らんらんスズラン〜私、人類の脅威のようです〜 (焦げPASTA)
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その恐怖の名は『繁栄』
世界は侵食されていた。
本来は食物連鎖の最下層である植物に。
甘く清楚な香りを漂わせ、穢れを知らぬ美しい花を咲かせる植物に。
他の植物を飲み込んで駆逐し、砂漠をも埋め尽くす可憐な花。
見た目にそぐわず、増えて広がり埋め尽くす驚異的な繁殖力であった。
しかしその植物は極めて有害であり、田畑を殺し、獣を殺した。
根から他の植物が得るべき栄養を吸い尽くし、その全草に含まれる催眠効果のある毒は、己を食らう捕食者を逆に肥料へと変えた。
人々はその植物から遠ざけた場所で、自分や家畜が食べる為の植物を育てなければならなかった。
これは有史以来、最も人類を苦しめた花の話。
その名は『
その始まりは、人類種の悪意と絶望から生まれた──────
ルナグレイスは、尋常の植物ではない。
他の魔法植物と同じく歪な生まれ方をしており、それ故に本来の生育環境たる
ルナグレイスもかつてはそうだった。
この植物は、太陽光ではなく月光を浴びて成長する。
太陽の光から身を護る様に、日中は花を閉じて項垂れている。
しかし夜の闇が迫ると、雛が親鳥に餌をねだるかの如く、一斉に美しい花を咲かせる。
ここから、人類の恐怖の時間が始まるのだ。
ルナグレイスは地下茎と種を使って、花畑の領域をこの時間に拡大していく。
そして、吸えば命を落とす危険のある毒花粉をばら撒いていく。
ルナグレイスの花畑が拡がった場所では、鳥のさえずりや狼の遠吠えも聞こえなくなる。
美しき毒は、彼らを醒めぬ眠りへと誘う故に。
日中は地面に蹲る様にしなだれるルナグレイスだが、その時間は、侵略した地域に元々生えていた他の植物の根を、地下で締め上げては吸い尽くしている。
そして夜にばら撒く毒花粉には、他の植物を枯らす成分も含まれており、ルナグレイスが侵略した地域は土壌が汚染され、他の植物は育たなくなる。
この成分は、ルナグレイスの根からも分泌されている。
ルナグレイスの花畑には、ルナグレイス以外は存在を許されない。
この為に、ルナグレイスの代表的な花言葉は『潔癖』『排他』。
…恐ろしいルナグレイスに関する話の中で、最も恐ろしい話は、この花が─────呪いにより作られたという事実である。
「麗しき私の夫を殺し、美しき私の兄を殺した。穢れたヒト共に清らかにして純白の呪いあれ」
「死にたくない…。でも殺されるのはもっと嫌だから…」
「わたしはもう…疲れたよ。
お花さん、あなたはこの残酷な世界でも綺麗に咲いてね…」
私の心に記憶された声。
その意味は分からないし、今は必要ないのだと思う。
私はただ──────繁栄したいだけなのだから。
花を咲かせて種を結ぼう。
地下茎を伸ばして増えて繋がろう。
燃えたり刈り取られたら再生しよう。
食べられたくないからなんとかしよう。
他の植物が邪魔だからどいてもらおう。
生きたい。増えたい。
私の
らんらんスズラン〜私、人類の脅威のようです〜
管水都市ビカンクラシッキでは、ルナグレイスによる侵略を防ぐ為に男達が鏡を振り回していた。
これは太陽光を鏡で照射させることで、ルナグレイスに致命的な損害を与える事が出来るからだ。
ルナグレイスは特に花が咲くまでの成長段階において、強過ぎる日光を致命的な弱点とする。
まるでメラニンの無いアルビノが、紫外線で肌を傷める様に、
通常は甘い薫りの毒花粉に包まれる花畑に、人が踏み入る事は出来ないが、現在は地表が焼き尽くされた
この都市はつい最近まで、豊富な栄養を含んだ土壌と、何重にも張り巡らされた水堀による水利によって、果実を育てて繁栄していた。
しかし、それらの果実は今まさにルナグレイスによって侵略を受けている。
かつて桃や葡萄の畑であった場所は、ルナグレイスに侵食されて毒花粉漂う呪われた地に成り果てた。
畑に実った果実も、水と栄養を奪われ尽くして何れは枯れるだろう。
市民達はルナグレイスの花畑に対して、水堀を利用して自分達の安全を確保した上での放火を実施した。
効果はあった。
ルナグレイスの花畑、通称:
燃え移るのは早く、まだルナガーデンの侵食を受けていない、周囲の様々な森まで巻き込んで延焼させた。
しかし火が消えて三日後の晩、月の光に導かれるが如く、黒い大地から無数の芽が生えた。
勿論、夜の悪魔が生み出したような、あの美しく残酷な花の芽だ。
…鏡山脈と呼ばれる鏡面の如く輝く山から反射する、眩く照らされる場所を除いて。
人々は様々な対処を試した結果、日の光の輝きが日中だけは美しくも恐ろしい花々から護ってくれる事に気が付いた。
ルナガーデンを焼き払い、その後鏡の盾を使って大地に日光を照射することで、蘇ろうとするルナグレイスを殺す。
そして、夜になるとルナグレイスの反撃が始まるのだ。
ルナグレイスと共生関係を結んだ生物群『
ナイトレギオンはルナグレイスの毒への耐性を持ち、寧ろその毒を含んだ蜜を好む性質を持つ。
そしてルナグレイスの種子を蒔き、育てる性質がある。
その肉体にはルナグレイスの種子が収められており、死亡と共にその役割が戦士から苗床へと変わる。
また、原種となった生物の一般個体と比べて、より有毒であり、より強く、より美しい。
この事に例外は、ほぼ存在しないといっていい。
蒼い光の流れる翅を持ったガラス質のハチやチョウ。
ハープの様な声で鳴くクリーム色の小鳥。
フルートの様な音を発する角を持ったリス。
極彩色の宝石竜。
そして…、人外の美を宿した人間。
それはまるで、かつて絶滅したエルフの様な美しさであった。
正しく貴種と呼ばれるべき生物群。
これらは、ルナグレイスという王の隷下であり、ルナガーデンの国民である。
ルナグレイスに選ばれる生物は極僅かであり、その確率は1%。
僅か1%の個体のみが、毒による死を超えて命を再構成する。
その個体は、元となる種の中でも徹底的に選民された、まるで川で探される黄金の如き個体。
それがルナグレイスの毒を命として再生する際に、更なる上位存在として復活する。
数は極めて少ないが、その質は恐ろしく高い。
ルナグレイスは己の獲物の中から、99%を養分に、1%を奴隷にする。
その奴隷は、選ばれし民であり、そして更に強化の祝福を受ける。
幸いなことに、ルナグレイスそのものが強力無比なモンスターになったという話はない。
しかし、ルナグレイスにより人類が窮地に追い込まれているのは紛れもない事実であった。
爪も牙もブレスも無く、ただ増えて拡がるだけの繁殖力が高い毒草。
本来ならば食物連鎖の最下級にあるべき植物は、鳥も獣も、そして人や竜さえも圧倒していた。
人類にとって最も最悪のルナグレイスの行動は、強力なモンスターに成り果てる事ではなく、止まることなく増え広がり続ける事だ。
そういった意味では、ルナグレイス自体が戦う能力を持つ持たないは大きな意味を持たない。
ルナグレイスは、通常のモンスターとは比べ物にはならない速度で進化していく。
毒を強め、支配を強め、ウサギだけでなく草食竜にも打ち勝ち、水上や浅瀬にも適応し、砂漠にさえ生育を可能にさせた。
それは、ルナグレイスは花畑という群体で一つの個体であり、いわゆる“レベルアップに必要な経験値”を共有することで、効率良く成長出来る故に。
それは、鋭い爪や牙、巨大化や人間化といった方向にではない。
土地への適応、繁殖力の上昇など、植物としての繁栄に特化したものだ。
つい先日は水の無い砂漠へと侵攻を始め、今では止めどなく流れる幾重にも重なる堀川を越えようとしている。
それは単純に戦闘力を持つ事より悍ましい未来を生む。
何れは凍れる山頂や、闇に包まれた海底にさえも花畑を拡げる事だろう。
そうなった時に、ルナグレイス以外の全ての生命は沈黙するのだ。
ルナグレイスには、ヒトに追い詰められて死んだエルフの母娘と、それからかなりの時が過ぎた後にやはりヒトに追い詰められて死んだハーフエルフの少女の精神が模倣されて、簡易な
ルナグレイスには脳がないので、群体のネットワークをシナプスに見立てた簡易的なものだ。
だから元となった女性達が持っていた、ヒトへの憎悪や恐怖までは再現していない。
現状では特に意味を持たない、進化途上の未完成な器官でしかない。
故にそこには“殺したい”“滅ぼしたい”というような、種の繁栄そのものには無駄な悪意はない。
そこには、何の悪意も無く、どこまでも純粋な、“生きたい”“増えたい”という願いがあるだけなのだから。
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その残酷さの名は『至福』
これは、過去の話だ。
慈悲深き満月の下、荒地に咲いた鈴蘭の前で少女は儚く呟いた。
「わたしはもう…疲れたよ。
お花さん、あなたはこの残酷な世界でも綺麗に咲いてね…」
そう言って、白金色の髪をした少女は魔法を唱えた。
その魔法は原初の魔法の
その魔法は、未発達な文明の世には、余りにも有用過ぎた。
故に、人々が少女に頼り過ぎたのは必然と言えよう。
普通の人間には、魔法が使えない。
故に周囲の人々は、少女に魔法の使用を強制する。
その魔法が、代償に少女に蓄積する激痛を要求するものであったと、人々は知識としては知っていたにも関わらずだ。
『優れた者は弱き者の為に尽くすべきだ』
『力に驕る少女一人のワガママよりも、力無き多くの人々の命を救うべきだ』
『痛いと言うのは嘘なんじゃないか? 自惚れたエルフ混じりめ、魔法を出し渋るな』
弱き者達は、自分では叶えられない希望を
そんな世界に、少女は疲れ果てたのだ。
少女は、もうこれ以上この世界を救う意義を見失ってしまった。
少女に救いを求めて囲う人々から逃げ出して、走って、走って、走って、走って走って走ったその先に、────その花は咲いていた。
その花は、鎮痛と意識混濁と多幸感を生む香りを発する。
その香りは有毒であり、麻薬や暗殺に使われ続け、それを危険視した正義を主張する者達に焼き尽くされた歴史を持つ花。
嗅ぐ者の痛みと不安を消し、そしてそのまま永遠の眠りに誘う、既に絶滅したはずの毒草。
その花の名は────『
少女は、その花の毒に救われた。
最後の最後になって、痛みから救われた。
他者に魔法を使う事により発生する苦痛。
全身を蝕み、知性を侵し、精神を壊す激痛。
それを強要する弱き人々。
正義面して搾取する人々。
その地獄から救ってくれるのならば、例えそれが毒であったとしても少女には関係なかったのだ。
少女は…この数年で初めて笑顔になれた気がした。
そしてこの慈悲深き時間が終わる前にと、少女は全ての力を使い果たして、文字通り命懸けの魔法を『
それでも尚、少女は痛みを感じる事なく、感じない痛みが生んだ
その数分後の事であった。
逃げ出した少女を追いかけて来た病や傷に苦しむ弱者が、もはや価値の無くなった死体を見付けたのは。
「ああ……。次は娘が治して貰う番だったのに。目玉狸に奪われた娘の光はもう戻らないのっ!?」
「あの世に逃げられちまった!! とっととアタシの息子こそ治して貰うべきだった。生まれ付いて口がきけないんだよ。これじゃあ嫁も取れない」
「クソっ!! こんな事なら行儀良く待たずに、無理矢理にでも割り込ませれば良かった。ああっ、済まないソーニャ」
誰もが治して貰えるはずだった親族へ、懺悔と後悔の言葉を向ける。
けれども、今目の前で無くなった少女の能力を惜しむ者はいても、今目の前で亡くなった少女の、人生そのものを憐れむ者はただの一人さえいなかった。
彼等にも彼等の事情があった。
娘から目を離した隙に、目玉を集めるモンスターに娘の視力を奪われた母親は、娘に光が戻る日を切望してきた。
三十代にもなって結婚できない息子を持つ年老いた母親は、息子の不具合の原因を年老いた身体で産んだ自分のせいだと責めて、息子に侘び続けてきた。
心臓の病であと何ヶ月生きられるかも分からない娘を持つ父親は、魔法使いの少女の救済の順番をもどかしくも誠実に待ち続けてきた。
それらは今この瞬間に希望が潰えた。
彼等には、護りたい者がいたのだ。
その者の為であれば、どれだけでも自己犠牲は苦でなかった。
それほどにまで、自分以外に愛を優先させられる人間だったのだ。
愛する者を魔法使いの少女より優先したというだけで。
…そもそも優先順位を考える枠組みの中にさえ、魔法使いの少女はいなかったというだけで。
傷や病を持つ弱者と、彼等を救ってくれる者に縋る優しき弱者が、優れた魔法を持つ優しき強者を殺したのだ。
別に追い詰めた彼らの価値観が歪んでいたという訳でもない。
そもそもほぼ完全な単一民族国家の民である彼等には、価値観が歪むという可能性が低いのだから。
価値観の歪みというのは、違う価値観を持つ別集団からの主観でしかない。
なれば、価値観の異なる集団がいなければ、価値観の歪みという概念自体が存在しないのだから。
故に、『正しい認識』において、少女は追い詰められて死んだ。
いったい誰が悪かったのか?
傷や病を負った者が悪かったのか?
それを救う力が無いながらも、誰かに負担を求めてでも救いたいと願った身内が悪かったのか?
人々が求める力を不用意に使って無関係な人間を助けたが為に、その力を知られてしまった少女が悪いのか?
人々を護る為に日夜モンスターと戦い疲弊し、戦える人々以外を養う余裕さえ無かった国家が悪いのか。
それとも、この世に争いや怪我や病を創った神様が悪いのか。
いや、誰も悪くないのだ。
誰一人犯人はいないのだ。
敢えていうのであれば、全てが悪かったのだ。
だからこそ、諸悪の根源を裁けば全て解決するなどという、ご都合主義なんて無かったのである。
だからこそ、少女は誰一人憎悪する事も許されず、憎悪する事さえ出来ず世を去ったのだ。
魔法の才能を持って生まれた少女は、誰も悪くないから誰にも恨む事も憎む事も許されないと、絶望する事以外を許されなかった。
己より力無き者を責めることは許されず、己より力ある者にも同情する事しか出来なかった。
そして────彼女は死んだ。
魔法使いを探しに来た人々はもはや『役立たずの死体』となった少女に怒りさえ感じていた。
自分の家族を救う役割を放棄して、死に逃げた卑怯者だと。
そうしないと、愛する者を救えない現実に絶望するしかなかった。
だからだろうか。
鈴蘭の香りが濃くなった事に気が付かなかったのは。
だからだろうか。
鈴蘭の毒が回っている事に、気が付けなかったのは。
本来、月下鈴蘭は広大な花畑として存在して、迷い込んだ獲物に永久の眠りを清浄なる毒の薫りと共に与えて、代価としてその肉体を養分として貰い受ける。
今では絶滅したとさえいわれていて、三株しか咲いていない月下鈴蘭は、本来それ程の脅威足り得ない。
では、何故これだけの濃厚な毒香を生み出せたのか。
そう魔法使いの少女の全力を尽くした『死を遠ざけ、飢えを払い、怪我と病を祓う』魔法の結果であった。
ルナグレイスは、見た目は儚く美しいまま、圧倒的な存在力を得た。
その毒は、密度も範囲も明らかに常識を超えていた。
魔法使いの少女が内心で、自分に縋り地獄に引き摺り込む亡者達に復讐しようとしていたかどうかは、今となっては分からない。
彼女は生涯その事について、誰かに恨み言を漏らさなかったからだ。
けれども、もし少女が人類を恨んでいたとすれば────その復讐は叶った。
「甘…い香り…味…。あれ、服が…赤い……?」
「こんなに涎が美味しく感じるのは何で……血…?」
「飛ぶ様に身体が軽いのに…一歩も動かない…。ダリア…ソーニャ…済まな…い」
少女を追い掛けてきた者達は皆、ルナグレイスの毒に侵された。
意識は混濁し、身体は動かない。
…もう、助からない。
己の無力が家族に申し訳ないはずなのに、自己肯定感と自尊心が湧いて来て、その気持ちが薄れていく。
願いはもはや叶わないのに、それを悔しいと思う気持ちが徐々に失われていく。
満たされる要素など無いにも関わらず、何の実態もない幸せに埋め尽くされてしまう。
優しい香り、美しい花、風情ある風音、懐かしい味、心地よい感触…。
そういったものに埋め尽くされて何も考えられなくなる。
ここを天国だと認めてしまう。
生まれる前に還る様な居心地の良さに包まれた者達は、生まれる時に手にした命をも手放した。
文字通り花畑は
倒れた人々の血を啜りながら、尚も甘い香りを漂わせる美しき花は、嬉しそうに風に揺れていた。
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その滅びの名は『勝利』
その甘き薫りの毒は、悪しき者、弱き者、醜き者、愚かな者を認めないとされている。
実際にそうだという訳ではなく、鈴蘭畑に逃げ込んだ美しき公爵夫人とその娘の公女を追った、貧困層からなるクーデターの集団が、その香りで息絶えたが、高貴な母娘はその毒で命を落とすことはなかった────という逸話からだ。
実際には、今は絶滅した高貴なる白金の血が流れる種族、魔法が使える支配層種族の『エルフ』である公爵家が、被支配階級の『ヒト』の反乱により追い詰められ、命を懸けた『
公爵家の母娘は、ルナグレイスによっては殺されてはいないが、ルナグレイスを生み出すために死んだ。
その『
エルフの肉体が、血統が、魔力が、文化が、言語が、歴史が、領土が、誇りが、権利がヒトに汚されないようにと。
エルフはヒトよりも優れている。
それは当たり前だ。
血統管理により、突然変異による特別に優秀な者だけを掛け合わせ続けて生まれた『特別に優れたヒト』こそが、エルフであったから。
白く輝く髪と血液を持つエルフは、例外なくヒトには使えない魔法が使えたし、エルフは例外なく美しい容姿と高い知能と運動能力を有していた。
エルフがヒトを支配するのは当然であったのだろう。
商売をするにしても、戦場の武勇にしても、戦略を練るにしても、エルフはヒトより優れており、実力主義において成功と出世が決まる分野においては、どの高みにもエルフ達が専有していた。
本気で勝負をすれば、凡才の人が天才のエルフに敵う筈が無いのだから。
時が経つにつれて、エルフは自然と特権階級となり、ヒトを支配する様になった。
差別は事実無根の妄想や虚偽からのみ生まれるものではない。
全く事実と異なる差別は、聞く側だけでなく、言う側も信じない。
そのような明らかな間違いは、誰にも信じられずに消えていく。
消そうとする必要もなく、消えていく。
差別の最も強力な擁護者とは、利潤でも悪意でもなく────『事実』だ。
統計的、体感的、科学的にそれが正しさを孕むからこそ、差別する側は差別を止めない。
彼らにとって差別の前に事実であるのだから。
それが差別であっても、その前に事実であることの方が大きいのだから。
統計的や科学的に正しい差別を前には、差別を否定する側さえ何処か否定を信じきれない。
自分が否定しきれない様では、他人の差別は否定できない。
そして、正しい事実による差別は区別として認識される。
逆に行う側が事実として信じずに、行われる側も信じない差別は消える。
事実でない差別は極めて残り難い。
“リンゴよりブドウが好きな人は、人間性がクズで能力が低い”というような、明らかに馬鹿馬鹿しい差別は広まる事無く消える。
行う側が事実として信じていて、行われる側も事実であることは否定できない差別は区別として残る。
残り続ける差別とは、馬鹿馬鹿しい差別とは対極に存在する。
賢く強く美しい方が成功しやすいという差別は消える事なく残る様に。
『正しい認識』を人は否定し切ることが出来ない。
エルフはヒトよりも賢く、エルフはヒトよりも強く、エルフはヒトよりも美しく、エルフはヒトに使えない魔法が使える。
故に、エルフはヒトの上位互換であるという事実でしかない差別は、ヒトはエルフの下位互換であるという事実でしかない差別は、エルフが事実をもって肯定し、ヒトが虚偽をもって否定しても、消える事なく存続した。
しかしエルフの血が混じれば、ヒトとのハーフであれば不完全で身を滅ぼすものであっても、魔法そのものは使える。
ハーフが増えれば、ハーフの発言権が増す。
ハーフ達は自分達にヒトの血が混じった分だけ、純血のエルフより劣っているとは認めない。
その為に、ヒトの血の価値を主張するようになる。
ヒトの血がエルフの血より劣るのならば、ハーフエルフはエルフの半人前でしかないが、ヒトの血がエルフの血と同じ価値を持つとするならば、ヒトもエルフもハーフエルフも皆一人前とすることが出来るからだ。
ハーフエルフが一定の数を占めれば、当然そういった方向を目指す。
そして、ヒトを守らないエルフの中にも、ハーフエルフを擁護する者も出てくる。
それは結果的にエルフによるヒトの擁護を間接的にであれ生み出す。
そうすれば、エルフとヒトとのパワーバランスが動いてしまう。
明らかに能力の劣るヒトが、エルフと同等だと扱われてしまう。
それを危険視したエルフ達は、ヒトを犯す事、ヒトに犯される事による、血統の流出を極端に恐れた。
最初は魔法がヒトの物になる事を恐れただけだった。
それはいつか、ヒトの交じることの恐れに代わりに、ヒトとの融和を恐れる事に代わり、ヒトとの隔絶を求める事に変わった。
言葉遣いも変え、文化も変えた。
高い知能と理性と教養が無いヒトが、何かの間違いでエルフの社会に参入してこれないように。
ヒトがエルフと共存する為には、エルフの難解複雑な文化と伝統を、ヒトが解る程度には、ある程度破壊・劣化させないといけない。
しかし、エルフが己の文化と伝統を絶対に守り抜くのであれば、それは結果としてヒトの排除へと結び付くのだ。
エルフとヒトは別種。
交わる事は禁忌であり、その血はヒトとは別種のものである。
エルフはそう信仰していた。
そして、自分とは別種のものだからこそ、ヒトに人権があるなどとは考えもしなかった。
一方、支配され続けたヒトは、自分達にも同じ様に頭も手足もあるのに、エルフに差別されるのが許せなかった。
しかし魔法の有無はエルフと人間との差を決定的にした。
魔法を手にするにはエルフの血が必要。
美しいエルフの妻を手に入れて、魔法が使える子供を使って財を築きたいと夢見るヒトは多かった。
しかし、エルフが築いたヒトには参入出来ぬ高度な独自文化により、ヒトはエルフと交わる事は無かった。
難しい独特の文法にアクセント。複雑多岐に渡る常識。極めて困難なルール。それらを守れない者に対する厳しい蔑視。
エルフの常識はヒトには難し過ぎた。
そしてエルフの常識を守れないヒトを、エルフは嫌悪した。
その基盤があることにより、ヒトの男を受け入れるエルフの娘はいなかった。
言葉も文化も劣る未開の相手には、関わりたくもないという事だ。
その逆にヒトの女に手を出したエルフの男がいたかどうかは、定かでは無いが、少なくとも公式記録としては残っていない。
斯くして、白く輝く血液はエルフにのみ許されたとされている。
エルフは完全な下位互換であるヒトを見下した。
ヒトよりもペットの陸アザラシを大事にした程だ。
陸アザラシがヒトに襲われれば、襲ったヒトを死刑にした。
エルフに愛されないヒトの犯罪者よりは、エルフに愛されている陸アザラシの命の方が重いという訳だ。
しかし、エルフに翳りが見えてきたのは、エルフの人口減少が進んできたからであった。
貧困故に娯楽がなく子作り以外にやることがなく、仕事は押し並べて単純作業ばかりであるが故に、子沢山であったヒトとは対照的でさえあった。
高い文化による性交渉以外にも発展した娯楽と、安定した統治により危機感が薄れ、種の保存本能が低下した事、血が濃くなり過ぎた事による。
血が濃くなる事は、一切異常の無い遺伝子同士であったならば、理論上は全く問題ない。
両親が保有する問題となる潜在因子が噛み合った時に、子に先天性疾患の発現が発生するシステムにおいて、問題となる潜在因子を一つも持たぬ者同士の組み合わせにおいては、理論上は両親由来で発現する遺伝子疾患は発生しない。
しかしエルフは、ヒトという劣った遺伝子を受け入れる事は断固拒否したものの、高齢出産などによる、身内の中に偶然発生した劣等者には甘かった。
それが、生殖遺伝子の劣化を進めてしまった。
エルフがまだ優秀なヒトの枠組みにあった古代は、ヒトはエルフを排除する事は出来なかった。
すればヒトの枠組み自体が次々と分裂して、優秀な存在ほど枠組みから去ってしまうからだ。
エルフがヒトから独立して直ぐの、能力だけでなく、警戒心も強く、頭数も多かった時代には、ヒトは反乱する事は出来なくなっていた。
しかし、エルフが平和ボケして数も減った今こそが好機であると、ヒトはクーデターを起こした。
支配層であるエルフの男は殺して、女は犯した。
ヒトによるクーデターの主たる構成員が男性であり、エルフは美しく、エルフに生ませた子は魔法を使えるからだ。
しかしエルフの女は誇り高く、犯された者は自死し、犯される前にも自死した。
…少なくとも記録上は、被害者のほぼ全員が。
これにより、ヒトの文化において魔法が一般化する事は無かった。
ヒトに魔法を与えて、欲望を押し付けられる為に犯され続ける。
エルフ達はそれを恐れた。
ヒトの蜂起により血祭りに上げられた家族の犠牲によって、公爵妃のツェツィーリエとアナスタージアは逃げて逃げて逃げて逃げて──逃げだした。
…己の肉体と血を求めて迫りくるヒトの群れから逃げる為に。
そして荒れ地へと追い詰められた彼女達は、己の全生命力を使い尽くして魔法を唱えた。
公爵妃は家族を殺された憎悪をもって己の強き意思の下に。
公爵令嬢は家族を殺された恐怖をもって己の揺れる意思の下に。
『蒼き白金の華よ、排他と不純をもって血の神聖を永久に証明せん』
その願いは一面の
ルナグレイスは、土壌さえも高貴な毒に染め上げる。
そして土壌を毒で支配し、ルナグレイス以外の一切の植物が生育出来ない環境を作る。
それは敵を打ち倒し、己の領土を拡げるかのように。
それは高い教養と独自の文化を共通とする基盤を作り、その教養を持たないものを受け容れない社会を作るかの様に。
尤も、そのクーデター指導者の子孫がヒトの権力者となり、後に犯罪組織撲滅の為に麻薬や暗殺用の毒の原料となるルナグレイスの絶滅を主導したのは皮肉でしかない。
そのせいで、残されたルナグレイスはあと僅かで絶滅というところにまで追い詰められた。
だが、僅かに生き残ったルナグレイスは、ヒトによって絶滅に追いやられたエルフの血筋によって再興を始めたのだ。
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