Fate/Ideal World -Over the mith- (桜ナメコ)
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一章 Swamp of Despair
0-1「運命を塗り変える夜(1)」
ぞくりと背筋にはしった悪寒で、人払いの結界の中へと足を踏み入れたことを理解した。
ああ、始まってしまったと、もう二度と、あの懐かしの日々に戻ることなど許されないのだと、一抹の後悔が脳裏をよぎる。
「でも、私はお師匠様だからね」
可愛い愛弟子の為なら、なんだってできるのさ、と何度となく口にした魔法の言葉をボヤいてから、私は黒皮のコートのポケットへと手を突っ込んだ。
カツリカツリと自分の靴音だけが建物の中に響いていく。
数分、十数分、それとも数十分?
時間感覚が狂っていることに気がついて、パチパチと二、三度瞬きを繰り返した。
廊下を歩いている間に幻惑の術式に引っかかっていたらしい。
「中々、小癪な真似をしてくれるもんだね……いいよ、いいよ。真正面から叩き潰してやろうじゃないか」
立ち止まる。
愛弟子の小さな頃からのお気に入りらしい淡い水色の長髪をクルクルと右手の指で弄ってから、パチンッとその指を鳴らした。
多分、今頃、乾いた音に呼応するように、私の大嫌いな碧眼は輝いていることだろう。
まあ、幼いあの子が「きれー! すげー!」と喜んでくれただけでも、存在価値はあったのだと区切りはつけているのだが。
次の瞬間、パリンッと自分の周りの空間にヒビが走ったかと思えば、澄んだ高い音が鳴り響き、世界がガラスのように割れた。
脆いものである。
シャボン玉とさほど変わらぬ強度だね、と強キャラムーブを続けてみるが、それはそれとして、世界で最初に赤子の手をひねるという語句を作ったやつは真性のサイコだと思う。
え、今関係ないって? 私もそう思うから気にしない、気にしない。
細かいことを気にしてると、ハゲるぜ?
「さあ、次は何を見せてくれるのかな……まさかまさか、これで終わりなんてことはないのだろう?」
ゆったりと鼻歌交じりに、結界に覆われ隠されていた奇怪な館の中を行く。
画廊、というほどではないけれど、赤やら紫やらで壁や床全体が彩られ、不規則な間隔で絵画が飾られているこの空間は、正直言って好みではない。寧ろ、嫌いだ。なんか、キモい。
「全く、悪趣味な絵画ばかりだな……我が愛弟子の図画工作の版画の方が良い出来だったぞ」
同業人に、センスに触れただの、なんだのと芸術品(笑)みたいなものを集めて回る変人が居るのは別におかしなことではない。
ないのだが、全くもって理解はできない。いや、したいとも思えないのだけどね。
それにしても、あの版画の授業は大変だったと聞いたな。彫刻刀で左手を血だらけにしたあの子の姿には、心臓を止めかけた記憶がある。
全く、あの子があんなに不器用だったと知っていたのなら、知り合いの『人形師』にカテキョでもやらせてやったというのに。
……ああ、いや、アイツへ売った恩は彼女の件で全て帳消しにしたんだった。
なんなら、その後に膨大な借金したぐらいだからな、恨まれていてもおかしくなさそう。
最後に別れの挨拶ぐらいはしてやるべきだったか? まあ、妙に有能なアイツだ。いつか勝手に知るだろう。
私が死んだ後の世界なんて、私の知ったことではない。
それで、何の話だったか……と思い返そうとして赤い絵画が視界に入る。
数秒その絵の前で立ち止まり、溜息を吐いてから歩みを再開する。
「まあ、あの版画に母の日の造花、バレンタイデーのチョコの箱なんて物すら捨てられない私に、高尚な芸術を理解しろという方が無理な話だな」
クククッと笑っている間に、広間へと辿り着いた。
中々、金をかけていそうな館だなあ、なんてことを考えていたら、自分の周りに五つの魔法陣が浮かび上がってきていたみたいだ。
少し油断をしすぎたかもしれない。
反省、反省と脳内で呟き、こんな姿を見せたのなら、むすっという顔をするであろうあの子の姿を思い、緩む口元を押さえつつ、指を鳴らす。
「やあ、諸君。お目覚めしたばかりで悪いが、お休みの時間だ」
周りに産み出されたのは五体のボーンゴーレム。ぱっと見、素材は飛竜の牙か何かだろう。
大層な準備をしているようで、と半ば呆れにも似た感情を抱きながら、ササッとそれらを処理してしまう。
……というより、既に処理は終わっている、という方が正しいだろう。
先程指を鳴らした際に、術式の解除は終えているのだから、ここに残るのはただの骨だ。
強いて言えば、躓かないように歩くことが私の今するべきことである。
「全く、こんな何もない場所に貴重な素材を使ってゴーレム召喚とは、言外に来ないでくださいと言っているようなモノだろうに……まあ、この考えを逆手にとって私の精神を揺さぶっているというのなら、楽しみも増えるというものだが——」
トントン、と踵を鳴らす。
魔術が行使される。
自分の周囲の様子を探るだけの簡単な魔術だ。まあ、我が愛弟子はこんなことすらできないのだけどね……それは、それ。向き不向きってあるだろう? あの子はあの子でただ一つの武器があるのだから、何も気にすることはない。
把握完了。
「さてさて、
詠唱開始。
座標固定。
「準備はいいかい、名も知らぬ魔術師君」
偽装看破。
接続完了。
異界転送・開始。
「怖い怖い魔術師が、今から君を殺しに行くよ」
◇◆◇
ふわりと現実へと降り立ち、目の前で背を向けている小太りな男の肩へと右手をかけた。
慌てたように振り向いた彼の頬に、右手の人差し指が突き刺さる。
触るんじゃなかった。あの子のほっぺは、突き甲斐があるんだけど、コイツはダメだ。なんか、油ぎってるし……浄化しよ、浄化。
「な——っ」
「不用心、だね。まずは、距離を取らなくちゃ」
ニコリと微笑むと彼は顔を青くして、弾かれたように私の手を振り払って、逃げ出した。
うーん、随分と小物臭い。我が愛弟子の方がいい男だな。
多分、囮だろうけど、一応警戒した方がいいか?
男は、ある程度の距離を取ってから、私が距離を詰めないことを確認して立ち止まった。
そして、こちらへと左手を突き出して、震える声音で問いかけてくる。
「き、貴様、どこから!?」
「さあ? どこからだろうねぇ……柔軟な思考で予想をつけてみたらどうだ? ああ、そうだ。君達、
カチャリ、という無機質な音。
冷たい鉄の質感、火薬の匂いはそんな好きじゃないんだけど。
ボソボソと呟きながら、暴発防止の二重ロックを外す。
「やめ、ろ……やめろ——私は!」
嫌だ嫌だと首を左右にぶんぶんと振り回す。
でんでん太鼓みたいだなぁとか考えていたら、目の前に魔力を凝縮させた弾丸が迫ってきていた。
ふぅ、と優しく、誕生日ケーキの蝋燭を消すように、息を吹きかける。
ただそれだけで、魔弾は霧散した。
「なん、で ——」
タンッという破裂音と、煤けた匂い。
軽い衝撃。
腕をプラプラさせて、痺れの解消を図る。
「だって、匂いでバレるじゃないか。あの子、やけに勘がいいんだからさ…………あれ、そういう意味の“なんで”じゃなかった?」
沈黙したソレへと言葉を返してから、ため息を吐く。
まあ、今回は帰る予定がないから関係ないんだけど、気分的にね?
私のことを怖がるでもなく、気遣い過ぎるわけでもなく、淡々とお風呂の準備をしてくれたりする辺り、本当に愛おしい。
「今のはハズレ。でも、
「こっちさ【
「——ッ!?」
スパンッと空を割る音。
声をかけられる数瞬前に、咄嗟に身を捻ったことで、向けられた風の刃に対しての損害は、髪を数本持っていかれただけで抑えられた……うん、殺す。
あの子の宝物に触れた罪は重いぞクソ野郎。
「ヒューッ、流石、伝説の魔術師。今ので傷一つ負わないのかよっ!? 完全に殺す気で撃ったのによ!」
視線をやれば、ギャハハッと品の悪い笑い声をあげる細身の魔術師。
うん、うちの弟子の方がいい男だな。
口笛も下手だし、殺そう。
「全く、礼儀のなってない若造だな。大体、殺す気で魔術を撃った相手に挨拶をするバカが何処に居ると言うのさ……本気で相手をして貰いたいのなら、始めから全力を出しておくべきだよ、愚か者」
「あ? なんだよ、冷めてんな……つまんねー、伝説とかって聞いてたのに白けたわー」
「
ため息がこぼれる。
頭が痛くなってきた。
まさか、声をかけてくるとは思わなくて、回避が鈍ってしまったじゃないか。
奇襲中に話しかけるぐらいだから、大事な大事な要件なのかと期待した私が馬鹿みたいだろ。なんだよ『こっちさ(勘違いイケボ男風)』って、もう死ねよお前。いや、とっくに殺したけどさ。
「誰に話しかけ——ぁ、っ」
ドサリと音を立て、地に伏し沈黙した男を一瞥してから、手元の拳銃を弄っていると周囲の魔力探知に反応があった。
ようやくか、とそろそろ集中を高めることにする。
これというのも、私が使っているのは探知範囲を広げる代わりに、ある一定以上の魔力を持つ相手のみを知覚するためのものだからだ。
「つまりは、君が『マスター候補』ということでいいのかな?」
瞼を下ろす。
ゆっくり開く。
深呼吸を二回。
拳銃のグリップを握り直した。
カツンと一度、踵を鳴らした。
再び、世界が破れる。
周りの景色こそ変化はないものの、一瞬で周囲の魔力密度が増大する。
「これは、これは……流石【永久】と言うべきでしょうか。ようこそ、私の伏魔殿へ」
パチパチと拍手を繰り返しながら姿を表したのは、いかにも魔術師然としたローブに身を包んだ金髪の男……うちの子の方が、いい男だな。
「伏魔殿ねぇ……十五点をくれてやる。たかだか、契約者全員の空間内転移を簡易化しただけの館だろ。あとは空間把握に対する認識阻害、時間感覚を歪める精神汚染、多分幻覚やら何やらとご丁寧にたっぷり用意してくれていたのだろうけど……ウザい、面白くない、邪魔なだけ」
「それは、中々手厳しい意見ですね……ですが、先程の貴方の発言からわかったことがあります。一つ、勘違いをしているようですね…………来なさい
目の前で渦巻く魔力、紅の輝き。
どうやら、少し遅かったみたいだ。
……聖杯戦争は既に始まってしまっていたらしい。
輝きの先に、紫の長髪を持つ一人の女性が顕現したのを視認して、思わず舌打ちをする。
「さて、お手並み拝見といこうか。伝説の魔術師殿? やれ、ランサー!」
「……はい、マスター」
パチパチッと空気が揺れ、プラズマの弾ける音が生まれる。
あ、待って。これ、ちょっとやば——
「——ッ! 雷撃、とか。顔に似合わず、中々アグレッシブな性格してるじゃないか」
瞬間転移。
丁度、利用しやすそうな魔術が、館全体に仕掛けられていて助かった。
「ハハッ、そうか。この一瞬で館の魔術を……全くとんだ化け物じゃないか。どうやら、噂に尾鰭、なんてことはなさそうだね」
金髪の目に侮りの色は見えない。
それは、金髪の隣に立つランサーも同様であり、流石の私もそろそろ真面目にやらなくては、危険かもしれない。
はぁ……と息を吐き、口を開く。
「女の子に手をあげるのは、正直趣味じゃないんだけどね……まあ、それはそれ。主義とか趣味とか、置いといて、邪魔なら殺す。ただ、それだけの話……だが、そうだね。挨拶ぐらいはしてやろうか」
挨拶? と疑問を顔面に浮かべた目の前の二人に対して、恭しく礼をした。
「私はユメミヤ。巷で話題なピッチピチのウン百歳の美少女。生きる伝説、天才魔術師、最強の始末屋【永久】とは私のことさ…………さあ、私を敵に回すこと、その覚悟はできたかな?」
頭の中でスイッチを切り替える。
思考回路を全速力で回す。
「「…………ッ!」」
「沈黙は、肯定とみなすよ。それでは、始めようか」
私の、最後の戦いを。
胸の内で呟いて、そして私は口にした。
「
彼と共に過ごした日常。
その、全てを注ぎ込んだ魔術。
長い長いこの人生の、私なりの集大成。
「私の全ては、今日この日のために……なんてね」
次の瞬間、世界が光に包まれた。
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1-1「ある夏の日」
トントンと身体が揺れる感覚で、目を開く。
「……ぅん、あ?」
そして、鉈が振り下ろされる光景を認識した瞬間、全力で身体を転がしてベッドから離脱した。
「あら、避けましたか? おはようございます。朝ですよ、駄犬」
「おいコラ『避けましたか?』ってなんだ。いきなり、どういう了見じゃ、ボケ。毎朝のように殺しに来やがって、そのうち死ぬぞ、俺」
「大丈夫ですよ、そのときはそのときです」
「全然大丈夫じゃねえんですけど!?」
俺が目の前のサイコメイドへとツッコミを叩き込むと、涼しい顔のまま、彼女は窓の方を指差した。
「……何?」
「今日、火曜日です」
「……燃えるゴミですね、行ってきます」
「よろしい……あ、それと挨拶」
「あーね……うん、おはよ、零華」
コイツ……いつか、絶対泣かす。
何回誓ったかもわからないそんな宣誓を脳裏に浮かべながら、俺こと
——十数分後。
「うまうま……」
「食べながら、喋らない」
零華の用意してくれた朝ごはんをガツガツと食していると、いつもより格段に頬を緩ませた彼女から、一応の注意を受けた。
とりあえず、美人なのはずるい。
長い白髪に透き通った碧眼、普通にある胸部に加えてメイド属性とか、男子高校生を殺しに来ていると言っても過言ではない。
まあ、俺はもう高校生じゃないので、問題なんてないんだけどね。
「そういや、師匠は?」
「…………ユメミヤ様は、所用で暫くの間、屋敷を空けるとのことです」
「なーに、それ……俺、聞いてないんだけど」
「
「親か?」
「あながち間違いではないかと」
俺の師匠にして、保護者。
現在、俺が居候している屋敷の家主でもあり、零華の主人である魔術師。
おそらく、これらの情報がユメミヤという女性の立場を簡潔に説明するのに適しているだろう。
本人曰く「結構凄いんだからね!? 私、実は超強いんだからな!? 本当に有名なんだぞ!?」とのことだったが、個人的な認識は、少しポンコツ風味の恩人、というものに落ち着いている。
「私もその伝言には賛成ですが……駄犬も折角の成長期なんですから、健康的な生活を送るのは重要なことですよ」
「そうは言っても、身長はそろそろ止まりそうなんだがな……まあ、昔はお前の腰ぐらいの背丈だったことを思えば、素晴らしい進歩じゃねえか? 今じゃ、若干お前より高いぞ」
「若干、で威張らないでください。個人的にはあと9センチ伸びてくれると好ましいのですが…………」
なんで9センチ? 10で良くない?
まあ、いいけど……172ぐらいだったはずだから、普通サイズぐらいまでは育ってると思うんだけどな。
というか、零華の身長が高い。俺との差が5、6センチぐらいしかないのだ。
……背まで高いとか、なんだコイツ無敵か。
「……そういえば、確かにあの頃は、駄犬も子犬ぐらいには可愛らしかったですね」
「なんで、俺はいつまでたっても人間に昇格できないですかねぇ……」
俺がユメミヤに出会ったのは十二年ほど前。
色々あって、彼女の屋敷へと転がり込んだのは九年ほど前。その一年後ぐらいに屋敷へとやってきたのが零華であった。
その当時から今に至るまで、美貌に一切の変化を許すことのない零華さんってば、ガチで美人を司る神に愛されているとしか思えない。
「……行き遅れ」
「……」
「謝るので、無言で喉元にお玉突きつけないでください」
何でお玉? あ、味噌汁のおかわりやってくれるのね、ありがと。
毎朝、君の味噌汁を食べたい所存です。超美味い。
「……私は既に求婚されたことぐらいありますから。望んで独り身を貫いているのです」
「え、初耳」
「駄犬は、本当に駄犬ですね……」
はぁ……と、かなり本気の溜息を吐かれたので、話題を切り替えようと思う。
そんなに呆れられるようなことしたか?
「ま、美人な事実は変わらんしな。婿なんて選び放題だろ…………むぐっ、ふぅ、ごちそうさん。しばらく工房に篭ってるから、なんかあったら言ってくれ」
「…………はい。お昼にまた呼びに行きますから、声をかけられたら直ぐに来ること」
「了解」
零華の最も嫌いなことの一つは、用意した料理を放置されることである。
マジで三日間飯抜きにされかねないので、そこだけは気をつけないとな。
「…………美人、ですか。まったく、口説き癖は昔から変わりませんね」
ボヤいた言葉は誰にも届かず、微かに朱に染めた頬へ手を当て、彼女は穏やかに微笑んだ。
「どうか健やかに……ですよね、ユメミヤ様」
◇◆◇
師匠は俺に魔術を教えてくれなかった。
いや、正確に言えば、俺は魔術の基礎であるらしい強化の魔術すら、
体内に魔術回路はあり、その開閉の感覚もしっかり掴んだ。多分、魔力を身体に巡らせることはできているはずなのだ。
魔力を通すまでにイメージに対するラグがあるとはいえ、戦うわけでもないし、特に問題はない。
「……できる、はず、なんだけどなぁ」
胡座をかいて、両手で包むように持っていたランプを床へと置き、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
ランプは、それまで、かなり眩しいぐらいまでに光っていたが、床へと置いて数秒で普通の明るさに戻る。
正しく使うことはできない。
逆に言えば、自分でもよくわからないが、かなりの疲労感と引き換えに、手をかざしたランプの光を強くすることはできるのだ。
師匠にそれを見せたら、キョトンとしてから爆笑され、挙句「気持ちが大事だよ、気持ちが!」と精神論でアドバイスをされる始末である。
あのとき、どうやら本格的に俺には才能がないと思われたらしい。
「これからは、一日一回、魔力回路を開け閉めするだけで、あとは鍛錬なんてしなくていいよー」とアッサリ言われて、三日間、不貞寝した記憶があった。
「……次だ、次。仮にも一応は弟子扱いされてんだ……幾つ恩があると思ってる……いい加減、強化ぐらい普通にやってみせねえと」
ぐったりと倦怠感の残る身体を気合いで叩き起こす。
ランプに触れた。
「……ッ!」
瞼を落とす。
息を吐いて、そして吸う。
そして、吐く。
回路開閉のイメージは、重力に抗い、厚い曇天を突き抜けて、蒼天へと飛び出すための加速感と重さ。
曇天を、壁を、突き抜ける。
そのタイミングで、カチリとスイッチが切り替わる。
「……はぁ、はぁ……よし」
魔力回路に魔力が巡り始める。
「次に、ランプに意識を向けて——」
「駄犬、お昼です」
「はいすぐ行きます零華様」
「よろしい」
この続きは、またの機会ということで。
◇◆◇
「では駄犬、いつものアレのついでに、食料品の買い出しをお願いします」
「了解、何が必要?」
「メモにまとめてあるので、こちらを失くさないように」
「子どもか?」
「子どもに失礼ですよ」
「お前は、俺に失礼だよ」
平日の午後三時半過ぎ、ある日課のために、カバン一つを持って外へ出る。
屋敷を出てすぐに、みんみんみーん、と、おんみょ〜んが混ざっていても気がつかないレベルのセミの大合唱に襲われた。
暑さ倍増のスパイスって感じだな。
人類はそろそろコイツらの殲滅作戦に乗り出してもいい気がする。
ユメミヤの屋敷はそれはもうご立派なサイズであるのだが、人目に晒したくなかったのか、そこそこの森の中に建てられている。
認識阻害の魔術で誰が来ようと問題ないさ! と自慢げにしていたので、多分いつか誰かにサラッと攻略されると思う。あの人、フラグ回収のプロフェッショナルだもの。
森の中、という影響もあってか、というかそれがほぼ百パーの原因で、屋敷の周りにはセミが大量に湧いている。そのため、今の時期のやかましさは天元突破しているといえるだろう。
街へ行こう、街へ。
どうせ、微妙に田舎な地域であるため、どこに行こうがセミは鳴いているのだろうけど。
そんなこんなで、街へと降りてきたわけなのだが、そろそろ日課の詳細について触れていきたいと思う。
ぶっちゃければ
女子高生のストーカー
である。
事案だね。
全く否定できないけど、しょうがない。
色々と事情と理由があって、俺は彼女のストーカーをしなくてはならないのだ。
時間にして、二十分弱。
その女子高生の通う学校から彼女の家まで。
「……来た、かな」
腕時計に目を向けて、学校付近の物陰に隠れる。因みに、ほんの四ヶ月前までは俺もこの高校に通っていたので地理的な面での知識は充分だったりする。
恥ずかしながら、絶望的なレベルの方向音痴を患っている俺なのだが、記憶力は良い方だ。実を言えば、一度通ったことのある道ならば、あまり迷うことはないのである。つまり、知らない道にほっぽり出され、地図とか渡された、という状況だったら、自宅に帰れる自信はない。
話が逸れたな。
色々あって退学したんだけどね、なんて二年間以上通い続けていた学舎を懐かしく思っていると、ようやく彼女が校舎から出てきた。
燃えるような緋色の髪は肩にかかるぐらいの長さであり、左側だけに編み込みを入れた結果露呈した左耳には、ガラス細工の水色のイヤリングが身につけられている。
その外見は周囲の生徒と比べて、頭一つ飛び抜けて映えるようで、多くの生徒の視線を集めているのがよくわかる。
まあ、美人は零華で間に合ってるので、そういう欲情的な意味合いで彼女を見たことは、生まれて此の方、一度たりともないのだが……この言い方だと、零華に対しては欲情してるみたいな感じになる? それもない。いくら彼女が信じられないぐらいの美人だったとしても、手を出しちゃいけない相手だということぐらいわかる。分は弁えているのだ。流石の俺も命は惜しい。
そんな緋色の彼女は、校門を出て直ぐのところで、男子二人と女子二人の集団に捕まったところみたいだった。
……というか、少なくとも今話しかけている男子生徒は俺の知り合いだな。仲は悪いが。
正直、彼女に近づけたいとは思えない類の下衆野郎だから、なんとかしたいところではある。
だが、現状、俺に打てる手はない。
歯痒さは残るが、しばらく様子を見守るしかなさそうだ。
カバンの中から、橙色のガラス細工のイヤリングを取り出して、右耳につけた。
トントンと指で二度揺らすと、師匠の手によって仕込まれた魔術が発動する。
「盗聴開始っと。バレたら殺されるだけじゃ、すまねえけど……まあ、バレなきゃセーフってことで、許してもらおう」
数秒間、ノイズが聞こえたのちに、音声認識システムが安定し始める。
『…………という……だ。どう……、……なしを聞いて興味はないかな?』
『そう、ですね……興味がないわけではありませんが、夜遅くに家を留守にはできないので、肝試しの件はお断りさせて頂きます』
『…………そっか、じゃあ夜じゃなきゃいいんだよね? 次の休みとか、どう? もちろん、僕だけじゃなくて皆で!』
『えっと、そう、ですね……はい。予定は、空いていないわけではありませんが』
状況を察するに、あの子はクソ野郎から肝試しの誘いを受けている、ってことでいいのか? さっさと断れ。
それにしてもあの野郎「皆、居るから……!」とか言って誘った癖に、ちゃっかりカラオケで隣の席を確保する系男子筆頭みたいな発言しやがって……やり口が汚ねぇ上に、器が小さい。あのとき、本当にぶん殴っとけばよかったな。
緋色の彼女に話しかけているそんな軽薄そうな灰髪の男の名前は、
「……ただのナンパ、リア充イベントってやつならいいけど、安心院が関わってんなら裏があるとしか思えねえ」
蘇るのは、苦々しい記憶。
『…………あーあ、タイムアップか。惜しかったね、結君……僕も、ここまで追い詰められたのは初めてで、ゾクゾクしちゃったよ』
ヘラヘラとした下卑た笑み。
鼓膜に粘つく耳障りな声。
ざわざわと喧騒に包まれた周囲。
大きな足音を立てて、駆けつけてきた生徒指導担当の教職員。
『おい、お前! 何をしているッ!』
そんな大声と共に、右頬へと叩き込まれた強烈な右ストレート。
意識を現実へと引き摺り出す。
「……肝試しの会場、探っといた方がいいか」
念には念を、と付け足すように呟いた。
◇◆◇
てくてく歩いて十数分。
彼女の家の目の前までやってきたところで、緋色の少女は俺の隠れる物陰の方を向いた。
「…………ねえ、いつも聞くけど、いつまで尾けてくる気?」
「……………………」
ばれてーら……知ってたけど。
「……今日も返事はなし、か。別にどうでもいいけど、捕まっても知らないから」
「……………………」
「……はぁ、じゃあね」
バタンという扉の閉じた音を聞いてから、数秒ほど様子を伺い、完全に彼女が家へと入ったのを確認してから、深いため息を吐いた。
「……見逃された、か。優しく育ってくれたようで何よりだよ、
ああ、そうだ。
買い物に行かなくては、ならないのだった。
うちのメイドさんは怒らせると怖えから、注意しないとな。
一度、そんな何でもないように平和な思考へと逃げてから、振り向いた。
彼女の家の表札を一瞥。
「——兄ちゃんは、嬉しいぞ」
そこに書かれた『朱雀井』の文字から、目を離し、俺は今度こそスーパーへと足を向けた。
それは、ある夏の日のこと。
運命の夜は、すぐそこまで迫っている。
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2-1「女子高生の憂鬱」
私こと朱雀井眞白には、二つ年上の兄がいる。
いや、アレを兄と呼んでいいのかは怪しいとこだが、少なくとも戸籍上では兄だ。
血も繋がっていないし、ここ八年ぐらいは会話もしていない。最終的には、なぜかストーカーになられた始末であるわけだが、きっと多分ギリギリで兄だ。
そして、最近その兄の様子がおかしい。
何やら暴力事件だか、何だかの問題を起こしたらしく、気づいたときには高校を辞めていたのである。だが、それはまだいい。いや、本当はよくないが、もう慣れた。どうせ、何があったにせよ、しなくてはならない理由があったのだろう。
問題は先程も述べたが、ストーカー化の方である。なんでサラッと人としての道を踏み外しているのだろうか。
……まあ、別に実害があるわけでもないので、いいとしておこう。向こうが勝手に捕まった場合は、もう知らん。妹としては、せめてポリスメンにバレないようにストーカーをしてくれることを祈るのみである。
第一に、兄の奇行なんて今更だ。
ずっと昔のことになるが、彼は同じ職場で働いていた両親の海外赴任に断固反対し、私を巻き込んでおばあちゃんの家——今、私が一人暮らしをしている家になるのだが——へと家出を決め込んだことがあるのだが、奇行の最もたるものがそれだろう。
……お陰様で私と兄だけが日本に残り、両親とお姉ちゃんだけが海外へと旅立つとかいう見事な家族崩壊を引き起こした張本人だったりする。
正直、私は恨み言を言える立場ではない。
あのアホ兄貴は学校の友達と離れるのが嫌で嫌で、駄々を捏ねたどっかの赤毛のバカ野郎の我儘を聞いてくれただけである。
今となっては、ここまでしなくても、といった感情がもりもりと湧き出てくるのだが、かつてのわた——コホンッ、少女が兄へとかけた言葉はブラコン度マックスのお嫁さん宣げ……
「…………あの頃の私よ、死ねッ!!!」
そして、肝心の兄だが、私をおばあちゃんに託したのちに、どっかへ消えた。
うん、ほんと、何考えてんのかわかんない。
馬鹿じゃないの?
せっかく、二人で一緒にいら……コホン、家事要員が居なくなられると困るんだけど、そういう配慮はないわけ?
おばあちゃんはおばあちゃんで、脈絡もなく「武者修行に行ってくる」とか言って、私が中学生のときに、この家を託して旅立っていった。裏に道場持ってるでしょうが、満足しろ大人。あそこの掃除、すっごい大変なんだから。
まったく、揃いも揃ってアホばっかである。
というか、まず一般中学生舐めんな、米炊くのすら危うかったよ、ちくしょう。
それまでの自分の不甲斐なさに対する反骨精神全開で、二年間努力した結果、料理は達人ランクまで極めるなんて羽目になった。
朱雀井さんちの今日のご飯とか、多分出来ちゃうと思う。やらないけどね。
どうでもいい考えを頭の中で垂れ流し続けるのは、兄の癖が感染したものである、多分。もしくは、血筋。そんな血筋、嫌なんだけど。
小さい頃は、兄の真似ばかりしていたから、他にも変な癖があったりするかも……まあ、私の記憶は四歳ぐらいからしかない上に、今持っている記憶も、どんどん希薄になっているので、確信はないのだが。
多分、私は過去に頓着しない性格なのだろう。自分で分析するのも変な話だけど。
その割には、兄とのエピソードばっか覚えてるよね、とか言わないでほしい。
ぼうっと、脳内でそぞろごとをつぶやきながら、食事の準備をしていたのだが、ブブッという振動がポケットに突っ込んでいた携帯から伝わってきたことで、意識を取り戻す。
メッセージアプリを利用して送られてきていたのは『ごめんね、連絡先を知らなかったから、友達に頼んで教えてもらったよ。これから、よろしく』という、何をよろしくされているかもわからない、知らない人からのメッセージだった。
「……えっと、ああ……あの、変な人か」
今日、校門を出たところで声をかけてきた男の人……確か同じクラスなんだけど、なんて、名前だったかな。
学校じゃ猫を被ることに忙しすぎて、興味のある人のことしか覚えないから、急に話しかけられても困るのだ。
「確か名前は…………あ、書いてあった。あ、あんしん、いん? こう、や? あ、いや、ゆきやかな? ……読めない」
あんしんいん、という苗字に聞き覚えはない。もしかしたら、クラスメイトでもないのかもしれない。少なくとも、接点はないはずだ。
「……見なかった、ということで」
プツリと電源を落として、携帯をポケットへとしまう。
幸いと言うべきか、先程、その男と話をしていた際には、頸あたりがピリピリと微妙に嫌な感じがしたことを覚えていた。
昔からの特技の一つだが、私はこちらを見ている人の本質をなんとなく感じ取ることができるのだ。
そういうことなので、あんしんいんさんとやらは、どれだけこっちを凝視していようが、ほんわかとした感覚しか与えてこない、おばかさんを見習ってから、出直してきて頂きたい。じゃなきゃ、ストーカーなんて許すものか。
「だいたい、肝試し? に誘った癖に、都合が合わないのならお昼でもいいよ、なんて言う時点で愚かでしょうに……声かけられたら、ごめん寝てた、の一撃で諦めてくれるといいけど」
まあ、向こうが強硬手段を取ろうものなら、物理的に叩きのめすのみであるのだが。
こちとら、家に道場持ちだぞ?
あのイカレおばあちゃんに護身術程度教え込まれている。
「変な真似されたとき、やられるフリでもしたら、あのバカ引き摺り出せるんじゃ……」
ブツブツと緊張感もなく、そんな考えを浮かべつつ、私は夕食の準備を終えるのだった。
◇◆◇
翌朝、郵便受けに入っていた一通の手紙を見て、頰が引き攣った。
『紫の館は危険。
追伸:暫く夜更かしを控えろ』
「……盗聴されてた、ってことでいい?」
あのバカ、言いたいことがあるなら、自分から言いに来い。
私は手紙をくしゃくしゃに……するのは、流石に紙に悪い気がしたので、自室の机の上に皺にならないように置いておくことにした。
はい、そこ。ブラコンとか言わない。私が気を遣った相手は紙だから。兄とかどうでもいい。
「……過保護だなぁ」
……まあ、心配されて悪い気がしないあたり、多分、私があの人を嫌える日なんて来ないのだろう。
さてと、学校の準備といきましょうかね。
どことなく軽い足取りで、私は一日のスタートを切ったのだった。
・
・
・
「なんて、ウキウキ、キャピキャピ、と柄にもなく浮かれてたのが悪かったのか? おい神、そんなに嫌いか、私のこと!」
土砂降りの中の下校途中。
ビショビショになった制服は、泥と血に塗れていて、どっかのバカがよく褒めてくれた髪だって同様の惨状である。
風邪ひく。絶対、風邪ひいた。寒いというよりは、生温い感じの雨が気持ち悪い。
せっかく傘を持ってきたのに、どうして雨に濡れなきゃいけないんだ。
ザー、ザーと激しさを増す大雨。
今日に限って、私を尾けて来ないあの男の間の悪さは異常。そろそろ、本当にぶん殴ってやりたい、
まだ家の外にいるにも関わらず、お淑やかな美少女(兄判定)という私の外面が剥がれかけている。
それも、これも、全て——
「な ん で ! こんな雨の中、血だらけの美人さんが公園に、倒れているのよ!」
私の背中で意識を落とし続けている紫髪の異国風美人のせいだ。
もっと言えば、その状況を見捨てられない私という人格とその状況と私を引き合わせる機会を作った神が悪い。くそぅ。
なんとなく、本当になんとなくだが、
いや、外傷がないにしては、血の量が滅茶苦茶多かったんだけどね……返り血? 多分違う。そこのところは、私の善性センサーを信じる。仮に彼女が連続殺人犯とかだったら、私が叩きのめす。
あー、疲れたぁ! と半ばヤケクソ気味に、彼女を背負って歩くこと数分ほど。
ある種の違和感を覚えた。
「…………? 誰か、いる」
私の家の前。
土砂降りで視界は悪い。
その中でも、ギリギリわかるぐらいの不自然な霧に自身が包まれていることに気がついた瞬間、ゾクリという悪寒が背筋を走る。
ドク、ドク、と心臓が早鐘を打つ。
触覚で、風の揺らぎを感じとった。
「——ッ!?」
「ァァァァァアアアアアアアア!!!」
バックステップ。
直後、霧に包まれていた視界が一瞬で広がった。
「風……なに、これ」
そこに居たのは男であった。
ボロボロの外套。
血に塗れた身体。
ギラつく赤の瞳。
元々、金髪だったのであろうその髪は、焼き焦げてしまっているように見える。
最後に、どうしても目を引くのは、右手に存在する銀色のソレ。
「コンバットナイフ……だっけ?」
そこに見えたのは——底なしの悪意だった。
『◼️◼️さえ◼️◼️ければ、◼️◼️◼️◼️◼️は◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️◼️!』
それを目にした瞬間、頭が割れるように痛み始めた。
何か、何か、とても大切なことを忘れているような感覚。
平衡感覚を失い、体の末端へと血が通わなくなるような感覚。
視界にノイズが走る。
頭痛のように、脳内へ“誰か”の声が響き渡る。
やめろ、やめろ。
思い出すな、思い出すな。
私は——
「……つ、けたぞ、見つけたぞ、ランサァァアアアア」
その声が、私の意識を現実に繋ぎ止めた。
「……る、さいな。人の家の前で……あんまり、騒ぐな!」
目の前に立つ気味の悪いぐらいの悪意が、私に向けて……いや、私の背負う彼女に向けて、吠え立てる。
ああ、ありがとう。
お前のお陰で、私は私のままで居られる。
胸の内で、そっとこぼして、前を向く。
女性の身体を自分のすぐ後ろへと横たえた。
武器は、傘一本あれば大丈夫か。
「近所迷惑に不法侵入未遂、その他諸々、日頃の鬱憤を、全部ひっくるめてぶん殴る。八つ当たり上等、知るかボケって言う心意気なら、それはよし。全力でかかってきなさい」
おばあちゃん仕込みの棒術・剣術。
こんなんでも、一応、道場の娘だ。
「……ランサー、を、寄越せえええ」
「ランサーって誰よ!?」
あ、さっきの人のことか。
まあ、いい。
ぱっと見てヤバいやつ、じっくり見てもヤバいやつだけど、相手は人間。多分、ただの軍人ぐらいなら、おばあちゃんよりは弱いはず。
なんて考え、傘を剣のように構えたところで、背筋に再び悪寒が走る。
身体を全力で後ろへ反らす。
ヒュンッという空気の塊が割れる音。
感覚で、目に見えない“何か”が、刃となって私を襲っていることを理解した。
「ふっ、ざけ——ぶなッ!?」
最初は横薙ぎの一撃。
続く追撃は、縦方向の振り下ろし。
咄嗟の判断で体を捻り、横へと転がり込む。
直後、ずしゃりという音と衝撃が全身に伝った。流石に冷や汗が流れる。
一応、目を向けると、先ほどまで自分のとっていた地点の地面が粉砕され、見るも無惨な有様に変貌している。
「やって、らんない。夢でも見てるんじゃないの……」
スタリと起き上がり、後ろを確認。
らんさー? さん、とやらは、相も変わらず、横になったままの状態。
今の衝撃での外傷は見当たらないことに、一息ついてから、状況確認。
何が何だかまったくわからない上に、正直言って現実味が皆無なんだけど……多分、私、今けっこうピンチなのかもしれない。
多分じゃないよね……私じゃなかったら、さっきので死んでいるだろうし。
うーん、困った。
まあ、仕方ない。
命の危機だ。
ごめんね、おばあちゃん。
ちょっとマズいから、約束、破るよ。
「今からちょっと、本気出す」
ボソリと零して、私は傘の柄を握り直した。
ザーザーという大雨。
音が消え——雫の群れが、止まる。
——銀光が閃いた。
あとに残されたのは、ドサリと
「うわぁ……ビショビショ。早くお風呂入んないと、風邪ひいちゃうよ」
流石の私も風邪には勝てぬ。
この女の人も、一緒にお風呂入れちゃってもいいよね? お召し物も変えちゃおう。
それにしても、随分と美形な人ですこと。
……インディアーンなこの服、普通に洗って大丈夫だよね? ジャーン、とシンバル的な音とか聞こえちゃいそうな雰囲気だけど、問題ないよね?
「……警察に連絡ってだけで、済む話じゃなさそうだなぁ」
ガチャリと音を立て、扉が閉まる。
ザーザーと雨が降る。
後にはただ、白目を剥いた金髪の男の姿だけが残されていた。
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1-2「開幕」
「ほいさ」
「ご苦労様です…………何かありましたか、駄犬?」
「……いや、なんもねえよ。今の声掛けで、元気になったわ」
「気色の悪いことを言ってないで、手を洗ってきなさい」
「はーい」
帰宅。
安心院のことを考えていたからか、眉間に皺が寄っていたらしい。
左手に吊り下げていたそこそこ重いエコバッグを澄ました顔で受け取ってから、冷蔵庫へと向かった零華は、こちらの顔も見ることもなくそう言った。
空気を読む、というか、俺に対する理解が深すぎるので、怖いを通り越して安心感が凄い。顔を見ただけで実家感覚になれる万能型毒舌メイドとか、一部以外スペック高すぎて笑えてくる。
「……では、コーヒーでも淹れましょうか、夕食にするにはまだ少し日が高いと思われますので」
手を洗ってから、戻ると、零華からそんな提案が出される。
なんだかんだで、良い人なのが、彼女の暴言から、あまりダメージを受けない最大の理由だったりした。
「あんがとさん、遠慮せず頂くわ」
「それは、一度でも人の厚意に遠慮したことのある人だけが言える台詞ですよ、駄犬」
「一回ぐらいあるだろ……多分きっと恐らく」
話しているうちに自信がなくなってきた、なんてことはない。ないったらない。
そういえば、押しかけるようにして、この屋敷に転がり込んできたよなぁ、とか思ってない。
「…………遠慮、要る?」
「今更されても気持ち悪いだけだと、思いますが」
「だよねぇ……」
ジト目の零華から、スイッと顔を逸らしつつ、何か別の話題はないかな、と思考内検索をかけてみる。
「あ、そうだ。今日の夜、少し出かける」
「……頭、腐ってるんですか、クソ駄犬。常日頃から思っていましたが、一回、二回ぐらい死んどきません?」
「かつてないほどの口の悪さじゃねえか、そこまで変なこと言ってねえだろ……」
なんで、地雷地帯から抜け出そうとして、あっさりと底なし沼に嵌まってんだよ。
え、本当に、どうしてキレたの、この子。というか、日頃からそんな物騒なこと思ってたのね。
「……はぁ……ともかく、今夜の外出は許しません。仮に外出が確認された場合……そうですね、とりあえず餓死寸前まで追い込んでから考えますか」
「とりあえず餓死寸前って単語を発したのは、地球上でお前が初だと思う。もういっそ誇れ」
しかも、目がガチだ。
先程、零華が俺のことをよく理解していると述べたが、逆もまた然りなのは当然のことだろう。
話している内容が、ガチか冗談かぐらいの判断は朝飯前……え、嘘でしょ、マジでガチなんだけど、このメイド。
「言っとくが、夜遊びなんてしないからな? 零華が居るし」
「…………ッ!?」
「同居人に情事のどうこうを察されることほど、気まずいものはねえだろ」
「やっぱ死ね、クソ犬」
「なんでだろう。『駄』が失くなって評価は上がったはずなのに、いつもより貶されている気がする」
……めっちゃ、怒ってんじゃん。
お前の赤面とか久しぶりに見たよ、俺。
「……わかったよ。用事は明日の昼にでも回しとく。別に緊急って訳でもないからな」
「…………なら、良いですけど」
さてさて、零華さん。
カリギュラ効果って知ってます?
◇◆◇
「あっっっぶな!? ガチじゃん、え、ガチじゃん!? そんなに俺の夜遊び防ぎたかったの、あのメイド」
なにそれ、ちょっとかわいい。
屋敷を飛び出し、全力疾走をする中で、俺は心の中で愚痴を零し続ける。
零華さんってば、正面玄関の前で正座睡眠——いや瞑想だな、あれ——をしたまま、この一晩を過ごす予定だったらしい。
気を張り詰め、物音全てを聞き逃さないようにと集中しているその姿からは、武人の極地を思わせる風格を醸し出されていた。
どこを目指しているの、貴女? という具合である。
しかも、その風格が見掛け倒しではないのだから恐ろしい。
師匠特製の隠密用のフードケープと靴を身につけて「これだけやっておけば、相手が私でもないのなら気づかれないさ」と彼女がセットした隠密魔術セットを発動させたのだが、その上でバレた。あのポンコツ、今度会ったらクレームつけてやる。
少し、話は変わるのだが、先のイヤリングやフードケープなどの、便利道具についてだ。
前提となるのは、俺は魔力回路を開くことだけなら、別に問題なく行えるということである。
俺の血を利用して、師匠が作った便利道具の数々は(俺以外が使えないというデメリットはあるものの)開いた回路から直接魔力を吸い取る、という作業を道具の中に仕込ませたことで、俺でも魔術を利用できるようになっている。
と、そんなフードケープを身につけていたわけなのだが、もう一度言おう。
バレた。
閉じられていた瞳がゆっくりと開かれて、ニコリと微笑まれたあの瞬間の恐怖を、俺は永遠に忘れられる気がしない。
まあ、それで食い下がれる気質だったのならば、俺は今、屋敷の外へと居ないわけでありまして……
懲りずに、もう一度自室から脱出した俺は、次に裏口へと向かった。
裏口に仕掛けられたブービートラップ擬きを本命に思わせてといての、特殊ナイロン線を利用した鳴子の罠。
それだけやっておいた上で、結局はドアを開けたことを条件に発動する警報用の魔術…………俺より全然、腕が良い魔術師なんだよな、あの人!
ピーッと甲高い音が鳴り響き、開いたはずのドアが一人でに閉じられ、ガチャリと鍵が閉じられたあの瞬間の絶望を、俺は永遠に忘れられる気がしない。
……今なら、幼女に防犯ブザーを鳴らされたロリコン犯罪者どもの気持ちがわかるかもしれないな。いや、そんな気持ちは知りたくなかったけど。
などなど、たっぷりその他諸々エトセトラの罠に悉く引っかかった俺だったが、
そして、またまた、
なんか余りにも、脱出してください! みたいなルートだったので、流石に警戒心は生まれたのだが……それと同時に
夜闇に一人、飛び出した影。
それを、視界に捉えてから、彼女は僅かに俯いた。
「運命は、巡る。私達に許されたのは流れの中での祈りのみ、ですか…………」
自らの主の言葉を口にして、そして自らに託された使命に思いを馳せる。
ギュッと結んだ口元、涙なんかは流さない。
とっくの昔から、覚悟は決めていたのだ。
仕掛けた結界に不備はなかった。
戸締まりのミスなんて生まれてこのかた一度たりともしたことがない。
それでも、
瞼を強く、ギュッと閉じて、気持ちを切り替える。
平常心を乱すな。
落ち着け。
絶対に、彼は
「……さて、それでは私も、身支度を始めましょうか」
運命は巡る。
世界は終焉へと、走り始めた。
◇◆◇
とっとこ●ム太郎ばりの勢いで、夜道を駆けること数十分。
身体強化のできる魔術師ならともかく(多分、皆出来る)ただの元高校生男子に、これ以上の高速移動の継続は不可能だと判断した俺は、近くのコンビニでチキンを片手に休息を取っていた。おにく、うまい。
ポケットに財布を入れたままにしていた過去の自分を褒めてやりたい。
バイクでもあったら、もっと楽に移動できたのだが……ないものねだりをしても、仕方がなかった。
因みに運転については問題ない。
強いて言えば、免許がないことぐらいだが、まあ、運転技術そのものに問題はない。
文句は「運転できると便利だぞ?」と技術を仕込んだ師匠に言ってほしい。
「……確か、安心院が言ってたアレは、ここら辺にあったよな」
流石の俺も何の進展もないまま、休めるほどにメンタルは太くない。
全力ダッシュの影響で、スタミナの底が尽きかけてはいるが、件の肝試し会場のすぐ近くまでやってきていたのだ。
話を軽く聞いただけでも、その会場の位置が特定できてしまったのには、一つの理由があった。
それは、その会場が紫の館と呼ばれる西洋館だったことである。
そして、紫の館と言えば、この地域一帯の七不思議と聞かれれば、誰もが思いつくような肝試しのテンプレ的存在でもある。
当然、俺もその場所は知っていて、小さな頃に一度だけ訪れたことがある。じゃなきゃ、今頃迷ってる。
「観察、するだけ…………誰かの生活した形跡があったら、直ぐに退くようにしないとな」
口の中が余りにもチキンだったので、精神安定剤としても定評のある(俺限定で)ボンタンアメを口直しに一つ食して、覚悟を決める。
「んじゃ、行くか……
そう、紫の館に関わる全ての噂は、俗に言う心霊現象、というやつであるのだ。
正直、言えば、幽霊とかは余り得意ではない。寧ろ、苦手な方。
実体がないやつへの対応とか、一般人に求めないでほしい。そういうのは魔術師とかの仕事だと思うんですよ、僕。
十中八九、ただの怪談話なんだろうけど……ただ、火のないところになんとやら、とも言うからなぁ。
……ぶっちゃけたところ、凄え行きたくない。
「まあ、大目玉覚悟で飛び出した手前、怖くて行くのやめましたなんて、死んでも言えんのだが」
渋々、歩き出す。
屋敷を飛び出したときの、妙な高揚感と誰かに背中を押されているような勢いは既になく、トボトボという足取りに、時折混ざるため息。
「……帰りてえ」
なんで、あんなにやる気に満ち溢れてだんだろうなぁ、さっきまでの俺。
妙な虚脱感に疑念を抱きながら、再び移動すること十数分で、噂の館の前へとやってきた。
俺の記憶力すげぇ! イヤッフゥゥウッ! なんて、無理矢理にも脳内テンションを上げてみたのだが…………はぁ、既に帰りたい。なにこれ?
「気味の悪い館だな……外観が、紫一色な時点で、美的センスに関しちゃお察しだが」
鉄柵によって囲まれた、いかにもな洋館。ただし、紫。すんごい紫。
侵入経路は……と辺りを観察していると、目の前にあった鉄の門の鍵が閉じていないことに気がついた。
「警備がザルと見るか、単純に誰も住んでねえからと見るか……」
門へと手をかけて、少し力を込めて引いてみと、ギィイイインッという鈍い金属音を響かせて門が開いた。
「……やべ、うるさ」
自分が思っていた以上の音量に、顔を顰めつつ、敷地へと足を踏み入れることを決める。
これだけの音を響かせておいて、何の音沙汰もないのだ。どうせ、誰もいないだろう。
そして、その一歩目で——
ガシャンッ!
「は?」
館の敷地へ閉じ込められたことに気がつき、全力で後悔するのであった。
◇◆◇
「……もしかしなくても、ヤバい状況か、これ?」
毎朝の奇襲で、鍛えられた(気がする)第六感的な何かが理性へと警報を鳴らしていた。
さらに言えば、その理性すらもが、現状が非常にマズいものであると訴えているのだから、結論は『ヤバい』一択である。
「門が閉まったときに、微かに魔力を感じた……丁度、俺が屋敷の脱出に失敗しかけたときと同じように」
つまりは、紫の館とは魔術師の拠点という可能性が割とそこそこ高い気がするわけでありまして……
「脱出、できるか?」
肝心なのはそこだ。
朝帰りとか、洒落にならない。軽く命を持ってかれるぞ、あのメイドに。
じゃなくて——
「……いや、別に魔術師が居るからなんだ。別に目と目が合ったら●ケモンバトルってわけでも、出会って5秒でなんたらなんかでもないし……謝り倒して仲良くなれば解決だな、うん。土下座の形選手権なら負ける気がしねえ」
魔術がどうのこうの、なんて非日常的すぎる話だから身構えてしまうが、言ってしまえば相手も人間である。
俺の知ってる魔術師が師匠と零華しかいないから、なんて理由もあるが、別に連続殺人鬼なんてことはないのだから、素直に謝りに行くか。
脳内で、やっぱ謝罪が全てだな、と結論づけてから館の方へと向かう。
ぱっと見、呼び鈴らしきものは見当たらなかったので、二、三度ノック。
誰かいませんかー! と声をかけて、返事がなかったので少し困った。
……まあ、結局、その扉にも鍵はかかっていなかったので、無断で侵入したんだけどね。
「不用心にも程があるだろうに……戸締まり、気をつけるように言ってあげた方がいいのか?」
そんなどうでもいいことを呟きながら、広い広い館の中を探索していく。
館の中は普通に明るかったので、探索する分の不都合は特になかった。灯りがなかったら、ということを思うと正直、ゾッとする。幸運にも救われた。
……それにしても、やっぱり美的センスが宇宙の人だな、この館の持ち主。
屋敷の中すら、紫一色だとは思ってなかった。段々、目が慣れてきたからか「あ、この紫色、さっきの紫色より綺麗」なんて発言が飛び出すようになってしまった。
これからは、紫色ソムリエを名乗ろう。ごめん嘘。
「……広過ぎなんだけど……絶対、住みにくいだろ、ここ」
そんな愚痴も叩きたくなるほどに、この館は広かった。
空間を弄る魔術でも使っているのかもしれない。外観も立派な館だったが、絶対にそれ以上の広さだぞ、内部。
一階、二階、そして最上階の三階。
一通りを見て回って、誰にも会うことが出来ずに途方にくれる。
内装は整っていて、生活の痕跡も残っている。所々に見られた魔術の研究所らしきものからも、紫の館が魔術師の拠点というのは間違いないだろう。
「…………となると、後は——地下、とか?」
記憶を遡り、我が家の主が「地下っていいじゃん? 何か、夢があると思わないかい?」とアホ面で話していたことを思い出して、隠し階段とかないかな? と探索を再開することにする。
まあ、こんな素人の考えで見つかるような場所に、本命の工房は作らないと思うけどね。
・
・
・
「あったんだけど、隠し階段」
高そうな紫の絨毯の下に、それは存在した。
師匠といい、ここの主といい、魔術師って結構、アレな人が多いのかもしれない。
「見つけてしまったからには、行かなきゃ無礼ってもんだよなぁ」
くつくつと笑いながら、俺はその階段を降りていく。
後になって思ったことになるのだが、このとき、少し考えれば、気づけたのだろうか。
その精神状態が、屋敷から脱出を決行したときと似通ったものであったことを。
◇◆◇
そこは、埃の積もった古臭い石畳と石壁に覆われた異質の空間だった。
あったのは、大きな魔法陣と巨大な鏡。
「——なんだ、ここ」
空気が冷たかった。
異様な存在感を放つその鏡へと、フラフラ近づいていく俺の身体には、上手く力が入らなくて。
嫌な予感がした。
同時に。
ずっと、探し求めていた『何か』を見つけたような感覚が、俺の中に生まれていた。
ドク、ドクッと脈打つ鼓動が煩い。
浅くなっていく呼吸が邪魔だ。
思考が遠く、意識が薄く、世界から自分が消えていくような感覚に囚われる。
触れた。
鏡に触れた。
鏡に触れたその右腕が。
ズブリと鏡面に沈み込んでいた。
直後、意識にノイズが走る。
暗転しゆくその視界いっぱいが、美しい銀色を映した。
その数秒後。
——目を覚ます。
「……どこだ、ここ?」
俺は気がつくと、全く知らない灰色の世界に立っていた。
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1-3「灰の世界」
「………………どこだ、ここ」
目の前に広がっていたのは、灰色の世界。
空が曇り空、ではなく、灰色に染まった世界。
決してコンクリートの建築物が乱立しているというわけではない。なんというか、純粋に世界から色が抜け落ちてしまったような、そんな灰色の世界。
思わず自分の身体へ目をやって、それがいつも通りの状態だったことに安堵の息を吐く。
「魔術師さんの隠れ家…………ってほど、ちっさい企みじゃなさそうな雰囲気はあるけど」
いつか、いつか、目の前に広がる灰色の世界全体が現実へと牙を剥きそうな……そんな怖さが、この世界にはあった。
「……師匠に、知らせた方がいいよな」
と、ここで、ようやく気がついた。
「……なん、だ、これ」
視線を落とすと、痛みの発生源——右手の甲に赤色の痣のようなものが薄く浮かび上がっていた。
「…………厨二病ごっこをするにゃ、ちょいと寂しすぎる世界なんですが……毒とか仕込まれてねえよな?」
わからないことばかりで、頭が痛くなってくる。なんだ、この状況……まず、帰り方がわからねえ。
取り敢えず、でけぇ鏡でも探すか? 魔術師関連っぽい建物を見つけるところから始めるとしよう。
しんとした静かな空気。
色を、音を、熱を失った灰色の中を歩いていく。
時間感覚が狂いそうになり、腕時計へと目をやると、その短針は1と2の丁度ど真ん中あたりを指していた。
「……ちゃんと進んでる、よな。確信はねえけど」
屋敷を脱出したのが11時前だったことを考えると、この世界へとやってきた際の
「ある意味じゃ、遭難とも言えるが……長時間続くようなら、食糧とかも問題になってくるんだよな……」
余りに人気のない灰色の街。
俺以外に誰も居ないのであれば、多少の無礼は許されるだろうと考えて、最寄りの一軒家の庭へと足を踏み入れる。
そして、手頃なサイズの石を持ち、窓へと向かって——
シャッター下ろしてなくて助かります、あとごめんなさい!
なんて、心の中で叫びつつ、全力投球。
ズガァッという衝撃音。
最低でもヒビぐらいは、なんていう予想は大きく外れて、窓は無傷のままであった。
というか——
「……今、障壁みたいなの発生してたな」
そもそも、俺の投げた石は窓へと届いていなかった。
まるで、
「ますます、謎だわ……いっちょんわからん」
唐突に博多弁が口から飛び出るほどの困惑である。因みに、九州には行ったことすらない。
それは置いといて、この分だと、世界全体に今の障壁発生魔術がかけられていると見てもおかしくはなさそうだ。
もしかしたら、偶々俺が目をつけた一軒家と偶々俺が拾い上げた石にだけ、魔術が仕込まれていた可能性もないことはないが、あってたまるかそんな偶然。
……落ち着け、落ち着け。
周りを警戒しながら、この空間の持ち主を探そう。
相手は人間、対話ができりゃ怖くない。
いまどき、理由も聞かずに殺し合いなんて野蛮人はそうそう居ないのだ。
不気味な空間といえば、その通りだが、今のところ、右手が痛えことぐらいしか被害はない。
人畜無害な灰色の世界へと迷い込んだだけと考えれば、そこまで焦ることでもない…………ない! はず!
と、ここまで思考したところで、視界が一瞬、真っ白になる。続いて、鳴り響くは轟音。
つまるところ——
それも、かなり近い。
閃光から二秒も経過せずに、聞こえた音からもわかるが、何よりも両の足から伝わる振動が、直ぐ近くに落ちたのだと否応にも理解させてきた。
「…………はは、雨もねえのに、雷とか」
誰だよ、人畜無害とか言ったやつ。
いや、待て。
逆に考えれば、ただの落雷だ。
落雷なんて現実世界にも満ち溢れている現象が、この世界にも存在するということは、逆説的にこの世界が現実世界と大差ないものであることを示しているのだと考えられるのでは——
ピカッと閃光。
ズギャァアアアンッ! と、轟音が再び鳴り響く。
「あ、これダメっすね」
瞬時に理解した。
ここ、ヤバい。
雷に怯えて、脇目も振らずに街中を猛ダッシュした俺だったが、案の定、迷った。
そりゃ、脇目も振らずに走ったらそうなるよね。見てないのなら、記憶力とか関係ないもの。
「……帰れねえ」
自分が目を覚ました地点への戻り方を忘れて、途方に暮れていたのだが、朗報が一つある。
周りから雷の音が聞こえなくなったことだ。
因みに、凶報も一つ。
代わりに、風が、すんごい、強い。
変化すら存在しないような雰囲気を纏っているこの灰色の世界で、雷やら暴風やらの存在は異質に感じられる。
多分、何か本質的な所で違いがあるのだろう。
この世界のルールと災害を引き起こされている原因は、噛み合っていないのだ……多分。
そんなことをなんとなく考えていたのだが、肝心の現状に対する打開案などは思いついていない。
「さてはて、どうするか……」
彷徨った果てに辿り着いた安住の地。
それ即ち、超大型サイズの犬小屋の中にて、俺はぼうっと思考を続ける。
腕時計の短針は、二を超えてちょっと、というぐらいで止まっていた。
吹き荒れる暴風。
今、外へ出るのは無謀の極みだ。
だから、それ故に。
「————————————」
「……?」
誰かの声が、聞こえたのは異常だ。
思考する。
自分の状況と外界の状況。
想像する。
自分の立場と相手の立場。
この世界の危険性と自身の辿り得る未来。
そして、決断する。
「——行くか」
迷ったら動け。
すればよかった、の後悔よりも、しなければよかった、の後悔を選択し続けろ。
失敗だらけの人生だったからこそ、俺の行動理念は、そこに完結する。
この暴風の中で助けを求めている人がいるのかもしれない。
そうでなくとも、この世界に詳しい人間が居たのなら、俺は現実へと帰れるかもしれない。
そんな期待を頭の中で積み重ね、無理矢理、心を奮わせる。
直後、俺は、吹き荒れる風の世界へと、足を踏み出した。
◇◆◇
嵐がやんだのは、俺が犬小屋から飛び出してから10分も経たないぐらいの頃合いであった。
姿勢を低くして、声のした方向へと歩き続けていた俺は、ここにきて見逃していたある事実に気がついた。
「……この世界、俺の住んでる地域と所々リンクしてやがる」
最初に違和感に気がついたのは、何の変哲もない横断歩道に備え付けられた小さな旗の汚れだった。
本来なら黄色の旗が灰色に染まっているのは当然だとして、その旗の一部がくすんだように濁っていた様子に既視感を抱いたのである。
時間をかけて考えてみれば、屋敷の最寄りの横断歩道に設置されている黄色の旗の一つが、同じような汚れ方をしていたことを思い出した。
気がついてから先は早かった。
意識して周囲へ目を向けてみれば、所々に見覚えのある建物や空き地が存在していて、何よりもトドメとなったのが、現在眼前に聳えている大きな建物——紅蘭高校の存在だ。
俺の通っていた高校。
つい先日、妹のストーキン……見守りのために、訪れた場所である。
「建物の立地はバラバラ。大多数は見覚えのない場所だらけ。完全な再現がされているわけでもない…………けど、見過ごすにはちょいとばかり、大過ぎる情報だな」
まるで、全く違う土地の上に、現実世界の建物を適当に並べ直したような状態だ。
「となると、ここに師匠の屋敷が存在する可能性もないとは言い切れない……」
一瞬だけ、その屋敷を見つければ、師匠が助けに来てくれるのではないか、なんて思考が脳裏を過った。
頭を左右に振って、その選択肢を追い出す。
まずは、聞こえた声の持ち主の捜索からだ。
人探しのついでに屋敷が見つかったのならば、それはそれでよし。しばらくの間の拠点として利用すれば良いだろう。
「とりあえず、高校の場所は覚えといて損はねえよな……」
頭の中で組み上げた即席の地図の現在地にピンを刺してから、周囲の探索を続けることにする。
更に十数分ほど歩き回って、それらしい人影は見当たらない。
聞き間違えとは思わないが、声の主がさほど危機的な状況ではなかったのかもしれない。
これだけ探してみて、見つからないのならば仕方ないか、そう思考に結論づけて、とりあえず、学校へと戻ろうとしたそのときに、左耳がある音を捉える。
「————————水の音?」
せせらぎ、そう呼ぶには音が太いか。
ごうごうという低音の発生源へと足を向けると、そこに一本の大橋が存在した。
その中央に
「…………ッ、これは、驚いた」
何でもかんでも、灰色というわけではないらしい。その違いがどこにあるのかはわからんが。
流れる水の極上の色合いに目を見開く。
驚いた理由は、もう一つあった。
俺が見ているのは橋の中央。そう、中央である。
「なんだ、この穴——いや、穴というよりは、この橋がど真ん中で分断されてんのか」
散らばる瓦礫。
崩れ去った足場。
底の抜けた大橋には、確かに抗争の痕跡が残されていた。
風で抉られた道。
弾丸の跡。
おそらく、暴風の発生源はここだ。
この跡地からは、魔力が残っている。
いきなり崩れ去られても困るので、橋の中央には近づかないようにして、辺りの様子を警戒しながら観察する。
落雷、暴風、弾丸——もしかしたら、自分はとんでもないところへと放り出されたのかもしれない、その考えを思考の中から追い出せない。
でも、確かに声は聞こえたのだ。
この場所で戦いがあったのならば、そこには誰かが居たはずである。
橋から陸地へと戻り、少しの間考えてから、目の前に広がる、その異常へと触れていなかったことに気がついた。
斜面は緩く、水辺への移動は容易だった。
周りに人の気配がないことを確かめつつ、片膝をついて手を伸ばす。
手のひらに伝わったのは冷たさと流れによる手応え。
淡青色の底は見えない。
フードケープを脱いでから、目一杯に腕を伸ばして深さを確かめてみるが、それでも底に手がつくことはなかった。
「……深いが、水だな。酸とかじゃなくてよかった」
少し不用心だったか? なんて反省をしながら、立ち上がる。
辺りを見て、そして——見つけた。
「……あれは、人か」
橋の下。
陸地へと接する際に生まれる空白部に、誰かが倒れている。
駆け寄って、様子を伺う。
翡翠色の髪。
白と薄緑のローブに、黒の大弓。
異国風で、中性的な顔立ちの華奢な男性がそこにいた。
脈を測ろうと近づいて、上下の運動を続ける胸部に気がついた。
どうやら、生きてはいるみたいだ。
何度か身体を揺すってみるが、反応は得られない。
とりあえず、放置しておくわけにもいかないので、彼が目覚めるまで俺も仮眠を取ることを決める。
「…………………………」
瞼を下ろす。
遠くの方で、どこか聞き覚えのある誰かの声がしたような気もしたが、それが誰なのかを思い出す前に、意識は闇へと溶けていった。
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1ー4「邂逅」
目を覚ます。
いや、目を覚さざるを得なかったというのが正しいだろうか。
ガチャガチャ、ガチャガチャと、不規則に鳴る多数の足音が、俺と名も知らぬ美少年が眠っていた橋へと近づいてきたのだ。
すぐさま、フードケープの隠密魔術を起動して、耳を澄ませた。
ただの足音じゃない。
聞き覚えのない微妙な高さの音に、眉を顰める。
多数の気配は俺が身を潜めている橋下の丁度真上へとやってきてから止まり、しばらくの間、静かになる。
「————嫌な、感覚だな」
理由はない。
ただの勘だが、上の気配には妙な気持ち悪さがあった。
いつでも動き出せるように、未だに意識を戻すことのない少年を持ち上げて、背負う。
「この弓は——」
持ち運ぶには大き過ぎるような、そんな思考が浮かんだ直後、橋の上から奇声が上がった。
「「「GRAAAAAAAAAAッッッ!!!」」」
「なにごと!?」
怪物の雄叫び。
明らかに人外の叫びが、幾つも重なり合い、暴力的なまでの衝撃となって、鼓膜を揺らす。
頭が痛くなりそうだ。
こんな事態になっても、目を覚さないこの少年は大物に違いない。
そんなことを考えることができる余裕があったのは、ここまでだった。
ガチャ、ガチャ。
ガチャ、ガチャ。
見えたのは。
「……骨?」
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ——
橋の横側を這うようにして、下側へと回り込んできたのは、優に百を超えるほどの異形の怪物——骨でできた人型の何かだった。
「………………ッ!?!??!?」
呼吸が止まる。
悲鳴すら出なかった。
視界全部を気味の悪い何かが埋め尽くし、逃げ場のないこの状況に、拒絶感が働き、吐き気すら込み上げてくる。
「……ん、だ、これ」
足が竦んで、動けない。
だが、それでも、相手が待つことはない。
気がつけば、怪物達は俺に対して挟み撃ちの状態を完璧に整えていた。
まずい。
師匠の隠密魔術は、対人特化型だ。
少なくとも、目の前の怪物に効いているようには見えない。
……これは、既に詰んでいる。
どうにかして叩き出した結論も、諦めるのが上策だろう、なんていうクソみたいなものだけだ。
——もしかしたら、戦闘行為ではなく、身柄拘束だけで済ませてくれるのでは。
そんな願望混じりな甘ったれたことを考えた直後、最寄りの怪物が短距離選手のようなスピードで、俺に向かって飛び込んでくる。
「GAAAAAAッッ!」
「…………ッ!? 危——」
斜め後ろの方向へと跳んで、振り下ろされた骨の腕を回避する。
一発目は、なんとか躱せた……と、無意識領域で生じた俺の油断を、踏み躙るように、目の前の怪物は次なる一撃を振り下ろす。
軌道を予測して理解する。
避けられない。
なんとか、受け止めて——
ボキッ、と音がしたのがわかった。
「————ッ、ぁ、ぐぅ」
衝撃。
身体が、宙へと浮かぶ。
痛みよりも先に左腕が折れたことを理解する。
数秒ほどの浮遊感。
そして、落水。
呼吸、痛み、衝撃、水温——幾つもの情報が頭の中で混濁し、意識が薄らと遠くなる。
目を開いた。
そこは、ただ————青い。
水の中。
流れは思っていた以上に強かったようで、自由に腕を動かすことができない現状、思うような抵抗ができない。
足はつかない。
一瞬間、パニックになりかけて、ほんの少しだけ水を呑む。
それが、焦燥の火種となって、身体には無駄な力が込もる。
力が入った分だけ、浮上は厳しくなって焦りは増していく。
そんな悪循環に陥った。
体が、酸素を求めている。
焦りが思考を支配する。
やたら滅多に腕を振り回して、コツンと何かに手が触れた。
反射的にその一瞬だけは、思考が何に手が触れたのかの確認へと向かう。
そこにあったのは、先ほどまで俺が背負っていた少年の姿だった。
彼は未だに目を閉じたままで、ここまでくると、この人は眠っているのではなくて——いや、今はそんなことを考えている場合じゃないか。
想像外の事実を見て、冷静さを取り戻す。
脱力し、流れに身を任せつつ、この状況を打破し得る何かを探す。
既に、肺に空気は殆んど残っていない。
どこを見ても、青一色の世界の中では、自分がどれだけ沈んでいるのかわからない。
もしかしたら、すぐ上に空気があるのかもしれないが『青色』で光は遮られて、距離の認知が阻害されている。
身体が浮上しないのは、空気が残っていないこと、身体の力みが取れていないことが原因なのだろうか。
それとも、この水に特殊な効果が——
思考を重ねている間にも、身体が下へと引っ張られていくのがわかる。
ほんの僅かな間だけ、姿を消していた焦燥が、再び顔を出し始めた。
本格的に、やばい。
打てる手が、もう何も……
片腕は動かず、酸素は足りない。
流れに振り回されたことで、平衡感覚はあやふやで、自分がどれだけの深さにいるかすら認識できない水の中。
付け加えるのなら、意識不明の要救助者がもう一名。
せめて、この人と離れ離れにならないようにと、右腕を伸ばして、少年の服を掴む。
意識が落ちる。
呼吸の限界に口を開き、体の中に『青色』が入り込んでいく。
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしいくるしい、くるしいくるしい、くる、し…………………………
薄れゆく意識の中で、力の抜け落ちそうになった右腕に力を入れ直す。
けして、はなさぬように。
心に決めたものを貫き通すために。
せめて————
◇◆◇
ドンッという、腹部への強烈な衝撃で意識が覚醒した。
仰向けだった状態から、ゴロリとひっくり返るようにして四つん這いの体勢へと移行して、何度も咳き込むと、それまで感じていた気持ちの悪さと喉奥の異物感がゆっくりと消えていく。
「………………」
大量の水を吐き出し、涙目になりながら、先ほどの衝撃の原因を探そうと顔を上げる。
そこに、ボロ絹のような茶色のフードコートを見に纏った誰かが立っていた。
その誰かの横には、俺と一緒に流されてきたであろう少年の眠りこける姿があって、一先ず安堵の息を吐く。
人の腹を踏み潰して、意識の覚醒を促す目の前のバイオレンスチックな思考の持ち主だろうと、流石に殺すために命を救った、なんてバカな真似はしないはずだ。
つまり、この誰かさんは敵ではない。
味方でもないと言えそうな事実からは、目を逸らすことにした。
「あんた、は、誰だ?」
「………………」
無言のまま、頭がフルフルと横に揺れる。
答えられない、もしくは答えたくない、ということなのだろうか。
「じゃあ、あんたは……味方か?」
「……」
コクリと頷きが返ってきたことに、思わずガッツポーズをしそうになる。
そのタイミングで、ようやく自分の格好へと目をやった。
なんだか涼しいなあ、とか思っていたのは、現在進行形で俺がパンイチだったのが原因のようで、骨を折ったと考えられる左腕には、何やら文字が書かれた包帯が巻かれてあった。
「……服、どこすかね?」
「…………」
コートの袖に隠れていた指先が一瞬だけ露わになって、目の前の誰かが、随分と華奢な体型であることを知った。
白く細長い人差し指に示された方向には、張られた太い紐に、隠密コートやら何やらが、まとめて丁寧に干されていた。
「……ここ、どこですか?」
「………………」
フルフルと『いいえ』の返事。
喋れないのは、正体がバレると不都合だから、だったりするのだろうか。
まさか、師匠ではないだろうな?
「…………師匠?」
「…………」
ボロ絹の動きが固まる。
まさか本当に、と腰を上げて、コートの正体をハッキリさせようとする直前に——
「ふむ、これは驚いた。お主ら、どこから迷い込んだ?」
本物の殺気というものを、初めて身に浴びた。
白を基調とした和の上衣に、深緑の羽織。
紅と漆黒の袴。艶やかな黒の長髪。
携帯するは、鈍色の長剣。
ゾッとする程に美しい女が立っていた。
「まあ、よい。何も
後退りしようとして、足がもつれて尻もちをつく。
腰が抜けて、身体に力が入らない。
四肢が震えて言うことを聞いてくれない。
言いようのない絶望が逃走を逃すことなく押し寄せてくる。
そんな初めての感覚に、思考が止まる。
ボロ絹をまとった人物——どうやら、女性らしい、は俺とは違って臨戦態勢へと移行していた。
現れた女の言葉を受けて、ボロ絹コートは一歩、二歩と後退して、座り込んでいる俺の隣までやってきた。
「私から逃げるつもりか?」
「…………」
返答はない。
和装の女性がゆったりと俺たちへと近づいてくる。
咄嗟に後ろを振り向くが、そこには先ほどまで溺死しかけていた底なし(仮)の川が広がっているだけだ。
もし逃げるのなら、俺が拾ってきた少年も連れていかなくてはならない。
欲を言えば、コートだけでも回収していきたいところでもある。
だが、それをこの女が許してくれるだろうか。
目の前に立っているのは人間であるはずなのに、橋の下で襲いかかってきた異形の怪物なんかとは比べ物にならないぐらいの『圧』が、この空間に満ちていた。
「…………この状況下で、イレギュラーか……面白い。どれ、試しに一発だけ——」
ブツブツと何事かを呟いていた和装の女は、無造作に長剣を上段へと構えると、ボロ絹コートの女性に向けて、獰猛な笑みを浮かべた。
「——ハァッ!」
「…………ッ!?」
地面が抉れるほどの踏み込みで、急接近した女は躊躇なく、その長剣を振り下ろす。
対するボロ絹コートは黒色のナイフを取り出すと、振り下ろされた長剣を完璧に受け流して見せた。
ズガッという衝撃音を立てて、長剣は地面を粉砕する。
その長剣を真上から踏みつけて、ボロ絹コートはナイフを女の首へと滑らせた。
素人目に見ても無駄のない一撃に、女は更に笑みを深めると、体を逸らして当然のように致死となりうる攻撃を避ける。
女はナイフによる攻撃のために身を乗り出してきたボロ絹コートの腕を掴もうと腕を伸ばし——ボロ絹コートがソレをすんでのところで、後ろへと下がり、回避する。
ボロ絹コートが下がったことによって、女は長剣を自由に扱えるようになり、後退するボロ絹コートを追い詰めるようにして、猛攻を仕掛け始めた。
縦方向の斬撃は下へと受け流すか、半身になることで回避して、横方向の斬撃に対しては身体を後方へと倒し、距離を取りつつ退避する。
女の方の身体能力がボロ絹コートを圧倒しているが、その守りは中々崩れることがない。
今の内にと、ようやく動かせるようになった身体に鞭を打ち、まだ湿っている服を身につけた。
長剣とナイフの交錯の後に、弾かれるように離れてから数秒ほど、女とボロ絹コートの間に無言の時間が続く。
「なるほど、なるほど……悪くない、が——絶望的に足りないな」
「……………………」
小手調べはおしまい、と言うことなのだろうか。
和装の女は最初に放ったような殺気を纏い、ゆったりと長剣を上段へと構えた。
構えだけを見れば、先程とさほど変わることはない。
だが、明らかに瞳に宿る光が違う。
「疾く、死ね」
「……ッ!」
一閃。
ボロ絹が、左右対称真っ二つに切れる様子を直視して、血の気が退いた。
「ああ、まったく——もう言い訳のしようが、なくなったではないですか」
その澄んだ声は、長剣を振り下ろした体勢である女の向こう側から聞こえた。
身につけていたボロ絹で、相手の視界を塞いだのだろう。
彼女は、無傷のまま、パタパタと服についた埃を払っていた。
飄々と死地へと身を置くその人の声を、姿を、俺はずっと昔から知っていた。
白の長髪。
透き通る碧眼。
戦地に似つかわしくないメイド服。
毒舌メイドこと零華さんの姿が、そこにあった。
彼女はこちらを一瞥すると、心底面倒そうな顔をしながら、声をかけてくる。
「そこで突っ伏しているのを引き摺って遠くへ逃げなさい、駄犬」
「零華、なんでお前が——」
「反論は後で聞きます。とっとと失せなさい」
「言い方ぁ!?」
ああ、それと。
と呟いてから、零華は何でもないことのように告げたのであった。
「ユメミヤ様が、つい先程亡くなりました。駄犬も気をつけなさい」
「————は?」
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1-5「運命」
意識のない少年を背負ったまま、零華に指示された通りに、灰色の世界をひたすら駆け抜けていく。
応急処置として左腕へと巻いてくれた包帯には、やはり魔術が仕込まれていたようで、流石に違和感は残っているものの、左腕の機能に問題はない。
足を運んでいる間に、思考のほとんどを埋め尽くしていたのは、零華が最後に伝えた情報——俺の師匠、ユメミヤが死亡したということについてだった。
死んだ? 死んだって、なんだよ。
ありえない。ありえるはずがない。
いきなり、なんなんだよ。
師匠が死ぬ? ふざけた冗談はやめてくれ。
現実を肯定できない。
だが同時に、零華がこんなことで嘘をつくような人だとはどうしても思えないのだ。
……くそ、意味がわからないことばかりだ。
この世界に来てから、散々な目にしか合ってない。
なんだよ、これ。
自分が左腕を折った、ということすら自覚することができていないのだ。
処理する情報が多すぎるせいで、逆に現実味が薄くなっている。
ああ、くそ。
くそったれ。
唇を噛む。
……断言してんじゃねえよ。
あんた、マジで死んだのかよ。
そんなにあっさり死んじまっていいのかよ。
まだ何も、返せてねえのに。
これまで、意味がわからないことだらけだった。
だからこそ、わからないことをそのままにしておけた。
知らないのがデフォの状態にしてしまえば、考えることをしなくて済む。
状況を先送りにして、少なくとも今は楽ができる。
だが、零華の告げた絶望は誤解のしようがないただの結果であった。
虚無感と言うのだろうか。
悲しいとか、そういう次元の話ではない。
自分の身体から、何かが無くなったような。
心に穴の空いた状態というのは、今のような心境のことなのかもしれない。
走る。走る。走る。走る。
一度、思考をやめようと決めて、ただ前を見て道を駆けていく。
——一度だけ、最後に俯いて。
「………………………何、死んでんだよ」
細かいことも、状況の一つも、何もわからないまま、絶望に心を沈めた。
◇◆◇
「ここなら、休めそうか」
人を背負っての全力ダッシュなど、当然だがこれまでに経験したことはない。
とりあえず、クソキツかったとだけ言っておこう。
これ以上は倒れる、というぐらいまで、疲労が足にきていたので、パッと目についた広場へと休息のために訪れた。
灰色のベンチへと少年を寝かせて、俺もその場で座り込む。
そういえば、と腕時計へと目を向けると、幸いにも度重なる衝撃から身を守り切ったようで、時計の秒針は元気に円運動を続けている。
仮眠や溺死未遂を含め、それなりに時間は経過していたみたいだ。
時刻は、午前四時半ほどになっていた。
空も地も建物も自然も、あの川を除いた全てが灰色に染まっていたので時間感覚が狂いそうになるのだが、こちらの世界では、日の出は見られるのだろうか。
そもそもの話、これまで過ごしてみて、夜という概念が無さそうな以上、昼も夜も何もないのかもしれない。
永遠に、灰空の下で灰色の中を生きる。
考えただけでも、頭が痛くなりそうだ。
「……逃げろ、と言われてもな」
これから、どうすればいいのだろうか。
指示を出したまま、安否不明状態へとなった零華のことを思うと、連鎖的に師匠のことを考えてしまう。
気持ちが落ち込まないように、未来のことを考えようとしても、どん詰まりの状況に光明は見いだせない。
せめて、落ち合う場所や目指すべき場所でも教えてくれたのならばよかったのに、なんて文句を考えてしまうのも仕方がないだろう。
「結局、お前は全く起きそうにないし……」
目を閉じたまま、呼吸だけを繰り返す少年の姿を視界に入れて、ため息を吐いた。
何もわからない。
ひとまずは、現状に潜む危機のリストアップを行なってから、次の行動を決めるとしよう。
命大事にの考え方を尊重して、危険度の順位づけをするのなら、危険度順に挙げて——
・和装女との遭遇
・師匠が亡くなった原因
・怪物の群れとの遭遇
・零華からのお仕置き
・一生帰還できずに餓死
このようになる。
少なくとも、和装女のような存在が次に敵意を持って目の前に現れた瞬間、俺は問答無用で死亡することになるだろう。
怪物の群れに囲まれるなどをしても、同様だ。
あれ、私弱すぎっ?
なんて、考えてはいけない。
それにしても、零華はあんなにも戦える人だったのか。
話には聞いていたが、魔術師らしいところなんて全く見られなかったので——いや、屋敷に探知魔術仕掛けまくってたな。
じゃあ、どうしてと考えてみて、思いついたことが一つ。そうだ、メイドだ。
滲み出る圧倒的なメイド力によって、魔術師としての印象が薄かったのだろう、多分。メイド力って何?
話がズレたが、方針は決まった。
身を隠しつつ、零華への合流を最優先。
余裕があったなら、帰還の方法を探る。
体は冷え切っていて、体力に余裕はないことから、時間に余裕があるとは思わない方がいい。
息は大分整った。
プルプルと震えの止まらない両足は、気合いでどうにかするとして、移動を再開することにする。
隠密コートの魔術を起動。
人外の蔓延るこの世界で、態々魔力を使うことに無駄を感じなくもないが、何かあってから、やっておけばよかったと後悔するのもアホらしい。
「……ここまできたら、置いてくって選択肢はないしな」
よっこらせ、と寝かせていた少年の身体を背負いあげて、ゆっくりと歩き始める。
広場を出て、数分と経ったところで、小川を見つけて足を止めた。
その色は、やはり灰色ではなく、淡い青色をしていて、どうしてかその色合いがたまらなく魅力的なものに感じられた。
「逃げろ、としか言われてねえし、この状況が長期間に渡るなら、水源に目星は付けといた方がいいよな……?」
一人、首を傾げながら、まるで自分に言い訳をするように、進行方向を小川の上流へと変更して、歩みを再開する。
意識がぼんやりとしているのが、自覚できるぐらいに疲労は溜まっている。
今度、意識を落としたら、当分は帰ってこれない自信があった。
一歩、二歩、三歩と震える両足を動かして、周りの景色なんかを見る余裕もなく、歩き続ける。
そうやってどれぐらいの時間が経ったのだろうか。
周りの景色は、市街地から、いつのまにか大きく変化していた。
灰色の林。
自然界の掟やらを完全に無視して、唐突に始まった大自然の世界。
一度、前にも考えたが、まるで元々別に存在していた地域を継ぎ接ぎに付け直したかのようなチグハグ感が、そこにあった。
ただそれも——小川にだけは、影響を出していない。
そこが舗装された道であろうと、人の手が及ばぬ自然の中であろうと、姿を変えることなく、流れ続けていく青色に、何か意味はあるのだろうか。
歩いて、歩いて。
やがて視界が一気に開ける。
きっとこの瞬間が、俺の運命を変えたのだ。
そこに、湖があった。
湖のほとりには、彼女がいた。
「〜〜〜、〜〜♪ 〜〜♪」
細く、透き通った密やかな鼻歌が鼓膜を揺らす。
ほんのりと光を放つ淡い青色は、彼女を祝福するかのようにぼんやりと照らしていた。
ああ、そこに。
何よりも美しい——紅眼の少女が立っていた。
足音に気がついた少女が、こちらを向く。
右手が熱を放っていた。
焼けるような痛みすら気にならない。
それぐらいに——いいや、足りない。
言葉なんかでは、言い表せない。
この想いを誰かに伝えることなんて、できやしない。
兎にも角にも、ただ純然たる事実として。
俺は、ただただ君に見惚れていたんだ。
「……貴方は——ああ、時間切れですか」
美しい声だと思った。
その吐息一つにさえ、狂いそうなぐらいの愛おしさを感じていた。
少女は、一度目を細めてから、こちらへと背中を向けて林の奥へと歩いていこうとする。
「…………ま、って、くれ」
自分でも驚くぐらいに掠れた声で、その背中に声をかける。
どうやら、その声は彼女の耳に届いたようで、少女がその歩みを止める。
「……なんですか? 一言で答えられる疑問をどうぞ。時間がないので」
少女の言葉を受けて、呼び止めてどうするのだ、という疑問が今更ながらに脳裏を過ぎる。
この世界について?
貴方は誰か?
俺は何をしたらいいのだろう?
そんな、
「————好きです。今、一目惚れしました」
「ふむ、なるほど…………ほぇ? へ、なぁ……はい?」
すぐさま振り向いて、慌てふためく少女の姿に、内心で悶絶するほどに尊んでいると、少女の身体が——いや、俺の身体も、が段々と光を帯びていることに気がついた。
「ちょ、待ってください。一言で答えられる質問って言いましたよね? え、あっ! イエスがノーかってことですかっ!?」
「いや、そんなことより、身体が光って——」
「そんなことって言いました!? あ、ちょっ、時間がもう——」
たまたま、視界に入った腕時計の時刻が、五時半を示していた。
身体を覆う光の輝きは、次第に強さを増していく。
「————————ッ! ああ、もうっ! 貴方、右手を出しなさい!」
「え、ああ、はい。こう、か?」
凄い勢いで、こちらへと詰め寄ってきた少女に、少々緊張しながら、言われた通りに右腕を前へと差し出す。
彼女は、その手を両手で握りしめると、俺の目を覗き込んで、口を開いた。
「
「な、急に手とか繋がれると、手汗とかが」
「女子高生ですか!? 別に気にならないので、さっさと契約を——」
律儀にツッコミを入れてくる目の前の少女と自身の身体が、徐々に光の粒へと変わって、宙へと溶けていこうとしていた。
凄い剣幕で掴みかかってきた彼女に、戸惑いながら、生まれた疑問を口にする。
「……で、契約って何?」
「サーヴァント契約の他に、何があるって言うん、です……か……………………まさか」
「さーゔぁんと?」
「嘘ですよね、嘘って言ってください。冗談でしょう!? …………これが、残りの最後の一人……私の、マスターだなんて」
どうやら、ヤバい……みたい?
身体が溶けていく感覚が、限界に近い。
目の前の少女の表情が絶望に染まってしまったのを見て、どうにかしてあげたい、という気持ちで、胸の中がいっぱいになっていた。
サーヴァント?
サーヴァント契約、とやらの魔術があるのだろうか……よくわからないけど。
ああ、でもと思うのだ。
目の前の少女が、悲しむことはしたくない。
ただ、純粋にそう考えたのだ。
できることなら、その望みを叶えてあげたいな、と願った数瞬後、視界が真っ白に染まる。
ふわふわという浮遊感と、力の抜け落ちるような虚脱感が同時に訪れて、世界は光に包まれた。
◇◆◇
目を覚ますと、まず最初に視界に映ったのは見慣れた自室の天井であった。
パチパチと瞬きを繰り返して、部屋の中の調度品やら何やらに色が存在していることに、強い安堵の気持ちを覚えた。
直ぐに起き上がり、部屋から出て、事情を深く知るであろう毒舌メイドの姿を探す。
とりあえず、リビングに向かって、と移動し始めると、道中の廊下にて、一人の少女が立っていることに気がついた。
「……おや? 起きましたか、マスターさん」
それは、意識を失う直前まで話をしていた紅眼の彼女だった。
無意識とはいえ、一目惚れをしたと告げた相手が、唐突に自宅に現れたら、困惑は必至である。
加えて、なんだか妙なあだ名をつけられているのだから、その困惑は尚更であった。
「え、なんでお前が…………って、ますたー? それ、俺のこと?」
「はい、貴方が私のマスターです。詳しいことは、後でまとめて説明させて頂きますね! …………本当に何も知らないんですね。なんで、契約は成功させれたんでしょうか?」
「ん? どうかしたか?」
「いえ、なんでもないです」
まあ、なんでもないなら、いいか。
とりあえず、全く意味もわからないが、どうやら俺は無事に現実世界へと帰ってくることができたみたいだ。
少女のこと、師匠のこと、そういえば、あの少年はどうなったのだろう、そんなことを考えながら、リビングへと顔を出す。
そして——
「さて、駄犬。お仕置き、始めましょうか?」
「待ってごめん。本当にごめんなさい。どうか許してください零華様」
素晴らしい微笑みを浮かべていたメイドに向けて、土下座をかますのであった。
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1ー6「思惑と決断(1)」
「…………聖杯戦争?」
「正確に言えば、今回のそれは亜種聖杯戦争の枠に含まれることになると思いますが……まあ、今はいいとしておきましょう。聖杯戦争が儀式として成り立つまでの経緯やら、そこに絡まる幾人もの思惑やら、と全てを理解するのは、駄犬の頭脳スペックでは到底無理な話ですので——現状に関わる基本的かつ大切な要点を幾つか挙げさせて頂きます」
「サラッと暴言挟むな。悲しくなるだろ」
「否定はしないんですね……」
零華の案内に従って、普段は使っていない屋敷の広間へとやってきた俺と、俺のことをマスターと呼ぶ少女は、現在、零華との情報共有を行っているところであった。
因みに、未だ目を覚まさぬ少年はベッドに放置してきたのだそう。それでいいのだろうか?
まず一つ、と呟いてから、零華がピンと人差し指を立てる。
「聖杯戦争の基本的なルールを説明します」
その顔には素晴らしい微笑みが浮かべられていて、彼女が愉しそうにしているときは、碌なことがないことを知っている俺は、思わず、うへぇ……と呻く。
「一回で理解できますよね、駄犬?」
「拒否権をください」
「人権、必要あります?」
「せめて人でいさせてくれないかなぁ!?」
・
・
・
「……と、まあ、これぐらいは最低限覚えて欲しい知識になりますかね」
「……頭が、痛い」
英霊って、なんですかね。
いや、聖杯とかいう万能の願望機の存在も大分、頭が逝っちゃってる気はするんだけど。
零華から、聖杯戦争に関係する諸々の説明を受けた後に、退屈そうにしている隣の少女へと目を向けると、ツイと視線を逸された。
え、この子が歴史に名を刻んだ英雄やら偉人やらってことになんのか?
唐突に斬りかかってきた和服姿の女性はともかく、隣の少女は特段強そうには見えない。
だが、零華の話では、この少女は確かに英霊と呼ばれる存在の一人なのだろう。
赤の模様——右手の甲に浮かんだ令呪とやらを持つ人間、つまり俺のことを、彼女はマスターと呼んでいるのが何よりの証拠だ。
「それで、何の気まぐれか駄犬なんかと契約を行ったそこのサーヴァントに聞きたいことがあるのですが——そろそろ、自己紹介をしてもらっても良いですか?」
場の空気の質が変わったのがわかった。
零華が少女に向けて圧を放ったからだ。
何かあれば、敵対も辞さない。
そんな意志が、零華の瞳に宿る鋭い光から感じ取れる。
少女は、少しの間だけ、真っ向から零華の視線を受け止めてから、はぁ……と露骨なため息を吐いた。
「別に、私も好き好んでこんな素人マスターさんと契約したわけじゃないですよ。そんなに、ムキにならないでください。それとも、ただ単に
「……………………は?」
怖ッ!? え、零華さん怖すぎッ!?
何、今の「は?」って。
あんな地獄の底へと引き摺り込むみたいな声音は、俺ですら聞いたことがないんだけど。
すげぇ顔で、睨みつけられてる……俺が。
まるで、勝手に勘違いすんなよ、とでも言いたげな顔である。
言うべき相手を間違えてはいないかね?
それにしても、この少女、もしかしたら結構性格が拗れてたりするのかもしれない。というか、絶対に拗らせてるよな。
零華を煽るとか、自殺行為他ならないもの。
「はいはい、そんな怖い顔しないでくださいよ。自己紹介、やればいいんですよね……はぁ、面倒臭いなぁ」
暗紅色の瞳を気持ち若干濁らせて、少女は投げやり気味に口を開いた。
「私は、アサシンのサーヴァント。真名を——カーマ……しがないただの、愛の神様です」
神様。
零華と二人して、思考が固まったところを見逃さずに、彼女は——アサシンは、薄く微笑んだ。
「正直なところ、別に貴方と契約する理由はなかったんですけどね……人間なんて大嫌いですし、聖杯にも興味はないですから…………私はただ、愛を与えるだけ。だから、変な期待はしないでくださいね。戦いとか、私の領分じゃないわけですし——」
「……愛を与えるとか、そんな子供っぽい見た目で言われてもなんだかなって、気はするけど」
「ちょ、そこツッコミ入れてきますか!? だいたい、その子供っぽい見た目に一目惚れしたのはどこの誰なん——」
「 だ け ん ? 」
「ひぃぃぃッ!? 違うんです誤解です一目惚れと言いましても顔とか見た目オンリーってわけじゃなくてですね、雰囲気というかオーラといいますか、佇まいがなんだか妙に目に留まって、横顔に見惚れたと言うか何というか、見目麗しい相手だったら誰にでも発情するわけじゃないんですよねってのは、既に零華様ご自身が証拠となられていますので理解していらっしゃると思うのですが、まあ、うん、あの————うん、だから違うんですって」
土下座である。
プライドもクソもないほどに情けなさ全開の謝罪をすると、アサシンさんが凄い目でこちらを見ていた。泣きたい。何かに目覚めちゃうから、その蔑みの目やめて。
「チッ…………まあ、駄犬の性癖が捻じ曲がっていることは放って置くとして」
「放って置かないで。迅速な認識の改めを所望します」
「放って置くとして。アサシンに問います」
零華がアサシンに向き直り、緩みかけた場の空気へと再び緊張の糸を走らせる。
「聖杯に興味はない。そう言った貴方が、どうして現世への召喚に応じたのでしょうか?」
「細かいことを気にする人ですねぇ……言ったでしょう? 私は、愛を与えることが役割だと。それ以外に望みなんてありません——ああ、何だったら、貴方のことを愛してあげてもいいですよ?」
零華の直ぐ目の前まで近づいた少女は、その姿を高校生ぐらいの年齢の容貌へと変化させると、零華の頬へとその手を触れさせる。
透き通った碧眼と陰の落ちた紅眼の間に、しばらくの沈黙が満ちた。
「……はぁ、話す気はないと」
「何のことでしょうね……?」
零華は一つため息を吐くと、頬に置かれた手をパシリと払い落とす。
それから、では仕方ない、なんて物騒な前置きを入れてから、こちらへと視線を飛ばしてくる。
「駄犬、令呪を使いなさい」
「ちょ——ッ! 何を考えているんですか、貴方!」
「令呪、ってのは、確か……この赤色の模様のことだったな。契約しているサーヴァントへの絶対命令権、だったか?」
「ええ、いざというときの切り札ともなりますが、事前に危険を排除できるのであれば、使わない手はないでしょう。令呪一画を使用して、彼女が貴方からの質問に答えなくてはならないように命じなさい」
零華の表情から察するに、冗談、またはハッタリというわけではなさそうだ。
アサシンもそれを分かっているのだろう。
これまで、一度も崩れることのなかった余裕による仮面が剥がれ、その顔には焦りの表情が浮かんでいる。
「待ちなさい。そんなのは——」
彼女が何かを隠しているのは、出会ったばかりの俺でもわかった。
わからないことだらけの現状で、何故か俺の味方をしてくれるという少女の隠し事。
確かにそれを放っておいたら、後々、とんでもない爆弾となって、俺たち自身へを傷つける……そんな可能性だってあるだろう。
でもさ。
「それ、俺が命令したら、アサシンは俺のことを嫌いになるんじゃない?」
「……ぇ?」
なんか、嫌だなぁって思うのだ。
「よくわからんけどさ、アサシンは俺の味方をしてくれるって言ってんだろ? 出来ることなら、初めて一目惚れした相手に、俺は嫌われたくないかな」
「…………駄犬は、本当に駄犬です」
零華は、何度目になるのかわからないぐらいのため息を吐いてから、好きにしてくださいと投げやり気味にぼやいた。
「ああ、ですが」
「……ん? どうした?」
「貴方が
悪戯に目を細めた零華が笑う。
「証人は私だけ、なんて信用度の低い主張ですけどね」
◇◆◇
「では、アサシンの問題については放置するとして……本題に移りましょうか」
「本題?」
「ええ、これまで説明したのは、ただの聖杯戦争について、の情報です。今回のものは、また別となります。そのための説明、主にいえば聖杯戦争を戦うについての方針です」
零華に言われて、そういえばと気がついた。
これまで説明を受けたことで、アサシンと和服の女、そして屋敷で眠り続ける少年の全員がサーヴァントであるということ、この近辺で聖杯戦争が行われていることを知った。
だが、まだ触れられていないもの——そして無視するにはあまりにも大きすぎるものがある。
「あの世界は何だ?」
灰の世界のことだ。
例として聞いた聖杯戦争では、舞台となったのは普通の都市。
現存する地上のどこかなのである。
「詳しいことはわかりません。間違いなく、今回の聖杯戦争限定のイレギュラー……今回の戦争は、余りにも異例で満ちている。現に、この戦いに巻き込まれたユメミヤ様は、命を落としています」
本来ならば、そう簡単に死ぬような人ではないのだ、と言葉へと暗に込められたその意味合いは、零華の言いたいことを俺に伝えるには充分なものだった。
彼女は、真っ直ぐと俺を見て、言うのだ。
お前程度が関わったところで先は見えている、とそう前置いて口を開くのだ。
「——だから、ハッキリさせましょう。先程言った戦いの方針云々の前に、一番大切なことを聞きましょう。これが、本題です。そして、これが今まで悩み続けていた私の答えです」
零華の答え、そう言われても何の話かわからないのだが、彼女にも彼女なりの悩み事があったのかもしれない。
「
アサシンは口を開かない。
その答えを俺の口から聞くまでは、何も言うつもりがないと、彼女の瞳が言っていた。
「聖杯戦争に、参加をするのかしないのか」
続けて、言葉が紡がれる。
「理由は問いません。ただ、自分の意志による答えを示してください。期限は明日の夕刻まで、どちらを選ぼうとも、私は貴方の味方でありましょう」
「だから、駄犬」と、優しさの籠った一言を間に置いて、こちらへと近づいてきた零華は、俺を抱きしめた。
「貴方の道を、貴方の意志で示しなさい」
◇◆◇
ネタバラシをしてしまえば、私は最初からこの結末をわかっていたのだ。
私という存在が生まれたその瞬間から、ただひたすらに、この結末を
『いやぁ、まったく、苦労しちゃうよねー』
『…………』
『しょうがない。しょうがないのさ。見えてしまったものは仕方がない。変えようがない。受け入れるしかない。諦めろ——と、そう思うのが理性であって、導き出される結論だ』
『…………』
『だからさ、君が側に居るんだよ。私が居てはいけない。私ではダメなのさ……頼むよ、零華。君に託す願いはそれだけだ。どうか、君だけは、彼の味方で在り続けておくれ』
彼女は告げた。
淡い水色の髪を揺らして、どこかぼんやりと遠くを見て、ポツリポツリと言の葉を零した。
『全てこの眼が悪い。始まりの大罪人は私さ。だから、そこに救いがあるのなら、ほんの僅かでも希望が残っているのなら、私は喜んでこの身を捧げよう。ただ一つの願いなんだ。私はあの子に、幸せに生きてほしいだけなんだ……だから、何度でも言うよ』
彼の話をするときは、いつだって彼女の顔は笑顔に満ちていた。
『——彼を頼んだ』
ああ、敬愛なる我が主よ。
その願いに応えよう。
たとえ、この先に待つのが絶望であろうと。
「……私は貴方の味方でありましょう」
瞼を上げる。
しんと静まる屋敷の中。
視界の真ん中には、私の最古の記憶から随分と大きくなった貴方がいた。
一日が経ち、そして気がつけば、日は落ちかけの夕暮れ時。
目の前の少年は灰の瞳に強烈な意志の光を宿らせて、そこに立っていた。
「時間はまだ少しだけ残っていますが…………結論は出たようですね」
「……まーね。といっても、とても褒められたようなきっかけじゃねえけどな」
飄々と、余裕ぶって、ヘラッと力の抜ける笑顔を携えて、彼は宣言する。
「やるよ、この戦争」
「………………はい、わかりました」
止めることはしない。
理由を問うこともない。
彼と私がどれだけの刻を同じにしてきたと思っている。
言葉なんて必要ない。
その目を見れば、直ぐにわかる。
「それが、貴方の決断であるのなら——私は貴方と道を行きましょう」
だから、駄犬。
何があっても、止まらないでください。
何があっても、諦めないでください。
ひとり、私は
が
既に定められた死の運命を打ち破ることを。
私は——そのために、
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1ー7「思惑と決断(2)」
「貴方の道を、貴方の意志で示しなさい」
告げられたそんな言の葉を、ころころと頭の中で転がしながら、ぼうっと呆けて曇天の下を歩いていた。
我が愛しきスーパービューティーな妹のために、忠告の手紙を郵便受けへと放り込んだ帰り道。
何をどうやったのかはわからないが、灰の世界から師匠の屋敷へと帰還した際に時間のラグは、ほとんどなかったらしい。
目を覚ましたのが、五時半過ぎ。
情報共有もとい、先の言葉を伝えられたのは、それから一時間と経たない頃合い。
爆速で走って、手紙を放り込んでみたのだが、どうやら眞白が起きてくる前に間に合ったようなので、一安心だ。
はあ……とため息を吐いてから、進行方向を屋敷から変更する。
現在、零華の顔を真っ直ぐに見ることができそうにない、というのが理由である。
そんなわけで、適当にやってきたのは近所にある小さな公園。
遊具なんてなく、あるのは幾つかのベンチだけという、もはや公園を名乗るのも烏滸がましいような広場だった。
人気はなく、ひっそりと静まりかえったその広場にて、休息を取ることを決めた。
空気中に含まれる多量の水蒸気によって、湿り気を帯びた木製のベンチに触れ、一度動きを止める。
これ、寝っ転がっても大丈夫かな? なんて思考をすれば、理性は即断で「却下」と告げてきた。
「ま、別にいいか」
「——服、汚れますよ?」
さて、寝るか。
そんなふうに意気込んだところに水を差したのは、白銀の髪と陰の落とした紅眼を持つ少女の声だった。
「…………まあ、別にいいよね」
「だから、服汚れますって……ガン無視ですか?」
とりあえず、寝てから考えよう。
そんな現実逃避をさせることなく、少女ことアサシンは、俺の腕を引っ張り、ベンチから距離を取らせる。
「あの、何してんすかね……?」
「それはこちらのセリフです。何をするつもりだったんですか、貴方は」
この子、質問を質問で返してきたんだけど。
困惑しながらも、特にやましいことはないので「昼寝」と返答してみれば、心底呆れたといったため息が返ってきた。
「……貴方、バカなんですか?」
「おう? いきなり、失礼なやつだな……」
「おバカさんにおバカさんの言って何か問題でも? 貴方が聖杯戦争に対して、どのように行動するのか悩むことに関しては、別にいいでしょう。ですが、まさか、貴方以外のマスター全員が同じようにウジウジと考えている、なんてこと、考えてはいませんよね?」
多量の呆れを内蔵した視線が真っ直ぐに俺の瞳を貫いた。
いったい、コイツは何を言いたいんだ? そんなことを考えたのは、彼女の言葉を聞いてたったの数秒間のみ。
あまりにも単純な
「……………………ああ、俺がバカだったわ」
「全くです……はぁ、帰りますよ、マスターさん」
何を考えていたんだ。
俺がどう思おうが、何をしようが、他のマスターからしたら、俺は殺すべき対象……敵でしかないことを忘れてどうする。
令呪を隠すことすらなく、隠密用のコートを着るわけでもなく、無防備に屋敷の外へと飛び出した。
ああ、バカも間抜けもいいところだな。
お前はもう、
身体に、心に、魂に、そう刻み込む。
自分の思考の浅慮さに、頭が痛くなる。
思わずこめかみを抑えてしまったところで、フラリと身体がぐらついた。
「——ッ!」
貧血にも似たような感覚。
意識がぼんやりと遠くなるような感覚。
そんな身体の異常を紛らわせるように一度頭を横に振ってから、その場でパチパチと瞬きを繰り返した。
数秒間、視線を落としていると俺の様子を見ていたアサシンから、声がかけられる。
「……………………寝不足ですか?」
「え? ああ、うん。一晩中、動きっぱなしだったからな…………仮眠はしたつもりだけど、それだけで眠気は飛ばなかったみたい」
むしろ、今、普通に動けているのが奇跡とも言えるぐらいである。
一度、折れたはずの腕に問題がないのは、流石、零華と言うべきだろうか……まあ、術式自体を組んだのは師匠なのかもしれないが。
「ふむ…………この様子では、戻るのは逆効果でしょうか…………では、一度、眠りましょうか」
「は?」
ボソリと呟き、アサシンは俺へとそんな提案をする。
彼女は、一転して先程まで俺が触れていたベンチの元へと戻ると、無造作に腕を振った。
直後、
見えたのは青の輝き。
美しき燐光。
そして、熱。
「まあ、こんなものでしょう」
パタパタと
ちょこんと、そのベンチの端へと腰掛けた彼女は、自分の隣に存在する広々としたスペースを指差して、口を開いた。
「しょうがないので、見張りをやってあげます。寝るなら、さっさと寝てください」
「…………膝枕?」
「貴方が私の愛を求めるのであれば、別に構いませんけど?」
「調子乗りましたごめんなさい」
「いえ、そこまで勢いよく断られますと、こちらとしては、なんだかなぁ……って気がするんですが…………もしかして、私、魅力ありません?」
「いや、全然? うっかり惚れるぐらいにはあるけど?」
「ほ、ほれ、っ、!? いえ、そ、そうですか……そうですよね、ええ……」
何、この子、すごい可愛い(直球)
「…………なんでもいいので、さっさと寝てください」
「おう、さんきゅ。任せるわ」
妙に力のこもった圧をかけられたので、大人しく横になり、目を閉じることにする。
会話はなく、音はなく、そこに信頼はない。
間にあるのは無機質な契約という言葉のみ。
まだ、わからない。
この先のことなんて、今は何も考えられない。
だからこそ。
情報を整理する前に、一先ずの安眠を。
働き詰めだった凡庸な脳へと休息を。
ただ一つ、わかることと言えば——
「……………………」
「……………………」
この静けさは、どうにも悪くない。
そんな、一つの事実ぐらいだった。
◇◆◇
一つの誓いがあった。
一つの理想があった。
一つの絶望があった。
最後に、一つの希望があった。
屋敷と檻。
炎と水色。
◼️った思い出。
◼️◼️の記憶。
在るはずのない誰かの記憶。
ただ一人を願った闘いの記録。
————いつからか、そんな一つの夢を見ていた。
◇◆◇
「……ん、…………ぅ、ぁ?」
「おや、起きましたか、マスターさん。丁度いいタイミングですね」
目を覚ますと、アサシンの顔があった。
本当に、隣に座り続けてくれていたらしい彼女は、俺の意識が覚醒したことを確認すると「よっ、と」なんて可愛い声かけのもと、ベンチから立ち上がる。
ふと、思いついたことがあった。
「なあ、一つ聞いてもいいか?」
「…………なんですか?」
「お前、俺に対して何かしてる? 例えば、
愛の神、カーマ。
射られたものは情欲を呼び起こされるというサトウキビの弓を持つインドの神。
一眼見た時から、そうだった。
どうしようもないほどに、心が揺れ動いた。
それは、初めて——だと、俺は思っているが、零華にはバッサリと否定された——の感覚だった。
だからこそ、これが彼女の仕業だと言うのなら、納得がいく。
もし、そうだとしたのなら——
「いえ、してませんけど……」
「は? え、してないの??」
「はい、してません……私、極力、この弓は使わないようにしてるので」
————こんなにも、心が掻き乱されてしまう言い訳が立つ。
そんなことを考えたのだが、これまたバッサリと否定されてしまった。
「……え、となると、ガチでただの一目惚れ?」
「そ、そう、なりますかね……? いや、なんで、よりによって、私がそんな小っ恥ずかしいことに答えなきゃならないんですか…………というか、貴方、もう思春期終わってますよね!? その年で、初恋っておかしくないですか!?」
「……急に恥ずくなってきたんだけど」
「こっちのセリフですよ!? …………今更、プラトニックな付き合いとか、身体がむずむずしてなんかダメなので、一々、そんな純粋な目で好意を伝えないでくれますかね…………」
「え、嫌だった? ごめん」
「いや、別に嫌なわけでは——いえ、嫌です。嫌ってことにしときます。ですので、これからは、そういうことを言わないようにしてください!」
ほら、さっさと帰りますよ。
そう言ってスタコラと歩き出してしまうアサシンの後ろ姿を眺めてから、その隣に向かって歩き出す。
「そういや、起きたのが丁度いいってのは?」
「もうそろそろ、雨が降りそうでしたので」
「なるほど、理解。濡れ鼠にはなりたくないかなぁ」
「同感です。いえ、なりたい人の方が珍しいとは思いますが」
なんでもないような雑談を続ける。
仲良くなっておくことに越したことはない。
私情も含めて、そう思った。
歩いているうちに、空の異変に気がついた。
気がつけば、曇天は凄まじい勢いで陰りを増していて、妙に空気が重たく感じた。
「……こりゃ、降られるかな?」
「……走りますか? 私は霊体化しますけど」
「そうします……何それずるい」
スーッと消えていったアサシンへと恨みがましさを込めた視線を飛ばしてから、ジョギング程度の速さで走り始める。
あれだけ動いたというのに筋肉痛の一つも感じられないことに対して、何度目になるかもわからない感謝を零華に捧げつつ、街中を駆けて行く。
何かが起こる。
ひしひしと肌に伝わる嫌な空気感を、努めて無視し、移動を続ける。
嫌な天気だ、とそう思った。
さて、そろそろ屋敷だ。
大丈夫。何も起きない。
零華が昼ご飯の準備をして待っている。
そういえば、朝ご飯を食わずに外で昼寝をしてんだよなぁ……と今更ながらに気がついた。
怒られても仕方なし。
昼ご飯を抜かれないことを祈るだけ。
「ただいまー」
「……遅かったですね、駄犬」
「ごめんなさい」
「まあ、昨日の今日ですし、大目に見ます。さっさと手洗いして来てください……ああ、それとアサシンに食事を用意したので、その伝達もお願いしますね」
「はいよ。寛大な御心に感謝致します」
「うむ、苦しゅうない……ですかね?」
何そのちょっと恥ずかしそうな顔。
めちゃくちゃレアなんだけど、禿げそう。
……うん、何も起きない。
少し、メンタルが負の方向に傾いているのかもしれないな……と、思考を切り替えようと息を吐いた。
手洗い、うがい。
ついでに顔を洗ってから、零華の元へと向かう前に一度、二階にある自室へと戻る。
——と、同時に。
自身の勘の良さを嗤った。
「…………ッ!? マスター、逃げてくだ——」
「待て待て、あまり騒ぐでない。下の者に気づかれては、少々、厄介なのでな」
首へと当てられた抜き身の刃。
咄嗟に霊体化を解除して飛び込んできたアサシンは、片腕一本で無力化され、その細い首を掴まれて、苦悶の表情を浮かべる。
「邪魔してるぞ、小僧」
「おま、えは——」
黒の長髪。
和装の麗人。
「私は此度の聖杯戦争に召喚されたサーヴァントの一人、クラスはセイバー。お主を見極めにやってきた」
唐突に現れた侵入者こと、セイバーは、身動きの取れない俺とアサシンへと、余裕たっぷりに笑って、そう言った。
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1ー8「思惑と決断(3)」
ゆっくり、じっくり。
段々と場面を整えて行けるといいなぁ(願望)
「そう、警戒するな。何も取って食おうというわけではない」
「…………無害だって自称する不法侵入者を、警戒しないやつがいるのなら、その面を拝んでみたいところだな」
「ふむ、虚勢……と呼ぶにも些か足りんが——凡庸なりに、度胸はあるようで感心した。その減らず口、いつまでたてるのか見物だな」
「んぐ、ん、ッ————!」
視線に刺し殺されるような感覚が俺を襲った。
放たれた殺気に、アサシンが拘束から抜け出そうともがくのだが、セイバーの余裕げな表情は崩れない。
冷汗が流れる。
返答を間違えれば首が飛ぶ。
だが、同時に本能が察知する。
コレは
「…………敵対心がねえって言うなら、俺のサーヴァントを離してくれないか?」
「————まぁ、よい。此奴では、私には何があっても敵わないだろうし……敵対心がないというのも事実、ほれ」
ここでようやく、首元へと突きつけられていた刃をセイバーは納める。
同時に、無造作に、その場へと放り出されたアサシンは、涙目になりつつ、むせ込みながらも、呼吸を整え、俺とセイバーの間へと身体を入れる。
「あり、がとう、ございます、マスター」
「……っ、大丈夫か?」
「はぁ、ふぅ…………はい、問題ありません」
きっ、と目の前の相手を睨みつける彼女の姿に、一先ずは安堵して、意識を切り替える。
「……それで、何の用だ? 怒ると怖いメイドを待たせてんだ。手短に済ませてくれ」
「つれないのぅ……まぁ、よい。私から忠告、もといアドバイスを持ってきてやったのだ。そう邪険にするでない」
さて、どれから話そうか。
そんなことを言いたげに、ため息を一つ溢してから、セイバーはまず一つと人差し指を立てる。
「まずは、そうだな……此度の聖杯戦争に関するルールの説明から入るとしようか」
「……ルール? それなら、零華のやつから既に聞いたぞ?」
「此度の、と言っておるだろう。果ての世界、神霊召喚、運命の鎖、状況は既に私にも把握しきれぬものとなっている」
「……マスター、ここは一度彼女の話を全て聞きましょう。話をするのは、それからでも遅くありません」
何が何だかわからなくて、頭が痛くなってきた。
アサシンの助言に頷きを返し、セイバーに話の続きを促すと彼女は満足げに笑った。
「果ての世界……あの狭間への道が開かれるのは、三日に一度。その世界へ足を踏み入れる資格を有するのは、基本的には、マスターとそのサーヴァントのみ。此度の聖杯戦争、その舞台はこちらの世界ではなく、あの奇妙な世界の狭間というわけだ」
果ての世界……あの灰の世界のことか。
そういえば、零華に説明された聖杯戦争の一例では、現実世界の街中を舞台に戦いが繰り広げられていたことを話として聞いたが、彼女はあの謎世界に関してはわからないことだらけだとも言っていたな。
「…………つまり、現実で襲われる可能性はないと?」
「……先程まで、脅しにかけてきた相手とは思えない発言ですね」
アサシンのボヤきを聞かなかったことにしながら、セイバーは俺の確認に小さく首を振る。
「マスターとそのサーヴァントに現実での戦闘行為を禁じるように厳命しているのは確かな話だが、現実で戦闘が起こる可能性が絶対にないとも言い切れない。仮の話だが、後に罰を受けるのを知っている上で、この法を破る愚か者が現れたのならば、こちらの世界が戦いの舞台となることもあるだろう」
「……………………それは、また……随分と、
フェアじゃない。
セイバーからの話を聞いて、そんな感想を抱いた。なぜ、コイツはこんなにも具体的な情報を持っている?
そんな疑念は、警戒の強化へと繋がり、緊張の糸はその張りの強さを増す。
だが、セイバーはそんな俺の様子を眺めてから、どこか嬉しそうに目を細める。
「出来レース、か。言い得て妙じゃのう…………覚えておけ、アサシンとそのマスターよ。この戦争、主らだけが正常であるが故に、主らだけが異常じゃ。全てが整えられ、既に解の出された盤上に主らは立っている」
「……………………」
「何を黙るか、アサシンよ。お主は、お主の召喚主の願いを知っておろう?」
ピクリと、アサシンの華奢な肩が揺れたのがわかった。
隠し事、に関係する何かなのだろうか。
まあ、今は置いとこう。
ぶっちゃければ、セイバーの言っていることは余りに抽象的で理解に及ばなかった。
だが、それでも感じ取れる。
今、俺はきっと絶対に無視してはいけない大切なことを教えられているような気がしたのだ。
「……まあ、基本的に現実じゃ何もしねえから安心しろ、でいいのか?」
「……今は、それだけで良い。だが、いずれ理解するはずだ。お主ら自身の価値を。お主らがどれほどのものを背負っていのるか、そしてどれだけの奇跡的な運命の星の下、この場所に立っているのかを」
埒があかない。
いい加減、勿体ぶった言い方をやめてくれ、とそう口にしようとすると、セイバーは静かに首を横に振った。
「すまないが言えぬ。私ですら、ここまでしか出来ないのだ……流石の私も、二画も貰えば身体はちょいと重くてのう」
「…………令呪、ですか」
「ああ、そうだとも。我ながら、酷い体たらくだ。お主の前にこのような様は晒したくなかったんじゃがな……まあ、よい。ともかくだ。この小僧を頼んだぞ、アサシン——いや、我が永劫の仇敵よ」
「……勝手に、私に押し付けないでください」
自らのマスターからかけられた令呪による活動制限を押してまで、ここへやってきたのだと言うセイバーは、そろそろ潮時だな、と呟いて、俺たちへと背を向けた。
「最後に、我がマスターからの言伝を。今しがた、それを預かっていたことを思い出したのでな」
霊体化をしていく最中、声色を変えたセイバーが口にした。
ようこそ少年、全てが仕組まれた聖杯戦争へ。
敢えて、告げよう。
君の師を殺したのは、私だ。
◇◆◇
下へと降りて、零華の用意してくれた昼食をペロリと平らげて手を合わせる。
その隣では「何でこんなに美味しいんですか……」と妙に不満げな顔をしたアサシンも同じようにして手を合わせている。もしかしなくても、この子、根は真面目なのかもしれない。
「ご馳走様でしたっと」
「…………」
「お粗末様でした……今日は例の犯罪行為をやらなくてよかったのですか?」
「犯罪行為言うな。保護者兼下校見守り警備員みたいなもんだろ。むしろ、ボランティア的な一種と言っても過言ではないのでは?」
「犯罪者予備軍の間違いでしょう。くだらないことを言ってないで、お皿片付けなさい」
「はいはい」
まあ、そのね?
モノは言いようと言いますか……
「……だから、そんな目でこっちを見るな。法に触れるようなことはしてねえよ……多分」
「……多分?」
「やめろツッコむな、自分でも怪しくなるだろ」
ジト目のアサシンから、フイと顔を逸らす。
色々あるんだよ、色々。
本当なら、今日も眞白の様子を見に行きたいところだったのだが、流石に優先順位は聖杯戦争の方が上だ。
セイバーとの邂逅で、現実での襲撃に関してはあまり気をつけなくていいことはわかったが、それはそれとして、頭の中を整理させる時間が欲しい。
眞白の方に関していえば、今まで、何も問題がなかったのだから、今日一日で運命的な出会いがなんたら、とか隠されていた能力が覚醒! みたいな事件は起こらないと信じよう。
とうとう激しく降り始めた雨音を聴きながら、再び自室へと戻った俺は、目を閉じて思索に耽っていた。
アサシンは霊体化していて、零華は気を遣っているのか、こちらに話しかけてくる様子はない。
どこか、ぼんやりとした思考のまま、昨日から今の今に至るまでの出来事を思い返していく。
一つ。二つ。三つ。四つ。
時計の短針が、その数を増やしていく。
何度も何度も思考回路を巡らせて、そして、その度に結論は一つに収束する。
俺個人に、この戦争へと関わらなくてはならない理由はない。
「……ふぅ、落ち着け。あくまで、冷静に」
師匠を殺した誰かがいる。
……心が乱されないはずがない。
けれど、だからといって俺がこの戦争へと身を投じて何になる?
逆に考える。
彼女が命を落とすような戦いに俺が参加する? ふざけてるにも程があるだろ。
彼女は自分の身を持って、この戦争の危険性を教えてくれた。
不出来でもなんでも、一応は弟子の俺がそのことを認識せずに、前進するなんてことは、彼女への侮辱ほかならない。
「……いい、はずだ」
アサシンの顔が脳裏を過ぎる。
彼女の願いを叶えるために、戦いを選ぶ?
出会ってから間もない赤の他人のために?
そんなの善人を超えて、頭のネジがぶっ飛んだ狂人としか思えない。
思い出せ。
お前が最も大切にしているモノはなんだ。
その問いかけに、緋色の少女を想起する。
ああ、そうだ。
彼女を守る。
それだけが、俺の願いだ。
だから、そうだ。
「……これ以上、踏み込まなくていいはずなんだ」
その判断に、どうしてか待ったをかける声がある。
本能。
或いは、直感か。
ここまでの一連の流れに、どこか違和感を抱いている自分がいる。
雨が降る。
大雨が降る。
ざあざあ、と降り頻る雨。
「………………それで、いい……はずだろ」
神経が擦り減るような感覚。
どうしてか発現した不快感に蓋をする。
自分に言い聞かせるように、思考を繰り返し続けて、どれだけの時間が経っただろうか。
気がつけば、外は暗闇に満ちていて、音の消えた空の雲間からは月が覗いて見えた。
俺は何を思うわけでもなく、ふらりと外へと足を向けて師匠の屋敷を飛び出した。
「…………何、悩んでるんですか…………アホらしい」
◇◆◇
わからない。
こうも自分の心がわからなくなったことが今までにあっただろうか。
なんで、どうして、と。
疑問の声が、頭の中に残響する。
それら全てを意識から除外して、夏夜の雨上がりにしては、涼やかな空気を肌に感じながら走り続ける。
いったい、どこへ向かっているのだろう。
そう考えてから、数秒。
自分の足が、何百と繰り返し歩いた道筋を辿っていることに気がついた。
館のある森を飛び出し、坂を下りて市街地へ。
幾つもの十字路を迷うことなく、適切に曲がって、最短距離でその場所へ——朱雀井眞白の在るその場所へと向かっていく。
あえて自分の行動に理由を与えるとするのなら、俺は多分、確信が得たかったのだと思う。
顔を見るつもりはない。
言葉を交わすつもりもない。
ただ、これまで自分が大切にしてきたモノを、この目で確かめてみたかった。
この不確かで不明瞭で不定形な迷いを躊躇いなく殺すために、過去の自分を称賛し、今の自分を肯定したかった。
ああ、けれど。
その、道中。
「おや? おやおや? おやおやおや?」
「………………」
「結くんじゃぁ、ないですかぁ?」
みみざわりな こえが きこえた 。
本能が警鐘を鳴らす。
足を止め、声のした先に視線を送れば、そこに軽薄そうな雰囲気をまとった灰髪の男が立っていた。
「…………安心院、幸哉」
「はい、そうです。そうですとも。君の大嫌いな、安心院幸哉ですよぉ♪」
俺が紅蘭高校を退学する原因となった一連の事件を引き起こした元凶。
そして、先日のストー……見守りでは、眞白へと接触しようとしていた姿を確認したクソ野郎。
眞白へと話しかけていたときの爽やか優男勘違いイケメン男風の話し方ではなく、この男本来の粘着度の高い気色の悪い話し方が、これまた癪に触る。
「怖いなぁ。そんな目で見ないでくださいよぉ?」
「……はぁ…………失せろ。お前の相手をしてる暇はない」
突発的に湧き出た嫌悪感と不快感で、安心院へと拳を振るいたくなったのだが、現状を考え、それら全ての悪感情を呑み込み、苛立ちを抑えきった。
「えぇ、面白くないなぁ……ま、何でもいいですけど……」
「…………ッ!」
不快感を煽るような口調で、そういった安心院に目の前から立ち去る気配が見られないので、仕方なしに俺が移動することにした。
彼の隣を通り抜け、次の交差点を左へと曲がれば眞白の元に辿り着く。
今、こんな奴を相手にしていられない。
そう思って、安心院のことを頭の中から消そうとした直前のことだった。
「ああ、そういえば——」
「……………………」
「
「…………あ?」
一瞬間、生まれた思考の空白。
直後、何を言われたのかを理解して、ストンと心に落ち着きが生まれるような感覚。
冷静に思考できている、という実感の下、俺はやっぱりか、というどこか納得とも似ている一つの感覚を味わっていた。
「……………………たよ」
「……ん? 何か、言ったかな?」
目の前に立つ男。
コイツは、正真正銘、紛れもない敵だ。
「安心したよ、と言ったんだ」
あの誘いが、彼女への誘いが、例え俺に対しての釣り餌だったのだとしても。
この男は。
否。
この
「テメェが相手なら、何をやろうが一ミリたりとも罪悪感が湧いてこねぇからな」
「……ひゃは、はははッ! そう、その顔だよ! 君のその顔が見たかった!」
——俺の妹へと手を出そうとした。
豹変した安心院に恍惚とした熱のこもった視線を向けられて、背筋に悪寒が走った。
そうだ。コイツはこういう奴だった。
段々と、安心院幸哉という男のことを、その厄介さを思い出してきた。
「ああ、これは運命だよ、結くん。まさか、君が……いや、君達がこうして、再び僕の目の前へと現れてくれるなんて。素晴らしい、本当に素晴らしいサプライズだよ」
満を辞して、なんてつもりなのだろうか。
安心院は勿体ぶった仕草から、左手の甲をこちらへ見せる。
そして、そこに刻まれていた紅の紋章をこの目で認めた直後、口元が歪な弧を描く。
——ああ、よかった。
心の中に、安堵の感情があったことに気がついて、ようやく己のイカれ具合の深刻さを認知する。
どうやら俺は善人、偽善者を優に超えた狂人だったらしい。
ああ、これで——理由が出来た。
戦争なんかとは関係なしに、俺が立ち向かわなくてはならない悪意を見つけた。
そして、それと同時に。
建前が出来た。
戦う理由とその意味を以て、見て見ぬふりをしていた少女の願いを叶えるための言い訳を見つけた。
俺が内心でそんなことを考えているとは露知らず、安心院は相変わらずニヤニヤと粘着質の強い笑みを浮かべたまま、ああでもない、こうでもないと一人で妄想に耽っている。
例の事件の際にも思っていたが、安心院幸哉という男は異常なまでに俺への執着心が強い。
未だにそこだけは、全くと言っていいほど原因が理解できていないのだが、
「今すぐにでも、君と踊りたいところだけど……状況が悪いなぁ。流石の僕もまだ死にたくはないからさ」
「…………」
セイバーが伝えてくれたペナルティのことを言っているのだろうか。
安心院が避けるようなモノだとしたら、その抑止力には相当な効力があると見て良さそうだ。
不満そうな顔で、安心院幸哉は口にする。
「
「うるせぇ、黙って失せろ」
「釣れないなぁ。悲しいじゃないか」
最後に、ひゃはは、と気味の悪い笑い声を残して安心院幸哉は姿を消した。
途端に、夜の住宅街に静けさが戻る。
嵐のような、という表現をすると、嵐に対して失礼なような気がしてしまうのだが、あのクソみたいな騒がしさを表現するにはピッタリだろう。
それでも、一つだけ安心院との邂逅がもたらした有益な産物があった。
迷いに迷い、陰鬱としていた気分が少しだけ薄れ、次の行動指針が生まれた。
アイツがいるのなら、あんな奴が関わっているのなら、俺はこの戦いに参加しなければならない。
そんな、どこか建前じみた理由を得ることができた。
「……………………はぁ」
どこか自分が間違えているという自覚はあった。
けど、それを認めて、この運命を拒絶するべきだとは思えなかった。
「もう、いいか」
後、十数メートル。
ほんの数秒ほどの駆け足で、彼女の居る温かな世界に辿り着けそうなその場所で、俺は一人立ち止まる。
「…………なぁ、アサシン……居るか?」
「…………はい、ここに」
ふわりと軽やかにこの世界へと限界した彼女は、俺を何か得体の知れないものとして見ているかのような、そんな視線を向けていたのだが、次の言葉に目を丸くする。
「お前の願い……聞いてもいいかな?」
彼女は、こくりと一度喉を鳴らしてから真っ直ぐとこちらを向き、その問いに対して——
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1-9「幸福な選択」
難産 of 難産
今回で序章が終了。
気長にどうぞ。
薄闇の住宅街。
しんと静まりきっていた街中へと鳥の鳴き声が響き始める頃合いになると、家々の間から陽光は差し込み、空は眩さを取り戻していく。
遠くの方で昨日の雨の素が陽の光を受けると同時に靄へと変わっていく様を、どこか晴れやかな心持ちで眺めていた。
「さてはて、いやぁ……もう完全に朝ってかんじだね。零華との約束の期限は今日の夕方までだったはずだけど、それまでどうしようか?」
「…………あの、どうしようか? と言われましても、何が言いたいのかサッパリなんですが」
スンッと、白けた目でこちらを見るアサシンに若干の恐怖を覚えながらも、勇気を出して、話を進めていく。
「……願いは聞いた。覚悟も決めた。だからこそ、今日ぐらいは盛大に遊んでも許されるんじゃねえのかなぁ、と」
「勝手にすればいいじゃないですか」
「それじゃ意味ねえだろ。ちゃんと親睦深めとかねえと変に気遣いそうで怖いし」
「……は? え、まさか、その予定に私の同行含まれてるんですか? 頭、沸いてます?」
そこまで言わなくても、なんてことも考えたが、アサシンの表情をよく見てみれば少し顔が赤くなっているのがわかった。
「……もしかして、仲良くなりたいって言われて照れてます?」
「貴方ごときを相手にして、私が照れるとか死んでもあり得ませんけど!?」
「はいはい、了解。照れてない、照れてない」
「……絶対信じてないじゃないですか」
ムスッと頬を膨らませたアサシンを見て、なんだかほっこりと和みながら、とりあえず、足を駅前の方へと向けようとして。
「あ、俺今、財布すら持ってねえや」
「とことん、しまらない人ですね……」
◇◆◇
そんなこんなで一度屋敷へと戻り、師匠お手製の完全装備を身に纏ってからやってきたのは最寄りの大規模商業施設。
因みに隣のアサシンさんにはフードつきケープを身につけてもらった。
夏場なので周りから浮きはするだろうが、異国風の装いのまま散策することに比べたらマシだろう。
ちんまりとした体はすっぽりとケープに隠れて、シルエットだけを見ればてるてる坊主のような状態だ。
うん、愛らしくてよきだな。
さて、話は戻ってこの商業施設についてだが、最寄りと言ってもバスに電車にと小一時間ほど揺られて辿り着いた場所なので、俺も頻繁には訪れることはなかったりする。
よって生じたのは。
「で、どこ行きたい?」
「それ、私に聞きます?」
目的を持たずに買い物にやってきた少人数集団へと襲い掛かる『さて、どうしようかな』問題であった。
パーリーなピーポーたちとは違い、俺の中に定番のデートプランなどは存在しないのだ。
隣のダウナー系女神はチラチラとそこら中に存在する服屋に目を向けてはいるのだが、あくまで自分は仕方なく着いてきているというスタンスを崩すつもりはないらしい。
まあ、アサシンの視線は非常にわかりやすいので、最初の内は彼女が興味を持った店をとことん回ってみることにしようか。
「とりあえず、あの服屋か?」
「……まぁ、別にいいんじゃないですか」
この人、やっぱり可愛いよな?
なんてことをつくづく思いしらされながら、彼女とのデートは始まったのである。
――とはいえ。
生憎と洋服の流行やら何やらに関しての知識は浅い。なんなら皆無と言っても良い。
アサシンは何着ても似合うなぁ、としか思えなかったのでひたすらに褒め続けていたら、「ちょっと気が散るので黙っていてください」と怒られてしまった。
あんな顔真っ赤にして怒鳴らなくてもいいのに。地雷でも踏んだのだろうか?
「……見るだけでいいと、そう言ったはずですけど」
レジから戻った俺をアサシンはそう言って出迎えた。
白けた目に気圧されそうになるのをなんとか踏み止まって耐え、笑みを返す。
「私服は最低でも一着はないと、出かけるときに目立つだろ。ほれ、店員に聞いてみたら試着室使っていいみたいだから、買ったやつに着替えてこいよ」
「…………お礼は言いませんから」
「わかってるって」
不満を隠さずに、けれど受取拒否をすることなく彼女は洋服を持って試着室へと向かった。
「…………さて、どうしたもんか」
ふぅ、と一息。
一人になったタイミングで肩に入っていた力を抜く。
サーヴァントという未知に対する根源的な恐怖……というわけではない。
率直に言って、
お忘れかもしれないが、アサシンは俺にとって初めて一目惚れをした女性である。
見た目が少女そのものなので、ロリコンと言われても反論はできない気がするが、その誹りを受け入れてでも彼女に惚けたことは否定できないし、したくない。
これまでは聖杯戦争やら、師匠のことやら、これからについての悩みやらと凄まじい忙しさだったので、頭の中にそのことを考える余裕がなかったのだが、あいにくと今この瞬間に限っていえば脳内には余裕しかなかった。
「待て待て、落ち着け……深呼吸だ」
すーはー、すーはー……よし。
「まあ、大丈夫だ。見た目は幼いわけだから、そんな性的な目で見てるわけじゃないし……うん、そうだ。どっちかというと造形美とか、そういう観賞的な意味合いでの――」
「はい、仕方ないので着替えてきましたよ」
声の聞こえた方向へと目を向ける。
すん、と思考の鎮まる音が聞こえた気がした。
「……あさ、しん、さん?」
「なんですか、急にカタコトになって。どんな目です、それ?」
なんか、いた。
自分と同じか、一つ下か。
そのぐらいの年齢と思われる白髪紅眼の女性がそこに立っていた。
呼吸を忘れる。
動悸が狂う。
暴れ始めた心音は胸の奥の方へと痛みにも似た痺れとなって残響する。
「………………お前、さ」
「いや、本当に何です? そんなに似合ってませんか、この服?」
それを明確に理解した。
緊張とか畏怖とか、全部ひっくるめて許容範囲をぶっちぎった結果、一周回って落ち着いた。
ため息。
こめかみへと手を当てて、いっそのこと笑えてきたなと心の中で独り言ちる。
「……はは、マジで、なんなのお前。似合い過ぎてて怖いんだけど。これ以上俺を惚れさせて、何させる気? 財布いる?」
「要りませんけど!? 勝手に美人局みたいな扱いするのやめてくれません?」
白のブラウスに藍のロングパンツ。
氷を思わせる薄い青色のカーディガン。
露出を抑え、清純路線を全面に押し出したその服装はまさに夏の令嬢といったところか。
これならば、周囲から奇異の視線を向けられることはないだろう。
野郎の視線は間違いなく増えてしまったが、彼らに罪はない。
美しいものに目を囚われるのは、人間の性である。だから、お連れさんと思われる女性の方々は彼氏さんを許してやってくれ。
「……ん、うし。なんかすっきりしたわ。ゲーセンでも行こうぜ。とことん遊び尽くしてやろう」
「急に元気になってますし…………はぁ、別にいいですけど。あまりはしゃがないでください、恥ずかしいので」
「ノリが悪いなー。そんなこと言って、自分が夢中になったりしないよね?」
「ありえませんよ。誰がそんな醜態を晒すものですか」
…………フラグかなぁ?
・
・
・
フラグだった。
即落ち二コマと表しても許されるほどのフラグ回収であった。
ゲーセンへ到着後、まずは手頃なメダルゲームでも、と普通に使えば小一時間は遊べそうな量のメダルを渡してみたのだが……
アサシンさんは、ものの見事にその全てを秒速で溶かしてみせた。
挙げ句、その後はムキになってのめり込んでしまったのだから、言い訳のしようもない。
「…………」
「楽しかったですかい?」
「…………ちょっと黙っててください」
モールの中に休憩所として配置されているベンチに腰掛け、自販機で買った飲み物で喉を潤す。
アサシンさんはどことなく居た堪れなさを感じているようだったが、個人的な所感を述べるのであれば可愛らしかったのでいいと思います。
触らぬ神に祟りなし、とも言うからな。文字通りすぎて笑えないけど。
下手に弄ったりはせずに、次は何をするか考えよう。
ふと、時計が視界に入った。
短針は11を指していた。
「……なあ、アサシン。腹は減ってるか?」
「サーヴァントは食事の必要がないという答えは、お望みではないんでしょうね」
「当然。生憎とお金持ちってわけではないので庶民派な食事とはなりますが、一応要望を聞こうかなと。なんか食いたいものあるか?」
「…………そう、ですね」
フードコートなんかで済ませてしまえるのであれば、それが一番手軽でいい。
今から動けば混み合う前に席の確保ぐらいはできるだろう。
「では、貴方の好きなものを」
「…………なるほど?」
ある程度の無茶振りには応えてみせよう。
そんなふうに考えていたので、そんな彼女の要望を聞いて拍子抜けしてしまった。
意外といえば意外だった。
少しは向こうも距離を詰めようとしてくれていると捉えてもいいのだろうか。
「まあ、それなら悩まなくていいか」
「……あ、でも、できることなら生の果物とかはやめて貰いたいです。私個人に忌避感はないのですが、少々依代的な問題がありまして」
「……? よくわからんがオッケー。そんじゃ、昼ごはんとしますか。少し歩くけどいいな?」
「そのぐらいなら、一々聞く必要もないです」
この辺りなら、たしか結構美味しかった蕎麦屋があったはず。
俺は肉も魚も麺もパンも美味しければ、なんでも食える人間であるので、食事に関してはこれといった好き嫌いがない。
強いて言えば、甘味全般が好物なのだが、食事と言っていいかは怪しい気がする。
そんなわけで別に蕎麦に思い入れがあるわけではないのだが、最近訪れた食事処で印象に残っていたのが蕎麦屋だったので、そこにアサシンを連れていくことにした。
蕎麦湯、美味しいよね。
じわっと五臓六腑に染み渡る感じが好印象。
アサシンが気に入ってくれるといいけど。
◇◆◇
と、まあ、そんな感じで。
なんだかんだと言いながら、最後まで俺に付き合ってくれたアサシンとの初めてのデートはそれなりに円満に終了することができたと思う。
特に、昼食で連れて行った蕎麦屋はアサシンのお気に召したようで、目をキラキラさせながら食事をしている姿は眼福であった。
そもそも、清純路線の白髪美少女が和室で蕎麦を食べている、という状況だけでも目を見張るものがある。
一生分の運を使い果たしたといっても過言ではないかもしれない。
最後の方には俺が主導するのではなく、アサシンの方から腕を引っ張ってあちらこちらへと移動したりもしていたので、文句なしの大成功だろう。
時は流れ、日は傾いて。
空は夕に染まった。
「……そうだった。アサシン、少し暇を潰していてくれ」
屋敷に到着したそのときに、まるで今思い出した些事があったとでもいうかのように、気軽な口調で嘯いた。
「…………? 別に構いませんけど」
――ああ、よかった。
今日1日を通して、少しだけ柔らかくなったように感じられる彼女の表情に変化はない。
アサシンと別れて、足を屋敷の離れへと向ける。
約束をしたわけではない。
でも、彼女はそこに居るのだと、奇妙な確信が俺の中にはあった。
屋敷の離れ、といってもそう大層なものではない。
どことなく教会のような神聖さを漂わせるそこそこ大きめな建物。
普段は使われていないが、時折、師匠が入り浸っていたので何か用途があったのかもしれない。
扉の前で、足を止めた。
息を吸って。 吐く。
瞼を下ろして、深呼吸を続ける。
思考にノイズが走る。
覚悟は決めた。
今日一日、あり得たかもしれない幸福な日常を享受して、それでも揺るがなかった意志を見つけた。
思っていたよりも、見切りをつけるのは早かった。
思っていたよりも、日常を諦めることに拒否感はなかった。
「わかってんじゃねえか…………そうだ。最初から、いつかこんな日が来ることを、お前は知っていたんだろ」
始まりは、遠く昔の物語。
俺が◼️◼️れたその始まりから、覚悟はとうに出来ていた。
厚い扉を両手で開ける。
重さは殆ど感じなかった。
そこに、彼女は立っていた。
純白の髪。
透き通る碧眼。
静けさを纏うそのヒトは、酷く美しいものだった。
「…………よ、待ったか」
「――いえ、今来たところですよ」
まるで、デートの待ち合わせのような挨拶をして、俺たちは笑い合う。
「時間はまだ残っていますが…………結論は出たようですね」
誰かに似ていると思ったら、そうか。
アサシンはこのヒトに似ている。
性格ではなく姿の話だが、今日、初めて大きくなったアサシンを見たときに脳がバグったのは、そういう理由もあったのかもしれない。
うん、まあ……そんな話をしにきたわけではないけれど。
「……まーね。といっても、とても褒められたようなきっかけじゃねえけどな」
自分で言って苦笑する。
目的は一つ。
建前が二つ。
合わせて三つの理由がこれからの俺の行動原理。
余裕? あるわけないだろ。
だけどさ、強がるのは昔から得意なんだ。
笑えよ、凡人。
お前が決めた道を進む。
そんなの、幸せ以外の何物でもないだろうが。
「やるよ、この戦争」
「………………はい、わかりました」
飄々と、平然と。
弱いところは意地で隠して、震える脚は武者震いだと誤魔化して。
本当に守りたいもののために、俺は一つの選択をする。
「それが、貴方の決断であるのなら——私は貴方と道を行きましょう」
彼女は何も聞いてこない。
心配することはなく、叱責することもなく。
ただ当然のことのように、心中を誓った。
「それでは始めましょう。私達の聖杯戦争を」
零華の声を聞いて
もう後戻りはできない
浮かんだその思考を握り潰した。
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1-10「幽夜策謀」
行き詰まるまで一気に行きます。
……とか言って、次話であっさり止まる可能性も余裕であるのですが。
「痛ッ」
「喧しいです。この程度の痛みで喚かないでください、駄犬」
「いやいや、無理だって。擦り傷でも痛いんだよ? 注射すら痛いんだよ? 指の腹を切って血の採取とか普通に考えて、って痛いんですけど!?」
「あら、失礼。手を滑らせました」
「ッッッッ!?!? 鬼か、お前は!?」
すごく、いたい。
何をしているかと聞かれても、正直俺には答えかねる。なぜなら、俺も何しているのか理解していないから。
え、なんで俺今親指の腹を切られてるの?
さっきまで『決意十分! これから、頑張ろう!』みたいな雰囲気出してたのに。
「おい、零華さん? なんで、僕はこんな苦行を強いられているんでしょうか?」
「駄犬は何も言わずに黙って血を垂れ流してなさい。きゃんきゃんと煩いですよ」
「はい」
ウチのメイドがドS過ぎる。
なんだその下手な小説にありそうな文言は。
ちゃっかり躾け済みだし。この子、怖すぎ。
「……というか、ここまで痛みに耐性がないのは困り物ですね。訓練、しますか?」
「ぜっったいに、嫌なんだけど!?」
「まあ、そうでしょうね」
ただの拷問じゃねえか。
いや、確かにこれからのことを考えると痛みに対しての耐性はつけないといけないのだろうけどさ。
「はい、終わりました。もういいですよ」
「…………やっと、終わった」
零華は俺の血を一定量採取――あれ、どこに保管したんだ?――すると、絆創膏を貼り付けて掴んでいた俺の左腕を解放した。
「何に使うんだよ、俺の血なんて」
「まあ、それは追々ということで……とりあえず、夕ご飯にしましょうか。アサシンはどちらに?」
「アサシンなら、先に屋敷に戻ったはず。因みに今日は何?」
「時間があるので、揚げ物でもと」
「やったね。愛してるぜ、零華」
「はい。私も勢い余って撲殺しそうになるぐらいには愛してますよ、駄犬」
「どんなヤンデレかな? 最高の笑顔でそんな恐ろしいこと言わないで?」
声音に一切の嘘が感じられないのが怖かった。
◇◆◇
そして、素晴らしき夕食の後。
「……ぁぁ、食い過ぎた……ぅぷ」
「…………私、ここの子になってもいいですよ」
「二人とも、食べてすぐ寝ると牛になって処分されますよ」
「後半部分初耳なんだけど?」
ソファに倒れこんだ俺と少女姿でカーペット上に丸くなっているアサシンを見て、零華はため息を吐いた。
その姿は立派な二児の母である。
口を開けばバイオレンスサイコメイドなのが露呈するのだが。
「何か?」
「いえ何も?」
怖すぎて笑う。
エスパーかな?
絶対零度の視線を向けてくる零華を見ていると、彼女に言わなくてはいけないことがあったのを思い出した。
「…………そういえば、聖杯戦争について何個か新しく情報が手に入ったんだったな」
「――は?」
何でもないことのようにそう呟いた瞬間、アサシンが視界の隅で「このアホ、やりやがった!?」という驚愕の表情を浮かべたのがわかった。
何をそんな慌てることが……って、アレ? なんか、俺の身体浮いてない?
直後、ギュルリと視界が二回転ほど。
衝撃が、脇腹を襲った。
「ぐぇぁ…………!?」
ソファから高速回転をしながら落下して、蛙が潰れたときの断末魔のような声が口から漏れる。勿論、そんな場面に出会したことはないのだけど。
零華がソファから俺を引っ張り下ろしたからだった。
こちらが目を回している間に、腹部へと重圧がかけられる。
「うぷっ……ま、零華、出る出る、出るから腹はやめ――」
「煩い黙れ、口を閉じなさい」
「…………」
うわぁ、久しぶりにガチギレしてる。
いや、この前の無断外出で怒らせたばっかりだな。
ただ、足蹴にされるのは本当に久々な気がする……いや、なんで前例があるんだろ?
普段ほどの元気があれば「むしろご褒美です」なんて冗談を言ってみせるところだが、満腹まで唐揚げその他諸々を胃袋へと詰め込んだ状態でこれはマズイ。
「…………貴方は、報連相もマトモにできないのですか」
「いや、単純に機会がなかったというか、いま報告をしようとしたところです、と言いますかね……あの、割と理不尽に怒られているような気がするんですけど」
弁解。もとい、少々の反論。
それを否定したのは、零華ではなく呆れた目でこちらを見ていたアサシンだった。
「その人、怒ってるんじゃなくて心配しているんですよ、マスターさん。ああ、嫌だ。貴方、随分と愛されているようで何よりです」
「…………心配の表れ? この足蹴が?」
随分とアグレッシブな心配の仕方があったものだと一周回って感心したくなる。
というか何故、心配?
「…………何を……バカなことを言っていないで、早くその情報とやらを吐きなさい」
零華はふいと俺から顔を逸らすと、俺の寝転んでいたソファへとゆっくりと腰を下ろした……両足を俺の腹部の上に置いた状態で。
「あの、零華さん?」
「二度は言いませんが」
「手に入れた情報を有り難く話させていただきたいと思います!」
いつか覚えてろよ、お前。
・
・
・
「……………………なるほど。駄犬、怪我はありませんね?」
「さっきアザができそうな勢いで脇腹を打ちつけたぐらいかな」
「ふむ、特にないと」
スルースキルが高過ぎる。
そろそろ、腹から足をどかしてくれてもいいのよ?
「…………すみません、私の落ち度です。まさかサーヴァントの侵入を許していたとは」
「いや、それはお前が気にすることじゃないだろ。師匠の貼った結界が破られるなんてこと、想像つかないって」
「…………そう、ですね」
セイバーと安心院についての話を零華に伝えたところ、彼女は俺の想像していたより十倍ほどのショックと責任を感じてしまったらしい。
言葉尻が弱々しい零華なんて、誇張抜きに初めて見るかもしれない。
どことなく腹部の上の重圧も弱まっているような気さえするぐらいだ。
「マスターさん、いつまでその状態で居るつもりですか? もしかして、マゾっ気が凄い方だったりします?」
「いや、ぜんぜん? マゾとかそういう感性はないよ。今も『床、冷たくて気持ちいい』としか考えてない」
「……よくわからない感性してますね」
近づいてきたアサシンは、俺が何も出来ないことをいいことにツンツンと髪の毛やら頬やらを弄り始める。
零華といえば、心ここに在らずといった様子でぼうっと宙を見つめていた。
……コイツ、本当に大丈夫か?
「おい、零華? 何をそんなに気にしてんだよ。俺、いま五体満足でピンピンしてるんだけど」
「…………それは、今回の聖杯戦争が特殊だったからですよ」
零華は言外に、もしも特殊なルールがなかったら、というイフを伝えてきた。
ふむ、と少しの間思考する。
ひょいと零華の足をどかしてから、身体を起こした。
「お前は本当に優しいな」
「…………は?」
つまり、俺が死んでいた可能性に気がついてとことん落ち込んでいると。
これだから、彼女のことは憎めない。
「お前もそう思うだろ、アサシン? このメイドさん、俺の自慢の家族なんだよね」
本心から笑ってアサシンへ同意を求める。
アサシンはキョトンとした表情を浮かべた後に、ため息混じりに返答した。
「そうですね……狡い性格してると思います」
「その通り。カッコよくて、狡くて、滅茶苦茶に優しいんだ…………だから、零華? そんなに、らしくない顔をするなよ。そもそも、お前のせいじゃないし、俺は無事だし、感じなくていい責任まで感じてんじゃねえ」
デコピン。
ついでにポンと頭に手を載せ、わしゃわしゃとサラサラの白髪を掻き乱す。
弱ってる時ぐらいにしか触れないからな。
今のうちに堪能しておこう。
十数秒経った頃だろうか。
ガシッという擬音がよく似合う力強さで、頭を撫でていた右腕を掴まれた。
「…………私を撫でるとか100年は早いですよ、駄犬」
「おう、知ってる。100年後が楽しみだな」
「……生意気言ってないで、真面目な話に戻りますよ」
「はいよー」
どうやら、好き勝手したお叱りはないらしい。
さて、零華の調子も戻ったところで作戦会議と参りましょうかね。
「…………どうした、アサシン? そんな面白くなさそうな顔で」
「いえ、別に……貴方、私に惚れているんですよね?」
「何で急にそんな恥ずかしいこと言うの?」
僕、ちょっとついていけません。
あと、不機嫌になった理由も結局わからん。
「では、仮にセイバーの話が本当だとすると、次に戦いが起こるのは明日の夜となります。果ての世界とやらへの侵入方法は鏡を利用した転移魔術……本来であれば魔法に近い秘術とも言えますが…………いえ、この考察は後でいいでしょう。とにかく、私たちに残されている準備時間は丁度一日程度ということが重要です」
「はい、零華先生。質問です」
「許可します。何ですか、結君」
「いや、何ですかこのノリ……私はやりませんからね?」
またまた、ご冗談を。え、ほんとにやらないの?
零華に駄犬以外の呼ばれ方されると怖気がはしるんだけど、そろそろ末期かもしれない。
「一日で何ができるんですか?」
「…………困りましたね」
「おい、なんか一つぐらいはあるだろ。困るなよ、諦めないでくれます?」
「流石に冗談ですよ…………駄犬、今から貴方が普通の魔術を扱えない理由を伝えます。そして、その対応策を授けます。これから一日で貴方は新しい魔術を使いこなせるようになりなさい」
ちょっと、何を言っているのかわからなかった。
『一日で新しい魔術を使いこなす』
何それ日本語? と口にしなかった俺を褒めて欲しい。
バカなのか、さてはバカなんだなこのメイド。薄々、勘づいていたがやっぱりコイツ、オツムの方が残念に違いない。
「…………わかりましたから、その抗議の視線を少しは抑えなさい」
「凄まじい主張でしたね…………それにしても、マスターさんって魔術を使えないんですか?」
沈黙。
アサシンのまっすぐな視線と、零華のまだ言ってなかったんですか、という呆れた目。
いや、別に意図して隠していたつもりはない……こともないんだけど……その、ね?
「い、いい、嫌だなぁ、ま、まさかそんなはずはないだろ? 魔術ぐらい朝飯前に決まってるじゃねえか!」
「…………使えないんですね」
再び、沈黙。
「ごめんなさい。ダメなマスターですいません。お願いだから見捨てないでください!」
「ああ、もう! わかりましたから! 見捨てませんし、別に気にしてませんから! ちょ、縋りつかないでくださいよ!?」
しょうがないじゃん。
少しぐらい見栄張ってもいいでしょ?
アサシンに落胆されて捨てられるの嫌だったんです。そんなことしないと信じてたけどさ。
コホン、と零華の咳払い。
「……新しい魔術といっても、普段から貴方が使用している謎魔術について掘り下げていくだけですよ。アレも一応、ギリギリで魔術といえば魔術ですから」
「ねえ、人の努力の結晶をアレとか一応とか言うのよくないと思うよ」
「…………へえ、やっぱりタネはあるんですね。どうやって、マスターさんが私と契約したのか実は興味があったんですよ」
「聞いて? 少しは俺の抗議も聞いて?」
酷い言われようである。
いや、俺自身も原理不明の欠陥魔術しか使えない自覚はあるんだけどさ。
と、いうか――
「な、なあ、零華さんや?」
「…………どうしましたか?」
「お前その言い方だと、俺が魔術を使えない理由に心当たりでもあったりしちゃうわけ?」
「………………その、ですね……口止めをされていまして」
三度、沈黙は訪れる。
色々と言いたいことはあった。
正直、叫びたい気持ちでいっぱいである。
何のこっちゃ、と首を傾ぐアサシン(かわいい)と流石にきまりの悪そうな顔をしている零華(かわいい)を見てから、深い深いため息を吐いて気を落ち着ける。
魔術の練習を始めて、かれこれ七、八年。
「…………教えてくれても、良かったんじゃないでしょうか?」
「……申し訳ありません」
返答した零華は心の底から申し訳なさそうな顔をしていた。
メンタルに傷を負った俺を気遣ってか、一度休憩を挟んだ後。
「では、早速始めていきましょう……もう、時間もありませんから」
工房へと場所を移して、俺と零華は向かい合っていた。
アサシンといえば、少し気になることがあるなんて言って、今は別行動をとっている。
「貴方の魔術は行使される時点においてある特殊な影響を受ける性質があります。それは、貴方の過去に起因し、貴方自身の在り方に深い結びつきがある」
「……よくわからないんだが?」
「ええ、でしょうね」
もしかして、バカにされているのだろうか?
「……今のは、まだ先の話です。ユメミヤ様には一度伝えられているはずですが、一つのアドバイスを授けましょう」
師匠からのアドバイス?
確か師匠は俺に対して精神論しか説いてこなかったんだけど――
「願いなさい。他がために、己がために。貴方自身の望みを強く願うこと。それが貴方が魔術を使うために必要な最低条件です」
え、マジで精神論なの?
至極真面目な表情で、零華はハッキリとそう告げた。
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1-11「夢の欠片」
灯の消えたランタンと向かい合っていた。
全身の魔術回路へ魔力を流して、脂汗を浮かべながら、一人ランタンと向き合い続けていた。
「…………」
精神論。
苦難に挫けない精神さえあれば、大概だいたい何とかなる。その言葉は、そんな楽観的かつ脳筋的思考論のことを示す。
願う。
祈る。
拝む。
ランタンという無機物に対し、恥も外聞も捨てて土下座までしてみたところで、俺は零華から与えられた課題を諦めた。
「うん、無理。俺はこの子と仲良くなれる気がしない」
ランタンの頭頂部を撫でくりまわしても健気な反応などはなかったので、一度魔術回路の魔力循環を止めた。
物言わぬ古びたランタンから視線を外して、工房の床へと寝転がる。
新たな魔術とやらの習得を完全に諦めたわけではないが、ひとまず休憩を挟もう。
少なくとも、今の自分がどうにかできるレベルの問題ではない。
何か別のことでも考えよう。
そういえば、零華に工房へと押し込まれてからどれほどの時間が経ったのだろうか。
工房は外界と隔絶した場所、つまり地下に作られているため、外の様子を伺うことができない。
時計ぐらいは置いておくべきだったか、なんて考えながら天井を眺める。
「…………やっぱ無茶振りにも程があるんだよな」
ぼうっとしながらも、脳の片隅では零華からの課題について思考を続けていた。
今まで自分なりに『強化』の魔術を練習していたときにも、同じような状態になったことがある。
できるときはできる。
できないときはトコトンできない。
感覚でわかるのだ。
あ、いま無理だ……なんてことは。
回数だけを見るのなら、今までソレに成功したことは多々ある。
けれど、なぜ成功したのかがわからない。
その発動条件も、成功条件も、何もかもが不明瞭だ。
零華はコレを願いによる力の発現と称した。
願う……いったい誰に、何を願うというのだろうか。
……ダメだ。
いい加減に、脳死で努力に似た何かをする時間はやめにしよう。
面倒だが、曖昧で不確かなままにしていた『願う』の概念について、確認していくことを決めた。
何を、は明確だ。
魔術の目的。結果。
何のために魔術を使うのかという原点に対する答えがそれに当たる。
では問題の誰に、を考える。
そもそもの話。
願いごととは何か。
こうなればいいと誰かが未来に欲望を向けたことで生まれる期待、とでも言えばいいか。
望んだ未来を願うこと、それを願望と呼ぶ。
どうでもいいが、熟語とはよく出来ているものだと感心してしまった。
初詣なんかに行ってみれば、願いごととは自身の未来に対する宣誓である、なんて精神を持っている人も少なくはない。
ならば、その対象は未来の自己にあるべきなのだろうか?
いや、そうじゃない。
それは
魔術的な意味合いを考えれば、その精神は当てはまることはない。
神頼み。
そんな言葉を耳にすることもままある。
人智を超えた結果を望むのならば、それは確かに神頼みと言えるだろう。
けれど、それはきっと魔法の領域に近い。
詳しいことを聞いたことはないが、魔術と魔法の間には絶対的なまでの違いがあると聞く。
不可能を可能にすること。
それが魔法がある意味で、究極の神秘と呼ばれる所以なのだとか。
ああ、少し話が逸れたか。
なら、誰に望めばいい。
何と向き合えばいい。
考えて、思考して、思索して。
そこに選択肢は、ほとんど残されていなかった。
・
・
・
「…………うん、やっぱソレしかないよな」
上半身を起こす。
再び、ランタンへ向き合おうとしたのだが、折角なら水分補給をしてから作業を続けることにする。
多分、今休まないとこれから終局までノンストップで動き続けてしまいそうだった。
「…………にしても、今日は暑いな」
思考に集中していたからだろうか。
それまで気にならなかったが、改めて自分の状態を見てみると全身から球粒のような汗が勢いよく噴き出ていた。
服も肌に貼り付いて、不快感が凄い。
水分補給を選んで正解だった。
ついでにシャワーも浴びてしまおうか。
夏場は気をつけなければならないことがいっぱいである。
魔術師である前に人間であることは変えようもない事実だ。
地下の密室で熱中症による気絶、その後死亡。そんな有様で聖杯戦争から脱落してしまったら、笑い話にもならない。
工房からリビングへ向かう。
時間の確認も行わなければ、とそんなつもりで立ち寄ったのだが、そこには先客がいた。
「…………昨日ぶりですね、マスターさん」
「アサシンか、おはよう? 『こんにちは』の方があってる?」
「…………強いて言えば『こんにちは』でしょうか。まあ、正確に述べるのであれば『こんばんは』が的確な挨拶と思われますが」
…………なんて?
ガバッと勢いよく時計の方を見る。
短針は7と8の間を指している。
今更ながらに窓の外を見れば、世界は宵に包まれていた。
「食事は冷蔵庫の中にあるそうです……一度、呼びには行ったのですが、何度か声をかけても返答がなかったので邪魔をするのも悪いかと――それで、何か掴めましたか?」
「…………引っかかりを見つけたぐらいか? 進捗は全体の二割ぐらいかな……大雑把な体感でだけど」
通りで喉が渇くわけだ。
半日近く、思考に没頭していたことになる。
時間の経過を視覚的に捉えた瞬間、それまで大人しくしていたはずの空腹感が首をもたげる。
「……こりゃ、完全に集中キレたな…………とりあえず飲んで、風呂。食って、最終調整ってとこか」
…………間に合うはずがない。
幾ら何でも、条件設定に無茶がある。
けど、足掻くことをやめたら、後には何も残らないことだってわかっていた。
「…………零華は?」
「あの人なら、今夜のための準備があるそうですよ。自室に居ると言っていました」
「りょーかい……アサシンは大丈夫なのか?」
「大丈夫、とは?」
「……えっと、心構えとか? お菓子持ってく?」
「バナナはオヤツに含まれますか、じゃないんですよ。バカなこと言ってる暇があったら、さっさとやるべきことをやったらどうです?」
「……随分と痛いところを突いてきますね」
アサシンとの会話の合間に用意したペットボトル水で喉を潤す。
ぶっちゃけ、水道の水と何が違うのかはわからんが、何となく元気になれた気がするので良しとしておこう。
「風呂行ってくる。もし零華が来たら伝えといてくれ…………ああ、そうだ。これはただの雑談に過ぎないんだけどさ」
一つ、聞きたいことがあったことを思い出す。
「――アサシンは、どうしても叶えたかった願いとか持ったことある?」
「………………………………さあ、どうでしたかね。よく覚えていません…………早く、お風呂行った方がいいですよ。汗、冷えますから」
「……んじゃ、ひとっ風呂浴びてくる」
一人、リビングに残された少女は、青年の後ろ姿を見送ってから口にした。
「期待も、願いも、望みも……持ったことなんてありませんよ。誰も、それを望みませんでしたから」
◇◆◇
あっという間に時間は流れていき、時刻は11時半の少し手前といったところ。
最後に一度、装備を確認しておこうと思う。
あのポンコツ師匠からの贈り物は幾つもあるが、その全てを自由自在に操れるほど俺は器用ではない。
だから、選んだ。
聖杯戦争という戦いにおける手札を。
これは使い慣れていないものはいざというときに、事故を引き起こしかねないという判断からでもある。
対人間用の隠密可能なフード付きコート。
遠視の魔術が仕込まれている単眼鏡。
魔力を流すだけで起動する師匠セレクトのお手製便利魔術セット。
とりあえず、何が何でも手放さないようにと言われ続けたお守りを二つ。
最後に零華も使用していた回復促進の効果が付与されているらしい包帯。
魔術的な効果を持たない武装としては気休め程度にナイフを2本。一本はいつでも使える状態にしておいて、もう一本は隠し持つような形にした。
戦い方など教わったことがないので、使う機会がないことを祈るばかりである……下手したら、素手の方が強いんじゃないのかな。
なるべく軽装でそれでいて使用頻度が高そうなものを身につけた。
零華の補助も考えれば、最低限の準備は整っているといえるだろう。
余談であるが、師匠から送られた便利道具の数々は見る人が見れば、発狂しそうになるぐらいの代物らしい。
まあ、普通に誇張表現だろうけど。
「おや、支度は済んでいましたか」
「それぐらいはね。そっちの用事は終わったのか?」
「完全にとは行きませんが、それなりには。魔術の方はどうでしょうか?」
「まだまだ、先は長そうだよ……多分、方向性はあってると思うんだけどな」
ようやくリビングに顔を見せた零華の服装は、普段と何ら変わりのないメイド服である。
違和感を感じさせないのが凄い。
アレは多分「メイドの嗜みです」とか言っておけば、だいたい許されると思っている顔である。
「……まあ、仕方がないですね。では、私たちの目的の最終確認へと移りましょうか」
空気がピリッと張り詰める感覚。
零華の声音に確かな冷たさが混ざったのがわかった。
「最終的な目標は聖杯戦争の勝利、または無傷による聖杯戦争の終結です。セイバーの残した言葉から察するに、私たちはこの異常な聖杯戦争における部外者であると思われます。これから出会う全ての相手を敵と認識して構いません」
異論はない。
部屋の片隅で退屈そうな顔をしていたアサシンも、ここまでで特に述べることはないようだ。
「……では、これからの話に移ります。絶対条件としては全員の生還を。そして、可能であれば現状に関する情報を集めましょう。異例だらけの聖杯戦争……長期戦を仕掛けるつもりで動いていきます」
「わかってる。接敵した場合はどうする?」
「極力、撤退の方向で動きます。駄犬が使い物にならない以上、私たちの持つ戦力はアサシンのみと言っていいでしょう。私も諸事情により、今は万全な状態だとは言えませんから」
こいつ、本調子じゃないままセイバーの相手をしていたのか……化け物かよ。
「あんなの、ただの遊びですよ。セイバーがその気になれば、私なんて数分も持ちません」
「……聞きたくなかった、そんな現実は」
すると、俺たちの話を聞いていて思うことがあったのか、どこか申し訳なさそうな顔をしたアサシンが口を開いた。
「……あのセイバーに関してですが、彼女の真名が私の想像している通りであった場合、私と彼女の相性は考えられる限りのほぼ最悪に近いです。そもそも、アサシンクラスであることからお察しですが、私は直接戦闘に秀でているわけではありません」
要するに、と間に挟んで。
「私を戦力として当てにしない方がいいですよ。というか、勝手に期待されても困ります」
「…………ねえ、それ詰んでない? 割と終わってるぞ、この陣営」
まさかの全員戦力外ときた。
アサシンの実力が未知数であったのは確かなのだが、ここまで断言されると困る。
が、零華は俺たちの置かれた状況を正確に認識していたらしい。
「わかっていますよ、そんなことは。重々承知の上です…………だって、駄犬。それでも貴方は進むことを選ぶのでしょう?」
「…………まあ、そうだな」
進退を考える時間はとうに過ぎ去った。
なら、思考の全てはこれからに使わなくては意味がない。今更、後ろのことに注意を払うほど余裕はない。
「兎にも角にも、初日が勝負です。今日を凌ぎさえすれば時間ができる。戦力を整えていく猶予が生まれます」
チラッと零華が壁にかけられた時計の方を見た。
ソレが最後の合図だった。
「では、行きますよ。この屋敷の地下に儀式用の鏡がありますので、まずはそこで刻を待ちましょう」
聖杯戦争が、始まる。
このとき、俺はまだ何も理解していなかった。
何の覚悟も持ってはいなかった。
そのことをこの日、思い知る。
「………………な、んで――」
「…………にい、さん?」
撃鉄は落ちる。
幕は上がった。
あとはただ、全てが泡沫の夢の如く。
もう二度と、狂った運命の奔流は止まらない。
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