(仮題) 元女子校に通う男子生徒会役員 (人の夢は儚い)
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1 苦悩の始まり編
何故こうなった……?
1
――五月。
桜の
もっとも、花弁が地面に落ちているせいで街路の清掃を行うボランティアの苦労は倍に膨れ上がっているに違いない。
そんな桜並木にあるコンビニエンスストア『セブンティ』は、駅から徒歩で五分ほどの距離と微妙な位置にあるにも拘わらず、通勤時間帯という理由もあって混雑している。
「いらっしゃいませ」
二つのレジの片側で作業を行うのは一人の学生。蛍光灯の光も強く反射させる黒よりも黒く感じる漆黒の髪の毛、ルックスは客観的に見れば中の上……彼を知る人曰く「親しみやすそうな顔なら右に出る者はいない」らしい。しかし親しみやすさとは裏腹に左目の下には切り傷があり、縫合の処置をしていないせいでパックリと割れていて、見ている側からすれば少々生々しかった(決して皮膚の内側が剥き出しになっている訳ではない)。
少年は客が台に乗せた商品を素早くスキャンし、袋詰め、会計という順序を正確かつスピーディーにこなしていく。
「ありがとうございました、またお越し下さいませ」
挨拶を終えると同時に次の客へ意識が移り、先程と同様に作業を行う。流れを切らさないと表現するより、流れを捌いている、の方が正しい。
客の目線からすれば、通勤時間帯のコンビニとは言えど長い時間レジ前で待たされるのは煩わしいものだが、彼の迅速さは煩わしさを感じないどころか、その手際に見入ってしまいそうになった。
「……お客様?」
「え、あっ! ありがとね!」
不覚にも見入ってしまった一人の男性客は、我に返ってそそくさと店を出ていく。
「ありがとうございましたー」
背中から聞こえる決められた挨拶も、本当に感謝されてるのかと錯覚を覚える。こうして、再び店を訪れる常連客となっていくのだ。
通勤による忙しい時間帯は、あと一時間続いた。
◆ ◆
「はーい、今日もお仕事お疲れさま。ほんとに君がいると助かるわあ」
「別に助けた覚えはありませんけど……」
今日のシフトを終えた少年は、事務所兼更衣室で店の制服から学校の制服に着替える途中――どこか女性らしい話し方をする四十代の男性社員と談話をしていた。
「何言ってるのよ。君のおかげでリピーターが増えちゃって『今日はあの学生さんはいないんですか?』の質問を何度聞いたことか……とにかく君の店への貢献度は私を越えちゃってるわあ」
「越えてるってのは言い過ぎですよ。それに、それもこれも『店長』の指導の賜物ですから」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃないの」
このオネエ(?)社員はアルバイトでもパートでもない。この店を任されている店長である。見た目こそ年相応の中年男性だが、気の利いた性格とフレンドリーな人柄で、近所では有名人(主に主婦層で)に数えられる顔が広い人物だ。
そんな店長から直々に教育を施されたからか、少年はコンビニでのスキル以外にも対人スキルを植え付けられていた。
「本当に、斎藤さんには感謝し尽くしても足りないんですから。俺に感謝する必要はないですよ」
斎藤とは言うまでもなく店長の名字だ。
「そういう謙虚なところも君らしいわねぇ」
あ、そうだ……、と思い出したように話題を切り替える。
「次のシフトは『彼女』も一緒だったよねぇ?」
「はい」
それがどうかしましたか? と目で問いかければ、店長の斉藤はどこか申し訳なさそうに顔を歪めて、口を開いた。
「その時なんだけど……私はきっと溜まった事務作業に追われそうなだから、教育係を頼んじゃっても良い?」
「ええと……」
何か言いたげな少年の質問内容を覚った斎藤は、少年が話し出す前に答える。
「事務作業は一応ここでするから大丈夫。入りたての新人を残して帰る、なんて真似はしないから安心して」
「分かりました。それなら引き受けます」
「ん、ありがとぉ」
着替えを終えた少年は学生カバンを腕に通すと、ブレザーについている校章を鏡を見て整える。
「じゃあ……今日はこれで失礼します」
「はーい、次もよろしくねぇ、神崎くん」
「はい。では、お疲れさまです」
少年――
「ふぅ……帰ったら少し勉強するか」
夜空を見上げ、いつもより多く息を吐いた唯斗は散り行く桜に目線を移して家路を歩み始める。
2
彼の家はコンビニから十五分ほど歩いた場所にあるマンションがいくつか建ち並ぶ住宅街にある。親の知り合いが管理人を勤める十階建てマンションの二階四号室(〇二四号室)が彼の部屋だ。
言い足せば――本当に彼の部屋だった。唯斗はかれこれ一年以上をこの〇ニ四号室で過ごしている。
部屋の前に着き、施錠した鍵を開けて玄関に足を踏み入れた。
「ただいまー」
廊下の電気は消えている。靴を揃えて、既に置かれていた靴の横に並べた。学校指定の革靴は手入れを欠かせばたちまち輝きを失うため毎日の靴磨きを怠らない。今日も例外なく専用のスポンジで周りを擦り続ける。
ここまでは一人暮らしの、何の変哲もない日常だ。
しかし、ここからが非日常的だった。
「お、お帰りなさい神崎くん。ご飯は朝の残りをレンジにかけましたし、お風呂も沸いてますけど……どちらにしますか?」
可愛らしいピンクのパジャマを羽織る同年代の女の子が唯斗を出迎える。
栗色の長髪ストレート、女性らしい柔らかそうな肌とふくよかな胸囲、十人いれば十人が可愛らしいと即答する顔立ちは文句のつけようもない美顔だ。
そんな彼女の、かの有名な「ご飯にする? お風呂にする? それとも……」を間接的表現で味わう唯斗は、恥ずかしさを隠しながら平静を保ってお風呂を選択して、そのまま洗面所に向かった。
手を洗いながら溜め息をつく。アルバイト終わりの達成感によるものとは違い、今回の溜め息は重い雰囲気を醸していた。
「慣れない……まだ、馴染まない」
脱いだ服をそのまま洗濯機に押し込んで(制服は畳んで別のかごに入れた)、タオルを片手に浴槽に浸かる。またしても溜め息をつくと浴槽のなかで脱力した。
家へ帰ったにも拘わらず唯斗の表情が安らがない理由――それは一人暮らしが先日より終わったことと、出迎えた彼女が『血の繋がりもない赤の他人だから』である。赤の他人と豪語するまでに縁がないわけではないが、ついこの間まで正真正銘『赤の他人』以外の何者でもなく、有り体に言えば『運命』に近い数奇な縁に巡り会ってしまったのだ。
(何でこうなっちゃったんだろうな……)
神崎唯斗、現在私立桜麗学院一年生。
生徒会所属。
現在クラスメートの女子生徒と二人暮らし。
このような自体になってしまった顛末を思い返し、唯斗は浴槽のなかで目を閉じた。
プロローグはこんな感じでどうでしょうか。
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きっかけ
3
振り返れば……ことの始まりは中学二年の三学期に実施された『進路調査書』について真剣に考えを巡らせていた時だった。
「……」
進学、
就職、
やはりこの二つで悩まされていた。
このころから既に唯斗は一人暮らしを始めている。だからこそ、生活していくうえで学業か仕事を選ぶかはこれからの一生を左右する――まさに運命の選択なのだ。
「……やっぱ進学が……でもなぁ」
自分の考えがなかなかまとまらない。
冗談でなく彼の死活問題となる選択を行っていた。
漠然とした目標しかない生徒もいる、夢を叶えるために決めた自分の道を進む生徒もいる、親の期待を背負って半ば強制的に進路を決めた生徒もいる。誰もが自分のこれからを占う一生で一度の選択に、特別な思いを抱いているだろう。
そういう意味では唯斗も同じである。だが、他の生徒と比較して異なる点を挙げるとすれば、彼はなるべく自分の力で解決したい思いが強いことだった。つまりは『親の力』を借りずに生活を送るのがベストと考えているのだ。
当たり前だが、小学校から大学まで――教育機関に通うにはお金が必要である。入学する為に大金を払い、その後もひと月ごとに授業費などを払い続けなくてはならない。
「高校に進学するなら特待生になって学費免除の対象にならないと厳しいのは重々承知だし、ゼロ円で行ける訳もないから、それを賄うのとなるとこれまでより労働時間を増やさなくちゃならないのは目に見えてる……」
進学するなら特待生が前提。最悪、奨学金の対象者になって卒業後にコツコツと返済するかだ。どちらにせよ、進学するなら優等生で居続ける必要がある。
今まで以上に勉学に勤しむ必要性を再確認する唯斗だが、
「かと言って、就職一本に絞るのも危険だし……」
中卒で企業に採用される人数は、高卒、大卒の資格を持つ者より少ない――なんてことは言われなくても分かる。誰にでも同じように手が差し伸ばされるような、そんな甘い世の中でないことも理解している。
何より、それではその場しのぎで行き当たりばったりな――彼の思い描く将来像に反するヴィジョンしか浮かばなかった(あくまで唯斗の想像内だが)。
薄く淡い希望に人生を賭ける決断はできそうにない。
こんな時に出る自分のヘタレさに落胆する。
「はぁ……お先真っ暗とはまさにこのことだよ」
行き場のない葛藤が、唯斗のなかで
「提出期限は今週の金曜……あと三日か。ギリギリまで考えて提出しよう」
進路は少し前から意識していたが、ここまで真剣に考えるのは今日が初めてだった。故に、たった一日でひねり出した答えでは満足してはならないし、満足できるはずもない。
何度も言うが、これは一生に一度の選択である。
自分が納得できる答えを確固たるものにしなければ、これからの準備に向けて気持ちの方向性がぶれてしまい、選択を間違えれば一生を棒に振る可能性だって大いにあるからこそ、慎重に冷静に選択しなければならない。
かといって、先送りにすることもできないのだ。
「……ああ、もうやめだ、やめ! 今日はこれくらいにしておこう」
行き詰ったなら一度意識を他の物事に移すのが一番……頭がすっきりしたらまた考え直せば良いのだ、と唯斗はソファに寝転んだ。
「えっと……今日の予定は……?」
手帳を手に取る。中学生男子が手帳を持つこと自体珍しいが、一日ずつに細かな予定まで決めて忠実に実行していく几帳面さと実行力も中学生男子にはあまり見られないだろう。
ぎっしりと埋められた手帳をめくり、今日の日付を確認して……絶句した。
「そう、だった……」
――バイト代行。
本来なら今日は唯斗のシフトではない。代行と書いてある通り、テスト期間でバイトを休む彼の先輩にあたる高校生の代わりを店長から依頼され、それを引き受けて……いた。
「進路のせいでそんなこと忘れてた!」
って、バイトをそんなこと扱いするのは違うか……、心で反省する唯斗。早速支度を始めようと立ち上がり、時間を確認して……再度絶句した。
現在時刻、四時五十分。
勤務開始時刻――五時。
「嘘だろ……おいおい、いよいよヤバくなってきたぞ。これ以上店長を怒らせたら俺の命に危険が及ぶって……今日が俺の命日になるって!!」
焦りが冷や汗と共に体を伝い、体が震えあがる。
「とととととととりあえず店長に電話しよう……! 理由は説明しなくとも、連絡を入れておけば少しは罪が軽くなるはず」
動揺のあまり呂律が怪しくなり、スマートフォンを取ろうとする右手も細かく震えてうまく掴めない。
「落ち着けぇ……落ち着くんだ俺!」
左手で右手首を押さえて震えを抑える。この時唯斗は知らなかったが、姿勢が「くそ! 鎮まれ俺の右手!!」になっていた。誰かが見ていたら間違いなく危ない人だと勘違いされていただろう。
着信履歴『セブンティ店長 斎藤』から発信ボタンを押してスマートフォンを耳に当てる。三回のコール音の後、相手方の声が彼の耳に入った。
『もしもし、セブンティ
「も、もしもし。アルバイトの神崎ですが……」
『……神崎くん、シフトまで十分切ったんだけど……理解してるわよねぇ?』
「勿論でございます!」
ひと言目とふた言目の声色が天地の差だった。最初の明るいトーンは一体どこへ行ってしまったのか……唯斗だと分かった瞬間に湧き出す電話越しでも感じる威圧感。
『……弁解の余地は与えます』
許すかどうかは別として……、が抜けているのを唯斗はひしひしと感じながら、少々誇張した言い訳を始める。
「人生の岐路に立たされて、時間を忘れていました」
『荘厳に言わずに真実を言いなさい』
「進路に悩んでましたッ!!」
間髪入れずに修正を命じられ、唯斗は言われるがままに繕いの無い理由を白状した。
『人生の岐路って、あながち嘘じゃ無かったのね』
「まあ、ちょっと尾びれを付けましたけど」
トーンの上昇に感情の余裕ができたと判断し、恐る恐る冗談を交える。当の斉藤も彼の冗談に付き合える余裕ができていた。
『理由は分かったわあ。それでいつまでには来れる?』
「えと……自転車で飛ばせば五分で着けます」
『三分で来てね』
「えっ!? ちょっ――」
突然の無茶ぶりに言葉が詰まる。気付けば通話は終了しており、ツーツー……、という終話音が無残に流れていた。
「反論の余地を与えない所が店長らしいよ」
しかし、そんなことを感心している場合ではない。五分で着くというリミットが三分に変わり、一秒の時間のルーズも許さない事態になっている。急いで必要なものを鞄に詰め込み、部屋の扉も閉めずに(家の戸締りは忘れない)セブンティへ向かう。
店長である斎藤に提示された三分というタイムリミットにぎりぎりで間に合った唯斗は息を荒げてセブンティ店内に入ると、彼の到着を待っていた斎藤とシフトパートナーの大学生である浜野に挨拶をして事務所に駆け込んだ。
ものすごいスピードで着替えを済ませてレジに向かう。
「神崎唯斗……た、ただいま到着いたしました」
肩で息をする唯斗を、斎藤は怒っているのか笑っているのか判別しにくい無機質な笑顔で見つめる。隣りにいた浜野はそんな斎藤を見て顔をひきつらせていた。
「約束通り三分以内にやってきたことと、事前に連絡を入れたことは社会人として当たり前……それが出来たのは褒めるけど――君は立場というものをちゃんと理解しているかしらあ?」
「はい。肝に銘じています」
「けどこれが初めてな訳じゃないでしょう? この前も遅刻してきたじゃない、それこそ連絡もなしに」
「……」
こういった斎藤の含みのない説教を聞くのは、何も初めてではない。
「心を鬼にして何度も言わせてもらうけど、君を採用したのだってお情けが八十パーセントなの。募集対象が高校生以上と分かったうえで頭を下げて……働かなくちゃならない理由を涙を溜めて話して……同情心に付け入って何とかこうして働けているのは分かっているわねぇ?」
「……それに関しては感謝しています。こんな俺を雇ってくれる時点で店長に負荷がかかっているのも……重々理解しています」
これまでの会話や唯斗への風当たりで分かるだろうが……中学二年生である神崎唯斗と斎藤の関係性は良くなかった。
説教する斎藤と、それを黙って聞く唯斗の光景は働く者からすれば見慣れた光景になっていたほどだ。
ただし、その光景を見て唯斗を可哀想だと同情する者は一人としていない。唯斗が中学生で雇われているという特別性は『贔屓』と捉えられている。これで仕事のミスで怒られないようでは『優遇』されるのも大概にしろ、と誰もが思うだろう。
何より、他ならぬ斎藤が背負うリスクの大きさが唯斗を甘やかさなかった。店を任された身として公式な募集要項を無視した雇用はセブンティ本部の方針を無視する真似であり、許されるわけがない。
唯斗が頭を下げ続けて斎藤の許しを得たのと同様に、斎藤も本部に頭を下げて「三ヶ月以内にコンビニスタッフとして完璧に育て上げる」妥協案を提示したうえで、なんとか許可を得ているのだ。
「そうねぇ……今の私たちは『運命共同体』なの。君が成長しなければ私の首はスパンと切られるし、私が成長させなければ君の雇用もストップ。私たちがこの先も働くためにも、社会人の自覚を持ってもらわないと困るわあ」
「は、はい!」
恐ろしい台詞をなるべく優しく言う斎藤だが、失敗の許されない――半歩たりとも後ろに退けない緊迫感が般若の如く襲いかかり、唯斗は上ずった声で返事を返す。
とりあえず、置かれた現状と達成しなければならない目標を互いに確認することで、この説教は幕引きとなった。
「さてと……今日も一生懸命働いてください」
斉藤は売り場を唯斗と浜野に任せて事務所にはけていく。
――そして『遅刻の罰として新商品や人気商品を最低百人に売り込み』を課された唯斗は、季節に合わない大量の汗をかきながら必死に働くのであった。
◆ ◆
午後十時にシフトが終わり、自転車に乗って家を目指す唯斗の顔には疲労の色が見えていた。
坂道でないにもかかわらず、たびたび自転車を降りて手で押しながら体を前のめりにして脱力している。「あぁ……」や「んぅ……」といった呻き声とため息が時折口から漏れ、独り言も何を言っているのか分からないボリュームと呂律だ。
「……つらすぎる」
これが唯一聞き取れるひと言だった。
商品の宣伝はもちろん、コンビニでは必ず売っているおでんやフランク類や中華まん類の仕込みを一手に受け、事務所で行うセブンティ本部への報告書作成を今日はやらされたのだ(あくまでも教育という名のもとに)。
頭に詰め込まれる必要知識が唯斗の脳内を駆け巡り、すでに頭痛がしている感覚に苛まれている。心身共に限界値をオーバーしかねない今の状態なら、このまま道路で寝ても気にならないだろう。
「帰ったらベッドに直行しますよー」
風呂になんか入っている時間があるなら、その分を就寝時間に回した方がいい。とにもかくにも、いち早くベッドに飛び込みたい心情が今の一言に込められていた。
行きは三分の道のりが、とてつもなく長く感じる。
「瞬間移動とかできたらな……」
自分が中学二年生であることを忘れて――ある意味では正常かもしれないが――特殊能力を宿す姿を想像する唯斗。
いつもでさえ十五分弱で充分な距離にもかかわらず、今夜に限っては二十分もかかって、やっと玄関のドアに手をかけていた。
「ただいま……」
力なく呟かれる彼の言葉に返事はもたらされない。おぼつかない足取りで廊下を歩きながら自室に行き、最後の力を振り絞って寝巻きに着替えた唯斗は、迷わずベッドにダイブする。
「……」
目を閉じて間もなく、彼の意識は途絶えて眠りについた。
4
翌朝は思いの外気持ちのよい目覚めだった。
「うぅ……はぁ」
ググッ、と体を伸ばせば小気味良く骨の鳴る音がする。
昨日はいつもの倍以上労働したはずだが、帰ってベッドに直行していたおかげで、十時半には爆睡していた。唯斗はたいてい日付をまたいだ辺りに就寝するので、結果としていつもより二時間近く多く寝ているのだ。
「よし。今日も頑張ろう」
軽やかな動作で立ち上がる。そのまま洗面所に向かって洗顔しようと思ったが、顔どころか体も洗っていないことを思い出した。
「シャワー、浴びるか……」
ついでに顔も洗えるのだから大した差はない、と結論付けた唯斗は浴室に向かいながら着ている服を脱いでいく。
唯斗の他に誰もいない故の、一人暮らしならではの特権を遺憾なく行使する。右腕に脱いだ服を抱え、それらを洗濯機に放った。
シャワーの時間はそう長くない。もう季節は立派に冬なのだから、暖かいシャワーを浴びても浴室内が肌寒く感じる温度である。
早々に全身を洗い終えた唯斗はすぐに制服姿を身にまとい、風邪を引かないようしっかりと髪をかわかしていた。
「……こんなもんで大丈夫か」
全身スッキリな唯斗はキッチンに向かい、冷蔵庫を開けると水を取り出す。風呂やドライヤーで出ていった水分を一気に補充したところで、再び冷蔵庫を開けた。
なかには、タッパーで保存している長期間食べられる保存食以外に調理済みの食べ物がなかった。昨日の朝の時点で貯め置きしていた数日分のおかずを食べ終わっていたようだ。
「まあ朝御飯だし、簡単に作れるのでいいかな」
そろそろ少なくなってきた食材を見て、スーパー行かないと……、などと思いながら卵とハムを取り出す。
既に一人暮らしを始めている唯斗だが、いまいち料理に関しては上達が遅かった。それでもインスタント麺やカップ麺で済ませる日が少ないのは、誉めるべき事だろう。
出来上がったのは定番中の定番……目玉焼きと軽く火を通したハムだ。栄養のバランスのために野菜ジュースをコップに注げば、『ザ・朝食』と表現できる見た目の完成だった。
「いただきます」
テレビの電源を入れてニュースに耳を傾けながら、味わうように黙々と食べ続ける。
『昨日、都内のコンビニエンスストアに強盗が現れ、現金六万円を盗む事件が起こりました。犯人は黒い服装、顔をマスクで覆い店員に刃物を突きつけ、金を出すよう指示し、そのまま逃走した模様――現在も逃走中とのことです』
女性アナウンサーが淡々と読み上げるこのニュースに、唯斗は怖いものだな……、と他人事にできない感情を抱いていた。
どのコンビニにもセキュリティや通報の対応がしかれているとはいえ、実際に強盗が刃物を突きつけたら冷静に対応できるのだろうか……。些か不安になる唯斗は顔にある深い引っ掻き傷のような傷跡を指でなぞりながら悲壮な表情を浮かべる。
強盗事件の報道は僅か一分で終わり、天気予報に切り替わった。気象予報士が天気図をまじえて今日の天気の移り変わりを説明している。予報通りにいくならば、今週は天気が崩れる心配はないらしい。
さりげなく外の天気を確認する。雲一つない快晴だ。
最後の一口を大きく頬張った唯斗は、口の中に食べ物を残したまま食器を流し台に置き、飲み込んだ後に野菜ジュースを一気飲みした。
「ぷはあっ」
面倒くさくなる前に洗い物をする彼は水道の水の冷たさに顔をしかめながら手早く作業を進める。お湯が出てくるまでの辛抱だが、水道代も馬鹿にならない。なるべく生活費を節約したい唯斗は手早く洗い物を終えた。
「そろそろ出かけるかな……」
時計を確認した唯斗は自室に戻る。
しばらくして、支度を整えた彼はいつも通り学校へ登校する。
◆ ◆
校門をくぐった唯斗は見知ったクラスメートの後ろ姿のを見つけると、小走りで近づいて肩を叩こうとした。
だが、触るか触らないかの微妙なタイミングで、前を行く少年は振り向きもせず唯斗の手を掴むと、そのまま関節技に移行する。
「おっと」
寸でのところで手を振り払った唯斗。
「肩を叩こうとした程度で関節技なんて、お前はどれだけ背後に気を配ってるんだよ」
「俺の後ろに立つお前が悪い……」
格闘漫画の台詞のような言葉をさらっと言い、振り返る少年。
「おはよ、拓馬」
「おはようさん、唯斗」
彼の名前は東条拓馬。堅い髪質の短髪、キリッとした眉毛が印象的な少年は、端正で勇ましい容姿だが、意外と性格は温厚だ。少し格闘技馬鹿なのが玉に瑕だが。
パン! とハイタッチからお互いの手をがっちりと握り、なかなか放さない。
「どうだ、これから組手でもするか?」
「勘弁してくれよ。朝一番に組手なんて拓馬しかできないって」
「駄目だなー。いつでも戦える準備をしとかないと、いざって時に実力を発揮できない……常に気を張ってなくちゃな」
一体いつの時代の人間なのだか……、と呆れながら苦笑を浮かべる唯斗。
しかし、拓馬の生い立ちと将来の夢を考えれば、納得のいく考え方なのだ。
「そういえば、進路の調査書ってもう書いた?」
教室に向かいがてら、昨日配られた進路調査所の話題を振る唯斗。
昨日はあれのせいでバイトを忘れてしまうくらい悩まされたのだが、拓馬は違った。
「もちろん『警養高校』さ」
「だよね」
『警養高校』とは『警察官養成高等学校』の略称であり、その名の通り将来の警察官を育成するために創られた特別な学校である。
拓馬によれば、体育の時間が多く、警察官になる為の基礎知識や必要不可欠な格闘術を会得する以外は、一般的な高校と変わらず――卒業すれば高卒認定ももらえるらしい。
「いいよな……、将来の夢が決まってて、それに向かって真っすぐ突き進む。拓馬を見てると自分のちっぽけさが身に染みるよ」
言うまでもなく、拓馬の将来の夢は『警察官』。彼の父方の家系は、代々警察官として活躍した名門一家であり、拓馬の父親にいたっては警視総監を務める警視庁のトップなのだ。
そんな家に生まれてきた拓馬は警察官としての英才教育を受け、既に柔道では軽量級で全国二位の成績を誇っている。まさに警察官になるべくして生まれてきた逸材だった。
「そういう唯斗だって、空手で県大会上位に入る腕は持ってるだろう? 宝の持ち腐れだよ」
「全国二位と県大会上位じゃ格が違うって……。俺みたいなのは全国にいくらだっているさ」
「『己の正義に従って、正しい道を歩め』ってのが家訓な俺から言わせてみれば、強さなんて二の次だよ。才能が有る無しに関わらず、俺の夢は昔から警察官だからな」
なんとも頼もしい人間だ。彼が警察官になった暁には、この世から事件が無くなってしまいそうだ、と思えてしまうくらい拓馬の信念は輝かしかった。
(それに比べて俺は……)
自分の情けなさにため息が出る。あれだけ『決意』を固めたはずなのに、まだ決心がついていない。
「はっはっは、悩める少年よ。悩めるだけ幸せだと思うぞ? 世の中には悩みもせず適当に未来を決めていく輩もいる。唯斗はそんなやつらよりよっぽど人間らしいさ」
肩を組んで慰める拓馬。頼もしい上に慰め上手……顔だけでなく性格まで男らしいのだから、男女問わず人気なのも頷ける。現にこうして唯斗も彼の言葉に勇気をもらっていた。
「サンキュー、元気出たよ」
「いつだって相談してくれて構わないさ。親友の頼みを無下にするなんて俺の『正義』が許せないからな」
無邪気に笑う拓馬につられて唯斗も笑みをこぼした。
進路はじっくりと、正しく吟味したうえで決めようと背中を押された唯斗だったが、担任の教師が朝のホームルームから「進路調査書は早めに出すように!」と念を押されたせいで、またもや気落ちしていた。
「……」
漠然と机に置いた進路調査書を見つめながら、シャーペンの芯を出さずに『第一希望』の文字をつついている。
授業の合間の休み時間になってはこうして進路調査所とにらめっこをする唯斗を見たクラスメイトたちが何やら囁いているが、本人は全く気付いていない。
「……ざっくりと『進学』って書けばいいかな」
担任も詳しく書けとは指定していない。だが第一希望に『進学』、第二希望に『就職』では、おそらく職員室に呼び出されるだろう。
「やっぱりちゃんと書こう」
再びにらめっこを始める。
5
放課後――唯斗は進路調査書を片手に下校していた。
「むぅ……」
下校の時間帯なので、制服を着た学生の通行が多い。歩道には少なからず向かい側から歩く人がいるのだが、間接視野で周りを確認しているらしく、ぶつからないようにたびたび歩く場所を変えている。
スルスルと器用に人々の合間を歩く唯斗を不思議に見る通行人も少なくない。
「前に見た高校比較のサイトで絞り込んだのを調べてみるか」
よし、と心のなかで算段を付け、進路調査書を学生カバンにしまう。
やっと……前を見て道を歩く唯斗は、朝に食材が切れていたことを思い出し、行き先を自宅からスーパーマーケットに変えるのだった。
両手にレジ袋を抱えた唯斗が帰宅したのは夕暮れ時だった。
家に入ってまず行ったのは食材を冷蔵庫に詰める作業だ。
「えと……レタスは奥で大丈夫で、もやしは手前に置こう」
スペースをうまく利用しながら買ってきた食材を詰め込んでいく。
「よし、これで数日間は大丈夫だろう」
上手く詰められた達成感を抱いたまま、リビングでノートパソコンを開き、進学する場合の唯斗の希望に合致する高校を絞り込んだサイトを閲覧する。一校ずつホームページを確認しながら自分に見合う学校であるかを吟味し、あくまでネットの知識だが、良し悪しを確認していた。
ひたすらパソコンを凝視した彼の目が乾くのを実感したとき、天井を見上げた唯斗はふと気づいてしまった。
「……あ、ポスト見るの忘れた」
下校時の日課であったポストの確認を忘れていた。それに気づいてしまった唯斗だが、実は忘れてしまうことに関しては珍しいことではない。新聞をとっていない彼のポストに投函されるものは、決まって通信ゼミや新聞などの勧誘の手紙がほとんど……長くても三日に一回の周期で確認する程度でも困りはしないのだ。
見に行くか、否か。
今は高校を比較している大事な時――正直行く必要性はない。見終えてからでも構わなければ、明日見るでも構わないのだ。
しかし、ふと気づいたどうでもいい物事を放り投げられないのが人間の心情だったりする。
「はぁ、見に行くか」
重い腰を上げて、乗り気でない表情のままポストを確認しに行く唯斗。
この時は気付いていない。
階段を下りながら面倒くさそうに向かったポストに、彼の運命を変える一つの書類があることを。
思わしげな終わり方ですが、どんでん返しはありません。元女学院ですよー(笑)
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きっかけ Ⅱ
個人的な事情と言いましょうか……単に体力不足で1日を過ごすだけで精一杯であり、小説の更新は後回し中の後回しになっていました。特にこのオリジナル小説は、単純なプロットを漠然と設定しているだけのものですので、1日1日で考えていることや書きたいことが変わっています。一応頭ではイメージしているので大胆な改変はありませんが、執筆を終えていたとしても、読み返して修正を加えるのはよくあることです。
いつだったか……予約投稿をしようと思い7000字ほど書いて、とりあえずまた後で書き加えようと投稿予約をしたら、なぜか認識されず白紙に戻ってしまいました。あのときは本当に憤りを隠せませんでしたね(笑)
とにかく、私は忘れていませんよ!
こんな意味不明の前置きはさておき、これからもこの作品と私を忘れてもらわないよう、超絶スローペースながら更新を続けていく所存です。待っていたという方も、初めてという方も、だれもが読んでいて共感や関心を抱ける作品を作るべく、日々邁進していきます。これからもどうぞ、文才のかけらもない若輩が書くこの作品に訪れていただければ幸いです。
6
玄関を開けてまず最初に唯斗に襲いかかったのは、容赦ない真冬の冷気だった。夜ということもあり、その寒さは体を刺すような痛みさえ感じる。
「上に一枚羽織るべきだったな。さっさと確認しないと凍死しそうだ」
この短時間でかじかんでしまった両手に息を吹きかけて、彼はマンションの階段で下の階へ進む。二階なのだからエレベーターを使っても大した差はない。一段一段降りながら踊り場に出ると、外の様子を確認する。
「今夜は星が綺麗だな……。冬の大三角とかオリオン座とか、星空観察にはもってこいの日だよきっと」
湿度の少ない冬の空気は、いつもより澄んでいるように感じる。マンションが建ち並ぶ住宅街では星空を見るには少し不便な場所だが、天体観測をするのも一興だろう。夏休みの自由研究で夏の星空を観察することはあっても、冬の星空を観察する児童・生徒は少ないはずだ。かくいう唯斗もその一人である。
「まあ、暇があればやってもいいんだけど……」
星空なんぞ誰がいつ見ようが勝手である。星座が季節や時間によって見える方角や種類が変わってしまうので、実は星空に同じ景色など存在しないのだが、それを気にする人間は相当な星座オタクだ。思い入れのない人間にとって、星空はただの同じ景色でしかない。
「輝く星よりマンションの部屋の電気の方が眩しく感じるあたり、俺は天体観測マニアに向いているとは思えないな」
自虐で締めくくり、外の景色から目を離した唯斗はあくびをしながら階段を下る。下の階に着くと早速ポストを確認した。郵便受けからはみ出たものはなく、ダイヤル式の施錠を開錠してなかを確認した。
「案の定――新聞の勧誘はありますよね。それと電話会社の新しい料金プランの紹介に『中学3年生になるあなたにおすすめの勉強法を!』と銘打ったよくある通信講座のパンフレット……小学生からやったことないのにどうして俺の個人情報が把握されてるんだ?」
どこから彼の個人情報を特定したのかはさておき、いつもと変わらない中身にため息を漏らす少年は、取り忘れていた一通の茶封筒を手にする。宛名にはここの住所と神崎唯斗の文字が印刷されていた。
「ん? 何だこの封筒、送り主が書いてないぞ」
よく分からないが彼宛に届いたのは間違いない。送り主が不明なところに若干以上の不安を感じるが、なかに爆弾などの異物が入っているようには見えない。触っても何も起こらないので危険物ではないだろう。
「とりあえず部屋に戻ってから確認するか。そろそろ寒さで体が震えてきたし、ここにいても仕方ないよな」
取り忘れがないかもう一度確認して、ポストを閉める。ダイヤルを適当に回して施錠されたことを確認すると、来た道を引き返す。
部屋に戻った唯斗は勧誘の手紙を早々にごみ箱へ捨てた。残った差出人不明の茶封筒をテーブルの上に置き、しばらく考え込む。手書きでなく印刷された文字であるということは、個人からではなく何かしらの団体から送られてきたと考えられる。しかし、これといって関わってきた団体もなければ、バイト先であるセブンティからのという可能性も考えにくい。
「店長なら手紙くらい直接俺に手渡しするだろうし、中学関係の手紙は母さんに届くようになってるから関係ない。全然思い当たる節がないんだけど」
目の前の茶封筒とにらめっこを繰り広げる彼だったが、しびれを切らしてなかを確認することにした。はさみで上部を切り、なかに入っている紙を取り出す。B5用紙に書かれていたのは、予想だにしていなかった文字の羅列だった。
――私立桜麗女学院。
「はい?」
聞き覚えのある名前ではあるものの、心当たりが一切見当たらない名前に目を丸くする。目をこすってもう一度見直しても、手紙の最初には『私立桜麗女学院』の文字がくっきりと印刷されていた。
「桜麗女学院ってあれだよね……文字通り女子校だよね? 俺のどこに女子要素があるのか知らないけど、もしかして妹と間違えたのか? いやアイツはまだ中一だし――」
さまざまな可能性を探っても、自分に女子校から手紙をもらう状況を導き出すことができない。
「まあ、最後まで読んでみるか」
いったいどんな経緯で神崎唯斗に私立桜麗女学院が手紙をしたためたのか。一字一句を熟読していくと、唯斗は合点がらしく首を細かく縦に振り続ける。
「なるほど……でもどうして俺が?」
全てを把握した彼だったが、それでも疑問は残っていた。
しかし、これだけは確かである。この手紙が「きっかけ」で、彼の人生が新たな進展を迎える。
◆ ◆
――翌朝、事情を把握した彼は目を覚まして目覚ましを止めても起き上がる気配がない。
「良い眠りにつけなかった……夜中にいろいろと考えすぎたか」
ベッドに横になったまま枕元の茶封筒に手をかける。言うまでもなく私立桜麗女学院からのものだ。夜中も気になっては目を通してをくり返した結果、意味もなく手紙の内容を暗記してしまい、睡眠はまともにとれていない――それだけ彼にとっては驚きの内容だった。
「まだ寝たいけど学校は休めないし、朝食作るか」
眠たい目を擦り、起き上がると背伸びをして気合いを入れる。机に手紙を置いて、自室を出ると廊下を進んでリビングに入ると、冷えきった部屋が唯斗をお出迎えする。エアコンの暖房を稼働させたい衝動を抑えながらキッチンに向かい、電気ポットに水を入れてスイッチを入れた。
「スープの素は……っと」
キッチンの引き出しから数種類のフリーズドライ製品を見比べ、今日の気分を踏まえて選択したのは玉子の中華スープだった。残った白米を冷凍庫から取り出しておもむろに電子レンジに突っ込み、あたためのボタンを押す。
冷蔵庫の中は買い出し直後とあって充実しているが、今日は簡単な食事さえ作ることが面倒に思えている彼は昨日の残り物を取り出してテーブルに置いた。
「さむ……。エアコンつけるか」
耐えられそうにない寒さに負けてリモコンを手にすると、二十度という電気代を考慮した控えめの設定温度で、風量も抑えた設定に変える。
「どうせこの部屋全体を暖めるには時間かかるし、気分だけでも暖かくなればいいよな」
そうは言いながらも、テーブルはエアコンの風を直接受けるように設置されているので、多少の風であろうと温風を受け止める位置に座れば問題ない。体にはよろしくないのだろうが、そんなことも言ってられないだろう。
「最新じゃないけど、カメラで人の位置を察知するタイプのエアコンで本当に良かった」
着席した唯斗はうなだれるようにテーブルに上半身を密着させる。ひやりと伝わる冷たさと、エアコンから放出される暖かい空気の両方が彼の身に伝わっていく。
電子レンジがあたため終了の音を鳴らし、唯斗はもう一度キッチンに向かう。ちゃんと暖まっているかを確認して茶碗に移し替えると、今度は電気ポットが沸騰を終えて動作を止めた。安全のためにつけられたセーフティロックを解除してお湯を注げば、今日の朝食はあらかた完成である。
「おかずも昨日の残りをレンジにかければ良いか」
冷蔵庫からラップで密封された皿を取り出し、そのまま電子レンジに直行。ご飯とスープをテーブルに置き、箸を忘れていたことに気づいて慌てて取りに戻る。ここでようやく寝起きのテンションから解放されたらしく、眠たそうにしていた目もいつもの大きさに戻っていた。テレビをつけてニュース番組にチャンネルを合わせると、まだ終わっていないおかずのあたためを強制終了させて食卓に並べた。
「今日も一日頑張りますか、いただきます」
しっかり手を合わせて食事を始める。
7
教室ではいつものような時間が流れていた。授業になれば全員が黒板を見て板書を写したり、あるいは授業放棄で机に伏したり……。休み時間になれば仲の良いクラスメイト同士で談義を交わして、束の間のリラックスタイムを満喫する。
唯斗も昼休みはクラスメイトと一緒に購買で昼食を買って、屋上前の階段で駄弁ることが多い。今日も拓馬を連れて昼食を摂っていた。
「……にしてもお嬢様学校と名高い桜麗女学院から資料が届くとはな! 入学できればハーレム作り放題とかうらやましすぎるぞ」
「本気で思ってるならその頭かち割るから」
「おお恐い恐い。でも男子禁制と謳われてきた桜麗が男子生徒を受け入れるようになったとなると、少子高齢化の影響って思っているより深刻なんだろうよ」
焼きそばパンを頬張る唯斗と、サンドイッチを食べ終えた拓馬はそんな話をしていた。悩みを打ち明けられる数少ない親友である拓馬に、私立桜麗女学院から入学案内が届いたことを話すと、彼は思いの外驚いた様子はなく親身に受け止めていた。
「この手紙が嘘か本当なのかは今更疑いはしないけど、どう考えても俺が該当者に選ばれるのはおかしいだろう? まずは世間の波を知らないお坊ちゃんたちを入れるべきじゃない?」
「詳しい情報を知らないから俺は何とも言えないが、お前の成績を買われたんじゃないか? 中学一年から中間・期末ともに試験では一位を独占する神崎先生の実力は伊達じゃないってことさ」
「成績じゃなくて財力の話をしてるんだよ。来年から共学にするっていることは、イコールお嬢様たちの親が払うお金では学校運営が赤字になるんじゃないのか?」
「唯斗がそんなことを知って何になるんだ。断るなら無視すれば良いだけの話だろうに、なぜそこまで大げさに反応をする?」
「……」
言われてみればそうだ。いやなら断って良いだけの話に、こうして大仰な態度を取る必要などない。
「唯斗、何で揺らいでいるのかはだいたい想像はつくが、今のお前はお前らしくないぞ」
「……」
「気になるなら納得がいくまでやるのが一番さ。正義のための行いが全て正当化されるとは言わないが、後悔するくらいなら俺は手を汚すことだっていとわない」
「俺は拓馬じゃないんだ……己の正義とか大層な心がけなんて掲げてないし、その心がけが絶対なんて信じ切れないよ」
「はあ……」
拓馬のため息は唯斗に失望して出たものではなく、唯斗がそれっぽい理由で屁理屈にならない程度の言い訳を、自然に吐露していることである。
(本当にヘタレになったなお前は……)
「表情でなんとなく言いたいことは分かるからな」
他人の表情に敏感になったのは、唯斗がセブンティでバイトを始めた頃からだ。接客業は否が応でも相手の目を見ることが多い。右も左も分からない新人の時は、手際の悪さに苛立ちを見せる客や、コピー機の操作が分からず途方に暮れながらもその空気を察しろとばかりに見つめる客が訪れる。接客業はお客様は神様(唯斗からすれば神様そのものではなく神様のように応対すると捉えている)という理念が当たり前なため、常に相手の顔を窺って大まかな感情を推測する特技が備わってしまった。
「分かるなら直すんだなヘタレ小僧」
「今のテンションなら泣けちゃうな……」
否定できない罵倒に目頭が熱くなる唯斗を尻目に、拓馬は立ち上がって階段を下り始めると振り返りざまに、
「ちゃんとした話がしたいなら進路指導の飯岡にでも事情を話せば良いさ。少なくとも俺よりかはまともな返事をしてくれるよ」
「飯岡先生か……あの人苦手なんだよね」
唯斗の顔が分かりやすく歪む。
「苦手も何も、バイト先の店長と比べたら可愛い方だろうに」
「店長は喋り方以外は普通の人だよ。厳しいけど社会人として当然の義務と責任を弁えた大人の鑑だし」
「飯岡だって教師らしい教師じゃないか? 考え方が良い意味で時代遅れって言うか、古風な感じで」
「それが嫌なんだって……。特例でバイトをしているってだけで問題児扱いされてるんだぞ? 通りがかりに挨拶しようとしたって無愛想だし、絶対に嫌われてるよ」
進路指導の飯岡は、彼らの通う中学では有名な頑固教師だ。校長などを含めた教師陣の中でも古株にあたり、飯岡の顔を窺う教師も少なくない。生徒のみならず教師からも煙たがられがちな、お世辞にも好かれるタイプの類いとは言いがたい人間だ。
そして唯斗が飯岡を嫌煙しているのは、彼自身が飯岡から嫌われていることを知っているからである。中学生がコンビニでバイトをしているなど言語道断であり、それを許してしまった学校側に飯岡は最後まで見直しをするよう抗議を続けた。挙げ句の果てには唯斗と個人面談を強制的に行い、放課後から四時間もの時間を掛けても二人の言い分は平行線をたどった。飯岡はついぞ唯斗の意見を理解するには至らずじまいだ。
それからというもの、彼らの関係性は誰が見ても険悪である。飯岡は目も合わせず、教師と生徒の間柄でありながら、挨拶を交わすこともない。互いが互いを嫌っていることを隠そうとしていないと感じ取れるほどに、両者の親愛度は低いのだ。
「正直……飯岡先生が俺を嫌ってるから、俺も嫌いになってるってのが正しいんだよ。親よりも年の離れた教師からの一方的な嫌悪を覆そうとは思わないし」
「それは間違っているぞ」
拓馬は言い訳染みた唯斗の言い分にひと言で釘を刺す。
「自分を嫌いな人間を嫌いになる理由がそこまで適当なら、好感度を取り戻した方が今後の財産になる。あの人は一人一人に親身になれるから喜怒哀楽を抑えず振りまく。唯斗に度を超した怒気や憤慨を見せるのは、唯斗――お前にもな……」
「言いたいことは分かるよ……」
唯斗は若干の不快感を胸に首を縦に振る。拓馬の意見ももっともだ、という理解はあるが、やはり全肯定はできなかった。人には相性がある……誰もが万人と手を携える仲になれるはずがない。一人くらい彼の味方にならない大人がいたところで、本当の意味で唯斗を『止められる』者などいないのだから。
「拓馬の言うことを聞けば、結構な割合でグッドエンディングを迎えられるから今回もそうするけど、面倒なことになったら飯の一杯でも奢ってくれよな」
これは唯斗の拓馬への絶対的な信頼があるからこその選択だろう。他のクラスメイトや知人から同じようなことを言われても、飯岡との対談を良しとしない確率が高い。好きの反対は無関心だとはよく言われるのだが、今の唯斗からすれば無関心ではなく不干渉を貫きたい、だろう。
(飯岡先生と面談か……。直接打診すれば時間を割いてくれるだろうけど、バイトがある日は駄目だし、そうなるとやっぱり)
「おっ、早速スケジュールを確認か?」
「拓馬と違って俺は一日の時間が惜しいんだよ。余裕なんて一秒だってありはしないの」
「何だ俺を暇人と蔑むとは良い度胸をしてるじゃないか神崎先生」
「はいはい全面的に謝罪するからその戦闘態勢を解除してくれ」
某大人気RPGにあるカウンター技の構えで不気味なオーラを発する拓馬に、戦う前から両手を挙げて降参宣言の唯斗――喧嘩を買ったところで返り討ちに遭う想像しかできないからだ――は、取り出した手帳をもう一度確認する。
手帳には相変わらずびっしりと細かな予定が書き連なっている。今週のバイトは週四のペースだ。学校から直帰して素早く着替えてセブンティへ向かう(制服が中学のものだと特定されて問題が起きることを避けるため)ので、バイトのある日は必然的に無理である。だとすると彼の手帳に予定が書かれていないのは今日だった。
「今日って飯岡先生は放課後時間空いてると思う?」
「今日か……飯岡は部活の顧問もしてないし、業務がない限り大丈夫なんじゃないか?」
「なら職員室に寄るか……」
また嫌そうな顔をしているぞ、と拓馬は言いたかったものの、次の授業の予鈴が鳴ったので心にしまうことにする。
「予鈴も鳴ったし教室に戻るぞ。次は世界史だ」
「……ありがとう」
「何言ってんだよ、親友を助けるは当たり前だろ? 俺の正義はいつだってお前の味方さ」
余計なことを話さなくても話したいことを理解してくれる友人は、何ともたくましい存在である。
◆ ◆
「……心と体が相反してるのがはっきりと分かる。中二病とかじゃなくて割と真面目に」
放課後になっても唯斗の心に突っかかったもやもやは拭えなかった。職員室へ向かう彼の足取りは感覚的に重たく、逆走して帰ってしまいたいと何度考えたことだろうか。
しかし、拓馬と約束をしてしまった以上は逃げるわけにはいかない。翌日後ろ指を指される精神攻撃ならまだしも、呆れたい挙げ句に唯斗の指をぽっきりと折ってくる物理的な攻撃が待っている可能性も考えられる。約束ひとつ守れない男など、彼の正義が鉄槌を下すに決まっている。これから待ち受ける拓馬の対応と、会いたくない飯岡との面談を天秤にかけるのならば、飯岡との面談の方が比重は軽い。
「まあ、こんな自問自答している時点で少し痛い子だと間違われそうなんだけど」
職員室まで目と鼻の先ほどの距離になった。少なからず教師たちの出入りがあるなかで、スライド式のドアをノックする。誰の反応があるわけでもなく形式的なものとして行ったノックから一秒も経たずスライドした。
「失礼します、2年の神崎唯斗です。進路指導の飯岡先生はいらっしゃいますでしょうか?」
教師陣の視線が飯岡のデスクへ向けられる。視線の先にはパソコンに向き合い業務を続ける飯岡の姿があった。飯岡に唯斗の声が届いていなかったのか反応はないが、周りの教師の顔を窺って職員室に入室すると、彼は飯岡の後ろで姿勢を正した。
「飯岡先生、突然なのですがこれからお時間をいただいてもよろしいでしょうか? 進路のことで相談したいことがありまして……」
「……」
飯岡がゆっくりと唯斗の方を向き、座ったまま唯斗を見上げる。
「……何の用で?」
ここで用件を聞き直したのは、飯岡の耳が遠いからではない。それは唯斗も察している。飯岡が言いたいのは「中学生の分際でアルバイトをする」神崎唯斗がなぜ私の後ろに立っているのか、だった。
「私だけでは判断しかねる事案が起きてしまったので、飯岡先生に直接伺って助言をいただきたく、今こうしている次第です。進路指導室も空いているようですので、先生の都合が合うのでしたらこれからお時間をいただきたく来ました」
飯岡が言いたい隠された意味を理解しつつ、唯斗は先ほどよりも丁寧な説明を述べた。
「アポイントメントを取るのは正しい手順だが、今日これからというのは非常識だとは思わないか?」
「それは自覚しています。私も後日と言いたいところなのですが、生憎と予定で埋まっているうえに、あまり日数を引き延ばせるほど呑気な事案でもありません。ゆえに失礼を承知で伺っています」
唯斗の目は飯岡を中心に捉えて凜々しく見据えている。飯岡も同様に唯斗を見つめていたが、目をそらすと彼に背を向けた。
「神崎……私は君のそういうところが嫌いなのだよ」
「え……」
この発言に唯斗だけでなく教師陣も虚を突かれ、問題発言なのではないかと焦り出す者が心配そうに彼らを見つめている。
「君は社会に出たおかげで、現代の中学生にしては目上の人間に対する言葉遣いを弁えている。それは今後大きく役立つだろう。だが聞いている身からすればあまりにも痛々しい……子どもらしさが欠如して薄気味悪いんだ」
教師陣からのどよめきが大きくなっていく。教頭に至っては次の発言次第で止めに入るために動き出しそうな体勢をとっている。
「前に面談をしたときもそうだ。君は意見を述べる際に必要以上に年上である私を説き伏せようと躍起になっている。表情や言葉の一丁前さで錯覚させようとしても、この年になれば演技にしか感じない……君の本心をまったく感じない」
少しだが、唯斗のなかで怒りに似た不快感がにじみ出てくる。
「では私はどうすれば良いのですか? 生徒が教師に対して不遜な態度をとるべきではありません。とりわけこの学校を長年見守り、多くの生徒を育ててきた飯岡先生です……このようになるのは当然だと思いますが……ッ」
「当然ことを当たり前にやる年齢ではないのだ。十代の半ばを迎えた程度の小童が、五十を超えた私と対等な立場に立とうとする時点で間違っている」
ため息をついた飯岡の雰囲気が変わる。今までの敵対心が嘘のようになり、人を諭す教師の貫禄が唯斗を包み込みだした。
「私とて君の事情を知らないわけではない……私の方から一方的に面談をして口論もしただろう? アルバイトをすることに関しては賛成はしかねるが、君の演技から大体は推測できる」
(飯岡先生が……?)
唯斗の動揺が見開いた目に表れる。彼は親しき仲――さらに言えば特別なまでに信頼関係を築いている――にしかきちんとした説明をしていない。アルバイトの許可を申請するにあたって、例外として校長には本音を曝けださざるを得なかったが、担任にも(もちろん飯岡にも)素振りさえ見せずにいたつもりだった。
「だから君の態度は演技にしか見えないと言っているだろう。私を騙したいのならもっと迫真さを捨てなさい。君の本音を垣間見せながら核心を見抜かれないように計算しなさい。隠し続けるだけでは隠し事が浮き彫りになる」
「……先生」
飯岡は立ち上がり、唯斗の肩を掴むと顔を同じ高さに合わせる。
「神崎唯斗、あまり他人をなめるんじゃないぞ。君が思っている以上に人間というのは賢い動物だ――自分の蛮行を、ふざけた真似を『完璧』にこなしたいのならもっと頭を使え。私が君にあからさまな敵対心を向けることで隠し事を秘密裏に調べる単純な演技さえ見抜けない程度では、君の思うようにはいかないぞ」
「……」
この時初めて、唯斗は自分の小ささを気づかされた。本当の意味で自分がまだまだであると実感させられた。
「進路を相談したくここに来たのだったな……良いだろう。進路でもこれからのことでも何でも相談すると良い。私にできる精一杯で、君の本心に応えよう」
優しく肩を叩いた飯岡は職員室を出て進路指導室へ向かう。職員室にいる全員がその姿を呆然と見ることしたできなかった。唯斗に至っては相当に心へ響いたらしく、その場に立ち尽くし涙を流す始末だ。この日から飯岡へ抱いていた印象は大きく変わり、後に恩師と呼ぶまでに彼らの関係は切っても切り離せないものとなる。
◆ ◆
進路指導室で机を挟み向かい合う飯岡と唯斗。澄まし顔の飯岡とは違い、唯斗は未だに目に涙を浮かべている。時たま嗚咽をしている状態なため、面談どころか会話すらままならない。飯岡がため息を漏らすのも無理はなかった。
「何を泣いている、これではまともに話もできないではないか」
「うぅ、すみません。こういう経験がない……もので」
「化けの皮が剥がれればここまで脆くなるとなると、これからが心配になってくる。社会に出てもこの癖が直らないようでは先が思いやられるぞ」
飯岡の言葉によって唯斗の体が縮んでいくように萎縮していく。ライフポイントがジワジワ削られる様子を目の前で見せられている飯岡も、これ以上面談と関係ない会話を続ける気は失せていた。
「そろそろ本題に入ろう神崎君。何を相談したいのかな?」
「はい。実は……自宅にこの封筒が届きまして」
鼻をすすり息を整えながらいつもの彼に戻ると、学生カバンから『私立桜麗女学院』から届いた封筒を飯岡に差し出す。
「読んでも構わないか?」
「お願いします」
唯斗の了承を得た飯岡は三つ折りの用紙を広げると、一行一行を隈なく黙読していく。唯斗の頼みが真剣であるため、飯岡もいつもより慎重になっていた。
「『私立桜麗女学院』における共学化が試験導入――それにあたって試験生を選出する試験の実施。しかし推薦入学の生徒においては今回のみ本校の独断で生徒を選出する」
気になった文章は声に出して読み直し、全容を飯岡なりに把握していく。読み終えて封筒を返した後も、じっくりと考えるように腕を組んで、しばらく目を閉じていた。
「先生、どう思いますか?」
「どう思うかというと、手紙そのものが詐欺――偽物ではないかという根本的な問題だろうか?」
「その通りです」
「桜麗女学院が共学化するという情報は、間違いではない。学校側から全国各地の中学校に書面での通達が届いている」
「経緯などは記されていませんでしたか?」
「記されていなかった。情報量は君に届いた手紙とさほど変わりない……ただ、ひとつだけ違う要項があった」
「違う要項、と言いますと?」
立ち上がった飯岡は進路指導室内の棚からファイルを取り出し、ページをめくって学校に送られてきた桜麗女学院の通知書を開いた。
「生徒に見せるものではないが、今回ばかりは致し方ない」
そこには表紙に透かしで『生徒閲覧禁止』と書かれている桜麗女学院側からの書類が封入されていた。
「生徒閲覧禁止なのは情報が漏洩して混乱が生じるのを避けるためであって、見られて損失を被るような文章はさほどない。遠慮せず読むと良い」
手渡しされた書類を、閲覧禁止と分かっていながらも申し訳なさを胸に目を通していく。飯岡の言ったとおり、項目に対する情報量はこちらの方が上なものの、大した差はない。唯斗に届いたものは生徒用に見やすい設計にしているのだろう。
そして、あるページで彼の手が止まる。これが飯岡が指摘したこの資料にしか記されていない要項だ。声に出すことがはばかられる内容でもないが、唯斗は紙に穴が空いてしまいそうな眼差しで一字一句を黙読していた。
「なるほど……そういうことでしたか」
何かを理解した唯斗は書類を飯岡に返す。
「そういうことだ。どうだ、心境に変化はあったか?」
「色々と納得いくことは増えました。ですが自分が選ばれた理由についてはやはり……」
「確かにそれはもっともな疑問だろう。先方が一方的に選んでいるとは言うものの、だとすれば君も気づいているだろう? 全国の男子中学生の情報が集められているのではないか、と」
「……はい」
飯岡も当然のように話しているとはいえ、全国の中学生の学力などの個人情報が独自のルートで集められているのはグレーな香りを感じるだろう。唯斗も漠然とした妄想でしかないが、法律の穴をついた方法(……最悪の場合は法を逸脱する方法)で個人情報が見られているのではないかという恐怖を感じていた。
「だがそこまで心配する必要はない。現桜麗女学院の理事長は全国の学校関係者はおろか日本社会でも有名な人物なのだから、その程度の情報など指を振るだけで勝手に集まってくるだろう」
「そこまで凄い人物なのですか?」
「まあ自分で調べるといい……。只者ではないぞ、とだけ言っておこう」
「分かりました」
これまで唯斗の心に引っかかっていた疑問は晴れつつある。飯岡の言った通りにしていれば、進路も上々の路線に乗ることができると確信していた。ならば聞いておかなければならないだろう。
「先生、桜麗女学院は進路先のひとつとして考慮しておくべきでしょうか?」
「……それは君自身が決めることだが、私から言わせてもらえば答えはYesだろう。設備は文句のつけようがなく、自主性と自己責任を重んじる校風は進学や就職に強いと有名だ」
「共学化するにあたって、男子に雰囲気的なデメリットを被る可能性があったとしてもですか? それが一番支障をきたす気がしてならないんです」
「試験導入とはいえ、校則を見直して男子に不利益が発生しないような修正を加えるはず。学校生活での雰囲気的な問題については、実際に生じてから対処するのが最も効果的と思うが……」
(共学化の導入と言わずに『試験』導入とするのは、その予防線か)
些細な問題から大仰しい問題まで、迅速な対応をしますが問題発生は予防できかねますと規定しておけば、責任を当事者と分配することができる。お試し期間と銘打てば、学校側の責任はさらに小さくなり――責任逃れができないのは当然だが――面子も保たれるのだろう。
「君はおそらく公立の進学校を第一志望としているだろうが、桜麗女学院を第一志望にしたとしても痛手はそれほどないだろう。公表されている偏差値は中の上ほどだが、国内外でも指折りの頭脳の持ち主と呼ばれる才女を毎年のように世の中に輩出している。滑り止めで受けるのもひとつの手だ」
「滑り止めですか……」
明らかに曇る表情を飯岡は見逃さない。極力自分の力で通うと決めた唯斗からすれば、私立高校は入学費に加えた諸費用が公立と比べて段違いであるなど分かりきっている。少なからず唯斗の身辺調査をしている飯岡からしても、この提案を鵜呑みにするとは考えられなかった。
「あくまでも老害の意見に過ぎない。気にとめるようなら忘れて構わないさ」
「いえ、とても参考になりました。先生のお話を聞いて桜麗に興味が湧きましたし、進路を絞ることだけを考えていた自分を見つめ直す良い機会になったのは事実です」
「そう言ってくれれば良いのだがな。……さてこのままもう少し話を続けたいものだが、片付けなければならない仕事がある。今日の面談はこのあたりで終わりとしよう」
「本日は貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございましたっ……」
書類を棚に戻した飯岡は悠々とした姿で進路指導室を出て行く。唯斗は深々と頭を下げて、しばらくの間その姿勢のままで静止していた。
8
――後日、拓馬に飯岡との面談の話をすると、彼は面白そうに笑みを作り誇らしげな態度をとった。拓馬いわく、やはり俺の目は間違いない……自分の正義に狂いはなかった、らしい。確かに彼のおかげで唯斗は思いもしなかった収穫を得ている。訳の分からなかった桜麗女学院からの通達の意味も把握でき、唯斗自身を成長させるうえで必要な『何か』を見出すことができた(それも良い意味で)のがとても大きい。
「それにしても、職員室で人目も気にせず号泣するとはな……。そのシーンをカメラに残したかったよ」
「くっ」
紛れもない事実に反論の余地がなく、毒づくこともできない。仮にデータに残されていたならば、一生ネタとして貴重な取り扱いを受けたことだろう。
「……今回の件に関しては感謝しかない。ありがとう拓馬」
「そのお返しは将来にとっておくさ。もちろん倍返し以上で、だが」
いたずらに笑う拓馬は強めに唯斗の背中を叩く。突然の衝撃に変な声を漏らした唯斗だったが、彼も同じように笑っていた。
本当にお待たせいたしました、とお詫びを申し上げます。こんな体たらくでは小説家などなれそうにありませんが、私自身はまだ趣味の範囲であり、職業として志していた数年前よりかは欲や意気込みが沈んでいるのは事実であります。やはり現実とは厳しいものですね(笑)。
これでプロローグが終わるかのように思えますが、残念ながら入学までは数話挟むこととなります。途中の経過を省いて入学式――というのも良いのですが、もう少し主人公の人となりを固めておきたく(読者の皆さんも、そして私自身も)もう少しだけ序章に付き合っていただきたく思います。なぜここまで長くなるかといいますと、おこがましいですが単行本を意識しているからです。台詞と地の文、その質と量を自分の限界まで引き出すことで作品として輝いたものができると信じて、亀の行進並みに遅くなったとしても地道に進めていく次第であり、途中で投げ出すことなく心の片隅に常時保管していきたいです。
次のお話ではついに名前から女が抜ける予定である桜麗女学院の一部を露見することとなるでしょう。月日は流れ受験生として、神崎唯斗の始まらない物語の前章が終結に向かって動き出し、やがて本編へとつながっていくその時まで――そしてその後も皆さんにお届けできるよう努力します。
長々と言い訳をしているのも自意識過剰ですので、ここであとがきも終わりとしましょう。では次話で……。
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