紙上の人々・片影星羅 (穢銀杏)
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女神の報復

 

 その日、新聞を開いたドイツ国民は一様に驚愕の嵐に見舞われ、危うく顎を落っことしかけた。

 

 こともあろうに、あのビスマルクが。

 

 帝政ドイツの立役者たる鉄血宰相その人が、よりにもよって議会という、権威の殿堂のど真ん中で、

 

「余は総ての少女らと親善なる(・・・・)関係(・・)を維持していることを喜ぶ」

 

 と演説したと報じられれば、そりゃあそうもなるだろう。

 

 悪童時代のビスマルク――若干十五で女遊びを習得し、農民の女性や保母を相手に経験を積み、磨き抜かれた手腕で以って貴族の娘や牧師の息女をたらしこみ、挙句の果てにはフランス人の人妻と関係を結びさえもした、手の着けられない女ったらし――を知る人々は、さてこそあやつめ、昔の血が騒ぎ出し、古代専制君主さながらの「処女権」獲得に乗り出すつもりかと真っ赤になって憤慨したほどである。

 

 が、一連の誤解は春の淡雪よりも容易くとけた。

 

 なんのことはない、これはちょっとしたヒューマンエラーで、「列強」を意味する「Machten」という単語を何処ぞの職工が二字組み間違え、「Madchen」――「女の子」と刷ってしまっただけだった。よって、本来のビスマルクの演説は、

 

「余は総ての列強と親善なる関係を維持していることを喜ぶ」

 

 こうなるわけだ。

 

 外交家としては悪魔的手腕を持つオットー・フォン・ビスマルクのこと、なにもおかしな点はない。

 それがたった二つのアルファベットを組み間違えただけのことで、斯くもドイツ社会を騒擾させる。誤字脱字の恐ろしさが伝わろうというものだ。

 

 

 

 とある大衆作家は誤字脱字をして、「銀シャリに紛れ込んだ砂粒」と評した。

 

 すこぶる要領を得た喩えといえる。一握りにも満たないほんのわずかな量であっても、食感を妨げること甚だしい。

 二十一世紀の科学力を以ってしてさえ、未だこの不純物の一掃は成し遂げられないままなのだ。況してや十九世紀という、一文字一文字手作業で活字ブロックを嵌め込んでゆく必要のある、あの時代に於いてをや。

 

 誤字脱字は日常茶飯事といってよく、如何なる権力者であろうともこの脅威から逃れることは叶わなかった。

 

 ナポレオン・ボナパルトでさえ、その被害に遭っている。

 即位後の彼が張り出した諭告の中に、

 

「朕はフランス軍の盗賊的行為を嘉す」

 

 という一文があって、やはり大騒ぎを惹起したのだ。

 皇帝陛下を襲ったこの誤植は鉄血宰相よりも一文字少なく、「勇敢」を表す「Valeur」の「a」をうっかり「o」と取り違え、「盗人」を意味する「Voleur」になってしまっていたというもの。

 

 特に秀逸な一例は、とある無神論者が自説を纏め、「God is nowhere」――「神は存在せず」という表題の大論文に仕上げた際のことである。

 

 如何なる運命の悪戯か、印刷にまわしたこの論文は活字が途中で切れてしまって、「nowhere」の一字が「now here」の二字に分割されることとなり、「God is now here」――「神は現にここに在り」と、本来の意図とは正反対の結論を掲げてしまったそうな。

 これなどは存在を否定された運命の女神が、その面当てに特別に糸車を手繰ったようで趣深い。

 

 

 

 それから最後に、これは若干趣旨が違うが、今書いておかないとついに発表の機会を失いそうなので付記しておきたい。

 

 

 

 明治の聖代、尾崎行雄咢堂がアメリカを旅したときのことだ。

 

 西部の旅宿に泊まった彼は、唐突に以前この大陸で口にした、酸味の強い赤い野菜を喰いたくなった。

 ところがソレの名前というのが、どうにもこうにも出てこない。あと三十年もすれば日本人でトマトの名を知らぬ者などほとんどいなくなるのだが、当時はまだ「知る人ぞ知る」の枕詞が十分に相応しい頃だった。

 

 脳内回路の、どこがどう間違って繋がったのか。苦心惨憺の末、とうとう彼の口からまろびでたのは、

 

「トマホウクを持って来い」

 

 という一言だった。

 

 ミサイルなど影も形も存在しないこの時代、トマホークといえばインディアンの用いるあの手斧以外に有り得ない。

 給仕人は呆然と突っ立ち、咢堂の顔を凝視するほかなかったという。

 

 



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環翠楼にて

 

 

 箱根塔ノ沢温泉に環翠楼なる宿がある。

 

 創業はざっと四世紀前、西暦一六一四年にまで遡り得るというのだから、よほどの老舗に違いない。

「水戸の黄門」こと徳川光圀をはじめとし、多くの著名人がその屋根の下で時を過ごした。

 

 秋田県出身の日本画家、寺崎広業もそのうちの一人に数え入れていいだろう。

 

「放浪の画家」と呼ばれた彼は、しかし箱根に立ち寄る場合いつも決まって環翠楼に投宿し、ほとんど例外というものがなかった。

 

「絵筆を執り、丹青のわざをふるうのに、これほど適した場所はない」

 

 と、太鼓判を押した形跡が残されている。

 

 肩が凝ると、按摩を呼んだ。

 

 その按摩にも贔屓の揉み手が一人いて、名前を時の市という。この盲人の丁寧な施術に寺崎はすっかり惚れ込みきっており、彼の指にかかるや否や筋繊維の隙間に溜まった疲労分子がほろほろと、泡の如く揉みほぐされゆく実感に、つい声を上げたくなるほどの快味を覚えることも屡々だった。

 

(妙技よのう)

 

 事実、時の市が寺崎の肉体に通暁すること、あるいは本人以上に深甚な部分があったろう。どうもこの盲人は、視力と引き換えにそれ以外の感覚を鋭敏ならしめるという俗説の、生き証人の観がある。

 

 それを象徴する出来事があった。常の如く施術を終えた時の市は、しかしその日に限って慣例を破り、

 

「ご縁があって先生の御肩を揉ませて戴いておりますが、どうでしょう、お願いすれば私のような者にも先生は絵を描いて下さいますでしょうか」

 

 こんなことを言い出したのである。

 

「ほう」

 

 寺崎は、驚く以上に興味を持った。

 

「するとアナタは、少しは物が見えるのですか」

「残念なことにちっとも見えないのです」

「絵は無聲の詩とも申す位のもので、見えなくては詰まらないでしょう」

 

 常識論で反駁すると、時の市は頭を振って、

 

「いや、先生のような方の絵の下に座っていると思うとどれだけ楽しいかと考えますので、その考えを楽しみたいのです」

(こやつ、言いよるわ)

 

 ひょっとすると数寄の奥にも通ずるであろう物言いに、つい寺崎の心が動いた。

 が、芸術家とは、どいつもこいつも性根が複雑に屈折しているいきものである。

 感心したからといって、それでほいほい求めに応じてやるような可愛気などは、期待する方が無理であろう。

 

 

 

 翌日寺崎がにっこり微笑(わら)って差し出したのは、何も描いていない白紙の画布に他ならなかった。

 

 

 

 時の市も口元をほころばせてそれを受け取る。ところがその表情のまま、

 

「先生、一筆でも描いたものを頂戴したく存じます」

 

 みごとに正体を穿ってのけたものだから、寺崎としては大いに虚を突かれた思いがし、

 

「明日にでも描いておくよ」

 

 そう返すのがやっとであった。

 さて、動揺が去ってみるといよいよ以って不審である。

 

(あやつには、何故これが白紙であるとわかったか)

 

 こうなると寺崎は持ち前の好奇心を抑えかね、時の市がその身に秘める不思議の力の程度について、とことんまで追求してやらねば我慢が出来なくなってきた。

 

 で、一計を案じた。

 

 翌日差し出した画布は、やはり白紙のままのもの。

 しかし単なる白紙ではない。墨ではなく、水のみを筆にたっぷりふくませて、富士の姿を写し取ったものだった。

 

 果たしてこの些細な違いに、目の前の按摩は気付くか、どうか。期待を籠めて見ていると、時の市は昨日とそっくりの微笑を浮かべ、

 

「先生、墨も色もないから困ります」

 

 といって、鄭重に押し戻してのけたではないか。

 寺崎はいよいよ感心の度合いを深くした。

 

 

 

 そして三日目。三度目の正直というべきか、とうとう寺崎は観念し、豪放な筆遣いのもと富士の墨絵を描き上げ、時の市を待っていた。

 

 

 

 やがて、来た。

 

(お前の勝ちだ)

 

 爽やかな敗北感すら伴って。内心、そう独り言ちつつ差し出すと、按摩はうやうやしく両手に受けて平伏し、

 

「誠にかたじけない次第で御座ります。家宝に致します」

 

 嬉し涙さえ浮かべつつ、震える声で礼を奏上したのであった。

 

「いや、それにしても不思議だ」

 

 寺崎は慌てて話頭を逸らした。最初から今日までの詳細を、どうして言い当てることができたのだろう――。

 

「それは先生、私がこのお部屋へ這入って参りますと、先生のお使いになる墨の香りがぷうんと致します、なるほど大家の御嗜みと申そうか恐れ入ったものだと思いました。今日頂戴の紙からはその香りが強く致します。先日のは紙襞の感触で水を塗った跡をはっきり窺い知れましたが、何の香りも致しませんでした。始めの紙は襞もなく香りも致しませんでしたから、唯の白紙だとすぐ知れまして御座います」

 

 鍵は嗅覚と触覚にあり、と。

 わかりきった数学の公理でも説明する老教授のような迷いのなさで、按摩は言ってのけたのだった。

 

 なにやら道話めいた構図であるが、しかしこういう風景がごく自然に成立するのが明治人の人情というものやもしれず、それを想うと隔世の感が沛然として胸に溢れる。

 

 

 

 大正六年、寺崎広業は帝室技芸員に抜擢されて、斯界の最上段に立ちながら、直後唐突に病を得、同八年に逝去する。

 

 享年、五十四歳だった。

 

 その訃報が伝えられると、箱根の街では一人の按摩が額縁入りの富士の墨絵を仏壇に掲げ、密かに焼香したという。

 

 

 

 



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昭和七年の不審者情報


ニワタリ様、ニワタリ様。どうか赦しておくんなし。



 

 その不審者が淀橋署に引っ張られたのは、昭和七年十一月二十五日、草木も眠る丑三つ時もほど近い、午前一時のことだった。

 

 柏木三丁目あたりの通りを、鶏の鳴き真似をしながらほっつき歩いた(かど)に因る。まだまだ日の出は遠いのに、こんなことをされてはたまらない。後に「新宿区」と改められるこの地域の住民にとっては、大迷惑であったろう。連行は至って妥当であった。

 

 男の身体からは、濃厚なアルコール臭が漂っていた――それこそ毛穴という毛穴から、酒を噴霧しているのではあるまいかと思われるほど。

 

(あん)ちゃんよ、いったいどれだけ呑んだんだい――」

 

 ろれつが回るようになるのを待って、さて取り調べを進めてみると、男はこの淀橋区の一角に棲む、所謂「地元民」であるのが判明。三十代半ばで、結婚して妻もいる。

 

 ただ、どういうわけか、子宝には恵まれなかった。

 

 そこで寂しさを紛らわすため、夫婦は鶏を飼い出したという。

 

 年を追うごとに数は増え、ついに五百羽に及んだというから、もはや養鶏場といっていい。目の玉の飛び出るような地価を誇る新宿区にも、百年前には養鶏場が営めるほど土地にゆとりがあったのだから、今昔の感、ただならざるものがあるだろう。

 

 

 

 が、やはり鳥類ではいかんせん、(かすがい)として十分に機能しなかったものとみえ。

 

 

 

 夫婦仲は次第によそよそしさを増してゆき、ついにこの昭和七年、書置き一枚を手切れと残して妻は何処かへ消えてしまった。

 懊悩したのは男である。その甚だしさは、もはや錯乱といっていい。

 さしたる愛着も残っていないと考えていたのに、いざ手元から離れてみると衝き上げてくるこの物狂おしさはなんであろう。

 

(これほどまでに、おれはあいつを愛していたのか)

 

 と、自己を客観視して驚いてやる余裕さえない。哀しみだけが五臓六腑を駆け巡り、胸は今にも張り裂けそうにじくじく痛んだ。

 

 この苦痛からの解放を、よりにもよって酒に求めたのが彼の過ちであったろう。呑むのではなく、呑まれにいった。しぜん、悪酔いに流れざるを得ない。

 

 飼っていた鶏をぜんぶ売り飛ばして得た資本(もとで)。それを少しずつアルコールに変え、消費するだけの毎日。自暴自棄の見本のような、そんな生活を送っていると、次第に彼の網膜は、妙な錯覚を起こすようになってゆく。

 

 道行く人の首から上が、なんと鶏のそれにすげ変っているように見えるのだ。

 

(そんな馬鹿な)

 

 慌てて眼を擦ってみても、どうしても鳥人間が消えてくれない。

 そのうち何もない空間に、血に染まった白色レグホンの群れを視るようにもなりだした。むろん、彼が飼っていた品種である。

 

(幻覚だ)

 

 自分の脳が勝手に作り出した虚像に過ぎぬと、彼とて重々承知している。

 が、一週間、二週間、一ヶ月と異常状態が継続すると、次第に精神作用が冒されてきて、判断力が弱くなり、ついにはそれを信ずるようになるらしい。この期に及んで、なおも酒を手離せなかったことも災いした。眼球のみならず、鼓膜までもが狂い出し、今や彼の耳の奥では絞め殺される鶏の悲鳴がひっきりなしに木霊するようになっていた。

 

 既に末期といっていい。男にはもう、自分が人間なのか鶏なのか、両種族の境界があやふやになりごちゃ混ぜになる瞬間が一日のうちに何度かあった。

 

 今回は、それが運悪くも夜の夜中、ウイスキーをひっかけた帰路に出てしまったに過ぎない。この事件はその日の読売新聞夕刊に載り、帝都の人心をいっときながら賑わわせたものである。

 

 

 

 まあ、鶏といえば、遠く神代の大昔。

 天照大神が岩戸にお隠れになったあの場面にも馳せ参じ、鬨の声を高らかにあげて世に光を取り戻す一助を果たした、存外にエライやつである。

 

 日本人との関わりはよほど深いといってよく、その縁から勘繰るならば祟りを及ぼす霊能程度、発揮しても不思議ではないのやもしれぬ。

 

 せいぜい感謝して喰らうとしよう。あの肉や卵なしの生活なぞ、味気なくてとても堪えられたものではないのだから。

 

 



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ベルの燈台

 

 フランス北西、ブルターニュ地方はキプロン半島の沖合に、ベル=イル=アン=メールという島がある。

 

 優美な島だ。

 

 名前からしてもう既に、その要素が含まれている。フランス語でベル(Belle)は「美しい」を、イル(Ile)は「島」をそれぞれ意味するものらしい。

 

 島には複数の燈台がある。

 本土との主な連絡手段が船頼りである以上、それは必須施設であろう。

 さて、その複数ある燈台のうち、東端に置かれたケルドニス燈台にて。

 一九一一年四月十一日、ひとりの男が死亡した。

 

 

 

 彼はここの燈台守たるマテロット一家の亭主であって、その死は夏の夕立ほどにだしぬけな、不意打ち以外のなにものでもなかったという。

 

「ぬ、ぅ――」

 

 燈台内の清掃作業に当たっていたマテロット氏は、にわかに胸奥に不快を覚えた。咳ばらいをしても背筋を弓なりに伸ばしても、はたまた深呼吸を繰り返そうと、一向にその不快感がなくならない。どころか逆に、身体の芯にいよいよ深く絡みついてくる感がする。

 とうとう彼は直立さえままならなくなり、掃除半ばで下階に降りて床に入るを余儀なくされた。

 

「いったいどうなさったのです」

 

 ほんの数時間のうちに、別人の如く衰弱しきった夫の姿に狼狽しながら、妻は必死の看護に当たった。

 が、容体は回復の兆しを一向に見せず、そうこうする間にいよいよ陽は傾いて、西の空を紅蓮に染めた。

 

 そろそろ燈台に()をともすべき頃合いだ。

 

 だが、その作業には夫を置いて行かねばならない。

 呼気もか細く、虫の息という表現がちっとも比喩でなくなった今の状態の夫から、一時的にといえど離れなければならないのである。

 

 人情として、これほど辛い相談もない。

 まさしく身を引き裂かれる気分であろう。

 が、ほどなく妻は決意した。燈台守として、仕事を果たしに赴いた。標高37.90mの丘の上に、あかあかと灯が点ぜられた。

 

 しかし、ああ、やんぬるかな。妻が部屋に戻ってみると、既に夫はこと切れていた。ほんの数瞬間の差で、彼女は半身の死に目に立ち会えなかった。

 

「そんな。――」

 

 どうして、どうしてあと少し、待っていてはくださらなんだと。

 遺体に縋り、悲嘆の涙に暮れる彼女に、更に追い打ちというべき報せがかかる。足音も荒く部屋に飛び込んで来た長男が、

 

「燈台の灯が回ってません」

 

 泣くような声で、そんなことを言ったのである。

 

 

 

 本来ケルドニス燈台は動力による回転式であったのが、マテロット氏が清掃のため回転機を取り外し、しかも作業半ばで発病したため元の状態に復しておらず、それが招いた事態であった。

 これをこのまま放置すれば、どんな不祥事が起こらぬとも限らない。

 

(ばかな。――)

 

 嘗て感じたことのない激情が腹の底から衝き上げてくるのを、マテロット婦人は感じていた。

 

(私は夫を犠牲にしてまで役目を遂げた。にも拘らず、この燈台めの怠慢ぶりはどうだろう)

 

 冗談ではない、こいつには何が何でも安全に船舶を導かせてやる、と。

 遺体をベッドに放置したまま、彼女はまたも駆け出した。

 その心境は、ある種復讐者のそれに近しい。

 

 原因を突き止め、回転機を嵌め直そうとしてみたものの、どうしても夫がやっていたようにカチリとうまく嵌らない。

 万策尽きた彼女は、ついに最後の手段に打って出た。

 

(自動が駄目であるのなら)

 

 結構、手動でやるのみよ、と。

 二人の息子と力を合わせて、二十一時から翌朝七時に至るまで、延々十時間に亘り、灯火を回転させ続けたのである。

 

 力技にもほどがある解法だった。

 明らかに給料分を超えた労働。

 しかし損得勘定を超越した行為にこそ、人は心震わせる。

 

 この日マテロット一家を襲った異常な事態はやがて「フィガロ」紙に取り上げられ、全フランス国民の知るところとなり、英雄的義挙として、絶大な反響を呼び起こす結果となった。

 日本では杉村楚人冠が、同年七月四日に新聞紙上で触れている。

 

「幸ひにして出入の船舶が此の燈台を見誤らずして全く事なきを得たるは、一に此の幼い子供が母の命を奉じて夜の目も合さず燈火を回転させたるに依る」、と、そのいじらしさをほとんど手放しで称賛した。

 

 左様、幼い。

 

 夜を徹して燈火を廻し続けた二人の子供。そのうち長男ですらこのとき十歳の若さに過ぎず、次男に至っては言わずもがな。

 おまけに彼らは、直前に父を喪っている。

 心身ともにどれほど疲弊したことか。それを想えばどんなつむじ曲がりといえど、流石に脱帽せざるを得ないであろう。

 

 



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白船来る


刺激を好み、活動を愛するものは、アメリカに心酔する。刺戟を嫌ひ、静を好むものはアメリカを唾棄する。しかし何人もこの大刺戟の横溢するアメリカの中に入る時、無関心、無頓着ではゐられない。そしていひ合せたやうに、アメリカの正体をつきとめたい、奥底を研究したい気になる。
(鶴見祐輔)



 

 

 日米開戦の危機というのは、なにも昭和に突入してからにわかに騒がれだした話ではない。

 

 満州事変の遥か以前、それこそ明治の昔から、大真面目に論議され検討され続けてきたテーマであった。

 

 サンフランシスコ・コール紙などは一九〇六年十月に「If Japan should attack us」なる記事を載せ、いざ事が起きた場合の予測を披露。それによれば、サンフランシスコはいっとき日本軍の占領下に置かれようが、やがてアメリカはこれを回復、軍艦を進め太平洋の向こう側まで逆撃し、日本列島の港湾という港湾をことごとく封鎖。

 ついには陸軍を上陸せしめ各都市を制圧、終極の勝利を飾るであろう――こんな具合に結んでいる。

 

 旭日旗がサンフランシスコの街路を練り歩く挿絵までつけて、なんともセンセーショナルな報道だ。これを見た市民は、勢い日本への敵愾心と危機感を募らせずにはいられまい。

 

 

 

 分水嶺は、やはり日露戦争にこそ見出せる。

 

 

 

 あの(いくさ)でアメリカが何くれとなく日本の世話を焼いたのは、なにも日本の立場に同情し、正義人道の赴くところに従ったからでは全然ない。

 彼らの脳中、ただ利だけがある。満洲に蟠踞し、しつこく南下の執念を燃やし続けるロシアを追って、代わりに自分達こそが東亜の覇権を掌握せんと企図したからだ。

 

 アメリカとロシアの確執は古い。シベリアの曠野を東へ東へと進み続けたロシア人は、驚くべきことにベーリング海峡に到達してなお停止せず、アラスカに渡り年々北米大陸西岸を南下、サンフランシスコ附近にまで出没し、一八二一年には太平洋北緯五〇度以北を自国領海と宣言するまでに至っている。

 建国間もないアメリカにとって、これは非常なストレスだった。

 

 歴史に名高い「モンロー主義」にも、このロシア人の跳梁を抑止せんとする意図が含まれていたといったなら、おおよその雰囲気は察せよう。

 

 ついでながら「モンロー主義」ほど時代時代でご都合主義的な解釈を施された理念というのも珍しく、その得手勝手さは自国民ですら眉をひそめずにはいられぬほどで、

 

「モンロー主義は伸縮自在なることインドゴムに似る」

 

 とニューヨーク・サンが揶揄すれば、

 

「モンロー主義はその初め大統領が作り上げたのであるが、その後幾度となく改造されて、今では生みの親すら見分けのつかぬ子になった」

 

 ニューヨーク・プレスがこう書き立てる始末であった。

 

 

 

 まあ、それはいい。

 

 

 

 このとき生じた恐露感情はその後ながらく尾を引いた。

 

「東方問題はもはやコンスタンティノープルを中心とせず、シベリア鉄道の完成によって旅順港に転ぜしめられたのである」

 

 とか、

 

「満洲や遼東半島に於けるロシアの実際的優越権はもはや疑う余地がない。従って牛荘条約港――この港の輸入する綿織物の半分以上は合衆国から来るのである――は、何時でもロシア帝国の一部であると宣言され得る」

 

 とかいったアメリカ知識人の言論が、どれほど日本を利したか知れない。

 

 今次戦役に於けるアメリカの意図が那辺に在るか、はっきり日本に告げもした。国務大臣ジョン・ヘイの口から、金子堅太郎に語って曰く、

 

 

「私は外務大臣として支那に向っては門戸開放、機会均等と云ふことを宣言した。それをロシアが門戸開放をせずして満洲には外国人を入れぬ。満洲に於いては機会均等ではない。満洲はロシアの勢力範囲として、アメリカの商人も入れない。而して日本では満洲も矢張支那の一部であるから、門戸開放をしろ、機会均等をしろと言ふ。此の結果が、今日の戦争になったのである。詰りアメリカの政策を日本が維持するが為の戦ひであると謂っても良いから、今度の戦争はアメリカが日本に御礼を言はなければならぬ。のみならず日米の政策が今度の戦に就ては一致して居るから、アメリカは日本に同情を寄せることは疑ひない」(『日露戦役秘録』)

 

 

 ところが周知の通り、いざ戦争が終わってみると日本は露骨に満洲からアメリカ資本を排除する態度を発揮した。合衆国の便利な道具に飽き足らず――独立国としては当然なことだが――、みずからが東亜の盟主に踊り出んとの野気を示した。

 

 ――おのれなんたる僭越か。

 

 合衆国は激怒した。

 この瞬間、情勢は既に一変したといっていい。

 日露戦争からたった一年。

 たった一年で米国内には排日論が横行し、カリフォルニア州を中心として移民に対する襲撃事件が続発。冒頭に掲げた日米開戦論の類が紙上を飾るようになってしまった。

 

 こうなれば、日本も黙っていられない。真っ先に輿論が沸騰しだした。ヤンキーがそうまで()りたいというのなら、よかろう、受けて立ってやる。首を洗って待っていろ。その予測が如何に楽観主義に基いた、現実から遊離しきったものであったか、今際の際で悟るがいいさ――。

 

 未だ敗北を知らぬ国民は血の気が有り余っており、恐れることなく意見を尖鋭化させてゆく。

 

 ところが時の大統領――星条旗を背負う男の二の腕は、日本国民の気焔如きで火傷するほど柔い皮膚をしていなかった。それは鉄で覆われていた。

 

 

 

 合衆国は日米関係の悪化を受けて、その原因を日本の「傲慢」にありと解釈。その傲慢を打ち砕くには、言葉にあらず、ただ実力を以って威嚇するより他にないと断を下した。

 

 一九〇七年七月十三日、セオドア・ルーズベルトが国務長官エリフ・ルートに宛てた書簡ときたらどうであろう。

 

 

…余は日米両国間の関係に対しては、他の問題以上に心労する。幸いにして我が海軍は整備し、今や世界を巡行すべき好時機である。第一に余は思う、此の巡航は米国海軍の為すあるを示すにおいて、平和的良果を挙ぐるを得べく、第二には、余は時局に於いて海軍当局と熟慮を重ねた末、平時に於いて太平洋上に一大艦隊を遊弋せしめて、我が海軍の為すあるを示し、依って以って戦時の実験を避けしむることは、米国にとりて絶対必要なりと、余は確信するに至った。

 

 

 意味するところは、大西洋艦隊の西海岸への廻航。

 そして同艦隊を以ってして太平洋をぐるりと巡る、壮大な軍旅の構想だった。

 

 棍棒外交の極致と看做していいだろう。是非善悪は抜きにして、アメリカ的(・・・・・)であることだけは疑いを差し挟む余地がない。

 

 果然、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 

 日本のみならず、アメリカ社会までもが、だ。

 

 ――宣戦布告に等しい所業ではあるまいか。

 

 主力艦隊を太平洋側に廻航するということは、である。

 

 ――ハーグ国際平和会議を主導した立場でありながら、敢えてそのような挑発的行為に踏み切れば、世界はどんな眼を向けるであろう。

 

 ダブルスタンダードを危惧する声もちらほら上がった。

 が、

 

「余は運河区域をとった。そして議会をして討論せしめた。討論がなお進んでいる間に、運河も進んだ」

 

 パナマ運河にまつわるこの発言からも窺える通り、元々セオドア・ルーズベルトとは、めだって剛腕な政治ぶりのある男。

 一旦やると決めたなら万難を排して突進する、ある種猛牛的気質を有する。

 このときも、その特性が遺憾なく発動されたものらしい。エリフ・ルートに書簡を送付してからおよそ五ヶ月後、一九〇七年十二月十六日。艦隊はついにバージニア州ハンプトン・ローズの港を発し、予定の航路を進みはじめた。

 

 戦艦十六隻、装甲巡洋艦二隻、駆逐艦六隻、補助艦八隻、のべ三十二隻から成る堂々たる陣容である。

 

 ルーズベルトはこの艦隊の目的を、帝政ドイツ海軍大臣アルフレート・フォン・ティルピッツに向け、

 

「余は日本をして憐れむべきロジェストヴェンスキー(筆者註、バルチック艦隊司令長官)とは全然別種なる白人種の艦隊が、他に存在することを知らしむるを得策と認めた」

 

 と説明したが、なるほどそれだけの迫力は十分にあったことだろう。

 

 

 

 この時期、パナマ運河は未だ完成していない。

 

 

 

 艦隊は南米大陸南端のマゼラン海峡を経由して、漸く太平洋に進み出た。

 

 欧州各国でも

 

「もはや日米の衝突は不可避になった」

 

 との論調が盛り上がりをみせ、フランスでは日本の国債が暴落し、何故かスペインが軍資金の提供を持ちかけてくる滑稽な事態に。

 大方、米西戦争の意趣返しがしたかったのだろう。が、

 

(大概にしてくれ)

 

 日本としてはそのような復讐心に付き合ってやる義理はない。

 

 対米戦争など狂気の沙汰事、どう転ぼうが結局は日本にとって自殺以外のなにごとにも成り得ぬと、首脳陣は余すところなく知っていた。

 彼らはむしろこれを機に、日米間の緊張をどうにかして解きほぐしたく、だから外務大臣林董の、

 

 ――ここは一番、我が方から艦隊の寄港を要請し、諸手を挙げて歓迎するに如かず。

 

 との提案に、膝を打って賛意を示した。

 

 しかしながら当時の社会的空気の中でこの方針を貫徹するのは、よほど至難であったろう。

 なにせ、東京五大新聞の一角を占める報知新聞をしてすらが、

 

 

…由来、米国人は文明を以て誇るものなれど、実際彼等の為す所を顧みれば、毫も文明国民として称するに足るものなし。彼等の文明は唯だ物質文明にして、其精神は全々野蛮なり。支那人は屡々排外運動を試み、近くは三十三年に団匪の暴発となりたるが、今回米国の排日運動は団匪の暴発と毫も択ぶ所なく、団匪の暴発は支那なりしが為、列国の激怒に触れ、文明の敵として鎮圧せられたりしが、米国の団匪は米国なるが為、列国間の問題とならず、日本人間にさえも頗る寛大にこれを観察し、両国の交情を破るなからんことを望むと云ふが如き、微温(なまぬる)き議論を吐くものあり。在米の我同胞が斯くの如き侮辱を受くる時に当り、強て両国の交情を云々するは余輩の解する能はざる所にして、交情を破るものは米国にして日本に非ず。国際関係は対等なるべく、我国の名誉を犠牲に供してまでも、強いて彼の歓心を求むるの必要(いず)くに在るや。

 

 

 このような過激な言辞を振りかざして憚らぬ始末。

 

 迂闊に口を滑らせようものならば、売国奴の烙印を押され暗殺目的の壮士が殺到しかねない状況。当局者は、さぞかし神経を磨り減らしたことだろう。

 が、苦しみに堪え、彼らはその難行をやり遂げた。一九〇八年十月十八日、米国艦隊――グレート・ホワイト・フリートが横浜港に投錨すると、日本人は「朝野を挙げてこれを歓迎」する姿勢をみせ、一週間の滞在中、決して彼らを飽きさせないよう努力した。

 

 渋沢栄一や東郷平八郎まで動員しての接待だったというのだから、その必死さ加減がわかるであろう。

 

 あまりに意を尽くし心を砕いたそのふるまいに、口さがのない米国紙などは、

 

「ブルドックの鼻息に畏縮せるフォックス・テリアの醜態に似たり」

 

 と冷笑を浴びせかけたほどだった。

 

 グレート・ホワイト・フリートを派遣して正解だった、甲斐があったと、アメリカ人の誰しもが、きっと思ったことだろう。

 

 セオドア・ルーズベルトはこの艦隊が任務を果たし、合衆国に帰還するのを見届けてから、およそ半月後の一九〇九年三月四日、大統領職を退いている。

 

 引退後はアフリカに向かい、みずから銃をぶっ放しての猛獣狩りに明け暮れて、大いに愉しみ鬱懐を散じきったあと、帰路すがらちょっとベルリンに寄り、前述のアルフレート・ティルピッツと顔を合わせて談話に耽った。

 その際、グレート・ホワイト・フリートも話題の俎上に載せられている。

 ティルピッツが

 

「あの時自分は日本が、米国主力艦隊の遠航中を奇貨として、アメリカに攻撃を加えるだろうと予測していた。貴下はそうした憂慮を少しも抱かなかったのか」

 

 と訊ねたところ、ルーズベルトは、

 

「十に一つはそんな事があるかも知れないと考えていた。そして勿論、日本にして開戦するも、はたまた平和的態度を持続するも、どちらの態度に出ようとも十分対処可能なように準備は整えてあったとも」

 

 と、容易ならぬ返事をしている。

 一九四一年十二月八日を思うとき、日本人にとってはどこか宿命的な響きすら感ぜられる言葉であろう。

 

 

 

 太平洋の波濤の上で、日章旗と星条旗が繰り広げた幾多の悲喜劇――。

 白船はその、象徴的なひとつであった。

 

 

 



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金閣モドキが夢の跡

 

「いま、お酒を呑んでおいでですか。あなたは酔うとおかしくなる方だそうで……」

 

 夢野久作の実の父・「怪傑」杉山茂丸が、黒田清隆と初めて顔を合わせた席で、劈頭一番放った台詞がこれである。

 

 この薩人の酒癖の悪さがどれほど人口に膾炙されきったものであったか、如実に示すエピソードに違いない。

 

「なにせあれは、自分の妻すら酔った勢いで殺した男だ」

 

 と、口さがない者は言うであろう。

 この風評は、いったい事実なのかどうなのか。

 少なくとも、東京市民の大多数が事実と信じるだけの下地は既に整っていたようである。

 

 

 

 黒田婦人、名は(きよ)という、彼女が清隆の許へ嫁いだのは十五歳という妙齢の折。明治二年十一月二十二日の佳き日であった。

 明治六年、第一子を出産している。

 男児であった。

 

「奥よ、でかした!」

 

 黒田の喜びは尋常ではない。

 (はじめ)と名付けたこのやや(・・)が無事に育っていたならば、あるいは彼の晩年も、よほど様変わりしていただろう。

 しかしそうはならなかった。夭折した。僅か二年の命であった。

 

 ――七つまでは神のうち。

 

 と云われる通り、この時代の乳幼児死亡率の高さときたらまったく話にならないほどで、平均寿命を引き下げる巨大な要因にもなっていた。

 

 明治八年、清は再び懐妊し、今度は女児を生み落とす。

 

 鶴と名付けたこの赤子も、しかし翌年には兄と同様の運命を辿った。

 

 黒田にとって家庭がなにやら面白くなく、どころか逆に息苦しいものを覚える場所になったのは、だいたいこの辺りからであるという。

 代わりに当時の豪傑連の常習として、紅燈緑酒のきらめきに鬱懐を散ずるようになった。

 特に芝神明のとある芸者に入れ込んだらしい。たまらないのは婦人である。清隆と違い、外部に容易く逃避先を求められるような、そんな身軽さは彼女にないのだ。

 

 ある日、ついに限度を超えた。

 

 具体的には、明治十一年三月二十八日である。

 すっかり夜も更けてから帰ってきた清隆を見て、

 

(どうせまた、あの女のところへ通っていたのだろう)

 

 むらがり湧いた嫉妬の念にもはや抗う術もなく、溜め込んだ怨みを縷々と述べだす清婦人。

 が、誰にとっても不幸なことに、このとき黒田は酩酊していた。

 

 酒に酔ったときの黒田というのは、人の形をした竜巻か何かと変わらない。豪胆とか大度とか、そういった人間的美質がすべて吹き飛び、ただただ一個の衝動となる。

 この場合もそうだった。にわかに逆上した清隆は、日本刀を素っ破抜くや妻の体を袈裟懸けに一閃。斬殺してしまったという。

 

(あっ)

 

 すぐさま我に返った清隆であるが、哭こうがどうしようがもう遅い。

 婦人はとっくに物体と化してしまっている。

 二十三歳を砌とし、彼女の魂は地上を離れた。

 

 

 

 深夜であるにも拘らず、黒田の屋敷は上下が顛倒するほどの騒ぎになった。

 

 

 

 なにしろ当時の黒田と言えば、もはやかつての了介ではない。

 西郷隆盛以下高名な士を西南戦争でごっそり喪った後の、薩藩に残された代表的勢力家であり、陸軍中将兼参議開拓長官正四位勲一等の堂々たる顕官である。

 白昼堂々しょっぴくには、いささか大物になり過ぎた。

 やがて黒田婦人の「病死」が伝えられると、

 

 ――本当は黒田が殺ったのを、政府ぐるみで隠蔽したのだ。

 

 との疑惑が、「団団珍聞」なる一雑誌を中心として発せられ、瞬く間に社会に横溢するの観を呈する。

 これは社会諷刺にポンチ絵を使うことを思いついた日本最初のポンチ雑誌で、やがて起こる藤田組贋札事件も、同様の手法で面白おかしく報ぜられることになる。面白いだけに、人々の頭脳にもまた浸潤し易かったのだろう。明治初頭の歴史の流れは、この不平吐露機関が作り出した部分も少なくはない。

 

 なにしろ大久保利通の斬奸状にも、この「団団珍聞」報道を真に受けた形跡がありありと見える。

 

 

 …頃日世上に陳ず、黒田清隆酩酊の余り暴怒に乗じ其妻を殴殺す、(たまたま)川路利良其座に在りと而して政府之を不問に置き利良亦不知と為し已む、嗚呼人を殴殺するは罪大刑に当る、而して既に其事世上に伝評す、政府に在っては被殺人の親族之を告ぐるを待て其を治めんと欲するか、未だ知る可からずと雖も、利良は何者ぞ身警視の長となり天下の非違を検するの任に在り、而して黙々不知()る者豈に之を私庇せんと欲するか、夫れ姦吏輩の法律を私する(おおむ)ね斯くの如し…

 

 

 結局、黒田はその妻を殺害したのか、しなかったのか。

 

 真相は曖昧なまま、しかし相次いで起こる他の重大事件に気を取られ、徐々に人々の記憶からその衝撃が薄らいでいった翌々年。

 明治十三年十二月十二日、世間は再び、黒田清隆の名を強烈に印象することとなる。

 

 この男は、再婚したのだ。

 

 相手は深川木場の豪商、丸山傳右衛門の娘滝子。

 年齢、実に十七歳。

 四十一歳の清隆とは、ほぼ二回り近い年の差がある。

 

 ――なんと若い娘好きの婿殿だ。

 

 ということで、世間は目を見張らざるを得なかった。

 

 

 

※  ※  ※

 

 

 

 実に多くの東京市民が、彼と、彼の邸宅に、羨望のまなざしを送ったものだ。

 

 材木商、丸山傳右衛門のことである。

 

 ときに「金閣寺(まが)い」と揶揄されもしたその屋敷の結構は、山本笑月の『明治世相百話』に於いて特に詳しい。

 

 

建坪はさまで広くないが総て唐木造り、一階大広間の九尺床は目の覚めるような紅花櫚の一枚板、左右一丈二尺余の大柱は世にも珍しい鉄刀木の尺角、上から下まで精密な山水の総彫、多分は堀田瑞松あたりの仕事であろう。この柱一本で立派な邸宅が建つという代物。左右のわき床は紫檀黒檀の棚板、三方の大障子は花櫚の亀甲組白絹張りで、開閉にも重いくらいの頑丈造り、一間幅の回り縁は欅の厚板、天井は三尺角樟の格天井、いや全くお話ですぞ。

 

 

 如何に富強といえど、商人がこれほどの豪邸を拵えるなど、門構えひとつにすら一々厳格な規定のあった江戸時代では考えられぬ、新政府治下ならではの、ある意味維新を象徴する建造物であったろう。

 そんな場所へ、維新回天の功労者たる黒田清隆が足を運ぶ。見ようによってはこれほど相応しい組み合わせもない。

 

 訪問の目的が、何であったかは定かでない。評判の四層望楼が気になっての物見遊山だったとも、傳右衛門に金を借りに行ったのだとも、色々だ。

 が、玄関にて靴を脱ぎ、座敷にあがってもてなしを受けたときにはもう、本来の用向きなどこの男の脳内から影も形もなくなっていたのは確からしい。

 

(美しい。――)

 

 給仕役として黒田の側につけられたのは、傳右衛門自慢の愛娘・丸山滝子その人である。

 舞の上手であったことも、おそらく無関係ではないだろう。しなやかでそつ(・・)のない動作の中に、さりげなく香る婀娜(あだ)っぽさ。滝子の魅力に、黒田はたちまちグニャグニャになった。

 

 その日のうちに滝子を馬車に積み込んで、連れて帰ってしまったとの噺さえも残されている。

 

 真偽のほどはわからない。

 しかしまあ、仮に即刻連れて帰りたいと言われたところで、傳右衛門は断らなかったことだろう。

 むしろえたり(・・・)とほくそ笑んだに違いないのだ。彼は端から黒田に滝子を縁づかせる心算であった。そうでなければいったい誰が、手間暇かけて蝶よ花よと育て上げた大事な娘に給仕の真似事などさせるであろうか。

 

 

 

 とんとん拍子に話は進み、例の明治十三年十二月十二日、二人は結婚。滝子は黒田滝子となる。

 

 

 

 結婚式の仕度には、黒田邸から馬車が十七台も来たそうだ。

 清隆が如何にこの嫁に入れ込んでいたかよくわかる。

 が、この後妻との関係も、やがては思わぬ蹉跌に嵌り込むというのだから、あるいは清隆という男には女難の相が生まれつき備わっていたのかもしれない。

 

 淵源は、生家である丸山家の没落にこそ見出せる。

 

 それは極めて意外な方面からやって来た。左様、文字通り「やって」「来た」のだ。

 

 宮内省内匠寮に籍を置く官吏数名――この一団がある日のこと、気晴らしがてら深川あたりをぶらぶら散歩し、その途上、

 

 ――折角ここまで来たのだから。

 

 かの有名な「丸山の金閣」を拝んでから帰ろうぜ、と。

 誰はともなく言い出して、いいねえ、賛成、行こう行こうという流れになった。

 ところが実際に訪ねてみるとどうであろう。既に黒田の里方として政商の地位を確立し、たいへん鼻息の荒くなっていた丸山家では、この連中を「小役人」と頭ごなしに決めつけて、

 

 ――何を寝言ほざいてやがる。

 

 顔を洗って出直せと言わんばかりの乱暴さで、さっさと叩き返してしまった。

 門前払いといっていい。

 

(おのれ。……)

 

 当たり前だが、官僚たちは意趣を抱いた。

 この怨み晴らさでおくべきか、と、奥歯をきりきり鳴らせるほどに憎悪した。

 

 果たして天は彼らに対し微笑んだ。ちょうどその頃、明治六年の失火により焼失した江戸城西の丸御殿に代わる新たな皇居御造営の儀が正式に決定していたのである。

 丸山家では当然この大事業を委任されるものとして、既に大量の材木を確保すべく働いていた。

 

(そうはさせるか)

 

 内匠寮の復讐者たちは、この大命を絶対に丸山づれ(・・)に仰せつけられることなきように、おそるべき運動を開始した。

 各員が各員の持ち得るツテをあらん限り動員し、まさに百方運動の有り様を現出。妨害工作に努めた結果、ついに念願叶って丸山を皇居御造営から切り離すことに成功している。

 

 

 

 まこと、世に小人の妬心ほど厄介なものはないであろう。蟻の穴から堤も崩れる。メルツェルは流石に慧眼だった。

 

 

 

 本懐を遂げた「小人ども」は、

 

(ざまをみよ)

 

 さぞ鼻高々であったろう。

 事実、傳右衛門は地獄を見た。

 

「話が違うではありませぬか」

 

 と、いくら清隆に泣き付いたところでもう遅い。このとき彼が開けた負債の額は、どんなに低く見積もっても三十万円に届くと云われる。

 明治初頭の三十万は、現代貨幣価値に換算しておよそ六十億円にも相当しよう。

 これが契機となって丸山は坂を転がり落ちるように没落し、明治十八年、ついに破産閉店の憂き目を見ている。

 

 江戸時代から続く老舗の、あまりにも呆気ない終焉だった。

 

 この没落は、滝子の精神にも一方ならぬ負荷をかけたものらしい。

 

(なんという不義理な方でありましょう)

 

 実家の危機を救わなかった夫への不満、このあたりの構図は、なにやら徳川家康と築山殿の関係を彷彿として趣深い。人間とは時を移し場所を変えても、結局同じような悲喜劇を演ずるものだとしみじみ思う。

 もっとも黒田清隆の場合、家康ほど異常な別れを経験せずには済んでいる。というより、なにごとかが起きる前にこの人は、脳の血管を詰まらせて死んでしまった。

 

 多年の飲酒が災いしたものだろう。

 

 未亡人となった滝子は、そう間を置かず紛失物取調の役儀で家に出入りした某警官と桃色遊戯を営んだとかで、黒田の家を追われている。

 明治三十九年になってから、我が子の引き渡しを求めて黒田家に訴えを起こしたが、むなしかった。

 

 傳右衛門ご自慢の「金閣寺擬い」はその後浅草花屋敷に移された。「奥山閣」と命名して一般の観覧に供したところ、たいへんな盛況で、長く当園の目玉であったが、関東大震災の猛火からは逃れ得ず、ついに灰と化している。

 

 

 

 兵どもが夢の跡。近代社会はスピード社会、栄枯盛衰、有為転変も実に激しい。

 つまりはそういうことなのだ。

 

 

 



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夢遊病者の殺人事件

 

 夢遊病者が殺人事件を起こした場合、罪の所在は那辺にありや?

 単純かつ剄烈に、彼を殺人者として裁いてよいのか?

 江戸時代初期、四代将軍徳川家綱の治世に於いて、この難題を突き付けられた者がいた。

 

 京都所司代、牧野親成その人である。寛延二年に刊行された説話集、『新著聞集』十七篇にその旨克明に記されている。

 

 現場は西谷なる小字(こあざ)、加害者は、さる代官の手代(なにがし)

 悪夢に魘され、はっと我に返ってみれば、既に掌中、血刀が握られていたという。

 

(えっ)

 

 心臓が凍った。

 

(まだ悪夢の続きにいるのか)

 

 狼狽のあまり、そんなことまで考えた。

 そうであったら、どれほどよかったことだろう。この現実を一睡の夢にしてしまえるなら、彼はこの先、永遠の悪夢に閉じ込められても構わないと、やや矛盾した内容を、しかし本気で考えた。

 

 それも致し方ないだろう。目の前に広がる光景は、あまりに無惨でありすぎた。

 刀を濡らす血の主。さても哀れな被害者は、彼の糟糠の妻だったのだ。

 

「――、――よ」

 

 名前を呼んで掻き抱こうとも、体温が戻ることはない。

 彼女は明らかに絶命していた。

 

 騒ぎを聞きつけ、家人がその場に集まりだした。

 皆、こぞって唖然とし、魂を抜かれたようになり、身体の動かし方すら忘れ、変に白っぽい表情のまま沈黙している。

 

 結局、某は自分で届け出た。京都所司代牧野親成の屋敷に罷り出、自己のしでかした一切を、洗いざらいぶちまけたのだ。

 

「なんということだ」

 

 流石の牧野も前代未聞の椿事を前に、どう裁量すればよいのか途方に暮れる思いがし、さりとて何もしないわけにもいかず、兎にも角にも某を牢にぶち込んでおくことにした。

 

 

 

 三日が過ぎた。

 

 

 

 調査を進める牧野のもとに、またも転がり込んだ者がいる。

 被害者の父親、すなわち某の舅であった。

 

(怨みごとを並べに来たな)

 

 そう考えるのが妥当であろう。

 ところが事態は牧野の予想を甚だしく裏切った。

 

「婿殿の命、何卒お助け下されたく。――」

 

 老爺は愚痴など、片言半句も吐き出さなかった。

 発射される言の葉は、ことごとく「婿殿」を擁護する意図に満ちていた。

 そう、老人はみずからの娘を殺した男の、助命嘆願に参ったのである。

 

 このあたり、「家」の保全にかける思いの丈もさることながら、某の平生のふるまいも与って力あったらしい。

 

 彼はまったく、良き夫にして良き父だった。

 

 その夫婦生活は円満にして幸福そのもの。子宝にも恵まれて、前途の繁栄、約束されたも同然なりと、誰もが信じて疑わなかった。

 そこへ突然の流血である。

 晴天の霹靂どころではない。

 天地逆転も同然だった。

 大人たちですらそう(・・)である。況や子供らに於いてをや。

 

 既に母を喪った。それも極めて異常な経緯で喪った。この上父まで処刑され、二度と会えなくなろうものなら、いったい彼らの神経は保つのか。いやきっと保つまい、粉みじんに砕け散るに決まっている、その有り様を想像すれば、

 

「目もあてられず候」

 

 老いさらばえた皮膚を朱に染め、舅は縷々と語を継いだ。

 

「さもあろう」

 

 牧野は深く頷いた。

 実際問題、所司代に寄せられつつある報告も、いちいち某の素行の良さを証明するものであり、あの夜のことはまったく不幸な偶然か、いっそ悪霊にでも取り憑かれたと考えた方がよほど納得のいくような具合で、内心減刑の口実を、密かに探してさえいたところである。

 そこへちょうど都合よく、

 

「下手人を出さんとするならば、此老人の命を召給へ」――身代わりになって死んでもいい、とまで極言する人物が出現(あらわ)れたのだ。

 

(天の配剤か)

 

 奇貨おくべしと、牧野は即座にこの状況を利用した。

 

「そのほうの言い分、もっともである」

 

 と認めてやり、

 

「しからば一族にて連判せよ」

 

 その書面を受け取り次第、某の縛めを解いてやると約束したのだ。人を殺めたにしては、嘘のように軽い処罰であったろう。夢遊病者の殺人は罪に問えぬと、牧野は判断したらしい。『新著聞集』の文章も、彼の裁定を後押しする調子で綴られている。

 

 夢とは制御不能なものだと、乾いた諦めの感情が、共通認識として誰の胸にもあったのだろうか。

 現に舅に至っては、例の婿殿を擁護する口上中で、

 

「娘の事は不仕合是非に及ばず」

 

 きっぱりと割り切ってのけている。

 

 

 



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拝啓、パウル・エールリヒ様

 

 

 一五四七年、ヨーロッパの某所にてひとつの実験が執り行われた。

 

 主導したのはキリスト教系の大司教。このところ世上に姿を現しはじめた命中率のすこぶる高い新式銃の正体が、「悪魔の武器」であることを証明するのが目的だった。

 

 銃身内部に溝を彫り込まれたその銃は、既存の滑腔式マスケット銃と区別するため「ライフル」と呼称されることとなる。大司教はこのライフルを二挺ばかり用意して、それぞれ特定の弾丸をあてがい、的に向かって二十発ずつ撃たしめたのだ。

 

 片方にはなんの変哲もない、ごく普通の鉛玉を。

 もう片方には十字を刻み、教会によって祝福された銀の弾を。

 

 装填させ、轟発させ、立ち込める硝煙が晴れたとき、

 

(やはり。――)

 

 残った結果に彼は満足を露わにした。

 

 前者が二十発中十九発の命中弾を生んだのに対し、後者はただの一弾たりとも的に当たらなかったからである。

 

 教会はこの「実験結果」を根拠とし、ライフルを「悪魔の武器」と正式に認定。その製造を取り締り、違反者には火炙り若しくは生き埋めで以って報いる法令をたちどころに発布した。

 

「鉛に比べて銀は硬すぎ、ライフリングにうまく喰い込まなかっただけ」という本来の理由は、むろんのこと無視された。そもそも黒色火薬自体、「悪魔が生み出した」物質として忌み嫌っていた彼らである。

 神の加護厚き銀の清浄なる霊力が、ライフルに籠められた悪魔の力をはねのけたのだ。誰が何と言おうとも、どんな数式を突き付けられても、彼らの中ではそういうことになっているのだ。

 

 ――中世までの欧州戦史を見ると、野蛮人が何時も文明人を圧倒して居る。併し火器発明以来文明人が野蛮人を滅し得るやうになった。

 

 そのように説き、文明に対する銃の功績を称揚した波多野承五郎が一連の話を聞いたなら、さぞや面食らったに違いない。

 

 

 

 科学の発展に対する宗教家の反応で、傑作なのはまだまだある。

 

 

 

 たとえば一九一〇年、パウル・エールリヒと秦佐八郎がサルバルサンの合成に成功したときなどはどうだろう。この有機ヒ素化合物が梅毒に対し特効薬的効果を示すことが知れ渡った際、とある宗派からエールリヒのもとへ、以下の如き書簡が舞い込んだ。

 

「そも、梅毒なる病気は、放蕩をした者に対する天の制裁に他なりません。これあるが為に、放蕩を欲しながらもその病気にかかることを恐れて罪を犯さなかった者は随分多い」

 

 顔が崩れ、ときに臓器を停止に追い込む梅毒が、そのじつ天の為せる業だったとは愉快な教義もあるものだ。病原体たる梅毒トレポネーマ君も、さぞかし鼻が高かろう。

 

「然るに今日以後、いくら放蕩三昧に耽って梅毒にかかったとしても、サルバルサンの注射さえ受ければ、ただちに元通り快癒するということになってしまえば、世間の者は悉く立って放蕩の門へ走り出すに決まっています。耽溺しない者は馬鹿だという思潮が席捲することになるでしょう」

 

 人間に対して、ずいぶんと悲観的なものの見方をするものである。

 こんなやつが聖職者を名乗り、正義人道神の声を大上段から説いたところで、どれほどの効能があるのだろうか?

 

「だから折角の大発見を全然禁止してしまえとは言わないまでも、ぜひ生涯に一度より、この注射を受けることが出来ないという禁止令を出していただきたいのです」

 

 エールリヒこそいい面の皮であったろう。

 

(俺に言ってどうする)

 

 こちとら研究者だ、政治家じゃないと叫びたかったに違いない。よしんば行政がとち狂ってそのような規則を設けたとしても、いたずらに闇市場の拡大を招くのは目に見えていた。

 

 神も仏も、時代の流れには逆らえぬものだ。

 

 ついでながらサルバルサンの発見を受け、これまで日本人の梅毒治療をほとんど一手に独占してきた草津温泉の人々が、秦佐八郎に苦情をねじ込んだという風聞は、少なくとも筆者の調べ得る範囲に於いて絶無であったと一言しておく。

 

 



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第十五號患者の記録


狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。
(『徒然草』より)



 

 お見舞いとして贈られた汁気たっぷりなフルーツを、

 

「それは銅で出来ている!」

 

 と、顔じゅうを口にして絶叫し、一指も触れずに突っ返す。

 

 曲がり角に突き当るたび、その蔭に、ドリルを構えて待ち伏せしている医者の姿を幻視して、俺の頭蓋に孔を開けるつもりなのだと恐怖する。

 

 微かな埃が揺らめくばかりの虚空の上に銀行家や仲買人の姿を描き、本人以外の誰にも見えぬ彼らに向けて熱っぽく、一般庶民の生涯賃金を遥かに超える大取引を持ちかける。

 

 腹の中に宝石が詰まっているからと、それを失うのが惜しいと言って便所に行くのを拒絶する。

 

 以上に掲げたことどもは、総てひとりの人間により演ぜられた狂態だ。

 

 フランス・パリはブランシュ博士の精神病院、そこに収容されていた、第十五號患者の記録。ギィ・ド・モーパッサン――それが番号で管理されるより前の、彼の本当の名前であった。

 

 

 

 偉大な知性が壊れてゆく過程ほど、見るに忍びないものはない。

 

 短編小説の巨匠として世を風靡したモーパッサンが、いったい何という有り様だろう。

 

 彼の正気を破壊したのは梅毒だったと、今日ではほぼほぼ確定している。

 

「文明化とは梅毒化することである」――こんな言葉さえ編まれるほど深刻に、どうしようもなく広範に、社会を毒した感染症。

 その被害者リストには軍の大将の名前もあれば、隠れもなき文豪も含まれていたと、つまりはそういうわけなのだ。

 

 脳神経が蝕まれるのは第四期――病膏肓に入りきった、末期症状に位置付けられる。

 それより以前、第二期と第三期の中間あたりを彷徨っていたころ。目のかすみや片頭痛を抑えるために、エーテルやクロロホルムを吸引したり、マリファナ、アヘン、コカインあたりに手を出したのも、結果としてはまずかった。

 

 モーパッサンの主観に於いて現実と妄想の境界線は次第に曖昧模糊となり。一八八六年、英国旅行を試みた際にはもう既に、急に笑い出したかと思えばまただしぬけにこの世の終わりが来たみたいに沈み込む、重度の躁鬱状態に陥っていたそうである。

 

「私は長生しようとは思わない。流星のように文壇に入った私は、今度は電撃のように去るのだ!」

 

 友人たちに宣言したとき、果たして彼はどちらの極にあったのか。

 

 そして運命の(とき)が来る。

 

 一八九二年一月一日、新たな年の始まりを、モーパッサンは自殺未遂の鮮血により彩った。

 

 カミソリで喉を裂いて死のうとしたが浅手に止まり、死にきれず、ならばとばかりにピストルで頭を撃とうとしたが、引き金を引いてもこはいかに、一向に弾が出てこない。

 実は以前、被害妄想に駆られたモーパッサンが窓の外の見えない敵へと乱発した(ためし)から、危惧を抱いた執事によって予め、全弾頭を抜き去られていたのである。

 

 失意と出血が、やがてモーパッサンを昏睡させた。

 

 次に彼が目を開けたのは、一月二日の夜である。覚醒するなりモーパッサンは、

 

「戦争に行くから仕度をしろ」

 

 と執事に向かって言いつけた。

 青年時代、普仏戦争に召集されて敗軍の憂き目を舐めさせられてからというもの、戦争自体を強烈に憎んだはずの人格が、どういうわけか真逆になった。

 

 執事が命令を拒否すると、モーパッサンは怒り狂い、ついに人間の態をなさぬまでに昂った。

 

 もはや手の施しようがないことは、誰の眼にも明らかである。事ここに至っては万やむを得ない。翌日三日、ブランシュ博士のところから看護人がやって来て、入院のための準備を始めた。

 

 

 

 そして彼は分厚い塀の中へ行き、そこが終の棲家となった。

 

 

 

 残骸のようなモーパッサンの身体からその魂が離脱したのは、一八九三年七月六日、午後三時のことである。

 享年、四十二歳に過ぎなかった。

 入院中に彼が示した狂態はまだまだあるが、これ以上の詳述は、どうも筆者の精神の方が持ちそうにない。

 

 病的なものへの過度の興味はそれ自体が病的である。心せよ、亡霊を装いて戯れなば、汝亡霊となるべし。

 

 このあたりで止めておくのが賢明か。

 

 息をひきとる数時間前、モーパッサンが「闇だ、おお闇だ!」と繰り返すのを、看護人らが目撃している。

 

 

 



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復讐者、福澤桃介

 

 世に愉快の種は数あれど、復讐に勝る悦びというのは稀だろう。

 

 奥歯が磨滅するほどに、憎みに憎んだ怨敵を、首尾よく討ち果たしたその瞬間。溜め込み続けた負の情念は一挙に炎上、快楽へと昇華され、中枢神経を直撃しては白熱化させ、眼球から火花が飛び散るような陶酔境に運び去る。そう、復讐とは気持ちいいのだ、絶対に。

 

 福澤桃介なども、その妙味を存分に堪能した一人であった。

 

 左様、福澤桃介。

 

 名字から連想するそのままに、福澤諭吉の息子である。

 といって、血は繋がっていない。

 養子である。

 慶應義塾在学中、諭吉の妻たる錦に見込まれ、ぜひ娘の婿にと懇望されたというから、よほど才気溌溂とした、目から鼻に抜けるような好青年であったのだろう。

 

 一見怨みだの何だのと、その種の薄暗い感情とは無縁そうなこの人物が、意趣を抱いた相手は誰か。

 他でもない、同じ慶応義塾出身の、森下岩楠というのだから何ともふるっているではないか。

 

 

 

 事のあらましはこんな具合だ。桃介が経営していた「丸三商会」という貿易会社が、あるとき危機に陥った。

 

 

 

 それまでメインバンクと仰いでいた三井銀行の方針がにわかに変じ、融資を断たれたのが原因だ。至急、他に活路を求める必要がある。そこで桃介が目を付けたのが、とある外国資本であった。

 

 後年大井発電所建設のため、アメリカから金を引っ張ってきたことといい、桃介にはこのような、良く言えば国際人的な感覚がある。

 

 が、丸三商会に関しては失敗した。融資を求められた外国人が東京興信所に福澤桃介の調査を依頼し、そしてその報告が、

 

「資産ゼロ、信用皆無、相場に手を出す危険人物」

 

 という、およそ考えられる限り最低の評価だったことが原因だ。

 この東京興信所を経営していたのが、他ならぬ森下岩楠だったのである。

 森下はもともと相場というものに強烈な胡散臭さを感ずる性質で、桃介がその世界にのめり込むのが気に喰わず、ためにこの仕事が舞い込んだとき、

 

 ――ここはひとつ痛い目を見せ、今後の教訓にしれくれようず。

 

 博奕まがいのよからぬ業から桃介をして足抜けさせる、絶好の機会に感じたらしい。

 当人が聞けば、余計な世話だと声を大にして叫んだだろう。

 実際問題、こんなことをされては堪らないのだ。森下の報告を受け取った結果、外国人は恐れをなして契約を打ち切り、丸三商会はぶっ潰れ、桃介は諭吉から大目玉を喰らわされ、本人自身恥辱のあまり、

 

 ――おれは福澤の姓に相応しくない。

 

 と本気で考え、「養子縁組を解消したい」と喚き散らしたほどである。

 

 

 

 桃介は、偽善者ではない。彼はこの怨みを忘れなかった。虎視眈々と復讐の機会を窺い続け、そしてついに訪れたのが明治四十一年のこと。

 

 この年、洋行の機会に恵まれた森下のため、送別会が芝の三縁亭にて営まれている。必然、慶應義塾の出身者が数多顔を連ねる運びとなった。

 

 一座を代表して送別の辞を読み上げたのが、第三期卒業生の豊川良平。岩崎弥太郎を従兄弟に持ち、その縁から三菱を支えた功労者だが、演説の才にはどうやら恵まれなかったらしい。

 内容は退屈、キレも悪く、そのくせいやに冗長で、皆あきらかに退屈し、ついに鎌田栄吉塾長と岡本貞烋がヒソヒソと、内緒話に耽りはじめた。

 

 その姿を見て、途端に良平は癇癪玉を爆発させた。

 

「いやしくも慶應義塾の塾長ともあろう者が人の演説中に私語をするとは無礼千万、何事か!」

 

 大声一喝、そう叱責したという。

 

 内容自体は正当である。

 が、さんざん惰気を生じさせる演説をした上、その口ぶりが如何にも尊大で憎体であり、出席者の同情は良平よりも、鎌田の側に集約された。

 やがて良平の送別の辞が終了したとき、すっかり興を醒ました一座の中から、待ち兼ねたように屹立した者がある。

 

 彼こそ福澤桃介だった。

 

 怪訝な視線をものともせず、やおら桃介は語りはじめる。

 

「ただいま豊川さんはひどく鎌田塾長を叱られた。人の演説中に話をするなんて、なるほど確かに不作法であるが、しかし正直に申し上げれば、豊川さんもあまり演説がお上手でない。下らぬ送別の(ことば)を長々と聴かされると、誰でも退屈して内緒話がしたくなる。その点本人は一向反省にならないで、鎌田塾長ともあろう人を、大喝一声、叱り飛ばすとはエライ御威勢だ、それというのも豊川さんには三菱という背景があるからだろう。私はそれが羨ましい。斯く申す桃介は、何等の背景を持たない一介の書生であるために、先年森下氏の興信所からひどい報告を受けた」

 

 さりげなく攻撃の矛先を良平から森下へと移行している。

 桃介にとっては、ここからこそが本番だった。積年の怨み、晴らすは今を措いてない。

 

「私が丸三商会と云うものを経営して居た時、私は某外人と石炭の販売契約をしようとした。すると、その外人は興信所に向って私の信用を問うた。その時、森下氏の興信所は、資産零、信用皆無、相場をする危険人物と答えてやった。その為に外人は契約を中止する。銀行からは金融を止められる。私の丸三商会は破綻して、私は血を吐いて死のうとした」

 

 たいへんな送別会もあったものである。

 桃介、更に続けて曰く。

 

「私は爾来非常に発奮し、産を為し、この不名誉を恢復しようと努力した。幸に私はその後相場に当り、満更の無資産でもなくなった。森下氏は相場を罪悪と心得て居らるるようだが、天下相場をしないものが幾人あるか。東京興信所は財閥の御用ばかり勤めて居る。それで興信所の任務を果したものであるか。この辺よく欧米の実況を視察してお帰りを願いたい」

 

 一連の演説を終えたとき、人々は拍手喝采して桃介のことを讃えたという。

 世にも爽やかな復讐劇は、このようにして成就した。

 慶應義塾の門下生たる者、斯くあるべし。七年前の明治三十四年を砌に黄泉路へ着いた養父諭吉も、草葉の陰で莞爾としたに違いない。

 

 



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言霊の 幸ふ国に 相応しく

 

 中根左太夫という武士がいた。

 

 身分は(ひく)い。数十年前、末端部署の書役に任ぜられてからというもの、一度も移動の声がない。来る日も来る日も無味乾燥な記録・清書に明け暮れて、知らぬ間に歳をとってしまった。ふと気が付けば頭にも、だいぶ白いものが混じりつつある。

 

(なんということだ)

 

 まるでモグラか何かように、日の目を見ない己の境遇。このまま立身する見込みもなしに、燭台の蝋が尽きるが如く死んでゆかねばならぬとすれば、はて、いったい自分は何のため、この世にまろびでて来たのであろうか。

 

(むなしすぎる。……)

 

 無常を感じずにはいられない。

 その寂寥が、一首の歌に凝固した。

 

 

筆とりて頭かき役二十年

男なりゃこそなかね左太夫

 

 

 自身の名字の「中根」の音と、「泣くものか」という痩せ我慢とをカケた歌だ。

 

 悪くない出来といっていい。武士の要訣を衝いている。侍と百姓とを区別する決定的な境界は、実にこの痩せ我慢にこそあるだろう。元土佐藩士の家に生まれた作家の大町桂月なども、幼い頃から

 

 ――夏暑くとも、暑しと云ふな、裸になるな。冬寒くとも、寒しと云ふな、火にあたるな。痛しとも痛がるな。恐ろしとも、恐るるな。

 

 との教えのもとに厳しく躾けられている。その結果、

 

 

 痩我慢だにあれば、胆力なくとも、胆力ある人と共に伍するを得べきなり。勇気なくとも勇気ある人と騁馳するを得べき也。人前にて臆病なる挙動をなさざる也。如何に困苦するも人に泣面を見せざる也。干戈の巷に出でても、余りひけを取らざる也。平生個人の交際、家庭団欒も円満になる也。社会に出でて事業をなす上にも便宜多き也。(中略)凡人をして、天才者の域に近づかしむるも、亦実に痩我慢也。(『桂月全集』)

 

 

 痩我慢なる(かな)、痩せ我慢なる哉――と。

 

 煌めくような名文警句を展開するまで至ったものだ。

 

 まあ、それは余談。

 

 とまれかくまれ、中根左太夫の詠んだ狂歌は武士の心にぴたりと添うものであり、ふとした筋からそれを聞き知った重臣は、

 

 ――心意気、いじらし(・・・・)

 

 ということで、彼を転役、昇進させてやったということである。

 

 

 

「言霊の幸ふ国」に相応しい逸話であるだろう。

 

 

 

 三十一文字(みそひともじ)にまるわる綺譚は、全く以って百花斉放、浜の真砂の数にも及ぶ。

 

 もう二・三ばかり摘出すると、たとえば柳亭種彦は、あるとき古道具屋で掘り出した茄子型の硯を愛用し、その入れ込みようはほとんどこれを舐めんばかりで、常に机上に置くばかりでなく、ついにはその蓋の表に、

 

 

名人になれなれ茄子と思へども

兎に角へたははなれざりけり

 

 

 以上の狂句を掘りつけて、一層悦に入ったとのこと。

 

 作曲家にして演奏家、一弦琴を奏でさせては並ぶものなき真鍋豊平、大阪に住み自流の伝道に努めていたころ。思うところあって伏見町から瓦町へと住居を移した。

 それから暫く、移転先を聞かれる度に、

 

 

難波橋瓦町なる角屋敷

歌と琴とをまなべ豊平

 

 

 斯くの如き歌を記した名刺を差し出し、莞爾とするを常とした。

 

 京都のとある理髪師が、軽々にハンコをついたばかりに友人の借金を背負い込んで、もはやどうにも首が回らず、夜逃げか死かの二択にまで追い詰められた。

 で、結局夜逃げと相成ったのだが、その間際。彼は自宅の戸口の上に、べったり半紙を張り付けるのを忘れなかった。

 そこに記されていた文面は、

 

 

金もなく妻なく子なく義理もなし

身につくものは虱きんたま

 

 

(あの助六が、ほざきよるわ)

 

 この戯言(ぎげん)には、さしもの債鬼も表情筋を緩ませずにはいられなかったそうである。

 

 



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怨念、欺き徹すべく

 

 北越の都、長岡にはいわく(・・・)があった。

 

 ここには火葬場が一つしかない。

 

 伝統あるとは言い条、個人経営のくたびれた店で、炉に至っては骨董品といってよく、焼くのに大層難儀する。そのくせ料金は割高設定なのだから、住民としてはやってられまい。自然、

 

 ――いっそ市の方で、公営の火葬場を造ってくれれば。

 

 そんな方向へ思考が流れる。

 ところがどういう因縁か、そのことを公の場で持ち出すと、ほどなくしてその人物が死亡するのだ。二度三度と続くうち、いつしかこの話は鬼門になった。新潟版「将門の呪い」といっていい。

 

 死後の面倒を減らすため、自分の寿命を短縮してはたまらない。そんなこんなで、長岡市民は長いこと不便に甘んじ続けたわけである。

 

 

 

 変革が齎されたのは、この地を故郷とする木村清三郎が市長に就いた昭和四年以後のこと。

 

 

 

 新聞社を経営し、衆議院議員を務めた過去すら有する人物だ。胆は十分以上に練られている。当然、呪いなど鼻で笑って、

 

「科学文明の爛漫たる昭和の御代に、かかる世迷言を通用させておくべきでない。わしの在任中に必ずケリをつけてやる」

 

 斯様に大言壮語した。

 が、いざ実行に移してみるとどうにもこうにも居心地が悪い。

 まるで不可視の怪物が常に背中におっかぶさって、生温かいその吐息(いき)を首筋に吹きかけられているような、得体のしれない不気味さがある。

 

(これはいかぬ)

 

 木村は焦った。

 なんだかんだで彼も還暦を越えている。体の各所にガタが来て、若い頃には無視したであろう些細な不調もすわ大病の前触れかと動顛しがちな年齢だ。

 心気が揺らぎ、その揺らぎが彼をして、思わぬ儀式に奔らせる。

 

 なんとこの男は、生前葬をすることにした。

 

 死を偽装して呪いを誤魔化し、厄を祓おうとしたわけだ。

 

「あいつめ、迷信を脱出しようとして別の迷信に嵌りおった」

 

 そう言って苦笑したのは石山賢吉。

 やはり新潟の出身で、ダイヤモンド社創業の雄たるこの人物の手元にも、木村市長生前葬の案内状は送られている。

 

 ――せっかくのご招待だ。

 

 好奇心もある。

 石山は出席を決意した。

 喪服を用意し、北陸行きの汽車に乗る。果たして骨折りの甲斐はあった。儀式当日の情景は、石山の中で格好の話のタネとなり、折に触れては人に語ったものである。

 ある日の座談会の席上で曰く、

 

 

「スッカリ本式さ。木村が白無垢を着て、死人になり済まし、寺の本堂に端座して、読経を受けたものぢゃ。それから会葬者が一同焼香して火葬場行きサ」

「火葬場も本式でしたか」

「其処も本式ぢゃった。本人が一旦釜の中へ入り、裏口から抜け出ると云ふ芸当をやったものぢゃ」

「滑稽でしたネ」

「滑稽と云へば、徹頭徹尾滑稽ぢゃった。こんな事をするから、此の世を浮世と云ふんぢゃよ。考へて見れば、総てがお茶番よ。特に木村の仮葬に限った訳ぢゃない。お葬式が済むと、アトは御馳走ぢゃ。是れは、本人が生れ変った誕生祭と云ふ訳さ。此の御馳走の場所が長岡会館と云ふカフェーだから振って居るぢゃないか」(昭和十年『金と人間』)

 

 

 日本で生前葬をやった人物としては、かなり若い番号を振られるであろう木村清三郎。

 彼が本当に(・・・)世を去ったのは、昭和十六年二月十六日のことである。

 

 これだけ間に開きがあれば、呪いと関連づけて勘繰る者も居なかったろう。現在でも長岡市には公営の火葬場が存在するが、それが木村の建てたものであるかどうかは判然としない。

 

 



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房総半島狼藉始末

 

 対外姿勢の軟弱を倒幕の重大な口実として成立した明治政府は、しかしその初期に於いて明らかに、旧幕府よりも外圧に対して弱腰だった。

 

 その理由の詮索は、ひとまず措こう。

 

 眺めたいのは具体的な例である。大は堺事件から、小はこんなものまである。「露鷲英獅(ろしゅうえいし)」の片割れたるイギリス人が、千葉の田舎で惹き起こした騒動だ。

 

 英国紳士のごく一般的なたしなみとして、彼もまた狩猟を好み、否、ほとんど耽溺するといってよく、この極東の島国に於いてもその欲求を満足させようと目を光らせた。

 で、狩場として選定したのが房総半島の山野である。沖合を蛇行する黒潮の影響から、温暖な海洋性気候を示すこの土地は、人間のみならず動物にとっても棲み心地がいい。

 それらを獲物と為すために、鉄砲担いであちらこちらを逍遥する彼の姿が次第に目につくようになる。

 

 住民たちは内心薄気味悪さを募らせつつも、表だって排斥するような真似もせず、暫くの間は――撃ち殺される禽獣以外にとって――平穏無事な日々が続いた。

 

 ところが、問題のある日のこと。終日狩りに明け暮れても目ぼしい獲物に出逢えなかった英国人は、宿へと帰る道すがら、たまたま通過した村の小川で餌をついばんでいた家鴨(あひる)の群れに、物も言わず鉛玉をぶち込んだ。

 

 彼が何を思ってそのような凶行に及んだかはわからない。ひとたび狩場に出ておきながら、手ぶらで帰っては英国男児の名折れとでも考えたのか、それとも単なる腹立ちまぎれか。

 いずれにせよ、現実はこうだ。鉛玉は群れの一匹に見事命中、即死させ、附近の畑を耕していた飼い主を、これ以上ないほど憤激させた。

 

「毛唐ッ」

 

 この飼い主は百姓ながら度胸のいい男であって、未だ硝煙の立ち昇る銃口をちっとも恐れる風がなく、泥まみれの手を拭いもせぬまま英国人に詰め寄ると、

 

「何をしやがる、いったいどういう料簡で、ひとさまの鳥を撃ちやがったこの野郎――」

 

 胸倉を取らんばかりの勢いで、矢継ぎ早の詰問に及んだ。

 が、英国紳士、急に日本語を忘れたような顔つきで、母国の言葉しか話さない。

 埒が明かぬと業を煮やした百姓は、最後の手段、縄でこの不届き者を縛り上げ、警察署まで引っ張ってゆくことにした。

 

 驚いたのは千葉県警である。周知の通り、不平等条約によって領事裁判権を握られている日本は、外国人を裁判する権限がない。にも拘らず縄目の辱めを味わわせ、無理矢理にひっくくって来たとあっては、

 

(これは、大変なことになる)

 

 というのが、全署員の共通した思いであった。

 

 

 

 果たしてその通りの事態になった。

 

 

 

 件の英国人は速やかに東京へ護送され、英国領事館へと引き渡される。そこから談判が始まったのだが、先方の主張はのっけからもう凄まじい。

 

「家鴨が家禽ならば、何故家の中に飼っておかぬか。戸外に居れば、野禽と見て撃つのに何の不都合があろう」

 

 紛らわしい真似をしたお前が悪い、というのである。

 馬鹿な話だ。農家が家鴨を飼育するのを、愛玩用とでも思っているのか。

 まさかである。防虫・番鳥の効果を託して田に放たれる、「生きた農耕具」とでも呼ぶべき実用的な存在なりと、英国側もよくわかっている。

 承知の上で殊更にすっとぼけて見せるから、彼らはあくどいと言われるのだ。英国の言い分、更に続いて、

 

「にも拘らず、一人の英人を大勢の百姓が寄ってたかって袋叩きにした挙句、自由を束縛して警察に引き渡すとは無礼千万、以っての外の不都合である。彼が蒙ったこの重大な損害に、見合うだけの賠償を求める」

 

 こうなるともう、どっちが被害者でどっちが加害者なのかわからない。

 

 その後の調べでこの英人は事件当時、旅行免状を持ち合わせていなかったことも判明している。正しくは「内地旅行免状」と呼ばれるもので、外国人が居留地以外の地域へ出掛けたいと思った場合、外務省に要請してこれを発給して貰うのが規則であった。

 

 つまり家鴨射殺云々を抜きにしても、彼は重大な規定違反者であり、罪人である。

 日本側としては当然これを鉾先として、ぐりぐりと捻じ込んでゆくべきであろう。

 

 ところが、これはなんたることか。談判の席で日本側から免状に対する指摘の声など一切上がらず、ただひたすらに恐れ入り、

 

 ――寄ってたかって袋叩きにしたなどと、そのような事実は決して。

 

 どうにかなあなあ(・・・・)な空気のうちにこの一件を流してしまおうと腐心したからたまらない。しかもこの試みは成功し、英国人は高笑いしながらまんまと逃れ、千葉の農家は可愛い家鴨を殺され損の泣き寝入りとは、馬鹿にするにも程があろう。

 

 

 

 心ある者はこぞって政府の弱腰を糾弾し、何のための維新であるかと切歯した。

 

 

 

 この一件に味を占めたわけでもなかろうが、世に「英国の横暴」として憎まれた事件は暫く続き、まったく枚挙に暇がない。

 大隈重信などは山積するそれら事例にあるときとうとう堪忍袋の緒が切れて、

 

「パークスを斬って自分も死ぬ」

 

 と喚き散らした狂態を、多くの政府吏員が見届けている。

 が、公使一人を斬った程度で時局が好転するわけがない。

 

 所詮、力なき民族に独立はないのだ。嬲られ、毟られ、強者の都合に翻弄される。その現実を、歴史は懇切丁寧に教えてくれる。

 

 



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ファイブ・ジョンブル

 

 

 贋金造りで逮捕されたその男性は、審理の席で自分が如何にみじめな境遇に置かれていたかを泣くような声でアピールし、以って衆の同情を誘い、情状酌量の余地を一寸でも拡大すべく努力した。

 

「――このようなわけで、私は家賃の調達すらままならず、人並みの生活を送れませんでした。今回の罪も良心の呵責に苦しみながら、家賃を拵え、一ヶ所に落ち着き、真っ当な人生をはじめたいあまりやむにやまれず犯したもので、それ以外の目的は一切なかったわけですから、この窮状を憐察して、どうか寛大な御処置をば」

 

 陳述を受け、判事は鷹揚に頷いた。

 口元にはまるで菩薩を思わせる、柔らかな微笑が浮いている。

 

「なるほど、家賃のためにやった仕事か。よろしい、その労苦に対して、満五ヶ年の住宅を提供しよう」

 

 

 

 

 天才にありがちな欠失といってしまえばそれまでであるが。――

 

 経済学の祖、アダム・スミスはその幼き時分から、脈絡もなく突然放心状態に落ちたり、かと思いきや誰もいない虚空めがけてぶつぶつと、ひっきりなしに独り言を垂れ流すという妙な癖を持っていた。

 

 ひとたび何かを考え出すと、周囲の状況を全然忘れ、ひたすら自己の内側へと埋没してゆく――度外れた集中力の発露の結果といっていい。

 しかしながらこれあるがため、周囲は奇異の視線を注ぎ、「実務に関しては無能力」の烙印を押されることとて珍しくはなかったという。

 

 オックスフォード在学中の彼の逸話に、次のようなものがある。

 

 友人たちと朝食を楽しんでいたアダム・スミスは、突如脳髄を貫いた天啓的発想に夢中になって、例の如く絶句した。

 

 瞼は開かれているものの、彼の視界はここではない、どこか異なる超次元の高みまで完全にすっとんでしまっており、自分の手が何をやっているかも気付けない。

 

 どういうわけか彼の手は、バターの塗られたパンを乱暴に丸めて団子にしており、友人たちが唖然として見守るさなか、今度はそれを茶瓶に詰め込み、上からお湯を注ぎ入れ、その出し汁をコップに移して口に運んだ。

 で、呟いて曰く、

 

「こんな不味い茶を飲んだのは初めてだ」

 

 日曜日の朝、庭前を寝間着のまま散歩中、空想に嵌り込むあまり、いつしか15マイル(およそ24km)先の街まで行ってしまったこともある。

 教会の鐘の音を耳にして、初めて我に返ったそうだ。なるほど社会の歯車とするには不適当、規格外の人物としかいいようがない。

 

 

 

 

 ジェームズ・ハリントンは激怒した。

 丹精込めて仕上げた政治小説、『オセアナ』が政府の検閲に遭い、没収されてしまったからだ。

 護国卿クロムウェルの指導体制を「共和主義の皮を被った君主制」とこき下ろし、

 

「おれが本当の共和主義を見せてやる」

 

 と息巻いて架空国家「オセアナ」を舞台にその実現模様を描ききった珠玉の傑作。この印刷を差し止めるなど、英国どころか人類にとっての損失であろう。

 ハリントンは活路を求め、クロムウェルの娘に当たるクレイポール夫人のもとを訪れた。

 

 客間に通され、夫人を待っているあいだ、三つになる彼女の娘と戯れ過ごす。ハリントンは少女の旺盛なる好奇心を満足させるべく励み、一定の成果を挙げたという。

 

 ところがこれはなんたることか。やがて夫人が入室するや、ハリントンは自分の膝に座らせていた少女の身をひしと抱き締め、

 

「貴女の父上は私の愛児を攫っていった。私は今、その復讐にこの可憐なお嬢さんを攫って行こうとしているところだ」

 

 このように言ってのけたのだからたまらない。

 当時のオリバー・クロムウェルは、誰疑うことなき独裁者。その権力を発動させれば、ハリントン如き一寸刻みに殺すこととて容易だったはずである。

 

 しかし、彼はそうしなかった。

 

 どころではない、却ってハリントンの機智を讃え、「愛児」をその手に返してやったというのだから、クロムウェルもやはり英国人たるを失っていなかったということだろう。

 

『オセアナ』はクロムウェル指導時代の1656年、無事出版され日の目をみている。

 

 

 

 

 ヨーロッパの紳士たちにとり、決闘こそが問題の最終的解決法だった時代があった。

 

 それもそう遠い昔の話ではない。帝政ドイツの立役者、鉄血宰相ビスマルクでさえ、若輩の時分はそれをやった。ほとんど日常的にした。この男のゲッティンゲン大学在籍時に於ける振舞いなど、ものを学びに来ているのか、それとも人を殴るために大学の門を潜っているのか、判別し難いほどである。

 

 授業には一つも出ず、毎日喧嘩をふっかけて歩き、決闘に及ぶこと28回、学期中の大部分を大学付属の牢屋の中で過ごしたという伝説は此処で生まれた。

 

 イギリスも決して負けてはいない。一説によれば1760年から1820年までの60年間にかけて、この島国で公然判明した決闘事件は170件強、そのうち一方の死で決着したのが71件、しかしながら有罪判決を受けたのは僅か3件を出でず、残りは悉く無罪放免となっている。

 

 イギリスは陪審員制発祥の地だ。

 しかも評決には、12人の陪審員全員の意見が一致しなければならない。

 つまり無作為に選ばれた一般市民が、まず九分九厘、相手を殺して勝者になった決闘者を罪無しと認めていたのである。

 

 決闘に於ける殺人は――それが「公平な決闘」であるならば――単なる殺人と一線を画す。欧州の天地に、そんな共通観念が確かに成立していたと、これら数字はよく証明してくれるだろう。

 

 この件に関して英国には、更に興味深い話がある。フレッチャー卿なる判事が、やはり決闘による殺人事件を取り扱ったときのことだ。陪審員の多くは法律の素人であるため、判事は刑事裁判のルールをわかりやすく説明する義務を負う。

 これを「説示」と云うのだが、このときフレッチャー卿が行った説示ときたら、秀逸としか言い様がない。

 

「陪審員諸君、法律の運用解釈を諸君に告げるのは、私の任務である。その任務に基いて私は諸君に告げるのだが、法律は決闘によって人が人を殺した場合に、それを殺人罪と規定している。しかし諸君、これと同時に、私は断言するが、本件の決闘は実に立派なものだ。かつて聞いたことのないほど、堂々たるものだ。この点を特に(あわ)せて、諸君に告げておく」

 

「空気を読む」という習慣が、独り日本に於いてのみ通用する特殊作用でないことは、これを一読するだけで明瞭たろう。むろん、陪審員たちは即座に無罪の答申をした。

 この説示は判事の名から「フレッチャー説示」と通称されることとなり、長らく決闘殺人を扱う上での亀鑑とされたそうである。

 

 

 

 

 窃盗の常習犯が逮捕された。

 この男、既に前科六犯を背負わされているだけあって、監獄を視ることあたかも別荘の如くして、少しも恐れ入る風がない。

 

 不遜な態度に業を煮やした判事、厳然として曰く、

 

「お前は到底改悛の見込みのない奴だ。お前のような危険人物には、法定の最長期の刑罰を科さねばならない」

「最長期ですって? なるほど私は度々お手数をかけました、まったく、私は法の常得意です。しかし、常得意には割引をするのが、世間一般の通り相場ですがねえ」

 

 



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猿の夢

 

 文禄元年(西暦1592年)三月というから、朝鮮出兵の第一回目、「文禄の役」を間近に控えたある日のことだ。

 太閤豊臣秀吉は、この戦争を監督するため上方(かみがた)から腰をあげ、大陸によほど近接している肥前名護屋の大本営に移らんとした。

 

 そのとき居並ぶ群臣の中から、勇をふるって忠言した者がある。上様が名護屋に在して遥かに朝鮮を麾くのときには、明国なり朝鮮なりから、書簡の往来が必ず多いことでございましょう。その処理のため、通訳として、誰ぞ文才ある者を召し連れて行かれては如何でしょうか――。

 

 至極真っ当な献策だった。

 ところがこれを聞いた秀吉は、

 

「左様な者はいらぬ」

 

 一言のもと、すげなく切り捨ててのけたという。

 

「そんなことより明・朝鮮の人をして、その国の文字を棄てさせ、我が国の『いろは』を用いしむればよいではないか」

 

 というのが理由であった。

 

 これは江戸時代に突入してから編纂された、林羅山の『豊臣秀吉譜』に描かれている情景で、著者が著者であるだけに偽作を疑う声も強い。

 

「国家安康・君臣豊楽」の字句を徳川家を呪詛するものだと糾弾し、方広寺鐘銘事件を惹き起こした主犯格の一人なのである、林羅山という儒学者は――。

 

 豊臣家覆滅に大きく寄与した、そんな幕府の御用学者が、秀吉の為人(ひととなり)を正しく伝えるわけがない――そういうわけだ。

 

 しかしながら、醍醐の花見を開催するにあたって書状を作成させた際、「醍」の字をド忘れして蒼褪めている祐筆を見、

 

「なんだダイの字か」

 

 快活に笑って筆を取り上げ、墨痕淋漓と「大」と書き、

 

「これでよい」

 

 と軽快に捌いてのけた秀吉である。

 その気宇の大きさから考えて、この程度のことを言ったとしても少しも不思議でないだろう。

 

 なお、『豊臣秀吉譜』のこの話には続きがあって、

 

 ――その夜秀吉、つらつら思い返して、ついに相国寺承兌、南禅寺の霊三、東福寺の永哲、この三人を連れて名護屋へと赴くに至る。

 

 となっている。

 すると衆目の前での放言は、敢えて常識論を蹴り飛ばし、代わりに雄大無比な構想をぶち上げ、居並ぶ群臣の胸に熱気を吹き込み膨れ上がらせんとする、秀吉らしい鼓舞の一環だったのか。宣伝上手な太閤のことだ、これまた有り得そうなことである。

 

 

 

 文禄の役に於いて、この「いろは」というか国語問題に触れた史料は他にもあり、中でも注目に値するのは安国寺恵瓊の書簡だろう。法体のまま大名の位に昇るという異例の立身を遂げたこの男が、朝鮮の陣から書き送ったところによると、

 

 

 内々於其許如申候、高麗人にいろはを教、髪をはき、童部をば中そり仕召仕候、日本人の様にも候はて、童部も物書詩を作候、高麗人文字仕候を召寄、五日十日つつ置候て、在所在所へ遣候、今二三人召仕候者、日本人よりもいさかしく候、

 

 

 この文章の大意というのは要するに、

 

「かねてより内々に申していた通り、朝鮮人に日本語(いろは)を教え、また髪型を改めさせなど、風俗すべてを日本式に倣わせている。朝鮮人は子供でも字を書き詩を作る。その、字をよく知った者達を集め、自分のそばに五日から十日ほどの間付けておき、よく馴らした後で諸方に遣わすことにしている。今召し連れている二三人のごときは、日本人よりも優れているように思われる」

 

 同化政策の経緯と効果を説明したものであったろう。

 まさに『豊臣秀吉譜』の記述そのままの光景ではないか。

 

 恵瓊の書簡には他にも興味深い記述が多々含まれる。彼の人間性を探る上でも、重要な史料といっていい。例えば、

 

 

 太閤様被成御朱印、朝鮮之事、両日之内属御手候、是は物の数にては無之候、

 

 

「朝鮮一国などまったく物の数でない、こんなところは明日のうちにも太閤様の手中に収まるべき運命なのだ」と筆を躍らせ、

 

 

 最前以来渡唐と被仰出候上は、当年中大唐へ御渡候て、来正月日本天子並当関白様被成御渡、大明国まで行幸可有之催之由候、朝鮮大明の大王を日本の天子に降参可被仰付候条、王をは生捕に可仕候由被仰出候、

 

 

「来年の正月までには朝鮮・大明の王をそれぞれ生け捕りにし、日本国に降伏せしめ、以って関白様と天皇陛下の渡海と相成り、陛下の北京行幸が実現するに至るだろう」と、恵瓊の意気はもはやとどまるところを知らない。

 

 しかしながらこの構想は、まんざら恵瓊の独創でなく、

 

 天皇陛下を北京に迎え、

 その周辺十ヶ国を御料所として献上し、

 日本本土には現在の皇太子良仁親王若しくは八条の宮様を据え奉り、

 朝鮮はかつて三法師の名で知られた織田家の正統なる相続者、岐阜中納言織田秀信に裁量せしめ、

 自分と漢土征伐を成し遂げた諸将たちは、次の目的地たるインドめがけて速やかに前進するという、

 

 秀吉自身のグランドデザインに添ったものに他ならなかった。

 

 毛利家中にその人ありと謳われた安国寺恵瓊ほどの男なら、秀吉のこの「計画」がもはや「計画」とも呼べないほどに粗雑をきわめた、単なる誇大妄想狂の戯言に過ぎないと容易に見抜けたことだろう。

 にも拘らずこういうことを書いたのは、つまり阿諛追従以外のどんな目的をも見出せず、後世に対して瑕疵(きず)にこそなれ、どういう名誉も恵瓊の上に齎さなかった。

 

 果然、秀吉や恵瓊が紙上に於いて述べたほど明は甘い相手ではなく、戦乱はいつ終わるともなしに泥沼の様相を呈してゆき、とてもインドを獲るどころではなかったのは歴史が示す通りのことだ。

 

 日本と大陸との関係を、しっちゃかめっちゃかに掻き廻したまま秀吉は死んだ。

 出征中の将兵を安全に帰国させるため、その死が長く秘されたことは有名である。

 

 

露と落ち 露と消えにし 我が身かな

浪速のことも 夢のまた夢

 

 

 夢の後始末は高くついたといっていい。

 

 

 



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三原山に煙立つ

 

 伊豆半島から南東約25㎞の海上に浮かぶ火山島――伊豆大島は、かつて自殺のメッカであった。

 

 厭世主義に取り憑かれた大正・昭和の若者たちは、大抵この島を火山島たらしめている三原山の噴火口か、さもなくば華厳の滝の滝壺かのどちらかに向かってその身を躍らせたものである。

 

 三原山では昭和八年だけでも804名の男性と、140名の女性、計944名ぶんの人体が煙になって天へ昇ったとされており、続く昭和九年に於いてもその勢いは途絶えることなく、男性626名、女性143名の、計769名が灰も残さず文字通りこの地上から消え失せた。

 寒心すべき数字であった。

 

 

 

 ――そんな流れを引き継ぎ迎えた昭和十年。

 

 

 

 初夏の日差しが燦燦と降り注ぐ七月三日、伊豆大島の北部に位置する元村に住まう矢崎某なる男性は、ふと思うところあっていつも見上げる三原山を単独で攻めることにした。

 

 三原山の標高自体はそう高くない。地元民だけあって、道にも重々通暁している。なんなく頂上までたどり着き、眺望を楽しみながら涼んでいると、にわかに背後が騒がしくなった。

 なにかと思って振り向くと、豈図らんや、在郷軍人服を着たまだ歳若い男性が、必死の形相でこちらに向かって駆けて来ているではないか。

 

 思わず身構える矢崎だったが、「助けて下さい」と涙ながらにすがりつく青年の語った内容は、更に常軌を逸していた。

 

「登山の途中四人組の男達と道連れになったのですが、この人達が自分達と一緒に死ななければ叩き殺すと言って脅迫するのです。途中茶屋で休んだ際に諌めようとしましたが一向聞く耳を持ってくれず、とうとう火口まで来てしまいました。しかし私には妻も子供も居るのです、どうか助けて下さい」

 

 仰天して青年の後ろへ目をやると、確かに四人組の男達が火口の端に並んで立って、こちらを睨みつけている。その眼光の異様さに、矢崎は総毛立つほどの戦慄を覚えた。

 

 尻の穴をきゅっと締め、腰の崩れを防止する。非常の覚悟を決しかけた矢崎であったが、男達は唐突に青年に対して興味を喪失したかの如く、視線を切って火口に向き合い、大声で自分の住所氏名を名乗り始めた。

 

 呆気にとられる矢崎をよそに、儀式(・・)は滞りなく進行してゆく。名乗りを終えた男どもは、次にぱんぱんと柏手を打ち、万歳を唱え、先ず一番目に黒シャツ黒ズボンの上下ともに黒装束の者が、

 

 ――這入(はい)るぞぉッ。

 

 と叫ぶや否や、その勢いのまま火口の内へ姿を消した。

 

 冗談のような容易さで、人が死んだ。

 その姿に勇気づけられでもしたかの如く、雄叫びを上げながら二人目が投身。

 パナマ帽にワイシャツ姿の三人目は、しかし前例に倣わず無言で落ちた。

 

 最後に残ったのは背広姿の、二十七、八程度の男。前の三人が跳び込む都度に手を打ち鳴らし、次に逝くべき者に向かって声援していた彼であったが、いよいよ送るべき相手がなくなると、

 

 ――最後は俺だあっ。

 

 と、明らかに意気揚々たる叫びを上げて駆け出して、火口へ向かって一直線に跳び込んだ。最後まで、その足取りが鈍ることはなかったという。

 

 

 

 その後の調べでこの四人の男達には、彼らの命日となったこの七月三日に至るまで、一切の面識が無かったことが明らかになる。

 

 

 

 彼らは一様に東京から大島へ、自殺目的で来た連中で、どうした経緯か船中にて同志者と知り、みるみる心安くなり、

 

 ――これも何かの縁だろう。折角だ、火口に向かって順々に跳び込む、リレー投身を敢行してみるというのは。

 ――面白かろう。

 

 と一決してしまったのである。

 自殺は日本の国技というのはまま耳にする皮肉であるが、だとすればこの四人など、藤村操に次いで「殿堂入り」を果たすべき「選手」たちであったろう。

 

 ただ、在郷軍人服の青年を巻き込もうとしたのが余計であり、言うなれば減点要素に違いなかった。

 

 彼は別段、死にたいともなんとも思ってないにも拘らず、ただ登山道を歩いていただけで、このリレー(・・・)をより盛大に、且つ華々しいものにしたいという狂的な願望の贄にされかけたのである。

 不運どころの騒ぎではない。もし頂上に矢崎が居らねば、四人は彼の手足を担いででも火口へ投げ込んでいただろう。

 

 この身勝手さは、近年よく取り沙汰される「無敵の人」とどこか似る。

 

 その雛型と呼ぶべきだろう。もしも山に意思があり、かてて加えてその意思が人身御供を求めて猛る荒御魂だったとしても、こんなやつらはお断りだったに違いない。

 

 



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太平洋上の遭遇

 

 千葉県銚子の港から、東に一七〇〇マイル。

 太平洋のど真ん中で、二隻は出逢った。

 

 方や日本の木造漁船、方やアメリカの石油タンカー。四十トン級がせいぜいな前者に対し、後者は圧巻の一万六千トン級だから、目方の隔絶ぶりたるや、大人と子供以上のものがあったろう。

 

 ――難破船か。

 

 と、アメリカ人らが思い込んだのも無理はない。

 

 無線でいくら呼びかけようと前方に浮ぶ「笹船」はうんともすんとも言わないし、第一船体のみすぼらしさときたらどうだろう。アラスカ辺の漁夫でさえ、あんなものには乗りたがるまい。ましてや遠洋漁業を試みるなど沙汰の限りだ。

 

 ところが彼らは室戸岬の漁師どもの肝っ玉に無知だった。

 

 戦前、『サンデー毎日』が、当該地方――南国土佐の捕鯨文化を特集したことがある。

 その本文に曰く、

 

 

 室戸では、遠洋漁船が出て行くのを見ると、

 「ああ、また後家船が出るな」

 といふほどだ。この船が再び港にもどる時には、何人かの後家が出るといふ意味である。しかし、海で生れた者が海で死ぬるのは本望だと、おかみさん達はいちいち見送りもしない。(中略)「しにかまんでゆく」死んでもかまはんで行くといふ土佐の方言は、このために出来たやうな言葉である。そんなふうだから、家系が絶えるのを恐れて、親子、兄弟は同じ船には決して乗らない。

 

 

 長曾我部侍、一領具足の剽悍さを継承したとしか思えぬ凄まじさであったろう。

 

 この日、太平洋上に浮んでいたのも、そうした「後家船」の一隻である。

 

 彼らは延縄漁法によって鮪を釣るべく、漸く仕掛けを設置し終えたばかりであった。

 

 そんなことはつゆ知らず、タンカー船の乗組員はシーマンシップを大いに発揮、漂流者の救助作業に取り掛かる。カッターボートを引っ張り出して、チームを編成、猛烈な勢いで漕ぎ寄せたのだ。

 

 慌てたのは救助対象の日本人だ。カッターボートの進路の先に、彼らの仕掛けた延縄がある。このまま通過を見送れば、最悪漁具が損傷せぬとも限らない。

 

「来るな、来るな」

 

 ある者は声を張り上げて、またある者は上着を脱いで振り回し。

 必死も必死の形相で意志の伝達に努めたものの、これが見事に逆効果。差し迫った彼らの顔を、アメリカ人らは長く待ち望んだ救助を前に、感情を爆発させたものと受け取った。

 

「大丈夫だ、すぐに行くッ」

 

 オールを漕ぐ手にますます力が籠ったのは言うまでもない。

 

 幸い延縄は無事だったものの、誤解がとけるまでの間、漁師たちは生きた心地がしなかったろう。

 

 

 

 事態を正確に把握したアメリカ人の驚きたるや、尋常一様のものでない。

 

 型落ちもいいところな発動機(エンジン)に、最初から影も形も存在しない無線機具。こんな装備で沖合遥か彼方まで魚を求めに向かうなど、文明国の感性からしてみれば、背中に銃を突きつけられても御免であった。

 

 にも拘らず、彼らは好き好んで自発的に来たという。

 

(なんという勇敢さだ)

 

 海に生きる者として、好意を超えた畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

 

 この奇妙な遭遇劇は、終わりもそれに相応しく、物々交換で幕を閉じる。

 

 タンカーからは水・缶詰を。

 漁船の方では釣り上げた獲物、具体的にはビンチョウマグロとメカジキを。

 それぞれ出し合い、互いの任務に戻っていった。

 

 石油タンカーの目的地は、奇しくも日本、横浜港に他ならなかった。

 

 陸に上がった乗組員らは方々で室戸漁師のたくましさを物語り、それがやがてジャパン・クロニクル記者の知るところとなり、紙面を彩るまで至る。

 

 大正から昭和に世が移るころ、日米間の緊張がさほどでもない、そんな時代のことだった。

 

 



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金、金、金、金、金は何処?

 

 昭和七年はゴールドラッシュの年と言われた。

 

 水底(みなそこ)に沈んだ宝船、山奥に秘められし埋蔵金、海賊どもが無人島にたっぷり集めた略奪品――。

 

 未だ見ぬ幻の黄金を求めて。遥かな時の砂の中から我こそそれを掘り出さん、と。日本全国津々浦々、誰も彼もが寄ると触るとその話題で持ちきりで、度を失った狂奔ぶりは、恰も熱病の集団感染の観すらあった。

 

 必然として、この状況を利用しようと企む連中が出現(あらわ)れる。

 

 金貨やプラチナを満載したまま日本海海戦の砲火に沈んだナヒーモフ号引揚會を皮切りに、

 

 リューリック号、スワロフ号、アンナ・ローザンヌ号、神力丸の金塊引揚げ、

 

 小栗上野介が赤城山麓に隠したという金塊探し、

 

 猪苗代湖に沈められた葦名勢の大判小判、

 

 果ては新興宗教「明道會」のお告げに基くロマノフ王朝の遺産探しに至るまで。

 

 まったく「雨後の筍の如く」としか表現の仕様が見当たらぬほど多種多様なプロジェクトがごく短期間中に動き出したものである。

 

 彼ら「黄金探索団体」の株券が世間に対して発揮した吸引力は物凄く、もはやダム穴以上であった。

 

 晴れて金塊が発見された暁には、投資した額の数十倍数百倍をお返しする――。

 

 そんな謳い文句を武器として、いったいどれほどの人心を幻惑したのか。

 以下の数字でおおよそ察しがつくだろう。

 

 

 ナヒーモフ号………………三十三万千八百円

 リューリック号……………六十二万百二十円

 スワロフ号…………………五十七万三千四百円

 アンナ・ローザンヌ号……三十六万五千四百円

 

 

 沈没船関連だけでも百七十九万七百二十円を計上している。

 現代の貨幣価値に換算して、ざっと三十六億円という途方もない額である。

 昭和恐慌経験直後の日本社会、「殺人的不景気」にさんざん苦しめられた人々が、どうしてこうもあっけなく財布の紐を緩める気になったのか。

 

 摩訶不思議としか言いようがない。

 

 カネの香気を嗅ぎつけて、終いにはカナダ人まで株式募集にやって来た。

 

「日本の皆さん、エドワード・デイビスをご存知ですか――」

 

 伝説的な「カリブの海賊」、イギリスが誇るバッカニアの雄である。

 彼によって略奪された莫大な量の金銀財宝、そのほとんどは中米沖の無人島、ココ島の何処かに人知れず隠され、今も未発見のままという。

 

「それを見つける」

 

 というのが、カナディアンらの吹いてまわった宣伝文句に他ならなかった。

 

 同島にはかねてより多くの財宝伝説が渦巻いていたが、今回我々がキャッチしたのは非常に確度の高い情報で、発見は九分九厘間違いない。間違いないが、もしも万一ハズレであっても損はないよう二段構えの手を打ってある。

 

「それはこの歴史的大捜索の一部始終をフィルムに収め、血沸き肉躍る壮大な映画に仕立て上げ、世界の各都市で興行するプランであります。それだけでも出資額を取り戻すには十分という計算だから、どうかご安心めされたく」

 

 事実として遥かな後年、ココ島をモデルに撮影された『ジュラシック・パーク』が大ヒットを記録したから、まんざら無謀な試みとも言い切れない。

 

 とまれバンクーバーの「有志団体」がこの話を持ち込んだのが、昭和七年八月のこと。

 

 それから僅か一ヶ月を出でぬ間に二万五千円を掻き集めたというのだから、ゴールドラッシュの狂熱は、まだまだ日本列島に充満したままだった。

 

 

 

 国民が白昼夢から醒めるには、翌・昭和八年九月十三日まで待たねばならない。

 

 

 

 この日、ナヒーモフ号引き揚げのため募集された三十三万円の内、およそ三万円が使途不明になっているということで、会計理事の席にあった牧田弥太郎弁護士が警視庁捜査第二課に召喚された。

 

 そのどよめきも未だ去らない、同年十二月十一日。今度はアンナ・ローザンヌ号引揚會が摘発される。

 実はアンナ・ローザンヌ号なんて名前のフネは最初から地球上に存在しない、まるきりデタラメの作り話で、集めたカネは悉く、幹部の私腹を肥やすために使われていたと発覚したのだ。

 

 ――人間の屑め、なんたる欺瞞。

 

 被害者一同、髪の根まで真っ赤になって激怒した。

 

 更にもう一つ年を跨いで、昭和九年三月二十七日。スワロフ号引揚會にも検察当局のメスが入れられ、三十数万円にも及ぶ、幹部連中の「使い込み」暴露と相成った。

 

 この時点でもう世間の熱は秋の湖水よりも冷ややかなものになってはいたが、それでも一縷の望みをリューリック号に繋ぐ者も少なからず居たという。

 なにせ、この會の會長を務めているのは押しも押されぬ代議士先生、小泉又次郎その人なのだ。

 

 第八十七~八十九代内閣総理大臣、小泉純一郎の祖父に当たる人物である。

 

「いれずみ大臣」の声望は偽物ではなく、四つの引揚げ団体のうち最大額の六十二万百二十円を集めたという点からも、信頼の厚さが窺えるだろう。まさか「いれずみの又さん」が、わしらを騙すはずがない――。

 

「小泉先生、ちょっとお話いいですか――」

 

 が、結局はリューリック号も駄目だった。検察により七万円の使途不明金が発見されて、小泉はその償いに、無用な手傷を負う破目になる。

 

 ――斯くの如く。

 

 昭和七年に立ち現れて、瞬く間に世を席捲した華麗な夢は、畢竟巨大な幻滅のみを残して去った。

 なんともはや、悲愴とも滑稽とも言いようがない。

 

 





金のなる木は路傍に生えては居らず。功名の山は程遠く、富貴の園は路遥か也。
(杉村楚人冠)


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魂叫

 

 貧は罪の母という。

 その象徴たる事件があった。

 姉による、弟妹(ていまい)どもの抹殺である。

 主犯――長女の年齢は、事件当時十七歳。この長女が

 

「ねえみんな、水遊びをしに行きましょう」

 

 との口実で十歳になる弟と、十二歳の次女、二歳の三女を伴って近所の小川に出掛けてゆき、そして自分一人しか戻らなかった。

 あるいは淵に突き落とし、あるいは捩じ伏せ、無理矢理沈め。小川の水を凶器とし、他三人をことごとく溺死させてのけたのである。

 

 事件に先駈け、この一家では母親が世を去っていた。

 

 その影響は甚大だった。口さがない言い回しを敢てするなら、典型的な下層に位置する血族だ。

 父親は朝から晩まで身を粉にして働いて、その稼ぎで辛うじて餓死をまぬがれている状態である。

 

 とてものこと、家庭を顧みている余裕などない。

 その切り盛りは、母親一手に(まか)されていた。

 ところがその宰領役が消えたのである。

 

 空白を空白のまま放置すれば、たちどころに機構全体が崩壊しよう。

 前述した理由から、父親はとても当てにできない。

 結句、白羽の矢を立てられたのが、

 

 ――長女

 

 だったわけである。かつて母が負担していた重責は、そっくりそのまま彼女の背中に横すべりした。

 

 十代に背負いきれる重さではない。

 

 ごく順当に、彼女は潰れた。潰れた果ての凶行である。計画の段階では、弟妹どもを始末したあと自分も同じ水に入って死ぬる心算であったという。

 

 が、こればかりは計画だけに止まった。「ひとり残される父親のことを考えると、不憫でならず」とのちの調べで供述したが、真意かどうかはわからない。心中する気まんまんだった若者が、いざ相手の死骸を目の当たりにするに及んで急に心の梁が折れ、泡を食って逃げ出すのはごくありふれた現象だ。

 

 ――やがて長女がお縄となって。

 

 事態の把握と裁決のため、この一家の親類縁者が呼び出され、証言を求められたとき。誰も彼もが詳しいことを語る以前に、まず悲嘆の涙に袖を濡らした。かかる不幸が、人間世界にあるべきか。

 

 それを見て、長女の瞳に憤怒が浮いた。

 

 赤い口をかっと開け、

 

「なんのつもりだ、今更になってなんの嘆きだ」

 

 雷鳴の如く叫んだという。

 

「あんたらのところへ出掛けていって、お願いどうか助けてください、一家を救って下さいと、両手を合わせて頼んだ私ら姉弟に、あんたらは何をしてくれた。何も、何も、何一つ、してくれやしなかったじゃあないか。この期に及んでふざけるない、なんのための涙だ、そりゃあ――」

 

 一同、顔色を変えたのは言うまでもない。

 

 長女の言い分はもっともだった。

 畜生なら畜生らしく、どこまでも義理人情を知らずに通せばよかろうに、ちょっと足下がグラつくと途端に人間の皮を被りだすから嫌われる。

 所詮、一撃されれば手もなく剥げる、付け焼き刃に過ぎまいに。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 以上の話は昭和七年、野添敦義『女性と犯罪』に実例として記載されていたものだ。

 

 この長女が最終的にどんな刑に服したか、遺憾ながら野添の筆はその部分まで及んでいない。

 

 

 




役人や貴族達に云はせると、避妊は国力の減退を来すと云ったやうなことを云ふ。それならば、国力の基本たるべき子供を、多産し悪戦苦闘して、養育する労働者や薄給者を、何故保護しないか。国力の基礎を産む人々に、極度の苦痛を堪へしめ、国力の隆盛から来る美果だけは、自分達丈けで貪らうとする所謂権力階級なるものを、自分は呪ひたい。

(菊池寛)



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明治東京怪奇抄

 

 北村某は汁粉屋である。

 立地はいい。実によい。浅草観音の裏手に於いて、客に甘味を出していた。

 

 店の敷地に榎の枝が伸びている。

 

 根元は塀の向こう側、寺の境内こそである。

 樹齢は古い。幹は苔むし、うろ(・・)となり、それでも季節のめぐりに合わせて艶やかな葉を繁らせる。老樹は確かに、生きていた。

 

 ――この書き方だとなにやら霊験あらたかな、加護なり恩寵なりを恵んでくれそうな雰囲気であるが、現実にはさにあらず。むしろ厄介こそを運んだ。

 

 蛇の通り道なのである。

 

 ある時分から根元周辺、さもなければうろ(・・)の内部にねぐらを定めやがったらしい。幹を遡上し、枝を伝って、かなりの頻度でこの爬虫類が落ちてきて、庭を徘徊、客に悲鳴を上げさせる。そういうことが幾度となく重なった。

 店主にすれば、営業妨害の極みであろう。

 

(今に見ていろ)

 

 挽き切ってやると鋸片手に思案はすれど、さりとて浄域の土から精を吸い上げている植物だけに、あまり迂闊に乱暴な手に出過ぎると後の始末がおそろしい。

 

 ――祟るのではないか。

 

 という薄気味悪さが北村の脳裏を離れないのだ。

 幸い知己に修験者がいる。

 月山の霊気を五臓六腑に滲み渡らせたと自称する、この男に加持を頼んだ。

 幽明の秘法を駆使することで老樹の霊と交信し、その身に刃を入れる合意をどうにか取り付けてもらうのだ。

 

「お安い御用だ」

 

 胸を叩いて承諾したのは、北村の提示した謝礼の額が通り相場を若干なれども上回っていたからだろう。

 

 にしても、なんだな、こんな胡散臭い野郎ではなく、浅草寺の僧にこそ、まず真っ先に話を通すべきではないか。連中の責任を口やかましく追及し、格安で数珠をひねくらせれば、いやいっそのこと蛇公退治をやらせればいい。第三者の視点に立てば、そういう感想がおのずと浮かぶ。

 しかしながらこの事態の背景は、令和どころか平成、昭和ですらない。大正の更にもうひとつ前、明治七年なのである。

 百五十年も隔てられれば、社会常識、通則、規範、すべてが違う。下火になりつつあるとはいえど、廃仏毀釈の最中でもある。北村の措置はさして奇抜でなかったようだ。

 

 

 儀式が済んだ。

 

 

 北村は人変りしたかと思うほど晴れ晴れした顔つきで、目障りな枝を払い落した。腰のあたりの鬱血が一挙に散じた気分であった。

 が、本当に散じつつあったのは、彼の魂魄こそらしい。

 その夜、北村は早く寝た。胸の奥にざわめきがある。これまで感じた憶えのない不快さだった。

 

(眠ることだ)

 

 意識がない間の回復力に期待してさっさと布団にくるまったのだが、残念無念、そうは問屋が卸さない。容態はむしろ悪化した。翌朝にはもう、自力歩行も覚束なくなっていた。

 

(こ、これはまずいぞ、まずすぎる。どう考えても、この現象はッ!)

 

 そのまま床の中にて衰弱し、十日目には死体になった。「ぽっくり」としか言いようがない。嘘のような容易さだった。親類縁者は、

 

 ――さてこそ榎の祟りなり。

 

 と、声をひそめて言い合った。

 が、祟り云々よりも気にかかるのは、例の修験者の反応である。

 仰々しい祈祷をやって、これで安心伐るも焼くも存分に召されよと太鼓判を押しながら、かかる悲境に依頼人を陥れたわけであるから責任の一端ぐらいは追及されてもよさげなもんだ。

 

 ――謝礼の金子、耳揃えて持ってきやがれ、墓前に供えろ、イカサマ野郎ッッ

 

 そういう罵倒が遺族の中から飛んでいい。

 胸ぐら掴んで詰め寄って、法廷を舞台に切った張ったが展開されるべきだろう。

 ところが理屈と実際はいよいよ離れているとみえ、当時の記録をいくら漁れど該当し得る痕跡がない。運命なり不可抗力なりと諦めたとしか思えない。あるいは請求しようにも、修験者の方に先手を打たれて雲を霞と逃げ去られたか。

 いっそ北村に先駈けて樹の祟りに呑まれていたと考えれば――いや、流石にこれは不謹慎が過ぎようか?

 

 

「山は遭難がないと箔がつかないやうである。蔵王なども昭和七、八年頃から遭難がいくつも続いたので、忽ち有名になり、また冬山としての魅力ももつやうになって来たやうである。夏の休みには峨々が何百人といふ人であふれたりしたのも、遭難が人を招んだやうなものといへよう、刈田から賽の磧へ降りてくると、吹く風に揺らぎながら幾本もの塔婆が、クラストした雪原に淋しく立ってゐる。仙台二中生が遭難したときのものだ。あそこへ来ると、何となく体の引締まるのを覚える」

 

 

 東北帝大法文教授が、地位も名誉も完備した中川善之助ほどの男が、臆面もなく堂々と、こういう意見を紙上に述べて誰も不審に思わなかったかつて(・・・)とは、繰り言になるがすべての事情が違うのである。

 

 口は禍の元との古諺は、こんにちますます切実だ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 東京を尋常ならざる風雨が見舞った。

 明治十三年十月三日のことである。

 

 季節柄から考えて、おそらく台風だったのだろう。

 瓦は飛び、溝は溢れ、街のとっ散らかりようは二目と見れないまでだった。

 品川区の霊場たる東海寺では、樹齢百年をゆう(・・)に超す松の古木が無惨に薙ぎ倒されている。

 それほどの嵐であったのだ。

 

 

 さて、それから五日後の夜。

 

 

 パトロール中の警官が異様なモノを発見している。

 台風の残した、意外な爪痕と言うべきか。

 場所はまさに先述した東海寺、横倒しに倒れたままの古松の附近。

 月光が生む淡い影だまりの中で、何かがもぞもぞ蠢いていた。

 

(すわ、妖怪――)

 

 場所といい時刻といい雰囲気といい、化けて出るには相応しすぎる状況である。

 原始的な恐怖感情に駆られた彼を、いったい誰が責められようか。

 が、それもほんの一瞬のこと。日頃の訓練、反射機能に追加された義務への服従精神が、巡査の志気を復活させた。

 

 意を決して近付けば、益体もない。

 

 按摩であった。

 

 干し柿みたく皴びてくすんだ顔の按摩が、湿った土に膝を立て、衣服の汚れも厭わずに、両手を動かし、体重をかけ、せっせと松を揉んでいる。

 その口元は半開きになり、涎とともに何かぶつぶつ、意味をなさない出来損ないの呟きばかりを垂れている。

 

(物狂いか)

 

 あるいは年齢から考えて、痴呆の類やもしれぬ。

 どっちにしろ、これなら下手な妖怪の方がまだしも始末が楽だった。

 さりとて彼の着ている制服は、放置を赦してくれないのである。どこぞの屋敷の座敷牢から脱走してきた隠居であれば、やがて通報が入るであろう。そういう事態に備える意味でも予め、署内で保護しておくべきだ。巡査はなるたけ穏やかに、眼前の肉塊に声を放った。

 

「もし。もうし、ご老人」

「――」

 

 が、一向に反応がない。

 老いた按摩は明らかに巡査の存在自体を無視し、松の幹を揉みほぐす、意味不明な運動律を繰り返していた。

 薄気味悪さと苛立ちとが相俟って、巡査の頸の血管が、どうしようもなく怒張する。

 

「おいっ」

 

 気付けば声を張り上げていた。

 大喝したといっていい。

 それを受け、按摩の身体が

 

 びくっ

 

 と跳ねた。

 電気でも通されたようだった。

 そこからの展開こそ異様であった。

 

「こ、ここは何処でございます、あっ、手が痛い」

 

 急に明晰な言語能力を取り戻した按摩はしかし、一秒前まで自分がやっていたことを、なにひとつ憶えていなかった。

 鱗みたいな松の樹皮を、思い切り撫でたり揉んだり指圧したりしていたのである。

 掌の皮膚は当然やぶれ、ぐさぐさに傷つき、淋漓と血が滴っていた。

 その事実にも、今更ながら気付いたらしい。あわれっぽく痛い痛いと、泣くような声でわめくのだ。

 

 その変化(かわ)りよう。

 

 巡査は達磨みたいに目を剥いて、松の屍骸を見下ろさざるを得なかった。

 

(憑きやがったか)

 

 それ以外のどんな解釈も不可能である。思いがけなく強引に、生命を中途で断たれた松の、最後の思い出作りであろう。

 正気を奪われ、前後不覚の状態で妙技をふるわされた按摩こそ、いい面の皮ではあっただろうが。

 ともあれこれで松の霊が満足し、大人しく昇天してくれるのを、巡査は祈るばかりであった。

 

 

 それにつけてもこの松といい、先述した浅草寺の榎といい――明治初頭の東都の樹木、ひいてはそれらを成り立たせる大地には、いったい何が潜んでいたというのだろうか。

 

 まだ地下鉄の一本も走っていない彼の時代。新体制を、文明開化を謳歌する人々の足下では、なにが。

 

 

 



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ムッソリーニの独身税


結婚は包囲された市街に似ている。中にいる者は出たがり、外にいる者は入りたがる。

(アラビア俚諺)



 

 以下の内容は、あるいは一部フェミニストやLGBT活動家を激怒させ、血圧の急上昇による気死すら招くものかもしれない。

 

「結婚して家を成し、子供を儲けて血筋を後に伝えることは人間として最低限度の義務であり、且つうはあらゆる幸福の基礎である」――こんな規定を設けた国が一世紀前存在していた。

 

 ファシズム時代のイタリアである。

 

 ベニート・ムッソリーニほど、人口増加奨励――「産めよ増やせよ」政策を強力に推し進めた政治家は、他に居ないのではあるまいか。

 彼は「避妊は国民の死滅、父にあらざる者は人にあらず」の警句を好んで用い、既婚者には優遇を、独身者には罰則を、それぞれ与えて憚らなかった。

 

 その最も露骨な例として、「独身税」の導入がある。

 

 これは二十五歳以上六十五歳以下の独身男性を対象とした税制であり、その細やかな内訳をみると、

 二十五歳以上三十五歳以下には年間七十リラを、

 三十六歳以上五十歳以下には年間百リラを、

 五十一歳以上六十五歳以下には年間五十リラを、

 それぞれ徴収したものであり、イタリア全土で平均五千万リラ程度の納付が見込めていたそうだ。

 

 この五千万リラの主な用途は産前産後の母体保護に宛てていたから、制度としては一貫している。

 

 そのほか結婚可能年齢を男子十六歳、女子十四歳に定めたり、堕胎を厳罰化してみたり、就職及び兵役上に各種の便宜を図るなどして多産を奨励した結果。ムッソリーニが実権を握った一九二二年から一九二八年までの六年間で、イタリアの人口はざっと二百万ほど増加した。

 

 みごとな成果といっていい。

 

 が、ドゥーチェにとってはまだまだ満足できないらしく。一九三〇年の四月には、更に思い切った政策を打ち出している。

 二人以上の子供を有する家庭には、相続税を免除するという太っ腹な方針だ。

 

 もっともこの言い方には多少の語弊があるかもしれない。ファシスト党は政権獲得早々に相続税を撤廃しており、今回それを、子供の数が二人未満の家庭に対し復活させたとした方が、より正鵠を射ていよう。

 さりとて復活させたとは言い条、三千リラ未満の相続に対してはやはり無課税で通しているから、弱者救済の意図は存在したと看做し得る。

 

 ローマ中の小学校の教室に古代ローマ帝国と現イタリアの地図とを並べ、更にその地図の上に、ムッソリーニ自身の筆で、

 

 ――太陽はローマ以上の大都市を照らしたことなし。

 

 とか、

 

 ――人口の増加は国運の隆盛を意味する。

 

 とかいった意味の文章が、墨痕淋漓と記されるという一種凄絶な光景は、このようにして成立したというわけだ。

 全体主義者のやり方は極端に過ぎるきらいがあるが、先進国で人口増加を図りたいなら、どうだろう、いっそこれぐらいの荒療治に打って出ねば到底不可能という感じもすまいか。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 当時のイタリアを跋渉した日本人に、布利秋の名前がある。

 

 愛媛出身の通信員で、旅行をこよなく愛好し、その性癖が昂じるあまりふと気が付けば六十余ヶ国を股にかけ、都合九万三千キロを踏破してのけていたと伝わる「剛の者」だ。

 一面奇行家としてもよく知られ、大正三年ルーズベルト大統領に、

 

「東洋人に対する差別をなくせよ、さもなくば余と決闘をもって黒白を決定されたい」

 

 などという決闘状を送り付け、国外退去処分を喰らいもしている。

 そういう男の双眸に、「多産国家イタリア」はどう映ったか。

 せっかくなので付け加えておきたくなった。――以下、彼の小稿、『ファシストを繞る文化運動』から抜き書いてみる。

 

 

…最近は双生児や三ツ子を産むものに対して、内務省は特に賞金を与へ、更に子沢山な家庭には、ムッソリーニ章を授与して、超スピードの人口増加政策に努力してゐる。これまでのイタリーは、ヨーロッパに於ける唯一の堕胎王国であって、各国から堕胎婦人が集まったのであった。そして、避妊、堕胎に関する良薬は、イタリーの専売でもあった。しかし、ファシスト政府が避妊堕胎を厳禁し、これまでの良薬は一切売買を禁止され、産児制限を目的とする薬品機具は、断然厳重な取締を受けるに至った。そのために避妊堕胎のヨーロッパ婦人は一大恐慌を来したのであるが、イタリー婦人だけは、フランスの産婦よりも、更に莫大な賞金を受けるので、我勝ちに産婦たらんとする傾向が現はれ、日に日に人口の激増を見るに至った。…

 

 

 これ以外にも布利秋は「イタリーの国情は帝王的独裁でなかったならば、労資協調の実は挙げ得ることはできない。この点は或る意味の方便であって、矢鱈に帝王権を振りまわすところに、イタリーの救世事業が完成に導かれる深い意義が存するのである」と書いたりし、ムッソリーニに対する評価は高水準で一貫している。

 

 



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偉大なる勝利のために


地球上のあらゆる活動は闘争であり、一つとして緊張から起こらぬものはない。
すべての方面に闘争は必ず存在し、発展・進歩・指揮はもとより、服従も闘争である。平和すらもその正体は闘争である。

(エヴァルト・バンゼ)



 

 一九一四年八月四日、イギリス、ドイツに宣戦布告。

 

 それからおよそ二ヶ年を経た一九一六年十月時点で、小麦の値段は十三割増し、小麦粉の方も実に十割増しという、紳士たちが未だかつて経験したことのない、大暴騰が発生していた。

 産業革命以来、海外の低廉な農作物に頼るばかりで自国農業をひたすら等閑に附し続けてきた伝統のツケを、こんな形で支払わされたわけである。

 

 一九一七年二月二十三日、時の首相ロイド・ジョージが下院に於いて演説した内容は、そのあたりの消息を最も簡潔明瞭に取りまとめたものだった。

 

「穀物条例廃止以来二十年間に四百万エーカーの土地と五百万エーカーの開墾地とが草地に変った。農業人口の半分は、海外かあるいは都会へ移住した。わが国の如く直接にせよ間接にせよ、農業に対して単に努力を払わないどころか、ほとんど顧みもしないといってよい文明国は他に絶無なのである。

 わが国で消費される重要穀物の70%から88%までが年々輸入されて来たのであった。そして今日我々の保有する食糧は実に僅少である、不安なほど僅少である、記録にないほど僅少である。このことを、国民諸君に知っていただきたいと思うのである。

 それ故に国家の安全のために、本年末及び来年の生産を増加せんがために、あらゆる努力を、しかも即時実行することが絶対に必要なのである」

 

 テニスコートやゴルフ場をぶっ潰してまで畑を作る、なりふり構わぬ増産への第一歩。末期戦の光景が、そろそろ顔を覗かせはじめたわけである。

 

 白パンは市場から姿を消して、ライ麦、大麦、燕麦、米、玉蜀黍、豆、エトセトラ――いわゆる従来「雑穀」扱いされ続けてきた品目を混ぜ、かさ増しをした「戦時パン」が代わりに抬頭しはじめた。

 ただでさえ不味い英国のめしが、輪をかけて不味くなったのである。

 

「俺たちにこんな真っ黒な、粗末なパンを喰わせておいて、金持ちどもは相も変わらず白いパンを喰っていやがる」と、お決まりの不平が労働者の間から出た。

 

 雑穀類の混用率は最初五分であったのが、日を追うごとに引き上げられて、最終的には二割五分まで到達していた。

 穀物由来の糊は生産を禁じられ、犬に与えるビスケットもまた同様の処置に見舞われる。

 ロンドンの料理店という料理店には、「パン節約」の標語を掲げたポスターが張り出される運びとなった。

 卸売業者の登録制、販売時間の制限制度、行列防止令たらいうある種時代の先取りめいたお達しまで――全く以って火の車を回しているも同然である。

 

 で、その結果どうなったか。

 

「一九一七年十一月十二日の船舶統制委員会に報告されたところによると、小麦の貯蔵は激減しつつあり、我々は手より口への生活を営んでいた。ロンドンにはあと僅かに二日の供給量しかない。従って、ロンドンは他の港より鉄道によって養われねばならない。

 ブリストルには、僅かに二週間分の供給量があるに過ぎない。小麦委員は北アメリカで二十万クォーターの小麦を購入したが、イギリスに運んでくる船舶がないのである。平時ならば積荷を陸揚げした後地中海を空船で帰る船舶があるのであるが」

 

 戦後物した回顧録にて、ロイド・ジョージは斯く述べた。

 

 総力戦時代の景色というのは、どこもかしこも似たり寄ったり、同じような地獄相を呈するものであるらしい。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 一九三九年九月一日、ドイツ、ポーランドに侵攻開始。

 

「二十年の停戦」はここに破れた。第二次世界大戦の開幕である。フェルディナン・フォッシュが嘗て危惧したそのままに、世界は再び一心不乱の大戦争へどうしようもなく突入してゆく。

 

 ドイツの動きは早かった。なんといってもルビコンを渡るより以前、八月二十八日の段階で、もう食糧と一部生活必需品とが切符制度に移行している。前日、二十七日付けで公布された「生活必需品確保の暫定令」及び「農産物管理令」の効果であった。

 切り替えにあたってナチ党は、これをスムーズに運ばせるため、当時の食糧農業大臣リヒャルト・ダレをラジオ放送に当たらせて、国民一般に「政府の声」を響かせている。みごとな念の入りようだった。マイクの前で、ダレは次の如く語ったという。

 

「食料品の切符による公正な配給を、既に生産が著しく減少し、癒すべからざる幾多の病弊が現れだしてから実施することが、根本的に過誤(あやまり)であるということは、我々ドイツ人の既に実験済みのところである。これこそ我らが我々の食糧豊富なる今の時期に、いち早く切符制の断行を決意したる根本理由に他ならぬ」

 

「実験済み」とは、むろん第一次世界大戦の惨憺たる経験を指しているに違いない。爪のない赤ン坊が誕生し、動物園の獣にまで手をつける、あの窮乏のドン底がよほど骨身にこたえたようだ。過去から学んだ成果というわけである。

 

 ばかりではない。

 

 闇市発生の防遏策も、やはりこの二十八日に施されたものだった。すなわちヒトラーユーゲント、親衛隊(SS)突撃隊(SA)、その他手隙の党員をあらん限り動員し、小売店・卸商・製造業者――およそ商業関係者の保有する倉庫という倉庫を一斉捜索。

 統制品目の在庫量を調べ上げ、帳簿を作成、店主の署名を要求し、しかも今後「月別調査を行う」と宣言、そのとき貴様の手元に置かれた切符の数の合計と、倉庫の中身にもし不一致が認められたら、おい、どうなるか分かっているよなこの野郎、と睨みを利かせた。

 商人たちはふるえあがった。当然である。誰も彼らを臆病とは責められまい。

 

 

 ――ざっとこんな塩梅で。

 

 

 下準備にも下準備を重ねた末に、ドイツは九月一日を迎えたわけだ。

 

「食糧は総力戦に於ける一個の武器であり、大砲・飛行機・戦車等と同じく重要である」

 

 この発言は、しかしヒトラーによるものでない。

 合衆国大統領、フランクリン・ルーズベルトの口唇から発射されたものである。一九四三年一月十二日の演説だった。

 演説は更にこう続く。

 

「我々の敵国も戦時に於ける食糧の使命を自覚し、戦力増強のため食糧の増産に努力しているが、アメリカの農村で生産された食糧は、世界各地の連合国を援助しつつあるのである。ゆえにアメリカ農民の任務は一層重大であり、その障害困難も一層大である。全国農民は今年中に於いて、一オンスでも多くの食糧を生産すべく努力して欲しい」

 

 ヒトラーはルーズベルトを文字通り死ぬほど憎んだが。少なくとも総力戦局面下での食糧の価値判断に関しては、両者の意見は一致したに違いない。

 

 



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手段を選ばぬ男たち


後悔という感情は、罪そのものをあらわすものではなくて、ただこれを制圧できないほど弱い一個の魂をあらわすものでしかない

(マルキ・ド・サド)



 

 紀元前、文明の都アテネにて。

 ある彫刻家が裁判所に召喚された。

 容疑は、我が子に対する過度の折檻、虐待である。

 事実と判れば十中八九、重刑は逃れ得ぬだろう。アテネの倫理はその手の類の悪徳を許容しない水準にある。史家トゥキディデスが、

 

「我らは文明の魁、人類の先駆である。我らの群れに入り、我らの交わりに加わることは、人間として享有し得べき最上の慶福である。我らの勢力範囲に入ることは隷属にあらずして、特権である」

 

 自信たっぷりに嘯いたのは伊達でないのだ。

 周囲の者らは、

 

 ――あの人も、はや、これまでか。

 ――腕はあったが、愚かなことよ。

 

 と、声を潜めて言い合った。

 

 

 当日法廷に姿を見せた彫刻家は、妙なものを携えていた。

 

 

 石像である。

 

 彼自身の新作で、「少年が苦悶する有り様」を表現したものだった。

 

 その身振りといい、表情といい、何処をとっても真に迫らざるものはなく、今にも魂切る叫びが聴こえるようで、あまりの出来に百戦錬磨の法官たちも息を呑み、皮膚を粟立てずにはいられなかった。

 彫刻家、反応をとっくり確かめてから徐に唇を動かして、

 

「私が息子を虐待したのは、偏にこれを完成させんが為でした」

 

 悪びれもせず、そんな陳述を敢えてした。

 開き直りといっていい。アテネの司法は、やがてこの男に無罪判決を投げている。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 こういう具合いの、つまりはよりよき芸術のため、悪魔に魂を売り飛ばしでもしたかのような徒輩の噺は古今東西いくらでもある。

 

 日本にもある。

 

 幕末画壇の一巨魁、歌川国貞ですら必要に迫られればそれをした。「婦人賊に遇ふ」の図を依頼されたときの巷説だ。どれほど苦心惨憺しても筆の動きが捗らず、女の貌から白々しさを一掃できない問題に業を煮やした国貞は、とうとう一計を案じてのけた。

 

 行き先も告げずに外出し、夜になっても帰ってこない。

 

 当時の自然なたしなみとして、妻は寝もせず彼を待つ。

 

 ところがここに不幸が襲った。表戸が力任せにぶち破られて、覆面姿の強盗が、魔の如く邸内に押し入ったのだ。

 

「…………」

 

 恐怖のあまり妻は全身を硬直させて、悲鳴を上げることすらできない。引き攣った喉からひゅーひゅーと、素人が吹く笛みたく、かすれきった()が漏れた。

 その様子を強盗は瞬きもせず見届けて、やがて覆面を剥ぎ取ると、こはいかに。現われたのは亭主国貞の顔ではないか。

 

(あっ)

 

 緊張が一度にほどかれて、あふれだした激情のまま妻はぼろぼろ泣き出した。

 国貞が傑作を描き上げたこと、言うまでもない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

「芸術は人格の反映だと云われる。人格上に欠陥のある人の芸術は、結局、欠陥ある芸術であって、決してより長き声価を保つことは出来ないと云われている。私はこの俗論を嘲笑せずにはいられない。私の見るところによれば、どんな背徳の人間でも芸術家たり得るであろう。否、背徳の人間であるということが、芸術家として強味となる場合がないとは限らない」

 

 大胆な観察を行ったのは生田春月。常人の五十倍も繊細な神経を宿すこの男――「憂愁の詩人」は続けざま、

 

「私は多年所謂文学者といわれる人々の生活を見て来た。そして彼等の人物と生活とには世間の普通の俗人や無智な人達の生活よりも一層悪いものの存することを知った。彼等の中には人間として何等の価値なき卑劣な卑しむべき人間さえもある。しかも彼等は文学者として全然価値なきものではない」

 

 このようなことを言い立てて、いよいよ自説を堅くした。

 事実、春月は目撃している。

 地球が秘めるエネルギーの大解放――関東大震災の惨禍より、一ヶ月ほど経ってから。

 瓦礫の街と化した東京、灰を掻きとる人の姿がまだふんだんに見て取れる、その只中を詩吟仲間と徘徊したときのこと。

 

「諸君、これはどうだい」

 

 面子の一人がいったい何を思ったか、妙に明るい表情で弁じはじめた。――浮華に漲りきっていたあの東京が、今や見てみろ、火の洗礼を浴びせられ、嘘で固めた何もかも、面倒くさい一切が綺麗さっぱり無くなった。

 

「その清々しさよ」

 

 水垢離をとった行者のような屈託のなさで言うのである。

 この時点でもう唖然とするには十分なのに、この男は更なる暴走を用意していた。

 いったいどういう心理の作用に因るものか。無造作に陽根を取り出して、焼け跡に立小便を始めたのである。

 

 馬鹿馬鹿しいほどに出た。

 

 黄金の滝と形容するに値する。飛沫(しぶき)が危うくかかりかけ、春月は急ぎ身を引いた。

 

(なんということだ)

 

 不謹慎どころの騒ぎではない。

 人間の皮を被っただけの畜生ではあるまいか。

 しかもこういう奴に限って、いったん筆を執らせるや、青年の純情な心の襞を甘い感動でしめらせる、みごとな詩をつくるのだ。

 春月が「芸術に対する根本疑」を抱いたのも無理はなかった。

 

 ――女は皆女優である。男は唯その美しさに見とれて居ればいい。楽屋を覗くものは馬鹿だ。楽屋を人に見せるものは悪魔だ。

 

 生方敏郎の毒舌も、このテーマとは親和性が高そうである。

 

 



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水のほとりの旧き神

 

 一説に曰く、大津(おおづ)大水(おおず)であるという。

 

 現今でこそ熊本県菊池郡大津町として人口三万五千人、天高くして地は干され、交通四通八達し、道の駅には特産物たるサツマイモの加工品がずらりと並び、駅前にでんと鎮座するイオンモールが日々の暮らしを支え彩り潤して――まあ要するに、ほどよく田舎でほどよく便利な発達ぶりを呈しているが。

 遠い遠い神代のむかし、阿蘇の御山と熊本の市街(まち)中間(あいだ)に位置するこの土地は、全く以って水天一碧、際涯もない鏡の如き湖面であったそうである。

 

 むろん、あくまで伝説であり、地質学的・考古学的裏付けは皆無といって構わない。

 

 しかしながらこの「伝説」が一種特異な構成で、他ではちょっとみられない妙味を宿すものなのだ。

 

 朽ちさせるには些か惜しい。以下、拙筆なれどもその輪郭をなぞってみよう。

 

 

 

 まず、この湖は塩分濃度が非常に高い。一升の湖水を沸騰させれば四合の塩が採れたというから死海すらも凌駕している。迂闊に浸かろうものならば、さだめし皮膚に痒みを覚えたことだろう。そのくせ死海と異なって、水面下を覗いてみれば魚類の天国、ありとあらゆる種類のサカナが泰平楽な顔つきで悠々ヒレを波打たせているのだから堪らない。

 

「お前さんがた、浸透圧の問題はどう解決しているんだい」

 

 と尋ねても、

 

「あんた、そんな、重箱の隅を突っつくような、つまらん考えを起こすんじゃないよ」

「これだから乳しゃぶってる連中(哺乳類というやつ)は」

 

 気にする方が不粋なのだと逆に説教を喰らいかねない雰囲気だ。

 それもそのはず、本当のところ、地球上のすべての魚類の故郷とは、この湖こそなのだから。

 

 またべらぼうな大風呂敷をおっぴろげたものと思うが、さりとて「伝説」と銘打つ以上、これぐらいのスケールはあって然るべきだろう。

 

 とまれかくまれ水生生物の聖地に於いて、陸上生物の小知恵が通じるわけがない。それはそういうものなのだと受け容れるより他にない。

 

 あるいは湖のほとりに住まう神の御加護に帰してみるのもいいだろう。二柱(ふたはしら)の神がいた。片や全動物を支配する神、片や全植物を支配する神。どちらの神も名前を持たず、またカタチも曖昧である。従ってオノゴロ島の方々みたく、互いの姿を見合わせて、

 

「どうです、私の余っている部分と貴女の足りない部分とを接合させてみるというのは?」

 

 と、刺激的な事業に誘うこともない。

 なんだか妙なのが居やがらァ程度の認識で、かといって腕まくりして追い出しにかかるほど積極的にもなりきれず、とどのつまりは体よく無視して個々の権能に引き籠っている状態だった。

 

 ああ、日本の神様らしいと安心感がこみ上げる。

 

 

 

 より活発に働いたのは、獣類の神の方だった。

 

 

 

 否、活動的でありすぎた。粗製濫造も厭わずに次から次へと「作品」を創造しまくった挙句の果て、野にも山にも獣が満ちて収拾不能になっている。

 美しいピラミッド型の生態系など夢のまた夢、大量死の開始まで、あっという間のことだった。

 

「しまった、なんということだ」

 

 絵に描いたような崩壊過程といっていい。

 一連の事態を目の当たりにして、神様も流石に反省せざるを得なかった。これからは個体数にもちゃんと配慮した仕事をしよう。美しい国土に放つのは、本当に厳選された優良種たちのみでいい。……

 が、その前に、何はともあれ片付けである。見渡す限りの死体の山をどう処理するか。国中の火葬場をフル稼働させてみるとして、それでもいったい何日を、いや何週間を要すことやら。予測するだに気鬱になりそうな命題である。

 

「えい、面倒じゃ、こうしてくれる」

 

 神様はシンプルにやることにした。

 屍骸をごそっと掻き集め、掻き集めしては次々と、湖へ投げ込みだしたのだ。

 あきれ返る乱雑さ、こいつは本当に反省しているのかと疑いたくもなるだろう。

 案の定、魚たちが悲鳴を上げた。彼らもまた獣の神の被造物でありながら、うまいこと大量死を免れて武陵桃源の夢に耽っていたのだ。

 

 陸と水では、やはり色々勝手が違ってくるらしい。

 

 が、それも今日(こんにち)この瞬間に終わりを告げた。水面(みなも)に集まり、パクパクと、救いを求めるかのように口を開閉させる魚群を神はじっくり観察し、特に優れた品種のみを掬い上げ、えっちらおっちら運んで行ってやがて海へとたどり着き、彼らをそっと放してやった。

 

 これは果たして慈悲であろうか? 真に当を得た措置か? 海があるならむしろそっちに死骸を棄てて、湖のことは放っておけばよさげなものを。あいや、否、いな、なにぶん神のなさること。きっと人智では及びもつかない深い思慮があったのだろう。そう言い聞かせることにする。

 

 懸念事項はなくなった。神様はいよいよ発奮し、大地の掃除にとりかかる。漸く終結(おわり)を迎える頃には、あれほどまでに果てしなかった湖がすっかり埋め立てられきって、だだっ広い野っ原へと化していたから驚きだ。

 

 獣の骸が素となった土である。

 当然ながら肥えている。

 植物の神は大喜びした。新たに誕生(うま)れたこの土地でなら、さだめしおれの愛し児たちも、立派に育つに違いない。

 

「さあ、根を張れ実れ世を満たせ。地上の真の支配者を証明すべき(とき)は来た。天壌無窮(てんじょうむきゅう)宝祚之隆(ほうそのさかえ)を謳うのだ」

 

 これまでの影の薄さはなんだったのかと訊きたくなるほど、精力的な活動だった。

 甲斐あって、このあたりではいついつまでも五穀の実り麗しく、豊作年など他所の国の十倍もの収穫が得られた(ためし)もあったとか。

 

 

 

 ことほど左様に、繁栄とは流血伏屍あってこそ。

 

 

 

 高天原とも仏国土とも関わりのない、素朴な神の無邪気な残酷、しかしてその上に成立する「めでたしめでたし」。

 土着神話の魅力というのを詰め込みきったものとして、大いに評価されていい。

 

 





泥に浸かり、もはや見えぬ湖…
宇宙よ!

(悪夢の主、ミコラーシュ)


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大戦争の向こう側

人類の進歩は一面に於て戦争の進歩也。いかばかり人類が進歩したか知らんと欲すれば、先づ須らく如何ばかり彼等が巧妙な戦をなせるかを検すれば即ち足る。

(赤堀又次郎)


 

 鉄道王の没落は、世界大戦の後に来た。

 

 一九一四年に端を発する大戦争。トーマス・アルバ・エジソンをして「この戦争で人類の歴史は一気に二百五十年跳んだ」と唸らせた通り、一千万の生命(いのち)を奪った未曾有の悲劇は、しかし同時に、地球文明そのものを未来に向けて猛烈な速度で射出する、一種カタパルト的な役目も担った。

 

 北米大陸の交通事情も、その影響から逃れることは叶わなかった。

 

 もろに喰ったといっていい。それまでこの国で生きる一体誰が、鉄道王とその一族の光輝に翳りが差すなどと、そんな不遜な予測をしたか。

 

 居なかった。

 

 絶無であると断言していいほどに、彼らの勢威は圧倒的なものだった。

 

 例えばそう、東部の都市に本拠を構える鉄道会社の頂点が、ふと太平洋を見たくなり、大陸横断旅行へと漕ぎ出したと仮定しよう。

 

 使用するのはもちろん自社の特別列車だ。この場合、線路沿いのありとあらゆる州知事は、汽笛が聴こえる遥か前からプラットホームに待機して、その「臨幸」をうやうやしく迎える姿勢を取らねばならぬ。

 

 もしこの用意を怠けたり、あるいは歓迎に手落ちが見つかりでもすれば、彼らの政治生命はその瞬間に閉塞したことだろう。何故なら鉄道こそ街の興廃を握る存在、「米国の事業家が巨富を成したのは鉄道と提携するか鉄道を利用した結果で、一たび鉄道なる暴君の機嫌を損じて、貨車を思ふ様に廻して貰へなければ忽ち収穫は腐るか、腐らずとも市価が崩落して後にノロノロ運ばれる等で、ひとたまりも無く参らされて」しまうからだ。

 

「最もよく米国を理解した英国人」ことジェームズ・ブライス、法学者にして歴史学者にして政治家にして外交官でもあるという、まことに多才なこの人物は、不朽の名著『アメリカン・コモンウェルス』の中に於いて斯く述べた。

 

是等の鉄道王は米国中の偉人中に列する人々である。否寧ろ国中の最大なる勢力者と謂っても()いかも知れん。彼等は赫々たる名声を有す。国民悉く彼等の業蹟を聞き、新聞は悉く彼等の動静を伝へる。彼等は勢力を有す。即ち其思ふ所を為すの機会を有する事、政界に在る誰よりも優れて居る。唯大統領と議長とだけには及ばぬけれども、是とても前者は四年、後者は二年の任期に過ぎざるに反し、鉄道王は或は生涯其地位に居るかも知れない」と。

 

 以ってその勢威を窺うに足るだろう。

 

 大日本帝国の尺度では、とてものこと測れない。当時のアメリカ合衆国で「鉄道」が意味するところとは、動脈であり神経であり、文字通りの生命線に他ならなかった。

 

 なればこそソレを司るごく一握りの者達は、この人民主権の国にあってさえ王侯然たる待遇を満喫できていたわけだ。

 

 

 

 が、しかし、潮目の変わる(とき)は来る。

 

 

 

 これは四の五の理屈を言うより、数字を見てもらうのが手っ取り早い。一九一三年、わずか百二十五万台に過ぎなかった全米自動車登録数は、欧州大戦を間に挟むや一挙に拡大、一九二〇年時点でもう、九百二十三万台を超えてしまった。

 

 膨張率はその後も一切衰えず、

 一九二三年で一千五百万、

 一九二五年で一千九百九十三万、

 そして一九二六年、ついに二千万を突破して、

 一九二九年の二千六百五十万台へと至る。

 

 登録代――今風に言うなら免許交付手数料だけで三億二千二百万ドル、更にガソリン税として三億五百万ドルが毎年の如く国の懐に納まった。

 

 しかも政府はそのカネの、ほとんど全部を道路築造にぶち込んだから堪らない。

 

 まさに国土の改造である。世界の何処を探しても比較対象すら見当たらぬ、恐ろしく発達し整備された道路網がたちどころに出現(あらわ)れた。

 

 結果として、住宅地および農耕地は鉄道への依存から脱却せずにはいられない。大袈裟でもなんでもなく、歴史が変わった。同時代、日本のとある著述家が合衆国を俯瞰して、

 

世界大戦前の米国は、蒸気応用と鉄道運輸による地理的辺彊開発の時代に属してゐた。大戦後の米国は電力利用と自動車輸送力による経済的辺彊開拓の時代に進み入ったのである

 

 と結論付けたらしいが、至言であろう。

 

 何につけても景気のいい眺めであった。

 

 さもあろう、

 七百八十五億ドルの国民所得に支えられ、

 ラジオは年に二百万セットを売り上げて、

 劇場も空前の大盛況、一日当たりの入場者数は、ときに総計二千五百万を超え、

 男子大学生の半分は、在学中のアルバイトで学資の全部を賄えるという疑う余地なき黄金期の只中である。

 

生産せよ、貯蓄せよ、而して投資せよ(produce,save,and invest)」の経済指針は絶対の金科玉条として社会の隅々まで響き渡った――それこそ靴磨きの小僧の耳の奥にさえ。

 

 米国は「永遠の絶頂」に到達したと、誰もが無邪気に信奉していた。クーリッジ大統領その人でさえ、

 

「我が国は今や歴史上嘗てなき広汎な繁栄と恒久的平和を享受しつつある。古今に絶するこの福祉の因って来る主要源泉は、米国国民の節操と品格にある。この特質に即して行い来った我が政策が継続される限り、現下の繁栄は常に米国のものであろう」

 

 との言説を敢えてしている。

 

 やがて来る「暗黒の木曜日」を思うとき、この光景は悲愴とも滑稽ともつけがたい、ただひたすらに圧倒的な威力を伴う「何か」として胸を圧す。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 第一次世界大戦は悲惨であった。

 

 人類の歴史、発展を、一挙に二百五十年跳躍させる代償に、ドイツだけでも二百五十万人近い国民が、犠牲となって散華した。

 

 いい若いものが、大勢死んだ。

 

 その「若いもの」の死体から、まだ瑞々しい二個の睾丸(タマ)を切り取って、腎虚に悩む老人に移植する手術が行われている。

 

 秘密裏に、ではない。

 

 何も隠さず、大手をふるって堂々と、経過観察記録をつけて論文として整えて広く世間に発表している。なんでも性機能のめざましい回復、意気の亢進が確認できたとのことだ。

 

 以って当時の生命倫理を推知する。

 

 拒絶反応とかどうなってんだ、この被験者はいったい何年生きられた? ――とか、いろいろ気になる部分はあるが。

 

 とまれかくまれこの報告が寄せられたとき、遥か極東、日の出ずる国・日本では、松村松年理学博士が蛙の性を転倒させる実験に、ちょうど取り組んでいた頃だった。

 

 卵巣を除いたメスの蛙にオスの睾丸を植え付けて、オス化させようという試みである。この実験は、うまいこと期待通りの結果を呈した。うまくいった。

 

 そこへドイツから、やはり睾丸をテーマに掲げた実験報告の到来である。

 

 奇妙なシンクロといっていい。

 

 如上の刺激が絡み合って松村は、大宇宙から啓蒙でも受けたのか、

 

性の問題は未だ甚だ幼稚であるが、こゝに何かのショックによって、或は雌雄を転倒せしむるの時代が来るかも知れない

 

 と、ひどく意味深なことを書いている。

 

親はその欲する両性の何れかを自由に産下し、また人が女性に飽きて、男性に変性し、男性に飽きて又女性に還元するの時が来るとすれば、人間社会の今の制度も、法律も、道徳も何れもが破壊せられるやうになるかも知れない。そはともかく、この問題は、他日、必ずしも不可能ではないのである」(昭和三年『驚異と神秘の生物界』)

 

 これは味わうべきである。

 

 なんとなれば、折に触れては世に(かまびす)しい「男女の性差問題」を根本的に解決するには、ここに書かれている通り、服でも着替えるような容易さで性別を取り替える技術および環境が社会に確立されてこそ、そこまでいかねば到底不可能と信ずるゆえに。

 

 男だ女だで揉めるのならば、いっそ性別という概念自体、境界線をぶっ壊し、滔々たる混沌を溢れ出させてしまえばよろしい。

 

 我ながらこれが暴論と、「森に潜んだ敵ゲリラを掃討するため、ナパームの雨で森そのものを焦土に変える」式のたわけた議論と承知してはいるのだが、しかし変革とは本来そういうものではなかろうか?

 

 まあ、よしんば気軽に性別を取り替えられるに至ったところで、それはそれでまた新たな偏見を生み出すことは必定だろうが。「誕生以来、一度も性別をいじったことのない、いじろうともせぬ保守主義者」とか、「更に果敢に一歩を進めて人類を完全な両性生物に改造せんと目論む手合い」とか、おかしなの(・・・・・)がわんさか出てきて、テロやら何やら、賑やかにやるに違いない。

 

 性別変換装置製造工場を焼き討ちしたり、両性化しないと全身から血を噴いて悶死するウィルスをバラ撒いたりするのであろう。

 

 世に闘争の種は尽きまじ、人が人である限り。なればこそ我らを別け、隔てる全てを侵し、焼き溶かしましょう。狂い火野郎の哄笑が今にも聴こえてくるようだ。

 

 



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明治の理想


我々は祖先に存するあらゆる心意的・道徳的特性を、悉くその子孫に於いて見出すことを期待する。

(ラルフ・ワルド・エマーソン)



 

 ロシアの兵士は昔から、味方の負傷を喜んだ。

 

 近場のやつが血煙あげてぶっ倒れれば、そいつを後送するために、きっと人手が割かれるからだ。ああ願わくば我こそが、光輝あふるるその任にあずかり賜らんことを。なんといっても合法的に前線を離れるチャンスである。祈らずにはいられまい。

 

 一人の負傷兵に対して五人も六人もくっついて行くのはザラであり、特にひどいケースになると、とっくに死体になっているのに敢えて気付かぬふり(・・)をして、迫真の表情(かお)で運ぼうとする不届き者まで存在していた。

 

 日露戦争に突入しても、そのへんの機微は変わらない。

 

 否、変わらぬどころか寧ろ拍車をかけている。たまらずクロパトキンが訓示を出した。日付からして沙河の会戦中である。

 

「戦闘未だ(おわ)らざるに幾百千の健康兵が隊列を離れて傷者を運搬するを見たり、十月十二日乃至十五日の会戦に於けるが如きは余(みずか)ら幾群の兵卒一名の傷者を運搬し、其の群多きは九人を算するを認めたり」

 

 負傷兵一人の後送に、健常な兵士九人が割かれる。

 馬鹿馬鹿しい非効率、労力の乱費。こんな所業をゆるしていては勝てる戦闘も勝てなくなろう。

 

「余は峻厳に命令す、須らく此の如き弊風を弾圧し、攻勢戦闘に於いては特定せる衛生勤務兵卒のほか傷者の運搬に従事すべからざることを励行すべし」

 

 そりゃあクロパトキンもこういう禁令を発したくなる。

 人の命の重さとやらがティッシュペーパーレベルにまで下落したソヴィエト連邦時代なら、サボタージュとして銃殺刑が妥当だろうが。どっこい政体は帝政だった。アカほど過激になりきれない段階では、これが精一杯だったのだろう。

 

 

 ところで視点をぐるりと巡らし、わが皇軍に注目すると、こちらはこちらで凄まじい。

 

 

 まず、撃たれても、それを報告したがらない。痛いともなんとも呻かずに、なるたけ負傷を隠そうとする。尉官どころか兵卒までもがそう(・・)である。後送など御免蒙る、みなに合わせる顔がない、頼むからここで死なせてくれと、あくまで前線に固執する。

 

 異様であった。とあるドイツの砲兵士官が日本兵を評するに、「勤皇愛国なる宗教の惑溺者」との言辞を用いた所以が見える。イギリスからの特派員、フランシス・マカラーが日本へ向かう船の上、たまたま居合わせた青年将校に面接し、「帰国し得る幸福」を祝したところ、

 

「私は少しも故国へ帰るのを喜んで居ません。何故って未だ戦争が終らないからです。私はこの負傷(きず)治療(なお)り次第また満洲へ戻ります」

 

 耐え難い侮辱を振り払いでもするかのように、決然と言い返される椿事もあった。

 

 また広島では、傷病兵のうちの一人がその恢復を認められ、再び戦地に召集されて、雀躍りしている情景も見た。未だ包帯を巻いたままの同僚たちがその彼を、「学校の児童が休暇前に我が家へ帰ることを許された生徒を羨むような」、ほとんど秋波といっていい、たまらぬ視線で仰ぐのも。

 

 諸々の経験からマカラーは、

 

「戦列に参加することを驚嘆すべき熱心で渇望する日本兵士の心裡には、日本軍大勝の一大秘訣が潜んで居るのである。日本の兵士は、彼等の最下級の輸卒や、軍役人夫に至るまで勝利を得ることに熱狂して居る。然るに、一方のロシア兵は一般に勝敗に無頓らしく見えたものだ」

 

 このような所感を表明している。

 更に続けて、

 

「然しながら私は、日本人が今日の全盛を()く永久に維持し得て、戦勝国としての栄華な幸福を享受して、(とこしな)えに今日の精神を維持し得るか、否かは、蓋し疑問だと思うのである。

『成功は、人を倦怠に誘うものである』『智識は、人に幻妄を齎すものである』時の流れに()れて、富の嵩むに随って、工業上の服役にも、商業上の道徳にも、あらゆる物質的享楽の発展に随って、日本人固有の熱心と、勇気と、立派なる大和魂は、漸次にその鋭端を欠かれ、挫かれんとするのではなかろうか」

 

 ある種の危惧を書き添えるのを忘れなかった。

 盛りを前にその凋落を想うのは、如何にもバランス感覚に富んだ英人らしくて好ましい。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 一九〇四年秋、遼陽会戦すぎしあと。

 主戦場たる満洲から遠ざかり、ロシア本土へ向かわんとする病院列車で、このような会話が交わされた。

 

「あんたは日本人を何人殺した?」

「三人だ」

 

 質問者は軍医であり、答えたのはコサック騎兵の一員である。

 雑談は更にこう続く。

 

「どうだ、そのときの心境は。やっぱり草でも刈るような、なんでもない作業だったか」

 

 大仰な最強伝説が軍医の脳にもあったのだろう。コサック騎兵は天下無双、馬蹄の響きが轟くところ、敵はひとたまりもなく竦みあがって半分みずから首を差し出す。そういう死神の化身であると。

「死神」は二三度目をまたたかせ、

 

「いい気分はしなかったよ、直前(・・)まではね。正直胸がむかついた。しかし最初のひとりを突き刺して、そいつが馬から真っ逆さまに落ちるのを見届けたとき――俺の中で何かが変わった。神園に遊んでいるような、いい気分になったんだ。とても元気づいて、そのまま一ダースも敵を殺してやりたくなった」

 

 戦場心理の把握上、貴重な意見といっていい。

 

「どうだ」

 

 勢い込んで軍医は訊いた。

 

「もしその傷が癒ったら、やっぱりあんたはもう一度、戦線に立つのを希望するか」

 

 こういう質問が出るあたり、コサックの負傷は負傷といっても四肢を欠損するような、そういう「廃兵」まっしぐらな重篤なものにあらずして、せいぜい貫通銃創程度の、再起可能な代物だったに違いない。

 

「否」

 

 ちぎり捨てるように騎兵は言った。

 

「俺の任務は終わった。今は故郷で、愛児を養うことばかりを考えている」

 

 それきり彼は視線を切って、二度と合わせはしなかった。

 

 

 鑑みて、当時の日本軍というのは、やはり狂っていたのであろう。

 

 

 兵卒・将校のべつなく、野戦病院送りに遭った誰も彼もが前線への「返り咲き」を切望し、一日、一刻、一秒でも速やかに傷よ癒れと祈念していた。こういう集団は、世界史上にも珍しい。

 なればこそフランシス・マカラーは、

 

「彼等は、彼等の全生涯を犠牲にしてある一種の『理想』に耽って居るのである。理想とは何か? 曰く――『大日本帝国の光栄』! これ即ち彼等の理想である。

 この所謂理想なるものを、哲学的の理論上から考察するならば、さほど深遠な、高尚な理想で無いかも知れない。けれども何等の理想も持たずにごろごろして居る当世の聵々(かいかい)者流に比べれば、その勝ってること萬段である。苟も一事を遂行する為には、生命を犠牲にするも厭わないという偉大なる理想は、健実なる理想の衰微した今日にとって、まさに一大特権でなければならぬ」

 

 光彩陸離たる、虹のような讃辞を呈して悔いなかったわけだろう。

 まったく明治の日本には、精神があった、魂があった。物質的には貧しくとても、心は意気に燃えていた。

 このことは福澤諭吉も認めていて、

 

 

 ――嘉永癸丑米艦渡来して日本は開国の国となり、漸く西洋の文物を輸入して社会の面目を改めたるもの少なからず。就中政法教育の如きは殆んど改良の頂上に達して今日の新日本を出現したりと雖も、如何せん四十年の開国は唯是れ精神上の開国にして、実業社会は依然たる鎖国の蟄居主義に安んずるもの多し。

 

 

 と、『実業論』の冒頭(はじめ)にて、簡潔に述べたものである。

 

 そういう民族、そういう国家が、一世紀を経た時分にはまるで真逆の傾向を――「物質的には豊かでも、精神的には空っぽである」と謗られるに至るのだから、不思議といえばこれほど不思議なこともない。

 

 運命神は、とことん皮肉がお好みだ。

 

 





今この国を動かしているのは政治家ではない、財界とアメリカだ。どの国も民主国家などとは思っていない、アメリカに育てられたワガママで世間知らずの顔のない奇妙な国と見ている。
それがいきなり国際社会の第一線で働けと言われ、何をしてもしなくても叩かれる。世界は日本に何も期待していない、日本の金に期待しているだけなのだ。

(『Angel Cop』より、舞坂英正)



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満蒙劫掠、敗垣断礎


来処を知らざれば去処を知らず、三界不可得の我、今より閻魔の庁に突撃し、神や仏を部下と為し、三千の美人に鼻毛をよませ、俗界三十年の鬱を晴らし申さん、また快心の事ならずや。

弾一つあたり候匇々頓首

(勝木正雄陸軍軍曹、辞世。沙河の会戦にて被弾、野戦病院に収容されるも、息をひきとる)



 

 文明 対 野蛮。

 

 ヨーロッパ 対 アジア。

 

 キリスト教徒 対 仏教徒。

 

 一九〇四年二月に幕が上がった大戦争の性質を、ロシア政府はそんな具合に位置付けようと努力した。新聞も挙って書き立てた。これは国際法を重んじず、卑劣千万な先制攻撃をいけしゃあしゃあとやってのけ、しかも恥じ入る風もない無智蒙昧な異教徒どもを撃ち懲らす十字軍的戦争なのだと。

 

 中央の意を体するように、実際の戦場、満蒙一帯の至るところで露兵による寺院襲撃が相次いだ。仏堂の戸は蹴破られ、燈篭、香炉、美術的になにやら価値のありげなものは片っ端から掠奪されて、塑像は残らず粉砕された。これは十字架への熱烈な愛情というよりも、

 

 ――アジアの方では黄金の隠し場所として、仏像なり神像なりの胎内がよく宛てられているらしい。

 

 そういう訛伝、根も葉もない風の噂に衝き動かされた部分こそが大だった。

 

 日露戦争の期間を通して、ロシア軍による現地徴発、掠奪行為の凄まじさはほぼ蝗害と変わらない。

 

 戦局の悪化に比例して、手口はどんどん残忍になった。現地人に「日本のスパイ」の烙印を押し、処刑してから持ち主の消えた物件を悠々差し押さえるのが流行りはじめた。屋根の修理をしていただけの青年が、コサックに撃ち殺された例もある。高所に上って光の反射の信号で、日本軍に情報を流していたとの容疑であった。

 

 そういう「巻き添え」が相次いで、おそれをなした住民が集落を捨てて逃げ出すと、露兵にとってのボーナスタイムが開幕する寸法である。変異済みのサバクトビバッタを彷彿とする貪欲ぶりを発揮して、徹底的に奪って盗った。月給五百ルーブルに過ぎない士官が、なぜか毎月千五百ルーブルもの大金を故郷の家族に届けていた一事をみても、どれほど汚職が蔓延っていたか明瞭である。

 

 総司令官クロパトキンは、どうにかして「暴挙」の発生を喰い止めようと頭痛を堪えて努力した。努力は大抵、訓令の形で表現された。

 

 一九〇四年九月二十二日附、第六一四號日々命令内に於いては、

 

 

 畑および建築物の毀損によりて受けたる損失は、直ちに現金を以って住民に賠償すべし。所有主留守なる場合にあっては、損害の大小に関する調書を作成し置くべし。

 

 

 との規定がみつかるし、また同年十月八日附、第六四〇號命令内でも、

 

 

 軍最高司令官の(もと)に達したる報告に依れば、兵站部隊、給養官吏、糧秣官吏および一、二の軍隊は行軍途中住民より馬糧および食物を取り立て、これに対して全く代価を支払わず、若しくは単に極少額を支払い、且つその際下士卒は認識を避けるため肩章を取り去り居りしと。

 右に依り最高司令官は茲に再び各級の長官に命令するに、部下の監視および各部隊内の厳格なる軍紀を正確に保持するため、最も適切にて且つ効力ある規定を設くる事を急ぐべし。

 

 

 今次戦役が如何に勝利の希望に満ちているか力いっぱい熱弁し、自分は遠からず東京に於いて講和条約を決定していることだろうと胸を反らした開戦当初のクロパトキンと、この時点のクロパトキンを対照するのは、あまりに無惨なようにも思える。

 

 もちろん「各級の長官」は、彼の期待に応えなかった。

 

 現場に於いては何をかいわんや。そも兵士たちにしてみれば、司令部が無能で兵站線もロクに機能させられず、必要物資をちっとも送ってこないからやむなく現地調達にいそしんだのだ。実状はどうあれ、彼らはそのような理屈を立てて自己の良心を眠らせていた。

 こっちの違反をほじくる(・・・・)前に上はまず、てめえの仕事を全うしろというわけだ。こういう構図は軍に限らず、あらゆる組織に見出せる。

 

 

 

 やがて、寒くなってきた。

 

 

 

 冬の到来を前にして、掠奪はいよいよ窮極に達した。

 家屋を荒らす、どころではない。

 ロシア人らは家そのものを叩き壊して、その廃材を炎にぶちこみ、いっとき暖をとる燃料とした。彼らの通過したあとは、半壊の土壁だけがむなしく残った。

 

 それでも足りないともなると、いよいよ彼らは墓場に生える(やなぎ)にまで斧を打ち込む。

 

「なんということだ」

 

 数千年来、悲惨事には慣れっこである漢民族も、このときばかりは顎を落として驚いた。

 

 ――支那や朝鮮では資力を尽して親を葬らねば(たたり)があるものと思って居る。親子の情愛が果してそれ程現金なものであるか、些か驚かざるを得ない。

 

 と、波多野承五郎がかつて首をかしげた通り、儒教国家の民草は墓をことのほか大切にする。彼らの最高道徳である、

 

「孝」

 

 に直結するからだ。葬送(とむらい)への心づくしは、日本人の想像の到底及ぶ域でない。

 

 そういう墓所が荒らされた。神聖不可侵は薄紙よろしく破られて、夷狄の軍靴が文字通り、蹂躙をほしいままにしていった。

 

「この上どうして、どの(つら)さげて生き延びられよう」

 

 嘆きのあまりみずから縊れて死ぬ輩が相次いだ。国に力がないというのは、畢竟こういうことである。

 

 ところで中韓の墓というのは穴を掘らない。

 

 地に横たえた棺の上に、土を盛り上げかけて(・・・)ゆく。いわゆる土饅頭式である。

 

 以下はほとんど信じがたいほどのことだが、ロシア人らは越冬のため、この棺すら引きずり出して解体し、薪に供したそうである。中身(・・)はむろん、そのあたりに投げ捨てたきり放置した。

 

「こんな馬鹿な話があるか」

 

 終の棲家と定めたはずの安寧の床から追い出され、もし叫べたなら絶叫したに違いない。無念の屍骸に、これまた棲み処を失って、餓えが嵩じて気が狂い野生に還った犬が群がり、ハイエナの真似に精を出す。

 

 魔界の光景そのものだ。

 

 実際当時の満蒙に「瘴気」を幻視()たと書き残した者もいる。

 

 吸ったが最後、骨まで腐る地獄の大気が顔を出していたのだと。

 

 



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一高魂

 

 朝陽が昇るや、街にどよめきが広がった。

 波紋のもと(・・)は、繁華な通りの一店舗。ヨーゼフという独り者が経営している、その入り口の戸の上に、

 

自殺につき閉店す!

 

 こんな貼紙が押しつけられていたとあっては、そりゃあ騒ぎにもなるだろう。

 

 ――あくの強い真似事を。

 

 最初は皆、冗談とばかり考えて、誰も本気にしなかった。

 なにせ壮年の未婚者だ。

 心の底に溜まる澱、解消されぬ血のくるめき(・・・・)は洞察するに余りある。名状しがたく積もり積もった鬱懐が、ついにこんな奇矯な形に結晶したに違いない。そんな解釈に落ち着いた。

 ところがいよいよ陽は高く、開店時間をとうに過ぎてもヨーゼフの店はしん(・・)として、物音ひとつ聞こえてこない。

 

 ――あるいは、まさか、ひょっとして?

 

 不安の影が、人々の心に兆しはじめた。

 こういう場合のために警察が居る。通報を受け、戸を乱打すれど反応皆無。やむなく強引にぶち破り、中に入れば豈図らんや、店主は貼紙の内容通り、梁にぶら下がって死んでいた。

 

 

 

 一九二八年十月某日、ルクセンブルク公国を舞台とした椿事であった。

 

 

 

 このとしは自殺の「当たり年」といわれた。

 欧州全体で五万人、アメリカだけでも一万五千人が自殺している。

 おまけにその動機ときたらずいぶん馬鹿馬鹿しいのも多く、ゴルフの腕が落ちたとか、髪から艶が失せたとか、極めつけには列車に乗り遅れたという、ただそれだけを理由とし、突発的に死へと走った奴もいた。

 

 一方われらが日本国は、ざっと一万二千人。

 

 熱海の海では年明け早々、つまり正月一ヶ月の範囲内にて、実に七組十四人ものカップルが入水心中を遂げてのけ、翌二月には金沢市の芸妓五名――十六歳一名、他十九歳――が一斉に毒をあおって死んでいる。

 

 まだ止まらない。更に続けて三月三日、桃の節句の当日に、小石川区の細川侯爵邸内で見知らぬ男が縊死しているのが見つかった。

 

 彼の首に巻かれていたのはなんと(つつみ)調緒(しらべお)であり、踏み台にしたのもまた鼓。とうとうたらりたらりらあ――と。なにやら夢野久作の小説にでもありそうな、妙に艶やか、かつグロテスクな構図であった。

 

 小説といえば、昭和二年に自殺した芥川龍之介に感化され、彼の模倣者――睡眠薬をガブ飲みするやつ――が引きも切らずに発生していた時節でもある。

 

 そういう薄気味悪い世相を反映(うつ)して、第一高等学校で、前代未聞・破天破戒の寸劇が実行の運びとなったのも、やはりこのとし、一九二八年――元号にして昭和三年のことだった。

 

 同校の創立記念祭にかこつけてぶち上げられたものという。

 

醜夫、鈍才、見逃す(なか)

 

 挑発的な言辞を染めた大旆により人目を集め、しかも内容に至っては、更に輪をかけて凄まじい。

 

 なんといっても、華厳の滝をセットに再現しているのである。藤村操が「巖頭之感」を遺して飛んだあの滝だ。かてて加えてその前面に、ずらりと陳列されているのは、ありゃなんだ、猫いらず・カルモチン・亜ヒ酸・昇汞水……自殺志願者御用達の薬剤ばかりではないか。

 

 演者の名前に至っては、もはや開いた口が塞がらなくなる。

 

 失恋四太郎とか過度勉造とか家庭不和子とか丙午子とか……よくまあこんな発想を形にできたものだった。

 

 で、そんな如何にも冴えない風采をした連中が、しかしひとたび舞台の上で自殺を遂げるやどうだろう、たちまち涼やかな格好をした美男美女に変化して、あらん限りの脚光・賞賛を浴びるのである。

 

 自殺者といえばなんでもかんでも美化し同情したがりな世間並の感性を、痛烈に皮肉ったものだろう。

 

 なお、言わでもなことだが、藤村操は生前に於いて一高の在学生だった。

 

 そのあたりを踏まえると、ある意味これは「身内ネタ」「身内いじり」と呼べるのか。「先輩に捧ぐ」という趣旨も、もしかしたら含んでいたのやもしれぬ。

 

 つくづく上手くできている。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 その日、北緯五十度線は忘れ難い客を迎えた。

 

 北緯五十度線――南樺太と北樺太を分かつ線、すなわち大日本帝国とソヴィエトロシアの境界である。そこへ日本内地から、林学者がやってきた。樹相の若い適当な木を指差して、

 

「あれはどっちです、日本ですか」

 

 と、案内役の巡査相手に訊いたりしている。

 

「いいえ、ありゃあロシア側です」

 

 逡巡するふうもなく、巡査は答えた。

 

「あれの一尺ばかり手前に黄色い花が咲いていましょう」

「どれどれ、どこです、ああ、見つけた、あれですか」

「あいつがちょうど五十度線上に咲いている、いい目印ってわけでして」

「ははあ、なるほど、うまいこと。――」

 

 林学者の名は市河三禄。

 

 大学で英文科に進んだ者ならあるいはピンと来るだろう。日本英語学の鼻祖にして、その名が賞にも転用された「市河三喜」の実弟である。

 

 三喜が次男、三禄が三男。いちばん上に三陽という兄がいて、これまた名前に「三」がつく。

 

 ばかりではない。

 

 父親は萬庵と号する書家であり、本来の名は三兼という。やはり「三」の字を含む。この伝統が始まったのは三禄からみて祖父の代、亥年亥日亥刻に誕生(うま)れたことから「三亥」と名付けられたのが、すなわち発端であるという。

 

 

 以上は、余談。

 

 

 三兄弟の三番目の三禄は、五十度線に近づいた。

 例の目印の黄色い花を、すぐ爪先に控えるところまで迫る。

 

「先生、どうか御用心」

 

 しゃがれ声で巡査がいった。

 

「ロシア側では極端に厳しく警戒していますから、一歩でも露領に這入(はい)ったやつはドシドシ引っ張られるんです。くれぐれもご注意ください。国際問題に発展すると、ウルサくてかないませんからなア」

「大丈夫、大丈夫」

 

 あしらいつつ、三禄は前をはだけさせ、ぼろんと陽物を取り出した。巡査の顔の筋肉が、もう見るからにこわばった。生温かい液体が、勢いよく奔り出た。

 樺太の藪、北緯五十度線上に、黄金色のアーチがかかる。

 

(どうだ)

 

 越境(・・)してやったぞと、得も言われぬ征服感を三禄はとっくり味わった。

 

 まるで「関東の連れ小便」だ。小田原征伐の最中に於いて、サル(秀吉)タヌキ(家康)()った故事。そういえば杉村楚人冠も、山頂に立つと妙に小便をしたくなると記していたか。してみると「尾籠」の一言で顔をそむけるべきでない、立派に研究に値する、あるいは雄の本能の、よほど深い部分に根を張る衝動なのではなかろうか。

 

 一応附言しておくと、三禄のこの「越境」は、もちろんなんの国際問題も起こさなかった。

 

 ついここまで書きそびれたが、この三禄もやはり一高出身である。在学中は専らボートにのめり込み、「血の小便を流すまで」オールを漕いだとのことだ。

 

 男という生き物は、いやはやまったく本当に。

 

 





火野葦平は「糞尿譚」はもとより、「麦と兵隊」の中でも糞のことを平然として書いている。しかし、あれは火野君の創始ではない。古事記には、到るところに、糞のことを書いている。糞のことを平然と描くことは、剛健素朴な味があり、日本文学の伝統の一つかも知れない。

(菊池寛)



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遼陽にて ―あるユダヤ人の日露戦争―

数日前、ある人が私に言った。イタリア人はまともな国民であるから、こちらがそれなりに対応すれば味方についてくる、と。私はそれに同意しない。われわれの任務は奴らを殺すこと。それがわれわれの仕事だ。殺してみれば奴らが善人かどうかわかる。だが、まず殺さなければならないのだ。

(1943年、バーナード・モントゴメリー)



 

 黒っぽいものを歩哨が見つけた。

 

 明治三十七年九月中旬、当節遼陽大鉄橋と通称された構造体の下である。歩哨の所属は、むろん日本陸軍だ。遼陽会戦が決着してから二週間ほど経っている。一帯の勢力図はまず以って、皇軍の色になっている。

 歩哨は思った、

 

(前回ここを巡廻(まわ)った際には、あんなのは落ちていなかった)

 

 と。

 記憶力には自信があった。

 神かけて誓えることである。

 

 如何にも日本人らしい生真面目さを発揮して、銃を持つ手に警戒を籠め、物体の正体を確かめるべく歩みゆく。

 が、いざ近づけば益体もない。

 

(なんだ、露兵の上着かよ)

 

 前夜来の雨により、増水した太子河の流れに沿って運ばれてきたものだろう。

 ところどころ、どす黒く変色した生地は、泥汚れでは断じてない。もっとずっと(なまぐさ)い、有機的な代物だ。範囲からして、着ていたやつの運命は、おのずと察しがついてしまった。

 

(ふむ。……)

 

 かがみこみ、何の気なしに持ち上げる。

 と、ポケットから滑り落ちる小さな影が。

 手帳であった。こちらの汚れもだいぶ酷いが、それでも中身はまだ読める。歩哨は陣地に持ち帰り、通訳に渡すことにした。

 

「面白いものを拾ってきたな」

 

 どれどれ、すぐに読み解いてやる。気軽に請け負った通訳だったが、ページを捲るに従って、頬のあたりの筋肉があからさまにこわばった。

 

「どうした」

「日記らしいな」

「珍しくもない」

「ユダヤ人だぜ、こいつを書いた野郎はよ。――」

「……、それは」

 

 なるほど確かに、一驚せずにはいられまい。

 多民族国家を相手にしている現実を、改めて突き付けられた思いであった。

 

 ほどなく手帳の存在は陣中皆に知れ渡り、通信員の手によって本国にも伝達されることとなる。

 

 翻訳済みの文章が大阪毎日新聞紙面を(うず)めるや、間を置かずして朝野に異常な波紋を呼んだ。

 

 以下、例によって例の如く、筆者(わたし)個人の独断と偏見に基づいて、「訳文」中から特に胸に響いた箇所を撰んで並べることにする。

 上下を問わず、明治人の感情が、なにゆえ激しく揺さぶられたか。きっと察しがつくはずだ。

 

 

 

八月十日

 今朝高塔の下にて、一美人の逍遥するを認めぬ、看護婦とかや、スラブの看護婦は、病院に勤務せずして、無病の将校と戯る、奇ならずや、翻って余の境遇を思へ、悲哉(かなしいかな)、余は最愛の妻に向って胸中の苦悶を告ぐるの自由だになし、検閲の難関を経ずして、書簡を送らん由もがな、アゝ彼女は独り秋風に泣きつゝあらん! 神よ願くは(すみやか)に戦争を終らしめ給へ。

 

八月十一日

(前略)余は未だ先月分の俸給を受け取らず、隊長殿の衣嚢(かくし)は不正なる銀行にやあらん、いつもながらの支払停止、普通の銀行ならんには、疾に破産するべき筈なるに。

 

八月十二日

 余は夜もすがら泣きぬ。戦友の余を虐ぐること、何ぞ斯の如く甚しきか、寝台を並ぶるを嫌ひ、食を共にするを厭ふ、間断なく見舞はるゝはただ無情の鉄拳あるのみ、アゝ昨夜も、アゝ昨夜も。ユダヤ人もまた人類にあらずや、否スラブよりも古き歴史尊き神を戴く、善良の民なるを。われ既にこの虐待を被る、しかも尚ほスラブの為めに戦ふの義務あるか。

 昼は来たれり、また食堂の隅に潜んで彼等が余せる堅き黒麺麭を食まんか。更に唯々として奴隷の如く使役せられんか。…(判読不能)…軍隊に自由なしといふ、然れども彼等はウォッカに酔ひ、売春婦に戯るゝの自由を有す、余に至っては祈祷(いのり)を捧ぐるの自由だも奪はれんとす。夜十時、厩の一隅寂しき黍殻の上に冷たき夢を結ばんか。

 

 

 

 ポグロムとは、つまりこういうことなのか。

 

 金も貰えず、酷使され、憂さ晴らしに打擲される。

 せせら笑われ、軽蔑されて、立つ瀬というのがまるでない。

 帝政ロシアのユダヤ虐待、酷烈無惨なその様子。ジェイコブ・シフが大日本帝国の後援にほとんど打算を超越してまで入れ込んだ、これが理由の一端だ。

 

 もう少しばかり、抜粋を続ける。

 

 

 

八月十三日

 起床喇叭に驚かされて厩をはなる、凶か吉か、胸甚だ騒ぐ、朝ごとの日課たる隊長殿の靴を磨き、営所の床を拭ひ、炊事用の水を汲む、胸愈々騒ぐ、(中略)午後二時、転隊の命下れり、遼陽停車場守備隊の雑役に従事せる余は、首山堡方面にあるシベリア狙撃隊第十三連隊に編入せられたるなり。聞くならく敵は鞍山店を襲撃せんとしつゝあると。余の転隊はやがて戦はんとするが為なるべし。

 同胞イワノフは南山の役に倒れたり、デミトリは得利寺に死せり、パウルもアンドレも悉く敵弾のもとに倒れぬ。さなり卑怯なるスラブは、余等憫れむべき同胞を先頭に進ましめて、弾丸の的たるを常とす、虐待既に苦し虐待の報酬として貴重なる生命を奪はるゝは、更に大に苦し。

 

 

 

 もはや疑念の余地はない。

 彼は肉壁のいちまいだ。肉の壁の素材が遺した慟哭が、すなわち手帳の真実だ。

 人は城、人は石垣、人は堀。武田信玄の三十一文字(みそひともじ)半分(・・)は、当人にとって思いもよらぬ方法で北の大地に実現された。

 

 八月十三日の記述は最後にこう結ばれる。

 

 

 われ()たこの苦き運命に遭遇して、首山の露と消えんとするにあらざるか、アゝ神よ。余と余の恋しき妻を憐れめ。

 

 

 首山堡。

 遼陽会戦の焦点として、この地名は有名だ。

 十三万の皇軍と、二十二万のロシア軍とがぶつかり合った闘争の、激戦区中の激戦区。

 鉄風雷火の限りを尽くす、弾丸雨飛のキルゾーンにて、肉壁役が生き延びられる公算は。ああ、本当に、この浮世では嫌な予感ほどよく当たる。

 

 



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欲界の覇者


 犠牲の累積と連続とで社会といふものは成り立ってゐるのである。犠牲の否認といふが如きは最小最卑最劣の精神である。犠牲の強要強求ないし巧要巧求をするのは、豪傑ないし智者なのである。

(幸田露伴『連環記』より)




 

 富に対する、まるで猛火のような情熱、人の欲念の果てしも(・・・・)なさ(・・)を感じたければ、十九世紀アラスカの方を視ればいい。

 

 一八六八年――この「冷蔵庫」を合衆国が買収したつぎのとし。ヤンキーどもは早速やった(・・・)。プリビロフ諸島に乗り込んで、オットセイを殺戮すること二十四万頭もの多きに及んだ。

 

 もちろん皮を剥ぐためだ。

 

 この鰭脚類の纏う毛皮は、加工によって優秀な防寒着に化けるのである。

 

 それを目当てに、ロシア領であった以前は禁制だった銃まで使い、アメリカ人らは手当たり次第、効率的に狩りを遂行し続けた。

 

 そう、禁制(・・)。帝政ロシアはオットセイの個体数の調整に、割と、案外、熱心だった。十八世紀の発見当初、勢いに乗じてやり過ぎたという反省が彼らの中にもあったのだろう。雌は獲るな、争いに敗れハーレム形成にしくじった弱い雄だけをターゲットにせよ、それにしても銃は使うな。そういう規制を張り巡らせて、厳しく遵守せしめた結果。オットセイの個体数は二百万頭のラインに於いて、安定して保たれ来ったものだった。

 

 ところがアメリカ人という、この新しいご領主様は、そういう歴史のすべてを無視した。

 

 盲滅法としかいいようがない。雄雌老幼のべつなく、オットセイの形をしているぜんぶが狩りの対象だった。

 

 結果がつまり二十四万頭である。総数の実に一割を、たった一年で獲ってしまった。

 

 しかも市場は、まだまだオットセイの毛皮を求めて奔騰している。

 

 アパレル系の強さというのを垣間見る気がするではないか。

 

 鉄板も鉄板、廃れを知らぬ不滅の産業。そんな錯覚さえ起こす。

 

 獲れば獲るだけ金になる。ならば拝金宗のメッカたる星条旗の国民が、躊躇逡巡するはずもなし。フィーバータイムは持続した。

 

 そういうところへ、更に科学が拍車をかけた。オットセイの生態に興味を抱いた動物学者が執念深い研究の末、ついに彼らの習性を――「回遊」の謎を闡明したのだ。

 

 といって、あくまで一部(・・)でしかない。何故そうするかは相も変わらず不明だが、少なくとも何処を泳ぐか、定められた経路については突き止めた。「秋が来ると、プリビロフを後にして、アリューシャンの島々の間の海峡を通って南へ下り、春がくるとオレゴン州の沖合を経て、海岸伝いに北上し、六月頃にベーリング海に入り、古巣に納まると云ふ道筋を取るのである」(『あらすか物語』)。そして毛皮業者にしてみれば、この段階でもう既に、価千金と看做すには十分すぎる情報だった。

 

 ――いつ、何処を通るか見当がついているならば、待ち構えて捕獲するのも容易であろう。

 

 斯様な発想に基づいて、アメリカ人は新機軸を切り拓く。

 

 オットセイの沖合捕獲のはじまりである。

 

 上述の通り、オレゴン州やワシントン州の沖合を通過するところを狙いすませば、態々プリビロフ諸島まで――ベーリング海のど真ん中まで出向く苦労も払わずに済む。

 

 寒さにふるえる必要も、輸送のコストも省けるし、いいことづくめな手法であった。

 

 やらない理由を見つける方が難しい。

 

 流行は、もう必然だった。「かうした沖取漁船が段々に増加して行って、一八九四年には百十隻に達し、捕獲高は実に十二万一千百四十三頭に上」るという、ある種壮観を呈すに至る。

 

 もっとも狩られるオットセイにしてみれば、ただただ厄災なだけであり、壮観だの何だのとふざけんじゃねえという話だろうが。

 

 まったくべらぼうな濫獲である。これでは「如何に無尽蔵を誇ったオットセイでも堪ったものではない。種族の絶滅は、目に見えてゐた。そこで政府は捕獲制限法を発布したが、沖取業者は、カナダの国旗を掲げ、監視船の眼を晦まして、相変わらず荒稼ぎを事とした」

 

 なんときらびやかなアウトローの精神だろう。

 

 西部開拓時代の混沌は、どうも、どうやら、大陸内部にとどまらず、大海原の上にまで溢出していたものらしい。スティーブン・アームストロングの掲げた理想、「真の自由」(サンズ・オブ・リバティ)の原風景が此処にある。

 

 虎狼をも凌ぐ貪婪な欲。

 

 それを遂げるためならば、どんなことでも仕出かしかねない見境のなさ。

 

 そういう資質を備えたやつを、歴史は往々、強者と呼んだ。

 

 当然である、現世(このよ)は欲界なのだから。

 

 欲こそ意志を支える柱、欲の多寡こそ生命(いのち)の強さ。であるが以上、強欲な者ほど優位な場所へ、イニシアティブを握るのは、自明の道理に違いない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 由来アメリカ人は豊かな自然資源に甘やかされて来た国民で、資源は人力で取り盡せるものでなく、幾ら取っても利潤が減ってくるなどと云ふことはないものだと考へてゐたやうである。また実際米国の資源と云ふものは、われわれ日本人のやうに貧しい国に先祖代々住み慣れて来た国民には、想像もつかない厖大な各種の資源に恵まれてゐる。

 

(祥瑞専一)

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 いったん海に出た以上、手ぶらじゃ港にゃ戻れねえ――。

 

 額の上にねじり鉢巻きでも結んでそうな、そういう頑固な漁師気質は、どうも日本の独占物ではないらしい。

 

 アメリカでもそうだった。

 

 少なくとも十九世紀、ニューイングランドの諸港に集った、捕鯨船団のやつらは、だ。

 

 彼らが目指すはサンフランシスコ。クジラを獲りつつ、北極海を横切って、西海岸の都市へと向かう。ほぼ同時期の日本国では「桑港」の二文字で表記されたこの街こそが、鯨油取引の中心だった。

 

 航路の危険は折り紙つきだ。

 

 ガスが湧き、暗礁待ち伏せ、氷山さえも押し寄せる。北極海とはそういう海だ。そういう海でクジラを探す。毎年決まって一隻や二隻は海の藻屑だ。一八七六年に至っては、十二隻が沈没している。ライフジャケットなぞ雛形のまた雛形が漸く発明された段階。船員の運命に関しては、敢えて語るに及ばない、推して知るべしというものだ。

 

 既にハイリスクを負っている。

 

 相応のリターンを求めるは、感情的にも勘定的にもあらゆる面から自然であろう。

 

 待てど暮らせどクジラの姿が見当たりません、不運だったね残念無念また来週で済ませられる問題ではない。赤字は断固拒絶する。

 

 そういう場合、彼らは得てしてセイウチを獲った。

 

 鯨油の代わりにセイウチ油でタンクの中身を満たしていった。

 

 祥瑞専一が『あらすか物語』で伝えるところに依るならば、一八七〇年~一八八〇年の短期間中に十万頭のセイウチが、アメリカ捕鯨船団により殺戮されたそうである。「一八七四年には、オンワード丸のごときは、一千頭を捕獲し、一八七七年には、マーキュリー丸は、二千頭と云ふ記録を示してゐる」。海が真っ赤に染まる数字だ。セイウチにとっても悪夢だが、北極圏の先住民族――エスキモーらにしてみても、この濫獲は災禍であった。

 

 なんとなれば、セイウチの肉は、この人たちの常食だったからである。

 

 それが絶滅間際となれば、勢い彼らの生活も、文字通り熱量を失って衰微するより他にない。

 

 斯様な犠牲を強いてまで、利益を求めるべきなのか? 文明国の看板に相応しい態度と言えるのか?

 

 そういう疑問は書生談議の材料たるに止まって、実際の現場では見向きもされない。

 

 金銭欲は愛国心を凌駕する。

 

 それが人間の常態だ。大日本帝国時代、三土忠造が早くも気付き、絶叫した真実である。

 

 愛国心に於いて既に然り。況や先住民の文化保護だの、動物愛護の精神だのに於いてをや。十九世紀のアメリカ人に、そういうものを求める方が無理だった。

 

 目下、セイウチの個体数は、ざっと二十五万頭。

 

 そのうち二十万頭がアラスカ附近――ベーリング海やチュクチ海等に棲息しているそうである。

 

 



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個性煌めく教師ども


教育を授くるは酒を飲ましむるが如し、但し酒の酔は五、六分間に発すれども教育の結果は八、九年ないし十年にして始めて発するものなれば、之を醒すにも亦八、九年ないし十年を要す。

(福澤諭吉)




 

 明治の終わりも近いころ。東京高等師範学校附属小学校尋常科にて、とある教師が生徒の知識を試すべく、こんな問いを投げかけた。

 曰く、

 

「地球上で一番大きな魚は何か、諸君は答えられるかね」

 

 たちまち挙手するやつがいる。

 指名されるなり黄色い声を張り上げて、自信たっぷりに少年は言った、

 

「はい先生、クジラです」

 

 と。

 

「それで宜しい」

 

 教師は鷹揚に頷いた。正解を得て、少年は鼻高々だ。円満な空気が教室に満ちた。

 

「先生、間違っておられます」

 

 ところがその円満に、横槍がぶすりと入れられる。

 

 同調圧力を跳ね除けて、自己の信じる「正しい知識」を呈しにいった、うら若き一人の勇者によって――。

 

「クジラは哺乳類であり、魚とは別な種族です」

 

 勇者の名は、石川欣一。

 当代屈指の動物学者、「ジラフ」を「キリン」と名付けた男、石川千代松の長男である。

 

 そういうことは、むろん教師も知っている。反射的に、

 

(しまった)

 

 と思った。

 

 おそらく千代松直々に、家庭で薫陶を受けたのだろう。クジラが魚類にあらずというのは、きっと正しいに違いない。

 

(が、迂闊に認め、頷けば)

 

 失うものが多過ぎる。自己の権威は当然として、なにより先に挙手し答えた少年の不名誉たるやどうだろう。赤っ恥もいいところではあるまいか。下手に感情が転がれば、

 

 ――おのれ余計な差し出口。

 

 と、欣一に対し意趣を抱いて、その挙句、喧嘩口論に発展せぬとも限らない。

 

(つまりは面倒事になる)

 

 冗談じゃない、ならせて堪るか、(わざわい)未萌(みぼう)のうちに摘む。

 摘み取るため、事態を丸く収めるために、教師は咄嗟に頓智を出した。咄嗟であろう。幼い欣一の眼には、教師が裏で爪繰った算盤珠のすべてが視えず、

 

「そうだ石川の言う通り、クジラは魚類(・・)に属さない。けれども、クジラがサカナだと言ったのも同時に正しく成り立つのである」

 

 一拍置いて語りはじめた教師の言に、黙って首をかしげることしか叶わなかった。

 

「つまりは同じサカナでも、表す文字が違うのだ。メの下に有と書く方のサカナ()であれば、当然クジラも含まれる。牛蒡だの大根だのもサカナと言うから、この意味でクジラもサカナといって差し支えない。しかし鯛やヒラメのような魚類とは違うのであるから、石川の言うのも正しいわけだ」

 

 屁理屈としか言いようのない、こんな言葉遊びでも、人の師たるの威厳を以って壇上から堂々と、歯切れよく説き聞かせられてしまった場合、真実以上の真実として立派に生徒を納得させるものらしい。

 欣一はまんまと煙に巻かれた。

 

「あの頃は俺も無邪気でね」

 

 巻かれたと自覚した時は、既に欣一、少年ではない。

 いっぱしのジャーナリストとして浮世の辛酸、表裏をさんざん味わった、苦労人の面魂になっていた。

 

「要するに学術的な知識では俺の方が勝っていた。しかしながらそれ以外、世間知の部分の働きで、俺は先生に圧倒された。教師も生徒も、個性が躍如としていたよ、あの頃の学校って場所にはね――」

 

 世間の事情、人情の機微をからりと諷す、毒を含めど嫌味ではない石川欣一の筆鋒は、そのような環境に育まれ、研磨されたものだった。

 

「迂遠に似たれども風俗を移易するは学校の教に如くものなし、美なるものを長ぜしむれば悪なるもの自ら消ゆべし」。庄内藩士・白井重行が嘗て上申した如く。教育は蓋し国の大事で、教師の役目は頗る重い。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 親馬鹿といふ言葉はあるけど、子馬鹿といふ言葉はない、僕は子馬鹿か知ら。さうかも知れないが、鮎を調べたいばかりに台湾まで行き、肺炎になり、死ぬ直前の譫言にまで鮎のことをいってゐたおやぢのことを考へると、世の中には、何と僕をはじめ、あるひは僕を最後とする、ゴクツブシが沢山ゐることよ! と嘆かざるを得ない。

 

(石川欣一)

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 大阪の街の風物詩、中学連合運動会から優勝旗が消えたのは大正四年以後である。

 

 市岡中学の一強体制、同校が頂点に君臨すること六年連続に到達したのが直接的な原因だった。

 

「常勝」という言葉ほど、「面憎さ」の培養土として相応しいのも珍しい。

 

 由来、勝負事というやつは、実力が伯仲すればするほど面白いのだ。

 

 はじめから一方の勝利が確定している闘いを見てなんの愉快があるだろう? 絶対者による蹂躙劇一辺倒では華を欠く。番狂わせこそ望ましい。勝敗の切所、ぎりぎりのところで押し合いへし合い、飛び散る火花が見たいのだ。にも拘らず期待外れの肩透かしが続いたならば、観客でさえ白けるのである。況してや当事者、蹴散らされし他校生どもに於いてをや。

 

 ――やってられるか。

 

 そういう気持ちがどうしたってこみ上げる。毒素となって、徐々に心を蝕んでゆく。

 当時の学校校長会は、

 

「連合運動会に優勝した学校が必ずしも体育に成功せりとはいはれぬ。只特別な技倆の優勝者を有してゐる事を表彰するに過ぎぬ。優勝旗あるが為に、孰れの中学校でも、市岡中学校に対して面白くない感情を有ってゐる」

 

 ざっとこのような声明を出し、競争自体を廃してしまった。

 

 敗者の嫉妬や怨嗟やら、暗く粘ついた感情に、どうにかしてもっともらしい理屈をコジツケ罷り通らせようとする苦心のほどが窺える。

 

 順位という概念を喪失(うしな)い、運動会は本当にただ、身体を動かすだけの会に成り果てた。

 

 熱気も喧騒も遠ざかり、すっかり色褪せた印象だったが、人間世界を構成するのは二分の道理に感情八分、こういうこともあるだろう。

 

 そのような諦観に基いて、多くが自分を納得させた。

 が、

 

「なにをコンニャク野郎ども、阿呆な理屈をくどくどと、勝手放題並べてからに、日和りやがってボケナスがァ」

 

 全部ではない。もちろんのこと、順応せぬ者もいる。

 

 一柳安次郎が代表格といっていい。

 

 大阪市歌の作曲者、当代きっての硬骨漢、市岡中で教鞭を執り直木三十五の師という顔をも併せ持ちしこの人物は、わかりやすく激怒した。そりゃもう怒髪天を衝かんばかりの勢いだった。

 

 就中、「孰れの中学校でも、市岡中学校に対して面白くない感情を有ってゐる」の部分に対し特に不快を覚えたようで、「武士道よりして一瞥する価値もない女々しい語」と口を極めて糾弾し、更に続けて、

 

「大阪五千の活々(いきいき)した学生が、皆こんな御殿女中的感情に囚はれてをるとせば、由々しき大事で、負け角力が勝った力士を怨めしく思ふと同一だ。そんな根性に充ちた学生の、優勝を獲得し得ないのも当然である。大阪学生が、自己の校長からしかく推断せられたのを甘受するであろうか」

 

 こんな具合に、まず滅多切りと呼ぶに足る、大胆な所信を披露している。

 

 末尾の方など大阪学生らに対し、校長の決定を覆すべく一大反抗ムーブメントを巻き起こせと暗に教唆しているようではないか。

 

 これはこれで、人間の変物たるを失わぬだろう。「男の世界」の殿堂に、列席するに値する。すめらみくにに人傑多し。悦ばしきことである。

 

 

 



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馬蹄は遥か


友の如く馬を見るべし、
敵の如く之に乗るべし。

(古諺)




 

 

 明治・大正の日本にも、動物愛護の動きはあった。

 

 特に高名な旗頭として、松井茂・小河滋次郎の両法学士が挙げられる。

 

 わけても前者は「動物を虐待して平然たる者は人間に対しても残虐を敢えてして平然たる者」「動物虐待を見過ごす社会は問題児を大量生産する社会」との所見に基き、新聞に盛んな投書を行い、欧米すなわち先進諸国の実情を伝え、大衆の意識を刺激して、立ち上がらせんと努力した。活発というか、意欲に満ちた人である。

 こころみに「投書」の中身をひろってみると、

 

 

〇英国では一八〇九年ロード・エアースキン氏(Lord, Erskine)が上院に於て動物愛護の事を述べた時は寧ろ嘲笑に附せられたが、一八二二年マーチン氏(Martin)が之を唱ふるや、議員の多数に歓迎せられ、マーチン・アクトとして其法令が発布され、一八二四年、世界に率先して動物虐待防止会を組織し、越えて一八四〇年には皇室的の名称を冠することを許された。

 

 

 一八〇九年といえばナポレオン戦争の真っ最中だ。

 コルシカの人食い鬼を相手に、存亡を賭け、がっぷり四つに取っ組み合ってる状態で、更にこの上、物言わぬ獣へと割いてやるだけのリソースは、いかな大英帝国といえど持ち合わせが無かったか。

 

 我が身の安全が確保され、心に余裕があってこそ、他の誰かに優しくしてやる気にもなる。

 世間一般の「善人」とはそういうものだし、たぶんそれでいいのだろう。

 

 

〇ベルフ(Bergh)氏が米国領事館書記官として露国在職中、同国の動物の残忍な取り扱ひを受けて居るのを見て惻隠の情を起し、帰途ロンドンに立寄りて、動物虐待防止事業を視察し、帰来防止事業を初めて米国に企て(時に一八六六年)、続いて児童保護会を組織(一八七五年)して、斯会の鼻祖と仰がれるやうになった事を考へても、動物を虐待する露国民の中から、パルチザンの如き兇暴の徒の輩出したのは決して偶然でなく、又動物愛護と児童保護とは根本義に於て離るべからざる関係にある事が判る。

 

 

 引き合いに出されたロシア人こそいい面の皮であったろうが、なにぶん尼港事件が起きてからあまり時を措かないうちに草された文ゆえ、いかんせん。

 ニコラエフスクに滞在していた邦人を、軍民問わず皆殺しにされたショックは大きかったということだ。

 

 もう何点か抽出したい部位がある。

 

 

〇ドイツでは一八三七年、初めてシュトゥットガルトに、一八四一年にはミュンヘンに於て之が創設せられ今や各州に亘って居る。我邦では東京、横浜、神戸の如き外国人の多く居る場所で而も外国人の注意の下に貧弱なる動物愛護が行はれて居るに過ぎない。

 

〇奥州辺では馬の子を我子のやうに可愛がって育て上げ、やがて伯楽に売り渡す日になるや、家族一同村境まで見送り、愛馬が伯楽に曳かれて行く後姿を見ては、泣いて別れを惜むさうだ。所が曳かれ行く馬は、無情な伯楽に怒鳴られ、鞭れるので、初めて人間の怖ろしさを知り、段々と警戒の色を浮べて、それが東京に着く迄には、怒りっぽく後足を挙げて蹴るやうになるといふ。

 

 

 ああ、これについては聞き覚えがある。

 

 確か明治十年代であっただろうか、中央から役人が来た。

 

 南部馬の皮の質の調査のためだ。良好ならば背嚢・鞄・靴等の、軍需品の原料供給源として設定する気でいたらしい。お国の大事というわけである。ところがこの目的がひとたび漏れるや、たちまちのうちに収拾のつかぬ騒ぎになった。

 

「この人非人、鬼、外道っ」

 

 耳から蒸気を噴かんばかり――と言うべきか。

 岩手県の農民という農民が、逆上して叫んだのである。

 

 

…皮をとるために育てるのぢゃない。たとひ死んでも皮を剥ぐやうなことは情として出来ない。死んだわが子の皮を剥ぐ奴があるものかと、ひどくどなられて役人連中、面目を失して退却した話が残ってゐる。その位にみんな馬を可愛がる。競売に出るときは家族の者多数つきそひでついて行く。売れる前夜まで馬の横にねる。随所に塩原多助馬わかれの場が実演される。

 

 

 こういう記述が、昭和三年の『経済風土記』に載っている。

 

 ほぼ一揆寸前の眺めであった。

 

 威圧によって「官」の意向を曲げさせた形であるゆえに、そう取られてもやむなしだろう。

 

 天高く馬肥ゆる地の誇りと看做してやるべきか。

 

 こういう「お国柄」と対面するのは、何につけ悪い心地ではない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 馬肉禁食会の発起は明治三十九年になる。

 

 越前福井の有力者、亀谷伊助が立ち上げ人だ。

 

 (ココロザシ)自体は正当だった。

 

 高潔とすらいっていい。日露戦争遂行のため、日本全国津々浦々から動員された軍馬たち。のべ十七万頭以上に及ぶ、乃木希典の言葉を借りれば「活動武器」の大群は、しかしいったんポーツマスに講和条約成立するや、思わぬ悲運に見舞われた。

 

 既に戦争が終わった以上、軍隊はその膨れ上がった図体を再び萎ませねばならぬ。

 

 凱旋早々、各師団にて多くの軍馬が競売にかけられる運びとなった。

 

 それだけならばべつにいい(・・)。目くじらを立てるに及ばない、ごくありきたりな展開である。

 

 ただ問題は、落札者のかなり多くを食肉業者が占めていたこと。

 

 もちろん彼らは競り落としたる軍馬(うま)どもを、有無を言わさず屠殺した。砲を挽き、糧を運び、人を乗せ――その背で以って祖国の勝利を支えたであろう功労者らを、用が済むなり殺して解体(ばら)して食肉(にく)にして、市場に卸して利益(カネ)にした。

 この事態を受け、

 

「なんということだ」

 

 と、誰一人として血相を変えなかったなら、それこそ我らは明治人の神経に深刻な疑義を抱かねばなるまい。

 幸いにして、亀谷がいた。

 

「彼の軍馬は軍人と共に満韓の野に馳駆し畜類とは云へ其の功多きに今や恙なく帰国すると共に忽ち屠殺して食膳に供するが如きは情に於て忍びざる所なり」――声を張り上げ、広く江湖に訴えてくれた人がいた。

 所産がすなわち馬肉禁食会である。

 

 繰り返し言おう、ココロザシは高潔だ。が、現実的な成果となると、これがあまり捗々しくない。率直に言ってあまり流行(はや)りはしなかった。社会を根底から揺さぶるような、そういう一大ムーブメントには至っていない。

 

 原因は、明治人が一般に冷血気質と視るよりも、むしろ会の名前がいまひとつ適当を欠いていたのであろう。

 

「禁食会」ではサクラ肉を口にすること、馬食文化それ自体に挑戦しているように思える。戦功相応の待遇を軍馬に与える点にこそ会の目的が在るならば、「禁」の文字は避くべきだった。禁酒会とか禁煙会とか、そっち方面(・・・・・)の連中と同一視されても不思議ではない。

 要するに、意図と看板に若干のズレがあったのだ。

 

「軍馬顕彰会」とでも銘打てば、あるいは結果は違ったろうか。第一印象の重大さを、つくづく考えさせられる。

 

 

 

 日本に於いて軍馬表彰の制度が樹つのは昭和十四年以後のこと、日露戦争から三十年以上を俟たねばならず、それでやっと、漸くだった。

 

 

 

 制度の詳細に関しては、昭和十七年刊行の『馬』という書に特に詳しい。

 

 著者の名前は伊澤信一。負傷によって現役を退いた嘗ての陸軍軍人である。

 

 

 功章は次の三種類に区分されてゐる。

  甲功章(金鵄勲章に相当するもの)

  乙功章(旭日章に相当するもの)

  丙功章(瑞宝章に相当するもの)

 右の功章は金属製にして頭絡の額革中央に附けるものである、(中略)昭和十七年十月迄に表彰されたる名誉の軍馬は、合計一五七二頭で、其内訳は左の通りである。

  甲功章 三九九頭

  乙功章 八五二頭

  丙功章 三二一頭

 

 

「これ等の功労軍馬は、軍役を果したる後には、神馬として奉仕し、或は乗用、農用、輓馬等それぞれ適当なる職場に於て働き、または牧場にて悠々たる生活をなす等、適当なる飼手に養はれて楽しく余生を送るものである」――と、伊澤はざっとこんな具合に述べている。

 

 もっとも制定から六年経たずで大日本帝国の軍組織自体が壊滅したため、上の功労軍馬らが、いったい真に「楽しく余生を送」れたかどうか、定かではない。

 

 なお、兵士としての著者(伊澤)の最後の戦場は、明治三十七年の、遼陽会戦こそだった。

 

 このこと一応附言しておく。

 



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天下人


原作・『駿河土産』




 

 将軍職を息子に譲り、駿府に退いた家康は、隠棲するなり居城の門の開閉に口やかましい規則をつけた。

 曰く、夜間の開閉は、如何な理由があろうとも一切罷りならぬなり、と。

 

 この新法で迷惑したのが村越茂助だ。

 

 茂助、ある日の都合によって、なにか用事を片付けるべく城外へと出向し――関ヶ原の件といい、不思議とこういう使い走りめいた仕事に縁の深い人物である――、意外にこと(・・)が長引いて、帰路を急ぐころはもう、星がまたたき月を見上げる時刻であった。

 

 案の定、門は閉じている。

 型通り、

 

「通せ」

「通さぬ」

 

 の押し問答をやってはみたが、むろん何の効もない。

 癇の虫をまぎらわすべく、足踏みなどしていると、たまたまそこへ安藤直次が通りがかった。

 

「茂助ではないか」

 

 お互い古参の三河者ゆえ、顔も気性もよく知っている。

 どうしたことだ、夜分遅くに、こんなところで――と、会釈抜きでいきなり訊いた。

 

(いいやつが来た)

 

 と、あるいは茂助、思ったか。

 土くさいお国言葉まるだしで事情を説明したという。

 

「ふむ。……」

 

 直次はちょっと考えて、しかし結局、茂助の期待に応えてやることにした。

 

「こいつの身元の確かさは、わしが全面的に保証する」

 

 上様に不為を働く者では決してない、我が顔に免じ、ここはひとつ、便宜を図ってくれまいか。そんな意味の相談を、門番相手に持ち掛けた。

 

「そ、それは」

 

 番士は流石に、言葉に詰まった。

 

 安藤直次といえば小牧・長久手に大功ある老将で、家中でも聞こえた(・・・・)人物である。

 

 生きた英霊にやや近い。いやしくも武士である以上、この男を前にして精神になにごとかを起さないのは不可能であり、現に起こった。番士の呼吸は早くなり、ねばっこい汗がこめかみ(・・・・)に垂れ、夜目にもはっきりわかるほど顔から血の気が引いていた。

 

 が、そこまで追い詰められてなお、

 

「なにぶんにも、法度は法度でござりますれば」

 

 最後の一線だけは譲らず、頑張り通してのけた点、この門番も尋常一様の胆気ではない。

 村越茂助・安藤直次という、家康の興隆を初期から援けた老臣二名を、規則規則の一点張りでついに妨げ、妨げきって追っ払ってのけている。

 

「ちっ」

 

 と、茂助は闇を鳴らして去った。

 

 やがて夜が明け、陽が昇り、奥から出てきた家康に事の次第が達すると、

 

「ほう、茂助が、な」

 

 この老人は意外にも、終始機嫌よく報告を受け、聴き終わるやいよいよ相好を蕩けさせ、

 

「それでこそ頼もしき門番よ」

 

 あっぱれ見事、さてさてそう(・・)であってこそ、門を任せた甲斐がある――と、激賞して惜しまなかった。

 

 当の門番は、後に人づてにこれを聞き、思わずその場に崩れ落ちるほど感動し、声を涙で滲ませて、せきあげるように「厚恩」を謝した。

 

 封建人の可憐さというものだろう。

 

 もう彼は、自分の固める門前に、鬼が来ようが菩薩が来ようが、孔子孟子が弟子を引き連れたとえ列を成そうとも、その来訪が正規の手順を踏んだものでない限り、棒を突き出し、

 

()ねっ」

 

 と叫ぶに違いない。

 もちろんのこと家康は、そういう効果を期待して一字一句を吐いている。

 政治的妖怪と畏れられる所以であろう。権現様は明らかに、法が峻厳に行われ、各々が各々の職分に命を懸けて忠実なのをお望みだった。

 

 ――たとひ地獄から来れる鬼たりとも我定めたる掟を守る以上は天人の如く之を待遇すべし。

 

 南蛮人の取り扱いをめぐる議論の席上で発したという一言が、よくそれを証拠づけている。

 

 

 

 筆者はこれまで何回か、上野東照宮に参詣している。

 

 

 

 恩賜公園の一角に建つ、黄金ずくめのあの社殿を仰ぐたび、常に森厳な気に打たれ、意識が濾過され清澄に赴くのがわかる。

 

 金は存外、扱いの至難な鉱物だ。金箔張りの握り寿司だの、一歩過てば途端に胸焼けするような、鼻持ちならない成金趣味のケバケバしさに堕すること、バブルの時期の日本人が散々証明し尽くした。

 

 ところが上野東照宮には、そういう嫌味やくどさ(・・・)の分子がほんの少しもにおわない。

 

 鎮座まします御方の()が、黄金本来の尊貴さと完璧に釣り合っているからだろう。

 

 祀られている神霊は、家康・吉宗・慶喜の三柱。

 

 幕府を開いた英雄と、中興の祖と、幕を引いた人物で、そういう意味でもやはり均衡が取れている。

 

 






慎重遠慮万に違算なきを期して事を行ひ、一の事を行ふ時既に次の為すべき事を考慮しつつある徳川家康の如きは、日本人中にありては真に異色とす。余は上下三千歳の日本歴史が「思慮の人」を産する事余りに少なかりしを悲しまずんば非ざるなり。

しかも家康の如きも、民衆の同情に関しては、却って理知に於て遥かに劣れる秀吉信長の下に位するの観あり。

人は己れの同情する者に依て、反射的に自己を説明す。依て観る、日本人の多くに取て、より多く衝動的なる秀吉信長が却て快きは、即ち日本人の衝動的なる性情を反射して示すものには非ざるか。

(小泉信三)



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狂信者、徳川家光



英雄崇拝とは小なる人格が大なる人格に対して、小なる魂が大なる魂に対して、抱き付きたいと云ふ熱望のことではなからうか。

(石本音彦)




 

 家光は信仰の持ち主だった。

 

 しかして彼の熱心は、アマテラスにもシャカにも向かず。

 

 高天原の如何な神、十万億土のどんな仏にもいや増して、東照大権現・神君徳川家康をこそ対象としたものだった。

 

 まあ、この三代将軍の、因って来たるところを見れば無理もない。

 

 幼少期、将軍家の跡取りとして専ら期待されたのは、家光でなくむしろ弟の忠長だった。

 

 忠長の才気、容貌は、まさに輝くばかりであって、彼の前では家光ごとき、泥人形かいいとこ案山子が精々な、なんの光も放たないうらぶれた石塊でしかない。

 

 父も母も、ごく自然な人情として忠長にこそ我が家の後事を託したく、愛を注いで贔屓して、そういう雰囲気の家庭内にて家光は、いうなら体よく放置された状態だった。

 

 その境遇をどんでん返しさながらに、一八〇度覆したのが家康である。

 

 ――長幼の序を誤るは家門の乱るる基。

 

 神君の鶴の一声で長子相続制は確立された。

 

 その「一声」を出さしむるため、舞台裏にて春日局の大苦労があったわけだが、それについてはここでは触れない。

 

 家康という絶対者の決断に異を唱えられる人物が、当時の日本に居るはずもなく。将軍の座が家光にこそ渡ること、これにて明白になったのだった。

 

 家光の日常は、一変したといっていい。

 

 昨日まで忠長の機嫌を取り結ぶべく汲々としていた諸将らは、掌を返すような素早さで、今度は家光の膝下に擦り寄り、叩頭し、うやうやしげに貢物を差し出す始末。

 そのいやらしさに直面し、

 

(これはどうだ)

 

 人間とはなんと現金ないきものだろう、いったい彼らに定見というものがあるのか、どうか、ただ大勢に順応してゆくだけの、浮草野郎ばかりかよ――と軽蔑の気を起こすほど、家光の性根はねじれていない。

 

(ひとたび祖父の威に打たれれば、世の中はなべてこう(・・)である)

 

 ごくごく無邪気に、家康の力の巨大さを思い、それが自分の為にこそ揮われたことに感謝した。

 

 この感情は時を追うに従って、いよいよ昂まり、純化され、ついに「崇拝」の領域にまで突き進み、よってもって一個の巨大な結晶体を形作るに至るのだ。

 

 たとえば彼が将軍の座を継いで以後。家康と(じか)な関わりを持つ古老などと対話中、「そういえば権現様は…」などと口の端にでも上らせようものならば、それがどんなに些細な話柄であろうとも、

 

「しばし待て」

 

 家光はすかさず顔を引き締め、羽織袴の崩れを直し、両手を着いて頭からのめり込むような姿勢になって、

 

「さあ、申されよ。権現様はなんと仰せられし」

 

 せっつくように、いや、現に、話の続きをせっついたと伝わっている(『徳川実紀』)。

 

 

 

 彼はまったく「秀忠の子」というよりも、「家康の孫」という方にこそ、おのれ誇りの基盤を求めたものだった。

 

 

 

 壮年以降は夢に家康が出現(あらわ)れるたび狩野探幽を呼びつけて、

 

「権現様はこれこれこういう出で立ちでおいでなされた」

 

 事細かに説明し、その通りの特徴の絵を描くよう命じたほどである。

 

 探幽、少なくとも表面上は倦む気振りをまったく見せず、律義にこれに付き合った。

 

 結果夥しい数の「東照大権現霊夢像」が作製されて、十幾点かが今もなお、現存しているとのことだ。

 

 うち一枚たる白衣立膝の家康像の裏側を、そっとめくって覗いてみると、

 

「東照大権現御霊夢難有被思召、寛永十九暦十二月十七日、奉畫於尊容給而已九拝」

 

 との文字列が見出され、必然的に四百年前、完成したてのこの絵の前で総身を小きざみに慄わせて、激しきった感情のまま何度も何度も伏し拝んでいる家光三十八歳が、余儀なく瞼に浮かんでしまう。

 

 普通こういうのは人生の然るべきタイミングで、

 

 ――おれは何をやっているんだ。

 

 と、俯瞰の視点が発生し、唐突に我に返るものだが、こと家光に限っては、その形跡が毫もない。

 彼の信仰は最後の、最後の、最後まで、小動(こゆるぎ)すらしなかった。

 

 なにせ死病に冒されて、息も絶え絶えの枕頭から自分の葬儀を指示して曰く、

 

「わが遺骸(むくろ)は日光山に葬れ。魂となり、朝夕東照宮の神霊に近侍するのがたのしみである」

 

 こんな風であったというから、骨がらみというか、膏盲に入るというべきか、とにかく筋金入りだろう。

 

 家光はその生涯で、日光東照宮に参詣すること、都合十度に及んだという。

 

 これほど足繁く家康の霊に逢いに行った将軍は、後の十二代を総攬しても彼を除いて絶無であるといっていい。

 

 ときに『武功雑記』には、家康自身が喋ったという訓戒として、

 

「凡そ人は一生の内三段のかはり目あり。大事の儀なり。先づ十七八歳の時は、友に従って悪しく変る事あり。三十歳の時分は物事に慢心して、老功の者をなんとも思はぬ心出るものなり。四十歳の時分には、物事退展し、述懐の心出でゝ悪しくなるものなり。此三度に変らぬものをよき人といふべし」

 

 斯くの如きが載っている。

 

 ――売り家と唐様で書く三代目。

 

 ――親苦労、息子道楽、孫乞食。

 

 川柳子が諷した通り、往々にして没落の切所となりがちで、その立ち位置を危ぶまれるのが三代目。だが徳川家は、実に「よき人」に恵まれた。

 

 



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昇進お断わり


英国は常に最も古く、常に最も新しい。

(西洋俚諺)




 

 三井物産は日本最初の総合商社だ。

 

 海外への進出も、当然とりわけ早かった。

 

 明治十二年にはもう、英国首府はロンドンに支店を開いてのけている。

 

 西暦にして一八七九年、大久保利通が紀尾井坂にて暗殺された翌年だ。まずまず老舗といっていい。その歴史あるロンドン支局に、これまた永年、奉職してきた小使がいた。

 

 現地採用の英国人で、十九世紀の白色人種がみずから求めて黄色人種の下働きになりにゆくということは、それ自体がもう異変であった。よほどの奇人か、選り好みする余裕というのをまったく持たない下層民かのどちらかだろう。

 

 彼の場合は、後者であった。

 といって、評価は悪くない。

 

 よく気が利くし、勤務態度は実直で、社員の視線が離れた隙に備品をこっそりちょろまかすような真似もせず。およそ店舗の運営を円滑ならしむるために、必要とされる多くの美徳を兼ね備えた男であった。

 

 ――それほど要領がいいならば。

 

 小使ごとき卑役のままで居させておくのは惜しかろう、もっと大きな、相応しい仕事があるはずだ。そういう声が上がったことも、むろんある。つまりは昇進のお達しである。

 

 ところがそれを聞かされた、当人の反応はどうだろう。

 

 意外も意外、彼は蒼褪めてしまったのである。

 

 ――冗談じゃない。

 

 と言わんばかりに頬の筋肉をこわばらせ、かぶりをふりつつ、ややあって、まくし立てた内容こそ凄まじい。

 ちょっと、いささか、あまりにも、英国的に過ぎたのだ。

 

「どうかこのままにして置いてくれ、そして願わくば俺の子供に、いつかこの役を引き継がせてくれ」

 

 保守精神・伝統指向の権化以外に、相応しい表現が見当たらぬ。

 

 稲原勝治がさんざん味わい、辟易を通り越してもはや愛すら抱くに至った英人(らしさ)。こんな場所にもそれは遺憾なく発揮され、不慣れな日本人の眼をある種の魚類さながらに丸くせしめたものだった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 英国人に物を贈ると、必ずや「どれ位古いか」と反問する。英国人は、技術よりも、代価よりも、乃至ツブシになった場合の価格よりも、先づ以て時代すなはち価値と云ふ見方をする。

 

(稲原勝治)

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 むかしむかしの元禄時代、五代将軍綱吉の世に、三枝喜兵衛なるさむらいがいた。

 

 歴とした士分だが、これといって武士らしい、どういう仕事もこなしていない。役にあぶれた、所謂「非役」の分際である。こういう手合いをひとまとめ(・・・・・)にして括っておくため幕府には、小普請組なる部署がある。

 

 喜兵衛もまた、それへ属した。

 

 如何なる面でも御政道に携わることは出来ないが、ともかくこまめに登城し、適当な上役をつかまえて、

 

 ――お頼み申す。

 

 と見込みの薄い猟官活動を繰り返す日々。地蟲のようにうらぶれた御家人喜兵衛の日常に、しかし一日、予想だにせぬ転機が来た。

 

 どういう物のはずみであろう、葉武者としか言いようのない彼の名を、将軍綱吉が知ったのである。知って、更にその上に、三段飛ばしで一気に地位を引き上げる、およそ前例のない人事をやった。

 

 なにごとにつけ旧を守る(・・・・)を善しとする、封建の世にほとんど有り得るはずもない、この奇蹟を前にして、喜兵衛はむしろ喜ぶよりも戦慄してしまったらしい。

 

「拙者ふぜいには、とても」

 

 戦慄が彼に、逃げ口上を吐かしめた。

 家計窮迫のため相勤まらずとか何とか言って、この「栄誉」から免れようと、回避を図ったものである。

 

 だが それが 逆に五代目の将軍の逆鱗に触れた。

 

「喜兵衛めは、けしからぬ」

 

 首筋まで真っ赤に染めて、犬公方さまは叫んだという。

 せっかく俺が特に眼をかけ、陽の当たる場所へ出してやろうとしたというのに、撥ねつけるとはなにごとだろう。これは「主を軽んずる」不徳そのもの、裏切り、忘恩の沙汰ではないか。

 

 可愛さ余って憎さ百倍、プレゼントは素直に受け取り、歓喜を全身でアピールせねば却って意趣を抱かれる。過度の謙遜は毒物なのだ。そういう処世上の必須知識を、三枝喜兵衛は迂闊にも、失念しきっていたらしい。

 だから雷が落とされる。

 

「島流しにせよ。不届き者めを追っ払え」

 

 そういうことになった。

 

 あれよあれよと言う暇もなく、喜兵衛の身柄は滄海遥か八丈島に送られる。

 

 有為転変は世の習いと言うものの、ちょっと、あまりに、こいつは度が過ぎていた。

 

「なんということだ」

 

 喜兵衛の精神状態は悲歎を超えて一種白痴(こけ)のようになり、ついに回復していない。

 

 自害も、抜舟も、この男は選ばなかった。「選ぶ」という行為に踏み切る気力すら、その魂は奮い起こせはしなかった。

 十二年かけ、この島で、なめくじが乾いてゆくように、ゆっくりじっくり衰死している。

 

 

 

 ――そういう記録が、昭和三十九年に刷られた『八丈島流人銘々伝』に載っている。

 

 

 

 本書を通読している最中、当該部分を視線で一撫でした際に、脳裏にぱっと前半の――三井物産英国支店の小使の佳話がひらめいたというわけだ。

 

 新たな知識に類似の記憶が脳の奥から呼び起こされる、連鎖反応の一種であろう。

 

 もっとも三井物産は綱吉ほどの苛烈さを、その性格上、持ち合わせてはいなかった。

 

 でなくば「佳話」とはとても書けない。なに、昇進を嫌がった? ふてえ野郎だ、意欲に欠けるんじゃあねえか、足りてねえぞ、社への奉仕精神が――などと(くだ)巻き無慈悲に(くびき)ったりはせず、ちゃんとそのまま雇用した。

 

 ――それが英国気質なら。

 

 もはや已む無し、何をか言わん、郷に入っては郷に従うべきである、と、積極的に折れ合う気さえあったろう。

 

 望んだ通り、居心地のよい在るべき場所に収まり続け、小使はとても幸せだった。

 

 つまりはめでたしめでたしである。ハッピーエンドといっていい。当人が満足している以上、文句のつけようのないことだ。

 

 

 



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三井こぼれ噺



三井合名会社は云ふまでもなく三井財閥に君臨して、全三井系諸事業を統帥する最高機関である。経済的、政治的、社会的其他あらゆる部門のおよそ三井に関係する総ての問題は勿論のこと、三井一門に於ける私的問題まで処理する三井王国の中央政府である。

(東京日日新聞)




 

 面接に於ける常套句と言われれば、大抵がまず「潤滑油」を思い出す。

 

 あまりに多用されすぎて、大喜利のネタと化しているのもまま見受けられるほどである。

 

 人と人との間を取り持ち、彼らの心を蕩かして個々の障壁を取り払い、渾然一体と成すことで、組織としての能力をより効果的に発揮する――そうした能力は確かに貴重だ。どんな時代でも重宝されるに違いない。

 

 明治に於いて、既にそのことに気が付いていた者が居る。

 気が付いて、意識的かつ積極的に活用していた者が居る。

 

 元老、井上馨その人である。

 

 もっとも当時、「潤滑油」は未だ一般的な語句でなく、従ってまた井上も、別な言葉でその役割を表現したが。

 

 彼は「ゴム鞠」と呼んだのだ。

 

 具体例を引こう。

 

 有賀長文を三井財閥に斡旋する際、与えた訓示がちょうどいい。

 井上はこう言ったのだ。

 

「三井には人材が少なくない、今度お前が同族に入って行くといふのは、仕事に行くのではない。偉い人間の間にはさまって、その調子を取って行く、つまりゴム鞠と心得なくてはいけない。ゴム鞠はあちらこちらとぶつかってもフワリフワリとつぶれない。又ぶつかった方でも痛いとは感じない。いくらぶつかっても他人に傷つけない。此ゴム鞠の如くあれよ」

 

 この教えがまた有賀の胸に、

 

(そういうものか――そうでもあるか)

 

 と、ほとんど何の抵抗もなくスンナリ浸透したらしい。

 禅でいう頓悟の心境だろう。

 以降三十余年に亘って、有賀はひたすらゴム鞠主義を墨守した。

 

 ただの一度も実際的な事業経営の任には就かず、しかしながら三井財閥の総本山たる合名会社に揺るがぬ地歩を築き上げ、誰からでも一目置かれる、誰であろうと無視が出来ない特殊存在。包容力に満ち満ちた温厚長者の風格と、人を見る目の確かさから、「三井の宮内大臣」と通称されたものだった。

 

 人に好かれ、人を使い、広汎な知識と分厚い常識とを駆使し、要所要所で決断を下す。そういう自分を意図して作り上げていった形跡がある。井上が投げたゴム鞠は、かくも豊穣なる人間性を結実させた。その功、大といわざるを得ない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

白妙に粧ひし君が姿をば

映して寒く三日月の池

 

(井上馨、山中湖にて詠みし歌)

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 金を払わず医者にかかれるということは、それ自体がもう既に、一つの快事であるらしい。

 

 そのむかし、三井財閥が東京市の一角に開設した慈善病院。

 

 社会的に恵まれない人々に――有り体に言えば貧困層に対しては代価を求めることなしに、無料で診て差し上げましょうとさても大気な表看板を掲げてのけたこの施設の周囲には、いつの頃からか貸衣装屋が何軒も出来て、そのいずれもが大いに繁昌したという。

 

 どの衣装屋も、「人気商品」はダントツで、むさくるしい襤褸着の類が占めていた。

 

 見るだに不潔な布切れを態々纏い、にわか作りの貧困者と化してまで行くべき場所はひとつしかない。

 

 三井の慈善病院である。

 タダで診察が受けたいのである。

 

 貧困と呼べるほど窮迫しきっていない、さりとて財布の中身に余裕があるわけでもない、生殺しめいた境遇の庶民どもがそう(・・)するならばまだわかる。

 

 が、あからさまに物持ちのいい、かかりつけ医の一人や二人はもっていそうな、富裕層の住人までが時たま化けにやって来るのはどういうわけか。貸衣装屋の店主にしても、そういう手合いを迎えるごとに、不思議の感に打たれたという。

 

 東京帝大医科大学とも連携するなど、慈善病院の運営に三井がとにかく本気であって、日本最高水準の医療を受けれる環境を整え上げたということも、むろん理由のひとつであろう。

 

 が、それ以上に制度の裏をかくということ。狡猾さを発揮して不正を成就することで腰の奥から湧いてくる、得も言われぬ気持ちよさ。骨盤をくすぐったくさせる、あの卑しい快感こそが慈善病院の門前に大量の偽装貧民を生み出した最大要因ではなかろうか。

 

 似たような噺は英国にもある。裁判所の傍を探せば、赤ン坊の貸し出し業者の一人や二人、間違いなくみつかると、物の本でいつか見た。

 

 利用者が若い女性の場合、このサービスは凶悪なまでの効果を呈したことだろう。赤子を抱いて審理の場に立ち、儚げにふるまうレディを前に、法官のいったい何人が、厳格さを貫き通せたことであろうか。

 

 赤子の外にもうひとつ、女性と頗る相性のいいモノがある。

 

 涙である。

 

 瞳を濡らすこの繊細な液体も、場所によっては積極的に値札を貼られ、売買されたというのであるからいよいよ世間は妙だった。

 

 

「ペルシャでは亭主に死に別れたばかりの未亡人を訪ねると、たなの上に大切そうに小びんが置かれているのが目につく。ペルシャでは未亡人は亭主に死別したら、毎日毎日涙を一滴もこぼさないようにためて、それが二本になると服喪をやめることになっているからだそうだ。しかし中には亭主が死んでも一向に涙が出ないものもいる。そういう時は涙もろい女を見つけて一びんいくらという値段で涙を買いとり、一日も早く喪をすます。

 涙二びん! 亭主の値段としては文句のないところであろうか」

 

 

 上は九州大学の医師・貝田勝美がその随筆に記したところ。

 

 愛も善意もなにもかも、人間はことごとくを商品化する。

 

 そのようにして社会は回る。

 

 なんと素晴らしいことか。

 

 



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念仏工場

 

 工場ではよく人が死ぬ。

 

 電気を貪り喰らいつつ、ひっきりなしに駆動する金属の森の只中で、有機体はあまりに脆い。

 注意一秒・怪我一生、刹那の油断が命取り。指が飛んだり皮膚が溶けたり、そんなことはしょっちゅうだ。それだから昔の町工場は、よく敷地内に祠を建てた。祠を建てて神酒を供えて両掌(りょうて)を合わせて勧進し、「良き運命」を呼び込まんと努力した。

 

 そのころ都下でくすぶる文士に、遠藤節というやつが居る。

 

「節」一文字で「さだむ」と読ませる。長塚節の影響を、いやが上にも勘繰りたくなる、そういう名前の持ち主が、ネタを求めて東京市の工業地域――蒲田区に足を踏み入れたのは、昭和十四年の秋だった。

 

 折からの軍需景気によって、一帯は活気づいていた。

 

 そこで見たもの、聞いたことを基にして、つくりあげた探報記(ルポルタージュ)にも、

 

 

 …鉄筋コンクリートの橋の下に、建てたばかりの真新しい地蔵尊がある。ビール箱ほどの可愛い祠の前に、「厄除地蔵尊」と書いた白と赤の幟が立ってゐる。

 だいたいこの工場街ほど神様の多いところもないだらう、どんな小さな工場にも赤い鳥居があり、石の祠がある。科学と霊魂の興味ある一致だ。

 一人の職工服を着た青年が、地蔵尊の前に蹲って掌を合わせた。真面目さうな青年だ。まさか恋愛の成功などを祈ってゐるわけではあるまいから、今日の無事を感謝してゐるのだと見てよいだらう。

 

 

 このような文脈が確認できる。

 えもいえず床しき光景だ。きっと時刻は夕刻だろう。太陽はつるべ落としに落ちきってしまう瀬戸際で、影法師は長く伸び――想像するだに、こう、しんみりと、胸に迫るものがある。信仰はこれぐらいさりげなく生活景色に溶け込んだ、素朴であるのが望ましい。

 

 …ああ、だが、しかし、やんぬるかな。「東京」の「工業地域」である以上、やがて来たる大空襲を、この蒲田区が逃れられる筈もなく。

 

 徹底的に爆撃されたに違いない。夥しい祠の群れも、悉皆烏有に帰したろう。

 

 稲荷も地蔵も産土神も、B29の投下するナパーム弾には敵わない。

 

 どれほど水をぶっかけようが、委細構わず燃え盛る。バケツリレーなぞまるきり無力、蟷螂の斧が関の山。ナパームとはそうしたもの。さしもの祖霊もその凄まじさに(まみ)えた際は、

 

 ――すわ、地獄の焔の顕現か。

 

 と、大いに恐れ、おののいたのではあるまいか。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

戦争の終り、私は空襲に負傷して久しく病臥した。終戦直後、見舞に来てくれた田中(耕太郎)君と病室で交わした会話を、私はよく憶えている。吾々は、ともに国の悲運を悲しみ、陛下の御決断を有り難いことだといい、しかしまた、日本人として世界に向って語るべき言分もないのではない。何時かその日も来るであろう。その時のために、少し英文が楽に書けるように練習して置こうではないか、などと語り合った。

 

(小泉信三)

 

 

※   ※   ※

 

 

 

鐘一つ

売れぬ日もなし

造船所

 

 戦後まもなくの日立造船を題材にした歌である。

 宝井其角の古川柳、

 

鐘一つ

うれぬ日はなし

江戸の春

 

 を、あからさまにもじった(・・・・)ものであるだろう。

 それにしても何故(なにゆえ)に、造船所が鐘など鋳ねばならぬのか。答えは明瞭、敢えて論ずるまでもない。敗戦以降、本来の仕事が全く入って来なくなった所為である。

 

 軍の解体ばかりではない。マッカーサー・ラインの制定、船舶保有量一五〇万総トン以下方針、等――煩雑の弊に陥るゆえ詳述は避けるが、敗北した日本は、その代償としてありとあらゆる権利を縛られ、まったく海を奪われた。

 

 島国の身でありながら、これほどみじめな境遇もない。

 

 海運の立ち直りは絶望的、遠洋漁業も遠き日の夢。斯くも悲惨な状況で、造船所にお呼びがかかる道理もなかろう。日立造船所十代目社長・松原與三松(よそまつ)は当時を顧み、

 

「暗黒時代」

「造船界の最苦難期」

 

 と万感籠めて述べている。

 

 

…昨日までは一億総蹶起、産業報国などと威勢のよいスローガンを掲げ、増産増産と励ましていたものが、その日から、鉸鋲のひびき、鉄槌の音もぱったり絶えて、造船所のなすべき仕事もほとんどなくなった大きな工場は、まことに火の消えたさびしさとなったのである。加うるに進駐軍の上陸におびえる種々の流言蜚語、あられもないデマさえ飛んで、今から思えばまことに寒心すべき状態であった。

 

 

「今から」とは、すなわち昭和三十年。

 サンフランシスコ平和条約の発効により独立が回復されてから、三年後を指している。

 そういう時期に世に著された懐旧談なのである。

 

 とまれ、折角の設備を腐らせておくのは勿体ない。

 

 第一このまま拱手傍観していれば、四万からなる従業員が干からびる。やれることは、なんであろうとするべきだ。

 そう思い切り松原は、およそ造船所の本分とは遠く離れた業務にさえも手を延ばす。ミシンの製造だってやったし、梵鐘を鋳たのもその一環だ。

 

 知っての通り、大東亜戦争中の日本は資源不足を補うために、鉄製品なら一般家庭の鍋釜さえも取り立てた。

 台所にすら官憲が首を突っ込み掻き探しに来るご時勢で、釣鐘のようなデカブツが当然見逃される筈もなく、金属類回収令の名の下にドシドシ徴発、熔かされて、兵器に転生せしめられたものである。

 

 さて、いざ戦争が終わってみると。鐘楼とは名ばかりのがらんどうの建物の、この寂しさはどうだろう。如何にも敗戦日本の痩せ衰えた貧困加減を象徴しているようであり、正視するのも痛ましい。吹き抜けてゆく風さえも氷室を潜ったように冷たく、この空白を、欠落を、どうにかして埋めたいと、梵鐘復旧の気運が各地に於いて盛り上がる。

 

 松原は、敏感に反応した。

 夥しきこの需要、是非とも我が手に収めざらめや。

 

(それには良品を鋳ることだ)

 

 経営者として格好の腕の見せ場であったろう。

 実際彼はよく魅せた。

 

 

…まず梵鐘について、科学、考古学、宗教等の立場から、各界権威者の意見をきき、形態、音響その他について、種々の研究をとげて試作したのであるが、これが予想外の好成績を収め、その出来栄えは古来の名鐘にもまさる記録をつくったので、たちまち注文が殺到し思わぬ梵鐘景気を招来したのである。

 

 

 日立造船が製作した梵鐘たるや、三桁の大台を楽々超える夥しさであるという。

 

 なるほど「鐘一つ売れぬ日もなし」と歌われるのも納得だ。こだわり抜いた品質のこと、ひょっとすると「日立の鐘」は時の経過にもよく堪えて、今日(こんにち)でもなお現役で、日本全国津々浦々の鐘楼に素知らぬ顔して収まって、撞木に突かれ、厳かな音を町中(まちじゅう)に伝え続けているかもしれない。

 

 






買い手の心持で売手となれ。
売るのは商品にこもる深切心であれ。

(安田善次郎)



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大正科学男ども

 

 

 ――これからの時代、産業発展の鍵となるのは合理化だ。

 

 大河内正敏がその信念に到達したのは、明治の末期、私費で挑んだドイツ・オーストリア留学が寄与するところ大という。

 本人の口から語られている、

 

「工業用アルコールの値段ひとつ比較してもわかることだ」

 

 と。

 

 当時の日本で最も廉価にアルコールを醸造(つく)っていたのは台湾であり、これは彼の地が「砂糖の島」であったのと無関係では有り得ない。つまり製糖作業の副産物たる糖蜜を原料にとっているからであり、この糖蜜というもの、製糖業者にしてみれば碌すっぽ使い道のないくせに放っておくと腐敗して、悪臭を放ち胸をむかつかせるという「厄介者」に他ならず、引き取ってくれると言うならばタダでもくれてやりたい位の代物だったわけなのだ。

 そこからアルコールを醸造(つく)るのだから、

 

「つまり原料は無代価同然」

 

 と、大河内は大胆にも言い切っている。一ポンド十銭という日本最安のアルコールの実現は、そのような仕組みであるのだと。

 

 ところが、である。

 

 奇妙としかいいようがない。同時期のドイツはジャガイモという、人の口にも家畜の口にも用のある、極めて価値の高い資源でアルコールを醸造(つく)っているにも拘らず、その価格は一ポンドせいぜい六、七銭と、台湾製を遥かに下回る低空飛行であったのだ。

 

 この奇妙の因って来たる所以はなにか。

 大河内本人の言葉を借りて説明しよう。

 

 

「ドイツでアルコール醸造が計画せらるゝと、まづその醸造工場で使用する大部分の馬鈴薯を耕作し得る地方の中央に工場が建てられる。同時に醸造の際生ずる粕を全部消費するに足るだけの養豚場が工場の周囲に建てられる、醸造の際生ずる芋の粕で豚を養ひ、又畑から出る馬鈴薯の葉でも茎でも、それぞれ皆豚の飼料に供せられて、一物の廃品になるものはない。そして養豚場は又馬鈴薯畑の肥料の一部を供給し、或る場合には醸造の際生ずる炭酸ガスまでも畑に導いて肥料とする。

 豚の肉は生のまゝで或ひは加工して市場に供給され、毛、革、骨、血その他すべてのものが工業の原料となる。ゆゑに当初の目的であったアルコール醸造は副産物の形となって、その生産費は著しく低下される。斯くの如くして有価の原料を使用しても無価の原料を使用するよりも廉価になるのである」

 

 

 何事につけても無駄のない、「理路整然」を地でゆくような堅牢なるゲルマンメソッド。

 

 昭和に入れば「能率」の二字も日本社会に溶け込んで、多くのことの説明をずいぶん楽にしてくれるのだが。どっこい、あいにく、上の文章が物されたのは大正時代のことである。

 

 従って大河内正敏も、便利至極なこの二文字をどこにも挿入していない。

 

 が、訴えんとするところ、要旨は同じであったろう。

 

 大河内はまた、人造絹糸――レーヨンにも、かなり早くから目をつけていた。

 

 

「米国における人造絹糸の生産は、戦前の大正二年には僅に百十八万斤に過ぎなかったが、十年後の昨年には二十倍以上に激増して二千六百八十三万斤に達してゐる。しかも価格は大体において生糸の三分の一である」

 

 

 大正二年の・十年後を・昨年と書いている以上、同十三年の筆致であるのは明らかだ。

 この急成長を前にして、彼はにわかに不安になった。

 

(人造繊維が天然繊維を圧し拉ぐ日が、遠からずして来るのでないか)

 

 そう、人造藍の発明が、天然藍をほぼ窒息へと追いやったのと同様に――。

 

(そのとき日本は、いったいどうなる)

 

 どこを向いても、桑畑と水田ばかりが広がっているこの国は。

 想像するだに物狂おしいことだった。このまま生糸をのんべんだらりと基幹産業に据え続けようものならば、それこそ祖国はみずから望んで累卵の危うきに立つ破目になる。大河内は焦慮した。焦慮が彼の筆先に、ある種の鬼気を宿らせた。

 

 

「日本は、おくれ馳せながらも、速に人絹の科学的研究に熱中し、世界のそれよりも更に一歩進んだ人絹を日本において製造し、遂には世界の人絹工業の鍵を握る覚悟が必要である。それが徹底的に敵を圧倒し去る唯一のみちである。

 わが国の農村の死命に関し、経済界、貿易界の浮沈を左右する人造絹糸に対し、この覚悟、この決心がなくて何とする。

 日本の科学者は死力を尽して人造絹糸の研究に没頭し、国家は幾千万円の国帑を費やしても、その研究を助成せねばならぬ」

 

 

 猛然と呼ぶに相応しい、圧倒的な熱量の放出された(あと)だった。

 

 危機感は叡智の源である。大河内の先見の明は凄まじい。大正の御代の時点で既に彼のアタマの内部には、「技術立国日本」の理想が凝然と横たわっていたのであろう。

 

 

 

※   ※   ※

 

科学者に対し「それが何の役に立つか」といふ質問は絶対に厳禁である。

 

文明は科学の原理を応用したもので、科学そのまゝでないことを忘れてはならない。電燈は電気学の応用であって、電気学そのものではない。ゆゑに純正科学の研鑽、真理の探究は一日も(ゆるが)せにすべきものではない。それが研究の当時には、無益の業のやうに見えても、他日それから如何なる事柄が誘導されて、人類に裨益を与へるかは、容易く予知出来ないものである。

 

(武田久吉。アーネスト・サトウの次男にして植物学者、「尾瀬の父」)

 

※   ※   ※

 

 

 

「なんでそんなことしたんだアンタ」と訊かれれば、「したかったから」という以外、どんな答えも返せない。

 

 つまりは好奇の狂熱である。

 

 研究者にとり、なにより大事な資質であろう。

 

 沢村真は納豆菌の発見者だ。練れば練るほどねちゃねちゃと、粘り気を増すあの糸を、顕微鏡にセットして、そこに蠢く桿状菌をレンズ越しに確かめた、いちばん最初の人類である。

「Bacillus natto Sawamura」と命名したその菌を、沢村は次に大豆以外の多くの豆類・ないし豆を原料とする食製品に植えつけた。

 

 自分が見付けた微生物の可能性、潜在力をとことんまで試してみたくなったのだろう。

 

 が、結果はあまり捗々しからず。これは結構有望なんじゃなかろうか――と、内心密かに期待をかけたインゲン豆でも納豆菌は根付かずに。「繁殖も悪く、粘り気も生ぜず、つまり納豆にならなかった」とのことだ。

 

 納豆菌との相性は、やはり大豆が飛びぬけて良好としか思えない。

 

 それが証拠に、豆腐には楽々作用した。素敵滅法界に繁殖し、苗床をみるみる喰い荒らし、原型のないドロドロに溶けた物体に変化(かえ)てしまう結果を見せた。

 

(なんと)

 

 この眺めには沢村も、改めて舌を巻く思いであった。こうまで激しくタンパク質を分解するか、さても強力な酵素かな、と――。

 一通りの実験を終え沢村は、

 

 

 ――納豆を分析して見ると多量のペプトン、アミノ酸が出来て居る、此のペプトンは細菌が大豆の蛋白質を分解して生じたものである。

 

 ――納豆菌の酵素は頗る強盛で、殊に豆の蛋白質に対して作用することが強い、されば本邦人の如く、豆類より多くの蛋白質の養分を採るものは、納豆を毎日食へば消化を助け、栄養を増す効が少くあるまいと思ふ。

 

 

 と、如何にも「納豆博士」の異名に恥じぬ提言をしてくれている。

 実際問題、沢村真の納豆知識はひとり生理学的分野に限らず、文化の面でも充実していて、

 

 

「昔は寺から檀家に贈る歳暮や年玉には大抵納豆を使った。蓋し昔の坊さんは一切肉食をせず、其代用として主に豆類から蛋白質を摂り、精力の消耗を補ったので、豆の料理が寺では大いに発達したのである。座禅豆の如きも其一つである。

 ――ところが今日では坊さんの方が余計肉を食って、俗人の方が却って精進物を食ふやうになったから、納豆の製造も俗人がやってゐる」

 

 

 折に触れてはこんな具合に、軽妙洒脱にやってのけたものだった。

 よほど好きだったのだろう。

 好きな相手のことは何でも知りたくなるというではないか。その対象は、なにも人間でなくていい。それが自由というものだ。たまらぬ自由の味だった。

 

 

 

 他にもいる。

 

 

 

 見返りを半ば度外視し、自分の好む対象をとことんまで突き詰める自由精神の所有者は、だ。

 

 沢村真と同時期に、北川文男というやつが居た。

 

 近江の産、東京帝国大学出身、医学の分野で学位持ち。世間的な知名度はおよそ天地の開きだが、情熱はまんざら引けを取らない。

 この北川は、色素に興味を持っていた。

 

 白なり黒なり黄色なり、人間の皮膚を色付けしているなにものかの正体を闡明したいと念願し、そのために東京中の理髪店を駆けずり回って――「毛髪も皮膚の一部分であって、同じく角質から成る。爪も皮膚の一部分で、矢張り角質から出来て居る。故に爪や毛髪に就て研究すれば、色素の本体が分かる訳である」――集めたりも集めたり、三貫分ものヒトの髪の毛を手に入れた。

 

 身近な単位に変換すると、11.25㎏に当たる。

 

 この膨大な繊維質を利用して、北川文男は真理の扉をこじ開けんと試みた。

 

 何を措いても、まずは洗浄からである。「石鹸や曹達(ソーダ)でよく洗ひ、次に塩酸で洗ふ。塩酸で洗ふのは、総て毛には鉄分が附着して居るので、それを落す為である。それから今度はアルコールで洗って処置するのである。さうして処置された約三貫目ばかりの毛を、稀薄な曹達液で煮ると、毛は溶けて、一石位の、黒色の粘液になる。それを硝子綿で漉し、塵埃などの無くなった液を、一分間三千回転の遠心機にかけると、やがて十匁位の色素が取れる」……おっそろしく手間暇かけた工程だった。

 

 再び単位に言及すると、十匁は37.5gという。十匁筒といって、戦国時代の火縄銃の弾丸が丁度これぐらいの重量である。

 

 11.25㎏から37.5g――。

 比率にして、実に300対1だ。

 まさに精髄といっていい。

 この「精髄」を北川は、むろんさっそく顕微鏡にかけ、思いつく限りの角度より観察したものだった。

 

 それでなにごとが判明したか。

 実に面白いことがわかったという。

 

 

「斯くて取り出した毛の色素を、顕微鏡下に照らして見ると、其一粒々々が皆黄金色に見える。色素の分量の多くなるに随って、褐色ともなり、黒色ともなる。西洋人の頭髪が黄金色を帯ぶるのは、色素の分量が少いからであり、日本人の頭髪が漆の様に黒いのは、色素が多量に含まれて居るからである。而して色素其者の成分は何れも同じで、黒髪といひ、金髪といふも、そは唯色素の多少に因るのであって、何等此外に特別の原因があるのではない」

 

「皮膚の変形なる毛髪の色が、さうして出来たものである以上は、毛髪と同じ質なる皮膚の色も自然説明される。即ち白色人種は、皮膚の色素の少量なるに因り色が白く、黒色人種は多量の色素を含有するから、色が黒いので、又皮下の血管や皮膚の角質の具合で、日本人のやうな黄色にもなるのである」

 

「人種の差別は色のみには由らない。骨格其他に於ても異なる所があるが、単に色だけで言へば其色素は本来同じ質のものなので之に優劣高下の別ある筈がない」

 

 

 常識だ。

 現代人なら義務教育の過程に於いて必ず習う、ごくありきたりな知識であるに違いない。

 しかし大正の御代にあっては、寝耳に水といっていい、大新発見だったのだろう。でなくば北川の喜びようが説明できない。この大正男は無邪気にも、

 

 ――人類初の快挙だぞ。

 

 とまで言い切り、弓張月さながらに、めいっぱい胸を反らしているのだ。

 

 

「従来西洋でも人間の毛髪の色素を純粋に取り出した学者は無かった。随って皮膚の色に就ても根本的には分らなかったのである。私の取り出した純粋な色素の成分は、炭素、酸素、水素、窒素、硫黄から成るもので、如何にしても溶けた状態にはなり得ぬ、即ち膠質性のものである」

 

 

 以上が彼の言い分だった。

 

 メラニン色素の研究史には疎いゆえ、北川の言を裏付けることは出来ないが。もし真実(ほんとう)なら日本人は一方ならぬ碩学をみすみす埋れさせている。

 

 キャタピラ(無限軌道)ないしレーダー(八木アンテナ)あたりの「前科」をみるに、大いに有り得そうなのが、蓋し頭痛の種だった。

 

 

 





今後如何に防遏しても科学は遠慮無しに進歩するであらう。此の結果をして人類の幸福側にのみ働かせる事は科学者の仕事ではないので、政治家や経綸家に一段と奮発して貰ふ事を希望するのである。

(辻二郎)



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墓標めぐり


Respice post te, mortalem te esse memento.

“あなたの周囲を見よ、あなたは自分が死すべき存在であることを忘れてはならない”




 

 九歳の少年が絞首刑に処せられた。

 

 一八三三年、イギリスに於ける沙汰である。

 

 罪は窃盗。よその家の窓を割り、保管されていたペンキを()った。

 

 被害総額、当時の価格でおよそ二ペンス。たった二ペンスの報いのために、前途にきっと待っていたろう何十年もの未来ごと、幼い身体を吊られたわけだ。

 

 深く考えるまでもなく、間尺に合わぬことである。

 

 

 

 

 

 

 ドイツのとある青年は、恋人と抱擁した所為で心臓が破れる憂き目に遭った。

 

 熱烈な恋の比喩(たとえ)にあらず、純粋に物理的な現象である。

 

 なんでも彼女のコルセットに裁縫用のピンがささったままであり、僕の腕に飛び込んでおいでをやった際、運悪くその尖端が肋骨の合間をくぐり抜け、彼の心臓を瓜の如く貫いてしまったものらしい。

 

 むろん青年は死亡した。

 

 そういう因果が判明したのは、解剖して漸くのこと。

 

 現場で女はわけもわからず、半狂乱で泣き叫んだに違いない。

 

 よしんば事情を知ったところで、それが慰めになるのか、どうか。むしろ、却って、妙な具合いのトラウマを植え付けられそうである。今後一切、コルセットなど身に纏いたくないだろう。悪戯(いたずら)と呼ぶには、あんまりにも悪辣すぎる運命だった。

 

 

 

† †

 

 

 

 男が男を葬った。

 

「あの野郎、俺の女と寝やがって」

 

 それが動機のすべてであった。

 

 ごくありふれた事件であろう。まあ、そうなるなとしか言いようがない。下劣畜生下衆下根・腐腸濁肉の権化たる寝取り野郎の首をちょん斬り、心臓をえぐり出したくなるのは人として当然の衝動だ。べそ(・・)をかいて引っ込む方こそ異常であって、彼の供述に何ら不自然な点はない。

 

 むしろ死体の生産を一つで踏みとどまっただけ――女も殺して「重ねて四つ」にしなかっただけ――理性的とすら呼べる。

 

 ただ、問題は、場所だった。

 

 それとついでに国籍か。

 

 被害者はロビンソンなる英人であり。

 

 加害者はヘザリントンなる合衆国の海軍軍人。

 

 場所は横浜、押しも押されぬ日本国の表玄関。時あたかも明治二十五年であった。

 

 これらの要素が組み合わさって本来シンプルであるはずの事態を無用にややこしくさせ、結果本件は「ロビンソン銃殺事件」などという仰々しい名を冠せられ、遙か後世に至るまで語り継がれる破目になる。

 

 ――頼むから他所でやってくれ。

 

 というのが、この問題を処理せざるを得なかった、本邦当局者全員の密かな叫びであったろう。

 

 なお、中間はぜんぶ省いて結論だけ記しておくと、ヘザリントン氏は無罪放免の判決を得て、悠々娑婆へと復帰する。

 

 彼の妻とロビンソンとの密通が、裁判所にて明確に立証されたためだった。

 

 正当なる報復に、罰が下されるわけもなし。桜田親義を射殺したジーン・ロレッタの判例を、なぞるが如きであったろう。

 

 

 

† † †

 

 

 

「馬小屋の糞堆藁屑などの中は夏期は摂氏四十五度位になって居て初生児死体を之に埋めると二十四時間で皮膚が煮た様になり、之を取り出さうとするとバラバラになったといふ報告がある」――昭和十二年、浅田一著『最新法医学』よりの引用。

 

 さりげない調子で書かれているが、そもそもなんでそんな処に、そんなモノを埋めたのだ?

 

 死産したのか? 不義の子か? 背景を考えると堪らなくなる。

 

 実際問題、十九世紀のドイツでは、豚飼いの娘が産んだばかりの私生児を、豚に喰わせて隠滅せんと試みたという途轍もない例がある。

 

 ちょっと前の日本でも、赤ん坊をトイレで出産、窓から投げ捨て殺してしまった事件があった。

 

 理不尽の極みに違いない。「望まれぬ誕生」は、あまりに惨だ。

 

「プロシャの古い法律では半陰陽の生まれし時両親は之を男女の何れかにきめて養育し、十八歳後は自分で男女の何れかになってもよいが、其同胞の権利が其決定によって脅されるに於ては之を鑑定によって決定さすべく裁判所へ訴へることが出来、其鑑定の結果は半陰陽者や其両親の反対があっても頓着なしに決定的となるといふ風に規定されてゐたが一九〇〇年改正のドイツ民法以後には半陰陽の語がない」――これまた『最新法医学』より。

 

 一周まわって、先進的な規定でないか。

 

 性自認だのLGBTだの何のかんのでやかましい今日の時勢に、なかなか優れた「他山の石」となる筈だ。特にそう、「其同胞の権利が其決定によって脅されるに於ては」云々の(くだり)が、ことさらに。

 

 

 

† † † †

 

 

 

 少女が父に殺された。

 

 インド亜大陸中央部、マディア・プラディーシュ州の寒村、ジャンシーに於ける出来事だ。

 

 理由を糾され父親は、

 

「隣の奴めが、娘の悪口を言いましたから、思い知らせてやろうと思いましてね」

 

 特に悪びれる風もなく、(ども)りもせずにスラスラと、滑らかに舌を回転させて上の言葉を吐き出した。

 

 こればっかりはどうしても、何度概要を読み返しても、因果がまるで理解できない。

 

 名誉を侮辱されたというなら、逆上の鉾先、殺すべきは隣人だろう。なにゆえ娘を手にかける? それでいったい隣人に、精神上のどんな感作が起こることを期待した?

 

 考えれば考えるほどわからなくなる。遠い異星の物語でも説き聴かされているような、現実として認識するのを脳が拒絶するような、靄が意識に覆いかぶさる感覚だ。

 

「唖然」の二文字を押しておくより他にない。

 

 

 

† † † † †

 

 

 

 被害者の後を追いかけて、加害者もまた命を絶った。

 

 事のあらましは単純である。

 

 子供が轢かれた。

 

 トラックの車輪と地面の間に挟まれたのだ。

 

 無事でいられるわけがない。

 

 搬送された病院で、翌日息を引き取った。

 

 運転手は、真面目で責任感の強い好漢だった。

 

 それだけに罪の意識もひとしおだったに違いない。やがて堪えられなくなって、海に身を投げ自殺した。

 

 場所は、大島沖であったという。

 

 事故発生から自殺までの数日間、運転手がつけていた日記帳が遺されている。

 

 試みにそれを捲ってみよう。仮名遣いから察せる通り、戦前に書かれた代物である。

 

 信号機どころかアスファルトによる舗装さえ、ごく一部にしか敷かれていない頃だった。

 

 

五月十日

 今日は何といふ極悪の日だったらう。ペンを持つさへ恐しい。当時の記憶がまざまざと頭に走馬燈の様に浮び出て来る。一層(いっそ)、菊丸からでも投身自殺でもしようか。そしてせめて保険金で十分の慰藉は出来ぬにしても、出来るだけのことをしてもらはうか。それを想ふとき、父、母、兄、姉、弟と次々にその顔がフィルムのやうに現れる。どんなに悲しまれるだらうか。それよりも、もっともっと悲しまれるのは………あの子の両親は眠った間とてお忘れになる事が出来ぬだらう。あの子のお母さんがいった。「代れるものなら自分で怪我したかった」そしてもう一度、「一層死んでしまってくれるものならなまじ不びんも残るまいに」俺も思った。死なれるものならあまり苦しまず、癒るものならちっとでも跛の程度の少ないやうに。誠をもって罪を償はしてもらうことが、今となってせめてもの義務であり、かつ本意だ。

 

 

 事故当日。これを書いている時点ではまだ被害者の息はあり、生死の境を彷徨っている状態だったに違いない。

 しかしながら天秤は、さまで時を待たずして、「死」の方向へと決定的に傾いた。

 

 

六月二日

 父親はいろいろいふ。俺は穴でもあれば、否、それ所ぢゃない、死んでしまひたい。(午後七時半記)清さんの一本足ぢゃ三途の川や死出のやみ路が越せないだらう。俺はその時は親代わりとなって、共々に、あの話に聞いたり絵に見たりして居た、エデンの園か極楽へ行かう。

 

 

 亡くなった子は「清」という名前だったようである。

 二日の記述、なお続く。

 

 

 二日は朝から病院につき切りだ。示談書をもらはんとしてだ。何と誤解してゐるのか、非常に怒ってゐる。てんで話もろくすっぽしてゐない俺を何と誤解してゐるのだい………俺は自動車で轢いたんぢゃないぞ。清さんが後車輪の少し前で極端にいったら飛び込んで来たんだともいへるのだ。もっとも、警部補が来た場合、実地検査の場合、俺は成る可く被害者に有利な様にいってるけれど、ちっとも俺の方に有利な様にいってないぞ。俺は最後にいふ。俺は君の嚇してゐるやうに、検事局に行くのが恐しいのぢゃない。免許証を取り上げられ、失業するのが恐しいのぢゃないぞ。

 

 

 子供というのは分別がない。

 

 分別がつかぬからこそ子供なのだ。

 

 ほんの一瞬、親が注意を切っただけで、もう突拍子もないことをやらかしている。

 

 我が身の上にも、さんざん覚えのあることだ。

 

 この事故はどうやら、そんな幼さゆえの特性が、最悪のタイミングで発揮された結末らしい。

 

 それを知らずに、知ろうともせずに、外野は加害者を責め立てる。

 

 運転手にしてみれば、不可抗力だと、あんなものどうやって避ければいいんだと居直りたくなる事態であろう。

 

 しかし彼はそうしなかった。自制心を総動員して耐え抜いた。

 

 が、滲み出る口惜しさは隠せない。文脈のはしばしから、明らかにそうした心の澱み、錯乱の兆候が見て取れる。

 

 

六月四日

 あの世の人となってしまってゐるはずだったのに、もう三日も延びた訳だ。今夜こそもう死ぬ。それが一番楽しい。海中に投じてせめて十四貫の身体で魚類の腹を肥さう。

 

 

 そして彼は、この内容を実施した。

 

 

 

† † † † † †

 





Tu fui, ego eris.

“私はかつてあなただった、あなたはいずれ私になるだろう”



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“World War Ⅱ” ひろい読み


現代の戦争に特有なことは、それがいつの間にか人間の手を離れていってしまうことだ。いったん始めたら最後まで行きつくしかない。人間が制御できないさまざまなことが動き出す。勝つために必要なことをしながら、人間は、文化の根を育てた土壌そのものを変えてしまうのである。

(ブルース・キャットン)




 

 前々から準備されていたのであろう。

 一九三九年九月三日、ネヴィル・チェンバレン首相によって対独宣戦布告が為され、イギリスが戦争に突入すると、さっそく新聞紙面には、

 

「婚約中の応召者に告ぐ」

 

 などと云う、妙な記事が出現(あらわ)れた。

 

(これはこれは)

 

 たまたま現地に滞在していた日本人が興味を持った。個人主義の国イギリスも、一朝有事ともなれば斯くも私的な領域にまで「指導」の手を伸ばすのか。

 

(いい土産話になるだろう)

 

 彼の名前は植村益蔵。

 救世軍の少将であり、先月中旬から下旬にかけてロンドンにて開かれた、同組織の最高会議に出席するため現地入りした人物だ。

 任務を終えて、帰国の準備にとりかかっていたところ、風雲急に巻き込まれたわけである。

 

(来るものがついに来たか)

 

「二十年の停戦」が目の前で木っ端みじんに打ち砕かれる、時代そのものが決壊した爆音に胴震いをしながらも、先の見通しをつけるべく、植村は半ば本能的に情報収集にいそしんだ。で、片っ端から読み漁った新聞中に、上の表題があったのである。

 

 恋人を残して出征(いか)ねばならない青年に向け(したた)められたその記事は、一貫して激励の気に満ちており、後ろ髪を引かれるな、情けなくグズグズ逡巡するな、泣きっ面を晒すなど以っての外と心得よ――との論調を徹頭徹尾維持しきり、とどめとばかりに、

 

「君の婚約者の眼は、君を素晴らしい英雄として讃えている。願わくば、この幻を破壊することなきように」

 

 煌めくような「殺し文句」がついていた。

 

(なんともはや)

 

 さすが前の大戦で、兵役拒否者を銃殺にした帝国の言うことである。

 

 まるで三島由紀夫であった。

 

 あの文豪もよく似たことを折に触れては書いている。他者が己に視ているであろう手前勝手な幻想を、敢えて言葉にされずとも態度の節々から察し、その蜃気楼が霧散(きえ)ないように振る舞いに細心の意を払う。「優しさ」とは、すなわちそれ(・・)だ。虚像を維持する隠れた努力の別名だ。

 裏を返せば、

 

 ――これが本当のおれだ。

 

 などと叫んで、見ろよ見ろよと突き付けるほど情けない、残酷な真似はないわけである。そんなことをするやつは、男の風上にも置けぬ。

 

「理解されようと望むのは弱さです」

 

「どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することなど決してできないものだ」

 

「理解されようとねがったり、どうせ理解されないとすねたり、反抗したりするのは、いわば弱さのさせる甘えに過ぎぬ」

 

「どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです」

 

 名著『不道徳教育講座』で、三島は繰り返し述べている。

 一九三九年の名も知れぬ英国人記者と、この認識は偶然にも一致した。

 

 新聞にはまた立場を移して、残される婦人へと向けた心構えも載っていた。曰く「婚約者の出発を悲しみもて鎖す勿れ」、曰く「常に身につけることの出来る記念品を贈るべし」、曰く何、曰く何……。

 

「とにかく余りくよくよしないでサッと別れよ、と言っていました」

 

 と、植村益蔵は帰国して後、雑誌『雄弁』の取材に応え述懐したものである。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 一九四一年、レンドリース法、議会を通過。

 この一報が電波に乗って日本国に伝わるや、日頃「米国通」を以って任ずる一部の言論人たちに、尋常ならざる波紋が起きた。

 

 震撼したといっていい。

 

 就中、鶴見祐輔に至っては、同年五月に寄稿した「ルーズヴェルト大統領の独裁的地位」なる小稿中で、

 

「今度武器貸与法が上下両院を通過したので、ルーズヴェルト大統領の地位は、ヒトラー、スターリンと並ぶ独裁的なものになってしまった」

 

 まずこのように、最大級の脅威判定を行っているほどである。「勿論米国においては、民衆輿論の制約があり、これを代表する議会と、更にその外に超然たる大審院の潜在的威力がある。しかし近代米国の政治組織の変遷を注視してゐるものは誰しも一様に、米国憲法制定当時の厳格なる三権分立法が急角度をもって、行政権偏重へと移行しつゝあることを、気付かずには居なかったであらう」と。(太平洋協会編『現代アメリカの分析』)

 

 かつてルーズヴェルト自身の口から飛び出した、

 

「独裁者を亡ぼすためには、独裁者を必要とする」

 

 との、ある種啖呵が、いよいよ以って現実味を帯びてきたと言うわけだ。

 

 ところでちょっと視点を移して、レンドリース法の恩恵に浴す英軍の、ある志願兵の頭の中身を覗いてみると、

 

「ファシズムと戦うために志願した軍隊はファシストだらけだった」

 

 との想痕が発見(みつ)かるから面白い。

 

「悪者だ、ナチだ、ファシストだ、といって教わってきたものがそのまんま、眼の前にある。状況を把握し、戦闘意欲に燃えているはずのこの連中のなかに」。――こういう記述が、戦後になって出版された『You,You,and You』なる書籍の中にあるそうだ。本の副題は『The people out of step with World War Ⅱ』。どういう趣旨に基いて編纂された代物か、単語の並びを一瞥すれば凡そ察しがつくだろう。

 

 民主的な軍隊なぞ、もとより有り得るはずもない。

 

 ごくありきたりな幻滅と言えばそれまでだが、ルーズヴェルトの啖呵と並立させてみた場合、平凡さはたちまち消え失せ、なにやら深い寓意性すら帯びてくるから妙だった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 日本に於けるマゴットセラピーの濫觴は、実は二〇〇四年にあらずして、一九四五年にまで遡り得る。

 そう、大東亜戦争末期のころだ。

 亀谷敬三医学博士が機銃掃射を浴びた患者の治療に用いて、めざましい成果を挙げている。

 このことは、当時の新聞にも載った。

 

 日附は六月十二日。一面を飾るような華々しさとは無縁だが、内容はさすが医者だけあって実際的な知識のみで埋められて、半狂乱の精神主義的傾向を少しも含んでいない点、記事の質はすこぶる高い。

 亀谷はこう書いたのだ。

 

 

 …被害者にP51グラマン戦闘機の攻撃法を聞くと、田圃の中に一人ゐても人と見たら執拗に攻撃を加へてくる、船員などの場合は体を物かげにかくし、脚だけ出してゐたら脚を狙ったといってゐる、兎に角人間なら見逃さず出てゐるところをうち込むから被害者には手足の傷が多い、…(中略)…馬鹿にできないのは待避の際慌てて壕の入り口などで頭や胸をうつ怪我である。

 銃撃被創の治療については半数が骨折に関係あり、出血が多量であるから附添には必ず同血液型の人が来てほしい、体内の傷は弾丸が被服と共に入るため被服に附着してゐた黴菌で全部化膿し、容易に癒り難い、そこで化膿した部分を削除するため蛆をわかせ蛆に化膿した部分を食はせる治療法をとった結果は良好で普通の治療法より遥かに癒りが早かった。

 

 

 患部の壊死した細胞を蛆の餌にあてがうことで、再生を敏ならしめる――。

 

 これはどう見てもマゴットセラピーの原理そのもの。

 

「窮すれば通ず」は本当だった。どれほど絶望的な状況下でも、有益な発見は成されるものであるらしい。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 昭和二十年、雑誌『キング』の五月号は六月号との合併だった。

 もっとも当時『キング』という表題は敵性言語であるゆえに、『富士』と改題されてはいたが、そのあたりは、まあ、今は措く。

 

 とにかくその合併号に「十人一殺」なる題の、名前からして物騒な気に満ち満ちている記事がある。

 だが、内容は、更に輪をかけてぶっ飛んでいた。

 

 

 近頃一般国民の気構へとして、「敵が若しわが本土に上陸すれば、一人十殺直ちにこれを撃滅すれば、皇国は必勝である」といふやうな、一人十殺論が旺んに唱へられてゐる。

 無論心構へとしては、一人十殺の気魄を持たねばならぬことは当然であるが、記者は空疎な必勝観念が国民を誤ったやうに、確算なき一人十殺論が、多くの国民を謂れなき安易感の上に睡らし、この期に及んでもなほ戦争を甘く見る弊に陥らせはしないかを畏れるのである。

 

 

 読むだに首がヒヤッとする提言だ。

 こんなことを書いて、例えば徹底抗戦論者のような、既にヒステリーを発しつつある壮士気取りの目に留まったらどうなるか。

 

 ――腰抜けめ、臆病風に吹かれたか。

 

 と、罵倒だけで済めば御の字、悪くすれば講談社の建物に爆弾でも投げつけられるのではないか。

 

 ――敢闘精神を挫くやつ、さては通敵しおったか。いくらで国を売りおった。

 

 こうした具合いの「言いがかり」をつけられて。

 なんにせよ、度胸のいいことだった。

 もっとよくなる。記事は更にこう続く。

 

 

 一人十殺を文字通り解釈すれば、神々の戦ひ給ふ姿であると言はれた、硫黄島の善戦健闘を以てしても、あの戦勢下に於ては、一人十殺は容易ではないのである。それを考へても、如何に本土で戦ふ利を数へるにしろ、訓練と装備の段違ひの一般国民が一人十殺をやればよいといっても、それは出来ない相談である。

 

 

 最終的な結論は「十人一殺が現実的な目標として相応しい。十人一殺が実現できれば必勝だ」と、あらぬ方角へ跳ねてはいるが、見え見えの擬装であったろう。剥ぎ取るは容易、記者の本音は透かし見るように明らかだ。

 

 ――とても勝てない。

 

 本土決戦などやれるものか、我らの希望は既に潰えた。恐ろしすぎるその現実を、しかしそろそろ直視すべき頃合いだ。そういうことを言っている。

 

 にしても、よくまあコイツが、こんな劇物が何事もなく検閲を通過(とお)れたものだった。

 

 五月号なら、既に東京は焼け野原だろう。

 

 検閲官の方々も、所詮は同じ人間だ。情勢の行く末を察知して、

 

(なんのために)

 

 と、自分の任務の虚しさを、もはや誤魔化しようもなく感じていたのではないか。

 

 この時期に書かれた文章は、どうもそういう、ヤケッパチの気配が強い。痛ましさというか、満腔の同情を抜きにして目を通すことの出来ないものだ。

 

 



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あゝ満鉄

 

 

 日高明義は満鉄社員だ。

 

 実に筆まめな男でもある。

 

 連日連夜、どれほど多忙な業務の中に在ろうとも、僅かな時間の隙間を見つけて日記に心象(こころ)を綴り続けた。

 

 それは昭和十二年七月七日、盧溝橋に銃声木霊し、大陸全土が戦火の坩堝と化して以降も変わらない。

 

 日中戦争の勃発に伴い、「特殊輸送」の名の下に、満鉄社員も大々的に動員された。祖国の軍旅を補佐し円滑ならしめんがため、多くの社員が長城を越え大陸本土に馳せ向い、言語を絶した苦闘に直面したものだ。

 

 破壊された線路の修理に赴いて、伏兵による機銃掃射を浴びるなぞはザラであり。

 食糧の欠乏、資材の払底、衛生不良、言語不通――ありとあらゆる悪条件がのべつ幕なしに彼らの身を打ちすえて。開戦から二年弱、昭和十四年四月の段階で既にもう、殉職した満鉄社員は五百名を突破するの惨状だった。

 

 日高明義の日記にも、鬼の炮烙で煎られるような極限状態の辛酸が、「一睡もせず且つ激務」とか「暖かい飯でも食ひたいがそれもできず」とかいった言葉によって如実に表現されている。

 そういう窮境下にあって、

 

 

八月十一日(晴)

 昼頃から腹がチクチク痛みだした。ビオフェルミンを飲み懐炉を入れる。夜になって寸時良いやうだが多忙のため寝る暇がない。午前二時まで起こされてゐる。総站に来てから丁度十日目、毎日睡眠不足のため目は充血し痛む。小便の色は白くなることがない。満鉄社員の首に百円の懸賞がかゝったといふ話だ。首は惜しくないが少し安いと大笑ひした。

 駄句一句 百円の首を並べて夕涼み

 

 

 まだこれだけの気勢を張れるということは、尋常一様の器量ではない。

 肝っ玉が練られているにも程がある。どうすればこんな人間性が形成(つく)れるか、ほとんど想像の外だった。

 

 やはり教育が違うのか。よほど指導に宜しきを得た結果であろう。幼少期から入念に研磨されたと見るべきだ。満鉄は社員採用に、単に才覚のみならず、人品もまたしっかりと考慮に入れていたらしい。

 

 ところが精神より先に、肉体の方が参りはじめた。日高の腹痛、小康は得ても根治に至らず、折に触れては悪化して、ために屡々下痢となり、肛門が荒れ、遂には痔をも病んでいる。

 

 それでも日記を書く手を止めない。

 一種の執念すら見える。

 

 

八月十七日(火) 晴

 昨夜来の痔病が大分痛むので北寧医院救護班にて治療をうく。入院をすゝめられたが輸送が終るまでは頑張らねばならんので薬を貰って帰る。乗務員の任業時間東站豊台間百四十粁であるが単線運転のため輻輳してゐるので片道十二時間くらゐより甚しきは二十四、五時間を費すので疲労と空腹に困ってゐる。

 

 

 なんという男であったろう。

 願ってもない大義名分、医師の勧めに従えば、殺人的な激務から一時なりとも解放される。デスゾーンで酸素ボンベにありつくような福音にも拘らず、しかし日高は、敢えてそれを選ばない。

 

 いったい何が彼をそうまでさせるのか。

 

 責任、義務感、連帯意識、滅私奉公、不惜身命? ……そういう紋切り型の言葉では、なにやら、こう、徒に上っ滑りするばかりであって、核心に喰い込めている気がしない。

 

 日本人が名実ともに日本人をやってくれていた瀬戸際と、うまく言語化できないが、しかしそういう実感だけが切々として胸を圧す。

 

 しかし十日後、すなわち八月二十七日、早朝厠に赴いて用を足すなり、さしもの日高も蒼褪めた。

 便に混じって大量の血がぶちまけられていたからである。

 

(これはまずい)

 

 と、便壺を満たす夥しさに俄然危機感を煽られて、その日のうちに病院を訪ね、みっちり検査を受けている。

 

 診断が下った。

 

 病名、大腸カタル。有無を言わさず入院である。「当分入院し下剤をかけられた」と、病床にてなおも書く。

 

 

八月二十八日(土)

 朝七時厠へ行く。血便出る。昨日からの下剤のため歩行困難となった。

 

八月二十九日(日) 晴

 石川君の見舞をうく。元気がないので話をすれば疲れる。総站待機の社員多数病院附近の仮宿舎に入ってゐる。元気な姿を見ると羨ましい。

 

八月三十日(月) 晴

 無風快晴誠によい天気だ。寝てゐるのが惜しい気がする。北寧医院も今日から開始するらしい。

 

八月三十一日(火) 雨

 朝から雨で鬱陶しい。今日は下剤を止めて初めてみる便通である、余り良くない。食物が支那料理のためであらう。腸の悪いのに支那料理は誠に苦手だが致し方がない。恐る恐る少しづつ食べることにする。

 

九月一日(水) 晴

 同室の同病患者は頻りに便の相談してゐる。即ち「君の便は良いから乃公にもくれ、そして早く退院しようではないか」笑話ではあるが笑話としては聞き逃せない。何時までもこんなにしてゐては同僚に済まんといふ切実な気持だ。

 

 

 ああ、ちくしょう、日本人だ。

 

 あまりに日本的すぎる。しつこいようだがこれ以外、どんな感想も浮かばない。南満洲鉄道会社、当代きってのエリート集団。なるほど確かに大日本帝国の「上澄み」たるに相応しい。遡ること三十余年、日露戦争の最中に於いて発揮され、フランシス・マカラーを驚嘆せしめた異様なまでのあの意気を、彼らは確かに受け継いでいた。

 

 

 

※   ※   ※

 

支那の弱さは日本に対する誘惑である。故に支那をばありとあらゆる方法で精神的にも物質的にも強大ならしむることは、英国はじめ各国の共通政策であらねばならぬ。支那が何人にも攻撃できなくなったとき、太平洋に利害を有する各国は初めて平和を享受することができるのだ。

 

(『マンチェスター・ガーディアン』)

 

※   ※   ※

 

 

 

 日本に於いて黄砂が観測されるのは、三月から五月にかけてが通常であり、わけてもだいたい四月を目処にピークがやってくるという。

 

 が、それはあくまで海を隔てた、この島国に限った常識(はなし)

 

 黄砂の供給源である大陸本土に至っては、だいぶ事情を異にする。

 

 早や一月から黄塵万丈、濛々として視界を塞ぎ、その状態がおよそ半年、七月まで持続するから大変だ。日本式の気構えで悠長に臨もうものならば、たちまち白眼を剥かされる。

 

「昭和十三年度のおれたちが、つまりはそれ(・・)の生き証人よ」

 

 と、満鉄社員金子茂は紙面を通じて物語る。

 

 この人もまた日高明義と同様に、日中戦争の勃発に伴い山海関を南に征ったひとりであった。

 以降、専ら、黄河駅に勤務する。

 そういう彼の日記帳を捲ってみると、

 

 

一月二十五日

 夜明前よりの大風で宿営車の戸ががたがたする。明るくなって見ると誰の頭も蒲団もなにもかも、内も外も砂だらけで仕事もへちまもあったものでない。手拭で口をむし塵除眼鏡をかけて暫く座ったが、息苦しくて仕様がなく外に出た。三四四粁の大黄河へ行って見たが、兵隊さんは豪い。砂の涙を流しつゝやっぱり仕事をしてゐる。午後は風が止んだが、内の掃除が大変なものであった。

 

 

 あの微粒子に虐め抜かれている様が素朴な筆で簡潔に、だがなればこそ、これ以上ない生々しさを伴って書かれているのにぶっつかる。

 

 翌日もやはり、黄砂が舞った。

 

 その翌日も、翌々日も――十日ばかりもこの環境に置かれると、

 

 

二月六日

 今日も風があって砂が埃る。あんまり目を擦ったので目が悪くなり衛生兵に薬を貰う。

 

 

 粘膜がまず、変調を来さずにいられない。

 花粉症の苦しみに若干似るのではないか。きっと彼の眼球も、充血して兎みたいに真っ赤になっていただろう。

 慰問袋に目薬でも突っ込めば、存外歓迎されたか知らん。――この内地からの心尽くしの贈答品の分配に、満鉄社員も与っていたのは別の手記から明らかだ。

 

 とまれかくまれ、金子の日記を、もう少しばかり見てみよう。

 

 

二月十日

 今日も風がある。明日は木橋の開通で忙がしい。砂埃が立ったが皆元気なものであった。あんまり砂を吸込んだのか晩方胸が痛かった。

 

 

「木橋」について一言したい。

 

 もともとこの付近には黄河を跨ぐ鉄橋が、「東洋一」とも称される立派な橋が架けられて、此岸と彼岸を連絡し、交通の便を図るのに年来重きをなしていた。

 が、昭和十二年十一月中旬、国民党軍は撤退がてら、この大建築を爆破して日本軍の追撃を僅かなりとも遅らせようと試みた。

 

 珍しいことではない。インフラの破壊は、戦争となれば何処の国でも行使する焦土戦術の一環である。

 

 この作戦は、確かに一定の功を奏した。十トンを超す爆薬により橋は瓦礫と化し去って、どう見ても取り返しがつかぬ状態。日本軍は新たな橋を架けるべく、大工事を余儀なくされる。

 

 その計画に満鉄もまた駆り出され、一方ならぬ貢献をした。

 

 彼らの努力は幸にして実を結び、昭和十三年二月十一日、スケジュール通り仮設橋たる「木橋」の開通式となっている。

 金子も胸を撫で下したろう。

 しかし当日、彼の心臓は安堵どころの騒ぎではない、予想だにせぬ展開に早鐘を打つ破目になる。

 

 

二月十一日

 天の与か風はなく上天気である。軍鉄合同で紀元節の式を終り引続き開通式をやる。午後宴会が始まる。久しく見たことがなかったが今日は済南から来た日本人の女にお酌してもらふ。皆相当メートルがあがったやうであったが自分もたしかにその方であった。宴のなかばに大連の僕の四男の勲キトクスグカヘレとの電報が無電にきて渡された。兵隊さんにどうするかと尋ねられたが、今の場合死んでも仕方ないと思ひ、キンムノツゴウカヘレヌと無電により変電した。

 

 

 断腸の思いだったに違いない。

 

 極端な論法を用いれば、職務遂行の大義の為に金子茂は我が子を見捨てた。「七つまでは神のうち」と、そういう言葉で夭折を諦観せねばならぬほど子供の命が失くなりやすい時代背景を勘案しても、易々と下せる判断ではない。

 

 奥歯を軋らせ、眼窩は窪み、熱病の如く黒ずんでいたことだろう。

 

 だが、紛れもなく、彼は選んだ。円は閉じた。

 

 ところが二日後、事態は更に四次元的な、嘘のような転回をする。

 

「金子君、帰れ」

 

 べつに何の申請もしていないにも拘らず、会社の方から「子供に会いに行ってやれ」と許可を送り付けてきたのだ。

 

 

二月十三日

 大連元所属より天津鉄道事務所へ電報が来たであろう。鉄道事務所より子供のキトクで一時帰還してよいと無電を通じて言ってきたので夕方の貨物列車に乗り込んだ。

 

 

 以降、暫く記述は途絶える。

 そしておよそ一週間後、

 

 

二月二十日

 午前〇時十五分大連病院にて四男勲死す

 

 

 持ち直すことはなかったようだ。

 しかしそれでも、最後まで側に居てやれた。

 

 金子茂が黄河駅に復帰するのはこれより更に半月後、三月四日のことである。

 

 その日の日記帳に曰く、

 

 

 天津にて京山線より津浦線に乗換へる。なんと客の多いこと、南満で見たことのないほど客車を連結してゐるのに身動きができない。徳県でだいぶん客が降りて楽になった。停車中工務区へ走り南満帰りの遅かったあいさつをして来た。禹城のホームに十修理班の中村君がゐた。内地の同じ土佐から来てゐて五年も会ったことがなく、あれやこれやの話が停車中に出来るものでないから明日、黄河へ来てもらふことを約して別れた。黄河に着いた時は日が暮れてゐた。宿営車の者は大半留守中に済南や徳県に引き上げて保線専用になってゐて楽であった。夜中、死んだ子供のことが浮かんできて仕様がない。

 

 

 聲が聴こえる。

 

 心の奥底、ずっとずっと暗い場所、人間性の深淵で、煮詰まる業の低吟が。

 

 ()(どう)は本より虚無なり、終も無く、始も無し。陰陽気構へて尤霊起る。起るをば生と(なづ)け、帰るをば死と称す。――

 

 浮世はときに、一個の劇であるらしい。

 

 

 



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テラインコグニタ

 

 日本の鉄道運行が時刻表に極めて忠実なることは、戦前すでに定評があった。

 

 一九三〇年代半ばごろ、この島国を旅行したエドワード・ウェーバー・アレンというアメリカ人が書いている、

 

 

「日本の汽車は特色がある。

 狭軌で、遅く、国有経営である。たまには臭いが一つだけ良い所がある。時間を厳守することだ。時計を汽車で合はすことが出来る程世界一正確である」

 

 

 と。

 むろん原文は英語だが、幸にして優れた日本語版がある。

 翻訳者の名は山口晃二、昭和十七年『北太平洋の実相』というタイトルで洛陽の紙価を高めたものだ。お蔭でざっとこのような、

 

 

「日本の芸術には、人を惹きつける面白さと明朗さがある。その国の庭園は、繊細な配置の手本になっている。その固有の着物は、乙女たちを美しくし、人を惹きつけるのは周知のことだ。日本国民の生活に如何なる改善が為されようと、日本芸術の粋を毀してはならぬ」

 

「日本人より子供を可愛がる国民はゐない。父親は吾子が病気にでもなると非常に心配し、その生命を助けるためなら喜んで自分の命を捧げる」

 

「北日本で、私は、修学旅行の一団の生徒の予約があったために、前以て計画をたててゐた渡船に乗れないことがあった。翠巒に囲れた日光の美しい社には、何処か遠くから来た一隊の女学生が、壮麗な社を見学してゐた。鉄道、汽船、その他あらゆる便宜は、次代を担ふ日本の若人の実際教育に力を借さねばならぬことになってゐる」

 

「近代日本は、その多くの旧い習慣を棄てたが、国家に対する忠義心と、国家のために喜んで犠牲になるといふ観念は、すべての日本人の心の中に脈々と生きてゐる。

 日本国民は、愛国心の強いことでは大いに推賞されるべきである」

 

 

 所謂「外人の目を通して視た日本観」を、ごくごく手軽に堪能できるわけだった。

 

 ところでこの紀行文、原題を『North Pacific』と称す。

 加うるに『Japan, Siberia, Alaska, Canada』との副題がある。

 

 掲げられた地名が示すそのままに、

 まずシアトルを起点とし、

 カナダ・アラスカ海岸沿いに舐めるような軌跡を描き、

 ダッチハーバーからベーリング海に突入すると、

 カムチャッカ半島に逢着するまで一路西進、

 そこから更に進路を南に切り替えて、

 千島列島を右手側に眺めつつ、

 津軽海峡を横断し、

 やがて小樽に入港するのが、ウェーバー・アレンの旅程であった。

 

 ハワイ経由の一般的な太平洋航路とは、だいぶ趣を異にする。

 

 本人はこれを「大廻航」と呼んでいた。「安全な海峡や入江や瀬戸に気を配って這入ったり出たり、または蜂がぶうんと輪を描いて飛び廻るにも似た北方の暴風雨と必死になって闘ひながら行く」、危険至極なバリエーションルートだと。

 

 実際問題、同時代の日本人で、この海路(みち)に挑んだ物好きは、少なくとも筆者(わたし)の知る範囲内にて絶無であった。

 その点、例の三越専務どの、小田久太郎も変わらない。香港なりシンガポールなりを手始めに、ホノルル、サンフランシスコと向かっていったものであり、ただの単なるノーマルルートの旅行者だ。「大廻航」は旅行というより、冒険の気配を色濃く残す。

 

 

 その紀行文は従って、他にちょっと類のない、玄妙な栄養素を含むのだ。

 

 

 そもそも論をさせてもらえば、大抵の日本人観光客はロサンゼルスとサンフランシスコで遊んだっきり満足し、すぐ爪先を東へ向ける。

 シアトルにまで寄ってく手合いは極めて少ない。

 

 同じ太平洋岸の要港であるにも拘らず、なんという不遇であったろう。

 ましてアラスカともなると、これはほとんど絶無に近いといってよく。

 

 そうした事情も本書の知識の貴重さに拍車をかけていただろう。実際問題、アレキサンダー諸島に於ける鮭密漁者の件なぞは、『アラスカ日記』にも『あらすか物語』にも影も形も見当たらぬ、本書ならではの記述であった。「どんな事業にも寄生虫といふものが附き易いものである」という、矯激な書き出しからそれは展開されている。

 

 

「鮭缶製造の眼目は『閉ぢ網』または『罠網』と言はれる網で捕った魚である。魚は捕ってからも工場が欲しいといふ迄は、網の中で泳ぎ廻ってゐる。つまりすぐ網から揚げて古くしてしまはない為である」

 

 

 保存技術の未発達、工場自体の処理能力の幼稚さゆえの、已むを得ざる措置だろう。

 網の中、鮮度のために生かされている魚群こそ、盗賊どもの垂涎の獲物に相違なかった。

 

 

「一個の罠網を作って据えつけ設備すると毎年五千弗もかかる。場所はアラスカに居住してゐる者でなくてはいけないことになって居り、缶詰工場へ概算額で売却される。その位置の選択は注意深く何年も先を見越して決められる。であるから、自分の罠網を設備して仕事するより、安い小舟で他の者から魚を盗む方が費用が少くて済み且容易なわけである。法律はアラスカではまだまだ行き届かぬので、魚泥棒が結構流行ってゐるわけである」

 

 

 ついここまで書きそびれたが、エドワード・アレンは弁護士が本業な人物である。

 漁業法を専門とする。

 第二次世界大戦後には北太平洋漁業国際委員会の委員長にまでなった。

 

 

「罠網には夫々一人(たまには二人)の見張人がついて居り、直接罠の上か、それとも近くの岸辺に小屋を建てゝ住んでゐる。

 この見張人は、網を護り、魚を盗む者を見張り、海草や其の他の邪魔物を取り除き欲しい時に魚を揚げるのを手伝ふものとされてゐる」

 

 

 それだけに、こういう話題はお手の物といっていい。

 内容にも信を措いて可であろう。

 

 

「鮭海賊の方法には数種ある。

 一番簡単なのは(もし罠網の見張人が甘い奴なら)買収することである。酒が手に入り難い禁止期間には、ブリティッシュコロンビアから密輸入したウイスキーが特に効目がある。買収された見張人は、適当に眠るか陸へ上るか、或は何処かへ行ってしまふ。もし仕事をしてゐる時に運悪く所有者のボートがやって来たら言訳をし説明をする。たまには、魚泥棒は巧く買収しても、見張人が初心だと見ると、下手に変心して裏切られては困るから、一緒に側に居らせ何処へも行かせないやうにして悠々と掠奪する」

 

 

“北緯五十三度線より以北には、神の掟も、人間の法も通じない”――。

 

 キップリングの箴言だ。

 

 二十世紀に突入してから三十年を経てもなお、合衆国の北辺は統制届かぬ人跡未踏地(テラインコグニタ)。野心家、食い詰め者、一旗組の欲望が岩壁の如く露出した、ある意味に於いて大アメリカの原風景(西部開拓時代の混沌)に極めて近い場所だった。

 

 

 

※   ※   ※

 

われわれは地の胎内に入りこみ、地獄におちた者のいる場所にまで行って富をさがす。

 

(プリニウス)

 

※   ※   ※

 

 

 

 ベーリング海は魚族の宝庫だ。

 汽船どころか帆船時代に於いてさえ、四十五万三千三百五十六匹の鱈を獲った船がある。

 

 彼女の名前――どういう次第か、フネは往々、女性人格を附与される――は、ソフィ・クリステンセン号。総計五ヶ月、出漁しての成果であった。

 

 鱈一匹の重量を650gと仮定し、換算式にぶち込むと、この漁獲量は295tに当たる。

 最近の漁船、たとえばアラスカ・オーシャン号は一回網を打つだけで50tの鱈を獲る。

 たった三週間の出漁で、5400tもの鱈をベーリング海から掻っ攫うのだ。

 

 シアトルの誇りとして孫子の代まで語り継がれたソフィ・クリステンセン号も、現代人の目で見れば、なんと慎ましいことか。冷厳なる数字の威力、隔世の感にぶちのめされる思いがしよう。

 

 

 閑話休題。

 

 

 アラスカ半島の形というのは、これはどう見ても鶴嘴である。

 その鶴嘴の尖端よりに、ウンガという島がある。

 現在でこそ無人島と化してはいるが、二十世紀中頃までは貯炭場があり、従って、多くの漁船・商船が出入したものだった。

 

 北太平洋の荒れ海に嬲られ尽くした漁師どものささくれだった神経線維を癒すため、ダンスホールがあり、密造酒が貯め置かれ、媚びを含んだ視線を送る女達もたっぷりと――。

 

 港町として典型的な活気を呈していたらしい。

 少なくともエドワード・アレンが上陸した一九三〇年代半ばごろには、確実に。

 彼の乗った老朽船も、御多分に漏れずこのウンガ港に錨を投げて、ベーリング海を突っ切る準備を整えている。

 

 その間アレンは町をいろいろ、見て回ったというわけだ。

 

 島にはまた、(ヌシ)がいた。

 星条旗の威光を背負い、島で起こる一切を裁量すべく任命された人物が。

 

 正確な肩書きは司法理事官。だが、実際には、彼の権力(ちから)は司法の域を飛び超えて、行政面にまで及ぶ。アレンはもちろん、このぬしさま(・・・・)に誼を通じに行っている。

 

 

「この理事官は愉快な老人であった。御国の御用を勤めて髪は白くなり、年はとったが、大真面目に命令を出したり、證明をしたり、判事、書記、検屍人、郵便局長、無電技師を一手に引き受けてゐた。市民の中には無粋な奴がゐて、その独り者の老人もまんざら浮いた話がないでもないと言ひ、或る者は、公金を誤魔化してゐるとさへ告げ口をした。

 しかし、何処の土地にも疑をもたれる人といふものはあるもので、ましてアラスカのやうに人煙稀薄な土地は、とても人の想像の及ばない所で、巡視する人も稀なのである。大体、北の国のことは余り根掘り葉掘りするものではない」

 

 

 まるで封建時代の領主のような権力の集中ぶりである。

 だが、理事官は、その濫用には走らずに、きっちりしゃっきり、自己を抑制していたらしい。

 

 プロミシュレンニキとは違うのである、隙あらば先住民族の女子供を人質にとり、父や夫を奴隷として働かせ、自分はハーレムにうつつ(・・・)を抜かす、帝政ロシアの先駆とは――。

 

 むろんエドワード・アレンの筆は、プロミシュレンニキの行状をも縷々と綴ってのけている。そりゃあそうだ、彼らの事跡を省いてしまえばアラスカ史などまるで骨抜泥鰌の酒漬け同然、掴みどころを失って、なにがなんだかわからない、ひどく気抜けしたモノと化す。

 

 

「ウナラスカ島では、シベリアのプロミシュレンニキ、すなはち毛皮泥棒が血腥い光景を演じたものだった。善良な反抗しない住民に惨虐な闘ひをしかけ、毛皮や女を奪ひ、老若男女を問はず虐殺し、結局は雑婚して混血人を作ったのである」

 

 

 プロミシュレンニキを「狩猟民」と解説した日本人祥瑞専一は、まだしも手心を加えたというか、オブラートに包みまくっていたらしい。

 エドワード・アレンは、その点につき容赦ない。「海賊」とか「泥棒」とか、頭ごなしに犯罪者として扱ってゆく。

 実際彼らの所業というのは、犯罪としか定義しようのないほどに乱れきったものだった。

 

 

「アリューシャン列島の不幸な住民は、ロシア人のために飢饉に堪えなければならなかった。彼らは勇敢であったが好戦的ではなかった。コサックの世にも恐ろしい掠奪を、ぢっと辛抱強く我慢した。親は吾子可愛ゆさに、時によると食物をみんな子供にやって自分は餓えてゐた。こんな風にして、忍耐と不安の生活を続け子供たちを大きくした」

 

「ロシアの侵入者は、そもそもの始から喧嘩を吹っかけるか、またはそんな手数はとらず、女を奪ふために突如、土人の男を襲撃した。ある時、かうした海賊の中でも一段と兇悪な奴が船中一杯に女を掠ったことがあったが、陸へ上らうとした時、その中で逃げやうとした者は、全部海へ投げ入れられて溺死させられてしまった」

 

「約二世紀前、ヴィトゥス・ベーリングがアラスカを発見した時は、そのあたり一帯のアウレト族は二万人と算定されたが、惨虐と殺戮の結果、二十世紀の始には千五百人に減ってしまった。そしてこの奴隷化せられた民族は、長い間あまりひどい目に会はされ、苛酷に取扱はれたので、今では一抹の哀愁の影を湛えてゐることが民族的特徴にすらなった」

 

 

 被虐児を見るの哀れさを、エドワード・アレンも感じたことに違いない。

 

 こういうことをやる(・・)連中と知っていて、知り抜いていて、にも拘らず終戦工作をソ連相手に期待した、末期の日本政府というのは、やはり正気を喪失(うしな)いきっていたのであろう。

 

 絶望どころの騒ぎではない、むごたらし過ぎる現実が、彼らの目を眩ませた――獄吏の中でもいちばん無慈悲でサディスティックな畜生を、菩薩の温容と見紛うほどに。

 

 案の定、ソ連はまんまと日本の足下を見透かして、不可侵条約もなんのその、チリ紙みたくひっちゃぶき、火事泥的に攻めて来た。

 愚の骨頂といっていい。万が一にも北海道がアカの魔の手に陥落()ちていたなら、どれほどの地獄が顕現したか。占守島の英雄たちには無限大の恩がある。正真正銘、彼らは祖国の防壁だった。

 

 

 エドワード・アレンは函館で、カラスの声を聴いている。

 

 

「およそこの地球上のどんな所の鴉も、函館の鴉のやうな素晴らしい鳴き方はしない。

 その鳴き方は、誠に堂々たる、慎重且決定的なものである。はっきりしてゐて、なめらかで明るく、芸術味があり、自信満々、のびきった鳴声である。あの不愉快な身振りまでが此処では面白い」

 

 

 流石みごとな注意力、いいところに気がついた。

 

 嘗て飛蝗(アバドン)の来寇すらも駆逐した、試される大地の(レイヴン)である。

 

 張りや威厳も宿るというもの、さても至当な評価であった。

 

 





嘗て札幌附近に飛蝗の大発生があって、農作物に恐る可き被害を見た際に、どこからともなく集って来た烏の大群が、あの貪慾さうな大きな嘴で、夥しい蝗を捕食するのを目撃し、この悪鳥もたまにはいゝことをしてくれるわい、と思ったといふことである。…(中略)…飛蝗となると、柄が大きく丈夫に出来てゐるから、燕や雀や四十雀のやうな、かぼそい小鳥の嘴では処置なく、烏くらゐな獰猛な奴でないと、退治の能率は上がるまい。

(北海道帝大教授・栃内吉彦)



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人物月旦


偉人は更に偉大な人の現れんがため存在す。

(エマーソン)



 

「戦場での猪武者が、政治の庭では豚野郎に堕しおった」

 

 九郎判官義経という国民的偶像を、ここまで情け容赦なくこき下ろすやつも珍しい。

 雪嶺三宅雄二郎、昭和十四年の言だった。

 

「あいつはいったい、何をメソメソ、腰越状なぞ書いていたんだ」

 

 と、青史に名高い美文に向けてもまことに烈しく、手厳しい。

 

「そんな遊戯に耽っている間があるのなら、さっさと鎌倉へ突っ込んじまえ。兄が自分を本気で拒絶するわけがない、これは必ず周囲に讒言する者があり、その悪漢の小細工だ、兄は誑かされておる、すわ一大事、君側の奸を払いのけねば、ものどもイザイザかかれかかれと火の玉になってわめき立てれば、部下も必ず従ったろう」

 

 あたかも一筋の矢の如く――。

 思慮を棄て、左右を忘れ、顧みず、まっしぐらに駈けに駈け、鎌倉へ向け突撃していたならば、その後の形勢、どう転んだかわからない。一ノ谷より屋島より、この腰越に於てこそ、義経は最も純粋に猪武者であるべきだった。ところが事実はどうだろう、「頭を返して退いたので、猪の長所が無くなった」。雪嶺はそれを心底惜しむ。惜しむからこそ、

 

「不意を打って鎌倉に乗り込んだなら、成功し得たと云へぬが、一層の事、思ひ切って之を敢てするの勇気があった方が宜からう。戦争の猪武者は、政治の豕男になった姿がある」

 

 と、酷にも程があるような、当たり散らしめいたセリフを吐かずに居られなかったのだ。

 

「それにひきかえ、アイツは立派なもんだったよ」

 

 と、同じ文脈で雪嶺は、義経の対照物として、実に意外なビッグネームを引っ張り出してのけている。

 アイツとは誰か。

 ローマの統領(コンスル)、ガイウス・ユリウス・カエサルである。

 

「カエサルがルビコン河に臨み、之を渡れば国法を犯すとせられ、勝つか負けるか、まゝよ進めと賽を振った所は、義経の腰越に於けるよりも決断がよかった。軍事にかけてはアレキサンダーに劣る事、後にチエルも云ふて居り、義経ほど勇気及び才能無かったと思はれるが、政治上の智略に長じ、此河一つを渡れば天下は我が物と見て取り、之を渡るや果して予想通りであった」

 

 畢竟、戦場の勇者は政治上の怪物に及ばないということか。

 

 もっとも仮に義経が鎌倉突撃を敢行し、首尾よく和製カエサルに成り(おお)せたとして。その場合、後世に対する人気のほどはどうだろう。決して今日ほど圧倒的では有り得なかったのではないか。

 

「判官贔屓」の言葉にしても、生まれていたかどうか怪しい。日本人の精神面への感化の度合いで測るなら、やはり腰越状を書き、頭を返して退いてこそ、翻ってはその後の淪落、悲愴な最期があってこそ、最上だったように思える。

 

 ある人物の幸不幸、その生涯の出来不出来を論ずる上で難しいのはこのへんだ。

 途半ばの死は、必ずしも失敗に直結していない。

 よくよく考えねばならぬ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 グラッドストンは意志の強い男であった。

 

 一度正しいと信じたことは決して曲げない。全国民から反対意見を突き付けられても、あくまで初志を貫き通す、孤軍奮闘をものともしない勇猛心の持ち主だった。

 

 ――自我のみを愛しみ、崇信せよ。

 

 とはウパニシャッド経典の嘗て説いたところだが、何の因果か、グラッドストンの人格は、このインド哲学の妙諦に、忠実に沿って設計されたようだった。

 

「そういうやつだ」

 

 と、彼をよく知る軍高官が言っている。

 

「もしもウィリアム・グラッドストンが海軍に入隊したならば、たぶん、おそらく、最終的に、昔ながらの最も剛毅な司令官として名を馳せていたことだろう。彼は自分の考えに正しさを確信したならば、如何なる障碍をも排して戦い、よしんば苦境に陥ろうとも断じて降伏などせずに、艦旗をマストに釘付けにして、みずからの手で火薬庫を爆発させる人物だ」

 

 と。

 重力の存在と同等に自国の強力な海軍軍備を首肯する、英人らしい口ぶりだ。

 

 

 奇しくも筆者は、似たような評価を受けたやつを知っている。

 福岡生まれの陸軍大将、明石元二郎その人である。

 

 

 明石に親しく仕えた部下に三浦憲一なる憲兵少佐が存在したが、明石の没後しばらくしてから、とある座談の席上で、明石の「英姿」――主に統監府時代に於ける――を追慕して、

 

「何事によらず徹底的に事を運ぶ。森林保護と云へば、私有の森木さへ自由に伐採を許さない。児童の就学奨励と云へば、どんな事情や理由があっても、強引に引ッ張り出す。清潔法を行ふとすれば、塵一本も残してはならず、道路の開通と云へば、田でも畑でも墓地でも容赦なく突き通してしまふ。どんな苦情が出ても一切耳を藉さない。凡てはこのやうに、徹底したやり方であった」

 

 喋りつつ、その猛烈に振り回された苦労まで等しく蘇ってきたのであろう、遠い目をしてしみじみと物語ったものだった。

 

 実際こういうタイプの男は自分も部下も情け容赦なくこき使う。

 

 単に追随してゆくだけでも一方ならぬ気力体力が要求されたに違いない。そのあたりから逆算すると、三浦少佐も凡器量とはとても言えないことになる。

 

「朝鮮の荒涼たる禿山を今日の如く青々たらしめたのも明石、兎も角も道路らしきものを造ったのも明石、衛生思想を普及したのも明石、一度びこの事を成すべしと信ずれば、眼中官もなく民もなく、唯一目散に突進実行する男」

 

 大塊こと野田卯太郎による評も、やはり三浦の認識と気息を合わせたものである。

 

「こんなことをしたら嫌われるのではないかと、何もしない男が一番嫌われる」――女をコマすにせよ、事業で成功を収めるにせよ、何にせよ。人生に栄華(はな)を添えるため、押しの強さはとかく必須条項だった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 そのころ官途に在る者の威勢ときたら馬鹿々々しいまでであり、鼻息だけでどんな巨漢も吹き飛びそうで、維新政府の殿堂は、一朝にして天狗の巣穴と化した観すら確かにあったといっていい。

 

 わけても明治十六年、県令として石川県に繰り込んできた男など、そのまま『平家物語』に登場させても一向違和感のないほどに、成り上がり者の傲慢を一身に煮固めたようなやつだった。

 

 逸話がある。

 

 県令閣下、ある晩なじみの料亭に主立つ部下を差し招き、酒宴を張って紅燈緑酒のたのしみを散々味わい尽した挙句、

 

「みろ」

 

 一座をぐるりと睥睨し、側に控える芸妓(おんな)相手に言い出したことが凄まじい。

 

「こいつらは皆、おれの犬だ」

(あっ)

 

 女たちこそ蒼褪めた。

 維新前ならもうこれだけで、刀を素っ破抜くに足る。

 たとえ膾に刻まれようと誰も不審を覚えぬまでの放言であり、如何に酒の席だとて、笑って流せる沙汰でない。

 

 そういう空気の緊張を洞察する能力を、この県令はどうも生まれつき欠いていた。

 もっと言った。盃を目の高さに掲げ、

 

「おい犬ども、返事をせんか、ワンと言え」

 

 あろうことか、そんな命令まで出した。

 

 県令たるこの男、彼の姓を岩村という。

 名前は高俊。

 長州人からキョロマと呼ばれ、虫螻(むしけら)並みに軽蔑された男であった。

 

 その軽率と倨傲によって北越戦争を惹き起こしておきながら、しかし斯かる経験は、岩村の内部で一切教訓化されず、従ってまた厘毫たりとも懲りる部分はなかったかと思われる。キョロマはしょせん、キョロマのままであったのだ。

 

 岩村高俊はともかくとして、石川県庁職員も、どうかしていた。岩村を袋叩きにするどころか、顔に酒を吹きかけも、座を蹴って立ち上がりさえもせず、唯々諾々とワンワン鳴いてみせたのである。

 

「いいぞ、いいぞ」

 

 岩村は、腹をゆすって大笑いした。

 

 西郷が何故絶望し、表舞台から消えたいと、北海道に隠棲し、そのままそこで朽ちたいと、世捨て人の心境に沈淪していったのか、一秒で解せる光景だった。

 

 

 ――なお、この逸話(はなし)の出処は例の三宅雄二郎、雪嶺と号す、旧加賀藩の儒医の子だ。

 

 

 つまりは石川県人である。その雪嶺に吹き込んだのは、想像するより他ないが、さしずめ土地の古老だろうか。よく醸された鬼気を感じる。あるいは列座のひとりだったやもしれぬ。

 

 石川千代松の如き碩学でさえ、ふと感情が激すると、

 

「薩長の野郎どもがなんだ!」

 

 と怒号せずにはいられなかった、それが明治という時代。以って「官」の鼻高々と、そこに入れてもらえなかった在野の不遇、嫉視怨嗟の深刻性を知るに足る。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 旅の楽しみとはなんだ?

 

 見たこともないものを目の当たりにし、味わったことのないものを舌の上に乗せること、どれほど雄渾な想像力を以ってしてでも追っつかぬ、「リアル」に圧倒されること、総じて未知に触れること。世界観を拡張される快さ――とどのつまりは福澤諭吉が言ったところの、「天然に於て奇異を好む人の(サガ)」を満足させるこそに在る。

 

 この「天性」を解説するため福澤は、実例を多く添付した。

 

「山国の人は海を見て悦び、海辺の人は山を見て楽む。生来其耳目に慣れずして奇異なればなり。而して其これを悦び之を楽むの情は、其慣れざるの甚しきに従て益々切にして、往々判断の明識を失ふ者多し。フランスの南部は葡萄の名所にして酒に富む。而して其本部の人民には甚だしき酒客を見ざれども、酒に乏しき北部の人が南部に遊び又これに移住するときは、葡萄の美酒に耽溺して自から之を禁ずるを知らず、遂に其財産生命をも併せて失ふ者ありと云ふ」

 

 フランスワインの質の高さは折り紙つきだ。

 普仏戦争に際しては、侵攻してきたドイツ兵をも虜にしたと聞き及ぶ。

 

 掠奪しては大いに呑んで、ふと気がつけば体質変化、もはやビールばかりでは満足しきれぬ細胞組成に変化()っていた。戦後平和が恢復されて祖国に引き揚げた後も、あの芳醇な液体が欲しくて欲しくて堪らなく、ために輸入激増し、その利益によりフランスは、むしり取られた賠償金をみるみるうちに補填した――と、そういう逸話さえもある。

 

 身代潰しのアル中どもを生産するならお手の物。魔性を帯びた酒なのだ。さてこそ魅力がいや増そう。

 

 むろん福澤の掲げた例は、フランスのみにとどまらぬ。

 国内にも目を向ける。

 

「又日本にては貧家の子が菓子屋に奉公したる初には、甘を嘗めて自から禁ずるを知らず、唯これを随意に任して其の飽くを待つの外に術なしと云ふ。又東京にて花柳に戯れ遊冶に耽り放蕩無頼の極に達する者は、古来東京に生れたる者に少なくして必ず田舎者に多し。然も田舎にて昔なれば藩士の律義なる者か、今なれば豪家の秘蔵息子にして、生来浮世の空気に触るゝこと少なき者に限るが如し。是等の例を計ふれば枚挙に遑あらず、普ねく人の知る所にして、何れも皆人生奇異を好て明識を失ふの事実を證するに足る可し」

 

 深窓の令嬢が庶民の暮らしに憧れる、そこで育った不良児に、無闇矢鱈と恋の炎を燃え上がらせる。

 

 あるいはまた、貴顕富家の坊ちゃん育ちが軍に入ってシゴかれたがる、「本物の男になるために」とか嘯いて。

 

 これらもまた、福澤が上で指摘した「ヒトのサガ」の例として加え入れていいだろう。

 

「枚挙に遑あらず」とは、なるほどよく言ったもの。きっとこれからも数限りなく展開される、人情劇の一典型に違いない。

 

 

 人生万事小児の戯れ、人とはなんと他愛ない。

 

 

 他愛ないと認識して更に尚、その戯れに本気になって打ち込める、それがどうやら修養の初歩、「人物」たるの必須条件であるらしい。

 

 いやはや道は遼遠だ。

 

 



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蛇に回向す


所詮世の中は闘争である。この闘争に強い者が成功する。
年寄が段々世間の役に立たなくなるのは、年を取ってだんだん闘争などいふことが面倒臭くなる為と、つくづく自ら思ひ当る。

(杉村楚人冠)




 

「…蛇よ、蛇よ、人に喰われて、人となれ。蛇よ、蛇よ、人に喰われて、人となれ…」

 

 一ツ文句を何度も何度も繰り返す。

 

 低く、低く、まるで地面を這わせるように押し殺した声風(こわぶり)で。

 

 念仏に似ていた。

 

 否、似ているどころのさわぎではない。

 

 そのものである。

 

 近江八幡の地に於いて製薬業を生業(なりわい)とする佐藤栄蔵氏にとって、それは真正、念仏だった。

 

 

 由来、近江は蛇族の群生地として知られたところ。

 

 

 シマヘビ、マムシ、ヤマカガシ、アオダイショウにシロマダラ、ヒバカリ、ジムグリ、なんでもござれな賑わいだ。

 

「蝮一匹殺せば仏三体刻んだ功徳がある」という、一殺多生にも通ずるような、かくも物騒な俗信が地元民の間にて、まことしやかに囁かれていた点からしても、あの爬虫類めのウジャウジャぶりと、それが齎す害のひどさが推し量れようものである。

 

 佐藤栄蔵氏の父も、まさにそうした蛇の毒牙の害にかかったうちの一。

 蝮に咬まれて、それが素因で、生命(いのち)を落とした人だった。

 

(なんということだ)

 

 通夜の晩。

 若き日の――まだ何者にもなっていない佐藤青年、瞳孔のひらききった面差しで、父の遺骸を見下ろした。

 上下するのを止めた胸、閉じられたきり寸余も動くことなき瞼。

 

(ぬけがらである)

 

 物体と化した人間は、生命であった以前と比べ、妙に小さく、縮んで見えるものらしい。

 佐藤氏は激しく戦慄し、而してやがてその戦慄が、彼の精神の深みから、復讐の念を励起した。

 

 ――蛇を殺そう。一匹でも多くの蛇を。

 

 垢じみた数珠を握り締め、密かに誓いを立てたのである。

 

 が、この信念の実現方法、具体的な行動が、やはり近江人だった。

 

「日本のユダヤ民族」と称されるほど利に聡い、近江商人の本場めかしく。――彼は復讐と商売の合一化を図ったのである。

 

 すなわち、蛇を主材にとった生薬づくりに精を出す。それが佐藤氏の「答え」であった。才覚に恵まれたのだろう、やってみると早々にして採算が合い、事業は軌道に乗りだした。となると次は拡大である。人を雇って、大々的に蛇の捕獲に使役した。

 

 およそ人間を動かすものは、善意よりも欲望である。

 

 蛇に咬まれて人が死んでも行政の怠慢を罵るのみで、そこが義憤の関の山な人々も、賃金が出る、儲けになると判明すれば、たちどころに腰を上げ、この害獣を捕獲するため息せき切って山野に突進するだろう。

 

 

 実際そういう景色になった。

 甲斐あって、復讐の徒は大いに望みを遂げられた。

 

 

 昭和初期には稼業もっとも殷賑を極め、旬の季節を迎えるや、一日に五十貫もの蛇族を釜にぶち込み蒸し焼き処理する事例とて、珍しくはなかったという。

 

 五十貫といえば、現代人の身近な単位に換算し、およそ190㎏だ。

 

 これだけ獲ってもまだ尽きないというのが凄い。日本一の蛇の巣だ。

 

「一番沢山出て品の良いのは滋賀県の伊吹山でとれるものです。蝮蛇(まむし)は赤蛙やトカゲを殆んど常食にしてゐますからそれ等の多くゐる処でないとゐません。滋賀県に次いで静岡県、愛知県あたりからも相当来ます。茨城県あたりからも来ますがこれは二等品になります」――昭和十二年、帝都に於ける蛇屋の老舗「救命堂」御主人が与えたところの墨付は正しかったわけである(『漢方と漢薬』)。

 

「精力をつけると云ふ意味で学生さんなど運動の選手でボートや野球の試合の前とか柔道剣道をやってゐる人はよく血を飲みに来ます。この間も水道橋の講道館で柔道の全国大会があった時、集って来た選手が毎日蝮蛇の血を飲みに来ましたよ。その前も警察官の剣道対抗試合の時は警察へ出張して血を飲ませ肉を蒲焼にして食べさせると云ふので料理に行って来ましたよ」――主人は更に語を継いで、こんな消息を洩らしてくれた。

 

 根太き需要が窺える。

 

 佐藤栄蔵氏にすれば、まさに終わりなき戦いだ。

 

 かてて加えて、如何に憎い(かたき)といえど、毎日毎日、朝から晩までひっきりなしに虐殺作業に勤しんで、末期の叫びに浴すると。――だんだん心気が疲弊して、人間自然の憐れみが、惻隠の情が湧くらしい。

 

 気付けば彼の口元は、一ツ文句を誦していた。そう、冒頭の、

 

「蛇よ、蛇よ、人に喰われて、人となれ」

 

 である。

 

 ある種、唄のようでもあった。

 

 これは「赦し」の形だろうか。

 

 それとも単に時の流れに摩された結果、激情も褪せるに至ったか。

 

 答えはきっと、本人にすらわからない。

 

 



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民俗瑣談

 

 平山蘆江が日本婦人の襟足讃美を展開すると、高田義一郎がこれに和し、水着に於けるチラリズムとセクシー主義の相克を力いっぱい物語る。

 

 いきなりなんだ、と思われるかも知れないが。昭和十六年という日米大戦の瀬戸際で、本邦屈指の文化人らが実際に演じた光景である。

 

 手っ取り早く、原文を見ていただこう。

 

「日本の女として一番男の眼と、又は心を引くものは、顔でもなく眼鼻でもなく、髪かたちでもなく、襟足である。叱られてさしうつむく、ものを云ひかけられてさしうつむく、褒められても笑はれても、軽く横斜めの姿勢でさしうつむいた襟足こそ、日本女にとって一番大事な働きをする武器である。

 ――と思って日本婦人の風俗を見なほすと、日本髪の髱の出し方、着物の衣紋のぬき方、襟足のそろへ方等々、一つとして襟足の美くしさといふよりは、しほらしさを強める為でないといふ事は一つもない」

 

 これが平山の観察で、

 

「その通り、その通り」

 

 と、大いに顎を動かしてから、高田が明かしたフェチズムが、

 

「『これを見ろ!』とばかりに丸裸になって、全身をつきつけられてはどんな美人に対しても、反って不快の感を起させるものであります。ものは控え目にして、限りある部分的の所で他を推察させるあたりに引きつける力が最も大きいのであります」

 

「従来、手と脚とを出して、胴体を全体蔽ってゐた海水着の型を改めて、近年は出来る丈広く、背面を露出しやうとする流行が北米合衆国あたりから世界的になってゐるのは、ヤンキー式の無遠慮な意志表示に相違ありますまい」

 

 すなわちこんな具合いであった。

 

 ――スク水は認めるが競泳水着は情緒に欠ける、ビキニなんぞ以っての外と、高田先生は仰るか。

 

 と、無性にまぜっ返したくなる。

 

 さすがは日本人だった。

 

 王朝時代の昔から、貝絵(二次元)の女性にガチ恋し、何処へ行くにもその貝殻を、常にこっそり懐深くに忍ばせていた変態巣食う国である。

 

 よほど特殊な文化的遺伝子(ミーム)の継承としか思えない。

 

 おまけにそれで千年以上の歴史を紡いだ実績がある。

 

 なんと奇妙で、且つ愉快なる民族か。日本男子とは、つまりまったくこれでいいのだ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 四国は高知県内の良心市の習俗は、昭和どころか大正中期の段階で、既に評判になっている。

 

 左様、良心市。

 

 無人販売所と言い換えてもよい。

 

 掘っ立て小屋の屋根の下、籠なり笊なり何なりに野菜や果実を盛り上げて、手書きの値札と料金箱とを設置したきり、別に見張りも立てもせず、客の正直に支払いの一切を依頼する、そういう形式の店舗のことだ。

 

 田舎の路傍でよく目に入る景色であろう。

 加藤咄堂の大著たる、

 

「高知県に入れば、道路に蓆を布きて菓物類を並べたゞ代価を附したるのみて一の番人なく得んと欲するものは相当の代価を置きて持ち去り、店頭に代価を付して草鞋を吊し、(ちか)くに竹筒を置けば、代価を竹筒に入れて其の草鞋を持て行き、未だ曾て代価を置かずして持去り又は不足して行くものもないといふ」

 

『日本風俗志』に収録された上の記述は、まさにそうした良心市の典型だ。

 

 支払いを誤魔化す者がないのは南海土佐の麗しき人情といってよく、咄堂はまた、斯くの如き美風のよってきたる根本として、弘法大師の大威徳を挙げている。

 

 四国八十八箇所めぐり、お遍路さんの行き交うところ、彼の地の霊的充実は、誰にも疑う余地がない。

 

 そういう霊地で不善を為せば、「大師の冥罰忽ち至ると信ぜられて居」ればこそ、こんな無防備、特殊商法も罷り通る、と。

 

「自己の使命なるものに明確な信念を持ち、自分は神の計画の一部であると信ずる人と、かかる信念を有さない人との間には、奮い起こせる力に於いて天地ほどの差異がある」と喝破したのは、確かオリソン・マーデンだったか。

 

 前者は勝利し、後者は落伍するのだと、そういう意味の文脈にたぶん繋がっていた筈だ。

 

 なるほど確かに宗教の感作は馬鹿にならない。

 

「政府の人を治るは法を以てす。而して世の中に現れたる者を制す。故に心中に盗を為さんと思ふとも、手を出さぬ間は政府も之を責むるの権なし。然れば心を治るは何人の任かと云へば、宗教に外ならざるべし。されば政府は身体を支配し宗教は心を支配すと云ふべし」――福澤諭吉の言ったが如く、上手く使えば人間社会をより好ましき方角へ、効率的に向かわせることが出来るであろう。

 

 まあ、大概の連中は「上手く使う」のに失敗し、迷信を真理と、ペテン師を救世主(メシア)と妄断し、陶酔を深めた挙句の果てにとんでもない魔道へと沈淪してゆくものではあるが。

 

 それもまた人の世の常態だろう。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 およそ七秒。

 

 紀州伊都(いど)四郷(しごう)村の(なにがし)が、柿の実一個を丸裸にする時間であった。

 

 特殊な器具は用いない。ごくありふれた包丁一本のみを頼りに、十秒未満でくるくると、柿の皮を剥きあげる。

 

 ひとえに神技といっていい。

 人間の手は、指先は、これほど精緻に動き得るのか。

 機械顔負け、残像さえも伴いかねない俊敏ぶりに、見物に来た誰しもが息を忘れて見入ったという。

 

 ――わたしゃ四郷の柿仕の娘、着物ぬがれて白粉(おしろい)つけて、華の浪華の祝柿。

 

 大正・昭和の昔時に於いて近畿地方で口ずさまれた上の里謡の「柿仕」とは、まさにこうした早業を体得済みな村人どもを指したろう。

 

 参観者には、ジャーナリストの顔もある。

 

 新聞に、雑誌に、はたまたラジオの台本に。――彼らが走らせたペンにより、四郷村の勇名は徐々に四方(よも)へと広まった。

 

 過去に幾度か触れてきた、下田将美なぞもまた、そうした宣伝者の一人(いちにん)として数え入れていいだろう。

 

『大阪毎日新聞』の禄に与るこの記者は、まず四郷村の沿革を――この地に於ける串柿作りが今に始まったことでない、遠く寛永、江戸時代開幕初期にまで遡り得る伝統産業であるのを明かし、更に続けて、

 

「歴史が古いだけにその製造方法も組織も大分現代ばなれがしてゐる。秋になって満山の柿の木が累々と実を結ぶとどの家でも柿もぎに忙はしい。もがれた柿は山のやうに積上げられる。柿は皮をむいて干されるのであるが、柿むきは全村の共同作業となってゐる。息子も娘も庖丁一本もって集る、大勢の柿むきは今日は誰の家、明日は誰の家と順々に各戸を尋ねて柿むきにかゝる。

 昔はかうした柿むきの人達にはもともと村の共同作業であるのだから、仕事の合間に餅でも馳走してやればいゝことになってゐたさうであるが、今日ではさすがにこの長閑な風習は続かず柿いくつで何銭といふ賃金制が多くなってきた」

 

 斯くの如き情景を、その紙上にて書き表したものだった。

 

 文明開化は必然的に、人の性根をすれっからし(・・・・・・)に導くらしい。

 

 ちなみに今更感が強いが、そも串柿とは何ぞやというと、正月祝いの飾り物。

 

 鏡餅に添える目的の品であり、かっ喰らうにはあまり向かないとのことだ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 伊賀の消息を伝える書誌に「月見粥」というのがあった。

 昭和四、五年あたりまで、彼の隠し国の人々が日常的に口にしていた品らしい。

 

 なんだ、雅な名前じゃないか、囲炉裏がけした土鍋の中に鶏卵でも落とすのか、乱破どもにも、あれで存外、もののあわれを解すゆとりがあったかい――と先入主を広げていたら、とんでもない。行から行へと読み進めるに従って、思わず真顔にさせられた。

 

 粥は粥でも、あまりに米の量が少なく、水増しされているために、箸をつける前であろうとはっきり月が映じて見える。貧困を象徴するような、そういうおそるべき代物が、伊賀に於ける「月見粥」の正体だった。

 

 こうなると名前自体の風雅さが、ある種深刻な皮肉のようにも見えてくる。

 

 物心のつかない幼児が、煮えた粥鍋をひっくり返し、全身火傷で死んでしまった。そんな惨話が地元紙の三面部分に掲載されたこともある。やるせなきかな、ただでさえ伊賀は子供に関してむごい逸話の遺る地だ。飢饉相次ぎ、堕胎・間引きの全国的に珍しからぬ江戸後期、伊賀でも当然、その風習は存在していた。

 

 少々個性的なのは、伊賀人たちはそれを表すに暗号めかしき隠語を開発したことだ。間引いた子が男なら、

 

「山遊びへやった」

 

 と称し、また女なら、

 

「蓬摘みにやった」

 

 と称す。

 

 東北人士が単純に「ぶっかえす」とか「うろぬく」とか言っていたのと比べると、やはり上方文化圏だなと再認せずにはいられない。言い回しの妙により、さらりと本質をはぐらかす。日本語の行使に巧みであった。そうやって、苛酷すぎる現実を直視せずに済むように取り計らっていたのであろう。

 

 しかし後年、研究者が出て、実状を赤裸々に暴いてしまった。「住民の体格も不良であって、多くは胃下垂にかゝり、腹部のふくれたのが、伊賀人の特徴」であるのだと、寒心すべき実態を、京都帝国大学の、地理学教室所属の文士、村松繁樹の()によって――。

 

「土地開墾の歴史古き伊賀では人口の増加するにつれて、渓谷や山間の小窪地に耕地を求め続けて、今や驚くべき山上の窪地や傾斜地が耕されてゐるが、それでもそこよりとる物産のみでは生活が出来ない。これは土地が狭いのみでなく、また地質の不良のためである。若し冬季関西線に乗って伊賀を経たならば、田には一面水をたゝへてゐるのを見るであらう。伊賀の山間の田圃は不幸にして粘土質が多く、一毛作で冬の麦作が出来ないから、田は水を張っておくのである。もっとも水を湛へる他の理由は、夏季降雨量少ない盆地で比較的灌漑水に恵まれず、しかも一旦田が乾燥して亀裂を生ずれば、その復旧が甚だ困難であるので、その旱魃より免れんとし、冬はいはゞ貯水池の用をなしてゐるのである」

 

 村松は更に語を継いで、「かうした天産豊かでない国では、住民の生活が極度に切りつめられてゐるのも必然の結果」と診断し、そこから具体例として陳列(なら)べられていったのが、つまりは上記の「月見粥」であり「間引きの隠語」等だった。

 

 個人的には良き概説と評したい。

 

 お蔭で従来、伊賀に対してただ漠然と抱いていたイメージが、だいぶ塗り替えられたから。

 

 啓蒙はいくら得てもいい。

 

 祖国にまつわる内容ならば尚更だ。

 

 



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切っても切れぬ


戦争は英国にとって一種の産業であり、最も利益のある投資であった。

(ジョン・ロバート・シーリー)



 

 南阿戦争の期間中、英軍は補給に一計を案じた。

 

 真空乾燥器の活用である。

 

 蔬菜類をこの機械にぶち込んで、水分という水分を除去、体積の大幅な縮小と長期保存に便ならしめた代物を、前線めがけてどっと送り込んだのだ。

 

 今で云うフリーズドライ製法である。

 

 技術自体は数十年前、一八五〇年代初頭(あたま)ごろ、とあるドイツ人科学者の手で既に確立されていた。

 

 だがしかし、それをここまで大々的に、実際の場で用いた例は嘗てなく、南阿戦争の英軍を以って濫觴とする。

 

 時代に先駆ける着眼点――「英国面」の一環と分類していいだろう。

 

 現地での評判は上々だった。

 スープを注げばたちまちのうちに瑞々しさを取り戻し、美味な具として機能する。

 

「こいつはいいや」

「地の()てみてえな戦場で、こんなもんが喰えるとは」

 

 まるで採れたてを思わせるシャッキリとした歯ごたえに、兵も満足したという。

 

 が、前線での評判こそよろしけれ、後方――銃後――一般社会の間には、なかなか浸透しなかった。

 

 当時に於ける保存食の王様は言わずと知れた缶詰であり、レパートリーも牛缶、鮭缶、トマト缶等よりどりみどり。蔬菜に品目を限定された新参者のフリーズドライふぜい(・・・)には、角逐など夢のまた夢、崩せぬ牙城であったのだ。

 

 一連の経過、情報は、廻り廻ってやがて日本にも伝わった。

 が、翻訳に際し不幸にも、ネーミングセンスを欠いている。

 

 フリーズドライ済みの蔬菜を、当時の我らが御先祖は、「排水青物」と妙な名前で呼んだのだ。

 

 妙といっていい筈だ。この四文字を古書の上に見出した際、筆者(わたし)は咄嗟に何のことだか飲み込めず、

 

 ――まさか、下水を直接、畑に撒いて育てた野菜じゃあるまいし。

 

 と、勝手に浮かんだあられもない想像を、大急ぎで打ち消さなければならなかったほどである。

 

 古書のタイトルは『世界奇風俗大観』。

 刊行は昭和十年で、著者の名前は石川成一。

 一世紀近い時の流れを渡って来た本だった。

 

 

 南阿戦争終結を機に、フリーズドライ食品は急速に存在を忘れられ、舞台裏での逼塞を余儀なくされる破目となる。

 

 

 次に脚光を浴びるには、第一次世界大戦の勃発まで俟たねばならず――戦火に照らされない限り、およそ輝けぬ技術のようだ。

 

 その件につき、趣深い挿話というのが、

 

「戦争が終結した時に、カナダの一製造人は尚ほ三万斤の排水青物を有ってゐたので、市場に売り出さうとしたが買手がなかった。そこで彼はそれを樽詰にして、その上に蝋(パラフィン)を塗って、そのまゝ倉庫に貯へておいた。然るに十五年を過ぎて欧州大戦が始まったので早速倉庫内より取り出して欧州の英軍に送ったところが非常にうまかったので歓迎されたといふことだ」

 

 やはり同書に載っている。

 

 図らずしもフリーズドライの底力(ポテンシャル)――賞味期限がおそろしく長い――を證明する恰好だった。

 

 技術進歩を後押しするのは戦争と、耳にタコが出来るほどよく聞かされたところだが。上の如きを眺めるに、さもありなんと改めて納得せずにはいられない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 そのころ、叛乱があった。

 

 きっかけは、まあ、益体もない。

 

 ウェールズ人にイングランドの慣習を強制しようとしたところ、彼らはほとんど焚火に向かって放り込まれたマグネシウムのようになり、金切り声で拒絶を叫び、たちまち武装を整えて蜂起の運びとなったのだ。

 

 こと、中世紀のヨーロッパでは時候の挨拶にも近い、茶飯事的な現象だろう。

 

 ただ一点。鎮圧に動いたイングランドの軍団中に、未だ玉座に就く前の、若かりし日の「長脛王」エドワード一世が混ざっていたのが、事を極めて重大にした。

 

 飾らずにいうとこの戦いで、エドワードの率いた軍はけんもほろろに打ち破られる破目となる。

 

(おのれ。――)

 

 未来の王は自尊心をいたく損ない、屈辱に歯を噛み締めた。

 唾液のかわりに胆汁でも分泌されているかのように、口の中が苦っぽい。

 しかしながらそれとまったく並行し、

 

(連中の武器、あれはよい)

 

 衝き上げ(きた)るは垂涎の念。

 ウェールズ人が得意とするロングボウの性能に、彼はこのとき、心の底から魅せられたのだ。

 

 短弓では話にならない。

 威力も射程もすべてが足らぬ。騎兵突撃を喰い止めるには、まるで及ばぬ代物である。

 

 クロスボウもまた、満足とは程遠い。

 威力は高いが、装填に時間を喰い過ぎる。勇猛な騎兵集団が、脇目もふらさず一直線に突っかかって来た場合、撃てるのはせいぜい二発まで。後はやっぱり短弓同様、戦列をズタズタに切り崩されて蹂躙される運命である。

 

 だがしかし、ロングボウときたらどうだろう。

 

 少なくとも十秒に一発の連射性能、百六十メートル先のチェインメイルをぶち抜いて、中身の騎士の太腿を鞍に縫いつける大威力。

 すべてが理想的だった。

 

(あれを、ぜひとも)

 

 こちらも揃える要ありと、雨注する矢に算を乱して逃げ惑う己が騎兵を見やりつつ、エドワードは思ったという。

 

「軽蔑すべき敵よりも尊敬に値する敵を見よ」。

 

 赤い皇帝・毛沢東の金言である。

 

 古今東西、名将と呼ばれる連中は、すべからくこの実行者であったろう。

 

 日本国では家康公がいい例だ。あれほど長期間に亙り武田の脅威に圧迫されておきながら、権現様は甲州流の軍法に、ひいてはそれを組み立てた信玄公の頭脳に対し、はちきれんばかりの魅力・尊敬・憧憬を抱いていたものとみえ、ついには自家の編成をほぼほぼ基底部分から甲州流に変えてしまった。

 

 エドワード一世も同様に、精神風土の総入れ替えを試みた人であるらしい。

 

「…優秀な軍司令官であったエドワード一世は戦闘の際に、軽騎兵隊とウェールズ式の射手隊とを巧みに配置するすべを心得てゐた。彼は『武装条例』によって、イギリスにおける小土地所有者のすべてに長弓の使用を強制した。弓を射ることが『跛や老いぼれでない』臣民たちの唯一の娯楽であるやうにするため、彼は、テニスや、球転がしや、九柱戯や、その他の遊戯を悉く不法であるとして禁止した。土地からの収入が四十シリング以上ある者はすべて弓と矢を有たねばならないし、また父は子に弓術を教えねばならなかった」(アンドレ・モーロア『英国史』)

 

 淫するほどの、ロングボウへの入れ込みぶりであったろう。

 施策の効果は彼の死後、孫子の代は百年戦争の時分に於いてもろ(・・)に出た。

 

 クレシー然り、ポワティエ然り。

 英国軍が時として彼ら自身たまげるほどの決定的な大勝利を遂げたのは、武器の優越――ロングボウの性能と、その扱いの習熟に負うところが大だった。

 

 ――どうだ、それみろ、やっぱり俺が正しかったじゃあねえか。的中々々、快なる哉だ、わっははははは。

 

 と、エドワード一世、あるいは泉下で思う存分おらびあげたことだろう。

 

 実際そうする資格があった。

 

 ここにも技術と戦争の熱愛ぶりが窺える。

 

「近代の戦争は専ら器械に依頼するものにして、怯夫の利器よく勇者を殺すに足る可しとの事実は、世人の普通に知る所なれば、我輩の心思を悩ますものは、我武器の多少と其利不利と、之を用る人の多少と其技倆の巧拙と、是れなり」――福澤諭吉が明治に語ったこの説は、十四世紀に於いてすら遺憾なく適用されるのだ。

 





英国の平和論の如きは娼婦の空涙より信じ難い。

(佐藤密蔵)



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天地之間、黄金世界


金が世の中を支配せずして何が支配する。金さへあれば人間万事これに越した安心はない、それを粗末にする奴は我身知らずの骨頂で、なしくづしに首を縊ッてるやうなもンだ。

(村上浪六)




 

 アコスタが工房を訪ねると、職人どもはもう既に今日の仕事を終えており、せっせと金貨を飲んでいた。

 

 比喩ではない。

 

 日給を安酒に変えてとか、そういうワンクッション置いた、取引を交えたものでなく。

 率直に、物理的な意味合いで――金貨を砕いて粉にして、一定量をざらざらと、喉の奥へと流し込むのだ。

 

「やあ、精が出ますな」

 

 と、この品のいいイエズス会士が言ったかどうか。

 

 ここはスペイン、マドリード。

 ジャコモ・デ・トレゾの作業場。

 この日の業務は幾点かのブロンズ像へ、金メッキをすることだった。

 その具体的なやり方は、日本に於いて奈良時代、東大寺の毘盧遮那仏をきんきらきんに彩ったのと本質的に変わらない。

 

 金と水銀を混交し、

 アマルガムを作製し、

 表面を磨きあげたブロンズ像へ、

 順次塗りたくってゆく。

 

 あとはそう、適度な熱を加えてやれば、

 水銀だけがうまいこと、成分中から蒸発し、

 金はそのままそこに残って固着するという寸法だ。

 

 然り然り、水銀だけを気化させて取り除くのがミソである。

 当然蒸気は毒を持つ。極めて強い毒性を――。

 

 東大寺の場合でも、こいつの所為で工人どもがバタバタ死んだ。

 神聖なもの、尊いもの、衆生を救うありがたいものを造っているにも拘らず、過程で生ずる犠牲たるやどうだろう。つくづく以って人世(ひとよ)は矛盾に満ちている。

 

 不幸中の幸い、東大寺には「切れ者」が居た。

 国中公麻呂という人が、

 

 ――どうもこいつが(わざわい)の根本としか思えない。

 

 と、水銀蒸気と死の氾濫の関係性に想到し、効果的な対策をやっとこ捻出したという。

 

 八世紀の日本に於いて既に然り、況や十六世紀のヨーロッパに於いてをや。

 

 水銀蒸気の猛毒ぶりは職人たちひとりひとりの脳髄に確と刻印されいた。吸えば吸うほど生命(いのち)が縮む、地獄の瘴気みたいなモノであるのだと。

 

 その一点に限っては、秦の始皇帝よりも遥かに賢かったろう。

 

 とまれかくまれ生命は惜しい、しかし客が(もと)める以上、仕事をおろそかにも出来ぬ。

 

(特効薬はないものか)

 

 水銀の毒を中和する、都合のいい薬剤は――。

 

 溺れる者は藁をもつかむ。

 切羽詰まった精神こそは、迷信の最良の培養土。案の定みるみる根を張って、奇怪な花を咲かせてのけた。それがつまり冒頭の、「金貨を飲む」習慣だ。

 

 水銀が金を慕う烈しさ、「驚くべき執着をもって金にくっつき、それを求め、かぎつけると、どこでもそれに向かって動いて行く」習性は、彼ら全員、実際に見て知っている。

 

 ならば金粉を飲み込めば、喉を通り、胃を通り、腸を通りするうちに、先んじて這入(はい)り込んでいた水銀も、自然と気配に惹きつけられて(あつ)まって、ひとかたまりに結合し、最終的には尻の穴からすっかり脱けるのではないか? そんな風に期待した。

 期待以上に、積極的に信じ込もうと努力した。

 

 ――これですっかり大丈夫、安心安全ご安泰というやつだ。なんてったって金貨を飲んでいるんだからな。

 

 効果の有無、科学的な正当性なぞ、およそ二の次、三の次。

「打つ手がある」こと、それそのものが重要なのだ。戦地で兵士がゲンを担ぐ心理に近い。「人間は生きて行くためには、何とかして運命の軛を取り去らうと努力する心がある。或は運命に歎願し、或は運命に媚び、或は運命を欺いて、幸福を得やうとする。運命を二元的に見、神と悪魔とにする時は、神に向かっては加持祈祷を以って歎願し、悪魔に向かっては調伏しやうとする」(生方敏郎『謎の人生』)。精神衛生を保つ為にはつっかえ棒が欠かせないのだ。

 

 人間性の弱点であり、また可憐さでもあったろう。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 いくらお(カネ)がありがたいシロモノだからとて、一万円札を刻んで炊いて粥にして、かっ喰らったら頭脳(あたま)回転(まわ)りが良くなると、本気で信じる馬鹿はない。

 

 そんな真似をしてみても、福澤諭吉の天才に(あやか)れるわけがないだろう。敢えて論ずるまでもない、至極当然のことである。

 

 が、これを当然と看做すのは、科学によって合理的思考を鍛冶された現代人の特権らしい。遠く日本史を振り返ると、英才教育の一環として万札の粥を息子に喰わせる式の思考、迷信が、ずいぶん長らく蔓延っていた。

 

 建炎通宝を竈に塗り込むあたりはまだいい。なんとなればこの銅銭を鋳造した南宋は、火徳王朝たる宋復興を悲願に掲げていたからだ。だから最初の年号も、建炎――炎ヲ建ツルと設定したわけである。

 

 火への祈りが籠りし通貨を、火焔を扱う竈に塗り込む。そうすることで火の災いが除かれると期待して。まんざら理屈が通っていなくもない行為だろう。

 

 ところが小判でひと撫ですると顔の痣が掻き消えるとか、匂いを嗅ぐだけでぴたりと鼻血が止まるとか、そっちの方に傾くと段々わけがわからなくなる。いったいどんな根拠があって、そんな発想に至るのか。

 

 江戸時代に編纂された『銭範』附録『古銭厭勝効験』中には、そうした民間療法? の数々が克明に記載されている。ちょっと抜粋してみよう。

 

 

○時気温病にて頭痛壮熱せば古銭百五十七文水一斗を七升に煎じ汁を服す

○心腹煩満又は胸脇の痛に古銭二十文水五升を三升に煎じ用ふ

 

 

 どちらも古銭の出し汁を飲めば病気が治ると説いている。

 

 

○下血には古銭四百文酒三升を二升に煎じ服す

○赤白帯下には古銭四十文酒四升を二升に煎じ服す

 

 

 水ではなく酒で煮込むやり方もある。

 折角の香気が銅臭で台無しになりそうで非常に勿体ないのだが、健康の前には、まあ、些事か。

 

 

○腋臭には古銭十文を焼き酢に浸し麝香を抹にして入れ其汁をぬる

○百蟲耳に入には古銭十四文を猪膏に合して煎じ注入る

○霍乱転筋には古銭四十九文木瓜一両炒め烏梅(うばい)五枚を合せ煎じて服す

 

 

 色々使っているだけに、このあたりはちょっと効果がありそうだ。

 

 金を太陽、

 銀を月、

 銭を星にそれぞれ(なぞら)え、尊重せよと啓発した学者もあった。

 

 

「金銀銭は、天地人の三つに象り、国家を治ること鼎の足の如し、金は陽にして日に象り、銀は陰にして月に象り、銭は陰陽の間にして星に象る、故に金銀銭を粗末にする者は、日月星の三光に捨てられ、立身出世覚束なし」

 

 

 やはり江戸時代の本草学者、水野澤斎の言である。

 これだけ持ち上げてもらえれば貴金属も満足だろう。直江山城守兼続に「不浄の物」「手で触れたくもない」と蔑まれ、扇子によって弄ばれた昔を思えば、なんと目覚ましい出世であろうか。

 

 

 ここまで書いて、ふと想起した。そういえば幼かったころ、御先祖様の墓石に幾枚もの古銭が乗っているのを見かけたが、あれも何か深い意味があったのだろうか。

 

 

 長いこと風雨に曝されて、すっかり黒ずみ、つまみ上げれば錆粉がぼろぼろこぼれて指につく、見るもきたならしいあの物体。

 子供心に興味を惹かれ、持って帰ろうとしたものの、親に見つかり窘められた。

 

 元の場所に戻しなさい、と。私は素直に従った。

 

 今にして思えば、その従順さが悔やまれる。隙を窺い、こっそり懐に忍ばせてしまえばよかったのだ。他所様の墓ならまだしも、自分の家のモノなのだから苦情を持ち込まれる筋もなかろう。こんなことで祟るほど、私の先祖は狭量ではなかったはずだ。

 

 既にはや、二十年以上も昔の記憶であるというにも拘らず、こうしてはっきり瞼に浮かぶ。流石は「人の世を統べる大魔王」。カネの魔力は、やはり途轍もないものだ。

 

 





一身の衣食住を安くするも銭なり、父母妻子を養ふも銭なり、家内団欒の快楽も銭なくしては叶はず、戸外朋友の交際も銭に由て始めて全ふすべし、慈愛を施すも銭なり、不義理を免るゝも銭なり

(福澤諭吉)



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志士の肖像

 

「おれは料理の大博士だ」

 

 とは、井上馨が好んで吹いた法螺だった。

 

 ――ほんまかいな。

 

 と、疑わずにはいられない。

 

 発言者が伊藤博文だったなら、納得は容易、抵抗らしい抵抗もなく、するりと呑み下せただろう。伊藤の素性は、武士とは言い条、下級も下級の出であった。

 

 あの階層の貧窮ぶりは――特に江戸時代後期にかけて――まったく凄絶そのものであり、ややもすれば勃興する資本主義的風潮の()というのを一身に引き受けた如き観すら呈し得る。

 

 文化年間成立の『世事見聞録』を捲ってみると、

 

 

「…なべて武家は大家も小家も困窮し、別て小禄なるは見体甚見苦しく、或は父祖より持伝へたる武具、及び或は先祖の懸命の地に入りし時の武器、其外家に取りて大切の品をも心なく売払ひ、又拝領の品をも厭わず質物に入れ、或は売物にもし、又御番の往返他行の節、馬に乗りしも止め、鑓を持せしを略し、侍若党連れたるも省き、又衣類も四季節々の物、質の入替又は掛売の雑呉服といへる物を借込て漸く間を合せ、又其甚敷(はなはだしき)に至りては、御番に出る時は質屋より偽りて取寄せ着用いたし、帰りたる時は直に元の質屋へ帰すなり」

 

 

 先祖が死線を潜った際に頼みの綱と抱いていた刀槍さえも売っ払い、

 若党、槍持ち、騎馬すら廃し、

 それでも金が足りないゆえに、夏の間は冬の着物を、冬の間は夏の着物を、入れ替わり質にぶち込むという自転車操業めいた手法で暮らしをどうにか弥縫する、

 世知辛すぎる状態が、躍如と記載されている。

 

 どこか田舎の名主の方が、よっぽど上等(マシ)な水準で暮らしていたのでなかろうか。疑念を持たずにいられない、そういう「火の車」であった。

 

 寛政十年、森山孝盛なる旗本が世に著した『蜑の焼藻』を覗いてみても、

 

 

「…百俵五十俵有余の御目見得以上の人は僕一人つかふことも叶はで、宅にてはみづから米薪をあつかふやから多し。彼輩は支配与頭の逢対にも容易に出ることかたければ、病と号して朝夕をたすけ、不叶事(かなはざること)ある時は、やとひ人して漸く出来る」

 

 

 常時家人を置くだけの資力も持ってないゆえに、やむなく「みづから米薪をあつかふ」、台所に立つ武士の姿を赤裸に素っ破抜いている。

 

 だから、伊藤博文が若い時代それをした――包丁芸の達者であるというならば、繰り言になるが、容易に納得できるのだ。

 

 しかし井上となると話は違う。

 彼は上士ではないか。

 

 筋目の正しい、折り紙つきの、歴とした門閥である。そういう男がみずから調理の場に臨む、必要性が何処にある?

 

 ない。

 敢えて断言してみたい。

 

 必要に迫られてでないならば、純然たる趣味であろうか。そっちの方が、どうも有り得そうである。

 

 もっとも肝心の腕前たるや賛否両論、舌の上に楽園が拓ける場合もあれば、名状し難い「物体X」――とても口に入れるには相応しからぬナニカまで往々生産するという、当たり外れの極めて激しいものだった。

 

 素人芸らしい(・・・)と言えばらしかろう。

 

 以下に示すはくだんの大塊、野田卯太郎が運良くも、「当たり」を引いた際の噺だ。

 

 ――内田山の井上邸を訪ねた際。

 

 と言っているから、最低でも明治二十七年以後だろう。四方山話に耽っていると、すっかりいい時刻になった。

 

「ついでだ」

 

 めしでも喰っていけ――と誘われて、野田は遅疑なく頷いた。下手に遠慮しようものなら、雷が落ちるとわかりきっていたからである。ねぎま鍋が、卓の上に運ばれた。箸をつけるとなかなかうまい。

 

(汁がいい)

 

 独特で奥深い滋味がある。

 野田はすっかり夢中になって掻っ込んだ。

 

「どうだ」

 

 身を乗り出して井上が訊く。

 

「まことに結構なものですな」

 

 本心から、野田が答えた。

 それへおっかぶせるようにして、

 

「そりゃあ結構であるべきはずだ。なんてったってスッポンで出汁をとっているんだからなあ、このねぎま鍋の汁はよう――」

 

 多年の研究の成果だぞ、と。

 さも得意気に、稚気さえ浮かべて語ったということだった。

 人を怒鳴りつけるのと、気に入った書画骨董をねだりまくって頂戴するのが明治の元勲・井上馨の趣味の全部でなかったらしい。

 

 

「凡そ志士の身を立て名を成すの要は、其芸能人の意表に出るに在り。関羽が書を能くして加藤清正が和歌に妙なりと聞けば世人は之に驚き、此人にして此芸ありとて益々其人物に心酔する外なかるべし」

 

 

 福澤諭吉の言葉であった。

 

 そういう面から推し量るなら、――なるほど確かに井上馨は志士と名乗るに相応しい。一筋縄ではとてものこと括れない、味わい深い人間性をもっていた。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 中江兆民は奇行で知られた。

 

 とある酒宴の席上で、酩酊のあまりにわかに()をはだけさせ、睾丸の皮を引き伸ばし、酒を注いで「呑め呑め」と芸者に迫った件なぞは、あまりにも有名な逸話であろう。

 

 その兆民の語録の中に、

 

 

「ミゼラブルといふ言葉の標本は、板垣の顔である」

 

 

 という短評がある。

 短いながらも、これほど板垣の本質を鋭く穿ったものはない。

 

 板垣退助の絶頂期、一個人としての黄金時代は幕末維新の騒擾に、もっと言えば戊辰戦争の砲煙にこそあったろう。彼の生命がもっとも溌溂とした期間であって、それゆえ一旦そこを過ぎてしまってからは、どういう立場、どういう仕事に就いていようと、その輪郭には憂愁の翳が付き纏い、なにやら常に夕暮れなずむ黄昏時の丘にでも佇んでいるようだった。

 

 本人もおそらく薄々は、そういう自分を自覚していたのでないか。

 

「あからさまに不機嫌そうな閻魔顔をしていても、ひとたび話頭を戊辰の役に転ずれば、たちまち地蔵顔になり、得々として語りはじめた」

 

 とは、彼に親炙した者の、よく目撃したところであった。

 

 ハナシというのはそれ自体、一個のいきものなのだろう。

 

 語られるたび成長し、どんどん尾鰭が付いてゆく。

 

 板垣の場合も、ご多分に漏れずそう(・・)なった。いつからか、彼は自由民権運動のよってきたる淵源を会津戦争の実体験に見出して、そのように他者(ひと)に告げもした。

 

 曰く、――会津は東北の大藩である。

 

 藩祖保科正之以来、二百数十年の永きに亙り、彼の地を統治し続けた。

 仕置は概ね的を射て、まず仁政といってよく、家中の空気も引き締まり、士風凛然、侍どもの精悍なる顔つきは傍から見ても一種偉観を呈していたということだ。

 

 実際彼らはよく戦った。

 一所懸命の体現だった。

「よき敵ござんなれ」の期待に背かないように、熾烈な抵抗で以ってして、殺到する官軍を迎えてくれたものである。

 

 が、それ以外はどうだろう。

 

 会津の町人、百姓は、「皆な手を袖にして傍観し、何れも我が持物を失はざらんとして逃げ隠れてゐる。中には少しの賃金を与ゆれば、欣然として官軍の用を為す者も少くない」状態だからたまらない。

 

 この現象を前にして、板垣は閉口を通り越し、腹の底から戦慄したそうである。

 その戦慄は、

 

(こいつらは、たとえ相手が外夷でも、ちょっと飴をしゃぶらされればやっぱりこうして節操なしに、ご主人ご主人可愛がってと尾を振りまくるのではないか?)

 

 国防上の危惧、不安。大袈裟な言い方をするならば、時代正義に裏打ちされたものだった。

 以下、本人の語り口を引かせてもらうと、

 

 

「…斯る状態では会津藩が落城したのも無理からぬことである。これを広く日本に押広げて考へれば、又たその通りである。若し、一旦外国と事あるに際して、今日の儘にして置かば、国を衛る者は僅かに国民の幾百万分の一にも過ぎまい。それではとても一国の独立を維持することは、出来様筈はない。

 そこで予は高知に帰るや否や、兎に角総ての人民から兵を採ることを原則とした。所謂る士の常職を解いて、総ての者の力に依って国を衛るといふことの必要なるを知り、此に於て初めて自由民権の已むべからざる所以を悟った。即ち大なる責任を負担せしむるには、先づそれに相応する丈の権利を与へねばならぬ。一般に政権を分配することは、国民と共に国を衛る所以である。これが予が今日ある所以である」

 

 

 つまるところは国民皆兵。

 啓蒙を得て板垣は凱旋したというわけだ。

 

 戦利品というのなら、これほどみごとな戦利品もないだろう。

 

 分配で揉めることもない。結構至極そのものである。

 

 結構すぎて牽強付会を疑われるのも、やはり順当、不可避の流れであったろう。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 起きてはならないことが起きてしまった。

 死者の安息が破られたのだ。

 

 墓荒らし――真っ当な神経の持ち主ならば誰もが顔をしかめるだろう、嫌悪すべきその所業。

 

 それが明治十二年、京洛の地で起きてしまった。

 場所も場所だが、「被害者」はもっと問題である。

 

 ――よりにもよって。

 

 としか言いようがない。荒らされたのは、木戸孝允の墓だったのだ。

 

 木戸孝允、かつての名乗りは桂小五郎。

 言わずと知れた長州の巨魁、西郷・大久保と相並び、維新三傑と呼ばれた男。

 

 華やかな呼び名と裏腹に、その晩年は極めて哀傷の色が濃い。べつに誰かが彼を迫害したのでもなく、彼の内部にいつからか巣食った気鬱の病がいよいよ悪化、骨髄まで喰い込んで、ただもう一途にこの人物を暗所に暗所に追い込んでいった印象だ。

 

 これは千万言を費やすよりも、当時に於ける彼の詩作を一読すればたちどころに諒解される。

 

 

山依舊而秀(やまきゅうによってひいで)

 

水依舊而漫(みずきゅうによってまんたり)

 

孤松払雪立(こしょうゆきをはらってたち)

 

痩菊経霜残(そうぎくしもをへてのこる)

 

年光容易尽(ねんこうよういにつく)

 

人間行路難(にんげんこうろかたし)

 

 

 断っておくが、べつに辞世の句ではない。

 

 木戸の號が「松菊」であることを踏まえると、三・四行目の趣がいよいよ深くなってくる。

 

「人生行路難」とは、使い古された字句ではあるが、まさに赤心の吐露だったろう。

 

 そういう男だ。

 

 しかし既に人生を()え、冥い黄泉路に就いてさえ、墓荒らしに遭うという「難」に襲撃されるとは、いったいどういうことなのだろう。

 

 そういう星を背負ったのだと、諦めるしかないのだろうか。

 

「なんということだ」

 

 仰天したのは長州閥の方々である。

 この人々にしてみれば、諦観どころの騒ぎではない。

 彼らにとって本件は国家の威信を揺るがしかねない大問題に他ならず、並々ならぬ圧力が、警察機構にかけられた。

 

 必死の捜査が展開されて、翌年三月にはみごと犯人を検挙(あげ)ている。

 

 当時の報道を参照すると、「それは墓守の非人であって、盗んだものは錫製の三宝と徳利の外に、遺骸に着せてあった絹の衣服であった」のだそうな。

 

 動機のほども尋常(ただ)の単なる生活難に基くもので、なにからなにまで陰惨なる雰囲気に包まれきった事件であった。

 

 



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福澤三景


もし「一人にして一代なり」という言葉どおりに、明治を代表さするに足る個人をさがすということになると、伊藤博文でも大隈重信でもなく、どうしても福澤諭吉でないと、すわりが悪い。

(木村毅)




 

 工事が停止(とま)った。

 

 明治二十年代半ば、それまで順調に推移していた山陽鉄道の建設は、しかしながら最後の最後、広島・馬関(下関)の百マイル余を繋ぐ段にて、にわかに凍結させられた。

 

 大詰めで「待った」が入ったのである。

 いつもいつも、

 

 ――ほんの少し。

 

 が問題となる。宛然リニア中央幹線の開通が、静岡工区の数キロにより暗礁に乗り上げているように――。

 

 もっとも因って来たる所以の方は、だいぶ色合いを異にする。リニアの場合、大井川水系への悪影響を危惧する地元住民が、もっぱら反対の旗手に対して、山陽鉄道に異を挟んだのは現地に住んだこともない、中央の軍事論者であった。

 

「海岸線は危ない」

 

 という。

 

「敵軍艦の砲撃を容易に浴びるではないか」

 

 よろしく天然の防壁を得る、山間にこそ通すべし。中国山地をうねうねと、縫うようなルートを描くのだ。それが彼らの主張であった。

 

「そんな箆棒な話があるか」

 

 会社はむろん目を吊り上げて反撥し、商利の観点に基いて海岸ルートに固執する。ことが国防に関するだけに、相手も容易に譲らない。斯くして事態は麻の如くに乱れて縺れ、いたずらに月日を空費した。

 

「何をグダグダやっていやがる」

 

 悶着を見かねて、また存外な大物が解決のため動き出す。

 

「費用を見てみろ、まずは費用を。――海岸線なら六百万で事足りるのが、山間線じゃあ二千万より更に上、三倍強の出費だぜ」

 

 ぱちぱちと、手馴れた仕草でそろばん玉を弾いて突き付け、軍事論者の口を塞ぎにかかるのは、ご存知福澤諭吉先生。

 明治十六年の段階で、

 

 

 ――凡そ開闢以来発明工夫多しと雖ども、之を人事に適用して直に勢力を逞ふし、恰も其向ふ所に敵を見ずして人間社会最上の様を専らにしたるものは鉄道の外にこれあるを見ず。

 

 

 斯様な言を恣にしていた彼だ。

 この種のタイプ――変な言葉だが文明主義者にしてみれば、山陽鉄道の直面している遅滞渋滞停滞ぶりほど教理に反することはなく、受けるところの歯痒さは、「許し難い」のレベルだったに違いない。

 

「それよりここは六百万で手を打って、だな。浮いたところの一千数百万円で軍艦の三、四隻でも調達したらどうなんだ。そっちの方が、国防上にもよほど効果は良だろう」

 

 敵戦艦の艦砲射撃が危惧される? そもそも敵を瀬戸内海に侵入させるな、なんのための海軍、なんのための艦隊だ。制海権の掌握こそが任務だろう――と。

 自己の経営する『時事新報』、明治二十七年四月十八日の紙面に於いて、縦横無尽にやってのけたものである。

 

「百歩譲って、山間線の必要性を認めたとして。その場合、既に敷設しちまった神戸・広島間はどうなる、どうする。海岸も海岸、磯部の小貝をつい拾いに行きたくなるほど開けきった展望の、防御力ゼロ区間だぜ。ひっぺがして一から策定し直せとでも言う気かよ」

 

 このあたり、福澤の言をそのまま引くと、

 

 

 ――好し、広島以西を山間に取ればとて、俗に所謂頭隠して尻隠さゞると同様、更に国防の甲斐ある可らず。

 

 

 つまりはこういうことになる。

 無慈悲なまでの正論だった。

 一言一句、何処を探せど異議や文句を差し込む隙間がまるでない。

 金閣寺の一枚天井みたいな抜け道のなさで徹底的に、「山」に拘る軍事論者を圧し潰しにかかっているのがよくわかる。

 

 それもそのはず、福澤諭吉にしてみれば、山陽鉄道の建設は広島と下関を繋いでハイお終いとなるような、そんなみみっちい(・・・・・)代物ではない。

 むしろそこからが本番である。

 

「山陽鉄道と九州鉄道は、いずれ接続されねばならぬ」

 

 それこそ彼の趣意だった、門司海峡に橋を架け、地続きにすることこそが――。

 

 

…イヨイヨ山陽鉄道も馬関に達するの暁には、爰に九州鉄道を通ぜざる可らず。連絡を通ずるには門司海峡に大橋を架設せざる可らざる訳にして、此の工事たるや中々以て大事業なり。海峡の相距る僅かに五百間内外、呼べば応ふる計りなれども、如何なる大艦巨舶にても自由自在に橋下を往来せしめ、且つ将来造船の進歩等をも考察して、充分に高架せざる可からざるが故に、其の費用も尋常橋梁の比に非ずして、方今の為替相場等を斟酌すれば凡そ一千余万円を費やす可しと云ふ。

 

 

 この全容は、なんとしてでも原文のまま味わうべきであったろう。

 

 構想自体の雄大さ。

 且つ、それを地に着け、実現させんとする努力。

 二つの要素が組み合わさって、先覚者としての福澤を、同時代人の誰であろうと及ばない「別格」の領域に押し上げている。

 

「仮りに今明治社会の大人物を、有形上無形上より、こなごなに打ち砕いて、其長短を一つ搗き交ぜて、団子を拵へて見たら、福澤先生の団子が、遙に他の団子より大きくなると云ふ結果だらうと思ひます」

 

 そう語ったのは尾崎咢堂、晩年に於ける回顧であった。

 

 よく的を射た人物評に違いない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 まさか旧幕臣の自意識が、この男の脳内に片鱗たりとてあったわけでもなかろうが――。

 

 とまれかくまれ、福澤諭吉は家康につき、よく触れる。

 

 それも大抵、好意的な書き方である。

 

 ある場面では「古今無比の英雄」と褒めそやしさえしたものだ。権現様が基礎固めして成し遂げられた江戸徳川の天下泰平――三世紀近い長期間の大半を「善政」が占めていればこそ、潜在的な国力涵養も行われ、いざ明治維新となった際、日本社会はあれほどの、目を見張るばかりに長足の国運進歩を叶えることが出来たのだ、とも。

 

 さて、そういう男の両眼に、三方ヶ原の戦いは、いったいどう(・・)映ったか?

 

 敗れたりも敗れたり、徳川家康、生涯無二の大敗北。甲府盆地から這い出してきた猛獣軍団・武田信玄とその麾下に、挑みかかってコテンパンにぶちのめされた、あの一戦の顛末は?

 意外や意外、

 

「あれでよかった」

 

 と、これまた大いに肯定してのけているのだ。

 

 百パーセント敗北すると理解しながら、それでも敢えて打って出た、あの瞬間の家康公の決断を――。

 

 

…若しも徳川にして和を強国に求めて一たび其膝を屈せんか、祖先以来養成したる三河の士風忽ち沮喪して自立の気象を失ひ、四隣の敵国は其為すに足らざるを知りて軽侮凌辱交も至るも之を防ぐに力なくして、仮令ひ三方ヶ原の失敗を免るゝも戦国競争の間に徳川の国家を維持して自から衛るの見込は到底、覚束なかりしことならん。

 

 

 戦って敗れたのであれば、まだしも面目は施せる。

 

 だがしかし、戦いもせず敗けたが最後、家康は二度と将として世間に顔を向けられなくなる。つまるところは廃人同然、再起不能の身に堕ちる。戦国とはそういう時代、ぬきさしならぬ殺気が常に天地を沸かしていた頃だ。

 

 そういう世では、面子(メンツ)が即座に人の生き死に・家の興廃に関わってくる。

 そのあたりの消息を、家康は百も承知であった。

 

 よく知り抜いていればこそ、「予め必敗を期して戦に決し、予期の如く失敗して其将士をしてますます敵愾の心を起さしめ、却て敗軍の勝利を収めたるのみ」であるのだと、福澤諭吉は確信籠めて書いている。

 

 現在でもなお、かなり根強く支持されている「観方(みかた)」であった。

 

 もっとも当の家康の身にしてみれば、「予期の敗北」とは言い条、陣を破られ、手回りさえも木っ端微塵に粉砕されて逃げまどい、挙句の果てに「戦国最強」の聞こえも高い武田勢から何処々々までも追いまくられる恐怖のほどは到底冷静に受け止められる域でなく、

 

 ――もうだめだ。

 

 と、絶望に駆られた瞬間が幾度もあったに違いない。寸前暗黒の感である。あられもない痴態を演じ後世に笑話の種を提供したのも、余儀なき運びだったろう。

 

 過酷どころの騒ぎではない修羅の巷の只中へ、繰り言になるがそういう場所だと重々承知した上で、我と我が身を突き飛ばしたる権現様の意志力は、もはや勇気などという通り一遍な表現程度に収まらず。

 

 狂気としか呼びようのない、人間性の深淵を窺わせるものだった。

 

 

 思い返せば「世間は所詮、感情八分に道理二分」と称しては、理屈の通る間口の狭さをあげつらっていた福澤である。

 

 

 日常すべての挙措発言に意を凝らし、一瞬たりとも気随気儘にふるまわず、君主としての自分自身を末期の時まで維持し抜いた家康という人物は、ある意味に於いて福澤の理想だったのではあるまいか。

 

 少なくとも、「自由は不自由の中に在り」。この言葉の体現を権現様に見ていたとして、さまで不思議はないだろう。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 建築を、家の構造を抜きにして、福澤諭吉の為人(ひととなり)は語れない。

 福澤邸には忍者屋敷みたような、特殊な仕掛けがあったのを。――

 

 順を追って話すとしよう。

 

 彼には敵が多かった。

 

 楠公権助論に象徴される歯に衣着せぬ物言いで、壮士どもの怨念をずいぶん(あつ)めてしまったらしい。手っ取り早く現代式な言い回しを用いれば、雲霞の如きアンチの群れに粘着された状態、か。

 

 この「蟲ども」の大半は、極めて自然な感情経路に基いて、福澤諭吉が地上から消滅することを望んだ。

 

 あの野郎死ね、ということである。

 

 否、そればかりでは止まらない。

 

 ネットの海に罵詈雑言を垂れ流すのが精々な昨今とは違うのである。

 

 戊辰の役の生き残りがごろごろし、幕末の殺気も色濃く残るご時世だ。

 

 遠くに在りて願うだけなど生ぬるい、憎ったらしいあんちきしょうを俺がこの手で直々に、地獄の釜に叩き込んでくれようず――。こんな具合にいきり立ち、おっとり刀で走り出すのが明治のアンチの流儀であった。

 

 首筋に寒気を感じる瞬間が、福澤自身、幾度となくあったらしい。

 

 須田辰次郎、慶應義塾の門弟で、卒業後は『時事新報』にもいっときながら籍を置いたこの人物も、晩年に於ける懐旧談で、

 

「明治五六年頃、先生が思ひ切った議論を続々発表したので、世間では先生を暗殺せんとする者があると云ふ評判が立ち、夫れが為め、先生は外出の時に、宗十郎頭巾で頭部を包み、雨合羽を着て、其下に刀を差して居られたのは、随分滑稽な姿でありました」

 

 こんな事情を暴露している。

 

 大事な生命(いのち)守護(まも)れるならば、みてくれ(・・・・)なぞはおよそ二の次、三の次。頓着している余裕はなかったということだろう。裏を返せば、暗殺者の黒い手を、福澤がどれほど差し迫った危機として捉えていたか窺える。まったく当時の言論人は自分の舌と筆先に、全生命を懸けていた。

 

 とまれかくまれ、外出時はこれでいい。

 

 残る課題は家の中に於いてであった。とち狂った馬鹿者がいきなり雨戸を蹴破って、くつろいでいる自分の頭上に刃を加えに来たならば、さて、どのように対応したものだろう?

 ここでいよいよ前述の、

 

「忍者屋敷」

 

 に話が繋がるわけである。

 

 対策の一環として福澤は、緊急用の脱出口を準備した。

 

 すなわち居間の一角に――普段はストーブを乗っけてある部分の床に隠し扉を設置して、そこを潜ればあな不思議、敵手の眼を欺いて外へ逃れられるよう、「抜け穴」を掘っておいたのだ。

 

 ほとんど伝奇小説の設定めいた話だが、福澤自身が明治三十二年ごろ、薩摩の山本権兵衛相手につらつら語った内容だ。「嘘が吐けないから政治家にはなれない」と自嘲したほどの男が、である。半信半疑、否、八割強、信じてよいのではないか。

 

 

 他にもまだ、証言者のアテはある。

 

 

 岡本貞烋がそう(・・)である。

 

 やはり慶應出身で、『時事新報』を創立(たて)るにもだいぶ寄与したこの人も、明治初頭の恩師の姿を回顧して、

 

「流石其頃は用心したものと見え、寝室の隅にある押入より、縁の下に降りられるやうになって居り、其縁の下を降りて、又更に他へ通ずる穴でもありましたかどうか、夫れは知りませぬが、兎に角一時床の下に避くることの出来るやうになって居たやうです」

 

 と、ある種「裏付け」と視るに足る、貴重な言葉を遺してくれた。

 

 

 ――暗殺は甚だ易し。如何なる愚人にても執念深くねらへば随分功を奏すべし。結局愚狂の二字を以て評し了すに足るのみ。

 

 

 鋭利極まる、斯くの如き筆鋒は、ほとんど病的といっていいほど高潮された臆病心を背景に発揮されたものだった。

 

 人間的な、あまりに人間的な啓蒙家。それがどうも、福澤諭吉であるらしい。

 

 



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続・福澤三景


死に至るまで老ゆるなかれ。

(福澤諭吉)



 

 

「ものども、よろしく馬を飼え」

 

 こういう趣旨の「お達し」が、政府の威光を以ってして官吏どもに下された。

 明治十七年八月一日の沙汰だった。

 世に云う乗馬飼養令である。

 内容につき要約すると、

 

「官員にして月給百円以上の者は最低一頭、

 月給三百円以上の者は最低二頭、

 各々の責任に基いて、乗馬を所有し飼育せよ」

 

 こんな具合になるだろう。

 

 軍馬の不足は当時の政府の大なる課題の一つであって、いざ鎌倉という際に必要量を「どこから」「どうして」掻き集めればよいものか、容易に目処が立てられず、そろばん片手にウンウン懊悩し続けて、考えあぐねた挙句の果てに生み出されたのがコレだった。

 窮余の一策といっていい。

 

「なんということだ」

 

 官員たちこそ迷惑したが、その一方で、

 

「さてこそ千載一遇の好機到来」

 

 と色めきたったやつもいる。

 博労および馬具職人等、馬にまつわる商業行為を営んでいる者である。

 

「馬を飼う」と一口に言っても、それには色々装置が要るのだ。

 

 鞍に手綱に蹄鉄に、鐙も買わねばならないし、(うまや)も新たに建てねばならず、(まぐさ)の定期購入も渡りをつけねばならないだろう。ちょっと想像してみただけでも洒落にならない出費であった。

 

 更に言うならここ数年来、馬の価格が下落している。三年前と比較して、実に三分の一水準という暴落ぶりだ。これは以前が高値(こうじき)過ぎただけとも言えるが、とまれ一旦その環境を味わわされた身としては、嘗てがなんとも懐かしく、現在(いま)がわびしく、口惜しく。

 

 もう一度あの好景気を味わいたいと身悶えしながら念願していたところへと、この「飼養令」の渙発である。期待感を煽られるのも無理はない。奥州牧場の衰勢に、いい歯止め役になるんじゃないか――。

 

 ちなみに上記、「馬の値が下落しきっていた時期」に、素人目にもたくましい、上質な南部馬を買い入れたのは、ごぞんじ福澤諭吉であった。

 

「馬術は運動になる、つまりスポーツの一環である、スポーツというのは健康に良い」

 

 主にこうした理由から、居合同様、日々たしなんでいたようだ。所謂「武士の表芸」は一通りできる人だった。

 

 そういう福澤諭吉のことだ、むろん新設の乗馬飼養令に関しても、実に敏感に反応してくれている。

 

 まず以って、肯定的にといっていい。

 

 

「…条令の文面には見えざれども、官吏に乗馬を命ずるは其挙動を活発ならしめて自然に心身を勇壮に導くの趣旨ならん。人力車中蒲団に倚り巻煙草を喫し罷めて睡眠を催ふすの柔弱風を一変して、軽騎鏘々、鞭を揚げて走るが如きは、本人の身にも愉快なるのみならず、傍観者の目にも亦愉快なり。官途一般に男子の風を新にすることならん」

 

 

 こんな調子で受け止めて、更に後日、折を得ては自論をいよいよ拡大し、

 

 

「…昔しの大名高家なれば、殿様のお馬は虎の皮の鞍覆に、奥方様は蒔絵の乗物と申す処を、今日人力車中の御窮屈なるは余処目(よそめ)にも少しく恐入る次第なり。人力車美なりと雖ども黒塗に過ぎず、車夫二人曳きなるも其袢天は即ち目暗縞のみ、高貴の人を載するには尚足らざる所のものあるが如し。依て愚案に、過般乗馬令の発行こそ幸なれ、此令を華族方に及ぼして乗馬を飼養せしめられては如何と存ずるなり」

 

 

 ひとり官吏に限らない、もっと金を持っているに違いない華族どもにもやはり負担を背負わせろ、惰弱に流れるのを防ぐため、あいつらもまた馬に乗れ――と、恐れ知らずに書いている。

 

 相も変わらず、その筆遣いは雄渾だった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 天は人の上下に人を造らぬ、と唱えたかの福沢はしばしば日本の武士が二百数十年の教育を経た特殊高尚の種族であることをいい、あれだけの教育費をかけて養った種族を、一朝にして失い去るのは、第一不経済だ、といったこともあるのである。

 

(小泉信三)

 

※   ※   ※

 

 

 

 馬のみならず、ロバにも乗った。

 福澤諭吉のことである。

 文久二年、エジプト、カイロに於いてであった。

 

 咸臨丸で太平洋を往還してから、およそ一年七ヶ月。福澤は再び洋行の機会に恵まれた。幕府の遣欧使節団に選ばれたのだ。幸運でもあり、実力ででもあったろう。時代の巨大(おお)きな追い風を、あるいは背中に感じたか。

 

 この当時、スエズ運河は未だ開通していない。紅海から地中海へ――中東から欧州世界へ抜けるには、鉄道の便を間に挟む必要がある。スエズからカイロを経てアレキサンドリアの港まで、熱砂の国を汽車でゆくのだ。距離にして百七十一里の旅だった。

 

 その途中、一行はカイロで二晩ばかり脚を留め、先に訪問するべきは英仏どちらであろうかと、以後の予定を話し合ったり、市内観光に出掛けたり、まあ様々なことをした。

 

 福澤もまた、観光に出たひとりであった。

 で、その際に使用した交通機関というのがつまり、

 

「ロバ」

 

 だったというわけである。

 福澤自身の旅日記、『西航記』から、そのあたりを抜粋すると、

 

 

「土人多く駱駝驢馬を御す。余輩も一日驢馬に乗り諸所を遊観せり。馴獣愛すべし」

 

 

 なんとも穏和な筆致であった。

 

 和服姿でロバに騎乗し、月代あたまに赤道直下の日差しを受ける福澤諭吉を想像すると、なにやら妙な可笑し味が湧く。

 この人にも色々な顔があるものだ。

 

 

 なお、『西航記』には意外にも、カニバリズムにまつわる話も載っている。

 ペテルブルグで、現地の医師からそれを聞いたということだ。

 

 

「ドイツの生まれで、ロシア国籍を所得した、ヘンてな野郎が居ましてね――」

 

 そんな口上を皮切りに医師は語り始めたという。

 

(ヘン?)

 

 変わった名前もあるものだ。

 それだけでもう奇異な感じを抱いたらしい。『西航記』には態々注意書きとして「人名」の二字が添えてある。以下、ふたたび抜粋すると、

 

 

「…此人宗旨を開く為め二十一年前妻子を携へて亜非利加(アフリカ)の一国ニーゲルの都府シュダンと云る所に行き、先般伯徳禄堡(ペテルブルグ)に帰り数日前復たニーゲルへ出立せり」

 

 

 どうもヘンという人は宣教師の類のようだ。

 2018年11月の半ばごろ、北センチネル島に不法侵入、そのままあっさり原住民の餌食となった例の彼――ジョン・アレン・チャウのご同輩といっていい。

 

 ニーゲルとは、あるいはニジェールの謂いであろうか? だとしてもシュダンは見当がつかぬ。古書のページを捲る際、地名にはいつも手古摺らされる。

 

 細かな場所の把握については棚上げし、続く内容を見てみよう。

 

 

「ヘンの話に云く、ニーゲルにては当今も尚ほ人肉を食ふ。始めヘンのニーゲルに至りしとき、国王に謁見し旅館に帰りたり。其夜国王より贈物として肥たる一男子を送り、殺して之を食はしめんとせしに、ヘン大に驚て之を辞したり」

 

 

 文化が違う。

 

 われわれが引っ越しの挨拶に蕎麦を配って廻るのと(あい)似通ったテンションで、彼らは人体を贈るのだ。

 

 どうでえ、たっぷり肥えていて、もう見るからに美味そうだろうと、無邪気に好意を滴らせ――。

 

 

「凡て此国にては敵と戦ひ擒となせる者及び国内の罪人を捕て食に供す。人肉を食ふ法は、地を掘て火を焼き、生ながら人を其坑に投じ、板石を覆ひ、暫くして(あな)より出し、切て之を食ふ。ニーゲルにては固より獣肉を食へども、最も人肉を貴ぶと云」

 

 

 もう一度言う、文化が違う。善いも悪いもない。彼らはただ、そう(・・)なのだ。

 

 諦観して納得し、呑み下すより他にない。

 

 とんだ土産話であった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 天理人道は古今各国にて一様ならず。今の世に兄弟姉妹が夫婦たらば不都合ならんと雖ども、アダムイヴの子供は誰と縁組したるや。日本の歴史に仁聖明智の名ある仁徳帝の后は骨肉の妹ならずや。

 

(福澤諭吉)

 

※   ※   ※

 

 

 

 商人の仕事は金儲けだ。

 守銭奴が彼らの本質である。

 

 世界に偏在する富を、己が手元に掻き集めること、一円一銭一厘たりとも(ゆるが)せにせず、より多く。それ以外にない、ある筈もない。またそうしてこそ、それに徹してみせてこそ、敏腕とも呼ばれ得るのではないか。

 

「明治を代表する個人」、福澤諭吉はいみじくも言った、

 

 

「商売は何のために営むものに御座候(ござそうろう)。其目的は利を博し富を得るより外には有之間敷(これあるまじく)候。人間の幸福は富ならでは買ふべからず、人生七十古来稀、幸福を享くべき時限も極めて短きものに候へば、富を得るの工夫も十分に精神を込め、大急ぎに急がざれば間に合ひ兼る事と存じ候」

 

 

 と。

 明治初期――新時代の黎明と言えば、なるほど聞こえは良かろうが。

 

 実態を洗えば、封建の余弊、未だ濃厚。金銭蔑視の傾向根強き御時勢に、斯くも大胆な断定は尋常一様の沙汰でない。囂々たる世間の批難と戦うことを覚悟して、初めて可能なことである。実際問題、福澤諭吉に寄せられた誹謗中傷は凄まじく、「拝金宗」の烙印を全身隈なく、それこそ耳なし芳一みたいに押されていたといっていい。

 

 彼が浴びた嘲罵の中で、

 

「法螺を福澤、(うそ)諭吉(ゆうきち)

 

 なんてのは、まだまだ甘い、愛嬌のある方である。

 

 真実が万人受けのする、耳障りの良い代物とは限らない、格好の見本であったろう。

 

 そう、真実だ。

 

 先に掲げた福澤諭吉の見識に、筆者(わたし)はつまり、全面的に賛意を示すものである。

 

 わけのわからぬ道義的な粉飾は無用。

 どうせ似合いもしないのに、善人ヅラする必要性が何処にある。

 物事はシンプルが一番だ。商人の仕事は金儲け、それで十分、十分だろう。

 

 

 

 ――『東洋経済新報』は、そういう商売人どもを援護するため、明治二十八年に誕生した書物であった。

 

 

 

 記念すべき第一号の社説欄にて、明確に立場を表明している。

 

 

「…夫れ貿易は東西を撰ばず、撰む所は独り利の多寡有無のみ。故に世界列国の経済事情は、我が実業家之に通ぜざるべからずと雖ども、最も精通せざるべからざるものは、東洋諸国の事情に在り。誰れが能く之を確報し且つ世界貿易の大勢を推論するものぞ。

 凡そ此数者は方今の急務に属す、吾輩不肖と雖ども、今日に(あた)り東洋経済新報を敢行するもの亦已むを得ざるなり」

 

 

 と。

 筆を揮うは町田忠治、創業者にして初代主幹。

 社の方針を凝縮したものと受け取り、まず差し支えはないだろう。

 堂に入った文章だった。

 

 以後、順調に刊を重ねて二十七年。

 

『東洋経済新報』は、その号数をついに四ケタの大台に乗せた。

 

 大正十一年五月二十日、第一〇〇〇号の発刊である。

 

 その内容中、ことさら興味を引いたのは、ワイマール――戦敗ドイツの天文学的賠償金に関し論じた箇所だった。

 

 第一次世界大戦で文字通り、尾羽打ち枯らしたゲルマン民族の有様を、本紙は次のように描く。

 

 

「…戦敗のドイツ、生殺与奪の権を敵国に握られてしまったドイツ、死よりも重き負担を課せられても、抗議する力を失ったドイツ、戦勝と怨恨の狂気に正義の声が掻き消された世界に、訴ふるところを持たざるドイツ、彼れに契約の自由はないのであった。勿論、賠償は契約ではなくして刑罰の変形であった。然し彼れは刑事被告人の自由すら有ち得ぬのではなかったか。疑ふ余地なき明白な殺人犯にも、再審控訴其の他の途があって、できるだけ彼れの利益のために備へられてゐるのに、ドイツは何等のものをも与へられなかったのである」

 

 

 相も変わらず、達意の文であったろう。

 

 ヴェルサイユ条約が出来損ないの粗悪品であったのは、二十一世紀現下となれば一般常識の類だが、この時点にて、ここまで深く洞察するのはただごとではない。

 

 未だ多くの日本人が英米仏の垂れ流したるプロパガンダにどっぷり浸かり、カイザー・ヴィルヘルムⅡ世をして「己が器を弁えず、世界征服の野心に駆られ、無謀な戦争をおっぱじめ、案の定国を滅ぼした、愚かで邪悪な皇帝」と看做していた段階で、これは白眉といっていい。

 

 論は更にこう続く。

 

 

「世界は文明の広場において、正義の名を以って、ドイツを、その無限の憎悪と戦勝の狂気からリンチに処したのであった。これが講和条約の正体である。賠償決定の真相である。文明が目覚め、狂気がやむならば、名誉と正義の回復のために、世界は条約修正、賠償再審の挙に出ないでは居られぬだらう」

 

 

『東洋経済新報』は創刊当時の使命を記憶し、果たし続けていたようだ。

 





支那の先哲は春秋に義戦なしとて嘆息したけれども、義戦なきは豈春秋の時代のみならんや。世界古今に通じてあらゆる戦争を計ふるも、一として義戦の名を下すものはある可らず。戦争は唯是れ人間が自利の為めに運動したるものと知るべきなり。

(福澤諭吉)



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で、味は?

 

 

 昭和十五年十月二十三日、大日本帝国、オットセイ保護条約の破棄を通告。

 

 その一報が伝わるや、たちまち社会の片隅の、なんとはなしに薄暗い、陰の気うずまくその場所で、妙な連中が歓喜を爆発させていた。

 

 猟師でも毛皮商でも、はたまた国際社会のすべてを憎む病的国粋主義者でもない。そういう「わかりやすい」連中ならば、態々「妙」など銘打たぬ。

 

 彼らの正体――慈悲を交えず述べるなら、「不能者あるいは不能になりかけている者」。男性としての自分自身の機能に対し、深刻な危惧と不安とに苛まれている人々が、つまりこぞって快哉をひしりあげていたわけだ。

 

 何故か。

 敢えて論ずるまでもない。

 オットセイが性豪(・・)だからだ。

 

 繁殖期に突入すれば、たった一匹のオスにして、二・三十匹のメスを従え、ハーレムを築くは当たり前。

 

 記録によれば百匹以上を己が支配に組み伏せた、とんでもない大物さえ存在していたそうである。

 

 めしを喰うのも等閑(おざなり)にしてやってやってやりまくる、その雄々しさを前にして、人間世界の倫理なぞ、ただ野暮でしかないだろう。問答無用で魅せられる。――男性機能を喪失(うしな)いつつある者にとっては殊更まぶしく、美しく、網膜が焦げる痛みすら、如実に感じたのでないか。

 

 ゆえにこそ、求めずにはいられないのだ。

 

 ――おれも再び、なんとかして、あのように。

 

 と。

 

 渇望はやがて「いかもの喰い」へとたどり着く。

 医食同源と換言してもいいだろう。

 

 オットセイの精巣をスキヤキにして喰わせる店は、条約破棄以前にも「知る人ぞ知る()店」として帝都に存在したらしい。

 

 しかしなにぶん需要に対し、供給量があまりに少ない。常設のメニューにあらざりしは勿論のこと、一見さんでは話にならず、値段もかなり高くつく。

 

 賞味するには、相当以上の幸運と、執念、資力が前提として立ちはだかっていたわけだ。

 

「しかし、条約破棄とも相なれば」

 

 オットセイの捕獲量はきっと上向くことだろう。

 

 市場に流れる精巣も、日を追うにつれ増えてゆく。

 

 我等がありつく機会とて、多くなるに違いない――と、この憐れなる人々は、肩を叩いて頷き合ったものである。

 

 想像するだに気の毒な絵図、まこと儚き期待であった。

 

 どうも彼らは条約破棄を、やりたい放題・獲り放題の宣言と、ごく単純に考えていたフシがある。

 

 当然そんな筈はない。

 

 IWC脱退後の商業捕鯨と同様に、条約破棄後も日本人は節度をもってこれを行い、濫獲は厳に慎んだ。

 

 彼らの期待は、むなしくなった。

 

 なお、肝心要の、「オットセイの精巣のスキヤキ」自体の効果だが。

 専門家からは、

 

「なんという馬鹿げきった代物だ」

 

 と、これこの通り、辛辣な評価を受けている。

 

「微塵も理解していない――ホルモン剤の製造過程で、我々が払う注意・苦心が如何ほどか。有効成分の変質を可能な限り避けるため、どれだけ繊細な抽出法を確立させたと思ってる。熱を加え、醤油を加え、砂糖を加えて煮詰めるなどと、思いも寄らぬ烏滸事だ。論外、論外、論外である。そんな乱暴なやり方で効果覿面万々歳を叶えられては、それこそこっちの立つ瀬がないわ」

 

 ぐうの音も出ぬ正論だった。

 

 あったとしてもプラシーボ効果が関の山、ほんの一時の付け焼き刃に過ぎなかったに違いない。いわばオマジナイの亜種、より以上を期待するのは無理筋と。

 

 いやはやなんとも世知辛い。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 我が子を崖下に突き落とするのは、ライオンのみに限った習性、――専売特許でないらしい。

 

「ロッペン鳥もそれをする」

 

 と、三島康七が述べている。

 昭和のはじめに海豹島の生態調査をした人だ。

 

 そう、海豹島――。

 

 座標系で表せば、北緯48度30分・東経184度39分。大日本帝国の北限近く、南樺太に属す島。北知床半島の岬から、更に南に12キロほど行った場所、オホーツクの蒼海中にぽつねんと浮かぶ、岩礁めいた小島であった。

 

 しかしながらこの小島こそ、プリビロフ諸島やコマンドルスキー群島にも比肩する、オットセイの一大繁殖地なのである。

 

 そういう点で、物理的なサイズに反し、経済および学問上の重要度は極めて高い。

 

 三島康七が上陸したのはまさにその、繁殖のため、オットセイが続々と集まりつつある海豹島であったのだ。

 

 で、一通り調査を終えたのち、報告書とは別にして、平易で砕けた文体の、随筆風な滞在記を一篇書いて遺してくれた。

 

 その記録に云う、

 

 

「ロッペン鳥の卵は三四週間で孵化するが、雛は一週間余雄の運び来る餌で養はれ、やがて母鳥に訓練を受ける。母鳥は獅子の勇敢を以て雛を岩角より砂浜に蹴落とし、自らは渚に飛び行き『此処まであんよ』をやる。数日にして雛は水泳を習得し、次いで飛翔を習ふ。蹴落としの時期には監視人は喧騒で寝付かれぬ程である」

 

 

 と。

 つまりは愛の鞭だった。

 

 それ自体は構わない、健全な母性の発露として寛恕さるべきではあるが、ただ問題は、揮いどきを間違うと、思わぬ惨事を招来することである。

 

 

「蹴落としに際して警戒すべき敵は鴎である。鴎は海獣の屍を啄んだり、胎盤を食ふばかりでなく、崖下に待ち伏せて幼鳥を殺す悪戯もしかねない。此の危難を避ける為に夜陰に乗じて蹴落としが始められる。何となれば鴎は鳥目だから。ロッペン鳥の眼は例外と見える」

 

 

 監視人が睡眠不足に陥る理由も、これで一挙に解けたろう。

 

 昼ではなく、夜の行事であるからだ。

 

 如何な利器でも、使用に時を得なければ、却って反対の結末を、非常な不利益のみを齎す。道学者の物言いめいてしまうようだが、確かに如上の光景からは、そんな教訓を引き出せる。

 

 

 なお、余談だが、どうやら三島康七は、海豹島滞在中にロッペン鳥の卵を食った。

 

 

 とりあえず味を知りたくなるのは日本民族のもはや伝統、抗い難い天性とすらいっていい。

 

 茹でたか、それとも焼いたのか。調理方法まで詳述してはないのだが、とにもかくにも「案外食える」、クセの強さはあるものの、十分うまいと評価可能な範囲であったとのことだ。

 

 



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明治ニッポン奇妙抄

 

 

「なあ、おい、聞いたか、あの噂」

「どの噂だよ、はっきり言えや、てやんでえ」

「どうも世界は滅ぶらしいぜ」

 

 こんな会話を、人類はもう、いったい幾度繰り返し交わし続けて来たのだろうか。

 

 千か、万か、それとも億か。たぶん、おそらく、発端は、西暦開始のずっと前、上古にまで遡り得るから、冗談抜きでそういう桁に及びそうな雰囲気である。

 

 鉄板ネタというならば、これほど固いモノはない。

 

 人間性の深部には、大破壊を求める心が絶えず疼き続けているのだ。

 

「滅ぶっつっても、どんな風にだ、馬鹿野郎」

 

 これは時代と場所とによって多々変わる。

 

 国民性を反映して、とも言っていい。

 

 明治五年の日本に於いては、地球が割れると恐れられていたそうだ。

 

 こう、焼き菓子みたく、パッカンと。

 

 スーパープルームか何かだろうか? とまれそれにて拠って立つ場を文字通り喪失した人類は、アワレ一人の例外もなく奈落めがけて真っ逆さまと、大体そんな予測であった。

 

 よほど巷間に満ちたのだろう、風説は次第に社会の上へ、学者、政治家、経世家の脳中にまで這入(はい)り込み。ついには「三田の洋学先生」、福澤諭吉をしてさえも、ある種意見を吐かしめている。

 

 とは言って、上野戦争の砲声にもたじろがず、講義を続けた福澤だ。

 

 

「明治五年七月とやらに地球が割れるとの噂あり。さてさて恐ろしきことなり。丼鉢のわれたのはおさんどんの不調法といはんか、世界の破裂は其罪を帰すべき相手もあらず、先づ辛抱して時節到来とあきらめるより外に仕方もあるまじ」

 

 

 あやふやもまたいいとこな、こんな程度の風説に狼狽する由もない。みごとに茶にし去っている。

 

 それから八年の時が過ぎ。――明治十三年晩夏以後、またもや「世界は滅びる」と、まことしやかな囁きが帝都各所に木霊した。

 

 ただし今度は具体性を伴っている。「接近する彗星が厄災を齎す」という筋だった。

 

 当時の有力新聞紙、「東京五大新聞」が一角、『郵便報知』にしてからが、その恐るべきを報道している。九月七日の紙面に曰く、

 

 

「本年南方に方りて一大彗星が現出すべし。此星は一八六六年に現出せしものと同じく太陽に衝突すべき推度なれば、蓋し此の彗星は太陽に触るゝや其炎熱に焼れて消滅し、太陽は之が為めに数百倍の熱度を加ゆるを以て、全地球の人畜共に残らず焼死して消滅するに至らんと、此説は欧州の天文博士が推捗せしものなれば架空の談ならずと云ふ」

 

 

 どこのFFのラスボスだ、と突っ込みたくなるだろう。

 セフィロスが放つスーパーノヴァの演出が、確かこんな感じであった。

 

 更にそれから三十年後、今度はハレー彗星の接近で、日本人はまたしても上を下への大騒ぎをやっている。

 してみると、明治十三年度のこの彗星は、ある意味ハレーの前奏とも呼べるのか。

 

 

「伊予国別子の鉱山辺は去月三十日に初雪が降りしより、土地の者は今頃初雪の降るといふは昔より聞いた事もなき事なれば、これこそ世界顛覆の兆也、今に火が降るかも知れぬと心配して居たりしと該地より通信」(明治十四年十一月十七日『朝日新聞』)

 

 

 みんなつくづく好きだねえ。

 

 不謹慎との謗りを恐れず言うのなら、「世界の終わり」はそれ自体、一個のロマンに相違ないのだ。

 

 見れるものなら見てみたい、天地覆滅、狂瀾怒濤、絶体絶命、未曾有の脅威に、この身を暴露してみたい。酒に酔うようなくるめき(・・・・)が、その想像には含まれている。度数はきっと、極めて高い。だから酒と同様に、決して廃れることはない。

 

 ノストラダムス(1999)マヤ歴(2012)も外れた。しかし、さりとて、飽くなき好奇の狂熱は、すぐまた()を発見するに違いない。

 

 今度は何を、どんな具合いにコジ付けるのか。どういう理屈を発明するか、非常に非常に楽しみだ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 伝統とは、ときに信頼なのだろう。

 

 フランスがスエズ運河の開削に、オランダ人らを大挙雇用した如く。

 

 村田銃の量産作業に際会し、明治政府もひとつ凝った手を打った。

 

 玄人衆を引き入れたのだ。

 

 彼らは西南から採った。種子島の鉄砲鍛冶に声をかけ、遥々帝都へ呼び集め、実務に当たらしめたのである。

 

 日本歴史に於いて初めて、国産銃器の製造を成就せしめた工人集団の末裔を、今度、これまた、またしても、日本史上初となる国産ライフルの製造に携わらせたワケだった。

 

 実に妙味な配置であろう。

 心憎い、とすら言える。

 

 この方針はただの絵合わせ、ゲン担ぎ、判じ物にとどまらず、目に見えて良果を示したそうだ。当時の新聞、『朝野』に曰く、

 

 

「往昔葡萄牙(ポルトガル)人が小銃を齎して鹿児島県下種子島に渡航せしより、島人は右の銃を模造して種子島銃と称し内地に売り広め、近年に至るまで益々盛んに行はれたるも竟に廃物となり、該島にある旧家の鍛冶職等は皆手を束ねて嘆息し居たる処、」――ゲベールやらスナイドルやら、はたまたミニエー銃やらと、輸入製品ばかりチヤホヤされてきた、幕末以降を想うべきだ。そりゃあ職人も暇をする――「今般村田少佐が新発明の元込銃を三十万挺製造せらるゝに付、該島にて老練の鍛冶職十余人を召集し製造に従事せしめられしに、其工業著しきを以て更に島中より多人数召募に成ると申す」云々と。

 

 

 ちょっとした歴史再現だった。

 さても快い景況である。

 

「我等は祖先に存するあらゆる心意的、道徳的特性を、悉くその子孫に於て見出すことを期待する」。エマーソンは正しい。イメージの瓦解に遭うのは辛い。「栄えある歴史」を背負った者には、常にそれに相応しい内実を備えていて欲しい。ゆめ看板倒れになってくれるな。勝手な期待と言われようとも、この願望は抑止(とめ)られぬ。生まれ持った性癖に、人は所詮抗えんのだ。

 

 ……ちょっと脱線してしまったか?

 

 まあ、要するに。何が言いたいかというと。

 

 こんな意味でも日本人の魂が充填された武器だったのだ、村田銃と云うヤツは――。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

黒白を 分けて緑りの 上柳

赤き心を 持てよ喜右衛門

 

 

 投票用紙に書かれた歌だ。

 もちろん無効票である。

 

 明治四十二年九月に長野県にて実行された補欠選挙の用紙には、とにかくこのテの悪戯が、引きも切らずに多かった。

 

 当選したのは、上柳喜右衛門。

 12代続く酒屋のあるじで、無効票には明らかに、それを揶揄ったやつもある。

 

 

飲まれても 酒屋なりけり 上柳

 

 

 まず以って、この一首が例としては適当か。

 候補者氏名を書く欄で大喜利を展開する阿呆は、こんな頃から居たわけだ。

 

 大正デモクラシー以前、選挙は当然、制限選挙。十八歳以上の国民すべてが有権者など思いも寄らぬ。満二十五歳以上の男子に加え、直接国税十円以上を一年間に納めなければ貰えない、斯くも貴重な代物を、よくまあ無為に出来たもの。大胆と言えば、なかなか大胆な遊びであろうが。

 

 あるいは勝者が分かりきっているゆえの、捨て鉢的な抵抗ないし嫌がらせだったやもしれぬ。

 

 

雲を平らげ降旗捲かす、

独り舞台の上柳

 

雨風も なくて気楽な 上柳

独り舞台で 心喜右衛門

 

妥協から 出るも幽霊 上柳

身を降旗の 恐れ喜右衛門

 

軍門に 降旗掲ぐも 是非もなく

元太を問へば 金のなきゆゑ

 

 

 このあたりを窺うに、どうもロクな対立候補が存在しないか、資金調達が捗らず、立候補すら覚束なかった気配がにおう。

 

 端から結果は見えている、出目の決まったサイコロ勝負、真面目にやるのも馬鹿くさい。

 

 已むを得ざる人情として、一定の理解は得られよう。

 

 剥き出しの悪意――歌に昇華される前、原料そのまま、素材の味を、投票用紙にぶちまけた、粗忽野郎も居たようだ。

 

 

「涜職院収賄呑六居士アーメン」――やはり酒屋にかこつけたに違いない。

 

「御茶にもならない選挙」

 

「何と書いていゝか更に分らぬ」――だったら白紙のまま出せや。

 

「今度に限り一文にもなり申さず候」

 

「妥協たァなんだべら棒め! 皆んな金だ無警察」

 

 

 総じてえらい剣幕である。

 

 北と南で角突き合って、屡々血を見る争いをする、信州人の気質というのをよく表徴しているだろう。

 

「日本の政治は何度やっても結局源平(・・)になっちまう」

 

 そう呟いて肩を落とした尾崎行雄の心境に、ちょっと共感(シンクロ)できそうな、つまりそんな景色であった。

 





戦場では一度しか死ねないが、政治では何度でも死ねる。

(ウィンストン・チャーチル)



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続・明治ニッポン奇妙抄


「一に統計 二に計画 三に実現理想郷」

(標語・岡山県庁官房課)



 

「歯の健康」。

 

 蓋し聴き慣れたフレーズである。

 

 口腔衛生用品なんぞの「売り文句」として日常的に耳にする。

 

 あまりに身近であり過ぎて、逆に注視しにくかったが――どうもこいつは相当以上に年季の入ったモノらしい。

 

 具体的には百五十年以上前。維新早々、明治五年の段階で、大衆の目に既に触れているようだ。

 

 そのころ東京赤坂で輸入雑貨を扱っていた斎藤平兵衛なる者が、「独逸医方西洋歯磨」なる商品に関連し、こんな広告を出している。曰く、

 

 

「我国従来の歯磨は房州砂に色香を添、唯一朝の形容のみにて歯の健康に害し。抑此歯みがきは西洋の医方にして、第一に歯の根をかため、(くち)(げんぜ)(うごか)ざるを薬方の効験とす」

 

 

 云々と。

「医学の本場はドイツ」という認識の、はしり(・・・)のようでもあったろう。

 

 この歯磨き粉は瓶詰めで、大・中・小の三種に分かれ、

 大が十三匁入り、

 中が十匁入り、

 小が五匁四分入りとの次第であった。

 

 なお、ついでながら、せっかくなので、歯磨き絡みで付け足すと、明治二十九年度に正岡子規が詠んだ句に、

 

 

春風に こぼれて赤し 歯磨粉

 

 

 こんな一首が見出せる。

 

 当時、いまだに練り歯磨きは――少なくとも現代人が咄嗟に言われて想起する、チューブ入りの練り歯磨きは――未登場。歯磨き粉とは文字通り粉状の品ばかりであって、それは専ら、薄紅色になっていた。

 

「この句を味ふのには、それだけの予備知識を要する」――とは、森銑三がその大著、『明治東京逸文史』で言ったこと。歌は背景を踏まえて観賞()むとまた格別な味がする。なんのことはない、史跡めぐりと同様だ。

 

 

 もうちょっと蛇足を加えたい。

 

 

 広告文で感心したのは、なんといっても真崎鉛筆のそれ(・・)である。

 

 本邦鉛筆工業の嚆矢たるの名誉を担ったこのメーカーは、明治二十八年に、

 

 

「真崎鉛筆は広島大本営の御用を蒙り尚従軍記者の御用を蒙れり、又先般貴族院御用を蒙り貴衆両院の賞讃を博し又逓信省より絶へず数十万本の御用を辱しつゝあり、是実に内国製品中第一等の証拠なり」

 

 

 折からの日清戦争の勝鬨に乗じた、こんな広告を打っているのだ。

 

 流行りを上手く捉えたものといっていい。

 

 文章自体の質の方とて上々である。

 

 諭吉先生の教えに曰く、

 

 

「広告文は達意を主とす。余計なる長口上は甚だ無用なり。他人に案文を依頼せぬ自筆の広告文の中には、時に由り文法にも適はぬ悪文もあるべしといへども其意味の分らぬ様の事は決してなきものなり。意味さへ分れば、其文法の可笑しき抔は、自ら其中に其人の率直淡白敢為の気象を示して、却て衆客の愛顧を引寄するものゆゑ、決して恐るゝには足らざるなり」

 

 

 真崎鉛筆の広告は、まさに如上の「率直淡白敢為の気象を示」す類と、筆者の目には映るのだ。

 

 宣伝術、広告法の秘訣に関し、福澤諭吉は更に続けて、

 

 

「唯広告文を認むるには一通り我思ふ儘を書き下したる後、今一度熟読して無用の字句を削り去るべし。六行のものは必ず五行にて済むものなり。一行にても少なければ夫れ丈の新聞広告代を省き得べし」

 

 

 自分自身新聞社を経営しながら、しかも当の新聞紙上でこういうことを――「冗長さは慎んで、なるたけ安く済ませ得るよう励もうぜ。新聞社へのショバ代は、一銭でも切り詰めろ」――言うから凄い。「三田の洋学先生」は、ほとほと自由な人だった。この精神はやはり新聞経営者でありながら「押し紙」事情を暴露した、武藤山治の血の中に、もっとも色濃く受け継がれたといっていい。

 

「人を祭るの要は其人の志を継ぐに在り」。慶應義塾の、実に麗しき伝統だった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 古書を渉猟していると、数字の羅列によく出逢う。

 

 遭遇して当然だ。自論に箔を付けるため、正当性を押し出すために数の威力を借りるのは、(いにしえ)よりの常套手段、王道中の王道ではあるまいか。

 

 例の抜き書く癖により、気付けば随分その種のデータが手元に積み上げられていた。

 

 筆者個人の独断と偏見に基いて、特に印象深いのを幾つか抽出するのなら、例えばこれなどどうだろう。

 

 

ロンドンに於いて一歳中に消費する食料の統計左の如し。

 

 〇魚類   四千億(ポンド)

 〇牡蠣   五千億個

 〇蟹    六千万個

 〇牡牛   四十万頭

 〇羊    百九十万頭

 〇豚    二十五万頭

 

 

 明治の黎明、村田文夫が世に著した『西洋見聞録』中に載っけてあったモノである。

 

 他は措いておくとして、二番目牡蠣の五千億個は凄すぎる。初見の際は我が眼を疑い、次いで誤植を疑って、今なお半ば信じかねているほどだ。

 

 いやサ、まったく、大した飽食ぶりじゃあないか、紳士ども。

 

 インパクトは十二分。永い鎖国で惚けきった日本人の両眼に、「世界規模」とはいったいどんなスケールか、知らしめるには相当効果があったろう。

 

 次はこれ、

 

 

 〇餅    五十貫

 〇砂糖   八貫目

 〇小豆   三斗五升

 〇片栗粉  二十本

 

 

 明治四十二年一月、講道館にて執り行われた鏡開きの式により、消費されたブツである。

 

 品目名を一瞥すれば、何のために使ったか、おおよそ察しはつくだろう。

 

 汁粉をこしらえたのである。

 

 鏡開きの当日も、講道館では常の通り日の出前、午前四時からエイヤの気合い勇ましく、門下生らが寒稽古に精を出し。三百人の若々しい肉体を散々弾ませきってから、漸く午前十時より、鏡開きの式を開始(はじ)めたそうだから、――そりゃこのぐらい喰う筈だ。

 

 エネルギーは枯渇寸前、空腹に甘味が滲みたろう。

 皆、

 

「うめえ、うめえ」

 

 と笑み崩れつつ掻っ込んだに違いない。

 

 少ない奴でも五六杯、多い方では十二三杯をペロリとたいらげ腹八分目と澄まし込む、「豪の者」まで居たそうな。

 

 たまらぬ男どもだった。

 

 さて次は、

 

 

 〇大根   三万本

 〇牛蒡   五万七千本

 〇豆腐   十三万四千丁

 〇味噌   千貫目

 〇醤油   六百石

 〇白米   四百二十石

 

 

 性懲りもなく食い物である。

 

 筆者(わたし)の興味が那辺に在るか透けて見えているようで、甚だ恐縮、赤面するよりない次第。

 

 まあ、それはいい。そんなことはどうでもいい。

 

 今、大事なのは数字こそ。こいつは明治四十四年、親鸞聖人六百五十回大遠忌法要の期間中、京都東本願寺にて調理された糧である。

 

 お斎食(とき)といって、この仏事の期間中、参詣者らは一円出せば宗祖親鸞を偲ぶため、特に考案された料理にありつくことが可能であった。

 

 献立の詳細、以下の如し。

 

 

 本膳    荒布(あらめ)、焼豆腐、牛蒡、白味噌汁

 二の膳   干瓢、麩、吸物、海苔

 三の膳   饅頭三個、蜜柑二個、蘇甘二個、

       菊形薄煎餅五枚

 

 

 これに銀シャリが二合半入りの塗椀に、希望とあらば山盛りにして出してくれたそうだから、精進料理とはいえ、貧相ではない。貧相どころか、結構千万、なかなか見事な御馳走攻めといっていい。

 

 しぜん、台所の喧騒たるや物凄く、ほとんど戦場顔負けだったと伝え聞く。

 

 当時の記述をそのまま引けば、「炊事場には四百余人の男女が午前二時より夕刻まで手も休めず、一斗入の平釜十個にて飯を焚き、菜を煮るには一石入の大鍋六枚、一斗入の鍋五十枚を使用し居れる」云々と、こんな有り様だったから、天手古舞もいいところ、エンジン全開、焼け付く寸前ギリギリを攻めっぱなしも同然だったことだろう。

 

 娯楽の乏しい時代にあっては、宗教がそれを肩代わりする。

 

 そういう事情を勘案しても、一向宗のエネルギーは旺盛だ。戦国時代、あれほど猖獗を極めたのも偶然でない。ある種、妙な納得が、この数値からは湧いてくる。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 頭山満が支那へと渡る、玄洋社の志士五人を連れて――。

 

 この一報に、

 

「ただでは済まない、何かが起こる」

 

 朝野官民のべつなく、実に多くの日本人が同じ戦慄に苛まれ、神経過敏に陥った。

 

 まあ、無理はない。

 なにせ、時期が時期だった。

 

 明治四十四年十二月下旬なのである。

 

 清帝国の断末魔、辛亥革命進行の、真っ只中ではあるまいか。

 

 誰がどう見ても数百年に一度の変事。トンネル長屋の日雇い人足だろうとも、道で拾った新聞片手に

 

 ――過渡期だな。

 

 と、訳知り顔で物々しく頷いたに相違ない、漢民族の正念場。新たな秩序が(ひら)けるか、それとも地獄の蓋が開いて混沌が溢れ返るかの瀬戸際に臨みつつある大陸へ、誰もが認めるアジア主義者で右翼の大親分格が歩武堂々と乗り込んでゆく。

 

 これで劇的想像を掻き立てられねば嘘だろう。

 

 門司港より船に乗るため、西下してゆく頭山満の行く手には、寒気も厭わず、記者がわんさか待ち構え、おまんまの種ござんなれと瞳をギラつかせていた。

 

 頭山満は気前のいい男であった。

 

 彼らの期待を裏切らないでやっている。『大阪毎日新聞』記者のインタビューに答えて曰く、

 

 

「一体今度の革命乱は外部の刺戟とか他人の煽動とかの為に起ったものぢゃない。全く時運が之を促したので、革軍は廃帝や共和政を頑固に主張してゐるから生易しい事ではウント言ふまいよ。ぢゃとて双方共随分金子に窮して居るから、講和成立と否とに拘らず先立つものは金で、困ったことさ、しかし之はお隣ばかりじゃないよ。日本だって財政の遣繰に(もが)いて居るぢゃないか」

 

 

 流石、頭山ほどの男となると、(いくさ)に勝つのに何が大事か心得ている。

 

 糧道の確保は蓋し至上命題だ。補給を断たれて、孤立して、時々刻々と、みすぼらしさだけ弥増して、――そんな人間集団に、獲得(つか)める勝利があるものか。

 

 頭山は更にこう(・・)喋る。

 

 

「俺が上海へ着くのと前後して、孫逸仙も同地に着くさうだが、俺や犬養との間に何か黙契があるのだと御悧巧連は口喧しく言って居るが嘘ぢゃ。偶然出会するやうな訳になるのぢゃ。孫は大分軍資を調達して居る様子だから革命軍は当分兵糧が続くかも知れぬ。何しろ武器弾薬ドッサリの外に、一千万円のお土産があるとは耳寄りぢゃないか」

 

 

 人間万事、金の世の中。

 国を転覆させるにも、新たに興すも、守るにも、要り用なのはカネである。

 

 そう仄めかす頭山満の格好は、どてら(・・・)二枚を重ね着て、寝台上に仰臥したまま記者を相手取るという、田舎の気のいいおっちゃんの標本みたいな姿(なり)だった。

 

 訊けば、折からの痛飲により腹がキリキリ痛むがゆえの、已むを得ざる措置だとか。

 

(これで船旅に堪えられるのか)

 

 あるいはそんな危惧、不安、余計な心配、節介が、インタビュワーの脳中をかすめていったやもしれぬ。

 

 鉄路の比でなく、海路は揺れる、それが頭山の胃腸に対し、どんな作用を及ぼすか――。

 

 そこを慮ったとして、さまで不思議はないだろう。

 

 大陸では十二月二十八日に清朝最後の皇族会議が開かれて、翌年一月一日には中華民国が正式に呱々の声をあげている。

 

 



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日本の底に潜むもの


唵 呼嚧呼嚧 戰馱利 摩橙祇 娑婆訶



 

 大正九年から十年にかけ、布袋竹の一斉開花と枯死が来た。

 

 この「一斉」の二文字を、どうかそのまま受け取って欲しい。

 

 現象が確認されたのは、福島、新潟、長野、山梨、神奈川、東京、栃木、茨城、群馬、千葉、愛知、岐阜、兵庫、大阪、奈良、京都、香川、徳島、愛媛、高知、鳥取、島根、佐賀、福岡、熊本、大分、宮崎、そして鹿児島。四十七都道府県中過半数越え二十八、上は東北から下は九州に至るまで。ブラキストン線の向こう側、北海道を例外とする日本すべての地方に於いてであったのだから――。

 

 竹の開花、それ自体が既に立派な珍事であるのに、こうまで気息が揃うというのはなにごとだろう。どう表現したものか、語彙に惑うほどである。

 

「天地開闢(ひら)けてはじめてのこと」

 

 との修飾がすこしも誇大にあたらない、極めて稀な例だろう。

 

 それまで布袋竹の花といえば実物はおろか標本すら見た者はないと言ってよく、ただ理学士武田久吉が奥日光を登山中、たまたま発見(みつ)け採取した一枝ばかりが存在するのみだった。

 

 ところがどうだ、もはや一般人であろうとも、ごくごく気軽にこの「貴重品」を拝める日が来たのである。

 

「釣具屋にとっては災難だろうが」

 

 私共にしてみれば勿怪の幸い、欣快に堪えぬ事態なり――と、当時に於いて書いたのは、植物学者の川村清一。

 

 布袋竹は特徴として稈の先が細長く、且つ強靭ゆえ釣り竿には最も適した素材であった。

 

 手元の部分は女竹で我慢できないこともなくとも、先端部分はどうしても布袋竹を継がねばならぬ。これがすなわち、当時に於ける定説だった。

 

 ところが今や全国各地の布袋竹は枯れ落ちて、必須材料の供給をために断たれた釣り竿製造業界は、ずいぶんな悲況に見舞われるに違いない。川村の文は、そういう意味を内包している。

 

 彼はまた、この時期なにかの用向きで九州地方を旅したらしく、その途中、

 

 

「熊本より鹿児島行の汽車に乗って沿道の左右を見渡すと、山里に夥しく竹林を成して居るのが悉く褐色を呈して、目も当てられぬ光景である」

 

 

 このような記録をつけもした。

 

(工場の煤煙でも浴びたのか)

 

 不吉な予感が咄嗟に胸をよぎったが、訊ねればすぐ「褐色の部分の竹林」がみな布袋竹から成る地帯だと確認できた。

 

 当時に於ける鹿児島県の竹林は、面積にして実に八千四百四十町歩。うち最大を占めるのが真竹三千十七町歩で、三千十六町歩の布袋竹がこれに次ぐ。

 

 一位と二位を隔てているのは一町歩、紙一枚の僅差でしかない。

 

 角逐し合う両者のあとを孟宗竹千二百町歩が追いかけて、さらに淡竹二百九町歩と、ざっとこのような塩梅である。

 

 上記の如き光景が成立する条件は、十二分に揃っているというわけだ。

 

 それやこれやで、

 

 

「竹の開花は生理現象であるから、絶対に之を予防することは出来ないが、肥料を充分に与へて置けば、かういふ場合に、恢復することが早い。又花が開くと、地中の養分を一時に吸収するから地が疲弊する。故に開花の兆候を認めたならば、平年よりも余計竹を伐って了ふが()い。すると開花の為に地下に貯へた養分を一時に消費することがなくて済む」

 

 

 おそらくは一世紀に一度、使いどころが有るか無いかの、斯くの如き忠言を、川村清一は世に与えている。

 

 

 なお、関東大震災が突発したのは、布袋竹の一斉開花が観測されておよそ三年。大正十二年九月一日のことだった。

 

 

 科学的根拠は何もない、安易な結びつけはやめろ、それは迷信の入り口だぞと自戒に自戒を重ねれど、共に大地に由来している現象だけに、つい想わずにはいられない。

 

 日本の底に、いったい何が潜むのだろう。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

「痛え、医者を呼んでくれ」

 

 岐阜で兇漢に刺された際、板垣退助が本当にあげた叫びとは、こんな内容だったとか。

 まあ無理からぬことである。

 

 死の恐怖を、それもだしぬけに突き付けられて、泰然自若とふるまえなどとそれこそ無理な注文だ。

 

 大正十二年九月一日、溜まりに溜まった地殻変動エネルギーがついに臨界点を超え、関東地方一帯を、時化の海もかくやとばかりに激しく揺らしたあの瞬間。

 

 横浜に不幸な父子があった。

 

 父は書斎でくつろいで、

 息子は庭で土いじり、

 その格好で大震災を迎えたことが、彼らの運命、生と死を、どうしようもなく分かってしまった。

 

 震度七の衝撃に、住宅はむろんひとたまりもなく、象に踏まれたマッチ箱みたくぺしゃんこになり。

 

 脱出が遅れた父の身体は、梁やら屋根やら柱やら、無数の残骸の巻き添えになり、挟み込まれてにっちもさっちもいかなくなってしまったのである。

 

 動転のあまり、息子の魂は消し飛びかけた。

 

 下敷きの状態でも父の意識は明瞭で、苦悶の声をひっきりなしに漏らすのも、彼の青い精神をいよいよ千々に乱しただろう。

 

 救出のため、あの手この手を講ずるが、どれも一向に捗々しくない。

 

 そうこうする間に煙がたちこめ、次いで火の粉が舞いだした。

 

 関東大震災の発生時刻は午前十一時五十八分三十二秒。昼飯時といってよく、調理用に熾された火が意図を外れて広がって、結果街を焼き尽くす焦熱地獄に繋がったのは蓋し有名な話であろう。

 

 この現象はなにも東京のみならず、横浜に於いても発生したと、つまりはそういうことなのだ。

 

 息子は、絶望した。

 父も状況を察したらしい。で、唇を蒼白(あお)くわななかせ、発した言葉が、

 

「何故早く救け出さぬ? 早く早く……親不孝者!」

 

 だったということである。

 

「このままではお前も危険だ。俺のことはいい、もう構わないから、さっさと逃げろ」――そんなセリフ、気遣いは、一言半句もこぼれなかった。

 

「板垣死すとも自由は死せず」と同様に。急場に臨んで感動的な名台詞を口にするのは、実に、実に難しい。

 

「今でもあの末期の声が、親不孝者と怒鳴られたのが、耳の奥にしみついたまま離れないんです」

 

 息子は後に、そんな風に語ったという。聞き役は、朝日新聞の記者だった。震災から既に一月(ひとつき)、三十余日の時間を経たにも拘わらず、彼の形相はつい今がした焼け出されたばかりのような、憔悴しきったものだった。

 

 発行部数を絶対正義と信奉する朝日新聞の記者といえども、この父子を報道するにあたっては流石に実名を出してはいない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 あとで聞いた話によると、地面が揺れて半刻ほどもせぬうちに、もう家財道具一式を大八車に積み込んで、雲を霞と安全地帯へ避難した途轍もない「利け者」が神田辺には居たらしい。

 

 そいつの家には旧幕生まれの老人が猶もしぶとく生きていて、第一震を感じた瞬間、

 

(こいつはまずい)

 

 絶対に大変なことになる、今日の夜には東京全市が火の海だ、留まっていては死ぬるのみ――と、脳天に電極を刺された如く、鮮やかに確信したそうな。

 

「急げ、逃げるぞ。もたもたするな」

 

 口角泡を飛ばしつつ、ときに擂粉木で息子の尻をぶったたき、老人は家人に支度を強制。

 

(因業じじいめ、とうとう物に狂うたか)

 

 あご(・・)で使われる身としては当然思わざるを得ない、腹のふくるる話だが、そこは大正十二年、家父長制の盛んな時代。日本社会全体を統制している習慣に、その大いなる威圧に対し表だって逆らえるほど度胸を練っているやつは、一家の何処にも見当らず。

 

 不満に唇を曲げつつも、命令通りに動かざるを得なかった。

 

 だがしかし、結果的にはその惰弱さが、彼らの生命(いのち)と財産を守ってくれたわけだから、運命というのはわからない。

 

 

 ――そういうことを、大震災ですべての家財を灰にした、辻二郎が書いている。

 

 

 この人は当時、浜松町に腰を据えていたようだ。

 今の港区住民である。

 不幸にも、と言うべきか。彼の家には預言者めいて勘冴える、老爺の用意はなかったらしい。夕刻、火の粉が舞いはじめるまで、べつだん用意もせずにいた。

 

 結果、着の身着のままで芝公園まで逃げる破目になっている。

 

 そこから天に沖する猛炎を見た。

 

(なんと壮観な)

 

 自分の家をも薪の一個とされているにも拘らず、

 その美の下で何百、何千、何万という人間が最大級の苦痛を味わい死んでいるにも拘らず、

 如上の悲愴一切を重々承知しているのにも拘らず、

 辻はその火に魅入ったという。

 

 感動とは、ときに暴力に似るのであろう。理性も倫理も薙ぎ倒し、問答無用で人を慄え上がらせる。

 

 

「…あまりの美しさに嘆声を洩らしたら、すぐ隣の芝生に避難してゐる人が『ビールはどうです』と云ったのに驚いた。『私はこんな物は飲めないんで、誰か飲んで下さい』と云ふので二度びっくりした。此人はどう云ふ心算で自分では飲みもしないビールを持って避難して来たのかは、十五年後の今日まで未だに了解出来ない事の一つである。只自分達の家の焼けて居る火を見ながら、見ず知らずの隣人にビールをすゝめる、まるで宴会で隣の人にお酌をする様な語調でビールをすゝめる此人の気持は、其時の雰囲気からわかる様な気がした。そしてこの『諦め』と『諧謔』は日本人の短所で同時に長所ではないかと思ふ」

 

 

 昭和十三年の震災記念日――今の言葉で「防災の日」に、辻が起こした回顧であった。

 

 なるほど確かに、燃えたものは仕方ない、泣いたところで死んだやつは還らない。

 

 めそめそと、いくら涙に濡れてみせても、効果はしょせん魂の活力を弱らすのみで現実はマシにならぬのだ。ならいっそのことアナトール・フランスのあの(・・)言葉――「われわれはこの世界では諦めるよりほかに仕方がない。しかし高貴な魂の人々は『諦め』に『満足』という美しい名を与えるすべを知っている。偉大な魂の持主たちは聖なる喜びをもって諦める」――に従って、「神聖なる諦め」を、実行に移すべきではないか。

 

 差し出された瓶ビール。微笑と共に受け取ると、辻はそいつをラッパ飲みにしたという。

 

 喉にて爆ぜる泡の味。その痛快さときたらもう、筆舌の能くする範囲ではなく。

 

「あんなにうまいビールはなかった」

 

 目眩(めくるめ)くような陶酔を、十五年後のこの日まで、根強く憶えていたそうな。

 





 この時、うちのおふくろは山の方が安全だって上野の谷中に逃げたんだよ。一緒に逃げた人が、そば粉を持ってた。それで醤油と塩で味付けしたスイトンを作ったら、商売大繁盛。墓地だから箸と茶碗はいくらでもある。お墓の前の茶碗を全部洗って使ったって。たった二日間で、鶯谷に店を一軒持てるほど儲かったらしいよ。だけど、帽子とネクタイの商売をはじめたら、親父がバクチで巻き上げられて、元の木阿弥。すぐ店を閉めたって。
 あの頃の庶民なんて、みんなそんな感じだったんじゃないかな。

(北野武)



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大英帝国、不滅なり


フランスやイギリスに関して見られ得る最も重要な事実は、その地にローマの記念物があるといふことではなくて、この二つの国そのものがローマの記念物だといふことである。

(アンドレ・モーロア『英国史』より)




 

 途中で死ぬのが、永く英人の悩みであった。

 

 羊のことを言っている。

 

 牛と並んで、オーストラリアの名産品だ。

 

 先住民(アボリジニ)を――主にあの世へ――叩き出し、土地を横領、くだんの植民大陸を牧場として整備したのは素晴らしい。

 

 それ自体は上出来だ。

 

 ただ、問題は、輸出であった。

 

 羊毛、食肉――そういう部品(パーツ)ごとに分けての出荷ならば別にいい。さして苦もない作業であるが、

 

「生きた羊をそのまま寄越せ」

 

 と註文されると難しい。

 

 羊は陸上生物だ。

 

 土の上でこそ活きる。

 

 船旅に不得手であることは、いっそ惨めなまでである。慣れぬ環境、募るストレス、周囲のすべてが彼らを弱らせ、結果バタバタ死んでゆく。その損耗こそ、何十年もの長きに亙り、英人の悩みの種だった。

 

 無駄を省くは東西問わず、人間社会の鉄則だろう。本能的に我々は、効率の追及を「善」とする。英国人も盛んに「善事」を行った。

 

 馬鹿気た損耗、無為に積まれる死の山を、ただあんぐりと口を開いて拱手傍観できるほど、彼らは老いていなかったのだ。多くのことが試された。その中の一、1879年に執られた手段が面白い。

 

 簡単に言うと、羊を仮死状態にするのだ。

 

 それから運ぶ。送り先にて復活させる。途中の飼料も削減できて万々歳なことである。むろん、上手くいけば、だが。いったい生命(いのち)が、そんなフリーズドライ食品みたく、都合よく停止・解凍処理を施せるものか、どうなのか。

 

「案ずるより産むが易し。とにかくやってみることだ」

 

 で、彼らは実験をした。

 

 その報告は驚きを以って迎えられずにいられない。成ったか成らぬかより前に、抑々そんな挑戦自体、神への冒涜ではないか?

 

 生命倫理うんぬん絡みの七面倒な紛糾は、この時代からもう既に開始(はじま)っていたようである。

 

 騒ぎが大きくなるにつれ、波紋はついに日本国の理学会――生まれて間もなく輪郭も未だあやふやな、軟く小さいこの辺陬の上にまでも到達し、確かな揺らぎを与えていった。

 

 面白く、且つありがたいことである。お蔭で後世の我々が、気になる実験内容を、日本語で追いかけられるのだから。

 

 当時の記事を読み解くに、肝心要の仮死状態は何か特殊な薬剤注射で引き起こされたものらしい。曰く、「銀管をもって羊の体中に薬汁を刺入すれば、倏然として頓絶し、斯くて之を再活せんには、羊の耳孔に脂油をつめ、適度の温湯に頭尾共に沈め、五分を経て其頭は湯より出し、耳孔の脂油をすて、頸以下猶ほ其湯中に浸入しおきときは、頓て羊は飄然として跳り出づるとならん」――蘇生措置に至っては、なにやら儀式めいていて、怪しい雰囲気すらにおう。

 

 この研究が、はたしてどれほど実を結んだか。

 

 2018年の事件を一瞥すれば、たちどころに瞭然たろう。

 

 このとし、オーストラリアから中東へ向かう貨物船の船中で、二千四百頭もの羊が熱ストレスで死亡した。

 

 家畜類の生体輸出にかかわるリスクは、1879年の昔時から、大して改善されてない。そんな風に判断するほか、これは仕様がないだろう。

 

 仮死状態からの復活――そんな便利な沙汰事が、もし実用化されていたなら、斯くも酸鼻な事件など起こりようがない筈だ。

 

 つまりはそういうことである。

 

 科学の進歩も、なかなか以って難しい。

 

 その道程は数え切れない徒花によって満ちている。あえなく散った花弁(はなびら)を、たまにはそっと拾い上げ、眺めてみるのも一興だ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 こと諜報の分野にかけて、英帝国は玄人である。

 

 何故こんな事を知っているのか、何処からソレを掴んだか――。

 

 いっそ魔術的とすら謳いたくなる暗中飛躍は舌を巻くより他なくて。――日本の古い仏教系新聞に、あの連中の底知れなさを仄めかす記事が載っている。

 

 

「岩倉公が先年英国に赴かれし時、同国女帝が日本の経典を好まるゝ由を聞かれ、帰朝の後一切経を送られしかば、彼の国よりも種々の珍書を同公に送られしが、今度又同国より、我邦古伝の貝多羅梵莢を写し贈りてよと請ひ来りしかど、南都法隆寺より献ぜし物は正倉院の勅封中にて間に合はず、其他は何れにあるか詳かならねば、右大臣より西京妙法院住職村田教正に依頼され、心当りの寺院もあらば捜索して写し贈られよとの事に付、同教正は天台真言の諸教生に謀り、江州坂本来迎寺の所蔵のものを写し取るべき手筈なり」

 

 

 明治十三年七月の『明教新誌』が報せたものだ。

 

 ヴィクトリア女王が仏教に深く関心あらせられたと、この段階でもう既に驚くには足るのだが、続く内容はどうだろう。

 

 正倉院以外には写本さえも存在するかわからない、岩倉具視ほどの男がその人脈にモノを言わせてやっと確報を得るような、非常に古くまた珍しい経典を、そもどうやって知ったのか?

 

 態々名指しで註文してきている以上、概要程度は把握済みと見るべきだ。目星はちゃんと付けている。だが、繰り返すが、どうやって? 日本人ですら九分九厘までは聞いたこともないような、そんな秘宝の情報を、連中何処から嗅ぎつけた?

 

 これだから英国紳士はおそろしいのだ。

 

 なお、ついでながら記しておくと、和暦明治十三年、西暦にして1880年というこのとしは、女王陛下のお膝元、ロンドンの骨董品店に「孔子のドクロ」が現れて、漢学者どもを狼狽せしめた時節でもある。

 

「おやじ、由緒は?」

「よくぞ訊ねてくだすった」

 

 さるアロー戦争のどさまぎ(・・・・)に、円明園からかっぱらった品である――と店主は説明していたが、真贋のほどは、実に怪しい。

 

 どうせ偽物だったろう。

 

 源頼朝に文覚上人が見せつけた、「御父君の頭蓋」とやらと似たり寄ったりな代物だったに違いない。

 

 ただ、孔子の方の(・・・・・)ドクロには、大小無数の宝石がとりどりに散りばめられていて――そういうところが如何にも虚喝的であり、いかがわしさと言うべきか、ニセモノ感を増すのだが――、これを剥がして一個一個売ったあと、残った骨に二束三文の捨て値をつけて陳列されてあったのだとか、なんだとか。

 

 十九世紀大英帝国、紛うことなき世界の中心。

 

 であるがゆえに彼の地には、浮世のすべてが集まった。必然として奇談珍話の類をも、ひっきりなしに生産せずにはいられなかったと、つまりはそうした道理(ワケ)だろう。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 露帝ニコライ一世は身を慎むこと珍奇なまでの君主であって、例えば彼が内殿で履いた上靴は、生涯一足きりだった。

 

 むろん、時間の荒波により生地は痛むし穴も空く。しかしながら空くたびに、針と糸とを携えた皇后さまが、

 

「まあたいへん」

 

 と駈けつけて、せっせとこれを繕った。

 

 そんなこんなで、東郷さん()の障子のように滅多矢鱈と継ぎ当てされたその靴は、主人の没後も永く殿中に保持されて、遥か後世に向けてまで彼の徳を投射する触媒として機能した。これぞ王者の亀鑑なり、皆々仰ぎ(そうら)えと、主にそんなニュアンスで。

 

「然り、亀鑑(・・)だ、いい手本だよ」

 

 節倹こそは権力者の自衛策、富豪が行う慈善事業と同様に、身を保つため不可欠なモノ――。

 

「そうした観点からいって、露帝ニコライ一世はまさに模範と呼ぶに足る」

 

 おそろしく乾いた理性の筆でそんな意見を述べたのは、毎度おなじみ福澤諭吉。

 

 慶應義塾唯一の「先生」たるこの人は、何の容赦も感激も混じらせることなきままに、襤褸靴の価値を腑分けした。

 

 

「和漢古今の名君賢相と称する人物にて節倹を重んぜざる者なく、人心の帰服するは単に此一点に在りと云ふも可なり。蓋し君主政治の国柄に於て、執政者の権力無限なるものは、却て自ら之を節して(ほしいまま)にせず、政治上の権威こそ盛なれども、肉体の快楽に至りては無責任の人民に及ばざること多し。君相たる者も中々以て苦るしきものなり、左まで羨むに足らざるものなりとの趣きを示して、国民の道徳心を刺衝すると同時に、其羨望の念を断絶せしめるの必要に出でたることならんのみ」

 

 

 文中用いられている「羨望」の字は、そのまま「嫉妬」に変換しても可であろう。

 

 小人の妬心ほど恐るべきものはないのだと、たとえどんな大人物でもこの毒煙に(まみ)れたが最後、五臓六腑は腐敗して、足腰立たなくなるのだと、そのあたりの機微につき、福澤諭吉は知りすぎるほど知っていたに違いない。

 

 実際問題、彼の掲げた帝室論は的を射ている。現代日本社会でも、いと貴き場所の方々が公に姿を現す場合、いの一番に話題になるのは装束の()だ。ティアラがいくら、ドレスがいくら、新居の予算がいくらだの、愚にもつかない次元のことで立ち騒ぐ。

 

 結局のところ、大した差は無いのであろう。現代人と明治人とで、精神のツボ、勘所は共通だ。だから福澤の見抜いた習性、処世のコツも、多く通用し続ける。

 

 嘆けばいいのか、喜べばいいのか。

 

 あらゆるすべてに先例がある。この疑問すら先人たちが、とうの昔に悩み尽した代物なのだ。参照するに如くはない。

 

「現代文化人の精神能力は、最盛のギリシャ時代より遥かに低い」

 

 と、肩をすくめて嘯いたのは二十世紀黎明の、とある英国紳士であった。

 

「人類の精神能力の退化と進化とを説くは、一つの妄想である」

 

 これまた英人、チェンバレンの放った皮肉。

 

 いったいイギリス人というのは厭世主義に傾倒してすら悠々迫らざるというか、心の余裕の担保を忘れることがなく、「老熟」の印象、いよいよ募る。

 

 初代ボリングブルック子爵、ヘンリー・シンジョンに至ってはもう堪らない。

 

「世の中に生れて来るのもなかなか厄介だが、世の中を出ていくのもまた一層厄介であり、気が利かないことでもあるので、いっそ最初から生れて来ない方がマシだ」

 

 これだけ深刻なことを言いつつ、しかし同時に、どこか瓢げているような、爽やかさも含まれていて、よくよく練られた人格を背後に感ずるものである。

 

 なお、シンジョンは上の如き意見を呈しておきながら、自分はちゃっかり還暦越えて、七十三歳まで生きた。

 

 彼が主に活動したのは十八世紀。当時に於ける平均寿命を鑑みて、これは十分、長寿と呼べる。英国人とは、つまりこういう奴である。なんともはや天晴れな、世巧者どもではあるまいか。

 





偉大なる才能を以って人を驚かすとも、同時に欠点と悪徳との配合を以って他人の嫉妬心に慰安を与える場合には、甚だしき嫉妬の中心たることなし。

(初代ブラックバーン子爵、ジョン・モーリー)



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真面目な変態野郎ども


野心を愛す。野心なきは死人のみ。

(真渓涙骨)




 

 日光東照宮こそは、家光の狂信の結晶である。

 

 先述の通り、家康をして日本歴史開闢以来、最大・最強・最高の英雄なりと百パーセント心の底から信奉していた家光は、神にも等しい、そういう祖父の、御霊を祭るための廟所は、これまた当然、日本史上最高の()でなければならないと確信しきっていたらしい。

 

(そうだ、そうとも、権現様は、太閤などよりよほど格上なのだから――)

 

 従って東照宮の建築は、かつて秀吉が生み出した聚楽・伏見を凌駕する、いやいや遥かに引き離す、空前絶後の究極構造体として昇華されなければならぬ。それでこそ徳川と豊臣の、歴史に対する格付けにもなる。こういうことを、彼は本気で考えた。

 

 もはや、使命感の領域だった。

 

 大坂の陣も昔語りとなりつつあったこの時期に、未だ豊家へ対抗意識をメラメラ燃やし続けるという、この一事だけを見てみても、徳川三代将軍は奇人であったに違いない。

 

 そして彼は、これをみごとに現実化した。

 

 伊東忠太に「江戸期最大の変態建築」と称された日光東照宮の完成である。

 

 むろん、褒め言葉であった。

 

「古来奇矯を以て称せらるゝ顕著なる建築は、何れもその動機は真剣である。仮令その主義その心事に多少の無理があり、多少の欠点があっても、真剣で熱誠で徹底したものならば、そこに必ず人に深い感動を与ふるものがあり、そこに芸術的価値が認めらるる。予は今後日本に、否世界に、奇矯なる建築の続出せんことを希望して止まぬ。但し奇矯は必ず真剣なる心理から出たもので、よき意味に於ける超凡を意味することを条件としてである。成敗利鈍の如きは、素より問ふところではない」――この「真剣ゆえの奇矯さ」の最上級にカウントされる存在として、伊東忠太は東照宮を持ってきているわけである。

 

 納得のいくことだった。

 

 なんとなれば、築地本願寺の設計に代表されている通り、伊東忠太その人からして「世間並みの定型」におよそ嵌ることのない、奇抜というか奔放というか、融通無碍なデザインセンスで名の通ったる人物である。

 

 それだけに少なからず家光へ、祖父のためなら暴虎馮河も厭わない、この生真面目な狂信者へと、好意の加算があったのではなかろうか。

 

「信仰が暴挙を生み、暴挙のみが奇跡を生む」。

 

 ジャック・ハンマーの理屈とも、これは何処かで通じ合う。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

「結石の美しさを知っているかね?」

 

 これはまたぞろ、レベルの高い変態が出た。

 阿久津勉という医師に、初対面にて筆者がもった、偽らざる印象である。

 

「結石は、尿道にこう、膀胱鏡を差し込んで、膀胱内に転がってるのを見るのがいちばん美しい。指輪やネクタイピンにでもしたいぐらいの煌めきだ」

 

 断っておくが、筆者(わたし)はべつに、話を盛ったりしていない。

 本当にこういう意見を述べている、悪びれもせず堂々と。昭和十三年に物した『尿路の石』なる、蓋し直截な題字の下の随筆で――。

 

「ところがいざ取り出して、乾燥させてみた場合、結石の美はたちまち消え失せ、むしろ汚らしさばかり増幅するから残念である。刹那のきらめき、と言うべきか。膀胱鏡越しにしか(まみ)えることの叶わない、儚い美しさなのだ」

 

 実に特殊な美的感覚(センス)の持ち主である。

 そんな阿久津医師(センセイ)の、今まで手掛けた患者の中で、いちばん綺麗な結石を宿していたのは誰なのか。

 

「それはもちろん、前立腺肥大で運ばれてきた、八十二歳の老人である」

 

 ……急に背中が痛みはじめた。位置からいって、腎臓付近だ。

 

 なんとはなしに堪え難い思いが募るので、ここから先は、本人の言葉をそのまま引こう。

 

 

「特に記憶に残ってゐて美しかったのは、八十二歳の接護腺肥大の老人の膀胱の中にあったものである。二、三百個の小豆大の真赤な真珠とでも云ひ度いやうな小球が散在して、さながら海底の美しい風景をみるやうな気がした」

 

 

 とのことだ。

 勝手に自分の膀胱内部を真珠転がるエーゲ海に擬えられた、この老人こそいい面の皮であったろう。

 とまれかくまれこの一文で、阿久津勉は私の中で、茂木蔵之助と同位同格の変態としてエントリーされる運びとなった。

 

 左様、茂木蔵之介。

 

「病の味覚診断」という画期的な診察術を提唱し、実証のため外科手術の都度、摘出された肉腫を喰らい噛み心地を確かめた、慶應大学外科学教室・初代教授の彼である。

 

 大正・昭和――ひっくるめて「戦前」という時間区分に活躍した医学者は、どうもこういう個性的な面子が多い。

 自己の変態性癖を満足させたい一心で、「医」を志したんじゃあないか――。そんな風に勘繰りたくなる連中が。

 

 そして得てして、そういう者ほど、腕自体は抜群に優れていたりするものだ。

 

 当時に於ける評判もいい。好きこそもののなんとやら、大成するのに情熱は、やはり欠かせぬファクターか。

 

 

「医術は医学に通じてゐれば出来るが、医業は人間味が医術を按梅するものであるから、医学だけでは完全に行かぬ。人造人間に医術は出来ても、医業はうまくさせられまい」

 

 

 高田義一郎の箴言である。

 

 〆に掲げておきたくなった。これは彼の盛時より、現代社会に於いてこそ重い響きを持つゆえに。思えば高田先生も、変わり者と言うべきか、性格上に結構な偏りを持っておられた人だった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 脚を折ったら豚足を、モノが勃たなきゃオットセイの睾丸ないしは陰茎を。

 病み苦しんでいる時は、患部と同じ部位をむさぼり喰うことで、恢復がより(・・)早くなる。

 異類補類、同物同治の概念だ。

 

 漢方、すなわち大陸由来の智慧として、一般には知られるが。――どうも、どうやら、この発想は、漢民族の専有物ではないらしい。

 

「古代ギリシャにもあった」

 

 指摘したのは明治生まれの日本男児、伊藤靖なる男。

 

 福島の産、東京帝大薬学科の門に入り、卒業後には技師として、製薬会社に腕をふるった――早い話が大正・昭和という時期の、クスリのエキスパートだった。

 

 医史に通暁していても、さまで不思議はないだろう。むしろ当然の嗜みである。

 

 彼は言う、

 

「ヒポクラテスが、それ(・・)をやったさ。

 頭痛の患者に鳥の脳を煮て食せしめ、

 肝臓疾患には驢馬、鼬、鼠、鳩あたりの肝臓を、

 腎臓患者には兎の腎臓、あるいは牛の脾臓を、煮たり焼いたりして与え、

 振顫(しんせん)には兎の脳を、

 呼吸困難には狐の肺を、

 眼疾には牛の目玉を喰わせたと、それぞれ伝えられている」

 

 Ubisoft珠玉の名作、『アサシンクリード オデッセイ』にて再現されたヒポクラテスも、食と医療の紐帯を強調していたものだった。

 信憑性は、それなり以上に高いのではあるまいか。

 

 そういえば江戸時代の遊女なんぞも美白効果を期待して、湯浴みの際には蛇の脱け殻を以ってして肌を磨いたと聞き及ぶ。

 

 世間並みの糠袋では満足できない、駄目なのだ。ありきたりな努力では、いつまで経っても群を抜けない。ただズルズルと埋れてしまう。それが厭なら、趣向を凝らせ。奇に走り、神を欺き、自然の意表を突いてでも、より美しくなってやる――。

 

 彼女たちは正しい。

 野心の炎に焼かれていてこそ人間だ。

 上昇志向に幸あれである。姿勢自体は素晴らしい、文句をつける由もない。

 

 ただ、留意しておくべきなのは、一ツ目的に必死になればなるほどに、その足元を掬わんとする奸譎狡知な連中も虫蟻(ちゅうぎ)の如く湧いて出るということだ。

 

 ――再び伊藤靖に戻ると、クスリというものにつき、彼は警告して曰く、

 

 

「薬、或は治療法には甚だしく流行が起るのを常とする。極く最近にしてもラジウム時代、カルシウム時代、ヴィタミン時代とも称すべき流行期の存在したのは誰しも認める処であらう。斯かる事実は薬がやゝもすれば世人に科学的に取り扱はれない証左でなければならない。此の故に薬は昔日にあっては宗教家なるものに利用され、現代にあっては商業主義に利用されるのみでなく悪用さへされるのである」

 

 

 水素水、マイナスイオンに、クレベリン。

 グルテンフリーに、ああ、そういえば、テスラ缶なんてわけのわからぬのもあった。

 以上を見てきた身としては、伊藤靖の言葉に対し、納得以外のなにものをも抱けない。

 

「人類の精神能力の退化と進化とを説くは、一つの妄想である」。チェンバレンの嘲笑が、呪いのように木霊する。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

「歯科医ほどつまらぬものはない」

 

 暗澹たること、鄙びた地方の墓掘り人足みたいな(かお)で、真鍋満太は言っていた。

 

 自分で選び、自分で修めた道ながら、この職業の味気なさはどうだろう。毎晩毎夜、布団にもぐりこむ度に、我と我が身の儚さがここぞとばかりに押し寄せて、いっそ消滅したくなる。――そういう愚痴を、昭和十年前後に於いて、くどくど掻き口説いている。

 

「何故かと言って、考えてもみろ。俺が虫歯を治療(なお)してやって、大変見事に出来たとしよう。いや、仮定じゃなく、何度も何度もなんべんも、到底義歯とは見分けがつかぬ、生まれながらの歯みたいに、完璧に仕上げてきたんだが。すると患者はお定まりの口上を、

 

 ――これは素晴らしい仕事です。なんて自然(ナチュラル)な出来栄えだ。

 

 さも嬉し気に謳い上げ、輝くような笑顔と共に去ってゆく」

「結構なことではないか」

「それ自体はな。ところがだ、褒めるのはその場限りなんだよ。決して他所で、誰か第三者に向けて、俺の技術を称揚しない。そりゃあそうだな、歯医者の腕を褒めるってのは、そのまま自分の歯が人工(ニセモノ)と告白するのと同意義だ。何のために自然に仕上げてもらったか、これじゃあちっとも分からない。みすみす虫歯になるような、だらしのない生活態度を誰も好んで悟られたくはないんだよ。だから言わない。斯くて我が名は永久に埋れ隠される」

 

「――そこをいくと」

 

 と、ここから先の真鍋満太の口ぶりは、もはや怨嗟の相すら帯びる。

 

「ほかの技術屋は幸福だ。機械にしろ建築にしろ、その作品は白昼堂々、大っぴらに晒されている。衆の興味をすぐに引く。ただ優れてさえいたならば、あれは誰の設計だ、これを発明したのは誰だと、一直線に称賛される。――歯医者ほどつまらぬものはない」

 

 学者もまた、名利を欲す。

 当たり前だ。彼らは決して仙人ではない。科学の殿堂と言われると俗塵とはまるで無縁な、滅菌された大理石の柱廊でも連想しがちなところだが、これとて所詮は偏見だ。

 

 いやしくも人間である以上、その胸奥には野心の炎を燈すのだ。

 

 福澤諭吉も言っていた、

 

 

「軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ、孰れも熱心で、一寸見ると俗なやうで、深く考へると馬鹿なやうに見えるが、決して笑ふことはない。ソンナ事を議論したり理屈を述べたりする学者も、矢張り同じことで、世間並に馬鹿気た野心があるから可笑しい」

 

 

 と。

 自伝に、あるいは『時事新報』の論説に、よく見出せる趣旨だった。

 

 福澤の偉大さとはここ(・・)だ。あれほどの碩学でありながら、およそ高尚ぶるところがなく、自分の中の俗物性を直視して、時と場合次第では、それを誇示することもやる(・・)。実にシャアシャアとしてのける。だから好きだ。福澤諭吉に比較(くら)べれば、武藤山治、小泉信三、尾崎行雄であろうとも、いい子ちゃんであり過ぎる。

 

 

 まあ、それはいい。

 

 

 兎にも角にも、承認欲求に餓えていたとて、それが理由で真鍋満太の価値が減ずることはない。

 

 しかし真鍋も、ほんの慰みがてらに洩らした他愛もないこの愚痴が、「聞き役」としてたまたま選んだその男――工学博士・辻二郎の指先でしっかり文字に起こされて、世紀を跨いで伝えられる破目になるとは、まさか夢にも思わなかったに違いない。

 

 死後の世界があるならば、慙愧と羞恥に頭を抱え、転げまわっているだろう。

 

 あいや、それとも、悪名は無名に勝るといって、却って喜悦しているだろうか?

 

 男の功名心というのは、まったく怪物的だから――。

 

 



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亡国哀歌


理屈を言ふ前に、先づ強くなれ。

(永田秀次郎)



 

 ここに一書あり。

 大雑把に分類すれば嘆願状に含まれる。

 さるハワイアン女性からアメリカ国民全体へ訴えかけた文である。

 一八九三年二月十三日というのが、その書の提出()された日付であった。

 

 左様、一八九三年、ハワイ王国落日の(とき)――。

 

 書き手は尋常(ただ)の女ではない。

 やがて国を継ぐべき者だ。

 

 その大任に相応しい「自分」を形成するために、故郷を遥か、地球の反対側まで行って研鑽に励んでいたところ、当の祖国が亡んだと、かたじけなくも現王は叛臣どもに取り囲まれて玉座を棄てるの已むを得ざるに至ったと、そんな悲報の入電だ。

 

 疑いもなく踏みしめていた足元が、いきなり海に変化したのも同然のショックだったろう。私はどうすればいいんだと、髪ふり乱して絶叫しても許される。切羽詰まった袋小路の局面で、しかし彼女はペンを執り、慄えんとする指先を意志の力で抑えつつ、一文字一文字、掘り込むように(したた)めた。

 

 ここまで言えば分明だろう。

 

 やがて国を継ぐべき御方、手紙の送り手、「彼女」とは、当時に於ける王位継承権第一位、ヴィクトリア・カウェキウ・ルナリオ・カラニヌイアヒラパラパ・カイウラニ・クレゴーン王女殿下に相違ない。

 

 前置きはもう十分だ。

 肝心要の手紙の中身を以下に引く。

 

 

 米国民に訴ふ。

 

 四年前、余はハワイ内閣大臣サーストン氏の要求により、一個人として教育を受け、ハワイの憲法によって余が(まさ)に嗣ぐべき所の地位に相応すべき準備を為さんが為め即ち英国に送られたり、爾来余は異邦にありつゝ本年の帰国に差支えなき様忍耐して専ら身を修めたり、然るに今やサーストン氏はワシントン府にあって、余が旗と余が位を奪ひ去らんことを諸君に請求し居ると聞く。此事に就きては何人も官式的にだに余に報じ呉るゝ者なし、余に如何なる曲あってか、余と余が民も斯る曲を受けんとはするぞ、余は我が王位我が国民我が国旗の為に弁ぜんとして将にワシントンに行かんとす、卿等偉大なる米国の民は、果して余に聴かざるや否。

 

 二月十八日ロンドンに於て

    カイウラニ手署

 

 

 実に達意の名文である。

 留学の甲斐はあったと看做して可であろう。

 

 大きな国の都合によって磨り潰される小さな国の断末魔。その曲調は哀切を帯び、聴者の胸を否が応でも締めつける。人類誕生からこっち、天と地の狭間の浮世にて、数多響いた葬送曲の中にあっても、これは一際(ひときわ)、異彩を放つシロモノだ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 革命直後のペテルブルグでとみに流行った「遊び」がある。

 凍結したネヴァ河の上で行う「遊び」だ。

 それはまず、氷を切って下の流れを露出させることから始まる。

 

 これだけ聞くとワカサギでも釣るみたいだが、しかし穴の規模はずっと大きく、また釣り竿も使わない。

 

 やがて「玩具」が運ばれてくる。「玩具」とはつまり、帝政時代の富豪や貴族、将校、僧侶――まあ要するに、ツァーリの下で甘い汁を吸いまくっていた連中だ。

 

 こいつらを穴の中に放り込み、溺死に至る一部始終――悲鳴を上げて苦しみ藻掻く有り様をにやにや笑って眺めるのが、つまりは「遊び」の正体だった。

 

 チェキストでもなんでもない、ただの民衆がこれをやるのだ。

 やって、享楽に耽るのだ。

 毎日のように。

 常軌を逸した景色であろう。

 

 しかしながら将軍の娘というだけで、十二歳の少女が処刑場に牽き出され、弾丸のシャワーを浴びせられるのも茶飯事だったかの時代。裏通りをちょっと覗けば、肩の肉に直接徽章を縫い付けられた士官の死体がゴロゴロしていたかの時代。正気と狂気の境界は極めて曖昧模糊であり、誰も彼もが気付かぬうちに越えてはいけない一線を背後にしている状態であり、つまるところは何が起きてもおかしくはない「場」であった――成立直後の赤色ロシア、ソヴィエト連邦という国は。

 

 うろ覚えだが、フランス革命時代にも、河川はギロチンの代役として用を勤めていたはずだ。反革命の咎人どもの服を剥ぎ、廃船に押し込めるだけ押し込んだ後、適当な深さのあるポイントまで漕いでいって、底を抜く。何十人、何百人もの人間が、いっぺんに溺死させられた。

 

 占領期の米兵も、よく行きずりの日本人を橋から河に投げ落としては殺したし、向こう(西洋)にはそういう文化があるのだろうか? つまりは河を処刑器具に擬したがる、といったような。

 

 

 まあ、それはいい。

 

 

 自由主義者で人情家、新渡戸稲造の忠実な弟子、くだんの鶴見祐輔の発した言に、以下の如きものがある。

 

 

「征服者と被征服者との生活の相違、それは劫初以来人類の繰り返してきた歴史だ。さうして征服者が栄華に慣れて心身ともに退化してゆくと、今度は今までの被征服者に征服されてゆく。ただ被征服者はあまりに永い忍従刻苦の生活のために、明るい日を見ることのできないやうな眼になってゐることがある。さうすると、その被征服者の反逆は、より善き社会を作らずして、より暗黒なる社会を作る」

 

 

 いみじくもロシア人たちは、この発言の正当性を保証した形になるのであろう。

 あるいは鶴見祐輔自身、少なからずそれ(・・)を意識したやもしれぬ。

 なんとなれば如上の言が示されたのは、モスクワ探訪後の彼によってであるからだ。

 

 時あたかも昭和七年、西暦にして一九三二年。鶴見はソ連に入国している。空路によって、首都近郊に降りたのだ。

 

 革命からしばらく経って一応の安定に到達したモスクワは、

 

 

「旅人は、この町の中に入った瞬間から、ある強い圧力を総身に意識する。自分は誰かに凝視されてゐる、といふ感じが、絶えず重苦しく頭の上を抑へてゐる。全身を縛ってゐる。心を警戒してゐる。強い政府の下に来てゐるといふ感じが、犇々と迫ってくる。旅人ですらさうなのだ。町の人の夜昼受けてゐる圧力は、どんなに重苦しいものだらう。

 その圧力は、投獄と死刑とシベリアへの流罪の外に、餓死といふことだ。食券をもって日々の生命を支へてゐる人々は、いつも餓死線上に立ってゐる。一歩誤れば、劇しい餓との闘ひだ。大勢の人が行列してパン屋の前へ立ってゐる」

 

 

 斯くの如き印象を、鶴見の心に与えたそうな。

 

 要約すれば「陰惨」である。世人が「ソ連」の二文字から連想する内容と、そう距離を隔てたものでない。

 

 折しもこの一九三二年は、ウクライナにて空前の、悪夢の如き大飢饉――ホロドモールの幕が開いた年だった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 飢餓ほど無惨なものはない。

 飢えが募ると人間は容易く獣に回帰する。空き腹を満たすことだけが、欲求の全部と化するのだ。

 

 朝めしはスープを、――それもキャベツと小魚だけがおなぐさみ(・・・・・)程度に浮いている、塩味のスープを飯盒の蓋に半分ばかり。

 

 昼食は抜き。一日二食を強制される。

 

 しかも夕めしの貧しさときたらどうだろう。雑穀入りの黒パン一個、重量にしてなんと二十五グラムという、マッチ箱かと見紛うようなきれっぱしだけ。本当にただそれだけである。鶏小屋にも劣りかねないメニューであった。歴とした成人男性の肉体維持には、論外としか言いようがない。

 

 おまけに季節は冬だった。

 

 ただでさえ熱量が不足する時期、この欠乏は、もはや迂遠な殺人である。更にその上、きついノルマの労働までもが「義務」なりとして降りかかる。来る日も来る日も深雪を掻き分け山に入り、八時間の伐採作業。拷問であろう。たとえどれほど楽天的な性善説論者とて、この環境の裏面には、粘こい悪意が蠢いていると見るはずだ。他人を苦しめ喜悦する、下衆野郎の薄汚いサディズムが――。

 

 今日びフィクションの世界でも滅多にお目にかかれない、「リアリティがない」として駄目出しされかねない景色。しかしこれはまぎれもなく、現実世界の、この地球上に実際に在ったことなのだ。

 

 それも遠い昔ではない。

 ほんの七十余年前――。

 現出した地獄相の名を、すなわち「シベリア抑留」という。

 

 

 北方軍北千島守備隊所属・堤喜三郎氏の追憶に基き、上の描写は組み立てた。

 地獄めぐりの経緯(いきさつ)を、

 

 

「私の抑留生活は、終戦の年の昭和二十年十二月初旬、北千島の占守島から、『トーキョウ・ダモイ』と欺かれソ連の貨物船でナホトカ港に運ばれてから始まった」

 

 

 このように述べているあたり、あるいは堤氏、占守島の戦いに参加してもいたろうか。

 大日本帝国陸軍最後の死闘、あの騒然たる鉄火場に――。

 

 アカの魔手より北海道を、日本国を防備した、その報酬が、

 

 

「…不幸にも栄養失調で死亡した者とか、伐採で不慮死する者があると、埋葬の前夜、穴小屋のなかで一同は形ばかりの簡単な祭壇を設け、仏様を横臥させて成仏を祈り、一時間ばかりお通夜をして寝る。ところが、一夜明けて、私はこの祭壇を見て驚いた。仏様の来ていた被服はすっかりはぎ取られ、仏様は丸裸で転がっていたのである。被服を盗んだ者は防寒外套の下にそれを忍ばせて、作業場附近のソ連民間人と、黒パンや食料と交換して空腹を満たしていたらしい」

 

 

 これとあっては、あまりに天秤がつり合わぬ。

 

 人間の素晴らしさは心に余裕(ヒマ)のあることだ――と、さる寄生生物(パラサイト)は言っていた。

 

 ならばもし、極限状態の継続により、心の余裕(ヒマ)を悉く圧殺されてしまったならば? 人はどういうことになる? 後に残るは、いったいなんだ?

 

 解答(こたえ)のひとつがここにある。

 

 屍肉あさり(スカベンジャー)の真似事さえも厭わない、阿鼻叫喚の修羅の底。

 

 既にモラルの箍は外れた。

 

 エスカレートは、きっと、そう。到底避くべからざる、必然の勢であったろう。

 

 

「このようなことが頻繁に起こると同時に連鎖反応で、仏様ばかりでなく、睡眠中に被服を盗まれるということまで発生するようになった。そこで一同は、寝る前に盗まれないよう持ち物をすべて身にまとい、自己を守らねばならなかった。こうなるとお互いが疑心暗鬼で、二ヵ月以前と比べまさに末世的様相になり果てた」

 

 

 醸成される相互不信。

 

 一度破綻した統制はついに再び戻らない。

 

 解き放たれた個々人が自己保存の欲求のまま、なりふり構わず足掻きだす。

 

 

「作業グループのある者が、ソ連の兵隊が投げ捨てた病死の軍馬の野ざらしになった死体、それも狼が食い荒らした残骸の一部を拾ってきて、飯盒で塩炊きをしてむさぼりかじっていた。私にも『どうです、召しあがりませんか』と親切に差しだした。私は『ありがとう』と礼を述べて口元まで運んだが、その臭気に我慢ができず、相手にわからぬように捨てるのに苦労したことがあった」

 

 

 スターリンの目的が、少なくともその一半が、北海道を奪い損ねた腹いせにこそあったなら、それは十分達成されたに違いない。

 

 そうとでも考えておく以外、この凄まじさを理解するのは無理そうだ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 古書を味読していると思わぬ齟齬にぶちあたり、はてなと首を傾げることが偶にある。

 最近ではオーストラリアの総面積を「日本のおよそ十一倍」と説明している本があり、ページをめくる指の動きを止められた。

 

 ――いやいや、かの濠洲が、そんなに狭いわけがなかろう。

 

 相手は仮にも大陸ひとつを丸ごと領有している国家。学生時代に地理の授業で学んだっきり、うろ覚えだが、本邦比較で二十倍はあったはず。

 この間違いはどこから来たのか。誤植を疑い、測量技術に思いを馳せて――それから漸く気がついた。

 

 何のことはない、広かったのは日本の方だ。

 

 台湾、朝鮮、南樺太――明治維新以後手に入れた新領土を合わせれば、オーストラリア大陸の十一分の一程度にはたぶん達するのであろう。

 

 逆に言うなら日本国は敗戦で、一気にその面積を半分近く削られたということになる。

 

 この事実に関連し、興味深い言を残してくれたのが、田倉八郎なる男。

 シベリア抑留からの帰還者である。

 

 五十代という高齢ゆえか、それとも軍属ではなかったからか。ともあれ田倉は二年弱にて帰国を許され、収容所から解き放たれた。

 

 だが本人主観にしてみれば、二十年も過ぎたような気がしただろう。

 

 終わりなき悪夢からやっとのことで脱け出したこの人の眼に、祖国の姿はどう映ったか。

 

 手放しの歓喜、安心ではあり得なかった。

 

 

「…出かける頃は北はアリューシャンから南はソロモンの島まで広茫幾千里が日本の勢力下にあるかに見えたが、帰って来たときには、大やしまの四つの島が裸にされて、太平洋の波に洗はれながら、孤影悄然、今にも風邪を引きやせぬかと案ぜられるやうな姿になってゐた」

 

 

 あの生き地獄に閉じ込められて、

 しかも何の罪咎もなく、敗戦国の民という、ただそれだけの理由によって閉じ込められて、

 思い出すだに冷汗淋漓と背筋を濡らす、艱難辛苦の限りを嘗めて、

 それでもなお、故国の岸を目の当たりにしていの一番に浮かぶ想念がこれ(・・)だとは、まったくなんということか。「公」への意識が、ちょっと、あまりに強すぎる。

 

 筆者の如き戦後生まれにしてみれば、すっかり見馴れて別段どういう感慨も湧かない日本地図も、戦前活躍した人々には、無理矢理衣をひきむしられて寒風突き刺す修羅の巷に叩き出された嬰児のような、哀切を惹起せずにはいられない、そういう対象として視えたのだろう。

 

 こればっかりは実際に指摘されねばわからない、想定外の発想だった。

 

 

 田倉八郎はまた豊かな歌ごころの持ち主で、抑留中にも多くの句を詠んでいる。

 

 

 本人曰く「地球上の土地が人間でいっぱいになったときに、最後に住むべきやうな、いやな異国の丘」に繋がれた身でありながら、よくぞここまで瑞々しい感受性を保てたと脱帽したくなるような、名作が揃い踏みだった。

 

 せっかくなので、幾つか抜き出させてもらう。

 

 

北国の

深雪の駅に

降り立ちぬ

 

寒灯や

非人情なる

兵の影

 

菊もなく

日の丸もなき

明治節

 

木枯に

吹き研がれたる

夜半の月

 

冬の蠅

命の尽くる

ところまで

 

厳寒に

眠り難きか

君端座

 

鉄柵に

とり囲まれて

紀元節

 

「銃殺」の

札に吹雪の

へばりつき

 

閑古鳥

啼く裏山が

君の墓所

 

春愁や

汽車の消えゆく

地平線

 

 

 今年もまた、八月十五日がやってくる。

 蝉時雨を貫き響くサイレンが――。

 





結局、この世の中、いい悪いは抜きにして、力関係で動いているとしかいえないよな。悔しかったら、強くなるしかねェんだよ。

(北野武)



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さらば、福翁


歴代の文相は賢明なものが多かったであらう。然し日本文明の教育といふ点から見れば、福澤諭吉先生が最も多大の力あったと思ふ。

(新渡戸稲造)



 

 明治六年の発布以後、徴兵令は数次に亙って改訂され、補強され。より現実の事情に即した、洗練された形へと、段々進化していった。

 

 初期のうちには結構あった「抜け道」、裏技の類にも、順次閉塞の目処がつき。

 

 だが、なればこそ横着なる人心は、僅かに残った()めがけ、一か八かの吶喊を試みずにはいられない。

 

 ――「戸主六十歳以上の嗣子は徴兵を猶予せらるゝ」

 

 ()の中でもこの一条は、割合長く気息を保った方だった。

 

 当局は何故こんな規定を態々設け、留めて置くに至ったか? 理由は、まあ、色々と、複雑多岐な事情とやらを勘案してのことだろう。

 

 だがしかし、齎した結果は単純である。

 

 ブローカーの跳梁だ。

 

 

「…此比(このころ)伊勢辺にては、六十歳以上の老人の名前を売買すること大に流行し、其の値段は大抵百円以上二百円位にて、其周旋人は多くは同地旧某会社の連中なりとか、その筋にては右等の事を周旋して巨利を得んとする者を専ら探索中の由」

 

 

 明治十七年二月二十七日の、『朝野新聞』の記事だった。

 

 子供のいない老人の戸籍が裏で高値で取引される、彼らと養子縁組をして徴兵検査を逃れんがため、極大まで誇張した言い回しを用いれば、「子供の未来を守るため」――。

 

 構図だけなら『Solid State Society』を幻視しなくもない情景だ。

 

 老人どもが戸籍を提供する動機(ワケ)は、現実(1884)虚構(2034)の間とで、だいぶ差異(ひらき)があるのだが――そのあたりにつき掘り下げる気は、今はない。

 

 とまれかくまれ、現代の貨幣価値に換算すれば百万以上を積んででも「兵役逃れ」をせんとする、横着なる人の群れ。

 

 その不様さと卑劣さに目を三角にした者も、むろんのこと多かった。

 

 福澤諭吉も、うちの一人に数え入れていいだろう。もっとも流石に福澤は、自己の憤懣を表現するに、「根性なしのコンニャク野郎、それでも日本男児か貴様、その不細工なツラの皮、一ミリたりとも余すことなく剥ぎ取って河豚提灯にしてやらァ」――的な感じ(・・・・)の、直接的な罵詈讒謗を弄したりなどしていない。彼の人はあくまで上品に、皮肉もしくは当て擦りという、文明的な手法にこそ依っている。

 

 具体的には、こんな風に言ったのだ。

 

「いいこと考えた。ひとつ神社を建てようぜ。祭神は平維盛と、その伯父君の宗盛な。そう、富士川の一戦で、鳥の羽音に驚いて闘いもせず逃げ出した、史上屈指の臆病者たる彼らだよ。この社に詣でれば、あらゆる武運はするりと貴公を見放し申すと宣伝するんだ。日本全国津々浦々から、腰抜けどもが賽銭握って殺到するに違いない。素敵な儲けになるんじゃねえか、これはよう――」

 

『朝野』の記事に先駆けること一月余り、一月九日発行の『時事新報』にて、ぶちかましたる展望である。

 本人の筆をそのまま味わいたいのなら、以下を一読するが良し。

 

 

「…神官は満六十歳以上十七歳以下、願ふても叶はぬ(いくさ)の門出、御神前の帳越中褌に似たるは、籤に外づるゝを表し、絵馬に瓢箪鯰は兵役を以て滑て免かるゝの意なり、此御守札を戴く者は抽籤に外れて中らざること、下手の鉄砲、的を(よけ)るよりも(たしか)なり、除るも霊験、除けぬも霊験、両様共に屹度請合ひ申して、初穂料はタッタ一円、霊験荒たかならざるに於ては、御初穂は返却致すぞ、さあさあ神妙にお戴きなされよ、六根清浄信心信心と囃し立るに於ては、其流行繁盛は中々以て水天宮、金毘羅の類に非ずして、毎年御守発行の数は二十万に下らず。或は富豪の子弟念入りの祈願には、二夜三日の御祈祷、二十五座の神楽等、余計の収入を除くも、御守札の料のみにて二十万円は慥なり」

 

 

 畳み込むような名調子といっていい。

 

 義務は全然回避せよ、而して権利は声を限りに主張せよ。

 

 自分一個にとってのみ周囲のあらゆる環境が都合よかれと希う。国から、あるいは社会から、なるたけ多くの甘い汁を啜らんと、垂涎三千尺でいる。あまつさえ、それを実現させる手管を「賢さ」と呼ぶ醜悪さ。

 

 爛熟を迎えた文明が、やがて陥る退廃の一典型ではあるのだが――。

 

 明治十七年の段階で、福澤諭吉の両眼には、その下り坂の運命が、民族として劣化してゆく日本人の有り様が、鮮明に見えていたのでないか。

 

 それを予防するためにこそ、ことさら筆に毒を籠め、批判を承知で上の如きを(したた)めた。この想像は、贔屓の引き倒しだろうか?

 

 あと六ヶ月で福澤諭吉は一万円の表面(おもて)から去る。四十年間、務めあげた大任を退く。心寂しいことである。

 

 その寂しさが、あるいは私の判断に影を落としているのか知らん。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

幸福な文明に慣れると、市民は、自己の自由が結局に於いて自己の軍事的価値に依存するということを忘れるようになるが、それはまことに危険なことだ。

 

(アンドレ・モーロア)

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 色違いは持て囃される。

 みんな奇妙なのが好きだ。

 明治十五年の晩夏、北海道増毛郡別苅村にて、ひとりの漁夫が白いナマコを引き揚げた。

 

 白皮症とは独り哺乳類のみならず、棘皮動物に於いてさえ観測されるものらしい。

 たちまち大騒ぎになった。

 

 抑々からして造化の神の悪ふざけにより誕生(うま)れたみたいな形状(かたち)をしているのがナマコ。

 ただでさえわけがわからないのに、かてて加えて雪をも欺く白さとあってはもう、もはや、一周まわって神々しさすら感ぜられるに違いない。

 

 当時の相場からいって、干しナマコの一斤が、だいたい五十銭であった。

 

 ところがたった一匹の白いナマコが出現するや、たちまちこれに「三十円」の値が付いたから堪らない。

 

 普通のナマコ、千匹分を遥かに超える価値がある。そのように認められたのだ。好奇心に駆り立てられた人間は、ときにまったく手に負えないことをやる。

 

 しかしまあ、「一獲千金」の四文字は、開拓地には先ずつきもの(・・・・)の浪漫であろう。

 

「あやかりてえや、俺もなあ――」

 

 我が手のうちに白いナマコを掴まんと、そのあたりの浜辺には雲霞の如く漁民どもが押し寄せて、鵜の目鷹の目蚤取り眼のお手本みたいな形相で(すなどり)り廻ったそうである。

 

 が、二匹目のどじょうなど、そうそう得られる筈もなく。

 とどのつまりはくたびれ儲け、誰一人として本懐を遂げられぬまま終始した。

 

 

 ――ときにこの、明治十五年の北洋は、なんの因果か海獣漁の「当たり年」とも符合している。

 

 

 十月十三日付けで、二隻の米国風帆漁船が横浜港に身を寄せた。

 

「積荷の中身は」

「毛皮だよ」

 

 船長たちは、ほくほく顔で答えたという。

 なるほど確かにその通り、二隻合わせてラッコが二十一枚に、オットセイが二千八百十五枚も載っていた。

 

 大漁といっていいだろう。

 択捉島近海を血に染め上げた成果であった。

 

 おまけに船長の見立てによれば、負けず劣らずの荷を積んだ同業者の船舶が、これから続々入港するというではないか。

 

「なにぶん、今年はわんさか(・・・・)居てね。獲物だらけの、とても有意な海だった」

(冗談じゃない)

 

 能天気な自慢話に、日本人は戦慄を禁じ得なかった。

 

「早いとこ規制を設けねば。――北海道の海獣類は、そう遠からず絶滅するのではないか」

 

 そんな議論が識者の間で交わされた。

 まあ、無理からぬことである。むしろ遅すぎたくらいであろう。今も昔も、日本人は自国の資源が貪られるのにどういう理由(ワケ)だか鈍感だ。大抵の場合、手遅れになってから騒ぐ。それもほんのさざ波程度の動揺で、社会全体を底響きに揺り動かすには至らない。

 

 

「南島北溟の遺利、たゞ外国人の収むるに任せ、自から手を空ふして傍観するの有様は、世界に国として其世界を知らざるものゝ如し」

 

 

 福澤諭吉が指摘したこの「悪癖」は、悪化こそすれ、ほんの少しも改善されていないのではあるまいか。

 

 尖閣、竹島、北方領土、赤サンゴにワタリガニ――懸念のための触媒は、うんざりするほど豊富であろう。

 

「…世界戦争の起るや、英国はペルシア油田の防衛と云ふ名の下に、有り余るといふほどでもない兵力を割いて、この方面に派遣した。さうしてペルシアの油田だけを防衛するのかと見て居ると、ペルシアではなくメソポタミアのバグダッドを陥れ、彼是する内ドイツとの休戦が成るや、遅れては一大事とばかり、急にバグダッドを発し、北方百マイルのモスルにまで進軍し、然してこれまた大急ぎで、軍隊に必要な施設だと称して、油田を採掘し、送油管を埋設し、精油所を新設した。『軍隊に必要なる施設』がこの程度にまで広義に解釈されるとすれば、誠に以て便利なものである」――筆に呆れを含ませて、稲原勝治は伝えたが。

 

 貪婪飽くなき欲望を隠そうともせぬイギリス人の態度には、確かに見習うべきがある。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 上の内容に追記する。

 

 明治十五年度に於けるオットセイの総捕獲量が判明(みえ)てきた。

 

 その数、実に二万七百匹以上。剥がれた皮の枚数のみに限定してさえコレだから、実態としてはもう幾ばくか上乗せされることだろう。大漁、豊漁、「当たり年」とはよくも言ったり。冒険的な外国漁船の跳梁で、日本の北の海獣はまさに虐殺されたのだ。

 

「忌々しい毛唐めが。やつら、程度を弁えぬ」

「人の庭先で好き放題しおってからに。もはや一刻の猶予もならぬぞ」

 

 加減を知らぬ根こそぎぶりに、政府も胆を潰したか。

 法規制が急がれて、その翌々年、成立をみた。布告内容を以下に引く。

 

 

太政官第拾六號

自今以後北海道に於て猟虎幷膃肭臍を猟獲するを禁ず、犯す者は刑法第三百七十三条に照して処断し仍ほ其猟獲物を没収す、之を売捌きたる者は其代価を追徴す。

 但農商務省の特許を得たる者は此限にあらず。

 右奉勅旨布告候事

 明治十七年五月二十三日

   左大臣   熾仁親王

   農商務卿  西郷従道

 

 

 条文は内外に示された。

 これでめでたし、ご苦労さん――と、安堵するにはまだ早い。

 

 法が真っ当に機能するには、それを強制させる術、つまり「力」の裏付けが要る。「力」なき法、破ったところで痛くも痒くもない法は、畢竟存在しないも同然、ただのごまめの歯ぎしりだ。

 

 当時の日本帝国に、相応しい実力(ちから)はあったのか。

 

 答えは『時事新報』にある。明治二十六年の、五月十二日の記事だ。

 

 

「近来密漁船我近海に出没し、本年は猟虎密漁の為め桑港を出発して日本に向ひたるもの、既に四十余艘に及びたる由なるが、途中にて暴風に遭ひ進路を転じたるものありて、其内二十余艘此程小笠原島に寄港したるにぞ、父島の如きは酒類払底にして、遂には砂糖焼酎迄悉皆売切らし、為めに数千円の収入ありたる由なるが、猟船は何れも五十噸以上百噸以下の小船にして、器械其他も整頓し居り、何れも北海道千島近海に向け此程同島を発したりと云ふ」

 

 

 蹂躙は相変わらずだった。

 性懲りもなく、資源を貪られている。

 

 それにしてもだ。法の外ゆくアウトロー、密漁者の分際で、このふるまいはどうだろう。あけっぴろげもいいとこな、堂々たる航跡は。

 

 人目を憚るなどといった可憐さは薬にしたくも見当らぬ。

 

 日本の法律、日本の官憲、日本の存在そのものを歯牙にもかけてない限り、とても為し得る挙動ではない。星条旗の下にある身の気儘さというものだった。

 

 宇内の形勢を説くにあたって、福澤諭吉が実に屡々「禽獣世界」と呼んだのは、およそこのテの情報を、うんざりするほどふんだんに仕入れていたからなのだろう。

 

 曰く「今の万国交際は弱肉強食禽獣の道を以て相接すのみ。決して道徳を守り道理を説て相親睦するにあらざるなり。国を護るの法は唯兵備を厳にするの一事あるのみ」

 

 曰く「立国に武力の要用なるは封建の武士に双刀の要用なりしが如し。旧藩の士族は既に刀を廃するも今日一国の双刀は廃す可らず。単に之を廃す可らざるのみならず、益々これを研ぎ益々新奇を求めて際限ある可らず。今の禽獣世界に於て立国の基は腕力に在りと云ふも可なり」

 

 曰く「天地一家、四海兄弟の理想はたとひ高尚なるものにもせよ、畢竟架空の黄金世界たるに過ぎず、日本人民たるものは、唯まさに日本国の独立自治を講ずるを先とすべし」――。

 

 さても雄偉な力への意志。

 

 一字一字が輝くような、これぞ名論卓絶である。

 

 筆者個人の、まったく私的な情念をぶちまけさせてもらうなら、福澤には未来永劫、一万円の表面を飾っていて欲しかった。

 

 それほどまでに彼の器量は冠絶している。そう(・・)されるに相応しい、唯一の脳力者であった。

 

 今から別れが惜しくてならない。

 

 



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酔い痴れしもの


酔へよ君心の春を数へみば
ととせはあらし人の命の

(川田順)



 

 日本土木会社の禄を食む若い衆五名がリンチ被害に遭ったのは、明治二十四年一月二十八日のはなし。「陸軍の街」青山で、その看板に相応しく、兵舎建設作業のために腕を揮っていたところ、突発したる沙汰だった。

 

 五人を囲むに、犯人たちは四十人もの多勢を以ってしたという。

 

「なんだ、てめえらァ!」

 

 圧倒的な数の差だ。肉体労働を事として、如何に体力に自信があれど、覆せる不利でない。抵抗空しく、被害者たちは一方的に殴られ、蹴られ。意識に恍惚の靄がかかる間際まで、暴虐を加えられてしまった。

 

 犯人たちの素性の方は、すぐ割れた。

 

 そも、隠す気が無かったとすらいっていい。同業者(・・・)である。同じ建設作業員。実はこのとき、東京市では大規模な――あくまでも当時の基準からして、ではあるが――建設ストが進行中であったのだ。もっと給料を寄越さなければ働かねえぞと千人以上が頑張っていた。にも拘らず日本土木会社めは、勤労精神を発揮して通常業務を貫徹し、闘争の足並みを大きく乱した。なんと許し難い背徳だろう。

 

「制裁じゃな」

「左様よの、事ここに至っては是非もなし」

「心得違いの畜生に、痛棒を当ててくれようず」

 

 必然として、そういう流れに帰着する。

 

 謂わば五名はみせしめ(・・・・)として袋叩きの目に遭った。やってられない話だが、ストライキには付き物の陰湿さといっていい。なんなら小作争議でも、よく使用(つか)われた手法であった。地主が新たに雇用した、従順な小作が闇討ちされる。頭の鉢をかち割られ、道端に転がされている。資本家・地主に媚びを売る犬野郎めは一匹残らずこう(・・)だぞと、血を伴ったアジテーションで恐怖と狂気を促進し、無理矢理にでも一体感をつくりだす。そういうことを職業的にやるやつが、日本国にも棲んでいた。烈火の時代があったのだ。

 

 明治二十四年はさらなり、どのケースを見てみても、下手人どもに罪悪感など皆無であったに違いない。

 

 それどころか裏切り者を成敗したと、「正義」を果たした充足に身を火照らせていただろう。

 

 さながら酔客の如くに、だ。

 

 

本当に生きるとは、つまり酔ふことである。

酔へない人間に何の悦びぞ――。

 

 

 生田春月の言や良し、「憂愁の詩人」の感性は、疑義を挟む余地もなく、この世の真理に触れていた。

 

 だが、ああ、しかし、(こいねが)わくば人々よ、もう少しマシな酒に酔え。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 明治十年代半ば、自由民権運動は、すっかり時代の「流行り物」と化していた。

 

 大阪あたりの抜け目のない商人(あきんど)が、「自由餅」だの「改新まんじゅう」だの何だのと、既存の品に耳触りのいい単語をさかんに焼き印し、たったそれだけの工夫であるにも拘らず、従来とは比較にならない、素ん晴らしい売れ行きを成就したのは、べつにいい。

 

 後年早稲田の門前で「ホラせんべい」というのを売って――言うまでもなく校租大隈重信の大風呂敷を揶揄ったものだ――、まんまと地元の名物になりおおせたのと一般で、商法としてはむしろ王道に近いゆえ。

 

 だがしかし、新生児の命名に「自由太郎」やら「自由吉」やら「自治之助」、挙句は女児にあってまで「お自由」やら「お自治」やら、その種の単語を以ってするに至っては、いくらなんでも奇矯すぎ、度を失っているだろう。

 

 土佐高知にて顕著であった仕様(しざま)だが、流石にあく(・・)が強すぎる。平成十一年度に於けるマッドハウス制作の美少女格闘アニメーション作品の主人公じゃあるまいし、とてものこと、胸焼けせずにはいられまい。

 

 だから最初に「流行り物」と書いたのだ。こんな名前を我が子につける両親の、いったいぜんたい何割が「自由」の意味を真に諒解していたか、すこぶる怪しいではないか。

 

 なんといっても「自由」に「リバティ」の意味を与えた張本人、福澤諭吉にしてからが、日々増殖する「民権家」どもの質を危ぶみ、辟易し、

 

 

「近頃民権の議論世に流行してより、民権とは威張るの義なりとて、少年にして老成人を凌ぎ、人民にして官吏を侮辱する者なきにあらず。仮令へ或は侮辱までは至らざるも、官民の交際甚だ褻々(なれなれ)しくして、時としては無礼講など称し、半公半私の席に於て紳士の礼儀を紊り、官民共に其品格を(やぶ)りて、遂に却て人民の重きを失ふが如きは、我輩の往々見聞する所なり。君子の事に非ず」

 

 

 因循家と吐き捨てられても不思議ではない、こんな苦言、警鐘を、『時事新報』を通じて鳴らしたほどである。

 人心は明らかに均衡を欠き、自由というのを無条件で善きモノと、盲目的に信奉する気質さえ発生しつつあったろう。

 

 自由のために、自由を求めて、自由を然らずんば死を――。

 

 誰も彼もが眼の色変えて追いかける。そいつを口にした者は、気が大きくなり権威に平気で唾を吐く。自由とはつまり、一種の興奮剤なのか。

 

「正義」と並んで、その効能は頭抜けているに違いない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 津田梅子が光源氏を嫌っていたと示す逸話が世にはある。

 

 英訳された『源氏物語』の校正作業を頼まれて、しかし内容の卑猥さゆえに断然これを拒絶した、と。こんなものはポルノ同然、品性下劣限りなし――と、激しく罵りさえしたと。だいたいそんな筋だった。

 

 目下、世間はこのエピソードを専ら「ガセ」と認識している。妄想の産物、学術的な裏付けは何一つないにも拘らず、取り合わせの妙、構図自体の面白味に引っ張られ、とめどもなく拡散(ひろま)ったデマ情報であるのだと。

 

 ところがだ。明治十七年十月二十日の『今日新聞』を覗いてみると、こんな記述が目に入る。

 

 

「いづれの御時にか勝れて時めき給ふ参議在しましけり、一日津田仙氏の愛嬢梅子ぬしを館に召させられ、其の学びの程をためさんとにや、末松謙澄うしの訳せられたる英文の源氏物語一巻をとうで給いて読みて見よとぞ仰せられける、此の梅子ぬしは幼なき折より異国に渡りて物まなびせし少女なれば、我邦の書どもは仮名まじりの文すら読得ざれど彼国の文字には明かなりければ、臆する色もなう其書一ひら二ひらを読みもて行きて、にはかに巻を覆ひ嘆じて云ひけるは、此書はいと猥褻がはしき事のみ多ければ読むとも益なく害多し、かゝる物語は文庫に納るを好まずと言ひ放ちて其儘我家に帰へりしとなん」

 

 

 新聞に掲載()ってる情報が、常に正しいとは限らない。

 

 というよりも、実に屡々、フェイクニュースを発信してる。もはや周知のことである。だから当然『今日新聞』のこの記事も、手放しに信じるわけにはいかぬ。デマの可能性は十分にある。

 

 だがしかし、仮にデマであったとしても、それはそれで一種いみじい(・・・・)感じがすまいか。

 

 津田梅子に『源氏物語』を読ませたがる風潮は、ひいては彼女の口を借り、「世界最古の小説」を批判したがる風潮は、百四十年以上前から既に存在していたと、そのことだけは確実に證明されるわけだから。

 

 大衆が好む構図というのは、どうも定型があるようだ。

 

 百年前も、百年(のち)も、決して飽かれず、持て囃される定型が――。

 

 



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赤い国へと、血は流れ


ロシア――ツァーリとボルシェヴィキの祖国。
今やわれわれは、草原と山岳、魚と毛皮、小麦と森林、富と資源、学説と飢餓のこの国の東の門口へとさしかゝってゐるのである。

(エドワード・ウェーバー・アレン、カムチャッカ沖にて記す)




 

 奥平謙輔が実権者として佐渡ヶ島に乗り込んだのは、明治元年十一月のことだった。

 

 翌年八月には職を(なげう)って帰郷とあるから、彼の統治は一年足らず、十ヶ月かそこらに過ぎない。

 

 だがしかし、と言うべきか。斯く短期にも拘らず、佐渡ヶ島が負わされた傷痕たるや重大で、まこと瞠若に値する、戦慄すべきものがある。

 

 折から高まりつつあった廃仏の凶風(かぜ)。隠そうにも隠しきれない維新史の恥部。神仏分離の実行に、この長州系維新志士は度外れた情熱を発揮した――そりゃもう派手にやっちまった(・・・・・・)らしいのだ。

 

 後年『東京日日新聞』所属の記者が該地を訪れ、物したルポルタージュに曰く、

 

 

「…佐渡国は元来仏寺の多き地なりしが、維新のころ奥平謙輔が権判事たる時、堂塔は無用の長物にして到底人民の厄介ものなりとて、由緒不分明なる分は悉皆取潰し、釣鐘をはじめ仏具の銅器類は残らず天保銭に鋳替しにぞ」

 

 

 云々と、その惨禍の一端を、朧気ながら窺い知れるものである。

 

 明治元年、佐渡ヶ島の領内に散在せし寺院の数は、実に五百三十九箇所にも上ったという。

 

 それが廃仏毀釈を経た後は、八十箇所まで減少していた。五分の一以下である。激減といって差し支えはないだろう。全部が全部、奥平の仕業でないとはしても、その責任の大半は、やはり帰せられなければならない筈だ。

 

 仰せ、あまりにむごすぎまする、どうかお慈悲を、お情けを――と、涙ながらに訴えかける坊主頭の行列へ、

 

 

「此廃合を違背し少しも苦情を説ものあらば(それ)こそ皇国の民にあらず、去る坊主どもは速に釈迦の本国天竺へ送籍すべし、然らば彼らに於ても素懐に適すべし」

 

 

 ――国を根こそぎ建て替えんとする御一新の大業に際会しておきながら、実行者たる俺さまの、ひいては政府の意向に背くやつばら(・・・・)は、もはや日本人でない。

 

 ――かかる不逞な坊主どもには天竺なり何処(いづこ)なり、もっと似合いの場所がある。これ以上ウダウダ言うならば、手加減無用、そっち(・・・)に向けて叩き出す。そうだ、追放するまでだ。釈迦の故郷に近付かせてやるんだぜ、感涙してくれていい。

 

 こういう意味のセリフを浴びせたからには、もう、明らかに。

 

 やがて奥平謙輔は前原一誠らと共に萩の乱を引き起こし、事破れて刑死する。

 

 

 ――それにつけても、鐘や仏具を無用なりと鋳潰して、有用有価な銅銭へと転生せしめた、この部分。

 

 

 ひどい既視感に見舞われる。まるで大東亜戦争中期以後、金属回収令下に於ける情景が、七十年ほど早く来たかのようではないか。

 

 鐘というのはまったくどうして、事あるごとに真っ先に、槍玉に挙げられてしまうのだろう。

 

 日本に限った話ではない。第一次世界大戦中にもロシア人がやっている。ドイツに対する嫌がらせのため、貴重な資源を万が一にも渡さぬように、教会含めて公私を問わず自国内の施設へと、あらかじめ掠奪を行って、色々回収しておいたのだ。

 

 嫌がらせというよりも、焦土作戦と見た方が相応しいのやもしれぬ。

 

 

「一般に、勝利をしめた敵が、戦争遂行のために役立てるかも知れぬと考えられるあらゆる兵器および軍需品を破壊することにかけては、ロシア軍は徹底的であった」

 

 

 と、歯ぎしりの音が聞こえてきそうな述懐を自伝の中でやったのは、誰あろうパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥だった。

 

 とても正気の沙汰ではないが、まあロシアではよくあることだ。

 

 空の鐘楼に吹く風は、さぞ冷たかったことだろう。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 日本人が死亡した。

 遠い異境の地に於いて、政変に巻き込まれた所為だ。

 

 政変とは、すなわちロシア二月革命。ペトログラードで流された血に、大和民族の赤色も、いくらか混じっていたわけだ。

 

 その死に様は陰鬱に彩られている。彼は駐在武官でも、大使館の職員にもあらずして、全然一個の商売人の身であった。

 

 純然たる民間人にも拘らず、居てはならない空間に、あってはならない一刹那、身を置いてしまったばっかりに、頭を砕かれ、むごったらしい屍を晒す破目になってしまった。

 

 不運としかいいようがない、その男の名は牧瀬豊彦。

 現地に於ける高田商会の主任であった。

 

 この件につき、『東京日日新聞』のペトログラード特派員、布施勝治記者報じて曰く、

 

 

「革命は三月八日に始まり十六日に終る、其間軍隊及市民の死傷僅に二千人内外に過ぎず誠に手軽き革命と可申候、唯其中に一人の邦人(高田商会員牧瀬豊彦氏)あり、ダムダム弾の一撃に頭蓋を打砕かれ無残の最期を遂げしは遺憾千万の事に候」

 

 

 わずか(・・・)と。

 わずか(・・・)とのたまうか。

 二千人の犠牲者を「わずか」と一蹴し去るのか。

 

 現代ならば大炎上に値する、致命的な失言だ。マスメディアの生命倫理が疑われるに違いない。布施のために弁護するなら、彼の神経系統は、折から続く欧州大戦の惨禍によってだいぶ麻痺していたのであろう。大量殺戮の報告に、あまり多く触れ過ぎたのだ。そうであって欲しいと願う。

 

 

 日本人の目の玉は、存外多いものである。

 

 

『時事新報』も、当時の露都に通信員を置いていた。播磨楢吉がそう(・・)である。彼の呈した報道は、もう少し解像度が高い。

 

 

「十二日朝私の宿所の周囲に当って唯事ならぬ銃声と騒動が頻りに聞えた、私は取るものも取敢えず外に飛び出した、私の宿の直ぐ前は兵営である、街上に出て見ると多数の軍隊が鬨の声を揚げて空中に向って頻りに発砲してゐる、市民は手を揮って軍隊を迎へる、何事ぞと問へば軍隊が反旗を翻して上官を惨殺し労働者に呼応したのだといふ、…(中略)…正午過ぎ工廠の硝子窓を狙って発射した者があるが丁度此時期商用の為めに同廠に来て士官と話してゐた高田商会代理人牧瀬豊彦氏は何事ならんと窓から外を覗いた、露国将校も同じく覗いた、叛軍では露国将校の顔を狙って発射したが誤って其弾は牧瀬氏の頭部を打砕いた、牧瀬氏は眼もあてられない無惨な最期を遂げた」

 

 

 銃弾は貫く相手を選ばない。

 弾道は国旗に忖度してくれぬ。

 物理法則――冷たい方程式だけが、唯一彼らを支配する。

 

 要するに牧瀬豊彦は、とばっちりを喰い死んだ。

 

「こんな馬鹿な話があるか」

 

 と、遺族は叫んで許される。

 

 実際問題、どうなのだろう、この一件に関連し、日本政府は何かしら抗議を行ったのであろうか?

 

 まあ、よしんば激怒しようとも、革命直後の混沌とせるロシアの政治事情では、いったい何処に苦情の尻を持ち込んだらいいのやら、責任者は誰なのか、とんと見当がつかなかったやも知れないが。

 

「革命ほど悲壮なものはあるまい、赤い革命旗そのものが既に残忍を現はしてゐる、或る警部は革命党の為めに火炙りにされた、そして革命党員は其警部の妻子を引摺り出して其亭主たり父たる人が無惨にも火炙りにされる面前にひき据ゑて悶死する有様を見せつけたといふ、又某将官は革命軍から先づ手足を切断されて嬲殺しにされたといふことである、野性蛮風も極まれりといふべしだ」――播磨楢吉に俟つまでもなく、革命など、起きぬに越したことはない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 大正九年十月の国勢調査に従えば、当時樺太――むろん南半、日本領――に居住していたロシア人の総数は、ギリギリ三桁に届かない、九十九人だったとか。

 

 明治三十八年のポーツマス条約締結時、つまりこの地が「日本」になった直後では、およそ二百人ほどがあくまで居残ることを選んで引き揚げを拒絶したというのに。指折り数えて十五年、ずいぶん減ったものである。

 

 まあ、あと何年かしたならば、革命で祖国に居場所をなくした、いわゆる「白系ロシア人」らが東の果てのこの地にもはるばる流れ着いてきて、少しは人口恢復に寄与してくれる次第であるが。

 

 とまれかくまれ、「丸太作りの小屋に棲み、中流以下の生活をする」残留ロシア人たちは、具体的にどんな暮らしを送っていたか。

 

 彼らの日常風景につき、かなり詳細なスケッチを遺しておいてくれたのが、樺太庁の技士である、川崎勝という男。職務柄、彼らと関わる機会とて、多かったかと思われる。それに曰く、

 

 

「…夏は馬鈴薯、キャベツ、小麦等を自作自農し、牧畜を業とし、冬季は狩猟を以て生計を立てる。採暖装置はペーチカを主としストーブはめったに使はぬ。ペーチカは粘土を以て固めた煉瓦様のもので築き冬は之に薪を焚いて寒さを凌ぎ窓はすべて二重である。彼らは自ら作り自ら耕し、自ら製粉せる小麦でパンを焼き、養へる牛の乳を搾って飲み、牛、豚の肉を塩蔵して冬の用に備へる。多くは日本語を語り子供は日本の学校で教育を受ける」

 

 

 素朴というか、牧歌的というべきか。

 ツルゲーネフとか、あの辺のロシア文豪が小説の題材に使っても違和感のない景色であった。

 

 ときにはこの、「自ら製粉せる小麦で」焼いたパンや牛乳を、最寄りの駅のプラットフォームに持ち来たり、売り捌きもしたらしい。

 

 本多静六林学博士がゆえあって北方をひとめぐりした際に於いても、その旅日記に

 

 

「南から北へ細長い樺太を縦貫する間に数駅で『ロシアパン、ロシアパン』と呼ぶ聞き慣れない日本語を聞く。パンを焼いて異人種の間にほそぼそと生計を立てゝゐる残留者の淋しさが忍ばれる」

 

 

 斯くの如き一文を態々挿入しているあたり、だいぶ思うところがあった、――胸に迫ったようだった。

 

 しかし彼らも、一九四五年の敗戦により、赤露に樺太を席巻されて、結局は……。

 

 北の大地の悲愴であった。

 





「銃殺、将軍の娘、年齢12歳」
「銃殺、火事ありし時ボルシェヴィキの過失なりと騒ぎ立てたるが故に」
「銃殺、鉄道より小麦一袋を窃盗せり」

(チェーカーの死刑執行記録)



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人間性の再吟味


猫には悪い性質が備はって居るかもしれぬ、併しその悪い所が面白いのである。善良と面白いとは別である。ファウストよりメフィストの方が遥かに面白い。善良なるものは大抵面白くないものである。

(戸川秋骨)




 

 作品から作者自身の性格を推し量るのは容易なようで難しい。

 

 あんな小説を書いていながら紫式部本人は身持ちがおっそろしく堅い、ほとんど時代の雰囲気にそぐわないほど頑なな、あらゆる誘惑を撥ね退けて貞操を断固守り抜く、まるで淑女の鑑のような御人柄であったとか。

 

 少なくとも与謝野晶子はそう信じていた。日本で初めて『源氏物語』の現代語訳を成し遂げて、しかもそれでも飽き足らず、『紫式部日記』すら新約せんと試みた、そして現に果たしたところのこの人は、ほとんど崇拝の領域で紫式部に親炙しきっていたらしい。

 

 まあ実際、原著に対する愛が無ければ良き翻訳など到底望めぬモノだろう。納得のいくことだった。

 

 晶子曰く、宣孝と結ばれる以前にも、また彼に先立たれて以降にも、紫式部は夫と決めた人以外、身をゆるすことは有り得なかった。相手がたとえ当時に於ける実質的な最強者、藤原道長であろうとも、例外ではなかったのである。

 

 このあたりの消息につき、本人の言葉で表現すると、

 

 

「宣孝以前にもまた其歿後にも紫式部に懸想した男子は多かったと思ひますが、紫式部が毅然として其れを斥けたのは道長一人に対してばかりで無く、三十七年の生涯に宣孝以外の男子に向って毫も許す所がありませなんだ」

 

 

 断定である。

 相も変わらず、小気味よい断定をする人だ。

 鉈を用いて、丁と薪を打つような、そういう清々しさがある。

 

 晶子の語りは止まらない。紫式部についてなら、いくらでも喋る内容を持っていた。

 

 

「之は『女は自由意志で無くて、うっかり人に身を誤られる危険のあるものであるから、自重して堅く守ることが大切である。軽率と放縦とは品格を失ふことである』と云った紫式部の聡明な理想の然らしめた所であるのは勿論ですが、」――勿論なのか。常識のレベルだったのか。知らなかったそんなの――「文学の著作に傾倒して現実以上の『美』を想像の世界で経験して享楽して居る人には、現実の世界に理想通りの恋の対象を求めることは容易で無かったし、また其れを求めることが(うる)さく感ぜられたかも知れず、其上、早くから文筆に親しむやうな気質の人であり、若死をした人でもあるだけに体質の関係もあって、自然に貞操的に終始することが出来た点もあらうと想ひます」

 

 

 ページ越しにも拘らず、百年以上の時間的距離があるというにも拘らず。――一気呵成に耳元で、まくし立てられた印象だ。

 

 なんというか、圧倒される以外ない。

 

 呆然として、一時的にも虚ろになった精神に、どこからともなく橋田東聲の声がする。

 

 

「人ひとりを十分に愛すのは容易でない。完全に愛し切る事は殆ど不可能の事だ。多くの人には、そこに油断がある。愛は努力だ」

 

 

 紫式部という人は、この不可能事を成し遂げた、実に稀有なる努力の人であったのだろう。

 

 むろん、あくまで「与謝野晶子の解釈に則ることを前提に」との、但し書きが付くのだが。――晶子の熱にあてられたのか、筆者個人の所感としても、そう(・・)あれかしと信じたい気になっている。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 新渡戸稲造には日課があった。

 

 本人の語りによるものだから間違いはない。それは札幌農学校に教鞭をとっていた時分、己に課した習慣だ。

 

 授業のために、指定の教場へ向かう都度、新渡戸はいきなり扉を開けず、把手(とって)を握り締めたまま、しばし瞑目、心の中で唱えたという。

 

 

 ――生徒は大切である、仮令無礼なことがあり、又は癪に障ることがあっても必ず親切に導かねばならぬ、妄りに怒ってはならぬ。

 

 

 自分で自分に暗示をかけたといっていい。

 おまけに一日何回も、凄い厚塗りであったろう。

 

 それだけ入念に細工をしても、「教場に入って居ると何時しかこの心がけを忘れることもあった」――我慢しきれずブチ切れて、怒鳴りつける失態を少なからず犯したようだ。

 

 そういう場合、激情の波が過ぎ去ると、いつも新渡戸は深い悔恨にさいなまれ、苦悶のあまり食が細るのも屡々だった。

 

(意志の力で感情を制御することの、なんと至難であることか)

 

 こんな経験を重ねるにつれ、新渡戸は徐々に我と我が身に対する理解を深めていったそうである。

 要するに、自分がもって生れた器量は所詮凡庸であるということ。

 

 

「凡夫であるから、必らずしも総てが聖人たることは望まれぬ。……我々凡人は到底一躍して立派な人にはなれぬ。卑近な点から始めて漸次に向上すべきである」

 

 

 そういうことを認める気になったのだ。

 

 蓋し感服に値する。

 

 これこそ契機(きっかけ)だったのだ。新渡戸にとっても、筆者(わたし)にとっても。以上の逸話、告白を、耳に挟んだことにより、筆者の中で改めて、新渡戸稲造という人物につき深く知りたい欲が出た。興味と好奇を掻き立てられたといっていい。

 

 世の中のことは一足飛びに運ばない、全く以ってその通り。「急進」には痛快味より危うさが先立ち馴染めない、胡散臭いと思ってしまう。進むにしても用心深く、無理を排してゆっくりと――何かにつけて漸進主義を尊びたがる私の趣味、性癖に、よく適合したわけである。

 で、徐々に掘り下げてゆくにつれ、以前引用したような、

 

 

「歴代の文相は賢明なものが多かったであらう。然し日本文明の教育といふ点から見れば、福澤諭吉先生が最も多大の力あったと思ふ。故に実際の仕事をするに、何も必ず大臣にならねば出来ぬといふのではない。苟も行はんとする精神だにあれば、民間に居ても随分に出来る」

 

 

 一万円の御仁に関する評論も、芋蔓式に発見(みつ)かった。

 

 新渡戸稲造、やはり味わうに足る男。

 

 五千円札の肖像を務めるだけの人間性の充実を、確かに備えていたようだ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 英国籍の商船が、荷降ろし中に誤って石油樽を海に落とした。

 

 当時の世界に、ドラム缶は未登場。ネリー・ブライがそれをデザインするまでは、もう十三年を待たねばならない。

 

 落下着水の衝撃に、ドラム缶なら堪えたろう。手間は増えるが、回収して終わりに出来た。なんてことないトラブルだ。しかし木樽ではそうはいかない。あえなく砕け、中身がみるみる拡散される。汚染域に居合わせた、不運な魚類が次から次へと水面に浮いた。

 

 明治十九年六月の、横浜に於ける出来事である。

 

 それ自体は取り立てて騒ぐに及ばない。前にも何処かで少し触れたが、港湾作業中の落下事故など毎日のように起きている。流出したのも原油ではなく石油に過ぎず、タンカー事故にあらずして所詮木樽の容量だ。汚染といっても、規模のたか(・・)は知れている。

 問題はむしろ、なんだなんだと三々五々に集ってきた見物人らの反応だった。

 

「あれをみろ」

 

 白い腹を晒して浮かぶ魚どもを指差して、誰かが頓狂にわめいたらしい。

 

「海水と舶来油を混ぜ合わせれば、斯くも苛烈な殺菌力を発揮する。さればよ、最近流行りの厄介至極な淋病も、この服薬でたちまち療治に相違なし」

 

 馬鹿げているにもほどがある。

 彼の脳内でどういう衝突事故が起こってこんな解答(こたえ)がまろび出たのかまったく理解に苦しむが、更に輪をかけて不可解なのが、彼の周囲の野次馬連も、

 

 ――もっともなことだ。

 

 と無批判にこれを受け入れて、

 

 ――この大発見、見逃す手はない。

 

 我も我もと石油汚染の海水を汲み取りだしたことである。

 

 嘘のような話だが、当時の『郵便報知』にもしっかり掲載されている点、信憑性はかなり高い。

 

 明治十九年にもなって。

 学制施行後、十四年も経ちながら。

 場所もあろうに、日本国の玄関口たる横浜で。

 なんだってこんな事件が起きる? ――福澤諭吉ならずとも顔を覆いたくなるだろう。

 

 森有礼が教育改革に力瘤を入れた動機についても、おのずと察せるというものだ。有礼といえば、この初代文部大臣の人柄を表す好個の逸話をちかごろ仕入れた。御当人の伝記由来の情報だ。

 

 金沢最初の高等学校設立の際、開校式にお呼ばれした有礼は、途中演説を求められ、やおら壇上に身を運び、

 

 

「新日本の文明は王政維新の結果である。王政維新は聖天子の御明徳によって成就されたのであるが、能く之を(たす)け奉ったのは薩長の旧藩士である。ところが此加州の如きは、どうであるか、殆ど何等の貢献するところがないではないか。諸君考へても腑甲斐ないといふ感が起るであらう。茲に高等学校を新設したのは、ツマリ加州の人物をつくる為である」

 

 

 こんなことを喋ったという。

 型破りにも限度があろう。

 

 ――幕末・維新の加賀藩は、 つまり無能の吹き溜まり。百万石もありながら、一個半個の男子も居らず。

 

 ――学校新設を幸いに、今度こそまともな人材を拵えては世に送り、前代の恥を雪ぐべく、諸君せいぜい気張りたまえよ。

 

 そう言ったのも同然だった。

 前途を祝いに行ったのか、喧嘩を売りに行ったのか、これではちっとも分からない。

 

 実際問題、案の定、ぜんぶ言い終える前から既に方々より罵声続出、中でも金沢出身のとある武官――おそらく士族上がりであろう――は怒髪天を衝くあまり、さっと帯剣を素っ破抜き、

 

「何をほざくか、失敬なッ」

 

 文部大臣を「無礼討ち」に処するべく走り出したほどだった。

 目賀田金沢連隊長が咄嗟に割って入らなければ、確実に殺っていただろう。

 

 誰より優れた行政手腕を持ちながら他人(ひと)の心を傷付けるのに無自覚で、世間の悪意が全身に、ハリネズミみたく突き立ちまくっている男。史上に類型を求めるならば、石田三成が該当しようか。

 

 こういうタイプは往々にして、天寿を全う出来ぬもの。

 道半ばにして斃される、その散り様がしかしまた、異様な感興を伴って後世に伝えられもする。

 

 本人がそれを喜ぶかどうかは知らないが、とりあえず、まあ、個性的であることだけは疑いがない。

 

 なお、ついでながら森有礼の定評に、「女子教育を重んじた」との一項がある。

 

 これに関して彼の直話を探ってみるに、なるほど確かに以下の如きが見出せる。

 

 

「女子でも、国家の為めに身命を(なげう)つの覚悟が必要だ。従って、子供を教育するには、国家の為めに身命を致すの義心を養はなければならぬ。今試みに国家の為めに女子教育の精神を言ひ現すと、先づ学校で教場には、七八面の額を掲げて貰ひたい。それは、母が子供を教ふる図。丁年に達して軍隊に入る前に母に別るゝ図。困難に際し勇戦する図。忠子の報国母に達する図。()ういふものを掲げて、愛国の精神を女子が感佩する丈けに教育した時が、始めて理想に達したものだ」

 

 

 これもまた、森有礼の為人(ひととなり)を知る上で、重要な手がかりになるだろう。

 

 

 



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才ある者よ


もし短所のみ見ば、世人はみな悪人なり。世の中がいやになるべし。材能ある人は、多く意地の悪きものなり。学問の出来る人に、心術の正しからざる者多く才のすぐれたる者は誠実なく、長所は即ち短所にして、人はさまざまなる者也。

(大町桂月)




 

 脳髄の出来と品位の高下は必ずしも一致せぬ、いやいやむしろ、釣り合う方こそ珍しい。

 

 禍乱の因子(タネ)はいついつだとてそこ(・・)にある。才に恵まれ生まれ落ちると人間は、増上慢になりがちだ。あまりに容易く世界のすべてを見下して、「自分以外の誰も彼もが馬鹿に見えて仕方なくなる色眼鏡」を無自覚のまま装着(かけ)ちまう。周囲はむろん、本人にとっても不幸なことだ。

 

 なればこそ、脳髄の出来と品性と、それから身体能力までもが見事に一致した(おとこ)、嘉納治五郎は言ったのだろう、

 

 

「品性の伴はない才能は世に害をなす事が少なくないが、才能の伴はない品性は、よし大裨益をなす事がないにせよ、害を及ぼすことはないのである」

 

 

 と。

「一利を興すは一害を除くに若かず」にも、何処か通ずる訓戒だった。

 

 まあ、それはいい。

 

 品性を伴わぬ才能が世間を毒した例として、格好の人物を以下に引く。

 

 赤門の住人、東京帝国大学教授、横山又次郎である。

 

 本邦古生物学界への、彼の貢献は計り知れない。

 

 ナウマン博士の良き補佐役で、地質調査事業に纏わる基礎固めを全うし、また「恐竜」を筆頭に、古生物に関しての優れた和訳を数多遺した。かつて地球に跋扈した、それら巨獣の通俗的な紹介にも随分功を立てている。横山の働きなかりせば、怪獣王ゴジラとて誕生(うま)れていたかどうか怪しい。まさに偉業、不滅の、不朽の、絢爛たる名跡である。

 

 ところがだ。ひとたび視線を私生活へと移してみれば、こは如何に。腐敗と汚濁の沼である。

 

 

「牛込五軒町に住む帝国大学教授理学博士横山又次郎(44)は、大学時代より不品行此上なく、雇下婢を容れて妻となし子二人を生み、後余所の花に見替へて之を虐待せしかば、妻は嬰児を刺殺して自害せり」

 

 

 明治三十六年十月、日刊紙たる『日本』に掲載された記事だった。

 なんということであったろう。

 

 てめえから手を出した分際で、子供まで産ませておきながら、飽きたら途端に顧みず、余所の女に現を抜かし、空閨孤独を強いられて物に狂った女房は、とうとう子供を巻き添えに心中にまで至ったと。

 

 クズの所業としかいいようがない。どう見ても横山の所為だった。男としての責任感の欠如が招いた仕儀である。

 

「若気の至り」で寛恕され得る領域を完全に逸脱した事態。普通の神経の持ち主ならばここで当然の反省が起き、後を追って縊死するか、最低でも女遊びはキッパリ絶って身を慎もうとするだろう。

 

 が、横山は、そこがおかしい。

 もっとやった。

 記事は直後、こう(・・)続いている。

 

 

「洋行帰り以降は、ハイカラ一流の女色漁り、四谷の大谷木某の娘サダ子(32)を娶りて正妻としながら其病に罹りしを忌み、妻の妹リウ下女レンなどと通じ、終にサダ子を離縁せり」

 

 

 もはや呆れる以外ない。

 妻が病んだら夫はどうする、看病するだろ、常識的に考えて。

 

 それを貴様、放置どころか、その妹に桃色遊戯を挑むとは、いったいどういう料簡だ? 本当に人間か、人間の皮を被っただけの畜生か? 脳髄の冴えと引き換えに、人間性を悪魔にくれてやったのか?

 こんな奴には、

 

 

 ――妻妾並んで一屋に住まば、金殿玉楼も亦畜生小屋なり。

 

 

 福澤諭吉の金言を、百万遍でも書きとらせるべきなのだ。

 

 蓄積された歪みはやがて、当然の結末を惹起する。

 

 横山自身が血を流す日がついに来た。明治三十六年九月二十九日に於ける黄昏時のことである。

 その有り様を、再三『日本』に窺おう。

 

 

「サダ子は夫の家を出でて後下宿屋、或は他家に奉公し、只管謹みて覆水盆に回らんことを期望して居たりしが、博士は之を顧みざるのみならず、更に二妾を納れて之を寵し、あらゆる乱行底止する所を知らざるにぞ、流石のサダ子竟に忍びず、去二十九日の黄昏博士が大学よりの帰路を森川町の往来に要し、ナイフを飛ばして左肩部を傷けしが、博士がヘコタレ腰になりて鼠の如く逃げ去り、すぐ様警察署に駈け込み願を為せしため志を得ず、再昨日検事局送りとなれり」

 

 

 ナイフ片手に帰路を待ち伏せ襲いかかりはしたものの、肩口を浅く裂いたのみ。

 暗くて狙いがつけられなんだか、女に迷いがあったのか、それとも男の悪運が異様に強靭だったのか。

 

 いずれにせよ、だ。――あわれサダ子は日本のジーン・ロレットになり損ねたようである。

 

 ただまあ、しかし、この椿事により報道の目が横山博士の上に向き、二十年来の不行跡、爛れきった私生活が暴かれたというわけだから、あながち無為でもないだろう。

 

 横山又次郎の心臓が脈動するのを止めたのは、これより更に四十年弱、昭和十七年まで待たねばならない。

 

 憎まれっ子世に憚るとは、やはり真であるようだ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 大正十四年である、東大生が鉄道自殺をやらかした。

 

 季節は盛夏、空の青さは嫌味なまでに濃く、深く。雲が層々と峰をなす、とても暑い日であった。

 

 苛烈な太陽光線が、散乱した血や臓物に容赦なく浴びせかけられる。湿度の高さも相俟って、たちまち蒸されるヒトの残骸。鉄路の上の悪臭は、形容不能な物凄さであったろう。清掃員の労苦たるや知るべしだ。

 

 懐からは案の定、遺書と思しき封筒が。

 

 そこまでは、まあ、珍しくない、予定調和といっていい。毎月何件かは起きる、典型的な鉄道往生の域を出ぬ。

 

 しかし、しかしだ。動機を探る目的で遺書を開いた時点から、にわかに流れが変化(かわ)りだす。

 

(なんじゃ、こりゃ)

 

 担当官は眼を剥いた。

 読めない。

 少なくとも即座には。

 全文、英語なのである。

 

 紙幅は数字とアルファベットでまんべんなく(うず)められ、仮名も漢字も一字たりとて、金輪際含まれぬ。

 

 意味を正確に把握(つか)むには、辞書を片手に慣用句やらニュアンス等に気を遣いつつ、じっくり訳してゆく以外にないだろう。さもなくば、専門家に頼むかだ。

 

 凄惨な現場を数多踏み、「死」には慣れっこな刑事さえ、

 

「……最近の若い連中は」

 

 何を考えているのやら、まったくさっぱり理解(わか)らない――と、定型句に逃げ込むしかないほどに、これは異様な遺書だった。

 

 実際問題、どんな意図が働いて、斯くの如きが出来たのか。

 

 末期の言葉、掛け値なし最終の意思表明に、祖国の言葉にあらずして、外国語を使うとは――。

 

 最後の、最後の、最後まで、自分の語学能力を、頭の良さをアピールしつつ逝きたいとでも画策したか? つまりはある種の虚栄心。インテリとしての性癖、本能。「知識階級は多少響きの美しい言葉を好みすぎ、また自分でそれに酔う傾きがある」と小泉信三も指摘している。その亜種と看做して可だろうか? いや、しかし……。

 

 どうにもなんだかしっくり来ない、隔靴掻痒のもどかしさを振り切れぬ。偏差値に差がありすぎて、共感作用がおっついてない印象だ。筆者のIQ程度では、このあたりが関の山、想像可能範囲の(きわ)にぶち当たったようである。

 

 

 奇遇にも、と言うべきか。

 

 

 まさにこの年、東京帝大法学部では選抜試験の設問に、よりにもよって

 

 ――『共産党宣言』の独文和訳を行え。

 

 という、とんでもない課題を出して政府の度肝を抜いている。

 

 当時の文相、恭堂岡田良平は、報告を受け危うく椅子からずり落ちかけたということだ。

 

 無理もない。小学生が校庭で不発弾を掘り出すよりも遥かに危険な事態であった。さて、それを受け、「責任者の措置を如何にすべきかにつき省内に緊急会議を開いたが、却って此際事をあらだてゝおもてむきとしては反響する所も多かるべく如何なる重大なる結果を招来せんとも測られないと言ふ所から今回の件は単に今後斯る失態を繰返さぬようとの警告を発しあいまいの中に葬り去ったのである」とは、『読売新聞』の報じたところ。目も眩むような事なかれ主義の発露といって良いだろう。

 

 あの赤門の内側で、どんな人材を育てようとしていたのやら。

 

 得体の知れぬ場所だった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 その少年は四歳で光を失った。

 

 両眼失明という過酷な現実。あまりにも巨大な運命の重石が、小さなその背にいきなり落っこちて来たわけである。

 

 もしも筆者(わたし)が同じ境遇に置かれたならばどうだろう、果たして耐えることができただろうか。いや、考えるまでもない。とてものこと不可能だ。

 我が読書熱はこのころ既に旺盛で、暇さえあれば『日本昔話』とか、『ドラえもん』の単行本を紐解いていたがためである。甚だしきは飯時もこれを手放さず、ためにぽろぽろおっこぼれる(・・・・・・)米粒により頁と頁とがくっついて、そのことでよくお叱りを頂戴したものだった。

 

 その楽しみの一切が、ある日突然奪われる。

 無理だ。

 立ち直れない。

 悲嘆と絶望に取り憑かれたまま、半分死人の面持ちで、暗澹たる日常を送るばかりになるだろう。

 

 ところが彼――今井新太郎は挫けなかった。

 

 ショックはショックであったろうが、すぐに己を取り戻し、鎖された闇の底でなお、

 

 ――斯くなる上は、当代の塙保己一になってやる。

 

 と、万丈の気を吐くだけの負けじ魂を持っていた。

 前向き、といっていいのか。とにもかくにもこの姿勢にはむしろ周囲が面食らい、

 

 ――今はそんな時代じゃあない。

 

 本来ならば新太郎を励ますべき彼らの方が、たしなめる側に廻る始末。

 

「それよりも諸芸を身につけよ」

 

 そう説諭したのは祖母だった。

 なるほど確かに日本国には古来より、琵琶法師だのなんだのと、盲目の楽器演奏者の伝統がある。

 

 幸い近くに、山田流箏曲を伝える渥美清春なる女性が居る。

 ここに新太郎は弟子入りをした。

 

 ところがめぐり合わせというのは奇妙なものだ。この清春の夫が漢学者だった。お蔭で新太郎は稽古の合間、わずかな時間を捻出しては彼の講義を聴きたがり、齢十五を迎えるころには何処へ出しても恥ずかしくない一流の教養を身に着けていた。

 

 が、箏曲の方は「一流」どころの騒ぎではない。

 どう控えめに表現しても、百万に一人の天才だった。

 

「もはや教えられることがない」

 

 私の持っている何もかも、すべてお前に与えてしまった――師匠清春が音を上げたのは、やはり新太郎十五歳の折。

 

「この上はもう、東京しかない」

 

 帝都で広くお前を試せ、人間(ひと)の坩堝で、衆に揉まれて、お前の器量(うつわ)の底知れなさを。――恩師のすすめに、新太郎は従った。

 

 彼女の手引きで、当時山田流随一の名人とも称された山勢松韻の門下に入り、腕にますます磨きをかける。二年後にはもう、號を授かる運びとなった。

 

 その號こそは、すなわち「慶松」。卑しからぬ人品と、神がかり的な演奏技術で日本の上下を魅了した、国民的箏曲家はこのようにして誕生(うま)れ出た。

 

 まさに竜が雲をつかんで天へと駈け上がるが如し。「盲目の天才」と讃えられるのも納得である。ところが慶松本人は、この呼ばれ方が厭で厭で仕方なかったそうである。囃される都度、耳を洗浄したくなる不快感であったとか。

 

 

「天才は撓まざる努力の結果で生れ乍らの天才はあり得ない。磨かずして世に出るのは天才でなくして、単なる器用に過ぎない」

 

 

 それが彼の信念であり、周囲にもよく説いて聞かせたところであった。

 

 やはり天才は天才と呼ばれるのを嫌うのか。

 それとも昔日の漢学修業が、謙遜の重要性を彼の頭脳に刻み込んだか。

 

 どちらでもいい。

 

 どちらだろうと、慶松今井新太郎がみごとな男であることに、いささかの変わりもありはしない。

 

 慶松はまた、御前演奏も多々やった。

 

 明治・大正・昭和を生きた慶松は、三代すべての至尊に対し弦を弾いて音色を捧げた。

 

 その回数は、都合三十になんなんとせんばかりであったということだ。

 





生まれつきのバカが責めるに値しないのと同じ意味において、生まれつきの天才もまた賞讃に値しないであらう。

(上野陽一)



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江戸の埋み火


放鷹狩猟は古の制なり。鳥獣の田畑を荒すものは、尤も之を殺生すべし。士たるの道、険阨遠近山川の形を知り、風俗街歌巷説の品を計り、自ら水沢山林に入り、矢玉剣戟を用ひて、四肢を軽くし骨節を習はしめ、兵士の用を閲するは、必ず士の勤むべき所なり。

(山鹿素行)




 

 もはや開戦秒読みの時期。

 

 再三の撤兵要求を悉く無視し撥ねつけて、帝政ロシアが持てる力と欲望を極東地域に集中しつつあったころ。

 

 スラヴ民族の本能的な南下運動を阻まんと、大和民族が乾坤一擲、狂い博奕の大勝負に挑まんとしていたあの時分、すなわち明治三十七年、日露戦争開戦間際。

 

『報知新聞』に投書があった。

 

 送り手は、玄界灘の一島嶼、対馬に住まう老人である。

 

(ははあ)

 

 担当記者は内心密かに、

 

(来るべきものがついに来たか)

 

 と頷いた。

 

 中世期、元寇という日本史上稀にみる本格的な対外戦争を経験した土地だけに、およそこの種の騒ぎには敏感たらざるを得ないのだろう。言いたいことの一つや二つ、当然あろうというものだ。

 

 しかしいざ、中身を改める段に及んで、彼は自分の予想というのが如何に甘かったかを知る。

 

 ものの二秒で理解(わか)らされたといっていい。

 以下が即ち、その文面の全容だ。

 

 

 一筆啓上、今回は大事件にて候。記者先生も定めし御心配と存候。当対州厳原人は最早や何れも立派に覚悟致し居り。拙老は本年七十二歳にて病臥中に候間、去る九日一族縁者を拙宅に招き、拙老枕頭に於て左の如く相定め申候。

 

一、日露戦争相開け候暁には、先づ拙老を刺殺し、屍骸を土中に埋め候事。

 

二、婦女子小児等は博多表の親戚へ預候事。

 

三、壮年の男子は悉く兵器を執て、神国の大敵を討ち払ひ可申(もうすべく)候事。

 

 是れ拙老一家一類の覚悟のみに無之(これなく)、隣家の老夫人も戦争相始まり候へば自殺の覚悟致され居り候。我対州人は十四五の少年と雖も男子は踏み止まりて血戦の覚悟仕居り候。日本全国の国民諸君も我対州人と同じく御覚悟被下度(くだされたく)希望に付、貴紙に投書仕候也。

 

 

(これは、またぞろ、なんという。……)

 

 絶句したのもむべなるかなだ。

 眼底、戊辰の役の会津藩士を彷彿とする。

 

 決して竜頭蛇尾には堕ちない。一行目の勢いを、一番最後の句点まできっちり保持してのけている。常軌を逸した胆力と、異様な精気のみなぎりにより、頭の先から尾っぽまで貫かれたる書であった。

 

 ほとんど時を同じゅうし、神戸市では七十五歳の老人が漢文仕立ての従軍願書を携えて、堂々役所に乗り込んでいる。彼の(なり)ときたらもう、「撃剣柔道に鍛へたる筋骨逞ましく、坊主頭の大男にて一見五十七八歳を越へず」という風な、げに頼もし気であったとか。

 

 尊皇攘夷の掛け声にサンザ沸かした青春の血が、差し迫った時勢に触れて再び骨を燃やしたか。これも一つの冷灰枯木再点火。江戸時代に人となった連中は、やはり根性が違うらしい。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 明治三十九年一月十四日午前十時三十九分、東京、新橋駅頭は空前の熱気に包まれた。

 

 凱旋したのだ、英雄が。

 

 日露戦争の将星人傑多しといえど、わけても一際異彩を放つ、嚇灼たる武勲所有者。おそらくは東郷平八郎と国民人気を二分する、陸軍界に於ける聖将。第三軍司令官、乃木希典大将が、とうとう帝都に帰還した。

 

 いやもう、人、人、人である。

 

 強きを欲し、強きに焦がれ、強きに向かう日本人の性情が極端に発揮されたと見るべきか。東亜に向かって伸ばされた帝政ロシアの魔の手を払い、みごと勝利をもぎとった、烈士の姿を一目(ひとめ)なりとも拝まんと、殺到して已まぬ民。東京どころか日本中の蒼生が新橋駅を中心とした半径数キロ圏内に集合したと言われても、思わず信じかねない景色。千切れんばかりに旗を振り、「万歳」からなる歓呼の声は百雷一度に落つるが如しで、寄る人波に大将自身、ときにまったく立往生の観を呈したほどだった。

 

 しかし、しかしだ。

 

 果たして何人が気付いたろうか。

 盛大極まるこの出迎えの群衆が、しかしその実、肝心要のたったひとりを欠いていたということに――。

 

 そのひとりとは、言うまでもない。

 乃木希典にとってのツガイ、静子婦人、その人である。

 

 なにゆえ妻は夫にとってのこれ以上ないハレの場に駈けつけようとせなんだか? 理由は単純、差し止められていたからだ。他でもない、夫自身の手によって――。

 

 乃木希典は、しっかり厳命しておいた。

 

 

「出征したるものが運ありて命を損ぜざる以上は何時か帰るは当然の事、其上我部下の壮丁の戦場に斃れしもの頗る多し、戦争とは云ひながら面目もなき次第、凱旋の日とて出迎無用」

 

 

 如上の書簡、訓戒を、事前に我が家へ送附しておくことにより、だ。

 静子婦人は従容として従った。

 

 乃木希典が仄かな満足を持ったのは、自分を迎える幾千幾万の民草があったことよりも、唯一無二の伴侶の影がその中に無いことだった。

 

 天気晴朗、空に一点の雲翳を見ず、一天鏡の如くなり――。

 

 当日の気象記録であった。

 

 陽光にたっぷり恵まれて、乃木希典は凱旋式を()えている。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 東郷平八郎が乃木希典を第三軍司令部に訪問したのは、明治三十七年十二月十九日のことだった。

 

 このとき旅順要塞は、未だ陥落していない。

 

 が、港湾内のロシア艦隊。こちらの方はほぼほぼ海の藻屑と化しきって、長く続いた攻囲戦にもどうやら目処が立ちつつあった。

 

 そういう時局下に於いて、二人は顔を突き合わせている。

 

 暫くの間、双方一言もなかったという。

 

 こみ上げてくるものが多過ぎたのだ。

 

 

「最初は二人とも言葉が出なくてな。唯、黙って手を握り合っただけよ。全く感慨無量ぢゃった。乃木は実によく戦った、最善を盡して戦ってゐたのぢゃ。可哀さうに伜二人まで戦死させて…乃木は全くいゝ男ぢゃった」(『東郷元帥直話集』より)

 

 

 会見後、包囲を続ける乃木を背に、東郷はいったん日本内地へ帰還した。

 

 宮城にて、明治大帝にこれまでの海戦の経過をつぶさに伏奏。その任を遂げ、再び戦地に赴く前に、

 

 ――せっかくだから。

 

 ということで、同郷の上村彦之丞を誘い、二人して乃木の留守宅を訪れ、奥方の様子を見舞っている。

 

 急な訪問に、しかし静子夫人は快く応対してくれた。

 三方に盃を載せ持ち来たり、手ずから銚子を傾けて、

 

「お祝い申し上げます」

 

 どうぞ一献、とすすめてくれる。

 

(なるほど、乃木の伴侶なだけはある)

 

 質素ながらも心づくしなもてなしに、感じ入ること、無尽であった。

 

 

「…そこで(わし)は夫人の心中を思ひ戦場で乃木に會うた話や戦死せられた令息の勝典保典両氏へのお悔みを申した所、奥さんは少しも取乱す様子がなく落着いた態度で、

『伜共もどうやら御国に盡す事ができましたので何より本懐に存じます。又、これで戦死した沢山の兵士の父兄の方々にも申訳が立つやうにも存ぜられ、せめての心慰めでございます』

 かう健気に云ったが、実に烈女であると感心したよ」

 

 

 烈女。――

 

 二十一世紀日本では、死後と化して久しい語句ではなかろうか。

 

 東郷平八郎の周囲には、この二文字を以って表される型の女性が多い。少なくとも筆者(わたし)の目にはそのように印象されている。

 

 第一、彼を産んだ母親からしてそう(・・)だった。薩摩藩士堀与三左衛門の三女に生まれ、益子と名付けられたこの人が東郷吉左衛門実友という七つ上の男のもとに嫁したのは、弱冠二十歳(はたち)の折だった。

 

 以来、子宝にも恵まれて、41歳までの間に五男一女をもうけている。

 

 そのひとりひとりを、益子は誠心誠意愛情籠めて撫育した。「夜分用事があって愛児達の寝室を通る時も、刀自は決してその枕元は通らず、必ず、足元を迂回した。将来、御国の為に、忠節を盡すべき大事な子等の頭上を歩む如きは之を軽んずることゝなるから、親といへども慎むべきだ、と自らを戒め、且つ愛児等に自重の念を起こさしむるに努めた」そうな。

 

「感化」こそが教育の要諦であると、この人はどうも知悉し抜いていたらしい。

 

 毎朝この母親に髪を整えてもらったことも、平八郎にはかけがえのない記憶となった。

 

 

「母は清水で手を清め、兄から順々に梳るのであったが、刀自は、一人一人、必ず新しい元結でしっかと結び、我子等が世俗の汚れに染まらぬやう、心から祈願をこめたので、その母の温き心の訓へに少年達は感涙に咽んだ」

 

 

 手塩にかけた愛児たち。

 ところが益子は、そのほとんど全員に、先立たれる破目となる。

 逆縁――親より先に子供が亡くなる現象を、繰り返し味わわされるのだ。

 

 長女・次男は共に夭折、三男壮九郎実次は西南の役で西郷方に附き、奮戦して勇名を馳せたが城山の戦いでとうとう討死。

 

 五男の四郎左衛門実武はというと、若干17歳にして戊辰戦争に従軍し、会津若松城を攻めたが陣中悪疫を罹患して、そのまま儚くなってしまった。

 

 結局のところ、長生したのは長男四郎兵衛実猗と、四男仲五郎実良のただ二人。このうち長男四郎兵衛は、三男壮九郎と同様に西南の役では西郷方に身を投じ、辛うじて命は拾ったものの、

 

 ――ひとたび叛軍についた以上は。

 

 今更勤めも恐れ入る、と、こういう理屈で身を慎んで、如何に周囲から勧められても二度と再び表舞台に上がろうとせず、郷里鹿児島に逼塞したまま明治二十年に朽ちている。

 

 東郷益子は同三十四年まで生きたから、またしても我が子の遺骸(なきがら)を見送らなければならなくなったというわけだ。

 

 彼女が遺して逝けたのは、ただひとり四男仲五郎実良――後に海軍の「神」と仰がれ、日本全国誰一人として知らぬ者のいなくなる、平八郎のみであったという事実。

 試練と呼ぶには入念過ぎる、運命の悲愴に相違ない。

 

「母は苦しかったことじゃろう」

 

 半ば目を伏せ、「沈黙の提督」は呟いている。

 

 平八郎が安部真造――『東郷元帥直話集』の著者である――に語ったところに依るならば、三男壮九郎が戦死した折、大勢の戦友たちといっしょくたに「仮埋め」された彼の死体を、益子はなんと、素手で掘り起こしたそうである。

 

「鍬で掘って、我子の遺骸にその先でも触れては可哀そうだと思ったのじゃろう」

 

 母の心裏を、元帥(むすこ)はそう読み解いた。

 

 余人を交えず、助けを借りず、我が両の手のみを器具として、ひたすらに土を掻いたため、たちまち指は血に染まる。

 

 が、当時の益子にしてみれば、肉体的苦痛なぞ物の数ではないだろう。やがて毛布に包まれた壮九郎を発見し、東郷家の墓所に持ち帰って鄭重に埋葬したときやっと、わずかながら安んずることが出来たという。

 

 驚くべきは、これほどの目に遭ってなお、彼女が西郷隆盛を少しも怨んだ気配がないということだ。

 そういう湿っぽい感情を、益子は生涯、おくびにも出そうとしなかった。

 

 

「朝軍に抗した罪はいか様に弁ずるとも免れぬところであるが、西郷先生の御志は決して一身の利害の為ではなかったと思ふ。他日の正論はよく西郷先生の御心底を明らかにするであらう。それはともあれ、たとへ賊名を負へばとて、一生の恩人に殉じた我子のことを思へば、親としては萬斛の涙なくてはならぬ」

 

 

 よほど人間が練れていなくば、上の言葉は出てこない。

 

「武家の女」の、その精華と呼んでいいのではなかろうか。子は親を映す鏡と云う使い古された格言が、途端に新鮮な舌触りを帯びてくる。まさしくこの母にしてこの子あり、だ。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 研師にして剣士。

 

 どちらの手腕(うで)も紛うことなき一級品。

 

 そのまま時代劇中のキャラクターに具せそうな、――山尾省三はとかく刃物の扱いに熟達したる者だった。

 

 米寿を超えてなおも現役。髪は落ち、皮膚は弛んで白髭をちぢれさせようと、指先の冴えは失わぬ。鳥取県は米子城下の四日市に居を構え、農具や庖丁等を手入れし日々の稼ぎに充てていた。

 

 職人として好ましき老い方であるに違いない。「生涯現役」、ほぼほぼ理想に近かろう。

 

 そういう山尾省三が、どうしたわけか、あるとき人を刺殺した。

 

 正確な日付を示すなら、昭和五年の三月二日。

 相手は若齢二十七歳、山尾省三の半分どころか三分の一も生きてない、戸田菊造という男。

 刃渡り五寸のナイフ一本が凶器であった。

 

「いったい何の冗談だ」

「逆だろ普通、常識的に考えて、逆であるべきじゃないのか――」

 

 噂はたちまち県下一帯に広まった。

 なにしろ構図が妙である。

 

 祖父と孫ほどに年の開いた二者間に於ける殺人事件。しかも殺ったのは血気盛んな若者でなく、枯れ朽ちてゆくばかりの老人の方。

 

 話題性は十二分、刺激を求める大衆心理に如何にも迎合しそうでないか。

 

 現にした(・・)。鳥取一県にとどまらず、本件は全国紙にても取り扱われることとなり、わけても『大阪毎日』は「九十爺の人殺し」なるセンセーショナルな見出しを付けて書き立てた。

 いま試みに記事本文を引用すれば、

 

 

「米子市四日市町刀剣研商山尾省三(90)は昨年秋自宅附近の街頭で人参薬を売ってゐた米子市博労町戸田菊造(27)の言葉がをかしいと笑ったのが元で絶えず戸田と口論をつづけてゐたが二日午後一時ごろまたもや市内尾高町で喧嘩をし山尾が一たん帰宅すると戸田が山尾の家に押かけ殺してやるから表に出ろと引ずり出さんとしたので」――ざっとつらつら窺う限り、被害者戸田もあまりガラのよい奴でない。このケースだと、正当防衛は成立するのか、どうなのか。微妙なラインであったろう。夜分家中のコソ泥を一刀両断しようとも無罪になった頃だから――「山尾は逆上し戸棚にあった刃渡り五寸余のナイフを取るが早いか戸田の脇腹、腹部等三ヶ所に斬付け殺害した」云々と。

 

 

 いやはや刃物はおそろしい。

 

 使い手に心得さえあれば、青年・老人の体力差などまるで問題にならないと、如上の件が奇しくも證明してくれた。喧嘩で刃物を出されたら即座に身を翻し、全速力で逃げろという忠告は、やはり真であるようだ。

 

 ところで山尾省三儀、昭和五年(1930)に九十歳ということは、生まれは天保十一年(1840)かその前後。

 

 黒船来航以前どころか、アヘン戦争の火蓋が切られたばかりでないか。

 

 江戸時代の空気を吸って人となった者である。愚弄するには、あまりに危険な相手であった。

 

 

 



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内務省瞥見


古今東西を通して、政治家たるの覚悟は満天下の冷罵と闘ふの一事である。

(伊藤博文)




 

「日本人はもっと牛を飼わなきゃイカン。牛を殖やして、殖やしまくって、肉も喰らえば乳も飲め。そのようにして西洋人と渡り合うのに足るだけの、丈夫な身体を作らにゃイカン」

 

 維新成立早々に、社会のある一部から盛り上がった掛け声だ。

 畜産を盛んにせよという、つまりはそういう趣旨である。

 

 御国のためなら是非もなし。「追いつけ・追い越せ」精神を色濃く反映しているだけに、官民問わず賛同者は多かった。

 

 福澤諭吉も、その顕著なる一人であろう。

 

 

「牛乳の功能は牛肉よりも尚更に大なり。 熱病労症等、其外都て身体虚弱なる者には欠くべからざるの妙品、仮令何等の良薬あるも牛乳を以て根氣を養はざれば良薬も功を成さず。 実に万病の一薬と称するも可なり」

 

 

 腸チフスによる衰弱を牛乳により癒したという実体験があるだけに、先生、語りに熱がある。

 

 他には大久保利通なぞも、内務卿としてその方面に力を致していた筈だ。

 

 時間を飛ばして年号変わり、大正時代に至っても、方向性は変わらない。

 

 内務省は相も変わらず、牛乳の普及に努めてる。日本人に馴染ませようと苦心していた形跡が、衛生局医務課長、野田忠広の発言中に窺える。

 

 

「一体牛乳は国民保健上欠くべからざる栄養飲料であるから極めて廉価に一般国民に需要し得らるゝやうにしなければならぬ、然るに我国の牛乳は非常に高価で中流以上の人でなければ常に飲用することが出来ない有様である、ドイツの如きは如何な貧民でも牛乳を飲用せぬものはない、之は要するに価格が安いからである、正確には記憶せぬがドイツの牛乳は一合二銭以下で殆ど我国の半額にも当らぬ」

 

 

 大衆が求めているものは、常に安くて(・・・)良いもの(・・・・)だ。

 横着だと言いたければ言うがいい、それでも事実は変動(うご)かない。

 

 セガサターンをたった一言で葬った、スティーブ・レースの「299ドルだ」――初代プレステの値段発表――は、何故あそこまでの破壊力を持てたのか? 何故ああまでも劇的効果を演出したか? ちょっと考えれば必然として見えてくる。

 

 だからそう、野田忠広の着眼点は、実に当を得ていよう。

 話は更にこう(・・)続く。

 

 

「然らば()うすれば廉く飲めるかと云ふに之は大に研究を要する事で、営業者側から云ふと需要者が少いから自然高くなると云ひ又需要者に云はせると高いから飲めぬと云ふ何れも一理がある、基盤が鞏固で国民衛生を主眼として営利を第二とした一大牛乳会社を出現さして牛乳代を廉くしたらどうかと思ふ、ドイツのベルリンにボルレ会社と云ふ此種の大会社があって三四百台の馬車や自動車で極めて迅速に配達して居る、斯る大規模の会社組織となると各種冗費が省かれ営業費が著しく軽減される、結果は牛乳が低廉に販売されるやうになるのである」

 

 

 ――以上、大正六年に、世に表された意見であった。

 

 西紀に直せば一九一七年だ。

 

 欧州大戦酣なる時期である。

 

 戦車に飛行機、毒ガスと、人が人をまとめて殺す能率が天井知らずに向上している時期である。

 

 大日本帝国は帝政ドイツに宣戦布告、青島を攻めたり商船を沈められたりと、交戦状態真っ盛りな頃である。

 

 戦時中に敵性国家のメソッドを学ぼうとする柔軟さ。且つ、そのことを大っぴらに叫ぼうと、なんら咎められない空気。

 

 大東亜戦争時局下にては、まず望み得ぬ光景だ。

 

 大度と感心するべきか、それとも当事者意識が欠落してると見るべきか?

 

 多くの日本人にとり、第一次世界大戦がどういう感触だったのか。――どんな印象の(いくさ)であったか、こんな些細な点からも、おおよその見立てはつくらしい。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 大正九年のお話だ。

 帝都は水に苦しんでいた。

 

「水道、まさに涸れんとす」――ありきたりと言えば左様(そう)、単純に渇水の危機だった。

 

 当時の市長、田尻稲次郎は事態を重く見、市民に対して犠牲心の発露を願う。トンネルの出口が見えるまで――解決の目処が立つまでの間、「娯楽目的の水道利用」を禁止すると声明し、ために深川あたりの労働者らは満足に体も拭えなくなり、必然毛穴は閉塞し、皮膚の痒みで夜もまともに眠れない、散々な目に遭わされた。

 

 皇居御苑を筆頭に、各地公園の噴水も軒並み停止させられる。節水、節水、節水で、堅っ苦しい雰囲気が帝都に覆いかぶさった。

 

 然るにだ。この状況下で弛緩している者がいる。

 

 周囲の苦悩も知らぬ顔の半兵衛で、自分たちだけ太平楽を謳歌する、げに不届きなやつばら(・・・・)が。

 

 金持ち、富豪、億万長者――そのように呼ばれる連中である。

 

「いちばん金を唸らせているあいつらが、いちばん非協力的だった」

 

 辞儀も忘れて毒づいたのは、新帰朝の若手官僚、長岡隆一郎なる男。

 齢三十六にして内務書記官と内務監察官の二役を兼ねてのけていた、将来有望株である。

 

 実際のちに警視総監や関東局総長等を歴任するにまで至る、――この人物の当時に於ける発言をそのまま引かせていただくと、

 

 

「…然るに都下の富豪の庭園には常に水が満々と湛へてゐる。

 市役所の職員が其の水を止めに行くと反対に叱り飛ばして追払ふといふ傲慢な態度であった。東京市の富豪にとりては市民よりも自分の池の鯉や鮒の方が大切なのであらう。此の現象は社会主義者が百度主義の宣伝をやるよりもより以上危険極まるものである。

 自分は是等の罪を犯した富豪の名を一々槍玉に挙げる事が出来るが今度丈けは名前を発表しない、然し若しも又此後にこんなことを繰り返すやうなことがあったら容赦なく世間にさらけ出す積りである」

 

 

 問題の本質――アカにエサを与えるな、金持ちの酷薄は貧乏人の悪事を正当化する――を見抜く眼力、脅威と寛容、社会的制裁を仄めかしての圧の掛け方。

 

 一級品だ。全体的に、よく練られている印象である。カミソリみたいな頭脳(あたま)のキレを如実に感じるものである。

 

 衛生局医務課長・野田忠広――。

 

 先に掲げた彼といい、内務省にはやはり天下の秀才が集結していた印象だ。官庁の中の官庁、嘗て大久保利通に「国の国たるゆえんのもと」と定義付けられ創立せられただけはある。

 

 結構至極なことだった。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 関東大震災は実に多くを奪っていった。

 

 大正十二年九月一日を境とし、帝都の情景は文字通り一変したというワケだ。火災旋風を形容するに当事者たちは「呪いの火雲」と呼んだりしたが、これはまったく実感に即した表現だろう。濛々とたちこめる黒煙の下、熱と叫喚に追いまくられる心境は、想像するに余りある。

 

 やがて被害の全貌が、徐々に明らかになるにつれ。

 一部奇矯な好事家たちは顔を覆って、盛大に嘆かざるを得なかった。――まさか日比谷の警視庁まで、全焼の憂き目に遭っていたとは。

 

 彼らに涙をしぼらせたのは、この赤レンガ造りの建物の隅にうずくまるようにして存在していた、刑事参考館の焼失である。

 

 犯罪にまつわる様々な物品が蒐集された、当時に於いて日本唯一の刑事博物館。そこには大久保利通を切り裂いた島田一郎の日本刀をはじめとし、「稲妻強盗」坂本慶次郎愛用の凶器等々、実際の犯行に使われた幾百振りの大小刀剣が保存され、およそ他に類のない異様な雰囲気を醸し出していたという。

 

 撮影技術の進歩に伴い、明治の中期以後からは、写真も突っ込まれだした。

 口だけの反省すらしない、兇賊のふてぶてしい面構え。気の弱い者ならほんの一瞥しただけで白眼を剥いて卒倒しそうな、凄惨極まりない現場写真――。

 

 そんな物品がさも無造作に、うず高く積まれていたわけだ。

 

 左様、無造作に(・・・・)積まれてあった。

 

 実は当時の警視庁には刑事参考館をまともに運営しようという気概もビジョンもまるでなく、博物館というよりこれを一個の物置視して、学術的な配列もせず、運び込んでは適当に転がしておくだけといういい加減なのが実態だった。

 

 一般公開もしておらず、訪客といえばせいぜい物好きな貴族院のお偉方程度のものなので、敢えて顧みる必要も感得できなかったとか。

 

「馬鹿げている。文化的損失もいいところだ」

 

 見るに見かねた司法省が苦言を呈した。

 

「帝室博物館のように、あるいは逓信博物館のように。この種の事業は趣味を以って献身的に努力する人材を主任に据えねば、到底うまく回らぬものだ。どうも連中はその辺を、欠片も理解しておらぬ」

 

 そう申し述べ、管理権限を我が方へと移譲さすべく動きもしたが、成果が実るより先に関東大震災が起きてしまった。

 

 炎にしてみれば格好の燃料もいいところである。ほんの一部の例外を除いて、その悉くが烏有に帰した。

 

 好事家どもが歯ぎしりするほど悔しがるのも無理はなかろう。いわく(・・・)憑きの品に惹かれる心というのは、そのいわく(・・・)が禍々しいものであればあるほど、いよいよ強くなるものだ。そうした眼で視るならば、警視庁刑事参考館は竜宮にも勝る宝の山に相違なかった。

 

 その宝の山が、瓦礫の山と化している。

 しおたれるのも道理であろう。

 

 のち、焼け跡から回収された品の一つに、島田一郎の日本刀が含まれている。

 

 なんの因果か、初代内務卿の血を吸い濡れた兇刃は大震災の猛火にも耐え、今なお警視庁の一室で、昏く輝き続けているのだ。

 

 



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