雷獣様の兄~半妖主人公がチーレムを作る世界で悪役な弟の破滅フラグを潰してますが、いつの間にか俺がモテモテになってる件について~ (斑田猫蔵)
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目が覚めたら尻尾が生えたイケメンに連行された
暗い。あと全身が寝違えたみたいに痛い。確かに俺は仕事帰りに家で宅飲みしていた。蜂蜜みたいな色合いと喉越しの変わったお酒だったから、少し酒が進んだという自覚もあるにはある。度の強い酒を飲んで悪酔いしたのだろうか。しかし何か様子がおかしい。
重い足を動かす。ざり、という微かな金属音が聞こえてきた。暗すぎて何も見えないけれど、聴覚がとても良くなっている気がする。それで俺は気付いてしまった。
――え、ちょ……何で俺鎖で繋がれたりしてるの? 拉致されてんの? ヤバいんじゃないの? いや、俺普通のサラリーマンだったよ……?
考えを巡らせているとふいに頭が痛くなってきた。片頭痛よりももっとひどい奴だ。そりゃそうだろうな。こちとら酒が進んで二日酔いも起きているかもしれない身だし。しかし二日酔いとも何かが違う。白昼夢のような――走馬灯のような感じで頭の中で何かがぐるぐると渦巻いている。俺が知っている今までの記憶と、俺が見た事のない記憶とがごっちゃになる感覚だ。
――なんだ、何が起きている?
そのような疑問を抱く暇はなかった。頭痛と鎖に繋がれているという状況に加え、唐突に外が明るくなったのだ。壁の一角が吹き飛ばされるという暴力的な方法で。唐突な爆発に俺は驚き、半ば本能的に身を丸める他なかった。しかし幸いな事に何かがぶつかってきたとか、そういう事はない。強いて言うならば、俺を縛っていた忌々しい鎖が断ち切られた事くらいだろうか。鎖が切れた瞬間は見ていない。しかし音と感覚でその事が解った。
「大丈夫か。俺の可愛い甥っ子よ」
甥っ子。俺をそう呼ぶのは若い男だった。灰褐色の髪は光の加減で暗い銀色に輝き、瞳は明るいブラウンだった。ついでに言えば長身のイケメンでもある。俺はそのイケメンを前にして首をかしげて様子を見るのがやっとだった。二十歳前、下手をすれば高校生くらいに見える男に甥っ子呼ばわりされるような筋合いはない。
もう一つの記憶の、彼に対する反応も薄い。いや反応してはいるのだろうけれど、戸惑いの色が濃い感じだった。
「かわいそうに……こんな所にこんな事をされて閉じ込められてたら、そりゃあ怖いよな」
イケメンは物憂げにそう言って俺に近付いてきた。明るくなった視界の中で、俺はおのれの状況をうっすらと知る事になった。イケメンは巨漢だった……いや、俺の視線が低く、体格もかなり小さくなっているだけだろう。俺の手は小さく、幼子のそれだったのだ。
イケメンが近づくにつれ、胸の鼓動が早まるのを感じる。右足首に巻き付いたちぎれた鎖はまだ良い。俺はここで珍妙な物を発見したのだ。動物の尻尾のような物だ。金褐色の毛に覆われたそれは、見た感じ猫の尻尾に似ていた。三、四本はあるがマトモな状態なのは一本だけだ。あとは半分ほどの長さで断ち切られ、或いは皮ごと毛を引きはがされた形になっている。
それを見た途端、俺は尻尾の痛みを思い出した――痛みを思い出す? これもおかしな話だ。俺は人間だから、尻尾などありはしないのに。だからこれは俺とは無関係なものだ。
そう思って綺麗な尻尾を触ったが、それこそ電流で弾かれたような衝撃を感じて無様にのけぞった。痛みはない。しかし尻尾にも触ったという感触が伝わったのだ。まさしくそれは俺の身体の一部だった。
「落ち着くんだ疾風。そんなに尻尾に触るんじゃないよ。神経がいっぱいあるんだから」
イケメンはそう言って屈みこんだ。その彼の背後にもぞろりと尻尾が生えている。尻尾。こいつも人間じゃあないのか? いやそもそも俺は何者なんだ?
――僕は疾風。雷園寺疾風。雷園寺家の幽閉されていた長男だ。
疑問に応じるかのように、もう一つの記憶から答えがはじき出される。ライオンジハヤテという名が、どのような漢字で構成されているかもはっきりと解った。
見覚えのない名前の筈なのに、何処かで聞いた事がある。そんな名前であるように俺は感じた。
さぁ行こうか。気付けば俺はイケメンに抱え上げられていた。抵抗する間もなかったし、彼の動きは優しくも力強い物だったので、身をゆだねるのも悪くないと思っていた。
視界が高くなった事で、嫌でも色々な物が見えてくる。俺の脚は、身体全体は情けないほどに瘦せ衰えていた。元々そんなに肥っている訳ではないけれど、中肉中背だったはずなのだが。
愛おしげに俺を抱え上げるイケメンの足許に、一人の幼子がまとわりついている。見た所五、六歳くらいだろうか。イケメンや俺と同じく尻尾が生えている。全体的に銀白色だが、所々黄金色に輝く二尾だ。その幼子がイケメンの血縁者である事は、その顔を見れば明らかだ。まだまだ幼さあどけなさが残っているが、目許や鼻筋の通り具合はイケメンによく似ている。幼子は明るい銀髪で翠色の瞳の持ち主だった。
俺は心がざわつくのを感じ、思わずイケメンに縋りつく。この幼子の事を知っている。俺の記憶が喚き散らしていたのだ。いやまさか――そんな事があるとは。
「ごめんな雪羽。後でお前も抱っこしてやるから。少しだけ辛抱してくれるかな。疾風兄ちゃんは弱り切っていて、自力では歩けないんだから」
ああ、このイケメンはやはり雷獣の三國で、幼子は雷園寺雪羽なのだ。俺は確信するほかなかった。
そうだ。俺は「九尾の子孫、最強を目指すってよ」の世界に転生したのだ。三國も雷園寺雪羽もその作品に登場しているのだから。特に雪羽は主人公のライバル、途中からは闇堕ちした悪役として登場していたではないか。
その兄に転生した、しかも雪羽と共に三國に引き取られるとはどういう事なのだろうか。俺もまた、弟共々破滅の道をたどるのか――あれこれ考えているうちに、俺の視界は真っ暗になり、また意識を手放してしまった。
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雷園寺雪羽が弟? マジか!?
※
さてここで「九尾の子孫、最強を目指すってよ」について説明しよう。名前の通り、九尾の血を引く半妖の主人公が、最強を目指して活躍する妖怪もののアニメだった。ダンジョンが登場する現代ファンタジーや異世界ものが多い中で、この作品は妖怪が登場する事以外は現代に即した世界観というのも、一周回って新鮮だと評価されていた気もする。もちろん、主人公の活躍っぷりと、魅力的なヒロインとのやり取りも目玉だったのだけど。
九尾の力で無双し、ヒロインたちを獲得する主人公・島崎源吾郎に立ちはだかるのが雷園寺雪羽という雷獣の少年だった。その名の通り雷園寺家の御曹司にして長男であり、雷園寺家である事を笠に着る厭味で好色なキャラである。
しかし実際には当主だった母親の死をきっかけに、叔父である三國に引き取られて育つ。雷園寺家について思う所があった三國は彼を甘やかして育ててしまい……それにより増長して歪んだ性格になってしまった事が示唆されていた。
色々あって主人公と同じ職場で働く事になったが、九尾の力を持つ主人公に対してやがて強い嫉妬心を抱くようになり……そこを黒幕に突かれてしまうのだ。序盤は単に厭味なライバルだったのが、闇堕ちして救いようのない屑な悪役として立ちはだかるという役回りだ。
ライバルが闇堕ちした屑な悪役。この末路は決まっている。悲惨な死だ。アニメでは雪羽は主人公からも見限られ黒幕からも棄てられて死ぬという末路を迎えている。最期まで主人公を羨みながら。
アニメでは雪羽には弟妹がいる事は示唆されていたが、兄がいるという話は無い。だから雷園寺疾風というのはオリジナルキャラなのだろう。オリジナルキャラであれば破滅する可能性は低いのか? しかしそう断言するのは早計という物だ。アニメでの雪羽は取り巻きを従えていたが、その中に雷園寺家にいる筈の弟の一人がいたという話もある。その弟がどうなったかは定かではないが、雪羽の兄として転生したという事は彼の弟のような状況になる事は珍しくなかろう。
そうなれば、アニメの知識がある俺が兄として雪羽を導けば良いのだろう。そもそも俺が存在するという点から既にアニメから乖離している。であれば、俺の動きでアニメの流れを変える事は可能なのではないか?
ただ惜しむらくは、前世の記憶が蘇ったタイミングの悪さだ。こうして転生するのであれば、せめて雪羽の、俺たちの母が死ぬ前であれば一層良かったのかもしれない。雪羽の性格は叔父の態度によって形成されたものであるが、大本を辿れば母親の士が大きいのだから。それに原作で死ぬはずだった雪羽の母を助けるという実績を作れば、それこそ原作の流れを変える事が出来るという証左になったはずではないか。
だが過ぎた事をあれこれと考えなくても良いだろう。今はとりあえず、第二の生を謳歌し、今後の対策を練る事が先決である。
※
「九尾の子孫、最強を目指すってよ」:二〇二×年に放映された深夜アニメの一つ。原作は小説である「九尾の末裔なので最強を目指します」である。
九尾の血を引く青年・島崎源吾郎が最強とハーレム構築を目指して活躍する妖怪ファンタジーである事は両作とも共通であるが、小説版・アニメ版では展開やキャラクターの性格に
アニメ版が幾つもの改変が見られるのは、書籍版の内容がタイトルに反し複雑である事、若者向けではないと判断された為であるとされている。アニメ版に関しては「主人公がスカッと活躍し、解かりやすい悪役が断罪される所が爽快である」と評される一方、「原作にあった複雑な心理描写や丹念な伏線の回収が全て台無しになっている」といった意見も存在する。そもそも書籍版の方は主人公の奮闘に重きが置かれ、無双やハーレムと言った要素はかなり薄いという側面すらあるのだ。
アニメで主人公と対立し敗北するという流れは、明らかにアニメで付け加えられた改変の一つに過ぎないのだ。
しかし、アニメと書籍の乖離が大きすぎるためか、アニメ勢は書籍版の内容を知らない事が多いのも実情である。
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もしかして、俺が転生者ってバレちゃうかな
「兄さまっ! 兄さまって本当に強いんだねっ!」
初夏の昼下がり。俺たちは家の庭で遊んでいた。遊びというよりも所謂戦闘訓練に似た物だろう。妖怪としての力がどれほどのものか。俺も試すのに丁度良かった。
弟の雪羽は力が及ばなかったのか兄に対して遠慮していたのか負けてしまったが、悔しそうな気配はない。むしろ白い小型犬のようにはしゃぎ、兄である俺に飛びついてくるところである。
「ふふ、まぁな。兄の方が弟よりも偉くて強いんだからな」
年相応になるように言ってやると、雪羽がぎゅうと俺を抱きしめる。ポップコーンみたいな体臭を俺は強く感じた。
「でも良かったよ兄さま。暗くて怖い所に閉じ込められてうんと弱ってたけど、元気になって、僕よりも強くて立派になったんだから……」
俺を見つめる雪羽の、翠の瞳はすでにうるんでいた。実に素直で、兄思いで可愛らしい男の子だ。原作での彼の幼少期は定かではないが、これは良い流れなのだろうと思った。兄を慕っているとなれば、兄である俺の言う事も聞くようになるだろう。そうなれば雪羽がヤンチャしそうになった時にそれとなく指摘してやればいいのだ。
そもそも雪羽が罰を受けるのは、彼が女遊びに励み酒癖も悪いからに他ならない。悪い遊びに近付かないようにして過ごせば、雪羽の身も安泰であろう。
俺の、雷園寺疾風の肉体は思っていたよりも優れていた。それはこのままならない世界の中で僥倖ともいえる。三國叔父さんに引き取られた時は確かに衰弱していた。しかし三國さん夫婦――三國叔父さんは俺たちを引き取ってからガールフレンドの月華さんと正式に結婚したのだ――や三國さんの部下たちの世話のお陰で回復し、ついで雪羽以上の妖力を宿す妖怪になっていたのだ。
確かに俺自身も、伏せがちだったのがどんどん元気になっていくのは感じた。三國叔父さんに連れてこられた時には寝てばかりで少し動くだけでも疲れたものだ。しかし今は、弟の雪羽と激しくじゃれ合っても疲れない。むしろ動けば動くほど気力が満ち満ちてくる気さえした。
ちなみに病弱だった初期状態から元気そのものな今に至るまで二、三年の歳月を要した。妖怪の子供が回復しきるまでにかかる時間として長いのか短いのかは俺にはまだ解らない。しかし体感的には二、三か月程度に思えたのは考察すべき事柄である。
要するにこの世界では妖怪は長命だから、時間の感覚も人間様とは違うという事なのだろう。そう言えば原作の雪羽も登場時は生後四十年から四十五年程度だという事が示唆されていた。そこまで生きてもまだ子供なのだ。そう考えると妖怪というのは人間様とは違い過ぎる。言うて俺もその妖怪の感覚に慣れ始めているのかもしれないけれど。
妖怪に慣れると言えば、雷獣の食事にも馴染んできた。馴染むと言っても大した事はない。人間の食事に近いからだ。強いて言うなら人間よりも果物とか野菜とか木の実とかトウモロコシが多いってところだろうか。お肉も食べるけれど、雪羽も好きだけどあんまり食べ過ぎると胸やけがしちゃうのがネックだ。
ともあれ妖怪らしく血生臭い料理を口にしないといけないのかと身構えていたので、その辺りは有難かった。妖怪として生を享けていると言っても、どうにも人間としての意識がまだ残っている。血の滴る生肉とか、それこそ人間を喰わないといけないとかって事だとどうしようかと思っていたのだ。
むしろどちらかというと、人間よりも肉々しくない食事だと言えるくらいだろうか。
※
俺こと雷園寺疾風と雪羽の日々は穏やかに過ぎていった。流石にまだ子供なのに重役として職場に連れていかれる事には驚いたが、それも最初のうちだった。
雪羽は三國叔父さんが引き取って間がない頃から職場に連れてきて役職を付けていたというエピソードも俺は知っていた。いち視聴者としてその話を見た時には「何で子供なんかにそんな事を……?」と思いはした。しかし当事者(?)になってみると三國叔父さんのやった事も何となく理解できた。
雪羽を職場に連れてきていたのは、仕事の間も自分たちで面倒を見れるようにと思っての事だったらしい。妖怪の子供が学校に通うのかどうか、俺はよく知らない。だけど俺と雪羽に関しては学校みたいな教育機関には通っていない。戦闘などの指導は三國叔父さんが直々に手ほどきし、後の勉強は妻の月華さんや、側近である春嵐さんがやってくれている。だからまぁ、学校に行かなくてもそんなに困りはしないけれど。
ただ、疾風様、雪羽様、と大人妖怪から敬われながら仕事をするのは何となくむず痒い感じがした。俺も雪羽も、そんなに大した仕事はやってないのに。
それにしても……机一台分はありそうな巨大な機械を前に、俺は一息ついた。今は原作開始から大体三十年ほど前、つまり昭和の時代だ。原作知識とかがあるから楽勝だろうと思っていたがそんな事は無かった。妖怪が長命という設定のせいで、前世の俺が知らない時代を生きなければならないという事態に陥ったのだ。平成初期の九十年代生まれの俺にしてみれば、昭和の機器や道具は過去の遺物なのだ。
ちなみに机ほどの大きさのこの機械はマイクロコンピュータという。机ほども大きいのにマイクロとは何ぞやと言いたくなるが、この時代のコンピュータは部屋ほどの大きさのブツも珍しくないので致し方ない。要はパソコンのご先祖様だ。というかこの時代にはパソコンという言葉もないし。
だから俺が、うっかりパソコンと言ってしまうと雪羽や春嵐さんが不思議そうな表情をするのだ。
「兄様。これってパソコンじゃなくてマイコンでしょ? パソコンって何?」
「このマイコンがもっと小さくなったらパソコンになるんだ。きっと未来には登場するよ。パソコンだけじゃなくて、持ち歩ける電話とかもね」
「そうなんだ、そうなんだ。兄様。面白い話をありがとう」
雪羽は俺の説明を聞いて無邪気に喜んでいる。多分空想の話だと流してくれるだろう。雪羽はちょっと繊細だけど、割と単純な性格の持ち主でもある。何故俺が未来の事を予見できるのか、そんな事は気にしていないみたいだ。
俺は転生者だけど、もちろん転生者であるという事は伏せている。言った所で良い印象は無いだろうしメリットもない。他に転生者がいるのかどうかは解らないが、少なくともまだ出会った試しもない。
「疾風お坊ちゃまは、色々と面白い事を仰りますよね」
そう言って近づいてきたのは春嵐さんだった。風生獣とかいう不死身の妖怪らしいんだけど、闘っている所は見た事はない。むしろとても頭が良くて冷静で、参謀として三國叔父さんを支えてくれている。
えへへ、と子供っぽく笑ったが、春嵐さんはめをすがめつつ呟いた。
「想像力も豊かですし落ち着きのあるお坊ちゃまだと思うのですが、時々私どもが
「そ、そんな……」
春嵐さんは、一体どんな気持ちでその言葉を言ったのだろう? 俺には解らなかったけど、心臓をわしづかみにされたような衝撃を抱いたのは事実だ。俺の秘密を暴こうとしているのではないか。それこそ俺は断罪されるのではないか。そんな気がしたのだ。
そう思っていると、春嵐さんは俺を見ながら優しく微笑んだ。
「良いんですよお坊ちゃま。私たち妖怪の中には、未来を見通す者も珍しくありませんから。それに疾風お坊ちゃまが、その力を悪用するとは思えませんし……」
春嵐さんの言葉に、俺ははにかんだような笑みを浮かべて応じた。特に大げさな事を言われたわけではない。だけど俺は俺で良いんだと言われた気分だった。
そう言う事があったから、俺はきっと油断しきっていたのだ。
マイコン(マイコンピューター)の解説に関してはフワッとしてしまい申し訳ありません。
筆者も初めて触ったPCは「ウィン〇ウズ95」なので。
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ラスボスはやっぱりラスボスだった(白目)
それは長雨の降る日曜日の事だった。俺も雪羽も元気いっぱいだから、日曜日だったら大体何処かへ遊びに行くんだけど、そんな遊びに行きたい気持ちを削ぎ落すような土砂降りが朝から続いていた。
だから俺たちは家にいて、三國叔父さんや月華さん、他の部下の妖怪たちもそんな俺たちに付き合ってくれていた。遊びたい盛りの雪羽の遊び相手になったり、本とか漫画を読みたいという俺に読み物――但し子供向け・少年向けだけど――を用意してくれたりとまぁそんな感じだ。
ちなみに雪羽はもう既に雷園寺家の次期当主を目指していた。そこは原作通りだった。三國叔父さんが渋い顔をしていた気もするけれど、その辺りはまぁ脇に置いておこう。
自分が当主になって、向こうに置いてきた弟妹たちと一緒に明るく楽しい雷園寺家を作りたい。雪羽は臆せずみんなにそう言っていた。この世界では厭味なライバルであり闇堕ちした悪役だという事だけど、なかなかどうして真っすぐな動機ではないか。
ちなみに次男である雪羽が長男である俺を差し置いて当主を目指すという事については何の問題もなかった。妖怪たちも長男や長女が当主になる事が多いらしいが、それ以上に力のある者や意欲のある者の方が優先されるらしい。そもそも俺は、雷園寺家の当主などという物に興味はないし。
元より俺はイレギュラーとして産まれた身。雪羽の隣で彼の動きをコントロールし、安寧に生きる事が出来ればそれで良かった。
※
お手洗いから戻ろうとした俺は、頭の中がくらくらするのを感じた。何かの術――結界術とか転移術とか空間系の術に巻き込まれたらしい。雷獣特有の症状だ。この世界の雷獣は電流で物の位置を把握しているから、こうした術にも敏感に反応してしまう。
それはさておき何事だろうと俺は警戒した。当たり前の事だ。我が家にいてこんな術を使われるなんて。誰か侵入してきたんだろうか。
「こんにちは、可愛い可愛い
ひょうひょうとした声音で呼びかけるそいつを見て、俺は驚きと恐怖で身がすくんでしまった。
それは仕立ての良いワイシャツとスラックス姿の青年だった。品の良さそうな見た目もさることながら、首許を飾る小鳥の頭の七つの飾りが印象的である。
美しくも禍々しい気配を漂わせるこの青年。彼こそがこの世界でのラスボスである八頭怪だ。ついでに言えば雪羽を唆したのもこいつである。
「はうでぃー! ボクの事は何と呼んでも構わないよ。英都でもヘップヒェンでもホヴェラでもね」
黄色い人面花みたいな気軽な挨拶を投げかけたのち、八頭怪は黒々とした瞳で俺をまじまじと見た。フフフフとかいうキモい笑いがその喉から漏れている。
「マレビト君。ボクの事は知ってるって言いたげだねぇ。キミはボクと初対面の筈なのに――やっぱり別の世界からやってきたんでしょ?」
「――!」
別の世界。それは彼の言う通りだろう。「九尾の子孫、最強を目指すってよ」という物はそもそも小説、虚構の物語だったのだから。
しかし何故八頭怪はそれを知っている? まさかこいつも……俺は思わず口を開いていた。
「もしかして、あんたも転生者なのか?」
俺の問いかけに八頭怪はニヤニヤしたまま答えない。きっと転生者ではないのだろう。そう思った俺は少しだけ安堵した。こいつも所詮は物語の中にいる登場人物。いわばゲームで言う所のNPCだ。であればこちらがビクビクおどおどする事も無かろう、と。
「何も言わないって事はそうじゃないみたいだな。だったら俺の邪魔をしないでくれ。そうさ。俺はアニメでこの世界の事を知っている。だがアニメには登場しないキャラとしてこの世界に紛れ込んでしまったんだ。
だけどなぁ……お前が何を企もうと既にこの物語は原作から乖離しているんだ。お前が弟を唆して何かしようとしても無駄だぜ。俺が先を読んで破滅フラグをことごとく粉砕してやるよ」
八頭怪は黙って話を聞いているだけだった。俺は気をよくして言葉を続ける。
「黒幕だろうがラスボスだろうが怖くないさ。所詮は物語の登場人物なんだからさ」
俺が言い終えると、唐突に八頭怪は笑いだした。いかにも俺を馬鹿にしたような笑い方で腹立たしい。それと共にいくばくかの不安を掻き立てるものでもあった。
「あはははは、違う世界から来た程度の人間風情のさえずりも中々面白いねぇ。転生してこの先を見通せるからってそれが何だって言うのかな? そう言う事は三千世界の小世界を見通してから言ってごらん。
それにボクは『道ヲ開ケル者』の、大いなる鍵と扉の御使いだよ。十一の次元を自由に行き来するボクにしてみれば、第四の壁なんてあってないも同然なんだよ。
しかもキミはアニメの世界だけが全てだと思ってるみたいだしね。ああ、面白いねぇ。おかしいねぇ」
八頭怪はそこまで言うと、その背中から二対の翼を顕現させた。鳥の翼とも蝙蝠の翼とも異なる、奇怪な姿の翼だ。
「まぁいいや。何かあったらボクを呼ぶと良いよ。堕ちた山羊の王子様みたく、世界を何度もやり直す力をキミに授ける事もボクにもできるからさ……キミの可愛い傀儡君が堕落したら、それでやり直してみれば?」
ふざけた事を……そう叫ぼうと思った時には八頭怪は消えていた。術も解消されていたらしく、奇妙な違和感も消えている。
「兄様、どうしたの?」
呆然と立ち尽くす俺の傍に駆け寄ってきたのは、弟の雪羽だった。
ちょっとだけアンテネタが入っているのは筆者の趣味です。
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大天狗からのロックオン
なので……お察し下さい(白目)
長雨のあの日に八頭怪に出くわし、俺は意味深な言葉を投げかけられた。あいつはアニメの中でも厄介な黒幕として暗躍していた。しかし実際に顔を合わせるとアニメ以上に厄介な存在だと思わざるを得なかった。
八頭怪がまたちょっかいをかけてこないか。それが心の中に不安としてノイズのように差し挟まれてしまう。
よくよく考えれば、今のこの段階では自分が原作通りに動いているのか、自分の存在で原作からうまい具合に変化が生じているのかははっきりとしないのだ。アニメでは島崎源吾郎の視点で物語は進んでいく。源吾郎が生まれる前の事、雪羽の生い立ちや叔父たちとの暮らしはほんのわずかな記載しかないのだ。
記載が無いというのは何も無いという事ではない。どのような事が起きてもおかしくないという意味ではなかろうか。
それに奴は……八頭怪はアニメの世界だけではないと言っていた。確かに「九尾の子孫、最強を目指すってよ」は書籍版ありきのアニメである。書籍版とアニメ版では何か大きく展開が違うのか……? だが俺は書籍版の内容は知らない。どうにもならないじゃないか。
「ふぅ……」
すやすやと眠る雪羽の隣で俺はため息をついた。寝ている間に不安が込み上げてきて、思わず眠れずにいたのだ。だがあれこれ考えるのは健康にも悪い。
流れる所は流れに身を任せ、マズそうな展開にならないように動けば良いのだ。俺はそう結論付ける事にした。
それに俺は今は人間ではなく妖怪なのだ。幸いこの世界の妖怪たちは実力主義を重んじている。さらに言えば俺は現時点でかなり強いらしい。
であれば、力を示して俺や雪羽には逆らえない事を示せばいいのではないか。
※
「疾風、雪羽。今日は萩尾丸さんの所へご挨拶に行こうか」
かしこまった様子で三國叔父さんは俺たちにそう言った。萩尾丸。この大天狗の名を聞いた俺は、それこそ雷撃でも受けたかのように棒立ちになっていたのだ。
この世界に来て萩尾丸にはまだ数回しか会っていない。しかし「九尾の子孫~」の中ではかなり重要な役回りである事は知っている。何しろ主人公である源吾郎とも、彼のライバルである雪羽とも深いかかわりがあるのだから。
源吾郎の兄弟子であり極めて優秀な指導者・統率者としての側面を持つ彼は、不祥事を起こした雪羽を引き取り、手元で再教育している妖物でもあるのだ。アニメ内では毒舌な上にノンケではない事がしばしば取り上げられネタキャラとしての側面も強いが、優秀で力の強い妖怪である事は事実だ。
実際俺もこの世界で萩尾丸の姿を見た事があるが、やはり強そうな妖怪だと思ったくらいだし。
それに何より、日頃は強気な三國叔父さんがしおらしく神妙な様子を見せている。それこそが萩尾丸の存在の大きさを証明しているのではなかろうか。
「叔父さん。どうして萩尾丸さんは俺たちに会いたがってるの?」
思わず俺は問いかけた。既に転生してから数年は経っているために、子供っぽい喋り方が板についてきたと思っている。というよりも、思考が段々見た目相応になってきていると言った方が良いのだろうか。
俺たちに視線を向ける三國叔父さんは、誇らしげな笑みを浮かべていた。
「そりゃあ、君たちが熱心に頑張って優秀だからだよ。俺も若い頃はお世話になったけど、あの妖は若手妖怪の育成とか教育とかが大好きなんだ。
それで今回、疾風や雪羽と直接会いたいって言ったんじゃないかな」
三國叔父さんの笑みはいつの間にか気恥ずかしそうな表情になっていた。雪羽だけではなく三國叔父さんも萩尾丸の世話になっていたという話も、俺はアニメで把握済みだった。だけど隣の雪羽に倣い、感心したような表情を見せておく。
「それに萩尾丸さんも若い子を従えているからね。今回その子たちと君らを挨拶させたいとも言ってたかな」
若い妖怪に会えると聞き、雪羽は目を輝かせている。三國叔父さんの許で暮らす俺たちは、世話を焼いてくれる妖怪たちと顔を合わせている。だけど俺たちが友達というには年上過ぎた。
挨拶させたいと聞いて喜ぶ雪羽を尻目に、俺はあれこれ考えこんでいた。雪羽は挨拶という言葉から友達を連想したのかもしれない。しかし俺たちは人間で言えばまだ小学校中学年か高学年くらいでしかない。三國叔父さんの部下たちも結構若いが、それでも人間で言えば高校生くらいだ。萩尾丸の部下たちだって、それくらいの年恰好だろうと俺は密かに思っていた。
それに、雪羽に仲間の妖怪が出来ると聞くとどうしても心がざわつく。
それは恐らく、長じた雪羽が取り巻きを引き連れて闊歩しているという事を連想するからなのかもしれない。
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モブ狐に喧嘩を売られたみたいです
金色の翼とは、萩尾丸が運営する組織(会社?)の一般名である。組織に属する妖怪たちの階級も小雀、荒鷲、翁鳥、金翅鳥と鳥で統一しているという所は恐れ入る物だ。
俺たちは三國叔父さんに連れられそんな金色の翼に足を運んでいた。萩尾丸と直々に挨拶するために。
「こんにちは三國君。それと雷園寺君たち。君が疾風君で、隣の君が雪羽君だね」
萩尾丸は澱みない口調で俺たちに声をかけた。百数名いる部下たちの顔と名前を把握しているとされているが、やはりその記憶力には偽りは無さそうだ。
もっとも、俺と雪羽は面立ちこそ似ているが髪の色や目の色が違う。それで区別が出来ただけかもしれないけれど。
「はい。僕は雷園寺疾風です」
「僕は雷園寺雪羽です。疾風兄様の弟です」
めいめいに俺たちが挨拶を返すと、萩尾丸はその頬に笑みを浮かべた。
「ふふふ。力もこの年の割には強そうだけど、何より二人とも礼儀正しい良い子みたいだねぇ。三國君。君も頑張ったね」
礼儀正しい良い子。萩尾丸のこの誉め言葉は俺の心の中に染み込んでいった。端的に言って嬉しかった。もちろん俺が評された事に喜んでいるのではない。雪羽が、いずれは闇堕ちするかもしれないとされる雪羽がそう評された事に俺は喜んでいたのだ。
原作では雪羽がやさぐれるのは割と早い時期である事が示唆されていたのだから。
萩尾丸の言葉は世辞ではなく本心からのものであろうと俺は信じている。それは(原作で)萩尾丸のひととなりを知っているからだ。彼は優秀な妖怪であるが、大天狗らしく傲慢で、尚且つ嘲弄的な言葉遣いの持ち主である。従って同僚や部下に向ける言葉に皮肉や棘が混ざっている事も珍しくはない。
裏返せば、素直なあの言葉は最大級の賛辞と捉えても遜色ないという事だ。
「それじゃ、若い子たちとも会ってみようか。ボクたち。ちょっと緊張しちゃうかもしれないけれど大丈夫だからね」
「はい……」
「うん!」
若い妖怪たちと会う。その言葉に雪羽は既にはしゃいでいる。
※
「雷園寺家の当主候補とその腰巾着だって。はっ、どんな御仁かと思えば単なるガキンチョじゃあないか」
集まった若妖怪の中から、挑発的な声がにわかに上がった。他の妖怪たちが驚いてざわめく。無理もない事だろう。萩尾丸は確かに大妖怪であるが、その部下として彼が連れてきた妖怪たちはあまりにも若かった。それこそ、人間で言えば高校生くらいの連中ばかりだろう。
ざわつく声を聞く限り、やはり仲間内で上がった挑発的な言葉に恐れおののいているらしい。
当然の話だろう。萩尾丸は第六幹部であり三國叔父さんは第八幹部である。しかし集まっている萩尾丸の部下たちは末端の平社員に過ぎない。一方の俺たちは三國叔父さんの甥であり、しかも雷園寺家の看板を背負った名門妖怪だ。
庶民妖怪が子供と言えども名門妖怪を愚弄する事はあってはならない。彼らは素直にそう思い、仲間の蛮行に驚いているのだろう。或いは単純に、萩尾丸の罰を受ける事を恐れているのかもしれない。
「おやぁ、中々のビッグマウスだねぇ」
密かに青筋を浮かべて放電していた三國叔父さんが何か言いだす前に萩尾丸が呑気な声を上げていた。萩尾丸は冷静さを失ってはいないらしい。
「今の発言は誰がしたのかな。怒りはしないからさ、出てきておいでよ」
呑気な口調そのままに萩尾丸が促す。すると妖怪たちの群衆が二つに分かれた。その別れた間から、一匹の妖怪が悠々とした足取りでこちらに向かってくる。
出てきたのは根元が赤茶に染まった金髪の少年だった。他の仲間と同じく人間で言えば高校生くらいだろうか。俺たちのそれとは違う、フワフワした尻尾を見た瞬間、彼が妖狐である事を俺は悟った。
態度の大きい妖狐。その存在を意識するや否や、俺は妙な胸騒ぎを感じてしまった。ここにいる筈のない主人公、島崎源吾郎の存在を思い浮かべたからだった。まだ彼が生まれるのはずっと先の話であるというのに。
「藻介君。やっぱり君だったのか」
ずんずんと向かってきた妖狐の少年を見るや、萩尾丸は腑に落ちたと言わんばかりの声を上げた。全く驚いていないし、むしろそれどころか予想通りだと思っているようにさえ思えた。
藻介狐は萩尾丸を一瞥したが、片頬に笑みを浮かべると俺や雪羽に鋭い視線を向けた。
「良いかいオチビ共よぉ。大妖怪の血筋を引いているからって、その看板に胡坐をかいているだけで良いと思ったら大きな間違いだからな。
玉藻御前の末裔を名乗るこの俺が、直々に世間の厳しさってやつを教えてやるよ!」
玉藻御前の末裔。思いがけぬこの単語に俺はごくりと唾を呑んだ。彼を見て島崎源吾郎の幻影を脳裏に浮かべたのは無理からぬ話だとも思い始めていた。彼自身も玉藻御前に関与しているのだから。
いや待てよ。あの世界には玉藻御前の末裔を名乗る妖狐も一定数存在するという話だったはずだ。見た感じ藻介と名乗る少年は純血の妖狐みたいだし偽者だろう。
「兄様、どうしよう……」
雪羽は心配そうな声を上げている。俺はそんな雪羽に笑い返していた。
今俺たちは、玉藻御前の末裔を名乗る雑魚妖怪、要はモブに絡まれているだけなのだ。であれば何をどうすれば良いのかは明白ではないか。
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初戦闘で実力を魅せろ
俺たちは挨拶もそこそこに一階の訓練施設に集まっていた。見た目と内部の広さが何か違う気がするが、大天狗であるあるじによって何がしかの術が施されているのだろう。
いくつかの器具や白線が敷かれたエリアを進んだ先にあったのは柵で囲まれた一角だった。闘技場なのだと俺は本能的に悟った。柵は四角く囲まれていたのでプロレスやボクシングのリングに見た目は似ている。しかし俺がイメージしたのはコロッセオの方だった。
「覚悟は、いや準備は出来ているかな」
闘技場の一角まで皆を引率していた萩尾丸は、俺たちに問いかけた。藻介は雷園寺家の子供である俺たちに喧嘩を売ったのだが、萩尾丸はそれを見て両者を闘わせることを決めたのだ。元来藻介はとても失礼な態度を取った訳であるが、俺たちと闘う事でその態度が正当な物か見極めるという流れになったらしい。
――もちろん、俺たちの実力を見極めるための方便、というのもあるだろうけれど。
「俺はもう準備万端ですよ、萩尾丸様」
二本の尻尾を振り上げて藻介は居丈高に告げる。それから俺たちを睨みつけながら言い添えた。
「名門妖怪の血筋と言っても所詮は子供じゃあないですか。俺の敵じゃあないですね。二匹同時にかかって来てもあしらってやりますよ」
「それは心強い言葉だね、藻介君」
言いながら、萩尾丸はさもおかしそうに笑った。
「野良妖狐の身でありながら玉藻御前の末裔を自称している君らしい言葉じゃあないか。まぁ、そんな君の性格は前々から知ってたけどね」
萩尾丸のプチ炎上トークを前に、藻介は恥ずかしそうに目線を下げた。案の定彼は玉藻御前の末裔などではなく偽者らしい。
「九尾の子孫、~」は玉藻御前の末裔である島崎源吾郎が主人公である。そのため彼の親族である他の玉藻御前の末裔も何度か登場する。しかしややこしい事に、源吾郎の縁者ではない妖狐の中にも、玉藻御前の末裔を名乗る手合いが登場するのだ。それも一匹二匹などではなく、彼らだけで組織が作れるほどに。
藻介、という妖狐は本編には登場していない。しかしきっとそうしたアニメの設定の中に埋もれたキャラクターなのだろう。
「まぁ、闘うとなればお互い全力を出し合って闘うんだよ。お互い大妖怪の名を背負う期待の若手なんだからさぁ……相手の事なんて気にしなくていい。むしろ相手を殺すつもりで挑んでごらん」
「…………」
「…………!」
相手を殺すつもりでかかってごらん。この言葉に俺と雪羽は兄弟そろって強く反応していた。萩尾丸のこの言葉は、アニメでも序盤に出てくるとても印象的な言葉だった。何しろ初めて戦闘訓練を行う源吾郎に投げかけられた言葉なのだから。
一方の雪羽は、ひどく戸惑った様子で視線をさまよわせていた。信じられないようなもので萩尾丸を見つめ、縋るような眼差しを俺や三國叔父さんに向けている。
「お言葉が過ぎますよ、萩尾丸さん」
愛する甥の視線を受けた三國叔父さんが思わず声を上げた。丁寧な口調だけど戸惑いや怒りの色が浮かんでいる。
「あなたの部下であるその狐はさておき、疾風も雪羽も雷園寺家の子息なんですよ? その二人を危険にさらすのはどういった了見なんです」
「おやおや三國君。可愛い甥っ子の前でそんな事を言っても良いのかな?」
三國叔父さんがすごんだものの、萩尾丸は全く怯まない。むしろ笑みさえ浮かべている。
「心配してるのは解るけど、そんな事を言ったら君の甥っ子らが狐一匹にも負けるような情けない連中だって君が思っている事になっちゃうよ。それこそ、雷園寺家の顔に泥を塗るような事じゃあないかな?」
「ぐっ……」
叔父さん。萩尾丸の言葉に喉を鳴らす三國叔父さんに、俺は意を決して声をかけた。
「俺が藻介さんと闘うよ。雪羽は怖がっているみたいだし、萩尾丸の言うとおりだもん」
「疾風……」
心配そうに呟く三國叔父さんに対して俺はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫。いつも叔父さんや皆に訓練してもらってるもん。その延長だと思って頑張るね」
「兄様、頑張って」
雪羽が曇りのない視線をこちらに向けてくる。頭をつい撫でてやりたくなったが、それをこらえて闘技場に向かう事にした。藻介狐は雷園寺家次期当主ではない俺を見て小馬鹿にしたような笑みを浮かべているが、そんな事はどうでもいい。
※
やはり転生した甲斐あってか、俺にもチートと呼べるような権能が具わっているのかもしれない。いや単純に雷獣のスペックが高いのか?
ともあれ俺は藻介狐を打ち負かした。雷撃のしびれから立ち直った彼は、鋭い眼差しを俺に一瞬だけ向け、その後は恥じ入ったように俯いている。
とはいえ藻介も取るに足らない雑魚ではなかった。狐火はもとより幻術を使った複数攻撃や攪乱なども使ってきたのだから。まぁ、雷獣の持つ気配探索と高出力の雷撃には特に意味はなさなかったけれど。
「これでどっちが強いのかはっきりしたみたいだね」
闘技場に視線を向けながら萩尾丸は言った。始終笑顔である。争いごとの好きな天狗らしいと言えば天狗らしい振る舞いだ。
「妖怪の社会は実力主義だからねぇ。やっぱりどっちが強いのかどうかって結構若い子は気にしちゃうよね。
だけどさ、自分の実力を見誤って過信しちゃうと後々痛い目に遭うって事になるんだよ。藻介君はもとより、ここに集まった皆もその事を肝に銘じておくんだよ」
ああやっぱり萩尾丸って指導者だなぁ。そんな事を思いながら俺は彼の言葉を聞いていた。藻介はうつむいたまま表情が窺えなかったが、勝利をもぎ取った気持ちよ際に酔い痴れた俺にとっては些末な事だった。
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生誕祭とかいう最大のフラグ到来します
玉藻御前の末裔を名乗る妖狐の鼻っ柱をへし折ってからは、割合平和な日々が続いていた。時々萩尾丸に呼び出されて戦闘訓練を受けるという日課が増えたけれど、それも基本的に和気あいあいとした(?)空気の中で進む事が常だった。
そう言えば原作でも源吾郎は萩尾丸の部下と戦闘訓練を受けていた。それこそ、雪羽が萩尾丸の監督下に入ってからは彼と一騎打ちの訓練を繰り返していたはずだ。序盤では戦闘慣れした雪羽の前にさしもの源吾郎も苦戦してはいた。しかし持ち前の執念深さと妖狐らしい手数の多さにて雪羽を打ち負かすようになるのだ。
そしてそれこそが、雪羽の闇堕ちのきっかけであると言っても過言では無かろう。まぁ、「九尾の子孫~」を見ていたら、それ以前にも既に雪羽の性格が仕上がっているのできっかけの一つと流す事も出来るだろうけれど。
さて現状に話を戻そう。雪羽については無問題だ。存在しないはずの彼の兄として一緒に暮らし始めて数年経つが、原作の雪羽とは似ても似つかぬ存在としてそこにいて、俺に笑いかけてくれる。到底闇堕ちしそうにない。
それどころかむしろ、健気で屈託なくて優しくて愛らしい好少年にしか見えない。ついでに言えば銀髪翠眼という目立つ特徴の上に整った面立ちの美少年だから、尚更愛されキャラにしか見えない。まぁもしかすると、兄の欲目もあるかもしれないが。
ともあれ原作で俺が知る雪羽の存在とはまるきり異なっていた。原作で見せる彼の姿はただただ悪辣で、下劣で品性卑しい物でしかなかった。しかも途中までは主人公のライバルとして登場し、歩み寄るふりをして牙を研いでいたという事だったから尚更そのゲスぶりが際立つという仕様だ。冴えない風貌の主人公の対比として美形キャラだったのは確かにその通りだが、ゲスっぽい言動と表情でもって、もっぱらアニメでもヘイトを集めているキャラだった。
そんな雪羽はアニメの終盤で主人公の攻撃をマトモに喰らい、数日後に衰弱死するという末路を辿る。狐火で炙られ尻尾の打撃で身体を半ば砕かれ、二目とみられない姿になっての事だ。
全くもって容赦のない展開であるが、それを見て歓喜の声を上げたアニメファンがいるという事であるから恐れ入る。まぁ俺も、視聴者だった頃は雪羽の最期に溜飲が苦だったのは事実だが。
その俺が雪羽の兄に転生したのはどのような因果なのかは解らない。解らないなりにも先を知っているから、それらを回避しようと躍起になっていた。そのために雪羽がやさぐれないように指導する事が必須だと思ったのだ。兄という立場は、そういう意味では良かった。アニメでも、長男であるはずの雪羽は兄の存在を欲していたらしいと言われていたのだから。
まだ原作が始まるまでには四半世紀ほど余裕がある。無論油断してはいけないだろうが最初の数年にしてはまずまずの出来だと俺も思っていた。
いや……この世界にいる雪羽は、俺がアニメで知っている彼よりもずっと利発な子だ。真っすぐな状態を維持したまま育てば、それこそその見た目に似合う良家の御曹司になってくれるのではなかろうか。もしかしたら源吾郎と真の意味でライバルになるかもしれないが、それはそれで面白かろう。
※
この日はいつもより少し早い時間に起こされた。そりゃあまぁたたき起こされたとかそう言う事ではない。だけど起こしに来た春嵐さんがやけに慌てている。一体どうしたんだろう。眠い目をこすりつつ俺は眼が冴えてくるのを待った。
「兄様、まだ眠いの?」
瞼をこする俺の隣で雪羽がささやきかける。弟は寝付きも良く、寝起きから目覚めた状態に移行するのも妙に早い。そう言えばアニメで雷獣は脳内に切り替え機構があるという話だが、その恩恵を受けているのかもしれない。
だったら俺はどうなのか、という話である。人間としての意識が引きずられているのか、単なる個体差に過ぎないのかその辺は定かではない。また暇なときに確認すれば良いのかもしれない。
「んー。大丈夫だよ雪羽。まだ眠いけど」
まだ眠いんだー。誠に子供らしい様子ではしゃぐ雪羽から視線を外し、世話係な春嵐さんの方を見た。
「早い時間にすみませんね、お坊ちゃま方。ですが今日は生誕祭がございますので、早めに起こしました。何しろ頭目たる胡琉安様を八頭衆やその重臣たちで祝う訳ですからね。念には念を入れてきちんと準備しておきたいと思っているのです。
疾風お坊ちゃまも雪羽お坊ちゃまも、第八幹部・三國さんの甥御殿です。それに千年までは疾風お坊ちゃまのお加減もすぐれなかったので、今回はそういう意味でも重要な回になるかと思うのです」
生誕祭……胡琉安……八頭衆。「九尾の子孫、~」でもかなり重要な単語たちを耳にした俺の脳は既に覚醒しきっていた。
三國叔父さんの甥で養子でもある俺たちが生誕祭に出向かなければならないのは自明の理であろう。
だが生誕祭に参加する。その事を耳にして心がざわつくのを俺は感じていた。
雪羽と源吾郎との因縁は、それこそ生誕祭によって始まった物なのだから。
真なる原作ではどのように雪羽君は描写されているのか。
それは九尾シリーズでおいおいと解っていきます。
※せっかちな人はカクヨム版も覗いてみてくださいね!
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マムシボールはナゲットみたいだったぜ
また、誤って食べないようにするように注意する事も必要です。
生誕祭。雉鶏精一派の頭目・胡琉安の誕生日を祝う組織公認のイベントである。表向きでは八頭衆と呼ばれる幹部陣とその重臣が胡琉安の誕生日を祝って飲食し談笑する会合なのだが……そんな和やかな一面だけではないのが実情だ。
というか実際の所、互いの幹部勢力の力量を見定めたり、話術でもって相手を牽制しあったりする場でもあるらしい。社交の場でもあり戦場でもあるという事だ。
そんなおっかない場所に俺たちのような子供など出る幕は無いだろう……とは思う。だが俺も雪羽も三國叔父さんの甥であり、雷園寺家の子息たちに当たる。生誕祭出席は不可避案件なのだ。
ちなみにアニメの方でも雪羽は生誕祭にがっつり出席していた。しかし酒癖が悪く獣妖怪の女子に絡むという習性が出来てしまっていたために問題を起こしていたのだ。源吾郎が初めて生誕祭に関与した時も、ウェイトレスに変化していた源吾郎に絡み、何やかんやあって自分で積み上げたグラスタワーを崩落させるという事故を起こしてしまう。
余談だが源吾郎が女子に変化するという設定は、アニメではなく書籍由来らしい。萩尾丸の嗜好と言い源吾郎の変化バリエーションと言い原作者は中々エッジの利いた感性の持ち主らしい。まぁ源吾郎の美少女変化はそこそこ人気があるみたいなんだけど。
まぁそんなわけで俺たちは用意された子供用のスーツを着込んでいた。言うて普通に出社するときもスーツなのだが、今回のために奮発したらしい。普段よりも高級なスーツだった。デザインとかブランドとか子供妖怪の俺にはてんで解らないけれど、肌触りとかが滑らかで高価そうだなって思った感じだ。
こんな良い物を着せてもらって馬子にも衣裳にならないかちょっと心配になってしまった。だけど叔父さん夫婦も春嵐さんも他の妖怪たちも様になるって褒めてくれたんで俺は素直に安心している。実は俺、自分の見た目は弟の見た目でちゃっかり判断している。髪と瞳の色以外は、俺と雪羽の見た目はそっくりであると結構前に知ったからだ。俺美形だぜ! みたいな事を言っちゃうと自意識過剰で痛い奴と思われるかもしれないがそれはまぁ仕方ない事だ。だって雪羽が超絶美形だという事実は覆らないんだからな!
揃いのスーツを着込んだからもう準備万端であろう。そう思っていると月華さんがすこし屈みこんで俺たちに声をかけてくれた。
「疾風君に雪羽君。お料理はバイキング形式だから、取り分ける時に注意するのよ。ネギ類を使ったお料理とか、チョコレートを使ったお菓子は食べないようにするのよ。そうでないと、生命に関わるからね」
月華さんの注意に俺は気を引き締めた。普段のほわほわした雰囲気はなりを潜め、真剣そうな様子で俺たちを見つめている。
この世界での妖怪の食性は、割と実在の動物に近い所が多い。妖狐なら雑食性だが小鳥やマウス、チーズなどが好物であるとか、雉や鶏の妖怪は臆せず蛇を襲って食べるとか、そういう感じなのだ。俺たち雷獣が草食に近い雑食性なのもそう言う所に起因している。
そして、犬猫などの多くの動物にとってネギ類やチョコレートが毒であるという設定も、一部の妖怪たちにばっちりと当てはまってしまっているのだ。
なお俺はこの肉体にとってチョコレートが有害なものである事は身をもって知っている。転生して数年後、回復して自由に動けるようになったある日、俺はこっそりチョコレートを買って口にしたのだ。まぁほんの出来心だった。
しかし食べた後に原因不明の体調不良に見舞われ、すぐさま医者(もちろん妖怪の医者)を呼ぶ羽目になった。そこで俺はチョコレート中毒を起こしていると判明したのだ。
月華さんたちが俺たちの、特に俺の口にする物に神経質になるのはそう言う事があったからだった。
「うん。そう言うのは危ないから気を付けるよ月姉」
「月華さん。ネギ類を使った料理とそうでない料理って区別はつくのかな?」
「ネギ類を使った料理はお皿にきちんと模様が入ってるわ。入ってないお皿はネギを使ってない料理なのよ」
この度気を付けた方が良いのは料理に関する事だなと、俺は静かに思っていた。原作の雪羽は酒を嗜んでいたらしいが、今ここにいる雪羽は酒なんて一滴も飲まない。まだ子供だから、と言われればそれまでかもしれない。とはいえ素面だったら素面だったで生じるトラブルも少ないだろうから喜ばしい事だ。
※
生誕祭の会場にて。俺たちはひとまず三國叔父さんや月華さんにくっつき食事を楽しんでいた。側近の春嵐さんはいない。他の妖怪組織との打ち合わせが入ったとかでそっちに向かっているらしい。そう言えばアニメでもそんな話があった気がする。
「兄様! マムシボールを貰って来たから一緒に食べよ」
俺たちから離れていたと思っていた雪羽が戻ってくる。マムシボールという言葉に面食らっていると、雪羽は自分の皿を俺に見せてくれた。ミートボールに名前は似ているが、揚げ物らしく見た感じ丸っこいナゲットにそっくりだ。原材料がマムシであるという事に僅かな抵抗感があったが、漂ってくる香りを前に食べてみたいという気持ちもむくむくと湧き上がってくる。
そう言えば源吾郎もマムシボールを振舞われたんだっけ。そう思っている間にマムシボールが二個、俺の皿の上に乗せられていた。物思いにふけっている間に雪羽が気を回して分けてくれたらしい。
「マムシボールって、もしかして紅藤様が作ったやつ?」
「そうだよ疾風」
俺の呟きに応じたのは三國叔父さんだった。
「紅藤様はマムシがお好きなんだけど、この度胡琉安様や他の皆にご賞味してもらおうと原料調達から加工・調理に至るまで御自ら行ってくださったものなんだ」
真面目に告げる三國叔父さんを前に、俺は思わず笑ってしまった。原料調達・加工・調理と言われたら何か工場の量産品みたいだけど、要はマムシを捕まえて捌いてミンチ肉を丸めて揚げたという事である。
それでも俺は雪羽から分けて貰ったマムシボールを口にしてみた。原料のおどろおどろしさとは裏腹にあっさりとした味わいが印象的だ。肉質は鶏の胸肉と白身魚の中間くらいだろうか。中々どうして美味しいじゃないか。これなら二つと言わず三つ四つイケそうだ。
「……三國さん、雷園寺家のお坊ちゃま方、ごきげんよう。楽しんでいるかしら」
マムシボールに夢中になっていた俺は、自分たちの傍に来訪者がやってきている事に気付かなかった。そして来訪者を見て一瞬固まった。
中国風のドレスらしきものを身にまとったその来訪者は、大妖怪にして雉鶏精一派最大の功労者と言われる女傑、紅藤様だったのだから。
知人に聞いた話ですと餃子にマムシの肉を入れて包んだという内容を聞いた事があります。血の巡りが良くなって身体が熱くなるとか。
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生誕祭 ドキドキ(意味深)続くよ何処までも
苦手な方はご注意くださいませ。
マムシボールを飲み下しながら俺は紅藤様を見た。小柄な女性であるとされているが、俺は彼女の存在感に圧倒されていた。とても大きなお方に見えたのだ。それは俺自身が小柄な子供だったからなのかもしれないし、彼女の大妖怪としての貫禄を本能的に感じ取ったからなのかもしれない。
いずれにせよ、物語的にも超重要妖物である事には変わりない。原作内で最強の妖怪の一人と呼ばれていた訳だし、何より源吾郎の指導を御自ら行っていた御仁なのだ。
「紅藤様。わざわざ私どもの許にご挨拶に来てくださったんですね。ありがとうございます」
「本来ならば私たちが紅藤様の所へ向かった方が良かったのですが……気が回らず申し訳ありません」
三國叔父さんも月華さんも、畏まった様子で紅藤様に挨拶をしていた。紅藤様は見た所三國叔父さんたちより少ぅし年上にしか見えない。そう思うと不思議な光景だった。
だが考えてみれば、実際の年齢差がえげつないのだ。三國叔父さんは百歳ちょっとの若妖怪なのだけど、紅藤様はもうすぐ六百歳と言った所なのだ。この世界の妖怪たちは、二百年も生きていれば立派な大人妖怪と見做される。六百歳近い紅藤様は大人も大人、経験豊富な大妖怪に分類されてしまう。
だからこそ、源吾郎に対しても指導者として保護者としてどっしりと構えた様子で教育を施すのだろう。
「うふふふふ……良いのよ三國君に月華さん。そんなに緊張しなくっても。今回はおめでたいお祝いの席なんですから、少しくらい砕けた感じでも大丈夫ですよ。
それにあなた達には、その子たちの監督という大切な仕事もある訳ですし」
その子たち。そう言った時には彼女の視線は俺たちに向けられていた。俺はともかくとして、雪羽も食べるのをやめて紅藤様を見上げている。
「こんばんは。久しぶりになるかしら」
「こ……べ、紅……」
こんばんは、紅藤様。俺はそう言おうとしているはずだった。しかし緊張で身体が打ち震え、舌も縮こまったみたいになって言葉が出てこない。なんてこった! そんな事を思っているうちに、俺は何故か雷園寺家の座敷牢で監禁されていた事を思い出した。俺が俺として自我を取り戻す前の事なのに。雷園寺疾風の記憶としてあるだけのシーンだったはずなのに。
そんな事を思っていると、頬を輝かせながら雪羽が口を開いていた。
「雉仙女様こんばんは。僕は雷園寺雪羽です。色々あって三國叔父さんの所で暮らしているけれど、いつか立派な妖怪になって、雷園寺家の跡継ぎになるんです」
子供らしい無邪気な物言いながらも、雪羽は臆せず礼儀正しく紅藤に挨拶を返していた。雷園寺家当主を目指すだけあって肝が据わっている、雉仙女様という呼び方もあったのか……そんな考えが俺の脳裏で駆け巡っていた。
「あ……えと……」
雪羽や三國叔父さんたち、そして紅藤様の視線が俺に集まる。雪羽の翠眼を見ているうちに、身体のこわばりが解けてきた。
「僕は雷園寺疾風です。色々あって弟と一緒に叔父に引き取られました。紅……雉仙女様。これからもよろしくお願いします」
よろしくね。俺たちを見つめながら紅藤様は微笑んでくれた。老齢な妖怪であるにもかかわらず、その笑顔は屈託がなく、さながら少女のようにさえ見えた。年齢にそぐわぬ愛らしい笑顔を見ながらも、俺は静かに安堵していた。
※
昼から夜までぶっ通しであった生誕祭も無事に終了した。俺も雪羽も生誕祭自体は初参加だったけれど、特に問題らしい問題を起こしはしなかった。身内びいきになるかもしれないが、雪羽はお行儀よく振舞っていたように思う。
もちろん俺もお行儀よく振舞えたと思う。テーブルマナーはちょっと怪しい所はあったかもしれない。しかしそもそもバイキング形式だったしとやかく言われたりしなかったのでまぁ良いだろう。というか俺はウェイターにいちゃもんを付けたりウェイトレスに絡んだりなんかはしていない。アニメで長じた雪羽がそんな事をしていたのを思うと、何もしなかった俺たちの態度は立派なものだと言えるだろう。
さて俺たちは直帰すべく駐車場に向かっていた。運転手はもちろん三國叔父さんなんだけど、三國叔父さんたちは他の幹部たちに話しかけられているため、俺と雪羽で駐車場の方に向かっていた。車の鍵は既に貰っているから、先に待っておく事もできる。
俺は駐車場へ続く仄暗い道の周囲をちらと見てから、雪羽に声をかけた。
「なぁ雪羽。さっきあすこに自販機があったのを見ただろう? 何でも良いから買ってきてくれないか? お前も好きなのを買えば良いから」
「自販機はここからちょっと遠いけど……行ってくるね」
一見すると兄による弟へのパシリ行為に見えたかもしれない。実際雪羽は少し怪訝そうな表情を浮かべていた。だけど俺が小銭を渡そうとする前にささっと俺から離れ駆け出して行ってくれた。本当に素直な子で助かるぜ……
俺は車の鍵をポケットにしまうと立ち止まった。方向転換をするときに、じゃり、と地面が鳴る。
別に俺は弟をパシリにしてジュースが欲しいわけではない。あくまでも雪羽をここから遠ざけるための方便に過ぎないのだ。
「――俺らを尾けていたのは解ってるんだ。コソコソしてないで出てこいや」
チンピラ風に関西弁も使ってみたのだがいまいちしっくりこない。やはり声変わり前の子供の声だからなのか。
しかしそれでも、影たちは俺の声を挑発と受け取ってくれた。物陰から妖怪たちが姿を見せる。その数は三匹だ。うち一匹には見覚えがある。藻介狐だ。萩尾丸の部下の一人で、玉藻御前の末裔を名乗っていた妖狐の少年。彼は今他の妖怪たちを従え、愉悦と昏い憎悪の眼差しを俺に向けていた。
「雷園寺のみそっかす野郎じゃないか。弟にパシリをさせていい身分だと思ったが……俺たちの事に気付いていたんだな」
一体何の用だ。高圧的に見えるように心がけながら俺は藻介に問いかけた。偉そうな態度は相手の怒りを買うだけに過ぎないが、今回ばかりは別である。何せ向こうが喧嘩を売ってきたのだから。
「何の用もあるかこのクソガキが! 俺はお前のせいで面子が丸潰れになったんだ。お前らが泣きわめく所を見ない限り腹の虫が治まらんな」
――玉藻御前の名を笠に着てはいるが所詮は三下か。
藻介を見ながら俺は静かにそう思った。とはいえ大人しく彼らにやられるつもりはない。
「泣きわめくって誰の事? 狐のお兄さん。俺の事を子供だって甘く見ていたらそれこそお兄さんの方が泣きを見るかもしれないよ?」
妖気を込めると両手のひらが放電を始めた。ある程度のデモンストレーション、威嚇の一種に過ぎない。それでも小さな稲妻は見ていて迫力がある。藻介とか、取り巻きの妖怪たちも青白い光に照らされて鼻白んだようだった。
それで終わるのならそれでもいい。
だが――怯んでいた藻介狐はすぐに気を取り直し、歪んだ笑みをその面に浮かべる。
「そんな火花くらいで怯むと思ったか! お前らやっちまえ」
「やっぱりそうなるのか……」
藻介の指示で二匹の妖怪が躍りかかる。俺は即座に雷撃を作り両方の妖怪めがけて放つ。妖怪の一匹、鈍重なムジナみたいな妖怪は顔面に雷撃を喰らってもんどりを打って倒れ込んだ。しかしもう一匹は間一髪の所で回避されてしまう。
「やっぱり野蛮な奴だなぁ、雷獣ってのは」
「子供相手に向かっていったのはそっちだろう」
雷撃を回避したもう一匹が見当たらない。俺は一瞬焦ったが、標的を藻介に切り替える事にした。何がどうなっているかは定かではない。だが雰囲気からして藻介が主犯であろうと察していた。彼を制圧すれば場をしのげるのではないか。そう思ったのだ。
だが、雷撃を準備する俺を見て藻介は嗤った。
「俺に向かって撃ちたければ撃てばいい。だが、伏兵がお前の可愛い弟に向かっているかもしれないなぁ?」
「――!」
しまった。藻介の言葉に一瞬俺は思考が止まってしまった。確かに俺は闘いに巻き込まれないように雪羽を遠ざけた。しかし藻介の従えている妖怪が二匹だけだとは限らないではないか。姿をくらました妖怪が弟を害しているのではないか。
弟が、雪羽が襲われたらひとたまりもない。確かにあいつも妖怪としては強い。しかし気弱で優しい雪羽の事だ。襲撃されてもただ怯えて反撃も叶わぬだろう。
あれこれ思案を巡らせていた丁度その時、斜め後ろから突風のように何かが向かってきた。
「っ……!」
身を翻して回避できたのは、やはり雷獣の感覚の鋭さと素早さのお陰だったのだ。身を隠していた妖怪の一匹が俺の背中めがけて向かってきたのだ。幸い身を翻したおかげで右手に何か衝撃が走っただけで済んだ。
「はっは。しょうもない話術に引っかかるとは所詮は子供。この藻介様にはかなわないなぁ」
「いやまぁ本当ですぜ兄貴」
隠れていた妖怪がカマイタチであった事に俺はようやく気付いた。そしてカマイタチの鎌状の前足が血で濡れている事にも――いや待て。何故血で濡れている? あの血は誰が流した血なのだ?
血を見たせいか急に眼がくらみ、俺はその場に膝をついた。右手で床に踏ん張ろうとしたが、激痛が走ってしようがない。
右手は半分に裂けていた。人差し指と中指の間でぱっくりと割れている。もちろん血は流れ続けているし、何かよく解らない白い物とか黄色い物とかが露わになっている。生誕祭で食べたチーズケーキに似ていると不意に思い、俺は思わず嘔吐していた。
「兄様、兄様? にいさまぁ――!」
重たいものがぶつかって転がる音と、聞きなれた誰かの絶叫が俺の鼓膜を震わせた。
主人公であろうが原作知識があろうが試練に遭う時は試練に遭う。
それが猫蔵ワールドの宿命です。
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雷園寺雪羽は覚醒す
疾風兄さまは、ぼくにとってあこがれの兄さまだった。母さまが死んじゃった、あの日から。
死んだ母さまの仇を取るために闘った兄さま。
ぼくらが何もできずにいるあいだ、暗くて怖い所で一人で耐えた兄さま。
三國のおじさんに、ぼくといっしょに引き取られた兄さま。
三國おじさんに引き取られてからというもの、兄さまはずっとぼくの事を心配してくれていた。雪羽、とぼくを呼ぶその声には優しさと少しの寂しさがこめられているようにぼくには感じられた。
ぼくとは同い年であるはずの疾風兄さま。だけど兄さまはぼくよりもずっと大人だった。
そもそもぼくが雷園寺家の跡取りになると決めたのは、三國おじさんに引き取られた後の事だった。母さまが生きていた頃は疾風兄さまが雷園寺家の跡取りになるんだと思っていたし、母さまが死んじゃった時には悲しくて苦しくてそれどころじゃなかった。兄さまは大人たちに捕まって閉じ込められちゃうし、何であんなことになったの、と思うばっかりだった。
――ぼくが雷園寺家の当主にならないといけないんだ。
めっきり弱り切った兄さまをと、大人たちにめちゃくちゃ怒っている三國おじさんを見てぼくはそう思ったんだ。結局ぼくは兄さまと一緒に三國おじさんに引き取られたけれど、その思いはきちんと胸にしまってある。
強い者が全てのルールを作る。大人たちはそう言っていたし、三國おじさんもその通りだって言っていた。それならぼくが雷園寺家のルールを作るんだ。
だけどぼくは雷園寺家のあるじとして好き勝手したいわけじゃない。
ぼくは母さまが死んじゃったのを陰で笑ってた大人たちを追い払いたいんだ。
それから……ぼくが当主になって、兄弟たちやほかの優しい家来たちと一緒に穏やかな日々を作っていきたい。
ぼくは今兄さまと一緒にいるけれど、雷園寺家に残っている弟たちや妹の事も忘れてはいない。あの変な大人たちと一緒で、つらい思いをしてないかいつも心配だ。
本当は雷園寺家の当主にふさわしいのはぼくじゃなくて兄さまじゃないかって思った事もある。妖怪の世界でも一番上の子供が当主になる事はめずらしくないから。
それに兄さまはぼくよりも強くて、賢い妖怪だったから。
だけど兄さまは雷園寺家の当主になる事をぼくにゆずってくれた。当主になりたいのなら雪羽がなれば良いって兄さまは言っていた。だけど雪羽ひとりじゃあ難しかったり間違っていたりする事があるかもしれないから、それはおれが注意するとも言ってくれた。
ぼくが当主になる事を目指していると知って、兄さまは少し元気になってくれた。だけどぼくは知っている。兄さまは実は何かにおびえていて、不安を感じているって事も。
兄さまは知らないけれどぼくは知ってるんだ。兄さま、時々うなされてるって事を。うなされている時は、たいていぼくの名前を呼んでるって事を。夢の中でも、兄さまはぼくの事をあれこれと考えてくれているんだ。でも何が不安なのか、兄さまは決して言おうとしてくれない。多分ぼくがまだ子供で未熟だからなんだと思う。
兄さまも同い年だからほんとうは子供なんだと思う。だけどとっても大人びている所があって、本当に同い年なのかなって思う時もあるんだ。
とにかくぼくは雷園寺家の当主を目指しているし、兄さまの言う事も聞くようにしている。優しい兄さまは、良い子のぼくが好きだから。ぼくも兄さまが……優しく不安なく笑っている兄さまが好きだから。
※
何か嫌なにおいがする。兄さまの好きなジュースを買って戻ってきたぼくは、まずそう思った。
嫌なにおいは血のにおいだった。地面にも血がたくさん、たくさん流れている。
何で血が流れているの? ふしぎだったけどそれ以上に血のにおいが見覚えのあるにおいに思えて、心臓がどきどきしてきた。血がたくさん流れたら妖怪でも死ぬって、春兄は教えてくれた。血が流れてるって事は、誰かが死んじゃうって事なの?
「おうおう、雷園寺家の当主気取りが戻ってきたぜぇ~」
ぼくの耳は、狐のお兄さんの声をとらえていた。どこかで見覚えのある狐のお兄さんは笑っていた。だけど優しい笑顔じゃなくて、見ていて嫌な気分になる笑い方だった。
「……っ、きは……く、来るな……」
とうとうぼくの耳は、兄さまの声を拾っていた。兄さまは切羽詰まっていて、とても苦しそうな声を出していた。
缶ジュースが落ちるのも気にせずぼくは兄さまの許に向かっていた。すさまじい声が聞こえた気がしたけれど、それはぼくの声だった。
兄さまは血まみれだった。右手がおかしな事になっていて、そこから血がたくさんあふれ出ている。そんな兄さまを取り囲むようにお兄さんな妖怪たちが笑っている。
あいつらが、あいつらが兄さまを――
「――お前らか。お前らが俺の兄さまを傷つけたんだな」
強い怒りの念が雷撃になって、俺の身体を取り巻いた。
兄さん。兄さんはずっと無駄に闘っては駄目だって言ってたよね。だけどそれは間違いだったって俺は思ってるよ。三國叔父さんだって、俺たちを護るために雷園寺家の大人たちを力ずくで黙らせていたんだからさ。
やっぱり世の中には、力を示さないといけない時ってあるんだよ。そして今がその時だって俺は思ってる。
兄さん。俺も強くなるよ。大切な兄さんを護るために――そして俺が雷園寺家の次期当主になるためにね。
優しく穏やかだったはずの雪羽君。力を求めるその姿はアニメの未来をなぞっているかのようにも思えますよね。
原作知識を持って動いていたとしても、オリ主の思惑通りに事が進むのか? というのが作者の考えだったりします。
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目覚めたら世界が変わっていた
「……さん、兄さん!」
掠れたテノールの声がしきりに呼びかけてくる。俺は眠っていたらしい。長い夢を、長い悪夢を見ていた気がするが……次第に意識が固まってきた。
見知らぬ天井だ。それこそ転生ものの主人公のような考えが脳裏に浮かぶ。いやまぁ俺が転生したときは、座敷牢か何処かに監禁されていたので天井なんて見えなかったけれど。
それにしても右腕が痛む。烈しい痛みではない。二の腕のあたりを何かが刺さっているような、ささやかや痛みだ。ささやかながらも無視できないのである意味厄介な感覚でもある。
「やっと起きたんだね、兄さん」
感極まった声音で告げるのは一人の少年だった。今にも俺に抱き着かんばかりのそぶりを見せている彼を見て、俺は首を傾げた。兄さんと呼びかけるその少年は恐らくは雪羽なのだろう。だがすぐに目の前の少年が俺の知る雪羽であるとすぐには結び付かなかった。
何と言うか、随分と大人びた姿になっていた。というよりも一挙に成長した感じにも思える。俺はそこで言い知れぬ不安がこみあげてきた。
「俺は……俺は……」
「丸一日意識が戻らなかったんですよ、雷園寺疾風君」
問いかけにならない俺の呟きに応じたのは女性の声だった。先程まで奥まった所で控えていたらしいが、雪羽や三國叔父さんたちの合間を縫うように俺が寝ているベッドの傍に近付いてくる。声の主は紅藤様だった。
「右腕は中ほどまで半分に断ち割られておりましたからね。ショックで意識を失うのは致し方ない事です」
右腕……右腕! 俺はもぞりと首を動かした。目覚めたばかりで忘れていた状況を、俺は少しずつ思い出していた。そうだった。俺はカマイタチに襲われて右腕を斬られたんだった。膝をついた所だけは覚えている。それから、変わり果てた腕を見てそのまま失神したんだ。妖怪として生きているというのにグロ耐性が付いていないとは我ながら情けない話だ。
さてああだこうだ思いつつも、俺は腕の状態を見る事にした。右腕がどうなっているのか見なければ今後の見通しは立たない。流石に半分に断ち割られたままという事は無かろう。だがもしかすると、どうにもならないという事で切断されているかもしれない。
うっすらと吐き気を覚えつつも、俺は視線を向ける。
「……!」
右腕はあった。無事だった二の腕辺りには注射針が当然のように刺さっている。それ以外は特に何ともない。生々しい傷はおろか、古傷さえ残っていない。再生したという事なのだろうか。まぁ確かに妖怪の生命力は強いけれど。
「傷に関しましては、培養した細胞で埋め合わせて癒着させました。癒着と再生完了率は99.96パーセントではありますが、念のため数日間は右腕は酷使せずに様子を見てくださいね」
「培養した細胞で癒着……ですか?」
重要と思しき単語の一連を俺はぼんやりと繰り返した。紅藤様の研究者肌はこの世界でも健在だった。彼女は夕飯の献立を告げるような口調で俺への処置を言ってのけたのだ。解らない単語だらけだったけれど。
そうです。俺の問いかけに対して紅藤様は何故か笑みをたたえた。
「実は前に疾風君と雪羽君にお会いしたときに、落ちていた体毛から細胞を採取しておいたのです。お二人とも本家では色々と大変な目に遭っていたと聞きましたし、もしもの時のためにと思っての事ですわ。
それにしても、まさかこんなに早く培養細胞を使う事になるとは予想外でしたが」
返す言葉もなく、俺は紅藤様から視線を外す。雪羽や三國叔父さんたちを見やるも、誰も彼も神妙な面持ちで俺を見つめ返すだけだった。
紅藤様は凄い。しかしそれ以上のヤバさを垣間見た気がした。
兄さん。雪羽が俺に呼びかける。親しみの籠った声と表情であるが、雪羽の姿も声も俺が見知った物ではない。優しくて愛らしくて少し気弱だった弟にはもう二度と会えないのだ。俺の脳裏にはそんな考えが浮かんでしまった。
弟であるはずなのに俺よりも一足飛びに成長した雪羽は、ゆっくりと俺に近付いてきた。半身を起こした俺の身体を抱きしめている。幼子が縋りつく相手を抱きしめるような抱擁ではない。壊れ物を扱うような、繊細な抱擁だった。
「俺、とっても不安だったんだ。強くて優しくて俺の事を大事に思ってる兄さんが……血だらけになって倒れてたから」
少しだけ身体を離し、雪羽は俺をじっと覗き込む。翠の瞳は鋭い輝きを放っていた。
「兄さんはさ、ずっと俺の事をそのままで良いって言ってくれたよね? 弱虫でも甘えん坊でも優しい子ならそれで良いって。
でも兄さん。それじゃあ駄目なんだって気付いたんだ。優しいだけじゃどうにもならないもん。大切な誰かを護るためには――強さが必要なんだ」
強さが必要。雪羽のこの言葉は俺の脳裏で何度も何度もリフレインされていく。俺が転生してからずっと怖れていた事が近づいているのだ。雪羽の腕の中で俺は密かに震えていた。
雪羽を優しく大人しい子に留めようとしたのは、ひとえに彼が長じてゲス野郎になるかもしれない事を危惧しての事だった。悪役という役回りではあるものの、雪羽は賢い子だった。強さとか暴力とかそう言った面に触れなければ、賢く穏やかな青年に育つだろうと俺は踏んでいたのだ。
しかし雪羽は自らその道をかなぐり捨てたのだ。しかもそのトリガーは他ならぬ俺だ。
「兄さん。俺はもう大切な誰かが傷ついたりいなくなったりするのを黙って見る事なんて出来ないんだ。それに雷園寺家次期当主も目指しているんだ。だから、だから――」
雪羽の声は途中で震えていた。その翠眼はもしかしたら涙で潤んでいたのかもしれない。しかし雪羽を恐れてその顔を見なかったから、実際の所はどうなのかは解らないけれど。
転生者が混入する事で「原作」の世界が変わる事はあるのでしょう。
しかし、変化が全て転生者の都合の良い方向に転がるとは限らないのです。
それはさておき恋愛描写が無い? と思ってる方もいらっしゃるかもしれませんね。
主人公たちは人間で言えば十歳前後です。まだ恋愛とかいう年齢じゃあないんでしょうね(小並感)
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知ってたか、青い薔薇って存在しないんだぜ(ドヤ顔)
結局のところ、俺は三日後に退院する事になった。妖怪的にもまずまずの治り具合なのだとか。三國叔父さんの部下たちが代わる代わるお見舞いに来てくれていたけれど、付きっきりでいたのは弟の雪羽だった。あと春嵐さんもそうだったかな。
雪羽はやっぱり俺よりも少し成長した姿になっていた。弟の方が急成長した事について、悔しいとかそう言う気持ちはない。ただただ不思議だった。何しろ数日前までポヨポヨした可愛い子供だったんだぜ? それが今では少年と呼んでも遜色ない年恰好にまでなっているんだからさ。
大人妖怪たちによると、こういった現象は時々ある事なのだそうだ。
妖怪たちは肉体を持った生き物であるけれど、精神的なものにもかなり左右される存在らしい。そもそも妖力を用いた妖術が、使い手である妖怪の思考を反映しているという側面もあるくらいだし。
俺がカマイタチに傷つけられたのを目撃した雪羽は、兄である俺を護りたいと、護るための強さが欲しいと切望したらしい。雪羽は元々からして雷園寺家を慕っていた。そして雷園寺疾風は、何と実母の仇を探し出し罰を与えようと子供ながらに画策していたらしい。それ故に返り討ちに遭い座敷牢に押し込められていたそうだ……その辺りは俺も覚えている事ではないけれど。
雪羽が俺を慕うのも無理からぬ話だった、という事だ。そもそも彼はおのれの家柄を誇りに思っていたし、当主だった母親の事を敬愛してもいた。その情愛が兄である俺にも向けられていたのは当然の流れでもある。実の兄で自分と共に本家を追放された男なのだから。その上本家から迫害された理由が、実母の死を追求するためとなればなおさらだろう。
物語の修正力。そんな言葉が俺の脳裏をかすめていく。今までは修正力という物は殆ど気にせず、鼻で笑っていたくらいだった。何しろ原作では雪羽には兄がいない。長男だった雪羽を差し置いて雷園寺家の長男として俺が存在する。それだけで原作とは違った動きを見せているではないか、と。
だから原作の理不尽な流れを粉砕し、俺が望む未来――弟である雪羽との平穏な暮らし――をつかみ取る事が出来るのだと俺は思い込んでいた。実際雪羽は兄である俺にも懐き、原作とは異なり素直な良い子に育っていたではないか、と。原作では一人だけ引き取られたという事もあり、三國叔父さんに甘やかされて増長していただけに過ぎないのに、である。
いや違う。増長慢心していたのは俺だったのだ。カマイタチに襲撃され、雪羽が力を欲するようになった事実を咀嚼しながらそう思うほかなかった。実は雪羽はカマイタチともなじみ深い存在である。アニメ内で源吾郎と相対するとき、彼は取り巻きとしてカマイタチを従えていた。また過去に、雪羽自身がカマイタチに襲撃されて返り討ちにしたと述懐するシーンもある訳だし。
弟や春嵐さんに看病されながら、俺は前世の事をぼんやりと思っていた。前世で見聞きしたアニメや漫画の事を。元々はオタクだった俺は色々な漫画やアニメの知識がある。その中には時間遡行ものや過去をやり変える物もあった。それらの作品にも、修正力の影響が示唆されていなかっただろうか? 過去の事件を抹消するために主人公が動く物語では、過去を知りつつ動いたにもかかわらずオリジナルと同じ展開になったシーンがどれほどあったというのだろうか?
――いやしかし。あれこれ感がるのも杞憂だ。
最悪の結末、みたいなものが脳裏をよぎる前に俺は考える事を放棄していた。良くも悪くも切り替えの早い雷獣の特性なのだろう。
壁に掛けられたカレンダーを見る。転生してから数年が経った。いつの間にか平成の世に突入している。しかしまだ猶予はある。雪羽が本格的に懲罰を受けるのは源吾郎と相まみえた後の事だ。だがまだ源吾郎はそもそも産まれてもいない。あとまだ四半世紀はあるのだ。
それならばまだ巻き返しは出来るだろう。俺はそう思う事にした。
※
「マレビト君。快復祝いに来ましたよ」
八頭怪がまたも俺の前に現れたのは夜中の事だった。どうにも寝付けなくて台所で水を飲んだ帰りの事だった。やつはごく当たり前のように廊下に控えていて、ついでに青い薔薇を抱えていた。
「快復祝いに薔薇を持ってくるなんて、あんたも大概ロマンチストだなぁ」
憎まれ口を叩いてやったのだが、八頭怪は嬉しそうにほおを緩めただけだった。
「ふふふ。ごらんよマレビト君。これは青い薔薇だよ。今のキミに似合う花言葉だと思わないかい? 知ってるかな、青い薔薇には『夢がかなう』という花言葉があるって事を」
いや失敬。八頭怪はわざとらしく咳払いすると言い添えた。
「ああ、『夢がかなう』って言う花言葉はまだなかったね。だけど
さあ受け取って。俺は青い薔薇を受け取るほかなかった。慄然とした思いで。八頭怪が唯者ではない事は知っていた。しかしその一端が垣間見えた気がして俺は震えていた。青い薔薇の花言葉について言及した彼は、暗に未来を見通している事を俺にほのめかしていたのだ。
それに今の青い薔薇の花言葉も不吉そのものだ。そもそも青い薔薇は自然には存在しない。ゆえに「不可能」「存在しない」という花言葉があったくらいなのだ。いや……青い薔薇が作られていない今ではそちらの意味しかないと言った所だろうか。
表向きは夢がかなうだのなんだのと言ってるが、八頭怪もこちらの意味の花言葉を知らないとは思えない。だからこそ不吉そのものだった。
「男に花なんぞ贈るとはよほど暇なのかい? それに俺は、あんたを呼んだつもりなんかないんだけど」
「あらあらマレビト君。そんなにツンツンしなくても良いじゃないか。まださ、ツンデレが世に浸透するには時間がかかるんだからさ」
こいつやっぱり未来を知っている事を隠そうとしないな。そう思っていると八頭怪は言葉を紡いだ。
「表面的にはボクを呼んでいないつもりかもしれない。だけどさ、今後の身の振り方とかどうしようか心配で仕方がないんじゃないの? ――特に急に逞しくなった弟の事とかでさ」
「…………」
俺は押し黙ったまま八頭怪を睨む。まさしく彼の言うとおりだった。力を欲した雪羽の姿に、どうしても原作の屑な雪羽の姿を見出しかけてしまったのだ。あのままだったら……と。
「というよりも、マレビトである君をもってしてもこの世界の流れには逆らえないとか、そっちの方の悩みがあるのかな?」
またも俺は沈黙を貫く。だがそれこそが答えだと受け取ったらしい。八頭怪はころころと笑い始めていた。
「成程ねぇ、そんな事でチマチマ悩んでいるなんて可愛らしいねぇ……ふふふ。初めてボクに会った時の事を覚えてる? あの時キミは未来なんか変えてやるって息巻いていたじゃないか。その時の勢いはどうしちゃったのかな?」
弟が原因で破滅しない方法を知っている。蜜のように滑らかな声音で八頭怪が言う。俺は……俺はその言葉に喰いついてしまった。
俺の態度の変わりぶりに八頭怪は目を細め、笑顔のまま言い添えた。
「弟によって破滅がもたらされるのならさ、あらかじめその弟をキミが自ら殺しちゃえばいいんだよ? ふふふ。そうすればキミはもう弟君が堕落していく姿を見なくても良いし、堕落した弟に巻き込まれて破滅する事も無いんだよ。簡単でしょ?」
八頭怪の申し出に俺は絶句するほかなかった。雪羽を殺す。そんな事は考えてもいない事だ。
「物語の流れを変えたいんだったらさ、そこまで考えても良いと思うけどね。ふふふ、キミだってもう解ってるでしょ。この世は殺すか殺されるかだってさ。マレビト君。決意を胸に抱くんだ。そうすれば世界を変える事だって訳ないよ」
高笑いと共に、八頭怪はそのまま退場していった。俺は青い薔薇を握りしめたまま呆然と立ち尽くしていた。
薔薇と言えば棘があると相場が決まっているが、俺の手の平に食い込む棘などは一本もない。
青い薔薇の花言葉に「不可能」「あり得ない」があるのは前々から知っていましたが、「存在しない」があるのは執筆中の調査で知りました。
原作では「存在しない」キャラに対して「存在しない」という花言葉がある青い薔薇を渡す……怖すぎィ!
ちなみに八頭怪君が物語の時代とはちぐはぐな言動をするのにも意味があります。
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決意対決意――兄弟でも退けぬ争いはあるんだよ(迫真)
雪羽を殺せばいい。八頭怪の言葉は俺の中で呪詛のように渦巻いていた。いや実際に呪詛みたいなものだ。高笑いをBGMに彼の提案が脳裏に浮かんでくるたびに、俺は八頭怪に怒りを感じるばかりだった。
八頭怪はああ言っていたが、俺が雪羽を殺すなんてありえない話だ。
人間としての意識のために、他の妖怪を殺す事への抵抗があるから? いや違う。俺は、俺は――雪羽を弟として愛しているからだ。
もちろん最初は自分が平穏に暮らすためにと利用していた節もある。しかし雪羽と接しているうちに、情が湧いてきたのだ。雪羽やほかの妖怪たちは書き割りの物語の中の登場人物に過ぎないのかもしれない。しかしそう割り切って過ごす事は出来なくなった。俺にとってはこの世界は現実だし、雪羽も三國叔父さんたちも血の通った存在だ。
或いは……と、俺は敢えて八頭怪の言葉を好意的にとらえる事にした。殺すというのは敢えて過激な選択を例示しただけに過ぎないのではないか、と。裏を返せば原作以前のこの世界は未確定な部分が多い。未確定であるからこそ、様々な選択ができるのではないかと。
であれば雪羽を殺さずとも彼の考えを軌道修正する事も可能なはずだ。俺は密かにそう結論付けていた。
――なんだ。やはり同じ結論に辿り着くだけじゃあないか。
考えを巡らせていた俺は密かに笑みを浮かべていた。八頭怪に惑わされたと言えども、正しい答えを俺はきちんと持っていたのだ、と。
弟が道を踏み外した時に正すのは兄の役目だ。幸い俺は精神的にも年長である。その役目を果たすには十分だろう。
※
「ただいまぁ、叔父さん、月姉に春兄ぃ。今日はお客さんもいるからね」
土曜日。ぶらっと外出した雪羽が戻ってきたのは夜の十時前だった。俺の怪我が治ったのを見届けるや、雪羽はひとりで外出する事が多くなっていた。三國叔父さんはそれを許容していたけれど。
「あら雪羽君! お客さんは良いけれど泥んこじゃないの……血の臭いまでしているわ」
出迎えた月華さんは困り顔で雪羽を見ていた。雪羽は叔母であり養母でもある月華さんに対してニコニコと笑っていたが、指摘通り土埃と多少の血でその服を汚していた。隣にはおどおどした表情の子供妖怪が一匹控えている。よく見なくてもアライグマの妖怪だった。
「まぁちょっと引っかかれたり殴られたりしたけどさ。俺は大丈夫」
叔父さんの真似事をしただけだよ。そう言うと月華さんの表情が何故か和らいだ。それよりも、と雪羽はアライグマ妖怪の背中を押す。
「月姉。この子のご飯も用意してほしいんだ。俺の分が少なくなっても構わないよ。なんせこの子、余所者だって事で苛められてたから」
「それじゃあ、雪羽君はこの子を護るために闘ったのね」
そうだよ。そう言って微笑む雪羽の姿は、善良な好少年にも獰猛なチンピラ小僧にも見えた。どちらが真の彼なのかなどと野暮な事は考えない。今の雪羽は両方を併せ持つ存在なのだろう。
ご飯の前に傷の手当てをしましょうね。某ゲームのママみたく優しい声を出しながら、月華さんは雪羽の手を取っていた。ここに春嵐さんがいればまた違った展開になっていただろう。しかし間の悪い事に、春嵐さんは仕事の関係で出張中だ。戻ってくるのは確か来週の半ばだ。
要するに、俺が早いうちにどうにかしなければならないって事だ。
「雪羽」
俺の声は低くて昏い響きを伴っていたらしい。アライグマの坊やはびくっと身を震わせ、雪羽自身もいぶかしげに俺を見た。但し、雪羽はアライグマと違って怯えたりはしなかったが。
事件を経て肝が据わったという事もあるかもしれない。だがそれ以上に、雪羽が俺を信頼しているからこその態度であるようにも思えた。
「明日お前と話したい事があるんだ。ちょっと付き合ってくれるかい」
構わないよ。そう応じた雪羽の顔は犬の仔のように屈託がない。獰猛さと無邪気さを併せ持つと気付いていたはずなのに、俺は気圧されたような気分になっていた。
※
「話したい事って何かな、兄さん」
日曜日の昼下がり。俺と雪羽は並んで縁側に座っていた。こちらを向く雪羽の顔には疑問の色が浮かんでいる。背は俺よりも高くなっているけれど、その表情はまだ幼くてあどけない。まだ子供なのだ、彼は。
「雪羽。お前最近一人で出かけるようになったよな」
「町のパトロールは長になる妖怪にとって大切な事だよ、兄さん。叔父さんだって若い頃はああいう事をしていたんだからさ」
「パトロールだけで泥だらけ血だらけになるものか」
俺の言葉に雪羽の瞳孔がぎゅっとすぼまった。それでも俺は臆せず言葉を重ねる。
「昨夜だってさ、遅くまで出歩いていたと思ったら血みどろになって帰ってきたじゃないか。パトロールとか言ってるけど、要は妖怪たちと喧嘩してきたんだろ?」
「喧嘩するも何も、あいつらは悪い事をやってたんだ」
雪羽は不満げに鼻を鳴らしていた。俺を見据える両目は鋭い。それなのに独特の柔らかさ優しさを内包しているようにも感じられた。
「――兄さんが言いたい事は大体解ったよ。他の妖怪たちと喧嘩してほしくない。そう言う事でしょ」
そうだよ。頷きながら俺は少し安堵していた。とんとん拍子に話が進みそうだと感じたからだ。説得できればもうこっちのものではないか。
そう思っていたその時、雪羽が一層笑みを深める。いっそ歪んだようにさえ見えてしまった。
「でもね、今回ばかりは兄さんの言う事を大人しく聞く事は出来ないよ」
「な、何だと!」
思わず声を上げる俺に対し、雪羽は物憂げな瞳を向けた。
「俺が強くなろうと他の妖怪たちと闘っているのも、悪い妖怪たちを蹴散らして弱い妖怪を子分にしているのもみんな兄さんのためなんだ。
言ったでしょ? 俺はもう兄さんが傷つくのは見たくないって。本家にいた時も兄さんは、死んだ母さんのために頑張ってくれたんだ。あの時の俺はただ見ているだけしかできなかったから――」
「だが俺は、お前がそう言う事をやっているのは見たくないんだよ!」
またも俺は吠えていた。本当はもっと冷静に諭したいと考えていた。だというのに心の制御が上手くいかない。この見た目と同じく俺の精神は子供に近い物なのか? 雷獣特有の、感情に振り回されやすい性質のためなのか? それとも――雪羽への偽らざる愛情のためなのか?
しかし、俺を見据える雪羽はむしろ冷静さを保っているように見えた。
「ねぇ兄さん。俺よりも兄さんが強ければ、俺もこんな事をしなくても良いって事だよね?」
そうだ。若干の無邪気さを孕む雪羽に対して俺は頷く。雪羽の白い面に、裂けるような獣の笑みが広がった。
「それじゃあ試してみようよ。兄さんが俺に護られなくても強いって事をさ」
翠眼がギラギラとした光を放っている。俺同様に雪羽も決意を固めているのだと、俺は感じていた。
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弟が兄より強かった、だと――
「準備はいいね、兄さん」
「もちろんだ」
力較べという名の対決をする事となった俺たちは、縁側から庭に出ていた。俺は運動用の靴を履いていたのだが、よく見れば雪羽はサンダルだ。癖なのかサンダルの中で足指をピョコピョコと動かしてもいる。余裕綽々と言った感じだ。
三國叔父さんが俺たちと一緒に暮らしているこの家は、亀水の中でも高級住宅街に分類されるエリアに建つ一軒家だ。大豪邸という訳ではないが、その庭は子供妖怪がタイマン勝負を繰り広げるには十分な広さはある。
「兄さん。妖怪として生きていくには優しさとか賢さだけじゃあどうにもならないんだ。それを俺は嫌という程思い知ったんだよ」
俺たちは数メートルほど距離を取り互いに向き合っていた。雪羽の口調は穏やかで物静かであるが、その身を取り巻く細やかな雷撃が今の彼の心中を物語っていた。
「俺よりも兄さんの方が強ければそれで良いのかもしれない。その時は俺も、兄さんの言う事に従うよ。それでも、俺が強くなるって事を邪魔しないでほしいんだ」
「雪羽よ。お前も随分と立派になったなぁ――」
だがそれでも、俺の方が強いんだ。その事をきっちりと解らせてやる。そう思うや否や、俺の身体からも妖気がほとばしった。妖気は雷撃となり、俺も弟同様放電を繰り返していたのである。
「それじゃあ、行くぞ――」
「よろこん――」
雪羽が最後まで言い切る所を俺は聞く猶予はなかった。よろこんで、と言いながら雪羽は何と攻撃を仕掛け始めていたからだ。しかも雷撃を放ったのではない。その身に雷撃をまとったまま、俺に向かってタックルしようと躍りかかってきたのだ。
俺は身をずらす事で回避できた。だが――これもまぐれのような物だ。雷獣の身体能力の高さでどうにか回避できなような物に過ぎない。そして雷獣の能力に頼っているという事は、向こうにもその術があるという事と同義でもある。
俺も一声吠えて雷撃を放つ。当然のように雪羽はそれらを回避してしまった。俺も雪羽も闘いの素人ではない。萩尾丸さんの所で時々稽古づけて貰っている。彼が従える小雀の若手妖怪たち相手では後れを取らないはずだ。
そこまでつらつらと考えていた俺は、ある事に気付いてしまった。
俺は雷獣だ。しかし雷獣と本気のタイマン勝負を行った事は無いのだ、と。
確かに三國叔父さんは、俺たちが望めば戦闘の真似事に付き合ってくれた。だけど三國叔父さんとのそれは、叔父さんが手加減に手加減を重ねたじゃれ合いに過ぎなかった。
雪羽とも真剣勝負をした記憶はない。そりゃあまあ最初の数年間、元気になった頃とかは俺も弟にじゃれついていた気がする。それでもガチンコ勝負とは言い難いものだった。あの頃の雪羽はまだ気弱で、本気で闘うような相手じゃなかったから。
とにかく雷獣同士での戦闘に俺は不慣れだったのだ。雷獣だというのにこの体たらくとは何と言うギャグだろうか。
もっとも、俺には笑う余裕なんてないけれど。
※
「はぁ……兄さん。まだ、続けるの……?」
「お……おぅ。当、然……だ……!」
勝負は中々決まらなかった。既に戦闘を開始してから十五分、二十分は経っているんじゃあなかろうか。普段の戦闘訓練は数分で片が付く事が多いから、異様に長引いているという事だ。
長引くのも無理からぬ話だ。俺と雪羽の実力が拮抗しているからなのだろう。何せどちらも雷獣だ。妖力も、身体能力も、戦闘方法もほぼほぼ同じだ。互いの長所と短所を知っていて、攻めるべきポイントや攻められると弱い所も同じな訳であるし。
だが俺は――内心焦っていた。雪羽に対しては強がって見せてはいるものの、ジリ貧である気がしてならなかったのだ。
とはいえそんな事をやすやすと明かすほど俺も間抜けではない。抜け目なく雪羽の挙動を見据えていた。相手のすきを窺い、カウンターを放つために。
そろそろ俺も疲れてきた。きっとそれは向こうも同じ事だろうから。
「うぐっ」
雷撃を受けて転がったのは俺の方だった。体勢を立て直そうとするも、足がもつれ手に力が入らない。このままじゃあ雪羽が向かってきたらおしまいじゃないか。
そう思っている間にも雪羽が近づいてくる。その両目は驚くほど澄み切っていて、いっそそこはかとない諦観を抱いているようにも見えた。
「僕の勝ちだね、兄様」
そう言うと、雪羽はそっと俺の許に屈みこむ。ご丁寧に、屈む俺に自分の顔が見える位置にだ。
「くそっ……そんな……」
「兄様。これで僕の方が強いって解ったでしょ」
そう言う雪羽の顔にははっきりとした愉悦の色が浮かんでいた。
「僕ね、兄様がずっと色んな事を心配してて、それで強くなったり頑張ったりしていた事を知ってたんだよ。だけどもう、兄様が一人で抱え込まなくて大丈夫。俺ももう後ろでべそをかくだけじゃあないから。俺も俺で、強くなるからさ」
「それじゃあ駄目なんだ、雪羽……」
感極まった俺は声を上げていた。スピッツ犬みたいな甲高いだけの間抜けな声を。
「お前は強くなったら、きっと初心を忘れておかしな考えに取り憑かれる。そうなったら、お前は……」
「僕の事をしっかり見てくれよ、兄さん!」
雪羽の一喝に俺は目を丸くした。しっかり見るだって。俺はずっと雪羽の事を見てきたではないか。原作の事を知っていたから、雪羽が堕落しないように俺はあれこれ気を回していたはずなのに。
呆然としている俺を見て、雪羽は表情を和らげる。翠の瞳は何処か哀しげに輝いていた。
「時々思うんだ。兄さんは僕を見ている時に、本当に僕そのものを見ているのかなってね。僕を見ているように見せかけて、僕じゃない何かを見ている気がするんだ」
何を見ているの? 懇願するように問われた俺は答えるどころではなかった。俺が抱えている秘密の一端を知られた気がして、俺はぶるぶると震えるのがやっとだった。
このお話のヒロイン、弟君になりそうなんですがこれは……
なんてこったい\(^o^)/
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この世界にはリロードは無い
(小並感)
※
気付けば俺はゲームに没頭していた。平成後期に登場したRPGゲームだ。確か周回プレイが出来るゲームだった気がする。いや違う。周回プレイを前提としたゲームだったなあれは。
もちろん一周目でもゲームクリアする事は可能だ。しかしエンディングでは回収できていない伏線がある事を示唆し、キャラクターの言動はプレイヤーに二周目をあからさまに促している。グッドエンドも確か、二周目以降でないと踏めないはずだ。
そうでなくとも、セーブやロードをキャラクターが感知している素振りさえ見せるし、それすらも物語の根幹になっているような、そんなゲームだったな。
――これはきっと、前世での記憶だろう。
真っ暗なゲーム画面に、マスコットキャラクターが飛び出してくる。愛らしい見た目と愛嬌のある言動とは裏腹に、こいつは中々の曲者だ。
「キミは※※※を………た事をなかった事にしようとしてるでしょ? ボクには解るんだよ」
そのマスコットキャラクターが大きくなっていく。大きくなるどころか画面からはみ出し、文字通り飛び出してきた。某ホラー小説の怨霊のように。
飛び出してきたそれは、マスコットキャラではなくあの八頭怪だった。
※
場面が切り替わる。生臭い臭気が俺の鼻腔を刺激してしようがない。血の臭いと焼け焦げた肉の臭いとが入り混じっている。それとともに、見知った匂いが微かに漂っている。その匂いが何であるか俺には解っていた。解っていたけど、解っていたから解らないふりをしていた。
地面に倒れ伏しているのは見慣れた妖怪だった。所々金色に輝く、白銀の毛皮の持ち主だ。伏せているから解らないが、もうあの美しい翠眼が何かを写す事は無い。半ば本能的にその事を俺は悟っていた。
その妖怪の向こう側に、もう一匹妖怪が立っている。多分狐だ。狐だと解ったのは四尾をなびかせているからだった。俺たちのような雷獣の尻尾と異なり、全体的に太い。骨格から太いのか毛足が長くてそう見えるのか俺には解らない。
相手の顔は逆光になっているのか解らない。いや、ここに来てからずっと俺は解らないことだらけだ。
俺はどうすれば良いのだ? 弟の下手人を前にして逡巡してしまっていた。そりゃあもちろん仇を討つのが道理という物であろう。しかし唐突な場面を前にして戸惑っていたのだ。というか、向こうはかなり強いはずだ。雷獣は特化したポテンシャルを持つ者が多いが、妖狐は全体的にまんべんなく優秀な個体が多い。
それにこいつには主人公補正がある――こいつはこの世界の主人公なのだろうから。
そう思っていると視界が変化した。場面が切り替わった訳ではない。周囲の景色がセピア色にくすみ、全てが動きを止めているようだった。俺の隣には、いつの間にか八頭怪が佇んでいた。
彼は血みどろの弟を見下ろしてから、俺に笑みを向けた。野辺の花を見るような笑みを。
「さぁどうするマレビト君? リロードする? リロードしちゃう? 鋭角からのワンコに目ぇ付けられるかもしれないけれど」
「俺は……俺は……」
その後俺が何を言ったのかは解らない。その直後に目を覚ましたからだ。
というか全部夢だったのか。畜生、生々しすぎて現実かと思ったぜ。夢というのは妙にリアリティがあるから始末が悪い。
あ、でも何が現実なのかを見落としてはいない。俺は雷園寺疾風で、「九尾の子孫~」の世界の悪役になる雪羽の兄だ。雪羽はきちんと生きている。俺の隣でぐっすりと眠っているが。
※
「どうしたの兄さん。ぼーっとしてるけど」
雪羽に声をかけられ、俺はハッと我に返った。寝ている間に見ていた夢の事を思い出し、出先だというのにぼんやりとしていたのだ。出先でぼんやりしていれば、そりゃあ雪羽も他の妖怪たちも不審に思うだろう。
しかしそう言う事もある物だろうなと俺は半ば開き直った考えを持っていた。子供の頃は自分が何者なのかと昼日中に思う事はしばしばある。それに俺には確信があった――今のこのシーンを見て、夢の事を思い出したのだろう、と。
俺たちは雪羽に連れられる形で雑居ビルの一室に向かっていた。元々は雪羽が「個人事務所」として目を付けた場所である。でも今は春嵐さんや三國さんの計らいで買い取ってあるはずだ。あの日から雪羽は強くなる道を選んでしまった。俺も雪羽以上に強くなろうと頑張っているのだが中々上手くいかない。そうこうしているうちに雪羽は取り巻きを……部下を増やし始めた。既にもう原作に近い流れが出来始めている。
俺は面接と称して善からぬ考えを持つ輩ではないかどうかを選別しているのだが、その事はもちろん雪羽は知らない。
雪羽の部下たちは今までは男の妖怪ばかりだったのだが、今回はちょっと事情が違う。雪羽は、俺たちは大胆にも女妖怪をひとりこの雑居ビルに連れてきていたのだ。女妖怪と言っても、俺たちよりも少し年上と言った位の少女だ。やや化粧が濃く、甘ったるい体臭の奥からは不摂生の影が見え隠れする。
チンピラ妖怪に絡まれていた所を雪羽が撃退し、それで彼女を連れて自分の本拠地に来ているのだ。テンプレっぽい流れである。それこそ、親の顔より見た展開とも言えよう。
そんな雪羽に追従しながら、俺はずっとこんな事を考えていた。
この世界にはリロードもリセットもないであろう事を。少なくともタイムリープや時間遡行みたいな能力をこの雷園寺疾風が持っている気配はない。
つまりは一度間違えればそれで終わりという事でもある。もちろん、かつて縁があったマークシート試験と異なり、幾つもの要因を重ねて判断しなければ、その選択が正しいか正しくないかは解らない訳だけど。
しかし妖怪の少女を連れ込むという行為が、今後何か大きな変化点になるのではないか、という考えが頭に取り憑いて離れてくれなかった。
リロード・リセットの能力を持たぬ事は幸せな事なのか残念な事なのか。それもまた今の俺には判断しかねる案件だった。
お気付きの人もいると思いますが、結構猫蔵はアンテの影響を受けておりますね。
時間遡行物は「僕だけがいない街」もよく読んでいました。
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連れ込んだギャルの呟きに弟は興奮してしまいました
取り巻きの妖怪たちと共に妖怪の少女が埃っぽい雑居ビルの一室に足を踏み入れる。一見すると化粧の濃いギャルに見えなくもないが、白っぽい尻尾が彼女の本性を示していた。彼女はハクビシンの妖怪である、と。
余談だが「九尾の子孫、~」では雷獣はハクビシン妖怪に近く、また鵺とも近縁種である事が示唆されている。食事がやや草食寄りなのも、鵺と親しいのもそのためらしい。
そう言った雷獣の本能が作用しているのだろう。雪羽はハクビシンの少女に興味津々と言った様子だ。そりゃあまぁ、雪羽もお年頃だ。少女に興味を持つのもまぁ自然な流れだろう。兄である俺にべったりというのも色々といびつだし。
「雷園寺さん。ここって一体……」
「個人事務所だよ。俺の……ううん、俺たちのね」
雪羽はそう言うと手近な椅子に腰を掛ける。埃が勢いよく舞い散っている。光を反射し輝く埃が後光のように雪羽を取り巻いているが、美しいのかばっちいのか判断しかねる光景だ。でも雪羽は気にせず気取った様子でそこにいる。
「言ったよねお姉さん。助ける代わりに俺の言う事を聞くってさ」
「そうね。そうだったわね」
美少年らしからぬねっとりとした笑みを浮かべる我が弟と、彼を真正面から見据えるハクビシンギャル。雪羽には何か腹に一物あるのだろう。まさかエロい事でも考えているのか雪羽? 全くけしからん奴だな。俺という物がいながら……
しまった少し考えが横道に逸れてしまった。いやこれは普通に教育上よろしくないのではなかろうか。弱みに付け込んで何かをさせようとするなんて。
雪羽、と俺が呼びかければ良かったのだろう。しかし情けない事に取り巻き性質と同じく俺は雪羽の気に少し圧倒されていた。弟が逞しく育っているのは嬉しい事だが、それ以上におのれの無力さが浮き彫りになるぜ……いやちゃんと鍛えてるんだけど。
「この場所はこれから俺たちが自由に使う場所になるんだよ。もちろん君ももうここに来たから無関係じゃない。俺の……兄さんと俺のために奉仕してくれるね?
ひとまずはここを綺麗にするんだ」
「解ったわ」
勿体ぶって悪役ぶって告げる雪羽は、従えているアライグマ妖怪に目配せする。舎弟として俺たちを慕っているアライグマ妖怪は、バケツと雑巾をハクビシンの少女に渡したのだった。
「こほっ。ここはまだ買い取ったばかりで埃っぽいからな。今日は俺たちと一緒に君も掃除をしてくれたまえ。なに、ちゃんとご褒美も用意しておくからさ」
俺は少しだけずっこけそうになった。エロい事でも起きるのかと思っていたのは全くの杞憂だったからだ。
※
「事務所の掃除で済むとは、雷園寺家の坊ちゃんたちも純な子ばっかりねぇ……」
雑巾で埃を拭いながら、ハクビシンギャルはそんな事をこぼした。見た目は十代半ば程で、俺たち――俺もおそばせながら、雪羽と同じくらいの年恰好の少年姿に成長していた――より少し年上の女の子と言った感じだ。
しかしその物言いは蓮っ葉で、俺たちよりも精神的にうんと年上であると示しているようだった。
実際問題、見た目で妖怪の年齢を把握するのは中々難しい。若い妖怪や子供妖怪ならば、姿と精神的肉体的年齢は大方リンクする。しかし年数経た老齢な妖怪であっても、若々しい姿を取る事があるくらいなのだ。
紅藤様や萩尾丸さんが解りやすい例だろう。紅藤様は既に六百年近く生きた大妖怪だ。しかも妖怪的にも成人した息子たちもいる。孫がいてもおかしくない年齢なのだ。それでも彼女の姿は若々しく、せいぜい二十代半ば程にしか見えない。
萩尾丸さんも三百年以上生きておりやはり大人の大妖怪である。しかしその見た目はやはり若々しい。
まぁつまるところ、ギャルっぽいハクビシン妖怪は、実は俺たちよりもうんと年上なのではないか? という話だ。
「やっぱりお掃除は妖手が多い方が役立つもん。それに女の子の方が、俺ら男子よりもマメに綺麗にしてくれるかなって思ってさ」
ハクビシンギャルの言葉に応じたのは我が弟の雪羽だった。彼もまた箒を手にして埃と格闘中である。箒に触れられるたびに埃は舞い上がるのだが、繊維同士が絡まって不格好なマリモのような姿を見せている。
俺もまた仲間と共に掃除に勤しみつつ密かに笑みをこぼしていた。雪羽の無邪気さに触れられたような気がしたからだった。
ハクビシンギャルはそんな俺たちを見ながら、遠い目をして呟く。
「あなた達は雷園寺家の子供だけど、あの三國さんの甥っ子でもあるでしょ。だからその……三國さんに似てプレイボーイなのかと思ってたのよ」
「叔父貴は月姉一筋だよ!」
ああやっぱりハクビシンギャルは結構年上だったんだ。俺がそんな事を思う暇もなく、雪羽は声を上げていた。
「そりゃあまぁ女の子たちとか女の人たちには優しいというかデレデレしてるけどさ、叔父貴はそんなんじゃないよ」
いつの間にか雪羽は三國叔父さんの事を叔父貴と呼ぶようになっていた。それでも叔父に対する敬愛の念は衰えてはいない。むしろ深まっているようにも思えた。
一方で、俺は三國叔父さんの事について考えていた。原作……アニメでは三國叔父さんが甥の雪羽同様好色な妖怪である事が示唆されていた。しかし妻は月華さん一人だけだったし、愛人や妾がいるという感じの話ではなかった。妖怪の世界では一夫多妻も一妻多夫も容認されるような世界観だったから、むしろ愛妻家という側面の方が強かろう。
無論これは今俺が暮らしている世界でも同じだ。雪羽の主張通り、三國叔父さんは妻である月華さんを大事にしている。よく見れば職場で妖怪の女の子にちょっかいをかける時もあるが、セクハラおやじみたいにねちっこい所も特にないし。
「まぁ確かにそうよね。三國さんも結婚して身を固めたし、甥っ子たちを養子として引き取ってるから遊んでばかりもいられないか」
ハクビシンギャルは手を動かしつつも納得したように呟いた。
雪羽は微妙な表情で彼女を見つめている。雪羽が複雑な気持ちで彼女の言葉を聞いていたのは察しがついた。三國叔父さんと月華さんは俺たちの養父母に当たる存在ともいえる。しかし雪羽は決して二人の事をお父さん、お母さんと呼んだりはしないのだ。そこはやはり複雑な所であろう。実の父は存命であるし、母はこの世にいないが母親は母親一人だけ、という考えがあるのだろうから。
三國さんが雪羽君たちを正式に養子にしているのかどうかは定かではありませんが、彼らの保護者である事には変わりありません。
雪羽君が自分たちをお父さん・お母さんと呼べない事も容認している所が、彼らの愛情だと思っています。
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大人っぽいからと言って預言者ではありません
「それじゃ、俺はちょっと野暮用があるからさ。すぐ戻って来るけれどみんなで頑張ってくれよな」
雪羽がそう言って個人事務所から飛び出していったのは、ハクビシンギャルとのやり取りがあってからわずか数分後の事だった。誰がどう考えても、彼女の言葉にむくれて出ていったように思えてならないぞ。
兄である俺が引き止めれば良かったのだろうが、他の妖怪と協力して机を運んでいる最中だったからどうにもならなかった。
「雪羽さまってば。用事があるなら僕にも声をかけてくだされば良いのに……」
名残惜しそうに雪羽が立ち去った所を眺めているのはアライグマ妖怪の坊やだった。彼は第一番目の取り巻き、手下に当たる。窮地を助けられたためなのか、彼は無邪気に雪羽や俺の事を慕っていた。
「すまないねぇ河渡君。弟のわがままに振り回されてしまって」
アライグマ妖怪を眺めながら、俺は言葉を紡いでいた。
「弟は、雪羽は最近ちょっとわがままになってきちゃってね。ああして気まぐれに動く事が度々あるんだ。前までは素直に兄である俺の言う事を聞いてくれていたというのに……」
雪羽の手綱を握れていないのは俺に責任がある。そう言う心づもりがあったから俺はそんな事を言っていた。しかし、怪訝そうな表情で首を揺らしたのは他ならぬハクビシンギャルその妖だった。
「あら。別にあたしはあの子が特別わがままだとは思わないわよ。というか、あなた達くらいの年恰好だったら、そろそろ反抗期とかがあってもおかしくないもの」
やっぱりこの人年上だわ。お姉さん妖怪じゃなくてお姉様妖怪かもしれんな。
そんな事を思っていると、彼女の視線は真っすぐ俺に向けられた。
「疾風君だったっけ。むしろあなたの方が落ち着きすぎて子供っぽくないって感じがするのよ……あたしの気のせいかもしれないけれど」
「疾風様は大人っぽいからねぇ」
「うんうん。雪羽様と良いコンビだと思うけどなぁ」
他の妖怪たちが納得したりフォローを入れたり(?)する中で、俺は心臓をわし掴みにされたような気持になっていた。
俺が大人っぽく見えるのはまぁ事実だろう。外側は雷園寺疾風という妖怪の少年であるが、中身は前世の人間、それも成人男性の意識なのだから。疾風本来の意識は何処に行ったのかは定かではない。もしかしたら拷問を受けて投獄された直後に瓦解してしまったのかもしれなかった。
ともあれ俺は、俺の転生者としての本性が見抜かれているのではないかと恐れていたのだ。
転生者であるという事は八頭怪以外の皆には隠し通している。もちろんこの世界でも転生という概念はあるらしい。というか妖怪であれ人間であれ動物であれ、死後は解脱しない限り何かに転生するという世界観であるようだ。
しかしだからと言って、この世界がアニメであったという世界から転生してきた俺を受け入れる程度量は深くないだろう。異物異端として白眼視し始めるのではないかと俺は思っていた。
八頭怪に知られてしまったのは事故みたいなものだ。いや……あいつは幾重にも重なった次元を知っていると言っていた。俺が何も言わなくても察していたかもしれない。
「それにそもそもからして雷園寺家のお坊ちゃまたちには既に色々噂もあるしね。雪羽君は年相応にヤンチャながらも見た目以上の力を持つ妖怪として、そして疾風君に関しては――未来予知の能力を持つってね」
未来予知の能力。そう言ったハクビシンギャルの瞳を俺は覗き込んでいた。冗談めかした気配はない。周りで預言者だの予知能力者だのと言い合っている子供妖怪たちは面白がってるみたいだけど。
「未来予知だなんてとんでもない。そんな大それた能力があったら……」
弟を持て余したりしませんよ。そう言いかけて俺は口をつぐんだ。そもそも弟を持て余すと俺が考えている事自体が不自然であると気付いたからだ。俺は、雷園寺疾風は確かに雪羽の兄に当たる。しかし同い年の兄なのだ。兄弟姉妹の序列は妖怪の中にもあるけれど、同い年であればその権限も大きくない訳だし。
それに妖怪たちは預言者の話で盛り上がっているが、それも考えてみればそう不自然な話でもない。預言者と言えばあの有名なノストラダムスの大預言が存在している。一九九九年に恐怖の大魔王が降臨するとかいうアレだ。今はまだその預言の日まで九年ほどの猶予があるが……おりしも預言ブームが訪れているらしい。
そこに来て未来予知ができる(と思われている)俺の存在と来た。俺の周囲の若妖怪たちは、来るべき預言の日への興奮と俺の能力とを重ね合わせているらしいのだ。
そう言えば雪羽も預言の日は気になるらしく、アトラとかいう雑誌を買ってもらって読んだり俺に読ませたりしていた。あの時島崎という名を見つけて密かに驚いたのは内緒だ。添えられた顔写真が、あの島崎源吾郎に生き写しだったからだ。
まだ世は平成に入ったばかり。平成中ごろに生まれた源吾郎はまだこの世にいないはずではないか――? そう思っていたら写真の人物は源吾郎ではなかった。さりとて赤の他人ではない。源吾郎の実の父、島崎幸四郎だったのだ。
源吾郎の父親はアニメではほとんど登場しないが、確か源吾郎の容姿は父親似である事が明言されていた。仕事は何をしているかは明らかではなかったものの、まさかオカルト雑誌に登場しているとは。
「やぁただいま。みんな頑張ってるからさ、差し入れを用意してきたよ」
そうこう思っているうちに雪羽が戻ってきた。彼はレジ袋を片手に提げてブラブラさせている。白いレジ袋の中身が透けて、缶ジュース類が入っているのがうっすらと見えた。
「お腹もすいてるだろうから、出前も呼んでるんだ。何、俺のポケットマネーだから、お金の事とか気にしなくて良いよ」
雪羽はさも気前が良さそうに笑っている。ご褒美とはこの事だったのかと俺はぼんやりと思っていた。
実は島崎君は1999年生まれだったりしますが、別にノストラダムスの予言とは無関係です。
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玉藻御前の末裔(♂)が俺を化かしに来たんですが
「ちゃんと人数分買って来たけれど、好みとかがあるだろうから色々なのを買ってきたんだ」
雪羽はそう言うと、レジ袋を比較的綺麗な台の上に置き、慣れた手つきで缶ジュースたちを取り出していく。雪羽に従う若妖怪たちは、取り囲むような形で様子を窺っていた。
全てを並べ終えると、雪羽はちょっと気取った様子でハクビシンギャルの方に近付いた。
「お姉さん。まずはお姉さんから選んでよ。お姉さんが選んでから、俺らは何を飲むか決めるからさ」
「掃除を手伝っただけでここまでしてくれるなんて至れり尽くせりね」
「俺たち、お姉さんが働いてくれて助かったからさ」
相変わらず蓮っ葉な物言いをするハクビシンギャルに対し、雪羽ははにかんだような笑みを見せている。やっぱ可愛いわ。
さてハクビシンギャルは缶ジュースをしげしげと眺め、アルコール類が無いのを確認していた。それから雪羽の方に色っぽい笑みを浮かべたかと思うと、ソーダ水の缶を選んだのだった。
「さて他の皆。お姉さんがジュースを取ったから好きなのを選んで良いぞ。欲しいのがかち合ったからって喧嘩しないようにな」
ジュースを取るように促す雪羽は小学校の若教師のようで俺は思わず笑みをこぼした。確かに今の雪羽も若い妖怪たちを武力で従えて手下にしている気配はあるにはある。しかしきちんとリーダーとしての任務も果たそうとしている所が微笑ましかった。
いや……雪羽は三國叔父さんの事をよく見ているのだ。叔父さんも雪羽のそれと規模は違えど妖怪たちを抱え、従えるリーダーであるし。
そんな事を思ってホクホクしていると、急に雪羽が俺の方を向いた。
「あ、待って。兄さんが先に取ってから好きなのを選んでくれよな。
さ、兄さん。まだいろいろな種類があるから、先に好きなのを取っても良いよ」
唐突な身内びいき兄びいきに俺はびっくりして目を丸くした。
たった今雪羽は部下たちに好きなのを喧嘩せずに選んでも良いと言い放ったばかりである。朝三暮四も真っ青な撤回ぶりではないか。
雪羽。兄を尊敬しているのは解るがそんな事を言っていいのか。外様であるハクビシンのお姉さんもいるじゃないか……恨みがましい眼差しを向けてみたものの、雪羽は涼しい顔で微笑むだけだ。
ならばと周囲の妖怪たちに視線を向ける。彼らに不平の色は無かった。むしろ雪羽の無茶ぶりに納得し、それで構わないと暗に言っているような眼差しを向けているではないか。彼らは雪羽に従っている妖怪だ。だが雪羽が俺の事を兄として慕っているのを知っている。だからこその態度なのだろう。
居心地の悪さと申しわけなさをひしひしと感じながら、俺は息を吐いた。
「雪羽。俺は最後に選ぶよ。皆を差し置いて選ぶのも気が引けるしさ。それに何より、残り物には福があるって昔から言うし」
俺の言葉に皆は納得したらしく、平和につつがなくジュース選びが始まってくれた。
※
最後に残っていたジュース缶を俺が取るのを見届けてから、雪羽が乾杯の音頭を取った。何故乾杯なのかは解らないが、そこはまぁそう言うテンションだったから、という事なのだろう。現に俺も明るい気分になり、河渡君や雪羽、或いはハクビシンギャルなどと乾杯をやっていた。缶ジュースだけど。
「やぁこんにちは雷園寺家のお坊ちゃま方。出前を届けに来たよ」
そうして妙に盛り上がっている所に、どたどたと音を立てながら一人の妖怪が駆け込んできた。俺たちと違って大人の妖怪である。厨房の料理人みたいな衣装を身にまとっているけれど、腰からはゴボウのように細長い尻尾が一本ぞろりと伸びていた。
彼は堀川さんという。
そんな堀川さんだから、もちろん俺たちの要望で料理を届けてくれるのもごく普通の話だ。
しかし、やってきておかもちを置く堀川さんに対して俺は違和感を抱いていた。巧く言葉に出来ないけれど、何か普段の堀川さんと違うような気がしたのだ。
「あの、失礼ですがどちら様でしょうか」
堀川さん(?)と思しき妖物に近付いた俺は、気付けば疑問を投げかけていた。兄さん、疾風様……と周囲は驚きの声を上げている。そりゃあそうなるよな。他の皆ももちろん堀川さんの事は知ってるし。俺も内心どうしようかと思っている。堀川さんが別人であるなんて言う確証は実は無い。もし本当の堀川さんだったら土下座ものじゃあないかな。それこそ尻尾をまた詰めないといけないとかだろうか。
「どちら様っておかしいなぁ。君らは僕の事はよく知ってるんじゃあないの。それじゃあどうしてそんな質問をするのかな」
堀川さんはニコニコしながら問いかけてくる。その口調はもういつもの堀川さんとはまるきり違っていた。やっぱり別人だったんだ。そう思ったものの俺は舌が縮こまったのか上手く喋れなかった。
「ああ、ごめんな坊ちゃまたち。俺も大人げなかったよ。若い子を騙してからかうなんてなぁ……」
言うや否や堀川さんの身体の輪郭がブレて、その姿が一変した。堀川さんだと思っていたのは妖狐の男だったのだ。ふさふさとした黄金色の三尾は、明らかに彼が妖狐である事をこれでもかと主張している。
それにしても三尾である。確かに俺も四尾で雪羽も三尾になっているけれど、やはり尻尾の数が増えると妖気も増えていくのだと思い知らされるような相手だった。そもそも妖狐でも猫又でも雷獣でも尻尾の数が生まれつき多い事は珍しいらしい。ちょっと才能のある個体は若いうちに二尾くらいに増えるけれど、それ以降は才覚とか努力とかが段違いでないと到達できない域にあるという事らしい。
だからこそ、例えば「九尾の子孫、~」の主人公である源吾郎などは、若くして四尾という事でめちゃくちゃ強かったわけであるし。
ともあれ目の前の妖狐に俺も緊張していた。四尾である俺の方が妖力は多いのかもしれない。しかし自然体に見えて隙を見せないその姿は強者感が滲み出ている。というか彼は何者だろうか。本物の堀川さんはどうなったんだろうか。まさかとは思うが……
そんな事を思っていると、妖怪の誰かが声を上げた。
「だ、誰かと思えば苅藻様じゃあないですか」
苅藻。その名を聞いた俺はまた更に強い驚きの中に放り込まれてしまった。苅藻の名は知っている。玉藻御前の孫の一人であり、主人公の源吾郎の叔父(母親の弟)に当たる人物だ。まぁ確かに源吾郎と雪羽は縁のある存在だけど、苅藻さんもそうなのだろうか。
というか苅藻さんは何故ここに来たのか。それをまず尋ねないと。
そう思って見たものの、俺はまたしても出鼻をくじかれてしまった。本物の堀川さんがやってきて、個人事務所はちょっとした混乱の渦が出来てしまったのだから。
何かこの話、男子ばっかり登場している気がしますねぇ。
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才能なんて指摘されないと解らない
あ、今日は休みですよ(笑)
雪羽が力を求め若い妖怪を部下として従え始めてから五、六年の月日が流れた。
バブルとかそう言ったものの昭和末期の空気を引きずりながらも、徐々に新しい時代、平成の時代へと移り変わろうとしているのを俺はひしひしと感じていた。俺は平成の世になる事に懐かしさも感じていた。雷園寺疾風として生きつつも、人間としての前世の記憶を保有するが故の事であろう。
前に俺が言ったとおり、パソコンなるモノも三國さんの組織で導入される事になった。あの巨大なマイコンとは似ても似つかぬ、最新鋭のラップトップもだ。文庫本よりも分厚い本体は駅弁を連想させるが、それでも机大のマイコンよりも随分とスリムでスタイリッシュに見えた。
鍛錬は相変わらず続けていたが、力で雪羽を従わせる道は数年前に諦めていた。
理由は至極単純。雪羽の方が俺よりも強いからだ。尻尾の数は俺の方が多いのに。そりゃあまぁ、妖力の保有力だけを見れば俺の方が上回ってはいる。しかし何というか、闘いのセンスは雪羽の方が断然勝っていた。しかも決意をキメてからの雪羽は、前以上に積極的に鍛錬に励んでいる。雷園寺家の当主になるという目標も彼の原動力であるし。どうしても俺は後れを取る形になってしまったのだ。
とはいえ俺も座して何もしない訳ではない。来るべき原作の流れに対して俺も出来得る限りの対策を講じている。雪羽が悪役に転じた時、兄である俺もとばっちりを受けるのは御免被りたいし、何より大切な弟が破滅するかもしれないと知ってぼやぼやなどしてはいられない。
強い兄として雪羽を導くという第一プランが通用しなくなったので、俺は裏でアレコレ手を回す事にした。具体的に言えば雪羽の従える妖怪たちの選別と指導だ。原作での雪羽は、甘やかされていた事で増長し、取り巻き連中によって酒の味や女遊びを覚えた事が示唆されている。であれば悪い友達を排し真面目な連中だけを雪羽の許に残しておけば何とかなるのではなかろうか?
若妖怪たちのひととなりを調べてああだこうだと選別するのは中々に骨の折れる作業ではあった。しかしこれも俺と雪羽の幸せな未来のためであるから致し方なかろう。労せずして報酬が得られるほど甘い世の中ではなかったのだ、この世界も。
それでも若い妖怪たちの殆どが、俺にも一目を置いている事が幸いした。理由を付けて素行の悪そうな妖怪を雪羽から遠ざけようとしても、俺の言に従ってくれるわけだから。
雪羽よりも俺は弱いものの、若くて未熟な一般妖怪をひれ伏させるには十分な力を俺は持ち合わせていたらしい。やっぱり鍛錬って大切だな!
※
「疾風お坊ちゃま。今週は私と一緒に取引先の営業に向かいましょう」
俺が営業活動を行う。営業担当な春嵐さんからそんな提案が出てきたのは月曜日の朝の事だった。厳密に言えば家族そろって朝食を摂っている時の事である。春嵐さんは厳密には三國叔父さんの側近になるのだが、何だかんだとこの屋敷に留まっている事が多いので実質家族みたいなものだった。実際三國叔父さんや月華さんの仕事を手伝ったり、二人が忙しい時に俺たちの面倒を見てくれたりするし。親戚のお兄さんって感じの妖のように俺たちは思っている。
それでまぁ家にいるのに仕事の話になるのはまぁ致し方ない。皆仕事には馬車馬よろしく励んでいる訳だし。逆に雪羽なんかは仕事の時と家や個人事務所の時と態度は変わらないし……それはそれで問題だけど。
だがそれよりも春嵐さんの言葉には驚いてしまった。営業? この俺が? そりゃあもちろん一緒にと言ったから俺単体が取引先に放り出される事は無かろう。
しかし何故春嵐さんはそんな事を言ったのか。そこが気になった。
「え、営業って……僕はまだ子供ですし、営業の経験なんて無いですよ……」
弱弱しく語る俺の姿はどのように見えたのだろう。ともあれ営業の経験が無い事は事実だった。三國さんの職場では俺と雪羽は人事部長的な役職(実際には舌を噛みそうな横文字の役職名だったがそれは脇に置いておく)に就いており、生誕祭だとか内々での会合の時以外は職場の外に出た事はない。雪羽も俺も強いと言えども子供妖怪で社会的な勉強の最中であるからまぁ妥当な話だろう。
あとついでに言えば前世でも営業経験はない。多分技術職……設計を手掛けていた気がする。それこそパソコンを使って、ポチポチと図面を描いていた事は辛うじて覚えていた。
「誰しも最初は未経験から始まる物ですよ、疾風お坊ちゃま」
にっこりとした笑みでそう言われ、俺は口ごもるほかなかった。その通りだと思っていると、春嵐さんは穏やかな口調で続ける。
「それに疾風お坊ちゃまは営業マンとしての素養があるのではないかと最近思っていたのです。雪羽お坊ちゃまや仲間の妖怪たちと盛んに遊んでおいでですが、そうしながら色々と気を配ってらっしゃるみたいですし」
笑顔を絶やさず、しかし真面目な様子で言ってのける春嵐さんを見ていると、俺は何故か恥ずかしさがこみあげてしまった。あの人もある程度の事まで把握しているのだ、と。
「兄さん、営業マンなんて花形だよ! すごい、すごいよ兄さん」
頑張ってね。そう言う雪羽は至極無邪気な笑みを浮かべていたのだった。
昔はノートパソコンの事はラップトップと呼んでいたのです。
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営業で俺のモテ期(?)が始まった
春嵐さんに連れられて俺がやって来たのは繊維関係の工房だった。一見すると小売店のようにも見えるが、実際にスタッフたちが製造から販売まで行っているので小売店というのは少し違う。また、工場と呼ぶには小ぢんまりとしていた所だった。
そしてこの工房は当然のように妖怪が運営し妖怪向けの企業である。まぁ、術者とかいう職業に就いている人間も顧客にいるらしいが、彼らは俺たちのような妖怪にがっつり関わる人種だから、妖怪サイドの人間と言ってもいいだろう。
余談だがこの世界では退魔師とか妖怪退治屋と名乗る異能持ちの人間は極端に少ない。というかラノベとかでよくある妖怪と人間の対立構造が薄いのだ。妖怪たちは人間に対して中立、或いは無関心である事が多かった。血の気の多い雪羽も、人間を襲ったり人間に喧嘩を売ったりするという事はほとんど聞かない。大妖怪候補らしく、雪羽も人間には余り興味がないみたいなのだ。三國叔父さんや月華さんたちが気を回して、人間とぶつからないようにしているという所もあるかもしれないが。
ともかく俺は春嵐さんと共に応接室に通された。きちんとした商談が行われるというのは、壁に掛けられたホワイトボードを見れば明らかだった。俺たちの所属する企業名がはっきりと記されていたのだから。
「あなたが雷園寺さんねぇ。初めまして。お話は春嵐さんや月華さんから常々聞いていたから、お会いできて嬉しいわ」
三対の腕を器用にくねらせながら話しかけてくるこのご婦人こそが、この工房の責任者なのだ。ぶっちゃけた話、ご婦人というには大分若々しく、むしろ大人のお姉様、大人女子と言った趣のひとだ。まぁこの時代には大人女子なんて言葉は無いが。
無論彼女も妖怪である。見た目の通り(?)蜘蛛の妖怪らしい。蜘蛛の糸というのは優れた強度を持つため、妖怪たちや術者たちが好んで蜘蛛妖怪の糸の加工品を使うらしい。普通の蜘蛛の糸でも、鉛筆程度の太さがあればジャンボジェットを捕捉出来るという。妖力を持つ妖怪蜘蛛の糸ならばその効力は推して知るべき、だろう。
「こ、こちらこそ初めまして朱川社長。僕は雷園寺疾風と申します……今は訳あってすぐ下の弟と共に叔父夫婦の許で暮らしております」
よろしくお願いします。そう言って俺は頭を下げた。それこそ中学生の自己紹介みたいで何となく恥ずかしい。よく俺は前世の記憶があるから中身はオトナだの実年齢より三十は加算されているだのと思っていたが、それがこの世界ではさほど通用しないであろう事に気付き始めていた。それはやはり妖怪の寿命の長さに起因する所だ。妖怪なんてものはナチュラルに何百年も生きる生物である。人間の場合だと百歳と言えばご長寿の域だ。しかし妖怪は百歳生きてようやく肉体的に大人だと見做される年齢に過ぎない。もっと言えば精神的に大人だと見做されるには更に数十年から百年近い歳月を要する。例えば三國叔父さんは百数十年生きているが、周りからは大人の仲間入りを果たした若者と見做されている。すでに結婚し、甥を扶養している身である事を差し引いてもだ。
だからまぁ、前世で三十年ばかり生きたという俺の経験も、長命な妖怪たちの前では誤差の範囲内に留まってしまいそうなのだ。実際同年代の子供妖怪・若妖怪たちの中では落ち着いてるだの大人びてるだの言われるが、実際の大人妖怪たちに囲まれるとどうしても俺の幼稚さが露わになってしまう気がしてならない。
まぁそれは、俺自身の精神の幼さも起因しているのかもしれないが。
※
「今日はよく頑張りましたね、雷園寺殿」
春嵐さんがねぎらいの言葉をかけてくれたのは、工房を出て少ししてからの事だった。午前中だったのだが心身(特に心)に疲れが溜まり、夜更かしした後のように眠かった。妖怪はタフな生物なのだが、案外精神的な負荷に弱い一面もあるらしいのだ。
そこまで緊張したのは、やはり営業の初体験のためだろう。そりゃあもちろん朱川さんも良い
それでも緊張していた事には変わりなかった。朱川さんが蜘蛛の妖怪だと知って(色々な意味で)捕食されないかと密かに身構えてもいたのだ。
そもそも良く考えれば、俺自身も大妖怪や強い大人の妖怪に接する機会は少なかった。最近はちょっとヤンチャになった雪羽と行動を共にし、他の妖怪たちと頻繁に会っている。とはいえ雪羽の部下だから、雪羽や俺と同年代の妖怪たちばかりだったし。
「最初にしては上出来だと思いますよ。やはり雷園寺殿は落ち着いておいでですから……」
「ありがとうございます、春嵐さん」
俺の言葉に春嵐さんは淡く微笑んでいた。
それ以来、俺は時折春嵐さんに連れられて営業の補助に回る事になった。前世でも今世でも営業経験は薄い俺は、とりあえず営業に馴染む事に必死だった。
だからその、俺が知らず知らずのうちに
蜘蛛の糸がジャンボジェットを……というのは子供の頃バラエティ番組で知った知識です。
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原作は忘れた頃に忍び寄る
「さて疾風お坊ちゃま。今日も一緒に営業に……と言いたいところなのですが。今日は私は大事な用がありますので、一緒についていけないのです」
朝に仕事の内容を確認する。これがいつの間にか雷獣一家の恒例行事になっていた。まぁ何というか報告するのは大体春嵐さんの事が多い。春嵐さんは俺たちの仕事内容とかを把握しているらしくて、それを思い出させるために朝の団欒の時にこうして教えてくれるのだ。
とはいえ春嵐さんは営業マンに分類されるので、営業絡みの話が結構多い気もする。そして気付けば俺も営業マンになっていた。もう少し雪羽の許にくっついて彼のヤンチャぶりをセーブしたいなどと思ったりもするのだが……そうはいかないのがサラリーマンの悲しさだ。というか人間に換算したら中学生になったくらいなのに、サラリーマン的なアレを味わってるってどういう事なんだろうか。やはり妖怪社会は奥深い。
ともあれ、俺は春嵐さんの言葉を聞いていた。この度の営業先は鶴岡の小売店である。それは前の連絡で聞いていた。鶴岡というのは白鷺城・城下町から少し離れた都市郊外であるがそれはまた別の話だ。しかし春嵐さんが同席しないとは。一人で営業に向かえなどとは言われないだろうが、俺はちょっとだけ緊張していた。
春嵐さんは俺の緊張を読み取ってくれて、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。今回はお坊ちゃまと堀川さんに向かってもらおうと思っていますからね」
「ああ、堀川さんと一緒なんですね……」
「堀川さんと一緒なんて良かったじゃないか兄さん!」
「良いなぁ、堀川さんと一緒に営業するんだったら美味しい物を食べれるんじゃないかな。羨ましいな、俺も一緒について行こうかな」
「おいおい雪羽。営業の仕事はグルメ珍道中じゃないんだぞ」
何やら食いしん坊根性を見せた雪羽を嗜めていると、三國叔父さんも月華さんも朗らかに笑っていた。叔父さんたちは俺が転生者で、中身は人間の大人である事は知らない。それでも兄らしく振舞う俺を見て、「しっかり者の疾風とお調子者の雪羽」の兄弟だと思っているみたいだった。
「雪羽君は地元で部下たちの監督をする、ジェネラル・マネージャーとしてのお仕事があるでしょ~ 雪羽君は雪羽君のお仕事が、疾風君には疾風君のお仕事があるのよ。そうでしょ、みーくん」
「そ、そうだぞ雪羽。月華の言うとおりだ」
のんびりとした口調で語る月華さんを俺はぼんやりと眺めていた。三國叔父さんの前ではああしてのんびりゆるふわ口調になる彼女だけど、実際には相当な切れ者である事は俺も既に知っている。既に十何年も一緒に暮らしている訳だし。
表向きは三國叔父さんがぐいぐいと引っ張っているように見せかけて、実際に手綱を握っているのは彼女なのだ。
「まぁ雪羽。堀川君にはちょっとしたお土産を頼んでもばちは当たらんだろう。雪羽、お前だって頑張ってる事は俺も十分知ってるからさ」
お土産を買ってもらえると聞いて雪羽はもううきうきし始めているようだった。今まさに朝食を食べている最中なのに。
とはいえ堀川さんと聞いてワクワクするのも仕方あるまい。家畜を襲う黒 という種族である堀川さんは、どちらかと言えば肉食の妖怪である。俺たち雷獣もある程度は肉は嗜むが、そんなにがっつり食べるわけでもない。
加えて仕事柄料理に詳しくグルメである堀川さんの事だ。一緒について行けば美味しい物を食べれるとついつい期待してしまうのだ。
俺はふいに、堀川さんがかつて苅藻という妖狐に化かされていた事を思い出していた。まぁあの時化かされたのは俺たちも同じ事なんだけれど。
※
春真っ盛りの鶴岡は桜が咲き誇り、それはそれは美しかった。
「疾風お坊ちゃま。せっかくなので白鷺城も見ていきましょうか。もちろん、営業が終わってからですけれど」
「うん!」
白鷺城を見る。堀川さんの提案に俺は素直に頷いていた。平素子供っぽい態度を作る俺だけど、今回ばかりは素でも子供っぽい感じになったのではなかろうか。白鷺城と言えばこちらの世界でも世界遺産として知られるお城である。もちろん桜も多く植わっているだろうし、天守閣を間近で見るのも悪くはない。
「白鷺城でのお土産なら、雪羽も喜ぶんじゃないかな」
白鷺城。何度かその単語を口にしたり思ったりしているうちに、何か引っかかるものがあった。何かを忘れているような感覚だ。だけどそれが何なのかはっきりとしなかった。
主人公・島崎源吾郎の住まいは白鷺城の近辺であるとされています。
その白鷺城に向かうという事は……?
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転生者は一人とは限らない
商談自体は割とあっさりと終了した。堀川さんは陽気でちょっとうっかり者のお兄さんかと思っていたんだけど、案外それが他の営業マンにはウケるらしい。明るく和やかに話していると思っているうちに商談がまとまっていて、俺は少し驚いてしまった。
あと、実を言うと俺も俺で取引先の営業マンたちから可愛がられてもいた。若い子なのにとっても頑張ってるねー、と。営業を始めてから、こうしてモテるというか可愛がられる事も増えていった。
これがもしかすると、転生者としての役得なのかもしれない。役得ならばそれを活用するのもアリかもしれないと思っていた。
何のかんの言いつつも俺は雪羽の兄である。今は雪羽と行動を共にする事が減っているが、営業活動で他の妖怪たちと顔見知りになっていれば、何か困った事があった時に助けてもらう可能性も高いだろう。それこそ、雪羽が何かやらかした時などにも大人たちが助けてくれたり助言をくれるかもしれない、と。
※
約束通り、堀川さんは俺を白鷺城に連れてきてくれた。妖怪たちのいるというこの世界では、白鷺城にも刑部狐が棲んでいるという事らしい。刑部狐は雉鶏精一派とは友好的な存在ではないけれど……まぁ一般妖みたく見物に来るくらいならば大丈夫だろう。
「やっぱり人が多いですねお坊ちゃま。大丈夫ですか?」
堀川さんは少し窮屈そうな表情を浮かべて俺に問いかける。春という事もあり白鷺城は多くの見物客でごった返していた。確か今は四月の初旬の筈だ。見物客が多いのもうなずける。学生であれば遠足や校外学習で来ているのかもしれないし、サラリーマンでも花見とかそう言う事だろう。もしかしたら学生だったらまだ春休みかもしれないけど。
大丈夫、と俺は答えたが少しだけ罪悪感もあった。
でもわざわざこうして白鷺城に来ているのは、俺を楽しませるためなんだ。
「ちょっと空いている所を探してそっちから行こうか」
「うん。僕はそれで大丈夫です」
俺の言葉に堀川さんは安心したようだった。よくよく考えると、俺は若輩者だけど三國さんの甥という立場でもある。三國さんの部下で、恩義のある堀川さんはどうしても俺を単なる子供として扱えないんだ。ついついその事を忘れてしまうけれど。
※
順路に逆らわず、しかし空いている道を散策するのは楽しかった。穴場を見ているような感じがしたし、そもそも白鷺城を眺めるのも久しぶりの事だったから。
だけどそうして楽しめたのも、隣に堀川さんがいる時だけだった。
「……?」
隣にいたはずの堀川さんがいない。俺は少しの間首をひねった。はぐれてしまったのだろうか。俺がはぐれたのか堀川さんがはぐれてしまったのか……反射的にポケットをまさぐり、それから行儀は悪いが舌打ちした。まだスマホなどという物は無いというのに。一九九〇年代半ばのこの世界には一応携帯電話はある。だがまだそんなに普及していない。紅藤様とか萩尾丸さんは持っているらしいけれど。もっぱらポケベルが隆盛を誇っているみたいだが、生憎ポケベルも俺は持っていない。畜生。
堀川さんを探して動くべきなのか、はたまたさほど動かずに待っていた方が良いのだろうか。俺はしばし思案した。迷子になったからと言ってそこまで焦らなくてもいいだろう。冷静な部分がささやきかけている。しかし何故か胸騒ぎもしていた。早く堀川さんを見つけて合流したほうが良いと。それが妖怪の勘という物なのかもしれない。
しかし結局のところ、俺はただ立ち止まっているだけだった。思いがけぬ事が起きてしまったからだ。思いがけぬ事と言っても大げさな話ではない。俺の傍に何者かが近づいてきたからだ。
その何者かは一人の男の子だった。本当に子供で、やっと小学生になったくらいの年恰好だった。艶のある黒髪は綺麗に切り揃えられており、整った面は抜けるように白い。頬や耳朶がほんのりと色付いている所で、辛うじてその子が血の通った存在だと解るようなものだった。
異形めいた美貌を持つその男の子が、真実異形である事も俺は見抜いていた。俺も妖怪であり、嗅覚も優れている。男の子自身は妖狐の類であろうと判断していた。但し、その子の背後に得体の知れない者が取り巻いているようだが。匂いからして何か良くないもののように思えた。
「初めまして、お兄さん」
男の子はあどけない声で俺に挨拶をする。たじろいでいる俺を前に、男の子はにっこりと微笑みながら言葉を続けた。
「お兄さんは雷獣さんだよね。トモダチのカズキさんが言ってたよ。僕は島崎庄三郎って言うんだ」
島崎庄三郎と名乗る男の子を、俺はじろじろと凝視していた。島崎庄三郎。そいつが誰なのか思い出すまでもない。「九尾の子孫~」の主人公の兄である。魅了の力を持つ美青年という主人公とは真逆の属性を持つキャラだったが、本編には余り絡まなかったはずではないか。しかしその彼に俺がこうして出会うというのはどういうことなのだろうか。
『雷獣の小僧だと思ったら、俺の知ってる雷獣の雪羽とはちと違うみたいだな。あれか、2Pカラーってやつなのか?』
庄三郎の背後でもやが蠢き、それと共に声が伝わってくる。音声として鼓膜から伝わるものではなく、脳内にダイレクトに響いてきたものだった。きっとこいつが庄三郎の言うカズキとかいう奴なのだろうか。何の因果か庄三郎に憑いているみたいだが……庄三郎にはそんな設定はあったか?
『設定? ああ成程そう言う事か……お前も
転生者。その言葉はそれこそ俺にとって青天の霹靂だった。
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俺とアイツでは原作の定義が違っていた件
『庄三郎君。少し身体を借りても良いかな。そこの雷獣君と話がしたいから』
呆然と立ち尽くす俺を尻目に、カズキと呼ばれた影は庄三郎に話しかけていた。身体を借りる……? その単語に不穏な物を感じ取っているその間に事は進んでいた。庄三郎は何のためらいもなく頷いたのだ。それとともに、彼の周囲を取り巻いていたもやが変容する。内部に押し込まれるように入り込んでいったのだ。
庄三郎はしばしぼうっとした表情を浮かべていたが、数秒を待たずして我に返ったようだ。いや違う。カズキとやらがその身を乗っ取り、主導権を握ったのだ。幼子の面には、今や老獪で邪悪そうな笑みが浮かんでいるではないか。
「安心したまえ雷獣君。庄三郎君にはちと眠ってもらっているだけだ。俺たちの話は庄三郎君には理解しがたい事であろうし、雷獣君としても姿のあるモノと話す方が気が楽だろう? それに俺も庄三郎君もこうした状況に慣れるのは良い事だからな」
庄三郎の口を借りて語るカズキの姿を前に、俺は目をすがめていた。カズキの笑みと共に彼の妖気と獣の匂いが漂ってきている。こいつもある種の妖狐であると、雷獣としての本能が伝えていた。妖狐が半妖とはいえ大妖狐の末裔に取り憑くとは。これもう分かんねぇな。
「さて自己紹介しようか。俺はカズキ。ご想像の通り妖狐の一種らしい。まぁどっちかって言うと狐憑きの狐みたいな感じなんだろうな。
まぁ、今の俺の正体は別にどうでもいい。さっきも言った通り俺は転生者なんだよ、雷獣君」
今度はお前の番だ。暗にそう言われている事に気付いた俺は、一旦深呼吸してから口を開いた。
「俺は雷園寺疾風だ。訳あって雷園寺雪羽の兄をやっている。確かにあんたの言う通り転生者だよ」
「やはりそうだったか」
薄桃色の唇が引き延ばされ、いびつな笑みを作った。
「それにしてもあの雪羽の兄に転生とはな……あいつには兄弟が何人かいるという設定だったが、確か兄はいなかったはず」
「そう言う意味では俺はイレギュラーだろうな。原作では雪羽は長男だったわけだし」
やはり向こうも転生者という事もあり呑み込みが早いようだ。そんな事を思いながら俺は言い足した。
「あんたも転生者だから前置きなしに言うよ。この世界は俺の知る『九尾の子孫、最強を目指すってよ』というアニメの世界らしいんだ」
「ちょっと待て、今なんて言った?」
アニメの名を口にすると、カズキは何と訝しげな表情を浮かべた。不思議に思いつつも俺は言葉を繰り返す。
「だから『九尾の子孫、最強を目指すってよ』というアニメ――」
「
カズキの言葉に今度は俺が首をひねった。過去――いや前世でウェブ小説等を読んだ時の事を思い出す。転生者の中には、自分が転生した世界の原作を知らないケースも変化球としてあるにはあった。カズキがそうしたケースには当てはまるとは思えない。雪羽の事を知っているのはさておき、彼は設定という言葉に反応していたのだから。
カズキはしばし考えこむそぶりを見せると、今一度口を開いた。
「俺が知っているのはアニメではなく小説の方だ。『九尾の末裔なので最強を目指します』だったな。しかしあれがアニメ化するなんて……元々は趣味人が投稿していたウェブ小説なんだぜ?」
さも不思議そうに呟くカズキを俺はしばらく眺めていた。確かに「九尾の子孫、~」は小説を基にしたアニメである。俺は小説の方の内容は知らないけれど。
「ウェブ小説だったのは知らなかったよ。書籍化された小説が原作って事は知ってたけど」
「となると俺と疾風さんとでは転生する前までいた年代にずれがあるって事だな。俺は確か二〇二※年まで向こうにいた気がするし」
カズキの推論は多分当たっている。年代を聞いた俺は密かにそう思った。
「それにしても、まさかあの小説がアニメ化するなんてなぁ……そこそこ面白いと思っていたが、それほどのポテンシャルがあったとは。あの手の作風は深夜アニメ好きには不向きな感じがしたからびっくりだよ」
「……やっぱり小説版とアニメ版じゃあ大分違うのかい? 俺の知る『九尾の子孫、~』は、舞台こそ現代だが主人公は普通に無双してハーレムを作るみたいだし」
「無双してハーレムを造っちまうだって? それは
俺の知る原作のアウトラインを語ると、カズキは何故かおかしげに鼻を鳴らした。本心からの言葉ではなく、皮肉が籠められているようにも感じられた。
「俺の知る原作ではそう言った要素はなかったけどなぁ。何しろ作者自身がそう言った要素を嫌い抜いていたらしいんだ。タイトルや主人公の性質でテンプレらしく擬態していたが、あの作品はむしろヒューマンドラマや心理描写に力点を置いていた」
「…………」
カズキの言葉を俺はじっくりと吟味していた。それこそ俺の知るアニメの内容とかなり異なっているように思える。俺は心臓の鼓動が高まるのを感じながら言葉を紡いだ。
「その、小説での雪羽の立ち回りは? アニメでは雪羽は闇堕ちしてクズキャラになった挙句殺されるらしいんだ。そんな雪羽の兄に転生したから、俺は今までその闇堕ちの要素を潰して回っているんだが……」
「雪羽が闇堕ちしてクズキャラになるだって? ああ、
やはりカズキの言葉には皮肉めいたものが浮かんでいる。
「まぁ確かに雪羽が色好みで気位が高く、源吾郎君の怒りを買うシーンはあるにはあったさ。しかし俺の知る原作ではあいつは
小説世界での雪羽は悪役に堕する事は無かった。この言葉を聞いた俺はしばらく瞬きを繰り返すのがやっとだった。可愛い弟が堕落しないであろう事を喜べばいいのだろう。だけど小説の話を聞いているうちに、いよいよもってこの世界が俺の知る者なのかどうか確証が持てなくなってきた。それが不安でならなかった。
小説とアニメでは物語の展開が違うってあるあるですかね。
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アイツは原作ブレイクを画策していた
「雪羽は必ずしも悪役になる訳でもない。そう言う事だな」
散り散りバラバラになりかけていた思考をまとめ、俺はカズキに問いかけた。この世界が俺の知る原作ではないのかもしれない。その事を思った時、まず八頭怪の姿が脳裏をかすめた。俺が不安を抱いたのはもしかしたら八頭怪の幻影のせいだったのかもしれない。
もうかれこれこの世界にやって来て十年近く経つ。よもや俺の活動が全て無駄であるとは思わないが……それでも心細さが去来したのは嘘ではない。
だからとにかく一番大切な事をカズキに問いかけてみたのだ。原作の流れがどうであれ、雪羽が闇堕ちしてほしくないというのは俺のまごう事なき本心だ。最初は保身のためだった。雪羽の兄である俺にも、闇堕ちした後の雪羽のとばっちりがやってくるかもしれないと。しかし今は……保身よりも実弟への愛情が勝っていた。
確かに俺は雪羽を愛している。と言っても妙な意味ではない。弟としてという意味だ。まぁブラコンになったという事なのだろう。というか後世ではブロマンスとかいう言葉も出てくるはずだ。俺などはそれにばっちり当てはまるのかもしれない。
さてカズキに話を戻そう。カズキは俺の顔を見てしばらくの間きょとんとしていた。俺の態度というか言動に圧され、ちょっと面食らっているらしかった。
しかし相手もすぐに気を取り直したらしく、唇を舌で湿らせてから口を開く。
「原作の流れとやらを気にしていたのかい。そんなものが儚い物である事くらい、君ももう解っていると思ったんだけどなぁ。
何せ原作との乖離は、既に君という存在が成し遂げているじゃないか。何もかもが四角四面に原作通りに進むのならば、そもそも雷園寺雪羽の兄なんてものは存在できないんじゃないかい? それに俺も、原作とは違う動きを取れている訳だし」
原作とは違う動き。カズキの言葉に俺は若干の胸騒ぎを感じた。それはカズキが憑依した庄三郎君の面に浮かぶ禍々しい笑みのせいなのか、そもそもカズキが庄三郎に憑依しているという事柄そのものに対してなのか判然としない。
転生してから培ってきた妖怪の勘が警鐘を鳴らしているのだと俺は思った。
「いいかい疾風君。俺は原作の流れなんて怖くもなんともないんだよ。むしろ、原作ブレイクしたいくらいさ。無論この世界は俺も気に入ってるし好きな世界と言えるだろう。折角妖怪のいる世界で妖怪として生を享けたんだ。妖怪らしく自分の思うがままに生きて何が悪いというんだ?」
主張を重ねているうちにカズキの笑みが変質する。というよりも笑みに浮かぶ禍々しさ邪悪さが色濃くなっていったのだ。
島崎庄三郎を利用して乗っ取り、俺こそがこの世界に君臨する。笑みと共に放たれた言葉の意味を、俺はすぐに把握する事が出来なかった。今の今まで真面目に話し合っていると思っていたからだ。思いがけぬものを見聞きしたとき、正しくそれを認識できないのは妖怪も同じ事らしい。
「それは……本気で言ってるのか」
「もちろん本気だ。ついでに言えば俺は正気だからな」
小馬鹿にしたようにカズキは鼻を鳴らす。
「同じイレギュラーと言えども、メインキャラの兄に転生したとは恵まれた身分だな雷園寺疾風君よ。それに引き換えこの俺はどうだ。ただただ他人に憑依するしか能のない、作中での出番どころか名前すら解らんようなモブキャラ中のモブキャラだぜ。折角知っている世界に、未来の流れをある程度把握できるこの世界にやって来たんだ。名無しのモブキャラだからって、大人しく指をくわえて隅っこにいる事なんてできるかよ」
だから庄三郎を見つけ出し憑依した。カズキは臆面もなくそう言ってのけたのだ。
「やつを探し出すには骨が折れたが、それでもまだ運は俺を見放してなかったんだろうな。何せ源吾郎――この世界の主人公――が生まれる前にこいつを見つけ出せたんだからさ。
原作まであと二十年足らずだ。その間にこいつを使って俺はのし上がってみせる。こいつは原作ではしょうもない引きこもりの画家になっただけだったが、
カズキの言葉を聞いているうちに、俺はそこはかとない気味悪さと吹き上げるような苛立ちを感じていた。
妖怪は身勝手な生物である事は俺もよくよく知っている。しかしそれでも、カズキの仕出かそうとしている事は一線を越えている。妖怪としても人間としてもそう思えてならなかった。
「おのれの欲のために子供を巻き添えにするなんて……この下司野郎が」
「下司の何が悪いんだ」
俺の憤怒の言葉を、カズキは涼しい顔で受け流す。しかしその瞳には嫌悪と憎悪の色がありありと浮かんでいた。
「俺が下司ならあんたは偽善者だろうな雷園寺疾風。あんたがこれまで何をしてきたのか俺には解らんが……きっと雪羽の闇堕ちとかいう幻想に怯え、あれこれと画策していたんだろう。
そうして
カズキの言葉に俺は反駁できなかった。そうしているうちにもカズキは言葉を続けた。
「ははは、お前はきっと前世でも今世でも恵まれた暮らしをしていたんだろうな。そうだよ、だからお前には俺の気持ちなんて解らないだろうな。
風采も上がらずそれどころか周囲からないがしろにされ、涙も流さぬ道化と見做されるような俺の気持ちなんてな!
だがここは、そんな事のあった糞忌々しい前世じゃあないんだ」
幼子の身体と声を借りてカズキはマシンガントークを続けている。こいつは狂っているのではないか。唐突にそんな考えが浮かんでしまった。
「恐らくは神様も俺の惨めな人生に共感して、新しくやり直す場所を提供してくれたんだ。俺はここで俺がやりたいようにやってやるよ。そのためには源吾郎も他の連中も邪魔なんだよ」
それからカズキは僅かに顔を上げ、俺に目を合わせた。
「雷園寺雪羽の事は心配するな。原作の流れがどうであれ、潰してやろうと思っていたからさ」
急に一陣の風が俺たちの間を吹き抜ける。桜の花びらが突風の中に巻き込まれ、上質な紙吹雪のように俺たちめがけて舞い散って来る。まごう事なき桜吹雪だったが、そこには幻想的な気配はひとかけらもなかった。
ここで原作改変の意味に言及しました!
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熱出して倒れたら色んな事が解ってしまった
島崎庄三郎と彼に憑依したカズキとの出会いを果たした翌日。俺は熱を出して寝込んでしまった。昔偉い人が「妖怪は病気にならないし死なない」と言っていたらしいが、生憎この世界の妖怪はそうではないようだ。
雷園寺疾風が倒れた事に、三國叔父さんたちを筆頭に多くの妖怪たちが驚き困惑した。だけど一番戸惑っているのはこの俺だ。転生してそれなりの年月を重ねているが、特に理由もないのに熱を出し、それだけで倒れるなんて初めての事だからだ。
まぁ、一度カマイタチに腕を二つに割かれた時もしばらく寝込んでいたが、それはそれで外的ダメージという理由はあるにはあったけど。
……いや、欺瞞で押し隠すのは止めよう。俺が寝込むほどにショックを受けた理由は実は知っている。カズキに出会ったからだ。
もちろん、彼と出会って話を聞いて良かったと思えるところはあるにはある。転生者という異質な存在が俺だけではないと知った事と、雪羽が破滅しない原作も存在すると知れた事だった。
もっとも、その後のカズキの邪悪な言動が、それらの良かった点を完膚なきまでに叩き潰しているんだけれど。
カズキは何もかもが俺と違っていた。俺は雪羽の兄に生まれたから、弟の破滅と俺に降りかかるであろうとばっちりを回避するために暗躍していた。
一方のカズキは、見た限り原作に関与するようなキャラではない。しかしわざわざ庄三郎(主人公である源吾郎の兄だ)を見つけ出して憑依し、その上で原作をかき乱そうとしている。
カズキは……あいつは原作で活躍する妖怪たちをどん底に引きずり下ろし、その上で自分が主人公になり替わろうと画策している。雪羽が破滅しない物語を知っているにもかかわらず、である。むしろカズキはノリノリで雪羽を潰そうと思っていると言っていた。
前世では風采の上がらなかったカズキは、ライバル枠としてイキイキと活躍する雪羽に嫉妬と憎悪の焔を燃やしているのだろうか。
単に、美しい物を穢して貶めたいという、背徳的な嗜虐心によるものなのだろうか。
カズキの真意がどのようなものなのか、俺には解らないし詳しく知りたくもない。ただ一つ言えるのは、カズキと庄三郎を野放しに出来ないという事だ。
しかし今の俺に何ができるというのだ? そうした思いが脳内で渦巻き、堂々巡りを繰り返し、その末にオーバーヒートを起こしてしまったのだ。
三國叔父さんは働き過ぎたために疲れが出たのだろうと思っている。だけど様子を見に来た紅藤様は違っていた。彼女は俺を見て「少し心が弱っているから注意してほしいの」と仰ったのだ。大丈夫です、と俺は言いたかった。だけど実際に俺がやったのは、照れたように首を横に向ける事だけだった。口を開いたら最後、何を言い出すか自分でも解らなかったからだ。
※
「不安なのね、疾風君……」
ぼんやりとした春の昼下がり。俺の枕元にやって来たのは月華さんだった。彼女は三國叔父さんの妻だから、俺たちの叔母にあたる妖になる。血縁上は叔母になるんだけど、立場的には義理の母親みたいな存在でもある。
そんな今世での義理の母親である月華さんは、三國叔父さんと同じく若々しい姿の持ち主だった。ついでに言えば美人だし大人の女性という感じもする。
……よくある転生ものなどでは、若い母親や義理の母親に主人公の男が恋心を抱いたり欲情したりするものがあった。だけどそんなものは虚構である事を俺は知っている。月華さんを完全に母親と見做しているとは言い難い俺だけど、女性として見ている訳ではない。やはりこの妖は三國叔父さん同様保護者だと俺は思っている。
弟の雪羽は雪羽で月華さんを母親と見做せないでいたが、それはまた別の話だ。
さて月華さんは俺を見つめると淡く微笑み、頭を冷やすためのおしぼりを額に置いてくれた。
「大丈夫。疾風君はもしかしたら昔の事を思って心細くなってるだけかもしれないけれど、私たちがついているから。
疾風君。何か食べたいものがあったら教えてね。それとも今は特に大丈夫かな」
「だ、大丈夫だよ月華ねえさん……」
気付けば俺は口を開き、月華さんの問いに応じていた。それまで半ばぼんやりとしていた俺は、目を見開いて月華さんを見つめる形を取っていた。先程俺は自分が発言するのをもちろん耳にしていた。
しかし何というか、自分で発言しているのに自分が発言した訳ではないという事に俺は気付いていた。端的に言おう。俺はあの瞬間、何かに操られていたのだ。
月華さんはそんな俺の戸惑いに気付いているのだろうか? よしんば気付いていたとしても伝える事は難しい。
「うふふ、私にもきちんと甘えていいのよ疾風君。疾風君も雪羽君も、二人ともずっと頑張ってるんだから……」
月華さんが去ったのと入れ替わりに、雪羽や彼の仲間の妖怪や春嵐さんなどが断続的に俺の様子を見に来てくれた。やはりその時に応対したのは、俺ではなく俺の中の何かだったのだ。物言いは俺よりもうんと幼かったが、熱が出て疲れているからなのだろうと皆は思ったらしく特に不審がられる事もない。
そこで俺は気付いた。中身がどうであれ、雷園寺疾風はまだ子供なのだと。
※
俺が寝に入ったのは皆がいなくなったのを見計らっての事だったのか、それともそんなのとは無関係に眠くなっただけなのか、判然としなかった。
とにかくひどく疲れて眠りたくなったのだ。
眠りの世界に入った俺だったが、ほんのりと輝く場所に沈んでいくような情景が目の前に広がっていた。沈み切った先には、俺の来訪を待つかのように小さな影が佇んでいる。
「……久しぶりだね」
上目遣いにこちらを眺め、その影が俺に声をかける。その姿を目の当たりにした俺は、起きていた時以上の衝撃を受け、瞠目して立ち尽くした。
俺を待ち受けていたのは一人の妖怪の子供だった。年恰好は五、六歳くらいだろうか。金褐色に輝く四尾、黄金色に近い明るい琥珀色の瞳……かつて見た雪羽に生き写しの妖怪がそこに佇んでいたのだ。
俺は無論この妖怪を知っている。だからこそこんな形で邂逅する事に驚いていた。
転生ものに限らず、若い母親や義母に恋愛感情を抱くって言うストーリーには若干の違和感がございます。
ちなみに、雪羽君が月華さんを「母親」と見做せないというのは原作でも同じですね。
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俺はお前でお前は俺だ!
「雷園寺疾風君……だね?」
目の前にいる少年に対して、俺は間の抜けた口調で問いかけていた。その子の姿はある意味見慣れたものだったのだが、だからこそその名を呼んで呼びかける事にとてつもない違和感を抱いてもいた。
鏡で見る虚像と実際の姿が左右逆である、という単純な話だけではない。
転生してからというもの、俺は雷園寺疾風として生きてきたからだ。もちろん最初から転生した訳ではないから、オリジナルの存在がいたであろう事は薄々感じ取っていた。俺の――前世と、今世で見聞きしたという意味だけど――知りえる事の無い記憶がこの脳には残っていたから、その記憶の持ち主の気配はあるにはあった。
しかしそれでも、雷園寺疾風そのものとこうして相まみえる事とは夢にも思っていなかった。言い方は悪いが、雷園寺疾風の自我はとうに上書きされたか何がしかの理由でもっていなくなっていたのではないかと思っていたのだ。
そうだよ。雷園寺疾風は屈託のない様子で頷いていた。
「だけど最近は、お兄さんがぼくの代わりをしてくれてたよね。ぼく、お兄さんがやって来たことはちゃんと知ってるよ!」
疾風は無邪気に得意げにそんな事を言った。その言動には屈託は無いが、俺はどうにも恐怖心が沸き上がってしまった。
もちろん疾風は何も悪い事をしてはいない。俺の感じていた恐怖というのは、むしろ俺が行ってきた事への後ろ暗さに起因するものだった。
成り行きはどうであれ、俺は疾風の意識を乗っ取ったような存在なのだから。憑依転生なるモノであるからそう言う物だと目を背け続けてきたが……俺は疾風自身の意識と肉体を乗っ取った異分子ともいえる。そう言った意味では、疾風そのものの意識とか自我が残っていたのは良かった事なのかもしれない。もっとも、疾風が腹を立てて俺を殺す可能性もあるかもしれないが。
ああ、そうなれば敵は八頭怪だけじゃないって事にもなるけどな。
「……俺が君の代わりという事になるのかな。しかし疾風君。内心では腹立たしいんじゃないのかい。俺は君を乗っ取った存在になるんだからさ」
言いながら、もっと巧く言葉を選べなかったものかと密かに後悔していた。何と言うか、言いくるめて場を収めても構わないんじゃないかという考えが脳裏をよぎったのだ。そもそも俺、ここ数年は営業マンとして活躍している訳だし。その際に培ったスキル「口八丁手八丁」は何処に行ったんだって話だ。
なお俺は現時点で一営業マンではなく営業部長とかいう大仰な役職を持っている訳なのだけど、それはまた別の話だ。
ともあれ、俺は半ば緊張しながら疾風の答えを待った。疾風は俺の言葉を聞いて、やはり無邪気に笑うだけだった。
「お兄さん。ぼくは別に怒ってないよ。怒ってないし乗っ取ったとも思ってないよ。そもそも乗っ取られたって思ったら、ぼくだって抵抗していたし……それこそ乗っ取り返していたと思うんだ」
乗っ取り返していた。そう言った疾風の笑みが変質する。無邪気な子供の表情が、そっくりそのままケダモノの笑みにすり替わったのだ。唇の端からうっすらと牙――雷獣にももちろん牙があるのだ。それはレッサーパンダに牙があるのと同じようなものだ――さえ見え隠れしている。そう言えばこいつも妖怪だったんだ。俺は半ば他人事のように思っていた。
自分の意識が妖怪の肉体に宿っているからか、この世界の妖怪連中が人間に近いからなのか、俺は時々妖怪と人間の境目があいまいにある事があった。でもやはり、時々妖怪は妖怪なのだと思い知らされる。今もそうだった。
「どっちかって言うと、ぼくはお兄さんに感謝してるんだよ?」
「感謝、だと?」
疾風は物騒な笑いをやめると、今再び子供らしい表情でもって口を開いた。思いがけぬ言葉に首をひねっていると、疾風は言葉を続ける。
「雪羽を……弟をずっと護ってくれていたでしょ? 護っていただけじゃなくて、兄として雪羽に色々な事を教えてくれてもいたよね。
――ぼくがやろうとして、出来なかった事をお兄さんはやってくれていたんだ」
「…………」
俺は黙って疾風の言葉を聞いていた。疾風の顔からいつの間にか笑みが消え、緑褐色の瞳には昏い光が宿っていた。
「お兄さん。ぼくはそもそもあの時から死んでいたみたいなものだったんだ。母様を殺した相手を突き止めようとして、それに失敗したあの時からね。多分、お兄さんがぼくの代わりをしてくれなかったら、ぼくは……」
言葉を濁す疾風を前に、俺は不思議な気持ちになっていた。
別段俺も、雪羽や疾風自身を積極的に救うために動いた訳じゃない。ぶっちゃけ利己的に動いていただけとも言えなくもない。何せ気が付いたら転生していたのだ。その世界で俺は悪役になるかもしれない妖怪の兄になっていた。だから弟が破滅しないように、弟の破滅のとばっちりを受けないように動いただけに過ぎない。
妖怪は身勝手で利己的な生き物なのかもしれない。だがそれを俺は無邪気に笑う事は出来ない。俺とて彼らと同じく身勝手な存在なのだから。
だから無邪気に称賛されるのはつらかった。
そんな俺の気持ちとはお構いなしに疾風は笑う。
「でもお兄さん心配しないで。ぼくも大分元気になったから、もしお兄さん一人でどうにもならない事があったら、ぼくはお兄さんを助けたいと思うんだ。さっきもそれでちょっと身体を借りたんだ。だけど考えてみれば、お兄さんもぼくの一部なんだから」
無邪気に語る疾風を前に、彼が俺をどのように解釈しているのかうっすらと悟ってしまった。
もしかしたら、疾風は自分が生み出した第二の人格が俺であると考えているのではなかろうか? 憑依し自分を乗っ取った異物ではなく、自分の心を護るために生み出された分身。そう思っているからこそ、彼は異質な俺を受け入れたのではないか、と。
疾風が二重人格の知識を何処まで知っているのかは解らない。しかし第二の人格を生み出す素養が十二分に存在した事もまた事実だ。
俺も詳しい事は知らないが、二重人格の発症は精神的なショックがトリガーになるそうだ。疾風の場合はどうか。確か俺が目覚めた時、疾風は母を失い自分も何がしかの理由で拷問を受けた上に投獄されていた。人間で言えば五、六歳程度の幼子が、である。これを精神的ショックと言わずして何と言うべきだろうか。
というか今しがた、疾風自身も「ぼくはそもそも死んでいたような物」「お兄さんがぼくの代わりにぼくがやるべき事をやってくれた」と言っていたではないか。
これもまた、別の人格が主人格の行いたかった事を肩代わりしてくれたとも解釈できる。
疾風には二重人格の素養があったのかもしれない。そこまでつらつらと考えていた俺だったが、それ以上考えるのを止めた。俺は前世を持つ人間で、見知った世界に転生した存在だと思っている。しかしそれ自身がかりそめの物だったら――? 真実を知った時、それこそ俺の意識がゲシュタルト崩壊を起こすかもしれない、と。
こうした憑依転生ものって宿主の人格は何処に消えた! みたいな疑問が常々私の中ではあったんですね。
今回、その解答らしきものが本文中では示されているのかもです。
まぁ、これはこれでホラー的な要素があっていいですね。
テンプレ要素は何処行った、というツッコミは申し訳ないがNGです。
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やはり俺は愛されキャラらしい
「……さん、兄さん」
柔らかなテノールが耳朶をくすぐる。目を覚ますと、澄んだ翠眼がこちらを見つめている事に気付いた。雪羽だ。いつかカマイタチに襲撃された時のように、俺の傍で俺を介抱していたらしい。
「雪羽……お前……」
「兄さん大丈夫! うなされていたけれど」
兄さん。雪羽の言葉に呼応するかのように心臓がうねる。違う。違うんだ。俺はお前の兄なんかじゃあない。お前の兄は俺の中にいて――俺が彼の中にいるのかもしれないが――とにかく俺はまがい物なんだ。
その俺が、こうして心配されるべきなのか?
「雪羽、俺の事を兄さんって呼んでくれるのか?」
思わず俺の口から言葉が漏れる。雪羽は首をかしげている。明らかに困り果てていた。
「兄さんは兄さんじゃないか。やっぱりうなされている間に怖い夢を見たんでしょ」
「確かに俺は俺だ。だけど雪羽。お前の知る兄は……雷園寺疾風と呼ばれていた子供とは違う存在なんだ」
自分の意識は雷園寺疾風に憑依したものである。直截的な事は言わなかったものの俺の発言はほぼほぼカミングアウトのような物だった。
話を聞いてくれるか? 俺の問いに雪羽は頷いた。多大なる当惑の色を滲ませながら。雪羽も戸惑い混乱しているのだ。でもそれでも兄の言葉にうなずいてくれる彼が、どうしようもなく愛らしかった。
※
俺たちの保護者である三國叔父さんは、数十匹の獣妖怪たちを配下として従えていた。重臣である春嵐さんや堀川さんなどはその筆頭格だろう。
三國叔父さんが多くの妖怪を部下に持っているのは、何も三國叔父さんが強いから、という単純な話だけではない。妖怪たちに「この妖ならついて行きたい」と思わしめるカリスマ性のなせる業なのだ。ついでに言えば三國叔父さんは、若い頃百鬼夜行を造り出したいと思ってさえいたそうだ。
組織や今の体制からはじき出された妖怪たちを救済したい。彼らと共に今ある体制を打倒し、より良い世界を作りたい……三國叔父さんはそう思っていたそうだ。まさしく反体制派の考えであるからびっくりだ。
俺の知る三國叔父さんは、雉鶏精一派の第八幹部として組織に仕えている。もしかしたら若い頃よりも丸くなっているのかもしれない。それでも従えている妖怪たちは数多くいるし(もしかしたら昔よりも増えているのかもしれない)、三國叔父さんが強い事には変わりはない。
そんな事を何故俺がつらつらと考えているのか。俺のカミングアウトのためだけに、家に妖怪たちが集まったからだった。全員集まった訳じゃあないみたいだけど、それでも三十以上の妖怪たちが揃っている。
何故だ。何故そこまで大げさな事になってしまっているんだ。
俺はただ、雪羽にこそっと耳打ちする事を考えていたというのに。まぁ、雪羽がどうしようかと思って三國叔父さんたちに相談したのだから、それはそれで致し方ないけれど。
「叔父さん……いくら何でも多すぎないかな」
「大切な話だと雪羽から聞いたんだ。疾風。お前は皆には俺の甥であり重臣であると見做されている。だから皆を集め皆が集まるのは当然の事だと思うが」
集まった妖怪たちに面食らっていると、三國叔父さんは涼しい顔でそう言った。確かに俺の秘密はずっと隠し通せるものじゃあないのかもしれない。それでも大勢の妖怪たちを前にカミングアウトできるかと言えば別問題だった。
結局、俺のカミングアウトを聞くのは叔父夫婦と雪羽、そして春嵐さんや堀川さんなどの数名の部下たちになった。直接俺の話を聞くのがその数名で、後の面々は後から話を聞かされる形になるみたいだ。
「俺は雷園寺疾風として育ちましたが……皆さんが知っている雷園寺疾風とは似ても似つかぬまがい物です」
三國叔父さんや月華さんと言った見知った妖物相手なら妙な事を口走らないだろう。俺は自分に対して高をくくっていた。しかし実際はどうだ。唇を震わせ妙な事を口走ってしまったではないか。しかも初手から。
「春嵐さんや他の妖怪たちは、俺には預言者のような能力があると思っておいでだと思います。ですが俺は別段預言が出来るわけじゃあないんです。ただ単に前世の記憶があるだけなんですよ。
そうです。俺は転生者……前世の記憶があるんです。前世はどうやら人間だったみたいなんです。それでこの世界の事を、未来に何が起こる事を知っていたんです」
転生者というか前世の記憶を持つ。この話を妖怪である三國さんたちはどのように受け止めるのだろうか。一応この世界にも輪廻転生の概念があるから、案外すんなり受け入れられるのだろうか。
「――それなら疾風。疾風は雷獣だけど、人間として生きてきた前世の記憶があるって事なんじゃないのか」
「それは少し違うんです」
柔らかな言葉で問いかける三國叔父さんに対して俺はかぶりを振っていた。本来の疾風とは別物であるという事を伝えねばならない。俺の中でそのような考えがはっきりと浮かんでいたのだ。
「俺の中には雷園寺疾風としての意識もありました。だけど……もうかれこれ十年ばかり俺が雷園寺疾風として活動しているんです。その、何と言うか……」
「要はお前は疾風に取り憑いて成り代わっているという事だろう」
三國叔父さんの鋭い声が鼓膜を震わせた。先程の笑みは消え失せ、獣じみた獰猛な憤怒を俺に示している。
「狐か蛇か怨霊か解らんが……お前は疾風じゃあないって事だな。疾風に成り代わり、疾風が行うべきだった事をお前が享受していたって事か。はっ、浅ましいにも程がある。
なぁ憑き物よ、どうすればお前は疾風から離れてくれるんだ?」
俺は雷園寺疾風として目覚めた時の事を思い出していた。三國叔父さんが途方もなく大きく、恐ろしい化け物に思えてならなかった。実際叔父さんは今放電を繰り返し、きっかけがあれば攻撃しかねない気配を見せている。
そんな三國さんの前に立ちはだかるように動いたのは、月華さんと春嵐さん、そして雪羽だった。
「叔父貴……兄さんは俺たちの知ってる兄さんじゃないかもしれない。だけど乱暴するのは止めて欲しいんだ。兄さんが誰なのかはさておき、兄さんには色々良くしてもらったもん。
それに俺、もう誰かが目の前で傷つくのは見たくないんだよ……」
思いのたけをぶつけたのは雪羽だった。月華さんたち大人妖怪は、まっすぐ三國叔父さんを見ているだけだった。
三國叔父さんは毒気を抜かれたような表情を見せ、それから静かに笑った。先程までの敵意や殺気は嘘のように消えている。
「ははは。さっきのは少し試しただけだよ。もしお前を庇いだてする奴がいなかったらお前をいぶりだそうと思っていたけれど……その必要は無かったみたいだな。それに考えてみれば、お前も疾風に違いない。だからお前の事を俺は受け入れよう」
この言葉に感動を覚えたのは何も俺だけではなかった。俺の裡に潜む幼い疾風も、面識が薄いはずの三國叔父さんの言葉に反応している。何となくだがその事が伝わってきた。
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「主人公」との出会いは唐突に
「……さん、兄さん」
柔らかなテノールが耳朶をくすぐる。目を覚ますと、澄んだ翠眼がこちらを見つめている事に気付いた。雪羽だ。いつかカマイタチに襲撃された時のように、俺の傍で俺を介抱していたらしい。
「雪羽……お前……」
「兄さん大丈夫! うなされていたけれど」
兄さん。雪羽の言葉に呼応するかのように心臓がうねる。違う。違うんだ。俺はお前の兄なんかじゃあない。お前の兄は俺の中にいて――俺が彼の中にいるのかもしれないが――とにかく俺はまがい物なんだ。
その俺が、こうして心配されるべきなのか?
「雪羽、俺の事を兄さんって呼んでくれるのか?」
思わず俺の口から言葉が漏れる。雪羽は首をかしげている。明らかに困り果てていた。
「兄さんは兄さんじゃないか。やっぱりうなされている間に怖い夢を見たんでしょ」
「確かに俺は俺だ。だけど雪羽。お前の知る兄は……雷園寺疾風と呼ばれていた子供とは違う存在なんだ」
自分の意識は雷園寺疾風に憑依したものである。直截的な事は言わなかったものの俺の発言はほぼほぼカミングアウトのような物だった。
話を聞いてくれるか? 俺の問いに雪羽は頷いた。多大なる当惑の色を滲ませながら。雪羽も戸惑い混乱しているのだ。でもそれでも兄の言葉にうなずいてくれる彼が、どうしようもなく愛らしかった。
※
俺たちの保護者である三國叔父さんは、数十匹の獣妖怪たちを配下として従えていた。重臣である春嵐さんや堀川さんなどはその筆頭格だろう。
三國叔父さんが多くの妖怪を部下に持っているのは、何も三國叔父さんが強いから、という単純な話だけではない。妖怪たちに「この妖ならついて行きたい」と思わしめるカリスマ性のなせる業なのだ。ついでに言えば三國叔父さんは、若い頃百鬼夜行を造り出したいと思ってさえいたそうだ。
組織や今の体制からはじき出された妖怪たちを救済したい。彼らと共に今ある体制を打倒し、より良い世界を作りたい……三國叔父さんはそう思っていたそうだ。まさしく反体制派の考えであるからびっくりだ。
俺の知る三國叔父さんは、雉鶏精一派の第八幹部として組織に仕えている。もしかしたら若い頃よりも丸くなっているのかもしれない。それでも従えている妖怪たちは数多くいるし(もしかしたら昔よりも増えているのかもしれない)、三國叔父さんが強い事には変わりはない。
そんな事を何故俺がつらつらと考えているのか。俺のカミングアウトのためだけに、家に妖怪たちが集まったからだった。全員集まった訳じゃあないみたいだけど、それでも三十以上の妖怪たちが揃っている。
何故だ。何故そこまで大げさな事になってしまっているんだ。
俺はただ、雪羽にこそっと耳打ちする事を考えていたというのに。まぁ、雪羽がどうしようかと思って三國叔父さんたちに相談したのだから、それはそれで致し方ないけれど。
「叔父さん……いくら何でも多すぎないかな」
「大切な話だと雪羽から聞いたんだ。疾風。お前は皆には俺の甥であり重臣であると見做されている。だから皆を集め皆が集まるのは当然の事だと思うが」
集まった妖怪たちに面食らっていると、三國叔父さんは涼しい顔でそう言った。確かに俺の秘密はずっと隠し通せるものじゃあないのかもしれない。それでも大勢の妖怪たちを前にカミングアウトできるかと言えば別問題だった。
結局、俺のカミングアウトを聞くのは叔父夫婦と雪羽、そして春嵐さんや堀川さんなどの数名の部下たちになった。直接俺の話を聞くのがその数名で、後の面々は後から話を聞かされる形になるみたいだ。
「俺は雷園寺疾風として育ちましたが……皆さんが知っている雷園寺疾風とは似ても似つかぬまがい物です」
三國叔父さんや月華さんと言った見知った妖物相手なら妙な事を口走らないだろう。俺は自分に対して高をくくっていた。しかし実際はどうだ。唇を震わせ妙な事を口走ってしまったではないか。しかも初手から。
「春嵐さんや他の妖怪たちは、俺には預言者のような能力があると思っておいでだと思います。ですが俺は別段預言が出来るわけじゃあないんです。ただ単に前世の記憶があるだけなんですよ。
そうです。俺は転生者……前世の記憶があるんです。前世はどうやら人間だったみたいなんです。それでこの世界の事を、未来に何が起こる事を知っていたんです」
転生者というか前世の記憶を持つ。この話を妖怪である三國さんたちはどのように受け止めるのだろうか。一応この世界にも輪廻転生の概念があるから、案外すんなり受け入れられるのだろうか。
「――それなら疾風。疾風は雷獣だけど、人間として生きてきた前世の記憶があるって事なんじゃないのか」
「それは少し違うんです」
柔らかな言葉で問いかける三國叔父さんに対して俺はかぶりを振っていた。本来の疾風とは別物であるという事を伝えねばならない。俺の中でそのような考えがはっきりと浮かんでいたのだ。
「俺の中には雷園寺疾風としての意識もありました。だけど……もうかれこれ十年ばかり俺が雷園寺疾風として活動しているんです。その、何と言うか……」
「要はお前は疾風に取り憑いて成り代わっているという事だろう」
三國叔父さんの鋭い声が鼓膜を震わせた。先程の笑みは消え失せ、獣じみた獰猛な憤怒を俺に示している。
「狐か蛇か怨霊か解らんが……お前は疾風じゃあないって事だな。疾風に成り代わり、疾風が行うべきだった事をお前が享受していたって事か。はっ、浅ましいにも程がある。
なぁ憑き物よ、どうすればお前は疾風から離れてくれるんだ?」
俺は雷園寺疾風として目覚めた時の事を思い出していた。三國叔父さんが途方もなく大きく、恐ろしい化け物に思えてならなかった。実際叔父さんは今放電を繰り返し、きっかけがあれば攻撃しかねない気配を見せている。
そんな三國さんの前に立ちはだかるように動いたのは、月華さんと春嵐さん、そして雪羽だった。
「叔父貴……兄さんは俺たちの知ってる兄さんじゃないかもしれない。だけど乱暴するのは止めて欲しいんだ。兄さんが誰なのかはさておき、兄さんには色々良くしてもらったもん。
それに俺、もう誰かが目の前で傷つくのは見たくないんだよ……」
思いのたけをぶつけたのは雪羽だった。月華さんたち大人妖怪は、まっすぐ三國叔父さんを見ているだけだった。
三國叔父さんは毒気を抜かれたような表情を見せ、それから静かに笑った。先程までの敵意や殺気は嘘のように消えている。
「ははは。さっきのは少し試しただけだよ。もしお前を庇いだてする奴がいなかったらお前をいぶりだそうと思っていたけれど……その必要は無かったみたいだな。それに考えてみれば、お前も疾風に違いない。だからお前の事を俺は受け入れよう」
この言葉に感動を覚えたのは何も俺だけではなかった。俺の裡に潜む幼い疾風も、面識が薄いはずの三國叔父さんの言葉に反応している。何となくだがその事が伝わってきた。
俺たちにとって、というよりも雉鶏精一派での大きな転換点があったのは平成二十二年の事だった。紅藤様の擁する研究センターに、玉藻御前の末裔の一人が就職し弟子入りを果たしてしまったのだ。
弟子入りしたのは主人公の島崎源吾郎ではない。兄の島崎庄三郎の方だ。まだ従八で、恐らくは高校を出てすぐに就職したのだろう。思いがけぬ動きに俺は大いに戸惑った。既に原作の流れからかなり変化してしまっている事には違いはない。しかしまさか、紅藤様に弟子入りするのが源吾郎ではなくて庄三郎だったとは。
しかも庄三郎が弟子入りしたという事は、源吾郎が弟子入りするチャンスは消え失せたという事をも意味していた。紅藤様が弟子に出来るのは、玉藻御前の末裔のうちたった一人だけなのだそうだ。その事は俺も知っていた。アニメでもその内容はかなり初期の段階で明かされていたし、何より紅藤様も事あるごとに言及していたのだから。
玉藻御前の末裔を弟子に引き入れた。そのお披露目会は当然のように行われた。
お披露目会は幹部である八頭衆とその重臣や側近たちが招集された。三國叔父さんの甥であり養子でもある俺と雪羽ももちろん招集された側に当たる。
「……兄さん。あいつが玉藻御前の末裔なんだよね」
招集された席で、雪羽がこっそり俺に耳打ちしてきた。あいつと言った時の声の尖り具合や、庄三郎に向ける雪羽の眼差しは思いがけぬほど厳しく、俺は密かに面食らってもいた。
「何かあいつ感じ悪そうなんだけど」
ややあってから雪羽はそんな事を言い捨てた。無論小声ではあるけれど。
そして俺は兄として「そんな事言うもんじゃない」と言いはしたものの、その声は何とも空々しい物でもあった。何せ俺も、雪羽と同じような事を考えていたのだから。
一見すると庄三郎はその見た目にふさわしい爽やかな好青年に見えなくもない。しかし俺と雪羽には解っていた。その笑みは単なる仮面であり、仮面の裏にドロドロとした情念を抱えてるという事に。
庄三郎が何事か言って挨拶を終えている。紅藤様は本当にこいつを弟子に引き入れたのだろうか。俺はぼんやりとそんな事を思っていた。
※
「紅藤様。何故島崎庄三郎を弟子に引き入れたんですか」
いつものように研究センターに呼ばれたあの日、俺は気付けば紅藤様に問いかけていた。紅藤様にはかつて源吾郎を弟子入りさせるのではないかと俺は言っていた気がするが、それを紅藤様が覚えておいでなのかまでは解らない。
「島崎君が私の許に弟子入りするのを望んでいたからよ。それ以上でも以下でもありません。それに彼も弟子入りを望んでいた訳ですから、白銀御前様の盟約にも抵触しませんし」
盟約。その言葉がぐっと俺に迫ってきた気がした。紅藤様は白銀御前との盟約を重んじている。その事も俺は知っていた。納得するか否かは別問題だけど。
「あいつは危険です。既によろしくないモノに半ば侵蝕されていますし……」
「侵蝕されているのは百も承知よ。むしろ私の手許に置いてコントロールする所存ですわ」
紅藤様の瞳はいつの間にか紫に輝いていた。彼女はパッと見た感じ年長のお姉さんにしか見えないが、実の所六百年近く生きた大妖怪なのだ。俺は原作とこの世界をめちゃくちゃにしようと画策していたカズキの存在を恐れていたが、紅藤様にとっては脅威でも何でもないという事なのだろうか?
去り際に紅藤様の側近である萩尾丸さんから声がかけられた。この人に話しかけられるのは本当に久しぶりの事だったけれど。
「本当は源吾郎君を紅藤様の弟子になったらよかったって思っているんだろう」
率直に思っている事を言い当てられてへどもどしていると、萩尾丸さんは笑ったまま言い添える。
「紅藤様は見ての通りもう玉藻御前の末裔からは弟子は取らないだろうね。だけど、紅藤様の縁者が玉藻御前の末裔の弟子を取らないようにという制限はないんだよ」
萩尾丸さんは意味深な笑みをたたえ、そんな事を言ったのだった。
※
この萩尾丸先輩の言葉を思い出したのは、それから更に四年後の事だった。
俺は遂に主人公たる島崎源吾郎と遭遇したからだ。三國叔父さんの事務所でのことだった。まだ高校生である彼は、親族らの目を盗んでわざわざここに訪れたのである。そうして彼は雪羽や三國叔父さんを見て、自分は玉藻御前の末裔であるから、配下に引き入れて欲しいと言ったのである。
「兄が妙な事を企んでいるのは薄々解っているのです。俺自身にはどうにもできません。なので、雷獣として名を馳せているあなた方の許で修行したいと思いまして……」
三國叔父さんは不思議そうな表情を浮かべるだけだったけど、俺と雪羽は源吾郎を部下に引き入れる事にした。原作の中でも源吾郎と雪羽は切っても切れない間柄だった。しかしまさかこんな形で接触を図るとは……
「成程な。君も兄さんの事が気になるのか」
雪羽が源吾郎にそんな事を言って、ついでに軽く微笑んでいた。兄である俺を慕う雪羽にしてみれば、兄の野望をくじこうと画策し、それでも兄の身を案じる源吾郎の事は好ましく思っているのだろう。
原作とは明らかに流れが違う。だけどこの分じゃあ大丈夫そうだ。そう思った時、俺は意識が揺らぐのを感じていた。
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夢の終わり
やっぱり力尽きてしもうたんや……
……長い夢を見ていた。見慣れた一室を見渡しながら俺は思った。ローテーブルの上には洒落たグラスがまだ鎮座している。黄金色の蜂蜜みたいな酒がグラスの三分の一程残っていた。度の強い酒であり、そのせいで不思議な長い夢を見ていたのだろう。
そうだとも。あれは夢に違いない。妙に覚醒した頭で俺はそう思った。夢の中で俺は妖怪として第二の生を享けていた。しかも贔屓にしていたアニメ「九尾の子孫、最強を目指すってよ」の世界観でだ。
しかし夢だったのなら何で源吾郎とかではなく、悪役だった雪羽の兄という、まだるっこしく微妙な立ち位置だったのだろうか。
少しだけその事が引っかかった俺だったが、別に夢は夢だし構わないかと思っていた。
とはいえ、夢というにはあの日々の事はまだ生々しく残っている。記録に残していてもばちは当たらないかもしれない。俺はそんな事を思いつつノートパソコンを開いた。「九尾の子孫、~」は人気作故に二次創作も盛んである。もしかすると、二次創作を漁っていたら何か面白い事が解るかもしれない。
※※
ある研究センターの一室。そこは元々妖狐が寝泊まりする場所でもあったのだが、その日はたまたま彼の友達である雷獣の若者も泊り込んでいた。仕事が遅くなったから泊めてくれと懇願され、妖狐もそれを了承したのである。
朝になって目を覚ました雷獣は、寝起きらしいぼんやりとした表情を浮かべていた。同じく起きていた妖狐は若干呆れたように口を開く。
「泊っていくのは良いけれど、まさか部屋で酒盛りされるとは思ってなかったぜ。それにしても眠そうだな。やっぱりまだ酒が残っているんじゃないのか?」
「そうかもしれない」
妖狐の言葉に雷獣は割合素直に頷いた。何処で購入したのか定かではないが、雷獣は黄金色に輝く酒を飲み、それから寝に入っていたのだ。
あの酒を飲んだから不思議な夢を見た。雷獣は平然とした表情でそんな事を言ってのけた。
「夢の中で俺には兄がいたんだ。同い年で、色々と面倒を見てくれる優しい兄がね」
夢の内容を語る雷獣は少し寂しげでもあった。兄がいるという言が夢の世界の話である事は妖狐もよく知っていた。雷獣自身には弟妹が大勢いるが、彼は長男で兄がいない事を知っているからだ。
「ふふふ、お兄ちゃんみたいな存在に甘えたいっていう願望かもしれないな」
「そっかぁ。それじゃあ俺、今日は先輩に甘えちゃおうかな」
「何でそうなるねん!」
軽いやり取りを繰り返しながら、妖狐と雷獣――島崎源吾郎と雷園寺雪羽は笑い合いじゃれあっていた。
最後に源吾郎君と雪羽君が元気そうな姿を見せていて良かったです。
思った事としては……二次創作の雪羽君の方が良い子だったという事ですね。原作では長男であり、甘え下手だったり「お兄ちゃんなんだから」みたいな気負いがあるのです。
しかしこちらでの雪羽君は次男・中間子なんですね。すぐ傍に頼れる存在がいたから精神的に安定していた……みたいな差があるのかもしれません。
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