大天使エイスリンちゃんに罵倒されながら国際交流する話 (アライ)
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邂逅
都合により冬休みが早く始まり、長くなっています。
岩手。それは東北地方に所在する県であり、都道府県の中では北海道に次いで二番目に大きいとされている。山地が多く緑豊かで自然に囲まれている所──といえば聞こえは良いが、実態は悲惨なものである。
まず、人が少な過ぎる。県内ほぼ全域で人口が流出し続けている。過去の五年間の増減率の分布表を描き、減少を赤、増加を青として、その濃淡で岩手を表せば、まるで殺人現場に残った血糊の様に一面が濃く真っ赤っかになる。これは酷い。
割合では無く実際の人口密度で見ても、それは無残という一言に尽きる。試される大地である北海道に次いで、二番目に人の密度が少ない。なぜここまでに北海道と張り合っているのか。
そして次に、未開の地が多すぎる。群馬を笑っていられない程に多すぎる。野放図に広がる茶色と緑のコントラストは、遥か遠くの山々へ連なる程に広がっていて、まさに留まることを知らない。余りにも人の手が入らない場所が多い所為か、
そんな訳で今の岩手の状況は、まさに過疎という二文字に集約されてしまっている。少子高齢化の推移も激しく、今年もまた一つ、廃校してしまった学び舎があるらしい。大人達は合併やら統合やらで必死に人数を維持しているが、それもいつ崩れるか分からない。
じりじりと擦り減る様な現状だが、諦め切れないのだろう。岩手──この宮守の地を皆が皆、かけがえのない大切な物だと思っているのだから。
そんなどうしようも無い事を考えながら、日々惰眠を謳歌していた時。
11月25日。ちょうど学業に区切りが付いて、冬休みに入った所だった。
【これから我が家は、ホームステイする子を迎え入れる事になる。来たらちゃんと挨拶するんだぞ】
11時過ぎ。唐突に携帯電話に着信が来た。見出しは簡潔であり、本文を見ずともおおよそは把握できる。
炬燵に入っていると、温度差でどうにも背筋が冷たくなるものだ。最近ではそんな背中を守る為に、敷布団の様に上半身に着る事が出来るヤツもあるらしいが、下手に水分補給を怠ると昇天しかねない。遥か二千年前より更に前からこの地に住む者は上手いこと寒さを凌ぐ方法を探してきたのだろうが、文明が発達した今でもそれは変わらないのかもしれない。
「何のご冗談を……」
夏先に吹き荒ぶ岩手のやませや、反対側にあるオホーツクの海よりも寒いですよと思えば、ここに居ない筈の父がけらけらと笑った気がした。父は早朝、何やら忙しそうに行き先も伝えずに出ていってしまったが、なるほどこんな厄介事が有ったのか。流石に無視する訳には行かないので、連絡を見る事にした。
【ニュージーランドから来た子だ。その子の親がお父さんの仕事場での昔馴染みでな……仕事が終われば、よく麻雀を打ちにいったものだった】
台の上に置かれていた籠から小さな蜜柑を取り出し、乱暴に剥いてから丸ごと口の中に放り込む。すると少しだけ思考が纏まった。
冗談だろう、という問い掛けを発しても虚空にすげなく返されるだけだろう。父が打った無機質な文字の羅列からは、嘘を言っている様には全く感じられなかった。
【そう、New Zealandだ】
寄宿とはニワカには信じがたいものの、百歩譲ってニュージーランドというのはまあ分からなくも無い。自分が在籍している学校は町おこし──になるかどうかは預かり知らぬ事だが、交換留学制度をニュージーランドと提携している。姉妹都市ならぬ姉妹校という奴だ。果たして今に至るまで一度もそれは成立した事は無かったが、制度自体はでかでかと校舎の廊下に張り出され、皆に周知されていた物だった。それが今回初めて活用されたという事なのだろうか。現実は定かでは無いが、その様に予測すると落ち着くというものだ。
ホームステイされるに当たって、部屋が無いという訳では無い。地方で在りながら、父が持つこの家はそこそこ裕福だった。それもその筈、父は一戸建ての一階部分で雀荘を営んでいた。
麻雀は国民的……いや、世界的な競技だ。まごう事なき確かなルーツを持ち、実際に卓上で行うかどうか関わらず、それを飯の種にする人はとても多い。麻雀のプロは勿論、批評家や評論家、初歩的な入門書から選手のインタビュー記事が載った雑誌まで、一稼業だけで数億単位の金が動く。それほどまでに麻雀とは大人気なのだ。
故に父の雀荘はそこそこ繁盛している。
短期とはいえ、恐らく留学生と呼べるのだろう。して、その人はいつ来るのだろうか。
【ちなみに今日来るぞ】
「今日?!」
唐突。余りにも早すぎる。予め、その問いを予測していたのだろう、父の連ねた文字の先には既に答えが書いてあった。
日本とニュージーランドは赤道を軸にするとまさに反対で、飛行機を使って来るとしてもおよそ半日は掛かるだろうし、常時渡航している筈も無い。そもそも岩手とニュージーランド間で、直通の便が無い。何の連絡も無しというのは有り得ないので、こちら側に報が届いていたとなると我が父は今日になるまで隠していたという事になる。なぜ言わなかったんだろうか、これが分からない。
──英語話せないんですが
ニュージーランドの公用語は英語。
ここに居ない父に怨嗟の念をぶん投げたくなる。もし言えるならば、閉鎖的な空間で育ったよく分からない英語のスラング──それと共に。しかし、そんな事をしたとしてもただただ虚しくなるだけだろう。父は当然の事ながら英語ペラペラである。仕事場で馴染みがある外人と、英語無しでコミュニケーションを取るというのは中々難しいのだから、使えない方がおかしいのだ。日本の中ならば日本語だけ使えれば良い、という簡単な話では無い御時世らしいのだから。
対して自分は、英語をまだ齧り始めたばかりである。単語はそこそこ知っているが、日常会話に繋げられる程の自力が無い。たとえ突然英語で挨拶をされても、ハローぐらいしか返せないだろう。何も考えてないから、それしか出て来ないのだ。賽を回す様に頭も回せる事が出来たら良いのだが、現実は思考停止である。
だがしかし。万が一その子が英語と共に日本語も扱えるというバイリンガルなら話は別だ。過不足はあれど、第二言語で意思疎通をする事ができるかもしれない。
【ちなみに、そのホームステイするっていう子は……日本語を喋る事が出来るのですかね?】
最後まで読み終え、事実確認の為に返信を行う。
【No】
すると、たった二文字のアルファベットが返ってきた。
知っていた。
当たり前だ。語学留学だろうに、最初から日本語堪能だったら留学する意味が全く無い。
でも少しぐらいは喋れる事を期待していたり、していなかったり。
「受け入れる準備と、開店もしなければなあ……」
兎に角、もう決まってしまった事はしょうがない。急な話だが、実際受け入れ自体が不可能という訳では無いのだ。意思疎通の問題が有るだけで、後の生活は割と何とかなってしまうかもしれない。
……
いや、コミュニケーションは一番重要視される要素だから意思疎通が図れないと非常に不味いだろう。それを踏まえずに何とかなるとは、なんと楽観的なのだろうか。圧倒的ラスの状況で牌効率無視して無理矢理国士に向かう奴並みに無謀だ。
もうここまで来たら引く事はできないから、憂うだけ無駄なのかもしれないが。
気を取り直す。
どうしようも無いものはとりあえず置いといて、今は開店の準備をしなければならないだろう。最近の宮守は雪こそ降っていないがそこそこ寒く、この雀荘は客足を考慮して午後を少し過ぎてからの営業となっていた。父が居ない間は自分が店番を任されているので、サボるという選択肢は取れない。とは言っても、店番なんて殆どやる事は無いのだが。
常連さんがいつものメンバーでちまちま打っているのを眺めるだけである。そこには何の労苦も無い。ただ、ドラが乗れば跳ねたのにとか、スーアン聴牌だったのにとか、そんな取り留めのない会話を聞き流していればいいのだ。後は、卓に着きながらカップ麺を食う奴に対して溢さん様に注意したりとか、だいたいそんなものだ。
「はあ、準備するか……」
だいぶ良い感じに温まってきたコタツを抜けるのは中々に辛いが致し方あるまい。
密閉された居間を抜け、開店準備をする為に廊下へと降りる。ここは日が少ししか当たらない所為なのか、通路へと出ただけで寒気が襲ってきた。家の内側ですらこうなのだ、一体外はどれだけ寒いのか想像するだけでも恐ろしい。早く雀荘に移動して、暖房ガンガンに効かせねば。
背後からじわじわと責め立てる寒さに追われながら道を進む。
ふと、木が軋む様な音が聞こえた。
発生場所は恐らく、玄関の方から。
居る……。
なんか居る!
なんか、玄関の前に居るッ!
都会の家がどうなのかは知らないが、基本的に田舎の家は呼び鈴を鳴らさずとも、外に佇む来訪者の音がまる聞こえになってしまう。端的に言うと、気配が察知できてしまうという事である。
まず父では無いだろう。父ならばすぐに鍵を開けて入ってくる。母は普通に家の中に居るのでありえない。いつもの雀荘のおっさん達もまずここには来ない。
となると、流れからして一人だけ。
嘘でしょ、もう来たのですか。
「あ、開けたくない……」
開けたくないけど、開けなければならない。扉の手前で立ち往生しているという事は、どうやって訪問を知らせるのか分からずにほとほと困り果てているのだろう。日本式の呼び鈴とニュージーランドのチャイムは違うのかもしれない。
英語、全く分からない。本当に挨拶はハローでいいのだろうか? そもそも年齢が幾つだとか、男か女かすらも分からない。
ええい、なる様にするしかないか。
ともかく外に居る来訪者はこのクッソ寒い宮守の冬に凍えている事だろう。
現実はどうであれ、早く家の中に迎え入れなければ。
可能な限り急いで玄関へと向かう。半透明の扉の先に見えたシルエットは少し小さい気がした。
簡易的な鍵を開け少し引きずる様にして扉を横にすると、最近誰かが油を打ったのだろうか、がらがらとした特有の音を立てる事も無くすっと静かにそれは開かれた。
「
目の前には異邦人の女の子が居た。
「
平面に浮き上がった石畳を因幡の白兎がごとく渡り歩いている。一つ、また一つと飛び移るたびに、手編みだろうか柔らかそうなマフラーが跳ねた。
唐突な邂逅だったが、余りにも静寂のままに戸が開かれたのか、それともひゅうひゅうとなる風音が邪魔したのか、その子は全くこちらに気が付かなかった。どういう訳か、彼方の方角を向いている。
この辺では絶対に見る事が出来ない細やかな金糸。首筋を冷たく滑る風によって
「
扉の突破法を探していたのか、わちゃわちゃとしていたその子は、ようやくこちらに気が付いた。
こちらを貫いてくる碧。すっと底が見えてしまうのではないかと錯覚する程に澄んだその瞳は、時間が忘れ去られたどこか遠い異国の湖水を想起させてくる。止まった時の中に一枚の葉が落ちたのか、波紋を描きながら視点が震えた。
それと同時に、白く張った肌が静かに揺れ動く。それは、ここ宮守の銀雪が降り注いだとしても熱に溶かされず、そのまま同化してしまうのでは無いかと錯覚する程に透き通っていた。
うんうんと頷いていると、その子は何やら戸惑った表情をしながら覗いてくる。
「
「……」
ふむ。ファーコートだろうか、この金髪碧眼の女の子が着ている防寒具はそこそこに厚みがあって暖かそうだが、枝木を枯らしてしまう程にこごえるこの地の風を防ぐには少々足りないか。
このまま外で何もせずに突っ立っていたら、寒さで凍ってしまいかねない。だとしたら、すぐに迎え入れるべきなのだろうが……。
「...」
「──」
気まずい。震える程に冷たい風が、戸から這い寄り存分に吹き荒ぶ。
当然だろう、お互い会話の
いらっしゃい。本日はこの寒い中、ご足労頂きありがとうございます。
ささ、温かいお茶を用意していますので、是非上がってください。
……という感じで、トントン拍子で迎え入れる事ができるだろう。
しかし、相手は外国人である。前述した言の葉を正しく英語に直すなんて、自分には不可能だ。
「...」
「──」
点も文字も何も無い、ただ一つの平行線。
とても気まずい。
いや、そもそも父さんはどこへ行ったのだろう。このニュージーランドの子を迎えに早朝出て行ったのでは無かったのか。なぜこんな事になっているのだ。
こうなったら。こうなってしまったらもう、手段は一つのみ。
挨拶の魔法だけだ。誰に話しても必ず決まった答えを返してくれるだろう、万国共通のもの。ハローといえば、ハローと返ってくるのみ。
そんな魔法を、渾身の力を込めて言い放った。
「は、ヘロー……」
噛んだ。焦り過ぎて、思いっきり挨拶の魔法を噛んでしまった。
「...」
「……」
運否天賦の大勝負で錯和をしてしまった様なものだ。
これでは魔法の効力も無くなってしまうかもしれない。思わず、心の中でさめざめと泣いた。
「...
「……!!」
その様子を見たニュージーランドの女の子は吹き出すような声音を上げた後、手に掴んでいたキャリーバッグから何やら真紅のペンとホワイトボードの様な物を取り出した。そして、どこぞの死の秘宝の様にペンをこちらへ勢いよく
やたら達筆だった。
【 Is this a native Japanese greeting? 】
少しにやにやと、小さく笑いながら。
間違いなく、煽られている。
Just Aislinn.
OK
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エイスリン先生の英語教室(小規模)
全てが分かんね~
英語苦手なんで文法ミスかなりあると思います。
ゆるして……
「
「
「
炬燵に入りながら談笑する我が母とニュージーランドからやって来た女の子。経緯としては、玄関で小さな喧噪を耳聡く聞き付けた母が、流れるままに受け入れて今に至る。
すらすらと母の口から語られる歓待の言葉。母さんも昔、父さんと同じ職場で働いていたらしいから、英語を話せてもおかしくないのか……。
いくつか聞いた覚えのあるフレーズが混じっているが、悲しいかな、自分は半分もそれを理解できていない。小さくなっているとは稚拙な比喩表現だが、今の自分の状況を表せばまさにその通りだろう。
「
「
「
やたらフレンドリーな母と、途端に不遜な態度では無くなってしまった留学生。よく分からない会話を交わしている。よく分からない事が目の前で繰り広げられている。なるほど、人生は分からない事だらけだ。
それにしても、留学生の来訪に対する驚嘆の念は今の母からはあまり感じられない。もしかすると、母さんも予めホームステイの事を知っていたのだろうか。
ふむ……。
どうやら、知らされていないのは自分だけみたいですね。
どうしてでしょうか。
◇
「
「
「
「
矢継ぎ早に繰り出されてきた母の問い掛けを、何なりと留学生は返していた。日本語に置き換えれば取り留めの無い会話なのだろうが、脳は理解できない言語としてそれを処理し右から左へと受け流してしまう。朝起きてすぐの寝惚け眼な状態で、卵焼きをつついている時に流れてくるテレビのニュースの様に意識せずとも耳に聞き入れる事ができる──そんな時が、いつか自分にも来るのだろうか。いや、無理ですね。
今の状況は炬燵を軸にして横に母さん。そしてトイメンに金髪留学生。まるで三麻だ。
そういえば、一度炬燵の上で麻雀やってみたいなあ。
ある程度暖房が聞いているとはいえ、冬の自動卓の下はやはり少々寒いのだ。
これ、自分いる?
「
「
「
ぱあっと花開く様に破顔した母は、善は急げと言わんばかりに炬燵を抜け出し台所へ足早に去っていった。二人だけの舞台はまもなく崩壊してしまう。
早速、ラックの上に置かれている収納棚が開かれる音や、擦れた茶器が立てる金属質な音が聞こえてくる。そういえば、もうすぐお昼の時間だった。
「あちゃ~夕飯にも使うのに、卵切らしちゃってた……。すぐに買いに行ってくるから、あんたはエイスリンちゃんとよろしくやっといて~」
ついでに、結構待たせちゃうかもしれないけどごめんね~って言っといて! と母は
この間、わずか30秒。
「
余りの勢いに留学生は少し引いていたものの、その表情には笑みが見えた。母の圧力は初対面の人でもだいたいこんなものだから、結構戸惑う方も多いらしい。今回は一応、それが良い方向に流れたのだろうか。うん。
さて、これからどうしよう。
「
ぐでっと炬燵の台に正面から留学生は突っ伏した。柔らかそうなブロンドの髪がふわりと舞い降りる。初めての炬燵は相当に暖かったのだろう、幸せを一片に拾い集めた様な顔をしている。
「...」
「──」
刹那、目が合った。
当然だ、炬燵を通して真反対に座っているのだから。無理矢理にでも視線を横へ外さない限り、必ず視界の内へ入ってくる。
母も酷いものだ、我が子が英語を話せないのを分かっている筈なのに、ほっぽりだしてどこかへ行ってしまうとは。いやまあ、食べさせて貰ってる身が言えた事ではないのだけれども。
「...」
「──」
留学生が透き通る蒼の双眸でこちらを射抜いてくる。何故こんなにもガン見してくるのでしょうか。
気まずい。ただひたすらに気まずい。今なら蛇に睨まれた蛙の気分も分かるというものだ。いや、違う……蛙では無い。そう、ナメクジだ。塩をかけられたナメクジの様に小さくなりたい気分だった。
彼女の視線から逃れようと、隠れる様に少しだけ身を屈める。
「
誰が忍者だ。
「
口の端の方を小さく上げながら、少し奥歯を噛んでいる様な表情をしている。そう、それはまるで笑いを堪えているかの如く。母と談話していた時とは大違いである。
言語は分からずとも、そこに内包されている含みがどのような感情なのか、分からないほどこちらも馬鹿ではない。
こいつ中々に良い性格しているな。
「
忍者呼ばわりに対する遺憾の意の表明を肌で感じたのか、留学生は何やら両手を左右に広げながら肩を竦めて見せた。海外の映画とかでよく見る、分からない時の仕草だろう。ボディランゲージである。自己紹介しろ、という事だろうか。
……正直、厳しいかもしれない。
日本の学校で配られる英語の教科書では当然、この様な時の対処法もとい返答の仕方が載ってある。無論、その内容を覚えていない訳では無いが──正直な所、変な英語を笑われるのが怖い。
基本的に学び舎で教わる英語というのは少々お堅いものだと言われている。故に、英語を母国語として話すネイティブスピーカーはそんな事言わないぞ、と良く
くだらないプライドの発露である。
「
そんな心情を知ってか知らずか、深い溜息を吐いた留学生は、紐で肩にかかっていたホワイトボードを手前に持ってきて何やら文字を書き始めた。ペンと板を直接擦れ合わせている様な音が、静かな六畳間に響き渡る。
すぐに書き終えたのか、裏返してきた。
【 Aislinn's English Lecture 】
「
唐突に留学生は両手を軽く交差させ、乾いた音と共に拍手をし始めた。その豹変ぶりに思わず硬直してしまうが、しかし彼女はそれを気にせずお前もやれと言わんばかりに、こちらを覗いてくる。
ふむ。
やはり、同調圧力に弱いのは国民柄なのだろう。個としてではなく集合体として生きる。それが島国民族の定めなのだ。
……いや、ニュージーランドも島国だから関係ありませんでした。
「ドンドン、パフパフ~」
「
留学生は直角に押し付ける様に。対してこちらは神社で礼拝する時の様に、型を真正面から合わせていく。
それはただ手を叩いているという行為だけなのに、少し国が違えば様式も大きく変わってしまうものだ。一言だけでは表せない深さがあると言えるだろう。
表現の仕方も千差万別である。
自分は何をやらされているんだろう。
「
留学生は再度画板を裏返し、何やら文字を書き換え始めた。
「
【 Aislinn Wishart 】
良く聞きなれた自己紹介の表現。マイネームイズって普通に本場でも使うんだね。
でも、どうして途中で止まったのかな。
「
留学生はこれ見よがしに、ホワイトボードを両手で軽く揺らしてくる。読めって事ですか。
「ウーン……」
綺麗な筆記体だ。しかし、どうしてここまで読み辛い表現が流行っているのだろうか。
昔、市民図書館に置いてあった異国小説の原本を一度興味本位で眺めてみた事は有るのだが、もはや暗号に近い文章だった記憶が自分の中には存在する。それに比べればまだマシなのだろうが、やはり中々に読み辛い。
Aislinnは、エイスリンで良いだろう。母との談話でいくらか聞き覚えがあるので間違いは無い筈。
「エイスリン……」
しかし、Wishartはどう読めば良いのだろうか。Wishとart? ジョンさんちの息子さんをジョンソンと呼ぶように、重なってできた名のだろうか。ううむ。
「ウィッシャート?」
「
答えを聞いた留学生ちゃんは、何か苦い物を食べた時の様な何とも言えない表情になってしまった。それと諦観にも近い声。
合ってるかどうかぐらい教えてくれ。
「
何やら静止の声を上げた留学生──エイスリンちゃん(仮)は、また画板を裏返し何かを書き始めてしまった。
否、描き始めてしまった。字を画くなんてモノじゃない、白のキャンバスに絵の具の付いた絵筆を振るう様に、縦横無尽にペンを動かしている。
しばし待つ事、数分間。
結構、長い。
「
エイスリンちゃん(仮)がこちらに向けてきた画板には、簡易的だが迫力のある絵が描かれていた。
いにしえの焔の中に身を宿し、邪を滅する為に大剣を振るう不動の王。そのもう一つの片手には、悪を縛り上げる為に環状に結ばれたしめ縄。そして、一番に目を引く憤怒の表情。
非常に強い既視感を感じる。
絵上手いなこの子。
「
彼女が発した言葉には、何やらどこかで聞いた事のある様な回りくどさが含まれていた。
どっちだよ。
「
う~ん。朧げだが、彼女の言いたい事が分かったような気がする。
あれか。日本をにほんと呼ぶか、にっぽんと呼ぶか、そんな感じだろうか。
「
彼女はノーテンの時の牌みたいに一度その画板を下に伏せると、次なる物の為に喉を震わせた。
「
紡がれるソプラノボイスが鼓膜を揺さぶってくる。
その名前、しかとこの耳で覚えた。
「
エイスリン・ウィッシュアートと呼ばれる子が、こちらへ自己紹介を促してくる。
ふむ。潮時か……。仕方がない。ここまで来たら覚悟を決めようではないか。
腹をくくるというヤツである。横文字で表せば、ジャパニーズ・セップク。
「
◇
「
「
「
「
「
「
けちょんけちょんに酷評されてる気がする。
ホワイドボードの上は、キレた赤ペン先生の如く訂正文字で一杯になってしまった。バツマークでもう溢れんばかりだ。少なからず、正解は有るみたいだが……。
外国だとチェックマークの意味が反対なのを思い出す。ペケがバツだと覚えてると、凄まじい違和感を覚えてしまうものだ……。
「
エイスリン先生は一通り言い終えると、画板の隅に
やっと、終わったか……。もう気が狂いそうよ。
「ただいま~。さっそくご飯作るね~」
大きく嘆息すると、ちょうど良いタイミングで玄関が開かれたのか、帰宅してきた母の間延びした声が聞こえてくる。色んな食材が目一杯に詰められているのだろうか、扉越しにでもゆさゆさと揺れる音が伝わってきた。
そういえば、お腹が空いてきたな……。
頭を回せばそれだけ減るものも減るという事だろうか。
まあ、ほぼ教わっていただけなんだが。
どちらかと言うと、先生の方が大変だっただろう。
「
留学生先生ことエイスリン先生はすべての力を出し切ったのか、ふにゃあとなってしまった。
良くある炬燵と一体になっている人物のイラストが、脳内に浮かび上がってくる。彼女は結構似合いそうなものだ。
「...」
「──」
そんな事を考えていると、前と同じ様に沈黙が戻ってくる。
何なんだろうこの空気。何故、自分は今日出会ったばかりの留学生から英語を教わっているのだろう。
お昼ご飯はオムライスだった。
おいしい。
初めての料理なのだろう、少し戸惑っていたが一口すれば一変。
エイスリン先生も喜んでいた。
なぜエイスリン【先生】かというと、NEW HORIZONのエレン先生が思い浮かんだからです。金髪の英語教師すきぃ
主人公の名前はあんまり出てこないんで覚えなくていいです(適当)
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エイスリン先生と麻雀
原作開始前の絡みが宮守は少々難しい。
Just Aislinn.
「
お昼ご飯を食べ終えたエイスリン先生は、不織布のテーブルナプキンを使って口角の隅をエレガントに拭うと、突然言葉を紡ぎ始めた。彼女のやたら流暢な麻雀という単語が耳をくすぐる。
麻雀──ときに、何か忘れている様な気がする。
ああそういえば、雀荘の開店準備をしていない。
壁に掛かる時計を見上げてみれば、刻々と操業時間が迫っていた。早く店のシャッター開けないといけませんねこれは。
「
急いで席を立って取り掛かろうとすれば、後ろからエイスリン先生の声が聞こえてきた。何か言いたげな調子である。
ちょっと意地悪だったかもしれない。
ホームステイ先の情報は恐らく、全て事前に開示されると見ても間違いないだろう。当然、我が家が雀荘を営んでいる事も彼女は知っている筈。だとすれば、何が言いたいのか分からないほどこちらも察しが悪い訳ではない。目と目が合ったらポ○モンバトル──そう例えられる位にはこの世界で、麻雀という競技は一般的なのだから。
付いてきて、は確かフォローミーだったか。
そんな言葉を発すると、親鳥の通った道をそのまま辿る雛の様にエイスリン先生は付いてきた。
「あらあら~」
後ろで食器の片付けを行っていたはずの母が何か言っていた。
◇
廊下の先にある物置部屋へ向かう。一般的な認識でそれを語れば、ただの資材置き場故に部屋に存在する扉は一つだけだろう。だが、ここは違う。この部屋は雀荘の控室ともなる場で、家と雀荘の二つを行き来できる言わば連絡路の様な所になっている。
扉を開けたすぐ先は暗闇。少し外れた場所にあるスイッチを感覚で押せば、中で光が満たされた。
「
彼女の目線は部屋の隅にある一つの自動卓へ向かっていた。卓上には裏に伏せられた麻雀牌が角へ敷き詰められている。その上には簡素なビニールのカバーが掛かっているだけ。
この自動卓は偏りがあるから使えない奴である。確か上ヅモだったか、オカルトとか関係無しに特定の牌が露骨に偏るので導入して早々倉庫番になってしまったといういわくつきの卓だ。
使用される牌も専用の物になっているので、後継機には使えない。悲しいかな。もう完全に手積みで使うしか無い。
この部屋はそういった品の他にも、洗牌用のアルコールや布巾、点棒や牌の予備といった備品が収納されている。後、初見だと抽選会場で回すヤツと絶対誤解されるパイスター。物置とはいえ、よく通行するので掃除も勿論必要だ。エイスリン先生はそれらを確かめているのだろうか、ガラスばりの上からおずおずと手をかざしている。
ちゃんと清掃してるから埃の一つも付いてないぞ。
まあそれはともかく、本命はここでは無い。この部屋で麻雀を打つのはちょっと難しい。
とりあえず、連れ人に先を促す様にして、もう一つの重い扉を開けた。
「──」
めっちゃ寒い。扉を開けた途端、寒気が一斉に流れ込む様な感触がした。
一番に太陽光が入ってくるだろう入口部分は当然シャッターが下ろされているし、点在する窓もブラインドで仕切られている。光が入ってこないという点では物置きも同じだが、開放的な空間かつ外に近いという事で我が家──この建物内ではここが一番に寒い所となっている。下手すると外と同じくらい寒い。
「
同じく寒気に当たったのだろうか、後ろに居るエイスリン先生も震えていた。
身に着けていたコートはどうやら荷物と一緒に置いてきてしまったみたいで、そこそこ厚着をしているとはいえ中々寒そうである。上着取りに戻ってもええぞと視線を飛ばせば、何故か彼女はふるふると否定の意を込めて頭を振るった。
変な所で頑固だ。
ふむ。ならばそのままここで震えているがいい。
果たして、南半球の民はいつまで耐えられるかな?
さっむ……早く暖房付けよ。
当然ながら、暗闇の中では暖房器具を思うように操作できない。まず、消灯時でも爛々と輝いている配電盤に近いスイッチを順番に上からポチポチと押していく。すると真ん中、左、右と時間差で室内に純白の明かりが灯っていく。
「
目の前に現れるは、父が作り上げた雀荘だ。灰白色を基本として決して派手な印象を与えない作りに、仄かに光の反射を澱めている洋灯。天井に薄暗い影を描きながら廻るシーリングファン。所々に置かれている瑞々しく細長い翠の葉を吹かせる観葉植物のユッカ。幾何学的な紋様を辿るようにしてくねるインテリア。そして、開放感を失わない程度に配置された全自動麻雀卓。後、ほどほどのドリンクスタンドとメジャーな漫画が取り揃えられたコミックラック。一応、麻雀喫茶と呼んでも遜色無いだろう。
父曰くモダンな作りを目指したらしいが──
モダンって何だろうか。良く分からない横文字はやめてほしいものだ。
しかし、エイスリン先生には中々の好印象だったらしい。
「
彼女は360度くるりと回ってその景色を存分に眺めると、寒さも忘れて一番の象徴である自動卓に一目散に駆け寄り、存在を確かめる様に触れ始めた。
「ちょっ……」
近くに麻雀牌を敷き詰めた籠があるから注意して欲しい。そんな風に英語で説明したかったが、語彙力が無かったので、身振り手振りで頑張って説明する。
そうすると少しエイスリン先生はしゅんとしたが、すぐにその意を理解してくれた。気落ちした彼女からは、何故か途轍も無い罪悪感を感じる。
事故を防ぐためにも自動卓の中に麻雀牌を入れたままにしても良いのだが、冬の時期では取り出した際に温度差で水気が付く可能性があるため、あまり進んでやりたい事では無い。温度差は暖房で発生するが、こんな冬の時期に点けないという選択肢は無いのでまず避けられないのだ。
「暖房点けますよ……」
日本語で説明しながら、点けた。照明のスイッチのすぐ近くにあるエアコンのパネルを弄れば、すぐに生暖かい温風が天井から降り注いでくる。これからもう半日は点けっぱなしだ。冬季はこれほどまでに広い空間で長い間暖房を点けている所為で、電気代が天高く突き抜けてしまうそうだが、実際に払っている身では無いので知ったこっちゃない。父さん、母さん、許して。
ぺたぺたと自動卓を触るエイスリン先生を横目に、暖房が部屋中に効くまで待機する。彼女は自動卓を実際に目にした事が無いのだろうか。
嘲っているわけではない。世界的に麻雀が流行っているとはいえ、依然自動卓はそこそこに値段が高く、回転率を重視しない家庭用なら手積みの麻雀で十分という声は結構多い。それ故に何もおかしなことでは無いのだが……。
ネット麻雀という便利な存在も世の中にはあるからなあ。あれは雀荘の敵ですよ。ちょっと打ちたいけど人数が足りない……って時に凄くお世話になるから、一概には悪く言えないのだけれども。
「そろそろ時間か……」
そんな事を考えていると、ちょうど開店時間がやってきた。ある程度暖気が充満したのを確認し、店の入り口のシャッターを開ける。勿論これもスイッチを押せば自動で開いてくれる。父の話によると昔は手動だったらしいので文明の発達に感謝しなければならない。
突然部屋に響いてきた無機質な機械音に、エイスリン先生は遠目で見て分かる程にビクっとしていた。夢中になっていたまま気が付かなかったのだろう。
シャッターが迫り上がると、ちりんちりんと小気味よい鈴の音が響き渡った。夏に掲げられる風鈴の音を1オクターブ下げた様な響きが、この雀荘の入店音である。
「お邪魔します」
「今日ちょっと遅かったんじゃない?」
「おっす~。あれ、星川さんいないの?」
その辺に居そうな大学生みたいな台詞を引っ提げてやって来たのは常連であるおっさん達だ。高校の同期だとか、同じ会社の系列だとか、色々有るらしいが詳しい事は知らない。毎日というわけではないが、だいたいこの時間になると三人組でだべりながらやってくる人達だ。三麻をやっていると思えば、父が唐突に乱入して四人で麻雀をしていたりと、およそこの店で一番に来訪回数が多いお客さんだろう。
「いらっしゃい……ませ~」
う~ん……今日は日曜日。ここ雀荘に限らず色んな店で特売が始まる日だ。それに連なって、この雀荘も割引が行われる。主に自分のやる気が一割引き。
「おっ、今日は星川さんのガキが店番か」
「相変わらずやる気のないお出迎えだな」
うるさい客だ。営業時間も割引したろうか。いや……後で怒られるからやめとこう。
「卓代は後払いね」
へいへいと誠意の籠っていない返事をおっさん達が返してくる。常連だけあって、こちらもあちらも反応が定型文と化してしまっている。こういった返しは手間が省ける分楽だが、慣れると一見さんの時にもやってしまいそうになるから危険だ。父の雀荘は割と客足が良い。
「ノーレートで頼むよ~」
いつもの様に釘を刺しておく。勿論強制では無い。そう、お願いである。
何が何だか知らないが、今日も皆マナーを守って打ってくれる事を願おう。ちなみに法律を調べて見た所、予め注意していれば店が摘発される事は無いらしい。あくまで客が全ての責任を負うとかなんとか。なんてガバガバなんだろう。
とりあえず、今日は風の速度が書かれた看板を隠して置く。一瞬だけエイスリン先生に見られた気がするが、きっとマ◯オのステージ面か何かだと勘違いしてくれるだろう。
「それはそうと、この子は誰なんだね?」
卓に着こうとした三人のうち、一人から疑問の声が上がる。
そりゃ、気が付くよね。
目の行く先が一点に集まっている。ある程度雀卓の間には仕切りが置かれているが、彼女の容姿は当然目立つ。天衣の様に揺蕩う金糸が存在を声高に主張し、エイスリン先生は無事注目の的になってしまった。
「
おっさん達はここいらでは珍しい異邦人をまじまじと眺めている。視線の集中砲火を受けたエイスリン先生は小さくなってしまっていた。
近場で麻雀が精一杯打てる場所はここしか無いのだから我慢してくれ。
……とはいったものの、困っている先生をそのまま放置しているほど、こちらも捻くれてはいない。
とりあえず、状況を説明しようか。
◇
「へえ。ホームステイねえ」
「ニュージーランドってそりゃまた遠くから……」
「確か季節が日本とは逆なんだろ? となると、裏側は今真夏か」
「ここは寒いだろう。よくこんな辺鄙な所に来たもんだ」
「本当に金髪碧眼なんだな……」
「
かくかくしかじかと状況を説明すれば、おっさん達は今の状況を理解した。うちに泊まる取り決めになった事とか、まだあまり知らないけど彼女の身の上話とか。後、この雀荘こと麻雀喫茶にエイスリン先生を連れてきたのは彼女が麻雀に興味が在ると何となく察したから──とかそんな話も一緒に付随させておいた。
「つまるところ、エイスリン先……さんに麻雀を打ってるのを観戦させて欲しいというわけ」
「ほう」
とりあえず要点を説明し終えたか。一通り一方的に話したので少し疲れた。
「俺らの打ってるとこ、留学生ちゃんに見せろってことか?」
「そういうこと」
そう肯定すれば、おっさん達は得心がいったように頷く──といった事は無かった。
「いや、見るよりも実際に打ったほうがいいだろ」
何言ってんだコイツと暗に言っている様な視線がこちらを貫いてくる。
そうかな……
そうかも……
「要するに、麻雀を体験して貰いたいってことだろ? なら尚更に打ったほうがいい」
「そうだよ」
「それにこれ自動配牌卓だろ? 大丈夫だって」
おっさん達の言う通り、この雀荘に配備している自動卓は配牌まで全自動で配ってくれる。掴み取りして席を決めれば、もうポチっとするだけで配牌が配られてしまう。本来ならば賽の出目を見てチマチマ山から取らねばならないのだが、この自動配牌卓ならその手間を省いてくれるというわけだ。配牌を取れば、自動で山がセットされる。ちょんちょんする必要も無く、ちょんだけでいい。ついでにドラ表示牌も自動でめくってくれる。最高かな。
欠点はお値段がとっても高いという事だけである。自動配牌機能が無い一般的な自動卓が10万を下回るとすると、機能が付いている奴は50万を優に超える。高すぎ……欠点が大きすぎる。最高じゃ無かったわ。
ともかく。確かに手打ちの環境としては最良の物が揃っている。
エイスリン先生を観察するに、彼女は麻雀初心者の様な気がした。物珍しそうに牌を触る手が、私は初心者です! と言っている様な気がした。ならばいきなり打つよりかは見に徹していたほうが良いのでは、と自分の中で勝手に結論付けていたが、何事も経験からという格言もある通り、実際に触れてみるのが一番なのかもしれない。
「なら打って貰うか」
籠から風牌を四つ拝借し、裏返して適当に卓の上に並べる。
ささ、先生どうぞお好きなのを選んでください。
「
冬場の池に張った薄氷を踏む思いかの様に、エイスリン先生はおずおずと麻雀牌へと手を伸ばす。
うむ。今きっと先生の心中には大きな期待が渦巻いている事だろう。その華やぐ心を表情に隠しきれていない。こういうのは最初が一番ワクワクするんだよね。初めて牌を持った時は自分もこんな感じだったのだろう。
昔を思い出すなあ……。
「なに黄昏てんだよ。お前も打つんだよ」
「えっ」
何やら後方で腕組みしたい気分だったが、おっさん達に現実に戻される。
えっ。
「もしかして怖いのか?」
「緊張してんのか~?」
「若いねえ」
各人がこちらを捲し立てる様にして煽ってくる。う、うるせえ……。
ここに居るのは合計五人。四麻を打っている様子を一人後ろから眺めていようと思ったが──そこまで言うならやってやろうではないか。あ、ノーレートでお願いしますね。
ディーラーは最後に残った牌を取ると決められている。
エイスリン先生とおっさん二人が牌を取ったのを見て、最後の一枚を掴み取った。
親同士の付き合いから両親が麻雀好きとなったエイスリンちゃんは、ある程度既に打てる様になっているとする
既に能力も使える様になっているとする(絶望)
現代だとガッツリ風営法に反してるんですが、そこは咲の世界ということで
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エイスリン先生と接待
大天使に罵倒してもらうにはこうするしかなかった
反省している
麻雀といえば、色々縛りがあったりローカル役があったりと、場所によってルールが違うものだろう。よく聞くのは、後付けはありかどうか。赤は入れないか、入れるとしても何枚か。重ね役満はありか。おおよそ考慮すべきはその辺だろうか。細かい話かもしれないが、これを無視してしまうと無用な諍いが発生してしまう。
今や世界的な競技である麻雀にはそれを防ぐ為に、世界共通のルールがある。あるらしい。まじですか。
オカありで25000点開始の30000点返し。ウマはなし。祝儀と焼き鳥もなし。アリアリで一発はあり。
満貫の切り上げは無しで、チートイは25符2飜。
ドラは赤、裏、槓、槓裏すべてあり。槓ドラは暗槓のみ即めくり。赤は4枚。
他にも符計算や、役の成立、リーチ供託とか色々あるが、ここら辺は普遍的なものだろう。だいたいそんな物だ。
後、よく分からない変な仕様として大明槓の責任払いもある。誰もこんなもの狙ってやる筈も無いのに何故存在するのか、これが分からない。
「留学生ちゃんにルールの説明しといたぞ」
難解な制約を、端的に、それでいて要点を逃さず。そんな感じなのだろうか。
世界共通のルールが既に明文化されているとはいえ言葉で示すのは大変難しそうなのに、おっさんのうちの一人がとても英語が堪能だったらしく、難なく説明をし終えてしまった。
このルールはここの雀荘のルールとは少々違うが、まあそれはこちら側で何とかなるだろう。
「上司の奴が煩くてさ、毎回ト○ックの試験受けてるけど、いつも点数100点付近なんだよね」
「完全に金の無駄遣いだな。全く勉強して無い俺でも500点付近は行けるぞ」
「どうやったら英語話せる様になるんだ? この歳になると頭が凝り固まって叶わん」
「もう諦めた方がいいかもしれんな」
卓を通して向かい合いながら駄弁っているおっさん達を他所に、牌を卓の底へ流し込む。じゃらじゃらと愉快な音が鳴ったと思えば、すぐに13枚の配牌が底から上がってくる。
当然の如く理牌はする必要はあるが、やはり総合的な準備時間は全自動配牌だと早い。ストレートで半荘が終わったとしても、従来機よりも約5分程度短縮が見込める。卓の料金は基本的に時間制なので打ちに来た人間誰しもが、より多くの回数を打ちたくなるというものだ。
対面に座ったエイスリン先生を見やる。彼女は配牌を恐る恐る囲い込む様にして表に返したと思えば、休む間もなく底より這い上がってきた牌山にびくりとしていた。とても初々しい。
「...!」
抱き込んだ牌を眺めている彼女は何も言葉を発しない。ただその手は機械的に、それでいて表情は情緒的に。いまや完全にその世界へと入り込んでしまっている。
さて、そろそろこちらも理牌しますか。
◇
東1局 ドラ{④}
北家 配牌
{二二五六七七八九九⑦58中}
席は北家となった。
配牌は……ドラは無いものの、かなり良い手が狙えそうだ。伸びとか以前に萬子の形が中々に素晴らしい。染め手で決め打ちすればほぼほぼ跳ねるし、入り次第では倍満も普通に行ける手だ。たとえ萬子が入らなくても、鳴いて手を進めれば良い。
なんだこの配牌、最高かな。
「
来たる未来に想いを馳せながら第一ツモを心待ちにしていると、何やら対面に座るエイスリン先生がこちらを一瞥し、悩ましげな声を出した。
いけないいけない。無表情を努めていた筈なのだが、もしかして顔に出ていたのだろうか。これでは良い手が入ってると言ってる様なものだ。次からはよりポーカーフェイスでいかねばなるまいな。
「...」
エイスリン先生は緊張しているのか、かなりの間長考すると親指と人差し指のみを使って牌を掴み、そのまま
続く西家のおっさんも、手出しのオタ風を外切りで河へと放った。
自家 手牌
{二二五六七七八九九⑦58中} ツモ{3}
最初のツモ番。入ってきたのは重ならない牌。
まあ、そんな簡単には引けないか。とりあえず、形になるまで待つとしよう。
打{8}
東1局6巡目
自家 手牌
{一二二五六七七八八九九九⑦} ツモ{四}
一転して早い順目で完成形に近付いてきた。受け入れの数も中々に多い良手。
こんなにも素晴らしい良形を早期で形作れるのは久方ぶりだ。
当然、{⑦}をノータイムで切り出す。
東1局7巡目
他家は特に動きも無く、そのままツモ番が回ってきた。
自家 手牌
{一二二四五六七七八八九九九} ツモ{二}
持ってきた牌を視認して、思わず震える。なんだこの手牌は、最高かな……?
およそ自分が描いた
役こそチンイツが確定するのみだが、待ちはかなり広い。三萬ならば役が増える可能性も一応有ったが、それは流石に高望みし過ぎか。
このツモは恐らく、枚数が最大の待ちになる。今日はコレ、和了っても良いんですよね。
……
……本当に良いんだろうか。
少し逡巡して場を捉え直す。
明け透けに言えばもろ舐めプなのだが、麻雀が娯楽として蔓延るこの世界には、接待麻雀という概念がある。その名の通り、対戦相手を接待する麻雀だ。放棄をしない程に静やかに勝ち、負ける時は派手に負ける。それによって相手をヨイショするという概念である。麻雀をする者はよほど気がおかしく無い限り、誰しもが一着になって気持ちよく勝ちたいと思っているものだ。
熱しやすく冷めやすい──まるで薄い鉄を表した様な言葉は、初心者を表す言葉としても最適である。その中でも一番形容し易いのは格ゲーの初心者辺りか。
例えば、コンボも知らない始めたての者を中級者がボコボコにしたら、果たしてもう一度立ち上がって挑んでくるだろうか。考えなくとも答えは簡単に導き出されてしまう。もしそんな事をすれば、一瞬で熱が冷め、何処かへ去ってしまうだろう。麻雀だって同じ話だ。酷く打ちのめしてしまえば、続く物も続かないかもしれない。
若輩者ながら雀荘の店番を任されている時がある自分は、往々にしてメンツの補充役となり客の相手をする事がある。過去に子(自分よりも年下)を連れてきたお客さんに一緒に打ってくれと頼まれた時に、確かその時は何も考えずにボコボコにしたのだったか、ガチ泣きした子を諫めるのに奔走したその夜、決して勝つだけでは成せない麻雀の概念を父からとくと教えられたものだった。
父曰く、客のリピート率(麻雀という家に対する帰巣性や単純な来店率も含む)を上げてもらう為に初心者の相手を頼まれた時は程よく手を抜かなければならないらしい。ホームステイしているエイスリン先生は厳密に言うと客という枠組みには入らないのだが、同じ様なものだろう。彼女は、初心者だ。
不誠実かもしれないが、理想とは違い、時にはこすい手段が後になって実を結ぶ事もある。
何事も実直に成せる訳ではないのだ。
対面に居るエイスリン先生を見やる。
「
最初に眉をひそめていた時とは一転して、るんるんと鼻歌を歌うまでにニコニコしていた。彼女の心行きを体現しているのだろうか、愛用品であろう耳に挟んでいるホワイトボードの赤ペンが、彼女と一緒になって揺れている。
そんな彼女を見ていると、目が合った。
「
企みを知らずか、彼女は花が咲き誇った様な微笑みをこちらに返してきた。それは何も知らない、無垢な瞳を含んでいた。
非常に気まずい。今しがた遂行しようと企てている行為が、有ってはならないとても邪悪な念だと思わされてしまう。いや、その通りなんだけれども。
罪悪感から逃れる様にして視線を下に逸らす。
すると、河が見えた。
河。エイスリン先生が切った捨て牌の纏まりである。
河:エイスリン
{西北2発9白}
{1}※めっちゃきたない
──なんだこれ。
自分の手牌ばっかり目が行ってあまり意識していなかったが、捨て牌の角度がぐちゃぐちゃで河めっちゃ汚いな。どうなってんだこれ。どうにかして整列させたい。確かに河を整理しない人はそこそこ居るが、限度という物がある。見てられん。立場上、河が汚いのは滅茶苦茶気になるのだ。行こう。我慢ならん。早くこの局を終わらせて上手に並べて貰わねば。なんか手加減云々どうでも良くなってきた。余りに河が汚過ぎて。
前言撤回。
リーチせずには居られないな。
「リーチ」
自家 手牌
{二二二四五六七七八八九九九} リーチ{横一}
手出しの{一}を曲げながら河へ切り込む。5種{三六七八九}待ちの変則多面張。
河は萬子が非常に高いので出和了りは期待出来ないが、それはダマでも同じこと。欲しい所がガッツリ入って来たので早めに字牌を切り出したが、テンパイ後に少々長考したせいで恐らく上家と下家にはチンイツを張っているとバレている。ならばリーチを控えても変わらない。
ツモのみとすると、これで倍満確定だ。
宣言を有効にする為、箱を開けてリー棒を取り出した──
「
途端に軽やかな発声が聞こえてくる。語尾を少し早めに切り上げている独特な発音だった。
場所は座った先にある、トイメンから。
え?
南家 エイスリン 手牌 ドラ{④}
{二三④⑤⑥⑧⑧赤556677} ロン{一}
エイスリン先生は満面の笑みもといドヤ顔で牌を倒した。
すると何故かずっと首に掛けていたホワイトボードと、耳に挟んだままだったペンを手に取り、何やらすらすらとボード上に書き始める。
あれ、点数申告は……?
【 7,700 】
そして、こちらへ掲げた。
ピンフイーペーコードラドラで7700。これをヤミテンで隠し持っていたのか。しかも早い。こんなん分からんわ。高めでタンヤオも付くしリーチして跳ねるのを狙ってもいい手だが、チンイツを警戒したのだろうか。
綺麗な手役だ。そして綺麗な数字だ。数字ってやっぱり三ケタで区切るんだね。
いやいや、わざわざ書かなくても分かるぞ。
「
そう考えれば、エイスリン先生は心を見透かしたかの様な蒼の瞳を返してくる。
……もしかして、英語で言う7700の点数申告が聞き取れないと思ったのだろうか。
さ、流石にそれぐらい分かるし。初歩中の初歩だから、いかなる状況でもちゃんと聞き取れるし……。
……いや強がったかもしれない。正直、本場の積棒が加算されたら聞き取れない可能性がある。1000点の三本場は1900みたいなのを英語で言われたら確実に硬直するだろう。いや、それ以前に単発でも普通に聞き取れないかもしれない。
英語が苦手なのを考慮してくれたのですか。
エイスリン先生は優しいのですね……。
涙が出ますよ。
「おっ、ありがたいねえ。おじさん、英語苦手だから書いてくれると助かるなあ」
「英語苦手でも点数計算は可能だろ」
「最近、老眼が出始めてね……すぐに手役を把握するのは苦手になっちゃった」
「分からんでもない」
雑談を始めたおっさん達を横目に、はよ点棒よこせとエイスリン先生は微笑みをこちらへ飛ばしてくる。
はい……。
最近の自動卓ではパネル式で点の受け渡しを行える物もあるが、この雀荘では現物を使う事にしている。よく分からない拘りだと言われるかもしれないが、そういうものである。
「どうぞ……」
「...♪」
なけなしの赤いのを一本渡すとエイスリン先生は点棒を見て少し考え込んだ後、青いのを二本と白いのを三本こちらへ渡してきた。2300バック。
7700は払い方に諸説あります。これがあるから満貫の切り上げ採用が検討されるんだよね。ちなみに上家と下家のおっさん達はさも当然かの様に10200を渡して、2500を要求してくる時がある。舐めてるな。
……少し頭を冷やす。
……あれ? そういえば、エイスリン先生の一連の行動がほぼ経験者の動きなんですがそれは……。
もしかして、彼女って初心者では無い……?
どういう事なの……。
と、とりあえず、これは本気を出さねばなるまいな……。
「お前さあ、もしかして留学生ちゃんを接待するつもりだったの?」
そんな決意を抱くやいなや、卓から外れ全員の牌姿を眺めていたおっさんがこちらへ尋問してきた。このおっさんは英語を使ってエイスリン先生へルールの説明をしたおっさんである。常連さんなので、勿論名前は知っているが──何となく呼ぶのが癪なので、英語つよつよおっさんとニックネームを付けて呼ぶ事にする。
「そ、そんな事は──」
「表情に出てたぞ」
英語つよつよおっさんは、歳の割には良く動く表情筋を存分に扱いながら、ニタニタとこちらへ笑いかけてくる。歳の差はあれどそこそこ長い付き合いだから、やっぱりバレるものはバレるんですね。でも、中年のおっさんの笑みなんか好き好んで見たくはないぞ。
「接待するつもりだったが、予想以上に強くて焦ってるという訳か」
「そ、その様な事は……」
「時と場所と、ついでに人を考えろよ」
「未遂だから……」
「でも一度は考えたんだろ……? それってかなり失礼だぞ?」
未だ和了の余韻があるのか、僅かに嬉し気な面構えを見せるエイスリン先生を、ちらりと横目で見やる。よし、こっちにはバレてないな。日本語が分かってたら恐らくこの会話も聞こえていただろう、間違いなく大変な事になっていた。
「俺は曲がった事が嫌いでね……」
チッチッチッと指を左右に振るジェスチャーを英語つよつよおっさんはした。それはまるで赤子を諭す様な物言いだ。おい、何が曲がった事が嫌いだ。日頃の行いを棚に上げやがって。曲がった事が嫌いなヤツは賭け麻雀なんかやらないぞ。
「まあ何が言いたいかといえばな……ふっ。──
英語つよつよおっさんは会話の最中で、途端に使用言語を英語へと転化させた。ゴナテル……? ゴナテルってなんだ?
もう英語使うのはエイスリン先生だけで良いよ。
……なんか嫌な予感がしますね。
戦々恐々としていると、バイリンガル英語つよつよおっさんはエイスリン先生の元へ行き、何かを彼女へ耳打ちした。何故かこちらを指差しながら──
お、おい。人を指差しちゃいけないって昔習わなかったのか……。
話を聞いたエイスリン先生は何やらぽかんとしていた様子だったが、次第に口角が下がり始め、ついには何もかもを氷尽くしてしまう様な絶対零度の面持ちとなってしまう。
「
「
「
「
「
話していたエイスリン先生がこちらへ向き直る。油が切れた蝶番の様に、こちらもギギギと彼女へ向かい直った。
「
顔を下に降ろして少し肩を震わせたと思えば、彼女は先程とは一転、にこにこと笑う様になった。
「
表情は笑っている。しかし、目が笑っていない。
ちょっ……もしかして本当に彼女にバラしたのだろうか……!?
いやいや、確かに手加減しようかなとは思ったけど、一瞬だから! 一瞬の事だから!
「
しかし、そんな心行きは彼女には伝わらない。いや、伝えられない。
今、この時以上に己の英語力の無さを恨んだ事は無いだろう。
語気を強めて言の葉を紡ぐエイスリン先生。牌を暗い闇の底へ落とし入れた後、彼女は賽を振る。
まだ東1局が終わったばかり。麻雀は続いているのだ。
「
次は彼女の親番である。
蛇に睨まれた様な気がして、思わず震えた。
エイスリンちゃんの能力とかあれこれ
・配牌から理想の牌譜を描き出す能力(卓上全員)
全員の配牌、最終形が見える
聞くととても強そうだが悲しいかな、誰かの牌が鳴かれるだけで効果が無くなってしまう(再発動は一応可能)
また、ここで言う理想とは本人の経験に裏打ちされた意向が強く、鳴かれずともエイスリンちゃんが考える理想から外れた打ち方をされるだけで止まる
三色信者と七対子信者が最大の敵
怜ちゃんに少し近いが、最終形が見えるだけで次に来る牌が確定してる訳ではないので、リーチ一発ツモみたいなのはできない
なぜか原作のエイスリンちゃんにはリーチ描写が全く無い
ダマが好きな女の子の影響か、先負のオカルトを持つ女の子のせいか、それとも……
ここではリーチしない彼女のスタイルを反映しております
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謝罪会見
接待という概念は人々の社会生活において深く根付いている。糊の効いたスーツを身に纏い、毎日を細長い電車の押しくら饅頭に費やす都会のリーマン達は、取引先の相手だかそれとも直属の上司だか、誰を接待する為なのか詳しい事は彼らの身にならないと分からないが、きっと必須要項として新卒の時に学ぶのだろう。
この世界では麻雀が大衆の娯楽と認識されている。勿論、それは歳を重ねた者達の間でも変わらない。
すっかり白くなった髪を刈り上げにして、まだまだこれからじゃ定年まで働くぞ、と意気込んでいるおじいさんだってだいたい麻雀が好き物と言っているし、ちょっといかつそうなオールバックの隠居さんだって殆ど三度の飯より麻雀が大好物だと言っている。
それ故に麻雀の接待という物は、昼夜を分かたずともそこかしこで行われているらしい。
しかし、国が違えばその接待の概念も変わってくる。
どの様に接待するかどうか、という部分の意味がここ日本と異国では天と地ほどに違うのだ。
それを、すっかり忘れていた。
東2局 親 エイスリン ドラ{五}
10巡目 自家 手牌
{五七八八④⑤⑥⑥⑦⑦⑧23} ツモ{白}
何も重ならない白を引いてきて、手牌を見る。
うーむ、先程とは変わらず一向聴だが、やはりドラ周りの扱いが辛い。白を切れば役牌は河で暗刻になるし、もう店仕舞いしろという事なのだろうか。その判断までにちょっと引っ張りすぎてしまった。上手く入ればピンフとタンヤオ、もしくはイーペーコーが付くが、薄いか。
対面 河:エイスリン
{中中98東七}
{6発3⑥}
エイスリン先生は手出しから{3}を切れば、後の{⑥}はツモ切りである。
真ん中が出始めてるが、張ってるのかな……。
牌をぐるぐる頭の中で回していれば、彼女はこっちをキッと睨んできていた。はよ切れという事だろうか。
これ程までに怒っている原因は、自分が接待麻雀という手抜きプレイをやろうとしたからに違いない。
現実と意識の差を測る様にして頭を巡らせれば、どこかで聞いた事がある逸話が思い浮かんで来た。英語圏の人物名は、基本的に日本で言う姓であるファミリーネームが後ろの方に来る。これは日本と違い、集団としての能力よりも個としての能力を重要視しているからだとか、それらしい理由だが出処が分からない──そんな話が、脳内に。これが本当の事だと思えば、接待に対する国の認識の違いも何となく分かるというものだ。
異国での接待麻雀とは日本とは違い、ヨイショなんて考慮されない真剣勝負なのだろう。
それは、対局者全員がお互いをそれぞれ個として尊重しているからこそ成り立つものだ──
そんな環境の中で産まれ生きてきたエイスリン先生が接待なんて概念を正面から食らえば、そりゃ烈火の如く怒るよね。それが未遂だったとは言え、試みようとしたのは確かなんだから、当然だ。ある程度土壌が出来上がっている日本では、たとえ接待がバレてもこれ程までには怒られない。
つまり、自分の不徳の致すところです……というワケである。
とりあえず少しオリ気味に回し打ちをする。対面のエイスリン先生の捨て牌は正直かなり怖い。
河:エイスリン
{中中98東七}
{6発3⑥}
初めから{中}をツモ切りでは無く、手出しから対子落としをしている。つまりは配牌から既に対子が揃っていたか、もしくは引いてきた{中}を入れ替えたか。どちらにせよ、彼女の手牌には対子が揃っていた時が存在する。親ならば鳴いて早上がりを目指してもいいだろうに、あえてそれを拒否しているのだ。となると、早々に決め打ちできる牌姿だったか。現状の役無しドラ1手では押し辛い。
そうやって手牌を伏せた様な気分になれば、音も無く順が巡り、牌が彼女の手に取られる。
そして。
「
11巡目 東家 エイスリン 手牌 ドラ{五}
{三四②③④⑥⑦⑧234北北} ツモ{赤五}
エイスリン先生が和了った。
「
流暢なオールが耳を心地良いほどに揺さぶる。
赤ドラの{赤五}をツモってきて20符4翻の和了。三色が狙えた手で安目を引いたが、赤ドラで同じ4翻まで持ち直した。
う~ん、一体どうなっているんだこれ……。
赤ドラが付かない普通の{五}を引いていたら1300オール、半分の点数になってしまっていた筈なのに、どういうワケかこの手でリーチをしていない。7700を出和了りしたとはいえ、トップを確信するには心許ない点数なのに。{中}を対子落としにして早上がりを蹴ってるのにも関わらず、リーチをして高い点を狙わない。何もかもが、ちぐはぐだ。
分かんね~。全てが分かんね~。
「
エイスリン先生が場に積み棒を出した。
ま、まだ勝負はこれからだし……。
◇
あの後、何とかエイスリン先生の親は流れたが──
「
逆転する事はできず普通に負けた。
いや……普通にというのは少し違うか。オーラスまでいかずに勝負がついたと表すのが正しいだろう。
端的に言えば、トんだのだ。
あれから振り込む事は無かったものの、親被りツモの大きな痛手から逆転の為の布石だったリーチ供託まで、点に係わる物全てをもってしてじわじわと甚振られ、遂には箱割れとなってしまった。
エイスリン先生、やりたい放題じゃないか……。たった1ゲームとはいえ、彼女の和了率は大変な事になっている。
一度も鳴く事はせず、じっくりと面前で手を作りながら、それでいて圧倒的な聴牌速度を誇るにも関わらず、リーチをせずにヤミテンを選ぶ狡猾さ。それが彼女の麻雀だった。
……いや、どうなってんだこれ。
カタカタと小さく震えながら点箱を開け、黒の棒を取り出して清算を終えれば半荘戦は終わった。
「お、星川さんのガキが打ってんじゃん。……って、ハコってるw」
「この女の子誰なんだ? 一見さんか?」
「こりゃまた酷い点差だな」
席で縮こまっていると、後ろから声がした。動かすのが億劫になるほど重い頭を何とかしてそちらへ向ければ、新たな客が来ていた。
日曜日なので普段よりも来客は多く、店に来るのが開店前に訪れた常連さんだけとは限らない。昼から時間も経っていたのだろう。時計の長針が上り始める頃にはそこそこの人数がいつの間にか入店していた。
主に客達の視線はエイスリン先生と、無様な点数を晒している自分へ向かっている。
み、見世物じゃないぞ……。
「へこむわ……」
寒天ゼリーの様にぷるぷると震えながら羞恥の念に打ちひしがれている。
それが今の自分の状況である。
他の地方の言葉ではメゲる、だったか。その地方から転勤してきたお客さんがこの雀荘によく来ている。確か、高打点へ放銃する度にその言葉をよく言っていたか。
メゲるわ……。
「強かったなあエイスリンちゃん」
ぐったりと席の背もたれに大きく寄りかかる自分の様子を見るやいなや、一部始終を観戦していた英語つよつよおっさんが煽りにやって来る。
「くっ……笑いたいなら笑え……」
「それは後にするからいいぞ。それよりも、今ならいけるんじゃないか?」
「いけるって何が……」
後ろにもたれた首を戻せば、綺麗なタンピン三色が揃えられた牌を手前に、少し考え込んでいるエイスリン先生が視界に入った。
「エイスリンちゃんに謝って来いよ」
おっさんはこちらを諫める様に言ってきた。誰がチクったお陰でこんな事になっていると思ってるんですかねえ……。
……それにしても、何か少しだけエイスリン先生の事で気がかりがある。彼女が接待麻雀を好ましく思っていない事──大嫌いであるとはこの半荘でよく理解できた。だが、よくよく考えてみればそれらの行為は実際には未遂である。東一局から自分がハコった南二局まで一度も手加減はしていない。少なくとも自分の中の認識ではそうである。ずっと本気で打ってきた。しかし、それにしては彼女は怒り過ぎだ。もしかして何か、とんでもない行き違いがあるのでは無いだろうか……?
そうやって思案を巡らせれば、何か思いついてしまった。
「……もしかしてだけど、接待を試みていたという話だけが伝わって、実際には未遂だったって事が伝わっていないのでは……?」
そんな取り留めもない推論をなんとなく口にした。自信は無かったので声高には言わず、聴衆は近くに居る人達だけに留めておいた。
だが、そんな呟きを聞くやいなや、英語つよつよおじさんは何やら硬直してしまった。
「……あっ、やべ。しまった」
「しまったって、この……このっ、おっさんめ……」
そして、目に見えて狼狽え始めた。何か悪い行き違いが現実に起こっていると、手に取る様に分かった。
こ、こいつ……報連相がなってねえ……。余りにも重要な部分が言葉足らず過ぎる……。
そんなんだから度々休日出勤させられるんだよ。今日は流石に違うみたいだけど。いや、関係無いけどね……。
全く、何がつよつよなんだ。称号は剥奪である。
「という事は、今エイスリンちゃんは誤解したままですねえ……」
おっさんは今のこの場の状況を推察し、結論を導き出した。あーもう、おっさんの所為で滅茶苦茶だ。凄く面倒くさい状況になっているじゃないか。
どこか誰もいない所で咽び泣きたい気分である。
「何してくれてんのよ……」
「あーすまん……ここまで事が大きくなるとは思わなかったんだ。ちょっとエイスリンちゃんを揶揄うつもりだけで……」
ああ、もう。こうなってしまったら、とりあえずエイスリン先生に誠心誠意謝っとくしかないだろう……。本当はおっさんにさせたいけど、一応自分にも負い目はあるし当事者でもあるのだから、こっちから謝った方がいいに違いない。
一体いつまで彼女がこの星川家にホームステイするのかは知らないが、このまま安息の場所である実家が、ずっと気詰まりな雰囲気で埋め尽くすされるのは勘弁願いたい。
そうと決まれば、すぐやろう。
「おっさん、謝罪する時の英会話を教えてくれ。アイム・ソーリーみたいなのじゃなくて、状況を説明する様なヤツで頼む。してくれないと出禁にするぞ」
「すまんな……」
白シャツのポケットからペンを出したおっさんは置かれていた点数表を勝手に拝借すると、白無地になっている裏に文字を書き始めた。しばし時がたった後、おっさんからメモが渡される。カタカナの小書き文字を含む、英会話文がそこには書かれていた。あくまで定型文でしか無いのだろうが、咄嗟の準備としては上出来である。日本語の補足説明文が所々書かれているので、形だけなら割となんとかなりそうだ。発音の抑揚だけが心配だが、そこはもうご愛嬌としか言いようが無い。
よし行くか。
己の意の中で決意し、ずかずかとカンペを持って歩きながら、何故か気まずそうにしているエイスリン先生のもとへ行く。
「...?!」
何やら驚いている様子だったが、気にしない。
彼女の前に立ち、深呼吸をする。そして両手を膝頭の上のところまで下げ、思い切り上体を45度分傾けながら付随してきた頭を地面の方へ降ろした。
食品偽装やら不正献金やらで問題になって、たくさんの記者のマイクの前で謝罪会見をしている弱き者達の姿が脳内に思い浮かぶ。テレビという会話発生装置によって日常の中の一部として描かれるその歌劇は、毎日の食の団欒を楽しむ中で自分に確かな経験の糧を与えてくれたのだ。主に謝罪のやり方の経験を。
果たして彼らが誠心誠意だったかどうかは預かり知らぬ事だが、日々研鑽してきたのだろう、謝罪の仕草だけはとても美しかった。彼らの様などこに出しても恥ずかしい大人だけには是非成りたくないなと、ご飯を口の中に放り込みながら日々痛感していたものである。
彼らの巧みなる技術は場所は違えど、確かに今、ここへと受け継がれた。
足先に目線を合わせた後、ひと呼吸おいて静かに頭を上げる。これが謝罪の意をボディランゲージで表した時の一連の流れである。
反応は、どうだろうか。
顔色を確かめる為に、頭を表へ上げる──
謝罪相手であるエイスリン先生はドン引きしていた。
ついでに周りの観客達もドン引きしている。
ええ、なんで……?
「何か喋れ……謝罪するつもりなんだろうけど、何も喋って無いぞ……」
予想していたものよりも遥かに悪い反応に困惑していると、すぐに横から助け舟が出される。
しまった、緊張しすぎて忘れていた。
「え、えっと……
カンペを読みながら何とか英単語を紡ぎ出す。今の自分は英語を喋っているのでは無く、予め用意された半角のカタカナを喋っている様なものだ。
「
「
「
「
「
英会話の雨あられはやめてください……。ええい、なんて言ってるか分からん。
しかし、続けなければ……。
「
会話文の最初を接続詞で紡ぎ、後に続く言葉を濁しながら考えるのは事を先延ばしにする悪い癖だ。しかしそうも言っていられない。細かな返答が返せない以上、会話のキャッチボールは成り立っていないのだ。バッティングセンターに置いてあるピッチングマシンの様に、機械的に他者に英語を投げつけているだけである。打ったボールがこっちに飛んでくればぶっ壊れてしまいます。
ええと、この次はどうすればいいのだろうか……。
助けを求める様にして急いで目を下に流せば、なんとカンペはもう既に最後に近いまでになっていた。もうちょっと書いてくれよと愚痴を小さく吐き捨てながら、焦りの気を紛らわす様にして下へ読み進める。
すると、一番下の方に何か文字を見つけた。
【最上級の謝罪文(最終手段)】
そう、小さく書かれていた。
一目見て──あっ、これしか無いなと想った。
書かれているカナをそれらしい発音で、何とか頑張って繋げ合わせる──
「
「
どんな意味なのかは分からない。しかし、かなり効果は大きいに違いない。なんてったって最上級なのだから。
そんな最上級の謝罪文を言葉に起こせば、エイスリン先生は少し考え込む様な動きを見せた。
「
どうだ、いけるか……?
頼む、行ってくれ……!
「
その言葉を皮切りに、朗らかに咲誇る花々の様な会心の笑みをその頬に存分に浮かべながら──
「
エイスリン先生はそう言った。
「
初めて出会った時の様に少しにやにやとしながら。
相変わらず聴き取りは苦手なままで、全部を把握するのは不可能だったが、最後の言葉だけは何となく意味が分かった。
それが答えならば、望むところである。
もしかして一人称じゃ、闘牌描写が難しいのでは……
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もう一回
とは言ったものの。
「
東1局 南家 エイスリン ドラ{西}
{一一①②③④赤⑤⑥⑦⑧⑨88} ツモ{一}
「
【 2,000/3,900 】
あれからすぐに第二回戦が始まった。面子はそのままで、観客が少し増えたぐらいだ。
親被りです。先制でエイスリン先生に一通ツモドラ1を上がられてしまった。なんか語感が少々いいな。
……って、そうじゃなくて。
「やるじゃないか~」
「やっぱ強いね。留学生ちゃんは」
「こりゃびっくりしたよ」
点棒を各々から回収し、口角を上げて満足げな表情をするエイスリン先生をちらりと横目で見る。
やはり、これらは偶然ではないのだろう。
雀荘の店番をしながら、足りない面子の補充役として度々お客さんの相手をしてきた自分には、この現象が何なのかおおよそ見当が付く。
オカルト。
その現象を言葉で表せば、この横文字四つで示す事が出来るだろう。それは特定の人物との対局において、しばしば発生していた怪現象だった。
奇々怪々な者達が引き起こす怪現象。
それは例えば──
自家以外の風牌を下家からツモ順に鳴けば、以後の局で配牌に風牌がたくさん来て、かつ無駄ヅモが殆ど無くなるだとか。
1と3や7と9の様に片側に幺九牌を含む形を作り、その間に挟まる牌を上がり牌として嵌張待ちすれば、ほぼ確実に上がれてしまうオカルトだったり。
こんなオカルトを持った人がこの地には居るのだ。今は観客の中には混ざっていないが、実際にお客さんとしてこの雀荘に来ていた事はある。彼らが引き起こす怪現象を、初見では中々の偶然ですねとしか思わなかったが、何度もやられたら流石に偶然の産物では無いと認めざるを得なかった。
この世界には、理かの様に存在するそのオカルトを、己の軸としながら麻雀を打っている人が少なからず居るのだ。この現象は絵空事などでは無く、実際に存在する物として周知されている。勿論そんなオカルト有り得ませんと、地動説の異端審問の様に否定する者もいるが。
エイスリン先生は恐らく、このオカルトに近しい物を保有していると考えられる。それかオカルトそのものか。だとしたら、対策せねば容易に屠られてしまうだろう。上記の奴らは対策がとても簡単だったが、エイスリン先生はかなり難しそうに見える。
そもそも、彼女のオカルトがどんな物かも分からない。
今聞いても当然の事ながら教えてくれないのは確かなので、これまでの対局……つまり彼女の打ち筋から把握しないといけないだろう。
とりあえず、エイスリン先生の麻雀の特徴を列挙すると──
・やたらと聴牌速度が早い。
・鳴かない。門前思考である。
・未来が見えている様な打牌をする。
・リーチを全くしない。対局中はとても静かである。
こんな所だろうか。聴牌速度が早いのは、どちらかというと状況を表しているだけなので考察しようが無い。
となると、次の鳴かないという特徴に目を付ける事になるだろう。彼女は副露をしない。勿論鳴くという行為は基本的には打点を犠牲にして速さを得るものであり、あまり好んでしないという人は多いかもしれない。だがそれは、やりたがらないというだけの話である。親番で連荘をしなければいけない時、十分に狙える時はしっかりと鳴きを見極めて入れるのが普通だろう。しかし、エイスリン先生は全くと言って良いほど鳴かない。現に対局中で和了時以外に彼女の声を聞いた事は無い。前の対局で親なのにも関わらず、役牌を対子落とししているのも何か変な話だ。
そして未来が見えている様な打牌。これはかなり厄介だ。まるで先のツモが分かっている様な打ち方をしてくる。それでいて、普通のツモ運も平均的に見ればそこそこ良い。麻雀というのは運が一定数左右するゲーム。流局するまでに確実に聴牌出来るとは限らない。たとえツモ牌が全て見えていたとしても上がれない局だってある筈だ。しかし彼女はそれが無い。だいたい捨て牌の三段目までには手が完成する。してしまう。全く、困ったものだ。
最後にリーチを全くしないという事。これは正直、一番意味不明だ。点数が飛躍的に上昇する場面でも点棒を供託しない。リーチをしない。本当に意味不明だ。ダマに取るメリットも無い状況が多いのに、頑なにリーチをしない。リーチをするだけで一飜が確定し、ツモと一発、裏ドラで更に打点が上昇する可能性もあるのに、それでもしない。
意趣返しで舐めプしてるのかなと一瞬思ってしまったが、エイスリン先生の怒り様からそれは流石に無いだろうとは感じている。だとしたら、オカルト能力の制約の一部だろうか。
結論。
さっぱり分からん。
東2局 親 エイスリン ドラ{④}
自家 北家 手牌
{一三四七③④赤⑤2358北西} ツモ{6}
配牌は三向聴。ドラも二つあるし、かなり良い形になっている。字牌を整理しながら、適当に三色に向かう手牌なのだろうが……。
逆転の布石にするには、まだ全体的な情報が足りない。この手牌を捨ててでも、確かめたい事が一つ、ある。
打{3}
おっと。間違えて{3}を切ってしまった。これはいけませんね。
三色を捨てるトチ狂った暴牌。ネット麻雀の操作ミスでも無ければ誰だってこんな打牌はしないだろう。後ろから観戦しているおっさん達はマナーとして声こそは上げないものの、余りの打牌選択の酷さに引いている事間違いない。この手牌は将来の選択肢がかなり狭められている。誰が打っても、タンヤオドラ2三色辺りが描く最終形になるのではないだろうか。もしくは三色が上がれそうに無い場合、ドラ面子で早上がりか。少なくとも{3}切りは有り得ない。
まあこんな打牌をしても、対局者からは手牌が見えないのだから驚かれはしない。当然、無問題だ。
「
すると、下家に座っていたゆるふわエイスリン先生が疑問の声を紡ぎ出す。
ぽわーいだって。可愛いね。彼女は心情が顔に出やすいタイプである。この場合、言葉でも出てるが。
おい。これ、手牌見えてるだろ。
お客様! ガン牌は辞めてください!
いや……この牌は強化性だから、簡単に傷を付けるのは無理だった。まあそもそも、全手牌をガン牌で完全に識別するなんて、常人が出来る技じゃ無いのは分かっているが。
世の中には麻雀をやる時に火花を出しながら上がり牌を引きヅモしたり、指から稲妻を放電しながらツモってくる人もいるので、出回る麻雀牌の耐久性はかなり強化されている。少なくともこの雀荘で使う牌はそうだ。耐熱、耐衝撃、耐摩耗、靭性、どれをとっても一品物である。特に硬さにおいて、この麻雀牌は優れている。その硬さはどれ位かと言うと、ムキムキマッチョマンが全力でアスファルトに麻雀牌を擦り付けても傷は付かない位には硬い。モース硬度で表せば7ぐらいだろうか。
まあそれはともかく、こちらの手牌が彼女に見えてるのは間違いない。
なんだそれ……嘘やろ……ここまで見えてるのか……。
誰かが協力して通しをやっている、というワケでも無さそうなのでこれがエイスリン先生のオカルトなのだろうか……?
オカルトって一体何なんだ。
数巡目後。
「ツモ! ホンイツ西ドラ1で2000、4000だな!」
5巡目 西家 おっさん 手牌
{114赤5678南南南} {西西横西} ツモ{9}
上家に座っていたおっさん(ト◯ック100点台)が、こちらから{西}を鳴いた後、速攻でホンイツを完成させて早い巡目で上がった。
エイスリン先生ばかりに気を取られていて存在を忘れていた。おっさん居たのか……。形は三面張で中々良い待ちだ。溢れていたら討ち取られていたかもしれない。ホンイツは分かりやすい部類だが、これほど早いと結構怖いものだ。しかしまあ、これで親は流れ、親被りで点も削れた。
牌を伏せ、そのまま山と共に底へ押し込む。
エイスリン先生に勝つにはやはり、早和了りしかないのだろうか。
安和了で東3局と東4局が足早に流され南入。
起家マークである【東】のパネルが【南】へ変わる。
最後の親番がやってきた。
南一局 自家 手牌 ドラ{②}
{一一九②③⑥⑧1359西北} ツモ{④}
さて、どう伸ばしていくか……。
ドラが一つでほぼ役無し。これではリーチをかけないとまともに和了れない。向聴数は悪くないが、早和了りを目指さなければいけない以上、悠長に嵌張が埋まるのを待つ暇はあるのだろうか。風牌はすべてオタ風で、とりあえず鳴いて手を進める、というのも難しい。連荘をして好配牌を待つ、という風には行かずそこそこ辛い。
……しかし、それでも負けるわけにはいかない。格好付けた手前、勝たなくてはならないのだ。
打{西}
7巡目 自家 手牌
{一一②③④⑥⑧134赤556} ツモ{赤⑤}
あの手からここまで成長するとは思わなかった。ドラ3で筒子が三面張を狙える良型の一向聴。文句無しの理想形。聴牌受け入れの牌も6種と非常に多い。手牌から{⑧}を取り出して河へ放つ。
そして次巡。
自家 手牌
{一一②③④赤⑤⑥134赤556} ツモ{3}
来たのはなんて事無い無駄ヅモ。
適当に手牌の{3}と入れ替えて空切りを行う。
すると、下家のエイスリン先生がぴくりと動き、驚いた様な表情でこちらをチラりと見た。
狂った様に三色を捨てた時と違い、これは別に不可思議な選択では無い。
図る事の出来ない彼女の動作に対して何事だろうかと少し考え込む。
「ポン」
すぐに声が上がった。
{3}を捨てると、対面に座るおっさん(ト◯ック500点台)がその牌を鳴いたのだ。
トイトイかホンイツか。まだ一副露目なので確定は出来ないが、とりあえず警戒をしておく。
牌が巡り、再びツモ番がやって来るが特に有効牌も引いて来ず、ツモ切りを行う。
場もすっかり膠着状態な様で、皆が一様にツモ切りを行っていた。
ふと、対面のおっさんがツモ切りした牌が目に留まる。
{4}
これは……本来鳴かれていなければ、自分がツモって来ていた筈の牌だ……。もし{3}を切らなければ、一盃口が完成していた。リーチ平和一盃口ドラ3で出和了りでも確定跳満だったのか。
エイスリン先生はこれを知っていた……?
もし一盃口の為に{4}を受け入れるとしたら、{1}を切る事になる。それでその次に{6}を切って聴牌、という流れになるのだろうか。彼女的には{3}の受け入れの拒否は、完成形が一飜下がってしまう変な選択というワケらしい。
だがそれは牌効率ではちょっと無理がある話だ。{33455}の{4}待ちは辛いし、{一}や{3}をツモれば雀頭が不確定になり平和が消えてしまう。対して{3}をあそこで手牌に入れなければ、どの有効牌を持ってきても平和は確定する。一盃口という一飜の役の為に、既に確定している一飜の平和を崩すのは余りにも本末転倒だ。
まあ……結果論としては得られる飜数は減ってしまったのだが、これは裏目という訳では無い。
あそこで{1}切りはまず有り得ないのだから。
しかしエイスリン先生は、あの打牌について驚いていた。どうしてわざわざ安い方に手を作るのかと言わんばかりの表情をしながら。
なるほど。
やっと、彼女の本質が掴めた様な気がする。
{一一②③④赤⑤⑥134赤556} ツモ{7}
「リーチ」
{西北九9北南}
{⑧八横1}
ツモってきた牌を手牌に収め、牌を横曲げる。
裏スジが当たり牌だが、そこそこ分かり辛い形の聴牌。満貫だけで済ますものではない。
親リーに対して、おっさん達は現物を落として行く。エイスリン先生も鳴く事はしなかった。
「
これは難しい問題だ。この行き違いを明確に示せば、己の中に持つ信念を曲げてしまう事になり得るかもしれない。既に確立されている物に茶々を入れるというのは、彼女の麻雀という概念に大きな揺らぎを与える事になるのだから。その結果良い方向に転ぶか、悪い方向に転ぶか、そんな物は彼女でさえも分からない以上、軽々しく口に出す物では無いのだろう。長らく持ち合わせてきた強み──かどうかは預かり知らぬ事だが、この感覚を頼りに彼女はずっと打ってきたとしたら。きっと、今も、これからも、それは変わらないのかもしれない。
変えてはならない物なのかもしれない。
……それでも、一つの選択肢としてここに別の道を示しておくことにしよう。最終的に決めるのは他の誰でも無い、エイスリン先生自身なのだから。
ふふふ、悩むがいい。
まあ、オカルトとは全く関係の無いだろう、牌の切り方とかは一番に変えて欲しいのだけど……。
巡が廻り、ただ機械的にツモ牌を取りに行く。
そして掴んだ。
「ツモ。メンピンツモ一発ドラ3……裏が一つ乗って、8000オールです」
◇
「やりました」
やりました。
親倍をキメた後、エイスリン先生の猛攻をしのぎ切り、何とか早和了りでリードを守りながら一着で半荘戦を終えた。
「け~っ。やるじゃないか……ラス転落しちまったよ」
「やっぱ、あの倍満痛かったわ。一発裏1とか犯罪だろ」
同卓しているおっさん達が牌を片付けながら負け惜しみを言ってくる。
ふっ、何とでも言いなさい。いくら投げつけようと、勝者は変わらないぞ。
大勢の観衆の中、高い手を和了るのはなんて気持ちが良いものなのだろうか。
う~ん。たまらんね。
「...」
勝利の余韻に浮かされるままに視線を横にずらすと、エイスリン先生の姿が視界に入った。
彼女はオーラスが終わると同時に何やら放心した様になり、一言も喋らなくなってしまった。
彼女は二着でプラス収支なのだが、やはりあの大物手の和了が効いたのだろうか。HAHAHA。自分の勝ちだ。敗者の味をとくとその場で噛み締めてるがいい。
「結構、お客さん来てるな……」
がやがやと声が辺りを囲むのに気が付けば、そこそこの数が来店していた。これは席がすぐに埋まってしまうかもしれない。早く牌を片付けなければ。
まずはここから。
動かなくなってしまったエイスリン先生の前に存在する片付けられずに放置されていた山と、彼女の手牌をとりあえず崩す。すると、何やら彼女の蒼い瞳が少し揺れ動いた様な気がしたが、有無を言わせず自動卓の中へ放り込む。少し申し訳ない気分だったが、回転率を重視する以上仕方のない事だ。対局者が居なくなってしまった以上、この卓は一先ず役目を終えて貰わなければならない。
よし、片付け完了ですね。
では勝つものも勝ったし、自分はこれでお暇させて貰いましょうか。
「
店番に戻ろうと席を外すやいなや、エイスリン先生に腕をがしりと掴まれる。
え、怖い。
「
言わんとする事は分かる。しかし、自分は雀荘の店番だ。
いつまでもお客さんと一緒に打っている暇は無いのだ。帰宅するお客さんからお金を徴収したり、設備の点検なども行わなければならぬ。父さんが何故か居ないので、人手が余りにも足りない。やらなければいけない事は沢山あるのだ。だから、こうしていつまでも麻雀を打っている訳にはいかない。
決してもう一度打てば負けるかもしれないとか、そんな事は考えてはいないのだ。
「
「留学生ちゃんが、お前の事ヘタレだって言ってるぞ」
彼女が何か言えば、おっさんが翻訳してくれた。
ヘ、ヘタレだって……?
許しません。もう一度トップを取って、勝ち越しをせねば。
となると、店番の仕事が出来なくなってしまうが……。そう言えば、適任居たわ。
おっさんに店番を無理矢理押し付け、エイスリン先生ともう一度勝負に望むか。
隣の卓に乗せていた籠から麻雀牌を取り出す。
そして繰り返す様に風牌を四つ握り込み、裏へ返しながら卓上へ乗せた。
「
すると、言葉は通じなくともその意は伝わった。
「おっさん店番頼んだ」
「ええ……良いのかよ……」
「ちょろまかしたら許さんぞ。今日散々迷惑かけたツケだ」
「へいへい……」
観衆の中から適当に面子を集め、再戦する。
相当数……いや、お客さんの殆どがこぞって参加表明をしていた。しかし、席は譲れどもこの卓は譲れない。二人ずつ消化するとなると、結構時間が掛かりそうだ。
どういう訳か知らないが、この頃麻雀が弱いとおっさん達に舐められている気がするので、この機に分からせてやらねばなるまいな。
エイスリン先生共々ボコボコにして差し上げましょう。
「
この後、さんざんエイスリン先生と麻雀を打った。
疲れた。本来の閉店時間のその間際まで打っていた。
一日で使うエネルギーを遥かに超過してしまっている気がする。これはもう夜はグッスリですね。
死ぬほど疲れた。
「
でもまあ、エイスリン先生が喜んでたし良いか……。
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お片付けと店仕舞い
エイスリンちゃんに後々、自分から『特急券だよ~』とスラングで言って貰う為に前話の展開を変えました
雀荘の開店時間が終わりを告げ、鈍い鈴の音が取り敢えず鳴る心配が無くなるであろう頃。
場代の清算を済ませ、お客さんを全て店の外に追い出せば今日の業務は終わりだ。
「久々に楽しませてもらったわ。今日はアタリの日だったか」
「すげえ強かったしな。留学生ちゃんもまた明日相手してくれや~」
「明日は代休だから来ても空いてないぞ」
「そうだった」
「
ずらずらと揃わない足先が音を立て、順番待ちをしている列の間を縫ってくる。今日はついぞ雪が降ることは無かったが、やはり隙間より入ってくる冬風は健在だ。
最後に強く肌を撫でる風が震わせたと思えば、揺れる鈴の音と共に戸は閉じられた。
「やっと出ていったか」
「
さて、お客さんが居なくなったから次は店仕舞いだ。
何故か閉店ギリギリまで多くの人が残っていたから、その分今日は後片付けが大変だ。どうしてでしょうね。
……いやまあ、理由は分かっている。
そこに居る女の子のお陰様である。
エイスリン先生。
ホームステイしにきた留学生の子というだけでも珍しいというのに、麻雀が打ててしかも強いときた。そうなれば、いつもよりも観客が多く最後まで残っていても可笑しくはない。
異国の少女の闘牌に誰もが目を奪われていたのだろう、彼女の周りには人が集っていた。極上の牌姿を次々と描き出すその姿は、きっと誰しもが憧れるものだったに違いない。
まあ、それはともかくとして。
「つ、疲れた……」
「
ぐったりと麻雀卓の上に倒れ伏す。麻雀牌を自動卓から取り出そうとして、へなった。
まさか一日中麻雀を打つことに成るとは思わなかった。もうクタクタである。殆どの局……否、全部か。この雀荘の開店時間内全てで、自分は見に回る事無く麻雀を打ち続けていた。
対面で心配そうにこちらを覗いてくる子と一緒に。
……エイスリン先生も同じ位に打ち続けていた筈なのに、どうしてこんなにも元気なんでしょうかね……。
今日一日だけで飛行機に揺られながらおよそ地球の五分の一を移動した筈なのに、まだまだその表情には疲れは見えない。
ニュージーランドの民は一体どれほど無尽蔵なんだろうか……。
「疲れた……」
「
エイスリン先生の言い回しがちょっと変わった。正直、どれ程の違いがあるか分からないが、心配してくれている事だけは分かる。
ううむ。今日はもう閉店後に掃除とかしているパワーは無いな。取り敢えず、やらなければならない事だけをやっておこう。
自動卓の配牌ボタンをポチりと押して、自動卓の底から麻雀牌を取り出す。
「
そうすれば、エイスリン先生が驚きの念を隠さずにこちらへ向けてきた。
違います。打ちません。
底から出てきた四つの山と四人分の配牌を崩し、鳴いた時の様に隅っこへ集める。横に十七枚集めながら順番に縦に積み上げていけば、綺麗な長方形を描いてくれた。正直、これだけは絶対にやっておかないといけない。
いつの間にか隣に来ていたエイスリン先生は、これから何が起こるのか予想がついていない様だった。その目をまんまるにしている。
ふふ。見ておくがいい、この職人芸を。
牌の裏面を濡れた手拭きで強く拭い、乾いた布巾で空拭きをする。
倒れた牌を壁を使って引き起こし、こちらへ引き込みながらもう一度濡れた手拭きで拭い、空拭きをする。この時、決して一つ足りとも横の連なりを崩してはならない。バラバラの牌を一つの直線と見做して、全てを同期させる。
その後牌を逆側に倒し、牌の表面を開かせる。萬子と筒子、索子に風牌や役牌。様々な柄がお出迎えしてくれた。色取り取りで散らばっていたり、重なっていたり。この17×8の姿は普通の麻雀とは全く仕様が違う、四川省でよく見る形か。表と裏。やる事は変わらない。
また、濡らしては拭くを繰り返す。そして同期させて、側面を磨く。麻雀牌はサイコロと同じく六つの面を持つ六面体。この一連の動作も六回必要になる。
最後に隅に寄せ、下からザルで掬い上げる様にして麻雀牌を囲いで取れば、はいオシマイ。冬場は自動卓に突っ込め無いので、外の籠に入れて終了だ。
何てことはない、いつもの洗牌だったが、今日は観客がいるので少し気持ち早めにやってみた。
どうだろうかこの職人技。余りにも華麗で驚いたか。
「
反応を伺う為にエイスリン先生の方を向けば、彼女は少し嘲笑った様な表情をしていた。
レイト……遅い。遅い……? この自分が……?
「
誰を指しているのかは分からないが、比べられているのは分かった。
遅いって、マジですか。掛かった時間は三分弱なんですが、これでも遅いと申すのか。
世の中には二分かそこらで終わらせてしまう人も居るので、まだまだその域に達していないと言われればそうなのだろうが……。
自動洗浄機のパイスター使わずにやったんだから、褒めてくれても良いじゃないか。
もういい。実家へ帰らせて頂きます。
残りはまあ、父にやって貰うことにしよう。少なくとも、自分よりは早い。
「
店のシャッターを降ろし、暗がりを背に雀荘を後にすれば、エイスリン先生がほてほてと続いてきた。流石に闇の中に締め出される事は無いと分かってるのか、ゆったりとした脚取りで光の先を辿っていた。
中々にずぶといな。
◇
今日はさっさと風呂入って寝よう。そして、素敵な夢を存分に見て朝を迎えるんだ。
そんな風に考えながら炬燵に入る。入っている。
あぁ……あったかい……。
「
対面からあがる声が、その想いと共鳴している。確かにあったかい……。
このままでは思わず寝てしまいそうだ。炬燵で寝たら脱水症状になってしまいかねないのに……眠くて、眠くて堪らない……。
「
そんな姿を目敏く捉えたのか、エイスリン先生がずかずかと炬燵の中に割り込み、こちらを眠りの園から引き離そうと脚で蹴りを入れてくる。
ああいたい。脛を的確に蹴らないでください。おかげで目が覚めました。
「
ようやく時刻は六時半を過ぎたといった所だ。こんなに早くに寝てしまったら深夜辺りに起きる事になるのだろうか。
流石にそこまでグッスリという訳では無いだろうが、夕食を抜くのは不味いかもしれない。
ホームステイ初日から、ステイ先の家族が晩餐に一人欠席とかいかんでしょ。これから先が思いやられますね。
「
エイスリン先生は何やら微笑みながら言っていた。自分のリスニング力は壊滅的なので、気を回していないと英会話は左右の耳を通してすり抜けていくだけだ。正直な所、聞き取れなかった。
そんな様子を見るや、いささか気に障ったのか、彼女はムッとおっかない顔をした。愛用のペンを取り、肌身放さず身につけていたホワイトボードに何やら描き連ねている。慣れた手付きで数分の内に描きあげてしまった彼女は、くるりと画板を回し成果物をこちらに見せてきた。
絵の中には、自動卓を囲み楽しそうに麻雀を打っている人が居た。その中には特徴ある人物が二人、エフェクト付きで雀卓に強打をしていた。よくこの雀荘が強打OKなの分かったな。
絵は文字程に物を言う。ここまでやられたら、流石に言いたい事が察せない自分では無い。
まあ、そのなんだ。感謝は受け取って置こう。
「
そんな想いをどういう訳か言葉も無しに感じ取ったエイスリン先生は、ふんすと鼻息を伴いながらドヤ顔をしてきた。
こ、コイツ……。
イラっとしたが、怒るパワーも残ってなかったのでそのままにしておくことにした。
「
「
「
「
「
夜の席。
普段は使われる事の無い一方が客人で埋まり、食卓は賑やかな物となっていた。
今日の夕食はハンバーグらしい。ハンバーグは確か、ドイツ発祥の肉料理だったか。挽き肉とみじん切りにした野菜を練り混ぜ、パン粉と塩を加えて卵などを下地にしながらフライパンで焼き固めた物である。外国発祥の料理ではあるが、好みや材料で独特な進化を遂げ元のハンバーグステーキとは全く別物になってしまっているらしい。自分は大根おろしにすだちが効いたポン酢をかけるのが好きである。ああ、たまらない。
「
いつの間にか帰ってきて、食卓に着いていた父がこちらへ何か問いかけてくる。
父さん、自分英語分かりません。先程から三人で盛り上がっている所、申し訳ないんですが全くついて行けていません。
「日本語でお願いします」
「すまん」
そう押せば、父は事のあらましを説明してくれた。
どうやら迎えに行った筈の父とエイスリン先生が別々になっていたのは、はぐれてしまったかららしい。空港まで行き出迎えたのは良かったものの、帰路につく途中に土産屋が並ぶ商店街に何故か寄り道し、その買い物ではぐれ、居場所が分からなくなってしまったのだ。それで一人ぼっちになってしまい困ったエイスリン先生は、ステイ先の住所だけは知っていたので、地図アプリに住所を入力してここまで辿り着いたというワケだ。
こういう時はまず一番に連絡を取ることを最優先しなければならないのだろうが、彼女も慣れない異国の地でほとほと困り果てて、思考が回っていなかったのかもしれない。ある程度見回して付き人の姿が無い事に気が付いたエイスリン先生は一人、地図が示す道を辿りながらキャリーバッグを引いてきたのだ。まあずっと外で立っているのは寒いし、その選択は何もおかしな事ではない。
それにしてもよく迷わなかったな……。商店街からこの家まではある程度近いとはいえ、通りにある慣れない田舎道はそこそこ迷う可能性はある。やはりグー◯ルマップは最高という事か。
「彼女と一緒に麻雀を打ってました」
「お、お前……」
何をしていたのか? 麻雀をしていました。
そう伝えれば、父は何か雷にでも打たれたのだろうか、激しく打ち震えた。
「父さんはな、昼からずっと……尋ね人を探していたんだぞ。ホームステイ初日に寄宿人が居なくなってしまったなんて、どれほどの大問題になるか……」
「それは父さんの所為でしょうに」
「そうだった……」
父はエイスリン先生とはぐれてから今に至るまでずっと近辺を探していたのだろう。どこに行ってしまったのか分からず、ずっと。そりゃまあ初日からホームステイする子が居なくなってしまったら大問題だ。焦る気持ちも手に取る様に分かる。
しかし悲しいかな、尋ね人は既に目的地に辿り着いていた。
どちらが先にはぐれたかは推測でしか無いが、恐らく父の方だろう。ノリノリで土産を選ぼうとして夢中になってどこかへ行ってしまう父の姿は家族旅行等で度々見かけている。なんというすれ違いだろうか。
「まあ、自分も麻雀打ってないで、連絡の一つでもしておくべきでした」
そんな事を適当に言いながら会話を受け流す。お腹空いた。
今日の行動をよくよく省みてみれば、知らなかったとはいえ雀荘に連れてきてずっと麻雀させてたし、電話するタイミングを失わせた責は自分にもあるかもしれない。まあ……でも、こういうのは言わない方が良い物だ。我ながら屑である。
せっかく据えられたご飯がこのままでは冷めてしまうかもしれないので、機を見計らって箸を伸ばす。少し押し込む様にして切り離せば、美味しそうな肉汁が溢れ出てきた。それを白く輝く岩手産のお米と共に口へと放り込む。
う~ん。とっても美味しいね。シャキっとしたお米と肉汁が絶妙なハーモニーを奏でている。
「...!」
場をガン無視して美味しさを顔で表していたら、少しバツが悪そうにしながら対面に座っていたエイスリン先生が目を見開いた。まあ当事者だから、お話を無視して食べ進めるという訳にも行かないだろう。しかし鉄は熱い内に打てとある様に、ご飯も温かい内に食べた方が良いのである。物事には時期があり、いつ何時とも好機を逸してはならないのだ。うん、美味しい。
そんな風に箸を勧めていたらエイスリン先生は我慢できなくなったのか、食器を手にとってハンバーグを切り分け始めた。彼女が扱うのはフォークとナイフのカトラリー。昼食の時もそうだったが、国が違えばこういう所でも文化の違いが明確に表れてくるものである。
手前にナイフを引いてフォークでハンバーグを取れば、彼女は口へ食事を運んだ。
「
そうすれば、エイスリン先生は抑え難い喜びを満面の笑みとして一目で分かる程にその頬に浮かべた。
ヤミーと言っている。少し縮めて繋げればヤムヤムである。美味しい物を食べた時はこうやって言うのか。
「ま、まあエイスリンちゃんも喜んでるみたいだから、私達も食べましょうよ~」
「ああ……それもそうだな」
そんな彼女の笑みを皮切りにして、止まっていた食卓は再び進み始めた。
「すまん、折角の食卓の時間を止めてしまって。今回の件の責任は全て父さんにある。この埋め合わせはいつか必ずしよう。ウィッシュアートちゃんが居る内に、必ず」
「そうね。私にも少なからず責任はあるから……。これからもいっぱい、エイスリンちゃんに満足して貰える様なご飯を作るからね?」
父さんと母さんはそうやって強くエイスリン先生に誓っていた。責任感がとても強いことで。
しかし、彼女は日本語はまだ分からない様なのだが大丈夫だろうか。英語で誓わなければいけないのに。
「
さすれば、エイスリン先生がこちらへ疑問の眼差しを飛ばしてきた。
こちらに英語で聞かれても困る。
う~ん、前途多難だ。
何となくハンバーグに添えられていたブロッコリーを口へと運ぶ。
すると、程よい独特の苦味が広がった。
一日が終わらないッ
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おやすみ
さて、困った。
順番の違いはあれど、一日のルーティーンは基本的に決まっている。特に日が降りてからの流れは一年を通してずっと一緒だ。ご飯を食べた後は風呂に入って、その後布団で寝る。何てことはない、シンプルな生活だ。
しかし、ここで問題が発生する。
「
エイスリン先生はそこそこの広さがある我が家のバスタブを、珍しい物を見るかの様にまじまじと観察していた。何故それ程までに珍しがっているかと言えば、深ーい各国のお水事情が関わってくるらしい。父から聞いた。
まず、日本では当たり前の様に水道の蛇口からそのまま飲める水が出てくるが、これは世界的に見てもとても珍しいモノだと言われている。およそ二百種類もある厳しい水質検査により水道の水質基準が守られ、安全な水として各家庭の生活用水や工業用水に用いられているという訳だ。
水道水が安全な国というのは、世界には数える程しか存在しない。だいたい日本を含め15か16ヶ国あたりか。お風呂で使う水は飲まないから関係無いだろうと言われれば確かにそうなのだが、浴びる水にも最低限の水質管理は必要だ。ここである程度の水質基準が求められる。
それで、エイスリン先生の祖国であるニュージーランドはというと……。
なんと日本と同じ様に水道水が直接飲める数少ない国の内の一つである。
えっ、そこは飲めない国だからじゃないんかい、と父から聞いた時は思わずそう返してしまったが、やはりそこにも深ーい各国のお水事情が関わってくるらしい。ここでいう事情とは、安全性よりも温度の話だ。環境の違いとは難しい。
ニュージーランドでの温水は日本の様に赤い蛇口を捻れば自然と出てくる物では無く、予め大きな貯水タンクに貯めていた物を取り出して使うという方式らしい。それ故に、一度に使うことが出来る温水には限りがある。上水道の設備の関係上、上水道そのものに温水を作り出す設備を各家庭に取り付けるのは難しいとか何とか。一家庭に置かれるこの貯水タンクはだいたい150Lくらいだろうか。大きくても200Lいくかいかないかというワケだ。
この貯水タンクに温水を貯める方式は、別にニュージーランドだけで見られる物では無く、アメリカやヨーロッパでもごく一般的に受け入れられている方式らしく、別に珍しい物では無いとのこと。
温かい風呂に全身を深く沈めるとなると、最低でも170L程は温水が必要になるか。これだけでもう貯水タンクの水は無くなってしまう。このため浴槽に温水を張るという行為が忌避され、ニュージーランドの人達は自宅ではシャワーのみを使って身を清めるのが普通らしい。
だからエイスリン先生は、物珍しい物を見るかの様な目で浴室設備一式を見ているのだろう。
まあ、バスタブが普通にある家庭も有るらしいのだが。
こういう家庭に日本人がホームステイしに来て、初日に家主に何も聞かずに温水をたっぷり使ってしまい、ドン引きされるのはよくある失敗談らしい。罠かな?
「
エイスリン先生が何やら呟いた。
温かい春……? 温泉だろうか。
良く聞こえなかったが、まあ恐らく温泉だろう。
その代わりにニュージーランドでは温泉やスパリゾート(サウナや岩盤浴を擁する入浴施設)が多く、キーウィ達はそこに挙って通っているらしい。
日本も相当数温泉がある方なので、こういう所は似ているのだろうか。
ここ岩手で有名な温泉と言えば花巻温泉なのだが、宮守の地からでは少々遠いのが残念な話である。
で、問題は何かというと……。
この風呂を家族共用で使うという事だ。勿論、その中には目の前にいるホームステイしている留学生も含まれる。
エイスリン先生も含まれる。
どうすんのこれ。
「
まあ、先に入って貰う事になるのだろうか。一番風呂というヤツだ。
追い焚きは出来るとはいえ、客人を後にするのも変な話だ。ここはおもてなしの心を表す事にしようか。
「
そう意思決定すれば、エイスリン先生が態とらしくにやにやと笑った。
こ、コイツ……あまりそういうのは考えない様にしていたのに……。
わざわざ馬鹿にする様な態度で接してくるとは、一体何事なのだろうか……。
このままだと決まりが悪いので、さっさと彼女に先に入れと促す。
「
そうすれば、先程とはそのまま。感情を全面に出しながら煽ってくる。翻訳はせずとも流れで分かる。
くっ……誰か覗くか。
「
エイスリン先生は遥々ニュージーランドから持ち込んだ荷物の中から、何やら一つの衣類を取り出した。
見せつけてる様に動かすものだから、自然と目がそちらへゆく。
えっと……この可愛らしいフリフリの布切れは一体何なのでしょうか。
「
水を通す事が考慮された、普段着では無いだろう特徴的な衣服。
ちょっ……
これ、水着じゃないですか……
な、なんてもんコチラへ見せつけて来ているのでしょうかこの人は……!
「
驚愕の念を全面に押し出して答えれば、頭にハテナマークを浮かべた様なエイスリン先生が表れた。
ああ……分かった。何となく聞いた事がある。
外国の人達は温泉の様な公共の場で湯に浸かる時、水着を着用すると。それで、殆どの所で混浴なんだっけ……?
日本で言う市民プールの様な物らしく、そんな場で水着を披露するのはそれほど抵抗がある物では無いらしいとか……。
いや、ここ公共の場じゃないからね。
……でも風呂に浸かる事と温泉に入る事を同義と考えるなら、何もおかしな事じゃ無いのか。
う~ん、難しいものだ。
「
「
環境の違いによって引き起こされる価値観の相違について悩んでいれば、後ろから間延びした母の声が聞こえてくる。
一連の流れをずっと見てたんですね。びっくりしました。
何かエイスリン先生に言ってやってください。
「
そんな願いも通らず、エイスリン先生は水着を持ってすたすたと風呂の手間にある脱衣場に入っていってしまった。
その動きや、至って迅速であった。
何か、どっと疲れた気分である……。
取り敢えず、炬燵まで戻ってゆっくり揺蕩う事にしよう。
「
そんな事を考えながら踵を返せば、扉の中から英会話が聞こえてくる。
誰が覗くか。
◇
今日はもう駄目だ。風呂で一瞬寝かけた。
入浴中に何やら柑橘類が持つ甘やかな香りが漂ってきて、眠りに誘われてしまった。
風呂で意識を失うとは、死ぬつもりなんですかね。
「
「
母とエイスリン先生が会話をしている。相変わらず流暢な事で。
それはそうと、お風呂に何か入浴剤の様な物が入っていた気がする。あれは一体何なんだろうか。
「シトラスの香りがする入浴剤だって」
そんな事を考えていれば、図らずも母が疑問に答えてくれた。
シトラス……? シトラスって何なのでしょうかね。横文字は分かりません。
「う~ん。簡潔に何かって言うのは難しいけど……柑橘系の総称かな」
なるほど。シトラスとはそんな意味を表しているのか。
柑橘系と言えばみかんやスダチ、それにレモン等を含む様々なミカン属常緑樹の総称を示す言葉だ。まあ、確かにそんな香りはした。
ニュージーランドと言えば南国だ。毎日たっぷりと陽光が降り注ぐその南国の地は中々に栽培地として適している事だろう。
その入浴剤に使われているシトラス……それはニュージーランド産なのだろうか。
「
「どうだったかってウィッシュアートちゃんに聞かれてるぞ」
脳内で感覚を思い浮かべていれば、座ってテレビを見ていた父からお声が掛かった。
何かこうして翻訳されていると申し訳なく感じてくる物が有る。早く英語を学んで上手くなれる様に成らないとなあ。
……いや、エイスリン先生に日本語を学んで貰う方が先か。その為にホームステイしに来たんだろうし。
日本語は難しいぞ。カタカナやら漢字やら敬語やらで、世界で見てもトップクラスに面倒くさい言語だ。
頑張って日々邁進してくれたまえ。
「早く答えろって」
「はい」
急かされた。とりあえず、本心のままに心地良さを述べる事にしよう。
思わず寝てしまう程良かったです。
そんな風な感想を翻訳してエイスリン先生に伝えて貰った。
「もうちょっとな、良い感想があっただろう……」
「
「ちょっとそれはね~……」
そうすれば、何故か三人全員に微妙な顔をされてしまった。
ええ、なんで……?
星が瞬く姿がくっきりと見える程、空が暗く更け渡った頃。
エイスリン先生は北側にある一室を寝床として与えられた。ここは恐らく、祖父母のどちらかが大昔に使っていた部屋だったか。推測なのは、自分が産まれて物心が付くよりも前に二人が死んでしまったからである。
小さな書斎も同時に兼ねているこの部屋は様々な蔵書が収められているが、もう人の手によって開かれる事はあまり無いのだろう、少し寂れた雰囲気がする部屋だった。
正直、幼稚園位の歳の頃はこの部屋が怖くて仕方なかったが、天国に居る祖父母にして見れば失礼な話である。何十年も霊が住み着いているとか、そんなオカルト有り得る訳が無いのに。
エイスリン先生をそこに向かい入れるに当たって、父と母は場を整えていたのだろう。数日前に、この部屋は大掃除がされていた記憶がある。
そんな訳で、この部屋が彼女の仮の住居という事になる。少し暗い印象はするものの、窓からは満点の星空を眺める事が可能なので中々いい場所だ。
「
白と薄い桃色が織り成す、儚い彩色のパジャマを着たエイスリン先生が荷物を持ちながらやって来た。
多分そうみたいですと、身振り手振りで答えた。
「
エイスリン先生は書斎に置かれた本の題名をすらっと上から下まで流し見ると、少し感慨深い物があると言わんばかりの表情で何やらそう答えた。
母国の第一言語で書かれた本を、遠く離れた異国で見つけた時の気分はいかに。
「
読んでみてもいいか、だろうか。まだ一日が経っただけだが、何となく彼女の言いたい事が分かってきた様な気がする。
う~ん……多分、良いんじゃないでしょうか。正直、このままだと誰にも読まれずに放置されると思うんで。
まあ、何か有って怒られたら、自分がけしかけたという事で責任を取ればいいや……。
そんな感じの事を頑張って伝えた。
いや、頑張っては嘘だ。実際はオーケーしか言っていない。
「
そうやって伝えれば、彼女は手放しの喜び様を全身で表していた。
やっぱり、言葉は分からずともボディーランゲージは全国共通の言語なんですね。ジェスチャーは大事だ。
「
しかし流石に今から本を読む気力は無かった様で、エイスリン先生は小さな欠伸を上げていた。
彼女の視点では今日だけで色々な出来事が有ったはずだ。よく今に至るまで、その疲れを外に出さなかったモノである。
つられて自分も眠くなってきてしまった。これ以上はもう耐えられないだろう。さっさと自分の部屋に戻って寝よう……。
「
そう決意すれば、エイスリン先生が何かを喋った。
ああ、これは……おやすみの挨拶をすれば良いのかな。多分そうだろう。
「
それくらいは英語で言えますよ。
思考を回さずとも出てきた言葉を呑む事無く発せば、返答が聞こえてきた。
「オヤスミナサイ」
そう言って、彼女は部屋へと戻っていった。
あれ、何か日本語が聞こえた様な気がするが……気のせいかな……。
その後、考える間もなく眠りに落ちた。
やっと一日目が終わったぞ……
書き溜めが無くなったのと、忙しくなるので不定期更新になります。
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おはよう
意訳すると磯野野球しようぜになります
翌朝。
窓から差し込んでくる薄明るい光に揺さぶられれば、見知った天井の木目が朝を出迎えてくれた。今日は少しばかり雲が多い様だ。こういう時は大抵昼から天気が崩れそうなものだが、岩手はほとんど雨が降らないのでそこら辺の憂い事は不必要だろう。代わりにアレが降るが。
まあ、そんな適当な事を考えながら身体を伸ばし、いつも通りの朝を迎える。
しかし何やら、いつもとは違う感覚が。毎日同じ様な生活習慣を送っていれば、僅かな違いだけでもすぐに気が付いてしまうものだと分かる。分かってしまう。
とりあえず、今覚醒したばかりの寝起きの頭を何とか動かして違和感の正体を探ってみる。
……ああそういえば、昨日から非日常の連続でした。
「オハヨウ」
目を擦りながら扉を開けて外に出てみれば、少し詰まった様な語感を持つソプラノボイスが出迎えてくれた。どうやら外には先客が居たみたいだ。
あれ、こんな喋り方をする人居ましたっけ……?
「オハヨウ!」
壊れた人形の様に同じ台詞を紡ぎ続けるその声の元を辿れば、確かに彼女がそこに居た。
困った様な表情をしながら、片言の日本語を喋っている。
外では、普段は大人しい鳥な筈のツグミが珍しい事にうるさく鳴いていたので、それに負けない位に頑張って声を張っていた。
「オハヨウ、ゴザイマス……」
「
少し返答に困ったので英語で返してみる。
おやすみとおはよう、これぐらいなら返答は簡単なのだが、果たしてこの場面での返しはこれで良いのだろうか。
「
朝の挨拶をお互い返せば、少しホッとした様な心行きが彼女の身振りに表れた。先に続くのは、いつもの様に英語である。
あれ、エイスリン先生って日本語喋れったっけ……?
「
そんな風にエイスリン先生が日本語を発した事に対して驚けば、少し不満げな面持ちを彼女は覗かせた。
まるで、馬鹿にしないでと言っている様だ。
う~む、考えてみればそうか。単身異国に留学するとなると、日本語の挨拶の定型文はだいたい頭に叩き込んでいないといけないのか。
定型文と言えば……おやすみ、おはよう、こんにちは、こんばんは、さようなら、ごちそうさまでした──列挙して見れば何て事の無い日常的な日本語の挨拶だが、しかし異邦人からして見れば独特の発音を強いられる為に中々難しいモノである。
だとしたら、昨日彼女が言ったおやすみ、という言葉は本物であったのだろう。
余りの眠さに微睡んでいたが、夢では無かった。
自身のこれまでの心情を省みる。
正直、彼女の事をどこか舐めていた所が無かったとは言えない。
英語ばかり喋っていた彼女を、本当に日本語を学ぶ気概が有るのか疑問に思う所があったが、それは大きな間違いだった。エイスリン先生は勤勉で誠実な子だったのだろう。日本語を学びたいという意思が、彼女の息遣いやら姿勢やらで、明確にこちらへ伝わってきた。
なんてことだろうか。思い違いも甚だしい。
頭からバケツ一杯の水を被った様な感覚が身を襲った。はっきりと今、目が醒めた。
「
確かに発音や抑揚の部分に拙い部分もあるだろう。しかし、意味はしっかりと伝わってきた。彼女の意思は、確かに本物だ。
そう分かれば自分の今までの認識がとても恥ずかしい物だと感じてきた。穴が有ったら入りたい気分にまでなってくる。
う~む。何か、エイスリン先生の手助けに成れる事は無いだろうか。
ここまでの想いを見せられたら、それはもう、ただでは居られない。
……そうだ。必ずや彼女の日本語習得の助けになると、彼女自身に誓おう。簡単に言えば、自分が日本語の先生となるのである。それが最大限、今の自分に出来る彼女への誓いだ。
ちなみに、一応初日にやらかした麻雀の事件の罪滅ぼしも入っている。
「
そうやってグッと胸の手前でガッツポーズをしながら誓えば、エイスリン先生は変な物を見るかの様な冷たい目でこちらを射抜いてきた。
なんでだろう。
◇
翻訳アプリという物は素晴らしい。
トーストと野菜を挟んだ簡易的な朝食をエイスリン先生と一緒に摂った後、彼女と共に和室の炬燵でぐだっと成りながら、そんな事を考えていた。
【
彼女はスマホを通して、こちらへ文章を送ってくる。どうやらエイスリン先生は林檎信者らしい。
百ヶ国語以上の言語の翻訳に対応しているというこの翻訳アプリは、二端末同士の通信を可能にする事で対面では言葉が通じずとも、対応言語に翻訳し直し擬似的な会話を成立させる事が出来る優れものである。
送られてきた英文を、機械に翻訳して貰った。
【
さすれば、普通に拒否された。
先生という呼び名を(勝手に)していた事から、逆にコチラが日本語の先生をしようかと申し出たが、どうやら安直すぎた様だった。悲しい。
【
このアプリは何故か翻訳機能の他にスタンプが打てる機能が付いている。可愛らしい物からおどろおどろしい物まで。良く分からない造形をした何かのキャラクターのスタンプだって存在する。
その内の中から、掌にSTOP!と書かれたスタンプを彼女はコチラに送りつけてきた。機械翻訳故に少々違和感の有る翻訳も存在するが、そこら辺はいくらでも別の要素で補完できるだろう。この場合はスタンプだ。うむ。
あ、あれ……おかしいですね。彼女の留学目的は、語学の習得では無かったのだろうか……?
そんな疑問をタイプしながら送れば、すぐに返信が帰ってくる。
【
肯定の意が示される。
ど、どういう事なのだろうか……?
【
発展途上、みたいな時期なのか。確かに教わるとなると、しっかりした所の語学の先生の方が良いよね。
間違った単語の意味や発音をずっと覚えていて、いざ人前で発生する時にうまく伝わらない、なんてのはどの言語でもよく有る落とし穴だ。
日本語でも、確信犯だとか敷居が高いとか、その辺を間違って覚えてしまってる人はたくさん居る。そこらをもし間違って教えでもしたら、自分は責任を取れませんね……。
でもその段階なら、普遍的な日常会話はまだ理解できないのではないだろうか。
【
そう伝えれば、言いたい事は何となく分かると返ってきた。言語が完全に解せずとも、雰囲気からおおよそ理解出来る様になれれば前進である、というのがエイスリン先生の学習に対する指標なのだろうか。
ううむ。しかし、いつも通り……? いつも通りというのはどうすれば良いのか。
自分の家族間でのいつも通りとなると、それはもう日本語オンリーという事になる。
第一言語かそれなのだから当然の話だ。
だがそうなると、エイスリン先生が完全に蚊帳の外になってしまうが……。
【
親指が強調された『良いね!』のスタンプが返ってきた。サムズアップと呼ばれる世界共通の意思表明だ。
なんか意味合いが少し違う様な気もするが、彼女の意思は何となく伝わってきた。
要するに、何となく分かれば良いんだよ!って感じなのだろう。意外とエイスリン先生は適当であった。
【
スマホをスリープ状態にした彼女が、何やら部屋の隅を指差した。
示す先を辿ってみれば、小さなアンティークのショーケース。その中にある金ピカの麻雀牌だった。全面を金メッキされた悪趣味なこの麻雀牌は確か、父がどこかの友人から譲り受けた物だったか。和室の中に洋風の家具があるというだけでも父のセンスの無さが表れているのだが、それに加えてコレだ。
来客が有った際にいつも見せつけている様だが……。
まあ、目に付くよね。
「
そんな事を思っていれば驚きの発言が飛び出してきた。プレイが遊ぶ、というのは誰でも分かる。
えっ、あの麻雀牌を使って麻雀をしろと言うのですか。む、無理です……。配牌分持ってきただけで一ヶ月の食費が飛んでしまう程高い(らしい)のに、どう扱えとおっしゃるんですかね……。
麻雀牌とその他一式で軽く百万越えるぞ。そんなもんに傷でも付けたらどうしろと。
「
驚きの念を存分に前に押し出せば、エイスリン先生はふるふると頭を振った。恐らく、否定の意だろう。
そんなボディランゲージを表したかと思えば、今日も肌身離さず持っていた画板の上に何か描き始める。忙しい。
両耳にいつもペンを挟んでいるらしく、隙あらばいつでもペンを華麗に振るってしまうのが彼女である。
よく分からない空気のまま、数分後。
「
くるりと回された画板には、自動卓と思われる絵が描かれていた。
ああ、何となく分かった。でも今日はなあ……ちょっと厳しいかもしれない。
英語が思い付かなかったので、エイスリン先生の先程行ったボディランゲージをこちらも同じ様に返してみた。
それはそうと、スマホという便利な叡智の産物が有るんだから、ちゃんとそのツールを使ってほしいです。
「
エイスリン先生が抗議の意思を、その言葉に沢山上乗せしていく。
流石に英語に表すのは無理そうなので、機械の力を借りることにした。
【代休なんで無理です。】
雀荘は今日はお休みなので開く訳にはいかない。まあ面子を集めようと思えば集められるのかもしれないが、その候補である父も母も忙しい時は忙しいので、トントン拍子にというのは難しいだろう。
「
そんな文言を機械翻訳して送って貰えば、何やら悲しそうな面構えのエイスリン先生が対面に居た。
う~ん。
きょうはなんにもないすばらしい一日だった──みたいな日常も悪くないと自分は思うのです。
「...」
そうすれば、じい、と買い物で好きなお菓子を買って欲しいと暗に強請る幼子の様に、エイスリン先生はこちらを覗いてくる。
何故か途轍もない罪悪感に襲われた。
なので、炬燵に入って丸くなる事にした。
「
二つのペンを小さく規則的に合わせて、小気味良い音を演出してくる。それはどこか森の中の演奏家の様で。
中々に手際が良いものだ。彼女は絵の上手さといい、これといい、芸の引き出しが多い人である。多芸多才とでも言うべきか。うん。
炬燵に入って、より丸くなる事にした。
「
ええい、そんな事をしてもやらないぞ。
……というのは、流石に意地悪が過ぎるか。
エイスリン先生の──彼女の置かれた状況を考えてみる。
まあ彼女の言い分を纏めると、目的は語学留学というよりも観光といった方が近いのだろう。だとすれば、留学先で楽しい事を沢山したいというのは至極当然の事である。じっとなんかしていられない、というのが心情なのだろう、それが分からない程こちらも馬鹿では無い。
しかしなあ……麻雀はなあ……。ちょっと今日は厳しいかなあ。
もっと別の物は無いか。そう、麻雀じゃ無くてもいい別の何かが無いだろうか。
そんな事を考えて──
思いついた。
そうだ、良いのがあるじゃないか。
「
「物見遊山だ!」
物見遊山。観光という言葉をちょっとだけカッコよくした言葉である。異国の地に行けば、誰だってその地を巡る事だろう。その意思は国を問わずとも同じな筈だ。
幸いな事にこの岩手は──宮守の地は観光に適した変な物ばっかりある。だいたいは遠野物語の所為だ。
エイスリン先生にはこの宮守の名所を巡って貰う事にしよう。
よし、事が決まればすぐ行動だ。
がばっと炬燵から立ち上がる。その勢いや、凝る東北の大地より出ずる新芽の如く。
やはり、存分に羽を伸ばして貰う事が重要だったのだ。急いで父と母に計画のあらましを伝えに行かねば。
「
善は急げという事である。
少しエイスリン先生は引いた様な様子だったが、とりあえず気にしない事としよう。
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牧歌的な喜び
昼の手前。
エイスリン先生に観光をして貰おう、という提案の話を聞いた父は、すぐに行こうと言い出した。
外へ飛び出たかと思えば、家庭用である四ドアの普通自動車を車庫から取り出した後、家族である母と自分、そして彼女を乗せてそれを走らせ始めたのだった。
「遠野郷の方はちょっと遠いから、もっと早い時刻から出ないとな……また別の日に行こうか」
車に揺られながら後部座席からカーナビを見ると、車は宮守の南の方へと向かっていた。どうやら国道283号の上を通っている様だ。ここは宮守と柏木平を繋ぐ釜石線が横に連なる時がある道路である。
道の駅へと向かう電車が対向から来て、ちょうどすれ違っていた。法定速度とはいえ、すれ違う場合での通過算で考えればそれは一瞬の事だ。かまいたちの様に風を切り裂く音が、極端に高低差を伴って外れへと流れていく。多分、ドップラー効果というヤツだろう。
「
後部座席──自分から見れば横に、エイスリン先生は座っている。
シートベルトを少し窮屈そうに付けながら、移りゆく景色を車窓から眺めていた。
三人家族故に後ろ側の席が両方とも埋まる事は基本的に無かったので、彼女が座っているだけでも何か新鮮な心地がしてくるものだ。
「そろそろ着くぞ~」
宮守の地は観光地が割りと在るとはいえ、各所在地はそこそこ離れている。一日に行ける場所には限りがあるだろう。それならば、一つ一つの観光をより楽しんで貰えばいいだけの話である。
国道を右折すれば、蒼色に開けた空と
◇
ここ宮守に限らず東北地方の
紅葉の絨毯と言えばその通りなのだが、見晴らしのいい大地が満遍なく燃える様な色に染まっている景色は中々に良いモノである。
だが、上流を田瀬湖として流れる猿ヶ石川の展望として傍に佇む木々は全てが落葉してしまい、少しだけ物悲しい雰囲気になっていた。
「ちょうど過渡期って感じみたいだな。イチョウもここには在るから、よく映えるのだが」
父がそう言っていた。
まあそれはしょうがない事だろう。紅葉の景色を是非見て欲しかったが、時期が少々悪かったか。それでも、鮮やかな
「
エイスリン先生は、この柏木平の観光地のシンボルである、羽の無い塔風車の様な木造りの家を眺めていた。ここはどこか、昔住んでいた人が感じられる様な匠の
「
牧歌的な喜び、というのだろうか。飾り気が無く、ありのままの自然を残したこの地は、時間が非常に緩やかに感じられる穏やかな場所である。
宮守は基本的に人口密度は高くない為市街が騒然としているという訳ではないが、一番のゆとりがある空間と言えば、やはりここ以外には存在しないだろう。
しかし、賑やかさが完全に無いという訳でもない。
今日は月曜日なので人は少ないが、土日となるとレクリエーション大会などが行われる。特に夏の間に行われる、
広々とした空間があるならば、存分に使わなければ損という物なのだろう。
「もう昼か。よし、バーベキューやるぞ~」
そんな事を思っていれば、お昼の時間がやって来た。
どうやら今日はここで食べるらしい。
ステンレス製の折りたたみが出来るバーベキューコンロを車のトランクから取り出した父は、軍手を付けながら火バサミで黒炭を埋め尽くす様に並べていく。
ここは絶好のBBQスポットを謳っているだけあり、様々な器具の貸出が可能だ。流石に食材は各自で持ち込まなければならないが、そこそこの人数が居ると必要量がかなり多くなってしまう炭を、予め用意する事無くその場で借りられるのは良い事である。
すでに炭の下に置かれていた固形の着火剤に点火がされた。
「
すると、独特の香りを持つ煙が発煙して辺りへ広がっていった。
……いや、だいぶ違った。思いっきり自分が立っている場所へ煙が集中している。どうやら自分は風下の場所に居る様だ。バーベキューの風情として楽しめなくもないが、少々煙たい。
「ほら、やりなさい」
そう評していれば、母からうちわが渡された。
うーん、これはアレをやれという事ですね間違いない。
僅かに揺らめく種火を風で吹き飛ばしてしまわない様に、それでいて着実に酸素を送る様に、微調整を怠らずパタパタとうちわを動かした。いわゆる火起こしというヤツだ。
中々に大変だが次第に火が広がっていくのを見れば、何とも言えない達成感が自身の中に満たされていくというものである。
「
そんな素朴な感情を
うちわと言えば、普通は夏によく使う物である。クーラーや扇風機といった家庭用品が台頭してからは数は減ったものの、依然として夏における避暑の代名詞として名高い。そんなうちわがこうやって寒い冬でも関係無く使われるのは、しみじみと感じ入るものがある。扇げば暑し、宮守の冬。
うん、中々に煙たい。
炭火の中に内包された赤い火が、尽きる事の無い程に爛々と燃え始めたら準備は完了だ。上からバーベキュー用の目が細かな網を乗せれば、もう焼く事は出来る。
少々疲れた。
「二人ともありがとう~。まずは野菜から焼くね」
前日に予め切り揃えられていたのだろう、玉ねぎやトウモロコシ、かぼちゃやピーマンといった定番の野菜から、良く宮守産として街中で宣伝されている新鮮なキャベツまで、いろいろな野菜が適量に分けられて串へと捺さっている。
野菜とは少し違うが、自分の好みである舞茸やえのき茸もしっかりと用意してあった。ホイルで包めば焼けるのが比較的早いので、前菜としても楽しめる優れものである。
「
向かってくる煙をどうにか躱していれば中々に大変だったのだろう、エイスリン先生は額に滲んだ汗を鬱陶しそうに拭っていた。
「きのこ系統とキャベツはもう良さそうだ。タレは複数用意してあるから好きなのを使ってくれ」
バーベキュー等でよく使われる紙皿を取って、そこに焼肉のタレの蓋を開けた。タレを複数使って変化を楽しむ場合、本来ならば塩ダレの様なさっぱりとした物から使うのが普通だが、自分は最初からガッツリ濃い目のを使うタイプだ。小麦と大豆から作られた辛口の醤油ダレを皿の底に投下すれば準備完了である。
よし、一番乗りだ。
「
程よいくらいに焦げ目が付いたキノコを早速とって、軽くタレに浸す。
そして、それを高らかに口へと運んだ。う~ん、美味しい。
キノコ系は小さい物だとあまり味がしないと言われているが、味がせずともシャキシャキとしたこの歯触りが良いのである。最高だ。
「
一人で勝手に楽しんでいればそれを見とがめたエイスリン先生が、負けじとばかりに良い感じに焼けた野菜を網台から取った。
あ、箸を使ってる。
「
箸を捌いた彼女は期待の面構を全面に押し出しながら、野菜を口へと運んだ。慣れた様な手付きであった。
厚みをある程度含む食材であればフォークでもいけそうだが、やはりバーベキュー用の野菜といった火がよく通る様に分けられた食材だと難しいのだろう。とすれば、箸を使わなければいけないのだが、結構すらりとエイスリン先生は事をいなしてしまった。ニュージーランドに箸文化は無い筈だが、予習済みという事か。彼女は勤勉である。
「よし、そろそろ肉を焼き始めるぞ」
野菜を焼き始めてからある程度経ったので、具合と合わせて肉が網へと投下された。メインディッシュが到来したという訳だ。牛の肩ロースやモモ、カルビといった物から、割と珍しい部位である鳥のせせりといった物まで用意してある。
そして、それ抜きでは宮守や遠野を語れないある動物のお肉。
「ラム肉もあるからな」
確か齢によって区別されるのだったか、羊肉にはラムとマトンがあるが、若い方がラム肉となる。岩手では、このラム肉が盛んに食されているのだ。ジンギスカンといった鍋料理からステーキの様な鉄板料理まで、様々な種類の料理がこの地域では充実している。街を征けば、羊肉を扱った料亭がすぐ目に入るだろう。
母が作る料理でも結構な頻度で出てくるので、羊肉は日本の一般的な家庭料理用食材かと思っていた時期もあったがしかし、日本では北海道はともかくとして、この羊肉はあまり家庭の食卓にはのぼらないらしい。
一体何故、この地域だけよく食べられているのだろうか。
「
牛肉や鶏肉と違い、独特な厚みがあるラム肉。常々の物として見る様な、そんな含みを以ってエイスリン先生はその肉を眺めていた。
「
「
「ニュージーランドは羊肉の輸出量が多いからな」
そんな疑問を持っていれば、答えの要素となる鍵を父は答えてくれた。
「宮守や遠野でよく食べられている羊はここの地域でもよく飼育されているが、流石に全てを自給するのは難しいからな。ニュージーランドからの輸入に頼っている部分もあるという訳だ」
この地では一般的な羊肉食。そこでエイスリン先生の祖国であるニュージーランドが出てくるのか。
日本とニュージーランドという遠い国同士で、何故交流があったのかずっと分からなかったが、こういう所で関わりが有ったんですね。全く以って知らなかった。
お肉で始まった国際交流、という可能性も無きにしもあらず。
「ちなみにこの地域で羊肉がよく食べられているのは、ただ単純に羊をたくさん飼っていて、ふと食べてみたら美味しかったからだ」
それはまあ、どうでもいい話だ。
「そろそろ焼けたぞ。食べ頃だ」
ラム肉という物は牛肉と同じ様にレアの焼き方が大丈夫なお肉である。バーベキューでは少し加減が難しいものの、中にしっかりと熱を通しながら表面だけを焼く、という手段は十分可能だ。
ジューシーで肉汁溢れる柔らかな食感を楽しめるのは、ラム肉の良い所である。心地の良い炭と煙による香りを楽しみながら、いい感じに焼けたラム肉を勧められる通りに取って、いただく。
少し箸で掴んだだけで柔らかく弾んだ。こんな風に揺蕩うお肉が、不味いわけが無い。
特性のタレを付けて口に運べば閃耀が走った。
ああ堪らない。
口の中でまろやかな肉の旨味が広がっていく。肉の繊維を噛みしめれば、僅かな抵抗と共に唾液を誘引させる程の感触と味わいが増していった。柔らかな霜降りは雪の様にふわりと溶け、決して飽きさせる事のない充実した食を与えてくれる。
美味しい食肉を構成する要素は柔らかさと風味だと言われているが、確かにその通りなのだろう。一口食べれば、すぐにそれを味覚で理解した。
「
エイスリン先生もそれを満遍なく楽しんでいた。
まるで人間火力発電所の様である。
「まだまだ控えはあるからね。今日いっぱい楽しんでいってね~」
母が言う通り、まだ沢山食材は残っている様だった。野菜にお肉に、何故かイカの様な魚介類まである。
それはともかくとして、どうやら今日は最高のバーベキュー日和らしい。
腹八分目では収まらない程に食べ尽くそうと思った。
◇
「
存分に楽しんだバーベキューの後片付けをエイスリン先生と共に手伝っていた。
バーベキューの片付けで一番大変なのは炭関係だろう。火を止めて十分ほど放置しても再燃する事がままあるのだ。となると、水に入れるのが一番早いか。
二人で火種が若干残った炭を水が張ったバケツの中に突っ込んで、消火作業を行っていく。炭は自然へそのまま還らないので地面に捨てる訳にはいかない。幸いな事に近場で炭を燃えるゴミとして引き取ってくれる場所があるらしいので、処理には困らなそうだが。
最後の始末を終えるまでが、バーベキューなのである。
それにしても、食べ過ぎたかもしれない。
「午後はサイクリングでもしようと思ってたけど、これじゃ無理そうね~」
母がそう呟いた。流石にこれだけの量を胃に収めながら食後の運動をするとなると厳しいものがある。
う~ん少し食べ疲れた。そうだ、片付けも一通り済んだ事だし、少し横になる事にしよう。
ちょうど近くに猿ヶ石川を一望できるいい感じの傾斜を持った坂が有ったので、そこに寝転ぶ事にした。
アニメや映画でよくある、河川敷の草むらで腕を後ろに組みながらぼけーっとしている感覚だ。
なんて
「
そうしていれば後ろからエイスリン先生がやって来た。
ウェイトという単語が聞こえたので、多分太るぞとか言われているのだろう。
あれは迷信だから、うん……。
「
もしかしたら科学的根拠が有るかもしれないと内心ひやひやしていたら、当の本人である彼女が何故か同じ様に横に並んで寝転がってきた。
あれ、太るとかいっていませんでしたかね……?
……まあ、いいか。
「
川のほとりには白く長い羽を持った小鳥が留まっていた。あれは確かエナガだったか、留鳥ではあるがここら辺ではあまり見ない珍しい鳥である。
自分は牧歌的な暮らしが好きだ。素朴で田舎らしいといえばそうなのだが、こんな風にゆったりとしていて、時間の感覚が曖昧になってしまう様な──
そう思えるこの地が、かけがえのない物として何よりも好きである。
それは横に誰が居ようとも、変わらない思いだ。
岩手に行ったら、まずはご当地名物である羊肉を食べたいですね~
地域について勉強しながら書くのは、大変で時間がかかるものだけど楽しいです
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銀河鉄道の夜
著作権は切れている筈なのでセーフ
霊的ヴィジョンの旅へ、いざ行かん
「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。エイスリンさんそうでしょう」
「
物語の一遍に記された偉大なる先人作家の文を拝借して答えれば、何言ってるのという表情を返されてしまった。
だって、本当にそう書いてあるんだもん。いや、最後の人物名だけは勝手に変えたが。
今自分達が居るのは、岩手で有名な文豪──その生涯と軌跡を祀り、記念した資料館である。
柏木平の観光を終えればだいぶ時間が余ったので、持て余すのも何だという話になり少し遠くの地までやってきた。といっても、車で三十分くらいの所だが。
宮守含むこの岩手県は街興しの為に様々な施策を行ってきたが、それを軽く
その前座として、作家が生涯書いた作品や人となりを記したこの記念館へとやって来た。
少しシックな印象を第一に与えるこの館は、生前作家の心象世界に在った理想郷を第一に表しているらしい。
橋梁共々こちらも有名な所であり、当然外国人観光客の想定もしてある様で、案内や文字盤には英語がしっかりと記されていた。
ご丁寧な事に音声による解説も多言語対応しているみたいで、力の入れようがよく伝わってくる。
とはいえ、流石に掲げられていた小説中の文全てを対応するのは中々難しい様だ。
「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです」
「
展示されている絵の中には、小説の一場面を表したものがあった。動物の様な──それでいて致命的に何かが違う形容詞し難い登場人物が、天に瞬く星々について話を聞かされている。中々に目を引く絵柄だがしかし、内容の英訳は付いていない。単純に内容が気になっているのだろうし、絵描きとしての側面でも何か感じ取る物があるのだろう、その絵を見たエイスリン先生は何やらそわそわしていた。
そこで、何となく書かれていた日本語文を音読してみた。
結果は案の定、うまく伝わらなかった。
ジョバンニの様にはいかないのである。
「
チェスの指し手を悩む鏡の国のアリスの様に、エイスリン先生は考え込んでしまった。ううむ、言語の違いとはやはり難しいものである。音読してなんだが、正直自分もあまり内容はよく分からなかった。
かの作家による小説には、星に纏わる物がとても多い。銀河に架かるSL列車の名前を冠するこれだってそうだし、超新星爆発の様に確かな存在を満天の空の中に刻み込んだ暗褐色の鳥の話だってそうだ。それはこの岩手の寒空に浮かぶ天の川が、日本で見上げる事が出来る物の中で一番美しいと作家が感じていたからだとか……。まあ岩手出身なのもあるだろうが。
星が名字に付いている家名を持つ身としては、こういう類の物をしっかりと噛み砕いて説明したくなる物だが、生憎今の自分にはそういうスキルが足りない。英語力もしかり、基本的な国語力もしかり。
悲しいかな。
「こういう時は身近な物に例えて見るのがいいんじゃないか? そうすれば単純な単語の羅列でも伝わるものだ」
そう悩んでいれば、父が一つ提案をしてきた。確かに文学小説とは比喩表現の連続である。絵の様に一を聞けば十を知ることが出来ない──というのは絵画に造詣が深くないから軽々と言える事なのだろうが、文字が大半を占める小説ではやはり情景描写に比喩が多くなる。
この記念館での題材である星。それを身近な物で置き換えてみろとの事らしい。
え、思いつかないのですが。
「ま、麻雀でしょうか……?」
自分の中で一番身近なといえば、麻雀である。それが何か星と関係する要素が有るのですかね……?
う~ん、一応考えてみるが……。
一番に思いつくものとすればローカル役である大七星だろうか。麻雀とは数牌役牌どちらも富に関わる物だと言われているが、これは星という名が付いている通り役牌を七つの星に見立てた物である。そのまんまやんけと言われればそうなのだが、{白発中}が的を射る矢を表していたり風牌が季節を表す花牌から分岐していたりと、牌の由来から考えてみると全く違ったルーツを持っている事が分かる。
本来のこの麻雀には存在しなかった役なのだろうか、リーチ後の一発の様に遠い異国から輸入されてきた物なのかもしれない。まあローカル役だった筈の一発は、今では普段の麻雀でも普通に一翻の役として取り入れられているが。
……後は、
だいたいこんな所だろう。割と関連する物は多くは無かったのだが、これ以上どう例えろと。
「別にそこまで真面目に由来がある物を引っ張って来なくていいぞ」
そんな事を述べれば、素気なくされた。
ええ……結構頑張って思い浮かべてみたのに。酷い話である。
「感性を用いた比喩表現なら幾らでも例えられるだろう。例えば、四人麻雀なら136枚の牌を使って行う競技とされている。それは幾星霜経とうと変わらない不変の物だ。この136枚の牌を星の数とおいてみれば、それらしい情景が思い浮かんでくるというものだ」
不満の意思表明をすれば、至って簡単な話だと言われながら例えを返されてしまった。
「その136の幾多もの星を掬いながら天の河へと放ち、星空へと願って理想の形を追い求める。そんな麻雀における星とは一つずつの小さなものに過ぎないが、無くては成らない──欠けては成らないモノとして、確かにそこにある」
思案にくれた面持ちの父がそんな風に例えてくれた。関連する言葉が宇宙に漂う星屑の様にそこかしこに散りばめられている。厨二病が紡ぎ出したポエムですか。
……中々に詩的な表現だ。きっと今の自分では小一時間頭を回しても捻り出せないフレーズだろう。
く、悔しいです……。
「お前はよく麻雀でこっ酷く負けた時に、ただの絵合わせゲームだからと言ってよく悔しがっているが、それに習えば星集めをしている様なものだ。水面に映った月が掬えるのならば、それよりも小さな星を掬う事なんて造作も無い事。そうだろう?」
何とも聞こえの良い言葉が後には連ねられる。脳のリソースを回さずともすんなりと頭の中へと入っていく──そんな感覚が自分を襲った。もしかして父は詐欺師の才能が有るのでは無いだろうか。この言い回しといい、ちょっとグレーな雀荘を営んでいる事といい、何か裏では悪い事をしているのでは無いかと心配になってくる。
「そんな事をウィッシュアートちゃんに言えば良いんだ」
言えば良いと……随分と簡単に言いますね。確かに中々に痛いポエムでも場所と時を考えれば、まるで大衆面前で行われるどこか合衆国の大統領による演説の様に、人の心へと直接響くモノへと変貌を遂げるだろう。
しかし、父は……父さんは一つ、大切な事を忘れている。
「英語話せないんですけど」
「あっ、すまん」
英語が話せて当然の空間に置かれていたのだから、父もそれが当たり前の感覚となっていたのだろう。とても気まずい空気が、辺りを包み込んで来ました。
たとえ痛くてくっさい物だとしても、いつか英文でポエムを書ける位には英語が上達したいものだ。まずは単語からかな……。まだ雀荘の手伝いぐらいでしか働いていないが、今の御時世日本語だけで食っていける様な世の中じゃなさそうな気がしてきた。
麻雀というのは今や、世界的な競技と言われる程である。海外の愛好者も開拓中ではあるものの、非常に多いとされている。多芸多趣味なこの世で、大多数の共通の趣味に成り得る物が存在するのはとても恵まれた事なのだろう。現に言語が全く伝わらない留学生とも、麻雀を通して対話出来ている。しかし、それは麻雀が打てる人全てに共通するモノ。それに胡座をかいていては、いつか足元を掬われてしまうだろう。
世知辛い世の中である。
「
「
「
「
「
「
そんな事を考えていれば、母とエイスリン先生が何やら談話していた。
「何を喋っているのでしょうか」
「あー……ええとな、小説の翻訳版が家に置かれていたみたいだ」
オーノー……なんてこったい。
「
エイスリン先生がそんな様子に感付いたのか、何やら気を遣ってくる。いえいえ、大丈夫ですよ。
……自分の行動をよくよく省みてみれば、中々に恥ずかしい。穴があれば入りたい気分である。
こういう時は偉大なる先人の名言を借りるのが良いだろう。名言を引用していれば、たとえどんな浅学の身でも、どこか賢く見えるというのだから安いものだ。
雨にも負けず、風にも負けず、宮守のクッソ寒い冬にも負けず。
丈夫な体を持ち、慾はなく、いつも英語をしっかりと話せる……そういうものに、自分はなりたい。
うん、成れるといいですね。
この後は、エイスリン先生と共にしっかりと星が織り成す世界を観光して回った。
◇
冬の日の入りは基本的にかなり早い。特に東北地方はそれが顕著である。岩手はだいたい五時手前には日が沈んでしまう。これでも一日の三分の一ぐらいしか太陽が出ていない一月の真冬よりかはマシなのだけれども。
どういう事かと言うと……今日のトリとして赴いた宮守川橋梁──その地に着いた時には既に辺りはそこそこ暗くなってしまっていた。
しかし、これは好都合でもある。
目の前にある、緩やかな半円を描きながら成り立つ石造りの橋梁は鉄道用のアーチ橋だ。そしてSL銀河の名を冠する蒸気機関車が今でも通行するとおり、この橋は銀河に纏わる話に事欠かない。濃い青鋼の夜に、億万の蛍
……というのは
「
蒼の色は夜空に架かる銀河の色を表している。この橋梁では街の人達の粋な図らいにて、題材にした小説と同じ様に光によって蒼く彩られる時がある。いわゆるライトアップである。歴史的建造物でもあるこのめがね橋は、夜間景観を際立たせるこの演出にて、小説の一場面にも劣らない幻想的な雰囲気を辺り一面へと醸し出すのだ。
エイスリン先生はそんなおとぎ話の様な光景を前に、目を輝かせていた。
「
この宮守の地での……いや、岩手での一番の観光地を偏に表せばここ一つに尽きる。アーチの模型が実際に作られてしまう程、この景観は歴史を示す遺産としての価値を大きく持つのだ。有り体に言えば、この地に来れば観光はもう終わったようなモノである。いわば終点という感じだろうか。この地には怪奇譚に纏わる観光地がたくさん有るからこれで終わりという訳では無いが。
だが、このめがね橋で見れる光景に勝る物は他には無いに違いない。
地が蒼く輝くのならば天だって同じ。
この場所が絶景と言われているのは、岩手の澄んだ美しい星空を同時に眺められるからである。
相乗効果というヤツだろう、新しく灼いたばかりの青鋼の空を眺めれば、銀河に架かる橋に鉄道が汽笛を鳴らしながら揺蕩っているような──そんな気分にさせてくれるのだ。
意識せずとも視界に入るだろう、しかし上を向けば、より満天の星空が──
「
満天の星空が。
「
見え、ない。
雲に隠れて、見えない……ッ!
銀河線路の代わりに空に架かるは、淀む様な灰白色の層雲。
それは岩手に限らず、北に住んでいれば嫌でも体験出来る自然現象。
ヤツが来る……ッ!
ああもう最悪だよ……。間が余りにも悪すぎる。
「
雪が降る、降ってしまう。
朝起きるのが辛いほどの寒々とした日常が、明日からやって来るのか……。
勘弁してくれえ……。
まあ、今はそんな事よりも重要な話があるのだが……。
「
大きく広がる雲によって起こり得るこの現象は一度起きればかなりの間続き、星空をずっと覆い隠してしまう。
とすれば、自慢の澄んだ星空も眺められなくなるというモノだ。
折角エイスリン先生に観光に来て貰ったというのになんたる不運だろうか。
いや、まあ天気予報で前兆はあった気もしないでもないが、それにしても今は無いだろう。
きっと彼女もぼんやりとした空しか見上げられず、がっかりしているに違いない。
恐る恐るエイスリン先生の反応を見やる。
「
が、予想したものとは格別違っていた。
地上より照らされて奇妙に揺らめく灰白色の空を見上げながら。
「
天よりしんしんと降り注ぐ白い雪を試しに手で取ってみて。
「
体温で熱で融解するのを眺めていた。
次々と吸い込まれる様に降り頻る雪を、じっと眺めていた。
「
ブロンドの髪が小さく濡れそぼっているのも気にせず、雪へと身を任せている。ちょうど近くに雪除けに最適な掘っ立て小屋が在るにも関わらず、ただただ受け止めているだけだった。
「
そう言いながら、無垢に笑っていた。
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初雪~
三色信者
三日目からのお話です
私はあまり麻雀得意な方では無いので、合ってるかどうかは割と不安なのです
冬という時期。身も凍る様な東北の大地では、特にそれは厳しい物となる。放射冷却により地熱が放出されきった日に朝を迎えようものなら、あまりの寒さに布団から出る事すらも難しいだろう。それに加えて真夜中に降る雪という存在。こんな事されたら次の日からがっつり気温が下がってしまう。
エイスリン先生に宮守を観光して貰ったその翌日。そんな雪は、昼になっても未だ降り続けている。
「
軽く昼ご飯を食べ終えた後、雀荘の控室のパイプ椅子に座っていたエイスリン先生は、ぷるぷるとゼリーの様に震えていた。
寒いのかなと思ったが、しかし理由は別にあるらしい。
「
今日は雀荘の開店日という事でエイスリン先生の希望通りに雀卓を開放したのだが、結果は逆連対の沼だった。
「
何度か行った半荘戦の後、下振れまくっていたエイスリン先生から彼女自身が持つ矜持──もといオカルトについて、翻訳アプリを使いながら仔細に教えてもらった。
彼女曰く、他家の配牌と自身の手の完成形及びツモ牌が見えるらしい。他家のリーチに毎回ノータイムで無スジを切ってたり、当たり牌を華麗にビタ止めしたりと、敢えて変な手順を辿って彼女の反応を伺ったりせずとも分かる材料は有ったが、マジで見えていたのかと驚きました。
が、しかし。
彼女が持つソレはそんな風に中々に恐ろしいオカルトではあるものの、今日は全くと言って良いほど振るわなかった。
理由は同卓者にある。
「
ク〇鳴きおじさん。
それがエイスリン先生の対戦相手に居たのだった。
そのおじさんの打ち筋、というか特徴は何といっても鳴きまくる事である。およそ副露率75%くらいあるだろう、四局あれば三局は必ず鳴くやべー奴であった。
麻雀における最強の役はリーチと言われるほど面前は強いのだが、それを無視して鳴きまくる。そのおじさんが卓に居れば、全員のリーチ率とリーチ成功率が極端に下がると言われているのだ、なんて恐ろしいのだろう。それでいてしっかりと高打点の染め手を毎回作っているというのだから酷い話だ。たぶんそのおじさんもオカルト入っていると思う。
話が少し逸れたが、どうやらエイスリン先生のオカルトは鳴きを多用されると消え去ってしまうらしい。
それは彼女自身が鳴いても同じな様で、だから鳴きを一切使わなかったというワケだ。リーチも宣言牌が鳴かれ易い事や、同卓者がスピード重視の鳴きへとシフトし易い事から使いたがらないのだろう。
となると、オカルトが無くなったエイスリン先生は完全にヒラで打っている事になる。
その状況を後ろから見させて貰ったが、何が課題なのかはだいたい分かった。
他家のリーチに対する押し引きや、捨て牌からおおよその手牌を把握する河読みや残っている牌の山読み。
色々有るものの、それは全て発展形の話。やはり一番は牌理だろうか。
こういうのは一度見て貰った方が早い。
「
彼女のオカルトはいずれ戻ってくるものらしいが、無くなってしまっている間はデジタルな部分に頼らざるを得ないだろう。
こういうのは自分の得意分野である。昼休みももうすぐ終わって雀荘の営業も再開するので、打ち筋を後ろから見て貰う事にしようか。
◇
顔見知りのおっさん達と同卓しながら始められた半荘戦。
自分は全く和了る事は出来ていなかった。無放銃と言えば聞こえは良いものの、実際はオリていただけである。
「...」
後ろを見ずとも何となく反応は分かる。めっちゃ気まずい。
や、やめて……そんな目で見ないで……。
今の自分はラスである。無和了、無放銃で何も出来ずにラス目にいる事を地蔵ラスと言う。
地蔵は辛いものである。なんて言ったって、麻雀をやっている気がしないのだ。
配牌は今に至るまでほぼ五向聴。まともなツモも来ず、配牌オリすら視野に入れなければならないレベルの連続である。チャンタはともかく、縦にも重ならないので七対子すら目指す事は叶わなかった。
チートイは山読みが問われるので見て貰うには結構良い手役なのだが、それすら無理だとは……。
これはもうダメかもしれませんね。
南入りして二局目。起家が南家だったのでこれが最後の親番となる。
三位とはそこそこ離れているので、ここを逃すとほぼラス確してしまうのだが……。
配牌を後ろから見やすい様に並べながら、先行きを考える。
配牌 ドラ{四}
{三四四五六八①④3346北} ツモ{8}
来ましたッ……! 配牌ドラ2の最高の手がこの親番に……!
これはもう和了るしかないだろう。満貫手に仕上げて見せましょう。
打{北}
…
ツモ{8}
打{①}
…
手牌 三巡目
{三四四五六八④334688} ツモ{七}
三巡目に持ってきた{七}。ここがターニングポイントだろう。
どうしても和了りたいこの親番。向聴数を取るのならば、{④}なのだろうが……。
まあこんな早い巡目でそんな事するワケが無い。
打{3}
{3}を切ってのシャンテン戻しの打牌。そのまま{④}を切っていれば3種8枚の受け入れとなる。
しかし打{3}のシャンテン戻しなら、{二}~{九}{②}~{⑥}{1}~{8}の19種の凄まじい受け入れが発生する。
枚数は……多分、60枚くらいは有りそうだ。扱う麻雀牌が136枚であり、そこから手牌諸々を差し引けば二回に一回は確実に手が進む。それならば戻す以外に有り得ない。
それに、{④}を切ればアレが消えてしまう。
一昔前には、麻雀の手役の花形と言われていたほどのアレが。
手牌 四巡目
{三四四五六七八④34688} ツモ{二}
次に来たのは有効牌。流石に二回に一回を外す様な運の悪さは持ち合わせてはいなかったようだ。
打{6}
ここは手なりに打って、受け入れ枚数の多い物を選択する。
手牌 七巡目
{二三四四五六七八④3488} ツモ{4}
この{4}はかなり重要なツモである。
打{4}
出来る限りノータイムでツモ切りを行う。空切りなんて以ての外だ。
「……」
自家 河
{北①36白発}
{4}
同卓している顔見知りのおっさん達と自分の河を見る。どういう流れか知らないが、この人達は自分が知っている中でもかなり麻雀が強い者達であったはずだ。当然、手出しかツモ切りかなんて、全て把握されてしまっている。
ここで時間を掛けて{4}を切っていれば確実に後々響いていただろう。
手牌 八巡目
{二三四四五六七八④3488} ツモ{③}
そして次順。ツモって来たのは{③}だった。
う~ん、やっぱり自分の思い通りの麻雀が進むって楽しいね。このくっつきをずっと待っていたんですよ。
打{七}
…
ツモ{二}
打{二}
手牌 十巡目
{二三四四五六八③④3488} ツモ{赤五}
ダメ押しの{赤五}ツモ。これで一盃口という別方面も行ける手になってきた。贅沢な手である。
手牌 十一巡目
{二三四四五赤五六③④3488} ツモ{②}
そして最後にツモ{②}。一盃口はならなかったものの、それでも最高のツモである。
さすがリャンメン先生は分かっている。
「リーチ」
余った{五}を打ち、リーチ宣言をする。久々に気持ち良いリーチが出来たような気がした。
「……」
「はぁ……」
「けっ……」
同卓者のおっさん達が忌々しそうな目でこちらを見てくるが気にしない。ラス目のリーチは怖いですよねえ……分かりますよその気持ち。
これはもう勝ったな。勝ちましたね。
麻雀の神様! 高目……高目をお願いします!
ツモ{2}
そして引いてきたリーチ後の第一ツモ。
「はい一発高目ツモ~! メンタンピン一発ツモ三色ドラ3。裏は……乗らず。倍満で8000オールで~す!」
「は?」
「ガキが……舐めてると潰すぞ……」
「クソゲーかよ」
意気揚々と引きヅモすれば(この雀荘は引きヅモOKである)、おっさん達が一斉に愚痴を吐き捨て始めた。
何やらぶつくさ言っているが、裏が乗らなかっただけでも感謝してほしいものである。もし裏が一つでも乗れば三倍満もあった。8000オールが12000オールになる可能性があっただけに残念である。
とにかくこれでラス目から一気にダントツトップだ。
親で倍満を上がれば、もはや勝負は決まったようなものである。
「あ、すみません。誰かこれ撮影してくれませんか?」
そういえば。
ふと忘れていた事を思い出した。自分でも中々の牌理が出来たと思えるほど、この和了は良かったのだ。
今日のこれは役立ちそうな物なので、後で思い返せる様にしなければいけない。
とりあえず誰かに頼んで画像を送って貰う事にしようか。
「は?」
「ガキが……舐めてると潰すぞ……」
「煽りかよ」
そう観衆に頼めば、同卓者のおっさんは若干キレ始めた。
や、煽りじゃないし……。後で牌譜検討に使うだけだし……。
……まあ、煽りと捉えられてもおかしくはないか……。
「もう許さん。絶対まくったるわ」
「ガキが……舐めてると潰すぞ……」
「一転ラスかよ」
うるさいおっさん達を他所にしていれば、少しそわそわとしているエイスリン先生が目に入った。
彼女の中ではこの打牌について、色々と疑問点が有るのだろう。早く一緒に検討をしなければならないな。
その為には早くこの半荘戦を終わらせる事にしよう。
「じゃあ、南2一本場始めます」
◇
「
適当に半荘戦を切り上げた後。
控室に入れば、後ろからエイスリン先生が付いてきた。
「
逸る先生をどうにか抑えながら、先ほどの対局の場況が撮られた画像をスマホに表示する。
お客さんに取って貰った後に受け取った物だ。
それを控室に置かれていた麻雀牌を使って再現する。
ここで再現するのは自分の手牌と河だけ。
手牌 三巡目
{三四四五六八④334688} ツモ{七}
まずはここから。自分の三巡目の手牌を再び作り直した後、エイスリン先生に席を譲る。
いわゆる何切る問題というヤツだ。説明が何も無く一瞬戸惑った表情をしていたので、翻訳アプリを使って対話しようとしたが、雀士としての直感で何をしろと言われているのかすぐに理解したらしい。
並べられた牌から恐る恐る切る牌を選ぼうとする。
「
エイスリン先生が選んだのは孤立牌である{④}。これを切れば向聴が進み、{358}のいずれかが埋まれば聴牌となる。しかしそれはシャボ待ちやカンチャン待ちで結構和了り辛い。いや、まあ……ドラ2あるから、普段ならばそれでも十分良いのだけれども。
それはともかく、もちろん彼女自身も分かっている事だろう。恐らくここから他の牌の重なりを見て平和を確定させていくはず。萬子が中膨れ+順子の形なので受け入れも多いと考えているのだろうか。
しかし、三色を捨てるのは頂けない。
横から実際に行った対局と同じように{3}を指す。
「
するとエイスリン先生が渋々といった感じの声音をあげて、牌を河へと放った。
「
言いたい事は何となく分かる。三色なんて実戦では中々上手くいかない手役だと。そんな事を言いたいのだろう。
確かに赤アリルールが一般的な現代では、昭和的な価値観が強い三色は忌避される事が多い。
彼女の言う通り、三色はほとんど上手く行く事は無い。リャンメンに受ければ待ちが枯れていない限り必ず安目が発生するし、カンチャンに受けて役を確定させればピンフが消えてしまう。だいたいペンチャン待ちになるであろうチャンタ三色とかはもはや苦行の類だ。鳴けば早いが点数が安すぎる。
いけそうな配牌から20回狙えば1回和了れるかどうか。そんな役である。
しかし、そんな1回だけでも和了る事が出来れば局の収支は大きく変わる。難易度の割にたかが二翻だが、それでも麻雀は僅差を争うゲーム。この手役は侮れない。
三色は嫌いな人が多いから分かる話なのだけれども。
「
そんな事を翻訳アプリを使いながら頑張って説明すれば、分かったといった表情をエイスリン先生は浮かべた。
ほんとかな……?
まあ三色を考慮しなくても、シャンテン戻しの{3}切りの方が良いとは思う。ここは譲れない場所だ。
次点で{6}切りあたりだろうか。
よし。一つ終わったことだし、次へ行こう。
手牌 七巡目
{二三四四五六七八④3488} ツモ{4}
これは速攻でツモ切りをしなければならない牌だ。
いや、しなければならないというのは少し違う表現か。
速攻でツモ切りをすれば超お得な牌というワケだ。
「
エイスリン先生の指が{④}の方へと向かおうとして、ぷるぷると強く震えていた。
まあ分かる。数巡前に切って無くなってしまった{334}の形が{344}となって復活したのだ。これは完全イーシャンテンの形などで見られる素晴らしい良形なのだから、残したくなるのも分かる話だ。
しかし自分はここでツモ切りを選択した。
理由は数巡後になる。
「
手牌を崩して、別の物へと作り変える。
河は数巡目の物へと置き換えた。
親 河
{北①36白発}
{4七二八横五}
他家 手牌 ドラ{四}
{四四③④⑤⑥⑦223赤567} ツモ{4}
これは少し極端な例だが、この手を張った時に親リーに対して{2}を切れるだろうか。持ち点はラス目の親以外ある程度横並びしているとする。
翻訳アプリを使って、エイスリン先生に問い掛けてみた。
「
放銃の結果が分かり切っている問題だったので、エイスリン先生は少し答えに窮していた。
まあドラが三つもあるし良形三面張なので普通に押しなのだが、重要なのは{2}が危険かどうかという話だ。
「
恐らく直観的な判断なのだろう。実戦なら他家の河も有るので、ワンチャンスやらノーチャンスやらが関わってくるのだが、これ単独で見た場合の答えはそれで合っている。
宣言牌よりも遠く、そして序盤に早く切られているので{364}周りを持っていないと思ってもおかしくはない。中段の{4}は速攻ツモ切りだ。
押してもいい状況なら、ある程度余裕を持って{2}を切れるだろう。そこそこ河が濃いので、打点があることが条件にもなるが。
その思い込みを逆手に取った仕組みなのだ。
まあ、自分でツモってきたので意味は無かったのだけれども……。
「
頑張って説明すれば、エイスリン先生は得心がいったという表情をした。
こういう引っ掛けは対戦相手が人間だからこそ出来るものだ。CPU相手ではこう上手くは行かないだろう。
人読みというのもある程度は入っている。
「
答えを示せば、少し考え込む様な様子になってしまった。
果たして自分は、彼女の麻雀の観念に感銘を与えられる物を見せる事が出来ただろうか。
別の道ではあるものの、願わくばより良い結果になる物であって欲しい。
「
そんな牌譜検討を終えれば、何やらエイスリン先生は元気を取り戻した。
ウキウキとした心情が身振り手振りで体現され、表情には未来への希望が存分に表れている。
あ、これ参考書とかを読み漁った後に良くある現象だ。
アカン。
「
静止の声も聞かずにエイスリン先生は雀荘へと飛び出していってしまった。
大丈夫だろうか……?
オカルト無しで打つには、常連客の人たちは結構キツイ相手なのだから……。
「
すぐにエイスリン先生は帰ってきた。
うん……麻雀は難しいから……。
簡単には行かないのだ。
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鳴き麻雀
出どころはいろいろ
目にした事がある牌譜ものってるかも
麻雀というゲームにおいて勝つという最終目的には、人それぞれの価値観が関わってくる事を強く留意しなければならない。純粋なめくり合いを好むのか、それとも意表を突くような奇異な麻雀か。それは麻雀のルールにも影響してくる。
よくある取り決めとして、雀荘の従業員がお客さん相手に打つ際、宣言牌のスジで待つようなモロ引っ掛けリーチを禁止する、という物がある。モロのスジ引っ掛けは汚い行為だ、という観念を持つ人が少なからずいるようで、徹底している所だと従業員含め全員が禁止というのもあるらしい。一見で雀荘を訪れる時はここらへんを確認しておかないと面倒な事になってしまうのだ。
気持ちは分からなくもない。自分もモロでは無いものの、普通の筋引っ掛けに振り込んだ時は、この野郎……といった感じでまんまと術中にはまってしまった事にイラっとするのだから。しかし、意図せずとも筋引っ掛けになってしまうケースは沢山ある。代表的なのはリャンカンを最後まで残した時だろうか。
例えば、{①③⑤}を持っている時にツモってきた牌で別の所に面子が出来て聴牌。{①}と{⑤}どっちを切ってもスジに関わる待ちになってしまう。これをモロ引っ掛け禁止だからリーチしてはいけない、というのはばかげている話だと思う。
……まあでも、その取り決めを完全に否定するつもりは無い。赤アリや赤ナシ、アリアリやナシナシといった風に雀荘によって様々な取り決めがあり、それはいわばローカルルールみたいな物だろう。特定の縛りによって唯一生まれてくるドラマというのもあるのだ、発想を柔軟に持たなければならない。麻雀の観念は千差万別なのだから。オカルトやらデジタルやら、もう沢山存在するのである。
ちなみにこの雀荘は、イカサマと過度な三味線を含む妨害行為以外は何でもありとなっている。もちろん従業員にも何の縛りも無い。
煽ってくるお客さんには煽り返すし、モロ引っ掛けも普通に使います。
う~ん、最高かな。
東2局
東家 配牌 ドラ{一}
{三八①③⑥⑦112東南西西}
午後三時過ぎを迎えた東2局。親番は自分である。上家と下家にはお客さん、対面にはエイスリン先生が座っている。
少し牌譜検討をした後、何かを感じ取った様子のエイスリン先生から半荘戦を誘われた。特に拒む理由も無かったので、空いた卓を見計らって面子を集め、そして今に至る。
トンパツに2000、3900のツモ和了をしたので今の自分はだいぶリードしているものの、対面に座る彼女はやる気満々といった面構えをしている。この和了はだいぶ速攻だったので判断するには至らなかったのだが、恐らく彼女にはもうオカルトが戻ってきている事だろう。
少し前までのよわよわ逆連対だったエイスリン先生はもう居ないという事だ。
ツモ{発}
持ってきた{発}を手牌の横に並べて考える。オカルト全開のエイスリン先生は、それはもう強い。
が、今の自分は彼女の致命的な弱点を知ってしまっている。
もし寸分の狂いも無しに徹底的に対策するならば鳴きまくればいい話なのだが、果たしてどうするべきか。
最終形がどうなるか、よく分からない配牌を眺めながら考える。
……まあ、その時になれば分かる話か。
適当に{南}を切って手なりに進める事にした。
手牌 八巡目
{三①③⑤⑥⑦⑨1236西西} ツモ{⑨}
ツモってきた{⑨}をすぐさま河へと送り返す。まあ重い手だったから、巡目が経ってもこんな物だろう。
対面のエイスリン先生からは既に中張牌が出始めている。まだ手出しはあるが、そろそろ張った頃なのかもしれない。
ヤミテンは怖いが、ある程度リードのある状況での親。一応アレがまた見えるので、少しぐらいは押してみたいところ。
北家 打:{②}
少し逡巡していると、上家に座っているお客さんが{②}を河へと捨ててきた。
あ、それ一番欲しい所ですね。
「チー」
{①②③}の順子を横に除け、不要な{6}を切り出す。
「...!」
そうすれば、対面に座っているエイスリン先生がぴくりと少し揺れ動いた様な気がした。
いやー、これは許してほしい。
三色と一通の両天秤に取れる{②}だ。どちらも喰い下がりがあり、鳴くと悲しい点数になってしまうが、和了りには近くなる。是非とも鳴きたい場面となっていた。
次巡
北家 打:{⑧}
すると、またもや上家がこちらの手牌の要所となる部分を切ってきた。
うーん、これはまあ……鳴いても良いかな……。
「チー」
手牌
{三⑤⑥123西西} チー{横⑧⑦⑨横②①③}
打{三}
出来たのは片アガリの一通。1500点。
やっす。
でもこれで一応聴牌だ。まあ流石に出和了りは期待出来なさそうなので、ツモ期待かな……。
「...!!」
手牌を確定させれば、何やらくぐもった声が聞こえてきた。
場所は対面からである。
手牌から顔を上げてみれば、顔を真っ赤にしながら小刻みに震えるエイスリン先生がそこには居た。
あっ。
「...!!!」
もしかしてエイスリン先生のオカルト、今の鳴きで消えちゃった感じですかね……?
ま、マジですか……。
「
小さく発された言葉の意味を解する事は叶わなかったが、雰囲気が語っている。
か、彼女は表情が豊かだ……。いくらダマにしててもこれでは聴牌状況がある程度把握出来てしまうだろう、ポーカーフェイスを務めるように助言しなければいけませんね。
うん……。
「リーチ」
そんな事を考えていれば、上家からリーチが入った。
河は么九牌が並び、特に目立った所は無い。恐らく普通のタンピン手だろうか。ならば裏次第では満貫にいってもおかしくはない。いくら親とはいえ、1500点の待ちが悪い手で押すのは難しいか。
素直にオリる事にしよう。
手牌
{⑤⑥123西西} チー{横⑧⑦⑨横②①③}
ツモ{西}
持ってきたのは一枚切れの{西}。
自分で持ってきた事によって、国士以外には絶対に当たらないほぼ完全な安牌となった。{西}を含め、手牌にあるのは全て上家に通っていない牌である。こういう時にリーチを凌げる手段を持っておく事は大切だ。安パイが増えるのを望みながらオリますかね。
打{西}
{西}を切る。流石にロンと言われる事は無かった。
当然だ。
「ノーテン」
「ノーテン」
「
「テンパイ」
かなり危ない牌を掴んでいたので、形式聴牌を取ることは不可能だった。
結果はリーチした北家のお客さん以外、皆ノーテン。供託を残したまま聴牌料合計3000点が流れていき、東2局は終わった。
「...♪」
対面のエイスリン先生が、ニコニコと満面の笑みを浮かべながらこちらを見つめてくる。それは牌を自動卓の底へと落としている時でも変わらなかった。
今の彼女の心情を表すのならば、コイツ散々鳴いておいてリーチが入れば途端にベタ降りしやがった──そんな感じだろうか。
や、別に彼女を虐めたくてわざとやっているワケではないのだ。
この鳴きが最善だと思ったから……だから自分は悪くない……。
……でも考えてみれば、わざとだと思われても問題は無いのか。
この雀荘は基本的に決められた麻雀のルール内なら何をやってもいい。
当然、鳴きまくってエイスリン先生のオカルトを消し去っても、ルール上は問題無いという事だ。もし負けられない戦いが有って、その中で対戦相手の明確な弱点を知っていたら──誰だってそれを実行するに違いない。
エイスリン先生は手加減を嫌う性格なハズ。ならばこれはむしろ……。
「
どうだ……?
どうなんだろう?
英語分からん。
東3局一本場。
「
ある程度打牌が進み、中段目を終わろうとしていた頃。
なんと対面から先制リーチの宣言が掛かった。相手はもちろんエイスリン先生である。
ロンツモ及び流局時以外において、初めての発声である。
彼女はリーチしないんじゃなかったのかと一瞬思ってしまったが、もうオカルトは切れてしまっているのでデメリットはほとんど無く、普通にしてくる可能性はあるという事か。
南家 エイスリン 河 ドラ{南}
{北①西⑨82}
{②東白発4横9}
彼女の捨て牌を一度確認する。牌の並べ方がガタガタできたないのはとりあえず置いといて、宣言牌の{9}はツモ切りだったのを確認している。
うーん、何か変な事でもしているのだろうか。
宣言牌が通ったのを確認すれば、屈託の無い笑みを浮かべながら供託の点棒を場へと取り出した。
うん、絶対何かやってますね。
自家(西家) 手牌
{二四五六八⑥⑦⑧⑨⑨778} ツモ{④}
引いてきたのは変な所。安全そうな字牌を抱え込んでいてもおかしくない状況なのだが、配牌及びツモでも全く来なかったのでこの形に至る。萬子は全て見えて無いので打ち辛いし、この持ってきたツモの処理も大変だ。形式聴牌は取りたい物だが、現実は厳しい。ドラも無いし、一向聴でも無い。
もし手牌にドラがあってツモが萬子周りの有効牌だったら、索子を勝負する形になるのだろうが……。まあ普通は通るだろう、状況が状況ならば押している。
しかし、直後の{9}のツモ切りリーチがなあ……。
待ちも悪いのでこれはオリ気味でいいだろう。
そして数巡後。
「テンパイ」
「
「ノーテン」
「ノーテン」
またもや流局してしまった。下家の親がエイスリン先生のリーチに対してやたら押して来ていたので、所在が見えないドラの{南}を抱えているのかと思ったら案の定対子持ちだった。しかも役ありで、かつリーチの現物待ちだったようでヤミテンを選んだらしいが、聴牌気配は濃厚だったのでなんとか振り込む事は回避できた。まったく、怖いですね。
まあそれはともかくとして。
エイスリン 手牌
{一二三九九③④⑤⑥⑦⑧68}
これはカン{7}待ちの聴牌。序盤の{8}切りは、{468}のリャンカンにくっついていた{8}を先に切り出した形だったのか。それでリャンカンが最後まで埋まらなかったので{4}を切ってリーチした、というワケか。いやでも、それなら一巡目待ってツモ切りリーチをした理由が分からない。
迷彩ならすでに十分役目を果たしている。このモロ引っ掛けカン{7}はかなり分かり辛い待ちなので、十分に出和了りは可能だ。一巡待つ必要も無い。
……考えられる理由としては、モロ引っ掛けを悟られるのを嫌った、そんなところだろうか。
古来よりリーチ宣言牌のスジは他のスジよりもかなり危ないと言われている。それは現に出てきているリャンカンの形の所為なのだが、この認識が全国的に広まっているのか意地でも宣言牌のスジは切らないという人は多い。彼女もそれを知っていて、一巡待ってツモ切りリーチをしたのかもしれない。
う~ん、でもツモ切りじゃあんまり意味ないような……。
宣言牌のスジでも出る時は出るのだから、ここはそのままリーチに行きたいところだ。それか、空切り出来る牌が来てからリーチか。
押せる手ならば、自分はこのリーチに{7}を切って放銃していただろう。これは優秀な待ちである。
「
渾身の策だったものの、巡り合わせによって不発となってしまったエイスリン先生は、目に見えて分かるほどにしゅんとなってしまった。
とても表情で分かりやすい子である。
南二局
溜まったリー棒を安手で和了った自分が総取りした以外は特に何も起きずに南入り。
そして二局目。再び自分の親がやってきた。
「ポン」
「
自家(東家)手牌 八巡目 ドラ{6}
{三四八②②④⑥⑥34789} ツモ{9}
毒にも薬にもならない{9}をくるりと回しながら頭も回す。対称なので、上下を入れ替えても牌姿は変わらない。
さてこの八巡目で一気に二人が仕掛けた。相手は下家に座るお客さんと、対面のエイスリン先生。この鳴きも彼女にとっては、初めてのものである。
自分が出した一枚切れの南を鳴いた下家が{赤⑤}のポン出し。それをエイスリン先生が鳴いて、{1}のチー出し。
やはりこの鳴きも、オカルトが消えてしまった今はデメリットなんて何も無いのだろう。何の躊躇も無く、打ち筋を変えてきたというワケだ。
これも何か秘策が有っての事だろうか。う~ん、分からない。
とりあえず少し様子見してみようか。
手牌 十巡目
{三四②②④⑥⑥⑥34789}
下家は河の具合から索子のホンイツなのはほぼ間違いないとして、エイスリン先生の河をよく見てみる。
エイスリン 河
{北九二白一9}
{南13③}
エイスリン 手牌
{裏裏裏裏裏裏裏裏裏裏} チー{横赤⑤③④}
字牌及び端牌が目立つ河だ。これが面前ならばタンピンなのだろうが、今の彼女は鳴いている。すると、ほぼタンヤオで間違いないだろう。
タンヤオドラ1が今の所見えているが、ドラは真ん中の{6}である。裏に持っていてもおかしくはない。となると打点はそこそこか。
手役がタンヤオならば么九牌は当たらない。それはまあ当然なのだが、問題は自分の手から何を切るかという話である。
手牌 十巡目
{三四②②④⑥⑥⑥34789} ツモ{⑤}
これで一向聴。まあ切るとしたら{②}か{⑥}辺りで、{②}を切ることになるのだが……。
エイスリン先生が聴牌している可能性も十分にあるので、ここで少し{②}の安全面について考えてみる。
下家のお客さんは{赤⑤}を切った後、続けて{⑤}をツモ切りしている。その牌をエイスリン先生は鳴く事は無く、次巡に手出しより{③}を切り出した。
もし{③③④}の形を持っていたのならば、下家の{⑤}を鳴くのが普通である。となれば、あえてスルーをしていない限り、この形から{③}を捨てるのは考え辛い。
これでおおよそ{②⑤}のリャンメン待ちは消える。するとカンチャン、シャボ、タンキ待ちが残る。
しかし、{①③}のカン{②}待ちはタンヤオが消えるので無いし、シャボ待ちは上家の捨て牌に現物として一枚切れで捨てられているので、こちらからは三枚見えている以上絶対に有り得ないと判断できる。
……まあいけるいける。
打{②}
「
手牌が倒され、対面から軽快なロン和了りの声がする。
えっ。
エイスリン 手牌 ドラ{6}
{五六七②⑦⑦⑦456} {横赤⑤③④} ロン{②}
「
ロン和了。マジですか。
エイスリン先生、なんと執念の単騎待ちである。
もし{③}を捨てずに{⑦}をアタマにすれば、リャンメン{①④}が出来るが片アガリ。チーで{④}を1枚使ってしまっているので、待ちは実質3枚となる。これは彼女から見た{②}の単騎待ちよりも1枚多い。
が、しかし{④}と{②}、どちらが出和了りし易いかなんて分かりきった話である。この単騎待ちは奇をてらったワケでは無く、十分に実戦であり得る選択肢だ。……というか選ばなければいけない選択だ。そもそも{①}を自分で持ってきたら目も当てられないのだから。
ううむ……何か策を使ってくると見せかけて、至極真っ当な和了りを目指してくるとは……。
「
点棒を受け取ったエイスリン先生は、それはもう溢れんばかりの気持ちの良い笑顔で答えてくれた。
……まんまとやられました。
自分は圧倒的トップなので3900程度では揺るがない点差なのだが、この3900という点数はかなり危険な数字である。
ダマでこの点数を張れば即リーと言われるほど、打点上昇幅が大きい。たった1翻増えるだけで3900が7700になるのだ、リーチせずには居られない。
今回のエイスリン先生は面前では無かったのでリーチ云々は関係ないが、後1つでも手牌に赤ドラが有れば7700になっていた。ここまで来るとミスでは許されない。
一応考慮していた事とはいえ、まだまだ自分も甘いという事なのだろう……。
親番は流れ、南3局となった。
◇
半荘戦が終わった。
3900の放銃はしたものの、最終的にはトップを維持したまま終わる事ができた。
「
しかーし。
勝った気がしない。まさかオカルト無しのエイスリン先生にしてやられるとは思っていなかった。
悔しいですね……これは悔しい……。
これは、発想の柔軟さが必要、という事を暗に示されているのだろう。普段と違う面子で打てば、今まで見えて居なかった側面に気が付かされるというものだ。
よく勉強になりました。次は絶対に負けません。無放銃でいきます。
「
勝負の熱が冷めきらない彼女を横目に、そう決意した。
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牌の切り方
それは彼女が最初に触れた麻雀が海外でかつて流行したアメリカ式の麻雀だったから、という設定にこの小説ではしています
アメリカ式では、牌を捨てる時に向きや並びを考慮せずに自由に捨てていいのです
他家が捨てた牌と重なってもOK
後で誰が捨てたのか分からなくなるのも仕様なのです
誤字報告ありがとうございます。
今日の雀荘業務が終了した。時刻にして午後五時程である。
あと数日で十二月に入るこの宮守の地は、やはり東北故に日が沈むのが早い。午後四時に近付けば空一面が夕暮れに染まり、ちょっとしたらもう辺りは暗くなってしまう。この節目がちょうど一年で、一番早く日の入りが来る頃だろうか。本格的に冬が来る一月でもこんなに早く日没にはならない。
「ああ、もうこんな時間か」
「この頃一日が早くて堪らねえわ」
流石に真っ暗闇になっても雀荘の営業を続けるわけにはいかないので、基本的に冬の間は短縮営業となる。
この辺は比較的街灯が多いとはいえ、それでも雪が降り積もった後の道を暗く視界が悪い中で、何の不自由も無く歩けというのは少し難しい話がある。そこで、来てくれたお客さんへの配慮という事で営荘時間の短縮が行われるというワケだ。
まあ真実は、ただ時短営業がしたいだけらしいが……。
「今回は中々決着がつかなかったな」
「そういえば、これどうすればいいんだ?」
だが今日は想像以上に半荘戦が伸びてしまった。
この雀荘では南4局が終わった時にトップが30000点以下の場合、西場へと入るルールを取っている。誰が30000点を超えてかつ、上がり止め有りの親の連荘条件を満たさないのならば、その場で終わるサドンデスなのだが、それはもう滅茶苦茶に長引いた。そのせいで営業終了時刻をがっつり過ぎている。
「あー……とりあえずそのまんまにしといてください」
副露して晒されまくった手牌と三段目までぎっしり詰まった河の処遇を聞かれたので、放置しといてと答えておいた。これからいつも通り洗牌を行う事になるわけだが、確かに一度雀卓に突っ込んで整列させておいたほうがやり易い。
でもラストがだいぶ過ぎてしまったし、お客さんには気にせずに早く帰って貰う事にしよう。
別に疲れたからさっさと帰れと暗に言っているわけでは無い。本当です。
「そうか。なら俺達は帰らさせてもらうわ」
「マスターお疲れです」
「留学生ちゃんも最後まで付き合ってくれてありがとうな」
ちなみに西入したメンツの中にエイスリン先生が居た。恐らく西場の押し引きの経験が無かったのだろう、最後まで攻めあぐねていた感じだった。自分は後ろから見ていただけだったが、西場は確かに難しい。ひりつく様な競りの局面が多いこの場は、一番己の自力が出る所だと思っている。
あまり高い点を必要とされない平たい状況となるため、鳴き麻雀になってしまう事が多い西場は副露後の手出しから最終形を逆算する河読みの技術が大きく問われるのだ。普段はなんて事のない1000点や2000点の和了りも決定打になりかねないのだから、押しと引きの観念も変わってくるというものである。
「
ぺこりと一礼をするエイスリン先生。初日ではぶっ通しで麻雀を打っても元気いっぱいだった彼女だったが、流石にその表情には疲れが見える。
ちりんと扉の鈴の音が響き渡りお客さんが帰っていくのを見届ければ、エイスリン先生はかすかな息を吐いた。そして洋服のポケットから真っ白い花柄のハンカチを取り出し、額に浮かんていた汗を拭っている。
「
思いのほか暖房が効いていたのか、それとも勝負の熱に浮かされていたのか。緊張から解放されたエイスリン先生は、水分補給をするために流れるようにサイドテーブルに置かれた紙コップを取ったが、しかし中身は切れていた。どうやらいつの間にか飲み干してしまっていた様だった。
水を採るのも忘れてしまうほど熱中してしまう人は、彼女に限らずお客さんにも多い。夏場の代名詞だけの存在の様に捉えられている熱中症だが、冬でも容赦無くなる時はなるので水分補給はしっかりと行って欲しいものだ。
「
そう思えば、飲み物を取りにいったのだろう、すたすたと紙コップを持ってドリンクバーがある方へと行ってしまった。
さて。一段落ついた事だし、片付けるとしますか。
手牌と山を崩しながら自動卓の底へと突っ込んでいく。
二人分の手牌を崩し終えた後、恐るべき光景が目に留まった。
河
{西北1中東白}
{①1⑨292}
{2⑨9} ※きたない
手牌
{三四六七八4赤5発④④} {横⑧⑥⑦}
先ほどまで順位を争っていた雀士の手牌と河が目に入ってくる。
生牌の発をしっかり最後まで止めてて偉いですね。
……じゃなくって。
どうしてこんなにも捨て牌が並べられた河がガタガタになっているのだろうか。
分からん。さっぱり分からん。
各段目の一番最初の牌──ここで言う{西}{①}、三枚目の{2}のような左端に来る牌を全員に見えやすい様にど真ん中に置く人も結構お客さんに居るが、それでも最後はきっちり整列させている。
なのにこの河はどうだろうか。牌の隙間が所々空いていて、全くと言っていいほど統一感が無い。
二段目の一番右の{2}なんかは結構酷い。もう60度くらい右に曲がればリーチの宣言牌になってしまう位には斜めっている。
ああもうだめ、辛抱なりません。
一段目の基礎の土台を横から押して綺麗に並べなおす。そうすれば牌が擦れ合う度に小気味良い音が鳴り響き、充足感を満たしてくれた。
ほんの数十秒間の工程を経れば、ほら。
河
{西北1中東白}
{①1⑨292}
{2⑨9} ※きれい
綺麗に並べられた河のお出迎えである。
うん、やっぱこれだね。
やはりきちんと整列してこそ、麻雀の河だと自分は思うのだ。
牌が纏まれば、同じく思考も纏まる。クリーンな思索と共に完成形の未来図を描く事が出来れば、とても幸せな事に違いない。うーん最高だ。
「
そんな事を考えていれば声がした。元を辿れば、紙コップを慎重そうに二つ持っているエイスリン先生がそこには居る。
心なしか引き気味だった。
「
すぐに変異に気が付いたのだろう、視線が綺麗に整えられた河へと向かっている。
言わずもがな、この席はさっきまで彼女が座っていたばかりの席である。
「
エイスリン先生は理解が出来ない、といった面持ちだった。確かに。
この後、普通に崩して自動卓の中に突っ込むので、整列させる意味が有るのかと聞かれたら全く無い。
なんでこんな事しているのだろう。自分で自分が分かりませんね。
「
エイスリン先生は未だ残されている下家の河と今しがた整列させられた河を交互に見ると、少し不満げな顔をしながら何かをこちらへ問うてきた。
直感で意訳を試みれば、なんか文句あるのかこのやろー、って感じだろうか。
……すみません、適当な事を言いました。
「
心の中で平謝りしていれば、しゅんとしたエイスリン先生が現れた。客観的に見て、自身の河がきたないのは彼女も分かっているのだろう。縦長に仕切られた京都の平安京の様な牌達を、その境目を辿りながらただ眺めている。
見せ付けるつもりは無かったものの、どうやら思い至らせる形になってしまった様だ。
うーん、どうしよう。
どうにも思考が纏まらなかったので、手前に積まれた山から一つ牌を取ってみる。特に理由は無かった。ただ何となくである。丁度崩されずに残っていたこの山は、ほぼ流局手前のツモ牌の山だった。確かエイスリン先生の上家が最後に放銃して終わったので、ここで持ってきた牌は彼女のツモである。持ってきたのは{6}だった。
残りツモも少ないけど{発}は切れないから、親の聴牌頼みで{④}の対子落としになるのだろうか。河を崩しちゃったので、情報は少ないが多分合っているハズ。
そんな事を考えながら、{④}を切り出してみた。
あ、やばい。
今のマナ悪の極みじゃないか……。
無意識にやっていたので途中まで自分でも気が付いていなかったが、ツモ牌を持ってきた時に小手返しを行ってしまっていた。
小手返しというのは、ツモ牌と手牌の右端を瞬時に入れ替えて手出しかツモ切りかを分からなくする行為の事である。戦略的にはかなり有効な行為なのだが、公式の対局などでは結構禁止されている事が多い。だいたいは何でも有りとはいえ、この雀荘でも小手返しはマナーとして、友人間での対局以外は制限されている。理由はイカサマ疑惑を誘発し易い行為だから、と言えば分かりやすいだろうか。引きヅモ強打なんでも有りの雀荘だが、これだけはアカン。
小手返しを使って出来るイカサマの簡単な例を挙げてみれば、
{一二三六七八九九④⑤⑥35}
こんな風カンチャン待ちの聴牌をしていたら、見事{4}を持って来て和了。役は面前ツモのみ。しかし、ここで小手返しを行ってツモと端牌を入れ替えると、
{一二三六七八九九④⑤⑥34} ツモ{5}
あら不思議。平和が付きましたね。
この牌姿ではほとんど点数に変わりは無いが、後一つ翻が増えれば点数が跳ね上がるという時には無視できない影響を及ぼしてしまう。まあ、和了り時にしなければいいだけの話なのだが、それでも面倒事がやってくる可能性はある。牌が擦れ合って、カチャカチャと結構煩い音もなるし。
そんなわけで、小手返しはここの雀荘では基本的に禁止されているのだ。
……で、なぜこんな不要な物を自分が覚えているかというと……。
手出しかツモ切りか、どちらとも分からせずに
いやー、恥ずかしい。穴が有ったら入りたい気分だ。
「
そんな風に過去の自分を省みていれば、何故かエイスリン先生はキラキラとした目でこちらを覗いていた。
まるで、教えてくれと言わんばかりの表情を伴いながら。
えっ。
いやいや、これを教えるわけには……。
「
流石に身振り手振りだけでは説明のしようが無かったので、翻訳アプリを使わさせて貰う。それが諍いの種に偶になる事を説明すれば、分かったという面持ちをしながら引き下がってくれた。
……まあ小手返しに憧れるのは分かる。たった数秒の、目にも留まらない程の速さを持った牌の交換。自分は確か、サマを糧として渡り歩く
でも今の御時世、これを学んでも役立つ事は無いかと思います……。
「
エイスリン先生が言葉を続ける。
翻訳アプリを見れば、もう一回牌を切って見てと書かれていた。
え、このまま切ると少牌になるんですが。
「
自動配牌卓を扱っているので親番で割とありがちな少牌という状況が頭の中で想起されるが、エイスリン先生は構わず切ってくれとこちらへ伝えてきた。
本能的な抵抗は有るが、先ほどと同じ様に{④}を河へ切り出してみる。対子落としだ。
う~ん? これがどうしたと言うのだろうか。
彼女に目をやってみれば、何やら関心を持ったという風だった。
一体何が琴線に触れたというのか、これが分からない。
「
エイスリン先生はそう言って、今しがた牌を切ったこちらの指を見つめていた。
牌の……切り方?
◇
いわゆる外切りと言われる牌の切り方を使って手牌を次々と切り出していけば、エイスリン先生は歓声に沸いていた。
これは一番使われる事の多い一般的な牌の切り方である。シンプルかつ見栄えが良いという事で、麻雀番組でもよく使われているものだ。確かにこれを身に付ければ、自然とガタガタな彼女の捨て牌も綺麗になる事だろう。
とりあえず彼女には後ろに待機して、ゆっくりと切るモーションを眺めて貰う事にする。
まずは初めから。
牌の上半分を親指と人差し指で軽く摘まむ様にして持ち上げる。ここのコツとして、少し斜めにしながら親指を牌の左端に掛けるとやり易くなるだろう。そして次に中指を牌の右端に付け、側面を回転させる。牌が上を向いたら親指を外して、今度は人差し指と薬指で牌を挟み込み、河へと捨てる。後はそのまま添えられた中指を使って並べられた牌の横へとスライドすれば、外切り終了だ。
一連の動作を翻訳するのは無理なので、指の動きだけを見て貰う事にした。本音を言うと、言葉で説明するのは日本語でも難しい。
「
席を譲れば、エイスリン先生は先ほどの動作を模倣し始めた。しかし、親指から牌を離す所で上手く持ち替えられずに手がぷるぷると震えている。
ああそこ、一番難しい所なんですよね。
自分も覚え始めは苦労したものだった。
「
何度も繰り返し、しかし持ち変える所で詰まってしまう。彼女はそれも気にせず、何度も捨てた牌を手牌に戻してきては、もう一度河へと切り捨てる。
麻雀は別に河の綺麗さが問われる競技では無いので、実力に関わってくる部分とは言えないのだが、それでも譲れない思いという物があるのだろう。とても熱心に切っては捨て、拾っては切り、を繰り返している。
やがて数十回と失敗を繰り返した後。
「
初めて綺麗に成功した。歪な河に、一際目立つ一輪の花の如く牌が綺麗に置かれている。
自分の目から見ても、澱みの無い流れる様な打牌だったと言えるものだった。
「
続けて同じ様に切り出すが、喜びも束の間、次の打牌は先程の様には上手くは行かなかった。
だがしかし。彼女が落ち込む事もなかった。
まだ人となりを完全に知る事は出来ていないが、麻雀という分野に限らずエイスリン先生は少し頑固な所がある。それが浮き彫りになったのだろう、貪欲さとも言えようそれは決して悪い事では無い。情熱に転化して表れた今回は、むしろ良い事だとも言える。成長を横から見ているというのも中々に良いものだと思う。
彼女が望むのならば、麻雀という枠組みの中で教えられる事は全て教えよう。取捨選択はあるだろうし、勿論彼女自身で行わなければならない事だが、今後の糧となる事を大いに願って。
……これではまるで麻雀の先生をやっている様な物である。どっちが先生か分かりませんね。
まあ、こっちは彼女の事を勝手に英語の先生扱いしているだけなのだが……。
……それはともかくとして。
【まだ実戦では使わない方がいいかな。試してみるのも止めた方がいいかも】
【
機械越しにその旨を伝えれば、エイスリン先生は疑問の声をあげた。
意識がそちらに向いているうちは、止めて置いた方が良いだろう。やはり麻雀という競技上、意識が勝負の本質とは別の方向へ向いてしまうのは好ましくは無い。
頑張って綺麗に牌を切ったけれどもそれがリーチ者の当たり牌でした、みたいなのが起きたらとても悲しい事になってしまうのだ。
無意識に切れる様になって、初めてそれは使いこなせる様になったと言えるだろう。
「
心の底から這い出た心理。それが翻訳を介さずとも、手に取るように理解できた。
分かる。
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エイスリン先生と麻雀ガチバトル①
鳴きが入ると他家の巡目とずれてしまうのです
翌朝。
朝食を取ってしばらくしたら、いつもの様に雀荘の開店準備を父と始める時間だ。
恐らく今日もメンツとして参戦するだろう、エイスリン先生を呼びに彼女の部屋へと行く。
それ故に彼女の存在は、常連客の間では周知の事実である。
もはや看板娘的な感じになってしまっているのだが、彼女はあまり気にしていないらしい。
麻雀を打てればそれでいいのだとか。エイスリン先生、雀傑である。
「
そんな事を考えながら扉をノックすれば、即座に開かれた。
快活なソプラノボイスが同時に──いや、それよりも前に。
どうやら部屋を出ていく寸前だったらしい。
「
両手の拳を身体の前にグッと握り、自信満々といった様子でお出迎えしてくれた。
語尾が弾んでいて、何やら
まさかオカルトだろうか。
思わずひりつく様な冷気に当てられた気分になった。冷涼な東北の暁とは別の類いの寒さである。
麻雀限定じゃなくて、平時でもこうして感じられるとは。
オカルトってなんだろう。
「
尽きぬ疑問に悶々としていれば、意気揚々としたエイスリン先生がこちらの腕を取って雀荘へと導いてきた。
今日はやたらと押しが強いですね。
「
足音と反発するリノリウムの床が、不規則で心地良い音を奏でている。
連れていくつもりが、逆に連れていかれてしまった。
◇
なるほど。
そういう事だったのか。
「
相変わらず自信に満ち溢れた様子で、ふんすと鼻息を立てるエイスリン先生。
自動宅の中で音を立てながら混ぜられていく牌の音へと、無意識の内に耳を傾けている。
今の自分は、彼女と同じ麻雀卓へと着いていた。開店一番に来てくれたお客さんを横に添えながら。
う~ん、朝一に打つのはいつぶりだろうか。
幾分まだ寒いので打つにしても暖房が効いてからにしようと考えていたのだが、どうしてもとエイスリン先生に言われて今の状況へと至る。
彼女とは幾度と無く卓を囲んで来たが、ほとんど着順は自分の方が上だった。オカルトが鳴きで消えてしまう可能性がある以上、和了れる時はさっさと和了るという鳴きを多用する現代の麻雀観念とはとても相性が悪く、ヒラで長く打たざるをえなかったという事が背景に有るのは明白だが……。
どうやらエイスリン先生のオカルトは消耗性らしく、一日の初めに打つ麻雀が一番効果を発揮できるらしい。
ここから導き出される彼女の意思は一つ。
お前をボコる(意訳)、と言う事である。
ふむふむ、なるほど。
「
ファーコートの毛皮の先を、愛玩動物の背を撫でているかの様な手回しで弄りながら。
どこかの民謡だろうか、やけに特徴的な抑揚が有る鼻歌を交えている。
まるでその先に佇む勝利の存在を疑ってはいない。
「
ほうほう、そうですか。
確かに彼女と初めて麻雀を打った時は、こちらは成す術もなくボコられてしまったのは事実。
だがしかーし。それはただただ調子が悪かっただけである。
麻雀というゲームは運に大きく影響されるもの。あの半荘戦ではツキが無かったのだろう、いわゆる無理ラスという奴である。
決してエイスリン先生のオカルトにいい様にしてやられたワケでは無いのだ。
なのに彼女はどういうワケか、勝てると思い込んでいる。余裕綽々といった様子でこちらへ笑みを飛ばしてくる。
ふ~ん。そうですか。
よし、もう許せません。
勝ちます。必ず勝ちます。
「という事を彼女に伝えてください。あと、一緒に煽りも込めといてください」
「え、いいのか」
都合よく英語が得意な客が同卓していたので、意思表示の為に通訳して貰った。エイスリン先生と初めて打った時に騒動の原因となったおっさんである。今日は平日だが、有給休暇でも取ったのだろうか。まあ、それはどうでもいいか。
いつもの様に四つの風牌を取り出し、卓の上へ不規則に並べる。
ふはは……簡単に勝てるとは思わないで欲しい。
「
最後に残った{南}の牌を掴み終えると、やたらと強気な面持ちのエイスリン先生が現れた。
彼女は{北}の牌を引いている。ラス親だ。
この雀荘ではオーラスの親に限り、和了り止めが出来るようになっている。
数千万に渡る膨大な対局量のデータを取っているネット麻雀によれば、この和了り止めを採用している場合、最終的に一位を取る座席は圧倒的に北家が多くなっている。これは別にオカルトでも何でも無く、目に見える形となって示されている確かな事実だ。麻雀を始めたばかりの初心を秘めた者達が集まる卓でも、何千戦を生き抜いた強者が集う卓であろうとも、それは統計としてはっきりと表れている。
代わりに親被りによる四位率もラス親は多いのだが……まあ、一位率に比べれば僅差みたいなものである。
そんな比較的有利な状況になりやすい北家を引いたエイスリン先生だが、果たしてこれがどう影響してくるのか……。
「
「
気合十分なエイスリン先生が挑戦的な笑みを浮かべた。
どんな事を言ったのか知らないが、煽りにも屈せず、未来に広がる勝利を依然として疑っていない。
ふ~ん。そうでなくては。
よし、さっそくボコボコにしてあげましょう。
◇
「
八巡目にして、対面に座るエイスリン先生からリーチがかかる。
自家(南家)手牌 ドラ{1}
{七八④⑤⑦⑨223456中}
先制リーチ。今日の彼女は鳴かれても全く問題は無いのだろう、容赦の無い宣言だ。
とりあえず、リーチ者である彼女の河を見てみた。
エイスリン 河
{東中西5四三}
{3横九}
う~ん……。
彼女の河はとても恐ろしい。鳴かれたく無い役牌の先切りはまあ普通なのだが、{四三}の両面ターツ落としがちょー怖い。
彼女のオカルトは未来先々のツモが見えてしまうモノだが、恐らく順子に成らないのが分かっていたのだろう、大胆に処理をしてしまっている。両面ターツが外された場合、普通ならば手牌には他の好形両面が残っているはず。すると、普段よりもスジが押しやすくなりそうだが……。
自家(南家)手牌 九巡目
{七八④⑤⑦⑨223456中} ツモ{9}
厳しい。
というか、そもそも無理ですねこれ。ボコボコにするなんて言ってすみませんでした。
この巡目でドラ無し役無し二向聴。持ってきた無筋の{9}を何の考えも無しに押すような手では無い。一応頑張れば形式聴牌を取れるかどうか、という位だろうか。素直にオリ気味で回し打ちします。
「ノーテン」
「ノーテン」
「ノーテン」
「
中々に濃い河をしていたのもあって、皆リーチに対してオリていたらしい。
結果はエイスリン先生の一人テンパイである。
ノーテン罰符を徴収していく彼女を横目に、倒された手牌を確認してみる。
エイスリン 手牌
{七八九③③⑦⑦⑧⑧⑨⑨78}
メンピン一盃口確定役で、ドラ表示牌とはいえ高目三色の恐ろしい待ち。
彼女の傾向からしてダマの選択肢も有る手だが、どうやら理想は高いらしい。
東発、そして裏やツモなどの要素が入れば跳満も十分に視野に入る手故に、勝負に打って出たというワケか。ふむふむ。
それはともかくとして……。
自家 手牌
{六七④⑤⑥⑨2246699}
伏せた手牌をこっそり起こし、少し眺めてから麻雀卓の底へと流し込んだ。
リーチ後一発で掴まされてたのか。全く、怖いですね……。
上家と下家がどうだったのか知る由は無いが、自分だけでエイスリン先生の和了り牌を四つも止めてしまっている事になる。ツモられなかっただけ運が良いのか、それとも彼女の運が悪いだけなのか……。
まあとりあえず、上家の親が流れたので次は自分が親番だ。
東2局一本場。
自家(東家)配牌 ドラ{8}
{一二四五七七①③24南中中} ツモ{中}
ドラが索子なのが少し残念だが、なかなか配牌は良い。
そして第一ツモで{中}の暗刻の出来上がり。これはもう混一色まっしぐらの手だろう。
対面に居るエイスリン先生も心なしか、少しムムっとなっている様な気がする。
この対局はだいぶ席順に助けられているとつくづく思いますね……。
彼女の平時での打ち筋を見るにどんな場合でも和了り一直線で、まだ『絞り』の概念をどういうモノかあまり把握していない様に見えていたが、上家に座られていたら流石に萬子と字牌を絞られていたかもしれない。ペン{三}辺りは鳴かないとだいたい厳しいのだから。
打{①}
端牌から打ち出していく。最初はこんな所で良いだろう。いずれ染め手だと全員にバレバレになるので、出来るだけ情報は隠しておきたい。
手牌 九巡目
{四五七七九⑨東南中中中} チー{横三一二}
打{⑨}
急所のペン{三}を何とか上家から鳴いて、萬子と字牌だけに整理しきった形。
河があからさまに染め手だと公言しているので、そろそろ鳴くのは厳しくなってきたか。
それでも形は悪くないので、聴牌までには辿り着けそうだ。
ここで、場の状況を一度見直してみる。
上家と下家は切り出しと牌の並びからあまり早そうには見えないが……。
問題は対面に座っている彼女である。
エイスリン 河
{西赤5⑥4三①}
{91}
今回も河が濃い。
この中で、{⑥}{4}{三}{1}が手出しで、後がツモ切りである。中々に意味不明な切り出しだが、考えられる手役は一応ある。というか、七対子ぐらいしか無いのではないだろうか。
すると第二打{赤5}がツモ切りなのが少し不可解だが……。縦に重ならないと分かっているのならば、要らないのかもしれない。
手牌 十巡目
{四五七七九東南中中中} {横三一二} ツモ{①}
持ってきた筒子をツモ切りして河へと送る。
もしチートイだとしたら字牌はかなり危険になってしまうが、親でこの手はオリたくないものだ。{東}か{赤五}、もしくは少し薄いが、一通に関連する牌を引いてくれば満貫も見える。
……う~ん、エイスリン先生はもう張っているんだろうか。
張ってるんだろうなあ……。
手牌 十一巡目
{四五七七九東南中中中} {横三一二} ツモ{東}
次巡、{東}が重なった。ここで少し長考。
一応一向聴だが、手なりに進めると{南}が出ていく事になる。
この{南}は生牌なのだが……果たしてどうなるか……。
……ええい、考えていても仕方がない。当たるなら当たってみて欲しい。
いや、ごめんなさい。やっぱり当たらないで……。
打{南}
……
……どうだろうか?
対面に座る彼女を見やる。
「...!」
切られた{南}を見て、エイスリン先生はぴくりと反応したが、ロンの声はかからなかった。
ついでに下家に鳴かれる事も無かった。
よし、セーフ。いや~良かった良かった。
彼女の手組みの早さを鑑みれば、ここで余る{南}で当たってもおかしくは無かった。
巡り合わせが良かっただけなのかもしれないが、これで一歩前進である。
対面に座るエイスリン先生のツモ番。
持ってきたツモ牌を手牌の横に置いた彼女は、手牌とツモ牌を見比べながら少し考え込んでいた。オカルト全開のエイスリン先生はいつもあまり長考せずに牌を切り出すので、これはとても珍しい状況である。果たして一体何を思案しているのだろうか。
およそ数十秒。
だいぶ考え込んだ後ツモを手牌に取り込み、代わりに手出しを行った。
出てきたのは{東}。マジですか。
まさか一番欲しい所が出てくるとは思わなかったので、少し遅れてから鳴きを入れる。
手牌
{四五七七九中中中} {横三一二} {東横東東}
打{九}
他家から見てもダブ東ホンイツで満貫確定の仕掛けである。
う~ん、最高だ。{中}の暗刻があるので、もし{赤五}が引ければ跳満も見える。これはぜひとも和了りたい。
……それにしても、一体なぜエイスリン先生は{東}を出してきたのだろうか。オカルト発動中なら{東}の対子が有る事を知っているハズなのに、それを止めずに牌を切り出してきた。
この{東}は先ほどの{南}と同じく生牌だったので、あからさまな染め手をしている親には大本命の所である。ついうっかり、というのも考え辛い話だ。
だとすれば、何か深い意図が有っての事だと思うが……。
手牌 十三巡目
{四五七七中中中} {横三一二} {東横東東} ツモ{⑧}
次巡。
持ってきたツモは無駄ヅモ。何か怖いんですけれど……。
同じくこれも生牌だが……えっ、これチートイに当たるんですか?
いやいや、そんなまさか……。
そんなオカルト有り得ません。
エイスリン 河
{西赤5⑥4三①}
{91③②(東)1}
気になって彼女の河を見てみるが、印象としてはやはり怖い。
一枚目の{1}以降、{東}の手出し以外はツモ切りである。チートイ聴牌だとしたら、待ちを変えた事になるが……というか、{1}が裏目っていないだろうか。
うーむ、全く分からん。
……考えても仕方ない。もういいや、行こう。
たとえこの{⑧}が当たりだと分かっていても、この状況なら絶対押す。自分は今に至るまで、そうやって麻雀を打って来たのだから、今更変えろと言われても変えられないのだ。
エイスリン先生どころか他家にも危ない牌だが、ここは退けない。
打{⑧}
そっと牌を河へ置く。もしこれが当たり牌ならば気付かずに見逃してほしい、そんな意思を存分に込めながら。
……
その牌を見て少し下家に座るお客さんが反応したが、何もせずに次のツモを取りにいった。
鳴ける牌だったのかそれは分からないが、ロンの声はこの牌にもかからなかった。
……あれ?
手牌 十四巡目
{四五七七中中中} {横三一二} {東横東東} ツモ{六}
そのまた次巡。
「あっ、ツモ。4100オールです……」
普通に和了り牌をツモってきた。親の満貫である。
てっきり何かエイスリン先生に企みがあって、手のひらの上で踊らされているのだと思っていたが、特に何も起こらずにそのまま和了ってしまった。
あれ?
「
何やら気落ちしているエイスリン先生と他二人から点棒を貰うと、親の連荘が始まった。
思考が纏まらないまま、牌が自動卓の中へと流れ込んでいく。
一体、何が起こっているんだろう。
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エイスリン先生と麻雀ガチバトル②
看板を上げてからある程度時が経った頃。
室内に確かに効いてきた暖房のかすかな風を背中で感じながら、エイスリン先生の動静を探ってみる。
「
親満和了りからの二本場を荒牌流局してからの三本場。
じゃらじゃらと小気味良い音を遠くに、彼女はあからさまに肩を落としていた。
その様子を麻雀で言う一番身近な現象で例えるのならば、ペンチャン89を払った瞬間に7を持ってきた時の様な、何とも言えない寂寥感──いや、筆舌に尽くし難い裏目の侘しさだろうか。
適当に言ったが、詳しくは分からない。
が、とりあえず気落ちしているのは事実である。
ふーむ。どうしたものか……。
今の彼女は精神的にブレている状況なのは違いない。
近年、メディアなどで『麻雀とは一打一打に精神的な攻撃要素を伴う競技だ』なんて大々的に謳われているが、そこまで大げさな話では無いと自分は思っている。麻雀の打ち筋、という物がそこに大きく関わってくるからだ。
麻雀の打ち筋──それは人それぞれであり、ここで言うオカルトがその支柱となっている人も居るが、最後まで突き通せる事が出来る人はなかなか居ない。慣れていなければ、まず精神的な部分でセオリーが崩れ去る。
一番に想定出来るのは負けが込んでいる時だろうか。
いわゆるキレ打ち……とは少し違うだろうが、意図しないノイズによって場況の適正な判断が出来なくなっているのは同じだ。
麻雀において冷静さは絶対のものである。技術がどんなに優れていても平常心を保てなければ無用の長物であるし、どんなに運が良くても突っ張れる意思が無ければ途中で崩れてしまう。
強者は雀力は当然、得てして精神的強者でもあるのだ。そこそこ麻雀を嗜んだ者なら誰しもが一度は経験した事があるだろう、東発で親倍追っかけリーチに振り込んで絶対絶命の0点スタート。そんな絶望的な状況でも、強者ならば決して諦めずに何度でも蘇ってくる。鳴いて早和了りをしてリーチ供託分を稼いでしまえばもう止まらない。最善の手組みを一筋の光明に
これがどれ程までに恐ろしい事か。オカルトもデジタルも関係無い、ただの心の持ちようだと言うのに。
色々考えてみたが、要は一局に一喜一憂するのは良いけれどもいつまでもそれを引き摺るのはいけない、という事だ。
「
依然として今のエイスリン先生の打ち筋を何が揺るがしているのかは分からない。それならば、自分は彼女に発破を掛けるだけだ。そうでなければ張り合いが無いというもの。
問題は今が対局中で、言葉のキャッチボールが難しい状況だということだが……。
よし決めた。
秘蔵の一発芸を華麗に決めて、彼女を迷わす暗雲を晴らしてあげましょう。
◇
東二局三本場。
自家 配牌 ドラ{中}
{二九⑥⑦469南西北北白白} ツモ{四}
ドラが役牌な以上、面前では少々速度が厳しそうな三向聴の手だが、役牌とオタ風が配牌で対子。{白}を鳴いた後にリーチを受けても{北}があるので守備力には問題無い。とりあえず連荘したいので、{白}が序盤に切られれば速攻を目指す事にしよう。萬子以外が和了りの待ち牌に成れば、だいたいはアレが出来る。
昔、雀荘の営業が終わってから夜な夜な練習して、誰にも見せる事無く燻っていたあの芸を、お披露目する事が出来る。う~ん、反応が楽しみだ。
六巡目 手牌
{⑥⑦⑧34北北} {横三二四} {白白横白}
前々巡に{3}くっつきの聴牌。待ちがとても素晴らしい。場況良い悪いでは無く、{34}の盲牌し易いリャンメン待ちが最高だ。
早いリーチは14ソーと言われる位には{23}の{2}は彫りが特徴的で盲牌が一番簡単な牌である。逆側の{5}は初見では少々{⑤}辺りと勘違いしがちだが、そこら辺は慣れているので問題は無い。
ツモ山に手を伸ばす。持ってきた牌は見ずとも分かる、とても分かり易い牌。
自分は次にツモってくる牌が何か、完全に分かるといった全雀士垂涎ものの特殊能力は無いので、予め勢いを付けるといった事は難しい。意気揚々と格好付けて持ってきたのが違う和了り牌だったら、目も当てられないほど恥ずかしいし……。
でも、それが確定した後なら真似する事だって出来る。
よし。一発芸──いきます。
「...?」
「ん、どうした?」
山から牌を掴んだまましばらく
局の合間に行われている不自然な動作に、同卓者が不審がっているが気にしない。
必要なのは3つの要素。一つは牌に与えられる力。それは放つ距離に相関関係を持っている。遠すぎても近すぎてもダメ。
そして基点となる軸。出来るだけ軸を正確にし、慣性モーメントの量を減らさなければいけない。
最後にちょっとしたオカルト。これは成功すれば自然と付いてくるので何の問題もない。
準備は完璧だ。
「...!」
「……?」
対面に居るエイスリン先生はその異変に既に気が付いていた。やはりこういう系統に足を踏み入れている以上、察知が早い。
牌を掴んだ手が、緩やかな風を纏い始める。
「ん……風が吹いてるな。暖房のか?」
「それにしては、少し冷たい様な」
「...!!」
それはやがて強かな風へと変貌を遂げた。うねるような風では無く、寂れた東北の軒にするりと入り込む隙間風でも無い。一点から放たれる確かな風。
空気が、空が、変わった。
「いや、これは……」
「この風はッ……!」
ここまで来れば対面に座っているエイスリン先生だけでは無く、横に座っている二人も出処を感知した様だった。
幾分、今日は風が騒がしい。
宙を舞うその風の勢いを殺す事無く、真上から。
緩やかに、それでいて確かな力をもって。
「ツモ」
擲つ様に、真下へと。
確かな軸を持たせ、横移動しない様に。
そして、既に吹き荒れるまでに成っていた暴風の力を伴いながら。
目一杯に回転させる。
{⑥⑦⑧34北北} {横三二四} {白白横白} ツモ{2}
レースカーのホイールの様に。もしくは、ヘリのテールローターの様に。凄まじい速度で、牌が卓上で高速回転する。ギュルギュルと音をたてながら、緑色の円を描いている。不可視なはずの風が、空を切る様に漂っている。
揺蕩う小さな雷雲が牌の周りを泳ぎ、放電した。
「800オール」
手牌を倒しながら右手を前に出し、強風を卓全体へと
瞬間風速およそ、20m/毎秒以上。台風並みの風が、嵐となって巻き起こった。身体は吹き飛ばされ無いにしても、真正面から顔を背けずに風を受け止めるのはほぼ不可能だろう。
「
「ちょっ……」
「ヅラが飛んじゃう!」
皆が一様に、腕で波を堰き止めようとした。しかし、間から入り込む水流の様な風が、それを執拗に阻止してしまう。そうなってしまえば、ただ流されるまで。
「...」
波動を複数回に分け飛ばした後、牌の回転が止まる。やがて、吹き荒れる風が止んだ。
牌の向きは……よし、ちゃんと手牌と一緒の向きだ。
トルネードツモ。ソレが自分の秘蔵していた一発芸である。
ふふん、どうだろうか。驚いただろうか。
「
「どうやって風出してるんだよ……」
「……糊がちゃんと効いてて良かった……」
同卓者の顔を見やれば、答えは火を見るよりも明らかだった。よしよし。磨き抜かれた匠の妙技にしっかりと恐れおののいていますね。久しぶりにやって見たが、成功して良かった。どうやら腕は衰えていないらしい。
「どこでそんな変なのを覚えて来たんだ……」
風でよれた服を整え直したおっさんが、呆れた様な表情でこちらへ問いかけてくる。むむ、変なのとは失礼な。
先程披露したこのトルネードツモは、元は公式麻雀プロリーグの下位クラスに所属していたとあるプロの持ちネタであった。
まだ見ぬ新世界。時はおよそ、麻雀を知って間もない昔へと遡る。
それは、午後の昼ドラを眺めるかの様に、適当に人気の無い二軍プロ達の試合を何となく見ていたころ。
己の目の前で確かに巻き起こったのだ──
見え見えの混一のみ、いわゆるバカ混を和了ったとあるプロ。負けが混んでいる中、久方ぶりの和了に狂気乱舞したのだろう、過剰だと審判に止められるまで、相手を威圧する程の暴風を垂れ流しながらトルネードツモを行っていた。
その傍若無人たる姿や、当時の自分は強く惹かれたものだった。
何度も1シーンを再生した後、その芸を何とかして盗もうと、あらゆる記録媒体に保存しながら、過去に遡って360度全てを解析した。解析をしながら、自分も同じ所作を繰り返した。
そんなくだらない特訓をする事早一年。
何とか取得する事は出来たものの、麻雀の上達に全く関わらない事柄だと知り、正気に戻った。
そのプロはいつの間にか実力を悟ったのか、プロを辞めていた。
悲しい。
「変な方向に努力してるんだなお前……」
いわゆる和了演出というヤツだが、プロの上位層は余りやろうとはしない。理由は簡単、やり過ぎるとウザがられるからだ。単純明快である。映像映えするんだけどなあ……。
一度だけ、公式の上位対局でキレた選手同士で戦争が勃発した事が有ったが……いや~、あれは凄かった。
もはや魑魅魍魎と言ってもいいだろう、八百万の神を召喚しながらバトルし合うのは流石に真似出来ない。
「
渾身の技を見たエイスリン先生は、落としていた肩を元に戻していた。
そして、にこやかに笑っている。
「
彼女を見やれば、一発芸は中々に衝撃的だった様で、もはや気落ちした様子は見られない。どうやら奮起したみたいだ。
いや~良かった、良かった。
「お、おい。少しは出す風を自重しろ……また留学生ちゃんに同じ事繰り返すのか……?」
が、しかし。
長年の成果の結実に唸っていれば、下家に座る英語おっさんから咎める様な目線と共に誹られた。
えっ、どうして。今回は何も悪い事はやっていないのに。手加減も何もしていない本気モードですよ。
「よーく見てみろ……」
「見てみろ、と?」
おっさんに言われるままにエイスリン先生の方へと視線を飛ばす。
ふむ。見たところ、少し髪がほつれている以外普段の彼女と変わらない様な……。
うん?
「風が強すぎだ馬鹿……」
対面に座るエイスリン先生は、丁度風下の位置にあたる。どうやらそのせいで強風が直撃してしまった様で、彼女の自慢のブロンドヘアは少々纏まりを無くしていた。整っていた筈の髪、その所々が乱れてしまっている。
あわわ……。これ自分のせいですね。
「
ぼさぼさ髪のエイスリン先生は、何やら吹っ切れたという表情をしながら牌を自動卓の底へと流し込んでいく。
「
底知れぬ威圧感の元、彼女が声をあげれば、止まっていた時間が動き出した。何かに恐ろしいものに強いられるかの様に、他家の手牌もせっせと卓の中へと仕舞い込まれる。一発芸は果たして成功したのか、それとも失敗したのか。どっちなのかは、分からない。
でも一つだけ、分かる事はある。
うーん……。怖いのです……。
「
自然由来では無い独特な寒さに打ち震えていれば、エイスリン先生に、早くしろと促された。
はい。
そういえば、まだ勝負の途中だった。
◇
東二局四本場。
「
エイスリン 河
{発19二①横⑧}
対面から一段目の早いリーチ。
自家 手牌 七巡目 ドラ{⑨}
{四五六④⑤⑨⑨34赤5688} ツモ{⑦}
河が強すぎて手牌構成が分からない……。恐らく順子手なのだろうが、巡目が浅く、他家の河から参考に出来る情報も限られている。
現物が何も無いので今は押すしか無いのだが、一応三色ドラドラの一向聴で、紛れもない勝負手である。かなりのトップ目なので無理をしない麻雀を打ちたいが、高速高打点の同卓者がいる以上、点差なんてすぐに返されてしまうだろう。稼げる時は出来るだけ稼いでおきたい。
通っている筋もまだまだ多くは無く、ダブル無筋以外の放銃率はそれほどでも無い。
が、ここで来たのはドラそばの{⑦}。通りそうではあるが、万が一という事もあるのでちょっと怖い。……{⑦}ぐらいは許してくれませんかね。
えいっ。
打{⑦}
「...」
反応を伺う様に、河へこっそり打牌する。
ロンの声は掛からない。
よし、セーフ。
ツモ番が回ってきた下家のおっさんは、そこそこ手が良いのだろうか、現物を切る事無く中筋の④を河へと切り出していく。
平和系のリャンメン待ちが多いエイスリン先生には、比較的筋が通り易いので有効な戦術である。
何とか凌ぎながら聴牌までは辿り着きたいが……。
「
しかし対面から聞こえてくる無慈悲なパッツモの発声。
そりゃないですよ。
親被りは満貫まで……。満貫まででお願いします……。
エイスリン 手牌 裏ドラ{⑧}
{五赤五六七八②③④⑦⑧456} ツモ{⑥}
「
手牌が倒される。
裏ドラ表示牌は{⑦}。メンタンピンツモ一発ドラドラで跳満。
跳満モロ親被りである。い、痛すぎる……。
め、メゲるわ……。
点差は今の所、こんな風になっている。
東2局4本場終了時
北家 お客さん :15700
東家 星川 :34300
南家 おっさん :14700
西家 エイスリン :35300
あれ、今の和了りで捲られてますね。
おかしいな、結構リードしていたはずなのに……。
「
ほつれ髪のエイスリン先生はトップ宣言をする。
それはもう、満面の笑みを浮かべながら。
「
ついでに勝利宣言もしている。翻訳を介さずとも雰囲気で理解した。
ま、まだ東2局が終わったばかりだし……。
適当に和了ればすぐにまた逆転出来る点差だから……。
「
エイスリン先生の掛け声と共に、じゃらじゃらと自動卓の中へ牌が押し込まれる。
だいぶ連荘したが、まだ東3局なのか。
とりあえず、これからの局の振る舞いを考えてみる。
残りおよそ6局。この中で良い配牌を毎度掴むか、他家に流して貰い、エイスリン先生に和了らせないのが最善。
うーん、難しい。
東3局 親 おっさん
上がってきた配牌を見やる。
速攻かそれとも面前か。
配牌
{一三七③⑧⑨147南西白発}
あっ。とってもすごい配牌だ。
よし、大人しくしていよう。
特殊タグで牌画像を回す事には成功したのですが、途中で画像が途切れてしまうばかりか速度も遅かったので導入するのはやめときました
咲の世界では、ツモった時のエフェクトは練習すれば誰でも会得できるものとする
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エイスリン先生と麻雀ガチバトル③
亀進行なのであります
九種九牌の流局もギリギリ出来ない様な配牌を貰った東3局。
当然和了れる筈もなく。
「ツモ。1000、2000ですね」
上家(西) ドラ{⑤}
{二③④⑤⑤⑥⑦} ツモ{二} {6横66} {横234}
上家に座るお客さんが速攻で仕掛け、手変わり前に単騎をツモって早和了り。
局は流れ、東4局へと成った。
親は、対面に座っている彼女である……。
東4局。
自家(西) 配牌 ドラ{⑨}
{二七八②③④⑥⑨2467南}
さて、どうにかしてエイスリン先生の親を流さなければいけないのだが……。
見たところ、普通に面前で行けそうな手なのが憎い話である。役牌トイツがあったら何も考えずに一鳴きするだけだったが、タンヤオを目指してこの手牌を鳴くとなるとドラは必ず出ていくし、片和了りが最後まで残ると辛い。
普段なら手なりでリーチを目指しているだろう、結構良い部類の三向聴だが、この場面では中々に選択が難しい配牌である。
とりあえず一段目のツモでどうなるか、判断してから決める事にしよう。
六巡目 手牌
{二三七八九②②③④2467} ツモ{3}
横に良く伸びたので面前で進める事にしたのだが、あまり気乗りはしない。
理由は自分の河にある。
河
{南中⑨⑥⑨}
ドラの{⑨}が対子である。何という事でしょう。もし未来のツモが見えていたとしたら、ここで絶好の立直が出来ていましたね。
……見切るのが早すぎと言われたら確かにそうなのだが、やはり使いづらい端牌は切りたくなるもの。うーん、悲しい。
まあそれはさておき、何を切ろうか。
手牌
{二三七八九②②③④23467}
切る牌の候補としては、一概にこれと言える牌は無い。
これだけでは判断出来ないので、相手の河も勿論考慮に入れる。
上家(南)お客さん :河
{西東白①⑤⑧}
下家(北)おっさん :河
{一西②⑦八}
対面(東)エイスリン:河
{西一二①中⑦}
{②}切りならば聴牌までの受け入れ枚数は一番多く、一応三色も狙えるが、愚形待ちになりやすい。{⑨}の雀頭があれば真っ先に切る牌だったのだが……。まあ、気にしてもしょうがないか。
となると、ターツオーバーなのでリャンメンターツ落としになる。{二三}、{③④}、{67}のどれかから選ぶ事とすれば、枚数や場況で優劣を付けていかなければならない。
正直まだ序盤なのではっきりとは言えないが、三人の河を見るに索子が高い。待ち牌を吸収されやすい、または初めから持たれている可能性が高い以上、{67}の待ちはあまり良さそうには見えないだろう。となると、索子を落としたくなるが……。問題は残り枚数である。
索子を切った時に残る、いわゆる亜リャンメンである{③④}は場況は良いものの、見えていない分での残り枚数が合計4枚しか無い。これでは殆ど愚形待ちと変わらないだろう。
萬子の方は十分に枚数が有るので省くとして、最終的には{③④}と{67}の選択になるのだろうが……。
う~む……。
手牌
{二三七八九②②③④23467}
打:{④}
こっちで、どうでしょうか……。
多分、合っているはず……。
とりあえず、目指すは先制リーチ。彼女よりも早く、リーチしなければ。
数巡後。
「リーチ」
下家(北)おっさん :河
{一西②⑦八1}
{1横五}
意外にも先にリーチしたのは、今まで蚊帳の外で燻っていたおっさん(英語が得意)であった。
リーチしても和了れずに流局したり、三位の競争相手から親被りを受けたりと散々な内容だったが、どうやらここで逆転の手が入ったのだろうか、力強く宣言牌を切り出している。
自家 手牌
{二三七八九②②23467北} ツモ{①}
対してこちらはターツ落としをして字牌を引き入れただけ。持ってきたツモ牌も比較的通り易そうだとはいえ、無筋は無筋。ここは素直に{②}落としでオリる事にしよう。
ちょっと前に持ってきた{北}は生牌。一時的に抱えておくだけの牌だったのだが、こうなってしまっては切り辛い。
おっさんにはぜひ、そのまま頑張って待ちを自力で引いてきて欲しいものである。
もし和了れば親は流れるし、親被りで点も削れるので、みんなハッピーに違いない(二名除く)。
最悪なのは、親であるエイスリン先生がリーチに怯まずに真正面から突っ込んでくる事だが……。
……普通に有り得る可能性である。
というか、オカルトの関係上そっちの確率の方が高いのでは無いだろうか。当たり牌をビタ止めし、リーチに真っ向勝負をしてくる……いや、リーチはせずとも無理やり形式聴牌を取られる事だってあるのか。
う~ん、やはりオカルト全開の彼女は恐ろしい。
「
「ノーテン」
「ノーテン」
「テンパイ」
リーチ後、特に何も起こらずにそのまま流局した。
聴牌宣言と共に、リーチ者の手牌が倒される。
おっさん 手牌
{四四⑥⑦⑧34赤5678北北}
宣言牌は{五}。おっさんは待ちをリャンメンに取らずにシャボでリーチしたようだった。高目の{北}ツモを狙い、枚数よりも打点を取ったらしい。
それはまあおいといて……。
エイスリン先生がノーテンだったのは驚いた。彼女のオカルトの都合上、意地でも聴牌を取って連荘してくると思ったが、結果は親流れ。
ラス牌の{北}を運悪く引いてしまったか、それとも単純に最後まで聴牌できなかったか。手牌が伏せられている以上こちらからは知る術は無いが、恐らく前者だと思っている。
オカルト中のエイスリン先生は打点が高いだけでは無く、鉄壁の守備力を持っているらしい。
これはかなり厄介だ。
いわゆる一般的な麻雀。そこでは、高和了低放銃のプレイスタイルが基本的には推奨される。だいたい和了率と放銃率の差が10%あれば優秀な打ち手とされるが、オカルト中のエイスリン先生の場合、30%ぐらい有りそうな気がする。
こわい。
東風戦でもこんな数値は出てこないぞ。
……まあ、今はとりあえず、南入した事を喜ぼう……。
南一局一本場 ドラ{7}
「リーチ」
上家(東)お客さん :河
{白二西五⑦九}
{⑧八赤五⑤四九}
{発}
下家(西)おっさん :河
{白一6(発)八39}
{29⑦西三横北}
対面(北)エイスリン:河
{東中291三}
{六⑨⑧横③⑧}
下家のおっさんが安牌である{北}切りリーチをして、対面のエイスリン先生にまたもや追っかけた。
追っかけリーチというのは大抵ある程度の打点、もしくは良形の聴牌になっているものだ。
自家 手牌
{四五六②②②南南南⑨344}
対してこちらの手牌。ダブ南暗刻が目立つ手だが、二軒リーチに対して切れる牌は少ない。
オリ打ちするならば、ほぼ安全牌だろう南の暗刻落としをすれば何とか巡目が足りるか。
次巡。
手牌
{四五六②②②南南南⑨344} ツモ{北}
持ってきたのはリーチ者に対して完全安牌の{北}。かつ三枚切れの牌である。字牌を軽く縦に回転させてから、手牌の行く末を考えてみる。
一応聴牌出来る可能性も有るので、{南}を落とすのは完全に手牌の価値を見切ってからにしたい所だ。
18巡目。
上家(東)お客さん :河
{白二西五⑦九}
{⑧八赤五⑤四九}
{発⑨1八七七}
下家(西)おっさん :河
{白一6(発)八39}
{29⑦西三横北}
{東4七二}
対面(北)エイスリン:河
{東中291三}
{六⑨⑧横③⑧西}
{六1中白}
自家 手牌
{二四五六②②②南南南八34} ツモ{2}
自家(南):河
{西北東東白一}
{91北3九③}
{北⑨4東中}
残りツモが無い状況で、一応張る事には成功した。押した牌は無く、テンパイする為に切った牌は全てリーチ者に対する現物のみだったので、全体的に運が良かったのだろう。
それはそれとして、待ちの選択である。{八}は三枚切れかつ完全安牌なので、当然{八}を切って{二}の単騎待ちになるのだが……。
ここで一つ問題が発生する。現状、対面に座っているエイスリン先生が、ハイテイ牌をツモる事になっているのだ。
なんてこったい。
普段ならば南家である自分にハイテイが回ってくるのだが、下家のおっさんが捨てた{発}を上家のお客さんが鳴いていたのでズレてしまっていた。ハイテイでツモられると、もちろん御馴染みのあの役が付いてくる。
それを防ぐ為にも、上家から出てきた牌をどうにかして鳴くべきだったのだろうが……。敢えて自分はスルーした。
上家の{七}。これを鳴けば、リーチ者のツモ数は変わらずともハイテイをずらす事が出来たのに。それなのにも関わらず、鳴きを入れなかったのは聴牌への望みが残っていたからである。これは明確なミスだ。
今回は偶然有効牌を引き入れたが、確率が薄い以上、聴牌よりも鳴きを優先した方が良かった。
う~ん……こういうのが自分の弱い所なんだろうなあ……。
猛省である。
打:{八}
{二}の地獄単騎待ち。だが、そんな事よりもエイスリン先生にハイテイをツモられる方が怖い。下家のおっさんがツモる分には平たくなるのであまり問題は無いのだが……。
「これで俺のツモ番は最後だな」
おっさんはハイテイ一つ手前の牌を持って来ると、内側に傾けて逆さまにその牌を眺め始める。が、何故かすぐに疲れを吐き出す様に息をした。
「ここでコレを引いてくるか。ツイてないな……」
理由はすぐに分かった。
まるで諦めモードである。
打:{南}
嘆きながら牌が捨てられた。表を向いたのは生牌の{南}。
確かに、ここでこの牌を引いてきたら、おっさん視点では辛いものがある。
場風であり、かつここまで一切見なかった牌なので、当たる可能性は大いに有ると推測したのだろう。
しかし、今回は自分が暗刻で持っていただけなのでセーフである。
自分からは4枚見えてるんで、単騎にも絶対に当たらない。いや~良かったですね。
ん?
4枚見え……?
「
おっさんが捨てた牌をエイスリン先生が確認すると、少し間を開けて王牌と仕切られたハイテイ牌をツモろうとする。
今思い出した。
あかん、アレが出来るじゃないですか。
「カン!!」
ハイテイ牌に触れようとしたエイスリン先生の指がびくりと大きく振れた。
何が起こったのか、分からずに目を白黒させている。
だいぶ発声が遅れたが、ツモ牌に触れる前に鳴いたので一応成立である。
手牌
{二四五六②②②234} カン{南南南横南}
手牌から{南}の暗刻を倒し、副露をする。
まさか、点数がどうしても欲しいという状況以外で大明カンをする事になるとは思わなかった。
ハイテイ一つ手前の牌で大明カンをすれば、ツモってくる嶺上牌でハイテイ牌を王牌へと埋もれさせる事が出来る。
原理を知っていれば誰だってするなんて事のない話だが、いざその場面になると反応が遅れてしまうというものだ。
ふふん。ともかく、これでエイスリン先生にハイテイが回ることは無い。
「
当然これは滅多に起こり得ない例である。今に至るまでに遭遇した事が無いレアケースなのだろう、エイスリン先生は場の状況を上手く把握出来ていない様だった。
「大明カンとは確かに珍しいな。これで留学生ちゃんにはハイテイは回らなくなったのか」
対して、おっさんは一連の流れを見て何やら感心した面持ちになっていた。多分だが、おっさんも初めて遭遇する出来事だったのだろう。それはまあ良いとして。
なーに他人事みたいな顔してるんでしょうか。
「この雀荘で使ってるルールはコクマ(国民麻雀大会)のルールで、その中に責任払いっていうヤツが有るんですけど……」
「えっ、嘘だろ……」
大明カンをしたのは下家のおっさんからである。通常では、大三元や大四喜の最後の牌を鳴かせた人に発生する責任払いだが、どういう訳かコクマでは大明カンをして嶺上で和了した時にも発生する。
正直、存在意義を疑っていたルールだが、まさかこうして恩恵を受ける可能性が出てくるとは思わなかった。
もし和了れば、ダブ南嶺上で6400点である。酷い役だ。
「よし、じゃあリンシャン牌ツモりまーす」
「勘弁してくれ……」
一つ山から降ろされていた嶺上牌を手に取る。
おっさんには積年(一日)の恨みが有るので煽りを忘れない。
今なら地獄単騎もツモれる様な気がしてきた。
手牌
{二四五六②②②234} カン{南南南横南} ツモ{⑥}
あっ、はい。
知っていました。そんな簡単に上手くいくワケないって……。
「ノーテン」
「テンパイ……」
「テンパイ」
「
おっさん 手牌
{三四五①①③④⑦⑧⑨678}
エイスリン 手牌
{二三①①赤⑤⑥⑦555567}
結果はまたもや流局。東家のお客さんの親流れとなった。
って二人とも高打点良形テンパイなのに、よく流局しましたね……。
何もかもが紙一重な局だった気がする。
局は巡り、オーラスの南4局。
点数状況
南家 お客さん :23300
西家 星川 :31300
北家 おっさん :13900
東家 エイスリン :31500
供託を安和了りの速攻でお客さんが回収し、ラス争いから一つ抜きん出たぐらいで、点数差に大きな変動は無かった。
ラス親であるエイスリン先生はトップ目とはいえ、200点差。誰かにツモられれば、喰いタンの300・500でも席順の関係上、無条件で2位に落ちてしまう。ヘコんでいた筈のお客さんも素点が回復して来ているので、親被り次第では3位落ちの可能性もある。
この局は全速力で和了りに向かってくるだろう。
こちらも1000点の和了りだけでトップに成れる以上、速攻をしなければ。
自家(西) 配牌 ドラ{七}
{七九①①②③⑨38東東北発} ツモ{②}
さて、これは一体どうやって早和了りへと結びつければいいだろうか。少々難しい話である。
和了りトップのオーラス。対子の字牌がオタ風じゃなかったらどれほど和了り易かったか、そう安々とは行かせてくれないらしい。ツイてるかツイてないかで言えば、まあツイていないのだろう。
打:{北}
とりあえず、手なりで進める事にしよう。
「
エイスリン 手牌
{裏裏裏裏裏裏裏裏裏裏裏} ポン{横白白白}
打:{発}
一巡目にて、役牌の{白}をエイスリン先生が1鳴き。
そして役牌の発を河へと放った。オーラスなので、今まで使って来なかった鳴きを普通に解禁したのだろう。
切ってきたのは{発}で、こちらが重なりを期待していた唯一の役牌。これで1枚切れとなり、重なりと鳴きを期待するのは厳しくなった。う~ん、難しい。
でもこれが麻雀という物だろう。
そう自分に都合が良い流れになる確約も無いのだから。
自家(西) 配牌 ドラ{七}
{七九①①②②③⑨38東東発} ツモ{⑥}
やっぱり麻雀は運ゲーである。
6巡目 手牌 ドラ{七}
{七七九①①②②③④78東東} ツモ{9}
一盃口が狙えそうだが、二枚目のペン{③}待ちは場に筒子が高く、かなり厳しいか。
しかし、他にこれを切れば必ず良い結果になるという牌も無い。どれを選択するか、一打一打全てに裏目が有るというのだから難しい話だ。果たしてこれが、全雀士が納得する打ち筋かと言われたら、分からない。
打:{④}
8巡目 手牌
{七九①①②②③789東東白} ツモ{①}
{④}を切った後に{①}ツモ。{④}を切っていなければ、カン{八}待ちの役無し愚形聴牌だった。
とはいえ、ドラ傍リーチは流石に和了り辛いかもしれない。
やっぱり麻雀は難しい。
「ポン」
9巡目 手牌
{七九①②②③789東東} ポン{①①横①}
打:{②}
下家から四枚目の{①}を鳴き、ネックだったペン{③}の待ちを解消。そして、カン{八}の役有り聴牌。
「...!」
仕掛けの手出しを見た対面のエイスリン先生が僅かに揺れ動く。
1副露だが、チャンタ仕掛けなのがバレバレな河をしているうえに、{①}鳴きのポン出し{②}。
彼女に限らず、同卓者全員に聴牌だと間違いなくバレているだろう。
「
聴牌を察知したのか、鳴きを入れてくる。
エイスリン 手牌
{裏裏裏裏裏裏裏裏} チー{横二三四} {横白白白}
打:{②}
速度を合わせたのだろう鳴き。一向聴か、それとも聴牌か。
聴牌と仮定した場合、彼女の手が良形ならばこちらは待ちが良くない分、負ける可能性は高いだろう。
だがそれも麻雀が織りなす偏りではどうなるか分からない。最終的な結果は、和了れるか和了れないかの二つだけなのだから。
さて、和了り牌を迎えに行こう。
「ツモ」
手牌
{七九①②③789東東} ポン{①①横①} ツモ{八}
咲の世界では大明カンからのリンシャンツモにはツモ符が乗るみたいです
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レプラコーンの0面ダイス
ハメの仕様上英文がめっちゃずれるので、どうにか改行してみました
朝一の対局後。
雀荘もある程度人が集まり、面子の補充役として出る必要も無くなったので一休みである。
「
控室に置かれた簡易的なパイプ椅子の背にどっと腰掛けていれば、隣でエイスリン先生がホワイトボードに何かを書き連ねながら悩んでいた。
何を書いているのか割と気になったのでこっそり覗いてみようかと変な事を考えていれば、なんとなく察したのかそれとも偶然だったのか、彼女は描いたものをこちらへと向けてきた。
【{③⑥⑧249東942⑧⑥③} {一}】
それを見やれば、少し角が丸っこく描かれた麻雀牌達が出迎える。
形は七対子の聴牌姿に近い物だった。
前の対局で七対子張ってそうだと思う時はあったが、その時の手牌がこれなのだろうか。
なぜシンメトリーなのかは知らない。
「
エイスリン先生は真ん中に置かれた{東}を赤丸で囲み、少し悔し気に思いを馳せている。
んん、赤丸……? 牌が14枚有るが、ここで{東}を選ぶのは正解……という意味なのかもしれない。
「
怪訝な表情をしていれば、それが伝わったのだろうか、今度は{東}の麻雀牌に赤く
ああ、そういえば外国と日本では○×の意味合いが違うんだった。
『
そんなお国の違いを再認識していれば、翻訳アプリを通して彼女から問い掛けられた。
何切る問題だろうか。
えっと、確か東2局の対局だったかな……。正直な所、捨て牌は勿論だが、ドラが何だったのかももう覚えていない。ただ見え見えの萬子のホンイツをやってて、親満和了った事ぐらいしか記憶に残っていないのだが……。
……まあ、エイスリン先生が言いたいのは、この聴牌を維持するかどうかという事だろう。
それなら、簡単な話だ。
とりあえず、{東}と{一}以外の全てを指差してみる。
「
そうすれば、エイスリン先生は大いに戸惑ってしまっていた。
えー。
「
情報が少なすぎるので適当な事を言った感じもあるが、それでも親が染め手をしている中で生牌の{東}と染め色のどちらを捨てるかと聞かれたら、どちらも捨てないと答える人が多いだろう。親の染め手はだいたい5800スタートなので、それに対して待ちが被ってそうなチートイで突っ込むのは大損だ。万が一当たる可能性もあるので、聴牌への牌を通すことすら難しい。
……ああでも、彼女の視点からすれば両方が絶対に当たらない事が分かっているのか。
それはちょっと難しい話になってしまうかもしれない。
恐らく、オカルト中の彼女は一人麻雀をやっている様な感じなのだろう。
自分の和了だけを一直線に目指して、相手の当たり牌を掴んだ時だけオリる。それが彼女の麻雀というわけだ。
彼女が思っている何切る問題の相違。それが感覚の違いによる物だとしたら……。
うーん、ここはちょっとエキセントリックに。
そうだ。サンマをやってみるのも良いかもしれない。
『
そんな風にエイスリン先生に伝えれば、すぐに返信が返ってきた。
えっ、そこでサンマ?!と、内心驚いているに違いない。
突然何を言い出すのかとも思っている事だろう。自分もそう思います。
一般的に麻雀という単語が示されれば、それは四人麻雀の事を表している。ゴールデンタイムに毎日の様に放送されているプロ同士の対局は必ず四麻だし、全国の高校から猛者が集う男女別のインターハイも四麻限定だ。都会で頻繁に行われているアマチュアの大会だって、ほとんどが四麻らしい。もちろん雀荘でも四麻がメインだ。
三麻ことサンマは日の目を見ない変則麻雀なのである。世間一般でもこの認識は変わらない。
唯一ある程度の人口が確保できるネット麻雀でも、やはり勢いは強くは無い。
しかーし。
そんなサンマからは学べる物がたくさん有ると、自分は思っているのです。
奇を
それがまさに麻雀の核となる物であり、ステップアップに最適という訳なのであーる。
『
そんな事を熱意を込めながら翻訳して送れば、確かに伝わったのだろう、エイスリン先生は頷いていた。
いやあ、良かった良かった。
しかし、すぐにサンマをやる、というのは難しいか。あまり賑わいが無い故に、大衆が打つコクマの様な麻雀として大まかなルールが決められておらず、様々なローカルルールやハウスルールがサンマでも多いのだ。
とりあえず、一番良さそうなルールを熟考して探してくる時間が欲しい。
申し訳ないが、エイスリン先生は少し待って貰う事になるだろう。
『
あまり一般的では無い三人麻雀。それをどう上手く調理できるか。
う~ん、今日は眠れないな。
◇
それはそれとして。
「
勝った。
先ほどの対局、オーラスにエイスリン先生を捲って見事、一位に躍り出る事ができた。反省点は多々あったものの、中々良い結果が出せたのではなかろうか。
オカルト中の彼女には初顔合わせでボコボコにされたので、これでリベンジを果たした事になる。
「
彼女は負けず嫌いな性格なので再戦を申し出てくる可能性も有ったが、しかしオカルトパワーを使い果たしてしまったのだろう。
見て分かる程に力が抜けた姿で簡易テーブルへと突っ伏している。これでは対局しても、相対するのはよわよわになってしまった彼女だけだろう。
「
そして、見て分かる程に悔しがっている。なるほど、全力で臨んだ試合が上手く行かず心残りな様子らしい。
ふふん。悔しい……ですよね?
……まあ煽りは置いといて。麻雀という物は、実力が介入する部分はある程度存在するものの、第一に影響されるのは運。
エイスリン先生はまあ、運が悪かっただけだろう。もうちょっとばかり命運を決する天秤が彼女の方に傾いていたら、こちらが負けていたかもしれない。やはり麻雀は運ゲーなのだ。
勝負は時の運、と言うのは少しばかり強い言葉だが、己の雀力を示しとなる安定した平均順位を出すには試行回数が足りなさ過ぎるのは事実。数局打っただけでは、上振れと下振れで大きな差が出てしまうだろう。
止まるのに時間がとても掛かるサイコロを回している様な物である。数百……いや、数千局は打たないと明確な指標として収束する事は無いだろう。気が遠くなる話だ。やがて一喜一憂する気力も無くなってしまうかもしれない。
感情無しにただの麻雀を打ち続けるマシーンには成りたくないものだ。
「
そんな事を考えてみれば、心ここにあらずといった様子のエイスリン先生が、視線の先にある設備品をじっと眺めていた。
ここ、雀荘の控室には様々な用具が置かれている。
否、放置されている。
彼女の目先には、様々な形のダイスがそこそこ大きい透明な容器の中へと入れられていた。
父が集めていた物なのだろうが、こうして雑に置かれているあたり、ただのジャンク品以外の何物でも無い。
「
いわゆる一般的なサイコロである6面ダイスに、何かのボードゲームに使えそうな8面や12面のダイス。
実用性が全く無さそうな奇数面である5面や7面のダイスもある。
これだけ集めればこの雀荘でも有用性が出て来そうなものだが、悲しいかな雀荘で使うダイスは6面限定である。まあ、自分で振る必要すらない自動卓がメインなのも多いけど……。
無理に使おうとするなら起家決めの時ぐらいだろうか。2つのサイコロを振った時に期待値では一番7が出やすくなるので、その分対面が親もしくは仮親になりやすい。ラス親がある北家を除けば、トビの心配が薄いうちに親の恩恵を受けられる起家が順位が良くなる傾向がある。これを不公平だと捉えるのならば、完全に公平になる4面ダイスの出番が出てくるだろう。
まあ、最初の風牌の掴み取りだけで良いと言われたら、4面ダイス君の出番はそこで終わりなんですけどね……。
「
エイスリン先生の視線の先。其処には①と②の二面しかないダイスがあった。造形としては細長い楕円を二つ無理やり組み合わせた様な形となっている。そこそこシンプルで、①と②以外が表にならない奇妙なダイスである。よくこんな物を最初に生み出せたものだ。二分の一を求めたい場合、間違いなく身近なコイントスで代用されてしまうだろうに。
世の中変人ばかりである。
「
そして1面ダイス。なんだこれ。
代表的な名前を言い表せば、メビウスの輪というヤツである裏と表が一体になってしまったダイス。まるで使い古してぐにゃりと形を崩してしまった輪ゴムの様だ。
もちろん1しか出ない、ジョークグッズである。事象は一つのみなのに、確率に任せる必要性は果たしてあるのだろうか。
これが分からない。
……ふむ、どうやら1から20までの全ての面数のダイスがあるようだ。
「
装飾として見ればそこそこ目を引く、七色を持つダイス達。実際に振られる事は生涯に無さそうだが、こうして見る分には鑑賞に値するだけの価値は持っていると言えるだろう。
そんな他愛も無い事を思っていれば、エイスリン先生は乱数を疑似的に発生させる装置達を見て、どういう訳か少しだけ考え込んでしまった。
「
そして、積まれた中から失せ物を探すようにしてそれらを見やった。
ゼロ、零……。それは、外国から来た何も無い事を表す単位元ではあるが、ごく普通に日本でも用いられている言葉だ、流石に聞き逃す事は無い。彼女が言っている事は何とな~く分かった。
しかし、意味は分からない。
0面ダイスって、それ完全に無じゃん。何を言っているんだ。
「
果たしてツッコミを入れるかどうか、そんな風に迷っていれば、すぐに後が続けられた。
「
エイスリン先生は色々なダイスが詰められた透明な箱から目線を外し、角に置かれていた普通の6面ダイスのセットを手に取った。合計4つ。
あっ、そんな所に放置されているダイスが有るとは……。陰に隠れてて気が付かなかったとはいえ、片付けが足りませんねこれは。
「
そんな事を思っていれば、エイスリン先生は掴んだダイスを四つ分、同時にテーブルへと放った。
「
すると、全ての面が赤い一つの点を伴って真上を向いた。
「
四つ全てが1になるのは確率にしておよそ1/1296。
ほう、中々の偶然ですね。
いや偶然なのだろうか。よく分からん。
「
エイスリン先生はゾロ目のダイスを一気に四つ掴み取る。
そして、どういう訳かこちらへと渡してきた。
んん? 一体どういう意味なのだろうか。
彼女の行動の意味も分からないし、当然の事ながら英語も理解できない。
分からない事だらけでちんぷんかんぷんである。
説明を求む。
「
途方に暮れた表情をいつの間にかしていたのだろうか、目敏くその様子を見付けたエイスリン先生は、何やら得意げな面持ちになった。
いわゆるドヤ顔である。
『
すると何を思ったのか、彼女は翻訳アプリを通して文面を送ってきた。早速読んでみる。
んん……バカと天才……?
どういう事なの……? 分からん、さっぱり分からん。
「
含みのあるエイスリン先生の言葉をどうにか解そうと唸っていれば、彼女はこちらの心情も知らずにすたすたとどこかへ行ってしまった。
う~ん、分かりません。お手上げだ。
やはり読解力もとい英語力は永遠の課題ですねこれは。
そんな事を考えながら何となく手慰みに、そのまま握らされていたダイスを振ってみる。
出た目の合計は14。
期待値通りの何とも言えない数値だった。
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何もなさそうで何かある一日
挿絵を貰うのは初めてなので嬉しいです!
世界的な人気を誇る麻雀というゲーム。それが持つ競技性は多少の──いやかなりの運要素に作用されてはいるものの、やはりその華やかさはどこも捨て難いらしい。
金曜日の朝。
ゴールデンタイムで放送されていた競技麻雀の対局が、この時間になってもテレビで再放送されていた。
ドラフトにより選出された強豪達を擁する各企業チームが、麻雀の頂点を目指して鎬を削り合うリーグ。目の前で繰り広げられているものを一言で表せば、まさにそれ以外の何者でも無いだろう。
聞いた事のある企業ロゴを全身にプリントアウトしながら麻雀を打っている姿は少し滑稽ではあるものの、古来より金銭的なやり取りを持つ事が多い麻雀の特異性が表れていると思えば、形や様式は変わっているが確かにその通りだと言える。
ただ……。
『くっ、捲くられたか! まさか、見えていたとはッ!!』
『ああ。まさにスケスケだ』
『チャルチウィトリクエ! 私を守って!』
『八百万の神々によって作られし神器──それが遍く大地を照らす……』
『私には聞こえる……捨て牌さんの声……』
『自動卓なのにも関わらず、どうしてここまで偏るの……? どうして流れが分かるの……ッ?!』
『想いが、声が、卓の中で唄っているの……』
『……まさか、自動卓の製造技研に携わっていたから分かるのかッ?!』
『愚問ね。さあ──産業の歯車に押し潰されるがいいわ……!』
やはりやばい。
テレビの中で巻き起こっているのは、超常的という言葉だけでは片付けきれない人智を超えた者達の戦い。確かリーグが開設されたばかりの初期は嵐を巻き起こしたり、火花を散らしたり、まばゆい閃光を放っていたりと、視聴側でもどんな麻雀か分かりやすかったが、今はもはや認識すらも超えている。
麻雀リーガー達がより洗練され、対局者同士のメタ的な要素が増えたというのも有るだろうが、やはり演出が凄く派手だ。実況及び解説の人も当たり前の様にその応酬を解説しているのも中々にやばい。
プロリーグも随分とコントラストが強くなったものだ……。
「
確かにそうだ。
横でテレビの対局を見ているエイスリン先生に同じく同意をする。
しかし何というか、プロ達が織りなす歌劇の様な物は麻雀のオカルトには全く関係の無いものに見える。
どういう事かと言うと、そのエフェクトが有っても無くても麻雀の結果は変わらないのでは?という話である。
いわゆる魅せる麻雀というものを彼女らは行っているのだろう。
テレビで行われている競技麻雀は、興行的な側面がかなり強い。選手同士の対局を直接放映しているのだけあって、やはり地味な麻雀よりも派手なものが好まれるという訳だ。
トップの順位点が一般的な麻雀よりも遥かに高かったり、トビが無かったりする所からもその傾向が読み取れる。トップラス麻雀、というのは言い過ぎかもしれないが、常にトップを目指し点差にあまり縛られない麻雀を選手たちに打って欲しいのだろう。
そんなトップ取りが偉いなか、一際目立つ暗黙のルールがある。
トップ争いの直接対戦の時は、超常的なオカルト現象を用いて激しい応酬を演出しなければならないというものだ。
視聴者的には分かり易い方が良いのだろう、ほぼ毎回の様にそれに従った先鋭的なオカルティズムが、卓上を優雅に舞っている。それも結構パターンが多い。他にも牌姿が把握出来る様に理牌がほぼ推奨化されていたりもする。勿論これにはデメリットも有って、触らずの14牌という格言がある通り{①②③④⑤⑧⑨245689白}の様な上下を変えても余り変化の無い牌が透けるという問題が生じてしまう。理牌読みの手段を聞けば現実的なモノでは無さそうに思えてくるが、そこそこの確率で当ててくる人はプロアマ問わず結構居る。とても恐ろしい。
それを防ぐ為に、上下を全て揃えてくれる自動配牌卓がプロリーグでは採用されているらしい。当然の事ながら普通の自動配牌卓よりもお値段が跳ね上がる。
これらはまあ、リーグの関係者達が現代のプロ麻雀のあり方を模索した結果かもしれない。
別にプロ同士の麻雀の対局は一つの場で行われるものではない。世界的な人気を誇るゲームな以上、様々な企業が、様々な連盟がその娯楽を擁しているのだ。チャンネルを変えても、色々な所で麻雀をやっている。
となれば、見栄えが無ければ視聴率が減っていくのは道理と言えるだろう。
「世知辛い話だ……」
「...?」
プロはプロ入りしてから、まず魅せる麻雀を身に付ける事が求められるという訳だ。その為に、よく分からないエフェクトを出す練習が各自負わされると言う。それらは別に、己の実力を向上させる要素には成らないのに。
プロも大変だ。
しかしまあ、そこで挫折する人は一人も居ないらしい。
苦心してプロに成ったというのも有るが、別に練習すれば限界はあれど誰にでも取得出来るものだからだ。
その辺に居そうな普通のリーマンのおっさんが、電影を纏いながら麻雀牌をツモる能力を持っていても、宴会とかで使うのかな、としか思わないくらいにその事実は浸透している。
めんどくさいものは、面倒くさいというのは変わらない。
それは確かな話だが……。
「
そんな事を思っていれば、テレビの中で繰り広げられるよく分からない現象を、少しキラキラとした目で眺めるエイスリン先生が居た。
言語を解さずとも、意味は分かる。まるで、昔の自分を見ている様だ。
「
なるほど、今の彼女はそれを習得する事を望んでいるのだろう。
それが一過性のモノなのか、それとも本気で思っている事なのか、彼女の本心を覗かないと分からない事なので勿論否定はしないが、しかし……。
『めっちゃ練習大変ですよ』
『
翻訳アプリを通して現実の厳しさ、もとい面倒臭さを端的に伝えれば、全くもってそれが実力の向上に繋がらない事を理解したのだろう、エイスリン先生はすぐに退き下がった。
彼女はリアリストなのかもしれない。
考えてみれば、自分が持っているツモった時に風を出す和了演出なんて、まさにその最たる例だ。
この一応オカルトとも言えようタダの一発芸が、一体何の役に立ったと言うのだろうか。横にいる彼女の髪をボサボサにした事しか貢献してないぞコイツ。これを取得するのに一年間掛かったというのに。
なんて空虚な一年なんだ。
『
そう書き記しながら、うんうんと唸るエイスリン先生。
やはり、麻雀というものは奥深い。
あれ?
◇
雀荘の手伝いというのは、毎日のように行っているものではない。父が店番になっていて、自分が足りない面子の補充役になるというのが多いが、別に足りていれば入る事も無いのだ。一人、二人で来る人は多くは無いし、三人で来る人はだいたい三麻を打ちに来ている。
今日は控え目の客足だが、ある程度纏まった人数の来店。自分の出番はほぼ無かった。
開店準備をとりあえず終えたら、お役御免という事になる。
という訳で。
久しぶりにネット麻雀をしてみる事にした。
リアル打ちが多い雀荘の従業員だが、別にネット麻雀を嫌っているというわけではないのだ。
『ツモ。ごめんなさいねぇ~w』
パソコンから全くもって反省をしていない、煽りを存分に含んだ発声が聞こえてくる。画面上では、何故か包丁持ったキャラクターが高らかにツモ和了宣言をしていた。
しかし、これは自分の和了では無い。
局が流れ、南4局オーラス。
自分は北家で、場に供託は無い。
1着目 南家 :52300
2着目 西家 :24200
3着目 北家(自分):14400
4着目 東家 :9100
南3はトップ目の満貫和了りであった。やりたい放題されて、かつツモられ損ばかりで3着目。横移動がある程度有ったのでラスでは無いものの、ラス目と点差もそれほど大きくは無いという結構最悪な状況である。1300オールは一応耐えるが、親なので普通に連荘される。
どうやら中々にツキが悪いようだ。
ネット麻雀というのはリアルとは違い、『オカルト』や他の事象に全く影響がなされない麻雀である。プレイヤーが介入出来る要素が何一つ無いのだ、故に完全な実力ゲーとも言えるし、完全な運ゲーとも言える。
最近は結構オカルトの波に浸されていた感じだったので、気分転換も兼ねて久しぶりにやってみたが、結果はこれだ。
いや、まだ1着は無理だとしても満貫ツモで2着を狙える立場だし、オリ打ちをする局面では無いのだが……。
「ポン」
「チー」
「ポン」
1着目 手牌 ドラ{⑧}
{裏裏裏裏裏} ポン{中中横中} チー{横867} ポン{⑧⑧⑧}
打:{七}
対面の1着目が序盤にして、{中}ポンに{8}のリャンメンチー。そして絞る暇が無いラス目から、ダメ押しの余った{⑧}のドラポン。バカヅキとも言えよう、トップ目の満貫確定3副露。
もう張っててもなんらおかしな話では無い、最悪に近い状況だ。
ラス目は当然の事ながらゼンツするが、こっちは満貫に振ったらラス落ちするから攻める訳にはいかない。
地獄といっても差し支えは無いだろう。
「
1着目 河
{1四④白七}
自家 手牌 4巡目
{三四五赤五②③346899白} ツモ{②}
打:{四}
2着が見えるそこそこ良い手だっただけに、心の中でさめざめと泣きながら現物の{四}を中抜きしていると、後ろから声が掛かった。
「
エイスリン先生が横へと入ってくる。意外な事に彼女は、今までリアルでの麻雀経験がそれほど無い代わりにそこそこネット麻雀の経験があるのか、見知ったような面持ちで画面を覗いていた。
だが、表示されている状況を見るやいなや、何ともいえない表情になってしまう。
この巡目にしてオリに徹しているというのだから、残念に思われても不思議ではないが……。
無理……ここから危険牌押すなんて、無理ぃ……。
まあでも仕方の無い事でしょう。麻雀というのはどこまで行ってもやはり運ゲーな以上、避けられない状況は幾らでもある。
1段目に高打点のダマに振り込む事とか、追っかけリーチに一発で掴まされるとか、それはもう思い浮かべるのが難しい程に理不尽な状況がたくさん。初めの頃はその度に一喜一憂していたが、今はもう何とも思わなく成ってしまった。心が摩耗しているのかもしれない。悲しいなあ。
「
果たして打ち筋を吸収しようとしているのか、まじまじと画面を見つめているエイスリン先生。一切のオカルトの要素が排除されたネット麻雀では頼れる物がデジタル以外無い以上、間違った選択をするのはご法度なのでこうして見られていると中々に緊張する。
が、ここはベタオリの局面なので、難しい押し引きは必要とされない。落ち着いていけば、大丈夫なはずだ。
『ちぇっ……残念』
上家が切った牌にドラを合わせ打ちしていれば、やがて河は二段目の終わりへと差し掛かる。
自家 手牌 12巡目
{一三五八③⑦⑦4699南発} ツモ{3}
ツモってきたのは一段目の終わりで切られた対面の現物の牌である。しかし安易にこれ捨てるのは許されない。
上家 河
{(中)白⑦八西8⑤}
{2五①⑧1}
対面 河
{1四④七七3}
{①北②白東西}
下家 河
{⑨中(8)(⑧)南④5①}
{⑨東北}
河をよく眺めてから、1枚切れの{南}を切り出した。
「
そうすれば、何やらエイスリン先生がその打牌に疑問を持っているような声をあげた。
多分、{南}がドラ仕掛けをした対面に通っていないのを危険視しているのだろう。親の現物の{3}を切るべきだと、そう思っているのかもしれない。
でもまあ、自分の打牌はこうだ。
そして次巡。
『へへ~、ラッキー!』
上家のキャラクターが、ツモ発声もせずに和了宣言をするというマナ悪の極みをしでかした後、手牌が全面へと倒された。
上家 手牌
{一二三①②③③③45678} ツモ{9}
ツモ・平和。20符2飜で400・700の安和了り。
何とかこれでオーラスが消化され、三着目に確定した。
他力本願ではあったが、何とか4位にならずに済んだ局面である。
まさに渾身のラス回避麻雀であった。
「
すると直前に自分が止めた{3}を見て、当たり牌だから止めたと思っているのだろうエイスリン先生はしかし、上家の安和了りを受けて何やら考えこんでしまった。
ロンなら平和のみなので1000点の放銃。まあ結果論の話だが、対面の現物である{3}を切っていれば、あの時点でオーラスは終わっていた。
しかし、そうも上手く行かないのが麻雀である。
ちょっと牌譜を見直してみよう。
気軽にいつでも対局を見返せるのがネット麻雀の強みだ。
カーソルを動かしながら南4局に合わせ、ラス争いをしていた下家の手牌を映す。
最後の巡目の手牌はこうだった。
下家 手牌
{二三四六七八九九④⑤455}
「
開いてみれば一向聴の手だったが、{3}が入り目、もしくは待ちになる形。
もうちょっと巡目が進んでいれば、これでロンと言われる可能性も十分にあった。まあ大抵はその前にリーチを宣言するが。
こういうオーラスやツッパてくる人が必ずいる状況では、ただ高打点者の現物だけに合わせていればいいというワケではないのがオリという行為の難しさを体現している。
今回はそこそこ切りやすい一枚切れの字牌が残ってたから良かったものの、そうでなければ割と何を切るか難しい場面だった。
自分が今しがた行っていたネット麻雀ではダブロンが採用されている。
もしちょっとだけ牌のツモが変わっていたら。タンヤオや赤が相手の手に入ってたら。どうなっていたかは分からない。
「
思わず危険牌の{3}を切りそうだったエイスリン先生は、結果にショックを受けていた。
まあでも、初めのうちは仕方の無いことだ。高打点確定で他家からマークを受けやすい人物の現物待ちというのは、やはり陥りやすい罠だ。
場況にその都度しっかりと気を配れるようになれば、きっと次からは気が付ける様になるだろう。
「
そこまではただ、修行あるのみである。
日進月歩。麻雀の上達に明確な近道は無いのだ。
それを心に深く刻み込んで貰う事にしよう。
「
「えっ」
エイスリン先生の精進を願っていれば、横から生暖かい視線が向けられる。少し呆れた様な面持ちも添えて。
えっ。
慌てて場況に気を配ってみれば、いつの間にかネット麻雀のホーム画面に飛んでいた。
そこには先程の対局で使っていたキャラクターが表示されている。セーラー服とうさ耳の様な赤いヘアバンドが特徴的な金髪の女の子だ。
や、これは……。
べ、別に……たまたま出たから使っているだけで……そういうワケじゃないんです……。
本当です……。
「
そう頑張って弁明すれば、後に続くのは何とも言えない雰囲気だけ。
どうしてこうなった。
「そうだ、もう一半荘打ちます……」
なんとなく。
その後、熱続行した。
天 江 衣
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今日の運勢トップは獅子座らしい
身近に有って、いつも何気なく目にしている物。
無いと果てしなく困る訳でも無く、ただそこに有るだけのモノ。
ある日突然それが失われ、何とも言えない喪失感に耐えきれずいざ補おうと思っても名前が分からない。
そういう類のヤツは結構ある筈だ。
『お前は今まで食ったパンに付いていた止め具の名前を知っているか』
『知りません』
「
雀荘が休みである土曜日。
何やら聞きたい事が有るエイスリン先生に部屋へと呼び出され、そして開口一番に問い質された。
比較的簡単な英語なので流石に聞き取れるが、しかし答えるのはとても難しい。
彼女が指差す先に有るのは、
別に初めて見たモノじゃない。プラネタリウムが定期的に開催されている市中の科学館の表玄関には、よくこれが飾られているし、そもそもこの家に昔から放置されているのをずっと前から知っている。
『いつも目にしてるあれ、バッグ・クロージャーって名前らしいぞ』
『知りません』
だがしかし、名前が分からない。ド忘れしたとかそういうのじゃなくて、どうやら最初から名前が何なのか、全くもって知らないらしい。
ナニコレ?
多分天体に関する物だとは思うのだが、英語名どころか日本語名も分からない。
『ちなみに埼玉県でしか製造されていないらしい』
『知りません』
ああ、もう。脳内に雑音が……ッ!
「
「だ、ダイジョウブです……」
先日だったか、それとも一昨日だったか。
客のおっさんから唐突に聞かされた明日から全く使えない知識が、どういう訳か今に至るまで物凄くインパクトに残っていた。それが恐らく、いつも目にしていて、それでいて名前がいつも分からないこの物体へと結びいたのだろう。勘弁して欲しい。
唐突に頭を抱えだすその姿は、どうみても異常者である。
折角、知恵を捻り出して考えようとしているのに。
冷静に……極めて冷静になれ……。
「そう、クールに……」
「
深呼吸をして……深くため息を付く。
エイスリン先生が変な物を見る様な目をしている。
よし、落ち着いた。
「アイムオーケー……」
「
ふむ。改めて観察し直して見よう。
何というか、この地球儀もどきは骨董品の様な気がする。外国語で言うならアンティークだ。こういう値打ち物には大抵、保証書というかタグ付けがされている筈だが……流石に古すぎてどこにも見当たらない。どうしたものか。
「
……よく見てみれば、何やら環状になったリングには【Zona Torrida】や【Zona Temp Settent】みたいに英語らしきものが書かれているが、エイスリン先生にも読めてはいない様だ。となると、派生した別の言語辺りだろうか。う~ん、分かりません。
こうなってしまえばもう、解決の手段は一つしか無い。
「文明の利器……もとい文明の力の出番だ」
ポケットからスマホを取り出して写真を一枚頂戴する。最近やたら扱う頻度が多い様に感じるが、便利なのだから仕方がない。
ぱぱっとグー○ル先生の画像検索に掛ければ、一発で結果が出た。
【
丁寧な事に画像付きで検索結果が出てくれる辺り、最近のAIは精度も愛想も良いらしい。
しかし渾天儀、ねぇ……。初めて名前を知ったぞ。
まあ日本語名はともかく、英語ではアーミラリ?スフィアと言うみたいだ。
「
検索結果画面をエイスリン先生に見せてみれば、得心が行った──という感じでは無かった。
う~ん、これは多分伝わっていない。こういう時は、万が一誤翻訳して間違った情報を渡してもアレだし、彼女自身に読み解いて貰う事にしよう。
幸運な事に、情報集積サイトであるインターネット百科事典ではこの渾天儀に対する解説、その英語版のリンクが存在していた。
いつの間にか直通になっていたSNSアプリを通して、彼女の元へとそれを送ってみる。
何も言わずに送ったので、エイスリン先生は唐突に来たメッセージに驚きはしたものの、すぐに続く先を読み始めた。
「
さすれば、興味のそそられる内容だったのか、傍から見て分かる程に熱心に読み始めていた。
果たしてどんな内容が書いてあるのか、こちらも詳しく知りたくなってくるが、残念な事に日本語版の内容は定義の説明が何やらあやふやな感じだった。
これはアレですね。数百万以上もの編集者が存在する百科事典でも、専門性が高い分野の場合、ほぼ英語版のサイトをまるまる機械翻訳して移し替えた物になってしまうんですよね。自分、知ってます。
エイスリン先生が今閲覧しているサイトは多言語対応とはいえ、やはり情報量は英語で書かれた物の方が多い。
たまーに調べ物をしていた時に、参照出来る日本語文が無く、(英語版)のみしか無かった時の心境や何度思い出しても泣けてくる。
「
しばらく経った後。
辿り着いた文面を全て読み終えたのか、納得した様な面持ちでエイスリン先生は頷き始めた。
『
そして、何やら変な事を翻訳アプリで送ってきた。
占星術師って、星座を使って占う人の事……?
突然何を言い出すんでしょうか、この人は。
『
何も言葉を返していないのにも関わらずムッとなってしまったエイスリン先生は、途端に踵を返すと、本棚の奥底へ仕舞われていた古めかしい本を頑張って取り出していた。
目の前に示されるは、
めっちゃ胡散臭い。
『
エイスリン先生は構わず、本棚から取った書物を横へ並べていく。全てが皆、英語で書かれていて自分には全く読めない物だ。
タイトルのイラストから辛うじて彼女の言う通り星座に関する物なのは分かるが。
『
この本が仕舞われている書斎は言わずもがな、祖父母が使っていた物である。確かにこうして星占いに纏わる本がたくさんある以上、親族に天文学にお熱だった人もいるかもしれない。
初めてこの家にホームステイしに来てから度々──いや、結構ガッツリ読んでいたのだろう、エイスリン先生は自信を持った面持ちで己の推測の正しさに唸っていた。
う~ん……。こうして見れば、祖父母の生前の人となりが何となく分かってくる様な気がする。
近くの物置とか漁ってみれば、星や天体を観測する為の望遠鏡とかも見つかるかもしれないですね。
明日から12月に入る。雀荘休業中はどうせやる事も無いので、遺跡荒らしに向かうのも一興というものだろう。
だがそうやって発掘物を見つけ星を眺めようにも、この所は連日雪模様。夜も小さな雪が降り続いて止まない。幸い翌日に雪かきが必要とされる程では無いものの、当然の事ながら降っている間は空は曇っていて、天に星々が見える事は無い。
「
こればかりはもう御心の機嫌次第でどうしようもない。願わくば、透いた満天の空が見える事を祈るばかりである。
◇
冬の寒気がそろそろ強まる頃。自動卓は余り耐寒性が無いため、使わない物は仕舞っておく必要がある。
パパっとキャスターに乗せて片付けた後、少しだけ喉が渇いたので控室で休憩を取る事にした。
気温の影響で何もせずともキンキンに冷えてしまっている水を喉へと通していれば、ふと疑問が思い浮かんでくる。
一体なぜ、エイスリン先生は占星術なんて物に興味を持っていたのだろうか。別に星占い自体は朝のニュースでその日の運勢が毎回占われる位には普及しているので、何となくだとしても変な話では無いが、あそこまで熱心なのは何か他に理由がありそうだ。
『
『
そんな取り留めの無い疑問を何となく聞いてみれば、しっかりと反応は帰ってきた。
『
『
いろいろたくさん。そんな風に付け加えながら、彼女は話を伝えてくる。
『
『
「
パイプ椅子にちょこんと座りながら、エイスリン先生は籠へ収められていた麻雀牌を眺めていた。
計136枚の牌が、縦横綺麗に整列させられている。
「
四角四面で堅苦しい程に敷き詰められたその麻雀牌達は、決して何が起ころうともその場で入れ替わったりなどしなさそうだが、現実の麻雀では違う話。因果が捻じ曲げられ、おおよそ薄い確率の現象がいとも容易く手繰り寄せられる。それはもはや偶然では表しきれないくらいに意図的で、恣意的だ。
それが何か、超常的な存在により引き起こされた物だと断定づけても、納得がいってしまう可能性があるのが、現実の麻雀の恐ろしい所である。
「
「
そんな風に思案しながら、再びこちらへ向き直ってきた。
途中で彼女の英語がリスニングに変わってしまったので、詳しい事は途中で分からなくなってしまったが、恐らく昔聞かされたおとぎ話にスピリチュアル的な思いを抱いているのだろう。それが今回、関連が有りそうな星々に繋がりの有る渾天儀を見て、想起されたというワケらしい。
う~ん、そんなオカルト有り得ません。
とは言えないよなぁ……。
テレビで行われている麻雀対局では目に見えて分かる形で物理法則を無視した牌捌きをしている人だっているし、神様の様な存在を召喚している雀士だって居るのだ。別にエイスリン先生が超常的な何かを星占いによって感じ取っても何らおかしくは無い。
彼女が言うオカルトとは一体何なのか。
その答えを導き出すのは麻雀で勝つ事よりも難しそうだ。
でも、とりあえず彼女自身の話は置いといて。いつかはこの宮守の宙に浮かぶ、澄んだ星空を存分に見上げて欲しいものである。
ここ最近、ほんとに曇りか雪しか降っていないので……。
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妖怪めぐりに行こう①
遠野物語の読解に時間がかかりました
12月の月初め、その第一日。
宮守の地からおよそ30分間の経路を経て、岩手県東部にある遠野へと辿り着いていた。
ここは前に時間の都合上、回ることが出来なかった場所。今日は雪も強く無く、絶好の観光日和だということで、行楽の決行日と成ったのだった。
「
前日の夜に僅かながら雪が降っていたのか、残雪が少し残るアスファルトの大地に、エイスリン先生がぽふりと車から降り立った。
今日は日曜日。丁度彼女がホームステイしに来てから一週間が経っている。およそ寒々とした岩手の地に慣れてきた頃だとは思うが、吹雪く程に強い豪雪は未だ訪れては居ない。一度空が曇れば、平均気温は氷点下へ達し、積雪は10cmを優に超える──そんないつもの冬が来る前に、彼女に観光案内を出来たのは僥倖だと言えるだろう。
「スタッドレスタイヤがちゃんと効いてて良かった良かった。例年に比べて、今年は雪が降るのが遅くて」
車のエンジンを止めた父は、特徴的な深い溝があるタイヤを見て、そう言った。通称冬タイヤである雪道用のこのタイヤは、土地の気候差は有るものの東北では一般的に10月の初旬から車に付けられ始める。やはり雪が降る時期が早い地域ではタイヤの交換時期も早いが、どういう訳か今年は雪がお披露目されるのがだいぶ遅かった。そういう事も有って、父は割りと心配だったらしい。
そこそこ毎年手伝わされる身としては、まあ分からなくも無い。
「
そうしていれば、遠野に着くなり彼等がお出迎えしてくれた。
独特のイントネーションが伝えている通り、この場所には河童ことカッパが多い。
ご当地マスコットキャラクターの看板にカッパ、建物の造形にもカッパ、石像や石碑にもいて、駐車場のコーンにも勿論居る。この遠野という土地はとにかくカッパが多い。街を見渡してみれば、必ずどこかにカッパに関連する物が存在する程である。
言わずもがな、ここは日本の民間信仰の中でも人智を超える存在が良く信じられている土地だ。
「
カッパと聞けば、緑色もしくは赤色の水生生物の様な身に、短い嘴と広い水かき。頭頂部にこれ見よがしに存在するお皿みたいななにか。そしてキュウリ大好き。
日本では殆どの人が姿形を見聞きした事があるだろう有名な空想上の生き物だが、どうやらエイスリン先生も初めて見る訳ではないらしい。アニメやら何やらで、デフォルメされた妖怪を見る事が有ったのだろうか、そこら中にいるその存在を、まるで己の記憶と照らし合わせる様にしてまじまじと眺めていた。
それにしても、いつ見ても特徴的な造形をしている生き物である。どう見ても実在しないと分かっている筈なのに、市が大真面目に捕獲許可証なんて物を発行しているのだから不思議な話だ。
「
エイスリン先生が、英語で書かれたパンフレットを手に取っている。最近、この辺りは観光業にも力を入れている様で、しっかりと多言語対応は成されているらしい。
しかし、こう大々的に捕獲賞金を押し出してくるのはいかがなものか……。
「
そんな事を考えていれば、エイスリン先生に何やら尋ねられた。
恐らく、カッパを探しに行かないのかと聞かれているのだろう。
う~ん……。こういうのは否定から入るとつれないヤツだと思われてしまうから、ノった方が良いのだろうが……。
「
ちょっと渋っていたのが表に出ていたのか、すぐに悟られる。
いや、だって最初から存在しないの分かり切ってるし……。
「
「
「父さん、二人は何を言っているのでしょうか」
「お前が、カッパ捕獲許可証持ってるのバラされてるぞ」
「ちょっ」
果たしていつの頃だったか。今となってはもう思い出せないが、そういう伝承や風土記における存在を信じていた時もあった。それがいわゆる、許可証という名残りである。
別になんて事は無い、遠野に関わりの有る子なら誰しもが持っている普遍的な物だ。裏表紙には、必ず生け捕りにしなくてはならないだの、釣りの際に扱う様な金具を使ってはいけないだの、中々に厳しいコンプライアンスを求められる文章が載っているヤツである。たとえもしカッパが居ても、これだけ厳格だったら取るものも取れないハズだ。
して、それは遥か昔に何となく貰っただけの物である。今は別に、使っている訳ではない。
「
「
「お前が、まだ使っているのバラされてるぞ」
「ちょっ」
そうしていれば、すぐにバラされた。
なんて事を……。
「
エイスリン先生は
これはあれだ、まだお化けなんか信じているのw?みたいな事を言っているのかもしれない。
いや別に、これを見せると遠野市では結構な所で商品の割引が効くから……。だから、持っているだけなんだ……。
まあ、宮守から遠野はそこそこ距離が有るのであまり使う事は無いのだけれども。
「という事を彼女に伝えてください」
「分かったわ~。
「
ちょうど近くに居た母に通訳を頼んで見れば、恐らくちゃんと真実が伝えられたのだろう、エイスリン先生は和やかな面持ちをしていた。
いや~良かった良かった。一時期はどうなるかと思いました。
「
そして、うんうんと頭を振って頷いている。
それはまるで、事のあらましを全て把握している時の様な感じである。
んん?
「通訳はいつの時代も度し難いな……」
「どういう事でしょうか?」
何やら会話の流れが分からなくなってきたので、とりあえず聞いてみる。
「お前にはいつか、ちゃんとした英語のリスニングを覚えて貰わないとな……」
「……はい?」
すると、何やら思案顔の父が現れた。
どういう事なのか、これが全く分からない。
◇
人智を超えた存在、いわゆる妖怪がこの遠野の地に多いとなると、やはり流行るのは怪談である。一般的に夏に行うのが主流とされている怪奇現象を元にした民話伝承。しかし、冬にやってはいけないという決まり事は無い。
遠野の北の地にある古民家、そこにある郷土歴史博物館へと自分たちはやってきた。ここには古来よりの岩手の民族文化を記した書物や、妖怪に関する逸話など様々なオカルト的要素が存在する。
猫騙しされた時の様な突発的な驚愕では無く、朝の大地に巻き起こる底冷えする様なじわじわと来る恐怖と驚きを、是非エイスリン先生に楽しんでもらおう。
観光客である彼女を連れながら、無形文化遺産でもある茅葺きの屋根を持つ家に入る。現代で一番初めに目にされる事が多いのは、白川郷にある集落の家々だろうか。水分に強い天然素材である茅を使った天井の下には、やはり寒い冬を凌ぐ為の囲炉裏が存在する。
で、今はちょうどその寒い冬の時期。
という訳でしっかり整備されており、まだまだ現役である囲炉裏に火を付けて貰い、しばしの間暖を取る事にした。
「
ならしによって綺麗な線形に描かれた灰を下にして、黒炭がぼうぼうと燃えている。火種を元にして暖まるというのは古来より伝わる原始的な暖の取り方で、今や生活必需品となってしまっている炬燵とはだいぶ勝手が違うものの、やはり暖かい物は暖かい。エイスリン先生も炉から発せられる心安らぐ熱気に遠くから手を当てて暖を取っている。
昔はこういう囲炉裏の上に
……そういえば、何か忘れているような。
「
ふと、記憶を辿っていれば、少し焦った様な声がした。
エイスリン先生が、部屋の隅にある行灯の後ろを指さしている。
「
おっ、居ますね。カッパと並んでここの名物である、座敷わらし。それが置行灯の影となって、光と共に揺らめいていた。
流石に実在するものが都合良くここに居るハズも無いので、あくまで伝承を模っただけの市松人形である。海外ならビスク・ドールと言い換えられよう、この雅な浴衣を来た
「
物に魂が宿る、いわゆる
そうだ、思い出した。彼女を怪談で怖がらせる為にここに来たんだった。
ふっふ~ん。怖いのかな?
怖いのですか?
「
煽ろうにも英語の語彙が足りなかったので、身振り手振りで嘲笑の意を表していれば、見事伝わった。
怖さでぷるぷると震えていた彼女は、今度は別の感情でぷるぷる震えている。
それが何なのかは預かり知らぬ事だが、どうやら自分が煽ったせいで、人形の神秘性から来る物恐ろしさを完全に雲散霧消させてしまった様だ。
これは本来の目的で言えば、失敗ですね。
「
必死に己の感情を取り繕うとするエイスリン先生。これはまあ、しょうがないですね。
誰もが最初はこうなるものだ。
極めて精巧に作られた存在でありながら、どことなく掛け離れた印象を与える人形。不気味の谷に近い本能的な忌避感を覚えるコレに、初見で驚くなと言われるほうが難しいのだ。
だから、怖くてもしょうがない。うん。
「
心の中で腕を組みながら訳知り顔で頷いていれば、それを表情から見透かしたのか、遺憾の意を表したエイスリン先生が現れた。
ふふん。怖くない、怖くない。
「
「お、どうしました?」
「どうどう~。そこまでそこまで」
言葉の裏の意味で煽るという高度なテクニックを使っていると、まるで暴れ馬を落ち着かせるかの様に母が間に入ってきた。
「
「
「
そして何か英語を話せば、エイスリン先生は落ち着いた。
う~ん、カッパの時に煽られたお返し(後で知らされた)とは言え、ちょっとやり過ぎたかもしれない。
反省である。
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「
「
「
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ちょっとだけ自省していれば、また二人だけで英会話の世界に入ってしまった。
何を言っているかは当然の事ながら分からないが、話の流れからして隅っこにいるあの妖怪の事を言っているのは間違いない。
座敷わらし。
それは端的に言えば、家の中で見つけた者には幸福が訪れる、または富をもたらしてくれると
なぜ過去か、と言われたら時代によって価値観が推移してきたからである。
昔の遠野では今の日本の国民的な競技である麻雀が、取り分け他の地域よりも盛んに行われていた。麻雀がどんなルーツでこの地にやってきたのか、何も知る術は残っていないが、住民のほとんどが熱狂していたのは確かである。
麻雀はどの時代も運が大きく作用するギャンブル的要素が強いゲーム。そんな中で、幸福や富をもたらす妖怪が現れたら人はソレをどう思うか、答えはとても簡単である。
いつしか座敷わらしは、雀士のツキを左右する麻雀の神様と言われる様になってしまっていた。こじつけも甚だしい。
とはいえ、今でも願掛けという形でこの座敷わらしを信仰している者は結構居る。やはりそれだけ麻雀の『流れ』を感じさせる要素が、現代には溢れかえっているのだろう。
だいたいオカルトのせい。
「
「
母からそんな事を教え込まれたのだろうか、何やら少しだけ考え込んだエイスリン先生は、さっきまで怖がっていた存在へと向き直った。
「
となると、やる事は一つ。
願掛けだ。
彼女は、麻雀の妖怪である座敷わらしへと麻雀の思いを伝えるのだろう。恐らくは天運だとか、流れだとか、その辺だろうか。
最近の彼女は、オカルト全開中でも中々に運が悪かったので、厄払いにはぴったりかもしれない。
ふふ。とにかく頑張りたまえ。少しでも運が改善する事を、こちらからも願っていよう。
「
「
果たして何を願っていたのか、今の自分には理解する事が出来なかったが──
好戦的な笑みを浮かべていた事だけは分かった。
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