしの意地の悪い恍惚的な微笑みに、彼は震えが収まらないほどの力を込めた抱擁で返事をした。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【牛込 りみ】もう一度二人で

 そのカウンターは悲恋の舞台だった。

 あまりに悲惨で、思わず目を覆いたくなってしまうような、薫さんの公演や本の世界で幾らでも見てきた悲劇がそこにはあった。見慣れていたと思い込んでいたけど、いざそれを目にすると、とても耐えられそうにはなかった。

 香ばしい匂いが一面には漂っていた。仕切りの奥からは窯で焼かれるパンの匂いも立ち込める、ここは私にとって癒しを与えてくれる桃源郷であり、それでいて心を乱す場所でもあった。商品棚の一角を華々しく飾る大好物のチョココロネは少しも私の気持ちを安らげてはくれない。むしろそこにあることで私を嘲笑しているかのようで、底抜けの甘さが私の臆病さを詰っているような感覚すら覚えた。

 

「りみりん、今日はチョココロネは買わないの?」

 

「えっ……? えっと、まだ何のパンにしようか悩んでて」

 

「あはは、パンは逃げないからゆっくり選んでね?」

 

 背後から私を呼ぶ声にどきりとする。適当に作り上げたそれらしい文句で質問を躱し、首だけ捻って声の主の方を見た。トレイ一杯に敷き詰められていた焼き立てのパンを陳列し終わったのか、沙綾ちゃんはカウンター横の腰ぐらいの高さのスイングドアをそっと押してカウンターの中に戻っていた。前までならたった一人しかなかったはずのその立ち位置は少し、いや、かなり窮屈そうに見えた。間違いなく私の中の醜い感情の増幅のせいだった。

 

「りみりんしかお客さんいないからって、あんまり気を抜きすぎちゃダメだよ?」

 

「いやー、バレたか。って近い近い。ごめんなさい」

 

 沙綾ちゃんが、レジ前でぼんやりしていた私の想い人の顔を覗き込んでいた。そんな沙綾ちゃんの姿に、香澄ちゃんが時折私たちに見せるような距離感に近しいものを感じて私は焦る。そして、何もできない己の無力さを呪うのだ。

 沙綾ちゃんが親しい人にだけ見せる、揶揄う時の戯けた顔。彼が心を許した人にだけ見せる、まんざらでもなさそうな緩んだ表情。他所から見てもお似合いに思える二人の掛け合いに私は耳を塞ぐ。

 カウンター奥の壁に揺れる二つの影を横目で確認した私は、僅かにでも気を紛らわせるために苦々しいパンの観察に没頭することにした。

 

 

 

 この心のざわめきの始まりはいつからだっただろうか。少なくとも、Poppin'Partyという居場所が私に出来てからなのは間違いない。ポピパのみんなと同じ時を過ごすようになって、同じ音楽を奏でるようになって、このベーカリーに訪れる頻度が増えたの自体もそれ以来なはずだ。

 商店街の角っこ。早朝から窓から明かりをこぼすその店は、近所でも評判の良いパン屋さん、やまぶきベーカリーだった。

 私はただの常連、もちろんここの看板娘の沙綾ちゃんの親友ということを強調すれば特別なのかもしれないけど、ただの一客。ちなみに言っておくと、私はこのベーカリーの作るチョココロネに依存していると言っても良いほどのリピーターだ。

 そして肝心の彼は、数ヶ月前までは私とさほど変わらない立場だった彼は、気がつかない間にカウンターの向こうの人間になっていた。なんでも沙綾ちゃんが直々にスカウトしたとかなんとか。

 

『実はやまぶきベーカリーの店員になることになったんだよね』

 

『……ええっ?! 嘘やろ?!』

 

 唐突に彼からその事実を告げられた時には素の関西弁が溢れてしまうほどには驚いたなぁ。なんて思い返せるほどには直近の出来事で、思い出深いことなのだった。まぁ、想い人、とあの私が断言するほどなのだから、彼に関することなら強烈に覚えていても仕方がないかもしれない。

 

『なんと賄いで、お店の売れ残りのパンが出ます。チョココロネも実質食べ放題』

 

『ええっ?』

 

 じゃあどうして彼を恋い慕うようになったのかなんてのを語れば、特にそこに大きな理由があったわけではない。ただ、私が今もこうして複雑な気持ちを抱くまでにはこんな経緯があったのは間違いないはずだ。私と同じくお店のパンをありがたく貪っていたはずの彼はいつのまにか店員になっていて、その隣には沙綾ちゃんがいる。それこそが私がやまぶきベーカリーでひしひしと感じる焦燥感の原因であり、この心のざわめきであり、発端なのだ。

 

 

 

 店の外から聞こえて来る音楽で、途端に私は現実に引き戻された。店内に流れる穏やかで静かなBGMをかき消すようなその音楽は、暮れなずむ街に宵の訪れを知らせる音楽だった。小学生なんかだと足早に家に帰るような時間、それぐらい。

 店外の暗さを少しずつ反映して、店内に差し込む太陽光が微妙に少なくなってきたベーカリーの店内。未だに私を含めて三人しか姿が見えないこの店舗で、ただ耳を塞ぐ。親友と想い人の談笑には耐え難かった。

 目の前にたくさん並べられた美味しそうなパンを、ただ目的もなく吟味するだけだった。そこにどのパンを食べたいか、なんていう考えはない。パンのことなど、眼中にすらない。だからこそ沙綾ちゃんに咄嗟に聞かれた質問への答えはあやふやなものしか出せないのだ。普段はあれほど私を魅了して止まないコロネでさえ、今は背景の一部でしかなかった。

 パンは素材の麦が焼かれた色が、傾いた陽光によってさらに強調されていた。時刻は既に午後五時、ぼちぼち会社帰りのサラリーマンなんかが店に立ち寄ったりする時間帯。もしかすると新しいお客さんがこのお店に来るかもしれない、否、間違いなく来るだろう。現に窓の外に見える街角を彷徨う人の影は明らかに先ほどよりも増えている。

 ……こうしたお客さんの多い時間帯を乗り切るためなのか、それまでまるで聞いたことも想像したことすらもなかった、彼が店員になるという現実が出てきてしまったのかもしれない。羨ましさで、飽きるほどに眺め続けてしまったパンから目を逸らした一瞬で、私はそう嘆いていた。

 

「りみー、買うパン決まったかー?」

 

「え? ま、まだだよ」

 

 気を抜いていた私を焦らせるような彼の声。思わず私はすぐ手の届く距離にあったトレイとトングを引っ掴み、目の前で金色を反射するチョココロネをトングで挟んでいた。チョココロネを選んだのは別段好物だからというような浅い理由ではなく、それでいてすぐ目の前にあったからというとんでもなく薄っぺらい理由であった。

 早く会計を済ませてしまおうと踵を返す。やはり視界の端には見たいけど見たくない光景がちらついていて、トレイの端の方に控えめに乗ったコロネに必死に意識を向けた。こうすれば今この瞬間だけでも、変な悩みを忘れて生きられるから。

 

「だから、いくらお客さんがりみりんだとしても焦らせたりしたらダメだって!」

 

「痛っ、ごめんてば沙綾」

 

「全く反省してないでしょ? もう」

 

「あはは……仲良いね」

 

 はやる気持ちを胸の奥に隠しながら私は苦笑いを浮かべた。天板一枚を隔てて向こう側にいる二人。接客態度がイマイチな店員に少しむくれた表情の沙綾ちゃんも、意図的か無意識か不真面目さを露わにしている彼も稀に見るやまぶきベーカリーの光景で、私は肩を落とした。奇遇にも財布に入っていた丁度の小銭をレジに出す。既につま先は店の出口に向いていた。

 

「それじゃあ、私は帰るね」

 

「うん。りみりん、また明日ね」

 

 彼から短いレシートを受け取って、沙綾ちゃんに手を振りながら店を後にする。なんだか清々しいようで、それでいて陰鬱な気分になって、思わず店内に所狭しに並べられたパンに目線を移した。やはり太陽光を適度に反射して黄金色に輝いており、本当に眩しかった。早くここから立ち去りたくなってしまう程度には眩しかったのだ。

 どうせ変な葛藤を起こしていたって、習慣のように体に染み付いてしまったのだから、明日も明後日も用事がない限りはこの店に来ているのだろう。カウンターの向こう側に誰がいるかは別の話として。そんな自分自身への諦めの言葉を残しながら私は店を出た。

 

 

 

 翌日、案の定私はやまぶきベーカリーを目指していた。昨日よりは少しぐらい早い時間帯。聞いたところによれば、彼は昨日に引き続き今日も今日とてシフトに入っているらしい。それを確かめるため、私は意気揚々と店のドアを開ける。そこに広がっている光景は当たり前と言えば当たり前なのだけど、昨日とそう変わらない光景が広がっている。いつも通りの行きつけのベーカリーだった。

 

「あっ、りみじゃん。いらっしゃい」

 

「また来ちゃった。今日も二人で捌いてるの?」

 

「捌いている、なんて大層なことは言えないけど、まぁ沙綾と二人かな。奥に沙綾のお父さんはいるけどな」

 

 物凄く小さく、そっか、なんて呟いた私。まぁまず間違いなく私が呟いた言葉は彼には気づかれないだろう。私の出している落胆にも似たオーラにも気がつかないのだろう。もし万が一にでも気がつかれていたり、察されていたりなどすれば、今頃私はここから飛び出して、逃亡を図っているかもしれない。

 そうこうしているうちに、レジの前で暇を持て余した彼以外の、もう一人が奥の部屋から現れる。私は咄嗟に不満を覆い隠したように口角を上げた。学校やCiRCLEで会ったりするのとは、違う意味を孕んでいるのだから。

 

「りみりんいらっしゃい。またゆっくり食べたいパンを頼んでね」

 

 食べたいパン、か。至極当たり前の話なのだが、パン屋さんに来る以上はパンが欲しいから来るはずだろう。一方で、今の私にはあまりそういう目的はないような気がしてしまった。彼に会いにくるためかと問われれば、それも全てが全て正しいわけじゃない。なぜ劣等感、敗北感を味わいながら悲運のレジカウンターを眺めなければならないのか。むしろ、今まで挙げたどれよりも、ルーティーン、悪い言い方をすれば惰性で訪れているという表現の方がしっくりくるのだった。

 

「うん、ゆっくり見させてもらうね」

 

 個人経営のベーカリーだ。店内がそう広いわけでもないし、十人ぐらいのお客さんがフロアに入った時点で既に窮屈感を感じるほどだ。そんな極端に広いわけじゃないのに、連日、訪れるだけ訪れてパンを眺め続けるというのはどうにもつまらなさを感じるものがある。当然置いてあるパンの種類、順序は大きく変わらず、店の内装がガラリと変わるわけでもないから、昨日散々睨めっこしたばかりのパンの数々にもう一度勝負を挑むだけなのだ。実に退屈だった。

 

「じゃあパンを見るついでにお喋りでもしようか」

 

「わっ」

 

 退屈さの極みのような遊戯に励もうとしていたところに声をかけられる。間違いなく彼の声で、私の肩の上あたりからすっと抜けていくような声に、私は驚いて尻餅をつきそうになる。

 居直った私はお喋り云々以前に人を茶化す気満々の彼に薄っぺらい抗議の意思をぶつける。やはり彼は飄々と、持ち前のスルースキルで何事もなかったかのようにパンの直近で目を凝らしている。

 

「うん、このパンは焼き目がいい感じ。こっちは逆に窯から出すのが早すぎたんだろうな」

 

「へぇ。ここで働いてるとそういうことまで分かるようになるんだね」

 

「え? あー、うんうん」

 

「りみりん。適当に言ってるだけだと思うからあんまり真剣に相手しなくても良いんだよ? そもそもまだレジしか基本的にやってないでしょ」

 

「あちゃあ。沙綾にバラされちゃったか」

 

 言われてみれば彼がパンを焼く工程を担当しているところなんて見たことがない。まぁそれも考えればすぐに分かる話か。働き始めてすぐにパンなんて焼けるようになるものじゃないと思うし、沙綾ちゃんだってパンを作る方に回ることは稀なのだ。ちょっぴり意地悪な彼に騙されているみたいだ。

 特に悪びれるような様子もないまま、彼は相もかわらずに同じように店先に並ぶパンを見つめている。店名のロゴが入ったガラスの裏手で、まるで威厳のある評論家のような厳しい目つきのままパンをいくつも見つめている。よくよく見れば、単に視覚的な情報、例えば焦げ目があるかないか、香ばしい色合いに焼き上がっているか、みたいなところだけじゃなくて、鼻を近づけてどのような匂いがするのかなんてものを確かめているようだった。そこを見れば、本当にパンを格付けするような職業の人なのかと思うばかりの真剣さだった。

 

「よし、これにしよう」

 

 だからそのまま彼が見せた行動は私からすれば少々違和感がある、というよりも突飛すぎて予想も真似も全く出来ないものだった。彼はカウンターの横に掛かっているビニール袋を一枚引っ掴み、掛けて吊るされていたトングを拾い上げると、あっという間に並べられたパンからいくつかを取って袋に放り込んでいく。あまりに慣れた手付きだったもので、きっと彼はレジだけじゃなくてこういう風にパンを扱ったりもしているのだろうことは容易に想像がついた。ただ、袋に少しばかり乱雑に放り込んでいく様は、褒められたものではなさそうである。

 

「よし、じゃあこれ持って出掛けようか。りみ、お供してよ」

 

「……へ?」

 

 お供、なんていう聞き慣れないワードが飛び出てきて私は彼の方を見上げた。出掛けるも何も彼は今まさにアルバイト中だし、その証拠に彼はここ、やまぶきベーカリーの店員たる象徴のエプロンを体に纏っている。ここで出かけたら完全に職務怠慢だ。

 私も状況というか、彼の行動の訳がわからないまま、彼は袋に放り込まれたパンのいくつかを指差している。

 彼の行動の真意が見えずに沙綾ちゃんに助けを求める。アイコンタクトで沙綾ちゃんに確認してみたが、沙綾ちゃんはただただ苦笑いを浮かべるだけ。どうやら何も完全に理解できていないのは私だけらしい。

 

「えっと、出掛けるって、お仕事はいいの?」

 

「あはは、今はお客さんもそんなに来ない時間帯だから私一人でもレジは回せるよ。ちょっと休憩してくる?」

 

「店長ありがとうございます!!」

 

「調子の良いこと言わない。ほら、行った行った!」

 

 確かに今も店内に私しかお客さんが居ないように、忙しい時間帯というわけではなさそう。だが、それでも良いのだろうか、なんていう良心に私が苛まれている一方で、彼はなんの懸念も葛藤もなく意気揚々と店を出ようとしている。右手にはご丁寧にパンがいくつも入ったビニールを提げて。

 私は急展開にポカンとしていたが、すぐに彼の後を追うように私は急いで店を出る。沙綾ちゃんはカウンターの向こうから明るく手を振ってくれていたから、私も甘えて気兼ねなく駆け出した。

 お供云々なんてことを言いながら、彼は私のことなんか気にすることもなくどんどんと歩き出していた。お店のドアから飛び出したら、既に彼の背中は少し小さくなりかけている。

 

「はぁっ、はぁっ、待ってぇ……」

 

 やっとの思いで彼に追いつく。彼は流石に店の外であることを気にしているからなのかエプロンは既に脱いでいて、普段通り、ただ外に出かけるだけのような風貌をしていた。

 

「さてさて、どこ行こうかな」

 

「あれ、行き先決めてないの?」

 

「んー。本当にただ抜け出してきただけだからなぁ」

 

 思いの外、彼の勤務態度というのは悪いかもしれないらしい。沙綾ちゃんが許容しているからまだマシとはいえ、特にあてもなく店を抜け出したなんていうから驚きだ。彼の表情を見ても本気で何も考えていなかったらしく、うんうんと唸ってふらついているばかりだった。

 

「なにかりみは行きたいところある?」

 

「え、行きたいところ?」

 

 そう問われて私は辺りを見回した。ここは商店街だからお店ということなら大体なんでも揃っている。ただ、別に商店街で買いたいようなものがあるわけでもないし、そもそもの話をすれば私がどこかに出掛けたくて店を出たわけでもなかった。そんな時だった。

 ぐぅ、という音だけを聞けば可愛らしく、少し間抜けな音が聞こえてくる。自分のお腹からの音だった。咄嗟に私はお腹を押さえて、腹筋に力を入れたけど、すぐ隣を歩いていた彼には聞こえていたらしい。

 

「うーん、公園とか行こうか」

 

「う、うん。そう、だね」

 

 形容し難い恥ずかしさだとかで私は一気に口数が減る。というより彼の顔が見づらくなる。彼も恐らくは音に気が付いてはいると思うが、気遣いなのか気まずさなのか触れないでいてくれるのはありがたい。ただ、私から話しかけることもない状態で彼も無口になると、耐え難い沈黙が訪れるのも確かだった。

 どうやら私も、我慢しきれずに腹の虫が鳴ってしまうぐらいにはお腹を空かせてベーカリーに行っていたらしい。結局何も買わないでお店から出てきてしまったことが悔やまれる。

 空腹というものからどうにか気を紛らわせようと歩く街並みを眺めてみても、隣で同じ歩幅で歩いてくれる彼が気になって仕方がない。けれども、そんな風に気を取られているうちに目的地らしきところに着いたらしい。

 

「折角の公園だし、ブランコとか漕ごうか」

 

 訪れた公園はありふれた児童公園。端っこの方に申し訳程度に所々植わった木々は春の訪れを待っているのか静かに葉を風で揺らしている。人の姿はあまり見えないし、頻繁に町の人が訪れるような規模の公園には見えない。

 そんな中で公園の入り口から一番離れた奥に青いペンキが剥がれかけたブランコがポツンと立ち並んで、二枚の板がチェーンに釣られて揺れていた。彼はそんな奥まったブランコを指差しながら、硬い砂の地面を駆ける。

 片っぽに腰掛けると振り向いて、私をもう片方に座らせようと手招きしている。座る前にちょいちょいと呼ばれて、彼が袋から取り出したものに目を見張った。

 さっき彼が店を出る前に引っ掴んでいたパンだ。シンプルな味の、少し小さめのクロワッサンを差し出される。私は瞬間的に自分の顔が赤らんでいったことに気がついた。ただ、彼は何の悪気だとかもなく、むしろ親切心でこれをしているだろうことが表情で余計に分かった。それが尚のこと私のちっぽけな羞恥を加速させている。

 

「パン、お腹空いたでしょ?」

 

「お腹は、空いてるけど」

 

 受け取らないの、と言わんばかりに首を傾げている彼を放っておくわけにもいかず、差し出されたパンをそのまま受け取ることにした。彼はご満悦と言わんばかりの表情でうんうんと頷いているけど、私は少しだけ複雑に感じるところもあった。パンを差し出してくる彼の顔つきを目にする度に、あまりに矮小すぎる私の醜い感情を意識せざるを得なかったからだった。

 パンを手にした私は彼と目を合わせることなく板に腰を下ろして、早速とばかりに揺られることにした。右足で強く地面を蹴って、前の方に大きく漕ぎ出す。座ったままでも意外とそれなりの振り幅になるみたいだった。視界の高さこそ普通に立っている時とそれほど変わらないものの、日常であまり味わうことのない軽度の浮遊感が僅かに重苦しさを払拭してくれていた。

 片っぽの手でチェーンを握り、もう片方でもらったパンを掴んだままブランコを漕いでいると、また腹の虫が鳴き出しそうな折になったので、パンを落とすようなヘマをすることもないまま慌ててクロワッサンを齧る。

 ほんの少し塩味がするのは気のせいではない。多分岩塩だとかそういう類の味付けなんだろう。いつもなら何よりも甘い、それこそチョココロネなんかのパンを欲することが多いはずなのに、今日は何だかこういう塩気のするものを食べたくなっている自分がいた。

 

「やっぱりやまぶきベーカリーのパンは絶品だな。いつ食べても美味い」

 

「うん、味はずっと変わらないね」

 

 そんな懐かしむような口調で、私はかつての自分の姿を思い起こしていた。もっと言えば、私と、それと彼の姿と言った方が正しい。まだ彼がやまぶきベーカリーで働き出すなんてなかったころだ。それはつまり、まだ私が気まずさや一抹の切なさを覚えずに生きていた頃だった。

 こうしてパンを二人で買って、互いの家の前だとか、こういう公園に立ち寄ってパンを食べて、なんでもない学校の話を話したりしただろうか。そうやって当時を思い返すだけでどことなく無常感のようなものに包まれる気がした。色褪せた写真に写る、今とは違う自分を見ているようだった。思い出がどんどんと褪せていって、紡ぎ出すものも変わっていく一方で、今口にしているパンの味が、いつ思い出しても、いつ齧ってみても変わらないというのが皮肉が効いていて悔しくなる。それでもなお私はやまぶきベーカリーに通い続けるのだから、本当に変な話だった。

 

「パン、一個で足りないよな? 何個食べたい?」

 

「んぐ……。うーん、あと一つあれば大丈夫だよ?」

 

 彼は私よりもさらに大きくブランコを漕ぎながら話しかけてくる。私が気がつかない間に随分と大きな振り幅になっていて、それどころかさっきまで座ってブランコを漕いでいたのに、今は立ち漕ぎをしているではないか。それなのに、彼の左手はチェーンを握り締めながら、パンがゴロゴロと入った透明なビニールを提げている。風の音だとか、チェーンに擦れるビニールの音が、彼の声を思わず掻き消してしまうぐらいに響いていた。

 

「えーとな。今あるのが、チョコクロワッサン、メロンパン、クリームパン、チョココロネ。何が食べたい?」

 

 風に掠れてなのか、それとも古いブランコが軋んでいる音、金属の擦れる音、ビニールの音、そんな色んな音が混ざり合って彼の声は消え入ってしまいそうだった。辛うじて聞き取れたのは私が好きなパンの名前ぐらい。聞き返すのも少々億劫なぐらいのこの時間、私は何を恨めば良いのだろうか。

 

「じゃあ……」

 

「よいしょ、っと」

 

「え?」

 

 私の答えを聞いたりする前に、まさかの彼はブランコから飛び降りた。しかも一番高いところに到達する直前で飛び降りたもので、私の視界の端で彼が大きく空に駆けているようだった。それはとても格好良くて、清々しい姿だったが、間違っても小さな子どもには見せられないような危ない様子だった。それなのに彼は飛び降りたまま体の向きをクルリと翻して、幼い少年のように屈託のない笑顔を浮かべている。

 彼が着地した瞬間に、雨も降らずに乾燥した砂が僅かに舞う。思わず私はブランコを座って漕いだまま目を閉じた。公園の中を颯爽と吹き抜けていく風がまた再度砂を巻き上げて、春の嵐が一段と早く訪れたのかと錯覚するほどだった。

 

「それで」

 

「うわ、とと……」

 

 惰性で動いていたブランコだったけど、彼が飛び降りてから、バランスを崩したら彼に衝突しそうだったので慌てて足裏を地面につけて動きを止める。ズザザ、なんていうこの歳になってからはあまり聞いた覚えのない砂の滑る音がして、私はほうと息をついた。勢いのままにブランコから立ち上がる。彼は私の気がつかない間に脇に立っていた。

 途端に、彼の目線が私を貫いた。乾いた一陣の風と共に、私の髪を靡いた。

 その時、今日初めて彼の表情を完全に真っ正面から見たような気がした。距離を一定に保っていたカウンターもなければ、売り物を示すような値札もない、殺風景な公園がどことなく居心地が良かった。彼と目が合う。とても純粋そうな瞳をしていた。

 彼は、私がさっきの質問に答えなかったことを不思議に思っていそうな顔をしている。彼が手に持つ袋の中では、風に煽られぷらんと揺れた袋の中でパンが今か今かと待っているようだった。

 

「チョココロネ、食べたいな」

 

「オッケー。チョココロネね」

 

「二人で、食べたいな」

 

「え?」

 

 彼はキョトンとした顔をしながらも、袋の中に一つしかないチョココロネを取り出す。そして、およそ真ん中辺りでパンを千切ろうとする。ただ、彼も不器用だったのか、パンは明らかに二等分ではなく、コロネの細い方の部分が小さく別れてしまっている。なんとも言えない絶妙な空気感の中、彼はそのコロネの細い方の部分を手渡してきた。

 

「はい、半分」

 

「半分……、ふふっ」

 

 何食わぬ顔をして小さい方を渡してくるところは彼らしいと言えば彼らしい。こういう時は大きい方を渡してくれるのが定石というか、手心というもののような気もするのだけど、私はこれで良かった。これが良かった。

 ただなんとなく、店の中で憂鬱になっていた自分がバカらしく思えてきたのだ。窮屈なカウンターに羨望を抱き、臆病な自分に劣等感を覚えることが。そんなこと考えたって仕方がないと、彼が言っているようだった。

 

「半分だね。このコロネ」

 

 私はもう一度二つしかないブランコの椅子に座る。彼もしどろもどろになりながらも隣の椅子に腰掛けた。ただ、私が隣を向いてにこりと笑うと、彼も微笑みで返してくれるようだった。

 

「ねぇ、またチョココロネ。二人で半分にして食べたいな」

 

 私がそんなことを呟いた時、彼はどこか驚いたような顔をしていた。何度も私の表情と手持ちのコロネを交互に見返している。彼に私の呟いたささやかな願いの意味が伝わっているかと問われれば、それは違うようにも思われるが、彼へのお願いというよりは、これは自分への誓いじみたものだった。

 並びあった二つのブランコの椅子の振れ幅が丁度揃って、同じ音を立てていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

【パレオ】卒業の桜色に寄せて

 部屋は暗い。隅に置かれて、微動だにしない桜色の棚も、グレーにしか見えない部屋の中。部屋唯一の光源は、ベッドに出来た皺を辛うじて照らせるほどの弱いブルーライト。明かりさえつければ、時代を獲ったアイドルのステージの如く眩しいはずの私の部屋も、今となっては物寂しさすら感じられる部屋となっていた。

 こうしてベッドの上に寝転がって、氾濫しそうな情報が垂れ流されるばかりとなったSNSを見続けるのは時間の無駄か。そう思って私は外を隠していたカーテンを思い切って開ける。夕方なんて時間帯はとうに過ぎてしまい、空はまだなんとか色彩を感じ取れる青に落ちていた。

 

「卒業……ですか」

 

 カーテンが開いた外には、丁度開花し始めた桜の花びらが、街灯に照らされてほんのり薄い赤となっていた。その桜並木は街を抜けて、新しいステージへと羽ばたこうとする学び舎まで続いている。

 私も来年は中学校を卒業する、そう考えると少し気の遠いような話のようにも感じられるが、私にとって卒業というのはそう縁遠い話ではなかった。

 実感があるという意味ではない。最後に自らが卒業という経験をしたのは小学校、つまりは二年前のことだし、はるか遠くの出来事のように覚えている。

 前日まで友人達との笑い声が残響していた教室は、最後のHRが終わってからは静寂に包まれて。多くの学びを記したノートを載せていた机も、もう動かされることもないまま、主人を失って静かに桜が散り始めるのを待っている。そんな学校を卒業するというお決まりの光景でさえ、自分の姿と重ね合わせるのは難しく、それでいてすぐ隣に立っているようだった。

 誰に聞かれるわけでもなくため息をつき、ベッドの上に放り投げて放置されていたスマートフォンを拾い上げる。画面の中央にデカデカと画像の貼られたそのスマートフォンには、私にとって近しい卒業がありありと写っていた。

 

「彩ちゃん、千聖さん、日菜ちゃん、麻弥さん……」

 

 自分の身内が卒業するだとか、そういうのではなく、自らの推しこと、Pastel✽Palettesの四人が高校を卒業する。それは、私にとっては自分のこと以上に大きな節目であった。比喩だとかそういうことではなく、自分にとって大事や存在が次のステージを目指して歩み出すという姿は、これ以上ないほどに私の心を打つものだった。

 彩ちゃんの投稿には、高校を卒業する四人、それからただ一人高校でもう一年学び続けるイヴちゃんが、各々凛々しく、そして尊い表情を残して写った写真がアップされていた。不思議と五人の背後には白い光がステージライトよりも明るく見えているような気がする。

 

「大学という舞台でアイドルを続ける四人と、先輩たちの姿を見送りながらアイドルとブシドーを追うイヴちゃん……。うぅ……泣けます」

 

 きっとなにも知らない人からすれば、私の姿はとてつもなく滑稽に見えるはずだ。親族だとか自分が、二度と通ることはない校門の前で写る写真に涙するというならば分かりやすい。けれども、ただファンというだけでしかない存在の卒業の写真。それを目にして涙するというのは、そういう立場でないと分かり得ない感情のはずだ。四人が手にした卒業証書の金の文字がやたらと歪んで見えているのは、私がそちら側の人間であることの証左だった。

 部屋を見渡せば彼女達を模した人形や、ありのままを写したポスターがあちこちに顔を出している。私が今まで彼女達を追ってきた歴史がそのまま部屋に遺されていると言っても過言ではない。そんな空間にあって、私はただ感涙に打ち伏しているのであった。

 そんな最中、突然部屋のドアがノックされて、私は飛び上がりそうになった。正確には、寝転んだままだったのに、驚きのあまり体を急に起こして、画面に残ったオタクの残滓をタスクキルしていた。私が何かの返事だとかをするよりも先にドアは開く。誰の来訪かをこの目で確認するよりも先に、声が届いていた。

 

「入るよー? れおな」

 

「わっ。……もう、突然入ってくるなんて脅かしたりなんてダメだよ」

 

『れおな』。そんな自分の名前が呼ばれるのを聞いて、私はふっと夢から醒めたような気がした。それから急いで部屋の電気を点ける。慣れた口調で返せるあたり、私もこんな光景に見慣れてしまったのかもしれない。私の優しめの口調の抗議に、少しばかりタジタジの態度を見せた彼は、私の恋人だった。

 彼の髪は不自然にハネていて、まだ風の強く吹いている外を歩いてここまで来たのだろうと予想がついた。私の不自然な目線に彼も気が付いたのか、恐る恐る掌で頭を押さえて、髪のハネを直そうとしている。

 

「ごめんてば」

 

「というより家に来るって言ってくれてたら出迎える準備もしたのに。突然だね」

 

「え?」

 

 あれ、私は何か変なことでも言ったのだろうか。いくら春休みで今日だって明日だって学校もないとはいえ、親しみ深い恋人同士だとはいえ、何の事前の連絡もなく恋人の家に来るだなんてかなり大胆ではないだろうか。ともすれば声を大にして言えないような密会の様相を呈する余地と受け取られても仕方がないような状況なのに。

 ただ、彼は私の正論じみた言葉に対しても、何もピンと来ていない様子だった。言葉の意味が理解できないほどではなかったはずだから、どういうわけかと怪訝な顔をしていると、彼は思い出したようにスマートフォンを取り出して、こちらに突き出してくる。

 

「さっきれおなに連絡したでしょ? これから行くよって。しかも、れおなも『わかったー』なんて返信してるじゃん」

 

「あれ、あれ?」

 

 そう言われて見せられた画面には桜の花びらの舞う背景に浮かび上がるように、間抜けな私の返答が。変なコラ画像だとかでもなく、私のスマートフォンで確認しても間違いなく私はその返信をしている。それも二時間前だとか、それぐらいに。

 まるで記憶の糸を辿るように、自分の今日の午後の行動を目を閉じて思い起こす。お使いから帰って、春休みの宿題をちょっとだけ進めて、休憩がてら彩ちゃんのSNSをチェックしにいって。あれって何時ごろだっただろうか。小腹が空いておやつの時間にしようかと迷ったぐらいだったはずだから三時ごろか。

 となると、彼に返信したのは丁度過去の投稿を遡ったりしていた時間帯だ。

 

「……あ!」

 

 ある一つの可能性に思い当たった私の頭の回転速度は急に速くなる。彼が非常識みたいな言い方を先程までしていたのに、私は恐らく、いや、間違いなく。

 

「ごめんなさい! 完全に無意識に送ってた!」

 

「ああやっぱり」

 

 卒業していくパスパレの皆さんの投稿に想いを馳せている間に来た連絡に、私は深く気に留めることもなく返信していたらしい。仮にも恋人という大切な存在に対してそんなぞんざいな扱いをしていいのか、なんていう意見をもらっても致し方ないような失態に、勢いよく私は頭を下げた。

 ただ、彼もどういうわけか見当がついていたらしく、ひどく呆れたりした様子もなかった。これまで似たような失敗をしたことがあるわけじゃないけど、パスパレのことに心を奪われていた姿なんてのは幾度となく見せた覚えがあるから、そういうことなのだろう。彼とて、私のアイドル趣味、特にパスパレ関連の追っかけの様子については詳しく知るところなので、多分納得もいったのだ。

 

「ま、それはそうとお邪魔しまーす」

 

 彼はローテーブルの脇にトートバッグを立てかけると、床に腰を下ろした。私の手渡したクッションをお尻の下に敷くと、教材らしいものを取り出す。

 

「勉強?」

 

「うん、約束してたでしょ? 勉強会するって」

 

「あ、なるほど」

 

 そう言えば数日前に会った時に次に会う時は宿題を消化しようみたいな話をしていた覚えがある。なるほど、彼は今日はその用件で来たのだ。

 普通の中学生よろしく、この学年の変わり目の折には一年の振り返りと称した大量の課題が出されている。別に勉強だとか宿題をやること自体は苦ではないのだけど、忙しいバンド活動の合間を縫ってこれをやるには少しばかり時間が厳しいところもあるので、どうせなら二人でやってしまおうという魂胆だ。

 ただ、改めてこの宿題の束みたいなものを見ると憂鬱な気分にはなってしまう。五教科全部から宿題が出ていることを考えると納得せざるを得ないけど、彼の腕の横に積まれたテキストとプリントの山は禍々しさすら放っている。勉強が私よりも嫌いだとかいう彼からすれば、まさにラスボスと言ってもいいような存在だ。

 

「これ全部終わらせないといけないとか、本当に長期休みは損だよな」

 

「でも一年間の勉強が適当なまま進級しても、来年が苦しくなるだけだよ? 頑張ろう?」

 

 だって来年は受験が、なんて続けようとしたところで思わず私は苦しくなって押し黙ってしまう。環境の移ろい変わることが、今の私にとっては苦でしかなかった。

 

「一年間の勉強なんて言われても……。常識的に出していい宿題の量ってものがあってだな」

 

 私も彼の対面に腰を下ろして、カバンの中からテキストなんかを取り出してテーブルの上に積んでみた。幸いなことに私の山の高さは、彼のそれよりも幾分かましらしい。もちろんその山の中身がどれほど重たいものかなんてことはわからないけど。

 彼は私の出した本だとかを見つめて、目を丸くしている。そして、途端に絶望を前面に貼り付けたようにして、机の上に突っ伏した。大してこの机が大きいというわけでもないし、彼が突っ伏してしまえば、机の上は彼の体で埋め尽くされてしまう。完全に意気消沈した彼を起こそうと、筆箱の中から私はシャーペンを取り出す。カチカチカチ、なんていう悪魔の音を響かせて、私は彼の手の甲をシャーペンの芯で素早く二回、突き刺してみた。

 

「あ、痛い痛い痛い」

 

「自分の宿題をやらないだけじゃなくて、人の勉強を邪魔するおバカさんへの罰ですー」

 

「ちょ、分かった。起き上がるから」

 

 流石にちょっと痛かったらしく、慌てて彼は起き上がる。けれども、ついさっき突っ伏した時と同じように、絶望というか、不満げな表情のままだった。彼の目線はほんのり赤くなってしまった右手の甲ではなく、彼の横で無言のまま聳え立っている本の山だった。緑に黄色、ピンクに青とやけに現実よりカラフルな山並みが、彼に絶望を突きつけていたらしい。

 

「……ちょっとだけ手伝って、って言ったら?」

 

「だーめ。というより代わりに私が書いても結局文字とかでバレると思うよ?」

 

「一杯ハグする! れおなが満足するまでぎゅーってするから!」

 

「……ダメなものはダメ! 大体それじゃ、得しかしてないじゃん」

 

 自分でこういうのも恥ずかしいというか、自惚れと取られてしまいそうなのだけど、宿題を私がやるにしろ、彼が私を抱きしめてくれるのも、完全に彼にとっては良いこと尽くしでしかない、はすだ。彼の必死な懇願の態度に、わずかに心が揺れてしまうけど、ここは私も心を鬼にして断ることにする。彼がやらなければいけない分の宿題を私がしたところで、彼にとってはなんの意味もないはずだから。

 

「ハグだけじゃダメだと言うのか……!」

 

「ハ、ちょ、そういうことじゃないから! 終わらないから早くやるの!」

 

「はぁい」

 

 流石にこれ以上ごねても仕方がないと分かったのか、渋々、いや、やけに分かりも良く宿題に手をつけ始めた。分からないところが多いだとか、勉強が苦手だとか言っていた割には、本の中に散りばめられた問題をすらすらと解いているらしい。

 さらに言えば、彼は一度集中すると、ちゃんとその集中が持続するし、それでいて一旦やり始めたら最後まで頑張ろうという姿勢が強いからなのか、目の前で彼の少しだけカッコいい表情を眺め続ける私の視線に気がつく様子もないらしい。これはこれで、私にとっては楽しい時間ではあるけど、それじゃあ彼がここに来てくれた意味も無くなってしまいそうなので、私はぼーっとせずに頭を思い切り横に振る。

 彼の順調な進捗に私も安心して、それでいてなんだか心がスッと楽になって、自分も宿題に取り掛かることにした。

 

 

 

 彼がうーん、と唸る声に、私の集中は不意に途切れてしまった。さっきまで何一つ滞ることなく動き続けていた手も止まってしまって、何の意図もなく視線は部屋の隅に隠れるように置かれた時計に向いていた。

 彼がここに来た時間から考えると、精々この集中が続いていた時間はまだ三十分ちょっとかそこららしい。感覚だけで言えばもう一時間は余裕で過ぎていると思っていたから、自分の集中力の弱さに辟易としてしまった。

 私の集中力が途切れてしまっても、目の前で問題を解き続ける彼の集中は保っているらしく、私がキョロキョロしていても見向きもしない。そんな直向きな姿を見て私ももう一度頑張ろうとシャーペンを握り直してみる。

 なのに、思った以上に手が動かない。完全に私の注意は他の方に向いてしまっているらしかった。仕方がなく、いや、当然のように私は床の脇に置いていた自分のスマートフォンを触っていた。

 

「……彩ちゃん」

 

 思わずそう呟いたのは、無意識で開いていたSNSに、彩ちゃんの泣き顔が写っていたからだった。彼が来るよりも前、私が小一時間とは言わずとも、数十分もの間眺めていたかもしれないあの写真。これを見ると、私は感傷的な気持ちにならざるを得なかった。

 

「ん、れおな?」

 

「え?」

 

 私は不意に自分の名前を呼ばれて、頭が真っ白になる。声に釣られて視線を上げると、利き手にペンを握った彼が不思議そうな表情でこちらを見つめているではないか。

 

「あ、ご、ごめんなさい! 気になっちゃったよね」

 

「ううん。俺もちょっと疲れて気を抜いてたら、れおながものすごく悲しそうな表情してたから」

 

「えっ。そうかな」

 

 ベッドの手前に置いてあった姿見は偶然にもこちらを向いていた。それを見れば確かに、私の顔はなんだか気落ちしたような、暗い表情をしていた。

 何はともあれ、私の不注意で出た声に彼は集中を切らしてしまったらしい。一応確認だけすると、私以上に彼の進捗の産み方は凄かったらしく、今日始めに見た時と比べると、テキストは一気に薄くなっているようだった。

 相当な心配を掛けているらしい。彼はなんだか申し訳なさそうな、浮かないような、そんな複雑そうな顔をして、徐に腰を上げた。彼が座っていたクッションが一気に膨らんで、元の形に戻っていた。そして、彼は私の隣に腰を下ろして、ベッドの側面にもたれながら私のスマートフォンを覗き込む。

 

「パスパレの彩ちゃん。もう卒業だもんね。彩ちゃんだけじゃなくて千聖ちゃんとか、日菜ちゃん麻弥ちゃんも」

 

 名前を聞く度に、ステージで何度も見た五人の笑顔や涙が。それでいて、この写真に写る姿や、学校で送ってきたであろう学生生活の輝きが頭を過った。私はなんだか心が苦しくなって、棚の横に置いていたぬいぐるみを抱きかかえていた。

 

「……うん。なんだか、寂しくなるというか、ファンとしてはやっぱり怖くなったりもするよね」

 

「え? 怖くなる?」

 

 私の肩と彼の肩が少し触れた。私が脱力したように彼の肩にもたれかかると、彼もそれを受け止めながら、それでいて私の気持ちに応えるように、私の方へともたれかかる。そのまま、彼はこちらの表情を窺っているようだった。

 

「うん。これまでは高校っていう学び舎で、アイドルをしてって。でも、これからはまた別のステージで、これまでのパスパレとはまた違うアイドルをするんだろうなって言うのが少し、寂しくて怖い、かな」

 

 なかなか言葉にするのは難しい感情だ。よく、古参を自称する熱心な追っかけが、知名度が上がって大きな顔をするみたいな、そんなものに近いようで少し遠いものがある。段々と自分から遠い存在になっていくような、私の知らないアイドルとして羽ばたいていくのが哀愁を覚えるようでどことなく寂しい。自分の知っていたはずのパスパレがまた別のパスパレに変わっていくような気がするのが、言い知れない恐怖を喚び起こす。

 理解はし難いものだと思う。それでいて我儘な感情だということも分かっている。ただ、漠然と辛いというのが正しい。

 

「……そっかぁ。それぐらい、れおなはパスパレが好きだってことだよな」

 

「うん。……あっ、もちろんその、推しと恋愛は違うから」

 

「え? あぁ。それぐらいは分かってるから大丈夫大丈夫」

 

 彼は私の臆病さの極みを笑い飛ばしながらも、改めて部屋を見回していた。部屋にはあちこちにパスパレの息遣いが残っているし、そんな卒業に怯えるセンチメンタルな私の感情すら乗り憑っているような気がする。

 

「卒業って、馴染み深いようで、なんか別世界みたいな話に聞こえるよね。況してや自分のことでも、自分の学校のことですらないし」

 

「え? ……うん。それは、そうかも」

 

 そう言われて、自分の学校で先週ぐらいにあった卒業式を思い出す。校門前の看板はそこまで華やかに装飾はされていなかった気がする。それと、写真に写っていた花咲川や羽丘の看板を見返してみた。校名が違うのは勿論、付いているお花の数も、色も、位置も違う。至極当たり前だけど。

 中学校と高校、そういうところでさえ違う。それまで意識していなかったような違いも浮き上がってきたかのように差異が見えるようになった。

 烏滸がましい。そんな評価が正しいのかもしれない。一介のファンに過ぎない自分がアイドルという本来なら雲居に等しい存在に親しみを覚えるということが過ぎたことだったのかもしれない。だとすれば、私は完全に自ら驕り、失望したとんでもない間抜けということになってしまう。ただ虚しさが募るばかりだった。

 

「れおなはさ、卒業してから、どうするかとかって決めてるの?」

 

「え? どういうこと?」

 

「あと一年、中学校通ってさ。受験勉強するのかしないのか、まぁ真面目なれおなならやりそうだけど、それで中学校卒業して。その後のこと決めてるのかってこと」

 

「中学校、卒業してから?」

 

 改めて目を閉じると、自分の経験した卒業式、つい先日のことが思い返される。もう帰ってこない中学校での日々を懐かしんだり、違う道へと歩む同胞と涙を流していた先輩たちの姿。一年後はあそこに、自分が立っている。

 彼が言う通り、私はどうせ受験勉強はしていそうである。どこの高校を目指すかなんてことは決めていないけど、多分自分の意欲が続く限りは勉強を頑張って、高校に入り、それで、私は高校生になってどんな姿をしているのだろうか。

 RASは、パレオは、その時もまだ同じキーボードを奏でているのだろうか。チュチュ様、レイヤさん、マッスーさん、ロックさんと同じステージに立つことが出来ているのだろうか。

 彼との関係も続いているのも分からない。今の彼への気持ちは一時の儚い恋愛感情に過ぎないのだろうか。経験も浅いもので、感情の昂りがどれほどのものなのかということすら皆目見当もつかない。人間関係全般が、そういうものなのかもしれない。

 何も分からなかった。進路が決まっていない、なんていう怖さがどうこうとか以上に、一年後の自分の姿がまるで想像もつかないのが恐ろしい。自分と、その周りを取り囲む人々や環境。まるで、いつかに沈んでいた真っ暗闇にもう一度深くまでずっぽりとハマってしまったみたいだった。

 

「分から……ない。分からないよ、そんなの。未来のことなんて」

 

「うーん。まぁ、未来がどうなってるかなんてのは分からないよね。けどさ」

 

 彼は何かを思案するように目を閉じる。そこまで言い切った時点で何かを言うでもなく黙りこくってしまった。勿論だけど寝ているとかそういうことではなく、本当に小さく呼吸の音だけが聞こえる。

 暫く経っただろうか。痺れを切らした私が彼の様子を確認しようと僅かに身動ぎする。顔を覗き込もうとしたら、彼が漸くゆっくり目を開いた。

 

「未来がどうなってるかは分からないけど、未来にどうなりたいか、ならイメージとかあるんじゃない?」

 

「未来にどう、なりたいか?」

 

「うん。俺だったらそうだな、中学校卒業して、高校で軽音始めたりとか、どうせなられおなみたいにキーボードしてみるのもいいかも、なんてな」

 

 そう言われて、私は改めて未来に想いを馳せる。れおなは、パレオは、どうしたいのか。あの輝かしいステージに立って、思い思いの音楽に酔いしれて、時にはパスパレのライブを観に行って、そのあまりの可愛さに打ち震えて。そう考えると、中学校の卒業という節目を迎えても、あまり変わっていないのかもしれない。私は、私自身という人間自体は次のステップで頑張るとしても、実質は意外と変わりそうにない。

 

「なんとなくは、イメージがあるけど。でも、そんなに今と変わったりは」

 

「今と変わらないってことは、バンドもやるし、みたいな?」

 

「……うん。パスパレを追っかけたりだって、勿論恋愛も。高校生になって勉強が難しくなったりはするかもしれないけど」

 

「そうだなぁ。変わることもあれば、変わらないこともあるよな。これぞまさに諸行無常ってやつだな」

 

「ちょ、ちょっと違うような」

 

 諸行無常。この世の全ては移ろい変わり、即ち変化が生じないものなど存在しないということ。その言葉の意味をそのまま捉えるなら結局全部変わってしまっているような気もするけど、なんだか彼の言わんとすることがほんの少し分かった気がする。

 

「れおなは、パスパレの卒業が寂しいんだっけ。自分の知らないパスパレになるかもしれないのが」

 

「そんな……感じかな」

 

「でもそれって、仕方がないことだよな。時間は待ってはくれないし。それでいて、本当に卒業したからって、そんなに変わることかな?」

 

「変わること?」

 

 頭の中にフラッシュバックしたのは、これまでのパスパレのステージの数々に、SNSにアップされた卒業の記念写真。

 

「だって、卒業してもれおなの好きなパスパレには変わらないでしょ?」

 

「あっ……」

 

「むしろ、卒業したからって、態度がすぐにコロって変わるレベルのファンなのか?」

 

 私は勢いよく、捻じ切れてしまうのではないかと思うぐらいに、首を横に振っていた。私がそんな細かいことに囚われすぎるような、理想を押し付けるような、浅ましいファンなのかどうか、自分の胸に手を当てて考え直していた。

 喩えパスパレの誰かが炎上したりだとか、そもそもパスパレがまた何かでネットで叩かれていようが、私はパスパレのファンを辞めることはないだろうし、応援し続けるだろう。そこまでして、本物のファンというもののはずだ。

 

「大学生になって、もしかしたら変わることもあるかもしれないけど、それでもありのままのパスパレを応援するのが、ファンってものだろ?」

 

「……その通りだよね。私はパスパレの皆さんが高校を卒業しても、大学さえ卒業しても、ずっとずっと、あの五人を応援し続ける、それは、私のやりたいことだから」

 

 ただただ静かな部屋で、なんだか気持ちの整理がついたような気がした。卒業という節目として描かれるイベントに、あまりに引っ張られ過ぎたのかもしれない。変わっていくものの中で、変わらないものも見つけながら、私は直向きに、バラバラの道だとしても歩き出そうとする人達に声援を送り続けるだけなのだ。そこに一抹の寂しさを感じることがあったとしても、それは終わりだとか、そういうことではない。新たな始まりを前にして、不安に囚われ過ぎずにいなくてはならない。

 私はふぅ、と小さく息を吐いた。心の中に巣食っていた辛い気持ちが一緒に吐き出されて、消えていくような感じがした。

 

「卒業って寂しいけど、案外、悪いものじゃないのかもね」

 

「……だな。別ればかり気にしたって、仕方がないだろうし、ただ寂しいものじゃないんだよ。きっと」

 

 未来のことなんて分からない。そんな彼の言葉が反芻する、そんな気がした。

 

「……それこそさ。俺はれおながRASをやってようが、やってなかろうが、れおなは、れおなだから、決めた道を応援したいし、ずっと傍にいたい。……なんて恥ずかしくなって来たな」

 

「……えっ」

 

 急に顔が熱くなる。顔を逸らしながらぼそりと呟いた彼の言葉は聞き漏らしなど起こるはずもなかった。

 ……なるほど、こんな気持ちになるのか。私は改めて、ここ数時間の葛藤が如何に無駄で愚かしいものだったのかということを知った。

 

「ふふふ……」

 

 自然と笑いが込み上げてくる。こんな言葉を残して照れる彼の姿は、まるで自分と同じだった。

 

「ねぇねぇ」

 

「……ん?」

 

「ありがとう」

 

「……おう」

 

 彼はやはり一瞬でも目を合わせようとしない。ただ、唯一見える片頬がほんのり春色に染まっていることだけがよく分かった。

 この春に相応しい桜の色が、こんな近くにあること、それがこんなにも嬉しいことだとは思わなかった。私は未練がましいスマートフォンの電源を切った。そして、これ程ありがたい存在の、奥手な彼が欲していたご褒美をあげたのだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。